女が強い世界で剣聖の息子 (紺南)
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1話

夏になってもセミの声が聞こえない。

 

暑い季節の風物詩は、いざいなくなると何とも寂しい物である。

かつては日がな一日鳴き続け、鬱陶しく思っていたとしてもだ。

 

長い年月の間に踏み固められた土の上、野を這う虫が視界の隅に消えていく。

この場所に人は近づかない。俺だけの空間で一人立ちすくむ。風に吹かれて、ざわりと木々が葉を鳴らした。

 

真っ青な空に入道雲がモクモクと盛り上がる。

青い木々が生い茂る山々は泰然とどこまでも広がっている。

今まで、生まれてからずっとこの景色を見て途方もない時間を過ごした。だが待てども待てども蝉しぐれは聞こえない。この世界にセミはいないのだと気づくのに時間はかからなかった。

 

「どうした。何が見える」

 

炎天下の中、じっと遠くを見つめる息子をどう思ったか、いつの間にかやってきた母は俺の横に立ち、視線を辿って訊ねてくる。

 

「なにも見えません」

 

「そうか」

 

ずっと遠くの空で、黒い点が行き過ぎる。

あれはなんだろう。鳥か。あるいは害獣か。

 

しばらく二人で遠くを見つめた。

目を細めた母が不意に言葉を発する。

 

「見えないことはない。結局は、どのように捉えるかだ」

 

「は……」

 

「目が見えるならば、見えるはずだ」

 

禅問答の様なそれに、言っている意味を少し考える。

 

「それは、意識しろということでしょうか」

 

「意識せずとも見えている。あるがままを受け入れよ」

 

「……」

 

「難しいことではない。普段お前が見てる世界は、お前が作り上げた世界だ。我執を捨てろ」

 

「はい」

 

どこが難しくないのか。誰が何と言おうとそれはよっぽど難しい。

 

「外に出て、帰らないから心配した。探してみれば、こんなところで遠くを見ている。丁度いい。刀はもっているな。構えろ」

 

早口に言い切って刀を構える母は、切っ先を俺に向けている。これを正眼の構えという。

母上の言う所の「心配した」と「構えろ」がどう繋がるのか分かりづらいが、帰りが遅くなった罰ってところだろうか。

夏は日が暮れるのが遅いから、時計がなければすぐに時間の感覚を見失ってしまう。

 

「母上」

 

「構えろ」

 

「……」

 

梃子でも動かぬ風情の母はこの世界で最も頑固である。

こうなったなら一つ修行をつけてもらうとしよう。

 

同じように構える俺に、母は言う。

 

「いつでもこい」

 

「では、行きます」

 

一息で距離を詰め、上段から斬りかかる。

母はスッと横に避け、俺が振り下ろした隙を狙い刀を振った。

首を切ろうと迫る刀を一瞬受け止めようかと迷ったが、考え直してその場にしゃがんで躱すことにした。

 

頭上で刀が風を切る。

それで攻防が一巡したので、一旦距離をとって仕切り直した。

 

「回避が一瞬遅れたな」

 

「お見通しで」

 

「何を考えた」

 

「受けようかと」

 

「横着するな」

 

「しゃがんで躱すのとどちらがましですか」

 

「躱しながら足を狙え」

 

「それも躱されたのなら、上から斬りかかられます」

 

「足を狙った一撃で、最低でも体勢を崩させろ。攻勢に移させるな」

 

「簡単に言う」

 

「簡単だ。今度はこちらから行く」

 

瞬きの間に母は眼前に居た。

顔面を狙った突きに殺意を感じる。たかだか突き一つに必要以上に反応してしまった。

大げさに横に躱したことで、母は容易に次の攻撃に繋げてしまった。

 

返す刀で迫る刃。躱す余裕がない。今度こそ受けるしかない。

刀を刀で受け止め、甲高い音とぎちぎちと金属の擦れる音がする。

 

「受けたか」

 

「受けました」

 

「愚か者」

 

母の刀には特徴的な刀紋が走っている。

幾重にも重なる赤い波模様。初めて見たときより、その赤は濃くなっている気がする。いずれ赤刀になるのかもしれない。

 

「刀で受けるなと何度言えばわかる」

 

「そう仰られましても」

 

「本来このような薄い刃で受け止めれるものではないぞ」

 

鍔迫り合いは火花が散るほどになった。

一層力を加える母上は般若の形相で睨みつけてくる。

身長や体格で、何もかも勝ってる人との力比べは死ぬほどきつい。

 

「母上」

 

「なんだ」

 

「そろそろ。降参しても?」

 

「余裕がある内に諦めるな」

 

「余裕など……」

 

「口応えはいい」

 

ついに母の力を受け止めきれなくなり、力づくで押し出された。

ズザザッと土ぼこりを巻き起こしながら、足で線を描かされる。

 

吐息が感じられる距離から一転離れたが、母は追いかけてくる気配はない。

いつの間にか刀が鞘にしまわれ、中腰に抜刀の構えをとっている。

 

「三の太刀――――」

 

あ、それは。

 

「『飛燕(ひえん)』」

 

抜刀した刃から斬撃が飛ぶ。

それ自体は不可視の攻撃である。刀の軌道から類推するしかない。

飛距離は使い手に依存するが、母のこれは少なくとも10メートル以上は飛ぶ。

 

技を使ったのなら手加減無用だ。ほんの一瞬の躊躇が命取りになる。

精神は長く生きているが、この身はまだ10歳だ。死ぬには早すぎる。

 

浅く息を吸い目の前の攻撃に集中する。

上段に掲げた剣を素早く振り下ろし、飛ぶ斬撃を斬り裂いた。

 

「……今のは、一の太刀か」

 

母は一連の流れを睥睨していた。

師ではなく母親の顔で、額に皺を寄せている。

 

「いえ。特に意識はしていませんが」

 

「そうか。頬が切れているぞ」

 

擦ってみれば、手の甲に血がついている。

痛みはない。傷はそれほど深くない。薄皮一枚分相殺できていなかった。

 

「今日はここまでだ」

 

「ありがとうございました」

 

「礼の必要はない」

 

取り付く島もなく、一人でさっさと家に帰る母の背中を追う。

いつの間にか日は暮れ始めて空は橙色染まっている。

日に照らされ長く伸びた影は、のっぺらぼうのような不気味さでどこまでもついてくる。

眼前の林は薄暗い。とりあえずはそこまで、のっぺらぼうは伴をするのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いくつになった」

 

「10になります」

 

帰り道すがら木々に囲まれた場所で、母はふと疑問に思ったと言う風情で訊ねてくる。

 

「そうか。まだ10か」

 

「もう10です」

 

「妹は8つになる」

 

「早いものです」

 

母は、今度は頷いた。

 

「剣を始めさせてもう一年になる」

 

「いかがですか」

 

「筋が良い」

 

言っている最中も無表情に変わりはない。

それは剣聖としての顔であり、その評価は私情を交えない正当な物なのだろう。

 

「いずれ、私を超えていくかもしれん」

 

「楽しみですね」

 

「ああ。だが、先のことは先にならねば分からないことも多い。道に迷わせぬよう、気を引き締めるとしよう」

 

言ってる間に林を抜けた。

舗装もされていない砂利道を歩く俺たちは、時折すれ違う人と挨拶を交わす。

田んぼと畑。見える家は木で出来ている。先ほどまでいた訓練場は隔絶されている。そこと村とを繋ぐ道は木が植えられていて、村人は余程のことがない限り近づくことは決してない。

たまに三の太刀が飛ぶことを考えると英断と言わざるを得ない。

 

「比べて、お前は少しおかしい」

 

息子に言うセリフかそれは。

等々、言いたいことは多々あったが、我慢して聞く。

 

「なにがでしょう」

 

「たかだか10そこらで、私と正面から斬りあえるのは異常に過ぎる。しかも男の分際でだ」

 

「剣聖の息子です。才能は母親譲りです。斬り合えるのはある意味当然ではないかと。そこに性別はこの際関係ないでしょう」

 

母は頭を振った。残念至極という様子だった。

 

「三の太刀を斬る程の才能だ。実に惜しい。お前が女であれば家を継がせた」

 

「家督に関しては、俺は口を挟みません。ご随意になさってください」

 

「そうしよう。ところで、お前は料理は出来るのか」

 

「急に何ですか」

 

「この前、指南しに行った家で子供自慢を聞かされたのだ。娘は才色兼備。息子は婉娩聴従と言う話だ。こんな話を聞かされては受けて立つしかない。娘の話なら私も張り合えたが、いざ息子で張り合おうとすると、どうにも噛みあわない。挙句の果てにはお前の将来を心配された」

 

「何と言ったのです」

 

「日がな一日剣を振るい、一つ教えれば10を学び、訓練でどれだけ痛めつけられても決して挫けることのない自慢の息子と言った」

 

「母上。男は普通剣を振るいはしません」

 

「忘れていた。お前の様な華奢な小童が私と伍するものだから、道を行く男共を知らず過度に見ていた」

 

「母上。俺が特別おかしいのです。どうか父上をそのように扱うことだけはないように」

 

「あれは元々花屋だ。花を愛でるのが似合う男をどうしてそのように見れるだろうか」

 

「父上に限った事ではありません」

 

「軟弱者どもが」

 

「母上……」

 

「冗談だ」

 

母はニコリともせず口だけで言う。

これでは本心がどうなのか表情で窺い知ることが出来ない。

 

「男は普通、料理をし、洗濯をし、子守をすると言う。女が外で金を稼ぐ間、家を守るのが男の仕事だ。考えればお前の父であり私の夫もそうしていた。だが、お前は一日剣を振るっている。家を継がせないなら、お前は将来どこかの家に婿に行く。そのままではいけないと、やたら名前の長いご婦人に注意されてしまった」

 

「母上。それはもしやお貴族の方では」

 

どうだったかなと嘯く。

 

「貴族の家に婿に行けるなら家事能力を気にする必要はないが、お前にそう言う話は来ていない。来たとしても政略結婚などとふざけた内容ならばその場で切り伏せている」

 

「恋愛結婚を推奨なさるのですね」

 

「お前の父と私は大恋愛だった。お前にもぜひそうなってほしい」

 

「母上が一方的に熱を上げたと伺っています」

 

「毎日通い詰めた。苦労して口説き落とした。剣聖ともあろうものがだ。分かるか。色恋に身分は関係ないのだ」

 

「羨ましい話です。しかしまことに残念ですが、俺に熱を上げてくれる女の子は今のところいません」

 

「村の女どもは何をしている」

 

「母上。一日剣を振るい続け、大の大人と鍔競り合う男を怖く思わぬ女子はいないのです」

 

「ますます惜しい。女であったなら、今頃5~6人は熱を挙げていただろうに」

 

それは何とも羨ましい話だ。

しかし生まれ変わってなおモテないとは。もはや魂に刻まれた呪いの様な気がしてきた。

 

「お前の将来のことを考えると、家事全般をこなせるようになるのが望ましいと結論した。今日から父に家事を習え」

 

「言いたいことは分かりました。しかし母上。それでは剣の修行がおろそかになります」

 

「ならん。両立しろ」

 

「母上。時間は有限なのです。どれだけ頑張った所で一日剣を振るっていては出来ることは限られます」

 

「本気で刀を振れば短縮される。空いた時間で花婿修行をしろ」

 

「そんなことをすれば、一の太刀や三の太刀で訓練場が荒れます」

 

「一の太刀はともかく三の太刀は出すな。なぜ出る」

 

たまに勝手に出る。

何やらコツがありそうだ。

 

「しかし母上」

 

「言い訳は聞かん。両立しろ」

 

「いえ、そうではなく」

 

「なんだ」

 

「父上にはこのことを伝えましたか」

 

「まだだ。これから伝える」

 

「母上。私はもう料理は出来ますよ」

 

ぴたりとその場に立ち止まる母上。

胡乱気な顔で見てくる。

 

「そんな馬鹿な」

 

「たまに母上も私の料理を食べています」

 

「ありえない。私があいつの味を間違えるはずがない」

 

「母上の好みは把握しております」

 

「まさか……」

 

異論を唱えようとして押し黙る。

ここで押し問答しても意味はない。事の真偽は父上に聞けばいいのだ。

 

「では、それ以外を学べ」

 

「炊事洗濯掃除。おおよそ学び終えています」

 

「いつの間に……」

 

「母上が冬に巻く赤いマフラーは、俺が編みました」

 

「あれは既製品ではないのか」

 

「妹の黒いものは父上が」

 

「なぜ逆にしない」

 

「妹が可愛いのは父上も同じです」

 

キッと剣聖の表情で前を向いた母上は、ズンズンと足音を荒立てつつ歩き始めた。それはついには駆け足となり、父の待つ家へと急ぎ帰った。

少しの問答の末に、父は母のために新しくマフラーを編むこととなり、俺も妹のために新しく編むこととなった。

 

しかしマフラーは二本もいらないだろうと言うことで、俺は靴下を編むことにした。

それを聞いた父上も「靴下にしようか」と提案したが、母上はマフラーを編んでほしいと頑として譲らなかった。

 

その本心は無表情の影に隠れ、窺い知ることは出来なかったが、冬になり日替わりでマフラーを巻く母を見て、何とも微笑ましく思ったものだった。

 




短編です。
その内続き書くかも。


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2話

はじめまして作者です。
思った以上の反響に驚いています。
私は褒められたら褒められただけ調子に乗るタイプなので、戒めとして感想はお返ししていませんが、全て目を通しています。
大変励みになっています。これからもよろしくお願いします。



剣聖の息子の朝は早い。

鳥の声も聞こえない真っ暗な内から起き出して身支度をする。

隣で眠っている妹を起こさないように布団を畳み、そっと部屋を抜け出す。

汲んでおいた水で顔を洗って、頭をすっきりさせてから刀を担いで外に出た。

 

外は薄ら霧がかかっていた。

ジメッとする空気に混ざって微かに雨の匂いがする。植物や地面が湿った匂いだ。

道端の青草には朝露がおりていたが、雨が降ったにしては土は乾いている。

 

山のふもとにある村である。近くを川も流れており、自然は見渡す限り広がっている。

この時分、ありがたいことに、水の気配はどこを探しても容易に見つかった。

今日はたまたま湿度が高いのかもしれない。

 

空を見上げてみると、霧や暗闇で分かりにくいがうす雲がかかっているようだ。

一寸見上げてる間に山の向こうに流れていく。上は風が強い。一時雨雲がかかって、すぐに流されたとしても不思議はない。

この分では今日雨が降っても降らなくても時の運だろう。

 

簡単に身体をほぐしながら歩みを進める。

林の中は尚のこと湿った匂いで満たされていた。息が詰まるほどの青臭さに顔をしかめる。

早足に通り抜けた先の訓練場は、踏み固められた赤茶の土が露わになっている。

少し手で掴んでみたら湿っていた。これはますますわからん。だが、転ばぬように注意しよう。

 

本格的に準備運動をする。まずは腕。次に足腰。刀を振るのに使わない部位はない。首は特に念入りにほぐす。

大方ほぐし終わったのなら、刀を抜いて正面に構えた。

 

束の間息をすることすらやめ、意識を集中する。

深く深く心の中に潜り込んでいく。次第に身体から意識だけが離れたような感覚に陥る。

 

足元の小石。背後で風に煽られる木の枝。遥か頭上を行く雲。

自分を中心に円を描くように、意識を外へと拡げていく。

 

『あるがままを受け入れよ』

 

いつか母上はそう言った。

その言葉の意味を思い出しながら、意識は身体の檻を抜け、世界へと溶け込んでいく。

 

刀を振り上げ、そして振り下ろす。今まで何万と繰り返した動作は、考えるまでもなく自然と身体が動いていた。

この動きは刀を振る基本の動きとなる。一にして全。これが出来なければ刀を使う意味などないとは母上の言。

母上の修行は基礎を重視する。徹底的にしごかれる。嫌という程。吐いても倒れても構わずに。

一人っきりでの鍛錬でも、その教えは息づいている。何も考えずともまずは素振り。

 

数百回ほど刀を振ったところで集中力が散漫になる。浮いていた意識が身体に戻ってきた。

たかだか一時間も集中していないのに倦怠感が酷い。身体ではなく精神的な疲労感を覚える。

そもそもこれが意味のある鍛錬かも不明瞭だ。手探りで色々やっているから、もしかしたら徒労に終わるかもしれない。

疲れたせいで考えがネガティブになっている。この鍛錬はとりあえずここまでにして、次は『太刀』の練習に移る。

 

一の太刀から順番に技を繰り出す。

母上に教えてもらったこの技は、奥義的な扱いではなく、あくまで状況に対処するための一手段に過ぎない。

勝敗を決するのは『太刀』ではなく地力だと母上は常々言っている。

 

母上自身これ以外に技は使わない。

血のにじむ様な鍛錬を重ね、練磨の極地の果て、剣聖にまで上りつめた。

凡人には想像もできないほどの並々ならぬ努力の末に辿り着いた頂きは、余人の追随を許さぬ境地に達している。

日頃母上の剣を受けているから分かる。母上を目指し、背中を追いかけるだけではそこに到達することはできない。

前世のアドバンテージを持つ俺ですらそれは難しいと悟った。

 

ただの模倣ではダメなのだろう。

いつまでも母上の足跡を辿っているだけでは、超えられない。

自分の行く道を見つける必要がある。どうすれば見つけることが出来るのか、まるで見当つかないのが問題だが。

 

基礎を鍛え、技を磨き、疲労困憊になったところで朝日が野を照らした。

幾度となく見た朝焼けは、何度見ても美しい。例え雨が降っていても、雲がかかっていたとしても。

清々しい日光が身体の疲れを癒してくれる。

 

今日も良い日になる。

あれを見ると自然とそう思えるのは、前世から引き継いだ習性みたいなものなんだろう。

 

 

 

 

 

 

林を抜けたところで人の気配を色濃く感じる。

農家の朝は早い。たまに俺が家を出るよりも早くから農作業している所もある。

日が昇ったのなら仕事だと言わんばかり。村のそこここから活気があふれていた。

 

近頃都市部への人口流出著しく、この村もそのあおりを受けている。

東と西の中間にある村だ。たまに他所から人が来ても、すぐに目的地へ旅立ってしまう。

この村の子供たちも、嫡子を残していずれはいずこかへ去るのだろう。

 

農作業に従事する村人を眺めながら家に繋がる道を歩いた。

途中、目があった住民たちはおしなべて目を逸らす。

基本的に俺は気持ち悪がられている。こちらから話しかけに行っても、受け答えはぎこちない。あちらから話しかけてくることはまずない。

一歳の時分には言葉を話し、五歳になるころには鍬を振った。そして今は真剣を携えている。いかに母上が母上とは言え、距離を置きたい気持ちはわかる。物の怪が憑りついていると噂されたことも知っている。当たらずとも遠からず。

 

家に着き、ガラッと扉を開けたら、丁度同じタイミングで扉を開けようとしていた妹と鉢合わせした。

半分寝ぼけてしょぼしょぼした眼。覇気がまったくないので幼さが強調されていた。実際、まだ8歳だ。

 

「おはよう」

 

「おあようございます。あにうえ」

 

ぷりてぃ。

顔を洗ってくるように促して、覚束ない足取りを見送ってから、朝食を作っている父上を手伝った。

すでに起きていた母上は、居間で沈思黙考に勤めている。普段から寡黙な人ではあるが、雰囲気からしていつもとは少し違う。何か良からぬことを考えているのではないかと気が気でなく、横目に注意して観察した。

 

ほどなくして、何か手伝うことはないかとさっぱりした妹がやってきて、「もう出来るから居間で待っていて」と父上が言い、焼き魚を皿によそって朝食の準備が整った。

 

家族四人が居間に揃う。それぞれ定位置に膳が置かれる。この家にテーブルはないので座布団に座って食事をする。

男性が軽視されがちな世界とは言え、女が食べ終わるのを待っていろなんて横暴行き交う我が家ではない。

そう言う所も場所によってはあるそうだが、もしそんな家に生まれてたらとっくに家出してる。

 

俺と父上、それに妹が正座している中、ただ一人胡坐を組んでいる母上は、手元にある刀と合わせて名状し難い迫力があった。寡黙であることも輪をかけている。ただそこにいるだけで只者ではないオーラが滲んでいるようだった。

 

母上は言うに及ばず無口で、父上も生来の性質で必要以上に喋らない。必然的に朝食の席で会話は少ない。しかし空気が張りつめている訳でもない。

育ち盛りで食べ盛りの妹が口一杯に頬張るのを、父上が愛情いっぱい見守っている。それだけで雰囲気はほんわかしている。

 

一方、早食にもほどがある母上は、父上が妹を愛でている間にすでに食べ終わっていた。

腕を組み、目を瞑って食休みしているご様子。

その服装が朝早いにもかかわらず、小綺麗な物であることに気付いた。

その時点で俺はまだ半分も食べ終わってなかったが、行儀の悪さは承知で口を開いた。

 

「母上。よろしいでしょうか」

 

「なんだ」

 

「今日のご予定は?」

 

「指南に行く。山向こうだ」

 

「お帰りはいつごろになりますか」

 

「明日の夜だ」

 

「明日ですか。今晩はどうなさいますか」

 

「あちらで世話になる。今日、明日と剣を見る代わりだ」

 

「その間、妹の鍛錬はどうされますか。よろしければ俺が見ますが」

 

「必要ない。すべきことは伝えてある」

 

母上の視線を受けた妹は即座に答えようとした。しかし口の中いっぱいに食べ物が詰まっている。結局首を縦に振ることで答えていた。

 

「よろしいのですか?」

 

「なにがだ」

 

「ひとりでやらせて」

 

「たまにはいいだろう。変な癖がついていたのなら、帰ってから矯正する。今度はきちんと身に沁み込ませよう」

 

「お手柔らかにお願いします」

 

一旦会話が途切れる。

母上は妹の食事風景を数秒見つめていたかと思うと、前触れなくスッと立ち上がった。

 

「もう行く。昼には来いと言われていた」

 

「母上を顎で呼びつけるとは大した度胸ですね。どこのお家の方ですか」

 

「知らん」

 

「……いつもの方でしょうか」

 

「名は長かった」

 

「左様ですか」

 

この辺じゃ馴染みはないが、山向こうで名が長いと言ったら貴族ぐらいしかいない。

剣聖に指南を頼むぐらいだから、裕福な家庭なのは間違いないだろうが、母上が失礼の限りを尽くしていそうで心配で仕方がない。

 

父上が母上に弁当を渡すのを見ながら、行く前にせめて小言の一つでも言ってやろうと思って朝食の残りを掻き込んだ。

 

 

 

 

 

家の前で母を待つ。

裏手から蹄の音が聞こえてきた。

そのまま待っていると馬に乗った母上が現れた。

 

「馬ですか」

 

「ああ。あれで行くと嫌がられる」

 

あれとはペットのことである。

馬小屋の隣のペット小屋に住んでいる。

 

「いない間、家のことは任せた」

 

「お任せください」

 

「ではな」

 

出立前の会話を無駄とでも思っている節のある母上が手綱を緩め、腹を蹴って走り出す。

始めゆったりとした速度で、段々と速度が上がっていく。

 

「くれぐれも粗相のないようにしてくださいー」

 

手を振りながら小言を告げる。

馬上の母上は何も答えず、代わりとばかり外套をはためかせて遠ざかっていった。

 

ちゃんと聞こえていただろうか。聞こえたとしても聞くとは限るまいが。

一抹の不安を覚えながら、たなびく外套が小さくなる様を見ていた。

 

すっかり母上の背中が小さくなった頃に背後で扉が開き、妹が顔を覗かせた。

 

「兄上。母上は?」

 

「もう向かわれた」

 

「そうですか」

 

「何か用事でも」

 

「いえ。お見送りをしようと思ったのですが」

 

キョロキョロ周囲を探る妹は心なしか悔しそうに見える。

一人でさっさと平らげ、追われるように行ってしまったのだから仕方ないことだが。

間に合わせるように慌てて食べるのも、身体に悪いだろう。

 

「今度は一緒に見送ろうか」

 

「はい」

 

「ご飯はいっぱい食べたか」

 

「いただきました」

 

「美味かったろう」

 

「おいしゅうございました」

 

「よかった」

 

主に作ったのは父上だが、俺も少し手伝っているのでその感想は素朴に嬉しかった。

 

「それでは兄上。私は修行をいたします」

 

「食休みは大事だぞ」

 

「問題ありません。一先ずは家の前で振っていますので、何かあればお呼びください」

 

「わかった」

 

扉を閉めることも忘れ、木刀を取りに走る妹。

元気が良いのは何よりだ。やることやってるなら猶更良い。俺も父上の家事を手伝うとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

桶に水を張って石鹸を溶かす。

白く濁った水に洗濯物を浸けじゃぶじゃぶ洗う。

石鹸水は冷たく、手に突き刺さる様な刺激があった。

しかし今更これしきこのことなんでもない。すっかり慣れたものだった。

 

汚れを落すために擦ったり、揉んだり、時には足で踏んだりする。

これをやってる最中は特に考えることもないので無心でやってるが、こういう時洗濯機のありがたさが分かると言うもの。

 

洗濯機は無理にしても、箱にハンドル付けてクルクル回せば遠心力で脱水できたりしないだろうか。

試しに作ってみたくはある。だが俺は手先が器用じゃないし、修行があるから試行錯誤する時間を作れそうにない。

ならばと他人の手を借りることも考えたが、そもそも家族以外に親しい人がいなかった。恋人はおろか友達すらいない。

母上は将来婿に行けと言っているが、現状望みは薄い。自由恋愛以前に避けられてしまう。多分この村で俺を婿に取ってくれる女の子はいない。

 

暗澹たる我が人生に思わず悄然とする。前世の場数があるのに前世より厳しい状況だ。

どこかで何かしらの手を打たねば行き遅れるのは確定だ。生涯独身もあり得る。

 

齢10にして将来の不安に押しつぶされそうになっている俺の耳に、追い打ちをかける様な楽し気な話し声が届いた。

それは家の前から聞こえてくる。そっと覗いてみると、妹が近所のお婆さんお爺さんに話しかけられていた。

笑顔で和気藹々の老人たちに比べて、妹は能面の様な無表情を堅持している。

聞き耳を立ててみたが、特に有意義なことは話していない。

「元気だね」「頑張ってるね」「調子はどうだい」

そんな程度の世間話だ。

 

村の大人たちは妹のことを気にかけているらしく、機会を見てはしきりに構いに来る。

剣聖の娘で跡取りを内定。もしかしたら次の剣聖になるかもしれない。有望株に間違いない。今の内から仲良くしておいて損はない。

 

そんな打算があるにしろないにしろ、こんな田舎の村で親切にしてもらえるのはありがたいことだと思うのだが、当の妹はコミュニケーションを拒否して家の中に入ってしまった。

老人たちは残念そうにしながら三三五五散って行った。

 

老人たちがいなくなったのを見計らって、妹がひょこっと顔を出す。俺を見つけて顔を綻ばす。

 

「兄上」

 

「みんな行ってしまったよ」

 

「良いことです」

 

「良くはないだろう。たまには話をしてみたらどうだ」

 

「時間の無駄です」

 

「無駄かなあ」

 

「無駄です」

 

顔を見るだけで説得は無理だと分かる。

母上。あなたの頑固さはしっかり子供に受け継がれております。余計なことを。

 

「お前が家を継ぐんだから。ご近所付き合いは大切だろう」

 

「失礼ですが。私が継ぐ頃には皆死んでいるかと」

 

「なら子供となら仲良くできるんだね」

 

「兄上。邪魔が入るので、訓練場で修行をしてきます」

 

「逃げるんじゃない」

 

「また後ほど」

 

「おーい」

 

逃げようとする妹の首根っこを掴もうとしたが、するりと躱して走って行ってしまう。変なところで才能の片鱗を感じさせる。

性差はあれど、こちらには一日の長がある。追いつこうと思えば追いつけた。

しかし追いついたところで何をどう丸め込めばいいのか。作戦を立てなければ。意見を請おう。

 

「父上」

 

「なんだい?」

 

「頑固者についてご相談が」

 

「何かあったの?」

 

居間で一休みしていた父上に事情を話す。父上は「ははーん」と妙に嬉しそうな顔をして、顎を擦って数秒考える。

そして柔和な笑みを浮かべてこう言った。

 

「無理だね」

 

「笑顔で匙を投げないでください」

 

(なぎ)……お母さんの子供だからね」

 

「父上の子供でもあります」

 

「僕も案外頑固なんだよ」

 

「ご冗談を」

 

普段の様子を見ていると、とてもじゃないがそうとは思えない。

比較対象が頭ダイヤモンドなので、もしかしたら鉄鉱石ぐらいの固さはもっているのかもしれないが。

 

「あの子は、見た目はお母さんだけど、中身は僕に似ているのかな」

 

「左様で」

 

「君は逆にお母さんによく似ているよ」

 

「そんなことは……」

 

「凄く似てるよ。僕に剣の才能はないからね」

 

「才能の有無で判断することじゃないでしょう」

 

「まあ、そうだけど。でもやっぱりよく似てると思うんだよなぁ……。こう、わき目もふらずに猪突猛進なところとか」

 

「嬉しくもなんともありません」

 

「そう? 褒め言葉なのにな……。ところで、お昼ご飯はおにぎりでいいかな」

 

「……なら、妹の分は俺が作ってもよろしいでしょうか」

 

「いいよ。一緒に作ろうか」

 

丹精込めて丁寧に握るとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

水筒に汲んだ水に、その辺で摘んできた果実の搾り汁と一つまみの塩を加える。

甘さを加えたお手製スポーツ飲料だ。果物が食べれるのは母上に確認済み。

これとおにぎりを持って訓練場へ向かう。色々考えた末の、胃袋から丸め込む作戦である。

 

妹を説き破る気満々で訓練場に着いてみれば、そこに肝心の妹の姿がなかった。

いつもならど真ん中で木刀を振っているはずである。

どこに行ったのかと周囲を探ると、木陰に向かって何かが這った跡を見つけた。

その跡を追って見つけたのは、無残にも大の字で伸びている我が妹君だった。

 

上下する胸が確認できたので生きている。恐らく疲労困憊でノックアウトしたんだろう。

這ってでも木陰に逃げたのは賢明と言える。下手したら脱水症状や日射病で死んでいたかもしれない。その代わり、服が泥に塗れてしまったようだけど。

 

俺の来訪にはっと気づいた妹は、起き上がろうとして四苦八苦したが、最後は崩れ落ちた。

 

「無理な鍛錬は身を滅ぼすぞ」

 

「無理など、していません」

 

「強気な台詞は起き上がってから言ってみろ」

 

顔色を見る。真っ青だ。

滴る汗は止めどなく、こうしてる合間もぽたぽたとしたたり落ちている。

よくよく観察すれば腕が痙攣している。どれだけ酷使したらこうなるのか。

言われた以上のことをやっているらしい。どう見てもやりすぎだ。元気なのは良いことだが、過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 

「昼ご飯を持ってきた」

 

「……いただきます」

 

「起き上がれ」

 

「少しだけ、お待ちいただけますか」

 

「とりあえず。これだけでも飲んでおこうか」

 

背中に腕を回して抱き起す。火照った身体がやけに熱かった。

水筒を口に当てがう。口の端から一筋溢しながら、こくりこくりと必死に飲み込んでいる。

 

「美味いか」

 

「甘いです」

 

「塩も入ってるぞ」

 

「身体に染みわたるようです」

 

「それはなにより」

 

一口で半分飲み干し、二口目で空にした。

自分用に持ってきていたもう一本も飲ませる。

 

それを半分飲み干してようやく落ち着いたようだ。

ふうと息を吐く顔に生気が戻っていた。

汗で額に張り付いている髪を掻き分けながら言葉を交わす。

 

「過度な修行は禁物だ」

 

「はい」

 

「今度やったらお仕置きだ」

 

「わかりました」

 

「返事だけ一丁前だからデコピンの刑」

 

「あぅっ!?」

 

ビシッと打たれた額を抑えることもままならず。

力尽きたようにぐったり脱力する妹は、朧げな瞳で俺を見ている。

 

「あにうえ……」

 

「少し休もうか」

 

「はい……」

 

「帰ってきたら、母上に叱ってもらわないとな」

 

「あにうえ……ごかんべんを……」

 

それだけはやめてくれと目で訴えかけてくる。

残念ながら、お前のことを考えるならやめるわけにはいかない。

二度とこんな無茶できぬよう身体に覚えさせる必要がある。

 

頷く代わりに頭を撫でてやると、妹は少しうれしそうな顔をした。

力の限り抱きしめたら折れてしまいそうな細い身体。こんなに小さいのに、毎日剣を振っている。

俺も振っているけれど、その内追い抜かされてしまうんだろう。この世界では女の方が強いそうだから、触れれば壊れそうなのはむしろ俺の方かもしれない。

 

悪戯心で鼻の先をくすぐったらこそばゆそうにした。

ぎゅっと胸に抱くと、くぐもった声を漏らす。

反応が面白くてつい色々やってしまう。次は何をしよう。

 

そんな風に、真夏の昼日中。木陰の下で、妹と団欒のひと時を過ごした。

 



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3話

妹が過度な鍛錬で倒れ、大事を取り一日休ませた日の翌朝。

鍛錬から帰ってきた俺の足音で目を覚ました妹は、けろりとした顔でいつも通りの寝ぼけ眼を見せつけてきた。

朝食の折には普段通りの食欲を見せ、元気に訓練場へ駆けて行く。

 

父上が心配なさるのもどこ吹く風で、かけられた言葉も右から左へ受け流していた。

「あまり無茶をするようなら縄で縛って母上に突き出す」と脅したのが功を奏したかは分からないが、俺と父上が木陰からひっそり見守る目前で、常識的な鍛錬に終始していた。

 

極めて基礎的な鍛錬である。

正しい型で、正しい身体の使い方で、素早く鋭く剣を振るう。

時に唐竹割りで上から真っ直ぐ振り下ろし、時に袈裟斬りで斜めに振り下ろす。そして横に薙いだかと思えば正面を突く。

それらを休む間もなく、延々と続ける。

 

未だ『太刀』を一つも使えない妹は、そうやって己の技を磨いていた。

母上に教えられ、母上に命じられた通りの鍛錬である。

修行を始めて一年になる。いつになったら『太刀』が使えるようになるのか、先の見えない不安を抱え始めた時期だろう。

それが昨日の無茶に繋がった。己の身体を省みず、とにかく結果を出したいと焦る気持ちは、俺には痛いほどよくわかった。

 

俺と父上は妹の鍛錬をじっと見守っていた。

俺にとってはすでに通り過ぎた道である。その先にある物をわかっている。だから耐えられた。だが父上は違った。

 

この世界では、剣は女の道である。男が踏み入ってはいけない領域でもある。

父上は今まで俺たちの修行に何一つ口を挟まなかった。言いたいことはたくさんあっただろう。それでも口をつぐんできた。それが礼儀だったから。

だが、自分の子供が行き過ぎた鍛錬の末一日動けなくなれば、口を挟みたくもなるだろう。

 

ハラハラと落ち着きなく、固唾を飲んで見守る父上。

その眼前で妹は滴る汗を構うことなく、苦しそうに顔を歪め、倒れそうになっても必死に踏ん張り続けていた。

 

父上は何度となく飛び出しそうになった。その度に腕を掴んでその場に抑え込んだ。

娘の夢を応援するのであれば、邪魔をしてはいけない。手を差し伸べてはならない。この程度乗り越えられなくて、剣聖にはなれない。

 

言い聞かすたび、父上は唇を噛みしめて耐えた。耐えながら、ずっと娘を見ていた。俺もこの状況で父上を放っておくことはできない。いつ飛び出すかわかったものじゃない。

その日、家事は何一つ手につかず、一日中妹を見守り続けた。

 

 

 

 

 

 

夕刻前に父上を引き摺って一足先に帰宅する。帰ってきた妹に夕飯をたらふく食べさせた。

風呂にいれ汗を流させ、そのついでに触診し、異常なしと結論付ける。父上はほっと胸をなでおろしていた。

 

妹は一日の疲れからすぐに眠りに落ちた。寝る子は育つ。食欲旺盛だからより育つ。毎日10時間は寝て、たらふく食う妹は、それはそれはスクスクと育つだろう。

 

父上もまた精神的に疲労していた。日中手つかずの家事を片付けている途中、眠りこんでしまうほどに。

二人を布団に運んで役目を果たした俺は、もう一つの役目を果たすため、家の前で木箱に座って母上の帰りを待つことにした。

 

母上は夜に帰ると言っていたが具体的な時刻は分からない。

木箱に座って長いこと経ったが、未だ影も形も見えない。手持無沙汰だった。

しかし運の良いことに今日は満月だ。

藍色の夜空に煌々と輝く月。光源の少ないこの世界では、前世とは比べようもない美しさだった。見ているだけで、日中燻った気持ちを安らげてくれる。

この静かな夜には虫の音と蛙の鳴き声だけが聞こえている。

 

じっと月見に精を出す10歳と言うのもいかがなものだろうか。

そう思いはするけれど、精神的な問題でこの風情が分かってしまうのは仕方がない。

たまに薄い雲が月を遮り、朧月になるところなんて風流この上ない。手元に酒があればたまらず呷っていた。

 

そうしてどれだけ月を愛でていただろうか。

ついつい時間の感覚を忘れがちになる。

月はとっくに天頂を過ぎ、あとは落ちるだけとなっていた。

 

さすがに待ちくたびれた。

夜半待ち遠しで、明朝にご帰宅なんて事態になれば明日の鍛錬に支障をきたす。

いかにこの身体が3~4時間の睡眠で十分とは言え、それを良しとするのは頭が悪すぎる。

 

明日にしようか。

朝に言えばいいか。何なら叩き起こしてやれ。

そう考え、箱から腰を上げた時、静かな空に微かに蹄の音が響いてきた。

山の方面。暗がりの向こうから、誰かが馬を駆けてやってくる。

 

危ない所だった。

俺はその場に留まって音の出所がやってくるのを待った。

ようやく全体像が見えた頃には、母上の顔かたちがはっきり見えるまで近づいていた。

母上は家の前に立つ俺を見つけ、少しずつ馬の速度を落とした。

 

「遅くなった」

 

「お帰りなさいませ」

 

短い挨拶を交わす。

母上は馬小屋まで移動して颯爽と馬から降りた。労をねぎらうように首を撫でる。

すでに水と餌は小屋の中に用意してある。あとは馬自身が勝手に食べて勝手に休むだろう。

 

「夕飯はどうなさいましたか」

 

「あちらを出るのが遅くなった。着くころには夜遅くだろうと頂いてきた」

 

「それは何よりです」

 

「ああ。……それで?」

 

母上は外套を脱ぎながら訊ねてくる。

 

「何かあったのだろう。こんなに遅くまで私の帰りを待っているのなら」

 

「大したことではないですが、一応早めに伝えておこうと思いまして」

 

「それは、父が話すより前にと言う意味か」

 

「父上は剣の修行については門外漢ですから。余計な感情を混ぜられると話がどう捻じ曲がるかわかったものじゃありません」

 

「アキのことか……」

 

妹の名前を呼びながら、母上の視線が家の方に向けられる。

丁度、妹が寝ている部屋あたりを見ているようだった。

 

「二人ともすでに眠っているか」

 

「妹も父上も今日はことさらお疲れのご様子」

 

「そうか」

 

母上の視線が、今度は俺の腰に向けられる。刀を捉えた。

 

「丁度いい」

 

「よくありません」

 

「刀を持っているな」

 

「よくないと言っています」

 

「訓練場ならば問題あるまい」

 

「鍔迫り合いは響くでしょう」

 

「何が言いたい?」

 

「近所迷惑になると」

 

「問題ない。村の住民は皆承知している」

 

「それはただ諦めてるだけでは?」

 

ため息を吐いた。

妹が一度言ったら聞かないのはこの人譲りだ。

妹にすら手を焼いていると言うのに、大元のこの人を説き伏せるのは俺には不可能だった。

巨岩を拳で叩くかのような不毛なやり取りである。渋々訓練場まで移動することになった。

 

「今日は既に風呂に入ったんですが」

 

「そこの川で水を浴びろ。私もそうする」

 

「豪快ですね」

 

「お前が浴びてる間は私が周囲を見ている。心配するな」

 

「では母上が浴びている時は俺が見張っています」

 

「必要ない。水を浴びたなら、お前はさっさと家に戻れ」

 

「しかし、母上をお一人残していくのはどうなのでしょう」

 

「私の裸を覗いて興奮するような変態はこの村にはいない。変な心配などするな」

 

「どんな意図があろうと、覗かれるのは気分が悪くありませんか」

 

「どうでもいい」

 

心の底からそう思っているようだ。

この豪快さは誰にも真似できないだろう。

 

「……今日は満月だったな」

 

林の中、木々に隠れながらも存在感を誇示する満月を仰ぎ見ながら母上はそう呟いた。

夜だと言うのに、林はいつもより明るい。足元に気を付ける必要がないほど照らされている。

木漏れ日ならぬ木漏れ月と言う所だ。

 

「母上は満月に何か思い入れでも?」

 

「特にはない。しかしあれを美しいと思わないほど感性が腐っている訳でもない」

 

「母上ですらそう思うのですから、満月の美しさはこの世界でも格別でしょう」

 

「美しいものには美しいと言う。何もおかしなことではない」

 

母上のそう言う実直なところは好ましい。

それで父上を落としたのだから、人生に良い方向に寄与している。

普通はもっと悪い方向に傾くものだと思うが。

 

ほどなくして訓練場に着く。

月は山脈のすぐ上まで落ちてきている。

下手をすれば今日はこのまま徹夜かもしれない。ここまでくればそれもいいかと思い始めた。

 

「抜け」

 

「俺はただ話がしたいだけです」

 

「斬り合いながら聞こう」

 

「無茶苦茶な」

 

「お前なら出来るはずだ」

 

「ならば、多少言葉遣いが荒れるのはお許し願いたい」

 

「構わん。それを強制した覚えなどない」

 

「ではご期待に答えられるよう、微力を尽くさせていただきます」

 

「来い」

 

――――三の太刀『飛燕(ひえん)

 

抜刀しながら斬撃を放った。

完全に不意を打ったと思えるそれを、母上は易々躱す。

躱したところを斬りかかる。

 

「それで」

 

二合、三合と打ち合いながら、母上は普段通り口を開いた。それがあまりにいつも通りだったから、この人は俺にこれを求めているのかと頭が痛くなった。

 

「アキがどうした?」

 

「昨日、無茶をしました」

 

今日初めて鍔競り合う。

ギチギチと刀が拮抗する。満月に照らされる刀身は、赤く輝いて見えた。

 

「我流で教えられた以上のことをしたようで。昨日一日寝込んでいました」

 

「そうか」

 

二人同時に背後に跳ぶ。

姿勢を低く直進してきた母上は、突進の勢いそのまま突きを放ってきた。

ともすれば四の太刀かもしれないと、躱すことは避け、刀を上に弾く。

 

母上は大きく仰け反るような形になった。

腰に向かって一閃を放つ。

それを、何をどうやったか定かではないが、上に弾いたはずの刀で受け止められる。

 

「今日はどうした」

 

「一日寝て元気になり、いつも通り修行をしていました」

 

「わかった」

 

今度は俺の刀が弾かれる。

会話に意識を裂いていた分対応できず、体勢を崩した。

 

「大したことはない様だ」

 

そう言いながら峰で腹を殴打される。まるで容赦はなかった。内臓の奥までめり込んだ気がする。

膝をつき、喉の奥から込み上げる物に、歯を食いしばって耐える。この間、指一本動かせない。

 

「それにしても。無茶をしたか。お前にはなかったことだ」

 

「げほっ、ごほッ。……言っている意味が、よく……」

 

「お前は無茶をしなかった。無茶は愚昧だと言うことを、教える前から知っていた。妹の修行でお前を基準に置いたのは、間違っていたようだ」

 

「それなりに、無茶はしましたよ……」

 

「あくまでそれなりにだろう。後先考えない馬鹿な真似はしていない。知っている」

 

「妹を、馬鹿だと言いますか」

 

「若さゆえの馬鹿な真似だ。私にはもうできない。羨ましく思う」

 

「俺だって若い」

 

「信じられないことにな」

 

ゆったり俺から離れる母上は、距離を取って相対した。

俺が立ち上がるのを待っている。まだ一回打ち負かされただけだ。この程度、準備運動にもなりはしない。

 

「あまり妹をきつく罰しないでください」

 

「お前はあれに甘いな」

 

「兄ですので」

 

「そう気にかけずとも、あれはいずれお前を超えるぞ。手がかかるのは今だけだ」

 

「易々超えさせるつもりはありません。生涯の壁となって立ちふさがりましょう」

 

「……そうか」

 

話している内にようやく吐き気が引いた。

口の中は酸っぱい物で満たされている。乱暴に口元を拭って立ち上がった。

腹の痛みが後を引き、一歩よろけてしまう。

 

「無用な世話だったな」

 

「なにがでしょう」

 

「父のことだ」

 

母上は刀を天にかざし、刀身に満月の光を反射させていた。赤い刀紋が鮮やかに浮き上がる。

角度を変えると光量が変わり、趣も変化する。俺が立ち直るまでの手慰みにしていた。

 

「お前がどう思っているか知らんが。あれはああ見えて弁えている。私情で口を挟むことはない」

 

「しかし憔悴していらっしゃいました」

 

「そうか。我が夫ながら、優しいことだ」

 

「とても優しい人です。なのに、どうして口を挟まないと分かるのですか」

 

「惚れた男のことならわかる。全てとは言わんが、おおよそ理解している。愛するとはそういうことだろう」

 

「惚気はいいので、俺にも分かるように言ってください」

 

「惚れた腫れたの話はまだお前には早いか。他の理由を言おう。あれを婿に貰う際、包み隠さず全てを打ち明けている。それが理由だ」

 

「何を打ち明けたのですか」

 

「私の、全てをだ」

 

ブンッと刀が空を切る。

母上はゆったりと正面に構えた。もはや満月の光など見向きもしていない。

これ以上の休憩は許されないようだ。

 

母上がそうしている様に、俺も刀を正面に向ける。

ただ、母上のように両手で持つ構えではなく、右手だけで刀を持ち、左手を空にした。他に得物がないのであれば無意味な構えだろう。

 

「ふむ……」

 

「……」

 

「……来ないのか。ならば」

 

一向に動かない俺に母上は焦れる。

そして向こうから斬りかかってきた。

上から下へ振り下ろす唐竹割り。母上が最も得意とする斬撃。

対する俺も、最も得意とする『太刀』を繰り出す。

 

「――――五の太刀『旋風(つむじかぜ)』」

 

相手の攻撃を、渦を巻くようにして受け流す技。

母上の刀に側面から力を加え、円を描いて背後へ流す。

そこに、さらにひと手間押す力を加えることで、いつもより一歩多く踏み出させた。

 

その一歩が俺たちの距離をなくし、母上の手首を掴むことを可能にした。

わざわざ空けた左腕はこのためのものだった。

一度腕を掴んでしまえば、例え力づくで振りほどかれたとしても、もはや致命的な遅延となる。母上の首筋に刀を当てるのに、余りある猶予があった。

 

「……やるな」

 

母上の口端に笑みが乗っている。

今の一戦は完封した。それは事実だったが、母上には余裕があった。

俺が何をするのか試すために、不用意に攻めかかってきた。稽古とはそう言うものである。

 

「くだらん昔話だが、聞きたいのならいずれお前達にも話してやろう」

 

「楽しみに待っています」

 

「楽しめればいいがな。……ところで、今日は普段より熱が入っているようだな。二の太刀ではなく五の太刀とは。ああいう使い方は初めてだ。一本取られてしまった」

 

「は……」

 

「何に感化された」

 

「……」

 

母上は目つきを鋭く俺を貫いた。

息子に向けるにしては過激とも思える表情だった。

思わず息を呑み、すぐに言葉は出てこない。

 

首に添えていた刀を退け、掴んでいた腕を放して距離を取る。

そうしなければ斬られてしまうような気さえした。

 

「母上。血反吐を吐くような努力を垣間見て、奮起しない者はいません。それが妹であるなら尚のことです」

 

「そうか」

 

「妹があれだけ頑張っているのに、俺は何をやっているのかと臍を噛む思いで一日過ごしていました。母上。あなたの言う通り、丁度良い機会です。ご指導をお願いします。夜が明けるまで、お付き合い願いたい」

 

「……良い顔をする。だが、男がしていい顔ではないな」

 

「男女の差など、人の本質からもっともかけ離れた所にある。どうでもいいことです。特に今は、剣の腕さえあればよろしい」

 

「もっともだ。だが、世界はそこまで単純ではない。……今は関係ないことだがな」

 

満月に見守られながら、夜を徹して打ち合った。

山の影に月が隠れても構うことはない。

時の流れを忘れ、永遠とも思える悠久の時を剣聖と切り結ぶ。

 

その晩、一体何度打ち倒されたのだろうか。数えるのも馬鹿らしいほど地を舐めた。

最後は気力で立っていた。気を失う間際の一振りがどうなったのか、覚えてすらいない。

気がついたときには母上に背負われ、帰路の最中だった。

 

「……ぁ」

 

心地よい振動と小枝を踏み折る音。

懐かしさすら感じる匂いに包まれている。

思わず漏らした小さな呟きを、母上は敏感に聞き取った

 

「起きたか」

 

「……はい」

 

母上の言葉に辛うじて答えられた。だが眠気と疲れで意識は朦朧としている。

燦々と輝く太陽が目に痛いぐらいだった。

 

「強くなった。努力しているな」

 

微睡みの向こうでその言葉を聞く。

母上が直截的に俺を褒めるのは珍しいことだった。

いつもはもっと罵り混じりにサラリと褒める。化け物染みているとか異常だとかそう言う言葉をくっつける。

 

「だが、あまり頑張りすぎるな。お前は程ほどでいい」

 

答える余力は残っていない。

らしくない、と思う。どういう心境の変化だろう。

 

「ははうえ……おれは……」

 

言いたいことがあった。山ほど。たくさん。

だけど瞼は重く、口は思うように動いてくれない。

にじり寄る睡魔には歯が立たなかった。

眠りに落ちる間際、母上の言葉が聞こえた。

 

「お前は男だからな」

 

肯定も否定も出来ず、そもそもそれが夢か(うつつ)かもわからず。

けれどもその言葉は棘のように、いつまでも胸に残り続けていた。



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4話

冬が来る。

予感は肌に突き刺さる木枯らしが教えてくれた。

 

秋と分かるものはなかった。

わずかな紅葉を見たかと思うと、山々の深緑は一斉に落葉し、枯れ葉は辺り一面に絨毯のように敷き詰められた。

一面茶色の景色に足の踏み場はなく、一歩踏み込むと否応なしに乾いた音がする。

 

何の気なしに脚を振り上げ、枯れ葉を撒き散らす。

ふわりふわりと踊るように落下する葉。それとは別に、くしゃりと丸まっている葉はストンと真っ直ぐ落ちる。

瞬間、視界を埋め尽くさんばかりだった枯れ葉のカーテンは、数秒たたずに全て地面に戻って行った。

 

その様を見て、ふと思い立つ。

瞬きの間だけ宙に浮かぶこの葉っぱたちを、剣で斬る修行を。

瞬発力や空間把握能力を養えそうである。やってみる価値はありそうだ。

 

もう一度脚を振り上げて木の葉を舞わせる。

刀を抜き、目の前の物を全て斬る。その調子で振り向きながら斬ろうとしたら、既に木の葉は地面に落ちていた。

 

「むぅ……」

 

己の動きを省みるまでもなく、原因は一目瞭然だった。

振るのが遅い。それだけだ。

 

この速度では何十と言う葉を全て斬るには到底間に合わない。

加えて、不規則に舞う木の葉を斬るのに動きを予測しているものだから、コンマに満たないロスが生じている。猶予が数秒以下であることを考えると、それはあまりに致命的だった。

 

思ったより難しい。

やり遂げるには地力が足りない。しかし母上ならやれると言う確信があった。

ならば出来るようにならなくてはいけない。努力あるのみ。

 

もう一度脚を振り上げる。

集中する。どの修業の成果か、最近は極限まで集中すると時の流れが緩やかになるようになった。

修行が無駄ではなかった証拠だ。喜ばしいが、長所があれば短所もある成果だった。

 

時の流れは全ての物に平等に働きかける。宙に浮かぶ枯れ葉が停止しているのなら、当然のごとく自分も停止する。例外などない。

 

意識は既に木の葉を斬ったつもりでいる。だが実際はまだ抜刀途中だった。

意識が先走り身体は着いて来ていない。あまりにもどかしい。お預けを食らう犬はきっとこんな気分なのだろう。

 

主観では分からなかったが、剣速は常に最速を維持した。視界に収まる全ての木の葉を把握し、刀は最短を突き進む。

それでもなお足りない。目の前のことはいい。十分に対処できる。しかし死角はどうしようもない。

振り向かなければ分からない。だが目で見て脳で処理する時間がもったいない。そんなことをしている間に木の葉はゆっくり地面に吸い込まれていく。

諦め悪く地に落ちる直前の葉を一枚両断したが、落ちてから斬ったのかそれとも直前で斬れたのか、何とも判別付きにくかった。

 

まだ遅い。遅すぎる。

もっと速く剣を振るうにはどうしたらよいか。

身体能力は一朝一夕ではどうにもならない。地道な鍛錬を続けるしかないのは分かっている。

しかし、どれだけ鍛えたとしてもいずれ限界はやってくる。この世界では俺が思っているよりもずっと早くにやってくるだろう。

身体能力の差を覆すには他の何かが必要だ。母上の教えには反するが、地力ではなく全く別の武器を磨く必要がある。

 

例えば、条件反射で考える前に身体を動かせられれば、脳を介す必要はなくなる。その分だけ速く動ける。速く動くことだけを考えるのなら、それもありだ。

しかしそれは危険を伴う。突然目の前に人間が現れれば、一刀に切り伏せてしまう未来がありあり浮かぶ。

考えることは重要だ。思考を放棄してしまったら、取り返しのつかないミスを犯してしまうかもしれない。挽回のための策を練ることも出来やしない。

自分の中でスイッチを入れている間だけ身体が動くようにするとか、そう言うことはできないだろうか。

 

発想が催眠術の世界に足を踏み入れた。

地力のなさをカバーするには、俺には知識しかない。知恵と工夫で補うほかない。

出来ないことを出来るようにするには、どうしたらよいのだろうか。

 

考えても考えても答えには辿り着かない。

剣を振るよりも、最近はこうして考えることが増えた。

瞑想と言えるほど高尚なものではない。一歩も前進していないのだから。

 

この先どこに行けばいいのかわからなくて、足踏みしている。

手探りで恐る恐る、欠伸が出るぐらいの遅々たる歩みで進んでいる。

 

覚悟が足りないのかもしれない。

ここらで一つ、大きく踏み出しておくべきだろうか。

人生はゲームじゃない。一歩進んでしまったら後戻りは出来ない。どれだけ後悔に苛まれても、過去をやり直すことなどできやしない。

 

それを知っているから、慎重に一歩ずつ進んでいる。悪いことじゃないはずだ。

だが目指すものがあるのなら、何が何でも叶えたい目標があるのなら、時に慎重さをかなぐり捨て、一心不乱に駆け出すことも悪いことじゃない。

 

今がその時だろうか。

一心不乱に猪のように、ただただ成し遂げることだけを考えて。

そうするべきだと思う心の片隅で、まだ早いと思う自分がいる。

 

その道を選んでしまったら最後、あらゆる物が変わってしまう。

母上や父上との関係も、妹との関係も。何もかもすべてが。

躊躇する。居心地のいい今を壊したくなくて。この10年で築き上げたものを壊したくなくて。

そう思うのなら、自分の気持ちに蓋をして安穏とした一生を歩む。そんな人生もありだ。

 

迷う。迷って仕方がない。

何をしたいか。何を守りたいか。何を優先するか。

 

迷って迷って、結局答えを先延ばしにしてしまう。

まだ10歳。時間はある。先に延ばして何が悪い。

 

そう開き直りはするけれど、考える頭は止まってくれない。

まだ時間がある。次がある。今決めなくてもいい。

こんな気持ちではいつまでたっても決めることなどできない。わかっている。これは俺の弱さだ。

 

とは言っても、どれだけ煮詰めても結論には至らない。

短く息を吐く。頭を使い過ぎて頭痛がする。気分転換をしよう。

 

周りを見渡す。目に映るのは枯れ葉だけ。

枯れ葉と来たら、することは一つしか思い浮かばない。

火を焚こう。燃える焚き火を見ながら考えてみることにする。

火は神秘的な気分にさせてくれる。それで何か得られるものがあるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この地域には雪が降る。

積雪は膝ぐらいにはなるだろうか。

前世のことを思い出すと、これでもまだ降らない方だと思うが、車などの無いこの世界でそれだけ降ってしまえば、容易に村の外に出ることは出来なくなる。

雪が降るまでに収穫を終え、税を納め、十分な備蓄を用意して越冬する。

それがこの地域の冬の過ごし方だ。

 

冬は農閑期なのですることがない。それに伴って収入もなくなる。

だから本格的に冬が来る前に、東方に出稼ぎに向かう人間が多くいる。

大体は大人の女性が出稼ぎに行くが、まれに成人間際の子供も同行した。

女性が町に出稼ぎと言うと、ついついよろしくない稼ぎ方をしているのではと思ってしまうが、実際は酒を作ったり炭を焼いたり、あるいは土木工事だったりと真面に働いているそうだ。

なんなら東の方が稼ぎが良いという話も聞く。逆に冬は稼げないという人もいる。職や状況によりけりと言うことだ。

 

それに関連してか、本当に極々まれに、出稼ぎに向かったまま行方知れずになる人間がいる。

何らかの事件に巻き込まれたか、不慮の事故で死んでしまったか。蒸発と言う線もあり得る。

真偽定かではないが、実際そういうことも多々あって、俺が生まれる前にも一度あったそうだ。

話し合いの結果、残された夫と子供は村全体で面倒を見ることになり、子供は無事成人した。こんな小さな村だからこそ助け合わなくてはいけないが、よくそこまで面倒を見たものだ。心打たれる話だった。

 

そんな話を聞いてからと言うものの、冬の訪れと共に一路東へ向かう村人たちの背中には哀愁のようなものを感じずにはいられなかった。

冬は日照時間が短く気分が鬱屈としてしまうから、それが原因かもしれない。しかし出稼ぎに向かう人たちに思う所があるのは事実だった。

 

何を思うのか。よくよく考えてみれば、俺はこの村を出たことがない。

母上と父上はよく相乗りで町まで買い出しに行くが、俺は連れて行ってもらったことがない。

他人のデートを邪魔する趣味はないから今まで連れて行けと言わなかったが、俺ももう10歳だ。年が明ければ11歳になる。

経験は大抵の場合財産になる。一度出稼ぎに行くのもいい経験だろう。伸び悩んでいる今だからこそ、何らかの変化が必要だ。心機一転するのにいい機会かもしれない。

 

思い立ったが吉日。丁度居間にいた母上に直談判することにした。

 

「ダメだ」

 

返事はむげもない。取り付く島はなかった。

かと言って諦めるにはまだ早い。

座す母上の正面に座りながら、僅かな希望に縋って言葉を交わす。

 

「なぜでしょうか」

 

「わからないか」

 

「わかりません」

 

「ならば聞こう。年は?」

 

「10です」

 

「今まで労働の経験は?」

 

「家事労働しか」

 

「特技はなんだ」

 

「剣です」

 

「誰がそのような人間を雇う」

 

反論を思いつかず腕を組む。

自分の言葉を反芻した。

10歳。労働経験なし。剣技が得意。そして男。

出稼ぎに行くには、この世界の常識から多少外れているかもしれない。

 

「息子よ。お前は男だ。出稼ぎなど男が行くものではない。家にいろ」

 

「しかし母上」

 

「金の心配なら無用だ。こう見えて、家族を食わせるのに十分な額を稼いでいる」

 

我が家の家計事情は承知している。

母上は剣術指南で稼いでいる。剣聖の名声は絶大だ。その名だけで報酬は吊り上がる。

具体的な額は教えられていないが、何不自由なく一家が食べれるぐらいには貰っているらしい。

 

「母上。俺は金銭的な心配をしているのではありません」

 

「ではなぜそんなことを言う」

 

「町に行ってみたくて」

 

「連れて行ったことは……なかったか……」

 

「ありません」

 

今度は母上が腕を組む番だった。

目を瞑って思考に耽る。

 

「母上……」

 

今が攻め時。哀願してみる。

母上の眉がピクリと動き、ついにため息を吐いた。

諦めが混じっているように思う。微かに希望が繋がった。

 

「ダメだ」

 

だがやはりダメだった。

 

「町には人攫いもいる。お前なら容易く返り討ちにするだろうが、万が一があるだろう。出稼ぎはダメだ」

 

「……」

 

「町には機会を見て連れて行く。それで我慢しろ」

 

「……はい」

 

これ以上の譲歩は望めそうにない。こうと決めたら梃子でも動かないのが母上だ。

徹底抗戦の構えで俺も頑固モードに入るのも手か。

それをやったら最後、解決の糸口が見つからず泥沼に嵌るだけだろう。関係も悪化しそうだ。

 

退き時だろう。

母上が説得できないと父上を説得したところで意味がない。と言うか、この調子では恐らく父上の方が説得に骨が折れる。

前哨戦たる母上一人説得できなくては端から負け戦だ。

やむを得ずその場を辞す。玄関から外に出、裏手に向かって歩く。

 

得られたものはあった。しかし当初の目的は完遂できなかった。

町に連れていってくれると言うが、冬のうちは無理だろう。

心機一転が望めないのなら、今できる気分転換をするしかない。

馬小屋に向かう理由は、アニマルセラピーが目的である。

 

馬たちは俺が小屋に入るやいなや俺の方に首を回す。鼻を近づけ匂いを嗅いだ。

二頭いる馬の内、栗毛の馬を撫でて心を落ち着かせた。冬毛のおかげで夏とは違う撫で心地がする。

馬は鼻息荒くぶるぶる鳴いていたが、匂いを嗅いだ後はあまり俺の存在を気にしてはいないようだった。

代わりに隣の赤毛の馬がじっと俺を見つめている。撫でるよう催促している訳ではなく、ただじっと見つめている。馬の表情は分からないが無表情に見える。それがどことなく母上を思わせた。

 

無意識の内に腰の刀に触れていた。

全ての『太刀』を習得した折に与えられた刀。母上が剣聖になる前に使っていたもの。

10歳の俺にはまだ少し長いが、使っている内に手に馴染んできた。

 

この刀を与えられた時、一人前の剣士として認められたのだと思った。

真剣を佩びる意味とは、つまりそういうことなのだと。

だが実際は少し違った。母上は何かにつけて「お前は男なのだから」と口にする。

剣士である以前に男である。そして息子である。そう言う風に思っているのかもしれない。それは決して間違いではないが、そう言う構えで接せられるとやり辛さを感じる。

 

近頃、母上はめっきり俺に稽古をつけてくれなくなった。

もっぱら妹の方に集中している。今が大事な時期なのだと言う母上の言葉はよく理解できるから、文句も言えない。だがずっと続いていたしごきが途絶えたのは寂しく思う。

 

そう言った諸々に加え、出稼ぎの目論見が外れて気落ちする俺を嘲笑うかのように、馬小屋の隣でペット小屋が盛大に揺れた。存在を主張するようにゆさゆさ揺れる。

 

チラリと壁を見て無視する。そうしたら数秒経って今度はより長く揺れた。それは地震が来たのかと思うほどの揺れだった。

 

動揺した馬たちがいななき、俺は壁を蹴った。感情の制御が出来ていなかった分、壊れはしなかったが音はかなり響いた。

一瞬揺れが止まって、次の瞬間には一際大きくなって返ってくる。理解する。間違いなく喧嘩を売られていた。

 

「兄上……?」

 

小屋の壁越しに俺とペットがやり合っているのを、いつの間にかやってきていた妹が不思議そうに見ていた。

 

「何をされているのですか」

 

「いや。なにも」

 

「なぜ壁を蹴られていたのですか」

 

「この壁の向こうの奴は相変わらず懐いてくれないなと」

 

「その大蜥蜴は母上にしか懐きません」

 

「そうだったね。以前、父上を呑もうとしていたのを思い出した。殺意が湧く」

 

「即刻処分いたしましょう」

 

「出来ることなら、そうしたい」

 

乗り物として優秀すぎるせいで、易々処分できないのが難点だ。

斬っていいのならとっくに斬っている。それこそ真剣を握ったその日に。

 

腹立ちまぎれにもう一度だけ壁を蹴る。続いて妹も蹴った。俺より遠慮がなかった。溜まっているものがあるのかもしれない。

向こうは既に飽きたのか、壁が揺れることはなくなっていた。

 

「兄上。母上と何か言い争っていたようですが」

 

「争っていたわけじゃない」

 

「しかし母上がかなり気難しい顔をされていました」

 

「お前もだいぶ母上の表情が分かるようになったね」

 

「娘ですので」

 

頭を撫でてやる。

妹は気持ちよさそうに目を細めた。

 

「……それで、何を話されたのですか」

 

「出稼ぎに行きたいと言ったんだ。断られてしまったが」

 

「……出稼ぎ? なぜ?」

 

「なんとなく」

 

「なんとなく?」

 

やけに踏み込んでくる。

さて。どう答えたものか。

 

「得られるものがあるかなと思って。俺は町に行ったことがないから」

 

それ以上に大した理由はない。考えても思いつかなかった。所詮は単なる思い付きだ。

それでも強いて言うなら、伸び悩んで鬱屈している気分を変えたいというのが一番の理由になる。

けれど伸び悩んでいるなんて、妹に言えることじゃない。妹自身が伸び悩んでいるのなら尚更に。

 

栗毛の馬を撫でる俺の横で、妹も赤毛の馬を撫でる。

馬が気持ちよさそうに鼻を鳴らして、もっと撫でろと催促してくる。

俺も妹も喋らない。馬小屋は静寂に包まれていた。

 

馬を撫でていると欲求が募ってきた。

隣には妹もいる。これは一つやるしかないだろう。

 

「アキ」

 

「はい」

 

「馬に乗ろう」

 

「は……」

 

訝しむ妹をその場に置いて、父上を呼びに走る。

一声でやってきた父上が鞍をつけてくれて、馬に乗るのを手伝ってくれた。

 

「大丈夫かい?」

 

「平気です」

 

上背がないから自力で馬に乗ることはできないが、一度馬に乗ってしまえばこっちのものだ。

馬に乗れない父上が俺のことを羨ましそうに見ている。なんだか優越感を感じてしまう。

 

「アキ。おいで」

 

「はい」

 

相変わらず胡乱気な表情だが、呼び掛けには素直に応じてくれる。

差し伸べた手で妹を引き上げ、俺の前に座らせた。

妹は馬に乗り慣れていないので重心がフラフラと移動して危なっかしいが、後ろから腰に手を回してしっかり支える。

片手で手綱を操って回頭した。

 

「それでは少し散歩してきます」

 

「走らせちゃダメだよ。危ないからね」

 

「はい」

 

やはり羨ましそうな父上に見送られ家の敷地から外に出る。

草地から土を踏んだ途端、蹄が小気味よく鳴った。

歩くたびにパカパカとリズムよく鳴る足音には、リラックス効果があるのかもしれない。聞いているだけで気分が落ち着いてしまう。

 

「景色はどうだ」

 

「高いです」

 

「良い眺めだろう」

 

「はい。とても」

 

最初は緊張していた妹も段々慣れてきて、今は俺に体重をかけるぐらいには順応していた。

普段より二倍以上高い場所から見る景色は格別の感慨があるに違いない。

キョロキョロとひっきりなく周囲を見回す様に笑みがこぼれる。

 

村の住人が馬で闊歩する俺たちを遠巻きに眺めていた。

妹だけならともかく、俺がいるから声をかけようにも躊躇しているようだ。

こちらから話しかけてみて、妹の対人能力を向上させるにはいい機会かもしれない。

けれど折角楽しんでいるのに水を差す真似も控えたかった。

またの機会にしよう。

 

そんな事を考えて避けていたのだが、こういう時に限ってあっちからやってくる奇特な人がいる。

背筋がピンと伸びた初老の男性。動物の毛皮をベストのように加工して羽織っている。とても温かそう。

進路方向からやってきたその人は、俺たちの横で立ち止まった。

 

「なんだぁ。馬なんか乗りやがって。見せびらかしてんのか? 羨ましいねえ」

 

どことなく喧嘩腰なのはいつも通りなので特に気にしない。この村で数少ない、向こうから接してくる人だ。仲良くしよう。

 

「ごきげんようゲンさん。いい気分ですよ。ご一緒にいかがですか」

 

「馬鹿言いやがれ。落ちて骨でも折ったらどうすんだ。もう若くねえんだ」

 

ゲンさんはふんと鼻を鳴らし、妹をジロッと見た。

妹は頑なにゲンさんを見ようともせず、視線は真正面に固定されている。

 

「相っ変わらず愛想のねえ小娘だ。挨拶の一つもありゃあしねえ。これで人気者だってんだからわかんねえな」

 

「俺にも少し分けてほしいぐらいですね」

 

「お前は気色悪すぎるわ小僧」

 

相変わらず物事をはっきり言う人だ。

そのせいで俺と同様に距離を置かれている。

親近感を抱くのに十分な理由だった。

 

「今日はどちらへ?」

 

「散歩だ。用も何もない」

 

「山の様子はどうですか」

 

「変わらん。今年は冬眠するだろう。前みたいなことは起こらんよ」

 

「それは良かった」

 

「ああ。良かった。血まみれの餓鬼なんざみたくねえからよ」

 

言いたいことだけ言って、ゲンさんは通り過ぎて行ってしまった。

その背中を見送る。初老とは思えないがっしりした身体つきだった。猟師は身体が資本である。男と言えども見えない所で鍛えているんだろう。また一つ親近感を感じてしまった。

 

「ちまみれ……?」

 

妹が呟く。

 

「怪我をした人がいるのですか?」

 

「昔の話だ」

 

「……ひょっとして、それは兄上のことでは?」

 

「よくわかるな。けど過ぎたことだよ」

 

痛々しい経験はあまり思い出したくない。

会話を打ち切り、馬を歩かせ村を練り歩く。

訓練場にも行きたいが、馬を歩かせるには少し危ない。

そこまで道が整備されている訳じゃない。しかし頑張れば通れそうではある。

どうしようか悩む俺を余所に、妹は質問を浴びせ続けていた。

 

「兄上が怪我をされたのですか? いつですか?」

 

「ずっとずっと昔のことだよ。もう治った」

 

「平気なんですか? どうして怪我をしたのですか? 本当に大丈夫ですか?」

 

「平気。子供だったんだよ。なんでも出来ると思い込んでいたんだ」

 

「どういうことですか? なにをしたんですか?」

 

「木の棒を振っていたら(あやま)って怪我をしたんだ。本当にそれだけ」

 

それはそれで別の話ではあったが、事実ではあるのでそっちを言っておく。

齢10にして生傷絶えぬ人生である。

 

「それよりアキ。向こうに子供がいるね」

 

指さす方向に子供が5人いる。

男の子一人に女の子四人。肩身の狭そうな組み合わせだ。

 

「アキより年下かな。こっちを見てるね」

 

「……はい」

 

「乗りたそうにしてる。一声かけようと思うんだけどどうかな」

 

「無視して通り過ぎましょう」

 

「アキ……」

 

「構うことはありません。通り過ぎましょう」

 

「どうしてそんなに邪険にするんだ。子供が嫌いなのか?」

 

「大っ嫌いです」

 

「……」

 

そこまで言われると何と反応したらいいかわからない。

兄妹そろって友達一人いない現状、妹だけでも何とかしたいのだが、本人にその気がなければ難しい。

俺と言う反面教師が身近にいるのに、どうしてこうなってしまったのだろう。

 

「友達は大事だ。俺が言えたことじゃないけど、寂しい時だって一緒に居てくれるし、困ったことがあれば力になってもくれる。大切な関係だ」

 

「兄上。私は兄上と母上と父上がいれば寂しくありません」

 

腰に回していた腕をぎゅっと掴まれる。

それは離れないと言う意思表示のように思えた。

 

「俺はいつまでも一緒にはいられない。いつかは家を出る。母上にもそう言われている」

 

「なら、その時まで一緒に居てください。それだけで十分です」

 

「出来ればずっと一緒に居てやりたいけれど」

 

遠くに離れても、生きている限り繋がりがある。

会おうと思えばいつでも会える。生きるとはそういうことだ。

 

けれど人はいずれ死ぬ。

死んでしまったら最後、会うことはできない。

繋がりは断たれ、永遠の別れを余儀なくされる。記憶ですら少しずつ薄れていく。

人は二度死ぬと言う。物理的な死と、記憶からの死。その論で行くのなら、俺に限っては四度死ぬことになる。

それはもうどうしようもないことなのだ。

 

「アキ。いつかお前にも友達が出来たらいいなと思ってる」

 

「いりません」

 

「でも、本当に素晴らしいものなんだよ。いつか教えてやりたい」

 

頭の中に浮かぶ顔や名前。

それらは時と共に薄らぎ、死を迎えようとしている。

決して避け得ない。不可逆的な現象だ。

けれど、この先本当に彼らを忘れてしまったとしても、彼らと出会い、経験し、感じたことは一生心の中にあり続ける。それだけは忘れることはない。

 

経験は財産だ。財産は人の営みを豊かにしてくれる。

ああ、素晴らしきかな人生。

この素晴らしさをこの子にも伝えたい。

本人が何と言おうと、ゆっくり少しずつ。真心こめて。

人生とはかくも素晴らしきものなんだと知ってほしい。

 

少なからず俺の影響を受けているこの子に、色々なことを教えたい。

嬉しいこと、嫌なこと、楽しいこと、苦しいこと。甲乙つけず人生の全てを。

それが前世を持つ俺の務めだろう。

 

強情に頭を振る妹をぎゅっと抱きしめながら、そう心新たに決意した。



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5話

春。

束の間小雨が降り、雨が上がったならまばゆい蒼天が空一面に広がっている。

照る日差しは温かく、風は夏の到来を思わせる心地よさ。

鳥のさえずりの爽やかさと胸いっぱいに広がる新緑の匂い。

雪解け水が川を流れ、水の冷たさとせせらぎに清涼感を感じる季節である。

 

春の陽ざしを一杯に受けながら、鳥のさえずりと川のせせらぎを一度に聞ける場所に俺はいた。

良い所取りしている自覚はなかった。頭の中はそれどころではない。

視線の先には遊ぶ子供たちがいる。元気いっぱいにはしゃぎ回っている。

春を堪能する余裕がないわけは、その子供たちである。

 

この季節は子供は川に近づくことを禁じられている。

雪解け水で増水していて、大人であっても危ない時がある。

しかし禁じられれば逆にやりたくなるのは人の性だ。

子供と言う我欲の塊ならばなおのこと。好奇心旺盛で行動力溢れる子供ほど手の焼けるものはない。

大人たちがちょっと目を離した隙に川遊びに興じるのは、毎年恒例になっていた。

そして、そんな子供たちを茂みに隠れながら見守っている俺は完全に変質者だった。時代が時代なら通報されている。その自覚はあった。

 

今俺の眼前にいる子供たちは、いつか馬を遠巻きに見ていた五人である。

男一人に女四人。相変わらずバランスが悪い。子供は他にも多く居るが、この五人は幼馴染的な関係なのだろう。見かける度にいつもこの五人だった。

切っても切れない腐れ縁。羨ましい縁だ。是非ともうちの妹も加えていただきたい。年上だしリーダー的存在でいかがだろうか。

 

浅ましい願望を一人で募らせる俺のことなどどうでもよく、子供たちは靴を脱ぎ浅瀬で川遊びに興じている。

きゃっきゃと水をかけ合う姿は微笑ましいの一言である。

水遊びで満足して、何事もなく帰ってくれればよかったのだが、残念なことに服を脱ぐ子が現れてしまった。

あとは雪崩のように全員服を脱ぎ、泳ぎだすだろう。

 

浅瀬で遊ぶ程度なら大目に見てやれたが、泳げるほど深い場所で遊ぶのなら問題である。

この時期、突然水量が増加する鉄砲水が起こらないとも限らない。

何かあってからでは遅い。自然の猛威を食い止めることはできない。

こうなってしまえば、注意するのが大人の役目である。

 

スッとその場に立ち上がり、わざと足音を響かせて子供たちに近づく。

少しも歩かない内にまず一人気が付いた。男の子だ。「あ」と言う顔で俺を見つける。

それを契機に全員が気が付いた。ピタッと時が止まった。

 

無表情を堅持する。腰の刀を見せびらかす様にする。

無言で、大股で、いささか早足で子供たちに接近。

すると子供たちは徐々に顔を青くする。すでに腰が引けている子もいた。

とどめは肩をいからせる感じで荒々しい歩き方。怒ってるように見える感じで。

それで子供たちは悲鳴をあげて逃げ出してしまう。

 

女の子は「きゃーっ」男の子は「わーっ」

とんでもない声量で山彦が聞こえた。

やっといてなんだが、脱ぎ捨てていた服を一枚忘れてしまうほど恐慌状態に陥ってしまった。転んで怪我しないと良いが。

 

結末として、一人ぽつんとその場に残される。

荒波に揉まれた子供はいないのだから、最高の結末と言えるだろう。

とりあえず忘れて行った服を回収して懐にしまった。あとで母上経由で返すとしよう。

 

そんな感じで、今年の春は子供たちの悲鳴と共にやってきたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

春は出会いと別れの季節と言うが、この世界に義務教育はなく、学校もない。

出会おうにも別れようにも、そんな機会は与えられていない。

俺のような田舎者にとっては、春は田植えの季節。そして狩りの季節である。

 

「明日は山に狩りに行く」

 

春宵一刻値千金。

だが月のない夜分には自然を楽しむこともままならない。

静謐な夜を甘受し、夕飯を済ませた妹が床に就いた時分。

寝る前に話があると母上に呼ばれ、居間に赴けば前置きもなくそう告げられる。

突拍子のない発言にも、この10年ですっかり慣れたものである。

 

「この時期に狩ると言えば、犬ですか?」

 

「そうだ」

 

この村から西の方角には山脈がそびえたっている。

そこには多数の動植物が暮らしている。

前世にもいた兎やリスがいれば、まるで見覚えのない生き物もたくさんいる。

習性や特徴も種によって変化していて、前世では冬眠しなかった生き物がこの世界では冬眠する。

 

「冬が明け、繁殖期に入った。今狩らねばまた増える」

 

「そうですね」

 

獣の数が増えればその分山の食物は食い荒らされる。

食う物がなくなれば人里に下り、家畜を食い人を襲う。

 

特に今話題にしている犬どもの繁殖力は異常だ。一度の出産で4~5匹は産む。それを繁殖期では月に一度のペースで行う。

ネズミ算式に増えていく。放って置いたらとんでもないことになる。

絶滅させるつもりはないが、ある程度個体数を減らすのは必要な作業だ。

 

「いつも通り(げん)と行くが、今回はお前も来い」

 

「よろしいのですか?」

 

「構わん。源はとやかく言うのだろうが、お前が足を引っ張ることはないと考えている」

 

「足を引っ張らなくても、お役に立てるかはまた別問題でしょう」

 

「初めて狩りをする人間に、そこまで期待してはいない。ただ着いて来い」

 

「わかりました」

 

部屋の真ん中、囲炉裏の火がパチリと音を鳴らす。

冬は終わったが、朝晩の冷え込みは依然として厳しい。

冬の間は暖をとる目的で妹と一緒の布団に包まるのが日課だったりするが、まだ続いているぐらいには寒い。

 

「ちなみに、父上はこのことを承知されていますか」

 

「反対していたが、承知させた」

 

「無理矢理頷かせたんでしょう。だからこの場に居ないのですね。今はどこに?」

 

「不貞寝している。父のことはあまり気にするな。私が何とかする」

 

何だか想像力膨らむ言い回しだ。

これはひょっとして、期待していいのだろうか。

春だしな。繁殖期だしな。自然の摂理に則るならそういうことだよな。

 

「……下世話な話で恐縮ですが、俺はもう一人ぐらい妹か弟がいてもいいと思っています」

 

「本当に下世話だな。突然何を言う。その知識はどこで覚えてきた」

 

「まだ母上も父上もお若いでしょう。作ろうと思えば作れるはずです」

 

「私ももうじき30だ。今子を成すのは将来のことを考えると得策ではない」

 

「損得で考えることではないはずです。生まれてくる子供がかわいそうだ」

 

「決定事項のように言うな。私は剣聖なのだ。身籠れば腕も鈍る。いつ殺されるとも限らん」

 

「護衛と万が一の敵討ちはお任せください」

 

「アキに期待する。お前はさっさと婿に行け」

 

俺ももう11歳だ。

成人が15歳。15になっても結婚していなかったら行き遅れと言われる。

結婚するなら相手を探さないといけない。もう時間はあまりない。決断の時が迫っている。

 

「母上。正直に申しまして、俺は結婚できる気がしません」

 

「なぜだ。理由は?」

 

「出会いがないからです」

 

「……村の女どもは」

 

「避けられます。こればかりはどうしようもありません」

 

振り返ると、赤ん坊の頃からとんでもない言動をしていた。

一番まずかったのは、冬眠に失敗し村を襲撃したクソ猿の群れに一人で突貫したことだろう。

 

この時期になると未だに語り草だ。

親世代はあれで完全に俺のことを忌避するようになってしまった。子供世代にもその感情が伝わっている。

最早俺の一存でどうにかなる問題ではない。

 

「……わかった。何とかしよう」

 

「母上。お気持ちは嬉しいのですが、無暗矢鱈と事を荒立てるのはおやめください。こう言うことはあくまで本人同士の気持ちが大事で――――」

 

「皆まで言うな。安心しろ。母に任せておけ」

 

「安心できないから言っています」

 

これで村中の女の子を集めて大規模なお見合いを決行されでもしたら、もう俺は村に居られない。恥ずかしすぎる。そんな下らないことで決断したくない。

 

「母上。自由恋愛ならば親はあまり出しゃばらず、後ろで見守るぐらいが丁度よいかと」

 

「子供の結婚相手を探すのも、親の役目の一つだ。出会いの場を設けるぐらいはしてもいいだろう」

 

「自由恋愛推奨ではなかったのですか」

 

「無論そのつもりだ。だから私がするのはあくまで出会いの場を設けることのみ。後は好きにしろ」

 

「母上……」

 

村中を巻き込んだ大規模お見合いが現実味を帯びてきた。

いつにも増して注視しておかねば。少しでも予兆が見られたら即座に止めねばならない。

 

「明日は早く発つ。もう寝ろ」

 

「くれぐれもお願いしますが、関係ない方々に迷惑をかけないようにしてください」

 

「わかったわかった」

 

母上はうんざりと言う調子で寝室へ向かう。

父上の機嫌取りも兼ねてるはずだ。どういう方法で機嫌を取るかはお任せである。

 

居間に一人残された俺は火の後始末をする。

火を消すと部屋は暗闇に包まれ、瞼の裏にぼやっとした光が残った。

さっさと寝よう。明日は早いのだから。

 

 

 

 

 

 

翌朝。

いつも通りの時間に起きた。日は昇っていない。

起きようと少し身体を動したら胸元で寝ぼけ声が聞え、一気に目が覚めた。

 

「あにうえ……」

 

布団の中で妹が引っ付いている。

暖かさを求めてぎゅっと抱き着かれていた。

 

いくら妹が一度寝たら起きないと言えども、さすがに乱暴に引き剥がしたら起きるだろう。

起こさないよう、苦心して慎重に引き剥がし、足音を忍ばせて部屋を出る。

 

家の中は薄ら明るい。

引き剥がすのに時間がかかったせいで、既に朝日がこんにちはと顔を出していた。

居間に行くと母上が火を焚いていた。囲炉裏の真ん中で鍋が煮えている。

 

「おはようございます」

 

「ああ」

 

端的に答えながら、ぐつぐつと煮える鍋から目を離そうとしない。

 

「顔を洗って来い。これを食ったら発つ」

 

「何を作っているんですか?」

 

「粥だ」

 

「言ってくれたら早起きして作りましたのに」

 

「子供は寝ていろ」

 

「今から寝て良いんですか?」

 

「早く顔を洗って来い」

 

母上に軽口は通用しない。

何を言っているのだと馬鹿を見る目で見られるのがオチだ。

 

冗句が滑った恥ずかしさを胸に抱きつつ、家の裏手にある井戸で顔を洗った。

井戸水自体はそれほど冷たくはないが、風に吹かれた所から早朝の肌寒さが伝播し、ぶるりと寒気が全身を襲った。

 

居間に戻ると母上が椀に粥をよそっていた。

母上の手料理は何気に初めてだ。まずは一口。

 

「しおあじ……」

 

「不味いか」

 

「不味くも美味くも」

 

「そうか。……そうだな」

 

母上も同じ感想を抱いたらしい。

二人で無言で食べ進め、母上に少し遅れて俺も食べ終わった。

椀を置くと同時に、母上は懐から何かを取り出す。

 

「これを持て」

 

銀色の小さな球体。紐がくくり付けられている。

 

「鈴ですか」

 

「迷わないように気を付けろ」

 

前世でも山登りの際は熊避けの鈴が必需品だった。

しかしこれから狩りに行くのに、音の出る物を持ち歩いて大丈夫なのだろうか。

 

「これチリチリ鳴らして歩き回ったら獲物に逃げられませんか」

 

「逆だ。奴らはむしろ近づいてくる」

 

「あの犬っころに怖いものはないと」

 

「繁殖期で凶暴になっている。腹も空かせている。人間は格好の餌だ」

 

「狐狼は食べられるんですか。食べられるならいくつか持って帰りたいんですが」

 

「あまり食わんが、毛皮は使えるだろう。源に聞いてみるとしよう」

 

装備を確認する。

刀と水筒。それと母上が握った不格好なおにぎりだ。

 

「これだけですか」

 

「夜までには帰ってくる。これ以上は無駄だ」

 

山登りと言えば、もしものことを考えて非常食を持っていくのが当たり前だが、母上は遭難のことなど欠片も考えていない。

毎年のように犬狩りしているんだし、俺みたいな知識だけの頭でっかちより経験豊富だ。

ゲンさんもいるし、あまり心配する必要もないだろう。

 

「行くぞ」と母上の号令で外に出た。外は寒い。

山に登るならさらに冷えるだろう。

母上はお馴染みの外套を着ていた。地が黒で、赤いラインが入っている。暖かそうだが、動きづらそうに見える。

かく言う俺も似たような外套を着ている。親子でペアルックだ。傍から見たらさぞ微笑ましいに違いない。

 

戸を開けてすぐ目の前にゲンさんが立っていた。

直前まで火に当たりぬくぬくしていた俺たちと違い、ゲンさんは我が家の庭先で寒そうにしながら待ってくれていた。

肩に弓矢を担ぎ、しきりに手をこすり合わせている。

本当に戸を開けてすぐ目の前にいたものだから、少し驚いた。

 

「遅い」

 

「すまん」

 

待たされた文句は一言だけだった。端的な謝罪に鼻を鳴らす。

それから俺を睨め付け、一際不機嫌そうに顔をしかめた。

 

「本気でこんな餓鬼連れて行くんか。お前正気か?」

 

「いい経験になるだろう」

 

「男なんぞに経験を積ませて何になるっつうんだ。どうせなら娘の方連れて来い。そっちならまだ納得できる」

 

「アキにはまだ早い」

 

「あのなぁ、親の欲目なんだろうがな。(なぎ)よ。こんなことしても無駄だ無駄。お前も良く分かってんだろ」

 

「……そうだな」

 

母上が横目に俺を見てくる。

俺は黙って二人の会話を聞いていた。

 

「だが、もう連れて行くと決めたのだ」

 

「お前の家系は頑固者ばかりだ。知らんぞどうなっても。足引っ張るようなら見捨てるからな」

 

「心配するな。それだけはない」

 

「それが親の欲目つっとんのだ」

 

不機嫌さを身に纏いながら、さっさと一人歩き出すゲンさんに俺たちも続く。

ゲンさんに負けず劣らず、母上は深刻そうな顔で歩いていた。ちゃんと目の前見えているんだろうか。

 

「父上とは未だに喧嘩中ですか?」

 

「……ああ」

 

「綺麗な花でも摘んで帰りましょうか」

 

「……そうだな。そうしよう」

 

眼の前にそびえ立つ山。

一見して近いが、それでもかなり歩くだろう。

夜までに帰ると言っていたが、果たしてどうなるか。

山で一夜明かすことになれば、絶体絶命のピンチと言って差し支えなさそうだが。

 

暗闇の中無数の獣に包囲された図を想像してげんなりする。

それだけは絶対に避けねばと頭の中で対策を講じてみる。しかし知識だけの頭でっかちに良いアイディアを生み出せる訳もなし。

 

頭を悩ませる最中、腰に提げていた鈴がチリンと鳴った。

その音に導かれるように一つ思いつく。

 

これを利用してたくさん集めれば、それだけ早く狩りも終わるだろう。

なんなら血の匂いを垂れ流して誘き寄せればいい。他の獣も寄ってくるだろうが、母上がいるし何とかなる。

 

一先ずそんなところで行ってみよう。

野宿だけ避けられれば、正直あとはどうでもよいのだ。

 

頼りにしているぞと意を込めて、鈴を握りしめる。

チリンと涼やかな音色が返事のように鳴り響いた。




作中で触れる機会がなさそうなのでご説明。
この世界では狐と名につく動物には碌なのがいません。
作中で話題に上っている狐狼しかり、クソ猿あらため狐猿しかり。
狐が色々特別なんですね。


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6話

道なき道を突き進む。

山中に人が通れるような道はない。獣道すら見つからなかった。

例え道はなくとも進まなければならないので、無理やり藪を突っ切る以外に選択肢はない。

だが、藪を通るとどうしてもあっちこっち引っかかって擦り傷ばかり出来てしまう。一度や二度なら何とも思わないが、ずっと続くとちょっと辟易する。

 

俺がうんざりしている側で、母上とゲンさんは平気そうにしている。流石と言うべきだろうか。

と言うか、ゲンさんは手袋や肌着、頭巾などで全身をきっちり保護していた。

対する俺と母上は外套以外は普段着だった。山に登るにしては明らかに装備が甘い。

やっぱり本職は違う。平気な顔で藪に突っ込み傷だらけになっている母上は少し見習うべきではないだろうか。

 

出来る限り母上の後ろにくっついて、少しでも楽をしようとする。

そんな甘い考えがいけなかったのか。大自然は洗礼を浴びせかけてきた。

突然目の前に現れたのは断崖絶壁。楽なんざさせてたまるかと声が聞こえてくるようだ。

 

頑張れば何とか登れるぐらいの勾配なのが厭らしい。足を引っかける箇所も多くある。

こちらには頑張ることを厭わない人がいる。

ゲンさんの年齢を考えれば、普通は迂回して然るべきなのだろう。

しかし母上にそこまでの配慮を期待できないのは、この10年で嫌と言うほど思い知った。

思った通り、先頭を行く母上は立ち止まらず、背後の俺たちを顧みることすらせず崖に脚をかけた。見ている間にどんどん登っていく。

 

猿のような身軽さを見せつけてくる。

俺は人間なのであれの真似事なんかとてもじゃないが出来ないが、だからと言っていつまでも立ち止まってるわけにはいかない。行くっきゃない。まずは若い人間が登る。

途中生えている木に掴まったり、四つん這いになったりしてある程度登ったら、上からゲンさんを引っ張り上げる。

ゲンさんは文句ひとつ言うことなく懸命に登っていた。年のわりによく動く。

山狩りは毎年のことだし、多分慣れてるんだろうな。

 

登り切った後は息を整えるのに小休止。

ぜえ、はあ、と肩で息をするゲンさんに、母上が水筒を手渡した。

どれだけ鍛えていようと、寄る年波には勝てない。

 

汗を拭いながら、たった今登り切った斜面を振り返った。高所からの眺めはとてもいいが、足を踏み外したら終わりだ。こんなところをよく登ったものだと自画自賛する。

 

ここから村は見えるだろうかと遠くを見る。木に邪魔されて村は見つからなかった。見えた所で豆粒程度だろう。双眼鏡があればと思うが、ない物ねだりでしかない。この世界にレンズはあるだろうか。ガラスや鏡はあったけど。

 

そろそろ行くかと誰ともなく腰を上げた時、ゲンさんが何かを見つけ、一時固まる。

次の瞬間、這うようにして駆け寄ったのは一本の木。

 

「おい。これ見ろ」

 

ゲンさんが触っているそこだけ樹皮が剥がれ、樹液が漏れ出ていた。

よく観察すると何かがひっかいたような跡が無数についている。

 

「奴らの仕業か」

 

「いや、位置が高い。この爪痕はたぶん熊だ」

 

ただでさえ熊は厄介なのに、冬眠明けとなると殊更厄介である。

飢えた獣は人だろうが何だろうが見境なく襲い掛かってくる。

 

「近いんですか?」

 

「臭いがしねえからな。近くにはいねえな」

 

ゲンさんの見立ては信用できるが、用心のため鈴を鳴らしてみる。

甲高い鈴の音が響き、森の奥からは静寂が返ってきた。周囲には何の気配もない。

 

「村から近い。ついでにこれも狩るとしよう」

 

「こいつはかなりでけえが、いけんのか?」

 

「なぜわかる」

 

「高いって言っただろうが。抉れてる所を見ろ。そこの坊主よりたけえぞ。あとは足跡だ。見ろ」

 

茂みを掻き分けたそこには足跡があった。

人間のように細長い足ではない。

全体が円を描くように丸く、五本の指先からは長い爪が生えているのが分かる。

ゲンさんの言う通り、これが熊の足跡だとするとかなり大きな個体になりそうだ。

 

「ふむ……」

 

「いけるか?」

 

「問題ない」

 

「よし」

 

登山を再開する。

熊の存在で弛緩していた空気が否応なく引き締まった。

熊は獣臭さで近くに居ればすぐわかるが、万が一風下から接近されたら発見が遅れるかもしれない。

奇襲に弱いのは人も獣も同じだ。

風の向きには絶えず注意して、慎重に進むことを余儀なくされた。

 

山の奥へ進むにつれ、空気の質が徐々に変わる。

春の爽やかな空気はどこへ行ったのか。息をするのも億劫なほど粘り気を帯びた空気。肌にベタッと纏わりつく不快さ。急に湿度が上がったような感覚。

 

近くに川でもあるのかと耳を澄ましても水音は聞こえない。

そもそも湿度が高い時の感覚とは少し違うようだ。この感覚には本能的な危機感を呼び起こされる。身体に沁みついた癖で思わず抜刀したくなる。

 

……これはあれだな。母上に殺気向けられた時の感覚だな。

 

「母上。この先に何かいるようですが」

 

「わかるか。流石だな」

 

「……あん? 何の話だ」

 

ゲンさんは感じ取れないらしい。

刀を向けられたことはあっても、殺気を向けられたことはないのだろう。

どんな素人でも、一度母上の殺気を体感すれば身体は覚えてくれる。トラウマの可能性に目を瞑ればこれほど手っ取り早いこともない。

今度試しに体験してみてはいかがだろうか。頼めばやってくれる。

 

「源。死臭だ。近いぞ」

 

「……」

 

すんすんと鼻を鳴らしてみるも、ゲンさんは嗅ぎ取れなかったようで半信半疑な様子。

それでも周囲を探る目に警戒心が色濃く宿った。いつでも矢を放てるように弓を握る手に力が籠る。

 

無言で慎重に進んだ。足音一つ立てぬよう気を付けた。

その内、血の匂いと腐臭が辺りに立ち込み始め、ゲンさんの喉がごくりと動く。

 

「待て」

 

母上の制止に即座に停止する。

指さす方向にどす黒い血痕があった。

 

それは点々と草木に付着していた。

移動しながら撒き散らしたように、小さく細かく無数に飛び散っている。

 

血痕の行く先を確認し後を追う。

鼻が曲がりそうなほどの悪臭のせいで臭いは嗅ぎ取れない。

耳と目に神経を集中し、一歩一歩確実に進む。

 

そこから然程離れていない場所でついに見つけた。生き物の死骸だ。

 

「こりゃあひでえ……」

 

一目見て、ゲンさんがそう溢す。

辺り一面が血飛沫で染められ、死骸にたかる虫が耳障りな羽音を奏でている。

 

中心には生々しい肉塊が散らばっていた。

高所から飛び降りたかのように、内臓や肉片が無造作に転がっている。

これが一体なんの動物なのか、元の姿は皆目見当もつかない。下品に食い散らかされた、むごたらしい惨状だった。

 

「なんですかこれ」

 

「さあなぁ……」

 

生前の姿を知りたい好奇心はあった。しかし長居したい光景ではなかった。

周囲には虫が飛び回っているし、足元の肉片には蛆が湧いている。

まだ春先なのに腐敗が進んでいた。鼻で呼吸したら、濃密な腐臭でむせそうになる。

 

「骨は残っているな」

 

「確認しますか」

 

「お前は周囲を警戒していろ」

 

何のためらいもなく肉片に触れる母上は、一際長い骨を漁り出してじっと観察を始めてしまった。

俺は周囲に気を配り、万が一にも襲撃されないように警戒する。

ゲンさんは辺りに散らばった肉片などを調べていた。地面に付いた足跡も見ている。

 

「たぶん、熊だな」

 

何かを見つけたゲンさんはそれを手に摘まみながら結論付けた。

血に濡れた毛皮。元の色は恐らく茶色。

 

「熊って筋肉質でまずいんじゃないんですか?」

 

「調理の仕方によってはな。獣くせえが、きっちり血抜きすれば食えねえこともねえ。つうかそれは人が食う時の話だ。生で食う奴らはそんなこと気にしやしねえよ」

 

がらんと音がした。

母上が手に持っていた骨を投げ捨てた音だった。

 

「大きい熊だ」

 

「わかんのか」

 

「見ろ。背骨だ。熊ならほとんど人と同じだ。比べれば大体分かるだろう」

 

母上の足元に転がる骨を見て、ゲンさんは顔をしかめる。

 

「でけえな……」

 

通常、背骨の太さが小指ほどなら、これは人差し指以上はある。

背骨が大きければ大きいほど、支えていた図体も大きいはずだ。

 

「狐狼は熊も狩るのか」

 

「普通は狩らねえよ。むしろ狩られる側だ。それでも狩ったっつうことは、それだけ飢えてんのかもしれねえ」

 

「これだけ大きな個体を仕留め切るか。群れの数はどれぐらいになる?」

 

「山ほどだ。多すぎてわからん」

 

土に残る足跡はいくつも重なって判別不能になっていた。

ゲンさんでもわからないほどに。

 

「一足先に繁殖期に入りでもしたか。この数は異常だ」

 

「元々年がら年中増える奴らではあるがな。冬が明けたばっかでここまでとなると記憶にねえ」

 

沈黙が場を支配する。

腹立たしそうに舌打ちするゲンさんとは対照的に、母上はどこまでも冷静だった。

足元の死骸を見、森の奥を見、やってきた方向を見る。

一度帰るのも手段だろう。狐狼の数が多いのなら、こちらも増援を連れて来ればいい。堅実な方法だ。

だが母上はそれは選ばず、俺を見てふっと笑った。

 

「連れてきて正解だった」

 

「はあ?」

 

ゲンさんが訝しげな声を上げる。

 

「戻さねえのか? ここまででかい群れ相手に足手まとい庇う余裕ねえぞ」

 

「このまま行く。戻しに行く時間がもったいない。なにより意味がない」

 

正気かよと天を仰ぐゲンさんを無視して、母上は俺に告げた。

 

「レン」

 

「はい」

 

「お前の力が必要だ。役に立て」

 

「わかりました」

 

我ながら良い返事だった。

期待されているのなら、全身全霊を持って答えなければなるまい。

意気込む俺に母上は満足げに頷き、ゲンさんは気炎を上げた。

 

「おいおいおいおい。ちょっと待て!」

 

「くどい」

 

一言で斬って捨てられ、ゲンさんは鼻白む。

だが母上の言葉は余りに言葉足らずだった。

もはや余計な問答に費やす時間はないのに、それでは怒りを助長させるだけだ。

 

「くどいじゃねえ! いいか、俺は反対だぞ! 血まみれの餓鬼の治療なんざ――――」

 

「源。半歩ずれろ」

 

母上の急な注文にゲンさんは動けなかった。

茂みに身を隠し、ゲンさんに襲いかかろうとする痴れ者がいる。

母上は気が付いた。当然、周囲を警戒していた俺も気が付いていた。

頭に血が上っていたゲンさんだけが気が付けなかった。

 

「っ!?」

 

次の瞬間、痴れ者はゲンさんの喉笛を噛みちぎろうと跳びかかる。

母上の場所からではゲンさんを守れない。

だから俺が斬った。

 

「――――」

 

斬り上げられた獣に、断末魔はなかった。

ぬるりとした感触が刀越しに伝わってくる。

生き物を斬ったのは初めてだ。思っていたよりもずっと生々しい。

死の間際にぶつかった視線が、命を奪ったと言う自覚を生んだ。

 

スローになっていた時間が動き出す。

血飛沫が舞い、獣臭さと鉄臭さが鼻をつく。

 

飛び散った血がゲンさんの服を汚した。

思っていたより助けるのがギリギリになった。たぶん、無意識下で斬るのを躊躇したのだ。

だがもう斬った。ならば次はない。

一度踏み出したのなら、二度と躊躇することはあり得ない。

 

「ご無事ですか?」

 

「……」

 

首を斬り、絶命させた狐狼を前に、ゲンさんは呆けたままだ。

あれだけ気を抜いていて、咄嗟に矢をつがえたのはさすがの反射神経と言える。

母上の突拍子のない言葉に気を取られていなければ、自分で返り討ちにしていたかもしれない。

 

俺が殺した狐狼は緑色の毛の大きな狼だった。

大きさは一メートル強。犬歯が発達していて、もちろん四足歩行する。

今でこそ毛の色は緑だが、季節によって毛は生え変わると言う話だ。昔村に下りてきた奴は、雪景色に融け込む白い毛並みだった。

 

狐狼の死骸を見下ろす俺に、母上が声をかけてくる。

 

「生き物を斬ったのは初めてか」

 

「殴った事ならあります」

 

「そうだったな。……それで、気分は?」

 

「語るほどのものではありません」

 

「そうか」

 

次いで、未だに呆けているゲンさんを見る。

 

「たった今、息子はお前の命を救ったが、まだ異論はあるか」

 

「……いや」

 

はっと我に返ってバツが悪そうな顔になる。

それから伺うようにして俺に尋ねた。

 

「本当になんともないのか」

 

「別に吐きはしませんよ」

 

「こんなもんじゃねえぞ。この群れとやるんだぞ。これとおんなじのがたっくさんいるぞ。それでも平気か」

 

「毛皮売れるなら小遣い稼ぎにもってこいですね」

 

「この小僧は……」

 

はぁとこれ見よがしにため息を吐き、気持ち悪いものを見る目で俺を見る。

 

「やっぱお前気色悪すぎるわ」

 

「子供に言う言葉ですか」

 

「お前の台詞は子供の台詞じゃねえんだよ」

 

言い捨てて母上に向き直った。

 

「とりあえず文句はねえ。言っとくが、もしもの時は見捨てるからな。そん時はお前が何とかしろ」

 

「そうしよう」

 

問答は終わった。

山の奥に向かって歩き始める。

 

斬った狐狼は、残念だがここに置いておくことにした。

毛皮の剥ぎ取りよりも優先することがある。

どうせ、この十数倍と言う数を斬ることになるのだ。一匹ぐらいどうでもいい。

 

鈴を鳴らしながら、狐狼の群れを探す。

 



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7話

先ほどから遠吠えがひっきりなしに聞こえてくる。

空に轟く咆哮はあちこちに反響しつつも、ゲンさんや母上の手にかかれば出所がどこなのか大まかに分かる。

そちらに向かいながら年貢の納め時だと意気込んではみたが、あっちも逐一移動しているらしく、中々距離が詰められなかった。

近くにいるのは間違いないが依然として姿一つ補足出来ていない。

 

「あの犬よく鳴きますね」

 

「ああ……そうだな」

 

答えながら釈然としない顔のゲンさん。

理由は母上が教えてくれた。

 

「これほど遠吠えが続くのは初めてだ。源。奴らのこれはどういう意図だ」

 

「わからん」

 

即答が返ってくる。

ゲンさんの長い猟師家業でも初めてのことらしい。

こうする間にもまた一つ遠吠えが響き渡った。

 

「ここまで頻発するのなら、何か目的がありそうですね」

 

「何かとは何だ」

 

「さすがに狼語は理解できませんので」

 

「狼語……」

 

引っかかるものがあったらしい。

口の中でその単語を繰り返す。

 

「源。狼はなぜ遠吠えをする」

 

「はぐれた仲間に群れの位置を伝えるためだ」

 

「そうか。……狐狼は言葉を話せるのか?」

 

「は?」

 

「狐狼は言語を扱うのか?」

 

「知るかそんなもん。俺だって犬語はさっぱりわかんねえよ」

 

「そうか」

 

突然母上がその場に立ち止まった。

俺たちも慌てて急停止する。

 

「どうした!?」

 

「これ以上は無駄だ」

 

「はあ!?」

 

ゲンさんの問いに、母上は信じがたい言葉を返した。

聞きようによっては諦めると言っているようにも思える。

だが母上がそんなことを言うはずがないことは、俺もゲンさんも嫌と言うほど理解していた。

 

「源。最後に一つ教えろ。奴らの視力は?」

 

「そりゃあ……人よりうんと良いんじゃねえか?」

 

「正確に教えろ」

 

「ええい、こんな時にんな細けえことを……あー、確か3~4倍って聞いたことがある!」

 

「3~4倍か……」

 

母上が目を細めて遠くを見据えた。

そこから一向に動こうとしないので困惑する。この後どうするつもりなのかまるで分からなかった。

森の奥が騒めいているような感覚にとらわれ、内心の焦りを紛らわしつつ隣のゲンさんに聞く。

 

「物知りですね」

 

「猟師だからな。獲物のことはよく知っとる」

 

「それにしても博識だと思いますが」

 

「……ま、昔の杵柄だ。おい! 奴ら10町先の匂いを嗅ぎ取るぞ!」

 

あまり詮索されたくなかったようだ。

母上に追加の助言を与えて、落ち着きなく周囲を見回した。

獣の臭いが濃くなっている。風下や風上は関係ない。全方位から臭って来た。

 

「聞け。囲まれている」

 

「知ってます」

 

「恐らく、先ほどから連続している遠吠えで私たちの位置を伝達している。私たちをここまで誘き出す目論見もあったかもしれん」

 

「え……ほんと?」

 

思いもしなかった可能性に、思わず口調が砕けた。

母上が物珍しそうに見てくる。

こほんと咳払いする横でゲンさんが声を荒げた。

 

「んなわけあるかっ! 寝言は寝て言いやがれ!」

 

「だが囲まれているのは事実だ。奴らは包囲網を敷き少しずつ狭めている。間もなく全方位から同時にやってくる」

 

「っ……! ……だからってなあ! 狼がそんな軍みてえな統率力もってたまるか!! そんな賢い連中じゃねえ! 俺が一番よく知ってる!!」

 

「『狐憑き』が現れた可能性がある」

 

その一言で直前までの勢いが完全になくなった。

パクパクと口を開け閉めし、発すべき言葉は何も出てこない。

明らかに狼狽えていた。視線が俺と母上の間を泳ぐ。

 

「……本気か?」

 

「わからん。だが私はそう思う」

 

「……」

 

なんだか緊迫してきた。

この会話に割り込んでいいものなのか。

俺が知っている狐憑きは精神病だが、聞く限りそんなニュアンスではない。違う意味合いがあるように聞こえる。

 

「狐憑きとは?」

 

「後で教える。今は対処が先だ」

 

「対処法はどのように?」

 

「群れの全滅よりも長を殺すことを優先する。あれの正体が何であれ、生き延びさせるのは危険だ」

 

「嗅覚と視覚で先んじて我々の接近を察知すると思いますが」

 

「ならば近づかずに斬るまで」

 

「……よしんば、長が『三の太刀』の届く距離にいるとして、居場所に見当はついているのですか?」

 

「今から探す。故に、することは一つだ。この場で狼共の群れを迎え撃つ。そして見つけ次第群れの長を殺す」

 

「囲まれていますが」

 

「だからなんだ」

 

迎撃よりも包囲網を一点突破する方がどう考えても楽です。

そんな言葉が口を衝いて出かけたが、母上にとってはこの場で群れのボスを探す方が重要らしい。

『狐憑き』に対する認識の差だろうか。ゲンさんからも目立った反対はない。こちらは諦めてるだけな気もするが。

 

「レン。私は長を探すことに専念する。お前は自分の身と源を守ることだけを考えろ」

 

「それは……」

 

はいとは言えなかった。

自分の命だけなら気楽なものだ。死のうが死ぬまいが、それは自分の責任で決めたことなのだから。だが他人の命を背負うとなると話は違う。他人の命に責任は持てない。もしものことがあった時、償うことなど出来ようはずがない。

 

「……なあ、せめて見晴らしの良い所にしねえか。ここで迎え撃つのはあんまりに不利だぜ。射線が通らなきゃ矢も刺さらん」

 

「この近くに見晴らしのいい場所はない。移動してる最中に追いつかれるだろう。ならばここで迎え撃つ方がましだ。覚悟を決めろ。自分の身を守れ」

 

周囲に目を配れば、木や茂みや岩が目につく。

足元は多少傾斜になっていて、攻撃にしても回避にしても、この地形では苦戦は必至だ。

 

遮蔽物の多いこんな場所では弓矢は本来の威力の半分も発揮できまい。

一匹や二匹迎撃出来たところで、後から後から際限なくやって来る群れに対応しきれなくなるだろう。

だからこそ母上は俺に守れと言っているのだろうが、やはり自信がない。

 

「レン。出来るか出来ないか、それだけを答えろ」

 

「出来るか出来ないかわかりません」

 

「誰がそのような中途半端な答えを求めた。お前は己の力量も把握できない愚か者か」

 

「母上。人命がかかっているのに、安易に請け負うことはできません。命はそれほど安くない」

 

「お前なら出来る。私が請け負おう」

 

「根拠は?」

 

「宙を舞う枯れ葉と地を這う狼。どちらが容易か、比べるべくもない」

 

あんな手探りな修行を見られていたことに恥ずかしさがこみ上げる。傍から見た構図は一人遊びに熱中する子供以外の何者でもなかっただろう。

だが、情けなさと同じだけ嬉しさもあった。ここ半年ばかり稽古を付けてくれなくなり寂しく思っていたが、きちんと見てくれていたのだ。

なんだかそれだけでやる気が起きる。我ながら単純である。

 

「わかりました。やります」

 

「やるかやらないかではない。出来るか出来ないかだ」

 

「出来ます」

 

「取り消しはきかんぞ」

 

「男に二言はありません」

 

「よくぞ言った。それでこそ――――」

 

言葉が途切れる。

母上は茂みの影から跳び出してきた狼を切り捨てていた。

居合いで斬り捨てられた狐狼は、横に一刀両断された。生々しい音ともに血がばら撒かれ、分断された身体がごく僅かな差で地に落ちる。

 

「来るぞ」

 

母上の言葉と、一際大きな遠吠えが開戦の号砲となった。

足音と息遣いがあちらこちらから聞こえてきて、負けじとばかりゲンさんが吠える。

 

「おい小僧! 本当に大丈夫なんだろうな!?」

 

「ご安心ください。お茶の子さいさいなので」

 

冗談めかして緊張をほぐす。自分自身への叱咤の意味合いもあった。

最早後には引けない。守ると言ったのだから、何が何でも守る。それだけだ。

 

刀を抜いた直後、構える暇なく左右の茂みから同時に出てきた。

一閃薙ぎ払って一掃する。それを一顧だにすることなく次に備える。

木々や茂みに隠れて見えないが、少なくとも10匹以上はいるようだ。

絶えず移動して襲い掛かる隙を探っているに違いない。

 

ゲンさんは茂みの向こうへ次々矢を射っている。

キャンと甲高い断末魔が絶え間なく聞こえた。姿が見えずとも捕捉できている。見習わねば。

 

母上は細かく移動しながらも、襲い掛かってくる狐狼を切り伏せている。その間、視線は遠くを見続けていた。余裕ありそうだ。あっちは気にしなくていいな。

 

「矢が足らんな。こりゃあしんどいぞっ……!」

 

張り上げられた声に頷きで返す。返答する余裕がない。次から次へと狼共は襲い掛かってきている。

 

確か矢筒には20本から30本ほど入っていた。

しかしどれだけ斬っても射っても、茂みの向こうの轟きは陰りを見せない。

数十匹ですらまだ足りないか。だとすると百匹。それ以上。矢はまるで足りない。

 

100匹と言う正確な数を認識すると同時に、自分の呼吸が乱れていることに気が付いた。

今まで休みなく動き続けている。斬った数は10を超えている。

だが狼共のラッシュが止まらない。一匹斬った瞬間にはもう一匹が跳びかかってくる。

こんな調子では満足に呼吸も出来ない。身体が悲鳴を上げ始めた。

 

段々と動きが鈍くなり、集中力が散漫になる。

踏ん張る足が重く感じられる。僅かな傾斜が毒のようにじわじわと効いてきていた。

 

いよいよもって捌き切れなくなる。

いっそ全部俺に向かってきてくれれば身体は勝手に動くのに、群れの半分はゲンさんを狙っている。

俺を狙う物とゲンさんを狙う物。二種類の動きを常に把握しながら戦うのは、思った以上に集中力と体力を必要とする。修行不足を痛感した。

 

僅かな気の緩みから、何匹か斬撃をすり抜けゲンさんに噛みつこうと迫った。

振り向いた先で、ゲンさんは手に持った矢で直接狼の脳天を突いていた。小ぶりなナイフで残りの狼を牽制したところを、俺が後ろから斬り捨てる。

 

瞬間的な危機は脱した。だが今ので更に追い込まれた。

一つ誤ればそこから雪崩を打って瓦解する。動揺した隙を狙いすまされる。

 

ゲンさんの背後から、狐狼が一匹忍び寄っていた。

俺は正面の大群に気を取られていたため気づけず、ゲンさんは窮地を脱したことで無意識に気が緩んでいた。

ゲンさんの右腕に噛みつかれた時にはもう遅かった。

ぐしゅりと牙が食い込む音と共に鮮血が噴き出すのを間近で見る。背筋が凍った。

 

――――しまった。

 

声を出す時すら惜しい。即座に斬る。

狼は絶命し口を放したが、傷口から垂れる血は軽傷のそれではない。

ゲンさんは脂汗を流し、奥歯を食いしばって膝をつく。

こうしている間にも、狐狼の襲撃は続いている。応急処置はおろか心配する余裕すらない。

 

斬っても斬っても後から後から湧いて出る。

押されている。動揺を鎮められない。この数を一人では対処しきれない。

母上の方にも襲い掛かっているが、数はこちらの方が多い。

弱った人間を仕留めてしまおうと、今やほとんどがゲンさんを狙っていた。血の匂いが誘き寄せている可能性もある。

 

全ての方向から気配がする。

いつどこから跳び出してくるのかまるでわからない。

既にギリギリだ。見てから対処したのでは遠からず間に合わなくなる。ゲンさんを守れない。

 

焦りが行動を雑にする。

迷いと動揺が思考に空白を生んだ。

対応できたはずの一匹が意識の隙間を掻い潜る。

 

追いかけようとしたが追いかけられない。

その一匹を支援するように、狼共の猛攻が勢いを増した。

 

「ぐあぁ!?」

 

背後で悲鳴。

まずいまずいまずい。

どこを噛まれた? 腕か足か? 一先ず致命傷ではないのか?

 

どこを噛まれていようが、痛みで抵抗は封じられているはず。群がられればあっという間に噛みちぎられる。

残酷な未来が頭に浮かぶ。助けなければいけない。なのに助ける余裕がない。目の前のことで手いっぱいだ。

 

考えろ考えろ考えろ。

何か手はあるか。目の前の物を処理しつつ背後に手を回せればいい。たったそれだけのことだ。

 

元々遅かった時の流れがさらに遅くなり、考える時間だけが与えられた。

身体は動かずとも、次の行動を決める猶予がまだ残っている。

 

ありったけの知恵を絞る。

一つだけ、この状況を打破する手があった。

禁忌ではある。使ってはならないと母上に念を押されてすらいる。

けれど命を一つ守れるのなら、何も惜しむものなどない。

事ここに及んでは、躊躇する理由など何一つなかった。

 

「六の太刀――――」

 

続く言葉と同時に全てを薙ぎ払うつもりでいた。

持てる力を振り絞り、一気に押し返す心づもりだった。

 

だが技の発動の直前、突風が吹き抜ける。

竜巻が発生したかのような強風に、思わず腕で顔を庇った。

 

それが狼共を前にして明確な隙であることに気づき、慌てて刀を構え直す。

しかし来るはずの狼が来ない。足音も息遣いも聞こえない。未だ気配は無数にあると言うのに。

狼たちにとってもこの強風は予想外のものだったらしい。俺たちを囲む狼は唸りつつも一様に硬直していた。姿勢を低く、嵐が過ぎるのを待つ様に微動だにしない。

 

何が起こったのかまるで分らないが、いつの間にか母上が目の前に立っている。

この人が何かをした。それだけは分かった。

 

「母上……」

 

「落ち着け」

 

短い言葉だった。

だが心の奥にストンと落ちた。

上がっていた息を落ち着かせ、束の間安息が訪れる。

 

「それを使うまでもない。レン。お前は私の息子だ。この程度の試練、造作もないはずだ」

 

「……」

 

「今まで培った経験。磨いた技。全てがお前の味方だ。焦る必要はない。あの修行は無駄ではない」

 

「……はい」

 

「お前が無理なら私がやろう。だがそうすれば『狐憑き』には逃げられる。だからもう一度だけ聞く。この狐狼の群れはお前に任せたい。……出来るか?」

 

「はい」

 

気取らず答えた。

最初のように良い返事ではなかっただろう。

胸の内からは気負いも焦りも動揺も消え、さながら凪いだ水面のように穏やかになっている。

母上は元居た立ち位置に戻り、俺はゲンさんのすぐ側に寄る。

 

「おい小僧」

 

「なんでしょう」

 

「椛がなんかやったようだが、撤退か?」

 

「いいえ。このまま最後まで行きます」

 

「言っとくが、俺は死ぬ気ねえぞ」

 

「はい。殺す気も見捨てる気もありません。どうぞ安心して、右腕と左足の止血をしてください。後は全部俺がやります」

 

母上が群れのボス探しに戻ったことで、狼たちは一度上がった警戒レベルを一気に下げた。

動く気配は心なしか直前よりも血気盛んの様な気がした。

あと一歩のところで邪魔が入った。今度こそは、と言う気迫が感じられる。

 

こうして改めて見るとやっぱり数が多い。

けど、まあどうにでもなるか。そんな気がしてきた。

 

短く息を吸い、短く吐いて、意識を集中する。

精神が肉体の殻を破り世界へ浸透する感覚。

焦らずゆっくり、穏やかに。成るがままに全てを受け入れて。

 

潜り込むほどに感覚が研ぎ澄まされていく。

奴らの息遣い、足音、体勢に至るまで手に取るようにわかった。

生きているのなら必ず痕跡が残る。ただそこに在るだけの枯れ葉に比べて、何と分かりやすい。

 

長いこと心を占めていた焦りや不安、恐怖が消えていく。目の前のことだけに集中できた。

今まで知らず知らず余計な力が入っていた。肩ひじ張って生きてきた。ここまで楽になるのはいつぶりだろうか。

 

今度は深く息を吸い、吐き出すと同時に脱力する。必要なのは斬るのに必要な最小限の力だけ。それ以上の力はいらない。

幸いにして俺の刀は鈍らではない。母上に授かった刀は名のある刀ではないけれど、間違いなく名刀だった。込める力は僅かでいい。

 

――――いける。

 

数匹斬って確認する。

次を確認する余裕も、息をする余裕もある。これなら群れが100匹だろうが1000匹だろうが関係ない。

 

時に斬り、時に五の太刀で受け流した。

背後から迫る狼に、受け流した狼をぶつける。

殺生一辺倒では限界がある。柔軟さが必要だ。

殺すことよりも利用する方が効果的なら、そうしない手はない。前世の地雷なんかがその典型だろう。

殺し合いにおいては最後に立っていた者が勝者なのだ。そこに至る過程など、こだわった所で誰が評価してくれる?

 

一匹殺すごとに動きは滑らかになっていく。最適化された行動が余裕を広げていく。世界に融け込んだ精神はより深くまで潜り込んだ。

段々と自分がどこで何をしているのか分からなくなる。もしかしたら呼吸すら忘れているかもしれない。

取りあえず足元だけ気を付けなくては。血や死骸に足を取られたら立て直すのが面倒だ。余計な労力がかかる。

 

そんな事を考えながら斬り続けている。本当に余裕だった。

今までにないほど集中している。いつの間にか、狼たちの動きを完全に把握していたほどに。

次にどこから来るのか、あと何匹いるのか、奴らの感情まで手に取るようにわかる。

 

群れは数を減らしていく。最初の頃の威勢は既に消え失せている。内心逃げ出したくて仕方ない様だ。

それでも向かってくる理由は、未だに響く遠吠えに違いない。

この群れのボスは相当な恐怖政治を敷いたらしい。そのくせ自分は安全な場所から口だけ出している。

どうせ群れが壊滅したなら自分だけ逃げだすのだろう。気に入らない。どこにいる?

 

意識をさらに遠くへ広げる。戦いの趨勢は決した。残っているのはギリギリ10匹いるかどうか。この程度の群れで俺を出し抜くのは不可能だ。

あとは『狐憑き』とか言うやたら賢い群れのボスだけ。母上が探しているが、余程難儀しているらしく、今に至るまで見つかっていない。なら手を貸した方が良いだろう。

 

また一つ遠吠えが響き渡る。今度の咆哮は少し元気をなくしていた。手駒が全滅しかけているのにショックを受けているようだ。

今ので方向は分かった。母上の言う通り、逃げられたらとんでもないことになる。この統率力は脅威だ。恐らく周辺の群れを全て吸収してこの規模に膨らませたのだろう。時間を与えれば、また同じことが繰り返される。何としてもこの場で仕留めなければ。

 

危機感を募らせた矢先、母上の呟きが耳朶に触れる。

 

「見つけた」

 

精神が飛んでいた分、理解が遅れ脳裏で何度も反芻する。

見つけた……見つけた?

 

見つけてしまったのか。丁度探そうとしていた所なのに。

惜しいな。もう少しだった。もっと色々試したかった。

 

「レン。残り全てお前に任す」

 

「任されました」

 

なら仕上げだ。

木を一本切り倒し、臆病風に吹かれ固まっていた一団に落とす。

散った瞬間を狙い一匹ずつ首を斬り落とした。

 

守勢から突然攻勢に移ったわけだが、生き残り共はこれを好機と捉えたようだ。

束の間がら空きになったゲンさんに殺到する。この期に及んで、未だそれにこだわる意味がよく分からない。

当然、こうなることは読んでいた訳だから、特段慌てることなく納刀し、三の太刀で一網打尽にした

罠にかけて丸ごと殺すのは気分が良い。調子に乗って、射線上の木を何本か切り倒してしまった。

 

倒木については置いておき、これで狐狼の生き残りは数匹を残すのみ。その数匹もとっくに逃げ出している。勝てないと悟ったようだ。遅すぎるが、命を救ったのだから間に合いはした。賢いな。

 

一方、倒木で舞い上がった土煙の中、母上は一度刀を鞘に戻し居合の構えを取っていた。

完全な無防備だが、母上なら仮に取りこぼしたのが向かったとしても問題なく処理しただろう。

 

その視線の先には遥か遠く、切り立った崖がある。

木々の枝葉が邪魔をして見づらいことこの上ない。

群れのボスを探していたはずだが、まさかあそこにいる……?

