雨音ノスタルシスター (秋桜街道跡)
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【1】どちら様ですか

 

 胃が痛い。整腸薬をぼりぼりと噛んで飲む。

 

 薬品臭くて変な甘さ、もう慣れた。吸って吐くだけの呼吸がやけに苦しい、首に冷たい鉄の輪が付いてるみたい、もう慣れた。

 

 お願い、こっちを見ないでください。休み時間なんだから、休んでるだけなんです。皆さんには迷惑かけてないです、だからジロジロ見ないで、見下さないで、お願いします。お願いします。

 

 今の笑い声って、わたしを笑ったの。何が変だったの、顔かな、髪型かな、声かな。分からない、何が悪いのか分からない。ごめんなさい、許してください、笑わないでください。

 

 ああ、なんで学校ってこんなにも辛い場所なの。息が苦しい、早く家に帰らせて。誰にも会いたくありません。

 

 胃が痛い。吐きそうだ。帰りたいよ、早く家に帰りたい。誰とも、会いたくない。

 

 

 

 あぁ、生き難い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 傘をさしているのに、足元は水浸しだ。靴下は歩くたび湿った感触で、生ぬるい雨水が足の指の隙間に入ってくる。プリーツのスカートも、薄暗い空の下で分かるくらいに染みを作っている。

 

 不快、だけれども嫌いではない。雨は好き。できることなら、嫌なこと全部に降り続いた末に溝へと流してくれないか、なんて思う。学校も人間も、わたし自身もだ。

 

 赤信号。少し遠くに住んでるアパートが見える。家に帰れば安心、なんてことはない。どうせ明日も学校だ。明後日には体育がある。みんなの前で労力を使って足を引っ張り醜態をさらし恨まれる二時間だ。水たまりでタイヤを滑らせて、車の一つでも突っ込んできて、運良く頭とか心臓だとかを潰して、楽にしてくれないか、なんて妄想にふける。登下校中の、一日二回の習慣。

 

 

 

 雨に濡れたドアを開ける。家には誰も居ない。

 

 今日の残り時間、明日の朝が来てしまうまでの猶予になにをしよう。何か食べたい気分でもない、趣味なんてない、またいつもどおりぼうっと過ごせればいい。そう思って、誰も居ないはずの玄関へ上がる、と。

 

 

 

 肉じゃがの、良い匂いがした。

 

「あら、お帰りなさい。って、足びしょびしょになってるよ。待っててね、今タオル持ってくるからね……」

 

 頭が真っ白になって、次に浮かんだのは、部屋を間違えたという思考。

 

 それすらも、手に握った鍵の感触がかき消した。この人は誰なの、どうしてわたしの部屋にいるの。夕食の良い香りが、気持ち悪いくらいの異物感に思えておかしくなりそうだ。

 

 「はい、靴脱いで。靴下はすぐ洗えるけど、靴は明日も履くもんね。新聞紙詰めとけば間に合うかなぁ」

 

 ようやく、震えながら声が出た。

 

「あの、あの。どちらさま、ですか。なんでわたしの部屋にいるんですか。不法侵入ですか」

 

「もぅ、不法侵入とはなんですか。細かいんだからぁ」

 

「本当にっ、誰なんですか。どう考えたって、不法侵入じゃないですか、警察よびますよ。本当に……」

 

「お姉ちゃんですよ」

 

 何を言っているんだろう、この人は。

 

「わたしは優の、お姉ちゃんなんですよ。ね、信じて」

 

 いたずらっぽく舌を出して、首を傾げる目の前のお姉さん。その顔付きが。どこかわたしに似ているような、気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうだったかな、お料理ぜんぜんしたことないからレシピ本見ながらでね。でもこのお家ぜんぜん材料無くてびっくりしちゃった。駄目よ、ちゃんとご飯食べないと。優は成長期なんだから」

 

「は、はぁ……」

 

 結局、お姉ちゃんを名乗る謎の女性に、夕食までご馳走させられた。我ながら不用心だ、勝手に家に入った見ず知らずの人の手料理を食べるなんて。

 

 それにソファーに置いていた寝間着もきれいに畳まれ、ホコリをかぶった部屋は見違えるように綺麗。

 

 家政婦さん。仕事で会えない母が、わたしの暮らしぶりを不安に思って頼んだ家政婦さんだ。お姉ちゃんを名乗るのはそういうオプション。自分の中で一番納得できる解釈だ。そうに違いない。

 

「むぅ、優さっきからぜんぜんお姉ちゃんと話してくれないね」

 

「だから、その。お姉ちゃん、ってなんなんですか。わたしに姉はいません。兄弟も姉妹もいないんです。誰なんですか、あなた」

 

「いるの、本当はいるの。それで、いま優の目の前にいるのがお姉ちゃんなの。そろそろ信じてよ、ね」

 

 仮に、生き別れた姉がいたのなら。そんな妄想をしたことはある。辛くて眠りたくない夜に、布団に潜ってする妄想シチュエーションのレパートリーのひとつだ。

 

 その時思い浮かべる理想の姉の姿というのは、艷やかな黒髪ロングに優しげな表情に声。料理が美味しくて家事も完璧。そしてわたしを好きでいてくれる。認めて褒めて愛してくれる。愛してくれる。そう、愛してくれる人。

 

「どうしたの優、ぼぅっとしてるよ。そっか、今日も疲れたんだね。毎日毎日お疲れさま。お姉ちゃんね、がんばり屋さんな優のこと大好きだよ」

 

 奇妙な話だ。目の前の自称お姉ちゃんは、思い描く理想のお姉ちゃんにそっくりなんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 いつもの朝と同じように、家を出た。

 

 ほんの少し曇った空、まだ残る水たまり。お弁当一個分いつもより重い鞄。なのにわたしの足取りは少しだけ軽かった。

 

 帰ったら、お姉ちゃんがいる。おかしいことだ。怖いと言ってもいい。なのに何故だか、嬉しくなってしまう自分がいた。誰かといるってあたたかいんだ。

 

 不審がるべきわたしの理性は、見えない力で抑え込まれたようだった。

 

 

 

 今日の晩ごはんはなんだろう。

 

 



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【2】ちょっとだけ拠り所

 

 周りに誰もいないことを確認すると、鼻歌交じりにスキップでもしてみる。

 

 週末が始まる。髪を掴まれ、むりやり顔を水に沈められたような、痛くて苦しい学校生活から距離を置けるわたしの猶予。

 

 けれど、今までとは違う。

 

 今わたしの家にはお姉ちゃんがいる。いや、お姉ちゃんなのかも怪しい。身分証明書くらい見せてと頼んだが、持っていないの一点張り。戸籍すらないような口ぶりだった。

 

 そんな得体のしれない人間が家にいるのに、わたしはどこか安心感を覚えてしまう。だって、あのお姉ちゃんはわたしを愛してくれる。好きでいてくれる。認めて褒めて、受け入れてくれる。

 

 ぜんぶぜんぶ初めての体験だった。ああやっぱり、こんなにも気持ちの良いことだったんだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だからぁ、お姉ちゃんはお姉ちゃんなの。名前もないの」

 

「いやいや、名前くらいありますよね、普通に考えて」

 

「お姉ちゃん、特別なお姉ちゃんですから」

 

お姉ちゃんは何故か自慢げにピースを作る。

 

「特別というか、普通じゃないのは知ってますよ。でも、名前も戸籍もないって……これまでどうしてたんですか」

 

「これまでかぁ、なんにも覚えてないかな」

 

「いや覚えてないって……」

 

 このお姉ちゃんの言うことは、どこまで本当かも分からない。素性を探ろうとすると、のらりくらりと躱す。そして、可愛らしく、どちらかというとあざとく笑う。

 

「でね、明日の晩ごはんなんだけど、せっかくだし一緒に食べに行こうよ。優の好きなもので良いから」

 

「えっ、いや、あの……」

 

 申し訳ないけど、休日にクラスメイトにでも出くわしたらと思うと気が気じゃない。出くわさずとも一方的に見つかるかも知れない。嫌。怖い。

 

「休日は、出かけたくない、です……」

 

「そっか、無理言ってごめんね。明日も美味しいご飯作るからね、楽しみにしててね」

 

 お姉ちゃんは優しい。それこそ怖くなるくらいに優しい。わたしの思っていることを何でも察したかのように、何も詮索しない。ただただ受け入れてくれる。

 

 今まで会ってきた色んな人間より、一緒にいて心地が良い。

 

 たとえお姉ちゃんの正体が悪いものでも、この心地良さがわたしを安心感に縛り付ける。お姉ちゃんに裏なんてないと根拠もなく確信させる。

 

 しょうがない。わたしはずっと、寂しかったんだから。自分に言い訳、ずっとしてきたクソみたいな習慣。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 干したお布団はふかふかで、お日様の香りがする。このお日様の香りの正体は、ダニの死体でもなんでもなく、油分が分解されたものなんだと。

 

 一緒の布団、隣にいるお姉ちゃんはわたしのどんなくだらない話も楽しそうに聞いてくれる。話すことが無くなれば、色々な話をしてくれる。残念ながら、お姉ちゃんの素性だけは聞き出せないのだけれど。

 

「ねぇねぇ優。お姉ちゃんね、明日お洋服見に行きたいの。それでね、優の服も見てこようと思うんだけど、どんなのが好きかな」

 

「ええと、わたしですか。その、洋服とか気にしたことぜんぜん無くて……」

 

「じゃあ、お姉ちゃんのセンスで選んできても良いかな」

 

「あ、はい。ありがとうございます……でも、そこまでしてもらうのは申し訳ないですから」

 

「もう、そろそろ気遣わなくていいのにぃ」

 

「いえ、そうは言っても……」

 

「それに優。お姉ちゃんのこと、まだ一度もお姉ちゃんって呼んでない」

 

 わざとらしい不機嫌な声色だ。どうしてもっと甘えてくれないの、そんな心の声が聞こえた気がした。でも冷静になって考えてみると。やっぱりおかしい。

 

 ある日突然現れた自称お姉ちゃんを、すぐにでもお姉ちゃんと受け入れられるほどわたしは柔軟じゃない。頭で反芻してはいるが、実際かなり心を許している。誰かもわからないこの人に、あたたかい日常のそれを求めて帰路に着いていたわたしがいる。今更、戻れない気がしていた。

 

 だからこそ、

 

「……お、お姉ちゃん」

 

「ふふふ、ふふふっ、優かわいい」

 

 なんでか紅くなった顔を隠そうと、気休め程度に布団にうずめたその頭を、お姉ちゃんは柔らかな手付きで撫でてくる。

 

 撫でられることなんて、これも初めて。

 

 ただただ気持ちが良い。このまま溶けてしまいそう、なんて思うくらいに気持ちが良い。

 

 お姉ちゃんが手を動かすたび、女の子らしい香りが鼻をくすぐった。

 

 



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【3】沈み込んでしまう前に

 

 足が地面に吸い込まれる。上へ行くため力を込めてみると、さらに地面が溶け出した。転ぶようにして身体が沈む。

 

 息ができない。喉の奥まで生暖かい異物感で満たされて、その苦しさに悶えようとすると更に沈んだ。

 

 必死の思いで助けを求めた。声は出ないままに、喉だけが揺れる。それでもずっと叫ぼうと力を込める。すると、わたしの身体がただ沈んでいるのではなく、何か冷たくて黒い、人の手のような作り物で押さえつけられているのだと分かった。

 

 振りほどこうと身をよじらせると、腕に掴まれた身体に激痛が走り、あたりを赤く染めていく。やがて喉にも鉄の味が染み付いて、吐き出そうとすると涙だけが溢れた。

 

 いよいよ死を覚悟したのに、なぜか意識だけははっきりとしている。狭まっていく視界は、その黒すらもしっかりと目に映る。目を閉じてもなお、その光景はまぶたの裏で続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ましたわたしは、その喉の異物感が吐瀉物(としゃぶつ)だったと気付いた。そしてすぐにむせて、吐き出して喘いだ。

 

 ぼろぼろと涙が溢れては、シーツに染みを作る。口に中の残留物を吐き出すたび、涙はどんどん溢れていく、流れていく。

 

 少し落ち着いたところで、ようやくわたしの左手が、お姉ちゃんに握られていることに気付いた。

 

「優、優。だいじょうぶ、深呼吸して、だいじょうぶ」

 

 お姉ちゃんは、その両手でわたしの左手をしっかりと握っていた。わずかに震えていた。

 

「辛かったよね、苦しかったよね」

 

 お姉ちゃんはわたしの左手ごと、わたしの身体をぐいと引き寄せる。柔らかな胸に顔が埋もれ、お姉ちゃんの乱れた呼吸を感じる。頭のてっぺんに、雫が落ちる感触がした。お姉ちゃんも泣いているの、どうして。

 

 ようやくえずき終わって、壁の時計を見やると既に午前二時を回る頃だった。

 

 こんなふうに、得体のしれない悪夢を見ながら嘔吐する経験は初めてじゃない。いつも忘れた頃に起こる。毎度夢の内容は混沌としていて、現実での嫌なことぜんぶを混ぜ合わせたと言われればすぐ納得の出来るようなものだ。

 

 でも、そんな夜に誰かが側にいてくれるのは初めてだった。

 

「服、洋服、汚しちゃった。ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 お姉ちゃんは何も言わないまま、わたしをもっと強く抱き締めた。鼻を刺す吐瀉物の臭いに、ふんわりとした優しい花の香りが被さった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 服を着替えて、布団を変えて、寝直す準備が整ったところでお湯が湧き終わった。お姉ちゃんはわたしに紅茶を淹れてくれると、優しげな伏せ目がちのままに話し始めた。

 

「優、何か怖い思いでもした? 誰かに、嫌なこと言われたりした?」

 

「……してないと言えば、嘘になります」

 

 怖い。毎日が怖い。人が怖い。学校が怖い。朝が来るのが怖い。思い当たることがありすぎて、申し訳ない気持ちにすらなった。

 

 息苦しくて、体中が痛くて、普通に過ごすだけで精神を擦り減らしている自分があまりにも情けなくて。気付けば私はまた泣いて、浮かんだことぜんぶをお姉ちゃんに伝えていた。時折漏れる涙声が、余計に呼吸を苦しめた。

 

 お姉ちゃんはわたしの話す内容をただただ聞いていてくれた。否定もせず、肯定もせず、今にも溢れそうな優しさを目にためて、聞いてくれた。

 

 話し終わる頃には、声も涙も枯れていた。

 

 しばらくして、お姉ちゃんは聞いてきた。

 

「優は、優のこと好き?」

 

「……大嫌い」

 

「お姉ちゃんは優のこと大好きだよ」

 

 お姉ちゃんは更に続けた。

 

「自分が嫌で仕方なくて、それが辛くて。毎日心がぼろぼろになっちゃってる。だから、何にも楽しくないんだよね」

 

 ただ黙って、頷いていた。

 

 そうだわたしは、自信がない。自己肯定なんてできない。だから人が怖い。目が怖い。何をするのも怖くて仕方がない。泣きそうになりながら、生きてる。

 

