鬼滅の流儀 (柴猫侍)
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壱章.出会い
壱.青藍氷水


 

 

 僕は忘れない。

 

 

 

 藤の花が狂い咲く中、君と出会い、約束を交わしたことを―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

 鉄錆の臭いが立ち込める。しかし、ふと吹き抜ける夜風が不快な血の臭いを攫っていった。

 季節外れの藤が咲き誇る山の名を「藤襲山」。一年中藤の花が狂い咲く、一見美しい山だ。

 だが、そこで行われるのは行楽ではなく、断末魔が上がり、人間の血と肉が飛び散るような世にも恐ろしい宴だった。

 

 最終選別。

 人を喰らう化け物「鬼」を滅殺し得る剣士かを見極めるための試験である。

 政府非公認組織「鬼殺隊」が取り仕切る最終選別では、各地に存在する「育手」の下で鍛錬を積んだ剣士が、一週間鬼が解き放たれた藤襲山で生き延びることで、鬼殺隊の剣士として認められることとなる。

 合格条件は前述の通り「一週間生き残る」、ただそれだけ。

 しかし、生き延びる者はそう多くはない。解き放たれた鬼は、いわゆる異能も持たぬ雑魚鬼。それでも勝てない剣士は鬼に殺され、その後は死体も残らず貪られる。辛うじて残るのは身に纏っていた衣服の切片か、人と呼ぶには余りにも小さい肉や骨の破片だけ。

 残酷な結末だが、それを受け入れなければならぬほどの地獄が、彼等の先には待ち構えている。

 

 自ら死地に突き進んでいることを自覚しながら、襲い掛かる苦難に打ち勝っていく。

 その覚悟がなくば、鬼殺隊にはなれない。鬼の手から人を守り切ることが叶わないのだ。

 

 そうして始まった最終選別一日目。

 長期間人肉を喰えず飢え、ますます獣染みた鬼が、こぞって選別を受けた剣士に群がる日。始まりであり、最も多くの者が地獄を見る日だ。

 そんな緒戦を迎える日、獣の咆哮の如き怒号が上がった。

 

「はあああぁー!」

 

 花柄の着物を靡かせる少女。頭には狐のお面を被っている彼女は、その愛らしい顔に似合わない険のある顔で、対峙する鬼に刃を振るっていた。

 一閃する度に血飛沫が上がり、辺りに漂う鉄錆の臭いはより濃厚になっていく。

 

 頚を特殊な刀―――日輪刀で断ち切らぬ限り、どれだけ斬っても切りがないのが鬼の体だ。

 それでも低級の鬼であれば再生する速度を遅らせることができる。

 しかし、厄介なことに彼女が対峙する鬼の再生速度が遅くなる気配は見えなかった。

 

 手、手、手―――。

 どこを見ても手を窺える巨体を有す醜悪な姿かたちの鬼だ。

 人を一、二人ほどしか喰らっていない鬼しか閉じ込められていない藤襲山においては、明らかに剣士に求める基準を逸した強さを誇る異形の鬼。

 すでに数人犠牲になったようであり、周囲には体の一部が欠けるなどして食い散らかされた死体が幾つも転がっている。

 

 それを見ても尚、果敢に立ち向かう少女の名は「真菰」。

 元水柱の育手・鱗滝 左近次によって鍛えられた孤児であった。

 可憐な見た目をしながら、華奢な体で縦横無尽に駆け回り、手鬼に刃を振るう様には鬼気迫るものがある。

 

 それは対峙する鬼が兄弟子の仇だからというのが最たる理由。

 歯を砕けんばかりに食いしばる彼女は、赫怒の熱を全身に迸らせて疾走する。

 

 全集中・水の呼吸 弐ノ型 水車

 

 前方に宙返りして繰り出される斬撃が、伸ばされる数多の手の内の一つを斬りつけた。

 しかし、岩のように硬い皮膚を前に、彼女が繰り出した斬撃は思うような結果を刻むことができない。

 思わず苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる真菰。一方で、手鬼はと言えば、彼女の様子を己の手に守られた隙間から覗き、下卑た笑みを浮かべていた。

 

「お前……動きがガタガタになったなぁ……!」

「くっ!?」

 

 迫りくる無数の手。これには俊敏さに自信のある真菰でさえ、多勢に無勢と回避に徹しようとする。

 だが、余りの怒りで呼吸が乱れている彼女の動きは繊細さに欠けていた。

 その僅かな綻びが命取り。

 自身を捕えようとする手を避け、あるいは捌いていた真菰の足元から、複数の腕が生えてきた。辛うじて直前で飛び退いて躱した真菰であったが、そこからがいけない。空中では自由に身動きが取れないからだ。

 

 それを待っていたと言わんばかりに手鬼の目が嗤う。

 即座に別の腕が真菰の両手両足を掴んだ。宙で大の字に四肢を広げられる真菰は、痛みは勿論のこと、自身の置かれた状況に言葉を失った。

 

―――死

 

 剣を振れない以上、自分には何もできない。

 鬼の力は人の力のはるか上をいく。

 だからこそ、人は少しでも鬼に対抗できるよう、死ぬほど血の滲むような努力を重ねて全集中の呼吸を体得するのだ。

 それがどうだ? 今は、仇敵を目の前にした赫怒の余りに呼吸が乱れ、結果的に何の抵抗もできぬようになってしまったではないか。

 

 不覚。痛恨の極みだ。

 自身の不甲斐なさに涙が零れ落ちそうになる真菰だが、血が出るほど唇を噛みしめ、必死の抵抗を試みる。

 

「ひひひ……!! 無駄だ無駄だ……!! 諦めの悪い奴は嫌われるぞぅ?」

「五月蠅い……黙れ……!!」

「悔しいなぁ? 心底俺のことが憎いだろうに、こうして八つ裂きにされるのを待つしかないんだからなぁ……!!」

「っ―――!!?」

 

 四肢を掴む手に力が籠められ、肉が―――そして骨が悲鳴を上げる。

 今まで腕や足が千切れそうになるくらいの鍛錬は積んできたつもりだ。しかし、実際に四肢を千切られる痛みは想像を絶するものであった。

 鬼を滅殺する剣士となる以上、いつ死のうとも最期は無様を避けようと誓っていた考えを、四肢に迸る灼熱が焼き払っていく。

 

「あああああッッッ!!!」

 

 意思と裏腹に喉から放たれる悲鳴が、藤襲山中に響きわたる。

 ブチブチと奏でられる厭な音と、それを掻き消す悲鳴に耳を傾ける手鬼は、この上ない愉悦に浸るかのような笑みを湛えながら叫ぶ。

 

「なけ! なけ!! もっとなけぇ!!!」

「うっ、ぐっ……!!」

 

 文字通り真菰を弄ぶ手鬼だが、そんな彼の思い通りにならないと真菰は歯を食いしばり、悲鳴を抑え込む。

 しかし、今はそんな彼女の抵抗さえ興に過ぎない。

 

「鱗滝なんかと出会わなければこうはならなかったのになぁ?」

「ッ!」

 

 口にした名は真菰の恩人。そして、手鬼にとって自身を藤襲山に閉じ込めた恨む相手。

 真菰のような彼の弟子を甚振るのは、数十年藤襲山に幽閉される手鬼にとって恨みを晴らす絶好の機会なのだ。

 彼等の悲鳴を浴び、絶望を目にし、バラバラの肉片に遊び倒して喰らう―――そのためならば労力は厭わない。

 

「あいつも本当に酷い人間だ……いや、鬼だ! 心底育てた奴が可愛ければこんなところに送らないだろうに……」

 

 「うるさい」とか細い声で抗う。

 

「鱗滝はお前のことを鬼を殺す手駒の一つくらいにしか思ってないんだよ」

 

 「うるさい」と荒々しい声を漏らし、腕に力を籠める。

 

「人の心がないのさ、あいつは。お前らは愛されていない。だからこうして俺にむざむざ喰い殺される……」

 

 「うるさい」と涙ながらに睨みつけ、血が滲むほど日輪刀の柄を握りしめる。

 

「無様に死んでいったお前の兄弟子たちのようになあああああ!!!」

「うるさあああああああああああああああああああああい!!!」

 

 絶叫が轟く。

 四肢から肉が潰れる不快な音を漏れるのも厭わず、真菰は血涙が流れる勢いで叫んだ。

 

「鱗滝さんを悪く言うな!!! みんなを……錆兎たちを悪く言うなああああああ!!!」

「ひひひひひ!!! ―――滑稽だなぁ?」

「ぐぅ!!?」

 

 今度こそ冗談では済まされない音が四肢から漏れた。

 サッと顔から血の気が引いた真菰。それはただ散々握りしめられた四肢から血が流れているだけではなく、これから起こることを予感したからだろう。

 

 口元の見えない手鬼が粘着質な笑みを湛えながら、真菰を掴み上げる手を横へ横へと広げる。

 

「あっ……あぁっ……!!?」

「安心しろぉ。真っ二つにならないよぉに丁寧に……じっくりと……お前の四肢を引きちぎってやる……!!」

「うぐっ……つぁ……!!」

「ひひひっ! 血を失って死ぬにも時間はかかるぞぉ? まあ、お前が痛みで死ななければの話だが」

「ふぅー……!! ふぅー……!!」

「そうだ!! どうせなら、お前の血と汗の滲んだ刀で頚を斬ってやる!! 怖いか? だったら見えないように鱗滝からの贈り物のお面を被せてやるからなぁ……!!」

「―――」

 

 絞り出せるものは絞り出した。

 声も、力も、涙も。

 それでも約束は果たせそうにない。帰るという約束を。

 

「―――ごめん、なさい」

 

 最早痛みさえおぼろげになった真菰は、辺りが冷え込むような感覚を覚えた。

 命の灯が消える錯覚なのだろうか? なんとなくそう思い立った真菰であったが、

 

(……何? この……“音”……?)

 

 朦朧とする意識の中でも凛と鳴り響く音が意識を呼び戻す。

 

(吹雪みたいな……)

 

 耳を劈く甲高くも激しい風―――否、呼吸の音。

 刹那、真菰は怒涛の雪崩を幻視した。

 

 全集中・氷の呼吸 陸ノ型 白魔の吐息

 

 舞い降りる人影が振るった流麗かつ激しい剣閃が、真菰を掴んでいた腕を斬り落とす。一瞬の内だった。

 水の呼吸に似て非なる技を繰り出した人物は、拘束が解けて落下する真菰を抱きかかえて着地する。手鬼は何が起こったのか目を白黒させていた。

 その間にも、文字通り真菰を鬼の手から救い出した()()は、朦朧とする彼女の意識を呼び戻すべく声を上げた。

 

「大丈夫!?」

「う、ぁなたは……?」

 

 鈴の音にも似た澄んだ声。夏の風に揺られる風鈴を彷彿とさせる心地よい耳障りだ。

 藍色の瞳でのぞき込む少年は、真菰の問いに答えようと口を開こうとした。

 

「よくもぉぉおおおおお!!!」

「!」

 

 そこへ割り込む巨大な腕。

 直前に何かを感じ取っていた少年は即座に飛び退き、獲物を奪われ怒り狂う手鬼の猛攻を避ける。

 

 全集中・氷の呼吸 参ノ型 細氷の舞い

 

 舞うように猛攻を掻い潜る少年。体を翻す度に、握る刀は月光をその刀身に映し、淡い光を辺りにまき散らす。

 手鬼も瞠目するほどにキレの良い動き。人一人を抱きかかえているとは思えない速さだ。

 ここで少年にとって幸いだったのは、真菰が華奢な体をしていたことであろう。確かに同じ体格の少女に比べれば、筋肉の密度からしてやや重い真菰であるが、それでも軽いことには軽い。そのため、かなりギリギリではあったものの、少年は手鬼の猛攻を回避しきることができた。

 

 しかし、それも延々と続ける訳にはいかない。四肢をもがれようと再生する不死性を兼ね備えている鬼に対し長期戦を仕掛けるのは余りにも悪手。

 攻勢に転じるにせよ撤退するにせよ、早々に決断を下さなければならない。

 

 少年が出した答えは、

 

「これでも……喰らえ!!」

「むおっ!?」

 

 徐に懐から取り出した小袋を切りつけ、手鬼に投擲した。

 中に入っていたのは乾燥した藤の花。鬼にとって藤の花の香りは近寄ることのできない臭いであり、それを利用して藤襲山に鬼は閉じ込められているのだ。

 例え小袋に詰め込まれていた量だとしても、顔面に喰らえば怯むのは必至。

 少年の狙い通り、眼前で拡散する藤の花の香りに委縮した手鬼の攻撃の手は緩んだ。

 それでも尚迫りくる複数の手に対し、少年は真菰を一旦地面に置き、刀を振るった。

 

 全集中・氷の呼吸 弐ノ型 霰斬り

 

 縦と横。規則的に振るわれる単純な斬撃であるが、その鋭さは目を見張るものであった。

 気が付けば手鬼の手は賽の目以下の大きさに切り分けられ、最早少年と真菰に手出しできぬ有様となったではないか。

 

「今だ!!」

 

 手鬼は怯み、攻撃の手も止まった。

 引き際だと確信した少年は、地面に置いた真菰を再び抱きかかえ、手鬼の前から逃げ去っていく。

 背後から手鬼の怨嗟のうめき声が響くが、振り返らず、一心不乱に駆け抜ける。

 そうしていれば数分後には手鬼の気配の届かぬ場所まで逃げ切った。

 

 真菰を抱きかかえ走り切った少年の顔には、流石に疲労の色がにじみ出る。

 

「これで……」

 

 ふと視線を落とす。

 目に入ったのは、穏やかな寝顔を浮かべる少女。

 幸いにも呼吸は穏やかだ。きっと体力と緊張の糸が切れて眠ってしまったのだろう。

 

 それから空を見上げる。

 まだ、夜は明けそうにない。

 

 

 

 ***

 

 

 

 幸せな夢を見ていた。

 恩師と兄弟子に囲まれ、温かな笑顔を浮かべて食卓を囲む―――そんな何気ない一幕だ。

 

 だが、何気ない日常こそが幸せであると知ってしまった以上、自分は不幸な身なのではないか?

 そう思い至った瞬間、生暖かい血の臭いが真菰を現実に引き戻した。

 

「つっ……!」

「大丈夫?」

 

 四肢に走る激痛に顔が歪んだのと同時に、傍らに佇んでいた少年が声をかけてきた。

 静謐な藍色の瞳に、倒れた自分の姿が映り込む。

 そうして自分が今置かれた状況をだんだんと理解し始めた。

 

 痛みが五体満足であることを知らせてくれる。

 それからなんとか体を起こそうとするものの、「ダメだよ!」と制止する少年の声に、自然と体は従ってしまった。

 どうやら自分が思っている以上に疲弊してしまったようだ。

 戦い、怒り、その末に甚振られた。なるほど、確かに死ぬように気絶したのも致し方ないように思える。

 

「貴方は?」

「僕?」

 

 すると知りたくなってくるのは自身を助けてくれた相手のことだ。

 

「僕は氷室 凛。氷室が苗字で、凛が名前」

「凛……綺麗な名前だね」

 

 率直な感想を述べれば、凛と名乗った少年は少し恥ずかしそうにはにかんだ。

 

「ありがとう。それじゃあ、君の名前は?」

「私は真菰……苗字はないや」

「……そっか」

「聞かないの? 理由」

「うん」

「優しいんだね」

「そうかな?」

「うん、優しい」

 

 まだ意識がおぼろげな所為か、返答が端的となってしまったが、凛の気を悪くさせずには済んだ―――というより、寧ろ喜ばせたかもしれない。

 先ほどまでの殺伐とした死地からの生還故か、どことなく気が緩んでいる感は否めない。

 真菰の生来の性格もあるだろうが、とても鬼が潜んでいる山にて交わされる会話ではなかった。

 

 それからしばらく、茫然と横たわっていた真菰であったが、ハッと思い出したかのように目を見開いた。

 

「あいつは!?」

「あいつ……って?」

「手がたくさんの! あいつを……あいつだけは! っ!?」

 

 全身の血が沸き立つような怒りが真菰を駆け巡る。

 無理を押して立ち上がろうとするも、現実は甘くはない。すぐさま四肢に激痛が奔り、地面から離れた背中は今一度地面に預けることとなった。

 

 なんと無力なことだろう。

 己の力で起き上がれない事実に、真菰はさめざめと涙を流した。

 

 その様子を見守る凛は、得も言われぬ面持ちを浮かべたまま周囲に気を配っている。まだ日は昇りそうにない。いつ何時鬼に襲われようと対処できるよう、身構えてなければならないのだから、並大抵の精神力では一週間生き延びることはできない。

 

 悲鳴を聞いて駆けつけた凛もまた鬼殺隊を志す少年だ。

 守れる人間が居るならば、命を賭して守り抜く気概に溢れている。

 しかし、想定よりも強力な鬼の存在を知ったからには、銀盤のように動揺しない精神を心掛けていた凛にも、一抹の不安が過った。

 

 あの手鬼は、どうにも真菰に特別な感情を抱いているようだ。

 その一方で、真菰もまた手鬼に対する特別な感情を抱いている。

 憎しみ、怒り、哀しみ―――彼等から感じる“熱”は、幾星霜を経たであろう複雑な熱さと冷たさが入り乱れていた。

 

「―――良かったらでいいんだけど」

 

 少しの思案を経て、やっとの思いで口にした当たり障りのない言葉。

 真菰は弾かれるように凛を見上げる。

 そんな彼女に対し、凛は覚悟の決まった面持ちを浮かべ、語を継いだ。

 

「聞かせてくれないかな。君が……吐き出したい想いがあるなら……」

「……うん」

 

 慮るような優しい声音。

 潤んだ視界を明瞭にするべく、一旦瞼を閉じる真菰。

 頬を伝う熱が夜風に晒されて、胸の内で渦巻く赫怒の熱を奪い去ってくれる。

 そうして僅かばかり冷静になれた真菰は、零れ落ちる雨垂れのように言葉を紡いだ。

 

 鬼に家族を殺された―――よくある話だ。

 鬼に大切な人を殺された―――よくある話だ。

 鬼に恩人が悲しませられた―――よくある話だ。

 

 そんなありふれた残酷な悲劇が、真菰を鬼狩りへと志せるに至った。

 

「でも、馬鹿だよね私……どんな時でも冷静に呼吸を乱すなって教えられたのに……それでもあいつが憎くて堪らなくて……それでこのザマになっちゃった……本当にっ……!」

 

 振り返る度に己の無力さを突きつけられているようで、真菰の瞳からは滂沱が零れ落ちる。

 こんなに泣いたのは兄弟子の錆兎が死んだと聞かされた時以来だった。

 辛うじて生き残ったもう一人の兄弟子は、彼が死んで以来、笑顔どころか顔を見せることも少なくなってしまった。

 家族同然に育った彼等と、どうしてこうも離れ離れにならなければならないのだろうか。

 どれだけ鍛えて体が強くなろうとも、精神(こころ)までが急激に成長することなどなかった。そうだ、今までずっと泣いていた。表に出さない涙があった。それが自分の努力を嘲笑する結果を突きつけられ、とうとう我慢できなくなったのだ。

 

「悔しい……悔しいよぅ……!!」

 

 痛い。痛い。痛い。

 腕も脚も胸も、みんなみんな痛くて堪らない。このまま悶え苦しみそうな痛みが絶え間なく襲い掛かって来る。

 

 そんな彼女の壮絶な人生を耳にした凛は、悲痛な面持ちを浮かべたまま、しばし思案する。

 月並みな言葉をかけても慰めにならないとは分かっている。それでも慰めずには居られない。

 

「―――僕は……鬼の胎内(はら)から産まれた」

「え……?」

 

 思いもよらぬ境遇を告げられ、真菰は泣くことも忘れて呆気にとられた。

 

「それってどういう……」

「僕を身籠っていた時に母親が鬼にされたらしいんだ。他の家族は母親に皆殺しにされた」

「そんな……」

 

 なんと凄絶な過去か。真菰は絶句した。

 真菰も鬼に家族を殺された経緯はあるものの、鬼になった身内が、まさか自分を身籠った状態で家族を殺して回ったなどとは聞いていない。気を利かせた恩師が告げていないだけかもしれないが―――いいや、単に想像したくないだけだ。

 自分にも負けず劣らずの過去を告げられた真菰は、なんと返答したらいいものかと困惑する。

 すると、

 

「でも、僕は母親を憎んでないよ」

 

 と言うものだから、これまた真菰は言葉を失った。

 

「僕を育ててくれたお師匠様……育手が言ったんだ。僕を産んだ母親が、鬼の本能を必死に抑えて僕を託してくれたって」

「嘘……」

「だから僕は母親は憎んでない。憎めない。母親もわざと家族を喰い殺した訳じゃないから……君みたいに逆恨みで大切な人達を奪われた訳じゃないから」

 

 悲しげな笑顔を浮かべて凛は語る。

 

「君は強いよ。僕みたいに何も分からない間に大切な人を奪われた訳じゃない……きっと、たくさん悲しんで、たくさん怒って、それでも立ち上がって前に進んできたんだよね?」

 

 徐に真菰の手を取る凛。

 掌は年端も行かない少女のものと思えぬほどに分厚い皮に覆われていた。どれだけ刀を振れば、ここまで逞しく育つのだろうか。皮が裂け、あるいは剥がれたことは数度の話ではないはずだ。

 

「だったら、これ以上自分を責めないでほしい……って、僕は思う」

 

 真菰は悪くないから、と凛は締めくくった。―――今にも泣きだしそうな面持ちを浮かべながら。

 

 心底同情してくれていることは伝わってくる。

 その点に関しては素直に嬉しく思う真菰であったが、

 

「でも……ダメなんだ、やっぱり」

「! まだ動いちゃダメだよ! 簡単な手当てはしたけれど……」

 

 激痛に蝕まれる体を気合いだけで起こす真菰。

 「想い」と呼ぶには悍ましい……最早「執念」の域に達する感情を原動力が彼女を突き動かしていた。

 

「凛が、私の所為じゃないって言ってくれたのは……情けないけど……本当に嬉しかった……心が救われた……でも……でもね……!」

 

 ギリッ、と鳴り響く歯軋りは、他者に齎される慰めと己の内に渦巻く自責の念の歯車の不和が奏でるもの。

 

 慰めで済まされるものであってはならないのだ、この感情は。

 錆兎が殺されたことも、義勇と鱗滝が悲しんでいることも、自分が怒りの余り鬼に不覚をとってしまったことも、

 

「『仕方なかった』じゃ……済ませたくないの……ッ!」

「ッ……!」

「誰かが死ぬのも……私が殺されるのも……全部他人の所為にしたらッ! 逃げ道ばかり作ったらッ! なりたい自分から……どんどん遠くなっちゃいそうな気がするから……!!」

 

 血反吐を吐く勢いで想いを吐露する真菰は、日輪刀を杖に立ち上がった。

 痛み止めを塗り、包帯をきつく巻いて処置した手足であるが、常人では立つことさえままならない激痛に苛まれているはずだ。

 それでも真菰は立ち上がったのだ。今ここで立ち上がらないことを「仕方なかった」で済ませたくない―――その一心で。その道の先にある目的はただ一つ。

 

「私は仇をとる……! あの鬼を……斃す!!」

「真菰……」

「ありがとう、凛。貴方に会えてよかった。それと、ごめんなさい。貴方の気持ちを無下にするような真似をして……でも、これは誓ったことなの。私がやらなくちゃいけないって。仇をとって帰るんだ」

 

 そう告げて真菰は凛の前から立ち去ろうと踏み出した。

 向かう先は当然、先ほど相対した手鬼の下。先ほどは怒りで不覚を取ったが、今度はそうはいかない。

 しかし、それを帳消しにするほどの負傷を真菰は負っている。

 全快でも頚を斬れるかどうかの相手に対し、今の真菰が手鬼に勝てる確率は―――零に等しいだろう。

 それでも真菰は止まらない。今の彼女は誰が止めたとしても突き進む。

 そのような頑な意思(ねつ)を凛は感じ取った。だからこそ、

 

「待って」

「止めないで。私は―――」

「違う。君が行くことは止めないよ」

「え?」

「僕も付いて行くよ」

 

 思わぬ申し出に、真菰の翡翠色の瞳が見開かれた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔とはまさにこの顔だ。

 

 自分の復讐に他人を付き合わせていいのだろうか?

 

 自問自答する挙動を見せる真菰に対し、凛はフッと微笑みを零す。

 

「怪我した女の子をほっとけないよ」

「……そっか。ありがと!」

「でも、約束して」

「?」

 

 首を傾げる真菰に対し、凛は小指を差し出す。

所謂、指切りげんまんだ。

 

「自分の命を捨てるような真似だけはやめて。わかった?」

「……うん」

「もしもの時は……僕が君を守るから。絶対。約束する」

 

 とことん目の前の少女の心中を慮る言動をする凛。

 そんな真っすぐな少年の姿に、真菰もついに温かな笑顔を浮かべることができた。

 そのまま二人の小指は結ばれる。少しばかり固くなった皮が擦れてこそばゆい感覚がするものだから、思わず笑い声も零れてしまった。

 

 穏やかな温もりが二人の間に流れるのも束の間、空気は一気に引き締まる。

 

 

 

 日輪刀を握り、いざ赴かん―――鬼退治へ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 手鬼は憤っていた。

 折角捕まえた狐娘(まこも)を、どこの馬の骨とも分からない鬼狩り()()()に奪われたことに。

 

「ひひひ。だが、まだだ……あいつは来る……絶対に……!」

 

 しかし、同時に真菰が自分を討ち取りに来ることを確信していた。

 この悶々とした気分は、再来する怨敵の弟子を殺すことで晴らそう。

下卑た笑みを浮かべ、そう誓う手鬼であったが、

 

「―――来るのが早かったなぁ」

 

 ざりっ、と砂利が踏みつけられる音のする方向へ振り返る。

 そこに居たのは、自身から少女を奪い去って行った少年であった。

 

「お前……お前お前お前えええええ!! よくものこのこと顔を出しに来たなあああああ!!」

 

 とんだ八つ当たりだ。

 だが、手鬼は省みない。だからこそ平然と殺せる。喰らう。哀しいことに、鬼であればほとんどがそうなのだ。

 そんな実情を知っているからこそ、彼に兄弟子たちを殺された真菰の話を聞いた凛は、手鬼に相対しても尚、その瞳に憎しみは一変も宿っていなかった。

 

「ふぅー……」

 

 肺に空気を取り込む。取り込む。極限まで取り込む。

 すると全身に煮え滾るような熱が迸り、力が間欠泉の如く沸き上がって来る。

 これが“全集中の呼吸”の極意。人が鬼と戦う為、一時的に鬼に匹敵する力を得る為の技術だ。

 

―――ビュォォオ……!!

 

 そして息を吐き出せば、吹雪に似た音が周囲を奔っていく。

 これには手鬼も思わず身構えると同時に、体が凍てつくような錯覚を覚えた。

 

―――こいつは……不味い!

 

 脳裏を過るのは、怨敵・鱗滝の姿。

 使う呼吸の流派が違うのは知識に乏しい手鬼もなんとなくであるが理解できる。だが、この身の毛もよだつ寒気は、あの時と同じだ。

 

「う、うおおおおおおおおおお!!!」

 

 雄たけびが轟く。

 同時に、手鬼から伸ばされる無数の手が、地面を抉り、木々をなぎ倒しながら凛の下へ突き進んでいく。

 真面に食らえば一たまりもない。量も、質量も

 しかし、凛は面と向かう。極限まで研ぎ澄ませた集中力の前には、怖れや怒りさえも問題としない。

 

 

 

 全集中・氷の呼吸 拾ノ型―――

 

 

 

 月影を浴びる刃が閃き、宙に六花を描いた。

 刹那、凛へ群がるかの如く伸ばされた腕が斬り飛ばされ、鮮血が咲き誇った。

 

 これこそが、水の呼吸の派生―――氷の呼吸の十ある型の内の一つ。氷の如く滑らかに、それでいて鋭い斬撃を無数に繰り出し、相手に血の華を咲かせる奥義。

 

「―――紅蓮華(ぐれんげ)

「な……にぃ!!?」

 

 たった一瞬の内に無数の手が斬り落とされたことに、手鬼はあからさまに動揺していた。

 藤襲山に来てからというもの、最も手古摺った宍色の髪の少年と同等―――否、もしかするとそれ以上かもしれない剣の腕だ。

 加えて、

 

「!? 手、手が!! 手がぁ!! 手が再生しないいいいいい!!?」

 

 あれほど真菰を苦しませた再生能力を見せていた手鬼の手が、一向に生える素振りを見せない。

 一体なぜ? 何度も何度も疑問を解こうと思案を巡らすも、斬られた断面は仄かに煌めくばかり。それと関係するか否か、手鬼は腕が凍り付くような鋭い痛みに襲われていた。

 

 飲み込めない現実に狼狽するも束の間、凛の背後より小さな人影が飛び出した。

 それは真菰だ。手足には痛々さを感じさせる包帯が巻かれており、無理に動かしている故の激痛に苛まれているのか、表情も一段と険しい。

 

 凛が道を切り開き、真菰がトドメを差す。そういう算段なのだろう。

 

 そう思い至った瞬間、手鬼の顔からは焦燥が消え失せ、代わりに余裕が浮かび上がる。

 

(こいつは俺の頚を斬れはしない!)

 

 慢心。いや、先の一戦で得た事実を鑑みた上での余裕だ。

 少年ならばいざ知らず、この狐娘に俺の頚は取れない―――そう確信していた手鬼であったが、風の逆巻く音にハッとする。

 

 空気の流れが変わった。

 

 

 

 全集中・水の呼吸 拾ノ型 生生流転(せいせいるてん)

 

 

 

 うねるように龍の如く回転する真菰が、差し向けられて手を斬り飛ばした。

 

「馬鹿なっ……!?」

「はああああっ!!!」

 

 一閃、二閃、そして三閃と流れるように繰り出される真菰の斬撃は、次々に行く手を阻む手を斬り飛ばしていき、手鬼へと迫っていく。

 

―――不味い、不味い、不味い……!

 

 まさか、侮っていた女が―――しかも手負いの―――このような隠し玉を持っているとは夢にも思わなかった。

 それほどまでに手鬼を追い詰める真菰が繰り出したのは、水の呼吸最大の連続攻撃、「生生流転」。うねるように回転して繰り出される斬撃は、一撃目よりも二撃目が、二撃目よりも三撃目が……といったように、次第に威力を増していく。

 その反面、体に強いる負担は他の型の比ではなく、四肢を痛めた真菰にとっては諸刃の剣に等しい攻撃であった。

 

―――この一撃に全てをかける!

 

 痛む体に鞭を打ち、流れるような斬撃を放ちつつ前へ前へと突き進む真菰は、手鬼の頚に間合いが到達するもう少しというところまで迫り、飛び上がった。

 迫りくる死の気配。手鬼の掌には尋常でない手汗が滲む。

 だが、()()()は残してある。

 

「お前も……あの宍色の髪の餓鬼と同じように頭を潰してやるぅ!!!」

「!」

 

 本来、頚を斬られぬようにと頭部を覆っている手が、跳躍して宙に居ることで自由の利かない真菰へと迫っていく。

 少しでも真菰の行く手を阻むようにと広げられる掌。真菰の視点からすれば世界が暗転したも同然であった。

 

 それでも真菰は止まらない。止まれるはずもない。

 直前に手鬼が口にした宍色の髪―――錆兎のことだ。

 彼の殺し方を告げられ、冷静になどなれはしない。

 爆ぜる怒りが体を突き動かす。そのままでは頭部が掌にすっぽりと収まり、握り潰されるであろう軌道を描いていた真菰であったが、限界まで体を捻り、頭を傾けた。

 するとどうだろうか。完全に真菰を握り潰す算段であった手鬼が掴んだのは、真菰の側頭部にあった狐の面―――厄除の面であった。

 どれだけ目を見開こうとも、事実は揺るがない。

 自分が握り潰したのは厄除の面だけ。真菰は依然迫っており、頚を狙える間合いへと入り込んだ。

 

 刹那、手鬼はとある記憶を走馬灯のように思い出した。

 誰か―――とても親しい誰かが伸ばした手を優しく包み込むように掴んでくれる。温かく、それでいて途方もない悲しみを覚える思い出。

 だが、どうしてだろう。いつも手を取ってくれた者の顔を思い出せない。

 まるで、どれほど手を伸ばしても届かない場所に居るようで―――。

 

「あああっ!!!」

 

 鮮烈な痛みが頚に奔ったのは、そんな走馬灯が脳裏を過った直後だ。

 龍が尾を薙ぐような軌跡を描く刃が、今まで誰にも触れることを許さなかった手鬼の頚を斬り飛ばした。

 飛び散る鮮血が描く弧とは対照的に、真菰の振り抜く日輪刀の刃は月光を照り返し、淡い青色の残光の弧を描いている。

 

(やった……やったよ、錆兎……義勇……鱗滝さん……)

 

 限界以上の力を振り絞り、見事手鬼を討ち取った真菰は穏やかな笑みを湛えたまま重力に引かれて地面に落ちていく。

 

「っぶない!!?」

 

 しかし、彼女の体が地面に打ち付けられることはなかった。

 寸前で滑り込んだ凛が受け止めたのだ。何かがあった時のために駆け出しておいてよかったと安堵の息が漏れるのも致し方ないことだろう。

 

「……やったね」

「……」

「……真菰?」

「すぅ……」

 

 仇討ちを果たした少女に声をかけるも返答が来ないことを怪訝に思い、顔を覗き込んだ凛が目にしたのは、穏やかな寝息を立てて眠る真菰の顔であった。

 いくら安心したとて、今日出会ったばかりの男の腕の中で眠るのは無防備過ぎやしないだろうか。ましてや、鬼がうようよと居る山にて。

 しかし、不意に空が白み始めたのを目にし、杞憂だったかと頬を緩ませる。

 

 夜明けだ。

 陽光がこれほどまでに生命力溢れるものだとは、鬼を知る前は思いもしなかっただろう。

 なんと眩い。なんと温かい光。

 凛は差し込む朝日に目を細めつつ、眠り込む真菰の頭をそっと撫でる。

 

「……おやすみ」

 

 彼女はやっと眠れる―――夢を見られるのだ。

 仇を討った少女の眠りを妨げてはならない。そう自分に言い聞かせる凛は、しばらく上り行く朝日を見届けるのであった。

 



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弐.快刀乱麻

 

「―――やったか、真菰」

 

 白み始めた空を見上げる少年が呟いた。

 狐の面の奥に佇む瞳は、どこか遥か遠くを見据えているようであった。それでいて口元に湛える笑みは(まこと)穏やかなものである。

 

「……達者でな。お前はまだ帰って来るな。ゆっくりで……ゆっくりでいいからな」

 

 徐に霧が現れる。

 その中には十数人ほどの子供らしき人影が見えるが、彼等もまた、少年と同じく晴れ晴れとした様子を見せ、今一度霧の狭間へと紛れていった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 最終選別二日目。

 

 怒涛の初日を終えた凛は、成り行きで敵討ちを手伝うことになった真菰なる少女と行動を共にしていた。

 

「えへへ。昨日はごめんね、ぐっすり眠っちゃって……」

「ううん。あんなことがあったら疲れて眠るのも仕方ないよ」

 

 少しでも太陽の下に居られるようにと山の西を目指す二人。

 凛はともかく、真菰は負傷した手足を無理に動かしたことから酷く腫れてしまっている。それでも尚動けていることが彼女の凄まじいところであるが、あと六日間生き残らなければならないことを考えれば、如何せんよろしくない状態であるのは察せよう。

 だからこそ、凛は告げる。

 

「これも何かの縁だよ。最終日まで君は僕が守るから安心して」

「……うん、ありがとう」

 

 少々気が引けるような面持ちを浮かべた真菰であったが、自分の状態が分からないほど馬鹿でもない。

 ここは素直に彼の厚意を受け取りつつ、自分にできる限りのことをしよう。真菰はそう思い至りつつ、彼へ感謝の言葉を述べた。

 

「それで、これからどうする?」

「そうだね……他の受験者を探そう。鬼もそんなに強くないにしたって、一人で居るのは危険だ」

「協力するの?」

「うん。禁止されてないしね」

「……ふふっ、そうだね」

 

 清々しいまでの凛の笑顔に、真菰も思わずつられて笑ってしまった。

 確かに、最終選別で提示された条件は「藤襲山で七日間生き残る」というものだけだ。他の受験者との協力を禁止する旨は一切告げられていない。

 生き延びるためなら何でもする。それが人としての道理を外れていない限り―――そんな気概を持って、凛はこの場に赴いている。

 

「助けられるだけ助けよう。僕たちの手で」

「……うん」

 

 固い決意に満ちた声。まるで自分にも言い聞かせているような声音に、真菰は昨日の己の私情に囚われた行動を反省しながら頷いた。

 

 やや静かになった二人であったが、場の空気を変えようとしたのか、真菰が口を開いた。

 

「ねえ。凛の使ってる呼吸、なあに?」

「僕の? 氷の呼吸だよ」

「氷。初めて聞いた」

「お師匠様は水の呼吸の派生って言ってたけど……」

「へぇ~」

 

 鬼殺の剣士の大半が会得する“全集中の呼吸”であるが、全部が全部同じという訳ではなく、剣道や薙刀といった武術のようにいくつかの流派に別れていた。

 それが全集中の呼吸の場合、基本の呼吸と呼ばれる流派が五つ存在する。

 水、炎、岩、風、雷―――これら五つが鬼殺の剣士の大半が用いる基本の呼吸だ。

 しかし、呼吸には適正がある。一定の力量を持つ剣士であれば、真っ新な状態の日輪刀を握ることで、どの呼吸に適しているかの判断にもなる“色”が浮かび上がるが、人によっては前述の五つの流派、いずれにも適さない色を示す場合がある。

 

 その時、剣士は鬼を滅殺するためにどうするか―――極められる道を探すのだ。

 

 所謂、派生だ。既存の呼吸を元に、あるいは一から作り出すことで、己の肉体に適した呼吸を編み出すのである。

 凛の用いる「氷の呼吸」は、彼の師である元鬼殺隊員の育手が水の呼吸を元に派生させた呼吸法。柔軟な状況対応力と流麗な剣閃な特徴の水の呼吸に比べ、剣閃がより犀利なものとなり、鬼を両断し得るほどに攻撃力を突き詰めたのが氷の呼吸だ。

 柔軟さで言えば水の呼吸に一歩劣るものの、水の呼吸ではあと一歩及ばぬ硬さの敵を斬り得る攻撃力は、先の手鬼との戦いでも遺憾なく発揮されただろう。

 

「氷の呼吸かぁ。私も練習したら使えるかな?」

「できると思うよ! お師匠様は元々水の呼吸の使い手だったらしいから……」

「そうなんだ……あ、じゃあ逆に凛は水の呼吸使えるの?」

「僕? 流石に水の呼吸までは習ってないけれど……派生した呼吸だから、基本が似てるし、練習したらできるかも」

「じゃあ、今度私が教えてあげるね」

「えっ、真菰が?」

「うん。私が凛の育手になってあげる」

「はははっ、それもいいかもね」

 

 他愛のない会話を経て、すっかり打ち解け合った二人。

 その後も食料の調達や飲み水の確保、薬に使えそうな植物を採集しながら進んでいる内に日が沈んできた。

 

「他の受験者は見つからないね……」

「みんな必死だもん。夜の内は、鬼に見つからないように息を潜めるんじゃない?」

「そうだね……」

 

 視界の悪い夜に動くのは得策ではない。

 月光に照らされる開けた場所でもなければ、夜の山はほとんど周囲を窺えない。そのため、鬼殺の剣士になる者は夜目を鍛えるようにしているのだが、それでも暗黒の中では反応が遅れる。

 一瞬の隙が生死を分ける。しかし、その一瞬の為に夜が明けるまで神経を集中させることは並大抵の精神力では為し得られない。

 となると、やはり大人数で協力した方が互いに死角を補えられ、生存率を上げることに繋がるだろう。

 

 今宵、凛と真菰に襲撃した鬼は二体。

 だが、どちらも闇夜の中とは思えぬ反応速度を見せた凛により頚を斬られ、塵も残さず炭化していった。

 

 最終選別三日目。

 

「凛は鼻が利くの?」

「え?」

 

 日が昇っている内に睡眠を取ろうとした凛に、ふと真菰が問いかけた。

 

「鱗滝さん―――私の育手はとっても鼻が利くの。鬼がどこに居るかとか、相手がどういう人なのかとか……そういうことまでわかっちゃうくらい」

「それは凄いね……でも、僕はそんなに鼻は利かないよ」

 

 闇夜に乗じて襲い掛かる鬼に対して、まるで初めから来ることが分かっていたような反応速度の凛に疑問を覚えていた真菰。

 もしや、剣の師のような特別優れた感覚があるのだろうかと訝しんだのだが、それは半分当たっていた。

 

「僕は、そうだな……なんて言うか、温度に敏感なんだ」

「温度?」

「熱さとか冷たさとか……そういう物が放つ“熱”を感じ取れる。集中すれば目を瞑ったってどんな物が周りのあるのかも分かるし、人から放つ熱で、その人がどんな感情を抱いているのかも大体なら分かるよ」

 

 温度感覚。凛の優れている感覚は、まさにそれのこと。

 熱さを感じ取る“温覚”と、冷たさを感じ取る“冷覚”―――凛は、この両方が人並外れて敏感であった。位置把握のみならず、相手の感情を推し量るに至るまで。最早温度感覚と呼ぶことさえ憚られる万能さを有するに至っていた。

 

「んっ……じゃあ、今の私がどういう感情か感じ取ってみて」

「え!? う~ん、そうだなぁ……」

 

 唐突な無茶ぶりに応える凛は、掌を真菰の方へと突き出し、しばし彼女の体から放たれる“熱”を感じ取る。

 

「……体表からじゃなくて、内側からぽかぽかしてる感じ……ずばり、『疲れた』! 『眠い』! 違う?」

「正解っ」

 

 頷いた真菰は、今にも眠りに落ちそうな瞳を浮かべている。

 だが、それはきっと自分も同じなのだろう。狭まっていく視界と重くなる体。夜中、ずっと気を張っていた分、今彼が浮かべている顔はなんとも緩いものだ。

 「よっこいしょ」と腰を下ろした二人は、疲れを癒すため、そのまま眠りについた。

 

 起きてからは昨日と同じ動きだ。普通に食べて生きていくことがどれだけ大変かを思い知りながら食糧を調達する。互いに万が一の為の携帯食は持ち合わせていたが、これはあくまで最後の手段。余力の残っている内は、可能な限り現地調達するのが得策だろう。

 それにしても、人並外れた体力を求められる鬼殺隊であるが、一週間山の中で自給自足しなければならないのは厳しいと言わざるを得ない。

 

 他の受験者は何人生きているのだろうか。そのようなことを考えつつ迎えた夜の出来事だった。

 

「っ……!」

「あ」

 

 闇に響く剣戟のわななき。

 辛うじて日輪刀で襲撃を捌いた凛が目にしたのは、日輪刀を手にした鬼―――ではなく、人間だった。

 鬼ではなく人間に襲撃されたことに困惑した凛であったが、斬りかかった少女は「しまった」と言わんばかりの声を漏らす。

 

 今回は凛が反応できたからよかったものの、先ほどの一太刀は完全に頚を狙っていた。もしも対応に遅れていたら、襲撃してきた少女は人殺しになっていただろう。

 そうならずに済んだ安堵と共に、確認もせず躊躇いもなく斬りかかった少女へ、思わず凛も声を荒げた。

 

「いきなり斬りかかるなんて危ないじゃないか!」

「間違えた」

「間違えたって……!」

「じゃあ」

「あ、ちょっと! 待って!」

 

 止める間もなく、長髪を一つ結びにした少女は去っていってしまう。

 余りにも淡泊な声音だった少女に「なんだったんだろう……」と疲弊した面持ちを浮かべる凛に、真菰は「とりあえず怪我がなくてよかったよ」と労う。

 いつ命を奪われるかもわからない極限状態。見かけた人影が人か鬼かも近くで確認しなければわからない以上、ああして先手を打つのも理解できなくはない。だが、確認不足で殺されるのも、相手を人殺しにさせるのも御免である。

 

 それはそれとして、たった今出会った少女と合流し人数を増やしたい考えもあったが、早々に立ち去ってしまったために叶わなくなった。

 

「嵐みたいな子だったなぁ……」

 

 サッと訪れて、サッと暴れて、サッと去っていく。まさしく嵐。

 

 そんな一幕を経て、鬼と一戦交えるよりも疲れた凛であったが、その日はそれ以外何事もなく朝を迎えられた。

 

 最終選別四日目。

 

 ようやく折り返しとなる日数が経った。

やや疲労の色が見え始めた二人であるが、今日はそんな疲れを忘れるようなめぐり逢いが訪れた。

 

「他の受験者も守るべく協力しようということか! わかった! 是非とも手を貸そう!!」

 

 溌剌とした少年に出会ったのだ。

 彼の名は明松 燎太郎。赤みがかった髪と瞳が特徴的だった。竹を割ったような性格の彼は、凛たちの申し出を快諾してくれた。四日目にして元気が有り余っている彼は、「そうともなれば動かずにいられない!」と、人を見かけた場所まで案内してくれるではないか。

 すると、怪我で動けない受験者を発見できた。

 突然大所帯で現れた凛達を前に、怪我をした受験者は藁にも縋る想いで「助けてくれ!」と訴える。

 当然、見つけたからには看病だ。大分痛みがマシになってきた真菰が看病を担当し、凛と燎太郎はと言えば、真菰達の護衛と受験者の捜索を交代で行っていた。

 その甲斐あってか、四日目にしてさらに二名の受験者との合流にも成功。

 最初こそ単独行動を取っていた面々であるが、他人が居ると居ないとでは安心感が違うのか、合流した者達は皆全身の強張りが抜けていた。

 

 負傷者が集う分、傷口や衣服から漂う血の臭いを嗅ぎつけ群がって来る雑魚鬼が数体居たが、腕の立つ凛と燎太郎により鬼は一蹴される。

 

 こうして守りの固くなった集団で夜を乗り切り、迎える最終選別五日目。

 

 昼はいつも通り。夜に関しては、人数が増えた分警備を交代するなどして休息を取りやすくなった。

 鬼を迎撃し、なんなく五日目を終え、六日目、そして七日目へ。

 さらに合流した者も増え、ここまで来れば守りに徹するだけで最終選別合格が大分現実味を帯びてくる。

 しかし、油断大敵だ。気の緩みこそが必要ない犠牲を生む。

 

「よし、今度は僕が見回りに行くよ」

「いいのか? ここまで来たら固まって行動していた方が安心だと思うが」

「ほら。僕、周りの気配に敏感だし。それにまだ見つけてない人も居るかもしれないから」

「むう……お前がそういうなら俺は止めないぞ!」

 

 集団から離れた場所の様子見を買って出る凛に、燎太郎は最初こそ渋ったが、彼の索敵能力の高さも買っていたため、最終的には頭を縦に振った。

 

「気を付けてね。約束だから」

「うん、わかってる」

 

 くれぐれもと真菰から釘を刺されつつ駆け出す。

 そんな彼が探しているのは、先日刃を交えた少女だ。

 

(彼女……他の受験者より強そうな“熱”を感じたけれど無事かなあ?)

 

 腰にも届く長髪を首の後ろで結んだ彼女は、凛の目から見ても中々の実力者であった。

 彼女であれば、藤の牢獄に閉じ込められた鬼に負ける可能性は低いが、万が一ということもある。

 できる限りのことはせねば―――そんな使命感に駆られていた。

 

(それに……)

 

 ふと腕に刻まれた傷を見つめる。

 手鬼と戦った時、意図的に傷つけた自傷のようなものだ。すでに傷薬を塗って塞がっているものの、一つ懸念点があった。

 それがあえて集団から離れた理由だ。

 

(多分鬼は……っ!)

 

 急停止する凛。

 どこからか忍び寄って来るかのような厭な熱を感じ取ったのだ。こうした熱は十中八九鬼のものだ。

 いつ襲われてもいいように日輪刀の柄に手を掛け、感覚を研ぎ澄ませる。

 

 どこからだ。どこから来る。

 

 風の唸り声や、木の葉の(ざわ)めきの陰に隠れる物音に耳を澄ませた。

 鬼が向かって来るのは、

 

「―――上か!」

 

 刹那、悲鳴にも似た音が鳴り響いた。

 両者の振るった刃が衝突した火花は、夜の帳が降りていた山中を眩い光で照らし上げる。

 

(っ、刀!?)

 

 凛が目の当たりにしたのは、武骨―――というよりも歪な形状の刀を腕から生やした鬼であった。刀鬼とでも称しておこう。その刀鬼から延びる刀はまるでドロドロに溶かした鋼を無造作に固めたような見た目だ。刀鍛冶を生業とする者からすれば、刀と呼ぶことさえ烏滸がましい不格好さである。

 しかし、血を吸って錆びた赤鰯の如き歪な刀は、相手に威圧感を与えるには相応しいように見える。魂を込め丹念に砥がれた刀とは正反対に、ただただ質量で叩き斬る―――そうなった時を想像すると背筋に寒気を覚えた。

 

(この鬼……強い!)

 

 たったの一合で対峙した刀鬼の実力を感じ取った凛の頬には、一筋の汗が伝う。

 手鬼と同等―――否、それ以上かもしれない。

 

 迂闊には近づけないと後退る凛。すると、刀鬼は虚ろな瞳で凛を見据えつつ、ニタリと粘着質な笑みを浮かべた。

 

「お前……稀血か」

「……それがどうした?」

 

 「稀血」という言葉に凛の眉尻が一瞬動いた。

 それを見逃さなかった刀鬼は、一層粘着質な笑みを湛えながら右腕に生える刀を舐り始める。

 

「稀血……稀血……そうかぁ、やっぱりお前からいい匂いしたからな……」

 

 何かを思い出すような瞳を浮かべる刀鬼は続ける。

 

「俺も数日前に喰ってな、いやぁ美味かった……! それに、それによ……喰ったらメキメキ力が沸き上がってきたんだ……!」

「っ……!」

「ああ、今まで狙って喰ってこなかったのが馬鹿みたいだ……こんな山ン中でひもじい思いしてたのがな!!」

「お前……!」

「お前も稀血なんだろ? だったらつべこべ言わず首置いてけや」

「!!」

 

 地面が爆ぜる音が響くと共に、刀鬼の姿が視界から消える。

 瞠目する凛であったが、厭な熱を頭上から感じたため、ほぼ反射的に頭上へと斬撃を放った。

 

 全集中・氷の呼吸 壱ノ型 御神渡(おみわた)

 

 咄嗟であったものの、全力で繰り出した斬撃は刀鬼の斬り下ろしに真正面からぶつかり合う―――が、

 

(押される……不味い!)

 

 腕にかかる力でこのまま受け止めるのは拙いと判断した凛が、即座にその場から潜り抜けた。標的を失った斬撃は代わりに地面を斬りつける。その跡はかなり深く、荒々しいものであった。仮にあのまま鍔迫り合いに発展していたら―――想像したくないものだ。

 

「ちょこまかと……逃げんな!」

「逃げるつもりは……毛頭ない!」

 

 雄叫びを上げて迫って来る刀鬼に対し、凛は臆することなく剣戟を繰り広げた。

 とは言うものの、真正面から斬り合えば日輪刀を折られる危険性が出てくる。得物が似ている以上、膂力が上回っている方が有利になるのは想像に難くない。

 

(なんとか避けるかして……!!)

 

 刀を振りかぶる刀鬼に対し、凛は跳躍した。

 

 全集中・氷の呼吸 玖ノ型 銀花繚乱(ぎんかりょうらん)

 

 全集中の呼吸で飛躍的に身体能力が上がった状態で、周囲の木々をも足場にして飛び回る。水の呼吸に存在する水流飛沫・乱から派生した銀花繚乱は、雪が舞うかの如く柔らかく、そして時には吹雪激しく俊敏な動きで敵を攪乱する歩法だ。

 刀鬼の得物は、その巨大さ故に重く、それに伴って動きも鈍重なものとなる。

 

(今だ!)

 

 そうした刀鬼の弱点を突くかの如く動きで翻弄した凛は、背後から斬りかかるべく飛びかかった。

 だが、鬼も馬鹿ではない。相手の狙いが自身の頚と分かっている以上、頚を斬られまいと行動を起こす。

 徐に左手を頚の後ろに回した刀鬼。すると次の瞬間、刀鬼の左手から大量の血が流れ出る。まるで赤熱した鉄の如く真っ赤な血は、みるみるうちに固まっていき、これまた巨大な刀を形成したではないか。これでは折角背後から斬りかかったにも関わらず、頚を斬ることが叶わない。

 

(それでも!)

 

 眼光と刃が閃いた。

 

 全集中・氷の呼吸 肆ノ型 ()()

 

 敵の防御を崩すための型が繰り出された。守りの固い箇所ではなく、無防備な部分を狙うことにより、相手の姿勢を崩し、結果的に防御を無力化する型だ。

 馬鹿正直に刀鬼の刀を狙うことはせず、刀を支える腕―――特に肘や肩を削るかのように刃を振るう凛は、見事狙い通りに刀を支える部位を斬り飛ばした。鬼の再生能力故、持続的な効果こそ見込めないものの、一瞬の隙を作るのであれば十分。

 支えを失った刀鬼の左腕は、生やした刀の重みでダラリと下がる。それにより頚は無防備となった。

 

「はああああ!!」

 

 好機―――これを逃す訳にはいかない。

 

 全集中・氷の呼吸 捌ノ型 氷瀑(ひょうばく)

 

 全身全霊の斬り下ろしにて刀鬼の頚の切断を試みる凛。

 しかし次の瞬間、彼の視界に鈍い光が閃いた。

 

「っ!」

「チィ! 惜しかったのによ……」

 

 型を寸前で止めて飛び退いた凛の頬を、鋭い一閃が斬りつける。

 危なかった―――そう内心で述べる凛は、呼吸とは別の理由で早く脈打つ鼓動を覚えつつ、刀鬼の右肘から生えた刃を見据えた。

 

(手の甲からだけじゃなかったのか……!)

 

 思い込みとは恐ろしいものだ。刀鬼が手の甲だけから刀を生やしているものだから、それ以外の部位から生やすことはできないとばかり考えていた。

 しかし、それは囮。実際は今のように体の至る部分から刀を生やし、不意を突くこともできるのだろう。

 

(どうする? これじゃ近づくことさえ難しいぞ……!)

 

 巨大な得物はともかく、全身から刃物が生えるのは余りにも危険過ぎる。

 

 応援を呼ぶ―――いや、巻き込んでしまう。

 朝まで逃げる―――いや、それまでにこちらの体力が尽きる。

 どこかに隠れる―――いや、傷を負わされた以上匂いで追いつけられる。

 

 となれば、やはり倒すしかない。

 

(仕方ない。()()()()()しか……)

 

 頬から流れ出る血を指で掬い、刃に塗り付ける凛。

 普通であれば切れ味を落とす愚行でしかないが、勿論何の考えもなしに行っている訳ではない。

 その理由をいざ眼前の刀鬼で試さんと意気込んだ凛であったが、不意に頭上で緑色の淡い光が瞬いた。

 

 旋風が走り抜ける。

 瞬く間に数度火花が散った。それが音もなく斬りかかった少女が刀鬼と切り結んだからであると気が付いたのは、眼前に少女が着地したのを目の当たりにしたからだ。

 

「む……斬れない」

「チィ、新手か……!」

「君は……!!」

 

 知った顔だ。というより、忘れられない顔だ。

 先日確認もせず斬りかかっていた少女その人だった。しかし、凛の驚いた声に聞く耳も持たない少女は、刀鬼を斬れなかったことを怪訝に思いつつ、再度刀鬼との剣戟を繰り広げ始める。

 

「ちょっと、一人じゃそいつは!!」

 

「―――ぐ、ぎぃ……!?」

 

「危な……!?」

 

 危ないと制止しようとした凛であったが、いざ目にしたのは疾風の如き怒涛の剣技で刀鬼を押し返す少女の姿であった。

 速く、重く、それでいて鋭い。明らかに自分たちとは一線を画す実力を持った少女にしばし茫然と見入ってしまう凛であったが、すぐに我を取り戻すように頭を振る。

 

 今はまだ少女が優勢と言えど、いつまでも彼女の体力が続く訳ではない。それに加え、少女の実力を以てしても刀鬼の頚を斬るには至っていない。それだけ刀鬼の守りは固いのだ。

 

 やはり応援は必要か―――そう思い至った時、不意に背後から足音が響いてきた。

 

「凛!」

「燎太郎! どうしてここに!?」

「激しい戦いの音が聞こえてな! もしやと思って来てみたら! 安心しろ! 向こうの奴らもそんなにヤワじゃあない!」

「……うん! 来てくれて助かったよ!」

「そうか! そう言ってくれると来た甲斐があるというものだ!!」

 

 戦闘音を聞いて駆けつけた燎太郎が応援に来てくれたことで、光明が差した。

 赤みがかった刀身の日輪刀を抜き、七日間の疲れも見せない好戦的な笑みを浮かべる燎太郎。彼ならばやってくれる―――凛は声を上げる。

 

「あの鬼、体から刃物が生えるから気を付けて! 刀は硬い! どうにかして頚を斬れるようにするんだ! 今はあの子が押してるけれど、長くはもたないだろうから……」

「加勢して突破口を開け!! とどのつまりはそういうことだな!! 任せろ!!」

 

 凛の説明を聞いた燎太郎は徐に構える。

 構えて、構えて、構えて―――限界まで、極限まで集中して力を溜めた彼は、薪をくべられた炎の如き激しい呼吸音を放ちながら、その場から駆け出した。

 凛はその姿に、燃え盛る炎を幻視した。

 

 全集中・炎の呼吸 奥義 玖ノ型 煉獄(れんごく)

 

 少女と刀鬼の剣戟に割り込んだ燎太郎の斬撃が、刀鬼の刀の片方に叩きつけられた。流石の硬度故、両断するには至らないものの、それでも少しばかり刃が食い込んだ末に刀鬼の刀を地面に埋めることに成功した。これで片腕を封じられた。

 

「てめっ……!」

「凛っ!!」

「任せて!!」

 

 邪魔をした燎太郎にもう一方の刀を振るおうとする刀鬼であったが、すでに駆け出していた凛の日輪刀が閃いた。

 

 全集中・氷の呼吸 奥義 拾ノ型 紅蓮華(ぐれんげ)

 

 目にも止まらぬ(はや)さで振り抜かれた刃が、刀鬼の腕を斬り刻んだ。刀の生えた部分を器用に避けた怒涛の斬撃は、瞬く間に月下に血の華を咲かせた。

 

「この程度で……!」

 

 しかし、刀鬼は即座に再生して返り討ちにしようと画策した―――が、斬り刻まれた部分は一向に生えてこない。

 思いもよらぬ事態に刀鬼はあからさまに動揺する。

 

「なっ……!?」

「―――鬼から産まれた所為か否か」

 

 凛の澄んだ声が密かに響く。

 

「僕の血は……()()()()()()不思議な血なんだ」

「んだと……!?」

「再生だって止まる……それをやっと確信できた」

 

 その力は鬼の異能に等しい。稀血の中でも最上級に希少性の高い部類に含まれるであろう血を、凛は有していたのである。稀血とはよく言ったものだ。

 これで両腕を封じ込めた。残るは反撃が来る前に頚を斬るだけ。

 

「今だ!!」

 

 凛が叫ぶ。

 

「ん」

 

 返ってきたのは、返事とも呼べぬ淡々とした声。

 しかし、ビリビリと肌を削るような殺意を放つ少女は、凛と燎太郎の二人が作った隙をわざわざ見逃すはずもなく、緑がかった刃を薙いだ。

 

 全集中・風の呼吸 陸ノ型 黒風烟嵐(こくふうえんらん)

 

 刃に旋風が纏わりついていると幻視するも束の間、少女の繰り出した斬撃は刀鬼の頚を斬り飛ばした。しかも、確実に殺せるようにとあえて攻撃範囲の広い斬撃を繰り出して、だ。

 それを察してか否か、直前に身を引くなり屈んだ二人は辛うじて少女の斬撃を逃れることができた。

 

「あ、ああっ、危なかった!」

「おい! 今、俺達ごと斬ろうとしただろう! 手心を加えろ、手心を!」

「手心ってなに? おいしいの?」

「こいつ!」

 

 けろりとした顔を浮かべる少女に喰いついた燎太郎であったが、少女は刀鬼を倒して用が済んだのか、またもやさっさと去っていってしまった。

 

「一体なんなんだ、あいつは……」

「まあ、あれだけ強いなら朝まで大丈夫そうだけど……」

 

 朝まで残り数時間。それまでの間であればなんなく生き残れそうな実力を垣間見て、ホッとするようなゾッとするような奇妙な感覚に陥る凛であったが、とりあえずは無事に済んだことに胸を撫で下ろした。

 

「よしっ……戻ろっか」

「ああ、そうだな!」

「っと、その前に……ちょっと待って!」

「ん? いいぞ!」

 

 皆の下に帰る前に、少女に頚を斬られて灰になった刀鬼の下に向かう。残っているのは衣服だけ。

 しかし、確かに彼が生きていた温もりをそこに感じ取った凛は、無言で合掌しつつ、黙祷した。

 

「……」

 

 鬼になってしまったことは悲劇でしかない。鬼も一人の被害者だ。

 来世はどうか鬼にならぬように―――そう祈る凛の瞳には憐憫の色が浮かんでいた。そんな彼を見つめる燎太郎の面持ちはどこか複雑そうであったが、黙祷も済み「帰ろっか」と笑顔で訴える凛に、すぐさま快活な笑みで応える。

 そうして真菰たちの下へと帰っていく二人。

 その足取りは重いものの、どこか浮足立っているようにも見える。

 

 

 

 もうすぐ、長かった夜が明ける―――。

 



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参.砥柱中流

「この度最終選別を突破されたこと、心よりお祝い申し上げます」

 

 最終日まで生き抜き、藤襲山の入り口にあたる部分に集った受験者を迎えたのは、麗しい美貌を持った女性であった。

 彼女は、鬼殺隊当主である産屋敷 輝哉の妻のあまねだ。

 最終選別を取り仕切るのは、彼等産屋敷家の務め。しかし、当主である輝哉の容態が芳しくないことから身重の身でありながらこの場に赴いている。

 

 そんな彼女が用意していた物は、武骨な見た目の塊―――否、玉鋼だ。

 

「これから貴方方が鬼を滅殺する為の日輪刀の原料……それは他ならぬ貴方方自らがお選びになさって下さい」

 

 太陽に最も近い山「陽光山」から採れる猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石より作られる玉鋼が、鬼を滅殺し得る唯一の武器、日輪刀として生まれ変わるのだ。

 大きさ、形とそれぞれ違った見た目であるが、素人目からすればどれを選んで良いものか分かったものではない。

しかし、それでいいのだ。直感で選ぶのである。

 

 生き残った面々がうんうんと悩みつつ、あるいは適当にさっさと選ぶ中、凛は一つの玉鋼に引き寄せられるかのように歩み寄っていく。

 徐に玉鋼に手を置いた。

 最初に玉鋼の冷たさで目が冴えるような感覚を覚えるも、次第に玉鋼に体の熱が伝わっていき、不思議と手に馴染むようであった。

 

「えっと……僕はこれで」

 

 他の玉鋼を吟味することもなく、ただただ直感で選んでしまったが後悔はない。

 玉鋼が日輪刀へと打たれるには数日かかると告げられ、次に階級や隊服についての説明、そして指令の伝令に使われる鎹鴉と呼ばれる言葉を話せる鴉を支給された。なんとも珍妙な生き物だとは思ったが、鬼なる生物が存在している以上、言葉を話せる動物が居たところで大して驚くことでもないのかもしれない。

 そうして最終選別を突破した者達への説明も追え、後は帰路につくだけとなった。

 最初の任務は日輪刀が打たれてから―――それまでは最終選別の疲れを癒すことが主な目的となろう。

 

「真菰、本当に大丈夫?」

「うん。まあ、ちょっと時間はかかるだろうけど、鱗滝さんならきっと許してくれるだろうから。それに凛にも待ってくれてる人が居るんでしょ? だったら、凛こそ早く帰ってあげなきゃ」

「……うん」

 

 大分マシになってきたものの、真菰の怪我はまだ完治していない。

 そのことを案ずる凛が付き添いを申し出たが、彼女の言う通り、凛にも帰りを待ってくれている者が居る。一刻も早く無事を知らせるために帰るのがなによりの恩返しではなかろうか。

 真菰に諭された凛は、彼女の意思を尊重して自身の帰路につくことにした。

 

「じゃあ、また」

「またね」

 

 端的ではあるものの、万感の思いが籠った別れの言葉を交わして踵を返す。が、

 

「凛!」

「ん?」

「ありがとう!」

「……どういたしまして!」

 

 不意に振り返って笑顔を咲かせた真菰の感謝の言葉。それを聞いた凛も笑顔を浮かべ、手を振って応える。

 また生きて出会えたらいいな―――そのような思いを胸に抱かせるには十分すぎるほど眩しい思い出となった。

 

「うむ! 出会いもあれば別れもあり! まさに一期一会だな!」

「うわっ!? りょ、燎太郎かあ……吃驚した」

 

 突然、背後から大声を上げて歩み寄って来た燎太郎に驚いた凛。七日間鬼の居る山で過ごしたにも拘わらず、随分と元気が有り余っているように見える彼は、スッと手を凛へ差し出す。

 

「はははっ! なにはともあれ、最終選別突破おめでとう!」

「うん、君こそおめでとう」

 

 握手に応え、互いの健闘をたたえ合う。

 これからは共に鬼殺隊として鬼を狩る同僚ということになる。友好的に接する分にはなんら問題はない。

 

「これからが大変だと思うけど……お互い頑張ろう」

「ああ! 鬼を滅殺し、市井の人を守る! 俺達が再び出会うのは、その道の先だ!」

「うん!」

 

 熱い闘志を燃やす燎太郎の言葉も聞いた凛は、「よし! 全力で帰るぞ!」と走り去っていった燎太郎の背中を見届けた後、やっと帰路についた。

 

(結局あの子の名前も聞けなかったけれど……)

 

 心残りは、結局刀鬼のトドメを刺した少女の名前を聞けなかったことだけ。玉鋼を選ぶ場に居り、しっかりと存在を確認できはしたものの、大体の説明を聞き終え「いざ!」と思った時にはすでに居なくなっていた。

 礼の一つでも伝えたかったが、居ないものは仕方がない。

 いつか、任務なりなんなりで再会することを願いつつ、疲れで鉛のように重い足で自宅へと向かう。

 

 だが、ふと足を止めて藤襲山へと振り返る。

 

「……成仏してください」

 

 鬼を倒す度に拝んでいた凛であったが、藤襲山を去る前に今一度鬼が成仏できるようにと合掌して拝む。

 鬼となり、一人では抜け出すことさえ叶わぬ藤の牢獄に捉えられ、鬼殺の剣士となる者の試験と称されてその頚を斬り落とされる。人としても鬼としても悲惨な一生だ。ならば、せめて彼等の命を踏み台とし、鬼殺の剣士となることができた自分達が供養しなければならないだろう。

凛はその一心で祈り続ける。彼らが生まれ変わった時は、幸せに生きていけるようにと―――。

 

「……よし」

 

 長い黙祷を終えた凛は今度こそ帰路につく。

 待ってくれている恩人の下へ向かわんと。

 

 

 

 ***

 

 

 

 凛と彼の育手が住んで居る場所は、人里離れた山奥の中。

 産まれてから十数年過ごした馴染み深い土地は、標高の高さ故に空気も薄く、気温も非常に低い厳しい環境の中にある。

 しかし、そのような環境で鍛えられたからこそ、今の凛があると言っても過言ではない。

 

 人が足を踏み入れることを許さぬ土地。

 そこへ訪れたのは、剽軽な印象を与えるひょっとこの面を被った若い男性であった。

 

「私がこの度日輪刀を打たせて頂いた鉄穴森と申す者です。若輩者ではありますが、何卒よろしくお願い申し上げます」

「こ、こちらこそよろしくお願いします!」

 

 ひょっとこの面とは裏腹の丁寧な対応に、まさに面食らった凛であったが、これでようやく自分の日輪刀を手に入れることができた。

 白色の柄巻きが清廉な印象を与える日輪刀は、六花を模した六角形の鍔がこしらえられている。

 専門的な知識こそないものの、幼い頃より刀に触れてきた凛の目から見ても見事な逸品だ。

 

「こんな凄い刀……ありがとうございます!!」

「い、いやいや……まだ里の者に比べたら全然……あ! しかし、だからといって鈍らではありません! さあ、ぜひ刀身を抜いてご覧ください」

「は、はいっ!」

 

 素直な称賛を受けて赤面する(見えないが)鉄穴森は、それを隠すように凛へ日輪刀を鞘から抜くことを進める。

 日輪刀は「色変わりの刀」とも呼ばれ、持ち主によって色が変わる。

 凛程の剣の腕があれば、色は変わるだろうと育手は口にはしているが、いざ抜くとなると緊張するものだ。

 

「そ、それでは……!」

 

 恐る恐る抜くのも恰好が悪いと、少し離れて勢いよく抜刀してみせた凛。

 すると、鈍色に輝いていた新品の刀身が徐々に白く染まっていく。その様はさながら濡れた鉄器の表面に霜が張るかの如く。

 遠目で見守っていた育手の老爺も鉄穴森も、白く―――少しばかり角度を逸らせば陽光で青色に煌めく刀身に感嘆の息を漏らした。

 

「おぉ、これはなんとまた……!」

「ふむ……やはり儂よりも……」

 

 色変わりの瞬間を目の当たりにして感動する鉄穴森の一方で、育手の老爺は凛の日輪刀の色に納得したかのように頷いていた。

 一見白色にしか見えない刀身だが、僅かに垣間見える青色が水の呼吸―――延いては氷の呼吸に適正がある何よりの証拠。

 

 氷の呼吸の創始者たる凛の育手だが、どうやら弟子は自分以上に氷の呼吸に適正がある。

 その事実を確りと目にすることができ、自然と彼の口角は吊り上がって行った。

 そうした喜びに伴う熱を感じ取った凛は、日輪刀を鞘に納めてから、満面の笑みを浮かべて問う。

 

「どうですか、お師匠様?」

「……うむ」

 

 多くは語られないが、凛と育手も長い付き合いだ。大抵言いたいことは所作の一つや二つで伝わる。

 

「……今まで育ててくれてありがとうございました、お師匠様。貴方のおかげで僕は鬼殺隊に―――鬼の手から人を守れるようになりました」

 

 深々とお辞儀をし、感謝の言葉を伝える。

 するとふと場の温もりが膨らんだ気がした。そのまま頭を上げぬままフッと笑みを零す凛。今顔を上げれば、見られたくない顔を必死に隠す育手の姿を見てしまうだろう。ならば、師の威厳が保たれるよう零れるものが止まるまで待つのも弟子としての務めだ。

 しばらくして、感極まる想いよりあふれ出す熱が収まったのを感じ取って面を上げる凛。

 すると、不意に鎹鴉が室内まで入って来たかと思えば、はばたく音を鳴り響かせながらけたたましい鳴き声を上げる。

 

「任務デスヨ! 任務デスヨ! 場所ハ南西ェ! 場所ハ南西ノ漁村ゥ!」

「任務……!」

 

 ついに転がり込んだ初任務の伝令。

 途端に凛々しい顔つきになった凛が育手へと振り向けば、普段通りの厳めしい顔つきの育手が無言で頷いた。

 

「っ……行ってきます!」

 

 一刻も早く現場へ。

 凛は逸る想いのまま飛び出した。

 

「あっ、凛殿!! 刀に何かあったら、鎹鴉で連絡してくださーい!!」

「はい、わかりましたァー!!」

 

 鉄穴森の声も耳にしつつ、二人の姿が見えなくなるまで手を振り続ける凛。

 どこかあどけなさを残すものの、鬼殺の剣士として逞しく立派に育った顔つきを、いつまでもいつまでも育手の老爺は見つめていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 初任務の伝令を受け、南西の漁村を目指して走ること数時間。

 余力を残したまま凛が目にしたのは、地平線の先まで広がる海であった。

 

「うわぁ~……!」

 

 今までの人生の大部分を山の中で過ごしてきた凛にとって、どこまでも広がる水面の揺らめきは衝撃的なものである。

 まだ日が昇っていることもあってか、任務のことも忘れ、感動のままに漁村を望める高所から辺りを展望する凛が目にするものは様々であった。

 

 白波が照り返す陽光。

 さざ波の音を優しく受け止める砂浜。

 潮風から陸を守るべく植えられた立派な杉の群れ。

 振袖に石を詰め込み、身投げを図ろうとする少女。

 のびのびと青空をはばたく海鳥たち。

 

「海ってこんなに気持ちいいんだぁ~! ……ん?」

 

 一つおかしい。

 改めて目にした景色を振り返るように見渡す。

 波、砂浜、杉、身投げを図ろうとする少女―――なるほど。

 

「ちょ、ちょ、ちょっと!!」

「はっ!?」

 

 断崖絶壁の上で身投げを図ろうとしていた少女に気が付き、顔面蒼白となりながらも全力疾走で駆け出す凛に対し、当の少女は「気づかれてしまったか」と焦った面持ちを浮かべつつ踏み込んだ。

 しかし、寸前で凛が少女の着物の裾を掴んだため、ロクに跳べないまま地べたを這う形に顔面から着地した。

 

 若干鈍い音がしたものの間一髪だった―――と思いきや、今度は顔面鼻血塗れの少女が、嗚咽を上げながら暴れ始めた。

 

「うわあああん!! 死なせて!! 死なせてください!!」

「待って!! 落ち着いて!! なにがあったかわからないですけど、一旦落ち着いてくださいって!!」

「いやあああ!! 誰!? 離して!! 誰!? 離してください知らない人!! 貴方に助けられる道理はありません!!」

「奇遇ですね!! 僕も貴方のこと知りません!! だから確かに助ける道理がないかもしれませんけれど!! 一旦落ち着きましょう!! ね!? ね!?」

 

 そのような攻防を続けること数十分、ようやく身投げを図ろうとしていた少女・昭子の癇癪が止まった。数十分全力で抵抗した昭子が疲労困憊である一方、まだまだ余裕がありそうな凛の様子を見れば、鬼殺隊としての身体能力をありありと感じられよう。

 

 閑話休題。

 

「凛さん……でしたね? 先ほどは取り乱して申し訳ございませんでした……」

「い、いえ……なにか事情があるようですし……」

 

 一変して落ち着きを取り戻した昭子は、「ここで立ち話もなんですし、道すがら」と自宅に案内される間に事情を話してもらえることとなった。

 

 それはひと月前に遡る。

 昭子が住む村は漁村だ。生計を立てるには船に乗り海原に出向き、漁をしなければならない。

 だが、ここ最近天候が良いにも関わらず帰ってこない船が数多くあったと言う。

 住民全員が不審に思い、漁に出向く者が不安に駆られながらも漁は行われた。

 しかし、またある時漁に出た船が帰ってこなかった。その船に乗っていた漁師の家族でさえ生存を絶望視したが、なんとその行方不明になった漁師がひょっこりと帰って来たではないか。

 家族や住民も喜んだ。が、帰還した漁師は血の気が引いた顔を浮かべ、漁村の住民にこう告げたのである。

 

『俺達は海神様を怒らせた。生贄として人間を供物にしなければ、村に災いが訪れる』

 

 最初は住民も半信半疑だったと言う。

 だが、次の日に数多くの住民が海面から伸びる異形の腕を見たのだ。

 「あれはきっと海神様が怒っているに違いない」と漁村は恐怖に陥れられ、漁師が言った通り、生贄となる人間を選ぶ流れになった。

 

「そ、それがアタシで……」

「なるほど……」

 

 生贄になるくらいならば―――自分の意思も関係なく選ばれ、恐怖が頂点に達した昭子は、半ば衝動的に投身自殺を図ろうとした。そこへやって来たのが凛だったという訳だ。

 

「これが鬼なのかな?」

「カァー」

「それも確かめるしかないっか」

 

 鎹鴉に問いかけてみるも、明確な答えまでは持ち合わせていないようだ。

 どうやら、この漁村を恐怖のどん底に陥れている“海神様”とやらが鬼であるかどうかは、凛自身で確かめなければならないことになった。

 

「昭子さん」

「は、はい?」

「貴方を生贄になんてさせません。僕がその海神を騙る存在を斬ります!」

「え、えぇ……?」

 

 意気込んだ様子を見せる凛であるが、彼が何者であるか具体的に把握していない昭子は、彼の言葉に半信半疑であった。

 

「あの、凛さん……失礼ですが、貴方は一体……?」

「僕は鬼殺隊。人に仇為す鬼を斬るのを生業としている者です」

 

 鬼殺隊の隊服とは真逆の、雪のように真白な刀身を抜いてみせる。

 そんな凛に対し、昭子は一抹の不安を覚えつつも、異様であるからこそ彼がこの絶望的な現状を打開してくれるのではないかと、僅かな希望が胸に芽生えるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――以上がお館様から言付かった内容です」

「相分かった」

 

 流暢な言葉遣いの鎹鴉の話を聞くのは、神妙な面持ちを浮かべる一人の男性であった。

 静謐な瞳は焦点が合っておらず虚空を見つめており、なおかつ右腕と両脚がなく、代わりに義手と義足が身につけられていた。しかし、彼の佇まいからは微塵も弱弱しさなどは感じられない。

 鎹鴉からの伝言を受け取った男性は、器用に義足で立ち上がった後、羽織を靡かせながら、抜き身にしていた日輪刀を鞘に納めて歩みだす。

 

 

 

 日輪刀の刀身に彫られていた文字は―――「惡鬼滅殺」。

 

 

***

 

 

 

 暗幕に覆われたような空。肌を撫でる潮風はどこか荒々しく、船を揺らす波もこれから起こる異変を予感させるかの如き様相であった。

 夜の海原に旅立つ船の上に佇むのは最低限の衣服を身に纏った人影。

 小奇麗な着物こそ着ているものの、簡素という印象を拭えぬ着物の裾をギュッと握っている。

 そんな彼女の俯いた顔を照らすのは、船頭に吊るされている漁火だ。

 本来、イカなどをおびき寄せるために用いられる道具であるが、今日ばかりは違う。

 

 昼間とは一変して、一寸先も見えぬ闇を体現する海面に一つの影が映っていた。

 ゆらり、ゆらり。獲物を見定めた影は、餌を運んできた小舟へと近づいた。

 すると、海面から複数の触手のようなものが蠢きながら飛び出てきた。イカやタコを彷彿とさせる触手は、船上に佇む人影を値踏みするように眺める。

 

―――「旨そうだ」

―――「ああ、旨そうだ」

―――「今すぐ喰らおう」

―――「ああ、そうだな」

 

 まるで言葉を交わすかのように触手の先端が頷き合う。

 不気味な波音が絶え間なく響く中、舌なめずりするかのような音を奏でて触手は動く。船上に佇む人間を捕え、海中に引きずり込まんと。

 が、刹那、船上に敷かれていたござの下から一振りの刀を取り出した人影が抜刀した。

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 円を描く軌道で襲い掛かる触手を鎧袖一触する刀。

 宵闇の宙に血の華が咲く。

 

「―――そこか!!」

 

 続けざまに、敵の目を欺くために纏っていた着物を脱ぎ棄てた凛が、本来の鬼殺隊服を晒しながら真下へと目を遣った。

 敵の位置は船の真下。

 敵が海中に居る以上、温度感覚などあてにはならない。だが、どこから攻めれば効果的かは嫌と言うほど教えられた。

 自分だったらどう攻めるか―――そうした思考を巡らせた凛の答え合わせが船底を貫いた。

 

 氷の呼吸 漆ノ型 垂氷(たるひ)

 

 水の呼吸の漆ノ型・雫波紋突きより派生した、氷の呼吸の中で最速の突き技。ただ突くのではなく、突き刺した刀を()()。そうして刺突のように貫くだけではなく、円錐若しくは円柱状の傷を穿つことができる型であった。

 

「ぎゃあ!!!」

 

 船底を貫いた垂氷が海中へ届いた瞬間、くぐもった悲鳴が船を揺らした。

 まだだ、まだ仕留めきれてはいない。

 海中へ引きずり込まれれば明らかに自分が不利なのだから、相手が油断している今の内にトドメを刺さなければならない。

 鬼気迫る表情を浮かべた凛は、垂氷によって突き出した日輪刀の柄を両手で握り、大気が唸っていると錯覚するほどに吐息を轟かせるや否や、全力で日輪刀を横へ薙いだ。

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 直後、海が爆ぜる。

 膨大な量の水飛沫を巻き上げた一閃の中には、鬼の体より流れ出た血も含まれていただろう。

 しかし、その中に当の鬼の頚は窺えない。

 

(まだ斬れてない……!)

 

 船を犠牲にした一閃を放っても尚、まだ鬼の頚を斬るには至らなかった。

 となると、当の鬼は何処へ?

 当然、海の中だ。

 海上でどれだけ畳みかけられるかが勝負の戦い。凛は、返す太刀で怒涛の斬り下ろしを海中へと叩き込んだ。

 

 氷の呼吸 捌ノ型 氷瀑

 

 水の呼吸の捌ノ型・滝壺より派生した豪快な斬り下ろしは、船ごと両断する勢いで海中を斬り裂いた。海面を抉るかのような衝撃を辺りに波紋として伝える一撃だ。

 

(やったか……?)

 

 沈みゆく船の上に立つ凛は、海中の鬼がどうなったか確かめるべく目を凝らす。

 

「!」

 

 だが、凛が鬼の姿を確認するよりも前に、先ほど先端を叩き斬った触手が再生し、再び凛へと襲い掛かって来たではないか。

 それが鬼の生きている何よりの証拠。

 今一度華麗な刀捌きで触手を斬り飛ばすものの、すでに半壊していた船で海に浮かんでいられるはずもなく、ほどなくして凛の体の半身は海水に浸かった。

 

 仕留めきれなかった―――その点については悔やまれるというより他ないが、万策尽きた訳ではない。

 そもそも敵の有利な場所で戦うこと自体が愚行と言える所業であるが、生贄になるはずだった昭子の代わりとなるために漁村の民を納得させる形が、凛一人が船に乗って海に出ることだったのだ。鬼殺隊が表立った組織でない以上、理解を得ることも難しく、互いに妥協した状況だった。

 住民の協力を得て最高の状況を作り出すことは叶わなかったが、それでも鬼殺の剣士であれば最善を尽くす他ない。例えそれがどれだけ自身を危険に晒そうとも、命懸けなのはもとより覚悟している。

 

 だからこそ凛は、引きずり込まれるより前にめいっぱい空気を肺に取り込んでから潜水した。敵の姿を望むために。

 

(あいつか!)

 

 海の中、月の光もろくに届かない暗闇の中に望んだ姿は、脚が無数に生えた異形の化け物であった。

 

『ギ、ギギッ、貴様……よくもッ……!』

 

 その姿を例えるならばタコ人間、いや、イカ人間だろうか。

 どちらにせよ、海洋棲の軟体動物を彷彿とさせる下半身を有した存在は、凛の見立て通り鬼であった。無数の脚からとって「脚鬼」とでも呼ぼう。

 苦悶に満ちた表情を浮かべる脚鬼は、左肩を押さえて凛を睨んでいる。恐らく凛の繰り出した技が命中した箇所がそこなのだろう。

 しかし、頚を断ち切らなければ鬼を殺せないことはわかりきっていること。直に鬼の傷は塞がる。

 

『クソッ! 漁村の野郎どもを騙して安全に人を喰らおうって俺様の計画が……許さねえ、まずはてめえを喰い殺してから、あの村全員喰い殺してやるうううううッ!!!』

 

 海中で怒号を上げる脚鬼。その赫怒は海水を伝わり凛にもビリビリと伝わってくるが、だからと言って彼が臆することはない。

 

(そんなこと……させるか!!)

 

 海に適応した進化をした鬼とは違い水中で話せない凛も、目で自身の意思を語り、突進してくる脚鬼に身構える。

 凄まじい速度で向かって来る脚鬼は、牙をむき出しにしながら、複数の触手を凛へと突き出す。触手の使い方を心得ているのか否か、常人であれば自由に動けない海中にて四方八方から襲い掛かれるような陣取りをしている。

 

 逃げ場はない。

 しかし、それでいい。

 

 ギリギリまで引き付ける。

 これ以上ないほどに。

 

(水は凍てつき氷と為る……)

 

 凛は頭の中で、師である育手の言葉を反芻する。

 

(水とは流動。氷とは不動。氷は流れゆく場にてこそ、不動足れ……!!)

 

 最早攻撃が当たるというところまで脚鬼と触手を引き付けた凛は、グッと耐え忍んだ“静”から“動”へと行動を移す。

 ―――水の呼吸は、様々な状況にて柔軟に対応できる型が数多く存在している。中には、水中でこそ力を発揮できるという型さえも。

 そして水の呼吸の系譜を引き継ぐ氷の呼吸にも、水中でも威力を発揮する型が存在する。

 それが、水の呼吸の肆ノ型・打ち潮と陸ノ型・ねじれ渦から派生した―――

 

 

 

 氷の呼吸 陸ノ型 白魔の吐息

 

 

 

 潮の流れさえも変える螺旋を描くような軌道の斬撃が、触手諸共鬼を斬り裂いた。

 

『ギ、ぎゃあああああああ!!?』

 

 触手は斬り落とされ、鬼自身も深い刀傷を負い、絶叫が海面を揺らした。

 

(まだ頚は……繋がってる!!)

 

 一見凛の勝利に見えたものの、依然鬼の頚はつながったままであった。

 刀を振るのが速過ぎた。水の中ということを踏まえ、動きが緩慢になることを危惧して一瞬逸ったのがイケなかったようだ。

 

『く、くそぅ……!!』

 

(待て!!)

 

 深手を負った脚鬼は、度重なる体の欠損で再生速度が落ちてきたことを考慮し、凛からの逃走を図った。

 すぐさま追いかけようと泳ぐ凛であるが、流石に遊泳速度では海に特化した脚鬼に勝てない。

 

(このまま逃がしたら……!)

 

 今脚鬼を取り逃がせば、また別の場所で被害が出るだろう。それだけは避けなければならない。

 故に千載一遇の好機であったにも拘わらず、経験のなさが仇となった先ほどの失敗が心底悔やまれる。しかし、だからといって時間が巻き戻ることはない。

 できることは―――最善を尽くすことのみ。

 

「―――!!!」

 

 猛る想いを口にする力さえ勿体無い。全てを泳ぐ力に変換し、脚鬼に追いつこうとする凛。

 その鬼気迫る泳ぎっぷりに怖れを為した脚鬼もまた、命がかかっていることもあってか、泳ぐ速度に一段と拍車がかかった。

 このままでは―――焦燥に駆られる脚鬼であったが、不意に見つけた漁火にハッとする。

 その光に、脚鬼は下卑た笑みを浮かべ、今度は凛が焦燥に満ちた顔を浮かべた。

 

(漁船……!! どうして……!?)

 

 ゆらりゆらりと波に揺られる漁船には一人の人間が乗っていた。漁村の住民が様子でも見に来たのだろうか?

 なんにせよ、この状況はよろしくない。

 

『人間! 餌!! 喰わせろおおおおお!!!』

「ぶはッ……はぁッ!! ここはっ、危ないです!! 逃げてください!!」

 

 脚鬼は漁船へ一直線だ。

 一方で凛もまた、その脚鬼を追いながら漁船に去るように伝える。

 

 傷を負った脚鬼が再生する力を補うために人間を喰らうのは容易に想像できることであった。

 自分一人ならばともかく、力のない一般人を守りながら海中で戦うのは余りにも不利である。

 

(頼む、早く逃げて……!! ―――ッ!?)

 

 懇願するように念じていた凛であったが、次の瞬間、漁船に乗っていた人間が予想だにしていなかった行動に出た。

 なんと、自ら海へと飛び込んだのだ。

 これには流石の脚鬼も面食らった顔を浮かべたが、すぐに「好都合だ」と言わんばかりの醜悪な笑みを湛えて、飛び込んだ人間を海中に引きずり込んで溺死させようと触手を差し向ける。

 

(間に合え!! 間に合え!!)

 

 その光景を少し離れた場所から窺っていた凛は、死に物狂いでその場へ向かう。

少しでも早く―――そう己の体に鞭を打っている最中のことであった。

 

 突然、海面を穿つように発生した渦潮に巻き込まれた脚鬼が、頚と四肢をバラバラに斬り飛ばされた挙句、高速旋回する渦の表面を幾度か弾かれた末に、砂浜に打ち上げられたのだ。

 

「……は?」

 

 なんだ、なにが起こった?

 たった今起こった現象に理解の及ばない凛は、思わず泳ぐ手を止めてその場に留まった。

 茫然としていると、先ほど海へ飛び込んだと思しき人影が漁船へと上り、ゆっくりと凛の居る方へ漁船ごと向かってくる。

 

 ゆっくりとやって来た漁船に乗っていたのは、精悍な顔つきの男性であった。

 プカプカと波に揺られる凛を見つめる彼は、徐に手を差し伸ばす。

 

「乗れ」

「え? あ……はい!」

 

 断る理由もないため、男性の手を掴んで漁船に乗り込む―――というより、男性に引き上げられた勢いで打ち上げられる凛は背中を強打し、しばし悶絶する羽目となった。

 「いたた……」と悶絶する凛であったが、自分を見つめてくる男性に違和感を覚える。

 答えは単純であった。

 

(義手と……義足……?)

 

 本来人間に生えているはずの四肢の内、右腕と両脚がなく、代わりに木製の義手と義足がはめられていたのだ。

 しかも、凛を見つめている瞳も焦点が合っておらず、意識自体は凛に向いているものの、視線はどこも捉えていない―――そのようなズレを感じさせた。

 

(まさか、目も……!?)

 

 つまり、盲目。

 自分を引き上げた男性が、まさか盲目であったのかと思った途端、凛は得も言われぬ畏怖を覚えた。

 

―――五体満足でなく、さらには目も見えない。そんな中で海に出た挙句、水中に潜んでいた鬼を斬ったのか?

 

 それがどれだけ凄絶なことか。自分とはあらゆる意味で隔絶した存在であることを理解した凛は、途端に委縮して、目の前の男性の前で正座する。

 

「あ、あの……助けていただきありがとうございます! 僕の名前は……」

「氷室凛。違うか?」

「そうです、氷室凛……って、あれ? どうして僕の名前を」

 

 何故名前を知っているのだろうと訝し気に首を傾げれば、即座に男性が語を継いだ。

 

「御館様から鎹鴉伝手に話を聞いた」

「へ?」

「任務でお前の応援に来た」

「あ、なるほど! そうだったんですか……なら、改めてお礼を。ありがとうございました!」

 

 知らない間に応援を送られていたとは夢にも思わなかった。

 だが、とりあえず男性がこの場にやってきたことも、彼が強いことにも合点がいった―――義手・義足で盲目であることはさておき。

 

「あの、失礼でなければお名前をお伺いしたいのですが……」

「ああ」

 

 ピッと日輪刀と刀を振るって海水を払った後、漁船に用意していた布で刀身を拭いた男性は、器用に刀身を鞘に納めてから続けた。

 

伴田(ばんだ) (ながれ)

「伴田……流。なるほど、流さんですね! よろしくお願いします、流さん! えっと、話を聞く限りもう僕の名前は知っているみたいですけれど、自己紹介がまだなので……階級“(みずのと)”、氷室 凛です!」

「ああ、知っている」

「そ、そうですか……あ、そうだ! 流さん、さっきの技凄かったですね! あれは何の呼吸なんですか?」

「水だ」

「水……じゃあ、もしかしてさっきのって『ねじれ渦』……?」

「ああ」

「へ、へぇ~……あれが……うわぁ……」

 

 記憶の限り、ねじれ渦は渦潮を人為的に生み出せるような技ではないはずなのだが―――それだけ流と名乗る男性が強いのだということで納得することにした。

 

「凄く……強いんですね。あ、あの! 失礼でなければ階級も教えてほしいです!」

 

 これからの目標の基準になる。

 凛の階級は、新人であるため鬼殺隊の中でも最下位の“癸”であった。そこから鬼を倒した功績でどんどん階級が上がっていく。

階級として最上位であるのは“甲”であったはずだが、流は一体どの程度か。

 

「……階級を示せ」

「ん?」

 

 徐に左手を握る流。

 何をしているのだろうと目を白黒させていた凛であったが、次第に流の手の甲に文字が浮かんできたため、疑問は驚愕に、そして再び疑問へと変わる。

 

「“水”……? ……甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸……あれ、水?」

 

 指折り数えて階級の段階を思い返す凛であるが、“水”などという階級は存在しない。

 

「あ、あの……その手の甲に浮かんでる文字って階級のことじゃないんですか?」

「階級だ」

「へ?」

 

 ますます訳の分からなくなる凛。

 そうこうしている間にも、二人の乗った漁船は砂浜までたどり着いた。鬼の体はすでに灰と化しており、身に纏っていた着物以外は塵も残ってはいない。

 その光景に、凛は一先ず疑問をおいておき、鬼が成仏できるようにと黙祷を捧げる。

 彼の姿を横目で見守る流派と言えば、焦点の合わぬ瞳で、静かに彼の行いを見守っていた。

 

「……よし。で! あ、あの!」

「水柱だ」

「はえ?」

 

 何が水柱なのだろう?

 そう言わんばかりの表情を浮かべる凛であったが、流石に声音で理解していないと判断したのか、流が語を継ぐ。

 

「俺は鬼殺隊・水柱……伴田 流。鬼殺隊の“柱”たる最強の剣士に与えられる称号を持つ九人の中で……()()の男だ」

「柱……? ……ッ!」

 

 ―――昔、育手から聞いたことがある。

 五十体もの鬼を滅殺するか、鬼の中でも最上位に位置する鬼舞辻無惨直属の鬼・十二鬼月を倒すことで座すことができる、名実ともに鬼殺隊の戦力の“(ちゅうすう)”である剣士たち。

 それが“柱”。彼等は自分が用いる呼吸にちなんだ称号を有している。

 水の呼吸の使い手であれば、“水柱”。つまりはそういう訳だ。

 

「貴方が……鬼殺隊の……“柱”……!?」

 

 初めて出会った鬼殺隊の隊員は、鬼殺隊の要である“柱”。

 この出会いこそが凛の運命を大きく変える潮流であったことを、まだ彼は知らない

 




*壱章 完*

本作では一章分書け次第、その都度一日一話連続投稿する形をとらせていただきます。

*オマケ*
 設定紹介
・氷室 凛
鬼殺隊を志し最終選別に挑み、突破した少年。
水の呼吸の派生である「氷の呼吸」を用いる。加えて温度感覚も優れており、肌で感じる熱で鬼がどこに居るかなどを把握することができる。
その出生は特殊であり、まだ母親の胎内に居た時に母親が鬼にされてしまい、世にも珍しい鬼の胎から産まれた子供として、育手の老爺に育て上げられた。
それが関係してか否か、彼は自身の血を媒体に鬼を凍らせる特性を持つ稀血である。この血で凍った鬼は、凍結部位の再生が不可能となり、鬼のアドバンテージである不死性に待ったをかけられる。
鬼に慈悲をかける姿勢を見せており、それはなにより鬼となってしまった母親から産まれた経験に関係しているのかもしれない……。

・明松 燎太郎
最終選別にて凛と行動を共にした少年。気のいい性格であり、他人を放っておけない義勇の心にも溢れている。炎の呼吸の使い手であり、刀鬼との戦闘の際には奥義を繰り出し、トドメを刺す隙を作り出した。
凛が鬼に対して黙祷したことに、やや難色を示していたが……?

・謎の少女
風の呼吸の使い手。うっかり鬼と間違えて人間を襲ったが、特に動揺する様子も見せない、やや感性が外れている部分を覗かせる少女。
しかし、実力は本物であり、凛が苦戦して刀鬼相手に途中まで圧倒する実力を見せていた。

・伴田 流
鬼殺隊の戦力の要”柱”である”水柱”。水の呼吸の使い手である。
顔には痛々しい傷跡が残っており、その所為か盲目、しかも右腕は義手であり、両脚に至ってはどちらも義足である。それにも拘わらず水中にて脚鬼を一刀のもとに斬り伏せる隔絶した実力を覗かせた。
わざわざ凛の下にやって来た理由は鬼殺隊当主からの伝令らしいが……?
(大正コソコソ裏話)
完全にオリジナルのキャラではなく、原作「鬼滅の刃」のプロトタイプである「鬼殺の流」という作品の主人公だったキャラです。盲目・義手・義足の設定など、基本的な部分に関しては、その「鬼殺の流」という作品に準拠しております。


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弐章.蝶屋敷
肆.羞花閉月


 

 凛の初任務に合流した鬼殺隊士・伴田流は、鬼殺隊の戦力の要“柱”であった。

 そのような彼がなぜ自分のような新人の下へ?

 疑問は尽きぬが、手助けされたことは事実だ。彼に感謝を伝えた凛は、そのまま次なる任務へと出向いたのだが、

 

「あの……、えっと、流さんも……ですか?」

「ああ」

 

 なんと流が付いてきたのだ。

 

「その、こう言うのもあれなんですが、僕なんかの付き添いに来て大丈夫なんですか? お時間とか……」

「問題ない。お館様からの伝令だ」

「あ、はい」

 

 どうやら鬼殺隊当主直々の指示によるものだったらしい。

 となれば、凛もあれこれ言えなくなってしまった。

 

 柱という立場に加え、寡黙な流が隣に居るのは些か居心地が悪い。

 他愛のない話を振れば、彼なりに答えてくれるため、根は優しいのだろう。

 

(う~ん、どうしたものか……)

 

 しかし、次なる任務地に行くまでの道中の間に会話を振るにしても、中々気苦労が絶えないものだ。

 盲目に加え、義手と義足。それに関わるような話題はできるだけ避けた方が良いと意識すると、ふとした日常生活についての話題も途端に振り辛くなる。

 さらには道中の一目だ。奇異の目に晒されることに凛は慣れていない。

 もちろん、それが自分へと向けられている訳ではないと分かっていても、居心地の悪さは禁じ得なかった。

 

(それにしても、その『お館様』っていう人はどうして僕なんかに……?)

 

 わざわざ柱を差し向けるのだから、それなりの理由はあるはずだ。

 だが、幾ら考えども答えが出ることはなく、そうこうしている間に、二人は次なる任務地へとたどり着いた。

 

 先の漁村よりも賑わいを見せる普遍的な町。このどこかに人食い鬼が潜んでいるのだ。

 

「流さん。じゃあ、二手に別れましょう」

「……」

「……あの、流さん?」

「……お前がそう言うのならそうしよう」

「は、はい! では、ご武運を!」

 

 そう告げて鬼探しへと向かった凛。柱相手に「ご武運を」等と、何様のつもりだと勝手に反省しつつ、鬼が潜んでいそうな路地裏などを捜索する。

 それから凛が鬼と会敵したのは、時刻で言うところの丑三つ時であった。

 鬼は年端も行かないような少女の姿をしていた。

 だが、鬼としての脅威度は先日の脚鬼をはるかに上回っていた。凛を見つけるや否や、全身の爬虫類を彷彿とさせる鱗を顕現させ、口には蛇の如き鋭い牙を生やしたのである。

 鱗は頑強かつしなやかであり、凛の剣捌きでも中々斬り裂くことが難しく、あまつさえ牙からにじみ出る毒を喰らってしまった。

 

 そんな蛇鬼を、途中で合流した流は一太刀の下に斬り捨てた。

 四肢を斬り飛ばし、胴体を上と下に別つ。それをたった一撃で。

 華麗だと感嘆した。流麗だと驚愕した。そして、余りにも洗練された動きに恐怖さえ覚えた。

 

 蛇鬼はそれでも一矢報いろうと毒液を飛ばしたが、今度は凛が毒液を掻い潜り、蛇鬼の牙を斬り落とした。

 

「あ……あぁ……」

 

 バラバラにされ武器すら失った蛇鬼は、最早抵抗する意思すら失い、地べたから流を見つめていた―――恐怖の色に染まった瞳を浮かべ。

 一方流は情け容赦なく頚を跳ね飛ばそうとしたが、凛が待ったをかける。

 

「流さん、僕にやらせてください」

「……なぜだ?」

「これ以上戦う意志のない相手を苦しめるのは……なんて言うか……凄く嫌な気持ちになるから。だから、痛みを与えないように……」

「……そうか」

 

 あっさりと頷いた流に背中を押された凛は、「安心してください」と優しい声音で囁き、一閃。

 

 氷の呼吸 伍ノ型 (そそぎ)

 

 苦痛を与えぬ一閃が、鬼としての生に幕を下ろさせる。

 当の蛇鬼はと言えば、雪が降り積もり季節に備えて永い眠りにつく生き物のような安らかな寝顔を浮かべ、灰燼と化していった。

 

「……干天の慈雨に似ているな」

「はい。お師匠様もその型から派生させたって……」

 

 水の呼吸の伍ノ型・干天の慈雨は、自ら頚を差し出した鬼に繰り出す慈悲の剣撃だ。

 喰らった鬼は、さながら乾いた大地に降り注ぐ優しくも温もりに溢れた雨に打たれるかのような感覚を覚え、苦痛など覚えることなく死ぬことができる。

 雪もまた、鬼に対する慈悲を目的とした型だ。干天の慈雨との違いは、相手が頚を差し出さずとも繰り出せるという点である。

 

「鬼に情けをかけるのか」

「……全部否定したら嘘になっちゃいますけど、できるだけそうしたいなって」

 

 やや厳しい声音で問いかける流にも臆さず、凛は続けた。

 

「鬼も人だったから……最期に一瞬でも人の心を取り戻してくれるのなら、まずは僕らが彼等を人として扱わなきゃって」

「……それはお前の経験か?」

「……どうでしょう」

 

 はぐらかすような笑顔。

 盲目の流には見えるはずもないが、それでもなにかと見透かしてくる彼の眼の前には、誤魔化さずにはいられなかった。

 と、突然凛は眩暈を覚えて膝から崩れ落ちる。

 

「あ、あれ……なんだか、体が痺れて……」

「鬼の毒か……」

「そ、そういえば……」

 

 蛇鬼の毒液を喰らっていたことを忘れていた。症状から察するに麻痺毒であるが、いつまでも放置していれば何が起こるか分からない。

 このままどうなってしまうのかと凛が汗を流していると、徐に流が倒れた彼を担ぎ、走り始める。

 

「な、流さん……」

「喋るな、舌を噛むぞ。それともう一つ。呼吸で毒の巡りを遅らせろ。さもなければ後遺症が残るかもしれん」

「あ、あい」

 

 若干舌足らずになりながらも、流に指示された通り呼吸を用いて毒の巡りを遅らせる。

 そうこうしている間にも、流は竹製の義足で真夜中の町を駆け抜け、とある場所へと向かっていく。

 どこへ行くのだろうと朦朧とし始めた意識の中で考えている間、義足とは思えぬ瞬足かつ無音の走りを見せた流は、とある屋敷へとたどり着いた。

 

(花の……いい香り……?)

 

 意識が闇に落ちる直前、凛が流の背中越しに見たのは、

 

「―――大丈夫ですか?」

 

 蝶を彷彿とさせる可憐で儚げな女性であった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「う、う~ん……」

「お早いお目覚めですね」

「ん?」

 

 窓から差し込む光に堪らず意識が覚醒した凛は、間髪入れずきつい声色の少女の声を耳にした。

 寝ぼけたまま周りを見渡せば、簡素なベッドが並んでいる部屋の中で、一人真っ黒な装いをした少女の姿を目にした。

 

「えっと……ここは?」

「ここは花柱・胡蝶カナエが当主を務める蝶屋敷です」

「蝶……屋敷?」

「はい。貴方のように負傷した鬼殺隊士を運び込み治療する場所です」

「な、なるほど……」

 

 若干刺々しい口調であることが気になるが、凛は一先ず笑顔を取り繕う。

 

「あの、治療してくれたんですよね? ありがとうございます。僕は氷室凛……よかったら、君の名前を……」

「胡蝶しのぶ。では失礼します」

「え!? あ、ちょっ……!」

 

 名乗るだけ名乗り、「しのぶ」と名乗った少女はさっさと去ってしまった。

 

 そんなに忙しいのだろうか?

 見る限りベッドはそれほど埋まってないが、別の仕事があるのだろうか?

 きっとそうだ。多分そうだ。

 でなければ、単純に自分が嫌われているようで泣きたくなってしまう。

 

 しばし打ちひしがれていた凛であったが、大分心が落ち着いてきたため、一旦考えをまとめる。

 

(流さん……どこに居るんだろう?)

 

 義足の身でありながら自分を蝶屋敷まで運んでくれた流は何処へ?

 お礼の一つも言わなければ気が済まさない凛は、体に若干の痺れを覚えつつも、少し動くには問題ないと判断するに至り、ベッドから抜け出した。

 

(う~ん、それにしても……)

 

 始めて来た蝶屋敷を散策する中、凛は、

 

(ここどこだろう?)

 

 見事迷子になった。意外と広かったのだ。

 頃合いを見て戻ろうと思っていた手前の迷子。どうしたものかと悩みつつも歩いていれば、縁側にたどり着いた。

 

「あれ?」

 

 そこで見つけたのは一つの人影。

 目を凝らすと、長い黒髪を側頭部でまとめた可憐な容姿の少女が、縁側で一人日向ぼっこしているではないか。

 髪留めも、先ほど去っていったしのぶと着けているものに酷似している。恐らく、蝶屋敷の住民なのだろう。

 

 彼女に話を聞こうと決心した凛は、笑顔を湛えたまま座っている少女の隣で屈み、視線を合わせてから口を開いた。

 

「こんにちは」

 

 振りかえる少女もまた笑みを湛えていた。

 そして―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「それにしても伴田さん。どういった風の吹き回しなんですか?」

「何のことだ」

「またまたぁ。連れて来た子のことですよ。継子はとらないって言ってたじゃないですか」

()()は継子じゃない」

「あら、そうなんですか?」

 

 ほわほわとした雰囲気の女性が、茶を啜る流の前に座っていた。蝶を模した髪飾りを両側の側頭部に留めている彼女は、見るからに容姿端麗の美女。たたえる笑みは花のように穏やかであり、一挙手一投足に女性らしいたおやかさが見て取れた。

 寡黙な流とは真逆な雰囲気の彼女もまた、鬼殺隊の隊服を身に纏っているが、その実只者ではない。

 

「それを言うならばだ、胡蝶。お前も何故しのぶを継子にしない。同門なんだろう?」

「それは……」

 

 胡蝶 カナエ。“水柱”の流に対し、“花柱”と呼ばれる柱の一人である。

 一般的に男性よりも筋肉量が少ないとされる女性の身でありながら、柱まで上り詰めた実力は本物。まさに才女。それがカナエであった。

 

 だが彼女は、流に痛いところを突かれたと言わんばかりに沈痛な面持ちを浮かべ、ふと庭に目を向ける。蝶屋敷と言われるだけあって、傷病者の心の癒しとなるようにと植えられた色とりどりの花畑には、ひらひらと舞う蝶が集まっている。

 そんな蝶に重ねるのは、たった一人の肉親である妹であった。

 

「しのぶには……普通の女の子になって、結婚して、子供を産んで、おばあちゃんになって……そんな普通の幸せを掴んでほしいんです。本当なら鬼殺隊だって辞めてほしい」

「だが、それを妹は納得しないだろう」

「ええ。最近では藤の研究も始める始末で……それが鬼の毒にも効く薬になるのは大発見だとは思うんですけれど、あの子の姿……とてもじゃありませんが見ていられなくて……」

 

 カナエの妹・しのぶもまた鬼殺隊である。

 しかし、華奢で小柄な体故か鬼の頚を斬るに足りる筋力を得られなかった。両親を殺された憎悪を原動力に、花柱まで上り詰めたカナエとは裏腹に、未だ鬼の頚さえ斬られないしのぶは途轍もない劣等感と焦燥に苛まれていた。

 それ故に手を出したのが、鬼が苦手とする藤の花の研究。鬼が苦手であることには相応の理由があるはず。そう踏んだしのぶは、ここ最近時間を見つければ研究に没頭し、無ければ傷病者の看護にかける時間をギリギリまで切り詰めてまで時間を作った。

 

 その鬼気迫る姿に姉のカナエは心配していた。

 姉として妹を応援したいと思う気持ちもあるが、家族を危険な仕事に巻き込みたくない気持ちも譲れない。

 板挟みになる想いから、カナエはしのぶを自分の継子―――柱が直接指導する将来有望な隊士として育成することに、あまり気が進んでいなかった。

 

「……暗い話になっちゃいましたね。話を変えましょうか! 伴田さん、どうしてあの子と一緒に居られたんです? 継子じゃないなら一体どうして……」

「お館様の伝令でな。あいつは稀血だ」

「稀血? 確かに稀血は鬼に狙われやすいですけれど、だからって伴田さんがわざわざ出向くようなことでしょうか……?」

「これに関しては俺個人の問題だ。寧ろ、俺がお館様に気を遣わせてしまっている」

「そうなんですか? でしたら余り詮索はしませんが……ちなみにどんな子なんです?」

「……鬼にも慈悲深い奴だ」

「あら! 優しい子なんですね……」

「そうだな。お前とは気が合うだろう。なんなら、お前が継子にでもすればいい」

「随分話が急ですね……その子が何の呼吸かもわからないのに」

 

 継子とは柱から直接指導を受ける手前、一般的には同じ流派の呼吸である場合が多いのだ。絶対に同じでなければならないという決まりはないものの、同じに越したことはない。それが柱たちの共通認識である。

 

「氷と言っていた。水の派生らしい。花の呼吸は水の派生だったろう。そこまで問題はないはずだ」

「水なら伴田さんの方が得意ではなくて?」

「俺はこの体だ。根本的に五体満足の者とは体の使い方が異なる。変な癖をつけさせる訳にはいかない」

「ああ、だから前に勧められた子を断って……確か冨岡くんでしたっけ?」

「あいつはもう俺の指導を受けなくてもいい剣士だ。俺が死ねば、次の水柱はあいつだろう」

「もう、縁起でもないことをおっしゃって……伴田さん。貴方は水柱なんです。鬼殺隊の宝なんです。力だけじゃない……貴方の中に生きる経験こそが、次代の剣士を育てるのに何より必要なものでしょう。だから伴田さんは頃合いを見計らって水柱を冨岡くんに任せて、育手になっちゃえばいいんですよ!」

 

 ポワポワとした空気を放ち、育手になることを勧めるカナエ。

 しかし、流の表情は依然険しいままだ。

 

「それはならない」

「どうしてです?」

「約束したからだ。勝ち抜くと……勝ち抜いた先で証明すると」

「……一体、なにを」

「最強を」

 

 盲目の瞳から放たれる視線がカナエを射抜く。

 大正時代になる前―――明治時代から鬼殺隊として活動している流は、鬼狩りとして重ねた時間はカナエを遥かに上回る。

 しかも、盲目に義手と義足と、本来であれば引退して然るべき身を押してだ。“柱”の中には盲目の者がもう一人居るが、それを踏まえても流の状態は凄絶である。戦うために血反吐を吐くような努力を重ねたことは想像に難くない。

 だからこそ、彼が口に出す言葉の重みをひしひしと感じ取っていた。

 

「それは……修羅の道ですよ」

「安心しろ。修羅の道に入るより前に、疾うに俺は地獄を見ている」

「……」

 

 流は顔面に刻まれた傷跡を指でなぞる。彼は本来盲目ではなかった。鬼から受けた傷により失明した身だ。

 最後に目にしたものは鬼だったはず。それ以降、光を失った体で鬼と戦うのはどれだけ恐ろしいことだったろうか。“柱”であるカナエでさえ身震いするような寒気を覚えた。

 

「……止めはしません。でも、命を捨てるような真似だけは慎んでくださいね」

「ああ。でなければ、俺は無様に今日まで生きられていない」

 

 自嘲するような言葉を吐きつつ、流は立ち上がった。

 そんな彼を前にカナエは「そう言えば」と口を開く。

 

「あの子はどうするんですか?」

「……」

「ふふっ、考えてなかったんですね。とりあえず彼も伴田さんにお礼を言いたいでしょうし、病室に行ってみてはどうですか?」

「……ああ、そうしよう」

 

 カナエに言われるがまま病室に向かう流。

 一方、彼の背中を見届けたカナエはと言えば、

 

「そうだ、そろそろカナヲのところに……」

 

 もう一人の大切な家族と昼餉を共にとるべき、いつもの縁側へと向かうのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「え~っと……こんにちは」

「……」

 

 返答はない。ただ、ニコニコと笑顔を浮かべる少女を前に、凛はどうしたものかと困っていた。

 警戒されているのだろうか。それにしてはそういった様子は見られない。

 

(聞こえなかったのかな?)

 

 問題が自分にあると踏み、凛は今一度挨拶してみることにした。

 

「こんにちは。蝶屋敷の子かな?」

「……」

 

 またしても返答はない。それでも笑顔は向けてくれる。

 単に無視をしているだけであるのならば、そのままいそいそとこの場から離れればいいだけの話なのだが、こうして笑顔を向けられている以上、「それじゃあ失礼して」と一方的に立ち去るのも何か違う。

 なんとか場の流れを変えたい。そう思った凛は、挫けず話を続けることにしたのだった。

 

「僕は氷室凛。鬼殺隊の一員なんだ。よろしくね!」

「……」

「よかったら、君のお名前教えてくれるかな?」

「……」

「え、えっと……蝶屋敷に来てからしのぶっていう女の子と会ったんだ。知っている人?」

「……」

「あ……あはは。今日は……いい天気だね」

「……」

「……」

 

 気まずい。ただただ笑顔を向け合う空間が生まれてしまった。

 最終的に少女に何か喋れない理由があるのだと考えた凛は、笑顔の裏でどうしたものかと熟考する。

 すると、

 

「あらら?」

 

 と頓狂な声が背後から聞こえて来た。

 

「あ」

「あら、君は流さんが連れてきた……」

「氷室凛です! お邪魔しています!」

「うふふ、お邪魔されてます♪ いや、こっちがお邪魔しちゃったかな? 私は胡蝶カナエ。よろしくね」

「はい、よろしくお願いします!」

「そう固くならないで。カナヲとおしゃべりしてくれてたのね」

「カナヲ?」

 

 現れた女性―――カナエが口にしたカナヲという名前に首を傾げていれば、カナエがずっと笑顔を顔に張り付けていた少女の後ろに座る。

 

「この子よ。栗花落カナヲって言うの」

「へぇ~、カナヲちゃんって言うんですね!」

「ごめんなさいね、氷室くん。カナヲはちょっと事情があって一人じゃ喋れないの……ほら、カナヲ。氷室くんに自己紹介して。『はじめまして、栗花落カナヲです』って」

「はじめまして、栗花落カナヲです」

「うん、はじめまして!」

 

 カナエに促され、ようやく自己紹介してもらった凛は、得も言われぬ達成感を覚える。

 と、続けざまにとあることに気が付いた。

 

「ん? カナエ……って、もしかして、貴方が蝶屋敷の当主ですか?」

「はい、そうですよ」

「じゃあ、花柱……」

「ええ、正解です」

 

 笑顔で肯定するカナエに対し、またもや“柱”に対して失礼な言動をしてしまっただろうかと反省する凛。

 だが、それ以上に彼はとあることが気になっていた。

 

「あの、カナエさん。少しいいですか?」

「はい? どうかしましたか?」

「風邪引いていたりします?」

「風邪? それはまたどうして」

 

 突然風邪と疑われて困惑するカナエであるが、無論凛も当てずっぽうに質問した訳ではない。

 

「僕、温度に敏感で……人の体温とかもわかるんですけれど、カナエさん、凄くポカポカしてるなぁって……運動の後みたいに。でも、汗とかは掻いてないようですし、風邪かなと……」

「!」

「すみません、変なこと聞いちゃいましたね。あの、忘れてくださ……」

「ううん、いいところに気が付いたわね。本当に……()()()を任されたんじゃないですか、伴田さん?」

「え?」

 

 目配せして微笑みを湛えるカナエの視線を辿り、自身の背後に佇んでいた流を目の当たりにし硬直する凛。

 

―――いつのまに背後に!?