 

いくらなんでも三の太刀じゃ届かないだろうと母上の行動を注視した。

母上は居合の構えのままで、ただし今までに見たことがないほど力を溜めている。

原理不明の威圧感がその身体から発散し空気が震えた。どこに隠れていたのか、鳥たちが一斉に飛び立った。

 

「ふっ」と短く息を吐く。抜かれた刀は音を置き去りにした。

わずかに遅れて小さな衝撃波が発生し、三度土埃が舞う。

斬撃はおろか太刀筋すら見えなかった。遥か遠く、群れのボスに命中したかどうかも分からない。

 

威圧感が雲散し、母上が緩慢に振り向いたことで全てを察することが出来た。

 

「……終わりですか?」

 

「ああ」

 

おざなりな仕草で、崖を指さした。

 

「あそこで見ていた。大した目と鼻だ。だが、もう殺した」

 

生き残りを探して油断なく周囲を探る母上は、自身の言葉を少しも疑っていない。この目で見たのだと言わんばかりだ。多分本当に見たのだろうけど、だとしたらこの人はどんな目をしているのか。

俺がどれだけ目を凝らしても、あそこに生き物がいるかなんてまるでわからないのに。

 

「ほとんど片付けたようだな。木を倒したのは驚いたが」

 

「興が乗りすぎました。反省しています」

 

「ほんの数本なら気にする必要はあるまい。むしろ、この規模の群れを相手によくやった」

 

上がりすぎたテンションは既に落ち着いている。だから、褒められても素直に喜べない。

ゲンさんに怪我を負わせてしまった。最初から出せる力を出し切れていれば、誰も傷つくことなく終わっていたはず。

当のゲンさんは巾着袋からいくつか瓶を取り出して、中身を傷口に振りかけていた。手と足にある痛々しい傷跡に思わず目を逸らした。

後悔が身を苛む。自分の未熟さが忌々しい。もっと力が欲しい。そう思う。

 

「……」

 

「あまり気にするな」

 

と、言われても。

 

「止血は済み、消毒もしている。見たところそれほど重症ではない」

 

あの瓶の中身は消毒液か。やけにカラフルだから毒か何かと疑った。

消毒液なんてよく持ってきていたものだ。巾着袋の中には包帯もあるようだった。

 

「完璧ではなかったかもしれんが、それでもよくやった。さすがは私の息子だ。誇りに思う」

 

「……はい」

 

肩を叩かれ労をねぎらわれる。それで肩の荷が下りた気分になり、緊張の糸がプッツリ切れた。疲れと倦怠感が一気に押し寄せた。

 

いつの間にか刀を握る手が震えていた。手も刀も血潮に塗れ、生臭い臭いを醸し出している。

俺もゲンさんも返り血や土ぼこりであちこち汚れていた。だがそれ以上に、周囲の惨状には言葉も出ない。

 

死骸は見えるだけで山と積まれている。倒木に押しつぶされて内臓が飛び出している物もある。見えていないだけで、茂みの中にはこれと同じぐらいいるのだろう。数える気などしないが、本当に100匹近くいたようだ。

 

切り倒した木を眺める。遅すぎるが、今更ながらに気がついた。

木や茂みに遮られ視界が悪かったのなら、手近な木だけでも切り倒して無理やりにでも開けさせれば良かったと。

切り倒した木は障害物として利用できただろう。俺と母上なら三の太刀を使い、少しもかからずに出来たはず。

もしそうしていたのなら、例え俺が力を出し切れなくともゲンさんは怪我をせず、もっとスムーズに群れを掃討出来ていたかもしれない。

 

終わった後にたらればを考えた所で意味などないが、今回のこれは反省すべき点だ。

腕力ばかりが力ではない。不利な状況を覆す知恵、工夫。それもまた力なのだ。

分かっていたはずなのに、いざ実戦が訪れたら腕力ばかりに頼ってしまった。

次は絶対に忘れない。そう心に誓った。

 

「おい椛。俺のこと忘れてねえだろうな」

 

「忘れるはずがない」

 

「本当かよ。……『狐憑き』とやらはやったのか」

 

「ああ、やった。お前も治療は終えたのか」

 

「止血から包帯までキッチリな。そこの坊主が化け物みたいに片っ端から切り伏せてたおかげだ」

 

「レンはよくやってくれた。だが、お前には怪我をさせてしまったな。すまない」

 

「いんや、この怪我は俺が気抜いちまったせいだ。この程度で済んで良かった。なにせこんだけ居たんだからな」

 

手に空の瓶を持つゲンさんは周囲の惨劇を指して肩をすくめる。

母上は足元の死骸を足で転がせて尋ねた。

 

「こいつらの毛皮は売れるのか?」

 

「ああ売れる。中々良い値がつくぞ。これだけあればしばらく働かないで済むぐらいにはな」

 

「お前の怪我は私の不明が招いたことだ。毛皮は全て譲る。その金で養生しろ」

 

「まあ取り分は後で相談だ。どうせそんなに多くは持って帰れねえだろ」

 

俺は疲労困憊。ゲンさんは手足を怪我し、五体満足は母上だけだ。

だが帰り道に襲撃される危険がある以上、戦力である母上に荷物を持たせることはできない。

そのことを考えると、やはりほとんど持って帰ることは出来ない。

これだけやって報酬は無しである。なんと割に合わない仕事だろうか。

 

「取りあえず持てる分だけ剥ぎ取って、後は諦めようや。欲なんざ出すもんじゃねえ。身を滅ぼすだけだ。なあ?」

 

「……そうだな」

 

「私がやろう」と母上がナイフを取り出したのを、ゲンさんは「そりゃ当然」と頷いた。

母上の背後からゲンさんがこうしろああしろと、解体方法について事細かに指示を出す。

俺も手伝おうとしたのだが、小休止を命じられ、黙ってその様子を眺めることになった。

 

「ゲンさん」

 

「あん?」

 

「大事ないですか?」

 

「ねえよ」

 

ゲンさんはぶっきらぼうにそう言う。

その様子は本当に元気そうではあったが、血のにじむ包帯が痛々しい。

気にするなと母上に言われ、ゲンさんも態度でそう示してくれるが、簡単に割り切れるものではなかった。

戦闘中の自分の動きを振り返ってみても、反省点は数多く見つかった。

それを思うとどうしても苦々しいものがこみ上げる。もっと上手くできたはずなのに。

 

そんな俺を見てどう思ったか。母上からもう一つフォローが入った。

 

「レン。源は医学の知識がある。本人が大事ないと言うからには間違いない。信用してやれ」

 

「医学?」

 

初耳だった。

杵柄って、もしかしてそれか。

俺は医療関係はてんで疎いが、広範な知識が求められるのは知っている。

それが本当なら、さぞかし勉強したに違いない。

 

「医者にでもなりたかったんですか」

 

「昔の話だ。おい椛、余計なことベラベラ話すんじゃねえ」

 

「許せ」

 

「許さねえよ」

 

仲、良いな。

親と子どころか祖父と孫ぐらい年が離れてるのに、年の差を感じさせない。

そう思ってみれば、この二人の関係も甚だ謎だ。母上に至っては敬語を使ってないし。

 

短く息を吐いて空を見上げる。

いつの間にか太陽は天頂を過ぎ、傾くばかりとなっていた。

この後すぐ山を下りるから、母上が握ったおにぎりは食べれそうにない。

折角不器用が不器用なりに握ってくれたのに。残念で仕方がない。

 

『狐憑き』とか言う群れのボスも、本当に殺せたかどうか確認にも行けない。

そう言えば、『狐憑き』についても聞かなきゃいけないが、それはまた今度でいいや。

今はとにかく守れたことを甘受しよう。

 

もう一度短く息を吐き、騒がしく解体を進める二人を眺める。

頭の中で、自分の動きを反省し続けながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

山狩りから数日が過ぎた。

あの日、毛皮を抱えて帰還した頃にはすっかり日が暮れていた。

無傷の母上に肩を借り、手足一本ずつ包帯を巻いているゲンさんと小汚くなった俺。

何も聞かされていなかった妹が、そんな俺たちを見て取り乱していた。とんでもない取り乱しようだった。命のやり取りを終えた直後だったので、その可愛らしさに癒されると同時に煩わしく思ってしまった。兄失格である。

俺は汚れただけで怪我はしていなかったので、その日は夕飯は食べず風呂に入ったらすぐに寝た。そのせいで、妹は翌朝まで取り乱したままだった。

 

剥ぎ取った毛皮はなめしている最中なのでまだ売れていない。

今回の山狩りで唯一の怪我人であるゲンさんは養生している。後遺症が残る様な傷ではないが、しばらく狩りには出られない。日々の生活にも難儀していると聞く。

父上が気を利かせてゲンさんの分の昼食を作ったので、今はそれを届けに行く途中である。

 

村の外れにあるゲンさん宅の扉を叩く。

安普請な作りのようで、叩いた音は軽く響いた。

 

しばらく待って返事がなかったので殴るように叩き続けた。

拳が痛くなるぐらい叩いて、ようやく扉の向こうからしわがれ声で応答があった。

 

「んだぁ?」

 

「おはようございます。もう昼ですよ。いつまで寝てるんですか」

 

「小僧か……何の用だ」

 

「お昼ご飯です」

 

「はあ?」

 

俺の手の包みを訝し気に見るゲンさんに、「父からです」と告げる。

ぽりぽり頭を掻きながら、どことなく申し訳なさそうな気配がにじみ出ている。

 

「あの人か……申し訳ねえな」

 

「純粋な好意ですので。遠慮して受け取らないとかないので」

 

「わかってる」

 

素直に受け取ったゲンさんは中身をちらと確認した。

 

「よろしく言っといてくれ」

 

「大喜びしていたと伝えておきます」

 

「好きにしろや」

 

話は終わりと扉を閉められかけたところで、無理やり身体を突っ込む。

 

「なんだぁ? まだなんかあるのか」

 

「お話があります」

 

「話?」

 

「『狐憑き』について」

 

「……椛に聞けば良いじゃねえか」

 

「聞いたんですが、ゲンさんの方が詳しいと逃げられまして」

 

「あの女……」

 

諦観交じりにため息を吐き、「まあ入れ」と家に上げてもらう。

 

家の中はごちゃごちゃしていた。

すり鉢とすりこぎ棒が無造作に放置してあり、近くには空の瓶が数本置いてある。

部屋の端には大量の木が山と積まれていた。あれは多分矢を作るのに使うんだろう。

壁には何本かの縄と何かの生き物の毛皮がかかっている。そこに猟師らしさを感じた。

 

足を引きずるゲンさんは敷きっぱなしの布団の上で胡坐を組み、俺は対面するように正座した。

昼食の包みを置いたところで切り出される。

 

「どこまで知っとるんだ。『狐憑き』のことは」

 

「何も知りません」

 

ゲンさんは何をどう言ったものかと必死に言葉を探している。

左右に揺れ惑うその目をじっと凝視した。

 

「あー。『狐憑き』っつうのはだ……。有り体に言うと民間伝承で語られる俗信のことだ」

 

「俗信?」

 

「昔からの文化や習慣、与太話なんかを口伝えで伝承しとるんだ。『狐憑き』も与太話の一つだな」

 

「与太ですか」

 

「この間のあれが本当に『狐憑き』だとは思っとらん。そもそもただの迷信のはずだ」

 

あの狼の群れを見てそう言い切れるということは、何か根拠でもあるのか。

それとも頑固なだけなのか。多分後者だな。

 

「では、『狐憑き』とは具体的にどのようなものなのですか?」

 

「普通の個体とは毛色の違う、様変わりな奴のことだ。そう言うのを纏めて『狐憑き』って言う」

 

「様変わりとは?」

 

「図体が頭抜けてでかいとか、他の奴らよりアホ程賢いとか。色々伝わっとるが、数があって全部はわからん。中には眉唾もんだろって伝承もある」

 

ゲンさんは一切信じていないようだが、前世の知識と照らし合わせれば、恐らく突然変異のことだろうと見当がつく。

この世界ではまだ突然変異について上手く説明できないから、『狐憑き』と言う言葉で誤魔化しているようだ。

ならば言葉自体に大した意味はないとも言える。しかし何故狐憑きなのか。前世の狐憑きを知っている身としては今一つ腑に落ちなかった。

 

「唯一共通しとるのは『狐憑き』は突然現れて、大抵の場合人に危害を加えるってことよ。年寄りほど忌み嫌っとる」

 

「昔、なんかあったんですかね」

 

「さあな。記録なんて残ってないからな」

 

「狐狼だとか狐猿とか、名前に狐がついている動物は何か関係がありますか?」

 

「それもわからん」

 

「わからんことばっかりじゃないですか」

 

「口伝ってのはそういうもんだ。前の戦争で文献は散逸しとるし、文化は断絶しとるしで、この程度でも調べるのは骨が折れた」

 

「そんな状態でよく調べられましたね。苦労したでしょう」

 

「こちとら猟師だぞ。生死に直結しとるんだ。そりゃあ調べるわ」

 

全くその通りだ。

俺だってある日突然化け物に遭遇する可能性があるのなら、必死こいて調べるだろう。

 

「ありがとうございます。大体分かりました」

 

「わかったのならとっとと帰れ」

 

「その前にもう一つだけ教えていただけますか」

 

「……なんだ」

 

「人の『狐憑き』が現れたことはありますか」

 

「知らねえな。帰れ」

 

もう一度礼を言い、最後は追い出されるようにしてお暇した。

 

家に戻る途中、村を横断する形になったので、隅々まで目を巡らせてみた。

昼時、農家のほとんどが昼休憩に移っていて人の気配は少ない。

ゆったり歩きながら、たった今ゲンさんから聞いた話を反芻し、この前遭遇した狐狼は果たして本当に『狐憑き』だったのかと疑問に思う。

もし本当にあれが『狐憑き』だったとしても、そもそも定義がよく分からないから判断しようもない。

群れの規模や統率力から言って、異常性は抜群だったから、やっぱり『狐憑き』で良いと思うが。

 

どれだけ悩んだところで所詮は過ぎたことである。あんなのとは滅多に出くわすまい。

今一番気になるのは、物の怪と狐でなんか違いはあるのかと言うこと。

物の怪が憑りついていると罵られたことのある身としては、それが一番気になった。

 



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8話

春になり、田畑から雪が消えたのなら種まきの時期である。

一次産業以外に然したる食い扶持の無いこの村では農業が盛んに行われている。

いつの間にか出稼ぎから帰還していた村人も含めて、総がかりで農作業に勤しむ光景は春定番となっていた。

 

日が昇ってから暮れるまで、根を詰めて種をまき、苦労が実って収穫する農作物の半分以上が税金で持っていかれる世知辛さ。

この世界には未だ貴族制が存続しているので、直接的に税金を取っていくのは国ではなく領主と言うことになる。

こんな辺鄙な土地であっても、税金逃れは許さぬと度々役人がやってきて監視の目を光らせていた。

 

ただ監視するだけなら勝手にやってくれればそれで済む話だが、来る役人来る役人横暴な人間ばかりで、何を勘違いしているのか時に暴力を振るう輩までいる。

そういう時は母上の出番である。

 

 

 

 

その日は快晴であった。一足先に夏がやってきたかのような陽気だった。

太陽が昇るにつれて気温もぐんぐん上がり洗濯物がよく乾く。家事が捗って仕方がない。

そんな風に上機嫌で家事をこなしていた最中、我が家の戸が荒々しく叩かれた。

 

戸が壊れそうなほどの勢いに何事かと玄関に向かい、現れたのは見覚えのある顔。

母上はいるかと唾を飛ばす勢いで尋ねてくるその人は、近所に住む村人だった。

 

応対した父上が訓練場にいる旨を伝えると、今すぐ呼んでもらいたいと懇願された。

訳を聞けば、役人がやってきたのだと言う。それは一大事だ。

 

「レン。行ってもらえるかい」

 

「お任せください」

 

走って訓練場まで向かう。

道中、畑の向こう側から罵声が聞こえてきた。

向けば役人らしき(なり)の人間が、村人を指さして天をつんざく様な怒声を浴びせかけている。

 

あの役人、来てからまだそれほど経ってないだろうにすでに感情が爆発している。

あの様子ではいつ暴力を振るうか分かったものじゃない。

急げ急げと訓練場へと駆ける。

 

倒木を跨ぎ、小石を蹴っ飛ばし、急いで林を抜けた先では、気絶した妹と仁王立ちで見下ろす母上が迎えてくれた。

思わず唖然とする光景に、一瞬何のためにここまで来たのか忘れてしまっていた。

 

「アキは無事ですか」

 

「気を失っているだけだ。なんの問題もない」

 

「良かったです」

 

ほっと息を吐き、用件を思い出す。

 

「母上、役人が来ました」

 

「またか。奴ら今度は何をした」

 

「わかりませんが、怒声が聞こえたので、いつも通り因縁つけられているんでしょう」

 

「懲りない奴らだ。アキを任せる」

 

返事も聞かず、母上は疾走した。

一陣の風と見紛うほどの脚力。気を抜けば瞬く間に見失ってしまう。

俺も事の結末を見届けるため妹を背負い、母上の後を追った。

 

 

 

 

妹の成長が著しい。

背丈は随分追いつかれている。体重もほとんど変わりないのではないか。

背負ったはいいが筋力不足だった。ズルズルと落ちそうになるのを、落としてたまるかと歯を食いしばって背負い続ける。

 

おかげで、着いたときには色々終わりかけていた。

今回視察に訪れた役人は普段に輪をかけてとんでもない輩だったらしい。

母上が刀を抜き、役人の鼻先に突きつけている光景を見れば、ここに至るまでの経緯を察することが出来る。

 

「もう一度言う。消えろ」

 

母上が低い声で唸る。役人は微動だにせず、冷や汗を流しながらじっと母上を見つめていた。

 

「死にたいのか」

 

「っ……!」

 

ついには殺気まで零れた。直接向けられていない俺ですら鳥肌が立つ。

それを真面に受けた役人は、刀の届く距離から逃げようと一歩後ずさる。それでも、それ以上は動かなかった。死の恐怖に直面しながらもその場に留まる姿勢に、思わず感服してしまう。

 

「……剣聖殿。あなたは何も分かっていない。我々は――――」

 

「貴様らの思想など知った事ではない。空にでも吠えていろ」

 

「私は……!」

 

「誰であろうと同じだ。何度言わせるつもりだ。私は消えろと言った」

 

最後通牒と共に威圧感が増す。役人は体の震えを抑えることが出来なくなった。

顔は真っ青で玉の汗が伝っている。歯の根が合わず、眦にはうっすら涙が浮かんでいた。

それでも母上を睨む目を止めることはない。爪が皮膚に突き刺さるほど固く拳を握りしめ、必死に踏ん張っている。

 

「……よく、わかりました。あなたはそう言う人なのですね」

 

役人は怒りと悲しみがごちゃ混ぜになった呟きを残し、覚束ない足取りで踵を返した。

近くに止まっていた馬まで歩き、ひらりと跨って西の山脈へ向けて駆け出す。

去り際、最後まで憎々しそうに母上を睨んでいたのは、大したクソ度胸だと思った。

 

役人が去ったことで一触即発の空気は雲散する。

事の成り行きを見守っていた村人たちは安堵の溜め息を吐き、母上に二言三言礼を言い、思い思いに農作業へ戻って行った。

 

俺と母上と、背中でぐうすか眠る妹だけになったところで、母上に尋ねる。

 

「刀を突きつけるのは珍しいですね。それほど癪に障りましたか」

 

「……くだらん挑発を投げられ少し脅したのだが、大人げなかったかもしれんな」

 

いささか悔いているようだった。

事あるごとに刀を抜いてそうな母上だが、実の所あまり抜かない。存外弁えている。きっちり線を引いているのだ。

その線を乗り越え、あまつさえ刀を抜かすほどの挑発とは何を言ったのか。

非常に気になる。あの役人、追いかければ聞かせてくれるだろうか。あの様子ではぶん殴られるかもしれないけど。

 

「それにしても、まだ種まきの時期だと言うのにわざわざ罵りにやって来るとは。暇なんでしょうか」

 

「暇には違いあるまい。むしろ喜び勇んで来ているやもしれん。罵る名分があるのなら、奴らは自由気ままに罵るだろう」

 

「罵られる覚えもないのですがね」

 

「我らにとってはそうだ。だが奴らの恨みは骨の髄にまで達している。戦争の遺恨はそれだけ根深い」

 

50年ほど前の話になる。この国は戦争をしていた。

それ自体は珍しいことではない。歴史を紐解いてみると昔から戦争ばかりしてきたようで、いっそ平和な時期の方が珍しい。野蛮と言って差し支えない。歴史書はたぶん血で書かれている。

 

しかし、この国がどれだけ戦慣れしていたとしても、運が絡む限り絶対はありえない。勝つことがあれば負けることもある。戦争とはそう言う物で、幸か不幸か、50年前の戦争では勝利を収めることが出来た。

勝利したからには褒美を受け取るのが道理だ。今俺たちが住んでいるこの土地は、元々は敵国の領土であり、その敵国を俗に東国と言う。

 

戦に負けた東国は海の向こうへ退却した。その際大勢の東国人が海を渡ったが、この地に住まう全員を連れて行けるはずはない。

残された敗残の民草たちは、祖国に見捨てられた失意と絶望でどん底に叩き落とされながらも、今日に至るまで懸命に命を繋いできた。

かく言う母上も東国の血を引く一人である。であるならば当然俺と妹もその血を引いている。哀れな民草の一員と言うことだ。

 

そうは言っても、戦争直後はともかく、50年経った今では無暗矢鱈と命を狙われることは少なくなった。

依然として差別意識は根強く残っているが、西国人からすれば東国人は敵だったわけで、それはもう仕方ないことと割り切る他ない。

先ほどの役人のように、罵詈雑言で済むのならまだ穏やかな方だ。稀に激情に駆られて剣を抜く人間もいる。そうなったら刃傷沙汰は避けられない。西にしろ東にしろ、恨みの連鎖が一つ増える結果となる。

 

母上が仰るには、これでも大分差別意識は薄らいだのだと言う。

元々タカ派に属していた現女王が穏健派に鞍替えした。おかげでタカ派は勢いをなくし、昼夜引っくり返したように一転日陰者となってしまった。

 

女王がなぜ穏健派に鞍替えしたのか、その理由は不明だ。国王と言う身分を考えるに、恐らく差別を助長していた筆頭のはずだが、何か心変わりする出来事でもあったのだろうか。年を取って丸くなったという線もあり得るか。

 

「50年前とは言え、戦争を経験した人はまだ生きています。当時のことを思えば嫌われるのはいっそ仕方ないのでしょう。しかしそれとこれとは話が別で、かかる火の粉は全力で払いますし文句など言わせませんが」

 

「……奴らの気持ちは、当事者になってみなくてはわかるまい。私には何一つ分からん。ただ一つ知っているのは、人は大抵の場合理屈よりも感情で動く生き物だと言うことだ」

 

一見感情がなさそうに見えて、実は感情最優先の母上が言うと説得力がある。

役人たちも感情最優先で差別しているのだろうが、母上には到底敵うはずがない。

 

実際、毎年やってくる役人たちは最初こそ威勢がいいが、母上がひょこっと顔を見せるとほとんどが顔を真っ青にして矛を収めてしまう。

今回のようなことは稀だ。剣を向けられなお噛みつき、殺気を浴びても耐え、最後は捨て台詞を残して帰ったあの役人は見所がある。もしまた来る胆力があるのなら、その時は訓練場に連れ込みたい。立派な剣士に鍛え上げよう。

 

「母上は役人たちに随分怯えられていますね。今の役人は例外ですが」

 

「そうだな……。怖がられるのはいつものことだが、あれは少し見所があった。少々惜しいかもしれん」

 

「あの方が再び訪れた際は訓練場に誘い出し、相互理解を深めましょう。きっと良い剣士に育ちます」

 

「一概に育つと断言は出来んが、あの胆力だけは興味がある。……考えておこう」

 

年上の妹弟子が出来るかもしれない。

家族が一人増えるようなものだ。楽しみにしておこう。

 

「それにしても、天下の剣聖が尊敬されるのは分かりますが、畏怖される理由がわかりません。どちらかと言うと母上個人が怖がられていると考えるのが自然でしょう。辛抱堪らず役人を斬ってしまったとか、そういうご経験はおありですか?」

 

「役人ではないが、似たような輩を斬ったことはあるな」

 

かまをかけたら即答だった。

特段驚くことでもないが、本当にあるのか。

是非とも事情をお聞かせ願いたい。

 

「時期と理由をお聞かせいただいても?」

 

「わざわざ話すことでもあるまい」

 

「気になります」

 

話したくなさそうだったが、少し粘ったらため息を吐かれ、仕方ないという風情で教えてくれた。

 

「……時期は私が剣聖になる前だ。斬ったのは当時の領主。理由は、そいつが悪党だったからだ」

 

「悪党と言うとどんな悪事を?」

 

「私腹を肥やすために不当に税を引き上げたり、町の人間を攫い売り払うなどしていた」

 

思ったより外道だった。

死んで当然とまでは言わないが、殺されたのであればそれ見たことかと言う他ない。

 

「当時の私はまだ若く未熟で、後先考えない愚か者だった。取りあえず屋敷に乗り込み、すったもんだの末斬った。思えばあの時ほど清々したこともないな」

 

「それはなによりです。一応確認しますが、三の太刀で遠くからと言う解釈で間違いありませんか」

 

「その時はまだ使えなかった。だから正面から斬り捨てた」

 

「最低限顔は隠したのでしょう?」

 

「お前は悪知恵が働くな。当時の私にもその知恵があれば獄に繋がれずにすんだかもしれん」

 

「その外道は曲がりなりにも貴族でしょう。よく死罪を免れましたね」

 

「師が庇ってくださった。おかげで死なずにすんだ」

 

「師とは母上の御母堂ですか」

 

「いや。母にも剣は教わったが、師は別だ。私が師と仰ぐのは、後にも先にも一人しかいない」

 

誰のことだろうか。

うすうす察するものはあった。故に聞かずにはいられなかった。

 

「それはどなたのことでしょう」

 

「先代の剣聖だ」

 

予想通りの返答に頷く。

先代の剣聖。俺はその人を知らないが、剣聖は代々受け継がれてきた称号である。母上と先代の間に何かしらの関係があってもおかしくはない。

 

「お会いしたことはありませんが、先代様はどのような方なのですか?」

 

「そうだな……。喋るのが好きな人だった。常に誰かと話していたように思う。人当たりも良く、弟子がたくさんいた。気に入った物は何でも極めたがる性質で、剣聖になったのもそれが原因だ」

 

「やはりお強かったのですか?」

 

「強い。それだけは間違いない」

 

「母上よりも?」

 

「いや、私の方が強い」

 

思った通りの答えだったが、言い方に違和感を覚える。

この言い方は自信があると言うよりも、自分に言い聞かせているような口ぶりだった。

先代を語っている時の母上は昔を懐かしみ晴れ晴れとした表情だったが、それを言う時だけは表情に影が差していた。

 

今遠くを見る目は焦点が合っていない。

決して戻れない過去を(しの)び、そして後悔している。

そこに何があるのか、ただ見つめることしかできない俺には杳として知れない。

目を瞑り、もう一度目を開けた時にはその感情はすっかり消えてしまっていた。

 

母上は俺を見て、一瞬視線を肩の方に逸らす。そして口を開いた。

 

「剣聖になる方法は大きく二つある」

 

「……急ですね」

 

「昔話のついでだ。聞いておけ」

 

そう言うなら、黙って拝聴しよう。

 

「一つは国に認められること。与えられた試練を乗り越え、国王に認められれば、剣聖を名乗ることが許される」

 

「さぞかし難しい試練なのでしょう」

 

「試練の内容は門外不出だ。私も知らん。噂では、過去死人も出たそうだ」

 

「……もう一つの方法は?」

 

「当代の剣聖に打ち勝つことだ」

 

母上の言葉に意外性はなく、そりゃあそうだろうなと言う感想を抱いた。

その難しさも、嫌と言うほど知っていた。

 

「剣聖は最強故に剣聖だ。一度でも負ければその時点で剣聖ではなくなり、勝ったものが剣聖になる。弱肉強食と言って良い。自然の摂理だ」

 

「なんだか物騒ですね」

 

剣での勝負は命がけのものだ。

余程実力に開きがなければ、相手を生かして勝つのは難しい。大抵の場合どちらかが死ぬ。運が悪ければどちらも死ぬ。身体の一部が欠損することだってある。

挑む方も挑まれる方も、そんなことは承知でやっているのだろうが、命のやり取りとなると若干の忌避感を感じずにはいられなかった。

 

「私もなりたての頃は大勢の人間に決闘を挑まれた。全て返り討ちにし、今がある」

 

「流石です」

 

「……」

 

母上は何か言いたそうに横目で見てくる。

しかし結局何も言わず、家へと引き返してしまった。

突然始まった話がやはり突然終わったことに内心驚きつつ、遠ざかるその背中に質問を投げかける。

 

「一つお聞きしたいのですが」

 

「なんだ」

 

「母上は先代の剣聖に打ち勝って剣聖になったのですか?」

 

「そうだ」

 

「つまり、先代を殺したと?」

 

「……いや」

 

背中越しに声が届く。

 

「殺してはいない。殺せなかった」

 

「では、今もご存命ですか?」

 

「……わからん」

 

振り向いた母上は無表情だったが、物悲しい気配を漂わせていた。

話す口ぶりも心なしか愁いを帯びている気がする。

 

「……いつか、私の全てを話すと言ったが、まだその時ではない。そう思う」

 

「いつでも好きな時に話してください。いつまでもお待ちしますので」

 

「ああ……そうしよう」

 

再び踵を返し、歩き去る母上を見送った。

その背中を見るとどうしても追いかける気にはならず、その場に立ちすくんでいた。

 

背中でアキが身動ぎし、掴む手にぎゅっと力が込められる。

その何気ない仕草に背中を押された気がして、思わず笑みがこぼれた。

 

頭上に広がる空を見上げる。

空は雲一つない快晴だったが、何となく雨の予感を抱いた。

季節の変わり目は天気が移ろいやすいから、もしかしたら本当に降るかもしれない。

 

まだ見ぬ未来に思いを馳せ、母上の後を追った。

 



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9話

夜明け前に降り出した雨は徐々に雨脚を強め、日が昇り切る頃には土砂降りとなってしまった。

地面の窪みに水たまりが出来て、水面に波紋が浮かんでは消えていく。遠くで雷が光り、少し遅れて轟音が鳴り響いた。

 

いつの間にこんなに降っていたのかと空を覆う暗天を見上げ、しばらくその場に立ちすくむ。

雨雲の行方は西だった。つまり風は東から西に吹いている。西には山脈があるが、標高はそれほど高くはない。どこまでも行ってしまうだろう。それが一体どうしたという話ではあるが。

 

現実逃避の合間も髪から滴り落ちる雫が鬱陶しい。服は下着まで濡れていて不快感で身震いしてしまう。

こうなる前に家に帰れば良かったのだが、鍛錬に夢中で気づかなかった。おかげですっかりずぶ濡れだ。

ここまでずぶ濡れになったのなら、もうこれ以上はどうやっても濡れることはないだろうと開き直って鍛錬に励むことにする。

 

そして、悠々と帰宅したところを父上に怒られた。「なにやってんの!?」と、粗相した子供を叱るように。

実際馬鹿だった。抗生物質はおろか科学的な治療薬すらないこの世界で、例え風邪であったとしても重症化したら死んでしまう。インフルエンザなんてもろに死の病だ。

毎年大勢の子供が病気に罹って死んでいるらしい。特に男の子なんて死にやすいんだからと、心配と怒りがないまぜになった説教を受ける。

 

少しの間説教が続いた。しかし怒り自体はあまり長持ちせず、一度大きく深呼吸したのなら冷静さを取り戻していた。

言いたいことを言い尽くした段階で「とにかくお風呂に入りなさい」と指示が飛ぶ。

濡れた体をそのままにしておくのはあまりに後が怖いと言う判断だ。理解できる。でもまだ朝だ。何なら朝食も食べていない。朝風呂なんて贅沢が過ぎると言うもの。

 

水と薪がもったいないから、布で拭いて火に当たるだけでいいのではと父上に意見を申し上げたら、今度こそ虎の尾を踏んでしまったらしい。先ほどまでとは比べようもない烈火の勢いで怒られた。

あの母上ですら部屋の隅へと避難してしまう。逃げることも出来ず、真正面から受けざるを得なかった俺は背筋を伸ばした。

 

父上が怒ることは滅多にない。普段怒らない人が怒ると怖いというのもあるが、それ以上に怒らせてしまったことが申し訳なくなる。

身を縮こませて粛々と説教を受けつつ、心は逃避行の真っ最中だった。嵐よ疾く去ってくれと心ここにあらずである。

身体から離れた意識が家の中をぐるぐると歩き回る。そのおかげで、庭先に人の気配があることに気が付いた。

どことなく覚えのある気配だった。まさかと思い改めて家の中を探ったら、妹の気配がないことに気が付く。

 

この時点で父上の説教は右から左に聞き流していたが、アキがこの悪天候の中外出していることに気づいて完全にそれどころではなくなった。

こうして俺が怒られているのを目の当たりにしながらなんという度胸。とんでもない妹だ。

 

「父上。アキの姿が見えません」

 

唐突に挟み込まれた俺の言葉に、父上はいささか以上に気を悪くした。

 

「だからなに? それいま関係ある? はぐらかそうとしてない? と言うか聞いてないでしょ。君は本当に反省して――――」

 

「たぶん、庭で木刀を振ってるのではないかと。聞こえませんか。素振りの音」

 

束の間静寂に包まれる。

囲炉裏の火が燃える音と雨雫が天井に当たる音。それに紛れて、何かが空を切る音が微かに聞こえてくる。

 

「ちょっと見てくる」

 

父上は足早に部屋を出て行く。

玄関の戸を開ける音が聞こえ、一瞬の間も空けずに怒鳴り声が響いた。

 

こっそり様子を窺うと、庭で木刀を振っていたらしい妹の首根っこを掴み、土縁まで引っ張り込んでいる。

見事にずぶ濡れになっていた妹だが、父上に叱られながらも無表情だった。火に油を注ぎまくっている。あの顔はもしかして反抗期に突入したのだろうか。ちょっと早すぎる気がするけれど。

 

妹の反抗期への懸念は一先ず置いておき、俺への説教は終わったので温まることにする。

居間の真ん中で焚かれる火に手をかざして暖を取った。

 

じわじわと体温が上がっていくのを実感する。

やっぱり風呂入らなくても良さそうだなあと思っていると、今まで部屋の隅で影を薄くしていた母上が俺の隣に座り、訊ねてきた。

 

「なぜ戻らなかった?」

 

今更すぎる質問だった。

今になって聞いて来る辺り、母上であっても激怒している父上は怖いと見える。

 

「気づくのが遅れました」

 

「ほう?」

 

興味深そうな声音と共に身を乗り出してきた。

 

「遅れたとはどういうことだ」

 

「それだけ集中していたので」

 

「雨が降っても気づかないほどにか」

 

「……無意識に頭の中から締め出していたのかもしれません」

 

集中力を極限まで高め世界に融け込んでいる時、余計な情報はシャットアウトされている。

いらない物を削ぎ落とし必要なことだけに集中しているのだ。

 

だから雨にも気付かなかった。雨なんて降って当たり前のものだから。俺が生まれたときから、それこそ前世から、変わらず降り続けているのだから。

 

「そうか。締め出しているか」

 

「母上はどう思われますか。これは不都合が生じるでしょうか。治した方が良いと思われますか?」

 

「そうだな……。私が思うに、この世に余計な情報など――――いや、待て……」

 

「母上?」

 

言いかけた言葉を飲み込み、難しい顔でむっつり考え込んでしまう。

幾ばくかの時を経て、母上が口にしたのは、打って変わってこんな言葉だった。

 

「――――何が間違っていて、何が正しいかなど誰にもわからない」

 

「は……?」

 

言っている内容は、言われてみればその通りかもしれないと思える言葉だった。ただ、母上には酷く似合わない言葉でもあった。

そんな哲学的な台詞が、直情径行をひた走る母上から出るとは夢にも思わなかった。

 

唖然とする俺に母上はふっと笑みをこぼして続けた。

 

「『だからと言って考えることをやめるのも愚か。どっちにしろ選ばなくてはいけないのだから、格好良く選んだ方が気持ちいいわ。絶対』」

 

「……誰の言葉ですかそれ」

 

「古い友人の言葉だ」

 

母上は天井を見上げ、思い出しながら語ってくれる。

 

「言われた当初は理解したつもりで小馬鹿にして笑ったが、今にして思うと解釈が間違っていたのかもしれん」

 

「どう解釈なされたのですか?」

 

「当時は額面通りに受け取り馬鹿にした。だが、実際はこの言葉自体に大した意味はないのだろう。肩ひじ張って生きていた私に、楽に生きろと伝えたかったのだと思う」

 

その人と母上の関係が分からないから何とも言えない。

言葉だけ抜き取るのなら、考えることは大切と言うことをかなり崩して伝えているように思える。

しかし母上にはそれ以外の部分で通じるものがあるのかもしれない。

 

「近頃はよく昔のことを思い出す。お前も驚いただろう。私も年を取ったということだ」

 

「まだ30ではないですか。弟でも妹でも、好きなだけ産めるお歳でしょう」

 

「いい加減諦めろ。これ以上子供を増やすつもりはない」

 

はっきりと断言されてしまう。

年の離れた妹か弟が欲しいと言う俺の願望は潰えてしまった。

 

「レン。いくら剣聖と言われども、私自身まだまだ未熟者だ。故に、お前への助言も間違っている可能性がある。それを頭に入れておけ」

 

「自信家の母上がこれまた珍しいことを仰るもので」

 

「剣聖は数ある到達点の一つに過ぎない。ここが全ての頂と言うわけではないのだ。他の道などいくらでもある。私など、運よく辿り着いたに過ぎない軟弱者なのだ」

 

「俺には辿り着くべくして辿り着いたように思えますが」

 

母上は一瞬目を伏せ、頭を振った。

それでこれ以上の言及は避けてしまう。

 

「……先ほどの答えだが、私は治した方が良いと考える。この世に余計な情報などない。全ては受け取り手次第だ。あるがままを受け入れ、頭を回せ。それで開ける道もある」

 

その言葉には同意見だ。

外界の情報をシャットアウトすることは、ある意味考えることを放棄することにも繋がる。

一つ仕損じれば死につながる剣の道では致命的だろう。

 

「では、二度とこのようなことがないよう気を付けます」

 

「それは私ではなく父に言え。あれも近頃は心労が溜まっている。安心させてやれ」

 

「はい。怒りが冷めた頃を見計らって伝えます」

 

「そうしろ。……それと、風呂には入れ。風邪をひけば剣の腕も鈍る」

 

「そうします」

 

母上の言葉に従って、未だ妹を叱っている父上を横目に伺いつつ、風呂を沸かすことにした。

 

 

 

 

 

我が家の風呂は狭い。

大人一人入れるぐらいの桶に水を張り、火を焚いて湯にする。

桶風呂は前世の家風呂が豪華絢爛に思える小ささだ。どうあがいても足を伸ばすことなど出来ない。ドラム缶風呂の方がまだ大きい。

身体を清めることだけを考えた結果だろう。技術も資源もない以上は致し方ないことだ。

 

風呂の水は井戸水を使っている。温めるための燃料は木を燃やす。

水にも燃料にも限りはあるので出来るかぎり節約をして、最小限の水と薪で湯を沸かした。

用意が出来たのなら湯が冷える前に即座に入浴である。

 

「はふぅ」

 

湯につかる妹の口からそんな声が漏れ出た。

頭の上に俺が載せた手ぬぐいを置きながらとろけた顔をしている。直前まで叱られていたとはとても思えない。

俺はそんな妹の様子を眺めつつ、対面するように向かい合わせに湯に浸かっている。

 

大人なら一人しか入れなくても、子供二人なら同時に入ることが出来る。だから、風呂に浸かる際は俺たちはセットで扱われる。俺が風呂に入るなら妹も入るし、妹が入るのなら俺も入る。そんな扱われ方だ。

 

長らくそんな扱われ方をされ、今この瞬間も変わることはないが、俺は11歳で妹は9歳になる。どちらも成長期だ。こうして一緒の湯に浸かっていると、あちこち触れ合う程度には大きくなった。

小さな頃からずっと一緒に入ってるから、今更そんなことを気にする間柄でもないとは言え、物事には限度がある。

いくら兄妹でも男と女であることに変わりないのだから、いい加減気にするべきかもしれない。

 

「はあぁ……」

 

顔まで湯につかる妹は本当に上機嫌だ。

足を広げ、出来る限りくつろごうとするおかげで俺のスペースがなく、膝を抱えて身を縮こませることを余儀なくされる。

 

「とても気持ちが良いです兄上」

 

「それは何より」

 

俺の身体のあっちこっちに妹の脚が触れている。その接触頻度はわざとやっているんじゃないかと思えるほどだった。と言うか、実際わざとだろう。これだけくつろいでいればそりゃ当たる。

 

妹は今や耳まで湯に浸かり水面から顔だけ出している格好なので、頭の上の手ぬぐいが落っこちて湯を漂っていた。

その手ぬぐいを掬ってアキの顔を覆ってみる。

突然視界が真っ暗になった妹は慌てふためいた挙句、身体を滑らせて派手に沈んでしまった。今度は俺が慌てる番だった。

 

「ごめん。平気か」

 

「ごほ、ごほッ! あにうえ、なにをするんですか……」

 

「悪戯心なんだ。すまん」

 

「うらみます……」

 

変なところにお湯が入ったらしく、鼻をすすりながらそんなことを言われる。じっとり睨む目は母上を彷彿とさせ、蛇に睨まれた蛙のように身が竦んだ。

次の瞬間、スイッと近づいてきて何をされるかと思えば、俺の肩に顎を乗せしなだれかかるだけだった。

「はふぅ」と気の抜ける声が耳元で聞える。恨みはこの一瞬で消え失せたらしい。

 

「湯加減はどうだ」

 

「はぁ……。気持ちが良くて、とても良い気分です」

 

「何より。……ところで、アキはいつから外にいたんだ? 俺が帰ってくる前からか?」

 

「ん……。兄上が帰ってきてすぐに外に出ました。鍛錬をしようと思って」

 

「こんなに雨が降っているのに。濡れてしまうだろう」

 

「兄上だって、雨の中鍛錬されていたではありませんか」

 

言う通り、直前まで自分がやっていたことだから、あまり強く妹を叱れない。

どの面下げて叱ればいいのか分からない。顔の面が薄い。良いのか悪いのか。

 

「……目の前で俺が怒られていただろう」

 

「だからなんだと言うのでしょう」

 

母上が良く言う言葉だ。それを言われた時が諦める時。反論も抵抗も全てを封じる魔法の言葉。

しかし妹が使うと反抗期としか思えない。まだ9歳なのに。

 

「父上に心配かけちゃダメだ。俺は反省した。もうしない。アキも二度としちゃダメだ。わかるね?」

 

「……」

 

折角言い聞かせたのに返事がない。

おーいと背中を叩いて反応を促してみても、見えない所でちゃぷちゃぷと水音がするだけだった。

 

これは、ここらで一つ厳しく言っておかないといけないか。

あまりそんなことはしたくないが、兄の務めでもある。嫌なことでも、妹のことを思うならやらなくてはならない。

 

説教するなら顔を見ながらだと引き剥がそうとする。

けれど妹は俺に抱き着いて意地でも離れようとしなかった。

 

「こら」

 

「ん……」

 

「離れなさい」

 

「んん……」

 

「離れて」

 

「んんーッ」

 

いくら肩を押してもビクともしない。力を込めれば込めるほど、逆に固くしがみ付いてくる。

もはや腕力では完全に負けているのか。これは困った。ここまで頑なだと打つ手がない。すっかり第二の母上が出来上がってしまっている。

 

こうなっては仕方ないので懐柔策で行く。

妹の頭を撫でつつ優しく言葉をかけ、少しずつ解きほぐしてみる。

 

「そんなに父上が嫌いかい?」

 

「……」

 

「嫌い?」

 

「……いいえ」

 

「じゃあ、父上の言うことを聞くのが嫌?」

 

「……いいえ」

 

「なら、どうして?」

 

「……兄上が」

 

「ん?」

 

「兄上が、そうしていたから……」

 

反応に困った。

俺のせいだと言いたいのだろうか。

正直身に覚えがない。俺のすることを全て真似しろなんて、言うはずがない。

俺が何も言えないでいると、アキの方から口を開いてくれた。

 

「兄上が雨の中鍛錬に励まれているのなら、私もそうしないといけないんです」

 

「間違っていることまで手本にする必要はないよ。俺が怒られたんだから、自分はやめておこうとは思わなかったのか?」

 

「……そうしないと、兄上の背中が見えなくなるから……」

 

「背中?」

 

「……兄上の、背中」

 

アキの声音はどんどん小さくなっている。

今や呟くぐらいの声音でしかない。抱き合っているから何とか聞きとることが出来た。

 

妹が言った背中という単語を頭の中で反芻する。

記憶が刺激され、思い浮かんだ情景がある。

数年前の冬の日。

村が猿の群れに襲撃され、たくさんの人が死んでしまったあの日のこと。

 

突然聞えた猿の鳴き声と、空をつんざく人の悲鳴。

白いはずの雪が赤く染まり、幾人もの村人が倒れている。

俺如きが駆けつけたところで誰も救うことはできず、ただ地に這いつくばり、あろうことか死にかけた。

結局、俺を含めて大勢の命を救ったのは、山狩りから急きょ駆けつけた母上だった。

 

瞬く間に数を減らす猿たち。

一匹残らず切り伏せ、無傷で佇む母上と血に濡れた赤い刀身。

 

あの時、あの瞬間、目の前で繰り広げられた光景は、全てが夢のようだった。

悪夢であり、物語でもあった。思えば、俺の人生はあそこから始まったのかもしれない。

 

あの時の背中を、俺は今でも忘れない。

それに比べれば俺ごときの背中なんてちっぽけなものだろう。

 

「……アキなら、すぐに追い越せる。何せ母上の娘なんだから」

 

「そんなことありません。凄く遠いです」

 

「遠く見えるだけだ。お前にはちゃんと才能があるから、焦る必要なんてこれっぽっちもないんだよ」

 

「……焦ってません」

 

耳元で聞こえる小さな声に、頭を撫でることで応える。

いずれこんな話をする日が来るのではないかと思っていた。

俺が前世を知っている分、妹のハードルが余計に上がっているのではないかと危惧していた。

 

今までアキは一度も弱音を吐いたことがない。

苦しいとか辛いとか、何一つ溢さずひた向きに頑張り続けてきた。普通ならとっくの昔に投げ出しているような厳しい鍛錬でも、文句の一つもなく従い続けてきた凄い子だ。そう、子供なのだ。

 

世間のことはなにも知らなくて、与えられるものを疑うことなく吸収する純粋無垢な子だ。

でも、どんな凄い子供であろうと遠からず社会を知り、現実を突きつけられる日がやって来る。

 

反抗期は自分が抱いている理想と実社会とのギャップが引き起こす。少なくとも俺の時はそうだった。

期待値が高い分、現実を知った時の失望感は計り知れない。そこからどのように立ち直るかは、環境に依る部分も大きい。

 

「最近、父上は俺たちのことが心配らしい。二人ともしょっちゅう怪我をしているし、俺なんかはこの前山狩りに行って随分心配をかけた」

 

「……」

 

「風呂から上がったら、一緒に謝ろう。心配かけてごめんなさいって、それだけは言っておこう」

 

「……」

 

「父上のこと、嫌いじゃないんだろう?」

 

「……はい」

 

ようやく頷いてくれた。

そのことが無性に嬉しくて、ぎゅっとアキを抱きしめた。

アキは腕の中で少し身動ぎをし、変わらぬ小さい声で呟いた。

 

「でも、もう少しだけこうしていてもいいですか?」

 

「……わかった。もう少しゆっくりしていようか」

 

いくら兄妹でも、裸で抱き合うことに思う所がないでもなかったが、そもそもここは風呂場だし、9歳の子供が甘えていると思えば大した抵抗はなかった。

俺のせいで普段の言動や立ち振る舞い、求められる結果で、かなりの期待がかかっているのは知っている。

だから、たまにこうして逃げる場所を作ってやるのは俺の仕事だ。人間定期的に休まないと、張りつめてばかりではいずれ潰れるのは目に見えているのだから。

 

胸の中で時おり身動ぎする妹の頭を撫でながら、これからは折を見て心休まる時間を作ってやらねばと思案に耽った。

 



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10話

「町に行く。支度をしろ」

 

朝食の折、魚の切れ身を頬張ろうとした時、母上がそんなことを言った。

既に朝食を食べ終えて、いつもより長めに食休みしていると思ったらこれである。

 

言うこと成すこといつだって突然すぎて、何を言われようと慌てることはなくなってきた。

それにしたって、本題の前に世間話の一つや二つ織り交ぜても罰は当たるまいに。

取りあえず、口に運びかけていた切れ身を咀嚼して考える時間を作る。

 

隣で妹がリスのように頬を膨らませているのはいつものことで、父上がどことなく元気がないのが気にかかっていた。

それに関係することだろうか。しかし関係性が見えない。

 

頭の中でどれだけ反芻しても、母上の言葉を聞き間違いとは思えなかったので、茶で流し込んでから聞き直す。

 

「なんと仰いました?」

 

「町に行く。支度をしろ」

 

同じことを繰り返される。

聞き間違いではない。この人は突然何を言うのだと、まじまじ母上を見つめる。

母上は自分の言葉が通じていないことに不安を感じているようだった。

 

微妙に歯車がかみ合わず、食卓に変な空気が漂い、アキが俺と母上を交互に見る。

この空気に耐え切れぬというように父上が微かな笑い声を溢した。

 

「……町に行きたいのではなかったのか?」

 

「――――あ……」

 

ようやく思い出した。

昨年の秋。機を見て町に連れて行くと母上と約束していたのだった。

あの時の本意は出稼ぎに行くことだったから、それがダメだった時点でそれ以外のことは綺麗さっぱり忘れていた。

 

「また随分唐突ですね」

 

「昨日まで降っていた雨が止んだだろう」

 

前々から機を探っていたらしい。

冬が明けて、そろそろ連れて行くかと思っていた所で雨が降り出し、一向に止まないので延期に延期を重ねていた。

今日になってようやく晴れたので、じゃあ行くかと当日の朝に言い出したわけだ。

 

「何はともあれ、約束を守っていただいてありがとうございます。それとこれとはまるで関係はありませんが、母上は報連相と言う物をご存知ですか?」

 

「知らん。なんだそれは」

 

「ご存じないなら結構です」

 

と、言うわけで。

町に行くことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おはようございます。お怪我の具合はいかがですか?」

 

「普通に暮らす分には問題ねえよ」

 

朝食を終えてすぐ、ゲンさんの家へ足を運んだ。

戸を叩いてもなんのいらえもなく、お出かけだろうかと辺りを探してみたところ、家の真後ろから人の気配を感じた。

そこには弓の弦を張り変えていたゲンさんがいて、俺の顔を見てしかめっ面になり、あからさまに嫌そうな気配を滲ませた。

 

「それは何よりです。今度弓の扱い方教えてください」

 

「断る」

 

「そう意地悪仰らずに」

 

「他を当たれ」

 

手元を見つめながらの返答は取り付く島がなかった。

しかし押せば行けそうな手ごたえを感じる。

 

「ではまた折を見てお願いします」

 

「何度頼んでも無駄だぞ。それより一体何の用だ。厄介ごとなら断る」

 

「厄介ごとではありませんのでご安心ください」

 

「頼み事もなるたけ聞きたくねえな」

 

「そこをなんとか」

 

「……まあ、言ってみろ。聞くだけ聞いてやる」

 

やっぱり強く押せば行けるなこれ。

 

「これから母上と妹と一緒に近くの町に出向くのですが、その間父上が一人になりますので、何かあればよろしくお願いしますとお頼みしに来たのです」

 

「……餓鬼の言うことじゃねえな。椛の言伝か? 礼儀も糞もねえ。頼みごとなら本人に出直させろ」

 

「母上は関係なく、俺が勝手に心配しているだけなので、俺個人のお願いです」

 

「ああ……わかったわかった。気にかけておいてやる」

 

「ありがとうございます」

 

これで用件は済んだ。

しかし折角聞き入れてくれたというのに、手持無沙汰なのが悔やまれた。

次来るときは猿を一匹手土産にするとしよう。またぞろ数も増えているようだし。

 

「それではゲンさん。今日一日良い日となりますよう――――」

 

「ちょっと待て」

 

別れのあいさつの途中で、ゲンさんは弓をその場に置き家に入ってしまう。

何事かと首を傾げつつ、待てと言われたのでその場に留まる。何か用事を思い出したのかもしれない。

 

それから少しも経たず、ゲンさんは手に毛皮を持って現れた。

ぶっきらぼうに手渡してくる。

 

「なんですかこれ」

 

「着ていけ」

 

拡げてみると、それは上着だった。何かしらの毛皮で作られている。

この世界では珍しいことに襟もとにフードが縫い付けられ、パーカーのようになっていた。

 

「町に行くんだろう。それ着て顔隠しておけ」

 

「大きいんですけど」

 

「それでもだ」

 

上着はゲンさんが自前で羽織るために作られていて、俺にはサイズが合わない。

袖は腕を完全に隠してしまうし、裾は腰下まである。

ここまでぶかぶかだと、見栄えはさぞかし悪いだろう。

 

「埃っぽさの中にそこはかとない獣臭さが」

 

「獣くせえのは当たり前だろ。埃っぽいのはしばらく着てなかったからだ。何か文句あるか?」

 

「あります」

 

「うるせえ」

 

力づくで無理矢理フードを被せられる。

視界が上半分閉ざされてしまった。目深にもほどがある。

 

「見えにくいし大きいし動きにくいし……」

 

「ごちゃごちゃうるせえぞ! とっとと行って来い!」

 

尻を蹴られる勢いでしっしっと追い払われ、その場を後にした。

やはり毛皮の上着はお世辞にも着心地が良いとは言えなかったが、着ろと言うからには何かしらの理由があるのだろう。

 

家に戻ると、庭で母上が馬に鞍を載せ旅支度を進めていた。

俺が不格好になっていることに気づき訊ねてくる。

 

「それはどうした」

 

「ゲンさんに着て行けと渡されました」

 

「源に? ふむ……」

 

右から左から矯めつ眇めつ眺められ、フードの上からぽんと手を置かれる。

「着ておけ」とゲンさんと同じことを言って、鞍に向き直った。

 

「なぜこれを着る必要があるのか、理由がお分かりですか?」

 

「念のためだ」

 

きちんと鞍が付けられているか確認しながらの返答。

思い当たる節があるらしい。

 

「俺が男だからでしょうか? 刀を佩びているとまずいですか?」

 

「それもあるだろうが……」

 

言葉に詰まり、苦々しい顔になる。

その様子を見て察するものがあった。

 

「先に謝っておく。町に行けば嫌な思いをするかもしれん」

 

「理由は何となく分かりました。それ以上は結構です」

 

「すまん」

 

「母上が謝る必要はありませんよ。そもそも町に行きたいと言い出したのは俺ではないですか」

 

「それでもだ」

 

頑固な母上を見つつ、自分の髪を摘まんでみる。

まあ……仕方のないことだろう。

 

「アキも連れて行くのですか?」

 

「あんな顔をされたのでは連れて行く他あるまい。お前の言う通り不公平にもなる」

 

膨れっ面が目に浮かぶ。

こちらを見る瞳は悲し気な色を湛えていた。

確かに、あんな顔をされては……。

 

「適当な理由を付けて、行くのを止めるのもありですね」

 

「逃げるのか」

 

「滅相もない。戦略的撤退です」

 

「どこで覚えてくるのだ。そんな言葉を」

 

もし本当にここで逃げたとしても、早いか遅いかの違いでしかないから、いずれは行くことになるのだろう。

それにしたって、まさか町一つ訪れるだけで洗礼の可能性があるとは夢にも思わなかった。

ただ単純に俺の考えが足りなかっただけだが、この先のことを思うと少し気が重くなる。

 

それからほどなくして、馬二頭共に鞍を載せ終わり旅支度が済んだ。

 

「アキ。もう行くぞ」

 

「はい!」

 

家の中に声をかけると、元気の良いいらえがある。

町に行けるということで、テンション高めの妹が駆け足でやってきた。

俺とぶつかりそうになり急ブレーキで止まる。俺が羽織っている毛皮を見て首をかしげた。

 

「兄上? その上着はなんですか?」

 

「ゲンさんが着て行けと仰ったので着ている」

 

「げん……? ああ……。あの人……」

 

好意どころか興味もないという調子だ。

他人に対する態度が日に日に露骨になっている。

反省を促すためにも、デコピンを一発食らわすことにした。

 

「くらえ」

 

「むっ!?」

 

小生意気なことに、アキは当たる直前で反応し、仰け反って威力を殺してしまう。

不意を打ったというのに半ば以上対応されたのには、してやられた気分になった。

 

「……兄上?」

 

「母上。アキと一緒に乗って下さい。俺は一人で乗ります」

 

「そうか。ではまずはお前から乗せよう」

 

こっちに来いと腕を広げる母上に首を振る。

その横で妹がじとっと睨んでいたのが理由と言うわけではない。

 

「その必要はありません」

 

「む……ではどうする? 一人で乗れるのか?」

 

「恐らくは」

 

「無視しないでください兄上」

 

馬を見据え、目測を立てる。

俺もここ数か月で少しは背が伸びた。そろそろ一人で乗れる気がする。

 

母上に見守られ、妹に睨まれる中で鞍を掴む。

腕の力だけで身体を持ち上げて、ゆっくり少しずつ上って行く。

宙に浮いた足が地を求めてパタパタと揺れた。

 

馬に乗ろうと四苦八苦する姿は傍から見たら滑稽かもしれないが、今は他人の評価よりも結果を追い求めたい。

どれだけ些細なことであっても、俺にとっては大きな一歩なのだ。

 

歯を食いしばって騎座に胸まで乗せられたなら、あとは下半身を持ち上げるだけ。

思いっきり足を振って、遠心力を頼りにし、一息に持ち上げる。

 

何とか上り切った頃には息も絶え絶えで汗を掻いていた。

しかしどれだけ疲労困憊であっても、今まで出来なかったことが出来たのは感無量である。

「おお……」とアキが感心してくれる。反対に母上は無反応だった。

 

「なんとか、乗れました……」

 

「そうか」

 

成果を報告しても素っ気ない母上は、アキを脇の下から持ち上げて馬に乗せた。

すぐに自分も馬に跨り、その背中にアキがひしっと掴まる。

 

「行くぞ」

 

号令と共に蹄を鳴らして赤毛の馬が歩き始める。

俺の乗る栗毛の馬も、赤毛の後を追いかけたいとそわそわしていた。

 

その催促に応じる前に、汗を拭い息を整える。

そうして二人の後に続こうとした刹那、背中に視線を感じた。

振り向くと、父上が縁側から俺のことを見ていた。

 

「父上? どうかされましたか」

 

「……」

 

馬を繰って近くまで寄る。

父上は何かを言いかけて半端に口を開くが、結局何も言わなかった。

何を言いたいかは聞くまでもなくおおよそ察していたので、わざわざ言葉を待つ必要はなかった。

 

「父上。ご心配には及びません」

 

何を言うべきか。考えながら口を開く。

 

「町に行って罵詈雑言浴びせられようとも、別に捻くれたりはしませんので」

 

「……レンはいい子だからね。そんなことは最初から心配してないよ」

 

その点を信用してくれているのは素直にうれしい。

では、もう少し踏み込んだ話をしてみよう。

 

「そもそも性別とか血なんてものは、然程重要ではありません」

 

「……レンは独特な考え方をしているね。でも、普通の人はそう思ってはくれないんだ」

 

「普通の定義がよく分かりませんが、俺の人生においては全然重要ではないのです」

 

「でも、社会では――――」

 

「社会がどうであろうと、それは俺の知った事ではありません」

 

この世界のありようについて言いたいようだったが、そんなことは百も承知しているので、先に俺の考えを述べることにした。

 

「誰に何を言われようとも、どんなことがあろうとも、俺は自分の考えを曲げません。胸を張って前を向いて生きて行きます。尊敬する両親と可愛い妹がいるのですから、下ばかり向いては顔も見れないではありませんか」

 

今思っていることを素直な気持ちで告げた。

父上は目を伏せて消え入りそうな声で呟いた。

 

「……ありがとう」

 

「いいえ。お土産を楽しみにしていてください」

 

「うん。いってらっしゃい。気を付けて」

 

「はい。行ってまいります」

 

顔を上げ小さく手を振る父上に、俺も小さく手を振り返して馬を回した。

 

母上たちは先に行ってしまっている。急がないと。

そう思いながら家の敷地から出たところ、ほんの少し先で二人は待ってくれていた。

 

「兄上ー!」

 

アキが大きく手を振って呼んでいる。

手綱を繰り、速足で二人に追いつく。

 

「何をしていた?」

 

「少し話を」

 

「そうか」

 

母上の馬が歩き始める。

一歩進むたび妹が僅かに上下に揺れた。

俺もその後に着いて行く。

 

――――生まれて初めての、小さな旅が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東に向かう道は川沿いに伸びている。

河川には茶色に染まった水が勢いよく流れていた。

昨日までの大雨で水位の上がった川の水は、近づくことすら躊躇する程だったが、土堤が食い止めているおかげで氾濫の兆しはない。

手綱を握りしめながら川の流れを見ていると、大きな流木が水の底から顔を出し、くるりと一回転してまた底に沈んでいく。

たったそれだけのことで、荒く激しい濁流の脅威を嫌と言うほど知ることが出来た。

 

同じものを見ていたらしいアキが、前方で母上に尋ねていた。

 

「母上。この川はどこまで続いているのですか?」

 

母上は少し悩む素振りを見せ、背中越しに答える。

 

「町を過ぎ、海まで続いていたはずだ」

 

眼前を流れる川は10メートル以上の幅がある。これでも十分大きいが、下れば下るほど幅は広がり、水量は増加するだろう。

海に着くころには巨大な河川となっているに違いない。

 

「……海とは何でしょうか?」

 

母上の背中に掴まりながら、アキが新たな質問を投げかけた。

その内容に少し驚いたが、俺と同じくアキも村から出たことはないのだった。

 

「海か……。海は、大きな水の塊だ」

 

「そこの川と同じようなものですか?」

 

「いや、これよりも遥かに大きく、見渡す限り広がっている。そして底知れぬ深さだ」

 

母上の説明は正鵠を得ている。もし俺が誰かに聞かれたとしても、似たような説明をしていただろう。

だが、一度も海を見たことがない人間にどのような説明をしたところで、海を正しく理解させるのは難しい。

 

「大きくて……広くて……深い……」

 

例に漏れず、今一理解できず首をかしげる妹に「その内見せてやろう」と母上は優しい声音で告げていた。

 

二人のやり取りを聞きながら、俺は前世の光景を思い出す。

 

太陽に照らされ宝石のように輝く水面。

白く泡立つ波が海岸を打ちつけ、砂浜に跡を残し、水平線の向こうまで、どこまでも続く雄大な大海原。

 

一体全体どれだけ言葉を尽くせば、あれだけの物を想像できるだろうか。

言い表すことなど到底不可能と思える神秘さと、人など容易く呑み込んでしまう恐ろしさを兼ね合わせた生命の源。

 

やはり、直接目にしなければ何一つ理解できないと思う。

その点ではアキが羨ましい。初めて海を見たときのことなんて俺は覚えていない。

どんな感想を抱いたのだろう。あの大海原を初めて目にした時の俺は。

 

「兄上は海を知っているのですか?」

 

その問いに、思いに耽っていた意識が戻ってくる。

はっと気が付けば、前方の妹が俺を振り返っていた。

 

「いや……。実物を見たことはない」

 

「では、今の母上の説明で理解できましたか?」

 

「見渡す限り水たまりなんだろう? それは言葉通りなんじゃないか?」

 

「……私には、分かりません」

 

言い捨てて、ぷいっと前に向き直ってしまう。

その様子は少しいじけているように見えた。

自分一人だけ理解できていないことが癪に障ったのかもしれない。

 

機嫌を直してもらうのに、何かしらのフォローが必要だと思うが、この状況では俺が何を言っても火に油を注ぐだけな気がする。ならば、役に立つかは微妙なところではあるが、母上にお任せしようと思う。

 

「アキ。分からないことを気に病む必要はない。どのような人間とて、知らないことの方が多いのだ。どれだけの想像力を働かせたとしても、想像の域を出ることはない。自分の目で見なければ、真に理解したとは到底言えない。海とはそれほどに埒外な物なのだ」

 

「……でも、兄上は理解しています」

 

「そこのそれは存在その物が異常だ。本当にそっくりそのまま想像できているやもしれぬし、まるで別の物を想像しているかもしれん。もしくは、妹の前で格好つけているだけの可能性もある」

 

珍しく的を射たことを言っていると思ったら、なぜか俺に火の粉が飛んできた。

やたら粘性の強い火の粉が俺の心をジュクジュク焼いている。

 

「兄上は嘘を言っている様子ではありませんでした。故に、きちんと理解されています。そっくりそのまま同じものを思い描いているはずです」

 

「……お前がそう言うのなら、理解できていることにしよう。もしかしたら、海を知らぬと嘯いているだけなのかもしれん」

 

二人が言葉を交わすごとに、俺の評価が可笑しな方向にグングン上がっている。

ここまで変な方向に向かわれては、流石に口を挟まずにはいられなかった。

 

「海なんて見たことありませんし知りませんよ。一体どこにあるんですかそれは」

 

「ずっと遠くにあるが、川を辿ればいずれ着く。少し目を離した隙に、海まで行ったことがないと言い切れるだろうか?」

 

どんな思考を経れば、そんな疑問が浮かぶのか。

前世ですら川を辿って海まで行ったことなどない。考えるだに面倒くさい。どれだけの重労働だそれは。

だと言うのに、母上は「どうだ?」と言葉で尋ね、アキに至っては振り返り「どうなの?」と目で問うてきた。勘弁してほしい。

 

「言ってることが滅茶苦茶だと言う自覚はありますか?」

 

「滅茶苦茶な人間を理解しようとするならば、己の思考も滅茶苦茶にしなければなるまい。これはその結果だ」

 

これほど辛辣な言葉の数々は久しぶりだ。

移動中じゃなかったら、是が非でも稽古をお願いしていた。今なら一矢報いれる気がする。

 

それにしても、俺が海を知っていることに気づいている辺り、ある程度俺を理解出来ているのが凄い。

前世持ちなんて狐憑き以上に奇奇怪怪な代物だろうに、よくここまで理解出来たものだ。

理解する過程の四苦八苦ぶりが容易に想像できるせいで、何を言われたところで怒りはあまり湧いてこなかった。全て笑い話で済んでしまう。

 

「舟なら数日で着くでしょうか?」

 

「舟でも10日近くかかる。帰り道を考えれば、30日でもまだ足りん」

 

「ならどうあがいても無理でしょう。それとも、母上は俺から30日以上目を離した経験がおありですか?」

 

「お前から目を離したことなど一寸足りとてない。故に、これはただの与太話だ」

 

与太話ならもっと冗談めかしてほしい。

いつも通りの平坦な口調では、真面目に言っているのかと勘違いしてしまう。

 

「アキ。このように母上は稀に冗談を仰る。あまり真に受けないように」

 

「これからは兄上の言葉だけを信じます」

 

「いや、俺も嘘ぐらいは言うから」

 

「兄上は嘘をつきません」

 

この信頼感は一体何なのだろうか。たった今俺に向けたあの猜疑心はどこへやった。

俺の人生なんて存在その物が嘘みたいなものだから、信頼するだけ損なのに。

それでなくとも、この盲目的な信頼は早めに矯正した方が良いだろう。

 

「妹よ。長らく隠していたことを告白しよう。実は俺は一度死んでいるんだ」

 

「それは嘘です」

 

「……と言うことは、俺はたった今嘘をついたことになるね」

 

「兄上は嘘をつきません」

 

「アキ……」

 

何を言っても己の主張を曲げようとしない。

負けを認めねば負けではないとでも言うつもりか?

母上譲りの頑固さを前面に押し出されるだけでもお手上げなのに、おかしな話法まで身につけないでほしい。

 

「レン」

 

「……なんでしょうか?」

 

今度はなんだと若干うんざりしながら返事をする。

一体何を言うつもりだと訝しんでいたら、案の定碌でもないことを言い始めた。

 

「本当に死んだことはないのか?」

 

「母上は親不孝をお望みなのですか?」

 

「……冗談だ」

 

進路方向を見続けているため母上の表情が分からない。

だが絶対に無表情だ。確信を持って言える。一連の会話の最中、表情は一ミリたりとて動いていないに違いない。

 

はぁとため息を吐く。

たったこれだけの会話で酷く疲れてしまった。意味の分からない疲労感だった。

話している内に妹の機嫌が少し上向いてくれたから、まるで意味がないわけでもなかったけれど。

 

こうしている間にまた胸にこみ上げてきた物を大きく吐き出す。

その瞬間、がくっと馬が揺れた。

いつの間にか、道は土手を外れて開けた平野へと出ていた。

 

「じきに着く」

 

その言葉を受け、遠くを見る。

道のずっと先に小さく町が見える。この世界で初めて見る町だった。

 

あの町で、俺はどんな経験をするだろうか。

期待と不安とが入り混じった気持ちを胸に抱き、町に向けて馬を歩かせる。

 



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11話

今まで何となく週一ぐらいで投稿していましたが、基本的に更新頻度は不定期です。
週に二回更新することもあれば、一か月音沙汰無いこともあるかもしれません。
書くのが嫌になったら他の小説に逃げます。モチベーションが回復次第戻ってきます。
そんな感じでよろしくお願いします。


町に近づくにつれて人の気配が色濃くなってきた。

段々と道は広くなり、代わりに自然は姿を消していく。踏み固められた土は人の往来を示していた。

 

未だ町は遠いというのに、この場からでも一目瞭然の建造物が目に映る。

それはどことなく見覚えがあったが、記憶を漁ってもすんなりとは出てこない。目を凝らし観察して、ようやく思い出した。たぶん、あれは物見やぐらだ。

 

やぐらだと分かれば全体像も把握しやすい。

よくよく見てみると、急造りと分かる歪な形をしている。少し斜めになっていた。

生まれて初めて目にした町の建築物にしてはあまりにお粗末だ。もう少し豪華なものを望んでいた。

 

若干複雑な気持ちを抱きつつも馬は歩みを止めることなく、いよいよ町は目前に迫る。

ようやくやぐら以外の建物の形状がはっきりしてきた。

 

まず瓦が見える。暗色系の瓦屋根だ。見える範囲、ほとんどの建物は瓦屋根のようだ。

建物自体は木造建築。町全体を見回しても、あまり背の高い建物はなかった。

 

そうやって町の作りを観察していると、否応なく既視感を覚える。懐かしい感じがした。心の奥底にしまいこんでいた感情が刺激される。

 

刀がある時点で多少予想はしていたが、ここまで前世の記憶と酷似していると、もしかしたらと思ってしまう。

つまり、この町はひょっとして京都ではないだろうかと。

京都じゃないにしても、鎌倉とか江戸とか日本に属する町ではなかろうかと、そんなことを考えてしまい、一抹の希望で胸が膨らむのを抑えられない。

 

とっくの昔に否定したはずの希望だった。

見慣れない土地に聞き覚えの無い国名、見知らぬ動植物。ひいてはまるで異なる歴史と来たら、そんなことはありえないと猿でも分かる。

それなのに、突然現れた微かな希望に縋ってしまった。

目の前の町に日本の風景を重ねてしまう。一歩近づくたびに胸の鼓動は大きくなる。理性が崩れていく音を聞いた。

 

「おぉっ!」

 

そんな俺の視線を塞ぐようにして、アキが馬の上に立ち上がる。感嘆の声を上げ、噛り付くようにして町の様子を眺め始めた。

 

肩に手を置かれ圧し掛かられてすらいるのに、母上は何も言わずされるがまま。

いつもだったら「危ないから座れ」ぐらいは言っただろうに、今だけは黙認している。

 

二人の様子を見ていると、期待と希望で早鐘を打っていた鼓動が落ち着いて行く。

浮ついていた気持ちも治まった。一度冷静になってしまえば、ここが日本ではないことを思い出す。

何してるんだろうと自嘲した。

 

蘇りかけていた記憶を引き出しの奥にしまい直す。

決して戻ることのできない過去よりも、今目の前にある物に目を向けるべきだ。

 

何度か浅い呼吸を繰り返し、町に視線を戻したところ、先ほどまで空だったはずのやぐらに人がいることに気が付いた。

いつの間にか三人ほどがやぐらに上がり、周囲を観察しているようだ。

キョロキョロとしきりに頭を動かして注意深く辺りを見ている。何か探し物だろうか。

やがて、その内の一人が俺たちの方向を見る。――――目が合った。

 

遠すぎて確信には至らないものの、視線が交わった感覚がする。

その人はじっと俺たちを凝視していた。

それに釣られてか、残りの二人もこちらを見た。やはり微動だにせず俺たちを見つめる。

 

一番最初の人が何か指示を出したようで、他の二人がやぐらの上から消える。

残った一人はそのやぐらに留まって俺たちを見続けた。

……なんだあいつ。手でも振ってやろうか。

 

そんなことを考えてみるも、本気でやろうとまでは思わない。

どう見ても危ない雰囲気だ。ああ言うのとは出来ることなら関わらずに済ませたい。こちらからアクションを起こせば、面倒事を含めたその他諸々まで大挙して押し寄せかねない。

 

君子危うきに近寄らず。だからと言って、絶対あっちから近寄ってくるのは火を見るより明らかで、あまり意味もなさそうだが。

 

「着いたぞ」

 

その一言でやぐらに捕らわれていた意識が目の前に舞い戻る。

急に視界が開けたような気がした。実際にはずっと開けていて、全然目の前を見ていなかっただけだ。

 

土を踏み固めただけの幅広な道路は人が行き交い賑やかだった。

立ち並ぶ家々は瓦屋根と木材で出来た平屋ばかり。たまに思い出したように赤いレンガの建物がある。それが景色に馴染まず異様に浮いていた。

 

軒先には適度な距離を置いて屋台が連なり、行列が出来ているものもある。

たまにある灯ろうは看板代わりに置いてあるらしく、文字が書かれていた。

 

「馬を降りろ。ここからは引いて行く」

 

「……ここまで来ておいてなんですが、この町で何をすればよいのですか?」

 

「見て回る。目の肥やしにでもしろ」

 

「はあ……」

 

前世を知っていると、この世界に生まれたときから肥えていることになるのだろうか。

少なくともこの町を見て既視感こそ覚えども、心動かされることはない。別の意味で動揺はしたが。

こうして眺めてみても、興味の湧く物は何もない。京都や映画村に来たような気分だった。何も目新しいものはない。

 

「アキは何か見たいものあるか?」

 

「見たいもの……」

 

母上に馬から降ろされながら妹に訊ねてみると、妹は歩いている人を見つめる。

視線は手に持っている棒に注がれていた。

 

「あれか」

 

母上がその視線の先にある物を捉える。

それを持っている人は総じて口に含んでいるから、食べ物なんだろう。

食欲旺盛な妹は花よりも団子なお年頃らしい。一生こうではないと信じたい。

 

「あれは水飴だ。食べるか?」

 

「はい」

 

元気のいい返答。

観光に来て特に見る物もなく食い気に走るのは、例え世界が違っても変わらないらしい。

 

水飴を売っていたのは行列の出来ていた屋台だった。

子供から大人まで結構な人数が並んでいて、多少待ったが三人分買うことが出来た。

 

受け取った棒には琥珀色の液体がこびりついている。

粘性が強く、思いっきり振り回さない限りは垂れることはなさそうだ。

まじまじ見つめて匂いを嗅ぎ、試しに一口食べてみる。

 

「あま……」

 

甘かった。味は薄味。と言うかほとんどしない。

食べた瞬間ガツンと甘さが襲ってくる砂糖ドバドバな前世の飴とは違い、沁みわたるような優しい甘さだ。長く食べるならこっちの方がいいかもしれない。

 

「美味いか?」

 

「ん、ん」

 

コクコクと棒を舐めながら猛烈に頷く妹。

少しも経たずに完食した。未練がましく棒を睨んでいたので、食べかけの棒を渡してみる。

申し訳なさそうにしながら目は輝いている。こんな顔をされたらいくらでも貢いでしまいそうだ。しかし幸か不幸か、財布を握っているのは俺ではない。

 

「母上。あちらの屋台はなんでしょう?」

 

「あれは……椿餅らしいな」

 

「ではその隣は?」

 

「団子と書いてある」

 

「こちらは」

 

粉熟(ふずく)

 

俺が指さす屋台全てに簡潔に答えてくれた。

他にも煎餅らしきものを扱っている店もある。

 

「なるほど」などと言いながらチラリとアキを窺ってみた。

その瞳は今まで見たことがないほど光り輝いていた。

 

「懐はどれほど温かいですか?」

 

「安心しろ。こうなることが予見できないほど耄碌してはいない」

 

食い道楽に走ることは分かり切っていたらしい。

良かったなと気持ちを込めてアキの頭を撫でる。

顔を上げた妹は、満面の笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

「……げぷっ」

 

馬を引く母上に数歩遅れて、腹をパンパンに膨らませたアキの手を引く。

足元が覚束なくなるほど食べたのは、いささか以上に食べ過ぎている。

全店網羅する勢いで屋台を巡った結果である。とんでもない食欲だった。

 

「気分は?」

 

「……悪いです」

 

「食べ過ぎ」

 

「面目次第も……」

 

「気持ちはわかるけど、少しは抑えるように。腹八分ぐらいが健康にいいらしい」

 

「覚えておきます」

 

本当に覚えておくだけで終わりそうだ。

返事だけは殊更良くて、それ以外は死ぬほど聞き分けが悪いから。

 

「吐き気はあるか?」

 

「……ありません」

 

「正直に」

 

「あります」

 

吐かれたら屋台に費やした金が全て無駄になる。

出来れば安静にさせてやりたいが、ここは道のど真ん中だ。ろくに休ませられない。

 

「じゃあ仕方ない。おぶってやろう」

 

「兄上……良いのですか?」

 

「いいよ」

 

恥ずかしそうはにかまれた。とても可愛い。

食い過ぎて吐き気に襲われてる事実がなければ思いっきり抱きしめていた。

 

表面上は遠慮気味なくせに、おぶっておぶってと背中にくっついてきた妹を背負う。

腹が膨れているせいか心なしいつもより重い気がした。背負ってるだけで結構つらい。

これから更なる成長期がやってくることを考えると、いずれ背負うことすら出来なくなる。兄としてはそんな未来は想像したくもないが、致し方ない運命なのかもしれない。

 

「……兄上」

 

「なんだ?」

 

「獣くさいです」

 

「文句があるなら下りろ」

 

「文句ではありません。ただ、これ脱いでください」

 

「着てなきゃいけないんだよ」

 

「せめて頭だけでも」

 

「それが一番大切なんだ」

 

無理矢理フードを脱がそうとしてきたので抵抗した。

折角背負ってやったのに思っていたより元気そうだ。

これだけ元気なら吐く心配もないだろう。このまま地面に落としてやろうか。

 

「母上。アキは必要以上に元気です」

 

「何よりだ。……あれは饅頭か。食べるか?」

 

「誰が食べるんですか」

 

「甘いものばかりでは食べた気がせんのだ」

 

「お好きにどうぞ」

 

「では買ってくる。ここにいろ。手綱はアキが持っていろ」

 

「母上、私の分も」

 

「わかった」

 

「アキの分はいりませんよ」

 

世迷言を真に受けているようだったので念を押しておく。

アキには明瞭に返答した癖に、俺には返事もくれずに行ってしまった。

 

「まだ食べる気か?」

 

「いいえ。兄上がお腹空いているのではないかと思いまして」

 

「私の分もって言ったじゃないか」

 

「言葉の綾です」

 

調子よく嘯きやがるので、ゆさゆさ揺らしてお仕置きした。

「あー」と悲鳴を上げていたかと思うと「気持ち悪いです」と訴えてきたのでやめた。

体調不良を都合のいい言い訳に使われている気もしたが、この体勢で吐かれたら困るのは俺だ。

 

「今日は昼飯いらないだろ?」

 

「夕飯は必要です」

 

「父上に感謝してお腹一杯食べると良い」

 

そう言えば、父上にお土産を買わないといけない。

だが食べ物を持って帰るのは不安だ。何か他に丁度いいものはないだろうか。

 

「……兄上」

 

立ち並ぶ屋台を眺め土産物を検討していると、なぜかアキが声を潜めて俺を呼ぶ。

耳元に口を寄せてくるので内緒話のようだ。

何事かと身構えたが、大したことではなかった。

 

「見られています」

 

「気にせずに堂々としていなさい」

 

「……はい」

 

とても今更なことではあるのだが、この町に来てからずっと俺たちは見られている。

もうはっきりと監視と言っていいか。たぶんやぐらに居た輩どもの仲間だ。

 

そもそも母上と妹はかなり目立つし、顔を隠している上に刀を佩びている俺も負けず劣らず目立つ。

見られる理由はそれだけあって、視線の大半が面白半分で好奇心に満ちている理由でもある。

 

問題なのは、アキが言っているのはその面白半分な視線のことではなく、たまに混じる悪意に満ちた視線のことだということ。

それがあまりに露骨なので、ついにはアキにまで気取られてしまっている。

 

出所は道の隅で3人集まってこっちを見ている目つきの悪い連中だ。

そいつらは同じデザインの袢纏を着込んでいるので、仲間であることに間違いはない。

背中に花紋があしらわれたデザインは中々良い趣味している。

 

趣味が良いというだけで何気に好印象だったりするのだが、そもそも大人の女性三人がひたすら睨み続けて来るだけなのでそれほど害がない。精々たむろする不良が通行人を睨んでいるぐらいの危険度だ。

 

母上が離れて接触して来るかと思ったが、近づいてくる素振りはなかった。俺が持っている刀が怖いのかもしれない。

付かず離れず見られ続けるのは気持ち悪いが、ノーリアクションなので対処しようがない。藪をつついて蛇を出したくもないので、今は無視するのが一番良い。

 

そうこうする内に、母上がまんじゅう片手に戻ってきた。

 

「何かあったか」

 

「何事もなく無事ですが、特に何も言わず囮にするのはおやめください」

 

「まさか気づいていなかったのか?」

 

「たった今アキも気づきました。隠す気があるのか謎ですね」

 

「初めから露骨ではあったがな。あちらから来る気がないのなら放っておけ」

 

横目に花紋の連中を見た後、二つに割ったまんじゅうの片割れを妹に差し出した。

妹はそれを普通に受け取って、代わりに手綱を返しながら尋ねる。

 

「……母上はいつから気づいていたのですか?」

 

「やぐらの上から見られている時から気づいていた」

 

「やぐら……? ……さすがです」

 

それしか言いようもあるまい。

背中でむしゃりと咀嚼する音がする。

 

「美味いか?」

 

「美味しいです。兄上もどうぞ」

 

口元に差し出されたので頬張ってみる。

まんじゅうと言いつつ、中身は塩気のある肉だった。肉まんに近い。

 

「母上。父上にお土産を買いたいのですが」

 

「む。そうか。そうだな。何が良い?」

 

「食べ物は途中で冷えるでしょう。ならそれ以外が良いと思うのですが詳しくないので、何か知恵をお借りできればと」

 

「そうだな……」

 

母上は屋台を飛び越え軒を連ねる店を見る。

 

「西の食べ物を出す店があると聞いたのだが……見当たらないな」

 

「何という食べ物ですか?」

 

「確か、タルトと言ったか」

 

聞き覚えがあるし、何なら見覚えだってある。

思い出すのは、前世のケーキ屋で売っていた生クリームと果物がたっぷり乗ったフルーツタルト。

この世界のタルトがそれほど贅沢を極めているとは思わないが、そもそも冷えて美味いかどうかが分からない。それ冷えても美味いの?って問いたい。

 

「ん……。ここにはないようなので別の物を」

 

「別か。……ならばあれにするか」

 

「あれとは?」

 

「金平糖だ」

 

俺の知っている金平糖ならば、冷えた所で味に影響はなさそうだ。

土産物としては、まあありか。

 

「ではそれにしましょうか」

 

「ああ」

 

店を探してしばらく町を歩いた。

メインストリートと思しき大きな道を一本逸れて、ようやく見つけたのは屋台などとは比べようもなく立派な建物だった。

軒先には人が座れるスペースが設けられており、外でも食事が楽しめるようになっている。

 

「ここはなんの店ですか」

 

「菓子を扱っている店のようだ」

 

灯ろうには菓子と書かれている。

菓子を扱っている店は屋台を初め他にもあるが、ここは何が違うのだろう。

 

「ここに金平糖があるんですか?」

 

「ここ以外にそれらしき店がない。恐らくここだろう」

 

「屋台には売っていないのですか?」

 

「やたらと高い。屋台では扱えんはずだ」

 

金平糖の原材料は確か砂糖だ。

今の時代だとかなり貴重らしい。

 

馬を店の脇に止め手綱を結び付けている間、母上とアキが話をした。

 

「母上。その金平糖とやらは美味しいのですか」

 

「以前食べたことがあるが、甘かった」

 

「水飴よりも?」

 

「ああ」

 

「それは良いことです」

 

食べ物のこととなれば妹は黙らない。

こうしている間も俺に背負われているくせに。

 

暖簾をくぐり店に入ると、店主と思しき男性が椅子に座って俺たちを出迎えた。

その人は見るからに幸薄そうで儚げな気配を漂わせている。顔色は良いから病弱と言うわけではなさそうだが、目を離した隙に消えてしまいそうな気がした。

 

「いらっしゃい」

 

見た目を裏切らず消え入りそうな声音。

細目を僅かに開いて母上を見、次いで俺と妹を見る。それから一瞬刀に目を向けた。

 

「何をお求めですか」

 

「金平糖はあるか」

 

「ございます」

 

「小瓶一つ分もらいたい」

 

「小瓶一杯となりますとかなりお高くなりますが」

 

店主の懸念に対し、母上は懐から小袋を取り出し店主に押し付けた。

 

「それで足りるか?」

 

「十分です。すぐご用意します。少々お待ちください」

 

店主は奥に声をかけ、やってきた若い女性に金平糖を持ってくるように告げた。

それから「良ければそちらでお待ちください」と、店内の半分以上を占めている飲食スペースを指差す。

畳が敷かれていて、長机と座布団がいくつも置かれていた。

 

丁度いいからそこに妹を落した。「へぶっ!?」と悲鳴が上がる。

その横に腰を下ろし、店の中を観察して暇をつぶした。

 

店主のいるカウンターには何故か天秤が置いてあった。

色はくすんだ金色で、茶色ばかりの内装にはあまり似つかわしくない。商売道具だろうか。

 

壁にはいくつか風景画が飾ってある。森や川や町並みなどが描かれていて、その内の一つに興味が惹かれた。

 

その画は中心に大きな木が描かれていて、ピンク色の花びらが全体を舞い、それを見上げる女性が一人。

ひょっとして桜の絵だろうか。しかし俺はこの世界で桜を見たことがない。

 

袖を掴んで抗議していた妹に「見覚えはあるか」と訊ねてみたが、頬を膨らませながら首を横に振った。

母上にも同じことを問うてみる。

 

「母上はあの画に描かれている木が何の木かお分かりになりますか?」

 

「どの画だ」

 

「その木の画です」

 

壁にかかっている画をじっと見つめ、顎を撫でた。

 

「桃色の花が咲く木か……」

 

「お分かりですか?」

 

「いいや。このような木に見覚えはない」

 

母上ですら知らないようだ。

どうやら、この世界では桜は一般的ではないらしい。

 

「その画がどうかしたのですか?」と訊ねる妹におざなりに返事をし、じっと画を見つめる。

心の中で郷愁が鎌首をもたげ、束の間過去のを偲んだ。隣で母上が店主に尋ねる。

 

「店主。あれは何の画だ?」

 

「え? ああ……。あれは海の向こうで描かれた画だそうで。詳細はよく分からんのです」

 

「東国でか」

 

「最近はそう呼ぶそうですね」

 

丁度その時、先ほどの女性店員が戻ってきて、小瓶一杯に詰まった金平糖を店主に渡した。

 

「こちら金平糖です」

 

「いくらだ?」

 

言い値を払った結果、母上の財布が一気に軽くなった。

目玉が飛び出るほど高かった。これを土産にして良かったのかと聞きたくなるぐらい。

 

お金を数え終わり、「ありがとうございました」とホクホク顔で頭を下げる店主。

間違いなく、母上は今日一番の上客だろう。一度に払った額なら年一かもしれない。

 

「……よかったのですか?」

 

「なにがだ」

 

本気で何も感じていないご様子。金銭感覚どうなってるんだろう。

金平糖と小袋を懐にしまい「行くぞ」と声をかけられた瞬間、暖簾の向こうにたくさんの気配を感じる。

 

「なんか一杯いますね」

 

「そうだな」

 

そのやりとりで遅ればせながら妹も気づき、慌てた様子で立ち上がる。あからさまな臨戦態勢になった。

その姿は勇ましくて頼りがいがあるが、木刀を持っていないから戦力外だ。飛び出さないように首根っこを掴んでおく。

 

一応、お客の可能性を考えて店主に尋ねた。

 

「店の前に集まっている人たちに心当たりはありますか?」

 

「店の前?」

 

訳が分からないという顔で出入り口を見る。

人のざわめきが聞こえ、静かにするよう指示を出す声がした。

何故か知らないが、店に入ることもせず大勢の人間がたむろしているようだった。営業妨害甚だしい。

 

気配を探ってみると、集まっている人間の中に今日一日俺たちを監視していた例の三人組を捉えた。

 

「母上。集まっているのは目つきの悪い連中です」

 

「わかっている。袢纏を着ていた奴らだろう」

 

その会話に店主が反応した。

 

「袢纏と言うと、背中に藤の紋が描かれている方々ですか?」

 

「藤かどうかは知らんが、変な紋様は入っていたな」

 

「ははぁ……」

 

母上を見て、アキを見て、最後に俺をじっと見つめる。

フードで隠した顔を覗こうとちょっと身を屈めてすらいた。

 

「あの、店を壊すようなことはちょっと……」

 

「わかっている。出来る限り避ける」

 

「出来る限りでは困ります」

 

「血で汚れるぐらいは目を瞑れ」

 

「余計困ります」

 

冷や汗を流す店主さんが不憫になる。

血で汚れる可能性が結構高いことを考えると余計にそう思う。

 

「レン。アキを守れ」

 

「はい」

 

「アキはレンから離れるな」

 

「はいっ」

 

アキが右腕にしがみついてきた。

そっちは利き腕だから逆にしてほしい。刀抜けない。

 

「では、行くか」

 

「なんか面倒ですね」

 

「言うな。私とてそう思っている」

 

ため息を吐いて店の外に向かう母上。俺とアキもその後に続く。

そう言えば、外に繋いでいた馬たちは無事だろうか。

もしほんの僅かでも傷をつけていたなら、確実に血の雨が降ることになるだろう。

短慮軽率を慎むことこそが、この世界で長生きする何よりの秘訣だと思うが、果たして外の奴らは慎んでくれただろうか。

 



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12話

暖簾をくぐったすぐ目の前に、その女性はいた。

母上が出るのと同じタイミングで入店しようとしていたらしく、つんのめるように立ち止まり、驚いた様子で目を丸くした。

しかしそれもほんの一瞬のことで、すぐににっこりと笑顔を浮かべたかと思うと、深々と頭を下げた。

 

「……」

 

「……」

 

後頭部をじっと見つめる。

すぐに頭を上げるだろうと待っていたが、いつまで立っても上げないので妙な空気が漂い始める。

何も言わずに10秒以上。なおも頭は下げられたままだ。いつまで続くのかと顔を見合わせる。

 

「……なんだ、一体」

 

さすがの母上も困惑気味だ。

てっきり店の前ではチンピラみたいなのが群れを成していると思ったのに、蓋を開けてみれば年若く背の低い子供の様な女性と、それに付き従う四人しかいなかった。

 

内三人は今日一日俺たちを監視していた目つきの悪い三人である。手に武器の類は何も持っていないが、相も変わらず目つきが悪い。

チラリと母上に一瞥され、挑戦的に目つきをより一層険しくする。度胸ある。いつかの役人を思い出した。

 

残りの一人はと言うと、これがまた異彩を放っていた。

比較的背の高い母上よりもさらに長躯であり、その手に持っているのは2メートルはあろうかと言う長さの棒。

それに寄りかかるように立つ様は猛々しい歴戦の勇士を思わせる。この分ではさぞかし腕に覚えがあるに違いない。

 

思わずその人をじっと見つめてしまう。

期待やら羨望が籠った視線は余りに露骨だったらしく、その人は居心地悪そうに頬を掻いた。妙な空気を掻き消すためか咳払いを一つして依然頭を下げ続ける女性に一言発する。

 

「カオリ。いい加減にしな」

 

「……失礼いたしました」

 

二人の間で交わされた短いやり取りに、言葉以上の意味が込められているのを薄ら感じる。

名を呼ばれ、ようやく頭を上げた女性は微笑みを浮かべて母上に話しかける。

 

「あちらの馬はあなた方のものですか?」

 

「そうだ」

 

居たたまれなさが雲散したことで、母上はあからさまに胸を撫で下ろした。

それを知ってか知らずか、悠然とした所作で女性は軒先の隅を指す。

その方向には我が家のペットが二頭いた。

 

どちらも最初に繋いだ位置から微動だにしていない。

赤毛の馬は泰然とその場に佇み、栗毛の馬は通りがかる子供に手を振られ、僅かに尻尾を振っていた。飼い主としては、他人に尻尾を振っているのを見ると複雑な気持ちになる。

 

「あんなところに置いておくなんて、盗んでくれと言っているようなものですよ」

 

「心配ない。躾けはしてある」

 

「躾け?」

 

「少しでも危害を加えられたのなら、遠慮なく暴れるように躾けてある」

 

そんな躾け俺知らない。

母上は基本的に嘘は言わないから本当にそう躾けていてもおかしくはないけど。

もし本当なら、下手をすれば血の雨じゃ済まなかったと言うことだ。とんでもないことになっていたかもしれない。

 

「とても個性的な躾け方ですね」

 

「盗もうとする方が悪いのだ」

 

「ごもっともです」

 

若干引いた様子ではあったが笑顔は保っている。

腹芸が得意なタイプなのかもしれない。だが母上とは相性が悪そうだ。

大真面目に非常識な人の心理など、誰が理解できようか。

 

「用件はそれだけか」

 

「いいえ。まだ少し」

 

「だろうな」

 

「お分かりですか?」

 

「ずっとつけていただろう」

 

「流石は剣聖様。素人の尾行などお見通しですね」

 

母上が剣聖であることは把握されていた。

人相書きでも出回っているのだろうか。領主を斬ったことがあるそうだから、例え出回っていても何らおかしくない。むしろ出回ってないとおかしいとすら思う。

 

「お許しください。悪意があって尾行していたわけではないのです」

 

「あれほど悪意を滲ませていたのにか」

 

ギロリと母上は件の三人を睨んだ。

空気が震えるほどの威圧感が発せられる。刀を抜いたわけではないのに、それに当てられただけで三人は顔を真っ青にしてしまった。

青くなった顔色が段々と白くなり、あと少しで気絶するかと言うタイミングで、長躯の女性が間に割って入る。自分の身体を盾にして三人を守った。格好いい。

 

「お怒りはごもっとも。しかし、あの子たちには目を離さない様にと命じただけで、詳しい事情は伝えていなかったのです。勘違いさせたのは私の責任です。怒りを向けるなら私にお向けください」

 

「……勘違い?」

 

母上は背中越しに俺を振り向き目で何かを訊ねて来る。

左腕に引っ付いているアキが、母上の威圧感に当てられ少し震えていたが、これはいつものことである。

一体何を求められているのかよく分からず、アキの頭を撫でながら少し考えてみる。考えた所で何も分からなかったので、取りあえず頷いておいた。

 

「……まあ、良いだろう。それで、お前たちはなんだ。なぜ私たちを監視していた」

 

「我々は自警団です。彼女たちの藤の紋はその証になります」

 

女性は背後の四人を指さす。

それぞれ着ている袢纏の背中に紋様が入っている。

親切にも、長躯の女性が見やすいように背後を向いてくれた。

背中に描かれる紋様は、中央の葉から左右に花房が垂れて円を描くようになっている。

母上が目を細めながら消え入るような声音で呟いた。

 

「自警団……? まだ、そんなものがあったのか」

 

その言葉には僅かに苦々しさが宿っている。

それを聞いて、女性は殊更優しい笑顔になった。

 

「領主は変わりましたが、これまで受けた傷跡は生々しく残っています。簡単に忘れることはできないでしょう」

 

「……そうだな。すまない。考え足らずだったか」

 

「いいえ。剣聖様のおかげで今があるのです。心から感謝しています」

 

再び頭を下げる女性に、母上は再び狼狽える。

幸いにも、今度はものの数秒で頭を上げてくれた。

 

「あなた方を監視していた理由は、不躾なお願いがあるからです。聞いていただけますか」

 

「……聞くだけなら聞いてやろう」

 

直前に謝ったせいで断ろうにも断りづらい。

この流れを狙ったわけではないだろうが、良いように利用してやろうとは考えているかもしれない。途端に笑顔に胡散臭さを感じ始めた。

 

「とある方に会っていただけませんか?」

 

「誰だ」

 

「自警団の舵取りをしている方です。本来ならばこちらから伺うのが筋でしょうが、高齢で足腰を悪くしている上に、今は体調を崩しており歩くことすらままなりません」

 

足腰が悪いと聞いて、ヨボヨボの老人が頭に浮かぶ。

そんなのが何の要件だと言うのか。

 

「なぜそんな人間が私に会いたがっている? 会ってどうするつもりだ」

 

「ただ、話を」

 

「何の話だ」

 

「それは――――」

 

言い澱みながら、周囲を気にするそぶりを見せる。

ただでさえ注目を集めやすいのに、自称自警団が加わって物見が増えていた。会話も筒抜けだ。

 

「一先ず場所を移しませんか。詳しい話はその後で」

 

「ダメだ。ここで話せ」

 

「大っぴらに話す内容ではありません。噂が立つと剣聖様にもご迷惑がかかってしまいます」

 

どんな話をするつもりなのか。

面倒事であることに間違いなさそうだが、その度合いはどの程度のものなのか。判断するには情報が足りなさすぎる。

 

「場所を移すだけです。いかがですか?」

 

「……」

 

悩む。

この連中について行った先が読めない。

悪人なら絶対ついては行かないし、なんなら展開も読めるが自警団となると何も分からない。

悪人じゃない分打つ手も限られそうだ。

刃物一本持たない相手に刀は抜けない。下手に押し通ることも避けたい。

……仕方ないか。

 

「母上」

 

「どうした」

 

「このまま粘られると日が暮れてしまいます。自警団なら、まあ悪い連中でもないのでしょう。どんな話か聞くだけ聞くのが手っ取り早いと思います」

 

「……そうか」

 

俺と母上が話している最中、女性は横目に俺を見ていた。

その瞳の奥に薄暗い感情が見え隠れした気がして、フードを目深にかぶり直して顔を隠す。

 

「聞くだけ、聞いてやろう」

 

母上の了承に女性は微笑む。

けれど、その目はずっと俺に注がれていて、絡みつく視線がすごく気持ち悪かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

人の気配のない道を、6つの影が歩く。

先頭を歩くのは、先ほど変な目で俺を見てきた女性――――カオリと言うらしい。自己紹介された――――で、その後ろに母上以下俺とアキが続く。

 

カオリさんは歩く速度が普通より遅かった。そのおかげで比較的歩調の速い母上はペースを掴めず、歩幅が乱れていた。内心早く行けと急かしているに違いない。

反対に、アキに左腕を掴まれている俺としては丁度良いペースである。

 

そんな俺たちの背後には、付かず離れずの距離を保って長躯の女性と、例の目つき悪い三人の内の一人が歩いている。残りの二人は馬の監視に残してきた。文句ありげだったが、人を監視するのも馬を監視するのもさして変わるまい。仕事なのだから文句は言わずに頑張ってほしい。

 

いざ移動して見れば、物の見事に前後を挟まれる形になったわけだが、逃がさないぞと言う意思表示にも思えた。

今更そんなこと気にしてもしようがないことではあるが、相手の掌の上だと考えると否が応にも不愉快な気分になる。実際のところどうなのだろうか。

 

先を行くカオリさんの背中を眺めながら歩く。

角を曲がる度、道幅は狭くなって小汚くなり、辺りの雰囲気も寂しくなった。

何とも不安を煽る道を歩かされる。この道がどこに続いているのか。地獄ではないと断言できないのが酷い話であった。

 

「どこまで行くつもりだ」

 

「もう少し先へ。腰を据えて話せる場所がありますので」

 

母上の問いもぬらりくらりと躱される。

こうしている間も、後ろのお方の視線はきついものがある。一人になったと言うのに、まるで衰えない悪意には舌を巻く思いだ。

先ほど、カオリさんは悪意はないと弁解していたが、今もってなお悪意を感じる以上はそれは嘘だと言わざるを得ない。

この視線に何か理由があるとしてもそれに心当たりなどはない。いい加減勘弁してもらいたい。

 

背中に突き刺さる視線から意識を逸らし、沈黙ばかりの道中に華を添える目的でカオリさんに話しかける。

 

「カオリさんは自警団の方なのですか?」

 

「……」

 

その一言でカオリさんは急に立ち止まった。かと思うと機敏に振り向き、じっと見つめてきた。

笑顔が良く似合う人なのに、無表情で見られると変な圧力を感じてしまう。母上の暴力的なそれとは違う圧力に、アキ共々一歩退いた。

 

「どうして、そんなことを言うの?」

 

「袢纏を着てない上に藤の紋がどこにもないので」

 

「……」

 

興味深そうな顔で薄ら微笑みが浮かんだ。

怖い笑顔だ。どことなく禍々しくもある。母上に見せていたものと笑顔の種類がまるで違う。

笑顔が似合うとは言ったが、それは粘り気のある暗い笑顔のことではなく、さっぱりした綺麗な笑顔の方だ。

 

「君の言う通り、私は厳密には自警団の人間ではありません」

 

じっと俺を見つめながら、俺以外の二人にも聞かせている。

瞬き一つしないので、その顔は作り物のようにも見えた。

 

「自警団と言うのは、どうしても荒っぽい仕事が多いものですから、私のような人間には――――」

 

袖を捲り腕を露わにする。

皮と骨ばかりで血管の浮き出た生白い肌。

健康的な人間のそれとはかけ離れた腕だった。

 

「この通り貧弱ですので、いささか荷が重いのです」

 

「……左様ですか。その割には――――」

 

背後の二人を見る。

長躯の女性が目を眇めて見返してくる。その視線に悪意はない。

もう一人の方にはあえて目を向けなかった。それで視線が悪化したら目も当てられない。実際、本当にそうなりそうで困る。

 

「仲間って感じがしますね」

 

「関わっているには関わっていますから。それに年上ですし。こう見えて、もう20年以上生きているから」

 

その言葉が信じられず、カオリさんの風貌を爪先から頭のてっぺんまでまじまじ見つめた。

母上より頭一つ以上背が低く、容姿も子供のそれとしか思えない。

はっきり言って、年上と言っても俺よりも精々二つ三つ程度だろう。成人しているかすら怪しい。

 

「一つ質問に答えたから、一つ質問をしてもいい?」

 

「……どうぞ」

 

「あなたは男の子?」

 

「そうですが」

 

「そう……」

 

一歩距離を縮めてきたカオリさんに対して、アキが俺の腕を引き寄せ、両腕を広げてカオリさんの前に立ち塞がる。

敵愾心を燃やしてカオリさんを睨みつける顔は、母上にそっくりだった。

 

「それ以上近づくな」

 

「え。どうして?」

 

首を傾けながらもう一歩近づいてくる。

アキはカオリさんが近づく以上に距離を取ろうとした。

背中で俺を押して、後ろに居た長躯の女性にぶつかったことすら構わず、まだ後ろに下がろうとする。

 

「どうして、そんなに離れるの? 少しお話がしたいだけなのに――――」

 

そんなことを言いながら手を伸ばし、アキに触れようとする。

その手を痛烈に叩き落としたアキは、頬を上気させていつになく興奮していた。

 

これ以上はまずいことになりそうだと、一先ず二人を遠ざけるため位置を入れ替わろうとしたが、それに気づいたアキが頑強に抵抗する。

アキにとっては俺とカオリさんが近づくことこそが何より嫌らしい。

 

「――――どうして」

 

「やめろ」

 

今まで静観していた母上がカオリさんの肩を掴んで制止した。

その手にはかなり力が籠っている。カオリさんが顔を歪めたのを見て、長躯の女性が動こうとする。

それをカオリさん自身が首を振って押しとどめた。

 

「失礼しました。今までこんなに子供に嫌われることはなかったもので、少し驚いてしまい……」

 

「そうか。一つ学んだな。お前を嫌いな子供もいる。とっとと案内しろ」

 

「……こちらへ」

 

移動再開。

アキが痛いぐらい腕を握りしめてくるので、上手く歩けない。

 

「ちょっと力緩めてくれるか」

 

「もう話さないでください」

 

「え……」

 

「あの女と、話さないでください。近づくのもダメです。あれは兄上を誘おうとしています」

 

「誘うって、どこへ?」

 

「分かりません」

 

要領を得ない。

アキにだけ分かる何かがあるのかもしれないが、生憎と俺には何も感じられなった。

とは言え、話して楽しい相手でもない。

 

「必要以上には話さないよ。なんか気持ち悪いし」

 

「一言も話さないでください。必要があるなら私が間に立ちます」

 

カオリさんはかなり嫌われたようだ。

こうしている間も、親の仇を見るような目でカオリさんの背中を睨んでいる。

 

一連のやりとりで空気が悪くなった。

これ以上何がどうこじれたとしても、大して変わらないと悟りを開けるぐらいの険悪なムードだ。

 

「――――着きました」

 

無限にも思える苦行の末、ようやくたどり着いたのは、人が何十人と住めるような立派な屋敷だった。

カオリさんはおもむろに振り返り、例の目つきの悪い方に目配せする。そうすると、その人は一足先に屋敷に入って行ってしまった。

 

屋敷をじっと眺めていた母上が、ぽつりと呟く。

 

「腰を据えて……?」

 

腰を据えるだけで、わざわざこれほど立派な建物に来る必要はない。

どうしてここに連れてこられたのか。理由は一つしか思い浮かばなかった。

 

「騙したな」

 

「申し訳ございません」

 

仰々しく頭を下げるが、それほど謝意は感じられなかった。

 

「この屋敷に剣聖様にお会いいただきたい方がいます」

 

「まだ何も聞いていない」

 

「聞けばお会いしていただけないでしょうから」

 

「一体何を話すつもりだ」

 

「……」

 

やはりカオリさんは何も答えてくれない。

ここまで来たのだから、話だけでも聞いておくべきだろうか。

騙して連れてこられたのだから、有無を言わさず帰ってしまうべきだろうか。

別にどちらでも構わないだろう。

 

「少なくとも子供に聞かせて良い話ではありませんから、別室で待機させることもできますが」

 

「馬鹿を言うな。別室に連れ込んで何をするつもりだ。斬るぞ」

 

「何も致しません」

 

「たった今人を騙しておきながらよく言えたものだ」

 

カオリさんは言い訳の一つも述べず、門を開いて中へと誘導した。

 

「どうぞこちらへ」

 

葛藤があった。

果たして、行って良いものかどうか。

騙されたことは確かなのだから、この先にどんな罠が張られているか想像もつかない。

 

その場を動こうとしない俺たちをカオリさんは殊勝に待つ。

背後の長躯の女性の方が焦れるほど、その場に留まり続ける。

 

結局は空気に流されて行くことにした。

仮にここで逃げたとしても、この分ではいずれ村までやって来て要件を果たそうとするだろう。

遅いか早いかでしかない。そう言う判断だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その部屋は窓を布で遮られ、暗闇の中で火が焚かれていた。

護衛と思しき人間が寝台の左右に一人ずつ刀を携えて正座し、寝台の(とばり)の向こうに人の影が見えた。

それがいったいどのような人物なのか、顔はおろか姿かたちすら判然としない。

パチパチと火の燃える音を聞きながら、直前に別れたカオリさんを思う。

 

あの人は最後まで、得体の知れない感情で俺を見つめていた。

何を思っていたのか本人に聞かねば分かるまいが、聞くことにも勇気がいる。正直に言って、とんでもないことを言われそうで聞くのが怖かった。

 

「ご足労いただき、感謝します」

 

帷の向こうからしわがれ声が聞こえる。

老人の声だ。恐らくは老婆だろう。声のトーンはそう聞こえた。

 

「本来なら、私が直接お伺いすべきところを、このような形でお会いすることになり、とても申し訳なく思います」

 

「御託は良い。用件はなんだ」

 

「お怒りは、無理もございません。しかし、事情があるのです」

 

呂律の回らないゆったりした口調だった。

せっかちな母上はそれとは真逆の忙しい口調で急かす。

それで怒っていると勘違いしたらしい。ここまでの経過を踏まえると当然だ。

しかし母上は普段からこんなものであるから、余計な気遣いや心配は無用だった。わざわざそれを言いはしないが。

 

「私は、自警団の世話役を務めています。しかし、見てのとおり老い先短く、後を継ぐ者を探しておりました」

 

「そもそも見えん」

 

目を細める母上は真剣に帷の向こうを見ようとしている。

黙って聞きましょうと裾を引っ張った。

 

「単刀直入に申し上げます。剣聖様には、我々の新たな指導者となっていただきたい」

 

「無理だ」

 

考える間もなく即答。

左右の護衛がいきり立った気配を見せ、張りつめていた空気が軋んだ。

「よしなさい」と老婆が言わなければ、刃傷沙汰が起こっていたかもしれない。護衛二人は命拾いした。

 

帷の向こうの老人は少し間を置いて、切り口を変えてきた。

 

「この町の、物見やぐらはご覧になられましたか」

 

「ああ」

 

「無様な物だったでしょう」

 

心なしかその声は震えていた。

 

「昔、あの場所には大きな堂が建っておりました。中央に釣られた鐘が時報を告げ、厄を払って、福を呼びこむ。とても大事な堂でした」

 

「それがなんだ」

 

「戦争で、焼け落ちました」

 

老婆の弱弱しい声音に、はっきりとした憎悪が滲む。

 

「40年以上前の戦争で、町には火が放たれ、たくさんの人が焼け死にました」

 

「そうか」

 

「その、直後でございます。兵たちが海の向こうへ撤退を始めたのは。私たちのすぐ背後まで、敵国の兵が迫っていると言うのに、祖国は私たちを見捨てた。……そこからは、地獄でした」

 

アキの耳を塞ぐべきか迷う。子供が聞くべき話ではないだろう。

実際そうしようとはしたのだが、呆れるほど頑固に抵抗された。

一言一句聞き逃さない、何も見逃さないと五感を研ぎ澄ませて周囲を警戒している。それを邪魔されたくないようだった。

 

「たくさんの人が死にました。老若男女関係なく、斬られ、殴られ、抉られ、潰され。町は血に満たされて、惨たらしい死体が山のように積まれました。あの悲劇を二度と引き起こしてはなりません」

 

「そうならないために、私にお前の後を継げと言うのか」

 

「左様でございます」

 

考えを纏める必要がある。

目頭を揉む母上は明らかに疲労していた。

しかし纏う気力は少しも褪せることなく、帷の向こうを見据えて口を開いた。

 

「虐殺など二度と起きん。そもそもが有り得ん話だ」

 

「……」

 

どんな根拠があってそんなことが言えるのか、俺にはてんで分からなかった。

根拠のない自信はいつものことで、今回のこれも考えなしに言っているのだろうとすら思った。

しかし続く母上の言葉を聞くには、きちんとした理由があるらしい。

 

「私は今の領主を知っている。あれは虐殺などしないし、他人の非道を見過ごすような真似もしない」

 

「……剣聖様が、領主と懇意であることは存じております」

 

「ならば安心するがいい。少なくともあれが領主でいる内は虐殺など起こりえない」

 

ふと、名前の長い依頼主とやらが頭に過る。

ひょっとして、それが領主だったりするのだろうか。

毎度毎度、領主に指南を依頼されているのか? この人は。

 

「……貴方様には、心から感謝しております。悪逆非道の限りを尽くした前領主を殺し、先代剣聖の庇護もあって、無罪になった貴方様がいるからこそ、我ら自警団は大っぴらに動けるようになりました。もしそうでなければ、我らは未だに陰で活動することを余儀なくされていたでしょう」

 

「ならば――――」

 

「だからこそ、貴方様でなくてはいけないのです」

 

帷の向こうで老婆は身を乗り出す。

 

「我ら東の民は、前領主を斬り、終いには剣聖の地位に納まった貴方様に、希望を見ているのです。貴方様がいれば、我らは明日を生きることが出来る。奪われたものを取り戻すことさえ、可能ではないかと」

 

老婆の言葉を飲み込むのに、少し時間が必要だった。

自警団のリーダーとして母上を勧誘したいと言う話だったはずだ。

しかし今の老婆の言葉は明らかにそれ以上を望んでいる。

 

瞑想する母上の様子を窺う。

この流れはまずすぎる。出来るなら、今すぐにでも会話を打ち切ってこの場を飛び出したい。

刃傷沙汰だって構いやしない。何なら俺が斬る。

 

「つまり、お前たちが本当に私にやらせたいことは、国への反逆か」

 

「左様でございます」

 

「片棒を担げと」

 

「旗印になっていただくだけで結構です」

 

「関与することに違いはない。公になれば死罪は免れん。仮に剣聖であったとしてもだ」

 

「祖国のため、民のため、何を躊躇することがありましょう。貴方様は、守護家の末裔ではございませんか」

 

守護家って何だろう。

俺の知らない我が家のルーツか。完全に蚊帳の外に置かれてしまった。

 

「守護は祖母の代で終わった。家名も取り上げられた。もはや過去のことだ」

 

「雅様のご遺志を継がれないと仰るのですか」

 

「遺志?」

 

母上がふっと小馬鹿にするような笑みを浮かべる。

こんな笑い方をするのは珍しい。意外な一面を見た。

 

「私は母が嫌いだ。母をあのようにした祖母も嫌いだ。あれらが残した遺志など継ごうとは思わん。その価値もない」

 

「なんと言うことをおっしゃるのです……!」

 

母上の言葉を聞いた老婆は怒りをあらわにしたが、次の瞬間には咳き込んでしまう。感情の急激な変化に身体がびっくりしたらしい。

激しくせき込む老婆の元へ、右に居た護衛が帷を潜って姿を消す。

 

少しの時間を置き、落ち着いた老婆は絞り出すようなか細い声になっていた。

 

「なんのために、剣聖になられたのですか……民のためでは、なかったのですか……」

 

「お前たちの期待を裏切り済まなく思うが、必要に駆られてだ。それ以上の理由はない」

 

帷に映る影が項垂れる。

勝手に期待し、勝手に失望し、勝手に打ちひしがれている。

なんとも自分勝手だ。それでいて憐れみを禁じ得ない。

これで勝手に早死にされでもしたら、後味悪いことこの上ない。

 

「私からも問いたい。なぜ今更謀反などを企てる。領主は死に、女王は考えを改めた。長らく続いた迫害は、少しずつ弱まっている。なぜわざわざ事を荒立てるようなことする」

 

「……」

 

帷の影は答えない。

母上には重ねて問い質した。

 

「なぜだ?」

 

「……遅い」

 

その小さな呟きが鼓膜を震わせる。

 

「現女王が王位に就き、前の領主が権力を握ってからの30年ばかりは、我々にとって地獄そのものでした」

 

失意の底に居ながらも、老婆は訥々と答えてくれた。

もしかしたら、母上が考えを改めてくれるかもしれないと僅かな希望を胸に抱きながら。

 

「強権を得た領主に、多くの民が殺されました。官憲は機能せず、女王は見て見ぬふりをした。抑えられていた差別意識が膨れ上がり、迫害は激化した。こんなことは全てご存知のはず」

 

「……ああ。だが過去の話だ。なぜ今更……」

 

「過去と仰るか。ああ……あなたにとってはそうかもしれません。その手で領主を斬ったのだから、そう思えるのかもしれない。だが我々は違う。私どもは、まだ何もしてはいない」

 

老婆が立ち上がった。

フラフラと危なっかしい足取りで、帷を掻き分け顔を見せる。息をのんだ。

 

「貴方様には分かりますまい。失ったことのない貴方には」

 

それはまさしく老人だった。

皺だらけの顔に隈をこさえ、その瞳は充血し落ちくぼんでいる。

もはや余命幾ばくも無いのは見てわかった。その形相を見るに、正気すら失っているのかもしれない。

 

歯の抜け落ちた口から唾を飛ばす勢いで、老婆は懇願する。

 

「地獄を乗り越え、人の営みこそ取り戻しましたが、戻らないものがたくさんある。それを思い出した瞬間、蓋をされていた憎しみが膨れ上がったのです。家族親類縁者、友人から知人まで、昨日生きていた人間が今日には死んでいる。明日には自分の命も危うい。そんなことが繰り返された結果、我々の恨みは骨髄にまで達した。もはや後戻りなど出来るはずがない! 剣聖様。あなたのお力をお貸しください。何卒、何卒……!!」

 

崩れ落ちるように頭を下げた。

足腰が悪いせいで満足に膝を折りたたむことも出来ていない。それでも気勢だけは衰えず、なりふり構わない姿勢で、是が非にも母上を取り込もうとしている。

しかしどれほど熱心に勧誘しようと、情に訴え頼み込んだところで、母上の答えは頑として変わらなかった。

 

「断る。私にそのつもりはない。やりたければお前達で勝手にやるがいい」

 

「あぁ……」

 

絶望の嗚咽が聞えた。

 

「貴方様は我々の敵になると、そう仰るのですか……」

 

「そうは言っていない。しかしお前たちの味方にはならない」

 

「同じことです……。我々が王権に剣を向けた時、真っ先に我々を討ち滅ぼさんとするは、剣聖の役目のはず。かつての戦争でもそうでした……」

 

母上が何か言う前に、老婆は言葉を続ける。

 

「我々にはもう英雄はいない……剣聖を討ち、万の敵を屠った英雄はどこかへ消えてしまった……。だからこそ、貴方様のお力が必要なのです……」

 

「断る。話は終わりだ。帰らせてもらうぞ」

 

取り付く島もない三度目の返答。

これ以上何を言ったところで無駄でしかない。

老婆もそれを悟った。プルプルと震える両手で己の頬を包み込む。

絶望に染まった瞳は何も映していない。虚空を見つめ、半開きの口から言葉にならない声が漏れ出ている。

 

「あああああぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!」

 

その絶叫に、母上を除く全員が肩を飛び上がらせた。

来るか来るかと戦々恐々とし、実際来たわけだが、耐えられるものではなかった。その叫び声には、筆舌に尽くしがたい絶望が込められていた。

 

即座に護衛の二人が抑えにかかったが、老婆の力は凄まじく、護衛を振り回した。

 

「売国奴がっ! 穢れた血を生み増やした大馬鹿者がっ! 恥を知れ! 雅様のお心をなぜ理解しようとしないっ!! お前はああああああぁぁぁぁ!!!!!!!!!!」

 

いくつもの罵詈雑言を投げかけ、味方である護衛に幾筋の引っかき傷を付ける様は見るに堪えなかった。

哀れ以外の言葉はない。人はここまで醜くなれるのか。

 

否応なく、老婆の暴れっぷりを見せつけられていると、背後で戸が開いた。長躯の女性が顔を見せる。

女性は喚き散らす老婆を憐れんだ目で一瞬見つめた後、俺たちに向け微かな頷きを見せ手招きした。

これで用件は済んだ。

 

立ち上がって部屋を後にする俺たちの背中に、理性を失った獣の咆哮が絶えることなく向けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

酷い一日だった。

廊下を歩きながら思う。

せっかく町に来て美味しいものをたらふく食べて、後は帰るだけだったのに。

知りたくないことを無理やり知らされ、正気を失った老婆の醜態を見せられて。

溜め込んだプラスが一瞬にしてマイナスに食いつくされた。

総評して、酷い一日だった。

 

誰も一言も発さないまま、長躯の女性に案内され玄関口まで戻ってきた。

とっとと帰ろうと前を向けば、煙管を咥えたカオリさんが煙を吐きながら座っている。

 

「何を吸っている。薬か」

 

「はい」

 

未だに多少余裕が残っている母上が訊ねる。

カオリさんは煙を吐きながら頷いた。

 

「ご心配せずとも、悪い物ではありません。お見せした通り身体が弱いもので、こうして薬を摂らなければいけないのです」

 

そう言って、カオリさんは懐から青草を取り出した。

薬草らしいが、どこかで見たことがある気がした。そこら辺に生えている雑草だと言われても判別つかない。

 

「これで痛みが和らぎます。多少頭がぼんやりしますが、慣れればどうと言うこともありません。お土産に一つどうですか」

 

「……身体が弱い理由はなんだ。先天性か」

 

差し出された青草を無視して、母上は一歩踏み込んだ。

自ら深入りしようとするのは珍しい。先ほどあんなことがあったばかりで、疲労で正常な判断が出来ていなかったのかもしれない。

チラリと母上を窺ったカオリさんは、大きく煙管を吸い込み、天井に向けて煙を吐いた。

 

「……前の領主は、色々なことをしていました」

 

滔々とした語り口調に、重い話がくると分かってしまった。その抑揚のなさに耳を塞ぎたくなる。

だがそうはしなかった。聞くべきだと心のどこかで声がした。

 

「攫ってきた子供におかしな薬を飲ませ苦しむ様子を楽しんだり、子供同士を殺し合わせて見世物にしたり、あるいは親に子を殺させ狂わせたりと、本当に色々なことをしていました。私の場合は、成長を阻害する薬とやらを飲まされました。その結果がご覧の通りです」

 

「……」

 

何も言えない。

言える口も持っていない。やっぱり聞かなきゃよかった。耳塞げばよかった。

 

「一つ質問に答えましたので、一つだけお願いを聞いていただいてもよろしいでしょうか?」

 

「……内容によるが、聞くだけ聞いてやる」

 

カオリさんは立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。

あれほどカオリさんを警戒していた妹は、今や疲れ切ってろくに反応できていない。俺の左腕に縋る様に立つので精いっぱいのようだ。

 

そんな妹の様子を心配した隙を縫うようにして、カオリさんは母上を通り過ぎ、俺の目前までやってきていた。

ほんのわずか屈んだだけで、俺たちの目線は等しくなる。

 

「顔を見せてくれる?」

 

「……」

 

それが願いなのか。

正面からぶつかる瞳の奥に暗い感情が渦巻いていた。

その暗闇が全て俺に向けられていて、じわじわと蝕まれるのを感じる。

最早考えることすら億劫だった。どうにでもなれと半ば開き直ってフードを脱いだ。

 

「……」

 

「……」

 

視線が絡みつく。

カオリさんが間近にいることに、今になって気づいたアキが腕を引っ張って遠ざけようとしたが、もう遅い。

一歩先んじて俺の頭に手が置かれ、そのままゆっくり撫でられる。

 

「固まった血の色」

 

俺の髪色のことだ。

暗い赤色。母上とアキは黒で、父上は紺色だ。

恐らく先祖返りしたのだろうと思われるが、カラフルな髪色が一般的な西でもこの色は珍しいらしい。東は黒ばかりだから、どこに行っても目立つ色だ。

 

「瞳は黒で、鼻は少し高い? でもそれ以外は東の特徴か……」

 

頭を撫でていた手が目尻を過ぎ頬を撫でる。

顎先を優しい手付きで触られるのは、そこはかとないこそばゆさがあった。

 

「ねえ。生きるの辛くない?」

 

「は……?」

 

「死にたいって思ったことはない?」

 

母上に聞かれないためにか、小さな声でそんなことを問われる。

何も言えないでいると、人差し指の背で下唇をなぞられた。

思わず口を開いたところに指を突っ込まれる。指先で何度か撫でるようにして舌をなぞられ、うえっとえずいた。

 

「……なんですか」

 

「この先、君が生きていくには辛いことが多いよ。いっそ死んだ方がましって思うぐらいには」

 

「……」

 

突拍子の無い発言には慣れっこだ。

動じることなくじっとその目を見ていると、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

アキに腕を引っ張られていたり、そもそも前世の記憶がなければこのまま誘いに乗っていたかもしれない。それほど蠱惑的な人だった。

 

「ねえ? どう?」

 

何を誘われているのか、今一度考えてみる。

いくら考えた所で、やっぱりそういうことだろうと思う。

この人の目的は一体何なのか。今までの言動を振り返れば、察するものがあった。

 

「兄上、やめてください……いかないで……」

 

隣でアキの訴えを聞く。

縋りつく力は弱弱しい。その手に自分の手を重ねてみた。温かかった。

今日一日でこの小さな身体にどれだけ負担をかけてしまったのだろう。

知らなくていいものを知り、見なくていいものを見せてしまった。町になど来なければよかった。心の底からそう思う。

 

だから、せめてこの場ぐらいは早く安心させてやろう。

その一心で言葉を紡ぐ。

 

「あなたは近いうちに死ぬんですね」

 

率直に過ぎただろうと後になって思う。

もっと言いようがあったはずだと後悔する。しかし先に立てる後悔は後悔ではない。

この時の俺はこんな言い方をした。事実として残るのはそれだけだ。

 

「うん」

 

気分を害した様子はなく、落ち込む様な素振りも見せず、カオリさんは淡々と頷いた。

 

「もうあまり長くないの。だからね一緒に死んでくれる人を探してる」

 

「そんなに死にたいんですか?」

 

「死にたくないよ。でも死ぬから。一人で死ぬのは寂しいから」

 

「どうして俺を誘うんです。俺だって死にたくない」

 

「本当に?」

 

口では答えず、ただ頷いた。カオリさんの目から視線を逸らしたまま。

それが俺の答えだった。

 

「理由はもう一つあるよ」

 

悪戯っぽく笑いながら、声音も冗談めかしている。

 

「なんでしょう」

 

「君の髪色」

 

くしゃりと乱暴に頭を撫でられる。痛いぐらい力が籠っていた。

けれど、これがこの人の精いっぱいだと思うと無性に悲しくなった。

 

「女の子は血に縁があるけど、私はそうじゃない。なのに君は髪の色と言い、生まれた家と言い、血に縁があるから嫉妬しちゃった。男の癖にって」

 

「……」

 

「本当に死にたくないの?」

 

「……はい」

 

「そう。それじゃダメだね」

 

屈んでいた腰を伸ばし、俺から目を逸らして母上に向き直った。

どれだけ小声であったとしても、母上に今のやり取りが聞こえていなかったはずがない。

だと言うのに、何一つ口を挟まずただ見守っていたその心境はどんなものだったのだろう。

 

「余計なお世話かもしれませんが、これより東に行くのは避けた方が無難でしょう。特に、レン君を連れて行っては余計な騒動に巻き込まれる可能性が高い」

 

「……なにかあったのか?」

 

「先ほど報告がありました。東の町で、西の人間が惨殺されたとのことです。両手足切り落とされ、口には指が詰まっていたとか」

 

「お前たちの仕業か?」

 

「そうではないと思いたいですが、お婆の狂いっぷりはご覧になった通りです」

 

その瞬間、廊下の奥から獣の咆哮が聞こえたような気がして思わず振り返った。

それは気のせいだったらしく、何も聞こえはしなかったものの、嫌な気配は依然として漂っている。

 

「東は魔境と言って過言ありません。自警団だろうと関係なく、すっかり毒が回りきっていますので」

 

言いながら指を折り曲げて見せた。

意味の分からない仕草に疑問を抱きつつ、続きを聞く。

 

「帰り道はお気を付けください。我々は決して一枚岩ではありません」

 

「わかった」

 

「もう二度とお会いすることはないと思いますが、ご健勝をお祈りしております」

 

「ああ。お前もな」

 

カオリさんは微笑んだ。母上は無表情だった。

別れの挨拶はそれだけだった。

 

珍しいことに、母上は俺の右手を引っ張って歩き始めた。

歩くのが早いため、かなり早足にならなくてはいけない。

未だに縋りついているアキを置いて行かないよう苦心する。

 

「さようなら」

 

去り際の声に返す余裕はなかった。

一瞬振りむくので精一杯だった。

微笑みながら手を振る彼女の姿が瞼に焼き付く。

 

生まれて初めての観光は、こうして幕を閉じた。



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13話

「ていやぁッ!!」

 

威勢の良い声と共に木刀が目にも止まらぬ速さで振り下ろされる。

直前まで俺の身体があった場所を斬り裂き、風圧が頬を撫でた。その力強さに瞠目する。俺の腕力では決して届かない領域だった。

それが羨ましくもあり誇らしくもある。流石は我が妹などと柄にもないことを思ってしまう。流石は母上の子供だ。

 

振り下ろされた刃を躱した後も、返す刃で追撃が繰り出される。

怒涛の猛攻が続いた。拙い点は多く、躱すことは造作もない。しかし何をしてくるかわからない不気味さがあった。

先ほどなぞ、剣戟の最中に木刀をぶん投げてきた。危うく顔面に直撃しそうになったが、何とか捌いた。一体誰がそのような戦い方を教えたと言うのか。

斬り合っている最中に武器を投げ捨てるなど、その一手で決めなければ無防備になってしまう。背水の陣よりさらにひどい。もはや賭けだった。分の悪すぎる賭けだ。

 

そんな経験から一瞬でも気を抜けばたちまち血を見るだろうことは明らかで、余裕などどこにもない。

目線や足運び、筋肉の収縮から息遣いまで、ありとあらゆる情報に気を払う。

こんなこと告げた所で自慢にもならぬだろうが、明らかに狼よりも妹の方が強い。と言うか怖い。

……やっぱり告げないでおこう。

 

「……ぐぬぬ」

 

全ての攻撃を躱しきった後、目前の妹はそんな声を漏らした。

悔しそうな声音と寸分違わず、唇を噛んで苦々しい形相だった。

 

正眼の構えで相対する俺は、真っ直ぐに切っ先を向けただ待ち続ける。

 

「……」

 

「……」

 

沈黙と共に僅かばかりの時が過ぎて行く。

 

アキはすうっと息を吸い込んだかと思うと、木刀を天高く上段に掲げる。

振り下ろしの構えである。しかし自分から仕掛けては来ず、俺の出方を伺って身動ぎひとつしない。

俺が今までそうしてきたように、待ちの態勢に移った。この数日間の稽古でアキがそうするのは初めてだった。

 

得物を上段に構えると胴ががら空きになる。

この状態で先手を取られれば、部位によっては対処が少し遅れることになる。遅れは敗北をもたらし、敗北は死に繋がる。もちろん、今は稽古の最中だから血を見ることはあっても死ぬことはない。

 

「……」

 

「……」

 

以上の理由から攻めるなら格好の機会だった。足を狙えば受けるにしても躱すにしても面倒だろう。

しかし、いくら妹とは言えども嘗めてかかることはしない。何を狙っているのか分かったものじゃない。誘いには乗らず待ち続ける。

 

そうすると自然根比べになる。どちらが先に根を上げるか。生憎と得意分野だ。

来ないなら来ないで良い。いつまでもこうしようと半分悟っている俺とは対照的に、妹は焦燥感に苛まれていく。

 

「……っ」

 

そろそろ我慢の限界だろう。

妹の性格はよく知っている。そこまで我慢強くはない。なにせ母上の子供だ。

刃先が震えはじめた。もう間もなく攻撃してくる。その予兆を見逃さずギリギリを見極める。

すぐにその時は来た。

 

「ここ」

 

「っ!?」

 

奇をてらう形で、一手先んじて攻勢に入る。アキは虚を突かれて一瞬身体が硬直した。

次の瞬間に三度打ち合った。

上段に構えたことと身体が固まってしまったことで、アキの対応は遅れに遅れている。剣速は俺の方が速く、アキは自分の首を締めたも同然だった。

 

三度目の打ち合いで派手に体勢を崩したアキの喉元に木刀を突きつける。ごくりと喉が上下した。

木刀を手放したのは敗北宣言だ。また一本俺が取った。

 

「今日は、もういいだろう」

 

喉から木刀を退け、距離を取りながらそう言った。

もう昼を過ぎている。時間は無限にある訳ではない。やることはたくさんあった。同じだけ考えることもある。

 

「……いやです。もう一回お願いします」

 

「もう十分じゃないか?」

 

「もう一回」

 

聞かん坊っぷりにため息を吐く。

そろそろ家に帰りたかったが仕方がない。

早く終わらせるのなら、まあいいか。

 

「じゃああと一回だけやるか」

 

「むんっ」

 

意気軒昂に木刀を構えるアキに、俺も同じように構える。

先ほどは待ちの態勢を取ったアキだが、今度はどうするのだろうと考え、すぐにその思考を打ち消した。今度はこちらから行けば良いのだ。

 

「いくぞ」

 

次の瞬間、地を蹴った足がやけに軽かった。

迫る俺に、アキは今度は慌てない。上段に構えたわけではないから対応も遅れない。自縄自縛は解かれた。

 

何合と切り結ぶ中で少しばかし苦しそうな顔を見た。

歯を食いしばり額に汗を掻いている。

とは言え、最後まで捌き切ったのだから見た目ほどでもないのだろう。次はもう少し速くしよう。

 

一通り攻めて決まらなかったのなら攻守交代になる。

先手は取ったが取り返された形だ。次は俺が受けに回る番だった。

 

迫り来る剣筋に思うことは、やはり腕力の違いだった。

力押しされると弱い。正面から受けたのでは無理やり体勢を崩されかねない。そうさせないために引きながら戦ったらジリ貧になった。

引きながら戦っているせいで、攻め時を見失っているからだ。

 

負けないためには受け流す以外の選択肢はない。しかし普通に受け流すだけではやがておっつかなくなるのが目に見えた。つまり『五の太刀』を使わなざるを得ないと言うことだ。

 

「――――『太刀』を使う」

 

「……ッはいっ!」

 

宣言に対し良い返事が来た。

いい勉強になるだろうなんて考えていたが、これならなんの遠慮もいらない。受けは全て『五の太刀』で捌くことにした。

 

「……」

 

「ぐぅっ……」

 

『五の太刀』を使い始めてから、形勢は逆転した。

アキはまだ『太刀』を使えはしないが、嫌と言うほど見てきたはず。見慣れているなら何か突拍子の無い手段で打ち破りはしないかと警戒したが、杞憂だった。

 

いくら打ち込んでも容易く捌かれる現状に敗北を見たのだろう。攻守交代する前に何とかしなければと焦ったようだ。

結果、攻めに傾き過ぎた所を完全に受け流し、アキはつんのめって前のめりに倒れた。

 

「あうっ!?」

 

顔から転んで悲鳴が上がる。

追撃はしなかった。転んだ時点で勝敗はついていた。

泣いても笑っても今日はここまでだと太陽を見上げる。時間はさほども経っていない。すぐに終わった。よし。

 

帰ればもう昼飯が出来ている頃合いだろうか。手伝おうと思ったのだが稽古に熱中し過ぎた。

出来ていなければ喜んで手伝おう。出来ているなら明日手伝おう。甘く見積もって半々と言う所だろうか。

 

空に向けていた視線を地面に戻す。すぐに立ち上がると思っていたアキはいつまでも起き上がらなかった。

怪我でもしただろうかと首根っこを掴んで顔を覗きこむ。

ぶすっと膨れっ面とご対面して思わず笑う。可愛かった。

 

「便利だろう? 『太刀』は」

 

「……」

 

返事もなければ反応もない。しかしその顔だけで十分だった。

良い子良い子と撫でた手にアキは不機嫌なまま上目遣いになって、終いにはにへらと子供らしく笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

町に観光へ赴いてから数日が過ぎていた。

この間、特に何もなく過ごしている。

あの日、帰り際で何気に襲撃を仄めかされてはいたのだが、帰途は何事もなく安穏無事な道中だった。

 

夕陽に照らされ、馬に乗った三人の影が長く伸びる。

母上が乗っている赤毛の馬は夕陽のおかげで鮮烈な赤色が際立っていた。

かく言う俺も妹も、栗毛の馬でさえ同じような色合いだったのだろう。夕焼けに染められながら帰り道をひた進む。

 

空が藍色に包まれだした頃、ようやく家が見えて来た。

帰って来れたと安堵に胸を撫で下ろして母上を見る。いつもの無表情で家を見ていた母上は、俺の視線を受けてこう言った。

 

「私はこのまま西に行く」

 

今日何度目の突拍子の無さだろうか。

取りあえず理由を問えば謀反のことを国に伝えに行くのだと言う。

明日の朝でいいのではないかと言えば、時間が惜しいと返された。

 

「今日のやり取りで、奴らは私を敵とみなしたに違いない。放っておけば何を仕出かすかわからん」

 

老婆を思い出す。あれは完全に狂っていた。形相と言い言動と言い、何から何まで正気ではなかった。何をするか分からないと言う言葉はまさしくその通りだ。

 

「なにか不都合があるか?」

 

「……」

 

珍しく俺の方が言葉に詰まった。

何とか説得できないだろうかと思考を巡らす。

何故だか、思い浮かんだのはカオリさんのことだった。

 

あの人もある意味では狂っていた。しかし哀れみしか浮かばない。心中を持ちかけられはしたけれど、だから何だとすら思う。

あの人はどこまで本気だったのか。出会ったばかりの子供なんかと一緒に死にたいと本当に思ったのだろうか。

場違いな思いが浮かぶ。

 

「レン」

 

「はい」

 

呼び掛けで物思いに沈んでいた意識が浮上する。

疲労のせいか考えが横に逸れる。カオリさんのことは今はどうでもいい。

目の前のことに集中してもう一度考えを巡らせた。

考えれば考えるほど、母上の言葉には納得する他ない。何をするか分からないと言うのも、早い方がいいと言うのもその通りだ。

そもそもこの人は頑固だし、身を案ずるだけの言葉など決して聞き入れはしまい。

 

「分かりました。いってらっしゃいませ」

 

「ああ。出来る限り早く戻る。父にもそう伝えておけ」

 

「はい」

 

「任せたぞ」

 

そう言い残して、母上は日の暮れかけた闇の中に姿を消した。

 

それから数日音沙汰がなく、アキの鍛錬をどうするか何も言わなかったので俺が稽古に付き合っている。

何気に妹と打ち合うのは初めてで最初は少し緊張した。しかしやってみればそんな余裕はどこにもなかった。

初っ端ボコボコにしたせいか、アキから遠慮の二文字がどこかへ吹っ飛んでしまい、木刀を投げたり素手で殴りかかったりとやりたい放題やり始めた。まさかこれほどじゃじゃ馬だとは思いもよらず、妹の新しい一面に若干引く思いだった。流石は母上の子供。

 

「……『太刀』」

 

一連の稽古の流れを反芻しつつ林の中を歩いていると、背後から呟き声が届く。

肩越しに振り向けばトボトボ歩いている妹の姿があった。一目で元気をなくしていると分かる。

これは、少々やりすぎたかもしれない。

 

「その内、お前も使えるようになるだろう」

 

「……」

 

安い慰めはあまり効果がない。

アキが刀を教わり始めてから早二年。未だに『太刀』は扱えない。

才能がないとは言わない。むしろある。俺なんかよりずっとあるはずだ。

ならば相性の問題かもしれない。人間向き不向きがあるものだ。アキに『太刀』があっていない可能性がある。そこのところ、母上がどう思っているのか気になった。

 

「……」

 

「……」

 

沈黙が肌に突き刺さる。

稽古とは言え、使えない人間に『太刀』を使ったのは間違いだったろうか。

使わせたお前が凄いんだぞと素直に褒めれば気持ちは上向くだろうか。

 

何を言えば良いか分からない。

どんな言葉が正解で、何が間違いなのか。

迷ってばかりで結局何も言葉をかけられない。こうしていること自体が間違いだと声が浮かんだ。

 

今俺が出来ることを考える。

言葉は何も思いつかない。なら行動はどうだろう。やれることはたくさんある。

 

「……」

 

「……兄上?」

 

歩く速度を緩め肩を並べる。

訝し気に見上げてきたアキの呼び声に応えず、代わりに手を握った。

 

「……」

 

「……」

 

俺もアキも、そのまま何も言わず家へと帰る。

これに果たして意味があるのかどうか。不安と緊張で鼓動が速くなる。

 

試しにぎゅっと力を込めれば同じだけ握り返してくれる。

それだけで、やった甲斐はあったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手を繋いだまま家に戻ると、すでに昼食の支度は終わっていた。

出来上がったものを見て何となく悔しくなる。明日は是非とも俺がと、出来るかも分からないことを思った。

 

まだ手を洗っていないと言うのに、座につこうとした妹の後頭部にチョップを食らわして、一緒に手を洗いに行く。

先ほど倒れたときに顔も汚していたのでついでに拭ってやることにした。

 

「ほら、顔に土ついてるから」

 

固く目を閉じてされるがままの妹にキュンキュンしながら丁寧に拭う。

その後は居間に戻って食事である。

いつものごとくの大食いぶりを微笑ましく見守る食卓だった。母上の姿がないことを除けば、何も変わり映えしない。

 

あの人は今どこにいるのだろうか。

そう思いながら父上を盗み見る。

 

「どうかした?」

 

「いえ……」

 

父上の目がどうにもバツが悪くて視線を外す。

隠し事をしているからだと自分でも分かっていた。

 

父上にはあの町で起こったことを一部を除いて話してある。

母上が謀反に誘われたことは包み隠さず明かした。やっぱり驚いていたが、思っていたほどではなかった。

「あの人らしいね」と独り言を漏らし、それ以上は何一つ追及すらしない。

一体どのあたりが母上らしいのか俺には少しも理解できない。けれども「ナギさんだし」と言われればその通りだと納得してしまう説得力があった。

 

「アキ。あんまり急ぐと喉に詰まるよ。ゆっくりね」

 

「わひゃしはひゅまりましぇん」

 

「喋るなら飲み込んでからね」

 

「……ひゃい」

 

あの日あったことで父上に明かさなかったことは一つだけ。

俺がカオリさんに心中に誘われた件だけだ。

 

心中に誘われて断った。

それで完結した話だと思って、話す必要もないと判断した。

言ったところで心労を背負わすだけだし、言う必要のないことは言わないで良い。

 

当日の夜はそう思った。

だが、冷静に振り返ってみたら少し気になる点が出てきてしまった。

気になるのは、カオリさんが母上に言っていたこと。

 

『ここより東は毒が回り切り魔境となっています』

 

そんなことを言っていた。

聞いた時から違和感はあった。けれどその時は追及しなかった。嫌なことばかりで疲れていた。考えることを放棄した。

それが、数日が過ぎた今になって思う。――――毒って何だ?