 弱っちい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「明日から、お姉ちゃんが優のことたくさん褒めてあげる。たくさん好きって言ってあげる。受け入れてあげる」

 

「えっ……」

 

 布団の中。微睡みかけたわたしの頭を撫でながら。

 

「優がね、優のこと好きになれるくらい、お姉ちゃんが優を褒めてあげるの」

 

「……」

 

 底無しに優しいお姉ちゃんが、そんなふうにしてくれることに一切の違和感は無かった。けれど、きっと弱いわたしはその優しさに依存しきってしまう。

 

 それはとても恐ろしいこと。

 

 そんな不安すらも、察してくれたかのように。

 

「だから、優は毎日がんばったって言えることをお姉ちゃんに教えて欲しいの。ちっちゃいことでいい、くだらないことでいい、最低一個、持って帰ってきて」

 

「そしたらお姉ちゃんが、あふれちゃうほど褒め尽くすから、ね?」

 

 また、わたしは泣いていて。

 

 朝が来るのが、少しだけ、ちょっとだけ怖くなくなった、気がした。



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【モノローグ】ささやかな

 わたしはよく、昔のことを夢に見たりする。

 

 昔のことなんて、大抵は嫌な思い出だ。大抵どころか、良い思い出なんてあったのだろうか。そう疑うくらいに、いつも苦しい過去を思い出す。

 

 できれば、見たくない。頭に靄をかけたまんま、それで時間が過ぎて欲しい。

 

 けれど、決して幸せな夢なんかじゃないけれど、いくらかましな思い出もある。

 

 三年くらい前だろうか、わたしがまだ中学生だった頃。

 

 わたしがとある場所に、ささいな思い付きで通っていた、小さな思い出。

 

 

 

 

 

 

 

 中学校の制服を着たままで、降り立ったのは田舎も田舎な小さい駅。

 

 収穫も終わり殺風景で物悲しい畑に囲まれた細い道を、約三十分。着いたのはごく小さなお寺。少し進むと、ひっそりとした緑の中にお地蔵さまがいる。小さな姿で、まるで赤ちゃんのようなお地蔵さま。

 

 水子供養。

 

 わたしは定期的に、ここに来ている。もちろんわたし自身に子供がいた訳じゃない。供養は、いるかも知れなかったわたしの兄弟姉妹のためのもの。

 

 いや、いるわけなかったのかもしれない。お母さんの仕事だとか人となりだとか、そういうの全部知らないように生きてきた。察さないように、調べないようにと。わたしが一人暮らしまがいの生活を送っていることも、何も考えないようにして受け入れている。

 

 手を合わせて、思い浮かんだのは雑多な感情達だ。

 

 まず、ごめんなさい。みんなの分まで生きようって思っていたのに、わたしは惨めで弱い。なんの取り柄もないクズ、後藤優を許して。毎日努力もせずに生きてる、ひどい人間なんだ。心の中で何度も謝った。

 

 そして、もしも。男なの、女なの。年上、年下。どんな声でどんな顔で、どんな性格で。ふっと思い浮かべては、胸と指先が締め付けられる感覚に陥る。

 

 しばらく目を閉じたまま、いろんなことを考えてみる。貴方たちの為にできることってなんだろう、なんて思う。その答えはいつも見つからない、きっと暗闇をどれだけ探しても、欲しいものは置いてないのだろう。

 

 カラスが鳴いて、日が落ちる。そろそろ、帰ろうと立ち上がると、静まりきった辺りにスニーカーの擦れる音が響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 帰り道はいつも辛い気持ちになる。最悪な土産物なのに、ここに来なきゃと何かがわたしを駆り立てる。その何かはきっと、罪悪感と出来心以外の何者でもないのか知れない。それでも、その日の晩は‘‘みんな’’に思いを馳せるしかないのだ。

 

 そしてまた、明日の学校を憂鬱に思って一日画終わっていく。ああ、楽になりたい。



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【4】甘い期待

 

 カランとレトロな扉を開くと、店内は外観から容易に想像のつく、なんの意外性もない空間だった。

 

 シックなダークブラウンの、艶がかった木目の机や椅子にカウンター。手頃なサイズのシャンデリア風の証明に、年季の入った道具たち。客層はやはりある程度の大人が多いように見えた。

 

 お姉ちゃんは角っこのテーブル席へわたしを連れて行き、向かい合うように座るとその顔をニコニコとさせる。

 

 端に置かれた手書きのメニュー、お姉ちゃんは軽く目を通した後に、それをわたしに手渡す。

 

「お姉ちゃんはケーキセットでモンブランとウインナーコーヒーにするね、もちろん優も一緒に食べようね」

 

「え、ええっと」

 

 コーヒーの種類なんて分からない。

 

「んーとね、じゃあ」

 

 お姉ちゃんはひょいとメニューを取り上げて、そのまま店員さんを呼んだ。ケーキセットを二つ、わたしの飲み物はホットココア、ケーキはレアチーズに決められてしまった。どちらも嫌いではない、むしろ好きなので少し楽しみになる。というかお姉ちゃんはそこまでわたしの好みを把握してるのか。

 

 そもそも、お姉ちゃんなんでわたしを連れ出したんだったか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日はよく晴れた日で、学校から帰るとワイシャツは汗に濡れてじめついていた。部屋の湿気もひどく、とてもじゃないが気が休まらない。

 

 それはお姉ちゃんも同じようで、薄手の白いワンピースを着て、うちわで首元をぱたぱたとしていた。ロングヘアということもあり、かなり汗ばんでいたみたいだった。

 

「部屋むしむしするし、お出かけしちゃおうよ、優」

 

「えっ、え……お出かけ」

 

「大丈夫大丈夫。優のクラスメイトの子とかは、あんまり来ないようなお店だから」

 

「どんなところ行くの?」

 

「ふふふ、おしゃれなカフェ!」

 

 汗のついた制服を着替えて、それなりに小奇麗な格好選ぶ。薄い生地のロングスカートに、半袖のサマーニットを着た。少しでもわたしだって分からないように、チェックのキャスケット帽を深めに被った。全部、お姉ちゃんが新しく買ってきてくれたもの。

 

 そのまま連れ出されたわたしは、久しぶりのお出かけに、沢山の不安と一握りのわくわくがあったように思えた。

 

 道の途中、お姉ちゃんはわたしの手を握りながら、優しげに語りかけてきたんだったか。

 

「無理矢理ひっぱってきちゃってごめんね、嫌だった?」

 

「ううん、そんなことは、ないです」

 

「そっか、良かったぁ」

 

 二人並んで歩く街道。夏の景色は彩度が高いから、ぎらついて目に刺さる。だから足元ばかり見て、綺麗にならんだアースカラーのタイルを目でなぞるように追って手持ち無沙汰。

 

 ショッピングモールから伸びるお店の並びを、手を引かれるがままに右へ左へ。

 

「優はきっと、お出かけするの自体は嫌いじゃないと思うの」

 

「えっ……」

 

 お姉ちゃんの言葉を、自分の中で考えてみる。どうなんだろう。

 

 

「学校のみんなが怖い、人が怖い、そういうのがジャマしてるだけ。きっと行きたいところも、いっぱいあるんじゃないかな」

 

「……」

 

 行きたいところ。ぼんやりとした春空のさくら公園。小学校以来一度も行っていない市民プール。本で読んだ紅葉のきれいな観光地。雪のふる白いクリスマス。美味しいもの。きれいなもの。かわいいもの。

 

 思い浮かんだら止まらない。夢の中のわたしは、きらきら輝く素敵な世界をステップ混じりに歩く。鼻歌なんか歌っちゃって。おしゃれなお洋服なんか着ちゃって。それで、その右手には、お姉ちゃんの手が握られてて。

 

「優はね、どこへでも行けるの」

 

 ふいに現実に帰る、なんて言葉は似合わない。ゆっくりゆっくりと、だった。

 

 お姉ちゃんはわたしの手をまた握り直して、続けた。

 

「お金とかパスポートとか必要かもだけど、優はどこへでも行けるの。誰もだめなんて言わない。好きな場所に行って、好きなもの食べて、好きなものを見るの」

 

「ね、お出かけは怖くないでしょう?」

 

 一瞬、胸の奥と指先が切なく締め付けられたように思えて、けれどすぐに、あたたかくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運ばれてきたケーキは、なんだか地味な、素朴な外見。真っ白でまるい、上に一つブルーベリーの果実が乗った普通のレアチーズケーキ。ココアは少しクリームが乗っかっていて、ふわふわと湯気を立てる。

 

 お姉ちゃんの前にあるモンブランもどこかシンプルな佇まい。ぼくは飾らない、飾らない良さがあるんだぞって言ってくるみたいに思えた。コーヒーと思わしきカップにはわたしのココアよりも多いクリームが乗っている。いったいどのあたりがウィンナーなんだろう。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

 ケーキを口に運ぶと、舌の上で甘さがほどけた。ほんの少しの酸味が、後から効いてくる。おいしい、こんなに美味しいケーキ、食べたのは初めて。

 

「ん、おいしい! ほら、優も。あーん」

 

「えっ……」

 

 お姉ちゃんにはもう少し、ひと目をはばかるということをしてもらいたい。けれど、きっとモンブランもおいしいはず。すごくすごくおいしいはず。そう考えるともちろん食べてみたくなる。さらに、甘いもので心が絆されてしまったからか、わたしの中の素直な気持ちが顔を出してしまった。もっとお姉ちゃんに甘えたい。

 

 差し出されたフォークに乗った、大きめのモンブランひとかけら。口に入れると、まろやかな口当たりと栗の風味が広がる。初めて、初めて食べた。

 

「あの、お姉ちゃん……ありがとう」

 

「いいのいいの。夏の間、もっと一緒に色んなところ行こうね。今までの優の苦労と差し引いてもおつりが来るぐらい、楽しいことしようね」

 

 屈託のない、女神さまみたいな笑顔。少しして、色んなところ、ってどんな場所だろう。なんて妄想してしまう。でもきっと、ううん、絶対。お姉ちゃんとならどこでも楽しい。

 

「……あの、じゃあ。よろしく……お願いします」

 

 溢れそうになった嬉しさを堪えようとしたら、ふいに敬語が飛び出た。隠すようにホットココアを飲んでみたら、溶けてしまうような甘さにびっくりした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蝉の鳴き声が、まだあまりうるさくないことに違和感。夕方が始まろうとしていても、空がペールオレンジに染まって、彩度はそのままに薄く柿色のフィルターがかかった景色以外は日中と変わらない。

 

 あれからいろんなお話しをした。お姉ちゃんは、どんな悩みにも不安にも、一緒になって考えてくれた。わたしの為に、わたしのことを思って。わたしのことを心配してくれて。

 

 お姉ちゃんと繋いだ手が、少し汗ばんで湿気を感じる。けれど、それすら心地が良い。

 

「でも優、夏の間は勉強もだよ? お姉ちゃんもサポートいっぱいするから、がんばろうね」

 

「うん、がんばる」

 

 子どもみたいな返答だと自分でも思った。

 

 きっと、こんなにもお姉ちゃんといると安心するのも、暖かく感じるのも、幸せって思えるのも。わたしがお姉ちゃんを好きだからなんだ。

 

 お母さん、先生、学校のみんな。わたしが会ったことのある人達の中で、こんな気持ちにしてくれる人はいなかった。みんなみんな怖かった。ただただ一人でいられる時間が恋しくて仕方なかった。

 

 でも、お姉ちゃんと一緒にいる時間はもっと欲しい。もっともっと欲しい。そう思うと、明日も明後日もお姉ちゃんといられることがどこか夢のようにも思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 もしも夢なのなら。もしもこれが夢なのなら、わたしはどうなってしまうんだろう。

 

 繋いだ手の影二つが揺れるたびに、そんな不安をかき消していった。



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【モノローグ】できること

 いいのかな。

 

 本当にこれでいいのかな。

 

 夕食の支度をしながら、私は何度も何度も自分に問いかける。私の今やっていることが、これで正しいのかどうか。

 

 あの子はたくさんの苦労をしてきた。小さい頃からずっとずっとずっと、一人きりで苦しくて、それでもなお幸せになりたいって思いを捨てずに生きてきた。

 

 目に作られた深いくまと、手首に残る傷跡と、やせ細った身体と。見て近づいて触れ合うたびに、私は苦しくなる。この子の味わった苦しさはこんな程度のものじゃない。

 

 誰が悪いか、なんて考えてみれば。それはお母さんでもあるし、今まで出会ってきた学校の人びとでもあるし、何なら手を差し伸べなかった全員が悪いとさえ言える。言ってしまえる。

 

 それほどに、私はこの子が好きだ。繊細すぎる心も、生真面目なところも、本当はものすごく優しいところも。黒髪のミディアムヘアも、まつげの長い凛とした印象の顔も、どこか幼いその声も。本当に大好きで、どうにかなってしまいそうなくらい大好きで。

 

 だから、どうにかなってしまったから、私はここにいるのかも知れなくて。

 

 わからないけれど、なんとなく告げてくる。雨音が響くたび、そっと告げてくる。私がここにいられる時間はそう長くないと。

 

 

 

 

 

 

 

 夏が終わってしまうまでに、私はあの子にどれだけのことをしてあげられるだろう。

 

 ただただ甘やかしてあげる。それだって間違いじゃないのかもしれない。あれだけの苦労を生きてきたあの子がどれほど甘やかされて愛されたって、何ひとつ罰はあたらない。

 

 けれど、私がずっと一緒にいられないのならば。そんなことはしちゃいけないんだ。夏が終われば、夏の忘れ物は冷たい風と一緒に消えていく。海の色も、空の色も、あの声も暑さも。くたびれた麦わら帽子も、汗かいたラムネも、みんな消えていく。そして、いつしか思い出に過ぎなくなる。

 

 あの子は夏の忘れ物なんかじゃない。あの子には秋が来て冬が来て、春が来ればまた、雨音とともに夏が来る。それを何度も繰り返して、生きていかないといけない。

 

 だから、私はあの子を助けてあげないといけない。その助けというのは、私がいなくても、ずっと支えになって背中を押してくれる、あの子自身の中にあるもの。

 

 それを芽生えさせることが、他でもない私の使命だ。あの子が幸せになる、苦しまなくていい、泣かなくていい、そんな未来のために。

 

 ごめんね。ごめんね。一緒にいてあげられなくて。ごめんね。また一人にさせちゃうことになって。ごめんね。駄目なお姉ちゃんで。

 

 ふと見やると、縮こまったような座り方で単語帳をめくる姿があった。一枚、また一枚。この前言っていた言葉がふとよぎる。

 

 家にいると落ち着くと。やっとわたしの居場所が見つかったんだと。

 

 心の奥が、キュッと締め付けられる気がした。少し遅れて、両手の指先も締め付けられるようだった。ああ、もしもいつまでも一緒にいられたのなら。

 

 居場所が見つかったのも、幸せでいられるのも、ぜんぶ私の台詞なんだよ。ありがとう。

 

 なんて言葉を飲み込んで、お鍋の火を消した。お味噌汁の具はお豆腐と油揚げ。あの子が一番好きなお味噌汁だ。

 