 

 彼の足音が不気味なほど聞こえない―――義足にも拘わらず―――のは既知の事実であったが、それにしても気配を消すのが上手い。

 柱は全員気配の消し方が上手いのだろうかと現実逃避するような考えをしていれば、

 

「……病室に居なかったな」

「す、すみません! 流さんを探してたら迷ってしまって……」

「いい。気にするな」

 

 気にするなとは言いつつも、流からは病室へ足を運んだことが徒労に終わってしまったことに対する虚脱感のような熱を感じる。

 今一度謝罪の言葉を口に出すが、「まあまあ」と凛を慰めるカナエが話を続けた。

 

「氷室くん。じゃあ、流さんの体温はどう感じる?」

「はい。流さんも普通の人にしては体温が高いと思います。あ、勿論普通の人より体温が高い人が居ることは承知してますけど、柱の人……流さんもカナエさんも体温が高い理由はあるんですか?」

「うふふっ……」

 

 凛の問いに対し、カナエは笑うだけで明確な答えを出さない。

 と思いきや、徐に流の隣に移動したかと思えば、彼の義手を掴み、勢いよく手を掲げさせたではないか。

 これには凛も当の流も驚いている。

 そのように突拍子のない行動に出たカナエは、溌剌とした口調で告げる。

 

「その答えは……私と! 伴田さんによる! 特別柱稽古にて教えちゃいます!」

「!?」

「柱稽古……?」

 

 場を盛り上げるべく拍手するカナエ。

 驚く流。

 首を傾げる凛。

 それを漠然と眺めるカナヲ。

 

 ここまで人の考えが通じ合っていない場があるというのかと疑問に思うほど混沌とした場で、類稀なるほんわか力を発揮するカナエは、どんどん話を進めていくではないか。無論、流が反論に出る間もなく……。

 

「それでは氷室くんには、まず私の妹のしのぶと機能回復訓練に取り組んでもらいます!」

「は、はい!」

「詳しい説明は訓練場でするからお楽しみに!」

 

 カナエの口調から、ほんの少し楽しいことが始まるのではないかと考えた凛であったが、彼はこの時知らなかった。後々地獄を見ることになることを―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「へくちっ! あぁ、藤の花の粉末が! もぉ~~~!! きっと誰かが……いや、姉さんが噂したからだわ!!」

 

 その地獄を生み出すことになる少女は、ちょうど苛立っていたとさ。

 



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伍.堅忍不抜

 カナエに案内されてやって来たのは、蝶屋敷に併設されている訓練場であった。

 なんでも、鬼との負傷で長期間休んでいた隊士が体の感覚を取り戻すための訓練に用いる場とのこと。鬼との戦いは一瞬が生死を別つ。鈍った体で戦地に出す訳にはいかないという訳だ。

 

「それで僕は一体何をすればいいんでしょうか?」

「まずは柔軟で体をほぐすの。それからしのぶとの鬼ごっこよ」

「鬼ごっこ?」

 

 カナエが目配せした先に佇むのは、凛が蝶屋敷で起きて初めて目にした少女であった。

 ほんわかしたカナエとは裏腹に、少々険が刻まれた顔つき。

 

(なんで怒ってるんだろう)

 

 機能回復訓練に入る前から苛立っているしのぶに、やや怯える凛。

 一方しのぶはフンと鼻を鳴らしつつも、「早く済ませましょう」と凛を敷布団の上に導く。

 

 特にいやらしいことを考えていない凛ではあるが、世間に疎い凛の目から見ても美少女であるしのぶに体を触れられ、自然と鼓動が高鳴ってしまう。

 だが、しのぶに至っては異性の体に触れることに一切恥じらいを見せることもなく、手慣れた様子で準備を整えた。

 

「じゃあ、これから凝り固まった体をほぐします。痛かったら言って下さいね」

「はい」

 

 たかが柔軟だろう。そう思ったのも束の間、激痛が体に走る。

 

「イータタタタタタタァッ!!?」

「痛かったら言ってくださいねー?」

 

 やや弾んだ声音のしのぶが、一層強く凛の背中を押す。

 グイグイ、グイグイと。

 それにより、股間が今までに鈍い音を奏でる。

 このままでは体が折れるのではないか? ―――そのような危惧を覚えた凛は叫びまくる。

 

「いたたただだだだだだ!! 痛いです痛いです!!」

「そうですか。我慢してください」

「えぇ!? 特に何もないんですか!?」

「痛かったら言って下さいとだけしか言ってませんよ」

「確かに!!」

 

 なるほど、これは一本取られた。と、思うはずもない。

 始めに与えられた希望を踏み躙るように、一切手心が加えられない柔軟が凛の体に襲い掛かる。

 しかし、これを乗り超えなければ次の訓練へ進むことはできない。

 必死に情けない声を上げるのを我慢しようとする凛―――であったが、その度にしのぶの込める力が一段と強まる。そして、我慢していた声が漏れてしまうのだ。

 

「頑張ってください、氷室くん! もうちょっとですよ! はい! そーれっ! そーれっ!」

「はぎぃ!」

 

 しのぶが楽しそうにしているのは、きっと幻覚ではない。

 ふと視界に入ったカナエが、居た堪れないような、それでいて申し訳ないような面持ちを浮かべているのを目にし、凛はなんとなく「ああ、そういう子なんだ」と諦めるに至った。

 

 そうしてしのぶによる地獄の柔軟運動が終わった凛は、カナエの言った通り鬼ごっこへと移る。

 相手は勿論しのぶだ。

 しかし、柔軟運動とは違い一方的にやられるだけではない訓練である。それだけでやる気がみるみる溢れてくるというものだ。

 

(一泡吹かせてやるぞぉ!)

 

 柔軟運動の恨みを晴らすべく、凛は走った。

 

 そしてボロ負けした。無念。

 

「ぜぇー! はぁー! ぜぇー! はぁー! ぜ、全然……追いつけない……!」

「ふふんっ」

 

 床に這いつくばるように倒れる凛を見下ろすしのぶ。したり顔を浮かべた彼女は、鼻も鳴らして随分と気を良くしているようであった。

 滝のように汗を流す凛に対し、しのぶの顔は涼し気だ。

 ほんのりと額に汗が滲んでいるだけであり、さも「このくらい準備運動です」と言わんばかり。

 

(なんか……憂さ晴らしに使われてるような気が……)

 

 明らかに訓練前よりも気分の良いしのぶに、自分が使われているのではないかという疑問を覚えることを禁じ得ない凛であるが、敗北は覆しようのない事実だ。

 どうすれば勝てるのか。悶々と悩みつつ、次にカナエに提示された訓練は、湯呑に入った薬湯を相手に掛け合うというものだった。湯呑を持とうとした手を相手に抑えられたら、その湯呑は持ち上げてならない。そうした条件の下、いざしのぶとの対決へ。

 

 結果は―――これまた惨敗であった。

 

 全身薬湯臭くなるまで湯呑の中身をぶっかけられた凛は、完全に意気消沈していた。

 一方、しのぶはこの上なく楽しそうにニコニコと笑顔を浮かべている。

 

「あらあら、びしょ濡れですね。まあ、まだ起きたばかりですもの。体に痺れが残ってるんじゃあ、私みたいなひ弱な女子に負けるのも致し方ありません。そうそう、し か た な い 、ですもんね!」

「……くぅ……」

 

 煽られている。バンバン煽られている。

 だが、言い返す言葉もない。頬には薬湯とは違う雫が一筋伝う。

 

 苦渋を味わう凛であったが、ここでようやくカナエが割って入る。

 

「こら、しのぶ。そうやって相手を傷つけるような言葉遣いはやめなさい」

「はーい」

「ごめんなさいね、氷室くん。でも、言葉で説明するより実際に体感してもらった方が早いと思って」

「は、はい……」

 

 手拭いを渡された凛は、薬湯だらけの体を拭きつつ、カナエの言外の意図をなんとなく察した。

 

「これが柱の人たちの体温が高い理由につながるんですか……?」

「その通り! 全集中の呼吸・常中って言うのよ」

「常中……?」

「四六時中全集中の呼吸を行うことで、基礎体力が飛躍的に上昇する技術……身につけるのは大変だけれど、これを体得してるか否かでかなり動きに差が出るの」

「はぁ~、なるほど……」

 

 チラッとしのぶを一瞥すれば、またもや鼻を鳴らした彼女がしたり顔を浮かべる。

 育手の下で訓練していた期間であれば、普通の剣士よりも大分長い凛ではあるが、それでも年の離れていない―――それも一般的に男よりも力の劣る女である―――相手に完敗したとなれば、全集中の呼吸・常中によって得られる力がどれだけ凄まじいものか理解できるだろう。

 

(全集中の呼吸はたくさん酸素を体に取り込んで血の巡りを良くする技術……そっか、それをいつもやってるなら、体温も高い訳だ)

 

 柱の体温が高いことにも合点がいった凛は、呼吸も大分整ってきたところで、頬を叩いて気合を入れる。

 

「分かりました! いつも欠かさず全集中の呼吸をすればいいんですね!」

「そう。でも、簡単なことのように思えてとっても難しくて大変なことよ。肺も急に大きくはならないから、呼吸を続けられるだけの肺活量は地道に鍛えていくしかないの」

 

 こればかりは近道はない。いや、何にしても言えることだが、結局のところ努力は地道に積み重ねていくしかないのだ。

 柱も最初は何もできなかった。それでも気の遠くなるような時間と、血の滲む努力を重ねて今の立場に座しているのである。

 

 少しでも彼等と同じく―――大勢の人を守れるようになりたいのであれば、時間は幾らあっても足りない。どれだけ早く始めても遅いのだ。

 

 よし、今からでも始めよう。

 そう意気込んだ凛であったが、

 

「無理よ、姉さん」

 

 酷く冷めた声が響いてきた。

 

「その人にはできやしない」

「しのぶ!」

 

 凛の気概をへし折るようなしのぶの一言に、穏やかな口調であったカナエの語気も強まる。

 

「どうしてそんなこと言うの? やってみなくちゃ分からないじゃない」

()()()()()()()()()()()()()? ねえ、姉さん。それって本気で言ってるの?」

 

 場の空気が凍てつくのを、凛は肌で感じ取った。

 しのぶの体迸る熱からは、怒りや悲しみ、悔しさといった複数の感情が入り乱れていた。心なしか彼女の瞳は濡れている。ゆらゆらと揺れ、今にも零れ落ちそうなものをその瞳にやっとの思いで押し留めている。

 

「私を見て言ってるの?」

「しのぶ……」

 

 カナエもまた得も言われぬ面持ちでしのぶを見つめる。

 しばし見つめ合っていた姉妹であったが、

 

「……もういい。勝手にして」

 

 しのぶが踵を返し、訓練場を立ち去っていった。

 場に残るのは言葉を発するのも憚られる重々しい雰囲気。

 困惑して身動きの取れない凛に対し、申し訳なさそうにカナエが振り向く。

 

「ごめんなさい、氷室くん。変な空気にしちゃって」

「い、いえ……」

「とりあえず今日はここまでにしておきましょ。本格的に常中の訓練をするのは明日からで」

「はい!」

 

 せめてもと溌剌とした返事をする凛。

 すると、

 

「氷室」

「はい?」

 

 訓練場の端で眺めていた流がやっと口を開いた。ここまで完全に気配を消していた彼であるが、わざわざ声をかけてきたということは、何か用事があるのだろう。

 

「顔を貸せ」

「は、はい」

 

 端的な呼び出しだった。基本的に表情が変わらない能面づらの流だ。ただ呼ばれただけにも拘わらず、威圧感がそれなりにある。

 だが、特に怒っているような熱は感じないため、カナエに見送られていることもあって安心して流の呼び出しに応じた。

 そのまま二人は訓練場を抜け出し、人気のない蝶屋敷の庭まで歩いてきた。

 花の香りに包まれるのは心地よい。先ほどまでの重い空気が嘘のようだ。

 

「……お前はなぜ鬼殺隊を志した」

「え?」

 

 凛は流の問いを理解しかねた。いや、言葉通りのまま受け取るのであればさほど悩まなかっただろう。

 しかし、流の言葉の奥にはもう一つ―――別の意味が隠れているような気がした。

 

(何を話そう……回りくどいのもあれだし正直に話そう)

 

 だが、意図を測りかねて答えあぐねるのは性に合わない。

 

「―――人を守りたいと思ったからです」

「……そうか」

「でも僕の場合はちょっと志すまでの経緯が特殊と言いますか……まず、僕は鬼になった母親の胎から産まれたんです」

「……なに?」

「産まれてきた僕自体は普通に人間として生まれたんですけどね。家族は……鬼になった母親に喰い殺されたと聞いています」

「……そうか」

「だけど、鬼になっても母親は産まれた僕を抱きしめてくれていたって……最期には人の心を取り戻していたって聞いたんです。例え鬼にされたとしても、完全に人の心を失うことはなかった……確かに僕に愛情を抱いてくれていた」

 

 全ては育ての親である育手から聞いた話であるが、疑うつもりは一切なかった。

 愛されていると信じたかった。愛し育ててくれた育手の言葉も信じたかった。

 浪漫的と言われようが、育手から全てを聞いたその日から、凛の中にはとある信念が生まれたのだ。

 

「だから僕は、鬼になってしまった人の…その中にある人の心を守りたい。鬼から鬼じゃない人を守るだけじゃなくて、確かに人として生まれた(かれら)を人として終わりを迎えられるように頑張りたい。()()()()()()って……そう思ったんです」

 

 体が鬼。それだけで醜い鬼として滅殺するのは間違っている。

 彼等の心に一片でも人の心が残っているのであれば、鬼であったとしても、最期は人として介錯したい―――そうした想いで凛は鬼殺隊を志した。

 

 その旨を聞いた流は、数秒沈黙する。

 光を失ったはずの瞳が自分を射抜く。見えていないのに見られている。これまた妙な感覚だとこそばゆさを覚えていると、今度は瞼を閉じた。

 すると、顔に刻まれた痛々しい傷跡を指でなぞり始めた。

 心なしか、触れる指先には懐古の念が滲んでいるように見えた。

 

「……俺は百姓の家に生まれた」

「え?」

「長男だったが、体は小さく、力も弱くてな。それが理由で捨てられた。なに、珍しい話じゃない」

 

 それは雪の降る厳しい寒さが襲い掛かる日だったと言う。

 

「そこで俺は剣の師―――育手に出会った。捨て子を預ける知り合いに預けられる話もあったが、剣士を志した」

「それは……どうしてですか?」

「育手に『國一番の剣士になれる』と言われたからな。自分の非力さを知っていたからこそ惹かれたんだ」

「それで“柱”にまで……!」

「だが、俺は最終選別で目と右手、そして両脚を失った」

「え……?」

「怪我をした他の剣士を守りながら戦ってな。だが、結局のところ俺の未熟さが招いた結果だ。なにより、守った剣士は選別後すぐに事切れた。守り抜けなかったんだ」

 

 凄絶な過去に思わず息を飲んだ。

 鬼殺の剣士となるための選別で四肢のほとんどを失い、盲目となり、さらには守ろうとした者さえ死なせてしまった。自分であればきっと剣士を諦める程の傷を負いながら―――体も、心も―――それでも鬼殺隊として流の人生は、まさに波乱万丈というべきものだろう。

 

「俺は多くのものを失った。だが、それでも俺を立ち上がらせたのは育手との約束だった。國一番の剣士になる……そのためには勝ち抜かなければならなかった。剣士として戦えるようになるまで時間はかかったが、俺は再び戦えるようになった。柱にもなった。だがそれも、あくまで過程でしかない」

 

 “柱”になることさえも過程と口にする流だが、その様子は真剣そのもの。いや、四肢を失っても尚剣士である事実こそが、彼が育手との約束を果たすために戦っている理由に他ならない。

 

「だからこそ忠告する。高みへ上ろうとすればするほど、どれだけ手を伸ばしても届かないものが分かってくる」

 

 怜悧な瞳が凛を射抜く。身動きを許さない―――現実から目を背けることを許さないと言わんばかりの瞳だ。

 

「お前はまだその手前に居る」

「手前……ですか?」

「知らなければ幸せだったと後悔する現実だ。どうしようもない才能の差に打ちひしがれることもあるだろう。努力を積み重ねても思い通りにならないもどかしさに苦しむこともあるだろう。掌から零れ落ちていった命を数えて……絶望することもあるだろう」

「っ……!」

「それでも強くなろうとするのか?」

 

 喉元に(きっさき)を突きつけられている気分だ。

 鉄のような冷たさを放つ流に、息をするのもままならない。

 しかし、

 

「……から」

「……なに?」

「知らないのも……苦しいから」

 

 胸いっぱいに空気を吸い込んで紡ぐ。

 流の威圧感に圧されぬよう、鬼に対峙した時と同じように全集中の呼吸で全身に力を漲らせて。

 

「確かに流さんの言う通り、知らない方が幸せなこともあると思います……けど、もう知ってしまった現実もあるんです。僕は、そこから目を逸らして生きるのが堪らなく苦しい。僕が幸せに生きられているのは、知らなくちゃいけないことを知らないからじゃないか、って……」

「……」

「知って苦しむのと知らなくて苦しむ……その二つだったら、僕は前者を選びます。知らないと何にもできない……でも、知っていたならちょっとでも良い未来に進める気がするんです」

「……そうか」

 

 フッと流の口元が緩んだ。同時に辺りを包んでいた厳めしい空気も霧散する。

 

「いらない世話だったな」

「い、いえ!」

「柄にもないことを聞いた。()()()()()()()()()()()()()なのにな」

「そんなことありません! なんというか、こう、気をビシッと引き締められました!」

 

 “柱”の言葉は想像以上に重いものだ。

 だからこそ、直接彼等の言葉を耳にして覚えた感覚は貴重であった。忘れてはいけない、心に刻んでおこう―――そう思えた。

 

「僕、頑張ります! 流さんと同じくらい強くなれるように!」

「……俺より強い“柱”を目標にしておけ。その方が良い」

「いえ、流さんがいいです! だって、國一番を目指してる剣士なんですから!」

「! ……そう、か」

 

 一瞬呆気にとられ、次に笑みを零した流。

 まるで郷愁に耽るかのような所作を見せる彼は、爛々と目を輝かせる凛へ振り向く。

 

「なら、諦めるな」

 

 義手を掲げて続ける。彼が()()()()()()象徴を。

 

「諦めなければ好機は訪れる。生死を別つのは、死の直前……三途の川底に沈んでいる石ころのような()()の好機を手にすることができる者だけだ」

「最後の……?」

「ああ。それさえ見逃さなければ、無様な姿でも生き永らえることができる。再起不能の怪我を負ったと周りが宣ったところで、再び立ち上がり、人を守ることができる」

「なるほど……!」

「所謂英雄と呼ばれる類の人間は、それを手にし続けた者のことだ。特に俺達のような生業の者達は特にな。なればこそだ。お前も諦めるな。お前が拾い上げた最後の好機は、きっと誰かの希望となる」

「!」

 

 瞠目する凛の胸を、一歩前に出てきた流が、義手の先端で小突く。

 本当に少し触れるだけであったはずなのに、凛の体は後ろへ弾かれる。まるで義手に不思議な力が宿っているようだった。

 

「俺とまた会うまで生きろ」

「っ……はい!」

 

 羽織を翻し、蝶屋敷から去っていく流に対し、凛は彼の姿が豆粒ほどになるまで延々と手を振っていた。

 必ずや彼に並び立つ剣士になろうという想いを胸に抱きつつ―――。

 

 

 

「よし……居ても立っても居られない! 常中の特訓だァ!!」

 

 

 

 その日、全集中の呼吸・常中の体得に精を出し過ぎて倒れた凛は、しのぶに死ぬほど怒られた。

 



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陸.和風細雨

 胡蝶しのぶは最近苛立っていた。

 藤の花の研究が行き詰っていることや、患者が自分や姉に色目を使っていることはいつものことであるが、ここ最近は一層気が立っている。

 

 理由は、先日運び込まれた新人鬼殺隊士だ。

 鬼の毒にやられたようであり、治療自体は容易に済んだからいいものの、問題はそこからであった。

 

 痺れた体の感覚を取り戻す機能回復訓練。大抵の隊士は、全集中の呼吸・常中を体得しているしのぶに手も足も出ることなく蝶屋敷を出ることになる。その度、しのぶは日々の鬱屈が晴れ、いい気分転換になっていたのだったが、

 

「っぁあ!」

「くっ……!」

 

 薬湯を掛け合う訓練。以前ならば、しのぶが完勝するだけであったこの訓練も、数日経ってから相手が食らいついてくるようになった。

 ()()()()()()()()()()。その結果にしのぶは、納得がいかない、認められないと悶々する羽目となったのだ。

 結果的に普段以上に眉間に皺が寄り、余りの険しい顔に姉のカナエからも嗜められる始末。

 

(本当になんなの、もう!)

 

 プンスコと訓練場を後にするしのぶ。

 今日もまた彼女の勝利に終わったが、明日には負けているかもしれない。その後から鬼殺隊になった者に追いつかれる―――否、追い越されようとしている事実に、胸の中で焦燥が渦巻く。

 

(あんな子に負けたら、私は……!)

 

 研究室でもある私室を目指す足取りは、昨日よりも一層荒々しいものであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「すぅー……はぁー……すぅー……はぁー……」

 

 紅色に染まりつつある空の下で深呼吸する凛。

 できるだけ深く呼吸することを意識し、何度も何度も全集中の呼吸を繰り返した彼は、以前よりも長く維持することができていた。

 

 もう少しだ。

 焦ってはならないと分かっている。無理に続けようとすれば呼吸器を痛め、本末転倒な事態になりかねない。

 しかし、今日はここまでにしておこうと考えた瞬間、不意に流の言葉が脳裏を過る。

 

―――諦めるな。

 

「!」

 

 今一度、先ほどよりも長く全集中の呼吸を維持しようと試みる。

 燃えるように体は熱くなる。滲み出る汗が蒸発するのではないかと錯覚するほどの灼熱に襲われる凛であるが、その表情は至って涼やかだ。

 否、体は限界に近い―――というよりも超えている。しかし、心は穏やかであった。

 集中しているにも関わらず穏やか。これこそが無意識の内に全集中の呼吸を続けられる領域に一歩足を踏み入れられていることに他ならない。

 

 まだだ、まだ続けていられる。

 そう思っていた瞬間、柔らかな花の香りが漂ってきた。

 

「あ……」

「あら? もしかしてお邪魔しちゃったかしら?」

 

 スッと力が抜けて集中も途切れてしまった凛が振り返った先には、申し訳なさそうに眉尻を下げるカナエが立っていた。これから見回りにでも行くのだろう。“柱”は激務だ。担当警備区域も、一般の隊士とは比べ物にならないほど広いのだから。

 

「いえ、そんな! ちょうど切り上げようと思っていたところです」

「そう? 良かった。ここ最近、精が出ているようだったからつい気になっちゃって」

「あ、ありがとうございます!」

「うふふっ」

 

 カナエが居るだけで場が華やぐようだった。

 彼女のような美人に免疫のない凛は、真面目な場以外は、こうして面と向かっている間に常時赤面する始末だ。

 幸いであったのは特訓後で体が火照っているため、言い訳がつくことだろうか。それでもぎこちない所作からバレそうな気配はするが、例えバレたとしてもカナエは微笑むだけだろうが。

 

「少しいい?」

「え? はい、勿論!」

 

 そんなカナエは凛に手拭いを渡してから、近くの腰かけられそうな石にちょこんと座り、「お話しましょう」と手招く。

 断る理由もない凛が隣に座れば、カナエはきょとんとした顔を浮かべている凛ににっこりと笑顔を浮かべた。

 

「常中の練習はどう? 私から見たら、中々飲み込みが早いと思うんだけれど」

「そうですね……あと二週間、いや、一週間で出来るようになってみます!」

「そう? うふふっ、心強いわ」

「い、いえ……」

「それにしても体も型もしっかりしてるし……選別を受けるまで、どれくらい育手の下に居たの?」

「う~ん、鍛錬の期間だけで言えば五年くらいです。僕、育手に拾われて育てられたので」

「そうなの? じゃあ、本当に育ての親なのね」

「はい!」

 

 最終選別を受ける剣士が育手の下で鍛錬する期間は、平均して一年ほどだ。それに比べて育手の下で育てられた凛は、兄弟子や姉弟子との鍛錬に加え、弟弟子や妹弟子の面倒を看ていたこともあり、基礎がしっかりとしていた。

 鬼に確かな憎悪を抱き鍛錬していた他の弟子に比べ、鬼殺隊を志す時期が遅かった凛であるが、結果的には最終選別を受ける者達の中でも上位の実力を持って臨めたという訳だ。

 

 昔を思い返す凛に対し、カナエは温かな視線を投げかける。

 しかし、それからカナエは悲しそうな顔を浮かべて夕暮れの空を仰ぐ。まるで何かに思いを馳せるように。

 

「……鬼殺隊は本当にたくさんの人が亡くなるの。毎年毎年最終選別を行っても入って来るのはほんの一握りで、でも、現場ではそれ以上の隊士が亡くなってる。本当なら、氷室くんみたいに育手の下でじっくり鍛えられるのが、隊士の皆が死なないのに必要なんだろうけれど、そういう訳にもいかないのが現状なの」

 

 カナエとしては、全集中の呼吸・常中を体得してもらってから鬼殺隊に入ってもらうのが、現場で鬼に殺されないことに繋がると考えている。

 しかし、実情はそうはいかない。人がどれだけ居ても足りない。どれだけ滅殺しても鬼は増え、それを相手取る隊士は死に、“柱”のような実力者が穴埋めに奔走する。故に、“柱”隊士へ生き残る術を伝えられる時間さえももたらされないのである。

 長く鬼殺隊として勤められるのは決まって、突出した才能を有する者か、運の良い者だけ。

 

「本当なら誰にも死んで欲しくない」

 

 心の底からの言葉。

 

「皆幸せになってほしい」

 

 カナエは濡れた眼を浮かべて紡ぐ。

 

「どうして私たちは、幸せになれるように頑張る時間を、相手を殺す努力に費やさなければならないの、って……時折思っちゃうの」

 

 それは人に限らない。鬼とされた者も元は人間。彼等もまた、本来は人として掴める幸せがったはずだ。だが、鬼となって生きている時間の全てを、人を喰らうことに費やさなければならなくなった。

 そして、鬼殺隊の者もまた、本来得られていた普遍的な幸せの時間を犠牲にし、鬼を殺す事に人生を費やす。

 

 殺し、殺される。

 なんと無為な時間を過ごしているのだろう。

 

 そう訴えるカナエの言葉に、凛はしばし言葉を失った。

 彼女が慮っているのは人間だけではない。鬼に対しても憐憫の情を覚えているようだった。

 

 凛は思う。

 本当だったら、自分は誰と過ごしていたのだろう。誰と友達になり、どのような遊戯に興じていたのか。だが、家に帰れば母親が作ってくれた料理を家族で囲んで食べていただろう。

 

 そう思うと―――涙が止まらない。

 

「―――氷室くん?」

「っ……ごめんなさい」

「ううん、もしかして私が何か泣かせるようなことを……!」

「いいえ、違うんです! ただ……けっこう辛い目に遭ってるなぁー、って……」

 

 必死に笑顔を取り繕う凛だが、余りにも痛々しい笑顔であった。

 しかし、強引に涙を拭った彼は、途端に真剣な面持ちを浮かべる。

 

「でも、遭ったものは仕方ないから……僕は僕なりに幸せになれるように頑張ります。案外、今が不幸のどん底だなんて思えないですもん! お師匠様や流さん、それにカナエさんに出会えたことは幸せです! 経緯が経緯だから、あんまり素直に喜んじゃあれですけど……それでも幸せを幸せだって噛み締められることは、尊いことだって思えるんです」

「氷室くん……」

「だから僕は、今幸せに暮らしている人々を守りたい」

「……うふふっ、そうね」

 

 真っすぐに済んだ瞳を前に、カナエは悲しそうな顔を和らげた。

 

「貴方はとても澄んだ目をしている」

 

 「それから」とカナエは語を継ぐ。

 

「それはきっと……私達とは根本的に違うからなのね」

「え?」

「多分、そのことでこれから苦しむことがあるかもしれない。でも、忘れないで。その時は私たちが力になってあげられると思うから」

「はぁ……」

「その時が来ないのが一番だけれどね」

 

 要領を得ない物言いに首を傾げる凛であったが、あえてカナエが婉曲した言い回しをしているのだろうと考え、追求することはやめた。

 その時とはいったい何のことだろう?

 考えたところですぐにわかる問題でもないが、カナエの表情から察するに、良くないことであることは容易に想像できる。

 なればこそだ。一層鍛錬を積んで強くならねばならない。凛は強く思った。

 

「っと、そうだ!」

「ん?」

「あの……カナエさんの妹さん……」

「しのぶのこと?」

「はい。彼女、いつも怒ってるような“熱”を放ってて……僕がなにかしてしまったかなと」

 

 ここ最近、毎日顔を合わせている相手。

 仏頂面が顔に張り付いた彼女と訓練すること自体は慣れたものだが、どうしてもやり辛さは拭えない。

 しかし、初日に常中の特訓で倒れたこと以外、怒られる理由に心当たりがないのだ。

 心当たりがないことを直すというのは、これまた厄介。そこで姉であるカナエであれば、しのぶが終始憤っている理由に心当たりがあるのではないかと踏んだのだ。

 

 しばし、困ったような面持ちで考えるカナエ。

 

「―――恐らくだけれど……」

 

 カナエは語り始めた。

 

 

 

 花開かぬ蕾の葛藤を―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

 それから一週間経った。

 凛の体の痺れも大分良くなり、全快と言って差し支えないほどに体は快復していた。鬼の異能“血鬼術”による毒は、時に隊士を再起不能にさせるほど強力なものも存在する。

 だが、幸いにも凛はすぐに蝶屋敷にて適切な処置を受けたため、ここまで早い快復が叶ったとも言えよう。

 

 いや、理由にはもう一つ。

 

「うおおおああああ!!」

「っ……!!」

 

 日課となっている機能回復訓練。

 今日も今日とてしのぶに挑んでいた凛であったが、いつもとは一味違っていた。

 しのぶがたじろぐ程の気迫を放つ彼は、滝のような汗を滴らせつつも、しのぶが湯呑に掛けようとした手を押さえつけ、互角の戦いを繰り広げていたのだ。

 初日に比べれば劇的な成長である。

 だが、これには凛の成長のみならずしのぶの精神状態にも起因していた。

 

(嘘!? 私が……負ける!?)

 

 後から常中を体得するような新人に、彼よりも前に常中を体得した自分が負けてしまうかもしれないという焦燥が、しのぶの動きから繊細さを欠かせた。

 凛の常中は未熟だ。長期戦になれば当然しのぶに軍配が上がる。

 それでも数分間の攻防を繰り広げても凛が遅れを取らないのは、それ以上に時が経つ程にしのぶの胸で渦巻く焦燥が膨れ上がっていたからだ。

 

 ありえない。あっていいはずがない。

 負けたら全てが瓦解しそうだったから。

 無力な自分を辛うじて支えているものが、敗北によってもたらされるかもしれないと不安で堪らなくなったから。

 

 次第にしのぶの目じりに涙が溜まっていく。

 半泣きで訓練に挑むしのぶの様子は異様であったが、彼女以上に泣きたくなっていた凛は、ほぼ無心で湯呑を押さえつけ、あるいは手を掛けていた。

 肺が破裂し、心臓が爆発しそうだ。それでも簡単に敗北を喫さぬよう奮闘するのは―――いいや、勝利を譲らないのは、偏に流の言葉が彼の体を突き動かしていたからだ。

 

 彼の言葉を思い出すと勇気が出てくる。

 信念を体で表現する彼のようになりたい―――諦めたくない。

 二度目はないと言い聞かせ、この一戦に全てを掛ける。

 

 そんな凛の力は―――しのぶを一瞬上回った。

 

「!」

「!?」

 

 しのぶの手をすり抜け、凛が持ち上げた湯呑がしのぶの眼前に迫る。

 

(やった、勝っ……!)

 

 あとは中身がしのぶに掛かる光景を見届けるだけ―――だったはずだが、湯呑が手からすっぽ抜けた。

 

「あ」

「あ」

 

 湯呑はしのぶの顔面にぶつかった。当然、中身もぶちまける形で。

 青ざめる凛。一方、薬湯だけではなく湯呑も直撃したしのぶは、しばらくその場で俯いてプルプルと震えていた。

 

「ご、ご、ご、ごめんなさい……こ、これ、手拭い……」

 

 普段から怒っているしのぶに斯様な真似をすれば、どのような事態になるだろうか。想像もしたくない。

 少しでも怒りを和らげようと、普段は自分のために持ち込んでいる手拭いを差し出した凛であったが、

 

「……今日はここまでにしましょう」

「え?」

「私に勝ててよかったですね。もう体は万全でしょう。湯呑も床も私が片付けておくので、病室に戻ってください」

「あ、僕も手伝いま……」

「帰ってくださいっ!!」

 

 ピシャリと言い放たれた怒号が訓練場に響きわたる。

 思わず硬直する凛。しのぶもまた、自分が思っていた以上の声にハッとして面を上げた後、濡れてみっともない顔を隠すように、差し出された手拭いを強引に奪って顔を覆った。

 

「私の……仕事ですから。手を出さないでください」

「……分かりました」

 

 手拭い越しのくぐもった声を聞き、凛は素直に病室へ戻るべく踵を返した。

 足早に訓練場を去る。彼女のすすり泣く声を聞かないであげるために。

 

(……よしっ)

 

 不意に、病室に向かっていた足先を別の場所へと向ける。

 このまま病室へと戻った方が荒波立てずに済むことは重々承知だ。それでも彼女を放ってはおけない。

 

 カナエから聞いた以上―――知った以上、できることがあるはずだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 蝶屋敷の屋根。しのぶがよく訪れる場所だ。

 研究に行き詰った時や姉と喧嘩して鬱屈した気持ちになった時、空を見渡せるここが気分を晴らすのに一番であった。

 誰にも邪魔されない場所だった―――はずなのに、今日は先客が居た。

 

「……」

「あ、あはは、こんにちは」

 

 嫌悪感を隠さないしのぶの表情に苦笑いする凛が居た。

 

―――誰だ? 姉か。

 

 自分が来る場所を教えた人物など、カナエ以外にあり得ない。

 

「……姉さんの差し金かなにか知りませんが退いてくれませんか? ここは」

「あ、いやっ、邪魔はしないから!」

「……」

「……その、『貴方の存在そのものが邪魔』みたいな目はやめてくれると嬉しいです……」

「……はぁ。もういいです。構いませんから、邪魔だけはしないでください」

「! うん!」

 

 しのぶを許諾も取れたところで、堂々と屋根の上に居座ることができた凛。

 しかし、二人の心の距離は遠い。というか、物理的にも遠い。

 凛からかなり離れた場所でしのぶが取り出したのは薬学の本だ。蝶屋敷に揃えられている薬品の多くは、市販品の他にしのぶ自身が調合したものが揃えられている。そうした薬学の知識を下に、鬼に対抗する毒や、鬼の毒に対する薬を開発しているのも彼女なのである。

 

「……凄いなぁ」

「……邪魔しないでって言ったじゃないですか」

「いや、邪魔するつもりはなくて……なんていうか、独り言? そう! 独り言だから気にしないで!」

「……こんなに離れているのに聞こえる独り言なんて迷惑千万ですね」

「は、はははっ……」

 

 凛の称賛する言葉にさえ、しのぶは怪訝な様子を見せる。

 それも致し方のないことだ。そもそもしのぶがここまで苛立っている原因には―――八つ当たりに近いが―――凛が関わっている。彼から称賛の言葉を受けたところで、しのぶは気を良くするどころか、寧ろ苛立つ一方なのだ。

 故に、凛からではない誰かからの言葉が重要だった。

 

「―――カナエさんが言っていました。『しのぶは凄い子だ』って。『皆に誇れる妹だ』って」

「……はい?」

「看護の仕事をしながら、鬼と戦えるように鍛錬もして、それで藤の花の研究もするなんて……カナエさんは『自分には真似できない』って、会う度に僕に話してくれるんです」

「……」

「流さんも言っていました。『胡蝶の妹が為そうとしている研究は、鬼殺の常識を変えるものだ』って。みんながみんな、貴方のことを褒めていましたよ」

「……誰がなんと言おうと……私は……今の自分に反吐が出る思いですよ」

 

 パタリと本を閉じたしのぶは、絞り出したような声で言い放った。

 心なしか声は震えており、表紙に額を押し付ける彼女自身も酷く震えている。その姿は普段の生真面目で厳しさが嘘のような弱弱しいものであった。

 

「私は……鬼の頚を斬れない。本当なら鬼殺隊に居ることさえおかしい人間です」

 

 凛は黙って耳を傾ける。

 彼女が小柄故に鬼の頚を斬り得るだけの腕力がなく、思い悩んでいることはカナエから聞いていたからだ。

 鬼殺隊にも拘わらず鬼を殺せない。矛盾した立ち位置に居るしのぶは、そのことから劣等感や焦燥感を覚えていた。

 だからこそ藤の花を研究し、抽出した毒で鬼を殺せるよう試行錯誤していたのだ。

 

「最終選別も姉さんの反対を押し切って受けました。まだ藤の花の毒も試作品……鬼の自由を少し奪ったところで、私は何度も……何度も何度も何度も何度も!! 鬼の頚に日輪刀を突き立てた!!!」

「……」

「私達から家族を奪った鬼を苦しめられるならこれでもいいと思っていました。でも、結局私は……なんの感慨も得られなかった!! ただただ自分が無様で!! それが仕方なくて!!」

 

 何度も本の表紙に額をぶつけるしのぶ。まるで己の無才を責め立てているようだった。

 だが、体格というものは自分ではどうにもならない要素が多過ぎる。

 誰が悪い訳でもない。それでもしのぶは自分が許せなかった。家族の仇も取れず、姉が命を賭して戦っている他所で、のうのうと安寧たる暮らしに身を寄せることを許せるはずもなかった。

 

「私は……氷室くん。貴方が羨ましいです」

「え……?」

「貴方みたいに体が大きかったら……いいえ、男の子に生まれていたら、こんなに悩まなくて済んだんでしょうかね?」

 

 最早涙も隠さず凛を見据えるしのぶ。

 だが、その視線には羨望や嫉妬の念は一切混じっておらず、寧ろ諦めを含んでいるように見えた。

 しかし―――しかしだ。

 

「諦められないなら、それでいいと思います」

「……え?」

「貴方が鬼殺隊に留まっているのも、研究を続けているのも、諦められないからじゃないんですか? だったら、それでいいんだと思います」

「……簡単に言ってくれますね」

「諦めなくて“柱”になった人とつい最近出会ったばかりですから!」

「!」

 

 凛の言う“柱”が流であることを察し、しのぶはハッとした顔を浮かべる。

 彼のように多くを失い、尚も立ち上がって“柱”まで上り詰めた人間が居るのだ。五体満足ならばそれで上等のように思えてくる。

 

「……でも」

「いつか実を結びますよ! 貴方の努力は絶対無駄になんてならない」

 

 再び折れかけたしのぶに激励を送る凛は、溌剌とした笑みを浮かべて告げる。

 

「僕は貴方の作った薬で助けられたんです! 僕一人じゃ助からなかった。貴方が居て、流さんが居て……みんながみんなを支え合って、ようやく何かを為せるんだと思います」

 

 育手に呼吸を教えてもらった。

 鉄穴森に日輪刀を打ってもらった。

 流に生きるための術を示してもらった。

 

 一人で為せたことなど自分には何一つない。謙遜ではない単なる事実だ。

 それでも悲観する必要など、凛は微塵も感じてはいなかった。

 

鬼殺隊(ぼくたち)は、鬼と戦えない全ての人の代わりに戦う……それは仲間にも言えることじゃないですか?」

「……!」

「僕が貴方の代わりに鬼を斬って人を守ります。だから、貴方が僕が守れない人を代わって守ってください。お願いします!」

 

 そう言って頭を下げる凛。

一方しのぶは、面喰らったように目を白黒とさせていた。まさかこのような頼みをされるとは思ってもみなかった。

 される頼みと言えば、決まって破廉恥な隊服を着るか食事に出かけること。

 こうした頼みは―――案外悪い気はしない。

 

「それにしても……」

「はい?」

「私のことを『貴方』と……呼び辛くありません?」

「あぁ、それは……えっと」

「別に構いませんよ、名前で呼んでもらっても」

「え? 本当ですか!」

「ええ」

 

 慣れ慣れしくされることを嫌いそうなしのぶに対し、自然と「貴方」呼びになっていた凛は、本人の許諾が取れたことから目を爛々と輝かせて呼び方を考える。

 

「それじゃあ、しのぶ……」

()()()?」

「し、しのぶちゃ―――」

()()?」

「し……しのぶ、さん……」

「……ぷっ! ふふふっ! 仕方ありませんね、それでいいですよ」

「(それでいいって他に候補はあったのだろうか……?)」

「なにか言いましたか?」

「い、いいえ!」

 

 呼称に二度圧力という名のダメだしを喰らった凛は、結局それほど親しい呼び方を許されなかった。だが、「貴方」から思えば大分進歩したと言えよう。そう自分に言い聞かせて納得させる。

 そうした凛の一方で、しのぶは実に晴れ晴れとした様子でカラカラと笑っていた。

 

「あー、おかしい! 氷室くんは実にからかい甲斐がありますね。才能ありますよ」

「えぇ……」

 

 嬉しくない才能を見出された。

 と、思っていれば、徐に歩み寄って来たしのぶがちょこんと隣に座り、

 

「えい」

「わっぷ」

 

 頬を指で突いてきた。

 

「えい、えい」

「ちょ、しのふはん……」

「えい、えい」

「あぅ……」

 

 つんつん、つんつん。

 延々と頬に突っつきを喰らう凛は、途中から為されるがままにしのぶに弄ばれることにした。特段痛い訳でもなく、ただ頬がこそばゆいだけだからだ。

 なにより、次第にしのぶの放つ“熱”が温もりに溢れたものへと移り変わっていくからこそ、凛自身が止めてあげたくないと考えた。

 

 そうしてしばらくしのぶのからかいを甘受していれば、清々した様子の彼女がクスリと笑う。

 

「―――ありがとうございます」

「え?」

「氷室くんが私の代わりに鬼を退治してくれるなら、私も研究に没頭できるというもの。あ、でも怪我をしたなら遠慮なく蝶屋敷(ここ)に来てください」

「本当ですか!? わぁ~、ありがたいなぁ~!」

「うふふっ、その時はちゃぁ~んと私が治療してあげますから♪」

「ひっ」

 

 散々凛を突っついた指を掲げるしのぶ。

 凛はその指をなぜか注射と幻視し、腕に奔る幻痛に体を竦めてしまった。申し出はありがたいが、できる限り痛い治療は遠慮したい―――そう思わざるを得ないような怖い笑顔をしのぶは浮かべていた。

 

「お、お手柔らかに……」

「はい、お任せあれ」

 

 上ずった声で返事する凛を前にし、しのぶはいたずらっ子のような笑みを本で隠す。

 

 そんな二人の背中を、少し離れた場所の木陰から見守る人影が一つ。

 

「うふふっ」

 

 久しく見ることのなかった妹の笑顔に釣られて笑うカナエだ。彼女は、清々しい気分で自分の用事へと赴く。

 

(しのぶにお友達ができて良かったわ♪)

 

 妹がささやかながら普通の幸せを得られたことに、姉は満足していたのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「次ノ任務ハァー! 北東デス! 北東デースッ!」

 

 けたたましい鳴き声で次なる任務の地を知らせる鎹鴉。

 蝶屋敷での治療が負えた凛は、今日から任務に復帰することになったのだ。

 

「姉さんは見送りに来られないと言っていたけれど、『ぜひ頑張ってね』と言っていましたよ」

「はい! しのぶさんにもカナエさんにも本当にお世話になりました!」

 

 唯一見送りに来てくれたしのぶに、任務で姿を見せないカナエにもよろしくと伝えるよう頼んだ凛は、名残惜しそうにしながらも笑顔で蝶屋敷を後にした。

 流、しのぶ、カナエ―――この短い期間に鬼殺隊としてどうあるべきかについて考える機会をもたらされ、一歩も二歩も前へと進められたような気がする。

 

 だが、それでも努力は足りない。時間も足りない。

 しのぶに約束したように、鬼と戦えない全ての人々の代わりに戦えるようになるためには、まだまだ強くならねばならないのだ。

 

「よし……任務地まで全力疾走だ! 行くよ!」

「カァー!?」

 

 凛は鎹鴉を置いて行く勢いで走る。

 次なる地で彼を待ち受けている鬼とは一体どのような相手か―――それはまだ、凛には知る由もない。

 

 

 

 

 




*弐章 完*


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参章.合流
漆.多生之縁


 凛が蝶屋敷を発ち、半年が経った。

 常中を会得したこともあってか、戦闘で後れを取って大きな傷を負うこともなくなった彼は、東奔西走して各地の鬼を滅殺。鬼殺隊としての任務にそれなりに慣れてきた。

 

「お、ここかぁ」

 

 そんな彼が訪れたのは藤の花の家紋が掲げられた屋敷。

 少し早く任務を終え、まだ日が昇る前に訪れた凛は、屋敷から漂ってくる藤のお香の匂いを感じる。鬼の嫌う匂いだ。大抵の鬼であれば、夜間にお香を焚くだけで近づくことさえ叶わなくなる。

 そうした鬼についての知識にも世間より精通している者達が住む屋敷──―訪れた目的は休養だ。

 

「夜分遅くに失礼いたします。鬼殺隊の―――」

「よくぞいらっしゃいました」

「わ!」

 

 立派な門の前に立っていた凛であったが、話しかけてきた者が出てきたのは少し離れた戸口からだった。

 穏やかな笑みを湛えた男性。普通、このような時間に家を訪ねられれば怪訝に思うはずだが、男性は寧ろ歓迎するような雰囲気を放って凛を手招く。

 

「どうぞ、こちらへ」

「はい。鬼殺隊階級“癸”、氷室凛です。よろしくお願いします」

「氷室様ですね。かしこまりました」

 

 軽い自己紹介も済み、中へと案内される。

 藤の花が咲く庭園は、実に雅な光景だ。石造りの灯篭や苔むした石がこれまた風流さを醸し出す。

 蝶屋敷とも違う良さがある―――そうウンウンと頷いていれば、

 

「氷室様。夜食は如何ですか?」

「夜食ですか?」

「はい。鬼殺とは我々のような凡夫には想像を絶する激務……もしやと思い、夜にいらっしゃった隊士の方々のために夜食も用意しているのです」

「へぇ~! それじゃあ、是非とも!」

「かしこまりました。それでは、お着替えが済み次第料理のある部屋へとご案内いたします」

 

 そう言われて凛が案内された部屋には、すでに誰かが着ているのか、日輪刀らしき刀と隊服が畳まれていた。

 別の鬼殺隊士も着ているのなら、後で挨拶しておこう―――そう思いつつ隊服から寝間着へと着替えてから、迎えに来た男性に再度案内される形で食事部屋までやって来た。

 

 すでに入る前から香ばしい香りが漂ってきている。

 

(あぁ、この匂いはお味噌汁だな……)

 

 任務後の味噌汁は体に染み渡る程に旨いというものだ。

 味噌汁があると分かっただけで気分が高揚した凛は、浮足立ったまま男性の手によって開かれた障子の奥に目を向ける。

 

「あ」

「む?」

 

 中にはすでに食事している人間が居た。

 凛よりも早く夜食を取り始めていたのか、用意された品々の大部分を食べ終えている少年。暗がり故に分かり辛いが、ゆらゆらと燃えているろうそくの光が、特徴的な赤みがかった髪と瞳を照らし上げている。

 いわゆる「赫灼」と呼ばれる特徴を持った少年―――だが、重要なのはそこではなく知り合いであったということだ。

 

「燎太郎!?」

「おぉ、凛か! 久方ぶりだな!」

 

 最終選別で出会った少年・燎太郎。

 彼との再会に、食事のことも忘れて彼の目の前まで小走りで駆け寄る。

 

「本当に久しぶりだね!」

「ああ! お互い、無事で何よりだな!」

 

 はっはっは、と笑う燎太郎。その快男子たる様に、思わず凛もにっこりとする。

 周囲の人間を明るくさせる温もりに溢れた少年。それが彼なのだ。

 まさか任務後の休養地で出会うとは思いもしなかったが、これもまた縁というものなのだろう。

 

「燎太郎も任務の帰りで?」

「そうだ! 近くの鬼を滅殺してな! なに、俺の手にかかれば赤子の手をひねるに同然だ!」

「そっか……怪我はないんだね」

「当然! そういうお前も怪我はないようだな! 安心安心! っと……それではさっき用意されてた料理はお前のものだったんだな! さぁ、話に花を咲かせるのもいいが、冷めない内に頂いておけ! 作ってくれた人に失礼だからな!」

「うん、そうするよ」

 

 このままではついつい話が長引いてしまいそうだ。

 そこそこで話を区切り、用意してもらった料理に手を付ける。

 ご飯、味噌汁、漬け物、煮物。任務後とは言え、夜に食べる分にもそれほど胃もたれしなさそうな品揃えだった。

 「いただきます」と手を合わせ、味噌汁に一口。

 熱さが喉を通り抜けると同時に、味噌の芳醇な香りが鼻を抜ける。だが、それだけではない。僅かに主張する出汁の香りもまた、香りに彩りを加えている。こうした出汁の存在や山岳部に近い場所で育った凛にとっては滅多に入れないものだった。

故に、自分が作ったことのある味噌汁とは一味違う味わいに半ば驚くのだった。

 

「んっ……おいしいです!」

「ありがとうございます」

 

 作ったと思しき女性が礼を述べる。

 そうしてパクパクと夜食を食べ進める二人。皿の上の品がなくなるのにそう時間はかからなかった。

 

「ふぅ、食った食った。絶品だったな!」

「うん。ここ最近はついつい簡単なもので済ませちゃってたから……」

 

 近頃は時間も惜しいと食事に余り気をかけていなかった凛であったが、改めて食事の重要さに気が付く。精が付かねば鬼も倒せぬ。食事は体の資本とはよく言ったものだ。

 

「それじゃあ、寝る前に腹ごなしとして雑談に華を咲かせるか! はっはっは!」

「そうだねぇ~……このまま寝たら牛になっちゃいそうだから」

 

 食事をとってすぐに眠るのは勧められたものではない。

 そこで、多少床にはいる時間が遅くなったとしても、満足できる睡眠を取られるようにと、これまであったことについて語り合うことにした。

 

 流やカナエ、しのぶとの出会い。

 一から語れば、きっと一時間では済まない出来事がこの半年で起こった。

 それは燎太郎も同じようであり、二人の語らいは夜が更けても尚白熱していった。

 

 その途中であった。

 

「ん」

 

 ガラリと障子が開けられる。

 誰かと二人が目を遣れば、そこには仏頂面にも見えてしまう表情をした少女が立っていたではないか。

 

(あれ? この子……)

 

 どこかで見たことがあると記憶を掘り返す凛。

 その一方で現れた少女は、部屋の中をぐるりと見渡した後、部屋の隅に用意されていた寝間着の下へ歩み寄る。

 隊服である姿を見る限り、彼女も鬼殺隊士のようだが、

 

「……あっ! 君はあの時の!」

「ん?」

 

 最終選別の時、刀鬼の頚を斬り落とすトドメの役を担った風の呼吸の使い手。

 ようやく思い出せた少女を前に、なんとまた数奇なめぐり逢いだと感心していれば、

 

「ねえ」

「どうしたの?」

「これ、どう着るの?」

「どう着るのって……それは素肌に着るものだよ」

「ふ~ん」

 

 ここで凛は思い至る。

 

「あ、ごめん。ここに(ぼく)たちが居たら着替えられなっ……!?」

 

 女性の着替えの場に居るのは不味い。そう思い至り、一旦部屋から出ようとした凛であったが、なんと少女が目の前で男性陣の視線も憚らず隊服を脱ぎ始めたではないか。

 黒い布地より現れる白磁の肌。ところどころ傷が窺えるものの、その年相応のきめ細やかさまでは失われていない。

 

 と、ここまではっきりと見えるには、それだけ少女が豪快に素肌を晒した訳であって……

 

「見えるから! って言うか、その……!」

「下も脱ぐの?」

「え? うん、そうだね下も―――って、なんの躊躇いもなく下も脱がないで!! 居るから!! 男が二人!! 目の前に!!」

「? 男が目の前に居ると何かあるの?」

「お嫁に行けなくなっちゃうから!! それより早く着て!!」

 

ここまで騒ぎ立てる凛に首を傾げる少女であるが、如何せん間が悪い。現在、少女はすっぽんぽんの状態だ。その素肌を出し惜しみすることのない生まれたままの姿で堂々と立っている。

 

女性の裸を見たことのない凛に至っては真っ赤に赤面し、燎太郎はと言えば、

 

「燎太郎! ちょっと、君も何か言ってあげて!」

「……」

「燎太郎? ……!」

 

 やけに静かだと思えば、燎太郎は鼻血を出して倒れていた。

 見えたのだろう。きっと。

 

「燎太郎ぉー!」

 

 女性の裸を直視して気絶した燎太郎を抱き上げる凛の声が木霊する。

 

「……?」

 

 尚も少女はしばらくすっぽんぽんであったとさ。

 

 

 

 ***

 

 

 

「東雲つむじ。階級“癸”。以上」

 

 酷く端的な自己紹介する少女、もとい東雲 つむじ。彼女こそ、最終選別にて刀鬼の頚を斬った鬼狩りだ。

 

「ひ……氷室凛……よろしく」

「あ、明松燎太郎だ……」

 

 そんな彼女へ赤面しつつ自己紹介を返す二人。

 当人こそ気にしていないが、女性の裸を見たとなればこうなるのも無理はない話だ。青少年には刺激が強すぎる。全集中の呼吸とも違う熱さで体が火照るようだった。

 しかし、いつまでもぎくしゃくしていられないと凛が話題を振る。

 

「つむじも任務の帰りだったの?」

「ん」

「そうなんだ! 奇遇だね。僕たちもなんだよ」

「ふ~ん」

 

 端的な応答の傍らで日輪刀の手入れをするつむじ。淡い緑色に彩られた刀身を布巾で入念にふき取る。血糊とは厄介なものであり、ただ乾いた布巾で拭うだけでは完全に汚れを取ることは叶わず、拭き取ったと思っても残っていた汚れが納刀した際に鞘の内側に脂がこびりつく。それが刀や鞘がダメになるのを早めるのだ。

 それを知ってか否か、つむじは一度熱湯で刀身を洗ってから今の作業に取り掛かっている。

 丹念に手入れするのはいいものの、その集中力の一かけらくらいは自分の方へと向けて欲しい―――そう思う凛であるが、中々叶いそうにはない。

 

「そ、それにしても鬼殺隊が三人も集まるなんて珍しいね」

「そうだな! 今まで藤の家紋の家に訪れてもすれ違いもしなかったからな!」

「偶然……なのかな?」

「それにしては同期が三人と都合が良いな」

 

「お館様の采配」

 

「「え?」」

 

 半ば二人きりの会話になっていた凛と燎太郎に、日輪刀の手入れが終わったつむじが割って入る。

 

「お館様……って、鬼殺隊当主の?」

「ん」

 

 お館様とは、鬼殺隊当主・産屋敷輝哉のことだ。

 彼がどのような役割を担っているか具体的に把握していなかった凛は、こうして自分たちが集まったのが彼の采配であると教えられ、目が点になっている。

 

「一体どうしてだろう?」

「カァー! 説明ェー!」

「わっ!?」

 

 首を傾げていた凛の隣に飛び立ったのは、ややくたびれた様子の鴉……もとい、鎹鴉だった。

 自分の鎹鴉ではないと燎太郎に視線を向ければ、彼もまた自分の鎹鴉ではないと首を横に振る。つまり、つむじの鎹鴉なのだろう。若干疲弊しているように見えなくもないが、今は気にするほどのことでもないだろう。

 

 そう思って居れば、続けざまに凛と燎太郎の鎹鴉もまた降り立ってきた。

 三羽の鎹鴉が並び立つ様はそこそこ壮観である。

 

「最近、藤ノ家紋ノ屋敷デ不審火ガ見ラレルノデス!!」

「警護ダゼ!! 手前等ミタイナチンチクリンデモ居ナイヨリハマシダト警護ナンダゼ!!」

「ソユコト! ソユコト! シバラク、オ前達ハ此処ヲ拠点ニ鬼殺ニ励メェー! ハゲメェー!」

 

「カーカー五月蠅い」

「ガァ!?」

 

 けたたましく事の次第を説明してくれていた鎹鴉たちであったが、少々騒がしい鳴き声が癇に障ったのか、自分の鎹鴉の首根っこを掴んだ。

 軽く虐待である行為に、即座に凛は「あわわ!」と狼狽しながらつむじを押さえる。

 

「ダメだよ! 鴉にそんな酷いことしちゃ!」

「いつも言ってるのに聞かないこいつが悪い」

「いつも!? 尚更ダメだよ!」

「何度焼き鳥にしようかと思ったか。焼いてないだけ有情」

「焼こうとしないで!! 鴉は食べられないから!!」

「食べられる。食べたことある」

「食べたことあるの!?」

 

「ガ、カァー……」

 

 鴉の実食経験を告白され、彼女の鎹鴉はブルブルと震えている。

 鎹鴉も仕事をしているのに、この仕打ちは哀れでしかない―――つむじの鎹鴉がくたびれている理由が分かった瞬間であった。

 

 と、鎹鴉からつむじの手を引かせて話は戻る。

 

「ふむ、不審火か……それも藤の家紋が掲げられている家で……」

「ただの泥棒……ってことじゃないよね?」

「鬼」

「む? 鬼だと明らかになっているのか?」

「勘」

「っ……お前なぁ!」

「ま、まあまあ……」

 

 何の確証も無しに不審火を鬼と決めつけるつむじに、燎太郎は青筋を立てる。

 そんな彼を宥める一方で、凛は思案を巡らせていた。

 

(藤の家紋の家が不審火……盗みって訳じゃないなら怨恨が理由? 確かにつむじの言う通り、鬼が下手人なら鬼殺隊に手を貸す人たちは邪魔だろうけど、藤のお香が焚かれている以上そう易々と近づけないはずだ)

 

 雑魚鬼であれば藤のお香が焚かれている家の周辺に近づくことさえ容易ではない。

 加えて、わざわざ火をつけるといった回りくどい方法を取るのも疑問だ。

 

(もし下手人が鬼ってことになれば、相手はかなり知能が高い相手……それに藤の家紋の家を狙って、少なからず鬼殺隊に打撃を与えようとしている。これは―――)

 

―――一筋縄ではいかない相手だ。

 

 冷や汗が頬を伝う。

 果たして自分達が相対したとして、倒せる相手であるのだろうか?

 

(……いや、違う。倒すんだ。僕も強くなったんだ)

 

 (かぶり)を振って心を侵す臆病な考えを振り払う。

 瞼を閉じれば、この半年間の出来事が走馬燈のように思い浮かぶ。常中を体得し、明らかに実力が上がったのも実感できた。その一方で互角以上の相手と対峙し、命からがら朝日を拝むことも少なくなかった。

 生傷の絶えない日々。しかし、それだけの死線を潜ったという経験が確固たる自信を沸き上がらせる。

 

 同時に、

 

(今回は僕だけじゃないんだ! 二人が居る!)

 

 癖は強そうだが心強い味方の存在。

 一人でないというだけで不思議と心が軽くなる。

 

「よし……燎太郎! つむじ! やって来るのが何だとしても、みんなでこの家を守ろう!」

「む、そうだな!」

「……」

 

 一人反応がない。

 

「あの、つむじ……?」

「なに?」

「この家に鬼が来るかもしれないから、その時は三人で家を守ろうって……」

「そう。勝手にすれば」

 

 凛と燎太郎が意気込んだのとは裏腹に、依然淡々とした様相のつむじ。

 ここまで来ると毛嫌いしているのかと疑ってしまう。

 乾いた笑いしか出てこない凛。すると、燎太郎が我慢ならないと言った面持ちで口を開いた。

 

「お前! もう少し協調しようとする気持ちはないのか!」

「別に」

「りょ、燎太郎……無理強いするものじゃないから、その辺に……」

 

 このままでは二人に角が立ちそうな気配を感じ取り、間に割って入り宥める凛であるが、それだけで燎太郎の“熱”は止まらなかった。

 

「お前も鬼を滅殺して人々を守ろうとする鬼殺隊の一人じゃなのか!」

「ん」

「ならば! 人を守ろうと決起する素振りも見せないのは何故だ!?」

「私は鬼を殺すだけだから」

 

 過剰なまでに憤る燎太郎に対し、つむじは至って平然としていた。

 

「『鬼殺隊』って名前だから、それだけじゃないの?」

 

 不気味な程、淡々と。

 

「協調? とか、そういうのも必要性を感じない」

 

 温もりなど一切感じさせぬ声音で。

 

「鬼を殺せば、それだけでいい」

 

 翡翠色の眼が燎太郎を射抜く。

 

「鬼を殺す邪魔をするなら、諸共斬り捨てる」

 

 酷く、とても酷く冷めた視線だった。

 

()()()()()()()

「っ……!!」

 

 息を飲んだ音鳴り響くも束の間、燎太郎がつむじの胸倉をつかみ上げた。

 最早「怒り」等という言葉さえ生温い赫怒を浮かび上がらせる彼に対し、つむじは不服そうな目を浮かべる。

 

「……なんで掴むの?」

「分からないか? 俺が怒る理由が」

「放して」

「分からない理由こそが、俺が怒っている理由だ」

「放せ」

「お前のような奴が鬼殺隊に居るなんて―――」

「ねえ―――」

 

 刹那、場に殺気が奔る。

 カッと見開かれたつむじの瞳には、胸倉をつかみ上げる燎太郎に対する明確な殺意が現れていた。

 

 不味い―――そう凛が割って入ろうとした時だった。

 

「あ、あの……」

「!」

 

剣呑な空気の中、か細い声が部屋の中に響く。

 三人の視線が一斉に向いた先には、やや疲れた様子の女性が正座していた。

 

「お、お食事のご用意ができたのですが……」

「あっ……はい、わかりました! ほら、二人とも。もう喧嘩しないでっ、ねっ!?」

「……くっ」

「ご飯……!」

 

 不承不承と詰め寄るのをやめた燎太郎とは裏腹に、つむじは食事と聞いて喜々として立ち上がる。表情から察するのは難しいが、普段の眠たげな瞳が爛々と輝いていることから余程食事を楽しみにしていたのだと分かる。

 

 対照的な二人の大喧嘩が勃発することは避けられたが、先行きが不安になる一幕だった。

 

(つむじが色々と淡白だってことはわかったけど、燎太郎もあそこまで怒るなんて……)

 

 扞格してしまいそうな気配がするのは、きっと気のせいではない。

 なんとか間を取り持ちたいところではあるが、生憎凛自身燎太郎の事情もつむじの事情も把握していないのだから、下手に踏み込む訳にもいかないだろう。

 

(ちょっとずつ仲良くしていってもらうしか……)

 

 この協調性皆無の状態のまま鬼が来てみろ。最悪、仲違いが原因で死人が出かねない。

 なんとしても彼等の関係改善を進めなければ―――凛はそう固く心に誓った。

 

(まあそれはともかくとして、ご飯を食べようっと―――ん?)

 

 気を取り直そうとした瞬間、不意に視線を覚えた。

 徐に振り向けば、障子の隙間からこちらを覗く小さな人影が居た。男の子だ。何かを訴えるような視線を投げかけてくる男の子に、凛は申し訳なさそうに肩を竦める。

 

(騒いだから来ちゃったのかな?)

 

 燎太郎とつむじの衝突の騒ぎで来たとなれば、後で謝らなければならないだろう。

 藤の家紋の家の者達は鬼殺隊を歓迎してくれるが、だからといって迷惑をかけていい訳ではない。

 最低限の礼節を持たなければ鬼殺隊の格を下げることとなる。

 そう危惧した凛が謝罪するべく立ち上がろうとした時だった。

 

「あんちゃん達……鬼殺隊?」

「え? あぁ、そうだよ。ごめんね、少しうるさくして―――」

「いつウチから出てくの?」

 

 まるで「邪魔だ」と言わんばかりの言い草。

 決して男の子は自分達を歓迎していない。不服そうな目つきと僅かにいら立ちが孕んだ“熱”を覚えた凛は、数秒固まった後、「なぜ?」という疑問が頭に浮かんだ。

 

 そこまで悪いことをしてしまったか―――いいや、理由は別にあるのだろう。

 

「こ、こら! 鬼狩り様になんて口を……」

 

 凛が理由を推し量ろうとしたが、その前に三人を食事に呼びに来た女性が窘めるように声を上げる。

 しかし、男の子は謝ることもせず、寧ろ一層不機嫌そうに眉間の皺を深くするではないか。

 

「姉ちゃんだって本当はさっさと帰ってほしいと思ってるんだろ? こんなただ飯食らい……」

「良樹!!」

「フンッ!」

 

 女性がそのお淑やかそうな風貌とはかけ離れた形相で声を荒げるも、良樹と呼ばれた男の子は鼻を鳴らし、謝ることなく去っていく。

 

「申し訳ございません! 後できつく叱っておきますから……」

「い、いえ……お気になさらず」

 

 子供のしたことだと割り切る凛であるが、依然男の子、もとい良樹の過剰なまでの鬼殺隊への嫌悪感の理由は気になる。

 だがしかし、

 

(こっちもこっちで問題は山積みだなぁ……)

 

 燎太郎とつむじの仲を取り持たなければならないことも考え、凛は深々とため息を吐くのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 前途多難な共同生活が始まった。

 しかし、四六時中三人が屋敷の警護をするという訳でもない。隊士は何人居ても足りない程、各地では鬼による被害が発生している。

 故に三人は、屋敷を中心とした周辺での鬼殺を鎹鴉より伝令されるのだ。

 最低でも一人は屋敷に残り、他二人は各々の任務へと出向く。

 そうした実情もあってか、凛による燎太郎とつむじの仲の改善は中々進むことがなかった。

 

(いいや! こういうのはまず段階を踏まなきゃ!)

 

 しかし、ここで諦める凛ではない。流の教えに従い諦めない意気に溢れる凛は、一先ず作戦を立てることにした。

 半ば犬猿の仲となってしまった燎太郎とつむじ。彼等を仲直りさせるためには、最初に彼等を理解する必要がある。

 燎太郎に関しては、凛自身彼との仲は良好なため、それほど時間がかかることはないだろう。

 

 問題はつむじだ。終始つっけんどんな彼女と一から関係を作るのは容易な真似ではない。

 燎太郎と違い、向こうから話しかけてくることはまず皆無。聞くとしても厠の場所を訪ねる時のみだ。

 そんな彼女と仲良くなるために凛が考え出した案―――それは、

 

「つむじ! お土産にお饅頭買って来たんだ! 食べる?」

「食べる」

 

 食べ物である。

 万事は食べ物で解決する―――とまでは言えないが、つむじに至っては半分冗談ではない。見た目に似合わず三人の中で最も食い意地を張っている彼女を手籠めにするには、美味しい食べ物で餌付けするのが一番だ。

 若干邪道な気もするが、この際やり方にこだわっている場合ではない。

 

 お互い任務帰りで屋敷に戻る道の途中だ。

 疲れた体に甘い物は麻薬に等しい。

 目を爛々と輝かせ催促する掌を差し出してくるつむじに、「はい」と凛は饅頭を一個手渡す。一気に全部は渡さない。渡せば最後、全て食べ終えるまで口を開いてくれることはないからだ。

 

(勝負は饅頭が無くなるまで……!!)

 

 お分かりの通り、凛の気分は若干おかしい。果たして勝敗の境目を饅頭の個数とする者が居ただろうか?

 

 と、凛が変に意気込んでいることを知る由もないつむじは、任務で疲弊した体に糖分を補給するべく饅頭をパクパク食べ進める。清々しい程の食べっぷりだ。

 

「凄い勢いで食べるね……饅頭好きなの?」

「んんん。ふふう」

「な……なんて?」

「んぐっ。ううん、普通」

「えっ、じゃあなんでそんなに急いで食べるの……?」

「食べられるものは食べられる時に食べる。昔の生き方は早々直らない」

「昔の生き方?」

 

 怪訝に眉を顰めれば、さらなる饅頭を求める掌が差し出される。

 その掌の上にポンと饅頭を置いたつむじは、これまた凄まじい勢いで饅頭を食した後、薄皮がこびり付いた指を舐りながら話を続けてくれた。

 

「掃き溜めみたいなところで、ひとりぼっち」

 

 執拗に指を舐る仕草は、腹を空かせても尚口に入れるものがなく、口淋しくなった幼子を彷彿とさせる。

 

「誰も……私を助けてなんかくれなかったから、独りで生きるしかなかった」

 

 そう紡ぐ彼女の瞳が、僅かに揺れていた。

 ほとんど感情を面に出さない彼女であるが、それにも理由があった。

 親も友人も居ない中、誰にも面倒を見られず幼子が一人生き抜いていくのは過酷という言葉さえ生温かった。

 

 泣いても誰かが助けてくれる訳ではない。

 怒っても薄汚れた自分を罵倒する声が止む訳ではない。

 いつしか、感情を面に出すことを無駄だと悟った。体力の無駄だ。その力を生きる力に注ぐしかない、と。

 

「泥水を啜って虫も拾って食べてたけれど、お腹がいっぱいにならないから盗みも始めた」

「……」

「スリもしたし、置き引きもした。人を殺したこともあった。だから、『鬼』なんて罵られたこともあった」

「!」

 

 額に嫌な汗が滲み出る。

 得も言われぬ嫌悪感のようなものが胸中で渦巻く。

 だが、

 

「でも、お館様は『仕方ない』って言ってくれた」

「お館様が?」

「ん。強盗しようとした相手が鬼だった時があった」

「え……」

「その鬼を朝まで粘って殺した後、噂を聞きつけたお館様が拾ってくれた」

 

 日輪刀もなしに鬼を倒すことにも驚愕だが、彼女が鬼殺隊当主に拾い上げられた経緯にも愕然するより他ない。

 凄絶。もしかすると、流に匹敵する過去かもしれない。

 幼子でありながら満足な食事を摂れぬ環境の中で生き抜き、挙句の果てにはその生命力で鬼を粘り殺した後、鬼殺隊当主に目をつけられるとは。

 中々数奇な人生だ。

 

「じゃあ、つむじはお館様のために鬼殺隊に?」

「そういう訳じゃない。ただ、お館様が食い扶持稼ぐ手段に鬼殺隊を勧めてくれた」

「食い扶持……」

「『胸を張って生きていけるように』って」

 

 鬼殺隊で働く理由に「食い扶持稼ぎ」を上げるとは思ってもみなかった凛だが、続けて紡がれたお館様がつむじに諭したであろう言葉に瞠目する。

 そのまま視線をつむじへと向ければ、仄かに口元が吊り上がっているのを目にできた。

 

「お館様は、人として扱われてなかった人間が人として裁かれるのはどーたらこーたら言ってたけど……難しい話は分からない。でも、なんだかぽわぽわする」

「ぽわぽわ?」

「うん。鬼を殺すのが私に与えられた役目。だから、鬼を殺す度に……ここらへんが、ぽわぽわって」

 

 そう言ってつむじは胸を押さえる。

 

「お館様が私をちゃんと見ててくれてる―――そう思える」

 

 その一言には万感の思いが込められていたのだろう。

 かつて覚えたことのないつむじの“熱”を感じ取った凛は、彼女の言葉を紐解かんと思案した。

 

 辛い過去。

 誰一人として助けてくれぬ罵詈雑言を投げつけられる過酷な日々。

 そうした中、彼女を拾い上げたお館様が告げた「胸を張って生きていけるように」という言葉の意味。

 そして彼女の胸中に沸き上がる温もりの正体は―――、

 

「……分かった!」

「なにが」

「友達になろう!」

「は?」

 

 突拍子のない申し出に、つむじはこれでもかというほどのしかめっ面を披露する。

 

「……友達って、具体的になに?」

「具体的に、って言われると少し難しいけど……そうだなぁ」

 

 あれじゃないこれじゃないと思考を巡らせて「友達」の定義―――否、自分にとっての友達とはなんたるかに答えを出す。

 

「一緒に居ると楽しくて」

「うん」

「離れ離れになるとちょっと寂しくなって」

「うん」

「友達が間違ったことをした時は本気で叱って」

「うん」

「一生ものの宝物みたいな存在……かな」

「うん、わからない」

 

 思わずずっこける凛。

 確かにつむじにとっては難しかったかもしれない。彼女の境遇を考慮するに勉学も人間関係についての経験についても乏しいはずだ。

 それを熟慮した上で今一度述べる。

 

「えっと、つむじ風に言うなら……一緒に居ると心がぽわぽわする人……かな?」

「お館様みたいな人?」

「そんなに格上の相手じゃないけれども……!!」

「?」

 

 気分としては、幼子に言葉の意味を教える親のそれだ。

 人に言葉の意味を教えるのは案外難しい。普段、どれだけ感覚で言葉を使ってしまっているのだろうか。その感覚を言語化するのが非常に難しい。

 しかし、意味だけ伝えても理解できる訳ではない。百聞は一見に如かず……という訳ではないが、実際に経験した方がつむじには理解できるだろう。

 

「ん~……そうだ! 友達なら、時折お土産に美味しい物を買って来るよ」

「!」

「時折! 時折だからね!? そんな毎回買って来る訳じゃないから!」

 

 美味しい物と聞いて目を輝かせるつむじに、即座に訂正を入れる凛。

 彼女に土産の品を貢ぐとなれば、新米隊士の月給では到底足りるものではない。というか、そんな現金な間柄を「友達」と勘違いしてほしくはない。

 

「ふ~ん……まあ、いいよ」

「そう? やった!」

「だから饅頭頂戴」

「早速? まあ、つむじの為に買ってきたからいいんだけど……」

 

 めでたくつむじ公認の友人関係になった凛であるが、早速食べ物を催促されてしまった。

 まだまだ箱の中身はあるとはいえ、これから何かある度に食べ物を催促されると思うと気が遠くなる。

 

(まあ、きっかけは作れたし善しとしよう……うん)

 

 遠くを見つめる瞳を浮かべる凛。

 そんな彼を横目に、頬に餡子をつけながら饅頭を食べ進めるつむじは、たった二口で受け取った分を食べ終えてしまう。

 ロクに咀嚼されていない饅頭が喉を通る音は、最早食べ物を嚥下する音には聞こえない。

 

 その余りに豪快で人間離れした喰いっぷりに凛が戦慄していれば、

 

「おかわり」

「お、お腹壊さないの……?」

「壊したら吐けばいいから」

「……分かった。吐かないように僕が気を遣うね」

「?」

 

 ちぐはぐな関係の二人を笑うように、こそばゆく頬を撫でる風が吹き抜けた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 暗い夜道には恐ろしい化け物が出る。

 大抵は野犬や熊といった野生動物の類であるが、そうした生物とは比べ物にならない化け物も時には現れるだろう。

 人気のない閑々とした山奥。

 鬱蒼と生い茂る木々の群れは、月光さえも遮り、辺りを晦冥にさせている。

 

 そんな中、青白い光が点滅していた。

 一見、蛍の光に見間違えそうな光でもあるが、次第に光が強まっていく様を眺めればその考えが誤っていると気が付けるだろう。

 光―――否、炎はグラグラと揺らめいている。

 

「おめぇ……肌きれえだなぁ~~~……」

「ひ、ひぃいいいい……!!?」

 

 炭化したように所々肌が黒ずんだ男が、これまた怯えた様子の男の顔を両手で挟みながら言葉を紡ぐ。

 

「いいもん食ってんだろうなぁ~~~、毎日体拭いてよぉ~~~……洗って干した服着れてんだろうなぁ~~~……」

「や、やめっ、た、助け……!!」

「目ぇもきれいでよぉ~~~……病気に罹ったことなんてねえんだろうなぁ~~~」

「ぎゃ、あぁっ!?」

 

 血管の浮かぶ手が、次第に怯えた男性の肌に爪を立てる。

 黒ずんだ男―――もとい、鬼は血走った眼で男性の全身をくまなく観察する。

 

「爪もきれいだなぁ~~~。歯も白ぇな~~~。爪引っぺがされたことも歯ぁ引っこ抜かれたこともねえんだろうなぁ~~~……!」

「い、いぎゃあああぁぁ!!」

 

 ブチブチと男性の肌に食い込んでいく爪。

 しかし、鬼の怪力に一般人が太刀打ちできるはずもなく、男性はただただ激痛に悶え苦しみながら悲鳴を上げることしかできなかった。

 

「おめぇ今まで幸せに暮らしてたんだろうなぁ~~~何不自由なくよぉ~~~……俺はこんなに不幸なのによぉ~~~、許せねえな~~~、嫉妬しちまうなぁ~~~……!!」

 

 刹那、鬼の黒曜石の如き肌から炎が噴き出る。

 蝋燭に灯るような温かみ感じる赤い色ではない。炎ながらも凍えるような印象を与える青色。それが鬼の体から迸ると共に、掴まれて動けない男性は体を焼き焦がされていく。

 

「があ゛あ゛あ゛あ゛っっ!!?」

「あぁ~~~、俺って不幸だなぁ~~~。俺の周りの奴ら、み~~んな幸せそうな顔しやがってよ~~~。許せねえ許せねえ許せねえ~~~……全員俺みたいに不幸になればい~のによ~~~!!」

「―――っ!!?」

 

 悲鳴とも呼べない叫び声が響いた一瞬、苛烈な炎が燃え盛る。

 炎の噴出が終わった鬼の体は、所々ひび割れており、そこは燃えている炭のように赫々と染まっていた。

 すでに男性は焼死体のように全身黒ずんでいた。

 しかし、人間は全身を焼かれてもすぐに死ぬわけではない。全身を焼かれた激痛と真面に呼吸もできぬ地獄のような苦しみに悶えながら、数時間は生きると言われている。

 男性は辛うじて生きていた―――が、

 

「苦しいよなぁ~~~、痛ぇよなぁ~~~。でもなぁ~~~、俺はもぉ~~~っと不幸だったんだぜぇ~~~?」

「っ……っ……」

「こんなんじゃ、ま~~~だ俺の足下にも及ばねぇからよ~~~……―――とことんどん底に叩き落してやるよ……なぁ~~~?」

 

 自身の不幸を慨嘆して流した涙で瞳が濡れそぼっていた鬼は、途端に喜々とした色を瞳に浮かべる。

 

 地獄とはこのことか。

 一生分のどん底を肌身で感じている男性は、これ以上―――否、()()()()があるのかと絶望した。

 

 鬼の目に涙など、誰が言った?

 

 

 

 本物の鬼は―――涙を浮かべても尚、人を地獄に叩き落す畜生以下の化け物だ。

 



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捌.三界火宅

 

 藤の家紋の家の庭。

 そこで二人の少年が木刀を構えて向かい合っていた。

 片や構えるは凛。もう一人は燎太郎である。

 神妙な面持ちのまま睨み合う彼等であったが、刹那、静寂の中に逆巻く風の音が鳴り響く。

 

 呼吸が整った。

 

 先に動いたのは燎太郎であった。地を踏み砕く勢いで駆け出した彼は、燃え盛る炎の如き激しい一閃を走らせる。

 

 炎の呼吸 壱ノ型 不知火

 

 対して凛は、燎太郎の剣閃を斜めにした刀身で逸らしつつ、一歩前へと踏み込む。

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 鋭い一閃。真剣であれば紫電が見えていたであろうが、木刀でもその迫力は目を見張るものであり、閑々としていた庭に風を斬り裂く音が響き渡る。

 しかし、燎太郎も繰り出された一撃を紙一重で躱すように後退する。

 そこへ追撃と言わんばかりに肉迫する凛は、返す太刀でもう一撃繰り出す。

 だが、燎太郎もまた振り落とされる一撃に対し反撃した。

 

 氷の呼吸 捌ノ型 氷瀑

 

 炎の呼吸 弐ノ型 昇り炎天

 

 打ち合う刀身。一瞬の拮抗の後、押し勝ったのは―――

 

「あっ!?」

 

 凛の手元から木刀が離れる。真正面からの打ち合いの末、燎太郎の一撃が彼の力を上回ったのだ。

 

「あっちゃー……負けたかぁ……」

「はっはっは! 今回は俺の勝ちだな!」

 

 痺れた手で木刀を拾い上げる凛に対し、勝利して気を良くした燎太郎が呵々として笑っている。

 技の繊細さでは凛の方が勝るが、どうやら単純な膂力では燎太郎が勝るらしい。

 今まで他人と打ち合う経験はあったものの、同門以外と相手する経験がなかったため、凛にとって燎太郎との鍛錬は貴重なものであった。

 自分に足りないものは何か気付ける一方で、相手にも足りない部分を教えられる。まさに一石二鳥だ。故に二人は時間があればこうして打ち合い稽古を行っていた。

 

 今度はつむじも誘ってみようか―――そのように思案しつつ、一先ず凛は燎太郎と共に休憩することにした。

 

「それにしても燎太郎の力は強いなぁ……僕も常中を使ってるのに」

「なに! 俺に剣を教えてくれた師が常中の存在を予め教えてくれていたからな! 会得して半年の者に超えられては、俺の顔が立たん」

「それもそっか」

 

 意外にも燎太郎は常中を既に会得していた。その為、後になって会得した凛よりは身体能力が高い。

 完全に扱えるようになったのはつい最近とのことだが、これで最終選別での力強さにも合点がいくというものだ。

 

「燎太郎はいつも全力だね。尊敬するなぁ」

「尻の穴が痒くなるようなことを言うな。俺はただ鬼を滅殺して市井の人々の安寧を守らんとしているだけだからな!」

「あははっ、そういうところが立派なんじゃないか」

「それを言うならお前も……ええい、この話題は止めだ止めだ!」

 

 真っすぐな称賛を受け、若干照れた様子の燎太郎が無理やり話題を終わらせようとする。

 しかし、終わらせられては凛が困るのだ。

 

「ねえ、燎太郎。聞いていいかな?」

「ん? なんだ、改まって……まあ、いいぞ」

「なんで燎太郎は鬼殺隊に入ったの?」

「だからそれは今言ったように―――」

「違う。もっと()の話だよ」

 

 「詮索するのは悪いと思ってるけれど」と凛は続ける。

 

「燎太郎が鬼を憎んでるのはなんとなくわかる……でも、心の底から憎んでいるのとは少し違う気がするんだ。できればその理由を教えてほしい」

 

 燎太郎から感じる“熱”は不思議だった。

 藤襲山と戦っている時、彼からは他の受験者同様に鬼に対する激烈なまでの憤怒を感じていた。

 しかし、その一方で倒された鬼に拝む自分へと投げかける視線には、形容しがたい複雑に入り混じった感情が込められていたと覚えている。

 

()()()()

「!」

「あの時の燎太郎の目……そう言ってた気がするんだ」

 

 鬼に同情する凛に対し、憤る訳でも憐れむ訳でもない―――存在の拒絶。それに似た感覚を覚えた。

 

「この前、つむじに鬼殺隊になった理由を聞いたんだ」

「あいつに? ふんっ、どうせ大した理由ではないだろう!」

「確かにつむじは『食い扶持を稼ぐため』って言ってたけれど……そう単純な話でもないんだよ。燎太郎ならわかるでしょ?」

「分かりたくもない!」

 

 つむじに対して必要以上に拒絶するような態度を見せる燎太郎。余程、彼女とは馬が合わないのだろう。義侠心に溢れた男と協調性も共感性もない女―――そういう関係になることは大して難しい予想ではなかったが。

 しかし、つむじに関しては過去の境遇からそうならざるを得ない環境で成長した経緯があると分かったのだ。

 欠如した人間らしい感性は今からでも十分取り戻せる。

 そのためには彼女と距離を取るのではなく、寄り添うことが必要だと分かったのだから、その事実を是非とも燎太郎に伝えて誤解を解きたい。

 

「そうそんなに邪見にしないであげて……つむじは―――」

「そもそも! 俺はあいつが嫌いだ! なんというか……こう! 絶望的なまでに性格が噛み合わない!」

「う~ん、それは……」

 

 燎太郎がここまで頑固なのは想定外であった。

 やはり第一印象は大切なのだということがはっきりと分かる例だ。好きになったものを嫌いになるにはそれなりの理由が必要となるが、それ以上に嫌いなものを好きになるのには難しい。

 

「話すと長くなるけれど、つむじにも色々事情があるんだよ。性格はさ……ほら、本当にダメなところは今からでも直せるし……」

「いいや、無理だ! ダメなところが多過ぎる!」

「多過ぎるって……例えば?」

「風呂に入る時間が短すぎる! と言うか、そもそも入ってないだろう!」

 

 これには凛も「えぇ……」と声を漏らす。

 

「えっと、どうしてそんなこと言えるの……?」

「あいつが風呂へと出かけてから戻るまで五分と経たない! 烏の方がもっと丹念に行水するだろうに!」

「あぁ……」

 

 言われてみれば、つむじの入浴時間は短い。

 風呂場まで赴き、脱衣と着衣の時間を考慮すれば、実際の入浴時間は二分もないだろう。それだけで一体何ができると言うのだ。

 

「他にもあるぞ! 服は散らかす! 食べ方は汚い! 寝相も酷い! 人に礼を言わん!」

「……」

「あんな女を好きになれという方が難しい話だ!」

「……僕よりずっとつむじのこと観察してるね」

「なにィ!? き、気持ちの悪いことを言うなぁ!」

 

 次から次へと出てくるつむじへの不満。しかし、それらはよく彼女を観察しないと出てこないものばかりだ。

 嫌う人間を見ていると嫌な部分ばかり見えてしまうのは悲しいことであるが、完全に彼女を拒絶して無視しないだけ、まだマシと言えるかもしれない。

 

「ともかく! 俺とあいつの関係はこの任務切りだ! 口出しは無用!」

「そ、そんな……もうちょっと話を―――って、行っちゃった……」

 

 ぷんすこと怒る燎太郎は、そのまま凛の下から立ち去って行った。

 ああ見えて彼も―――というか、凛とつむじも十代前半。まだまだ精神的にも幼いのだから、致し方ないとも言える。

 

「―――ってことを言われたんだけれど」

「ふ~ん」

 

 燎太郎との出来事を一部省略と改変しながら、つむじへと伝える。

 具体的には、彼がつむじを嫌う理由を仲良くなれない理由といった風に置き換えた。

 伝えられた当人は、感情を読み取り辛い顔で煎餅をバリボリと貪っている。確かに燎太郎の言う通り、食べカスを床に散らかす等、食べ方が汚い。

 しかし、これらを直せば二人の関係はグンと良好なものに変化する―――かもしれないと、凛は続ける。

 

「だから、つむじもできるだけ今言ったことを直してほしいんだ」

「……なんで?」

「二人には友達になってほしいと思ってるから……」

「友達……土産に食べ物もらえる?」

「え? あ、えっと、うん、多分……」

「わかった」

 

 ちょろい。そして悪い人間に引っ掛けられないかと心配になる思考回路だ。

 そんな脳みそまで胃袋で出来ていそうなつむじに対し、まず教えることは、

 

「『ありがとう』をたくさん言おう!」

「……どういう時に?」

「それは感謝を覚えた時にだよ」

「ほとんどない」

「え゛」

 

 まずい。詰んでしまう。

 

「い、いやいやいや……それなら……そうだ! 何かしてもらった時に言うといいよ!」

「何かって何?」

「そうだなぁ……料理を作ってくれた人には『料理を作ってくれてありがとう』。布団を敷いてくれた人には『布団を敷いてくれてありがとう』……みたいな?」

「そのままのことを言えばいいの?」

「そうだね! あ、でもちゃんと感謝して言わなきゃダメだからね? 相手が自分のために苦労してくれてるんだなぁ~って想ってこそ、言葉に心が込められるものだから」

「ふ~ん」

 

 今まで感謝などしてこなかったつむじは、凛の力説にも心響かないと言わんばかりの無表情で五枚目の煎餅を手に取る。

 「食べカスを零さないようにね」と注意しつつ、話は次なる改善点へと移った。

 

「それと、あんまりこういうことを女の子に言うのはあれなんだけれど……お風呂はしっかり入った方が……ね?」

「ヤダ」

「拒否が早い!?」

 

 まさかの即答である。

 ここまでの早さで答えるということは、それなりに嫌がる理由があるのだろうか?

 

「な、なんで……? お風呂気持ちいいのに……体も綺麗にできるし……」

「行水で足りる。それに……」

「それに?」

「昔、煮えた風呂釜に沈められて殺されそうになった」

「………………ごめん」

 

 嫌がる理由は単純。トラウマだからだ。

 まだやんちゃしていた頃、怒り狂った町人に報復としてグラグラと煮えたぎった風呂釜に沈められ、溺死させられかけた。

 それ以来、熱い湯の張った風呂釜には拒絶反応を覚えるようになり、今の今まで行水で済ませるようになったらしい。

 

 過去の嫌な思い出を口に出させてしまったことを申し訳なさそうにする凛。

 だが、だからといって引き下がるのも彼女のためにならない。

 

「つむじがお風呂嫌いなのは分かったよ。でも、水で洗うよりお湯で洗った方が綺麗になるよ?」

「お湯は、飲んだり食べ物を煮るのに使うもの……煮られるつもりはない」

「違うから! お風呂入ってる人が皆煮られてる訳じゃないから!」

 

 かつてないほど神妙な面持ちで言い放つつむじに、思わず凛もツッコまざるを得ない。

 

「じゃあ、無理に湯船に浸からなくてもいいから、桶とかに掬ったお湯を使って体とか洗ってくれないかな?」

「善処する」

 

 入浴を強制させるのは不可能だが、なんとか一歩前進した。

 その後も一点一点直した方がいい部分を優しく教えていた凛であるが、次第につむじの顔は険しいものとなる。

 

「……そんなに覚えられない」

「あぁ、ごめんね! こんなにたくさん急には覚えられないよね……」

「必要に迫られれば覚える。でも、今言われたことに必要性を感じない」

「で、でも、それじゃあ燎太郎と友達に―――」

「友達って絶対必要なの?」

 

 僅かに眼光が鋭くなったつむじが問いかける。

 

「食べ物みたいに必要? 水を飲まなきゃならないのと同じくらい? 私はそう思わない。だって、友達が居なくても今まで生きてこられたから」

 

 つむじの感性は、人よりも獣に近しいものかもしれない。

 生きるために必要か否かで物事を判断する。

 鬼を殺すのも、鬼殺隊としての給金を貰って生きていくための行いだ。盗みも働いたのも、人を殺したのも、全ては生き抜くための行為。

 だからこそ、今のつむじにとって“友”が絶対必要と断じられない以上、必要でないものを得るための努力は無駄だとしか思えないのだ。

 

「そこまで友達を作らせようとするのって、なんで?」

 

 純粋過ぎる瞳が凛を射抜く。

 

 友が必要な理由―――凛はすぐに答えられなかった。確かに、二人に友達になってほしいと考えてこそ居るが、それが絶対に必要な理由については深く考えていなかったのだ。

 ただ仲良くなってほしい。その無垢な願意は誰に咎められるべきものではないが、だからといって押し付けていいものでもなかった。

 

(それでも―――)

 

 吹き抜ける風が止んだのと時を同じくし、凛は口を開いた。

 

「楽に生きられるから……だと思う」

「楽?」

「うん。楽って言っても、簡単に生きられるとかそういう意味だけじゃなくて……人生が楽しくなる、って感じかな」

「なにが違うの?」

 

 チンプンカンプンなつむじが腕を組み、首を傾げる。

 その様子に「はははっ」と笑いながら凛は語を継ぐ。

 

「辛い苦難に直面しても励まし合う友達が居たら、一人よりもずっと楽に苦難を乗り越えられる……そう思うんだ」

「……」

「だから、つむじも一回だけでいいから……僕たちと友達になって生きてみてほしい。そこからどうするかはつむじが決めていい―――ううん。つむじだけにしか決められないから」

 

 月並みな言葉を紡いだ凛は、今話した内容がきちんと伝わったのかを、一旦自分の脳内で反省する。

 しかし、それよりも早く思案中で固まっていたつむじが動き出す。

 

「わかった。一回試す」

「そう!? ありがとう!」

 

 どうやら真摯に説いたことが幸いしてか、つむじが首を縦に振ってくれた。

 相手を慮ってとは言え、やや押しつけがましい願いを口にしたにも拘わらず、このように承諾してくれた事実は非常に嬉しいことであろう。

 凛は感動の余り、顔が緩んでしまうのを止められない。他人の心を動かす経験は、これが初めてだった。

 そうした感動の余韻にも浸ることなく席を立ったつむじは、さっさとその場から立ち止まろうとしたが、

 

「あ」

 

 廊下に向けてきた踵を返し、凛と視線を交わす。

 

「えっと……ん~、色々話してくれてありがとう?」

「へ……?」

「で、いいの?」

「っ……うん! ばっちりだよ!」

 

 不慣れな感謝の言葉が鼓膜を揺らし、一層心が震えるようだった。

 歓呼したい衝動を必死に抑え、最後に「どういたしまして」と告げる。それを聞いてつむじは刻み足で去ってしまったが、一人きりになっても尚、凛はぽわぽわとしながら正座していた。

 

(これでつむじは……! あとは燎太郎だけれど……ん?)

 

 しばし感動に浸っていた凛であるが、またもや背後から向けられる視線に気が付いて振り返る。

 障子の隙間から覗いていたのは、やはりと言うべきか、何故か鬼殺隊に対して気受けが良くない良樹であった。

 

「どうしたの?」

「っ!」

 

 良樹は早々に気づかれてビクリと肩を跳ねさせるが、そのまま逃げさる素振りを見せることなく、片陰に半身を隠しながら口を開いた。

 

「……まだ帰らないの?」

「え? あ……うん、そうだね。この家の警護も任務の一つだから。まだ安全だって断定できない内は離れられないかな……」

「あんなに仲悪いのにこの家を守れるの?」

「うっ」

 

 痛いところを突かれてしまった。

 傍目から見て自分達の仲が悪そうに見えるとは、早々に関係改善が求められる。

 思わず押し黙る凛だが、そんな彼を刺すような視線で睨みつける良樹は続けた。

 

「鬼狩りは自分の身も守れないって知ってるよ」

「それは……鬼も一筋縄じゃないかない相手なんだ。どれだけ鍛錬しても……勝てない時もある。でも、絶対に君たちのことは―――!」

「鬼狩りは嘘つきだ!!」

 

 凛の声に被せる形で良樹が声を荒げる。

 感情が高ぶったのか、心なしか瞳が濡れてきている。

 そんな彼から感じる“熱”は、怒りと―――哀しみ。

 

「……どうしてそう思うのかな?」

 

 穏やかな声音で問う。

 

「君の気持ちを分かってあげたい」

 

 実際に言葉を交わす大切さは嫌と言うほど理解しているからこそ。

 

「教えて……くれないかな?」

「っ……」

 

 優しい笑顔を浮かべた凛に、怒りと悲しみに歪んでいた良樹の表情が緩む。

 それと同時に目じりに溜まっていた雫が零れそうになったが、直前に袖で強引に拭った良樹は、呼吸を整えて凛の前に歩み出た。

 そんな彼に「座って」と促す凛に従い、行儀よく正座する良樹。以前は初対面の相手に無礼な物言いをした彼であるが、こうして見れば根はいい子だと分かる。

 

 何が彼を鬼狩り嫌いにさせたのか―――それが今から語られる。

 

「……昔、あんちゃん達みたいにウチに住み込んでた鬼狩りが居た」

 

 ポツリポツリと紡ぐ良樹の瞳には、どこか懐古の念が浮かび上がっているように見えた。

 

「気のいいあんちゃんだった。鬼を倒しに行くたびに怪我して帰って来たけど、その度『鬼を倒し人を守るのが誇りだ!』って言ってさ……俺もそんなあんちゃんに憧れて……姉ちゃんは惚れた」

「姉ちゃんって……あの美人なお姉さんのことかな?」

「だろ? でも、昔はもっと明るくて……今みたいに具合悪そうな顔なんてしたことなかった」

 

 そう語られ、凛はなんとなく思い至るが、あえて口には出さない。これは良樹の口から語られなければならないことだから。

 

「姉ちゃんは鬼狩りのあんちゃんに惚れて……そのあんちゃんも姉ちゃんに惚れた。婚姻まで話も進んでたんだ。それを家の皆が喜んでた。でも―――そいつは祝言上げる前の任務に行ったっきり帰ってこなかった」

 

 膝の上で握る拳はブルブルと震えている。それに伴い、一度は引っ込んだ涙も滂沱の如く溢れ出してきた。

 

「姉ちゃんは『鬼狩りに嫁ぐ以上、それも覚悟してた』って……でも、嘘だ!! 姉ちゃんは見るからに気を病んで……!! こうなったのは全部あの鬼狩りのせいだ!!」

 

 自分の膝を殴る良樹。

何度も何度も乾いた音を響かせるのは、鬼狩りを恨んでか、はたまた自分の無力を嘆いてか。それは赤の他人の凛には推し量るも憚れることだった。

 

「絶対帰ってくるって……言ったのに……!!」

 

 悲嘆するように話は締めくくられた。

 姉を悲しませた鬼狩りへの憤りと、義兄になるかもしれなかった男を失った悲しみ。それが良樹という少年を思い悩ませ、鬼狩りに忌諱の念を覚えさせる理由であった。

 

 語るのも憚れる過去を紡いでくれた良樹の肩に手を置いた凛は、彼の涙が止まるまで、しばし静かに寄り添う。

 痛いほどの沈黙を経た良樹はすっかり意気消沈していた。

 

「……だから俺は鬼狩りが嫌いだ。ここに来た鬼狩りはみんな得意げに言うんだ。『鬼を倒す』って。でも……できっこないことを言う奴は嘘つきなんだ。嘘つきは泥棒の始まりって言うよな。姉ちゃんは……大事なもんを鬼狩りに盗まれてった」

「それは……」

「分かっただろ? 姉ちゃんは鬼狩りを見る度に辛い思いするんだ。さっさと帰っておくれよ」

「……できない」

「なんでだよッ!」

 

 大声を上げる良樹。無論、それは姉を想うが故とは言え、一人よがりな我儘であると本人も理解している。

 しかし、しかしだ。それ以上に鬼殺隊の姿を見る度に沈痛な想いをして苦しむ姉の姿が見るに堪えない。

 

「帰れよ……帰ってくれよぉ……!!」

 

 ボロボロと零れる涙が畳みに無数の染みを描く。

 その姿が凛には、鬼殺隊の目の前で涙を零せぬ姉の代わりに彼女の苦痛を伝えようとしている姿に見えた。

 数秒、逡巡する。

 だが、自分もまたこの姉想いの少年に伝えなければならないことがあると、凛は紡ぐ。

 

「ごめんね、良樹くん。君がどれだけ鬼殺隊(ぼくたち)を嫌っても……僕たちにはやらなきゃならないことがあるんだ」

「なんだよ……この家を守ることかよ?」

「違う」

「? だったら……」

「命をかけて、鬼から人を守ること」

 

 一瞬、瞠目した良樹が何か言いたげに口を開こうとしたが、被せるようにして言葉が紡がれた。

 

「それはとても……とても大変なことなんだ。死ぬ思いをして鍛錬しても、鬼と戦って命を落とすこともある……それくらい鬼殺隊が戦うのは、守りたい人の命があるからだよ」

「ッ……だからって、自分も死んじゃったら意味ないじゃないか!! 死んじゃった人が……一番大事な人だって人も居るのに……ッ!」

「そうだね。でも、良樹くんのお姉さんの婚約者だった人は、きっと自分の命以上に大切な人を守りたかったから戦ったんだよ」

「……それって」

「うん。君のお姉さんと、その家族の皆……勿論、良樹くんも含めてね」

 

 命を賭して、最期まで。

 

「だから、証明したい」

「証明って……なにを?」

「亡くなった良樹くんのお義兄(にい)さんの分まで、鬼殺隊が鬼から人を守ってるんだ、ってこと!」

 

 「だから邪険にしないでくれると嬉しいかな」と、苦笑した凛は締めくくった。

 

(ここ最近、誰かに話してばっかりだなぁ……)

 

 そこまで得意ではないのだが。

 と、頬を掻いていれば良樹が徐に立ち上がる。

 

「……わかった」

「良樹くん……!」

「でも、嘘だったら針千本飲ましてやる」

「うん、約束する」

 

 どうやら彼なりの理解を得られたようだ。

 これにて藤の家紋の家で任務を遂行する上での心配が一つ減ったこととなる。

 

(あとは燎太郎だけど……)

 

 頑固な一面があると分かった彼を説くのは並大抵の労力では済まない。長丁場になるなと考えつつ、凛はふと外に目を向けた。

 青く塗りたくられた景色には、鱗のように細やかな白い雲が点々と浮かんで流れている。

 

(鱗雲……数日後には雨が降るな)

 

 鱗雲は数日の内に雨天が訪れる兆候。鬼殺隊の隊服は濡れにくいものの、だからといって雨が降りしきる中で活動するのは憚られる。

 鬼殺隊としてはそこまで喜ばしい天候ではないものの、百姓にとって―――否、生き物にとっては天からもたらされる恵みだ。

 

(二人には任務の時に笠でも被っていくように伝えておこうかな)

 

 もしも雨の降る日に任務があるとするならば、その時他の二人に雨具を持たせよう。

 天の恵みに対する細やかな抵抗を考えつつ、凛の口元はフッと緩むのであった。

 

 

 

 雲行きは―――僅かに乱れている。

 

 

 

 ***

 

 

 

 藤の家紋の家に滞在してから、早一か月。

 家に居る時は鍛錬し、伝令が来たら任務に出向く。当初はいつ鬼の襲撃が来るのかと緊張感に漂っていたものの、こうも何事もないと拍子抜けと言わざるを得ない。

 だがしかし、討伐報告が上がっていない以上、藤の家紋の家を襲撃する鬼が健在していることは明らかだ。

 

 いつ鬼が襲撃してきてもおかしくはない―――気を入れ直すように自身の頬を叩く凛は、他二人が任務に赴いている留守の警護役として、辺りの気配に気を配る。

 

(……それにしても、もうすぐ雨が降りそうな空模様だなぁ)

 

 数日前の雲行きの通り、夜中ながらも今にも雨が降り出してきそうな厚い雲が空を覆っている。

 

(濡れない内に帰ってきてくれればいいけれど)

 

 雨の中では鬼の痕跡も探しにくくなる。

 そうなれば必然的に鬼までたどり着くのに時間がかかり、結果的に帰還までにかかる日数が増えてしまうことだろう。

 それに風邪も引いてしまうかもしれない。燎太郎はともかく、自分の身に無頓着そうなつむじはずぶ濡れで帰ってくる姿が容易に想像できてしまう。

 

(その時は温かいお茶でも淹れてあげようかな)

 

 この一か月で彼女との仲も大分進展したように思える。

 つむじから感じる“熱”は、最初こそ他に興味を抱いていないと言わんばかりの冷めたものであったが、ここ最近では逐一反応が“熱”に現れていた。

 特に美味しい食べ物を贈った時は、見るからに嬉々とする。常時仏頂面の彼女の喜ぶ姿は、見ているだけで微笑ましいものだ。

 

 と、つむじとの進展を振り返っていれば、背後から美味しそうな香りが漂ってくる。

 

「あんちゃん」

「良樹くん。どうしたの?」

「姉ちゃんが夜食に持ってってあげろってさ。これ」

 

 子供にとってはそろそろ瞼が重たくなる時間であるにも関わらず、夜食の差し入れに来てくれた良樹。

 皿の上に乗ったおにぎりは、炊き立ての物で握ったためか、ホカホカと白い湯気が立ち上っている。

 たくあんも傍に添えられた皿を受け取った凛は、立ち上る食欲をそそる香りに思わず腹を鳴らす。

 

「あははっ、ありがとうね」

「……本当に鬼狩りって一晩中起きてるんだな」

「ん? まあ、そうだね。鬼が活発になるのは日光のない夜の間がほとんどだから」

「昔、鬼狩りのあんちゃんが昼間の間グータラ寝てる姿見て怠け者だなって思ってたけど……そりゃ、夜の間ずっと寝てなけりゃ昼間眠るしかないよな」

「だね。昼間はお天道様が鬼が暴れないように空から見張っててくれるから、夜中は代わりに僕たちが頑張らなきゃ」

「……そっか」

 

 受け取ったおにぎりを口に含む凛の横にちょことんと腰かけた良樹は、はぁ~と深いため息を吐いて夜空の暗雲を見上げる。

 

「俺、知らなかった。知ろうともしなかった。鬼狩りが本当に大変な仕事だって……」

「良樹くん……」

「一方的に恨んでさ。良いところ見つけようとするより、悪いところばっか見つけちまう……俺って本当に嫌な野郎だ」

「それは違うよ」

「え?」

 

 弾かれるように面を上げた良樹に、凛は笑顔で告げる。

 

「確かに良樹くんは鬼殺隊(ぼくたち)の嫌なところにだけ目を向けてたかもしれないけれど、今はそんな自分を省みてるじゃないか。自分の嫌なところを認めて、直そうとする……それって案外大変なことなんだよ。だから、ほんの少しでも自分の非を認めて直そうって一歩踏み出すことは、とても尊いことだって……僕は思う」

「……あんちゃん」

「鬼殺隊の嫌なところも良いところも見てくれた良樹くんは、きっと良い方向に成長できるって、僕は信じてるよ」

「……あんちゃん、随分臭いこと言うんだな」

「え゛っ。そ、そんなに臭いこと言っちゃったかな」

「でも―――悪い気はしねえや」

「! ……そっか」

「ははは!」

「あはは!」

 

 初対面が嘘のように打ち解けて笑い合う二人。

 

 しかし、生温い夜風に乗って漂ってきた臭いに、良樹が顔をしかめた。

 

「なんだァ? 焦げ臭え……姉ちゃんが台所でなんか焦がしたのか?」

「……良樹くん」

「な、なんだよ?」

 

 神妙な声音になった凛に声を掛けられ、思わず肩を竦める良樹であったが、次第に焦げ臭さが増していく場の空気に不穏な気配を覚え始める。

 異常だ。調理で食材を焦がした程度では、ここまで漂ってくるはずはない。

 

 刹那、険しい面持ちの凛が声を上げる。

 

「僕は臭いの下に行く! 良樹くんはお姉さんのところに行ってみてくれ!」

「う、うん!」

 

 手に持っていたおにぎりを口に詰め込んだ凛が、日輪刀片手にその場から駆け出していく。

 少なくとも焦げ臭さの原因は台所ではない。風向きを確かめる限り、それは間違いない。

 

(方角は……向こうか!!)

 

 肌身で感じ取る“熱”が異常な熱さを教えてくれる。

 ここまで離れているにも関わらず、ピリピリと肌を焼き付けるような感覚。空気中に水分が一斉に逃げ場を求めて上空へと昇っていく。心なしか肺に取り込まれる空気も乾燥している

 

(火事か……まさか!?)

 

 不意に足を止めて見上げた先では、家の周りに生えていた木々に炎が灯っている。

 山火事など、人為的でなければ起こり得ない事象だろう。しかし、現に木々は燃え盛り、どす黒い黒煙を立ち上らせているではないか。焦げ臭さの原因は間違いなくあれだ。

 

「鬼が……来たのか!」

 

 先手を打たれたことに歯噛みする凛であるが、今は立ち止まっている時間が惜しい。

 町から少し離れた場所に位置するこの家には、火消しがやって来るにも相応の時間がかかる。

 早々に家の者を避難させなければ―――そう思った時であった。

 

「! 別の場所でも火が……くそっ!!」

 

 ゴウッと風が逆巻くような音が鳴り響くと同時に立ち上った火柱が、また別の木々に炎を灯す。青い青い悍ましい鬼気を覚える炎の色。それを一目見れば、一般人でもただ事ではないと理解できるだろう。

 火柱は藤の家紋の家を囲むように次々と立ち上る。恐らく逃げ道を塞ぐように炎を灯しているのだ。

 

(鬼を倒さなきゃ……でも、まずは家の人を避難させなきゃ!!)

 

 火元の鬼を倒さなければ、この回禄の災いは止まらない。

 しかし、吹き荒れる熱気で鬼の居所を特定できない以上、逃げ道がある内に家の者を逃がすのが先決だ。

 燎太郎かつむじのどちらかでも居れば状況は変わったかもしれないが、ないものねだりをしても仕方がない。

 

(今僕が出来ることを精一杯やることだけ考えろ!!)

 

 踵を返し、家へと戻る凛。

 一刻の猶予もない。その事実が、凛の足を一層前へと突き動かす。

 

「死なせない……誰も……死なせるもんかあああああッ!!!」

 

 

 

 ***

 

 

 

 糸遊の如く景色が揺らぐ。

 燃え盛る炎を突き進むのは、眼前の家を塵も残さず焼き払わんと全身から蒼炎を迸らせる一人の鬼だった。

 眠れぬ鬼が夢見心地で揺らぐ景色の奥に幻視するもの。それは今の彼を突き動かす、とある者との思い出だ。

 

『―――黒縄(こくじょう)。邪魔な鬼狩りに与する藤の家紋を掲げる家の人間を殺せ。そうだな……十軒ほど屠ったならば、お前を十二鬼月に入れることを考えてやらんでもない』

 

 その声音は妖しくも心地よい。人生―――否、鬼になってからこうも心奪われたのは、その者との過ごした刹那に等しい時間だけだ。

 

「十二鬼月……いいよなぁ~~~、強ぇんだよなぁ~~~。俺よりずっと前に鬼になってよぉ、人間いっぱい喰ったんだろうなぁ~~~。羨ましいなぁ~~~、妬ましいなぁ~~~」

 

 木の幹に突き立てる腕から、燻る妬心に比例して迸る火勢が強まっていく。

 自分の身をも焼き焦がす業火であろうと、鬼の体はすぐに再生する。しかし、絶え間なく燃え盛る炎に焦がされる身は、一層黒々としたものへと変貌していくではないか。

 

「でもなぁ~、これでやぁ~っと十軒目……()()()()のおっしゃった数に届く……クク、クヒ、クヒヒヒヒッ!」

 

 鬼の爪を突き立てられていた木の幹はみるみるうちに炭化していき、最期には鬼の握力によって炭化した部分を砕かれたことにより、自重を支えられなくなって倒れていく。

 そんな木に灯った炎は、家を囲んでいた木製の塀に移らんと燃え盛る。

 

「藤臭ぇなぁ~~……でもよぉ~、こうして燃やせば関係ねぇよなぁ~~~? 蜂の巣燻すみてぇによぉ~~~」

 

 藤のお香を無力化するための策として、鬼は燃やした木を倒すことで家に炎を燃え移らせようとしていた。例え鬼自身が近づけなくても、こうすれば間接的にお香を無力化することは叶う。

 だからこそ、彼―――黒縄は「あの御方」と呼んだ者に指示され、藤の家紋の家を燃やしていた。

 

「良い家住んでなぁ~。金たくさんもらってるんだろうなぁ~。妬ましいなぁ妬ましいなぁ。そりゃ大層幸せに暮らしてんだろうなぁ~~~」

 

 次々に木に炎を灯す黒縄は、妬心の余り血涙を流しながら辺りを燃やし続ける。

 

「許せねえぁ~~~。俺より幸せでよぉ~~~……家も物も金も人間も全部燃やしてやるからよぉ~~~……それでやっと俺と同じ土俵だぁ……いや、俺の方がもっと不幸だぁ! クソッ、クソッ、クソッ!! あぁ、燃やし足りねえなぁ~~~……!!」

 

 ガシガシと頭を掻きむしりながら、一層苛烈になる炎を解き放ち、黒縄は突き進む。

 その足が向かう先は藤の家紋の家の方だ。最早、藤のお香が役立たない程に火が燃え広がっている。

 赫々と燃え盛る景色は地獄そのもの。

 その炎熱地獄を進む黒縄もまた、地獄に囚われた咎人の如く悍ましい。

 

「妬ましいなぁ……妬ましいぁ……」

 

 焼け落ちた塀の残骸を雑多に蹴り飛ばす黒縄。

 そんな彼の傍を、原型も残らぬほど焼け焦げた藤の花の塵が舞い散った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「あ……あぁ……あぁぁ……」

 

 紅蓮に彩られる景色を前に、良樹の姉は膝から崩れ落ちた。

 絶望した面持ちを浮かべる彼女の瞳は現実を直視せぬようにと焦点があやふやとなっていた。

 曖昧になる景色。その先に幻視したのは、忘れられない藤の花が咲き誇る日の出来事。

 

『ボクはここの景色が好きだなぁ』

 

―――燃えて、消えて、無くなる。

 

『でも、君と見てるともっとずっと綺麗に見えるんだ』

 

―――あの人との思い出の場所が、全部。

 

『ここを……ボクの帰る場所にしてもいいかな?』

 

―――また、失われてしまう。

 

「い、いやぁ……いやぁあぁあぁああ……!!」

「姉ちゃん!! なにしてんだよ!! 早く逃げよう!!」

 

 髪を振り乱すほど気が動転した姉の手を引くのは、凛に言われてやって来た良樹であった。

 しかし、女と言えども体格差と姿勢の関係上、中々姉を引き摺ることができない。

 このままでは刻一刻と増す火勢が、家どころか自分たちをも焼きかねないだろう。

 ここに来て家族一人を助け出すことも叶わない事実に、良樹は途轍もない無力感に苛まれる。

 だが、

 

『―――と結婚したら、良樹はボクの義弟になるのかぁ』

『なんだか変な感じだよ……今まで兄ちゃんなんて居なかったからさ』

『それはボクも同じさ。だけど、嬉しいよ。家族が増えて……』

『……うん』

『なあ、良樹』

『なあに?』

『もしも……もしもだ。ボクになにかがあったら、キミが彼女を守ってくれ』

『え? で、でも……俺、いっつも姉ちゃんに面倒を見られてばっかで……』

『大丈夫。だって良樹はこれから、鬼から人々を守る鬼殺隊士の弟になる男なんだからな。それくらい強くなれる』

『俺が……ほんとに?』

『ああ、ほんとさ。だから約束だ』

『……うん、約束だよ―――』

 

 義兄になるはずだった男との思い出が走馬燈のように脳裏を駆け巡る。

 そうだ、約束したはずだった。彼を失った悲しみに明け暮れ、半ば忘れてしまっていた約束。

 無意識の内にその約束を果たさんと、姉を悲しませる鬼殺隊に強く当たってしまっていたが、それでは姉を守れるはずがない。

 

 愚かな過去の自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られながら、良樹の掌が振り抜かれた先は―――姉の頬だった。

 それなりに手加減した平手打ちであったが、姉を一時的に正気に取り戻させるほどの衝撃はあったようであり、彼女の焦点が目の前の良樹に合う。

 

 そうすると徐に彼女の頬を、良樹の両手が挟み込む。

 

「しっかりしろ、姉ちゃん!!」

「よ、良樹……?」

「燃えた家は建て直せる!! 焼けてなくなった物も買い戻せるかもしんねえ!! でも!! 姉ちゃんが燃えたらどうやったって取り戻せないんだぞ!!」

「!!」

「姉ちゃんの方が分かってることだろ!!」

 

 失われた命は回帰しない。

 それを理解しても尚立ち上がり進められないのは、動き出してしまえばぽっかりと穿たれた心が瓦解してしまいそうだったから―――前に進もうとしたら、大切な人との思い出がいつの間にか色あせてしまいそうだったからだ。

 

 だが、きっとそれを()は望まない。

 彼はいつも未来を視ていた。美しい未来を作ろうと戦っていた。愛する家族のために、世界を変えようと抗っていた。

 そんな彼に囚われていつまでも変われないのが、最も愛された自分の世界だと彼が知れば―――彼を失った自分のように悲しみに明け暮れてしまうだろう。

 

 二度、頬を叩かれたような衝撃を覚えた。

 無論、良樹が再び姉の頬を叩いた訳ではない。

 しかし―――なんだ、意外と自分の心は崩れてくれるほどヤワなものではなかったらしい。

 

「ッ……ごめんなさい、良樹。取り乱したりして……」

「姉ちゃん……」

「早くみんなに逃げるように伝えましょう!」

「っ……うん……ッ!?」

 

 いつかの日のしっかりした姿に戻ってくれた姉を目の当たりにした良樹であったが、不意に背後で鳴り響く音に振り向いた。

 直後、轟音と共に壁が弾け飛ぶ。

 何が起こったのか目を凝らそうにも、眩い炎で視界を晦まされ把握することさえままならない。

 加えて、弾け飛んだ壁の破片が二人に襲い掛かって来たではないか。

 

「うわあああ!?」

「危ない!!」

「ね、姉ちゃ……!!」

「あうぅっ!?」

 

 咄嗟に良樹を庇うように覆いかぶさる姉であったが、苦悶の声を漏らしてしまう。

 そのままその場に蹲ってしまう姉を心配そうに見つめる良樹は、姉の脚から血が滲み出ているのを目の当たりにした。恐らく、破片の一部が脚に直撃してしまったのだろう。

 

「ね、姉ちゃん! 姉ちゃん!」

「―――おぉ? み~~~っけたぁ~~~……」

「ひっ……!?」

 

 姉の身を案じる良樹の一方で、グルグルと唸るような声音で紡がれる声が響く。

 上半身は半裸で、腰には注連縄のような縄が巻かれ、簡素な袴を穿いている肌黒の男が立っていた。

 しかし、鋭い爪はひび割れた皮膚から覗く煌々と明滅する赤い灯が、彼が人間でないということを容易に想像させる。

 

「お、鬼だ……姉ちゃん!! 早く逃げようよ!!」

「わ、私は……脚が……貴方だけでも逃げて……!」

「ヤだよ!! 約束なんだ!!」

「っ……!」

 

 誰のとは言わないが、その口振りで誰と交わした約束であるのか思い至った良樹の姉は、沈痛な面持ちを浮かべる。

 

「はぁ~~~……美しい姉弟愛ってやつかぁ~~~……?」

 

 だが、そこに水を差す畜生が一人。

 

「姉にゃ弟が居てよぉ~~~、弟にゃ姉が居てよぉ~~~……そりゃあ毎日賑やかだったろうによぉ~~~……」

 

 黒縄の罅割れた皮膚から漏れだす血が間もなく沸騰して蒸発する。

 

「俺にゃ~家族なんて一人も居ねえのによぉ~~~……幸せだったよなぁ~、なぁ~~~?」

 

 それが瘡蓋(かさぶた)のように罅を塞げば、直後に真っ黒こげに炭化して剥がれ落ちた。

 

「妬ましいなぁ妬ましいなぁ。裕福な家に生まれてよぉ~~~。その上鬼狩りに手ぇ貸しては、人様守ってるお力添えになれて嬉しいですみたいに偽善に酔ってたんだろうなぁ~~~……人生楽しかっただろうなぁ~~~……!!」

 

 刹那、貯めきれなくなった蒼炎が黒縄の体から迸った。

 

「ダメだダメだダメだダメだぁ~~~……!! ぜぇ~~~んぶ台無しにしてやらねえと気が済まねぇ~~~……!!」

 

 血が出るほど頭を掻きむしった黒縄は、徐に片手を掲げる。

 すると、手の周りに不気味に揺らめく蒼い火玉がいくつか浮かび始めるではないか。さながら、その光景は鬼火のようであった。意思を持っているかのように揺らめく炎が、二人の瞳に映し出されている。

 

血鬼術・蒼鬼炎(そうきえん)

 

 数多くの人々を不幸のどん底に陥れた炎が今、二人に襲い掛かろうとしていた。

 

「良樹だけでも逃げて!!」

「嫌だ!! 姉ちゃんを守るんだ!!」

 

 絶体絶命の状況を前に互いの命を慮る二人であるが、それではどちらも守れはしない。

 黒縄にとっては動かぬ的だ。これ以上狙いやすい的はないと、彼の口角が歪に吊り上がる。

 

「安心しろぉ~……俺とおんなじくらいどん底に叩き落としてやるからよぉ~~~……簡単には死なせねえからよぉ~~~」

 

 浮かぶ火玉を投げつけんと、黒縄は振りかぶる。

 そして、

 

「二人仲良く……地獄を味わいなぁああああ!!」

「姉ちゃ―――!!!」

 

 戦火の中、空から吹雪が吹き荒れる音が奏でられた。

 

 

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 

 

 黒縄の背後に奔る紫電が、彼の頚ごと手首を斬り落とそうとした。

 しかし、黒縄は寸前で奇襲に気が付いたのか、炎を操る腕で背後から振り抜かれる刃を受け止めた。

 刃が皮膚に触れた瞬間、人―――もとい鬼ではあるが、肉を斬り裂くような音ではなく、硬い物にぶつかったような甲高い音が鳴り響く。

 結果的に言えば、斬撃を受け止めることはできなかったものの、手首が斬り飛ばされる間の隙に頭を傾けることはできた。

 

 そうして窮地を脱した黒縄の一方で、練り上げていた火玉は霧散する。

 チッ、と舌打ちを鳴らす黒縄は、背後から襲い掛かって来た少年へと目を遣った。

 

「鬼狩りか……やっぱり警護してやがったかぁ~~~」

「人の……」

「あ?」

 

 脈絡のない言葉に、黒縄のみならず良樹達も首を傾げる。

 しかし、やや俯いているにも関わらずひしひし伝わって来る赫怒の気が、場に居る者全員を震え上がらせた。

 そのまま凛は紡ぐ。

 

「人の幸福を許せず……邪魔して……あまつさえ自分よりも不幸にさせようとするなんて……」

「あ? ……クヒ、そうさ。俺はなぁ~~~……自分よりも幸せそうにしてるやつを見るとなぁ? 腹の辺りが疼いて仕方ねえんだよぉ~~~……!! わかるよなぁ? 他人を羨ましく思う気持ちをよぉ~~~……妬ましくて妬ましくてどうしようもなくなって、他人を無茶苦茶にしてやりてぇってこの感覚がよぉ~~~……!!」

「……あぁ、そうか。だったら言うよ」

 

 鋒が黒縄に向けられる。

 同時に上げられた凛の面は、かつてないほど凄惨な表情を浮かべていた。凍てついた殺気が黒縄を突きさす。

 

―――殺気とは、斯くも純粋に在れるのか。

 

 (ごみ)を見ている方がまだ感情が籠っているだろうと思えるほどに澄み切った殺気を尖らせる凛が言い放った。

 

「お前は……鬼畜生以下の屑だッ!!!! 命を蔑ろにしてッ!!! 思い出を踏み躙ってッ!!!」

「―――!!!」

「お前には地獄すらも生温いッ!!! 斬る……絶対に!!! 今!!! 今だ!!! 今ここでだ!!!」

 

 鬼すらもたじろぐ鬼の形相で吼える凛は日輪刀を構える。

 噴火するような憤怒を映し出すように、普段は白銀に近い色の刀身が、今は燃え盛る炎を反射して紅蓮に染まっていた。

 

 斯くも、黒縄を斃す鬼滅の刃が構えられた。

 

「覚悟しろ、悪鬼め!!! 鬼殺隊の名に懸けて……お前を斬り、人を守るッ!!!」

「―――いいなぁいいなぁ……そういう奴ほど……堕とし甲斐があるんだよなぁあぁぁああぁあ!!!」

 

 紅蓮の炎を背景に、一人の鬼狩りと一人の鬼の戦いが始まらんとしていた。

 

 

 

 地獄に堕とされるのは、果たして―――。

 



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玖.紫電一閃

 赦せない―――赦してなるものか。

 腸が煮えくり返る程の怒りを覚える凛は、目の前の鬼・黒縄に肉迫する。紅蓮が宵闇の空を赫々と照らし上げる中、刻一刻と炎が燃え移る家屋の中で紫電が奔った。

 

 氷の呼吸 肆ノ型 搗ち割り

 

 敵の肌が頑強であるのは一合でわかった。

 ならば、頚を囲う守りを崩した後に本命の一撃を叩き込むのが合理的だ。

 守りを崩すために打ち込む場所に狙いを定まっている。後は刃が届くのを見届けるのみ。

 

 しかし、

 

「クヒッ」

「!!」

 

 斬り飛ばされた方とは逆の手で刃を受け止める黒縄。

 凄まじい反応速度だ。今まで相手取ってきたどの鬼よりも速い。

 だが、受け止められたからといって終わりではないと、刃を引かせて次なる一太刀のために身構える凛―――であったが、刃を受け止めていた黒縄の掌が罅割れ、そこから青い炎が迸った。

 

 咄嗟に飛び退きはしたものの、不規則に揺らめく炎を完璧に回避するのは不可能であり、一部の炎が凛の体を掠めた。

 

「ぐっ!」

「あんちゃん!」

「構うな!! 早くお姉さんを連れて逃げろ!」

「ッ……」

「早く!!」

「うっ……わ、わかった!」

 

 凛の身を案じるように声を上げる良樹であったが、構うなと一喝され、苦虫を嚙み潰したような面持ちで姉を引き摺るように逃げていく。

 

「逃がすかよ」

 

 すかさず黒縄が炎を繰り出そうとするが、それを察していたかのように再度肉迫した凛が斬り上げを繰り出し、黒縄の腕を上へとずらす。そのお陰もあり、繰り出された炎は天井を焦がすだけで済んだ。が、一方でとうとう家の中にも火が灯ってしまった。

 鬼を倒すのに長居する訳にもいかなくなった。状況はますます悪化している。

 

(この鬼……強い! それに隊服が……!)