 

あの人は何を指して毒と言ったのだろう。

深読みの必要はなく、そのまま毒物のことを言っているのか。それとも比喩的な表現なのか。

 

比喩表現なら一体何を毒に例えた?

比喩表現でないのなら、東は毒物が蔓延していることになるのか?

老婆の常軌を逸した狂い様はそのせいか?

 

一度考え始めた思考は止まらない。止められない。

他人事で済ましてはいけない、考えなければいけない理由がある。

カオリさんは俺の口の中に指を入れた。たったそれだけの理由が。

 

やられた時はすわ変態かと警戒心が鎌首をもたげたが、毒のことを踏まえて考えるなら別の警戒をしなければいけない。

 

もし、毒がそのまま毒物を指しているのなら。

もし、あの人が指に毒を塗っていたのなら。

俺は毒を飲まされたことになる。

 

そう考えると胸の奥がざわつくような感覚を覚えた。

こんなのは単なる想像だ。本当にそうだと決まったわけじゃない。

しかし老婆の形相を思い出し、母上の「何を仕出かすかわからん」と言う言葉を踏まえれば、ありえないと否定することも出来なかった。

 

すでに数日が過ぎている。

遅効性の毒だとしても、いい加減効いている頃だろう。

少なくとも現時点で身体に異変はない。だからと言って、この先もずっと何事もないと楽観することはできない。俺はこの世界のことをほとんど何も知らない。

 

「ちちうえ。おかわりを」

 

「よく噛んでるかい?」

 

「いまかんでます」

 

「いい子だね」

 

このことに気づいたのは町に行った翌日。

気付いた時は少し焦った。また町に行こうかとも思った。だがそれは出来なかった。

母上が帰ってこない限り、俺は家から動くことが出来ない。

その理由もまた単純だ。腹だたしくて仕方がないが、あの老婆たちが何をしてくるかわからないからだ。

 

母上がいようといまいと、そんなのは関係なく家を襲撃される可能性がある以上は下手に動けない。本気で敵と見据えたのなら殺しに来るだろう。

帰り道で何もなかったのだから、その可能性は低いように思うが油断はできない。

 

母上は「任せた」と言った。その短い言葉に、家族を任せたと言う意味も含まれていると思うのは、考え過ぎだろうか。

 

毒にせよ襲撃にせよ考えすぎかもしれない。一から十まで、この全てが考えすぎだったらどんなにいいか。だが、考えすぎじゃなかったらとんでもないことだ。

 

過去は取り返しがつかない。決して巻き戻ることはない。

だから慎重に動く必要がある。考えて考えて、微に入り細を穿ってでも取りこぼさないようにする。そうしなければいけない。

未練も後悔も、もうたくさんだった。

 

「――――レン?」

 

「……はい?」

 

「あまり食べてないけど、どうかしたの?」

 

お代わりをよそって戻ってきた父上が、座に着きながら訊ねてくる。

気分の悪さを隠してそっけなく返事をした。

 

「別に何も」

 

「心配事かな?」

 

「……」

 

見抜かれている。何たることか。何が原因だ。

目を伏せて膳を見る。何も減っていない。考えに没頭しすぎた。何一つ手を付けていない。こんなのは不調だって白状しているようなものだ。

 

父上は穏やかな顔で俺を見ている。

隣でアキが心配そうに窺っていた。

二人の視線に負け、胸のわだかまりを白状しようかほんの少しだけ悩んでしまった。

言えるはずのない言葉の代わりに、口を衝いて出たのはこんな言葉だった。

 

「母上は、今どこにいるでしょうか?」

 

「あぁ……わからないけど、きっと元気だよ。いや、きっとって言うか絶対だね」

 

父上は断言する。

力強く、疑いようのない事実を述べるように。

その通りだと思う。あの人はきっと今も元気に走り回っている。馬の方が心配になるぐらい元気に。

 

「でしょうね」

 

「あんまり心配しても仕方がないよ」

 

「はい」

 

箸を持つ。飯を掻っ込む。

それだけで心配そうな雰囲気は元に戻る。

 

アキと父上の和気藹々な光景を見ていたら、一人悩んでいるのが馬鹿らしくなる。

俺は母上の子供なのだから、一つぐらい思い切った行動をしてみようと思った。

 

そう言うわけで、母上が戻ってきたら再び町に行くことに決めた。今度は一人で行ってみようと思う。

カオリさんに毒のことを問い詰める。胸ぐら掴んででも問い詰める。

何ならこの数日間の鬱憤を全て晴らすために、また町に行く。

そう決めて飯を掻っ込んだ。

 

 

 




ご無沙汰しております。作者です。
普段感想にお返ししていませんが、感想等でいくつかご質問頂いていたので、この場を借りて一問一答形式でお答えします。

Q:主人公の名前ってなに?
A:レン。作中では一切出て来ませんが漢字で書くと怜。
  ちなみに妹は旭(アキ)で母上は椛(ナギ)です。

Q:この世界って魔法あるの?
A:一話書いた時は魔法ありきで書いていたはずですが、いつの間にか消えました。
  どこいったんだろう。

Q:この世界は女性の方が筋密度高いのかな?
A:たぶんそう

Q:主人公って前世ぼっちだったんだろうか。それとも武人?
A:たぶんその内うっすらわかります

Q:母上と父上の馴れ初めって、これ絶対母上誇張してるよね?
A:どうでしょうね。近々母上の過去話入るので若干触れるかもしれません

Q:ゲンさんって男?
A:初老の男性。名前を漢字で書くと源。
  ちなみに、初老は古くは40歳ぐらいのことを指したそうですが、
  主人公は50~60ぐらいをイメージしているようです。

Q:ゲンさんって男の癖に狩人してるけど何者?
A:戦争末期を生き抜いた人。母上のお祖母ちゃんが関係しているとかいないとか

Q:母上の友達出てくるのかな?
A:がっつり出るよ!

Q:カオリさん結構好き。再登場する?
A:はい

Q:カオリさんが言っていた血の縁っていうのがよくわからない
A:生理。血縁。血生臭い仕事。この辺をかなーりオブラートに包んでます
  要はただの八つ当たりです。

Q:『女王』って言ってるけど、あべこべだから単に『王』でいいんじゃない?
A:指摘されて初めて気づきました。
  でも国の王様がきっちり女性ですって分かってもらうために女王でいきます

Q:あべこべに慣れなくて、頭の中で性転換させちゃう……ごめんね?
A:好きに読んでください。私も好きに書きますので。

Q:主人公悪堕ちするよね? ね? ね?
A:堕ちれるものなら堕ちて見ろって気持ちで書いてます。
  だから堕ちるかもしれません。




取りあえずは以上になります。

またご質問が溜まりましたら、何らかの形でお答えさせていただきます。
これからも当作品をよろしくお願いします。


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14話

「毒だぁ?」

 

ゲンさんの家に上着を返却しに行った時のことである。

戸を叩いて顔を見せたゲンさんに至極丁寧に礼を述べたところ、「土産はねえのか?」と言う感じで苛められた。

 

町にいる間はゲンさんのことは忘れていたので土産は買わなかった。そもそも母上が金平糖を持って行ったせいでまだ父上にも渡せていなかったりする。

ゲンさん自身土産なんて期待していなかっただろうに、恩着せがましくここぞとばかりに圧してくる。良い笑顔だった。

 

「ではその内持ってきます」と猿の討伐を画策する最中、そう言えばゲンさんはかつて医者志望だったことを思い出した。

医者ならば毒にも詳しかろう。そう考え、その場の雰囲気に流されたのも否めないが、不安に思っていることを打ち明けてみた。

 

最初は面倒くせえと言う顔で話を聞いていたゲンさんだったが、謀反の件を聞けば目を見開き、心中の件では気持ち悪そうな顔をした。

そして本題である毒の件について質問してみると、馬鹿じゃねえのと言う感じになった。

 

「何日経ってんだ」

 

「四日……五日?」

 

「五日ぁ?」

 

目を覗きこまれる。

首筋に手を当てられ体温を測られた。

「ふん」と鼻を鳴らしたかと思うと、首を横に振った。

 

「数日後に突然効き出す毒なんざあるはずがねえな」

 

「ないんですか?」

 

「ねえよ」

 

断言した。その言い様のなんと頼もしいことか。

心にわだかまっていた不安が綺麗さっぱり流されるようだった。

 

「定期的に摂取して、じわじわ効かす毒はあるがな。そう言うのは一回飲んだところで毒にも薬にもならん。小便と一緒に出るのがオチだ」

 

「いや、でも……何か、本当にないんですかそう言うの」

 

「しつけえな。ないもんはない」

 

二度目の断言は不安を完全に払拭するための後押しになった。

言い訳のように言葉を続けてしまう。

 

「心中に誘われたのは人生で初めてなもので。やっぱりちょっと動揺が……」

 

「ま、町に行って碌でも無い目に会ったっつうのは哀れだわな」

 

「哀れなのは、どちらかと言うとあの人たちの方ですよ」

 

「……ああ。自警団っつったか」

 

ゲンさんは首の後ろに手を回して眉をひそめた。

 

「あいつらもここ数年で一気に変わっちまったな。それこそ毒飲んだみてえによ」

 

その口ぶりは何か知っているようだったので質問してみる。

 

「数年前は真面だったんですか?」

 

「少し前は真面な連中だった。どいつもこいつも目をキラキラさせてよ。鬱陶しいぐらいだった。お前が会ったっつうババアもな。あちこちから身寄りのない子供を引き取って育てて……。それがまあ、随分とおかしくなったもんだ。世も末だな」

 

「何か切っ掛けでもあったんでしょうか」

 

「さあな。ババアがボケちまったのは年考えると仕方ねえ気もするが……。だからって周りの連中までボケるのはおかしいわな」

 

「そうですね。……やっぱり、本人たちに聞かないと分からないですね」

 

その言葉を吐いた瞬間、ゲンさんの視線が険しくなる。

じっと俺を貫く視線は、内心を見透かそうとでも言うような力強さだった。

 

「お前……まさかまた町に行こうとか思ってねえだろうな」

 

「ご明察です。最近よく図星を指されるんですが、俺ってそんなにわかりやすいですか?」

 

「お前ほどわからん餓鬼も居ねえよ」

 

「それはよかった」

 

「よくねえよ。二度も続けて町なんざ行くんじゃねえ」

 

「ま、それは追々考えますよ」

 

煙にまこうとしたのだが露骨すぎた。

ゲンさんはため息を吐く。

チラリと家の中を振り返って顎で示した。

 

「ちょっと家入れ」

 

「これから稽古がありますので」

 

「入れ」

 

「最近妹が反抗期に入って不安定なんです。こうしている間も俺のことを待っているので」

 

「あの小娘はずっと反抗期だったろうが」

 

逃げるのは許さねえよと睨まれたので、素直に聞き入れることにした。

正座する俺の対面にゲンさんが胡坐で座り、ぞんざいな所作で上着を投げ出す。

 

「で、だ」

 

ゲンさんぐらいの年齢の人と、真剣な雰囲気で向かい合うのは緊張する。たぶん前世の性だろう。魂に沁みついた癖だ。

 

「あのなぁ。お前に心中持ちかけた女は、西都あたりを魔境とか言ったようだがな。俺に言わせればあの町も十分魔境だ」

 

「西都ってどこですか」

 

「お前が行った町よりもずっと東の町のことだ」

 

東のくせに西なのかと思ったが、恐らく東国からみて西なのだろう。

だとすると西都は昔の名前か。今はなんて言うのだろうか。

 

「そもそも、お前自分の髪色分かってんのか」

 

朱殷(しゅあん)です」

 

「あ?」

 

「血みたいな赤黒い色のことを朱殷と言うらしいですよ」

 

「誰が色の名前なんざ聞いたんだ」

 

呆れたと言う感じの顔をされる。

なんとも納得いかなかったが、話は続いた。

 

「その赤黒い髪は、東の物狂いどもには恰好の的だ。だからこれ着てけって言ったんだ。何されるかわかったもんじゃねえ。そんなことはお前もわかってたんだろ?」

 

東の危険度は知識で知っている。

加えて、帰る直前には西の人が東で殺されたと聞いた。

それもかなり陰惨な死に様だったらしい。東の人間がどれほど恨みを募らせているのか、もはや俺ごときでは想像もできない域に達している。

 

「髪の色が違うってだけで殺されちゃうんですね」

 

「ああ」

 

「髪の色が違えば、例え東の生まれでも迫害されるってことですよね」

 

「そうだ」

 

「随分とおかしな世界だと思いませんか?」

 

「……そうだな」

 

束の間沈黙が訪れる。

居心地の悪さに身体を揺するゲンさんを見ながら、町にいる間ずっと監視していた三人組を思い出す。

あの悪意に満ちた視線の意味は、俺が西と東のハーフと知ってのことだったのだろうか。西への憎悪を俺に向けて、あわよくば復讐を考えていたのだろうか。あんなにも若いのに、復讐心を募らせていたと言うことか。

 

そう思うと気分が沈む。哀れみで胸がいっぱいになる。可哀想な人たちだ。

過去のことに縛られて、決して前を向くことが出来ない人たち。目に映る物を全て睨みつけ、憎悪をぶちまけている。

この村から東に行けばそんな人たちばかりらしい。哀れみと共に妙な共感を覚える。

考えてみれば、過去に縛られているのは俺も同じだった。だから嫌いになれない。自分のことを棚に上げられるほど、開き直った生き方は俺には出来なかった。

 

「まあ、おかしいかもしれん。でもな。それが社会だ。そんなもんなんだ。仕方ねえことだ……」

 

自分自身に言い聞かせるような声音に、ゲンさんの過去を偲ぶ。

どんなことがあったのか、決して俺には聞かせてくれないだろうが、色々なことがあったのは確かだ。

ゲンさんだけじゃなく、母上も父上も、カオリさんや例の三人、あの老婆だって色々あっただろう。

 

生きていれば過去がある。様々な経験をして今に至る。

失敗なんて数えきれないほどしただろうし、後悔や未練も腐るほどあるだろう。

だからこそ、先ほどのゲンさんの言葉が脳裏に浮かんだ。

 

『あいつらもここ数年で一気に変わっちまったな。それこそ毒飲んだみてえによ』

 

身寄りのない子供を引き取って、領主の悪行から住民を守って。

そこには正しい志があったはず。そうじゃなきゃそんなことは出来ない。戦後何十年もずっとそうしてきたのだから。

 

それが、どうして今更謀反を企む?

地獄から救い出したはずの子供たちを、また地獄に叩き落とす真似をする?

 

最初から復讐が目的だったとでも言うのか。

何もかも、この国に一矢報いるための下準備だったとでも?

 

カオリさんを思い出す。

あの人は諦めていた。自分の行く末を悟り、目前に迫った死をただ眺めているだけだった。

仲間の暴走にすらあまり興味を抱いていないようだった。

かと思えば東に行くなと忠告したり、一枚岩ではないと襲撃の可能性を示唆したり、すべきことはきちんとしていた。

 

あの人は何を考え、何をしたかったのだろう?

何のために生きて、どんな気持ちで死ぬのだろう?

なんだか、無性に知りたくなった。

 

もう一度話が出来たらと思う。今度はきちんと一対一で、腹を割って話したい。

また嫌な思いをするかもしれないし、今度は無理心中に誘われるかもしれない。けれど、話がしたかった。

何が本意で何が本音なのか。毒とか謀反とかその辺どうなのか。

この理不尽な世界のことを、どう思っているのか。

 

それを聞くにはやはり、もう一度出向かなくてはいけない。あの町まで、もう一度。

 

「決めました」

 

「あ?」

 

「決めましたよ俺」

 

「……なんだ?」

 

「母上が戻ってきたら、もう一回あの町に行きます。あの人が死ぬ前に、もう一度話をしてきます。ついでに謀反の件も問い質してきますよ。また子供たちを戦渦に巻き込むのかって」

 

「……はぁ」

 

頭を抱えるゲンさんを見つめる。

一寸たりとも視線を外さなかった。

 

「お前たちの家系は、ほんとうに頑固だよなあ……」

 

「母上譲りですよ。責めるならそっち責めてください」

 

「いや、曾祖母譲りだ。あの人もこんな感じだったからな。だから責められん」

 

祖母の顔すら知らないのに曾祖母の話をされても困る。

確か雅様と言ったか。あの老婆が何か言っていた。剣聖についても言っていた気がするが、あまり覚えていない。

 

「……椛をけしかけるしかねえか」

 

小さい声だったが俺に聞こえるように呟いていた。

ゲンさんとしては俺を止めたいらしい。無用なお世話だった。

 

「母上には俺から話しておきます。きちんと了解を得てから行くつもりですのでご心配なく」

 

「いくら椛でもそんなん了解するわけねえだろ。自分の子供を危険地帯にノコノコ行かせるような真似なんぞ、いくらあいつでも……」

 

「たまには子供の我が儘ぐらい聞いてもらわないと、ぐれちゃいますよ?」

 

「……頼むから、餓鬼の台詞を吐いてくれ」

 

頭を抱え続けるゲンさんはどうにか思いとどまらせようと頭を悩ませていた。

俺のために悩んでくれているのなら、出来る限り付き合ってあげたいが、これからアキの稽古がある。

いつまでも油を売っている訳にも行かず立ち上がった。

「お邪魔しました」と去ろうとする俺に、ゲンさんは低い調子で声をかけてくる。

 

「せめて、これだけは着ていけ」

 

ついさっき返したばかりの上着を放られる。

これは獣くさいからあまり好きではないけど、折角の好意を無下にするわけにもいかないだろう。

 

「天日干しすればこの臭い抜けますか?」

 

「やってみろ。獣の匂いはしつけえぞ。なにせ臭えからな」

 

「やってみます」

 

上着を持って家を出る。

その直前に大きなため息が聞えたが、今度は聞かす意図はなかったようだ。

振り返ることなく扉を閉める。次はちゃんと土産を買ってこようと心に決めて、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家に戻る道すがら、父上にも町に行くことを伝えるか迷っていた。

もし万事思い通りに事が運んだら丸一日姿を消すのだし、母上経由で伝わる可能性は十分にある。

そうなれば説教は確定だ。生まれて初めてのゲンコツを食らう可能性すらある。

今更ゲンコツ程度怖くもなんともないが、父上を怒らせるのは気が引ける。かと言って、なら事前に伝えてどうなるかと言うと、どうにもならない気がした。

 

二つに一つ。どちらかを選ばなくてはいけないが、そんなことを考えながらも、隠し事にはいい加減飽き飽きしている自分がいた。

 

生まれてこの方隠し事ばかりである。

前世の知識があるなんて、父上はおろか母上にも話していないことだ。話したところで妄言で片づけられる。最悪は気狂いだ。あの老婆と同類扱いはご勘弁願いたい。

 

主に前世のことを始め、言えないことはたくさんある。

だからこそ、せめてこれだけは話したい。正直後が怖いけど、父上のことを思うなら、全部話した上で町に向かうのが一番良い気がした。

子供の我が儘と言えども、聞いてもらうのなら筋を通してこそだろう。通せる筋はなるべく通したい。

 

天秤が傾いた。

父上に話す方向で考えることにした。

まずは説得する文言からだ。にっちもさっちも行かないようなら母上の助けを借りる必要がある。

会話の流れを想像し、情報を整理しながら家に近づいた。

 

考えに耽っていたので視線は下に向けられていて、家の前の人影に気づくのが遅れてしまった。嫌な気配を感じて顔を上げる。

 

家の前にはアキが立っていた。

木刀を腰に携え、不機嫌な雰囲気を周囲に撒き散らしている。

俺がいつまでたっても帰ってこないから怒ったのかと焦ったが、よくよく見てみると違うらしい。

 

隣の人影が目に映った。

最近は村の爺婆ですら避け始めているアキに、何ら臆することなく話しかけまくっているその人は見たことのない風貌の老女だった。

 

毛先が黄色く、根元を辿るにつれて白く染まっていく髪。髪型は纏めるでもなくざんばらに乱れている。かと言って不潔感があると言うわけでもない。大雑把な人と言う印象を抱いた。

 

左手には杖を持っている。背格好や体勢からして歩行補助に必要と言う感じではない。両足でしっかり地面に立っている。一見して壮健そうだ。

 

右腕に視線を向けて目を見張る。

だらりと垂れた袖にはあるべきものがない。片腕がなかった。この世界で不具の人を見たのは初めてだ。

 

頭のてっぺんから足の爪先まで印象的な人だ。

色こそ抜け始めているが、元が黄色の髪なら西の人に違いない。

記憶を辿ってもこの老人に見覚えがないので、少なくともこの村の住人でないことは確かだった。

 

一体何の用だろうかと不思議に思いながら二人に近づく。

近づくにつれ、二人の表情がよく見えた。

 

アキは顔をしかめて至極面倒臭そうだ。

他人と接する時はいつものことなのだが、それにしたって目つきが悪すぎる。たまに口を開いて何か言葉を交わしているが、失礼な口を利いている気がする。

 

対する隻腕の老女は、ニコニコと人当たりの良い笑顔で喋り続けていた。アキの態度なんか気にも留めていない風情だ。

口の開き具合を鑑みて、マシンガントークばりに喋っているらしい。

アキがとてつもなくうんざりしているのはそのせいか。老人が喋り好きなのは、国や地域が違っても変わらない。

 

俺と二人の間にはまだ少し距離があったが、見ているだけでもアキが可哀そうだったから声をかけることにする。

 

「アキー。お客様か?」

 

「兄上!」

 

負の感情に満ち満ちていた表情が一転して綻ぶ。

心情的には救いの手だろうか。現金な奴だと苦笑した。

 

「母上のお知り合いだそうです!」

 

「母上の?」

 

ブンブンと手を振って俺を呼ぶ。早く来てくれと全身でアピールしていた。

その隣で老女が俺の方を見ていた。俺もその人を見返す。

 

近づきながら見つめ合った。一歩近づくにつれて鼓動が速くなる。

全身に鳥肌が立つ。老女の瞳の奥の感情に危機感が湧きたつ。この感覚を俺は知っている。

 

早足から駆け足へと。刀に手をかけながら叫ぶ。

 

「そいつから離れろっ!!」

 

「え――――」

 

俺の目の前で――――アキの背後で、老女は杖に仕込んでいた刀を抜いた。

時の流れが緩やかになり、緩慢な動作でアキが振り向く。すでに老女は得物を振り上げていた。

 

――――ダメだ間に合わない。

 

既に『三の太刀』を放っている。全速力で駆けている。

それでも間に合わない。『三の太刀』が届く前にアキが斬られる。その光景が脳裏に浮かんだ。

 

「――――っ」

 

最悪の未来だった。それはすぐ目の前までやって来ている。一秒後にはそうなっている。

こうしている間にも老女が刀を振り下ろす。その太刀筋はアキを真っ二つにする。

 

やばい。まずい。死ぬ――――。

 

諦観が心を支配した。

俺の脚じゃ間に合わない。何をしても間に合わない。助ける手段がない。

絶望に染まる俺の目前で、しかしアキは諦めていなかった。

 

次の瞬間、アキは誰よりも速く動いた。

木刀を抜き去り、老女の顔面にぶん投げる。同時に自分は背後に跳んでいた。

 

アキを真っ二つにするはずだった太刀筋は木刀を斬る。

そして――――返す刃がアキの身体を斬り裂いた。

 

肩口から鮮血が舞う。

血と共にアキの身体が宙に浮かんだ直後、三の太刀が老女に届いた。身構えていた老女は、不可視の刃を身を翻して躱す。

 

ようやくたどり着いたときには、投げ出された身体が地面に倒れる瞬間だった。

 

「――――いやはや。やるねえ」

 

老女の呟きを聞く。

妹の身体から血が溢れるのを目の端で見ている。

大量の血がとめどなく溢れている。

 

視界が真っ赤に染まった。

 

「――は?」

 

沸騰する感情のせいで脳がやられたのかもしれない。

それ以外に言葉が出なかった。言いたいことはたくさんあったのに、何も言えなかった。

 

「三の太刀か……。あんた、男の子だよねえ?」

 

老女が何か言っている。どうでもいいことをほざいている。

重要なのはそれじゃない。もっと大切なことがある。

 

「……お前……何してる?」

 

「お前って……はぁ、まったく椛の奴一体どんな教育を――――」

 

またどうでもいいことをほざいたので斬りかかった。

最速で、殺すつもりで、ぶっ殺すつもりで、渾身の力を込めて。

 

その一瞬でどれだけ切り結んだか分からない。軽く十合は打ち合った気がする。

『太刀』を使おうとした瞬間、老女は背後に大きく後ずさり、その分アキとの距離が離れた。

 

「男の子、だよねえ……男の振りした女ってわけじゃないんだよねえ……」

 

頬についた切り傷を撫でる老女。その一挙手一投足が鼻につく。

とっくの昔に感情は爆発していた。

何を遠慮しているのか。こんな奴は殺して構わない。早く殺せ。

 

「邪魔だよ。とっとと死ねよクソババア」

 

「……ったく。失敗した。男の癖になんつう奴だ。初めてだよこんなのは」

 

ババアが逆手に刀を握る。途端に空気が重くなった。濃密な殺気が肌に突き刺さる。

 

母上を彷彿とさせる威圧感。

応じる他に術がなく、構えざるを得ない。

ほんの僅かでも目を離せない。少しでも隙を見せれば、その瞬間殺されると本能で理解していた。

 

睨み合いになる。

俺は動かず、老女も動かず、嵐の前の静けさが周囲を包んだ。



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15話

刻一刻と時が過ぎていく。

睨み合うだけの無意味な時間だ。

すぐに動かなくてはならないのに、その先に死が透けて見えている。

先ほどの攻防で理解した。このババアは格上だ。真面に戦えば俺が死ぬ。その公算が大きい。

 

だからと言って逃げるわけにはいかない。死ぬのが怖くないなどとは言わないが、このままではアキが死ぬ。

自分と妹の命どちらかしか選べないのなら妹を選ぶ。例え俺が死ぬとしても、アキだけは絶対に助ける。そう決めている。

 

その覚悟を嘲笑うように、状況は何も動かなかった。

アキは斬られたショックで気を失ったのか、倒れてから身動ぎひとつしていない。すでにかなりの血が流れている。

早く止血を。手遅れになる前に。

 

「……」

 

「……」

 

睨み合っている間何もしなかったわけじゃない。

目線や足の動きでフェイントをかけ、隙を作ろうとした。だがどれも引っかかってはくれなかった。

泰然とした物腰に焦りが募る。掌の上で転がされているような気分だ。こうしている間も、人生で最も貴重な時間が無為に過ぎていく。

 

心の中に諦観が顔を出しかける。

思考はアキを助けられなかった場合を考え始めた。冗談ではない。

 

アキは諦めなかった。あの状況で出来る限りのことをした。木刀を投げ、攻撃を回避しようとした。

斬られはしたが、俺の三の太刀が老女の行動を制限させた。

 

不可視の刃が目前に迫っていたあの状況で、追撃に専念できたとは考えづらい。もし下手に追撃していたのなら、このババアは真っ二つになっていたはずだ。

だが結果的には五体満足で生還している。追撃と回避を同時に行ったからだ。

 

そこにわずかな希望がある。

踏み込めなかっただろう。気がそぞろだっただろう。……急所を外したかもしれない。

 

藁にも縋る思いだ。あまりに頼りない。だがそれに縋るしかない。

仮に、もし刃が内臓まで達していたのなら――――。

 

再び悲観的になり始めた思考を無理やり戻す。

こんなことを考えている場合ではない。すべきことをしなければいけない。

だが、どうやって?

 

目の前のババアを牽制し、アキの応急処置をする。

 

言葉にすれば簡単に思える。

しかしこの二つを同時に行うのは不可能だ。

アキを助けたくても助けられない。ババアを殺したくても殺せない。

 

無力感が心を苛む。無理だ。どうする。どうやって助ける。

ふざけるな。こんな理不尽があってたまるか。どうしていつも救いがないんだ。

何か方法があるはずだ。何か、きっと――――。

 

その瞬間、母上の言葉が脳裏に蘇った。

 

『あるがままを受け入れ、頭を回せ。それで開ける道もある』

 

そのたった一言が俺に力を与えてくれる。

堂々巡りになりかけていた思考がようやく真面に働いた。

答えは至極単純だった。どれだけ策を巡らせようと不可能なことは不可能だ。

俺にはできないだろう。あくまで、俺には。

 

理解し、そして叫んだ。

 

「父上――――!!!」

 

老女がやかましそうに顔をしかめる。

業腹だ。なぜそんな顔が出来る。殺したい。今すぐにでも。

 

「助けてください!! アキが死ぬっ!! はやく来て!!!」

 

怒りを抑えつけ、人生で最も大きな声を出した。

父上が家の中にいるのは気配で知っていた。声は届いている。大急ぎでこっちに向かってきている。

荒々しく戸が開かれた。

 

「レン? アキがどうしたって――――ッ!?」

 

息を切らしながら姿を現した父上は、眼前に広がる惨状に目を剥き呆然と立ち尽くす。

そんな悠長なことをしている場合ではない。

 

「アキをお願いします! 斬られました! 応急処置を――――ゲンさんの所へ!!」

 

「え……あ……」

 

「早くッ!! 死んでしまうッ!!」

 

その一喝でようやく我を取り戻した父上は、アキの元へ駆け寄る。

一連の流れを黙って見ていたババアが、「くっくっ」と小さく笑った。

 

「目の前に私がいるってのに、余裕だねえ。まさか、このまま何もせず見逃がすと思ってるんじゃなかろうね?」

 

父上に向けて殺気が放たれた。

重力が増し、空気は粘性を持つ。

呼吸困難になるほどの濃密な殺意をその身に受け、思わず足を止めた父上は、縫い付けられたように動けなくなる。

 

ただでさえ貴重な時間をロスさせられた。もはや感情を押し殺すのは無理だった。

幸運にも、ババアは今父上に夢中だ。

 

「油断してんのはてめえだろ」

 

溜め続けた感情の発露は劇的だった。

今までにないほど速く動き、一息で距離を詰める。ありったけの力を溜めた。

 

――――四の太刀。

 

「『孔穿(あなうがち)』」

 

四の太刀は突き技。

ただし普通の突きとは違って見た目通りの威力ではない。

胸を穿てば握りこぶしほどの孔が空く。遠距離斬撃同様に常識破りな技である。

その分隙は大きく連続して打つことも出来ないが、当たれば一撃必殺なことに間違いはない。

 

しかも、今回に限っては完全に不意を打っていた。

老女を突き殺すヴィジョンが鮮明に浮かぶ。それほど完璧なタイミングだった。

 

当たる寸前、スローになった世界で老女の顔を見ていた。その目が俺を捉える。

その顔に恐怖はおろか驚きすらなかった。

見る見る間に、厭らしい笑みは冷酷な微笑に変わった。

 

――――五の太刀。

 

ババアの唇がそのように動く。

俺は目を見開いた。まさかと言う驚きが対処を遅らせた。

 

「『旋風』」

 

「……っ!?」

 

受け流された。しかも、五の太刀で。

驚いている暇はない。俺とババアの距離はゼロに等しい。

隙の多い大技を受け流されたせいで、すぐに体勢を立て直せない。攻撃が来る。

 

「ありがとう。乗ってくれて」

 

その声は慈愛に満ちていた。

これから死に行く者への手向けとばかり。横薙ぎの刀は酷く優しい手つきで首へと迫る。

 

『旋風』で刀は完全に受け流された。

必死に戻したところで今からでは防げない。

どれだけ考えても死を回避する手立てが浮かばない。……死ぬ?

――――いや、まだだ。

 

「まだ終わりじゃねえぞっ!!」

 

腕だけではなく全身の力を使って、刀の方向を無理矢理変える。

防ぐのではなく攻撃へと。ババアの身体に刃を走らせる。

 

死ぬ前に力を乗せ切れればそれで良い。そうすれば、例え俺が斬られたとしてもその時はババアも斬っている。

一緒に死のうなんて生易しいことは言わない。どうなろうとお前だけは絶対殺す。アキや父上には指一本触れさせない!!

 

「ああ……ったく」

 

首に刀が食い込む感触。まだ俺の刀はババアに届いていない。

走馬燈を見た。過去の出来事が次々脳裏に蘇る。もう覚えていない顔が多く居た。それが酷く懐かしい。

いよいよ俺は死ぬ。代わりにババアは痛打を被る。それが、俺が選んだ命の使い道だった。

 

だと言うのに、ババアは途中で攻撃を止めた。

俺の首を切り落とすよりも前に跳びすさってしまう。決して刃の届かない場所に着地したババアは呆れ顔で俺を見た。

俺の刀は空を切り、ババアの刀も命に届くほど深くは斬れていなかった。

 

「自分の命を軽々に扱いすぎじゃないかい。そんなに大事かい。あの娘が」

 

困惑と疑問で混乱しながらも、その場からまだ一歩も動いていない父上の気配を感じる。

ゆらりと剣先を向けた先にはアキがいて、その切っ先からぽたりと血が垂れる。

命には届かなかったが軽傷では済んでいない。

鋭い痛みを感じ思わず首を押さえるも、それすら隙になるだけだとすぐに刀を握りしめた。

 

「レンッ!?」

 

背後から聞こえた声は父上のもの。

どうしてまだそこに突っ立っているのか。いつまでそんな所にいるつもりだ。

今の攻防見てなかったのか。死にかけてんだぞこっちは。俺の命を無駄にする気か?

 

「ここは任せてください。アキを頼みます」

 

「でも、首から血が……!」

 

ぬるりと気持ち悪い感触が手に残っている。

掌は真っ赤に染まっていた。襟元も同様だ。

だがこの程度なら致命傷ではない。ならば十分。

 

「平気です。それより早くゲンさんの所へ」

 

「そんなに血がいっぱい出て、平気なはずが――――!!」

 

このギリギリの状況で何を言うつもりなのだろう。

ババアへの怒りと違って、父上への怒りには理性が働く。だがこの場においては感情の高ぶりを抑えるのは難しい。

殺し合いの最中に、まるで関係ないことに意識を割くのは隙になりかねない。父上の役目は済んでいる。もはや邪魔でしかない。

 

「今一番危ないのはアキです。放って置いたら確実に死ぬ。早く行ってください」

 

努めて冷静に言い聞かせた。それでも父上は動かない。

刀を握る手に力が籠った。理性と衝動がせめぎ合う。我慢の限界だった。

 

「血が出てるからなんだ!? 止血してる余裕がどこにあるって言うんだ!?」

 

返事はない。なおも言い募る。

 

「こいつは今すぐにでも俺を殺すぞ! その後は父上を殺してアキに止めを刺す!! 母上はいないんだ! こいつをどうにかできるのは俺だけだろう!?」

 

語気は荒くなったが、事実を連ねているだけだった。

こんなにも分かり切っているのに、わざわざ口にしなければならない。それが不思議でならなかった。

 

一人の人間が助けられる命には限りがある。個々によって大小すらある。

父上の場合、アキ一人を助けるので精一杯のはずなのに、なぜ余計なものまで助けようとしているのか。

 

「そこにいられると邪魔なんだよ!! 俺を殺すつもりなのか!? 早くアキを助けろよ!!」

 

「……っ」

 

そこまで言って、ようやく父上は走り出した。倒れていたアキを抱え、苦しそうな嗚咽を漏らしながら、真っ直ぐゲンさんの家に向かい出す。

 

今のやり取りで貴重な時間を浪費したのは間違いない。どうしてもっと早く動いてくれなかったのか。憤懣やるかたない。

 

「……素敵な、家族愛だねえ」

 

ババアは感じ入ったような声音で呟く。

うんうんと頷いて、父上が走り去った方向を見やる。そしてあっけらかんと言った。

 

「ま、殺すけどね」

 

「くそが」

 

感情を逆撫でするのが極上に上手い。

ふざけた特技だ。性根が腐っている。死んだ方が社会のためになる。こんな奴は生きてちゃいけない。

 

「せっかく椛を殺しに来たのに、いないんじゃあ仕方ないからね。他にやることも無いのさ」

 

「……」

 

「運が悪かったと諦めてくれ」

 

息を吐く。

首の痛みが少しずつ増してきていた。

 

冷静になるにつれて、アドレナリンの分泌が抑えられてきたらしい。ここまで痛いのなら興奮したままの方が良かったかもしれない。痛みで身体が引き攣って上手く動かせない。

 

「苦しそうだねえ。一思いに楽になってみないかい? 首、差し出しな」

 

「……」

 

痛みのせいで集中できない。罵倒を返す余裕もない。

父上がきちんとゲンさんの家に辿り着けたか見届けたかったが、これでは不可能だ。

 

それでも、無理にでも集中し世界に溶け込もうとする。

意識を半円状に広げていく。ゲンさんの家までは届かないだろうが、一応やっておく。

 

額を汗が伝った瞬間、それほど離れていない場所で人の気配を感じる。

 

「おや……観客がいるようだね」

 

まさかと思うのとババアがそう言ったのは同時だった。

その気配は父上のものではない。だが知っている気配だ。農作業をしていたはずの村人が数人、遠巻きにこちらを窺っている。

 

鍔迫り合いの金属音。助けを求める声や怒鳴り声。それは村中に響いたはず。

様子を見に来るのに十分すぎる理由だった。

 

「丁度いい。旅の道連れは必要だろう。運が悪い者同士、仲良くしないとね」

 

ババアの殺気が高まる。順手に構え直し目の高さに掲げた刀は、俺ではなく村人を狙っている。

村人惨殺のヴィジョンが過去の光景と重なった。悪寒とともに衝動に駆られ、なりふり構わず叫んでいた。

 

「家に隠れてろ!! 近寄るなっ!! 逃げろッ!!」

 

その一喝で脱兎のごとく逃げる村人たち。

ババアは走っていた。村人ではなく、俺に向かって。

 

「はっはぁ! すっごい逃げっぷりだねえ!」

 

ああ、そうかい。

口の中で呟いて応戦する。

だが痛みのせいで思うように身体は動かない。

剣戟を掻い潜って脇腹を浅く斬られた。

 

くそがっ。

 

内心で吐き捨て、技を使おうとする。

 

一の太刀――――。

 

瞬間、ババアはまたもや跳びすさった。

追う余力はない。息を整え、情報の整理に没頭した。

 

新しく脇腹に傷をこさえてしまったが、それよりも首の方が問題だ。

離れた場所から厭らしい笑みで俺を見据るその目には、先ほど見た村人たちへの殺意はどこにもなかった。最初から俺だけが狙いだったようだ。

 

しかしならばなぜ引いた?

殺せたはずだ。今も、さっきも。殺せる機会を延々と逃し続けている。

その理由については一つしか思いつかない。

 

先ほど、俺を殺さなかったのは傷を負いたくなかったから?

今、また距離を取ったのは危険を冒したくなかったから?

なら、一の太刀についても知っていると見るべきだろう。だからこそ、この理由には違和感がある。

 

「……おいババア。目的はなんだ」

 

「はぁ?」

 

問いに対して、素っ頓狂な声が上がる。

 

「お前はそんなことも分からず戦ってたのかい? どうして殺されかけているかも分かってなかったのか!? 頭の弱い子供だねえ!」

 

あまりに大仰な言い方が癪に障る。だが慣れてきた。

 

アキを斬られた時ほどではない。激情に駆られて判断を誤れば、一瞬で首を斬られる。

こういう戦術なのだろう。勝つためには手段を択ばない小汚さ。太刀を使ったことから、ババアの正体は何となく察しがついているのだが、これのせいで確信が持てないでいる。

 

「痴呆が進むと性格どころか頭まで悪くなるのか? もう一度だけ聞いてやる。目的はなんだ?」

 

「くっくっくっ……。いいさ教えてあげるよ。私の目的は、剣聖になることさね」

 

スタンダードな答えだ。母上を殺したい理由で最もポピュラーと言える。こいつが言うのでなければ納得していた。

 

この答えだって嘘か真か分かったもんじゃない。もしかしたら撹乱しようと嘘を連ねているだけかもしれない。

それを考えると正直もう話したくもなかったが、首の痛みはまだ尾を引いている。慣れるにはもう少し時間が必要だ。

 

「お前ごときが? 剣聖に?」

 

鼻で笑った。

痛みも相まって笑い所はどこにもなかったが、無理して笑った。

 

「その程度の腕じゃあ無理だな」

 

「おや……どうして言い切れる? わかんないじゃないか。やってみなきゃ」

 

幼稚な挑発に思いのほか乗ってきた。

興味深そうな表情は素のように見える。それだけ関心があると言うことだ。

 

俺にとってどうでもいいことでも、こいつにとってはそうじゃない。

俺が来る直前までアキと何か話していた。たぶんこのババアは母上の情報が欲しいのだ。母上に挑むと言う言葉は嘘じゃないのだろう。ならば少しでも勝率を上げたいと思うのは当然のことだった。

 

下手に喋ると母上が不利になるかもしれない。だから、極めて単純な事実だけをくれてやることにした。

 

「母上なら俺ごとき無傷で殺す」

 

ババアの顔から表情が消えた。

すでにババアは俺からかすり傷を受けている。お前は母上以下だと告げたに等しい。聞き逃せない言葉だ。

嘘か真か。迷えば迷うだけ、楔は深く突き刺さるだろう。母上を少しでも有利にしてくれるならそれでいい。

 

「そもそもお前右腕はどうした。誰かに斬られでもしたか? だとしたらとっくに敗北者じゃねえか。身の程を弁えろ雑魚が」

 

「……言ってくれるじゃないか。剣より口の方が達者みたいだね。その口で女も転がしてるんだろう? 不埒な男だねえ」

 

この世界の貞操観念がどうなっているのか分からないが、軽薄なナンパ野郎と罵倒されているのだと理解する。

言葉の棘は随分丸くなったようだ。

 

「生憎と友達一人いない」

 

「それはそれは。可哀そうに」

 

「ああ、可哀そうだ。雑魚が夢見てる姿は滑稽で見てられない。目を塞ぎたくなる」

 

こんなことを言っている間に、痛みにも大分慣れた。伊達に母上にしごかれていない。問題なく身体を動かせる。

ならばこの無意味な煽り合いもここまでだ。これ以上時間稼ぎしたところで俺の血が流れるだけで、死ぬのが早まるだけなのだから。

 

「わざわざ母上が手を下すこともない。お前は俺が殺す」

 

「勇ましいねえ。やってみるがいいさ。この期に及んでまだ私に勝てると思ってるのなら、それこそ夢見がちだと思うけどねえ」

 

「いいや? 夢なんて見てないさ。大分分かってきたぞ。お前の弱点」

 

血で滑らない様に刀を握り直す。

ババアは俺の言葉を訝しんでいた。

考える暇など与えない。

 

突撃する。

最速ではなく、ある程度の余裕を持って斬りかかった。

ババアは応戦し、一拍の間鍔迫り合いになる。

 

刀と刀の力比べは拮抗した。

性差はあれども力は互角。

その認識を共有し、それ以上の力比べはババアの方が拒否した。

 

「へっはぁ!」

 

奇妙な一叫と共に刀が弾かれる。

反作用でババアの刀も弾かれている。

 

お互いに大きく仰け反る形になったが、歯を食いしばり足を踏ん張って、もう一度斬りかかった。

ババアは跳びすさって躱す。俺は追撃に踏み出した。

 

命を刈り取ろうとする刃を、ババアは淡々と躱し続ける。

いくら斬りかかっても無駄だった。躱すことに専念し、必要があれば刃を交える。それ以上は何もしない。そのせいでかすり傷一つつけられない。

 

出血のせいで短期決戦に出るしかない俺としては、ババアの攻めっ気のなさがもどかしい。攻撃する必要がないと言わんばかりだった。

 

「随分と血が出たじゃないか」

 

逃げるババアを追っている最中、その言葉を聞いた。

目尻を垂れながらニタリと笑う顔は、怒りよりも不気味さを呼び起こす。

 

「顔が青白くて、動きのキレも悪くなってる」

 

「……」

 

「九死に一生を得たとでも思ったかい? 致命傷じゃないと? ――――考えが甘い」

 

その断言には力が籠っていた。

身体を貫かれたような感覚を覚え、立ち止まる。

 

「私にはわかるよ。動くたび、じわじわと火が小さくなっていくんだ。命の灯だよ。――――ああ、そんなに動いたら……そんなに力んだら……ってさ。ずっと思ってたよ。哀れだねえ。動いたら動いただけ、早く死ぬって言うのに、そんなに頑張って」

 

「……」

 

「その時が来れば、あんた死ぬんだ。なら、わざわざ危険を冒すこともあるまい? ずっと逃げさせてもらうよ。その火が消えるまで、ずっとさ」

 

会話を交わすことすらババアの術中なのだろう。

話せば話すだけ、俺の時間は削られていく。悠長にしている余裕がないのは俺の方だ。

 

「……剣聖になりたいって奴が、随分と小賢しい真似しやがるな」

 

「あんたみたいな命知らず、怖くて相手してらんないよ。相打ちなんて冗談じゃない。傷一つごめんだね」

 

傷一つ……。

逃げ続ける……。

危険を冒したくない……。

 

「どうやら分かってるみたいだな。母上には勝てないって」

 

「しつこいね。わかりっこないだろ。やってみなきゃ」

 

この会話はさっきもした。同じことを繰り返してる。

どうせなら利のある会話をしろ。欲しい言葉を聞き出せ。

 

「そんなに大事かよ。自分の身体が」

 

「そりゃあそうさ。もう若くないんだ。腕力も体力も、衰えを痛感するね。傷の治りだって遅い。椛を殺すのに、余計な傷をこさえてちゃ勝てるものも勝てないかもしれない。万全で挑まなきゃねぇ。何せ偉大な剣聖様だから」

 

いつか、母上が『あの人は話すのが好き』などと言っていた。

その言葉通り、必要もないことをペラペラと喋ってくれている。おかげで確信した。

 

「だからさ、老人労わって素直に死んでくれないかい。後生だよ」

 

「はっ」

 

鼻で笑う。今度は腹の底から笑った。

後から後からやってくる衝動を抑えるのは土台無理な話で、本心から嘲笑する。

 

俺のような子供に嘲笑されるのは良い気がしなかったらしく、ババアは不愉快そうに目を細めた。

その目を見つめながら、今度は俺が断言する。

 

「お前に俺は殺せねえよ」

 

「そんなこたぁないさ。楽勝と言っておこうか」

 

「子供を不意打ちしておきながら、殺しきれなかったやつには無理だ」

 

「とことん夢見がちだねえ……。まだあの子が死んでないと思ってるのか。死ぬさ。あの傷だ。放っといても死ぬよ」

 

「傷つくのが怖い腰抜けのへっぴり腰が、三の太刀を前にきちんと刀振れたって言うのか?」

 

ピクリとババアは反応する。

勝負は見えたとすっかり油断していたところで、痛いところを突かれて思わずと言う感じか。

人のこと嘗め過ぎなんだよクソババア。

 

「思惑に気づかれて予想外。木刀投げられたのも予想外。三の太刀が予想外。予想外予想外予想外だ。おいババア。お前、ちゃんと斬れたのか?」

 

ババアは答えない。喋ってばかりの奴が押し黙るのは答え合わせに等しい。

俺から見て、今のババアは隙だらけだったが、攻めは控えて首の傷を押さえた。

 

「さっきから、俺を殺せる機会を何度も逃してるだろうが。保身に寄りすぎだ。決めれる時に決められない奴が、剣聖になれるはずがない。ましてや傷が怖いなんて問題外だ」

 

「私に、説教するつもりかい」

 

「やってることがチグハグだって言ってんだよ」

 

なんだかんだ首の出血は治まっていた。

とは言え、きちんと止血しないと危ないことに変わりない。ましてや激しい運動なんてしたらすぐにでもまた出血するだろう。

 

「剣聖になるって言っておきながら、子供が怖くて逃げ回る。小汚い手わんさか使って、それでも殺せない。なあ、教えてくれよ。お前ごときがどうやったら剣聖になれるんだ?」

 

ババアは答えない。俺を睨む剣呑な目つきは少しも怖くない。

むしろやり返してやったぞと達成感が湧き起る。

 

睨むばかりで沈黙を保っていたババアが、突然目を瞑った。

次の瞬間、目を開いたそこに剣呑な光はなく、平静さを取り戻していた。

 

「言うじゃないか。でも……そうだね……。認めようか。確かに、あの子は殺しきれなかった」

 

確信があるとはいえ、確証なんて一つもない。ただの願望に過ぎない挑発に対し、素直に白状するのは予想外だった。

目の前のババアが一体何を考えているのか分からず、今度は俺が黙りこくる番だった。

 

「あともう少し踏み込んでいたら確実だったのにね。失敗したよ」

 

やれやれと頭を振ったババアは「でも」と続ける。

 

「手応えはあったんだ。失血死するかしないか、五分五分ってところかね」

 

「そうかよ」

 

まだ確実に生きていると決まった訳じゃない。そんなのは先刻承知だ。

知りたいことは知れた。少なくとも、まだアキは生きている。それが分かれば十分だ。

 

「なんか元気出てきたわ。ありがとう。クソババア。お礼に殺してやる」

 

「礼なんかいいさ。むしろ私が言いたいぐらいだ。あんたの方こそ、礼を受け取ってくれるかい」

 

訝しる俺に対して、ババアは僅かに苦笑した。

 

「あんた、危ないからさ。ここでしっかり殺しておくことに決めたよ」

 

その瞬間、殺気が辺りを包み込む。

先ほど父上に向けた物よりも濃くて重い。

物理的な圧力は常人では耐えがたいものだった。

 

「――――太刀は、いくつまで知ってる?」

 

その問いかけは殺意の霧の向こうからやってきた。

ごくりと唾を飲み込む。死がこの場に顕現したとすら思った。

 

「六までだろう? でも、実はその先があるんだ。見せてあげよう。冥途の土産として」

 

海岸から波が引くように、見る見る間に殺気が引いて行く。

それは津波の前に引き波が起こるのと似ていた。

引いた殺気は、刀を握る左腕に集まっている。目に見える程の何かが、そこにある。

 

とんでもない攻撃がくると直感で理解した。

大きく跳びすさって距離を取ろうとする。

 

「七の太刀――――」

 

俺が逃げたことを気に掛ける素振りはない。粛々と技を出そうとしている。

距離など関係ないと言うことか。一歩では足りない。もっと距離を取らなければ。

 

着地とジャンプを何度か繰り返した。

まだもう少し、ともう一歩距離を開けようとした時、背後から女の子の声が聞こえた。

 

あってはいけない声に反射的に振り向けば、見覚えのある顔がある。

以前、川で遊んでいた5人の子供。その内の1人が半泣きで腰を抜かしていた。

 

どうしてこんなところに子供がいる?

そんなことを考えて、遠くから男の子を含めた残りの4人が走ってきているのを見つけた。そのずっと遠くに親らしき姿がある。

 

――――好奇心でここまでやってきた。殺気を浴びて動けなくなった。今、俺たちの戦いに巻き込まれかけている。

 

脳裏に描いた推測は、この瞬間においてはどうでもいいものだった。

どの道これ以上は後退できない。ここで待ち受ける他ない。

この子たちを守らなければ。

 

覚悟を決め、子供たちを背にして立つ。

 

既に刀は振り下ろされようとしていた。

遠くて聞えないはずの声が聞こえる。

 

――――『塵旋風(じんせんぷう)

 

刹那、竜巻の様な刃の嵐が吹き起こり、命を刈ろうと襲い来る。

 




年末が近づくにつれて段々書けなくなってきたので、次回は少し時間が空くと思います


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16話

七の太刀と言うのを、俺は寡聞にして知らない。

母上に教えられたのは六の太刀までだ。その母上にしてもオリジナルの技はほとんど持っていないと言う。

だから、それを聞いた時は何かの冗談かと思った。ババアが五の太刀を使い、母上の顔見知りらしきことを踏まえても、易々と信じることは出来ず、ただただ技が繰り出されるのを見ていた。

 

刀が振り下ろされたその瞬間、突風が頬を撫でる。

それはたった一振りだった。

たかだか振り下ろされただけなのに、途端に風が吹き荒れて目を開けていられなくなった。ふとすれば吹き飛ばされそうな気すらした。

 

踏ん張りながらも刀を構える。必死に目を開ける。

本能が警鐘を鳴らす。命を奪わんとする何かが迫っていると。

 

何をしてくるのか、皆目見当がつかない状況で、それでも対処するべく身構える。

だと言うのに、辛うじて開いている目には何も映らない。見えるのは刀を振り下ろしたババア一人だけ。

警鐘は治まらず、しかし危険を察知することはできない。視界でも気配でもない、第六感だけがそれを捉えていた。

 

中段に構える刀に何かが当たる。

気のせいかと思う程度の小さな手ごたえ。それでも、確かに何かが当たった。目に見えないそれは刀を響かせ、空気を振るわせる。

 

なんだ?

手の中で震える刀を疑問に思う。

それに目を向けた矢先、何の前触れもなく頬に切り傷が生まれた。

斬られたことを理解するよりも早く、腕、脚、顔、胴と次々斬られていく。

小さな切り傷は、それでも血を滲ませて痛みを伴った。一筋頬を垂れる感触。

 

それは風に紛れてやって来ていた。

目に見えない攻撃に成すすべなく、ただただ傷つけられる。最初小さかった切り傷は段々と大きくなっていった。

 

足元の小石が地面と一緒に斬られるのが目の端に映る。地についた切れ込みは、刀で切ったような跡だった。そのおかげで、一先ず斬撃の大きさには見当がついた。

 

五の太刀をがむしゃらに振るう。

知覚できない斬撃を受け流すのは、暗闇の中手探りで道を探るようなものだった。何とか受け流した斬撃は全体の一部でしかない。その倍以上の数が俺の身体を切り刻んでいる。

そうなってしまったら、もはや身体で受け止めるしかない。背後には子供がいる。躱す選択肢はない。

 

そして、五の太刀の隙間を縫うように襲ってきたひときわ大きな斬撃。

それは俺の身体を大きく切り裂いた。右肩から左の脇腹まで、袈裟で斬られたような傷が出来る。

 

痛みはなかった。代わりに身体から力が抜けた。

点々と散った血を見ながら膝をつく。

太陽が忽然と姿を消したようにして、目の前は真っ暗になる。

意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お願いします! どうか、どうか……!!」

 

微睡んだ意識に突き刺すような悲鳴が聞こえる。

その声の必死さは命乞いの様に思えた。

半分寝ぼけたまま指を動かし、全身を激痛が走る。一気に目が覚めた。

 

うっすら目を開けてみると自分の膝が見えた。

土の上に膝をついて座っている。俯いているおかげで自分の身体がよく見えた。服は血で赤く染まっていた。

 

記憶を辿ると、こうなるまでの経緯が鮮明に蘇る。

あの斬撃を受けて死んだと思ったのに、しつこくまだ生きているらしい。

一度死んだら、無意識で生に執着するようになるのだろうか。分からないが、実際まだ生きている。ひょっとして、一生分の幸運を使い果たしたのかもしれないとも思った。

何にせよ、生きているのなら、すべきことをしなければいけない。周囲の気配を探って状況の把握に努めた。

 

「どうか娘だけは……!!」

 

女性の懇願は、自分ではなく子供に対してだった。

合間合間に挟み込まれる子供の声は、複数人いるようだ。

この女性はずっと遠くにいた親か。俺が気を失っている間にここまでやって来たらしい。

 

気を失ったと言っても、それはほんの一瞬だったはず。

もし長いこと意識を失っていたのなら、ババアはとっくに俺の首を斬っていただろう。

だがまだ斬られていない。ババアの気配は七の太刀を繰り出した場所からほとんど動いていなかった。

 

「あぁ……」

 

ババアの声はしわがれている。老人らしい声の中に妙な威圧感があった。

「ひっ」と小さな悲鳴の後で、「エンジュっ!」と呼ぶ親。

抱き合う気配。この二人の他に四人の子供が俺のすぐ背後にいる。みんな怯えている。

 

ゆっくりと近づいてくるババアの足音が少しずつ大きくなり、背後の気配は緊張に包まれる。

恐怖心や絶望感と言った負の感情で空気が澱む。

立ち上がりたかったが、身体は言うことを聞いてくれない。金縛りにあったかのように動いてくれない。

 

このままではまずいと焦燥感に駆られる俺のすぐ目の前で、ババアが立ち止まった。

後頭部に視線を感じる。心臓が早鐘を打つ。

一瞬の沈黙が何時間にも感じた。

 

「お行きなさい」

 

「え……」

 

「お行きなさい」

 

俺にとっても、親にとっても、それは予想外の言葉だった。

よく聞くと、その声には微かに疲れが滲んでいる。

ついさっきまで殺し合った相手には、似つかわしくない声音だ。

 

「私の邪魔をしないのなら、斬りゃあせん」

 

滲んだ疲労感を取り繕ろうとしたらしい。声の威圧感が少し増した。

だが喉の奥の震えは誤魔化しきれていない。

 

疲れか、それとも達成感か。どちらにせよ、俺との死闘が負担になっていたことに間違いはない。

戦っている最中感じていたほどには、力の差はないのかもしれない。

 

次の瞬間にも首を刎ねられてもおかしくない状況で、そんなことを考えるのは場違いかもしれない。

けれど、殺し合っている相手のことを知りたいと思うのは、当然のことだとも思う。

何も無差別に殺そうとしてるわけじゃない。誰でもいいはずがない。ただ、このババアはアキを殺そうとした。父上も殺そうとしている。だから、その前に殺さなければいけないだけだ。

 

「最後だよ。お行きなさい」

 

「ありがとうございます、ありがとうございます……!」

 

最後通牒を含んだ三度目。それでようやく女性は立ち上がった。礼を重ねて、子供を立ち上がらせる。

「行くよ」そう言う女性の声は安堵に満ち、だが僅かに緊張と焦りが残っていた。この場から離れない限りは、絶対に安全とは言えない。

 

「まってお母さん」

 

エンジュと呼ばれた女の子は、殺されかけた直後だと言うのに気丈な声で他の子供たちに呼びかけた。

 

「みんな、立って」

 

その一言で、澱んでいた空気が一変する。

子供たちが動く気配。それに紛れて親子の会話が聞こえた。

 

「あの人も起こさないと」

 

「ダメ、早く来なさい! 関わってはダメ」

 

「でも死んじゃうよ」

 

「エンジュッ!」

 

駄々をこねる子供に手を焼いている。早く去らねばならないのに、押し問答をしてしまっている。

その様子を黙って見ていたババアが溜息を吐いた。

 

「最後って言ったよね……邪魔しないならとも言ったじゃないか……。そんなに死にたいなら、しょうがないかねえ……」

 

萎んでいた威圧感が急速に膨れ上がる。

何かしらの手段で脅そうとしたのか、あるいは見せしめに殺そうとしたのか。

子供たちの悲鳴が聞こえて、女性は平謝りする。その声は泣きそうだった。

 

「行きますから、すぐに行きますから……!」

 

ババアが一歩子供たちに近づく。

その時ばかりは、ババアの注意は俺から外れていた。

背後の子供たちと親。そちらに集中するばかりで、俺が生きている可能性を考慮していない。

 

刀を握る手に力を込める。

やはり激痛が走ったが、この期に及んでそんなものは関係ない。今立ち上がらず、いつ立てと言うのか。

こんな状態では真面に戦えないとか、これ以上は本当に死ぬとか、思い浮かんだ言い訳はたくさんあった。

それらを全て放棄して、後のことは考えず、とりあえず無理をすることにした。

 

「おい、やめろよ」

 

「……は?」

 

顔を上げれば、呆気にとられた表情がすぐ間近にある。

一拍目が合う。見れば見るほど隙だらけ。

斬れと言う衝動に突き動かされて、ようやく身体が動いた。

 

「ちぃっ……!!」

 

完全に虚を突いた攻撃を、ババアは見事な反射神経で瞬時に後ずさって躱す。

 

ここまでしてダメなのかと一瞬落胆し、直後刃先に手応えを感じる。

ババアの肩口から小さく血飛沫が舞うのが見えた。

 

初めて真面に与えた有効打だ。それが不意打ちと言うのは何とも情けない話ではあるが。

 

ババアとの距離が離れた。

この隙に刀を杖にして立ち上がる。

 

たったこれだけのことで鋭い痛みに襲われている。

何をしても痛い。立っても、動いても、息をしても痛い。

全身が軋んでいる。寿命間近の古びた機械のように。

 

それでも出来る限り表に出さないようにして、ババアと相対する。

あらん限り、足に力を込めて仁王立ちした。真面に立てない姿など見せられない。

 

幸いなことにババアは混乱していた。

疑問と焦りと恐怖が浮かぶその顔には胸がすく。

ぶっ殺したはずの人間が立ち上がったのだから、そう言う顔にもなろう。

 

見応えのある感傷もそこそこにして、今の内に出来ることをしておかなくてはいけない。

 

「……おい、後ろの奴ら」

 

背後の六人に声をかけるも返事がない。

気配は微動だにせずそこにあるので、見るまでもなくいるはずなのだが。

 

「聞いてるのか?」

 

「あ……え……」

 

肩越しに振り返ると、親と思しき女性と目があった。

見覚えのある顔だ。子供たち五人も、いつか川で遊んでいた聞かん坊たちで間違いない。

 

「逃げろ」

 

言うべきことを言って正面に向き直る。

 

「二度と近づくな。終わるまで家に籠っていろ」

 

ここまで言っても、やはり返事がない。

再び肩越しに振り返る。

親の胸に抱かれた子供と目が合った。その頬には七の太刀でついたと思しき切り傷がある。

 

「全員連れて行け。娘だけじゃなく」

 

「……はい」

 

「早く行け」

 

そのように念を押しておく。

人数比が1:5とは言え、大人なのだから子供を連れて帰るぐらいはしてほしい。

もしまた誰か来ようものなら、その時はもう命の保証はない。守る前に俺が死ぬ。

 

のろのろと動く気配。

何が起こっているのか状況を理解できていない。取りあえず言われた通りにしておこうと言う気配。

 

一刻を争う状況でそれは悠長にもほどがあったが、特段怒りは湧かなかった。

今こうしている間にも、胸の傷からは血が流れて血の気が引きまくっている。そのおかげで頭は冷静だった。

頭が冷めている分、刀を握りしめる手と地面を踏ん張る足すら冷たく、感覚はあいまいだ。通う血がないようにも思える。

視界は平衡感覚を失い、眩暈と耳鳴りが酷い。吐き気と同時に喉まで何かがこみ上げている。口の中は苦い鉄の味がした。

 

七の太刀で受けたダメージは、即死こそ免れたものの深刻だった。

特に、最後の斬撃は三の太刀が直撃したのと同じ。

どれだけ考えても、生きている理由がわからない。

 

それはババアも同じらしく、俺を睨むその表情には依然恐怖が色濃くある。

斬っても死なない男。怪綺談になってもおかしくない。

 

「なんで生きてる……。あんた、なんかやったのかい……?」

 

「……」

 

ババアの問いかけには無言を貫く。

考えても分からないことを直接聞く姿勢は全く理に適っているが、生憎と聞く相手は殺し合う敵だ。

素直に教えるはずもない。そもそも俺にもよく分からない。こっちこそ聞きたい。へっぴり腰がまた何かミスでもしたのかと。

 

攻めるのに二の足を踏むババアを見ながら、今俺に何が出来るかを考える。

辛うじて生きているとはいえ、死にかけていることに間違いはなく、試しに斬りかかれば何をする暇もなく首を斬られるだろう。

かと言って、それを受け入れられるはずもない。俺が背負っているのは俺の命だけではない。

 

ならば何をしよう。何をすればいいのだろう。

残されている手札はある。とっとと使っておくべきだった手札がまだ残っている。

もっと早くに使うべきだったと後悔している。使わずに残していた理由は、ただ単に使いたくなかったと言うお粗末なものだった。

 

命を捨ててババアを殺すと決めたのに、覚悟が足りなかった。

ババアの消極的な姿勢に僅かな希望を持った。それに縋って、もしかしたらと未来を思い浮かべていた。

運が良ければ死なずに、後遺症すらも残さずに、ババアを倒せるかもしれない。

そんな未来を。

 

甘かった。

切るべき手札を切らず、可能性の低い希望に夢を見て、七の太刀とやらで死にかけた。

死ななかったのは運が良かっただけだ。

もし死んでいたのなら、アキは死に、父上は死に、俺は無駄死にだった。

 

殺し合うのは初めてで、人を斬るのも初めてだ。

心の持ちようも、手札の切り方も、腹の探り合いも、何もかもが未熟で幼稚。

 

あらゆる面で格上相手に、正面から戦ったところで到底敵うはずはない。

それでも戦うのなら、全力で立ち向かわなければいけなかったのに、後のことを考えて手札を出し渋り、結果未来は暗闇の中に消えた。

 

大馬鹿野郎と言わざるを得ない。

いつからか勘違いしていた。一度死んで、新しい人生を歩み始めたんだから、俺はきっと特別なんだろうと。

女が強い世界で、男の癖に強いから、俺って奴は凄いんだと心の奥底で思い込んでいた。

 

全然すごくない。

全然強くない。

全く、特別じゃない。

このざまを見ろ。死にかけてるじゃないか。

 

ずっとずっとずっと、弱いままだ。

何度人生やり直したって、所詮俺はそうなんだ。

必要な時にすべきことが出来ない。何一つ守れない。

前世も、今世も、今この瞬間も。

 

だから、せめて最期ぐらいは、全力で守り抜きたい。

後のことなんて考えずに、今この瞬間に持てる力の全て出し切る。

未来も命も、俺の持てる物全てを賭けて大切な人の未来を守る。

 

覚悟は決まった。

もうぶれるな。最後まで真っ直ぐ突き進め。

 

「――――窮鼠猫を噛むって知ってるか?」

 

「……なんだって?」

 

「追い詰めすぎるのは厳禁って意味だ」

 

刀を目の高さで水平に構える。

 

「六の太刀」

 

その言葉を聞き、ババアの眼が見開かれた。

俺がこれから何をするか、理解したババアは即座に距離を詰めてくる。

だが遅い。

 

「『夜叉』」

 

瞬間、世界は変わった。



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17話



ご無沙汰しております。
二か月ぶりですが、モチベーションがなくなって筆をぶん投げたわけではなく、ずっとこの話を書いてました。
ちくしょうっと思いながら書いてました。


六の太刀は発動した。

それを止めようと迫っていた腕は、あと一歩届かなかった。

 

発動した瞬間、全身を苛んでいた痛みが消え、集中力が戻る。それに応じて時の流れは緩やかになった。

瞬く間に体温が上昇し、四肢の末端まで感覚が蘇った。出血も止まり、眩暈や吐き気もなくなった。

最悪だった容態が一転して改善したことになる。

 

六の太刀はドーピング技であり、これらは全て六の太刀の効果だ。

僅かな時間、使用者の身体能力は飛躍的に向上する。代わりに、使った後は後遺症が残る。

二度と剣は振れないだろうと母上は言っていた。

 

考えるだに恐ろしいことだが、そんなことを気にする段階はとうに過ぎた。

目の前の敵を殺さなければ未来はなく、殺したところで助かる見込みも薄い。

 

やっぱり、もっと早く使っておけばよかったと思う。

余計な傷ばかり負って、挙句の果てには無関係の子供が巻き込まれた。

今日一日、理不尽ばかり起こっている。俺も、アキも、あの子たちも。

もうこんなことは終わりにしたい。後顧の憂いなく、すべて。

 

大きく息を吸う。身体の調子は良い。万全に近い。何でもできると全能感すら感じる。

 

それらを確かめるのにかかったのは、ほんの一瞬。

目前に意識を向ける。間近に迫っていた敵は、疾走分の勢いを殺すため土煙を巻き起こしながら止まろうとしていた。

苦虫を噛み潰したような顔で、忌々し気に舌打ちをし、恨み節を吐く。

 

「六の太刀ぃ? その年で、まさか――――」

 

余裕綽々と言えるだろう。それでなくても悠長だ。何かするだけの時間は十分あったろうに。

まさか六の太刀を知らないとでも言うつもりか。あれだけ色々知っておきながら、六の太刀に限っては知りませんでした、なんてことはない。

 

俺如きが六の太刀を使ったところで大したことはない、と言う思いがあるのかもしれない。

多少パワーアップしたところで所詮は雑魚。高が知れていると。

 

確かにそうかもしれない。先ほどまでの戦いは、採点するなら赤点だ。我ながら醜態だった。

何にせよ、自分でもどの程度強くなっているか分からないから、まずは少し試してみよう。

そんな思いで刀を振るう。

 

「な、ん……ッ!?」

 

首を狙って振り抜いたそれを、ババアは咄嗟にしゃがんで躱す。

まるっきり予想外だったと表情が語っている。身体が勝手に動いたらしく、受けるのではなく躱してしまった。それも大げさに躱したせいで、回避にせよ反撃にせよ、次の行動へと移る暇がない。

 

その隙をついて、一歩踏み込んで距離を詰める。

そうすると、俺たちの距離は息遣いが感じられるほど近づく。刀を振るうにはいささか近すぎる。

至近距離で、刹那の間、目が合う。

 

碧い眼だった。そんな眼をしていたのかと今更ながらに気が付いた。

どこまでも透き通るような碧。だと言うのに、瞳の奥深くは淀んでいる。濁った何かが渦を巻いている。

 

それをじっと見つめている内に、眉間に皺が寄った。

遅まきながら、六の太刀がどれほどの物か理解したらしい。

 

俺から離れようと脚に力を込めた。

重心が移動するのが見て取れる。どの方向をどれだけ移動しようとしているのか、筋肉の動きと力の流れから、おおよその場所に当たりを付ける。

 

「っ……。ついて来るんじゃないよ!」

 

跳んだその後をぴったりと追う。

何と言われようと、俺のすることは俺が決める。

 

逃げられないことを察すれば、今度はその顔を苦渋に満たす。

すでに足は地を離れている。空中で進路変更は不可能。出来たとしても微々たるものだ。

数瞬後に剣をぶつけ合うのは確定。

 

ドーピング技を使い、どれほどパワーアップしているかも分からない人間と刀を交えなければいけない。

出来るだけ危険を避けてきたこいつには嬉しくない展開だろう。その調子で慣れないことをして、ガラガラと崩れてくれれば言うことはない。

 

しかし、その期待は泡沫と消える。

流石に経験豊かな剣士だった。一瞬で切り替えて、その目には攻撃的な光が宿る。

ババアの足が地を踏んだのと俺が斬りかかったのはほぼ同時。それでいて、対処も迅速だった。

 

「キエエエェア!!」

 

その口から発せられる気迫のこもった叫び声。

相手を威圧し、己を鼓舞するためのもの。

 

叫び声よりもさらに大きく、刀がぶつかり合って火花が散る。

線香花火より儚い火花が、散っては消え、また散っては消える。

 

勢いそのまま何度か打ち合い、そして鍔ぜり合った。

先ほどまでほぼ互角だった腕力は、今は俺の方が強い。六の太刀で限界以上の力を発揮出来ている。

力を加えれば加えるだけ、少しずつババアはずり下がり、額に汗が伝るのが見えた。

 

今の攻防で大体わかった。

腕力だけでこれだけ優位に立てるのなら、今まで出来なかったことも出来るだろう。

なら是非ともやりたいことがある。

 

思い立ったが吉日と、鍔迫り合いの最中刃を柄へと滑らせる。

背中がこそばゆくなるような不協和音を奏でながら、刃は指へと迫った。

本来、それを食い止めるためにある鍔は、仕込み刀の特性上、こいつの刀には付いていない。

 

「っ!?」

 

俺の狙いに気づいたババアは刀を弾こうとした。腕力に物を言わせて無理やり押さえ付ける。

こうしてる間も刃は滑り続けている。もうあと少しで斬り落とせる。

 

「小童が……!」

 

だがすんでのところで身体丸ごと跳び退られ、刀はあえなく空を切った。

惜しかった。焦ることなく対処したのはさすがと言える。

 

指を落とせば、刀を握れなくなってそれで終わりだ。わざわざ首を斬る必要もない。

しかし不意打ちを避けられたのは痛い。以降は警戒されてしまう。……まあ、いいか。

 

嘆いたところで出来なかった事実は覆らない。狙いを一つ防がれたからと言って、気落ちしてなどいられない。出来るまで繰り返せばいい。失敗は成功で取り返せる。

 

斬り合いは続く。

指を狙い始めてからは、あえて力押しは避け長く打ち合った。そうすることで危機感を煽り隙を見出そうとした。

 

攻める時のみならず受け太刀の時でさえ、隙を見ては柄へと刃を滑らせる。

何度もそれを続けると、少しずつだが攻撃の手が緩み始めた。下手に手を出すと指を狙われる。その意識が判断を鈍らせていた。

 

やがて間合いすらも遠ざかり、消極的な姿勢が顕著になる。

とてもじゃないが刀の届く距離ではない。

攻撃するには逐一距離を詰めなくてはいけない。どちらにとっても無駄な手数だ。これにはさすがに疑問が浮かぶ。

もしやと思い、一つ試してみた。

 

「四の太刀『孔穿』」

 

距離が離れているのを良いことに大技を一つ。溜めと予備動作を必要とする上に、放った直後は隙が大きい。

防御など考えず思いっきり踏み込んでみたが、案の定五の太刀で防がれた。

そうすると、俺は無防備な姿ををさらけ出している。斬ってくれと言わんばかりの大きな隙。

 

ババアを凝視しながら心の中で呟く。

――――さあ、どうする。

 

「ふん……」

 

これ見よがしに鼻を鳴らしたババアは、あろうことか攻めて来なかった。

跳び退って距離を取る。離れた場所で構える姿に攻める気はまるでない。

 

これだけの隙を見過ごしたと言うことは、勝つ意思がないと言うことか。少なくとも攻め勝つ気はないようだ。

まさか本当に勝つ気がないなどとは言うまい。その狙いは六の太刀の効力切れ以外にないだろう。つまり時間稼ぎだ。

 

放っておけば勝手に力尽きる相手に、指を切断される危険を負ってまで勝ちたくないと言うことか。

一貫して堅実な戦い方だ。あるいは楽な方に逃げたとも言える。

 

この場合、それがどちらかは生死でもって結論としよう。長々考える時間はない。

奴が時間稼ぎに徹すると言うのなら、こちらは決着を急ぐしかない。

六の太刀の効果時間は不明瞭だ。満身創痍で発動している分、普通より短い可能性も否めない。

 

六の太刀で膂力が覆り、圧倒的優位に立ったと思ったが、未だギリギリの状況が続いている。

俺が力尽きるのが先か。ババアを殺すのが先か。

このチキンレースにはいい加減うんざりしている。

距離を開けるのは、何もお前にばかり利するわけではないと、まずはそれを教えてやる必要がありそうだ。

 

「三の太刀」

 

刀を振りかぶりつつ、あえて技の名前を口に出す。

それを聞いたババアを目を見開いて、「まさか……」と呟いた。

 

「『飛燕』」

 

切っ先から斬撃が飛ぶ。

刀の軌道に沿って真っ直ぐ飛んだそれは、五の太刀で受け流された。

だが三の太刀を抜き身で放った事実は、少なからぬ動揺を与えていた。

母上にだってこれは出来ない。俺が唯一勝ってる点だ。

 

ババアは驚きを露わにしつつも、動こうとしなかった。距離を保つと言うただそれだけに固執している。

その様子は離れていれば安心だと言わんばかり。そう思ってくれているのなら、そこを突かない手はない。

 

振り下ろした勢いを殺さぬよう、片足を軸に回転。全身の力を使って、今度は横薙ぎに振り切る。

 

「三の太刀『飛燕』」

 

二回続けたのだから、飛燕・二連と言うところか。

七の太刀とやらに比べれば、技の規模は小さいし弱点もそのままだが、来るはずがないと思っていた技が二度も続いて来れば、誰だって動揺するし隙の一つや二つ生まれる。

 

如何なババアだってそれは例外ではない。

一瞬身体が強張って、五の太刀を振るうのが遅れた。

 

受け流そうとしても受け流しきれず、止むを得ず回避行動を迫られる。そのせいで常に俺を捉えていた視線が一瞬切れた。

視線を戻したときには、俺はすでに目前で刀を振り上げている。

 

「ッ!?」

 

振り下ろした刀は受けられる。

間髪入れず刃を滑らせ指を狙った。

 

力で勝てない以上、指を守るためには引くしかない。そんなことは互いに承知している。相手が承知していることも含めて戦っている。

ババアにとって予想外だったのは、俺が筋肉の動きや力の流れまで把握していたこと。行動の先読みは、今や未来予知に近しいところまで昇りつめている。

 

奴が引いた分だけ寸分違わず距離を詰め、決して逃がさない。

刀を交えざるを得ない距離で、時に指を狙い、あるいは首を、もしくは足元を狙って攻め立てる。

 

防御一辺倒を強いられ、距離を置くこともできない現状を危惧したのか、五の太刀を乱用し始めた。それで流れを変えたかったのだろうが、五の太刀は俺自身最も得意とする技。逆手に取ることなど造作もない。

 

刀を振るうタイミングと軌道をほんの少し変えるだけで、受け流しは不完全になりリスクが増える。リスクを背負ってでも使うと言うのなら使えばいい。

 

「こ、のぉ……!!」

 

五の太刀を諦め、一縷の望みにかけ反撃に転じようとするのなら、先んじて斬撃を繰り出し潰してしまう。

 

三の太刀から始まった動揺を立て直す隙は与えず、常に先手を取り続けることで、相手の選択肢を少しずつ奪っていく。真綿で首を締めるようにじわじわと追い詰める。

追い詰めながら、表情の移り変わりとその内心をじっくり観察していた。

 

焦りと恐怖。

二つの感情に支配されながら、まだ絶望には程遠い。逆転の機を窺って策を巡らしている。

 

その機微を見逃さず、先手を打って潰し続ける。

やがてどうしようもなく追い詰めた末に、ババアの取れる行動は二つに絞られた。

死を受け入れるか、一か八かの特攻紛いを仕掛けるか。

あってないような選択肢。今まで、ひたすら堅実的に戦ってきた人間がそれほど追い詰められれば、心中穏やかではいられまい。

恐らく嵐さながら吹き荒れてると思うが、正直どうでもいい。

 

間もなく勝敗は決する。

直に防御が追い付かなくなって刃が届く。

 

その未来を予期したのは俺だけではなく、ババアもまた己の死期を見た。

死を前にした人間の悪あがきは侮れない。死に物狂いの無理攻めは不可解極まる。先手で潰すよりも受けた方が容易いだろう。

 

「嘗めんじゃないよ、小童ァ!!」

 

別に嘗めちゃいない。

冷静に捌き、躱して、最後の瞬間。

円を描くようにして刀を弾き態勢を崩させた。どうあがいても、もはや防御は間に合わないと言うタイミング。

死の間際、その脳裏に何が浮かんだのか俺には想像だに出来ないが、どういうわけか、相打ち覚悟の一太刀を奴は選んだ。

 

「――――」

 

その目に宿る決死の覚悟を一瞥する。それを目の当たりにして、届きはしないと高を括る訳にはいかなかった。

何よりその方法は、俺自身がやろうとしていたことでもある。生きることを諦めた人間の怖さを目の当たりにし、ただ防ぐだけではダメだと、思考の暇なく行動する。

 

刀を握っていた右手を放し、左手一本で持ち直す。

空になった掌を迫る刃に向けた。刀身に添えるようにして横から力を加える。

徐々に力をこめ、軌道を変えていく。

……いける、と確信を持った。

 

――――五の太刀『旋風』

 

通常、刀で行う技を素手でやるのは奇妙な感覚がする。

右手が使えなくなるぐらいは覚悟の上だったが、予想以上に上手くいった。

やってやれないことはない程度の気持ちだっただけに、本当に出来てしまったのは運が良い。

 

「――――」

 

「――――」

 

刀を受け流した後には、丸裸同然のババアが一人。

一瞬にも満たない僅かな時を見つめ合い、左腕一本で振るった刀は、ゆっくりとその身体に吸い込まれていった。

 

斬ったそばから、血潮が噴水の様に噴き出す。

顔に浴びた返り血は生臭かった。

 

この世の全てが緩やかに時を刻む世界で、刃は身体を切り進み、同時に達成感が湧き上がる。

ようやく終わったと緩んだ心は如何ともしがたい。

人を斬り殺すその瞬間を心の底から待ち望んでいた自分に嫌悪感を抱いた。

 

血を流しながら崩れ落ちる様を見つめる。

膝はついたが倒れはしなかった。まだ息がある。だらんと力の抜けた腕には刀が握られたままだ。

 

「……あ、あぁ……」

 

か細い声が、その口から洩れた。

見る見るうちに血の気が引いていく。あれだけ満ち溢れていた生気は、今はもう感じられない。

 

「な、ん……」

 

呼吸は浅く小刻みだ。

吸っても吸っても足りないと言うように必死に呼吸を繰り返している。

この期に及んで身体は生きようとしている。その意に反して、血は留まる所を知らない。

 

「わたし、は……なんで……」

 

「……」

 

「あぁ……血が……」

 

己の身体を見下ろしながら呟いた声音は、絶望的な色に染まっていた。

胸から零れる血の量は、誰が見ても致命傷だと分かるほどだった。

 

「し……わたしは……」

 

命の灯が儚く散る様を幻視した。底の抜けた砂袋のように、次から次へと零れていく。

 

「し……ん……で……」

 

焦点の合わない目で天を仰ぎ、聞き取れないほどの小ささで何か呟いている。

 

「し……で……」

 

同じことを、何度も何度も、呟いているようだった。

時が過ぎるにつれて声音小さくなっていく。

どれだけ近づいたところで、もう何も聞き取れない。

早く楽にしてやろうと一歩近づいた。その時だった。

 

「――――死んで……」

 

突然声が大きくなった。同時に周囲の空気が変質していく。

天を仰いでいた目が俺を捉え、ギラリと貪欲な光が宿る。

 

「死んでたまるか――――!!」

 

刀を目の前にかざす動きは覚えがあった。

今急いで殺せば間に合うか刹那の間考え、膨らんだ殺気に跳び退る。

 

「六の太刀ぃ!」

 

散るはずだった命が息を吹き返す。

消えかけていた気配が色濃くなった。

轟轟と燃え盛る火は、最後の力を振り絞っているようにも見えた。

 

「『夜叉』ぁ!!」

 

止めようと思えば止められたかもしれない。

臆病過ぎた自分を顧みる。

 

少なくとも致命傷は与えている。その傷は即死を免れているのが不思議なほど深い。

肋骨を斬り、恐らくは肺を傷つけている。重要な血管もいくらかは寸断しているはずだ。

六の太刀で痛みをなくし止血したところで、傷は治らない。

それはほんの少しの延命でしかない。それを分かっていて、それでもなお死にたくないと奴は言った。

一体、どの口で言えるのだろう。妹を斬り、子供を巻き込み、俺を殺そうとしておいて。

メラメラと怒りが渦巻く。刀を握る手に力が籠る。

 

「――――窮鼠……なんて言ったっけ?」

 

ゆらりと立ち上がった姿は幽鬼のようだった。

六の太刀を使われた以上は、立場は逆転した。実力も引っくり返ったはずだ。

真面にやったら勝負にもならない可能性がある。

 

「猫を噛む」

 

「ああ、それだ……やってくれたね」

 

しかし、母上と戦うことを目的にしていたのに、その息子との戦いで六の太刀を使ってしまったのは本末転倒以外の何物でもない。

母上が帰ってくる頃には六の太刀の効力は切れている。母上の言を信じるなら、後遺症で真面に刀は握れないはずだ。

 

目的は潰えた。なのに引かない。ならば俺も引けない。泥沼に嵌った戦いの落としどころなんて、死以外はない。

 

「いい加減、死んでくれや。剣聖の息子」

 

「老い先短いのが先だろう」

 

衝動のまま言いたいことを言い合えば、あとは戦うのみ。

ババアの脚に力が籠る。進路を推し測る暇もなく、驚くべき脚力で背後を取られた。

 

背中越しの攻撃を刀で防げば、力負けして吹っ飛ばされる。

ゴロゴロと転がり勢いを殺して起き上がる。

直前まで居たはずの場所を見ればすでにいない。気配は再び背後にある。

 

同じように受ければまた吹っ飛ばされるだろう。

殺気と気配で刀の軌道を類推し、五の太刀で受け流しながら背後を振り向く。

 

「ふぅっ……!!」

 

そこには、幽鬼もかくやと言う凄絶な形相のババアがいた。

安定しない呼吸音、目は充血し瞳孔が開いている。

顔や腕、至る所で血管が浮き、顔中びっしり汗を掻いていた。

 

かなり無理している。

肺を斬ったのなら、碌に呼吸が出来ないはずだ。そんな状態でよくここまで動けるなと感心する。

この様子では長くはもつまい。次の瞬間倒れてもおかしくない。

 

そんな希望的観測とは裏腹に、攻撃の苛烈さは増していく。

 

「うおぉぉ!!」

 

雄叫びを上げ斬りかかってくる姿は猛獣のようだった。

剣技からは繊細さが抜け、力で押しこもうと出鱈目に刀を振るってくる。

そのくせ、五の太刀を使う時だけは、思い出したような繊細さを見せた。

唾を飛ばすほど叫び、火花が散るほど歯を食いしばる様には、余裕など一切ない。

 

攻撃は躱す。あるいは逸らす。その合間に斬撃を仕掛ける。

受けると言う選択肢はない。五の太刀を使わなければ瞬く間に死ぬ。

力の差がありすぎて指を狙う余裕もない。防ぐので手一杯。

 

「どぉりゃぁ!!」

 

「っ……」

 

気を抜けば見落としかねない剣速ゆえに、太刀筋だけに気を払っていた。その隙を突かれ、剣戟の合間を縫って体当たりされた。

息が詰まるほどの衝撃に肺の中を空っぽにしながらも、数歩後ずさるだけで耐えた。

 

直後、息を吸う暇もなく斬撃の嵐を浴びる。

背筋にひやりとした物を感じながら全て捌く。

 

辛うじて防いでいるが、防ぐだけでは勝てない。六の太刀で底上げされた膂力を前にしては、希望的観測に縋りつくのは危険すぎる。

かと言って、現状は決め手に欠いているのも事実だった。何とかしなければいけない。

 

逆転の機を狙い、ほんの少しの隙も見逃さないと、観察し続けた。

最中、重心が僅かに片足に集中したことに気が付く。

何をする気かと注視する。筋肉の動きから次の行動を予期する。……蹴り?

 

「ダァッ!!」

 

予想通り蹴りが来た。だが避けようとする意志に反して体は動かず、結果的に左膝を蹴られてしまう。

痛みはなかったが一瞬足から力が抜けた。姿勢は左に傾く。

すぐに体勢を立て直そうと踏ん張ってみるも、なぜだか思うようにいかない。

 

これでは格好の的だ。そうしている間にも斬撃が降り注いでくる。

全て五の太刀で逸らせているが、怪力だけを頼りにした遮二無二な斬撃は一つ逸らすだけでも気を遣う。一つ間違えれば真っ二つにされかねない。

歪な態勢では長く続けられない。このままでは負ける。

 

逡巡の末、鞘を手に取った。

 

――――二の太刀『双牙』

 

二の太刀は二刀流の技。

鞘には鉄が仕込まれているためやたらと重いが、いざと言う時は鈍器として使える。

腕力に不安があるのに加え、抜き身で三の太刀が放てる利点がなくなるため、出来れば使いたくなかったのだが、贅沢は言ってられなくなった。

この二刀でもって、五の太刀を駆使し態勢を立て直す。

力も速度も負けているならば手数で勝負する。敵は左腕一本。対するこちらは二刀流。どうあがいても手数の差は覆らない。

 

その考えの元繰り広げた剣戟は熾烈を極めた。打てば打つほど速度は増し力は強くなる。

だが、二刀のおかげで俺の方にも余裕が生まれつつあった。

隙を見ては反撃する。刀は殊更警戒されていたため、もっぱら鞘で殴打することになった。

 

「二の太刀……っ。小癪なぁ!!」

 

ババアはよく喋る。

鞘で腹を殴打された直後だと言うのに、ほとんど効いていない様に見える。

六の太刀の効果で痛覚はほとんどないはずだ。

痛みがないなら勇猛果敢に攻められる。無茶な攻めだろうと関係ない。無敵の剣士となっている。

 

六の太刀は俺の方が先に切れるだろうか。

その公算は高い。ならば仕掛ける。

 

「――――三の太刀(アラタ)メ」

 

切っ先を土に埋めて負荷を得る。疑似的に、鞘の代わりとする。

 

「『飛潮(とびしお)』」

 

土から伸びた斬撃は土を少量飛散させ、地に斬り跡を残しながらババアに迫る。

至近距離で突然放たれた三の太刀もどきは、残念ながら目潰しには至らず、驚愕させるに留まる。

流石に躱すことは出来なかったようで、五の太刀で逸らしたところを鞘で殴打する。

 

「っ……」

 

腹に突き刺すように打ったのだが反応は鈍い。

やはり痛覚がない以上、殴打では決定打になりえないか。

 

「改めぇ……? 次から次へと、鬱陶しいったら、ないねえっ……!」

 

ぶんっと大振りの薙ぎを上半身を逸らして躱す。

蹴られてからこっち、左足が思うように動かない。ほんの少し曲げるのにも苦労する。

さらに重要なのは、こうしている間も小さく痛みが走っていることだ。

六の太刀が切れかけている。蹴りを躱せなかったのはこれが原因か。

 

「でい、さぁ!!」

 

振り下ろしの一撃を、横から鞘で叩いて逸らす。

反撃の斬撃は半身で躱された。

 

腰のあたりから真っ二つにしようと刀が走る。先んじて動こうとしていたのに、身体の反応が鈍い。やむを得ず鞘と刀を交差させて防ごうとした。

腕力で負けているのに加え、左足の踏ん張りが利かない以上、どう頑張っても吹っ飛ばされる。

どうせ吹っ飛ばされるならばと、自ら跳ぶことで衝撃を和らげた。

 

追いかけてくるババアを正面に見据えながら右足だけで着地する。

片足では勢いを殺しきれない。やむを得ず何度か小刻みに跳び続け、少しずつ勢いを殺していく。

 

「はっ!!」

 

首を狙った突きを切っ先で逸らして軌道修正。

紙一重で躱したが、すぐさま次が来るのは筋肉の動きで分かっていた。柄を刀身に叩きつけて押さえ込む。

勢いに任せて距離を取っている間、眉間に皺が寄った恨めしそうな目が俺を捉え続けていた。

 

柄で叩いておいたと言うのに、無理をして繰り出した斬撃が俺の鼻先を掠めた。

通り掛けの駄賃と言う感じで、刀身を鞘で叩いておく。

 

そのようにして、左足をかばいながら戦っていた。

まだまだ猛攻が続くと思っていたのに、突然攻勢が和らいだ。

様子を窺うと、ババアは苦しそうにしている。

 

「ふう、ふぅ……」

 

隠しようのない疲労感を纏い、動くのも億劫と言う顔色のまま、俺を睨むばかりで動こうとはしない。

攻め時を逃がしているが、それでもやめたと言うことは、それどころではなくなったと言うこと。

つまり、限界が来たのだ。

 

「ぜい……はあ……」

 

それは考えていたよりずっと早い。

先に使った俺でさえ、ようやく切れかけている、と言う感じなのに。

 

左足の調子を確認し、やはり微かに痛みを感じることを確認する。

それ以外は何も感じない。胸も首も、痛みはない。

まだ戦える。それは確かだった。しかし、これ以上は意味がないと言うのも事実だった。

 

逡巡する。

怒りはある。殺せるなら殺したいと思っている。

けれど、その感情を優先できるほどの時間が俺には残されていない。

 

「逃げないのか」

 

「はぁ……?」

 

「逃げるなら、追わない」

 

感情を抑え付け、理性で言葉を吐く。

互いに限界を超え、ババアに関しては母上と戦うと言う目的も潰えている。

個人の感情を無視すれば、これ以上戦ってもメリットはない。この先に続く道は、もうないのだから。

 

「行けよ。どこにでも、好きなところに」

 

「……」

 

ババアは考えているように見えた。

無言の間何を思ったのか。僅かな時間がとても長く感じた。

村の外を一瞥したババアは、神妙な顔で俺に向き直る。

はっと鼻で笑う。

 

「言ったはずだよ。あんたは、殺すって」

 

「……」

 

挑戦的で自信に満ちた口調だったが、脆弱さは隠しきれない。

突っつけば倒れそうなほど弱った老人の顔。間もなく死ぬ死人の顔。引き時を見誤った、哀れな人間。

 

「じゃあ……終わりにしよう」

 

「もちろん、だ」

 

言い終わるや否や、思いっきり後ろに跳ばれる。追いかけようとしても左足のせいで追い縋れない。

手の届かない場所に離れていくのを、ただ見ているしかない。

 

「あんたを殺すには、もう、これしか、ないようだね……!」

 

不自然に途切れ途切れな声を聞く。

酸素不足のせいで唇は紫色に変色し、顔全体がくすんでいる。

忙しく呼吸を繰り返しているが、十分な酸素は取り込めていない。

 

やはり奴に与えた傷は致命傷だった。

如何な六の太刀でも、それは補い切れなかった。

これ以上戦ったところで、実力が下がることはあっても上向くことはないのだろう。ここに至るまでの攻防で俺を仕留められなかったのなら、もはや殺すのは難しい。

 

奴自身もそれを分かっていて、それでも諦められないと執拗に俺の命を狙っている。

いつの間にか、目的と手段が入れ替わっていた。付き合わされる身としてはいい迷惑だ。

 

奴は俺の見ている前で刀を振りかぶり、力を溜め始めた。

殺気が波引き、刀身に集まっていく。

そこからどのような技が繰り出されるのか、身をもって体験したからこそ分かる恐ろしさがある。忌々しいまでの光景が目の奥に焼き付いている。

 

よほど自信があるらしい。

すっかり死に体だと言うのに、その顔には自信が満ちている。この技なら殺せると確信している顔だ。

 

左足がこれでは逃げられない。受けて立つしかない。どの道、これが最後だ。

鞘を腰に差し戻して、両手で刀を握る。担ぐように構え、力を溜める。

 

目の奥に焼き付いた記憶が、眼前の光景に重なる。

この先、筋肉の細かな機微まで何をどうするのかはっきり分かった。

 

技を出しかけているババアを差し置いて、先に口火を切ったのは俺だった。

 

「七の太刀」

 

怪訝気な顔になる。何を言っていると言う顔。

ブラフとでも思ったのかもしれない。

 

対する俺は、目に焼き付いた光景を頭の中で反芻し続けていた。

どのように身体を動かし、どのように刀を振るのか。

頭の中と言う隔絶された空間で、延々と繰り返し見続けている。

 

七の太刀が既存の技の延長線上にあるのなら、俺に出来ないはずはない。

常の俺なら一笑に付すような根拠のない自信。身を包む全能感が俺を支えている。

出来ないなどとは微塵も思わない。出来ると確信していた。

 

「……七の太刀」

 

俺の言葉を復唱するように、ババアも技名を発する。

その顔は依然として疑念に満ちている。俺が何をやろうとしているのか、理解出来ていない。

 

技の発動間際になっても緊張とは無縁でいられた。

出来なかったら死ぬ。恐らくは斬り刻まれてバラバラだ。

嫌な想像が脳裏をよぎる。けれどもやっぱり、自分が死ぬとは毛ほども思わない。俺は、死ねない。

 

最後に見たアキの姿を思い出す。

血を流して、生きているとも死んでいるとも言えないあの光景を。

 

それを思い出すだけで、全身に怒りが満ちる。

平静だった心臓が早鐘を打ち始める。

体中の血液が沸騰したような感覚に襲われた。

固く刀を握りしめ、歯を食いしばる。今この時ばかりは左足のことも忘れて両足で地を踏む。

 

アキの無事を確かめるまで、俺は死ねない。どんなことがあろうとも、死ぬわけにはいかない。

邪魔するものは全て切り開く。例えそれが誰であろうと。神でも悪魔でも、何であろうとだ。

 

怒りを力に変える。ありったけの全てを振り絞る。

見据える先、未だに理解の及んでいないババアに向け、刀を振り下ろす。

 

「『塵旋風』」

 

振り抜いた感覚は三の太刀によく似ている。だが似て非なる物だった。

幾多の斬撃が網のようになって飛んでいくのが、見えずとも分かる。

 

「っ!?」

 

俺が七の太刀を繰り出したのを一瞬呆けて見ていたババアは、即座に自分自身も七の太刀を繰り出した。

技の衝突は衝撃波を生み、周囲に被害をまき散らす。逸れた斬撃が地面を切り裂いて抉る。

多量の土埃が宙に舞い、視界は闇に閉ざされた。

 

その中を、気配を頼りに歩く。

左足を引きずって、力の入らない両手をぶら下げながら、決着を付けるために突き進む。

 

ようやく土煙を抜けた先で、腕を庇うようにして、ババアは突っ立っている。俺の姿を見て目を剥いた。

一歩近づくと一歩後ずさる。それを何度か繰り返し、ついにその口から悲鳴がこぼれた。

 

「ふざけん、じゃ、ないよぉ!?」

 

顔いっぱいに恐怖を浮かべ、背中を向けて逃げ出そうとした。

 

ここまで来て見逃すわけにはいかない。決着は、付けねばならない。

最後の力を振り絞り、無防備な背中に向け鞘を投擲する。それは見事命中し、鈍い音がしてババアは前のめりに倒れた。

 

倒れ伏したまま、痛みに呻くババアの元へゆっくりと近づく。

随分痛がっている。この様子では、六の太刀は完全に切れたらしい。

 

ようやくババアの元に辿り着き、這いずる姿を見下ろした。

影で俺に気づいたババアは、仰向けに寝返って唾を飲み込んだ。

 

「……殺す、のかい」

 

「……」

 

分かり切ったことを聞くものだと思う。答える必要があるだろうか。何のために戦っていたのか、忘れたわけではあるまいに。

 

刀を振り上げようとしたが、腕に力が入らず難しかった。

仕方ないから切っ先をババアに向ける。これなら、突くだけだ。

 

「最後に、椛に伝えておいて、くれるかい」

 

「……」

 

「ろくでもないもん、産みやがって……ってさ」

 

その言葉を聞いた直後、喉に刀を突き刺した。

傷口から、ごぼっと血の溢れる音がする。

呻き声の代わりに、ヒューヒューと空気が漏れた。

喉を押さえて苦しむ姿が痛々しい。もっと深く刺せば死ぬだろうか。やろうとしたが、そこまでの体力が残っていない。

 

「かひゅ……かはっ……」

 

刀を右に回して傷口を広げてみる。

出血は増したが、やはり即死はしなかった。そんな状態でも意識を失わずもがき苦しんでいる。

 

のたうち回り、血の泡ぶくを吐き、何かを掴もうと手を伸ばす。

空を切った手は助けを求め、爪が割れるほど地面を引っ掻いている。

 

じわりと広がった鮮血が血溜まりを作った頃、喉から空気が抜ける音がしなくなって、ビクンと痙攣したのを最後に、ババアは動かなくなった。

しばらく観察したがピクリとも動かない。

用心して顔を覗くと瞳孔の開いた瞳と目が合った。半開きの口は息をしていない。

 

物言わぬ躯を前にして、大きく息を吐く。

力が抜けてドサッとその場に座り込んだ。

 

初めて人を殺した感想は筆舌に尽くしがたい。

正直に言えば、清々しい気分だ。達成感と正義感が満たされて陶酔したような気分になる。

だが、その裏では苦々しさも抱いている。

 

「……楽に死なせてやれなくて、悪いな……」

 

横たわる死体に向けてそれを言う。

自分で言っておきながら、その言葉の白々しさに自虐めいた気分になる。

無性に笑いたくなって、それでいて泣きたくもなった。

 

胸に渦巻く感情をすべて拒絶し、刀を手放した。

カラカラと軽快な音を鳴らして転がるそれから目を離し、死体を一瞥する。

 

一度目を瞑り、また目を開ける。

まだやることがあると、足に力を込めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲンさんの家に向かう。

今や六の太刀の効力は完全に切れた。

左足は痛くてたまらないし、首は鈍く痛い。胸の傷なんかどこがどう痛いのか分からないぐらいだった。

 

眩暈と吐き気に襲われて、気を抜けば倒れかねない。倒れたら最後、起き上がれる保証はない。

動けるうちに動かなくては。アキの無事を確かめなくてはいけない。その一心で、足を引きずって歩き続ける。

 

眩暈のせいで方向感覚を失ったため、地面に残る血痕を追いかけた。

恐らくアキの血だ。時間がたって黒く変色している。

見つけて嬉しい物ではないが、目印にはなる。

 

血痕を見落とさない様に俯きながら歩いていると、胸の傷からぽたぽたと血が垂れ始めた。

六の太刀が切れて傷口が開いたらしい。

止血しようと思ったが、胸の傷は大きすぎてどうしようもない。手で押さえつけるのも意味がない。放っておくしかない。血がなくなる前には着くだろう。

 

道中、道半ばも行ったところで、複数の視線に気が付いた。

多分村人だ。家の中から俺を見ている。指示を守って家に籠っているらしい。

血を流す子供を見逃すのは正直どうかと思うが、今ばかりは好都合だった。

 

結局、ゲンさんの家に着くまで誰とも出会わず、激痛が全身を苛み始めた頃にようやく辿り着いた。

 

その頃には息は絶え絶えで、身体の自由は全く利かなかった。

ノックするのも難しかったため、戸に体当たりして音を鳴らす。

その調子で何度か叩けば、すっかり精根尽き果てて、戸に身体を預けてずるずると座り込んだ。

 

「はぁ……」

 

息を吐く。

木の香りが鼻腔をくすぐる。

空を仰げばすっかり夕焼けだった。

風が吹いたのが分かったが、寒いとも暑いとも思わなかった。

 

ゲンさんを待っている間、ずっと我慢していた吐き気に耐え切れず、手で押さえながら吐き出した。

途端、口の中は鉄の味で一杯になり、手は赤く染まっている。

吐いたおかげで少し楽になった。ゆっくり呼吸をして気分を落ち着かせる。

 

「誰だ?」

 

戸の向こうから、緊張を孕んだ声がする。

さほど時間はたっていないのになんだか酷く懐かしくなって、安堵のため息を吐く。

 

「ぉ……」

 

俺ですと答えようと声を発した。

けれど、喉の奥の震えはあまりに小さく弱弱しい。

もう真面に喋ることも出来ない。

仕方ないから、頭で戸を叩いて存在を知らせた。

 

「誰だ!?」

 

変わらぬ声音にもう一度叩く。

音は戸の下部から響いている。ゲンさんなら気づいても良さそうなものだが、語調は強くなるばかりだ。

 

戸の向こう、すぐ間近に気配を感じたと思ったら、突然戸が開く。

身体を預けていたものがなくなりその場に倒れ込んだ。

 

頭上でゲンさんが弓を引き絞っている。

誰も居ないのを見て眉を顰め、足元に転がる俺を見つけて目を見開いた。

 

「小僧!」

 

「レン!?」

 

ゲンさんの声に父上の声が重なった。

家の奥から走り寄ってくる音がして、傍らではゲンさんが膝をついている。

 

「辻斬りに遭ったと聞いたぞ、大丈夫か!?」

 

傷の具合を確認されながら、そんなことを問い質される。

あれを辻斬りで済ますのはどうなのだろう。

そもそもあれの正体は知らない。

おそらく母上が知っているはずだから、死体は保存しておいた方が良いかもしれない。

 

「無事かい、レン? 平気?」

 

声が聞えた方を見ると、今にも泣きそうな顔の父上がいた。その声はやたらと震えている。

父上がここにいると言うことはアキもいるはずだ。

 

「ぁ……」

 

「喋るな!」

 

語気を強めたゲンさんは、俺の身体を診ながら顔を青ざめさせていた。

父上が不安そうな顔でゲンさんを見る。

 

「レンは大丈夫ですか? 大丈夫ですよね?」

 

難しい顔で口元を引き結ぶばかりのゲンさんに、父上が取り縋る。

懇願するような声音で再び訊ねた。

 

「大丈夫ですよね……? 何か言って下さい!」

 

「落ち着け。……とにかく奥に運ぼう。手伝ってくれ」

 

二人がかりで抱えられ、部屋の中央に寝かされる。

朦朧とした意識で頭を左右に振ると、すぐ隣にはアキが横たわっていた。

身体には包帯が巻かれて痛々しい姿だったが、胸は上下して確かに生きている。

 

「ぁ……き……」

 

居ても立ってもいられず、押し留めようとする父上を振り切って体を起こす。傷が痛むのを無視してその手を握った。

 

「おい!?」

 

怒声がして肩を掴まれる。強く掴まれたわけでもないなのに激痛が走ったが、もうどうでもいい。

アキの手は熱かった。熱があるらしい。傷口から菌が入ったのかもしれない。

 

あいつの言葉を思い出す。

『失血死するかしないか、五分五分ってところかね』

 

「アキは……」

 

「自分の心配をしろ、馬鹿もんが!」

 

「アキ、は……」

 

ふらりと倒れ込む。

二人が何か言っていたが、意識が遠くなるにつれて聞こえなくなった。

握った手の熱さだけが俺を繋ぎ止めている。

 

ああ、誰か。

誰でもいい。

神でも、悪魔でも、何でもいいから、この子を助けてください。

 

代わりに俺が死ぬから。俺はどうなってもいいから。

だから、この子だけは、アキだけは助けて。

お願いします。この子だけは。

 

手を握りしめながら必死に祈る。

誰とも知らない誰かに、アキを助けてくれる何かに、どうか聞き届けてくれと、意識を失うまで祈り続けた。

 

意識を、失うまで――――。

 

 




当初の予定を大幅に変更した結果が今話です。
やたらと長いため読み返すのも苦労しました。
話の流れ的におかしなところがある様な気がするんですが、見つからないので多分ないんでしょう。
ここどうなの?っていうのがあったら感想でこっそり教えてください。

それと12話を加筆いたしました。約1000文字ほど増えてます。



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18話


語り部が眠ってしまったので、今話は今までと違い三人称で書いています。
私は一人称と三人称の書き分けが苦手なもので、読んでいて混乱する方もいらっしゃるかもしれませんが、今話は三人称で書いており、主人公の目線で書かれたものではありません。
そのことを念頭に置いてお読みください。


山の麓の村に雨が降り始めた。

季節の変わり目に天気が崩れるのはそう珍しいことではない。

長く降り続いた雨がようやく止んだと思いきや、数日後にはまた雨が降り出す。

そんなことはよくあることだった。

 

ザーザーと雨滴が土を打つ音は、家の中にいる住人の耳まで届き、気持ちを鬱屈させる。

曇天に覆われた空は暗い。日は頂点に向けて昇っているはずである。

いつまで降り続くのかと、今年に限っては少々長い雨に、村人たちは溜息をもらした。

 

村の山側。

この村で一番大きな家である剣聖の住まう家は、その広さと、雨が降っていることが相まって殊更冷え冷えとしていた。

 

その家の一室で、年端のいかぬ少女が一人昏々と眠っている。

炭の燃える火鉢が部屋を暖め、傍らには水の入った桶と手ぬぐいが置かれており、先ほどまで誰かが看病していた様子が窺える。

 

今は周囲に人の気配はなく、一人で眠っている少女は、眠り始めてからすでに二日が過ぎていた。

突如現れた辻斬りに、少女が斬られてから二日である。

生きるか死ぬか分からぬと言われ、あとは本人次第と経過を見守られていた少女は、二日過ぎた今も生き永らえている。

斬られた当初は高熱を出したが、容体は落ち着いて快方に向かっていた。山は越えたと言えるだろう。

 

直に目覚めると言う言葉通り、たった今、少女は目を覚ました。

ゆっくり開いた目が天井を見つめる。霞んだ視界が徐々に像をはっきりと映し出し、少女の意識は覚醒していく。

寝ぼけ眼で、自分の状態もよく分からぬまま首を回した。

そこは毎日寝泊まりしている部屋だった。目を瞑ってもどこになにがあるか探し当てられるほど馴染みは深い。

朦朧とした意識は条件反射に従って勝手に動く。

隣にいるはずの人間の温かさを求めて身体を横にずらす。その時に小さな痛みを覚え、少女の眠気を吹っ飛ばした。

 

「いたぃ……」

 

雨が降っているせいで家の中は薄暗い。少女は今は早朝だと思った。

兄の姿がないことも、そう思う一因だ。

なら自分もそろそろ起きる時間である。

身体を起こそうとして、動きづらさに顔をしかめながら無理矢理動く。

 

「いっ!?」

 

両腕に力を入れて上半身を起こした途端、胸に激痛が走った。

未だ多少は微睡んでいた意識が完全に覚醒する。痛みの原因を突き止めるべく、恐る恐る胸に指を這わせると、そこには包帯が巻かれていた。

 

「ん……」

 

なんだろう、これは?

どうして包帯が巻かれているのだろう。

思い返してみたが、理由は何も分からない。

首をかしげながら包帯の上から胸を触るとやはり傷む。どうやら怪我をしているらしい。ちょっと強めに押したら、とんでもなく痛い。

 

「ったぁ……」

 

寝返りのために身体を傾けても、起き上がろうと腕に力を込めても、何をしても痛む。胸の筋肉に力を入れるだけで、それはそれは痛かった。これでは真面に動くことなど出来るはずがない。

 

自分の身に一体何があったのだろう。

動くことを諦めて、布団の上に身体を投げ出して考え込んだ。

 

記憶はすぐそこまで出かかっている。

思い出せそうで思い出せないもどかしさ。

大きく深呼吸して心を無にしてみる。

 

息を吸って、吐いてを繰り返していると、瞼の裏に像が浮かび上がってきた。

それは人の形をしている。

段々と鮮明になる。見たことのない顔だ。

 

髪は黄色。根元に行くほど白くなっている。皺が深い。老人だ。

老人と言うだけで嫌な記憶が呼び起こされるアキは、一目見た瞬間からその人物が好きではなかった。

そもそもそいつ、右腕がなく杖を突いていて、やたらと喋る。鬱陶しいぐらい。根掘り葉掘りと色々なことを喋っていた。

 

ファーストコンタクトは、道で突然声をかけられ、剣聖の家はどこかと尋ねられたことだった。

胡乱気に母上に何か用かと尋ね返すアキに、老婆はキョトンとして、次の瞬間呵々と笑い始めた。

 

『なんだ、あんた椛の娘かい!? 道理で、そっくりだと思ったよ!』

 

頭の中で馬鹿みたいな笑い声がリフレインする。

うるさい奴。第一印象はそれだった。

アキが椛の娘であると知った老婆は、しつこくしつこく話しかけ続ける。聞いてもいないことを、ぺらぺらと勝手に。

 

『あいつがあんたぐらいの時に、私のところに預けられたんだよ。懐かしいねえ』

 

『あの頃は楽しかったねえ。酒飲んで、笑って、遊んで、たまーに人助け。みんな幸せだった』

 

『椛は今どんなもんだい。腕は? 強いのかい? どんな技使う? ちょっと教えてくれよ』

 

『小娘だ小娘だと思ってたけど、まーだ剣聖やってるし。中々どうして、やるようになったのかねえ』

 

『あいつ家にいるかい? ちょっと挨拶しときたいんだ』

 

『……なんだ、いないのか。じゃあ、どうしようかねえ……』

 

『やっぱり借りは返さないと、死ぬに死に切れそうにないねえ。うーん……』

 

……怪しい奴。

 

横目に老婆を観察していたアキは、率直にそう思った。

底抜けに明るいかと思えば急に暗くなる。そして思い出したように明るくなり、また暗くなる。

素の自分と偽りの自分を交互に表に出しているようだった。

 

こんな怪しい奴を我が家に案内したくない。

どうにか追い返せないかと、その方法を模索している最中、遠くに兄であるレンの姿を見つけた。

ゲンの家に出かけていたレンは家に戻る途中だった。レンの方も、アキを見つけて声をかけてきた。

 

『アキー。お客様か?』

 

『兄上!』

 

束の間、意識が完全にレンの方を向く。

本当は駆け出したかった。駆け出して怪しい奴なんですと抱き着けば、優しく抱きとめて、あとは任せろとどうにかしてくれるに違いない。

 

それをしなかったのは、単なる見栄だ。

第三者の目が気になった。とりわけ、背後にいるお喋り好きの不審者の存在がそれ押し留めた。

 

『母上のお知り合いだそうです!』

 

逸る気持ちを抑え付け、代わりにぴょんぴょんと自分の存在を主張する。早く早くと手を振った。

早くこっち来て。こいつ何とかして。兄上と稽古したい!

その一心で、レンを呼ぶのに一生懸命になった。

 

優しい笑顔を浮かべていたレンの顔が、近づくにつれ無機質になり、そして焦りの色を浮かべるのに、アキは気づかなかった。

 

『そいつから離れろっ!!』

 

『え……?』

 

突然走り出したレンは、流れるような動作で抜刀した。

その抜き方は三の太刀を使ったようにも見える。

 

なぜ? どうして?

意味が分からないと固まって、背後の気配に気づいて振り向く。

そこでは、柔和に笑っていたはずの老婆が刀を振り上げていた。

自分を見つめるその目に優しさなどない。最初からなかったように、どこまでも冷たい目で射竦められる。

 

そこから先はよく覚えていない。

振り下ろされる刀。レンの叫び声。

痛くて、苦しくて、寒くて。そして――――。

 

『ここは任せてください。アキを頼みます』

 

朧げに聞いたその言葉。

 

「――――兄上っ!」

 

全てを思い出したアキは、慌てて体を起こす。

急に動いたせいで、痛みに襲われ身悶えした。

 

壁を支えにして立ち上がり、戸を開けて廊下に出た。

窓の外では大粒の雨がひっきりなしに降り注いでいる。

 

みんなはどこだろう。

兄上は? 父上は? どこにいる?

一拍考え、壁に手をつきながら居間の方へ向かった。

 

――――痛い痛い痛い。

 

一歩歩くだけで胸が引き裂かれそうになる。変な汗を掻いて来た。

少し進んで立ち止まり、また少し進んでは立ち止まる。

その繰り返し。ろくに進めたものではない。

 

「兄上ぇ……」

 

情けない声を出しながら、気合を入れて居間に向かう。

兄上は今家事の最中だろうか。雨が降っていて洗濯なんて出来ないだろうに真面目なことだ。

それならいっそ私の傍にいてほしかった。目が覚めた時、兄上が傍にいてくれたら凄く嬉しかった。

こんなに痛い思いせずに済んだし、あの時のことを思い出して泣きそうになったら、ぎゅっと抱きしめてくれただろうし。

 

心の中で次から次へと文句を吐いて行くアキは、真っ直ぐ目の前だけを見ていたせいで、戸の開いていた部屋を一つ通り過ぎてしまう。

通り過ぎる時に、目の端に人の姿が映ったのに遅ればせながら気が付いて、慌てて引き返した。

 

その部屋は普段は誰も使っていない部屋だった。

だから無意識に人のいる可能性を排除していた。

 

その部屋に居たのは二人……いや、三人。

布団に横たわる誰かと、その傍らに座る二人。

 

「父上……?」

 

二人の内一人、布団に縋りつき肩を震わせている父の背中を見て、アキは思わず呼んでしまう。

呼び声でアキの存在に気づいた二人は、はっと振り向いた。

二人とも憔悴しきった顔で、父に至っては目を赤く腫らして涙が頬を伝っている。

 

「アキ……」

 

呆然とした様子でアキの名を呼んだ父は、膝立ちのままアキの元に急ぎ、力の限り抱きしめる。滅多にないことに、アキは目を丸くした。

 

「よかった……よかった……!」

 

「父上……」

 

このようにして抱きしめられるのは、何だか恥ずかしくてむず痒い。

胸の傷も痛いし、やめてくださいとアキは身をよじった。

 

「気が付いたか、小娘」

 

「む……」

 

もう片方、なぜかレンが良く懐いているゲンは、アキの顔を見て心なしか胸を撫で下ろしたようだった。

アキは正直この人があまり好きではない。普通に話しているだけでも喧嘩を売られているような気がする。あと兄上が懐いているのが気に食わない。

 

アキはゲンをじっとり睨んで、自分を放す気配のない父に尋ねる。

 

「父上。兄上はどこですか?」

 

「っ……」

 

父の身体がビクンと跳ねたのがアキの身体まで伝わる。

そのことに首をかしげながら、アキは布団に横たわっている誰かを見た。

それは、顔に白い布が被せてあって正体が分からない。そんなところに布を被せては息苦しいだろうと、無垢な疑問を抱きつつ興味深く見つめた。

 

「アキ……レンはね……」

 

「兄上は?」

 

「レン、は……」

 

アキの両肩に手を置き、正面から見つめる父。

唇を震わせながらも、気丈に何かを伝えようとしていたが、こみ上げた物に耐え切れず俯いてしまう。

そんな父の様子に、アキは首をかしげるばかり。

 

「小娘。こっち来い」

 

見かねたゲンが、役割を代わろうとアキに声をかける。

布団の傍らに座り込む自分の傍まで来いと、横暴な物腰で言うゲンに、アキは眉を顰めた。

 

「ゲンさん……」

 

「旦那さん。ここは俺が」

 

「でも……」

 

「いいから。任せときなさい」

 

互いにしか通じないやり取りを経て、二人はアキを呼び込む。

父に背中を押されたアキは拒否することもできず、ここに座れと言う言葉に従って、渋々腰を下ろした。

 

「兄上はどこですか?」

 

「ああ。……ここにいる」

 

アキの再度の問いに、ゲンは布団の人物から布を退けながら答える。

布の下から顔を現したのは、レンだった。

 

「兄上!」

 

レンを見つけ、アキはすぐに飛びついた。

眠っているように見えるレンは、白すぎる顔色のまま静かに横たわっている。

 

「兄上……兄上……」

 

喋りたい。けれど寝てるなら起こしちゃいけない。でもやっぱり喋りたい。

そんな葛藤の末、アキはレンを呼びつつ、極めてか細い声で呼びかけていた。

当然起きるはずのないレンに、アキは少しがっかりして、けれど満足そうに笑顔を浮かべる。

 

「兄上、もう朝ですよ。お疲れですか?」

 

兄上が朝寝坊なんて珍しいこともある物だと、アキはレンに話しかけつつ、揺らして起こすような真似はしなかった。

疲れているなら寝てくださいとレンを労わる気持ちを見せるアキの背中に、父がぎゅっと抱き着いた。

 

父上? と背中越しに振り向けば、父は泣いている。

その身体の震えが伝わって、アキはどうしたら良いか分からなかった。

 

「よく聞け。アキ」

 

ゲンがアキの名前を呼ぶのは、アキが知る限り初めてである。

その声に宿る真剣さに、アキはゲンの顔を見た。その顔は悲しみを湛えながら、それでも気丈にふるまう大人の顔だった。

 

「レンは死んだ」

 

「……え?」

 

「レンは、死んだ」

 

短い単語を二度も繰り返されれば嫌でも覚える。

レンは、死んだ。

その言葉をアキは頭の中で反芻した。

……兄上が、死んだ?

 

「うっ、うぅ……」

 

「……父上?」

 

「ごめん、ごめんね……」

 

背中で嗚咽を洩らし始めた父を心配するアキだったが、父は謝罪の言葉を繰り返す。

それが、自分に向けられた言葉ではないことぐらいアキにも分かっていた。分かっていて困惑した。

 

「分かるか?」

 

「なにを」

 

「死ぬってのがどんなことか、分かるか?」

 

ゲンの真摯な言葉を前に、アキは何も言えない。

父は泣いている。ゲンは意味の分からないことを言っている。兄は昏々と眠りこけている。

まったく理解できない状況に置かれ、困惑するばかりのアキは、早く目を覚まして下さいとレンに手を伸ばした。

 

レンなら、こういう状況も何とかしてくれる。

レンなら、いつも自分のことを助けてくれた。

泣く父上を慰めて、ゲンの言葉の真意を尋ねて、不安がる自分を大丈夫だよと安心させてくれる。そうしてくれる。

だから、早く起きて兄上。

 

レンの頬にアキの手が触れる。

思っていた温かさはなく、石の様な冷たさに思わず手を引っ込めた。

指先の感覚が信じられず掌を見つめる。

 

「兄上……?」

 

何度目になる呼び掛けか。

しかし、今度は起こさないための配慮なんてない。

むしろ起きてほしいから、いつもの声音で、いつもより少し強めに、レンを呼ぶ。

 

「兄上っ」

 

今度はちゃんとその頬に触れた。

やっぱり冷たい。掌に伝わる感覚は、信じられないほど冷たい。いつも同じ布団で寝ているアキは、レンがこんなに冷たくないことぐらい知っている。

自分の背中に縋りつく父親を煩わしく思いながら、両手を伸ばし、両の頬を包み込む。

 

「兄上?」

 

やはり、掌の感覚は冷たかった。

どこを触っても、何度となく触れ直しても、頬ではなく額に触れた所で、それは変わらない。

 

「兄上……。兄上……!」

 

何か取り返しのつかないことが起きている。

未熟ながらも本能的にそれを悟ったアキは、遠慮も配慮もかなぐり捨てて、レンを揺さぶって目覚めさせようとした。

 

両肩を揺らして、胸をぽんぽんと叩いてみて、頬をぺチぺチと打って。

そこまでして、レンは目覚めない。

いつものように優しく笑ってはくれない。頭を撫でてはくれない。頬をつねったり、ちょっとした意地悪をしようともしない。

 

不機嫌でいい。怒っててもいい。

あとでどんな説教も受けるから。ゲンコツ一回ぐらいなんてことないから。だから、だから……。

 

「起きてください、兄上!」

 

レンを目覚めさせようとするアキを、ゲンも父もただ見守っていた。かける言葉はなかった。二人とも、この現実を呑み込めていないのは、アキと同じだったのだ。

 

――――春の終わり際、雨の降りすさぶ日。

この日、その家からは慟哭が漏れ聞こえ続けた。

剣聖の住まう家は広く、声もよく通る。家の中に居れば、聞こえないなどと言うことはなかった。

だが、その声は一度外に出れば雨の音に掻き消され、誰の耳に届くこともなく空に消えていく。

 

剣聖の居ぬ間に村を襲った辻斬りは、村の子供二人を斬り、最期は返り討ちとなって死んだ。

斬られた子供は二人とも重傷を負い、村人による懸命な治療の末、一人は奇跡的に助かったがもう一人は命を落とした。

 

歴史書に残るはずはなく、誰かに報告されるわけでもない事の顛末は、簡単に纏めればこの程度である。

この事件に関しては、この後に起こる一件によって、誰の記憶に留まることなく忘れ去られてしまう。

 

後世誰にも伝わることのない事実は、ただ一言。

 

『レンが死んだ』

 

それだけである。

 

 



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19話

続・三人称


降りしきる雨が、まるで涙のように流れる。

止むことを知らない雨は畑を潤し田んぼを満たした。

満ちた後も止むことはなくついには溢れ、それでもなお降り続ける。

もうやめてくれと天に願っても、これが答えだと、天から雨は降り続ける。

まるで涙のように、降り続けた。

 

 

 

 

 

 

レンの死体に縋りつき名を呼び続けていたアキは、いつの間にか眠りこんでしまった。

涙が枯れるほども泣いたせいで、疲れきった意識が夢と現の間をふわふわと漂った。

朦朧とした意識に、どこからともなく自分を呼ぶレンの声が聞えた気がして、ふと目を開ければ枕元で父が呼びかけている。

 

もはや何が夢で何が現なのか。アキには分からなかった。

身体は休息を欲して瞼は重く、目を開け続けることもままならず、睡魔に身をゆだねる。

そうやって眠ってしまってからは一度も起きることなく、半日を経てようやく目を覚ました時、辺りは暗闇に包まれていた。

 

その眠りが快適だったとはお世辞にも言えない。酷く寝汗を掻いた上に悪夢でも見たらしく呼吸が荒かった。

うなされたせいで頭は混乱して、目を開けて一瞬はここがどこなのか、自分が誰なのかも判然としない有様であった。

 

数秒ののち、ようやく意識が落ちついて自分が何者かを思い出す。

自分は剣聖の娘だと、そんな当たり前のことすら束の間忘れてしまうほど身も心も疲れ切っていた。

 

倦怠感を感じつつ、暗闇に目が慣れるまでの間、遠く雨の音を聞く。

天井を見つめて身動き一つせずじっとした。

 

とても悲しい夢を見た。兄が死んでしまう夢だ。無力感と悲壮感は今でもこの身を蝕んで、何一つとして行動する気が起きない。

ほんのわずかでも動いたら、その夢が現実のものになってしまう気がして、指一本動かしたくなかった。

 

鼻の奥がつんとする。思い出したくない記憶が頭の奥から湧水のごとく溢れてくる。

天井を見つめる目は、その実何も見ていなかった。この世のすべてから目を逸らしていた。

思い出したくない記憶を否定して、どれだけの時間そうしていたのか。

突如として鳴り響いた落雷ではっと我に返る。

一瞬部屋の中を明るく照らし、全てくっきりと目に見えた。

不意を突かれたものだから、心臓はバクバクと早鐘を打ち、鍛錬で身に沁みついた状況判断能力が如何なく発揮されてしまう。

期せずして、落雷が現実と向き合う切っ掛けとなってしまった。

 

堰を切ったように記憶が奔流となって溢れ出す。

人が死んだ夢を見た。口にすればそれだけのことでしかなかった。

しかしそれを思った途端、心は悲しみで一杯になる。

誰がとまではあえて思わない。それを思えば最後、取り返しはつかないだろう。

最後まで希望は捨てたくない。それがほんのわずかの儚い希望であったとしても。

 

果たして、それが夢かあるいは現か。確かめる術は簡単だ。

恐る恐る腕を動かして胸のあたりをそっと触れる。

本来何もないはずのそこには包帯が巻かれていて、触れた所がズキンと痛む。

 

――――あぁ……。

 

声には出さず心の中で嘆いた。

夢と同じ。いや、夢ではないのだろう。

夢であってほしかった。傷のことも兄のことも。すべてが夢であってほしかった。

 

傷を庇いながらゆっくり起き上がったアキは、すぐ隣で身じろぎする気配を感じ取った。

誰かと思って目を向ける。暗闇の中、見えるまで顔を近づけてみると、それは布団に包まった父であった。

安らかな寝息が聞こえ、まれに寝言でアキの名を呼んでいる。

 

その様子を見つめたアキは複雑な気持ちを抱く。そしてふと、自分の体調が悪いことに気が付いた。

横になっている間感じていた倦怠感だけではない。いつもより体温が高く、頭の奥は靄がかかったようにぼんやりしている。それは寝起きだからと言うわけでもないようだ。起きてすでに時間が経っている。なのに頭の中は霞みがかったままだった。

 

これは傷のせいか。それとも風邪でも引いたのか。もしかすると、自分はこのまま死んでしまうのか?

死と言う言葉を思い浮かべれば胸の奥が痛む。胸の傷など大したことはない。それよりも心が痛い。

こんな思いをするぐらいなら、いっそのこと何も感じたくない。喜びも悲しみも、正も負もおしなべて拒絶してしまいたい。

 

アキは幼いながらに本気でそう考えた。

その心境は自暴自棄に近い。今のアキに、自分の身体を慮る余裕は毛ほどもなかった。

壁に手をつきながら立ち上がり、熱っぽい吐息を吐く。

一歩動いて視界が揺れると、それ以上にぐわんぐわん頭に響いた。

本格的に体調は悪化している。たぶん本当なら動いてはならないのだろう。

 

自虐じみた笑みを浮かべ、知ったことではないと部屋を出る。夢で見た通りに廊下を進んだ。

暗闇に包まれた廊下は外を降る雨のせいで月明かりすらなく、どれほど夜目が利こうとも手探りで進む他ない状況だった。

アキは記憶だけを頼りにして、遮二無二突き進んでいく。

 

やがてその部屋の前に着いたとき、アキは疲労と怪我の痛みで満身創痍になっていた。

今にも倒れそうになるのを必死にこらえながら戸を開き、部屋の中を覗く。

夢で見たとおりに、部屋の真ん中に布団が敷いてあった。誰かがそこで寝ている。だが息遣いは聞こえない。気配はない。それも夢のとおり。

 

「……兄上?」

 

口から出た声は震えている。

布団の側に崩れ落ちるように座り込み、手探りで兄の身体を探す。

ようやく見つけた手の冷たさは記憶のそれとまったく同じだった。

 

「兄上……」

 

自然と涙がこぼれる。

つい昨日まで、アキは死と言うものを理解していなかった。

人はいつか死ぬと言うこと。親も自分も、生きとし生ける者は誰だろうと例外なく、全て死ぬと言うことを、アキはまだ知らなかった。

 

それは幼い子供には早すぎる事実であり、これから時間をかけてゆっくりと受け入れていくはずだった。

しかし、アキは昨日、最も身近で最も大切な家族の死と言う形で、それを半ば以上強制的に理解してしまった。

 

知りたくもなかった死と言う現実を前にして、幼い心はどうすればいいか分からない。

強いストレスを感じても、能動的に何をどうしようと言う発想はない。だから本能のまま泣く。布団に縋りつき、声を押し殺して泣く。

傷が痛んでも、熱が上がっても、衝動に従って泣き続けた。

そうしなければおかしくなる。

 

その悲しみと喪失感は、とてもではないが耐えられるものではない。

特に、アキは生来そういう気質の持ち主で、感情の発露でなんとか堪えている状態だった。

 

「兄上、ごめんなさい。ごめんなさい……」

 

昼間、混乱の渦中にいたアキには、なぜこうなったのか理性的に考える力はなかった。

だが今ならわかる。思い出したことがある。兄の声が、脳裏に浮かぶ。

 

『ここは任せてください。アキを頼みます』

 

兄は私を庇って死んだのだ。

 

「私が、もっと強ければ……」

 

あの老婆が怪しい人物だと分かっていた。

警戒だってしていた。木刀に手をかけて、いつでも抜けるようにしていた。それなのに、兄の姿を見て油断した。

兄がいるのなら、あとはもう大丈夫だと思ってしまった。あそこでもっと気を付けていれば、私は斬られなかっただろう。そうしたら、兄だって死ななかったかもしれない。

 

「私の、せいで……」

 

その言葉を口にした瞬間、心を覆い尽くしていた悲しみが何倍にも膨れ上がる。

身を包み込む罪悪感が体の震えとなって表れた。

 

「ち、ちがう……ちがうっ。ちがうっ!」

 

私は悪くない。

悪いのはあの老婆だ。あいつさえいなければ、兄は死ななかった。私も怪我をしてない。

あいつが悪い、あいつさえいなければ――――!!

 

背負いきれないほどのストレスを前に、罪悪感が憎しみに転じた。

自分が斬られたことが、兄を死なせた遠因かもしれないという推測から目を逸らし、仇の顔を思い浮かべる。

 

「……絶対、あいつだけは……」

 

あの老婆。黄色と白の髪。黒い杖を持っていた。あれが刀だなんて思いもしなかった。

あれのせいで……あいつが、兄を殺した!!