 

 

 

 

 ご飯の出来上がりを知らせると、すぐに食器を並べてくれた。それから二人分のご飯をよそってくれて、麦茶を入れてくれた。ちゃぶ台で、私の到着をまだかまだかと心待ちにするその顔は本当に可愛くて。

 

 大丈夫。そう、大丈夫。

 

 優の幸せは、かならず守るから。

 

 なんて言葉を飲み込んで、いただきます、の声が六畳間に響いた。

 

 



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【5】胸騒ぎを解いて

 

 4月の半ば。数学が苦手なのに、わたしは理系を選択した。

 

 わたしの苦手な、とはいっても得意な人なんていないけれど、特に苦手な人達の大半は文系のクラスへ行った。理由はそれだけ。

 

 化学も苦手だ。生物はまだましな方。英語もまし。社会科はなにを選ぶか決まらない。国語は得意な方だ。

 

 少し心が楽になれば、苦手科目だってがんばれるだろう。そんなふうに思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春に下した自分の選択を後悔する。後悔し終わったので今度は式を綴る。計算ミスがなければ、この問題の道筋は1個だけ。けれどそれが時間もかかるし頭もこんがらがる。数式に情緒を感じることのできる人間だったら、きっとこれも楽しいのだろうか。

 

「優。がんばりやさんなのは良いことだけど、適度に休憩もしてね?」

 

 お姉ちゃんがお盆を持ったまま振り返って、教科書と問題集の広がったちゃぶ台の側に座る。

 

 ことりと置いてくれた麦茶には氷がたくさん入っていて、結露をまとって誘惑してくる。

 

 「雨、やまないね」

 

 窓の外を眺めながら、お姉ちゃんはつぶやいた。どこか残念そうな声色は、きっと洗濯物が干せないだとか、食材の買い出しに行けないだとか、そんな思いがあるんだと無意識に思う。

 

「うん、そうだね」

 

 なんの面白みもない相槌をする。そうだ、お姉ちゃんと初めて出会った日も雨だった。強さは同じくらいだろうか。窓をぽつぽつと打つ音が、やんわりとわたしの心を落ち着ける。

 

「優、夜ご飯なにがいい?」

 

「お姉ちゃんの食べたいもの」

 

「ふふっ、優はそればっかり。じゃあ、夏野菜のカレーにしよっか」

 

 他愛のない会話を交えながら、そういえば、と思い出す。学期末の休校ばかりで実感が無いけれど、今日からわたしは夏休みだ。夏休みということは、学校に行かなくていい。ずっと家にいていい。それはつまり、ずっとお姉ちゃんと一緒。

 

 自然と広角が上がってしまう。ああ、素敵だなぁ。お姉ちゃんと一緒にいると、これ以上となく心が落ち着く。きっと最高の夏が来る、忘れられない夏が来る。確信していた。

 

 それはきっと、来年も。再来年も。わたしはお姉ちゃんと一緒に。

 

 

 

 

 

 なのかな。

 

 わたしは、本当にお姉ちゃんと一緒にいられるのかな。いつまでも、いつまでも。

 

 今まで、幸せが続いたことなんて一度もなかった。いつしか、期待することだって嫌になってしまった。どうせわたしは辛くなる。また暗い道を一人きりで、裸足で歩いていかないといけない。なら最初から、希望を持たなければいい。

 

 そうは思っても、割り切れなくて。やっぱり心のどこかで、幸せできらきらした、素敵な日々というのを、思い焦がれてしまっていたんだ。

 

 そんな中で出会ったのが、お姉ちゃん。

 

 お姉ちゃんはちゃぶ台の側に腰掛けて、レシピ本を読み込んでいる。ふわりとした作りのサマーニットに、エプロンを着けたまま。

 

 正直、見ているだけで癒やされてしまう。ふいに湧いた不安だって。お姉ちゃんにすぐ溶かされてしまう。わたしはそれだけ、お姉ちゃんが大好きだ。

 

 もしも別れのときがきてしまったのなら、わたしはどうなるのだろう。どうなってしまうだろう。

 

 きっと、自分から独り立ちを決めて、自分の意思で離れることができたんなら、なんの問題もないだろう。

 

 でも、そんなことする自信はない。それで今以上に幸せになれる保証なんてどこにもない。

 

 もう、一人ぼっちの暗い夜には戻りたくないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、疲れた。手首も痛いが、それ以上に目もしんどい。遠くのものがぼやけて見える。

 

 気を抜いた瞬間、脱力してぼけっとしてしまう。けれど、こうして一生懸命自習できるのは、他でもないお姉ちゃんのお陰だ。

 

 学校から帰ると、心がぼろぼろになっている。虫に食われたように穴だらけ。錆びついた歯車のようにガタついて、何もできなくなる。勉強だけじゃない、ご飯を食べるのもお風呂に入るのも、寝ることすらしようとは思えなくなる。ただただ、部屋に縮こまって朝が来るのを怯えるだけ。

 

 朝が来るまでの時間が少しでも長く感じたかったから、よく数字を数えていた。いつしか落ちるように寝てしまい、また朝を迎えては憂鬱になる。

 

 そんな以前の毎日に比べたら、この勉強の疲れだって、間違いなく幸せなんだ。心の底からそう思えた。

 

 「優、がんばれ〜」

 

 両手でファイトとサインを送るお姉ちゃんは、部屋にカレーの良い香りを漂わせ始めた。お腹が空いてきて、せめてあと1ページ分の気力が湧いてくる。

 

 生きた心地がする、なんて言ったら大げさかな。

 

「……優。今日、優は勉強すごく頑張ったから、なにかご褒美あげる」

 

 エプロン姿のまま、お姉ちゃんはわたしに近付いてそう言った。

 

 ご褒美。ご褒美なんて、毎日もらってる。むしろ毎日がご褒美だ。こんなわたしが、こんな幸せになれてることが、ご褒美なんだ。なにもお姉ちゃんにはねだれない。これ以上幸せになったら、幸せで破裂しちゃう。

 

 悩んで黙ってしまったわたしを見て、お姉ちゃんは気を利かせてくれたのかもしれない。

 

「お姉ちゃんの秘密、何か一個教えてあげる」

 

 はっと驚いた気持ちだった。そうだ、お姉ちゃんのこと、わたしはまだ何も知らないんだ。

 

 出会ったばかりの頃は何も教えてくれなかったお姉ちゃん。今になってこう提案してくれるというのは、心変わりなのか。それとも、なにか思うところがあったのか。それはわたしにも分からない、けれど。

 

 きっと、お姉ちゃんとの関係が少し変わるきっかけなのかもしれない。そう予感させた。

 

「お姉ちゃんの、秘密……」

 

 知りたいことはいっぱいある。どこから来たのか、どうやって来たのか、そもそも誰で、どうして。

 

 こんがらがる頭を整理するのは諦めた。わたしはお姉ちゃんともっと仲良くなりたい。お姉ちゃんを知りたい。なら、知りたいことは。

 

「お姉ちゃんの、名前。教えてほしいな」

 

 お姉ちゃんはにこりと微笑んだ。その直前に、どこか寂しげな顔をした、気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扇風機の後ろに保冷剤を置いたら、扇風機の吐き出す風が少しだけ冷たくなる。タオルケット越しに頼りない冷風を感じながら、いつもみたいにお姉ちゃんに包まれながら眠ろうとしていた。

 

 お腹の満腹感が心地よくて、眠気が来て、それから。

 

 お姉ちゃんの声が、優しくわたしに届いた。

 

「お姉ちゃんの、名前ね。優、なんだよ。後藤、優」

 

「えっ……」

 

 それは、紛れもないわたしの名前。

 

 心臓がどくんと跳ね上がって、けれど、何もわからないことを怖いとすら思った。分からない。お姉ちゃん、お姉ちゃんはいったい誰なの。

 

「そのうち、ちゃんと教えてあげるからね。ぜんぶ、ぜんぶ」

 

 分からなさ過ぎて、あまりにも分からないから、そのときが来るのを待つことにした。きっと、今は気にしなくていい。眠気が、わたしの思考を遮る。

 

 後藤、優。優なんて名前は、わたしなんかよりずっとお姉ちゃんにぴったりだな。なんて思ったのが最後、心地の良いお姉ちゃんの感触に溶けてしまうように、意識は微睡んでいった。

 

 



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【モノローグ】水の中

 

 じめじめと肌に張り付く暑さ。今にも雨が振りそうな分厚くて鈍色の曇り空。

 

 学校と家の中間あたり、人気のない奥まった公園のベンチでわたしは休んでいた。

 

 買ったばかりの冷たいお茶はすでに半分を残すのみ。学期末の休校の殆どを家で過ごしたせいで、普段の登下校ですら膝が笑ってしまう。

 

 それに、この嫌な暑さ。こればかりは耐えられない、制服のワイシャツの下で今も汗がにじみ続ける。

 

 周りに誰もいないことを確認したら、ワイシャツのボタンをふたつあけて、ハンカチで中を拭う。

 

 思ったよりも湿っている。どおりで気持ち悪い訳だ。

 

 拭いながら、開けた学生鞄の中身をふと除く。すると、ハンカチにひっぱられて顔を出していたのは、小さなサイズのリングノート。

 

 クラフト紙の表紙にはなんの文字もない。片手にとって、一枚目をパラリとめくる。

 

『7月10日 早起きして学校に行けた。』

 

『7月11日 休み時間にトイレの個室にこもらなくて大丈夫だった。』

 

『7月12日 一回も学校で泣かなかった。』

 

 お姉ちゃんに言われたあの日から、欠かさずにつけている。がんばったことノート。

 

 自分でも、書いてある内容はくだらないものだって分かる。誰でもできる、誰でもやってる普通のこと。

 

 人より遅れてるわたしは、こんなことで一喜一憂している。だからトロいんだ、だから悪目立ちするんだ。だから、だから。

 

 ああ、いけない。自分で自分の悪口は言っちゃ駄目だとお姉ちゃんが教えてくれたのに。癖になってしまっているのか。

 

 お姉ちゃんはこんな内容でもすごくわたしを褒めてくれる。すごいね、偉いねとそれだけじゃない。どんな気持ちだったか、どんな辛さに耐えたか、察そうとして寄り添って褒めてくれる。

 

 日付ごとに書かれた一文一文、なんて褒められたか思い出せる。思い出すと心が熱くなって、嬉しくなって。

 

 ある日付に書かれた一文が目についた。

 

『息継ぎが一回で済んだ。』

 

 息継ぎ。水泳の授業だった訳じゃない。

 

 この表現はわたしの中でしか通じない。お姉ちゃんに見せたときも、少し意味に戸惑っていたみたいだった。

 

 そう、息継ぎ。小学校の頃だったか。初めてやり方を知ったのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 わたしは学校を水の中のように感じていた。

 

 教室の中が一番深い。水がたっぷりとみたされたプールのような、海のような場所。

 

 赤いランドセル抱えて、息を大きく吸い込んで、意を決して水に飛び込む。

 

 もちろん息が苦しくなってくる。肺に、口に、二酸化炭素が溜まって苦しくなる。けれど耐えて、耐えて、まだ耐えて。

 

 授業と授業の間。五分間の休憩中に、わたしは廊下へ飛び出した。階段を駆け下りて、後者の隅、ホコリ臭い空き教室へ入る。

 

 そこで。やっと二酸化炭素を吐き出した。心拍数が落ち着くのを感じ、何度も何度も深呼吸を重ねて、涙がひとつふたつと溢れる。

 

 ここには誰もいない。誰もわたしを見ていない。誰の目もない。それがどれだけ楽に思えたか。

 

 心が落ち着ききる前に、空き教室を出ていく。ごくごく短い間に、吸えるだけの酸素をまた吸い込んだ。これでまた頑張ろう。そう思って。

 

 その頃、家はもっと息がしづらかった。お母さんのいるお家は水に満たされていて、苦しいだけじゃなく、何度も痛い思いもした。青くなった体を見て、床に落ちた血を見て、息ができなくなっては咳き込んだ。

 

 ちゃぶ台にぽんと置かれた千円札があれば、これはお母さんのいない合図。このときだけは心がふわりと楽になって。目いっぱいに空気を吸ったら、人ひとり分のサイズにくるんだ布団を抱きしめて眠る。

 

 

 

 この水の正体は、きっと不安そのもの。

 

 誰にどう思われているか、漠然とした不安。

 

 誰にどう思われているか、分からないのはとても怖い。嫌われるのも怖い。何かされるかもしれない、なんて心配じゃなく、漠然と、ただ怖い。怖い。

 

 迷惑かけたくないから、嫌われたくないから、精一杯笑顔を浮かべて過ごしてみた。筆箱と上履きが捨てられてても、頑張って笑ってみせた。陰口だって、聞いていないと思いこんで過ごした。穴の空いた制服も。水を吸って膨れ上がった教科書も。見ないで過ごした。

 

 震える手を抑え込んで、上ずった震える声を隠すように話した。ただ笑って、誰かのためにできることは何でもした。みんなの不都合になることだけは、絶対にしないよう気を付けた。

 

 いつしか、手首に傷ができていた。

 

 嫌われていることに、わたしはわたし在り方を感じてしまった。嫌われれば嫌われるほどに、やっぱり、やっぱりって。ある種の安心を覚えてしまう。

 

 期待なんてしない方がいいんだ、どうせ。どうせわたしは幸せになれない。なんの取り柄もない、なにひとつ満足に誇れない、この世界に間借りさせてもらってるいらない人間。そう思い込もうと毎日毎日自分に言った。

 

 わたしのことを嫌う言葉だけは、心の底から信じることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぽつん、ぽつん。と、リングノートに涙が落ちる。

 

 お姉ちゃん、お姉ちゃん。はやくお姉ちゃんのところへ帰ろう。

 

 初めての褒め言葉は、わたしの心の壁にぶつかって消えていった。そんな言葉はわたしに似合わない。わたしみたいな人間のために使っていい訳がない。

 

 お姉ちゃんはそれでも、何度もわたしを褒めた。聞いたこともないような、明るい言葉。あたたかい言葉。知らない、そんな言葉知らない。

 

 ハンカチで、目に溜まった涙を拭き取って、リングノートをカバンにしまい込む。

 

 そしたら少し小走りに、家へと向かう。

 

 もう知ってしまったから。戻れない。

 

 私を肯定してくれる人。たった一人の、わたしを好きでいてくれる人。唯一の、大好きな人。

 

 その好きって言葉の裏に何かが潜むのかもしれないなんて発想はできなかった。わたしはお姉ちゃんのことを疑えない。あんなにもわたしを支えてくれる人を、そうは見れない。

 

 アパートが見えてくる。あれは帰る場所。わたしの居場所。息継ぎのためじゃなく、帰るためのお家。

 

 わたしの、幸せ。

 

 いつだって変わらない、幸せ。

 

 



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【6】花火を見に行こう

 

 がたん、がたん。

 

 県外に行くなんて初めてだ。

 