 

 牽制に体から炎を噴出させる黒縄から距離をとる凛は、先ほど炎を喰らった左腕に目を遣る。

 下級の鬼の爪程度ならば防げ、濡れにくく燃えにくい特殊な繊維で作られたはずの隊服が焼け焦げてしまっているではないか。それだけの火力があれば、当然凛の体にも影響が出る訳であり、焦げた隊服の隙間から覗く皮膚は火傷したかのように赤く染まっていた。

 しかし、これだけで済んだのも隊服のお陰であろう。普通の服で喰らえば、火傷どころでは済まなかったはず。隊服様様だ。

 

(でも、これ以上は喰らえない……ただの一撃も!)

 

 想像以上に厳しい戦いを強いられることを悟り、頬に一筋の汗が伝う。

 だが、それがなんだ? この鬼を斬ると誓ったのだ。例え地を這い蹲ってでも頚を斬り落とすことは諦めない。

 

(集中しろ! 神経を最大限に研ぎ澄ませるんだ! 小さな“熱”の動きも見逃すな!)

 

 本来、こうした燃え盛るような暑さ―――否、熱さを凛は苦手とする。彼の突出した温度感覚も正常に機能しないからだ。

 それでも、まったく役立たないという訳でもない。

 限界以上に神経を研ぎ澄ませたのであれば、ほんの僅かな炎の揺らめきをも把握できるはずだ。

 例え敵の得意な戦場で戦うとしても、活路はある。いいや、無ければ作るだけだ。

 

「来ねえのかぁ~~~? なら、こっちから行くぜぇ~……!」

 

 痺れを切らした黒縄が動き出す。

 すでに再生した腕を動かし、体から迸る炎を火の玉へと変化させる。

 

「喰らいなぁぁあああ!!」

 

 血鬼術によって操られる炎。真面に相手取るのは余りにも無謀だ。物理的な攻撃とは違い、炎は斬撃でどうなる攻撃ではない。

 だからこそ、凛は戦場となっている台所でとある食器に目を付けた。

 

「すみません、借ります!!」

 

 氷の呼吸 玖ノ型 銀花繚乱

 

 操られる火の玉を機敏な動きで回避し、大勢の人数分の料理を作る用途の巨大な鍋に手を掛けた凛。

 刀では炎を受け止められるだけの面積が少なすぎるが、この鍋ならば目くらましにはなる。

 

 謝りながら手にとった鍋を、そのまま全力で黒縄目掛けて投擲する。

 目論見通り、放り投げられた鍋は黒縄の炎を浴びても尚原型を留めながら、彼の眼前へと迫った。

 

「こんなもんでよぉ~~……!!」

 

 だが、その鍋も振り下ろされた爪撃により、見るも無残な姿にバラされてしまう。鉄製の鍋をああも容易く引き裂くとは恐ろしい。

 が、その隙に凛は黒縄の懐へと潜り込んでいた。

 肺が焼け付きそうな熱風の中、繰り出す一撃に全てを賭ける意気で刃を振る。

 

「はああああああっ!!!」

 

 氷の呼吸 拾ノ型 紅蓮華

 

「んなぁ……!?」

 

 目にも止まらぬ疾さで繰り出される無数の斬撃が、寸前で盾代わりに突き出された腕を細切れにする。

 これで片腕を不能にした。今が攻め時だ。

 

「おおおおおっ!!!」

「チィ……!!」

 

 機を逃さないと言わんばかりに、気炎が上がらん勢いで吼えながら次々に型を繰り出される。

 垂氷、霰斬り、氷瀑、白魔の吐息―――その怒涛の斬撃には、戦闘開始直後は優勢であったと思われていた黒縄も、炎を出す間もなく守勢に回らざるを得ないほどであった。

 

 もうすぐ、もうすぐだ。

 もう少しで刃が首に届く。

 絶対零度の殺気を込めた視線が見据えるのは鬼の頚。振り抜かれる刃もまた、そこに狙いを澄ましていた。

 

 これには黒縄も焦燥を面に浮かべる。

 

「やられるッ……俺がぁ……!?」

「でやぁぁぁあ!!!」

「―――なぁ~んてなぁ」

「ッ!!?」

 

 振り抜かれた刃が頚を捕える―――が、一向に刃は鬼の頚を斬り飛ばすに至らない。

 白銀の刀身は、黒縄の冷えて一層黒みを増した肌に少しばかり食い込むだけだった。

 

(さっきより、硬く……!!?)

 

 明らかに初撃と感触が違う。

 不味い。そう直感した瞬間に身を引いた凛と時を同じくし、黒縄の体から蒼炎が爆ぜた。

 

「づッ、ぐぁああ!!」

 

 今度は右脚に直撃した。

 着地した瞬間、鋭い痛みに遅れてジクジクと鈍い痛みが襲い掛り、凛の額からは脂汗が滲む。

 そんな彼の様子を大層ご満悦に見つめる黒縄は、嘲るように口を開いた。

 

「クヒヒッ!! まさかよぉ~~~、俺のこと殺れると思ったかぁ? ほんのちょっとでもよぉ~~~。めでてぇ頭してやがるなぁ~~~。そりゃあ今まで順風満帆な人生送って来たんだろうなぁ~、自分に思い通りに事が運んでたんだろうなぁ~~~……!」

「ッ……!」

「幸せだったろうになぁ~~~……妬ましい、妬ましいなぁ。そんでもって嗤えるなぁ。俺ぁ他人の絶望した顔見てると胸がすくんだよぉ~~~! もっと見せろよなぁ、お前の顔をよぉ~~~……!!」

 

―――ケタケタ、ケタケタ。

 

 脚に一撃を加え、より鬼狩りを仕留めやすくなったと断じた黒縄は、慢心上等と言わんばかりに凛に見下すような視線を送る。

 

「さぁ、どうするよぉ? まぁ~だ続けるかぁ?」

「当たり……前だ!!」

「……ケッ。まぁだ俺に勝てると思った目ぇしてやがる。今まで失敗したことなんかねえんだろうなぁ~。だぁから意地張ろうとしやがる……教えてやろうかぁ~~~? そういう奴は―――馬鹿だって言うんだぜぇええぇぇええぇ!!!」

 

 吼える黒縄が繰り出す炎は、獣のような形となった後、今度はそれが円の形に丸まってから凛へと襲い掛かった。

 

 血鬼術・狐炎火車(こえんかしゃ)

 

 火の粉をまき散らしながら突進する火炎に、凛は脚の痛みを我慢して踏み込む。

 

 氷の呼吸 玖ノ型 銀花繚乱

 

 直線的な動きであっても緩急をつければ攪乱することはできる。

 脚を庇いつつも最小限の動きで乱舞する火炎の車を捌く凛は、肌が焼け焦げそうな熱を浴びつつも、必死に攻撃を躱し続けた。

 しかし、燃え盛る家屋の中では刻一刻と全集中の呼吸のために必要な空気が足りなくなってくる。脚の痛みも相まってか、次第に凛の動きは遅くなっていた。このままでは黒縄の血鬼術を喰らうのも時間の問題だ。

 

(くっ……どうして斬れなかったんだ!? 何が違った!? 何が……!)

 

 凛は攻撃を掻い潜る合間にも、黒縄の体から放たれる“熱”を感じ取り、活路を見出そうとする。斬れた時と斬れなかった時―――それらの違いこそが、黒縄を倒すための唯一の突破口だ。

 

(見つけろ! 諦めるな! 今が正念場なんだ! 奴が油断している間に……)

 

「クヒヒッ! 足が遅くなってるなぁ~……!」

「くっ!?」

 

 必死に思考を巡らせていた時、不意にとびかかって来た黒縄が腕を振り下す。

 その爪撃を寸でのところで受け止めた凛であったが、その際に日輪刀を盾代わりにするべく、弾かれぬよう刀身に添えた左手に灼熱が奔った。

 

「熱ッ!? ―――!」

 

 刹那、何かを閃いたかのように凛が目を見開いた。

 そしてねめつけるような視線を黒縄に向け、確信する。

 

 赤熱に染まる上半身。反面、僅かに覗く下半身の肌は暫く放置してひび割れた墨のようだ。

 

(なるほど! そういう訳か……!)

 

 合点がいった。そして突破口を垣間見た。

 しかし、見つけた突破口は余りにも厳しい道である。

 

(相打ち覚悟で攻め込むか? いいや、それじゃあ仕留められなかった時はどうするんだ!? 無謀に突っ込むのは悪手だ……)

 

 自分が行おうとしている案を再考する合間、自分の掌に目を落とす。

 

(血を……鬼を凍らせる血を使おうか? いや、ダメだ! 僕は鬼じゃない……血にも限りがある。そう易々と流していたらあっという間に戦えなくなるぞ!)

 

 人間である以上、体に必要不可欠な血液。凛の特異な体質により、鬼に触れれば瞬く間に触れた部分を凍らせる強力な血液となっているが、無尽蔵に再生できる鬼とは違い、不用心に流せば失血死してしまうのは目に見えている。

 

(―――()()()を使おうか? でも、水の呼吸を使えない僕じゃあ……!)

 

 可能性の一つが脳裏を過る。

 しかし、その可能性は命を賭けるには余りにも博打染みたものだった。

 

(やるしか……ないのか!?)

 

 燃える家屋がパチパチと音を立てている。空気が失われていく他にも、そろそろ倒壊する可能性も視野に入れなければならない。

 残酷にも時間は止まってはくれず、平等に流れるだけ。

 凛にできることと言えば、その激流の中で最大限抗うことのみ。

 

(好機は一瞬……決めるしかない。氷の呼吸、()()()を―――!!)

 

 育手の下では会得できなかった、氷の呼吸にとって黎明の型とも言える御業。

 それしか、黒縄が露わにする一瞬の隙を突くことができない。

 

(炎が灯って体表が柔らかくなった瞬間を―――絶つ!!)

 

 冷えて頑強になる肌。しかし、攻撃時にだけその肌は凛が絶ち斬れる程度に柔らかくなる。その一瞬しか、鬼の頚を斬ることはできない。

 

 いざ、勝負を仕掛けよう―――とした瞬間、突風が吹き抜ける音が奏でられた。

 

 

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風(じんせんぷう)()

 

 

 

 黒縄の背後から繰り出される形で吶喊する人影。

 それに気が付いた黒縄が咄嗟に振り向き反撃しようとしたが、

 

 

 

 炎の呼吸 壱ノ型 不知火

 

 

 

 また別方向から現れた人影が、先の人影と黒縄を挟み撃ちにする形で斬撃を繰り出さんとしているではないか。

 

「チィ……!!」

「!」

「む!? 不味い!」

 

 多方向からの襲撃に分が悪いと考えた黒縄が、全身から炎を噴出させる。

 さながら荼毘の如く黒縄の体を覆った蒼炎。それらに近づけば身を焼かれると察した二人は、攻撃を中断して飛びのいたが、

 

「そこ」

 

 天井へ飛び退いたつむじが、屋根裏に刀を突きさしぶら下がるという猿の如き芸当で機を見計らい、炎が止んだ瞬間を狙って飛び降りた。

 

 風の呼吸 伍ノ型 木枯らし颪

 

 屋根裏を足蹴にしたにも拘わらず、地上同然の踏み込みで上段からの斬り下ろしが黒縄へと襲い掛かる。

 だが、黒縄は不敵な笑みを浮かべていた。

 

「飛んで火にいるなんとやら……!!」

「!」

 

 つむじの振り下ろす刃がまだ黒縄に届く直前、彼の体は赤く明滅していた。炎の噴出の予備動作だ。このままいけば確かに彼女の刃は届くかもしれない。しかし、それ以上に手痛い反撃を喰らうことになろう。

 瞬く間に黒縄の周囲が熱くなるのを感じ取ったつむじは目を見開く。彼女が居るのは宙。そこから大きく移動するのは不可能な話だ。

 

「こんがり焼いてやるよ……女ぁぁぁああぁぁああ!!」

「―――仕方ない」

「訳、あるかあああああ!!!」

「う゛っ!?」

 

 半ば諦めて渾身の力を刀身に込めたつむじであったが、炎が爆ぜる直前、彼女目掛けて飛び込んだ人物が、黒縄の解き放つ業火から救ってみせた。

 結果的に両者の攻撃は不発。

 間一髪で炎から逃れられたつむじはと言えば、自分を窮地から救った人間に対し不満げな視線を投げかける。

 

「……重い。退いて」

「な、な、な!? 助けたのになんたる口の利き方……!」

 

 つむじを救ったのは、誰よりも彼女のことを嫌う燎太郎であった。

 しかし、その甲斐なく不満を口にされ、燎太郎の怒りは頂点に達そうとしている。

 

「クソッ! つい体が勝手に動いてしまったのが悔やまれる……!!」

「……ねえ」

「なんだ!? 手短に済ませろ!」

「頼まれてもないのになんで助けたの?」

 

 立ち上がり日輪刀を構えるつむじは、葛藤に苛まれる燎太郎へ問う。

 その内容に一瞬呆気にとられたものの、燎太郎はすぐさま神妙な面持ちを浮かべて応えた。

 

「……例えどのような悪人だとしても、人間ならば鬼の手から俺は助ける!! 鬼は滅する!! 人は救う!! それが……俺の流儀だ!!」

 

 燃え盛る炎にも負けぬ紅蓮に染まる刀身を掲げる燎太郎。

 眼前の鬼やつむじの気に入らない態度に対する憤りの他にも、何かに苦悩しているかのように眉間に皺を刻んでいる彼であったが、その苦悩を振り払わんために声を張り上げた。

 

 そんな彼に「……そう」と一拍置いたつむじは、思い出したかのように燎太郎へと振り向いた。

 今まで視線も合わそうとしなかった女が一体何事か? そう考えた燎太郎に、つむじは告げる。

 

「……助けてくれてありがとう……?」

「!!」

 

 刹那、雷に打たれたかのような衝撃が燎太郎に襲い掛かった。そして、

 

「―――済まなかった!! 俺が言い過ぎた!! 悔い改める!!」

「???」

「俺が間違っていたな、つむじ!! お前が許してくれるならば同じ鬼狩りとして手を取り合おう!!」

「……変なの」

 

 一度も感謝を伝える姿を見せなかった少女が、この場に来て初めて感謝を告げた。

 その衝撃と感動を前に、燎太郎はすぐさま自分が彼女に覚えていた嫌悪感を一切合切捨て去り、反省し、謝罪した。この間僅か数秒。余りにも速い態度の変化に、つむじも変なものを見る目で彼をねめつける。

 

 が、忘れてはいないだろうか? ここが猛火迸る戦場だということを。

 漫才のようなやり取りを見せていた二人に向け、凄まじい火勢の炎が襲い掛かる。これには二人も即座に対応し、回避してみせた。

 

「おのれ、悪鬼め!! 俺達の和解を邪魔して!!」

「なんでもいい。邪魔でもなんでも鬼は斬るから」

 

 任務から帰って来た二人も合流し、これで三対一。数では凛達が優勢だが、

 

「かぁ~~~……虫けらが何匹増えてもなぁ~あ~~~……!!?」

 

 不快を露わにする黒縄が焦った様子を見せる気配はない。

 

「―――焦げた死体が増えるだけだよなぁあぁぁああああぁぁああ!!!」

「つむじ! 燎太郎! 避けるんだ!!」

「ん!」

「言われなくとも!」

 

 今日一番の苛烈な勢いで、黒縄が全身から炎を解き放つ。

 数が増え、いちいち相手どるのが面倒になったためか、炎は家屋を一気に燃やし尽くさんとする勢いでのたうち回る。

 

「不味いぞ! このままじゃあっという間に家が焼けてなくなる!!」

「なら、いっそのこと壊す」

「つむじ!?」

 

 反撃さえままならない猛攻を掻い潜り―――否、喰らっても尚突き進むつむじは、天井目掛けて跳躍したではないか。

 すでに表面が焼けて炭化し始めている柱や梁。

 間もなく支える役目を失うそれらに対し、つむじはなんとトドメを刺さんばかりに斬撃を繰り出した。

 

 軸材は呆気なく斬り落とされ、続けざまに炎とは違う轟音が室内に響きわたり始めた。

 すると、つむじはあろうことか自分が斬り落とした軸材を足場に跳梁し始めたではないか。

 足蹴にした軸材は黒縄目掛けて吹き飛ぶ。加えて、つむじ自身は彼を攪乱するために屋内の天井や壁への着地、そして跳躍を繰り返す。

 重力がないのか、はたまた天地がひっくり返ったかと錯覚するような動き。並み大抵の平衡感覚がなければ、この動きを再現することは不可能だ。

 

(この女……早ぇなぁ~~~……!!)

 

 今のままでは炎の壁も強引に破られかねない。先のつむじの行動を見る限り、自分の身を省みず吶喊してくることも視野に入れた黒縄は、さらに火勢を強めようと踏ん張ったが、

 

(刀!?)

 

 たった今形勢した炎の壁を貫くように日輪刀が飛来し、黒縄の右目に突き刺さった。

 

「チッ……でも刀手放しゃあよぉ~~~―――ぎぃっ!?」

 

 女に武器はない―――そう言おうとした黒縄であったが、今度はつむじが飛び蹴りの姿勢で炎の壁を突き破り、そのまま黒縄に突き立てられた日輪刀の柄を蹴って見せたではないか。

 眼孔を貫く鮮烈な痛みに、堪らず悲鳴が漏れる。

 一方つむじはと言えば、自ら炎に吶喊に身を焼かれる痛みに襲われながらも涼しい顔で「あ……狙い間違えた」と口走る。

 彼女としては日輪刀を貫かせることが目的ではなかったようだが、結果的に大きな隙は生まれた。

 そこへ跳びかかるのは燎太郎と凛の二人だ。

 特に燎太郎は、火勢を少しでも衰えさせようと畳を返し、盾代わりにするようにそのまま黒縄に投げつけた。視界を遮りつつ、火勢も衰えさせる。場にある物を最大限に生かした案であった。

 

(つむじが身を挺して生み出した隙……必ずや仕留める!!!)

 

 仲間が傷つきながら作った好機とだけあって、燎太郎の意気はこれ以上なく高まっている。

 最大の好機には最大の技を―――。

 

 炎の呼吸 玖ノ型 煉獄

 

 畳ごと黒縄を両断せんとする燎太郎。

 しかし、凛の視点からは彼が仕留めようとする黒縄に異変が起こっているのが目に映っていた。

 

(なんだ、あれは……!? 奴の肘辺りの火勢が強まって……!!)

 

 直後、爆音が轟いた。

 

 

 

 血鬼術・岸火(がんか)(かいな)

 

 

 

 肘で爆ぜた炎の勢いで繰り出された拳が、畳ごとその後ろで構えていた燎太郎を吹き飛ばす。

 

「が、はぁっ!!?」

「燎太郎ぉ!! くっ……!!」

「次はぁ~……お前だぁああぁあああ!!!」

 

 今度は逆の腕の肘に火が灯る。

 来る。あの超速の拳撃が。

 燎太郎は畳を挟んだからまだ無事で済むかもしれないが、阻むものがない凛が喰らえば、頭部など肉片と化すだろう。

 避けるしか―――否、迎え撃つより生き残る道はない。

 

(集中だ。集中しろ。一瞬を……最後の好機を見逃すな!!)

 

 迎え撃たんと日輪刀を構え、全神経を研ぎ澄ませる。

 それでいて不必要な情報は全て捨てた。痛みや周囲の景色―――敵の攻撃を避けるに当たって必要でない情報だ。

 

 凛は深く息を吸い込み、微動だにしなくなった。

 不動の構えに黒縄は怪訝そうに眉を顰めたものの、動かないならば仕留めやすい―――たとえ動くのだとしても問題なく殺せると踏み、一直線に駆け寄って来る。

 

限限(ぎりぎり)まで……限限まで引きつけろ。不動こそが“氷”の教え……)

 

 その間、凛は育手に教えられた氷の呼吸の極意を思い出していた。

 流動する水に対し、不動である氷。“動”と“静”の関係にある派生前の呼吸と派生後の呼吸であるが、なにも突然氷の呼吸へと変化した訳ではない。

 水が氷へと凝固する間にも、水と氷―――“動”と“静”が双方存在する瞬間がある。

 

 氷の呼吸・零ノ型は、まさしくその刹那を反映したような型だ。

 氷の頑強な不動と水の変幻自在な流動を表した零ノ型は、氷の呼吸と銘打っているものの、水の呼吸をも扱えなければ扱うのは難しい。

 はじめは凛も使うことができなかった型であるが、常中を会得し、なおかつ水柱たる流に僅かながら指南を受けたことにより、以前よりも「できる」という自信が彼の中に湧き上がっていた。

 

 彼との約束も思い出しつつ、最後の仕上げに刀身に己の血で血化粧を施す。

 これで最悪仕留められなくとも、二人に繋げられるはずだろう―――そう考える一方で、やられる気は皆無であった。

 

(―――決める!!!)

 

 世界が―――止まったように見えた。

 黒縄が何か吼えているようにも見えたが、聞くに値しない言葉であるため、頭が言葉を理解する前に不必要と処理をした。

 一方で、唯一動いている拳が顔面目掛けて迫ってきているのを前にし、明鏡止水が如く不動であった凛が、波打つ波紋のように動きだす。

 

 神速の一閃が、今、

 

 

 

 

 

 全集中・氷の呼吸 零ノ型

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――零閃(ゼロせん)

 

 

 

 

 

 振り抜かれた。

 

「っ……()ぇなぁ……!?」

 

 瞠目する黒縄。

 

(斬られただと!? 斬られたのか、俺ぁ……!?)

 

 頚の後ろ側に凍てつくような痛みが奔る。

 

(み、見えなかった……! いや、それよりもだぁ! あいつはどうやって俺を斬ったんだぁ~!?)

 

 初めに、拳が刃に触れあうような感触があった。が、手応えは一瞬だけ。あとは暖簾を押したかのように拳は虚空を貫いた。

 それで体勢を崩したからか、やや前のめりにはなったが―――その次の瞬間だった。頚に痛みが奔った。

 

(受け流されて後ろから斬られた……だとぉ!?)

 

 それ以外考えられない。

 当人の目からすれば頚を一閃されたのはほんの刹那に等しかったのだから。

 

 だが、焦燥に目を見開いていた黒縄の前に、血塗れの折れた刀身が甲高い音を立てて落ちて来たではないか。

 咄嗟に頚に手を当てる。

 が、どうやら半分ほど斬られただけ。頚は繋がっていたようだ。

 

―――こいつ……しくじりやがったな……!

 

 堪えられぬ下卑た笑みを湛える黒縄は振り返る。

 そこには、刀を振り抜いた姿勢のまま固まる凛が立っていた。やはり、彼の持っている日輪刀は刀身が折れてなくなっている。先ほど落ちて来た刀身が折れたものであるのは間違いない。

 恐らく、頚の半分ほどに斬ったところで、斬撃に刀身が耐えられなくなって折れたのだろう。

 

「クヒッ、ヒヒヒィ!! やぁ~~~っぱり全部……てめぇの思い通りになんかならねえんだよなぁああぁぁああぁ!!!」

 

 刀折れ矢尽きた人間を殺すなど造作もない。

 最大火力で眼前の人間を焼き殺そうと、全身から炎を迸らせた―――その瞬間だった。

 

―――ビキッ。

 

「……はっ?」

 

 頚に違和感が奔る。

 思わず動きが止まった黒縄であったが、彼が止まっても尚、刃に付着していた凛の血液により凍結していた刀傷が、みるみる内に罅を蜘蛛の巣のように広げていく。

 このままでは―――頚が砕け落ちる。

 

「な……なんでだぁああぁぁあああ!!? こ、こいつはぁ~~~……っ!?」

 

 必死に凍結した部位を解凍しようと火勢を強める黒縄であったが、状況は好転するどころか、寧ろ悪化していくように頚の罅が広がる。

 物体にもよるが、低温の物体を急激に熱した場合、冷えて収縮している部分と熱されて膨張した部分のつり合いがとれず、破損する場合がある。此度、黒縄の頚に生じていた異変は、まさしくその現象であった。

 

 そして、もう一つ黒縄にとって―――凛自身にも言えるが―――誤算だったのが、凛の血によって生じた凍結が熱によって溶かされるものではないということだ。

 つまり、黒縄は自分で自分の身を追い詰めるような行為に出ていた。

 己を地獄へと叩き落す行為。自業自得とは言え、血相を変えて慌てふためく姿は、惨めであり滑稽でもあった。

 

 そして、それを鬼狩りが見逃すはずがない。

 

「おおおおお!!」

 

 雄叫びを上げて突進する凛。刀身の折れた日輪刀で何をするかと思えば、彼は腰に差していた鞘を手に取って、黒縄の眼孔を貫いているつむじの日輪刀を正確に突いた。

 注意が逸れていた黒縄はまんまと鞘による刺突を喰らい、とうとう眼孔に留まらず頭蓋骨をも貫かれ、さらには貫いた日輪刀が彼の頭部を背後に佇んでいた壁に張り付けた。

 

 その間も炎が凛の身を焦がすが、この程度の熱さや痛み―――黒縄に覚えた憤怒に比べれば温いものだ。

 証拠に、折れた日輪刀を掲げたかと思えば、炎の壁に腕を突っ込み、もう片方の黒縄の眼孔に無理やり刃を突き立てたではないか。

 

 垂氷と同じ要領で手首を捩っての一撃。眼球をかき混ぜられるような痛みと共に、まだ刀身に残っていた凛の血液が、黒縄の眼球の再生を阻害する。

 ここまで捨て身の攻撃に打って出たのは、やっとの思いで作った隙を逃さないのもあるが、それ以上に()()()()であった。

 

(零閃は未完成でトドメはさせなかった!! それはそれで仕舞いだ!! 繋ぐんだ!! 千載一遇の好機を……諦めるな!! 繋ぐんだ!! だってここには―――)

 

「グ、ゾがぁ」

「がはっ!」

 

 業を煮やした黒縄に腹部を蹴られて吹き飛ばされる凛は、血反吐を吐いて床に転がる。

 だが、倒れる凛の瞳には絶望など欠片も映っていない。

 移るのはただ一つ。希望の光芒だった。

 

(仲間が……居る!!!)

 

「つむじッ……受け取れぇ!!!」

 

 畳の下から這い出て来る血と煤で汚れた燎太郎が、自身の命とも言える日輪刀を、手持ち無沙汰になっているつむじに放り投げた。

 その日輪刀を難なく受け取ったつむじは、全身から業火を放っている黒縄に肉迫する。

 炎などお構いなしだ。自身の身を焼かれようとも突き進んでいた彼女は、とうとう刃が届く距離まで詰め寄った。

 

 そこまで迫られようやくつむじに意識が向いた黒縄は、頚の異変を後にして、つむじを仕留めんと腕を振るった。肘からはまたもや爆炎が爆ぜようとする。一撃で首を取ろうとしているらしい。

 

「死゛にッ、晒せぇえぇぇえぇぇえええ!!!」

 

 気道からあふれ出る血を吐き出しながら咆哮する黒縄が、満を持して拳を振るった。

 すると、つむじは天井から崩れ落ちてきた軸材を足場に宙返りし、あろうことか岸火の腕を避けてみせたではないか。

 

「それは……」

 

 その芸当に目が点になる黒縄。

 

「こっちの台詞」

 

 刹那、紅蓮の視界の中に紫電が駆け抜ける。

 

 

 

 風の呼吸 漆ノ型 勁風・天狗風

 

 

 

 業火を旋風が絶ち斬った。

 

「は、あ゛ッ……!?」

 

 グラリと天地がひっくり返る。否、黒縄の頚が斬り落とされ、床に転がり落ちたのだ。

 

「あ゛……あぁぁああぁぁあぁぁああ~~~!!? 巫山戯るなぁあああぁああ!!! お、俺がぁあ~~~!! 俺がこんな虫けらなんかにぃぃいいぃいいぃい~~~……!!」

 

 断末魔を上げる黒縄であるが、彼を斬った当人であるつむじはその声に耳を貸さず、その場から立ち去ろうとする。

 その無関心な姿が癇に障ったのか、黒縄は額に青筋を浮かべて騒ぎ立てる。

 

「待てぇ~~~!! 待てぇ、鬼狩り共ぉ……!! 待ちやがれぇええぇぇええ~~~……!!」

「待たない。帰る。だって……」

 

 振り向かず、天井を指さすつむじ。

 

「もう、崩れてきてるから」

「は―――?」

 

 突如、轟音と共に瓦解する天井の瓦礫が黒縄の体ごと、彼を生き埋めにしたではないか。

 程なくして死ぬとは言え、燃え盛る瓦礫に埋もれるというのはどのような気分なのであろうか?

 立ち上がった凛は、眩暈のせいでふらつきながらもその瓦礫に目を遣った。

 

(あそこまで他人の幸福に嫉妬して……鬼になる前は―――)

 

 それとなく黒縄の過去を想像する。

 今となっては正解も分からないが、怒りも冷めた心の内にほんの少し哀れみが浮かび上がって来た。

 

(せめて来世は幸せになれるように……)

 

「ねえ」

「ん?」

「逃げなきゃ焼け死ぬ」

「あっ……!」

 

 少しばかり心ここに在らずといった様子だった凛であったが、つむじの一声で我に返る。

 最早一刻の猶予もないほど炎は広がっている。早々に立ち去らなければ、自分達も鬼の二の舞になってしまうだろう。

 

「そうだね。早く逃げなきゃ……!」

「おぉ~い!! 俺を見捨てないでくれ!!」

「あ……燎太郎!?」

「骨が折れたようでな……手を貸してくれッ……!」

「待ってて! つむじも手を貸して!」

「美味しいもの奢ってくれる?」

「こんな時まで!? あとで考えるから、ほら早く!」

「ん」

 

 最後の最後まで忙しい三人組は、なんとか焼け落ちる家からの脱出に成功した。

 浅くない傷を負い、守るべき家も焼かれてはしたものの―――そこに住まう人々は誰一人として犠牲にはならなかった。

 

 やがて、藤の家紋の家を襲撃する鬼の討伐報告は、鎹鴉伝手に鬼殺隊に伝えられるのであった……。

 

 

 

 ***

 

 

 

 後日、蝶屋敷にて。

 

「はい、氷室くん。消毒しますからね~」

「お、お手柔らかに……ひぎッ!?」

「男の子なんですから我慢してください」

「そうは言っても……あぎゃあ!?」

 

 病室でしのぶに火傷の手当てを受ける凛は、柄にもなく情けない悲鳴を上げつつ身悶えていた。鬼との戦闘で負った火傷は軽いものではない。しっかりと消毒し、感染症を防がなければならないのだが、

 

「くひぃ~~~……!!」

「氷室くん、消毒液はまだまだいっぱいありますからね。頑張ってください」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 

 まるで地獄だ。

 治療を後に控えている他の面々も、彼がもだえ苦しむさまを見て、若干顔が青ざめている。

 

 時間的にはものの数分であったが、当人にしてみれば悠久の時かと錯覚するほどの消毒を終え、新しい包帯も巻かれた凛は、息も絶え絶えとなって布団の上でぐったりと横になっている。

 

「ひ、ひぃ……ひぃ……!」

「はぁ……久しぶりに帰って来たと思ったら、随分とこっぴどくやられてしまったようですね」

「め、面目ないです……」

「……まあ、カナエ姉さんも生きて帰ってくれるだけで十分と言ってましたから、このくらいで許してあげますよ」

「はい……って、え? ゆ、許し? え? しのぶさん、もしかして何か……」

「は~い、消毒の痛みもあっという間に引いちゃうおまじないの言葉をかけてあげますね~! 痛いの痛いの飛んでけ~」

「は、はは、は……」

 

 最早笑う気力さえ残っていない凛は横になる。

 そんな凛に聞こえない声量で「人の気も知らないで……まったく」と鼻を鳴らしたしのぶは、同じく火傷を負った他二名へと目を向けたが、

 

「東雲さん? そのお饅頭はどこから持ってきたんです?」

「部屋」

「へぇ~、部屋。どこの部屋ですか?」

「厠の帰りに見つけた部屋」

「ふ~ん……勝手に他人の部屋からお茶請けを盗んでこないでくれませんか? し の の め、さん?」

「ん」

 

 余りの威圧感に怯え竦むつむじは、素直に盗って来た茶請けの饅頭をしのぶに返す。

 しかし、八割がた食い尽くされた茶請けに饅頭はほとんど残っていなかった。

 

「まったく……誰が買って来ると思って……!」

「しのぶ」

「ん?」

「お腹空いた」

「東雲さん。さっきお昼食べたばかりでしょう?」

「ん」

 

 まだ食おうとするつむじをねめつけるしのぶ。彼女の大食ぶりにはほとほと呆れてしまう。

 と、不意に隣のベッドが軋む音が聞こえて来たので視線を向ければ、

 

「何しているんですか、明松くん」

「なに! とは! 見ての! 通り! 腕立て伏せ! だ!」

「腕立て伏せ」

「鬼に! 遅れを! とり! 負傷! とは! 俺の! 未熟め! 未熟め!」

「なるほど……鬼に手痛い目に遭わされた自分の未熟さを戒めているんですか。感心感心。ところで、ベッドが腕立て伏せする場所じゃないことは知っていますか? ねぇ?」

「す、済まない! 今すぐやめるからその手で掲げる茶請けの器を下ろしてくれ!!」

 

 場違いな熱血を発揮する燎太郎を餡子塗れにせずに済んだようだ。

 そんな個性豊かな面々を相手にし、しのぶはお疲れの様子。

 

「ほんと、貴方達と居ると退屈しませんね……」

「ありがとう?」

「……まあ、それはさておき」

 

 つむじのちぐはぐな感謝の言葉を受け流し、しのぶは胸のポケットから一枚の紙きれを取り出した。

 

「貴方達に先日の家の方々から手紙が届いていましたよ」

「え?」

「ええ。はい、氷室くん」

「わっとっと!」

 

 しのぶから手紙を受け取り、手紙を広げる凛。

 家が全焼し、家財の大部分を失ってしまった良樹の家であるが、新たな住居については鬼殺隊当主・産屋敷の便宜により、工面されたようだ。

 彼等もまた、思い出深い場所を焼き尽くされて少なくない傷を負っているはずだが―――恨み節でも書かれていたらどうしようかと、半分冗談気味に手紙を開く。

 

 そこには決して美麗ではないにしても、精一杯丁寧に書かれたと思しき文字が連なっていた。書き綴ったのは、恐らく良樹だろう。

 

 綴られていた内容は―――。

 

「……」

「おい、凛。何が書かれているんだ?」

「ふふっ。さて、何が書いてあると思う?」

「何をもったいぶった言い方を! ええい、まどろっこしい! その手紙をよこせ!」

「ダメだよ、まだ途中なんだから!」

 

「二人とも。病室では、し ず か に、してくださいね」

 

「「はい」」

 

「……すぴー……すかー……」

 

 しのぶに窘められる二人の一方で、腹が満たされて沸き上がる眠気のままに昼寝に入るつむじ。

 

 凸凹な三人組により果たされた鬼退治。

 彼等によって鬼から救われた人々もまた、前を向いて歩き始めていることを示唆するように、藤の花は穏やかに風に揺れていた。

 




*参章 完*

*オマケ*
凛・燎太郎・つむじのデフォルメ立ち絵

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肆章.流
拾.鬼哭啾啾


 

 麗らかな陽気に溢れる蝶屋敷に、少々不似合いな喧騒が奏でられていた。

 木材同士がぶつかり合うような甲高い乾いた音。遠方まで木霊するような音は、屋敷のどこに居ても聞こえてくる程だった。

 しかし、日常と化した音を前に気に留める人間は居ない。

 

「ふっ! はっ! でやぁ!」

「ッ……!」

「どおりゃあああ!!」

 

 木刀を手にして、一人の男性に突っ込んでいく凛、つむじ、燎太郎の三人。

 すでに火傷も癒えた彼等は、火傷痕の残る上半身を晒しつつ(つむじは流石にさらしを巻いているが)、滝のような汗を流し稽古に没頭していた。

 対峙する相手は水柱・伴田 流。流麗な剣閃で次々に迫りくる攻撃を受け流す彼の身のこなしは、彼が両脚義足という事実を忘れさせるだろう。

 

 数で言えば三対一と一見凛達が有利な状況に見えるが、実際はその逆だ。

 まず、最初に斬りかかった凛の一閃を、流が木刀の刀身で滑らせるように受け流して無力化。すかさず、体勢を崩した凛へ義足による強烈な蹴撃が叩き込まれた。

 

 そうして吹き飛ばされた凛に構わず、背後から飛び掛かるつむじ。人間にとっての死角たる背後からの強襲であるが、目の見えない流にとっては死角という概念が無い。失われた視覚を補うかの如く研ぎ澄まされた他の五感が、瞬時につむじの位置を正確に察知し、風を切る旋風の如き一閃を、いとも容易く回避してみせた。

 しかし、そこで止まるはずのないつむじは、二撃、三撃と連撃を繰り出していく。

 真っ当な太刀筋の攻撃もあれば、曲芸染みた攻撃も織り交ぜてくる。初見であればまず対応に困るような連撃であったが、相対する流は全てを捌いた後、斬り下ろしてきたつむじの木刀目掛けて刺突を放つ。

 

 水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き

 

「ッ……!?」

 

 目にも止まらぬ速さの刺突が、つむじの木刀を根本からへし折った。

 これには流石のつむじも目を見開く。その隙に、掬うような太刀筋でつむじの胴へと流の木刀が叩き込まれ、彼女もまた弾き飛ばされた。

 

 最後に襲い掛かって来る燎太郎。一撃一撃が強力な彼の剣であるが、水柱たる流には如何せん甘い狙いだと言わざるを得ない。

爆炎を幻視させる斬撃を、流々と留まることを知らない水流が、時に柔らかく、そして時に激しく呑み込んでいく。

 そして特に強力だった一閃を受け流し、すれ違いざまに胴へ一撃が叩き込めば、燎太郎はうめき声を上げてその場に崩れ落ちてしまった。

 

 これにて三人は戦闘不能。

 広がるのはまさしく死屍累々の光景。

 途中、洗濯物を干すべく廊下を通りがかった際に庭を一瞥したしのぶも、その光景に頬が引きつっていた。

 

「ぜぇ……はぁ……!!」

「うっぷ」

「うごご……!」

 

「……一先ず休憩だ」

 

 ぶっ通しで数時間稽古していた凛達にようやく休憩を言い渡す流。

 今にも干からびそうな量の汗を流す三人に比べ、彼はほんのり額に汗が滲んでいる程度だった。

 常中を会得し、強くなれたと感じていた三人をどん底に叩き落すには十分すぎる隔絶した実力差を、今まさに見せつけられているようだった。

 

 誰が言ったか、全集中の呼吸は初歩の初歩。

 柱まではあと一万歩ある段階だ、と。

 

 そんな訳で一万歩―――否、百万歩経て柱となった流は、蹲る面々を見渡す。

 

「前よりは良くなった。が、まだまだだ」

 

 柱一人に一太刀も浴びせられないようでは、まだまだ先は長い。

 その現実を体に叩き込んだところで、ではどうすればより強くなれるのかを教えるのが先達の務めである。

 

「まず、凛。型の動き自体は前よりも洗練されてきた。だが、お前……というよりも氷の呼吸の独自の癖か。型を繰り出す前の溜めの硬直の時に隙だらけだ」

「は……はい!」

「呼吸の特性上、隙ができてしまうのは仕方がないが、硬直から動作に移る一連の動きの切り替えを滑らかにできるようになれば、その限りじゃなくなるだろう」

「切り替えを滑らかにですか。それはどうやって……」

「回数をこなせ。それ以外に道はない」

「はい!」

 

 流の助言を受け、奮起するように立ち上がる凛。

 

 ちょくちょく流に稽古をつけてもらっている凛であるが、未だに彼に一太刀も浴びせられてはいないものの、不貞腐れることなく精進している。

 最近では氷の呼吸の零ノ型・零閃を習得するべく、水の呼吸も扱えるようにと流に師事していた。幸い氷の呼吸は水の呼吸の派生。大抵の型が水の呼吸を基にしているだけあって、飲み込み自体はそれなりに良かった。

 それでも流からすればまだまだ毛が生えた程度の練度である為、時間があれば水の呼吸の真髄をその身に叩き込まれている。

 その都度コテンパンにされては、コテンパンにした流共々しのぶに「やり過ぎだ」と叱られるまでが習慣となりつつあった。

 

柱を叱る平隊士とは、これ如何に。しかし、出会った当初よりも友好を深めたしのぶが、本来の生真面目な性格を発揮し始めているからには、致し方ないことと言えるかもしれない。

 

『今度怪我しても手当しませんよっ!』

 

 と、窘めながらも、結局負傷したしのぶには、凛もほとほと頭を下げるばかりであった。

 恐らく、一生彼女には頭が上がらないと予感している。因みに、一応凛としのぶ(ついでに燎太郎とつむじも)は同期でこそないものの、同い年である。

 

 閑話休題。

 

 こうした流による稽古は、ここ最近そう珍しいことではなかった。

 黒縄との一戦から早半年。半ば蝶屋敷が拠点と化している三人に、流が気を利かせて顔を出しに来てくれるのだ。

 その際、稽古の後にこうして助言をもらい、各々が精進に励んでいる。無論、襤褸雑巾のようになった彼等を治療するのはしのぶである為、毎度お小言をもらっているが、彼女なりの優しさだと気付いている凛は黙ってお小言を聞く姿勢に徹していた。

 

 しかし、何にせよ格上の相手と戦うのは自身の強さに直結する。

 積み重ねた経験ほど自信に直結するものはない。

 

 負け慣れず、最初こそ不貞腐れていたつむじも、最近は積極的に(殺意を持って)流と稽古に励んでいた。

 そんな彼女への助言は、

 

「次につむじ」

「ん」

「相手の意表を突くような動きは悪くない……が、如何せん自分の身を省みない攻め方をし過ぎだ」

「何が悪いの?」

「お前が最後の一撃と思って繰り出したもので仕留められなかったらどうする? 他人に任せるのか? いいや、違う。お前が仕留めなければならない」

 

 思い切りがいいのは、裏を返せば彼女が捨て身―――延いては自分に無頓着であるからだ。

 しかし、中には捨て身の攻撃に打って出ても倒せない敵が現れるだろう。

 その時に敵を倒せなかった場合、辿る結末は死のみ。

 故に如何なる攻撃においても“次”を考えながら動かねばならないのである。

 

 数秒、頭の中で木魚を鳴らして考え込んでいたつむじであるが、ようやく理解ができたのかこくりと首を縦に振った。

 

「わかった」

「どの攻撃も、次に繋げるられるようにと心得ておけ。常に最後の一撃と渾身の力を込めつつな」

「……ん」

「……刀だけで戦うにはお前の才が窮屈な思いをするだろう。戦いに使える小道具を手配するよう、鎹鴉で刀鍛冶の里の者に頼んでおこう」

「ありがとう……ございます?」

「ああ」

 

 鬼殺隊の武器はなにも日輪刀だけではない。

 各々の戦い方によって、武器も様々だ。

 しのぶがいい例だろう。彼女は専用の日輪刀の他に、靴に小さな刀を仕込んでいる。鬼に致命傷こそ与えられないものの、隙を生み出す小道具を仕込んでいる者は、鬼殺隊の中にもそれなりに居る。

 

 つむじの変則的な動きもまた、そういった者達に習い、鬼の間隙を突くような小道具が必要だろう―――そう考えた流は、彼自ら刀鍛冶の里の者に道具を手配することを告げたではないか。

 そんな流に、自分の為に便宜を図ってくれたと察したつむじは、たどたどしい目上の者に対しての感謝の言葉を告げた。

 

 苦節数か月。最初は感謝の「か」の文字も知らなかった少女が、曲がりなりにも感謝を口にしている。

 彼女を見つめる凛と燎太郎の瞳は、妹を見る兄か、はたまた娘を見る親のように温かいものであった。

 

 と、そんな二人の内の燎太郎に流の視線が向く。

 

「燎太郎。お前は以前よりも技の威力が増していた。そこは良いところだ」

「はい!」

「だが、狙いがまだ甘いところがある。特に動いている相手に対してはだな。それを自覚しているんだろう。お前は凛とつむじの二人が攻勢に出ている時、一歩身を引いて自分一人が攻めに出られる隙を見つけようとしている」

 

 図星を突かれたように燎太郎の顔が歪むが、流の助言は止まらない

 

「それでは折角の力も宝の持ち腐れだ。周りに気を遣い過ぎて自分の長所を発揮できないのは本末転倒だろうに」

「は……はい!!」

「お前の課題は太刀筋の矯正だな。それを克服できればお前はもっと伸びる」

「はい!!!」

 

 柱相手に「伸びる」と告げられた燎太郎は奮起。

 疲弊しきった体にも拘わらず勢いよく飛び上がった彼は、「うおおおお!」と雄叫びを上げて、倒れている凛とつむじの下へと駆け寄った。

 

「鍛錬だ鍛錬だ鍛錬だぁー!! やるぞ、二人とも!! 俺達はもっと高みへと昇れる!!」

「も、もうちょっと待って……!」

「お昼のが戻る」

「つむじ! 持ちこたえて!」

「喉まで来てる」

「桶ぇー! 桶は何処へぇー!」

 

 顔面蒼白となって嘔吐しかけるつむじの背を擦りながら、桶を所望する凛。

 そんな三人のやり取りを遠目から眺めていたしのぶは、深いため息を一つ落とす。

 

「今日はその辺りにしたらどうですか? お風呂沸かしておいたので、一先ず汗を流してきてください」

「……だ、そうだ」

 

 気を利かせて湯船を張ってくれていた模様のしのぶに、凛は安堵の表情を、燎太郎はやや不服そうな顔を、そしてつむじは戦慄したかのように目を見開いていた。

 というのも、

 

「さて……まずは東雲さん。貴方です」

「ッ……!」

「そんな目で懇願してもダメなものはダメです。不衛生は病気の元。嫌ならさっさと済ませちゃいましょうね~」

「ッ……!!」

 

 しのぶに捕えられ浴室へと連行されるつむじは、凛と燎太郎に助けを求めるような視線を送る。

が、しのぶの言い分ももっともなので―――そして彼女を怒らせると怖いので―――黙ってつむじを見送ることしかできなかった。

 

(頑張って、つむじ……)

 

 せめてもの激励を、凛は心で唱えた。

 

 しのぶがつむじの風呂嫌いに業を煮やしたのは、ここ最近の話。

 トラウマなんてなんのその。つむじを強引に浴室に連行し、彼女の頭のてっぺんからつま先までピカピカに洗うのが、しのぶの習慣になりつつある。その光景は水を嫌がる猫を連れていくそれだった。

 

 近頃は「面倒だから」という理由で、しのぶもつむじと一緒に湯船に浸かっているらしい。

 本人が無頓着なだけで、つむじはああ見えておめかしすれば中々端正な顔立ちだ。

 風呂場にうら若き美少女が二人。想像するだけで頭の中には花畑が広がるが、仔細を把握しようとするものならば、薬に何の毒を混ぜ込まれるか分かったものではない。

 

 なるべく邪な考えは捨て置き、凛と燎太郎は出来うる範囲での片付けに勤しむのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 つむじを一番槍に次々に入浴を済ませた三人は―――蝶屋敷にある来客用の部屋で、流と共に茶菓子を頬張っていた。

 茶菓子は流が気を利かせて買って来た物だ。

 基本的に鬼殺隊の給料は階級が上の者ほど高い。柱ともなれば、なんと欲しいだけ貰えるという羽振りの良さである。

 しかし、大抵必要最低限の物にしか金銭を用いない流は、今まで平隊士よりも少しばかり良い給料を貰っては、贅沢もせず貯金していた。その貯金を切り崩し、最近は頑張る三人に英気を養わせるために美味しい茶菓子を買ってきているという訳だった。

 

「ありがとうございます、流さん! いつもいつもお土産なんか買ってきてもらって……なんだか申し訳ないです」

「気にするな。元々使い道のない金だ」

 

 そう言って茶を啜る流に、凛は「そんな!」と声を上げた。

 

「流さんもこれから結婚とかして家族ができるかもしれないんですから、貯蓄があるのに越したことはないですよ!」

「家族……か」

「そうじゃなくても流さん自身、自分を労うのに色々使っていいと思いますよ! はい!」

「……そうか」

 

 邪気なく言い放つ凛に、思わず流も頬を綻ばせる。

 親に捨てられた日から、凡そ一般人が思うような幸せとは縁もゆかりもない人生を送るとばかり思っていた。

 それが今は後輩に所帯を持つよう勧められるとは、人生分からないものだ。

 

「……とは言えだ。やはり俺には縁の無い話。こうして食い物の差し入れをするくらいがちょうどいい」

「……そうですか。流さんがそう思うなら……あ、そうだ! じゃあ、今度は僕達で流さんに何かご馳走しますね!」

「なんだと?」

「この前、カナエさんに勧められて寄ったお店であいすくりぃむ? っていうのを食べたんですけど、とっても美味しかったんですよ! きっと流さんも気に入ると思いますから、皆で食べに行きましょう!」

 

 あいすくりぃむ―――もとい、アイスクリームとは巷で流行り始めた氷菓子だ。

 かき氷とも違う滑らかな舌触りと口融け。芳醇な香りが鼻を抜けた時には、舌の上で優しい甘さがふわりと広がる。まさに新感覚の甘味であった。

 凛が口述した通り、カナエに勧められて食べた三人は、その余りの美味しさに何回かおかわりした程だ。そして、凛を除いた二人が頭痛に苛まれつつ腹を下した。冷たい物の食べ過ぎは注意である。

 

 美味しさの反面、値は張るものの、一食の価値はあり。

 是非とも他の人にも知ってほしい味だと凛は語る。

 

 そうした熱い氷菓子の話を聞いた流は、数秒逡巡した後、「わかった」と頷いた。

 

「……時間が空いていたらな」

「はい!」

 

 後輩に奢られるといった約束をするのも初めてだ。

 どこかこそばゆくなるもどかしい感覚。しかし、不思議と不快感はない。

 

 もっとも、このように邪気のない満面の笑みで誘って来る相手を断るのも不作法だ―――と、流は自分を納得させるように心で言い聞かせた。

 

「楽しそうにお茶していますね」

 

 と、そこへやって来た女性。

 

「カナエさん!」

「こんにちは、みんな。伴田さんも一緒にお茶なんかして……すっかり仲良しですね!」

 

 柔和な笑みを湛えて参上したカナエは、部屋に腰を下ろしていた四人を見渡してから座る。今からどこかに出かけるような装いの彼女であるが、まだ出発までの時間はあるのだろう。

 

 そうして現れたカナエに対し、一旦「蝶屋敷の者達にも」と別に用意していた茶菓子を差し出す流。

 彼は、それから何とも言えぬ表情を浮かべてカナエに口を開く。

 

「俺はそんなつもりは……」

「隠さなくてもいいんですよ、伴田さん。最近はすっかり三人の面倒を看てばっかり。これで継子じゃないって言うんですから驚きですよ」

「だから俺は継子は取らないと……」

 

 言いかけたところで、凛の「え!?」という驚愕の声が上がった。

 

「僕ら、継子じゃなかったんですか?」

「待て。何を思って継子だと……」

「だって、柱の方は忙しいから継子以外には稽古をつけないって……こんなに稽古してくれたら……!」

「あらら。伴田さんが勘違いさせてしまったばっかりに」

 

 クスクスとおかしそうに口元を隠すカナエに、流は困惑するばかりだ。

 確かに言われてみれば継子と勘違いされてもおかしくない扱いをしていたが、当の流としてはそのつもりなどまったくなかった。

 

 ただ、ついつい気に掛けるような隊士に、その同期もくっ付いてきた為、半ば自然と三人とも稽古をつけていただけであり……、

 

「だが……三人など……」

「別に一人じゃなければ駄目という決まりもありませんよ。将来有望な隊士を守り育むのも柱の役目……折角ですから、正式に三人を継子として面倒を看てあげましょう!」

「待て。勝手に話を進めるな」

 

 うっかりすればカナエの調子に巻き込まれてしまうと、流は制止するように掌を控えめに突き出した。

 が、

 

「じゃあ、どうすれば継子にしてもらえますか?」

 

 残念そうな面持ちの凛の問いに、思わず流は口を噤む。

 そもそも取る気がないのだから、何をすれば継子にするという条件を提示する必要もないのだが、だからといって断固として付き返すのも忍びない。

 

「……俺に一太刀でも浴びせられるようになったら考える」

「成程! それなら頑張って流さんに剣を当てられるよう精進します!!」

「俺もだ!!」

「んぐっ……あむっ……」

「……つむじちゃんはのんびり屋さんね」

 

 奮起する凛と燎太郎の一方で、つむじは淡々と茶菓子を食べ進める。

 そんな彼女の頭にぽんぽんと手を置いたカナエであったが、「そろそろ……」と席を立った。

 

「これから任務ですか?」

「ええ。最近、私の警備区域で若い女の子が居なくなってるらしくてね」

 

 柱を出し抜き食人に走るとは、そこそこ隠密性に長けた鬼なのだろう。

 だからといって野放しに出来るはずもなく、まだ日も上っている内からカナエは警備区域に向かい、鬼の手がかりを探すとのことらしい。

 

「私も一緒にですよ」

「しのぶさん!」

 

 カナエに遅れてやって来たしのぶが、彼女に同行する旨を口にし、腰に差している日輪刀へ目を遣る。

 鬼の頚を斬れぬ彼女用に、刀鍛冶の里に住まう鉄珍という刀鍛冶が鍛えた極細の刀身を持つ刺突特化の日輪刀。特殊な仕組みの鞘では、納刀する度に毒の配合を変えられるようになっており、まさしく毒使いであるしのぶ専用の武器となっている。

 

 長いこと鬼を倒せぬことに苦悩していた彼女であるが、毒が完成してからはその悩みも和らいだのか、大分角が取れてきた。

 が、逆に当たりが強くなったような気がするのはまた別の話。

 

「藤の毒も実戦に通用する段階まで完成しましたからね」

「私はしのぶが来る案件じゃないって言ったんだけれどね……しのぶがどうしてもと駄々を捏ねるから……」

「ちょ……カナエ姉さん! 私は駄々なんて捏ねてない! いい加減なこと言わないで!」

「うふふっ、そんな怒らないで。姉さんはしのぶの笑った顔が好きだなぁ」

「じゃあ怒らせないでよ! 人前なのに、もう!」

 

 かんかんと怒りをあらわにするしのぶを前に、カナエの他にも凛も微笑ましそうな笑顔を浮かべる。

 しのぶは、身内以外に丁寧な言葉遣いを使う。言ってしまえば他人行儀なのだ。

 ある程度打ち解けた凛に対しても丁寧な言葉遣いは続いてしまっているが、だからこそ彼女が本来の口調になれる姉・カナエとの会話に新鮮さと微笑ましさを覚える。

 

 と、いつまでもニヤついていれば、これまたしのぶに叱られると、ほどほどの所で凛然とした顔つきに戻し、

 

「カナエさん。任務はしのぶさんと二人だけで行くんですか?」

「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」

「いえ、折角なら僕も一緒に行こうかなと」

「あら。でも皆はお休みなんでしょう? 気持ちは嬉しいけども、休める時にはしっかり休んでおかなきゃ」

 

 これから任務へ赴くカナエ達とは違い、本来凛達はこれから数日休暇のはずだった。

 激務をこなす鬼殺隊にとって、数少ない休暇は貴重そのもの。日頃の死闘の疲れを癒さなければ体がもたない。

 カナエとしては自分達の手伝いよりも、彼等自身の身を案じて欲しいところではあるが、

 

「いい考えだな!! 俺としては今すぐにでも伴田さん……いや、伴田の兄貴の教えを実行したいところだ!!」

「……兄貴?」

 

 燎太郎に兄貴と呼ばれ困惑する流。

 と、彼はさておき。

 

「でも……」

「あ、そうだ。カナエさんの警備区域って、前にあいすくりぃむの美味しいお店があるって言ってくれた場所ですよね?」

「うん? そうだけれど……」

「じゃあ、ちょうどよかったです! 流さんとあいすくりぃむ食べに行くついでに手伝いますよ! いや、なんだったらカナエさん達もご一緒に!」

「まあ。どうしようかしら」

 

 突然の提案に目を真ん丸と見開くカナエであるが、やぶさかではない表情だ。

 一方で、生真面目なしのぶは「ちょっと!」と眉間に皺を寄せる。

 

「氷室くん! カナエ姉さんも! 行楽に行くんじゃないんだから!」

「う~ん、でもねぇ。しのぶもあのお店お気に入りなんでしょう?」

「そういうことは言わなくていいから!」

 

 かき氷とも違う冷たくて甘いハイカラな食べ物は、どうやらしのぶもお気に入りの様子。

 そのことを知られ、一層「それなら!」と同行する意思を露わにする凛に、しのぶはやれやれと首を振る。

 

「その様子じゃあ、どれだけ行ったって着いて来るんでしょうね……分かりました。氷室くん達もどうぞご勝手に」

「やった! 流さんはどうしますか?」

「……話の流れを察するに、俺が居なければ話にならないだろう。もののついでだ。俺も任務に加わろう」

「はい!」

 

 流も同行することが決まった今、憂いなくカナエの任務に参加できるようになった。

 柱が二人も居れば、大抵の任務はあっさりと終わってしまうことだろうが、凛は柱に負けぬ活躍をしようとする意気が満ち満ちている。

 と、その前につむじに振り向き、

 

「つむじも来る?」

「どこに?」

「カナエさんの任務に。帰りにあいすくりぃむを食べに行くんだ」

「あいす……あの甘くて冷たいの?」

「うん」

「行く」

「分かった! じゃあ支度しよっか」

「ん」

 

 食べ物への執念が凄まじいつむじの同行も(当然のように)決まった。

 無理を言って同行を願い出た三人は、カナエ達を待たせないようにさっさと隊服に着替える等支度を整え玄関へ。そんな三人よりも早く支度を整えた流に驚かされたものの、こうして柱二名に隊士四人という少々過剰な戦力が揃った今、六人は現場である町へと赴くのであった。

 

 

 

 空は―――清々しいまでの青空であったが、雨も降っていないのに虹がかかっていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「それでは二人組になって探しましょう」

 

 そう口にするカナエの指示により、凛と燎太郎、つむじと流、カナエとしのぶの組み合わせとなり散開する面々。

 すでに日も落ちた町は、不気味なほどに人気を感じられない。連日人が行方不明になっている事件が起こっているのだから、夜分に出かけるのを控えていることは想像に難くない。

 

 閑散とした街並み。

 不気味に思えるほどの静けさの中、二人の跫音のみが晦冥の如き夜を駆け抜ける。

 

 しかし、数時間の捜索も虚しく手がかりは得られない。

 携帯している懐中時計を確かめれば、一刻も経たぬ内に夜が明ける時間になっているではないか。

 

「……」

「どうしたの、燎太郎?」

 

 何やら悶々としている様子の燎太郎。

 一体何が原因であるのか? もし原因が自分にあるのであれば―――と思い問いかけた凛に対し、彼は得も言われぬ表情で口を開いた。

 

「凛、お前はカナエさんと仲がいいのか?」

「カナエさんと? そうだね~。カナエさん、とっても優しいから……って、どうしてそんなこと聞くの?」

「いやだな、どうにもお前がカナエさんと話している時の雰囲気が俺達と違うものだから気になってな」

「違うって……どういう風に?」

「何というか、心を開いている! いや、今のお前が俺に隔たりを覚えてるという意味じゃないぞ? ただな、どうにも俺達とは違う方向性でカナエさんには心を開いている風にな……」

 

 言語化が難しい感覚を必死に言葉で紡ぐ燎太郎に対し、なんとなく察した凛は僅かに俯いた。

 

「確かに……カナエさんには気兼ねなく話せる話とかもあるよ。多分それじゃないかな?」

「それとはなんだ?」

「カナエさんは鬼相手にも同情してくれる優しい人だから―――」

 

 それから凛は自分の身の上話を簡潔に語った。

 特に鬼の胎から産まれたこと―――これがまた厄介なものであった。

 

「晴れて僕は日の下を堂々と歩けているけれど、時折どうしても思っちゃうんだ。自分は他人とは違うって。自分が鬼の子だって事実を忘れられなくなる」

 

 いつから意識するようになったのかは定かではない。

 しかし、近頃は不意に脳裏を過る―――自分と他人が違うという事実が。

 

「でも、カナエさんは鬼に同情して、その最期に哀れみを持ってくれる……そんな人相手だと気兼ねなく話せるんだ」

 

 どうしても拭えない疎外感。

 自分が鬼に同情し、哀れむ理由は、まさしく自分が鬼の胎から産まれたという経緯によるものだった。

 運命が違っていたならば、自分もまた鬼として生まれてきたかもしれない。そうでなくとも自分は間違いなく鬼の血を引いている。

 

 そうした時、鬼に苛烈な憎悪を覚える者や淡々とその命を切り捨てる者達の居る鬼殺隊に、ふとした瞬間居心地の悪さを覚えてしまうのだ。

 そんな中、鬼殺隊の中でも異端な考えを持っている―――鬼に哀れむ―――カナエであるならば、自分の身の上を全て理解した上で受け入れてくれると感じていた。

 

 カナエと()()()()仲が良い理由がこれだ。彼女の姉か、はたまた母のような包容力は、その母性を与えられなかった凛にとって渇望する程に甘美で蠱惑的であった。

 彼女との相談を経た凛は、鬼殺隊として一年以上戦い、とある疑問に答えを出した。

 それは一度カナエに告げられた言葉。

 

「僕は多分、皆程鬼を憎んでないから哀れむとか言えると思うんだ。そこがカナエさんや……燎太郎達と違う」

 

 真に美しいのは、カナエのような経験を経て尚、鬼に同情できること。

 一方で自分は()()()()大切な人を奪われていない。他の隊士と決定的に違う部分がそこであった。

 経験を伴わない思想程軽薄なものはない。

 自分の鬼に対する同情が、鬼を憎悪する経験の無さ故ではないかと考え至った凛は、己の立てた芯が酷く脆いものではないかと懐疑的になっていた。

 

 そして恐れる。ようやく手に入れた大切な者を失うことを。

 今、彼が強さを追い求める理由はそれだ。鬼を倒し人を救うことが目的だったはずなのに、いつの間にか自分本位な理由が原動力になってしまっている。

 

「こんな僕が鬼殺隊に居ていいのかな……?」

 

 薄氷を踏むかのような芯を抱き、鬼殺隊に入ってしまったのではないかと、凛はずっと悔悟していたのだ。

 

 全てを聞いた燎太郎は、これまた得も言われぬ難しい顔を浮かべて唸った後、それは深いため息を一つ落とした。

 

「―――俺の育て親は鬼だった」

「え……?」

「孤児を拾い育てる寺の和尚でな。どこから鬼だったのかは俺も定かじゃあない。だが、なんであれ鬼だった者に育てられたのは事実だ」

 

 予想だにしなかった燎太郎の身の上話に、凛は言葉を失う。

 悲痛な面持ちを浮かべる燎太郎は、徐に日輪刀の柄を握り、その余りの力に全身が震えていた。

 

「そんな育て親を……俺がこの手にかけた」

 

 空気が凍り付くような感覚を覚えた。

 普段はあれほど熱血な姿を見せる燎太郎が、ここまで落ち着いているのも実に不気味だ。だからこそ、彼の紡がれる言葉の一つ一つを聞き逃してはならないと意識させられる。

 

「人喰いの化け物だ。野放しには出来ないとな。だが、鬼だとしてもその人が俺の命を救ってくれた恩人であることには間違いない。俺は自分を納得させるようにしたんだ。鬼は悪だ。そもそも存在を許してはならない、とな」

 

 以前、燎太郎が口にした流儀―――鬼は悪。人間は救う。その考えの理由が語られた瞬間だった。

 自分の行いを正当化しようとする程にドツボに嵌る。ならば、難しく考えるのはやめよう。そうして鬼を絶対悪と見なすようにした。

 それが最も楽だった。恩人を手にかけた現実を直視せずに済む唯一の逃げ道だったのだ。

 

 凛とも違う凄絶な過去を経験した燎太郎は、遠い場所を見やるように面を上げる。

 

「今でもその考えは変わらない。まだまだ俺は弱い。己の過ちを認められる程強くはない。だからという訳でもないが、俺はお前やカナエさんのような考えを持った人が幾らか居てもいいと思うぞ」

「え……?」

「憎しみだけで鬼を狩っていると、いつしか鬼が人だったことを忘れてしまう。だからお前のような奴も居たら、そのことを忘れずに済む」

「そう……かな」

「ああ。きっと鬼だった人も浮かばれるだろう」

 

 その言葉にハッとして燎太郎の横顔を見つめるが、当の彼は凛に対してそっぽを向いている。

 それから少しばかり顔を手で覆ってから、パンパンと頬を叩き、気合いを入れ直す。

 

「っと、辛気臭い話になってしまったな!! 気を取り直して鬼を探すぞ!!」

「っ……うん、そうだね。ねえ、燎太郎」

「ん? なんだ」

「ありがとう」

「……やめろ! そんな尻の穴が痒くなるようなことを―――っ!?」

「どうしたの?」

 

 突然深刻そうな面持ちを浮かべた燎太郎を怪訝そうに見つめる凛。

 すると彼は不意に袖を捲り、ポツポツと発疹が浮かび上がり赤く染まった肌を露わにしたではないか。

 

「鬼気……!」

「え?」

「そう前の話じゃない! 少し前にここを鬼が通った!」

「なんだって!?」

 

 感じた鬼の気配を追うように駆け出す燎太郎を、凛もまた追いかける。

 一体どうやって鬼を察知したのか―――そう問いかけようとした凛に被せる形で、燎太郎が口を開く。

 

「言っていなかったが、俺は鬼の気配に敏感でな! いや、過敏故に発疹が出る始末だ! 痒くて堪らん!」

 

 掻痒感。それこそが燎太郎の突出した感覚であった。

 “痒み”によって、それ以外の感覚では感知できない鬼の存在を察することができる。凛とはまた違う方向で探知に秀でているのだ。

 そのような彼に行先を任せる凛であるが、段々表情が険しくなっていく燎太郎に、怪訝そうに眉を顰める。

 

「燎太郎?」

「遠い? いや、こんなにも……しかし」

 

 うわ言のようにボソボソと喋る燎太郎であるが、その平静で居られず頬に冷や汗を流す彼の様子の訳を、凛はすぐさま理解する羽目になった。

 

 案内を任せて進む最中、尋常ではない“熱”が肌身に襲い掛かる。

 

(なん……だ、これ……?)

 

 通りの角の奥から感じ取った“熱”。

 今まで感じ取ったどの鬼の“熱”よりも冷たく、一歩踏み出すことさえ躊躇われる近寄り難さを覚えた。

 不用意に近付けば―――死ぬ。

 予感ではない、これは確信だ。

 鬼と対峙した瞬間、凍えるような冷気に充てられた全身が凍り付き、白い骨の茎の先に裂けた肉の合間から血の華が咲くことになるだろう。

 

 よもすれば吐きだしてしまいそうになる重圧を覚える二人。

 膝は震え、あと一歩先に踏み出す勇気が出てこない。

 それほどまでに隔絶した実力の差というものを、遠く離れた場所からひしひしと感じ取っていた。

 自分達の手に負える相手ではない。ここは一旦退き、流かカナエのどちらかを呼びにいかねば―――そう思った時であった。

 

「この音は……!?」

 

 恐怖で立ち止まっていた凛の耳に届く、金属がぶつかり合う甲高い音。

 すでに誰かが戦っている。

 この鬼気を有す相手に()()()者など、数は限られる。

 

「っ……!」

「おい、待て凛!!」

 

 震える膝を殴りつけ、やっとの思いで駆け出した凛。後ろから燎太郎の制止する声が聞こえてくるが、それを聞く余裕もないほど焦っている凛は、とうとう通りの角を曲がってしまった。

 

 濃密な鉄臭さと凍える冷気が鼻をつく。

 とある人影の奥には、口から血を流し膝を着いているカナエと、そんな彼女に泣きながら駆け寄るしのぶの姿が見えた。

 

「―――おやぁ?」

 

 男だろう。

 不気味なほどに白い髪は白橡のよう。

 こちらを見据える瞳には虹が宿っているかのような虹彩を収めていた。

 

 一見、醜さよりも美しさの印象が先に来る鬼。

 だが、頭から血をかぶったような血生臭さと、にこにこと屈託なく笑う様が、どうしようなく不気味であった。

 

「増援の子かな?」

「っ……!」

「あー、可哀そうに。声も出ないくらいに怯えてしまって。なに、そう不安がることないぜ? なんたって俺は優しいからなぁ」

 

 血が纏わりついた鉄の扇を舐る鬼。

 その間もこちらを見据えている鬼であるが、まったくといっていい程に感情を読み取ることができない。

 空虚だ。

 その鬼の居る空間だけ、ぽっかりと“熱”が浮いてしまっている。

 余りにも異様。それを感じ取ったのと同時に、鬼の瞳の数字をようやく確かめることができた。

 

 上弦―――弐。

 

「おっと、自己紹介しなくちゃな。俺は童磨。よろしくな!」

 

 骨の髄までしゃぶり尽くされそうな予感が、寒気となって全身を蝕む。

 

―――なんだ、この冷たさは?

 

 命の灯が消えた死体を彷彿とさせる“熱”が、凛の体の末端をかじかんでいるかのように震わせる。

 

 ひたり、ひたり。

 終わりの足音が背後に忍び寄る幻聴が聞こえた。

 

 

 

 暁闇に佇む中、朝日をこれほど待ち遠しいと思った時はない。

 どうか、夢ならば醒めて欲しいと。

 



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拾壱.浮雲朝露

 濃厚な死の臭いが場に充満している。

 

(こんな鬼が……!)

 

 今まで相対した鬼とは格が違う。

 すぐにでも逃げだしそうになる衝動が胸の内に渦巻くが、血を流すカナエと涙を流すしのぶの姿を目にし、欠片ほど残っていた闘争心を奮い立たせる。

 

「ッ……鬼殺隊、階級“庚”!! 氷室凛だ!!」

「おやおや、これはまた丁寧にありがとうね」

 

 緊張や恐怖、その他諸々の感情が入り混じり強張っている凛とは裏腹に、にこやかな笑みを湛える童磨はそう口にした。

 

「ん~、でも君は男の子かぁ。女の子の方が栄養たくさんあって美味しいんだよねぇー」

「……は?」

「ん? 言ってる意味がわからなかった? いや、いいぜ。こういうのはしっかり説明してあげなきゃな」

 

 鬼とは思えぬ穏やかな口調のまま紡がれるのは、聞くに堪えない悍ましい鬼の食性だった。

 

「誰にだって好き嫌いはある。俺にも好き嫌いがあって、男より女の方を好んで食べるっていう簡単な話さ」

 

―――だから、さ。

 

 含みがある言い方で、童磨は倒れるカナエの方を見やった。

 

「綺麗な子だよねぇ。是非とも食べてあげたいと思ってたところなんだよ。そうなれば皆幸せだろ?」

「……どういう……意味……」

「鬼は不死。なら、鬼に喰われた人間も鬼の血肉となって永遠を生きられる。喰われた人間は今生の苦しいことや辛いことから逃げられるし、俺の体の一部になって永遠を生きられる。これって幸せだろ?」

 

 さも当然。そう言わんばかりの物言いに、次第に凛の顔から血の気が引いていく。

 

 こいつは何を言っているんだ?

 頭がおかしいんじゃないのか?

 言っている意味が一つも理解できない。

 

 噛み砕くことも叶わぬ内容に唖然としていた凛であったが、次第に沸々と、死の予感よりもたらされる寒気を上回る赫怒の熱が全身を巡り廻る。

 

「……お前の考えは身勝手だ……反吐が出る……!!」

「えー。辛辣だなぁ」

「命を!! 何だと思ってるんだ!!」

「何って……言っただろ。俺にとって人間は食べ物。好き嫌いはあるけど、しっかり残さず食べてあげるんだぜ。当然だよなッ!」

「そんな弄ぶような真似を!!」

「んー。じゃあさ、君らは牛や豚とかが可哀そうだからって、喰べる部分だけそぎ落とす訳? おいおい、そりゃないぜ。そっちの方がずっと残酷だろ?」

 

 「想像するだけで痛い痛い」とおどけたように童磨は応える。

 その一挙手一投足が凛の神経を逆なでた。

 

 こいつは口先だけ。大層な御託を並べたところで、心の奥底ではなんとも思っていない―――そのような“熱”を感じる。いや、“熱”を感じられないからこそ、そう断じた。

 そして不意にしのぶへ目配せをする。

 

―――逃げて。

 

 負傷したカナエをこの場から連れ出す。それこそが最優先の事項だ。

 

(十二鬼月……上弦……どれだけ時間稼ぎができる……!!?)

 

 柱でさえ倒されてしまう相手に自分が稼げる時間等はたかが知れている。

 それでも、失いたくないという一心を体が突き動かす。

 

(一瞬も気を緩めるな!! じゃなきゃ、死―――)

 

 刹那、視界から童磨の姿が消えた。

 瞠目する暇も惜しい。息をするのも忘れ―――それでも常中を会得していたお陰で強化されていた―――体が自然と動く。

 

 金属が衝突する甲高い音が悲鳴のように、宵闇の空に響きわたる。

 一瞬爆ぜた火花に目が眩むのも束の間、凛の視界には月光を照り返す刀身が墜落する光景が映った。

 弾かれるように、無意識の内に自身が振り抜いた日輪刀に目を遣る。

 折れていた。

 次第に平静を取り戻す思考が、柄を握る手に広がる痺れと、同時に右肩に奔る猛烈な痛みを覚えさせた。

 

 舞い散る血飛沫が頬に血化粧を施す。

 

「え……?」

「わっ。柱でもないのに大した動きだねー。まあ、刀は折れちゃったみたいだけどさ」

「っ―――」

 

 サッと顔から血の気が引くと共に、全身に虚脱感が襲い掛かる。

 堪らず膝から崩れ落ちた凛は、斬られたと思しき右肩に手を当て、必死に止血を試みる。

 

(止血の呼吸を……! 流さんに教えてもらったんだ……! 早く……早く……!)

 

 気を抜けば失血で死にかねない状況。

 それ以上に背後に上弦の鬼が居るともなれば、本来は一瞬でも隙を晒すべきではない。

 

 しかし、一方で童磨は「ん?」と頓狂な声を漏らし、舌なめずりをする。

 

「美味しいねえ! なに、君ってもしかして稀血かな? わぁー、これぞまさしく僥倖ってね! 俺も稀血の子はあんまり食べたことがないからさ……って、あれ?」

 

 返り血を舐り味わっていた童磨であったが、ゆっくりと凍り付く舌先に首を傾げる。

 

「なにこれ? 俺のじゃないよね。となると君のか。人間なのに血鬼術みたいな能力があるんだね! 凍らせるのか。うーん、新感覚……癖になりそうだな。そうだ! 俺が紹介してやるからさ、君も鬼になってみないか? 鬼は楽しいぜ? 老けないし病気にもならない。人間よりも辛い目に遭わずに済むんだ」

 

 胸に手を当て、穏やかな笑顔を浮かべている姿は、一見慈悲深い男のように見える。

 

―――とんだ役者だ。

 

 血反吐を吐きだしそうになりながら、俯いた凛は震えた声で紡ぐ。

 

「僕が……鬼に……?」

「ああ。俺が紹介して鬼にさせてもらった奴も、今は人生楽しんでるぜ!」

「……」

「どうだ? 悪い話じゃないと思うんだけどなー」

 

 後ろから凛の肩に手を置く童磨は、ヘラヘラと笑いながら勧誘を勧める。

 いや、勧誘とは言ったものの、実際のところは脅迫に近い。鬼になることを断ればすぐにでも殺される。現にそれだけの実力差を思い知らされたのだから、誘われている者にしてみれば内心平静ではいられないだろう。

 

「君も鬼になろうぜ」

 

 甘い囁きが鼓膜を揺らす。

 

「っ……氷室くん!!」

「待ちなさい、しのぶ……っ!」

 

 絶体絶命の友人の姿を前に、堪らずしのぶは抜刀して駆け出す。

 そんな彼女を制止するカナエもまた、童磨に刻まれたと思しき傷を押して動き出した。

 

「さあ―――」

 

 最後通告。

 血生臭い口から発せられた誘いを耳にした凛は、ゆっくりと振り向き

 

―――ブッ。

 

「わっ」

 

 童磨の顔面に、口に含んでいた血を霧状にするように吹きかけた。

 一気に血塗れになる童磨の顔。瞬く間に彼の顔面は凍てついていく。

 完全に虚を突かれ、僅かに後退する童磨に対し、凛は傷口から血が噴き出すのも厭わず―――否、寧ろもっと噴出させることで眼前の鬼を凍らせんと、全力で日輪刀を振るった。

 

 血塗れの折れた刀身は赫刀のように煌き、童磨の頚を狙いすませて宙を奔る。

 

「巫山戯たことを……抜かすなああああああああああああ!!!」

 

 世界にどれだけ鬼になることを望んでなかった鬼が居るか。

 その中で、自分の可愛さを理由に鬼と化すことを所望するのがどれだけ愚かしいことか。

 そして、そんなこともわからず鬼殺隊士を勧誘することが、どれだけ自分を侮辱する真似か。

 

 恐怖や焦燥を払いのける赫怒が、凛の全身に満ち満ちる。

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 怒りの一閃が迸る。

 一方、凛に駆け寄ろうとしていたしのぶもまた、童磨が晒した隙を察して構えた。

 

 蟲の呼吸 蜻蛉(せいれい)(まい) 複眼六角(ふくがんろっかく)

 

 しのぶが、自身の戦い方に合わせ編み出した呼吸法・蟲の呼吸。

 蝶の如き華麗で機敏な動きと、蜂の如き鋭い刺突により、敵を貫き、毒殺する特徴的な呼吸である。

 上弦の鬼に対しどこまで通用するか分からないものの、試さなければ何も分からない。

 何より、この隙を見過ごせば凛が殺されてしまう。

友を見殺しには出来ない―――その想いが、直情的なしのぶを突き動かすに至っていた。

 

 が、

 

「吃驚―――したなぁ」

「くっ!?」

 

 眼球の表面が凍っているはずの童磨が、凛の一閃を鋭い鉄扇で軽く受け止める。

 鬼としての身体能力の高さは勿論のこと、相手は上弦。負傷している身の凛では敵の防御を突破するには力が足りなさ過ぎた。

 

「いやはや。でも、やっぱり君を鬼にしときたいな。なんだって、俺達似た者同士だしな!」

「なにを……!」

「証拠にほら。俺の血鬼術」

「!! しのぶさん、危ない!!」

 

 鉄扇を構える童磨。

 それと同時に、彼の周囲が瞬時に凍えていくことを感じ取った凛が、攻撃を繰り出そうとするしのぶ目掛けて飛び込み、無理やり止めてでも童磨との距離を離そうとした。

 

 自分の鋭敏な温度感覚が告げている。

 近付けば―――間もなく凍死する。間違いない。凍りついた挙句、全身が裂けて血塗れになる未来がありありと見えるようだった。

 

 その予感を現実にせんと、童磨の周囲に氷の蓮の花が咲き誇る。

 

 血鬼術 蓮葉氷

 

「っ……あ゛あ゛ッ!!」

「氷室くん!?」

 

 寸前でしのぶを庇った凛は、童磨の近くに居た所為か、背中の大部分に冷気が直撃した。

 鋭い激痛を覚えるも、次第に感覚が薄れていく。危険だと全集中の呼吸で少しでも体温の上昇を図ろうとするが、それでは肩の傷から血が溢れ出す。

 この危険な状況を脱するには、呼吸で肩の止血を試みる一方で、体温上昇を図らなければならないが、

 

「ダメだ……しのぶさん、逃げて……!」

「そんな……こと、できるはずないでしょう!!」

 

 相手が悪過ぎると撤退を促す凛に対し、しのぶは反発する。

 これだけ距離が近ければ、今から自分だけ逃げたところでやられるだけ。それを知っているからこそ、今度は凛を庇うような位置を取って日輪刀を構えた。

 

「う~ん、美しい友情って奴だな! 羨ましいぜ」

 

 そんな二人の姿を讃えるような言い草をする童磨であるが、当の二人からすれば嘲笑以外の何物でもない。

 

「でも、そっちの男の子苦しそうだしなぁ。どうする? なんなら一思いに二人とも首を落として―――」

 

 と、語を継いでいた童磨と二人の間に割って入るカナエが刃を振るう。

 

 花の呼吸 陸ノ型 渦桃(うずもも)

 

 妹とその友人に歩み寄る鬼を突き放さんとする斬撃。

 思わず魅入ってしまいそうな程に華麗な剣舞は、童磨を引き下がらせるのみならず、周囲に溜まっていた冷気を払いのけていく。

 それは童磨の血鬼術が冷気によって相手を凍らせるものである故、少しでも冷気を寄せ付けぬようにと、僅かな手がかりを元にカナエが打って出た行動であった。

 しかし、その代償としてカナエの傷口は悪化していく。柱として洗練された呼吸法を持ってしても、無理を押していることには違いなかった。

 

「う……ごほっ!」

「カナエ姉さん!」

「しのぶ……氷室くんを連れて逃げるの」

「で、でも!!」

「しのぶ」

「!」

 

 いつもとは毛色の違う落ち着いた声に、しのぶは思わず固まった。

 こんな姉の声は聞いたことがない。そして、それだけ切迫した状況であるということを理解せざるを得なかった。

 

「―――お願い」

 

 嘆願のように紡がれる声が静かに響く。

 瞠目し、今にも泣き出しそうな表情を浮かべたしのぶは、

 

「―――氷室くん、肩を貸すわ……早く手当をしなくちゃ!!」

「っ……カナエさんっ!!」

「……私が()()()()()から」

 

 カナエが告げる言葉が、暗に何を意味しているのか。

 それを察した凛は、自分の傷を厭わず声を荒げる。

 しかし、最早自分で体を動かすことさえ叶わない状態では、しのぶに連れて行かれるがままだ。

 

 ただ見ることしかできない。

 遠のいていく背中を。

 母のような温もりを与えてくれた人を。

 

「待っ―――」

 

 手を伸ばす。どれだけ伸ばしても届かぬ場所へ行ってしまいそうな背中を求めて。

 

 

 

 その時、空で光が流れた。

 

 

 

 水の呼吸 捌ノ型 滝壺

 

 

 

 風が逆巻く音が鳴り響いたかと思えば、舞い降りた人影が童磨目掛けて紫電を走らせる。

 

「おっとっと」

 

 怒涛の斬り落としを軽やかな身のこなしで躱す童磨に対し、現れた人物は羽織を靡かせつつ、更なる追撃を繰り出す。

 

 水の呼吸 参ノ型 流流舞い

 

 流れるような舞いと共に繰り出される剣閃が童磨に迫る。

 その斬撃に対し、童磨は両手に持っている鉄扇で防御を試みる。が、

 

(剣の軌道が……不規則!!)

 

 受け止めるべく構えた鉄扇の合間を縫うように、刃が童磨の頚を狙うように滑り入る。

 

「!」

 

 あともう少しで刃先が頚に達さんとした時、刃を振るう人影は咄嗟に飛び退いた。

 それは童磨の周囲に咲いていた氷の蓮から、蔓のように氷が伸びていたからだ。あのまま振るえば、刃が頚を断ち切るよりも前に腕が凍らされ、鬼を倒すことは叶わなくなっていた。

 

 刹那にも等しい攻防の中で引き際を見極めた人影は、カナエの前にて呼吸を整え、口を開いた。

 

「無事か」

「伴田さん……!」

「燎太郎が呼びに来てな。つむじはあいつに任せて先に来た」

 

 水柱、伴田流。

 盲目に右手が義手、両脚が義足の身でありながら柱を務める、鬼殺隊随一の鬼才を有す男。

 

 彼の救援に、緊張で強張っていた体が僅かに解れるカナエ。

 しかし、すぐさま気を取り直して日輪刀を構えて見せる。

 

「十二鬼月……それも上弦の弐です。伴田さん、しのぶ達は引かせてここは私達で……!!」

 

 盲目の流に代わり、敵の階級を告げるカナエ。

 その瞬間、僅かに流の目が見開かれるものの、すぐさまいつも通りの雰囲気に戻った流は「そうか」と端的に応えるだけだった。

 

 ここ百年討伐を果たせていない上弦の鬼―――それも上から数えた方が早い階級の相手に対し、柱一人では心許ない。

 例え傷を負っているとしても、流に加勢するべきだろう。

 

 そう考えたカナエであったが、

 

「お前は撤退しろ」

「え……!?」

 

 まさか撤退を推奨されるとは思っていなかったカナエが、面喰らった顔を浮かべる。

 が、畳みかけるように流が語を継ぐ。

 

「呼吸の乱れで分かる。お前は重傷だ。すぐにでも手当しろ。そして鬼殺隊に上弦の鬼の情報を持ち帰れ」

「で、ですが……貴方一人を……」

()()()()()

「!!」

 

 それ以上、流が口を開くことはなかった。

 

「んー、君も柱かな? 今日は色々ある日だなあ。どうする? 二人で来る? それとも一人?」

 

 一方、童磨はと言えば凍てついた顔面を鉄扇こそぎ落とし、凍結部位を剥がすことで顔の再生を完了していた。

 凛が決死の覚悟で作った猶予もなくなったことで、ここからは純粋に流の実力で立ち向かわなければならなくなった訳であるが、百年不倒の上弦の鬼を目の前にしても尚、流の心には波風一つ立ってはいない。

 

「……水柱、伴田流。お前を滅殺する」

「水柱か! うんうん、俺が今まで殺してきた鬼殺隊の中でも水の呼吸使いは多かったな―――」

 

 水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き

 

 話を遮るように繰り出された、水の呼吸最速の突き。

 それは童磨さえも慌てて身を傾ける程に洗練された刺突であった。

 

「っと、義足とは思えない速さだ!」

「……」

 

 水の呼吸 肆ノ型 打ち潮

 

 冷静に流の体を観察する童磨に対し、大波を打ち付けるかの如く放たれる一閃。

 しかし、童磨も守勢に徹するばかりではない。

 

「目も見えてないのに凄いなあ。いや、可哀そうだ。そんな五体不満足な体で(おれたち)と戦ってるなんて、可哀そう過ぎて涙が出てきそうだ」

 

 血鬼術 枯園垂(かれそのしづ)

 

 冷気を纏った鉄扇で、真正面から童磨と刃を交える流。

 童磨の言う通り、本来であれば鬼と戦うことすら叶わぬ体だ。過去にも片足を失い柱を引退した隊士は居る。にも拘わらず、流は現役の柱であり、上弦の鬼と対等に戦えている。それがどれだけ凄まじいことか。

 

 ここまで僅か数秒にも満たぬ攻防。

 一連の流れを観戦していたカナエは、血が滲む出るほどに唇を噛みしめ、踵を翻す。

 

「待っていてください! すぐに応援を……!」

「おっと、逃がさないよ」

「させると思うか」

 

 水の呼吸 陸ノ型 ねじれ渦

 

 撤退するカナエに追い打ちをかけようとした童磨に、それを許さんと、彼の標的を自身に向けざるを得ない程の猛烈な斬撃を繰り出した。

 これには童磨も応戦せずには居られない。

 

「んー、あんまり邪魔されたくないんだけどなー」

「……」

「寡黙だねぇ。ま、いいや。君も幸せにしてあげるよ。そんな体じゃ生きてるの大変そうだしね」

「断る」

 

 口を噤んでいたかと思えば、間髪入れずに応答する流。

 鬼との戦いの果てに光を失ったはずの瞳は、確かに眼前の童磨に対し眼光を走らせ、逃がさんと言わんばかりに彼をねめつける。

 

「俺は……お前に哀れに思われるほど不幸じゃない」

「そんな強がらなくてもいいのに」

「生憎、お前と俺では幸福に対する価値観が違う。俺は死を救済とは思わない……これ以上の問答は無意味だ」

「えー」

「だが、一つ教えてやる」

 

 まだ喋り足りないと言わんばかりに眉尻を下げる童磨に対し、凛然と構える流は告げる。

 

「本物の不幸に見舞われた者は、自らの意思で何かを選ぶ事などできないものだ」

 

 それはかつて自分を拾い上げ、剣士として育ててくれた者の言葉。

 そして、

 

「俺がお前と戦うのは他でもない……俺の意思だ」

 

 自分の戦う理由を思い返す。

 一つは國一番の剣士となる為。

 もう一つは、

 

―――流さん! わぁー、会いたかったです!

 

―――言われた通り……一万回……素振りしてきました……!

 

―――僕もいつか流さんみたいに強い剣士になれるよう頑張ります!

 

―――流さんは國一番の剣士になるんですよね?

 

―――じゃあ、流さんを超す剣士になれたら、僕が國一番の剣士になれるんですかね? あはは!

 

―――その時は、僕が流さんを……皆を守りますから!

 

 不意に脳裏を過る、自分を慕う者の声。

 その声が久しく忘れていた感覚を呼び起こす。

 

 

 

―――誰かを想う心こそが、無限に突き進む原動力だったと。

 

 

 

「っ!!!!!」

「おっと!」

 

 光を宿さぬ瞳が刮目したかと思えば、一瞬の内に流が童磨との距離を詰めた。

 目を見張る疾さに驚嘆した面持ちの童磨は、次々に繰り出される正確無比な斬撃を両手の鉄扇で受け流していく。

 

 壮絶な剣戟だった。

 彼等だけが別次元に存在しているかのような時の流れを錯覚させる速さで動き回り、命を賭けて刃を振るう。

 刃が交わる度に、鉄火が爆ぜ、金切声に似た金属の悲鳴が響き渡った。

 その他にも、激しい衣擦れの音や羽織りが靡く音、地面を踏み穿つ轟音が立て続きに、白み始める空の下で奏でられる。

 

「本当に凄いよ、君。義肢なのにそんなに動けるだなんて、人間も舐めた目で見るものじゃないね」

 

 死闘の最中でも笑顔を崩さぬ童磨。時折体を掠める刀傷も、鬼の身をもってすれば傷の一つにも数えられない。

 上弦相手にここまで食らいつく流の剣技も相当であるが、それ以上に彼の剣をいなす童磨の地力もまた驚愕に値すべきものだ。

 加えて、童磨の血鬼術がまた厄介だった。

 体が凍えればそれだけ動きのキレが悪くなる。そうなれば上弦相手には隙を晒したも同然―――すなわち、死に直結するのだ。

 

(夜明けも近い……時間はかけられない。ならば)

 

 童磨から()()()()()のではなく、彼に()()()()()()()道を進もうとする流は、ここぞとばかりに大きく息を吸った。

 全身全霊を以て頚を斬る。

 その流の意気は、童磨に彼の背後に龍が佇んでいると幻視させた。

 

 

 

 全集中・水の呼吸 拾ノ型 生生流転

 

 

 

 斬撃を重ねるほど威力の増していく、水の呼吸の奥義に等しい型で、童磨の鉄扇ごと彼を斬らんと肉迫する。

 その闘気には童磨も後退り、血鬼術を繰り出して迎撃を試みるほどだった。

 しかし、流へと延びる氷の蓮の花は次々に斬り砕かれ、粉々になって辺りに散らばっていく。それに伴い辺りの気温が一層低くなるが、流は構わず突き進む。

 

 距離を詰める僅か数秒の間に振るった斬撃は二十にも及ぶ。

 それだけ回転を重ねた斬撃は、童磨の有す鉄扇をも斬り裂く―――まさしく斬鉄剣と呼ぶに等しい威力を秘めていた。

 

 これで決着はつく。

 どちらに転んだとしても―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「動きが鈍ってるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 血の香りが鼻をつく。

 唐突に体を軽く感じたのは、多量の血が噴き出たからだけではない。

 

(腕が)

 

 どれだけ凍てつこうこと握りしめていた日輪刀の感触を感じることができない。

 

(肩から先が)

 

 ボトリと生々しい音が鼓膜を叩く。

 その際、同時に聞こえてきた金属音から全てを察した。

 

「―――」

「うわーッ!! 斬り飛ばされた腕でも刀握ってるよ。凄い執念だねぇ。でも、その体じゃあ拾いあげることなんてできなくなってしまったな。可哀そうに」

 

 流の左腕を斬り飛ばした童磨の軽薄な声音が響く中、流はゴロゴロと血が転がる肺の音に耳を傾けた。

 

(成程。奴の冷気そのものが呼吸器に干渉して……)

 

 鬼殺隊の戦法の要たる全集中の呼吸にとって、天敵といって過言でもない能力。

 短い時間ながらも、童磨を倒さんと近距離で戦っていたのが仇となったか―――流は血の気が失われ、体の感覚が薄れていく中で省みる。

 

(ヘマを……踏んだな)

 

 功を急いたか―――それが命取りだった。

 

(伴田……さん……)

 

 ふと、心の中で呼ぶ。

 

『一緒に行く道は……』

『地獄の道だ。苦しい事しかないだろう』

『その道を行った俺はどうなる』

『この國にいる誰よりも強くなる』

 

 長く暗闇しか映さなかった瞼の裏に、恩人との日々が走馬燈のように蘇る。

 親に捨てられた自分を教え導き、結果的に柱になる礎となった人物を。

 

(震えながら蹲っていた俺が……こんなに戦えた……誰かの願いを叶える事ができた……)

 

 最終選別で一人の受験者を守り抜いたが為に右手と両脚、そして両目から光を失っても、彼のことを恨んだことなどない。

 

(伴田さんが強くしてくれた……育てて、くれた……)

 

 そして、誓ったのだ。

 無様になろうとも、自分に力を育ませてくれた彼の力を証明すると―――勝ち続けることで。

 

 

 

 鬼殺隊の“柱”になると。

 

 

 

「―――ッッッッッ!!!!!」

 

 雄叫び。

 凍える大気を震わせる声を迸らせる流が、勝ったものだと油断していた童磨に肉迫する。

 

 しかし、尚も童磨は動く気配を見せない。何故ならば、流の左腕はないのだから。剣を握る腕がない以上、警戒しろという方が無理な話だ。

 

 もっとも、流の()()に気が付くまでの話だが。

 

 袖の長い羽織が唸る風に煽られて捲られた。

 刹那、覗いたのは深い青色に染まった刀身―――日輪刀だ。

 

(仕込み刀!!)

 

 完全に意識の外であった流の義手。その義手は、()()()()()として仕込み刀―――材質は日輪刀と同じ―――を収めているのだった。左腕が斬り飛ばされた以上、残る武器はそれしかなかった。

 まさしく最後の手段であり、流の鬼殺に対する執念の象徴と言っても過言ではない武器だ。

 

 虫の息とは思えぬほどの速さで肉迫する流は、童磨の懐へと入り込み、その仕込み刀を頚目掛けて振り抜く。

 

 

 

 水の呼吸 壱ノ型 水面斬(みなもぎ)

 

 

 

 決死の、一撃。

 

 

 

 ***

 

 

 

 殴られたかのような鈍痛を覚えると共に目が覚めた。

 

「ぁ……」

「! 氷室くん!」

 

 肺から空気が漏れるように出た声に反応したのは、カナエの体に包帯を巻いていたしのぶであった。

 手際よく巻き終えた彼女はすぐさま凛の元に駆け寄り、心配そうに顔を覗きこんでくる。

 

「だ、大丈夫……!? 途中で意識を失ったから、私……!」

「……流さんは!?」

 

 涙目になるしのぶの言葉に耳を傾ける途中、気を失う前の記憶を思い返し、居てもたっても居られないと飛び起きる。

 と、同時に肩に鋭い痛みを覚え、再び地面の上に寝転ぶ形で悶える目に遭う。

 どうやら現在地は人通りの少ない路地のようだった。そこで負傷した凛とカナエを護衛するように、前と後ろに燎太郎とつむじが日輪刀を構えて立っている。

 「目が覚めたか!」と声を上げる燎太郎に対し、つむじはどこかそわそわとした様子を見せつつ、周囲に警戒を払っていた。

 

 だからこそだ。唯一この場に居ない人物の安否が気になる。

 

 そんな凛の問いに答えるのはカナエだった。

 

「伴田さんは、私達を退かせるために上弦の鬼と一人で戦っています」

「……一人、で……」

「ですが、応急処置も済んだ以上、私は加勢に戻るつもりです」

「カナエ姉さん!?」

 

 流の元に赴く旨を告げるカナエに、今度はしのぶが声を荒げた。

 

「そんな体なのに戻って戦おうだなんて……死にに行くようなものよ!!」

「しのぶ、あの鬼の能力は手当の間に話した通りよ」

「姉さん!!」

「しのぶ」

 

 悲痛な声を発するしのぶに対し、カナエは酷く落ち着いた声音で紡ぐ。

 皆までは言わない。しかし、姉の柱としての責任感を覚えさせる真っすぐで澄んだ瞳に、しのぶは何も言い返すことができなくなってしまった。

 

「ごめんね、しのぶ」

 

 俯く妹に端的に謝るカナエは、意を決して立ち上がった。

 と、その時だ。

 

「! 音が……」

 

 瞠目するカナエは今一度耳を澄ませる。

 が、先ほどまでけたたましく鳴り響いていた戦いの音が、めっきりと聞こえなくなってしまったのだ。

 

「まさか、もう……!?」

 

 戦闘の終結。それが意味するものは何か。

 最悪を想定したカナエは血相を変えて駆け出していった。負傷しても尚、この速さ。流石は柱だ。

 

 しかし、彼女に負けじと傷を押して立ち上がる凛が、全身に襲い掛かる激痛に歯を食いしばりながら耐え、カナエの後を追おうとする。

 

「流……さん……!」

「氷室くん! 動いたら駄目よ! 傷が開くわ!」

「それでも……行かなくちゃ……!」

「氷室くん!」

 

 最早悲鳴に近いしのぶの訴えを聞いても尚、凛は弱弱しい足取りで流の下を目指す。

 ここまで強情な彼の姿はしのぶも初めて見た。

 だが、だからと言って行かせる訳にもいかず、キュッと凛の袖を掴んで止めようとする。

 

「お願い、だから……」

「……!」

 

 また大切な人々を失いかねない状況を心の底から恐れているしのぶの様子に、凛の歩みも思わず止まった。

 

「―――ごめん、なさい」

「!」

 

 それでも凛は歩み始めた。

 

「待て! お前という奴は……!」

 

 鞘を杖代わりに歩く凛に肩を貸す燎太郎。彼もまた平静では居られないのか、深刻そうな面持ちであった。

 

「お前が行くというなら俺も付いて行く! もうすぐ日の出だ! 鬼が襲って来ることもない! 日陰を避けて進めばいいだろう! つむじ、周りを頼む!」

「……ん」

 

 これまた普段とは様相の違うつむじに周囲の警戒を任せ、燎太郎に肩を貸された凛は、流の下へと向かう。

 逸る気持ちを断続的に襲来する激痛が彼を死に急がせない程度に抑える。

 それが幸か不幸か定かではないものの、着実に一歩ずつ歩んでいく凛は、見たことのある街並みを目にした。

 

 もうすぐだ。

 流が鬼と戦っていた場所まであと少しというところまで来た凛は、必死に辺りを見渡す。

 すると、なぜか地面に座り込んでいるカナエの背中が目に入った。

 

「カナエさ……ッ」

 

 名を呼ぼうとした瞬間、彼女の傍らに血溜まりができているのを目にし、ヒュッと息を飲んだ。

 見慣れた刀を握ったままの左腕。千切れた瞬間身に纏っていた衣服であろう羽織の袖も、幾度となく目にした、波紋が広がるような柄のものであった。

 

 言葉を失いながらカナエの下へ。

 凛を支える燎太郎もまた、彼と同じく体を小刻みに震わせている。

 脳裏を巡るのは、「嘘だ」「そんなはずない」と()()を否定する思考ばかり。

 

 しかし、カナエの下に近づくにつれ、視界に入る全貌とむせ返るような鉄臭さが現実を突きつけてくる。

 

「ぁ……」

 

 必死に絞り出した声もそれ以上言葉を紡ぐことはできなかった。

 燎太郎も、つむじも、一拍遅れてその光景を見たしのぶも。誰もが絶句するのは、唯一残っていた四肢をも失い、血沼の中に沈む流の姿だった。

 朝冷とも違う冷たさが頬を撫でる。

 その冷気のせいか、流の体表に纏わりついている氷も凍りかけていた。

 しかし、季節外れの周囲の気温の低さもあってか、辛うじて流が息をしているだけは分かる。

 

「ッ……流さんっ!!」

「―――りん、か」

 

 か細く紡がれる言葉。

 彼の下へ駆けよる凛は、痛みも忘れて隣に座り込む。手を握ろうと震える指で辺りを探る凛であったが―――そうだ、と先ほど目にした千切れた左腕を思い出す。

 最早、握ることのできる腕さえない。

 

 時折、自分を褒める際に頭に乗せてくれた大きな掌は、もう二度と、あの温もりを宿すことはないのだと、否応なしに理解してしまった。

 

「な、流さんっ……流さんっ……て、手当……を……カナエさん……!!」

「いや……いい……」

「何がですか……手当します……しますから……!!」

「わかるんだ……俺はどうにも助かりそうには……」

「諦めるなって言ったのは流さんじゃないですか!!!」

「っ……」

 

 突然発せられる怒号に、細められていた流の瞳が見開く。

 何も映さぬ瞳であるにも関わらず、その瞳孔は確かに凛の方へと向いている。

 もしも見えていたとするならば、涙でくしゃくしゃに歪んだ情けない姿を見られていたことだろう。

 恥も外聞も捨てるかのような姿を見せる凛は、握る先を失った掌を流の胸に当てる。

 刻一刻と失われている生命の“熱”。死が近づいていることを理解させる現象を前にしても尚、凛は諦めずには居られなかった。

 

―――諦めの悪さは誰に似たのか。

 

―――いや、俺が教えたか。

 

 フッと思わず笑みが零れ落ちる。

 そうだ、誰かの教えは脈々と受け継がれていくのだ―――そう確信した瞬間であった。

 

 悟ったかのような面持ちの流は、カナエに視線で訴える。

 するとカナエも全てを理解し、覚悟した顔で流の手当てへと取り掛かる。後ろで待機していたしのぶも、言われるまでもなく手当の手伝いに移り、僅かな時間でも流の生命の灯を長く灯し続けられるようにと尽くし始めた。

 

 誰が見ても手遅れな状態。

 それでも未だ生きているのは、流の並外れた生命力のお陰だろう。

 しかし、それも今となっては風前の灯に等しい。

 故に流は、残された時間で()()()()()に命を注ぐことにした。

 

「とうとう取り逃したが……カナエ……あの鬼の能力は……さっき言った通りだ……」

「はい」

 

 すでに童磨の能力について、明らかになった事実は伝え終えていた。

 

「長期戦は……不利になる……奴が様子を見ている内に……油断している内に……叩け……」

「はい……!」

 

 紡がれる一言一句を忘れぬように、頭と心に叩き込むカナエ。

 全力を尽くしても尚、討滅こそ叶わなかったが、上弦の弐の能力について得られた情報は確実に鬼殺隊を前進させるものであることには間違いない。

 

 他に残すべき言葉は、

 

「……凛」

「っ、はい」

「……済まない」

「え……な、なにが……ですか……?」

「俺の力が足りないばかりに……」

「っ……そんなこと!」

 

 突然の謝罪は、自分の無力を悔恨する内容であった。

 無論、凛は叫喚するように反論する。

 

 貴方は強い。

 自分は貴方に強くしてもらった。

 貴方に育ててもらった。

 貴方に返しきれない恩を感じている。

 恩を感じることはあっても、恨みに思うことなど一つもない。

 寧ろ、自分の力が足りないばかりに―――とまで語った時、分かっていたとでも言わんばかりの笑みを流が浮かべた。

 

「そうだ。子供は誰しも無力だ。誰もがかつては無力な子供だった」

「流さん……」

「焦るな。逸るな。生きていれば人間はいつか大人になれる。少なくとも無力ではなくなる」

 

 親に廃寺に捨てられた時、家に戻ろうともしなかったのは、非力な自分の存在に罪悪感を覚えていたからこそ。

 流は昔の自分に、今の凛を重ねていた。

 故に先達として伝えられることもあった。

 

「だが、力というのは不平等だ。どれだけ努力しても足りないと感じる瞬間はある」

「……はい」

「だからこそだ。時を……無為に過ごしてくれるな。時間ほど残酷で平等なものはない」

 

 悲しむ時があってもいい。挫けそうになる時があってもいい。

 それでも、前へと進むことだけは、

 

()()()()

「!」

「お前は……今の己に疑問を抱いているかもしれない。それでいい。それでいいんだ。今は大いに悩め。だが、今の己を此処まで導いたのは他でもない、確かに過去の己自身だろう。ならば、いいじゃないか。己の意思が自分を導いたのだと気が付いた時、お前はすでに掛けがえのないものを手に入れるだろう」

 

 時間はかかるだろうがな、と締める流。

 この間にも、流の体を巡る血の勢いは衰えていく。

 しかし、昇り行く朝日の温もりが、冷えて死に行く彼の体に“熱”を与える。

 まだ天は、彼の訪れを認めてはいない。

 

「……燎太郎」

「っ!」

「お前は……恩人を手にかけたことに酷く気を病んでいるだろう」

「……はい」

 

 毅然とした態度を装うも、ボロボロと涙を零す燎太郎にも流は告げる。

 

「愚かしいほど真っすぐなお前のことだ……まだ時間はかかるだろうが、彼が死に、お前が生きて鬼狩りを志した意味を……納得できる日が来るだろう」

「っ……ご教示、ありがとうございます!!!」

 

 地に額がつく程、深々と頭を下げる燎太郎。

 彼を見やった後、視線を向けた先は―――つむじだった。

 

 盲目の流に彼女の表情を汲み取ることはできない。

 だが、今まで見たことのない歪んだ面持ちの彼女からは、尋常ではない動揺を窺うことができた。あれほど感情の起伏に乏しい彼女がここまで狼狽するとは。それだけ、この数か月の間に時を過ごした流との間に、特別な想いを抱いていたということなのだろう。

 

「つむじ」

「ん……」

「お前の境遇もある……他人に隔たりを覚えるのも仕方がない。だが、そんな自分を心配に思う必要はない。何故ならば……お前にはもう友が居る。間違いを犯せば、道を正してくれる……な」

「……」

「それはかけがえのないものだ。替えはきかない。努々……大切にしておけ」

「……んっ」

 

 カタカタと小刻みに震える刀身。

 よく見れば、つむじの鼻面が赤く染まっていた。いつもは眠たげに半開きな眼も、今ばかりは差し込む朝日により、光が宿っている。

 だからこそだ。潤む彼女の瞳をありありと周りの者達に見せつけていた。

 

 無論、流には見えない。

 が、見透かしたように微笑む流は、ふぅと大きく一息吐いた。

 

「―――俺は……よく永らえた方だ」

 

 一通り、この数か月の間可愛がった三人へと伝えることは大方伝えられた。

 思い残すことは―――一つを残して、無い。

 

「それでも……國で最も強くなることは……叶わなかった」

 

 一筋の涙が頬を伝う。

 

「それだけ……が……」

「そんなこと、ありませんっ!!!」

 

 が、凛の声が静寂を切り裂いた。

 

「僕は!! 右腕を……脚を……目も失くしても戦う人を見た事がありません!!!」

 

 喉が裂けんばかりの声量が、感覚が薄れていく流へ確かに言葉を届ける。

 

「貴方みたいに、ずっと諦めずに戦い続けた人を……!!!」

 

 どうか、どうか届いてほしい。

 

「貴方みたいに、絶対に挫けない意思を持った人を……!!!」

 

 彼が少しでも安らかに逝けるように。

 

「流さんみたいに強い人を見た事がありませんっっっ!!!!!」

「……!」

 

 風に吹かれて消えゆく命が、もう少しだけと駄々を捏ねる。

 

 まだだ。まだ、伝えてないことがある。

伝えない方が良かったと黙っていたことが―――。

 

「り、ん……」

「はい゛……!!」

「俺が……選別で他人を守って手足を失くしたのは……聞いたな」

「それが……」

「そいつは……()()……だった……」

「!!」

 

 稀血。鬼に好まれる特別な血を有す者。

 凛もまた稀血と呼ばれる血を有しているが、

 

「ど、どうし、て……」

「……」

「それなら……どうして……」

 

 血の気が引き、真っ青になった顔で凛は問う。

 

 凛は稀血。

 流は稀血の者を庇って手足と目を失った。

 そして流は凛が稀血であると知っていた。

 

 何故。

 何度も何度も頭の中を巡る「何故」の一言。

 

 稀血と関わったばかりに多大な代償を払った流が、何故自分と関わっていたのか?