 

「兄上、待っていてください。あいつは、あいつだけは、絶対に……!」

 

憎しみに突き動かされるままに、アキは行動を起こす。

初めて抱いた殺意の味は甘美だった。

身体の不調も怪我も、束の間忘れられるほどに。

 

武器が必要だ。

アキは周囲を探る。

 

台所に行けば包丁がある。もっとも簡単に手に入れられる武器だ。でもあれではダメだ。レンを殺した敵を相手にするなら、あんな小さい刃物は役に立たない。

もっと長い物がほしい。欲を言うのなら、刀があれば――――。

 

「あ……」

 

ちょうどその時、外から日が差し込んできた。

伸ばした手も見えないほどの暗闇が一転して変わる。

部屋の隅にレンの刀が立てかけてあるのを見つけ、四つん這いでそこまで行き手に取った。

 

「兄上……」

 

無機質の冷たい感触の奥に、兄のぬくもりを感じた気がした。

ぎゅっと胸に抱けば、心の淀んだ部分が消えていく。

憎しみに曇っていた心と、霞んでいた頭がすっきりする。

 

今自分が何をすべきか、冷静な心で考えることができた。

しっかり考えた上で、アキは宣言する。

 

「必ず殺します。兄上」

 

言ったからには実行に移すのみ。

アキはその場で立ち上がって家を飛び出た。

 

外はいつの間にか雨が止んでいた。

雲の隙間、山の端から微かに日の光が村まで届いている。もう間もなく夜が明ける。

 

微かな光に照らされた地面には、幾筋もの斬撃痕が残されていた。それは戦いのすさまじさを物語っていた。

その光景を見て、アキは絶句し、次の瞬間には決意を新たにする。

 

しかし心の力強さとは裏腹に、怪我のせいで足が思うように動いてくれず、先行きは暗かった。

割れ目に足を取られながら、転ぶまい転ぶまいと必死に村の外を目指したが、ついには派手に転んでしまう。

 

「あうっ!?」

 

自分の口から洩れ出た悲鳴に憤りを覚えた。

子供じみて弱い自分が許せなかった。もっと強くありたかった。

起き上がろうと腕に力を込めて、震えてばかりの腕には力が入らない。

 

「なんで……」

 

刀を抱きしめながら忸怩たる思いで呟く。

そもそもの問題、アキは重症人だ。

その身体は辛うじて死を免れているだけで、本来なら一歩も動いてはいけないほどの怪我である。休息が必要なのに満足に休まず、あまつさえ追い打ちをかけるように転んでしまい、その際傷口を強く打った。すでに包帯には血が滲んでいる。

 

「こんな、ところで……まだ少しも……」

 

起き上がろうにも起き上がれない。

身体が言うことを聞いてくれない。

 

約束したのに、仇を討つって。それなのに、それなのに……!

 

うつ伏せに寝転んだまま、地面に残る斬撃の痕を指でなぞる。

兄上はこんなに頑張った。それなのに、私はあまりに弱すぎる。

 

「うっ、うう……」

 

泣いても泣いても、涙が枯れることはない。ずっとずっと泣いている。

人はこんなにも泣けたのだ。きっと、死ぬまで泣き続けられるのだろう。

けれど今は泣いていられない。泣くのは弱い証だ。私は強くなりたい。

 

「あぁ――――っ!!」

 

雄たけびを上げて立ち上がる。刀を杖にして前に進む。

 

「う……」

 

威勢よく立ったはいいが、視界は常に揺れている。加えて頭痛とともに眩暈までした。

気分の悪さは如何ともしがたいほどにこみ上げている。

 

もう一回倒れたら、きっと起き上がれない。

村の外に出た所でのたれ死ぬだけだ。刀を振ることすら叶わないだろう。

 

それを分かっていながら、それでもアキは前に進んだ。

懸命に歩いて、歩いて、訓練場へと続く林の入口へと差し掛かる。

 

「……」

 

頬を汗が垂れる。

ほんのわずかの逡巡の末、アキはそちらの道を選んだ。

今となっては、もうなにも考えていなかった。

日々繰り返した営みが、無意識のうちに選択させたのかもしれない。

 

アキは日を遮る木々の下、冷えた空気の中を訓練場に向かって歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここに来た理由は、たぶん思い出したかったからだろう。

そう、アキは他人事のように思う。

 

ここにはたくさん思い出が詰まっている。

実際、こうして木にもたれているだけで、自然と記憶が蘇った。

 

いつか、無理な鍛錬をして兄上に叱られたことがある。

今だからこそ思うが、あの時ほど死にそうになったことはない。

 

早く兄に追いつきたくて、命じられていた以上の鍛錬を自分に課した。

自分の限界など、まるで考えもしなかった。

大丈夫大丈夫と己に言い聞かせて、まるで大丈夫ではなかった。心の強さと体の強さに、あれほど差があるなどとは思いもしなかった。

 

結果、兄が言うには脱水症状になったらしい。汗を流しすぎたと言う話だ。

その時の苦しさは今の比ではない。喉が渇いているのに、満足に動けもしないのだ。全身が高熱を発し、手足が痙攣して、喉の渇きに苦しんだ。

 

その時に比べれば、今は痛いだけだ。ただ胸が痛いだけ。

ついさっきまで感じていた眩暈や吐き気は座っていたら落ち着いた。

 

アキは胸に抱きしめる刀を見る。

年季の入った刀は、あちこちに細かな傷がついていた。

握りやすくするため柄に巻かれている皮は、あちこちが擦り切れて限界が見えている。いずれは巻き替えねばならなかっただろう。

しかし持ち主がいなくなってしまったから、巻き替えることはないかもしれない。次の持ち主が現れるまでは。

 

「兄上……いま、どこにいますか」

 

追いつきたかった背中がある。

いずれは追いつこうと思っていた。追いつけると確信していた。まるで根拠のない自信だったが、信じて疑わなかった。

しかし、見失ってしまった。どこに行ってしまったのか最早皆目見当もつかない。

 

「兄上と同じことがしたくて、兄上に追いつきたくて、刀を振ったけど、兄上が死んじゃったら、もう無理です」

 

私は、もう無理ですとアキは言う。

太陽はすっかり顔を出している。

村人たちも起き出して、畑や田んぼに出ていた。

大勢の人間がすぐ近くで動いている。だが、アキの場所に来る人間はいない。ただ一人を除いて。

 

「兄上の仇をとれそうにない……私は、どうしてこんなに……」

 

震える手でゆっくりと刀を抜いた。

木陰で刀身は輝くこともせず、ひんやりと無機物らしい冷たさを放っている。

 

「死んだら、どうなるんですか……死ぬのは、怖くないですか……教えて兄上……兄上……」

 

また涙がこみ上げてくる。泣いてばかりいる。

こんな自分とは対照的に、兄の泣いた姿は見たことがない。

本当に兄妹かといまさら思う。レンが聞いたら笑っただろう。今となっては聞こうにも聞くことは出来ない。

 

「……っ」

 

どうしようもないやるせなさを感じ、柄を握る手にぎゅっと力を込める。だがすぐに力を抜いた。力むばかりで、何一つ実行出来ない自分が酷く哀れだった。

 

仇を討とうにも体は動かず、気ばかり逸って、今やこうして座り込んでいる。

立つこともままならない。無力感に苛まれるばかりである。

 

目を閉じれば瞼の裏にレンの姿が浮かぶ。

それに誘われるようにして、全身から力を抜いた。

 

意識が急速に落ち込んでいく。

だが復讐に駆られる心はなかなか治まらない。

 

時間だけが過ぎていき、その内サアッと風が吹いて前髪を揺らした。

森の向こうから近づいてくる気配に、アキは気が付かなかった。

 

「何をしている」

 

聞こえた声に曖昧な意識は覚醒する。

はっと我に返り、条件反射で全身が強張る。肌が引き攣って胸の傷が痛んだ。

 

その声はよく聞き覚えのある声で、しかし今の今まで忘れていた声だった。

恐る恐る声の方向を見ると、黒に赤の外套を羽織った長身の女性が立っていた。

 

「……母上」

 

「ああ。今、戻った」

 

足音なくやってきた椛は、アキの側で腰を落とし「渡せ」と刀を指さす。

アキは刀と母親を交互に見比べ、もたもたと鞘に戻してから差し出した。

 

渡された刀を撫でながら、椛はいつもの調子で呟く。

 

「色々あったようだな」

 

アキは無言でその言葉を受け止める。言っていることの意味を考えた。

押し黙る二人の間を風が吹き行き、頭上の葉が音を奏でた。

 




ぶつ切りですが、早く更新したかったので投稿します


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20話

久方ぶりの再会だと言うのに、二人はそれ以上口を開こうとしない。

沈黙の意味は二人それぞれである。

レンの刀をつぶさに調べている椛に対し、アキは今しがたかけられた言葉の意味を考えていた。

 

「色々あったようだな」と母は言った。その言葉に、果たしてどれほどの意味が込められているのか。

事情を全て知っているのか。それとも知らずに言ったのか。

そのどちらであるかによって、印象はガラリと変わってしまう。

 

「……母上は、どこまで……?」

 

ようやく口から出た言葉は、呂律が回らず要領を得ない。

母上が相手では伝わらないかもしれない。アキはそう危ぶんだが、顔を上げた椛は簡潔に答えた。

 

「全てだ」

 

「……それは……つまり……」

 

相も変わらず、アキはそれを言うことが出来ない。

一つ口にすれば終わりと言う予感が依然としてある。

それでも問わないわけにはいかなかった。

「ぁ……」と言葉にならない声が漏れ、震える声を重ねる。

 

「兄上が、死んだことも……」

 

「知っている」

 

それを口にして、アキは耐え難い悲しみに襲われているのに、椛は眉ひとつ動かさない。

平然としている母を見るのが辛くて、アキは顔を俯かせた。

 

レンの刀を腰に()びた椛は、今度はアキの身体を観察している。

視線が胸元に向けられ、血が滲んだ包帯に目が細められる。

 

「怪我をしているようだな」

 

その声は平生のものと比べ、ほんのわずかに調子が低かった。

注意して聞かなければ気がつくことはないだろう。案の定、アキはそれに気づかず、何てことはないと首を振る。

 

「この程度……兄上に比べれば……」

 

「死んだ人間と比べるな」

 

鋭い声音がアキの心に突き刺さる。

見ないようにしていた現実を軽々と突きつけられ、言葉を失くす。

 

「そんなことでは限界を見誤る。見誤ればお前が死ぬ。現にそうなりかけている。それだけはやめろ」

 

その説教に対し、アキは沈黙を保った。

きちんと聞けば正論に聞こえたのかもしれないが、その正しさがアキの心を曇らせた。

 

正しい正しくないはこの際どうでもよかった。

アキの心を占めるのはレンの死のみである。

それを差し置いて、自分の命だとか、これから生きるための心構えを説かれても雑音としか聞こえない。脳にいれる価値もない。

 

兄の死を受け入れて、自分の命を優先しろと母は言いたいのかもしれない。

だが今そんなことを言われても、唯々諾々従う気にはなれない。

レンが守ってくれなければ自分は死んでいた。

それはれっきとした事実であり、自分の代わりにレンが死んでしまったことが、大きな楔となってアキの心を貫いている。

 

「私が、先に斬られました」

 

「そうか」

 

暖簾を腕で押したような手応えのなさが歯がゆい。

例え言葉足らずだとしても、今ので理解してほしかった。

心の内の甘えた部分が顔を出し、声高らかに吠え猛る。

 

「……兄上が助けてくれたから生きてる。兄上がいなかったら私が死んでた! 兄上が代わりに死んだ!!」

 

「いや、違う」

 

まさか否定されるとは思ってもみず、思わず顔を上げる。

椛は至極当然と言う面持ちで続けた。

 

「どのような経緯があったにせよ、それは結果論だ。レンは死んだがお前は生きている。誰が悪くて誰が良いと言う話ではない。生きた者と死んだ者がいる。それだけのことだ」

 

金槌で打たれたような衝撃がアキを襲った。

椛がこの場に現れてからずっと、表情はおろか言動に至るまで、どこをどう見たところで感情の機微が見受けられない。

何を考えているのか分からない母親を前にして、アキは不安に包まれていく。

兄の死を「それだけ」の一言で済ませるつもりなのかと疑念が膨らんでいく。

 

「死んだ、のに……それだけ……?」

 

「悲しむ気持ちは分かるが、自分をないがしろにするな。自分を傷つける理由に他人を使うな。お前が傷つけば、あれは悲しむだろう」

 

その言葉が、アキの心に白々しく響いた。

気持ちが分かると言うのなら、兄の気持ちを代弁するのなら、少しでいいから、悲しむ顔を見せてほしい。

そうすれば私も納得する。母上も悲しいのだと分かる。

 

どうして平然としていられる?

どうして、表情一つ動かさない? どうして――?

 

「家に戻るぞ」

 

話は終わりだと、椛は一人勝手に決めて立ち上る。

座り込んでいるアキの目線の高さに、丁度レンの刀があった。

それを視界に納め、次いで椛の顔に視線を移したアキは、その表情の揺るがなさに失望し力なく首を振る。

 

「……一人にさせてください」

 

「駄目だ」

 

取り付く島もない即答に奥歯を食い縛った。

 

心の奥底から抑えがたい感情が湧き上がってくる。

ぶっきらぼうな態度。独りよがりな言動。

母はいつもと変わりない。怖いほど変わらない。それが、はらわたが煮えくり返るほど腹立たしい。

 

「……」

 

「アキ」

 

黙りこくったアキを椛は不審に思った。

しかし、いくら親子でも心の底までは見透せない。

喉元まで込み上げた怒りを必死に飲み込もうとするアキに、椛は変わらぬ調子で言葉をかける。

 

「家に戻るぞ。立て」

 

少し待って返事はなかった。

いつまでもここでこうしているわけにはいかない。その傷は早く診てもらった方がいいだろう。

そう考えた椛は、アキの腕を掴んで強引に立たせようとする。

 

「……まだ帰りたくない」

 

「我が儘を言うな」

 

小さな抵抗が聞こえはしたが、だからと言って他にどうするという考えもなかった。

構うことなく立たせて、そのまま引っ張って帰路につこうとする。

 

少し歩くだけで胸の傷に激痛が走るアキとしては、それは拷問のように思えた。

痛みが冷静さを奪い、判断力を削いでいく。

段々と視界は赤く染まっていき、胸に広がる悲しみは怒りへと姿を変えていった。

 

「……兄上はどうでもよかったんですか?」

 

ぼそりと呟いた独り言が椛の耳まで届いた。

前を向いたまま目を見開いた椛は、努めて平静な声音で答える。

 

「お前が優先だ」

 

それを聞いた瞬間、アキの中に込み上げていた怒りは爆発した。

 

「――――じゃあ一人にさせてよっ!!」

 

腕を振り払い、衝動に駆られるがまま腹の底から叫ぶ。

もはや怒りを抑え込もうと言う気は微塵もない。

突然の大声に椛は目を眇めながら振り返った。その驚愕に満ちた顔が、今日初めて見せた感情の発露だった。

 

「兄上が死んだのに、どうして平気でいられるの!? なんで悲しくないの!? 本当に兄上はどうでもよかったの!?」

 

「……」

 

微かに椛の瞳が震える。

「……違う」と言葉を紡ぐ。

それはあまりに小さく、言葉が足りず、火に油を注ぐだけだった。

 

「じゃあちゃんと答えてよ! お願いだから……!!」

 

懇願してなお、椛の外面は崩れない。

沈思黙考を経て開かれた口からは、アキが望んだ言葉は紡がれなかった。

 

「あまり大声を出すと傷が開く。死ぬぞ」

 

その言いぐさに、アキは全身の血液が沸騰した感覚を覚えた。

 

「そんなこと、どうでもいい!!」

 

「よくはない」

 

「いい!!」

 

「良いはずがない」

 

そればかり言う椛の強情さを鏡で写したように、アキも頑なに繰り返す。

何が良くて何が悪いかなど議論する気はない。ただ己の考えを押しつけ合っている。

 

険悪な空気が漂い始め、それぞれが何か言い募ろうとした時、頭上の鳥たちが飛び立つほどのひと際大きな恫喝が辺りに響き渡った。

 

「なにやってやがんだ!? お前ら馬鹿かっ!!??」

 

恫喝の主はゲンだった。

椛の後をつけ、木立の向こうから密かに様子を伺っていたゲンは、二人が言い争いを始めたのを見て、慌てて飛び出してきた。

 

「椛てめえ! けが人を興奮させんなっ!!」

 

ゲンが隠れていたことに気が付いていなかった椛は、ゲンの姿を見て再びの驚愕を露わにする。

その様子にゲンは一瞬歩みを止めたが、すぐに勢いを取り戻して椛に食ってかかった。

 

「お前が口下手すぎるからこうなってんだぞ! 少しは反省しろっ!」

 

「……すまない」

 

「うるせえっ!!」

 

椛を指さしながら歩み寄ったゲンは、その剣幕のままアキに向き直る。

アキは怒りで紅潮した顔でゲンを睨み、ゲンも同じように険しい目つきで睨み返す。

そのまま束の間睨み合い、先に視線を外し大きく息を吐いたのはゲンの方だった。

 

「お前には何も言わねえぞ。これ飲ませようと持ってきたけどよ、よく考えたらお前俺の言うこと聞かねえだろ」

 

「……」

 

ゲンとしては大分譲歩したつもりだった。

そんな怪我で勝手に出歩いたこと怒鳴り散らしたい気持ちを抑えて、言外に言うことを聞けと言っている。

もしこれがレンだったのなら、その分かりづらい気持ちを汲み取って言うことを聞いていただろう。だが目の前にいるのはレンではなくアキで、アキはレンのように他人の気持ちを汲み取ってはくれない。

 

案の定、普段と変わらず口を開こうともしないアキを見て、ゲンは至極冷静に判断する。実力行使しかない、と。

 

「椛、こいつ落とせ」

 

「なに?」

 

「絞め落とすなりしてこの餓鬼気絶させろって言ったんだ!」

 

「怪我人に無茶はできない」

 

「これ以上モタモタしてたら怪我どころじゃ済まねえぞ。死なせてぇっつうなら好きにしろ! 娘の亡骸と喧嘩しとけや!」

 

一度拒否した椛だったが、ゲンの言葉に圧されて柄に手をかけた。

反射的に身構えたアキは、次の瞬間首筋に衝撃を受け意識が遠のく。

 

アキが身構えた時にはすでに行動を終えていた椛は、柄に手をかけたまま娘の倒れる様を見ている。

遠のく意識を繋ぎとめようと抗うアキだったが、結局はそれも叶わず、意識は暗転し全身から力が抜けた。

 

「……お、おい。なんだ、何した」

 

「気絶させた。死なれるのは困る」

 

同じように椛の行動を目で追えなかったゲンは、突然崩れ落ちたアキを慌てて抱きとめた。

事も無げに言う椛は実力行使は不本意だったため多少不機嫌だ。

 

慄いているゲンを一瞥し鼻を鳴らした椛は必要なことを確認する。

 

「アキは助かるか」

 

「お……。あ、ああ……下手に動いて傷が開いたみてえだが、出血はそんなにねえ。……何とかなるだろ」

 

「ならいい」

 

奪うように横合いからアキを抱え上げた椛は、村に続く道を戻り始める。

その背中を一瞬見つめたゲンは、後を追いかけながら言葉をかけた。

 

「もう一回言うけどな、さっきのはお前が悪いと思うぞ」

 

「何の話だ」

 

「喧嘩のことだ。お前が悪い」

 

「そんなことは知っている」

 

「……ほんとか? ほんとにわかってんのか?」

 

「無論だ。悪いのは私だ」

 

反省の色のない声音にゲンは頭を掻く。

言うべきことはたくさんあるが、この小娘には言っても通じやしないのだろう。

長年の付き合いからそう判断して、独り言に留めておいた。誰にでも聞こえる独り言だ。

 

「わかってねえな」

 

「……」

 

椛は無言を貫く。

この距離で聞こえてないはずはない。聞こえないふりをしたらしい。

然しもの剣聖と言えども、これ以上抱え込むことはできないということだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家に戻れば玄関の前で父が待っていた。

戸の前を何度も横切る姿が、内心の不安を如実に表している。

不安げに揺れる瞳が二人の姿を捉え、椛の腕で眠るアキを見つける。

「そんな!?」と早とちりして絶望の声を上げた。

「眠っているだけだ」と即座に否定されていなければ少なくとも崩れ落ちていただろう。

 

共に家に入ったゲンがアキの包帯を外して怪我の具合を確かめる。

確かめれば確かめるほど顔を顰める様子に父はハラハラと落ち着かず、対照的に椛は泰然と胡坐を組んで座っていた。

 

「……ま……大丈夫か」

 

「本当ですか!?」

 

独り言に過敏に反応し激しく詰め寄った父に、ゲンは渋い顔をしながら頷いた。

 

「母親譲りの頑丈さだ。一回なんとかなったんだから、なんとかなるだろ」

 

ほっと安堵のため息を吐いた父の影で、椛が浅く息を吐く。

一度目を瞑り、再び開くと同時にその場に立ち上がって部屋を出て行こうとした。

 

「あ、椛さん……」

 

「なんだ」

 

背中を向けたまま答える椛に、父は尋ねる。

 

「どこへ?」

 

「レンに用がある」

 

素っ気ない言葉を残して遠ざかっていく足音は、死体のある部屋に向かって行く。

父もゲンも追いかけることは出来なかった。言葉一つかけることすら憚られた。

死んだ人間にどのような要件があるのだと、疑問に思った言葉は胸の中に消えていく。

 

普段より少し大きめに足音を鳴らしてその部屋にやってきた椛は、中に人の気配がないことを確認してから戸を開いた。

記憶にあるものと寸分違わない光景が目の前に広がる。

その部屋にあるのは死体だけだ。それを椛はすでに一度目にしている。

 

足を踏み入れればどんよりした空気が漂っていて、部屋の中央には死体がある。

人の顔から生気がなくなると作り物のように無機質になる。それは誰の死に顔だろうと変わらない。

今まで数多くの死人を見てきた椛は、息子の死に目に際してもそのようなことを思った。

 

薄暗い部屋の中で何かを待つようにじっとその顔を見下ろしていた椛は、おもむろに腰の刀を引き抜くとそれを枕元に置く。

アキはこれを勝手に持ち出していたが、これを持つ資格はまだあれにはないと椛は考えていた。

これで何をするつもりだったのかは想像に難くない。しかしそれが無駄な行いだとは知らなかったようだ。

 

後顧の憂いを断ち切って逝った息子をじっくりと眺めた後、椛は抑揚なく言葉を発する。

 

「また来る」

 

踵を返しアキたちのいる部屋へ戻っていく。

当然のことながら返事はない。

死んだ人間は喋らず、気配もないためそこにあることに気づけない。

遠からず腐敗してこの世から消えるだろう。

……処分方法を考えなければならない。

 

椛は先のことを考えながらその場を後にした。

 



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21話



Q.展開遅くない?
A.あれもこれもと欲張って文字数が多くなってます。あと投稿間隔のせいもあるんでしょう。ちょっと前みたいに週一で更新できればいいんですけどね


アキたちのいる部屋に戻る途中、椛は治療を終えたゲンとかち合った。

 

「おう、終わったぞ」

 

軽い口調に心配は杞憂に終わりそうな気配を感じながらも、「無事なのか」と訊ねる。それに対するゲンの答えもまた同じであった。

 

「ああ、なんとかな。あいつの運が良いっていうのもあるんだろうが、なんせお前の娘だからな。特別頑丈なんだろうよ」

 

「そうか」

 

頷いた後、椛は前にも後ろにも動かず立ち尽くす。怪訝な顔でゲンは尋ねた。

 

「どうすんだ」

 

「なにをだ」

 

何言ってやがるとしばらく睨んでみても椛は微動だにしない。

どうやら本気で分からないらしい。ゲンはため息を吐き、懇切丁寧に言葉を続けた。

 

「小僧を殺した奴の死体だ。教えただろうが。村はずれの小屋にある」

 

「……ああ、そうだったな」

 

さも言われて思い出したような素振りを見せ、一度あらぬ方向に顔を向けてから、ゲンの肩越しにアキと父のいる部屋を見やる。

ふう、と覚悟を決めたような息を吐き、ようやくその言葉を吐いた。

 

「行かねばならない」

 

当然だとゲンも頷く。それ以外に選択肢はない。

すでに死後二日たっている。例年に比べ寒い日が続いているとはいえ、そろそろ腐り始めているだろう。

何のために死体を残しておいたと思っているのか。椛に見せるためだ。

 

「アキたちを頼む」

 

「待てや。俺も行く」

 

今度は椛が怪訝な顔になる。

「なぜ?」と分かりやすく顔に書いてあった。

先ほど、実の娘相手に被っていた鉄面皮はどこに行ったのやら。

どうでもいいことばかり顔に出して、一番大切なことは意地でも腹の底にしまい込むのが剣聖とやらの使命らしい。

馬鹿げた話だと鼻を鳴らし、指を突き付ける。

 

「お前が腰を抜かさないように着いて行ってやる。何せ奴さんお前の知り合いだからな」

 

「……そうか」

 

ゲンの脅しに素っ気なく頷いて、椛は部屋に入っていく。そこで父と二言三言話をした。

漏れ聞こえる声は二つとも冷静だった。

部屋から出てきた椛に変わった気配はない。

 

「行くぞ」

 

「ああ」

 

共に村はずれの小屋へと向かう。

そこに仇の死体があるとゲンは言った。

椛の知り合いと言う話だが、椛自身も見てみないことには分からない。

仮に本当だったとして、一体誰のことなのか。恨みなら数え切れないほど買ってきた。絞り込むのは難しい。

……誰だったら良いのだろう。

そんな詮の無いことを考えながら、椛は家を出た。

 

 

 

 

 

村はずれの小屋と言うのは、使う者がいなくなった小屋のことである。

元は農具をしまっておく場所だった。今は見る影もなく廃墟になっている。

周囲には草木が生い茂り、中は土埃が積もって、いくつか残っていた農具は錆で覆われている。

雨漏りと隙間風でいつ崩れるとも知れない有様だ。

 

辻斬りの死体をどこに置くか困ったゲンはやむを得ずそこを選んだ。

間違っても人が来ない場所である。虫にたかられるかもしれないが、他に置く場所もなかった。

 

その場所に向かう道中、二人の口数は少ない。

地面に残るおびただしい量の戦闘の痕跡に目もくれず、椛は真っ直ぐ前だけを見ている。

ゲンは切れ込みに足をとられないようしきりに足元を気にしていた。

 

「……おい椛」

 

「なんだ」

 

「小僧がやったのか、これ?」

 

「……」

 

あまりに足の踏み場がないため、文句ついでの質問が飛び出る。

椛は足元に視線を下ろし、地面に刻まれた幾筋もの斬撃を目で追いかける。

ほとんどが10メートルを超える長さだ。それが大小さまざま一直線に伸び、ある場所で突然消えていた。

 

一体どういう戦いを繰り広げたらこうなるのか。椛ですら皆目見当が付かない。

普通に戦ったのなら地面に傷などつくはずはないが、三の太刀を使ったにしては数が多い。

何らかの技が使われたことだけは間違いない。それは十中八九椛の知らない技だ。

もしレンがこれをやったのなら技を隠し持っていたことになるが、それはありえないと内心否定する。

 

椛はずっとレンを見てきた。レンがどのような人間なのか知るのは急務であった。

だからこそ自信をもって言える。これはレンの仕業ではない。

 

「違うだろう」

 

「じゃあ、あっちか。ったく」

 

余計なことしてくれるなと吐き捨てるゲンに、今度は椛の方から尋ねてみる。

 

「それで、それは一体誰だ。本当に私の知る人なのか」

 

「見ればわかる。覚悟しとけ」

 

そのように散々脅されてこそいるが、実のところ、椛もすでに見当はついている。

過去に思いをはせれば、こんなことが出来る人間は二人思い浮かぶ。一人は死んだ。一人は行方が知れない。おのずと一人に絞られる。

信じられないと主張する心に目を瞑れば、ほぼ間違いないだろう。

まさかそんなはずはないと異を唱える心を無視して、小屋へと急ぐ。

 

 

 

 

 

 

 

小屋に着けば、立て付けの悪い戸を開くのに苦労した。

どうにか開こうと悪戦苦闘するゲンだったが、我慢できなくなった椛が蹴りを入れて破壊した。

 

戸を破壊する音が空に響く。

間違いなく村まで届いただろう。

悪ガキがここに来やしないかと心配するゲンの横で、椛は横たわった遺体に目を奪われた。

 

「……やはり、この人なのか」

 

「なんだ。わかってたのか」

 

薄暗い小屋に一歩足を踏み入れれば饐えた臭いが鼻につく。

薄暗さに目が慣れれば、中央に置いてある死体がはっきり見えた。

死体は人の形を保っていた。虫にたかられてもいない。辛うじて腐敗は抑え込まれているようだが、それも時間の問題だろう。

 

ゆっくり近づく椛の目に、特徴的な髪の毛が映る。毛先に残る明るい色味が懐かしく感じた。

確かにこの人の髪は黄色かった。感傷に浸りかけた心を叱咤し、改めて上から下まで遺体を観察する。

 

肩から脇腹にかけての大きな傷が目に留まる。この深さなら肋骨を両断し肺に届いているはずだ。

加えて、喉には刺突の跡があり生々しい穴が覗いている。

どちらも致命傷だ。どちらか一方だけで勝負はついたはずなのに、二つも致命傷がある。

殺した後に鬱憤を晴らすためにやったとでも言うのだろうか。あのレンが?

 

不可解な点の多さに頭が混乱する。

必死に考えをまとめる椛の背中に、戸口に留まっていたゲンが白々しい声をかけた。

 

「このババアなんて言ったっけな?」

 

「……」

 

「おい椛」

 

浮かんだ疑問は一旦棚に置く。

視線は外さないまま肩越しに答えた。

 

「ローザン」

 

椛には見えなかったが、戸の前に立つゲンは顔を顰めた。

 

「……そんな名前だったか?」

 

「この人を名前で呼ぶ者は多くない。私もかつては師と呼んだ」

 

「ああ、お前弟子だったな……。そんで、世間では剣聖様って呼ばれてたってか?」

 

「その通りだ」

 

名をローザン。異名は剣聖。あるいは英雄と呼ばれたこともある。

戦争で死んだ剣聖に代わり、戦後30年以上剣聖であり続けた人物。

それがレンを殺した人間の正体だった。

 

「……この人が、殺したのか」

 

誰にも聞かすつもりのなかった独り言が風に乗ってゲンまで届いた。

それを受け、ゲンは口を開く。

聞きたかったことを聞くいい機会だった。

 

「仲は悪かったのか?」

 

「……いや……」

 

「じゃあ恨みでも買ったのか」

 

「……」

 

黙り込む椛にゲンは焦れったく言い募る。

 

「おい、椛よ。俺も巻き込まれたんだ。何がどうしてこうなったか聞く権利はあるぞ。聞かせろや」

 

ふうと息を吐いた椛は緩慢に立ち上がり戸口を振り向いた。

その表情は思いのほか崩れていない。いつも通りの真顔としっかりとした口調でゲンに尋ね返した。

 

「私以外の弟子を覚えているか」

 

何を言っているのか一瞬考える。

相変わらず椛の言葉は分かりにくい。弟子と言う単語で何のことか理解できた。

椛以外の剣聖(ローザン)の弟子と言う意味だ。

 

「いくら年だからってな、耄碌したわけじゃねえぞ。覚えてるに決まってるだろ。一人酒も飲んだぐらいだ」

 

二人の脳裏に共通の思い出が蘇る。

ゲンはそれを素直に受け入れ、椛は頭を振って拒絶した。

代わりに思い出したのは血みどろの光景だった。

 

「私が殺した」

 

ゲンの頬が引き攣る。

何と言ったか。耳を疑ったが確かにそう聞こえた。

冗談かとも思ったが、椛は冗談を言う性質ではない。真剣な面持ちで、視線は惑うことなくゲンを真っ直ぐ射抜いている。

それでも聞き返さずにはいられない。

 

「……なんつった?」

 

「私が殺した。全員。皆殺しにした」

 

ゲンが言葉を失っている間、小屋の中には沈黙が訪れる。

数瞬たって我を取り戻したゲンは、平静を装うので精いっぱいだった。

 

「……穏やかじゃねえな。何があった?」

 

「……」

 

「剣聖ってのはそんなことしなきゃなれねえもんなのか? なあ?」

 

「……」

 

繰り返し尋ねたところで答えはなく、椛は再び遺体に振り返る。

膝をつき、死体の状態を確認している途中、杖を模した刀が転がっているのを見つけ手に取った。

 

「……これはなんだ」

 

「あ? そいつの武器だろ。多分。そんなことより、俺の質問に――――」

 

「こんなものを使ったと言うのか」

 

ゲンの催促を無視して刀を引き抜いた椛は、日の光を反射し鈍く輝く刀身を見て「ただの直刀か」と呟く。

反りのないこの刀で、新しい『太刀』を作ったと言うなら、想像を絶する鍛錬が必要だっただろう。あの年で、それも利き腕をなくしていたことを考えれば猶更である。

 

腐っても剣聖だ。

内心で尊敬の念を抱かずにはいられない椛だったが、その後ろでは、いよいよ堪忍袋の緒が切れたゲンが大声を発しながら詰め寄ってきた。

 

「椛! 俺の質問に答えろ!」

 

「……なぜ殺したか、だったか」

 

「そうだ!」

 

怒鳴り声などものともせず、振り向くこともしなかった。

口ぶりから平静だと言うことが知れる。表情までは分からない。

 

「お前よりも先に知るべき人間がいる。それに話したのなら話してやろう」

 

「あぁ!? 誰だ、そいつは!?」

 

「レンだ」

 

その一言でゲンは再び言葉をなくす。

何を言っているのだと椛を見つめる瞳には、おかしくなったのではないかと心配の色が浮かんでいた。

ゲンが呆然としている隙を縫い、やおら腰の刀を抜いた椛は、あろうことか遺体の左腕を切断する暴挙に出る。

 

「はぁ!? お前っ!?」

 

「さすがに血は出ないな」

 

切断したところで死後数日たっていれば出血はほとんどない。

それを確認した椛は、何の遠慮もなく四肢を斬り落としていった。

ゲンが「やめろっ!」と声を荒げようが構わず、最後に首を切断すれば各部位と胴の5つのパーツに分かれる。

 

「な、なにやってる……?」

 

「処分する」

 

「は……?」

 

「運びやすくするために細かくした」

 

死体の処理方法はいくつかある。

流すか、焼くか、埋めるか、捨てるかである。

 

この村では大抵埋める。

川下のことを考えれば出来る限り流したくはないし、焼くには燃料が必要だ。

だからわざわざ穴を掘って埋める。埋めればその内消えてくれる。疫病が発生するのを防げるし、死者に敬意を表すことにもなる。

 

だが、辻斬りの死体にそこまでの労力を費やすことはありえない。人殺しに表する敬意などあるはずがない。

ゆえに椛はこう言っているのだ。この死体はバラバラにして山に捨てると。

 

「山に捨てれば動物が食うだろう。二三日もすれば消えてなくなる」

 

「……いいのか? それで」

 

仮にも師匠だろ。

暗に含まれた言葉に、椛はぴくりとも表情を動かさず頷いた。

 

「生き返られでもしたら事だ」

 

「……本気で言ってんのか?」

 

「ああ」

 

冗談としか聞こえない。だが椛は冗談を言わない。

死人が生き返らないのは子供でも知っている。

生き返るのは昔話の中だけだ。

 

「だが、死体はあとで捨てるとしよう。外に誰かいる」

 

「あ?」

 

言われて小屋の外を窺うと、少し離れた所に小さな女の子がいた。

一応隠れているつもりだったのか、ゲンと目が合った瞬間跳び上がらんばかりに驚いていた。

女の子は黒い髪で顔つきは幼い。背丈から考えて、アキよりも二つばかり年下と言うところだった。

 

「あいつ、確か……」

 

「村の子供だろう。見た記憶がある」

 

女の子の頬には切り傷があった。

まだ治り切っていない傷は赤く炎症を起こしている。最近負った傷のようだ。

 

二人に見られて観念した女の子は、おっかなびっくりと近づいてくる。

小屋の中身を見せるわけにはいかないと、二人は小屋から出て中が見れない場所まで移動した。

 

「あ、あの……これを……」

 

おずおずと話しかけるその手には一輪の花が握られている。

どこで見つけてきたのか、村の周辺でその花はまだ咲いていない。例年ならとっくに咲いているはずだが、寒さのせいで開花が遅れていた。

 

「なんだこの花は」

 

差し出された花を睨め付ける椛。

子供相手に大人気ない態度である。

その襟をゲンが掴み、自分の所に引き寄せ声を潜めた。

 

「思い出したぞ。こいつは巻き込まれた餓鬼だ」

 

「なに?」

 

「小僧とババアの戦いに巻き込まれたんだ。頬の傷見ろ」

 

天下の剣聖と村一番の嫌われ者の視線を一身に浴びる女の子は今にも泣きそうだった。しかし、ぷるぷると震えながらも逃げ出そうとはしない。年齢に不釣り合いな勇気を持っている。

 

「名前は何と言う?」

 

(えんじゅ)……です」

 

槐……。

椛は口の中で呟いて改めて女の子を見た。

普通の女の子だ。何も感じない。レンのような化け物染みた雰囲気はないし、アキのような才能も感じない。どこにでもいる普通の女の子。

 

「その花をどうすればいい」

 

「お、お兄さんに……」

 

「レンに?」

 

レンの名前を口にした瞬間、椛の威圧感が増した。

「ひっ」と悲鳴を上げた槐はそれでも逃げ出さず、ぐっと堪えて一息に捲し立てた。

 

「た、助けてくれたから! 具合悪いってお母さんが! だから良くなってほしくて……ありがとうって言いたいから……!」

 

一気に話したせいで息切れを起こした。

無感情を行き過ぎて冷酷にも見える視線に耐え、震える手で必死に差し出されるその花を、椛は受け取った。

 

「ぁ……」

 

「わかった。伝えておこう」

 

花は黄色かった。

春になればどこにでも咲く普通の花である。

だが今年に限ってはその花一つ見つけるだけでも、さぞかし苦労しただろうことは容易に想像できた。

 

「ここは危ない。家に戻れ」

 

「見たくねえもん見ちまうぞ。いけ、ほら」

 

「は、はい……」

 

後ろ髪引かれた様子の小さな背中を見送り、その姿が見えなくなるのを待ってから、椛が口を開く。

 

「村の連中は知らないのか」

 

「ったりめえだ。まだ誰にも言ってねえよ。怪我したことだけだ。知ってんのは」

 

「そうか」

 

椛は手の中の花を一瞥し、槐を追いかけるように歩き出した。

 

「おい、どこ行くんだ?」

 

「一度家に戻る」

 

「この死体どうすんだ?」

 

「あとで捨てる」

 

「……バラバラだぞ?」

 

「だからなんだ」

 

大股で去り行く背中には、何を言ってもなしのつぶてである。

普通バラバラにして放置しねえだろとゲンは小屋を振り返った。

立ち尽くし、迷いに迷って、結局は見て見ぬふりをした。

何が悲しくてバラバラ死体を山に捨てに行かにゃならんのだと自分に言い訳をして、一度家に帰ることにした。

 



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22話

家に戻った椛は、まずはアキの様子を見に向かう。

最後に見た時と変わらず、アキはすやすやと穏やかに眠っていた。

ゲンが言っていた通り、この分では何の心配もなさそうだ。一先ずは安心である。

 

安堵の息を吐き、視線を横に移せば布団の傍には居眠りしている父がいた。こくりこくりと舟を漕ぎ、椛が帰ってきたことには気づいてもいない。

 

しばらくその様子を見つめ、目を覚ますのを待ってみたが一向に起きる気配はない。座ったまま器用に舟を漕ぎ続けている。

まあ無理もないと椛は思った。

 

この二日ほど、父はアキとレンの看病でほとんど眠れなかった。

看病の甲斐なくレンが死んで、続けざまにアキがいなくなってしまい、今朝はアキを探して村中を走り回ったようだ。

夜明け近くに椛が帰ってきて、アキの居場所を探り当てるまで一人で探し続けていた。

無事に連れ戻されほっと一息ついた今、緊張の糸は完全に切れている。

 

不安と恐怖の数日間だったろう。そんな日々に安眠できる方がどうかしている。

誰だって居眠りする。男ならなおさらだ。

眠らせてやろうと思いつつ、そんな恰好で眠らせるのはかわいそうだとも思う。

休むのなら布団でゆっくり休んだ方がいいだろうと、椛は肩に手を置き声をかけた。

 

「おい」

 

「っ!? ……あ、あれ? 椛さん?」

 

虚を突かれた父は身体を飛び跳ねさせる。

しょぼしょぼした目を擦り、椛の姿を認めて首をかしげた。

 

「用事はもういいの?」

 

「いや。まだ途中だが。一旦帰ってきた」

 

「そう……」

 

ふうと疲れの籠ったため息を吐いた。

その目には隠しきれない疲労感が滲んでいる。

 

「ちゃんと寝ているのか」

 

「……え?」

 

反応が鈍い。やはり限界だろうと椛は休むことを勧める。

 

「疲れたのなら休め」

 

「ああ……大丈夫」

 

父は曖昧に微笑んで首を振った。

「疲れてないよ」と、とてもそうとは思えない顔で否定する。

 

「アキが心配なんだ。またどっか行っても困るし」

 

「私が見ていよう。その間に休め」

 

「……」

 

そこまで言っても父は頷かない。

何かを迷う素振りを見せ、椛から視線を逸らす。

少し待っても答えはない。そこまで露骨な態度を見せられては、さすがの椛も察するのは容易い。

 

「何かあるのか」

 

「いや……」

 

「言いたくないことか」

 

「……」

 

「言いたくないなら、それでいい」

 

立ち上がり部屋を出て行こうとする椛を見て、父は脅えた顔になる。反射的に袖を掴んで椛を引き留める。

 

「なんだ」

 

「あ……」

 

振り向いた椛は、相変わらずの感情のない声で尋ねた。

顔をひきつらせた父は、「しまったなあ」と小さく呟く。

 

「ごめんなさい。嘘つきました。……本当は寝たくないんだ。夢を見ちゃうから」

 

「どんな夢だ」

 

「最後に、レンに怒鳴られた夢だよ」

 

「……怒鳴られた?」

 

今度は椛が首を傾げた。

レンが怒鳴ったことなど今まであっただろうか。

鍛錬の途中ならまれに口が悪くなることはあったが、父に対してそうなった記憶はなかった。

 

いつのことかと尋ねる椛に、父は「辻斬りに襲われた時」と答えた。

 

「まず子供たちが襲われて……僕はレンが助けを呼ぶ声を聞いて駆け付けたんだ。でも、駆け付けても怒鳴られるだけで、何も出来なかったよ」

 

「そうか」

 

椛はそれしか言わない。

やっぱりこの人は言葉が足りないなぁと、父の方からもう一言を求めた。

 

「それだけ?」

 

「なにがだ」

 

「他に言うことはない?」

 

そんなことを言われて、椛は少し考える。

わざわざ言うまでもないとあえて言わなかったことがある。

求めるならばと、それを言うことにした。

 

「お前にそこまでは求めていない。アキを助けただけで十分だ」

 

「……そっか」

 

父の口から苦笑がこぼれる。

「求めてないか」と続いた独り言には自虐的な笑みが宿っていた。

 

「それは、やっぱり僕が男だからだよね?」

 

「そうだ。家族を守るのは本来私の仕事だ」

 

「間に合わなかったが」と今度は椛が自虐的な言葉を吐く。

自虐的とは言っても、そこには父ほどの感情は宿っておらず、ただ事実を口にした程度のものだった。

父もそれについては「そうだね」とあっさり認めた。家を守らなければいけなかったのは椛で、守れなかったのは紛れもない事実である。

 

互いに必要なことを確認しただけで、そこに籠る感情はない。

感情的になるのは、次の言葉からだ。

 

「でも、レンには求めてたでしょ」

 

そこに籠められた複雑な感情を察して、椛の返事は一拍遅れる。

 

「……何を言っている。レンも男だ。あれにそこまで求めてなどいなかった」

 

「でも、椛さんよく言ってたじゃない。『私がいない間、家は任せた』って。これって期待してたから言ってたんじゃないの?」

 

「……」

 

思い返すまでもなく、心当たりはあった。

留守にするたびに言っていた言葉である。それはレンに対してのみ告げていた。

 

「あんまりないよね。家長に代わって、息子が家を守ること。なんなら父親がいるのに。……娘ならまた違うのかもしれないけど」

 

椛は黙りこくる。

いつからか自然と口にしていた言葉だった。

言うたびに、息子に言う言葉ではないと自覚もしていた。

だが、それでもレンになら任せられると考え、改めることはしなかった。その結果が今である。

 

はぁと深いため息を吐いた父は、どこか遠くを見つめてしみじみ呟く。

 

「守られちゃったなあ……」

 

「……イーサン……」

 

ただ名を呼ぶことしか出来なかった。

それ以上どんな言葉をかければいいのか。分からないでいる内に、父は椛を見て、そして言う。

 

「……僕は反対だったよ。レンに剣を教えるのは」

 

「……」

 

男に教えることではない。

レンに剣を教えようとした当初、父はそう言って反対した。

 

椛自身もそれは分かっていた。分かっていながら話し合うことはせず淡々と押し通した。

父が反対したのはその一回だけだ。それ以降は表立って反対したことはない。

鍛錬の過程で危険なことをさせようとした時は「まだ早い」と異論を唱えたが、「もう決めた」と一言告げればそれで終わった。

 

一度決まってしまったからには男が口を出すことではないと、父の態度は一貫していた。

だが、今になって思う。それは言い訳に過ぎなかったのではないかと。レンが死んだ今になって、父は考えてしまっている。

 

「後悔しているか」

 

「うん」

 

返事に迷いはなかった。

椛の目を真っ直ぐ見返しながら言葉を続ける。

 

「僕も一緒にやっておけばよかったって後悔してる」

 

それは椛にとって予想外の言葉だった。

てっきり、レンが死んだのは剣を教えた自分の責任だと、責められると思っていた。

 

「僕がレンみたいにちょっとでも強かったら、少しは役に立てたと思う。アキを抱えてぐずぐずして、レンの邪魔して、『俺を殺す気か』って、怒鳴られることも、なかったよ」

 

段々と声がくぐもっていく。

潤んだ瞳から涙が伝り、頬を濡らした。

 

「親は子供を助けなきゃいけないのに、僕逃げちゃったよ……怖くて逃げちゃったよ……」

 

袖を掴んだままの手が震えている。

椛はその場に膝をつき目線を合わせ、すすり泣く父の頬に手を当てた。

 

「本当に、死んじゃった……死んじゃったよぉ、椛さん……」

 

ついには椛の胸に縋りついて、声を押し殺して泣き始めた。

この期に及んで、アキを起こさないよう気を遣う父に、椛は悲しいやら嬉しいやら複雑な気持ちを抱く。

震える身体を抱きしめ、背中をさすって精いっぱい優しい声をかけた。

 

「泣きたいなら存分に泣け。私はずっとここにいるから」

 

同情も共感も、慰めの言葉すら出てこない。

父を抱きしめながら、その肩越しにじっと壁を見つめる目に涙はない。

暗い光を帯びた瞳は一点を見つめて微動だにせず、時ばかりが過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜になった。

アキは一日目を覚まさず、今も健やかに眠っている。

しばらく目を覚まさないとゲンは言っていた。

しばらくと言っても一日二日だ。大したことじゃねえと笑いも添えられていたが、今のところその通りになっている。

 

今晩、アキの側には父が付いていることになった。

父は布団を持ち込んでおり、隣で寝ると言っていたが、あの様子では一晩中起きているに違いない。

 

万が一に備えてゲンにもこの家に泊まってもらうことにした。

アキの容体が急変した時の備えだが、父が倒れた場合にも備えている。

さすがにゲンは夜通し起きてはいないだろうが、たまに目を覚まして部屋を覗くぐらいはするだろう。あれはそういう性格だ。

 

何日か居てもらうことになるだろうと、椛は先を見通す。

実際必要かはともかく、父を安心させるためにそうしてもらった方が良い。

万に一つもありえないそうだが、仮にアキが死んでしまったら、父は自ら命を絶ちかねない。その予感が椛の頭を掠めてやまない。

備えられるなら備えるべきだ。すでに最悪は起きてしまったのだから、これ以上は何が何でも防がなくてはならない。

 

椛自身、今晩は夜を徹する。

すでに一晩馬を繰って眠っていないが、不眠には慣れている。剣聖になった当初はろくに眠れた夜はなかった。

 

今、椛がいるのはレンの眠る部屋である。

胡坐を組んで布団のすぐ横に座っている。

月明かりが窓から差し込んで思いのほか室内は明るい。伸ばした手がくっきり見えるぐらいの明るさだ。

 

刀を脇に置いて、レンの顔をまじまじ見る。

こうして息子の顔を見たのは実に久しぶりのことだ。こんな顔をしていたかと内心驚いてしまった。

 

子供の顔だ。性差は曖昧で、一瞥する程度では女と見間違えることもあるだろう。女とも男ともつかぬ顔立ちは納得できる範囲である。

 

それにしたってこんな顔だったかとしきりに首を傾げる。

常日頃、レンを見る時には余計な物を通して見ていたのだと痛感した。

その余計な物が、レンの命を奪ったのかもしれない。

 

そう思ったら、何かが喉元まで込み上げた。

周囲には誰も居ない。家の中の気配はそれぞれの部屋に3つあるのみ。

目の前の者は死んでいる。自分の声など届きはしない。なら、もういいだろう。

 

「誇りに思う」

 

吐き出したのは、剣聖としての言葉である。

一人の剣士として、守るべきものを守り散っていった者への手向けの言葉だ。

 

「よくぞやり遂げた。師は強かったろう。ひょっとして六の太刀を使ったのではないか。そうまでして、よく守り切った」

 

地面に残った幾多の傷の正体は分からなかった。致命傷が二つある理由も。

唯一分かるのは死闘であったと言うことだ。互いに死力を尽くして殺し合い、結果相打ちになった。

 

師の目的が剣聖である自分だったのなら、それは妨げられた。対してレンは守り切った。父や妹、村の子供までもを守り抜いた。

疑いの余地はなく、戦いはレンの勝ちだ。かつて剣聖だった人間相手に、弱冠11歳の子供が勝った。これほど誇らしいことはない。

剣聖として鼻が高い。男でもここまでやれるのだと、後世に語られるだろう。

 

そんな風に、心にもない言葉を吐き切った後は、波引くようにすっと静寂が訪れる。

称賛する言葉は次々湧いて出たが、どれもこれも虚飾で彩られ、本心は欠片一つ宿ってはいなかった。

それらは全て、剣聖ならばこう言うはずだと言う考えから出た仮面の言葉である。

 

「――――ずっと考えていたことがある」

 

ここからは仮面を脱ぎ捨て、一人の人間として、母親として亡き息子へ言葉を送る。

 

「ずっとずっと、考えて、悩んでもいた。私の行いは正しいのか。それが分からなかった」

 

直前までの滑らかな口調とは違い、絞り出すようにして訥々と語られた。この11年間に積もった思いがそうさせる。良いことも悪いことも、全てが椛の血となり肉となった。

ゆえに軽々しくは語れない。心の形を言葉にするのは生半可のことではなかった。

 

「もともと、お前に剣を教えるつもりなどなかった。教えると決めた後も、精々嗜ませる程度で終わらせるつもりだった。そうならなかったのは、私の目が眩んだからだ」

 

レンが剣を学び始めたのは5歳の頃。

その頃は椛に今ほどの熱意はなく、そこまで言うならやらせてやると消極的な姿勢だった。すぐに逃げ出すだろうと思っていたし、そうなるよう手荒に扱いもした。

 

しかしいざ蓋を開けてみれば、レンの才能は椛の想像を超えていた。

僅か10歳でほとんどの『太刀』を扱えるようになるとは予想だにせず、教えれば教えるだけ吸収していく様には戦慄を抱いた。

 

成長の速度だけで言うのなら、椛のそれをはるかに上回っている。

かつての友を彷彿とさせる才能を前にして、椛はいつからか、レンに剣を教えることに生きがいを感じるようになっていた。

 

「来る日も来る日も、よく学び、よく鍛錬した。さすがは私の息子だ。よく頑張った。……だが、しかし――――」

 

どれほどの才能を持っていようとも、最後に立ち塞がるのは性別の壁である。

どれだけ鍛えたところで、行きつく先には限界があった。決して女以上にはなれない。それがこの世界のルールだった。

 

椛はそれを忘れていた。

その才能に夢中になって、目を塞いでいた。

ようやくそれを思い出したのは、つい最近のことである。

 

レンが10歳になってから、成長に陰りが見え始めた。

技は依然として伸びている。発想や工夫といった戦いのセンスも、まだまだ伸びる。それは間違いない。だが腕力が伸びなくなった。目を疑うほど突然に。

 

すでに2つ下の妹に追いつかれている。明日にでも追い抜かされ、差は増していくだろう。

その差は広がりこそすれ、縮まることはない。未来永劫ありえない。

それをまざまざと見せつけられた時、椛の胸中にあったのは漠然とした不安だった。

 

「このまま行けば、お前の将来はどうなるのか。今からでもまっとうに歩ませることが出来る。きちんと考え、決めなければならない。それが私の責務だ」

 

もしこの先も剣を振るうなら、どこかで誰かと戦うことがあるかもしれない。そうなった時、相手は十中八九女である。

腕力で負ける相手に、センスだけで競うことになる。

この道は勝つことでしか生き残れない。敗れれば、ほぼ確実に死ぬ。それが剣の道である。

 

それがどれほど険しい道か、剣聖である椛はよく知っていた。

そして、その道を歩む男にどれほどの苦難が待ち受けているのか、それは想像すら出来なかった。

ただ思うのは、一人の剣士として、母として、そんな道を歩んでほしくはない。それだけである。

 

その道を歩ませないために、椛はレンを早々結婚させようと考えた。

自由恋愛でどうにかなるならそれに越したことはない。しかし、浮世離れしているレンにそれが出来るとは思えず、自由恋愛を勧めると言った手前、体裁も悪いので本人には内緒で話を進めていた。

すでに話は纏まりかけていて、先方から色よい返事まで来ている。

遠からず、レンはこの村を出て行くことになっていただろう。

 

早ければ来春。

もう一年もない。本当に、あともう少しだった。

 

「お前のこれまでを振り返り、そしてこれからを思えば、果たして剣を教えたのは正解だったのか。分からないでいた。だが、こんなことになって、ようやく答えが出た」

 

レンの未来が閉ざされた今、判断材料は出そろった。

剣を教えたことの正誤がはっきりとした。

 

「こんなことになると知っていたなら」

 

その声はかすかに震えている。

月に照らされた顔は、血の気が引いて青ざめて見えた。

 

「お前が、死ぬと分かっていたなら」

 

自分の言葉に耐えられなくなり、片手で顔を覆い隠す。

指の隙間から見える瞳はじんわりと潤み、絶望の光が見え隠れする。

わなわなと震える唇が開かれ、胸の中でわだかまっていた本音を曝け出す。

 

「剣など、教えはしなかった。教えてたまるものか……決して、決してだ……! なぜ、教えた……なぜっ!?」

 

剣聖の仮面を脱ぎ捨てた椛は、息子の死の責任を感じ押し潰されそうになっていた。

父はアキがいるからまだ正気を保てている。少なくとも死のうとは考えてもいない。だが椛は父ほど強くはいられない。そんなに強くはない。ずっとずっと、そうだった。

 

剣聖としての自分がいなければ、レンの死を知ったその瞬間膝から崩れ落ち、地面を叩いて嘆き悲しんだことだろう。

師の死体に見えた時、その胸倉を掴んで、怒りに任せて尋ねたはずだ。なぜ私ではなく息子を殺した。なぜそんなことをしたのかと。

 

その半生を、剣聖でいることだけに固執したからこその鉄壁の仮面が、椛を守り、そして傷つけている。

 

「もう、いやだ……剣聖なんて……どうして、こんな……」

 

悲嘆にくれる椛は、感情の赴くまま嘆き、唐突に天井を睨み上げたかと思うと、ここにいない者へ向けて怨嗟の声を喚き散らした。

 

「師よ! なぜですか!? 私は嫌だと言った、私ごときに務まるはずはないと!! 言ったのに、なぜ今になって!? 殺したからですか!? 腕を斬ったからですか!? 殺したくなどなかった!! 斬りたくなどなかった!! すべてはあなたが、あんな物に魅入られたからっ!!」

 

それは椛が剣聖になってから、この十数年間で積もり続けていた思いである。

ずっと考え、ずっと蓋をしていた。

どんな理由があったとしても、殺してしまったことに間違いはない。

罪悪感から決して口に出さなかった思いが、息子を失った悲しみで吐き出されている。

 

「なぜだセン!? どうしてだ!! お前がなるべきだった! 一番強かったのに!! どうしてだ!? なんで!?」

 

吐くだけでは捨てきれない感情の行き場を求めて、両拳を力いっぱい床に叩きつける。

ドンっと部屋中に音が響き、かすかに家が揺れた気がした。

椛はそれに構うことなく、今度は手元にあった刀を乱暴に投げ捨てる。

刀は向こう側の壁にぶつかり、僅かに鞘から抜き出た。赤い刀身を晒して床に転がる。

 

息を荒げる椛の目に、月の光で赤く輝く刀が映る。

それを見て、ようやく正気に戻った椛は、全身の力を抜いて天井を仰ぎ見た。

外の者に聞こえただろうかと、気怠い頭で考えた。

 

父は知っている。椛の弱いところは全て隠さず明かしたから。

ゲンも椛が小娘だった頃を知っているから、すでに察しは付いているかもしれない。

知られたくないのはアキだけだ。

 

厳格な母親としての印象を崩したくはなかった。

本当の自分を知ってしまったら、子供たちは失望するだろう。剣聖の名が汚れるかもしれない。

本来なら、自分の様な軟弱者が背負っていい名ではない。ただ他にいなかったと言うだけなのだ。

力がなければ覚悟もない。状況に流され、しがみ付くだけの薄っぺらい自分。

そんなものは、アキにもレンにも知られたくなかった。

 

椛は深く息を吸い、呼吸を落ち着かせて冷静になる。

いつもの調子を取り戻したら、屍に向けて言葉を紡ぐ。

 

「お前の死体は明日燃やすことにした」

 

燃やすための油と薪は用意したと椛は言う。

 

「燃やした後、残った骨は砕き、灰と一緒に畑にまく。肥料になるそうだ」

 

この村では埋めるのが一般的で火葬はしない。

火葬した挙句、骨までばらまいてしまうのであれば、中身のない墓を作ることになる。

その墓に参る時のことを考えると、椛の胸には虚しさが押し寄せた。

 

「剣聖たるもの、一度言ったことは撤回しない。すでに師の亡骸はバラバラにして山に捨てた。やると言ったからには必ずやる。それが嫌なら、目を覚ますことだ。明日までに」

 

傍から見れば、椛は正気を失っていると思われるだろう。

死んだ人間は生き返らない。どんな世界でもそれは常識である。一部例外を除いては。

 

「一晩待つ。起きろ、レン。あの時のように」

 

東の町に観光に向かった往路で、椛はレンに尋ねた。「本当に死んだことはないのか」と。

普段冗談を言わない椛が冗談として済ませた数少ない会話だ。

 

もちろん椛にとってそれは冗談ではなかった。本気で尋ねていた。

その時の反応を見る限り、レンは覚えていないようだったが、実はレンは一度死んでいる。村が猿に襲われた日のことである。

 

あの日、椛は自らの腕の中でレンの呼吸が止まり、心臓が止まるのを確認している。

応急手当は何もしなかった。出血が多く手の施しようがなかったからだ。

完全に諦めていた。それなのに、レンは生き返った。

 

理由は分からない。

いくつか推測は出来るが、あくまで推測どまりだ。決定的なものは何もない。

 

もしかしたら今回もそうなるのではないかと、椛はその希望に縋っている。水面に漂う藁にも劣る儚すぎる希望だ。

あの時は然程間を開けず蘇生したが、今はすでに二日経っている。

蘇らない可能性の方が高い。だからと言って他に縋りつけるものは何もない。

レンが生き返るなら、神に祈るし悪魔に魂を売ったっていい。例えそれが悪魔ではなく狐だろうと関係はない。

 

胡坐で座し、腕を組んで目を瞑る。

月が西の空に隠れ、東の空から太陽が現れるまで、椛はその姿勢で待ち続けた。

レンが生き返ることを信じてもいない天に祈りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

いよいよもって夜明けが近づいた頃、椛は夢を見た。

さすがの剣聖と言えども、一晩中馬を走らせた直後に息子の死に直面するのは、肉体的にも精神的にも堪える出来事だった。

いつの間にか眠ってしまっていた椛が見た夢は、懐かしき過去の記憶である。

 

今から20年近く昔。師が剣聖として名を馳せていた頃。

当時、椛は剣聖の弟子として師の家で暮らしていた。

椛の他にも10人ほどの姉弟子が共に暮らしており、その中で唯一同郷の(せん)と言う少女と親しくなった。

 

夢の内容は、その頃の毎日を走馬灯のように振り返るものであった。

剣聖の弟子だからと言って、ただ毎日剣を振っていただけでない。師の我がままに付き合わされ、連日連夜酒宴を開いたり、誰も料理が出来ないからと、一番若い椛が料理を作らされたり、仙に騙され遠く海まで遠乗りに出かけたりと。

慌ただしくも楽しかった平和な日常の日々を、椛は夢に見た。

 

椛は自らの記憶を追体験しながら、これが夢だと気づいていた。

心のどこかで起きろと言う声がする。それは警鐘だ。現実に何か良からぬことが起きていると時に本能が告げる。

もう少しだけ、この夢に浸っていたかったが、目を覚ますのが遅れた分だけ現実で後悔することになりかねない。

起きようと思い、そう決めた次の瞬間には椛は起きていた。

 

剣聖になってから、夜はほとんど眠れない。眠れたとしても眠りは浅く、夢を見ることはまずない。

ごくまれに夢を見た時はほぼ明晰夢だ。そうでなければここまで生き残れなかった。人間は眠っている時が一番無防備になるのだ。

 

椛は周囲の気配を確認する。

遠くの部屋にいる三人は無事だ。三人とも眠っているのか気配は安定している。

ほっと息をつき、すぐ側の気配に集中した。

 

警鐘の理由はこれだろう。

すぐ側に突然気配が現れたから、条件反射で体が目覚めたのだ。

今まで、夜中に現れる気配は家族を除けば刺客しかいなかった。これもそうだと身体は無意識に判断している。

 

椛はゆっくり目を開ける。

気配の位置を探れば、目の前にいる。そこには布団があるはずだ。

 

それを思い出したら、どくんと心臓が高鳴った。

よくよく集中してみると、その気配には覚えがある。この10年間でよく慣れ親しんだものだった。

まさかと心の中で声が上がり、心臓は早鐘を打ち続ける。

 

目を開ければ、家の中は暗闇に包まれている。

太陽が昇るにはいささか早い。

 

目が暗闇に慣れれば、周囲に人の影はない。

気配があるのは布団の中だ。それがはっきりと分かった。

 

ゆっくり慎重ににじり寄っていく。

顔のある部分に手を伸ばせば、指先に温かい何かが触れた。

 

「レン」

 

「……」

 

返事の代わりに息遣いが聞こえる。

間違いなく、生きている。

 

今や痛いほど脈打つ心臓を無理やり落ち着かせ、最悪を考えて刀を握りしめた。

狐憑きの伝承が脳裏をよぎる。決して死なない化け狐の話である。今までのことを照らし合わせれば、その可能性は大いにある。

 

「起きろ、レン」

 

「う……」

 

呻く声が聞えた。

掠れている。何日も眠っていたからだ。

 

「ぁ……う……」

 

「……レン」

 

いつでも抜けるように、鍔を親指で押し上げる。

その間も呻き声は漏れ続けている。寝言なのか、何か言っているように聞こえた。

 

「ぉ……ぁ……」

 

「なんだ」

 

緊張が高まる。

斬りたくないと言う気持ちと、場合によっては斬らねばならないと言う覚悟がごちゃ混ぜになりながら、レンの言葉を待つ。

 

刀を握りしめる椛の目前で、ついにレンは意味のある言葉を放った。

 

「か…ぁさん……」

 

その一言で、椛の動きは止まる。

言葉次第では斬るはずだった。あるいは斬らぬはずだった。

どちらかをすると決めていたのに、その言葉は椛を凍りつかせた。

 

少なくとも、レンは椛のことを「母さん」と呼んだことはない。

それは確かで、椛がレンの母親であることも確かである。

一体どちらをすればいいのか分からないまま、山の端から朝日が顔を出し、明るい光が二人を照らした。

 



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23話

久しぶりの一人称




目に焼き付いて離れない光景がある。

 

それを目にしてから、前の人生で10年。一度死んで生き返ってから更に10年。合わせて20年以上経った今でも、瞼の裏に残ったまま消えてくれない。

 

ふとした瞬間に思い出し、そして悲しくなる。幻覚のように突然現れるものだから、ひょっとしたらトラウマになってるのかもしれないが、病院にかかったことはない。

甘んじて受け入れた。それは罪悪感からか。あるいは後悔か。

どちらでもいい。もし整理できるならとっくにしている。それが出来ないのが俺と言う人間なのだろう。

一生縛られて生きていくことを選んだ。不満があるとするなら、終わりを迎えたはずの人生に続きがあって、今もなお瞼の裏に強くこびりついていることぐらいだ。

 

 

 

 

 

 

――――故郷は海の近くの港町だった。

 

夏になれば太陽が燦燦と輝き、眩く輝く海と白く熱した砂浜は人でごった返す。

その騒々しさは大層な物だった。海風に乗って、家まで届くこともあった。

波の音に至っては、常日ごろ聞き慣れすぎて意識しないと聞こえているか分からないほどだ。

 

そんな町に生まれた人間にとって、海と言うものは体の一部みたいなものである。

海に生かされていることを考えれば、親とも言えるかもしれない。

もたらされるのは恩恵ばかりではなく、何十年に一度の津波とか、もしくは毎年のようにある人死だとか。

海水浴場が身近にあると意外とあるものだ。人が死ぬと言うことが。

 

町には毎年色々な人が来る。そして決まって海に行く。

浜辺で砂の城を作る親子。浅瀬で追いかけっこをする男女。

浮き輪を浮かべ、ビーチボールを投げ合い、サーフボードを担いで、夏の一時を目いっぱい楽しみに来る。

性別は違えど、人は違えど、目的は皆一緒だ。

 

一度に多くの人間が集まれば事故は起きやすい。

準備運動を怠って足がつったとか。目を離した隙に子供が流されたとか。

毎年毎年、聞くのは同じ内容ばかり。顔ぶれは毎年違うと言うのに。

 

人は油断している生き物だ。

身近に死を感じなければ生物としての本能は呼び起こされない。

海の危険性を真に理解している人間など、ほとんどいない。

知識はある。でも経験はない。それは理解しているとは言えない。ただ知っているだけだ。

 

母さんは理解している人だった。

この町に生まれて、この町で育った。

海は私の庭と豪語していて、監視員の仕事をしたこともあるらしい。

それなのに、最期は海で死んだ。

 

俺が見ている先で、流された子供を助けに行ってそのまま死んだ。

理解していても結局は死ぬのだ。なら、どうやったら生き残れたのだろう。

結局のところ運でしかないのか。たかだか運で、母さんは死んだのか。

 

俺が子供でなければ、もっと大きければ、母さんは死なずに済んだのではないだろうか。

ふとした瞬間に考える。考えるばかりで答えは出ない。仮定の話に答えなど出るはずはなかった。

忘れてしまえれば楽なのに、忘れることが出来ない。ずっと覚えている。

 

目に焼き付いて忘れられない記憶。

それは、白く輝く砂浜と抜けるような青空が目につく、夏の日のことだった。

 

 

 

 

 

 

唐突にスイッチが入れられた。そんな感じで、なんの予兆もなく、突然目を覚ました。

とりあえず目を開けたはいいが、身体は重くて頭には靄がかかっている。何が何だかよく分からない。

 

てっきり、天井には丸い蛍光灯があると思ったのにそんなものはなく、暗闇の中でうっすら木目が見えた。

ぼうっとそれを見ていると様々なことが思い出される。前世の記憶と今世の記憶。二つがごちゃ混ぜになってこんがらがる。

あれ?と一瞬思う。

答えを求めて周囲に目を配る僅かな間に、混濁した記憶は元に戻り、自分が誰なのか思い出す。前世の名前はすでに過去のもの。今はレンだった。

 

それを思い出せば記憶の整理は簡単に付いた。

古いものは古いところに。新しいものは新しいところに。区別をつけて整理する。

 

そうすると、わざわざ目で人を探す必要もない。気配を探ってみるとすぐ近くに母上がいる。そっちに目を向ける。

 

「……」

 

「……」

 

暗闇の中で爛々と輝く瞳と目が合う。馬鹿でかい猫かと思ったが違った。

刀と片膝を抱えて座る母上は、ぴくりとも動かないままじっと俺を射竦めていた。

 

「ぉ……」

 

とりあえず「おはようございます」と言おうとして、うまく言葉が出なかった。

掠れた声は長いこと声を出していなかったように思える。喉は乾き切っていた。

どれほど眠っていたのか分からない。直前の記憶を思い出せば、そもそも生きているのが不思議だった。仇は討ったが、代わりに死ぬものと思っていたのに。

 

「……おはよう……ございます……」

 

「……」

 

声が喉の奥に引っかかり、身体には小さな痛みが走る。どうにも真面に言葉を発することもままならなかったが、それでもなお無理矢理言ってみた。

 

たったこれだけのことでも結構頑張ったと言うのに、母上は何の反応も示さない。

返事はおろかあまりに動かないものだから、もしかしたらこれは人形かもしれないと思った。よくできた偽物。暗闇なら一見して気づかないぐらいの。

 

気配のことを考えなければその可能性もあった。でも気配があるから本人に間違いはない。それなのに全くと言っていいほど反応がないと、かえって不穏な気配を感じる。

 

どれほど待ったところで何も言わないから埒が明かない。

とりあえず体を起こそうと力を込めた瞬間、全身に激痛が走る。

 

「っ!!?」

 

内側から引き裂かれるような痛みだった。

 

条件反射で腕を動かそうとして、また同じ目に遭う。

今の俺は何をしても激痛に苛まれるらしい。あまりの痛みに目に涙が浮かぶ。

 

「動くな」

 

静かな声が静謐な空間に響く。

それは母上の声だった。やっと反応を見せた。どうやら本物らしい。

 

「……おはよう、ございます」

 

「ああ……」

 

唾を飲み込みながら苦労して挨拶する。

母上の返答はいつも通りだったがどこかぎこちない。いつもおかしな母上が輪をかけておかしくなっている。なにかあったらしい。

こっちも色々あったんだよと話したいことが次々浮かんだ。だが、それよりもまず聞かねばならないことがある。

 

「アキは……?」

 

「――――無事だ」

 

ほっと胸を撫で下ろし、激痛に顔を顰める。

胸の怪我だけが原因というわけではないようだ。全身あちこち痛んでいる。

 

原因不明の激痛に困惑する俺の横で、母上の纏っていた空気が和らいでいた。

なんでか知らないが、警戒心と緊張感の入り混じった険のある雰囲気を纏っていた。

どうしてそんな空気を醸していたのか聞きたくて仕方がなかったが、この体調ではうまく聞ける気がしない。それでも、やるだけやってみることにした。

 

「なにか……」

 

「なんだ」

 

「あった……です……か……」

 

「……声を出すのも辛いのか」

 

「……」

 

返答の代わりに聞き返された。返事をするのも辛かった。頷くだけでも辛くなる。

少し動くだけで、身体中に痛みが走る。どうしてこんなことになっているのか。

疑念の答えはいくつか浮かぶ。一番可能性が高いのはあの技だろう。

 

「……ろく……」

 

「――――六の太刀を使ったのか」

 

いつになく理解が早くて助かる。

返事の代わりに頷いてみたが、それは注視していなければ気づかないぐらいの小さな動きでしかない。

身体を動かせないことがこんなに辛いとは思わなかった。この先どうなるのか、以前聞いた母上の言葉と合わせて一抹の不安が浮かんだが、今は顔を背けておく。

 

「そうか」

 

その一言の後は沈黙だ。

雰囲気から責められている感じはしなかったが、自然と言い訳がしたくなる。

仕方がなかったのだ。突然現れた老婆にアキが斬られて、俺も冷静ではいられなかった。冷静でさえいられたら、もっと善戦出来たかもしれない。

 

そんなことを言おうと口を開き空気を吸い込む。肺が膨れてどこそこの筋肉が動く。それだけのことが痛かった。

 

「ぁ……て、き……」

 

「……」

 

「けん……せい」

 

「……」

 

痛みを無視して言葉を絞り出す。

絞り出すごとに痛みは強くなっている。そのせいで、どうしてもうまく言葉を出せない。

死に物狂いで戦った結果がこれかと悲観に暮れる。

 

「無理をするな」と母上に止められて口を閉ざす。神妙な顔で告げてきた。

 

「お前には言わねばならないことが山ほどある」

 

「……」

 

「だが今は言わん。身体を治すことに集中しろ」

 

そうしろと言ってくれるならそうしたい。

どの道話そうにも話せない。寝れば少しは良くなるかもしれない。

淡い期待で胸が膨らむ。

 

「――――まさかと思うが」

 

布団を直してくれた母上が、今度はどこか不安そうな調子を覗かせて尋ねてくる。

 

「眠ったらそれが最後などとは言わないだろうな」

 

「……は……?」

 

目だけで母上を見る。

その顔は至って本気だった。

俺のことを心配して出た言葉だろうが、今言われると真剣に考えてしまう。ちょっと縁起が悪い。

身体のことを考えれば、眠ったままぽっくりと言う結末も、正直否定できない。

 

「……」

 

「……」

 

何とも言えずに沈黙する。そうすると変な空気が漂い始めた。

話すのも辛いって言ってるのに……。

 

「……また、後で……」

 

気合を入れて声を出す。

頑張れば案外話せるかもしれない。でも長くは続きそうにない。やっぱり休んだ方が良い。

 

「ちゃんと起きますので」

 

「わかった」

 

たったこれだけのことが一仕事だ。

ほんのり安心した感じの母上を見れば、やるだけの甲斐はあったと思えはするけれど。

 

仕事を終えたなら一先ず寝よう。

起きるも死ぬもそれからだ。

これで死ぬのならそれが運命だったと諦める他ないだろう。

自分の生死をコントロールできるのなら、そもそも俺はこの世界に生まれてなどいないだろうし。

 

 

 

 

 

 

びっくりするぐらいあっさり眠りにつき、そして幸いなことに目は覚めた。

ぽっくりそのままあの世とは行かなかった。

先ほど起きた時とは違って木目がはっきり見える。まだ少し薄暗いが、眠っている間に朝が来たようだ。

 

起きてすぐは気怠くて動く気にならない。その場でじっとしていると、すぅすぅと穏やかな寝息がすぐ隣から聞こえた。

目だけでそちらを見ると、布団から半分身体をはみ出させて、少し寒そうに眠っている妹がいた。

 

「アキ?」

 

「……う……ん……」

 

思わず呼びかけた声に反応があった。珍しい。一度寝たら滅多なことでは起きないのに。それだけ寝づらかったのかもしれないが。

 

寒さに凍えて猫のように体を丸める姿が愛らしかった。うっかりぷりてぃとか言いそうになる。

見ているだけで辛抱堪らない。これを愛でるのは兄としての使命の気がした。使命を果たすため腕を動かす。

 

「いっ……」

 

身体の不調のことはすっかり忘れていた。痛みに襲われて思い出したが、眠る前に比べて多少治まっている。

 

愛おしさの前には多少の痛みも何のその。

一時は助けられなかった負い目で絶望に暮れていた。やけっぱちになった結果があの戦いだ。

 

生きてくれていて本当によかった。

猫かわいがりしたくて仕方がない。生きていることを確かめたい。力の限り抱きしめたい。

 

浮ついた気持ちに導かれるまま腕を動かし、布団がめくれてアキの身体が目に映る。

包帯が巻かれた上半身が見えて、冷や水を浴びせられたように熱が冷め、動きが止まった。

 

「…………あにうえ……?」

 

何も出来ないでいる内にアキが目を覚ます。

寝ぼけ眼で俺を見ている。

徐々に焦点のあっていく瞳を間近に捉えて、俺は何も言えなかった。

 

「あにうえ」

 

「……」

 

呂律の回り切っていない呼びかけには応じられない。

アキは未だ半分夢見心地だった。夢か現実か今一つ確信を持てていない顔だ。

俺が起きていることを確かめようとしたのか、おずおずと頬に触れてくる。

ぺたぺたと両掌で存在を確かめるように入念に。その遠慮のない手つきに顔を顰める。

 

「あ……」

 

「……」

 

おっかなびっくりとアキの顔が近づいてきて、ただでさえ近かった距離が更に縮んでいく。

これほど近くにいると表情の変遷が手に取るようにわかる。

じわりと涙が浮かび、頬は紅潮した。最初はどことなくふわふわした雰囲気だったのに、段々と感情が浮かび上がっていく。

 

あ、泣く……と察した瞬間、叫び声が上がる。

 

「兄上ぇっ!」

 

「むぐっ……」

 

溢れかけていた水がついに溢れた。その勢いを表すように、頭を抱えるようにして、力の限り抱きしめられる。

俺がやろうとしていたことをそのままやられてしまった。妹にこれをされると立場がない。

妹の胸に顔を埋める兄と言うとんでもない絵面だ。逆ならまだしも、こんなの微妙な気持ちにならない方がおかしい。

 

「よがっだぁ~!!」

 

頭上から、喜びの混ざった泣き声がほとばしっている。

それを聞くと否応なしに罪悪感が湧く。心配かけてごめんと言いたい。けど、俺も少し泣きたかった。

 

多少治まったとは言え、力いっぱい抱きしめられると激痛が走る。あまりの痛みに身体が硬直する。抵抗などろくに出来ない。息苦しい。

 

「ちょっと、離れて……」

 

「いやぁ!!」

 

いやじゃない。

本当なら気の済むまでさせてやりたいが、身体の痛みがそれを許さない。ちょっと尋常じゃなくなってきた。

 

なけなしの力で押し返そうとすると、さらなる力で頭を抱き寄せられる。加えて腹のあたりを脚で挟まれた。

これは絶対に逃がさないと言う意思表示以外の何物でもない。

 

「いたい……」

 

「あにうえーっ!!」

 

「いたいんだけど……」

 

「うぅっ!!!」

 

少しは人の話聞けよ。

心の中で思っても仕方がないことではあるのだが、くぐもった声ではアキには届かない。アキの声が大きすぎる。こうなってしまったらもうどうしようもない。泣き止むのを待つしかない。

いつ泣き止むとも分からないが、それしか方法が思いつかない。

 

「……」

 

「あにうえぇ!」

 

「……」

 

「あにうえぇ……」

 

少し経ったら勢いは治まったが未だに抱きしめられている。

頭を抱えられるのは諦めるから、せめて脚で挟むのだけはやめてくれないか。かなり力が籠ってて痛いから。

 

変な汗かいてきた。このままだと気絶してしまうかもしれない。

もはや声を発する気力もなかった。早く離してくれと内心叫びながら身体から力を抜く。こうなっては運命に身を委ねる他ない。……だれか来てくれないかな。

 

隣の部屋に居るらしい父上に心の中で念じてみて、けれどやっぱりその念は届かずに、ただただ時が過ぎるのを待つ他なかった。




当初、レン君の前世をヒロインとの出会いから別れまできっちり書こうとしていたのですが、冷静に文字数を考えるととんでもないことになりそうだったので、肝心なところだけ抜き出して書くことにしました


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24話

この話を書いているとき、レン君とアキちゃんの体勢がどう言う感じなのか曖昧に感じたので、23話の最後の方を少し加筆しました。


「よかった……よかった……」

 

アキに抱きしめられてどれだけ経ったのか。

嫌な時ほど時間は遅く感じると言うが、苦痛に悶える時間も遅々としたものだった。

感覚が乱れて判然としない。それなりに経ったと思うが、判断する材料がない。

 

今なお頭はがっちり抱えられている。視界に広がるのはアキの寝間着ばかり。

アキは着物みたいな白い寝間着を着ていて、抱き着いて来た時に肩のあたりが少し肌蹴てしまっていた。そのせいで包帯が見える。

それを間近で直視させられるのは中々に辛い。それとは関係なく、脚で挟まれていてそっちも辛い。

依然として拘束が解ける気配はなかった。長時間この体勢でいるとヘッドロックとカニバサミを食らってる気分になる。

 

しかも、どれだけ過敏に反応すればそうなるのか、少し身動ぎするだけでぎゅっと力が増すので、どれだけ痛かろうと無心で耐える他ない。

おかげで一周回って痛みを感じなくなった。治ったとか克服したわけではなく、たぶん麻痺しただけだ。

 

「生きてる……生きてる……」

 

同じ言葉を繰り返しながら、アキは俺の後頭部を撫でている。口調や声色が一本調子でちょっと薄気味悪い。

空いた手で頬や首筋に触られるのがくすぐったく、果ては胸にまで手を伸ばしてきた。一体何をしているのかと戦々恐々とし、どうやら心音を探っていることに気づいて胸を撫で下ろす。

 

「兄上が生きてる……ああぁ――――」

 

どういう理屈でそうなるのかまるで分からないのだが、感極まったアキは一層力を加えてきた。

風呂に入る時を除けば、ここまで密着することも早々ない。包帯越しにドクンドクンと速めの心音が聞こえるほどの密着度は人生初かもしれない。

 

一般的に心音を聞くと安心するらしいのだが、俺の場合はそうでもなかった。

横たわった体勢で早鐘を打つ鼓動と言い、肌から伝わる高めの体温と言い、体調が優れないのが手に取るようにわかる。それが怪我のせいだと見抜けないほど耄碌していない。

本来安静にしていないといけないはずなのに、先ほどから泣いたり喜んだりと感情の起伏が激しくなっている。その分身体への負担も激しいはずだ。

 

俺のことで心動かす暇があるならさっさと休むべきなのだろう。

だからと言って、さあ休めと言いつけた所で聞かない気がする。俺がアキの立場ならまず聞かない。

兄として、妹のことはよくわかる。だからこそ身体を大事にしてほしいと思う。あまり無茶はしてほしくない。されたらされただけ心配になる。

 

――――やっぱり、アキが一番だ。

 

自分の中の優先順位を再確認した。酷く今更ではあるが、定期的にやっておかないと自分を見失う。

何をすべきなのか。それが分かったなら、さっさと拘束を解かせるべく思考を巡らせる。

 

「アキ?」

 

「……兄上……」

 

呼びかけには答えてくれた。

どことなくぼんやりしている。この感じではきちんと認識しているか疑問だ。たまたま感極まって呟いただけかもしれない。

そこのところをはっきりさせるため、もう一度聞いてみる。

 

「放してくれる?」

 

「……いや」

 

熱に浮かされたような声だが意思疎通は出来ている。

一つ目の問題はクリアした。新しい問題は、予想通り言うことを聞いてくれないことだ。

 

「アキぃ?」

 

「いや。いや。いや」

 

語調を強くした分、三度も拒否される。頭まで三度振られてしまった。

早くも頑固なところが出てきている。こうなると手ごわい。説得できた試しはない。しかしやらずに諦めては剣聖の息子の名が廃る。

まずは歩み寄るところからやってみることにした。

 

「どうして?」

 

「……兄上が、死なないように」

 

すっかり過保護になっている。

俺が眠っている間に、弱い兄と言う印象が刷り込まれたのかもしれない。

 

確かにギリギリの戦いだった。六の太刀まで使って辛勝だ。

正直生きているのが不思議なぐらいだった。今こうして生きているのが奇跡の類なら、随分と不安にさせてしまっただろう。

 

「もう死なないから。大丈夫」

 

「……でも……兄上、冷たかった……」

 

突飛のない発言は母上の十八番のはず。受け継ぐのは頑固なところだけでよかった。

冷たいとはどういうことだろうか。冷たく接されたということか。でも今それを言う意味が分からない。

 

考えてもピンとくる答えはない。

どういう意味だと問い返す前に、先にアキが口を開く。

 

「冷たくて、どこを触っても冷たくて……死んだって言われて……。もう、会えないって――――」

 

語尾に向かうに従って、腕に力が籠もっていく。

言葉は湿り気を帯び、身体は震え出す。密着している分だけ、アキの感情がダイレクトに伝わって来た。

 

「あ、兄上が、死んじゃって……でも生き返って……! また、死ぬかもしれないから!」

 

「だから!」と、アキは理由を語る。

アキの言葉を信じるなら、俺は一度死んだことになる。情緒不安定な人間の言葉は、素直に信じることが出来ない。

そんな馬鹿なと内心思いながら、頭の片隅に前世の記憶が過っていく。

 

「だから、いや! 絶対――――!!」

 

「わかったよ。もう言わない。もう大丈夫だから。しばらくこのままでいよう」

 

結局、説得は諦めた。

こんなのどう説得すればいいのか分からない。

言葉の真偽はともかくとして、また俺が死ぬかもしれないとアキが思っているのは事実なのだから。

俺に出来ることは、出来る限りアキを安心させることだろう。間違っても不安を煽ることではない。

 

「よしよし」

 

アキの頭を撫でるために、胸に抱かれている体勢から少し無理をして腕を伸ばす。

そうしたら、絶対放さないと応えるように全身使って抱きしめられた。

息苦しいし体中ミシミシ鳴ってるし、いいことは一つもない。

けれど、こうなってしまってはどれだけ痛くても放せとは言えなかった。

俺が我慢してアキが安心するのなら、頑張れるだけ頑張りたくなる。

それが兄の甲斐性だと思う。

 

 

 

 

 

その後、互いに撫でて撫でられてを繰り返す内に、アキはいつの間にか眠ってしまった。

穏やかな寝息を頭の上に聞きながら、周囲が明るくなる様子を考え事をしながらじっくり眺めていた。

 

ようやく朝日が昇り切った頃、村中で人の起き出す気配を感じる。すでに何人か農作業に繰り出している所もある。

この時間になれば、我が家も起床時間だ。

遠くの方で母上が起きた気配を感じ取った。

最初に起きるのはてっきり父上だと思っていたから、先に母上が起きたのは予想外だった。

いつもこんな感じなのだろうかと動向を注視する。しばらく待ったが動く気配がない。布団から出ても来ない。どういう了見だろうか。

 

まだかまだかと待つ内に、隣の部屋で動く気配を捉える。とうとう父上が目を覚ましてしまった。

父上は母上のようにモタモタせず、起きて10秒足らずで部屋を出た。その歩みはこちらに向かっている。

 

部屋の前で立ち止まったかと思うと、戸の開く音がする。

少し間を置いて、「やっぱり……」と呟く声をアキの背中越しに聞いた。

強い疲労感が滲んだ声。深いため息が続き、部屋に入って来た父上は独り言をこぼした。

 

「何度言っても聞かないんだから……」

 

はぁともう一度ため息が漏れる。

声音を聞く限り、随分疲れているらしい。看病疲れだろうか。世話をかけてしまった。

 

「もう……。そんなに抱きしめて、悪くなったらどうするつもりなの」

 

父上の愚痴が止まらない。それだけ溜まっているらしい。

アキから俺を引き剥がすのに苦労して、まったく放そうとしないアキに三度目のため息。

「絞め殺すつもり?」とある意味ぞっとする呟きが聞こえた。

 

めげずに悪戦苦闘する父上は、逐一独り言を挟んでくる。

盗み聞きはあまり良い趣味とは言えない。アキに抱きしめられているせいで気づいてももらえないし、そろそろ自己主張しておいた方がいいだろう。

 

「……あんまりやりたくないけど、これもう縛っちゃった方が――――」

 

「おはようございます」

 

「あ、おはよう――え?」

 

胸に顔を押しつけているのでくぐもった声になった。

一応通じたはずだがなぜか聞き返される。聞こえにくかったかなともう一度繰り返す。

 

「おはようございます、父上」

 

「……」

 

今度は反応がない。どうしたのだろうかと頭をずらそうとして、がっちり固定されていてずらせなかった。

我が妹ながら、寝てる間も気を緩めないのはあっぱれだ。ある種才能かもしれない。

 

「……」

 

「……」

 

父上の反応を待って数瞬。

顔が見れない以上、音と気配でしか様子を探れないのだが、呆然としているのは分かった。

「げ、げ……」と舌をもつれさせながら懸命に声を出している。

すぅっと息を吸いこんで、何を言うのかと耳を傾けていたら、耳をつんざく大声が轟いた。

 

「源さ――――ん!!!」

 

耳鳴りがする。治まるのに少しかかった。

その間に、父上は走って行ってしまう。

気配の行く先を追ってみると、ゲンさんの気配を見つけた。

 

「ぅん……?」

 

「おはよう、アキ」

 

「……おはようございます、あにうえ」

 

さしものアキも、父上の大声で目を覚ましてまった。

あふぁと大口開けて欠伸をし、ぺたぺたとあちこち触れてくる。

それから背後の戸を振り返って、

 

「誰かいましたか?」

 

「もう朝だよ」

 

声の調子は良い。顔色を見る限り体調も回復している。

しかし一見問題なさそうに見えたとしても、素人判断は命取りになる。

丁度今しがた、向こうの方でゲンさんが叩き起こされてしまったし、アキを診てもらおう。

専門家の意見を聞いて安心したい。そうじゃないと死んでも死にきれない。

 

 

 

 

 

「小僧、お前……」

 

「なんすか?」

 

信じられないと言う目で俺を見るゲンさんに、あ?と言う感じで応じる。

先ほどまでテコでも動かなかったアキはすでにいない。

邪魔者扱いするように邪険に扱われ、紆余曲折の末隣の部屋に運ばれてしまった。

 

「いや、なんつうかな……」

 

「……」

 

言葉を濁すゲンさんの隣で、父上も似たような目で俺を見ている。

それが俺の神経を逆なでし、「なんすか?」とついつい喧嘩腰になってしまう。

唯一普段と何も変わらなかった母上は、暴れたアキを気絶させて隣の部屋に眠らせに行った。すぐに戻ってくるだろうが、一秒でも早く戻ってきてほしい。

 

「身体は、なんともねえのか?」

 

「痛いですよ。すごく」

 

思うように動かない身体を動かし、どうにか身体を起こす。

ズキズキと内側から針で刺されるような痛みに襲われている。

 

ゲンさんがおっかなびっくり近づいてきて、慎重な手つきで脈を測った。

ごくりと喉が上下したのが見え、次に包帯を解かれる。

露わになったのは、右肩から左の脇腹まで一直線に伸びる傷だった。

生々しい断面や黒く固まった血液など、我がことながら目を背けたくなる。

 

「首の傷はどうなってます?」

 

「……塞がってるな」

 

それは僥倖。大きな傷はその二つ。

その他に細かな切り傷が無数にあるが、ほとんど七の太刀とやらで受けた傷だ。

どれもこれも赤く腫れていて、この分では傷跡が残る可能性もある。

 

「顔にもありますか」

 

「まあ、あるな」

 

当然あるか。じゃあそっちも残るかな。

多少ならともかく、全身至る所に傷跡が残るのは抵抗感がある。せめて目立たない程度に薄くなってくれればいいけど。

 

相変わらず我が人生の見通しは暗い。思わずため息を吐き、ゲンさんを上目づかいで見る。

たったそれだけのことで、ゲンさんは慄いて身を引いた。

 

「……もう寝ていいですか」

 

「あー……。包帯巻き直すからちょっと待て」

 

「急ぎでお願いします」

 

「指図すんじゃねえ」

 

「お願いします」

 

「黙れ」

 

ゲンさんは丁寧に包帯を巻いてくれる。

大して暑くもないのに額に汗を掻き、その指先は微かに震えていた。

傍らで父上は固唾を飲んで見守り、いつの間にやら戻って来た母上は戸の前で無造作に腰を下ろす。その手に刀を持っているのはいつものことだが、なぜか今はそれが恐ろしい。

 

「終わったぞ」

 

「あざっす」

 

「どういう礼の言い方だ、そりゃあ……」

 

ふざけた物言いにゲンさんは苦笑したが、その顔は明らかに無理をしている。古い包帯を片付けるのに顔を背けてしまった。

 

それを視界の隅に捉えながら、物は試しと立ち上がろうとして、うまく力が入らずに倒れかける。

倒れる直前、間一髪支えてくれたのは、一番近くにいたゲンさんでも、終始見守っていた父上でもなく、一番遠くにいた母上だった。

 

「平気か」

 

「ええ……はい」

 

刀を放り投げてまで支えてくれた母上に少し胸が熱くなる。

もう少し上手に感情を表に出してくれれば、もはや言うこともないのだが。

 

「身体が痛むか」

 

「はい」

 

「薬が切れたか」

 

「……薬?」

 

「薬は薬だ。源」

 

呼び掛けに応じ、ゲンさんは懐から小瓶を取り出した。黒と見紛うほどの暗い緑色の液体が満たされている。

栓を抜き、口元に差し出された途端、とびきりの青臭さが鼻を突いた。

 

「……なんですかこれ」

 

「薬だ」

 

「なんの?」

 

母上は沈黙した。

首を傾げて、ゲンさんに目配せする。

ゲンさんは「覚えとけよ……」とぼやいた後、端的に答えた。

 

「薬草をすり潰して煎じた特製薬」

 

「だ、そうだ」

 

この状況で母上の態度の大きさを見せつけられると、他人の褌で相撲を取っているようにしか見えない。そうでないのは百も承知だが、そう見えてしまうのは仕方がない。

 

「匂いだけとってもまずそうですが」

 

「それほどまずくはなかった」

 

実体験を伴っているらしいが、母上の言葉は今一信憑性がない。

 

「効くんですか?」

 

「鎮痛作用があるらしい」

 

自分で言っておきながら自信がなくなったらしく、「そうだったな?」とゲンさんに確認している。ゲンさんは頷き、補足した。

 

「眠くなったり頭に靄かかったりもするがな」

 

そういう話を聞くと飲むのは躊躇する。

さらっと言うあたり、大した副作用ではなさそうだが。

 

「……正気を失ったりしませんよね?」

 

「そこまで強くはねえよ」

 

一応言質は取った。

昔の話とは言え、曲がりなりにも医者を志していたゲンさんがそう言うのだし、信じるには十分だ。

仮に医者を志していなかったとしても信じたとは思うが。

 

「じゃあこれ飲めば眠くなるんですか」

 

「痛みもなくなる。飲め」

 

母上が強く勧めてくる。

その顔はいつもの数割増しで頑固そうだ。飲むのは構わないが、今眠くなるのはちょっと困る。

 

「飲みますが、その前にちょっと話があります」

 

「話はあとでいい」

 

「今しておかないと、この先どうなるかなんてわからないでしょう」

 

「いきなり死ぬかもわからない」と反論すると、母上は微かに眉根を寄せた。

そんなもの意に介さず、「話があります」と再び正面から告げる。

見つめ合って数瞬。先に母上が視線を逸らし、たっぷり十数秒思い悩んだ末に折れてくれた。

 

「仕方がない」

 

「じゃあ二人っきりで」

 

「……」

 

「二人っきりか、もしくはアキも一緒に」

 

「……二人で話そう」

 

二択を迫られた母上は心底嫌そうにしながら選び、ゲンさんと父上に目配せする。

それを受け、ゲンさんはすぐに立ち上がったが、父上は躊躇っていた。

 

「あの、椛さん……」

 

「すぐに終わる」

 

二人の会話はそれだけだった。

相も変わらず有無を言わさぬ母上に、父上は渋々頷いて部屋を出て行く。

 

とても後ろ髪引かれている様子だったが気配は離れ、隣の部屋に入って行った。

微妙に近いが、戸は閉められているから盗み聞きの心配はないだろう。別に聞かれても問題はないのだが、母上を相手に盗み聞くのはほぼ不可能だ。

 

「それで、話とは――――」

 

「その前に」

 

「……なんだ」

 

「アキは大丈夫ですか?」

 

母上が口火を切ろうとしたが、一旦それは置いておき、聞きたいことを聞く。

 

「問題ない」

 

「本当ですか?」

 

「源がそう言っていた。先ほども元気にしていた。まず大丈夫だろう」

 

俺から引き剥がされかけ、事もあろうに母上に噛み付いた勇猛果敢な妹であった。

元々反抗期に入りかけてはいたが、俺が寝ている間に完全に足を踏み入れていた。これから苦労することは想像に難くない。

 

「他に聞きたいことはあるか」

 

「ないです。じゃあ話しましょう」

 

「話が終わり次第薬を飲むと誓うか」

 

「……」

 

大仰な言葉を使われ、真剣にあれを飲む場面を想像すると返答に躊躇した。

匂いからして絶対まずいと分かるから、出来るなら飲みたくないと思ってしまう。

 

「誓うか」

 

「誓います」

 

念を押されて誓う。俺が母上を今一信用していないのと同じ様に、母上もあまり俺を信用していない。とは言えちょっと過保護な気もする。

怪我人に対してはこうなるのか。鍛錬で平然と斬ってくる人とは思えない。

 

「それで、話とはなんだ」

 

「色々ありますけど、とりあえず母上の昔のこと教えてください」

 

「なぜ」

 

その一言で母上の纏う空気が一変した。

表情から変化が途絶え、岩の様な無表情は空気と相まって冷え冷えとし、僅かに細められた眼光が俺を射貫いている。

 

「その時が来たからです」

 

「その時とは?」

 

「運命の時です」

 

以前、話をした。

いずれ私のすべてを打ち明けると母上はおっしゃった。すでに父上は知っているらしい。ゲンさんはどうだか分からん。

 

いつでも好きな時に話してくれとその時は答えた。待つだけの時間はあるからと。

けれど、思っていたより猶予はなかったらしい。

アキは斬られて俺は死にかけた。

それが全て母上の過去に起因しているのだと、俺は知っている。

 

「俺たちを殺そうとしたあの婆は『太刀』を使いました。右腕はなく、母上のことを憎んでいました」

 

「それがどうした」

 

「あれは先代の剣聖、つまり母上の師匠でしょう」

 

「その通りだ」

 

あっさりと認めてくる。口調は平坦で無表情はそのままだ。

けれど、この人は無理をしている時ほど表情がなくなり、声から抑揚が失せる。見た目ほど強くはない。剣聖の名ほど強い人ではない。そんなことはよく知っている。11年の付き合いだ。見たまんまを素直に受け取る子供ならいざ知らず、俺は普通の子供ではないのだ。

 

「だが、だからと言って教える必要があるか。特に、六の太刀を使ったお前には」

 

言外に無能の誹りを受ける。

六の太刀を使うと二度と剣を振れなくなるらしい。だとするなら、剣士としての俺はもはや無能どころの話ではない。

考えるだに恐ろしい。かと言って、今それは特段関係がない。

 

「必要云々言うなら、俺はもう生きてる必要がないとかそんな話になりかねませんよ」

 

「……何を言う」

 

やり返したら、母上の語気が萎んでいった。

俺の存在意義についてだが、これも今は関係ないことだ。

 

「いいから教えてください。母上が空元気と見栄を振り撒く弱い人なのは知ってます。今更恥部がどうとか醜態がどうとか言われても、鼻で笑うのが関の山です」

 

我ながら思い切った言葉を使った。母上は微動だにしないまま黙りこくる。

ようやくその口から出てきた言葉は、言い訳にもならない言葉だった。

 

「……アキはどうする」

 

「二つ下ですし、気が進まないなら二年後とかでいいんじゃないですか?」

 

反抗期来ちゃったし、今は少し刺激が強すぎるかもしれない。

そんな感じで、適当にいなして返答を待つ。

次にその声を聞いた時、別人の様なか弱い声音が耳朶を打った。それは今まで聞いたことがなければ想像すらしたことのない声で、そんな声を聞いて思わず母上を見る。

母上は無表情の裏に、窺い知ることの出来ない複雑な感情を隠しながら、瞳に暗い光を宿していた。

 

「では……語るとしよう……。私と師の間にあったこと……私が剣聖になった経緯を」

 

訥々と母上は語り出す。

己の過去と背負った罪を。




Q.え、この小説ヒロインいるの?
Q.今更ヒロインがポッと出てくるの?
Q.妹ちゃんがヒロインだと思ってたのに!

A.レン君の前世にヒロイン枠の女の子がいまして、前話のあとがきはそのことを言っています
A.ヒロインかどうかは知りませんが、この先ぽっと出てくるキャラはたくさんいます
A.個人的にアキちゃんはこの作品の清涼剤みたいに思ってます。アキちゃん出てくると筆が進むんですよね


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25話

25話の差し替えです。
差し替えた理由は、もう少し短くならないかと頭を捻った結果、なんとかなりそうだと思ったからです。


母のことが嫌いだった。祖母のことはもっと嫌いだった。

遅かれ早かれ家を出ることになっていただろう。

 

過去の栄光など私の知ったことではない。

名家の誇りや責務などどうでもいい。

民を置き去りにした祖国に、いつまでも恋々とする祖母は愚かとしか言いようがなかった。

もはや自分に何の影響も及ぼさないのに、見返りもなく忠誠心を持てと言われて出来るはずがない。

祖母はそれをわかっていなかった。愚かだった。本当に、愚かな人だった。

 

見たこともない王に傅くことはできない。だからと言って憎々しい西の王を重んじるわけでもない。

東と西の両方に縁がある。しかし恩はない。

どちらの民かと問われても、どちらにもそう扱われたことはない。

 

西を憎んで東に傾注する者がいれば、東を忘れて西に媚びへつらう者もいる。

どちらが正しいかはわからない。どちらも正しくないかもしれない。全く別の答えがあるかもしれない。

私は答えを保留した。自分の心がどこにあるのか。そんなこと、自分自身にさえわからない。少なくとも、その頃はそうだった。

 

東こそが我らが祖国だと言って憚らない祖母と、祖母の言葉に唯々諾々と従う母。

押しつけがましさと意思のなさ。どちらも心の底から嫌いだった。

 

私にとって、家族とは村に縛りつける枷でしかなかった。

いずれは家を出ると心に決めながら、中々踏ん切りがつかず、祖母の死が転機となった。

人の死を喜ぶ趣味はないが、いい機会になったのは事実だ。

道しるべを失くした母に私を止める力はない。然るのち、家を出た。12のころだった。

二度と戻ることはない、と当時は本気で思っていた。笑いたければ笑え。

 

方々を転々とし、観たいものを見て食べたいものを食べた。

終始一人旅だったが、祖母に叩き込まれた剣のおかげで、野盗に出くわしても難なく処理出来た。

全て返り討ちにし、賞金がかかっているのは路銀の足しにして残りは肥やしにした。

家を飛び出して一年はそうやって暮らしていた。

明日もわからない生活だったが、その分自由だった。誰にも縛られず、何にも囚われず、自由気ままな毎日だった。

 

いよいよ東に見る物がなくなって、ついに西に行くかと考え始めた頃、季節は冬になろうとしていた。

路銀が心もとない。西に行くのなら多めに持っていた方がいいかもしれない。

西の奴らは悪辣だ。東の人間と知ればどれほど吹っ掛けてくるかわかったものじゃない。

冬の間稼いで、雪が融けたら一気に西に向かうか。

 

そう考えて、西都に立ち寄り仕事を探した。

西都には冬を目前に出稼ぎの人間が大勢やって来ていた。

金払いの良いところほど人が殺到する。そういうところでは、私は相手にされなかった。

 

都の奴らは私を奇異の視線で見た。常に刀を持ち歩き、定職にも就かないおかしな奴だと思ったらしい。

何を仕出かすかわかったものじゃない、と何度も追い返された。

仕事は中々見つからなかった。ようやく職にありついた頃には、西都の空には雪が舞っていた。

 

見つけた仕事は湯屋での雑務と用心棒だ。

火を炊くための木を町中から貰い受け、洗い場で喧嘩する者がいれば仲裁する。場合によっては力ずくで追い出すこともあった。

客がいなくなった後は浴槽と洗い場を掃除だ。

 

おしなべて大変な仕事ではあった。

しかし力仕事は慣れていたので難しいことはない。

洗い場に刀は持ち込めなかったが、素手での戦い方も心得ている。何の問題もなかった。

 

本格的に寒さが厳しくなって来た頃には流しをやらされた。客の背中を流す仕事だ。

歩合で金を払うと言うからやってみたが、用心棒などよりこちらの方がよほど難しい。

背中を流せと簡単に言うが、どの程度の力加減で擦ればいいかてんで分からなかった。

いつもやり過ぎていた。失敗ばかりだった。不思議と客に文句を言われたことはなかったが。

 

湯屋ではよく問題が起こる。

コソ泥が多い。それに喧嘩する人間が大勢いた。

 

喧嘩が始まると都の人間は騒々しくなる。

どこからともなく野次馬が押し寄せて、好き勝手やり始める。

どちらが勝つかと賭けが行われ、酒の肴にして盛り上がる。念を押しておくがそこは湯屋だ。

 

周りがそういう状況だから、当事者たちも引くに引けなくなって度を越した。

鼻血を流すならまだしも、骨を折ってまで殴り合う馬鹿もいた。

 

そうなったら言っても聞かん。湯屋の中で暴れられるのは、働いている側としては迷惑甚だしい。

容赦なく叩き出した。加減などしない。力任せに投げ飛ばしたのだから、大なり小なり怪我をした奴もいただろう。

それでも骨を折るよりはましだったと思うが。

 

叩き出した人数は数知れない。

公衆の面前で叩き出されたことを恥と思った人間も居たらしい。いつの間にやら、恨みを買っていた。

 

寒さが峠を越えたころ、湯屋に殴り込んでくる奴が現れた。

そいつの言い分では、私に殴られた際に骨を折ったらしい。

そのせいで働けない。どうしてくれるんだ、と。

 

片手に包丁を持ちながら、もう片方の手には酒瓶を持っていた。

ふらつく足取りで私に向かってくる。

多少離れていても酒の匂いがした。昼間から飲んでいた。骨を折ったと言うがそれも怪しいものだ。酒飲みの言うことは信用ならん。

 

言って治まる様子ではなかったから、仕方なく相手をしてやった。

刃物を持っている相手に手加減などできない。万全を期し刀を持ち出して、容赦なく打ち込んだ。

浅く斬ったらそれだけで腰が抜けていた。最後は泣き叫んで逃げ出そうとしたところを峰で打って終わりだ。

 

決着がつくと同時に喝采が轟いた。相変わらず周りには賑やかしが大勢集まっていた。

意図せず決闘のような形になって火をつけてしまったのか。

知らない顔ぶれが口々に褒め称えてきた。面白いものが見れたと言っていた。

 

楽しませるのは私の仕事ではない。

金を稼ぐためにも早く戻ろうとしたら肩を掴まれた。

振り向けば見たことのない女がいる。

 

やたらと長い髪が印象的だ。

顔一面に花開いたような笑顔を乗っけて、そいつはこんなことを言った。

 

『あなた良い筋してるわね』

 

 

 

 

 

 

 

「あなた良い筋してるわね」

 

突然そんなことを言われ、椛は胡乱気に振り向いた。

足元まで伸びる長い黒い髪に自然と目が惹かれてしまう。

腰に刀を差している辺り、剣士なのかと一瞬思ったが、この髪の長さで剣士というのはどうだろう。

 

栓のないことを考えてしまった。肩に置かれた手をちらと見て、とりあえず叩き落す。

さてどうしようかと逡巡し、無視することに決めた。相手をしてやる義理もない。

 

仕事に戻ろうと踵を返す。

建物に向けて何歩も行かない内に、今度は腕を掴まれそして引っ張られた。

 

「良い筋してるわ」

 

同じ笑顔で、同じことを言う女。

腕はがっちりと掴まれ、振りほどこうとしても難しかった。

 

眉根を寄せて女を見る。女はキラキラと輝く瞳で椛の返事を待っていた。

椛は溜息を吐いて、それで満足するのならと渋々相手にすることにした。

 

「なにか用か」

 

「剣はどこで習ったの?」

 

不躾な質問に対し、椛は「答える必要があるのか」と問うた。

苛立ちが混じった声音に対し、女は気に留める素振りも見せずあっさりと言う。

 

「ええ。ぜひ知りたいわ。気になるもの」

 

「……祖母にだ」

 

「お名前は?」

 

「知らん」

 

話は終わりだ、と今度こそ仕事に戻ろうとする。

遠慮なく振りほどこうとして力を込める。しかし女も負けじと強く掴んでいて、思ったように振りほどけない。

いっそ本気で力を込めてみるが、それでも振りほどけなかった。

涼しい顔の女を見るに、力負けしているらしい。椛はいささか以上にショックを受けた。

 

「なんなんだ……」

 

「お祖母さんのお名前は?」

 

「……」

 

二度目の溜息を吐く。

変な奴に絡まれてしまった。

 

「確か……(みやび)

 

「そう。いい名前ね」

 

「そう思うか」

 

女の言葉を椛は鼻で笑った。

祖母が死んで一年以上経つが、未だに祖母への恨みつらみを整理し切れずにいた。

どうせ二度と会うことない、とそれを隠すことすらしない。

 

「それで、あなたは?」

 

「なんだ」

 

「お名前」

 

「……」

 

「教えてくださる?」

 

「教えれば、この腕を放すか」

 

「いいわ。今のところは」

 

「今のところ?」

 

「言葉の綾よ。喜んで放しましょう」

 

「……椛だ」

 

「仙よ」

 

仙と名乗った女が腕を放す。

椛は仙を一睨みして踵を返した。

 

「ここ、湯屋よね。ここで働いているの?」

 

背中に投げかけられた問いは無視した。

建物に入って戸を閉める。仙の姿は見えなくなり、もう会うことはないと思った。

 

しかし再会は早かった。

 

用心棒の仕事に戻った椛の元へ、客の背中を流すようにと番頭から指示が飛んだ。

嫌々立ち上がった椛は洗い場へと趣き、木札を持っている客を探す。

 

「こっちよー」

 

と声がしてそちらを見ると、風呂桶の上に腰かけた女がいた。

その女は髪がとてつもなく長く、後頭部で一纏めにしていると言うのに床まで垂れ下がっている。

 

そのあまりに印象的すぎる特徴のおかげで、近づくまでもなくそれが誰なのか分かってしまった。仙である。

 

「お前……」

 

「こんにちは。奇遇ね」

 

しれっと嘯く仙は得意げだ。

それが無性に椛を苛立たせる。

 

「何の用だ」

 

「これが見えない?」

 

木札を振られ、仙が客であることを思い知らされた。

流しを頼んだのはこいつらしい。どうやってか椛を狙い打ってきた。番頭に金でも握らせたのだろうか。

 

「背中を流したらいいのか」

 

「髪の毛もお願いできるかしら?」

 

垂れ下がる髪束をつむじから毛先まで凝視する。

こんなものをどうやって洗えと言うのか。相当時間がかかるだろうし、そもそもこれほど長い髪を洗った経験はない。

歩合でやっている以上、一人に時間を割いてしまったらそれだけ儲けは少なくなる。

はっきり言って、やってられなかった。

 

「別料金だ」

 

「そうなの?」

 

「お前だけはな」

 

「ふーん。そういうのいいんだぁ?」

 

仙は目を細めて椛を流し見る。

たかだか用心棒兼雑用係にそんな権限はない。

椛自身試しに言ってみただけだが、仙の視線がいたたまれなくなって目を逸らした。

 

風呂桶に湯を張って準備する。

その間、仙は椛を愉快そうな表情で見つめていたが、椛は努めて無視した。

 

「流すぞ」

 

「お願い――――んっ……」

 

指先が背中に触れた瞬間、仙の口から艶めかしい声が飛び出て、椛は手を止めた。

 

「なんだ。今の声は」

 

「ごめんなさい。私、背中弱くて……触れられるだけでぞくぞくしちゃうの……」

 

恥ずかしそうにしてはいるが、それ以上に面白がっている雰囲気が強い。

揶揄われているのだろう。椛は一寸違わず仙の行動を理解し、その上で放っておくことにした。

 

「そうか。安心しろ」

 

「え?」

 

「感じる余裕など、すぐになくなる」

 

椛はいつも通り丹念に背中を擦り始める。

仙の背中はきめ細やかで白い肌であったが、椛が擦った後は見るも無惨に赤くなっていく。

擦られる度に痛みが走り仙は叫ぶ。しかし椛はやめない。

 

「ちょちょちょちょ!?」

 

「……」

 

「待って、お願い待って!?」

 

「……」

 

「ちょっ――――!?」

 

椛は今までにないほど集中した。そこに私情がなかったとは言えない。

その結果、仙は洗い場の上で倒れ、苦痛に呻くことになった。

 

「いったぁ……」

 

ヒリヒリと背中が痛い。

思わず腕を伸ばしてみるも、腕の届かない場所の方が多い。

出血していないか心配になってしまう。

 

いたた、と悶える仙を見下ろして、椛は心なしすっきりした表情を見せている。

一束に纏められた長い髪を目で追って、次の仕事を確認した。

 

「次は髪だったか」

 

「……本気で言うわ。一旦やめなさい」

 

思いのほか低い声が飛び出てきた。

椛は伸ばしかけていた腕をひっこめる。

 

「背中の横暴は許してあげてもいいけれど、髪にまで同じことをするのなら、私はあなたを一生許さないわ」

 

「……そうか」

 

「いつもどういう風に洗っているのか教えてちょうだい」

 

「普通にだ」

 

「普通って?」

 

「こう――――」

 

胸の辺りに両手を持ち上げ、がしがしと指を折り曲げて見せる。

親の仇を見るような目でそれを見ていた仙は、自分の髪の毛を持ち上げて指の上を滑らせた。

 

「髪の毛を洗ってほしいのだけれど?」

 

「だから、こうやって洗ってやる」

 

「それで洗うのは髪ではなく頭皮ではないかしら」

 

「細かい奴だ」

 

椛は面倒くさいと顔をしかめ、どうすればいいか悩み、埒が明かないので正直なところを明かした。

 

「お前のように髪の長い奴は初めて見た」

 

「でしょうね。それは分かっているわ。そもそも、あなたの困り顔が見たくて頼んだのだし」

 

「なんだと?」

 

「口が滑ったわ。聞かなかったことにしてちょうだい」

 

「お前……」

 

頬を引きつらせた椛を見て、仙は「そういう顔も見たかったの」と作ったような笑顔を見せる。

 

「やり方を教えるから手伝ってくださる? 見ての通り一人だと大変なのよ」

 

「いっそのこと切れ」

 

「愛着があるの。それと忘れてるみたいだけど私は客よ」

 

「……仕方ない」

 

料金は前払いで支払われている。

番頭は買収されており、今こうしている間も番台から二人のことを見ている。

椛に拒否する権利はなかった。

 

あれやこれやと指導を受けた後、椛は実際にやってみた。

その手つきは当然のように下手だった。

 

「いたっ……あの、引っ張らないでくださる?」

 

「引っ張ってない」

 

「引っ張ってるわ。もう少し優しくして」

 

「これ以上どうやって」

 

本人としては精いっぱいやっているのだ。

だが身体中に余計な力が入っている。初めてのことで緊張しているらしい。

思ったより肝っ玉は小さいようだ。

 

仙は椛の指先を眺めて「なるほど」と呟いた。

 

「不器用なのね」

 

「お前が繊細なだけだ」

 

世の女どもは髪の手入れなどしない、と椛は堂々文句を言い放つ。

客と丁稚の関係は頭の片隅にもないらしい。仙は苦笑して応じた。

 

「これだけ長いなら多少は気を遣わないと。あっちこち跳ねてたらみっともないでしょう」

 

「だから切れ」

 

「いずれそういう気分になったらね」

 

たやすく受け流され、それ以上何も言えなくなる。

切る切らないは自由意志である。客の行動に日雇いの出稼ぎ風情が文句を付けられるはずもない。

 

それはそれとして、言いたいことは他にもあるので言っておく。

 

「二度と来るな」

 

「また来るわ」

 

「来るな」

 

「近いうちに、また」

 

口を動かす間も手は動かしている。

これだけやってもまだ終わらない。他の客より数段気を遣う。それでもって数段面倒だ。

それなのに同じ額しか貰えないなら、やるだけ損である。

 

「どうせ、あまり客も取れてないのでしょう? ならいいじゃない」

 

「知った風な口を利くな」

 

「あら、いるの?」

 

「そこそこにはな」

 

「そう。それは男の子? それとも女?」

 

「半々だ」

 

「ふぅん……血迷ってるのかしら」

 

「どういう意味だ」

 

「どういう意味だと思う?」

 

「知るか」

 

桶に入っていた湯を頭から被せられ、仙は「わぷっ」と咳き込んだ。

 

「ちょっと!?」

 

「終わりだ。木札をよこせ」

 

ばしっと背中を叩かれ、「ひゃん!?」と悲鳴が上がった。

その隙を突いて、仙の手から木札をもぎ取って、椛は桶を担いで戻って行く。

 

「また会いましょう、椛」

 

「二度と来るな」

 

別れ際の挨拶は仲睦まじくとは言い難い。

仙は手を振って、椛は振り向かなかった。

 

出会ったばかりのころの二人の距離感はこんなものであった。

 




当初は仙・姉弟子・剣聖の三つを掘り下げるつもりでしたが、後半二つを切り捨て、仙一人に焦点を絞りました。
そうすれば短くなるさと心の声が言っています。本当にそうだろうかと半分疑い始めました。

旧25話は伝説の25話として温めておきます。
いずれまた日の目を見ることがあるかもしれません。


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26話

それから、仙は頻繁に椛の前に現れた。

現れる度にこれ見よがしに木札を抱えているものだから、椛のこめかみには青筋が立つ。

ぶん殴ってやろうかとも思ったが、曲がりなりにも客であるからぞんざいには扱えない。常に目を光らせている番頭が邪魔だった。

 

番台の上から目を光らせている番頭は齢60ほどの老婆である。夫に先立たれて一人で店を切り盛りしている。

年の割に見た目は若く、背筋はピンと伸び、テキパキと働く姿に衰えは感じない。

この店は戦前から営んでいるため常連客が多い。湯屋と言えば売春宿を兼ねている場合が多いのだが、ここに限ってはその方面に手を伸ばしていなかった。

 

椛に与えられた仕事は用心棒と雑務。ついでとばかりに客の背中も流す。

番頭に言わせてみれば「こんな簡単なことで金が貰えるのは幸せ者」とのことだ。

椛も内心同意していた。しかし仙が現れて考えを改めた。簡単なはずの仕事が、仙が関わるばかりに気苦労が増えて仕方がないからだ。

 

椛が頑張って髪を洗っている間、仙の舌は淀みなく回り続けた。

天気の話から始まり、朝食の感想や姉弟子とやらへの軽い愚痴。しまいには止めどない世間話。

 

こいつは喋らないと死ぬのかと思いながら、椛は雑に受け応える。

そもそも応える必要もないのだが、応えずとも仙は勝手に話し続けた。

どれだけ無視しようとも耳障りな声が聞こえ続けるのだから、椛にとってはたまったものじゃない。

 

喋るな。黙ってろ。知るか。私に聞くな。動くな。口を閉じろ。

 

自然と乱暴な言葉が飛び出していく。

互いに会話とも言えぬ一方通行のやり取りを繰り返した。

当初こそそんなものだったが、月日を重ねるごとに徐々に距離は近づいていった。

口数も段々と増えていき、普通に会話を交わせるようになったのは、出会って数か月が過ぎた頃。

 

その頃には冬も終わりが近づき、僅かにだが春の兆しが見え始めていた。

それまで毎日のように湯屋に訪れていた仙は当然のようにその日も訪れる。

いつものごとく番頭に多めに金を渡して椛を呼んだ。

呼ばれた椛ももはや慣れたもので、仙の顔を見ても嫌な顔はしない。目を細めて長い髪を睨み付けるだけである。

 

「ねえ、椛」

 

「なんだ」

 

背中を擦る椛に、仙は肩越しに声をかけた。

椛の返事はぶっきらぼうだったが、返事すらしてくれなかった頃に比べれば随分とましになった。背中を擦る力加減もちょっと痛いぐらいに進歩している。

 

「最近、この辺りは人攫いが多いらしいわよ」

 

「知っている」

 

「あなたも気を付けた方がいいと思うわ」

 

「私がそんな軟弱者に見えるのか」

 

「言ってみただけよ」

 

「本当か?」

 

問いただすような口調は自信の裏返しだ。

剣の腕には自信がある。ここで用心棒をしているのだってこの腕を買われたからだ。仕事が見つからずにむしゃくしゃしていた時、横柄な輩と喧嘩をしてぶちのめしたのは記憶に新しい。

 

「ちょっと探ってみたのだけど、攫われているのは子供ばかりね」

 

「いつものことだ」

 

聞くところによれば、子供はその界隈では人気商品らしい。

子供を育てるのは面倒だし手間もかかるが、攫ってしまえば元手はかからない。

力が弱く判断力もないから躾けるのは簡単だ。売る場合もどのような用途でも使いやすいので色々なところが欲しがる。と客同士の会話を小耳にはさんだ。

 

「最近は男女関係なく隙あらば攫われてるみたいよ」

 

「だから、いつものことだろう」

 

「真昼間から大胆不敵に攫っていく愚か者がいるのよ。噂になってるわ。ちょっと引っかからない?」

 

ひっくり返した風呂桶に座りながら、仙は膝に肘をついて思案顔になる。

その目は遠くを見つめて焦点がぼやけ、心ここにあらずと言う風だった。

 

「あまり深入りすると死ぬぞ」

 

そう言いながら、擦り終わった背中に湯をぶっかけ、二度三度と景気よく背中を叩く。

 

「私が死ぬと言うの?」

 

「死なない人間などいない」

 

「……言われてみればその通りね」

 

人が攫われるなんてことは、この町ではよくあることだ。

攫われた子供たちがどうなったかなんて誰も知らない――――いや、本音を言うなら察しは付いている。けれど知らないふりをしている。

探しても見つからない子供は手の届かないところに行ってしまった。

そうなると自分たちではどうにもならないから、半ば諦めているのだ。

 

住人達の共通認識として、犯人は西の人間だ。それはほぼ間違いないだろう。

西の奴らは東を下賤な民だと思っている。どれほど残虐な行いだろうと心が痛むことはない。行き過ぎた輩に至っては家畜も同然だと公言して憚らない。

攫われた先は性奴隷か。あるいは別の欲望のはけ口か。確かなのは惨たらしい未来だけだ。

 

誰もが気づいている。しかし大っぴらに言う者はいない。

言ったところで無駄だ。官憲は動かない。むしろ殺される可能性がある。役人は領主の手下だ。領主はそういうことを平然とする。自衛のために作られた自警団はすぐに弾圧された。

 

この町が腐っているのは明々白々たる事実であるが、住人は耐えるしかない。嵐が過ぎるのを我慢する以外に術がない。

これでも昔よりましになった。数少ない老人たちはそう言って若者を諫めている。ここの番頭もその一人だ。

 

「でも、気になるじゃない。貧民街なんて真面に調査もされないだろうし、もしかしたらとんでもないことになってるかも」

 

「私の知ったことではない」

 

冷酷な言い方に仙はチラと肩越しに振り返り、つまらなそうな顔で正面へと向き直った。

 

「椛は流浪人だものね。雪が融けたら西に行くの?」

 

「そのつもりだ」

 

「行かない方がいいと思うけど」

 

「……」

 

開きかけた口を閉じ、椛は無言を貫く。

ほんの少し前なら、お前に指図されるいわれはないと突っぱねていただろう。

だが今は心情が変化した。仙の言うことにも一理あると思うぐらいには。

 

冬の間、ほんの短い期間西都で暮らしてみて、見えたものがある。

知識で知るのと実際に目にするのとでは認識に差があった。なにせ東に西の人間はほとんどいない。この西都を除いては。

 

西に行ったところで差別されるのは分かっていた。それでも行こうと思った。殴ってくる人間がいるなら殴り返してやればいいと思っていた。

だが、迫害され袋叩きにされて殺されるとなると話は別だ。いくら腕に自信があっても、多勢に無勢ではやられるしかない。

そんなところに進んで赴く人間がいるなら、それは相当の変態だ。自分には一生かかっても理解できまい。

 

「……だが、行くところもないしな」

 

ぼそりと呟いた声は誰にも聞かすつもりはなかった。

だが仙には聞こえていた。地獄耳だ。

 

「行くところねえ……」

 

背中を反らせて椛を見ながら、仙は思案気に呟いた。

 

「ご実家は?」

 

「あそこは行くところでなければ帰るところでもない」

 

家族とは縁を切った。二度と顔を見たくない。

その気持ちは変わらないし、これからも変わることはないと思う。

 

ただ、それはそれとして椛にはやることがなかった。

自由な日々を謳歌して、明日のことなど考えず日銭を稼ぐ。

十年先はおろか一年先すら考えたことがない。

結婚して、子供を作って、幸せに暮らす、などと一般論を自分に重ねて見ても、どこかしっくり来なかった。

 

「やりたいことはないの?」

 

「ない」

 

「剣は? あなたそこそこ腕はいいでしょう」

 

「……そこそこ?」

 

その言い方が癪に障った。

椛はまだ成人もしていない若者ではあるが、野盗相手に何度か実戦は積んでいる。

数人からなる群れを相手に1人で対峙して苦戦したことはない。これのどこがそこそこだ、と内心鼻を高くする。

 

「剣か……」

 

内心の自負はともかく少し考えてみる。

そもそも私に特技はあっただろうか。答えは否だ。剣を除いては何も思いつかない。

手先は不器用で、人と接するのも苦手。職人にはなれまい。弟子入りすら難しそうだ。商人になったとしても、無駄に敵を増やして破滅する未来しか浮かばない。

 

仙の言う通り、剣の道を極めるのが一番いいかもしれない。

性に合っているし、旅を続けるなら目的があった方がいい。武者修行と言えば格好が付く。いっそのこと剣聖を目指してみるのも面白い。

 

「……剣聖にでもなってみるか」

 

「え?」

 

半分本気で半分冗談。

何も真剣に言っているわけではない。無意識に漏れ出た呟きに、しかし仙が過敏に反応した。

勢いよく振り向いて、ポカンとした表情で椛を見つめる。

 

「剣聖? 本気?」

 

「……少しだけだ」

 

「ちょっとは本気なの? どれくらい? これくらい?」

 

親指と人差し指で一寸にも満たない隙間を作られる。

その小ささは明らかに馬鹿にしている。椛は意趣返しに髪を引っ張った。

 

「いたぁいっ!!?」

 

「私が剣聖を目指すのがそんなにおかしいか」

 

いつつ、と頭を抑える仙を睨む。

その剣呑な雰囲気に、仙はついっと視線を逸らした。

 

「……おかしいかは、一先ずおいておきましょう。今いくつ?」

 

「13……いや14だ」

 

「剣はお祖母ちゃんに教わっただけかしら?」

 

「そうだ」

 

うーんと考え込んでしまった。

心ここにあらぬまま、「とりあえず、早く髪洗って」と片手間に指図され、椛はまた髪の毛を引っ張ろうかと大いに迷う。

番頭の視線を感じてすんでのところで留まった。遊んでいると思われては困る。手早く洗ってしまうことにした。

 

長すぎる髪を一束一束毛先から丁寧に洗っていく。

その間仙はずっと考え込み、久しぶりに口を開いた時には、洗髪にも終わりが見えていた。

 

「――――今の剣聖は剣聖になる前、15で戦場に出て功績を上げたそうよ」

 

「だからなんだ」

 

普通ならもう少し驚く所を、椛に関しては不愛想にそう言うだけだった。

まったく感じ入ることはない、と言う態を横目に流し見て、仙は言葉を変える。

 

「それこそ物心ついた時から修行していたそうだから、今から目指すならよっぽど努力しなきゃ無理ね」

 

「そうか」

 

そちらの方が椛にとっては分かりやすい。

剣聖と椛の違いは大きい。お前には無理だと遠回しに告げたとも考えられる。

まあそうだろうなと椛は軽く受け止めた。

 

何も本気で言ったわけではない。ただ目標があった方が捗ると言うだけだ。

そもそも剣聖は西の仕組みなわけで、東生まれの人間がなれるはずもない。国王が許さないだろう。拝んだことすらない王だが、東を憎んでいるのは誰もが知っている。

 

それを思えば、あまりに馬鹿馬鹿しい目標だった。我ながら笑ってしまう。

 

「終わったぞ」

 

髪を洗い終えた椛は最後に余った湯を頭から被せた。

仙は額に張り付いた前髪をかき上げ、椛に向かって人差し指を立てる。

「一つ提案なのだけど」と湯を滴らせながら言った。

 

「本気で強くなりたいなら、紹介してあげてもいいわよ」

 

「何の話だ」

 

「私の先生に紹介してあげるわ。あなたのこと」

 

言われたことの意味を一拍考えた。

そう言えば、こいつは初めて会った時刀を差していた。

当初は飾りにしか見えなかったが、接してみると分かる物がある。特に体のつくりなどは見飽きるほど見てきた。

なるほど。確かにこの身体は――――そんなことを思いつつ、椛の口からは嫌味が飛び出した。

 

「学者にでも習っているのか?」

 

「剣術よ」

 

「冗談だろう。こんな髪で」

 

「ご不満かしら?」

 

仙の瞳に不穏な輝きが宿った。

他人を揶揄う時は際限なく揶揄うくせに、自分が揶揄われるとなると沸点が低い。

こういう顔をされると、竜の逆鱗に触れてしまったような気分になる。

 

「不満は、ない」

 

仙の腕は見た目以上に筋肉があった。

握ってみると弾力で押し返される。鍛えられていると分かる腕だ。

 

「……考えておこう」

 

「あら好感触」

 

予想外、と笑顔を浮かべて距離を詰めてくる仙を、椛は鬱陶しく思って押し戻す。

 

剣術を習うなど考えたこともなかった。

だが今の会話に思うところがある。気がつけば14だ。後一年で成人。いつの間にか多少の分別はつくようになり、将来のことを考えなければ、と思うようになっていた。

 

いつまでも放浪しているわけにもいかない。

手に職をつける必要がある。剣術家の門徒となれば、食い扶持ぐらいは稼げるだろうか。

 

そんなことを考えながら、椛は仙に「さっさと帰れ」と無下に言うのだった。

 



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27話

仙は来るたびに知り合いを増やした。どういう手管を使っているのか。そういうことが得意な奴だった。

いつの間にか、番頭や常連客、他の従業員とは私以上に懇意になっていた。

たまに番頭と徹夜で酒を飲み交わし、朝一で風呂に入り、私に背中を流させて帰って行くこともあったぐらいだ。一体何なのやら。

 

その間、仙は私が選ぶのを待っていたようだ。

西に行くのか剣を習うのか。私は答えを出さないままずるずると引き延ばし、気が付けば春を迎えようとしていた。

さすがにこれ以上は、と言う時期になってようやく選んだ。西に行くことにした。

 

『え、西?』

 

思った以上に仙は驚いた。

てっきり剣を習う方を選ぶと思っていたのだろう。

私自身、そうしたいと思う気持ちの方が強かったが、それを素直に認められなかった。

 

一度決めたことを翻意するのは格好悪いと言う見栄だ。

子供と言うのは得てしてそういう物だろう。格好つけることの意味を勘違いしている。外聞を取り繕っても中身が伴っていなくては意味がない。いや、場合によっては外聞などどうでもいいのかもしれない。そのことに気づくのに随分とかかってしまった。遅すぎた。……お前にはいらぬ説教か。

 

とにかく西に行くことにした。

雪の代わりに雨が降り、積もった雪も融け始めていた。

早いところでは故郷に帰る者も出始めていた。番頭に私もそろそろ行くと伝え、別れの日がやって来る。

挨拶もほどほどに荷物を持って店を出た。深い仲になった者はいないから、あっさりしたものだ。

もしかしたら、仙が店の前で私を待ち伏せているのを知っていたのかもしれない。

 

『自分の気持ちに素直になれない子には説教よ』

 

その頃、出会って半年と経っていなかったが、奴には私の心が透けて見えていたようだ。

決闘を申し込まれ、受けて立った。私が勝てば西へ行く。仙が勝てば言う通りにする。

その条件で刀をとった。

 

結果は奴の勝ちだ。

勝負にもならなかった。鍔迫り合いもしていない。

私が抜こうとした時には仙は抜き終わり、喉元に突き付けていた。

 

そこそこ腕は立つのだろうと思っていたが、まさかあそこまでとは。

私と奴の間には壁があった。一生越えられない大きな壁だ。何度生まれ変わっても追いつくは叶いそうにない。

 

『私の勝ちだけど、選ばせてあげる。来るか行くか、あなたの意思で選びなさい』

 

刀を鞘にしまいながら仙はそう言った。

負けた身空で贅沢な話だったが、私には再び選択肢が与えられた。

 

見栄も誇りもへし折られた直後だったから、余計な感情を抜きにして考えられた。

私に必要だったのは切っ掛けだ。誰かに背中を押して欲しかった。本当にしたいことをしたいとも言えない、どうしようもない人間だ。仙などよりよほど迷惑な人間だろう。

 

私は選んだ。

すったもんだあったが、西には行かずに仙と共に行くことにした。

そのことを口にした時、胸に溜まっていたわだかまりが一気になくなった気がした。

自分に素直になったのだから当然だな。

 

『自分で選んだのだから、後悔しちゃだめよ』

 

仙にはしつこく念を押された。

自分自身をも偽る人間は信用されなくて当然だ。だが翻意する気はなかった。本心から望んでいた。仙の先生とやらに弟子入りすることを。

 

先生の住処はほど近かった。

湯屋から歩いて10分ほどだ。街の中心部から少し外れた場所に、大きな道場があった。

 

『なんだい、どんなのが来るかと思えば、まだまだひよっこだねえ』

 

前もって話は通していたらしい。出会った瞬間、その人は私に向けてそう言った。

 

剣の師匠だと言うその人は東の人間ではなかった。

黄色い髪は西の人間の証だ。だと言うのに東の服を着て胸元を肌蹴させている。サラシが見えた。全体的にあまり似合っていなかった。

 

ひよっこだと言われていい気分はしない。当時の私は見栄っ張りで傲慢だった。だが正しい評価だっただろう。

私は自分で思っている以上に未熟で青臭かった。すぐにそれが分かった。

 

『一応腕を見させてもらおうかね。どこからでもかかってきな』

 

抜く素振りも見せないその人に、何の遠慮もなく斬りかかる。心の中で嘗めてかかっていただけに、容易く躱されたのは驚いた。

そして腹を蹴られた。吐き気と共に膝をついた。

 

その人は無防備な私の後頭部に手を置き、ぐりぐりと力を込める。

 

『この程度かい?』

 

侮辱されたと思った。怒りでカッと熱くなり、吐き気など忘れて立ち上がった。

渾身の斬りかかりはまたもや容易く躱された。何度繰り返しても躱される。そのたびに蹴られた。全く相手にならない。

 

立てなくなるまで蹴られ、その人は汗一つ掻かずに私を見下ろす。

私の動きに良いところなど何もなかった。何一つ見せられたとは思わない。幸運なことに、お眼鏡にはかなったようだ。

 

『……ま、いいや。じゃあ最後だ。あと一回かかってきな』

 

苦心して立ち上がる。

やれやれと肩をすくめるその人に、嫌々ながら斬りかかった。

 

『遅いねえ……遅い遅い』

 

緩慢すぎる私に向け、初めて刀が抜かれた。

速すぎる振り下ろしを前に反応もできずに立ち尽くした。

 

『私の弟子になるのなら、その程度の腕で刀持ってちゃいけないねえ』

 

何かが床を転がる音がした。

視線を下に向けると、半ばで切断された刀がある。

斬鉄と言う言葉があるが、つまりはそれだ。

 

それまでは刀で刀を斬る芸当などお伽噺に近しいと思っていた。

仮に出来るとするなら伝説の英雄か、はたまた人外の怪物か。どちらにせよ人間離れした芸当だ。そんなものを見せられ、もう一度立ち向かう気には到底なれない。

 

次元が違う。勝てる勝てないなどと言葉にするのもおこがましい。

一生かけて足下にも及ばないだろう。それほど実力差は歴然としていた。

野盗を数人返り討ちにした程度で誇らしくしていた自分がどれほど滑稽なことだったか。

 

呆然とする私に向けて、仙は言った。

 

『ね? 剣聖って凄いでしょう?』

 

まったく寝耳に水だが、見せつけられたものを考えれば疑いの余地はない。

剣聖になるなんて、冗談でも二度と口にする気にはならなかった。

 

晴れて剣聖に認められ弟子となり、仙にとっては妹弟子となった。

仙は喜んでいた。それまでは仙が末弟子だったが、私が弟子になったことで序列が一つ上がった。弄る相手が出来たことが嬉しかったらしい。

 

弟子は他にも数人いた。全て西の人間だったが、どれこれも癖の強い人たちだった。

剣聖を神のごとく崇拝している人がいれば、不真面目で男遊びばかりする人もいた。

剣聖自身が酒好きだったから、その辺りの規律は緩かった。たまに巻き込まれて花街……に、連れていかれた。

……花街は知っているのか? 知っているのか……どこで知った? ……まあ、いい。

 

話を戻す。

どちらの姉弟子も強かった。実力では2番と3番だろう。私は1番下だ。そして、1番強かったのは仙だった。

当時ですでに剣聖と伍する実力だった。弟子たちの中で唯一三の太刀が使えた。他の弟子は皆使えなかったと言うのに。

剣聖と仙。どちらが上か確かめるためには、命を懸けてやり合わなければいけなかっただろう。傍目にはそれほど拮抗しているように思えた。

 

将来は仙が剣聖になるのだろうと思っていた。

姉弟子たちも、恐らくは剣聖本人もそう思っていたはずだ。

 

その未来を疑わなかった。

こうして私ごときが剣聖を名乗る日が来るとは夢にも思わなかった。

 

思い描いていた未来が夢と終わったのは、私が16のころだ。

その日、師が珍しいものを手に入れてきた。黒刀と言う刀身の黒い刀だ。

直接的な関係はないが、あれが全ての始まりだったと思う。

色のついた刀。そんな不思議な物がこの世界にはある。その中でも取り分けて摩訶不思議な力が宿った刀を、海の向こうでは妖刀と呼ぶらしい。

 

当時は知らなかった。

人は知らないことの方が多い。もし知っていれば、あんなことにはならなかっただろうか。

時々考える。私の人生は後悔が多い。今更何を言っても過去のことだが。考えるのは勝手だろう。

 

 

 

 

 

 

 

「あら珍しい」

 

それを一目見た瞬間、仙が驚きに口を開く。

仙以外に集まった弟子たちも、それに目を奪われていた。

 

視線の先。剣聖の手元には一本の刀が置かれ、皆がそれを見に集まっていた。

切っ先から根元まで、吸い込まれそうな漆黒に染まった刀は、見る者を魅了する美しさがあった。

 

あれは刀だろうか。

でも黒いぞ。

食いもんじゃねえか。

そんなわけないだろ黙っていろ。

なんだやんのか。

ああやってやる。

 

好き勝手に言い散らかす弟子たち。

それを遥かに凌ぐ大声が剣聖の口から迸る。

 

「さすが! わかるかい、セン!」

 

「もちろんよ。東の生まれですもの。良い刀には目がないわ」

 

「私もだよ! 西の生まれだけどね!」

 

上機嫌に高笑う剣聖と、うふふと上品に笑う仙が対照的になっている。

椛の師にして先代の剣聖は収集家であった。興味が引かれる物があれば何でも集めた。

一見ガラクタにしか見えなくても、その時の気分で購入し、後になってどうしてこんなものを買ったんだと首を傾げることが多々あった。

 

熱しやすく冷めやすい剣聖であったが、そんな彼女が十数年興味をひかれ続けているものがある。

それが刀だ。刀のこととなれば見境がない。珍しい刀の噂を聞けばすっ飛んでいく。

自室に並ぶコレクションの数々は壮観であったが、いい加減片付けろと弟子が苦言を呈するほど雑然としてもいた。

 

今宵、大事そうに小脇に抱えて持って帰ってきた黒刀は、雑然とした室内を更に飾り付ける新しいコレクションである。

 

「師よ。これはどこで手に入れたのですか」

 

「鍛刀地って言ったかね。これ以外にもたくさん刀があってねえ。目が滑って仕方がなかった。全部奪ってくればよかったよ」

 

言っている内容はともかく、剣聖の瞳は子供のように輝いていた。

剣聖にとって、そこはさながら宝部屋の様な光景だったらしい。

 

椛にしてみれば鍛刀地と言う地名の方に心惹かれた。東生まれであるが、今まで一度も聞いたことのない名である。

 

頭の中にぼんやりとした地図が浮かぶ。訪れた所も多い。

しかし皆目見当が付かなかった。刀を打つなら水が豊富なところだろう。それでいて材料が手に入りやすければなおいいか。

交通の要所且つ水も豊富。ある程度場所は絞れるが、決定的な物はない。

 

「珍しい刀がたくさんあるって言うから苦労して見つけたはいいが、収穫はこれだけさ。苦労に見合うかはちょっと怪しいねえ」

 

「例の探し物はありませんでしたか」

 

「なかったよ。色のついた刀は」

 

剣聖にはずっと探している物がある。

刀身に色が付いた刀だ。いわく、藤色とか。

 

そんな刀、椛は見たことがない。そもそも色の付いた刀と言う時点で疑わしい。

刀と言えば鋼色。物によって微妙な違いはあるかもしれないが、おおよそ同じ色として括れる程度の差でしかない。

藤色なんて奇抜な刀、実在するなら噂ぐらいは耳にしてよさそうだ。だが東の地を放浪していた間、椛は一度も耳にしたことはない。

 

「本当にそんなものがあるんですか」

 

「あるともさ。この目でしかと見たんだ。あんたも一度見たらわかる。あんなもの、一度見たら忘れられない。戦争の真っただ中で、瞼の裏に血の色が焼き付いていようが関係なくね」

 

椛の疑わし気な眼差しなど物ともせず、剣聖は断言した。

そこまで言われては、これ以上疑問を呈するのは憚られる。そもそもないと断言できるものでもない。こうして黒い刀はあったのだ。全く毛色の違う色ではあるが、あると言うのならあるのかもしれない。

剣聖はこれからも探し続けるだろうし、いつか本当に見られるかもしれない。

 

そのようにして、椛が自分の中で一先ず納得し、黒い刀を手に入れた記念と称して宴会が行われた。

浴びるように酒を飲み交わし、近隣の家々に突撃して宴会仲間を増やす迷惑行為に走ってから、数日後のことである。

宴会の騒ぎに乗じて忽然と姿を消していた仙がひょっこり戻って来た。

 

皆が朝食を食べ終わり、鍛錬に励んだ身体が温まってきた頃である。

今までどこに行っていたのかと尋ねる姉弟子を無視し、仙は古びた鞘袋を掲げて言った。

 

「藤色の刀を見つけてきたわ」

 

思いもよらぬ言葉に皆が口を閉じた。

滅多なことでは驚かない姉弟子でさえも仙を見つめて言葉をなくす。

その中で唯一平静を保っていた剣聖が、皆の気持ちを代弁して尋ねた。

 

「セン」

 

「なに? 先生」

 

「今なんて言った?」

 

「藤色の刀を見つけたわ」

 

「それは本当かい?」

 

「本当よ」

 

次の瞬間、弟子たちが我に返り口々に質問を浴びせかけた。

仙は困った顔をして、「落ち着いて」と皆を宥めてから話を続ける。

 

「風の噂を耳にして、嘘か真かと行ってみたら真だったのよ。譲ってくれって言ったら、二つ返事で了承してくれたわ。さすがは先生。剣聖の名前は伊達じゃないわね」

 

淡々と事情を説明していく仙は微笑んでいる。ただしいつもと違ってその笑みには影があった。

何か隠しているような気がした。椛は何となくそう思う。

 

剣聖も同じ気持ちを抱いたのか、しばし仙を無言で見つめた。

無言の圧力を受け、視線を逸らす仙には何かがある。その手は無意識の内に鞘袋を撫でている。

 

しばらく見つめて言葉はなかった。

何も言うつもりがないのなら今は聞くまい。

剣聖は話を進める方を選んだ。

 

「それで、持ち主は?」

 

「ただのお婆ちゃん。偶々手に入れたと言っていたわ」

 

「戦争には?」

 

「出てないって」

 

「そうか」

 

当てが外れた、と剣聖は落胆する。

世にも珍しいあの刀を探せば、自ずとあの剣士に会えると思っていたが……。

まあ、いい。別の方法を探そう。

 

瞬時に切り替え、「よしっそれでは!」と目の前の宝物に食いつきに行く。

 

「藤色の刀って言ったね? それがそうかい?」

 

「ええ。これが――――」

 

慎重な手つきで布から取り出された刀は、鞘袋同様古びていた。

鞘はボロボロで柄糸は擦り減っている。よほど古い刀だと一見して分かる。

 

「――――藤色の刀」

 

皆の視線が集中する中、仙は手の中のそれを一拍見つめ、剣聖に差し出した。

 

「欲しかったのでしょう? あげるわ」

 

「弟子に恵まれるほど落ちぶれちゃいないよ」

 

年長者には意地がある。本心を押し隠す剣聖。視線は絶えず刀に向けられているので隠せていない。

欲しくて仕方がないくせに、と仙は苦笑した。

 

「あげるわ。私の物ではないもの」

 

「じゃあ誰のものなんだい」

 

「さあ? きっと刀が選ぶのではなくて?」

 

怪訝な視線を集め、意に介さず「さ、先生」と促した。

剣聖は何度か躊躇する素振りを見せ、結局は刀を受け取った。

長年の間積み重ねた執着心と、実物かどうかこの目で確かめたいと言う欲望は押し殺せなかった。

 

刀から目を離さないまま言う。

 

「そのお婆ちゃんとやらに、礼を言いに行く必要があるね」

 

「……そうね」

 

仙はまたもや視線を逸らした。答えには一瞬の間があった。

一連の行動を怪しんだ椛が仙を見て、その視線に気づいた仙が椛を見返す。

微笑みの奥に隠された感情の正体は依然として分からない。

 

剣聖が大声を発し、視線が外れる。

 

「よし、お前たちよく見ておきな! これが藤色の刀だよ!」

 

弟子たちに見せびらかすようにして、胸の前で刀が抜かれていった。

少しずつ見えてきた刀身は、何度も何度も剣聖が言っていた通りの藤色だった。

道場に差し込む日光を反射させ、妖しいほど輝いて見える。

 

弟子たちはその光景を噛り付いて見ていた。

目が離せない。強烈に魅せられている。

弟子たちも、椛も。剣聖でさえ例外ではなかった。

 

やがて抜き放たれた刀は、金属の擦れる音を一度だけ奏でた。

露わになった刀身に傷はなく、鏡のような刀身が周囲を映し出す。

 

剣聖も、弟子たちも、微動だにせず刀を見つめた。

段々と意識が遠のいていく。視界が狭まり暗がりへと落ちていく。だが視線は外さない。

 

何がどうなったのか考える暇もないまま、椛の記憶はそこで一度途切れた。

 



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28話

目が覚めた、と思った。私は一体何をしていた、とほんの一瞬考えた。

考えを巡らせる暇もなく、強烈な飢餓感と喉の渇きに襲われて、何を顧みることなく走った。

 

本能の赴くまま母屋へ至り、汲んであった水を飲み干し、手近な物を口に放り込む。

手あたり次第、手の届く物すべて。

腐っているとか生だとか、そもそも食べ物ではないとか、気にする余裕はなかった。

何度も何度も咀嚼し、何度も何度も飲み込んで、ようやく落ち着いた。

 

口の周りが粘ついて不愉快だ。飲み零した水を衣服にひっかけている。

最悪の気分だった。夢から覚めた直後、粗相を見つけたような気分だ。

 

土間に座り込んで、一体何がどうしてこうなったのか考える。

直前までの記憶がない。襲い来るのは倦怠感と疲労感。頭には靄がかかっている。混乱の極みだ。

腹が減っている理由も喉が渇いている理由も、何も思い出せない。

 

私は暗闇の中にいた。日は完全に沈んでいた。

まだ昼前だったはずだ。いつの間に暗くなったのか。そもそも今の時間は?