 わたしは昔からずっと家にいたし。どこか遊び行くことなんて無かったし。きっと市内ですら知らないところばかり。

 

 そんなわたしが、初めての旅行となれば、やっぱりわくわくせずにはいられない。何度も旅行雑誌を読み返し、頭の中で思い浮かべるのは抽象的な風景。けれどその風景は輝いていた。今にも弾けてしまいそうなほどに。

 

 もちろん嬉しいのは旅行だからってだけじゃない。お姉ちゃんの横顔を見ると、心があったかくなる。きっとお姉ちゃんとなら楽しい。なんだって楽しい。だって、暗闇の中で棘にまみれた地面を這いずるようだったわたしの人生は、お姉ちゃんのおかげで花が咲き乱れた。

 

 だから、お姉ちゃんといれば楽しい。旅行で知らない場所へ行くのも楽しい。お姉ちゃんと旅行なんてもっと楽しいに決まってる。

 

 胸の何処かで鳴る不安の音は、聴かないようにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 駅に降り立つと、まずその造りに驚いた。黒く塗られたマットな質感の木造。灯籠の形をしたLEDが照らす先へと、重い荷物を引きずるようにして進んでいく。改札を抜けるまで、もう少し。

 

 お姉ちゃんに続いて、駅を出る。たくさんの人、家族連れにひとりの人に、カップルに中学生に。ここまで賑わっている場所に来るのは、きっと初めてだ。

 

 それに、暑い。ものすごく暑い。少しずつ少しずつ、肌が焼かれていくみたいで。頭の中は、お姉ちゃんの白いきれいな肌の心配ばかり。

 

「んー、旅館のお迎えのバスが来るまでね、まだまだ時間あるみたいなの。そこの喫茶店でゆっくりしてよっか」

 

「うん、行こう、お姉ちゃん」

 

 二人並んで、荷物抱えて、ガラス張りが眩しいカフェへと入る。とても気持ちの良い冷風が、汗ばんだ首筋を、頭を、髪の間を通り抜ける。思わず力が抜けてしまう。

 

 二人がけのテーブル席に着いたところで、壁に貼られたポスターに気付く。会場は大きな川のそば、打ち上げ花火のイベント。黒い夜空に大きく煌めく花火の写真。

 

 打ち上げ花火、わたしはちゃんと見たことがない。一駅隣で年に一度開催されているらしいけど、もちろん行く機会なんてない。家からじゃ建物に遮られて見えない。少し遠くから響く、どん、という音を部屋から聴いて、想像をしてみたけどよくわからなかった。

 

 「楽しみだね、花火大会」

 

 お姉ちゃんはわたしにメニューを渡しながら、同じポスターを眺めながらそう言った。

 

 「お姉ちゃん、花火見たとこあるの?」

 

 メニューに目を走らせながら、尋ねてみる。ええと、あれ。レアチーズケーキが食べたかったけれど、ここには置いてないみたい。

 

 「うん、あるよ。生で見ると、やっぱりすごい迫力なの。いろんな色があって、いろんな形があって、感動しちゃうの」

 

 「色、形……」

 

 化学の教科書、はじめて打ち上げ花火の写真を見たのはそれが初めてだったか。炎色反応、だとかのページに、小さく載せられた花火の写真。使う材料で、燃えたときの色が変わる。ちょっと面白いな、なんて思って聞いていた。

 

 形、形とはどんなものだろう。丸い大きな形、それしか見たことがない。想像はできないけれど、きっとそれは綺麗で、とっても素敵なもの。

 

 メニューを一通り見て、注文を決める。以前お姉ちゃんが頼んでた、ウィンナーコーヒーというもの。クリームがたっぷり乗った、なんだか変な飲み物。お姉ちゃんの好きなものを分かってみたい、なんて。

 

 

 

 

 

 

 

 しばらくして、駅の前の広場、小さなバスみたいな車が停まっていた。ドアのところに、わたし達が泊まる旅館の名前が書いてある。

 

「はい、じゃあお願いします」

 

 重い荷物を抱えて乗り込んだわたし達は、他のお客さんがいることに気付いてお喋りはしなかった。

 

 窓の外で流れていく景色はどこか古くさい町並み。木造のひっそりとした建物の間に、同じようにひっそりとしたお店が並ぶ。店先には観光客の人たちが集まっていて、お惣菜だったり、隣では小物だったり。なんだか高そうな扇子を見ている人も。

 

 駅から旅館は結構遠いようで、暇を持て余したわたしは、ある考え事をしていた。

 

 先日聞いたこと。お姉ちゃんの、名前。

 

 後藤優。お姉ちゃんは確かにそういった。眠気と、それからお姉ちゃんの約束があって、疑問や不安はわたしの心に小さくとどまる程度ではあった。けれど。

 

 分からなかった。どれだけ考えても、どうしてお姉ちゃんがわたしと同じ名前である理由なんて予想できなかった。

 

 たまたま同姓同名の人間。未来のわたし自身。ウソをついてる。

 

 予想を立てれば立てるほど、そもそもの根本ばかりに目がいく。お姉ちゃんは、いったいどこから来た何者なのかって。

 

 ただ、覚えたお姉ちゃんへの違和感が。日常から外れた違和感が、いつまでも一緒にいたいと思うわたしの心をどこか揺さぶるのだ。なにか、なにか秘密がある。

 

 そしてその秘密というのは、決して良いものじゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ようやく到着した旅館は、思っていたよりも綺麗な建物だった。

 

 和風の、この場所の景観に合う外見だけれど、屋根も壁も綺麗な色をしている。新しいもののようで、それでいてしっかりと磨かれているようで。

 

 お部屋はもっと綺麗だ。明るい木でできたふすまや壁のふち。畳の色は爽やかな緑色をしていて、部屋中に香るい草の匂いを鼻いっぱいに吸い込んでは癒やされる。

 

 お姉ちゃんがポットでお湯を沸かして、ルームサービスの緑茶を淹れてくれた。それから背もたれのついた座布団に座って。おまんじゅうの包を開けて。

 

 旅行雑誌の、花火のページを開く。お姉ちゃんが指さしたのは、スケジュールと簡易的な地図。

 

「ここから歩いて、十五分くらいかぁ。七時からだから、あと二時間は暇だね。何しよっか」

 

「ええと……」

 

 お姉ちゃんとのんびりお茶を飲んで、お話しをして。それだけでわたしは何時間でも過ごせる。でも、せっかく旅行に来たんだ。

 

 お姉ちゃんだって、わたしとずっと話し続けてたら暇しちゃうかもしれない。だから言葉をいったん飲み込んで。

 

 

 

「お姉ちゃん、お風呂。露天風呂行ってみたい。ほら、汗かいちゃったし」

 

「賛成! この時間なら、まだ人も少ないだろうし。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少しずつオレンジ色が染めていく夏の空。ぼんやりと眺めながら。お姉ちゃんと並ぶようにしてお湯に身体を溶かしていく。

 

 手足が伸ばせるお風呂。これも生まれて初めてだ。わたしの肌をあたたかい感覚が覆って、嫌なものだとか汚いものだとか、ぜんぶ洗い流していってくれる気分。ああそうだ、雨に当たるときに似ている。

 

「お姉ちゃん、ありがとう。連れてきてくれてありがとう。わたし、初めてがいっぱい」

 

「優もありがとう。お姉ちゃんね、優と過ごせて幸せだよ」

 

 お姉ちゃんの肩に。そのほんのりと熱を持って濡れた白い肌に、頭を預けてみる。

 

 このひとときが、ずっと続いてほしいだなんて思った。ゆっくりゆっくりと、時間が流れていって、オレンジ色が広がったかと思うと、藍色がぽつりぽつりと垂らされていく。

 

 二人だけの空間に、蝉の声がずっと響いていたことに、今初めて気がついた。

 

 もうすぐ、あの空に花火が咲く。もっと濃紺に染まった空に、ぱぁって、色とりどりの花火が咲く。

 

 きっとわたしはそれに心を奪われる。ふと横を見てみれば、お姉ちゃんがいる。それは幸せ。わたしだけの、かけがえのない幸せ。

 

 さっきよりも更に広がる藍色を遠く見つめて、輝く花火を思い描いてみた。

 



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【7】咲いた残り火

 

 少しぎこちなく、川沿いの道を歩いていく。

 

 ぼんやりとした街灯よりも、お姉ちゃんの手が道標。

 

 お姉ちゃんは白色の生地にピンク色の花がたくさん描かれた浴衣に身を包んで。黒髪を結びあげたその横顔も相まって、見とれてしまうほどに綺麗。

 

 それに比べてわたしはどうだろう。お姉ちゃんと同じような柄だけれど、花の色は紫色だ。水をたっぷり含んだ水彩絵の具で描いたような、小さい花びらのお花。可愛らしいけれど、わたしが着るには少し可愛すぎる気もした。

 

 花火会場へ向かう途中、プレゼントと言ってお姉ちゃんはわたしととあるお店へと手を引いた。

 

 そこは浴衣を借りることができるお店で、お姉ちゃんは店員さんと相談を重ねて、重ねて、重ねた末に二人は今この浴衣をまとっている。

 

 この相談というのが、なんともお姉ちゃんらしくて。正直、もっと人目をはばかって欲しいと思ってしまった。わたしの方を見ながら、お姉ちゃんはわたしをめためたに褒めた。

 

 この子の美人な顔立ちに似合うもの、だけれど可愛さも欲しい。はじめての花火大会が彩られるようなもの、だけれど派手すぎないように。あと、姉妹お揃いのもの。

 

 お姉ちゃんが、優はどんなのがいい? だなんて聞いてくるから、お姉ちゃんが選んでいいよ、なんて答えた結果だ。

 

 店員さんもにこにこと笑って、お姉ちゃんとの相談に花を咲かせてしまう。横にあった姿見を見やってみたら、耳の先の先まで紅くなったわたしがいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会場の近くは、すでにたくさんの人でいっぱいだ。出店もあるようで、ぼんやりと光る文字が暗闇に浮かんでいる。

 

 手をひかれるままに、川の近く。階段のように続く土手の上の方に、二人ならんで腰掛ける。

 

「優、似合ってるよ、すごくすごく似合ってる。優は浴衣が似合うなぁ、和風美人さんだなぁ」

 

「えっ、いや、そんなことは」

 

 急に褒めてくるのだから、取り乱してしまう。顔を隠すように両頬に手を当てる。すこしあたたかい、また紅くなってしまう。

 

「優、なにか食べもの買ってくる?お金はお姉ちゃんが出すから」

 

「えっ、悪いよお姉ちゃん。自分で買うから、平気だから」

 

「んー、こういうときは甘えていいの。それじゃあ、お姉ちゃんの分もお願いするから、優の分はそのお駄賃」

 

 お姉ちゃんは巾着袋からお財布を取り出して、わたしに差し出す。わたしは少し申し訳なく思ったけれど、受け取る。

 

「お姉ちゃんは、りんご飴にたいやき、あとベビーカステラがいいな。よろしくね、優」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人があふれる道を、小さな不安と一緒に歩いていく。

 

 知らない土地、ずっとお姉ちゃんと歩いていたから気付かなかったけど。すごく苦手だ。

 

 お姉ちゃんのお財布は可愛らしい和柄が描かれている。これはたしか、麻の葉模様。お財布をぎゅうと握りしめたら、遠くに見えたりんご飴の出店へと足を早める。そのすぐ近くにはベビーカステラ。たいやきはもっと先のほうかな。

 

 列に並んで、あたたかい質素な明かりに照らされるりんご飴を眺める。まんまるとして、赤いからだが艶めいて光る。どんな味かなぁ、食べたことないけれど、そのかわいい姿には目を奪われる。

 

 そうだ、わたしもりんご飴を買おう。買うなら初めて食べるものがいい。ベビーカステラも、多めに買ってお姉ちゃんと分け合おう。たいやきは、違う味を選んではんぶんこ。

 

 ほんのすこし浮かんでしまった笑みを隠して

 

「り、りんご飴。ふたつ、お願いします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もうすぐ花火大会が始まるとの放送がかかった。

 

 お姉ちゃんのとなりでりんご飴を齧って、甘くてぽりぽりとした飴と、みずみずしいけどちょっとぬるいりんごを噛みしめる。食べにくいけれど、なんだかシンプルな味で好きだ。

 

 ここで、お姉ちゃんとわたしの間においた紙袋からベビーカステラをひとつとって口に運ぶ。ふわふわとして、甘さはほんのり控えめ。これも好き。

 

 お姉ちゃん、やっぱり甘いものが好きなんだ。でも、駅のカフェで飲んだウィンナーコーヒーはクリーム以外は苦かった。お姉ちゃん、クリーム目当てで飲んでるのかな。

 

 

 

 いろいろと思いが膨らんだ。その瞬間。

 

「優、来たよ!」

 

 お姉ちゃんに言われて顔を夜空に向ける。どん、と空気の揺れる音にすこしびっくりしたと思ったら、一筋の黄色い光が昇る。

 

 昇って、昇って。

 

 ぱぁぁっ。

 

 花火が、大きく咲いた。

 

 輝いて。きらきらして。大きなお花の形に、ぱぁっと咲いた花火。いつの間にか、夜空の藍に溶けていった。

 

 瞬きすら忘れたまま、次に次にと上がる花火。上の方の空で咲いては溶けてしまう。けれどすぐにまた、光が昇っていく。

 

 それは白。黄色。緑色。水色に、ピンク色。

 

 光って消えて、光って消えて。

 

 それは花の形。ハートの形。柳のように垂れ下がっていたり、滝のように一面染めたり。

 

 小さな黄色い花火が散ったところで、やっと瞬きをした。あまり目が乾いていなかったのは、いつの間にか涙が溢れそうになっていたから。

 

「優、綺麗だね。本当に、すごく綺麗」

 

 花火を見上げながらつぶやくお姉ちゃんの横顔。

 

 花火が光るたびに、暗闇に包まれたお姉ちゃんの顔が明るく照らされる。

 

 そして、花火が散るとお姉ちゃんの顔がまた暗闇へと。

 

 見惚れていたと言ってもいい。

 

「……うん、綺麗。綺麗」

 

 ついに流れていく涙をそのままに、花火を見ていた。夜に咲く花。けれどその短い一瞬は、残り火にようにも思えた。消えていく花の、最後の輝き。

 

 どん、どん、と空気を揺らす花火の音は、聞こえていないようにさえ思えた。

 

 昇って、咲いて、溶けて。

 

 昇って、咲いて、溶けて。

 

 昇って、咲いて、溶けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お姉ちゃんがわたしに告げたのは、帰り道だった。

 

 暗がりに、お姉ちゃんはわたしの方をじぃっと見て。それから。

 

「お姉ちゃんはね、優とずっと一緒にはいられないの」

 

 いつもみたいに優しい声。あたたかい声。お姉ちゃんの声。

 

 そっとわたしの耳を撫でたけれど、それからの内容は覚えていない。いや、聞けていない。

 

 お姉ちゃんをぎゅっと抱きしめて、お姉ちゃんに抱きしめられて、ひとつの布団の中。

 