 

 過去の悲劇を思い出させるような相手に稽古までつけて。

 今までの思い出を振り返り、凛は失神してしまいそうな気さえした。

 ともすれば、恨んでもおかしくない相手を前にしていたというのに。

 

―――僕は、何も知らないで流さんに笑顔で接していた。

 

―――それがどれだけ残酷な真似をしていたか。

 

 次第に呼吸が荒くなっていく。

 過呼吸となってしまいそうな程に息が乱れてきた凛。

 突然の告白は、それほどまでに凛を追い詰めるに至っていた。

 

 しかし、「違う」と流が否定するように口火を切った。

 

「お館様が……気を利かせて……」

「え……?」

「結局……守り抜けず……死なせてしまったことに病んでいるおれに……がはっ!」

 

 あくまで凛と関わったのは己の意思だと。

 血反吐を吐きながら続ける。

 

「はぁ……だが……事実は……変えられない……初めてお前と出会い、守ったところで……彼を……死なせたことは……」

「流さん……! もういい、もういいですから……!」

「お前を守っても……心の穴は……開いたままだった……」

「もう……!!」

「でもだ、凛……お前達と過ごした日々こそが……おれの……」

 

 その後も、何かを伝えようとした流であったが、最早聞き取ることさえ叶わぬほどに彼の声は消え入るようにか細かった。

 

 だがしかし、

 

 

 

 

 

「―――本当に……出会えてよかった。ありがとう」

 

 

 

 

 

 万感の思いを込めた一言だけは、はっきりと凛に届いた。

 次の瞬間、朝日を照り返して宿っていた光が、流の瞳から零れ落ちた。

 

「……流さん?」

 

 応えは―――返らない。

 呼べども呼べども、いつまで経っても、返事は訪れない。

 

「流、さん」

 

 “熱”は、もう感じられない。

 

「―――――」

 

 彼は帰ってこない。

 そう気づいてしまった瞬間、悲嘆の聲は白む天を衝かんばかりに響きわたるのだった。

 



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拾弐.涙血漣如

 水柱・伴田流の訃報は、直ちに輝哉と柱達へと伝えられた。

 

 柱の中でも古株であり、その実力も認められていた彼の死と、それを代償に負傷したカナエが持ち帰った上弦の弐の鬼の情報には、衝撃が奔った。

 ある者は悲しみ、ある者は悼み、ある者は憤る。

 鬼殺隊において人の死は、一般人よりも身近なものであった。しかし、それを踏まえても彼の死の余波は大きい。

 

こうして柱を一人失った鬼殺隊は、否応なしに鬱屈とした雰囲気となるもの仕方ないのかもしれない。

 

 

 

 そしてここにも、未だ立ち直れない隊士が一人……。

 

 

 

 ***

 

 

 

 蝶屋敷の庭は、解放感がある。病室で寝ている間に覚えていた閉塞感を晴らすかのように、この庭は広くゆとりをもった造りになっている。

 その中で、かれこれ数時間も一定の間隔を刻むようにしてとある音が鳴り響いていた。

 

「五千七百三十一……五千七百三十二……」

 

 桁違いの数を数えながらも、依然として木刀を振り続けていたのは凛だ。

 童磨との戦いで浅くない傷を負った彼であるが、木刀を振り回せる程度には快復していた。

 だが、それにしても病み上がりにしては過剰な回数だ。このままでは折角塞がった傷も開きかねない。

 

 それでも一心不乱に彼は木刀を振るっていた。

 

『―――俺が育手の下に居た時は、一日に六万回刀を振るっていた』

『ろ、六万!? ……あ、そのくらいたくさん振れっていう心構えですか? はぁ、吃驚したぁ……』

『……』

『……ほ、本当なんですか?』

『どっちだろうな』

『えぇー!? そこは大事ですよ、流さん!! はっきりしてください!!』

『フッ……―――』

 

 今は亡き男との会話が、何度も何度も脳裏を巡る。

 凛がこうして木刀を振るっているのも、彼の言葉を習っての鍛錬であった。今は病み上がりもあり、行っても一万回程度である。だからこそ、流が口にしていた六万という数字がどれだけ膨大な数であるか、まさに身に染みて実感していた。

 

 滝のように汗を流し、腕が千切れそうな程に力を振り絞っても、未だ彼の足下にも及ばない。

 

「……諦めるな」

 

 回数を数える合間に、ボソボソと小さな呟きが入る。

 

「諦めるな……諦めるな……」

 

 呪われたように「諦めるな」という言葉を繰り返す凛。

 美しい言葉だ。しかし、それを紡ぐ凛は平静とは考えられない雰囲気を漂わせていた。

 狂ったように素振りを続ける。目は血走り、隈も出ているではないか。ろくに休息を取っていないのは明らかであった。

 

「ちょ、氷室くん! また病室を抜け出して!」

 

 そんな凛の下へ駆けよって来たのはしのぶであった。

 額に青筋を立てる彼女であるが、その表情の奥には心配が潜んでいる。

 

「倒れるまで素振りなんかしても強くなれませんよ! 少し良くなったと思ったら倒れるまで鍛錬して……全快するまで大人しく寝ていてください!」

「ご、ごめんなさい、しのぶさん……で、でもね、もうちょっとで六千回行くから……」

「そしたら次は七千、八千、九千、それでもって一万回って言うわよね?」

「うっ……」

 

 図星を突かれたように肩を竦める凛。何度も介抱する羽目になったしのぶにとっては、全てお見通しのようであった。

 

「いい加減にして!! 伴田さんとの鍛錬でも休憩を挟んでいた意味がわからないの!?」

「で、でも、しのぶさん」

「?」

「諦めるなって……言われたんだ……!」

「っ……!」

 

 凛の言葉に瞠目するしのぶ。

 一見凛の姿は、残された者が先立ってしまった者の言葉に従い、ひたむきに努力するという素晴らしいものに見えるかもしれない。

 しかしその実、彼は本質から目を逸らしてしまっている。

 

 だが、その気持ちはしのぶにもよく理解できるものであった。

 だからこそ、

 

「氷室くん……仕方ないわね。はい、これ」

「?」

「脱水症状になったらいけないから、お水を入れてきたの」

「うわぁ、ありがとう!」

 

 瓢箪を手渡してくるしのぶに礼を述べる凛。

 凛の立っている場所だけ泥濘になるのではないかと危惧してしまいそうになるほど、彼の足下は彼自身の汗で湿っていた。勿論、それほどの汗を流せば脱水症状になりかねない。最悪死につながる症状を、看護係も務めているしのぶが見過ごせるはずはなかった。

 

 そんな厚意に甘え、凛は手渡された瓢箪の栓を抜き、喉を鳴らして水を煽る。

 よほど喉が渇いていたのか、その飲みっぷりは中々豪快であった。

 と、その途中、

 

「ん? このお水甘いですね」

「あら、わかった?」

「はい。それに―――」

 

 突然糸の切れた人形にように崩れ落ちる凛。

 寸前で受け止めたしのぶは、「やっぱりか」と言わんばかりの表情で、彼の手から零れ落ちて転がる瓢箪に目を向ける。

 

「あんなにたくさん薬を入れた水を『甘い』だなんて……脱水真っただ中よ、もう」

 

 しのぶが手渡した水の中には、所謂睡眠薬と呼ばれる薬が入っていた。

 普通に飲めば、苦くて堪ったものではないが、甘くないものまで甘く感じてしまうのは、まさしく脱水症状によって引き起こされる味覚障害に他ならない。

 

「まったく、誰が運ぶと思って……」

 

 生憎今は燎太郎もつむじも任務で居ない。

 (薬の所為だが)眠りに落ちてしまった凛を病室に運び、汗を拭う等の諸々を行わなければならなくなったしのぶは、ぶつくさと文句を垂れながら、汗まみれの凛を運んでいく。

 また洗濯物が増える―――そう思いつつ歩いていた矢先、首筋にひたりと雫が伝う。

 

 これだから、と振り返り、硬直。

 

「――――めんなさい……」

「……」

「ごめん……なさい……ごめんなさい……」

 

 しのぶの瞳に映ったのは、寝言として何度も謝罪を述べながら、涙を流す凛の姿だった。

 誰に対して謝っているのか―――想像に難くない。

 

「……どれだけ汗を流したところで、涙は枯れないんですよ」

 

 そう優しく囁くしのぶ。慈しみや同情に満ちた声音を紡ぐのは、彼女もまた同じ経験を経たことがあるからだろうか。

 

 彼はずっと泣いている。見ているのが痛々しく思う程に。

 

 ()()()大切な者を失った凛の心の傷は、想像以上に深いものであった。

 彼が今まで大切な者を失ったことがないという訳ではないが、記憶にない家族を失うのと、心の底から信頼していた者を目の前で失うのとでは、不謹慎と思われるかもしれないが、断然後者の方が傷も深くなる。

 しのぶやカナエを始めとし、同期の燎太郎やつむじも彼を気遣ってはいるものの、未だ流を失った悲しみから立ち直れてはいない。

 

 それほどまでに、流という存在は凛の中で大きなものであった。

 

 既に失った者が多い鬼殺隊にて、凛のように鬼殺隊になってから失った者はある意味稀だ。

 今の彼は、鬼に対し恐怖を覚えて「隠」といった後方部隊になる訳でもなく、ただただ悲しみを紛らわせようと体を酷使した挙句、いつかはたりと死んでしまいそうな危うさがある。

 

 そんな彼を立ち直らせたいのは山々であるが、彼も中々聞く耳を持たない。

 悲しみの晴らし方を知らないとは、斯くも厄介なものか。

 

 体を拭き、病衣に着替えさせたしのぶは、ベッドの上で死ぬように眠っている凛に、今一度耳元で囁く。

 

「……私は、貴方の笑った顔が好きだなあ」

 

 もし、あの場でカナエが死んでいたなら、逆に自分が彼のようになっていたかもしれない。

 そのことを想像しつつ、しのぶはもっと親身になろうと胸に決めるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「……」

「お帰り、つむじちゃん」

「ん」

 

 こっそりと凛の眠る病室を覗き込んでいた人影。それは任務帰りのつむじであった。

 そして彼女に声をかけたのは、偶然通りかかったカナエである。

 

「氷室くんが心配?」

「傷が治らない」

「ん?」

「いつまで経っても傷が治らない。何が悪いの」

 

 凛を指さし、カナエに問うつむじ。

 彼女は、凛がいつまで経っても任務に復帰しないことを疑問に思っていたようだ。体は問題ないにも拘わらず、病室で眠る―――それがつむじには理解しがたかった。

 であれば、目に見えない部分が原因ではなかろうか。彼女はそう考えたようだ。

 

「そう、ね……氷室くんは心の傷がまだ治っていないの」

「心の傷? ……薬はないの?」

「残念だけれど。心の傷を治す薬はないの。だから、時間が必要なの……とてもとても長い時間がね」

「ふーん」

「つむじちゃんはもう大丈夫なの? 私には貴方も伴田さんを慕っているように見えていたから」

 

 凛を心配するつむじだが、そんな彼女に対してもカナエは心配していた。

 彼女はカナヲに似ている。端的に言えば、感情の起伏が乏しいのだ。

 しかし、カナヲとは違いまったくないという訳でもない。故に、他人には見え辛いものの、流が死んだことで辛い思いをしているのではなかろうかと案じたのである。

 

 数秒沈黙するつむじ。

 

「……わからない」

「わからない?」

「これがどういう気持ちかわからない」

 

 俯きがちにつむじは語を継ぐ。

 

「この辺りがいっぱいなのに」

 

 胸を押さえてから、

 

「この辺が、ずっと空いたままなの」

 

 腹に手を当てる。

 

「なんで?」

 

 単に腹を空かせている訳ではない―――が、強ちその認識は間違っていない。

 

『つむじ、あんまり食べ過ぎたらダメだよ……』

『んーん』

『そうだぞ! 流さんが土産を持ってきていると言っていた!! 今腹八分目にしておいて、後でたんまりと食べろ!!』

『ん……んぐっ。わかった』

 

 このような微笑ましい三人の姿をカナエは見たことがある。

 これ以来、つむじは流が来る時に限り、食事を程々に済ませるようになった。

 

(この子も()()()()()んだわ……)

 

 言葉にはしない。いや、できない。

 それでも確かにつむじは悲しみを覚えている。言語化できない感情に心を悩ませていた。

 

「つむじちゃん……それはね、貴方も氷室くんと同じように悲しんでいるからなの」

「心の傷」

「そう」

「治る?」

「治るかもしれないけれど、治らないかもしれないわ」

「じゃあどうすれば……」

()()()()()()

「!」

「伴田さんの言葉。私達は、一生この傷と一緒に歩いていかなきゃならないの。だから、時間をかけて向き合っていくしかないわ」

 

 両親を鬼に殺され、悲しみに明け暮れた経験があるからこそ、カナエの言葉には重みがある。

 なんとなくつむじも彼女の声音に思うところがあったのか、しばらく考え込むように俯いた後、弾かれるように面を上げた。

 

「鴉……」

「え?」

 

 何事かとつむじの視線を辿れば、半開きになっている病室の窓の縁に、一羽の鴉が降り立っていたではないか。

 

「イツマデ寝テルノデス! 未熟ナ貴方ノ為ニ、任務ヲ斡旋シテキマシタヨー!!」

 

 どうやら凛の鎹鴉らしい。

 まだ復帰していない凛に対して任務を携えてくるとは、彼の鎹鴉も中々行動が積極的だ。

 しかし、鍛錬の疲れと睡眠薬で眠らされている凛にとって、傍で鴉に騒がれるのは寝心地が悪いことこの上ないであろう。その上、鎹鴉は薬云々を知らない。つまり、ただただ騒がしいだけである。

 

「あらあら……ちょっと静かに……って、あれ? つむじちゃん」

「……」

 

 カナエが静かにするよう歩み出そうとする前に、つむじが鎹鴉の下へ駆けよっていた。

 刹那、彼女の右手が鎹鴉の首根っこを掴む。これには鎹鴉も驚きの表情だ。

 

「ガァー! ガァー! 何ヲスルノデス! 暴力反対! 暴力反対ィー!」

「五月蠅い」

「放スノデス! 放スノデス!」

「焼かれたい?」

「……カァー」

「……私が行く。任務」

「カァー?」

 

 突拍子のない申し出に、これには鎹鴉も困惑した表情だ。

 そこへ遅れてやってきたカナエが、つむじの手から鎹鴉を放させ、やんわりとした口調で問いかける。

 

「つむじちゃん、どうして? 貴方も任務から帰ってきたばっかりでしょう?」

「燎太郎もそうしてる」

「え?」

 

 ここ最近、蝶屋敷に中々帰って来ていない燎太郎はと言うと、ずっと任務に入り浸っている。

 

『凛が傷を癒すまでの間、俺があいつの分まで鬼を狩る!!! いいや、流の兄貴の分……いいや、カナエさんの分も!!! 俺はやる!!! やってみせるぞぉ!!!』

 

 そう意気込んでいた。

 立ち直るまでの時間がかかることに理解があったのだろう。故に、見舞いの時間を惜しんで世の為人の為に鬼を狩っている。

 

「流に、友は大切にしろって言われたから」

 

 つむじもそれに倣い、凛に持ち寄られた任務を代わろうという魂胆だった。

 そうした彼女の気遣いに、カナエは泣きそうな笑みを湛えながら、そっとつむじの頭を抱き寄せた。

 

「とても優しいのね」

「ん……」

「大丈夫……貴方なら……貴方達ならきっと乗り越えられるから。どんな苦難も、絶対―――」

 

―――お前が繋げ。

 

 三者三様の歩みを見せる三人に、カナエは今一度、流に託された言葉の重みを実感する。

 どうか繋いで行かなければならない。生き残った者達しか繋いで行くことはできないのだから。

 

 カナエは自分が今何をすべきか熟考せんと誓うのだった。

 でなければ、あの世の流に合わせる顔がない。

 

 

 

 ***

 

 

 

 立ち止まっていることが、途端に苦痛に思うようになった。

 ならばと体を動かし汗を掻いてみるのはいいものの、それ以上に溢れる想いが毎晩目から零れ落ちる。

 

 しかし、立ち止まってはならないと己に言い聞かせて刀を振るった。

 だが、気持ちだけがどんどん前へと進むばかりで、心は取り残されたままだ。

 

 まだ自分の心は、流が死んだ時から一歩も動けてはいない。

 理性と感情が離れ離れだ。こんな感覚は生まれて初めての経験だった。

 

 夢を見ることさえ恐ろしい。

 だから、夢など見ぬ深い眠りにつくよう、罰ともとれる鍛錬を己に科した。

 その度、自分の限界を思い知らされては自己嫌悪が襲い掛かってくる。

 まるで生き地獄のような気分だった。

 

(流さん……どうして……)

 

 兄とも父とも違うが、心より信頼を寄せていた男。

 彼の死を思うと、鬼への怒りよりも、ただひたすらにとめどない悲しみが押し寄せてくる。

 

(僕はまだ……貴方に……)

 

 ズキリと頭が痛む。

 そうして意識が覚醒した凛は、朦朧とした意識の中、ぼやける視界の中にとある人影を望んだ。

 

(……流さん?)

 

 彼によく似た風貌の男に見えた。

 が、視界が明瞭になるより前に男は凛の視界から去ってしまう。

 

 次第に目が冴えていく内に、自分が見つめていた場所が病室から廊下へとつながる廊下だと気付く。

 その時だった。

 

「あ、起きてる」

 

 ひょっこりと物陰から覗きこんでくる少女。

 突然目が合ったことに固まる凛であったが、足早に歩み寄って来る少女は、凛のベッドに近くにあった椅子に腰を下ろす。

 

「え、と……君は……」

「あれ? まだ寝ぼけてるのかな?」

「う~ん……」

 

 覗き込んでくる少女の顔をじっと見つめる凛。

 花のように朗らかに笑う可愛らしい印象の子だ。

 確かに、この“熱”には覚えがある。

 

 瞼を閉じ、思い出す。

 そうだ。この“熱”は藤の花の香りに満ち満ちる山で感じていた。

 

 次第に感覚が鋭敏になっていくにつれて、目の前に居る相手が何者であるのか、

 

「……真菰?」

「久しぶり」

 

 にっこりと白い歯を覗かせてはにかむのは、最終選別で一週間共に過ごした真菰であった。

 本当に久しく会っていない。

 同じ同期である燎太郎やつむじとは共に過ごしていた時間が多いにも拘わらず、真菰とは選別以降一度も会わなかった。

 

「どうしてここに……? 怪我でもしたの?」

「怪我じゃないけど。付き添い、かな?」

「付き添い……そっか」

 

 誰の? と聞かなかったのは、まだそこまで頭が回らなかったからだ。

 

「途中で凛の名前を聞いたから、折角だしお見舞いに来たの」

「そうなんだ……」

「何か持ってきてあげればよかったんだけれど、ごめんね」

「ううん……」

 

 気にすることはない旨を伝え、凛は天井を仰いだ。

 久方振りの再会にも拘わらず、不思議な程に何も感じない。

 

 自分が冷徹になってしまったのだろうか。それではいよいよ鬼に近しいな―――と、自己嫌悪の波がまたもや押し寄せてくる。

 

「……お見舞いに来てくれてありがとう、真菰。元気が出たよ。僕はもう大丈夫だから……」

「嘘」

「……え?」

 

 独りになりたい凛の言葉に、真菰が即座に応える。

 余りにも速い応答に困惑する凛に対し、嘘と言い退けた真菰の面持ちは、酷く悲痛なものであった。

 

「何か辛いこと、あったんでしょ?」

「そんなこと……」

「そうじゃなきゃ、そんな顔しないよ」

「……どうしてそう思うのさ」

 

 思わず語気が強まる。

 掘り返されたくない―――否、思い出したくない。その考えばかりが過ってしまうが為に、柄にもない声音を発してしまった。

 「しまった」と咄嗟に口を手で覆う凛であるが、気にしていない様子の真菰は、「それはね」と前置きしてから、彼の肩に優しく手を置く。

 

「今の凛の姿が……私の大切な人によく似ていたから」

「真菰の……?」

「うん」

 

 見当もつかないが、真菰から感じる悲しい“熱”を受け、静かに聞く耳を傾ける。

 

「誰かが死んだのを自分の所為だってずっと……ずっと責め続けてるの」

「……!」

「守られて、死なれてしまって、だから自分が死ねばよかったって思ってる。そんなことないのに。でも、悲し過ぎるから……その人が死んだ現実に面と向かうと、悲しくて前に進めないから、って……」

 

―――一体、誰の話をしているんだ?

 

 まさか誰かが自分について真菰に語ったのではないかと疑う内容。

 しかし、真菰は実際に凛ではない()()()()()について語っている。

 

「そんな人の姿に似てる凛を……私は見過ごせない」

「真、菰……」

「良かったら聞かせて? 一人で抱え込まないで」

 

 そう言われた途端、凛の目から涙が溢れ出る。

 拭えども拭えどもあふれ出てくる涙は、まさしく凛の胸奥に押し込められていた悲しみに他ならない。

 一度決壊すれば、きっと溺れ死ぬまで身動きが取れなくなるだろう。そう予感していたからこそ、無理を押して鍛錬していた。

 

 が、零れ落ちてしまったものは仕方がない。

 

「うっ……う゛ぅっ……!!」

「ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから……ね?」

 

 背中を擦る真菰に宥められながら、嗚咽に塗れた言葉を吐きだす。

 己の発する一言一句が胸を貫き、その度に心に猛烈な痛みが奔る。

 それでも吐露する想いは止まらない。流の死で感じた己の無力、もっと努力していれば彼を救えたのではないかという後悔、彼の死に立ち止まってしまうことへの恐怖、そして努力を重ねても実感できぬ鍛錬の成果への焦燥。それら全てを誤魔化す為に鍛錬に明け暮れていたことも―――。

 

 恥も外聞も捨てて語った内容は、痛みさえ伴ったものの、久しく感じていなかった生きている心地を思い出させた。

 だからこそ、より考えてしまう。

 

「僕は……あの人みたいに強くなれないんだ、きっと」

 

 四肢を失い、尚も鬼と戦う道を選んだ流。

 しかし、そもそもそれは心が強くなければ話にならない。

 その心が自分は弱い。凛はそう嘆く。

 

「心が……折れそうなんだ」

 

 だから、立ち直ることはできない。

 諦観していた。

 

 そう訴える凛を前に、真菰は得も言われぬ表情を浮かべる。

 しばし、熟考したのだろう。すぅ、と息を吸い込んだ真菰は、意を決した様子で口を開いた。

 

「……そんなことないよ」

「え……?」

「凛は強い子」

 

 フッと柔和な笑みを浮かべた真菰は、そっと掌を凛の頬に添える。

 

「大切な人を失っても、必死に頑張ってる。それはゆるぎない事実だ」

「だけど―――」

「でもね、凛。俯いたままじゃ駄目。悲しいからって目を背けるみたいに俯いたら、進むべき道から逸れちゃうんじゃないの?」

「……!」

「今の凛は遠回りしてる。その流さんって人から本当に託されたものって何?」

 

 ヒュウ、と風が病室を吹き抜ける。

 

―――ああ、そうだ。流さんは……。

 

 諦めるなと。

 焦るな。逸るなと。

 本当の不幸は自分の意思で道を決められないことだと。

 

 彼を亡くした悲しみに急いて、無我夢中で自分を追い詰めることは、本当に彼が望んだことであるのか? いいや、違う。

 

「流さんは、僕に……」

 

 彼との思い出が走馬燈のように蘇る。

 どれも美しい、色あせない思い出ばかり。

 ここまで自分を導いてくれた彼が、最も自分に伝えたかったことは、

 

()()()()で……道を……選べって……!!」

 

 掛けがえのないものは、いつだって自分の意思で選んだ道の中で手に入れた。

 諦めないことも、全ては自分の意思だ。言われるがままのうのうと行っていた訳ではない。

 最近の自分は、選ばず逃げていた。それは最も不幸なことであり、流も望まぬことである。

 

 死しても繋いでくれるよう託してくれた彼への冒涜に等しい。

 

 「ごめんなさい」と繰り返し言葉にする凛。

 そんな彼を宥めるように、真菰は告げる。

 

「……私はその流さんって人の事をよく知らないけれど、きっとその人は凛の選んだ道を尊重してくれるはずだよ。このまま逃げることだって、進むことだって。絶対言えることは―――凛の幸せを願ってること」

「僕の……幸せ」

「うん」

 

 言い切った真菰を前に、凛はそっと自分の胸に手を当てる。

 鼓動が高鳴り、血が体を巡る感覚。

 そうだ、生きている。自分は生きているのだ。

 流に守られて繋がれた命を捨てるのは、余りにももったいない。

 彼の想いを蔑ろにしたくもなければ、このまま辛い想いをすることも御免。

 であれば、何をするべきか。

 すでに答えが出ている問いに対し、凛は己の中で自問自答を繰り返す。何度も何度も思い出し、心に刻む。

 

 二度と忘れるもんかと―――。

 

 その時だった。不意に廊下の方から物音が鳴り響く。

 何事かと二人の視線が廊下に向けられれば、何やら赤い突起が物陰から覗いているではないか。

 

「お面……?」

「あ、あのぉ~……失礼してもよろしいでしょうか?」

「鉄穴森さん!」

 

 正体は、凛の日輪刀を鍛えるのを任されている刀鍛冶・鉄穴森であった。

 病室内の雰囲気を察し、中々入れず二の足を踏んでいた彼であったが、凛達に気づかれたことで恐る恐るながら室内へと足を踏み入れる。

 

「その、氷室殿……新しい刀をですね」

「あ、ありがとうございます……! すみません、また刀を折ってしまって……」

「い、いえいえ! 刀はどれだけ丹念に手入れしてもいつか折れてしまうものです。折れるのは刀の性。しかし、その時はまた打ち直せばいいのです。人間も同じ。はい、私はそう思います。はい」

 

 どこか取り繕ったような言葉選びに、「ああ、あそこらへんから聞かれてたんだ」と察する凛は、恥ずかしそうに頬に朱が差した。

 

「と、私の話はいいのです、氷室殿。その~、他に話がありまして……」

「えっ」

 

 まさか、刀を折り過ぎて刀鍛冶が外れるという話ではなかろうか。

 冷や汗を流す凛に、「いえ、悪い知らせではない……と思うのですが」と言い淀むように前置した鉄穴森は、一振りの短刀を取り出す。

 

「ん? これは……」

「どうぞ、抜いてください」

「は、はぁ……」

 

 言われるがまま抜いた刀身は、すでに海のように深い青色に彩られていた。

 若干の年季を感じさせはするものの、使った回数が少なく、加えて手入れが行き届いているのかほとんど劣化していない。

 この新品同然の刀は一体なんなのか?

 そう訝しむ凛に対し、鉄穴森は深呼吸してから、いざと言わんばかりの気概を見せて語り始める。

 

「それはですね、伴田殿の日輪刀でして……」

「え!?」

「裏をご覧になってください」

 

 言われた通り刀身を裏返せば、根本に「惡鬼滅殺」と文字が彫られていた。

 この文字が刻まれるのは柱のみ。そして、この水の呼吸に適正を示す色合いと鍔の形状を考慮すれば、今凛が手にしている日輪刀が流のものであることには間違いなかった。

 

「ど、どうしてこれを……?」

「伴田殿の刀を担当していた方……鉄井戸さんという方なんですけれどね、仕込んでいた刀身と損傷が激しかった方の刀を組み合わせてですね、貴方に差し上げろと仰せつかりまして……」

「い、いいんですか? 僕なんかに……」

「それが刀も本望だろう、と……」

「!」

 

 流の右腕に仕込まれていた日輪刀の刀身に、千切れた左腕が握っていた日輪刀の流用できる部分を組み合わせて誕生した、流の形見とも言える代物。

 中々粋なことをしてくれると感じた一方で、これを使うのは少々気が重い。

 感嘆するような息を漏らして居れば、落ち着かない様子の鉄穴森があたふたと語を継ぐ。

 

「わ、私も貴方が喜んでくれるならばと、言いつけ通り持ってきたのですが……そ、そのう……気を悪くされたでしょうか?」

 

 凛が流の死に心痛めている旨は小耳に挟んでいたのだろう。

 それ故の気遣いが、この短刀という訳だ。

 

「……うっ……う゛ぅ……」

「氷室殿?」

「うぁ……あああぁぁぁああああぁぁああああ……!!!」

 

 突如として凛は泣き崩れる。

 託された短刀を抱きしめ、嗚咽を漏らしながら涙を零す。

 その様子にこれまた慌てる鉄穴森であるが、一方で真菰は「よしよし」と凛の頭を撫でていた。

 

 それから数分後、凛の涙がようやく収まった頃だった。

 彼が横たわるベッドには、無数の涙の痕が残っている。

 顔面も泣き腫らして真っ赤になっているが―――どことなく凛然とした佇まいが戻っていた。

 

「ありがとうございます……鉄穴森さん。その鉄井戸という方にもお礼を伝えていただけないでしょうか?」

「はえ? あ、あぁ、はい! 勿論!」

「それと真菰……ありがとう」

「もう大丈夫?」

「……うん」

 

 晴れやかな笑顔を浮かべる凛に、真菰もまた笑顔で返す。

 

 一度は立ち止まりかけた凛を再び歩み出させるきっかけは、他ならぬ彼が助けた少女であった。

 そして、流が遺した物もまた、再び歩みだす凛にさらなる力を授けるであろう。

 

(流さん……僕は今度こそ諦めませんから。どうか見守っていてください)

 

 二つの刀を手に、凛は再び鬼滅の道を行く。

 ここからが、再出発だ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 一方、産屋敷邸にて。

 ここでは数か月一度開かれる柱合会議が開かれていた。

 主な議題は、流を殺害した上弦の弐についての情報共有。

 そして、

 

「前任の水柱や、カナエからの推薦もあってね……水柱は彼に勤めてもらいたいと考えているんだ」

「冨岡義勇様、どうぞ前へ」

 

 玉砂利の敷き詰められた庭の奥から、当主の御内儀たるあまねに呼ばれ、八人の柱の間を抜けて、一人の青年が輝哉の前へと赴き跪く。

 静謐な印象を与える青色の瞳と、左右で柄の違う半々羽織が特徴的であった。

 

 抜けた水柱の穴を埋めるのは、同じ水の呼吸を究める青年。

 

「義勇。君を“水柱”に任命したい。これから鬼殺隊の“柱”として君を頼りにしたい。いいかな?」

「……御意」

 

 僅かに溜めた後、頭を垂れる義勇。

 大半の者は彼の逡巡を気にも留めず、新たな柱として受け入れるだけだった。

 

 このように時代は移ろう。

 鬼と戦い、誰かが死せども、死した者の想いを誰かが継いでいく。

 

 それが鬼殺隊。

 流の死は、とある鬼殺隊士達にとって大きな転換点となり、物語は次なる舞台へと移り変わるのであった。

 




*肆章 完*


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伍章.継子
拾参.日進月歩


 闇に乗じて鬼は動き出す。

 人間をしたためる化け物。かつて己が人間であったことを忘れ、欲のままに肉を貪り喰らう彼等に襲われた者達の怨嗟や嘆きの声は止まらない。

 だが、その連鎖を止めるべく鬼滅の刃を振るう者達は、何百年も前から存在している。

 鬼と同様、お天道様が顔を隠してから動き出す彼等は、獲物を求めて徘徊する鬼を斬る。

 

「ひ、ひぃ!」

 

 怯え竦んだ鬼が尻もちをつく。

 彼の目の前には、白銀の刀身を宿す日輪刀と、深い青色を宿す日輪刀を携える剣士が立っていた。少年と青年の間を移ろう最中の風貌。あどけなさと凛然たる知性を瞳に宿す彼は、ふと、鬼に問いかけた。

 

「―――貴方は、人を喰い殺したことを悔い改めますか?」

 

 不気味なほどに落ち着いた声音。

 鬼はこう返す。

 

「く、悔い改める! 反省する! だから、命だけは……!」

「……ごめんなさい。それはできません」

 

 必死の懇願を丁重に断る剣士。

 次の瞬間、鬼の纏う雰囲気が一変する。

 

「じゃあ……お前が死ねえええ!!!」

 

 鬼本来の獰猛な姿を露わにし、爪を振りかざしてくる。

 嗚呼、なんと虚しいのだろう。

 頬に伝う一筋の“熱”を覚えつつ、剣士は一閃する。

 

 水の呼吸 肆ノ型 打ち潮

 

 流麗な剣閃は、鬼の武器足り得る腕や足をバラバラに斬り飛ばした。たったの一瞬。瞬きする間もなく無力化された鬼は、全身に奔り抜ける激痛に顔を歪めながら咆哮する。

 

「ば、馬鹿なぁぁぁあああ!!?」

 

 その表情に浮かぶのは、紛うことなき絶望。

 これまで喰らってきた人間が、死の直前に浮かべていた表情そのものであった。

 しかし、それを鬼自身が確かめることはできない。

 何故ならば、すぐさま彼の命を絶つもう一振りの刃が迫っていたからだ。

 

 氷の呼吸 伍ノ型 (そそぎ)

 

 鋼の冷たい感触が頚を通り抜けるのも束の間、迸る血の生暖かい感覚を覚えた鬼は、間もなく地に転がった。

 不思議と痛みはない。久しく眠る必要のない体に、唐突に猛烈な睡魔が襲い掛かって来るではないか。

 

―――これが、死、か。

 

 悟った鬼は、目線だけでも己を切り捨てた剣士の方を向かせる。

 今にも泣きだしそうな顔を浮かべる剣士。彼の表情に浮かび上がるのは、確かな憐れみであった。

 散々人間を喰い殺した鬼に対して憐れみを覚えるとは―――なんと慈悲深い者なのだろう。

 と、人間らしい考えが脳裏を過ったところで、鬼の意識は途絶えた。

 最後の最後に人間を取り戻した鬼は、それはそれは安らかな寝顔を浮かべていたのだった。

 

「……よし」

 

 両手に携えていた日輪刀を鞘に納める剣士は、未だ刀を握っていた感触が離れない手を合わせながら黙祷する。

 長く、それは長く。

 今まで鬼に殺された者達への鎮魂も含んだ黙祷は、一分ほどで終わった。

 それが限界。次なる鬼を殺し、人を守るために許される猶予はその程度だ。

 故に彼は歩みだす。一度は止まりかけた歩みを、もう二度と止めないように。

 過去から背中を押してくれる大切な人々、そして未来を生きる者達を守るために進み始める。

 

「……今、帰りますからね」

 

 形見の日輪刀の柄を撫でながらつく帰路は、星明りに照らされていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ずるる」

「ぢゅるる」

 

 屋台でそばを啜る音を響かせる二人組が居た。

 若い男女が並んで食事をする様は、傍からみれば青春の一頁の真っただ中であることを錯覚させるが、実のところそのような訳ではなかった。

 

「ずずッ……んっ! それにしても帰りに会うなんて奇遇だったよ。一か月ぶりくらい?」

「ぢゅるるんッ! ……ん」

 

 母親の形見の(かんざし)で髪をまとめる凛は、一心不乱にかけそばを頬張るつむじに笑いかけた。

 二人とも任務帰り。その道中で合流し、こうして食事を摂っているという次第だ。

 余程腹を空かせていたのか、つむじはすでに三杯目を頼んでいる。あの華奢な体のどこに収まっているのか……出会って数年になるが、未だに疑問に思うことがある。

 

 しかし、実際この屋台のかけそばは美味い。出汁が効いている。任務帰りの疲れた体に染み渡るような風味だ。

 二人一緒に替え玉を頼んでから、話題を投げかけるのはやはり凛だ。

 

「そう言えば、つむじは読んだ?」

「ん?」

「燎太郎からの手紙」

「ううん」

「……そっか」

「ん~」

 

 半ば予想通りの結果に苦笑が浮かぶのは仕方がない。

 主に蝶屋敷を拠点として任務に向かう三人であるが、任務地によってはしばらく蝶屋敷から離れることもある。そうなれば、互いの任務で行き違いとなり、長期間顔を合わせないという事態も少なくない。

 流が死んでから一年以上経つが、何度かそういった経験があったため、カナエから「互いの近況を伝えるために置手紙をしてはどうか?」と提案されたのだ。

 

 どんな任務で、どんな場所に向かうのか。

 病気やケガはしていないか。

 ちゃんと好き嫌いなく食べているのか。

 しっかりと睡眠や休息はとっているのか……等々。

 

 師と言っても過言ではない男を亡くし、頑張り過ぎてしまいそうな互いを適度に注意する意味も含めた手紙は、それなりに機能していた。

 が、つむじは必要最低限のことしか書かず、あまつさえ他人の手紙を読むことを忘れがちだ。

 

 それを踏まえても、つい最近燎太郎から伝えられた内容をつむじが知らないのも仕方のないことだ。

 

「燎太郎が炎柱の継子になったって話なんだけれどね」

「……炎柱?」

「うん! 凄いよね、知らない間に継子にしてもらっちゃって……だって、継子って才能ある人しか選ばれないし!」

「……炎柱ってなに?」

「……うん、そこからだね」

 

 最早清々しささえ覚える。が、だからこそつむじだとも言える。

 

「要するに炎の呼吸を使う柱の人だよ」

「柱……強い人」

「うん。流さんとかカナエさんみたいに」

「ふ~ん……」

 

 二人の名前を耳にし、僅かにつむじの瞳に興味の光が宿る。

 彼女もまた、教示してくれた流のように強くなろう努める剣士の一人。同じ組織内の強者(つわもの)には相応の興味を示す訳だ。

 

「名前」

「炎柱の人の?」

「ん」

「確か……」

 

 綴られていた文字を思い出す。

 その名は、

 

 

 

 ***

 

 

 

「俺が炎柱、煉獄杏寿郎だ!」

 

 溌剌とした声が部屋に響きわたる。

 じーんと鼓膜を揺らすような声には、少し離れた場所に座っていたカナエすらも若干顔を歪めるほどだ。

 

 そうした大声を発した男、彼こそが新たなる柱―――炎柱・煉獄 杏寿郎その人だ。

 揺らめく炎を彷彿とさせる癖のある黄金の御髪に、これまた煌々と燃ゆる炎を模した色の羽織が特徴的だった。

 情熱を絵に描いた正義漢。

 彼から受け取った印象はそれだった。

 

「は、初めまして……氷室凛です」

「東雲つむじ」

「氷室少年に東雲少女か!! 相分かった!!」

 

 一挙手一投足が力強い。

 仰々しい訳ではない。どっしりと、己の身の振る舞いに堂々たる自信を覚えているような―――そういった身振り手振りなのだ。

 

 思わず気圧される凛は、何故このような状況になったのか説明を求めるように、杏寿郎の隣に座っている燎太郎へと目を向けた。

 

 しばらく見ない内に、また精悍な顔つきとなったものだ。

 隊服から覗く地肌に細かな傷跡が覗くが、それは今日までの戦いの軌跡―――彼曰く、勲章のようなものだという。

 

 そんな彼は、ふとした瞬間に雲の切れ間から差し込む陽光の如き眩しい笑みを湛える。

 

「この人が俺を継子にとってくれた煉獄の兄貴だ!」

「それは分かったけれど……えっと、なんでここに……?」

「それは俺から説明しよう!」

 

 ぎょろりとした瞳を向けてくる杏寿郎にたじたじとなりつつ、「はぁ」と応える凛。

 わざわざ柱が赴いてくるにとどまらず、指名された意図を勘ぐっていた凛に対し、杏寿郎は明朗な声音で告げる。

 

「単刀直入に言う! 俺の継子になってみる気はないか!」

「継子……え、継子!?」

「ああ! 継子だ!」

 

 突拍子のない提案に一度は茫然としたが、否応なしに正気を取り戻らせる声に、凛は体の芯が震えるような感覚を覚えた。

 まさに青天の霹靂。流が存命の内は叶わなかった継子という立場―――次期柱として現柱に直接稽古をつけてもらえる立場は、凛にとっても願ってもないものである。

 しかし、懸念もあった。

 

「あの、ちなみに煉獄さんの呼吸は……」

「炎だ!」

「僕、氷なんですが!」

「なに、同じ呼吸でなければ継子にしてはならない決まりはないと彼女に聞いたのでな!」

 

 大丈夫だ、問題ないとでも言わんばかりの声音だが、凛は若干気が引けているような面持ちを浮かべている。

 

 と、彼からカナエへと目を移す杏寿郎。

 カナエが花柱を引退するのと入れ替わる形で炎柱となった杏寿郎は、少なからず彼女と面識があったのだろう。

 そして、それ故に今の状況があると言っても過言ではない。

というのも、

 

「私が皆を継子にしてくれそうな人に掛け合ったのよ」

「カナエさんがですか?」

「ええ」

 

 朗らかな笑みを湛えるカナエ。

 柱を引退し、膨大な任務から離れることになったカナエは、有り余る時間をしのぶの稽古に費やしていた。

 柱の後継に恥じぬ人材―――すなわち、後の柱としてつける稽古は地獄の一言。それも偏に唯一の肉親である(しのぶ)に死んでほしくない一心故だ。

 

 だが、そうした鍛錬をつける一方で、蝶屋敷に運び込まれた隊士にも元柱として稽古をつけていた。となると、相対的にしのぶ以外の隊士にかけられる稽古の時間が少なくなる訳であり……。

 

「それに、私から教えられることはほとんど教えたから……それなら、他の柱の人の継子になった方が勉強になると思ったの!」

 

 いぇい! と拳を掲げるカナエ。

 とどのつまり、カナエとしては三人に対して免許皆伝を言い渡したつもりなのだ。

 花の派生である蟲の呼吸ならば兎も角、氷や炎、風といった呼吸を扱う三人につけられる稽古には限界がある。

 ならば他の呼吸法を扱う者に託した方が成長を望めるのではないか。カナエなりに色々と考え、便宜を図ってくれたのだった。

 

「本当は皆それぞれの柱がいいと考えたんだけれどね……」

「悉く断られたと聞いてな!! ならばいっそのこと俺が全員の面倒を看ようと!!」

「な、なるほど……」

 

 カナエは風柱や水柱に打診したものの、

 

『俺は継子なんざとるつもりはねえぞォ』

 

 と言われたり、

 

『……必要ない』

 

 と突き放されたりしたと言う。

 

 そして巡り巡って柱としては新参の杏寿郎へと話が回って来た。

 結果、杏寿郎は彼女の申し出を了承。偶然任務先で出会い、図らずも燎太郎を継子にしていたこともあり、とんとん拍子で話が進んだらしい。

 

「なに、そう心配そうな顔をするな! 俺が面倒を看る限りは絶対に見捨てん! いずれ柱足り得る剣士に育ててみせる! 約束しよう!」

「……ッ」

 

 気圧される余り、言葉すらも出てこない凛。

 その横でつむじは「暑い……」と胸元を手で仰いでいる。燎太郎もそれなりに熱い人柄であるが、杏寿郎はそれを遥かに上回る。

 まるで太陽のような人間だ。目を背けたくなるほどに眩い存在。

 

 なるほど。一隊士としては余りにも無礼な考えであるかもしれないが、彼も流のように柱足り得る剣士だ―――凛は心で理解した。

 

「……わかりました」

 

 元々、断る理由もない。

 

「不束者ですが、よろしくお願いします!」

「うむ! ……して、そちらの君はどうする?」

「……二人が行くなら私も」

「決まったな!!」

 

 バンッ! と振り下ろされた手で太腿を打ち鳴らす乾いた音を響かせる。

 それは三人の新たな激闘の日々の出発を報せる閧か、はたまた―――。

 

「三人とも! 今日から俺の下で励むといい! 柱までの道は長かろう! 百歩や千歩は優に超える道のりを歩むだろう! だが案ずるな! 俺が居る! 俺と共に立派な剣士を目指し歩んでいこう!!」

「押忍、煉獄の兄貴!」

「は……はい!」

「ん」

 

 それにしても熱い人だ。

 いつまでも同じ感想が頭の中を巡るのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 煉獄杏寿郎という男の第一印象から想像できる稽古とは、どのような内容だと考えるか。

 とことん根性や意思で回数をこなそうという、俗に言う根性論主体の稽古を想像していたことを、凛は否めなかった。

 

 しかし、実際は違う。

 

「よし! そこまで!」

「ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

 

 汚い雄叫びを上げて担いでいた丸太を下す凛。

 隣でも同じことをしていたつむじと燎太郎が、片や死んだような瞳を浮かべ、片や我ここに在らずといった面持ちで丸太を下す。

 

 杏寿郎に言われて行っていたのは至極単純、丸太を担ぐ鍛錬だ。足腰を鍛えるためには重い物を担ぐのが手っ取り早いというのが杏寿郎談である。

 

「まずは己の限界を知る! そして、知った限界を超えるべく決められた回数を全力でこなす! これが肝要だ!」

 

 彼のつける稽古は、どれも基礎的な部分を鍛えるものであった。

 

 体を安定させる足腰を鍛えるための丸太担ぎ。

 何度剣を振ってもキレが衰えぬ筋力をつけるための素振り。

 呼吸法の要である心肺機能を高めるための走り込み、等々……。

 

 どれも普段から行っているような鍛錬を、あえて杏寿郎は三人に課していた。というのも、彼も柱であるため四六時中三人の面倒を見ることができる訳ではない。

 そこで、対面で行える稽古以外を予め定めておくことにより、三人を鍛えようという魂胆で、前述の稽古をつけられていたのだ。

 

 しかし、これが死ぬ程きつい。死ぬ程きついのである。

 

 定められた時間に定められた回数をこなし定められた休憩を取り―――それの繰り返しだった。

 全てを全力で行う。というより、全力で行わなければ成し遂げられない回数を課されていた。

 しかし、それでも自分に甘えなければこなせる絶妙な回数である。

故に自分に鞭を打って体を奮い立たせる凛たちであったのだが、初日の稽古を終えた段階で、体は襤褸雑巾もいいところの有様になった。

 

 だが、杏寿郎も考え無しではない。

 次の日は前日行った稽古とは別の部位や機能を鍛える稽古を課す。そうすることにより、酷使した部位を休ませつつ、他の部位を鍛えられるという訳だ。

 凛たちよりも回数をこなしているからこその知恵なのだろう。

 もっとも、その回数にこそ凛たちと杏寿郎の間には天と地の程の差があるのだが。

 

「一年経って前より動けると思ってた自分を殴りたいよ」

「ふ、普通の人よりは十分動けていると思うんですけれどね……あ、お茶どうぞ」

「ありがとう、千寿郎くん……」

 

 大分息が整ってきたところに茶を差し入れてくれたのは、杏寿郎の実弟である千寿郎だ。

 溌剌とした兄とは裏腹に、歳不相応に落ち着いた性格の子供であった。

 

 杏寿郎に稽古をつけてもらうに辺り、三人は杏寿郎の実家―――もとい、煉獄家へと拠点を移した。

 何を隠そう、煉獄家は古くから鬼狩りの剣士を出す名門一族。どの時代にも存在している炎柱の大半が、この煉獄家から輩出されているというではないか。

 炎の呼吸は勿論、数百年にもわたり受け継がれてきた鬼狩りの知識の“畜”がある場所だ。鬼狩りの剣士としての力を高めるには、この上なくぴったりの場所と言えよう。

 

 広々とした庭では、現在杏寿郎とつむじが木刀で切り結んでいる。

 えげつない風を切る音を響かせるつむじを歯牙にもかけない様子の杏寿郎は流石と言えよう。

 燎太郎はと言えば、現在厠に向かっているため、実質縁側に居るのは凛と千寿郎の二人だけ。

 比較的落ち着いた性格の二人が共になっている場には、ほんわかとした空気が流れていた。

 

「煉獄さん、凄い人だね」

「ありがとうございます。そう言ってもらえると僕としても嬉しい限りです。兄にも是非直接言ってあげて下さい」

「そう? 煉獄さんみたいに凄い人はもうたくさんの人に凄いと言われてそうだけれど……そうだね、後で直接言ってみるよ」

「はい!」

 

 嬉しそうに笑う千寿郎。が、その笑顔の裏には何か隠されているように感じた。

 というのも、

 

「……槇寿郎さんは、煉獄さんのことを褒めてくれないのかな」

「え、父ですか……!? そ、それは……」

「いや! 言いたくなければいいんだけれど……」

「……いえ、隠しても仕方がないですから。はい、父は余り……」

 

 言葉尻がすぼんでいく、紡いだ言葉も風の中に消えていく。

 杏寿郎と千寿郎の父の名が槇寿郎だ。容姿は息子にそっくりで、無精ひげを生やしている。

 人当たりのよい杏寿郎たちの父であり、加えて元柱であると聞いた時には、それは立派な人間だと当初は思った。

 しかし、実際会ってみたところ、その幻想は打ち壊されてしまったのである。

 

『お前らのような才の無い者が教えを請うたところで、大したものにはなれん』

 

 開口一番に告げられた言葉だった。

 凛と燎太郎は唖然とし、つむじに至っては即座に臨戦態勢に入った。辛うじてすぐさま二人が我に返って止めに入ったものの、初日で先行きが不安になってしまったことは、言うまでもないだろう。

 

 そんな槇寿郎は一日中私室の傍の縁側で酒に入り浸っているばかりだ。

 何度か会話を試みたものの、返って来るのは当たりの強い言葉ばかり―――というより、罵詈雑言に等しいものだった。

 無気力と虚無感の間に苛立ちが挟まれている。それこそ凛が槇寿郎から感じ取った“(いんしょう)”であった。

 

 妻―――もとい、杏寿郎たちの母である瑠火(るか)という女性が先立っていることも理由の一つかと考えたが、真実を聞こうにも槇寿郎があのような様子であるため、おいそれと聞けはしない。

 

「二人とも頑張ってるなら、ちょっとくらい褒めても良さそうだけどね……父親も難しいんだね」

「……はい」

 

 実の父親こそ居なかったが、父親のように愛情を注いでくれた存在が居たからこそ、槇寿郎のように実の父親にも拘わらず子供たちに愛情を注がないことに、抱いていた勝手な夢想への僅かながらの落胆と現実の難しさへの苦悩を覚える。

 

「父も昔は情熱を持っていた人だと聞いたんですけれどね」

 

 と、千寿郎は語を継いだ。

 すると、頭の中で暗雲の如く立ち込めていた問題が晴れ渡った気がした。

 

「―――そっか。じゃあ、分かる気がするなぁ」

「え……?」

 

 ぱちくりと目を白黒させる千寿郎に対し、凛は杏寿郎たちの方に視線を向けたまま続ける。

 

「どんなに情熱を持っていても、ふとした瞬間にそれが冷めてしまうような感覚。凄く分かるよ」

「凛さん……」

「大切な人を守れなくて、自分が無力なんだって現実を叩きつけられると、それまでが嘘みたいに立ち上がれなくなる」

 

 未だ癒えぬ傷がじくりと痛む。

 忘れられぬ傷を思い出しながら紡がれる凛の言葉は、酷く生温かった。

 

「柱だったお父さんなら、きっと何度かそういう経験があってもおかしくはない……と思うよ」

「父が……」

「ホントにただの予想だけどね」

 

 そう言って笑う凛の笑顔は、取り繕われたものであるように見えた。

 同時にそれとなく彼の経験を察する機会にもなった。

 

「……母は、僕が物心つくより前に先立たれました」

「……うん」

「兄から聞いた話では、それは立派な母だったと。弱き人々を守るのが強き者として生まれた責務だと教えられたそうです」

「弱き人々を……」

「ええ。その言葉を糧に、兄は柱にまでなった。本当に僕の誇りです。草葉の陰で母も喜んでくれていることでしょう」

 

 はぁ、と一息吐いた千寿郎は「でも」と語を継いだ。

 

「あの兄でさえ人を守れなかったことはあるんだと確信しました。表立って言わないだけで……だって見たことが無いんです、そういった姿を」

「心配?」

「はい。父のこともあります。きっと気弱い僕を気遣ってくれてるのでしょう。でも……でも! 僕はそんな兄を守りたい! いつかはたりと消えていなくなってしまったら、僕は悔やみきれません」

 

 握る拳は小さく震えていた。

 彼もまた煉獄家に生まれた者として、鬼狩りになるために鍛錬を積んできているのだろう。

 

 しかし、感じる“熱”は歳を考えても強者と呼ぶには程遠い。

 

「……だけれど、どれだけ兄を守りたいと願っても、僕には才能がない。兄は大丈夫だと励ましてくれます。それで毎日毎日頑張ってみては居るのですけれど、日輪刀の色も変わったことがありません」

「千寿郎くん……」

「僕は弱い。僕は兄を守れない」

 

 心底悔しそうな声音で吐露される思いの丈。それは名門の家に生まれた者として。

 そして、

 

「じゃあ、兄は誰が守ってくれるんでしょう?」

 

 たった一人の弟としての苦悩。

 

 兄の強さを最も信頼している千寿郎だが、同時に鬼殺隊が柱でさえ容易く殉死する場であることを理解している。

 今日まで自分が健やかに育ってこられたのは、偏に偉大な兄が居るおかげだ。

 その兄が、もしも永遠に帰ってこないことがあったならば―――そうした考えが脳裏を過るたびに、胸が締め付けられるような痛みに苛まれる。

 

「僕は……悔しいです。誰も守れないことが」

「そんなことないよ」

 

 自嘲気味に言い放たれた言葉は、即座に否定された。

 弾かれるように千寿郎が顔を向ければ、隣に座っていた凛が、穏やかな笑みを湛えてこちらを見据えている。

 同情している様子ではない。

 どこまでも爽やかな印象を与える笑みのまま、凛はこう告げる。

 

「守るってのは、鬼の手から人の命を救うっていうだけの意味じゃないと思うんだ。千寿郎くんは、任務で忙しい煉獄さんのために家を守ってる……違う?」

「そ、それは……その気になれば兄もできることですし」

「でも、実際に守ってるのは千寿郎くんだよ。その事実に間違いはない」

「……そう、ですかね」

 

 僅かに千寿郎の面持ちが柔らかくなる。

 どうにかして兄の力になりたい。その一心で日々努めてきた千寿郎。しかし、兄以外に労ってくれる者など、誰一人としていなかった。兄に労われているとしても、心優しい兄のことだから気遣ってくれているのではないかと邪推するばかり。

 だが、こうして余所から来た他人から告げられることで初めて実感できた。

 

「僕は……兄を守れてるんでしょうかね?」

「うん。きっと煉獄さんも、たくさん千寿郎くんに守られてきたと思うよ」

「それなら……よかったです……ッ!」

 

 安堵が胸に込みあがると同時に、千寿郎の瞳から雫が一粒溢れ出す。

 兄を想うが故に堪えていたものが、彼にもあった。

 それを今、やっと彼は吐き出せたのだった。

 

「ありがとうございます、凛さん。貴方と話して大分楽になりました」

「ううん。来てまだちょっとの奴が何言ってるんだって感じだけど……」

「いえ、そんなこと!」

 

 

 

「みぎゃ!!!」

 

 

 

「「!!?」」

 

 ただならぬ悲鳴を聞き、二人の視線が庭へと向く。

 すると視線の先では、これまた立派な松の枝に引っかかるつむじの姿があった。さながら、もずの早贄のようだ。

 

「一体なにをどうやったらそうなるんですか!?」

「はっはっは! 少し力が入り過ぎてな!」

 

 力が入り過ぎたら人を木の上まで弾き飛ばすとは、どれだけの膂力があれば為せるのか。

 これから彼と稽古をする凛が戦々恐々するのも致し方ないことだろう。

 

 が、格上と打ち合うのは初めてではない。

 

「ふぅ……千寿郎くん。伸びてるつむじのことお願いしてもいいかな?」

「は、はい! もちろん……!」

「それじゃあ……」

 

 縁側から腰を上げる凛は、傍に置いてあった()()の木刀を手に取った。

 

「―――よろしくお願いします」

「……ああ、来い!」

 

 明朗な杏寿郎の雰囲気が一変、喉が焼け付くような闘気が辺りに満ちさせていく。

 流を全てを圧砕する激流、カナエを幻惑的な花弁の繚乱と例えるならば、彼は天地を焼き焦がす業火だ。

 よもすれば塵もないほど燃やし尽くされる闘気にあてられ、凛の頬には真夏の炎天下に立ったかのように汗が滲み出る。

 

 しかし、不思議と体は緊張していない。

 格上と戦った経験は何度もある。ちょうどこのような熱さを発する相手とも。

 

―――今まで乗り越えた壁は決して無駄ではなかった。

 

 確信した刹那、体が動き出す。

 

 あの日から歩み続けた自分こそが、今日この場に立っている。

 託され、繋いできた己が。

 だからこそ研ぎ澄ませた刃がある。

 

 水の呼吸 壱ノ型 水面斬り

 

 大火に放たれるは流麗な一閃。

 それを杏寿郎は難なくいなすが、肉迫した凛が続けざまに真下から仕掛ける。

 

 氷の呼吸 漆ノ型 垂氷

 

 尖鋭な刺突が人体の急所である顎を狙う。

 が、杏寿郎も後手に回ってばかりではない。

 刺突であるが故、攻撃範囲が狭いことを見極めてから最小限の動きで躱し、お返しと言わんばかりの斬撃を繰り出す。

 

 炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり

 

 凛の猛攻を一蹴する強烈な斬撃。

 真面に受ければつむじの二の舞になる威力を前に、木刀を二本携える凛は左手の木刀で受け流す。

 杏寿郎から見ればまだ拙さの残る刀捌きであるが、たった一年の鍛錬で炎柱たる自分の一撃を受け流していると考えれば、十分驚嘆に値すると彼は心の中で思った。

 

(“剛”の氷と“柔”の水……二つの呼吸を使いこなす二刀流! 何度か見ているが……やはり面白い!)

 

 柔軟な対応が可能な水の呼吸と、柔軟さを捨てて剣閃の鋭さを極めた氷の呼吸。

 本来、後者の使い手だった凛であるが、流の死以降彼の用いていた水の呼吸を記憶とカナエを頼りに会得した。

 しかも、単純に一本の日輪刀を使い分けるのではなく、形見の日輪刀を携え、二刀流になることにより、同時に二つの呼吸を使うという荒業に打って出たのだ。

 

 傍から見れば奇想天外。一つの呼吸を究めようとしない、ひどく不合理な戦い方に見えよう。

 だが、彼は現に柱と打ち合っている。それが彼の戦い方が格上相手に通用している何よりの証拠。

 

 杏寿郎が初めて目の当たりにした時は、ただただ驚愕していた。

 そして一合で驚愕が驚嘆に変化したのは、今でも鮮明に覚えている。

 

「分かるぞ、氷室少年!! 君の刀捌き!! 一人で歩んできたものではないと!!」

「っ……はい!!」

 

 攻守が転じて守勢に回る凛は、杏寿郎の猛攻撃を受け流す中、彼が一際体に力を入れている瞬間を見逃さなかった。

 

 炎の呼吸 壱ノ型 不知火

 

 単純、故に強力な一閃が迫る。

 が、()()り反応できる。

 灼熱を確かに肌身で感じ取った凛は、無駄な思考を投げ捨て、ほとんど無意識に近い形で動き出す。

 

 氷の呼吸 零ノ型 零閃

 

 水から氷へ成る架け橋となった型も、水を極めんとする凛の練度が上がったため、杏寿郎の一閃でさえ受け流し、刹那の隙を突かんと凛の刃が彼の首目掛けて向けられる。

 しかし、

 

(!? もう……()()!!)

 

 すれ違う杏寿郎は不知火を放った直後で隙ができていたはず。

 しかしどうだ? 凛の零閃が杏寿郎へと届く前に、彼は体勢を立て直すどころか、応戦するように二撃目を繰り出している。

 

 炎の呼吸 弐ノ型 昇り炎天

 

 疾く重い一閃が、凛の一閃を上へと弾く。

 だが、それだけではない。そのままいけば、凛の顎に直撃する軌道だった。

 

 次元が違う―――凛は改めて実感する。

 体勢を立て直す速さはもとい、次の動きへの切り替えが異常に早い。これが幾度の修羅場を潜って来た柱の強さ。日が昇るより早く迫りくる鬼の魔の手から逃れ、返り討ちにしてきた強者の世界だ。

 

(まだだ!!)

 

 零閃は届かなかったが、刃はもう一つある。

 

 水の呼吸 弐ノ型・改 水車(みずぐるま)(ながれ)

 

「ッあぁ!!」

「なんと!」

 

 真下から迫る刃を受け止め、その勢いを殺さんととんぼ返りするように飛び跳ねる凛。斬り上げが巻き起こす旋風が舞い散る木の葉を巻き込み螺旋を描いていたが、それもすぐに止む。

 

 本来前方に宙返りする水車を、あえて相手の攻撃の勢いを活かし、回避へと持ち込むのは、他ならぬ零閃という型の存在を知っているが故だろう。

 

 こうして凛は食らいついていく。

 その姿に杏寿郎は奮い立っていた。

 本来、相手に食らいつかれる事態は歯痒いものでしかない。その他にも苛立ちや焦燥といった負の感情を生み出すのが普通だろう。

 

 しかしだ。現に杏寿郎が感じていたのは、高揚や興奮といった類のもの。

 寧ろ、もう相手を催促するような意気さえ感じられる。

 気が付けば己の口角が吊り上がっていることを自覚した杏寿郎は、猛る心のままに吼える。

 

「いいぞ、氷室少年! そうだ! 心を燃やせ!!」

「え!? あ! はい!!」

「君は火種だ! これから数多の人々の道を照らす光の! なればこそ、俺が心血を注ぎ君たちを育てる! それもまた……俺の責務だ!!」

 

 だから手加減はしないと斬り込む杏寿郎。

 対して、手加減なぞ無用と眼光を鋭くさせる凛が彼を迎え撃つ。

 

 けたたましい勇猛な男たちの激闘の音は、木刀が折れるまで青空に木霊し続けるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ふぅ、すっきりした!」

 

 厠から出てきた燎太郎は、庭の方から聞こえてくる音に耳を傾けながら縁側を歩いていた。

 蝶屋敷も立派であったが、煉獄家も中々のものだ。流石は炎柱を数多く輩出する名家と言えよう。

 

 そのような家に継子として赴いた事実に、どこか感銘のようなものを覚える燎太郎は、打ち震える我が身を抑えながら、急ぎ足で杏寿郎たちの居る庭へと向かう。

 

 早く稽古をつけてもらいたい―――と駆ける燎太郎であったが、不意に見えた人影に立ち止まった。

 

「大師範! おはようございます!」

「……」

 

 不機嫌な眼差しを向けるのは、杏寿郎と千寿郎の父・槇寿郎であった。

 継子である立場上、師範である杏寿郎の父となれば「大師範」と呼ぶに値するだろう―――そう考え、燎太郎たちに大師範と呼ばれている彼であるが、

 

「まだ居たのか。朝っぱら騒がしくして」

「む! それについては誠に申し訳ございません! しかし、全ては師範のような立派な剣士に―――」

「あれのどこが立派な剣士だ。才能もないくせに剣士なぞになって……死に急いでいるだけだど何故わからん!」

「ッ……!」

 

 刺々しい言葉。歯に衣着せぬ雑言に、一瞬燎太郎の額に青筋が立つが、拳を握ってグッと堪える。彼もまた大人に移ろう途中の存在。すぐに突っかかるように子供ではなくなっている。

 しかし、感性までもが変わる訳ではない。胸の内に苛立ちが沸き上がる。

 

 そんな燎太郎に構わず、槇寿郎は酒を仰ぐ。

 四六時中酒を飲んでいる槇寿郎からは、常に酒気が漂っている。むせ返るような空気の中、グッと言葉を呑み込んだ燎太郎は、「そんなことはありません」と口を開いた。

 

「師範は強い方だ! 柱にもなったのだから、大師範にもお分かりになられるでしょう! 柱になるまでがどれほど辛く厳しい道のりか!」

「ふんッ! どうせあいつが柱になれたのは穴埋めに過ぎんだろうに。人手が足りなければあいつ程度でも不相応な立場に据えられる。鬼殺隊とはそういう組織だ」

「そんな……!」

「くだらん、実にくだらん。お前らも継子になって浮かれてるかもしれんが、所詮大したものにはなれんのだ。まったく……」

 

 ぶつくさと憎々し気に言葉を吐き出す槇寿郎は、重い足取りで燎太郎の前から去っていた。

 彼の姿が消えてから三拍。

 ギリ、と奥歯を噛みしめる音が辺りに鳴り響いた。

 

「それが……親の言うことか」

 

 普段の明朗な彼の姿からは考えられぬような声音。

 誰に言うでもなく紡がれた言葉は、徐に吹き渡る風の中へ溶け込むようにして消えていった。

 

「親は……子を……」

 

 瞼を閉じ、蘇る情景。

 

『お師様!』

 

『どうしたんだい、燎太郎?』

 

『俺、お師様みたいな立派な人間になりたい! どうすればいいかな?』

 

『嬉しいことを言ってくれるなあ、お前は。そうだなぁ……儂みたいになりたいんなら、弱

ってる人を助けてあげることじゃなかろうか』

 

『弱ってる人? 弱い人じゃなくて?』

 

『ああ。だってな、お前は儂のだ~いじな息子だ。儂が助けた子供たちが弱いなんてことは絶対にない。お前は将来絶対に立派で強い男になれる。親の儂がそう言ってるんじゃ。間違いない』

 

『お師様―――』

 

 頭に置かれる、大きく温かな掌。

 あれを親の愛情と知っているからこそ覚える、この違和感。

 

 余計なお節介だとは重々承知している。

 しかし、燎太郎は煉獄家の親子関係に異を唱えたい衝動に駆られているのだった。

 

「親は子を……信じるものでは……」

 

 心が、痛い。

 全ては、今は亡き義父からもらった温もりと、今の煉獄親子の関係の冷え込みの温度差が原因だ。

 愛を注がれなければ、人が育まれることはない。

 人が成長するにあたって、最も初めに愛を注いでくれる人物とは誰か?

 それは親に他ならない。

 杏寿郎と千寿郎は、まだ情熱があった頃の槇寿郎の愛と、先だった瑠火の愛を相互に分け与え、辛うじて育まれてきたのだろう。

 ひどく貧しい。柴に灯された炎のように吹けばなくなりそうな火勢の愛だ。

 

 どうにか間を取り持てないだろうか?

 

 そのような思案が頭を過る中、燎太郎は稽古へと戻るのであった。

 



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拾肆.四鳥別離

「……」

「あら、しのぶ。お手紙読んでるの?」

「ちょ、カナエ姉さん! 後ろから覗き込まないでよ!」

 

 縁側で手紙を読み耽っていたしのぶの背後から、音もなく現れたカナエ。

 気配の消し方については流石柱と言ったところであるが、それを覗き見に利用される側からすれば堪ったものではない。

 思わずしのぶは青筋を立てる。

カナエはどうどうと妹を落ち着かせる挙動を見せ、しのぶは「まあいいわよ」とため息を吐いた。

 

「どうせ見られても構わないもの」

「あら、そうなの? うふふ、姉さんはてっきり恋文なんかじゃないかと……」

「違うから」

「もう……そんな怖い顔しなくてもいいのに。ほら、笑顔笑顔!」

「姉さんのせいでしょ!」

 

 と、ツッコミを入れてからしのぶは手紙を見せつけるように差し出す。

 

「恋文もなにも、煉獄さんのところに行った三人からの手紙よ。やましいことなんて書いてないから」

「ふむふむ。なんて書いてあったの?」

「なんてって……当たり障りのないことよ。元気にやってるらしいわ」

「そっかぁ、よかったわ~! 私が紹介した手前、三人に何かあったら、姉さん気が気じゃなかったもの」

「……」

 

―――まったくもってそのような顔には見えない。

 

 そう言わんばかりのしかめっ面を姉に向けるしのぶであるが、当のカナエは一切気にしない様子で、受け取った手紙に目を通す。

 

 綴られていた内容は、しのぶが言った通りこれといって取り上げるような話題がある訳ではない。

 稽古の内容や、杏寿郎と接してみての感触、彼の弟・千寿郎とのたわいのない触れ合い。

 筆を執ったのは凛だろう。事こまやかに綴られている仔細に、煉獄家での彼等の姿をありありと想像できたカナエは、ふわりとした花のような笑みを湛えた。

 

「……三人とも、元気に過ごしてるのね。本当に良かった」

 

 実はと言えば、彼等を杏寿郎に預けるにあたって色々と不安を覚えていた。

 

 流と付き合ってきた彼等が、新たな柱の下でうまく付き合っていけるのか。

 柱と言えど指導する立場としては新米の杏寿郎が、一斉に三人もの隊士の面倒を看られるのか。

 その他にも、ちゃんとご飯を食べているのか、睡眠はとれているのか、怪我はしていないか、好き嫌いはしていないか等々……数え上げればキリがない。

 

 しかし、そんなカナエの心配を余所に、三人は杏寿郎の継子として順風満帆な生活を送っているようであり、胸には安堵がこみ上げてきた。

 同時に感慨深くも思う。

 

「……あの子たちも、いつまでも子供じゃないのね」

 

 無力に打ちひしがれていたあの日の三人の姿が目に浮かぶ。

 そんな三人を慰めたのは、他でもない流の言葉だ。

 誰もが子供を―――無力の時間を経験する。だからこそ焦る必要はない。大人へと―――無力ではない時が来るのを待てと彼は遺した。

 

 遺言に準じた彼等はひたむきだった。

 そうした努力の甲斐があったと証明するように、数多くの任務をこなし、人命を救ってきたが、成長とは体や力だけを指すものではない。

 

 心も、また―――。

 

 鹿威しが木霊し、一拍。

 

「そりゃそうよ。だから姉さんも、私をいつまでも子ども扱いしないで」

「……もう、しのぶったら。自分の感情を制御できない者は未熟者ですっ」

「私のどこが感情制御できてないって言うの!」

「そういうところよ、うふふっ」

 

 むきになる妹を宥めるカナエ。

 

 そうしてしのぶを相手する傍らで、頭の隅では三人の無事を祈っていた。

 だが―――きっと大丈夫。

 

 凛は心優しい人間だ。時に優しさや思いやりが仇となり傷つくこともあるが、また立ち上がる力を彼は身に着けている。

 燎太郎は熱く義勇に満ちた人間だ。その真っすぐさ故頑迷になってしまうこともあるが、根っこにある人を助けたいという気持ちが曇ることはない。

 つむじは淡々と己の使命を果たす人間だ。最初こそ合理性を突き詰める余り非情だった頃もあるが、今は友と過ごし、人の心の痛みを共感できる人間に育っている。

 

 彼等三人ならば、どんな壁でも超えられるだろう。

 

 カナエは、手紙の最後に綴られている内容に目を通してから、徐に面を伏せた。

 どうかこの想いが彼等まで届きますように、と。

 

 

 

 任務から無事生きて、そして笑って帰られるように―――と。

 

 

 

 ***

 

 

 

「先日、この辺りに巣食う鬼を討滅すべく派遣された十名ほどの隊士たちが戻らなくなる事案があった!! 今日は、彼等の雪辱を果たさんと、俺たちが赴いたという訳だ!!」

 

 眠気を吹き飛ばす喝の如き指令に、やや圧倒される凛たち。

 彼等がここにやって来たのは、たった今杏寿郎が話した通りだ。要するに、少なくとも下級ではない強力な鬼を退治するためにやって来た。そういう訳である。

 

 鬼殺隊にとって十名の損失は大きい。

 それほどの相手となれば、柱が居るとしてももう少し人員を増やすべきではないのか?

 何名かは思い至りそうな考えではあるが、他でもない指令を出したお館様こと産屋敷輝哉が、彼等ならばこなせると信じて送り出したのである。

 

 下手に人員を削ぐよりも少数精鋭。三人は、己が思っているよりも上からの信頼は厚かったという訳だ。

 

 そうしてやって来たのは、薄気味悪い廃寺。

 辺りを見渡せば、暫く手入れもされておらず苔むした墓石がずらりと並んでいる墓地が見えるではないか。

 今日の雲行きが怪しいこともあり、一層不気味さを醸し出す廃寺に、人喰らいの悪鬼は潜んでいる。

 

 そう思うだけで唇が渇き、掌が湿っていくようだ。凛は、日輪刀の柄の握り心地を確かめながら、自分の緊張を自覚した。

 

 と、緊張する凛を気遣ってか否か、杏寿郎は「よし!」と一際夜空に響きわたる声を上げる。

 

「散開して鬼の手がかりを探すぞ! 俺は北! 氷室少年は東に―――」

 

 捜索する方角を決める最中、辺りの空気が一変する。

 おどろおどろしい粘着質な熱。真夏の夜の湿っぽさに勝る不快感を催す“熱”は、間違いない。

 

「……向こうから出迎えるとは。が、都合はいい!!」

 

 揺らめく炎を象った鍔の日輪刀が抜かれる。

 その切っ先の向く先には、三体の鬼がゆらりと立ち尽くしていた。

 

 一人は鷲を彷彿とさせる脚を持つやせぎすの男。

 その隣に立つのは、これまた鳥のような翼をはためかせる頬のこけた女。

 最後に、彼等の三歩後ろに隠れるように身を屈める、異様な形をした喉を持つ男児。

 

 その異形の姿は勿論のこと、総毛立つような寒気を放つ彼等が鬼であると断ずるには、鬼殺隊ではない者でされ時間がかかることはないだろう。

 

 すでに杏寿郎に続いて、三人も日輪刀を抜いている。

 

 と、明らかに自分たちを打ち取りに来たと思しき剣士たちを前に、女鬼が口を開いた。

 

「お兄ちゃん。()()()()()?」

 

 酷く枯れた声だった。

 

「ぁ、あぁ、ぁあ」

 

 対して、問われた兄鬼はどもるようにして応える。

 

「こ、こい、こいつらも……おれたちを、を、殺そうとしてるんだ」

「えぇ……!」

 

 非難するような目つきで兄鬼が、杏寿郎たちを指さす一方、背後で屈んでいた鬼が涙に濡れた顔で驚愕の声を上げた。

 

「殺されるの? ()()?」

「あ、あぁ、そうだ。きっとそうだ」

「やだ、やだ、やだやだやだやだ……! こいつらなんかやっつけてよ、兄ちゃん、姉ちゃん……じゃないと、ぼく、ぼく……!」

 

 次の瞬間、異様にたるんだ弟鬼の喉が膨らんだ。

 さながら息を吹き込まれた紙風船のような様相。

 その異変に最も早く感づいたのは杏寿郎であった。凛の“熱”や燎太郎の“痒さ”よりも早く、彼の勘が危険信号を訴えた。

 

「耳を塞げッ!!!」

 

「―――ッ!!!!!」

 

 絶叫さえ生温い轟音が辺りに響きわたる。

 耳を塞いでも眩暈を覚えるほどの咆哮が辺りを揺るがし、眠りについてきた獣たちは一斉に目を覚まし、逃げ惑うばかりであった。

 中には気絶する動物も居り、視界の端では意識を失った小鳥が墜落する様さえ伺える。

 その光景を作り出す元凶の間近に立つ四人は、迂闊に動くことができぬ状況に陥ってしまっていた。

 

「ちぃ!」

 

 だが、どうにかしなければやられる。

 鼓膜が破れるのも厭わぬ覚悟で杏寿郎が駆け出そうとするが、そんな彼の横っ面のすぐ傍を紫電が流れていく。

 ハッと瞠目するも束の間、視線の先で血飛沫が上がると同時に、辺りを揺るがしていた大咆哮が止んだ。

 

「ぎゃあ!?」

「……るっさい……!」

 

 喉に刃物が突き刺さりのたうち回る弟鬼に殺意の籠った視線を投げつけるのは、日輪刀とは別に隠し持っていた暗剣を投擲したつむじであった。

 常人とは隔絶した平衡感覚を有す彼女は、相応の三半規管を有している。そのため、杏寿郎でさえ身を竦めるような轟音の渦の中でさえ、ただ一人身動きがとれた。

 

 そんな彼女の暗剣は、見事弟鬼の鳴き袋に傷をつけて封じる。

 鬼にとってはすぐさま再生できる僅かな傷であるが、柱を目の前にしているとすれば、致命的な隙ではあった。

 

「よくやった!」

 

 爆炎を幻視させる勢いで疾走する杏寿郎が、つむじの作った隙を無駄にしまいと構える。

 が、彼の前には弟鬼を庇うかの如く兄鬼と姉鬼が立ちはだかる。

 

「さ、させ、させるかよ」

「そうやってあたしたち家族を引き裂こうとする奴は……死んじゃえ」

 

 まず、兄鬼が前に繰り出す。

 鳥のような脚で地面を蹴れば、見事なまでの足跡が残るほどに地面が凹む。途轍もない脚力だ。故に、迫りくる杏寿郎の眼前まで迫るのも一瞬だった。

 相対す両者。

 兄鬼は柱ほどの闘気を当てられても怯える様子を見せず、地面に蜘蛛の巣が広がるように罅割れるほど踏み込んでは、天を衝かんばかりの角度と勢いの蹴り上げを繰り出した。

 

 しかし、まんまと喰らう杏寿郎ではない。

 顎目掛けて繰り出された一撃を、頭を逸らし、紙一重で躱し、反撃の一閃で片腕を斬り落とす。

 

 と、そこへ割って入るように追撃を仕掛けるのは姉鬼だ。

 バサリと広げる翼を杏寿郎目掛けてはばたかせる。すると、弾丸の如き勢いで無数の羽根が放たれるではないか。

 純粋な脚力で勝負する兄鬼に対し、姉鬼は鋭い羽根による遠距離攻撃での支援。本来、そこへ弟鬼の咆哮による拘束が加わることで、彼等の連携が完成するのだろう。

 

 なるほど、階級の低い隊士たちが何人も集まったところで勝てない訳だ。

 敵の危険度を確かめた杏寿郎は、迫りくる羽根をしっかりと見据え、機を見計らって剣を振るう。

 

 炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり

 

 円を描くようにうねる斬撃は、無数の羽根をいとも容易く斬り落とす。

 これには姉鬼も予想していなかったのか、驚愕の色が顔に浮かんだ。

 

「こいつ……強い……!」

「くぉっ!?」

 

 明らかに今まで相手した隊士と格が違う杏寿郎に動揺する兄鬼と姉鬼。

 そんな彼等を切り捨てる―――かと思いきや、杏寿郎が狙ったのは弟鬼だった。

 

「―――最も厄介なのは君なのでな」

「ひぃ!?」

 

 応戦しようと身構えるも、すでに杏寿郎の準備は整っていた。

 

 炎の呼吸 壱ノ型 不知火

 

 低く唸る斬撃が頚を跳ね飛ばす。

 残像を残す速さで回転する頚はそのまま近くに茂みへと落ちていき、頭部を失った体はと言えば、力なくその場に倒れ込んだ。

 

「お、おま、お前ぇぇええぇぇえ!!」

「よくも……きぃぃぃいいいいい!!」

 

 弟鬼の頚を斬られ激昂する兄鬼と姉鬼。

 だが、そんな二人の背後に迫る影があった。

 月光によって描き出される人影に気が付き、弾かれるように振り向く二体の鬼。彼等の視線の先には、すでに日輪刀を振りかぶる凛と燎太郎の姿が映っていた。

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 炎の呼吸 伍ノ型 炎虎

 

 自分を犠牲にしてまで隙を作ったつむじに代わり、彼女の分の力を込めんとする勢いで奔った一閃は、余りにも呆気なく兄鬼と姉鬼の頚を跳ね飛ばした。

 

 訪れる静寂。

 その間も警戒を緩めることのない四人は、刀身に滴り落ちる血を振り払うなどして、体勢を立て直す。

 呼吸を整える息遣いも響く中―――異変は唐突に襲い掛かる。

 

「! 来るぞ!!」

 

 一際響きわたる杏寿郎の声を皮切りに動き出す面々。

 そんな彼等に襲い掛かるのは、頚を斬られたはずの鬼たちの体であった。それらはぎこちなくも、鬼の剛力を存分に活かすかのように縦横無尽に暴れ狂う。

 

「どういう訳だ!? 頚は斬ったぞ!?」

「本体が別の場所にあるのかもしれない!」

 

 困惑する燎太郎に、凛が即座に応えた。

 一度、そういった類の鬼を倒した経験がある凛は、頚を斬っても死なない鬼の絡繰りがどういったものであるかの推測ができたのだ。

 それは経験豊富な杏寿郎も同じ。

 

「俺も同意見だ、氷室少年!」

 

 飛び掛かる弟鬼の体を、動けないよう一瞬の内にバラバラに切り刻む杏寿郎は吼える。

 

「そもそも鬼が群れで現れるのが異常だ!! 裏で束ねている者が居るとみて間違いない!!」

 

 鬼は群れず、仮に居合わせでもすれば縄張りを争う形で戦うか、飢えのままに共食いするかのどちらかだ。

 しかし、現に鬼は徒党を組んで四人の前に現れている。

 これが普通の鬼の常識が通用しない何よりの証拠。そして、頚を跳ね飛ばされても生きている―――その矛盾を看破する手がかりとなろう。

 

「誰かが本体を―――」

「なら、僕たちがこの鬼の相手を!!」

「!」

 

 激闘の中、凛が叫ぶ。

 と、それに燎太郎が続く。

 

「あそこから只ならぬ鬼気が!! 煉獄の兄貴!!」

「なるほど! 君たちの()()とやらは見くびれないからな! この場は任せた!」

 

 鬼の探知能力に秀でている二人の内、燎太郎が鬼が居ると踏んだのは、墓地の中央にポツンと佇んでいる寂れた廃寺。

 彼の鬼気を察知する“痒み”が、三体の鬼を討滅する手掛かりとなる存在が居ると訴えかけているのだから、杏寿郎も行かずにはいられまい。

 

「敏いね……そういう奴はかわいくないのっ!!」

 

 翼を存分に活かした飛翔能力で三人分の頚を回収した姉鬼が吼える。

 廃寺へと一直線に駆けこむ杏寿郎の行く手を阻むよう、羽根の雨を降らせようとする姉鬼―――だったが、背後でメキメキと軋む音を怪訝に思い振り返った。

 迫りくるのは数十年かけて成長したと思しき木が、自分目掛けて倒れてくる様。

 圧巻の光景だが、度肝を抜かれるのはその次だ。

 倒れる木の幹を駆けのぼり、空高く舞い上がる姉鬼に迫りくる人影―――つむじが、軽やかに跳躍してきたではないか。

 

「こいつッ!?」

「落ちて」

 

 優雅に舞う翼を捥ぎ取る四連閃。

 

 風の呼吸 弐ノ型 爪々・科戸風

 

 両翼と両腕を斬り落とす斬撃を受け、間もなく姉鬼は墜落を始める。

 それはつむじも同じだが、自分も墜落するヘマを踏む彼女ではない。落ち行く姉鬼の背を足蹴にして跳躍した後、今度は倒木に着地したかと思えば、地面に激突する直前で衝撃から逃れるように跳んだ。

 姉鬼が無様に地面に激突する一方、つむじは神楽を舞うかの如く戦場を我が物顔で動き回る。

 彼女の身のこなしの軽さも、一年の間に随分と成長した。その成長を感じることができた一幕であった。

 

 一方、地でもがく姉鬼は、潰れた体の前面を再生しつつキャンキャンと泣き喚く。

 

「ぐ、ぐぅ……! お兄ちゃん……! あいつッ! あいつゥッ! あたしを蹴った! 酷い! 痛い! 痛ィイ! 可愛そう! 許せない!! あたしが可愛そう!! 許さないッ!! あたしったら可愛そうゥ!!!」

 

 只管に己に降りかかる災禍を嘆く姉鬼。

すると、凛と相まみえていた兄鬼が飛び退いてくるや否や、叫喚する彼女を宥めるように頭を撫でる。

 

「か、かわい、可愛そうだ……」

「うぁぁああぁぁあ! そうでしょう!? ねえ!? あたし可愛そう!」

「お姉ちゃん……ひどい、いじめられて……」

 

 そうこうしている間にも、再生を終えた弟鬼が兄鬼と姉鬼に合流する。

 姉としての尊厳をかなぐり捨てて泣き喚く彼女を、同情するような瞳を浮かべて眺める弟鬼。

 

「ひどい、ひどいよぉ……ひっ―――」

 

 しゃくりあげる挙動を見せた瞬間、やらせまいと三方向から同時に迫っていた三人が、日輪刀を構えた。

 例え鬼を殺せずとも、頚を跳ねれば相手の戦力を削ぐことはできる。

 杏寿郎が本命を仕留める間、時間を稼ぐのが自分たちの役目なのだと心に言い聞かせ、ここ数週間の稽古で研ぎ澄まされた型を繰り出す。

 

 氷の呼吸 弐ノ型 霰斬り

 

 炎の呼吸 壱ノ型 不知火

 

 風の呼吸 伍ノ型 木枯らし颪

 

 もっとも早く鬼へと迫ったのは燎太郎の刃だった。

 弟鬼の咆哮を真面に食らえば鼓膜が破れかねない。あの攻撃だけはさせてはならぬと狙いを定めた一閃が宵闇を駆け抜ける。

 

 しかし、切っ先が膨らんだ鳴き袋に触れた瞬間、異形の脚が燎太郎の一閃の軌道を弾く。

 兄鬼の強烈な蹴撃。刃を弾かれた燎太郎は、柄を握る手が痺れるような感覚に顔を歪める。

 その間にも弟鬼の咆哮の準備が整っていく。

 姉鬼も、墓石さえ豆腐のように斬り裂く羽根を有す翼で弟鬼を庇護するように覆って守る。

 

 そこへ閃くのは凛の日輪刀。弟鬼を防御する翼を、瞬く間に切り刻んでいく。

 そうして開かれた視界の先では、とうとう弟鬼の準備が整っていた。鳴き袋だけに留まらず、肺一杯に取り込んだ空気は、その矮躯に見合わぬほどに胸を膨らませている。

 いざ―――そう言わんばかりに上体を逸らす弟鬼であったが、そこへ振り下ろされるのはつむじの刃。

 

 ただ、弟鬼もまんまと喰らうつもりはない。

 一歩引き、彼女の刃から逃れようとする。

 一発でいい。自分の一発さえ鬼狩りへ浴びせられれば勝敗は決する。

 そう確信しているかのように、歳不相応な邪悪な笑みを湛えた弟鬼は嗤う。

 そして、背後の兄鬼に手を引かれたのもあり、つむじの刃から逃れた弟鬼は―――。

 

「ぴッ……!?」

 

 風船が爆ぜるような音を鳴らし、割れる鳴き袋。

 それに伴い咆哮は失敗に終わった。

 だが、そんな弟鬼の失敗を補うように、再生した翼から羽根の弾丸を全方位に解き放つ姉鬼。

 

 否応なしに鬼から離れる三人は、各々避けるか受けて攻撃を流す。

 そうしている間、自然とまとまる陣形をとった三人は、日輪刀を構え直す。

 

「あの鬼たち……連携が取れてる! 油断しないで!」

「関係ない」

「ああ、そうだな! 連携が取れてるのはこちらも同じだ!」

 

 鬼と戦う中で意識したことのない相手側の連携。

 普段と違うことを意識して戦わなければならないのは明白であるが、三人は()()()()()()()()()()にうまく戦えていることに、一つの確信を覚えていた。

 

 

 

『―――呼吸(いき)を合わせるぞ』

 

 

 

 口を揃えて紡ぐ勝利への(こたえ)

 ここまでの腐れ縁が日の目を見るときだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 剣呑な空気が満ち満ちる廃寺の中。

 ボロボロに朽ちた床や壁には目もくれず、それでいて踏み抜くといった下手を踏まぬよう、杏寿郎はしっかりとした足場を選んで突き進む。

 目を遣る先には鬼が居た。

 長い濡羽色の髪を下す一体の女鬼。巨大な翼や鶏のような脚と、つい先ほど立ちはだかった三体の鬼の特徴をまとめたような姿かたち。身に纏う衣は血に濡れており、むせ返るような鉄臭さを放っていた。

 

「なるほど。君が彼等の親玉という訳か」

「……私のかわいい坊やたちは何をしているの?」

 

 杏寿郎の問いに答えるでもなく、女―――否、母鬼は彼を恨めしそうにねめつけた。

 

「ああ……母が悪漢に襲われようとしているのに、なんて不甲斐ない坊やたち。あとでおしおきが必要ね」

「その必要はない。済まないが、俺も待たせている者たちが居るのでな」

 

 母鬼の今にも事切れそうなか細い声は、杏寿郎の日輪刀を構える音に掻き消される。

 今、こうしている間にも継子が子鬼たちと刃を交えているのだ。彼等の意気に応えるためにも、僅かな時間さえ無駄にはできない。

 

 炎が燃え盛るような猛々しい息遣いが、廃寺の中を反響する。

 

「悪鬼滅殺こそ柱の責務。いざ!」

 

 床が弾け飛ぶ轟音と共に、塵や埃が宙を舞う。

 時を同じくして、部屋の中央に腰を下ろして佇んでいた母鬼の頚に刃を奔らせる。

 強靭な鬼の肌も、彼の刃の前では無意味。肌に食い込み、肉にするりと刃が入り込んでいく感触の後、硬い骨を断つ鈍い手触りが伝わって来た。

 

(やったか!?)

 

 手応えはあった。

 狐につままれてでもいなければ、確かに自分の眼は鬼の頚が絶ち斬られている景色を目の当たりにしている。

 

 が、奇妙な違和感は拭えぬままだ。

 

「!」

 

 直後、杏寿郎の目に映ったのは信じがたい光景であった。

 断面が露わになっている母鬼の頚から噴水のように噴き出た血が、宙を舞う頚に繋がったかと思えば、そのまま頚を元通りの位置に引っ張り戻したではないか。

 

(なぜだ? 頚は斬ったぞ。こいつも本体ではないのか?)

 

 刹那の間に思考を巡らし、経験則から様々な理由を導き出す。

 そんな彼を邪魔するように、母鬼は翼をはばたかせ、羽根の雨を降りしきらせる。

 

「むんっ!」

 

 攻撃の鋭さで言えば姉鬼の遥か上を行く。

 が、一度目にした攻撃をまんまと喰らうはずもなく、盛炎のうねりで全てを叩き落した杏寿郎は、再び母鬼に肉薄して紫電を奔らせる。

 そして瞬く間に母鬼の四肢を斬り落とした。が、これでも即座に斬られた四肢は、断面から生き物のように蠢く血に繋がれ、元通りの姿へと戻る。

 

「奇怪な体だな! 一体どのような絡繰りなんだ!」

 

 自分に問いかけるように叫ぶ杏寿郎。

 思いついた考えから試していくように日輪刀を振るうこと、数分。何度も四肢を薙ぎ、胴体を泣き別れにしても、母鬼の体が灰燼と化す気配は一向に窺えない。

 

(体のどこかに本当の頚を隠しているのか? そもそも本体が別の場所なのか? しかし……)

 

 実力では杏寿郎が圧倒的に上を行くが、三人に任せている状況を踏まえれば、持久戦に持ち込む訳にもいかない。

 

 何度も何度も母鬼の体を斬り刻む。

 その度に鼻を刺す鉄臭さが周囲に振り撒かれ、流石の杏寿郎も生理的な嫌悪感を覚えざるを得ない。

 

 と、必死の試行を繰り返す中、不敵な微笑みを讃える母鬼が口を開いた。

 

「あぁ……かわいい坊やたちはまだかしら? 流石に貴方を殺すには私一人じゃ叶わないから……」

「残念だが、君の坊やとやらがこちらに来ることはない! なぜならば、俺の優秀な継子が相手をしているからな!」

「信頼しているのね。愛しているのね。うふふ、でも親子の絆に比べれば薄っぺらいものだわ」

 

 耳を貸す価値もない言葉とは言え、自分と三人の絆を否定された杏寿郎は眉を顰める。

 

―――いや、この悶々とした胸の疼きは、もっと別の……。

 

 刹那、僅かな動揺を見せた杏寿郎の頬を、打ち落とす損ねた羽根の一枚が薄く切りつける。

 じんわりと滲み出る血。頬の刻まれた一文字に沿う灼熱を覚える杏寿郎は、目を見開いたまま、左手で滴る血を拭った。

 

 そんな彼に対し、母鬼はクツクツと嗤う。

 

「親と子は血の繋がり。誰よりも強く結ばれている唯一無二の関係。子は親が居なければ生まれてこなかった。そうよ、親が居なければ生まれてこなかった。親こそ子を支配して然るべき存在……子は親が死ぬ瞬間まで、親の所有物として在るべきなのよ」

「何を言うかと思えば!」

 

 カッと目を見開く杏寿郎。すると、瞬く間に血が溢れ出していた頬の出血が止まった。

 羽根の凹凸によって治りにくい傷口を刻まれていたにも拘わらず、だ。

 

 止血の呼吸法。柱ともなれば当然体得している、全集中の呼吸の応用。

 それを用い、流れ出る血を押しとめた杏寿郎は、ギラリと閃く眼光を母鬼へと向ける。

 

「親が子の所有物だと? 馬鹿馬鹿しい! 子は何よりもまず、一人の人間だ!」

「でも、一人前に育てるのは親の役割……立派な大人になるまで親が庇護するのは間違っていない……誰の手にも渡さない。あの子たちは私の手で育てるの! 私の物なのよ!」

「一人の人間として意思を尊重できない者が親を騙るな! 親とは子を支配するのではなく―――」

 

 駿馬の如く軽やかに懐へと入り込み、一閃。

 

「教え導く者だッ!!!」

 

 炎の呼吸 弐ノ型 昇り炎天

 

 体を左右へと別つ豪快な一太刀。

 

「ギッ……!」

 

 流石にこれには堪えたのか、母鬼は苦悶の表情を浮かべる。

 しかし、その表情の歪みも別の意味へと移り変わった。

 

「い、ま……刀、ブレた……わ、ねッ!」

「!」

 

 馬鹿な。

 声にこそ出さぬものの、杏寿郎は自分の太刀筋がブレた事実を否定したい想いに駆られていた。

 自分ともあろう者が、まさか。

 

 が、両親の姿が交互に脳裏を過る。

 強き者の責務を説いてくれた母と、そんな母が死んでから無気力に生きるようになった父と。

 

 矛盾。杏寿郎の刃に迷いを持たせたのは、まさしくそれであった。

 

「隙だらけよッ!」

 

 ほんの僅かな時間、硬直したかのように立ち尽くす杏寿郎へ、母鬼は鋭い爪を携えた脚を振るう。

 狙いは―――頚。さんざ鬼狩りが鬼殺に狙う場所は、獲物を人間に置き換えても通用する。

 

「坊やたちの餌にしてあげる!!」

 

 愉悦に満ちた笑みを湛えて吼える母鬼。

 が、彼女の振るう脚は、気付かぬ間に膝から下が消え失せていた。

 

「ッ!?」

 

 何事かと目を見張る。

 と、直後に天井から何かが突き立てるような音が聞こえた。

 面を仰げば、血を滴らせる脚が天井に元々存在していた装飾品のように突き刺さっているではないか。

 

 「そんな」と口を開こうとすれば、不意に細い影が驚愕を浮かべる顔に差す。

 

「鬼を前にして隙を見せるとは……柱として不甲斐なし!!」

 

 そこには自己矛盾に芯が揺らいだ男の姿はなかった。

 柱としての気概を持ち直し、一層激しく心を燃やす杏寿郎。その面持ちは、迷いも憂いも振り払ったかのように清しいものであった。

 

「俺の体は俺一人の物ではない! ましてや、親の物だけでもない! 俺はこの身を……骨肉の一片までも世の為人の為に揮わなければならんのだ!」

 

 紅蓮に染まる刀身を斜に構える。

 闇でさえ隠し切れぬ情熱の色を前にし、母鬼は獰猛な肉食獣を前にしたかのように強張った。

 そして、

 

「鬼にくれてやる身は持ち合わせていないッ!!」

「ッ!!?」

 

 ビリビリと肌が焼け付く闘気に充てられ、母鬼は無意識の内に後退った。

 

「言わせておけば……」

 

 より苛烈になる戦いを予感し、母鬼の頬を大粒の汗が伝っていく。

 だが、まだ焦るほどではないと自分に言い聞かせ、不敵な笑みを浮かべる。長期戦になれば鬼が有利になる。例え柱と言えど例外ではない。

 継子を三人ほど連れて来てはいるものの、必然的に彼等は目の前の柱よりも劣るのだから、時間を稼げばその内子鬼たちが仕留めてくれるだろう。

 そうなれば、後は多勢に無勢。容易に看破できない絡繰りを隠し持ったまま、じわじわと嬲り殺しにするだけである。

 

 日の出までざっと数時間はある。それまで果たして柱の体力が持つのか―――実に見物だ。

 邪悪な笑みが浮かべば、杏寿郎も自然と表情を険しくする。

 

 これより改めて覚悟を決めた男と、歪んだ親子愛を持った母鬼の死闘の第二幕が切って落とされる―――両者共に悟った瞬間だった。

 

 

 

『ぎゃあああああ!!!』

 

 

 

 一際響く絶叫が外から聞こえて来た。

 ただならぬ声色。どこか心に余裕を覚えていた母鬼も、血相を変えて外の方へと振り向いた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 時は数分前まで遡る。

 

「チィ!」

 

 燎太郎は柄にもなく舌打ちをしながら刃を振るっていた。

 それは頚を斬っても死なぬ鬼に対する苛立ちが半分。もう半分は、

 

「お兄ちゃん、危ない!」

「よ、よく、よくも妹を……!」

 

 鬼の不死性を存分に活かし、代わる代わる互いに身を呈して庇い合う兄弟鬼の光景。

 人間に置き換えれば、なんと美しい兄弟愛だと感動さえ覚えたであろうが、それが鬼なら話は別だ。

 

 鬼が、家族を、庇う。

 鬼を絶対悪をみなして剣を振るってきた燎太郎には、にわかには信じがたい光景だ。

 故に戸惑う。故に揺らぐ。

 鬼とは貪欲で、利己的で、本能のままに人間を喰らう醜い化け物。

しかし、今戦っているの鬼は、家族を守り合い、命を狙う者に対して立ち向かう姿を見せる者達だ。

家族を傷つけられれば怒り、涙を流し、仇を討つために拳を振るう。

頭がこんがらがり、気が狂ってしまいそうだった。

 

「燎太郎!」

「ッ!?」

 

 凛の声にハッとしながら、兄鬼の蹴りを迎え撃つ。

 一撃一撃が強力であるが、燎太郎の力を以てすれば真正面からの応戦にも耐えられる。

 だが、戦いの最中に戸惑いと動揺の“熱”を発していた様相を呈していたからこそ、凛が声を上げたのであった。

 

「しっかりするんだ! 気を緩めないで!」

「ッ……済まない!!」

「私は緩めてない」

 

 凛が叱咤の声を上げる間、つむじはいつも通りの様子で姉鬼と戦り合っている。

 こうした時に、感情や状況に左右されない人間とは心強いものだ。疲労をおくびにも出さず、ただただ相手を斬り刻む。味方でさえ不気味さを覚える姿も、長い付き合いの二人からすれば「いつも通りだ」と安堵を覚えるほどだ。

 

 しかし、そんなつむじでも一つばかり思うところがあった。

 

「斬っても斬っても死なない……しのぶから毒貰っておけば良かった」

「確かに試してみる価値はありそうだけれど……!」

 

 頚を斬らずとも鬼を殺せるしのぶの藤毒ならば、目の前の鬼を死に至らせたかもしれない。

 珍しく戦略的に頭を巡らせるつむじに感心しつつも、ないものねだりだと諦める凛は、「仕方がない」と自身の日輪刀に目を落とす。

 

「でも、僕は僕でやりたいことがある! 二人とも! 手を貸して!」

「なんだ!?」

「ん」

 

 同時に応える二人の声を耳にしつつ、もう一振りの日輪刀を抜く。

 右に(しろがね)を。左に青を。

 

「―――露払いを」

 

 頷く暇も惜しいと燎太郎とつむじが駆け出す。

 そんな二人を前にし、姉鬼が鋭い歯を食い縛った。

 

「まんまと近づけさせるとでもッ!!?」

 

 癇癪を起したかのような声音で叫ぶ姉鬼は、翼に生え揃う分を全て解き放つ勢いで、羽根を射出した。

 視界を埋め尽くす羽根の雨。何度も見た光景だが、今回ばかりは桁が違う。

 しかし、数の多い少ないでやられるのであれば、三人は今この時まで生き延びてはいない。

 

 炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり

 

 風の呼吸 陸ノ型 黒風烟嵐

 

 豪快に広範囲を斬り伏せる軌道の燎太郎の刀の合間を縫うように、つむじのしなやかながらも激しい刀が踊り狂う。

 旋風に煽られる大火を幻視する姉鬼。気が付いた時には、羽根は全て叩き落されていた。

 

「そ、そんなッ……!?」

「お姉ちゃ―――」

 

 姉鬼を援護すべく、鳴き袋を膨らませる弟鬼であったが、宵闇を銀色が走り抜ける。

 飛び散る血飛沫。その元である弟鬼の喉には、これまた暗剣が突き刺さっているではないか。

 投げつけたのは当然つむじ。数に限りのある暗剣であるが、出し惜しみなどはしない。

 

 これで飛び道具は封じた。

 刹那、三体の鬼に突き刺さる凍てつく殺気。同時に漂う誘惑的な芳香が頭を惑わす。

 

 香りに導かれる視線の先には刀があった。凛の日輪刀。銀の刀身に彫られた血流しへ滴らせるは、彼自身の血。

 鬼を凍てつかせる類稀なる血の名は―――「凍血(とうけつ)」。

 鬼と化した母の胎から産まれたが故に継ぎし血が、鬼滅を果たさんとする刃を赫々と染めていく。

 

「「!」」

 

 紅蓮と青藍が宵闇を駆け抜けた。

 

 

 

 氷の呼吸 参ノ型 細氷の舞い

  水の呼吸 参ノ型 流流舞い

 

 

 

 流麗な舞いの中で煌めく刀身の瞬きが三体の鬼の間を通り過ぎる。ともすれば、清流から弾かれた水滴が、瞬きの合間に凍り付いたかのような幻想的光景だっただろう。

 が、間もなくして、鬼の頚がするりと体から転がり落ちた。

 

「なッ……!?」

「い、痛ァい!! あッ、あッ、付かない!! 頚が付かないッ!! 付かないぃぃいい!!」

「お゛にいちゃん! お゛ねえちゃん! いたいよ! 助けて!」

 

 斬り落とされた頚を一心不乱にくっつけようとするも、切断面に付着した凛の血が断面を凍結させているため、それまでのように元通りになることはない。

 いつぞやの上弦の鬼のように凍結部分を削ぎ落されれば話は別だが、それを知らぬ鬼からすれば混乱は必至。

 

(通用する! これなら他の場所も……!)

 

 殺す方法が明らかでない相手ならば、殺そうと躍起になるよりも封じる方向に転じた方が賢明だ。

「凍血」が通用すると分かった以上、より危険を冒す手段で立ち向かう必要はない。

 このまま三体の武器たる部位を斬り落とそう―――そう踏み込んだ瞬間だった。

 

「キェァァァアアアアア!!!!!」

「なんだッ!?」

「見ろ! 寺から!」

 

 怨念かと錯覚するような奇声に振り返れば、廃寺の屋根を突き破り、夜空に駆け上がる影を目にした。

 続けざまに朽ちた壁を突き破る杏寿郎も、母鬼の奇声を上回る声量で吼える。

 

「構えろ!!」

 

 端的な指示。

 しかし、()()()()()()()()()()()()()()()と考えれば、三人の抱く警戒は一回りも二回りも膨れ上がった。

 と、そうした鬼狩りたちを見下ろす母鬼は、まさしく鬼のような形相を浮かべ、喉が張り裂けんばかりの金切り声を発する。

 

「取らせないィィィイイイ!!! その子たちは私の物よオオオオオオ!!!」

 

 空に浮かぶ月を覆うように翼を広げたかと思えば、次の瞬間には凄まじい速度で滑空する母鬼。

 杏寿郎が三人の下へ駆けよる速度を遥かに上回る速さだ。

 無理に反撃しようとすれば、掠った勢いで肉を削がれるかもしれない。となれば、

 

「避けて!!」

 

 凛の声と共にその場から飛び退く面々。

 万が一を見越しての回避行動であったが、一方で母鬼は三人に目もくれず、巨大化させた脚でもがき苦しむ三体の鬼を回収する。

 

「あぁあぁぁ……私のかわいい坊やたち……!!」

「か、かあ、母さん……!!」

「おかぁさん!! 痛い!! 痛いよォ!! なんとかしてぇ!!」

「痛いよォ……苦しいよォ……!!」

 

 母鬼に回収された三体は、甘えるような声音で苦痛を訴える。

 そんな子鬼たちに慈愛の瞳を向ける母鬼は、さめざめと涙を流した後、仏のような笑みを湛えた。

 

「大丈夫よ、私のかわいい坊やたち……痛みも苦しみもないよう―――お母さんと一緒になりましょう」

『!』

 

 一際高い木の天辺に留まった母鬼が、徐に翼を広げ、子諸共自分の姿を覆い隠す。

 と、間もなくだ。鈍い、不気味な音が闇夜に響きわたる。肉が捏ねられ、骨が砕けるような聞くに堪えない音の合間に、呻き声が挟まれるようにして。

 

「な、なんだ一体……?!」

「関係ない」

「待て、つむじ!」

 

 ただならぬことが起きていることは容易に想像できる。

 しかし、様子を見る時間も惜しいと、つむじは母鬼たちが留まっている木を切り倒そうと駆け出した。

 それほど時間もかからず根本まで辿りついたつむじは、杣人が木を切り倒す要領で、二回ほど刃を振って幹を削る。

 すぐに木は自重に耐えられなくなり、メキメキと音を立て、周囲の木々も巻き込みながら倒れていった。

 

 だがしかし、その直前で母鬼は天辺から飛び立った。

 月の淡い逆光が、悍ましい母鬼の姿を隠す。「悍ましい」と分かったのは、月光が暴く姿かたちが、元が人間であった事実を信じ難くさせるほど異形だったからに他ならない。

 

「ぁあ、そうよ……誰にも奪わせないの……誰にも、誰にも……」

 

 二対の翼をはばたかせ、四本の腕を蠢かし、三本の脚でとまっている屋根の瓦を踏み砕く。

 

「この子は私が孕んだんだから……私が産んだの……お腹を痛めて……かわいいかわいい私の坊やたち」

 

 愛おしそうに撫でる腹部は、餓鬼の如く膨れ上がっている。

 なにより目に付くのは、張り裂けんばかりに浮かぶ「顔」。苦悶の表情を浮かべる三つの顔は、引っ込んでは浮かび上がるのを繰り返している。

 そんな顔をひとしきり撫でた母鬼は面を上げる。

 まるで過去を思い出すかのように―――。

 

 

 

『子を間引かれるとは哀れだな』

 

『一時の悦に浸りながら、最後は勝手に殺す』

 

『なんだ、それなら鬼と些少も変わりはないな』

 

『神に縋っても、仏に縋ってもその有様だったのだ』

 

『ならば私に縋りつけ』

 

『子諸共、お前を救いあげてやろう』

 

『そして悠久の家族団欒を愉しむといい』

 

『お前の家族に害を為す者達を殺しながら、な』

 

『お前の名は……そうだ。『姑獲鳥(うぶめ)』。それがいい』

 

 

 

「―――そうよ……だのに、あんたたちの都合で……あんたたちが、あんたたちが……私の坊やを殺していい道理が!!! あってたまるかあああああア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッ!!!!!」

 

 額に形成されていた三つ目の眼球が、血涙をまき散らしながらグルリと裏返る。

 と、露わになった眼球には文字が刻まれていた。

 

 

 

―――『下弐』

 

 

 

「十二鬼月かっ!!」

 

 優れた夜目で階級を確認した杏寿郎が、肺一杯に空気を取り込んだ後、大気が震えるほどの大声量で吼える。

 

「気を引き締めてかかれ!! だが恐れるな!! 如何なる鬼だろうと君たちの前には……俺が居る!!!」

 

 心強い一言に奮い立つ面々は、日輪刀を構える杏寿郎に続く。

 

「はい、煉獄さん!」

「たとえ親子だろうと……鬼は鬼だ……ッ!」

「翼増えた……また飛んでる。面倒」

 

 真の姿を露わにした下弦の弐を相手に、炎柱と継子は立ち向かう。

 

 

 

 勝るのは、師弟の絆か親子の絆か。

 



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拾伍.回心転意

『燎太郎は強い子じゃ。大きくなれば、きっと世の為人の為と働けるじゃろうて』

 

 微睡みを(いざな)う声を思い出す。

 いつもニコニコと笑っており、怒ったところなどついに見たことはなかった。

 真っ先に火光(かぎろい)を浴びては、孤児であった子供たちの朝餉を作る。毎日毎日老骨に鞭を打ち人の為にと働く彼の姿は、昇り行く朝日よりも輝いて見えた。

 

 そんな彼が陽光を避けるようになった異変を、もっと早く気が付けたなら―――今になっても後悔が胸を締め付ける。

 

『いいか、燎太郎。力はな、自分の為に振るっちゃいかん。そんな悪いことをな、お天道様は見逃さないんじゃ』

 

 彼の説教は、今でも鮮明に思い出せる。

 優しい声音や、緩やかな所作。その日に吹いた風の香りや、他の子供たちの遊んでいる姿。

 忘れようとすればするほど脳裏に焼き付く思い出だ。

 

 忘れたい。全部。

 でなければ、彼が鬼になった事実を受け止めなければならないからだ。

 

 ある日を境に寝たきりになった彼は、流行り病が移ったら不味いと説き、万が一ために離れに住むようになった。

そんな彼のため、自分を含めた子供たちは必要になりそうな薬草を探しに森に出かけるようになった。

 

 まずは一番年上の者から。

 特に和尚を慕っていた彼は、それっきり帰ってこなかった。

 熊に襲われたか、はたまた崖から滑り落ちたか。なんにせよ、死体が見つからないのだから理由は闇の中だ。

 

 そうしてまた別の者が別の者がと、行ったきり帰ってこなくなりを繰り返し、とうとう寺には燎太郎しか居なくなった。

 

『お前は探しに行かんでいい』

 

 沈痛な声を聞き、寧ろ探しに行かなければと出かけたのが間違いだった。

 待ち受けていたのは野犬でも熊でもない。

 

『じゃから、探しに行かんでいいと言ったじゃろうに』

 

 涎を垂らす彼が居た。

 ひどく病んだように血色の悪い顔。そこにかつての優しい面持ちはなく、ただ餌を前にして獰猛になる獣の姿があった。

 

 逃げた。逃げた。必死に逃げた。

 草履の塙が千切れても、足裏が切れても逃げ続けた。

 息を切らし、辿り着いたのは寂れた寺だった。後から聞いた話では、そこは()()()を打ち取って来た武具を供養する寺だったという。

 今になってみれば、それが鬼を討滅した日輪刀などを供養する場所だったのだろう。

 

 死に物狂いで供養されていた刀の一つを取り、彼と対峙した。

 しかし、当時剣の手ほどきもなにも受けてない自分には、鬼と戦えるだけの力は当然のようになかった。

 刀を手にしても逃走を余儀なくされ、最早打つ手なしか―――そう思った時だ。

 

 元々、岩壁に近い場所に建てられた寺だった。

 その日は打ち付けるような雨が降っており、近所の住民は「あそこが崩れないか」「山に出かけるのは止そう」等と噂していた。

 

 襲い掛かってきた彼は、轟音と共に岩が転がり落ちてきた岩の下敷きになった。

 体の大部分を潰され、身動きの取れない彼は苦悶の声を上げていた。これでは鬼も動けない。再生するにも人を喰らわねばならないのだから。

 

 動けぬ鬼を前にし、刀を携えた自分は未だに狼狽えていた。

 が、未だに人外の形相を浮かべる彼を前にし、見るに堪えなくなって刃を振るった。

 その時抱いていた想いは鬼を討ちとろうなどという勇猛な考えではない。もうこれ以上彼を苦しめたくないという介錯の意思だった。

 

 何度も振り、やっとの思いで斬り落とした頚。

 灰と化していく体を目の当たりにし、自分が彼を殺したのだという罪悪感が頭を埋め尽くす。

 と、その時だった。

 

『それでいい』

 

 床に転がり、尚も塵となっていく中で、彼は自分を見上げて告げた。

 

『お前にやられるのなら……本望だ』

 

 残された時間の短さを悟り、到底伝えきれない想いの丈をその言葉に注いだのだろう。

 あの時はただ茫然としていた。意味がわからなかった。

 彼が寝たきりのフリをしていた離れから、行方不明になった子供たちと思しき骨が丁寧に骨壺に納められているのを目の当たりにしても、頭が理解を拒んだ。

 

 何を。何を伝えたかったんだ?

 

 自分に残されたものは鬼への憎悪と自責の念。

 あの時の彼の言葉を理解しようとすればするほど、それらが真夏の路傍に転がった死体のように膨れ上がり、思考の邪魔をする。

 

 でも、今ならば。

 凛やつむじ、しのぶ、カナエ、流といった鬼にまつわる悲劇を胸に抱く彼等と過ごした今ならば、少しずつ整理がつけられる。

 

 

 

 彼が何を思っていたのかを―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

 宵闇に響く不気味な翼の()

 重く、鈍い。その姿を目にしていなければ、誰かの呻き声と錯覚するかもしれない。

 いや、そうでなくとも醜く膨れ上がった腹部に浮かぶ顔が発する唸り声があるのだから、結局のところ不気味なことに変わりはない。

 

 下弦の弐・姑獲鳥は、そうした悍ましい姿を晒しながら、取り込んだ我が子たちを愛でるように腹を撫でていた。

 

「私のかわいい坊やたち……もう安心していいのよ。貴方たちはお母さんと一緒。もう誰にも渡さない。離れ離れになんてさせないんだから」

 

 酷く歪んだ笑顔で、そう告げる。

 すると、

 

「気持ち悪い」

 

 つむじが歯に衣着せぬ声音で言い放った。

 感性に素直というべきか、他の者達の代弁を果たしてくれたというべきか。

 どちらにせよ、姑獲鳥の姿に対して抱く感想が四人一緒であることには間違いなかった。

 

「さて! だが、どうやって倒したらいいものか! 困った困った!」

「相手に聞こえる声で言わないでください!?」

 

 清々しい程に打つ手がないことを悟る杏寿郎。

 そんな彼に対し思わずツッコんだ凛であるが、事実手の打ちようがないことは確かである。

 

 相手が居るのは空中。単純に刀が届かないのだ。

 

「ううむ! 飛び道具の一つや二つ打診しておくべきだったか!」

「今考えられても……!」

「その通り! つまり、今持てる全てを駆使して戦えということだ!」

 

 後悔先に立たず。しかし、それでも前を向いて力を振るうのが杏寿郎だ。

 柱は折れない。杏寿郎は揺れない。

 己が見せる背中こそ後輩の道標と知っているが為、先んじて刃を振るうのが彼だ。

 

 爆ぜるように跳び出す杏寿郎は、飛燕の如き軽やかな身のこなしで廃寺の屋根へと飛び移り、

 

「いざ往かん!!」

 

 足場を踏み砕く脚力で跳躍した。

 瞬く間に加速する杏寿郎は姑獲鳥に肉迫する。余りに人間離れした跳躍力に、凛たちのみならず姑獲鳥も目を白黒とさせたが、迫りくる刀身を目の前に、鋭い爪を携えた脚を突き出す。

 

「喰らえ!! 今まで鬼狩りを引き裂いた爪をな!!」

 

 吼える姑獲鳥。

 鈍い赤黒い光沢を見せる爪は、確かにこれまで人を無惨に引き裂いたであろう鬼気を感じられる。

 だが、それで臆する杏寿郎ではない。

 

「ふんッ!!」

「ぐッ!?」

 

 空中では当然の如く足の踏み場がない。

 故に、杏寿郎は腕力だけでなく体も捻り、可能な限り斬撃の威力を高めた。

 その甲斐あってか、姑獲鳥の独壇場であるはずの空中において、彼女の蹴撃を返り討ちにするように脚を斬り落とす。

 

(でも……ダメだ!)

 

 真下から両者の攻防を見届けていた凛が心の中で叫ぶ。

 彼の考え通り、杏寿郎は重力に引かれて落下。その間、姑獲鳥は意趣返しと言わんばかりに四つある内の翼の二枚から羽根の雨を降らせる。

 これを杏寿郎は盛炎のうねりで迎え撃ち無傷で済むが、状況が芳しくないことは彼自身悟ったのだろう。「むぅ」と考え込むように喉を鳴らす。

 

「届かんな!!」

「なら、私がもう一回……」

「待って、つむじ! 迂闊に近づいたら危ない!」

 

 一度やって見せたように木を切り倒そうとするつむじを制止する凛。

 姑獲鳥の姿を見るからに、取り込んだ三体の鬼の能力を内包していると推測するのは容易い。仮に同様の手段で近づいたとすれば、今度は宙で咆哮を上げられ、動きを封じ込まれる可能性がある。

 宙で身動きがとられなくなるのは死に直結する。例え平衡感覚が優れたつむじとあっても、追撃の羽根を踏まえれば、致命的な隙となり得よう。

 

「もう少し様子を……」

「そんな余裕ない」

「なら俺が作る」

 

 凛の訴えに端的に反論するつむじであったが、即座に燎太郎が話をまとめた。

 

「それでいいだろう」

「うむ! 役割分担、その意気やよし! ならば俺から伝えることが一つ!」

 

 羽根の驟雨を斬り払う杏寿郎が、弾丸のような口調で語り始める。

 

「戦いとは相手を“見る”ことから始まるのはわかるだろう! ならばどう見るか!? 必要な目は三つだ! 鳥の目! 虫の目! 魚の目!」

 

 指折り数えるように語る彼は、未だ疲労の色を見せず、姑獲鳥の攻撃を凌いでいく。

 しかし、より巨大になった翼から放たれる羽根の数が増えたからか、致命傷にはならないと踏んで見逃した羽根が、彼の隊服や羽織を浅く切り裂き始めていた。

 この均衡状態は杏寿郎が居てこそだ。だからこそ、彼のおかげで余裕を持てている三人が見極めなければならない。

 

 そんな意図も含んだ教えを杏寿郎は続ける。

 

「鳥の目とは“全体”を見渡す目! 今どんな状況かを見極めろ!」

 

 とうとう姑獲鳥は咆哮を上げ始める。

 慟哭にも似た耳を劈く声。それでも杏寿郎の声ははっきりと伝わる。

 

「次! 虫の目とは“点”を見る目! 狭く、そして深く! 敵の一挙手一投足を観察しろ!」

 

 全ての羽根を撃ち尽くす勢いで仕掛けた姑獲鳥が、近くの木の天辺にとまる。

 しかし、鬼の再生力を以てみるみるうちに羽根は元通りの数に達した。

 

「最後だ! 魚の目とは“流れ”を見る目! ()()()()()()()()を念頭に置け! そうすれば敵の動きの予測もできる!」

 

 充填完了。

 再び舞い上がる姑獲鳥は、杏寿郎を特に敵視しているような動きで、彼の手の届かない場所から一方的に攻撃を仕掛ける。

 

(鳥の目……)

 

 燎太郎の瞳が凛を、つむじを、杏寿郎を、そして姑獲鳥を捉える。

 

(虫……)

 

 つむじの細められた目が、酷くやせ細った姑獲鳥の向かう先を追う。

 

(魚の目……流れを―――見極めろ!!)