そんなことも分からない。時間の感覚が失われている。どこか壊れてしまったのかもしれない。

 

指先一つ動かすのも億劫だったが、心を奮い立たせて立ち上がる。

母屋に人の気配はなかった。師や姉弟子たちの姿がどこにもない。

 

ひょっとして、と思い道場に引き返す。

来る途中、通ったはずの道は暗闇に包まれている。明かり一つない中を記憶を頼りに手探りで進む。

 

道場の戸は開けっ放しだった。

明かりは点いてなかったが、暗闇の中に複数の人影があった。

それが姉弟子たちなのは直感で分かった。

 

何をしているのか、とその場で問いかけたが誰も答えない。

何度か呼んだが一切返事がなかった。

 

そこにいるのは間違いない。応えられない理由があるのか。

確かめるために中に入る必要があったが躊躇した。なぜだかとても恐ろしかった。入ったら最後、恐ろしいものに出会ってしまう気がしてならなかった。怪物の巣を目の前にしたような気持ちだ。

 

しかし入らないわけにもいかない。そこに答えがあるのは分かり切っている。剣聖の弟子ともあろう者が、たかだか暗闇に臆するなど外聞が悪いことこの上ない。

 

慎重に進んだ。足音を立てない様に、一歩一歩確実に。

 

暗闇の中、顔が見えるところまで近づいた。

姉弟子たちが輪を組んで座っていた。輪の中には師と仙も居た。皆中央を見て座っている。

中央には刀があった。藤色の刀が暗闇の中でもくっきり見える。

 

それを見た瞬間、記憶が蘇った。

刀を持ってきた仙。それを抜いた師。

皆でそれを見ていた。目が離せなくなって、何も考えられなくなり、意識が遠のいた。

 

最後の記憶はそれだけだ。

それを思い出したところで、その状況を説明しきれない。

当時は何が起きているのか分からなかった。混乱の治まらぬ内に行動に移してしまった。愚かなことだ。考えることを放棄したのだ。もっと冷静になりさえすれば、他の手段を思いつけただろうに。

 

今でもよく夢に見る。皆の痩せこけた顔と微睡んでいるような瞳。

後になって、私は一つの推論を立てた。憶測と言っていい。

 

恐らく、私たちは何日もそうしていたのではないだろうか。

何日間も、飲まず食わずで、言葉を発さず、微動だにせず。ずっと、刀を見続けていた。

そう考えれば異常な飢餓感にも説明が付く。確証などない。だがそれ以外に考えつかない。

 

正気に返るまで、私もその輪の一員だったのだろう。

なぜか私だけ抜け出せた。意識を取り戻すことができた。

幸運だった。とにかく、他の者たちの目を覚まさせなければいけない。そう思った。

 

姉弟子の一人に声をかけ肩を揺する。

反応はない。強く揺さぶって、頬を叩いてもみたが同じことだった。

 

どうにか出来ないかと考えて、視界を塞いでみることにした。

片腕で目を塞いで、もう片方の腕で羽交い絞めにする。そのまま刀から遠ざければ何とかなると思った。

 

やってみたら、今度はすぐ反応があった。暴れ出した。人間とは思えない力で。

振りほどかれ、自前の刀を抜かれた。私は逃げ出した。

 

道場を飛び出し、しばらく走って後ろを振り向く。

追って来ていなかった。恐る恐る戻って中を覗くと、その姉弟子は輪の中に戻っていた。何事もなかったように。

 

他の手段を探した。時間がないことは分かっていた。とにかく何とかしなければいけなかった。

あれやこれやと試しては刀を抜かれ、一つ潰える。

ない頭を振り絞り、穏便なやり方を試し続けた。全て失敗し、ついに夜が明け始める。日の出とともに一人倒れた。

慌てて駆け寄ると息をしていなかった。死んでいた。

 

もはやなりふり構っていられなくなった。

穏便などと言っている内に人が死ぬ。手段は問わない。何としてでも正気に返ってもらわなければ。

 

暴れて刀を抜くと言うのなら、こちらも刀が必要だ。

獣のように暴れるだけなら、私ごときでも取り押さえられるかもしれない。

藁に縋る思いで刀を手に取り、一人ずつ試していった。

 

結果は無残だった。

正気を失っていても強い者は強い。自分の身を守るので手一杯だった。目を覚まさせると言う目的は吹っ飛んでしまった。

ふとした拍子に一人斬り殺してしまった。その時、私の中で何かが音を立てて壊れた気がした。

 

二人目を斬り殺し、三人、四人と殺していき、我に返った時には全員殺していた。

姉弟子たちの死体が足元に転がり、その中には仙もいた。仙は刀を抜いていなかった。

 

最後に師だけが残った。

私は全身血塗れで、切っ先から血を滴らせながら師に声をかけた。肩を揺さぶって、懇願した。

どうか、正気に戻ってくださいと。

 

師は答えなかった。藤色の刀を手に取って立ち上がった。

切っ先を向けられ、殺気を浴びて、覚悟した。私はここで死ぬのだと。

 

そこから、また記憶が曖昧になる。

無我夢中で戦った。死は覚悟したつもりだったが死にたくなかった。

 

いずれ死ぬのは分かっていた。剣士なのだから、人より早く死ぬだろう。

いつ死んでも良いように、腹はくくったつもりだった。

 

だが、死に直面して分かった。

覚悟なんて言葉にすれば簡単だが、実際は生半可なことではない。

腹をくくったつもりでくくれていなかった。私はみっともなく取り乱し生に縋りついた。生きたかった。何が何でも。

 

取り乱して、必死になって、無様に刀を振ったのだろう。もしかしたら、泣き喚いたかもしれない。

そんな状況で、何がどうなってそうなったのか分からないが、気が付いた時には師は倒れていた。腕が斬り落とされ、苦痛に悶えていた。

 

正気を失っていたとしても、全力には程遠かったとしても、私は勝った。勝ってしまった。あの、剣聖に。

 

『ナギ……今からあんたが剣聖だ』

 

正気に戻った師が私に告げた。

その日から、私は剣聖になった。

 

 

 

 

 

 

「それで、その後はどうしたんですか」

 

母上の語った過去は理解を超えていた。妖刀なんて代物、本来なら一笑に付したいところだが、こんな話を真顔で語られては信じないわけにもいかない。

その手で仲間を殺した母上の気持ちを慮るに、言葉をかけるのも躊躇われる。

だがそれと同じだけ確認しなければいけないことが多い。心を鬼にして、すぐさま口を挟んだ。

 

「一刻も早く刀をどうにかする必要があった。またいつ正気を失わないとも限らない。紐でがんじがらめにし、重しを付けて海に捨てた」

 

「……そうですか」

 

母上の腰にある刀に視線を移す。

赤い刀。色つきの刀。……妖刀。

 

「私が海に出ている間に、姉弟子たちの死体は師がなんとかしたようだ。近隣の手を借りて墓地に埋めていた」

 

「よく手を借りられましたね。触るのも嫌だったと思いますが」

 

「強い挑戦者にやられたと言ったらしい。実際、剣聖は戦いを挑まれることがよくあった。それは知れ渡っていたから、何の問題もなかっただろう」

 

その際の光景を思い出したのか、母上は深いため息を吐いた。

強い疲労感が滲んでいる。そんな姿を見るのは初めてだ。

 

そんなに辛いのならもういいですよ、と言いかけて無理やり口を閉ざす。

今やめたところで後で聞くことになる。気になることが多すぎる。時間が経てば経つほど痛みは増すだろう。

 

「師と別れた私は武者修行の旅に出た。強くなる必要があった。剣聖を名乗るには弱すぎた。ろくに『太刀』も扱えないのでは話にならない。剣聖の座を簡単に明け渡しては師の顔に泥を塗ってしまう。仙や姉弟子たちも浮かばれない。そう思って、がむしゃらに修行した。勝つためには手段は問わなかった」

 

そこで一旦口をつぐみ、言い辛そうな雰囲気を醸し出す。

チラリと俺の顔を見た。暗い光の宿った瞳には罪悪感と後悔が渦巻いていた。

 

「以前話した通り、剣聖になるには絶対的な強さか国王の認定が必要だ。私に強さはない。そして国王も、私を剣聖とは認めなかった。東の蛮族風情が剣聖を名乗るなど言語道断というわけだ」

 

「なんか実際そう言われたりしたんですか?」

 

「そう言っていた」

 

さらっと言った。

王様と縁があるらしい。剣聖ともなるとそう言う機会があるのかもしれない。名誉勲章でも授与されるのかな。

 

「国王は私を殺そうと躍起になった。腕の立つ者に片っ端から声をかけ、私を殺すよう命じた。私を殺せば剣聖だ。さらに国王から褒美として莫大な金が出る。剣聖の名を引っ提げていようと、噂の一つも聞かない小娘の首一つ取るだけでいい。乗らないわけがない」

 

「でも片っ端から返り討ちだったんでしょう。前に聞きました」

 

「今までの話を聞いて、どのように返り討ちにしたのか疑問には思わないのか。私ごとき、『太刀』すら使えなかった弱者がどのように勝ち続けたのか。運だけではどうしようもないことは分かり切っているだろう」

 

嫌な感じがする。

先ほど気になることを言っていた。母上には決して似つかわしくない単語だった。

 

「手段は問わなかったと言いましたね」

 

「そうだ。手段は問わなかった。私も、奴らも」

 

「……奴ら?」

 

「欲に支配された人間はどのような手も使う。寝込みを襲うのは当たり前だ。巻き込まれる人間にすら気を配らん。極めつけは人質だ」

 

ふっと自虐的に笑う母上は、空元気を振り絞って声の調子を上げた。

そうしないと向き合えないのだろう。自分の過ちに対して。

 

「人質をとった人間が目の前にいる。人質はその場に居合わせただけの赤の他人だ。そいつは私に死ねと言った。お前ならどうする」

 

「三の太刀で腕をぶった切って無力化します」

 

「……お前なら本当にやれそうだ。だが私は三の太刀が使えなかった。足も速くないし助けも借りられない。人質を救う手段がないが、死ぬわけにはいかない。ならばやることは一つだ」

 

想像は付いた。

聞きたくなかったが、ここまで来たなら聞くしかない。教えろと言ったのは俺だ。

目を閉じて母上の声を待つ。暗闇の中、一瞬の時が数分にも数十分にも感じられた。

それも過ぎて見れば錯覚だと分かる。間を開けずに母上は言った。

 

「人質ごと斬った。それしかないと己に言い聞かせながら」

 

知らず、奥歯を噛みしめていた。

予想通りではあったが、実際に聞くと衝撃を受ける。

 

「人質を取る方が悪いでしょう。関係ない人を巻き込んだのはそっちだ」

 

「いや。人質を救うことも出来ない人間が剣聖を名乗るべきではない。悪いのは私だ」

 

母上は俺の言葉を受け入れなかった。

自罰的だ。その考え方でよく今まで生きてこれたなと思うほどに。

 

「巻き込まれる人間を気にする余裕はなかった。襲い掛かって来た一人を殺すために、十人斬ることさえあった。そうして多くの死線を潜り、私は強くなった。『太刀』を使えるようにもなった。お前は以前言ったな。流石ですと。これを聞いてまだ言えるか。その言葉が」

 

「……」

 

言えなかった。言えるはずがない。

俺を見つめる母上の目は震えていた。これまで胸の奥に隠していた感情が溢れ出している。

見た目ほど強くないことは知っていたが、これほど弱い人だとは思わなかった。

 

「――――まだあるぞ。私の過ちは」

 

「何でしょう」

 

「お前たちを身籠ったことだ」

 

俺の訝し気な視線に耐えられなかったのか、母上は片方の掌で自分の顔を覆った。そのまま俯いてしまう。

 

「普通、剣聖は子供を作らない。結婚もしない。師はそうだった。その前の剣聖もそうだったと聞く。その理由は、お前ならわかるだろう」

 

「……守り切れないから」

 

「そうだ。大切な物は真っ先に狙われる。そして、大抵の場合は守れない。剣聖は万能ではない。家族への悪意を察知することはできない。出来るのは斬ることだけだ。守ることではない。だから家庭は持たない。普通はそうだ。普通なら」

 

普通は、と繰り返す母上は言外に自分は普通ではないと言っている。

普通ではないことが間違いだとは言わない。だが間違っていることもある。俺やアキが狙われた以上は間違っていたと言う結論になるのだろうか。

 

「それが分かっていて、母上はどうして結婚したんですか?」

 

「……」

 

「なぜですか?」

 

「……こんなことを言うと、失望されるだろうが」

 

躊躇と後悔の中、絞り出された声は掠れていた。だがはっきりと聞こえた。にも関わらず、聞き間違いかと思った。

 

「――――寂しかったんだ」

 

弱弱しくてか細い、吹けば飛びかねない少女のような声音。

聞き返そうとして、顔を上げた母上と目が合う。

覇気のない無気力な顔と真っ暗な瞳を目にして何も言えなくなる。

 

「祖母は小さいころに死んだ。母は師の元に厄介になってしばらくして死んだ。姉弟子達は私が殺し、唯一生き残った師は行方が知れない。家族も頼れる人もいなくなり、天涯孤独となって、来る日も来る日も命を狙われる。夜はろくに眠れず、人を巻き込みたくなくて出来るだけ一人でいた。剣聖であり続けることに固執し、生き恥を曝して生にしがみつく毎日だった。……ある時、ふと思った。私は何のために生きているのだろうと。そう思ったら、もう駄目だった。疲れてしまった。全てに」

 

我が母親ながら、なんと憐れな人だろうか。

聞いているだけで胸が苦しくなる。ただでさえ全身痛いのに、これ以上増やしてくるのか、この人は。

 

「そうして自棄になった私の前に、イーサンが現れた。あいつの自分の身を顧みない優しさに救われた。全てを知ってなお、受け入れてくれた。あいつのおかげで生きる気になれた。王と話をつけ剣聖として認めさせることが出来たし、故郷に戻ってくる気にもなれた。本当に感謝している」

 

辛い話の最中だったが唐突に惚気られた。途端に居心地が悪くなる。

母上が父上を口説き落としたと言うのもあながち嘘ではないのかもしれない。今は関係ない話だが。

 

「それで?」

 

「子供が欲しいと言ったのは私だ。イーサンは反対した。だが押し切った。私は欲深い女だ。足るを知らん。一度満たされるとそれ以上が欲しくなる。イーサンだけではダメだった。出来るだけ大勢の家族が欲しくなった」

 

「そう言いつつ俺とアキの二人だけですね」

 

「お前が猿に襲われた時に目が覚めたのだ。幸せに漬かって自分を見失っていた。過去の清算など出来ておらず、私自身は根本的に弱いままなのだと、ようやく思い出した」

 

血だらけになった俺はそれだけ衝撃的だったのか。

アキが斬られた時のことを思えば、その気持ちはよく分かる。

 

「私を恨んでいる人間は大勢いるだろう。手段を択ばず殺したいと考える人間もそれだけいるはずだ。なのにお前たちを生んだ。危険にさらすと分かっていながら」

 

最後に、母上はこれまで聞いた中で一番大きなため息を吐く。

 

「お前たちには本当にすまないと思っている。アキの怪我もお前の身体のことも、全て私の責任だ。私の向う見ずな行動が引き起こしたことだ」

 

静寂がやってきた。

話は終わったらしい。沈黙する母上は俺の言葉を待っている。

母上の気持ちは分かった。俺の怪我についてどう考えているのか知った。ついでに過去も聞けた。

なら、俺は俺のすべきことをするとしかない。

 

「よくわかりました。では母上ちょっとこちらに来てください」

 

「……分かった」

 

座ったままズリズリと近寄ってくる母上。

布団のすぐ隣までやって来る。そこでも十分近いが、俺は今満足に動けないのでもう少し近づいてもらいたい。

 

「もっと近く」

 

「……ああ」

 

「もっと」

 

「……」

 

「もっともっと」

 

「……まだ近づくのか?」

 

「枕元まで来て下さい」

 

何をされるのかと戦々恐々としている母上は、三十路のくせに年頃の少女のように見えた。ビクビクとおびえている姿は小動物っぽくてちょっと可愛い。

 

「……ここでいいか」

 

「いいですね。そこなら絶対外さない」

 

「……わかった……好きにしろ」

 

「もちろん好きにします」

 

母上は目を瞑った。

何をされようと覚悟の内らしい。

そんな母上めがけて、俺は飛び込んだ。

 

力を入れるのも身体を動かすのも痛かったが、そんな状態でも何とか縋りつくことが出来た。首からぶら下がっているような状態になる。

ちょっと無理をして母上を抱きしめ、その後頭部を撫でる。こうしてみると母上の身体は思いのほか大きい。俺が小さいだけかもしれないが。

 

「……何の真似だ」

 

「辛いことたくさんあったんですね。慰めてあげますよ」

 

頭を撫でながら耳元に優しい声で語りかける。

密着していると体温を感じる。俺よりも少し高いようだ。筋肉がたくさんあるからか。

今まで冷血漢のようなイメージを持っていたが、そんな物は当てにならないことをたった今思い知らされた。

 

「辛くて苦しくて悲しくて、幸せになりたかったんですよね。よくわかります」

 

「……離せ」

 

「子供だからって遠慮しないで。泣きたいなら泣いてもいいんですよ。おーよしよし」

 

「……」

 

力づくで無理矢理引き離そうとしてきたので、わざと声を上げて痛がってみる。

子煩悩な母上は咄嗟に力を緩め、俺を引き離すことは出来なかった。

 

「迷惑ですか? 嫌だっていうならやめますけど」

 

「……そんなことは」

 

「なら嬉しいですか?」

 

「……」

 

「実は幸せだったりしません?」

 

「……ああ、幸せだ」

 

幸せらしい。子供に抱き着かれるのがそんなに嬉しいのか。

今度から隙を見て引っ付いてやろう。

 

「じゃあ逆に俺は幸せだと思います?」

 

「……」

 

「どう思いますか」

 

「幸せなわけがない」

 

打って変わって、滑らかな口調で断言してきた。

理由を聞くと、理論整然と口を開く。

 

「六の太刀は限界以上の力を引き出す代わりに身体を内側から破壊する。外見は何ともないように見えても、中はズタズタだ。お前は今激痛に苛まれているはずだ」

 

「六の太刀にお詳しいようで」

 

「師の受け売りだ。過去、六の太刀を使った者は痛みに耐えきれずに自ら命を絶った。お前は今同じ痛みを感じている。幸せなはずがない」

 

「まあ、母上がどう思うのも勝手ですが、俺は今幸せです」

 

母上はぎょっとした。「嘘を吐くな」と口調に厳しさが宿る。

「嘘じゃないです」と否定しても、信じる気配はなかった。

 

「さっきの話ですが、母上は俺とアキを生んだことを間違っていたと言うんですか」

 

「お前たちは、生まれたその時から危険に曝されている。いつ何時命を狙われないとも限らない。普通の子供よりずっと可能性は高い。それは虐待と何が違う」

 

「父上はどうなんですか?」

 

「あれは自らの意思で選んだのだ。お前たちとは違う。子は親を選べない」

 

少しドキッとした。

前世で同じ言葉を聞いたことがある。……虐待か。

 

「確かに、母上の行いは他人から見たら間違いかもしれません。でもそれは所詮他人事ですし、好き勝手言えますから」

 

「……何が言いたい?」

 

「間違っているかどうか。決めるのは当事者である俺たちです。他人が間違っていると言うのなら、当事者である俺たちが正解に変えればいい」

 

言っている意味が分からないと、母上は眉をひそめた。

 

「これから先、父上とアキに振りかかる危険は全て俺が払います。それなら誰も文句は言えないはずです」

 

「……不可能だ」

 

「なぜ?」

 

「お前の身体は、治らない。一生そのままだ」

 

「受け売り以外何も知らない人がもう諦めてるんですか」

 

絶望を突き付けられたわけだが、ここまではっきり言われると妙な清々しさがある。

そんでもって、俺は母上のことをあまり信用していない。

 

「七の太刀って知ってますか?」

 

「……知らん。なんだそれは」

 

「母上の師匠が使ってきましたよ。おかげで死にかけた。すぐお返ししたからいいですけど」

 

会話に疲れたので母上の肩に顎を乗せる。

風呂に入ってる時、アキがよくこうしてくる。やってみて分かったがこれは楽だ。なんか落ち着く。

 

「間違ってる間違ってるって。さっきからずっと言ってるけど、それを聞かされてじゃあ俺にどうしろって言うんですか?」

 

「それは……」

 

「お前を生んだのは間違いだったって言われて、何も感じないわけないでしょう。それを聞かせて母上はどうしたかったんです? 楽になりたかった? 慰めてほしかった?」

 

「違う、私は……知るべきことを教えただけだ」

 

「生まなきゃよかったって言うのは必要なことでしたか?」

 

反論は続かない。

母上には未来がない。将来のヴィジョンが色あせている。

過去に縛られ過ぎて、未来を見る力がない。

 

「間違ってるのは分かりました。実際母上は間違った。それは間違いない。じゃあその先は? 間違った上でこの先どうする? 間違った過去を変えることなんて出来ない、この世の誰にも」

 

母上の肩から顎をどけ、面と向かってその言葉を吐いた。

心の奥底に隠していた感情があふれ出していく。

そのせいで、当初考えていた道筋と外れている。前世のことを思い出したおかげで感情的になってしまった。決して戻れない過去に恋々としているのは俺も同じだ。

 

声に勝手に力が入る。そのせいで痛みが増して呼吸が荒くなった。

母上の言った通り、この身体はボロボロだ。そんなことは分かっている。見据えるのはその先だ。

 

「母上はずっと過去を見てる。後ろ髪引かれて前を向いてない。後悔してるのは分かってる。未練があるのも、出来る事ならやり直したいって思う気持ちも、全部わかる! でも前を見ないと誰も報われない。死んだ人のために隣にいる人から目を背けんな! 俺もアキも父上も、まだみんな生きてるのに、間違った間違ったって嘆いてばっかでどうするんだよ! 間違っていようが一回選んだのなら最後まで全うしろよ!」

 

我ながら駄々をこねる子供のようだ。

出来ることなら母上の重荷を代わりに持ってあげたい。少し前の俺なら間違いなくそうしていた。

けれどもう背負えない。自分のことさえ何もできないかもしれない。

今まで折角頑張ったのに、また無力で無能になった。母上の話を聞いてこみ上げた感情や、胸に閉まっていた未練。その他色々な感情がごちゃ混ぜになって押し寄せて来る。もう自分でも止められない。

 

「……わかった。わかったから、泣くな」

 

「は? あれ……?」

 

行き場をなくした感情が、涙となって溢れ出していた。

こんなことで泣いている自分がみっともない。みっともなさすぎて余計泣けてくる。中身まで子供になってどうすると言うのか。

 

「お前の言いたいことは分かった。だが分からない。私は、何をすればいい?」

 

「……それぐらい自分で考えたらどうですか」

 

「わからないんだ。どうしたらいいか。何をするべきなのか。ずっと違う方を見ていたから」

 

「……やることは一つだけですよ。守ってください。アキと父上と、ついでに俺も」

 

「ああ……そうしよう」

 

「幸いにして、俺たちみんな生きてます。まだ間違ってません。間違ったなんて言わせません」

 

「……そうか」

 

「そうです。そのぐらいの意気でよろしくお願いします」

 

鼻をすすって母上を見る。

不本意なことに、母上は優しい顔で俺を見ていた。母親の顔だ。

脳裏に前世の記憶が蘇る。大昔過ぎてよく思い出せないが、母さんもこんな顔をしていた気がする。

どんな世界でも親と言うのは変わらないはずだ。そうであってほしい。

 

「もう一回言いますけど、俺は今幸せです。確かに身体は痛いですけど、我慢できない程じゃない」

 

「我慢、しているのか」

 

「男はいつだってやせ我慢する生き物なんです。背負うものが多いんだから。母上だってそうでしょう?」

 

「お前の価値観はどうなっている」

 

「頑張って適応しようとしてるんです」

 

余計なことを言っている自覚はあった。

これ以上話すのはダメだ。前世なんて単語がポロリと出てきてしまった時には始末に負えなくなる。

 

「……生きるには理由が必要だと思う。俺の信条ですが」

 

「刀を教えろと強請って来た時も同じことを言っていたな。お前はまだ5歳だったが」

 

「年はあまり関係ないでしょう。一貫してるってことですよ。……まあ、こんなことが生きる理由になるかはわかりませんが、一つだけはっきり言っておこうと思います。言えるうちに言っておきたい」

 

「なんだ」

 

「――――愛してる」

 

母上がきょとんとした顔で見つめて来る。

こんな言葉今まで一度だって使ったことはない。前世でも精々好きって言ったぐらいだ。

今更こっぱずかしくなってきた。大好きにしておいた方がよかったか?

 

「……顔が赤くなったな」

 

「うっ……」

 

「……恥ずかしいのか?」

 

「うぅ……」

 

「……可愛い奴だ」

 

「うぐぅっ……!」

 

恥ずかしすぎて死にそうだ。穴を掘って埋まりたいぐらい恥ずかしい。

 

穴の代わりに布団に隠れようとした俺を、今度は母上の方から抱きしめて来た。

それは労わるような力で、出来る限り優しい手つきだった。

 

「ありがとう」

 

耳朶を打つ声は震えている。

伝わる体温がやたらと熱かった。抱いていた恥ずかしさは潮が引くように消えていった。

 

「……母上は間違ったかもしれないけど、俺は本当に幸せなんです。アキも、父上だって幸せだと思います。だから後悔ばっかりしないでください。この気持ちを否定しないでください。悪いことばっかりじゃないんだから、前を向いて歩いてください」

 

「ああ、分かった……約束する。絶対に……」

 

母上は中々離してくれなかった。

どんな顔をしているのか俺からは見えなかったが、もしかしたら泣いていたかもしれない。

 

これで少しは前向きになってくれればと思う。

ちょっと怪我をしたぐらいで気に病まれても、俺の方が困ってしまう。

後遺症とかの問題は後で考えればいい。今はとにかく元気出して欲しい。

心の底からそう思う。




レン君の前世を飛ばしたので、レン君の言動が今一理解できないかもしれません。
後書きや前書きで解説してもいいんですが、とりあえずは解説なしで行きます。



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29話

Q:22話と28話が矛盾してませんか?
A:え。あ……。
 
と言うわけで、22話の該当箇所を修正しました。
最近はあまり読み返していないのでこういうミスは今後多発しそうです。

別の感想でも指摘されてますが、仙があっさり死んだことに対し少なからず不満を持つ方がいらっしゃるようです。
当初は別の仕事を果たして死ぬ予定だったのですが、展開がおかしいことに気づいたので今の感じになりました。かと言って、それで終わりと言う訳でもありません。

その他にもいろいろご指摘受けてますが、今後の展開に絡むため、明らかなミス以外にはお答えしていません。
逆に今回のような指摘を受けると、「早く前書きで言い訳しなきゃ!」と筆が進むためちょっと嬉しかったりします。

以前も書きましたが、感想にお返しはしていませんがしっかり読んでいます。
面白いと言ってくれる方がいればつまらないと仰る方もいて、どの感想も大変励みになっております。これからもよろしくお願いします。


人生で初めて人に愛していると告げた後、俺は布団に潜って頭まで毛布をかぶった。

母上の顔を見るのが恥ずかしかった。なんていうことを言ったんだと少し後悔していた。

 

しかし、これも全て自分の気持ちに正直になった結果だ。言うべきこと言ったのだと己に言い聞かせる。

前世では出来なかったことだ。アキがそうであるように、俺にも反抗期と言うものはあったのだ。

父子家庭で育ててくれた父さんを思い出し、ちょっと胸が痛む。……未練だ。

 

「……聞きたいことがあるのですが」

 

「なんだ」

 

気を取り直し、布団から顔を出して母上に尋ねる。

妖刀のことを知った今、知るべきことはたくさんあった。取り急ぎ、視界に映っている刀のことから聞いてみる。

 

「母上の刀は赤いですが。それひょっとして妖刀ですか?」

 

「恐らく違う」

 

「恐らく?」

 

心配になる一言が付いている。

言っている本人も自信なさげだ。

 

「勝手に赤くなるのだ。何本も変えてみたが、どれも数日で赤く染まった。今の所魅了されるようなことにはなっていないが、可能性はある」

 

「いつか効力が出てくるかもしれないと?」

 

「可能性はある」

 

「今すぐそれ捨ててください」

 

「私は剣聖だ」

 

剣聖に固執して半生を生きてきた人だ。

刀を捨てろと言っても簡単には応じない。と言うか捨てたくても捨てられないのかもしれない。剣聖って個人の意思でやめられるのだろうか。

 

「なんていうか、もしかして母上って呪われてるんじゃないですか?」

 

「……そうかもしれん」

 

俺の心ない一言で母上が気落ちした。

思いの外効いたらしい。姉弟子を筆頭に、呪われる覚えはたくさんあるのだろうし。

一先ず、母上の赤い刀のことは置いておくことにする。見た目からして不吉だし嫌な予感はあるのだが、分からないことは分からないとしか言えない。解決策は今のところない。

 

「あと、藤色の刀の件ですが」

 

「海に捨てた。今頃は朽ち果てているだろう」

 

今度は断言した。ちょっと早口なあたり、そうであってほしいという願望が入っている。

 

「そもそも朽ちるんですか。妖刀とやらは」

 

「……」

 

意地悪な質問をしてみた。母上は答えに困って口をつぐんだ。

分からないことは分からない。海に投げ入れたならば普通は錆びるが、妖刀なら錆びないかもしれない。

実際の所は引き揚げなければ分からないだろうが、それは現実味がない。海の底に沈んだ刀を探し当てるのは不可能に近い。

万に一つ誰かが引き揚げる可能性はあるが、所詮は可能性の話だ。そうならないことを祈ろう。

 

「刀の行方については考えないでおきましょう。聞きたいのは別のことです」

 

「なんだ」

 

「自警団の背中についてるやつ。あれ藤の紋ですが、実は藤色の刀と関係あったりしませんか?」

 

「……なぜ?」

 

眉根を寄せた母上が厳しい表情で理由を問う。

それは考えたこともなかったと言う顔ではない。考えないようにしていたことをほじくられた顔だ。

 

「ゲンさんが言ってました。ここ数年で自警団は変わったらしいです。変わった理由が妖刀なら納得できるんですが」

 

「あの刀は見ると餓死するまで魅了される。人そのものを変えるわけではない」

 

「違う妖刀の可能性もあります」

 

「憶測に過ぎん」

 

母上の言う通り、ただの憶測だ。

組織なんて所詮は人の集まりだ。切っ掛け一つでどうとでも変わるだろう。

 

なんでもかんでも妖刀に結びつけすぎだと言われればその通り。

ただ、どうしてもカオリさんの言葉を思い出してしまう。

 

『すっかり毒が回りきっていますので』

 

その一言が頭にこびりついて離れない。

毒とは何を示しているのか。邪推であれば良いのだが。

 

「もういいか」

 

「……はい。もういいです」

 

それも東に行けば分かるだろう。

本人に直接聞けば真意が分かる。しかしこの身体では難しい。

治る保証すらない。仮に治るとしても、この傷では最低数か月はかかってしまう。

カオリさんは死が近い。冬の間移動できないことを考えれば、二度と会えないことだってあり得る。機会を逃した。そんな気がする。

 

「では、私からもお前に伝えておくことがある」

 

「まだ何か?」

 

「私のことではなくお前のことだ」

 

母上が腕を組んで俺を見下ろす。

じっと見つめられてまた恥ずかしくなってくる。

ちょっと毛布を引き上げた。

 

「自覚があるかは知らないが、お前は師との戦いの後死んだ」

 

「生きてますが」

 

「いや、死んだ。そして生き返った」

 

前世のことを言われたのかと思った。

だが違う。戸惑いと疑惑が急速に膨れ上がる。

 

「呼吸が止まり心臓も止まった。間違いなく死んだ。それは源も確認している」

 

「……だから、生きてます」

 

「生き返ったのだ。私が戻って来た時には死んでいたが、程なく目を覚ました」

 

「ありえないでしょう。死人は生き返らない」

 

そう言いながら前世のことを思い出す。

一度死んだはずの俺が、なぜかこうして生きている。世界を変えて、人を変えて、二度目の人生を謳歌している。

人類が知らないだけで、死の後には次の人生が待っているのだろうか。

 

「疑うのも無理はない。だが事実だ。付け加えると、今回が初めてではない。以前猿に襲われた時も、お前は短時間だが呼吸を止めた。すぐに息を吹き返したが、死んでもおかしくない傷だった」

 

「は?」

 

そう言うのを軽々しく付け加えないでほしい。

実は5歳の時にも一度死んでいて、その時はすぐに生き返ったと言われても反応に困る。

 

困惑しながら可能性を模索する。

死んだ人間が生き返ると言うのは、俺の常識とは食い違っている。突き付けられた現実を説明できる何かを探して頭を回転させる。

 

「……仮死状態だった可能性は?」

 

「源も同じことを言っていた。可能性があるならそれだろうと」

 

じゃあそれだ。それ以外にありえない。

それで全て説明できる。説明できないのは、前世のことだけだ。

 

「仮死状態と言うのが何なのか私は知らない。お前が生き返った理由は誰にも分からん。突き詰めるつもりもない。どうでもいい。ゆえに、私が言うのはこれだけだ。――――よく戻った。お前は私の誇りだ」

 

最初は心底どうでも良さそうな口ぶりで、最後の言葉にだけ力が籠っていた。

本心からの言葉だと分かった。それを聞いて混乱が一気に治まる。どうでもいいと一言で片づけられて、その通りだと納得した。

分からないことは分からない。妖刀のことも生き返りのことも。今はそれでいいじゃないか。

 

「話が長くなった。疲れただろう。これを飲んで休め」

 

緑色の液体の詰まった小瓶を口元に差し出される。

受け取ろうとしたが「飲ませてやる」と手を退けられる。

そういうならと、お言葉に甘えて口を開けた。

 

ほんのわずかに傾けられた瓶から、液体が数滴口に入る。

舌に触れた瞬間、衝撃に襲われた。

 

「――――んぐっ!?」

 

たった一口飲んだだけでとんでもない苦みが襲い来た。

鼻に突き抜ける青臭さ。苦みに至っては脳天まで突き抜けるほど。

強烈なダブルパンチを受け、条件反射で吐き出そうとする。だが、すんでのところで母上に口を押さえつけられた。

 

「んん!?」

 

何をするのだと母上を睨む。母上は無表情で端的に述べた。

 

「飲め」

 

「んー!?」

 

「少し苦いだけの薬だ。飲み込め」

 

口を抑えられているので吐き出そうにも吐き出せず、クソ不味い液体はずっと口の中に溜まっている。

 

嫌なことを強いられ逃げることも許されない。まるで嬲られている気分だった。

飲み込もうとしても身体が拒否して中々飲めない。暴れても力で捻じ伏せられる。

 

「んー!? んー!?」

 

「飲まなければいつまでも苦しいままだぞ」

 

頭を振ったところでとりつく島もない。上から圧し掛かられているので抵抗できない。

飲む以外に選択肢がなかった。一生懸命飲んでいく。少しずつ飲み下し、吐き気は常に襲い来る。それにも耐えなければいけない。

 

何とか飲み干したころには、すっかり疲れ果てていた。

ズキズキと身体が痛い。視界は涙で霞み、口の端からは涎が垂れている。母上の掌にべっとり付いていた。

 

「うえ……おえっ……」

 

「ふむ」

 

吐き気に耐える俺を一顧だにせず、母上は小瓶に残った大半の薬を見つめ思案気な顔をする。

もう少し飲ませておくかと考えているのは一目でわかった。俺には懇願することしかできない。

 

「もうやだ……もうやめて……」

 

「……お前のそんな姿を見るのは珍しいな」

 

こんな不味いものを平然と飲み干せる奴は早々居るまい。

母上ぐらいではないだろうか。外面は平然と、中身はやせ我慢と言う具合に。

 

「……あれ。なんか、ねむくなってきた……」

 

良薬は口に苦しと言うが、これだけ苦い薬ならそれだけ効き目も抜群らしい。

たった一口飲んだだけで睡魔がやって来た。抗うのも馬鹿らしくなるほど強烈だ。……人体に害はないと言っていたが本当だろうか。

 

「今の程度で効いたのか。ならいいだろう」

 

「……ねむぃ」

 

「残った分は明日以降に回して飲め。一日も欠かすな」

 

平然と惨いことを言ってくる。

絶対飲みたくない。朧げな意識でもその意志だけは固い。

 

「それから、父と源のことは許してやれ」

 

「んん……?」

 

「生き返ったお前とどう接すればいいか分からないのだ。なにせ初めて目にすることだ。死者が生き返ると言うのは」

 

聞こえてはいるのだが、思考が曖昧だ。

暗闇と光の狭間を行ったり来たりしている。

このまま眠ってしまいたい。けれど母上はまだ言っている。父上とゲンさんのこと。

 

「お前が死んだ時、あの二人はとても悲しんだ。それは事実だ」

 

「……ぁぃ」

 

「……眠ったか」

 

まだ辛うじて起きてる。

だがもう眠る。間近にいる母上の気配すら感じ取れなくなり、意識は暗闇に吸い込まれて行く。

これなら夢すら見ずにぐっすりと眠れるだろう。意識を手放しながらそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

暗闇の中、たゆたう意識が刺激される。

小さく身体を揺さぶられ、声をかけられる。

 

「兄上」

 

まだ眠い。このままずっと眠っていたい。

呼びかける声を拒絶して、闇の中に沈み込もうとする。

 

「兄上」

 

けれど声の奥底に懇願する気配が感じられて、眠気がわずかに吹っ飛んだ。

この声の主は誰かと考える。考える間にもう一度聞こえて来た。

 

「兄上」

 

それで分かった。アキの声だ。同時に顔も思い浮かぶ。なぜか泣き顔だった。

アキが泣いているなら起きなければならない。

 

暗闇から浮かび上がり、光の方へ向かう。

安穏として心地よい睡魔を振り払い、苦しみばかりの現実へ帰還する。

 

「兄上ぇ……」

 

「……なに?」

 

いよいよもって泣きが入った声に応える。

目を開けるとすぐ横にアキはいた。相も変わらず同衾している。

アキははっとした顔で俺を見た。「え、起きたの?」と言う顔だった。

 

「おはよう」と挨拶をしたら「おはようございます」と小さく返事があった。

今度はちゃんと話が出来る状態らしい。

それだけ回復していると言うことだろうか。今度は脚で挟まれる心配はなさそうだ。

 

アキはおずおずと頬に触れて来る。

ぺたりと掌が添えられた。アキの手は暖かくて気持ちがよかった。

前も似たようなことをしていたが、恐らく体温を測っているのだろう。死者は冷たいから。

 

「兄上……また死んじゃうかと……」

 

「縁起でもない」

 

「でも、一日中寝てたし……」

 

心配の原因はそれか。

身体が休息を求めたのと、多分薬のせいもあるのだろう。すっかり寝入っていた。あの薬は味からして凄い。

 

「その薬飲んだらアキも一日寝れるぞ。すごく眠くなるから」

 

「へ?」とアキは周囲に目を配り、枕元に置いてあった小瓶を見つける。

親の仇を見るような目で睨んでいた。

 

「それより、身体の具合はどうだ? どこか痛くないか?」

 

「兄上こそどうですか?」

 

「俺は平気だよ」

 

「嘘です」

 

「本当だって」

 

まだ薬が効いているのか、今は全然痛くない。

その内痛くなってくるのは間違いないが、別に嘘ではない。今だけ平気。

 

「アキ」

 

「はい」

 

「この間のお返しだ」

 

「むぐっ」

 

前置きもなく、唐突にアキを抱きしめた。痛くない内にやっておきたかった。

これからは、気軽に触れ合うのも難しくなりそうだから。

 

アキは抱きしめられたままじっとしている。

お互いに相手の体温や鼓動を感じる。生きていると言うのがひしひし伝わってくる。

出来ることなら、ずっとこうしていたい。ずっとずっと。それこそ永遠に。

そんなこと出来るわけないと分かってはいるけれど、思うだけならタダだ。

 

「……兄上」

 

「ん?」

 

「死なないでください」

 

その言葉に目を丸くする。

死んだ人間がどういう訳か生き返ったのだ。心配は当然として、多少過保護にもなるだろう。

 

「死なないよ」

 

「今度は私が守ります」

 

腕で俺を押し戻し、少し距離を開けたアキは、横になったまま見つめて来る。

その目には確かな覚悟が宿っている。年に不釣り合いな覚悟だ。

 

「今度は足手まといになりません。絶対絶対、絶対に」

 

「アキ……」

 

「だから、兄上ももう無茶をしなくて大丈夫ですから。私が守りますから」

 

言葉にしても態度にしても、背伸びしているように見えた。

9歳の子供が人を守ろうとする姿は歪に思える。まだ守られる年齢だ。子供は守られてしかるべきだ。誰かを守る必要なんてない。

 

「今まで無茶したことなんてないよ。これからするつもりもない。だから、そんなに気負う必要はない」

 

「……兄上は嘘つきだ」

 

「嘘なんてついてない」

 

「嘘つき嘘つき、嘘つき」

 

繰り返されると何も言えなくなる。

嘘で飾られた人生を指摘された気分になった。

 

「守るから。私が絶対に守るから」

 

「アキ」

 

「守る守る守る。守る」

 

アキは同じ言葉を何度も繰り返した。

覚悟の表れだろうか。その行為が酷く不安を煽る。

 

守ると言うが、それは母上の責任だ。わざわざアキが背負う必要などない。それを理解してほしいが、この身体ではなんの説得力も生まない。

 

早く身体を治さなければいけない。

治る見込みがないと言われようが、大切な人のためなら出来る気がする。

 

まずは養生して、傷が治り次第リハビリを始めてみよう。

一日鍛錬を休んだら、取り戻すのに二日かかるらしい。それも含めて一刻も早く治したい。

 

母上の話を聞いて、新しくやりたいことが出来た。

こんなところでチンタラしていられない。

治ってくれれば、いいのだけど。



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30話

先代の剣聖に襲撃されて早数か月。

瞬く間に月日は過ぎ、いつの間にか暦の上では季節は夏になっていた。

 

夏と断言するには未だに涼しい日が続いている。日差しは穏やかで雨の日が多い。

曇天の切れ間から光の柱が降り注いでいるのを幾度となく目撃した。その度に神秘的な気持ちになり、そして不思議と寂しくもなった。

 

この間、命の危険に曝されることもなければ、何か問題が起こることもなく。なんてことはない平和な毎日が続いた。

心のどこかで、後に来るものに多少の予感を感じながらも、その日が来ないことを祈っていた。

 

祈るだけの毎日は寝て覚めてを繰り返し、どれだけ月日を重ねた所で身体の具合は芳しくない。

外傷は大方治った。雨の日に胸の傷が少し疼くぐらいで、それも大したことではなかった。

問題は六の太刀の後遺症の方だ。

 

「どうすればいいか分からん」

 

毎日のように診てくれたゲンさんがついに匙を投げたのは、春の終わり頃のことである。

知っている限り様々な薬や治療法を試してくれたが、どれも劇的な効果はなかった。

母上の言う通り、本当に身体が内側から壊れたならばそれに効く薬などない。自然治癒しかないだろう。

 

簡潔明瞭に私見を述べたゲンさんは、例の緑色の薬を作ってくれた。

鎮痛剤と睡眠導入剤の両方の効果が得られる凄く苦いやつだ。

 

休息をとることだとゲンさんは言った。

よく眠り、よく食べて、またよく眠る。

 

そうすれば治るかもしれない。一縷の望みにかけるようだったが、それ以外に手はなかった。

そしてこの数か月。安静にして過ごした結果、相変わらず痛みに苦しめられている。

 

日がな一日寝て過ごす毎日だった。

起きている間はずっと苦しい。二度と飲まないと誓った薬に頼り、次に起きた時には痛みが和らいでいることを願った。願いなど聞き届けられることの方が少ないと言うのに。

 

近ごろはよく外科手術と言う単語が頭をよぎる。

身体を切り開いて、悪いところに直接手を加えればいいのではないか。そんなことを考える。

残念なことに、俺に医療に関する知識はない。単語だけしか知らない。先進的な医療器具なんてこの世界にはない。麻酔があるかも疑わしく、衛生観念なんて期待するだけ愚かなことだ。

 

諸々含めて、考えた数だけ同じ結論に達する。現実的ではない。

 

それなのに、どうしても諦めきれない気持ちが可能性を探っていく。

この数か月でしらみつぶしにしたはずだ。俺程度で考えつくことなどたかが知れている。だが奇跡の閃きを求めて考えることをやめない。蘇りの件を思えばなんてことはない奇跡のはずだ。

そうは言っても、俺はその手の奇跡にはそっぽを向かれているらしく、今のところ無駄骨に終わっている。

 

その日も大分遅い時間に目を覚ました。

すっかり夜が明けている。室内に人の気配はない。家の中には誰かしらいるだろう。気配を探れば一瞬で分かることだが、最近はそんな些細なことでさえ億劫になってきた。起き上がるのも辛いのだから、致し方ないことだと自分に言い訳する。

 

病床に伏せながら、僅かに開いた戸から遠く窓の外を見つめた。

窓から差し込む日光が、薄暗い室内に一筋の日向を作り出している。

 

耳を澄ませて音を聞いた。雨礫の音は聞こえない。今日は雨は降っていないようだ。

しかし日中にしてはいささか暗いから、雲がかかっているのは間違いなかった。

 

しばらくそのままじっとしていた。

見えるものに変化はない。部屋の装飾も天井の模様も。

いつも同じものを見ていれば飽きが来る。だが他に見るものもない。

歩くだけで景色は変わる。立ち上がっても様変わりする。そんな小さな変化がどれだけ有り難かったか。失って初めて分かったものは多い。

 

いよいよもって、代わり映えのない景色に耐えられなくなった。

痛みは承知で身体を起こす。布団に突いた手を起点にして、全身に力を込める。

 

「っ……」

 

相も変わらず、内側から引き裂かれるような激痛に襲われた。大きく息を吸って呼吸を整える。

生きている間、この痛みと一生付き合うことになるのだろうか。ギリギリ我慢できる程度なのが性質が悪い。いっそのこと発狂するぐらいだったら楽になれたのに。

 

痛みに呻きながら、布団の上で体を起こした。

苦心しただけあって景色は変わる。多少の変化が嬉しかった。痛みに耐えるだけの価値があるかは微妙なところだが。

 

景色の移り変わりを堪能したら、枕元の小瓶に目を向けて、飲むか飲まないか逡巡する。

これを飲めば夢の世界へ一直線だ。まだ朝食を食べていないが、食欲はないので飲んでも良かった。

 

少し悩んで瓶に手を伸ばす。

伸ばした手は指先が震えていた。そのせいでうまく掴めない。何とか持ち上げたはいいが、結局取り落とした。

 

コロコロと転がる瓶を目で追って、戸にぶつかって止まった。

腕を伸ばしても届かない。かと言って立つ必要もなく、這って進めばすぐの距離だ。

たったそれだけの距離が、今は酷く遠く思える。そこまで行くのがどれほど大変なことか、身に染みて知っている。

 

溜息を吐き、物一つ満足に持てない自分の無能っぷりを嘆いた。

精神的に弱ってきている自覚がある。自分一人で何一つ出来ない現状が、大きなストレスとなって身を蝕んでいる。

このままではいけない。弱気になってはいけないと、懸命に己を奮い立たせてみても、中々気分は上向かない。

 

落ち込んだ気分を持て余し、ぼうっと瓶を見つめていると、戸の向こうから声が聞こえてきた。

 

「兄上ー」

 

続いて、小さな足音も聞こえる。

テクテクと軽い足音だ。これが母上だったらドスドスと威圧感を振りまいている。父上だったらそもそも音がしない。我が家はそれぞれ個性的で分かりやすい。

 

「あーにーうーえー。ごはんですよー」

 

ひょこっと顔を見せたアキは、俺が起きているのを見てにんまり笑った。

両腕で膳を抱えているので足で戸を開けている。それだけでも行儀は悪いのだが、足元に小瓶が転がっているのに気づき、憎々し気に蹴っ飛ばしていた。足癖も悪い。

 

「今日は具合いいですか?」

 

蹴っ飛ばした瓶に見向きもせず、膳を置きながら尋ねてくる。

 

「いつもと変わらない」

 

「そうですか? 今日こそ完食してもらおうと思っているんですが」

 

膳の上にはお椀が一つ。中身はお粥。俺の朝食だ。

 

「無理」

 

「むー。食べる前から諦めないでください」

 

そうは言っても、お粥を前にしても食欲は湧いてこない。

毎日鍛錬していた頃でさえ小食だったのに、寝て過ごすだけの毎日を送れば嫌でも食欲は減る。

 

ムリムリと首を振る俺に対し、アキは難し気な顔をするものの、雰囲気から滲み出る機嫌の良さは隠し切れていない。

満足するまで唸ったらコロッと表情を変え、蓮華のスプーンでお粥をかき混ぜた。

 

「ま、何事も挑戦です。はい、あーん」

 

口元に差し出されたお粥に思うところはあれど、何も言わずに口を開く。

突っ込まれたお粥をゆっくり咀嚼し、たっぷり時間をかけて飲み込んだ。

喉を通り過ぎたお粥が胃に落ちていくのが分かった。たった一口食べただけだが、身体はすでに拒否反応を示している。

 

やっぱり完食は無理だとアキを見る。

アキはすでに二杯目を掬っていて、俺が飲み込んだのを見計らって差し出してきた。

 

「あーん」

 

小さく息を吐いたのは僅かばかりの抵抗の表れだったが、それにさして意味などなく、観念して口を開く。

俺がお粥を食べる姿を見て、アキはニコニコと無邪気な笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

アキの回復スピードはゲンさんの度肝を抜いた。

あの傷を僅か一か月足らずで完治させ、元気いっぱいに木刀を振り回す姿には驚きを通り越し、ある種の畏れを抱かせる。

 

「お前の妹どっかおかしいんじゃねえのか?」

 

「失礼な。あんなに可愛いのに」

 

実際のところ、あの親にしてこの娘ありと言うところだろう。

あの二人は色々と共通点がある。ひょっとして、母上も怪我が治るのは速いのではないだろうか。

そこのところをゲンさんに聞いてみたが、「椛が大怪我したところ見たことねえからなぁ……」と答えは得られなかった。

母上の話を聞く限り、昔は平気で大怪我したのだろうし、数にして10や20じゃすまないと思うのだが。

 

何はともあれアキの怪我はすぐに治り、後遺症もなく元の生活に戻ることが出来た。

二人並んで寝込んでいた頃はともかくとして、一人先立って回復したアキはやたらと俺の面倒を見たがった。

 

飯を食べさせ、身体を拭い、トイレに連れ立つ。今までは俺が担っていた家事もアキが代わりにやるようになった。

日が昇らない内に朝練に出て、帰ってくるなり朝食の支度を手伝い、自分の分を大急ぎで掻っ込んで俺に飯を食べさせる。

昼まで鍛錬に赴き、帰って来れば家事、食事、俺の世話。午後も同じように動いている。

 

とんでもない重労働だ。俺も似たようなことをやっていたが、介護人の世話まではやっていなかった。

負担になっている自覚はある。治ればいいと心の底から思っている。治る兆しが全く見えず、罪悪感で押しつぶされそうになる。

この生活が始まってから、不思議とアキは生き生きしているように見えるが、それだけが唯一救いだった。

 

「兄上。あと半分です」

 

「もう無理」

 

「頑張って」

 

「無理」

 

これ見よがしにゲップをする。

アキは「まったくもう」と言いつつ、残っていた分を食べ始めた。ろくに噛みもせずに掻っ込んでいる。

 

「ひゃんとはへないほ、ひゃおるひょのもひゃおりまへんほ」

 

「食べるか喋るかどっちかにしなさい」

 

注意したら椀の中身を一気に掻き込んだ。

リスのように頬を膨らませ、一心に咀嚼している。

 

ごくりと喉が上下した後、口元を手の甲で拭ったアキは、どことなく演技染みた仕草と表情でこう言った。

 

「ちゃんと食べないと治りませんよ」

 

「……」

 

まさかまさかの説教だった。

あのアキに説教を食らうとは夢にも思わなかった。

 

以前なら俺がアキに説教する立場だったのに、それが逆転し始めた。俺の怪我が妹を成長させている。それは嬉しいことではあるが、それ以上に複雑な気持ちになる。

年下に説教を受けるのは格好が悪い。性別など関係ない。兄の面目などあったものじゃない。

 

「聞いてますか?」

 

「……」

 

出来ることなら言い訳したかった。しかし、よく食ってよく寝ろとゲンさんにも言われている。それを守れていない現状、言い訳も反論も出来なかった。

 

「兄上ぇ?」

 

「……」

 

ただただ沈黙する俺に、アキは「んー?」と覗き込んでくる。

ばつが悪くて視線を逸らす。そうするとアキは視線の先に移動して、俺は顔を逸らして、アキはまた移動して、と繰り返した。

 

「……」

 

「……」

 

夢中でそれを繰り返す俺たち。いつの間にやら新しい遊びが生まれていた。

意地でも目を合わそうとするアキと、断固として合わせたくない俺の戦い。

頭を動かすだけならさほど痛みは感じない。これなら今の俺でも十分戦える。

 

戦いは熾烈を極め、自ずと熱を帯びて来る。

アキの動きにキレが増す。優位を獲得するため距離を詰め、いつの間にか足の上に乗られていた。

このままでは埒が明かないと思ったのか、ついには押し倒されてしまった。

うっと呻く俺を無視して、「これなら!」と勝ちを確信した声がする。

 

横に向けていた頭を掴み、極々至近距離で無理やり目を合わせようとしてきた。

こうなるともう成す術がないので、最後の手段で目を閉じる。これで絶対に目を合わせることはできなくなった。

「ずるい!」とアキの叫びが聞こえる。

 

「ずーるーいー!」

 

「もう諦めろって」

 

「やっ!」

 

負けず嫌いは誰の血だろう。

十中八九母上だが、意外と父上の線も捨てきれない。

男だからって勝ち気な奴がいない道理はないだろう。

 

「んー……」

 

「瞼掴むなよ」

 

「あかない……」

 

何とかして目を開けさせようと四苦八苦するアキだが、流石にこじ開けるのは抵抗があるのか苦戦している。

 

「んー……」

 

「息苦しいからどいて」

 

「や……」

 

こうしている間も圧し掛かられているので、少し痛みが走っている。

まあこの程度なら何の問題もないが、物には限度と言うものがあるので早めに決着をつけたい。

 

「アキ?」

 

「……はい?」

 

「どいて」

 

「……」

 

どうしようか悩んでいる雰囲気を感じる。

俺の上に跨りながら、時折瞼の辺りをチョロチョロ弄っている。

負けを認めるのも強さだと思う。ただ母上の過去を思うとそれを言うのは憚られる。絶対に負けないことを強いられた人が親なのだ。おいそれと口に出していいものだろうか。

 

負けを認めたくないアキと悩む俺とで事態は膠着する。

しばらく、押し倒したアキと押し倒された俺と言う格好のままでいた。

 

いつもならとっくに食べ終わっているはずなのに、何故か今日だけは遅い俺たちを心配して、誰かしら様子を見に来るのは必然だった。それが父上だったのは、ちょっと都合が悪かった。

 

「な、なにしてるの?」

 

唐突に父上の声がした。

あ、と思って目を開ける。目と鼻の先にアキの顔があった。

横目に戸の方を見ていたアキは、俺が目を開いたのに気づいて、額をぶつけて顔を突き合わせる。

きれいな瞳に俺の顔が映っている。「私の勝ちです」と満面の笑顔で宣言した。

 

しまった、負けた……。

 

本気で残念がった自分に気づく。

負けず嫌いは俺も同じだった。曲がりなりにも兄妹なのだから、似た性質は持ち合わせているだろう。

 

「で、なんですか。父上」

 

「え、あの……レンに跨って、何してるの……?」

 

「遊んでました」

 

俺の上からどいたアキは直前までの子供っぽさを引っ込めて、冷淡と言えるほどの冷たさを発揮する。

この数か月で変わったのは生活様式だけではない。両親に対する態度もその一つだ。

片足突っ込んでいた反抗期に、ついに全身どっぷり浸かってしまった。あまり言いたくはないが、こう言う時のアキは少し怖い。触れるだけで爆発しそうな不安がある。子供っぽい無邪気な妹を知っているだけに、余計そう思う。

 

「兄上。何かあったら呼んでください。すぐに駆けつけますので」

 

膳を持ち上げながらそう言ったアキは、返事も待たず足早に行ってしまう。

その足取りに迷いはなく、足音は来る時より大きかった。

 

呆気に取られていた父上が我に返り、矛先を俺に向けて来る。

 

「……本当に、何もなかったの?」

 

「遊んでただけです。別に珍しくないでしょう」

 

昔からこういうことはよくしている。

かくれんぼや鬼ごっこに木登り。冬は雪合戦をして、かまくらを作って雪だるまも作った。

娯楽のないこの世界で、俺が知っているだけの遊びをアキに教えた。

遊んでいる過程でもみくちゃになるなんてよくあることだ。珍しくもなんともない。

 

だから、たかだか圧し掛かられているだけでこれほど心配されるのは、少し過保護に感じる。最近、父上とあまり話していないから、それが拍車をかけているかもしれない。

 

「そう、かな」

 

「そうですよ」

 

納得いかないと言う顔の父上を見つめる。

眉をひそめ考え込んでいた父上は、俺の視線に気づくと途端にオドオドし始め、そそくさと立ち去ってしまった。

 

その背中を呼び留めようかと思ったが、口から出てきたのは言葉ではなく溜息だった。

 

「……はあ」

 

蘇りの件が尾を引いている。

元より父上との関係は互いに一歩引いたものだったが、件の出来事を経て、さらに壁が一枚追加された。

 

率直に言って受け入れ難いものではあるのだろう。

俺だって、もし家族が死んで生き返ったのなら、その時どういう態度をとるのか想像できない。

ゲンさんのように、数日で元の態度に戻るのがおかしいのだ。

 

それが理解できるから、あまり手荒な行動はとれない。

待つしかないだろう。父上が何らかの落としどころを見つけるまで。

果たして見つかるとも限らないが、信じて待つしかない。

今の俺にはそれぐらいしかできることなどないのだから。



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31話

――――それは、まだ兄妹そろって寝込んでいた時のこと。

 

時の流れる速度と言うのはこんなにも早かっただろうか。

眠るために潜りこんだ布団の中で、することもなく天井を見つめながら、ふとそんなことを思った。

 

遅々として進まぬ時間に辟易としたのはつい数時間前のこと。

その時は疾く過ぎてくれと切に願っていたのに、今や無情に過ぎて行くこの瞬間を名残惜しく感じてなどいる。

 

大切な瞬間ほど足早に過ぎ、退屈な時ほど停滞する。

それがどういうことかと言うと、やはり気持ち次第と言うことなのだろう。

 

時刻は夜。

空から月が見下ろす夜半。

鳥だか獣だか、もしかしたら幽霊かもしれないが、得体の知れない鳴き声がどこからともなく木霊する深夜。

 

そんな時間に、すでに怪我が治りつつある我が妹君は、俺の布団に潜りこんですやすやと穏やかな寝息を立てていた。

その寝息を聞きながら、かく言う俺はと言うと、眠気を妨げる鈍痛に苦しんでいる。

 

「いたい……」

 

そうやって、思わず呟くぐらいには苦しんでいた。

緑色のクソ不味い液体を飲みさえすれば、それだけで解消される安い苦しみではあるのだが、実の所あまり頼りたくなかった。

 

痛み止めとしてならまだしも、睡眠薬さながらの副作用はあまり喜ばしいものではない。

一口飲むだけで数時間は夢の中。夢も見ずに熟睡する。そんな有様では日常生活を送るのは困難だ。

 

贅沢は言わない。痛みに悩まされてもいい。ただ、普通の生活を送りたかった。

果たしてそれが可能かどうか。一先ずは痛みに耐えて眠れるのか。それを試して早数時間。痛みに悩まされたこの数時間は、早く寝ようと焦れば焦るほど刻々と過ぎ去っていった。

 

結論から言ってしまえば、難しいようだ。

ズキズキと身体の奥から絶えず止まない痛みは、それ一つは大したことでもないのだが、日常茶飯事ともなると大した敵になる。眠ろうにも眠れないぐらいには憎々しい敵だった。

 

あと少しで眠れるけど、決して眠れない境目でうつらうつらとし、ひょっとしてこれは拷問ではないかとようやく思い至る。

その頃には月でさえ下り始めていた。魑魅魍魎が宴会を開いて大騒ぎしている時分だ。

 

いい加減薬飲もうかなと大真面目に検討し、でもやっぱりもう少し頑張ろうかと無意味に気張ってみる。

結局眠ることは出来なくて、渋々薬を飲もうと決心したその瞬間。

ふと、意識の端に何かが引っかかって目が冴えた。ぱちりと瞼を開き、周囲に目を向ける。

 

暗闇の中でも間近にある物ならよく見える。隣にある空っぽの布団と、俺の布団に潜りこんでいるアキの顔はよく見えた。その寝顔は安らかで、すぴーと寝息が聞こえてくる。

 

てっきりアキが寝相の悪さにかこつけて何かしたのかと思ったが、違和感の正体はこいつではないようだ。

他の原因を探して周囲を探る。ついでとばかりに気配も探ってみると、いつの間にやら廊下に人の気配がある。それに気づいた瞬間、驚きで心臓が脈打った。

 

咄嗟に部屋の隅に置かれた刀を見る。手の届く距離ではなく、そもそも俺は今満足に戦えない。

とりあえずアキを起こすべきか。でも寝てるのを起こすのは気が引ける。いや、そんなこと言ってる場合じゃない。ていうか、そもそもこいつ起きるのか?

 

堂々巡りの思考を他所に、音もなく戸が開く。僅かに覗く隙間から真黒な人影が見えた。

すわ襲撃者か、はたまた魑魅魍魎かと背筋が冷えた。しかし、落ち着いて探ってみると覚えのある気配だと気づく。その正体が母上だと知って胸をなでおろした。

 

こんな時間に何をしているのか。

驚かされた分、怒りを孕んだ声を出しかけ、眠りこける妹を思い出しすんでのところでやめる。

半開きの戸の向こうに立つ母上は、アキが寝ているのを見、俺が起きているのを確認し、静かに声をかけてきた。

 

「起きていたか」

 

「まあ……」

 

「眠れないのか」

 

その視線が例の薬を探してあちこち行き交っている。

ちゃんと飲んだか確認しようとしていた。生憎と薬はちゃんと飲んでいないし、所在も俺の懐の中だ。いつでも飲めるように隠し持っていたのが功を奏した。我慢比べも限界を超えてはいたので、後でしっかり飲んでおくことにする。

 

「なにか?」

 

「いや……」

 

疑わし気な顔にしれっと尋ねる。

母上は首を横に振り、惑っていた視線はアキの寝顔に止まった。

二つ並んでいる布団の内、なぜか俺の布団に潜りこみ、あまつさえぎゅっと抱きついている我が妹は、俺たちの会話で起きる気配もなく、一定のリズムで呼吸を繰り返している。

 

数瞬、アキの寝顔をじっと見ていた母上は、おもむろに部屋に入ったかと思うと、無造作にアキの襟を掴んで俺から引き離した。

脱力しきった身体がずるりと布団の上を擦れる。

くかーと寝息を立てる妹に、やはり起きる気配はない。

そのまま隣の布団に適当に寝かせ、毛布で全身を覆った母上は、これでよしとばかりに手を叩いて俺に向き直った。

 

少しの間見つめ合う。

やがて目を逸らした母上は、言い辛そうにしながらこんなことを言った。

 

「……少し、出るか」

 

「は?」

 

「外へ行かないか」

 

またぞろ突拍子もないことを言っている。

 

「外ってどこですか?」

 

「どこへなりと、気の向いたところに」

 

ふむと頷きつつ考えてみた。

こんな時間にどこ行くつもりだ、とか。体痛いんだけど、とか。明日じゃダメなの、とか。

そんなことを考えて、しかし途中で考えるのをやめた。俺も久しぶりに外に行きたかった。もう長いこと外出していない。外の空気吸いたい。

 

「じゃあ、運んでもらえます?」

 

「ああ」

 

その答えを聞いた母上の行動は早かった。何の遠慮もなく横抱きに抱え上げられる。

それだけでも結構痛かったし、歩く振動でさえも痛い。痛みで身体は強張り顔は歪んだ。

そんな俺を慮ってか、母上の歩幅が段々と小さくなって振動も減った。

 

玄関へと赴き、土間を踏んで外に出た途端、強風に吹かれて前髪が煽られる。毛先がチクチクと目を刺して鬱陶しい。

ざわりと枝葉が揺れ、狼らしい遠吠えがどこか遠くから聞こえる。

曇天半分、星空半分の夜天は半月が見え隠れして星が瞬いた。

思わず見惚れた。久しぶりの世界だった。

 

いつものように無言で歩く母上に倣い、俺も口を聞かず行く先だけを見ていた。

どこに行くのかは知らないが、目的地に着けばどうせ喋る。そのために連れ出したのだろう。それなら、今はこの世界を堪能したい。

 

折角の外界だ。家に比べてとんでもない解放感を味わっている。家で缶詰になっていたストレスは少なからずあったらしい。

こうしているだけで心が浮つき気分も上向く。やっぱり人間たまには外に出ないとダメだ。

 

「行きたいところはあるか」

 

「お好きなところへどうぞ」

 

家の敷地から出てすぐのところでそう尋ねられた。

けれど行きたいところはなかったから、母上にお任せする。

暫し考えて、村の外に足を向けた母上は、林の先の鍛錬場へと向かっているようだった。

 

木漏れ月に目を瞬かせ、林を越えた向こうには、毎日見ていた景色が広がっている。

だが深夜の景色と言うのは珍しいかもしれない。思い返せば、いつだかアキが無茶をした日まで遡る。

途切れ途切れの月明りや星空。連峰の山頂にかかった雨雲など、普段とは違う見所は大いにある。

 

母上は辺りをきょろきょろと見回して、一本の木の根元に俺を下ろした。

地べたに下ろされたものだから土汚れが気になったが、ここはあえて考えないことにする。多分母上もその辺りのことは何も考えていない。

 

俺を下ろした後、母上は数歩離れて景色を眺めた。

その視線を追うように、俺も山々を見る。弱弱しい月明りと、時たま通過する雲のせいではっきりとは見えなかったが、山頂は白みがかかっている気がした。まだ春だから、山の上の雪は融けていない。

 

会話がないままに時は過ぎていく。

いつの間にか周囲の音も止んでいた。風も鳥も獣も。その他ありとあらゆる生き物の音が聞こえなくなった。

静謐な空間で、俺と母上の二人だけが遠く夜景を眺めている。

 

なんだかロマンチックだ。そんな感想を抱いたが、その気持ちもそう長くは続かなかった。

かなり長い間そうしていた。ロマンが吹き飛ぶぐらい長かった。その間、ただ座っているだけだったから体が冷えた。

吹き付けた風にぶるりと身体を震わせる。それに母上が気づき、振り向いて「寒いか」と尋ねてくる。「寒いです」と率直に答えた。

 

「そうか」と端的に言った母上は、さてどうしたものかと考え込んでしまう。

何か言いたいことがあるらしい。どのように切り出そうか迷っている。

無表情の癖になんてわかりやすい。母上の過去を聞いてから、更に母上のことが分かるようになった。

この調子だと、その内以心伝心でテレパシーまで出来ちゃいそうだ。数年後の自分に期待してみよう。

 

そんなことを考えておいて、ふっと自嘲が浮かぶ。

我ながら可笑しなことを考えた。数年後自分がどうなっているかなんて、俺自身にさえ分からない。期待なんてするもんじゃない。

 

「それで、一体どのようなご用件でしょうか?」

 

思わず浮かんだ自嘲を誤魔化すために口火を切る。寒空の下でこれ以上待ちたくないと言う気持ちも勿論あった。

母上は眉間に皺を刻み込んで、訥々と話し出す。

 

「用件、と言うほどの物ではない。だが、聞いておきたいことがある」

 

「わざわざ外に連れ出すほど大事なことですか?」

 

「家で聞いても良かったが……皆、寝ていただろう?」

 

だろう?と言われても。

そもそも深夜に訊ねて来るな、と言いたいところだ。

ひょっとして、母上って思い付きで行動しているんだろうか。だからこんなよくわからないタイミングでやって来るんだろうか。

……いや、さてはあれだな。眠れなくて悶々と考えていたら、居ても立っても居られなくなったんだろう。それなら理解できないこともない。それ以外の理由なら理解できない。理解する努力が必要だ。

 

「それで、ご用件は?」

 

「結婚するつもりはあるか」

 

突拍子もない言葉には慣れっこだ。いや、本当に。慣れっこだよ。

 

「はあ……? 結婚……」

 

「前々から言ってあっただろう。婿に行けと」

 

「……そう言えば」

 

つい最近もそう言う話をした気がする。色々あってすっかり忘れていた。

俺はまだ11歳だし、あと三~四年は先のことだと思っていたが。

 

「実は先方と話は付いていた」

 

「……あ、そうですか」

 

「だがお前は怪我をした。それも含めて、また話し合わなければならない」

 

色々言いたいことは飲み込んで、ちょっと考える。

 

六の太刀の後遺症は、今のところ治る見込みがない。

かねてから母上が仰っていた通り、二度と刀が振れないぐらいの怪我が残っている。

 

刀を振るどころか立ち歩くことも出来ない。箸を握ることさえ出来ていない。

今まで難なく出来ていたことが何一つ出来ない現状は最悪だ。胸に巣食う不安は日に日に大きくなっている。

 

その不安を押し殺し「お手数おかけします」と他人事のように言った。外面だけでも取り繕わなければ、簡単に押し潰されてしまう気がした。

 

「また一から話は進めるが、その前にお前の意思を確認しておきたい。結婚する気はあるのか?」

 

「確認するの遅くないですか?」

 

母上の言葉通りなら、怪我さえなければ話は勝手に進んでいたわけだ。

前に自由恋愛推奨とか言っていたが、見合い話ってそう簡単に断れるものだろうか。家同士の話なわけだから、難しい気がする。

 

「お前に結婚する気がないと言うなら、この話はここで終わりだ。する気があるなら、また話し合う」

 

「いや、まあ……別にどうだっていいですけど」

 

「なに?」

 

怪訝そうにする母上に、小難しい理屈なんざ捨て置いて、本心を吐露する。

 

「この怪我が治るかも分かりませんし、最悪一生このままの可能性も高いですし。こんな欠陥こしらえた奴、欲しがる物好きはいないでしょう」

 

俺の言いぶりを聞き、母上は無表情でじっと見つめて来る。

その影に隠れている感情を察するに、ちょっと悲しんでいるようだ。子供を守れなかったと言う負い目がそうさせているのだろう。

 

「だから、どっちでもいいですよ。こんなんでも結婚したいっていう人がいるなら、俺も前向きに考えます。十中八九いないでしょうけど」

 

「……そうか」

 

「母上の好きにしてください」

 

話は終わった。たったこれだけのために、そこそこ長い時間をかけてしまった。

ずっと木にもたれかかっていたから、ちょっと背中が痛くなった。だが痛みを和らげるために少し身体を動かすと、それ以上の痛みに襲われる。

 

なんだかなぁ、といささかうんざりしてきた。何をするにしても痛みを伴ってばかりで、いっそ不愉快になってくる。

不愉快は怒りに繋がる。けど、怒れている間はまだいい。その内怒る気力もなくなるだろう。そうなった時には終わりが近い。

 

なんだかなぁ、と口の中で繰り返す。

それは声に出していなかったが、母上は俺のことを心配そうに見ていた。

色々なことを知った後にその表情を見ると、少女然とした雰囲気を感じてしまうのが不思議だった。

俺が今まで抱いていた人物像よりも、素の母上の精神年齢は低そうだからだろうか。

 

この状況でそんなことを考える自分にふっと笑って、折角だからと母上に一つお願いする。

 

「不躾で申し訳ないですけど、ちょっと刀振ってもらえませんか?」

 

「なに?」

 

「母上が刀振ってるところが見たいです」

 

訝し気な母上に再三お願いした。

なぜそんなものが見たいんだと母上は疑問を問い、俺は端的に答える。

 

「ただ、見たいんです」

 

子供の願いに嫌とは言えぬ母上は、溜息を吐いて刀を抜く。

そして振り始めた。上から下に。下から上に。斜めに切って、そして突く。

今まで何度も何度も見た光景は、けれども初めて見た時と同じ気持ちを抱かせる。

 

初めて母上が刀を振る姿を見たのは5歳の時。

猿に襲われ、ズタボロに傷つけられ、朦朧とした意識で見たあの光景。

俺は今、あの時と同じ気持ちを抱いている。やっぱり何年経とうともこの気持ちは変わらないらしい。

その気持ちに名前は付けていない。憧れだろうか。あるいは羨望か。もしくは渇望か。

目の前の光景を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくる。

 

頼りない月明りに照らされて、母上は刀を振る。

切っ先が線を描き、瞼の裏に焼き付く。目を閉じれば浮かび上がる赤い軌線。

 

比べれば、俺はまだまだだと思い知らされる。

いつかあれに届く日が来るようにと刀を振り続けていた。

果たして、届く日が来るか否か。一抹の希望と不安をそっと胸にしまい込み、その光景を目に焼き付ける。

ちょっと元気が出た。明日からまた頑張ろうと思うことが出来た。

 

――――そういうことが、春の終わり頃にあった。

 

それからほどなくして、ゲンさんが情報を持ってきた。

いわく、母上が紙を大量に仕入れた。

いわく、農作業の監視に来た役人をとっ捕まえ、手紙を届けさせた。

いわく、上等な馬に乗った騎士みたいな奴が、度々この村に来るようになった。

 

そんな情報。

聞いてもいないのに勝手に伝えて来るゲンさんは、母上が何をしているのか知りたかったらしい。

生憎と俺は何も知らないので答えようがなかった。

何か良からぬことを企んでいるんじゃないかとゲンさんは心配していた。正直俺も若干心配だった。

 

そうは言っても、何となくではあるが、母上は俺の見合いの件で手紙を送っているような気がした。あくせく動いているのだろうと察した。

 

だから手紙の内容にも興味はあったが、詮索はしないことにした。必要なことであれば母上の方から言ってくるだろう。見合いの件をカミングアウトされた時期を思い返せば、やはり若干心配ではあるが、どうせなかったことになる。

この身体が治らない限り、見合い話は流れるに決まっているのだから、聞いたところで意味はない。

 

そう考え、手紙の件は意識の外に追い出していた。結末は一つだけだと思い込んでいたのだ。

もっと気にかけておくべきだった、と後悔することになるとは、この時は夢にも思わなかった。




今更なんですが、読み返したときに気になったところをちょくちょく修正しています。
30話も「読みにくい……」「なんだこれは……」と思った箇所を修正しました。
たぶん31話も後ほど修正すると思います。


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32話

下手をすれば明日食べることにも難儀するこの世界で、ペットを飼う余裕があると言うのは、贅の極みを尽くしていると言えるのではないだろうか。

 

縁側に座りながらそんなことを思う。寒いので毛布を羽織って、ここからでは見えないペット小屋の方を注視する。

突然そんなことを思った理由と言うのは、アキが今ペットの世話をしているからだ。

 

ペットの内訳は、赤毛と栗毛の馬が一頭ずつとあとトカゲ。

馬に関してはどちらの馬も中々に可愛くて、正直かなり気に入っているのだが、現在赤毛の方は留守にしている。

と言うのも、東で動乱の気配を察した母上が西に向かった際、強行軍でかなり無理をさせたらしく、出先で休養を取らせているとのこと。

よっぽど酷使させたのか、もう夏も中ほどだと言うのに未だ帰ってこない。

 

心配して母上に様子を聞けば、死ぬかもしれんと冗談みたいなことを真顔で述べた。聞いてるこっちとしては冗談ではない。

言葉に困りつつ、意を決して「冗談ですよね」と尋ねたら首を傾げられた。やっぱり冗談ではない。

 

赤毛の容体に関してはそれ以上聞けなかった。これ以上重い話題はごめんだった。

六の太刀の後遺症から始まり、母上の過去など重い出来事が短期間に重なって、追及するだけの気力が残っていない。不甲斐ない限りだ。

 

それでもって、瀕死の赤毛に代わって帰り道の供になったのは、普通の馬と比べ一回りほど大きな黒馬だった。

一般的に全身が真黒な馬と言うのは白馬に次いで珍しいらしく、この大きさなら間違いなく名馬と言えるそうだ。

そう言われてみればどことなく気品が感じらないこともない。

チラッとしか見ていないので断言はできないが、とりあえずなんだか凄いやつらしい。そんなのを一体どこから借りてきたのやら。

 

三匹目のトカゲに至っては、相も変わらず手に負えない。

俺の代わりに餌やり担当となったアキが苦労している。ストレスが溜まって小石を蹴っ飛ばす姿を度々見ている。

結構な頻度で目撃するが、気持ちは分かるので注意はしていない。というか似た様なことは俺もやったので出来なかった。そんなことで気が晴れるなら、いくらでもやったらいい。近ごろ、溜まったストレスが俺に向けられている気がするので、真面目にそう思っている。

 

我が家のペットはそれで全部だ。他には家畜も飼っていない。

ペットと聞いて、一般的に想像するような猫や犬などは、そもそも見たことがないのでこの世界にいるかもわからない。

代わりにスライムみたいな粘体動物は見たことがある。動物と言うよりは虫だが。

小さな虫たちが群れを作り、粘液を分泌して自らの身を守っているらしい。

触ると逃げようとして動くから、アキがよく突っついて遊んでいた。

娯楽の少ないこの世界で、その虫は子供たちにとっては体のいい遊び道具となっている。

正直、俺は虫はあまり触りたくない。なんならアキにも触ってほしくない。なんかばっちい。

 

前世の幼いころなどは、その辺を飛んでいるトンボを八つ裂きにしたこともあったが、今思うとかわいそうなことをした。

今では触ることも忌避するぐらいだから、これは成長と呼ぶのか退化と呼ぶのか、判断に困るところだ。

 

経験から言って、世界が変わっても人の本質はあまり変わらない。

この世界でも子供は命と言うものに鈍感だ。あまり考えず、本能と好奇心で行動する。

危険だと注意して、やめなさいと叱ったところで、あまり聞いてはくれない。

 

そもそも、子供の自由は極力阻害したくはない。かつては自分も通った道だ。思い返せば、それと知らず危険なことはたくさんしてきた。

危険には近づいてほしくないけれど、あまり過保護なのも成長を妨げるように思う。

 

子供を信じてただ見守るか。心配だからこそ口酸っぱく注意するか。

我が両親はそのどちらかだ。どちらがどちらかはわざわざ言う必要はないだろう。

 

その二人の言動を観察し、俺はその中間で行くと決めた。

だから、子供が冒険するなら先んじて危険を排除しておくし、それが出来ないなら危険が及ばないように常に見張っておく。そして危険が近づいたなら如何なる方法であろうとも排除する。

 

川遊びに興じる子供たちを毎年のように見守っていたのがそれだ。

自然の驚異は排除できない。どれだけ科学が発展したところで、それだけは不可能だ。ならば自衛するしかない。しかし子供に自衛は難しいから、大人が見守ってやる。

 

俺は大人だ。一応は。そういう自負がある。

だから毎年見守っていた。子供が死んだと聞くのは寝覚めが悪い。運が悪ければ、小さな怪我が原因で死に至ることもある。

 

だが、もうそれも出来ない。

来年からどうしようかなと思いながら、村中に響き渡るアキの怒号に耳を傾ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とまれぇっ!!?」

 

縁側に座る俺の耳にその声が届く。

アキの声だなあとぼんやり思う。毛布を羽織っているのに肌寒いこの陽気に、元気がいいのは良いことだ。

 

「とまれって言ってるのにぃ!?」

 

焦りに満ちた声は、聞きようによっては楽しそうにも思える。

しかし本人にしたらたまったものではないのだろう。あっちこっち振り回されているのが目に浮かんでくる。

 

「ダメダメダメダメ! そっちダメ! ダメだって!? ダメって言ってるのにぃ!!」

 

本気で焦ると語彙がなくなるのは人間の性だろうか。それともアキ本人の特徴か。

俺はどうだったかなと思い返せば、浮かび上がるのは六の太刀を使った時の戦い。少なくとも言葉は汚かった。追い詰められた時こそ人間の本性が現れるとするなら、俺の本性はあれと言うことになる。考えものだ。

 

「もうやだぁ……! いやぁ……!」

 

ついに声音に泣きが入った。

アキが泣くところはもう随分と見ていない。ここ最近は、父上に叱られる時でさえ仏頂面を維持する余裕があった。

 

林の中を駆け回り、よく転んでは泣いていた頃が懐かしい。

かくれんぼで俺を見つけられなくて、大声で探し回り、見つけた時には悔しさと安堵で怒りつつも涙目だった。

 

今のアキはその時に近いようだ。反抗期と思春期がミックスされ、頑張って背伸びするアキも可愛いが、昔ながらの子供っぽいアキも可愛いものだ。どんな姿も愛おしい。

 

家の角の向こうから、ドスドスと何かの足音が近づいてくる。アキの悲鳴も近づいてくる。

こちらに来るようだ。来ないでほしい。割かし本気でそう思う。

 

「とまってぇ……」

 

情けない懇願と共に、それは姿を現した。

 

四つ足で地面を駆け、全身に刺々しい鱗を持つ大きなトカゲ。

その全長は、目測で2~3メートルぐらい。高さは子供と同じか少し低い。人を2人乗せて走り回れるほど力が強く、馬以上に長距離を移動できる持久力を持つ。

 

長距離を移動するなら打ってつけの生き物だ。

聞いた話では人に懐くことはなくむしろ人を襲うらしい。そして、暑いところに住んでいるため寒さに弱いとのこと。

しかしこちらに猛スピードで向かってくる様子からは、弱っているようには見えない。

冬になるとラッセル車ばりに雪の中を移動するので、多分こいつに弱点はないのだろう。

 

「とまれ。この、とまれっ」

 

首にしがみつくアキが必死にトカゲを止めようとするものの、トカゲはまるで意に介さない。

ただ振り回されるだけの妹が不憫で仕方がない。言うことは聞かないし、物理的にも停止させる手段のない暴走列車だ。関わりたい人間などいないだろう。

 

真っ直ぐにこちらに向かってくるトカゲは、つぶらな瞳で俺を凝視していた。

猛烈な勢いでやって来るものだから、そのまま激突するかと身を竦めたが、幸いなことにトカゲはブレーキを踏んで急停止する。その反動でアキが吹っ飛び、地面をゴロゴロと転がっていった。

 

悲鳴が迸り、うめき声が聞こえて鼻をすする音がした。その後、気丈にもむくりと起き上がったアキは、その目に最大級の憎しみを込めてトカゲを睨む。

 

「殺す」

 

母上に負けず劣らずの殺気が放たれている。

立派なものだが、果たしてこれは成長と呼べるだろうか。

 

「アキ、おいで」

 

声をかけると、アキは忌々し気な顔のままゆっくりと歩み寄ってくる。

その視線は常にトカゲに向けられている。

 

「あれ殺していいですか?」

 

「ダメだよ」

 

「兄上」

 

「ダメ」

 

ぷくっと頬を膨らませて抗議する姿が可愛くて仕方がなかった。

服に土埃がこびりついているので、払うように言っておく。

アキは素直に言うことを聞いて、全身を手で払っていた。

 

「あのトカゲ……」

 

「何かあった?」

 

「人がせっかくご飯持っていったら急に暴れ出して外出ようとして。言うこと聞かないし止めたくても止めれないし、引き摺られるし吹っ飛ばされるし……」

 

最悪なひと時を経験したようだ。かわいそうに。

俺の時はたまに齧られかけ、たまに圧し掛かられそうになった。

齧られたら死ぬし、圧し掛かられても死ぬ。だからこいつに飯を持っていく時は、一日で一番気が張っていた。

 

アキはぷんすか怒りながら、俺のすぐ隣に腰を下ろした。

俺が羽織っていた毛布を半分奪っていく。

 

一つの毛布を共有して密着する俺たちを、トカゲはじっと見ていた。

ロボットのような無機質な瞳。たまにチロッと舌を出し、どことなくカクカクした動きで顔を寄せてくる。

その鼻頭をアキが軽く打った。

 

「あっち行け。しっしっ」

 

「……」

 

打たれたことに反応するでもなく、トカゲはただアキに視線を移す。

瞳孔の細長い目に感情の類は見られなかったが、どういう訳か、アキは喧嘩を売られていると判断したらしい。「……殺そうか」そう低く呟いた。

 

このトカゲと相性のいい奴なんてそうそういないだろうが、だからと言って自慢の妹が殺すと呟いているのを見ると少し引いてしまう。

それだけストレスが溜まっているのかもしれない。もしそうならどうにか解消させてやりたいが、方法が思いつかない。今や一緒に遊んでやることも出来ない身だ。やれることは少ない。

 

考え事をしながら、無意識にトカゲを撫でようと腕を伸ばした俺を、アキは鋭い声音で咎めた。

 

「食われます」

 

「いや、さすがに……」

 

「こいつは食います。ぱくっと持ってかれます。殺した方がいいと思います」

 

「ダメ」

 

そうは言いつつ、そこまで断言されると撫でたくはなくなる。

下ろした腕の代わりに、トカゲのことをよく観察してみた。

 

「……」

 

「……うーん」

 

感情の読めない瞳は爬虫類ならではだ。

爬虫類だから言葉を喋るわけはないし、愛情表現の類も見受けられない。

母上が近くにいるときは大人しいが、それ以外の家族には聞き分けがない。そもそもこちらの指示を理解しているのかも怪しい。母上を怖がっているだけの可能性が一番高い。

 

実際、食いちぎられるかはともかく、噛まれかけたことは多々あった。それがこいつなりのスキンシップなのか、あるいは捕食目的なのかは分からない。

 

じっと見つめていると、トカゲも俺を見つめ返してくる。

まれに突き出すように舌を出し、時折長い時間舌を出していると思ったら、二股に分かれた舌先が左右自由に動いている。

 

そうして見つめ合っている内に、トカゲはまた俺に顔を近づけようとして、アキに打たれて押し戻される。それで一瞬アキの方を見たが、すぐに俺に視線を戻した。

 

威嚇する妹と無感情のトカゲに囲まれて、轟っと吹く風が肌寒い。

息を吸い込むと喉の奥が痛かった。風邪をひいては大変だ。

部屋に戻ろうとして腰を上げかけたところ体勢を崩した俺を、咄嗟にアキが支えてくれた。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

どこか誇らしげなアキは、「兄上は私がいないとダメですね」と上機嫌に嘯いた。

否定の言葉は出て来ない。全くその通りだった。もう夏も折り返しだと言うのに、相も変わらずこんな調子だ。

 

「ちゃんと薬飲んでください。飲んだふりしても、私の目は誤魔化せませんよ。瓶の中身確認しますから」

 

「今日はちゃんと飲むよ」

 

「兄上はたった一口飲めばそれで済むんだから、いいじゃないですか。私は全部飲まなきゃいけなかったのに」

 

話をしながら部屋に戻ろうとした俺たちの背後で、唐突にシューと空気の抜ける音がした。

何の音だろうと肩越しに振り返ると、トカゲが敷地の外を見ながらその音を出している。

視線の先には子供がいた。見覚えのある女の子だ。

 

女の子は俺が見ていることに気が付くと、まごまごした様子でゆっくり近づいてくる。

距離が近づくにつれ、トカゲの発する音も大きくなった。

トカゲから発せられる妙な緊迫感に最悪の事態が予想される。もしかしなくても食べるつもりだ。あの見るからにいたいけそうな子供を。

そんなことはさせてなるものかと、アキに指示する。

 

「アキ、そいつ抑えておいて」

 

「えー……」

 

「もし襲っちゃったら困るだろ」

 

「……べつに」

 

「お願い」

 

渋々と、アキはトカゲの背中に乗った。

首のあたりに抱き着いて、いざと言う時に備えている。果たしてそれが備えになっているのかは、先ほどの光景を思い出す限り怪しいところではあった。

 

「こんにちは」

 

「こ、こ、こんにちはっ!」

 

近づいて来た女の子に挨拶すれば、女の子は声を裏返し、つっかえながらも答えてくれた。

頬は赤く染まり、定まらない視線はひっきりなく周囲に向けられている。とりわけ、すぐ側にいるトカゲとその背に乗るアキを気にしているようだった。

 

無感情な瞳で自らを凝視する巨大トカゲと、目を細めて不機嫌そうに睨みつけているアキのコンビは、俺から見ても中々の怖さだ。少し離れてもらった方がよかったかもしれない。

 

「あ、あの……」

 

「なに?」

 

この女の子は、よく川で遊んでいるグループの一人だ。男一人に女が四人のバランスの悪いグループだった。

今はこの女の子一人で、胸に当てた両手の中に何かを持っているらしい。

どんな用件でここに来たのか。それを聞こうと口を開きかけ、その前に女の子は両手を差し出してくる。

 

「こ、これをっ!」

 

女の子の手には一輪の花が握られていた。

俺の枕元に置いてある(しお)れかけの生け花と同じ花だった。

 

「……これが?」

 

「お兄さんに……っお礼と……その、謝りたくて! 助けてくれてありがとうっ!」

 

覚えていないわけではなかったが、考えないようにしていた。

この子は戦いの邪魔になった女の子だ。そのせいで死にかけた。本人に悪気があったわけではないだろうし、俺は生きている。何より子供だから、今更何も言うつもりはなかった。

まさか向こうからやって来るとは思いもしなかったが。

 

「そう……ありがとう」

 

「そ、それと、あの……ご、ごめんなさい。邪魔しちゃって……怪我したって聞いて……ごめんなさい……」

 

まごつきながら必死に謝る姿は子供らしくて可愛かった。

花は貰ったし、謝罪も聞いた。誠意も感じられる。これ以上はもう十分だ。

 

「うん、分かった。じゃあ、ちょっとこっちに来てくれる?」

 

「は、はい」

 

手の届く所まで近づいて来た女の子の頭に手を乗せて、優しく撫でる。

それで一際頬を染め上げた女の子は、上目遣いで俺を見上げる。

 

「お名前は?」

 

「え、(えんじゅ)……です」

 

「エンジュちゃん。お花ありがとう。それから謝罪も。俺は君を許します。だからもう謝らなくて大丈夫」

 

「ぅ……でも……」

 

「ちゃんとお母さんの言うことを聞いて、危ないことはしないように。約束できる?」

 

「で、できます……します……」

 

「じゃあ大丈夫。あんまりお母さんを困らせちゃダメだよ?」

 

「はい……」

 

「よし。いい子だね」

 

撫でていた手をどけて女の子に微笑みかける。

顔どころか耳まで真っ赤になった女の子は、何か言おうと口を開きかけ、アキが地面に降り立った音に身体を飛び上がらせた。

 

「もういいでしょう、兄上。早く部屋に戻ってください。……お前も、どっか行け」

 

不機嫌に低語するアキに睨まれ、真っ赤な顔を一転青くし、エンジュちゃんは脱兎のごとく逃げ出した。

姿が見えなくなる直前に振り返っていたが、すぐに踵を返してどこかに行ってしまう。

 

「アキ……」

 

「……何か?」

 

とぼけたような態度に憮然とする。

 

「折角お前に友達が出来るかもしれないって思ったのに……なんで追い返すんだ」

 

「友達なんていらない。……それに、あいつは……」

 

ギリっと奥歯を噛みしめたアキは、出しかけた言葉を呑み込んだ。

何も言わないまま俺の背後に回り込み、背中から腕を通して部屋に引き摺り込む。

 

荒っぽい手つきで布団に寝かせられ、俺の手から奪い取った花を、元々生けてあった花瓶に差し込んだ。

二輪の黄色い花弁が、小瓶の中で慎ましく同居し合っている様は、ほのぼのとした気持ちにさせてくれる。

 

「さあ、飲んでください」

 

「いや、自分で飲めるから」

 

口元に差し出された薬を固辞する。

だが、アキは俺の言葉など聞かなかったように繰り返した。

 

「今、飲んでください」

 

「……自分で飲める」

 

「飲んで」

 

不機嫌な妹に強要されるまま口に含んだ。

相も変わらない苦みに咽そうになる。けれど効果は劇的だ。

段々と意識が遠のく感覚は最早慣れたものだった。

 

きちんと薬を飲んだことを確認したアキがふうっと息をつく。

瞑目して自分を落ち着かせているらしい。

再び目を開けた時には、直前までの不機嫌さは鳴りを潜めていた。

 

「おやすみなさい、兄上」

 

その言葉に答えようとして、しかしちゃんと答えられたか自信がない。

曖昧な感覚の中では記憶もあやふやになる。何が夢で何が現実か分からない。

 

次に起きるのは数時間後だ。

それまで、外で何が起ころうと目が覚めることはない。それが一番怖いことだ。



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33話

久しぶりの三人称でござる


少女は帰り、レンは眠った。だと言うのにトカゲは依然元気である。

何とかして小屋に戻さなければならない。難しいことは分かる。とても元気だ。押そうが引こうが梃でも動こうとしない。しかし何とかしてやらねばならない。それが自分に与えられた仕事である。

アキは腕をまくって気合を入れた。さあやるぞとトカゲを睨んだ。トカゲは無感情にアキ見つめ返す。シューっと突き出された舌が私を嘲っている気がする。そうアキは思った。

 

――――当然のこと、一仕事終えるまでに紆余曲折あった。

トカゲの住まう小屋は馬小屋の隣にある。そこまで連れて行くだけでも相当の苦労だった。

最終的に力に頼ったアキはトカゲを押し込めた後、力づくで戸を押し閉めた。そうしてようやく平穏が訪れる。乱れた息を整えるため大きく息を吸い込んだ。

 

服が乱れているのはそれだけ大変だったからだ。

襟を咥えられ天高く放り投げられたり、頭から丸飲もうとしたり、隙あらばレンの眠る部屋に突貫しようとしたり。

 

色々あったが、努力叶ってトカゲを小屋に押し込むことが出来た。

はあと息を吐く。もうダメ疲れた。

弱音が零れる。戸にもたれかかってズルズルと脱力する。

気を抜いたその瞬間を見計らったように、ドンっと戸に巨体のぶつかる音がした。

衝撃で跳ね起き、ついに壊す気かクソトカゲ、と戸を押さえつけにかかる。

 

戸の向こうでトカゲが蠢く気配がする。藁の上をカサカサと歩き回る音。シューっと空気の抜ける音。

その音を聞くとアキの背中をぞぞっと怖気が走り、無意識に手は木刀を探ってしまう。

しかし木刀は部屋に置いて来た。兄に殺すなと厳命された以上、間違って殺してしまわないよう配慮した結果である。果たしてそれが間違いだったのか。この状況を鑑みれば間違いだったのだろう。

 

戸が壊されたら今度こそおしまいだ。食べられる。どうしよう……。

悲観するぐらいには、かなりの危機が訪れていた。

 

トカゲの本意がどうだろうと、その巨体で手加減なく接してくるのなら、人の身体など容易く壊れる。

すでにアキは何度か壊れかけた。その経験が警鐘を鳴らす。逃げろ、と。

 

ついに戸から手を離し、少しずつ後ずさったアキは、しかし続く衝撃が来ないことに気づいた。

恐る恐る戸に近づき耳を澄ます。先ほどあれだけ聞こえた音が聞こえない。小屋の中は静かだ。

 

唾を飲み込み、額に掻いた汗を拭う。どっと疲れが押し寄せた。

トカゲと相対する以上、ある程度の疲労は致し方ない物ではあるが、今日のそれはいつもより大きく酷い。

それもこれもあいつのせいだ。全部、あいつのせいだ。

喉元にせり上がった物を噛み殺し、もう一度唾を飲む。

 

胸の奥で渦巻く感情はいったん捨て置き、次のことを考えた。まだやらなければいけないことがある。餌やりが途中だ。

馬に餌をやらなければ。大分遅れてしまった。腹を空かせているだろう。それを済ませれば、一先ず家事手伝いは終わりである。

 

前もって用意してあった飼い葉を腕一杯抱え込む。

量が多くて前が見えない。けれど何となく歩けた。えっちらおっちら馬小屋に向かう。

 

アキの姿を見て捉え、栗毛の馬は尻尾を高速で回し始めた。そのあまりの回しっぷりに、隣にいた黒馬はぎょっと驚いた。尻尾の回転に合わせて黒馬の首も回っている。

 

飼い葉を置きつつ、その光景を見たアキはくすりと微笑んだ。

ささくれだった心が癒えていく。馬と言うのは思いのほか可愛い。感情豊かで人に懐く。表情は分からずとも仕草で考えていることが分かる。母上とは大違い。

 

ああ、可愛い……。

 

最近のアキは可愛いものに目がない。

それはストレスが溜まっているせいもあるし、別の理由もある。

とにかく可愛いものを見るとたまらなくなる。抱きしめて頬ずりしたいぐらいに。

 

疼く身体を抑えじっと馬たちを見ていたアキは、はっと我に返って仕事を思い出す。餌をやりに来たのだ。

 

両方の馬に飼い葉を与える。少量の果物もやった。

勢いよくがっつく栗毛と上品に頬張る黒馬。ペットは飼い主に似ると言う。だとするなら、この違いは育ちの違いだろう。この黒馬の飼い主はよほど高貴な身分に違いない。

レンが思ったのと同じことを、異なる経緯を経てアキも思う。

 

異なる二頭の様子をいつまでも見ていたかったアキだったが、生憎のこと時間は有限である。気を抜くと瞬く間に日が沈む。

最後にそれぞれ一度ずつ撫で、急ぎ家に戻る。木刀を腰に差して臨戦態勢になった。

家事の次は鍛錬と相場が決まっている。兄から受け継がれしルーチンである。

 

さあ、鍛錬だ。鍛錬だ。鍛錬だ。

心の中で三回唱えて気合を入れる。

しかしいつもと違ってしっくりこない。理由は分かっている。あの少女のせいだ。

 

その顔を思い出すとまたムカムカしてきた。

アニマルセラピーは応急処置でしかない。その可愛さのおかげで一時忘れることが出来るが、すぐに思い出す。そうなったら元の木阿弥である。

 

苛立つ心を持て余しながら、アキは気配を忍ばせてそっと母の部屋を覗き込む。そには当然椛がいる。

椛は胡坐を組んで沈思黙考に耽っていた。その足元には手紙があり、何か文字が書かれているが、アキはそれに興味がなかった。

重要なのは母が動こうとしないことである。その理由まではアキのあずかり知るところではない。

 

椛がこうして黙念としているのは、当然手紙の内容が理由であった。先方と交わし合う手紙の量は、今やあちらから届くことの方が多くなっている。

多い時で週に一度、家に遣いがやって来る。返事など待たずに次々送ってくるのだ。

私が送るのを待て、と件の遣いに苦言を呈しても、「いやぁ。なんか面白がってますよ」とけんもほろろであった。

 

提示された条件に悩む椛。その間にも早く早くと催促の手紙が溜まっていく。

急かされている。一刻も早くと言って来ているが、向こうの考えが読めず躊躇した。考えなくてはならない。人の人生を左右する重大な決断だ。考えて考えて、決断しなければならない。

 

そんな母の迷いと悩みなど知ったことではないアキは、動かない母をひとしきり眺めた後、これ幸いとばかり一人で訓練場へと向かった。

 

訓練場にひと気はない。他に誰も居ない空間にただ一人。

思春期を迎えたアキにとって、自分以外の気配がない場所と言うのは心休まる空間だった。

 

父の小言が気に障り、母の物言いたげな視線が煩わしい。

村人たちの兄を心配する言葉などはアキの神経を逆なでた。

 

他人の目のないこの場所では、何をするにしたって自由である。何でもできる。好きなことを。自由に。

 

アキは木刀を握りしめ手頃な木へ近づいていく。

身体から漂う暴力的な気配を行動で表すように、その幹を打ち付けた。

 

重苦しい音が鳴り響いた。

衝撃は枝葉まで伝わり、葉が擦れ合う音と共にヒラリヒラリと落ち葉が舞った。

 

微かに痺れる手を無視してもう一度木を叩く。

身に染みている型はある。しかしそれでも乱雑な所作は隠しきれない。

二度目の打ち付けは手が痺れていた分だけ威力が落ちた。音も軽くなっている。それに構うことなく木刀を振り上げ、何度も何度も木を打ち続ける。

 

やがて手の感覚がなくなった頃、アキは木刀を取り落とし、ようやく木を打つのをやめた。

ぽたぽたと汗が地面に染みていく。肩で息をしながら瞑目する。

感覚のない腕にあるのは痺れのみ。脳髄に突き刺さるような痺れが、アキの頭を明瞭にしていた。

 

自分のことを考える。近頃怒りっぽくなった。色々なことが癪に障る。些細なことから大きなことまで。感情に振り回されている自覚はあったが、だからと言ってどうすることも出来ない。

胸の内に渦巻いていた感情も、今ので発散し切れたわけではない。未だ燻っているものがある。

 

無性に身体を動かしたい。何かに当たり散らしたい。暴れて暴れて暴れまわりたい。

手は動かず木刀は握れない。すでに喉元までこみ上げている感情を御することは出来ず、アキは大口を開け力一杯叫んだ。

 

「ああぁっ――――!!」

 

なぜこんなに苛立つのか。

原因は明快だ。あの少女。(えんじゅ)と言う名の子供。あれが非常に腹立たしい。

 

アキは言ったのだ。もう来るなと。次来たら殴るとも言った。

なのに性懲りもなくまた来た。それもアキの面前で。嘲笑うように。

思い通りにならないことがアキにとっては不愉快だった。傲慢とも言える考えだが、事実それで気を損ねている。

 

どこに手抜かりがあったのか。もっと激しく言えばよかったのか。暴力に訴え、罵詈雑言の限りを尽くせばあいつはここに来なかったのか。

アキは考える。思い出すのは数日前。洗濯物を干していた時のことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は久しぶりによく晴れた。

晴れたからには洗濯が捗る。アキは自分の寝間着や下着を手で洗い、洗い終わったものを物干し竿にかけていた。

 

竹で出来た竿は衣服がかけられると重みに耐えかね湾曲する。ぐにゃりと曲がった竿は見るからに頼りない。折れてしまいそうな気もする。けれど見た目ほど脆くない。経験でそれを知っているアキは乱雑に干していく。

 

自分の着るものだから、適当に扱ってもいいと思っていた。これが他人の衣服なら丁寧に扱うのだが、所詮は自分の物である。最悪半渇きで、変な臭いがしていようとどうでもよかった。

 

適当に干された衣服たちは、適当に干されたなりの格好で日に照らされている。

アキはそれらを眺め、まあこんなものだろうと踵を返す。さあ、桶を戻して鍛錬だ。

 

一仕事終えた直後、達成感から意気揚々と歩を進めるアキだったが、歩いている最中ふと視線を感じて立ち止まる。

誰かに見られていると言う感覚が確かにあった。つい数か月前までは分からなかっただろう人の気配や視線でも、今なら薄々察知できるようになっていた。

 

頭を回して周囲を見回す。それらしき人影はない。

気のせいかと踵を返す。しかし首筋にチリチリとした感触が付いて回り、やっぱり誰かいると再び周囲を探った。

 

一度見回した時には分からなかったが、二度三度と視線を巡らしてようやく分かった。やけに小さいのが物陰に隠れてアキを盗み見ている。

それを見つけた瞬間、アキの身体に威圧感が纏う。手は木刀にかけられ、いつでも抜けるよう油断なく構えた。

 

「誰だ」

 

鋭く言い放つ声には警戒心が滲んでいた。

これら過剰ともいえるほどの態度の理由は、先代の剣聖に斬られたことに起因する。油断したところを背中から斬られた。辛うじて命は救ったが、だからこそ他人への当たりは一層強くなった。

特に見ず知らずの人間への警戒心は、もはや敵愾心と言って良いほど膨れ上がっている。さらに今回は盗み見られてもいる。アキは短慮で直情的な気質そのまま、殺すことすら視野に入れた。例えそれが自分より小さな子供であったとしても。

 

「出てこい」

 

「……」

 

少女が姿を現した。

見るからに子供である。年のころは7~8歳と言ったところか。

黒いおかっぱ頭の少女は、アキの威圧感に当てられて酷く怯えていた。

 

アキは少女の怯えた様子など気にも留めず、冷静に観察する。

武器の類は持っていないように見えた。しかし懐に隠しているかもしれないから油断はできない。

両手で握りしめている花は、レンの枕元に置いてある花と一緒だ。

 

アキは眉をひそめる。それを見た少女は殊更に縮こまった。

 

「何の用?」

 

「……」

 

アキの言葉には先ほどまでの敵愾心は消えている。しかしそれでもなお警戒心は滲んでいた。ぶっきらぼうな物言いは、アキ本来の口調であった。

 

少女はアキの問いかけに対し沈黙し、手の中の花とアキの顔を交互に見た。言いたいことはあるようだが、その口は呼吸を繰り返すだけで言葉が紡がれることはない。

 

少女の煮え切らない態度にアキは苛立つ。聞くべきことを聞いているのだから、少女は当然答えるべきである。盗み見ている理由とここに来た用件。その二つを答えるだけでいい。簡単なことだ。だと言うのに何を悠長にしているのか。

 

「……」

 

「……」

 

沈黙が場を支配する。

アキの苛立ちは怒気となって少女に伝わった。

身の危険を感じ始めた少女は何か言わなければと焦る。しかし頭は真っ白になって言うべき言葉が出て来ない。

 

「ぁの……ぉ……」

 

「は?」

 

「ひぅ!?」

 

あまりにか細く要領を得ない言葉に、アキはそのように聞き返す。

当然のことそこに労わりや優しさなどない。それが余計に少女を委縮させる。

 

「ぉ、ぉ……」

 

「お? なに?」

 

「ぉに……おにい……」

 

「おにい?」

 

ノロノロと喋る少女にアキは我慢の限界を迎えそうだった。

もう放って帰ろうか。そう思ったとき、聞き捨てならない言葉が少女の口から飛び出した。

 

「おにいさんに、謝りたくて……」

 

「は?」

 

何を言っているのだとアキは少女を凝視する。

今や少女は俯いて、喋ることだけに集中している。

 

「私のせいで、怪我しちゃったから……」

 

「――――」

 

すうっと血の気が引いていく。

頭の中を占めていた苛立ちや煩わしさが一瞬にして消え、真っ白になる。

 

「……なに? なんて言った?」

 

「あの……その……」

 

言い渋る少女に詰め寄って、肩を掴んで詰問する。

 

「怪我? 兄上が? いつ? なんで?」

 

鬼気迫る勢いだった。

身体を揺さぶられる少女は涙目になっている。

 

怯える少女への気遣いなど微塵も見せないアキに対し、少女は答えることを余儀なくされる。

恐怖に支配された中での受け答えである。アキの鬼気迫る勢いと相まって、半狂乱に近い会話が二人の間で交わされた。

 

「わ、私が邪魔して……! お兄さんが怪我しちゃって!」

 

「邪魔って何のこと? 怪我って何の怪我? いつ?」

 

「前、戦ってたとき……春ぐらい」

 

「あの婆が襲って来た時のことか?」

 

「ばばあ……? わ、わかんない!」

 

「わかれよ!」

 

相次ぐ質問で混乱に陥った少女を、アキは鬼の形相で睨み付ける。

少女は生きた心地がしなかった。殺されてもおかしくない。そんな雰囲気が漂っている。

 

「お前が兄上を邪魔して、それでどうなった? 兄上は怪我したの? 傷を負ったの?」

 

もはや少女に言葉を発する余裕はなく、ただただ頷くのみ。

そこまで追い詰めたのはアキ自身だ。それは分かっている。だがあと一つだけ聞かなくてはいけなかった。

 

「どれぐらいの傷だった?」

 

「……」

 

「答えろ」

 

「……血が、いっぱい……」

 

それを言うのが精いっぱいで、後はハラハラと涙を流す少女をアキは無表情で見つめる。

その手に握られた黄色い花は見舞いの品だろう。分かっていて聞いた。

 

「その花は?」

 

「……」

 

「花は?」

 

「……謝りたくて」

 

「必要ない」

 

でも、と取り縋る少女を拒絶しアキは背中を向けた。これ以上お前とは話さないと態度で示した。

その無碍ともいえる態度を前に、少女は頬を濡らしながらも退くことはしなかった。

 

「……会いたい」

 

「帰れ」

 

「ちゃんと謝りたい」

 

「帰れ」

 

「一度でいいから」

 

「帰れ!」

 

アキは声を荒げる。

振り向いた顔は鬼の様相。ただし見た目ほどの威圧感はない。それは自分自身への罪悪感のせいであった。

 

「兄上はお前と会わない! 怪我が治らなくて大変なのに! また死んじゃうかもしれないのに! お前なんかと会わない! 帰れ!」

 

そこまで言ってなお少女は帰ろうとしない。

木刀を手に取り、切っ先を少女に突き付けて唸る。

 

「帰らないと殴る。また来ても殴る。二度と来るな二度と近づくな。兄上はお前とは会わない。絶対に」

 

目前に迫った身の危険を前にして、ようやく少女は踵を返す。

全力で逃げ去る背中を見届け、アキは木刀を地面に叩きつけた。

行き場のない怒りが彼女の内に満ちていた。

 

「……っ」

 

それを向けるべきはどこなのか。

今のアキにはそんなことも分からず、怒りに震えながらその場に立ち尽くした。




感想にて、タグを追加するべきと言うご指摘を承りました。
描写不足を痛感し、早く次の展開に向かうべくすっ飛ばしていた部分を、今話と次話で書かせていただきます。
それらの感想やご意見を参考にタグを追加するか否か判断させていただきます。


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34話

記憶を呼び起こすのにかかった時間はほんの一瞬だった。その一瞬で怒りは何倍にも膨れ上がった。

元より耐え難かった衝動が一際増し、感情の迸るままに叫ぶ。叫び過ぎて喉が枯れるほど叫んだ。

 

最後には力尽き、萎んでいったその声は、到底自分のものとは思えないしわがれ声となっていた。

醜い声が耳朶を打ち、自分を客観視する余裕が生まれ、ただ叫ぶことの虚しさを思い知る。

 

膝に手を当て深呼吸を繰り返した。いつの間にか手の感覚は戻りつつあった。

木刀を振り回し大声を張り上げたことで、膨れ上がっていた苛立ちは発散した。一先ずはこんなところでいいだろう。幾分すっきりした頭でそう思う。

 

目を上げれば、滅多打ちにした木は樹皮が剥げて、蜂蜜色の中身が見えている。

よもやこれで枯れることはないだろうが、好き勝手に当たり散らした結果を目の当たりにし、少しだけ罪悪感を感じないこともない。

私、何してるんだろう。アキはそう思う。

 

(えんじゅ)と名乗ったあの子供に苛立ちを感じる。

あいつが兄をあそこまで追い詰めたのだと頭に血が上る。

しかし頭を冷やしてよく考えてみれば、あの年の子供に憎々しいほどの怒りをぶつけることの、なんと愚かなことか。

 

自分が7つだったころ、一体どれほどの子供だったと言うのか。決して誇れるようなものではなかっただろう。愚かで、無知で、人の手を煩わしてばかりだったに違いない。

 

思い返すに二年前、丁度木刀を握り始めたばかりであった。

村中の人間が、アキは剣を学ぶだろうと思っていたし、期待してもいた。形だけ見ればアキはその期待に応えたことになる。

しかし、アキの本意に人の期待に応えたいと言う殊勝な心掛けはまるでなく、剣を学び始めた理由は、兄がやっていたからの一言に尽きる。

 

幼いころより毎日のように遊んでくれた兄である。

その兄が、いつの頃からか剣を習い出したことで、遊ぶ時間は減ってしまった。

暇を持て余したアキは草むらに隠れて、母にしごかれる兄を見ていた。

 

その時の光景は今でも瞼の裏に焼き付いている。

子供心に母の鍛錬は虐めのように見えた。少なくとも、年端もいかない子供に対する行いではない。

情け容赦なく打ち付けるのは勿論のこと、動けなくなるまで基礎鍛錬を繰り返し、満身創痍で倒れた兄に対し、この程度で動けなくなるのなら諦めろと言い放った。

傍で聞いていただけのアキでさえ、泣きたくなるような辛辣な言葉の数々であった。

 

しかし、どれだけ厳しい言葉を浴びせられようと、剣を捨てるよう諭されたところで、レンは何度でも立ち上がった。決して諦めない不屈の姿勢と立ち上がり続ける背中が、今なおアキの中で強く印象に残っている。

 

だからこそ自分も剣を握った。自分もそうなるべきだと子供ながらに思った。

それが理由である。母が剣聖だと言うのは、当時の自分にはどうでもよいことだった。その言葉の意味すら理解していなかっただろう。

無知蒙昧極まれりである。実際に叩きのめされるまで、剣聖の恐ろしさを微塵も理解していなかったのだから。

 

今より幼いころの自分を思い返し、子供とはかくして愚かな生き物だと言い聞かす。あの少女に怒りを向ける意味などどこにもない。

頭では理解している。しかしやはり感情が言うことを聞かない。あの顔を思い出すとどうしようもなくムカムカしてしまう。

どうしてだろうか。初対面の印象が最悪だったからか。それともこちらの言うことを聞かず、あまつさえ自分の目の前でレンに会いに来たからだろうか。

 

理由は分からない。けれどむかつくのだ。どうしようもなく。

思考の海に沈みこんだアキは、答えの出ない問いにかかずらうことを止め、鍛錬に戻ろうとした。

足元に落ちていた木刀を拾い上げ顔を上げる。

 

そこで、いつの間にか背後に忍んでいた気配にようやく気がついた。

振り向いた先、声をかけもせず甲斐なく突っ立っていたのは、今しがた思い浮かべていた剣聖その人である。

 

「……」

 

「……ふむ」

 

目があった二人は言葉を交わすことはなく、かと言って朗らかな雰囲気に包まれるでもなく、妙な空気の元で見つめ合う。

相変わらず、椛は何かを言いたげな面持ちであった。しかし何を言うでもなく、複雑な色を堪えた瞳でアキを見ている。

 

アキは言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ、と不機嫌に眉を顰めた。

その感情の機微を正しく理解しながらも、やはり椛は口を開かない。

こんなことで時間を無駄にするつもりはない。舌打ちしそうになるのを抑え、アキの方から訊ねた。

 

「……何か」

 

「随分大きな声を出していたな」

 

待っていたとばかりの即答。

アキの心は不愉快な気持ちで満たされた。

 

「それが何か」

 

「何かあったのか」

 

「何も」

 

アキの答えは短い。そして本心は隠した。

椛はそれが嘘であることに当然気づいている。

 

近頃は気配で子供たちの動向を監視している。その監視網は、その気になれば村全体に及ぶほど大きなものだった。

気配と言うのは目で見るのと同じぐらい様々なことが分かる。特に感情の揺れ具合は気配の揺れと言う形で表れる。

暗闇の中で不意を打たれることが多かった椛は、特にその方面において一日の長があった。

 

槐が家に来たことには誰よりも早く気づいていた。それに二人が対応したことも勿論知っている。

その辺りからアキの気配が乱れ始めた。機嫌を損ねることがあったのだろうと見当はつく。

予想外だったのは、レンがそれについて何もしなかったことだ。椛が人の気配を読み取れるように、レンも同じことが出来る。てっきりアキが不機嫌になったことに気づいて、何かしらご機嫌取りをすると思っていたが、読みが外れた。

 

しなかったのか。出来なかったのか。気づかなかったのか。

前者二つならまだいい。面倒くさいことは母に丸投げたと言うだけのこと。しかしこれが後者だと言うのなら、考える必要がある。

それほどレンは弱っている。すぐ近くにいる妹の気配すら読み取れないほどに。

 

手紙の内容が頭をよぎる。突き付けられた選択肢。

やむを得ないかもしれない。心の天秤は過去の発言を撤回する方に傾き始めていた。

 

「母上。そんなことよりも、やるならとっとやりましょう。やる気がないのなら、どっか行ってください」

 

「ああ……。では、やるか……」

 

木刀を肩に担ぎ、獰猛な気配を漂わせるアキ。血気盛んな肉食獣を思わせる。

そこに過去の自分を見た気がして、椛はたまらず閉口した。

 

祖母を憎み、母を嫌い、家を飛び出した若かりし日の自分も、こんな雰囲気を漂わせていたのだろうか。

家を飛び出したが最後一度も戻ることはなく、結局、死に目に会うこともしなかった。

 

一方的に嫌うばかりで、一度たりとて話す機会を作ろうとしなかった。

きちんと話しておくべきだった。それをしなかったから、今こうして悔やんでいる。

 

かつての自分は思春期の一言で片づけるには行き過ぎた。

結婚し、子をなして、家庭を持った今だからこそ思う。

20年前の自分も10年前の自分もさして変わらぬ。成人すれば立派な大人だと思っていたが、成人した自分は大人には程遠かった。

きっと、アキもそうなのだろう。伊達に血は引いていない。すでに似通った点は多々見られる。大人になるには時間がかかる。そんな気がする。

 

出来ることなら、アキを自分と同じ方向に向かわせたくはない。

しかし過去のことがあるからこそ、強くは言えない。いずれアキが家を飛び出す時が来るとして、おそらく自分はそれを止めないだろう。

それで失ったものがあれば得たものもある。今となっては剣聖の肩書しか残っていないが、その経験を否定することはできない。

 

どうしたものか……。

子育ては悩んでばかりだ。正解と言うものが果たして存在するのかさえ疑わしい。

親として一番に願うのは子供の幸せだ。親ならば誰もがそれを願うだろう。

しかし自分は剣聖でもある。剣聖であることに半生をかけてきた。だからこそレンは死にかけたのだ。

 

突進してきたアキに足を引っかけて転ばせながら、椛は己の役割と成すべきことを見つめ直す。

剣聖としての自分。親としての自分。剣を取るか。子供を取るか。両方は取れない。それはもう骨の髄まで思い知った。

ならばこそ、選択肢は一つしかない。腹をくくる時が来たのだ。

 

椛は決心した。手紙に書かれていた条件をすべて飲むことを。それは自ずと前言を撤回することにも繋がる。

 

――――思いのほか早い別れになるだろう。

 

椛はきたる未来を予感しながら、勇猛果敢に突撃を繰り返す愛娘に木刀を叩きつけるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

夕暮れ。

日は沈みかけ、すでに太陽は半分隠れている。橙色と藍色の二色のコントラストで彩られた空は、この後すぐにでも暗闇に包まれることだろう。

 

この日、いつも以上に鍛錬に熱の入った椛は、向かってくるアキをこれでもかと痛めつけた。

ぐうの音も出ないほどコテンパンにやられたアキは、心が挫けそうになるたびに草葉から覗いた兄の背中を思い出し、奮起して立ち上がった。

 

その様に感心したのか、はたまた興が乗ったか。

ならば容赦はせんと言わんばかりだった剣聖は、最後まできっちり手を抜かず、計6度アキを気絶させたところで鍛錬は終わりとなった。

 

ズタボロの布きれのごとき有様だったアキは、最後の意地でもって背負われることを拒否し、木刀を杖代わりにしながら何とか帰路についている最中である。

あちこち擦り傷を負っているのはいつものことで、道中すれ違った村人たちもさして気にする様子はない。

 

覚束ない足取りで家に向かうアキは、何度か声をかけられたがすべて無視した。まれに兄の容体を尋ねるものもいたが、一睨みすれば大抵黙る。その間にとっととその場を後にした。

 

その調子で家まで戻り、玄関を素通りして縁側へと向かう。

縁側から入った時、すぐ目の前にはレンの眠る部屋がある。それを目当てに縁側を上がり、最後は転げるように帰宅した。

 

靴は土の上に脱ぎ散らかされたままだが気にする余裕はない。酷使された筋肉が悲鳴を上げている。立とうとして立つことは出来ず、仕方なく床を這って進んだ。

戸を開け部屋に入るだけでも一苦労。どうにかこうにか這い進み、布団の側まで行くことが出来た。

 

すやすやと寝息が聞こえ、息を吸い込むたびに布団は上下していた。

それを確認してほっと息をつき、最後の力を振り絞って起き上がる。

 

布団の上の寝顔をじっと見つめる。起きている時よりも、こうして寝ている時の方が以前との差異がはっきりする。

怪我をして以降、すっかりやせ細ったレンがそこにいる。

 

忸怩たる思いに駆られるアキだったが、この数か月のレンの生活を思えば仕方のないことであった。

日がな一日寝て過ごす毎日で、怪我のせいで運動もほとんど出来ず、一日の食事は三食から二食に減った。その二食にしたって、アキが一食で平らげる量よりも少ない。

自ずと体重は落ち筋肉は衰えた。ぎゅっと抱きしめれば折れてしまいそうなほど体は小さくなってしまった。

かつての溌剌(はつらつ)とした雰囲気は消え去り、代わりに儚げで繊細な印象が顕著になっていく。それ故にいずれ消えてしまうのではないかと不安に駆られる。

 

今のレンを見るたびに、アキはとある人物を思い出さざるを得なかった。少し前に東へ行った時に出会った、カオリと言う女性のことだ。

アキはその女性が嫌いだった。怖かったと言ってもいい。人生で初めて、ただ見ただけで本能的な恐怖を覚えた人物であった。

当時はそこまでの感情を抱く理由は分からなかったが、今ならわかる気がする。

カオリは、死に近すぎたのだ。

 

彼女から放たれる死の気配をアキは敏感に感じ取っていた。

迫りくる死に抗いもせず、半ば諦め、そして受け入れていた。死に恐れを抱かず逆に寄り添って、戯れにレンを誘うような真似までした。

 

その独特な雰囲気は、死を間近に控えた人間特有のものだったのかもしれない。

今やそれと同じものがレンから感じられる。いや、もしかしたら、以前から微かに感じていたのかもしれない。だからこそ、レンとカオリを近づけたくなかった。

 

今、その雰囲気は色濃くなってレンに纏わりついている。ならば、レンは死ぬのだろうか。あの夜のように。

 

「……いやだ」

 

生気のない真っ白な顔と石のように冷たい肌。あの夜のことが思い出され、無意識に拒絶の声が口を衝いて出た。それは誰に聞かれることもなく、虚空へと消えていく。

 

考えたくはない。しかし考えてしまう。

今度は足手まといにならない。守ると誓った。

しかし、アキが鍛錬に励む陰で、レンは日に日に衰弱している。

焦燥感に駆られ、より一層強さを求めたところで、レンを治療する術はアキの手にはない。

このままでは守れない。今度こそ死んでしまう。幾度となく諦観が頭をよぎり、そのたびに振り払って、馬鹿の一つ覚えで鍛錬に励む。

 

月日が経つにつれ、先々のことが鮮明に見えるに従って、アキの気持ちは悲しみの渦に包まれていく。逃げようのない渦の中で悶え苦しんだ。

 

身体を動かしているときが一番楽だった。務めを果たしている間は何も考えずに済む。

だが一度現実に立ち戻れば、目を離した隙にレンが死んでしまってはいないかと不安に押し潰されそうになる。

 

アキは、朧げにではあるが、周囲の気配を読めるようになっていた。

そのおかげで目で見ずともレンの無事を直感で理解できる。だが、最早何となくの次元では満足できなかった。

直接この目で見て、手で触れて初めて安堵できる。そうでなくては思考は悲観に包まれ、最悪の可能性を考え続け、切りのない恐怖に襲われる。居ても立っても居られない。

 

今もこうして目で安否を確認し、頬に触れることで一息つけた。

束の間心に安寧が訪れ、次に待っているのは新たな恐怖である。

 

「兄上……私は、どうしたら……」

 

たった一言の弱音がその口から漏れ出ていく。

その弱さはレンが眠っている時にしか見せていない。レンが起きている短い時間は、出来る限り明るい雰囲気を保とうと努力しているが、その実、とめどない無力感と悲壮感が今この瞬間もその身を苛んでいる。

 

もしもこの苦しみに耐えかねてレンに縋りつくことがあれば、抑え込んでいた感情は堰を切ったように溢れ出すだろう。

そうなったが最後、自分は完全に無力になってしまう。吐き出される弱音と共に守る力は失われる。

弱さなどいらない。ただ強くあればいい。そう、兄のように。

 

己の在り方を見つめ直す。幼いころの情景を思い浮かべれば造作もないことだ。一時立ち直ることだって出来る。

しかし現実は何も変わらない。どれほど強大な力があっても、今のアキにレンは救えない。

 

巨大な壁がある。

レンを救う手立てはその壁の向こうにあるが、アキにはただ見ていることしかできない。

 

アキは考える。守るために必要な『何か』を求め、暗闇に溺れて考え込む。

闇の先に答えを求めて、深く深く思考の海に沈みこんだ。

しかし暗闇を掻き分ける手は空を切るばかり。だからと言って、自分にできることは何もないと、それを認めることは絶対に出来ない。

 

どこまでも深く闇に潜り込んで、アキは求め続ける。

それがどのような結末をもたらすかは、まだ誰にもわからない。



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35話

アンケートにご協力ありがとうございました。
いる派といらない派で45:55と割と拮抗していましたので、「ヤンデレ」タグはつけませんが、代わりに「病」タグをつけておきました。
レン君寝込んでるしとりあえずこれでいいかなと思います。

それと今話を読んで不愉快に思われた方がいたら申し訳なく思います。
とばそうかなあとも思ったんですが、この小説の性質的に書いた方がいいだろうと思い書きました。
センシティブな話ですので、先に謝っておきます。ごめんなさい。


とある晩夏の日のことである。

その日、俺はいつものように太陽が昇り切った頃に起きて、またいつものように布団の中で微睡んでいた。

小鳥の囀りが聞こえるなあと頭の片隅で思い、山の方に意識を向けた時、何か違和感を覚えたがその正体までは知れなかった。

違和感の正体に辿り着く前に、空気ををつんざくような大声が聞こえてきて、それどころではなくなってしまう。

 

「兄上ぇ――――!!」

 

それは、近頃少し元気をなくしていた妹の叫び声だった。

荒々しい足音と、あちこちにぶつかる音と、派手に転んだような音が重なって、それでもその叫び声はどんどん近づいてくる。

 

その勢いのすさまじさに、さては緊急事態かと飛び起きた。

どんなことにも対処できるように、と膝立ちになったが、やはり身体は上手く動かせない。

部屋の隅に置いてある刀を見て、いざと言う時はあれを持って外に飛び出すことを考えたが、果たして出来るかどうか。

 

早くも弱気になっている自分を叱咤し、まずは状況を把握するのが先決と、辺りの気配を探ってみる。

家の中には俺とアキの他に父上と母上がいて、父上の気配がいささか動揺している。アキの叫び声に狼狽えているのだろう。

それとは正反対に、母上の気配は揺るぎなく、巨山の如くどっしりと構えている。さすがは母上だ。気配を通じて貫禄のようなものが感じられ、安心感を覚える。いつの間にか抱いていた不安と緊張感が和らいだ。

 

「兄上ぇっ!!」

 

いよいよ部屋までやって来たアキは、勢いそのまま戸をぶち破る。怒涛のごとく部屋に転げ入って来た。

ゴロゴロと転がって倒れ伏したアキに、恐る恐る声をかける。

 

「アキ?」

 

「兄上!」

 

がばりと顔を上げたアキは、今にも泣きそうなほど切羽詰まった顔で俺を見た。

 

その顔を見て、俺も気を引き締める。

一体何が起きたのかと考えを巡らせる。剣聖の座を狙う者がやって来たのか、はたまたついに賊でも出たか。

考えれば考えるだけ、可能性は無数に浮かび上がる。

 

「何があった」

 

「血が出ました!」

 

時が止まった気がした。

それは予想だにしなかった言葉だ。聞き間違いかと自分の中で反芻する。けれど聞き間違いではない。

 

「血?」

 

「はい!」

 

「……それで?」

 

「どうすればいいでしょうか!?」

 

……どうすれば?