 いつまでも眠れないわたしの心の中では、あの美しかった花火と、花火のように輝いて消えていくお姉ちゃんの情景が、いつまでも繰り返されていた。

 

 もう涙が流れているのかさえも判らない。

 

 お姉ちゃん、一緒にいてよお姉ちゃん。お姉ちゃん。

 

 昇って、咲いて、消えて。

 

 昇って、咲いて、消えて。

 

 そう、いつまでも。

 

 

 



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【8】夏の去る前に

 目の前のあんみつにたっぷりとかかった黒蜜。木の格子から差し込む夏の日ざしが、その艶を光らせる。

 

 わたしはスプーンを手に持ったまま。心を昨日の夜に置いてきてしまっていた。

 

「優。食べよ、優」

 

 もう聞き慣れたお姉ちゃんの声が、どこか遠くに感じてしまう。

 

「うん」

 

 ぼうっとしたまま、甘味を口に運ぶ。本来その上品で濃く深い甘さは、ただわたしの舌を滑っていくようで。

 

 気づいた頃には、とっくに漆塗りの器は空になっていた。

 

「……お姉ちゃん。本当なの、一緒にいられないって」

 

 自らその言葉を発することが、余計にわたしを苦しめる。口に出して確認するその感覚が、未だ受け入れられない事実から目を背けさせないでいる

 

「……うん。本当だよ」

 

 花火の後の夜。お姉ちゃんと手をつないで歩く帰り道だった。

 

 ずっと一緒にはいられない。そう告げたお姉ちゃんの横顔は、ものすごく悲しげだった。

 

 わたしはその言葉を聞いて、何も言えないままだった。以前から感じてた不安。お姉ちゃんがわたしに覚えさせる、日常への違和感。きっとそれはいつか姿を現して、この夢みたいな日常からわたしを覚ましてしまうのではないか。

 

 そんな予感が、輪郭を帯びた。

 

 そうなんだ、と。わたしは絞り出すようにせいいっぱいの返事をして、それから、お姉ちゃんの手を強く握り返した。

 

 お姉ちゃんはわたしの返答を不思議に思ったのか、少し手の力を弱めたあと、今度はわたしよりつよく握り返しきて。

 

 強く握られた手と手が、却って別れを意識させたのだった。

 

 今目の前のお姉ちゃんは、いつもの優しい微笑みに、一握り悲しさを足したような表情でわたしを見つめている。

 

 聞きたいことは山ほどあるにもかかわらず、何も、何も言えない。知りたくない。もうこれ以上、受け入れたくない。

 

「夏の間。この夏が終わったら、お姉ちゃんは優とお別れしなきゃいけないの」

 

 表情を変えずに、お姉ちゃんは言う。どうして夏の間なのか、お姉ちゃんはどこへ行ってしまうのか。そもそも誰で、どこから来て。

 

「色んなこと、聞きたいよね。気になること、いっぱいあるもんね」

 

 そんな考えすらお姉ちゃんは察して。

 

「……優が、自分の口から聞いてきたら、かならず教えてあげる。隠さないで、本当のことちゃんと伝える。もし知りたくなかったら、何も聞かないでもいいの」

 

 わたしの顔を見つめるその目線は一瞬も逸らさずに、さっきよりも明るい口調と表情でお姉ちゃんは言う。

 

 心の中が、情けなさでいっぱいになった。溢れてしまいそうになった。お姉ちゃんに何から何まで察してもらって、気を遣ってもらって。でもわたしは、お姉ちゃんのために何かできただろうか。

 

 こんなにも、こんなにも優しさをくれるお姉ちゃんに、わたしはずっと甘えきりで。

 

 お姉ちゃんのことをなにも知らないまま。分かってあげられないまま。そんなことは許されない。

 

 だから、喉への力の入れ方すらあやふやなまま、わたしは口を開く。

 

「一個だけ聞きたいことがあるんだ。これ以外のことは、そのうち、絶対に聞くから……今はこれだけ知りたい」

 

「……うん」

 

「……お姉ちゃんの一番の幸せって、どんなことか、教えてほしい」

 

 テーブルを挟んで、ふたりずっと目を合わせたまま。流れたのは、静かな空気。

 

 そして。

 

「優が幸せでいること、かなぁ」

 

 

 

「……ううん、違うや。優とずっと一緒に、幸せでいること」

 

 ほんの少し照れくさそうに、笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 おまんじゅうに絵葉書に、木製のキーホルダーに、かわいい扇子。

 

 お土産と思い出の詰まった紙袋を抱えて、電車の揺れに眠気を煽られる。まだ時間はかかるし、少し寝てしまおうか、なんて思っていると、お姉ちゃんの頭がわたしの肩に乗ってきた。

 

 お姉ちゃんの切り揃えられた前髪が影を作って、お姉ちゃんの顔はよく見えないけれど。きっと疲れて眠ってしまったんだろう。

 

 電車の走る音、周りのまばらな話し声。その途切れ途切れの合間に、お姉ちゃんの微かな寝息が聞こえる。

 

 今はまだ7月。夏の終わりとはいつなんだろう。そんな曖昧な言い方なのだから、日にちの明確に決まったものではないのかもしれない。

 

 耳や頬、指先に、あの冷たい秋の風を感じる頃。お姉ちゃんはどこかへ行ってしまう。

 

 わたしとずっと一緒に、幸せでいる。わざわざ言い直したお姉ちゃんの、心の底から望んでいること。わたしだって同じだ。一緒に、一緒に幸せでいたいんだ。

 

 わたしには何ができるのかな。

 

 お姉ちゃんのために何ができるのかな。

 

 遠くの景色を眺めながら。思い出すのは花火の夜。二人並んで食べたりんご飴、ベビーカステラ、たいやき。

 

 お姉ちゃんとの思い出は一つ残らず幸せなもの。あの初めて出会った雨の日も。悪夢を満た夜も。喫茶店も。過ごした毎日は、絶対に忘れられないって思える。思い返すたびに蘇る。

 

 夏が終わるまで、まだ時間はある。素敵なお店も知らないし、観光地も知らない。何もできないわたしだけど、何かをしなくちゃいけない。

 

 お姉ちゃんから貰ってばっかりじゃ、ダメな気がする。いくら二人で幸せにいられても、ダメな気がするんだ。

 

 考えて、考えて。何をしたらいいだろう、お姉ちゃんと何をできたら素敵だろう。

 

 最寄り駅のアナウンスが車内に響くまで、わたしはずっと考えっぱなしだった。眠気さえ忘れたまま。

 

 

 

 

 



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【9】あなたがいて幸せ

 

 今日は雲ひとつなく晴れていて、深い青色がどこまでも続く空。

 

 日差しが熱した空気はまとわりつくように暑く、少し歩いたらコンビニで身体を冷やし、少し歩いたら今度はモールで身体を冷やし、目的地に着くまでに何度も中継地点を増やさなければいけないほどだった。

 

 中継地点といってもそこはお店。気付けば買う予定の無かったアイスにタピオカ、髪飾りにレザーのネックレスまで袋に詰めて、少しして我に返るとふたり揃ってゾッとしていた。

 

 もう少し涼しい日に誘うべきだった、そんな罪悪感を覚えつつも、暑いねと笑ってすぐに冷たくて甘いものを買おうとするお姉ちゃんの姿は可愛くて。罪悪感は心の奥に押し込めたまま、わたしは笑顔で乗っかっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 わたしは今日初めて、お姉ちゃんをお出かけに誘った。

 

 旅行から帰って三日が経った。思いの外歩き回っていたせいか、運動不足が常のわたしはもちろん、お姉ちゃんも脚に痛みを覚えていた。

 

 更に、よく晴れた夏日が続いていたこともあって、買い出し以外では家からほとんど出なかった。

 

 帰りの電車の中で巡らせ続けた私の想いは、扇風機の涼しい風と一緒に飛んでいってしまう。これじゃあ、結局変わらないままではないか。

 

 どこか危機感を覚えたわたしは、気付けばお姉ちゃんをお出かけに誘っていた。どこか特別な場所に行く訳でもないし、何か面白いことをする訳でもない。

 

 わたしがせいいっぱいに考えだした、ふたりの思い出の作り方。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 商店街に入ってからは、わたしが手を引くように歩いていく。一度路地に入って、今度はまっすぐに。行きたいな、と日頃から思っていた場所だからか、案内板は完璧。

 

 ひっそりとした店の並び。商店街の中心にはあった賑やかさは身を潜め、あたりにもわたし達の歩く音が響くだけで。

 

 着いたのは、小さなお花屋さん。

 

 店先に並ぶガラスケースには色とりどりの花が。地面にも鉢植えの植物たちがところ狭しと並んでいて、鼻をくすぐるのはしっとりとした森の香り。

 

「お花屋さんかぁ。優、お花好きなの?」

 

 手は繋いだまま、お姉ちゃんは訪ねてくる。その声色は嬉しそうで、お姉ちゃん自身もお花が好きなのかな。なんて想像させる。

 

「うん、好きだよ。でね、今日は買いたいお花があるんだ。お姉ちゃんと、一緒に育てるお花」

 

「一緒に?」

 

「……お姉ちゃんとね、お別れしたあとも、残るものが欲しくて」

 

 夏が終わって、またアパートの部屋にひとりきり。そんな生活が待っていることは、どれだけ否定したくともできなかった。

 

 今だって、そんなこと受け入れられない。受け入れたくない。やっぱり大丈夫だったよ優、なんてお姉ちゃんは笑って、夏のあとも一緒に過ごせるんじゃないか。なんて考えてしまう。願ってしまう。

 

 秋も冬も春も。そしてまたやって来る夏も。わたしはそのうち大人になって、お姉ちゃんと一緒にもっと遠いところまで行けるようになって。

 

 大人になったんだから、お姉ちゃんとお酒なんか飲みに行ったりしちゃって。それで美味しいもの食べたり、綺麗なもの見たり、二人の思い出は毎日毎日増えていって。

 

 でも、全部わたしの妄想。そんな素敵な話には、きっとならない。

 

 秋のわたしは、またひとりきりで生きていくんだろう。寂しくても辛くても、隣には誰もいてくれない。

 

 けれど、もしそんなとき。見るたびお姉ちゃんを思い出させてくれるお花がいてくれて、毎日わたしに語りかけるように彩ってくれたのなら、それはとっても素敵なこと。

 

「鉢植えのお花。ふたつ買って、お姉ちゃんが帰るときは一個持って帰ってほしいんだ。会えなくても、同じ花を同じように育てるの……どう、かな?」

 

 自分でも、説明しながら心が痛くなった。受け入れられない自分もいるけれど、受け入れようとしている自分もいる。目を背けたいことから、目を背けたくないのは他でもないわたしだ。

 

 お姉ちゃんはにっこりと笑った。満面の、素敵な笑顔で。

 

「うん、うん!」

 

 わたしはお姉ちゃんと手をつないだまま、店内へと入って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水色の鉢がわたしので、ピンク色がお姉ちゃん。

 

 花の形や大きさはほとんど一緒。同じような場所で同じように育てたら、この子達は同じように大きくなるだろう。

 

 まだベランダには出さず、窓の前に鉢を並べてみる。お姉ちゃんと並んで、お花を眺める。

 

「ゼラニウム、かぁ。優の好きなお花なんだね」

 

「うん、好きなお花。だけど、この子を選んだのはそれだけじゃないよ」

 

 赤色のゼラニウム。深くて純粋な、真っ赤な赤色。あまりにも鮮やかで、質素な部屋の中ではすぐに主人公に躍り出た。

 

 わたしがこの花を選んだ理由。いや、選べた理由。それは、まだ中学生の頃だったか。図書館で読んだ花言葉の本の内容を、途切れ途切れながら覚えていたからだ。

 

「うーん、なんだろう。あっ、花言葉とか?」

 

「正解だよ、さすがお姉ちゃん」

 

 赤色のゼラニウム。その花言葉はわたし達にぴったりだ。覚えていて本当に良かった。

 

「花言葉はね、あなたがいて幸せ、っていうの」

 

「……そっか。ぴったりだ、優とお姉ちゃんに」

 

「うん、そうでしょ。すごく、すごくぴったり」

 

 自分の声に涙がかすかに滲んだ。

 

「優、お姉ちゃん幸せだよ。すっごく幸せ。優といられるの、本当に本当に幸せ」

 

 わたしが何も答えられないまま。

 

「このお花がいてくれたら、優との時間をいつだって思い出せる。いつだって幸せになれる。ありがとう。素敵なプレゼントをありがとう、優」

 

 涙の気配は、わたしの視界をぼやけさせた後に溢れていった。こんなにもあたたかい気持ちなのに、溢れていく雫は止まらない。

 

「お姉ちゃんのこと、絶対に忘れない。だからお姉ちゃんも、わたしのこと絶対に忘れないでね。約束、だよ、約束……」

 

 掠れそうな声で、わたしは言葉を絞り出した。お姉ちゃんとわたしは、同じ気持ちなんだ。同じように感じて、同じように悲しくなって。

 

 指と指を組み合わせるようにして繋いだ手を、よりいっそう強く握る。

 

 まだ、夏は終わらない。

 

 思い出は、まだまだたくさんできるんだ。そう思うと、悲しいけれど自然と笑顔になれた。

 

「あはっ、あははっ」

 

「……ふふ、ふふふっ」

 

「お姉ちゃん、次はどこに行こっか。わたし遊び行く場所とか全然知らないんだ」

 

「ふふっ、そうだね、どこに行こっか。ちょっと良いレストランとか行ってみる? それとも、東京とか遊び行ってみる?」

 

「どっちも楽しそう。良いなぁ、行ってみたいなぁ。あ、あとね、海にも行ってみたい。お姉ちゃんと、海行って遊びたい」

 

「うんうん、海行こうね。新しい水着とか買っちゃう?」

 

「わたしがお姉ちゃんの選ぶから、お姉ちゃんはわたしの選んで、ね」

 

「あんまり大胆なのはやめてね?」

 

 

 

 小さな部屋。日が暮れても、わたし達の声は続いていた。

 

 それは期待で、夢で、夏の予定で。

 

 ひとつしか鉢のない赤いゼラニウムを、ひとりきりで見るその日に、真っ先に思い出す二人だけの幸せな時間、なのかもしれない。

 

 頭の片隅で、そんなことを感じてみた。

 

 



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【10】マリンライン

 

「お、お姉ちゃん、これやっぱり変だって……」

 

「似合ってるよ、すっごい似合ってる。あぁ、カメラ持ってくればよかったなぁ」

 

「お姉ちゃん……」

 

 白いふわふわのフリル。少し大きなリボンまで付いて、ワンピースみたいなシルエット。

 

 やっぱり、わたしが着るには可愛すぎる。いくらなんでも可愛すぎる。けれど足取りは不思議と軽く、胸の奥で変なわくわくが騒ぎ立てているのを感じて。

 

 遠くに水平線の煌めく海辺、わたしは麦わら帽子の影で笑ってみた。

 

 

 

 

 

 

 ショッピングモールは夏一色。お店じゃないフロアのところにまで水着が売られていて、鮮やかな色彩に目を奪われてしまう。

 