 

 凛の見開かれた目が、姑獲鳥の立ち回りを―――流れの先を見据えた。

 

―――見えた。

 

 三人の目が活路を見出す。

 

 

 

 ***

 

 

 

(しぶとい奴ら……特にあの男。柱……あいつを殺して喰えば、あの御方に喜んで頂けるというのに……!)

 

 ギリ、と奥歯を噛みしめる姑獲鳥は、不意に東へと目を遣った。

 まだ日の出にはほど遠い時間であるが、万が一にも鬼狩りを殺せなかった時の逃亡時間も考慮しているのもあり、時間には気を配っている。

 所詮は人間と高を括っていたが、柱の体力を侮っていたことは否めない。

 

 鬼殺隊の主戦力たる柱との交戦経験がないまま十二鬼月の一員となった姑獲鳥だが、心のどこかで容易く殺せると安易な考えを抱いていた。

 そもそも彼女が、鬼狩りの武器たる日輪刀の間合いに届かぬ位置から一方的に攻撃できる手段を持っているため、そういった思考を抱くことは不思議ではない。

 

 しかし、ここまでとは。

 

(私の再生能力も無限じゃないのよ……再生した分食べなきゃ、坊やたちの分が……!)

 

 焦燥が脳裏を過る。

 だが、

 

『かぁさ……かぁさ……』

『オナカ……スイタヨゥ』

『いたい……いたい……』

「あぁ! かわいそう……かわいそうな坊やたち……大丈夫よ、すぐに人間(えさ)()ってきてあげるから……!!」

 

 呻き声を上げる子供の声に奮い立つ。

 所有物と言い切った子供だとしても、愛情だけは本物だった。

 例えそれが歪んだ愛だとしても―――。

 

 子に愛を注ごうとする余り、空高く飛び回る翼を得ながら堕ちるところまで堕ちた姑獲鳥は、苛立ちを隠せぬ形相のまま羽根を一斉掃射する。

 何度見たかもわからぬ光景を前に、杏寿郎はたった一振りで一掃する。

 それが彼女の苛立ちを一層濃くさせるのであったが、木の天辺にとまった彼女は、ハッとした様子で辺りを見渡す。

 

(あの男の部下が……!?)

 

 杏寿郎に固執する余り、三人の姿を見失っていた姑獲鳥が辺りを見渡す。

 程なくして凛と燎太郎の姿は見つけられたが、

 

(あの小娘は……!?)

 

 癪に障る仏頂面を浮かべる女が居ない。

 と、悟った瞬間に聞いたことのある轟音が鼓膜を揺らす。

 

「ッ……二度も同じ手を喰らうと思って!!?」

 

 地面をひっくり返すような音を轟かせて傾く木の幹を駆け上がって来るつむじ。

 姑獲鳥が木の天辺にとまっていたこともあり、ぐんぐん距離を詰めてくる彼女を前に、当の姑獲鳥は咄嗟に飛び退いた直後、喉の鳴き袋を大きく膨らませた。

 

 それは咆哮の予備動作。

 

(二度と音の聞こえない世界を見せてやる!!)

 

 完全体へと変わった今ならば、咆哮の威力は姉鬼のそれを遥かに上回る。

 さらに、飛翔に用いる以外の翼を構えることで指向性を持たせられるのだ。真面に受ければ全身が痺れて型を繰り出すどころではなくなる。

 

(死ねッ!!)

 

 カァァアッ! と開かれる口腔。

 同時に夜天を貫く絶叫が響き渡った―――が、直前で宙がえりし、指向性を持たされた咆哮から辛うじて回避してつむじは、そのままの体勢から一閃。

 

 風の呼吸 漆ノ型 勁風・天狗風

 

 空が斬り裂かれる音は、絶叫よりも甲高く奏でられた。

 

「なッ……!?」

 

 右側の翼を二枚斬り落とされた姑獲鳥は、体勢を崩して落下を始める。

その間、僅かにつむじの側頭部が目に映ったが、

 

(耳栓……!)

 

 咆哮対策と思しき即席の耳栓がはめられているのを目の当たりにし、ぎりぎりと歯噛みした。不意に振り返り、ベッ、と舌を出してみせるつむじの姿がこれまた姑獲鳥の赫怒を煽る。

 

 と、用意周到な準備をしていたつむじであるが、そうした対策を講じたのは彼女自身ではない。

 

『あの鬼は出来るだけこっちと距離を取って戦おうとする。だから攻撃もほとんど羽根を撃ってくるものばかりだ。でも、羽根をほとんど打ち尽くした後じゃ自重を支えられなくなるから、再生するまで木にとまってる! その時を狙うべきなんじゃないかな?』

 

 姑獲鳥の動きの流れを把握した凛の言葉を思い出すつむじは、うんうんと頷く。

 

「ん、言ってた通り」

 

 翼を斬られて墜落する姑獲鳥と対照的に、優雅な身のこなしで着地したつむじは、入れ替わるように空へ駆けだす明星を見上げる。

 

「燎太郎!」

「応!!」

 

 墜落し、彼の跳躍で届く距離まで落下した姑獲鳥に向け、燎太郎は口から気炎を上げる勢いで猛々しい呼吸音を響かせる。

 その圧を身に受ける姑獲鳥は、咄嗟に残った翼と四本の腕で身を守ろうと構えた。

 

(つむじの言う通りだ!)

 

 狙い通り、特に腹部を守る体勢をとる姑獲鳥に確信を得た燎太郎は、一層腕に込める力を高める。

 

『あの鬼、しきりにお腹を庇ってる。一気に()()ならその時を狙うべき』

 

 姑獲鳥を観察していたつむじの言葉を思い出す燎太郎が繰り出そうとしているのは、一気に多くの面積を削る炎の呼吸の奥義。

 

「はああああッ!!!」

 

 炎の呼吸 玖ノ型 煉獄

 

「ばッ……!?」

 

 足場のない空中での一撃だったにも拘わらず、全力で振り抜かれた燎太郎の一閃は、己が身を守ろうとした姑獲鳥の翼と腕を派手に斬り飛ばす。

 同時に刃先は風船のように膨れ上がった腹を斬り開いた。

 怨念のように浮かび上がっていた子鬼たちの顔ごと斬り開いた先から現れたのは、

 

「ギギッ……!!」

 

(赤子……!?)

 

 姑獲鳥とへその緒で繋がった胎児の姿をした子鬼。

 母に比べれば、鬼らしき特徴も額の角だけと控えめであるが、充血した瞳とゆがめられた口から覗く鋭い歯が、その胎児が鬼であることを証明していた。

 

(こいつ()本体だったのか!)

 

 姑獲鳥の頚を斬っても死ななかったのは、まさしく腹の中に隠れていた最後の子鬼が理由だろう。これが本体か、もしくはこれも斬らなければならないかのどちらかだ。

 どちらにせよ、斬れば分かる。

 

「―――凛!!」

「任せて!!」

 

 ギリッ、と感情をかみ殺すような表情を浮かべていた燎太郎が、最後の刃に繋ぐ。

 

『あいつを落とすなら、つむじが適任だ。俺はつむじに続いて出来る限り奴の守りを削ぐ。凛……お前がこの中で一番繊細な太刀筋を極めている。〆は……お前にしか任せられない』

 

 凛の脳裏に燎太郎の言葉が過る。

 繊細な太刀筋故に、露わになった弱点なり守りが手薄になったところへ“凍血”を用いたトドメを刺すなり、トドメの一手に相応しいと告げられた。

 緊張がないと言えばウソになる。

 しかし、信頼している友に言われたのだ。彼が信じる自分を信じないでどうする?

 つむじと燎太郎が繋げてくれた流れを途絶えさせる訳にはいかない責任感もあるが、それ以上に湧き上がる「自分ならできる」という自信が、体の強張りを取り除いていく。

 

 最早、彼の動きには一糸の乱れもなかった。

 刀は叩くことで不純物を取り除く。氷も可能な限り気泡を取り除くことで、どこまでも透き通る逸品を作り上げることができるのだ。

 それと同じことは人間にも言える。

 

 邪魔な考えを捨て置け。斬ることのみを考えろ。

 

 雑念を取り除いた一閃ほど鋭い刃は―――無い。

 

 

 

 氷の呼吸 拾ノ型 紅蓮華

 

 

 

 血の華が咲き乱れる。

 

「ギギャ……!!?」

 

 短い呻き声。

 その声の主である子鬼は、間もなく灰燼と帰す。余りにも呆気なく、余りにも簡単。

 

「あ……あぁ……あ……」

 

 その光景を目の当たりにした姑獲鳥もまた、体の端から灰と化していく。どうやら彼女の体は胎内の子鬼と繋がっていたようだ。

 母も兄も姉も弟の全員が胎の子鬼の傀儡だった。

 子鬼の死こそ、彼女たちの死。

 間もなくして彼女もまた同様の末路を辿ることになるだろう。

 

「よくも……」

「!」

「よくもよくもよくもよくもよくもおおおおおッ!!! 私のかわいい坊やをおおおおおッ!!!」

 

 発狂したように声を荒げる姑獲鳥は、まだ宙に留まっていた凛の体を脚で掴んだ。

 加えて、斬り落とされた翼も歪な形に再生するではないか。最期を目の前にし、死力を尽くした再生なのだろうか。最早鳥ではなく蝙蝠といった類の肉の翼をはばたかせ、姑獲鳥は低空飛行のまま凛をどこかへと連れ去ろうとする。

 

「くっ……!?」

「凛!」

「明松少年!!」

 

 肩を掴まれ身動きの取れない凛を追いかけるのは、最も近くに居た燎太郎であった。

 そんな彼へ向けて、全力で駆け寄っても尚離れた場所に位置する杏寿郎の声が響く。

 

「斬れ!!」

「ッ……!!」

 

 心に残る僅かな躊躇いを見透かすような声音。思わず燎太郎は沈痛な面持ちを浮かべる。

 鬼になっても尚、子を想う親。

 例え歪んでいたとしても、その愛情に嘘偽りはなく。

 

(やれ。やるんだ。お前しかいない。あの鬼を殺さなければ、凛が―――!!)

 

 鉛のように重く感じていた足が、不意に羽根のように軽くなった。

 

「え?」

 

 気が付けば跳んでいた。

 無意識の内に跳躍していたようだ。()()()()()()()()()()()()()()()、前へと跳び出して。

 背中に残る温もりは錯覚か、はたまた―――。

 

(……お師様)

 

 鮮明な記憶が呼び起こされていく。が、胸の痛みが増していくにつれて、どんどん体は軽やかに感じられていく。

 すでに高さは姑獲鳥に届くまでに達していた。

 あとはこの刃を振るうのみ。

 

 鬼を殺すだけでいい。そして、人を救えばいい。

 

(なんだ、単純な話じゃないか)

 

 胸が熱くなっていくのを感じ取りながら、燎太郎は日輪刀を振るう。

 

(醜い心を許さず、尊い心を認めて)

 

 過去を省みて、繋ぐ一振りを。

 

(そんな簡単な話だったのに)

 

 過去の愛おしさと、現在への慈しみを込めて。

 

(未熟でごめんなさい、お師様)

 

 鬼の心を斬り、人の心を救う型を繰り出す。

 

(貴方の馬鹿息子は……御蔭様で鬼を討ち、人を救っています。どうかこの青二才を草葉の陰から見守っていてください……! 貴方の喜びそうな土産話をたくさん持って逝きます!!)

 

 

 

 炎の呼吸 拾ノ型 焔口冥陽(えんくめいよう)

 

 

 

 清廉な一振りが姑獲鳥の頚を薙ぐ。

 それまで見せていた豪快な太刀筋とは、明らかに毛色の違う型だった。

 しかし、確かに頚は斬り落とされ、それに伴い拘束されていた凛は解き放たれる。

 

 凛と燎太郎が大事なく着地する間、歪な翼を広げて墜落する姑獲鳥はと言えば、

 

(―――暖かい)

 

 苦痛を感じてはいなかった。

 それまで斬られる度に味わった灼熱のような激痛を、今さっき喰らった燎太郎の一太刀から感じることはない。

 何故ならば、焔口冥陽は燎太郎だけが考えた型。凛の用いる(そそぎ)や干天の慈雨を模した、炎の呼吸における慈悲の太刀だからだ。

 血途(けつず)を歩まざるを得なくなった鬼たちへ差し伸べる、せめてもの救いの剣閃。

 

 明松燎太郎が過去を克服した証。

 

 そうした一太刀を受けた姑獲鳥は、日向に佇む温もりを覚えながら眠りにつく。

 炎に焼かれたように灰と化す体が、魂が向かう先は―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

『ここは……』

 

 どこまでも冥い世界に彼女は居た。

 辺りを見渡しても光が見えることはない。

 道標も当然ない中、一人狼狽える彼女であったが、不意に聞こえて来た泣き声にハッと面を上げる。

 

『坊や! 私の坊やたち!』

 

 間違いない、愛する我が子たちの泣き声。

 私を呼んでいる。

 子供が呼んでいるのだから、母が赴かない理由などない。

 例えどれだけ醜い母だったとしても、赴かざるを得ない衝動に駆られていた。

 

 なんと言おう?

 なんと謝ろう?

 

―――酷い母親でごめんなさい。

 

―――守ってあげられなくてごめんなさい。

 

―――美味しいご飯をたくさん作ってあげたかったのに。

 

―――綺麗な着物を着せてあげたかったのに。

 

―――偉いことをすればたくさん褒めて。

 

―――悪いことをすればたくさん怒って。

 

―――そして最後はたくさん「愛している」と伝えて抱きしめてあげたかった。

 

―――それと……。

 

 暗闇を進み続け、やっとの思いで屯している子供たちを見つける。

 鬼だった時の姿とは違う。

 真っ当に人間として生きていれば、()()()()()()()()()姿の子供たちは、確かに我が子だった。

 

 そんな我が子が―――四人。

 

『あ……あぁ……あぁあぁ……!!』

 

 涙が溢れて止まらない。

 死ぬ思いで産んだ三人に対し、たった一人だけ―――産声を上げることも許されなかった我が子がいた。

 優しい笑みを浮かべる兄と姉に囲まれ、最後の子供がこちらに気が付いた。

 覚束ない動きで立ち上がり、よたよたと……縋るように両手を掲げる我が子が、満面の笑みで歩み寄って来ては言う。

 

『おかー……さん!』

『ッ……ああぁああぁぁああぁああ!!!』

 

 どうしても聞きたかった言葉を前に泣き崩れる。

 そして抱きしめた。壊れないよう、二度と離さないよう。

 そんな親子に残った三人も愛おしげに抱擁に加わる。

 例え自分の意思で鬼になった訳でなく、それで償えぬ罪を犯し地獄に堕ちたとしても―――今度こそ離れ離れにならぬようにと。

 

 

 

 だが不思議と、家族を包み込む業火は温もりに溢れていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「そうか。杏寿郎と一緒に、継子になった剣士(こども)たちが十二鬼月を打ち取ったんだね」

 

 それは弓で奏でられた弦楽器の音のような、心安らぐ声音であった。

 

「喜ばしい報せだよ。聞くところによれば、トドメは継子の子が刺したんだね? あまね」

「はい」

 

 彼の問いに答えるように、美人画からそっくりそのまま出て来たかのような見目麗しい白髪の美女が頷いた。

 鬼殺隊当主の御内儀・あまね。

 そして彼女に問いかける男こそ、当主である産屋敷輝哉である。

 血色の悪い顔の上半分には痣のようなものが浮き出ており、とてもではないが健常な体であるとは言い難い。

 それでも不思議と“力”を感じさせる彼は、瞼を閉じて言葉を紡いだ。

 

「次世代の“柱”が育っているようでなによりだ。子は何物にも代えられない宝だ。願わくば、彼等もまた新たな剣士(こども)たちを守り育てる剣士になってくれたらと思うばかりだね」

 

 自分が当主になってから、鬼との戦いで亡くなった隊士の名前全てを覚えている。

 数多の命が奪われた。

だが、当主として悲しみに明け暮れている時間は長々とない。

 柱合会議で集まった情報をまとめ、人員の配置といった采配に携わるのが仕事だ。

 そしてある時は、柱の心の支えとなるのも当主としての責務。

 

「そうだね……今度の柱合会議では柱の皆に薦めてみようか。杏寿郎や()()のように、積極的に継子を取ってみることを」

「畏まりました」

 

 忙しいことは承知しているが、それでも柱には次世代の剣士を育ててもらわねばならない。

 そうして鬼殺隊は繋いできた。組織や想いを―――。

 

「さて……そろそろ行こうか、あまね」

「はい」

 

 妻に支えられ、歩みだす輝哉。

 向かう先は、数百年未だ垣間見ることさえ叶わぬ鬼殺の夜明け。

 

 

 

 しかし、物語の歯車は終着へ向けて廻る、廻る―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「そうだ! 前よりも動きが良くなってるぞ!」

「はいッ!」

 

 遠くの庭から杏寿郎と凛が稽古している声が聞こえる。

 姑獲鳥との戦いを経て煉獄邸へと戻って来た四人は、十二鬼月の一角を落とした勢いのまま稽古に励んでいた。

 鬼の首領・鬼舞辻無惨直属の上級の鬼の集まり―――十二鬼月。その一体を大勢の協力を得つつも倒したとなれば、自然と不明瞭であった自信が確固たる実感が湧き上がるというものだ。

 

 凛は杏寿郎(かくうえ)との戦いの中で呼吸を一層洗練させよう励んでいるようだった。

 一方でつむじは、飛び回る敵と戦った経験を活かそうと、日輪刀以外の武器の構想や戦略を練っている。元々生き残れるようにと頭は回っていた方だ。時間と経験さえ重ねていけば、どのような鬼に対しても戦える剣士になれよう。

 

 そして燎太郎はと言えば、

 

「……」

 

 煉獄家にある神棚の前で拝んでいた。

 杏寿郎たちの祖先―――延いては、炎の呼吸の創始者が祭られている神棚だ。経緯はどうであれ、炎の呼吸を扱う者として拝んだところで罰は当たるまい。

 少し年季の入った数珠を片手に拝むこと数分。風通しを良くするようにと開かれていた縁側の方の障子越しに足音が響いてくる。

 

「……なんだ、貴様。人様の家の神棚の前で」

 

 姿を現したのは、酒を片手にする槇寿郎であった。

 変わらず昼から酒を煽る彼からは酒気が漂っている。

 そんな彼は酔っているのか否か、あくまで彼からすれば自身の先祖が祭られている神棚を、赤の他人である燎太郎が拝んでいることに不快感を隠さない。

 

「今すぐやめろ! 坊主の真似事なぞして……」

「俺は」

「?」

「貴方が羨ましい」

「……なんだと?」

 

 突然言い放たれた言葉に、槇寿郎は怪訝そうに眉尻を顰めた。

 彼が何を言わんとしているのか、酔っ払いの鈍重な頭で意図を汲もうと試みる。

 だが、当然のように燎太郎が語を継ぐ方が早かった。

 

「才能で得られないものを持っている。孝行してくれる子を」

 

 詰め寄っていく燎太郎だが、彼から威圧感といった類の圧を覚えることはなかった。

 ただ、邪気を払うたき火の燃ゆる音のように澄み渡って聞こえる声が、近寄るだけはっきりと、槇寿郎の鼓膜を打ち付ける。

 

 鮮明に、鮮烈に。

 

「俺は……孝行してあげたかった。でも、もう取り戻せない。人は唯一無二だから」

「ッ……」

「俺はまだ親じゃない。妻を娶ったことも亡くしたこともない。だが、これだけは言っておきたい……どうか、子の愛情を拒むことだけはやめていただきたい」

 

 言葉を失う槇寿郎の傍を通り過ぎる燎太郎が、最後に続けた。

 

「子にとって……親は永遠ではないから」

 

 重く、胸に響く声音。

 それから「失礼します」と去っていった燎太郎に、槇寿郎は振り返ることもできず、ただただその場で立ち尽くすばかりだった。

 ようやく動き出せたのは、手から滑り落ちた酒の入れ物が床に滑り落ちた鈍い物音を耳にした頃だ。

 

 導かれるように、槇寿郎の足は神棚の前へと向かう。

 ゆっくりと神棚の前に腰を下ろす。

 ()()()から全くと言っていい程拝むことのなくなった神棚であるが、千寿郎が毎日手入れしてくれているお陰だろう。埃一つ被っていない神棚は、外から差し込む陽光を浴び、燦然と輝いているように見えた。

 

「ッ……瑠火……!!」

 

 口に出すのは亡き妻の名。

 己の無能に打ちのめされている時期だった。そんな時、心の拠り所としていた彼女を失い、今のような体たらくへと落ちぶれるようになってしまった。

 不甲斐ない。黄泉の国に居る彼女や先祖に合わせる顔もない。

 すっかり酔いも醒め、省みれば省みるほど叩けば埃が出るように自身の至らぬ部分が垣間見える。

 だからこそ今までは酒に逃げていた。だが、彼女が。瑠火が目の前にしているのだ。再び酒に逃げることなどできようか。

 

「うッ……ううッ……」

 

 蹲り、嗚咽を上げる槇寿郎。

 零した先から溢れる涙が畳みに染みを作るが、そんな彼の背中を撫でるかのように優しい陽光が絶えず部屋には差し込んでいた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「おお! 戻って来たな、明松少年!」

「明松燎太郎、ただいま戻りました!! ご指導のほどよろしくお願いしまぁす!!」

「うむ、いい威勢だ!」

 

 地面で伸びている凛とつむじを余所に燎太郎は、意気込んだ様子で頬を叩く。

 

「どうした!? 凛! つむじ! 起きろ! まだまだいくぞ! 心を燃やせぇ! はい、復唱ォ!」

「ココロヲモヤセー」

「なんて心のこもってない復唱なの、つむじ……!?」

 

 二人を奮起させようと叫ぶ燎太郎。

 対してつむじは片言な口調で言葉を反芻するものだから、思わず凛がツッコミを入れてしまった。

 

 しかし、まだ出会ったばかりの頃を思い出せば、こうしてつむじが乗っかって来てくれるだけでも大分進歩したというものだ。

 うんうんと頷く燎太郎は感慨深そうに紡ぐ。

 

「よぅし! 一日一歩と言わず、千歩! いや、万歩進む勢いで鍛えていくぞ! オォー!!」

「あ、熱い……オー!」

「おー?」

「はっはっは!! 仲が良くて何よりだ!! これは俺も気合いを入れなければなッ!!」

 

 これ以上気合いを入れられれば死んでしまう―――そんな考えが脳裏を過った凛であるが、杏寿郎のにこやかな顔やなんだかんだ言っても一緒にこなそうと奮うつむじ、そして燎太郎の意気揚々とした姿を見れば、辛さなぞ吹き飛んでしまうようであった。

 

 炎柱・煉獄杏寿郎が継子三人は、鬼の手から救いを求める人を守るため、今日もまた精進に全身全霊を込めていく。

 

 

 

―――諦めるな。

 

 

 

―――心を燃やせ。

 

 

 

 二つの教えを胸に向かう未来(あす)が明るいものだと信じて―――。

 




*伍章 完*

*オマケ*

・炎の呼吸 拾ノ型 焔口冥陽(えんくめいよう)
炎の呼吸において燎太郎が編み出した慈悲の剣閃。斬られた者は痛みも感じず、日向で憩う温もりを感じる。
焔口(えんく)」とは、口から炎を吐き出す餓鬼の意。
冥陽(めいよう)」とは、飢渇に苦しむ餓鬼を救う法会である施食会(せじきえ)の別称「冥陽会」より。


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陸章.陽光
拾陸.酔生夢死


 温泉。

 

 それは人々にもたらされる大地の恵み。魅惑的な語感を響かせる湯の泉に誘われるのは、自然に生きる生き物のみならず、日々の疲れを癒すために訪れた人間。

 

「はぁ~! こんな大きい温泉に入るのなんて初めて! 凄い解放感!」

「ええ、同感です。こんな温泉に毎日浸かれるなんて刀鍛冶の里の方々が羨ましい限りですよ」

「ん……」

 

 美女が三人、温泉に浸かっている光景はなんと素晴らしきことか。

 仲睦まじげに言葉を交わす彼女たちは鬼狩り。日々鬼を倒す激務に駆られて酷使された身体を癒すべく、こうして温泉に浸かっているという訳だ。

 中でも、特に温泉の効能をしみじみと感じ取っている小柄な女性が、とある一人に目を向ける。

 

「それにしても東雲さん。お風呂が平気になったんですね。昔は猫みたいに嫌っていたのに」

「ん~……」

「それでどれだけ私が苦労したか……」

「ま、まぁまぁしのぶちゃん。折角の温泉だし! ね!?」

 

 過去を振り返り額に青筋が浮かんでくるしのぶを宥めたのは、桜色と緑色の色の階調が美しい女性であった。初対面ではその奇抜な髪色に目を引かれるだろうが、実に端麗な容姿と豊満な肉付きは男性陣を虜にすること間違いなしである。

 そんな彼女に宥められ、言葉が刺々しくなったしのぶが「イケないイケない」と自省するように語を継いだ。

 

「そうですね、甘露寺さん。私としたことがつい」

「ううん、気にしないで!」

 

(怒ってるしのぶちゃんも可愛いなぁ~)

 

 わたわたと手を振る女性の名は甘露寺蜜璃。

 鬼殺隊にて最強と謳われる九人の剣士“柱”の一角を担う女傑である。

 用いる呼吸から“恋柱”とも呼ばれる彼女は、同様に“蟲柱”として柱に名を連ねるようになったしのぶと同性ということもあり、友好を深めていた。

 しかし、それよりも前に蜜璃が友好を深めていた人物が、まさに今隣に居る。

 

「へぇ~! でも、つむじちゃんがお風呂苦手なんて初めて聞いたわぁ」

「今はもう平気」

「だよね! そんなに豪快に浸かってたら……って、ひゃん!」

 

 徐に漂ってきたつむじの頭を胸で受け止める蜜璃は、内心「可愛いわぁ!」と歓喜しながら、温泉を存分に楽しんでいるつむじの喉元を撫で始める。

 その光景はまさしく猫と戯れる者そのもの。

 “隠”の間では「ゲスメガネの天敵」として知られているつむじが、こうして蜜璃と友好を深めるようになった経緯は、まず一年以上前に遡ることになる。

 

 炎柱・煉獄杏寿郎の下、継子として稽古をつけてもらっていたつむじ(と、他二名)。

 そこへ他ならぬ輝哉の推薦の下に継子として紹介されたのが蜜璃であった。

 見合いが破談したというきっかけで鬼殺隊の門を叩くことになった彼女は、最終選別を受けるまで、煉獄邸にてつむじ達と同棲していたのだ。

 その間、半分男所帯であった煉獄邸にやって来た蜜璃は、同性のつむじと特に打ち解け、柱となり後輩にも拘わらず上司になった今も、対等な友人として交友を持っている訳だった。

 

 もっとも、傍から見ればつむじが蜜璃に懐柔されているようにしか見えないというのが、同期である男二人の弁である。

 

 閑話休題。

 

「ねえ、二人はどれくらい里に滞在するの?」

 

 つむじを撫でる蜜璃が問いかければ、普段夜会巻きにしている髪を下したしのぶが、湿った髪束を指先で弄びながら応えた。

 

「刀打ち終わるまで」

「そっか! しのぶちゃんは?」

「私は明後日には発つ予定ですよ。たしか甘露寺さんも鉄珍様の刀を打ってもらっているんでしたよね?」

「うん、そうだよー!」

 

 鉄珍とは刀鍛冶の里の長である老爺のことだ。

 その刀鍛冶の腕は勿論高く、時には刀と呼ぶのも疑わしい特異な形状の日輪刀を打つことさえある。

そんな彼に日輪刀を打ってもらっているしのぶと蜜璃だが、余りにも特異な形状の刀を用いていることから、刀を打ち直してもらう度に調整の名目で刀鍛冶の里を訪れていた。

 

今回はちょうどそれと機を同じくして、つむじも里にやってきたという訳だ。

 

「つむじちゃんは?」

「ん?」

「刀鍛冶、誰にお願いしてるのかなぁって!」

「んん……鉄火松って人」

「鉄火松さん? うーん、私は聞いたことないなぁ」

「私の暗剣とか作ってくれてる」

「暗剣」

 

 つむじの言葉を蜜璃が口に出して反芻すれば、

 

「あ、私もですよ」

「しのぶちゃんもなの!?」

 

 まさか女友達の口から暗剣などと物騒な言葉が出るとは―――そして同じ刀鍛冶に打ってもらっているとは思わなかった蜜璃は愕然とする。

 

「女の隊員って暗剣作ってもらうのが普通なのかしら……!?」

 

 「私の隊服があれだったし」と蜜璃が慌てていれば、「そんなことないですよ」としのぶが落ち着かせつつ、問題の隊服に言及する。

 

「寧ろどうしていつまでもあの隊服を着てるんですか。新しく作り直してもらえばいいのに」

「えぇ!? で、でも、折角作ってもらったって思うと捨てるのが忍びなくて……」

「わざわざ着ていたら相手が調子に乗ります。東雲さん。貴方が前田さんに破廉恥な隊服を渡された時にどうしたか甘露寺さんに教えてあげて下さい」

「ヒラヒラが気に入らなかったからそいつの服を剥いで奪った」

「つむじちゃーん!!?」

 

 初耳かつ衝撃的な内容に、これまた蜜璃は驚愕した。

 ちなみに、その後つむじに身包みを剥がされた前田は、つむじに着させるために繕った煩悩丸出しの隊服を自分で着る嵌めになり、同じ“隠”の同僚に汚物を見るような目を向けられるようになったとかならなかったとか。

 無論、それ以降前田がつむじに繕う隊服は普通の物になった。

 しかし、三人の中で最も後から入隊した蜜璃に彼の毒牙がかかっているとなると、まだ懲りていないのは明白。

 

「やはりカナヲに油とマッチは持たせておいて正解のようですね」

「刀の方がいい。刻んで済む」

「ああ、()()()()()を。なるほど、去勢すれば手っ取り早いですね」

「ん」

「しのぶちゃん!? つむじちゃん!? どっちも過激だよぉー!!」

 

 (したた)か過ぎる友人二名を前にし、蜜璃は戦慄せざるを得なかった。

 

 と、日頃の不満や疲れを熱いお湯でさっぱりと流し終えた後は、待望の食事の時間である。

 

「う~ん! とっても美味しいわぁ! 何杯でも食べられちゃいそう!」

「……いつ見ても凄い食べっぷりですね」

 

 平均的な食事量を摂るしのぶの横では、蜜璃が力士の食事後の如き空になった器の山を築き上げていた。

 そう、蜜璃は途轍もない健啖家であった。白飯を十杯食べる杏寿郎よりも食べるのだ。

 

「え、そうかな? これでもほんのちょっぴり遠慮してるつもりだったんだけれど……」

 

 しかし、まだまだ本領は発揮されていない様子。

 次元の違う食事量に遠くを見つめるような瞳を浮かべるしのぶは、フッと口元を緩ませる。

 

「いえ、私はたくさん食べる甘露寺さんが好きですよ」

「しのぶちゃん……!」

 

 ともすると愛の告白に聞こえなくもない言葉に、蜜璃は頬を紅潮させた。

 すると横から、

 

「蜜璃の大食らいは今に始まったことじゃない」

「ゔっ」

「東雲さん。もう少し歯に衣を着せてくれませんか?」

 

 つむじの遠慮ない物言いに蜜璃が咽る。

 これには流石にしのぶもつむじを窘めたが、彼女は意に介していない様子だ。

 

「わざわざ嘘を吐くことでもない」

「言い方大事ですよ? 言い方」

「だ、大丈夫。そうピリピリしないで、二人とも。私全然気にしてないから」

 

 若干剣呑な雰囲気になる場に、慌てて蜜璃が止めに入る。が、彼女の手に持つ箸は止まったままだ。

 ここで、不思議そうに首を傾げるつむじが言い放った。

 

「別にいつも通りの蜜璃でいいって意味で言った」

「え?」

 

 思わぬ言葉に口元を手で覆い隠す蜜璃。

 そう、決してつむじは彼女を貶めるつもりで先の大食らい云々を言い放ったのではない。

 ありのままの自分で居ればいい―――当人としては、そう伝えたかっただけなのだ。

 

「つむじちゃん……! そうよね! ほんのちょっぴり遠慮しちゃってたけれど、いつも通りたくさんお腹いっぱい食べちゃおうっと! そうだもん、こんな私でも認めてもらえるようにって鬼殺隊に入ったんだから、わざわざ自分を取り繕わなくても大丈夫よね!」

「……まあ、甘露寺さんがそう言うのであれば構いませんが。それでも東雲さん、言い方を考えなきゃ不用意に他人を傷つけたりすることもあるんですからねっ!」

「気を付ける」

「よろしい」

 

 素直かつ正直であるのがつむじの良いところだ。ふぅ、と一息吐いたしのぶは心底そう思った。

 これで是が非でも自分を曲げない頑固者であったならば、今日という日まで何度衝突したことか分からないだろう。

 

「私はありのままのつむじちゃんが好きよぉー!」

「ん」

 

 しのぶがあれこれ考えを巡らせている横では、蜜璃がつむじに一方的な熱い抱擁を交わしていた。

 その光景を見ていたしのぶはと言えば、

 

(ありのまま……か。ありのままの私を好いてくれる人なんているのかしら)

 

 姉・カナエと違い、刺々しい態度を改められない自分の性格を好いてくれる好事家など居るだろうか?

 居たとしても、逆に自分がその人物を好きになれるかどうかなど、()()()()()とやらを掴むのには中々の壁があるように思えて仕方がない。

 

(はぁ……どこかに手間もかからず頼り甲斐のある殿方でも居ればいいんだけれど)

 

 半ば無理だと諦めているしのぶは、他人の素敵な部分に逐一ときめいてしまう蜜璃を羨ましく思うのだった。

 

 それからも三人は他愛のない会話に花を咲かせる。

 

「この前つむじちゃんに化粧してあげたの。そしたら、それ見た燎太郎くんが顔真っ赤にしちゃってね!」

「結構初心なところあるんですね、彼」

「面白かったからまたやって、蜜璃」

 

 等と、話題の種は尽きない。

 だが、そろそろ腹ごなしも済んで眠気が訪れた頃を見計らい、三人はようやく床についたのであった。

 

 程なくしてしのぶと蜜璃の穏やかな寝息が聞こえてくるが、つむじはその限りではない。

 所謂、まだ体力が有り余っている状態だからだ。寝付こうにも中々寝付けない。

 とは言え、することもないのだから、ボーっと天井を見つめ、ひたすらに夢の世界に誘われる時を待つしかできない。

 

『―――いいかい、つむじ』

 

 ようやく微睡みを覚え始めた頃、不意に声が脳裏を過る。

 それは自分を地獄の底から引き揚げた恩人の声。鈴の音のように凛とした心地よさを感じさせる輝哉のものだった。

 彼の声を思い出すと、不思議なほどに心が落ち着く。

 

『君はまだ世界がどういうものかを知らない。勿論私も全てを知っている訳じゃないけれど。でも、私からつむじに大切にしてほしいことを教えるよ』

 

 今でも()()は心に留めている。

 

『真実だけを口にすること。そうだね……世の中は自分をよく見せようと嘘を吐く人が居るけれど、それは余りにも拙い真似だ。そして虚実で築き上げられた己という人物像がいつ崩れ去ってしまうかと怯えなければならない。だからね、嘘を吐きさえしなければ不必要に怯えずに済むし、自分が吐いた嘘をわざわざ覚えずに済む。たったそれだけのことで、案外心にゆとりができるものさ』

 

 敬愛する輝哉の言葉だからこそ、今まで従ってきた。

 凡そ他人に話さない方がいい過去も偽ることなく語り、時には怯えた目や化け物を見るような目で見られることもあった。

 しかし、得たものも確かにある。

 人を殺したような過去を背負っていても、ありのままの自分を受け入れてくれる者の数々。

 

 凛はどんな時も相手を慮ってくれる。

 燎太郎はなんだかんだ面倒見がいい。

 しのぶは小言を漏らしながらも治療してくれる。

 カナエはひたすらに可愛がってくれた。

 杏寿郎は文句を言わずに稽古に付き合ってくれる。

 蜜璃はたくさんの美味しい食べ物をご馳走してくれた。

 

(―――あ)

 

 流は、もう居ない。

 その現実を思い知らされた瞬間、意識は深い闇の中へと落ちていく。どこまでもどこまでも深く。現実から意識が解き放たれる夢の世界へ誘われたつむじは、せめて夢の中では幸せであれるようにと祈った―――が、

 

(幸せって……なんだろう)

 

 過去に鬼と揶揄されるほどの悪行を働きながらも、こうして人としての感性を得ていく中で浮かび上がった疑問を胸に、つむじは眠りにつくのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 明朝。どこからともなく鉄を打つ音に起こされた三人は朝餉を済ませた後、各々の日輪刀を担当している刀鍛冶の下へと向かっていった。

 つむじの日輪刀を打つのは、鉄火松と言う名の青年だ。

 

「調子どう?」

「いやはや、東雲さん。いつも通りっスね。あ、いつも通りっつってもしっかり刀は良い感じに仕上げるんで安心してください」

「ん」

 

 と、今の会話から分かる通り飄々とした印象の刀鍛冶である。

 だが、その一方で過去には鬼殺隊に入り、鬼と戦った経験もあるという、刀鍛冶の里出身の者にしては珍しい経緯を持っていた。

 早々に足に怪我を負って引退してからは、刀鍛冶の家に生まれた者らしく日輪刀を打っている訳だが、数少ない現場で経験を積んだ者らしく、刀以外で戦いの役に立つ小道具を作っているという、手先が器用な一面を有している。

つまり、暗剣などを多用しているつむじの担当にはもってこいという訳だ。

 

「いやぁ~、東雲さんの担当になれてアタシも鼻が高いっスよ」

「なんで?」

「なんでって……そりゃあ継子さんの刀打ってるんスから。うちの里じゃ、実力のある剣士の刀打てるってことを誉れにしてる人も少なくないスし」

「ふーん……」

「ま、東雲さんはそういう地位だりなんだりは気にしなさそうな人に見えますし、だからなんだって感じでしょうがね」

「それより」

「はい?」

 

 話の流れなどなんのそのととある物体を指さすつむじ。

 

()()なに?」

「おおっ、()()に目をつけるとはお目が高い! ちょいと待ってくださいね、持ってきますから」

 

 そう言って部屋の奥に立てかけられていた物体を持ってきた鉄火松。

 彼の手には重厚な鉄の筒が二本水平に並び、そこから引き金のついた持ち手が伸びている―――所謂、銃に似た代物が握られていた。

 

「これは散弾銃っスね。もっと詳しく言えば、水平二連銃って種類のっス」

「さんだんじゅう」

「そっス。外国から輸入されてきたモンをアタシが仕入れてきて弄ってるんスよ」

「鬼を殺すのに使えるの?」

「使えるよう弄ってる段階が今っスね」

「ふーん」

 

 傍から聞けば興味がなさそうな受け答えに見えるが、刀鍛冶としてそれなりに付き合いの長い鉄火松からすれば、彼女の声音が散弾銃に興味を惹かれていることがひしひしと伝わってきていた。

 

「気になるっスか?」

「ん」

「じゃあ、是非ともお手に取ってみてください」

 

 言われるがまま、散弾銃を受け取ったつむじ。

 銃把(じゅうは)を握り、ズシリと腕にのしかかる重みを感じ取る彼女は、しばらくあちこちへ銃口を向ける等、取り回しの挙動を確認していた。

 と、その途中で急に眉間に皺が寄る。

 

「……どう使うの?」

「ありゃ。もしかして銃見るの初めてっスか?」

「ん」

「それじゃあ分からないっスよね。そのー、引き金を引くとですね、その先っぽの穴から弾が出てくる―――」

「ふーん」

 

 と、引き金を引くつむじ。

 刹那、撃鉄の音が轟いて弾丸が銃身から飛び出る―――

 

「―――ことのないように、まだ弾は込めてないんスけどね」

「んんっ」

 

 不用意に引き金を引かれて大事になったら大変だという鉄火松の先見の明が光り輝いた瞬間であった。

 

「普通の人間だったら腕なんて簡単に吹き飛んじゃう威力っスからね。東雲さん、くれぐれも人に向けちゃ駄目っスよ」

「分かった」

「と、ホントならすぐさま渡したい所なんスけど、まだ試作段階でして……」

「どこらへんが?」

「弾っスよ、弾。鬼に普通の鉛弾ぶち込んでも倒せないっスから」

 

 通常、銃に用いる弾丸の素材には鉛が用いられることが多い。

 しかし、鬼殺隊では周知の事実であるように、鬼は日輪刀―――延いては、猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石で作られた武器で頚を絶たねば絶命させるに至らない。

 鬼を殺せる銃となれば、弾丸に用いる素材は猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石が望ましい。

 とは言えども、本来刀に用いる素材を弾丸の形にするというのは中々難儀なことになる。それこそ刀鍛冶とも別の手先の器用さが必要になってくる訳であり、

 

「ちょうど今、仕入れて来た猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石で弾作ってる最中っス」

「どれくらいかかるの?」

「んー、そうっスねー。一週間もあればできるかと」

「できたら銃くれる?」

「いやぁー、清々しい。んまあ、東雲さんの為に仕入れて来た物なんでもったいぶる必要もないんスけれどね」

 

 人によれば厚かましい口振りに聞こえなくもない発言であるが、鉄火松が誂えようとしている散弾銃は、元より彼女にと仕入れ、調整を加えているものだった。

 数百年もの間鬼と戦ってきた鬼殺隊では、当然の如く鬼とは刀で戦うものだという認知が定着してしまっている。

 しかし、なにも刀だけで戦う必要はないではないか。その他の道具も駆使し、結果的に被害を抑えて鬼を倒せれば万々歳であるのに、なぜにそこまで刀に固執するのか―――鉄火松はそう考えていた。

 

「どうっスか? その銃……言うなれば日輪銃、試し撃ちしてみますか?」

「? 弾ないんでしょ?」

「普通の鉛弾ならたくさんあるっスよ」

 

 「ほら」と戸棚の中から数多の弾丸を取り出してきた鉄火松は、被っているひょっとこの面の奥から笑い声を響かせ、こう続けた。

 

「ささっ! アタシお手製の射撃場に案内しますんで!」

「ん」

 

 やや高揚した様子の鉄火松に連れられたつむじが案内されたのは、射撃場と呼ぶにはお粗末な開けた林の中であった。

 そこに立ち並ぶ木々のいくつかに、本来は弓道で用いる的が括りつけられている。

 なるほど、そこを狙えばいいのかと察したつむじは、鉄火松から装填に際しての注意事項を傍で教えられながら、たどたどしい手つきで弾丸を込めていく。

 

「これでいいの?」

「はい、大丈夫っス。そんじゃあ気張っていきましょう!」

「ん」

 

 言われるがまま、狙いをすませるつむじ。

 自然と片目を細め、感覚で的の真ん中を撃ち抜くよう構えた彼女は、そのまま引き金を引いた。

 躊躇いもなく引き金を引かれた銃は、撃鉄の音を轟かせ、銃口から二つの弾丸を奔らせる。

 一瞬の間に宙を疾走していく弾丸は、そのまま的を貫く―――ことはなく、狙いよりかなり上の木の幹に命中した。

 

「……」

「あちゃー。まあ、最初はそんなモンですよ」

「次は当てる」

 

 発砲の反動で狙いを逸れた事実を省みたつむじは、その怜悧な瞳の奥に猛々しいやる気の炎を灯し、せっせと弾丸の装填に勤しむ。

 一度目よりも大分早く弾を込め終えたつむじは、今度こそはと狙いをすませ、改めて引き金を引いた。

 

 再び轟く轟音。

 すると弾丸は、今度は明後日の方向ではなく、括りつけられていた的の木枠を掠めるような軌道を描いた。

 爆ぜる木っ端が宙を舞う。これには鉄火松の感嘆の息を漏らした。

 

「おお! いい感じっスね! 次撃ったらもう当たるんじゃないスか!?」

 

 と、鉄火松が興奮している様子を横に、つむじはさっさと弾丸を込めていた。

 三度目にして大分手慣れてきた様子。

 装填してから銃を構える姿もそれなりに様になってきた。

 

「―――っ!」

 

 カッと目が見開かれると同時に、引き金も引かれた。

 銃口から爆ぜる光にも目が慣れ、腕にかかる射撃の反動についても体が覚えている。

 狙いはブレることなく、空を斬り裂くようにして突き進む弾丸は、見事的のど真ん中を貫いた。

 飛散する木っ端に加え、銃口辺りから漂う硝煙の臭いが混ざり、辺りには何とも言えない臭いが立ち込める。

 

「おぉ……!」

 

 その一部始終を目の当たりにしていた鉄火松は、感極まった様子でつむじに駆け寄って来た。

 

「凄いっスね、東雲さん! 射撃の才能ありありですよ!」

「ん……」

「あら? どうかしたんスか?」

 

 興奮する鉄火松の一方で、当のつむじは余り喜んでいるような様子ではなかった。

 熟考している様子のつむじに、何事かと首を傾げて「なにか問題でも?」と恐る恐る問いかける鉄火松に対し、彼女はこう応える。

 

「装填に時間がかかる」

「それは……まあ銃の宿命というべきか……」

 

 つむじが訴えるのは、発砲から装填までの()だ。

 超人的な身体能力を有する鬼に対し、隙は一分たりとも見せない方が賢明である。

 そうした観点から見た場合、散弾銃は威力こそ十分であれど、いちいち装填の為に隙だらけになるのはいただけない。

 一瞬の隙が命取り。そうして死んだ鬼狩りはごまんと居る。

 となれば、一発外したら装填のために手間取らなければならない銃よりも、刀で戦った方がいいのではなかろうか?

 

 暗にそう訴えるつむじ。

 だが、鉄火松もまた唸るような声を漏らして考え込んだ後、重々しいため息を吐いて面を上げた。

 

「なにも銃だけで戦ってほしいっつー訳じゃないスから。()()()使()()()()()()。そんな感じの気概でアタシはこれを実戦に耐えられるよう弄ってます」

「ん」

「東雲さんにはピンとこないかもしれないっスけど、皆が皆鬼の頚を斬れるくらいに剣の腕がある訳じゃないス。アタシも一時期鬼殺隊に勤めてたから分かるっスけど、襲って来る鬼に()が立たないなんてザラでした」

 

 自分たちの努力を嘲笑うように立ち塞がる鬼。

 下級の鬼こそ命からがら倒せた鉄火松であったが、ほんの僅か格が上の鬼が現れるだけで、まるで戦いにならなかった。

 結果、鉄火松はとても戦いに戻れない怪我を足に負って引退したのだ。

 それがトラウマであり、今、こうして鬼との戦闘に役立つ小道具を作ろうと思い至った彼だからこそ、胸に抱いている意志があった。

 

「アタシは臆病者っス。最初は刀鍛冶に向いちゃいないって逃げて、それで鬼殺隊になっては鬼から死にかけながら逃げて……結局刀鍛冶になった訳っスけど、臆病者なりにできることがあるんじゃあないかって思ってるんスよ」

「例えば?」

()()()()()()()()。そう思うと不安で仕方ないんス。だから、もっと色んな手を持っていれば鬼との戦いにも安心して挑める。東雲さんに作った暗剣も、きっと役に立ってるはずっスよね?」

「ん」

「よかった。それなら報われるってモンっスよ。……そんな風に臆病者のアタシがひいこら考えて作った物が鬼殺隊の皆さんの役に立てるならって、あれこれ思索を巡らせて……」

 

 「昔から細かい作業は好きでしたから」と続ける鉄火松は、決してつむじには見えないが、面の奥で柔和な笑みを浮かべた。

 

「んまあ、今だからこそ言うっスけど、一度鬼殺隊になってよかったっス。そうじゃなきゃ、アタシは一生()()()()()の臆病者でしたから」

 

 鬼の恐ろしさを思い出せば、今でも足の傷が疼き、膝がガクガクと震える。

 それでも、それでもだ。今も尚、命を賭して鬼と戦う鬼狩りたちを想えば、不思議と脚の震えも止まるのだ。

 止まってはならないと―――気が付いたのだ。

 

「んでも、臆病者でも進もうとする勇気があるんなら何か少しでも変えられる……そんな気がするんス。アタシの努力が鬼殺の新たな可能性を少しでも拓けたら……」

「……」

「って、一介の刀鍛冶が偉そうな口叩いてすんません! つまらない話を―――」

「ううん」

「……え?」

 

 恥ずかしそうにする鉄火松であったが、己の話に対する自虐を否定され、思わず唖然としてしまう。

 彼の瞳には、大分手に馴染んできた銃の銃身を肩に担ぐようにするつむじが、こちらを真っすぐな―――それはもう曇りのない青空の如き澄んだ瞳で見据えている姿が映った。

 

「興味が湧いてきた」

「興味……っスか?」

「貴方は私の刀鍛冶。貴方が可能性を指し示すなら……」

 

 刹那、俊敏な動きで弾丸の装填を開始するつむじ。

 そこには最早手間取る気配など一向になく、流れるような手つきであっという間に弾丸が込められた銃身が、元通りの形へと戻った。

 やおら狙いをすませるつむじ。そのまま銃口から放たれた弾丸は、真っすぐ宙を疾走していき、すでに木っ端になる寸前であった的に直撃し、案の定的は原型を留めることなく四散した。

 

 思わず見とれてしまうほどの流麗な動きだった。

 そんな光景に目を奪われる鉄火松に対し、銃口から立ち上る煙をフッと吹き飛ばすつむじが、平然と、そしてさも当然と言わんばかりに言い放った。

 

「……私の力で知らしめる」

 

 傲慢などではない。

 固い決意だ。

 

「東雲さん……!」

「……でも、色々と口は出すから」

「望むところっスよ! こういうのは現場の方々の意見が大事っスから! ぜひぜひ!」

 

 しのぶが開発した藤の毒とは別に、新たな鬼殺の道を拓くかもしれない武器―――日輪銃の開発は、今まさに鉄火松だけでなく、つむじも含めた二人三脚で進むことになった。

 

 今日もまた、健やかな風に吹かれて流れる雲の隙間から、煌々と光り輝く日輪の光が里に降り注ぐ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 日差しさえも遮る桃色の雲が空に流れる。

 この世のものとは思えぬ空模様の下、死人のような青い顔色で彷徨い歩く人々もまた、とても生者には見えぬ様相だ。

 

 それ以外は至って普通の村の風景だが、当の彼等が目の当たりにしていたのは酒池肉林。

 まさに、苦難が絶え間なく降りかかって来る現世における最後の桃源郷。

 鼠をたんまりと脂の乗った豚肉と信じて疑わず貪り、地面に溜まっている泥水を酒だと思っては浴びるように飲む。

 

「さあ、もっと騒げよ」

 

 その狂宴の坩堝の中央に佇むのは、いかにも病んだ血色の悪い顔を引きつらせるようにして微笑む鬼。

 やせぎすな体はあばら骨が浮き出ており、ほんの少しぶつかっただけで枯れ木の如く容易く折れてしまいそうな危うさを孕んだ男のようにも見える。

 汚れた着流しから頭が蕩けそうな甘美な香りを迸らせる彼は、爪先同士をつま弾かせて火花を散らし、携えていた煙管に火をつけた。

 

 すると、其処彼処(そこかしこ)で楽しんでいた者達が、こぞって鬼の下に駆け寄って来る。

 狂ったように求めるのは立ち上る桃色の煙。

 それを我先にと求める群衆の醜悪で無様な姿を肴に、鬼は腰に下げていた瓢箪の中身―――腐った血を煽っては哀れんだような目を群がる者達に向ける。

 

「この世は辛いことが多いだろう悲しいことが多いだろう。だが安心しろよ。おれがそんな苦難から逃れさせてやる」

 

 煙管から桃色の煙を立ち上らせる鬼は、クツクツと痰が混じったような笑い声を漏らす。

 

「もっと吸えよ。酔えよ。おれの下に居れば一生醒めない夢が見られるぞ。夢ならば全てが自由だ。飽きるまで酒を飲むのも。果てるまで女を抱くのも。脚を失くした奴でも虚像の足で天まで高く昇ることもできるだろう」

 

 吹き付ける風でさえも払いのことのできない桃色の暗雲は、未だ陽光を遮っている。

 

「鬼も人も関係ない……酔生夢死の一生、共に死ぬまで愉しもうぜ……!」

 

 まだ空は晴れない。

 



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拾漆.五里霧中

 明朝。それは小鳥の囀りと鉄を打つ音が交互に響く刀鍛冶の里のことだった。

 

「ふむふむ、なるほど……」

 

 蟲柱・胡蝶しのぶは朝早くに訪れた鎹鴉より受けた伝令に相槌を打つ。

 

「しのぶちゃ~ん!」

「あら、甘露寺さん。おはようございます」

「おはよう! これからつむじちゃんと朝ご飯なんだけど一緒に……って、伝令?」

「そのようです」

 

 朝から溌剌とした様子の蜜璃であったが、しのぶから只ならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。思わず神妙な面持ちとなる。

 柱に通達されるのはそれだけ重要度の高く、なおかつ危険性が高い任務がほとんど。

 

「―――どんな伝令だったの?」

「あら、おはようございます東雲さん」

 

 柱の任務ともなれば、平隊士は内容を聞くことを憚るであろうが、つむじはその限りではない。

 平然と、そして正直に自分の疑問を投げかける彼女に対し、しのぶは隠す必要もないと断じ、あっさりと白状した。

 

「少々厄介な鬼が現れたようで……至急、薬学に精通した私を現場に寄越してほしいとのことらしいですね」

「しのぶちゃんが呼ばれたってことは……毒でも使う相手なのかしら?」

「さあ、そこまでは……とにもかくにも、私は日輪刀の調整も終わりましたので、早々に此処を発とうと思います」

 

 花弁を模した細身の日輪刀を手に立ち上がるしのぶ。

 その際、ふわりと風に舞うかのように靡いた羽織は、引退したカナエから譲り受けたもの。

 実物以上の重みを感じるのは、受け継いだ柱としての責務を実感しているが故か。なんにせよ、しのぶは今までも、そしてこれからも柱としての責務を果たさんと鬼が跋扈し、人が救いを求める場へと赴くのだ。

 

「それでは甘露寺さん、東雲さん。武運長久を」

「うん! 気を付けてね、また会いましょう!」

「ん」

 

 簡潔な別れの挨拶を済ませると共に、しのぶは風に吹かれるように姿を消した。

 

 彼女にもたらされた任務とは一体なんなのか?

 未だその疑問が頭に浮かんでいるつむじであったが、間もなくして関係しているのではないかと邪推する情報を鉄火松から聞かされた。

 

「弾の材料がない?」

「ええ……申し訳ないんスけれど」

 

 ひどく申し訳なさそうに項垂れる鉄火松に、つむじは口先を尖らせて問う。

 

「なんで?」

「それがですね、定期的に仕入れてくる砂鉄と鉱石が届かなくて……」

 

 言わずもがな、その二つは猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石のことだ。

 

「採れなかったの?」

「採れなかった……という訳ではないんでしょうがねぇ。東雲さん、陽光山は知ってます?」

 

 鉄火松の口から出て来た単語に、つむじはかぶりを振った。

 

「じゃあ、そこから説明をば」

 

 陽光山とは一年中、雲もかからず雨も降らぬ山のこの世のどこかに存在すること。

 刀鍛冶の里同様、その場所は鬼殺隊士どころか、陽光山から採掘される砂鉄と鉱石を用いて日輪刀を打つ刀鍛冶の里の者にも秘匿されている。

 山の歴史は非常に長く、分かっている範囲でも百年以上は陽光山から必要な鉄鉱石を採掘していた。

 だが、鉄鉱石とは自然の恵み。延々と掘っていれば無くなっていくのが自然の摂理というもの。

 そうした関係もあり、時折採掘場を変える都合もあって鉄鉱石の送られてくる量が激減することはあった。

 しかし、今回のようにそもそも運び込まれてこないのは稀有な事態。

 

「なにかあった」

「っスね。鉄珍様に聞いたら、いつもの運搬用の道が使えないとか……」

 

 一般的に考えられるのは土砂崩れだ。

 けれども、今回はそういった異常とはまた別の問題らしい。

 

「なんていうか、こう……変な色の煙が、いつも立ち寄ってる村に充満してて……みたいな」

「変な色の煙?」

「そっス。何なんでしょうね? 毒瓦斯(ガス)かも」

「毒瓦斯?」

「吸ったら体に悪い空気のことっス。炭鉱とかだと時々事故があるとは聞くんスけど、陽光山近くで毒瓦斯が出るなんては聞いたことないっスね……」

「どうにかできないの?」

「うーん、流石に人の手じゃあ……それに、なんでも辺りの地形が盆地らしくて」

 

 高い山地に囲まれた盆地は、吹く風も弱く、空気が同じ場所に留まってしまう。

 とどのつまり、現状お手上げという訳だ。

 

「別の道用意するにもそれなりの時間が必要っスからね~。しばらくは里にある分やりくりするしかないっス」

「? ……あるの?」

「ん? あぁ……さっきのは、アタシが刀打つのに使う分以外がないって意味っス。すみません」

 

 鉄火松が担当する刀は一本だけではない。

 にも拘わらず、まだ実用性もはっきりとしていない武器のために、在庫がない砂鉄と鉱石を使う訳にはいかない。彼が始めに言ったのはそういう意味だった。

 

「とってくる?」

「いや、流石に他人様の分を盗む訳には……!」

「ううん、山に」

「へ?」

 

 お面の奥で目を白黒させる鉄火松。

 

「それは……陽光山に行くと?」

「うん」

「……ほ、本気っスか?」

「向こうで弾作れる?」

「まあ、さして難しい作業ではないんで……」

 

 「道具さえあれば」と付け足す鉄火松に対し、つむじは能面のように動かぬ顔ながらも、これから行おうする行為を悟らせる雰囲気を漂わせる。

 

「じゃあ、行く」

 

 善は急げと鎹鴉を呼び寄せては、陽光山へと向かう許可をもらえるように輝哉の下へと飛ばせる。

 これは大変なことになったと頬を掻く鉄火松であるが、日輪銃の完成にここまでつむじが乗り気だとは思っていなかった為、内心浮足立っていた。

 

「いやぁ、何から何まですみません」

「なんで謝るの?」

「ん? 言われてみれば……それじゃあありがとうございますっスね、東雲さん」

「ん」

 

 照れながら感謝を述べる鉄火松に、つむじは素っ気ない返事をする。

 と、ここまでは良かったものの、これからすることがない。少なくとも鎹鴉が戻ってくるまでは暇を持て余すことになる。

 温泉に浸って英気を養うべきか―――それにしては、まだまだ体力が有り余って仕方がない。

 やはり温泉は適度に疲れた体にこそ染み入るというもの。

 

「つむじちゃーん!」

「蜜璃」

「お昼ご飯まで時間があるから一緒に稽古しない?」

「する」

 

 ちょうどよく訪れた蜜璃の誘いに乗ったつむじは、そのまま彼女の背中を追いかけて外に出ていった。

 麗しい少女が二人で稽古に励むとは、如何せん女っ気がない気がしなくもないが、それでこそ鬼殺隊。

 

「さて、アタシは諸々の準備を済ませましょうかね……」

 

 二人を見送った鉄火松は、陽光山に向かう支度を整えるべく、日輪刀の調整や道具の準備の為に腰を上げるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 つむじが向かわせた鎹鴉が戻って来たのは明後日のことだった。

 

「東雲ツムジヲ、陽光山ニ立チ入ルコトヲ許可スルゥー!」

「ん、わかった」

「モウ一ツ、オ館様カラ伝令ェー!」

「?」

 

 陽光山入山許可を貰えた以上、鎹鴉から聞くことはないと断じていたつむじであったが、敬愛する輝哉の伝令となれば聞かない訳にもいかない。

 普段の鎹鴉に対する態度が一変して、素直なものとなる。

 これには流石の鎹鴉も呆れた表情を見せるが、余りもったいぶると首を絞められないとも限らない為、口早にとある()()を彼女に伝えた。

 

「恋柱・甘露寺蜜璃ト共ニ蟲柱・胡蝶シノブト合流シ、鬼ヲ討滅セヨォー!」

「……蜜璃としのぶと?」

「合流場所ハ藤ノ花ノ家ェー! 急グベシ! 急グベシィー!」

 

 カァーカァーと騒々しい鎹鴉を余所に、伝令に聞き耳を立てていた鉄火松はこてんと首を傾げる。

 

「へ? 柱二人と合流して鬼を倒しに行くんスか?」

「みたい」

「それってもしかしてもしかしなくても危ない奴っスよね?」

「知らない」

「そこいい加減じゃ駄目な奴じゃないスか?」

 

 あっけらかんと言い放つつむじに、流石の鉄火松も困り果てた様子だ。

 だが、それ以上に困ったように眉尻を下げるのは、偶然同じ部屋に居た蜜璃であった。

 

「私も一緒に行くのね! でも、確かしのぶちゃんって前に鬼退治に……」

 

 一昨日任務の為に里を発ったの姿が記憶に新しい。

 彼女の口からも「厄介な鬼」とやらが出てきたが、恐らくはそれに関連しているであろうことは想像に難くない。

 

「なにかあったのかしら? ……ううん、今考えても仕方ないわ。とにかく、まずはしのぶちゃんと合流しましょ! つむじちゃん!」

「ん」

 

 深刻そうな面持ちの蜜璃とは裏腹に、つむじは至って平然だ。

 この呑気さが吉と出るか凶と出るかは、まだ誰にも分からない。

 なにはともあれ、任務を伝えられたとあっては現場に赴かなければ話にならない。

 「よーし、やるぞぉー!」と意気込む蜜璃は、鉄珍の打ちたてホヤホヤの日輪刀を手にし立ち上がった。

 一方で、つむじもまた鉄火松に打ってもらった日輪刀と、試作型日輪銃を腰にぶら下げて腰を上げる。

 

「よしっ、じゃあ行こっ」

「あぁ……アタシが任務に付いて行くかどうかについての言及はないんスね」

「最初から来るって話でしょ?」

「……まあそうなんスけど」

 

 鬼に脚をやられた身としては、柱二名に加え、柱に匹敵する隊士が徴集される鬼が居る現場に向かわなければならないのは中々複雑だ。

 しかし、しかしだ。

 それ以上に為すべきことが自分にはあると、鉄火松は自分を奮い立たせるように言い聞かせる。

 

「ふぅ~……こうなりましたら、アタシも腹を括るっス! 付いて行く以上、何かしらの役には立てるよう頑張るっスよ!」

「別に大丈夫」

「東雲さん、そりゃないっスよ」

 

「ま、まあお気持ちだけ……! ね!? つむじちゃん!」

 

 歯に衣着せぬ正直なつむじによる傷心を慰めるように、蜜璃が鉄火松に応える。

 と、他愛のない一幕を挟んで、一行はしのぶとの合流場所になっている藤の花の家紋を掲げる家を目指すこととなった。

 

 刀鍛冶の里から隠に連れ出してもらい、途中から自らの足で歩くことになった一行は、道中特に問題事もなく藤の花の家に到着する。

 が、合流するはずのしのぶの姿が見えないではないか。

 どうしたのかと家の者に聞けば、どうやら少し前に出かけてしまったとのことらしい。

 そういう理由もあり、しのぶが帰ってくるまで家で待つことになった三人は、

 

「いやぁ……やっぱり甘露寺さんの刀いいっスねぇ……流石は鉄珍様が打った刀……ここまでの造詣、中々見られるもんじゃないっスよ……」

「そ、そうかなッ!?」

 

 自分の日輪刀を褒められ、なぜかポッと頬を染める蜜璃。

 この会話から分かる通り、始まっていたのは鉄火松による蜜璃の日輪刀の鑑賞会であった。

 

「はい、その通りっスよ。はぁ、美しい……素晴らしい……この溜め息が出る完成度……あぁ、刀の色も鮮やかだ。色も濃い……まさしく刀鍛冶と所有者の力があってこそ成り立つ究極の美……」

「鉄火松さんって刀に目がないのね」

「たまにそう」

 

 あからさまに蜜璃の日輪刀に見とれてしまっている鉄火松の横で、茶請けの煎餅を齧る女二人は、違う世界に入ってしまっている彼を得も言われぬ瞳で見つめていた。

 だが、見慣れている二人はともかく、刀の造詣に深い者が蜜璃の刀に見惚れてしまうのは致し方がないと言えよう。

 

「これほど細くしなやかや刀を打つにはどうすれば……」

 

 一見すれば鞭に見えなくもない細長い形状。

 しかし、実際は鞭のような革紐ではなく猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石によって打たれた刀身を有している。

 これが甘露寺蜜璃の日輪刀。大半の刀工が思い浮かべる刀とはかけ離れた形状、そして性質。極めて薄く柔い刀身は、刀としての切れ味を持ちつつ、蜜璃自身の強靭な肉体により振るわれることにより恐ろしいまでの技の速さを出すことを可能としている。

 

 そんな日輪刀を、好奇心旺盛な子供のように爛々とした瞳を眺める鉄火松は、しきりにため息を零し、うっとりしたような挙動を見せるばかりだ。

 

 人によれば距離を取りたくなる姿。

すると、つむじが一言。

 

「蜜璃みたい」

「えっ!? なにが!? どこが!? どんな時!? 私だと思った部分!」

「……」

「沈黙しないでよ、つむじちゃん! そういう具体的な部分が分からないままなのが一番怖いのよォ~!」

 

 あのような変態に見えなくもない姿のどこと自分を重ねたのか。

 不安で胸がいっぱいな蜜璃は、その胸をプルプル震わせながらつむじの肩に手を置く。

 

 しばらく蜜璃は喚いていたが、彼女が静かになるより前に鉄火松の鑑賞が終わったようだ。

 丁寧な所作で刀を鞘に戻した彼は、「いい物を見させてもらったっス」と感謝を告げてから、興奮より滲み出ていた汗を懐にしまっていた手拭いで拭く。

 

「いやはや……年月を積み重ねた人の技術の凄まじさの何たるか」

「満足?」

「ええ。そして確信しましたよ」

 

 一拍置く。

 もったいぶった訳ではない。否、寧ろその一瞬こそが、演じているかのようなわざとらしさを振り払う静寂と化す程、彼の声音は真剣そのものだった。

 

「人は鬼に勝てる」

「……」

「あ、視線が冷たいっス」

 

 つむじの「何言ってんだこいつ」という視線を前に、すぐさま剽軽な様子に戻る鉄火松。

 しかしながら言葉自体を否定するつもりはさらさらなかった。

 

「あっはっは、つむじさん。アタシが言いたいのは、いつか人の作りだす技術が鬼を凌駕するって意味っスよ」

「具体的に」

「人は鉄で強い武器を作るようになった。薬で病を治せるようになった。電気で夜の闇を克服できるようになった。日夜技術の発展に汗水流して取り組んでいる方々のおかげで、人の世ってのは豊かになってきたっス。それはこれからも同じでしょう」

 

 特にここ数十年は、外国から流入してきた技術により、日本という国は目覚ましい速度で文明が発展していった。

 夜は蝋燭か月明りしか光源がなかった人々に齎された電気という存在は、まさしく人が夜を克服する大きなものであったのだ。

 そして今も尚、技術は進化し続けている。

 それは鬼殺隊や刀鍛冶の里も例外ではないが、あくまでそれらは洗練された剣士や職人の技術とは別の方向だ。

 もしも今よりも技術が革新し、人が跋扈する世の中となれば、人に害為す鬼に世界はどう動くであろうか?

 

「今の世の中、鬼との戦いの最前線……そして瀬戸際に居るのが鬼殺隊でしょう。でもね、お二方。アタシはたとえ鬼殺隊がなくなったとしてもね、人は自分たちが築き上げる技術で鬼を滅ぼせる……それだけの可能性を秘めてると思うんスよ」

 

 「遠くない未来にね」と鉄火松は締めくくった。

 

「あッ! だからって鬼殺隊の方々が要らないって意味じゃないっスよ! これはあれっス! 鬼なんかに負けないぞ! みたいな意気込みっていうか」

「どうでもいい」

「え?」

「その前に私が鬼を殺すから」

 

 慌てる鉄火松に対し、平然と言い放つつむじ。

 その堂々たる様に蜜璃は思わずプッと吹き出してしまった。

 

(変わらないなぁ)

 

 初めて会った時からそうだ。

 どこか素っ気なく冷たい風を彷彿とさせる言動。しかし、実際は空にかかる暗雲を吹き払し陽光を人々にもたらしてくれる強風の如く力強い。それが蜜璃の抱く―――否、彼女を知っている者ならば誰もが抱く印象であった。

 

(私も頑張らなくちゃ!)

 

 柱であるとはいえ、つむじは蜜璃にとって先輩だ。

 強さとは違った負うべき背中を彼女は見せてくれる。

 これからの任務への士気が高まると共に、普段は鷹揚たる様子が一変して頼り甲斐のある姿を見せる先輩にキュンと胸をときめかせる蜜璃。

 と、そこへ足音が近づき、間もなくして三人が居る部屋の扉が開かれた。

 

「失礼。遅れてしまいました」

「しのぶちゃん! 大丈夫? 怪我はない?」

「ええ、大丈夫ですよ甘露寺さん。……ところで、何故鉄火松さんが?」

「あ、お構いなく」

「? ……そうですか、分かりました。兎も角、早速ですが本題に入りましょう」

 

 どこか甘ったるい匂いを漂わせるしのぶ。徐に腰を下ろし、ふぅと一息吐いてから話は始まる。

 

「如何せん標的の鬼が厄介でして……人員が―――それも腕の立つ方々が必要だと考えたので、お館様を通じて応援をお願いしたんです」

「その鬼って……」

「ちなみにお二方、本来陽光山から日輪刀に必要な鉄鉱石を運ぶ道が使えなくなっているのはご存知ですか?」

「あ、それ」

 

 しのぶの問いにピンと来たつむじが声を上げる。

 「存じているようですね」と応えたしのぶは、普段のキビキビとした様子とは違う倦怠感を面に滲ませて続けた。

 

「まさに今回の任務はそれに関係しています。その道が……正確には立ち寄らざるを得ない位置にある村が鬼の襲撃を受け、とても通れる状況ではないんです」

 

 鉄鉱石を採掘する者達の里は陽光山の麓に存在する。

 そして太陽の光を吸収する鉄鉱石が多く埋まっている山は、鬼にとっては近づくことさえままならない聖域と化しているのだ。と、里自体は鬼の襲撃を警戒しなくてもよい立地だが、鉄鉱石を運ぶ為に里から出る際はその限りではない。

 

 今回襲撃を受けたのは、里から最も近い村。里から険しい山道を超えてようやく休息できる一つの拠点となっている。その村に立ち寄らなければ、次の人里までの道のりは長く険しく、山道で鍛え上げられた健脚を以てしても日が落ち、鬼が―――鬼ではなくとも狂暴な獣が動き始める時間帯になってしまう。

 刀鍛冶―――延いては鬼殺隊にとって重要な資材である鉄鉱石を安全に届けるには、何があっても立ち寄るべき。そういう場所だった。

 

「具体的に述べるなら……そうですね、村全体に瘴気のような煙が満ちています」

「しょうき?」

「端的に言えば吸ってはいけない空気です」

「あー」

 

 刀鍛冶の里で鉄火松から似たような存在の説明を聞いていたおかげもあり、すぐに合点がいったつむじは、赤べこのようにコクコクと頭を上下に振る。

 と、説明していれば蜜璃が話に割って入った。

 

「もしかして出かけていたのって……」

「はい。少しでも煙の正体を探ろうとしていました」

 

 行き違いの理由は煙の正体を暴くが為だったようだ。

 そして、薬学に精通したしのぶだからこそ得られた情報が、

 

「性質として……あくまで類似しているという意味ですが、阿片(アヘン)に近いものでした」

「「……?」」

「所謂、麻薬ですね」

 

 目が点になって首を傾げる二人にすかさず補足が入った。

 

「慢性中毒は一旦置いておくとして、吸煙等で一度に多量の阿片を摂取して引き起こされる急性中毒は呼吸麻痺で死に至ります」

「吸煙……えっ!? もしかして呼吸使えないの!?」

「明答です、甘露寺さん。長時間の戦闘となれば私達が不利になるのは明白でしょう」

 

 鬼殺の剣士にとって呼吸ができないのは一大事だ。

 村全体を包み込む血鬼術らしく煙を発生させるほどの鬼に対し、呼吸を使えぬとあれば苦戦は必至。

 

「私より先に派遣された十名の隊士はまだ戻ってきていません。恐らくは既に……」

 

 犠牲はすでに出ている。今回の鬼が強大であると断じたのはそれ故だ。

 

「本当であれば宇髄さんが適任だと考えたのですが、生憎遠方に出ているとのこと」

 

 最初の腕利きを必要とする旨に繋がった。

 しのぶが口にした音柱・宇髄天元は、元忍という経歴があり、身体には毒物に対する耐性が付いている。彼が居れば今回の鬼に対して比較的安全に立ち向かえたであろうが、遠方の鬼の討滅に出ている為、すぐには戻れない。

 望ましい人員が確保できない中、これ以上の被害を防ぐには、血鬼術が身体を蝕むよりも早く、鬼を討ちとることができる強靭な精神の持ち主のみ。すなわち柱か、彼等と同格の剣士。

 

 話を聞いていた蜜璃は、自分が呼ばれた理由に喉を鳴らした。

 今まで何体もの強敵を相手にした彼女でも、今回のような鬼は相手にしたことがないのだろう。

 柱と言えど緊張はする。

だが、ここで緊張とは無縁の女が満を持して口を開いた。

 

「作戦は?」

「まずは出来る限り煙を吸わないよう準備を整えましょう。それから私が使っている藤の毒をお二方の分も調合しておきました」

 

 しのぶが扱う藤の毒であれば、頚を斬れずとも鬼を殺せる可能性がある。

 呼吸も満足にできない環境下では頼りになる奥の手だ。特に蜜璃のように間合いの長い武器であれば尚更であるだろう。

 

「量こそ少ないですが、ぜひとも役立ててください」

「ありがとう、しのぶちゃん!」

「前から欲しかった」

 

 毒を預かる二人。

 と、その横では何やらうずうずした様子の鉄火松が。

 

「あの、東雲さん」

「ん?」

「これ……弾っス」

 

 大事そうに包まれていた袋の中から手渡されたのは、いくつかの弾丸であった。

 弾の大きさは日輪銃とピッタリだ。

 

「材料足りなかったんじゃないの?」

「いやぁ、そこらへんは……」

「……盗んだ?」

「いやいやいや、盗んでないっス! 断じて!」

 

 何やら言いにくそうにしていた鉄火松であったが、つむじの頓狂な誤解を他二名に共有されるのは堪らないと白状することにした。

 

「そのぅ、アタシのお古を材料にして……えぇ」

「お古?」

「日輪刀を……」

 

 はははと誤魔化すような笑い声を上げる鉄火松が言うに、なんと彼が鬼殺隊時代に使っていた日輪刀を融かし、弾丸の材料にしたとのことだ。

 彼が日輪刀を握っていたのはそれこそ数年以上前の話だ。

 後進に譲渡することなく己の手元に置いていたのは、それなりの愛着があってこそ。

 

「よかったの?」

「いいんスよ、宝の持ち腐れっしたから。使われないままの道具程悲しいモンはないっス。例え形を変えても人の役に立つ……それが道具のあるべき姿だと思うんス」

 

 故に惜しくとも託した。

 

「……ありがとう」

「いえ。察するに敵は強大。少しでも東雲さんのお役に立てば幸いっス」

「これは責任重大ですね」

 

 素直に感謝を告げるつむじ。

 そんな彼女へしのぶは冗談めかせた言い回しをする。それも否応なく重々しくなっていた場の雰囲気を和らげる為。

 と、肩の強張りを解したところで柏手を打つ。

 

「さて! 出立についてですが……可能な限り煙が薄くなっている時間帯に勝負を決めたいところ。明日の夕暮れに到着するのを目安にしましょう」

「昼の方が風は強い。けど、それじゃ鬼も警戒してる」

「そういう訳です。……けれど、盆地ですから期待し過ぎるのはやめましょう」

 

 希望的観測で段取りを決めるのは自殺行為に等しい。

 最大限の警戒を以て事に当たるのが生き残る鍵だ。

 

「準備を整えて今日は早く休むことにしましょう。明日はよろしくお願いします」

「勿論よ! 私、頑張っちゃうわよぉー!」

「ん」

 

 三者三様の意気込む姿を見せ、早速準備に取り掛かる。

 

「あのー」

「はい、鉄火松さん?」

「アタシに出来ることがあるなら言ってください。道具作りの手伝いくらいなら喜んでするんで」

「あら、ありがとうございます。それじゃあ、その時はよろしくお願いしますね」

「いえいえ」

 

 手伝いを申し出た鉄火松は、女性三人が居る部屋からそそくさと退出する。

流石に、あの華々しくも強かな面子と同じ場にいつまでも留まる度胸はなかった。

 

 トボトボとした足取りで廊下を歩む。

 床を踏む度に軋む音が木霊する。

 

「はぁ~」

 

 零れるのは深いため息。

 共に無力感を吐き出そうと試みたのだが、寧ろ肩に得も言われぬ重みが圧し掛かるようだった。

 

「材料さえあれば……」

「おじちゃん、どうしたの?」

「ん?」

 

 不意に声を掛けられて振り向くも、目線の先には居ない。が、視界の下に先ほど通った時には見なかった影を望み、視線を落とす。

 幼い少女だ。

 こちらを見上げる少女は鞠を大事そうに抱えながら、爛々とした瞳を浮かべている。

 彼女に「おじちゃん」と呼ばれたこと自体には不服だが、だからと言い返しては大人げないと言葉を呑み込んだ鉄火松は、彼女からしてみれば見えぬ笑みを湛えて返事する。

 

「おやおや、これはこれは可愛らしいお嬢さん。ここの子かな?」

「うん。おじちゃんも鬼狩り様?」

「おじちゃんはねー、昔は鬼狩りだったんスけどねー。今は刀鍛冶っス」

「かたなかじ?」

「そうそう。鬼狩り様が使う刀を打ってるんス」

「へぇー」

「でも、鬼のせいで刀を作るのに必要な材料がないんスよ。困っちゃうよねー」

「材料?」

「陽光山っていうお山から採れる鉄鉱石なんスけどねー」

「あたし持ってるよー」

「へ?」

 

 彼女の一言は霹靂。そして光明であった―――後に彼は語った。

 

 

 

 ***

 

 

 

「……ッ」

 

 あからさまに嫌悪感を表情に出すつむじ。

 彼女の目の前にはあるのは、三丈先が見えぬ程に不明瞭となる視界を生み出している桃色の煙であった。

 夕暮れ時というのもあり、まだ完全に色彩が窺えるが、見れば見るほど現実離れした光景としか言いようがない。

 

「この先ですね、鬼が居るのは」

「ひぇっ……私の髪の毛より桃色……」

「蜜璃の髪はこんなに濁ってない」

「えっ!」

 

 キュン! と胸がときめき赤面する蜜璃はさておき、煙を吸わぬよう即席の防毒面―――とはいうものの、何枚か重ねた口布の間に粉末にした炭を挟むという粗末な装備で煙の中を進む一行。

 これでもないよりはマシだ。しかしながら、息苦しさは拭えない。全集中の呼吸・常中の維持も今だけは厳しく感じてしまう。

 

 加えて臭いが酷い。

 酷く甘ったるい。汚物とは別の方向性の臭さだ。

 

「うぅ……変な気分になりそう」

「引き際も大事です。万が一には撤退も」

「んー」

「……具合が悪くなったら言って下さいね、東雲さん?」

 

 二人に警告しつつ先導するしのぶ。

 しばらく走っていれば、人の暮らしていた形跡が至る所に見えてきた。

 

(そろそろ……ですね)

 

 ふと横に目を遣れば、見るも無惨な姿の死体が転がっている。

 煙もかなり濃くなってきている。それだけ敵が近いことは全員が察していた。

 

 その時であった。

 

「お二方」

 

 口布越しのくぐもった声が響く。

 やおら立ち止まり、つむじと蜜璃を制止するように手を横に突き出したしのぶは、そのまま手を日輪刀の柄に下した。

 続いて聞こえてくる複数の足音を耳にし、すぐさま二人も刀に手を掛ける。

 敵の襲撃だろうか。

 しかし、聞いている限り(くだん)の鬼は一体だけ。

 

「―――これは」

 

 瞠目するしのぶ。彼女が目にした者は、

 

「人ッ!?」

「……!」

 

 青白い顔を浮かべ、涎を垂らしながら歩み寄って来る群衆。

 それは紛うことなき人間であった。

 とても生者のような生気を感じられこそしないが、現在三人に群がって来る人々に鬼殺隊の隊服を持っている者も窺える。

 全員が虚ろとした瞳を浮かべ、しかしながら、三人を敵と見据えるかのような視線を向けてきていた。

 

 人間であるならば、斬るのは言語道断。

 かつては任務遂行の為ならば人殺しも已む無しという価値観を持っていたつむじも、ここでは抜きかけた刀を収める。

 だが、

 

『―――嗚呼、哀れな者が迷い込んだなぁ』

「!」

 

 煙の奥から痰が混じった声が響いてくる。

 鬼だ。間違いない。確信した三人の目は獲物に狙いを定める鷹よりも鋭く閃く。

 

『わざわざ死にに行くような鬼狩りになるなんて、それはそれは悲しい過去があったんだろう……哀れだ、悲しいなぁ。心底同情するぞ。だが、どうしてそうも自ら苦しい道を進む? もっと肩の荷を下ろせよ』

「……」

 

 なんだ、こいつは。

 それが三人の鬼に抱いた印象であった。

 

 一体誰の所為で。

 心の中で同じことを考える三人の瞳が、逆鱗を触れられた龍の如く、猛々しく揺らめく赫怒の炎を灯したそれになる。

 

 けれども、そんな彼女たちに臆することもなく、それはもう憐れんだ声音を紡ぐ鬼が続けた。

 

『救いがない現世にいつまでも縛られている道理はないんだぞ。さあ、おれたちと一緒に痴れようじゃあないか。ここは鬼も人も関係ない桃源郷だ。五体不満足も大罪人も白痴も等しく天人だ?』

「手短に。散開しましょう」

「うん!」

「ん」

『―――現世に未練がある。いや、いい。それもまた人の愛いたる所以。だが、それ以上に哀れで度し難い』

 

 鬼の話など聞いている暇がないと散開を提案するしのぶに、二人は反論することなく賛成した。

 何故ならば、これから起こることを予想していたからだ。

 

『皆、聞けよ。そこに可哀そうな奴らが居るだろう。お前らの手で此方に連れてきてやるんだ』

「あぁ……」

「かわいそうに……」

「こっちに来な。気持ちいいぞぉ……」

 

 幾重にも重なる呻き声。

 初めこそ甘い猫撫で声にも聞こえなくもなかったが、逃げるように散開する三人を前にし、途端に暴徒の如き荒々しい喧騒と化す。

 

「あいつらも天人に!」

「阿芙蓉様の寵愛を受けさせよう!」

「苦難のない世界を!」

「見せてやれ!」

「味わわせてやれ!」

「芙蓉様!」

「芙蓉様!!」

「芙蓉様万歳!!! 万歳ィー!!!」

 

 鬼の名と思しき単語を叫びながら、正気を失った群衆が一斉に三人を追いかける。

 例え相手がアヘン中毒で動きが緩慢とは言え、殺してはいけないという制約の中、あの大衆に囲まれるのは危険だ。

 

 それだけは避けなければならないと散開した三人の内、つむじは目をつけていた木に猿の如く俊敏な動きで、煙が薄い天辺まで登る。流石に追いかけて来た群衆もここまでは上ることは難しいだろう。

 そして彼女は息苦しい要因であった口布を外し、指先をペロリと舐った。

 濡れた指先を高々と掲げれば、盆地ながらも僅かに吹き抜ける風の流れを感じ取ることができる。

 

「……向こう」

 

 口布を元に戻し、向かうは風上。

 風の流れに影響を受けやすい血鬼術であれば、鬼は風上に居る可能性が高いはずだ。

 そんな彼女の推測は―――的中した。

 

「おや?」

「居た」

 

 軽やかな身のこなしで木から飛び降り、一軒の家屋の屋根に腰かけていた鬼―――芙蓉の前に降り立つ。

瞳に刻まれている「下壱」という字には気にもかけず、抜いた日輪刀の切っ先を向ける。

 

「臭いの垂れ流さないでくれる?」

 

 気分を害す臭いに辛辣な言葉を投げかけるつむじ。

 すると、芙蓉は涙を流す。震える手で面を覆い隠し、彼が紡いだ言葉は、

 

「哀れ……悲しいなぁ。いや、しかしそれが愛いぞ。子供が酒の旨さを知らぬのは道理だ……それにおれは憐れみではなく愛らしささえ覚える。今はそういう気分だ」

「は?」

「そう苦難を受け入れるな。人生は有限だ。時間は大切に使わなきゃあな。確かに苦難の道を進むのは尊い……が、なにも快楽を享受するのは罪じゃあないんだ。そう我慢するなよ」

 

―――つくづく()()は神経を逆撫でする。

 

 一挙手一投足が。

 紡がれる声音が。

 全てが癪だ。癇に障る。

 

 臭いの所為だろうか?

 いや、それとも……。

 

「―――とにかく」

 

 刀を構え、踏み込む。

 周囲の煙が、突風に吹かれたかのように形を変える中、つむじは一直線に跳躍し芙蓉の眼前まで肉迫する。

 刹那、刃が奔った。

 

「死んで」

 

 簡潔な想いの丈を述べて振るわれた刃。

 型ですらない剣閃は、防御のために動き出していた芙蓉の腕ごと、彼の頚を呆気なく斬り飛ばす。

 血をまき散らす頭部は驚愕するような顔を浮かべたまま―――煙と化して消えた。

 

「!」

「いい、もういい。鬼狩り、お前も良い夢を見ろ。幸せになっていいんだ」

 

 どこからともなく現れた芙蓉。

 それが本物か偽物かの区別もつかぬまま、つむじは振り返る。

 が、突然視界が揺らぐ。平衡感覚を失ったかのような症状に見舞われた彼女は、体勢を崩して屋根から落ちてしまう。地面に激突する寸前でなんとか体勢を整えたものの、今までにない体の状況に、彼女は額に脂汗を浮かべた。

 

「……気持ち悪い」

「そうか。だが安心するといい。もう半刻もしない内にお前は」

「本当に―――気持ち悪い」

「……つくづく悲しいなぁ」

 

 依然、芙蓉の血鬼術を前に屈しないつむじは日輪刀を掲げ、切っ先を向ける。

 それこそが彼女が戦意喪失していない証拠。

 一方で芙蓉は悲しみの余り滂沱の如く涙を流しながら、大仰と腕を広げるではないか。

 

「いいぞ。お前の苦しみはおれが受け止めてやる。おれがお前を救ってやろう」

「いらない」

 

 毅然と彼女は応える。

 

「もう……救われてるから」

 

 脳裏に過る仲間たちの顔を思い返し、つむじは吶喊する。

 まだ夜は長い。

 



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拾捌.疾風怒濤

「そう無理に頑張るな。泣けてくるぜ」

 

 黙れ。

 

「愉しい夢を見せてやろうと言っているんだ。何をそう嫌がる?」

 

 何様だ。

 

「おれはただ、皆を救ってやりたい一心なのに……」

 

 迷惑なだけだ。

 

「―――しっ!!」

「っと、危ない」

 

 空を斬る一閃。

 それを寸前で煙に巻いて回避する芙蓉。三丈先が見えぬ視界の悪さの中では、少し離れられるだけで相手の姿が見えなくなってしまう。

 

「チッ!」

「煩わしいか? だがおれもお前の為を想ってやっているんだ。そう邪険にするなよ」

「五月蠅いなぁ……」

 

 思わず語気が荒くなるつむじは、ぬらりくらりと回避に徹する芙蓉へと肉迫する。

 しかし、近づいて斬撃を繰り出したところで、煙の影響で朦朧とする意識の中、芙蓉の予測不可能な―――それこそ酔っ払いのように規則性のない動きを捉えることは難しかった。

 

 これも空ぶる。

 クツクツと嗤う芙蓉の声が煙の中に反響する。

 

「愛い、愛いなぁ。人とは本当に愛い。だからこそ哀れだ。多々ある受難を齎される人生の中では、苦難を乗り越えることを美徳とする価値観を持たなければやっていけないのだろう」

「さっきからベラベラベラベラ……舌を捥ぎ取られたい?」

「怒っているのか? いや、構わない。その怒りもまたお前の人らしさだ。おれは否定しない。お前の全てを認めよう。お前という存在を受け入れよう。おれの作る桃源郷は何人も拒まないからな」

 

 得意げに芙蓉は謳う。

 この麻薬の煙を桃源郷と疑わず、他人を一方的に痴れさせることを救済と疑わず、狂った人々が見る幻覚を幸せな夢と疑わず、歪んだ善性を辺りに振り撒く。

 

「気持ち悪い……本当に気持ち悪い。なんでお前みたいな奴が生きてるの? この世って不思議」

「案ずるな。世界とはそういうものだ。自分の価値観にそぐわない者は一定数存在する。だからこそ、理解を拒もうとする他人を排他するのではなく、少しでも共有できる多幸感を教えることじゃないのか?」

「別に知りたくもないし。この臭い煙の虜になるくらいだったら死ぬ」

「嗚呼……無知ほど残酷なことはない。本来享受できる幸せを感じ取れぬまま死ぬなんて、おれにそんな悲しい真似をさせないでくれ。頼むから自害なんて悲しいことするなよ。命は尊い。有意義に使え」

 

―――すでに酔い始めていることは否定できない。

 

 必要最低限しか喋らないつむじは、この麻薬の煙の中で戦っていく中、次第に頭を蝕まれていた。

 しかし、その影響はまだ“饒舌になる”くらいしか発現していない。

 さながら喋り上戸の如く、今のつむじは舌が回る。

 それこそ普段であれば、思いこそすれど口には出さないことまで話してしまいそうな程に。

 

「知った風な口利かないで。腹が立つから」

 

 血走った目を浮かべ、殺意をむき出しにするつむじは言う。

 

「鬼狩りは悲しい過去があるって言ってたけど、なんで害獣駆除に悲しい過去が必要なの?」

 

 怒りも。

 

「愉しい夢を見させてやるって言ってたけど、お前達の所為で夜もうかうか眠れないんだけど?」

 

 蔑みも。

 

「そもそも愉しい夢って何? 他人に見せられるものじゃない。私が見るものじゃないの?」

 

 疑問も。

 

「たとえ他人に見せられたとしても、それは絶対お前なんかじゃない」

 

 確信も。

 

「私に幸せなのを見せてくれるのは……凛や燎太郎達だけ。会ったばかりで私の幸せを分かったつもりになるな。無遠慮って言うんだぞ、そういうの。これだから酔っ払いって面倒くさい」

 

 胸中に抱いていた信頼を吐き出したつむじは、より鋭くなった眼光を芙蓉へと向ける。―――最後、同居している師範の父親について言及したが、それはさておき。

 

「分かった? つまり、お前邪魔。さっさと死んで」

「……なんて、なんて悲しい奴なんだ。他人に死を要求するなんて」

「お前が散々私のことイラつかせたからって分からない? 頭の中蕩けて鈍感になってるの?」

 

 矢継ぎ早に言い放たれる罵詈雑言の嵐。

知り合いが見れば驚愕すること間違いなしの姿であるが、そんな彼女を前にしても芙蓉はけだるげな様を崩さない。

 

「鈍感に……か。確かにそうだ。酔い痴れているとは鈍感であることに等しい。だが、おれの血鬼術は如何なる苦難も感じず、快楽だけを享受する……そうあるべきだと頭に教え込む」

 

 血鬼術 夢死遊生(むしゆうせい)

 

 それが芙蓉の血鬼術の名。体から放つ麻薬の煙が人々を蝕み、一生夢を見ているかのようなぼんやりとした死を迎えさせる。それこそが救い。激動の人生など必要ない。ただ漠然と安寧な一生を過ごせればいいと考え至った芙蓉を体現する術だ。

 

「そして酔い痴れている者は、そもそも自分が痴れていることすら分からない。眠りにつく者がその瞬間を自覚しないように……気が付いた時には」

 

 次の瞬間、つむじがガクリと膝から崩れた。

 

「こちら側にお前は居る」

 

 寸前で手を地に着けて体を支えた彼女だが、いよいよ無視できないほどの脱力感が全身に巡っていた。

 じっとりと額に滲む脂汗が流れ落ちる。

 それなりの時間戦っていたこともあり、大量の煙を吸い込んだ所為だろう。

 そんなつむじを見つめる芙蓉は、実に嬉しそうな笑みを湛えて歩み寄って来る。

 

「もうすぐ……もうすぐだ。程なくしてお前は真の意味での幸せを知る。今日まで築き上げられた尊くも矮小な価値観など馬鹿馬鹿しく思えるような……な?」

「―――臭い口閉じなよ」

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ

 

 煙を穿つように駆け抜けるつむじ。

 杏寿郎の下で稽古をつけられた彼女の型は、以前よりも数段洗練された威力を発揮する。それこそ突き進むだけで周囲の空気が捩られる程の鋭さだ。

 

 ところが、それすらも避けるのは流石十二鬼月―――下弦の壱と言ったところだろう。

 ひらりと刺突を紙一重で避けた芙蓉は、張り付いた笑みを浮かべたまま、つむじの背後にぬらりと現れる。

 

「愛いなぁ。お前の抵抗はこごッ」

 

 刹那、轟音が突き抜ける。

 同時に何か話そうとしていた芙蓉の口が―――正確には下あごがぐちゃぐちゃに吹き飛んでいた。湧き水のように溢れ出すどす黒い血は、彼が着ている着物をみるみるうちに赤く汚していく。

もっとも、元々汚れていたのだから大差はないだろうが―――そこにつむじが意識をしていれば口にしていただろうが、生憎彼女の()が捉えていたのはもっと生産的な部分だ。

 

「後ろ取るの好きだよね、お前」

「がぼっ……あ゛、あ゛ぁ……」

 

 芙蓉の血に染まる瞳が捉えたのは、彼自身が放つ煙ともまた違う煙を立ち上らせる銃口。

 そう、日輪銃だ。

 ここまでの戦闘の間、芙蓉の立ち回りの規則性を見出したつむじがわざと(けしか)けるように型を繰り出し、その陰で背後に来るであろう芙蓉に狙いをすませていたのだ。

 

 まんまと引っかかった鬼に、彼女は憮然と言い放つ。

 

「馬鹿の一つ覚えみたい」

「ん、ん゛んっ……!」

 

 顎を撃ち抜かれ、よたよたと後退する芙蓉。頚こそ吹き飛んでいないが、大きな傷を負った彼は焦燥した様子を覗かせる―――こともなく、まだ皮が再生しておらず歯茎がむき出しになっている口を歪な形に吊り上げた。

 

「いじらしいことだッ……夢見心地でも尚抗うとは……子供が薬を苦いと嫌がる微笑ましさを覚えるぞ」

「論外。お前の薬は誰も治せない。誰も幸せにしない。誰の役にも立たない」

 

 弾を込める時間が惜しい―――今は少しでも身軽になりたい。

 それら二つの解として日輪銃を投げ捨てる。鉄火松には申し訳ないと思いつつ、死に物狂いで作り出した好機を逃さんと跪坐姿をとるや否や、地面を蹴り爆発的な加速をつけて走り出す。

 

 疾風の如く、刃が奔る。

 

 

 

 風の呼吸 拾ノ型 疾駆狂飆(しっくきょうひょう)

 

 

 

 

「ッ!!?」

 

 防御の為に突き出した右腕が縦に裂ける。

 一拍遅れて吹き抜ける風。その向かった先を追うかの如く、弾かれるように振り向けば、今度は視界が暗転した。

 

 目に突き抜ける痛みを受け、咄嗟に後退した芙蓉。

 だが、今度は膝に同様の痛みが突き刺さった。

 その間、僅かながら再生した視界で覗いた彼が見たものは、左手に指の間に暗剣を挟むつむじの姿。

 

「器用だなッ」

 

 彼を怯ませたのはつむじの暗剣であった。

 麻薬の煙で意識が朦朧とする中でも、ここ一番の正念場で常軌を逸した集中力を以て狙いを外さない。それが東雲つむじという鬼狩りの凄まじさであり、「鬼」と揶揄された由縁でもある。

 だが、怒涛の連撃は終わらない。

 疾駆狂飆はつむじが考案した彼女だけの型。刀、暗剣、銃―――あらゆる武器と手段を用い、相手を逃がさぬよう周囲に張り付いて大嵐の如き猛攻を叩き込むのである。

 

 旋風は過ぎ去らない。明日の夜明けを見る邪魔をする鬼を駆逐するまでは。

 

「―――ッ!!!」

 

 髪を振り乱し、仲間から贈り物としてもらった髪紐が外れるのも厭わず、芙蓉の周りを駆け巡っては刃を振るう。

 

「ぎッ!」

 

 左手が舞う。

 

「ん゛ぐッ!」

 

 右足が転がる。

 

「ふッ!」

 

 斬り開かれた腹から腸が溢れる。

 

「くひッ!」

 

 目玉に突き刺さった暗剣が蹴り飛ばされる衝撃で、肉が幾らか付着したままの目玉が転がり落ちる。

 

「くはは、ばッ!」

 

 漏れる笑い声を黙らせるように喉笛に刃が滑り込む。

 

 十二鬼月の再生速度を以てしても間に合わぬ猛攻を受けても尚、芙蓉の笑みは崩れない。

 彼は頚を斬られぬよう限限(ぎりぎり)の攻防を制し、なんとか命を繋いでいた。

 彼にしてみれば、あくまで目的は人を救済すること―――現世の苦しみに悶える者達を麻薬の煙に溺れさせることだ。殺人自体は目的ではなく、鬼狩りを倒すのも時間さえ稼げればどうとでもなる。前任の下弦の壱も風の呼吸の使い手―――現風柱に滅殺されたが、致命傷を避ける立ち回りだけで言えば、芙蓉は前任をはるかに上回る。

 

「殺されて……なるものかッ、なぁ!? 安心しろ! おれはお前を人殺しになどさせない! 死なない! 桃源郷で夢を見る者達の為にも死ねんのだ!」

「いや、死んでよ」

 

 尊大な救世心が為に生き永らえようとする芙蓉と、そんな彼を殺さんと刀を振るうつむじ。

 果たして常人から見て鬼であるのはどちらであろうか?

 いや、この光景こそ彼女が追い求めていたもの。過去に「鬼」と呼ばれ、育手にも「鬼になれ」と伝えられた彼女がようやく至った境地。

 

 鬼人が如き戦いぶりこそが望み。鬼さえ恐れ戦慄く程の。

 

 (ころ)す。(ころ)す。死な(ころ)す。

 

 是が非でも、

 

「ぶっ殺す」

 

 持っていた暗剣を使い果たし、糸を通す穴程度だった隙を、確実に頚を斬り飛ばせる懐まで入り込める好機に至らせたつむじが、穏やかでない言葉を吐きだして腕に力を込める。

 死の予感が芙蓉の脳裏に過った。

 ならん。それだけはならん。思考ではなく本能が警鐘を鳴らす。

 その瞬間、芙蓉の全身にハスの花托を彷彿とさせる穴が無数に開く。

 

 

 

 血鬼術 不語仙曼荼羅(ふごせんまんだら)

 

 

 

 芙蓉の全身の穴から、濃い桃色の煙が解き放たれた。

 その勢いは凄まじく、確実に頚を斬るだろうという間合いに居たつむじの体を無理やり吹き飛ばす。

 芙蓉からすれば間一髪。

 しかし、これは最終手段に等しい血鬼術だった。

 この術を使って暫くは体から麻薬の煙を放出することができない。まさしく追い詰められたイタチの最後っ屁のような術。

 

 けれども、敵としては麻薬の煙を至近距離で喰らうハメになるのだから馬鹿にはできない。

 

「ッ……!」

 

 吹き飛ばされた先でなんとか立ち上がるつむじ。

 散々武器を用いても尚、相手の頚を斬れなかった事実を前にして不服していると言わんばかりに顔を歪めていた彼女だが、すぐさま距離を取ろうとする芙蓉の下へ向かっていく。

 

 逃がすものか。

 と、そこで聞こえたこの場に居るはずのない男の声。

 

「東雲さん!」

「!」

「弾……込めましたよッ!!」

 

 煙の中から現れた人影。それは鉄火松であった。

 一旦つむじが捨て置いた日輪銃に弾を込めたと訴える彼は、芙蓉を間にしている形で正反対に位置するつむじへ、銃を投げつける。

 

 欲しかった得物に向かうつむじ。

 その間、芙蓉もまた獲物の下へ向かう。

 

「お前はぁ……何をしているッ!? おれたちの夢の邪魔をするな!!」

「ぐぅっ!?」

 

 生えてきたばかりの手で鉄火松の頭部を掴み上げる芙蓉。

 途轍もない握力に掴まれ、頭蓋骨の前にまず着けていた面がメキメキと音を立てて割れていく。

 

「無駄なんだぞ、全ては! 高潔な誇りも! 純粋な愛も! 人の生は夢幻泡影! それを何故分からない!? 有限な時間の中で何故他人の幸せの邪魔をする!?」

「う、ぐッ……!」

「いいか!? 人の世はな! 何も残らない! 何も残せない! 後世で囃し立てられたところで当人の知る由はない! 無駄なんだ! いいか、無駄なんだ!? その儚さを知るならばこそだ! 一生を己の幸福に費やすべきじゃあないのか!?」

 

 数秒もしない内に砕け落ちる面の破片。

けれども、割れた先にあったのは絶望することなく戦う意志を猛々しく灯らせる男の瞳であった。

 次の瞬間、芙蓉の胸に刀が突き立てられる。鉄火松がここに来る間に拾った、鬼殺隊士が落としたと思しき日輪刀だ。それを少しでも鬼に傷をつけられるようにと―――。

 

「無駄なんかじゃあ……ないッ!」

「なにィ……?」

「アンタにアタシの何が分かる!? 他人の物差しで無駄って決めつけられるほど、アタシの人生安かぁないんだ!!」

「……!?」

 

 叫びながら深々と刀身を押し込んでくる鉄火松に、芙蓉の目が見開かれる。

 しかしながら、それは彼の言葉にハッとしたからではない。

 

(風の流れが……煙が薄く……?)

 

 いつの間にか煙が薄くなっている。

 それもかなりの風の勢いだ。この盆地においては、まるで天狗が団扇でも振るったかのように錯覚するような風の流れ。

 ゆっくりと、恐ろしいものを確かめるように振り返る。

 

 そこに広がっていたのは紅蓮の地獄。ついさっきまで滞留していた煙で目に見えなかった、大火の広がりであった。

 村の家屋に火が付いている。ある程度まとまった平屋を焼き尽くす火勢は凄まじく、それこそ上昇気流で悪しき瘴気を天へと昇らせる勢いだ。

 

「馬鹿な……おれの……」

 

「―――やっぱりマッチと油は持っていて正解だったわね。っと、いけないいけない。ついついはしたない口調を……」

「素のしのぶちゃんも可愛い……大胆なところも素敵……」

 

「!」

 

 桃色が転じて黒煙と化した中から現れ出たのは、散開して以降音沙汰がなかったしのぶと蜜璃であった。

 少し煤けた頬を拭うしのぶは、「あっ」と何かに気が付いたように声を上げる。

可憐な、妖艶な、それでいて蠱惑的な笑みを浮かべる彼女は芙蓉に言い放つ。

 

「ご安心を。貴方の言う天人さん方は安全な場所まで運びましたので。火を扱う時は安全第一ですから」

 

 してやった。しのぶの顔はそう言わんばかりのしたり顔であった。

 

 経緯はこうだ。

 つむじと別れて以降、襲って来る村人を気絶させながら打開策を考えていたしのぶは、途中で鎹鴉に案内されてやって来た鉄火松と合流した。

 彼は藤の花の家に住まう子供からもらった猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石を用い、予備の日輪銃の弾を作って持ってきたのだ。その鉄鉱石は、昔に鬼殺隊と所縁のある者同士だからと藤の花の香り袋と交換されたお守りの中に入っていた物。

 

 使うことが憚られる経路で得た代物だが、どうか鬼殺隊の役に立ってほしい―――そうした少女の純粋な想いを届けずには居られないとやって来た鉄火松であったが、いざ来てみてしのぶに頼まれた事柄は、家に火をつけ回ってほしいという荒行。

 

 曰く、前田に貰った隊服を燃やした時を思い出した案とのこと。

 家を焼く大きさの炎ならば、村全体を包み込む煙もなんとかできると考えたのだろう。その時のしのぶは、間違いなく昂っていた。しかし、それが現状を打開していることには間違いない。

 

 鉄火松が火をつけ回っている間、しのぶは襲って来る村人の対処と安全な場所まで運搬をし、途中で合流した蜜璃も交え―――そして今に至る。

 

「無駄じゃあ……ない」

 

 茫然自失となる芙蓉に、息も絶え絶えとなっている鉄火松が言い放つ。

 

『お前が鬼殺の剣士になってどうするんだ! お前は刀鍛冶の息子なんだぞ!』

 

『わざわざ貴方がならなくても……ねえ?』

 

『お前はどうして刀を打つ道じゃなくて、持つ道を選んだ?』

 

『そう深く考えなくても大丈夫だ。確かに居るんだ。君のおかげで助かった人々が―――』

 

『助けてくれてありがとう、鬼狩り様!』

 

 走馬燈のように過る数多くの人々、そして思い出。

 己の人生を否定する者が居た一方で、肯定してくれる者が居た。

 どちらでなくとも、感謝してくれた人が居たのは―――決して夢の中の出来事ではない。

 

「事実はッ!! 滅びない!! 永遠だ!! 記憶に残らなくたって、あの瞬間があったことだけは!! 絶対に!!」

「―――!!」

 

 その言葉に正気に戻った芙蓉。

 酔いもさえ、余裕綽々であった彼の面に笑みはなく、ただ目の前の人間を道連れにしようという殺意だけが張り付いている。

 しかし、彼の手が鉄火松の命を捥ぎ取るよりも早く―――それこそしのぶと蜜璃が動く必要がないと断じた程に詰め寄っていたつむじが刃を閃かせた。

 

「さよなら」

 

 大車輪と化し、宙でグルグルと回る頚。

 そこへ引き金を引く音が続けば、大火によって紅蓮に染まる空に血肉の花火が咲いた。

 過剰なまでの追撃を経て間もなく鬼の体が灰燼と化す。

 

 ようやく頭から手が離れた鉄火松は、「ぷはぁ!」と止まっていた呼吸を再開する。緊張の糸が切れた彼は、地面にへたり込み、日輪銃をまじまじと見つめるつむじを見遣った。

 すると、

 

「……改良の余地あり」

「……は、ははっ。そりゃ……腕が鳴りますね」

 

 精一杯の強がりを言い放つ。

この震えは、これからも彼女の要望に応えていく責任感か、はたまた胸の中で高鳴る期待による武者震いか―――今はまだはっきりとしない。

 

 と、場違いな柏手が響く。

 振り返れば、強張った笑顔を浮かべるしのぶが口を開いた。

 

「さて! 鬼を倒したなら、これ以上火勢が広がらないよう消火活動ですよ」

「えぇ!? た、たった四人で……!?」

「……水使う?」

「たははっ、今日は徹夜っスね……」

 

 些か豪快過ぎる打開策に打って出た弊害は、これから一晩中寝ずに消火活動と化す。

 鎹鴉が隠を呼んでくれるだろうが、その間にも最低限山に火が移らぬよう、テキパキ働かなくてはならない。

 不眠不休の戦いが、今まさに始まる。

 

 因みに、

 

 

 

「ありゃド派手な火だったなァ!」

 

 

 

 後に駆け付けた音柱・宇髄天元はそう語った。

 

 ついでにもう一人。

 

 

 

「姉として今後同じような真似をしないようしっかりと叱っておきますので」

 

 

 

 元花柱・胡蝶カナエはそう語った。

 

 

 

 ***

 

 

 

 下弦の壱・芙蓉の討滅から一週間後、蝶屋敷にて。

 本来休む傷病者の為に静かであるべき医療施設であるが、今日は足音が騒がしい来客が訪れた。

 

「つむじちゃーん! お見舞いに来たよぉー!」

「恋柱様、静かにしてください!」

「ひゃっ!? ご、ごめんなさい……」

 

 入室するや否や、先客に注意されてしょんぼりする蜜璃。今日彼女が訪れた理由は、自分としのぶとは違い、かなりの量の煙を吸ったことから念のために長期休養を取っているつむじの見舞いだ。

 しかし、前述の通り先に部屋で働いていた少女が、柱を前にしても臆することなくぴしゃりと注意してみせた。

 

 彼女の名は神崎アオイ。鬼殺隊士ながら、蝶屋敷にて看護師のような役割を担っているしっかり者の女性だ。駄目なものは駄目とはっきり言って見せる毅然とした態度は、昔のしのぶを彷彿とさせる。

 

「東雲さんなら眠ってますので」

「あちゃあ……そっかぁ」

「すぴすぴ……」

 

 彼女が注意したのは、当のつむじがぐっすりと眠っているからである。

 しのぶが作った薬と日光浴で大分体は良くなっているが、それ以上に普段の疲れがあったのだろう。

 

(寝顔もかわいいなぁ)

 

 と、和んだところでアオイに問いかける。

 

「あ、そうだ! 凛くんと燎太郎くんもお見舞いとかに来たのかしら?」

「氷室さんと明松さんですか? カナエ様から聞いた話ではまだ立て込んでるので来れないとの話ですが……」

「そっか。二人も忙しいものね。でも、弱り目こそ男の子にお見舞いに来てほしいのに!」

 

 プンプン! と頬を膨らませる蜜璃に対し、アオイは「はぁ……?」と怪訝そうにする。

 

「そういうものですかね? 東雲さんですよ?」

「つむじちゃんだって女の子だもの! 私だったら長年一緒に頑張って来た男の子にお見舞いされたら……はぁ」

「そ、そうですか……」

 

 蜜璃の世界に共感できる人材は、生憎ながら鬼殺隊には少ない。こうしてときめく場面を説いてもピンと来ていない生返事をされるだけだ。

 しかし、蜜璃にだけは分かっていた。

 

「ねー? つむじちゃん♪」

 

 穏やかな寝息を立てるつむじに囁く蜜璃。

 同居していたのは杏寿郎の下で過ごした間だけだが、それでも十二分に彼女が()()()()に特別な感情を抱いているのは察せた。本人すらも自覚できていないだろうが―――。

 

「どっちを選んでも私は応援しちゃうから!」

「……」

「あ、そうだ! しのぶちゃんは居る?」

「しのぶ様ですか? しのぶ様なら確かお館様から召集を受けたとか……」

「えっ、聞いてない!」

「なんでも危険な鬼だとか。カナヲも連れていくみたいですし」

「カナヲちゃんも? そっかー、前も十二鬼月と戦ったのに皆大変ね……」

 

 下弦の壱という上弦の鬼を除けば最上位に位置する敵を打ち取っても尚、鬼による被害は収まらない。

 いつ鬼を殲滅できるのだろうか。

 遠い未来か、はたまたもうすぐか。

 しかしながら、ただ一つだけ言えることはある。

 

「ちなみにどこに行くとか言ってなかった?」

「そうですね、確か……

 

 

―――那田蜘蛛山と」

 

 

 

 物語の歯車は、着々と廻っている。

 




*陸章 完*


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漆章.新鋭
拾玖.竜闘虎争


 淡い月の光が道を照らす。

 とは言え、突き進むのは道なき道。森の中だ。木漏れ日のように差し込む光は心許ないが、それでも躓かぬ理由は慣れの一言で済むだろう。

 

「カァー! 那田蜘蛛山ァー! 目的地ハァー! 那田蜘蛛山ァー!」

「……うん、分かってるよ。急ごう」

 

 静寂に包まれる中、唯一騒がしく声を上げる鴉。

 彼を一歩先行くように走り抜ける青年は、波紋が広がる模様の羽織を靡かせていた。

 されど、不思議な程に足音は聞こえてこない。刀を二振りも腰に下げているにも拘わらず、だ。

 

 まるで彼がこの世の者でないかと疑う異様な光景。

 だが、あくまでそれは長年培ってきた技術によるもの。

 人ならざる怪物を討たんが為の御業の一端にしか過ぎない。

 

「先遣隊……無事な人が居ればいいんだけれど」

「ナラ急グノデス! 急グノデス!」

「そんなに急かしてもなぁ……案内役置いていったら本末転倒だよ?」

「カァーッ!!」

 

 やんわりと応答する青年。

 彼の煽りとも受け取れる反論を聞いた鴉は、怒りに身を任せ、彼を先導せんと前へ飛んでいく。

 

「さて……」

 

 森の中からでも僅かに覗く山。

 どうにも近寄りがたい雰囲気を漂わせるが、その山こそ青年の向かっている場所。

 人喰いの化け物―――「鬼」が巣食う那田蜘蛛山だ。

 既に数多の人間が犠牲になった上、鬼の討伐に向かった隊員達が戻ってこないと聞いている。

 向かった隊員の人数からして、相手は上級の鬼。

 それでいて隊員が戻っていないとなれば、それこそ“柱”が向かい、迅速に討滅に向かう案件であるが―――。

 

(鬼と出るか蛇と出るか……)

 

 彼が向かわせられているのは―――つまりは、そういう意味だ。

 担当区域がある柱とは違い、自由にあちこちを動け、尚且つ確かな腕を持った隊員。万年人手が足りていない鬼殺隊からすれば徴用しない訳がない。

 

「煉獄さんや皆……元気にしてるかな?」

「カァー! 気ヲ緩メナァーイ!」

「はいはい……無事に帰らなきゃ、だね」

 

 柔和な笑みを湛えた青年は、次の瞬間には凛然な面持ちへと変わり、闇に溶け込むように森の最奥へと入り込んでいく。

 魔の潜む森。

 心なしか血生臭い木々の間を駆け抜けていけば、森も思わずゾクリと寒気を覚えたかのように葉擦れの音を響かせた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はぁ……はぁ……はぁ……!」

 

 走る。走る。走る。

 奴らの手から逃げるべく全力で。

 

 既に仲間は散り散りになってしまった。

 頭の中で繰り返されるのは「どうして」という思考だけ。

 

 鬼にならば立ち向かえる。命など惜しくないと何度も心に言い聞かせ、これまでも刀を振るってきた。

 だけれども、味方を手にかけることだけは堪らない。

 傀儡のようにして操られている仲間。「逃げてくれ」と絶叫する者、あらぬ方向に手足が曲がる者、既に事切れているにも拘わらず弄ばれる亡骸。全てが目にすることさえ憚られた。

 

 こんなの自分達でどうにかなる相手ではない。

 気づいた時には全てが遅かった。

 

「ひっ……はっ……っ……!」

 

 茂みへ飛び込み息を潜める。

震えでぶつかり合う歯の音を押さえんと口を手で覆う。

しばらく静かにして居れば、ぎこちない足取りで歩み寄って来る人影が見えてきた。

 

 来た。

 

「っ……っ……っ!」

 

 どうすればいいかと必死に思案を巡らせるが、焦燥と恐怖が入り乱れた中では大した打開策も思い浮かばない。

 

―――ピンッ。

 

「えっ……?」

 

 腕が何かに引っ張られる感覚に襲われる。

 弾かれるように振り返り、違和感を覚えた箇所に視線を向けた。

 黒い隊服に纏わりついていたのは、白を基調とし赤い模様が刻まれている蜘蛛。今日まで目にしたことのない色合いの蜘蛛であるが、それはこの山へ立ち入った者にとっては、恐怖の象徴であった。

 

 悲鳴すら上げる暇なく茂みから引きずり出される。

 程なくして、とても膂力では引きちぎれない糸で四肢の自由を奪われた。

 既に彼女は傀儡だった。怨敵に操られるがまま仲間を屠る為の。

 

「い、いやぁぁぁあああ!!!」

 

 天を衝く勢いの悲鳴。

 せめて自分の居場所を知らしめ、仲間に逃げてもらおうと反射的に発した信号だったかもしれない。

 だが、それも間もなくして無意味だと悟る。

 音もなく忍び寄ってきた蜘蛛は、この山のあちらこちらに存在し、鬼に侵入者の居所を教える伝達役も担っているのだろう。

 操られる彼女が強引に向かわせられた先には別の隊員が居た。

 しかも二人。

 彼等は戦っていた。一人は仲間相手に刀を振れず防戦一方の隊員。もう一人は蜘蛛の糸に操られ刀を振るう隊員。

 これでは最早戦いとすら言えない―――そんな場所へ、無情にも彼女は引きずり出されたのだ。

 

「逃げてぇーっ!!」

「くっ……!?」

 

 数の上で不利になり、絶望を面に出す隊員。彼は今の今まで、仲間を助けられないかと奮闘していた仲間思いの男だ。

 だからこそ刀を振れなかったのに、その上で相手が増えたとなれば、一旦退くしかない。

 そう考えたのだろう。背中を向けて逃げ出そうとしたが、

 

「うわあああ! やめてくれえええ!」

「ぎゃあ!?」

 

 操られる隊員の絶叫と共に振り下ろされた斬撃が、退こうとした隊員の背中を斬りつける。

 血飛沫が上がると共に、辺りへ生暖かな鉄の香りが広がった。

 悲惨な光景を目の当たりにした彼女の顔からは血の気が引いていく。その上で胃から胸へ込みあがってくる感覚を必死に我慢したが、自分を操る悪意は彼女の気持ちを当然尊重しない。

 

「え?」

 

 飯事(ままごと)で操られる人形の如く、たどたどしい動きのまま斬り伏せられた隊員の下へ歩み寄らされる。

 背中の傷にもがき苦しむ隊員は真面に動けない。

 彼の命を摘み取ることなど、赤子の手をひねるように容易いことだろう。

 

 やおら、刀を引き抜いた腕が振り翳される。

 

「や、やめっ」

 

 懇願する。

 されど、体は言うことを利かない。

 

「い、いやぁ!! お願い、逃げてぇ!!」

「う、うぅ……!」

 

 自分も動けず、相手も動けず。

 詰みだ。どう足掻こうとも自分は彼の命を摘み取ってしまう。

 

 こんなつもりで鬼殺隊に入ったつもりではないのに。

 この命、鬼を滅す為だけに捧げるつもりだったのに。

 決して志を共にする仲間を殺す為では……。

 

「いやあああ!!」

 

 刃が振り下ろされた。

 刹那、闇の中に閃く紅。

それは血飛沫―――ではなく、鉄と鉄がぶつかり合い瞬いた火花の色だ。

 

「え……?」

 

 気づかぬ間に自分と倒れていた隊員の間に人が立っていた。

 (しろがね)に煌めく刃を構え、優しくも固い意志を感じさせる瞳を浮かべる青年が。

 

「ふっ!」

「あぁッ!?」

 

 すると青年は受け止めていた刀ごと彼女の体を押し返した。

 あれだけ抗っても微動だにしなかった力の糸で繋がれている体を、だ。

 心なしか糸も動揺しているかのように小刻みに震えている。

 が、現れた青年を脅威と断じたからこそ、次の行動へ移すのが早かった。

 これまでの比ではない力で体を操られる彼女は、肉が、そして骨が軋む激痛に苦しみながらも声を上げた。

 

「あやっ、操られているんです! 体に蜘蛛が! 糸が伸びて!」

「なんだって?」

「そこの人を連れて逃げてぇ!!」

「……なるほど」

 

 死に物狂いで情報を伝える女性隊員。

 片や青年は不気味に思える程に落ち着いていた。

 操られて襲い掛かって来る隊員は女性隊員に加え、背中を斬りつけた男性隊員と合計二人。

 しかし、余りにも鮮やかな剣技で捌いていく彼の面持ちに、劣勢といった類の言葉は一文字も浮かんでいない。

 彼の静謐とした瞳は、辺りの状況をつぶさに観察している。

 

(小さな“熱”が腕と脚に……)

 

 そして肌身で感じる。

 人間に害為す鬼気の存在を。

 

「うっ……」

「うん?」

「腕を斬って!! そうすれば……斬らなくて済むからァ!!」

 

 女性隊員の思わぬ提言。

これには流石の青年もぎょっとした表情を浮かべる。

 

―――成程。鬼殺隊らしく覚悟が決まっている者だ。

 

 そんな感想の中には、感心が半分と呆れが半分。

 だが、思いはしかと受け取った。

 

「その必要はないよ」

 

 もう一振りの日輪刀を抜く。

 刻まれた文字―――「悪鬼滅殺」を刀身は、月光に照らされては辺りに藍色を振り撒く。

 

 煌きは一瞬。

 

「刀、ごめんね」

 

 カラン、と甲高い金属音が響いた。

 その直前、肌が粟立つ寒気を覚えた女性隊員であったが、それよりも体に自由が利くようになった事実を悟る。

 

「え……?」

 

 確かめるように刀を握った手に視線を落とす。

 すると、日輪刀の鍔から先がなくなっていた。もっと正確に言えば、握っていた柄から先がばっさりと。

 

―――斬ったの? いつの間に?