 

まるで大したことなさそうな問題を突き付けられ、脱力しそうになるのに耐えながら、落ち着いてアキの身体を観察する。

見える所だけでもその体には傷跡がたくさんある。ほとんどは古傷だが、日々母上がボコボコにしているせいで傷は増えている。

最新の傷で言えば、ここに来る過程であちこちぶつけて擦り剥き、膝小僧からは血を流していた。

 

確かに血は流れているなと頷く。

同時に、そんなことで大騒ぎしたのかと力が抜けそうになった。

 

布団の上に正座しながら、どういう態度を取ればいいのかなとアキを見る。極々真剣な面持ちで見返された。

聞く限り、全然大したことではないのだが、アキにとっては一大事らしい。ならばこちらも真剣に話を聞いて、大真面目に答えなければならない。

最近は不甲斐ないところしか見せていないが、こう見えて俺は兄なのだから、妹の悩みや相談には進んで力を貸していきたい。

 

「じゃあ、とりあえず水で洗い流そうか。そのあと消毒」

 

「消毒……やっぱりした方がいいですか?」

 

「ばい菌が入ると悪化するから」

 

こんなことはかねてより重ね重ね言い聞かせてきたことだ。

すっかり忘却の彼方だと言うのなら復習が必要になる。母上に実技も込みで教えてもらおうか。身体に染み込ませた方がいいだろう。

 

「でも、どうやって消毒すればいいですか? ……指につけて中に入れればいいですか?」

 

「指?」

 

何を言っているのかとアキの膝小僧を見ながら首を傾げる。

消毒と言ってもこの世界に消毒液などないし、精々度数の高い酒をぶっかけるだけなのだが、指を入れるとは一体何を言っているのか。

 

「……入るかな……」

 

俺が疑問に思っている間、行儀よく正座していたアキは、神妙な顔で己の下腹部辺りを見ている。

その視線は間違っても膝小僧には向けられていない。その程度のかすり傷、意にも介していない。

 

俺とアキの間で認識に齟齬が生じていることに気づいた。

微妙に嫌な予感を覚えながら、改めて訊ねてみる。

 

「アキ」

 

「はい」

 

「どこから血が出たって?」

 

「股です」

 

「またって……股?」

 

「はい」

 

今度はアキが首を傾げる番だった。

股間の辺りに手を置いたアキは、「ここから血が出たんです」とはっきり言った。それで俺の頭は真っ白になる。

 

「たぶん、おしっこの穴からだと思うんですけど」

 

「ちょっと待て。何も言わなくていい。今考える」

 

動かない頭を無理矢理働かすため、拳骨で軽く小突く。

その衝撃で辛うじて動き始めた思考は、直面した喫緊の課題について、すべきことは何かを考え、答えを絞り出した。

 

「よし、わかった」

 

「何がですか」

 

「対処法。……母上――――!!」

 

深く息を吸い込んで声を張り上げる。

こんなに大声を出すのは久しぶりだ。案の定痛みに襲われたが全く気にならない。

突然大声を上げた俺をアキは目を点にして見ている。部屋の入口に颯爽と現れた気配には気づいていなかった。

 

「呼んだか」

 

「げっ」

 

「呼びました。早いですね」

 

痛みに耐えた甲斐あって、母上は迅速に駆けつけてくれた。

声を出し終わった時にはすでに部屋の外にいた母上は、表面上は涼しい顔をしながら俺たちを見ているが、アキを見る際の目が少し険しい気がした。

 

「何があった」

 

「アキのことです」

 

「あ、兄上……」

 

やめてくれとアキは言う。

このことで母上には相談したくなかったらしい。

懇願する顔つきは弱弱しくて庇護欲が刺激される。アキがそう言うのなら、と思いかけたが、結局は心を鬼にして母上に任せることにした。どうせ俺は役に立たない。

 

「アキが股から血を流したそうです」

 

「……なに?」

 

「たぶん初潮だと思うので見てやってください」

 

「………………そうか」

 

アキを挟んで会話する俺たちに、アキ自身は訝しそうにしている。「初潮?」その単語は聞き逃さなかったか。

 

「ついに来たか」

 

「女ならいずれ来るでしょう」

 

「ああ。……あとで話がある」

 

「俺にですか?」

 

「そうだ」

 

物々しい雰囲気でそう言われば断ろうにも断れない。素直に頷いておく。

 

「では、アキ。来い」

 

「嫌です」

 

母上のぶっきらぼうな言葉を受けて、アキは断固拒否し、次いで縋りつくような目で俺を見てくる。

 

「兄上」

 

「行っておいで」

 

「でも」

 

「このことは母上の方が詳しいから」

 

「……」

 

「怪我でも病気でもないから、安心して行っておいで」

 

行くか行かないか、決め切れずにまごまごするアキ。

俺はアキが自分で決めるのを待ちたかったが、残念なことに母上に待つという考えは微塵もなかった。

 

「来い」

 

「ごっ!?」

 

なんの容赦もなく襟を掴まれたアキは、そのままズルズルと部屋の外に引き摺られていく。

「離せぇ!」と怒り心頭に発した怒鳴り声が響き渡った。

それを受けてなお、無言で淡々と引き摺る母上と、怒りを募らせ抵抗するアキ。

はた目には賑やかな光景ではあるが、内実を知っていると微笑ましさは皆無だ。むしろ、そりゃ仲も悪くなると納得できる部分の方が大きい。

 

あの二人、あんな感じでちゃんと会話できるのだろうか。甚だ不安だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほどなくしてアキは戻って来た。本当に短時間で戻って来たので、またぞろ脱走を図ったのかと思ってしまう。母上が追ってくる気配はないのでそうではないようだが。

 

「……」

 

眉間に寄った皺の深さが怒りの濃さを物語っている。若干目も据わっていた。

そんな顔でじーっとこちらを見てくるものだから、逆恨みで仕返しをされるのではないかと気が気じゃなかった。

 

「……兄上」

 

「なに?」

 

「違和感があります」

 

はてなと首をかしげてから気づいた。

それを俺に言われても困る。男としてはあまり触れたい話題でもない。

 

とりあえず、この短時間で母上が何を教えたのか知りたかったので聞いてみる。

アキは恥ずかしがる素振りもなく、滔々と話してくれた。

 

『それは怪我でも病気でもない。普通のことだ。受け入れろ』

 

そう言うことを言われたらしい。

 

「それで?」

 

「あとは……月に一度とか、血が出たらどうすればいいとか教えられました」

 

「他には?」

 

「……他?」

 

「……本当に、それだけなの?」

 

「はい」

 

さて、どうしたものかと頭を悩ます。

聞きたいことはあるのだが、口に出すのは憚られる。

しかし避けて通るわけにもいかない。意を決して聞くことにした。

 

「性行為とか子供の作り方とか教えられなかったか?」

 

「性行為? 子供?」

 

アキは寝耳に水と言う顔をした。

その類の会話はこれっぽっちもしなかったらしい。

まあ、下世話ではあるので出来れば話したくないのかもしれないが、そうは言ってもいずれは教えなくてはならない。いい機会なのだから、今話しておく方がいいと思うのだが。

 

「子供の作り方……?」

 

「母上が何も言わなかったのなら、忘れた方がいい」

 

「でも兄上。昔、子供は天からの授かりものだから、空から降ってくるって言ってたじゃないですか」

 

「よく覚えてたね。でもそれ嘘」

 

軽い気持ちで暴露すれば、アキの目がさらに据わった。悪人さながらの目つきで睨まれる。

その怒りの矛先は明らかに俺に向けられている。嘘も方便だからと言い訳もできるが、多分理解してもらえないだろう。

 

「兄上。どうやら、私は嘘をつかれるのが嫌いなようです」

 

「ごめんな」

 

「謝らなくていいです。でも、もう二度と嘘は言わないって約束してください」

 

「……うん」

 

とりあえず、この場を凌ぐために約束を交わす。そうしないとアキの怒りは治まらない気がした。

二度と嘘をつかないなんて現実的じゃなさすぎるので、多分破ることになるだろうけど。

 

「ならいいです。……それで、子供とは?」

 

「母上が言わなかったのなら、俺は何も言えない」

 

「……そうですか」

 

ちょっと考える素振りを見せた後、渋面を作ったかと思うと能面のような無表情になり、おもむろに立ち上がった。

どこに行くのかと問うと、平坦な口調で「母上のところ」と答えが戻ってくる。

 

さては子供の作り方を聞きに行くつもりか。余計なことを教えてしまったかもしれない。

面倒ごとになるのが十二分に予感できたのでその背中を呼び止めるも、アキは無視して行ってしまった。

 

こうなっては祈るしかない。

そこそこ真剣に「無事でありますように」と祈ってみたのだが、やはりアキは戻って来なかった。

 

きっとやられてしまったのだ。残念極まる。

その内に、ようやく聞こえてきた足音はアキの物ではなかったので、「あーあ」と言う気持ちでその足音を聞いていた。

 

「余計なことを教えるな」

 

先ほどとは反対にのっそり現れた母上が、戸を立て直しながら説教をかましてくる。

溝にはめ込むのに苦労してずっと背中を向けているので、威厳はあまり感じられない。

 

「余計なこととは」

 

「子供の作り方と性行為のことだ」

 

ようやく戸を直し、ドカリと胡坐を組みながら発したその言葉は、若干語調が厳しかった。

 

「しつこく聞かれる身にもなれ。いなすのが面倒だ」

 

「いなしたんですか」

 

「ああ」

 

アキが帰ってこない現状を思えば、いなしたというよりは返り討ちにしたと言う方が正しい気がする。もっと言えば、理不尽に暴力を振るった可能性がある。藪蛇なので突き詰めるつもりはないけれど。

 

「性知識は余計なことですか」

 

「余計は言い過ぎかもしれんが、お前が教える必要はない」

 

「ですね。でも、反論があるので聞いてください」

 

「なんだ」

 

「性教育はした方がいいと思います」

 

「……いずれする。まだ早い」

 

「9歳で初潮を迎えるのは早い方なんですか?」

 

「知らん」

 

受け答えがおざなりだ。

面倒くさがっているのは何となく分かる。けれど、娘のことなんだからもう少し真面目に考えてやってほしい。

 

「ちなみに、母上は何歳でした?」

 

「何の話だ」

 

「初潮」

 

「……言う必要があるのか」

 

「平均は11歳ぐらいだと勝手に思っているのですが」

 

「……」

 

聞くに堪えんとばかりに母上は顔をしかめる。

平均に関しては、前世では確かそれぐらいだったかなあ、と言う程度のぼんやりした認識でしかない。

この世界の女の子たちは成長が早いようだから、もう少し早くても何ら不思議はないだろう。

 

「初潮が来たと言うことは、否が応にも体は大人になったと言うことでしょう。いい機会なんだから、性知識ぐらい伝授したらどうですか」

 

「……まだ早い」

 

「後に回せば回すほど、機会を逃して教えづらくなりませんか」

 

「それは……まあ、そうかもしれんが……」

 

「だったら早い方がいいですよ」

 

「しかし……」

 

どれだけしつこく勧めても、母上は頑なに首を振らない。何やら渋る理由があるようだ。アキに関することで隠し事をされると気になってしょうがない。

 

そこのところ、是が非にでも白状させたかったが、頑固モードに入った母上の口は固く、持久戦となった結果、先に音を上げたのは俺の方だった。

 

「……まあ、言いたくないならいいですけど」

 

「……」

 

こちらが引き下がったことで、母上は安堵の溜息を吐いた。

肉体的には最強を誇っていようとも、精神的な圧力に弱いところのある母上は、いささか憔悴しているように見えた。ちょっと責めすぎたかもしれない。

 

「これ以上四の五の言うつもりはありませんが、教えるなら早めに教えてあげてください。知らなければ知らないまま、突っ走っちゃうことだってあるでしょうから」

 

「……」

 

「で、話って何ですか」

 

「……ああ」

 

相も変わらず気が進まんと言う雰囲気を滲ませて、母上は言い辛そうに口を開く。

 

「お前は、来たのか」

 

「何が」

 

「その……あれが、だ」

 

「は?」

 

あまりに迂遠すぎて伝わらない。

そもそも伝えようと言う意思が感じられない。

視線を横に逸らして目を合わせようとしないのはなぜだろう。

 

少し待っても言葉は足されなかったため、仕方なく解読を試みる。

あまりに語数が少なかったため、前後の会話にヒントはないかと考えてピンと来た。ヒントと言うか、この話が今までの会話と繋がった流れなら、初潮に関連したことを言っているのではないか。初潮に関わることと言えば、自ずと答えは絞られる。

 

「精通のことですか?」

 

「……そうだ」

 

「ああ、分からないです」

 

正直に言って、この世界に生まれ直してからその辺りを気にしたことはない。

射精はおろか夢精なんかもしていないので、本当にご無沙汰している。

睡眠欲と食欲がそれぞれ減退していることを踏まえれば、恐らく性欲も減退していると思われるが、だからと言って不能と言うわけでもないはずだ。

 

「多分しつこく擦れば出ると思います」

 

「……そうか」

 

「確認しておいた方がいいですか」

 

「やめろ」

 

語調強めに制された。

俺も進んで確認したいわけではなかったから、やめろと言うならやらない。その内勝手に出てくるだろう。

 

「アキのことは私に考えがある。お前は何も言うな」

 

「そう言うならそうしますが、任せて大丈夫ですか」

 

「ああ」

 

「本当に大丈夫ですか」

 

「しつこい」

 

「でも」

 

「親の務めだ。逃げる気はない」

 

ドスドスと足音を響かせて、足早に去っていく。

言葉だけ聞くと何とも頼もしいが、この瞬間も気絶しているアキのことを思うとこれっぽっちも任せられない。

本当に大丈夫かなと不安に駆られるのも致し方ないことだった。

 




久しぶりにQ&Aでもやろうかなと思ったんですが、感想漁るのが思った以上に面倒だったので、作中で明かされることのない裏設定をメモ代わりに書いておきます。

『太刀』について
・先代の剣聖(以下、先代ばあちゃん)が編み出した剣術
・先代ばあちゃんは元々西洋剣の使い手。戦時中に藤色の刀を見た影響で刀の美術的価値にとらわ
 れて刀に鞍替えし、そのまま剣聖にまで上り詰める
・実はこの剣術は戦うためではなく、刀を守るための剣術
 二の太刀→鞘で殴った方が刀が傷つかない!
 三の太刀→直接斬るより遠くから斬った方が刀傷つかない! +α
 四の太刀→一撃で仕留められれば刀の損耗が少ない!
 五の太刀→受け太刀して刃が欠けるなら苦肉の策で受け流す!
・ちなみに、六の太刀は剣聖になってから編み出されたので、七の太刀と共に負けないことを考え
 て作られています。

以上、どうでもいい裏設定でした。


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36話

アキの成長を目の当たりにし、母上との確執が日に日に増していることを実感した、その晩のことである。

 

「ご飯だよー」

 

夕日が差し込む室内に高めの調子が響く。

それが誰かは姿を見ずとも分かっていたが、その口から発された言葉が予想外に過ぎた。

痛みも忘れてむくりと起き上がる。戸の方に目を向けながら聞いた。

 

「……父上が持って来たんですか?」

 

「そうだよー」

 

膳を抱える父上は俺の驚きなど気にも留めずに頷いた。

ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべながら、布団の側に腰を下ろす。

それを見る俺の頭には、困惑と疑問が浮かんでいた。――――アキはどうしたのか。

 

今まで一度も欠かしたことのない食事係を今日に限って欠かしたとなれば、想像は悪い方向に転がっていく。

もしや初潮の影響で調子を崩しでもしたか。

前世だとそれが原因で体調不良に陥る人も多かったと聞く。アキが体調を崩したとしても何ら不思議ではない。

 

不安と焦りでやきもきする気持ちを抑え、じっと父上の説明を待ってみるも、なぜか父上は何も言ってくれない。

それどころか、思いのほか熱かったらしいお碗に悪戦苦闘する姿を見せ、俺の混乱を増長させる。

 

「あちっ! ……あっついよ!?」

 

心の大部分を占める不安とは裏腹に、耳たぶに触れる仕草が妙な懐かしさを抱かせた。

それと同時に、その態度にわざとらしさを感じた。何も言うつもりはないのだと察してしまう。

 

結果、不安と怒りがないまぜになった感情を抱く。声を大にすることも考えたが、与えられることでしか情報を得られないわけではない。

父上がそのつもりなら、と家の中の気配を探ってみると、アキの気配は母上と共にあった。一つの部屋に二人っきり。

その気配の昂り方から元気なことが分かる。何やら怒っているらしい。両者に動きはなく、恐らく対峙して睨みあっていると思われる。

 

俺の見えないところですら、そんな感じで元気にやっている。

心配した分だけ呆れた気持ちになる。その気持ちが素直に顔に出た。

俺の顔を見て父上も何かを察したらしく、途端に落ち着かない素振りを見せ始める。

 

「アキと母上は何をしているんですか?」

 

「えー……お話し中、かな?」

 

「何の?」

 

「……何のだろうね」

 

歯切れが悪く、嘘が下手だ。隠したいことがあると、その態度が雄弁に語っている。

一体全体何がどうなっているのか。分からないことを分からないまま放っておくと碌なことがない。だから父上の気持ちを慮ることなく、直截に訊ねる。

 

「隠し事ですか?」

 

「ん!? あ、え、あの……その……。と、とりあえず、それは置いといて……」

 

「なぜ置く」

 

「お、置いといて! 今日から僕がレンの面倒を見るよ!」

 

質問をはぐらかし、力こぶを作るように腕をぐっと曲げて見せる父上だが、当然のことながらその気合は空回っている。愛想笑いが空虚に響いた。

 

「なぜに」

 

「ほら……アキに任せっきりっていうのも……悪いかなって……」

 

「いまさらでは」

 

「いや、うん、まあ。その通りなんだけど……でも、ほら、あの、あれで」

 

「あれとは」

 

「……あれって言うのは………………あれだよ」

 

この上なくしどろもどろな癖に、肝心なところだけはきっちりはぐらかすので性質が悪い。隠し事がばれているのは承知の上で押し通そうとしている。

そんなことをされると、こちらとしても徹底抗戦以外に術がない。母上で培った場数は伊達ではないが、果たして父上に通用するのか。

やってみなくては分からない。手始めに威圧してみる。

 

「……あ?」

 

「ひっ……」

 

そのたった一語で、父上は過剰に怯えて後退った。

若干及び腰になっているところを好機と見て追撃する。

 

「説明を」

 

「せ、説明? 必要かなぁ……!?」

 

「は?」

 

「ご、ごめんねそっか必要か……。えっと、あれっていうのは、つまり……。……ごめん、やっぱ言えない……」

 

「あぁ?」

 

「そ、そんなに怒らなくてもいいでしょ!?」

 

泣きそうな顔でヒステリック気味に抗弁される。

個人的にはこの程度怒ってる内に入らないが、これほど怯えられるならやらない方がいいかもしれない。しかし、そうなると母上で積んだノウハウは何も役に立たないことになる。まあ、そんなもの役に立たない方がいいか。

 

威圧的な雰囲気を引っ込めていつもの調子に戻す。

 

「別に怒ってませんよ」

 

「……本当?」

 

「本当」

 

「じゃあ、よかった」

 

安堵の戸息を吐きながら、父上はにっこりと笑顔を浮かべた。

こちらとしては攻め手を一つ失ったわけだから、何も良いことなどないわけだが。

 

「で、何がどうなってるんですか」

 

「食べよっか」

 

「おーい」

 

予想通り、俺の言葉はすげなく無視され、代わりとばかりに蓮華を口元に突き出される。

こんなもの食えるかと拒否することも考えたが、それをしたら面倒くさいことになるのが目に見えたので、素直に口を開けた。

 

「おいしい?」

 

「普通」

 

「えー?」

 

「普通」

 

この状況で作り手の矜持など知ったことではなく、ただただ普通と連呼する。

欲しい物があるなら等価交換が世の常だろう。今俺が欲しいのは情報だ。

 

咀嚼しながら何か気が散るなと思ったら、いつの間にやらあの二人がステゴロで喧嘩を始めていた。荒ぶりながら動き回る気配を意識の隅に留め置きつつ、父上の顔を凝視する。

 

途端、挙動不審になった父上に「で?」と再三尋ねたところで、「あはは」と誤魔化されるだけだった。

やっぱり面倒だなと嘆息し、とりあえず向こうの二人をどうにかしてもらうことにする。

 

「喧嘩してますよ」

 

「え?」

 

「アキと母上が殴り合ってます」

 

「……ウソぉ」

 

「ほんとぉ」

 

語尾を伸ばす口調は馬鹿っぽく思える。

真似しておきながらそういう感想を抱いた。

 

ちなみに、言ってる間に勝負はついていた。

当たり前のごとく母上が勝ったわけだが、アキもそれなりに善戦したらしい。多分俺が母上と素手で勝負したら1秒もたずに組み伏せられるので、そこは素直に凄いと思う。俺は素手での戦い方を教わっていないので、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。

 

「ちょっと見てくるね」

 

「お好きに」

 

二人の様子を見に行った父上を見送って、俺は一人で食事を進める。

蓮華を持つ手は震えている。食べづらいことこの上なかった。それでも痛みに目を瞑れば問題なく食べられるほどには進歩した。

 

決して良くなっているわけではないが、もう随分と慣れた。人間とは慣れる生き物だ。一人で生活出来るようになるまで慣れることが、現時点での目標である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明りの確保しづらいこの世界で、日が落ちてすることと言えば、ただ眠るだけである。

一応蝋燭などはあるらしいが、高価な上に火事が怖いからあまり使いたくはない。

 

月明かり照らす夜空は相も変わらず綺麗であるが、家の中からだとその美しさは十分に味わえない。かと言って月見に洒落込むことが許される体でもない。

 

やっぱり寝るしかない。布団が二つ並べて敷かれている光景を見ながら、正面に正座している人に目を向ける。

 

「……」

 

「……」

 

会話はなかった。

先ほどまでとは打って変わり、妙な緊張感が漂っている。

食うに続いて寝るのも父上と一緒らしい。それは別にいいのだが――――アキのことを考えるとそうあっさり頷いて良いものか悩むけど――――この空気は一体どうしたことだろうか。

そもそも何が理由でこんな空気になっているのか。思うに、父上と枕を並べることそれ自体が原因ではなかろうか。

 

俺は5歳の時にはすでに一人寝で、かつ一人部屋だった。その理由についてまでは知らないが、剣を習い始めた時期と合致するので、母上なりの理屈があったのだと思う。

 

剣を習い始めたのに端を発し、俺と父上の関係は一般的な親子関係と比べて乖離しているのは想像に難くない。

今までそれで何やかんややって来たのに、今更普通の親子よろしく同じ部屋で眠れと言われても、そもそも普通とはなんぞやと言う疑問が湧いて出る。

 

一通り難しく考えた後ならば、いつも通りで良いのだと開き直れはするけれど、父上にそれと同じものを求めるのは難しかったようだ。

 

口元を引き締めて緊張している様は二十半ばの男性とは思えない。あわあわと狼狽える様子に可愛らしさはあれども格好良さはない。

そもそもこの世界の男たちは俺の価値観では女々しい人が多い。

心なしか顔も童顔ばかりな気がするし、男の見た目でやたらと女々しい言動をするので、そういうところがちょっと苦手だったりする。

 

それを考えるとゲンさんは素晴らしい。

あの態度と言動は前世で言う頑固爺そのものだ。あの人と話しているとちょっと面倒に感じることもあるのだが、それ以上に寂しい心が慰められる。そこはかとない異物っぽさが俺に似ている。似た者同士は引かれ合うと言うことだろう。

 

その論で言うと、俺と父上の間には文化や価値観の相違がそびえ立っていて、そのせいで若干の壁を感じる。

一応は仲良くしているが、それも表面上のことでしかなくて、お互いに心の中までは見せていない。

 

この11年間、その関係に不自由は感じたことはない。父上がどう思っているかはともかく、俺に不都合はなかったから、これ幸いと放置していた。正直これ以上仲良くなる気はなかったし、関係を進展させたいと思ったこともなかった。

それなのに、突然このような形で距離を縮められてしまい、対応に困っている。どんな顔をすればいいのか。そもそも何を求められているのか。まあ、いつも通りでいいだろうと思ってはいるのだが。

 

「寝ましょう」

 

「うん」

 

布団に入って天井を見つめる。

いつも飲んでいる薬は、今日は飲まずに懐に隠し持った。

 

静謐な暗闇は、正体の知れぬ鳴き声を運んでくる。

ぼんやりと何を見るでもなく天井を見つめ、時の流れに身を任せた。

横になっているのに一向に眠くならない。自分の身体に意識を向けると、途端に鈍痛を自覚させられるから、どうでもいい事を考えて時間を潰す。アキと母上は上手くやっているだろうか。

 

隣の布団からは息遣いが感じられた。寝息ではない。起きている。いつまでも緊張感がほぐれないのは、父上が寝る気配もないからだ。

寝る気がないのなら、そろそろ何か言って来るかなと予期して、その予感通りに声がかかる。

 

「起きてる?」

 

「……はい」

 

あえて返事を遅らせた。

待ってましたと言わんばかりの即答は、父上を変に身構えさせやしないかと危ぶんだ。余計な心配だと言う気もしたが、最早そう言うのが癖になっている。特に、父上を相手にするときは。

 

「ごめんね」

 

「はあ」

 

どれに対する謝罪なのか。素直に考えればこの状況に対する以外にないが、思いつかないだけで他にもまだありそうな気がする。

 

「説明してくれるんですか?」

 

「うん……。アキとお母さんを仲直りさせないといけないから」

 

「仲直り?」

 

仲が悪いのは知っている。

さっきも喧嘩していた。仲直りさせたいと言う気持ちも分かる。しかし……。

 

「つまり、その場を作ったと?」

 

「うん」

 

「本当に?」

 

「……うん」

 

そう言うなら、とりあえず信じることにした。

疑わしかったし実際疑ってもいたけど、何も追及せず、「ふうん」と相槌だけ打っておいて、次の言葉を待つ。

 

「……それとね」

 

「何です?」

 

「もう一つだけ、謝りたかったんだ。ごめんね。邪魔しちゃって」

 

「……何のことですか」

 

「あの時のことだよ」

 

阿吽の呼吸と言うわけではないが、言外に込められた意味はきちんと理解した。

いつの間にやら指折り数えたくなるぐらい過ぎたなあと、時の速さに半分驚き、もう半分で呆れながら言葉を返す。

 

「今更ですね」

 

「……うん。色々あったから」

 

確かに色々あった。

俺なんかは一度死んだらしいし。そのせいで一時期関係がぎくしゃくしていたが、それは時間が解決してくれた。

それがあったからこその今なのだろう。俺にとっては今更でしかないけれど。

 

「謝るんですか」

 

「うん」

 

「父上が謝るなら、俺も謝るのが筋なんでしょうけど、謝りたくないです」

 

「えー?」

 

くすくすと忍び笑いが聞こえる。

「別に謝らなくていいけど」と寛大な言葉を吐いた後で、

 

「レンが謝るところは見てみたい」

 

「……なんですかそれ」

 

「あんまり見たことないから」

 

そう言われると俺が謝らない奴みたいに聞こえてくる。だが実際はそれなりに謝っているはずだ。

考えても思い出せないぐらい少ないし、謝った時はどうでもいいことで謝っていると思うけど。

 

「ごめんね。命がけで戦ってるときに、邪魔しちゃって」

 

「はあ」

 

「判断力も、全然ないし」

 

「別に、そんなのは」

 

「怖がりで、何もできなくて、アキだけ連れて逃げちゃって――――」

 

そこまで聞いて、ようやく返事が求められていないことに気づいた。

衝動的な言葉が後から後から出てきている。懺悔の言葉が。

 

「助けられなくて、力がなくて、足引っ張って、怪我させて……」

 

声が震えている。段々と湿っぽくなっていく。

ついに鼻をすする音が聞こえて、ああ、泣くのかと思った。

 

「本当に、ごめんね」

 

「……」

 

返す言葉が見つからない。

何を言えば泣き止んでもらえるのか。どうすればいいのか。

何一つとしてわからずじまいで、選びたくもない沈黙を選んでしまう。

自罰的な気持ちが時間の感覚を麻痺させ、長い時が過ぎたように錯覚する。

ただただ、暗闇を切り裂く嗚咽に耳を傾けていた。

 

「……」

 

「……落ち着きました?」

 

嗚咽が聞こえなくなった頃に、ようやく口を衝いて出たのはそんな言葉。

そこら辺に転がっているような、どうでもいい言葉。

いざと言う時に役に立たない口などいらない。脳も同じだ。だから必死で考える。良い感じの慰めの言葉を。

 

「――――別に」

 

けれど、浮かんでくるのは自分に都合のいい言葉ばかり。これを言うのかと自分自身に問いかけて、これしかないのだと諦める。

 

「別に、いいですよ」

 

訥々とその言葉を紡いでいく。

 

「あの時は、お互い余裕なかったし、俺も声を荒げちゃったのは申し訳なく思いますけど、でも今更ですよ全部」

 

「……」

 

「個々によって、出来ること出来ないことあるのは当然でしょう。出来る人が、出来るときに、出来ることをやればいい。だから、俺はあの時、アキを助けるよう父上に頼んだ。父上はちょっと戸惑ったけど、きちんとやってくれた。おかげで、アキは生きてる。俺も、ちょっと色々あったけど、生きてる。それでいいと思うんですよね」

 

父上は何も言わなかった。

何を考えているのかは分からない。分からなくていいと思う。分かりたいとも思わない。

だから、俺は言葉を続ける。

 

「今日までずっと溜め込んでたんでしょうし、泣きたい気持ちを分からないでもないので、まだ謝りたいって言うなら聞きますよ。気の済むまで謝って、気の済むまで泣いて、それで全部終わりにしましょう」

 

聞いてる方も結構辛いので、日を跨ぐのはごめんです、と言葉を締める。

そこまで聞いてなお、父上は何も言わなかった。

 

長い沈黙は実際に長かった。

時間の感覚は正常に働いていたはずだ。

さては寝たかと疑るほど長い時間父上は喋らず、やっと口を開いたかと思えば、その声音は幾分皮肉っぽかった。

 

「本当に、子供らしくないなあ……」

 

「……逆に聞きますけど、子供らしかったことありますか」

 

「……どうだったかな」

 

起き上がる気配がする。

目だけで横を見れば、布団の上で正座する父上の姿があった。

 

「最後にこれだけ言わせてほしい」

 

「なんでしょう」

 

「次は、逃げないから」

 

声に宿る真剣味に、覚悟の度合いを推し量る。

瞬間、言いたい言葉が山ほど浮かんだ。それは全て否定の言葉だった。

開きかけた口を閉じ、ぐっとこらえて目を瞑る。心の中で建前を繕うのに苦労した。

 

「そうですか」

 

「うん」

 

歓迎しない。もし次があるならその時も逃げてほしい。

戦いの場で弱い人間は足手まといにしかならない。

 

つらつらと並べた否定の言葉を吟味すしていた最中、ふと気づく。

弱い人間と言うなら、今の俺がまさしくそれだ。

もしアキか母上か、または他の誰かが俺を守るために戦っているとして、俺は素直に逃げるだろうか。

 

目の前に手をかざして考える。

小さくて細い、頼りない手が暗闇に浮かんでいる。

目を瞑って見ないようにしていたものを、突き付けられた気分だった。

 

「……まだ、分からない」

 

「え?」

 

「なんでもないです」

 

零れた独り言を誤魔化して、再び目を瞑る。

 

逃げるかどうかは、その時になってみないと分からない。

今のところはそう結論付けたが、それが先送りでもなんでもなく、ただの逃げなのは分かり切っていた。

 

もしかしたら、俺と父上は似た者同士なのかもしれない。

そんな考えが脳裏をよぎり、ふっと嘲笑が零れ出た。



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37話

俺が眠っている間に見舞客があったらしい。

その見舞客は小さな女の子で、花と薬草を見舞いの品として持参して来たのだとか。

 

それを聞いた時、思い浮かんだ顔は一つだけ。

黄色い二輪の花はすでに萎んでしまったが、なぜか一輪増えていた理由が分かった。てっきりアキが採って来たのかと思ったが、よくよく考えればあいつがそんなことをするはずもない。花より団子と言う言葉がよく似合う妹だ。そういうところが可愛いのだけど。

 

薬草と言うのも、俺が普段から飲んでいる薬の材料になるそうで、「誰から聞いたんだろうね」と父上は微笑んでいた。

見舞いとは言え一方的に貰っている現状は申し訳なさが込み上げる。

あの子とは、アキが威嚇して追い払った時を最後に会っていない。また来ると言っていたそうだから、謝罪とお礼を伝えたい。

 

朝夕はアキがいるから、アキがいない時に訪ねてくれれば問題なく会えるだろう。昼過ぎか昼前に来てくれるのが望ましい。よしんばアキと鉢合わせしたとしても、俺が仲裁すればいいだけだ。そのためには起きている必要がある。

 

試しに一日頑張ってみるかと、一つ小さな決心を固めたその日。

良い日になりそうだと、どことなく漂ってくる心地よさに浸っていたのだが、一日の始まりは穏やかとは程遠い騒々しさだった。

 

『はあ!?』

 

突然聞こえてきたその声に、レンゲを持つ手がピタリと止まる。

 

「なんか、アキの声が聞こえましたけど」

 

「……そうだねえ」

 

昨晩に続いて、朝食を持って来てくれたのは父上だった。

手ずから食べさせようとするのを断って、ゆっくりと食べ進めていた最中のことである。

まだ朝も早く静かな時間帯にその声は家中に響き渡り、耳を傾けるまでもなく自然と耳に入ってくる。

 

『だから、私がやるって言ってるのに! なんでダメなんですか!?』

 

『必要ないからだ。お前は自分のことだけ考えろ』

 

『意味わかんない!』

 

『わかれ』

 

断片的な内容を拾うだけでも、間違いなくアキは怒っている。昨日からずっと怒りっぱなしのようだ。

聞く限り母上はいつも通りだが、むしろそれが買い言葉に売り言葉と言う感じになって、ヒートアップしているように思う。

 

今まで何度だって思ってきたが、母上は相手の気持ちを慮ることを覚えた方がいい。よしんば慮っているのだとしても、態度に表す努力が必要だ。分からない人にはてんで分からなくて、それが余計な諍いを招いているのだから。

 

「あれはどういう言い合いですか?」

 

「うーん……」

 

困り顔で唸る父上は、少し間をおいて言い難そうに口を開く。

 

「アキが……」

 

「アキが?」

 

「ごねちゃって……」

 

「ごねる?」

 

一体何に?

首を傾げて考える。

 

そもそも、昨晩は二人を仲直りさせるために場を作ったと言う話だったが、その結果はどうなったのか。聞こえる感じではやはり失敗したと考えて良いのか。そのせいでむしろ以前より仲が悪くなってはいまいか。

 

瞬時に浮かんだ疑問の数々は、ドタドタと廊下を走る足音にかき消される。

足音は二人分。すぐ後を怒鳴り声が続いた。

 

「もういい! これ以上話しても埒が明かない! 続きは兄上の隣で聞く!」

 

「待て」

 

「誰が待つか!」

 

間もなく、部屋の入口にアキが姿を現した。

その襟を掴んで侵入を食い止めているのは母上だろう。戸の影に隠れて声がする。

 

「食事中だ」

 

「放せえっ!」

 

手足を振り回して暴れるアキ。ここだけ抜き取って見るだけでも、とんでもない暴れん坊と言う印象を受ける。

暴れん坊は暴れん坊らしからず、力負けして少しずつ下がっているので、腕力では母上が勝っているらしい。まだ9歳だから妥当ではある。

 

「食事を済ませろ」

 

「ここでするぅ!」

 

「駄目だ」

 

「なんで!?」

 

「なんでもだ」

 

アキがズルズルと引き摺られていく。戸の向こうに見えなくなる直前、その目は助けを求めていた。

そういう顔をされると弱い。自覚がある。諍いの原因が分からずとも、助け船を出すのに躊躇はなかった。

 

「母上」

 

俺が母上を呼び止めるのを見て、傍らにいた父上が「あ」と声を漏らす。視線を向けると苦笑を浮かべて頬を掻いていた。

「何か?」と目で問いかけてみると首を横に振られる。用件はないと判断した。

 

「母上ー」

 

二度目の呼びかけ。

すでに暴れる音と歩く音は止んでいる。

戸から半身だけ姿を見せた母上は、心なしか仏頂面に見えた。

 

「……なんだ」

 

「ちょっとこちらへ」

 

「なんだ」

 

「お話を聞かせてください」

 

「食事が済んでいない」

 

「なら手早く済ませてしまいましょう。どうぞこちらへ」

 

俺の頑なさを見て取って、母上にしては珍しく困ったように天を仰いだ。そして深々と溜息を吐く。

 

「アキを置いてくる」

 

「置いたところで、どうせ来るでしょう。いいではないですか。家族で語らいましょう。久しぶりに」

 

沈黙が流れ、母上と父上がアイコンタクトを交わしていた。

それを見咎めてしまって、何とも微妙な気分になる。何を企んでいるのやら。

 

「……いいだろう」

 

「ではこちらへどうぞ」

 

泰然とした動作で部屋に入ってくる母上の影から、アキが俊敏な動きで駆け寄ってくる。

妙に目を輝かせながら俺の腕に纏わりついた。そして母上を睨み、父上に厳しい視線を浴びせている。親への態度としては最悪もいいところだ。どれほど鬱憤が溜まっていると言うのか。

 

布団の側に父上と母上が並んで座る。

二人揃っている光景は久しぶりに見た。怪我をする前は毎日のように見ていたはずなのに、少し感慨を覚えてしまう。

 

胸の奥から込み上げる感情を努めて無視して、二人に問いかける。

 

「昨日から、お二人の行動が少々怪しいのですが」

 

「気のせいだ」

 

俺が言い終わる前に母上はそう言った。

レスポンスがやたらと早い。ちょっと言葉尻に被さってる。

今までそんなことはなかった。これはますますもって怪しい。

 

「説明をお願いします」

 

「……」

 

二人は黙り、そしてまたもや視線を交わす。

そんな態度は白状しているも同然だ。それが分かっていないのだから、この夫婦はそろって嘘が下手で困る。

 

「あのね」

 

数瞬の沈黙を経て、意外なことに口火を切ったのは父上だった。てっきり母上が前面に出ると思っていたから、ちょっと動揺する。

 

「まず、昨日僕が話したことに嘘はないんだ」

 

「でも、全部じゃないでしょう」

 

「……うん。大したことじゃないんだけど」

 

その口が開くのを見ていた。どのようなことを言われるのかと、内心憂いに満ちていたが、聞いてみると本当に大したことがなかった。

 

「アキを、兄離れさせようと思うんだ」

 

「……はぁ」

 

それで?と続きを待った。

「それだけだよ」と父上は言う。

「本当に?」と聞き返して、「本当だよ」と返事をもらう。

 

理解に困って頭を捻る。過去、母上と交わした言葉がいくつか蘇り、関係がありそうな言葉を反芻していく。

多分、あの時の会話が関連しているのだろうなと見当をつけておいて、話を続ける。

 

「兄離れさせるために……何ですか。アキを怒らせているんですか?」

 

「そんなつもりは……。ごめんね、アキ」

 

父上がしゅんとして謝った。

アキは俺を間に挟んで二人を見ている。野生動物が警戒しているような感じで。

 

「最近アキに頼りっきりだったのもあるから、レンのことは僕が代わることにしたんだ。兄離れの第一歩だね。物理的にだけど」

 

「それで?」

 

「とりあえず、それだけ」

 

その程度なら全く大したことではないなあと納得する。

しかしアキにとっては大それたことらしく、口を尖らせて不満を露わにした。

 

「どうして今更……もう私は何もしなくていいって言いますけど、突然そんなこと言われても……」

 

「今まで苦労をかけていた。むしろ好都合のはずだ」

 

母上が口を挟んだ。その内容に俺も同意する。

 

今までの家事労働は、鍛錬と併せて考えると間違いなく激務だった。

俺の世話を焼かなくて済むのなら、その分負担は減るし、余った時間を自由に使うことが出来る。

その時間を鍛錬につぎ込むも良し、体を休めるも良しだ。溜まっている鬱憤だって多少は解消されるだろう。

何から何まで良いこと尽くしだと思うのだが、アキは頭を振って否定した。

 

「一緒に寝るのもダメって言うんです!」

 

「え」

 

ごねている最大の理由はそれなのか。

納得すると同時に、俺も少しだけ狼狽えてしまった。

寒い日には湯たんぽさながらの抱き心地だったのに、その温もりがもう味わえないと思うといささか寂しさが募る。

 

しかしそれも些細なことでしかない。

兄離れと湯たんぽ。どちらが重要かは天秤にかけるまでもなく分かり切っている。

 

「どうぞ連れて行ってください」

 

「兄上!?」

 

俺の言葉を受け悲鳴に近い声を上げたアキは、伸ばされた腕を掻い潜って詰め寄って来る。

 

「一緒に寝るなって言うんですよ!?」

 

「そうだね」

 

「もう一緒に寝れないんですよ!」

 

「遅かれ早かれだろう」

 

「私は兄上と一緒に寝たい!!」

 

「俺も寝たいけど、兄離れしなきゃ」

 

「なんで!?」

 

「色々あるんだろう」

 

「母上と同じことを言う!!」

 

……母上と同じことを言っているのはまずいかもしれない。

もっと言葉を尽くさないと、取り返しのつかないことになる気がする。

 

「アキ」

 

「はいっ!」

 

噛み付くような面持ちで、破れかぶれの返事が来る。

これを説得するのは容易ではない。だからと言って、母上に任せてはそれこそ取り返しが付かない。

 

「俺だっていつまでもこの家にいるわけじゃないし、いずれは一緒にいられなくなるんだから」

 

「……兄上は結婚するんですか?」

 

「みんなしてるんだから、俺だってその内するよ」

 

「……出来るんですか?」

 

珍しく、遠慮がちな声と態度だった。

可能か否かで言えば、見込みは薄いが断言はできない。その答えを持っているのは俺ではなく母上だ。

その辺どうなんですかと目で問いかけてみると、母上は露骨に視線を逸らしてしまう。この状況でそう言うのはやめろと言いたい。

 

結局、どちらとも明言出来ずにいる俺を見て、アキは前のめりになる。

 

「結婚できなくても大丈夫です! 私もするつもりないですよく分からないし! だからいざとなったら私がずっと一緒に――――」

 

「母上、連れて行ってください」

 

その言葉は途中で遮った。連行されるアキが叫び声をあげている。その声は事態の深刻さを認識した俺の耳を右から左へと素通りしていった。

すっかり役立たずになった俺にも、まだすべきことがあったらしい。久しぶりに生きる気力が湧いてきた。

 

「父上。是が非でもあいつを兄離れさせましょう。全面的に協力します」

 

「あ、ありがとう」

 

やる気に満ち溢れた俺を見て、父上は若干引き気味だった。それがまるで気にならないぐらい、俺の中には危機感が募っている。

今のやり取りで兄離れの必要性は十分分かった。俺のせいで妹の未来を閉ざしてしまいかねない。一生兄妹で暮らすのは、どんな価値観で図ろうがありえないことだと俺にすら分かる。

ブラコンなどと言う言葉は好きではないが、そう言われて余りある状況に瀕している。

 

「こういうことなら、最初から言ってくれればいいのに」

 

「いや、まあ、どうなのかなあ、って思って……」

 

「何がですか」

 

「……アキ一人ならともかく、レンにまで抵抗されると本気で泣きたくなっちゃうから……」

 

常日頃から妹第一主義を掲げていたせいもあって、疑惑の芽が尽きなかったのだろう。

やるかもと思われていた。やるわけねえだろと口で言うのは簡単だが、信じてもらうとなるとこれが中々難しい。

 

「前に二人でキスしかけてたし、毎日のように抱き合ってるし……」

 

「ちょっと待ってください。何ですかそれいつのことですか」

 

俺にそのつもりはないが、毎晩のように抱き着かれているのは事実なので、それについては抗弁しない。けれどキス云々は聞き捨てならない。

一体何を勘違いしているのか。詰め寄る俺に、父上は思い出しながら答える。

 

「たしか、アキの怪我が治ってた頃だから……初夏?」

 

「あれはキスなんてしてないです。押し倒されただけです」

 

「もっと悪いよぉ……」

 

泣きが入ったその声に背中がむず痒くなる。

妙な勘違いをされ余裕がなかったことも相まって、「男だろ! シャキッとしろ!」と叱りたくて仕方がなかった。

 

「つまり、アキがその気になったらなんでも出来ちゃうんでしょ? だから椛さんもアキにその手のことは教えたくないって言ってるのに……」

 

「……何の話ですか」

 

そう言いつつ、文脈で理解できる。父上が言っているのは性教育についてだろう。

はっきり言って、昨日の母上は謎に満ちていた。すべきことをせず、逃げる気はないとか言いつつ、どう見ても逃げていた。だから不安で不安で仕方がなかったが、そういう考えだったのかと今更ながら理解する。親の心子知らずとはよく言ったものだ。

 

「まだ子供ですから」

 

「でも身体は大人になっちゃった……」

 

悲観的過ぎる。

今まで性的な意味で身の危険を感じたことはないのだが、それは当事者でなければ分かるまい。

同性として父上が必要以上に警戒しているのなら、それに従った方が無難だろうか。何にせよ、アキは決してそんなことはしないと俺は信じている。

 

「しかしあの様子だと一筋縄ではいかなそうですが」

 

「頑張るよ」

 

力こぶを作る真似をして張り切って見せる父上。その細腕に力こぶなんて縁がなさすぎるので、俺の目には滑稽に映る。でも多分、一般的には可愛く見えるのだろう。

 

「俺も出来ることを手伝います」

 

「うん。よろしくね」

 

「はい。頑張りましょう。――――それで、話は変わって結婚のことですが」

 

瞬間、父上の顔が強張った。

その顔を見ながら、どういう聞き方をしようか、などと考えてみたが面倒くさくなった。直截で聞けば良い。

 

「もしかして、相手方と話が進んでいますか?」

 

「ど、どうして……」

 

「兄離れだなんだと、いくら何でも突然すぎるので」

 

アキが初潮を迎えたのが呼び水になったことは確かだろう。しかしこの二人にこんなにも早く行動を起こさせるのなら、他にも要因があった方がより得心がいく。

確信など何もない、いわゆる勘ではあったが、父上の反応を見るに外れではなかったようだ。

 

「ごめんね……椛さんから少しだけ話は聞いてるんだけど、詳しいことは何も聞かされてなくて……」

 

「一から十まで母上一人で話を進めてるんですか?」

 

これはまた不安を煽ってくれる。

あの人が何を考えているかなんて、俺にだってよく分からない。そもそも、俺の身体のことを考えれば双方満足のいく見合い話なんてほとんど不可能なはずだ。

 

「ただ、話は進んでるみたいで。そうなるとアキが心配だからって、兄離れの話に……」

 

「……アキはこのことを知っているんですか?」

 

「……教えられないよ……」

 

でしょうねと嘆息する。

母上は順調に進んでいると言うが、全貌が分からない以上は不安しかない。

本当に大丈夫だろうか。後で直接話を聞いた方がいいだろうか。

 

十中八九無理だろうと思って放置したのに、まさか話を進めるとは。交渉力などまるでなさそうなあの母上が、一体どのような手管を駆使したと言うのか。

 

俺が考えつく限りでは、交換条件として何かを差し出したと言うのが一番納得できる。

そうなると、我が家で差し出せるものなんて剣聖に関連した何かしか考えられない。

 

俺のために母上が苦渋の選択を呑まされたのだとしたら、黙っていることなど出来ない。俺に選択肢はほとんど残されていないが、出来ることはまだある。

 

備える必要があるかもしれない。

何をするにしても本気で行動を起こすなら、身体の調子を明確にしておく必要があるだろう。何が可能で何が不可能なのか。無理をすればどこまで出来て、無理をしたところで何が出来ないのか。

 

最悪アキに協力してもらうと言う手もあるが、先ほどのやり取りから言ってそれは悪手だ。アキには兄離れしてもらうのが一番いい。俺のことなど気にせずに、自分の人生を歩んでほしい。

 

――――この怪我さえなければ、誰の手を借りずとも一人で何だって出来るのに。

 

自分の手を見ながらそう思った。

臍を噛む思いで拳を握ろうとし、刺すような痛みが走って満足に握れもしない。

 

果たして、こんなことも出来ない俺に生きている価値があるのだろうか。

それを考えずにはいられない、朝の一幕だった。




あと一話でようやく次の展開だと内心ウキウキな作者ですが、10月から更新頻度が減るのが決定しています。
今のうちに急げや急げと頑張って書いていきます。



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38話

父上にエンジュちゃんが来たら教えてくれるようお願いした。例え眠っていたとしても叩き起こしてくれとも言い添えた。

父上が本当に叩き起こせるとは思わないけれど、そのつもりで今日一日過ごすことにする。

 

長い一日になるぞと布団の上で一人嘯く。何もすることがない一日の長さときたら、拷問と言って差し支えない。つまり、今から拷問を受けるので頑張って耐えるぞと言っているに等しい。なんともはや、我ながらげんなりする。

 

せめて暇つぶしになるものはないかと辺りを見回したところで、見慣れ切った室内に目ぼしい物は何もない。その代わりと言うわけでもないが、窓の向こうに鍛錬場に駆けていくアキの姿が見えた。そのすぐ後を母上が付いて行っている。

先頭を猛スピードで走るアキと、その背中にくっつくように追随する母上の図は、かけっこと呼ぶには鬼気迫るものがあった。生殺与奪をかけた鬼ごっこでもしているのだろうか。

 

今のあの二人には相当険悪なムードが漂っているが、それでも日々の鍛錬を欠かしていない。そこに若干の希望が見える。親子仲改善の希望だ。

 

布団に横たわり、改善する方法をあれこれ考えてみる。

当然の話だが、劇的な改善案と言うのは早々思いつくものではない。殊に、問題は人と人との感情のすれ違いだ。こういうのは地道に距離を縮めていくしかないだろう。

 

そもそも、なぜあの二人の仲が急激に悪くなったかと言うと、アキが反抗期と言うのも原因の一つに違いないが、俺自身もその一因となっている気がする。

それならば、俺が何かを改めれば二人の仲は改善されるのかと自問自答をしてみた。

それで得られた答えは単純明快。身体を治す以外に答えはない。それさえ出来れば、全て上手くいく気がする。

しかし現状身体を治す術は見つかっていないので、それを足掛かりとするのは不可能と言って良い。

 

となれば他の方法を探るしかない。

どうしようかなーと思考の海に潜り、沈思黙考に耽って一時間ほど。

頭を働かせることで、身体の痛みから目を逸らすのにも限界を感じてきた頃、廊下から話し声と足音が聞こえてきた。

 

アキと母上は先ほど駆けていった。家には父上一人しかいないはず。片方は父上として、ならもう片方の声は誰なのか。

エンジュちゃんが来たのかと早合点して身体を起こした。人が来たと言うのに寝っ転がったままでは礼節に欠ける。

起き上がったところで立ち上がるわけでもないので、所詮は五十歩百歩の礼儀でしかないが。

 

『レンが多分起きてると思うので』

 

『なに? 寝もせずに何やっとるんだ。あいつはアホか』

 

廊下から聞こえる声に耳を傾ける。

片方は父上の声で、もう片方は年老いたしわがれ声。内容を鑑みても到底子供の声ではない。そこで思い違いに気づいた。起き上がって損したなともう一度横になる。

 

「レン。ゲンさんが……」

 

「小僧。お前死にたいのか」

 

現れたのは父上とゲンさんの二人。

父上の声に被せて、ゲンさんが物騒なことを言う。

 

「なんですか藪から棒に」

 

「薬も飲まずに何しとんだ」

 

「起きてます」

 

「死にたいのか」

 

「人間いつかは死にますので、みっともなく抗うよりは観念して受け入れるつもりです」

 

「そんなことは言っとらんわ。お前は阿呆か」

 

手始めに俺が茶化したとはいえ、本人を前にしてこの言いっぷり。一周回って小気味よくある。

苛立たし気に腰を下ろし、その場で胡坐を組んだゲンさんは、懐から緑の液体の入った瓶を取り出してドンっと床に置いた。

 

「飲め」

 

一目見るまでもなく、いつも飲んでいる薬だと分かる。

アキが快復した今となってはそれほど作る必要もないのに、ゲンさんは律儀に作っては持ってくる。むしろ作りすぎているぐらいだ。俺なんて一口飲んだら夢の世界なので、消費量もたかが知れているのだが。

 

「今日は客があるかもしれないので、後でいただきます」

 

「客だぁ?」

 

段々と柄が悪くなっていくゲンさんに比例して、所在なさげに立ち尽くす父上は落ち着きをなくしていく。

見る見る間に顔色が青くなっていっているので、よほどゲンさんが怖いのだろう。こういう益荒男染みた男性は、この世界にゲンさん一人と言って過言でないほど希少種だから、耐性の問題かもしれない。慣れてしまえば可愛いものだ。まるでよく吠える犬のよう。

 

「父上は戻っても大丈夫ですよ。ゲンさんは俺に話があるみたいなので」

 

「……そう?」

 

「はい。大丈夫です。こう見えてゲンさんは優しいので」

 

「何言っとんだお前」

 

心底あきれた顔のゲンさん。

照れている気配もないので完全に素。その良さを知るのは俺だけと言うことか。

 

「じゃあ僕向こうにいるから、何かあったら呼んでね。……源さんも、ごゆっくり?」

 

自分で言っておきながらしっくり来なかったらしく、最後は苦笑交じりだった。

「いやいや。すぐ帰りますんで。忙しいところすんませんな」と世にも珍しきゲンさんの敬語を聞いた。

父上の姿が見えなくなった直後、早速茶化してみる。

 

「ゲンさんもそんな言葉遣いできるんですね。驚きました」

 

「やかましいわ。お前の慇懃無礼な口調より万倍ましだろう」

 

「慇懃無礼とはまた随分な評価で」

 

「妹ともども態度がでかくなってるだろうが。仲良く反抗期か?」

 

反抗期ではない。それだけは違う。しかし舐め腐った態度を取っている自覚はある。

怪我をしてからは碌にストレス発散も出来ていないので、ついつい態度が悪くなりがちだ。人を揶揄うことで溜飲を下げている部分もある。

悪い癖だと思いつつ、自然と口を衝いて出てくるので半ば諦めている。思い悩んだだけ余計にストレスを溜め込む悪循環は避けたい。

 

「反抗期なんて、とうの昔に越してますよ。死ぬ前ですが」

 

「……そういうのを付け足すんじゃねえ。趣味が悪い」

 

「気分を害したなら謝りますが」

 

「お前の謝罪なんぞいらんわ」

 

そう言うので謝罪はなし。話を進める。

 

「客って誰だ」

 

「エンジュと言う名前の女の子です。ご存知ないですか?」

 

「知らんな」

 

それはおかしいなと思い、懐から父上がエンジュちゃんに貰ったと言う薬草を取り出して訊ねる。

 

「この薬草を届けてくれたそうです。てっきりゲンさんが教えたと思っていたんですが」

 

「そんなもん、この村の老人どもなら皆知っとる」

 

この村に老人は何人いるだろう。

ゲンさんより年上となると、5~6人はいたような気がする。決まって皆女性だ。

 

「誰かに聞いて採って来たと言うことですか。山に生えてるんですよね」

 

「ああ。昔はよく使ったもんだ。煎じるまでもなく、一口齧ったら痛みが和らぐってんでな」

 

「ほう」

 

よいことを聞いた。いざと言う時に役に立つかもしれない。大切にとっておこう。

 

「で、槐っつうその餓鬼がこの葉っぱを採って来たって言うのか」

 

「ええ。そうらしいです」

 

ふんと鼻を鳴らすゲンさんはしかめっ面で不機嫌そうだ。

「何か問題でも?」と訊くと、「あるに決まっとる」といささか強い口調で答えた。

 

「こんなもん、そこそこ奥に入らんと手に入らんからな。餓鬼のくせに危ないことしやがる」

 

「じゃあ注意が必要ですね」

 

「名前は槐だな。とっ捕まえて説教してやる」

 

鼻息荒く腰を上げかけたゲンさんを「待ってください」と押し留める。

ゲンさんに説教を受けるのは、想像するだけでエンジュちゃんが気の毒になった。

 

「ゲンさんの説教は男性恐怖症になりかねないのでやめてください」

 

「ああ? だからいいんだろうが。男だからって舐め腐ってる輩には――――」

 

「俺が言っておきますよ」

 

おかしな方向に向かいそうだったのを途中で遮って、言いたかったことを伝える。

一瞬ボケっとした顔になったゲンさんは、それを誤魔化そうとしたのかぼりぼりと頭を掻いた。

 

「餓鬼が餓鬼に説教する気か」

 

「俺のことを餓鬼と思ってくれるのは嬉しいです」

 

「ちゃんと出来るのか?」

 

軽口を無視したゲンさんが、疑い混じりの眼差しでそう訊ねてくるのを、俺は任せておけと頷いた。

 

「言って聞かせればいいんでしょう」

 

「簡単じゃねえぞ」

 

「でしょうね」

 

言う通り簡単ではないだろうが、俺のために薬草を取りに行った結果、ゲンさんに説教されると言うなら見過ごすことは出来ない。

大元の原因である俺が注意するのが、筋も通っているように思う。

 

「ま、やりたいってんならやってみろや。俺も怒るのが得意っつうわけじゃねえ」

 

「それは意外です」

 

「あ?」

 

うっかり口が滑ったのを、にっこりと笑って誤魔化したところで話は終わった。

「薬は飲めよ」とどうでもよさそうに言い捨て、帰ろうとしたところを、行きがけの駄賃を置いてけとばかり質問する。

 

「山の様子はどうですか」

 

「別に変わりやしねえよ」

 

「こんなに寒いのに変わらないことはないでしょう」

 

「……ま、春に狼どもが食い荒らしもしたからな。猿も熊もどこにもいやしねえ。不猟だ。今年は」

 

やれやれと言いたげに鼻を鳴らし、ついでに足も踏み鳴らしてゲンさんは去っていく。

廊下の奥から二~三話し声が聞こえたのを最後に、ゲンさんは帰ってしまった。

 

人がいなくなって急に静かになった部屋で、窓の外を見ながら一人呟く。

 

「そうか……不猟か」

 

以前、山の方に一時感じた違和感はあれ以来感じない。そもそも気のせいだったのかもしれない。その可能性が高かったが、何かを忘れている気もしていた。

 

その正体を考えている間に時刻は正午を回り、太陽が傾き始める。

どれだけ時間をかけて考えても、違和感の正体は分からないし、親子仲を改善する方法も思いつかない。

あんまり良い一日ではなかったなと、早くも今日と言う日を振り返り始めた時、ついに待ちに待った声がかかる。

 

「レン。槐ちゃんが来たよ」

 

反射的に起き上がる。

「来ましたか」と半ば無意識に出た言葉に、「うん。来たけど」と父上が答えた。

 

自分の身体を見下ろして着崩れを直す。一日寝ていたせいで髪が跳ねている気がした。

他にもあちこち身だしなみが悪い気がしてならなかったが、今更どうしようもない。

 

「通してください」

 

髪の毛を抑えながらそう言った俺を、父上はきょとんとした顔で見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちは」

 

「こ、コンニチハ……」

 

父上に通されてやってきたエンジュちゃんは、妙にカクカクとした動きで部屋に入り、入ってすぐの位置で正座した。ピンと背筋を伸ばしたまま微動だにしない。

一応声をかければ返事はあるが、その声の小ささは耳を澄まさなければ聞き逃しそうなほどだった。

 

「わざわざお見舞いありがとう。また花と薬草を持って来てくれたんだね。大切にするよ」

 

父上経由で受け取った花と薬草を手に、まずはお礼を伝えた。

エンジュちゃんは真っ赤な顔でコクコクと頷いている。見ただけで極度に緊張していると分かる顔だ。

これほど緊張されてしまうと、こちらとしても非常にやり辛い。言動一つとっても気を遣ってしまう。

何か緊張をほぐす話でもした方がいいだろうか。しかしその手の話術はからっきしだ。あまり気を遣いすぎても余計に固くさせるだけな気もするし、自然体で接する方がいいか。

 

そう考え、当初の予定通りに進めることにした。

 

「先日も同じものを持って来てくれたんだってね。ごめんね。寝ていて気付かなくて」

 

「いえ……わたしも、ごめんなさい。寝ているのに何度もきて……」

 

「気にすることはないよ。むしろ嬉しいぐらい。ありがとう」

 

笑顔はコミュニケーションの第一歩と聞いたことがある。ならば、笑いかけたら多少は緊張もほぐれるかもしれない。

そう思って、とびきりの笑顔を作って笑いかけてみた。しかし予想に反してエンジュちゃんは俯いて、余計に身を縮こまらせてしまった。

 

もしこれがアキなら効果はあったと思う。

感情が一々顔に出て、見れば誰でも理解できる分、かなり分かりやすい。だがエンジュちゃんもそうとは限らなかった。

100人子供がいれば100通りの性格がある。それぞれに適した接し方があるだろう。相手のことが分からなければ、距離を縮めることもままならない。これは母上とアキの間にも言えることだ。少し勉強になった。

 

「それと、この間は妹がごめんね。折角来てもらったのに追い返してしまって。二度としないように言っておくから」

 

「………………はぃ」

 

この間の一件について言及した途端、あれほど感情の色濃かった顔から全ての色が抜け落ちた。

表情は強張り、緊張の代わりに恐怖が張り付いている。それほど恐ろしかったらしい。無理もないことだ。

毎日のように接している俺でさえ、たまに母上を彷彿とさせて一抹の恐怖を覚えることがある。そんなのは、耐性のない子供なら泣き叫んでもおかしくない。

それを思うとこの子は強い方だ。その強さを生かしてアキと友達になってくれたら嬉しいけど、無理なのは分かっている。初対面で睨みつけてくる奴と友達になりたいなんて人はまずいない。

 

「安心して。アキにはきつーく言っておくから。もし何かされたら俺に言って。母上と二人でよく言い聞かすよ」

 

「…………はい」

 

今のアキの猪突猛進具合を鑑みれば、俺程度で抑え切るのは難しい。それを自覚しているからこそ、言葉にも今一説得力がない。エンジュちゃんの不安を取り除くことは出来なかった。

 

「……それと、この薬草のことなんだけど」

 

漂い始めた嫌な空気から目を逸らすために話題を変えた。

とは言っても、変えた先の話題も扱いに困る類の物だ。

先ほどゲンさんに啖呵を切ってしまったので、どんな空気だろうと言及しないわけにもいかない。

 

「山に入って採ってきてるんだよね」

 

「……そうです」

 

「あんまり奥まで行くのは危険だから、これで最後にしてね」

 

にっこりと笑って、「駄目だよ」と言い聞かす。

これで頷いてもらえれば苦労はないのだが、エンジュちゃんは口を引き結んで神妙な顔をした。

次の瞬間、「でも」と異議を唱えられる。

 

「これがないと、おにいさんは困るんじゃ……」

 

「別に困らないけど」

 

「え……」

 

反論に反論を被せてみれば、エンジュちゃんは途端にオドオドして、かと思えば萎縮した様子で俯いてしまう。何か言いたげな気配はあるが、口を閉ざしたっきり何も言ってこない。

この様子だとあまり真っ向から否定しない方がよさそうだ。気の弱そうな子だから、下手をすれば自分の殻に閉じこもってしまいかねない。

 

「うん、ごめんね。言い直そうか。あの葉っぱがないと困るのは、確かにその通りなんだけど」

 

言いながら、懐から薬の入った小瓶を取り出した。

それをエンジュちゃんにも見えるように床に置く。

 

「ゲンさんにお願いして、こういう薬にしてから飲んでるんだ。葉っぱもゲンさんが採ってきてくれる。ゲンさんはこの村で一番あの山に詳しいから、危険もない」

 

エンジュちゃんは瓶と俺の顔を交互に見ている。

出来る限り怖がらせないようにと笑顔を浮かべて、優しく言葉をかける。

 

「山には人を襲う獣がたくさんいるし、藪の中に入るだけでもあちこち怪我をして危険だ。採ってきてくれるのは嬉しいけど、そのせいで君が怪我をしたら元も子もない。だから、もう採りに行かなくて大丈夫だよ。必要になったらゲンさんに採りに行ってもらうから」

 

「ね?」と微笑みかけて念を押す。

エンジュちゃんは内心納得いかないと言う顔をしていたが、少なくとも頷いてはもらえた。もう少し釘を刺しておきたいが、あまり強く念を押したらまた萎縮させてしまうかもしれない。

こう言う時どこまで踏み込んで良いのか分からない。線引きが難しい。よく知らない子供相手だからなおのこと戸惑う。

 

「気持ちだけで十分嬉しいよ」

 

「……」

 

無言でいるエンジュちゃんに仄かに不安を覚える。

やっぱり、怖がられるのも承知の上で言葉を重ねようか。

そう思い口を開いた、その時だった。

 

「きゃ!?」

 

叩きつけられるように開かれた戸がサッシ部分にぶつかって、大きな音が響く。エンジュちゃんは悲鳴を上げ、俺は体を飛び上がらせた。

 

「一体なにが……」

 

「あ……」

 

エンジュちゃんの背後に、アキが立っていた。

 

「……お前……」

 

その顔は母上に瓜二つの無表情。俺にとって、それは何を考えているか分からない恐怖の顔だ。

最愛の妹はよりにもよってそんな顔で、エンジュちゃんを凝視している。

 

突然の出来事にエンジュちゃんは振り返ったまま固まってしまう。二人が見つめ合って数瞬。

アキの瞳にチラリと怒りがよぎったのを見て取って、身体が痛いなどと寝言を思う間もなく、条件反射で飛び掛かる。

 

「――――は、ちょ、兄上!?」

 

「大人しくしろ」

 

遮二無二飛び掛かった結果、アキを押し倒すことに成功した。その格好は父上のトラウマとは正反対に、俺がアキの上に乗っかる形だ。

後先考えなかったせいで身体はあちこち激痛が走り、これ以上は全く動けない。この程度でこうなるのかと身体の調子を認識する余裕を持ちつつ、未だに固まっているエンジュちゃんに声をかける。

 

「早速だけど、こいつは俺が説教しとくから。エンジュちゃんはお家にお帰り」

 

「あ、あの……」

 

「今のうちに帰った方がいい」

 

エンジュちゃんは俺の下で暴れるアキと、痛みに耐えてやせ我慢する俺とを交互に見比べ、後ろ髪引かれる様相であったが、少し語調を強めて言えば、言うことを聞いてしずしずと帰ってくれた。

 

その間、俺に組み敷かれているアキはと言うと、飛び掛かられたことで最初は混乱していたようだったが、何がどうなっているか認識した後は大人しくなり、帰るエンジュちゃんを黙って見送っていた。

 

そうしてエンジュちゃんの姿が見えなくなり、ほっと一息ついた後、何はともあれアキに文句を言い放つ。

 

「お前のせいで体が死ぬほど痛い」

 

「……私は死ぬほどびっくりしました」

 

恨めしそうな言葉とは裏腹に、アキは俺の背中に腕を回してぎゅっと抱きしめてくる。

組み伏せた時から分かっていたが、その体は随分と凍えていた。それこそ死人のような冷気が伝わってくる。

 

「最近ずっと寒いですが、今日は特に寒かったです」

 

「おかげで頭も普段より冷えてたのかな」

 

「馬鹿にしてますか?」

 

「いいや。特には」

 

こんなことを話している間も激痛に苛まれている。

それを一寸たりとて顔に出さないよう苦心し、どうにか布団まで戻れないかと考える。

エンジュちゃんを脅かした件について説教をしなくてはならないが、物事にはそれに相応しい場と言うものがある。こんな馬鹿みたいな恰好で説教したところで、伝わる物など何もない。

 

「あの子供は一体なんですか?」

 

「お見舞いに来てくれたんだ。花と薬草をくれた」

 

「そんなの、私が山ほど採ってきます」

 

「贈り物で一番大事なのは気持ちだよ」

 

「私の方が気持ち籠ってます」

 

「どうかなあ」

 

運のないことに、アキはこの状況をどうにかしようというつもりはないようだった。

それどころか、この体勢のまま会話を続けようとする意志が端々に感じられる。

背中に回した手に力を込めて引き寄せてくるし、足を腰に回して決して離そうとしない。

 

いささか過剰に思えるそれらも、考えてみれば朝以来のコミュニケーションだった。

世話係を強制的に解任され、共に寝ることも禁じられている。

それら、わずか一日で溜まった莫大なフラストレーションが、過剰なスキンシップと言う形で出てきているのかもしれない。

 

これは困ったなと頭を悩ませる。

なにせ仰向けに寝っ転がるアキの上にうつ伏せで覆い被さっている状況だ。

やたらと距離が近いし、妹を敷布団のように扱っているのが心苦しくもある。

「重くないか?」と尋ねてみれば、「羽毛のように軽いです」と妙に気取った言葉が戻ってくる。

 

兄離れへの道のりはまだまだ遠い。

それを実感し、そう言えばこう言う時のために父上と母上は結託したのではなかったかと、助けを求めて周囲に目を向ける。

何となく近くにいる気はしていたが、二人ともかなり近くにいた。

 

「あわわ……」

 

「……」

 

すぐ隣の部屋から、半身だけ覗かせて俺たちを見ている父上と、窓ガラスの向こうから、先ほどのアキそっくりな無表情で俺たちを見下ろす母上。

ただ見ているだけで、それ以上近づきもしなければ話しかけても来ない二人。

 

父上は分かりやすく誤解している。母上が何を思っているかは分かりやしない。

思わず脱力する俺の下で、頭上に母上を見つけたアキが頬を引きつらせた。

 

「……とりあえず、起きるの手伝ってもらえますか?」

 

助けを求めた俺の声で、はっと我に返る父上。即応して窓を開ける母上。

これだけ見て分かる通り、この家族は色々な意味で前途多難だ。もちろん、俺を含めての話だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の夏は寒かった。一向に気温の上がらないこの夏は、一年を通して冷夏であった。

アキに説教を食らわした後は、火鉢に火を焚いて暖を取らせた。こんなにも早く火を焚いたのは生まれて初めてのことだった。

 

その日を境に、気温は日を跨ぐごとに下がっていき、外出には厚着が必須になるほどの寒さになった。夜になれば吐いた息は白く曇り、山々の葉は紅く染まる前に全て落葉した。

 

その現実を目の当たりにし、前々から微かに漂っていた危機感がいよいよ顕在化し始める。村中を陰気な雰囲気が覆い尽くした。

まだ間に合う。まだ何とかなる。そう信じ、暖かくなってくれと天に祈る者もいたらしい。

 

悲しいことにその願いは叶わず、この夏一番の冷え込みとなった日の早朝。

目が覚めて、窓の外に広がっていたのは美しき銀世界。

茶色の土は一面白で覆われ、辛うじて実っていた稲穂にも雪化粧が施されている。

 

チラホラと舞い落ちる雪は、早すぎる冬の訪れを示していた。

縁側で肺が凍りそうな空気を吸いながら、天を仰いで曇天を睨んだ。

 

この容赦のない冷気が人々の心を凍てつかせ、作物を枯らしていった。

今年の収穫量は数える程度しかあるまい。春に植えた種は、実をつけることなく全て消えてしまった。

 

村に多少の蓄えはあれども、国に差し出す分を勘定すれば幾ばくも残らない。

そんなことは算数を学んでいなくても分かる。村中が危機感を募らせている理由だ。

 

あとは領主がどれほど備えているか。税を免除してくれるのか。

その辺り、俺程度に図れることではないけれど、一つだけ確かなことがある。

 

「……飢饉か」

 

白い息とともに吐いた言葉は、舞う雪の中に消えていく。口にする必要のない言葉だった。



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39話

その日、剣聖の住まう屋敷に一人の老婆が訪れた。

 

年のせいで曲がった腰にしわくちゃの手を置いて、小さな歩幅で懸命に歩いている。頭には頭巾を被り、真っ白な頭髪を覆っていた。

 

この老婆は見た目相応の年齢であり、この村では最高齢でもあった。

親しみやすい気さくな性格故か、彼女の元にはよく相談事が持ちかけられる。過去の経験や知識を元に親身になってやっている内に、気が付けば村長と呼ばれるようになっていた。

 

村長というと、村の代表と言って過言ない。

本人にその気はなく、出来ることなら辞退したくて仕方がなかったが、周りの人間がそれを許さない。「剣聖がいるのに……」と愚痴を零したのは一度や二度ではない。

 

今の剣聖は先代の剣聖と違い、人との交流に積極的ではない。試しに「村長にならないか」と持ちかけてみて、冗談ではないと一蹴されたこともある。血筋から言っても、剣聖が村長になってくれれば誰からも文句はないのだが、本人が嫌だと言うなら仕方がない。他の誰かがやるしかなかった。

 

そんな理由で村長になった彼女が、この日剣聖の元に訪れた理由は語るまでもなく、降り積もった雪のためである。

秋口にさしかかろうかと言うこの時期に冬を思わせるほどの外気となり、とどめとばかりに雪が降ったことで農作物は全滅した。

そのことによって、村人たちの間に暗雲が立ち込めたのは言うまでもない。

 

彼女を含めたこの村の老人たちはこの状況を打破するべく集い、頭を働かせた。

伊達に人より長く生きてはいない。読み書き出来る人間すら数少ないこの世界では、経験と言うものは何より大切な財産である。

今までだって飢饉は起きたのだ。それを乗り越えて今がある。かつては戦争だって生き残った。今更飢饉程度で狼狽えるほど未熟者ではない。

 

経験豊富な老骨が5人集まっての話し合いは短い時間で済んだ。

皆まで語るべくもなく、何をすべきかは明々白々だった。

 

先ず、村の若い者に周囲の村々へ様子を見に行かせた。望みは薄いが、食糧に余裕があるかの確認である。もし余裕があるのなら、少し分けてもらえないか願うことになるだろう。こう言う時は助け合う決まりだ。

それと同時に食糧の買い出しも指示する。村全体が越冬できるほどの食糧とは言わずとも、足しになるぐらいは買えるかもしれない。

もちろん、それすら望みが薄いことは分かっていたが。

 

剣聖の家へと向かいながら、彼女は考えに耽っていた。

他に手段はないものか。何か忘れていることがありはしないか。

すっかり老いた頭で考える。こんなに頭を働かせるのは久しぶりだ。すっかり平和になったものだと、どうでもいい思考に寄り道した。

 

やがて戸の前に立った老婆は考えを打ち切った。残っていることは何もないと結論付ける。

長い人生だったと回顧に浸る余裕があった。良いことも悪いこともたくさんあった。

一口に良い人生だったとはとても言えないが、子宝に恵まれ、運のいいことに玄孫の顔まで見れた。思い残すことは何もない。

 

心を満たす充足感。彼女は頷き戸を叩く。

いらえはすぐにあった。剣聖の夫。西の男の声だ。

 

顔を見せたその男を、老婆は真っ直ぐ見ながら一言告げる。

 

「剣聖様は御在宅でしょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪が降った降ったと喜ぶのは子供ばかり。

村中の子供たちが一晩の内に積もった雪景色に歓喜し、取る物も取りあえず、外に出て遊びほうけた。

 

その様子をアキは鍛錬場への道すがら、またはその帰り道に横目で見ていた。

その目の温度は、視線の先の子供と同類とするにはいささか冷め切っている。

 

アキは何も村中に漂う危機感に気づいているわけではない。そこまで頭が切れるわけではなかった。

ただ単純に見下しているのだ。この程度の雪ではしゃぎ回って馬鹿みたい、と。

そう言うアキ自身も、寝ぼけ眼に広がった銀世界にテンションが上がってしまい、着の身着のまま兄の元へと爆走しているのだが、そんな記憶は既に遠い彼方である。

銀世界への魅力に憑りつかれたのは朝も早い時間のことで、現在は正午に達しようかと言う時間帯。

最近、己のことを棚に上げることを覚えたアキは、鍛錬場で一人木刀を振った帰り道だ。

 

今日は雪が降ったこともあり、風邪を引くかも知れないからと母や兄に止められたにも関わらず、勝手な判断で鍛錬場へと繰り出していた。

それは母への反発心が半分、強くなりたいと焦る気持ちが半分の独断専行だった。

 

当然のこと、母と兄はアキが勝手に鍛錬場に赴いたのに気づいている。知らぬは父ばかりだ。

母は「仕方ない奴だ」と諦め、諫める気などまるでない。代わりに兄の方は「もっと強く説教しなければ」と考えている。

 

母の説教は涙が枯れ身が震えるほど恐ろしいが、兄の説教はまるで怖くないと言うのがアキの感想である。

と言うのも、この数か月でアキの中で上下関係が変化してしまった。

 

かつては兄が上で自分が下と言う図式だったのに対し、兄が怪我をしてからはそれが入れ替わった。

今となってはレンに戦う力はなく、自分が庇護しなければならないと強く思っている。そして、守られる側が守る側より上の立場なはずがない。

そう言う単純明快な論理がアキの心に根付いてしまった。

 

母が諦めている以上、アキの暴走が止まることはない。

暴走列車のブレーキは己の役割を放棄し、燃料である兄は常に満タン。乗客である父のことはまるで意に介していない。

それが今のアキを取り巻く状況であった。

 

はしゃぎ回る子供たちの横を過ぎ、一路家へと向かうアキ。

昼に近づくにつれ気温は上がり、雪は段々と水っぽくなっている。

上手く歩かねば転んでしまうだろう。実際、走り回る子供たちは何度も転びその衣服は汚れていた。

 

私はそんな無様なことにはならない!と自信満々に歩くアキの前を、老人が一人歩いている。

腰の曲がった老人の歩みは遅々としている。追い抜くのは簡単だが、近づけば大体声をかけられる。それは煩わしい。

 

――――どいつもこいつも本当に……。

 

少し思い出しただけで、胸の奥に溜まった黒い感情が一部表に出てきてしまった。

どうでもいいことで話しかけないでほしい。元気かと問われて答える義理があるのか。お兄ちゃんの具合はどうだって、なんでお前にそれを話さなきゃならない。

 

ふつふつと湧き出す感情を無理やり飲み下して歩くペースを上げる。

声をかけられる前に追い抜くつもりだった。

波打つ感情そのままに、いつも以上の速度で駆けていく。

 

足元の雪のことなどすっかり忘れていた。雪の上では地面を強く蹴れば蹴るほど、歩幅を大きくすればするほど転びやすくなる。

そんな走り方をしていて、ずるりと足をとられた時には、体勢を立て直す術などない。

 

運の悪いことにすぐ横には田んぼがあった。

尻もちをつき、雪のせいで更に滑って、そのまま田んぼに落ちてしまう。

水の跳ね散る音が周囲に届き、田んぼの反対側にいた大人が「なんだなんだ」とアキを見た。

 

すっかり濡れてしまったアキは、無言のままざばりと立ち上がり田んぼを出る。水の滴る前髪を煩わし気に掻き上げた。

それから、周囲の目などまるで気にせず、帯を解いて上着の水を絞る。

 

風が吹いてぶるりと身体を震わせはしたものの、だからと言って濡れてしまった服を再び着る意味はなく、そのまま手に持って歩いた。傍から見ればトボトボと。本人にしてみれば幾分頭が冷えて妙な気分になっていた。

 

向けられる幾多の視線には大人の目と子供の目がある。その中には槐の目もあったのだが、アキは終ぞ気づかない。ただ歩くのみである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先行く老人の背中を見つめる。

背中と言っても腰が曲がっているので見づらいことこの上ない。年の割に恰幅が良いせいか、年寄りがよく被る頭巾が毛ほども似合っていない。

見れば見るほど、その違和感がアキの頭に付いて回った。

 

どこへ行くのか道の先を目で追うと、そこには自分の家がある。どうやらこの老人は母に用があるらしい。

母上に客とは珍しい。村の住人はアキにばかり近寄って来るくせに、その他の家族は忌避する。今まで家に訪れた人間は、アキの覚えている限り源を除けばほとんどいない。

 

どんな用があるのかと少し考えてさっぱりわからなかった。どうでもいいかと考えることを放棄した。

老人が家の戸を叩くのを尻目に、アキは迂回して縁側から家に入る。レンの部屋の正面から帰宅したアキは、自分を呼ぶ声を聞き自然と頬を綻ばせた。

 

「アキ? 帰ったのか?」

 

「はい。帰りました」

 

レンの声に答え、手に持っていた上着をぽいっと捨てる。そこの部屋には火鉢があるから、一先ずそれで暖まろうと足を向けた。

 

当初、真剣な面持ちで布団の上で身体を起こしていたレンは、アキの格好を見て面を食らった顔になる。まさか服を脱いでいるとは思わなかった。

 

「え、上着は?」

 

「濡れたので捨てました」

 

火ばさみで炭を弄りながら答える。

 

「捨てた……」

 

「そこに捨てました」

 

慄いた様子のレンに、アキは背中越しに廊下を指さした。

一転レンは呆れ顔になり「とりあえず着替えて」とため息交じりに言う。

 

「風邪ひいちゃうから」

 

「はい」

 

口ではそう答えながら、アキは火鉢の前から動こうとしない。

じとりと見つめるレンの視線に構うことなく、じっくり温まっている。

 

「アキ?」

 

「今着替えます」

 

そう答えはしたものの、中々その気にならない。

 

どうせすぐにでも父上が来て――――。

 

そこまで考え、ふと気づく。そう言えば今は客が来ている。

廊下を覗き、誰も来る気配がないことを確認した。

 

ここ最近、兄妹水入らずを邪魔してくる両親がいつまでもやってこない。

さてはあの老人にかかりきっているのか。これは良い機会だ。アキはそう思い、着替えなど二の次でレンに抱き着きに行った。

 

「兄上!」

 

「え」

 

ぴょんと跳んで、ぎゅっと抱きしめる。

こうするのは久しぶりだ。一緒に寝ることも許されない今となっては貴重な時間である。

さて、このまま兄上に跨って……いや、この間みたいに兄上に上に乗ってもらった方が……。

 

当たり前のように過剰なスキンシップに至ろうとするアキの腕の中で、レンが悲鳴を上げる。

 

「ちょっ濡れてる!」

 

「あ」

 

濡れた衣服を押し付けられたレンは、脆弱な力でアキを突き放す。アキも抗わなかった。

代わりに濡れているズボンを脱ごうとして、それにより我慢の限界に達したレンが「着替えろ!」と怒声を浴びせかける。

 

珍しく有無を言わさぬ威圧感を醸すレンを前にして、さしものアキと言えども反抗する気にはなれなかった。

返事もままならないまま、駆け足でその場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

着替えるために自室へと歩を進めるアキ。その胸では鼓動が早鐘を打っていた。

先ほど受けたレンの怒声には、今まで感じたことがないほどの怒気が込められていた。

かなり本気で怒らせたらしい。失敗した、とアキは中々落ち着かない鼓動に苦慮している。

 

兄上の所に戻るのは少し時間をおこうかな、と悪知恵を働かせるほどである。ちょっと時間をおいたら怒りも冷めてくれるかな、と。

 

痛む胸を抑えながら客間の前を通る。

中から話し声が漏れ聞こえていた。聞き覚えのある声は母上のものだ。もう一つに覚えはないが、先ほどの老人の声だろう。

 

自然と足音を殺す。抜き足差し足で通り過ぎようとする。

しかし、聞こうとしたわけではないが聞こえてしまった話し声に、アキは思わず足を止めた。

 

『わ――――し――――』

 

『そ――――か』

 

『こ――――ほ――――』

 

『……そうか』

 

足を止めてしまったのは、最後に聞こえた母の言葉のせいだった。

その声は一見いつも通りの声音だったが、声の端に酷く悲し気な気配が漂っていて、アキは足を止めずにはいられなかった。

 

『他に方法があると言うのなら、喜んで伺います』

 

『……いや、思いつかない』

 

『そうですか』

 

二人の会話にはこれまで感じたことのない緊迫感があった。決して他人事ではないと本能で理解してしまう。

戸に耳を当て、中の会話を盗み聞きする。いつの間にか鼓動は落ち着いていた。

 

『剣聖様には領主様に取り次いでもらいたい。期待してはいませんが一応必要でしょう』

 

『あいつは前の大馬鹿者とは違う。期待しておけ』

 

『だといいのですが』

 

一体何の話をしているのか分からない。

聞き逃した最初の部分に答えがあったのだろうが、もっと早くに聞き耳を立てておけばと後悔する。盗み聞きに対する罪悪感は全くと言っていいほどない。

 

『それで……大変言い難いのですが』

 

老人の声音がわずかに変わる。今までの飄々とした口調に緊張感が宿り始めた。ついに本題に入るらしい。

ごくりと唾を飲んで戸に耳を押し付ける。

 

『私どもは老いぼれです。若者に比べれば食も細く、微々たるものでしかない。……惨いようですが他にも犠牲は必要です』

 

『それで』

 

椛の答えは早かった。

その早さは予想していたと言うようだった。この先の流れは、彼女たちにとっては既定路線なのだろう。分からないのは、聞き耳を立てているアキだけだ。

 

『男がいい。男なら何人死のうが一人残っていれば致命的ではない。女は一度に一人しか生めませんが、男は種をばら撒ける』

 

『それで』

 

『大人ではなく子供でしょう。男であっても大人ならまだ役に立つ。子供と比べれば』

 

再び鼓動が早鐘を打ち始める。死と言う単語が出てきた辺りで、アキは二人が何について話しているのか察しが付いた。しかし本能が理解を拒んでいる。聞きたくないと心が悲鳴を上げた。

 

『全て殺す必要はない。しかし残すのは強い子供だけです。弱い者は殺さねば』

 

『……』

 

母の声は聞こえなかった。今どんな顔をしているのか。それだけが気になった。

 

『剣聖様。今、この村の子供たちは皆健康体です。あなたのご子息を除けば』

 

懇願するような声がする。

噛みしめているはずなのに、歯が震えてガチガチと音がした。怒りと恐怖が押し寄せる。目の前がチカチカと発光した。

 

『もっとも弱い者から殺さねば。こんな時だからこそ、特別扱いは許されない。どうか、どうかお許しを。村が一丸となってこの窮地を乗り越えるためにも、どうか』

 

続く言葉を予想した。耳をふさいで聞かないでいることも出来たが、それが出来るほどアキは弱くない。聞く前には引き手に手をかけていた。

 

『どうか、ご子息を殺すことをお許しください』

 

戸を開ける。

渾身の力を込めたはずだが、戸は半分しか開かなかった。

すうっと音もなく戸が開き、室内の様子が露わになる。

 

部屋には二人しかいなかった。母と老婆が二人だけ。

下座に座る老婆が開いた戸に気づいて振り向く。上座の母はアキを一顧だにしなかった。

 

対するアキは手足が震え、立っているのもやっとである。

乾いた喉から絞り出し、震える唇を開いて言葉を紡ぐ。皮肉なことに、声だけは震えていなかった。

 

「どういうことですか」

 

気丈な声とは裏腹に、その顔は真っ青だ。それは怒りのためか、あるいは恐怖か。アキ自身にもわからない。

 

驚愕に染まった老人と、驚く素振りもなくいつも通りの母の顔を見ながら、アキはひたすらに答えを待った。

「入れ」と母が言うまで、その場に立ち尽くしていた。



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40話


前話より
『わ――――し――――』
『そ――――か』
『こ――――ほ――――』
『……そうか』

実際の所
「私共は死ぬことにいたしました」
「それ以外に方法はないのか」
「これ以外に方法はありません」
「……そうか」


殺伐とした空気の漂う室内で、アキを迎えた三人がそれぞれ向かい合って座っている。

上座に椛が座り、下座に老婆が座っている。その中間に腰を下ろしたアキは、鋭い視線で二人を射竦めた。

 

実の娘に射殺すような視線を向けられたところで、椛に変化はない。内心がどうであれ、いつもの無表情は微塵も崩れなかった。

代わりに老婆は冷や汗を掻いている。能面のように感情をなくしたアキからは剣呑とした気配が感じられる。威圧感がずっしりと圧し掛かり、気を抜けば物理的に潰されそうな気がした。何を馬鹿なと自分自身を笑い飛ばそうとして、喉が渇いて上手く声が出てこなかった。

 

このような体験は久しぶりだ。剣を向けられているわけでもないのに、たかだか視線でこれほど威圧されている。

もしその手に得物があれば、心が弱い者ならそれだけで気絶するかもしれない。さすがは剣聖の娘。

 

あっぱれあっぱれ、と老婆は心中で惜しみない賛美を重ねた。

さすがだ。凄い。全くもって素晴らしい。将来が楽しみだ。

 

そのようにいくつもの称賛を思い連ねていると、次第に威圧感にも慣れてきた。重圧は感じなくなり、喉の渇きはいつの間にか癒えている。言葉を発するのに何の支障もなさそうだ。

 

経験と言うのはこういう時にこそ役に立つ。その長い人生で修羅場を潜った数は山とのぼる。数だけなら剣聖にだって負けない自信がある。

人が持つ最大の武器は適応力だと思う。どんな環境だろうと適応さえ出来れば、それだけで生きていける。

特に老婆の世代はそれが必要だった。戦中から戦後にかけて、この世の地獄とも言える時代を生き抜いたからこその考えである。

 

老婆は口を開く。

いっそのこと殺されても構わない。どうせ老い先は短い。遅いか早いか。この年になって生きることに固執する気はない。

元々その考えでここまでやって来たのだった。

 

「不和は、避けねばなりません」

 

厳かな言葉に動揺は見受けられない。椛は静かに耳を傾けている。しかしアキは今すぐにでも掴みかかりそうだ。

空気が殺伐としている理由の大半はアキが殺気立っているからだが、それを抑えているのは椛である。

アキが少しでも動こうとするたびに、椛は目で制した。黙って聞いていろと視線で拘束している。

 

「最悪の場合、男の子の大半を殺します。親は反対するでしょうが、村を生かすためには殺すしかない。弱い者から殺す。そう言って、殺していく」

 

二人の若者を見ながら、老婆は昔のことを思い出していた。

 

俗説だが、飢饉はおよそ五十年おきに起こると言われている。例に漏れず、前回の飢饉は戦後間もない頃に起きた。丁度五十年ほど前である。その時は弱い子供を中心に大勢の人間が飢えて死んだ。

町にも道にも死人が山のように積まれ、風が吹けばどこからともなく死臭が漂っていた。

東の地は津々浦々そんなありさまで、惨状と言う意味では戦争に引けを取らないほどの酷い光景だった。

 

一体どれほど死んだのか正確な数は分からないが、消えた村の数は一つや二つではない。

前の飢饉で大勢が死んだ理由の一つに、領主の行いが挙げられる。

元より重税を課し、蓄えを許さず、搾れるだけ搾り取っていく暴君ではあった。もしかすると、戦後間もない時期ということもあり、締め付けることで反抗する気力をなくす意図があったのかもしれない。

 

だからと言って、飢饉と言う異常事態であっても例年通りに税を徴収されては死ねと告げられているに等しい。

当時の領主はただ搾り取り、人が死ぬのを見ているだけだった。

 

現領主は当時ほどの重税こそ課していないが、前の領主の娘である。

それだけで信用できない。前領主がどれほど外道だったかは風の噂で耳に届いている。血が繋がっているだけに、今は仮面を被っているだけでいずれ本性を見せるのではないかと疑っている。

 

故に、支援に期待はできない。何の確証もなく楽観しては、かつての二の舞になってしまう。最悪を想定して備えなければならない。

他の老人たちと話し合って出した結論がそれである。

 

助け合わなければならない。村の人間は皆ひもじい思いをするだろう。腹が減ればそれだけで怒りっぽくもなる。

わずかな軋轢が全体に広がって、血で血を洗う事態になりかねない。食糧を奪い合い殺し合っては本末転倒だ。そんなことでは全滅してしまう。人は助け合わなければ生きていけないのだ。

 

それを避けるために、特別扱いは極力避けねばならない。

例え剣聖の息子と言えども例外はない。村長は私だ。この村にいる以上は従ってもらう。

 

「弱き者から殺す。これは絶対に守らなければなりません。例え食が細く口減らしと言うには程遠かろうと、絶対に踏まなければならない手順なのです。でなければ誰が自分の子を殺すことに同意しましょうや。親ならば誰も子を殺したくなどない。けれど殺してもらわなければ困る。そのために基準を設け、まずは私たちがそれに従います。老いぼれから死んでいきましょう。皆を納得させるために」

 

赤裸々に語られた内容を聞き、アキの気勢は削がれていた。

まさかそんな話をしているとは思っていなかった。てっきり、兄を殺して自分はのうのうと生きようとする厚顔無恥だと思っていた。

 

アキは俯く。死と言う言葉が苦い記憶を呼び起こさせる。

生気のない顔と冷たい感触。決して思い出したくない記憶だが、こう言う時には思い出してしまう。落ち込みかけた自分を戒め、腰の木刀に触れ発奮した。

 

「死にたいなら勝手に死ねばいい」

 

顔を上げ、冷たく言い放ったアキに対し、老婆は微笑むだけだった。

思いのほか優しい表情を向けられアキは鼻白む。もっと強烈な罵倒が必要かと気勢を上げたアキを、椛が「やめろ」と制した。

 

「母上……なぜですか」

 

「お前の出る幕ではない」

 

「……本気で言ってますか」

 

「私に任せておけ」

 

今にも噛み付きそうな形相のアキと、あくまで落ち着き払っている椛。二人は睨みあう。

多少強くなったとはいえ、戦闘にしろ口論にしろ、未だにアキが適う相手ではない。瞳すら揺らさない椛に根負けし、アキは忌々し気にそっぽを向く。

そこまで言うならやってみろと負け惜しみ染みた態度で口を閉ざす。

 

そんなアキを横目に、椛は老婆と顔を見合わせた。

 

「それで、その老いぼれとやらが死んだ次がレンというわけか」

 

「はい」

 

椛は感情の感じられない声音で、淡々と言葉を重ねていく。

 

「レンが生きているのに、他の者が死んでは軋轢が生まれると」

 

「まず間違いなく」

 

「なぜ言い切れる」

 

「あの一件以降、ご子息の姿を見かけなくなりました。それまでは毎日のように見ていたと言うのに。村中が知っています。噂も飛び交っています。何かあったのではないかと皆心配しています」

 

「そうか」

 

椛は沈黙する。

その内心は面倒になったと言うのが半分、蘇ったことが知られていないことへの安堵が半分である。

 

そもそも、椛の本心としてはレンを殺すと言う選択に同意出来るはずがない。

いくら飢饉とはいえ、息子を殺してまで生き延びたくはない。もし本当にレンを殺すことになったなら、代わりに私を殺せと言うだろう。あるいは村を出ていくか。恐らく後者だ。

 

加えて今現在、それほど切迫した状況だとはどうしても思えなかった。

村の老人たちは、過去の記憶から事態を重く見すぎているきらいがある。かつての領主が外道であることはよく知っている。殺したのは誰あろう椛である。あれは外道と言う言葉が霞むほどの屑だった。そればかりは否定しようがない。

 

仮にもしあの外道が今も領主だったのなら、椛もこの老人たちと同様に、この世の終わりを味わえたに違いない。

しかし外道は死に、領主は変わった。あの娘は頭がいい。先を見る力がある。この事態にも備えているはずだ。

 

様々なことを勘案し、椛はそう思った。村の老人たちとは正反対の結論である。

領主と長い付き合いがあり、人となりを知っているからこその結論だ。いくら説明したところで、老人共は理解しえないだろう。

 

こういう場合に口で説いても時間の無駄だ。目に見える形で答えを見せてやるのが一番手っ取り早い。

椛は考え、口を開く。その頭の中では、今後の予定が組まれ始めていた。

 

「少し待て」

 

領主の元へ行くのに普通なら1日かからない。だが雪が降った。この辺りは融け始めているが、山の上は積もっているだろう。また降るようなら最悪足止めもあり得る。

一体何日家を空けることになるのか。今は出来るだけ留守にしたくはないのだが……。

 

考えながら言葉を紡ぐ。

そのせいで、アキが信じられないと言う顔で椛を見ていることに気づかなかった。

 

「領主の元へ行き援助を願う。税を免除してもらえるように話もする。それを待ってからでも遅くはないはずだ」

 

「もし以前のように何もしてもらえないのなら、それどころか追い込まれるのなら、切り詰めるのは早い方が良いかと……それだけ生き残る人間は多くなる」

 

「言っていることは分かるが、私はお前たちほど悲観していない。領主は賢い。今年の夏は涼しかった。誰もが薄々こうなるかもしれないと予見したはずだ。ならば、あの娘が備えていないはずがない」

 

「……随分と、高く買っておいでですな」

 

「あれのことはよく知っている」

 

椛の目には自信が満ちていた。

信じ切っている目だ。すっかり絶望した自分とは大違いだろう。

老婆は大きく息を吐いた。

 

もし椛の言う通り、領主が税を免除し食糧を融通してくれたとして、それでも飢饉の被害如何によっては口減らしは必要だ。

まったく必要ないなんてことはまずありえないと思っている。

 

それを分かっているのかいないのか。

剣聖の考えはまるで分からないが、自信満々にここまで言うのなら、その言葉に賭けてみるのも悪くない。とは言っても、最悪への備えは必要だ。

 

「そこまで言うなら、わかりました。しかし、もし駄目だったその時は、手にかけることをお許しください。これは村の皆のためです」

 

椛は顔をしかめる。

誰が許すかと口を衝いて出そうになる。だが口論している暇はない。老婆が言う通り、行動は早ければ早い方が良い。今日発つかは微妙なところだが、一刻も早く出発する必要がある。

結果、上手く言い包める方法を思いつかず、答えあぐねて言葉は出なかった。

返答はおろか頷くことすらしなかったが、否定しなかったと言う事実が肯定と受け止められた。

 

老婆は満足そうな顔をし、アキの顔からは血の気が引いていく。

すうっと波引くように威圧感がなくなり、別の何かが空気を漂い始める。その気配を察知し、一刻も早く離れた方が良い判断した老婆は、「それでは」と腰を上げた。逃げるように去るその背中を、椛はまあいいかと見送った。

 

どのような結果になろうともレンを殺す未来などありえない。それがはっきりしているのにどうして誤解を解く必要があるのか。

 

老婆の足音が玄関へと向かっていく。父が対応するだろう。

急がなくてはならないが、馬を走らせる前に片づけなくてはならない問題があと一つある。憎しみの目で自分を見る愛娘だ。

 

「なんだ」

 

「……」

 

歯を食いしばり、膝に置いた手にぎゅっと力を込めるアキは殺気を放っていた。

それだけ怒っていると言うことだ。怒っている理由はレンのことで間違いないが、殺気を向けられるのは意味が分からない。

訳を尋ねて返事を待つ椛は、相も変わらない無表情だった。

 

「兄上を……見殺しにするのですか」

 

「しない」

 

即答した。これ以上はないと言うほど簡潔明瞭だった。

だと言うのにアキは納得していない。それどころかより視線をより険しくし、殺気は膨らみ続けている。

 

面倒だと言う気持ちが前に出た。一体何が不満なのだろうか。

急がなくてはならない時に余計な時間を取られるのは我慢できない。

 

椛は辛抱強くアキの言葉を待った。

自分から説明すると言う発想はなく、聞かれたことだけ答えようと言うどこまでも受け身な姿勢であった。

 

「今の、会話は……」

 

「食糧がない。周辺の村々にも、町にすらない。対応しなければならない。さもなくば大勢死ぬ」

 

「……あいつは、兄上を殺すと言っていました。殺すのですか?」

 

「殺さない」

 

アキは混乱した。

気配が揺れ、何を信じたらいいか分からず惑っている。

 

ここで初めて、椛は詳しい事情を説明すると言う選択肢を思いついた。

しかしその選択肢は即座に却下される。お前の兄はもうじき家を出ると聞かされた時、アキがどういう行動をとるか分からない。

これからしばらく留守にするのだ。そんな時に暴走されては対処のしようがない。

 

大人しくしていてほしいと言う願いを抱き、椛は無言でアキを見つめる。

アキは混乱して眉をひそめていたが、結局のところすべきことは変わらないとすぐに立ち直った。

憎しみを押し殺した声で言葉を紡ぐ。

 

「食べ物が足りないから兄上を殺すと言うなら、他にも手段があります」

 

「なんだ」

 

「他の人間を殺せばいい」

 

今度は椛が眉をひそめた。

 

「なんなら皆殺しにすればいい。そうすれば食べ物は足りる。兄上を殺すなんて、そんなこと言う奴は死んで当然の――――」

 

「もういい」

 

それ以上は聞くことさえ耐えかねた。

育て方を間違ったことを切に感じる。自分が何を言っているか、理解しているのだろうか。していないのかもしれない。

だから平気で殺すと言えるのだ。命を奪うことがどのようなことなのか、まだ理解していないから言えたことだ。

 

輝きの代わりに薄暗い色を灯した瞳に不安を覚えながら、椛はアキを村に残していくことに危機感を抱く。

いっそのこと連れて行こうかと考えてみて、急ぐ旅路であることが障害となる。

 

どうにもままならないことばかり起きている。不用意に動けば取り返しのつかないことになりそうで、椛はどっちつかずに二の足を踏んだ。

 

頭を悩ませた末に、今はすべきことをするしかないと取りあえず行動に移す。

父に事情を話す。その次はレンと話そう。この調子では発つのは明日になるか。仕方がない。

 

椛はアキに「何もするな」とだけ言い放ち、急いで父の元へ向かう。

アキのことは後回しで良いと判断した形になってしまい、いささか後ろ髪引かれる思いだった。




混乱する方がいらっしゃるかもしれないので補足説明です。

1.母上は前領主(外道)を殺した
2.現領主は前領主(外道)の娘
3.母上と現領主は仲がいい(親を殺されてるのに)

このあたりの事情については、本当は母上の過去話で触れるつもりだったのですが、文字数削減の煽りで省略しました。
その内書くかもしれないので明言しませんが、色々あったのだと察してもらえるとありがたいです。
この一件には仙や先代剣聖、あと微妙にカオリさんとかも関わって来るのでいつか書けたらなあと思ってます。


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41話

お久しぶりです。11月に更新できず口惜しい限りですが、頑張って書いていきます。


アキをどうするか。そのことに頭を悩ませながら、椛は廊下を歩く。

連れて行くか、置いていくか。現状その二択だが、どちらも最善とは言えない気がした。他の選択肢があるのではないか。そう思いはするものの、三つ目の選択肢と言うのは中々思いつかない。

結局、答えが出ないまま部屋へと着いてしまい、アキのことは一旦頭の隅に置くことにした。

 

部屋の中には父が座っていた。老婆を見送った後、部屋で一人座り込んでいた父は、突然部屋に入って来た椛に一瞬驚き、しかしすぐに表情を引き締めた。

二人の付き合いは長く、言葉を交わさずとも姿を見るだけで察するものがあった。

 

「話がある」

 

「はい」

 

二人は向かい合って座る。

伏し目がちな父に対して、椛は真っ直ぐ目を向ける。その決して揺らがない視線を一瞥し、父は思わず目を背けた。

嫌な用件だと分かっているらしい。だが椛は構わず口火を切る。

 

「村の老人どもが話し合ったようだ。食糧の備蓄が心もとない。口減らしをすると」

 

瞬間、父は俯けていた顔を上げ、まじまじと椛を見た。その顔はひどく動揺していた。

 

「それって……」

 

「まずは自分たちが死ぬらしい。そのあとに子供を幾人かと言う話だが」

 

見る見るうちに、父の顔から血の気が引いていく。

この先は言うまでもないことであった。しかし伝えておくべきだと椛ははっきりと言う。

 

「奴らの言い分では、真っ先に死ぬべきはレンと言うことだ」

 

震える唇から言葉は出なかった。

わなわなと全身が震え、がくっと脱力して前のめりに倒れそうになる。

咄嗟に椛がその身体を受け止めた。健常なはずなのに伝わる体温は平時のそれより低い。

心配して声をかける椛。その言葉に一切答えず、父はすがりつくように椛の服をぎゅっと握りしめた。

 

「そんな、そんなことは……」

 

「安心しろ。そんなことは私が許さない」

 

潤んだ瞳が椛を見上げる。

希望と絶望がないまぜになった瞳。しかし出会った当初に比べれば、そこに希望があるだけましであろう。椛は力強く頷いた。

 

「明日にでも西へ発ち、領主に援助を求む」

 

「……」

 

「私は剣聖だ。多少の我がままなら押し通せる。昔の話を持ち出せば、どのような願いでも否とは言えないはず」

 

正直に言えば、今更になって過去のことを蒸し返し、あまつさえ弱みに付け込むような真似などこれっぽっちもしたくはない。しかしこのような時世である。必要とあらばどんなことでもすべきだった。己のちっぽけな誇りに固執する気など毛頭ない。今までもそうやって、剣聖の地位を守り続けてきたのだ。

 

「しばらく留守にする。いない間家のことは任せるが、何があるかわからん。気を付けろ」

 

「……」

 

腕の中で沈黙を保つ父を、椛は根気強く待つ。

やがて深く息を吸い込み、大きく吐く音がした後、父は椛の腕を離れ自分の力で起き上がった。

先ほどとは違う力強い瞳に射貫かれながら、椛は父の言葉を聞く。

 

「任せて」

 

「……頼む」

 

それ以上の言葉はいらない。二人の心は通っていた。

椛は立ち上がり部屋を後にする。次はレンの元へ向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レンの元へ向かう最中、椛はアキの気配が家を離れるのを感じ取った。

てっきり家に留まりレンの側にいると思っていた。まさか家を離れるとは思ってもみず、どこへ行くのかと気配を探る。その足取りの向かう方には鍛錬場があった。

そこにはアキ以外に人の気配はない。ならばとりあえずは大丈夫だ。しかし長く放っておいていいはずがないのは先刻承知である。

すべきことは多い。一つ一つ片づけていくしかない。

 

急ぎ足で部屋に着き、開いていた戸から中に入る。布団の上で身を起こしていたレンと目があった。

椛は布団の傍らに腰を下ろし、どのように切り出したものかと一瞬考える。

レンを一瞥し、赤黒い髪と病人のような白い肌を見た。輝きのない黒い瞳には知性の色だけが垣間見える。

 

今更何を考えることがあるだろう。今まで通りに接するべきだと椛は思った。余計な話はいらない。単刀直入に切り出す。

 

「食糧がない」

 

「雪が降りましたからね」

 

それはそうだろうと言う調子のレン。窓の外を見て、依然として空を覆う雨雲を見上げている。

 

「この寒さでは、田んぼも畑もダメでしょう。厳しい冬になります」

 

一を語っただけで二、三の答えが返って来た。

寒すぎれば飢饉が来る。暑すぎても飢饉が来る。大人なら誰でも知っていることだが、子供に限ってはその限りではない。

大人が教えない限りは知る由はないだろう。椛はレンにそれを教えたことはない。それ以外にも、教えた覚えのないことをレンはなぜか知っている。

花街のことなど一体どこで知ったのか。どこまで知っているのか。椛は内心不安で仕方がない。

 

「先ほど来客があったようですが」

 

「ああ」

 

「帰り際、ちらと見ましたが、確かあの人は村長だったはず」

 

「そうだ」

 

「食糧がないんでしたね」

 

椛は一度口を閉じる。

心の内を見透かされているような気分になった。率直に言えば気分が悪い。察しがよすぎると言うのはあまりに気色悪い。

 

「収入がないのなら支出を抑えるしかない。なので、用件は多分間引きあたりだと思ったのですが」

 

椛は目を瞑り、内心大きく息を吐いた。頷きたくなかったが、頷かなければ話は進まない。

用件を切り出したのはこちらだと言うのに、いつの間にか主導権は椛の手から離れていた。答えていくうちに、話は勝手に進んでいく。

 

「……そうだ」

 

「いつの時代にも優先順位と言うものはあると思います。この状況で一番低いのは男の子供で間違いないですね」

 

「いや、老人の次だ」

 

椛の言葉にレンは首を傾げる。

無表情ではあったがその仕草は子供らしくて可愛いものだった。

「老人の次?」と納得できないと言う物言いも拍車をかけている。

 

「老人共は自ら命を絶つようだ。その代わり、子供を殺すことに同意しろと親に迫るつもりらしい」

 

「全員死ぬのですか? お年寄りが?」

 

「そう言っていた」

 

レンは難しい顔をした。

椛はその意味がまるで分からなかったが、深く考えずに話を進める。幸いなことに主導権が戻ってきた。

 

「先ほどの来客は、真っ先に死ぬべきはお前だと告げに来た。ついにで許しも請うてきた」

 

「……」

 

沈黙があった。

椛はレンを真っ直ぐ見つめる。その顔に動揺は見受けられない。顔色すら変わらない。いつも通り青白かった。

 

「聞いているか」

 

「ああ、はい。聞いてます。……まあ、それは仕方ないんじゃないですか。こんな身体ですし」

 

ヒラヒラと振られる手は華奢でやせ細っている。

あの腕で、かつては刀を振り回していた。今や見る影もない。

 

「それで母上はなんと答えましたか」

 

「当然、断った」

 

椛は胸を張って断言した。誇るべきことだと思う。親らしいことをした。誇らしい。

そんな椛の内心など無視して、レンは「ふーん」と気のない返事をし、あらぬ方向に意識を飛ばしている。その視線を辿れば壁に行き当たる。焦点の合わない朧げな瞳には何も映っていない。ただ何かを考えているらしい。

 

「私は、これから西に発たなければならない」

 

「なぜですか」

 

「領主に税の免除を求めるためだ」

 

レンはただ頷くのみ。

椛は胸の内に巣食い始めた不安を押し殺す。聞かねばならぬが、聞くには勇気がいる。とてつもない勇気が。

どうしてもその勇気が出せず、話は迂遠な方向に進んでいった。

 

「加えて、援助も求めるつもりだ。運がよければ、誰も死なずに済む」

 

「飢饉がどれほど広く及んでいるのか。全てはそれ次第だと思います」

 

「村長は付近の村に様子を見に行かせた。まだ帰ってきていないようだが」

 

「期待せずともこの辺りは全滅でしょう。問題は西です」

 

東に行けばすぐに海に行き当たる。しかし西には陸地が続く。

もしこの飢饉が東方のみならず西でも猛威を振るっているのなら、もはや打つ手はない。この事態にどれほど備えていたのか。全てはそれに懸かってしまう。

 

山はあるけど小さいしなあと、レンは嘆き節を呟いた。あれが雲を遮るほど大きければ、雪が降るのは東だけで済んだかもしれない。

 

そんな、どうでもいいことを話している内に会話は一段落した。

情報の共有は済んだ。これからの予定も伝えた。それでいてなおその場に留まり続ける椛に対し、レンは首を傾げながら訊ねる。

 

「まだなにか?」

 

「ああ……」

 

怖気づく心を叱咤し、椛は大きく息を吸う。

その様子をレンは興味深げに眺めていた。随分分かりやすくなったなと思っていた。

 

「お前はどう思う」

 

「要領を得ません」

 

思いもしない即答に、椛は一瞬言葉を失った。

もうそろそろ上手な言葉の使い方を学んでほしい、と言うレンの優しさであった。

 

「つまり……村の連中はお前に死んでほしいと言っている」

 

「はい」

 

「それについて、お前はどう思っている」

 

なんだそんなことかとレンは思った。

そんなの答えは決まっている。問題はそれを口にするべきか否か。

結局のところ自身の気持ち次第だ。口にした場合としなかった場合。その両方を考えてみた。

こんなことは口にしない方が良いに決まっているが、すでに限界が近く、現在は緊急事態でもある。どうすべきか。悩み、考え、迷った末に、天秤は口にする方に傾いていた。

いざと言う時に本心を隠すと碌なことにならないのは、この偉大な母が背中で教えてくれたことだ。

何よりレンは疲れ切っていた。嘘をつくのは体力がいる。突き通すには尋常じゃない労力が必要だ。もはやレンにその余力はない。

 

「俺は、死んでもいいと思っています」

 

途端、椛の唇が引き結んだ。

それを見てレンは苦笑する。そういう反応になるよなあ、と。これ以上はやめるべきか一瞬悩んだ。しかし一度口にしたからには取り返しはつかない。余す所なく伝えるべきだと考えた。

 

「前に言いましたよね。生きるには理由が必要だって」

 

「……ああ」

 

「俺にはもう理由がない」

 

レンは自分の手を見ながら言葉を紡ぐ。

我ながら華奢な腕だと思う。この数年、鍛えに鍛えたと言うのに、あっという間に無に帰した。こんな腕では、もう刀は振れない。

 

「母上みたいになりたかった。猿に殺されかけた時、颯爽と助けてくれたその背中に憧れた。意味も分からず始まった人生で、たった一つだけの生きる理由でした」

 

椛は黙ってレンの言葉を聞いている。

段々と力が籠っていくその言葉に、無粋にも口を挟むことは出来ない。

 

「前の剣聖と戦って、アキを守って、父上を守って、村の人たちを守りました。正しい行いだと思います。やってよかったと思ってる。でも、その結果がこれです」

 

刀が振れなくなり、後遺症に苦しんで、薬なしでは真面に生きることすら叶わない。

夢が潰えただけならまだしも、生きることにも苦労する毎日。自分で自分の面倒すら見られない。以前、アキに言われた言葉がしこりのように胸に残り続けている。――――兄上は私がいないとダメですね。

 

こんな日々がこの先何十年続くのかと思うと、それだけで生きる気力は衰えていく。

誰かに依存して生きていくことには耐えられない。そんな風に生きるぐらいなら、いっそのこと死んでしまいたい。最後にこの命を誰かのために使えるならば、それはこれ以上ない幸運だと思う。

それが、レンの嘘偽りない本心である。

 

「後悔はしていません。するわけがない。けれど、もう限界です。死ねと言うなら死にます。死なせてください。俺が死ねば他の誰かが生き残れるんでしょう?」

 

懇願しているように聞こえた。

椛は真っ直ぐレンを見つめているが、今やレンは俯いて椛を見ていない。言葉の端々に滲んでいる感情が椛の胸を打つ。何をすればいいのか。そんなことも分からず、椛はただ聞いていた。

 

「どうせ、一度は死んだはずの命です。今生きていることに感謝こそすれ、これから死ぬことを呪うなんて、それはお門違いだ。だから、死んでもいいと思います」

 

話は終わった。

レンは顔を上げる。真っ白で生気のない無表情が椛に向けられる。

椛はついに口を開いた。口の中が渇いて声が出しづらい。声を発するのに一瞬の間があった。

 

「……お前は……死にたいのか。本気で、そう思っているのか」

 

「はい。そう思います。俺は死にたい」

 

一抹の迷いすら感じられない即答であった。

椛は「そうか」と頷き、溜息を吐く。

腕を組み、天を仰いで天井を見上げる。

 

椛は考える。死にたいと願う息子。親ならば、その願いを叶えてやるべきか否か。

……考えるまでもない。答えは否である。生きていてほしい。例えどんな形でも、わずかなりとて希望があるならば。

 

椛は立ち上がった。

レンを見下ろす眦には断固たる意志を孕んでいる。

 

「私は西に行く。行かねばならない。さもなければ大勢が死ぬかもしれん」

 

「分かっています。どうぞ行ってください。俺は大丈夫ですから」

 

気丈だった。どこまでも。直前の会話など、まるでなかったかのごとく。

 

「これは剣聖の務めであるが、お前のためでもある。レン、一つだけ約束をしろ。今すぐにでも死にたいかもしれんが、少なくとも私が戻ってくるまでは死ぬな。万が一お前を間引くことになったのなら、その時は私がこの手でお前を間引く。だから……」

 

そこで言葉がつっかえた。

喉の奥が震えている。これ以上はとてもじゃないが言えなかった。

レンは言葉を途切れさせた椛を見上げて微笑んでいる。そこに先ほどまでの弱弱しさはない。代わりに目を離せば消えてしまいそうな儚さを漂わせながら、分かってますと頷いた。

 

「ごめんなさい。何があるか分からないから、本心を言っておきたかっただけなんです。困らせるつもりは……。ごめんなさい。俺は、本当に大丈夫です」

 

そんな言葉を聞けば、椛は余計に動けない。

動いたら最後、後戻りはできない。馬を繰り、山を越え、領主の元へ行かねばならない。

しかし事ここに及んでは、村のことはどうでもよかった。村の連中がどうこう言うのなら、私がこの手で始末をつけたって構わない。今はただ、この場に留まりたい。

 

動かない椛に対しレンは訝し気にし、わずかに頬を赤らめて言葉を紡ぐ。

 

「母上、愛しています」

 

「……」

 

「愛しています。だから、どうか行ってください。母上は剣聖でしょう? 俺が憧れた最強の剣士なんだから」

 

その言葉に背中を押されて、ようやく椛はレンに背を向ける。

本心がどうであれ、今更剣聖の務めを放棄することなど、椛には出来なかった。踏み砕いて来た躯がそれを許さない。

 

一歩足を進め、精いっぱいの言葉を背中越しに投げかける。

 

「……約束を忘れるな」

 

「はい。約束は守ります。絶対に」

 

その会話を最後に、椛は部屋を後にした。

家を空けると言っても、たかだか一日二日……いや、違う。もっとだ。もっとかかるだろう。もはや時間的猶予はない。

すべきことははっきりした。何より優先すべき物は分かり切っている。レンのことを思うならば、それが最善なのだろう。

 

椛は木刀を持って家の外へ向かう。

向かうは鍛錬場。アキの元へ。




Q.太刀の名前教えて
A.一の太刀 ??
 二の太刀 双牙
 三の太刀 飛燕
 四の太刀 孔穿(あなうがち)
 五の太刀 旋風(つむじかぜ)
 六の太刀 夜叉
 七の太刀 塵旋風

 実はこれらの他に八の太刀と言うのもあったんですが、出す機会を逸してしまい、設定の海に沈みました。この先出す機会もなさそうなので、作者の胸の中にそっとしまっておきます。


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42話

あけましておめでとうございます
今年も宜しくお願いします


鍛錬場で一人、アキは遠くの山々を眺めていた。

すでに日は暮れかけて、藍色に染まりつつある景色は怪しい気配を帯びている。世界は人の時間の終わりを告げていた。

 

しかし、アキは日が暮れかけていることに気づいていなかった。眺めていたと言ってもただその目に映っているだけで、その実何も見てなどいない。

木刀を握りしめながら、その小さな体躯から滲み出る物々しい雰囲気は周囲を威圧し続けている。

 

吐く息は白く、吹く風は肌寒い。けれど寒さは感じない。

指先がかじかんでいるはずなのに、それ以上に熱く煮えたぎる激情によって包み隠された。

胸の奥でとぐろを巻く怒り。出所は言うまでもない。レンは死ぬべきだとのたまった、あの老人。

その顔を思い出すたびに、怒りは際限なくどこまでも大きくなっていく。ともすれば正気を失ってしまいかねない。そのギリギリのところでアキは踏みとどまっていた。

 

大きく息を吐く。

白い吐息が空に昇っていった。

何度深呼吸をしたところで冷静には程遠い。時間が解決してくれるとは思えない。なにせ、アキを怒らせる要因はもう一つある。

 

アキは母に進言した。皆殺しにすればいいと。村の連中なんて、殺してしまえばいいではないかと。

冗談で言ったわけではない。冗談にしては性質が悪すぎる。アキだってそれぐらいは分かっている。だから本気だった。殺してしまえと心の底から述べた。

にも関わらず、母は取り合わなかった。聞く価値がないとばかりにさっさとどこかへ行ってしまった。

 

煮え湯を飲まされたような熱さが腹の中に湧き起こる。腸が煮えくり返る。

遥か遠く、連峰を収めていた視界にはチカチカと白い光が走り始めた。

未だかつてないほどの怒りを溜め込んだ結果、身体に異常が現れている。空いている手で頭を抑える。母の言葉を思い出す。「何もするな」……何を言う。

 

どうせ何もしないくせに、とアキは奥歯を噛みしめた。助ける気なんてないくせに、と失望を滲ませる。どうせ、どうせ――――と言葉にならない思いが続いていった。

 

決意を力に変え木刀を握りしめれば、軋む音が耳まで届く。

もはやどうでも良かった。この世界のありとあらゆる全て。雑音としか思えない。私の邪魔をする。おためごかしで騙そうとする。

もう騙されない。口車には乗らない。邪魔をするなら全て屠ってみせよう。この手で全てを殺しつくす――――。

 

行きつく所まで行きついた感情に従って、気の赴くままに思いを巡らせたその瞬間、不意に頭の中でぷつっと何かが切れる音がした。

怒りが限界を超え、一周回って冷静さを取り戻す。

あれだけ煩わしかった世界は静謐に包まれていた。

 

色をなくした世界。感情がなくなったような気がした。

実際の所は感情をなくしたわけではない。ただ離れて見ている。遠くから他人のように自分自身を見つめていた。

 

おかげで、背後から忍び寄って来る気配に気が付いた。それが誰かは見ずとも分かった。

振り返るまでもなく、ただ待つ。遅々とした時間だった。時の流れが遅く感じる。どうしたことだろうとアキは天を見上げる。星の一つも見えない空は灰色に染まっていた。

 

「何をするつもりだ」

 

ようやく投げかけられた声はいつも通り静かだった。

アキは振り返り、やってきた椛を見据える。

手に木刀を持つ椛は、無表情に佇むアキから少し離れて立ち止まる。

見つめ合う二人。今やアキの身体から溢れだす殺気は肌を突き刺すほどに膨れ上がり、何も聞かずともその内心は明らかである。だからこそ、声をかけずにはいられない。

 

「まさかとは思うが……」

 

「そこを、どいてください」

 

椛の言葉を遮り、抑揚のない声でアキは言う。気をつけねば聞き漏らしそうな声であった。

椛は眉をひそめ、アキはと言うと村に向かって歩き始めた。その顔に感情は一片も浮かんでいない。しかし滲み出る殺気は雄弁に語っている。

行かせるわけにはいかなかった。椛はアキの進路に立ちふさがり、もう一度尋ねる。

 

「何をするつもりだ」

 

「どけと言った」

 

乱暴な言葉遣いに鼻白む。叱ろうかと一瞬思い、しかし己の口調に思い至ると何も言えなくなる。

その間にアキはゆらりと木刀を持ち上げた。その切っ先が向けられる。――――剣聖である自分に向かって。

 

思わず凝視した。次いで、仕方のない奴だと嘆息する。同時に話が早いとも思った。椛の方は最初からそのつもりだったから。

椛は持っていた木刀を構え、蛮勇にも切っ先を向け続ける娘に言う。

 

「かかってくるがいい」

 

「……」

 

アキは喧嘩を売り、椛は喧嘩を買った。

故にこれ以上の言葉は必要ない。

 

「……」

 

「……」

 

睨み合って少しの間が経ち、だらりと脱力し切ったアキを椛は訝しむ。

ひょっとして戦う気がないのかと思った。およそ戦う気があるとは思えない力の抜き方だった。だがそれは杞憂であった。

 

次の瞬間、アキは地を蹴り、一息に襲い掛かって来る。予備動作のない一連の動きに、椛は虚を突かれた。通り過ぎざまの一太刀をいなす以外に何も出来ない。

 

背後に回り込んだアキは、次の攻撃に繋げようと速度を落としつつ地面を踏みしめた。

振り向く最中の母の背中が見える。時間の流れは相変わらず遅い。考える時間はたっぷりある。

このまま死角から斬りつける。ほぼ間違いなく躱されるだろうから、その時は間髪入れず蹴る。そして次は――――。

 

アキにとって、先手を取り続けることが唯一の勝ち筋であった。

主導権を手放した時が最後。あとは掌で踊るしかない。負けるつもりは毛頭なく、本気で勝つつもりでいた。

 

その内心は万能感に満たされている。何でもできると思った。一見不可能と思えることでも、今の自分には可能だと、根拠のない自信に支えられている。

 

その万能感を原動力にして再び地を蹴ったアキは、椛の額に向け木刀を突き出した。未だに振り向き切れていない椛にとって、それはほぼ死角からの攻撃。気づいたとして、普通なら条件反射で躱すところである。アキもそれを予想していた。躱したところを蹴るつもりで、その準備もしていた。だが予想を裏切り、椛は躱す素振りすら見せず、半分背中を向けたまま距離を詰めてきた。