 水色、ピンク色、レモンみたいな黄色。ああいう淡い色は可愛いな、そんなに派手じゃないし。でもあの真っ赤なやつとか、黒くて細いやつとか、どんな人が着るんだろう。想像ができない。

 

 お姉ちゃんに手を引かれて着いたのは、水着の並んだフロアの中でも一番広い場所。

 

「じゃあ、よろしくね優。お姉ちゃんも、とびきり可愛いの探しちゃうから!」

 

「あっ、あんまり派手なのはやめてね」

 

「わかってるわかってる」

 

 ゼラニウムの前で結んだ約束。わたしがお姉ちゃんの水着を選んで、お姉ちゃんがわたしの水着を選ぶ。一週間ほど前の、大切な記憶。

 

 正直、ちっちゃな後悔を感じている。

 

 だってお姉ちゃんが選ぶのは、すごく可愛かったり、女の子らしかったり。お姉ちゃんみたいにわたしは可愛くないから、なるべく地味なのがいいな。って、そんな思いは汲み取ってくれないらしい。

 

 いや、汲み取ってくれてはいるのかな。あえて無視してるだけで。

 

「ねぇねぇ、どうかな優。ピンク色でパレオですっごく可愛くないかな?」

 

「あっ、ええと。可愛いけど、可愛すぎるっていうか……」

 

「優は可愛いから似合うよ?」

 

「えっ、あっ……」

 

 お姉ちゃんは急にこういうことを言う。

 

 わたしだって可愛い水着を着たくない訳じゃない。ふわふわしてキラキラしたそのデザインには惚れ惚れしてしまう。

 

 けれども、お姉ちゃんがいくら褒めてくれようとわたしは可愛くない。だから、ミスマッチ。似合わない。そうなると、せっかくの可愛い水着がかわいそうで仕方がなくなる。もっと可愛い人に着てもらえたら幸せだったのにね、って。

 

 それだけじゃない。海にはたくさん人がいるから、とびきり可愛い水着なんかだと悪目立ちしてしまうかもしれない。それじゃあせっかくの楽しい時間が怖くなって、台無しになってしまう。

 

 だから、地味で目立たないの。それがわたしにはぴったりだって、今までそう思ってた。はずなのに。

 

「んー、これもだめかぁ」

 

 棚に水着を戻すお姉ちゃん。

 

 お姉ちゃんのくれる経験は素敵なものばかりだ。怖いと思っていたことが大丈夫になって、初めての体験はかけがえのない思い出になって。だから、きっと今回も同じように。

 

 わたしは海で、とびきり可愛い水着を纏える。

 

 そんな期待がわたしを動かしてしまう。

 

「あっ、これどうかな。絶対似合う、優に絶対似合うよ!」

 

 白いビキニ。フリルはふわふわと羽のよう、スカートのような形をして、少し大きなリボンがひとつ。柔らかく広がるシルエットは、夏の空によく会うサマードレスみたいで。

 

 わたしは一瞬、目を奪われた。

 

 もちろんお姉ちゃんは、それを見逃さない。

 

「決定ね?」

 

「……うん、うん。これがいい。けど、似合うかな」

 

 これがいい。これを着てみたい。お姉ちゃんにすっかり開かれてしまったわたしの心は、前から少し素直になった。食べたいもの、行きたいところ、わたしの中の欲望達はすっかり目を覚ました。

 

 今だって、こんなにも可愛い水着を見た途端。心配事が少しの間見えなくなって、着てみたいって素直な気持ちだけがわたしを支配したんだ。

 

 似合うかな。これは遠慮や謙遜の言葉なんかじゃない。心の底から、似合いたいって思った。その言葉。

 

「優、こっち来てみて」

 

「えっ、うん」

 

 お姉ちゃんはわたしを近くにあった姿見の前に立たせた。そして水着をわたしの前に持ってきて、身体に合わせる。

 

「優、自分の顔よく見てみて」

 

「顔?」

 

 鏡で顔を見るのは好きじゃない。朝も、なるべく自分の顔を見ないように支度をする。わたしは深いクマがあって、肌もかさついて、やせ細っていて。なによりも、陰鬱な表情は更に心を曇らせてしまう。

 

 嫌々、という思いを見ないようにして、わたしはわたしの顔を見る。

 

 映っていた顔は、今まで知っていたそれとは少し違った。

 

 クマは、もうだいぶ薄くなった。ほんのりとピンク色の頬。肌のかさつきは目立たなくなって、頬に丸みがある。

 

 変わったんだ。今この場でやっと気が付いた。お姉ちゃんと出会ってから、ちゃんと夜眠れるようになった。食事もちゃんと取るようになった。お風呂あがりはお姉ちゃんのくれた保湿クリームを付けるようになった。

 

 少しの間に、嫌いだったこの顔はずいぶんとましになった。遅れて、口元が少し上がっていく。

 

「出会ったばっかのころの優は、もっと暗くて疲れた顔してたの。でもね、ほら。今はこんなに明るくなった」

 

 そうだ。変わったのは心だけじゃない。お姉ちゃんのおかげで、わたしは健康な生活を送れていた。それはこういう目に見える形となって現れるんだ。

 

 この水着だって、似合うかもしれない。水着に負けている印象は拭えずとも。一握りの自信を持って、装えるかも知れない。

 

 胸が高鳴った。楽しみだ。海に行くことが、とっても楽しみだ。

 

 お姉ちゃんと一緒にいられる。それだけで十分楽しみだったそれは、好きな水着を自信持って纏えるという新しい楽しみが加えられ一層輝いた。

 

 

 そうだ。お姉ちゃんの水着。悩むかと思ったけれど、思いの外すぐに決まった。

 

 お姉ちゃんはわたしと違ってスタイルがいい、それですごく美人。つまり、とびきり派手なのでも似合っちゃう。もちろん上品なのがいいけど、お姉ちゃんはたぶん色んなのが似合う。

 

 そう思って水着コーナーをめぐり、手に取ったパレオの水色が綺麗なビキニを見たお姉ちゃんが、ちょっと照れていたのは気にしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いくつものテントやパラソルの並ぶ海岸、空いていた小さなスペースに、お姉ちゃんはパラソルを立てた。

 

 海、海。海に来るのは何年ぶりだろうか。電車に乗って十分くらい。そこから歩いて五分くらい。そんなに遠い距離ではないのだけれど、来る機会なんて今まで無かった。

 

 お母さんと行くだなんてありえないことだし。誘ってくれる友達はいなかった。一人で行く目的もないので、ああ、小学校の課外活動が最後か。

 

「海、久しぶりだなぁ」

 

 パラソルの下、お姉ちゃんは日焼け止めを塗りながら呟いた。

 

「お姉ちゃんも、久々なの?」

 

「うん、夏の間は忙しかったりだし、わざわざ行こうって気にもならなくてね」

 

「そう、なんだ……」

 

 太陽に照らされて、キラキラと光る海。遠くを眺めてたら、ふいに、背中にぺたりと冷たい感触が走る。

 

「ひっ」

 

「優も日焼け止め塗んないと!」

 

 お姉ちゃんの手がわたしの肌を走り、クリーム色の日焼け止めを塗りたくる。じりじりと暑い空気の中にあるわたしの身体には、ひんやりとしたお姉ちゃんの手はとても心地の良い感触。

 

 ああ。わたし、海に遊びに来るようになったんだ。夏に、遊べるようになったんだ。

 

 昔の自分に言っても、信じてはもらえないだろう。まるですごく良いこと、それも偉いことをしているような気分だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お姉ちゃんと水を掛け合って、少し深いところで浮かんでみたりした。お姉ちゃんがわたしを砂に埋めたり、わたしに埋めさせたりした。綺麗な水着が汚れるので、海に入って砂を流す。

 

 どこを切り取っても、素晴らしい夏の思い出。なんてタイトルが相応しい景色。カメラは無いから、心のなかにたっぷりと焼く。

 

 お姉ちゃんは優しくておしとやかな声だけれど、笑うととっても無邪気に聞こえて。わたしもつい、声を抑えずに笑う。

 

 自分の喉から、こんなに幸せそうな音が聞こえるなんて。そんな驚きも一瞬のうち、すぐ楽しさがわたしを呑み込む。

 

 

 お姉ちゃんを照らしてる眩しい光に、少しオレンジに色づいた頃。

 

 すっかり疲れたわたし達は、またパラソルの下、海の家で買ったラムネを側に座っていた。まだまだ動けそうな感覚なのに、手足はとっても重く感じる。

 

 さっきまで青に白が輝いていた海は、オレンジ色が塗られたように。海の遠く向こう側に、お日様が低く浮かぶ。眩しいけれど、いつまでも眺めていたい。

 

「ラムネ、飲もっか。ぬるくなっちゃう前に」

 

「うん、お姉ちゃん」

 

 ラムネを手にとって、砂の上、ビー玉を二人一緒に押し出した。ぷしゅ、と小さな音が響くと、白い泡が砂浜にかわいい染みを作る。

 

 ラムネ瓶を通る夕日が、今度は中のラムネを通る。透明に濁った光はぼやけて、ラムネの中で揺らめいている。

 

 わたしはお日様をラムネで透かしたまま、飲まずに眺めていた。

 

「綺麗だね、優」

 

「……うん、綺麗。すごく綺麗」

 

 綺麗なのは。

 

「……海も、夕焼けも。こうやって海に来て遊んだのも、全部綺麗。まだどきどきしてるもん」

 

 ぴたりと、肩に触れたのはお姉ちゃんの体温。寄りかかるようにわたしに身体を預けてくるので、わたしも同じように力をかけていく。

 

「水着、ありがとうお姉ちゃん。これすっごくかわいい。気に入っちゃった」

 

「優もありがとう。優、センスあるよ。お姉ちゃんも気に入ったよ」

 

 いつまでも、続いてほしい。もうオレンジ色がさっきよりも強くなった。まだ、数分しか経っていないのに。きっと数分、数分、すぐに暗くなってしまう。

 

 でももう少しだけ。こうしていたい。

 

 お姉ちゃんが何も言い出さないのは、きっと同じ気持ちだから。

 

 もう少しだけ、こうしていようね。

 

 もう少しだけ。

 

 

 夏が終わるまで、あと少し。

 

 



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【11】雨音

 

 背中で、お姉ちゃんの柔らかさと、あたたかさと。心臓の音と、呼吸を感じる。不思議だ。お姉ちゃんはどう考えたって、普通の人間だ。

 

 消えてしまうなんて、ありえない。でも、お姉ちゃんは急に現れた。それを、少しだけ疑って、でも受け入れたのは他でもないわたしだ。

 

 わたしは少しずつ、受け入れる準備ができてきた。

 

 きっとお姉ちゃんの正体だとか、秘密だとか、それはもう驚いてしまうものなんだろう。でも、お姉ちゃんの言葉は信じるし、お姉ちゃんの気持ちは信じられる。

 

 お姉ちゃんがわたしを受け入れてくれるように、わたしだってお姉ちゃんを受け入れる。なにも変なことではない。

 

 ずっと秘密を抱えたまま、それはきっと辛いことかもしれない。もしかしたら、辛くないことかもしれない。

 

 ううん、それはどんなものでもいい。どんなものでも関係ないんだ。知るって決めたんだから、なんだって大丈夫。

 

 一回、深く深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。お姉ちゃんの方を向いて、その眠ってる顔を覗いてみる。

 

 お姉ちゃん、普段はわたしよりもずっと大人にも見える。でも、顔付きはまだ若い。

 

 鼻の形は、似てるのかな。口の形も結構似てる。でも目はちょっと違うかな、お姉ちゃんはタレ目で、わ たしは普通な感じ。でも、まつげの長さは同じくらい。髪の毛はお姉ちゃんの方がサラサラ、でもちゃんとお手入れしたらわたしもサラサラになってきた。

 

 姉妹なのは、本当のこと。それだけは絶対。そんなふうに思って、少しずつ意識は夢へと溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 朝ごはんの食器を洗い終わって、ちゃぶだいに麦茶を運ぶ。

 

 窓を、弱く雨が叩く。

 

 あったかくて晴れた日はあったけれど、やっぱり雨の日も多い。今日はどうしようかな、ずっと家にいるのだって幸せではあるけれども。

 

「お姉ちゃん、今日はどうしよっか」

 

「うーん、どうしよっか」

 

「雨、止まなそうだよね」

 

「また、お家でゆっくりしてよっか」

 

 頭の中に、ふっと浮かんだ疑問。それはわたしの目線を壁のカレンダー、もう長くはない8月のカレンダーに向けたあと。

 

 お姉ちゃんにとある質問をぶつけた。

 

「お姉ちゃん、夏の終わりって、いつかな」

 

「……」

 

「……いつまで、いてくれる?」

 

 お姉ちゃんはわたしのほうを向いた。ああ、また、少し悲しげな顔で。わたしを見てる。

 

「ごめんね、あんまりちゃんとは、分からないんだ」

 

「分からない、の?」

 

「うん……あのね、夏の終わりまでだっていうのも、誰かが教えてくれたわけじゃないの」

 

 わたしに会った。わたしに会えるようになった。それからすぐに、無意識が告げてくるように。何故かは分からないけれど、分かる。

 

 お姉ちゃんはそう語った。

 

 いつものように溢れそうになる悲しさを飲み込んで。更に飲み込んで。わたしは気になっていることを問う。もしかしたら、飲み込めていなくて、わたしの声には涙が混ざってしまったかもしれない。

 

「じゃあ、急に……なんてこともあるのかな」

 

「うん、あるかも」

 

「……じゃあ、じゃあさ。ほら、荷物とか、ほら」

 

 だめ。だめだ。やっぱり零れてしまう。

 

「お姉ちゃんの荷物、とか。まとめておいた方が、いいのかなぁ……あと、お土産、とか」

 

 いつまでも泣いてはいられないんだ。だからもう、受け入れないといけない。心で決めたのに。

 

 わたしは苦しくなって、下を向いてしまった。呼吸を整えて、整えて。大丈夫。もう受け入れて。

 

 頭の上にお姉ちゃんの手の温もりが乗った。そしたら、お姉ちゃんはぐいとわたしの肩を抱き寄せる。お姉ちゃんの胸元に顔を沈め、その優しい花の香りさえ、今は悲しいもの。

 

「うん、そうだね。いつでも平気なように、荷物まとめないとね」

 

「……うん」

 

「お土産かぁ、何持っていこうかな。お花に旅行のお土産に、ああ、もっと写真撮ればよかったなぁ」

 

「……うん」

 

「……ありがとう」

 

 ありがとう。その言葉は、わたしの中の何かを断ち切った。ありがとう、ありがとう、ありがとう。この言葉は、わたしが一番伝えないといけないのに。

 

 喉が詰まるようで、喋れない。

 

 ありがとう、ありがとうお姉ちゃん。ありがとう。別れたくない、一緒にいたい。そう思わせてくれてありがとう。

 

 大丈夫、これで大丈夫。本当は辛い。受け入れたくない。そうは言っていられない。

 

 いつまでも、本音だけで生きてはいけない。

 