 

 折れた訳ではない。綺麗な断面がそれを如実に示している。

 一体誰がという答えは、後ろからも聞こえてくる金属音に振り返ったことで明らかになった。

 

「ふぅ」

「う……うぅ……」

 

 膝から崩れ落ちる男性隊員を優しく抱き留める青年。

 よく見れば、抱き留められた男性隊員の日輪刀も、鍔から先が地面に斬り落とされているではないか。

 後から追いかけるように視界に映ったのは両断された小さな蜘蛛。

 こんな暗闇の中では目を凝らしても分からない小ささだ。にも拘わらず、次々と蜘蛛の死骸が風に靡いて地に落ちる。

 

(まさか……狙って斬ったの……?)

 

 操られて刀を振る隊員の刀―――正確には刀身だけを斬り落とし、無力化する。

 それでいて体を操っている糸を見極めて斬っているのだ。

 控えめに言って異常な程に正確な太刀筋である。味方であるはずなのに寒気さえ覚えてしまう。

 

(この人は一体―――)

 

「君は大丈夫?」

「え?」

「怪我のことなんだけれど……見た感じ、ひどい怪我はなさそうだね」

 

 腕から骨が飛び出てしまっている隊員の処置をテキパキと済ませた青年は、すぐに倒れている隊員の処置に取り掛かりながら、茫然と立ち尽くす女性隊員に問いかけた。

 目視で見る限り大丈夫というのは、長年培ってきた経験があるからこそ。

 概ね推測は正しく、女性隊員も「大丈夫です」と首を縦に振る。

 同時に、湧き上がってきた安堵の余りに嗚咽を漏らしながら涙を零した。

 

「ありがとう……ございます……!」

「……間に合ってよかったです」

「うぅ……貴方は?」

「僕ですか? 鬼殺隊階級“甲”、氷室凛です」

 

 甲。柱を除けば、鬼殺隊の最上位に位置する階級だ。

 柱に次ぐ剣士。通りで強い訳だ。

 

 一人納得する女性隊員は「尾崎」と名乗った。

 比較的無事な彼女に複雑骨折した隊員を任せた凛は、背中を斬られた隊員を背負い、細心の注意を払いながら山を下りることにした。

 

「このまま鬼の下へ行きたいのは山々ですが、このまま三人を守り切るのは不可能です。安全な場所までは付いて行きますから」

 

 同士討ちを防ぐ為に日輪刀を使用不能にした手前、そのまま御免という訳にはいかない。

 助けた者には助けた者の責任がある。「助けたのだからあとはご勝手に」等と無責任な振る舞いなど言語道断。

 

「この辺まで来れば……あとは任せてもいいですか? もうじき隠も到着するはずですから」

「は、はい」

 

 鬱蒼とした木々を抜けた先。

 このまま道なりに進めば田畑が見えてくるであろう場所まで辿り着いた凛は、負傷した隊員を尾崎に任せ、再び入山するのだった。

 

(ん?)

 

 夜の冷えた空気の中、微かに漂う熱。

 視線を下へと落とせば、自分達のものと違う足跡が見えた。

 

(確か尾崎さんは十人で来たと言っていたっけ。でも、この足跡は三人分。しかも一人だけ歩幅が大きいな……走った? それに空気に残ってる“熱”も一人分。途中まで見かけた足跡が足並み揃っていたし、三人の内一人が山の手前で留まって、後から追いかけたって形かな?)

 

 異常なまでに鋭敏な温度感覚と観察眼が、大方の状況を把握する。

 どうやら自分とは違う増援が三人、新たに那田蜘蛛山へと突入したようだ。

 しかも、何を考えてか二手に分かれたらしい。

 余程腕に自信があるのか、はたまた作戦であるのか。どちらでもなければ戦力を分散させる悪手だろうに。

 

(近い方から応援に行くしかない)

 

 兎にも角にも合流が先決。

 そう考え軽やかに地面を蹴っていた凛であったが、

 

「!」

 

 突然陥没する地面から跳躍して避ける。

 土煙を上げながら露わになる穴はかなり深い。受け身を取れず落ちてしまえば一たまりもないだろう。

 

(罠……か)

 

 怪訝な眼差しで辺りを見渡すも、一瞥しただけではどこに落とし穴があるか分からない。

 だからこそ、一旦立ち止まって集中する。

 今は視覚も味覚も聴覚も嗅覚も必要ない。触覚―――その中の冷覚と温覚だけを研ぎ澄ませるのだ。

 

 

 

 氷の呼吸 (つい)ノ型 絶対温感(ぜったいおんかん)

 

 

 

 瞼さえ閉じ、必要な“(じょうほう)”だけを取捨選択。

 すると、辺りの地面とは違う―――穿たれた空洞に溜まった空気が放つ熱が、ありありと暗黒の中に浮かび上がってくる。

 

(数が多いな。気を付けなきゃ……ん?)

 

 設置された罠に注意を払おうと考えた矢先、極限に研ぎ澄まされた温度感覚が、これまた別の熱源を捉えた。

 

(人……この先に居るな)

 

 しかも戦っている。

 これには加わざるを得ないと断じ、急いで駆けつける。

 鬱陶しいくらいに張られている蜘蛛の巣を掻き分け、時には仕掛けられた落とし穴をも飛び越えた先で待っていたのは、

 

「あっ!」

「あれ?」

 

 子供用の花柄の着物を羽織のように靡かせる剣士が居た。

彼女は、絡新婦のような老婆の鬼―――婆蜘蛛と、刃のように鋭い六本の腕を振るう老爺の鬼―――爺蜘蛛と刃を交えている。

婆蜘蛛の放つ糸の網を軽やかな身のこなしで躱しつつ、爺蜘蛛の連閃も難なく受け流す女性は、少女と言われても疑わぬ可憐さを振り撒いている。

 

 だが、何より重要なのは()()()()()()()()だと言うことだ。

 

「真菰!」

「手、空いてる?」

「任せて」

 

 端的なやり取りを交わして参戦。

 視線で爺蜘蛛を相手取ると訴えた凛を確かめ、真菰は婆蜘蛛へと向かっていく。

 放たれる糸の網は粘着性も高く、少しでも触れてしまえば逃げることは難しい。

 ならば触れなければいい話だ。真菰の水が揺蕩うが如く流麗な動きが全てを表している。

 

 片や凛は、鋭い爪を振りかざす爺蜘蛛に相対す。

 得物の長さは明らかに相手が上。

 しかも数が多いときた。脇差の一振りを加えても、凛は二本しか刃がない。

 だがしかし、然したる問題ではない。

 

 水が逆巻く音に遅れ、吹雪が荒れ狂う音が響き渡る。

 

 周囲が一気に冷え込んだと錯覚する轟音だ。

 夜冷えでは説明付かぬ急激な冷え込み―――それは、彼等を目の前にする鬼が放たれる威圧感に寒気を覚えたからだろう。

 

「キィィィイッ!」

「ぎゃぎゃぎゃ!」

 

 この世のものとは思えぬ雄叫びを上げる婆蜘蛛と爺蜘蛛。

 しかし、それを上塗りにするかのような鋭い風切り音が夜空に奏でられた。

 

 水の呼吸 肆ノ型 ()(しお)

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡(おみわた)

 

 真菰の降りかかる網を掻い潜る滑らかな剣閃が婆蜘蛛の頚を。

 凛の六方向から襲いかかる腕全てを斬り飛ばす剣閃が爺蜘蛛の頚を。

 

 ほんの短い時間の剣舞が、この山に巣食う鬼の二体を土に還した。

 

「ふぅ」

 

 鞘に日輪刀を収める真菰が振り返るや否や、時を同じくして振り向いた凛に微笑んだ。

 

「久しぶり」

「うん」

 

 思わぬ再会だった。

 

「凛()一人?」

「うん。真菰の他にも誰か来てるの?」

「そうだね」

 

 彼女の口振りから増援が彼女だけではないと悟った。

 そんな凛の問いに対し、にこやかに答える真菰。

 

「義勇としのぶさんが」

「そっか。じゃあ、もう安心だね」

「そうだね。途中で三手に別れてきたんだけど、凛も来てたなんて思わなかったよ」

「僕も」

 

 偶然を素直に喜ぶ彼女に、凛も満更ではない表情を浮かべる。

 だが、このような世間話をする為に集まった訳ではない。

 

「真菰。何か知らされてることはある?」

「十二鬼月が居るかもしれないからーって。お館様が」

「……僕は知らされてないんだけどなぁ」

「信頼されてるんだよ」

「前向きに捉えたらね。まあ、それはともかく……僕達も行こう」

「そうだね」

 

 意図せぬ人物との合流だが、今からわざわざ別れる理由もないことから行動を共にする。

 こうして二人一緒に山を駆けまわる等、まるで最終選抜の時のようだ。

 

(……随分長い付き合いだなぁ)

 

 不意に思う。

 あれから数年経ち、自分も彼女も大人びたものだ。今日まで生き残っているのも鬼殺隊としては奇跡的と言えるかもしれない。

 だが、そんな奇跡を積み重ねて自分が生き残った理由は必ずある。

 

(流さん……)

 

 恩師の顔を思い出し、柄を握る手に力が入る。

 那田蜘蛛山に十二鬼月が居るとして、その鬼はあの時の―――上弦の弐だろうか。

 だとするならば気を引き締めてかからなければならない。

 今のところ、あの日の夜のような冷たさは感じないが―――。

 

『そんなだからみんなに嫌われるんですよッ!!』

 

 突然聞こえてきた若い女性の声。

 間違いない、しのぶだ。

 一体誰に向かって放った言葉かまでは分からないものの、穏やかでない状況であることには間違いない。

 

「急ごう、真菰」

「そうだね。この先から義勇の匂いもするけど、万が一に備えて」

「だね」

 

 物々しい雰囲気の中に飛び込んでいくには相応の覚悟が要るが、進まなければ話は進まない。

 いざ、二人は戦火の中へ飛び込まんと駆けていくのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 鬼殺隊の新人、竈門炭治郎は酷く困惑していた。

 と言うのも、ここまで熾烈な死闘を繰り広げていたというのが理由の一つ。

 十二鬼月を名乗る少年の頚を、鬼となってしまった妹・禰豆子の力を借り、満身創痍の中で何とか斬り飛ばした。

 かと思えば、実は鬼は死んではいなかった。

 絶体絶命。

 まさにそんな時に現れたのが、かつて出会った鬼殺の剣士・冨岡義勇。

 彼は自分が死に物狂いでやっと太刀打ちできた相手を、目にも止まらぬ一閃だけで討滅。

 剣士としての格の違いや、死に逝く鬼の悲劇を悟りながら妹を抱きしめていれば、今度は別の剣士が禰豆子を狙って斬りかかってきたではないか。

 辛うじて義勇が守ってくれたものの、邪魔をされた女性は不服そうな声音で義勇に問いかける。

 

「……どうして邪魔をするんですか、冨岡さん?」

「……」

「なんとか答えたらどうなんですかー? いくら天然な貴方でも、まさか間違って鬼を庇うという真似はしでかしませんでしょうに」

「……」

「冨岡さーん? 聞いてますー? 聞こえてるなら返事くらいはしたらどうでしょうかー?」

「……立てるか?」

「え? あ、俺ですか?! なんとか……」

「あら? 私のことは無視ですか?」

 

 次第に女性の怒りが濃くなっていく匂いを、炭治郎の鼻は捉えていた。

 端正な顔に張り付けられた笑みも、彼女が怒り心頭であることを踏まえれば綺麗だなぁと呑気な感想を抱けるものではなくなる。

 

「冨岡さん……私は説明を求めるだけなんですが? 私が聞きたいのは『どうして鬼を庇ったのか』、この一点です。それに答えないというのは些か鬼殺隊としてどうしたものかと……」

「……炭治郎。妹を連れて逃げろ」

「い、いいんですか!? 俺のことよりあの人の応対とかは……」

 

 しかし、尚も義勇は女性―――もとい、しのぶに応答しないまま炭治郎に逃走を指示する。

 思わず炭治郎も聞き返してしまったが。

 

「ふ、ふふふっ……」

 

 穏やかな怒りが激怒に変わる。

 息の詰まるような匂いに、炭治郎は思わず身を竦めた。

 恐る恐る向けた視線の先には、取り繕っていた笑顔もだんだんと崩れていき、青筋を額に浮かべるしのぶの姿があった。

 

「―――そんなだからみんなに嫌われるんですよッ!!」

 

 開口一番言い放たれた……と言うよりも叫ばれた言葉に、炭治郎は目を見開く。

 

「……俺は嫌われて」

「嫌われてるんですよ!! 現に私は貴方が嫌いなんです!! 聞かれたことに答えもしない!! 答えたとしても言葉が足りない!! そんな人を好く人が居て堪りますか!!」

 

 義勇の肩がピクリと揺らいだのを炭治郎は見逃さなかった。

 表情こそ不動そのものだが、意外と心に大きな傷を負ったらしい。

 だが、日頃の鬱憤が積もりに積もっているしのぶの口撃(こうげき)は止まるところを知らない。

 

「人としてどうという話なんですよっ!! 最低限の礼節も弁えられない者が、よくもまあ『嫌われてない』なんて豪語できるものですねっ!! 私は柱合会議の時、いつもどれだけハラハラして冨岡さんの話を聞いてると思っているんですか!? 伊黒さんや不死川さんに突っかかれないかとそれはもう気が気ではないんですよ!!」

「……お」

「まだ話は終わってませんよっ!! 人の!! 話は!! 最後まで聞いてください!! そういうところですよ!!」

「……」

 

何故だろう。あんなにも頼もしく感じた背中が、今は流れ出る哀愁でとても直視できるものではなくなっていた。

 

(義勇さん……)

 

 出来れば彼に加勢したいところであるが、しのぶから彼女の苦労が滲んだ匂いが漂ってくる為、その意気を削がれてしまう。

 しかし、状況は最悪だ。

 例え逃げきれたとしても禰豆子の存在が鬼殺隊に知れ渡るとするなら、このままでは鬼の禰豆子が斬られてしまうのも時間の問題である。

 なんとか説得しようにも、口論において義勇は全くと言って頼りにならず、逆にしのぶは他人に有無を言わせまいというほどまくし立てている。これでは説得どころではない。

 

(! 誰か来る……?!)

 

 どうしようものかと思考が右往左往する時、近くの茂みから二人分の人影が現れた。

 男と女。それぞれ一人ずつ。

 まだヒノカミ神楽の反動で普段よりも繊細さを欠く嗅覚であるが、それでも義勇やしのぶに匹敵する強者と理解できる匂い。

 

「えぇっと、これはどういう……」

「あらあら、氷室くん。お久しぶりですね。ちょうどよかった」

「……何がちょうどいいんですか?」

「どうにも義勇さんとそこの少年が鬼を庇うもので口論になってたんです。手を貸していただけませんか?」

「えぇ……」

 

 来た傍から訳も分からない状況に巻き込まれた青年、もとい凛は顔を顰める。

 これは不味い。しのぶ側の戦力が増えれば、それこそ逃げる道筋が消されてしまいかねない。

 加勢するよう頼まれた凛と目が合う炭治郎は、咄嗟に立ち上がった。

 

「お、俺の妹なんです!! 鬼だけれど、まだ人は食べてないっ!!」

「!?」

 

 その驚愕は、鬼を連れていることか、はたまた人を食べていないことか。

 どちらにせよ、凛は必死に続ける炭治郎の話に耳を傾けた。

 

「禰豆子は人の役に立てます!! 俺と一緒に鬼とも戦ってくれます!! 誰にも迷惑をかけたりなんかしません!!」

「……」

「鬼を連れてたことが駄目だっていうのは分かりました……けど!! 悪くない鬼を殺すなんて道理を俺は認めない!!」

 

 魂からの叫びが那田蜘蛛山を駆け抜ける。

 渾身の演説。これで理解を得られないのであれば、とうとう最終手段に出るしかないが。

 

「……」

「真菰?」

「ごめんね、凛」

 

 やおら真菰が義勇側へと足を運び、しのぶに相対すかのように陣取ったではないか。

 

「私は()()()()なの」

「真菰さん? 正気ですか?」

「はい」

「……柱とその継子が鬼を庇うだなんて前代未聞ですよ。親切心から言います。もしそんな真似に出れば、育手の責任も問われますよ」

「百も承知と言ったら?」

「……成程」

 

 日輪刀を構えるしのぶ。

 いよいよ怒髪衝天といったところだろう。

 

「そこまで言うのであれば……已むを得ません」

 

 臨戦態勢に入るしのぶを前に真菰も日輪刀を抜く。

 すると義勇が固く一文字に結ばれていた口を開いた。

 

「……真菰」

「義勇が説得下手なのを踏まえてもこうなるのは分かってたしね」

「……お前も……俺のことが嫌いか?」

「え? どういう意味?」

「……」

「変な義勇」

 

 意図の分からない質問に首を傾げる真菰。

 そうこうしているうちに新手もやって来た。

 

「師範」

「カナヲ。あそこの鬼を斬ります。手伝いなさい」

「はい」

 

 蝶柱の継子・栗花落カナヲだ。

 すっかり大きくもなり、先の最終選別でめでたく鬼殺隊に入隊してからというもの、新人にしては破竹の勢いで階級を上げていると噂だ。

 継子として鍛え上げられた腕は本物。

 こうして水と蟲。それぞれ柱と継子という錚々たる面子が相対する形となった。

 

「さて……氷室くん。そろそろどちらにつくか決めてください」

「はい?」

「物見遊山を決め込む為に居る訳じゃないでしょう?」

 

 傍観者になりかけていた凛にしのぶが問う。

 ほぼ拮抗する戦力の中、彼がどちら側につくかで勝負が決まるというものだ。

 

 ピンと張り詰めた空気が辺りを支配する。

 誰もが凛に視線を向け、彼の言葉を待つ。

 

 有耶無耶な答えなど許さないと言わんばかりのしのぶ。

 考えを察せぬ義勇。

 考えを持たず指示に従おうとするカナヲ。

 申し訳なさそうに目を伏せる真菰。

 そして、妹を抱きしめる炭治郎。

 

 彼等の視線を一身に受ける凛が導き出した答えは―――。

 

「……とりあえず、お互い刀を収めよう」

「はい? 何を悠長な―――」

「真菰の口振りからして、その鬼の子の所在は冨岡さんも真菰も……育手の人も知っているみたいだし」

 

 スッと細められた瞳が炭治郎を貫く。

 その視線に、嘘を吐けぬ性質の炭治郎はぎくしゃくとした動揺の動きを見せてしまう。

 そんな彼を見た凛は、掌に出来た()()も把握し、確信を得る。

 

「その子も水の呼吸の使い手だろうし」

「なっ……!?」

「僕も使うから分かるよ」

 

 ひらりと手を振る凛。

 歌舞伎の女形が似合いそうな顔立ちに似つかわしくない武骨な掌には、幾万も刀を振るってきた証であるたこが浮かび上がっている。

 

―――まさか、掌のたこで使う呼吸を見抜いたのか?

 

 もしそうであれば凄まじい観察眼だ。

 純粋に驚嘆する炭治郎に「素直だなぁ」とほぼほぼ良好な感想を抱いた凛は、不服そうに眉を顰めているしのぶへ向けて告げる。

 

「柱も継子も育手もぐる。それだけ必死になって庇う鬼を、お館様に話を通していないなんて不義理……僕はないと思う」

「それはあくまで憶測でしょう? 確証は?」

「ないよ」

「なら、何故彼等に肩入れするんですか?」

 

 只ならぬ怒気を向けられる凛。

 しかしながら、彼は涼やかな顔のまま、さも当然と言わんばかりに言い放つ。

 

「水柱だから」

「……はい?」

「それじゃ……駄目かな?」

「……」

 

 成程。言いたいことは分かった。

 常々、恩師から「自分の後任ならば」と語られていた男。

 

 水を継ぐに相応しいと断じられたのだ。それ以上に信じる理由は要らない。

 

 そう言わんばかりの瞳は、真っすぐにしのぶを見据えている。

 妄信している訳ではなさそうだ。

 ただ、なんとなく。

 ほぼ勘に等しい理由で、凛は義勇側につくことを暗に示していた。

 

 それに対ししのぶは、

 

「……はぁ、氷室くん。仕方ないですね」

「しのぶさん」

「本当に……―――残念でなりませんよ」

「!」

 

 しのぶの凛を見据える瞳が敵視の色に染まる。

 最早埒が明かないと判断したのだろう。

 毒に塗れた刃を構えるしのぶが構えれば、継子たるカナヲも構える。

 途端に戦場の空気に包まれんとする場。

 

 闘争が始まらんとする中、炭治郎は義勇に「根性で逃げろ」と逃走を指示されるなど、混迷とする状況となってきた。

 が、

 

「伝令!! 伝令!! カァァァ!! 伝令アリ!!」

『!?』

「炭治郎・禰豆子、両名ヲ拘束。本部ヘ連レ帰ルベシ!!」

 

 突然、鎹烏が甲高い声で伝令を伝えにやって来た。

 内容は拘束。つまり、滅殺は寧ろ命令違反と捉えられる。

 

 しのぶは不服そうにするものの、伝令であるならば仕方ないとようやく刀を収めた。

 その際、

 

「後で覚えてください」

「ひぇっ」

 

 凛を一瞥し、そう告げた。

 情けない声を上げる凛であったが、仲間同士で戦うという事態にならずに済んだことにホッと安堵の息を漏らす。

 それから九死に一生を得た炭治郎を見遣り、フッと柔和な笑みを浮かべる。

 

 慈愛に満ちた、それでいて悲壮感を漂わせる面持ち。

 それが何を意味するか、未だ感覚が鈍化している炭治郎には嗅ぎ取れなかったが、代わりに真菰が彼へと歩み寄った。

 

「ごめんね」

「ううん、気にしてないよ」

「でも、凛は……」

「大丈夫。それよりも今はあの子達が無事で済むかどうかだよ」

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 

 彼の複雑な心境を真菰は把握していた。

 

 一体、彼が何を思っていたのか―――それを炭治郎が知るのはもっと後の話だ。

 



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弐拾.同床各夢

「うおおあああん!! 炭治郎おおお!!」

「善逸!」

 

 ここは蝶屋敷の病室。

 何を隠そう、任務で負傷した隊員を治療および看護する施設の一室である。

 

 たった今、そこへ柱合会議にて裁判を受けた炭治郎が連れてこられ、先に治療されていた隊員・我妻(あがつま)善逸(ぜんいつ)と対面した。

 那田蜘蛛山に入る直前に別れてしまった彼であるが、その騒がしい気性に変わりはなく、一種の安堵を覚えた炭治郎は胸を撫で下ろす。

 ―――が、

 

「聞いてくれよ、炭治郎おおお!! 俺めっちゃ酷い目に遭ったんだぜェ!? 手足短くなるし髪の毛メチャクチャ抜けるしでさああ!! ほんっと信じらんないよなあああ!!」

「ぜ、善逸。病室でそんなに騒いだら……」

 

「……五月蠅い」

 

「ひぇッ!?」

 

 炭治郎が懸念していた通りのことが起こった。

 見るからに相部屋である病室には、善逸以外にもベッドに横たわっている人影が幾らか目に付く。

 そして本来病室とは静かであるべき場所なのだから、まさしく場違いな大声を上げていれば注意されるのは火を見るよりも明らかだったと言えよう。

 

 こんもりと盛り上がっている掛け布団の中から、不機嫌且つドスの利いた声が言い放たれる。言い放った相手は当然善逸。彼は耳が良い為、相手が自分にどのような感情を抱いているのか等は簡単に聞き分けられるのだ。

 加えて、相手がどれだけ強いか等も―――。

 

「ッ……!!」

「善逸……」

 

 注意されるや否や掛け布団で自分を覆い隠しながら震える善逸に、呆れたような視線を送る炭治郎。

 先程は安心できた様子も、無事を確認できてからは、その度を超えた臆病さに呆れるより他にない。

 

 こうして善逸……遅れて、彼とは真逆に不気味な程静まり返っていた嘴平(はしびら)伊之助(いのすけ)の安否も確認した炭治郎は、裁判にて共に斬首を免れた禰豆子と共に、心身共に療養するべくベッドに横たわるのであった。

 

「すぴー……すぴー……」

 

(あそこで寝てる人、誰だろう?)

 

 ふとした疑問が分かるのはすぐ後のことだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 蝶屋敷に赴き、負傷した体が徐々に回復していく中の出来事だった。

 

「あ、ここか!」

「あれ?」

「ん?」

 

 ピョコ! と病室を覗くように廊下から顔を出す青年。

 どこかで見た記憶がある顔、そして匂い。

 目が合った炭治郎は、暫し曖昧な記憶を掘り下げて、現れた青年が何者であるのか思い返そうとしたが、それよりも早く青年が答えを口に出した。

 

「君は……那田蜘蛛山に居た子だね!」

「あ……はい! 鬼殺隊階級“癸”、竈門炭治郎です!」

 

 記憶が鮮やかに蘇る。

 そうだ、義勇と真菰がしのぶと彼女の継子・カナヲと対立した際、仲介して宥めた隊員が一人居た。彼だ。

 

 四角四面と評される程に真面目な炭治郎は、ベッドに横になっていたにも拘わらず、即座に背筋をピンと伸ばして腰を九十度曲げるようにお辞儀した。

 青年はそんな炭治郎に「自己紹介ありがとう!」と爽やかな笑みを湛えて応える。

 

「僕は氷室凛。よろしくね、竈門君」

「よろしくお願いします! それと、その節はどうもありがとうございました!」

「いえいえ。味方同士で戦うのは僕としても本意じゃなかったし……君の妹さんが何事もなくてよかったよ」

 

 にこやかに微笑む凛。

 鬼の禰豆子に対し、余り良い顔をする隊員が居なかったのは柱合会議でもひしひしと感じたことだ。

 それもそのはず。鬼殺隊に居る剣士のほとんどは、鬼に酷い目に遭わされた者達がほとんどなのだから。良い印象を持つはずがないのだ。

 

 それを踏まえても、彼はそこまで気にした様子ではないように見える。

 炭治郎としても、敵意が向けられるよりはその方が大分有難いことには違いなかった。

 

 改めて感謝を告げた炭治郎は、不意に一つの疑問が脳裏を過る。

 

「お見舞いですか?」

「うん、そうだね。あ、お見舞いの品にお菓子買って来たんだよ。君等も食べる?」

 

 菓子が入っている箱を掲げてみせる凛は、「そんな!」と受け取りに何を示す炭治郎を目にしたが、一方で物欲しそうな雰囲気を漂わせている善逸に気が付き、「みんなで仲良く食べてね」と善逸に手渡した。

 と、菓子から本題へと話は戻る。

 

「つむじ!」

「……ん?」

「ぴぎぃ!?」

「え、何事?」

 

 眠れる傷病人の一人を呼ぶや否や、菓子を貰って浮かれていた善逸が人間のものとは思えぬ悲鳴を上げ、布団の中に潜り込んだ。

 ガタガタと震える善逸に面喰らう凛であったが、眠っていた目的の人物のっそりと起き上がったのを確認し、彼女の下まで歩み寄る。

 

「紹介するよ! 僕の同期、東雲つむじって言うんだ! 相部屋だったけど、自己紹介とか済ませてる感じかなぁ?」

「してない」

「あ、そうなの?」

「……けど、そいつが善逸なのは知ってる」

 

 と、つむじは布団の中で震える善逸を指さした。

 間髪入れず、善逸が絶叫する。

 

「なんで!!? なんで俺の名前だけ覚えられてるの!!? い゛や゛あ゛あ゛あ゛!!! 絶対恨み買っちゃってるじゃん、俺!!! 助けてくれ炭治郎伊之助えええええ!!!」

「善逸、そういうところだと思うぞ」

 

 冷静なツッコミが炭治郎から入った。

 

 想像してみよう。

 一日三回。朝と昼と晩―――その都度、薬が苦い苦いと泣き喚く善逸の様子を。

 寝食を共にしなければならない相部屋の中、そのように汚い高音を響かせる人物が居たとすれば、否が応でも名前くらいは覚えるだろう。

 

「五月蠅い」

「はい」

 

 喚く善逸を一声で黙らせるつむじ。

 特段互いの階級を知っている訳でもないのに、明確な上下関係ができているとは、これまた不思議な話である。

 女好きな善逸が斯様に端正な顔立ちである女性に怖れ慄いているのはよっぽどだ。

 それほど彼の本能がつむじという存在に対し、警鐘を打ち鳴らしているという訳なのだろう。

 

 一方で、そのような彼女と親し気にしている凛達の関係が気になる炭治郎が臆せず問いかける。

 

「お二人のお付き合いは長いんですか?」

「う~ん、そうだね。五年くらい?」

「五年! とっても仲が良いんですね!」

 

 感心するように炭治郎が応えれば、少々恥ずかしそうに凛が頬を掻く。

 

「そう……だね! 今はつむじが入院してるからだけど、普段は同じ家に住んでるし」

「ハァ゛ーンッ?! ど、どどど、同棲してるんですかァ!?」

「うん、あれだよ。もう一人も含めて継子として柱の人の家で面倒を看てもらってるっていう意味だから」

 

 食い気味に布団から飛び出てきた善逸。

 彼の誤解をやんわりと解いたところで、今度は炭治郎が疑問を投げかけてくる。

 

「継子って……」

「蝶屋敷でカナヲちゃんって子、見かけなかった? 彼女はしのぶさんの継子だね」

「はい! じゃあ、氷室さんはどなたの継子なんですか?」

「炎柱、煉獄杏寿郎って人だよ」

「煉獄……?」

「柱合会議に出たから多分竈門君も見かけたはず……長い金色の髪で、声が大きくて、炎みたいな羽織を着てる……」

「ああ!」

「あ、わかってくれた!?」

「はい! 覚えています! 覚えて……いますけれど……」

 

 だんだんと言葉尻が小さくなる炭治郎。

 思い出したはいいものの、余計なことまで思い出してしまったのだ。

 確かその杏寿郎とかいう男は、裁判する間もなく自分と禰豆子を斬首するべしと訴えていた。

 そういった訳もあってか、初対面の印象が良くないのは事実だ。

 もっとも、鬼殺隊員の身の上を考慮した今ではその限りではないが―――。

 

 凛は、言い淀む炭治郎から大体を察する。

 

「ま……まあ、詳しいことは見てないから分からないけれど、いつもは情熱的で責任感の強い人だから……?」

「そ、そうなんですね! 今度会ったら、ちゃんとお話してみようかと思います!」

「それがいいね! うん!」

 

 百聞は一見に如かず。結局のところ、面と向かって話さなければ杏寿郎という人間は見えてこない故、これにて話はまとまった。

 

「それにしても……そっちの子静かだね」

「いや、伊之助は……その……」

「猪の顔……」

「その……それはまた別の話で……」

 

 炭治郎と和気藹々になって談笑していた凛であったが、ついに伊之助に触れた。

 今でこそ縮こまって静かにしている伊之助であるが、普通にしていれば善逸に負けず劣らず騒がしい男だ。つまり、今は普通ではない。

 

 意気消沈している伊之助にも触れた凛は、仲睦まじげな三人に自分達の姿を重ねる。

 

(僕も、もう子供じゃないんだなぁ……)

 

 新人だった頃が懐かしい。

 今よりも若く、経験もなければ力もない時代。

 それでも三人一緒であれば、心強く、何者にも負けないと思える勇気を互いに分け与えられたものだ。

 天涯孤独となって鬼殺隊の門を叩く隊員にとって、志を共にする仲間と築く友情とは何物にも代えがたいのはよく理解している。

 

 だからこそ―――。

 

「……一つだけいいかな?」

「はい! なんでしょうか……?」

「三人共、ずっと仲良しで居てね」

「え? ……はい、勿論です!」

 

 凛の言葉に一瞬首を傾げた炭治郎であったが、さも当然と言わんばかりの真っすぐな瞳を浮かべて頷く様は、凛にとって眩いばかりであった。

 願わくば彼等の友情が末永いものであることを。

 

 と、細やかな願いを込めている凛の耳が捉えたのは、何者かが廊下から近づいてくる足音だった。

 

「失礼します。皆さん、お体の具合は如何でしょうか?」

「しのぶさん!」

 

 現れたのはしのぶだ。

 ニコニコと微笑みを湛える彼女に、善逸は途端に鼻の下を伸ばしてデレデレになる。

 が、彼女にとって用があるのは彼ではない。

 

「炭治郎君と伊之助君、よろしいですか? 体の方も少し良くなってきたようですし、機能回復訓練に移ろうかと思うんですが……」

「機能回復訓練?」

「うわぁ~、懐かしいなぁ」

 

 聞き慣れぬ単語に首を傾げる炭治郎の一方で、凛は昔のしのぶとのやり取りを思い出す。

 と、懐古する凛を横目で見ていたしのぶは、「そうだ」と手を叩いた。

 

「どうです? お時間があるようでしたら氷室くんも見に行きますか?」

「え、僕もですか?」

 

 「まあ、大丈夫ですけど」と了承する凛。

 そんな彼に見えない位置でしのぶが拳を握った意図は、何人たりとも知る由がなかった。

 

 と、それはさておき。

 

「さ! それでは場所を移しましょうか!」

 

 満面の笑みを浮かべるしのぶに案内されるがまま、三人は訓練場に向かうのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 凛にとっても見慣れた光景である訓練場は、昔と変わりなく蝶屋敷に残っていた。

 ここで行われるのは前述の通り機能回復訓練だ。療養の間に鈍ってしまった体を療養以前の状態にするべく行われる訓練は、控えめに言って厳しく辛いものである。

 だが、柔軟と鬼ごっこはともかく、薬湯を掛け合う訓練は言葉だけでは分かり辛い部分もあるだろう。

 ここはあれこれ言うよりも見た方が早い。

 という訳で、

 

「それじゃあ氷室くん。私と一緒にお手本を見せましょうか」

「あ、僕はその為に連れてこられたんですね」

 

 わざわざ連行された理由を理解した凛は、早速薬湯の入った湯呑がズラリと並べられている机を挟み、しのぶと向かい合うように座る。

 

「まあ、お手本ですから。軽くやりましょうか」

「わかりました」

 

 頷く凛。

 始まりの合図は一通り説明してくれたアオイが告げた。

 

 刹那、向かい合う二人が目にも止まらぬ速さで手を動かし始めた。

 相手に中身をぶちまけるべく持ち上げようとする手を押さえて、押さえ返される。

 

「わぁ、速い……!?」

「……なんじゃあそりゃああああ!! 面白そうだぜェ!!」

 

 思ったよりも激しい動きに驚く炭治郎と、興味が湧いて歓喜の雄叫びを上げる伊之助。

 彼等を見物人として始まった薬湯の掛け合い。

 

「あの……」

「……」

「しのぶさん? いつまで続けるんですか……!?」

「どちらかが負けるまで、ですかねぇ」

「あ! しのぶさんったら本気わぶッ!?」

 

 悟るや否や、湯呑を押さえる手で自分の羽織を安全圏へ放り投げた凛。

 その隙もあってか、彼の顔面にはしのぶが持ち上げた薬湯が豪快にぶちまけられた。哀れ、凛。されど千寿郎に繕ってもらった羽織を守ることはできた。

 

 水も滴るいい男になった凛は、「こんな感じだよ」と説明を締めくくりながら、アオイから渡された手拭いで顔を拭う。

 一方でしのぶがしたり顔を浮かべていたものだから、忍び足で炭治郎に近寄った凛は、炭治郎と伊之助に問う。

 

「(大丈夫? しのぶさん、怖くない?)」

「(いえ、とても良くしてもらってますけれど……)」

「ハァン!? あんなちっけぇ女、怖ぇ訳ねえだろ!」

 

「誰が怖いんですか?」

 

「「「……」」」

 

 迸る覇気に、男三人は部屋の片隅で震えた

 

「……じゃあ、僕にだけ当たりが強いのかなぁ」

「というよりも、自然体なだけだと……」

 

「竈門君。余計なことは言わなくていいんですよ」

 

「はい!」

 

 割って入られた炭治郎は、雨に濡れた子犬のように震える。

 蝶屋敷に来てからというもの、胡蝶しのぶという人間は傷病人を労う優しい人間という印象を抱いていたが、それはあくまで身内以外に対する外面なのだろう。

 本来の一面は、それこそ親しい間柄の人間にしか見せない。それこそ姉のような肉親に加え、長い付き合いの凛等にだけ……。

 

(しのぶさんはああ言ってるけど、案外仲が良いんだなぁ)

 

 友情とも違う信頼関係。炭治郎は素直に感心した。

 凛にも言われたことであるが、善逸や伊之助といった鬼殺隊に入ってからの友人を大切にしよう―――そう思えた。

 

 いつの間にか震えも止まった炭治郎は、伊之助と共に気合いを入れて機能回復訓練に臨む。

 地獄のような柔軟に悲鳴を上げ、アオイとの鬼ごっこでひぃひぃ喘ぎ、カナヲとの薬湯の掛け合いでびしょ濡れにされる。

 

「いやぁ、懐かしいね……」

「懐かしいって……貴方幾つですか」

「確かしのぶさんと同じ……」

「爺臭いことを言っておきながら私と同い年とか言わないでくれませんか? 私も老けてるように見られるので」

「ご、ごめんなさい!」

 

 自分の後輩があくせくと頑張っている光景を微笑ましく眺めていた凛であったが、余計な一言が祟り、しのぶに窘められるかの如く刺々しい言葉をもらうハメになった。

 炭治郎はこれが自然体と言ったが、それにしては余りにもツンツンし過ぎではなかろうか。

 

(助けて、カナエさん……!)

 

 ちなみにこの時、カナエは現在買い物に出かけていた。

 戻ってくるまでの時間、凛は延々と(なじ)られるハメになったとな。

 

 

 

 ***

 

 

 

 その日の夜。

 日が落ちる少し前、機能回復訓練を終えた炭治郎らは疲労した体を引き摺り、やっとの思いで床につく。

 しかし、眠りについてからしばらく経ってから、炭治郎は突然の尿意を催し、厠で用を足したのだった。

 

 淡い月白が窓から差し込み、病室へと戻る炭治郎の影を浮かび上がらせる。

 夜と言えば、鬼殺隊になってからは鬼が本格的に活動を始める時間帯―――つまり、鬼殺隊にとっても主な活動時間帯になる訳だ。

 今日のように穏やかに月を見上げるのは久しいかもしれない。藤の花の家紋を掲げる家で療養していた時でさえ、どこか心が休まなかった。

 だが、今となっては禰豆子の存在も鬼殺隊公認のものとなった。

 あとは柱合会議で啖呵を切るように言い放った「十二鬼月を討つ」―――これを成し遂げるのだ。

 その為に、今は一刻でも早い復帰を目指して機能回復訓練をこなすしかない。

 

(でも、カナヲが凄く速いんだよなぁ……一体どんな鍛え方をしたらあんな動きができるんだろう?)

 

 明らかに次元が違う動きだ。

 もし敵と仮定した場合、自分が勝った姿をまったく想像できない。

 それほどまでに自分とカナヲ―――そして凛や柱とは実力が隔絶しているという訳なのだろう。

 ではどうすればいいのか?

 炭治郎は自分なりに考えた結果、結局のところ鍛えが足りないのではないかと考えていたが―――。

 

「……ん?」

 

 縁側に人影が見えた。

 この匂いは、

 

「氷室さん。こんばんは」

「ああ、竈門君。こんばんは。こんな夜遅くにどうしたの?」

「いえ、ちょっと厠に……」

「そっか。それじゃあ止めない方がいいかな」

「そんな。もう済ませてきたので……こちらこそ、何かお邪魔してしまいましたか?」

「ううん。ちょっとぼんやり空を眺めてただけかな」

「今日は月が綺麗ですもんね。あ、隣いいですか?」

「うん、いいよ」

 

 他愛のない会話を経て、凛の隣に座る炭治郎。

 確かに今日の月は綺麗だ。空は澄み渡り、満点の星が瞬いて見えている。

 しかし、こんなにも美しい夜だというのに、どこかでは鬼が人を襲い、罪のない人が犠牲になっていると思うと居た堪れなくなる。

 夜空も純粋に展望できぬのも、鬼―――延いては鬼舞辻無惨が居るせいだ。

 炭治郎はギュッと拳を握り、改めて決意を固めた。

 

 そんな時だった。

 

「竈門君」

「はい?」

「妹さんとは仲がいいの?」

「禰豆子とですか? はい! 今は鬼になってしまって言葉を交わしたりはできないですけど、大まかな意思疎通だったら! あ、鬼になる前ですか? そうだったら……」

「……ふふっ、とっても仲がいいんだね」

 

 炭治郎が皆まで言う前に、彼と禰豆子の仲の良さ―――もとい、絆の深さをひしひしと感じる。

 フッと微笑む凛は、キラキラと、それこそ太陽のように輝く瞳で禰豆子への思いを語る炭治郎の話に、しばし耳を傾ける。

 

 数分後、あらかた話し終えた炭治郎がふぅと息を吐けば、うんうんと相槌を打っていた凛がこう告げた。

 

「―――君は、お日様みたいな子だね」

「はい?」

「ポカポカと温かい“熱”を感じるよ。冷たくなった心には染み入るように温もりを与えてくれる……でも、たまーに鬱陶しいと思うくらいに熱い時もある。そんな子だ」

「そ、そうですかね?」

「うん。でも、太陽のように絶対に必要とされる子だと僕は思うんだ」

「は、はあ……」

 

 面と向かって「必要」と言われるのは、なんだか気恥ずかしい。

 赤面する炭治郎は照れるように頬を掻く。

 凛は、初々しい彼にクスリと頬を緩ませながら、優しい光を宿す瞳をじっと向ける。

 突然見つめられる炭治郎は、反応に困ってワタワタとするが、凛から嗅ぎ取った匂いが真剣そのものであることを察し、真摯な面持ちで言葉を待つ。

 

「……竈門君。君からはとっても優しい熱を感じるんだ」

「……はい」

「鬼にも優しく……慈悲の心を向けられる。鬼殺隊の中にはそれを良しとしない人も居るだろうけれど、僕は君を応援する。それを伝えたかった」

「あ、あの! それはどうして……」

「僕は君になり損なった人間だから」

「……?」

 

 言葉の意味を勘ぐる炭治郎に対し、凛は庭の方へと目を遣った。

 瞼を閉じれば鮮明に思い出せる情景がある。

 ()と共に過ごした時間を―――。

 

「母親が鬼だった。生まれた僕は人だったけれど。母親を討った人が僕の育手になってくれた」

「っ……!?」

「それから鬼殺隊に入ったんだ。僕は鬼にも慈悲を与えられる剣士になりたいと思った。母親が最期に人の心を思い出してくれたって聞いたから。しばらくして水柱……冨岡さんの前任だね。その人のお世話になるようになってた」

「……」

「でも、その人は鬼に殺された」

「え……」

「目の前で大切な人が死んだんだ。それからだね。心のどこかで鬼が憎くて堪らなくなったんだ」

 

 ありふれた悲劇。

 かいつまんだ話だが、それでも壮絶な人生に炭治郎は絶句した。

 辛いだろう。悲しいだろう。憎いだろう。そんな当たり障りのない慰めの言葉等、投げかけられるはずもなく、炭治郎は耳を傾けることにした。

 

「今は折り合いをつけたから、鬼に慈悲をって気持ちと、仇をとりたいって気持ちは別々にしたけれど……したつもりだけれど、それでも一人じゃ心細くてね」

「氷室さん……」

「同じような夢を持ってくれる人が後ろに居ると思っただけで、なんだか気が楽になるんだ。僕の選んだ道が、拓いた道が、後輩の道の一つになってくれるならって」

 

 ホッ、と。

 (わだかま)りが融けたように息を吐いた凛に、炭治郎は次々と胸に込みあがってくる感情や言葉を一旦飲み込んだ。

 

 喜怒哀楽だけでは表せぬ複雑な匂いだった。

 そんな先達の気持ちを、新人の自分が形容できるものだろうか。

 だからこそ、感謝を告げた。

 

「……っ、ありがとうございます! お辛いことを話していただいて……」

「ううん、僕が勝手に話したことだから。こちらこそありがとうだよ。なんだか、暗くなるような話しちゃって」

「いえ! 俺も心強いです! 俺にも氷室さんの夢のお手伝いができたら……!」

「ふふっ、ありがとうね。それじゃあ兎にも角にも強くならなきゃ」

「あ、うっ! そ、それは……」

 

 昼の機能回復訓練を思い出し言い淀む炭治郎。

 そんな彼に、昔は自分も四苦八苦していたなあと思い出す凛は、何かを閃いたようにポンと手を叩いてから一つ提案する。

 

「そうだ! 炭治郎君達に常中を教えてもらえるよう、カナエさんにお願いしておくよ」

「カナエさん……って、しのぶさんのお姉さんですか?」

「うん! 暇があったら僕も行くから! それとそうだなぁ、つむじと燎太郎……あっ、僕のもう一人の同期ね。二人にも頼んでおくから!」

「は、はい?! し、東雲さんですか……」

「ちょっと不愛想に見えるけど怖くはないから!」

 

 善逸だけ名前を覚えていたつむじ。

 炭治郎の中では怖い印象でしかない彼女であるが、凛がこう言うのであれば、実際は大丈夫なのだろう。

 一抹の不安は拭えないものの、頼りになる指導者をつけてもらえることに内心わくわくする。

 

「それじゃあ、燎太郎さんという方は?」

「本名は明松燎太郎。情に厚くてね! 面倒見もいいから、きっと皆に良くしてくれると思うよ!」

 

 もう一人の同期を端的に紹介する凛から感じ取る匂いは、非常に楽し気なものであった。

 

―――本当に仲の良い友人なんだな!

 

 是非とも自分も会いたいと思う炭治郎であるが、途端に表情を曇らせた。

 

「でも、いいんですか? 俺達なんかに時間を使わせて……」

「遠慮なんかしないでいいんだよ! 後輩に指導しないで何が先達! って感じじゃない?」

 

 穏やかな笑みを湛える凛は、炭治郎を真っすぐな瞳で見つめる。

 

 何とも強い瞳だ。深い蒼。厚い氷を穿った奥底に望める、抽出された空の蒼色に似ている。

 

「誰かを頼っていいんだ。人は一人じゃ生きていけない」

 

 まるで自分にも言い聞かせるような声色だった。

 

「仲間を生かす為なら僕達は協力を惜しまない。託せるものは全て託す。繋ぐ為に」

「……はいっ!」

 

 力強く頷く炭治郎。

 ここまで言われては、遠慮する方が無礼だ。そう理解した。

 

 と、彼が快諾したのを受け、凛は徐に立ち上がる。

 

「よしっ……それじゃあ氷室凛! 炎柱が継子の誇りにかけて、君達三人―――とことん鍛えるよ」

「よろしくお願いします!!」

 

 月夜の下、また新たに繋がりが生まれる。

 その光景に微笑むように月は弧を描いていた。

 



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弐拾壱.勇往邁進

「それじゃあ、今日は私とつむじちゃんが一緒に指導するわね!」

「ん」

 

 いつもと変わらぬ風景の訓練場。

 炭治郎と伊之助に加え、善逸も参加するようになった機能回復訓練であるが、今日は

普段見ない人物が一人居た。

 何を隠そう、カナエに紹介されたつむじである。

 下弦の壱・芙蓉討滅の際に受けた血鬼術の療養で大事を取っていた彼女であるが、晴れて彼女も訓練に参加するという訳だが……。

 

「ひぃ……」

「善逸、失礼だぞ……」

 

 完全に目の敵とされている自覚がある善逸は炭治郎の背中に隠れてガタガタと震えていた。ほとんど彼の自業自得であるが、ここまで恐れている様子を見ると哀れに思えてくる。

 一方で伊之助は依然意気消沈したままだ。那田蜘蛛山にて、父蜘蛛に殺されかけ、喧嘩を吹っ掛けた義勇に手も足も出ず、あまつさえ貧弱そうなカナヲに連戦連敗を喫し、自尊心がズタズタにされてしまっているのだ。

 

(なんとか二人共頑張ってくれればいいんだが……)

 

 先日、凛が知り合いに自分達を指導してくれるよう頼みこんでくれると約束してくれたが、これでは先が思いやられる。

 彼の思いを無下にしない為にも、二人にはやる気を出してほしいところではあると炭治郎は考えたが、良い考えが浮かぶよりも前に話は始まった。

 

 口火を切るのは、しのぶの実姉・カナエである。

 炭治郎の目から見ても別嬪であるのは明らかであり、善逸に至っては初めて目の当たりにした際、「姉妹揃って別嬪さん!!」と歓喜の絶叫を上げていたほどだ。

 ややキツい性格のアオイやしのぶとも違い、性格もほんわかしており、非常に接しやすい。

 鬼との戦いで受けた傷で床に臥す傷病者にも献身的に看護する姿から、「蝶屋敷の女神」と呼ばれているとかいないとか。

 

 閑話休題。

 

「凛君に頼まれてね。今日から善逸君も訓練に参加するみたいだし、三人には全集中の呼吸・常中を教えようと思うの」

「失礼してもよろしいでしょうか!」

「はい、炭治郎君!」

「常中とはなんですか?」

「良い質問ねっ。これから説明するわ」

 

 学校の先生を思わせるやり取りを経て、カナエの口から常中とは何かが語られる。

 内容自体は簡単だが、実際にやるとなると難しい。四六時中、全集中の呼吸をする―――それこそが“常中”。

 柱への第一歩であり、これを会得したならば、鬼殺の剣士として他の隊員達よりも一歩抜きんでることができる。

 

 しかし、いざ始めてみれば広がるのは死屍累々たる光景。

 

「ぜぇー!! はぁー!!」

「ひっ……ひっ……!! あっ、無理だわコレ!! 俺の肺が悲鳴を上げてる!! 紙風船みたいに割れる!! これ四六時中!? 無理無理無理無理!!」

「……」

「伊之助? 伊之助ぇ~~~??! 早く!! 早くその猪の被り物を脱ぐんだ!!」

 

 窒息しかけて倒れている伊之助に駆け寄り、息苦しさの根源たる被り物を脱がす炭治郎。

 善逸は始めてから半刻で悲鳴を上げ、訓練場の床に転がっている。

 余りにもみっともない泣き様であるが、彼がこうなるのも仕方がないと思える程、常中の会得は困難で根気が要る。

 

「こればっかりは地道にやっていくしかないから……。無理をし過ぎると肺も痛めちゃうわ」

「はい!! 俺無理!! 肺が爆裂しそうカナエざぁん!!」

 

 常中会得の心得を語るカナエに泣き言を吐いて縋る善逸。

 同期三人の中で、唯一進んで鬼殺隊に入った訳でない彼は、こうした地道な鍛錬への目的意識が低い。

 すでに彼の心はバキバキだ。割れせんべいの如きバッキバキだ。

 

 しかし、そんな彼の頬に手が添えられた。

 なんと優しく温もりに溢れた掌だろうか。

 ハッと見上げる善逸の目線の先には、菩薩を彷彿とさせる―――否、それ以上に慈愛に満ちたカナエの笑顔が咲き誇っていた。

 

「善逸君」

「は、はいィ!!」

「大変だよね。辛くて苦しいと思うわ……私も皆が無理しているのを見るのは辛いわ。でも、これも善逸君の為なの」

「お、俺の……?!」

「善逸君に死んでほしくないから。私、たくさん善逸君のことを応援するわ。だから……一緒に頑張ってくれる?」

「っしゃ―――っ!! やってやる!! やってみせるぞォ!! バリバリ頑張っちゃいますよ俺!!!」

「善逸君、頑張れっ! 頑張れっ!」

 

 善逸、復活。

 

(善逸……)

 

 カナエの言葉で完全復活を果たした善逸を目にし、炭治郎は何とも言えない瞳を浮かべる。

 女好きも、あそこまで努力の活力へと変換できるのであれば天晴だ。

 できれば、そうでなくとも頑張ってほしいところではあるが、本人がやる気になった今、それを告げるのは無粋だと踏みとどまった。

 

 残るは伊之助だ。

 未だ立ち直っていない彼を再起させるのはどうすればいいのか?

 

 そんなことを考えていれば、離れた場所から風を切る凄まじい音が聞こえてくる。

 弾かれるように振り向けば、薬湯の掛け合いが行われる机で目が点になる激戦が繰り広げられていた。

 

「……」

「……」

 

 互いに無言のつむじとカナヲ。

 一方、交差する腕の動きは熾烈そのもの。一瞬持ち上げられた湯呑を押さえる度に、湯呑の底と机がぶつかる音は、心の蔵が跳ね上がってしまう程に激しく、よもすれば砕け散ってしまうのではないかと錯覚してしまう。

 

(あ、あれで病み上がりなのか……カァー!)

 

 カナヲの凄まじさは何度も体感しているが、そんな彼女と病み上がりで拮抗勝るとも劣らない俊敏な動きを披露するつむじの身体能力には目を見張ってしまう。

 内心驚嘆の声を上げる炭治郎は、延々と続く激戦に釘付けとなっていた。

 すると、床の上で伸びていた伊之助がのそのそと観戦しにやって来た。

 猪頭を被っている為、どのような表情を浮かべているかは分からない。

 それでも、被り物越しで熱心に注がれる視線に気がついたつむじが、横目で一瞥した後、フンと鼻を鳴らす。

 

「観てる暇なんてあるの?」

「ハァ?」

 

 伊之助の声にあからさまな苛立ちが滲む。

 

―――この女、何を言いやがった。伊之助様に向かって。

 

 握る拳が如実に告げている。

 しかし、彼の苛立ちを前にしても平静を崩さないつむじは、一瞬の隙をついてカナヲへ湯呑の中身をぶちまけた。

 が、中身は空。長い激戦の間に薬湯がほとんど零れてしまっていたからだ。

 それはそれとして勝敗は決した。

 未だ()()()()()()()()()()()に向け、()()()()()()()つむじは言い放つ。見下す訳でもなく、嘲笑する訳でもなく、ただ淡々と。

 

「常中もできないのに」

「……ハァ゛~~~ンッ!!?」

 

―――伊之助は激怒した。必ず、かのクソ生意気な女を見返さなければならぬと決意した。

 

 図らずも伊之助を奮起させたつむじは、休憩がてらに用意されていた茶を啜る。

 一方で、腸が煮えくり返る伊之助は、鼻息を荒くしながら訓練場で雄叫びを上げていた。

 

「ウオオオオ!! この伊之助様にできねえことなんざ一つもありゃしねえんだよおおお!!」

「おおっ、伊之助! やる気十分だな!」

「見てやがれ、この石仏女!! おい、紋次郎!! 俺についてこい!! あのスカしたアマを見返してやんだよ!! ジョッチュウってヤツをできるようになってやるぞ!!」

「その意気だ! でも、ジョッチュウじゃなくて常中だ、伊之助!」

「うるせえ、炭八郎!!」

 

 こうして伊之助は、怒りを原動力に常中会得に取り掛かった。

 紆余曲折あったものの、一つの目的に向かって三人の気持ちは一緒になった訳だ。

 

 機能回復訓練と平行しての常中会得。

 体にかかる負担は並ではないが、士気の高い彼等は失神することなく、定められた時間を過ごした。

 しかしながら、訓練はこれだけでは終わらない。

 

「……じゃあ、次は私」

 

 場所は変わって、蝶屋敷の庭だった。

三人を見下ろすように―――さながら教壇に立つ位置に立っているのはつむじだ。

 

 誰かに教える経験のない彼女が、このような真似をしているのは、同期が頼み込んできたからの一言に尽きる。

 多少の億劫に思いはしたが、他ならぬ友人の頼みだ。今度見舞いに来る際に美味しい土産をと約束されもすれば、教鞭をとることは(やぶさ)かでない。

 

「あ、あの……」

「何?」

 

 恐る恐る挙手したのは善逸だった。

 心なしか顔色が悪い彼が懸念しているのはただ一つ。

 

「俺達、もうボロボロのボロ雑巾みたいなんですが」

「ん」

「まさかとは思いますが、死ぬような訓練はしないですよね……?」

「最初は滝行とか丸太担ぎとか大岩を押す訓練とか考えてた」

「おおおっ!? た、滝行!? 丸太担ぎ!? 大岩!? 何言っちゃってんのアンタ!?」

「でも、凛に『やめてあげな』って言われた」

「ありがてえ!! とんでもなくありがてえ!!」

 

 掌を組み合わせ、天に向けて感謝の祈りを捧げる善逸はとめどなく涙を流した。

 「うるせえなぁ」と漏らす伊之助の一方、話の流れを察した炭治郎は首を傾げてつむじに問いかける。

 

「じゃあ、どんな訓練を?」

「押し相撲」

「押し相撲……ですか」

 

 押し相撲。四つ身に組まず、相手に体に手をあてがい、押し出しか押し倒しで勝負をつけるアレだ。

 機能回復訓練に含まれている鬼ごっこの如く、まさか児戯が出てくるとは予想にしていなかった。

 

「でも、どうして押し相撲を?」

「鬼にすぐ殺されない瞬発力と、どんな体勢でも刀を振れる平衡感覚を鍛える」

「なるほど!」

「だから()()()でやる」

()()()?」

 

 つむじが指さす先。そこにあるのは、蝶屋敷の敷地とそれ以外の土地を隔てる役割を果たす塀―――の上だ。

 割と高い。しかも、竹で組み立てられた塀である故、立てたとしても踏ん張りが利かないだろう。

 

 当然、押し相撲は塀の上で行うものではない。

 

(やべぇ人だ)

 

 何を当たり前みたいな顔しちゃってんの?

 押し相撲なんなのか知ってるの?

 顔が良くなかったら、俺もうちょっと罵詈雑言吐いてたぞ?

 

 とどまることを知らない文句が善逸の脳内に次々と過る。

 

 一方で、破天荒な場所にて行われる押し相撲には、流石の炭治郎も難色を示した様子だった。

 

「塀の上……ですか」

「できないの?」

「や、少し難しそうかなぁと……でも、やってみせます!」

「ん。それでいい。落ちても落下中の姿勢制御の訓練になる」

「なるほど! 色々考えてるんですね!」

「………………ん」

 

 大分間を開けての頷き

 

(やべぇ炭治郎だ)

 

 なんで納得できちゃうんだよ。

絶対あれ考えてないよ。

 ちょっと、いや、結構こじつけてるよ。

 私できるからお前らもできるようになれよっていう圧力だよ。やってらんねえよ。

 

 炭治郎の姿に戦慄する善逸。

将来、彼は詐欺に遭いそうだ。その時は自分が傍にいてなんとかしてやらねば。そのような考えが過ったところ、不意につむじと目が合う。

 

「善逸。最初お前」

「えええええっ!!? なんで俺ぇ!!?」

「一番平衡感覚強そうだったから」

「やってないのにわかるそんなことぉ!!? 絶対目ぇ合ったからだけだよぉ!!」

「五月蠅い。さっさと来い」

「……はい」

 

 死に物狂いの抗議はあっけなく一蹴された。

 トボトボとつむじを追いかけ、震える足で塀の上に立つ善逸。

ちょっとでも気を抜けば滑りそうだ。少しでも平衡を保とうと腕を広げる彼は、微動だにせぬまま直立する彼女に合わせ、なんとか腕を体の前まで持っていく。

 当然、足は肩幅に広げられない。これでは左右の踏ん張りなど無に等しい。

 

(うっそだろ、コレ!? これでホントに押し相撲やんの!? 瞬殺だぞ!? 俺が!!)

 

 戦う前から敗北を予感する善逸だが、無情にも押し相撲は始まる。

 始まりは、つむじが軽く善逸を押すことから。

 ちょっと押されただけで大きく後ろにのけ反る善逸であったが、炭治郎と伊之助の声援を受け、なんとか姿勢を戻す。

 

「い゛い゛い゛い゛い゛ッ!?」

「おおっ! 結構戦えてるぞ、善逸!」

「これを! どう見たら! 戦えてると! 思うん! デスカァ!?」

 

 善逸は、逃げ腰ではあるものの、瀬戸際で落下せぬまま奮闘する。

 口では炭治郎の声援を否定しているが、実際初めてにしては押し相撲として成り立っていた。

 

「中々やるじゃねえか、紋逸!」

「あああいいいうううえええおおおっ……!!?」

「「あ」」

 

 伊之助も応援していたが、姿勢を崩した善逸が、前方へと倒れてしまった。

 迫るのはつむじの体―――否、

 

 ムニッ。

 

「へ?」

 

 支えを求めて前へ突き出していた手が、何か柔らかいものを掴んだ。

 自分が倒れている途中であったことから、手はガッツリと謎の物体を握ってしまう。

 

 これは一体なんなのだろう?

 

 ゆっくりと顔を上げる。

 

「おっ―――ッ!!?」

 

 皆までは言わない。

 自分が求めてやまない物体を、彼は今己の掌に収めていたのだ。事故という形であるが、確実に。

 しかし、善逸の胸の内に湧き上がるのは女体の神秘に触れた感動ではなく、

 

(殺される!!!!!)

 

 “死”を予感した。

 かつてないほどの“死”を。

 

 だが、

 

「大丈夫?」

「……うぇ?」

「ほら、立って」

「あ……はい」

 

 何事もなかったかのように直立姿勢に戻るよう告げるつむじに、言われるがまま戻る善逸。

 拍子抜けした面食らった彼であるが、みるみるうちに掌に残る柔らかな感触に、彼の頬は赫々を染まっていく。

 

「お、お、おっ……―――!!!」

「油断しない」

「おおおおおっ!!?」

 

 しかし、天国から地獄へ。

 掌に残る温かく柔らかな感触は、すぐさま地面の冷たく硬い感触に塗り替えられた。

 

「善逸ぅ―――ッ!!?」

 

 真面に受け身も取れず落下し、痙攣する友人に駆け寄る炭治郎。

 けれども、当の善逸はと言えば、鼻血を垂らしながらも、どこか恍惚とした表情を浮かべていた。

 

 

 

 ***

 

 

 三日後、新たに三人の下へ来客が現れた。

 

「俺が指導承った炎柱が継子、明松燎太郎だ!! 初めましてだな!!」

 

 目の前に居るだけ室温が何度か上昇したように錯覚する男。彼こそが凛とつむじの同期、明松燎太郎だ。

 炎を模した模様が描かれている羽織が、炭治郎と同じ赤色の髪と瞳と相まって、視覚的にも熱さを感じる。

 一方で数珠を手首に嵌めていることから、信仰心が高そうと窺える装飾品も身に着けているではないか。数珠に関しては、岩柱・悲鳴嶼(ひめじま)行冥(ぎょうめい)を彷彿とさせるだろう。

 

「はじめまして! 竈門炭治郎です! 本日は何卒よろしくお願いします!」

「俺は山の王だ」

「こっちは嘴平伊之助って言うんです」

「いい元気だな! こりゃしごき甲斐があるな!」

 

 さらりと頓珍漢なことを宣う伊之助を紹介する炭治郎。最早、彼は伊之助にとっての兄―――否、オカンのような立ち位置に居るのかもしれない。

 

 と、それはさておき。

 

「さて、俺から君達に教えるのは“反復動作”だ!」

「やばい訓練の上にまたやばいそうなの教えるつもりですか?」

「安心しろ! これは常中より簡単だ」

 

 善逸の問いに対し、燎太郎は快活に答えた。

 簡単とは言うものの、そもそも比較に出されている常中の会得難易度が凄まじいとは誰も口に出さなかった。

 

 しかし、聞いてみれば内容は単純だ。

 集中を極限まで高めるべく、予め決めていた動作を行うことで、全感覚を一気に開く技。全集中の呼吸の呼吸とは異なる極意であり、それ故に併用も可能。両方扱えれば剣士として一歩抜きんでることが叶うという訳だ。

 

「大方理解できたか? 分からないならもう一度説明するが」

「いえ、大体理解できました!」

「なら良かった! それでは木刀で素振りしながら訓練するとしようか!」

 

 各々の型を洗練させるついでに反復動作の訓練が始まる。

 炭治郎は水を。善逸は雷を。伊之助は獣を。

 全力を一瞬に引き出す為には数をこなすしかない。最初こそ反復動作で集中するのに時間はかかるが、やがてそれが一瞬にできるようになる。

 その時こそ、反復動作を会得したと言えるだろう。

 

「これは煉獄の兄貴が岩柱様から教えてもらったことでな! 要するに俺は人伝に知ったという訳だ!」

「な、なるほど……」

「ひっ……ひっ……!」

「ふぅぅうん゛っ……!」

 

 休憩の合間に世間話をする四人。

 蝶屋敷に住まう三人の少女、なほ・きよ・すみ達が持ってきた水を飲み、流れ出た汗の分の水分を補給する。常中と反復動作。二つの訓練をこなすことから、心拍数と体温は上がり流れ出る汗の量も尋常ではない。気を抜けばあっという間に脱水症状で倒れてしまうだろう。療養の為の入院というのに、合間の訓練で倒れたとあっては何の為に入院しているのだと、後からアオイやしのぶにどやされてしまうだろうから、三人もそこは気を付けていた。

 

「それにしても、東雲さん……速いですね」

「おぉ、あいつはそうだな! まあ、慣れている! そんなものだろう!」

 

 縁側で座る炭治郎が眺めていたのは、三人とは別に黙々と素振りに打ち込んでいたつむじだ。

 炭治郎達よりも速く、それでいて多く数をこなしているにも拘わらず、流れ出ている汗は微々たるもの。寧ろ、涼しささえ覚えるような爽快感がある。

 自分もあれくらいできるようになりたいと切望する炭治郎は、「そうだ!」と燎太郎に問う。

 

「明松さん達は普段どのくらい反復動作の訓練をしているんですか?」

「俺達か? う~む、任務の合間……それでいて師範の稽古を除いたら、そうだな。素振りだったら五千回くらいか」

「五千」

「一刻の間にな。凛だと一日暇な時、六万回こなしてたらしい」

「六万」

 

 桁違いの数字に炭治郎は目を白黒させる。

一方、聞き耳を立てていた善逸は口の端から水を垂れ流す。逆に伊之助は「それくらいやりゃあいいのか!」と明確な数字に奮起した。

 

「って、アホなのか!?」

「なんだとォ! このたんぽぽ頭!」

「六万って数字分かって言ってる!? 六万だよ、六万! 一、十、百、千、万! 百を百回! を、六回! 一刻に五千振ったとして半日! 半日だぞ!?」

「う、ううっ……!? わ、訳分かんねえ難しいこと言ってんじゃねえ!」

「分からない!? じゃあ分かりやすく言うよ!? 六万回やったら俺達は死ぬっ!」

「それはてめぇが軟弱なだけだろうが!」

「軟弱の意味知ってるかお前!?」

 

 ギャーギャーと庭先で騒ぐ二人。最早見慣れた光景だと言わんばかりに炭治郎が仲睦まじげな子供の喧嘩を見る兄に似た目で眺める。

 

「ははっ、二人は元気だなぁ」

「喧嘩する程仲が良いという奴だな!」

「はい。明松さんも、東雲さんや氷室さんとは喧嘩したりしたんですか?」

「俺達か? そうだな……」

 

 しみじみと過去を振り返ってみれば、今は信頼し合っている仲の相手とは言え、衝突した場面は数えられないだろう。それこそつむじとは……。

 

「したなぁ」

「へぇ~、俺はとても想像できないです……!」

「だがまあ、腹を割って話せば案外分かり合えるものだ! 肝要なのは相手の考えに寛容であること! 頭ごなしに否定しては歩み寄れるものも歩み寄れない。若い頃の俺に是非とも言ってやりたいな、ははっ!」

 

 紆余曲折を経た今だからこそ、心の底から思う。

 そんな燎太郎の思いをひしひしと感じ取った炭治郎は、今一度友人を大切にしようと胸に誓ったのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 燎太郎の指導から一週間後。

 常中と反復動作の訓練は酷であるが、少しずつ全集中の呼吸を続けられる時間は長くなっている。

 両方に必要なのは()()()()。地道に繰り返していく行為こそ、会得への最短距離だ。

 

 と、僅かながら成長がみられる三人の下へやって来たのが、この二人。

 

「今日は僕とこの人が指導するよっ!」

「みんな、こんにちは! はじめまして、甘露寺蜜璃です!」

 

 凛の横に並ぶ見慣れぬ女性。

 奇抜な髪色は、一度見たら忘れられぬ衝撃を受けるだろう。

 何を隠そう、彼女は恋柱の蜜璃だ。つむじの見舞いついでに指導するとかねがねより申し出てくれたのだ。

 そんなはち切れそうな捌倍娘の登場に、善逸はと言えば。

 

「か、か、か……可愛いが詰まってらっしゃるうううっ!!」

 

 主に胸元を見ながら発狂していた。

 

「善逸、柱の前だぞ」

 

 そんな友人を窘める炭治郎。

 いつぞや隠に言われた言葉で善逸を静かにさせる彼の一方で、蜜璃は「元気な子達……」と頬を染めていた。彼女は惚れっぽいのだ。

 

「ちなみに、蜜璃さんは僕の後輩だけど立場上は上司だね。柱だから」

「もう、そんなの関係ないよ~! 遠慮なんかしなくていいんだから!」

「って言ってくれたから、今日来てもらった訳なんだ」

 

「ありがとうございます!」

「あああありがとうございますっ!! 会えて光栄です、ホント!!」

「おめぇ強ぇのか?」

 

 蜜璃に対し、三者三葉の態度。

 そんな彼女も交えて行う今日の訓練内容とは、

 

「ずばり、呼吸についてだね」

「全集中の呼吸ですか? 常中以外にも何か……」

「ううん。それとはちょっと違うかな」

「ははあ」

「正しい呼吸……って言ったらあれだけど、皆の呼吸について色々教えるよ!」

 

 その為に集まった面子と言っても過言ではない。

 

「僕が使ってる呼吸は“水”と“氷”……水は竈門君も使ってるよね?」

「はい!」

「呼吸には水の他に、炎・雷・岩・風があって、それら五つを基本の呼吸って言ったりするね。大抵育手が教えてくれるのはこのどれかだけど、剣士は自分に合わせて呼吸が派生させたりもする!」

「もしかして、それが氷の呼吸ですか?」

「そうだね! 僕の場合は氷。水の呼吸の派生だね。そこで蜜璃さんの使う呼吸……恋の呼吸っていうんだけれど、これは炎の呼吸の派生なんだ」

「なるほど!」

 

 基本は五つなれど、真に己の体に合った呼吸を追求していけば、生まれた派生の呼吸は星の数ほどもあるだろう。

 だがしかし、自らの呼吸を生み出す真似は並大抵の努力では叶わない。

 派生の呼吸を身につけたとしても、凛のようにあくまで生み出した人物から学んだ場合がほとんどであり、蜜璃や伊之助のような場合が稀なのだ。

 

「へへっ、やっぱ俺って天才なんだな!」

「うん。確かに嘴平君は色々とぶっ飛んでるね」

 

 ふんぞり返る伊之助だが、それをして然るべき天性の才能が彼にはある。

 将来が楽しみだと頷く凛。

 すると、徐に彼は木刀を二本手に取り、一本を炭治郎に投げ渡す。

 つむじとの押し相撲で少なからず反射神経が鍛えられた炭治郎は難なく受け取ったが、渡された意図を察しあぐねたかのように首を傾げた。

 

「竈門君。これから呼吸の違いを体感してもらうよ」

「えっ!?」

「って言っても、ただ斬りかかって来てくるだけでいいから! 大丈夫、痛くはないから!

「は、はぁ……」

 

 呼吸の違いとは一体?

 

 その言葉に秘められた意味を考えた炭治郎であったが、答えが出るよりも前に、体が無意識の内に木刀を構えていた。

 

「……行きますっ!」

 

 悩んでいても仕方がない。

 言われるがまま木刀を振りかざした炭治郎。狙うのは勿論、同様に木刀を構えていた凛だ。

 次の瞬間、彼の姿が消えたかと思えば、振り下ろした木刀が何かに軌道を逸らされてしまう。

 

「えっ!?」

 

 気が付いた時、首筋を冷たい風が撫でた。

 それは、自分の背後に佇んでいた凛が、木刀の切っ先を首にあてがっていたからである。

 いつの間に? と疑問が浮かぶが、それよりも気になるのは剣閃を逸らされた理由だ。

 

「な、なにが……」

「竈門君。木刀にどんな感触を覚えた?」

「木刀にですか? う~ん、突然グッて滑ったというか……あの、凍った水たまりを踏んで滑ったみたいな感じでした」

「言い得て妙だね! 今のは氷の呼吸の零閃って技なんだけれど、水から氷に派生する途中で生まれたんだ」

「へ~!」

「じゃあ、次は()()()()()みるね。もう一度斬りかかってきて」

「水と……? 分かりました、はい!」

 

 言われるがまま、今一度相対して斬りかかる。

 訓練と言えど炭治郎は本気だ。全集中の呼吸と反復動作を意識し、もてる限りの全てを振り絞って一閃を解き放つ。

 

 カッ、と僅かに木刀同士が触れる感触が掌に伝わる。

 

 だが、今度は押し負けぬと炭治郎は全身全霊の力を腕に込める。

 

―――イケる! 押せる!

 

 頭が相手の木刀を押し返していると感じ取る―――が。

 

―――あれ? どこまで押すんだ?

 

 触れている感覚はあるのに、一向に手応えを感じない。暖簾に腕押しに近い感触だ。

そうこうしている内に、確実に捉えていたはずの標的である凛の姿が知覚する間もなく消え失せた。

さながら神隠し。不思議を通り越し、不気味な感覚だった。

 

「……え?」

「―――これが水の呼吸も併せた零閃」

 

 彼は背後に居た。

 これまた木刀の切っ先を首にあてがいながら。

 

 もしも真剣だったら呆気なく自分の首が刎ね飛ばされていただろう。

 そう理解しているにも拘わらず、炭治郎の胸にはただただ彼の御業に対する感動しか浮かんでこなかった。

 

「凄い……!」

「最初のと違いが分かる?」

「はい! 一回目は力で攻撃を逸らされた感じが強かった……でも、今のは完璧に受け流されました! てっきり斬り込めると思ったから踏み込んで! それでいつの間にか受け流されて姿勢を崩されました!」

 

 嬉々として語る炭治郎への答え合わせとして、凛はにこやかな笑みを向ける。

 

「そうだね! 零閃は相手の攻撃を受け流すように回転してから斬りかかる技なんだけれど、僕の場合、氷の呼吸だけだとうまく受け流せなくてね。でも、水の呼吸と併用することで氷の力強さと水の滑らかさを両立させて、この技を使いこなせるようになったんだ」

「呼吸を……併せる……?」

「そう。一つの呼吸を極める……それも凄いことだよ。でも、二つの呼吸を併せたら、それぞれの呼吸の良いとこ取りができるかもしれないよ! っていうのが僕の伝えたかった話だね!」

 

 何も呼吸を一つだけ使わなくてはならないと決まっている訳ではない。

 取り込める長所はどんどん取り込んでいくべし。

 そうしていく内に自分の用いる型に適した呼吸が見つかるはず。それが凛の話のさわりだ。

 

 納得したように頷く炭治郎。

 しかし、善逸と伊之助は他の呼吸までも会得することに難色を示すかの如く、何とも言えぬ表情を浮かべている。

 確かに呼吸を二つ使う剣士等、鬼殺隊全体を見ても指で数える程だ。こうなるのも致し方ない。

 

「じゃあ、ここからは蜜璃さんから、実際に自分の体にあった呼吸を見つけるコツを話してもらうね」

「うん、任せちゃってよー!」

 

 そこで蜜璃の出番だ。

 既存の呼吸を二つ併せる凛とは違い、彼女は一つの呼吸を基に独自の呼吸を編み出した女傑。

 自分の体に合った呼吸を見つける点においては、彼女の方が適任であることには間違いない。

 

 袖を捲って気合いを表明する蜜璃は、いざ、正座して話を聞く態勢に入っている三人に対して口を開いた。

 

 一体どんな話が飛び出してくるのか?

 

 三人はいっぱいの期待を胸に抱いていた。

 

「合ってない呼吸はね、技を出す時に胸がモニャモニャ~、あれ、違うなぁ~? ってなるの! だから、そこからたくさん体動かして! するとね、色んな呼吸試してる内に体がメキメキィってなって、頭もピッカァーンってなるから、コレだぁ! みたいな!?」

「「「……???」」」

「……」

 

 すぐさま期待は崩れ落ちた。

 蜜璃も崩れ落ちた。

 辛うじておっぱいは崩れ落ちなかった。

 

 しかし、自分の話が微塵も伝わっていない後輩の様子に精神的負傷を受けた蜜璃は、床の上で丸まりながら悶死しそうな雰囲気を漂わせていた。

 

「穴があったら入りたい……」

「み、蜜璃さぁーん!!」

 

 補足しよう。残念ながら甘露寺蜜璃は感覚派の人間だ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 機能回復訓練が始まり一か月以上経った。

 最初こそカナヲには手も足も出なかった炭治郎であったが、今は違う。

 

「うおおお!」

「!」

 

 薬湯を掛け合う訓練に取り組む炭治郎とカナヲ。

 腕の残像が見える程に早い攻防。以前であれば、あっという間に炭治郎が薬湯を掛けられて決していた戦いが、今となっては互角といって過言でない光景を繰り広げているではないか。

 

 一方、善逸と伊之助はと言えば巨大な瓢箪に息を吹き込んでいた。

 

「んんんっ!」

「おおおっ!」

 

 小さな幼児ぐらいある瓢箪に息を吹き込んでいた二人であったが、次の瞬間、瓢箪は過剰に吹き込まれた空気に耐え切れなくなり、内側から爆発するように弾けて砕けた。

 

「やったやった!」

「すごい、善逸さん!」

「伊之助さんもできちた!」

 

 なほ、きよ、すみの三人は、常中の訓練の過程でもある瓢箪の破壊に成功した二人を祝福するように歓喜の声を上げる。

 

「で、できたぁ……はぁ~……!」

「うおおお! 見てたか紋逸! 俺の方がてめぇより先に瓢箪ぶっ壊してやったぜ!」

「そんな余裕俺にはなかったよ……」

「なんだとぉ!? だったらもう一回見せてやる!!」

「いや、いい! イィーっ!」

 

 成し得た姿を誰かに見てもらいたかった伊之助は、競う相手と見なしている善逸が見ていなかったと口にしてムキになった。

 こうして二人が瓢箪破壊を済ませた一方、戦いの佳境に入っていた炭治郎は、ついにカナヲの手をすり抜けて湯呑を持ち上げる。

 

「おおおっ!!」

「!」

 

 いざ、薬湯をカナヲへ。

 しかし、薬湯の匂いのきつさを思い出した炭治郎は、寸前で中身をぶちまけることを止め、湯呑をカナヲの頭に置く。

 

「炭治郎さんも勝った!」

「これで皆常中できるようになったって言っていいよね!?」

「うん、そうだよ!」

 

 まだ拙い部分こそあれど、三人は全集中の呼吸・常中を会得したと言ってよいだろう。

 歓喜の坩堝と化す訓練場。ちょうど暇を見つけて訪ねていた凛、燎太郎、そして先に退院していたつむじの三人が、喜びのままに訓練場を走り回る炭治郎達を眺める。

 

「うん! ものになったようで良かったよ」

「忍耐強いし、いい剣士になるぞ! 煉獄の兄貴に紹介したら喜びそうだ!」

「……これ以上大所帯になるのは勘弁」

 

 炭治郎達を継子に迎える考えを口にする燎太郎に、つむじが難色を示す。

 

「……お前、そんなこと気にする性質なのか。女っ気を微塵も感じさせないのに」

「ん」

「そういう燎太郎は化粧したつむじを見て真っ赤になってたじゃないか。蜜璃さんがしてくれたヤツ」

「それは言わん約束だろう」

「ちょっ……! ゴメンって!」

「?」

 

 こちらもこちらで仲睦まじげな光景を繰り広げる。

 すると、喜びに舞っていた炭治郎が三人の下へ駆け寄って来た。

 

「あの! ご指導、本当にありがとうございました!」

「いえいえ。力になれてなによりだよ」

「それで厚かましいとは思うんですが、一つ訊きたいことがありまして……」

「ん、なんだい?」

「ヒノカミ神楽って聞いたことありますか?」

「ヒノカミ神楽?」

 

 初めて聞く単語に、凛のみならず隣に並んでいた燎太郎とつむじも首を傾げる。

 詳しく話を聞けば、全集中の呼吸と同じく体に力が満ちる呼吸法を、山奥に住む炭売りであった父が代々受け継いでいたとのこと。

 炭治郎もヒノカミ神楽があってこそ、那田蜘蛛山での任務で九死に一生を得たという。

 

「でも、聞いたことはないかなぁ……」

「えぇ!? じゃあ、火の呼吸とかは……!?」

「ないな」

「派生でも……?」

「ない」

 

 頼りにしていた三人全員が全滅。

 ヒノカミ神楽を知る手掛かりを掴めると思っていた炭治郎は、ままならない現実に直視し、落胆するように肩を落とした。

 

 このように後輩が落ち込んだとあれば、先達として何もせずには居られない。

 少なくとも凛や燎太郎はそんなお人よしであった為、力になれないものかと考えを絞り出す。

 そして、

 

「そうだ! 煉獄さんに聞いてみたらどうかな?」

「煉獄さんにですか?」

「ああ! 確か、煉獄邸には歴代の炎柱が遺した手記があると言っていた! 煉獄の兄貴なら読んでいるかもしれん!」

「なるほど!」

 

 現在に手掛かりがなくとも、過去まで遡れば手掛かりがあるかもしれない。

 兎にも角にも、手掛かりを得るには他ならぬ炎柱・煉獄杏寿郎と接触するしかない訳だ。鎹鴉でやり取りする手もあるが……。

 

「どうする? 実際に会ってみて話をした方がいいと思うんだけれど……」

「……分かりました! 俺、煉獄さんに会います!」

「それじゃあ決まりだな!」

 

 凛の提案に乗る炭治郎。待っていたと言わんばかりに燎太郎は柏手を打つ。

 のほほんと聞いていたつむじは、流れるままにと炭治郎の同行を認めるように「好きにすれば?」と告げる。

 その言葉に三人の了承を得られたと確信した炭治郎は目を輝かせた。

 

「ありがとうございます!」

「ふふっ。僕らも君達のこと、煉獄さんに紹介したいと思ってたからちょうど良かったよ。それじゃあ諸々の準備が済んだら会いに行こっか!」

「はい!」

 

 こうして蝶屋敷での訓練を経て、剣士として以前より一皮剥けた炭治郎は煉獄の下に赴くことになった。

 

 

 

 向かうは―――無限列車。

 

 

 

 醒めぬ夢幻が待ち受ける鬼の巣だ……。

 




*漆章 完*


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捌章.煉獄
弐拾弐.夢幻泡影


 

「な、なんじゃこりゃあああ!!?」

 

 驚愕の色に滲んだ声を上げるのは伊之助だ。

 彼の目の前に佇む鉄の塊。それは列車である。長距離を、しかも多人数運ぶことができる列車はまさに文明の利器と言えよう。

 だが、山育ちで列車を見たことはない伊之助はと言えば「この土地の主」と見当違いの推測を立て、同じく山奥育ちの炭治郎も「守り神じゃないか」と頭の痛くなる意見で、暴れる伊之助を制止しようとする。

 

「黙って乗って」

 

 しかしながら、結局のところ伊之助は同行していたつむじに首根っこを掴まれ、列車の中へと引きずり込まれていく。

 

「うんうん、仲良くなってくれたみたいで良かったよ」

「あれを仲が良いってんなら俺はあんたの常識を疑いますよ?」

 

 微笑ましそうに頷く凛に善逸がツッコむ。

 

 と、炭治郎・善逸・伊之助の三人組に加え、凛・燎太郎・つむじの三人組が列車へと乗り込んだ訳だが、彼等が目的とするのは鬼の出没に備えて無限列車に乗り込んでいる杏寿郎との合流だ。

 炭治郎が知りたいと訴える「ヒノカミ神楽」。少なくとも今日まで接触した隊員は知らない呼吸であるが、代々受け継がれている炎柱の手記ならば何か書いてあるかもしれない。

 そのような一縷の望みを託し、杏寿郎の下までやって来た訳であるが……。

 

「良かったの? もう少し蝶屋敷で休んでても構わなかったんだけれど」

「いえ! 折角取り次いでくれたなら、一刻でも早く行かなければ失礼というものですので!」

「そっか。ならいいんだけれど」

 

 凛の問いにハキハキと応える炭治郎。

 彼は重傷を負っていたはずだったが、僅か一か月と少しで見違えるまでに快復、そして成長を遂げた。

 口にこそ出さないが、彼もまた常中を会得した体で刀を振りたいと考えているのだ。

 それは伊之助も―――善逸も渋々ではあるが―――かねがね同じ。

 浮足立っている訳ではない。ただ純粋に、己の成長を実戦で実感したい。心のどこかでそう思っているのだろう。

 

 一方、ひしひしと伝わる“熱”が一際熱くなっていると感じ取った凛は、過去の自分を懐かしみながら、彼等の心中を察する。

 

(僕もこんな感じだったのかな?)

 

 かつての流やカナエからは、己がこのように見えていたのだろうか?

 そう思うと、その初々しさに気恥ずかしくなってくる。

 だがしかし、自分はこうした若い芽を見守りながら育む世代に突入するほどに年を重ねた。鬼との戦いで命を落とす隊員は少なくないのだ。凛達でも年長者と言って過言でないほど、鬼殺隊は万年人材不足に悩まされている。

 

―――大切にしなければ。かつて、流が自分達を守ってくれたように。

 

(……あんまり見習ってもあれかな? でもなぁ)

 

 考える度に脳裏を過る恩師。

 彼の生き様に囚われてしまうのは、傍から見れば呪いかもしれない。

 それでも、()()()()()()()()と考えれば、彼が辿った道を無視できないのもまた事実。

 同じ道を辿るのであれば、せめて彼が息絶えた場所よりも先へ進まんことを願うばかりだ。

 

 炭治郎達のやり取りを眺め、懐旧の念やらなにやらが湧いた凛は、つむじの後を追うように列車の中へと乗り込んだ。

 切符の購入も済ませ、後は杏寿郎の下へと向かうばかり。

 ここ最近は継子にも拘わらず指導も受けられず、寂しい思いをしていたところだ。ちょっとでも顔を見られたなら嬉しい。こうした感情は、どちらかと言えば仲の良い兄に向けるものに似ているかもしれない。

 

「煉獄さんはぁ~っと……ここじゃないかな。もうちょっと前か」

「分かるんですか?」

「色んな意味で熱い人だからね」

 

 体温的にも精神的にも。

 温度感覚に優れた凛ともなれば、列車という大人数が屯する中に居る杏寿郎の居場所も察することができる。

 あれよあれよと進んでいく内に、漂ってくるのは牛鍋弁当の美味しそうな匂いだ。

 食指をそそる匂いは、直前に食事を済ませてきたとしても腹の音を響かせてしまいそうにする。如何せん匂いが強すぎる気もあるが、それは積まれた空の弁当箱から分かる通り、単純に量が多いからだろうか。

 推定十個以上。こんなにも牛鍋弁当を食べられるのは、知っている限りでは蜜璃か関取か、もしくは。

 

「煉獄さん、お久しぶりです」

「うまい!」

「それはよかったです」

 

 戦いに向けて英気を養っているのだろう。牛鍋弁当を掻き込む杏寿郎が、現れた六人に対し、挨拶代わりに弁当の味を告げてきた。

 

「本当にこの人が炎柱なんすか……?」

「ああ! こんな金色の御髪を靡かせる御仁は早々見間違えないからな」

「いや、そういう意味じゃなくて……」

 

 善逸は何やら言いたげそうにしていたが、燎太郎の説明を受けるや否や「ああ、やっぱやめとこう」と言葉を呑み込んだ。

 と、そうこうしているうちに牛鍋弁当を平らげた杏寿郎が、早速炭治郎が聞きたがっている話について語り始めた。

 

「溝口少年! ヒノカミ神楽とやらだったらな!」

「いえ、俺は竈門ですよ」

「竈門少年! 残念だが、俺の知っている限りではヒノカミ神楽という呼吸はない!」

「えぇ、そんな!」

「戦いに応用できたことは実にめでたいが話はこれで終い……という訳でもない! 確かに歴代の炎柱が残した手記にならば手掛かりはあるかもしれん! だが、生憎俺はそれを読んだことがない!」

 

 雷に打たれたような衝撃を受けた顔を浮かべる炭治郎。

 それもそうだ。彼はてっきり杏寿郎が手記を読んだとばかり思っていたのだから、まさか一文字も読んでいないと告げられるとは予想もしていなかった。

 これだけでは杏寿郎が書物に興味のない人間と誤解されてしまうかもしれないが、彼は指南書を読み込んで炎柱まで上り詰めた男だ。寧ろ、鬼狩りに関する書物に対しては人一倍熱心に読み込んでいるとさえ言える。

 そうした彼が手記を読まない理由は一つ。父が読み耽っていた―――物理的にも心理的も読みづらい環境にあった。

 

「だが、安心するといい! 今日まで任務で家に帰られなかったというのもあるが、帰宅次第手記を探してみよう! 竈門少年も来るといい!」

「いいんですか!?」

「ああ! 俺の継子になるといい! 面倒を見てやろう!」

 

 杏寿郎が面倒見の良さを発揮する。

 誰に対してもとりあえず継子にならないかと打診するのは彼の良いところでもあり悪いところだが、見慣れている継子三人に関しては今更とやかくは言わない。

 それよりも、だ。

 

「どこに鬼が居るんだか……」

「え? 鬼出るんですか、この汽車!?」

「ああ、出るぞ!」

「降ります!」

 

 燎太郎の呟きに対し過敏に反応する善逸。

 というのも、まさか鬼の出没場所に向かっているのではなく、現在地が鬼の出没場所と今知ったからだろう。

 

「乗客が四十名以上! それでいて送り込んだ数名の剣士が消息を絶った! だからこそ、柱である煉獄の兄貴が送られてきたという訳だ!」

「はぁー! なるほど! 降ります!」

「挽き肉になりたいなら降りたら?」

「横で怖いこと言わないでええええ!」

 

 泣き言をいう善逸に対し、つむじが辛辣な物言いをする。

 柱一人にその継子が三人、加えて平隊員が三人とかなりの戦力を送り込んだ訳であるが、実際に件の鬼の討滅に送り込まれたのは杏寿郎だけ。継子三人は、各々の任務地へと向かう移動として同乗しただけである。とどのつまり、()()()に杏寿郎の任務の手伝いをする訳だ。

 

(今のところは何も感じない……)

 

 泣き喚く善逸を横目に、鬼の気配がないか集中する凛。

 しかし、まだ鬼らしき寒気を覚えることはない―――が、同様に気配を探っている燎太郎は得も言われぬ掻痒感に違和感を覚えているのか、忙しなく視線を泳がせている。

 居るには居るがまだ遠い。

 

(汽車内に隠れている?)

(みたいだな)

 

 二人は視線のやり取りだけで意思疎通を図る。

 いつでも刀を抜けるよう気を張り詰めながら、窓から吹き込む風を浴びる。その風もどこか不快だった。総毛立つような冷たさ―――否、寒気だ。ぬるりと肌を撫でる感触もまた不快感を一層煽る。

 確実に汽車の中には居る。

 そうして情報だけではない確信を得たところ、切符の確認にやって来た車掌がやって来た。

 

(どこだ? それに……この胸のざわつきは……?)

 

「切符……拝見いたします……」

「あぁ、よろしくお願いします……」

「―――待て、凛! その切符を貸せ!」

「え?」

 

 ハッとした燎太郎が制止するも、すでに手渡された切符には車掌が切り込みを入れてしまった。

 パチン、と小気味いい音が車内に響く。

 それはまるで意識が途切れる音喩が如く七人の鼓膜を震わせる。

 刹那、彼等の瞼は固く閉じられ、それまでの緊張感とは打って変わって安らかな寝息が立てられるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 冥い道がずっと前へと続いている。

 その果てに何があるのかなど知る由もない。

 しかし、だからといって来た道を戻る気にはなれなかった。

 

 漠然と、ただ歩を進める。

 この感覚にだけは―――覚えがあった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「……あれ?」

 

 凛は、突然覚醒したように視界が開けた。

 眠っていたにしては余りにも目覚めが良い。そもそも立ったまま寝ることなどできようはずがないだろう。

 

(ここは……?)

 

 記憶が曖昧となる中、現在地を把握しようと辺りを見渡す。

 次第にここがどこかが分かってきた。蝶屋敷の庭だ。散々指導をつけてもらった思い出の場所である。

 風に乗って漂ってくる洗濯物の匂いが鼻を吹き抜ける。それに加えて、庭先に植えられた花と、屋敷から仄かに感じ取れる消毒液の匂いもまた、ここが蝶屋敷だと理解させたのだった。

 

―――どうして蝶屋敷に居るんだろう?

 

 前後関係があやふやだ。

 何故ここに来たのかが分からない。

 任務で来たのであれば、もう少し記憶がはっきりとしていいものであるが……。

 

―――カツリ。

 

 不意に屋敷の方から聞こえた。

 聞き慣れた、それでいて久しく聞くことがなかった音を耳にし、弾かれるように振り返る凛。

 

「あ……あぁ……!」

 

 屋敷の縁側に一人の人物が立っていた。

 見間違うはずもない。痛ましい義肢の姿を晒しつつも、どこか頼り甲斐を感じさせる精悍な顔つき。鬼に刻まれた顔の傷跡は忘れられるはずもない。

 

「……凛」

「流……さん!」

 

 気が付いた時には駆け寄って抱き締めていた。

 そこに流という男が居る事実をしっかりと確かめるように。

 

「あああ! うわああああ!」

「……大声で泣いてどうした。らしくもない」

「だって……! ……あれ? なんで……でしょうかね?」

「……ふっ。おかしな奴だ」

「あ、あはは……」

 

 何故自分が泣いてしまったのか。

 その理由は、まるで靄がかかってしまったかのようにうまく思い出すことができなくなってしまった。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ん……」

「あら? 起きたの、つむじちゃん」

 

 そう言って顔を覗きこんできたのはカナエだった。

 彼女の膝枕で眠っていたのだろう。後頭部の柔らかい感触から察したつむじは、寝ぼけることもなく体を起こした。

 

「ふぁ~あ……」

「よく眠ってたわね。最近は忙しそうだったからだけど、ちゃんとお休みしないと駄目よ?」

「ん」

 

 いつも通りの受け答え。

 余りに簡素な返事でも、カナエは微笑みで応えてくれる。

 そうした彼女と一緒に、しばらく部屋でのんびりとしていれば、時折しのぶやカナヲといった蝶屋敷の住民が廊下を通っていく姿を窺えた。

 何の変哲もない日常。惰眠を貪っては親しい者の傍で時間を過ごす。つむじにとって、それ以上の幸福はなかった。

 

「お~い!」

「ん?」

「あら、お客さんが来たみたい」

 

 不意に玄関から声が聞こえた。

 応対の為にカナエが席を立つが、何の気なしにつむじも彼女へと付いていく。

 

「お邪魔します!」

「お邪魔しまーす!」

「邪魔するぞ、胡蝶!」

「いらっしゃい、燎太郎くん。蜜璃ちゃん。煉獄さん」

 

 訪れたのは三人だった。いずれも見慣れた顔だ。特に驚く相手ではない。

 それからは、土産の品を携えてきた三人を屋敷へと招き入れ、客間で談笑することとなった。

 笑い声が絶え間ない客間。その中でも、つむじは食い意地を張るかのように土産の品に手を付けては頬を膨らませる。

 彼女の遠慮ない食いっぷりに触発されてか、少しの間我慢していた蜜璃、そして杏寿郎もまた土産の品を手に取り始めた。

 

「……?」

 

 しかしながら、食べても食べても一向に減る気配のない土産品につむじは首を傾げた。

 おかしいと顔を上げれば、杏寿郎の背後に積まれた土産品の箱が目に入る。

 なるほど、彼自身を含めて食い意地を張った三人が居ることを考慮し、それだけの量を買って来たのだろう。

 ひとまずは納得するつむじ。

 だが、不意に耳に入った話に違和感を覚えることとなった。

 

「凛はどこに?」

「凛くんなら庭で流さんに稽古をつけてもらってますよ」

 

 杏寿郎とカナエの会話だ。

 なんだ、凛も蝶屋敷に居たのか―――と、呑気な考えが脳裏を過るのも束の間、一旦受け止めた内容のおかしさに気が付いた。

 

「流……?」

「どうしたんだ、つむじ」

「流って誰?」

「おいおい、寝ぼけているのか。流の兄貴は流の兄貴だろ」

「そうじゃない」

 

 燎太郎が呆れたように諭すが、問題はそこではないのだ。

 居ても立っても居られなくなったつむじは、腰を上げるや庭先へと急ぐ。

 すると、いつのまにやら普段着の着物が鬼殺隊の隊服へと変貌しているではないか。最早、今見ている光景が現実ではないのは明らかだ。

 

「!」

「あれ、つむじ?」

 

 大した時間もかからず庭先へ出れば、カナエの言っていた通り、凛が流に稽古をつけてもらっていた。

 同姓同名の別人ではない。あの頃のままの流だ。

 その姿に懐かしさを覚えないと言ったら嘘になる。

 だがしかし、それ以上に彼女の胸に湧き上がる感情はただ一つ。

 

「―――失せろ」

 

 怒りを孕んだ声色を発するつむじは、懐から日輪銃を取り出し、そのまま流の頭を撃ち抜いた。

 血飛沫が上がり、庭が一気に血に染まる。

 折角乾かしていた洗濯物も。可憐に咲き誇っていた花々も。彼との日々の思い出の場も。

 どす黒い血が辺りを染めるが、知ったことではない。

 夢か幻か、はたまたそのどちらでもない虚像か。何にせよ、贋物であると分かっている以上、引き金を引くのに躊躇いは覚えなかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 混沌。

 この場を言い表すのであれば、それ以外の言葉が見つからない。

 寺に立ち寄り和尚や子供に会った後、土産を蝶屋敷に携えてくるまでは平和そのものだった。

 だが、つむじが流を撃ち殺すという暴挙に出たのだ。

 あれほど慕っていた流を彼女が射殺するとは到底思えない。夢だと思いたくなってしまう。

 

(いや、これは夢なのか……!?)

 

 燎太郎は鮮烈な痛みが奔る頭を押さえた。

 突然靄が晴れ、苛烈なまでに輝く日光が視界を埋め尽くしたような感覚。思わず立ち眩んでしまったが、次第に混乱していた思考がまとまってくる。

 その間にも凛とつむじは言い争っていた。

 一触即発―――と表現するには、もう遅い。彼等が斬り合うのは時間の問題だった。

 

「どうして、どうして流さんを……!」

「分からない? じゃあ、凛も幻? なら……っ」

「待て、二人共!!」

 

 強引に間へ割って入る燎太郎。

 錯乱気味の凛に対しては、力に打って出る他止める術がない。それも仕方がないことだ。例え幻覚だとしても、目の前で大切な人間を殺されれば少なからず動揺するものだ。

 だからこそ発現した無数の違和感。

 それらは少しずつ……少しずつではあるが、三人が見ていた夢幻を暴き始めていた。

 

 きっかけを作ったのはつむじだ。

 認めたくはない。認めたくはないが、彼女が導いた答えこそが真実である。

 

 無造作に転がる流の死体。

 目を背けたくなる惨い死体を前に、頭を手で押さえながら激痛を堪える。

 そうだ、彼は―――。

 

「いいか、凛」

「燎太郎……?」

「流の兄貴は、もう死んでるだろう?」

「―――」

 

 涙に曇っていた凛の瞳に光が差した。

 そうだ、誰だって目を背けたい。

 自分自身、鬼となった和尚を殺した事実や彼に殺されてしまった子供達を生きているものと都合よく幻視していたのだ。とやかくは言えない。

 それでも―――燎太郎は人目をはばからず、滂沱の如き涙を流しながら、震えた声で紡ぐ。

 

「殺されたんだよ……!」

「あっ……」

 

 彼の言葉が静寂と化していた庭に響く。

 気持ち悪い程に澄み渡る声。

 すると、突然硝子が砕け散るような音が辺りを包み込んだ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 肩に置かれた燎太郎の手が強く握られる。

 痛い。痛い。痛い。

 肩ではない、胸が。

 あれほど温もりで一杯だった胸が、今や空っぽになった冷たさで凍えて裂けそうだ。

 

「……夢ならいっそ、もっといいのを見させればいいのに」

 

 沈痛な面持ちのつむじが口を開いた。

 

「だって……本当に良い夢だったら、二人は鬼なんか斬ってないでしょ? でも、私は……」

 

 俯くつむじ。

 彼女にとっては孤独に生きた幼少期よりも、鬼殺隊に入り凛や燎太郎達と出会ってからの日々を幸福と感じていた。

 それ以外の幸福を知らないから―――。

 故に、生きている者達の中にただ一人佇む流の幻影に気が付いた。

 彼が生きている方が幸福であることは否定しない。だが、彼の死を否定すれば、それを乗り越えて杏寿郎と過ごした日々をも否定しなければならなくなる。

 

 心の底から辛そうに紡ぐつむじ。

 そんな彼女の肩にそっと手が置かれた。

 

「……だとしても、目の覚まし方が強引だよ」

 

 手を置いた凛が、得も言われぬ苦笑を浮かべながら告げる。

 

「ごめん」

「まったくだな!」

 

 素直に謝るつむじに続き、燎太郎が溌剌とした声で陰鬱な空気を吹き飛ばそうとする。

 もう庭には死体も血痕も残ってはいなかった。

 それは綺麗な記憶通りの光景。春には桜吹雪が舞い、夏には緑が映え、秋には紅葉に染まり、冬には雪化粧が施される庭だ。

 春夏秋冬の景色を楽しんだ庭先に佇む三人の姿は隊服へと戻っていた。夢と分かった以上、いつまでも夢見心地な恰好で居る訳にはいかない。

 

「鬼の攻撃はすでに始まってるってことかな?」

「知らない」

「いっそ清々しい返しぶりだな!」

 

 すっかりいつもの調子に戻った三人。

 しかしながら、夢と分かっているのに起きられないというのも不思議な状況だ。血鬼術で強制的に見せられている夢だとするならば、如何なる手段で現状を打破すべきか。

 

「いっそ死んでみる?」

「「……」」

 

 三人寄れば文殊の知恵とも言うが、些か一人の出す案が物騒以外の何物でもない。

 とは言うものの、それ以外に目ぼしい手段がないのも事実。

 

「でも、それで現実の体に影響が出たら……」

「その時はその時」

 

 懸念を口に出すや、銃口をこめかみに当てたつむじが引き金を引いた。

 轟く銃声と共に倒れるつむじ。

 夢と言えど、友が血を流して倒れる光景は堪えるものがある。

 

「はぁ、思い切りが良すぎるよ……」

「はっはっは! あいつらしいな。だが、俺もさっさと行かせてもらう」

「燎太郎! せめて……」

「いや、いい」

 

 今度は燎太郎が刃を自身の首に当てた。

 自害するにはそれなりの精神力が必要だ。仮に痛みを感じるのであれば、いっそのこと自分が干天の慈雨か(そそぎ)で介錯しよう―――そう伝えようとしたが、暗に察した彼は迷いなく断る。

 

「凛。俺はな、中途半端な幸福なんていらん。これしきの夢……これから掴む未来に比べればちっぽけなものだからな」

「……うん」

「だが、まあ……三人同じような夢を見ていたと思えば……悪くは感じないな!」

 

 「最初の頃に比べればな」と締めくくり、自刃する燎太郎。

 彼もまた夢の世界から発っていった。残るは自分だけ。

 

「はぁ……」

 

 憂鬱そうにため息を漏らす凛。

 それも仕方がない。過去のことだと割り切っていたはずなのに、いざ流を前にして乱れてしまったのだから、自分の未熟さにほとほと呆れてしまう。

 

(でも……)

 

 ふと、頬が綻んだ。

 

―――そんな僕を、きっと貴方は許してくれる。

 

 ぶっきらぼうで優しい彼ならば。

 

 そう確信できるほど信頼に値する人間に出会えたことは幸運だ。他人に愛されること自体が、である。

 それを気付かず間違った方向へ一生懸命になっていた時期もある。

 まず誰よりも自分自身が己を大切にしなければならないのに―――あの頃は、随分と周りの者には迷惑をかけてしまったことだろう。

 

「もう大丈夫です」

 

 夢の中ならば。

例え相手が虚像だとしても伝えられると、凛は口に出す。

 

「行ってきます」

 

 力強い声色で刃を首にあてがう凛。

 

―――守ってこい。

 

 頚を斬って意識が朦朧としていく最中に響いた声は幻聴か。

 はたまた―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「!!」

 

 がばりと上体を起こすように目を覚ます凛。

 車内は乗車した当初とは違う悍ましい空気に包まれていた。間違いない、鬼はすでに動いている。

 そして、近くの座席に座っていたはずのつむじと燎太郎の姿がない。

 座席から仄かな熱が感じ取れることから、席を立ってからそう時間は立っていないだろう。

 

(先に動いて……)

 

 姿が見えない以上、動きを見せた鬼を討滅するべく他の車両に移ったことは明らかだ。

 

「!」

 

 どこに向かうべきか思案している途中、車両の壁が肉のように蠢いて襲い掛かってきた。

 咄嗟に日輪刀を抜いた凛は、迫りくる肉の触手を斬り落とす。

 

 氷の呼吸 弐ノ型 霰斬り

 

 少しでも再生を遅らせるべく、細切れにしてみせる凛。

 しかし、頚を絶たないことには無尽蔵に再生し、いずれは乗客へ手が伸びてしまうだろう。

 

(炭治郎君達の姿が見えない? もう起きてるのか? だとしたら、車両を守ることは難しくないけれど……!)

 

 問題は鬼の潜む場所。

 軽く指先を斬り、刀身に彫られた血流しへ血液を垂らす。

 それから乗客にも襲い始めた肉を斬り飛ばせば、断面が凍結してそれ以上再生することはなくなる。

 知能があれば別の面から生やせば済むが、そこまで意識は回っていないのだろう。心なしか攻撃の手が緩んだ。

 

 これならばやれる。

 そう確信した瞬間だった。

 

「うたた寝している間にこんな事態になっていようとは!! よもやよもやだ!!」

「煉獄さん!」

「氷室少年! 先に起きていたのか!」

 

 この場において誰よりも強い男が目を覚ます。

 赫き炎刀を構えるや否や、凍っていない部分から伸びてくる肉の腕を叩き切る杏寿郎は、そのまま状況を確認するように辺りを見渡した。

 

「ふむ! なるほど!」

「煉獄さん!」

「皆まで言わずともよし! 付いてこい!!」

「はい!!」

 

 刹那、二人は黒い影となって車両を駆け抜けていく。

 後方の車両から前方の車両へ。道中、蠢動する触手と化す壁や天井に斬り込みを刻むのも忘れない。

 数秒の間だった。あっという間に誰かの姿が見えたと思えば、それは黒刀を振るう炭治郎であった。

 

「煉獄さん! 氷室さん!」

「竈門少年! 君は氷室少年と猪頭少年と共に鬼の頚を探せ!」

「えっ!?」

「俺は後方五両を守る! 残りの三両は明松少年と黄色い少年、竈門妹に任せる! 東雲少女は屋根の上から汽車全体を斬り回っているからな!」

 

 それだけ伝え、宣言通り後方五両を守りに向かう杏寿郎。

 流石にもう少し分担してもいいのではないかと考える凛であったが、彼はやると言ったらやる人間だ。

ここは全幅の信頼を置き、自分の役目を全うするべきだろう。

 

「聞こえていたかい、伊之助君!!」

『うるせえぇ、聞こえてんだよぉ!!』

「そこに居たのか、伊之助!?」

 

 凛が声を張り上げると、ちょうど真上の屋根に乗っていた伊之助が応答した。

 彼と三人で向かうのは鬼の急所。

 汽車と一体化になっている以上、頚を探すのは至難の業だろう。

 しかしながら、鬼にとっての最大の不運は、この場に居る三人が鬼の気配に敏いことだ。嗅覚、触覚、温度感覚―――人並外れた感覚が嫌な気配を感じ取る方向はただ一つ。

 

「前だ!! 煙が上がっている方!!」

『言われなくとも俺はビンビン感じ取ってたぜぇ!! 伊之助様を舐めんなっ!!』

「なるほど! 急ぎましょう!」

「うん!」

 

 匂いも熱も風で流れる中、誰よりも早く鬼の急所を探っていた伊之助が先行していく。

 彼を追う形で凛と炭治郎も前方の車両へと進んでいけば、石炭が積まれている先頭車両へたどり着いた。

 そこには眠っていない車掌が居たが、このような状況であるにも拘わらず「出ていけ!」と叫ぶ。

 

「すみません、有事なので!!」

 

 そんな車掌を押し退け、壁が蠢動する車両に乗り込んだ三人が見つめるのは、真下の床だ。

 

「おらァ!! 退け退けぇ!! 伊之助様のお通りだぁ!!」

 

 獣の呼吸 弐ノ牙 切り裂き

 

 直感のままにボロボロ刃毀れした日輪刀を振りかざす伊之助。

 荒々しい太刀筋ながらも豪快な一閃は、分厚い車両の床を斬り開いた。

 そこに収まっていたのは巨大な頚の骨だ。人間の骨と比べれば余りにも太い。丸太と見間違えそうだ。

 だが、鬼が汽車と一体化しているならば、この大きさにも納得がいく。

 

「これか!」

 

 急所が分かるや否や飛び掛かる凛と炭治郎。

 その瞬間、壁や床から浮かび上がる眼と視線がかち合った。「夢」と刻まれた瞳と目を合わせると、瞬く間に体が脱力し、意識が闇の中へと引きずり込まれてしまう。

 

(血鬼術か!)

 

 理解し、眠りに落ちるや否や目を覚ます。

 ただし瞼は開かない。視線が合うことが血鬼術の発動条件と看破した以上、わざわざ目を開いてやる義理はない。

 

 氷の呼吸 終ノ型 絶対温感

 

 視界を閉じて温度だけで辺りの状況を把握する凛は、敵の血鬼術の他に襲い掛かる腕を斬り落とす。伊之助は被り物のおかげか、眠らされては覚醒を繰り返す炭治郎とは違い、立て続けには眠らされていない。

 ならばと凛は、すぐさま炭治郎の目を手で覆う。

 

「炭治郎君!!」

「っ……は、はい!!」

「周りの目と腕は僕に任せて!! 僕が手を離した後に合図を出すから、それから君と伊之助君で頚を斬るんだ!!」

「分かりました!!」

「いいかい!? ()()()()()()()んだ!! 離すよ!!」

 

 手を離してすぐにもう一振りの日輪刀を抜く。

 流の形見だ。すっかり手に滲む柄を握り締め、彼は集中する。

 刹那、汽車の疾走する音を掻き消す呼吸音が鳴り響いた。吹雪が荒れ狂うような甲高い―――。

 

 氷の呼吸 陸ノ型 白魔の吐息

  水の呼吸 陸ノ型 ねじれ渦

 

 二つの技が車両の中をズタズタに斬り裂く。無数に伸びていた腕や眠りに誘おうと開かれていた眼も全て。

 二振りの日輪刀が振り抜かれた直後、鬼の急所が隠される車両がまったくの無防備と化した。

 

「今だ!」

「おっしゃあああああ!!!」

 

 合図通り動き出す伊之助が、先の技よりも鋭い紫電を奔らせた。

 

 獣の呼吸 肆ノ牙 切細裂き

 

 続く炭治郎の刃が間に合うように刻まれた斬撃。

 大きく露出した頚の骨だが、今だけは何物も守りはしない。

 

()()()……()()()()!!)