見えていないはずの剣筋を、どのようにしてかは分からないが、ただ首を傾げるだけでやり過ごした後、余裕綽々と言える緩慢な動きで、アキの額に柄の先を叩き付ける。

 

意趣返しのつもりだろうかとアキは思う。のけ反りながら冷ややかに椛を見据える。

追い打ちをかけることも出来たはずだが、椛はわずかに開いた距離をそのままにして、アキの出方を伺っていた。

 

打たれた衝撃で一歩二歩と後退したアキは、一瞬だけ額を庇うような素振りを見せた後、すぐに木刀を構え直す。

椛は構えすらしない。アキがこの後どういう行動をとるか。それを待っている。

 

動かない椛に対し、アキは攻めあぐねた。

この状況でまだ自分は優位であると思えるほど楽観は出来なかった。死角からの攻撃が効かないと言う事実は、アキに少なからぬ動揺を与えている。

勝つために何をするべきであろうか。アキはそれを考えていた。遅々として進まぬ時間の中、アキの頭の中だけは高速で動いている。

少しもせず答えは出た。いや、出なかった。何も浮かばなかった。

だからとりあえず攻めよう。攻めながら考えよう。

そう考え、脚に力を込め地を蹴った。

 

振り上げた木刀を、真正面から叩きつける。椛もまた正面から受けて立った。

木と木がぶつかり合う高い音。決して軽くない。当たればただでは済まないだろう重苦しい音を周囲に響かせ、二人は打ち合った。

 

打てば打つほど、実力差が如実に表れていく。

傍目に見て、筋力、立ち筋、脚運び。それ以外にもほぼすべての面でアキは椛に劣っている。そこに経験の差と言う絶対的な壁も加わって、実力差は如何ともし難い。

 

対する椛は、木刀を受けながらアキにレンの姿を重ね見ていた。

今までの太刀筋を考えるに、単純な斬り合いならアキの方が強いかもしれない。それは筋力の差である。戦いでは闇雲に力で押せると言うだけで優位に立てる。

しかし総合的にどちらが強いかと言われれば答えに窮する。強いのはアキかもしれない。けれど怖いのはレンである。

 

未だ力で押すことしか知らないアキと違い、レンは技で立ち向かう。思いもよらぬ手段で動揺を誘い、その隙を突いて致命打を与えてくる。どんなに実力が離れていようとも、万に一つ隙を突かれれば負けかねない。そして恐らく、師はそれで負けた。

だから怖い。アキが相手では万に一つたりとて負けはしないが、レンならば万に一つの可能性があった。今まで冷やりとしたことは数え切れないほどあったのだ。

 

ふとすればそんなことを考えている自分がいる。余計なことを考えていると我に返った。今は目の前のことに集中しなくては。

目を瞑り、音と気配だけでアキの剣戟を受け止め始める。無駄なことは考えず、ただ見極めるための行為だった。娘の実力がどれほどなのか、それが知りたかった。

 

やがてアキの剣を十も受け止めた後、椛は唐突に目を開き、アキの木刀を弾き飛ばした。

空高く舞った木刀は大きく弧を描いて二人の間に落ちる。アキは悔しげな顔で唇を噛んだ。いつの間にか世界は色を取り戻し、意識は体へと戻っていた。疲労困憊で肩で息をする。万能感はとうになくなり、敗北感が胸の内を占める。

 

「少しは冷静になったか」

 

戦った直後とは思えない静かな言葉。息一つ切らせていない。それが余計に悔しさを募らせる。

この期に及んで説教はいらない。ふざけるなと、その一心でアキは椛を睨んだ。

 

そんな反抗的な内心を知ってか知らずか、椛は手の中の木刀に目を落とし考え込んでいた。

次に目を上げた時には、その瞳には決意の色が宿っていたが、アキはそれを察することが出来なかった。

 

「アキ、お前は東に行け」

 

「……は?」

 

突拍子のないの言葉を受け、アキは思わず聞き返す。椛は即座に言葉を継ぎ足した。

 

「私が西に出向く間、お前は東に行き食糧を手に入れろ」

 

あまりに突然だっため一瞬戸惑ったが、頭はすぐに回り出す。

理解するのは容易だった。理由だって分かる。その上で、とある疑念が頭にこびりついて離れない。

 

「……その間に兄上を殺すんですか?」

 

「違う」

 

「嘘だ」

 

信じられるはずはない。口で何を言おうとも、それが本心とは限らない。

疑心暗鬼に陥っているアキは、母の言うことを何一つ信じることが出来なかった。

 

「そう言って、兄上を殺すつもりでしょう。絶対、絶対、そうに決まってる」

 

「断じて違う」

 

「じゃあ、なんで!」

 

先刻の村長との会話が脳裏に浮かぶ。

 

「なんで、さっきは否定しなかったんですか!? 殺すって言ったじゃないですか! 上手くいかなかったら殺すって! 言ったじゃないですか!」

 

「そんなことは言ってない」

 

「言った! 村のために手をかけるって、そう言った!!」

 

「それは、奴らが勝手に言っているだけだ」

 

「否定しなかった!!」

 

「今しているだろう」

 

「さっきはしなかった!!」

 

椛は困惑した。アキの言っていることがよく理解できなかった。

子供だから支離滅裂になっているのだろうかと、理解することを放棄したくなる。だがそれでは話が前に進まない。呑み込む努力が必要だった。

 

「聞け。レンは殺さない。殺させもしない。万が一もないようにする。そのために、お前に東へ行き食糧を手に入れて欲しいのだ」

 

「……信じられない」

 

アキは素っ気なく言い捨て、ぷいっと横を向いた。

奥歯を食いしばり、拳を握り締め、怒りのために身体が小刻みに震えている。

 

「母上は、信じられない。父上も、村の連中も……誰もかも……。もう、兄上しかいない……」

 

ぶつぶつと呟き始めたアキの姿を見て、椛の心に新たな疑念が浮かんでいた。

それはあまりに依存しすぎているように見えた。兄の死と言う体験が、アキをこのようにしてしまったのだろうか。

何にせよ、今のアキをレンと二人っきりにすることは出来ない。その危機感がより一層強まった。

 

「どうしても出来ないか」

 

「出来ない。やりたくない。兄上の側を離れたくない……。もしその間に兄上が死んじゃったら、もう私は……」

 

涙声になったアキの心中は、椛にもよくわかる。

数か月前を思い出す。あの時抱いた気持ちをもう一度味わうことなど、絶対にごめんだった。

だからこそ、なんとしてでもアキに食糧を確保してもらわなければならない。レン自身に生きる気持ちがないことを知って、椛は焦りに焦っていた。どのような手段であろうと、出来ることは何でもしなければいけなかった。自分に出来ないのなら誰かにやってもらわなければならない。実の娘だからこそ、アキにはそれが務まると思った。実力も申し分ない。レンにはまだ及ばないかもしれないが、並み以上の腕があるのは確かだ。

 

「……しかし、やってもらわねば困る。どうしても嫌か」

 

「嫌だ。絶対に、何と言われようと、嫌だ」

 

「それなら……もう、こうするしかない」

 

次の瞬間、椛はその場に腰を下ろし、地に頭をつけた。

他人にものを頼む時、人は時にこうするだろう。だが間違っても9歳の娘に見せる姿ではない。

アキは言葉もなく呆気にとられる。突然頭を下げた母の姿を、信じられないものを見る目で見つめる。

 

「頼む。東へ行ってくれ」

 

母の口から出た「頼む」と言う言葉があまりに聞き慣れず、どうしようもない違和感が拭いきれない。

至らぬ点は多くあり、それだけ不満もある。しかし少なからず尊敬もしていた。多少の軋轢があったとは言え、こんな姿を見たいと思ったことはない。

その光景が、アキには非常にショックだった。

 

「東に、行ってくれ」

 

再三に渡る懇願に、アキは涙を滲ませる。

なぜこんなことになったのかと自問自答した。答えなど出るはずのない問いだった。

頭を抱えるようにして顔を覆い、ズキズキと痛み始めた胸を抑え、絞り出すように答える。

 

「わかり……ました……」

 

その答えを聞いた椛は安堵して頭を上げた。珍しい表情だったが、最早そんなことはどうでもよかった。

この気持ちは何だろうとアキは思う。どうしてこんなに痛いのだろう。

それが失望の痛みだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜の内に椛は西へ発った。

雪の積もった夜の山道を強行軍で駆け抜けるのは無謀である。

必死に止める父の言葉に一切耳を貸さず、あとは任せたと一言述べて走り去っていった。

 

自室に戻ったアキは眠ることもままならず、部屋の隅で膝を抱えて夜を過ごした。夕飯も取らなかった。

自分に向けて頭を下げる母の姿が脳裏にこびりついて離れなかった。

 

気が付けば夜が明け、山の向こうに日が昇っている。

ぼんやりと戸の隙間から覗き始めた日光を眺めていた。

部屋の外を誰かが通り過ぎる音がして我に返る。父だった。朝食を作りに行ったに違いない。……となると、レンは今一人だ。

 

フラフラと立ち上がったアキは、覚束ない足取りでレンの部屋に行く。

特に目的はない。ただ顔が見たかった。この時間なら恐らく寝ているだろうと思ったし、起こすつもりもない。例え寝ていたとしても、一目見たくて仕方がなかった。

 

部屋の前につき、ゆっくりと部屋の戸を開ける。

起こさぬよう、薄暗闇の中を足音を忍ばせて進む。

 

「おはよう、アキ」

 

暗闇に目が慣れるまでの一瞬の間に、不意にその言葉をかけられた。アキは驚いて体を跳び上がらせる。

まさか起きているなんて思ってもみなかった。ようやく暗闇に慣れた目に、布団の上で体を起こしているレンが映る。「おはよう」とまたレンは言った。

 

「……おはようございます」

 

しばしの硬直を経て、アキは辛うじてそう言った。その声の小ささは、部屋の隅で火が弾ける音に遮られるほどだった。

 

「どうかした?」

 

「……え?」

 

明らかに普通ではないアキに、レンは小首をかしげる。少し間を置いて言った。

 

「こっちにおいで」

 

その言葉を聞いてなお、アキの反応は鈍い。

数瞬躊躇した後、そろそろとレンの側に行く。レンはアキが座るのを待ってから、改めて訊ねた。

 

「元気がないけど、どうかした?」

 

「……」

 

アキは答えられなかった。頭を下げる母の姿を思い出すだけで胸が痛むのに、それを言葉にすればどれほどの苦しみに苛まれるだろう。

 

俯くアキの頭をレンは撫でる。

言いたくないなら言わなくていいと、その手つきから優しさが伝わって来て、アキはたまらず鼻をすすった。

一度こぼれてしまったらもう止めることは出来ない。我慢など出来るはずがなかった。

決壊した川のように、次から次へ気持ちが溢れてくる。膨れ上がった感情は行き場をなくし、アキはレンに抱き着いた。胸の中で支離滅裂に言葉を紡ぐ。

 

何を言っているかアキ自身にもよく分からなかったと言うのに、レンは一言も聞き漏らすまいと耳を傾けてくれた。

聞きながら時に相槌を打ち、時に頷き、時にアキの背中を撫でさする。

その一つ一つがアキの心を癒した。全て話し終わった時には、アキの気持ちはすっかり落ち着いていた。

 

アキの告白は要領を得ない部分もあったが、レンにとっては理解するのに何の問題もなかった。事の次第を全て把握したレンは、苦渋の表情で呟く。

 

「あの人は、本当にもう……」

 

溜息を吐くレンを、アキは胸の中からじっと見上げている。

「……俺も悪いのか」そう続いた言葉は、しっかりと耳に届いていた。

 

「アキ、聞いてくれ」

 

身じろぎはおろか視線すら微動だにさせないアキは何も答えなかった。

その無言が肯定だと受け取ったレンは、訥々と語りかける。

 

「母上は……今いっぱいいっぱいなんだ」

 

自分の言葉が母上を追い込んだのかもしれない。

その思いから、レンは精いっぱい椛を擁護する。決して流暢ではないが、思いつく限り言葉を尽くしていく。

 

「母上は剣聖だけど、それ以外は普通の人なんだ。と言うか大部分は普通以下だから、愚かなこともしてしまう」

 

「……」

 

しかし、アキはレンの言葉をほとんど聞いていなかった。その瞳はただレンを見ている。こうしている間も言葉を紡ぐ唇や気だるげな瞳、赤黒い髪。それらを吸いこまれるように凝視して、それ以外は何も映っていない。

 

「大人と言っても完璧じゃない。親だから立派と言うわけでもない。俺たちより少し年を取ってるだけで、ほとんど何も変わらない――――」

 

レンが言葉を重ねている。雑音にしか聞こえない。それよりももっと重要なことがある。

アキは正直な心に従って、レンの話を遮った。

 

「――――もっと、近くに行っていいですか」

 

いきなり何を言うのかとレンは目を丸くする。

 

「近く……?」

 

アキが何を言い出したのか、レンにはよくわからなかった。

二人はすでに抱き合っていて、距離はないに等しい。話の流れから、母上との距離かと思った。母娘の心の距離。けれど違った。

 

「もっと兄上の近くに行きたい。膝の上とか」

 

「……膝……」

 

なんでそうなるのかよく分からない。今と大して変わらないだろうと思った。

けれどアキがそうしたいなら、とレンは本音を飲み込んで頷く。

 

「おいで」

 

途端にアキは俊敏な動きを見せる。瞬きの間に立ち上がり、レンの膝の上に腰を下ろした。

足に体重が加わったことでレンの身体には痛みが走ったが、一瞬で取り繕う。

 

向かい合って抱き合う形になった。レンの体温をアキはより身近に感じることが出来た。だがまだ足りないと、足を腰に回して密着させる。……これでもまだ足りない。全然、足りない。

 

「横になってもらっていいですか?」

 

「……どうして」

 

「その方が、兄上にもっと近づけるから」

 

おかしなことになっている。

レンは頭を抱えたくなった。直前まで母上の愚行を取り繕うのに必死だったのに、今度はアキが奇行に走っている。

いっぱいいっぱいなのはレンも一緒だ。どうするべきか、迷い沈黙するレンの肩を、しびれを切らしたアキが軽く押す。

 

「ちょっ……!?」

 

いとも簡単に押し倒され動揺するレン。直後、上から覆い被さって来たアキを見て思わず目を瞑った。

前世の記憶が蘇ったことによる条件反射だったが、記憶とは違いアキは首筋に顔を埋めただけだった。穏やかな息遣いが耳元で聞こえ、レンは身動きできなくなる。

 

これ以上ないと言うほど接近した二人。互いの体温が伝わり、心音も感じることが出来る距離。だがこれでもアキは満足できない。骨の髄、身体の奥深くまでレンを感じたい。

欲望が迸り、身体はより多くを求めた。けれども今はこれが限界だった。

もし混ざり合い融け合うことが出来たなら、アキは迷いなくそうしただろう。しかしそれは出来ず、他の術も知らない。

知識のなさがアキを踏みとどまらせた。

 

「私は、東に行かなくてはなりません」

 

レンの耳元でアキが囁く。

 

「あの人が行けと。行きたくないけど、それが兄上のためなら……」

 

「ああ、聞いたよ」

 

昨晩聞いたとレンは言う。「起き上がっていいかい」と言葉を続けた。渡したいものがあるんだ、と。

後ろ髪引かれる思いでレンの上から離れたアキは、ふと身体の奥に籠る熱に気が付いた。体温が少し高くなっているらしい。己の首筋に手を当てつつ、体調不良ではなさそうだと結論付けた。

 

その間に布団から起き上がったレンは、四つん這いで部屋の隅に行き、置いてあった刀を握る。

大事そうに抱えたそれは、レンが10歳の時に椛から譲り受けた真剣である。

 

「これをお前に譲ろう」

 

その言葉と共に刀が差し出される。白い鞘に収まったそれは、見紛うはずもなくレンの物である。

アキは驚き、信じられないと言う思いで、レンと刀を交互に見た。剣士にとって刀は命の次に大事なものである。おいそれと譲り渡すものではないし、生半可な気持ちで受け取れるものでもない。

勢いよく頭を振って拒絶するアキに、レンは微笑を浮かべる。

 

「俺が持っているより、お前が持っていた方が役に立つ」

 

ずっと寝たきりだったから、昔みたいに刀を振ることは出来なくなった。だからお前が持てとレンは言う。

 

拒否は許さないと押し付けられた刀を、アキは震える手で受け取った。

刀を譲渡するその行為自体が、アキには一つの終わりを告げているように思えてならなかった。ようやく引っ込んだ涙がまた眦に溜まっていく。

ぼやける視界の向こうで、レンは相も変わらぬ優しい口調で語りかけている。

 

「一人で行くわけじゃないし、あまり危険もないと思うけど、ちょっと見て何もなければすぐに帰っておいで。なければないでなんとかなるから」

 

それは優しさに満ちた言葉だった。

しかしアキには嘘だと分かる。食べ物は絶対に必要だ。そうじゃなければ殺される。レンが、殺される。

頬を伝い出した涙を乱暴に拭って、アキは決意を秘めた眼差しでレンを見返す。その胸には譲り受けた刀を抱きかかえている。

 

「怪我だけは絶対にしないように。危険だと思ったらすぐに引き返すこと。それと――――」

 

束の間躊躇する素振りを見せた後、レンはその言葉を紡ぐ。

 

「愛してる」

 

言い切った後、レンはわずかに頬を染め、恥ずかしさを押し隠すように口元を隠した。

その言葉の意味を完全には理解できないまでも、おおよそ察したアキは、胸の奥で急激に膨れ上がる感情を抑え込むのに苦労した。暴れる衝動を言葉で発散させようとする。

 

「す、すぐに帰ってきます……。だから約束してください。絶対に死なないって」

 

未だ頬を染めているレンは、チラリとアキを見て小さく頷く。

その姿があまりに可愛くて、愛おしくて、アキは溜まらずレンを抱きしめた。全身余す所なくくっついて、肌越しに体温を感じる。それでも全然足りなくて、身体と身体を擦りつけた。首に縋りつき押し倒しもした。

 

そこまでしても満足には程遠い。後から後から湧いてくる底なし沼のような欲望が、アキの背中を押し続けている。けれどそれ以上先には進めない。どれほど背中を押されたって、進み方を知らないなら立ち止まるしかない。

 

切りのない心に蓋をして、レンの上に覆い被さりながら、アキは囁く。

 

「行ってきます、兄上」

 

行くことになってしまった。決して行きたくなんかないのに。

母のことなんかもうどうでもいい。兄のために行く。そして兄のために早く帰ってこよう。一日で帰ってこれるだろうか。急げば出来そうな気がする。

そう考えながら、アキはレンを抱きしめる。満たされない欲望を少しでも満たすために。




なんでこうなったんだろう
それと八の太刀は先代剣聖の技なんでレン君は関係ないです
言葉足らずで申し訳ありません


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43話

「眠い」

 

唐突に、アキは吐き捨てた。

場所は村を東の方向に歩いて少しの位置である。

 

飢饉が訪れ村は食糧危機に見舞われた。

是が非でも食糧を見つけねばならぬ。その使命を帯びたアキが渋々と村を発ってからまだほんの僅か。

だと言うのに、昨晩一睡もしなかった弊害がアキを苦しめる。

 

村にいる間、もっと言えばレンの近くにいる時は睡魔など微塵も感じなかったと言うのに、いざ村を離れた途端にこれであるから、どれほど気が進まないのか分かろうと言うものだった。

 

「ねむ……」

 

うんざりした調子で再び呟く。どうにもこうにも、ままならない。

一連の呟きはあくまで独り言であったが、急速に膨れた睡魔のせいで心の底から漏れ出ていた。口を封じなければ延々垂れ流され続けるだろう。それぐらいアキは眠かった。

 

誰に聞かすつもりもなかったが、一度口から放たれれば大なり小なり人に届くものだ。

眠い眠いと睡魔に抗うアキのすぐ後ろで、その言葉を聞き逃さなかったのは、道案内お守り等々の役目を背負わされたゲンである。

 

「……おい小娘。今眠いって言ったか」

 

ゲンは防寒用の頭巾と毛皮を着こみ、万一雪が降った時のためにかんじきを腰からぶら下げていた。

背中には籠を背負っており、矢筒やら何やらが歩く度にカラカラと音を鳴らしていた。

 

数歩前を行くアキにもその音は聞こえており、険の籠った声もしっかりと耳に届いていた。

顔を見ずとも、その声だけでゲンがどれほど険しい表情をしているのかが分かった。

 

こんなに眠いのに説教なんて冗談じゃない。本当に眠ってしまうではないか。

迷惑きわまりないと嘆息し、あえて振り向くことはしなかった。触らぬ神に祟りなしと言うよりかは、ただ楽な方に逃げただけである。

 

「緊張して眠れんかったか? それとも嬉しかったのか。どっちにせよ餓鬼だな」

 

「……」

 

反応のないアキをどう思ったのか、ゲンは嫌味を言い始めた。

それは説教にしては中身がなく、代わりとばかりに悪意が籠っている。その厭味ったらしさは大人の言動からは程遠い。

 

ゲンが忌避される理由の大部分がその物言いのせいなのだが、今日に限っては普段にまして攻撃的だった。

アキが村で色々あったように、ゲンも色々あったのだ。村社会の一員である以上、この状況では誰しもが無関係でいられない。

ゲンは己の務めを果たした。作りたくもない薬を作り老人たちに手渡した。人を数人殺せるだけの毒薬を。

 

アキに対する悪態はそのせいである。

やりきれない思いが理不尽な八つ当たりとなって口から出ていた。

 

そうは言っても、アキにしてみればたまったものではない。そんな事情は知らないし、知ったところで関係もない。

ただただ罵倒されただけだ。特に餓鬼と言う単語に敏感に反応する。

 

誰が餓鬼か!と怒鳴りそうになった。

しかしそれをしたら負けな気がする。あからさまに喧嘩を売られている。それぐらいアキにもわかる。

だからアキは我慢した。沸々と煮える怒りを飲み下し、一心不乱に前に進む。声に出さない分、その胸中は罵詈雑言で溢れていた。

 

昔からこの男は存在そのものが気に障る。近くにいてほしくない。後ろにいられるのすっごい嫌だ。どっか行け。あっち行け。消え失せろ。

 

ドスドスと足を踏み鳴らす荒々しい足取り。そこに直前までの眠気はない。

アキの思考は眠気よりもゲンへの罵倒でいっぱいになった。

 

どうしてこいつが一緒なのか分からない。母上の仕業だろうか。それとも兄上か。……たぶん兄上だ。余計なことをしてくれた。

 

そう思うのと同時に、それだけ心配されている事実に若干溜飲が下がる。戻ったら何かしてもらおうかと未来に思いを馳せる。

途端、機嫌は上昇に転じた。このまま放っておけば勝手に持ち直しただろうに、知ってか知らずか、ゲンの罵倒がアキを刺激する。

 

「足を引っ張るなら村に戻れ。子守りなんざ冗談じゃねえ。餓鬼は雪遊びでもしてろ」

 

「……ぁ?」

 

再び、アキの機嫌が急降下する。

二度も続けて餓鬼と言われた。加えて、雪遊びと言う言葉が連想させたのは村の子供たちである。

気に障ったどころか逆鱗に触れた。あれらと同類に扱われるなんてとんでもないことだ。我慢ならない。大目に見てやるにも限度がある。私のどこが餓鬼なんだと問い質したくて仕方がない。

少なくとも、今現在足を引っ張っているのはそっちだとアキは思う。誰のせいで馬に乗れなかったと言うのか。

 

最初、アキは馬で行くつもりだった。一人で馬を繰ったことはないし、そもそも馬に乗り上がれるかも怪しい。道中どれだけ雪が積もっているかもわからない。けれどそうするつもりだった。出来ないなんて微塵も考えず、アキの中では決定事項になっていた。

 

ゲンが共に行くと言うことでその目論見はご破算になり、予定より時間は押している。遅くとも夕方には村に戻るつもりだった。けれど無理かもしれない。歩いてどれぐらいかかるか分からない。夕方に帰れたらなと漠然と思っている。

 

それを考えたら余計むしゃくしゃしてきた。

アキの堪忍袋はそろそろ破裂しそうだ。にもかかわらず、ゲンは小言を言い続けている。

 

ゲン自身、自分の言葉は無視されていると思っていた。それ自体は慣れている。アキがゲンを無視するのは珍しいことではない。

まさかそれなりに効いているとは思いもせず、チクチクと刺し続けた。

 

――――目的は食糧を確保すること。それ以外のことはしない。食糧を買ったらすぐに帰る。遊んでる暇などない。分かってんのか小娘。

 

延々それを言い聞かせる。アキはまだまだ子供だと考え、手がかかるのはご免だと思っていた。今の内に言っておけば少しは勝手な行動も減るだろう。

言いながら、もしこれがレンだったらと少し考えもした。しかしすぐに考えるのをやめた。自分の作った薬がどのように使われるか。それを考えて嫌な気分になった。

 

「おう聞いとるか」

 

「……」

 

結局、アキは最後まで一度も口を開かなかった。

後ろ姿だけでは聞いているかもわからない。足取りだけが荒々しい。

実際の所、口をへの字に曲げ、怒りでプルプル震えているのだが、正面に回り込みでもしない限りゲンには見えない。

 

ゲンは最後に「はぁ」と溜息を吐いて口を閉ざす。長く続いた小言はそれで終わった。

 

黙々と歩く二人の足音はいつもより大きい。

湿った土が水気の含んだ音を鳴らしていた。昨日降った雪はほぼ融けているが、日陰にはまだ少し残っていた。

デコボコ道の所々に水が溜まっている。それらをアキは一つ一つ丁寧に避け、ゲンは多少水に濡れるぐらいなら無視して歩いた。

 

一歩踏み出すたびに、ゲンが背負っている竹籠が音を鳴らす。竹籠には矢筒の他に昼食の包みが入っている。父が早起きして二人分こしらえた。

 

昼までには着かないだろうとゲンは見込みをつける。足元が悪すぎる。昼過ぎにつき、買い込んで、夜に帰って来る。上手くいけばそうなる。上手くいく可能性がどれだけあるかは考えないようにした。

 

それからまた少し歩いて土手に出た。水面に日の光が反射してキラキラと輝いている。

川の流れを目で追っていたアキは、代わり映えのない風景に次第に飽きてきた。段々目がしょぼしょぼと乾いていく。

睡魔に襲われてやたらと重い瞼を擦りながら、気がつけば口が勝手に動いている。

 

「……ねむ……」

 

「……お前、また言ったか」

 

はっと我に返った時にはもう遅い。

運悪く聞かれてしまった。アキはちっと舌打ちをする。

 

ゲンの声音には怒気がある。先ほどよりも物騒な雰囲気だ。

気配を探ってみるとどうやら本気で怒っているらしい。さっきはあれほど口うるさかったと言うのに、今度は一転して無言だ。物騒な気配がチクチクと背中を刺してきた。

 

……どうしよう……無視しようか……そうしよう。

 

アキはゲンを無視することに決めた。相も変わらず楽な方に逃げただけだった。

そして、それが何の意味もないことにはすぐに気が付いた。

 

足を速めた分だけゲンの足音も速くなる。

ただでさえ近かった距離が更に近づき、今や手を伸ばせば届くところまで近づいている。

 

この距離は不味い気がするとアキは不安を抱いた。

何となくだが殴られる気がする。距離を取らなきゃ。

経験に裏打ちされた第六感が警鐘を鳴らし、一歩大股を踏み出したその瞬間、案の定アキは殴られた。

 

「あっだぁっ!?」

 

反射的に情けない声が漏れた。

じんじんと後頭部が痛む。

 

「眠気覚ましだ。感謝しろ」

 

「っ!? っ~!?」

 

降り降ろされた拳骨は、男にしては力強かった。

痛みに慣れているアキでさえ相当の激痛だった。

 

アキは頭を抑えて蹲る。声にならない声をあげる。痛い、痛い。とてつもなく痛かった。

痛みが引くまで苦痛に呻き、そして立ち上がる。振り向いて怒鳴る。

 

「なにする!?」

 

「うるせえ」

 

噛み付かんばかりに理由を問えば、むげない返事がきた。いや、返事にもなっていない。

これは喧嘩を売られている。そうに違いない。それ以外にありえない。

いい加減我慢の限界だ。買ってやろう。ボッコボコにしてやる。

 

アキは腰に手を伸ばした。

木刀を抜くつもりだったが、木刀とは違うひんやりとした感触を感じ、動きを止めた。

 

「あ……」

 

掴んだのは真剣の柄。いつもなら木刀がそこにあるはずだった。真剣を帯びていることなどすっかり忘れていた。

 

思わず腰に目を落とせば、使い込まれた白い鞘が目に映る。

この刀は兄に譲り渡されたものだ。短い旅路でも、武器が木刀一つでは危険だろうと言う理由だった。

 

アキは顔をしかめる。痛む頭を抑えながら考える。

これを抜き去るのは容易い。まだ慣れていないから、抜くのに多少苦労するかもしれないが、一度抜いてしまえば関係ない。どうとでも扱える。

抜けば最後、瞬く間に血が流れるだろう。ゲンごとき一瞬で葬れる。殺せないはずがない。

 

その未来を想像し、達成感がわき起こる。

いい気分だったが、次の瞬間にはレンの悲し気な顔が脳裏に浮かび、一転して冷や水をかけられたような気分になった。

 

怒りに我を忘れて剣を抜く。そして殺す。刀を道具として見るなら、どのような使い方をしようとも持ち主の自由である。

しかしアキはその使い方を躊躇った。

もしそんなことをすれば、きっとレンは失望する。レンに失望されるのだけは嫌だった。

 

……手元に木刀があったなら、そっちを抜いて躊躇いなく殴り掛かれたのに。

アキは鼻を鳴らして踵を返す。早く行って、早く帰ろう。殴ったことはあとで覚えてろ。絶対報復するから。

 

ずんずんと進み始めたアキを、ゲンは意外な顔で見た。

何かしらやり返してくると思ったが、思いのほか我慢強い。相も変わらず我儘な小娘だが少しは成長しているようだ。

 

そう考えると、途端に自分が恥ずかしくなる。先ほどまでの己の態度。比べればアキの方が大人ではないだろうか。

 

「なにやってんだ……」

 

自分を見つめ直し少しだけ冷静になった後、アキの後を追ってゲンも歩き始める。

今度はつかず離れず見失わない程度の距離を置いて、二人は進んでいく。

 

 

 

 

 

 

昼を過ぎ、二人はまだ町につかない。

途中、どこかで昼食をとる必要があったが、アキが歩きながら食べ始めたため、ゲンもそれに倣った。

 

すでにゲンには疲労の色が見え始めていた。すでに50を越えているのだ。寄る年波には勝てそうにない。

しかしアキに休もうとする気配はなく、仮に声をかけたところで無視されるのは目に見えていたのでゲンもあえて言わなかった。

道行はあとわずか。先を急ぐのは確かだったので、ここが頑張りどころだとゲンは気合を入れる。

 

アキの方にも疲れはあったが、昼食の際ゲンと同じ場所に留まるのは嫌だったので意地を張った。何の意味もない意地だった。

 

そうこうする間に道が少しずつ広くなる。

凹凸は少なくなり、人や馬の足跡が所々に存在した。

目的地は目と鼻の先である。町で一番高い物見やぐらはもう見えている。

 

瓦屋根が見えた時には着いたも同然だった。

門もなければ目に見える境界もない。どこからが町でどこからが外なのか。分かるはずもないが、アキは着いたと感じた。

 

その場に立ち止まり、町を見渡す。

やぐらがあり、暗色の瓦屋根。道の左右には木造の建物が軒を連ねている。言葉にすれば以前と何も変わりない。

けれど変わった、とアキは思う。一度しか来ていないけれど、記憶に色濃く残る景色とはまるで違う。たかだか数か月前の話なのに、町並みは随分変わっていた。

 

まず違ったのは町に漂う空気感。

以前来た時には活気があった。人は大勢行き交って、屋台はたくさん並んでいた。

しかし今は人の気配はまばらで屋台は一つもない。

閉まっている店も多く、軒先に置いてあった灯ろうはすっかり片づけられていた。

 

人のいない道。看板の一つもない代わり映えのしない建物。

どこを見ても同じ景色が続いているように思う。それほどに町は閑散としていた。

 

変わってしまった町を眺めて佇んでいたアキの元に、難しい顔をしたゲンが追いついた。

町並みを見て顔をしかめている。「行くぞ」と横柄な言葉を投げつけ、道のど真ん中を進んでいった。

アキはゲンの背中を見、町を見て、その背中について行く。

単独行動と言う手もあるにはあったが、それを避けるだけの空気が町には漂っていた。

なんだか嫌な予感がする。さしものアキとて、その不安を抱いては二の足を踏んでしまう。

 

それから、二人はいくつかの店に訪れた。

どれもゲンの顔なじみの店で、獲物の皮やら牙やらを度々売りつけに行く場所である。

 

どの店でもゲンは食糧の有無を訊ね、「ない」と言う返事をもらった。

三件目の主人いわく「もうどこにも売っていない」らしい。

 

詳しい話を聞くと、夏の終わりごろから飢饉になると言う噂がまことしやかに広がっていたのだと言う。

そのせいで物価が上がり、更には食糧の仕入れが難しくなった。

ついには先日雪が降り、飢饉が決定的となって買い占めが起こった。結果、市場からは食糧が綺麗さっぱりなくなった。

 

「本当にどこにもねえのか」

 

「ないよ。問屋もないっていうんだ。じゃあもうどうしようもなかろう」

 

「いや、どっかにはあるだろう。あんだけあったんだ。突然消えるわけがねえ」

 

「あった分はもう誰かが買ったよ。今頃は後生大事に懐か、あるいは腹の中さ」

 

ゲンは苛立たし気に頭を掻きながら店を後にする。

「源、狩ったらうちに卸してくれよ。高値で買い取るから」主人は最後にそう言った。

 

店をいくら回ったところで得られるものは何もない。

その間、アキはずっとゲンの後ろにいたが、勝手な真似をしようとは思わなかった。

 

ただ後をついて行くだけでも表情は曇っていく。

この町には何もない。それを確信できるだけの時間が過ぎ、その時間だけ歩き回った。結局、何一つ買えないまま夕暮れを迎えた。

 

「……帰るか」

 

「……」

 

ゲンが言った。沈んだ声だった。すっかり肩を落としている。

アキは答えない。今までのようにわざと無視したのではない。不安に落し潰されそうで声が出なかった。

 

ここに来るまで楽観していた分、落差は大きい。ないと言っても探せば何かしらあるだろうと思っていた。

しかしいざ訪れてみれば町はご覧の有様で、一日歩き回って収穫はなかった。

この先どうなるだろうかと不安に苛まれながら沈む夕日を見ていた。

 

「そこな老人。少しいいだろうか」

 

そんな二人に向けて、背後から不意に声がかけられる。

振り向いた先には長身の女丈夫と見られる女性がいた。身の丈より大きな棒を持ち、花紋の入った半纏を着ている。何とも印象的な女性であった。

 

「なんだ……自警団か。何か用か」

 

「いや、失礼。あなたには用がない。そちらの子に用がある」

 

そう言いながらアキを指を差す女性。差された指を見て、アキは眉を顰めた。その女丈夫には見覚えがあった。しかし思い出せなかった。

ゲンはそんなアキの顔を見て、アキを守るように前に出る。

 

「こんな餓鬼に天下の自警団様が一体何の用だ」

 

「ただの子でないのは知っている。剣聖様のお子だろう。一度会っている」

 

その目が同意を求めるようにアキを見る。しかしやはりアキは思い出せない。会ったことがあると言われればそんな気もする。ぼんやりとだか記憶は蘇りかけていた。けれどあと少しの所で出てこない。くしゃみが出そうで出てこない。そんな不快な感覚だ。

 

「……知らねえとよ。人違いらしいな」

 

「いや、人違いではない。確かに一度会っているが……まさか覚えていない? ……埒が明かないから用件を言わせてもらう。剣聖様にお会いしたい。取り次いでくれ」

 

思いもせぬ用件に、アキは眉を吊り上げ、ゲンは「は?」と呆けた。

二人の顔を見ながら女丈夫は続ける。

 

「私は鬼灯(ほおずき)。自警団に所属している。分かっていると思うが、私たちは今危機に瀕している。これを乗り越えるため、剣聖様のお力が必要だ。是が非でもお願いする」

 

鬼灯と名乗った女性はそう言って頭を垂れた。

ゲンはどうしたものかと苦々しく顔をゆがめ、アキが「あ」と声を上げる。

 

あの忌々しい女――――カオリと会った時、その後ろにこいつもいた……気がする。

それをようやく思い出し、そしてとびっきりに嫌そうな顔をした。

何となくだが、カオリと会うことになる。そんな気がしてならなかった。




Q.17話のレンは剣聖と同じぐらい強いんですか?
A.いいえ。一歩及ばないぐらいです。上中下で言うと上の下ぐらいですかね。そうは言っても比較がないと分からないと思うので、分かりやすいように下記にまとめてみました。

《17話時点の強さ早見表》

上の上:母上、先代ばあちゃん(六の太刀)
上の中:
上の下:先代ばあちゃん、レン(六の太刀)

中の上:レン
中の中:
中の下:アキ

下の上:ゲンさん
下の中:一般女性
下の下:父上


恐らくこんな感じになります。
六の太刀を使うと1~2段階強くなりますが、レンで1段階、先代ばあちゃんは2段階上がります。五体満足で六の太刀を使われていたらレンに勝ち目はありませんでした。

また、剣聖は代々上の上~上の中の実力を持つ人が務めており、先代ばあちゃんも全盛期はそれぐらいあったと思われます。
利き腕をなくしたり老いたりで大分弱くなりました。



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44話

鬼灯(ほおずき)と名乗った長身の女は、立ち話もなんだからと二人をどこかに連れて行こうとした。

その言葉にアキはデジャヴを覚え、嫌な記憶が蘇る。

 

――――火の焚かれた薄暗い室内。刀を持った女が二人。部屋の奥には帳があり、その向こうから老婆の声がする。

 

……記憶の再生はそこで止まった。それ以上先はトラウマになっている。思い出したくない。

 

この女は私をどこに誘おうと言うのか。もしまたあの部屋に連れて行こうと言うなら、その時は刀を抜くことも辞さない。

その結果、誰を斬ったところで兄上は悲しまないだろう。むしろよくやったと褒めてくれるかもしれない。

 

そう言う理由から首を横に振るアキと、これ幸いとばかりに全力で乗っかるゲン。二人は逃げるようにその場を立ち去ろうとした。

 

その二人の背に追い縋って必死に説得を試みる鬼灯は、初対面の飄々とした印象とは打って変わって感情豊かである。宿すのは焦りの表情だった。

 

「頼む。時間がない。本当ならこんなことをしている時間もないんだ」

 

そんなことを言いながら二人の前に立ち塞がる。

どけと言ってもどかず、迂回しようとしたら先回りする。

それがあまりにしつこくて、いよいよもって力付くでいくかと血の気が多くなりかけた。

しかし、よく考えてみれば答えない理由はどこにもないことに気づく。鬼灯はただ剣聖に取り次いでほしいと言っただけである。出来ないと言えばそれで終わる話だった。

 

「母上は、どっかいった」

 

「な、なに……?」

 

「どっかいった」

 

「……どこに?」

 

「西」

 

「なぜ?」

 

「しらない」

 

その会話の後、鬼灯はがっくりと肩を落とした。

「こんな時にまさかいらっしゃらないなんて」と呟いている。

 

「……いつ頃お帰りだろうか」

 

「しらない」

 

知らないことはないだろうと言う顔の鬼灯。

アキは「しらない」と繰り返す。あんな奴のことはどうでもいいと、その視線はとみに険しい。

 

「しかし、そうか……。剣聖様は、いないのか……」

 

途方に暮れた様子で頭上を見上げた鬼灯は、暗くなりかけた空を辿って夕日に目を向ける。

眩しさに目を細め、不意にアキに向いたその視線は腰の刀を捉えていた。

 

「……ところで、君は強いのか?」

 

ピクリとアキの肩が揺れる。

しまったと言う顔をゲンがした。

 

「強い」

 

「そうか……。では、話だけでも聞いてほしい。君にも関係のあることだ」

 

「おい、待て」

 

嫌な予感を覚えたゲンが割って入ろうとするも、鬼灯は一瞥するだけで、アキに関しては一顧だにしない。

 

「今日はもう帰るから」

 

「もう日が落ちる。私の家に来るといい。粗末だが食事も出そう」

 

「いや、帰るから」

 

「……そもそも、あなた達はなぜこの町に来た? 食べ物が欲しいのではないのか? なら私たちには宛てがある」

 

思わせぶりなことを言う鬼灯は、アキが強く反応したのを見て確かな手ごたえを感じた。

押すなら今しかない。見様見真似の交渉術を頼りにして、自身が魅力的と思える提案を持ちかける。

 

「もし協力してくれるなら、その分食糧を多く融通しよう。どうだろうか」

 

実際、その言葉は魅力的だった。

アキにしてみれば早く帰りたいと言うのが一番正直な気持ちではあるが、それはそれとして食糧は手に入れなければならない。

直前まで悲観に暮れていた反動もあり、アキはその提案に飛びついた。

 

「協力する」

 

「かたじけない!」

 

あっという間に結ばれた協力関係。

互いのことを何一つ知らない者同士、それぞれの思惑だけで成り立つ関係であった。

誰がどう見ても歪としか思えないその関係は、常識を持った者ならば制止せざるを得ない。この場において、辛うじて常識を携えた人間はただ一人。ゲンだけであった。

 

「お前は馬鹿か!?」

 

容赦のない鉄拳がアキに襲い掛かる。今日二度目となる拳骨を食らってアキは悲鳴を上げる。

ゲンはアキの襟首を掴んで鬼灯から引き離し、警戒心を露わに鬼灯を睨んでいる。

 

「あぁっ!?」

 

突然殴られたアキは吠えた。ドスの効いた口調と共にゲンを睨む。

まだ子供特有の甲高い声だからさほど威圧感があるわけではないが、通行人が振り向くほどの剣幕だった。

 

じんじんと痛む頭を抑えながら殺気をまき散らすアキを、鬼灯は感心して見ている。これならば荒事も容易にこなせるだろう。

 

「いや失礼。確かに私も急ぎすぎた。まずは話さなければ」

 

メンチを切り合う二人に向け、鬼灯は鷹揚と告げる。

 

「家に来てくれ。食事ぐらいなら出そう」

 

一触即発の二人を宥めながらの提案。

ゲンはそれをありがたいとは思わなかった。この世に無償の善意などないと言うのはゲンの持論である。

 

「なんか裏あんだろ」

 

「ん……剣聖様は朴訥な方だ。娘に対してだろうと売られた恩は返してくれるに違いない」

 

未だかつてこれほど正直な答えは聞いたことがない。そのあまりの正直さにはさしものゲンと言えども開いた口が塞がらない。いっそ清々しい。

 

束の間呆気にとられたゲンをじっと見つめる鬼灯。二人は互いに探り合っている。ゲンはまだ何か裏があるんだろうと考え、鬼灯はこの人は何者だろうと考えていた。

 

その二人に挟まれたアキは冷めた気分で二人を見ていた。

何にせよ、行くなら行こうと鬼灯を急かす。

 

「それで、家はどこ」

 

「前に来たことがあるだろう。……ああ、いや、覚えてないのかもしれないが」

 

ある方向を指し示しながら「大きな屋敷だ」と鬼灯は答える。

皆まで言わずとも知っている。忘れるはずがない。

 

「そこにはあいつがいる」

 

「あいつとは?」

 

「ばばあ」

 

嫌な記憶が蘇る。思い出したくない記憶。

あいつに会うのは嫌だ。絶対に嫌だ。それなら帰るとアキは行くことを拒んだ。

そうこうする間に日は暮れて辺りは暗闇に包まれている。

 

「お婆のことか? それなら安心してくれ」

 

鬼灯の顔は暗闇のせいで二人にはよく見えなかった。

声の響きを聞いても、さほど感情が込められているわけではない。だと言うのに、どことなく悲し気に聞こえる。

 

「あなた達が会うことは金輪際ないだろう」

 

その言葉にゲンは何と言っていいか分からず、代わりにアキが喜んだ。

それなら行くと答え一人勝手に歩くアキを追って、二人も歩を進めた。

 

 

 

 

 

屋敷に人の気配はなかった。薄暗闇に佇む姿は廃墟のようにも思えた。周囲にも人の気配はなく、中に入るのに一瞬躊躇する。

そうは言ってもここまで来て引き返すことは出来ない。鬼灯の案内に従って正面から入る。中にも人の気配は薄い。不気味な静寂が包み込んでいる。

 

だだっ広い部屋に通された二人は、火鉢にあたって身体を暖めた。

人が何十人と座れる広間は真ん中にふすまがあって奥へと広がっている。

パチパチと音を立てる火鉢と、ぼんやりと温かな火を灯し風に揺れる蝋燭。

アキは落ち着かない素振りでしきりに辺りを気にした。他人の縄張りに土足で入り込んでしまったような、不安な気持ちを抱いていた。

 

間もなく鬼灯が食事を持ってきた。

二人の目前に置かれた膳には飯と漬物が数切れ乗っているだけである。

 

「粗末な食事で申し訳ない。でも酒なら出せるぞ。たっくさんあるから」

 

「餓鬼に何飲ますつもりだ。……いや、すまんな。ありがたい」

 

一言礼を述べてからゲンは掻っ込んだ。

アキも軽く頭を下げて箸を手に取った。一口食べてみたら、もそもそした食感と共に気のせいかと思える程度の微かな苦みを感じた。

今まで食べたことのない味に、アキは茶碗を凝視する。

 

「それは(あわ)(ひえ)を混ぜて炊き込んだものだ。食べたことないのか?」

 

鬼灯の説明にアキは頷く。

 

「そうか。良い生活をしていたのだな」

 

どうやらそうらしい。毎日米ばかり食べていた。粟や稗と言う物には馴染みがない。

見た目は米によく似ているが味はまるで違う。面白いものだとアキは半ば感心しながら掻っ込んだ。米に比べて水気がなくてぼそぼそしている。甘味がなく無味である。

頬いっぱいに掻っ込んだそれは飲み込むのに苦労した。水がなければ到底飲み込めなかった。

 

味わうものではない。漬物と共にあっという間に平らげたアキに、鬼灯は「よい食いっぷりだな」と邪気なく言った。

子供が全力で食べているのを見ると嬉しくなる。これで腹いっぱいに食わせることさえ出来れば何も言うことはない。

 

「さて、食べたところで話をしよう」

 

ゲンが食べ終わるのを待って鬼灯は切り出した。

口下手を自認する鬼灯だが、屋敷の者は皆所用で出払っている。残っているのは自分の他には床に伏せるものと、それを看病するものだけである。

苦手だから代わりにやってくれとおいそれと頼める者は誰も居ないのだった。

 

「知っての通り飢饉だ。暦では晩夏だが雪が降った。大変なことになった」

 

よもやこんなことになるとは思ってもみなかったと鬼灯は言う。

この時期に雪が降ったことは未だかつてない。飢饉になるか否か、はっきりするのはもう少し先だと油断していた。

 

「私たちも馬鹿ではない。備蓄はある。だが微々たるものだ。東の人間全てを食わせられるほどではないし、税のことを考えるとなおさら厳しい」

 

鬼灯たち自警団もまた税は例年通り徴収されると考えていた。

かつての飢饉でそうだったのだから、今回もそうなると考えるのは自然のことであった。

 

「はっきり言うが死人はでる。その上で私たちは動いている」

 

食糧は限られている。秋の収穫が絶望的となった今、あるものだけで何とかしなければならない。食糧が限られるのなら、生きられる人間の数も限られる。それ以外の人間は死ぬしかない。もはやどうしようもない。自然の摂理と言っていい。

 

「普通の領主なら飢饉への備えはあるはずだ。そう思い、一縷の望みにかけ、役人を捕えて食糧を備蓄しているはずの蔵を開けさせたが、中は空だった。まあ、予想はしていた」

 

何も備えてなかったんか! ゲンが怒鳴り、アキが片目を瞑る。

肩をいからせるゲンに対し、早とちりしないでくれと鬼灯が言葉を継いだ。

 

「領主は西にいる。西からここまで遠く離れていて目は届きにくい。一部の役人が商家とつながり備蓄米を横流しし私欲を肥やしていた。その役人はもう斬ったが、死ぬ前に全て吐かせた。――――和達(わだち)と言う商家を知っているか?」

 

ゲンは知っていてアキは知らなかった。

怒りに身を震わせるゲンと知らんと首を振るアキ。

鬼灯は二人の顔を順繰り見て続けた。

 

「戦後、ほとんどの者は家名をはく奪されたが、一部家名を許されたままの家もある。和達はその一つ。つまりは裏切り者だ。裏切り者は裏切り者らしく、食糧を買い占め備蓄米と併せて高値で売りさばこうとしている。私利私欲にまみれた薄汚い奴らだ」

 

飢饉の噂が流れた時点で食糧の買い占めが起きた。

日々生きるのに精いっぱいの庶民には数か月先を見据えて備蓄する余裕はない。買占めは裕福な家々、もっぱら商家や金貸しが行った。

その中で最も大々的に買い占めたのが和達家である。和達家は戦後、西側の支援を受けて吹けば飛ぶような弱小商家から豪商まで成り上がった。そのために裏切り者と陰口を叩かれ目の敵にされている。

今回の一件で積もりに積もった不満が爆発した形となったのだった。

 

和達叩くべしと大衆の――――一個人から自警団まで含めて――――意見は一致し、この町の自警団も東へ移動。和達家の本宅のある旧称西都へと向かった。

十中八九戦いになると鬼灯は言う。

 

「戦って死ぬか、戦わずして死ぬかなら、私たちは戦って死ぬ。食糧を手に入れ一人でも多くの子らを生かしたい。だが和達も一筋縄ではいかないらしい。姑息にも凄腕の護衛を雇っていると聞く。私が剣聖様にお会いしたかった理由は助力を願うためだ」

 

相手方にどれほどの腕達者がいようとも、剣聖には遠く及ぶまい。自警団としても人死には本意ではない。出来る限り穏便に事を進めたい。そのために剣聖の名と力が必要だった。

 

「しかし剣聖様がいらっしゃらないと言うなら仕方がない。私はこれから東へ行き戦う。だがその前にあなた達にもお願いしたい。どうか力を貸してくれ。命の保証は出来ないが、それでもお願いする」

 

言って、鬼灯は頭を下げる。自分より一回り以上小さい子供だろうと躊躇はない。そこには恥も外聞もない。ただすべきことをしている。剣聖が不在の今、噂に聞く護衛の実力が本当なら、少しでも多くの戦力が必要だった。

 

「……」

 

アキは鬼灯のつむじを見ながら、母のことを思い出していた。奇しくもあの時と同じである。母もこうして自分に頭を下げた。

目の前の鬼灯が母の姿に重なる。姿かたちはまるで違う。似通っているのは頭を下げていると言うただ一点のみ。

なのに、アキは鬼灯が母によく似ていると思った。どうしてそう思ったのか。それは母もまた鬼灯と同じ理由で頭を下げたからだ。

 

思い返すに母は言葉足らずであった。万事において、鬼灯のように一から十まで説明してくれることは一度もなかった。

ただ必要だからやれと言う。アキはそこに反発した。頭から抑えつけ行動を強いる。思春期を迎えたアキにはそれが我慢ならなかった。

 

レンのように相手を気遣い、気持ちを慮ることが出来、察する力に長けていればこうまで拗れることはなかっただろう。

しかしアキはレンではない。普通の子供だった。剣の才能があるだけで、他には何一つ特異なことはない普通の子供だった。

 

鬼灯は守るために頭を下げた。それは信念であり義心であり未来のためであった。

泥に塗れることをアキは格好悪いと思っている。少なくとも他者に見せるべきではないと。

だがその考えに相反する鬼灯の姿を見て、アキは格好悪いとは思わなかった。胸の中に明確な矛盾が生まれる。葛藤し飲み下そうとする。しかしそれは容易く解せるものではなかった。

 

「頼む」

 

鬼灯は懇願する。その声がまた母の姿を連想させる。

アキは答えに窮した。代わりにゲンが言う。

 

「子供を生かすために戦うんじゃねえのか。なのに、こんな子供にも戦えっつうのか」

 

「腰に刀を差している。ならば最早子供ではない。立派な大人だ。大人なら、戦うべき時には戦わなければならない」

 

都合がいい、とゲンは吐き捨てた。

腰に刀を下げていようとも、15に満たぬならそいつはまだ子供だ。子供は守らなきゃいかん。ゲンはそういう思想の持ち主で、それは鬼灯にも通底する。

だからゲンは鬼灯の言葉を屁理屈だと言い捨てた。実際のところ、鬼灯も本心では同じことを思っていた。

 

「こんな餓鬼になにが出来る。剣聖の娘だろうが、所詮は餓鬼だ。人と真面にやり合ったことなんざ一度足りとてねえ。――――だから、俺が行く」

 

続いた言葉に鬼灯は頭を上げた。驚いた顔でゲンを見る。

 

「それは……しかし」

 

「こう見えて、俺は狩人だ。剣は使えねえが弓なら引ける。遠くから射貫く」

 

反論しようとした鬼灯を無視し、ゲンはアキを見る。瞳に真摯な光を宿しながらも、ぶっきらぼうな口調で告げた。

 

「お前は先に戻っとけ。いても邪魔だ」

 

投げかけられた言葉に、アキはきゅっと唇を引き結ぶ。

ここで共に行けば、下手をすれば死ぬらしい。死が思い起こさせるのは唯一兄の死に顔のみである。今行かなければ兄はまた死ぬかもしれない。そうなる可能性は大きいように思う。

誓ったはずだ。今度は守ると。そのために鍛錬に励んできた。その真価が試されている。ここでおめおめと逃げ帰れば、アキは一生自分を許せないだろう。女子(おなご)には、強大な敵に立ち向かわなければならない時があるのだ。そう、兄のように。

 

「私もいく」

 

途端、ゲンが怒鳴った。馬鹿言うな。足手まといだ。帰れ帰れ。クソガキが。

何としてでも帰らせようとして、罵詈雑言の限りを尽くす。悪口を言えば帰ると言わんばかりに。

 

だがアキも頑なだ。決して首を振ろうとしない。代々受け継がれる頑固さ。それを覆すことが出来ないのは、戦時を知る人間なら誰もが知っている。

 

――――逃げることが出来たのに、逃げるべきだったのに、最後までこの地に留まり、敗残の将として自らの首を差し出し民の安楽を願った者がいる。

その名は(みやび)。アキの曾祖母にして、この地の守護を任じられた四家の統率者。実質的に、東の地の最高権力者であった。

その血を色濃く引いているアキにとって、ゲンがどのような言葉をかけようとも右から左であろう。ゲン自身それはよくわかっている。だが止める。是が非でも。それが幼いころ世話になった雅への恩返しだと考えて。

 

「西都まで馬で二日かかる。徒歩なら四日ほど。馬で行くつもりだ」

 

不毛とも言える二人の言い争いの終止符は鬼灯が打った。

会話に耳をそばたてて、本人の意思が変わらないと判断した時点で割って入った。

 

「部屋を用意した。今日はゆっくり身体を休めてくれ」

 

淡々と告げられる言葉にゲンが噛み付いた。

 

「お前、正気か?」

 

「私にとっては望ましい。本人が行くと言うのに止めるはずがない。さっきも言った通り、私はその子を大人として扱っている」

 

ゲンが苦虫を噛み潰したような顔をする。

鬼灯がアキと目を合わせる。アキの瞳には断固とした決意が宿っていた。

 

「命の保証はない。死ぬかもしれない。それでも、行くんだね?」

 

「行く」

 

「分かった」

 

最後の確認は、鬼灯の罪悪感の現れでもあった。

大人として扱うと言いつつ、やはり子供として見ている。そのことに鬼灯自身気づいていたし、ゲンも気づいていた。

しかし本人が行くと言うなら、鬼灯はもう何も言わない。

 

「明朝発つ。今晩はゆっくりしてくれ」

 

話はそれまで。

寝ろと言われたならもう寝る。すぐにでも何か言いそうなゲンから逃げるように、アキはその場を後にした。



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45話

年度が明けたらこっちのもんじゃいと言えないのが辛いところです


西都までは二日かかる。馬で二日である。

もし徒歩で行くとなるとその倍以上かかることになるから、現状を鑑みて、馬に乗ることは必須と言えた。

 

そこで問題となるのは、アキは一人で馬に乗ったことはないと言うことだ。そしてゲンも馬に乗れない。いくらアキが子供と言えども、一頭の馬に三人が乗るのは現実的ではない。鬼灯もまさか二人揃って馬に乗れないなどとは考えておらず、どちらかは乗れるだろうと思い込んでいた。

 

それは本来なら正直に述べなければいけないことだったが、こともあろうにアキは見栄を張って乗れると嘯いた。結果、ゲンは鬼灯のうしろに乗り、アキは一人で馬を繰ることになった。

アキに与えられた馬が思いのほか賢く、前の馬の尻を一心不乱に追っていく性質でなかったら大変なことになっていたかもしれない。

 

道中は静かなもので賊の一人、野犬の一匹もいなかった。その静けさは飢饉と言う言葉が嘘に思えるほどだった。

その代わりと言っては何だが、一日目の昼間際、ゲンが腰の痛みを訴えた。

生まれて初めて馬に乗り、以前から悪かった腰が悪化したらしい。

 

それに対して、「駄目なようなら帰ってくれ」と鬼灯(ほおずき)は冷たく告げた。

アキは理解し切れていなかったが、一人で徒歩で帰ってくれと言う意味である。まだ町からそれほど離れていないとはいえ、徒歩で一日はかかる距離。男一人で行くのに安全とは口が裂けても言えない。

鬼灯はその意を込めて言い、ゲンはそれを理解して、「駄目じゃねえ」と力強く言った。こんな程度で屁でもねえやと心の底から述べた。

 

それを証明するためか否か、ゲンはそれっきり腰の痛みを訴えることなく、最後まで懸命に鬼灯の背にしがみついていた。

顔色は青白く妙な汗もかいていたが、一度も弱音を吐くことはなかった。その姿にはさしものアキも感心するほどだった。

 

夜は木賃宿に泊まり、まだ暗い内から出発し、山の端から朝日が滲むのを見ながら馬を走らせた。

小腹が空けば食べられる野草を摘んで口慰みにした。

いくつかの山を越え、まだ融け切っていない雪に注意して、どこからともなく聞こえる川のせせらぎと小鳥のさえずりだけが耳朶を打つ。

 

二日目の昼間際、いつ終わるとも知れなかった旅路がようやく終わりを迎えようとしていた。

 

「……やっとか」

 

「ん?」

 

唐突に口を開いた鬼灯に、アキが反応する。

鬼灯が指さした方には崖があり、そこから遠くを見渡せるようになっている。

そこまで行くと、先ほどまで影も形も見えなかった街並みが眼下に広がっていた。

 

――――暗褐色の木造建築が無数に建ち並び、見たことのない大きさの建物が中央にある。いくつもの川が町を横切って、目を細めてなお町の向こう側は霞んで見える。

 

鬼灯は言う。どうと言うことのない声音で、どうでもよさそうな態度で。

 

「西都だ」

 

初めてこの光景を見るアキは、思わず馬上に立ち上がったと言うのに。

 

 

 

 

 

 

 

西都はいくつかの区画に分かれている。

それぞれ道や川、堀などで境界線が引かれており、区画によって違う様相を呈している。

中央の行政区画から始まり、その周囲を商人、町人が埋めている。貧民層の多くは都の外れに住んでいる。

そうは言っても中央から離れるほど区分けは大雑把になり、はっきりしているのは中心区と花街ぐらいである。

 

「すらむ」やらなんやら、いくつかの言葉に馴染みのなかったアキは、その単語が出てきた辺りで聞くのをやめた。

山の上から一望した街並みに興奮し、いざ都を歩いてみても興奮は冷めやらず。キョロキョロとしきりに周囲を気にするのはまごうことなきお上りである。

 

見える所にある建物はほとんどが二階建てかそれ以上。

見上げなくては見切れない建物に囲まれて、そこらにいる町人の身なりは豊かさが伺い知れる。

かと言って、全てが全て身なりがいいかと言えばそうでもなく、たまにぼろ切れを着てガリガリに痩せた人もいる。

 

西都がどういう町かアキは知らない。しかしその両極端な出で立ちを見れば微妙な気分にならざるを得ない。裕福な者と貧しい者。この世界に蔓延している格差と言うものを垣間見た瞬間だった。

 

アキは興奮に冷や水を浴びせられながらも、鬼灯の後に続いて馬を引いて歩く。

意外なことに街には活気があった。飢饉とはいえ人の営みは死んでいない。大勢歩いている。ただし明るい顔の人間はほとんどおらず、沈鬱な面持ちばかりが目立つ。

 

村からほど近いあの町と比べれば天と地の差だ。何がどうしてこんなにも違ってくるのだろうか。

多少冷静になったアキが周囲をよく観察していると、人ごみの向こうから何者かが近づいて来るのを無意識に感じ取った。嫌な予感と言う形でそれを察したアキは柄を握りしめた。いつでも抜き放てるように重心を低くして大股で構える。

 

都の真ん中で刀を抜こうとしている。それを見咎めた鬼灯が「こらこら!」と慌てて注意する最中、大声を上げながら近寄って来る人影。

 

「姐さん!」

 

人の隙間を縫って駆けて来たのは、アキにとってもどこかで見た顔である。

彼女は鬼灯に駆け寄って、「姐さん!」と二度も叫びながら息を切らす。

 

「よかった、姐さんは無事だった……」

 

(あんず)か。……どうした?」

 

顔だちを見るに成人はしているだろう年齢。しかしどこか幼さがあり、つり上がった目じりは気の強そうな印象を与える。

 

やはりこの顔はどこかで見たなとアキは引っ掛かりを覚える。しかしてんで思い出せない。

思い出せないと言うことは大したところで会ったわけではない。もしかしたらただ見かけただけかもしれない。

 

「大変なんだ! 姐さん、あいつら先に仕掛けて来やがった!」

 

鬼灯の胸元に縋りついて女は訴える。

話を聞けば、今朝方に襲撃を受けたと言う。見たことのない女が屋敷を襲い、立ち向かった者は殺された。それが和達(わだち)の護衛を名乗っていた。

 

「馬鹿でかい剣振り回して、盾もなんも意味なかった! 腕に覚えのある奴みんな死んじまった! あんなの勝てっこない!」

 

どうせ戦いになるのなら、先手を取った方が有利だと和達は思ったのかもしれない。

しかしまさか本拠地に乗り込んでくるなんて考えもしていなかった。

 

「……凄腕の護衛か」

 

鬼灯が苦々しく呟く。

事前に聞いていた情報と特徴が合致した。

身の丈ほどもある大剣を片腕で軽々振り回し、武器も防具も関係なく両断すると言う話だ。

所詮は噂。半分眉唾だと思っていたが、杏の様子を見るにただの噂ではないらしい。片腕で金属の塊を振り回す人間など聞いたことがないが、それに近いことはするようだ。まさか向こうからやって来るとは……。

 

「カオリは無事なのか?」

 

「あ、ああ。カオリさんは大丈夫……でも、土筆(つくし)(ゆず)が……」

 

名前と共に込み上げた感情に耐えかねて、杏は言葉を詰まらせる。

その肩に鬼灯は手を置いた。

 

「姐さん……どうすればいい?」

 

「……とにかく一度戻る」

 

鬼灯が振り向き、アキとゲンに「ついて来てくれ」と言う。それにつられて、杏も鬼灯の肩越しに二人を見た。そして眉を顰める。男に対する視線と子供に対する視線。

その目は剣聖はどうしたのかと語っている。鬼灯は口ではなく首を振ることで答えた。

 

歩き始めた鬼灯の後ろで、大変なことになってるなとゲンは呟き、その傍らでアキは思い出した。

あの杏とかいう女、以前町に行った時にずっと監視してきた三人の内の一人だ。目つきが悪かったし態度も悪かった。悪意すら感じられた奴らだった。

 

それを思い出した途端、アキは思いっきり顔を顰めて杏を見る。その視線に、鬼灯の隣を歩く杏は気づくことはなかったが、アキは目的地に着くまでずっとその背中を見続けていた。

 

 

 

 

 

自警団の本拠地は大所帯を表すかのような屋敷であった。さすがに中央の建物ほどではないが、この街では五指に入る大きさである。

人が何十人と住めるだろうその屋敷からは、中に入るまでもなく異質な空気が漂っていた。

アキは玄関前に立った時点で血の匂いを嗅ぎ取った。人が死んだ。それも一人や二人ではない。

 

鬼灯は馬を杏に任せた後、アキ達を顧みることなく屋敷に上がった。

通りがかった者にカオリの居場所を尋ねるとずんずんと進んで行ってしまう。縁側で物思いに浸っている背中を見つけた時にはほっと息を漏らしていた。

 

「カオリ!」

 

背中からかけられた声にカオリが振り向く。

「あら」と驚いた様子のカオリは、アキの記憶にあるそれと寸分違わず不健康そうだ。土気色とまではいかないが青白い顔色である。暗いところでみれば死者と見紛うかもしれない。最近こういう顔をよく見るなとアキは思った。

 

カオリは鬼灯を見、その後ろにアキとゲンがいるのをみとめた。ゲンに関しては訝しそうに、アキに対してはわずかに嬉しそうな顔を見せた。

 

「おかえりなさい。……その分だと剣聖様には会えなかった?」

 

「ああ、会えなかった。今は西にいるそうだ」

 

「そう。まあ、それならそれで」

 

ドカッとカオリの横に腰を下ろした鬼灯に対し、カオリは困り顔で微笑む。所在なさげに立つアキとゲンに視線を向け、「うしろの二人は?」と尋ねる。

それでようやく鬼灯はアキ達の存在を思い出した。

 

「すまない、忘れていた」

 

「忘れんじゃねえ」

 

ゲンが文句を言って鬼灯は頭を下げる。

カオリが何かを探して視線を惑わせ、アキがそれを見ていた。

 

「それで、どういう経緯でアキちゃんがここに? そちらの人は初めましてだけど」

 

「力になってくれるよう頼んだら、承諾してくれた」

 

「……それは、二人とも?」

 

「ああ」

 

「二人だけ?」

 

「そうだ」

 

カオリがいささか残念そうな顔をする。

それを見て、ゲンが不愉快そうに顔を顰めた。男が戦力になるわけがない。そういう態度だと受け取ったのだ。

だがアキは全く別の意味に受け取った。カオリはレンがこの場にいないことを残念がっている。アキにはそれが分かり、分かったからこそ警戒心は強くなる。

 

「初めまして、ですね。私はカオリと言います。貴方、お名前は?」

 

「ゲンだ」

 

「ゲンさん。よろしくお願いします」

 

礼儀正しく頭を下げたカオリに、ゲンがぎこちなく頭を下げ返す。

次にカオリはアキを見てにっこりと微笑んだ。邪気のない笑顔……のはずだが、アキには悪魔の微笑みのように感じられた。

 

「お久しぶり。また会えるなんて思わなかった。運がいいみたい」

 

「……」

 

カオリはそう言うが、アキにしてみれば真逆の感想だ。

運が悪かった。もう二度と会いたくはなかった。

 

「話さないといけないことがあるし、協力してくれるのだからお茶ぐらいは出しましょう。それ以外は何もないけれど」

 

「私がやる」

 

「ありがとう」

 

茶を淹れに腰を上げた鬼灯を見送って、カオリは縁側の正面にあった部屋に二人を誘う。

 

人数分の座布団が用意されカオリとゲンが座る。そして揃って戸の前で立ち尽くすアキを見た。

 

「おいこら、そんなところで何しとる」

 

ゲンが訝しそうに呼ぶも、アキは視線すら向けずにじっとカオリを見ている。

今度は強めに呼ぼうと大口を開けたゲンをカオリが制した。

 

「いいんです。前に会った時にちょっと色々あったものだから……。その子の好きにさせましょう」

 

ゲンは納得できていない様子だったが、何を言う前にカオリがアキに話しかけたことで言葉は飲み込まれた。

 

「アキちゃん。お兄ちゃんはお元気?」

 

「……」

 

「ここにはいないようだけど、今はどこにいるの?」

 

「……」

 

「ねえ、何か答えて?」

 

アキは草食動物のような警戒心を滲ませてカオリを睨んでいる。

こいつに兄のことを一言でも漏らせば、何かよくないことが起こる。そんな気がしてならなかった。

 

「……兄上のことは、お前には関係ない。それより食べ物を寄越せ」

 

「その刀、お兄ちゃんが持っていたものじゃない? 何かあったの? 心配だわ」

 

思いがけない指摘に、アキは咄嗟に身体を傾けて刀を隠す。

まさかそれを見抜かれるとは思いもよらず、どっと嫌な汗を掻いた。

 

「……お前には関係ない」

 

動揺の最中、そう絞り出すのが精いっぱいだった。

そんなアキの顔をカオリはじっと見つめ、最後には無言で頷いた。

 

何も答えてなどいないのに、アキは取り返しのつかないことをしてしまった気分に陥った。やはりこいつに会うのは失敗だっただろうか。兄上がいないのだから会っても問題ないと考えたのは楽観的過ぎたかもしれない。

 

前々から思っていたが、今のやり取りで再確認した。

アキはこのカオリと言う人間が苦手だ。そして大っ嫌いだ。いっそのこと死んでほしいと思うぐらい、この人物には良い印象がない。

 

大きく息を吸い、たっぷりの時間をかけて吐き出す。

そして戸の前でドカッと座った。先ほど鬼灯がそうしていたように胡坐を組む。

ニコニコと微笑みを浮かべるカオリをこれでもかと睨みながら、アキはレンから譲り受けた刀を抱きしめた。




感想でいくつか「凄腕の護衛は母上じゃないか」というものがありました。
面白いなあとは思ったのですが、母上は西に向かいアキは東に行きました。物理的に先回りが困難なのと、設定的に一商人のために剣聖が動くのはありえないので当初の予定通り新キャラ登場です。
そして念願のカオリさん再登場。やったぜ。


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46話

茶を持ってきた鬼灯(ほおずき)が戸の前に座り込むアキを見つける。

アキがカオリを睨んでいるのを見とめ、「何かしたのか?」とカオリに尋ねた。

「何もしてないわ」と答えるカオリ。アキは無言を貫く。

剣呑な雰囲気が漂っている。その言葉を信じる要素は何もない。しかしそれを指摘するのは藪をつつくことになりそうだった。

 

居心地の悪い空気の漂う中、鬼灯は茶を配っていく。

 

「早朝にお客さんがいらしてね」

 

各々の前に置かれた茶から湯気が立つ。

誰も手を伸ばさない内から、カオリが話し始めた。

 

和達(わだち)の使者を名乗ってたから、無碍には出来なくて話を聞いたのだけど、ご丁寧な忠告をいただいたわ」

 

内容は至極単純に、「お前たちが何を企んでいるか知っている。だがやめろ。死にたくないならば」そういう話だった。

 

「血の気の多い人を同席させたのが間違いだった……見え透いた挑発に簡単に激昂してしまって……あとはあれよあれよと血の海に」

 

カオリが頬に手を添え溜息を吐いた。

困ったわと呟いている。殺されたのは腕達者な者ばかり。おかげで戦力は大分減った。

 

「どれほどのものだった」

 

茶を飲みながら鬼灯が訊ねる。幾分言葉足らずだったがカオリには問題なく通じた。

 

「さあ……その手のことは詳しくないから……」

 

顎に手を当てて考えるカオリは横目に鬼灯を見る。その目には思案の色がある。言うか言うまいか多少悩んで、まあいいかと言葉を続けた。

 

「……大きな剣を振り回してたし、素手でも何人か殺してたから……多分、あなたよりは強いんじゃない?」

 

鬼灯は顔を顰める。

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

自警団で一番強いのが鬼灯である。それよりも更に強い護衛が和達にはいる。

今度は鬼灯が困ったなと呟いた。困ったわねとカオリが同意する。

 

そこはかとない諦観が漂い始めた二人に、「おいおい」とゲンが口を挟んだ。

 

「それじゃあ何か? 無駄足か? ここまで来た意味なかったってか?」

 

もしそうなら道中の苦労は水の泡だ。

特に腰の痛みに耐え抜いたゲンにとっては受け入れがたい。帰り道のことを考えたら余計にそうだった。

 

一気に不機嫌になったゲンを前に、カオリと鬼灯が目を見交わす。言葉はなかったが、やはり意思疎通に問題はない。

 

「そうは言いませんが……。助っ人の剣聖様がいらっしゃらない以上、非常に厳しいことに変わりありません」

 

アキが眉を吊り上げる。

未だに母に対して複雑な感情を持て余しているアキには、たとえ事実だとしても母に劣ると言われるのは我慢ならなかった。

どれだけ相手が強かろうと、私は負けない。絶対に。

 

根拠のない自信を体に滾らせるアキを、カオリが興味深そうに見る。その横で鬼灯がやれやれと首を振った。

 

「なら、いっそのことやめるか」

 

「……言って聞く人ばかりなら、それでもよかったのだけど」

 

自警団と言っても一枚岩ではないので、カオリが何を言おうと聞かない人間はいる。

むしろそちらのほうが多いと言っていい。この数か月で自警団の内実は大きく変化していた。

 

「どうせ簡単には諦められないのだから、やるだけやって諦めましょうか」

 

「どうするつもりだ」

 

「戦うのは悪手なのだから、それ以外の方法でやるしかないわ」

 

「それは?」

 

「話し合い」

 

鬼灯は口をつぐむ。

今更そんなことをする意味はあるだろうかと、無駄ではないかと、出かけた本心を飲み込んだ。

 

「……大丈夫なんだろうな?」

 

「……」

 

不安に駆られたゲンがそう訊ねるも、カオリは答えない。

ゲンを見、鬼灯を見て、最後にアキを見る。小動物のような警戒心を滲ませるアキを目にして「やることがたくさんあるわね」と微笑んだ。

 

「アキちゃん、ちょっと出かけましょうか」

 

「いやだ」

 

あまりに突然の話題の変化に、アキは条件反射で拒絶する。一拍遅れて内容を理解したが答えは変わらない。

 

「この町に来たのは初めてでしょう? 案内してあげましょう。きっと楽しいから」

 

拒絶の言葉はなかったものとして扱われた。

カオリは遠慮なくアキに歩み寄り、アキは立ち上がって距離を取る。

 

二人が一進一退の攻防を繰り広げる中にゲンが口を挟みこむ。

 

「おい」

 

「……なんでしょう」

 

「どこに行くつもりか知らんが、そいつを連れて行くなら俺も行くぞ」

 

「構いませんが、あなたは休んでいた方がいいのでは? 腰、痛いんでしょう?」

 

カオリはゲンを見もせずにそう言った。

ゲンとしてはある程度取り繕っていたつもりだったが見抜かれていた。貧弱な体つきの割に観察眼がある。仲間が死んだのに平然としている精神力と言い、ただ者ではない気配がした。

 

「危ないことはしませんから、休んでいてください」

 

「……信用できると思うか?」

 

「するしないはそちらの勝手です」

 

それで会話は打ち切られる。そのままアキと短文の応酬を始めた。

「来て?」「いやだ」「お願い」「断る」「駄目?」「だめ」「どうしても?」「しつこい」「諦めないわ」「気持ち悪い」

 

そんな二人のやり取りを見ていたら、一周回って仲が良いように思えて来る。

その気になれば、アキならカオリ如きどうとでも出来るだろう。それぐらいカオリの風貌は弱弱しい。男であるゲンでさえ、さして危険視する必要はないと思えるほどに。

 

しかしそう思いはすれども、アキから目を離したくないと言うのがゲンの本音である。

子供の考えは分からない。突然何をするか予想もつかない。特にアキは気質からして危なっかしい。

 

一方的とはいえ椛に頼まれたのだから、それを破ることはしたくない。しかし今休まなければいつ休めるのかとも思う。早く腰を治さなければこの先どうなるかわかったものではない。

 

そのように悩むゲンに対して、鬼灯が声をかける。

 

「あなたは休んでいてくれ。その腰ではいざと言う時走れないだろう」

 

「走るのか」

 

「……いや、もしもの話だ。いつまた襲われるか分からないから」

 

そうこうする間に、カオリは巧妙にアキを追い詰めていた。

部屋の角で逃げ場をなくしたアキは、刀を振り回してカオリを遠ざけようとしている。幸いなことに刃は抜かれていないので騒ぐほどのことではない。やはり仲が良いように思える。

 

「あの子の腕も確かめなければならない。それも含めて行って来る」

 

そう言って、鬼灯は二人の元へ行った。

悪戯調子のカオリを強引に引き離してアキに告げる。「腕を見せてもらう」と。

 

それでアキの気分は変わった。曲がりなりにも剣聖の娘。鍛え続けてきた分だけ剣の腕には自信がある。未だ家族以外に実力を見せたことはないが、だからこそ火が灯る。お前に私の実力を見せてやるとアキはやる気に満ち溢れた。

 

そんなアキを見て、ゲンは着いて行かずここで身体を休ませることに決めた。

剣は女の専売特許。男が口を挟むべきではない。そういう不文律がこの世界にはあって、それを口実に使った。

 

建前はそれとして、実際はアキの強い姿を見るのを避けただけだった。

普段から我儘放題でクソ生意気な小娘風情が、実は自分よりも強かったとか、いざと言う時守られるのは自分の方だとか、そんなことを知るのが嫌だった。

それを認めれば劣等感に苛まれる。劣等感を抱けば接し方が変わる。娘を頼むと椛に任されている現状では余計な感情だ。守る必要がないと少しでも思ってしまえばもう守れない。

 

間違っても上下の意識を変えるわけにはいかない。あの小娘のことだから、実力を披露した後には「どうだ、私はすごいんだぞ」と誇らしげに胸を張るだろう。そうなった時に一笑に付す自信がない。黙れ小娘と自分は言えるだろうか。

 

その自信がないから、ゲンはこの場に残ることにした。

意気揚々と出かける三人を見送って、部屋で横になる。ズキズキと痛む腰に顔を歪めて目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

所変わって、場所は西都、和達の本邸。

 

行政区にほど近い場所にあるその屋敷は、西都で一、二を争う広さを誇っている。

見る者を威圧するかの如き大きな門は、今は固く閉じられ来るものを拒み、辺りを包む物々しい雰囲気は家主の気分を如実に表している。

 

「なんで!? なんでなの!? なんでよぉ!!!???」

 

女の金切り声が響いた。

頭を抱え膝をつき、目を血走らせて迸る叫び声。

一見正気を失っているように見える。しかし稀ではあるがこう言うことをする女だった。平生の女を知っている者が見れば声をなくして失望する姿である。

 

この女こそが東の地で一番の豪商、和達の当主であり、領主でさえ易々と手を出せないほどの権力を有する者。

その当主は今、予期せぬ事態に見舞われたため軽度のパニック状態に陥っていた。

 

「ごほっがほっ!! かひゅっ!?」

 

「……おい、大丈夫か?」

 

「ひゅーっ、ひゅーっ」

 

「背中、さすってやろうか?」

 

屋敷にいる使用人は皆戦々恐々として近寄ろうとしない。

しかしこの場で唯一の同席者にとってはそれなりに見慣れたもので、いつにない痴態を目撃しても全て聞き流す余裕があった。

さすがに過呼吸になったあたりで心配する素振りを見せたが、大丈夫だと判断した後は興味を失って視線を逸らす。

それが当主の神経を逆なでする。

 

「あ、あんた……あんたね……!!」

 

こんな事態を招いた原因が我関せず知らんぷり。当主は沸々と沸き上がる怒りに身体を震わせた。渾身の力で怒鳴る。

 

「あんたのせいよぉ!!!」

 

「うっさいわ」

 

何を言っても右から左に聞き流す女。まるで効かない。私は雇い主なのに。どうすれば?

怒りは絶望に変わり、当主の目から涙がこぼれ落ちる。

 

「やめてよお! なんで殺したの? なんで、なんで、なんでなの!? そんなこと一言も言ってない! 勝手なことしないでよぉ!! 話し合いでどうにかしようって頑張ってたのにい!!」

 

ついには畳に突っ伏して大泣きだ。

 

それを横目に見ていた女はため息をつく。話し合いでどうにかなる空気じゃなかった。女の言い分はそれなのだが、何度説明しても理解できないらしい。

 

やれやれと首を振り、壁に立てかけてある大剣を見た。

今朝はこれでたくさん斬った。それが当主は気に入らない。そう言われてもその他に術はなかったのだが……。

 

さてどうしようかと考えている間も当主の慟哭は続いている。これはもうどうしようもない。逃げるが吉。

腰を浮かした女に、逃走の気配を察した当主がそうはさせじと縋りつく。

 

「どこに行くつもり!!?? 逃がさないんだから!!! 自分が何したかわからせてやるんだから!!!」

 

「おいこら依頼主。見張りだ、見張り。失態の尻拭いぐらいはしてやるから離せ」

 

逃げるための方便だった。

だが当主はそれを聞いた瞬間、ぱっと手を離した。

涙を拭って鼻をすすり、直前までの醜態が嘘のように精悍な顔つきになる。

 

「そうね。その通り。気が利くじゃない。見張っといて。自警団が来たらすぐ知らせて。許可なく殺すんじゃないわよ。あっちから襲い掛かってきたら殺してもいいから。あ、でもやっぱり手加減はして出来る限り殺さないようにして本当に危ない時だけ剣抜いてと言うかあんたもう基本素手で戦いなさいよ強いんだから――――」

 

「へいへい」

 

さんざん泣いてパニックは治まったようだ。

泣き腫らした目で調子の良いことを言っている。その姿に思うところあれども、いつまでも泣かれるよりは大分ましである。

 

女は大剣を担いでそそくさと外に向かう。後ろで当主がまだ何か言っていたが、よく聞こえなかったので捨て置いた。聞き返すのは藪をつつくのと同義と思えた。

 

女が廊下を歩く間、すれ違った者は皆道を開ける。その中には同じく護衛として雇われた者もいた。身分に上下はなく金で雇われているだけの細い繋がりだが、その分気安い関係でもある。だがそんな者たちも女のことは避けて通る。

 

孤立しているのは分かっている。下手をすれば背中から刺されかねない。だが女にとってはこの方が何かと都合がよかった。

 

外に出た女は塀に背を預けて地面に座り込む。

砂利の上だから座り心地は最悪だ。土埃で汚れもするだろう。それを踏まえても中にいるよりはましだと思えた。

それだけあの護衛対象とは反りが合わない。

 

「……なんで泣くかなあ」

 

ぼそっと呟いた言葉が虚空に消える。

簡単に泣く女ほど見苦しいものはない。男が泣いてたって鬱陶しく感じる性分なのだ。それが女なら百倍鬱陶しい。まったく嫌になる。

 

不満を抱えて頬杖を突く。

沈む太陽が赤く染まり、周囲に長い影を落としている。

 

そうしていると道の向こうから人がやって来た。

背丈から見て大人が二人。子供が一人。計三人。一人は長物を持っている。すわ襲撃かと女は三人を注視した。日を背にしているため見難かったが、一瞬足りとて目を離さなかった。

 

やがて、三人は顔が判別できるほどに近づいてきた。先頭の細い女は見覚えがある。今朝襲撃したときに場に居合わせた奴だ。

長物の奴には見覚えがない。子供にもなかったが、気になる点がいくつかあった。腰に刀を差していることと妙に薄汚れていること。

見たところまだ幼い。背は低いし体つきは小さい。そんなのがこれみよがしに真剣を持っている。目を疑ってしまった。

 

「こんにちは、使者さん。今朝振りですね」

 

「……」

 

総じて、女は思う。

面倒そうなのが来た、と。



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47話

カオリが鬼灯(ほおずき)とアキを引き連れて和達(わだち)の邸宅へと向かったのは、話し合いの場を設けるためであるが、直前の腕試しでアキの実力を把握したのも理由の一つである。

 

手合わせの後、「これだけ強いなら大方のことは大丈夫だろう」と鬼灯が賞賛を述べた。

それが世辞か否かは本人のみぞ知るところであるが、それを聞いたカオリが「なら行きましょう」と強引に決めたのだ。直前の敗北が尾を引きずっていたアキに抵抗する気力はなかった。

 

一応、事前に説明がなされ、命の危険があるのは三人とも承知の上であったが、受け取り方は三者三様で異なっていた。

死なないように全力を尽くす覚悟の鬼灯と、死のうが死ぬまいが遅かれ早かれなので、さして気に留めていないカオリ。そしてまさかこんなところで死ぬはずがないと高を括っているアキ。

 

三人はそれぞれの考えの元で邸宅に向かった。そこで出迎えたのは門の前に座り込む女であった。

日は既に落ちかけている。夕日に照らされた女は土の上に胡坐をかいて頬杖をついていた。

その顔を見た瞬間、カオリは己の運の悪さを悟った。あるいは三人とも運が悪かったのかもしれない。

 

まさかいきなり邂逅するとは思ってもみず、カオリは刹那の思考を巡らせる。

命知らずに話しかける選択肢があれば出直す選択肢もある。しかし女の視線は三人を射抜いていた。ここで踵を返してはあまりに格好がつかない。変に勘繰られるのも困る。そもそも見逃してくれるだろうか。……ここは行くしかない。

 

カオリはそういう判断を下し、先頭を歩いて女に近づいていく。

どのぐらいの距離を保つべきだろうかと一瞬悩んだが、悩んだところでその手のことは何一つ分からない。何となく、気持ち多めの距離を保って立ち止まった。

 

「こんにちは、使者さん。今朝振りですね」

 

友好的な関係を築きたいなら挨拶は基本中の基本である。笑顔を見せ、好意的に振る舞う。

これに対し、相手がどのような反応を見せるかでその心象がおおよそ分かる。

 

当の女は答えずに胡乱気な表情でカオリを見るばかり。

どうやら心証は悪かったようだ。ほとんど敵対しているようなものだから良いはずもないが、このような目で見られるのは幸先が悪い。早くも暗雲が立ち込み始めている。

 

「今朝、自警団の屋敷でお会いしました。カオリと申します」

 

「ああ、覚えてる」

 

答えながらもその相好は崩れない。

どう切り出したものかとカオリが逡巡する間に、女は立ち上がって大剣を掴んだ。

 

これは渡りをつけることも出来ないかもしれない。

肩越しに振り向いたカオリに応え、鬼灯が一歩前に出る。

 

どちらともに臨戦態勢に入る。ピリピリとした緊張感が辺りに漂い始めた。

もし戦うとして、素人目から見れば長物を持っている鬼灯が有利に見える。しかしその見かけからは信じられない速度で大剣が振られるのをカオリは目撃した。

 

戦うのは鬼灯の役目であるが、それは愚策である。ならば戦いを避けるのが自分の役目だ。

気張るまでもなくカオリはそれを自覚している。彼我の実力差からして一拍の間に死んだとして何らおかしくないが、カオリにその手の緊張はない。

 

「話をしませんか?」

 

「なんだ」

 

そのカオリからして見ても、目の前の女は掴みどころがない。戦うかと思えば戦わず、会話が成らないかと思えば成る。

おかげで引き際を見定めるのが難しい。現状、交戦に至っていないのだからまだ引くべきではないのだろうが……。

 

「我々自警団は話し合いを望みます。戦いは望みません」

 

「ふーん」

 

女の反応は芳しくない。その手ごたえのなさが会話を無駄だと思わせる。細椀で軽々と担いでいる大剣が物々しい。

 

「で?」

 

「ですから、話し合いを」

 

「つまり?」

 

「……和達の当主様との話し合いを望みます」

 

「あ、そう」

 

女は順繰り三人を見た。

カオリ、鬼灯、アキの順番で。アキが不機嫌そうにそっぽを向いているのに毒気を抜かれた様子だったが、カオリに視線を戻した時にはその瞳に剣呑な色が宿っている。

やはり戦うかとカオリはこの後の展開に思考を巡らせた。

 

「あたしさあ」

 

「はい」

 

「お前のこと信用できないんだよね」

 

唐突に振り降ろされた切っ先がカオリに向けられる。

決して届くはずのない距離で、しかしぶわりと風圧が頬を撫でる。心臓をわしづかみにされたような錯覚に見舞われ、ああ、やっぱり死ぬかもしれないとカオリは思った。

 

「ほら、今朝お前のとこの仲間殺しちゃったじゃん? いや、殺したくはなかったんだけどさ……。悪いとは思ってるよ……。で、その時にお前笑ってたでしょ? あれがさあ、すっごい気持ち悪かった」

 

女の言葉に、カオリはにっこりと微笑んで小首を傾げる。

 

「そうでしたか?」

 

「それそれ。まさしくそういう顔」

 

はあと女は溜息を吐く。気味の悪い物を見る目でカオリを見る。

 

「仲間の血を浴びて、取り乱すでもなく微笑んでたお前は薄気味悪い。ちょっと無理」

 

何が無理なのだろう。

カオリは考える。生理的に無理と言う意味だろうか。

 

「嫌悪感があると?」

 

「うん」

 

「そうですか」

 

意識して言葉を選ぶ。さもなければ「あなたの嫌悪感は今関係ないのでは」と言っていた。

 

「当主様に言伝を頼みたいだけなのです」

 

「ああ、まあ、聞くだけ聞いてやるよ」

 

意外にも聞いてくれると言う。となれば希望は見事に繋がったわけだが、その割には手ごたえがない。これはどうしたことだろうと内心首を傾げながら、カオリは言葉を続けた。

 

「話し合いを希望します、と」

 

「うん」

 

「我々も好き好んで殺し合いたくはありません。お互いに納得できる妥協案を探しましょう、とお伝え願えますか」

 

「ふーん。まあ分かった」

 

やはりいくら言葉を積み重ねても手ごたえがない。

空を掴もうとするような、煙を捕まえようとするような手ごたえのなさ。

その理由を考える。考えても詮無いことではある。しかし考えなくてはならない気がした。

 

「お名前を教えてもらってよろしいですか」

 

「ん? あたしの?」

 

「はい」

 

「んー……」

 

女は渋った。教えたくないなと表情が告げている。

 

「……ま、いいか。(あざみ)だ。あ・ざ・み。覚えなくていいよ」

 

「アザミさん。覚えました」

 

「覚えなくていいって」

 

うんざりした様子のアザミが「もう行け」とおざなりに手を振った。

「どうかお願いします」とカオリが頭を下げ、鬼灯もそれに倣う。アキは我関せずそっぽを向いたままだった。

 

三人は来た道を戻り、アザミはそれを見送って門に背を預けた。

帰り際、暗闇に包まれた景色を見ながらカオリは思った。明日は来るかしら、と。

 

 

 

 

 

 

その夜。ほとんどの者が眠りについた深夜のこと。

ゲンとアキの二人は自警団の屋敷にそれぞれ一室与えられ、ゲンは早々眠りについたがアキはどうにも眠れなかった。

 

目を瞑れば手合わせの記憶が瞼の裏に浮かび上がる。負けた記憶だ。

悔しさに身を焦がし、衝動に駆られるまま部屋を飛び出した。がむしゃらに走ってたどり着いた土手で刀を振る。

 

思い出される記憶は鮮明だった。一挙手一投足まで克明に記憶している。

なぜ負けたのか。答えを求めて記憶をたどる。力任せに刀を振り下ろす。

 

悔しさと怒りで思考が鈍っているアキは未だ理解し切れていないが、客観的に見て敗因は明らかである。それはひとえに経験の差であった。

 

アキは今まで母と兄を相手に鍛錬を積んでいた。言い換えればそれ以外の経験は皆無だ。ましてや刀以外の得物を操る相手など想像したこともない。そこへ来て、鬼灯の得物は槍である。

槍は刀とは勝手が違う。圧倒的なリーチから繰り出される斬撃は予想だにしない角度から襲い来る。過ぎたと思った穂先が次の瞬間には目前に迫っていることが何度もあった。

 

ただでさえ鬼灯の槍捌きは熟練のそれであったのに、アキにそれらと対峙した経験が全くなかったために何一つ有効な手を打てなかった。

手の届かない距離から一方的に攻撃される場合はどう対処すればいいのか。それを考えている内に負けていた。

 

思い出せば思い出すほど悔しさが募る。

負けるのは慣れっこだ。母や兄を相手に勝ったことなど数えるほどしかない。それも全て手加減されていたのは承知の上だ。

だと言うのに、赤の他人に負けたとなると悔しさは何倍にも膨れ上がった。

 

あれには勝つには、一体何をどうすればいいのだろうか。

刀を振っている内に、次第に落ち着いてきたアキの思考はそこのことばかり考え始めた。

脳裏に刻み込まれた槍の動き、その一つ一つを分析する。どうすればよかったのか考え、対策を練り次に備える。

 

負けたのはいっそ仕方がない。たかだか腕試しだ。次がある。

アキは努めて冷静になろうとした。得るものを得なければならない。そうでなければ負けた意味がない。

 

その調子で思う存分刀を振った。振っても振っても湧いて出る鬱憤は底知れない。ようやく気持ちにひと段落つけた時には、時刻は未明をとうに過ぎていた。

 

肩で息をするたびに白く濁った吐息が天に昇っていく。

汗を吸った衣服に凍えるような風が吹き付けた。気温は大分下がっている。またぞろ雪が降ってもおかしくない寒さだった。

 

「……さっむ」

 

ぶるりと震えて独り言を漏らす。

こんな季節に汗を掻きすぎた。早急に暖まらなければ風邪を引く。着替えも必要だ。

 

生憎と着替えはないので誰かのを借りなければならない。

冷えた頭で考える。あてはあった。鬼灯かカオリを叩き起こせばいい。カオリと話すのは嫌だから鬼灯だ。こんな時間だけど起こしてやる。意趣返しだ。

 

嫌がらせを思いつき気分が上向いたアキは、刀をしまって土手を登る。水の流れる音が背後で聞こえた。

途中、遠くの方に明りが灯っているのを見つけ、あれはなんだろうと首を伸ばす。

それは蝋燭を灯したような小さな明りではない。町が一区画丸ごと光っているような大きな明りだった。

背伸びをしたが遠すぎて見えない。ぴょんと跳んでも見えなかった。斜面で跳んだせいで足を滑らせ転びかけた。

 

興味はあったがわざわざこんな時間に向かうほどではない。

そんなことより着替えが重要だ。いい加減にしないと本当に風邪を引く。

 

大股で土手を登り切り、「よいしょっ」と平坦な道に着地する。

帰路につき数歩。背後に違和感を感じる。気配を探れば微かに人の気配を感じた。

 

「誰」

 

振り向いて暗闇に問いかける。

目を凝らしても人の姿は見えない。だがアキの勘はそこに人がいると主張している。

目に見えるものと自身の勘であれば、アキは勘の方を信じる。兄とのかくれんぼで培った経験がこんなところで生きていた。

 

物騒ごとの予感を感じ、アキは刀を抜いた。そのまましばらく待ったが状況に変化はない。

睨み合いは好きじゃない。腹の探り合いなど持っての他だ。来ないならこっちが行こう。どこにいるかは知らないけど、適当に振り回せばあたるだろう。

 

重心を下げいざ吶喊(とっかん)と言う間際、まずいと思ったか暗闇の向こうから声が返って来た。

 

「待て待て待て。戦う気ねえから」

 

両手を上げながら姿を見せたのはどこかで見た女である。

夕方、カオリたちと訪ねた先で会った女。名前は確かアザミと言った。

 

意外な人物が現れたことにアキは片眉を上げる。

アザミは闇に紛れる黒い出で立ちであった。髪や瞳の色はもちろんのこと、衣服まで全て黒で統一されていた。思い返せば、夕方出会った時からすでにそうだった。盗み見るために着替えたのではないことは分かるが、こうしてまじまじと見ると、その辺りの事情に疎いアキでも珍しい格好であるのが分かる。

全身黒一色と言うのは忌避されることが多い。黒を基調としたとして、普通はどこかに別の色が入る。何となく縁起が悪いと言う理由ではあるが、進んでそうする人間は少ない。

 

若干焦りの色を浮かべるアザミはゆっくりとアキに近づいてくる。背中に大剣を背負い、唯一黒ではない柄の部分が一際浮いて見えた。

 

「ちょっと覗いてただけだから。そう怒んなよ」

 

「怒ってない」

 

「殺気ビンビンだけど?」

 

「知らない」

 

殺気と言われてもそんなものは知らない。勝手に出てるだけだ。自由に出し入れできるのが理想かもしれないが、そんな細かいことをするつもりなどアキには毛頭なかった。

 

「何の用?」

 

「用っつうほどのことはねえけど……たまたま通りがかったから見てただけ」

 

こんな夜更けに? 姿を隠してたのに? その大剣で何するつもりだった?

疑問は尽きず疑念は強まる。そのあたりを問い詰めてやろうとアキは口を開いたが、その前にアザミが先んじた。

 

「それにしてもお前小さいわりにやるなあ」

 

「……どうも」

 

「いやほんとほんと凄いぜお前」

 

「どうも」

 

言いたいことは色々あるが、それはそれとして褒められるのは気分がいい。

もっと褒めろと胸を張り内心にんまりした。

 

「惜しいよなあ。そんなに強くて将来が楽しみなのに、変なことに関わっちまってんだから」

 

「……変なこと」

 

「自警団なんかに関わったらあとで痛い目見るだけだぜ」

 

「痛い目」

 

「お前なんであんな奴らと一緒にいるんだ?」

 

「食糧が欲しいから」

 

考えるまでもなく、その答えはすんなりと口から出た。

しかし言葉にしたおかげで思い出した節もある。

鬼灯との手合わせでコテンパンにやられたせいで忘れかけていた。気をつけねばならない。

 

「お前を倒せば食糧が手に入るって聞いた」

 

「いや、それ嘘だから。あたしを倒しても手に入んないから。倒すならあたしが護衛してる奴倒さなきゃ」

 

「じゃあそっちを倒す」

 

「まあ、あたしが護衛してるから、結局あたしを倒すことにはなるけどな」

 

「じゃあ両方」

 

「……別に倒さなくても、欲しいならやるぞ?」

 

思いがけない言葉に思考が止まる。

再起動は迅速だったが言動はより直截的になっていた。

 

「よこせ」

 

「……お前その言い方は……まあ、いいや」

 

仕方ない餓鬼だなとアザミは苦笑する。

 

「どれぐらいくれる?」

 

「そうだなあ……まあ多くても俵半分ぐらいだな。それ以上は無理」

 

アザミとしては大盤振る舞いのつもりだった。だがアキとして不満な量だ。

米俵一つでおおよそ60キロである。その半分と言うことは30キロ。

人ひとりが越冬するのにどれほどの食糧が必要となるのか。実際の数字なぞアキの知るところではないが、それにすら足りていないと言うのはさすがに分かる。

せめて一人分は欲しい。欲を言うなら米俵二つ。いくらアキでも村人全員を賄えるほどの食糧が手に入るとは思っていない。

だからせめて一人分は手に入れて帰りたい。兄一人分の食い扶持を用意すれば、もう二度と死んでくれなんて言われないだろう。そういう考えの元である。

 

「少ない」

 

「いや滅茶苦茶多いぞこれ」

 

「少ない」

 

「文句多い奴だなあ」

 

「うるさい」

 

一瞬は光明が見えたかに思えたが、結局は肩透かしで終わった。期待させるだけさせておいてなんだこいつは。

アキは怒り、顔も見たくないと踵を返す。

 

「さようなら」

 

「欲深い奴だなあ……」

 

背中に呆れ気味のアザミの声が届いた。

続けざまに「じゃあこういうのはどうだ」と二つ目の提案を発したが、その時点でアキに聞く気はなかった。だが次の言葉が耳に届いて心変わりする。

 

「お前があたしより強ければ、好きなだけやるよ」

 

「……本当?」

 

「ああ。あたしより強いってんなら依頼主説得出来ると思う。必要経費ってことで」

 

乗るか? とアザミは問う。アキは頷くより前に刀を構えた。

 

「なんだよおい。やる気満々だな。……こういうの好きなのか?」

 

「こういうのって?」

 

「戦うの」

 

「別に好きじゃない」

 

戦いなんて全然好きじゃない。

日々の鍛錬だって好きかと言われれば首を傾げる。もはや日常だから今更止める気もないが、好き好んでやってるわけじゃない。

そもそもどうしてこんなことを始めたのだったか。思い浮かぶのは兄の顔。そして鍛錬の最中、様々な触れ合いの場面が脳裏に蘇った。それを思い出したが最後、まあ悪くない、とそう思えてしまう。

 

「そうか。あたしもだ」

 

そんなアキの心中など知る由のないアザミだが、彼女は彼女で嬉しそうな笑みなど浮かべている。

抜き放った大剣を肩に担いで、どっからでもかかってこいとのたまった。

 

アキは自分の背丈よりも大きな剣を目にし、あれと長々戦ったら負けるだろうなと予想する。

力で挑めば完敗するのは一目瞭然だ。なら速度で勝負するしかない。短期決戦だ。

 

息を吸い込んで呼吸を止める。両の脚に力を込め地面を蹴る。一気に加速して一瞬で間合いを詰める。

勢いそのまま刀を振り抜こうとし、それよりも早く、アキの耳を掠めるように大剣が降り下ろされた。

 

「やるじゃん」

 

アザミは笑っている。アキは笑えない。

目だけで足元を見れば地面が陥没していた。あまり目にしたことのない光景だ。

 

――――一旦距離を取ろう。

 

その場から大きく後退し、土手の上から河川敷まで一気に下りる。それをアザミが追いかけてきた。

アキの着地に一拍遅れてアザミも着地する。アキの着地音とアザミのそれは、例えるなら石と岩である。

耳を疑うような重低音がアキの鼓膜を震わして、戦意を削っていく。

 

そうは言っても、その程度で挫けるほどアキの戦意は低くない。

大剣の重さの分負担が大きいアザミは、着地から次の行動に移るのに時間がかかる。対してアキは即座に攻撃へと移れた。

 

アキが横薙ぎに刀を振るい、アザミは大剣を盾として防ぐ。そのまま何合か斬りはしたが全て同じように防がれた。多少傾けるだけでアザミの体は大剣の影にすっぽり隠れてしまう。闇雲に斬りかかるだけではその防御を崩せない。

 

何か策を講じねばと思考を巡らせた直後、大剣を前面に押し出しままアザミは距離を詰めてくる。

この距離はまずいと直感で理解したアキは身体を捻って回避行動をとった。刹那の時を置き、盾としての役割から解放された大剣が猛威を振るう。

 

二度目の振り下ろしは一度目と変わらぬ威力だった。

抉れた地面はその凄まじさを物語っている。しかも今度は二撃目があった。振り下ろされたばかりの剣が横に振られる。これほど重い物を叩き下ろした直後と思えぬほど素早く、それも片手で、であった。

 

刃ではなく側面を向けられて振られた剣を避けるのは、すでに体勢を崩したアキには不可能だった。咄嗟に刀で防ごうとするも、あっさりと力負けし吹き飛ばされる。

勢いよく転がされた先には川があった。回避しなければと思いはすれど、思ったところでどうすることも出来ず、落下して溺れかける。がぼがぼと水を飲み、肺に残っていた空気は全て吐き出した。

 

その時点で決着はついた。

アザミがアキの襟を掴んで引き上げる。そうしなければ溺れ死んでいた可能性もあった。

 

「あー、悪い。川に落としたのはわざとじゃないぞ……殺す気なかったし……ちょっと周り見えてなかっただけ……」

 

申し訳なさそうに謝るアザミ。

アキに答える余裕はない。酸素を求めて必死に呼吸を繰り返している。

 

「まあ、今日の所はもう帰れよ。風邪ひくし。……勝負は私の勝ちってことでいいだろ?」

 

そう言えばあたしが勝った時のこと考えてなかったな、とアザミはひとりごちる。

まあでも実力差は分かっただろうしこれ以上首突っ込みはしないだろと安直に考えた。

 

「土産やるからもう首突っ込むなよ」とアザミが言い、それにアキは答えない。すでに呼吸は落ち着いているが俯いたままだ。送るぜという申し出も無視された。

 

その態度に嫌な予感こそ覚えたものの、この結果を受けてまだやる気があるなどとはどうしても思い至れず、「発つ時あたしのとこ寄れよ。食い物やるから」と動かないアキを無理やり帰らせた。

 

アザミはアキの気質を見抜けなかった。もし見抜ていたならここで帰らせはしなかっただろう。

終始俯いていたアキの目にとびっきりの憎悪が宿っており、今すぐにでも再び刀を抜きかねなかったこと、歯を食いしばって耐えていたことに気づけなかった。

 

もっと本腰入れて心折っとけばよかったと、のちに彼女は猛省することになる。

 

 

 

 

 

明朝、自警団の屋敷に和達(わだち)家当主からの手紙が届けられた。

それには簡潔に以下の文が書かれていた。

 

話し合いには応じないこと。

買占めは商家として正当な行いであること。

にもかかわらず自警団が武力に頼ろうとするなら、その時は自らの愚かしさを命で償うことになること。

その三点である。

 

それらは挑発的な文体で書かれており、自警団のみならず読んだ者は一様に激高し声高々に主張した。

 

――――和達を潰して食糧を奪い取れ!

 

こうして話し合いの芽は潰れ、残された手段は一つだけとなった。

それを望まぬ者の声は誰の耳にも届かないまま、人々はその道を突き進んで行く。



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48話

「馬鹿は病気にならんと言うが本当らしいな」

 

ゲンの言葉である。

辛辣な言葉だが諫める者はいない。「さもありなん」と頷く者すらいた。

 

昨晩のこと。自警団の屋敷に絶叫が響き渡った。すわ襲撃かとほぼ全員が起き出し、声の元に駆け付けた。

そこにいたのは酷く取り乱した鬼灯(ほおずき)と、びしょ濡れで枕元に立つアキであった。

 

這う這うと皆の元に逃げ込んだ鬼灯が震える指でアキを指し示す。

暗闇の中、ぽたぽたと滴を落としながら無表情に立ち尽くすアキ。それを見て、駆けつけた者たちは一様に凍りついた。亡霊にしか見えなかった。

 

誰もが唖然とし、声一つ上がらない状況で、遅れて駆けつけたカオリが中の様子を伺って言葉を発す。

 

「どうしたのアキちゃん。そんなびしょ濡れで」

 

それで事態は落ち着いた。

言われてみれば確かにアキだった。こんな夜更けにどうしてびしょ濡れなのか意味が分からない。怒る者、呆れる者、反応は種々様々だったが、一晩明ければ笑い話で収まった。

唯一「幽鬼が出た!」と悲鳴を上げてしまった鬼灯だけは己を恥じ続けている。仕方ないですよと杏が慰めの言葉などかけているがあまり効果はない。

 

「こんなに可愛らしい幽鬼なら私の枕元に立ってほしかったわ」

 

ゲンに続いてカオリがそんなことを言う。視線の先にはぐびぐびと湯を飲むアキがいて、げふっとゲップを吐いたところだ。

衣服を着替え、毛布などで厳重に包められ一晩寝たアキはケロッとした顔をしている。触診の結果も異状なし。ゲンの言葉の真偽は分からないが、無事風邪は引かなかった。

 

「ねえ幽鬼ちゃん。今晩は私の枕元に立ってくれない? 一緒のお布団で温まりましょう?」

 

「……ホオズキ」

 

揶揄うカオリをアキは無視した。それでもカオリはいささか嬉しそうである。落ち込み続ける鬼灯と対照的な明るさだった。

 

「……なんだ」

 

「あいつにあった」

 

「あいつとは」

 

「アザミ」

 

その一言で場が驚愕に包まれる。

昨晩はいくら問い詰めたところで何も話さなかったくせに、一晩寝たらあっさり口を割った。アキの中で整理がついたと言うのが理由だが、あまりに突拍子がないので皆が驚かされた。

 

「はあ!? お前、それ本当かよ!?」

 

いの一番に尋ねたのは杏だ。アキを揺さぶって問い詰める。

当のアキは鬱陶しそうにしながら、「誰こいつ」と言う目をしている。

 

「何があった」

 

「戦った」

 

間に杏を挟みながら鬼灯とアキが会話する。

 

「勝ったら食糧くれるって言うから戦った。負けた」

 

致し方ないことだと強がって見せるアキだが、内心は悔しくて悔しくて仕方がない。次戦う時は絶対に勝つと決意している。戦わないと言う選択肢は浮かんでもいなかった。昨晩、当のアザミに何を言われたかなどすっかり忘れている。

 

「よ、よく生きてたな、お前……」

 

戦慄する杏に、アキは思い出しながら言葉を紡ぐ。

 

「そもそも殺す気がなかった」

 

もしアザミにその気があったなら、アキは為す術なく死んでいたに違いない。手も足も出なかったと言うのはまさにこのことで、一晩明けた今をもって勝つ方法は何一つ浮かばない。

 

「次は負けない」

 

だがそんなことは意にも介さず再戦の意思は固い。

勝つ見込みがどれだけ薄くともとりあえずぶつかりに行くつもりのアキは、母親以上の猪突猛進ぶりを発揮している。それはもはや無謀であり、向こう見ずであり、命知らずであって、端的に言うなら馬鹿であった。

 

「どれほどのものだった」

 

「強かった」

 

「もっと具体的に教えてくれ」

 

「大きな剣だった」

 

「それは知っている」

 

鬼灯が根掘り葉掘り聞き出しにかかる。

自警団で一番強い彼女と和達の護衛で一番強いアザミ。戦えばぶつかるのは必然と言える。

 

アザミはどのように戦うのか。力が強いと聞いたがどれほど強いのか。

事細かに質問する鬼灯に対し、アキは面倒そうにしながらも聞かれれば答えた。逆に言えば聞かれないことを話す気は一切なかったが、幸いなことに鬼灯の質問は必要なことをほぼ網羅していた。

 

「厄介だな……盾にも使うのか……」

 

おおよそ把握した鬼灯が呟く。

自分が対峙した場面を想像しどのように戦うか脳内でシミュレートする。

一般的な大剣使いならどうとでも戦えるだろう。しかし大剣を軽々扱える人間となると難しい。長所はそのままに短所がまるでないのだから、付け入る隙が見当たらない。

真面に戦えば十中八九負ける。男と女が戦う時のように、圧倒的な暴力で一方的に屠られる結果に繋がりかねない。

 

その上でいくらか戦い方を考えてみた。しかしどんな戦い方をしたところで勝ち目が薄いことに変わりない。実際に戦わないと分からないことも多いが、腕力の差は如実に実力差となる。勘案すればほぼほぼ負けるのはそれまでの経験で察することが出来た。

 

どうすればいいか頭を悩ませる。

早朝に届いた手紙の内容は既にアキ以外は皆知っている。

自警団の半分は徹底抗戦を叫んでいる。後押しするように多くの民も声を上げ始めた。最早戦いは避けられない。あとはどう戦うか。それだけである。

 

暗殺などはどうだろうか。

しかしたかだか護衛を暗殺と言うのは……それをするならいっそ和達の方を――――等々。

 

一人考え込む鬼灯の頭は堂々巡りに陥った。考えるのは得意でないくせに考え込むのは悪い癖である。そう言う時に助け舟を出すのはカオリの役目だった。

 

「一人で無理なら複数人でかかるしかないでしょう」

 

真っ暗な袋小路に光が差し込まれた。鬼灯の気持ちを表現すればそんな感じだった。

考えあぐね、いつの間にか俯いていた顔を上げ、鬼灯はカオリと目を合わせる。数瞬の間二人は見つめ合い、互いが言わんとするところを全て交わした。

 

「そうしよう」

 

膝を叩いて立ち上がった鬼灯は杏に「私の槍を持って来てくれ」と指示を出す。

慌てて走り去る杏の足音を聞きながら、鬼灯は言う。

 

「アキ。共に戦おう」

 

正直に言って、鬼灯はアキのことを何の役にも立たないと考えていた。猫の手も借りたい状況であり、手ぶらで帰るわけにもいかず、剣聖の娘だと言うことで連れて来た。

まさかこんな形で役に立つことになるとは予想だにしなかった。

 

現状、自警団は多くの人員を失い、鬼灯とその他の戦闘員とでは実力に大きな開きがある。

そのためにアキは鬼灯に次ぐ実力者となっていた。経験不足で要所要所で動きが甘く、才能だけで刀を振っているような子供だが、有り余る才能の片鱗は一度手合わせしただけで垣間見ることが出来た。

あともう一年鍛えるか、下手をすれば少し経験を積ませるだけで自分と伍するほどになるかもしれない。

 

そのように鬼灯はアキを高く評価している。

だからこその言葉であった。それに対して、アキは正面から向けられる視線に真っ向から見返し、簡潔明瞭にこう言った。

 

「は? いやだ」

 

私は一人であいつをやる。手出すな。

 

即答且つ無謀にも程がある答えだった。

まさかの返答に鬼灯は固まる。その横でカオリがぷっと噴き出す。そしてゲンのゲンコツが飛んだ。

 

ゲンとアキが喧嘩するその目の前で、この向こう見ずな子供をどのように説得すればいいかと頭を悩ます鬼灯であった。

 

 

 

 

 

場所は変わり、和達の邸宅。いつものごとく絶叫が木霊する。

 

「いいぃぃやあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!?????」

 

頭を抱え盛大に身体を反りながら迸った絶叫は、部屋の中で数度に渡って反響した。

正面にいたアザミは人差し指で耳を塞いでやり過ごす。その騒音たるや何度聞いても慣れることがない。むしろ日に日に大きくなっている気がする。内心舌を巻く思いだった。

 

「どうしてどうしてどうしてどうしてどうして!!?? どうしてなのぉ!!??」

 

言いながら、これ以上はないと言うほど背中を反らし天を仰ぐ当主。

昔こんな彫刻見たことある気がするとアザミは過去に思いを巡らせた。

 

「あいつら何なの!? やる気満々じゃない!? 殺されたんだけど!? 仲介人殺されたぁ!!」

 

早朝に届けられた宣戦布告とも言える手紙に遅れて、当主の言伝を預かった仲介人が昼頃に自警団の屋敷を訪れた。

仲介人は和達とも自警団とも関係がある者であり、この一件に関してはどちらにも与しない中立の立場であった。

その者を間に入れることで円滑な交渉を目論んだ当主であったが、残念なことに目論見は外れ、仲介人が屋敷を訪れて早々、激高した団員に斬り殺されてしまった。

 

「猿だわ! もうあいつら猿だわ! どんだけよ、大体血の気多すぎんのよ! 昔っからどいつもこいつもどいつもこいつもっ!」

 

髪を掻きむしり血眼になって罵倒する当主はとてもじゃないが正気ではない。しかし満足するまで言葉を並べれば正気に戻ることをアザミは知っている。今は余計な口出しはせず、静かにその時を待つばかり。

 

「もうこうなったらやるしか……! やる、しか…………いやぁっ!! やりたくないぃ!!」

 

泣き出した当主の姿は相も変わらず正視に堪えない。アザミは視線を逸らし溜息を吐く。

散々泣いて、散々喚いて、散々嘆いた。それでようやく小康状態になる。

頃合いを見計らい、「まあ、でも」とアザミが言葉を発した。

 

「殺しといてよかったろ」

 

「こ、ころ!!?」

 

言及しているのは無断で自警団を手にかけたことについてだ。

あれで自警団の戦力は大分減った。なまじ大所帯なだけあって、正々堂々ぶつかればいくらアザミと言えど、自らが死ぬことはなくとも護衛対象を守り切れたかは怪しいところだった。

 

「じ、事故よね!? 事故だったのよね!? 殺す気なかったってあんたそう言ったわよね!!?」

 

「あーそうそう。その通り」

 

アザミの適当な返事を受け、当主は裏切られたような顔をする。そもそも雇い雇われの上下関係である。より大きな金を積まれれば裏切ったとしても何らおかしいことはない。そんなことは分かっているだろうに、今まで考えもしなかったと言うその態度は非常に愚かであり、同時に好ましい部分でもある。

 

「殺す気なかったって。ほんとさ。信じろ。あたしを」

 

今度はもう少し真剣に言葉を投げた。それで当主はあからさまにほっとした顔をする。

扱いやすいなと思う半面、これで今までよくやってこれたなと思う。恐らく内助の功がいたのだろう。それが今どこにいるのかは、残念ながらアザミの知るところではないが。

 

「真面目な話をしましょう」

 

ぐすりと鼻を鳴らし、ようやく正気に戻った当主が口火を切る。

泣き腫らした顔を前にしては今一真剣になり切れないが、真面目な話をするにふさわしい体裁をアザミは取り繕った。

 

「奴らは来るわ。近いうちに」

 

「ああ」

 

「迎え撃ちます」

 

「こっちから攻めねえの?」

 

「……もしかしたら、来ないかもしれないから……」

 

かもしれないと希望的観測に縋るその姿勢はやはり煮え切らない。

やるならやる。やらないならやらない。どっちつかずでいいところ取りしたがるのは商家の性か、あるいは生来の物か。

どちらにせよ、来ると分かっていてより効果的な選択を取れないのは、本質的に臆病だからだろう。

能力はあるのだから、もっと田舎のこじんまりとした商家なら生涯幸せに暮らせただろうに。

アザミは目の前の女を憐れに思う。ずっと前から憐れんでいた。それこそ初めて会った時からずっと。

 

「やっぱり来るかしら……」

 

「お前自分で言ったろ、すぐ来るって。多分今日か明日かその内に来るぞ」

 

「……」

 

アザミの言葉に、当主は何かに耐えるように唇を噛んだ。結局、その口から攻めると言う言葉は出てこない。仕方ないだろう。そういう性分なのだから。

 

でも、世界はそんなに優しくないよなとアザミは思う。

たった一人、どれほど世の中を憂いたところで、他がそう思ってくれないなら戦うことになる。

守ってやるのが仕事だ。与えられた使命はそれで完遂される。全うしなければならない。

 

押し黙ってしまった当主を置いて、アザミは一人窓の近くに寄って空を見上げた。これからについて思いを馳せる。

 

戦いはすぐそこまで迫っているが、まあ楽勝だろう。事前に強い奴はあらかた片づけた。残っているので厄介なのは一人か二人だけ。それもたいしたことはない。残酷にも子供を引っ張り出すぐらいに戦力はひっ迫しているらしい。

加えて、自警団内部で軋轢が生じていると言う話も聞く。強硬派と穏健派で分かれていがみ合ってるとか。そんな状態で向かってくる相手など怖くない。何なら放っておけば勝手に潰し合ってくれるかもしれない。そうなれば戦う必要はなくなる。当主の理想の未来がそれだ。

 

戦闘の趨勢は何をどう予想したところでどうとでもなると言う結論に達する。

となればあとは細々としたことを考える。これが終わったらあれをして、あれが終わったら報告で、報告したら一回帰りたい。

そういったことを考えていたアザミの脳裏に、不意に子供の顔が浮かび上がった。昨晩叩きのめした子供の顔だ。

 

あいつはまだここには来ていない。来たならば伝わるようになっている。いい加減来てもいい頃だ。

ひょっとして、丁度今来てたりしないだろうかと辺りを見回した。

開けた窓から身を乗り出して、首を伸ばし背伸びをして周囲に視線を巡らせたが人っ子一人見つからない。

 

あそこまでボコボコにしてまだやる気があると言うのは考えづらい。あんな言動だったが何気に育ちは良さそうだった。なら教養もあるはずだ。仮になくても、一般程度の頭があれば身に染みて分かったはず。この期に及んで再び向かってくるなんて、そんなバカそうはいない。

 

そう考えた後、思うところあって今度は逆のことを考える。バカだった場合についてだ。

 

戦を目前に控えたこの状況で、これ以上肩入れする理由はない。昨晩はあくまで親切心からの忠告で、聞かないと言うならそれまでである。

万が一、まだやる気があって再び自分の前に現れると言うのなら、その時はその時だが、あまり可愛そうなことをするつもりはない。とはいえ戦いだから、甘っちょろいことばかりも言ってられない。

 

具体的にどうするかはその時になってみないと分からない。戦いは水物だ。状況によるし気分にもよる。

恐らくそんなことにならないとは思うのだが、心の準備だけはしておこう。子供を殺す心づもりなど、そんなものとは無縁でいたいものだが――――。

 

鬱屈した気分を溜息と共に吐き出したアザミは世を憂いて外を見る。相変わらず周囲に人の姿はない。代わりにあちらこちらから物騒な気配を嫌と言うほど感じた。

 

「……乾いてるなあ」

 

虚空に消える呟き。

その背中に胡乱気な表情の当主が問いかける。

 

「何が乾いてるの?」

 

「空気」

 

その言葉の意味など、武人じゃなくては分かるまい。

案の定、理解できなかったらしい当主を背中越しに見やって、アザミは「くくっ」と自嘲した。

 

――――ま、なるようにしかならんよな。

 

人生とはいつだってそんなものである。

大人を殺せば子どもも殺す。もっと酷い時は赤子をも手にかけた。少し前は一族郎党皆殺しなんてこともあったのだ。

 

「ああ、悲しきかな我が人生ってか」

 

不意に浮かんだその言葉を口ずさみ、二度目の自嘲を浮かべる。色々あったが、そんな嘆くほどの人生でもなかったなとそう思う次第である。



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番外


番外です。久しぶりのレン君の一人称。練習も兼ねてます。



「土産をもらった。皆で飲もう」

 

それは、剣術指南の仕事から帰還した母上が「話がある」と家族皆を集めての一言だった。

やたらと威厳たっぷりな声音で呼び集めたくせに、いざ聞けばそんな内容だから拍子抜けする。

そんなことなら夕飯の席で言えばよかったのではないかと思ったが、そう言う考えに至らないのが我が母上らしいところでもある。

 

まあ、いつものことかと半分諦めながらアキと父上の様子を伺った。二人は何とも思ってなさそうな顔で母上の手に握られた瓶を注視している。

誰も口を開かないので、代表して俺が訊ねた。

 

「果実水ですか?」

 

「いや、果実酒だ」

 

瓶に色はなく透明で、中の液体は微かに黄味がかっている。

中身はなんと酒らしい。と言うことはアルコールが入っている。俺の感覚では子供に酒はご法度だ。

 

「飲んでいいんですか?」

 

「何か問題があるのか」

 

「俺もアキもまだ子供です」

 

「……まあ、そうだが。だからなんだ」

 

母上の口ぶりから察するに、どうやらこの世界に年齢制限と言うものはないらしい。

「本当に?」とついつい母上を疑ってしまったが、前世の感覚が残っているせいで一部常識が乖離している。

飲んでいいと言うなら飲まない理由はない。縛る物は何もないのだから。

 

酒は飲んでもいいのだと自分自身を納得させようとする俺の横で、今度はアキが訊ねた。

 

「母上、果実酒ってなんですか」

 

興味津々と言う相好で、矯めつ眇めつ瓶を眺めている。

 

「果実で出来た酒のことだ」

 

「果実でできた酒ってなんですか」

 

「……」

 

「そもそも酒ってなんですか」

 

「……」

 

アキの質問攻めに早々と答えに窮することになった母上が俺に視線を向けてくる。その顔は無表情ではありつつも助けを求めていた。

俺も考える。酒とは何か。中々に難しい問題だ。

 

「酒って言うのは……大人の飲み物のことだよ」

 

「……大人の飲み物」

 

アキの目に貪欲な光が宿る。その眼は大人と言う単語に反応していた。大人に憧れるのは子供の性だ。

 

「兄上、私も飲みたいです。飲んでいいですか?」

 

「母上が良いって言うならいいんじゃないか」

 

アキの期待に満ちた視線を受け、母上は無言で頷いた。その目が一層キラキラと輝き始める。

 

「酒とはどんな味でしょうか……」

 

「果実水みたいなものだと思う」

 

「つまり、甘いんですか?」

 

瞬間、アキの喉がごくりと鳴った。

甘いものに目がない我が妹は早くも摂食モードに入ったらしい。

じぃっと凝視する先には父上がいて、「これ重いねえ……」とはにかみながら瓶を上下に振っていた。

 

俺たちの会話を他所にマイペースな父上を見つつ、瓶を手放すのを待つ。父上がそれを手放した瞬間、アキが即座に確保するだろう。そして早く飲みましょうと言うに違いない。もしくは湯呑を取りに走り出すかだ。その光景が目に浮かぶようで若干楽しみだった。

 

「土産物って珍しいね。誰からもらったの?」

 

黄味がかった液体越しに俺たちを覗いていた父上が、何気なくそんなことを訊ねた。実際、今まで土産物を貰って来たことは一度もない。父上の言う通り珍しいことだった。

俺自身、普段母上がどこの誰に剣術を教えているのか興味があったので母上の返答を待った。だがいつまで経っても沈黙を保ったままの母上は、誰も居ない空間をじっと見つめたまま口を開かない。

 

「……」

 

「……あれ? 椛さん?」

 

聞こえなかったのかなともう一度訊ねる父上だったが、母上はそれすら黙殺した。妙な空気が流れ始める。

母上が無口なことを利用して都合の悪いことから逃げるのにさほどの驚きはないが、ここまで露骨に逃げるのは驚きだ。逃げるなら逃げるでもうちょっとやりようがあるだろうと呆れてしまう。

おかげで「何か後ろめたいことでもあるの?」と言う疑念がこの場に膨れ上がっている。

 

この空気どうするんだよと事態の推移を注意深く見守っていると、父上がすっと側に寄って来て瓶を手渡された。先ほど父上が言っていた通り瓶は重かったが、今はそれよりも空気が重い。

 

「椛さん? 言えないこと?」

 

「……」

 

この期に及んでなお黙殺である。この短い時間に三度目だ。三顧の礼と言うかなんというか、四度目は許されそうにない。

 

場の緊迫感から目を逸らしつつ、珍しく父上が率先して動いたことに注目する。

男の勘が働いたのか知らないが、どうやらこの空気に関しては父上がどうにかしてくれるらしい。

 

そう言うことならお言葉に甘えようと、アキを抱きしめて空気が治まるのを待つことにする。何が何やら分からぬと言う顔のアキも俺が抱きしめればぎゅっと抱きしめ返してくれて、伝わる体温に少し安心する。

 

そのまま部屋の隅に避難した。二人に背を向け出来る限り視界から遠ざける。

二人から意識を外すのと、手慰みの両方の目的からアキと遊ぶことにした。

アキの頭を撫でたり頬を突いて遊ぶ。少し前までなら一方的にやるだけだったこれも、最近はやり返して来るようになった。

大体は俺がやったことを真似しているだけだが、たまにオリジナリティを発揮することもある。今回は服の中に手を突っ込んできた。ひんやりとした手で胸の辺りを触られて少し驚く。

 

「こらこら」

 

「なんですか?」

 

諫めてみるもアキはすっ呆ける。ニヤりと挑発的に笑ってなどいた。

こんな顔をされてはこちらもそれ相応にやり返さなくてはならない。率直に言ってムカつく。

仮にこのまま攻め切られることなどあれば、アキは更に調子に乗るだろう。一度調子づかせると後が面倒そうな妹だ。

 

さてどうしようかなと少し考える。

同じことをするのは抵抗がある。やってやり返しての繰り返しでエスカレートしたら目も当てられないことになりそうだ。

だからこちらとしては少し趣向を凝らして、足の裏に狙いを定めた。

 

「――――うひゃぁ!?」

 

一撫でしただけでいい感じに鳴いてくれた。

気持ちは分かる。そこは俺自身も弱点だ。今こうしている間もくすぐっているが、少し指を動かすだけでアキの体はびくびく動いている。

 

「あ、兄上ぇっ……!」

 

「なにかな?」

 

くすぐったさと負けん気が織り交ざった顔で睨まれる。それに対し、俺はにっこりと笑顔で応えた。さっさと服の中から手をどかせと言う脅しだ。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

「……うぅ」

 

睨み合いは一瞬で勝敗が決する。観念したアキが服の中から手を引っ込めた。

口をとがらせて不満たらたらな顔がとても可愛い。「むぅ~」と小さく唸っているのが小動物染みている。見ているだけで癒される。ずっと見ていたい。

 

「むぅ……」

 

「……」

 

「むぅー」

 

「……」

 

「むぅー!」

 

見れば見るほど癒された。とはいえ現実問題いつまでも見ているわけにはいかないので、ある程度満足したところで切り上げる。十分に癒されて現実に立ち戻る気力が養われた。

 

あちらはどうなったかなと恐る恐る母上たちの様子を伺ってみると、丁度父上が母上に何か耳打ちしているところだった。

その二人の距離感は普段のそれに比べて格段に近い。肩に手を置いてぴったりくっついている。そんな近さでひそひそ話している様子には、横目に見ているだけで妙な生々しさを感じた。

 

子供には聞かせられない話をしているのだろうか。だとするとこの部屋に留まったのは失敗だった。隣の部屋に避難するべきだったかもしれない。

 

二人の仲睦まじい姿を悶々とした気持ちで眺めていると、それが隙になってしまったらしく、アキが突如として腰の辺りに抱き着いてきた。

「え、なに?」と視線を下ろすと下腹部辺りにアキの頭頂部がある。一体何をしているのかと首を傾げた。

 

「アキ……っ!?」

 

呼びかける途中、足の裏に刺激を感じて思わず声が裏返る。同時にアキの狙いを察した。

勝負はとっくについたと思っていたが、アキはまだまだやる気だったらしい。反撃の機会を伺って、隙が出来たと見るや否や速攻でやり返してきた。

 

俺は今正座しているから、腰のあたりに抱き着いてしまえば手を回すだけで足の裏をくすぐることが出来る。

見事な状況判断だ。こいつ珍しく頭を使ったなと、称賛よりかは悪口の類を思う。こうしている間もアキは容赦なくくすぐっているから、素直に称賛するほどの余裕はない。

先ほどやられたのがよほど腹に据えかねたのだろう。その手つきには全く容赦と言うものがなかった。

 

「んんっ……!!」

 

変な声が出そうになって咄嗟に手で口を押える。

もう片方の手でアキの頭を掴んで押しのけようとしたが、すでに腕力では歯が立たない。押した分だけ逆に密着して来る。

 

全身全霊でこちょばしてくるアキの気迫は凄まじく、絶対に勝ってやるぞと言う決意が垣間見えた。

正直こんな状況に持ち込まれた時点で勝ち筋はない。いっそ潔く負けを認めようかとも思ったが、そう簡単に白旗を上げては兄の沽券に関わるし、やっぱりアキが調子に乗りそうなので、ギリギリまで抵抗を試みることにした。

 

アキの頭を押し返し、たまに背中を叩いたりする。

ただし、その間もずっとこちょばされ続けているのでどうしても力が入らない。案の定、アキは俺の抵抗を意に介していない。

 

「ぁ……んぁっ!?」

 

やってる内に学習したのか緩急を付けることを覚えられ、気を抜くと声が漏れてしまう。こんなところで持ち前の学習能力を発揮しないでほしい。

 

足を崩して魔の手から逃げようとしたが、がっつり拘束されてるせいで逃げることは出来ず、力づくで押しのけるのは不可能で、背筋を曲げたり反らしたりして少しでも刺激を紛らわそうとする他ない。

 

心の中で、もうダメだと思う半面、絶対負けないぞと反骨心のような物が浮かんでいた。実の妹に負けを認めてたまるかと言うプライドもあった。

 

散々抵抗して汗を掻く。酸素を求めて口を大きく開くが、ほとんど息を吸い込めていない気がした。そのせいか、頭が茹って思考が回らない。

 

段々と朧げになる意識の中、どういう順序を辿ったのかは不明瞭だが、押しのけるのではなく逆に引き寄せてしまえと妙案を思いついた。

逆転の発想だ。力で敵わないなら相手の力を利用するのだ。五の太刀のように。

窒息させてやると半ば本気で考えつつ、藁に縋るような気持ちでアキの頭を自分の下腹部に押し付けた。

 

「ん!? むぐぅっ!」

 

息苦しそうなアキの声が聞こえる。切羽詰まっている側としてはこれで降参してほしかったが、アキは最後の力を振り絞って攻勢に打って出た。

 

「んんっ!!」

 

猛烈な手さばきに下唇を噛んで耐える。

アキの攻撃は止まらない。その苛烈さときたら最早打つ手がない。

 

もういい加減負けを認めるかと諦観を抱いて体勢を崩す。後ろ手をついて天井を見上げた。奥歯を噛みしめて耐えてる内に、自然と身体は反っていた。おかげで背中側にいた母上たちが目に映る。

 

青白い顔で今にも卒倒しそうな父上と、無表情ながら剣呑な雰囲気の母上の姿。

予想外の二人の顔に呆気に取られて力を抜いた。すると何気に窒息しかけていたアキが解放される。

 

「死ぬぅっ!」

 

ぜぇはぁと大きく息を吸い込んでいるアキは場の空気に気づいていない。

俺も理解が及ばなくて何も言えず、ようやく攻撃がやんだことで全身から力を抜いて倒れた。みっともなく垂れていた涎を拭う。

 

「お前たち、何をしている」

 

長い静寂の果てに、先に沈黙を破ったのは母上だった。

答えに窮する。全然意味が分からなかったから。

 

「……ん?」

 

俺と母上が互いの様子を探り合っている傍らで、当事者であるアキがようやく場の空気に気が付いた。

 

「ん? ん? ん?」

 