「……お姉ちゃん、お姉ちゃん」

 

「なぁに?」

 

「このあと、行きたいところがあるから……一緒に、来てほしい」

 

「うん、わかった」

 

「そこで、お姉ちゃんの、ぜんぶをおしえて」

 

「……うん、うん。わかった。全部教える、全部」

 

 お姉ちゃんは更に強くわたしを抱きしめる。何度も何度も、夏の間に味わった心地よさ。あたたかさに包まれて、心から溶け出しそうなこの心地よさ。もう十分、味わった。

 

 わたしは聞くんだ。全部、全部聞くんだ。お姉ちゃんの辛さは、わたしも一緒に抱える。どんなことでも平気。一緒に背負うから。

 

 お姉ちゃんは誰で、どこから来て、どうやって来て。

 

 どうして、来たのか。

 



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【12】わたし達は姉妹

 

「この公園ね、家にいたくないときによく来たんだ」

 

 雨が降り続く。傘を片手に、わたしは人気のない公園の真ん中でお姉ちゃんに語りかける。

 

「落ち着く場所で、安心できる場所。なのに、辛い思い出でもあって。変だよね」

 

 わたし以外の人がここにいるところは、今まで見たことがない。それほど目につかない場所。

 

 きっとこの辺りが子供の少ない地域ということも関係あるのだろう。なんにせよ、わたしはひとりの空間に何度も助けられた。

 

 けれど、幸せで溢れた今、辛い思い出はよりわたしを蝕む。その辛さは、弱いまま変われなかったわたし自身。

 

 だから、今日はここにお姉ちゃんと来た。変わるために、もう目を背けないために。思い出を刻み直すために。

 

「……お姉ちゃん。お姉ちゃんは、誰なんですか」

 

 わたしから少し離れた場所で、いつものように優しい微笑みを浮かべるお姉ちゃんに問う。

 

 全部、全部を知るんだ。この夏がなんだったのか、わたしは今から知るんだ。

 

「……お姉ちゃんもね、よくこの公園に来たんだよ。ひとりきりで辛いときに」

 

「……」

 

「お母さんのいる家にはいたくないし、学校は息が詰っちゃいそうで。こういう人のいない静かな場所でね、よく休んでたの」

 

 お姉ちゃんの言葉は、わたしの体験をそのまま語るように聞こえた。

 

「……お姉ちゃんね、優のいない世界から来たの。優がいない代わりに、私がいる世界」

 

「わたしの、いない世界……?」

 

「そう、優は生まれなかった。生まれることができなかった。でも私は生まれた、そういう世界」

 

 どんなに突拍子のない内容であっても、受け入れるつもりでいた。

 

 ある日突然目の前に現れた、それだけで十分、非現実的だった。だからどんなに非現実的な話だって、信じるつもりでいた。

 

 それに、お姉ちゃんはいつも本当のことを言ってくれると信じていた。

 

 けれど、いざ聞いてしまうと。

 

 どうにも現実味が無かった。

 

 

 

 

 

 今日と同じように、雨の降り続く日だったらしい。

 

 その日はずっと胸の中で何かが騒いで、耳には微かに、助けを求めるような声がして。

 

 その声は、聞いたことのない声なのに、どこか知っているような声。近くにいるような、近くにいたような、そんな声。

 

 耳から消えないままに、一日を過ごして、布団に入って。

 

 気が付いたとき、お姉ちゃんはわたしの家にいた。同じアパートの同じ部屋、同じ間取りに同じ家具。壁には、もう片付けたはずの制服。机においてあるノートには、見たことのない筆跡の“後藤 優”。

 

「……だからね、最初は、夢を見てるんだって思ってた」

 

 何も答えられなかった。きっとわたしだってそう思う。

 

「でもね、これはたぶん夢じゃないの。優は本当にいて、神様が出会わせてくれた。なんて」

 

「……」

 

「それにね、私を呼んでいた声は、優の声だった」

 

「わたしの……声」

 

 辛くて、痛くて、生き難くて。そんなわたしがどこかで願っていたのは、暖かくて優しい救いだった。そんな思いが、不思議なことにわたしに夢を見させて、お姉ちゃんに夢を見させた。そうなんだろうか。

 

「……想像したんだ。もしも生まれる筈だった私の姉妹や兄弟は、どんな子だったんだろうって」

 

 同じ。

 

「それがお兄ちゃんやお姉ちゃんなら、私は甘えちゃうな。なんて思ったり。それが下の子なら、せいいっぱい頼れるお姉ちゃんにならないと、って思ったり」

 

 同じ。

 

「そんなありえないこと考えて、辛いこと紛らわしてた」

 

 同じ。

 

 わたしと、同じだ。

 

「そしたらね、やっと会えたの。こっちの世界では、あなたが長女だから、優って名前もあなたのもの。でも、どこかの世界で、二人一緒に生まれてこられた世界があったら、私達は本当に姉妹になってたんだ」

 

「っ……」

 

「自慢の妹だよ、優」

 

 わたしは、傘を投げ捨てた。

 

 留められない、溢れ続ける涙を、せめて隠したかったから。

 

 すっかり強くなった雨は、わたしをあっという間に濡らしていく。髪に、顔に、大粒の雫が打ち付ける。

 

 ああ、ああ。何を言ったらいいんだろう。

 

 お姉ちゃんが会いに来られた理由、突拍子もないものだけど、そんなことはどうでもいいんだ。

 

 お姉ちゃんはわたしと同じ。一人で生きてきて、辛い思いもして、同じように苦しんだ。同じように耐えて、同じように逃げて。

 

 でもお姉ちゃんは、わたしと違って。

 

「優」

 

 わたしと違って、こんなにも優しい。

 

「優、泣かないでいいの、優」

 

 わたしと違って、こんなにも暖かくて強い。支えてくれて、褒めてくれて。

 

 同じように辛い人が、こんなにも助けてくれたってことが、何よりも心を締め付けた。

 

 だって、だって。お姉ちゃんだって、助けてほしかったはずなのに!

 

「……ごめんなさい。ごめんなさい」

 

「優、どうしたの」

 

「お姉ちゃんも、辛かったのに。大変だったのに。わたし、甘えっぱなしで、頼りっぱなしで、支えてもらってばっかりで」

 

「……ううん、違うよ優」

 

 お姉ちゃんも傘を手放して、またいつものように、わたしを強く抱きしめる。ぎゅっと、強く。

 

 雨に打たれて、それでもまだ女の子らしい花の香りがする。それはわたしからも同じように香っているのだと、今気付いた。

 

「お姉ちゃんは、優に助けられたよ。優に出会えたあの日。あの雨の日。私も助けられたよ」

 

「……わたしは、なにも、なにも」

 

「優のおかげで、お姉ちゃん幸せになれたよ。ありがとう、ありがとう優」

 

「……ありがとう、お姉ちゃん」

 

 お姉ちゃんの温もりは、いつものように温かい。雨の冷たささえ、今は感じない。

 

 ああ、このまま。このまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バスタオルで拭いたぼさぼさの頭のまま、あたたかい紅茶を口に含む。ゆっくりの喉へ運んで、広がる熱をじっくりと感じる。そうすると、ずっとあたたかく思える。

 

 あれからわたしは泣き腫らして、お姉ちゃんがむりやり家まで手を引いた。帰る最中、いくら悲しくても風邪ひいては駄目だと口を酸っぱくして言ってくれていた。

 

 ちゃぶだいを前に、わたしとお姉ちゃんは寄り添うようにして座る。

 

 お姉ちゃんの髪も水分を含んで、毛先が別れて艶がかかっている。雨に濡れたお姉ちゃん、正直、すごく綺麗だ。

 

「優、落ち着いた?」

 

「……うん。そこそこ」

 

「よかった。もう、優は本当に優しいんだから」

 

「優しい……?」

 

「うん、優しい。優しいよ。お姉ちゃんのこと思って、泣いてくれたんだもん」

 

「……だって、それは」

 

 わたしが泣いたのは、どうしてなんだろうか。

 

 お姉ちゃんがわたしと同じような思いをしていた。それにも関わらず、わたしをこんなにも支えてくれた。

 

 申し訳ないって気持ちだろうか。同情したのだろうか。分からない、分からない。

 

 ただ胸の奥と指先が、きつくきつく締め付けられて、どうしようもなくなったんだ。

 

「優が泣いたのは、人の気持ちがわかるからだよ」

 

「……」

 

「辛い思いしたぶん、人の辛さを分かってあげられる。だから優は、これからもっともっと優しくて素敵な人になれる」

 

「……お姉ちゃんに、そのまま返すね」

 

「ふふ、ありがとう」

 

 確かにそうだ。手に取るように分かった、そんな気がした。

 

 それを実践しているのは、間違いなくお姉ちゃん自身だ。だからわたしのこと分かってくれて、受け入れて褒めてくれたんだ。

 

 すごいなぁ。お姉ちゃんは、ほんとうにすごい。

 

「お姉ちゃんは、どうやってそんなに強くなったの?」

 

「あ、強く見える?」

 

「えっ?」

 

 お姉ちゃんは、ちょっと嬉しそうに笑ってみせた。

 

「ふふふ、秘密」

 

「……そっか、秘密かぁ。あはは」

 

 お姉ちゃんに出会えて、良かった。

 

 お姉ちゃんが行ったとおり、きっとここではない違う場所で、お姉ちゃんとわたしは普通の姉妹として暮らしてるんだろう。

 

 もしかしたら、他にも兄弟姉妹がいるかも。そしたら賑やかだけど、お姉ちゃんがみんなにとられちゃうのは嫌だなぁ。

 

 この夏は、そんな夢を、少しだけ味わわせてくれているんだ。そんな奇跡をくれたのは、誰なんだろう。たくさんのありがとうを言わなくちゃ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇねぇ、お姉ちゃん」

 

「どうしたの?」

 

「わたしも、お姉ちゃんみたいになれるかな」

 

「……なれるよ、私なんかよりずっと素敵な人になれる」

 

「でも、お姉ちゃんみたいな美人さんにはなれないかも」

 

「……もう、褒めても何も出ないのに」

 

 暗がりの中、表情はよく見えないけど、お姉ちゃんは照れ笑いを浮かべたように見えた。

 

 それから、布団の中、わたしに身体を寄せて。

 

 また優しい手つきで、わたしの頭を撫でる。

 

 大好き、大好き。弾けて、溢れて、零れてしまいそうなくらい大好き。

 

 大好き。大好きだよお姉ちゃん。

 

 

 

 ああ、もう、大丈夫。

 

 きっと、わたしは大丈夫。

 

 また一人でも、きっと、きっと歩いていける。

 

 そう、歩いていける。

 

 



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【13】今はもう

 

 いくら感情が昂ぶっていたとはいえ、あんなにも雨にうたれたのは不味かった。

 

 あの公園から家までは歩くことには歩くし、何よりも雨が結構強かったんだ。

 

 心のままに身を任せ、高熱を出してしまったのはわたし。ではなく、お姉ちゃんだった。

 

 

 

 

「ごめんね、ごめんねお姉ちゃん。わたしのせいで」

 

「ううん、優のせいじゃないよぉ」

 

 昨晩、三十八度ほどの熱を出してしまったお姉ちゃん。なぜかわたしは元気で、身体はぴんぴんしている。

 

 お姉ちゃんが心配だ、それに申し訳ない気持ちもある。今日は一日、わたしがお姉ちゃんを看病しなくてはいけない。

 

 まだ朝の七時半。朝昼晩のご飯、家事、今日は買い出しも必要だ。心の何処かで、張り切るような情熱を感じていた。

 

「お姉ちゃん、今日はゆっくり休んでてね。ご飯とかぜんぶわたしやるから」

 

「ありがとう、優。お願いね」

 

「うん、任せて」

 

 布団に横になるお姉ちゃんは顔を赤くして、微笑みはしても気分の悪さを隠せていない。

 

 お姉ちゃんは決して逞しくはなく、むしろ華奢で女の子らしい身体付き。頼りになって大人らしく感じるのは、お姉ちゃんのたち振る舞いや心持ちが所以なんだと改めて感じさせる。

 

 そんなギャップもあってか、わたしの抱えた心配は普通の熱なんかには不釣り合いな大きさだ。

 

 

 

 

 

 

 

 さっぱりと片付いたキッチン、棚に置かれたレシピ本を手に取る。

 

 朝ごはんにそこまで凝るつもりはないけれど、体調不良のお姉ちゃんにはなにか特別に。そうだ、おかゆでも作るのがぴったりだろう。

 

 小さい鍋、さきほど炊きあがったお米、卵。

 

 調理しながら、わたしは自分の成長に少し驚いていた。

 

 お姉ちゃんと出会う前、わたしは料理なんてできなかったし、しなかった。

 

 それはめんどくささでもあるし、毎日疲れ果てては何かを食べようなんて思えない。そもそも、まともに食欲を感じたこともなかったかもしれない。

 

 小学生の頃に、給食がとてもとても美味しかったのを覚えている。恥ずかしくておかわりなんてできなかったけれど、給食は数少ない日々の楽しみだった。

 

 コンビニのおにぎりの味は、中学生のころの思い出だ。わたしはそんなにたくさん食べないから、一個だけでいい。

 

 お昼にお腹はすかなかったけれど、お昼ごはんの時間になにも食べていないのは目立ってしまうから。そんな理由で食べていたんだったか。

 

 高校生になってからは、もうロクに食事をしていなかった。たまにお腹が空くことがあるので、買い込んだゼリーだったり、ビスケットみたいな栄養食を食べることはあった。それくらい。

 

 この夏休み、わたしはお姉ちゃんに料理を教えてもらって、栄養のことも教えてもらって、驚くほどに健康的な食事を取れるようになったんだ。

 

 小さなわたしが給食のとき感じていた、あのご飯を食べるということの幸せ。こんなに大きなものだったなんて、知らなかった。

 

 回し入れた卵が固まり、軽く混ぜて火を消せばほんのりと湯気が立ち上がる。

 

 器に移したらレンゲを持って、お盆に載せたらお姉ちゃんのもとへ。

 

 器用になったなぁ、最初の頃たくさん買っておいた絆創膏は、もう余っちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は天気が良い。洗濯物を干し終えて、お昼ご飯のことを考える時間はすごくゆっくりに感じた。

 

 身体に優しいもの、どうしようかな。作っておいたカレーは昨日で無くなっちゃったから、また新しく作らないといけない。

 

 冷蔵庫を眺めて、次に冷凍庫。そこには、ちょうどふたつ冷凍うどんがあった。

 

 冷凍庫には生姜があったな、つゆもこの間煮物用に買ってある。

 

 作る物が決まると、なぜだか楽しくなってしまう。

 

 自分でもわからない。どうしてだか、わくわくを感じてしまう。不思議だ。

 

 料理をしているお姉ちゃんの姿は、いつも幸せそうだな、なんて思う。にこにこと笑いながら、たまに鼻歌なんか歌っちゃって、幸せそうに楽しそうに手を動かす。

 

 それをずっと見ていたから、うつってしまったのかもしれない。気付かないうちに教えられた、色々なことの面白さ。

 