 

 先輩と同期が作ってくれた機会を無駄にせぬべく、振りかざす一閃に全身全霊をかける炭治郎。

 そう、全てを。

 水の呼吸も―――ヒノカミ神楽さえも。

 二つの呼吸を併せた炭治郎の一閃は、水の如く流麗に、陽光の如く燦然たるものだった。

 

 ヒノカミ神楽 碧羅(へきら)(てん)

 

 日輪を描く刃が頚を絶つ。

 

 



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弐拾参.敲氷求火

 横転している汽車。まだ鬼との一体化が解けていない部分には、依然として肉が蠢ているものの、時を待てば灰燼と化していくだろう。

 

「ふぅ……ひどい目に遭った……」

 

 線路が走らされている土手から少し離れた場所に立つ凛。

 炭治郎達が鬼の頚を斬った直後、鬼が苦しみもがいて汽車ごと暴れた際、少しでも横転の衝撃を減らそうと技を繰り出した彼の顔には疲弊が浮かび上がっている。

 しかし、同じことを考えていた杏寿郎達も居た為、横転の衝撃は最大限に留められたと言えよう。

 

「負傷者の確認をしなくちゃ……」

 

 炭治郎と伊之助は傍に居たこともあり、安否の確認は済んでいる。頭を打ち、気を失っているものの、出血はしていない。脈拍も安定していることから目覚めるのは時間の問題だ。

 となれば、一般の乗客を運び出すのが先決か。

 泣き声や呻き声が闇の中に響いてくる。きっと痛みで苦しんでいるのだ。

 死と違い、苦痛は想像できてしまう。今尚苦痛にもがく人々を助ける為には、一刻も早く手当をしてやるべきだ。

 

 凛も軽い応急手当ができる道具は持ち歩いている。

 流が死んで以降、手当の術はカナエ等から教えてもらい、どこにでも携えていくようにしていたのだ。

 流石に三百人もの乗客を手当てできる量ではないが、ないよりはマシだろう。

 

「まあ、兎にも角にも……」

 

 せっせと乗客を運び出す凛。

 ほとんど無傷で済んでいるような者も居れば、打撲や出血で苦しんでいる者も居る。中には意識を失っている者も居るが、幸いにも命にかかわりそうな怪我を負っている者は見られない。

 乗客を人質にとっては幸福な夢で手玉に取ろうとした鬼と、それに立ち向かった七人の剣士。勝利した側が後者であり、尚且つ犠牲が出ていないのだから、劇的としか言いようがない。

 

(後は隠の到着を待って……)

 

 一通り状況把握が済めば、遠くから足音があっという間に近づいてくる。

 

「うむ! 無事だったようだな、氷室少年!」

「煉獄さん、そちらもご無事で!」

 

 あれだけの事故が起きながらも掠り傷の一つも窺えない杏寿郎がやって来た。

 バンバンと肩を叩いて凛の無事を確認した彼は、「あちらで倒れている黄色の少年の手当てを頼む!」とだけ告げて、炭治郎達の下へ走って行く。

 忙しない、と言うよりも忙しない状態が常であるのが柱だ。

 気に掛けることから始まり、とうとう辿り着いて手を伸ばすまでが間に合ってしまう彼にしてみれば、時間が幾らあっても足りない。

 底抜けに面倒見がいいと苦労が絶えない訳だ。

 

(まあ、僕も人のことは言えないかな)

 

 反面教師ではなく、鏡として、あるいは鑑として杏寿郎を見送った凛は、指示通り黄色の少年―――もとい善逸の下まで駆ける。

 頭から血を流している彼の傍には、竹を噛まされた禰豆子が心配そうに彼を見つめていた。

 人の血を見て尚、鬼の本能に踊らされず、あまつさえ心配してみせるとは、やはり彼女は普通の鬼とは一線を画す存在なのだろう。

 

「ムー……」

「大丈夫だよ、禰豆子ちゃん。血は流れてるけど大した傷じゃないから」

「ムー?」

 

 「ホント?」と言わんばかりに首を傾げる禰豆子に、繰り返し「大丈夫」と笑顔で返す凛。

 彼の言葉を信じてくれたのか、彼女の心配一色だった面持ちも僅かに綻んだ。緊張が解けたのだろう。

 安堵の息を吐く禰豆子。今度は別の物が気にかかるのか、辺りをキョロキョロと見渡す。

 何を探しているのかと凛が勘ぐれば、風のようにふわりと現れる人影が、四角い箱をドサリと置いてみせた。

 

「これ?」

「ムー!」

「つむじ! 怪我はない?」

「無い。お腹空いた。弁当食べればよかった」

「乗る前あんなに食べてきたのに……?」

「八分目」

 

 緊張感のない会話のやり取りをしてくれるのは、禰豆子の根城でもある桐の箱を携えてきたつむじであった。

 お気に入りの箱を目の前にした禰豆子はと言えば、のそのそと扉を開け、こじんまりとした空間に自ら収まっていく。意味は違うが、凛の脳裏に「箱入り娘」という言葉が過る。

 

「って、ご飯は帰ってから食べてもらうとして……燎太郎は―――」

「ここに居るぞォ!!」

 

 汽車の陰から飛び出してきたのは、無論、燎太郎であるが。

 

「血塗れ!! 大丈夫なの!?」

「はっはっは! なに、汽車が倒れる時にほんの五、六人庇って、ちょっと額が切れただけだ」

「そ、そう……?」

 

 顔面にべっとりと血が付いていた衝撃的な光景を前にしては、驚かずには居られまい。

 本人曰く、額を切っただけとの談でこそあるが、見た目は他の怪我人に混ざっていてもおかしくはない。

 呼吸で既に止血しているとは言え、見た目が落ち着かない為、凛は清潔な布を取り出して彼の血を拭う。

 

「もう……心配させないでよぉ……」

「何をお袋みたいなことを」

「だって、夢から覚めたと思ったら二人がさっさと行ってたから……顔を見れて安心したよ」

「「……フッ」」

 

 ヘナヘナとしながら告げる凛に、思わず燎太郎とつむじが噴き出した。

 前者はともかく、つむじまでが噴き出すとは珍しい。

 

「何を言ってる! 俺達が勝手に死んでるタマだと思ったか!」

「心配し過ぎ」

「い、いやぁ……だって、友達だからさ」

 

 笑い飛ばしていた燎太郎も、淡々と言い放つつむじも、凛が言い放った言葉にピタリと動きを止める。

 友達だから―――面と向かってこそ言わなくなったが、確かに三人の関係に当てはまる言葉だ。

 固い信頼関係に結ばれている「仲間」でなく、「友達」ならば心配してこそかもしれない。

 苦笑を浮かべて言い放った凛を前に、若干気恥ずかしくなる二人。

 しかし、フッと頬を綻ばせては彼に応える。

 

「そうだな! 俺達は友達だ!」

「ん」

「……うん」

 

 九死に一生を得るような死闘を経て、改めて互いの関係性を確認した三人。

 これにて一件落着―――かと思いきや。

 

 轟音。

 

 まるで、間近で火薬が爆ぜたかのような衝撃と振動が地を伝ってきた。

 

「なんだ!?」

「煉獄さんの方だ……急ごう!」

「ん……!」

 

 ただならぬ気配を感じて駆け出す三人。

 鬼が出るか蛇が出るか。どちらにせよ、辿り着けば分かることだ―――否応なしに。

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――何度でも言おう。君と俺では価値基準が違う。俺は如何なる理由があろうとも鬼にならない」

「そうか」

 

 夜の帳がまだ空を覆い尽くしている。

 そんな中、杏寿郎ともう一人―――全身に刺青のような模様が奔った鬼が対峙していた。

 目が覚めた炭治郎が呼吸を忘れてしまいそうになる程、重苦しい空気が辺りに迸る。杏寿郎は勿論であるが、対峙している鬼もまた、只ならぬ強者であったかからだ。

 

(上弦の参……猗窩座(あかざ)!)

 

 瞳に刻まれた文字が知らしめる。

 十二鬼月でも百年不変の地位に座する鬼達。下弦の鬼とは別次元の強さを誇る、それが上弦の鬼だ。

 その中でも参は上位に位置する数字。

 何たる鬼気か。離れた場に居るにも拘わらず総毛立つ圧迫感は、確かに上弦と信じる他ない。つい先ほど、汽車で対峙した下弦の壱がちっぽけに思えてしまう程だ。

 隣に居る伊之助でさえ考え無しの突撃を憚っている。

 

 本能に訴える強さを有す猗窩座。彼は杏寿郎に鬼になるよう勧誘し、たった今断られたところであった。

 さして残念そうに見えない面持ち。しかし、その瞳には溢れんばかりの好奇が宿っている。

 直後、何かの武道の構えを彷彿とさせる猗窩座の足下から、雪の結晶の如き紋様が光り輝いた。

 

「鬼にならないなら殺す」

 

 刹那、猗窩座の姿が消える。

 爆音にも似た音を置き去りにして肉迫する彼に対し、杏寿郎もまた日輪刀を握りしめ、吶喊する。

 

 炎の呼吸 壱ノ型 不知火

 

 両者の攻撃がぶつかり合った瞬間、夜の静寂を貫く轟音が響き渡った。

 目にも止まらぬ速さの攻防。炭治郎の瞳には、杏寿郎が何をしているのか把握することさえできない。気がつけば地面が抉れ、音が虚空を過ぎ去っていくのだ。

 

「今まで殺してきた柱の中に炎はいなかったな。そして俺の誘いに頷く者もなかった」

 

 死闘を繰り広げているにも拘わらず、喜々として饒舌になる猗窩座は続ける。

 

「なぜだろうな? 同じく武の道を極める者として理解しかねる。選ばれた者しか鬼にはなれないというのに」

 

 口から出るのは鬼という種族への称賛。

 それは炭治郎―――家族を殺され、妹を鬼にされた者として認めがたきもの。

 当然のことながら、杏寿郎の眼光も鋭くなる。

 そのような彼に、猗窩座は嗤いながら告げた。

 

「素晴らしき才能を持つ者が醜く衰えてゆく。俺はつらい! 耐えられない、死んでくれ杏寿郎! 若く強いまま!」

 

 破壊殺・空式

 

 虚空を殴る猗窩座。すると地を蹴って走っている杏寿郎の下まで、打撃の衝撃が襲い掛かってくる。

 一撃でも喰らえば体勢を崩され、その隙を付け入れられて()られるだろう。

 応戦しようと構える杏寿郎。

 だが、その直前に一つの人影が現れた。

 

 氷の呼吸 拾ノ型 紅蓮華

 

 見えぬ弾丸を残らず叩き落す剣舞。

 これには技を繰り出した猗窩座も、「ほぅ……」と感嘆するかのような声を漏らした。

 

「お前は……」

「煉獄さん! 助太刀に入ります!」

「気をつけろ! 上弦の参だ!」

「!!?」

 

 空式を斬り落としたのは、遅れて参上した凛であった。

 肌身で感じる“熱”が普通でないことから察していたが、まさか彼も上弦が現れるとは思っていなかった。

 

(参……!)

 

 かつて流を殺した鬼は“弐”だった。

 それを踏まえた瞬間、彼の脳裏に過った考えはただ一つ。

 

(こいつを倒せなきゃ、仇は取れない……!)

 

 “参”を倒せなければ“弐”は倒せない。単純な話だ。

 しかし、私怨は程々に抑えて猗窩座を見据える。

 そうこうしている間にも燎太郎とつむじも駆けつけ、鬼殺隊側の戦力は一気に増えた。

 突然の上弦の鬼の襲来にも動じず日輪刀を構える継子三人。

猗窩座は力を推し量るように彼等をねめつけては、一気に距離を詰めた。

 

「その太刀筋、杏寿郎の弟子か何かかっ!?」

 

 彼が狙ったのは、まず凛だった。

 空を殴りつける速さの拳は、並の鬼狩りであれば反応することさえままならず、体を穿たれる威力を孕んでいる。

 しかしながら、猗窩座の視界に映ったのは、頭部が吹き飛ぶ凛などではなく、鈍い緑色の光を放つ刀身。

 

「疾っ!!」

 

 一瞬の間に凛の前へ躍り出たつむじが、猗窩座が腕を振るった側の脇へ刃を滑り込ませていた。鬼の頑強な肌に食い止められることもなく、刃はするりと肉を裂き、骨を断っては腕を斬り飛ばす。

 これで攻撃は無力化された。

 そこへ続けざまに燎太郎が豪快な一振りで、猗窩座の両脚を斬り飛ばした。

 体勢が崩れる。

 と、まるで倒れる方向が分かっていたかのように正確な斬撃が、猗窩座の頚へと振り抜かれた。

 

 氷の呼吸 壱ノ型 御神渡り

 

 炭治郎達からすれば、瞬き一つする間に繰り広げられた攻防だった。

 猗窩座の速さは勿論であるが、彼に合わせて咄嗟に連携する三人の動きは、驚愕や感動を超えて恐怖に値するものがある。

 

 それでも刃は―――。

 

「いい動きだ」

 

 片脚しかない猗窩座が、限限のところで残った片腕で虚空を殴り、一閃を潜り抜けた。

 凛の斬撃が惜しくも空を斬る間、片腕両脚を再生した猗窩座は、そのまま飛び退き、微かに血が流れる頚を指でなぞる。

 

「その闘気……今まで殺してきた柱に匹敵する。素晴らしい……素晴らしいぞ! 杏寿郎、お前も! よくぞこれほどまでの闘気を持つ弟子を育て上げたものだ! やはりお前は鬼になれ! お前という才能を無駄にしたくはない! どうだ、お前達も」

「ねえ、()()五月蠅い」

「聞かなくていい。鬼の戯言だ」

「いいや……戯言以下の侮辱だよ」

 

 つむじ、燎太郎、凛の順で猗窩座の言葉に辛辣な感想を述べる。

 よもや、鬼になれと勧誘を受ける等と思っていなかったが、いざ誘われてみると不快感で吐き気を催すものだ。

 温厚な凛でさえも、今は修羅の形相を浮かべて猗窩座を睨みつけている。

 さも当然のように四肢を再生する鬼。奇しくも、()と同じ場所を失ったというのに、尋常でない速度で再生され、今ではその事実の見る影さえない。それが大層彼の癇に障った。

 

「平静を保て」

 

 昂る三人に向け、冷水のように激情を冷ます落ち着いた声が紡がれた。

 

「敵は上弦だと言った。一瞬の隙が命取りだぞ」

「……はい!」

 

 鬼狩りが鬼への憎悪で冷静さを失ってやられることは少なくない。

 柱でさえそうなのだから、杏寿郎は強く念を押した。

 だが、猗窩座にとって死んだ者に固執するのは愚劣で無価値な行為でしかなかった。

 

「どうした、お前達は鬼に誰かを殺されたクチか? 殺された弱者等に構うな!! 俺に集中しろ!! 全力を出せ!!」

 

 唯一価値があるとすれば―――生き残っている強者の力を引き出す礎に利用するくらいか。

 

 三人の目の色が変わる。

 風一つ立たない水面のようでありながらも、猛々しく燃え盛る怒りの炎が宿るかのように。

 

「俺が先行するっ!!」

 

 赫怒に満ちる三人の前へと躍り出る杏寿郎が、飛び込んできた猗窩座と斬り合う。

 熾烈な殺し合い。一瞬の隙を晒すことも許されない戦場の中、彼等の動きに付いて行ける三人は、ある時は互いを援護し、ある時は己が前に出て猗窩座と斬り合う。

 四対一。数だけであれば杏寿郎側に軍配が上がる。

 しかし、

 

(何たる戦いぶり……修羅め!!!)

 

 率先して猗窩座の前へ出る杏寿郎が、心中で驚愕する。

 彼も上弦の鬼と相まみえる経験は初めてだ。自他共に認める腕の立つ剣士―――その自負には慢心も傲りもない。

 だが、こうまで通用しないものか。

 自分や継子が隙を作り、誰かが攻めに打って出たとしても、猗窩座は躱すか受け流してみせる。間もなくすれば傷も完治し、何事もなかったかのように嗤う。こんなふざけた話があるだろうか。

 

 基本、一人で鬼と戦う機会が多い鬼殺隊であるが、組織内でも炎柱とその継子の連携は最も統制されているとされている。

 事実、長年時を過ごした四人は言葉を介ずとも、各々の動きから次の動作を予想し、効率よく攻め入れるだけ呼吸を合わせられる。

 そんな四人でさえ、猗窩座という修羅の頚を一つとることさえままならない。

 

「おおおおおっ!!」

 

 吼える杏寿郎が炎虎を繰り出し、猗窩座の破壊殺・乱式と打ち合う。

 互いの援護の甲斐あって致命傷こそ避けているが、四人の体は猗窩座によって打ちのめされていた。

打撲は数えればキリがない。骨にもいくつか罅が入っていた。激痛が体を蝕み、感覚を鈍化させる一方で、死の予感をより強く覚えさせる。

 

「それでもっ!!」

 

 今度は凛が前に出た。

 既に両方の日輪刀を構え、猗窩座の懐へと飛び込む。

 

「お前の名はなんだ!!」

「氷室……凛っ!!」

「そうかっ!! 凛!! 俺も長年鬼殺隊を屠ってきたが、二刀流の剣士とやり合うのはお前が初めてだ!!」

 

 振り上げられる刃。それは寸前で上体を反らした猗窩座の胸板を軽く斬りつけるが、その程度なら瞬く間に癒えてしまう。

 実際、傷には構わず猗窩座は拳を振るう。

 凛の側頭部を殴りつける軌道。

 が、直前で彼も上体を反らして飛び退いた為、拳は虚空を殴る結果に終わる。

 そんな猗窩座の拳は、真下から降り上げられた刃に斬り飛ばされる。

 

「!」

 

 水の呼吸 弐ノ型 水車

 

 とんぼ返りした凛が、もう片方の日輪刀で繰り出した技。

 二刀故、一振りだけとは違う瞬間に刃が襲ってくる。

 片手で振る以上、一刀流の剣士よりも膂力を鍛えなければならない為、実戦で活躍させるのは難しい。

それでも血反吐を吐く錬磨を重ねて彼はここに居る。積み重ねた月日は裏切ることなく上弦の鬼の腕さえも奪ってみせた。

 

「やる!」

 

 感嘆の声を漏らす猗窩座。

 斬られた手を再生せんと集中すれば、凛の背後から迫って来る影が現れ、目を見開く。

 響く銃声。咄嗟に生えたで防いだが、細かい弾丸が腕や体のあちこちにめり込む。

 

「銃か……」

「シイアアア!!」

 

 さして痛がる様子も見せない猗窩座は、冷めた声音を発しながら、甲高い呼吸音を響かせつつ日輪銃を構えていたつむじを見据える。

 

 風の呼吸 陸ノ型 黒風烟嵐

 

 日輪銃で目晦ましした直後での斬撃。

 腕ごと頚をもらおうという気概のつむじは、血走った瞳を浮かべながら刃を滑らせる―――が、

 

「小賢しい」

「っ!」

「女が戦場に出しゃばるな」

 

 破壊殺・脚式 飛遊星千輪(ひゅうせいせんりん)

 

 迫るつむじに対し、上へ向かって蹴り上げる猗窩座。

 黒風烟嵐と交差する形で繰り出され、両者は互いに直撃を免れようと体を逸らしたものの、辛うじて蹴りを受け止めたつむじが吐血しながら後方へと吹き飛ぶ。

 

「ごぶっ……!!」

「つむじ!!」

「これで邪魔者はいなくなったな!! 男の死合(しあ)いに女はいらん!!」

「貴様ぁ!!」

 

 つむじを傷つけられ、激昂する燎太郎が背後から斬りかかる

 

 炎の呼吸 伍ノ型 炎虎

 

 破壊殺・脚式 冠先割(かむろさきわり)

 

 虎を彷彿とさせる苛烈な斬撃。

 それを蹴り上げて弾き飛ばす猗窩座は獣のように鋭い笑みを湛える。

 

「違うか? 小物まで用いらければならない弱者等……武を極める者として無粋とは思わんか!?」

「鬼が武を語るか!!」

 

 攻撃を弾かれても尚怯まぬ燎太郎は、猗窩座の傍で備える凛と共に、挟撃を仕掛けようとする。

 だが、まるで分っているかの如く動く猗窩座は、肉迫されるより前に技を繰り出した。

 

 鬼芯八重芯(きしんやえしん)

 

 炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり

 

 氷の呼吸 玖ノ型 銀花繚乱

 

 それぞれ左右に四発繰り出される打撃。

 負けじと技を繰り出して対応する二人だが、その頬には冷や汗が伝う。

 

(どこに目がついているんだ!? まるで全部見透かされているような……!!)

(まるで近づけん!! いや、それよりも……!!)

(こっちの動きに!!)

()()()()()()()!!)

 

 明らかに猗窩座に動きを読まれているように、先回りされるのだ。

 それでは折角の連携も功を奏しない。

 時間を経れば動きに慣れられ、その一方ではこちらの体力が尽きていくばかり。なんとふざけた戦いか。

 だが、理不尽には慣れっこだ。

 

「おおお!!」

「!」

 

 水の呼吸 肆ノ型 打ち潮

 

 打ち潮を繰り出す凛。

 だが、ただの打ち潮ではなく、左右の日輪刀を持ち換えてからの一撃だ。これまでの戦いで水の呼吸が短刀から繰り出されると覚えた猗窩座にとって、間合いが急変する事態は意表を突く行動であった。

 尋常ならざる反射で避けようと試みるも、身体のあちこちに斬撃が入る。

 

 血に濡れる日輪刀を振り抜いた凛。

 明らかに息が荒れてきているが、その動きの繊細さが乱れることはない。

 ギラリと光る眼光は、依然猗窩座を捉えたままだ。血管が浮かび上がるほど握りしめた手にさらなる力を込める彼は、息をする間も与えんという気迫を発しながら、太刀を返す。

 

 水の呼吸 拾ノ型 生生流転

 

 一撃目よりも二撃目が、二撃目よりも三撃目が。

 回転を増す度に威力が上がる水の呼吸の奥義を繰り出す凛は、応戦する猗窩座に絶えず斬撃を繰り出していく。

 激しい絶技の応酬。

 それでも彼を倒すには至らず、攻防を潜って抜けてくる攻撃が掠り、凛の体から血が溢れていく。

 

「ぐぅっ……!!」

「称賛しよう!! その気迫!! その精神力!! だが悲しいかな、人間は脆い!! すぐに衰えては死にゆく不完全な存在だ!!」

「驕るな!! 鬼とて生命(いのち)だ!! 死にゆくだろうに!!」

 

 再度、凛と挟撃を仕掛ける燎太郎が叫びながら刃を振るう。

 水の龍と炎の虎。

 吼える二人の刃―――しかし、修羅の如き強さを誇る猗窩座には届かない。

 

 破壊殺・砕式 万葉閃柳(まんようせんやなぎ)

 

 猗窩座の振り下す拳が地面を砕く。

 その衝撃に体を煽られた二人は、決死の攻撃も虚しく、強引に彼から放されてしまった。

 それでも彼に近づく影が一つ。猗窩座の瞳には、未だ赫々と燃え盛る炎を幻視させる闘気を放つ男だ。

 

「猗窩座!!」

「お前もそうは思わんか、杏寿郎!!」

 

 杏寿郎の斬り下ろしと猗窩座の突き上げた拳が衝突する。

 そのまま他者を寄せ付けぬ熾烈な死合いを披露する二人。一歩でも間合いに入れば死ぬ。そうした雰囲気を辺りに振り撒く程、彼等から放たれる闘気と鬼気は火花を散らしていた。

 

「何故弱者を守る、杏寿郎!! 弱者は須らく淘汰される存在だ!! お前が守ろうともいずれは死ぬ!! 必ずな!! それを守って何の意味がある!? 何の価値がある!?」

「彼らは誰かの大切な人だ!! 守る道理はあっても守らぬ道理はない!!」

「無情だな!! 弱者を生き永らえさせるよりも、お前のような強者が力を高めることこそ価値のあるものだ!! 何故それがわからん!?」

「くどい!! 俺と君とでは価値基準が違うと言った!!」

 

 少しでも継子三人を休めさせようとしているのか、杏寿郎は三人から離れるように動きつつ猗窩座を相手取る。

 その代償として、彼の体にはみるみるうちに傷が増えていった。

 それでも止まらない。止まり等しない。

 これほどまでに激しい死闘の中、彼の脳裏に過っていたのは、どう動くべきか、どうすれば倒せるか等よりも、亡くなった母の言葉だった。

 

「俺にとって!! 人を傷つける力に価値はない!!」

 

 血反吐を吐きながら叫ぶ。

 心を燃やす。母の言葉を燃料に。

 

「力とは!! 弱き人を守る為にある!!」

 

 特大の轟音を響かせては猗窩座を押し返す杏寿郎。

 肋骨には罅が入り、内臓が傷ついて口から血が溢れているものの、微塵も闘志が消え失せた様子はない。

 

「―――それが俺の責務だ。弱き人を守ることこそ、俺の……俺は責務を全うする!!」

 

 赫き炎刀を構える杏寿郎が吼える。

 肌を焼き尽くすような闘気を放つ彼に、距離を取っていた猗窩座も自然と口角が吊り上がる。

 互いに次の一撃の為に構えた。

 杏寿郎は、炎の呼吸が奥義“煉獄”を繰り出す為に。

 猗窩座も途轍もない鬼気を迸らせて力を溜めたが、彼と杏寿郎とでは強さ以上に違うものがあった。

 

「おおおおお!!!」

「チッ……俺と杏寿郎の戦いに水を差すな!!!」

 

 猗窩座に斬りかかる燎太郎。

 千寿郎から贈られた羽織を投げつけ、視界を遮るようにして渾身の一閃を振るう。

 羽織を斬り裂きながら猗窩座を両断せんとする刃。

 それでも、まるで剣閃が分かっていたかのように動く猗窩座が、拳を横に振るって刃を折ってみせたではないか。

 なんたる神業。これには燎太郎も目を見開く。

 

「なっ……!?」

「失せろ!!」

 

 破壊殺・脚式 流星群光(りゅうせいぐんこう)

 

 刃を失った燎太郎目掛けて連続蹴りを繰り出す猗窩座。

 腕で防ごうとするも、鬼の蹴りを前にすれば紙同然の防御だ。骨が折れる鈍い音を響かせながら、燎太郎は後方へと吹き飛ばされる。

 

「ごはっ……!!」

「フゥー……っ!?」

 

 しかし、一人退けて息を吐いた猗窩座が腹部に突き刺さる暗剣に気がついた。

 一体どこから―――辺りを見渡せば、肩で荒々しく息をするつむじが、ギラついた瞳をこちらへと向けていたではないか。

 

「女……!!」

「……ふん」

 

 つくづく癇に障る真似をする剣士だ。恐らく、羽織で視界を遮られた隙に投擲したのだろう。

 感嘆すべき連携だが、忌々し気に吐き捨てる猗窩座は今度こそ杏寿郎へ向かい立とうする。

 刹那、グラリと視界が揺らいだ。

 

(なんだ、これは……?)

 

 初めての感覚だった。

 間もなく回復するだろうが、腹部から血の臭いに紛れて香ってくる忌々しい匂いには覚えがある。

 

(藤の花の匂い……毒か!!)

 

 ギリ、と歯噛みする。

 暗剣に塗られていた藤の花の毒が効いたのだ。上弦の鬼にとっては短時間で解毒可能であるが、毒にやられた事実以上の苛立ちが、彼の胸の内には湧き上がっていた。

 

 毒。女。血の臭い。やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ―――。

 

「邪魔だ……俺の中から消えろおおおおおっ!!!」

「はああああ!!!」

 

 錯乱したように絶叫する猗窩座。

 今までと様子が違いを見せる彼であるが隙だらけだった。

 燎太郎とつむじが必死に作った隙を無駄にせぬ―――そして杏寿郎へと繋ぐ為、凛は極限まで感覚を研ぎ澄ませる。

 嗅覚はいらない。聴覚もいらない。味覚は当然の事、必要のない感覚は全て()()()

 そうしてこそ、この一閃が完成するのだ。

 だが、猗窩座も黙ったままでは居ない。

 

「退けろおおおおお!!!」

 

 凛を退かし、強引に押し通ろうとする彼は、毒でグラつく視界の中で飛び出した。

 杏寿郎へ放つ拳を振り翳す動作で凛を押し退ければいい。

 人間等、その程度で十分だ。

 線となる景色の中、黒い隊服に身を包む剣士を横切ろうとした瞬間、思考していた通り腕を振り翳すついでに横へ薙ぐ。

 

(―――手応えがない)

 

 まるで空を切ったかのような感覚。否、この軽さは―――。

 

(腕が……無い! 斬り落とされた!!)

 

 振り翳した腕の肘から先がない。

 骨が露わになっている断面からは血さえ溢れていない。

 

「馬鹿な!! 今の一瞬で!!」

「フゥゥゥウ……!!」

 

 驚く猗窩座に対し、凛は血の滴る刃を振るう。

 

 氷の呼吸 零ノ型 零閃

 

 刹那に閃く反撃で鬼の腕を斬り飛ばされ、僅かながら猗窩座は冷や汗を掻く。

 何故ならば、目の前から構えていた杏寿郎が奥義の準備を終え、こちらに向けて走り出したからだ。

 だが、まだだ。腕を斬り飛ばされたとしてもすぐに―――。

 

(……しない。何故再生しない!?)

 

 待てども待てども腕が再生することはなかった。

 ハッと断面を見れば流血さえしていない。それどころか凍りついていたのだ。

 

(これは!?)

 

 鬼を凍らせる凛の血液“凍血(とうけつ)”。

 猗窩座が流血していないにも拘わらず、先ほど彼が刃を振るったのは、己の血をたっぷりと刀身に滴らせていたからだ。

 別の意味で赫く染まる刀身に斬られれば、鬼自慢の再生能力も形無しと化す。

 

「チィ!!!」

 

 数秒に満たぬ攻防。だからこそ、一瞬の隙が命取りと化す。

 腕に再生に手間取り、あまつさえ再生が叶わなくなった腕では攻撃も糞もない。

 しかしながら、強引に突破して肉迫した以上、相手の間合いに入ってしまった。

 受けて立たなければならない。炎の呼吸の奥義を。

 猛る闘気を前にして、猗窩座が出来ることは身構えるのみ。

 

「うおおおお!!!」

「―――っ!!!」

 

 

 

 炎の呼吸 奥義 玖ノ型 煉獄

 

 

 

 業火が爆ぜた轟音が辺りを駆け抜ける。

 見ていた誰もが息を飲む一瞬。激突した両者の間には砂煙が舞い上がり、上手く様子を窺うことさえできない。

 

「げほっ! 煉獄さん! 煉獄さん!?」

 

 安否を確かめるよう必死に声を上げる炭治郎。

 次の瞬間、砂煙を突き破るようにして人影が抜け出してきた。

 

「猗窩座!?」

「……屈辱だ。俺はかつてこれほど業を煮やしたことはない……!!」

 

 着地する猗窩座は、側頭部が抉れていたり、もう片方の腕が斬り落とされていたりと、散々たる姿を晒している。

 だが、それ以上に彼が許せないものがあった。

 無粋な小道具や毒を用い、己の戦いを邪魔した剣士―――。

 

「女あああああっ!!!」

「東雲少女!!!」

 

 猗窩座に遅れて杏寿郎が砂煙から現れる。

 彼もまた少なくない傷を負っているが、それ以上に鬼の標的がつむじへと移ったことを焦っていた。

 

「っ……!」

「つむじぃ!! 逃げろぉ!!」

「伊之助!! 東雲さんを守るぞ!!」

「っ、任せやがれええええ!!」

 

 杏寿郎よりも彼女に近い場所に居た凛が駆け出し、遅れて炭治郎と伊之助も動く。今まで静観するしかできなかった彼等だが、負傷してロクに動けない者を救う為であれば、命を賭ける覚悟があった。

 四人が猗窩座からつむじを守るべく走る。

 しかし、人間よりも鬼の方が足は速い。瞬く間につむじと距離を詰めていく猗窩座は、杏寿郎へ撃ちそこなった一撃を、腹いせとして繰り出さんと力を溜めた。

 

「……どうせ逃げられない」

 

 迫りくる猗窩座を前に、腹を括ったつむじが刀を構える。

 そして、

 

 

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ

 

 

 

 破壊殺・滅式

 

 

 

 真正面からぶつかり合う攻撃。

 再び巻き起こる砂煙を前にしても足を止めない四人はそのまま突き進むどころか、凛に至っては自ら視界を晴らそうと技を出す。

 

 氷の呼吸 拾壱ノ型 白姫散華(しらひめさんげ)

 

 辺りを振り払う連閃。

 強引に開く視界。その先に佇んでいたのは、血塗れた拳を眺める猗窩座と、地面に赤い模様を残して倒れているつむじ。

 暗くてよく見えないが、脇腹辺りから溢れ出る液体は、ドクドク、ドクドクと留まることを知らない。

 

 血の臭いが―――鼻をつく。

 

「―――っ!!!!!」

 

 慟哭に似た絶叫を上げて斬りかかる凛。

 しかし、超絶的な反射神経で反応する猗窩座は、難なく彼の斬撃を回避してみせた。

 それどころか、避けた先で倒れたつむじを鼻で笑っては、こう告げる。

 

「これで邪魔者は消えたな」

「おおおおお!!!」

 

 斬撃は虚空を断つだけだが、続けざまに返す太刀で攻めかかる凛は叫ぶ。

 

「お前を……斬る!!!」

「やってみせろ!!!」

 

 朝日が昇るまで、まだ時間がある。

 鬼殺隊が殺されるのが先か、鬼が滅殺されるのが先か。

 はたして勝敗の行方は―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――ピクッ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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弐拾肆.被星戴月

 

(東雲さんはどうなったんだ!? この音はもう誰かが猗窩座と斬り合っているはずだけれど……!!)

 

 砂煙を突き破るように走る炭治郎。

 依然として視界は不明瞭であるが、大気を伝わって響いてくる振動で戦闘の有無は感じ取れる。

 

「ぐッ!?」

 

 一際激しい振動が体に襲い掛かり、思わずたじろいでしまう。

 同時に砂煙も晴れ、視界が澄み渡った。

 夜明けまであと少し。やや白んできた空の下、死闘を繰り広げているのは凛と猗窩座だ。つむじがどうなったかと入念に見渡せば、地面に倒れている姿が目に入った。

 

「っ……!!」

 

 ギリッと歯軋りの音が鳴り響く。

 体に力を込めれば、体中のあちこちが痛むが関係ない。

 

(どうにかして、俺も援護を……!)

 

 並走する伊之助と共になんとか助太刀できないものか。

 今の今まで静観することしかできなかったとはいえ、そのお陰で当初追い付かなかった目も微かにだが動きを捉えられるようになった。

 夜明けまでもう少しとは言え、猗窩座という鬼を前にして日の出を待つなどという悠長な真似をする訳にはいかない。

 体が追い付くかは分からないが、それでもやらなければならないのだ。

 

 黒刀の柄を握りしめ、いざ大地を踏み抜こうとした、その瞬間。

 

「待機!!」

「っ、煉獄さん!?」

 

 突き抜ける大声を発する杏寿郎にたたらを踏んでしまう。

 

「君らは東雲少女を頼む!!」

「っ……はい!」

 

 端的な指示を飛ばし、凛に加勢する杏寿郎。

 すでに満身創痍であることは見て取れる。炭治郎の鼻は、彼のむせ返るような血と汗が混じった匂いを捉えていた。

 それは命の匂い。一滴まで絞り出される生命の雫。

 柱が命を削りながら刀を振るっても限限以上に瀬戸際な死闘を繰り広げなければならない相手なのだ。

 それでも杏寿郎は助太刀ではなく負傷者の救護を求めた。

 ならば、応えるしかないではないか。

 

「伊之助!!」

「っ、~~~!! 分かるっきゃねえだろうがよおおおッ!!」

「すまない!!」

 

 猪突猛進な伊之助が覚悟を決めた上で飛び出したにも拘わらず、振り翳した刀を収めた。

 血が滲むほどに柄を握る伊之助。猪頭で表情こそ窺えないが、体の震えや滴り落ちる血が、彼の悔しさや怒りを如実に表していた。

 杏寿郎の願いや伊之助の怒りを無駄にしない為には、早々につむじを安全な場所まで運ぶしかない。

 

「いいか、伊之助! そっと運ぶぞ!」

「あぁん!? 俺はどう持ちゃいいんだ!?」

「俺が運ぶから背中を守ってくれ!」

「おっしゃあ!」

 

 万が一に備え、伊之助を護衛に回す炭治郎。

 だが、つむじを背負った瞬間、背後から途轍もない鬼気を感じ取った。

 

「弱者など構うな!!」

 

 そう吼えるのは、無論、猗窩座であった。

 未だに炭治郎達を気に掛ける杏寿郎に業を煮やしたのだろう。凛と杏寿郎の二人との剣戟を繰り広げていた彼は、一旦距離を取るように飛び退くや否や、炭治郎―――もとい、彼等の向かう先に居る乗客ごと屠ろうと力を溜める。

 

(まずい!!)

 

 刮目する杏寿郎は、咄嗟に猗窩座が繰り出そうとする技の射線上に入る。

 回避に徹すれば生き永らえるかもしれないが、それでは後輩や乗客を犠牲にしてしまう。

 

(氷室少年は一人で動ける!! 俺は―――!!)

 

 守りに徹する。

 

 刹那、杏寿郎は爆ぜる花火を幻視した。

 それは猗窩座が繰り出す拳の連撃が生み出す光景。

 

 破壊殺・終式 青銀乱残光(あおぎんらんざんこう)

 

「オオオオオッ!!!」

 

 炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり

 

 途轍もない範囲、そして破壊力。

 柱として鬼の攻撃に慣らした瞳でさえ、捉えるのが容易ではない神速の乱撃だ。

しかし杏寿郎は、自分に当たる攻撃以外の撃墜に専念する。自身に命中する拳は、己を盾にすればいい。甘んじて受け止めよう―――異常とさえ思える責任感を源に、彼は刃を振るった。

 

 肉を穿たれようと、骨を穿たれようと。

 

「あああああああ!!!」

 

 まさに鬼気迫る形相で刃を振り続ける。攻撃の余波の一片さえも後ろに逃さぬと言わんばかりに。

 命を容易く踏みつぶす拳撃を、怒涛の攻めを以て斬り落とした杏寿郎。

 最後の一撃を叩き切った瞬間、悪鬼滅殺と刻まれた赫刀は、苛烈な暴力を遮る盾としての役目を終えるかの如く、(きっさき)から柄尻まで刀の原型を留めぬ程に粉々と化した。

 

「煉獄さん!!!」

「ギョロ目ぇ!!!」

 

 炭治郎と伊之助の悲鳴に似た声が空を衝く。

 

 唯一形を保っているのは、揺らめく炎を象った鍔ぐらいか。

 だがしかし、それこそが彼の生き様を象徴している。

 その身を打ち砕かれようと、精神は、心は砕かれやしない。

 

(俺は、俺の責務を……)

 

 朦朧とする意識をなんとか保ちながら、猗窩座へと目を遣った。

 すると、最早戦える体ではなくなった自分に代わり、悪鬼羅刹へと立ち向かう人影がはっきりと窺える。

 

「君は、君の責務を果たせ……氷室少年!!」

 

 血反吐を吐きながらの激励を送った。

 その言葉に背を押されるよう奔る凛は、たった一人で猗窩座に対峙する。

 

「はああああ!!!」

 

 既に凛も満身創痍であるが、激痛に苛まれる体に鞭を打って刀を振るう。

 極限まで感覚を研ぎ澄ませろ。

 いらない感覚は捨て置け。

 痛みなど感じぬ程に―――。

 

(痛くない)

 

 言い聞かせるように念じる。

 瞬きすら惜しい刹那の攻防の中、拳が頬を掠めて皮が抉られても、痛みに揺らぐことのない凛は反撃した。

 

(痛くない)

 

 痛覚が鈍化していく中、呼吸は加速度的に研ぎ澄まされていく。

 時間がある日であれば、日に六万と刀を振った成果が発揮できたと捉えるべきか。

 水面斬り、御神渡り、水車、搗ち割り、雫波紋突き、氷瀑、流流舞い―――怒涛の剣舞は終わることを知らない。

 

(痛くない)

 

 顔面を貫こうとする拳に対し、膝を折るようにして上体を反らし、両手の刃を交差させて斬り落とす。

 この時、僅かに猗窩座の顔に驚きが滲んだ。

 鬼と違い、人間の体力は有限。これほどの長時間戦っていたとなれば、自分の方が優位に立てるはず。

 にも拘わらず、この人間は食い下がる。否、喉笛を食い千切ろうと果敢に攻め込んでくる―――それこそ互角以上の戦いを演じて、だ。

 

(こいつは一体……)

(負けない)

(どこにそんな力が……!)

(絶対……負けない……!)

 

 目を覆いたくなるような凄惨な戦いぶりを見せる凛。

 一方猗窩座は、一度彼の血液に染まる赫刀の餌食になった経験から、腕を斬られるや否や飛び退き、もう片方の拳で凍結した断面を殴り飛ばす。

 そうして凍結部位を剥がしては再生するのだ。

 当然ながら人間の血液は有限だ。彼が止血の呼吸を会得しているとは言え、斯様に絶え間なく流血して戦っていれば、いずれは失血で死に至ることになるだろう。

 

 それでも、血の華を咲かせて刀を振るう彼の姿は流麗だった。

 敵ながら見惚れてしまうくらいに。

 

「惜しいな、凛!! やはりお前は鬼になれ!! 俺と永遠に戦い続けよう!!」

「どうして?」

「決まっている!! ()()()()()に踏み入る為だ!!」

「それに何の価値があるって言うんだ」

 

 淡々と応答する凛の一言に、猗窩座がピタリと止まる。

 

「……なんだと?」

「お前はその至高の領域っていうのを崇高なものみたいに思っている。けれど、僕にはなんの価値も感じない……そう言っているんだ」

「馬鹿を言え。武を極める者ならば切望しないはずがない。鬼殺隊(おまえたち)も求めているのだろう? 力をだ」

「力は、ただ力だ。価値は……もっと別のところで生まれる」

 

 失血死寸前の風貌を晒しながら、ひどく冷静に彼は続ける。

 血に濡れた隊服は朝の冷え込んだ空気に晒されて冷たくなっているが、凛は掌に触れる血に、それ以上の熱さを覚えていた。

 

「弱い自分を我慢しながら努力して得た力は、結果とは違う素晴らしい価値がある」

 

 ピクリと、血管が浮き出した。

 

「誰かを守る為に振るう力は、強さや弱さに関係なく愛おしい価値がある」

 

 拳を握る乾いた音が響く。

 

「死んでしまった人の想いを繋いで継がれる力には、それだけ……たったそれだけで尊い価値がある」

 

 苛立ちと赫怒に燃える炎の()が奔る。

 それは呼吸を荒げる猗窩座のものだった。

 あれだけ熾烈な死闘を演じた凛の息が穏やかな一方、呼吸さえ必要のない鬼が息をせききっている様は奇妙という他ない。

 何が猗窩座をここまで憤らせているのか―――本人でさえあずかり知らぬ逆鱗を逆撫でする凛はトドメに告げる。

 

「だけど、僕にとって人を傷つけるだけの力に価値なんてない。無価値以下だ。上弦の鬼は百年以上不変と聞いたけれど、なら、お前の百年に価値なんてなかった。無限の修練とやらも至高の領域とやらも全部だ。何の罪もない人の命を貪って肥やした力に……一体何の価値がある?」

「オオオオオ!!!」

 

 怒髪衝天。

 まさにそれが似合う形相を浮かべた猗窩座が、凛へ吶喊する。

 不愉快だ。これほど癇に障る剣士には出会ったことがない。

 激昂するままに拳を振るう。技でも何でもない。ただ感情に任せた一撃だ。それでも容易に命を奪うことはできよう。

 しかし、身構えた凛の日輪刀の煌きにたじろぐハメとなった。

 刀身に反射するは陽光。

 暁が迫る時刻だった。不快感とは裏腹に話へ聞き入り、平静を失ったことで失念してしまっていたのだ。

 眩い光に目が眩む。同時に早く陽光から逃げねばならないという焦燥が拳を迷わせる。

 その時、光が薙いだ。

 

「!」

「……ふぅー!」

 

 揺らいだ拳と言えど速さは凄まじかった。

 しかし、猗窩座の振り抜いた腕は宙を舞う。単純な話だった。彼の拳の速さを、凛が上回っただけだ。

 振り抜かれた刃は山の合間から差し込む朝日を反射し、猗窩座の瞳を()く。

 それが鬼として、太陽に対する恐怖を呼び起こす。

 

「チィ!!」

 

 踵を返す猗窩座が、陽光の陰になる場所へと遁走する。

 だが、その背中も今の凛にははっきりと見えなかった。

 血を失い過ぎたのだ。猗窩座が逃げ、炭治郎が何か叫んでいるものの、今の彼には遠い世界の出来事のようにおぼろげだ。

 

(―――誰かを救うことで価値を得られるなら)

 

 日輪刀に縋りつきながら反省する。

 

(彼の死が無価値にならないんじゃないか……そんな風に考えていた時期がなかったと言えば嘘になるけれど……)

 

 吐き出しそうになり血反吐を呑み込む。

 口の中に広がる血の味をしっかりと味わう目にこそ遭うが、それでも命を繋ぎ止められるなら、存分に堪能してやろうと天を仰いで飲み込んだ。

 

(そんなの……昔の僕に申し訳ない。彼が守ってくれた昔の僕に……)

 

 痛みも苦しみも噛みしめて、意地汚く意識を繋ぐ。

 

「ですよね……な……さん……」

 

 燦々と光り輝く朝日を見つめるも、気がついた時には視界が晦冥に包まれた。

 深い深い闇の中へと―――。

 

 

 

 ***

 

 

 

「少なく見積もって、全治三か月と言ったところでしょうか」

 

 淡々と、それでいて怒気を孕んだ声音でしのぶが告げる。

 柱の放つ怒気は並みではない。黙って聞いていた()()は、グルグルに巻き付けられた包帯の下で滝のような汗を流していた。しのぶは怒ると怖いのだから―――。

 

「打撲に擦り傷に骨折多数。内臓も損傷、漏れなく全員失血死寸前。一体どう無茶をしたらこうなるんですか……」

 

 しかし、途端にヘナヘナと椅子に座る彼女の声音には安堵が滲んでいた。

 それもそのはず。つい先日見送った友人や同僚が、傷だらけの襤褸雑巾のような状態で運び込まれれば、彼女でなくともこうなってしまうだろう。

 

「いやあ、面目ない!! 俺も柱としてまだまだ―――」

「静かにしてください、病室ですよ煉獄さん」

「すまない、胡蝶」

 

 溌剌とした声を上げる杏寿郎だが、しのぶに鋭い眼光を向けられるや否や、口を閉じた。

 ただ、一見では杏寿郎だと分からない。骨を固定するための添え木が、ほぼ全身に添えられた上で包帯を巻かれているのだ。左目も潰れ、今や隻眼。喋らなければ、十中八九包帯の化け物と見間違う。

 と、杏寿郎も散々たる有様であるが、他三名も彼に負けず劣らず酷い状態だ。

 

「痛い……お腹痛い……痛い……お腹が痛い……」

「痛い痛い言ってもすぐには治りません、東雲さん。脇腹を抉られたんですからね?」

「痛い……ご飯……美味しいの……いっぱい持ってきて……たくさん食べて治す……」

「お腹裂けますよ? いいんですか?」

「痛いぃ……うぅ……」

 

 特に酷いのは、四六時中激痛に悶絶して呻き声を上げるつむじだ。

 破壊殺・滅式と真正面からぶつかった彼女であるが、奇跡的に生存していた―――というよりも、

 

『当たる瞬間になんか……()()()

 

 生かされた。

 それが意図的か偶然かは猗窩座しか分からないが、彼女を死に至らしめるだけの攻撃は、猗窩座本人の手で逸らされたことにより、脇腹が抉れる重傷で済んだ。

 内臓こそ欠けてはいないが、衝撃で痛めつけられた事実に変わりはない。

 つむじにしては珍しくさめざめと涙を流すくらいには堪えている様子だった。

 

「つむじ、大丈夫だ。お前は強い子だ。我慢できる」

「もごもご」

「そこ。静かに」

 

 しかし、残り二名もどっこいどっこいだ。

 燎太郎は肋骨が数本折れ、凛も疲労骨折であちこちの骨が折れている。そうした痛みの衝撃で死んでもおかしくなかった状態に加え、多量の血を流しているときたものだ。治療にあたったしのぶとしては、ここ数日気が気がではなかったことは説明せずともいいだろう。

 

「……とにかく、全員一か月は絶対安静ですからね。何か用があっても起きないように。いいですね? 絶対ですよ?」

 

 年に念を押すしのぶは、苛立ちを隠さない足取りで廊下へ出た。

 そのまま少し歩けば、突き当りに直面する。

 しかし、道なりに進む訳でもなければ、方向転換して来た道を戻る訳でもない。

 ペタリと汗の滲んだ手を壁に当てるしのぶ。次の瞬間、彼女は膝から崩れ落ちるように壁へ寄りかかった。

 

「はぁ~~~……」

 

 彼らが上弦の鬼と交戦したと聞いた時、生きた心地がしなかった。

 いずれ相まみえる敵とは言え、いざ仲間が戦ったと分かれば、()()()の出来事を思い出してしまう。

 だからこそ良かった―――誰も死ななくて。

 四肢を失っても、戦えなくなったとしても、生きて帰ってきてほしい。今までカナヲ以外に継子として育ててきた弟子の何人もが帰ってこなかったからこそ強く願った日々が、少しでも報われた瞬間だった。

 

「本当に……どいつもこいつもよ……!」

 

 誰にも聞かれぬように声を押し殺すも、涙だけは押さえられはしなかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 無限列車での任務から一か月。

 猗窩座と戦った四人も、毎晩激痛に魘されなくなる程度には回復し、その他の者達も機能回復訓練を行えるくらい回復していた。

 

「それで炎柱の書は読めなかったということだな!」

「は、はい……千寿郎君が修復するとは言ってくれたんですが……」

「それは済まないことをした! わざわざ出向いてまでくれたのにな! 後で千寿郎にも謝らねばな!」

 

 病室の中、快活な口調で話す杏寿郎に対し、炭治郎はどこか浮かない面持ちを浮かべていた。

 理由は会話から分かる通り、ヒノカミ神楽の手掛かりになるかもしれなかった炎柱の書から情報を得られなかったから。正確に言えば、書物が読み取れる状態ではなかった故である。

 

「でも、日の呼吸がなんとかかんとかと槇寿郎さんが……始まりの呼吸って」

「始まりの呼吸?」

「なにそれ。強いの?」

「呼吸に強いも弱いもないだろう。大切なのは自分に合ってるかどうかだ」

 

 だが、まったく手掛かりがなかった訳ではない。

 書物をボロボロにした張本人である槇寿郎が、さわりだけ語った―――というより、一方的に喋っただけとのこと。

 凛とつむじは聞いたこともない呼吸に首を傾げ、燎太郎は毅然と持論を口にする。

 攻めや受けの観点から、呼吸の型に得手不得手こそあれど、結局のところは使い手の実力に依存するのが全集中の呼吸だ。

 

「そう……そうなんですね! ありがとうございます!」

「俺もまた別の機会で知ったら、その都度報せよう!」

「ありがとうございます、煉獄さん!」

 

 ペコリと一礼する炭治郎。

 その際、外行きの恰好である羽織の陰から一振りの刀が見えた。どこかで見たことのあるような鍔の形に、杏寿郎は刮目する。

 

「竈門少年! その日輪刀、さては千寿郎のでは!?」

「あ……はい! 実は千寿郎君からいただいて……」

 

 若干申し訳なさそうに眉尻を下げる炭治郎。

 彼曰く、

 

「『使わない日輪刀を持っていても仕方がない。それより世の為人の為に振るわれる方が』と……煉獄さんとの思い出の品でしょうから、遠慮しようとは思ったんですが」

 

 目を伏せる炭治郎が、神妙な面持ちで杏寿郎を見つめる。

 

「彼の想いも……無駄にはしたくない。だから受け取ってきました。もし、煉獄さんがよろしいのであれば―――!」

「いいぞ!」

「早い!?」

「千寿郎がそう言ったんだ! それはあいつが決めたこと! 俺が口だしする余地はない!」

 

 徐に炭治郎の手を掴む杏寿郎。

 厚い皮は何度も刀を振るってきた証だ。ゴツゴツとしているが、とても大きく、とても暖かい掌であった。

 

「どうか持っていってくれ! そして、千寿郎の分まで心を燃やして戦ってくれ!」

「……はい!」

 

 炭治郎は、あの戦いから己の弱さや不甲斐なさに打ちのめされたものだ。

 その度に杏寿郎が説く言葉に救われた。

 最後に告げられるのは決まって「心を燃やせ」。耳にタコができるほど聞かされたが、不思議と辟易もせず、何度も噛みしめるように心に刻もうとした。

 彼らの生き様を目の当たりにし、その一言がどれだけの重みがあるのかを理解したからだろうか。

 唇を噛む炭治郎は、そっと千寿郎から託された日輪刀―――炎を象った鍔の刀の柄を握って頷いた。

 

「はい! それと、煉獄さん……継子の件なんですが、俺は……」

「いい!」

「ええ!? ま、まだ何も言ってないんですが……!」

「君はすでに俺の継子だ!」

「えぇ……?」

 

 一か月前の返事を伝えようとしたが、満面の笑みを浮かべる杏寿郎が告げる。

 

「俺の継子と鍛錬を重ね、俺の教えを受けたのであれば……もう、君を俺の継子と呼んで過言ではないだろう」

「!」

「無論、直接俺の剣に鍛えてほしい時は遠慮せず言ってくれ! 喜んで稽古をつけよう!」

「っ……はいっ! よろしくお願いします!」

 

 感極まった様子で再度お辞儀する炭治郎。

 面を上げれば、微笑ましそうに眺めている三人と目が合い、「ふふっ!」と笑みが零れてしまう。

 ほのぼのとした陽気に包まれる病室。

 すると、音もなく炭治郎の背後から小柄な女性の人影が現れた。ただひとり、見える位置に寝転がっていた凛は、その影に笑顔を凍らせる。

 

「炭治郎君?」

「はぁあっ!? し、しのぶさん……!」

「そんな恰好して……どこまでお散歩に行ってたんです? 機能回復訓練に出られるとは言え、本調子じゃないんですよ?」

「そ、それは、そのぅ……」

 

 滝のような汗を流す炭治郎。

 彼の背後に立っていたのはしのぶだ。携えた注射の針を、彼の喉元にツンツンと笑顔で突っつく様は恐ろしい以外の感想が浮かんでこない。

 

「……それと、皆さん。どうして炭治郎君が遠出することを私に伝えなかったんです?」

「胡蝶! それはだな―――」

「煉獄さん、お静かに」

 

 有無も言わさず遮るしのぶの瞳はギラギラと燃えている。

 炎柱の杏寿郎でさえ慄く程の怒りの炎が―――。

 

「いいですか? 患者は、黙って、医者の、指示を、聞いていればいいんです。難しいことですかぁ? 子供じゃないんですから。それに報連相はしっかりしないと……」

 

 艶やかな声音と共に、甘い吐息が耳に触れる。

 しかし、一方で首筋にあてがった注射針から、栄養剤らしき液体がツーっと伝っていった。

 

「……ゴクリッ!」

 

 ぞくりと背筋を奔る悪寒に、炭治郎の顔からは血の気が引いていく。それを窺う四人の表情もまた、三者三様であれ全員が得も言われぬ面持ちであった。

 

「……やべぇ」

「しのぶが怒ってるぞ」

「あらあら。落ち着くまで皆でお茶しましょうか」

 

 偶然現場から離れており、一部始終を眺めていた善逸、伊之助、カナエの三人は、くわばらくわばらとその場から立ち去る。

 

「本当にしのぶさんには頭が上がらないよ」

「はい、よく理解しました」

 

 後に、凛と炭治郎はそう語ったという。

 




*捌章 完*


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玖章.柱稽古
弐拾伍.生者必滅


 上弦の参・猗窩座の襲撃は、鬼殺隊にとっての大きな転換点となった。

 

 数か月後、音柱・宇髄天元率いる隊員数名が、遊郭に潜んでいた兄妹の鬼―――上弦の陸・妓夫太郎と堕姫を討伐。

 さらに数か月後、刀鍛冶の里に襲来した上弦の肆・半天狗と上弦の伍・玉壺も、霞柱・時透無一郎及び恋柱・甘露寺蜜璃を筆頭に、偶然里を訪れていた隊員が、甚大な被害を出しながらも討伐に成功。

 

 二年にも満たぬ間、百年斃されなかった上弦の鬼が撃破されたのだ。

 この朗報は鬼殺隊に轟き、今日まで辛酸をなめ続けていた隊員らを勢いづけるきっかけとなった。

 

 一方、刀鍛冶の里の一件以来、鬼の出没がはたりと止んだ。

 それを鬼が怖気づいたと見るか、嵐の前の静けさと見るか。鬼殺隊の見解は―――後者であった。

 しかしながら、鬼が出ないことは巡回に回す人員を減らせるという意味でもある。

 鬼が虎視眈々と力を蓄えているのならば、こちらも力を蓄えよう。

 それはつまり、柱が隊員へ直々につける稽古の始まりを意味していた。

 

 合同強化訓練―――またの名を柱稽古。

 

 長い鬼殺隊の歴史の中でも最強と謳われる面子。

 稽古をつける対象は、柱を除く全ての隊員。

 来たる戦いに向け、地獄の柱稽古は始まるのであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 澄み渡る青空。小鳥の気持ちよさそうな囀りや木の葉の騒めきが、一層爽やかな清涼感を与えてくれる。

 そうした日柄の下、大勢の人間がドタドタと足を立てて走っていた。

 

「ひぃー!」

「ぎ、ぎぇ……!」

「こひゅー……こひゅー……!」

 

 この光景を例えるなら、“阿鼻叫喚”だ。

 上着を脱いだ体からは汗が滂沱の如く流れ落ちており、激しい息遣いの合間に大きく咳き込む音も聞こえてくる。

 刹那、風を切る鋭い音がへばっている隊員の鼓膜を殴りつけた。

 

「はいはい!! 休憩じゃねえんだよ!! 喘いでないでさっさともう一本走り込んでこい!!」

『ぎゃー!!』

 

 音柱・宇髄天元。

 元忍という鬼殺隊の中でも異色の経歴を有す彼は、“派手”を信条に長年柱として市井の人々と嫁三人を守ってきた美丈夫だ。

 上弦の陸・妓夫太郎と堕姫の討伐に際し、左目を負傷、左腕を斬り落とされるという深手を負ったため、現在では柱こそ引退したものの裏方で鬼殺隊を支える大黒柱的存在となっていた。

 

 柱稽古第一の試練は、そうした彼による基礎体力向上訓練。

 とどのつまり走り込みといった単純な内容であるが、柱から下される稽古は、大多数の隊員にとって地獄に等しい訓練量。だからこそ、冒頭の通り喘ぐ者が続出していた。

 

「はっはっは!! お天道様の下での走り込みは気持ちいいな!!」

「ん」

「……周りの視線が痛いなぁ」

 

 とある一部を除いて。

 溌剌とした声と土煙を上げて走る燎太郎につむじと凛が続いていく。

 杏寿郎の扱きに比べればなんてことはない! と宣う燎太郎につむじが首肯している。

 だがしかし、そうした彼等に信じられないものを見るような眼差しを向ける周囲に気がついた凛だけは、得も言われぬ面持ちを浮かべつつも、真面目に稽古へ打ち込んでいた。

 

「おうおう、煉獄が扱いてるだけあるな。その調子で残り十本走り込んでこい!」

『はい!』

 

 天元の課す稽古はあくまで基本的な内容だ。

 日常的に柱から稽古をつけてもらっている継子にしてみれば、慣れた訓練量に過ぎない。

 炎柱の継子三人は、早々に他の隊員より一歩先んじて訓練を終わらせることとなった。

 

「ただいま戻ってきました!」

「お疲れさん。走り込んで腹減っただろ。飯でも食ってかねえか」

「え? でも、次の柱のところに……」

「まあそんなに逸るなよ。もう日も暮れてきたんだ。時透のところにゃ明日行くってことにしてよ。俺も色々話がしてえんだ」

 

 と、誘われるがまま向かったのは給仕―――もとい、天元の嫁三人が夕餉を準備する場所だった。

 次から次へとひっきりなしに炊かれている米の香りが、実に食欲をそそる匂いを辺りに漂わせている。

 

「うわぁ、おいしそう!」

「そりゃあ俺の嫁が作ったんだからな。大事に食えよ」

 

 などと軽口を叩きながら席に着く面々。

ぱちぱちと焚き火が燃える音が耳を打つ中、口火を切ったのは天元であった。

 

「こうして面と向かって話すのは初めてだなあ。何度か煉獄の後ろをくっついてんのは見かけたが」

「意外と話す機会がないですもんね」

「そりゃあ鼻くそみてーな一般隊員と神様みてーな俺様とじゃあ、機会どころか話すの自体が烏滸がましいってもんよ」

「んあ゛?」

「つむじ、声」

 

 握り飯をたらふく頬張った口からドスの利いた声を漏らすつむじ。

 そんな彼女を宥める役目は燎太郎に任せ、凛は苦笑を浮かべてから天元に応える。

 

「だから今は対等に話してもらえる、ってことですか?」

「俺様も腰を据えてな。とまあ、偉そうに語るつもりはねえよ。先輩として世間話から相談まで何でも聞いてやるって話だな」

「ははっ、ありがとうございます」

「で、なんか聞きたいことはあるか? 稽古か? それとも―――」

「痣」

 

 遮るように言い放たれた凛の声。

 一瞬硬直する天元であったが、すぐさま気を取り直し、真っすぐに見つめてくる凛を見返す。見つめてくるのは彼だけではない。燎太郎やつむじも“痣”の一言で様子を一変させていた。

 

「それについて詳しくお尋ねできたらと」

「痣……か。煉獄からいくらかは聞いてるんだろ?」

「はい」

 

 応える凛が口にした“痣”とは、鬼殺の剣士の体に起こる謎の現象。

 上弦の鬼が討伐された戦闘。そのどちらにおいても、この“痣”が浮かび上がった剣士が勝利に大きく貢献したと言われている。

 炭治郎を始め、蜜璃、そして無一郎。現在、この三人の痣発現を確認している。

 

 鬼の紋様に似た痣の発現は、呼吸によって人ならざる力を発揮する剣士に、更なる力をもたらす。

 猗窩座との死闘以来、一層鍛錬に励んだ三人であるが、ついぞ上弦の鬼討伐の場面には出くわさなかった。

 しかし、嵐の前の静けさの如く鬼の出没が止んだ今、残りの上弦の鬼―――そして諸悪の根源・無惨を滅殺する為に、三人としては是非とも痣を発現したいと考えていた。

 

 上弦の弐(童磨)のみならず上弦の参(猗窩座)にも辛酸を味わわされた今、痣の発現は火急の案件。

 

「お願いします」

 

 深々と頭を下げる凛。

 

「……ふぅ。条件ぐらいは聞いただろ?」

「心拍数が二百。体温が三十九度以上、ですよね」

「だが、痣の発現を目下の目標にしてんのは柱だけだ。裏を返せば、柱ぐらいじゃなきゃ出せないって意味でもある」

「柱に匹敵する自負があると言えば?」

「……はっ! 嫌いじゃないぜ、そう活きがいいのは」

 

 不敵な笑みを零す天元。彼にも人を見る目はある。三人の姿を見ていれば、時期こそ違えば彼等も柱になる剣士であると評価していた。ただ、他の剣士が柱になる条件を先に満たしたり、そもそも柱の座が埋まっていたりと、不運が重なっていただけだと。

 

「ただなぁ、俺も柱合会議に直接参加した訳じゃねえ。話を聞くにしても、他の奴らより話せることはねえよ」

「そう……ですか」

「柱稽古ん中で痣出したいっっていうなら岩柱のところがいい。稽古の内容的にも都合がいいだろうからな」

「なるほど……ありがとうございます!」

 

 柱稽古の内容は以下の通りだ。

 

元音柱による基礎体力向上。

 霞柱による高速移動の稽古。

 恋柱による地獄の柔軟。

 蛇柱による太刀筋矯正。

 風柱による無限打ち込み稽古。

 岩柱による筋肉強化訓練。

 蟲柱による心肺強化訓練。

 炎柱による実戦形式の試合。

 

 水柱・冨岡義勇だけは、未だ柱稽古に参加する意志を見せず、稽古内容が定まっていないことから、現状では以上八つが柱稽古の全てとなっている。

 

「まあ、胡蝶んトコの継子みてえにちゃっちゃと進めんのもいいが、折角の柱が相手だ。色んなモン吸収してけよな」

「はい!」

 

 望むところだという気概を感じる返事。

 それを受け、天元はフッと頬をほころばせる。

 次の瞬間、彼から悩ましそうな“熱”が漂ってきた。

思わず首を傾げてしまう凛であったが、気のせいか否か判断する前に、なんてことはなさそうな面持ちの天元が、途端にニヨニヨとした笑みを浮かべる。

 

「そういやよ……お前ら、鬼殺隊に入ってから大分経つが恋仲の異性とかはいないのかよ」

「ぶっ!」

 

 不意をつく質問に、口に含んでいた米を吹き出してしまう凛。

 「汚ねえな!」と喚く天元であるが、発端は彼なのだからと抗議の視線を返す。

 

「きゅ、急にそんなこと聞いて……僕には居ませんよ」

「そうか、寂しい人生送ってんだな」

「……一体なんのつもりなんですか」

 

 恋仲が居ないくらいで寂しい人生とは、中々に癇に障る発言だ。

 思わず敬意もなくなってしまう視線を送ってしまう凛であったが、呵々と笑い声を上げる天元が語を継ぐ。

 

「なんてこたぁねえさ。鬼殺隊やってる身にしても、平々凡々な幸せも見ろって話だ。嫁の一人や二人迎えてみろってな!」

「お嫁さんは一人じゃないと揉めません?」

「幸せにしてやりゃ何人でもいいんだよ」

 

 半ば冗談気味に締めた天元。

 そんな彼を前に、凛は指にくっついた米粒を舐め取り、仄かな甘みにじっくりと味わう。

 

(お嫁さんかぁ……)

 

 自分だって普通の幸せには憧れる。

 誰かと結ばれ、結婚し、子供をもうけ、明るい家庭を築いていきたい。

 だが、知ってしまった非情な現実が、ありふれた幸せを手に掴むことに忌避感を覚えさせる。

 加えてもう一つ、重大な問題があった。

 

(出会いがないんじゃなぁ)

 

 鬼狩りは激務。

 加えて、内容が内容だ。ほとんど一般人は鬼狩りを生業としている者と交流を持たぬだろう。世界が違うとは、まさにこのことだ。

 となれば、必然的に残るのは同僚となってくるが、彼等も憎き鬼を滅殺する為に精を出している人間である。色恋沙汰に現を抜かしている暇はないと一蹴されるのがオチだ―――蜜璃は例外中の例外だが。

 

「ははっ。全部済んだら頑張ります」

「おう、そうしとけ」

 

 冗談を流すように応える凛。

 そんな彼が目を外した瞬間、天元が神妙な面持ちを浮かべたが、誰の目にも映ってはいなかった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 音柱の稽古が済めば、霞柱の稽古。

 

「―――しのぶさんからは、炭治郎君の容態も大分良くなってるって聞いてるよっ」

「そうなんですかっ。それは良かったですっ」

「そう言えば、時透君も痣が発現したようでっ」

「はいっ。まだ自在に出せる訳じゃないですけどっ」

 

 無一郎邸の道場では、絶えず木刀を打ち合う音が鳴り響く。

 現在、剣戟を繰り広げているのは凛と無一郎。二刀流を披露する凛に対し、最年少の柱である無一郎は木刀一本でなんなく応戦してみせる。

 しかし、何よりも凄まじいのは、その足捌き。互いに自分の間合いに入るよう、あるいは相手の間合いから抜けるよう立ち回る攻防は、交わしていた世間話の呑気さに反比例する苛烈さであった。

 

 床が踏み抜かれるのではないか。そうした勢いで剣戟が繰り広げられること数時間。

 

「ふぅ、このくらいにしましょうか。言ってることは最初からできてましたし。どうぞ、次の柱に行ってください」

「うん、お疲れ様でした時透君」

「いえ、僕も良い経験できましたので」

 

 足腰の動きと、筋肉の弛緩と緊張の切り替えが肝要な稽古。

 氷と水の呼吸を使い分け、二振りの日輪刀を扱う凛にとって、さほど難しい話ではなかったことから、一日に満たぬ時間で次なる柱へ向かうことを許された。

 

「おいでませ、我が邸宅へ!」

「蜜璃さん、お久しぶりです!」

「元気だったぁ~!? ささっ、上がって上がって! 美味しいパンケーキご馳走してあげるから!」

 

 迎えに上がったのは我儘な肢体を誇る大食い女子、蜜璃である。

 言われた通り、パンケーキをご馳走してもらった凛は、地獄よ称される柔軟へと取り掛かった―――のだったが、

 

「えっと……」

「どうしたの?」

「この恰好は……?」

「動きやすいでしょ?! 柱稽古の為にたくさん買って来たのっ!」

「たくさん……」

 

 着慣れぬ服装に難色を示す凛。

 と言うのも、柔軟に当たって着替えさせられた服がレオタードであったからだ。ハイカラな色合いはともかく、何より際どい。何がとは言わないが、うっかり零れ落ちてしまいそうな危うさを感じていた。

 だが、本題は柔軟。

 体が柔らかいのは、利点さえあれど欠点はない。

 謎の音楽を聴きつつ踊って体を温めてから、いざ柔軟へ。

 

「それじゃあ行っくよー!」

「ははんっ。僕って結構体柔らかいですからね」

「そうなの? それじゃあとくと拝見! そーれっ!」

「どうです?」

「わぁ、ホントに柔らかいんだねぇ! 真っすぐになりそう!」

 

 脚を押し広げる蜜璃は、感心した声を上げながら、さらに凛の股を開かせようと力を込める。

 離れぬよう手を引っ張り、ひし形を描いていた二人の脚はみるみるうちに一直線を描こうとしていた。

 

「えいっ! えいっ!」

「あの、蜜璃さん。そこらへんで……」

「あらっ? もう限界なの? いやいや、まだ行けるよ!」

「そうじゃなくて……」

「?」

「それ以上脚開いたら、スカートの中が……」

「 」

 

 ピタリと止まる蜜璃。

 数秒硬直していた彼女だったが、カァーっと茹蛸の如く紅潮した顔を俯かせれば、自身の下半身へ目を落とした。

 鬼殺隊の中でも珍しいスカートを穿いている彼女であるが、その丈の短さから、下腹部を隠すには少々心もとない。

そもそもゲス眼鏡と呼ばれる隠が下心全開で仕立てた物だ。

“あわよくば”を狙っているのだから、助平な事故が発生する可能性は否めない。

 

「……きゃあああああ、見ないで恥ずかしいいいいいい!!!」

「いえ、まだ見えてませんから……って、いだああああああ!!?」

 

 恥ずかしさの余り、凛の手を取っていた腕を引き、スカートの裾に持っていく蜜璃。

 そうなれば凛の体が引き寄せられる訳なのだから、一気に距離を縮める上半身に対し、脚で押さえられていた下半身―――脚は、一層押し広げられる形となる。

 だが、限界を超えて広げられる脚に、凛の股間は悲鳴を上げた。いや、絶叫だ。

 バキボキと変な音を立てながら百八十度を超す角度に押し広げられた凛は、痛みのあまり泡を吹いて悶絶する。

 

 蜜璃が早とちりしていたと気付いた頃にはもう遅かった。

 

「え? ……あああああ!!? ごめぇ―――んっ!!!」

「ひっ……開いちゃいけない角度に……」

 

 氷室凛、負傷。

 数日の療養を取らざるを得なくなった。

 

 そんな悲劇から三日後、次に彼が訪れたのは小芭内邸である。

 

「よく来たな、ゴミカス。甘露寺との稽古はさぞ楽しかっただろうな」

「いや……楽しいとか楽しくないとかじゃ……」

「お前の感想は求めちゃあいない。甘露寺に付きっ切りで稽古をつけてもらった身分で……!」

「いや、楽しいです! 楽しかったです!」

「何を楽しんでいる、この蛆虫めが。万死に値する……!」

 

(なんて答えれば納得するんだろう、この人)

 

 今回稽古をつけてくれる柱は、蛇柱こと伊黒小芭内である。

 一部の人間には周知の事実だが、彼は恋柱・甘露寺蜜璃に恋をしている男だ。それだけであれば微笑ましい限りなのだが、彼女と仲良くしている人間―――特に男性に敵対心を向ける部分がある。

 

 当然、継子云々で蜜璃と仲が良かった凛も彼の標的と化していた。

 

「羨ま……死ねぇ!!」

「隠すつもりもないッ!!?」

 

 障害物として数多くの木の柱が設置された道場の中、斬り合う二人。

 満足に刀を振るえぬ中、僅かな隙間を縫い、正確な太刀筋を以て小芭内の羽織を斬るまで続く稽古であるが、その間に凛は小芭内から謂れのない罵詈雑言を受け続けた。

 精神的な疲労を覚えたのは、きっと異様な太刀筋を見せる彼の刀に集中していたからだけではない。

 

 鬼気迫る小芭内の猛攻を掻い潜り、何とか稽古を終える。

 これまでの稽古の中で最も熾烈な内容だったと深く息を吐く凛であったが、この後、小芭内の癇に障った隊員が柱に括りつけられるとは夢にも思っていなかった。

 

 こうして地獄の柔軟からやって来た隊員の処刑場と化す稽古を抜け、向かった先は不死川邸だ。

 

(二人は先に行っちゃってるし……早く追い付かなきゃ)

 

 逸る想いを胸に歩を進める。

 しばらく走れば、遠方より甲高い音が響き渡ってきた。聞き慣れた音だ。木刀を打ち合う際の衝撃が、木霊となって晴天を駆け抜けている様に、凛もそっと耳を傾けた。

 それにしても激しい打ち合いだ。

 風柱との稽古は、無限に打ち込み合うと説明を受けているが、実際に見て見なくては実情が分からないというものである。

 

 さっさと目的地に辿り着く凛。

 そこで目にしたのは、

 

「うわぁ……」

 

 嵐―――否、剣士二人による剣舞だ。

 庭に敷き詰められた砂利を巻き上げながら、苛烈な剣戟を演じるのは、さらしを胸に巻いているつむじと痛々しい傷跡が目を引く胸を晒す風柱、もとい不死川実弥であった。

 周囲には気絶している隊員が伏しているが、その屍山血河が如し光景の中、二人が拮抗した戦いを見せている。

 

(いや、不死川さんが押してるかな)

 

 圧巻せざるを得ない光景を目の前にしつつ、冷静に戦況を分析する凛。

 はてさて、観戦もそこそこにして稽古に参戦しようと思った彼であるが、如何せん入り辛い雰囲気が漂っている。

 両者、共に風の呼吸の使い手。熾烈な剣戟の周りに旋風が吹き荒ぶのを幻視する凛は、どうしようものかとタタラを踏んでいた。

 

「おぉ、凛! やっと来たのか!」

「燎太郎。今来たの?」

「ちょっと厠にな」

 

 そこへやって来た人影は、良い笑顔を浮かべる燎太郎だった。

 気絶するまで打ち込むのが風柱流の稽古であったらしいが、つむじと燎太郎だけになった時、彼女きっての頼みで一対一(サシ)の勝負を始めたと言うではないか。

 その間、手持ち無沙汰になってしまった燎太郎は、急に催した尿意を発散すべく厠へ―――とのこと。

 

「それにしても凄まじいな、風柱様は! 俺もやり合っていた時は、思わず吹き飛ばされるかと思ったぞ!」

「そんな人と一対一で戦いたいだなんて、つむじも気合い入ってるなぁ」

「まったくだ、はっはっは!」

 

 朗らかに笑う燎太郎。

 彼と共に、折角だからと観戦を始める凛は、じっと実弥の立ち回りを観察する。つむじとも一味違った荒々しさ。それでいて研ぎ澄まされた剣閃は、見る者を圧倒する迫力に満ち溢れている。

 木刀であるにも拘わらず、剣閃の軌道に立ち入った砂利は切り裂かれるように砕け散っており、生身に当たれば無事で済まないのは明白であった。

 

 だが、つむじも負けてはいない。

 疾く、そして鋭い剣閃を紙一重で躱しながら、重力を感じさせぬ軽やかな動きで飛び回っては、反撃に転じている。

 同じ呼吸の使い手同士、手の内は分かり切っている可能性が高い。

 だからこそ、彼女だけの型である“疾駆狂飆”が対等にやり合う要という訳だ。

 

 それにしても激しい。

 汗を振り撒きながら立ち回る二人の動きは、ある程度鍛えた者でなければ目で追えないだろう。

 

 だからこそ、二人は異変に気がついた。

 

「……なんか、布が伸びてるように見えない?」

「残像……じゃあないな」

 

 最初こそ余りの速さに残像を幻視したかと疑う二人であったが、どうにも現実に起きている事態だと冷や汗を流す。

 次第に長くなる布。それに反比例するかの如く、肌色が視界に映り込む。

 

―――では、一体誰の?

 

「……まずいっ!! つむじのさらしが(ほど)けてきてるっ!!」

「いや、きっと不死川の兄貴の木刀が掠って切れたんだ!! このままではっ!!」

 

 観戦する態勢を解き、すぐさま加勢に赴く男二人。

 地面を蹴り飛ばせば、敷き詰められていた砂利が散弾のように宙を舞い散る。

鬼気迫る表情を浮かべながら、木刀を握り締めて駆け出して間もなく、吹き荒れる嵐の中へ彼等は飛び込んでいった。

 

「嫁入り前ぇぇぇええっ!!」

「助太刀御免っ!!」

 

―――なんて素っ頓狂なことを言ったんだろう。

 

 そんなことを思いつつも、凛と燎太郎は実弥に立ち向かった。

 

「なんだぁ、てめぇらぁ!! 急に割って入りやがってぇ!!」

「すみません!! すみません!!」

「つむじぃー!! ここは俺たちに任せろぉー!!」

「??」

 

 一対一に割り込む無粋な輩二人に激昂する実弥。

 一方、つむじは状況を飲み込めず立ち尽くしている。これでは実弥にとって格好の的でしかない。

 しかしながら、ここ一番の連携を見せる二人が実弥の前進を許さない。

 

「どけぇ!!」

「いいんですか!!? このままじゃあ取返しのつかない事態になりますよっ!!」

「何の話だってんだぁ!!」

「このままつむじを狙おうものなら、貴方を助平と呼ばざるを得なくなるっ!!」

「はぁ゛!!?」

 

 男三人の激闘を前に置いてけぼりにされるつむじ。

 そんな彼女の肩に、そっと手が置かれた。

 

「つむじ」

「真菰?」

「着替え……行こっか」

「ん」

 

 何処からともなく現れたのは水柱が継子・真菰だった。

 得も言われぬ表情を浮かべていた彼女は、一息吐いてからつむじを颱風の渦中から引き連れていく。

 

「ほんと……どうしようもないなぁ」

 

 呆れたような、それでいて微笑ましいような笑みを浮かべる真菰。

 喧騒を背に、花柄の羽織を靡かせる彼女は、束の間の平穏に―――虚実であるものの―――心が温められる感覚を覚えるのだった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 風柱の稽古は、最初こそ騒ぎになったものの滞りなく進められた。

 しかし、水を差されたことだけには不満を覚えた実弥。彼には尻を叩かれるように送り出された。

 

こうして凛は、いよいよ目的であった岩柱・悲鳴嶼行冥の下へ赴く。

“痣”を発現させる稽古―――天元には、行冥が執り行う稽古こそが都合が良いと聞いていた。

 

 現柱最強とも謳われる行冥だ。

 痣が発現していない柱の中では、彼が最も発現に近い人間だと言っても過言ではない。

彼から得られるものは、きっと多い。そもそも杏寿郎から教え伝えられた反復動作も、元々は行冥が彼へ教えたものだ。

上背のある巨躯を誇り、一見近寄りがたい雰囲気こそ醸し出しているが、柱同士の交流で親しみやすい姿を何度も拝見している。面と向かって痣について聞き出すことも、さほど難しい話ではなかった。

 

(一体何をするんだろう……?)

 

 期待と緊張が胸の高鳴りを早め、歩を逸らせる。

 彼の修行場は山の中だ。滝が流れ落ちる轟音が山中に鳴り響く中、一際()()温度を覚える場所へ赴けば、

 

「……」

 

 絶句した。

 

「ようこそ……我が修行場へ……」

 

 焙られている。

誰が?

行冥が。

 

 これだけでも目を疑う光景であったが、これに加えて、極太の丸太三本に岩を数個ぶら下げた重りを背負い中腰を維持していた。

 盲目であるというのになんたる平衡感覚―――と、感心している場合ではない。

 

(まさか……これ……?)

 

 例え國で雷名を轟かせる横綱でさえ、彼と同じ真似はできまい。

 ましてや、筋肉こそついているが体格で劣る凛は尚更だ。

 

「あ、あの……悲鳴嶼さん」

「どうかしたのか……」

「その……今、悲鳴嶼さんが行ってるのが痣を発現させる修行で……?」

「如何にも……体温と心拍数を上げる修行だ。ただし、あくまでこれは私が個人的に行っている修行……柱稽古はまた別の―――」

「僕も」

「?」

「痣を出したい……と言ったら」

 

 割って入った凛の言葉に口が止まる行冥。

 しばし、考え込むように硬直する。その間も微動だにしない体幹にはほとほと感嘆するばかりであったが、真摯な眼差しを逸らすことだけはしない凛。

 行冥の周りで赫々と揺らめく炎が、不意に爆ぜたように燃え盛る。

 だが、火の粉が眼前を舞い散っても視線を逸らさぬ凛に、行冥が岩のように硬く閉ざされていた口を開いた。

 

「痣を……か」

「はい」

「……鬼殺隊に入った以上、君も()()()()()()人間だろう。だが、痣を出すとなると今以上に覚悟を決めざるを得なくなる」

「?」

 

 首を傾げる凛。

 対して行冥は、ツーっと涙を一筋零す。燃え盛る炎の熱で感覚が鈍るが、彼からは悲哀の“熱”が伝わって来た。

 

―――一体どういう意味なのか?

 

 純粋な疑問と共に、得も言われぬ不安が胸の奥より湧き上がる。

 しかし、しかしだ。

 

「……覚悟なら、元より」

「そうか……しかし、痣を望む以上伝えなければならない事実もある。兎にも角にも、話はそれからだ」

 

 闇しか映さぬ瞳が、確かに自分を見据える。

 延々と見つめれば吸い込まれそうなだと錯覚する、強く、それでいて悲しい瞳。

 

 それはこれから彼が伝える“覚悟”に関係するものだ―――そう理解しつつも、修羅道の最深へ向かわんと、凛は覚悟を決めるのであった。

 

 

 

「痣が発現した者は―――」

 



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弐拾陸.具不退転

「いらっしゃいましたね、私達の屋敷に」

 

 見目麗しい美貌より放たれる笑顔は、さながら剣山に生けられた花のように気品に溢れていた。

 

「お久しぶりです、しのぶさん」

「えぇ、本当に。まあ、剣士にとって蝶屋敷に来ない以上に安否を報せるものはありませんから。ささっ、それよりも中へ」

 

 出迎えてくれた蟲柱・胡蝶しのぶに案内され、修行場となる道場へと赴く凛。

 平時とは別の意味で賑わっているように思える蝶屋敷。

 胡蝶邸としても用いられている蝶屋敷だが、今回の稽古は何度も世話になった此処で執り行われる流れになっている。

 

 看護婦として働いているアオイや三人娘も、柱稽古の間は大忙し。

 てんやわんやとなって屋敷と道場を往復している姿が窺える。

 

「ここでするのって、心肺強化訓練でしたっけ」

「はい、そうですよ。要するに、“常中”を使えるよう……あるいは長続きするよう指導するのが私の稽古です。まあ、私は私で別の用事がありますので、ほとんどはカナエ姉さんに任せていますが」

「なるほど……」

「元々常中を会得している人には退屈かもしれませんけれど」

 

 「氷室君のように」と胸を突いてくるしのぶは、そう締め括った。

 

 彼女の説明通り、蟲柱の稽古は全集中の呼吸・常中を使えるようにする修行だ。

 剣士にとって鬼と対峙するに必要不可欠とも言える呼吸―――それを四六時中行い、身体能力を向上させられるのが常中であるが、当然ながら隊員全員が扱える訳ではない。

 基本的に剣士が育手の下で育てられ、選抜に赴くまでの期間が半年。

 その間に呼吸や型を覚えた上で常中を身につける等、土台無理な話であることは、凛もよく理解していた。

 故に、常中会得の機会は入隊してからとなるのだが、いざ入ってみれば立て続けに下される任務や会得した者と会う機会に恵まれない場合がほとんどである。

 

 元花柱・カナエも懸念していた状況であったが、晴れて柱稽古という一堂に会し、常中を教えられる機会が設けられた。

 単純に強くなる利点もあるが、応用すれば止血もできる万能の技術だ。教えぬ道理はない。

 

「という訳で、出来ない方々には瓢箪を吹かせてもらっています」

「わぁ~、懐かしぃ~!」

 

 隊員が顔を真っ赤に染めて瓢箪に息を吹き込む光景を目の当たりにし、凛は懐かしむような声を上げる。

 他人からすれば正気を疑われる言動でしかない。だが、漏れなく常中を会得している者は同様の感想を抱くに違いない。彼等はこれから同じ穴の狢となるのだ。

 

「たまに酸欠で倒れる人もいらっしゃって、その人はアオイたちが面倒を見てくれているんですよ」

「あぁ、だからアオイちゃんたち、あんなに忙しそうにしてたんですね……もうちょっと手心とか加えてみるとかは……」

「私が厳しく指導しているとでも? 違いますよ。ほら、()()を」

()()?」

 

 呆れたしのぶが指差す先。

 そこに佇んでいたのは、

 

「みんな、頑張ってぇ~! 肺の中の空気、全部絞り出す感じでフゥゥゥウって!」

『はぁ~い!!!』

 

「……」

「姉さんが焚きつけてるから、無駄に頑張って倒れる人が出るんですよ」

「なんていうか……その……」

「気にしなくて構いませんから」

 

 しのぶに勝るとも劣らぬ美貌、そして殺伐とした世界で生きてきた剣士にとって、骨抜きにされるのも致し方ない振る舞いで士気を高めるカナエ。

 柱稽古の補助として買って出た彼女のおかげもあり、当初予定していたよりも多くの隊員が常中を扱えるようになった反面、無理をして倒れる者が続出したという訳だ。

 しかも、具合が悪くなってもカナエに介抱してもらえると、彼女に魅了された隊員は、修行を達成しても倒れても役得と奮い立たざるを得なかった。

 

 男の欲のなんたる凄まじさ。

 同時に魔性の女というの言葉の意味をはっきりと理解できた瞬間であった。

 

「とまあ、あっちは姉さんに任せるとして、常中が使える氷室くんは二段階目からです」

「二段階目?」

「えぇ。私の修行は二段階に分かれていますから」

 

 瓢箪を拭いていた隊員が集っていた庭先からの移動。

 隊員を応援するカナエの声を背に、やって来た先は見慣れた場所―――もとい道場であった。

 「さて」と振り返るしのぶが微笑みを湛える。

 

「一段階目は、先ほどご覧になった通り常中の会得。二段階目は……鬼ごっこです」

「鬼ごっこ? って、それじゃあまるで……」

「機能回復訓練、と言いたいのでしょう。そうです、私の修行はそれを踏襲した内容になってます。た、だ、し……」

 

―――相手が私であることを除けば、ですが。

 

 そう告げるや浮かべる妖艶な笑顔。

 甘く囁く声に、鼓膜から伝播するように全身がぶるりと震える。

 

「……なるほど」

「私は逃げる役です。制限時間内に捕まえてくださいね」

 

 揶揄うような声色で告げる。

 

 それに対し凛は、やる気が出てきたと言わんばかりに体の節々を鳴らす。

 

「本気でするのは何年ぶりですかね……」

「あっ、でも道場は壊さないで下さいよ。もしも床を踏み抜いたりなんかしたら、弁償してもらいますから」

「えっ!」

「当然でしょ」

 

 驚く凛に思わず素を出すしのぶ。

 しかしながら、しのぶの足は速いのだ。それこそ柱の中でもかなり上位に位置する程度には。

 だからこそ手は抜けないと意気込んでいた凛であったが、“道場を壊さない”制限を設けられた途端、彼女に手玉に取られる己の未来を幻視した。

 

「それはまた……」

「やる前から負けを認めます?」

「いえ」

「よろしい」

 

 難色を示す顔色であった凛であるが、しのぶに問われた途端、闘志に溢れた面持ちに変貌する。

 一方、しのぶは予想していたと言わんばかりに応答するや、鬼ごっこを始める準備として距離を取った。

 

 ふわりと羽織を靡かせて舞い降りる様は、さながら花にとまる蝶の如く。

 

「さ、始めましょうか」

 

 

 

―――捕まえられるものなら。

 

 

 

 そう言わんばかりに浮かべられた挑発的な笑みもまた絵になるものだ。

 

「……やっぱりしのぶさんは綺麗ですね」

「……は?」

「あぁ、いや、聞き流してください」

「……ふんっ。挑発か何か知りませんが、貴方もそういうことが言えるようになったんですね」

 

 ふいに漏らした褒め言葉に目を丸くするしのぶであったが、すぐに取り繕う凛の様子に、面白くなさそうに唇を尖らせた。

 だが、当の凛はカラカラと笑って言い放つ。

 

「別に本心ですから。ただ、今まで口にしたことなかっただけで」

「……場違い、って言葉知ってます?」

「……ご、ごめんなさい」

「まったく、慣れないことをするから……でもまあ、ちゃんと褒め言葉として受け取っておきますよ。手加減なんてしませんけどね」

「それは勿論」

 

 意図を汲めぬ言動を見せる相手を、一刀両断するしのぶ。

 褒められて嬉しくないことはないが、それにしても時と場合がある。

 

(姉さんに注意されたばかりなのに……)

 

 感情を制御できない剣士は未熟。

 侮辱といった汚い言葉には慣れたものだが、それ以外となるとてんで弱いものだと悟ったしのぶは、頬を忙しなく上下させながら稽古をつけるのであった。

 

 どうも彼の様子がおかしい―――一抹の不安を覚えながら。

 

 

 

 ***

 

 

 

「凛の様子がおかしい?」

「えぇ」

 

 それは蝶屋敷に凛が訪れた日の夜であった。

 怪我人の居ない蝶屋敷は、柱稽古のために訪れた隊員の寝床として開放されている。

 日中の疲れを癒そうと誰もが寝静まる中、しのぶが訪れたのは凛の親友たる燎太郎の下。岩柱の修行を最も早く課題をこなしたのは、炎柱の継子の中で凛が一番であった。燎太郎は、それに続く形で蟲柱の稽古に来た訳であるが。

 

「何か知りませんか?」

「う~ん……これといって思い当たる節はないがなっ! 因みに如何様におかしかったんだ?」

「……私に面と向かって『綺麗だ』などと」

「……口説かれたのか?」

「そういう訳じゃありませんが」

 

 思わず語気を強めるしのぶ。

 揶揄おうものなら、明日の朝餉に薬でも混入されかねない。そう直感した燎太郎は、喉まで出かかっていた言葉を唾と共に飲み込んでから、しばし考え込む。

 

「……すまん、分からんっ!」

「そうですか……」

「誰も彼も鬼の動向で神経質になってる時期だ。あいつも例外じゃないだろう」

「年相応に色気づいたとでも考えておきますか……」

「それはそれで凛も嫌だろう」

 

 真面目な顔をして告げられる冗談に、思わず燎太郎が止めに入る。

 身内が恋路に目覚めたなど、これまで無頓着であった反動から、やけに生々しく思えてしまう。

 

 しかし、結局のところ凛の異変は堂々巡りで答えが出てこない。

 うんうん悩んでいる間にも月は昇り、また日付が変わろうとしていた。

 

「何してるの?」

「あら、東雲さん。こんな時間にどうされたんです?」

「厠」

「花を摘みに行ったと言え、つむじ」

 

 と、そこへやって来た厠帰りのつむじ。お淑やかさの欠片も感じない言葉遣いは相変わらずだ。

 

「そうだ、東雲さん。氷室君の様子がおかしいんですが、何か心当たりはありませんか?」

「凛?」

「些細なことでもいいんです」

 

 細やかな変化の発見が得意なつむじだ。

 きっと、何かしらの違和感を覚えているはずだと踏むしのぶは問いかけた。

 

 一方、突然心当たりだなんだの聞かれたつむじは、適当に返事をはぐらかすつもりもなく、ここ最近の彼の様子を真面目に振り返る。

 

 食事中や修行中、果てには挨拶の一挙手一投足まで。

 確信を持って言い切れる違和感こそないが、喉に小骨が引っかかったような感覚を覚えたとすれば、()()()だ。

 

「岩柱……」

「悲鳴嶼さん? 彼が一体どうしたんです」

「痣を出す修行に混ぜてもらってた。私と燎太郎もだけど、凛だけさっさと終わらせてしのぶのところに行っちゃった」

 

 「私、痣出なかった……」としょんぼりするつむじの証言。

 聞く限り、痣を出す修行をしたものの、思うような成果が出なかったことから、次なる柱稽古へと向かったように聞こえる。

 そもそも、本来柱以外に痣を出す修行をする指示は出されていない。

 柱以下の階級の隊員は、例え継子とて柱稽古が優先されるだろう。

 責務と感情を天秤にかけた際、前者を取るくらいには精神的成長を遂げている凛のことだ。痣を出す修行をするとは言え、先に柱稽古を全て済ませようという魂胆なのかもしれない―――しのぶはそう考えた。

 

「でも、痣が出なかったからというには気色が違うような気がしますけれど……」

「ん」

「どちらにせよ、俺達でも中々気づけない変化なんだ。上弦の鬼との戦いの前に色々思うところがあるんだろう」

「だといいんですが」

 

 しのぶにとっても凛は気の置けない友人だ。

 自分が出来ることならば、手を貸してやりたい気持ちもある。

 だがしかし、彼も彼で助けが要る時は素直に口にする性質だ。現に何も相談してこない以上、むやみやたらと詮索するのは無粋とも考えられる。

 

 ただ待ってあげるだけ―――それも淋しい気がするが、自分達も立派な大人と呼んで差し支えない年齢だ。

 もしも普通の暮らしをしていれば、殺し合いとは無縁の世界で金を稼ぎ、美味しい物を食べ、好きな人と結ばれ、子供を設けて―――そうした日々を過ごしていたかもしれない。

 そうでなくとも、一人で生きていけるだけの力や知識を身につけたはずだ。

 自分の行動に責任を持つ。それが当たり前になるのが大人というもの。

 

(だとしても、私には青く見えますね……)

 

 それでも、良い意味でも悪い意味でも青々しさを残す大人は居る。

 彼がどちらなのか―――それはまだ、しのぶには知りようもないことであった。

 

 

 

 ***

 

 

 

 鬼殺隊にちょっとした朗報が―――人によっては凶報だが―――伝わった。

 それは水柱・冨岡義勇の柱稽古参加だ。当初、参加に消極的な姿勢を見せていた彼であるが、噂によれば同門の後輩・竈門炭治郎の説得により、決心がついたようである。

 

 こうした事情もあり、急遽行く先を煉獄邸から冨岡邸のある千年竹林を目指す凛。

 鬱蒼と生い茂る竹林は、その名に違わず空を衝かんばかりに高く伸びている。耳をすませば、笹が擦れる騒めきが耳を撫でる心地よさを覚える、何とも穏やかな場所であった。

 

「案内は要る?」

「わぁ、真菰!?」

 

 颯爽と冨岡邸を目指す途中、突然前から現れた人影。

 それは不死川邸で一度見かけた真菰であった。

 口でこそ驚いた様子を見せる凛であるが、事前に気配を察していた為、表情はにこやかだ。

 

「こんなところでどうしたの?」

「どうしたもこうしたも、義勇の屋敷に向かう途中で見かけたから声を掛けてみたんだ」

「案内するかどうかって? よく訪ねるんだ」

「継子だからねぇ~。しょっちゅう通ってるよ」

「言われてみればそっか」

 

 軽く談笑した後、歩幅を合わせて竹林を進む二人。

 はらはらと舞い落ちて積もった笹を踏みしめながら、さらさらと竹林を流れる騒めきに耳を傾ける。

 不思議と無言になる幻想的な空間。

 舗装された道の両側には天高く伸びる竹が密集している訳だから、前後しか視界が開いていない。

 後ろを振り返る理由もない為、ただただ前を見つめて進む。

 代り映えのない景色は、ずっと眺めていればどこか見知らぬ世界へと続いていそうな気さえした。

 

「綺麗だね」

「うん」

「いつもこの道通ってるんだ」

「春には筍とかも取れたりしてね。今度ごちそうするよ」

「ふふっ、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 何気ない会話。

 だが、鬼殺隊として生きる以上、()がない―――最期になるかもしれないやり取りであると心のどこかで二人は感じていた。

 景色の美しさに胸を打たれる一方で、締め付けられる痛みも覚える。

 平々凡々なやり取りの大切さを知った今だからこそ、凛は噛みしめるように真菰と歩む道を進んでいた。

 

 すると、「あ、そういえば」と真菰が声を上げる。

 

「ずっと前、竹の花を見かけたんだ」

「花? 竹って花が咲くの?」

「咲くよ。何十年……ううん、百年に一回あるかないかって鱗滝さんから聞いたけど」

「わぁ……途方もない話だね。でも、真菰は運が良かったんだね」

「うん、凛のおかげだね」

「え?」

 

 脈絡のない感謝に戸惑う。

 が、揶揄うような笑みを浮かべる真菰が語を継いだ。

 

「あれ、違う? まさか、選別で助けてくれたこと忘れちゃったの?」

「あ……いや、そういう訳じゃないけど」

「あの時助けてもらえなかったら、竹の花を見ることもできなかった」

 

 突然、凛の前へ躍り出る真菰。

 随分と改まった様子の彼女は、姿勢を正し、深々と頭を下げる。

 

「ありがとう」

 

 過去にも告げられた言葉。

 たった五文字の言葉だが、それを告げられる為だけにどれだけ血反吐を吐き、どれだけ死にそうな思いをしたか。

 そう考えると、今更になって感極まる感覚さえ覚える。

 

 じんとする胸を押さえる凛。

 彼を前に、やっと面を上げた真菰は清々しい笑顔を浮かべてみせた。

 

「凛に助けてもらった命、ちゃんと大切にしていくからっ! 凛も……」

「真菰」

「……凛?」

 

 やや恥ずかしそうにはにかんでいた真菰の手を取る凛。

 突然手を握られて困惑する真菰であったが、蒼玉の如く青い瞳に見つめられ、視線を外すことができなくなっていた。

 

 時が止まったかのように、竹林の騒めきも収まる。

 不気味なくらいの静寂の中では、早鐘を打つ鼓動の音で頭が狂いそうになってしまう。

 掌を伝わる体温は、融けてしまいそうに熱く―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――僕と……結婚してくれないか」

 



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弐拾漆.血脈相承

「よろしくお願いします、冨岡さん!」

「……ああ」

 

 千年竹林の奥に佇む冨岡邸。

 人の立ち寄らぬ、それこそ俗世から隔離されたような幻想的な空間は、義勇という人間を表しているようだった。

 一言で言えば寡黙。極度に口数の少ない彼の真意を汲み取るのは、深く冥い水底から一つの石ころを拾い上げるに等しい。

 

「ここでの柱稽古は何をするんですか?」

「……反射神経を鍛える。できて当然の修行だ」

「なるほど……」

「……」

「……」

 

 静まり返る場。

 淋しく吹き渡る風は、竹林の水分を含んでいるからか生温かい熱を孕んでいるように感じた。

だが、場に流れる気まずい空気がそれだけでは理由ではない。

 てっきり内容についても触れられると考えていた凛は、さわりにすら触れず口を噤んだ義勇を前に立ち尽くす。

 

 と、その時、助け舟を出す人間が一人。

 

「『自分が育手の下で修業していた頃の稽古だから、皆もそんなに身構えなくていいよ』って意味だよ」

 

 義勇の隣に立っていた少女・真菰が、彼の言葉を通訳した。

 胸中でこそ思っているが、口に出さない内容がほとんどの彼の意図を汲み取れるのは、長年継子として傍に居た彼女だからこそ出来る芸当と言えよう。

 

「なるほど。ありがとう、真菰」

「ううん、気にしないで」

 

 礼を告げられ、ほんのり頬を紅潮させる真菰は凛から視線を逸らす。

 得も言われぬ気まずさを漂わせるのは、どうやら義勇だけではないようだ。

 しかし、他人にはあずかり知らぬ事情を抱えている真菰は、気を取り直すように呼吸を整える。

 

(凛ったら、私にあんなこと言ったのにどうして普通にできるんだろう……?)

 

 全集中とも違う熱が全身を駆け巡る。

 それは昨日の出来事。他愛のない会話の途中で告げられた一言が原因であった。

 

 

 

―――僕と……結婚してくれないか

 

 

 

 突然の告白。

 まったくの兆し無く告げられた言葉に、真菰は大いに戸惑った。

 凛とは良い友人として付き合ってきたことは事実だが、自分も向こうも異性として意識はしていなかったはずだ。

 それが突拍子もなく結婚を申し込まれたのだ。戸惑わない方が無理という話である。

 

 出会いに恵まれない鬼殺隊の剣士として、あるいは一人の女性として添い遂げる意志を伝えてくれた異性が居る事実は喜ばしいだろうが、それにしても急だった。

 

 一体いつから心に決めていたのだろう。

 そんな考えが昨晩から脳裏を過り、真面に眠れぬまま夜が明けてしまった。

 

 このような浮ついた話、鬼狩りとして生きる道を選んだ以上、鬼を滅殺し尽くすまで断ろうと決めていた真菰であったが、いざ面と向かって婚姻を申し込まれると断れないものだ。

 一晩持ち越した問題は胸の中でどんどん膨れ上がり、今や彼の顔を直視することさえ叶わない。

 

 自分に斯様な乙女心が残っていたとは―――そのような驚きと羞恥で早鐘が打たれる。

 

(どうして? 凛……)

 

 告白され、自覚する恋慕。

 特段彼に好意を寄せていた訳では―――特別ではなかった。

 それでも、彼にとって自分が()()だった事実が、どうしようもなく嬉しくも思えてしまう。

 家族としての愛情は、鱗滝や義勇、そして錆兎に与えてもらった。

 だが、きっと彼が与えようとしている愛情は、それとはまた違うものなのだろう。

 

(私……)

 

 潤んだ瞳で見据える彼の背中は、やけに歪んで見えた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 義勇が課した修行は、要約すれば山の中を駆け抜け、目的地まで辿り着くという至って分かりやすいものであった。

 だが、そこは柱稽古だ。ただ駆け抜けられるはずもなく、道中には至る場所に罠が仕掛けられている。丸太が降ってきたり、時には落とし穴が彫られていたり―――といった具合だ。

 

 鬱蒼と木々が生い茂る山の中は視界が悪く、一町先まで見渡す等もってのほか。

 不明瞭な視界の中、上手く隠された罠を回避するにはかなりの神経を注がなければならない。

 

「よっと!」

 

 しかし、気配に敏感な凛にとって、この修行を完遂するのはさほど難しい話ではなかった。

 一日ごとに難易度が上がっていく修行を大きな怪我もなくこなした彼は、早々に義勇の下から発ち、最後の柱稽古の地となる煉獄邸へと足を向けた。

 これまた久方ぶりの来訪となる。

 気分としては実家に戻るそれだ。杏寿郎は勿論のこと、千寿郎や槇寿郎に会うことも楽しみにしている。

 

(家族……かぁ)

 

 凛は昨晩の告白を思い出す。

 我ながら突拍子のない真似に出てしまった自覚はある。色恋沙汰に疎い自分でさえ、他人からの見聞で、もう少し段階を踏むべきものだと考えていた。

 しかしながら、結局のところは逸る想いのままに婚姻を申し込み、彼女を大いに困らせてしまった。

 

(……カナエさん辺りに相談するべきだったかな)

 

 今になって後悔が過る。

 が、言ってしまったものは仕方がない。後は天に任せて答えを待つばかりである。

 

「おーい、凛!」

 

 聞き慣れた声で呼ばれ、振り返る。

 

「冨岡さんの修行、終わったんだね」

「まあな!」

「ん」

 

 安心する面子が揃い、思わず頬が綻ぶ。

 兄妹か、はたまた姉弟のように並んで駆けつけてきた燎太郎とつむじ。

 

「……」

「凛、どうした? 急に黙りこくって」

「お腹痛い?」

「ううん、皆身長伸びたなぁ~って」

「なんだ、藪から棒に」

 

 急に口を噤んだかと思えば、己も含めた三人の成長を感慨深そうに耽っているらしい。

 

「本当……二人共立派になったよ」

 

 燎太郎は、義理人情に溢れた情熱的な男性に。

 つむじも、他者に理解を示す見目麗しい女性に。

 

「僕なんかと友達になってくれてありがとうね」

「……」

「……」

「あれ? 二人共、どうしたの」

「やっぱり変だな」

「うん、変」

「変? なにが……」

 

 目が点になる凛を前に、颯爽と詰め寄る二人。

 燎太郎のみならず、つむじでさえも深刻そうな面持ちを浮かべて詰め寄るものだから、凛も思わずたじたじと数歩後退る。

 しかし、それを許さずじりじりと距離を詰める二人は、逃げられぬよう両手を組んでまで囲い込む。

 

「さあ、観念しろ!」

「観念しろって言われても……ねぇ」

「白を切るつもりならお腹に風穴が空くことになる」

「脅迫……っ!?」

 

 こうも脅されれば、心当たりがなくとも最近の出来事を虱潰しに言わざるを得ない。

 

「え……真菰に申し込んだこと?」

「申し込んだ? 何をだ」

「何って……結婚」

「結婚」

 

 親友の口から告げられた言葉を、頭の中で何度も何度も咀嚼する燎太郎。

 血痕? いや、決闘の聞き間違いか? だが、確実に彼は「ケッコン」と言った。血痕では意味が通らない。そうなると必然的に残されたのは、

 

「け、結婚だとっ!? 誰にだ!!」

「真菰って言ったじゃないか……」

「真菰だと!? そういう仲だったのか、お前達!!」

「そういう訳じゃないけれども」

 

 慌てふためく燎太郎に対し、凛は「てへへ」と軽くはにかむ程度で済ませている。

 誰にでもときめいてしまう蜜璃も大概であるが、彼が見合いにおける仲介人のような存在も無しに結婚を申し込む積極的な人間だとは思っていなかった。

 なにが「立派になった」だ。お前の方が別の意味で立派になろうとしているではないか。燎太郎は今にでも叫びたい気分になっていた。

 と乱心になりそうだった彼は、一旦平静を保つ為、つむじとの包囲網を解いてから青空を拝み念仏を唱え始める。

 

 傍から見れば奇行そのものだが、大して気にしていないつむじは、凛に純粋な疑問を投げかけた。

 

「結婚って何?」

「血の繋がってない男の人と女の人が家族になること……かな?」

「じゃあ、私と凛と結婚してる?」

「う~ん……たぶん、家族は家族でも意味が違うかなぁ」

「へぇ」

 

 すぐに納得するつむじ。蝶屋敷で垣間見た家族―――カナエやしのぶのような姉妹関係とは違い、彼女達とカナヲやアオイのような関係を想像していたのだろう。

 なにはともあれ、つむじ自身は凛の答えに満足したようだった。

 だが、そうは問屋が卸さない。

 

「凛!」

「そんなに大きな声出さなくなって聞こえるよ」

「それが出さずにいられるか! で、返事はどうだったんだ!?」

「まだ返って来てないけど……」

「断られたという意味か!?」

「そうならないことは願っているけれども!」

 

 やや早合点する燎太郎を抑えながら、凛は事の顛末を話すことにした。

 

「ほら、やっぱり鬼殺隊(ぼくら)って大変な仕事だし……結婚できるなら早めにした方がいいかなって」

「ううむ……そうか」

 

 昔―――それこそ、初めて三人が一緒に集まった任務で訪れた家。

 婚約を交わしながらも、残念なことに鬼に殺されてしまった隊員が居た通り、鬼殺隊はいつ死んでもおかしくない。

 ならば、結婚できる内にしておこう―――そう考えていることを、凛は告げたのだった。

 

「そういう訳なら納得だ。俺も縁があるよう祈っているぞ!」

「うん……ありがとう、燎太郎」

「頑張れ」

「つむじもありがとね」

 

 二人からの声援を受け、微笑みを湛える凛。

 それから三人―――特に燎太郎は、親友が結婚するかもしれないからと居ても立っても居られないようで、煉獄邸へ全力疾走で向かっていってしまった。

 当事者以上に落ち着きがない彼を追いかけ、凛とつむじは、いざ最後の柱稽古の地へと急いだ。

 

 三人を急かすように吹く風は、穏やかな熱を帯びていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 緊張した空気が場を支配する。

 息を飲むことさえ躊躇われる圧力が体に圧し掛かっていた。あるいは、覇気や殺気とも言い換えられるだろう。

 余りの“気”を発する彼の姿は、さながら陽炎のように揺らめいている。

 つま先から頭の天辺まで―――加えて、木刀の(きっさき)に至るまで微動だにしないにも拘わらず、だ。

 

 我が師ながら凄まじい。

 今まさに対峙していた凛は、水鏡か銀盤か。心の水面に波紋は立っていない。欠片も臆した様子を見せず、堂々と向かい合っていた。

 

 共に構えるは木刀。されど当たり所が悪ければ大怪我は必至。

 それを理解しているからこそ、巻き込まれぬ距離から見取り稽古をしていた隊員は、ゴクリと生唾を飲み込み、戦いの行く末を見守る。

 

 始まりは突然だった。

 ぐらりと揺れる杏寿郎。灯っていた日が吹き消されたのは、一瞬の出来事だった。

 遅れて聞こえる爆音より疾く刃を振るう。眼前にはすでに姿勢を低く構えて吶喊してきた杏寿郎が居た。

 

 振り上げられた木刀は流麗な弧を描く。

 幾百、幾千、幾万と振るってきた刀の道にブレはない。彼の人生が如く、只管に剣閃は真っすぐであった。

 

 そのまま振るい抜ければ顎を打ち砕く一閃。

 だがしかし、杏寿郎の動きに応じて身を反らした凛は、紙一重で剣閃から逃れた。直撃こそしていないが、斬撃の余波が肌を殴るような衝撃を覚えた。

 

 慣れたものだ。

 今更、この程度の衝撃に狼狽える自分ではない。

 避けられても尚仕掛ける杏寿郎に対し、凛は両手に握った木刀で次々に繰り出される斬撃を捌いていく。

 ただ受け止めるのではない。刀が摩耗せぬよう細心の注意を払い、最小限の力で()()()()

 

 絶えず流動し、変幻自在の型を為すのが水の呼吸。

 そして、水が凍てつけば氷と為る。

 

 音が変わった。

 刹那、攻勢から一転。杏寿郎は直感のままに身を屈む。

 目に見えぬ速度で後頭部へ刃が振るわれたのは、その直後だった。

 

 氷の呼吸 零ノ型 零閃

 

 見事。杏寿郎の頭に素直な称賛が過った。

 幾度となく稽古として刃を交えた。その度に目の当たりにした型であるはずなのに、今尚放たれる度に肝を冷やす。

 数を、そして時を重ねるごとに速さと正確さを増していく型。

 見る者の心を奪う剣舞は、滑らかで、それでいて力強い。

 

 ほんの数秒でも気を取られれば、瞬く間に激流に呑み込まれ、あるいは吹き荒れる吹雪にやられる目に遭うだろう。

 

(何故だかな。君の剣を振る姿には、君だけではない人の影が見えるんだ)

 

 二つの剣技を極める等、本来正気の沙汰ではない真似だ。

 しかしながら、彼はこうして刃を振るう。決して他者に見劣りしない―――いいや、寧ろ凌駕していると言って差し支えない程に。

 その所為だろうか。杏寿郎は、二つの呼吸を織り交ぜて戦う彼の姿に、自分の知らない誰かの影を幻視した。

 

 育手か、はたまた―――。

 

(……聞くのは無粋か)

 

 仮に、今の凛の原点となる人物が居たとして、それが誰かを詮索するつもりはない。

 生死も安否も眼中にはなく、ただひたすらに、彼の刀捌きを目の当たりにすれば幻影の御仁は喜ぶことだろう。それだけ理解できれば十分だったのだ。

 

 それからも二人は刃を交えた。

 飽くるまで、永く、永く……。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ふぅ、さっぱりしたぁ……!」

 

 杏寿郎との手合わせ後、千寿郎の好意に甘えて風呂に入っていた凛。

ホカホカと上気する肌からは、じんわりと汗が滲み出てくる。それが夕刻の涼やかな風に吹かれれば、ここは極楽だと思える清涼感を覚えた。

 

 まだ庭では修行が続いており、ひっきりなしに木刀を打ち合う音が響き渡っている。

 最後の柱稽古とあって、茜色に澄み渡る音も苛烈そのもの。

 まだまだ続きそうな予感にフッと笑みを零す凛は、代えの隊服に着替え、杏寿郎達が居る庭先を目指す。

 

「凛」

 

 その時、可憐な声が聞こえた。

 

「……真菰?」

 

 振り返った先に佇んでいたのは、俯いている真菰であった。

 震えた手で羽織を握っているが、何かに恐怖しているのではなく緊張している―――風に乗って運ばれる“熱”が教えてくれる。

 

「どうしたの?」

 

 と、上ずった声で問いかけた。

 だが、凛自身彼女がどういった要件で自分の下を訪ねたのか、まったく想像できない訳ではない。半ば、「あれかもしれない……」と推測しながら、彼女の答えをまった。

 忙しなく瞬きをする真菰。視線はあちらこちらへと泳いでおり、じっと自分の瞳を見つめる凛の視線から逃れているようであった。

 それから何度か金魚のように口をパクパクと開いていたが、聞こえるのは乾いた呼吸の音だけ。望んだ答えが出てくることはなかった。

 

「どうして……」

「?」

「どうして……私なの?」

 

 やっと出てきた言葉がそれだった。

 他にも相手は居たかもしれない。それこそしのぶのように気の置けない間柄の女性は居たはずだ。

 それが何故、よりにもよって自分だったのか。真菰は不思議で仕方がなかった。

 

 彼女の問いを聞いた凛は、口をあんぐりと開けたまま、しばし思案する。

 まるで明確な答えを持っていなかったかのように考え込む彼は、口腔の渇きに気がつき、一旦口を閉じてから紡ぐ。

 

 恥ずかしそうに、初々しい表情で。

 

「どうしてって……はっきりした理由を聞かれたら困っちゃうけど……」

「うん……」

「支えたいと思ったから」

「え……?」

「それに……支えてもらったから」

 

 支えたのは藤襲山で。

 支えられたのは流の死で。

 

「そういうのが、家族なんじゃないかなって」

 

 苦しい時や悲しい時、傍で支えた―――そして、支えてもらった相手が真菰だった。

 

「後はそうだなぁ……誰かと結ばれたいって考えた時、真菰のことが好きになってきた。そんなに感じかな」

「……ぷっ、なにそれ」

 

 大層な理由を期待していた自分が馬鹿馬鹿しくなり、思わず吹き出してしまう真菰。

 

(なんだ……そのくらいでいいんだ)

 

 誰かと結ばれたいと願うのは、思っていたよりもずっと……ずっと単純だった。

 

「私も……凛のこと好きになってきたかも」

「真菰……」

「答え……ここで返してもいい?」

「う、うん」

「私は―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「緊急招集―――ッ!! 緊急招集―――ッ!! 産屋敷襲撃……産屋敷襲撃ィ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「!!?」」

 

 終幕は突然に。

 想いを告げる暇もなく、決戦の狼煙は上げられた。

 

 鬼殺隊と鬼。

 

 長年に渡る因縁の決着が今夜、つけられようとしていたのだ。

 




*玖章 完*


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拾章.血
弐拾捌.鬼家活計


 

 落ちる。

 

(御屋形様……)

 

 命が落ちる。

 

(真菰……)

 

 景色が落ちる。

 

(みんな……)

 

 落ちる。

 地の底に。

 

 落ちる。

 血の海に。

 

 思い返すのは鮮烈な出来事。

始まりは闇夜を紅蓮に染める爆炎だった。吹き抜けた爆風に混じる血と肉が焼けつく香りの中に、命のともし火が幾つか消えた冷ややかさを覚え総毛立つ間もなく、鬼殺隊は鬼が待ち受ける居城へ落とされた。

 

 そして怖気を覚える冷たさを孕む隙間風を撫でながら襖に手をかけ、望んだ光景の中央に座していたのは、

 

「ん? あれぇ、来たの?」

 

 討つべき怨敵。

 

 

 

 ***

 

 

 

『真菰!』

『凛!』

 

 互いに手を伸ばすも届かなかった。手繰り寄せられなかった。

 くっ、と歯噛みする暇を与えられることなく敵の術で招かれたのは、血鬼術で造られたと思しき天地がひっくり返った前後不覚な城の中。

 斯様な出鱈目な、されども幻想的とも言える仄かな光に満ちる廊下に凛は立ち尽くしていた。

 

 握りしめた掌には空虚の感覚だけが残る。

 地面に現れた障子の中に吸い込まれたのは一瞬の出来事だった。

 並走していた真菰とも引き離されてしまい、現状敵陣の真ん中で孤立。芳しくない状況だ。

 

―――ズズッ、ズッ……。

 

 しかも、異様な音が聞こえたかと思えば人外の姿形をした鬼共が群がってくる。

 知性を感じさせぬ獣染みた挙動だ。

 だが、肌を突き刺す冷たさはこれまでに戦ってきた雑魚鬼とは比べ物にならない―――それこそ幾度か刃を交えた下弦の鬼に匹敵する程に刺々しい。否、()()()()()()()と言うべきか。

 

「―――すみません」

 

 鬼がうなりを上げて飛びかかる。

 刹那、不香(ふきょう)の花が手向けられた。

 

 氷の呼吸 伍ノ型 (そそぎ)

 

 迫りくる鬼の頚を瞬きする間に刎ね飛ばす慈悲の剣閃。

 紛れもない生命の綱を絶たれた鬼は間もなく崩れ去る。ボロボロと白い欠片となる様は灰か、はたまた雪と捉えられる光景であった。

 しかし、そこには敵を倒した安堵や達成感は無い。けれど、無情という訳でもない。

 喉元まで湧き上がる感覚―――これは憎悪だ。どす黒い、それこそ雪とは正反対の禍々しい色の感情。

 

「赦さないぞ……無惨!!」

 

 獣ほどの知性しかなくなった雑兵の鬼とは言え、死ぬ直前には恐怖を覚えていた。

 微かに肌に縋り付く生への執着。生温い余韻が酷く不快な熱を浴びせられた凛は、彼らを道具以下に見なしている鬼の首領・鬼舞辻 無惨への義憤で怒り狂っていた。

 

 奴は言った。

 今宵鬼狩りを鏖殺すると。

 地獄に堕とすと。

 

(地獄を()()のはお前一人で十分だ……!!)

 

 だが、それは全ての鬼殺隊員こそ言い返したい言葉であった。

 地獄に堕とすだけでは足りないと心が唸る。慈悲など不要と叫ぶ。

 

―――頚を洗って待っていろ。

 

 誰もが抱く言葉を胸に仕舞い込み、鬼の城―――無限城を突き進む。

 襲い掛かる鬼を一蹴しつつ、考えることは二つ。

 一つは味方と合流すること。残る十二鬼月も上弦の参から壱までだ。新たな鬼に挿げ替えられている可能性も捨てられないが、どちらにせよ柱数人がかりでなければ倒せない相手に一人で挑むのは得策ではない。

 

 そしてもう一つは仮に()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

―――グチャ。

 

 肉が潰れる音が聞こえる。

 

―――ボリッ……ボリ。

 

 骨を噛み砕く音も。

 

 聞くのも堪え難い悍ましい咀嚼音は廊下の先から聞こえてきた。

 一歩、また一歩と近づいていけば隠し切れぬ寒気が迸る部屋の前まで辿り着く。

 

(血の、臭い)

 

 ここ鬼が居る。

 

 それも桁違いの強さを誇る存在が。

 肌を撫でる冷気は訴える。この先に行ってはならない。さもなければ死ぬ、と。

 本能は自分を死から遠ざけようと最大限の警鐘を打ち鳴らしている。

 

 だが、今更なんだ。

 死は疾うに覚悟している。

 そして何よりも覚えがある冷たさが、委縮し、凍り付こうとする体を怒りと憎しみで焼き焦がしていく。

 

(この“熱”は―――)

 

 意を決し、障子を開ける。

 

 広がっていたのは死屍累々。

 統一された服に身を包む女性の屍が無数に転がる。いずれも体の至る所が欠損し、喰い転がされていた。

 床に広がる血の海を前に、凛の眼光は鋭くなる。

 

 そしてねめつける。

 血を被り、今も尚人肉を貪る鬼を。

 

 間違えない。

 

 沸々と沸き立つ激情を抑えつつ、凍てつく殺気のみを迸らせながら日輪刀の柄に手をかける。

 

 すると微かに鳴り響く音に気がついたのか、鬼は振り返った。

 

「ん? あれぇ、来たの?」

 

 血と、屈託のない笑みを張りつけながら。

 ()()()()と刻まれた鮮やかな虹彩を放つ瞳を向けた男は、死体に囲まれているとは思えぬ穏やかで優しい声音で紡いだ。

 

「やあやあ、初めましてかな? いや、でもその顔どこかで見たことがあるような……ああ、ちょっと待ってくれよ。今思い出すから。あっ、そう言えば自己紹介がまだだったな! 俺の名は……」

 

 そして忘れもしない。

 

 

 

 

「―――童磨ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 

 

 

 

 氷の呼吸 漆ノ型 垂氷(たるひ)

 

「おっと!」

 

 神速の刺突が構えた右手ごと「弐」と刻まれた瞳を穿つ。

 抉るように捩りを加えた一突き。肉の繊維が引き千切れた傍から掻き混ぜられる感覚は、ビリビリと掌へ伝わる。

 

「ととっ。速いな、君は。柱かな?」

「おおおおおっ!!」

 

 眼孔を貫かんとする刺突から逃れんと飛び退く童磨だが、即座に第二の斬撃が振り抜かれる。

 

 水の呼吸 肆ノ型 ()(しお)

 

 押し寄せる波濤を思わせる流麗な、それでいて怒涛の勢いの斬撃。

 恩人の形見である深い青色の刀身を有す日輪刀は、以前の所有者に勝るとも劣らない練達な動きで鬼に迫る。

 

 が、波濤は堰き止められる。

 凛の視界にて閃く銀光。肌を突き刺す殺気が本能を刺激し、反射的に体を突き動かす。

 

 甲高い金属音が鳴り響いたのはその直後。カッと振り撒かれる火花が瞬く間に、武器を構えた両者は一旦距離を置き、相手を見据えていた。

 

「わあ! 凄いね、君。今の一瞬で人を抱きかかえるなんて」

 

 賞賛する口振りの童磨は、この場で唯一生き残っていた信者の女性を抱きかかえる凛に熱烈な視線を向ける。

 

「反応もいい。俺と真正面から打ち合える膂力。それに二刀流で二種類の呼吸も使える……」

 

「大丈夫ですか?」

「はぁ……はぁ……は、はい……!」

「ここは危険です。ここから逃げてどこか身を潜めてください。必ず僕の仲間が貴方を助けに来ます」

 

「―――面白いね」

 

 女性に逃げるよう諭す凛に対し、対の鉄扇を仰ぎながら観察を続ける童磨が独り言つ。

 彼は上弦。歴戦の鬼であり、挑みかかって来た鬼狩りの剣士は圧倒的な実力でねじ伏せてきた。

 しかし、自身の過去を省みてもここまでの剣士は数えるほどだ。

 それこそ鬼狩りの組織において最強の称号と謳われる“柱”に匹敵するかもしれない。

 

「ねえ、ちょっといいかな? 君の名前を教えてくれよ」

「黙れ」

「えー。つれないこと言わないでくれよ」

「お前と問答を交わす気はない」

「随分目の敵にされてるなぁ。あれ? なんか俺君にしちゃったっけ?」

 

 その呆けた態度が凛の逆鱗に触れた。

 

 既に謎の冷気に満ちている部屋に、絶対零度と錯覚する凍てつく殺意が満ち満ちていく。

 

「忘れたなんて言わせない……童磨!!! お前は僕の大切な人を殺した……!!!」

「ん? ああ! 思い出した、あの義手と義足の剣士に守られてた子だね! いやー、合縁奇縁! あの時は食べてあげられなかったけど、こうやって再会するのって……運命だね!」

「運命? 巫山戯るな」

 

 黒く、そして暗く彩られた言の葉。

 普段の優しい面影を残さぬ激情を露わにする凛は、そのまま切っ先を童磨へ向ける。

 

「これは……宿命だ。運命なんて生温い言葉を使ってくれるな」

「宿命だなんて! 君はなんて可哀想な奴なんだ……前世なんてものはこの世に存在しないんだよ。天国も、地獄も」

「いいや、ある。地獄なら……今日ここで見せる」

「へぇ。それは楽しみだ―――ねっ!」

 

 血鬼術 蓮葉氷(はすはごおり)

 

 童磨が鉄扇を薙げば、氷の蓮が咲き乱れると同時に凍て裂く風が吹き荒ぶ。

 足場の橋やその下に広がる池に氷を張る冷気は、瞬く間に凛へと迫りくる。

 この技の凶悪たる一面は凍てつく速度ではなく、視認できないという点だ。冷気は肉眼で捉えられない。橋や水面が凍り付いた時、既に冷気はその先へと至っている。

 

 しかし凛はと言えば、冷気が辿り着くよりも前に動き出す。

 まるで冷気が視えているようだった。血鬼術を繰り出した童磨が驚嘆する程に技の隙間を縫い、肉迫していく。

 

 氷の呼吸 終ノ型 絶対温感(ぜったいおんかん)

 

 温度感覚に秀でた凛だからこそできる芸当。

 僅かな気温の変化さえも見逃さず、ほぼ視認不可の冷気を掻い潜り、彼は日輪刀を振りかぶる。

 対する童磨も薄笑いを張り付けたまま鉄扇を仰ぐ。

 

 氷の呼吸 肆ノ型 ()()

 

 血鬼術 枯園垂(かれそのしづ)

 

 守りを打ち崩す連撃に相打つ氷の舞い。

 結果は引き分け。互いに決定打を与えることもなければ傷も負わない。

 

「やるね。それならこれはどう?」

 

 血鬼術 蔓蓮華(つるれんげ)

 

 童磨の背後に現れた氷の蔓が一斉に凛へと押し迫る。

 

「はっ!」

 

 氷の呼吸 参ノ型 細氷(さいひょう)()

 

 直後、銀色の光がまばらに輝いたかと思えば、振るわれた氷の蔓のほとんどが斬り落とされていた。

 

「いいね! 二刀流な分、手数は多そうだ。じゃあ、次行ってみよう」

 

 血鬼術 ()(ぐもり)

 

「!!」

 

 童磨が扇を振るうと共に溢れ出す冷気。

 他の血鬼術とは違い、肉眼でも十分に捉えられる冷気の白波が童磨を中心に広がっていく。

 その光景、そして肌を刺す感覚に本能が警鐘を鳴らす中、凛は即座に足元を一閃しつつ飛び退いた。

 

 何の真似だと首を傾げる童磨であったが、直後に敵の動きの理由を知る。

 飛び退いた先でも足元の橋を斬る凛。こうして二点を斬られた橋は、凛が全力で踏み抜くことで凛の居る方向とは逆側が跳ね上がった。

 簡易的な冷気から身を隠す盾だ。浸食する冷気を全て防ぐには面積が足りないが、無いよりはマシだ。

 

「これじゃ駄目だよね、分かってた! だから……」

 

 屈託なく笑う童磨は牽制に繰り出した技とは別に本命を仕掛ける。

 

 血鬼術 寒烈(かんれつ)白姫(しらひめ)

 

 みるみるうちに生み出される二体の氷像。

 美しい女性を模った像は、凛に如何なる技か考えさせるよりも早く極寒の吐息を紡いだ。先ほどの血鬼術が優しく見える速度と威力。白姫の目の前はあっという間に銀世界へと彩られていく。

 

 氷の呼吸 拾壱ノ型 白姫散華(しらひめさんげ)

 

 刹那の出来事。

 白姫が紡いだ吐息は、舞姫のように艶やか且つ苛烈な回転の勢いで斬り払われるや、塵と化して霧散する。

 

「へぇ、そんな型もあるんだ! まるで()()()()()()()()()みたいな技だったね」

 

 白々しく語る童磨に凛は歯噛みする。

 その通りだ、この型は童磨の血鬼術を破る為に編み出した型の一つ。氷の呼吸の中でも特に大振りで素早く振り回す剣舞によって風を生み出す。そうして迫りくる冷気を遮断するのだ。

 

 だが、童磨にはたった一度見せただけで見破られてしまった。

 腐っても上弦。観察眼には優れているのだろう。

 

(でも……それでもだ)

 

 目の前に居る鬼は流の仇。

 カナエにも癒えぬ傷を与えた。

 周りに転がる信者の死体だけ見ても、童磨という鬼が今までにどれだけの人間を傷つけ、貪り、その腹の中に収めてきたかなど容易に想像がつく。

 

()()はここで倒さなきゃならないんだ。他の誰でもない……僕が!)

 

 ただ怨敵だからという理由だけではない。

 肉眼には捉えられないが、童磨の鉄扇からは肺胞を壊死させる粉末状の氷が撒き散らされる。呼吸こそが鬼と相対する手段である剣士にとって、呼吸を封殺される血鬼術など天敵に等しい。

 温度感覚に優れた凛だからこそ吸わずに済むが、他の剣士であれば多量に吸い込んで間もなく()()()()だろう。

 

 だからこそ自分がやらねばならない。

 最小限の犠牲で童磨を倒すには、自分が先陣を切って刃を振るうしかない。

 

 日輪刀を構え直す凛。

 そんな彼に対し、童磨はヘラヘラと余裕ぶった笑みを湛えたまま鉄扇で自身を仰ぐ。

 

「いやぁ~、君と戦ってると体が温まってくるよ! こんな感覚も久方ぶりだ!」

「……」

「う~ん、そんなに俺と話すのが嫌か?」

「……一度でも」

「ん?」

「一度でも、人を殺して申し訳ないと思ったことはあるか?」

 

 鋭く細められた眼光が童磨を射抜く。

 

「申し訳ない、か。そりゃあ俺も元は人間だぜ? ちゃんと喰った人たちには()()()()()()()()()()()()!」

「―――そうか」

 

 刹那、ゾワリと肌が粟立った。

 思わず童磨も張り付いた笑みが崩し、反射的に距離を取る。

 

 これは寒気だ。氷が張り巡らされているが故の厳寒が理由ではない。

 心が―――感情が欠落した童磨は、初めて覚える“恐怖”に困惑した眼を浮かべていた。

 

(なんだ、これ? ()()じゃない。これは無惨様の―――)

 

 鬼の細胞が震える理由。

 鬼ならば須らく持ち得る鬼の始祖の細胞。そこに刻まれた“記憶”が細胞を通じ、童磨に恐怖という感情を呼び起こしていた。

 

 他ならぬ、凛の姿を目の当たりにして。

 

「―――へぇ、成程」

 

 そして理解した。

 

「君にとってはそっちの方が秘策みたいだね」

「どうだっていい。お前を倒せるのなら、どんな手を使ってだって……」

 

 凍てつく空気が満ちる中、凛の体からは白い煙が上がり始める。

 極寒の中、体温が高温の域に達しているからこその現象。白煙を纏いながら日輪刀を構える姿は、勇ましくも幻想的であり、さながら氷の精であるかのようだった。

 

 最後、()()が咲き誇る。

 

 もう後戻りはできない。

 そう悟った凛は、先程まで渦巻いていた激情が嘘であったかのように落ち着き払い、童磨を見据えた。

 

「僕は心も守りたかった」

 

 血流しに己の血を伝わせる。

 吐き出した呼気が瞬く間に白く染まる中でも熱く流れる血潮は、仄かに凍えていた刀を紅に滾らせていく。

 

「鬼も……元々は人だから。鬼だろうと人だった頃の心を忘れてないなら、精一杯の慈悲を送ろうと僕は剣士になった」

「そうかそうか! なら君も俺に慈悲を与えてくれるのかい? それは愉しみ―――」

「けど、お前は空虚(からっぽ)だ。些細な喜びも、燃え上がる怒りも、蹲るような哀しみも、分かち合える楽しみも……何もかも理解出来てないんだろう?」

「……」

 

 笑顔を張り付けたままの童磨は言い返さない。

 

 事実、凛の言う通り童磨という鬼は人間の頃から感情が欠落していた。

 母親が父親を刺殺しようとも、母親が服毒自殺しようとも、感じたのは淡々とした不快感だけ。波一つ絶たない水面は、さながら凍り付いているようだった。

 

 それを見透かした凛は語を継ぐ。

 

「もう一度言う。僕は人の心を守る為に剣士になった」

 

「お前にはその心がない」

 

「鬼だろうと、一つの生命として生きようとする健気さが」

 

「いつか死んでしまうんじゃないかという恐怖が」

 

「お前からはその何も、何もが感じられない」

 

「お前は何の為に生きてるんだ?」

 

「酷い事を言うかもしれない」

 

「けれど、必死になって生きる理由が。想いがだ。それがないんだったら」

 

「潔く―――ここで頚を斬られて死んでほしい」

 

 人の心を守る剣士になりたかったからこそ赦せない、童磨という鬼の存在が。

 斯様に空虚な命の為に、これ以上犠牲を強いる訳にはいかない。

 

 そう告げた凛に、童磨は―――嗤う。

 

「面白いことを言うな、君は! 生きるのに大層な理由も高尚な理由も要らないだろう。どんな気持ちで生きたって死んだら肉も骨も土に還る……はい! それで終わりさ!」

 

 畳んでいた鉄扇を開き、周囲に霜を降ろす童磨。

 そして、逆鱗に触れた。

 

 

()()()()()()()()。何をやったってね」

 

 

 

「……そうか。()()()()

 

 白が奔る。

 次に凛が居たのは童磨の目の前。懐から血を被った鬼を睨み上げ、血を滴らせる刃を振るう。

 

 氷の呼吸 拾ノ型 紅蓮華(ぐれんげ)

 

(速い! さっきよりも格段に!)

 

 咄嗟に飛び退いた童磨であったが、一拍遅れて胸から鮮血が咲く。

 盾として鉄扇が広がり切るより前に叩き込まれた神速の斬撃。尚も迫りくる凛を前に、童磨は牽制の一手を打つ。

 

 血鬼術 (ふゆ)ざれ氷柱(つらら)

 

 凛の真上、それから進路上に生み出された鋭利な氷柱。

 人一人なら容易く串刺しにできる大きさの氷柱は、童磨が鉄扇を振り下ろす合図で一斉に落ちていく。

 

「フゥー!!」

 

 氷の呼吸 陸ノ型 白魔(はくま)吐息(といき)

 

 回避して迫ることは不可能。

 その場に留まり迎撃に迎え撃った凛は、頭上の氷柱を一つ残らず叩き切る。

 

「首ががら空きだ」

 

 その僅かな合間に回り込んだ童磨が彼の背中から鉄扇を横に薙ぐ。

 しかし、鉄がかち合う甲高い金属の悲鳴が上がる。

 手に伝わる感触から受け流されたと理解する童磨。が、振り抜いた腕が己の肩から離れていく光景に目を見張る。

 

「あれ?」

 

 氷の呼吸 零ノ型 零閃(ゼロせん)

 

 目にも止まらぬ反撃の一閃。

 微かに童磨の頚を傷つけたが切り落とすまでには至っておらず、凛の眉間にも深い皺が刻まれる。

 まだだ。刀はもう一本ある。

 零閃に続き、童磨の頚を刎ねようとする水面斬りは鬼気に慄くことなく童磨の頚へ迫っていく。

 

(これで!)

 

 その時だった。

 

 氷の扇が凛の刃から童磨を守る。たかが氷―――と侮ることはできない。

 硬い。岩でさえ切り裂いた凛の刃が、一瞬止まってしまう程に。

 

「があああああああ!!!」

 

 それでも力を振り絞り、何とか膂力で砕き斬る。

 その間、腕を斬り飛ばされた童磨は凛から離れ、落ちていた腕を切断面に接着していた。

 

「うんうん、流石だ。俺の見立て通り。遊ぶにしても、君とはちょっと危なさそうだなーと思ったんだよ」

 

 呆気なく腕が元通りになった鬼は、視線の先で踊る()()を見遣る。

 

「だから、その子も混ぜてもらうよ」

 

 結晶ノ御子(けっしょうのみこ)

 

 立ちはだかるのは童磨にも劣らぬ冷気を放つ氷の人形。

 大きさこそ本体程ではないが、先程の硬さからして単なる身代わりとは考えられない。寧ろそれ以上に恐ろしい力を秘めていると、冷気に晒されている肌が悲鳴を上げていた。

 

(……本命にはまだ届かないか)

 

 覚悟はしていた。上弦を倒す為にはこの命を賭す必要があると。

 それでも、それでもだ。

 

「……人形に取らせる程、僕の命は安くない。童磨、無惨の傀儡のお前にも……!」

「まあまあ、そう熱くなるなよ。肩の荷を下ろしてくれ。誰に殺されても同じ死だろ?」

「違う。これは―――僕が望む人生だッ!!!」

 

 未来の為に未来を捨てた今、引き下がる道など疾うに失われていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「―――敵陣で合流できたのは僥倖でしたね、カナヲ。けれどくれぐれも油断はしないように」

「はい!」

 

 無限城を突き進む二名の剣士。

 一人は蟲柱、胡蝶 しのぶ。

 そしてもう一人は彼女の継子、栗花落 カナヲ。

 鬼殺隊士のほとんどが戦力を分散させる為に散り散りに無限城に引き落とされた中、彼女たちは比較的早い段階で合流することが叶った。

 

 柱とそれに匹敵する継子。

 城内を闊歩する雑魚鬼では相手にならぬ戦力が揃ったものの、それでも柱三人分に匹敵する実力の上限の鬼には心細い。

 

「他の柱との合流が望ましいですが、こんな状況です。いつ上弦の鬼と会敵してもいいように構えていなさい」

「はい……ッ!」

 

 しかし、常に引き離そうと蠢く城内では味方との合流も難しい。

 最悪を想定しつつも前に進む二人。だが、不意に隣を並走する鎹鴉がけたたましい鳴き声を上げた。

 

「カァー!! 氷室 凛、上弦ノ弐ト遭遇!! 現在戦闘中!!」

「!! 氷室くんが……」

「師範!」

「ええ。一番近い柱は?」

「蟲柱!! 蟲柱ァー!!」

 

 奇しくも一番近い場所に居る味方は自分たちだった。

 その事実に武者震いするしのぶは、カナヲに目配せしながら鎹鴉に案内を任せる。

 

「この先ですね? 彼が戦っている場所は」

「カァー!! モウスグ!! 場所ハァー、モウスグゥー!!」

 

 死闘が繰り広げられているであろう場所へと近づくにつれ、辺りの気温が冷え込む。

 

「もうすぐ……!」

「師範、あれを! ……えっ?」

「どうしました、カナヲ?」

 

 視力に優れたカナヲが何かを捉えたようだ。

 まだしのぶには見えない。

 しかし、隣で狼狽える弟子の様子はありありと目に映る。良からぬことが起こっているのかと内心慄くも、表情は平静を取り繕いカナヲの先を行く。

 

「!」

 

 そして目の当たりにする。

 襖を怒涛の吹雪。それらを受け流しながら部屋の外に弾き出される凛の姿を。

 辛うじて五体満足。されど、身に纏う隊服の至る場所が凍り付いている。

 幸いであったのは間もなくして、彼の激しい動きと体温が張り付く薄氷を瞬く間に振り払ったことだろう。

 

 だからこそ()()()

 

(あれは……!)

 

 頬に浮かぶ六花の紋様。

 

 鬼神が如き力を得る呼吸を極めた剣士の証。

 

 

 

()が……!!)

 

 

 

 心を燃やし、命が融けていく。

 



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弐拾玖.以毒制毒

 鬼が跋扈する無限城の中、一陣の炎と風が駆け抜けた。

 

 炎の呼吸 壱ノ型 不知火(しらぬい)

 

 風の呼吸 壱ノ型 塵旋風(じんせんぷう)()

 

 互いの刃を干渉せぬよう、それこそ神業的な阿吽の呼吸で型を繰り出した燎太郎とつむじの二人は爪を掲げていた雑魚鬼を斬り伏せる。

 

「ええい! 鬼の出没が止んだと思えば……これだけの鬼を揃える為だけに大勢を犠牲に! 無惨め……あの鬼畜! 必ずやその頚を斬り落としてくれる!」

「まずは目の前の鬼に集中」

「分かっている!」

 

 珍しくつむじに宥められながらも、燎太郎の苛烈な攻撃の手は正確に鬼の頚を刎ね飛ばしていく。

 敵陣のど真ん中に引きずり込まれたとは言え、この獅子奮迅ぶり。否応なしに始まった決戦に恐れおののいていた隊士たちも二人の戦いぶりを見てみるみるうちに士気を高めていく。

 

「あれが炎柱の継子……す、すごい!」

「そりゃそうさ! 時期が違えば柱になっていたような人たちだ!」

「続け! 鬼共を駆逐してやるんだ!」

 

 おぉー! と日輪刀を掲げる隊士。

 当のつむじはと言えばふんと鼻を鳴らすだけ。淡々と下弦程度の力を持たされた鬼を一匹、また一匹と屠っていく。

 しかし、広大な景色の奥から湧き出てくる鬼の数は夥しいの一言に尽きる。さながら蟻のようだ。

 

「キリがない」

「知能がない分倒しやすいが……これで消耗を狙っているつもりか!」

「残っている上弦はいくつだっけ?」

「壱から参だ! だが、空席が補充されている可能性も無きにしも非ずだ! どの道有象無象を相手取っている余力はないぞ!」

「そっ」

 

 頚を斬っても無惨は殺せない。

 陽光で焙ることでしか、奴は死なない。

 その為には是が非でも夜明けまで鬼殺隊が無惨を無限城から引きずり出さなければならないのだろう。

 しかし、敵も黙ってやられる訳ではない。杏寿郎に深手を負わせた猗窩座に加え、流を含め大勢の人間を殺した上弦の弐、その上姿や持ち得る力さえも未知の上弦の壱が控えているのだ。彼らを倒さなければ無惨の下まで辿り着いたところで邪魔されるのは目に見えている。

 

 故に可能な限り迅速に、それでいて戦力を温存した状態で上弦を殲滅しなければなるまい―――それでどれだけ地獄を見ようとも。

 

「カァー! 蟲柱、胡蝶 シノブ! 栗花落 カナヲ! 氷室 凛ト上弦ノ弐トノ戦イニ参戦!」

「! 凛のところに……!」

「しのぶ……カナヲ……!」

 

 先程から鎹鴉を通じて知らされる戦況。

 その中でも最初に上弦と遭遇したのは、同僚でも友人でもある特別深い親交を有す凛であった。しかも相手は流の仇敵。怒りが、そして憎悪が喉から絶叫と化して吐き出したい気分に苛まれて仕方がない。

 

(だが俺なんぞより凛が心配だ……!)

 

 しかしながら、我が身の不快感よりも友への心配が勝る。

 三人の中で最も流と親しかったのは紛れもなく凛だ。一見温和に見える彼も、実は激情に駆られる場面も少なくない。剣の腕こそ信頼しているが、鬼の戯言に耳を貸して怒り狂っていないか―――それが燎太郎の抱える懸念。

 

「逸るなよ、凛……」

「燎太郎、凛のとこに急ごう」

「む?」

「私たちなら、三人で戦った方がいい。違う?」

「―――いいや、違わないな!」

 

 しかし、つむじの一言が燎太郎の不安を払い去る。

 生まれ落ちてから今日までの年月と比べ、三人共に過ごした時間は長いと言って差し支えないだろう。四六時中寝食を共に過ごした訳でこそないが、常に頭の片隅には互いの存在があった。

 ―――心は常に一つ。

 歯が浮くような台詞が脳裏に過る程、三人の絆は固く結ばれていた。

 だからこそ断言できることもある。如何なる苦難に直面しても三人一緒なら乗り越えられると。

 皆までは言わない。だが、他ならぬ()で通じ合っている二人に言葉などいらなかった。

 

「行くぞ!! 俺達は……上弦の弐を討ち取りに行く!!」

「そういうこと。雑魚はお願い」

 

 さりげなく道中の雑魚鬼を他の隊士に任せるつむじだが、士気が上がった彼らにとってはさほど苦戦せず倒せる相手だ。

 意図せず合理的な采配をかませつつ、二人は鎹鴉の先導の下、仇敵と刃を交える友の加勢へ向かう。

 

「おおおおお!!! 待っていろ、凛ぃぃぃいいいん!!!」

「上弦……流の……仇……!!!」

 

 赫怒のままに炎と風は駆け抜けていく。

 

 心を燃やす氷。彼が命の灯火を削っているとは露知らず。

 

 

 

 ***

 

 

 

「はああああ!!!」

 

 鬼気迫る叫び声が部屋を貫く。

 振るう刃は結晶ノ御子の扇とぶつかり、悲鳴に似た金属音を奏でた。

 

 氷の呼吸 肆ノ型 搗ち割り

 

 息を吐く間もなく奔る紫電。

 その度に舞い散る氷の破片が辺りに散らばること数秒、守りの薄かった部分を削られた御子は両腕を切り落とされる。

 こうなれば頚はがら空きだ。血走った眼を見開く凛が剛力を発揮する腕を振り抜き、金剛のように硬かった御子の頚を刎ね飛ばした。

 

「わあ、凄い凄い! その子、俺と同じくらいの強さの技を出せるのに」

 

 軽い声色で賞賛する童磨。

 屈託のない笑みを浮かべながら両手の鉄扇で二人の鬼狩りをいなす彼は、続けて悪戯な笑みを湛え、扇を仰いだ。

 

「それなら次は……()()! いってみよっか!」

「ッ……!!」

 

 たった今倒れた御子だけでなく、また新たに生み出された御子が凛の前に立ちはだかる。

 “痣”を発現させ、ややもすると並みの柱以上の力を発揮する彼であったが、童磨の繰り出した血鬼術を前に攻めきれずに居た。

 

 血鬼術 結晶ノ御子

 

 童磨よりも小さな御子を生み出す血鬼術。

 しかし、それは囮でもなければ単なるお飾りでもない。

 矮躯から繰り出される数々の冷気や氷を伴う血鬼術は、主である童磨と比べても遜色ない。加えて一体だけでなく複数体―――それも際限なく生み出せるのが、この血鬼術の恐ろしい所以であった。

 

(くそ! なんて出鱈目な能力なんだ!)

 

 余りにも凶悪な血鬼術に凛は内心吐き捨てた。

 上弦の恐ろしさは猗窩座との戦いで身をもって知ったつもりだったが、童磨はまた別の意味で太刀打ちできない。

 現に自分は自立行動する御子の相手で手一杯だ。

 だからこそ加勢に来た二人へ視線を送るが、

 

 蟲の呼吸 蜂牙の舞い “真靡(まなび)き”

 

 花の呼吸 伍ノ型 (あだ)芍薬(しゃくやく)

 

 神速の刺突と、その周りから生えるように繰り出される斬撃の繚乱。

 蟲柱、胡蝶 しのぶとその継子、栗花落 カナヲの連携だ。師弟関係にある彼女たちの連携は圧巻の一言。常人であれば反応することさえできぬ連撃は、回避を許さぬと言わんばかりに童磨へ襲い掛かった。

 

「綺麗だね。見惚れちゃいそうだよ」

 

 だが、彼は退かない。

 

 血鬼術 枯園垂(かれそのしづ)

 

 迫りくる刺突と斬撃に応酬してみせる氷の波。

 唯一、柱の中でも随一と謳われるしのぶの鋒だけは許してしまったが、カナヲの斬撃は全て防いでみせた。

 

「ぐっ!?」

 

 だが、鬼にとって蟲柱の刃は毒牙に等しい。

 刺突を受けた肩から全身に駆け巡る毒が童磨を蝕んでいく。毒々しい色合いに変色する肌に加え、吐血する姿はすぐにでも頚を斬り落とせると錯覚してしまいそうになる。

 

「カナヲ!!」

 

 ただ、己の扱う武器が諸刃の剣と知っているからこそ、しのぶの掛け声には切迫した色が滲んでいた。

 それに応えんとカナヲは跳んだ。

 

 花の呼吸 陸ノ型 渦桃(うずもも)

 

 全身の捻りを活かした渦の軌跡が描かれる。

 女性の体の特徴であるしなやかさを存分に発揮する一撃。それでいて発条(ばね)のように強靭な肉体でもあるのだから、()()()()()()()()上弦にも通用するだろう。

 

 刹那、血と火花が咲く。

 

「うっ……!」

「カナヲ! 退きなさい!」

「惜しかったね。あとちょっとだったのに」

 

 血を流したのは両者だった。

 寸前で藤の毒を分解した童磨が振るった鉄扇が、カナヲの額を斬りつけたのだ。カナヲも童磨の腕の骨が垣間見えるほど深く斬りつけたものの、上弦の再生力を以てすれば大した傷とも呼べない。

 分が悪いと飛び退く二人。決して彼女達が弱い訳ではない。柱と継子、そして痣を発現した者を同時に相手取れる童磨が異常なだけだ。

 

(毒の情報は鬼の間でも共有されている。調合を変えたところで組み合わせは限りがあるし、何度も使えば効力も薄れていく……! 毒でコイツは殺せない! 頚を斬るしかない! 斬るしかないのに……!)

(届かない……これだけ近づいても!)

 

 二人がかりでも喰らい付くのが精いっぱい。

 しかも、それができるのも血鬼術で生み出された御子を凛が相手取っているからこそ。仮に二人だけで戦っていれば、結晶ノ御子だけで手一杯だったに違いないだろう。

 

 しのぶはギリギリと歯噛みする。己の手で止めを刺せない不甲斐なさは勿論、カナヲへ託す手を変え品を変えての補助も通用しない理不尽さ。

 頭では分かっていたはずだった。上弦はこれまでに戦ってきた鬼とは比べ物にならない強さであると。

 だが、いざ目の前にして刃を交えたからこそ、このどす黒く渦巻く悪感情を吐き出したくもなるというものだ。

 

「―――さっさと死んでくれません?」

 

 蟲の呼吸 蜻蛉(せいれい)()い “複眼六角(ふくがんろっかく)

 

 童磨の体に風穴が六つ開いた。

 毒を一か所に打ち込むのではなく、複数箇所―――全身に満遍なく行き渡るように打ち込む。

 しのぶが刃を引いた時には、童磨の上半身から六つの血柱が上がった。

 例え毒がなくとも体勢を崩すには十分な連撃。受け切れなかった童磨も後退る勢いだ。

 

「いやあ! 本当に速いね。でも、速いだけじゃあ俺は殺せないかな」

 

 血鬼術 冬ざれ氷柱

 

 体を毒に侵されても平然とする童磨が鉄扇を構えれば、氷柱と呼ぶには巨大な氷の槍が浮かび上がる。

 

「師範!!」

 

 花の呼吸 弐ノ型 御影梅(みかげうめ)

 

 突きを主体とするしのぶには捌き切れない氷柱の雨に、カナヲが割って入る。

 間一髪、氷柱はただの氷の欠片となって降り注ぐ。

 

「助かりました」

「いえ。それより……!」

「うーん、息ぴったし。『師範』って呼んでいたけれど、君ってそっちの子の弟子か何か? それにしては呼吸が違うみたいだけれど……」

 

 警戒する二人に童磨は話しかける。

 さながら往来を歩む町娘に声をかける軟派者のような振る舞い。生死を分かつ戦いの中でするのだから、敵対する身としては気分が悪いことこの上ない。

 不快を隠さぬ面持ちのしのぶは、今一度日輪刀を鞘に納めて毒の調合を変える。

 

(確実に毒の効果は薄れてきている……あと何回通用するか)

 

 毒の原料が一緒である以上、どれだけ配合を変えても鬼の体は耐性をつけてくる。

 持久戦は圧倒的に不利。

 部屋に満ち満ちる極寒の冷気は確実に体から体力を奪い去っていく。体力面や戦術面から見ても長期戦になれば勝ちの望みが薄れていくジリ貧な戦い。しのぶも毒づきたくもなろう。

 

(それよりも氷室くんの体力が持つか……!)

 

 斯様なジリ貧な戦いも、実際は凛が結晶ノ御子を一手に担っているからこそ。

 そんな彼の体力も、人間の全力疾走が短時間しか続かないように永遠ではない。

 

 “痣”。

 それは寿命と引き換えに鬼神の如き力を得る呼吸法の極致。しかし、発現の条件そのものが人体の限界に差し迫る厳しいものだ。

 心拍数が居百以上であることに加え、体温が三十九度―――常人ならば命に関わる状態。

 この戦いに分岐点があるとすれば、それは確実に凛の体力が尽きる瞬間だ。

 

(コイツを倒せる可能性が一番高いのは彼……でも、その彼が足止めをくらっている!)

 

 畜生! と今にでも叫びたい気分だ。

 喉まで出掛かった言葉を寸前で呑み込み、しのぶは平静を取り繕った。

 

「お前に応える義務はありません」

「えー、つれないなぁ」

「どうしてもというのなら、さっさと自分でその頚を掻っ切っていただけません? 死体の貴方とだったらお喋りに付き合ってあげますよ」

「過激だなぁ。そんなしかめっ面をしていたら美人が台無しだよ」

 

 軽口を叩いている間にも、可能な限り複雑な調合で毒を配合する。一秒でも毒で動きを止められる時間が増えるように、と。

 

(もしもこれで通用しなかったら……仕方ありません。()()を使うしか)

 

 腰に下げた袋を意識するしのぶ。

 無惨との決戦が近づき、鬼である珠世との薬の共同開発を始めてから、いつ戦いが始まってもいいようにと入念な準備は整えてきた。

 鬼の情報共有能力から鑑み、無惨との対決まで可能な限り温存はしておきたかったが、使う間もなく殺されてしまえば元の木阿弥。

 

 自分は弱い。理解している。

 小さくて貧相な体では相応の力しか発揮できないことも重々承知だ。

 それでも、それでもだ。

 それでも怒りから発露する力の限りなさを、この鬼畜生に教えてやらねばなるまい。

 しのぶとて数多の犠牲を目の当たりにしながら生きてきた。目の前で死に絶えた隊士や継子は数知れず。懸命に看護した者が本懐を果たせぬままに死に絶えていく遣る瀬無さや、その冷たい体を見送った虚しさ―――その全てを胸に刻み込んできた。

 

 傲慢かもしれないと自嘲する。が、今まで眼前の鬼畜生を含めて遍く鬼の犠牲者の無念を晴らすべく、自分はこの場に立っているのだ。

 しのぶは、そう己に言い聞かせた。

 

「カナヲ、構えなさい」

「っ……はい!」

 

 しのぶの雰囲気が変わり、カナヲの目の色も変わる。

 ―――次で決める。そのような覚悟を匂わせる佇まいに、童磨も咄嗟に身構えた。

 しかし、彼女の影は童磨の視界から線となって消える。

 

(速い!! 今までのどの攻撃よりも!!)

 

 橋が踏み砕かれ、その度に舞い上がる木片と轟音が、辛うじて彼女の所在を知らす(しるし)だった。

 複雑な軌道を描くしのぶの姿は、例え童磨の目を以てしても見切ることが叶わない速さ―――神風に乗り、翅を広げる蝶は舞う。

 

(氷室くん、今だからこそ言えることがあるんです)

 

 ともすると、自分自身の骨が砕けそうになる脚力で()()()しのぶ。

 

(私は―――貴方のことが好きだったんですよ)

 

 線と化す景色の中、不意に走馬灯のように昔の思い出の場面が呼び起こされる。

 淡く、鮮やかな日々の出来事。

 その中で一際眩く輝くのは、彼の屈託のない笑顔。

 

(だから、人伝に貴方が真菰さんを想っていると知って……その時に初めて自分の気持ちに気がついたんです)

 

 馬鹿だと笑ってください、としのぶは心の中で自分を嘲る。

 

(でも、後悔はないです。不思議と認めてしまったんですよ。だって()()()、私は貴方を助けられなかったから……流さんを喪って傷ついた貴方を救いあげたのは彼女だったから)

 

 自分はどこまでも非力だった。愚図だった。

 きっと彼が初恋。いつ死ぬと分からぬと覚悟した人生における最初で最後の恋だったはずなのに、気付いた時には手遅れであった。

 けれど、悲恋に喘いで崩れ落ちる醜態など晒さない。

 今胸に抱えるのは鬼狩りの剣士―――“柱”としての責務や、一個人の復讐心の他にもう一つ。

 

 

 

 一人の女としての意地が。

 

 

 

(私に貴方の“心”は救えなかった。だから、せめて体を癒せるようにと……!)

 

 彼は優しい人だ。自分の幸せそっちのけで他人の幸せを願う莫迦な人。

 

 そして心が叫ぶのだ。

 

 だから自分(わたし)も願わせろ。私が愛した一人の男の幸せを、と。

 

 

 

(生かして……貴方を彼女の下に!!!)

 

 

 

 ついに辿り着く童磨の懐。

 視界の端で鉄扇を振り下ろす彼の姿が窺えるが関係ない。

 咄嗟に風に煽られる羽織を投げ捨て視界を塞ぐ。姿勢は低く。小さい体だからこそ放り投げた羽織に隠れてしまえる。

 たった一瞬であるが、敵の視界から彼女の姿は消え失せた。

 最速を誇る蟲柱・胡蝶 しのぶにとって、敵の一瞬は毒牙を叩き込むのに十分過ぎる時間だ。

 

 

 

 蟲の呼吸 蜈蚣(ごこう)()い “百足蛇腹(ひゃくそくじゃばら)

 

 

 

 振り下ろされる鉄扇も厭わず、鬼の弱点である頚目掛けて日輪刀を突き出す。

 肉を掻き分け、骨に蜂が突き立てられる感触。手応えはある。このまま骨を貫かんとする勢いのまま足元を蹴り飛ばすしのぶは、追い打ちにと手元を捻った。

 ゴリッ、と響く鈍い音。

 頸椎を潰されたからか、童磨の体が大きく跳ねる。

 

 明確な好機。これを見逃さぬのがカナヲだった。生まれつき特殊な“目”を持つカナヲの動体視力は並外れている。

 童磨が鬼殺隊を観察して情報を得ているように、カナヲも無為に時間を費やしているだけではない。

 僅かな筋肉の動きや姿勢から、次へつながる動作を予測する視覚の力。

 神の寵愛を受けたかのような超人たる目を以てして、今の童磨は無防備であった。

 

(しのぶ姉さんが作った隙……必ず仕留める! カナエ姉さん、私を見てて! 私はもう……)

 

 花の呼吸 肆ノ型 紅花衣(べにはなごろも)

 

(自分の―――心のままに戦えるから!!!)

 

 淡い桃色が線を描く。

 刹那に放つ色は桜の花弁が舞うが如く。

 

(届……ッ!!?)

 

 刃が童磨の頚へ達しようとする、その瞬間の出来事であった。

 途轍もない寒波がカナヲを、そしてしのぶに襲い掛かる。完全に意識の外からの攻撃だった。何事かと目を向ければ、また新たな結晶ノ御子が扇を振るっている姿が垣間見えた。

 

「残念だったね」

 

 喉に風穴があいている童磨があっけらかんと言い放った。

 つまりこれは仕込まれた罠。二人はまんまと誘い込まれてしまったのだ。

 

(そんな……まだあの人形を出せるの!!?)

(糞!! 冗談じゃない!! 毒も大して効かずにこれほどの戦力を……ふざけるな!! なんで、なんでこんな奴が!!)

 

 徐々に体が凍り付き始める。

 一刻も早く退かねば凍り付くことは容易に想像できるが、カナヲと違ってしのぶの日輪刀は童磨に突き刺さったまま。加えて満面の笑みの彼が細身の日輪刀をがっちり握っているときた。これでは引き抜こうにも引き抜けない。

 

―――ならば、押すだけ。

 

「さっさと……死ねええええええッ!!! 糞野郎おおおおおおおおお!!!」

「あははっ、いじらしいなあ!」

 

 ギリギリと柄を押し込みながら絶叫するしのぶを、童磨が嗤う。

 

「無駄なのは最初から分かってたはずだろう? いやあ、涙が出てくる! 無駄と分かってやり抜こうとする愚かさに! これが人の生の儚さ! 素晴らしさだ!」

「―――置き土産です」

「うん?」

 

 童磨が血を被った。いや、()()()()()

 不意にしのぶが取り出した試験管。それを顔面に叩きつけられるや、ガラスが砕け散り中身―――血がぶちまけられたのだ。

 

「……お? この味わい深さ……さては稀血かな? でも風味からして男のかぁ。女の人の稀血の方が栄養もあるのに」

 

 顔を滴り落ちる血液を味見する童磨が告げる。

 対して、今も尚童磨に日輪刀を握られたままのしのぶは、型を繰り出す途中で身動きが取れないカナヲを蹴飛ばす。

 

「師っ……!?」

 

 驚愕で目を見開くカナヲに、しのぶは左手で何かを訴える。

 以前ならば平隊士でも使える者が多かった指文字。血鬼術という名の初見殺しを仕掛けてくる鬼に、鬼殺隊が長年戦ってきた中で受け継がれてきた確かな傳承だ。

 鬼に知られることなく伝える情報。

 それが窮地を打開する策だと道を拓くしのぶは、あれよあれよという間に凍り付いていってしまう。

 

(嫌だ!! そんな!! 逝かないで、しのぶ姉さん!!)

 

 それが決死の特攻であることは火を見るよりも明らか。

 銀色に覆われる景色に呑み込まれていくしのぶを見遣るカナヲは、くしゃくしゃに歪んだ顔のまま、例え届かいと分かりながらも必死に手を伸ばす。伸ばさずにはいられなかった。

 だが、無情にもそのしのぶに突き飛ばされたのだ。今更彼女の下へ助太刀に向かうには間に合わない。

 

 ただ見ていることしかできない―――最愛の家族の一人の死を。

 

 そんな時だった。

 不意に肩を後ろへ引き寄せる感覚が、彼女の視線を誘った。

 

(あか)い……刃?)

 

 血潮が尾を引き、遅れてむせ返る鉄臭さが鼻を刺す。

 しかし、それ以上に目を引いた日輪刀の異変に釘付けとなったカナヲは、死地へと飛び込む男が繰り出す御業を目の当たりにした。

 軋む悲鳴を上げる橋を蹴り飛ばし跳躍する凛。

 身体の至る場所に刻まれた裂傷から血を流す彼は、流れるような太刀捌きで冷気を裂き、視界を切り開いて見せる。

 

(嘘)

 

 そこからの光景は筆舌に尽くし難い光景が繰り広げられた。

 超人たる動体視力を持つカナヲだからこそ、()()()()捉えることのできた剣舞。押し寄せる冷気を斬り払う連撃は、どれもカナヲが見たことのある剣の型だった。

 

 零閃

 御神渡り

 霰斬り

 細氷の舞い

 搗ち割り

 雪

 白魔の吐息

 垂氷

 氷瀑

 銀花繚乱

 紅蓮華

 白姫散華

 

 流れ続く型が、童磨を守る厚い氷の壁を打ち崩す。

 信じられぬ早業だった。そして流麗でもあった。

 個々の型を無理やり繋げるのではなく、あたかも初めからそうあるべきだったかのように。

 

「―――へぇ、凄いね」

 

 童磨でさえ、彼の剣技に目を奪われた。

 本来繋がるはずのない型を、凍てつくような殺気と、燃えるように(あか)い刀を以て繰り出す。

 

 

 

全集中・氷の呼吸

 

 

拾弐ノ型

 

 

極月愛日(ごくづきあいじつ)

 

 

 

 金切り声が上がった。

 カナヲは、童磨の武器である鉄扇の一部が腕ごと落ちてくる光景を目にする。続けて、氷が割れる水飛沫が上がる音色にて我を取り戻す。

 

「凛兄さん……!?」

「しのぶさん!! しっかり!!」

「ッ……氷室、くん……」

「しのぶ姉さん!!」

 

 そしてか細くも聞こえてきた姉の声に、希望が滲んだ声を上げた。

 あの一瞬の間、苛烈な剣戟を童磨と繰り広げた凛は、怨敵の腕を斬り落とすことより前にしのぶを救い出した。

 

 しかし、状況は芳しいものではない。

 

「あのまま……私を見捨てて……頚を狙っていれば……」

「滅多なことを言わないでください。それに狙っても仕留めきれないと踏んだから貴方を助けたんです」

「それなら……構いませんが……とりあえず、ありがとうございます」

 

「わあ、お熱いね。もしかして付き合ってる? それならそうと言ってくれよ。男の人はあまり食べないけれど、折角愛し合ってる二人なら話は別だ! 俺の中でなら血肉までも混ざり合いながら永遠に共に生きることもできるぜ。どうだい、悪い話じゃないだろ」

 

 何かをほざいている、と凛は童磨を一瞥するだけだ。

 

(しのぶさんはこれ以上戦えない……)

 

 隊服ごと腕や脚が凍り付いているしのぶ。日輪刀を離せぬほどに手元に氷が張り付いている彼女は、最早低体温症一歩手前だ。

 凛の温度感覚を以てして危険だと言わざるを得ない状態。命に関わらずとも凍傷は免れないだろう。

 すぐにでも温かい場所へ連れて行かねばなるまい。しかし、冷え切った空気が充満しているこの部屋ではそれもままならない。

 

「……ごめんなさい。もしも動けるのなら、少しでも遠くへ―――」

「心外ですね」

「え?」

「私は……足手纏いになる為に来た訳じゃありませんよ。この体を壁にしてでも隙を作るくらいのことならできます」

「それは……そんなこと!!」

「ええ、ええ。分かっています……ですから、これを」

「これは?」

「貴方なら……使い方も分かるはずです……」

 

 息も絶え絶えとなっているしのぶは、震えた手でベルトに通していた小型の鞄を凛に渡す。

 

「さあ、私のことは放っておいて……!! 奴を……!!」

「しのぶさん……」

 

「愛の告白にしては味気なかったね」

 

「!」

 

 血鬼術 散り蓮華

 

 童磨が先程までしのぶに冷気を出していた結晶ノ御子と共に血鬼術を繰り出す。

 狙いは凛、そして傍に居るしのぶだ。

 

(さっき一瞬刀が赫く染まっていたような気がしたけれど……血塗れだったからそう錯覚しただけかな? まあ、どうせあの子を連れて逃げられなさそうだし)

 

―――これで詰みだよ。

 

 凛の甘さを見抜いての広範囲攻撃。

 助けた人を犠牲にしなければ生きられないだろう冷徹な寒波が、二人へと襲い掛かっていく。

 

「氷室くん!!」

「分かってます!!」

 

 如何に凛が御子二体を倒した実績があるとはいえ、さらに本体が加わり、手負いの味方を守りながらでは話が違う。

 

 ましてや、彼女を守るつもりなら尚更だ。

 

『―――ぉぉぉぉおおおおおお!!!!!』

 

(!? この声は)

 

 だがしかし、

 

「おおおおおおおお!!!!!」

「ッ……燎太郎!」

「突っ込みすぎ」

「つむじ!」

 

 三人なら、話は別だ。

 三位一体の剣技が輝く。

 

呼吸(いき)を合わせて!!!」

「応!!!」

「うん」

 

 

 

全集中

 

 

 

氷の呼吸 拾ノ型 紅蓮華(ぐれんげ)

 

 

 

炎の呼吸 玖ノ型 煉獄(れんごく)

 

 

 

風の呼吸 玖ノ型 韋駄天台風(いだてんたいふう)

 

 

 

 氷と炎と風。

 それぞれの呼吸の奥義と呼んで差し支えない大技が、迫りくる氷の花を蹴散らす。

 

「次から次へと湧いて出てくるね。キリがないや」

「爆ぜろ」

「ん?」

 

 直後、発砲音が轟くと共に童磨の頭部が吹き飛んだ。

 鉄扇で口元を覆っていたお陰で顎から下は無事だったが、それでも頭半分が一山いくらの肉塊と化したのは、童磨からしても今日が初めてであった。

 

「ごれはっ……半天狗と戦ってた子と同じ……銃って武器だね。中々面白い!」

 

 短時間で再生する眼球は、銃口から煙を燻らせる日輪銃を構える女剣士を見つめる。

 その間、童磨の懐へ滑り込むつむじ。銃の扱いに慣れてきたとは言え、やはり鬼の頚を斬り落とすには刀が一番だ。

 旋風が吹き荒ぶ呼吸音を響かせ、緑色の日輪刀が牙を剥く。

 

 風の呼吸 肆ノ型 昇上砂塵嵐(しょうじょうさじんらん)

 

 疾風の如く振り上げられる斬撃。

 だが、鋭い一閃は間に割って入る御子に受け止められる。

 

(かった)っ……」

「頭を下げろ、つむじ!!」

 

 炎の呼吸 肆ノ型 盛炎(せいえん)のうねり

 

 もう一体が逆につむじの頚をつけ狙っていたが、一拍遅れてやって来た燎太郎の剛腕から振るわれる斬撃が阻止してみせた。

 

(うーん、頭数が増えてきたなぁ。倒す分には問題ないけど、ちょっと面倒になってきたかな)

 

 御子が二人を食い止めている間も頭部は完治した。

 脳味噌が元通りになれば、それだけで思考が鮮明になる。

 なる―――はずだった。

 

「っととと……?」

 

 突如、足が(もつ)れた。

 危なげによろめく童磨。

 先程まで鮮明に澄み渡っていた思考や視界が、どんどん歪に歪んだものと化していく。色の境界さえ曖昧な惑いの世界へ。

 

(なんだ、これ? 頭がグルグルして……毒? いや、これは……)

 

 思い当たるもの。

 あの女の毒―――は、すでに耐性がついて大した影響は表れないはずだ。

 ならばなんだ?

 

(血……脳髄が甘く蕩けるような味……まさか)

 

 記憶力に長けた童磨が導いた(こたえ)

 顔にぶちまけられた試験管の血、あれだ。

 そこに何か絡繰りがあると踏む童磨だが、彼の―――いや、この場に居る全員の意表を突いたのは()から雄々しい雄叫びと共に現れた。

 

「どぉありゃアアアア!!! 天空より出でし伊之助様のお通りじゃあアアア!!!」

『!!?』

 

 天井を突き破り現れる猪の化け物……否、伊之助がちょうど真下に居る童磨目掛けて刀身が欠けた日輪刀を振り下ろす。

 

 獣の呼吸 伍ノ牙 (くる)()

 

 乱雑な太刀筋。故に読み難く、不意を突かれたこともあって童磨の体には無数の刀傷が刻まれる。

 

「ッ……!!」

「今だ、畳み掛けろォ!!」

 

 燎太郎の掛け声と共にこぞって童磨へ押しかける鬼狩りの剣士。

 総勢五名。今ならば御子の数と合わせても凛たちに分がある。

 やるなら今しかない。好機が五人を駆り立てる。

 

(これは……不味いかも)

 

 平衡感覚を失っている今、五人もの剣士に斬りかかられようものなら童磨と言えど危機感を覚える。

 稀血から搾り取ったと思しき血液の幻惑作用は強烈だった。

 恐らくは稀血本来の効果に加え、何者かの手によって追加の毒が盛られている。それは藤の毒とは別の代物。いや、もしかするとこれもまた“血”なのかもしれない。

 

(確か、流れ者の血鬼術が……)

 

 迂闊だったと反省するも、時を遡ることはできない。

 こうしている間にも刃は迫りくる。

 頚を、鬼の命を焼き切る陽光を宿す刀が。

 現状死の淵に立たされているのは童磨(こちら)だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(仕方ない)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――遊びはお終いにしよっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

血鬼術 霧氷(むひょう)睡蓮菩薩(すいれんぼさつ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なっ……!!?」

 

 突如として水面より湧き上がる()()()()()()()()

 彼らの振り下ろす手刀と口から紡がれる冷気は好機を一転させる。

 

 

 

 “地獄”はまだこれからだ、と。

 



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参拾.流星光底

 極楽なんてものは無い。

 だけど、俺の下に集う信者たちはこぞって「極楽に導いてほしい」と縋り付く。泣いて、喚いて、嗚咽を漏らして救済を求めてくる。

 

 俺はなんて可哀想な人たちなんだと思った。

 そんなものが存在しないことくらい理解できないなんて。

神や仏が御伽噺の話だと分からないなんて。

 

 でも、何百何千と聞かされた退屈な話から()()()()()

 彼らは共通して苦しい身の上で、どれだけ努力をしてみても状況が好転しないどん詰まり。

 成程、現世に期待が持てないのならあの世に期待したくなるんだ。俺は賢かったから、子供ながらに思い至っては信者の話に付き合ってあげた。

 

 やれ中々子供ができないんだとか。

 やれ借金で生活が困窮してるとか。

 やれ商売に失敗してしまったとか。

 やれ流行り病で女房が死んだとか。

 やれ行きずりの強盗に遭ったとか。

 

 さして内容に興味はなかったけれど、どういった時に人が悲しんだり怒ったりするか参考になった。

 ほら、この人たちはせめて話は聞いてもらいたいんだ。

 だから俺がしっかり共感して涙している姿を見せるだけでも、御目出度い頭をした彼らは救われた気分になる。これも一つの救済だ。

 

 けれども、死んだら何も残らない。

 この極楽を信じている人たちは、実体のない幻想を抱いたまま土に還っていく。

 そんなのは()()()だ。無いものを夢見、今際の際まで藻掻き、足掻く姿はとてもじゃないが見ていられない。

 

 だから俺が救済する。

 早々に苦痛に満ちた世の中とおさらばし、永遠の時を生きられる俺の血肉となって生きていくのだ。

 死が恐ろしいから―――幸福を得られなかった生を受け入れ難いから、あの世を妄信する。

 

 死の間際に散々言い聞かされてきた「生まれ変わったら」なんて、もう言う必要はないんだよ。

 次なんてそもそもないんだから。

 死ねば、はい、そこで終わり。

 

 なのに。

 なのにだ。

 鬼狩りの剣士は、どうしてこうも死に急ぐのだろう?

 

 一度きりの人生だというのに、それを溝に捨てるかの如く無謀な戦いに身を投じては命を散らしていく。

 馬鹿だ。なんて可哀想な頭の悪い輩の集まりなんだろう。

 

 師匠を殺した仇?

 姉を手にかけた敵?

 母親を喰い殺した鬼?

 

 いや、分かる。分かるぞ。

 文章から登場人物の心情を書き綴れなんていう問題の解答みたいに、彼らが俺を目の敵にする理由は。

 

 怒っているんだよな? 悲しんでるんだよな? 憎んでいるんだよな?

 けれど、死んだものは仕方ない。

 ようく考えてみてくれ。死ねば焼かれて灰になる人生に何の意味があるのかと。

 それなら誰かに喰われた方がよっぽど意義がある。自然の摂理にも適う。

 自然から逸脱しているのは寧ろ人間の方だ。無意味に悼んで涙を流し、心身くたびれていくなんて馬鹿みたいだろう。

 

 君たちが俺を殺しても意味なんかない。

 鬼も死ねば灰燼となって何も残せない。

 俺が喰らった人々の記憶や証拠さえ残せない。

 

 君の因縁なんて、たかが百年も経てば綺麗さっぱりなくなるものだ。

 それの為に人生を棒に振るなんて考え、普通じゃない。

 そうだ、君たちは頭が悪いんじゃない。頭が()()()()()()んだよ。

 俺が心の無いがらんどうみたいな言い草をしているけれども、心という歯車のせいで狂っている人間―――(おれ)(きみ)のどっちが健全かな?

 

 

 わざわざ地獄を見ようとするんだから。

 本当、人間って気の毒な生き物だ。

 

 

 

 ***

 

 

 

 きっかけは、ほんの僅かな光明が見えた瞬間だった。

 絶望的なまでに凶悪な血鬼術を持つ鬼の頚を刎ねる好機。戦える者の全てが日輪刀を手に取って、童磨に斬りかかっていった。

 

 しかし、鬼という存在は悪辣だ。

 太陽の光を拒むように、一筋の光明でさえ許し難い性質であるらしい。

 

 血鬼術 霧氷・睡蓮菩薩

 

 それが危機に陥った童磨が繰り出した最大の血鬼術。

 巨大な氷で模られた観音像が生み出す光景は、地獄絵図と言って差し支えなかった。

 

 圧倒的な質量。今迄の攻撃が涼しいと錯覚する絶対零度の吐息。それらが御子の数だけ現れた出鱈目さ。

 

 その全てが、この場に居る鬼殺隊の面々の心をへし折りかけた。

 現に二体の観音像が現れてから童磨を取り囲む陣形は崩壊。無傷の者など一人も残っておらず、いずれも体のどこかが凍り付いているか、鋭い氷花に刻まれた裂傷から血を流している有様だ。

 

 過去に上弦と相まみえた者や、そうでない者でも抱く絶望。

 これまで戦った上弦は間違いなく強かった。体捌きや技術、そして血鬼術に至るまでが下弦以下とは別格。

 それでも何とか喰らい付けたのだ。仲間と共に戦い、食い下がり、九死に一生を得る場面をなんとか繋いでいき。

 

 が、そうした経験が無意味に思えてしまう現実。

 

―――次元が違う。

 

 誰もがそう思った。

 だが、一人の喝が空気を裂いた。

 

「絶対に止まっちゃ駄目だ!!! 動け!!! 止まったら死ぬぞ!!!」

 

 刮目し、観音像が紡ぐ冷気の合間を縫って進む凛の声。

 氷の観音像が現れてからというもの、部屋の温度は急激に下がってきている。

 類まれなる温度感覚故に自らの体温さえも詳細に把握し“痣”を発現させた凛であったが、そんな彼だからこそ即座に理解する()()

 

 体温維持にはそれだけ体力が居る。複数体との結晶ノ御子との連戦で、既に凛の体は限界に近い。

 加えて、圧倒的な制圧力を有する観音像の吐息だ。

 一息吹かれれば、それだけで自分たちの命のともし火が消えかねない威力。直撃を免れたとしても足場である橋は凍り付き、足場としての安定さを欠いていく。

 

 何よりも、体温を奪われる。これが不味い。

 “痣”は現状童磨と渡り合えるに至る生命線。これを失えば待つのは―――死。

 

(動け。動け。動け。止まったら最後だ。ああ、心臓が張り裂けそうだ。頭の中が響いてる。手が(かじか)んできた。まだ、まだ柄は握れてるな? やるんだ。やれ。やるしかないんだ。僕の―――命を駒にしてでも)

 

 血走った眼を閉じ、全身の温度感覚を研ぎ澄ませる。

 対となって待ち構える観音像。主を守る門番として立ちはだかるそれらは、童磨の分身である御子によって操作されている。

 何度も御子と戦ったからこそ分かる。御子の繰り出す血鬼術は本体と遜色のない強さだ。が、それでも動きがやや単調になるという弱点がある。

 加えて、血鬼術で生み出された存在である以上、本体の異変には敏感だ。

 

(感じる。微かに冷気が薄い場所。やっぱり正確な狙いを付けられていない……!)

 

 一見隙間なく埋め尽くされている冷気の波。

 だが、集中すれば強引に突破しても致命傷に至らない()を見つけられた。

 

(行け。行くんだ。腕や脚の一本や二本なくなったって構やしない。生きて……勝って帰られれば、他の全部を犠牲にしてでも)

 

 まだ穴に突撃するには拙い。

 しのぶが童磨に仕込んだ血―――風柱・不死川 実弥の血と鬼殺隊に与する鬼・珠世の血鬼術から作られた幻惑剤が続く時間は、確実に己の“痣”が消えるよりも長い。

 悠長にしている暇もないが、功を急いて仕損じれば全員が死ぬ。

 全員が全員の命を背負っている中、自分一人が下手を打つ訳にはいくまい。

 

 自分にとって最期に振る刃になるかもしれないと覚悟を決めた凛は、水が逆巻くような呼吸音を轟かせる。

 

 

 

 

 

全集中

 

 

 

 

 

(ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、流さん。いくら謝っても謝り足りない。貴方はきっと、僕にこんなことをしてもらいたかった筈じゃない。貴方の想いを無下にしてしまうようでごめんなさい……でも)

 

 

 

 

 

水の呼吸

 

 

 

 

 

(どんなに困難な、苦しんで、蹲って、悲しみで打ちのめされそうになる道を進んだとしても。例え、その道の中で生きていられないようなみっともない姿を晒したとしても)

 

 

 

 

 

()()()()

 

 

 

 

 

(帰ると誓った場所があるのなら―――!!!)

 

 

 

 

 

(ながれ)

 

 

 

 

 

 逆風を激流が裂く。

 

「!!」

 

 酩酊状態に加え、景色が幾何学な幻覚に苛まれている童磨が目の当たりする姿。

 それは観音像の熾烈な猛攻を凌ぐ凛の剣舞であった。

 観音像が丸太よりも遥かに太い剛腕を振り下ろせば、まったく刀身を欠けさせることなく受け流し、その剣舞を加速させていく。

 

 少し離れた場所で見遣るしのぶは、そんな凛の繰り出す型に釘付けになっていた。

 

生生流転(せいせいるてん)? ―――いえ、あれは違う。寧ろ零閃に近いような……)

 

 水の呼吸・拾ノ型に“生生流転”という型がある。

 一方で、凛の師が開祖である氷の呼吸・零ノ型に“零閃”と呼ばれる型もあり、曰く零閃は水が氷へと移ろう間に誕生した二つの呼吸の特性を併せ持つ特殊な型であった。

 前者は回転するごとに斬撃の威力を増していく。

 後者は攻撃を受け流した勢いで加速した斬撃を叩き込む。

 しのぶは、たった今観音像の攻撃を受け流していく凛の太刀筋に、その両方の型が脳裏を過った。

 

 生生流転とは真逆。

 

 迎え撃つのではなく、受け流すことで斬撃を加速させる凛だけの型。

 

 それこそが水の呼吸・拾壱ノ型―――流。

 

 状況に応じた柔軟な対応力に富んでいる水の呼吸だからこそできる芸当。

 だが、表皮に張り付く氷を尻目に踊り狂うのだ。当然強引に氷を引き剥がされた肌は、傷ついていく。すでに裂傷が刻まれていた部位は、凛からさらなる血肉をかっさらっていく。

 

 それでも止まる訳には。

 止まれない瞬間が、今だった。

 

「嘴平君!!! カナヲちゃん!!!」

「「!」」

「後ろに続いて!!!」

「ッ……はい!」

「ぉぉぉおおおオオオっしゃああああああ!!! 任せろおおおオオオ!!!」

 

 獣の呼吸 捌ノ型 爆裂猛進(ばくれつもうしん)

 

 奮い立つ伊之助が日輪刀を両手に、観音像の攻撃を受け流していく凛の背中についていく。防御を捨てて敵の懐へ突撃するという単純な型だが、伊之助の優れた触覚感知を活かせば致命の一撃を紙一重で躱すことができる。

 猪頭が脱げて露わになった表情からして、血潮が沸騰しそうなほどの怒りに燃えている伊之助。それもこれも全ては童磨の暴露した過去が原因だ。

 

 伊之助の母親・琴葉(ことは)を殺した張本人―――それこそが童磨であった。

 稀血の中でも特に珍しい鬼を酩酊させる血を浴びた童磨は、上気した顔でケタケタと笑いながら話していた。

 

『赤ちゃんを抱きかかえた女の子が来たんだよ』

『綺麗な顔でさ』

『置物にいいかなって思ったんだけど』

『俺の善行を盗み見した挙句癇癪起こしてさ』

『嘘つきだなんだと喧しかったなあ』

『最期に逃げた先で赤子を川に落としてさ』

『本当に頭が悪い真似したのがおかしくて仕方なかった』

『不幸な人生だったよね』

『本当に無意味な人生』

『だから、せめてこうして笑ってあげなきゃね』

 

 胡乱な瞳で、楽し気な思い出を語るように。

 心なしか、その時の童磨は今日の戦いの最中で最も人間らしい顔を見せていた。

 

 それが伊之助に逆鱗に触れた。

 

 しかし、手痛い反撃を受けた彼もまた満身創痍。

 上半身半裸ということもあって、体温はみるみるうちに奪われていく。

 

(寒ィ!!! 冷てェ!!! でも関係ねェ!!!)

 

 歯が砕けんばかりに食い縛る伊之助は、薄ら笑いを湛える童磨を睨みつける。

 

「俺様の憤怒に比べたら……こんな氷、生温ィんだよおおおおおおお!!!」

 

 己を奮起させる雄叫びを上げ、猪突猛進する。

 

「アハハ! 愚かだねぇ。そんな馬鹿正直に真っすぐ突っ込んできたところで来させる訳がないじゃないか!」

 

 笑い上戸となっている童磨が鉄扇を仰ぐ。

 すると、観音像の一体が巨大な腕を凛と伊之助目掛けて振り下ろした。直撃すれば一山いくらの肉塊になりかねない質量。掠っただけでも折角加速させた斬撃が死んでしまいかねないだろう。

 

「凛、進めえええええ!!」

「!」

 

 だからこそか。割って入る人影が一つ。

 炎の羽織を揺らめかせ、紅い日輪刀を振り上げる男が、氷の観音像を相手取らんと吼える。

 

 炎の呼吸 弐ノ型 (のぼ)炎天(えんてん)

 

 全力の斬り上げが氷の腕に喰い込む。

 それにて一瞬止まる動き。

 

 が、直後に鈍い音が響き渡った。

 

「ぐうううううッ!!?」

 

 決死の覚悟で攻撃を受け止めた燎太郎。そんな彼の腕からは、骨に罅が入った―――否、折れたように生々しく軋む音が鳴ったのだ。

 刹那、轟音と共に腕が橋を叩き割った。

 舞い上がる砂煙や噴き上がる水飛沫のせいで、燎太郎の安否は確認できない。

 だが、凛は振り返らなかった。彼の生存を信じている―――という顔つきでもない。ただ信じるしかないと自分に言い聞かせる壮絶な表情は、頑なに童磨へと向けられていた。

 

 人の足掻く姿を見物にする鬼は、鋭い牙を覗かせてニタニタと笑っている。

 

「はい、一人おーしまいっ! 呆気なかったね。勢いだけじゃあ勝てないよ! 若気の至りって奴かな? 一時の気分で人生台無しにするなんて馬鹿馬鹿しいねっ!」

 

 畳みかける様な侮辱の言葉。

 それらに凛の赫怒が増す―――よりも前に、氷が砕ける音が轟いた。

 

「腕の一本くらい……なんだッ!!!」

 

 白い靄を切り開く燎太郎。

 無事な部分を探す方が困難な血塗れの姿を晒す彼は、見るも無残な左腕を宙ぶらりんにさせつつも、尚も氷の剛腕に食い込んでいた日輪刀を振り切っていた。

 あの巨大な腕を破壊するには幅が足りない―――かと思いきや、すかさず燎太郎が蹴りを入れると、自重に耐え切れなくなった剛腕が地に落ちる。

 

 が、御子も黙っているままではない。

 敵を沈められていないと分かるや、今度こそ鬼狩りの剣士を潰さんと観音像の御手を振り上げさせた。

 

「やらせない」

 

 そこへ割って入るつむじが、観音像を操る御子の一体へ肉迫した。

 これには御子も燎太郎を撃破する動きから、目の前の敵を迎撃する態勢に移り変わる。死に体の男一人、放っておいても問題はないという童磨の深層心理を反映した自律思考だろうか。どちらにせよ燎太郎への攻撃はあからさまに甘くなる。

 一方で、即刻対処すべき敵とみなされたつむじへの攻撃は熾烈を極めた。

 

 血鬼術 蔓蓮華(つるれんげ)

 

 御子から伸びる氷の蔓が、つむじへ殺到する。

 彼女も無傷ではない。霧氷・睡蓮菩薩が現れてからの攻防の間、体の至る所に赤い血の滴る傷と青く腫れあがった痣を作っている。

 それでも尚、絶望的な戦力差を前に焦燥をおくびにも出さない彼女は、尽くせる限りの手を打って出ることに決めた。覚悟した。

 

 風の呼吸 拾ノ型 疾駆狂飆(しっくきょうひょう)

 

 絞り出せる限り全てを一息に。

 

 嵐が過ぎ去ったかのように、彼女の轍には数多の裂傷が刻まれる。

 繰り出した斬撃の余波。迎え撃った氷の破片。切り裂かれた羽織の布切れ。叩き落された暗剣。紙一重で躱した時、すっぱりと斬り飛ばされてしまった髪の一房。

 落ちた物は捨て置き、少しでも敵の注意が自分へ向くよう。そして凛が童磨へと集中できるよう御子を倒さんと奮戦する。

 刹那、燎太郎の左腕を奪った―――つむじから見て背後に佇む観音像が震動音を唸らせながら動く。

 

 血鬼術 ()(ぐもり)

 

 吹雪が迫るような甲高い音。瞬間、背筋に怖気が奔る。

 つむじは振り返らない。目にせずとも極寒の冷気が差し迫っていると直感したからだ。仮に振り返ろうものならば、滅殺すべき怨敵を捉える瞳をやられてしまうだろう。

 

「そんなに色んな武器を持ってるんだなんて凄いね! まるで曲芸だ。でも、惜しいなぁ~。見たところ鬼用の道具だろ? そんなんじゃその子は倒せないよ。それに倒されたところで何体でも作れるんだぜ? 無意味な努力ほど可哀想なものはない。ほらほら、頑張っても仕方ないんだから諦めなよ」

 

 膝を叩いて笑う鬼に「黙れ」と内心毒づく。

 

 ―――仕方ない? それは間違いだ。

 例えば天災に遭って大切な人を失ったとしよう。それならば自然の中に生きる生命として受け入れられもできよう。

 けれども、お前はここに居る。大切な人を奪った張本人のお前がだ。

 超常的な存在をいくら憎もうとも手は出せない。

 だが、お前はここに居る。生きている。骨に穢い肉がこびり付き、ねじ曲がった根性のように絡まり合う血管が血を巡らせ、その不快な鼓動を鳴らしているのだ。

 目の前に居る―――お前が鬼狩りに狙われる理由など、それ以上必要ない。

 賢そうに振舞っているが、奴は馬鹿丸出しだ。

 頭が回っているならば、自分が手にかけた生き物が、その同類がどのような真似をするかなど予想できるだろう。

 獣でさえ捕食者に牙を剥くのだ。それ以上に情緒に富んだ人間が、どうして歯向かわないと思えたのか不思議でならない。

 

 人とは、必ずしも生きる為に命を屠るのではない。

 心が―――魂が発するがまま、剥き出しの感情を曝け出すからこそ、時にその手を血に染める。

 

(今!)

 

 手あたり次第の道具を使い込み、やっとの思いで射程距離に入るつむじ。

 蔓蓮華も中距離以上に離れた敵に有効な血鬼術だ。至近距離まで詰められた場合、思うような効果は期待できない。

 

 血鬼術 ()蓮華(れんげ)

 

 だからこその範囲攻撃。

 鳥肌が立つ鋭利さを誇る氷花が、波となってつむじへ押し寄せる。

 

 対して彼女は、懐から日輪銃で弾幕を張りつつ、懐から黒色の物体を放り投げた。

 それは弾丸に穿たれてできた穴を潜り抜け、御子の目の前へと躍り出た。

 

「ッ……!!」

 

 針の穴を狙うような標的に狙いを澄ませるつむじだが、引き金を引くと同時に捌き切れなかった花弁が押し寄せてきた。

 片腕で日輪刀を振るうも、物量差が激しい。

 敢え無く腕からは血飛沫が舞う。皮は当然のこと、筋肉やその奥に埋まっている骨にまで到達するような裂傷を負った。

 つむじは苦悶の表情を浮かべる。

 しかし、情けない声を出したくないと言わんばかりに歯を食い縛る彼女は、僅かなずれもなく投擲した物体を撃ち抜いた。

 

 瞬間、爆音と共に御子が弾け飛んだ。

 “痣”を発現した凛でさえ全力を込めねば斬れなかった氷像をだ。

 

(鉄火松……良い仕事する!)

 

 それは日輪銃同様、日輪刀の原材料を火薬と共に詰め込んだ手投げ爆弾。

 本来導火線に火をつけ、頃合いを見計らって投擲する手順が正しい使い方だが、今回は一秒すらも惜しい状況だったが故に撃ち抜いて着火した。

 日輪刀と同じ原材料を使っていることから鬼にも効果覿面との談であったが、想像以上の戦果だ。爆発する瞬間、飛び散る鉄の破片が(あか)く染まっていたのは、それだけ瞬間的に超高温に達していたからか、はたまた―――。

 

 兎にも角にも、間もなくして背後の観音像が崩れ落ちていく。童磨でなく御子が主導権を握っていた個体故の結果だ。

 

「燎……太郎……」

 

 襤褸雑巾となった両腕から血を滲ませるつむじは、朦朧とする意識の中で名前を口にし、足を引き摺って行く。

 

 腕に力が入らない。というより、人体の構造上力を入れられないほどに筋肉や靭帯に深手を負ったのだ。幸か不幸か、傷を負わせたのが極低温であった為か、傷口が凍り付いて出血は少ない。が、早急に処置せねば凍傷のみならず壊死は必至だ。

 

 しかし、傷ついた者を手当てする時間さえ、今は惜しい。

 

(こいつを……今はこいつだけを!!!)

 

 吐き出す息は白く輝く。

 彼が飛び込むのは吐息の水分が瞬く間に凍り付く極寒。

 残る一体の観音像とそれを操る御子の攻撃を受け流す彼は、最早後ろに付く伊之助でさえ視認できぬ速度で刃を煌かせる。

 銀と青。氷と水。二つの呼吸を併せて振るわれていた日輪刀であったが、既に()()が起こっていた。

 

(まただ。刃が(あか)く……)

 

 未だ幻惑に苛まれる童磨であったが、その眼で確と目に焼き付ける。

 

(無惨様と戦った剣士と同じ―――赫刀)

 

 赫く染まり上がる日輪刀。

 原理こそ知らない童磨だが、鬼としての本能が警鐘をかち鳴らす。

 ()()は喰らってはならない。離れた距離に居るにも拘わらず感じる太陽の波動に、仄かな灯りを刀身が反射する光にさえ身構えてしまう。

 迂闊に近づかせるのはまずいと残る観音像を前へ繰り出す。

 が、巨腕より突き出された掌は赫刀を前に呆気なく両断された。しかも断面から氷の腕を修復させられないではないか。いや、徐々に水分を収束し再生こそしているが、凛の速さを前には間に合わないというのが童磨の見立て。

 

(いや……睡蓮菩薩の再生が遅いのか。一体どういう絡繰りかな?)

 

 それ以外にも要因はありそうだ。

 が、推測ばかりしている彼ではない。

 

 血鬼術 結晶ノ御子

 

 二体の内、一体はつむじに倒された。

 残る一体は睡蓮菩薩を操る制御の役目を担っている。倒されてしまえば、一気に自分の守りが手薄になってしまうことを理解した童磨は新たなる御子を生み出した。

 一、二、三、四、五―――総勢六体、恐るべき力を有する御子の群れが、童磨を守る陣形を作り上げる。

 

(まだあんなに……!?)

 

 酩酊している状態ならば、と抱いていた希望も露と消えるような光景。

 息を飲むカナヲは、寒さだけが理由ではない震えを押し殺して日輪刀を握り直す。

 

(しのぶ姉さん。カナエ姉さん。アオイ。きよ。すみ。なほ。皆の心配を無下にするようでごめんなさい)

 

 心の中で紡ぐ謝罪。

 次の瞬間、見開かれた彼女の瞳は紅く染まり上がっていた。

 

 花の呼吸 終ノ型 彼岸朱眼(ひがんしゅがん)

 

 元より秀でた動体視力を極限まで高めるカナヲの切り札。そして己から光を奪いかねない諸刃の剣である。

 酷使される視神経。

 しかしながら、それまでカナヲでさえ把握するだけで精一杯であった凛と敵の攻防をはっきり捉えられるようになった。

 凄い。ただその一言が脳裏を過る。

 そしてそれだけの力を得るに至った理由を推し量り、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。

 彼の強さは悲しみの裏返し。決して帰ってこない故人との本懐を果たすが為、研鑽を続けてきた結果。

 

()()()()()()。私も―――!!!)

 

 強くなれる理由は、確りと胸に刻んでいる。

 

 各々の心が燃え盛る中、頃合いを見計らったかのように赫刀で観音像の頚を刎ね飛ばす凛。

 巨体を飛び越えて進む三人を待ち構えるのは、六体の御子と本丸である童磨である。

 ここで滅殺せねば敵の凶刃は他の剣士を襲うだろう。

 

 殺るのだ、確実に。

 今、ここで。

 

 不退転の決意を胸に日輪刀は構えられ、一息に肉迫する三人。

 凄まじい気迫だ。遠目に見るだけでも肌が粟立つ怖気が全身を駆け巡る童磨は―――嘲笑した。

 

「飛んで火にいる夏の虫ってやつだ! 頭が悪いと可哀想だね。自分の死に様も想像できないんだから」

 

 童磨が言葉を紡ぎ終えた瞬間、御子がその手に握る対の扇を振るう。

 

血鬼術

 

 

 

蓮葉氷(はすはごおり)

 

 

 

蔓蓮華(つるれんげ)

 

 

 

枯園垂(かれそのしづ)

 

 

 

寒烈(かんれつ)白姫(しらひめ)

 

 

 

(ふゆ)ざれ氷柱(つらら)

 

 

 

()蓮華(れんげ)

 

 

 

霧氷(むひょう)睡蓮菩薩(すいれんぼさつ)

 

 

 

 ただ一言。圧倒的だった。

 視界を埋め尽くす冷気の波が三人に向かって押し寄せる。いくら“痣”を発現し、赫刀までをも携えた剣士と言えど、これだけの物量を一度に捌けるはずがない。

 共感性に致命的な欠陥がある童磨だが、本人が認めるように頭は回る方だ。例え常人なら催す吐き気で立つことさえままならぬ酩酊状態でも、現状における最適解に近い答えを導くなど造作もない。

 

―――()()()()()()()()()、の話だが。

 

「ありがとう、しのぶさん」

 

 細やかな謝辞が木霊のように紡がれた。

 直後、徐に懐から取り出すや蹴り上げた物体を両断する凛。それはしのぶから受け取った鞄だ。

 中身から赤い物体、否。液体が撒き散らされる。

 それらは押し寄せる冷気に触れて凍る―――ことはなかった。

 寧ろ、逆。

 部屋中を紅蓮に染め上げる閃光を瞬かせたかと思いきや、辺り一面に真紅の炎が広がっていく。

 

(炎? さっきの女が使った爆弾みたいなものを……)

 

「―――違いますよ」

 

 思案を巡らせる童磨が見当違いな憶測を立てていると察したしのぶがほくそ笑む。

 

(それは禰豆子さんの血鬼術―――“爆血”。お前の腐り切った細胞を燃やし尽くす浄火ですよ)

 

 珠世との合同研究の折、味方となっている鬼の血鬼術を何とか使えないものかと模索した結果の品。

 浅草で鬼にされた男性に始まった研究は、血液が媒体となる珠世と禰豆子の血鬼術に目を付けたしのぶは、二人の血を用いた道具を作っていたのだった。

 珠世の血鬼術“惑血”と実弥の稀血を混ぜた幻惑剤は使ってしまった。

 残っていたのは鬼だけを燃やす特性を持つ禰豆子の血鬼術“爆血”を利用した焼夷弾。那田蜘蛛山にて累の糸を焼き切った戦果を残した威力は凄まじかった。

 

 冷気と拮抗すること数拍。

 鬼でない三人は、冷気を押しのける炎の尾を引きながら童磨たちの前へ降り立った。

 

「おおおおお!!!」

 

 一閃。

 赫刀が二体の御子の胴体を泣き別れにする。

 

「うっ……!」

 

 そのまま視線を滑らせる凛と怨敵の視線が重なった。

 生まれて始めて気圧される童磨。その感覚に困惑しつつも反撃は繰り出す。二体の御子に“寒烈の白姫”を繰り出させ、自身は後ろに下がる。

 

「逃がすかああああああああああああああ!!!!!」

 

 血反吐を吐きながら絶叫する凛は、広範囲の冷気に対し真正面から突っ込んでいく。

 これが一方向であったならば兎も角、少なくとも三方向からの攻撃。

 案の定、一体の御子を斬り飛ばした凛の右腕は吹き付ける冷気によってみるみるうちに凍り付いていく。

 

「おぉ!? おまッ……」

「構うな!!!」

 

 愕然とする伊之助を一喝するや、()()()()()()()()()もう一方の御子を、事なきを得た右手に握る赫刀で両断する。

 

 

 

―――それは修羅の道だ。

 

 

 

 不意に流の言葉を思い出す。

 

 

 

―――地獄を見ることになる。

 

 

 

 何気ない会話の一幕。

 

 

 

―――だが、その道の先でお前は……國一番の剣士となっているだろう。

 

 

 

 優しい笑顔が、脳裏に蘇る。

 

(流さん……僕に勇気をッ!!!)

 

 これ以上なく(あか)く滾る日輪刀を突き出す。

 狙うは童磨。一体の御子が割って入るが、それが何だ。

 

「童磨あああああアアアアアッ!!!!!」

 

 赫刀より繰り出される刺突は、御子を、そして童磨の頚を貫き、彼らの体を背後の観音像に縫い付ける。

 

「ッぅぅぅうううん……効くねぇ!! こんなに(あづ)いと思っだのはッ、生まれて始めでだよッ……!!」

 

 喉に襲い掛かる焼かれる苦痛。

 ややもすると人間の身であったなら痛みで即死してしまいそうな攻撃だった。

 しかし、彼の舐めるような視線が釘付けとなっていたのは、眼前の鬼狩りの頚だ。酩酊している上であれほどの速さで動き回られていた時は狙いもつけられなかったが、これだけ接近され、尚且つ一瞬でも動きが止まったなら話は別だ。

 鋭い対の鉄扇が凛に振り下ろされた。最後の一体となった御子もまた、彼の背後から不意を突こうと飛びかかっている。

 

(終わりだよ)

 

 もう片方の凍った腕では刃を振ることもできない。

 つまり彼は差し迫る挟撃に対し、為す術がない。

 

―――たった一人であったならば。

 

 耳を劈く轟音。刹那、凛の背後に居た御子の頭部が弾け飛び、あえなくそのまま吹き飛ばされた先の水面に沈む。

 馬鹿な、と視線が向けられた先に佇んでいたのは半死人の鬼狩りが二人、寄り添う姿。

 

「ぜぇ……ぜぇ……!! 良い狙いだ、つむじ……!!」

「げほっ! はぁ……()()()()()()()()

「馬鹿言え!! ()()()()()()……絶対に外れない……!!」

 

 血みどろの燎太郎とつむじ。

 片や左腕が挽肉となって眼球も凍らされており、片や両腕が箸さえ持てぬ襤褸雑巾となっている状態。

 だが、辛うじて右腕が無事だった燎太郎が日輪銃を構え、彼の肩に顎を乗せるつむじが照準器代わりに狙いをつけていたではないか。

 

(人間ってのはどこまでも……)

 

 しかし、問題はない。

 挟撃が水泡に帰したところで、眼前の敵に対処する手段はないと高を括る。

 

 ()()が甘いと知るのは、生来の性質か、はたまた未だ幻覚を見せつける幻惑剤が利いていたからか。

 

 どちらにせよ柄から手を離した凛が、()()()()()()()()()()()()()()()()()紙一重で身を翻して避けるなど、想像することもできなかったのは事実だった。

 

「は?」

 

 思わず間の抜けた声が出た。

 が、次の瞬間にはその場で円を描いた凛が、童磨に突き刺さったままの日輪刀を逆手で握り直し、残る力を絞り出すように刃を滑らせた。

 

(おかしいだろ。頭が狂ってる)

 

 心の底から抱いた感想。

 

 人は腕を失ってもまた新たに生えてくることはない。

 血を失ってもすぐに体中に満ち満ちることもない。

 

 なのに、何故だろう。

 失うことを何よりも恐れている愚図で阿呆な弱者が、どうしてこうも己の血肉を切り捨てられるのは。

 

 どんなに答えを導こうにも、それが「鬼狩りが異常だから」との理由しか思いつかない童磨は、斬り飛ばされた腕の断面を見つめる。頚に突き立てられていた刃を斜め下に振り抜かれた際、赫刀に成っていた日輪刀で斬られたのだ。再生もままならず、断面からは止めどなく血が溢れ出す。

 

(命が惜しくないのかなあ? 親からもらった体が大事じゃないのか?)

 

 とうとう力尽き、氷が張り巡らされる地に這いつくばる凛。

 しかし、倒れる寸前までの間に童磨を睨みつけていた彼は鬼の如き形相を浮かべていた。

 

 そんな彼に続き、二人の剣士が現れる。

 今にも泣きだしそうな悲痛な面持ちで。それを一瞬の間に戦意へと変換してみせた伊之助とカナヲは、血の轍を踏み越え、倒れた凛の前へ躍り出る。

 

「おおおオオオッ!!!」

「はあああああッ!!!」

 

 交差する刃が童磨の頚へ叩きつけられる。

 単純計算で二人分の腕力がかけられているはずだが、それでも手負いの鬼の頚を刎ね飛ばすには至らない。

 

「伊之助!!! もうちょっと!!! もうちょっとだから踏ん張って!!!」

「わぁってるんだよおおお!!! ちくしょうがあああああ!!!」

 

 童磨の背後―――荘厳な佇まいで構える観音像の吹き付ける冷気が、二人の腕を凍り付かせ、斬撃の勢いを鈍らせていた。

 立ち位置の関係上、童磨も巻き添えを喰らっているが、あとで再生できると踏んでの攻撃だ。今は頚を斬られないことが何よりも優先されるべき事由。

 

 だがしかし、絶対零度を切り裂いて刃を後押しする応援が飛来した。

 

「やれェ、伊之助ェ!!!」

「カナヲ!!!」

 

 燎太郎とつむじ。

 またもや死に体を晒しながらの共同作業で日輪銃を撃った彼らは、正確無比な狙いで刃に弾丸を着弾させる。

 一瞬。ほんの一瞬であるが、日輪弾が日輪刀に触れた瞬間、童磨の頚に突き立てられていた刃が赫く発色し、それまでが嘘であったかのようにするりと肉に滑り込む。

 

(あぁ―――俺)

 

 頚に走る衝撃。そして痛み。

 世界が反転し、頚から上がなくなった自分の体が視界に映った。

 

(死ぬんだ。こんなに呆気なく。あんなに人の為に尽くした俺が)

 

 ゴンッ、と頭蓋に震動が響いて間もなく、体が崩れ始める感覚を覚える。

 

(やっぱり感情なんて夢幻だったなあ。死ぬ間際だってのに―――)

 

 そう己の人生を回顧しようとした童磨であったが、不意に彼の瞳に刃が突き立てられた。

 細身の刀身。頚を斬るのに適した形状ではない特殊な日輪刀は、まさしくしのぶの愛刀であった。

 

「死ね」

 

 淡々と言い放つ。

 

「死ね」

 

 凄絶な顔つきで吐き捨てる。

 

「死ね」

 

 足で踏みつけにして刃を引き抜き、もう一度全力で突き立てる。

 

「死ね……死ね……死ね……死ね……死ね……死ね! 死ね! 死ねッ! 死ねッ!! さっさと死ねェ!!!」

 

 何度も何度も突き立てては、紡がれる声に怨嗟の情が帯びていき、やがて喉が裂けんばかりに叫び声を上げられた。

 血飛沫が舞う度に、残された観音像はバラバラと崩れ落ちていく。

 ガラガラと。置き土産に伊之助やカナヲを殺すべく振り上げられた手も、鈴の音のように甲高い音を奏でて砕けた。

 

「ざまあみろ!!! あんたみたいな奴は死ぬのが当然の報いなのよ!!!」

 

 大粒の涙に濡れるしのぶは絶叫する。

 怒りが、恨みが、憎しみが、悔しさが。

 ありとあらゆる負の感情こそが、彼女の表情を彩っていた。

 

 童磨の目には、そのような血化粧の施された顔は、酷く幼く、そして艶やかに見えた。

 

「あんたなんか!!! あんたなんか!!!」

 

 最後、頭部の原形もなくなった肉塊の前でへたり込む。

 自分の血か鬼の血か。どちらか分からないほどに汚れてしまった彼女は、血溜まりの中で声を絞り出す。

 

「あんたなんか……死んでたって生きてたってどうでもいいのよ……!」

 

 蝶の髪飾りと共に、髪が解けてしまうしのぶの本音が静寂に零れ落ちた。

 失ってから気付く幸せにしても、奪われた平穏はあまりにも大きい存在だった。世界は無情に広がり、残酷な現実を自分に突きつけ、何度も何度も打ちのめすに事欠かないのだから。

 

「どうでもいいから……私から……何も持っていかないで……返してよ……お父さん……お母さんを……!」

 

 少女の心は、少女のままだった。

 ただ父を、母を、姉を、家族皆を愛する蝶よ花よと育てられた無邪気な女の子。

 

 これ以上、手に入れた幸せを失いたくはなかった。柱となり現実を突きつけられる立場においても、その想いは依然変わりなく。

 そんな彼女を前にし、血溜まりに沈む()は笑みを浮かべる。

 

 

 

「―――あはっ。なんだろう、この気持ち」

 

 

 

―――腹の虫がおさまらない。

 

 

 

「とってもいじらしいなぁ……今の姿。これが胸のときめきって奴かな!」

 

 

 

―――さっさと消えろ、塵虫が。

 

 

 

「すっごく可愛いよ、しのぶちゃん。そんなに汚れちゃってるのに、涙も流して怒った顔も素敵だ」

 

 

 

―――虫唾が走るのよ。

 

 

 

「ねえ、しのぶちゃん」

 

 

 

―――何も残せないあんたが。

 

 

 

「家族が恋しいなら、俺と夫婦になってみない?」

 

 

 

―――私から、全部奪っていこうとする欲深さが。

 

 

 

 

 

「とっととくたばれ、糞野郎」

 

 

 

 

 

 赫怒の瞳を浮かべ、最後の最後まで狂言を口にしていた童磨を踏みつける。

 ぐちゃり、と水分を含んだ肉が潰れる感覚が響くも、しのぶはその不快感をおくびにも出さなかった。かといって清々しい面持ちを湛えることもなく、水を打ったように静まり返る。

 その表情は冷徹そのものであり、灰燼と化して消えて行った童磨を見ても尚、何の感慨も感じていない冷めた目つきを浮かべるばかり。

 

 だが、一文字に結ばれた口元だけは誤魔化せない。

 慙愧の念に肩を震わせる少女が一人、凍える部屋の中、唇に血で紅を引いた。

 

「大丈夫……大丈夫よ、しのぶ……」

「しのっ……師範……」

「……ごめんなさい、少し取り乱しました」

 

 眩暈を覚えるかの如く足取りが覚束ないカナヲの声に、しのぶははにかんだ。

 

「カナヲ。貴方の目を診たい気持ちは山々ですが、今は後に回させてください」

「と、当然です! 私なんかより……!」

「『私なんかより』、なんて言わないで」

「っ……!」

「生きてくれてありがとう、カナヲ。お礼は全部が終わってから」

「……はい!」

「伊之助君も手伝ってください! 早く三人をこの部屋から運び出します!」

「おう!! 力仕事ならバリクソ任せろォ!!!」

 

 極寒の中、倒れた三人を捨て置いてはおけない。

 例え生存が絶望的であったとしても、恥や外聞をかなぐり捨てて素を曝け出したのだ。今更見捨てて無惨の下へ……など、しのぶにはできなかった。できるはずもなかった。

 

(氷室君……明松君……東雲さん……貴方たちは助けます……助けてみせます……! だから……)

 

―――死なないで。

 

 祈りを胸に、しのぶは馳せた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 花畑に居た。紅い花が咲き乱れる、何とも美しい光景のど真ん中。

 

「ここは―――」

 

 凛は一人立ち尽くしていた。

 意識がなくなる直前、自分は童磨と戦っていたはずだ。

 悪夢のような強さを誇る悪鬼。叶うことならば出会った瞬間から、全てが夢であったと願うほどの存在だ。

 斯様な鬼を前に一矢報いはした。

 倒せたかどうかまでは分からない。が、きっと後ろに続いてくれた者たちが倒してくれていると信じているからか、凛の表情は穏やかだ。

 

「少し……寒いかな」

 

 一陣の風が肌を撫でる。

 しかし、寒風ともまた違う。どこか清々しい爽やかな冷涼感。

 導かれるように視線を移せば、目の前には川が広がっていた。

 

「あ……」

 

 息を飲んだ。

 対岸の向こう。自分と彼を大きく隔てるせせらぎの先に佇む人影を目の当たりにして。

 

「あっ……あぁあ……ぁぁああぁぁああぁぁあああ……!!」

 

 堰き止めていた感情が決壊するように溢れ出した。

 会いたかった。どれだけ会いたくとも会えなかった―――そして会う訳にはいかない男が居るのだから。

 

「流……さん……!」

「―――凛」

 

 伴田 流。

 その男が微笑みをこちらに向けていた。

 

「流さん! 今、そっちに!」

「来るなっ!!!」

「うっ……!?」

 

 しかし、次の瞬間に響き渡る一喝が、水面に腕を浸けた凛の足をぴたりと止める。

 すると穏やかだった川の流れは、それまでと打って変わって轟々と荒れる激流と化した。

 流れに取られた腕は、いとも呆気なく流れに掻っ攫われていく。

 そうして腕を失った凛は、痛みと―――忘れてはいけないものを。このまま置いていってはいけない人々を思い出す。

 

「……皆」

「そうだ、お前の帰りを待っている。燎太郎も、つむじも、しのぶも、カナエもだ」

「帰ら……なくちゃ……」

「それでいい。ここに長居してはいけない」

 

 流が居るということは、この場は即ち()()()()()()だった。

 何故気付かなかったのだろう―――そのような無粋な疑いなど、彼の姿を見れば明らかなのは言わずもがな。

 

 キュッと唇を噛み締める凛は、そのまま踵を返し立ち去ろうとした―――が。

 

「流さん!!! やっぱり駄目だ!!! 聞いてください!!!」

 

 言わずには居られない。

 告げずには帰れない。

 

 再び流に向かい合った凛は、大粒の涙を目尻に拵えながらあらん限りの声で叫んだ。

 

「本当に……本当にありがとうございました!!! 僕は!!! 氷室 凛は伴田 流と出会えたことを誇りに思います!!!」

「凛……お前という奴は」

「しのぶさんやカナエさん……超屋敷の皆と出会えたのも!!! 燎太郎やつむじと仲良くなれたのも!!! 煉獄さんのところで強くなれたのも!!! 全部……全部が貴方が居てくれたおかげです!!! 楽しかった思い出も!!! 苦しかった思い出も!!! 今では全部が愛おしいんです!!! 恋しくて堪らないんです!!! 貴方と共に居た時間が!!!」

「っ……」

「だって貴方は……僕の恩人で、師匠でっ……兄や父親みたいに大きな背中を見せてくれた人だったから!!! 温かくて大きな手で頭を撫でてくれたからっ!!! 僕、絶対に忘れません!!! 貴方が生きた証を!!! 國一番の剣士になった人のことを!!!」

 

―――涙でくしゃくしゃとなった顔は、何ともみっともない姿だったろう。

 

 それでも湧き上がる感情は止めどなく心から喉へ、そして口を通して彼へと届けられた。

 

「ああ……あと、あとっ……!!! いっぱい話したいことがあるんです!!! 流さんの真似をして水の呼吸を覚えたこととか、そのおかげでたくさんの人を助けられたこと!!! 燎太郎がつむじのことで相談してきたりとか、つむじも他の友達を作って食べ歩きに出た話も!!! 流さん、僕……っ!!!」

「凛」

 

 

 

 澄み渡る声。

 

 

 

「幸せになれ」

 

 

 

 柔らかな風が、彼岸の花を舞い上げる。

 彼の姿は華々しい紅い幕に覆われるように消えていく。

 

 

 

「流さん!!! 僕は……―――貴方と出会えて幸せでした!!!」

 

 

 

 嘘偽らぬ言の葉。

 穏やかさを取り戻したせせらぎの先からは、微かに息を飲む音が聞こえた。

 

 それから花の幕が開かれることはなく、凛の視界を埋め尽くした。

 

 程なくして感じるのは鉄の匂い。

 

 

 

 そして、その先には―――仄かな藤の花の香りが在った。

 




*拾章 完*

*余談*

・氷の呼吸 拾壱型 白姫散華(しらひめさんげ)
氷の呼吸において凛が編み出した型。舞うように刀を振り回す様は、さながら巫女が神楽を踊るかのような光景。実際には流の遺した情報から童磨の血鬼術に対抗するべく、斬撃の風圧で結晶化した氷の粒を振り払うという、まさに童磨に対抗するための型。
「白姫」とは冬を司る女神。「散華」とは花を撒いて仏を供養すること。

・氷の呼吸 拾弐ノ型 極月愛日(ごくづきあいじつ)
氷の呼吸において凛が編み出した型。氷の呼吸の型全てを繋げ連撃として叩き込む氷の呼吸集大成とも呼べる大技。本来、一つ一つの型にタメがあって型から他の型へ続く連撃を繰り出すことに向いていない氷の呼吸であるが、水の呼吸を併せることで得られる柔軟性と、それ以上に絶え間ない鍛錬を積んだ凛によって成立する奥義。
「極月」とは12月、「愛日」は冬の日光、あるいは時間を惜しんで父母に孝行することを意味する。加えて12月は「師走」とも呼ばれ、その語源に師が走りまわる、または「為果(しは)つ」というものがあることから、総合して「師や父母への孝行を為し終える」という意味をも持つ型でもある。

・水の呼吸 拾壱ノ型 (ながれ)
水の呼吸において凛が編み出した十一つめの型。攻勢に出る生生流転とは逆に、敵の攻撃を受け流すことで回転を増していき、斬撃の威力を高めていく”守”の生生流転とも呼べる型。その性質は水の呼吸 拾ノ型 生生流転と氷の呼吸 零ノ型 零閃の間に位置するものであり、水の呼吸を会得するに至った理由でもある恩師・流に対する餞の型として編み出した経緯もある。


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Epilogue
終話.生日足日


 

 穏やかな春を迎えた。

 温もりに満ち溢れた太陽が愛おしい。この感覚は、きっと死ぬまで一生忘れないのだろうと、一人心の中で結論づけた。

 

「よし……」

 

 良くできた木製の義手を一瞥し、紋付袴を身に纏った青年は見慣れた部屋の中、一人胸に手を当てた。

 緊張が解けない。心臓の鼓動が全身に響き渡るほど、体は固まってしまっている。

 何度深呼吸したことだろう。

 それでも尚体の強張りが解けないと知ると、諦めるように天井を仰いだ。

 

(流さん……僕―――)

 

 無惨との決戦から一年。

 この世に鬼は、もう居なくなっていた。

 

 

 

 ***

 

 

 

「わあ、可愛い~!」

 

 着物姿のカナエは満面の笑みを咲かせた。

 自然と頬が緩み、にへらと口角が上がっただらしない笑顔。ほわほわとしているようで凛とした佇まいを崩さない彼女を、こうも無防備にさせる理由は、腕に抱かれる存在以上にないだろう。

 

「うふふ、温かい。ムスっとしたお顔はお母さん似かな? でも、目の色はお父さんに似たのね! 紅玉みたいにキラキラしてて綺麗ね……名前はなんていうのかしら?」

風火(ふうか)

「うぅ~……」

「あらあら、お母さんに抱っこしてもらいたくなったのかしら。はい、つむじちゃん」

 

 黒い隊服―――ではなく、女物の着物に身を包んだつむじは、ぐずり始めた赤ん坊「風火」を受け取る。

 間を置かず揺らしてあやし始めるつむじ。すると途端に風火は泣き止み、母親譲りの仏頂面を浮かべるようになった。

 

「よしよし」

「それにしてもつむじちゃんがお母さんだなんて、時間が流れるのも早いものね……」

「そう?」

「ええ。何気ない日常だけれど、『これが私たちが求めていたものなんだ』って。まあ、平和になったらなったで大変なことは色々あったけども、それも良い思い出だって言い切れる。それが以前と大きく違うものじゃないかしら」

 

 感慨深そうに語るカナエは、蝶屋敷の庭に広がる花畑を見遣る。

 一年も前は無惨との決戦で負傷した隊士の治療で、ベッドのシーツや着替えの洗濯物で溢れかえっていた庭だ。幸いにも蝶屋敷までは伸びぬ鬼の手だったが、カナエとしては否応なしに決戦の多過ぎる犠牲に胸を痛めたものである。

 救いきれぬ命も大勢在った。一命をとりとめた隊士も四肢を欠損するなど、日常に支障をきたす重傷を負った者も居る。

 

 それでも今では前を向けて歩く者がほとんどだ。

 両腕に癒えぬ傷跡を負ったつむじも、こうして自分の子を抱き上げ、ふとした瞬間に母親らしい穏やかな笑みを浮かべる。

長年傍らで成長を見守って来た一人であるカナエは、それだけで胸がいっぱいになるような思いになった。

 

「……それにしても旦那さんの方が来るのが遅いわね。何かあったのかしら?」

「仏前式なんてするの初めてだって言ってた。多分その準備」

「お坊さんはお坊さんでやることがあるのね。彼のことだから張り切り過ぎてるのかもしれないけれど」

「十中八九それ」

「うふふ、お嫁さんが言うんだから間違いないわ。ねぇ~、風火ちゃ~ん!」

 

 母親に抱かれて眠る風火の頬をつつくカナエ。

 死にゆく者が大勢居た時代を経験したからこそ、生まれる新たな命の尊さに目頭が熱くなる。

 

「ヤダ、私ったら……」

「嬉しいの?」

「あら、分かる?」

「うん。だって……」

 

 慈愛の眼差しを浮かべるつむじは、力強く、それでいて優しく我が子を抱きしめた。

 

「私もそうだったから」

 

 

 

 ***

 

 

 

「……胡蝶」

「お久しぶりですね、冨岡さん」

「……要らないだろう」

「……はぁ。相変わらず言葉が足りませんね。」

 

 スッと机に差し出された祝儀袋を受け取りつつ、しのぶはため息を吐いた。

 

「『畏まった挨拶は要らないだろうから祝儀を受け取れ』……そういう意味ですね?」

「? 始めからそう言ったつもりだが」

「貴方の『つもり』ほど信用できないものはないんですよ! 誤解を生みたくないんだったら脳内に浮かんだ全文を口に出してください!」

「……変わったな」

「何が変わったんですか?! そういうのを一から十まで話してくださいと言ってるんです!」

 

 再会して一分も経たずに烈火の如く怒るしのぶ。

 どちらかと言えば穏やかな性格と見られる彼女だが、本来の性格の方は義勇にとって珍しいものだったらしい。

 

「……肩の力が抜けている。柱だった頃はどこか寄せ付け難い雰囲気があったが、不思議と表情が柔らかくなったな」

「初めからそう言えばいいんです! 初めから!」

「っ……!」

「心外そうな顔をしないでください。一体私が柱の頃にどれだけ貴方と組まされて苦労したか知ってます? なんでしたら今から溜め込んできたもの全部吐き出しても構わないんですよ」

「……不死川からもある」

「祝儀が、ですね。仲が良くなったようでよろしいですね!!」

 

 微妙な間に実弥から預かって来た祝儀袋を差し出してくる義勇に、しのぶも苛立ちは収まらない。とは言え、これも慣れたものだ。

 

「はぁ……私、貴方みたいな人が鬼殺隊以外でやっていけるとは到底思えないんですが。そう言えば炭治郎君たちは? 一緒に来ると聞いていたんですが」

「表で鱗滝さんと話している。ちょうど煉獄も来てな。話が弾んでいるようだ」

「ああ、成程。それで話に混ざれないからさっさと祝儀を渡しに来たと」

「……」

「冗談ですよ。さあ、立ち話もなんですし、積もる話は中で聞きますよ」

「恩に着る」

 

 今回の仏前式において受付の役割を担っていたしのぶは、自分の後を通りがかったアオイに任せ、屋敷の中を案内する。

 

「冨岡さん、妹弟子の晴れの日ですがお気持ちは?」

「めでたいことこの上ない」

「……いつもそのくらいに喋ってくれたら」

「何か言ったか?」

「いいえ、何も」

「……用意はどうなっている」

「衣装の方は滞りなく。着付けの方は甘露寺さんと宇髄さんの奥方たちに任せてますので大丈夫でしょう。一つ心配なことがあるとしたら燎太郎君が仏前式をやるのが初めてで、しっかり進行できるかくらいですが……まあ、どうとでもなるでしょう」

 

 身内だけの式だ。最悪グダグダになっても笑い話の種になりいい思い出となるだろうと、もしもの話を想像したしのぶは頬を綻ばせた。

 

「それにしてもここ最近色んな人が結ばれてますね。大丈夫ですか、冨岡さん? 祝儀を払ってばかりで……ちゃんと自分の分のお金は残っていますか?」

「問題ない」

「そうですか」

「……良かったのか?」

「……何が、ですか?」

「風の噂でお前があいつを好いていると聞いた」

「どこから流れた噂ですか、まったく……」

 

 義勇の口から飛び出す突然の噂話。

 これにはほとほと呆れたとしのぶのため息も止まらない。

 

「いいですか? 確かに私は()()()()()()()()()。けれど、彼が私でない他の誰かと結婚するにあたって嫉妬したりなんだりってことは一切ありません」

「無理はしてないな?」

「なんでこういう時ばかり優しいんですか……ええ、無理はしてませんよ。寧ろ清々しています」

「清々だと?」

「初恋が彼で良かった、って。心の底から祝福できるんです。だから、私の気持ちはこれでお終い。これからは心機一転して、新しい出会いに期待するつもりです」

「そうか……俺は?」

「そうですねぇ……冨岡さんは……え? 冨岡さん? 冨岡さんですか?」

 

―――正確には『俺は結婚できると思うか?』だが。

 

 見事に言葉足らずが故の勘違いを起こしたしのぶは、いつものように彼の言葉の裏を読むことなく、思考が停止してしまった。

 

「あ……え……」

「どう思う?」

「その……ちょっと、無理かなぁと」

「!? ……そうか」

 

 哀れ。

 勘違いから生まれた悲しいやり取りに、一人肩を落とす義勇。

 しかし、その傍らを歩むしのぶは「まさか冨岡さんが……」と予想外の事態に動悸を激しくしていた。

 それがときめきか、はたまたただの驚愕から故か。

 真相は恋の波動を感じ取る恋柱にさえ判断できないが、今後、ほんのちょっぴりだけ彼女が義勇を意識してしまうようになるのはまた別の話。

 

 

 

 ***

 

 

 

「覚えてるか? 藤の家紋の家で、俺とつむじが喧嘩したこと」

「うん、覚えてるよ。あの時は本当に焦ったよ……二人ともピリピリしててさ」

「はははっ、済まんな! どうも頭に血がカッと上ってしまってな!」

「それが今や夫婦なんだよね。縁ってのは不思議なものだね」

「ま、まあな! まだ実感は湧かないが……」

「二人ともお似合いだよ! ずっと一緒だった僕が保証する」

「……ああ、ありがとう! だが、今日は他でもない親友(おまえ)の晴れの日だ!」

 

 蝶屋敷の一室。

 新郎が準備する部屋の中、互いを親友と疑わない男二人が談笑していた。

 両者、左腕は木製の義手がはめられている。かなり精工な作りであるが、これは刀鍛冶の里に住む少年・小鉄が魂をかけて製作した逸品だ。祖先が絡繰りに精通している彼が、鬼との戦いで四肢を失った剣士のため、不器用ながらも魂を作り上げた義肢は、こうして二人の日常を支える役目を存分に担っていた。

 負った傷は浅くないが、未来への歩みは確かに進んでいる。

 

「いやぁ、めでたいめでたい! 俺も今日の為にどれだけ仏前式がどういったものか、他の寺の坊さんに聞きに行ったか……」

「ありがとう、燎太郎。ホント……ホントに嬉しいよ」

「おっと! 涙を流すのはまだ早いぞ! そいつは式が終わった後の席までとっておけ!」

「うんっ……そうだね」

 

 童磨との死闘の後、凛は生死の境目を彷徨った。

 辛うじて意識があった燎太郎とつむじとは違い、鬼殺隊と無惨の決着がつくまで目が覚めず、その後も蝶屋敷に搬送された後も何度臨終しそうになったことか。

 だが、傷口が凍結していたことで失血死する段階まで血を失わなかった凛は、奇跡的な回復を遂げて目を覚ました。

 それが鬼の居ぬ世界となって三か月後の出来事。

 それからは失った左腕にと義手を受け取ったり、師の下へ帰ったり、保留していた答えに色よい返事を返した真菰と交際を始め―――結婚するに至った。

 

「流さん、喜んでくれるかな……」

「ああ、きっとな」

 

 未だに世界から鬼が消えていなくなった実感が湧かない。

 無惨が消滅する瞬間を目の当たりにした者は兎も角、決着の瞬間を目にすることなかった凛は特に。

 

「……僕は何かできたかな?」

「なんだと?」

「童磨を倒した後……僕は殺された人たちに何もできなかった」

 

 そして、失われた命も大勢いる。

 普通の隊士も、柱でさえも。強大な上弦と鬼の始祖を相手取るには、今後鬼殺隊が成り立たなくなるほどの犠牲を払い、ようやく仕留めることができた。それも幾重にも重なった奇跡と数百年来の執念によって。

 誰が死んでもおかしくなかった。誰も帰ることができなかった可能性だってあった。

 それでも生き残った。生き残ってしまった。

 復讐を果たした今、“復讐”を理由に生きる道もなくなった訳だ。

 

「時折思うんだ。僕だけのうのうと生き残っていいのかなって」

「凛……何を言ってるんだ。この世にはまだ鬼が蔓延っているぞ」

「え?」

 

 伏し目がちになっていた凛が顔を上げれば、ドッ、と胸を小突く燎太郎の姿があった。

 

「お前の……俺達の胸には、まだ鬼への恨みや怒り……奴らに大切なものを奪われた悲しみが残ってる。それらが消えるまで、完全に鬼が消えたとは言い切れない」

 

 胸に響く声が凛の瞳を揺らす。

 拠所なく揺らいでいた光が焦点を合わせ、輝きを取り戻す。

 その瞳が捉える先には、()()()()()()()()()()()()()()()―――。

 

「だからだ、凛。俺達に遺された役目は、そんな悲劇の記憶を後世に遺さないことだと思うんだ。戦いはまだ終わっていない。俺達が死ぬまでな」

「燎太郎……」

「だって俺達は“鬼殺隊”なんだからな」

「―――うん」

 

 頷く凛。

 再び顔を上げた時、彼の面には満面の笑みが咲いていた。

 

 鬼から生まれた剣士。

 鬼に育てられた剣士。

 鬼と呼ばれた剣士。

 

 彼らは鬼が消滅した世の中においても、鬼の遺した傷跡と戦う為に生きている。生き続けていく。

 

『きゃあああ!!! 真菰ちゃん綺麗!!! 可愛い!!! 素敵!!! 早く凛君にお披露目してあげようよ!!!』

『う、うん……!』

 

「お、向こうの用意が済んだようだな」

「う、うん……!」

「なんだなんだ! 緊張しているのか!? まあ気持ちは分からんくはないがな……しかぁーし!!! 一生添い遂げる花嫁の晴れ姿だ!!! しっかりその目に焼き付けるんだぞ!!!」

「あ、熱い……! もうちょっと、こう……厳粛な雰囲気とかはないの?」

「俺にそんなものを期待するな!」

「一応お坊さんでしょ! 仏前式、本当に大丈夫なの!?」

「気合いで乗り切るに決まっているだろう!!!」

「ヤダ、気合いで乗り切る仏前式なんて! 初めて聞いたよ!」

「親友のよしみだ、悪いようにはしない!!!」

「言い方! うわぁ、すごい不安になってきたぁ……!」

 

 上り行く朝日を眺める、そんな日々の愛おしさを知るからこそ、彼らは内なる鬼の記憶を滅殺するべく、より良い幸福な思い出を追い求めていくのだ。

 

 

 

 それこそが彼らなりの―――鬼滅の流儀なのだから。

 

 

 

 ***

 

 

 

 時は現代。

 

「おっはよぅ、しの!」

「おはよっ、真凛(まりん)。今日は燎佳(りょうか)颯太郎(しょうたろう)は一緒じゃないの?」

「燎佳は部活の朝練があるからって先に行っちゃっててさ。ほら、新体操の全国大会が近いし。颯太郎は家のお寺の手伝いがあるって断られちゃった。しのも今日はカナミさんと一緒じゃないの?」

「お姉ちゃんも部活。折角だし、途中まで一緒に登校する?」

「そうしよっかな。あっ、そう言えば聞いてよ! この前部活の顧問の伴田先生って人がさー……―――」

 

 平穏な日常は、今日も今日とて巡っている。

 




*鬼滅の流儀 完*

*あとがき*
 こんにちは、柴猫侍です。
 この度は『鬼滅の流儀』読了していただき誠にありがとうございました。昨今では原作を終えても尚凄まじい勢いを見せる鬼滅の刃ですが、そのような作品を元にして執筆する時間は楽しかったの一言に尽きます。

 三人の主要人物、彼らを導く師の存在、オリジナルの呼吸・型、そして鬼の存在……特に吾峠先生の短編集をオマージュした部分もあり、短編集を読まれている方はその点に気付いておられる方も居ると思われますが、気付いていただければ作者冥利に尽きます。

 そのほかにも原作の雰囲気を大事にしてみたり、三人の鬼殺に対する姿勢の違いからの衝突、オリジナルの鬼と彼らのバックボーンであったり、力を入れた部分は多々あります。
 ただ、何より筆が乗っていたのは氷の呼吸の型を出していた時ですね! 毎度ひゃっはー! となりながら技名を綴っておりました。それぞれの名称の由来はまた活動報告にでもまとめてあげようと思いますので、気になる方がおられたら後日投稿される活動報告の方を読んでいただけたら幸いです。

 途中、私事で投稿期間が空いたりもしましたが、なんとか完結にこぎつけました……。
 これも全ては読んでくださった読者の皆様のおかげです!
 寄せられるコメントの中には『鬼滅原作の中でも一番好き』ともあり、非常に嬉しかった記憶があります。
 これで凛たちの物語は終幕でありますが、私個人の執筆活動は今後も続いてまいりますので、また別の作品で出会うことも、私も心待ちにしております。

 それでは長々と失礼しましたが、改めてお礼の言葉をば。
 読んでいただき、大変ありがとうございました!!!
 柴猫侍でした! また別の機会に!


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