 それは料理だけじゃない。日常に溢れた色んな幸せに。それは、お姉ちゃんが教えてくれた宝物だ。

 

 水の入った鍋を火にかけて、蓋をする。ざるを用意、胡麻も用意。薬味にネギを切って、生姜を摩り下ろして、卵は半熟に茹でよう。

 

 器を並べたとき、ふとキッチンの壁にかけられた小さな鏡が目に入った。わたしの顔が、ちょうど映り込む。

 

 その口角は、それはご機嫌そうに上がっていた。

 

 思わず照れてしまった。楽しいけれど、まさかここまで顔に出ていたなんて。

 

 それに、水着を買いに行ったときにも思ったこと。わたしの顔付きが、すっかり綺麗になって見えること。これには未だに慣れない。

 

 お姉ちゃんには届かない。あんな優しげな美人さんにはなれそうにないけれど。例えば、街で見かけたかわいいお洋服。わたしも着て良いのかな、なんて思うと胸があったかくなる。

 

 ああ、本当に。夏の前までこんなこと思いもしなかったのに。

 

 なんてこと思いながら、料理はどんどん進む。

 

 お湯を切ったうどんを入れた丼に、半熟卵とネギ、摩り下ろした生姜と胡麻。最後に薄めたつゆをかけて、さっぱりとしたうどんが出来上がる。

 

 

 

 

 

 お姉ちゃんのもとへ運んで行くと、お姉ちゃんは眠っていた。朝ごはんのあと、すぐに寝てしまってから起きていないみたいだ。

 

 寝顔は、そんな苦しそうには見えない。どちらかというと、気持ち良さそうに寝ている。心の底からホッとする。きっとすぐに良くなるだろうなって。

 

 お姉ちゃんは普段から頑張ってるから、きっと疲れてる。いつも楽しそうで笑顔を浮かべているけど、楽しいことは楽しいことで結構疲れると最近知った。

 

 だからお姉ちゃんも疲れがたまっていたのだろう。

 

 起こすのは少し気が引けたけれど、わたしはお姉ちゃんを優しくゆすりながら、その耳元で呟く。

 

「お姉ちゃん、起きて。ごはんできたよ、お姉ちゃん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が暮れ始めて、遠くの空に夕焼けを望める頃。

 

 わたしは買い出しを終えて帰路に付いていた。

 

 野菜はまだ家にあるので、買ったのはお肉にお豆腐、それからきのこ類。あとちょっとした調味料。

 

 そう、今夜はお鍋にする。夏にお鍋というのも変だけれど、最近は夜もすっかり涼しいから平気だろう。

 

 ビニール袋を片手にぶらさげたわたしの陰が伸びる。それを見て、一人きりで外出するのが久しぶりだと気付いた。

 

 買い出しはお姉ちゃんと一緒。お出かけも一緒。夏休みが始まる前以来かもしれない。

 

 以前はこうして外を出歩くのも、すごく嫌なことだった。誰にも会いたくない。誰にも見られたくない。そんなふうに思って、むりやり身体を動かして学校へ行っていた。辛くて苦しい思い出だ。

 

 でも今は違う。気は進まないけれど、外に行くことは怖くない。一人でも大丈夫。大丈夫なんだ。

 

 周りに誰もいないのを確認して、スキップなんてしてみた。

 

 肩より少し長いくらいのわたしの髪が空気を含んで揺れる。お姉ちゃんとお揃いの花の香りがする。

 

 膨らんだフレアスカートも、お姉ちゃんと同じ香りがする。

 

 伸びた影が少しずつ薄くなって溶けていく。これは、もう夏が終わる証拠。この夏は、もうとっくに去りかけている。

 

 お姉ちゃんの残したものが増えるたび、わたしはこの夏に思いを馳せる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぐつぐつ、ぐつぐつ。

 

 煮える音は、食欲を誘った。

 

「ふふふ、お鍋かぁ。夏にお鍋」

 

「いいじゃんお鍋。もう夜は涼しいし」

 

「うんうん、確かに。それに、冬を一緒に過ごせないぶん、先取りって感じだね」

 

「そういうこと言うと、わたしまた泣いちゃうよ」

 

「ふふ、ごめんごめん」

 

 お姉ちゃんの体調はすぐに良くなったようで、熱も下がっていた。

 

 ちゃぶだいにのせた土鍋を挟んで、他愛のない会話をする時間。わたしはこんな時間が大好きだ。

 

 お姉ちゃんは、煮えた豚肉をポン酢につけてから口に運ぶ。まだ熱かったようで、ちょっとむせて、口に空気をはふはふと入れている。

 

 見ていて、すごく可愛い。

 

 時折、わたしは本当にお姉ちゃんのことが大好きなんだなって実感する。大好き過ぎて、心配さえしてしまう。

 

 お姉ちゃんは理想のお姉ちゃんで、理想の大人で、理想の人間。一緒に毎日を過ごすなら、絶対にお姉ちゃんが良い。たぶん、お姉ちゃんよりも素敵な人に今後出会うことはないだろう。

 

 なんてことを全部お姉ちゃんに言っちゃったら、なんだか負担になって心配させてしまいそうだから胸の深いところにしまっておくのだ。

 

「お姉ちゃん、あのね。わたし、心の準備できたんだ」

 

「……そっか」

 

「お姉ちゃんに、心配させたまま戻って欲しくないんだ。安心して、ちゃんと安心して戻ってほしいから」

 

「……やっぱり優は優しすぎるよ。ありがとうね、本当にありがとう」

 

「優しい優しいって言うけど、お姉ちゃんの姿を見て学んだんだよ?」

 

 お姉ちゃんは、少し寂しそうに笑った。それは今まで見てきた表情とは、また違う。

 

 わたしを見送るような、見守ってくれるような、そんな眼差し。

 

「……私、ちゃんとお姉ちゃんできてて良かったぁ」

 

 小さな声でこぼれ落ちたお姉ちゃんの言葉。

 

 それはきっと、自分自身へ向けた言葉。わたしの前でお姉ちゃんとして生きる自分じゃなく。ありのままの自分に向けた、そんな言葉。

 

 わたしは何も言わないで、鍋をつついた。

 

 わたしもお姉ちゃんを助けていた。あの日言ってくれたお姉ちゃんの言葉は、ただの慰めなんかじゃない。

 

 わたしは本当に、お姉ちゃんのことを幸せにしてあげられたんだ。少しでも、お姉ちゃんの為になれた。大好きな大好きな、大切な人の為になれた。

 

 あたたかい出汁を吸った白菜の味が、今まで食べた何よりも美味しく思えた。

 

 



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【14】夏の終わり

 

「明後日から学校かぁ」

 

 カレンダーを眺めて、そう呟いた。

 

「行きたくない?」

 

「うん、めんどくさい。お家でのんびりしてたい」

 

「ふふ、がんばって優。ほら、もう涼しくなってきたんだし、歩きやすいよ」

 

 しばらくは晴れが続くらしいので、まあ嫌になるような暑さだとかが無いのなら、今日と同じような良い天気なんだろう。

 

 壁にかけた制服は、ちゃんとアイロンがかけれて皺ひとつない。カバンには、必要なプリントだとか宿題はちゃんと入れた。準備することも特にない。

 

「お姉ちゃん、久しぶりにお茶しに行こうよ」

 

 

 

 

 

 

 

 久しぶりに立ち入る喫茶店は、あの日と変わらずに落ち着いた空間が続いていた。

 

 テーブル席に向かい合って、前と同じようにケーキセットを頼む。

 

 今はその時間さえも、楽しくて仕方がない。何気ない会話が、とても煌めいた時間なんだ。

 

「ねぇねぇ、お姉ちゃんお姉ちゃん。わたしね、髪の毛伸ばそうと思うんだ。お姉ちゃんみたいに」

 

「わぁあ、良いと思う! 優は絶対似合うよ」

 

「手入れって大変?」

 

「んー、そりゃあ短いほうが楽かなぁ」

 

「そっか、わたし面倒くさがっちゃいそう」

 

「ふふ、平気だよ。大変だけど、楽しいもん」

 

 運ばれてきたレアチーズケーキ。ホットココア。この場所で、これを最初に口にしたあの日、わたしはまだ暗闇の中にいた。

 

 もしも今、あの頃のわたしに会いに行けるとしたら、何を伝えよう。何と言って励まそう。

 

 楽しくて、幸せで、かけがえのないお姉ちゃんとの夏休み。わたしはすっかり明るくなって、今なら辛いことも乗り越えられる、そんな単純なポジティブが胸にいる。

 

 ずっと暗闇で傷付いて泣いていたあのわたしを、自分で自分のことを、助けてあげられたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 帰りがけ、ショッピングモールの近くにある、小さなアクセサリーショップ。

 

 そのレトロな佇まいに引き込まれ、わたしもお姉ちゃんも期待を踊らせ店内へと入った。

 

 ぼんやり輝くアクセサリー達。素朴なものから、キラキラと派手なものもあって。わたし達は食い入るように見ていた。

 

「お姉ちゃん、これどうかな」

 

 わたしが手に取ったのは、小さいけれど細かい造形のイヤリング。

 

「あっ……かわいい!」

 

 お姉ちゃんも目を輝かせるそれは、傘と雫を組み合わせたデザイン。ガラスの中に波紋の模様が閉じ込められてる。

 

 そして、水色と藍色の色違いが並んで置いてある。

 

「おそろい、また増えちゃうね」

 

 

 

 ゼラニウムの花を迎えてからというもの、わたしとお姉ちゃんはお揃いのものを買うようになった。

 

 この夏を思い出させてくれるものは、どんなに多くても困らない。そんなわたしの言葉にお姉ちゃんは同意してくれて、気づいたら色々なものが増えていった。

 

 このイヤリングも、そのひとつに加わった。

 

 水色と藍色、それぞれ片方ずつ分けて。ふたり左右に色違いのイヤリング。きっと見るたびに、今日のことを思い出す。

 

 わたし達は手を繋いで、でも何も喋ることはなく。

 

 家の方向へゆっくりと歩いていく。今この時間は、猶予みたいなものだって判ってるから。

 

 肌に当たるほんのすこしの風が、もう涼しいものだって気付いていたから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、この時間がいつまでも続いてほしい。なんて思ってしまうのは、やっぱりわたしの心が弱いからだろうか。

 

 けれど、それでいい。大切で大好きな誰かと一緒にいたいのは、ごく自然なこと。一分一秒でも多く、一緒にいたい。

 

 話が弾んで、人気の少ない帰り道に笑い声がほんのりと響く。繋いだ手と手は、もう強く握るべきじゃないのかもしれないけれど、ぎゅっと離さないように。わたしも、お姉ちゃんも。

 

 ふいに風が吹いて、髪がなびく。

 

 耳、頬、両手の指先。風は冷たくて、夏の終わりを告げに来たんだと、秋がそう言っているようで。

 

 吹き抜けたままに、わたし達の歩いてきた道へと消えていく。

 

 わたしの横に、もうお姉ちゃんはいなかった。

 

 薄い雲が流れていく、彩度の低い青空。それは夏の間に見てきた、あの濃い色とは違うものだった。

 

 「ばいばい、お姉ちゃん」

 

 誰にも聞こえないほど小さな声で、呟いてみたその言葉は。

 

 高く澄んだ空へ溶けていった。

 

 



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【エピローグ】夏が去っても想いたい

 

 窓に雨の雫が残る。けれども、差し込む光は明るくて、薄い青空が見える。

 

 シャワーを浴びて、髪を丁寧に乾かして。

 

 

 

 皺ひとつないワイシャツに腕を通して、胸元にリボンを付ける。プリーツスカートに、黒いハイソックスを履いたところで、炊飯器の音が鳴る。

 

 ピンク色のお弁当にご飯を詰めて、昨日のうちに作っておいた煮物を入れてから、フライパンを火にかける。

 

 よく溶いた卵を綺麗に畳みながら焼いて、三切れほどお弁当に入れたら、残りはちゃぶ台へ。

 

 お弁当を冷ましながら、ちゃぶ台にご飯とおかずを並べて、わたしは小さな満足感を得た。

 

 良い一日は、美味しい朝ごはんから始まるんだ。

 

「いただきます」

 

 一人きりのアパートの一室、わたしの声だけが響く。

 

 最近熱くなってきたな、なんて思っていたらもう七月の半ばだ。

 

 わたしは今年受験生だし、ここで自分を律して夏に臨まないと。なんて思うと気が滅入るので、ほどほどにと心の中で言い聞かせる。

 

 あたたかいご飯、甘い卵焼き。お味噌汁はお豆腐と油揚げ。わたしはこの具が一番好き。

 

 ほうれん草のおひたしは、いい感じに鰹だしの味がする。食べるとなんだか癒やされる。

 

 

 夏。夏が始まるのか。

 

 去年の夏、わたしは不思議な体験をした。今になって思い返すと、傍から見れば怪奇現象だ。

 

 でもわたしは、あの夏があったからここにいる。たぶんこれから夏を迎えるたびに、わたしはあの夏を思い出すんだ。

 

 あたたかくて優しくて、少し切ない。

 

 心の中に、雨の音が鳴り続ける。素敵な夏だ。

 

 今、何してるのかな。なんて考えてみた。それはこの空の続いていない、近くてすごく遠い場所の、わたしは知ることのできない日々の話。

 

 もしもまた会えるのなら、話したいことが多すぎて、たぶん一週間くらいかかる。

 

 ああ、知りたいな。今、何してるのかなぁ。

 

 窓の外、元気に花を咲かせたゼラニウムが揺れた。

 

 

 

 

 家を出る前に、姿見の前に立つ。

 

 うん、やっぱりちょっと違う。わたしの顔は、タレ目で優しそうなあの顔とは少し違う。すこし眠たげな目をしてて、お揃いな筈のこの髪型の印象を大きく変える。

 

 それから、心の中で。絶対に口に出さないで、心の中で。わたしは今日も美人さんだよ、なんて言ってみた。

 

 

 

 「行ってきます」

 

 誰もいない部屋にそう告げて、わたしは軽い足取りで学校へ向かう。空の遠く向こう、目をこらなさないと分からない程の薄さで、虹がかかってる。

 

 生ぬるい風に、腰あたりまであるロングヘアが揺れて、花の香りを感じると自然に口角が上がる。

 

 気分が良くなって、鼻歌なんか、歌っちゃったりして。

 

 さあ、今日も一日が楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨音は、いつもわたしの中で鳴っている。

 

 包み込んでくれるようなその音は、嫌なことを流して、恵みを与えてくれる音。

 

 たとえ何年、何十年経とうと、この音は響き続ける。わたしの中で、思い出の中で、いつまでも。

 

 そんな音に耳を澄ませば、わたしには小さな小さな期待が芽生えていく。

 

 きっとまた会えるんじゃないかって。

 

 どこか遠い場所で、またあなたに会えるんじゃないかって。

 

 それだけで、わたしは幸せで、生きていける。

 

 

 ずっとずっと、大好きだよ。お姉ちゃん。

 

 



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