俺たちの様子に怪訝な顔で疑問符ばかり浮かべていたアキだったが、畳の上にいつの間にか放り出されていた果実酒を見つけて跳びついた。

その光景が先ほど瞼の裏に浮かんだそれにそっくりで思わず笑う。母上と父上は笑わなかった。

 

空気を読まず、満面の笑みで「これ飲んでいいんですよね?」とはしゃぐアキは、俺とのじゃれ合いで汗を掻き、額には前髪が張りついていた。

 

よくもやってくれたなとその額にデコピンする。「いだっ」と顔を歪ませたアキだったが、次の瞬間にはまた満面の笑みを浮かべ、「飲みましょう」と瓶をこじ開けにかかった。

 

 

 

 

 

アキにとって初めての酒の味は不可思議だったようだ。しきりに湯呑みを覗きながら飲んでいた。

俺は一口飲んで口に合わずに飲むのを止めた。母上もあまり飲んでいなかった。代わりに父上が思いのほか飲んだ。久しぶりに飲むと言っていたが、酒には慣れているらしかった。

 

初めての味に戸惑いながらもかぽかぽと飲むアキと、それ以上のペースでグビグビ飲む父上。

傍目に見て、父上は自暴自棄になっていた。酔わなきゃやってられないと言わんばかりに杯を乾し続けている。

 

やがて瓶の中身が3分の1ほどに減った頃、すっかり出来上がった二人がそれぞれ俺と母上に絡みついてくる。

 

「どうしてぇ……どうしてなのぉ……」

 

父上は泣き上戸なのだろうか。母上に蛇のように絡みつくの姿を見ながら思った。

 

「何がだ」

 

「ふたりぃ、ふたりがぁ……」

 

「どの二人だ」

 

「どうしてぇ……」

 

「何の話だ」

 

二人のやり取りは酷いものだった。呂律が回らず不明瞭な言葉を吐き続ける父上に、母上はひたすら詳細を求め続けた。酔っ払いを真面目に相手にするのは実に不毛だ。真面な答えなど返ってくるはずがない。

二人のやり取りを反面教師にした俺は、酔っ払いの戯言は受け流そうと決意こそしたものの、もう一人の酔っ払いはそう簡単に受け流させてはくれなかった。

 

「兄上ー兄上ー」

 

「……なに?」

 

「んふふ……。兄上ー兄上ー兄上ー兄上-兄上ー兄上ー」

 

答えなくては一本調子に呼ばれ続ける。答えたら嬉しそうな声音で呼ばれ続ける。

どちらがましかと言うと嬉しそうな方がいい。あくまでも相対的な比較でしかないが。

 

「兄上がー。兄上にー。兄上をー。兄上でー。兄上のー」

 

ついには歌っぽくなる。

歌と言うにはあまりに酷いそれは、箸で瓶をチンチン叩きながら一定のリズムで口ずさまれている。

最早酔っ払いの奇行以外の何物でもない。そこに俺の答えは求められておらず、アキの気が済むまで続けられた。

 

「兄上をー兄上でー兄上はー兄上にー」

 

この小一時間でもう百回以上名を呼ばれた気がする。さすがにそれを全て聞き流すのは至難の業で、今に至ってはもうやめてくれと白旗を振っている。アキは白旗に気づきもしない。

 

「兄上はー……兄上……は……」

 

突然ピタッと歌がやむ。

キョロキョロと座った目で周囲を見回し、じっと俺を見つめて来た。

戦々恐々とする俺の元に四つん這いで寄って来たアキは、傍らに横たわったかと思うと、ものの数秒で寝息を立て始めた。

 

頬を突ついて様子を伺うも起きる気配はない。すっかり熟睡している。

延々と続いた兄上音頭の終わりである。ほっと安堵の息を吐いた。

 

我が妹ながら酔っ払うとこんなに面倒くさいのかと、あどけない寝顔を見ながら苦々しく思う。

これからはアキに酒は飲ませないよう注意しなければならない。よしんば飲ませるにしても俺がいない時に飲んでもらうようにしよう。

そうすれば多分矛先は母上に行くと思う。さしもの母上とは言え、実の娘が絡んで来たのなら労力を惜しむことはしないだろう。

 

そう言う期待を込めて母上の方を見てみれば、丁度同じタイミングで父上も限界を迎えたらしく、母上の肩に寄りかかってスヤスヤと眠っていた。

 

「母上」

 

「なんだ」

 

「アキが寝ました」

 

「見ればわかる」

 

「父上も寝ましたね」

 

「そうだな」

 

会話が途切れ、二人の寝息だけが聞こえる。

とっくに日没だと思っていたが、まだ微かに日はあった。たかだか一、二時間が何倍にも感じられた。濃い一日だった。

 

「レン」

 

「はい」

 

「……」

 

「なんですか」

 

「……腹が、減ったな」

 

「そうですね」

 

何か言いたいことがあるらしいが、踏ん切りがつかず言えなかったようだ。

こちらから突ついてもいいが今はいいだろう。それよりも腹が減った。寝てる二人は腹いっぱい飲んだくれたからいいものの、俺と母上はほとんど飲んでいない。

 

「粥でいいですか」

 

「何でも構わない」

 

「分かりました」

 

そう言うなら極限まで手を抜いた粥にしよう。塩の味しかしない粥だ。

悲しいことに、この世界ではそれが普通なので、そもそも手の抜きようがないと言う話なのだが。




「兄上がー兄上でー兄上をー」を書きたかっただけの話です。
それ以外は流れで書きました。結果、この兄妹ちょっとあれだよねと思いました。

Q.母上はなんで土産の件で押し黙ったの?
A.実は「この酒やるから息子と結婚してくれ!」って言うあれこれがありまして、紆余曲折の末お酒だけ貰って帰ってきたのが真相です。
いざ事情を説明しようとしたら思った以上に言い難くて黙ってしまいました。父上は男絡みだと見抜いたようです。最終的には全部白状しました。




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第49話

共闘、と一口に言っても簡単なことではない。元より連携は複雑なものである。前提として息が合っていなければならないし、前もって様々な事態を想定した上、その時々の行動を共有し訓練しておく必要もある。

それが殺し合いとなればなおさらだ。曲がり間違っても一朝一夕で出来ることではなく、中途半端な訓練で行動に移せば、最悪足を引っ張り合って共倒れである。

 

そんなことを、出会って間のない鬼灯(じぶん)とアキが、頭の悪い自分と、猪突猛進のアキとで出来るはずがない。どれだけ夢を見たって無理だ。奇跡に奇跡が重なり偶然上手くいったとしても、運に頼った戦いなど阿呆のすることだ。結局最後は二人揃って死ぬことになるだろう。

 

だから鬼灯(ほおずき)は早々に高度な連携と言うのは諦めた。

代わりに極限まで物事を単純化した。「私一人でやる」と譲らないアキを主軸に、自分はサポートに徹する。アキは自由に戦っていい。周りのことは気にせずに、味方のことなど気にも留めず、好き勝手に暴れていい。その分細かな苦労は自分が背負う。それが最善だと考えた。

 

頭の中で考え、実際に口に出して確認もしてみた。

これ以上は考え付かない。やはり最善だと思う。

しかし所詮は頭の悪い人間の考える最善だ。果たして本当にそうだろうかと不安に駆られるのは致し方ないことである。

だから鬼灯は助言を求めた。自分より数段頭の良い人間がすぐ横にいるのだから当然のことだった。

 

「大丈夫だろうか、これで」

 

「こと戦については門外漢だから知らないわ」

 

そう言うのは聞かないで、とカオリは素っ気ない口ぶりで拒絶する。そこまで強く拒絶されては、聞いた側は沈黙する他ない。

 

何も鬼灯とて真面目な答えを期待していたわけではなかった。けれどもこの返答はあんまりではないだろうか。

カオリの言っていることも分かる。これが初めてと言うわけではない。今までだってそうだった。血生臭い力仕事に関しては専門外。カオリはずっとそう言ってきた。

 

しかしそれでも鬼灯は聞いた。今までにない大仕事を前に、ただ励ましてほしかっただけだ。

確証はないし保証もしないけど、きっと大丈夫よと他でもないカオリに言ってほしかった。

そうすれば多少の不安は払拭されただろう。なにせあのカオリがそう言ったのだ。自信が出ないはずがない。

しかしカオリはこう言う時に限って言ってほしい言葉をくれない。ただ自信を持ちたいだけなのに。

 

戦争の時、兵士は決まって男を抱くと言う。それは直前だったり直後だったりするが、性欲を満たしたがるのは不思議なことではないらしい。

きっと気持ちを和らげるために抱くのだろうと鬼灯は思う。

一戦を目前に男の元へ行き、素っ気ない態度を取られたら生き残れる気がしない。

こう言う時こそ優しくするのがお前の役目ではないのかと、声を大にして言いたい鬼灯だったが、しかし仮にそれを言ったとすれば、「私、女だけど」と至極当然な返答があるだけだ。

 

だから鬼灯は口をつぐんだ。代わりに恨めしそうな目で訴える。もうちょっと何かないのかと。

それがカオリに伝わったかどうかは、その無反応を見るに怪しいところだった。

 

いっそのこと言葉にするのもありかと思った鬼灯だが、他の団員の目がある手前、あまり子供っぽいところを見せるわけにもいかなかった。

如何な鬼灯にも外聞と言うものがある。団員に見られるのはまだいい方で、まかり間違ってアキに見られた暁には、恐らくあの生粋の子供は途端に見下してくるに違いない。

 

何となくそんな気がする鬼灯である。

短い付き合いだがアキの性格を早くも掴み始めていた。これは鬼灯の見る目が優れていると言うよりかはアキが分かりやすすぎるためであった。

分かりやすいのはいいなと鬼灯は思う。特に、今この状況に至っては。

 

「アキ! 手合わせ願う!」

 

カオリへの大声はアキへの大声に転換された。

やれることはやっておくべきだ。矛を交えれば交えるほど、自分はアキのことを理解できるだろう。逆もまた然りで、この手合わせは必ず役に立つはずだ。

 

縁側から立ち上がり、槍を携えて外へ向かう。アキも鼻息荒く誘いに応じた。

二人じゃ不味いですよと杏を初め何人かが護衛につく。必要か?と疑問視する声もあったが、少ないより多い方が良いのは事実だった。

 

どこへ行くのかと訊ねたアキに、鬼灯は川と答えた。

河川敷である。刃物を振り回すのだから、周りに誰も居ない場所が望ましい。この辺りにはそこぐらいしかない。

 

昨晩行ったあそこかなと当たりをつけるアキに、隣に来た杏が声をかける。

 

「お前、どんだけ強いの?」

 

平静を取り繕った声だった。

瞳の奥に恐れに似た感情が垣間見える。

アキはチラリとその瞳を見て、べっと舌を出しながら答える。

 

「お前よりずっと」

 

明らかに小馬鹿にしていた。

糞生意気な餓鬼だな!と拳が握りしめられる。

 

「でも私より強い奴もたくさんいる」

 

「あ? ……まあ、姐さんとあのアザミはそうだろうな」

 

アキは鼻で笑う。

 

「あんなのよりもっと強い人もいる」

 

「誰?」

 

「母上、と……」

 

自然と母の名が出たことに動揺し、続けざまに言おうとした名前に気づいて言葉に詰まる。

それは本当にこの場で出していい名前なのか。少し前ならいざ知らず、今なお挙げていいものなのか。

今一度よく考えた末に、口を開く。

 

「――――兄上」

 

母の名が出てきたのは仕方がないことだ。気に食わないことに、母は今の自分より遥かに強い。

それは認めるが、だからと言って気分の良いものではない。舌打ちする。

 

杏は突然機嫌を悪くしたアキに疑問符を浮かべながら、半分納得しもう半分で疑問を抱いた。

 

「母上っていうのは剣聖様だろ? そりゃ分かるけど、兄上って何だよ」

 

「兄上は兄上」

 

「だから、それ男だろ。そんなの強いわけないじゃん」

 

その口ぶりは世の常識を語っているような確固たるものだった。

 

現に、今護衛として周囲にいる人間は皆女性である。そこに実力差こそあれども、男の姿など影も形もない。

自警団の屋敷でも強そうな奴は皆女だった。男は家事に従事しており、ただの一人も強そうな奴はいなかった。

 

杏の言う通りだ。男は強くない。みんな弱い。

アキもそれは理解している。だから、続く言葉はどこか負け惜しみ染みていた。

 

「お前なんか、兄上に手も足も出ないで負ける」

 

「はあ?」

 

「ここにいる奴みんな、兄上の足元にも及ばない」

 

ぽかんと口を開いて呆れる杏。他の団員達はそれぞれ苦笑や冷笑を浮かべた。

ぶっ殺してやろうかとアキの怒りが爆発しかけ、鬼灯が慌てて抑え込む。

 

「やめろ」

 

「放せ殺す」

 

「やめてくれ。少なくとも、私は君の言うことが嘘だとは思っていない」

 

鬼灯の言葉に虚を突かれたのはアキだけではない。杏を初め、団員は皆驚いた。

しかしその驚きはすぐに消え去る。アキを大人しくさせるための方便だと解釈したのだ。

 

「お前に兄上の何が分かる」

 

代わりに何故かアキが食って掛かる。肯定したのになぜだ、と鬼灯は訳が分からなくなる。

 

「多少は」

 

「嘘つけ。何も知らないくせに」

 

「前に一度会っている。覚えてないのかもしれないが」

 

剣聖と共にいた少年は記憶に新しい。何せ刀を持っていたことに加え、好奇心に溢れた目を鬼灯に向けていた。あの視線の居心地の悪さは中々忘れられない。

 

正直に言って、あの少年の実力の程は分からない。強いかもしれないとは思う。しかしあの時はそれ以上の絶対強者がその場にいたのだ。どれほど強くたって、剣聖の前では霞んでしまう。それほどに強烈な印象を持つのが剣聖と言うものだ。

 

「この場にいない人間の強さを論じることに、これ以上の意味はない」

 

「……」

 

にべもない鬼灯の言葉にアキは噛み付きそうな顔をしている。

仲良くしないといけないのに、全く仲良くできそうにない。こんな調子で大丈夫かと途方に暮れる。

それでもやるしかないと己を鼓舞する気力はまだ残っていた。よしと気合を入れる。屋敷に戻ったらカオリに愚痴を言おうと思いながら。

 

 

 

 

 

嵐の前の静けさが感じられる。

縁側に座るカオリは煙管を咥えながら暗闇の向こうをじっと見つめた。多くの人は寝静まっている夜半。自警団と和達の衝突が不可避となって最初の夜である。

 

幸か不幸か、その日の内に決戦とはならなかった。戦いを求める声は自警団の中では殊更に大きかったが、感情のままに暴走する愚は犯さなかった。とは言えそれも時間の問題である。

 

長らく自警団を纏めていた老婆は彼岸に去った。

後継者はおらず、派閥が二つ残った。

内実を知らない人間から見れば、カオリが後継者であると考える者が多い。しかしカオリにその気はあまりなく、病のこともあって統率はとれていない。

 

紛糾した話し合いでは、一目散に駆けだそうとする者たちを抑えるので精いっぱいだった。

誰も彼も血気に逸って、今この瞬間に独断専行に走る人間が出てもおかしくはない。その者は間違いなく死ぬだろう。しかしそれが決定打になる。

そうなったら終わりだとカオリは思う。勝つにしろ負けるにしろ最後だ。破滅への道がこれほど綺麗に整備されているのも珍しい。

 

剣聖様がいたら、とカオリはここにはいない恩人のことを思う。

剣聖ならば、話し合いは紛糾しなかっただろう。あの混乱に満ちた議場も、一声で治めたに違いない。

それだけの期待を抱き、それ以上の願いを託して鬼灯(ほおずき)を遣いに送ったのだが、結果は芳しくなかった。代わりにやって来たのは剣聖の娘だった。

ミニチュアな剣聖様と言う風貌のその娘は、可愛くはあれどまだ何も知らない子供であった。戦闘面で辛うじて役に立つかもしれない。しかし今求めているのはそれではない。ままならないことばかり。もし神とやらがいるのなら、それは自分を見放して当に久しい。

 

どうすればよかっただろうと暫しの間黙念とした。

吐いた煙が視界の隅にふわふわと漂う。後悔と反省ばかりが浮かんだ。しかしもう遅い。時を巻いて戻す術はない。意味のないことかと自嘲を浮かべ煙管を吸い込む。背後から床板の軋む音がした。

 

「お……」

 

「……あら」

 

振り向いた先にはゲンがいた。

闇深い時間だ。どこにも明りはなく、近づくまで互いに気づかなかった。煙管を口から離しながら訊ねる。

 

「こんな夜更けにどうしました?」

 

「いや……」

 

ゲンはばつが悪そうな顔をしている。人の寝静まった夜更けに見られて都合の悪いこと。

何か悪だくみか。そう思ったのもつかの間、ゲンは諦めたように溜息を吐き、「眠れんくてな」と不貞腐れた子供のような声で言った。

カオリは可笑しそうに訊ねた。

 

「何かありましたか」

 

「……いや、まさかこんなことになるとは夢にも思わなんだ」

 

――――まさか、殺し合いになるとは。

 

カオリは頷き、立ち尽くすゲンを見る。

 

「人を殺したことは?」

 

「……餓鬼の頃に一度だけな」

 

この時代において人死にはさほど珍しくはない。戦中、戦後ならなおさらである。今日を生きるので精いっぱい。明日を見据えられればい良い方で、それ以上先など考えることすらおぼつかない。その貧しさが現状に繋がっている。

 

「怖いなら、お逃げになられたらどうです?」

 

「そうしたいが、小娘が言うことを聞かん」

 

小娘とはアキのことだ。アキは依然やる気満々で屋敷に居座っている。逃げると言う選択肢は端から持ち合わせていない。

子供特有の自信が満ち満ちて、そのくせ子供らしからぬ妙な図太さを持っている。一度や二度の失敗では決して挫けずに人一倍執念深い。

 

成長すれば一廉の人物になるだろうなとカオリは思った。残念ながら現状は幼稚さが際立っている。状況をあまり理解していないだろう。目標のためにわき目もふらずに猪突猛進するだけだ。実に可愛いらしい。

 

「置いて逃げればいいのでは? 血が繋がっているわけではないんでしょう?」

 

意地悪なことを言った。言いながら、そうしないだろうことは分かっていた。

それが出来ない、したくない理由がある。恐らくは剣聖様に恩があるのだろうとカオリは推測する。自分がそうであったから。

 

「出来るか、そんなこと」

 

「剣聖様に頼まれましたか?」

 

「あ? ああ、いや、椛は……それよりも小僧がな」

 

ゲンの答えにカオリは自身の読みが外れたことを知った。

小僧と言うのは誰だろう。ひょっとしてあの子だろうか。あの男の子。あの活発そうでありながら、どこか幸薄そうだった男の子。名前はレン。

 

「座ってください」

 

席を進める。ござも何もないが、とりあえず座らせた。ゲンが腰を痛めているのを思い出したから。

 

「レン君はどうしたんですか」

 

「あ?」

 

「アキちゃんが持っている刀、あれは前にレン君が持っていたものでしょう」

 

「……そうだったか?」

 

ゲンは視線をさ迷わせる。言われて気づいたのか、知らないふりをしているのか。傍目に見るカオリには判断が付かない。

 

「そんなことをよく覚えてるな」

 

「記憶力だけはいいので」

 

――――それ以外はすこぶる悪いので。

 

言外に込められた自虐をゲンは理解した。自虐的な女だと言う感想を抱く。性格もすこぶる悪そうだ。反面、有能そうでもある。

変な女に目をつけられているなとゲンはレンを憐れんだ。ひょっとしたらあれは女難なのかもしれない。あの母に、あの妹に、この女だ。可能性は高い。

 

「それで、レン君はどうしたんですか?」

 

「別に何もありゃあせん。あの刀もただのおさがりだろう」

 

「そうですか。私はてっきり不幸に見舞われたのかと」

 

「縁起でもないことを」

 

「死んだとは言いませんけれど、相応の目には遭ったと思っていました」

 

「相応? 何を根拠に言ってる」

 

「そんなものはありませんよ。強いて言うなら、勘」

 

男に勘があるように、女にだって勘はあるんですよとカオリは微笑んだ。

ゲンは忌々しそうに舌打ちする。これだけ言ってなお、カオリはレンの身に何かがあったと信じ切っている。しかも根拠は勘ときた。どれほど否定したところで聞く気がないなら意味はない。

 

「それで、レン君は何と言ってあなたを送り出したんです?」

 

「お前に言う必要はねえな」

 

「いいじゃないですか。減るものでもないし。会話を楽しみましょう?」

 

煙管を咥えたカオリは可笑しそうな表情でゲンを見ている。その瞳に妖しい光が宿っているのにゲンは気づいた。性質の悪い女だと思い、馬鹿正直にレンのことを話すのは危険だと言う思いを強くする。たかだか女一人をこれほど警戒すると言うのもおかしな話である。

 

「……身体が悪いようだな」

 

どう答えるか悩んだ末、ゲンは話題の転換を図った。露骨ではあったが釣れた。カオリは眉を吊り上げる。

 

「なぜ?」

 

「嗅ぎ慣れた匂いがする。そりゃあ随分と強烈なやつだろう」

 

「なるほど」

 

カオリは匂いを嗅ごうと鼻を鳴らしたがよくわからなかった。馴染みすぎて判別が付かない。自分の体を嗅いだら同じ匂いがするかもしれない。

 

「医術の心得があるようですね」

 

「……獣を狩って生きてるんだ。多少は身につく」

 

「多少ね」

 

煙管を吸い込み、煙を吐き出しながらカオリは言う。

 

「そもそも男が狩人と言うのもおかしな話です。弓は引けるんですか?」

 

「引ける」

 

「飛距離は?」

 

「……」

 

弓の威力や飛距離は弦の強さで決まる。この世界において、筋力の弱い男性が引ける程度の弓矢の威力は、女性から見れば鼻で笑う程度のものでしかない。

 

「俺が好きでやってることだ。文句があるなら言ってみろ」

 

「別にそんなものありませんけど。ただ猟師にしろ医者にしろ、男の仕事ではないなと思っただけです」

 

「偏見だな」

 

「その偏見が社会の大半を占めるなら、それはもう常識と言うものですよ。その様子ではさぞかし苦労されたのではと邪推しますが?」

 

「勝手にしてろ」

 

くすくすと笑うカオリに、ゲンは憮然としながら腰を上げる。表面上は酷く不機嫌そうな面持ちだ。その割に足音を忍ばせているから、見た目ほど怒っているわけではないのだろう。

 

暗闇の中に消えて行く背中を見送ったカオリは、あの人は優しい人なのだろうなと感想を持った。不器用で優しい人だ。男の社会的な立場や扱われ方に多少文句があるようだが、そこは色々あったのだろうと邪推する。男のくせに猟師をやってるところから透けて見える生い立ちは、苦労の連続だったに違いない。

 

自分とどっちが大変だったかなと意味もなく推測の上で比較してみて、間違いなく自分の方が大変だったと断言する。

男はその弱さゆえに生きにくいが、だからこそ大切にされる場合もある。ゲンもまたある程度は大切にされたはずだ。

 

しかし、あなたよりも私の方がひどい目に遭ったのよ、と不幸な身の上を競ったところで一体何の意味があるのか。ゲンの身の上の苦労など推測に過ぎず、そんなもので勝ち誇っている自分はこの世で最も愚かだ。

 

自嘲を浮かべて煙管を咥える。たゆたう煙が天に昇っていく。

この煙が天上にまで届いて、そこにいる何がしかを酩酊させてはくれないかと、他愛のないことを思った。




ネタバレですが、レンと鬼灯でどちらが強いかはその内分かります。戦うので。


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第50話

戦いの始まりの切っ掛けとなったのは、自警団でも和達(わだち)でもなく、無関係の人たちによる小競り合いだった。

冷夏の訪れで飢饉の不安が強まった都では、人々はその精神を少しずつ摩耗させていた。

町のそこかしこで疑心暗鬼が生じ、他者に対する余裕がなくなり、ちょっとしたことで口論になった。ひどい時には暴力が振るわれ、それを治めるのが自警団の本来の役割でもあった。

 

たまたま和達の屋敷の近くで小競り合いがあった。たまたまそこに護衛の一部が居合わせた。ほどなく自警団がやって来て、護衛と一触触発の空気となり、そして始まった。

大勢が命をなくす切っ掛けは、その程度の小さなことでしかなかった。

 

 

 

 

 

屋敷に一報が届けられる。和達との戦いがついに始まったことを知らせるそれは、戦争の始まりを知らせる銅鑼に相違なかった。

すでに準備万端整えていた自警団員たちは慌てることなく行動に移る。

すべきことは決まっている。始まったのならやるだけだ。

 

決意と覚悟を胸に、我先にと屋敷を出ようとする団員に先駆けて、誰の指示を受けることもなくアキが駆け出した。

最初の内はただ一人先頭を走った。実の所どこに行くかもよく分かっていなかったが、直に鬼灯(ほおずき)に追い抜かれ、導かれるように着かず離れずの距離を保ってひた走る。

それをわずかに遅れてゲンが追いかけた。弓と矢籠を背負って必死に二人の背を追いかける。

 

間もなく現場に到着した三人を待ち受けたのは、争いの喧騒ではなく静謐ともいえる静けさだった。

道の真ん中に立つ人影は一つ。その他に生きている人の気配はない。ほとんどの人間は逃げ去った。あるいは家に閉じこもり嵐が過ぎ去るのを待っている。

 

ぽつぽつと点在する血だまりと肉塊は、一見屠殺された家畜を思わせ、人の成れの果てだと理解するのを脳が拒んだ。

腰から上下に両断された者、正中線を左右に割かれた者、首を折られた者、頭頂部から押し潰された者。

それらは全て自警団の半纏を着ている。最初この場にいた者たちはすでに全滅していた。散発的にやってきた援軍も同様の運命をたどっている。

無残極まる光景に鬼灯は顔をしかめ、唯一の生者であるアザミを見る。

 

「あー……えぇ……?」

 

惨憺たる現場の中心にいながら、何をするでなく暇を持て余していたアザミは、新たに駆けつけた自警団の援軍を見て、その中にいるアキの姿を見て、呆れ眼に嘆き節をあげる。

 

「来ない来ないと思ってたら案の定そっちにいるし……なんでいんの? ひょっとしてバカだったりする?」

 

「は?」

 

突然罵倒されたアキは苛立ちを隠せない。いつもの短気を爆発させなかったのは、怒りを理性で抑えたからだ。考えなしに突撃すれば以前の二の舞になる。それを避ける程度の冷静さを今のアキは持っていた。

 

「そこまでバカだとは思わなかったなあ……」

 

持っていた大剣を地面に突き刺し、屈伸しながらそんなことを言うアザミは、さてどうしようかとアキの処遇を考えあぐねた。

究極的には殺すか生かすかだ。殺すとすれば出来るだけ安らかに。生かすとすればどのように生かすか。なるたけ穏便に、もしくは多少の怪我ぐらいは止む無しとするか。あえて剣士として致命的な怪我を負わせると言う選択肢もある。

 

腰をかがめ地面を見つめたまま動きを止めたアザミを見て、アキが一息の間に接近し刀を振るう。

アザミはアキを一顧だにすることもなく、淡々とその場から飛びのいて斬撃を躱した。

 

「あぶな」

 

「ちっ」

 

アキは追撃の代わりに舌打ちをした。不用意に追えばそれが命取りになりかねない。険しい表情でアザミの出方を窺った。

 

アザミもまた飛びのいた先からアキを見返す。忌々し気に睨んでくるアキは怒っている子供としか見えず、やっぱり餓鬼だよなと内心思った。

会うのはこれが三度目だ。内二度は夕暮れと宵闇で会った。改めてよくよくと見てみれば、幼げで勝ち気そうな顔だちをしている。見様によっては傲慢っぽさもあるかもしれない。実際、こうして再戦に来たのだから多少なりとも傲慢さはあるのだろう。こいつあたしに勝つ気でいるのか。あー傲慢傲慢。

 

「一応聞くけど、あたしとやるんだよな? 勝てると思ってんの?」

 

「勝つ」

 

力強い返答。全身から溌剌とした気配が滲み、構える刃はぶれることなくアザミに向けられている。

先日の手合わせでアキの力量は知れている。勝てるはずがない。誰であってもそう思うだろう。件の馬鹿な少女以外は。

 

アザミは静かにアキの瞳を見つめた。そこに確固たる決意とぶれない意思を垣間見て、思わず身体を震わせる。

 

「まったく……ヤになっちゃうぜ」

 

自分を誤魔化すために放った軽口に自分自身で苦笑する。大きく息を吸い、心を落ち着かせる。決して気圧されたわけではない。身体が震えたのはそれとは別の理由、武者震いだった。

 

いつ見ても若者の勇士には心が躍る。意地を見せ、勇気を持ち、覚悟を決めて、強きに立ち向かう。幼いころに読み聞かされた童話のような、伝説に残る英雄譚のような、藤色の剣士の逸話のような。そういう話がアザミは好きだった。

それはあるいは若者を見守る年寄りの心境なのかもしれない。ここが戦場でなければ、敵味方の関係でなければ、諸手を挙げて応援に駆け付けていた。

 

「んじゃ、まあやるか」

 

この若者を自分の手で殺すことになるかもしれない。それを思うと慚愧(ざんき)の念に堪えない。その内心を隠し、アザミは大剣を握る。

 

応じるように、アキと鬼灯がそれぞれ得物を構えゲンが弓を引き絞る。

兵士となったアザミの目が三人を見据え、特に最も遠くにいるゲンを見つめる。冷酷な光を帯びたその瞳は、誰を一番に始末すべきか、それを考えていた。

 

 

 

 

 

アキが突っ込み、鬼灯がサポートする。事前の取り決め通りの戦いは、しかし話にすら出ていなかったゲンの加勢のおかげで、想定以上の効果を発揮していた。

 

アキの剣さばきは年の割に巧みではあったが、子供特有の荒さと言うのはどうしても存在する。それは鬼灯程度の実力で補い切れるものではない。戦っていたのが二人だけなら、とっくに決着はついていただろう。

そうならなかったのはゲンがいたからだ。

 

「小娘! 横に退け!」

 

ゲンの咆哮を背中に浮け、アキが反射的にステップを踏む。直後、一本の矢がアザミに襲い来る。

アザミは大剣を盾にしてそれを防いだ。それと同時に、逆方向から向かってきている槍への対処を余儀なくされる。

 

「ええい、めんどくせえなっ!!」

 

思わず叫んだアザミの喉元に、喋る暇があるとは余裕だな、と言わんばかりに刀が突き立てられようとした。

そんな未来はご免被るため、やむなくアキの相手をするアザミ。ふと気がついたときには、ゲンは立ち位置を変えて再び弓を引き絞っている。

 

戦いを広く見渡し、要所要所で発生する致命的な隙をゲンが補っている。長年の狩猟生活で培った生き死にの嗅覚と精密な射撃がそれを可能にしていた。

さしものアザミであっても、この三人を一人で相手にするのは厳しいものがあった。目の前で頻繁に発生する隙を、他二人のせいで見過ごすことになるのは精神的にも追い詰められる。

 

――――思ったより手こずるぞこれぇ……。

 

早期に決着させることを諦めたアザミは、矢を躱し、穂先を弾き、刀を受けながら、戦力分析に努めていた。

アキの強さは前に戦った時と変わらない。どうとでもなるだろう。比べて、槍の使い手は中々やる。経験も豊富そうだ。この中で一番強いのはこいつだろう。とはいっても大した強さではない。アキ同じくどうとでもなる。

問題は矢を射ってくる男の方。弓の腕もさることながら、状況に応じて立ち位置を変えているのが厭らしい。前衛二人と直線に並ぶのではなく、常に位置を変え、角度を変えて矢を射っている。おかげで腕力に物を言わせて、あるいは大剣を盾に突撃するなど、力づくで勝負を決することが出来ないでいる。

 

相手の嫌がることをするのが戦いだ。そういう意味ではアキも鬼灯も零点で、ゲンだけが出来ている。

ゲンさえいなければ簡単に勝負は決する。アザミはそう考えていた。その読みは正しく、アキと鬼灯だけではアザミに対抗できない。三人でようやく互角なのだ。一人減れば早々に決着するだろう。

 

真っ先に排除するならゲンである。ではどのようにゲンを排除するか。真剣に考え出したアザミは、遠くから近づいてくる気配に気が付き顔をしかめた。

それは身に覚えのない気配で、自警団の仲間であることが知れる。どうやら状況が変化する。それに嫌な予感を覚えた。

 

「姐さん! クソガキ! それとゲン!」

 

やって来たのは杏だった。息を切らす杏は三人と互角に対峙するアザミに内心慄きながら、意を決して叫ぶ。

 

「和達の屋敷にみんな向かった! 勝つ必要はない! そいつを足止めしてくれれば私たちの勝ちだ!」

 

それはカオリからの指示であった。

指示通り大声で伝えた。アザミにも聞こえるように、と言うことも含めて。

 

鬼灯の士気が上がる。ゲンの心に余裕が生まれる。アキが憤慨する。

三者三様の反応があった。足止めなんてふざけるな、と怒るアキまでカオリは予想していた。だが真に言葉を向けたのはその三人ではない。

 

「……また厭らしい真似してくれるじゃねえか」

 

苦々しく呟いたアザミこそ、カオリがその言葉を伝えたかった相手だった。

杏の言葉を聞いた途端、アザミの意識が和達の屋敷に向かった。正面から切り結んでいた鬼灯とアキには、その様子が手に取るようにわかる。

 

「分かるか、アキ!」

 

「うるさい」

 

攻めっ気が消え、大剣を振るう動きも僅かに鈍くなった。

今が攻め時だと鬼灯はアキに呼びかけ、アキは鬱陶しそうに答えながら一層攻め立てる。

 

二人の猛攻を受け、そりゃこうなるよなとアザミは苦笑を浮かべたが、分かっていてどうにかなるものでもなかった。まだまだ修行が足らんと自分を戒めることしかできない。

 

何てことはない。先ほどのカオリの伝言は、アザミの動揺を誘うための小細工だ。少しでも勝率を上げるためなら何でもする。言葉を弄するぐらい息をするかの如く自然に。

それ自体は大したものではない。護衛が護衛対象から離れている現状を利用したに過ぎず、そんなことはアザミ自身承知の上である。しかし敵からそれを指摘され、あまつさえもう少しで勝てると法螺まで吹かれれば大なり小なり動揺する。

 

アザミがいないからと言って、そう簡単に和達は落ちない。そのために自警団の戦力は事前に削いでおいた。

それを分かってはいても、全く逆のことを言われれば不安になる。人の性だ。あまつさえ、確信に満ちた声音と態度で言われればなおのことそうなる。

 

アザミは気配で護衛対象の無事を確認しようとした。

杏の言った通り、和達の屋敷は大勢に取り囲まれているようだ。今はまだ持ちこたえている。気配を読む限り強そうな人間はいないが、多勢に無勢であるのも確かだ。

 

杏の言葉を虚言だと決めつけるのは早計かもしれない。屋敷を落とすのに何かしらの策があって、それを実行に移そうとしている可能性がある。

策をこしらえたならば、それはあのカオリとかいう女の策だろう。あの気味の悪い女なら何をしてきてもおかしくない。えげつない手だろうと平気で使いそうだ。人情とか道徳とかは持っていない気がする。

 

それはあくまで推測でしかなかったが、肯ずる材料がないように否定する材料もまたなかった。どちらと決めつけることが出来ないなら、最悪を想定するのが常道だろう。

 

そのような考えに耽っていたアザミの頬を鬼灯の槍が薄く裂く。つうっと血が垂れて鋭い痛みに襲われた。思考が遮られ現実に立ち返る。

次の瞬間、アキが渾身の力で刀を振り下ろした。受けるか避けるか一瞬迷い、視界の隅に矢をつがえたゲンを捉えて後ろに跳んだ。着地を狙うように矢が放たれた。

 

矢をいなし、面倒くせえと重ねて心の底から思った。

内部分裂寸前の脆弱な組織だと思って甘く見ていた。何人か残っている優秀な人材が組織を上手いこと回している。ここまでボロボロになっておきながら、いざと言う時に組織立って動けているのがその証だ。

こんなことなら自分一人で吶喊(とっかん)した方が容易だった気がする。すでに近いことはしているわけだし。

 

そもそも陰気なんだよなとアザミは自分がこの場にいる理由について愚痴を思う。

やるなら真正面からやればいいのに。策を講じて裏から引っ掻き回そうとしている。それがどうにも性に合わない。だからやる気も起きない。

 

「……いったん屋敷に戻るか」

 

そもそもアザミが護衛対象から離れてこんなところにいるのは、争いの起きたこの場に自警団員が集まって来ると読んだからだ。

来た団員を片っ端から殺し、士気を挫いて早期決着を目論んだ。もうひと押しだと踏んでいた。

その目論見は見事に外され、来たのは三人。他は全員屋敷に向かってしまった。

 

短気に走って安直な行動をとると思っていただけに驚きだ。護衛は所詮護衛でしかない。頭を狙えと徹底されているのだろう。

 

アザミには策を用いれば裏目に出ると言うジンクスがある。どいつもこいつもそうだったらしい。いい加減、魂に染みついたとしか思えないその法則から抜け出したかったが、残念ながら今回もそうなった。ならば今まで通り策は投げ捨て本能に従うとしよう。

 

さしあたって、戦っている場合ではないから逃げるのだが、そのためには目の前の三人を振り切らねばならない。逃げるには背中を向ける必要があって、背中と言うのは人体の中で最も無防備だ。

幸い、この体には常識破りな馬鹿力があるからちょっと無理をするぐらいなら可能だが、それは同時に大剣を背負っているから速く走れないと言う短所にもつながっている。

最悪死ぬのは構わない。だが死んでもいいと言われていないのが考えどころ。

 

「……ま、何とかなるかな」

 

考えすぎては一周回って馬鹿になる。だからほどほどに留めた。

三人の攻めをいなし、攻撃に転じるふりで隙を誘った。前衛の二人が受けの姿勢を取り、間隙が空いた瞬間を見逃さず踵を返す。

 

殺気溢れる二人に対し、無防備な背中を向けるのは勇気がいった。すぐさま二人は追いかけて来る。追いかけるよりも一矢放つことを選んだゲンが置き去りになる。

 

これは何とかなりそうだと、背中に飛来する矢を打ち落としながらアザミは思った。



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第51話

唐突に逃げ出したアザミをアキと鬼灯(ほおずき)が追いかけていく。一人その場に残されたゲンは早く追いかけねばと気がせいて、しかし危機的状況から一時とはいえ遠のいたこともあり、身体が小刻みに震えていた。

 

束の間、足を止め深く息を吸い込む。追わねばならぬ、追わねばならぬと気ばかり逸る。その気持ちを抑えつけ、心が落ち着くのを待つ。こんな状態では足を引っ張るだけだと理性が訴えている。

元より、ゲンはアキほどの猪武者ではない。出来る限り理屈で以て行動し、理性で以て考えるよう努めている。

その理性が告げている。アザミに勝つのは容易ではないと。

 

必中だと思って放った矢のことごとくが防がれた。矢に限らず、死角からの攻撃にも平然と反応していた。あの反応速度は人間のそれとは到底思えない。

目以外の何かで反応している。耳だろうか。それだけではまだ説明がつかない。では獣がよく持ち合わせている六感か。

もしそうなら、その正体には心当たりがあった。ゲンはかつて剣聖である(なぎ)に聞いたことがある。曰く、気配である。

 

聞いた当初は鼻で笑った。そんな物の存在を認めるのは狂人に違いない。椛は狂人かもしれないが、ゲンは狂人ではなかった。これまで感じたことのある気配は全て、目と耳で説明がつく。あるいは勘というのもあるかもしれない。しかし勘の大半は当てずっぽうだ。言ってしまえば気がするだけだ。不確かで曖昧で、気がするだけの第六感。それを大仰な言い方で気配と呼ぶ。そんなところだろうとゲンは思っていた。

その認識が改まったのは、この春のことだった。

 

数か月前の山狩りの際、狼たちを山ほど狩ったその記憶。あの時、狼たちは草木に隠れて襲い掛かって来た。一匹や二匹ならともかく、あまりに数が多すぎてゲンにはどうしようもなかった。

だと言うのに、剣聖である椛とその息子のレンは、それらの奇襲に苦も無く対応していた。あの時、明確に足を引っ張っていたのは誰あろうゲンであり、10かそこらの子供に守られる始末であった。

 

四方八方から襲い掛かって来る狼たちに、目や耳で対応するには手が足りなかった。目も耳も手もそれぞれ二つずつしかなく、考える頭に至っては一つしかない。

百匹そこらの狼に囲まれて、全ての方向から襲われたのでは打つ手はない。死を待つより他になかった。人間誰しもそうだろう。今ゲンが生きてこの場にいるのは、人間をやめたと思しき親子がいたからだ。

 

後で椛に聞いてみたところ、やはり気配を読んで対応していたと述べた。どんな戯言かと思う。冗談みたいな話だ。

それが出来るから剣聖なのだろう。人を超越している。さすがは剣聖と言えばそれで片が付く。レンに関しても、さすがは剣聖の息子と言うところだろうか。まったく笑えない話だった。

 

状況から見て、アザミが何らかの方法で死角からの攻撃を把握しているのは間違いない。

それを気配と仮定するなら、奇襲や不意打ちはほぼ通用しないことになる。策を講じて数に頼ったとしても、前例を鑑みれば効果的とは言い難い。

 

真正面からぶつかって打ち破るしか手はない。

前で戦う二人が鍵だ。しかし自分も含めて誰か一人でも欠けたらその時点で終わりである。厳しい戦いになる。手強い相手だ。あまりに手強い。

 

「おい小娘!」

 

考えてばかりもいられない。

ゲンは未だその場に残っていた杏に呼びかける。びくっと飛び上がった杏は上擦った声で答えた。

 

「な、なに!?」

 

「矢だ!」

 

「は? や……?」

 

「弓矢を持ってこい!」

 

矢が当たらないことは織り込んで射らなければならない。

どうせ当たらないのだから、牽制目的で射るしかないだろう。長期戦も視野に入れるべきだ。となると、矢の数が足りない。

 

「ありったけ持ってこい! 担げるだけ担いでこい!」

 

「な、なんで私がそんなこと!?」

 

「うるせえ! つべこべ言わずにやりやがれ!」

 

――――見ているだけなら、せめてそれぐらいは役に立て。

 

勢いに任せて飛び出かけたその言葉は、すんでのところで押し留めた。

この状況で余計な言葉は不要だ。悪感情など抱かせて押し問答に勤しむ暇はない。

 

絶対に持って来い、と未だに文句をいいたげな杏に念を押しゲンは走り出す。

どいつもこいつも生意気な餓鬼ばかりだなと、絶対に聞こえないように吐き捨てた。

 

 

 

 

 

走るアザミを追いかけ、疾走する二つの影。

鬼気迫る表情のアキと、その後ろを鬼灯が行く。

三人の距離は徐々に縮まっている。幸いなことに、アザミはそれほど足が速いわけではなかった。この調子ならもう間もなく追いつく。

 

戦いの再開を目の前にして、鬼灯はチラと背後を見る。そこにゲンの姿がないことを確かめた。

次は二人で打ちかかることになる。万全を期すためにも、憂いを払わなければならない。

 

「アキ」

 

「あ?」

 

呼びかけた声に対し、アキは振り向きもせず、怒りの籠った返答があった。

その怒気を目の当たりにし、流石の鬼灯も二の句を継ぐことを躊躇する。怖気づく己を叱咤して、用意していた言葉を放つ。

 

「落ち着け」

 

「……は?」

 

「落ち着け」

 

「……は?」

 

一応、気を遣っての助言のつもりだった。それがアキの怒りに油を注ぐ結果となったのは予想外に過ぎた。

 

今まではアザミにのみ向けられていたその怒りが、なぜか鬼灯(じぶん)にも向けられている。

戦いが始まって(たが)が外れ、他者への余裕がなくなったというのもあるかもしれない。そうは言っても、下手をすればそのまま斬りかかってくる可能性すら感じられるほどの怒気である。

 

出会った当初から今の今までずっと不機嫌なのは何となく分かっていた。それが事ここに及び不機嫌さが増している。

怒りっぽいにもほどがある。そもそも何をそんなに怒っている? 出会い頭、アザミにバカと言われたことと、まさかカオリの伝言にも怒っているのか?

一体どこに怒る要素があったのか。むしろ士気の上がった鬼灯には理解できず顔をしかめるばかりだ。

 

とにもかくにも、鬼灯はアキを落ち着かせなければいけなかった。

幸いなことにその余裕はある。アザミは足が遅い。アキにもギリギリ追いつけるぐらい。ならそれよりも足の速い鬼灯(じぶん)なら簡単に追いつける。

しかし一人追いついたところでどうしようもないだろう。アザミの腕はわかった。真面に当たれば勝てる要素は一つもない。よくよく身に染みて理解した。

力を合わせなければ各個撃破されることになる。攻撃するなら、連携してかからなければいけなかった。

 

「二人で一斉にかかるぞ。息を合わせろ」

 

「……」

 

鬼灯の指示に、アキは苦虫を噛み潰したような顔をしている。

いつもなら即座に拒絶するところだ。邪魔するなと、聞き分けのない子供さながら吠えただろう。それを躊躇するだけ、アキもまた身に染みていた。

アザミの強さは、自分一人で太刀打ちできる次元にはない。少なくとも一つ上の強さだ。

 

それを理解して初心に返る。

自分の目的はアザミを倒すことではない。それはあくまで通過点。目的は食糧を手に入れること。……兄上のために。

 

そのことを思い出す程度にはアキは冷静で、その一方で心の片隅に赤く燃え滾る怒りが同居してもいた。相反する感情がアキの中でせめぎ合い、胸を掻きむしりたくなる衝動をこらえ、やっとのことで答えを出す。

 

「……わかった」

 

「なに?」

 

ぼそっと呟いた声はか細かった。

何か言ったかと鬼灯が聞き返すほどには。

 

「わかった!」

 

開き直ったアキが、これなら絶対に聞こえるだろと大口を開いた。

それを聞いた鬼灯が目を剥いて、アザミまでもが肩越しに振り向いた。

 

「やるなら、早く!」

 

「あ、ああ……」

 

まだ少し呆けている鬼灯が辛うじて答える。我に返ると同時に、分からんと口の中で呟く。

アキと言う少女のことが、今を以て半分も理解できていない。正確には思春期の子供のことが分からない。

この期に及んでその体たらく。連携など本当にできるのか全く不安だったが、この土壇場ではもう選択肢の余地はない。

覚悟を決めて、口を開く。

 

「好きに、行け」

 

少しの躊躇と僅かな開き直り。

それらが籠った言葉が、辺りの空気に融けて消える。

 

理解し、呑み込む僅かな間を挟んで、アキは突っ込んだ。間髪入れずに鬼灯も追随し、二人は瞬く間に距離を詰める。

 

瞬きの間に接近する二人に対し、アザミは背中に目がついているかのような反応を示した。

振り向きざま、見ることもなく横薙ぎに大剣を振るう。カウンターを兼ねた、近づけさせないための牽制の一振りだった。

 

「……っ」

 

まさかそこまで俊敏に反応してくるとは思っても見ず、虚を突かれた鬼灯はアザミの目論見通りに足を止めた。反して、アキは元からの背の低さに加え、沈みこむように大股で踏み込むことで間一髪避けた。それはアザミの行動を予期していたかのような動きだった。

 

風が頬を撫でる感触に目を細めつつ、アキはアザミの懐に潜りこみ、その無防備な腹を斬りつける。

 

「あっ!? この……!」

 

咄嗟に背後に跳んだアザミだったが、接近を許し過ぎたために躱しきれない。横一文字につけられた傷から鮮血が滴り落ちる。

 

……まず一撃。

ようやく与えた一撃。アキは確かな手ごたえを感じた。しかし勝負が決するほどでないことにも本能的に気が付いていた。

 

そのまま二斬、三斬と斬ろうとしたアキの耳に、獣のような唸り声が届く。

 

「こんな程度でっ」

 

直後、アキは腹を蹴られた。大剣ばかり注意していたアキの不意を打った形で、まるで無防備だったみぞおちにつま先が食い込み、口からごふっと空気が漏れる。

 

そのまま吹っ飛んだアキを鬼灯が受け止めた。追撃に備え、即座に回避行動を取った鬼灯だったが、予想は外れ、アザミは二人を見据えたまま立ち止まり、不適な笑みを浮かべている。

 

「こんな程度で、あたしは死なねえぞ」

 

言い捨て、路地裏へと消えた。

このまま大通りを走ってはすぐに追いつかれると言う判断だった。

 

入り組んだ細い道に入ってしまえば追っ手を撒く可能性も高まる。一度撒いてしまえばそのまま護衛対象の元に行くのも、アキ達に奇襲を仕掛けるのも思いのままだ。

反面、大剣を振るうには適していないと言うデメリットもあるが、それは長物を持つ鬼灯も同じことである。

 

鬼灯はアザミの行動をそのように読んだ。

そして刹那の間思案する。だが如何な道筋を辿ろうとも、ここで追わないと言う選択肢はなかった。むしろ積極的に追う必要がある。一度見失ってしまえばその後どうなるか分からない。あの怪力で奇襲をしかけられれば防ぐ手立てがない。その恐怖が鬼灯の思考を凝り固めた。

 

焦りに突き動かされるまま、鬼灯は腕の中で痛みに呻くアキに「立て」と言い放つ。アキは顔をしかめながらも気丈に立ち上がった。

 

先の腹への一撃が思いのほか効いている。たかだか蹴りではあるが、そもそもアキはまだ子供であり、アザミの化け物染みた膂力を考えれば、むしろ動けている方が驚きかもしれない。

例え内臓が弾けていたとしても驚かなかったろう。そうなっていないと言うことは、もしや手加減されているのか……いや、考えるのはよそう。

 

アキの痛みが和らぐのを待つ。

その間にゲンが合流した。状況を理解するため周囲の観察を始めたゲンは、まずはアキの様子を見て顔をしかめ、次に道に点々と付いた血痕を見つける。そしてアザミの姿がどこにもないのを確かめ、得心した顔をする。

 

「無茶したかこの小娘は」

 

「おかげで手傷を負わすことが出来た」

 

またぞろ説教でも始めそうな雰囲気を嗅ぎ取り、鬼灯が先手を打ってアキを擁護する。

ふんっと鼻を鳴らすゲンの目の前で、アキは得意そうな顔をしていた。鬼灯が尋ねる。

 

「平気か」

 

「何が」

 

無論、蹴られた腹についてだ。この期に及んで見栄を張るアキに鬼灯は苦笑し、こんな状況で笑えている自分を認識する。

 

「ここからは三人離れずに動く。奇襲を避ける」

 

「それでいいのか」

 

「構わない」

 

それでは追いつけないかもしれないが、それでいいのかとゲンは問い、鬼灯は最悪それでも構わないと答えた。

それら言外に含まれた意味合いをアキは理解できていない。使われた言葉を額面通りに受け取り、悠長なことを話しているとして済ませた。

追いつけないかもしれないと言う懸念はアキの中にはなかった。アキはまだアザミが近くにいることを知っていた。

 

「行くぞ」

 

鬼灯の宣言を受け、アキが路地裏に飛び込む。

少しは警戒しろ、とゲンがやきもきし、鬼灯と共に固唾をのみながら続く。

 

 

 

 

 

家と家の間に作られた細い道。馬は入れず、人が行き交うので精いっぱいの小さな道は、そこらかしこに桶やら棒やら材木やらが放置されており、ただ歩くだけでも苦労する。

 

そんな中、相も変わらず先頭を走るアキは小さな体躯でそれらをひょいひょいと躱しながら進み、続く鬼灯の方が障害物に難儀していた。

この道の細さでは槍を振るうのは難しいとして、穂先を前に向けたまま走り、もっぱら刺突でもって戦う心積もりだった。

 

道に点々と残されている血痕がアザミの行方を捜す手がかりとなり、まだ乾いてもいない血の色は、茶色の土の上でもよく映えた。

 

ひと気のない静かで薄暗い道は、どこかに潜むアザミへの恐怖心が相まって進むだけでも相当の胆力がいる。

中でも、三人の内で最も大きい緊張感を抱いているのは鬼灯だった。

 

それは土地勘の薄さが大きな要因となっている。鬼灯はこの町で過ごした経験がほとんどない。この道が一体どこへ続いているのか。おぼろげで頼りのない記憶しか持たない鬼灯にとっては、暗闇を手探りで進むような強いストレスを感じていた。今すぐにでもアザミが襲い掛かってくるかもしれないと思うと、ますます不安は大きくなる。

 

その調子で小道をしばらく行った先、血痕は曲がり角の向こうに消えていた。

その先は大きな道に続いていおり、今この瞬間においても微かに人の足音や話し声などが聞こえてくる。それが鬼灯の心に油断を生んだ。

無意識の内に安堵の息を吐き、自然と歩を速めた鬼灯は、なぜか立ち止まっていたアキを追い越した……その瞬間。

 

「なっ!?」

 

横から膝を蹴られる。まさかと言う思いで視線を向ければ、そこにいたのはやはりアキである。

そのまま倒れそうになったところを辛うじて踏ん張り、膝立ちになった鬼灯を「馬鹿野郎!」と今度は背後からゲンが押し倒す。

 

直後、頭上からバキバキと木が折れる音が轟き、パラパラと木片が降り注ぐ。

「ちぇっ」と舌打ちが一つ。聞き覚えのあるその声に背筋が凍り、押し倒された体勢のまま目だけで頭上を窺った。

 

大剣を振り切った姿勢のアザミに、アキが勇猛果敢に斬りかかっている。しかしこの狭い空間で上手く刀を振るうことが出来ていない。崩れ落ちた木材の中から無理やり大剣を引き抜いたアザミは、すぐさま逃げの一手を打つ。

間髪入れず、ゲンが起き上がり矢をつがえたが、すでにアザミは曲がり角の向こうに消えていた。

 

「ん……」

 

アキが路地の向こうと鬼灯とを交互に見ている。

誰がどう見ても追いかけるか迷っている素振りだ。それを察した鬼灯が慌てて声を上げた。

 

「行くなっ」

 

眉を八の字にして「不満だ」と内心を表すアキは、それでも鬼灯の指示に従いその場に留まった。

「早く」と急かすアキの声を聞きながら、鬼灯は斬られた塀と家の一部を見た。無残に叩き折られたそれらは、隣接する四方全ての家に被害を与えていた。塀は崩壊し家には大穴が開いている。幸いなことに住人は留守で巻き込まれた者はいないらしい。しかしすぐにでも補修しなければ家そのものが崩れかねない状況だった。

 

たった一振りで家をも破壊し得るこの腕力。分かっていたことだが、こんなものに奇襲されたら一溜まりもない。

 

「……なぜわかった?」

 

もしアキに蹴られていなければ、ゲンに転がされていなければ、鬼灯(じぶん)も周囲に散らばる木片と同じ末路を辿っていた。

それを実感したからこその囁くような問いに、珍しくアキとゲンの声が重なった。

 

「あん?」

 

聞こえなかったか、もしくは要領を得なかったか。どちらかだと考えた鬼灯は言葉を重ねる。

 

「奴が塀の向こうにいたのが、なぜわかった」

 

「は?」

 

「わかるかバカ」

 

今一意味を理解し切れないアキと辛辣なゲン。そんなこと気にしている場合か? と言うのが二人の共通した思いである。

 

ゲンにとってはこんな状況は日常茶飯事だ。どこに獣が潜んでいるか分からない森の中では、常に神経を研ぎ澄ませなければならない。野生を侮ってはならない。ほんの少しの油断が命取りになる。

その経験があるからこそ、ゲンは反射的に身体を動かし、鬼灯を助けることが出来た。

 

しかし、ならばアキはどうだろうか。アキは最初から知っていた。そこにアザミがいることに。不意を打とうと影に潜んでいたことに。

 

ゲンと鬼灯が血痕を辿り視線を下げてアザミを追いかける中、アキだけは常に前を見ていた。

アキには分かっていた。理由までは分からない。理屈ではなく感覚で分かっている。説明しろと言われても答えることは出来ない。不確かで曖昧なのは間違いない。しかし、アキは確信していた。(アザミ)はそこにいると。

 

「早く」

 

それが気配を読んでいると教えることの出来る者はこの場にはいない。

アキ自身よく分かっていないのだから、鬼灯の質問に答えられるはずがなかった。そもそも答えるつもりもない。

 

「早く」

 

淡々とした催促を受け、鬼灯がよろよろと立ち上がる。

剣聖の才能を受け継いだ子供。己など比べようもない才能。その片鱗に触れた。それに嫉妬や羨望、感慨などを抱いている暇はない。

 

とにかく今はアザミを追う。それだけを考えて、また走り出す。



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第52話

――――こりゃ撒けないな。

 

背後に捉える三つの気配。そのあまりのしつこさに辟易とし、溜息を吐きつつアザミは結論付ける。

それは自分の行いが間違いであると認めることに相違ない。(あやま)ちを過ちだと認めるには多少の胆力と僅かな勇気が必要だったが、よくあることだと自分を慰める。

さて、何が過ちだったろうかと失敗に終わった策と共に振り返ってみる。

 

人通りの多い大通りを避け、このような入り組んだ路地裏に逃げ込んだのは様々な理由があるが、一番期待したのは追っ手を躱すことである。

物陰に潜むなりして身を隠せば、アキ達の背後を取るのは容易だと考えた。あとは煮るなり焼くなり自由自在。不意を衝いて一人片づければそれで終わり。恐らくは最後尾にいるであろうおっさんになるかな、と皮算用などしていたが、結果としては安直な発想で終わってしまった。

しかし、気配を読めると言うアドバンテージを考えれば悪くない策だったはずである。

 

アキに受けた傷もすでに血は止まっており、それを利用して血痕を偽装し、追っ手の目を欺く小細工まで講じた。

それに引っかかることなく、あまつさえ悩む素振りすらなく真っ直ぐに追ってくるのだから、どうやら自分と同じように気配が読めるようだと思い至った。思えば、いつかアキに選択肢を与えた時、アキは宵闇の中にいながら、気配を消したアザミ(じぶん)の存在に気が付いていた。今の今まで気に留めることなく忘れていたのは、アキの実力を把握し、取るに足らぬと判断していたからに他ならない。その判断自体が間違っているなどとは思わないが、慢心が油断を生み今の状況に至らせた。

 

自嘲せざるを得ない。苦笑が浮かぶ。

最初からこの鬼ごっこに意味などなかった。撒くことは出来ず、不意打ちも難しく、三人は固まって行動している。そしてこの狭い道は戦うのに適しているとは言い難い。

 

やることなすこと裏目に出ている気がした。こんなことなら最初から真っ直ぐ屋敷に戻っておけばよかった。

今更嘆いても仕方ないことではある。後悔が先に立つはずもないが、あれやこれやと考えるのは止められない。

やっぱりジンクスか。頭で考えるより動けと言うことか。

 

仕方ねえな、ともう一度嘆息して気持ちを切り替える。

あの三人を連れて屋敷に戻るのは気が進まない。特段理由などない。気分の問題だ。だが今となっては他に手立てもない。

仲間と合流させることになるが、それはこちらとて同じ。別に向こうばかりに利することではない。むしろ自分の方が有利になっておかしくはない。

 

さてさて。吉と出るか凶と出るか。あるいは鬼が出るか蛇が出るか。もしや化け物が出ると言うこともあるかもしれない。

 

アザミは再び走り出す。

まさか本当に化け物は出てこないよな、と自分の想像に不安を覚えながら。

 

 

 

 

 

アザミが大通りに出たのにわずかに遅れ、追っていた三人もまた大通りに出た。

その際、闇から光に出たように感じたのは、何も路地裏の薄暗さだけが理由ではなかった。いつどこから襲撃を受けるか分からないと言う状況は想像以上に精神を摩耗させる。正直な所助かったと言うのが鬼灯(ほおずき)とゲンの本音だった。

 

しかし、それは同時にアザミが屋敷に戻ることを選んだのを意味する。

となれば仲間と合流されるのは必至。その前にもう一度叩いておきたいところだったが、三人足並みを揃えてと言うことを踏まえると中々そうもいかない。

 

このままでは追いつく前に合流される公算が高い。

仕方がないと割り切るより他にないが、悔しさは募る。

 

人の気配がまばらな大通りを進む内、三人の耳に喧騒が届き始めた。

それは何も知らない者からすれば祭りのように聞こえたかもしれない。だが、実際は和達の屋敷に攻めかかる自警団と、頑強に抵抗する護衛達の抗争の音だった。

 

人の怒声や断末魔と思しき叫び声。金属がぶつかり合う音に何かが壊れる音。

派手にやっている。その音のけたたましさだけ互いに必死なのだ。命など惜しまず戦っている。

自警団の一員として、誇らしさと一抹の不安が鬼灯の胸を貫いた。意味のないことだと言ったカオリの言葉が脳裏によぎる。

 

その音を辿りながら角を曲がれば、ついに屋敷が目に映る。

遠目から見ても大勢が戦っているのが分かる。横たわる者もまた大勢いた。倒れているのは自警団員の方が多いように思える。残念だがその大半は死んでいるだろう。生きていたとしても、五体満足である者がどれほどいるだろうか。

 

鬼灯たちの少し前を走っていたアザミが、それら血に塗れた抗争を目の前にして、おもむろに大剣を天高く担ぎ上げる。

何をする気かと三人が訝しむのも束の間、走ってきた勢いを乗せ、渾身の力で大剣を投げ放った。

 

くるくると回転しながら弧を描き空を舞う巨剣は、その質量に見合わぬ速度と飛距離を行く。先には戦っている最中の自警団員がいた。

屋敷に攻め込む形である。背後から来たアザミには背を向けていて気付かない。対して、迎え撃つ護衛は気が付いた。普通ならありえぬものが飛んでくる。それも異常な速度で。

 

今の今まで繰り広げていた戦いなど投げ捨てる勢いで護衛は逃げ出した。

満面に恐怖を滲ませ、必死な様子で逃げ出す護衛に相対していた団員は戸惑うばかり。その耳に剣が風を切る音が届き、振り向いた所でようやく迫る巨剣に気が付いた。

 

完全に虚を突かれた団員は呆気にとられる。自然、その身体は逃げるよりも盾で防ごうと動いた。それはあるいは大した反射神経だと称賛される行いだったかもしれないが、この場合はそれが生死を決めた。

盾に意味などなく、圧倒的な質量を誇る大剣は嘲笑うように打ち砕き、団員の体は爆ぜるようにバラバラになった。

 

大剣が地を叩いた衝撃はその場の全員に届いた。

何事かとそちらを向けば人の身体がバラバラになっている。いくら戦場とは言えありえない死に方である。

刹那、敵味方関係なく釘付けになり、全ての動きが止まった。

 

時すらも止まったかのような静けさの中、唯一鬼灯が動く。得物を手放し無防備になったアザミを前にして、連携などと言う考えは雲散していた。

千載一遇の好機。必ず仕留めると確固たる決意を槍に込め、アザミの背中に突き立てに行く。

 

そのあまりに無防備な背中。しかも、渾身の力で大剣を投げ放った直後で立ち止まってすらいる。

対して鬼灯の勢いは凄まじい。全速力で駆けていく。

 

必中だと思った。殺せると思った。これまでのアザミの動きは全て鬼灯の目に焼き付いている。躱せるはずがない。

よしんばこの一突きを躱したとして、無防備であることに変わらない。後ろにはアキも控えているのだ。続く連撃で必ず殺せる。

戦場の只中で武器を手放した、無謀にも程がある行い。愚行と断言できる。それが命すら手放すことになるのだと、鬼灯は当然のごとく思う。

 

その一突きに持てる全てをつぎ込んだ。あまりに集中しすぎたためか、鬼灯の中で時の進む速度が緩やかになった。

じれったくなるほど緩慢な世界で、鬼灯はアザミの背中を注視している。

アザミの動き、指一本に至るまで警戒は怠らず、走り出そうとする予兆を捉えた。させじと鬼灯は力を込める。

届くと言う確信。それを裏切り、予想を遥か越え、どんどんと遠ざかるアザミの背中を見せつけられる。

このまま振っても槍は届かないと言う確信に至るまで間もなく、それとほぼ同時に一つの思考に辿りつく。

 

――――重りを身に着けていたのと同じか。

 

瞬時の思考でそれに思い至ったのは、鬼灯の中で体感速度が遅くなっていたおかげだった。

考えるまでもなく当たり前の話である。アザミの巨剣は、人が振り回すことの出来る重さを遥かに超えた重量がある。振り回すどころか、常人では担ぐことすら難しいだろう。

そんなものを持っているのだから、体の動きが制限されるのは当然のことだ。むしろそんなものを背負っておきながら、アキとほとんど変わらぬ速度で走れていたのが異常だった。

 

今や、決して槍の届かない所に行ってしまったアザミの背中を見ながら、鬼灯は無力感を噛みしめる。

穂先が空を切ったのにほとんど間を開けず、アザミは大剣の元に辿り着いていた。恐ろしいほどの脚力だった。この世界でそれに対抗できる者はいないだろう。そう断言できるほどに。

 

地面に突き刺さっていた剣を引き抜き、アザミは周囲を見回す。

自警団が一塊になって呆然と立ち尽くしている場所で視線を止めた。そのまま大剣を掲げる姿は、直前に人を一人爆ぜさせた時と全く同じ。見る者には恐怖しか浮かばない。一度放たれれば、最早止めることは不可能である。

 

「そいつを止めろっ!!」

 

ゲンの叫びの後、誰かが行動を起こす暇は与えられなかった。

投げられた巨剣は人に向かって飛んでいく。弧を描くことすらなく、一直線に最短距離を向かっていく。

 

それを回避するにはすぐさま行動に移るより術はない。呆然とし、恐怖にすくんだ者はバラバラになった。

土煙に血の赤い霧が混じり、その者たちの末路を一旦は覆い隠す。ほどなく、どこからともなく落ちて来た人の上半身に悲鳴が上がった。

 

その間にも、アザミは縦横無尽に駆け回る。

その怪力と巨剣を前に、誰もがなす術なくやられていく。

そもそも、わざわざ剣を投げる必要もなかった。ただ横に振るだけで盾が割れ剣が砕ける。投げたのは見せつける意味合いが強い。あの一投はこの場の全てに恐怖を植え付けた。効果的な示威行動であった。

 

優勢だった自警団は一転劣勢になった。どころか、総崩れとなり半狂乱に陥った。

立て直そうと指揮を執ろうとした者から殺された。アザミはこの場で勝負を決しようとしている。

 

ついには逃げ出す者が出始める。

一度背中を見せた者を、アザミが追うことはなかった。すぐ目の前、斬りかかる直前に背を向けた者ですら、攻撃を中断した。逃げるなら討たないと行動で示すことで、戦いの早期終結を目論んだ。

 

あともう一歩でそうなるだろう。予感に微笑を浮かべていたアザミの元に、小さな影が飛び込んでくる。

 

「お前の相手は――――」

 

吠えながら斬りかかって来る小さな体躯。あまりの小ささに一瞬獣と見間違え、アザミは苦笑で迎えた。

 

「私っ!」

 

「そんな約束したっけか」

 

今にも噛み付いてこんばかりのアキにアザミが軽口を放てば、面白いほど逆上して犬歯をむき出しにした。

たちどころに猛攻が始まり、アザミは受け、隙があれば反撃した。剣戟が繰り広げられる。

 

ほんの一瞬、二人の実力は伯仲したように見えたが、膂力に勝るアザミが有利であることに変わりなく、何合か打ち合っただけで瞬く間にアキは劣勢になった。それを補うために鬼灯がやってきて、当然のように矢も飛んでくる。

 

矢と槍を同時に捌くのは厳しい。避けるしかない。

後方に跳びながらアザミはちぇっと舌打ちする。あと少しでアキを気絶させることが出来た。

 

「まったく面倒くさいなあ……」

 

正面に三人を見据えながら、心の底から思った。

どっか行ってくれないかなあと叶うはずのないことを願う。それを言葉にするほどの余裕がアザミにはあった。

 

「……みんな逃げてるし、お前も逃げていいんだぞ。追わないから」

 

「お前を倒す」

 

アキの答えは単純明快である。ただ、話が通じているかは至極怪しい。

 

「聞いてるか? お前に言ってるんだけど」

 

「倒す」

 

「……少しは聞いてくれない? そこまで馬鹿じゃないだろ?」

 

「は?」

 

アキは肝心な内容には反応せず、罵倒にのみ過敏に反応した。

話が通じないことを察して頭痛を覚えたアザミが反射的に頭を抑えれば、それを隙と見たアキが吶喊(とっかん)する。

 

気付けば自警団も体勢を立て直していた。逃げ出したはずの者たちも大半は戦線に復帰し始めている。一度完全に挫けたはずの士気が、目を離した僅かな隙に復活しているのは理解が難しい。と言うか、ありえない。

頬がひきつるのを自覚した。最早気狂いの域である。一体何が彼らを突き動かしているのかと、アザミは背筋を震わせる。

 

大剣を盾としアキの斬撃をいなすアザミは、周囲の動きを観察しながらどうするべきか思案する。

このままアキを相手取る必要はさして感じない。鬼灯など恐るるに足らないし、矢は面倒だが環境が変わり対処は容易くなった。折角仲間がたくさんいるのだ。これを利用しない手などない。

 

「誰か! そこの弓持ってるおっさん何とかしろ!」

 

戦いの中心にいたアザミの声は周囲の人間に速やかに伝わった。

それで一気にゲンが注目を浴び、次いで刃を携えた護衛たちが殺到し始める。

この場にいる以上は男だろうと容赦されることはない。武器を構えているならなおさらである。

 

殺気立った護衛達の視線をその身に浴び、ゲンは恐怖に身がすくむ。

恐怖に抗い必死に弓矢を引き絞るが、一矢射る間にそれ以上の者たちが襲い掛かって来る。万事休すと歯を食いしばったゲンの前に、間一髪近くにいた団員が割って入った。

 

ゲンのすぐ目の前で戦いが始まった。剣戟と怒声が行き交うそれらを無視し、遠くのアザミを狙い定めるほどの胆力がゲンにはなかった。まずは近くの脅威を排除しようとするのは当たり前の行動である。

 

しかし、矢が来ないとなれば途端にアザミの行動に切れが増す。三人で拮抗していた戦いに二人で対処することを強いられ、結果、形勢は瞬く間に傾いた。

 

「ほいさ」

 

軽い声音と裏腹に、恐ろしいほどの腕力でアキが吹っ飛ばされる。そこからの追撃を阻止しようと、鬼灯が即座に間に入り牽制目的で槍を振るったが、攻め気のなさを見抜かれ、アザミにあっさりと柄を掴まれた。

 

「なっ!?」

 

「ま、こんだけ見慣れればな」

 

驚愕に目を剥く鬼灯を柄ごと引き寄せ、無防備なその額に自らの額を打ち付けた。その一回で気絶した鬼灯は身体から力が抜け槍を手放したが、念のためにともう一度その服を掴み寄せ、同じように額を打ち付ける。

 

ピクリとも動かなくなったことを確認し、鬼灯を放り捨てたアザミは、吹っ飛ばされた後、勢いを殺せぬままゴロゴロと転がり、ようやく立ち上がろうとしているアキを見据えた。

 

「さてと」

 

アザミは呟いた。やっとのことで一対一である。

ここまでが長かった。判断を(あやま)ち続けて時間がかかってしまった。

けれど、ここまで来たのならもうどうしようもないだろう。この戦いだけではなく、全体の形勢もアザミ(じぶん)の加勢でほぼ決しているように思う。ここから起死回生の手立てなどあろうはずもない。

そう思いながらアキを見ると、光の失っていない瞳で見返される。まだ諦めていないらしい。

 

油断は禁物。

そう自分に言い聞かせ、アザミはアキの元へと歩き始めた。



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第53話

アザミがゆっくりとアキの元に近づいてくる。

目に警戒心を宿しながら、油断なく距離を詰めている。

 

大剣を肩に担ぐその姿には異様な威圧感が感じられた。アザミがこの場に現れてから、その華奢にも見える細腕で、一体どれほど殺したことだろうか。

常人なら耐えきれずに逃げ、腕利きであっても後退(あとずさ)りせざるを得ないその威圧感を、アキは真っ向から受けて立つ。

 

「……口切った」

 

視線を前に向けたままぺっと唾を吐く。赤い滴が土を濡らした。口の中は血の味で満ちている。

 

絶望的な状況でありながら傍目には平然として見えるアキだったが、内心は穏やかではない。孤立無援である。そのぐらいは理解している。

 

あの怪力で頭突きを食らった鬼灯(ほおずき)の生死は定かではない。ピクリとも動かない所を見ると、死んだ可能性もある。

背後で戦っているゲンは目の前のことで手いっぱいだ。自警団の援護を受けつつどうにかこうにか戦っている状況。とてもじゃないがアキの援護までは手が回らない。

 

――――1人で立ち向かわなければならない。

 

突き付けられた現実を前に、刹那、あの夜の記憶が蘇る。アザミと初めて出会い、成す術なくやられたあの夜。

また戦えば、同じように負けるかもしれないと言う予感はずっとあった。それを否定できたのは、自信があったからだ。次は負けないと言う自信。一体何を根拠に抱けるのか、本人にすら分からないそれ。

 

初めての実戦に、初めて握る真剣。そしてどこから来るかもわからない自信。それらを胸に秘め、アキは力強く地を蹴った。

 

馬鹿正直に正面から突っ込むアキに対し、アザミは様子見を兼ねて大剣を盾のように構える。

その注意はアキだけではなく周囲の喧騒にも向けられている。いつどこで邪魔が入るか分からないと言う警戒。それが不用意な攻勢を控えさせていた。アキに付け入る隙があるとするならそれ以外にない。アキは歯を食いしばり般若の形相で剣を振りかぶる。

 

 

 

 

 

――――結局のところ、勝ち目など最初からなかった。

 

たった一人でどのようにアザミの守りを突き破るのか。明確なイメージを何一つ持てなかった時点で勝敗は決していた。

 

アキの斬撃はアザミの大剣で防がれた。より鋭く、より速く、持てる力の全てを用いて過去最高の斬撃をお見舞いしたところで、同じように防がれた。

 

何をしたところで防がれる。工夫を凝らし、知恵を絞り、様々な攻手を試した。そのいずれも有効打にすら程遠い。通用しない。地力の差がありすぎた。経験の差が天と地ほどにも隔たっている。

どう考えたところで、アキが一人でどうにかできる相手ではない。決して挫けず、諦めない心を持っていても、それで実力差が覆ることはない。

 

何度も地を蹴り、何度も攻めかかった。そして、その全てを防がれた。

だと言うのに、自分(アキ)の攻撃は容易く防がれると言うのに、アザミのたった一度の攻撃を防ぐことが出来ず、吹き飛ばされて土の上を転がる。

 

もしアザミに殺す気があったなら、とっくにアキは殺されていた。そうなっていないのは、最初から殺す気などなかったと言うことだ。

脅威ではない人間を殺す必要などどこにもない。アキの攻撃を受け止めた後、たまに反撃するだけでいい。そのたった一度の反撃で、アキは傷を負い疲弊する。同時に、心までもが少しずつ摩耗していった。

 

勝てない相手に何度も挑み、圧倒的な実力差で返り討ちになる。

それ自体は、母に対して何度も繰り返したことではある。だが母に負けるのと赤の他人に負けるのとではやはり違う。

あの夜、一度目の戦いで負けた時には勝利を誓った。今日、こうして戦うまでは二度と負けないと思っていた。次は勝てると根拠のない自信だけはあった。

子供特有の万能感、全能感。それは余すところなく粉々に砕かれた。結果、アキはまた地面に転がっている。

 

『何度転がされても立てばいい』

 

地面に突っ伏して、辛酸を舐めるアキの脳裏にその言葉がよぎる。

誰の言葉だったか。母だろうか。聞く分では恐ろしく容易に聞こえる。アキもそうするつもりでいた。何度でも立ってやるつもりだった。立ち続ければいずれは勝てる。負けることなどないとそう思っていた。

 

「うぅ……」

 

それなのに、今、立てずにいる自分。

腕に力が入らず、身体の節々に鈍い痛みが走っている自分。

 

「うぅっ……!」

 

歯を食いしばって悔しさを噛みしめて、立て立て、と命じている自分。

動かない身体に心が焦る。焦っても焦っても身体は動かない。

 

諦観が心の隅にあった。

手を伸ばせば届くところにあった。目を逸らして見ないようにしても、視界に入ってしまう。そんなところに。

 

気付けば、アザミがすぐ近くまで来ている。

無防備なアキの上に影が覆い被さる。手を伸ばせば届くどころではない。命を握られた距離。それを察して、アキの心臓が早鐘を打ち始める。

 

「まだ、やるのか?」

 

今までと打って変わり、声に感情が感じられない。その無感情が冷酷さを醸し出している。

周囲の喧騒が聞こえなくなり、代わりに自分の鼓動ばかりが頭に響いた。

 

「死ぬか、生きるか……どっちだ?」

 

それは、紛うことなき最後通牒だった。

答え次第で殺されるだろう。死ぬか生きるか、その瀬戸際でアキは思う。

――――死ぬのは嫌だ。

 

そんなことを考えておきながら、その心の声に従うことを躊躇する。そうすれば最後、ここまでの苦労がふいになる。それは同時に、兄の生死に直結する。

 

兄と自分。どちらをとるか。

そんなことは考えたこともない。上手くいくと思っていた。望めば全て思い通りになる。そんなのは子供の思い込みに過ぎなかった。

 

「ぁ……」

 

乾いた喉が小さな声をあげる。

答えを出さなければならないが、何も言うことが出来ない。

 

暫しの間が空いて、アキが何も言えないでいる時間が過ぎ、アザミが溜息を吐いた。

 

大剣がアキの顔を掠めるように突き立てられる。

黒々とした刀身に乾いた血がこびり付いている。自分の顔が歪んだ形で反射して、生臭い匂いが鼻につく。

 

「どっちだ?」

 

二度目の問いは力強さが増していた。

三度目はないぞ、といくら察しが悪くてもわかるように強調されている。

硬直して指一本動けないでいるアキにもそれは伝わった。ごくりと唾を飲み言葉を探す。

 

「わたし、は――――」

 

弱弱しい声がアキの口から零れ出した。

今にも泣いてしまいそうな声。どう考えても、戦場に似つかわしくない子供の声。怒声や断末魔の木霊するこの場所で、そんなものを聞いてしまったアザミは良心の呵責を覚えずにはいられない。

 

今のアキは見るからにボロボロだ。誰あろうアザミ自身が心も身体も入念に削り取った。あの夜と同じ轍を踏まぬよう、心を鬼にして戦った。

さすがにこれ以上向かっては来ないだろうと言う確信と、子供を傷つけたことへの申し訳なさ。

二つの感情がアザミの心を満たし、周囲への警戒を緩めてしまう。その間隙を突くように、一本の矢がアザミの元に飛来した。

 

「……ちっ」

 

不意を突かれたことと油断した自分に舌打ちをし、アザミは身をかがめて矢を躱す。飛んできた方向を見れば、そこには二矢目をつがえるゲンがいた。

 

「小娘!」

 

ゲンはアキの窮地を目の前にして、自らの危険を顧みず、未だ決着のついていない直近の戦いを無視して援護に回った。

そうすると当然そちらからの圧力が強まることになるが、一か八かのやけっぱちの心境でアキの援護に専念する覚悟だった。

 

「逃げろ小娘!」

 

叫びながら二矢目を放つ。

風を切りながら突き進んだその矢は、思いもよらずアザミの頬を掠めた。

 

そのことに驚愕したのは、掠めた本人ではなく射ったゲンである。

躱そうと思えばいくらでも躱せたはずの矢を、アザミは躱す素振りすら見せなかった。一体何が目的かと、ゲンは束の間アザミを注視する。

 

ゲンがアザミを見つめるのと同じように、アザミもまたゲンを見つめていたが、暗い色を湛えるその目には殺意と警告が宿っている。これ以上向かって来るなら殺すと、その目は言葉より雄弁に語っていた。

 

ゲンは怖気づいて息を呑む。

逃げ出しそうになる自らに喝を入れ、震える足で地を踏みしめて三矢目を抜く。それが最後の一矢だった。

 

「立て! 逃げろ小娘!」

 

同じことを二度言った。宣言だった。殺せるものなら殺してみろと言う挑戦状だ。

 

男のくせに戦場にいるあの男(ゲン)は、自分(アザミ)に矛を向けている。守る盾もないこの状況では、ほぼ確実に殺されると分かっているだろうに。

 

「……仕方ない、か」

 

その覚悟を見て、アザミは呟いた。

ふっと浅く息を吐き、その息の根を止めようと、大剣を手に取らないままで駆け出す。

 

まさかアザミが丸腰のまま迫って来るとは夢にも思わなかったゲンは、瞬きの間にすぐ目の前まで接近したアザミに驚愕し、走馬灯と共に己の死期を悟る。

 

そんな状況に追い詰められながらも、早々矢を放つことはしなかった。最後の一矢はギリギリまで狙い定めた。

すでに互いの息遣いすら感じられる距離。この距離ですら、まさか命中するとは僅か足りとて期待も出来ず、ゲンの行動は死ぬ前の悪あがきに等しかった。

 

ただ、アキが逃げるまでの時間稼ぎになればそれでよかった。それにすら足りないことは百も承知だったが、ゲンに出来ることはもうこれしか残っていなかった。

 

最後の一矢はアザミの額へと軌道を向けた。指を離したが最後は祈るのみ。天に祈る。どうか当たってくれ、と。

 

放たれた直後、アザミは躱す素振りを見せなかった。

躱す気なんて最初からない。飛来する矢を、まさか素手で掴むとは、この場の誰もが思いもしなかっただろう。

 

驚愕と恐れと後悔と、様々な感情を浮かべるゲンのすぐ目の前で、アザミが呟く。

 

「じゃあな、おっさん。もう二度と来るなよ」

 

ゲンの腹部に拳が突き刺さる。

身体をくの字に曲げ、かはっと息を吐く。そのまま殴り飛ばされて、何回転かした後、ゲンはピクリとも動かなくなった。

 

一連の攻防は、当事者以外から見れば一瞬の出来事だった。

事を済ませたアザミがふうと息を吐く。苦い顔をしている。男を殴ったと言うのが、アザミを一層後味の悪い気分にさせている。

 

その様子をアキは見ていた。苦々しい顔のアザミと、殴り飛ばされて動かなくなったゲンを。

相も変わらず倒れたままで、ゲンの作った僅かばかりの時間は活かされなかった。

 

――――……死んだ?

 

心の中で、疑問とも確認ともつかないことを思う。

 

人は死ぬとき、ああやって死ぬのだろうか。

自分もこれから、ああいう風に死ぬのだろうか。

あまりにあっけないあの死にざま。誰に惜しまれることもなく、誰に見送られるでもなく、死と言うものは突然訪れる。理不尽で、避けようがない。

 

目の当たりにした現実に、先ほどまであれほど荒んでいたアキの心は凪いだように静かになった。

 

死ぬ。死ぬ。死ぬ。

 

同じ言葉を三度繰り返す。

 

一つはゲンに。一つは自分に。最後の一つは(レン)に対して。

 

自分がここで死んだあと、兄もああいう風に死ぬのだろうか。

……ああいう風に一度死んだのだろうか。

 

アキはレンがどういう風に死んだのか知らない。先代の剣聖と戦って死んだことは知っている。けれども、実際に見たのは冷たくなった兄だけだ。戦っている最中も、戦った後のことも全く知らない。

これから自分も同じようになる。この戦いをレンが知ることはないし、自分の死体にレンが(まみ)えることすらない。別々に死んでしまう。冷たい骸となって、土の下へと。

 

その事実がアキの心を突き動かす。

死にたくない。よしんば死ぬのだとしても、こんなところで死ぬなんて到底受け入れられない。

死ぬのなら、せめて兄と共にありたい。兄と共に逝きたい。そのために、どうしたらいいか。

 

自問自答する。助かりたい。生きたい。兄に会いたい。その一心で。

 

何のためにここに来た?

――――奪いに来た。

 

何を?

――――全てを。

 

殺されるぐらいなら、殺してやる。どんな手を使っても。どれだけ卑しく成り果てようとも。私は、そのためにここにいる。

 

胸の奥に大きな感情が渦巻く。

それは、家を出る直前からずっとそこにあったもの。行き場を失い、掲げた拳の下ろす先を失い、蓋をされていたもの。

無自覚の内に、一度至っていた領域に再び足を踏み入れる。

 

アキの頭の中で、何かが千切れる音がした。

 

世界は色をなくし、全ての音が遠くに聞こえる。

 

無意識に手の中にある物を握りしめる。

兄から譲り受けた刀。兄の分身、兄の片割れ、兄そのもの。

胸の奥に渦巻いていた感情が注がれて形を成す。

それは鞘から柄まで白で出来ていて、刀身は鈍色(にびいろ)――――そのはずだった。

 

「……は?」

 

困惑にアザミが声を上げる。

話の続きをしようと振り返ったところだった。いい加減もういいだろうと、子供なのだから、もうやめておけと説得するつもりだった。

アキはまだ子供だから。子供は宝だと知っていたから。

 

それなのに、振り向いた先で、ありえぬものを見た。思わず凝視してしまう。見間違いかと一瞬思う。日の光が反射してそう見えているだけかと思った。けれど違った。

 

それは、アキの手に握られている白い刀。

白かったのは鞘や柄で、刀身は普通だったはず。それが、今や白に染まっていた。根本から切っ先に至るまで、白く輝いている。

 

――――ありえない。

 

先ほどまでと明らかに違うその色。日の反射にしては輝きすぎている。染み一つない白い刀。

アザミの心の中に、久しく忘れていた言葉が蘇る。

 

――――色付きの刀

 

脳裏に蘇るのは藤色の刀。見る者すべてを惑わし、魅了する。操れぬ者などいないあの刀。

あの刀は、今どこに……。

 

ありえないと否定する自分(アザミ)と、可能性を言及する自分(アザミ)

どちらも現実逃避に終始している。今考えるべきはそれではない。一拍置いて、我に返った彼女が咄嗟にとった行動は、目を瞑ることだった。見たら終わりと言う認識が彼女にそうさせた。白と藤色の違いなど、その瞬間の彼女にとっては些細なことでしかなかった。

 

もちろん、それが致命的な隙を生むことは分かっていた。けれどそうしなければならなかった。あの刀の恐ろしさは骨の髄、魂にまで刻まれている。完全に虚を突かれたこの状況で、他の行動を選択する余地はない。

 

アザミが目を瞑ったことで隙が生まれた。すかさずアキが吶喊(とっかん)する。それは風のような速度で、今までより一段と速い。

 

その速度をアザミは気配で察知した。残念ながら、攻撃を回避する余裕はどこにもなく、腹に刀が突き刺さるのを激痛と言う形で身を持って知ることになる。

 

大剣は手放したままである。弓矢の男を倒すのに速度を優先したためだ。アザミはまずそのことを後悔する。

下腹に突き刺さった白い刀が、柄に達するまで深々と突き刺さっているのが感触で分かった。それを幸運だと思う。おかげで刀身を見なくてすむ。

 

アザミはアキの腕を掴み、決して引き抜かれないようにした。

今になってようやく冷静さを取り戻していた。目など瞑らなければ良かったと後悔する。

そもそも、これがあの刀と同じ性質のものなら、わずかでも見た瞬間に終わっている。一目でも、一拍でも見てしまったのなら、それ以後目を瞑る意味などない。

 

その判断が出来なかったのは恐怖があったからだ。恐怖が理性を凌駕した。どれだけの年月が過ぎようと決して忘れることの出来ない記憶がある。この先、何度生まれ直したとしても忘れることはないだろう。

 

「いってえな……」

 

痛みに顔をしかめ、天を仰いで呟いた。刀がどこに刺さっているのか、どれほどの傷なのか。事態を把握し、現状を認識して先のことを考える。

 

「……ころす、か」

 

ぼんやりと呟かれた言葉だった。しかし次の瞬間にはどことなく漫然としていた雰囲気が一変する。

 

「……殺す」

 

意思は明確となり、言葉は強固となった。子供だからなんて甘っちょろいことを言っている場合ではない。この子供はもはや化け物へと成り果てた。化け物は殺すのが礼儀であろう。

 

「殺すっ!!」

 

殺さなければならない。自分のため。他人のため。国のため。何よりも、アキ自身のため。

それは人が持つべきものではない。何も良いことなどない。不幸になるだけだ。皆が不幸になる。化け物に成り果てた人間は殺せる内に殺すべきだ。でないと殺せなくなる。それほど不幸なことはない。

 

「アキぃっ!!」

 

アザミは拳を握りしめた。

本気の本気で殺しにかかる。傷は深い。この身体は頑丈だが限度はある。もうじきこの命は終わる。その前に、後顧の憂いを晴らさねば。次に備える責務が自分にはある。

 

残っていた力の全てを、化け物の息の根を止めるために費やした。

振りかぶった拳はアキの頬に吸い込まれていく。

今までにないほどの渾身の力が込められた拳は、ぺちんと情けない音を立ててアキの頬を打つ。まるで子供が平手を打ったような音に、アザミは目を見開いた。

 

傷口が熱い。血と共に目に見えない何かが抜けていっている。

身体から力が抜けて膝をつく。何が抜けていっているのか、アザミにはそれを考える時間も残されていない。最早どうしようもない。刺された瞬間に全ては終わっていた。

 

すでに痛みはなく、感じるのは冷たさと恐怖ばかり。

走馬灯を見るはずの瞼の裏には暗闇ばかりが広がっていて、もうそこには何も残っていない。

全て奪われた。最後にそのことを察したのは、幸運かあるいは不運か。

 

何一つ残すことなく、アザミの意識は闇の中に消えて行った。



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第54話

瞳から光が失われるのに合わせ、アザミの身体から力が抜ける。アキがそうするまでもなく、ずるりと刀が抜けていった。

横に倒れたアザミに生気はない。青白い肌と変色した唇。薄く開かれた目は瞳孔が開き、何も捉えてはいない。

 

己の勝利を確認したアキは膝をついた。どっと疲労感が押し寄せている。絶え間なく頭痛に襲われ、立つこともままならない。

このまま仰向けに寝っ転がりたかった。身体が休息を求めている。目を閉じればそのまま闇の中に引き摺り込まれそうな気がする。

けれども立たなくてはならない。まだ戦いは終わっていない。まだまだ敵はたくさんいる。全て殺さなくては。

 

白の上に赤く装飾された刀を杖代わりに、無理やり立ち上がったアキは、敵を求めて周囲を見回した。

 

いつの間にか注目が集まっている。皆がアキを見ていた。死んだアザミと立ち上がったアキを見比べて沈黙が流れている。

アキは朦朧とする意識でそれを見返す。とりあえずは手近な奴から殺そうと一歩踏み出せば、後退りされる。

 

遠ざかられるのは面倒だ。追いかける手間が増える。

アキは舌打ちし、苛立ち任せに刀を振り払う。血が飛び散って点々と地面に跡を残す。ひっと息をのむ音がして、悲鳴が上がった。

 

突然上がった悲鳴にアキは困惑する。理由が分からなかった。呆気にとられ、逃げ去る背中を見送ってしまう。

端的に言えばアザミが死んだことへの悲鳴だ。化け物(アザミ)が死んだ。化け物(アキ)によって。そう言うことだった。

 

元よりアザミは支柱であった。烏合の衆に過ぎなかった護衛たちが、曲がりなりにも纏まっていたのはアザミの存在が大きい。

戦いが始まった後も、数に劣り劣勢だった和達をたった一人で優勢にまで持っていった。

護衛たちの中でアザミは恐れられていたし頼られてもいた。アザミがいれば大丈夫だと楽観視する者すらいた。

そのアザミが死んだのだ。誰しも命は惜しい。金で繋がっていただけの薄い関係に、これ以上の献身は望むべくもない。

 

護衛たちは瓦解し、敗走を始めた。

逃げていく護衛たちを見て、自警団は歓声を上げ勝利に吠えた。

長く苦しかった戦いがようやく終わった。自分たちの勝利で。

 

皆が勝利の美酒を噛みしめる中、アキは一人だけその場に倒れた。

どうしようもないほど頭が痛かった。目をつむれば、瞼の裏に走馬灯のよう記憶が流れていく。

引き摺り込まれる感覚があった。抵抗など出来ようはずもない。恐怖を感じる暇もなく、暗闇の中に落ちていった。

 

 

 

 

 

――――人を殺す夢を見た。

 

たくさんの人間を手にかける夢。

夢の中でアキは手始めに女を殺した。次に男を殺し、子供を殺し、老人を殺した。

家に火をつけ、家族もろとも焼き殺し、穴に突き落とし生き埋めにもした。拷問をしたし虐殺もした。何も知らない人間を、血が繋がっていると言う理由だけで、あるいは理由すらあやふやなままで、殺して、殺して、殺した。

 

人の業だった。人間と言うのはこんなにも醜い。欲深で汚れきっている。きっと、生まれた瞬間からそうなのだろう。生きるとは罪を背負うことなのかもしれない。だとするなら人は皆咎人だ。自分も例外ではない。

 

聞くに堪えない咎人の断末魔を聞いて、不意にアキは目を覚ます。

色の抜け落ちた景色の中で、見知った顔がアキを見下ろしていた。

 

「お、起きた……?」

 

「……」

 

「起きた! 起きたぞ! 起きた!」

 

すぐ真上で喚き散らかされ、アキはうるさいと顔をしかめる。

その顔はやけに嬉しそうで、やけに馴れ馴れしい。身体のあちこちをべたべたと触れてくるのが不快だった。

 

不快ではあるけれど、知っている顔な気がする。誰だっけと記憶を探った。早々思い出すことは出来ない。手がかりは記憶の奥深くに埋もれている。

 

「大丈夫か? 大丈夫だよな? 大丈夫って言え!」

 

「うるさい」

 

「大丈夫っぽい!」

 

いよいよ嫌気がさして上体を起こす。妙に顔が近いので乱暴に押しのけた。

顔を掴まれながら「無理すんな」とそいつは言っている。「うるさい」とアキは繰り返す。

 

頭痛が酷く倦怠感が抜けない。頭の中がグルグル回っている。気を抜いたら嘔吐しかねない。

アキは疲労感からくる溜息を吐いて周囲を見回した。すぐ近くに見上げるような塀がある。どこだここ、と一瞬思い、その形に見覚えがあって思い出した。これは和達の屋敷だ。

 

と言うことは、ここはアキ達がアザミや和達の護衛たちと戦っていた場所と言うことになる。

上を見上げれば、空は微かに色が変わっているだけで、時間はそう経っていないようだった。

 

何となしに塀を見ていると、すぐ隣に人の気配があることに気づいた。

視線を下げれば、ゲンと鬼灯(ほおずき)が寝かされている。二人とも胸が上下しているから生きているらしい。

 

「……生きてたか」

 

ぼそっと呟いたアキの言葉に、うるさい奴が反応する。その顔を見て唐突に思い出した。確か杏とか言う名前だったはず。

そう言えばこんな奴もいたなあ、とぼんやり思う。一人だけ腰を抜かせて怯えていたのをよく覚えている。

 

「姐さんとおっさんは生きてるよ……よかった……」

 

杏が涙ぐみながら答えた。

この二人は生きているが、他に大勢が死んでしまった。それらは全て杏の顔馴染みで、その悲しみが押し寄せている。

 

寝かされている二人の近くには矢筒が四つ置いてあり、杏はゲンの言いつけ通り持てるだけ持って来ていた。本当に持てる限界まで抱えたせいで、移動に遅れが生じて戦いに間に合わなかったのだが、結果的にゲンが無事であるから、致し方ないで済ますことが出来る。

 

この二人が生きていようが死んでいようがどうでもよかったアキは、「あっそ」と素っ気なく相槌を打つ。

次いで、土の固い感触を確かめ憎々しく杏を睨んだ。

 

「……え、なに?」

 

「なんで、私はまだこんなところに寝かされてる?」

 

さっさと自警団の屋敷なりに運べと、未だに痛む頭に顔をしかめながら文句を言う。

当然と言えば当然である。この戦いにおいて、アキはアザミを討ち取った功労者なのだから、相応の扱いを求めるのは何もおかしいことではない。自力で動けない奴をいつまでも地べたに寝かせておくな、と言うのは至極当然の指摘である。

 

「悪い……早く運ぼうと思ったんだけど、みんなあっちに行っちまったから」

 

「あっち?」

 

杏の視線を追いかけて、首を巡らす。

そこには和達の屋敷がある。固く閉じられていた門は無残に破壊され、耳を澄ますまでもなく人の怒号が聞こえて来る。

 

「今、和達の当主を探してる」

 

勝利に吠えていたあの瞬間から、本当にあまり時間は過ぎていなかったらしい。

アキは沈みかけている太陽に目を向けて屋敷に視線を戻す。

丁度、和達の当主が引き摺り出されたところだった。

 

「いやあぁぁぁっ!!」

 

甲高い叫び声に目を瞑る。うるさいと思った。これだけ離れていてこの声量は流石と言うべきか。相変わらずうるさい。

 

やれやれと言う心境でアキは当主を見た。

殴られたのだろう。髪は乱れ、口の端から血を流している。頬には青あざがあった。

 

何十人と言う自警団員に力づくで外に出された当主は、広い場所に出た途端暴行を受けている。

溜まりに溜まった恨みを晴らすように、団員たちは思い思いに殴る蹴るなどの暴行を加えていた。

 

殴打されて血しぶきが飛ぶ。折れた歯が宙を舞う。ぶちぶちと髪を引っ張られて激痛に咽び泣く。

 

私刑である。止める者はいなかった。その場の全員が囃し立てている。狂気が蔓延していた。

 

「助けてええぇぇぇ!!!」

 

当主は助けを求めて這いずった。

その無様な様子に団員たちは下卑た笑いを浮かべ、逃げられないよう足を踏み潰す。声にならない悲鳴が響き渡る。

 

アキは冷めた目でその様子を見ていた。何をやっているのかと半ば呆れていた。何の意味があってその人を痛ぶっているのか、まるで意味がわからない。

 

(つむぎ)(こずえ)! 逃げなさい! 逃げて、幸せになるのよぉっ!!」

 

暴行の最中、当主が不意に天に叫ぶ。

息も絶え絶えで喉を枯らしながら叫んだそれは、子供たちの名前だった。子は戦いが始まる直前に身内の元に逃がしている。

自らの死期を悟った当主は最後の力を振り絞り、この場にいない我が子たちの安否を案じ、幸福を叫んだ。

それを最後に当主は悲鳴を上げなくなる。時折苦悶に耐える声がし、殴打する音が掻き消してしまった。

 

誰がどう見てもやり過ぎだと思うその惨状を、自警団は喜々として行っていた。戦場の狂気が人を染めたのだろうか。

あまりの痛々しさにアキは視線を逸らした。逸らした先に真っ青に血の気の引いた顔の杏がいる。わなわなと震える口で何か呟いていた。

 

「な、なんで……」

 

「……」

 

「なんで……あんな……」

 

杏にとっても信じられない光景だった。

先輩や上司にあたる団員たちが、あんなことをしているのが信じられないと言う。しかし現にやっているのだから、現実を受け止める他はない。

 

アキは天を仰ぐ。

恐らく、当主は体中の骨が折れ、その何本かが内臓に突き刺さっている。血の泡ぶくを吐いて激痛に苛まれているだろう。運が良ければ気絶している。そうでなければもう目も当てられない。

 

アキにはなぜかそれが分かった。分かっていてなお、止めようとは思わなかった。

自分でも驚くほど無感情だった。どうでもいいと思った。早く家に帰りたいとそればかりを思い続けて、時が過ぎるのをただ待っていた。

 

 

 

 

 

和達当主の殺害後、自警団は速やかに和達の所有する蔵や食糧庫を襲撃し、そこに存在した全ての食糧を強奪した。

団員たちが意気揚々と帰還した頃には日はすっかり暮れていた。

数多くの犠牲を払いながらも生き残った団員たちは英雄と持て囃され、興奮冷めやらぬ様相で次なる獲物を探す。

無事な者は日が明け次第行動に移るつもりでいる。止める者はいない。仮に止められたとしても止まらないだろう。もはや統率などあってないようなものだった。

 

これほど大規模な抗争は自警団にとって初めてのことであり、昂った気持ちを持て余す者が大勢いた。団員たちはそれぞれの方法で夜を過ごすことになる。

 

アキは自警団の屋敷で空を見上げていた。縁側に片膝立てて座り、静かな時間を過ごしている。

傍らには刀がある。今は鞘に収められているそれも、アキがその気になれば刃が抜かれ、色までもが変わってしまう。

いつでも手に取れるように置いてあるのは、警戒していると言うわけではなく、手元に置いておかないと気が休まらないからだった。

 

あまりに静かなので時が止まったかと思うほどの静寂の中、アキは目を瞑り記憶に浸っていた。邪魔が入らないよう周囲の気配を探っていたが、この屋敷には今ほとんど人がいない。

 

揃ってどこかに行ってしまった。アキも誘われたが行かなかった。答えることすらしなかった。興味がなかった。投げかけられた言葉にも、投げかけてきたその人間自体にも。

 

屋敷に残っているのはほとんどが怪我人と病人。数としては怪我人の方が多い。病人も介護が必要なほどの重病人はいない。そんなものはとっくに死んでいる。

 

しかし歩き回る病人と言うのは中々厄介なもので、アキは近寄って来る病人の気配を感じて渋面を作った。

 

「こんばんは。月が綺麗ね、アキちゃん」

 

やって来たのはカオリだった。

その顔を見て、来てしまったかとアキは大きな溜息を吐く。記憶に浸るのは後回しだ。

 

「……」

 

「そんなに嫌そうな顔をしないで。少しお話しましょうよ」

 

仮にここで嫌だと言っても意味などないことをアキは知っている。

かと言って受け入れるのは生理的に不可能だった。気持ち悪くて気味が悪い。以前から抱いているこの気持ちも今や二倍になっている。到底受け入れ難い。

 

「……」

 

「……」

 

縁側に並んで座った二人の間に沈黙が流れる。

アキにとっては居心地の悪い空気だったが、カオリにとってはそうではない。逆にこの空気を楽しんでいる。ずっと続けばいいのにな、と思うほどに楽しんでいた。

 

カオリは思う存分にこの空気を堪能し、アキの嫌がる姿を噛みしめた後に口火を切る。まずは雑談から。どうでもいい話題から。

 

「みんな行ってしまったけど、アキちゃんは行かないの?」

 

「どこに」

 

「花街」

 

その単語を聞いた途端、頭痛が酷くなる。初めて聞く単語のはずだが、どこかで聞いたことがある気がして、「花街?」とおうむ返しに聞き返す。

 

どういう意味だったろうか。頭痛を感じながら記憶を掘り返してみるも、中々思い出すには至らず、それよりも前にカオリが口を開いた。

 

「もしかして、知らない? 花街」

 

なんだか小馬鹿にされている気がして、アキは顔をしかめる。

 

「花街って言うのは、お花屋さんがたくさんある場所のことだけど。知らないなら、まあ知らない方が良いかもしれないわね」

 

「……花屋?」

 

聞き覚えのある単語に反応する。

花街のことは一旦隅に置き記憶を探る。こちらの方は容易に思い出せた。確か、父上が昔花屋だったらしい。そういう話を聞いたことがある。

 

「花が売ってる?」

 

「そうね。たくさん売っているらしいわね。綺麗なお花が」

 

ふうんとアキは相槌を打つ。

花など普段野原に咲いている物で見慣れきっているが、それとはまた別なのだろうか。そう思うと少し興味が湧いた。

 

アキの興味が惹かれたことを察し、カオリは短く息を吐いた。

僅かな逡巡。好奇心と理性がせめぎ合い、打ち勝った理性が「今日のことだけど」と話題を変えさせる。

 

「アキちゃんは、どうだった?」

 

「なにが」

 

「怪我はない?」

 

「ない」

 

アキは間髪入れずに断言する。

もちろんそんなはずはなく、小さな傷なら数え切れぬほど負っており、それはカオリも知っている。知っている上で乗ってあげる。

 

「良かったわ」

 

「なにが」

 

「怪我がなくて」

 

「……」

 

嘘を真に受けられ、アキは何だか悪いことをした気分になる。ばつが悪くて視線をそらした。

 

「和達の当主様の最後は見たのよね」

 

「見た」

 

「かわいそうなことだわ。あんな死に方をするなんて」

 

カオリ自身は現場におらず、私刑なんて聞いてもいなかった。終わったあとに聞かされたわけだが、それにしたって白々しい言葉である。

当主の私刑は他ならぬ自警団がやったことで、カオリはその一員だ。それはお前が言っていい言葉なのかとアキは眉を顰める。

 

胡乱気なアキの視線を受け、カオリはにっこりと笑う。

 

「ええ。報いは受けなくてはね」

 

意味が分からなかったが、アキはそこを追及する気はなかった。勝手にしてろと言う気持ちしかない。

「それでね」とカオリが言葉を続ける。

 

「アキちゃんには出来るだけ早くここを発ってほしい。邪魔なの」

 

突然の辛辣な言葉に鼻白む。邪魔者扱いは心外だった。

お前たちが手も足も出なかったあの女を殺したのは、一体誰だと思っているのかとアキの心に怒りが湧き、次の瞬間には冷静になる。何かがアキの気持ちを鎮めた。

 

「あの男の人はまだ寝ているけど、死ぬほどの怪我ではないから、目が覚め次第出て行ってもらう。文句ぐらいなら聞くけど、決定が覆ることはない。ごめんなさいね」

 

「わかった」

 

考えるよりも先にアキの口は動いていた。

文句どころか怒鳴りたいぐらいの気持ちではあったが、なぜだかそれを言う気になれない。言っても無駄だと分かっていた。

 

「……」

 

「なに」

 

カオリにじっと見つめられ、アキが理由を問うた。カオリは首を振る。

 

「いえ……少し、アキちゃんが賢くなった気がして。……戦いは人を成長させるのね」

 

カオリにとって、アキのその反応は予想外だった。良い意味でも悪い意味でも子供なアキのことだから、間違いなく怒りを露わにすると思っていた。

 

いつの間にかアキは成長していた。しかしその理由は昼間の殺し合いである。

それを思うとどことなく寂しく、それでいて悲しかった。

 

アキはカオリの哀れみの籠った視線に嫌悪感を示し、「お前には関係ない」と素っ気なく言い返した。

「そうね」と同意してカオリは立ち上がる。

 

どうやら話は終わったらしい。要は早く出ていけと言いたかっただけだ。勝手なことだとアキは憤懣やるかたない思いに囚われて、やはりすぐに感情は落ち着く。どうでもいいやと投げやりな気持ちになった。それはそれとして聞かなくてはいけないことを思い出し、去ろうとしているカオリに尋ねた。

 

「食糧は?」

 

カオリが振り向き、笑顔を作る。

 

「もちろん、用意するわ」

 

「どれぐらい?」

 

「米俵半分」

 

アキは遠くを見やる。それはいつかどこかで聞いた言葉だった。

それ見たことかと言う声が心中に湧き、うるさいと抑え込む。ぎゅっと胸を抑えて尋ねた。

 

「それは、大盤振る舞いで?」

 

「ええ。大盤振る舞いで」

 

「……あっそ」

 

結局、あの戦いに何の意味があったのだろう。

アキは人を殺し、ゲンは怪我を負った。それだけの苦労と数日の時間を消費した結果、得られる食糧がそれだけだった。

この街に来た初日にアザミの誘いに乗っていれば、今頃はとっくに帰路についている。誰も傷つかず、誰も傷つけず、同じだけの食糧は手に入っていたはずだ。

 

文句を言おうかとアキは思い、言ったところで無駄だと言う心の声に口をつぐむ。和達に蓄えられていた食糧の総数と自警団員たちの数、並びに協力者たち。

それらに分配されることを考え、それでもなおこれ以上を欲するなら、更なる出血を覚悟しなければならない。しかし、アキにはそんなつもりは毛頭ない。

ならば話はこれで終わりである。アキは判断を誤った。無駄なことした。この数日に意味などなかった。

 

アキは溜息を吐く。

鈍い頭痛が続いている。アザミに勝ってからこっち、止むことのない頭痛だが、初めに比べれば弱くなっている。とはいえ、どうにも収まる気配がない。

 

落ち込んだアキを見て、カオリが興味深そうな顔をしている。好奇心がウズウズしている顔だ。またもや理性と好奇心がせめぎ合い、今度は好奇心が勝利した。

 

「一つ聞かせてほしいのだけど」

 

カオリは笑顔で口を開く。意地悪な笑顔。何も遠慮することはない。どうせもうじき死ぬのだから。

 

「アキちゃんはどうしてそんなに食糧が欲しかったの?」

 

「兄上が――――」

 

言いかけた言葉を咄嗟に飲み込む。

すっかり油断していた。カオリにレンのことを話してはならない。話したが最後、この女はレンの所に飛んでいくかもしれない。そんな危機感がアキの言葉を飲み込ませた。

 

カオリは笑みを深める。

アキの危機感はもちろんのこと、そもそもレンの身に何かあったことも察している。

しかし今更それを聞き出すことに意味はない。けれども言いたいことはある。大人としてではなく個人として、カオリはアキに言いたかった。

 

アキの隣に腰かけたカオリは、肩が触れるか触れないかの位置で囁くように話しかける。本当は抱き着くぐらいはしたかったが、あまり近づくと刀を抜かれそうだったから、ギリギリの位置を見極めた。

 

「ねえ、アキちゃん。お兄ちゃんのことは好き?」

 

何のことはない問かけだった。

カオリにとっては、アキの気持ちを探るための手始めに過ぎなかった。

 

しかし、アキはその単語に過敏に反応した。

思い出すのは村を発つ直前、「愛してる」と言われたこと。色々なことが薄くなった今でも、それだけは鮮明に覚えている。その時に抱いた気持ちがありありと蘇った。

 

アキは頬を赤く染め、気持ちは否応なく高揚する。

勝手に緩んでしまう口元を見られたくなくて手で口を覆う。

果てには、頬だけでなく耳や首筋まで赤く染まったアキを見て、カオリは微笑みを浮かべた。嫉妬や羨望の混じった薄暗い笑みだった。

 

「欲しいものがあるなら、力づくで手に入れなさい」

 

重い感情の籠った言葉がアキの心に突き刺さる。

まさしく今日、力づくで欲しいものを手に入れたばかりだった。邪魔する者は殺して手に入れた。それが苦労に見合ったとはお世辞にも言えないが、全ては兄のためだった。

 

「どんなものだろうと。どこの誰であろうと。じゃないと奪われてしまうから」

 

奪うと言う言葉に反応する。

目で刀を探す。太もものすぐ近くにあったそれは、奪うための道具だった。

 

「不思議なことにね。弱い人が一生懸命頑張って奪ったとしても、すぐに取り返される。そして罰せられる。でも、強い人は奪い放題なの。罰せられることはないし、取り返されることもない。だから、アキちゃんも強くなって奪っちゃえばいい。例え兄妹だとしても、誰も咎める人なんていないから」

 

カオリは囁く。

薄暗い感情を、間もなく死ぬことを免罪符に。

 

「私みたいに、ただ奪われるだけの人生は嫌でしょう?」

 

アキは身じろぎ一つせずに聞いていた。

カオリは何の反応も示さないアキに薄っすら微笑んでその場を去る。

 

カオリがいなくなった後、アキは一人考えていた。

奪うとはどういうことだろう? 兄を連れてどこかに逃げればいいのだろうか。誰も自分たちを知らない場所に、決して見つからない土地へと向けて。

 

二人っきりで新天地を目指す逃避行。その妄想は実に甘美で、かぐわしい香りを放っていた。

しかし、それ以上にアキの心を惹いて止まない妄想がある。自らの唇に指を這わせたアキは、恥ずかしさのあまり両膝を抱えて顔を埋める。そのままごろりと横に転がった。

 

「……口づけ」

 

その言葉をアキは誰かから教えてもらったことはない。けれど知っている。知るはずのないことを知っている。

身に覚えのない記憶がアキの中にある。アザミを殺した後から、アキの中には記憶があふれ出した。

普通なら混乱するだろう。他人の人生を追体験しているようなもので、自我を失ってもおかしくはない。実際、今もあやふやではある。

 

少なからず精神に異常をきたしている自覚はある。自分が自分でなくなる感覚がする。

けれどアキは慌てない。すでに受け入れている。自分が何者かなんて、彼女にとってはどうでもいいことだった。それよりも、この記憶から得られる知識の方が重要だった。

 

記憶の中の映像に浸り、自らのことのように恥ずかしがり、顔を真っ赤に染める。

夫婦とはそう言うことをするのかと唇に指を這わせ、子供ってそういう風に作るんだと、下腹部に手を置いた。

 

身悶えし、兄の名前を盛んに呼ぶ。

記憶の再生が終わった後、アキは仰向けに寝転がっており、全身汗だくで息を荒げている。

 

「ふふ、ふふふ……」

 

笑いが止まらない。欲しいものを手に入れる方法を知ってしまった。それも、こんなにも気持ちのいい方法を。

 

「あにうえ……」

 

子供特有の舌っ足らずな口調に女の痺れる様な甘ったるさが加わって、蠱惑的な声となっている。

 

「あにうえぇ……」

 

身体の疼きが止まらない。

これを治める方法を知っているけど、そんなことでこの身体は治まらないことも知っていた。

手に入れるしかない。欲して止まない。ずっと望んでいた。誰も教えてくれなかった。意地悪だと思う。みんな知っていたはずだ。弄んでいたのか。ずるい。ずるい。次は私が弄ぶ。許してあげない。満足するまで。

 

「いいですよね、兄上」

 

ここにいないその人に向けて。

 

「仕方ないですよね」

 

誰に向けるでもない言い訳を連ねて。

 

「兄上は私の物です」

 

宣言する。

 

「愛してます。兄上」

 

だって愛してるから。愛してると言ってくれたから。

だから奪う。邪魔する者は全て殺して奪いつくす。

 

そのために記憶に浸る。

学ぶことはたくさんある。全て学ぼう。きっと役に立つから。

その時を心待ちにして、アキは目を閉じる。




ひと区切り。
賛否両論ありましたが、おおよそ書きたいことが書けて満足です。
自警団の末路まで書けなかったのが心残りですが、まあその内明らかになるでしょう。

次話からは主人公レン君の視点に戻ります。アキちゃんが無事成長した裏でレン君の身に何があったのかを書いていきます。

それでは、久しぶりのQ&Aです。

Q.小説家になろうの方更新止まってるけど投稿しないの?
A.区切りのいい所まで書けたのでこれから投稿します

Q.アザミ(大剣)と先代剣聖どっちが強いの?
A.本気になったらたぶんアザミ(大剣)の方が強いと思います。
 全盛期なら先代剣聖の方が間違いなく強いです。元々居合の達人だったので、目に留まらない速度で三の太刀が飛んできます。近寄ろうが何しよう勝てません。ねじ伏せられます。


以上です。


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第55話

今話よりレン君の一人称に戻ります。
時系列も43話まで戻り、アキちゃんの裏でレン君が何をしていたのかを書いていきます。


夜も明けないうちに母上が発ち、明け方にゲンさんがアキを連れて発った。

二人を見送った後、布団の上で一人天井を見ていた。眠ろうと思って布団に転がっているのだが、一向に眠くない。目が冴えている。

心の中には不安が満ちていた。どうにも心配だ。方向性は違えど、母上とアキの両方が心配だ。睡魔が引っ込むぐらい心配している。

 

母上については、身の安全については全く心配していない。仮にも剣聖だ。心配する意味がない。

心配なのは目的について。飢饉が起きることがほぼ確実になり、それについて領主を説得するという話だったが、そもそも説得以前に上手く話が出来るかが心配だ。あの人は口下手だから、そのせいでアキとの仲も拗れている。出来ることなら、偉い人と会う前に何とかしてほしい。顔見知りらしいけど、親しき仲にも礼儀ありとも言う。この世界の偉い人がどういう人たちなのか分からないが、ふとしたことで処刑されないとも限らない。偏見だろうか。権力を持つ人にあまりいい印象がないのはなぜだろう。前世の影響だろうか。ともかく、良い人ならいいのだけど。

 

アキの方はもうあらゆる意味で心配だ。出来ることなら今からでも追いかけたい。追いかけて引き戻したい。

過保護と言われるかもしれないけど、何か嫌な予感がする。目の届かない所で何か仕出かすかもしれない。ゲンさんがいるから大丈夫だと思いたいが、思いきれない。最近のアキの動向を思い出すに、善悪の区別なく良からぬことをしそうな気がする。そもそもゲンさんとの仲が悪い。言うことを聞くか怪しい。反抗心から間違った判断を下しかねない。そうでなくても直情的だ。ちょっとしたことであらぬ方向に突っ走るかもしれない。

 

こうして色々考えてみると、心配する理由しかなかった。悪い要素しかない。特にアキは最悪だ。誰がどう見ても悪手だと思い至るだろう。思い至ったところで普通は考え直す。母上は考え直さなかった。

一度決めたことには頑固な人だ。何を言っても聞き入れなかった。自己評価の低いあの人のことだから、あんたの娘だぞと不安を煽れば止められただろうか。そんなことを息子が言うのもおかしな話だし、聞き入れてくれた可能性はやはり低いと思うけど。

 

「はぁ……」

 

溜息を吐く。

この身体が恨めしい。最低限歩けるぐらいだったなら俺も一緒に行っていた。

どうにかならないだろうかと拳を握ってみる。ズキリと腕から背中にかけて痛んだ。

どうしようもない。歯がゆい。死にたい。まだ、死ねない。

 

布団の上から景色を見る。外は晴れていた。雪はすっかり融けている。

この状況で今俺に出来ることと言えば神頼みぐらいか。てるてる坊主でも作って晴天でも祈ろうか。

 

てるてる坊主の材料を考え始めたところで我に返る。おかしなことを考えたと自嘲する。しかしそれ以外にすることがないと言うのは事実だった。だから真面目に考えた。バカなことを愚か者のように。

再び込み上げた自嘲を噛み潰す。寝ようと思った。寝て起きれば解決するわけではないが、睡眠不足が思考を鈍らせている可能性は十分にある。

 

目を閉じる。眠気は一向にやってこなかったが、頑張って目を閉じ続けていたらいつの間にか眠っていたらしい。

起きたのは人の気配がしたせい。気配を読むと言う特技だか技能だかも便利ではあるが、いつもいつも都合がいいわけではない。

実際、家の外の気配で起きてしまったわけだから、何でも思い通りに行くわけではない。敵意など感じなかったのに、身体は反応してしまった。

 

起き上がって窓を見る。

窓の外、死角の向こう側。見えない所にいる気配はまごついている。行くか行くまいか迷っているらしい。目に見えないものでも、気配一つ辿ればでそこまで分かる。極めればどこまで分かるのだろうか。実際の所、どこまで伸びるか何気に楽しみにしていたのだが、もうそれを知ることはないと思うと悲しくなる。

 

悲しみを振り払い、迎えに行こうと立ち上がる。激痛に備え歯を食いしばって立ったせいか、眩暈がして立ち眩みを起こした。転びかけ、体勢を整えようとしても身体は言うことを効かない。そのまま仰向けに倒れる。倒れた衝撃が痛みとなって全身に巡る。息が止まって目の前がチカチカする。

 

痛みが和らぐまでしばらく待った。激痛の余韻は遅々として引いてくれない。何度か深呼吸して無理やり落ち着かせる。

余計な行動は余計な痛みを感じさせる。立とうとしただけでこれだから、本当なら動かないのが一番なのだろうが、生きている内はそうも言っていられない。

 

どうにか落ち着いた頃を見計らって縁側へと赴く。

立つのは諦めて四つん這いで這って行った。窓ガラスに映った自分を見て間抜けな奴だと思う。格好と言い表情と言い、間抜けと言うか滑稽だった。苦笑が漏れれば窓ガラスに映る顔も歪む。やっぱり滑稽だ。

 

間抜けの顔を拝むついでによくよく自分の髪を見る。寝癖がついていないか気になった。

人に会う前に身だしなみを気にする癖がある。身だしなみなど気にする余裕もなければそういう身分でもないのに、なぜか染みついている。

三つ子の魂百までと言うからそう言うことだろう。俺と言う人間を構成する一部になっている。いらないとも思うが過去があって今があることを考えるに、どんな些細なことでも、人格を構成するのに意外な役目を持っているのかもしれない。

 

このあたり、母上とアキはまるで気にしていない。俺と父上は気にしている。見事に男女で別れているが、この場合は性差ではなく単純な性格の問題だろう。

ずぼらと言うのは少し違って、花より団子みたいな感じで、身だしなみの優先度が低いのが我が家の女性陣だ。まあ、アキの寝癖は微笑ましくて好きではある。まれに頭が爆発しているときは整えてやったりもする。しかし、母上に寝癖があるのはちょっとどうかと思う。威厳がなくなったらどうするつもりなのか。

 

寝癖がないことを確認して窓を開けた。

音に反応して、見えない気配がびくりと震える。

「おいで」と声をかけると、恐る恐るエンジュちゃんが顔を出す。

 

微笑みかけると安心したのか小走りに駆け寄って来た。

近寄ってきた頭を撫で、「いらっしゃい」と出迎える。エンジュちゃんは俯いてされるがままになっていた。

 

可愛い反応に癒される。

不甲斐なさや不安、諦めなど色々なものが浄化される。

 

子供はいいなと思う。純粋で可愛い。

もうちょっと大きくなると、色々なことを知ってしまってすっかり汚れる。

最近のアキなどがそうだ。俺の介護を通じてちょっと汚れかけている。はっきりした原因はよくわからないのだが、性癖が刺激されている可能性がある。となれば、早晩性欲に目覚めるだろう。

 

それは別に悪いことではないのだが、自分のことを棚に上げて悪いなどと言う気はないけれど、欲望と言うのは人が長いこと向き合って未だに持て余している恐ろしい奴だから、中々扱いに困る。

特にこの世界は俺の知る世界ではないから、欲望の取り扱いには注意したい。特に性欲について。

人間の三大欲求の一つだ。個人的に、最も恐ろしいと思っている。

いつか水浴びの時の母上の言葉を思い返すに、この世界では女の方が性欲が強いのではないかと思うが確証はない。デリケートな問題だから、積極的に確かめるわけにもいかない。

 

撫でていた手を止めてエンジュちゃんを見る。

手が止まったのを受け、エンジュちゃんはちょっとだけ感情を顔に出した。もっと撫でてほしいと言う感情。素直な子だ。

撫でても良かったが、その前に話をしなければならない。エンジュちゃんが手に抱えている薬草。もう採りに行ってはダメだと言ったそれ。

採ってしまったらしい。山に入ったことになる。どうしよう。怒るか。

 

「それは?」

 

「あ……」

 

尋ねれば、エンジュちゃんは持っていたものを後ろ手に隠した。どうやら俺の考えが多少は伝わったらしい。顔に出たか、雰囲気に出たか。どちらにせよ、怒られることを恐れている。悪いことをしたと言う自覚はあるようだ。

しかし、ここまで来て往生際が悪いのはいただけない。意思を込め、じっとエンジュちゃんを見つめていたら、おずおずと薬草を胸の前に出した。

 

「これ……」

 

「うん」

 

「あの……」

 

「うん」

 

相槌を打ちながら考える。怒るのは苦手だ。と言うか、説教が苦手だ。どの面下げてと言う気持ちとどんな資格があってと言う気持ちがある。自分が大した人間じゃないのはとっくに知っている。

 

兄妹の関係ならともかく、何の関係もない他所様の子に説教するのは正直気乗りしない。いつだか川から追い散らしたように実力行使染みたことを出来るならまだその方がいい。

 

そう思いつつもゲンさんに大見え切った手前やらなければならないが、実際にやるとなると難しい。やりすぎると委縮させるし、足りなければ効果がない。前回のやり方では効果がなかったようだ。となれば少し強めにした方がいいが、さすがに怒気を出すのはやりすぎだろう。淡々と注意する程度で留めようか。

 

「また山に入ったの?」

 

「……」

 

「入った?」

 

無言でこくりと頷くエンジュちゃん。

 

「入ったらダメって言ったと思うけど、どうして入ったの?」

 

「……」

 

俯いて黙ってしまうエンジュちゃんは肩が震えている。

もう泣いてしまった。やりすぎたか。どうしよう。

 

仕方なく、エンジュちゃんの頭に手を置いた。泣き止ませることを優先する。

 

「ごめんね。怒ってるわけじゃないんだ。泣かないで」

 

そう言ってはみたものの、ひっくひっくと嗚咽が聞こえて来た。

いよいよ全身が震えて、本格的に泣き出しそうだ。これは困った。アキを相手に培ったノウハウはまるで役に立たない。

アキは小さいころからそれほど泣かなかった。泣いたとしても笑いかければすぐ笑顔になった。次の日には泣いたことなどすっかり忘れていたと思う。

 

その点、エンジュちゃんは正反対だ。この様子だといつまでも引き摺りかねない。

こう言う子の場合はどうすればいいのか。

 

正解は思いつかず、考えあぐねて、頭を悩まし、思い詰めた結果、俺はエンジュちゃんを抱きしめていた。

抱きしめて、背中を撫でる。大丈夫大丈夫と耳元で囁いた。

 

そうすると、エンジュちゃんはすっかり泣き止んだ。震えも止まり、嗚咽も聞こえない。と言うか、動かない。呼吸すら止まっているようだ。

 

効果はあった。泣き止んでくれたならそれに越したことはない。

しばらくそうして、エンジュちゃんが落ち着いたのを見計らって離れる。「ぁ……」とか細い声が聞こえた。

 

「山に入ったの?」

 

「……はい」

 

俯きがちではあったけど、エンジュちゃんはきちんと俺の方を見て頷いた。

微かに涙で濡れた頬は少しだけ赤く目も腫れぼったい。子供の泣き顔は見ていて楽しいものじゃない。子供には笑っていてほしい。

 

眦に光っていた涙を指で拭いながら、もう一度注意する。

 

「獣に襲われて怪我でもしたら大変だから、もうしないように。わかった?」

 

エンジュちゃんはこくりと頷いた。うるんだ瞳が俺を捉えている。きちんと理解してくれている。

それが分かって頭を撫でた。根元から毛先までなぞるように優しく。

 

その間、エンジュちゃんはされるがままになっている。

身体の都合であまり長いこと撫でることは出来ず、手を退けた時には、露骨にもっと撫でてほしいと言う顔をした。

 

予想通りの反応に思わず微笑む。エンジュちゃんは恥ずかしそうに顔を伏せる。顔がどんどん赤くなる。

 

「あの……」

 

「なに?」

 

「アキ……ちゃんは……?」

 

アキの名前を知っていることにまず驚いた。あのアキのことをちゃん付けで呼んだことに一層驚いた。

 

多分、アキとエンジュちゃんは会話したことがほとんどない。ましてや自己紹介などしていようはずもない。エンジュちゃんはどうだか知らないが、アキはそこまで礼儀正しくはない。教育に失敗したとつくづく思う。

 

「今はいない。お遣いに出てる。でもすぐに帰って来るよ」

 

エンジュちゃんは頷いた。眉を顰めて少し考えている。

 

「何でも言ってください。何でもしますから」

 

突然そんなことを言われて困ってしまう。本人としては大真面目なのだろうが、言葉のニュアンスと言うか込められている意思みたいなものが随分と重い。やってほしいことも別にない。

 

苦笑を浮かべてどうしようか考えていると、何を思ったか、エンジュちゃんは顔を一層赤く染めて走り去ってしまった。

 

その背中を見送る。恥ずかしがりやな子だ。あの反応を見る限り多分人見知りだと思うけど、勇気を出して接してきている。無碍には出来ない。とはいえ困った。近所のお兄ちゃんぐらいでどうにか収まらないだろうか。

 

まあ、子供はえてして飽きっぽい。難しく考える必要はないだろう。

それにしてもアキちゃんと言うのは良い響きだった。アキと同世代の子供の口から聞けたのが特に良い。心の底から思うが、友達になってほしい。

 

ちゃん付けで呼び合う二人を想像する。エンジュちゃんが「アキちゃん」と呼ぶのに違和感はない。しかしアキが「エンジュちゃん」と呼ぶのは違和感しかない。

アキはそうは呼ばないだろう。恐らく呼び捨てにする。もしくは名前を呼ばず「お前」と呼ぶ。

 

どちらがより実物に近いかと言うと恐らく後者だ。しっくりくる。となれば、やはり育て方を間違えている。

甘やかすのもいい加減にしないといけない。最低限の礼儀作法ぐらいは学ばせる必要がある。世の中、無礼を笑って許せる人ばかりではない。言葉一つで争いに発展することだってあるだろう。下手をすればそのまま殺し合いになるかもしれない。

今はまだ子供だから見逃されている点が多いのだろうが、アキがこのまま大人になったらと思うとぞっとする。

 

兄離れもかねて教育の必要がある。俺自身も優しい兄から厳しい兄に変わらなければならない。

母上や父上とも協力して、アキを立派な人間に育てなければ。

 

そう考えてみると、まだまだ生きる理由はある。死にたいと言う気持ちが消えるわけではないが、理由があるなら生きることも出来る。この身体と戦いながら、もう少しだけ生きなければならない。中々辛そうだが、耐えられないわけでもない。そう思った。




レン君の性格を思い出すために最初は地の文多めです。


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第56話

日が落ちて、日が明けて。また日が落ちて。そして日が明けたなら、日は二日跨いだことになる。

早朝に東に向けて発ったアキは、早ければその日の内に帰って来るはずだった。遅くても次の日には帰って来ると思っていた。けれど、アキは二日が経った今日になっても帰って来ていない。

 

何かあったのだろうと確信する。それが何かは想像も出来ないけれど、十中八九良からぬことだ。

やっぱり俺も行けばよかった。同行したところで足を引っ張るだけだけど、こんなに不安になるぐらいなら、無理にでも行けばよかった。

 

そう思って悶々と過ごす俺とは反対に、父上はいつもと変わらない様子で過ごしている。

 

「はい、あーん」

 

「……いや、あの……」

 

「口開けて。あーん」

 

変わらない、は言い過ぎかもしれない。

変わることには変わっている。主に俺に対する世話焼きっぷりが。

一人で食べれると言っているのに食べさせようとしてくるところとか。用を足すのに必ず付き添おうとしてくるところとか。

 

母上とアキがいないので気張っているのだろう。それは理解出来る。でもちょっとやりすぎている。

いくら父親と言えど、男にあーんはされたくない。いくら同性と言えど、用を足すのを手伝ってほしくない。

やめてほしかった。切実に。本当に。本気で。

 

「自分で食べますので」

 

「でも」

 

「自分で食べられますので」

 

ひったくるように茶碗を貰い受け、自分の手で食べる。……ゆっくりと。

 

「大丈夫?」

 

食事の最中、父上はずっと俺のそばにいてじっと見つめてくる。

口を開けば身体の調子を訊ねてきた。噛んでいる最中に口を開くのはマナーが悪いので頷くにとどめる。

それでも、父上は心配そうに見つめてくる。なんだかばつが悪くて視線を逸らしながら食事を進めた。

 

「……ごちそうさまでした」

 

「お粗末さまでした」

 

茶碗の中、半分ほどを残して食事を終える。

父上は悲しそうな顔で茶碗を片づける。もともと量はなかったが、それにしても完食は出来なかった。

いくら少量とはいえ、残していることに変わりはない。食べ物を残すことに罪悪感が募る。もったいないと思う。食べ物は大事にしたい。特に、こんなご時世なら。

 

「……父上は」

 

「ん?」

 

食事を終え、ようやく話すことが出来る。

げっぷが出そうになったので治まるまで待ってから口を開いた。

 

「心配じゃないんですか?」

 

「え? 誰が?」

 

どことなく責めるような口調になってしまったが、父上は気にした素振りもなく、きょとんとした顔で聞き返してきた。

 

「アキが、です」

 

「大丈夫だよ」

 

思いもしない即答に俺の方が言葉を失った。

なんで? と思う。どうしてそう言えるのか。俺は心配で仕方がない。だってアキだから。妹だから。目を離したら何をするか分からないから。

 

そんな風に思う俺に、父上は自信を持って断言する。

 

「だって、椛さんの子供だもの」

 

妙に納得した自分がいる。それでいて、そうだろうかとも思った。

いや、確かに母上の心配はあまりしていなかった。どちらかと言うとアキの方が心配で、でも母上だって全く心配してないと言うわけでもなくて。

 

方向性は別として二人とも心配だ。でも、母上はまず間違いなく帰ってくると思うのに対し、アキはどうだろう。ゲンさんが一緒だから、死ぬことはないはずだ。そう思いながら、それは所詮願望に過ぎないことにも気づいていた。

突然何が襲ってくるか分からないのがこの世界だ。例えば、突拍子もなく凄腕の老婆がやってくるとか。

 

「……っ」

 

あの時のことを思い出すと、傷跡が疼いて胸を掻き毟りたくなる。どくんどくんと心臓が暴れて苦しくなった。

 

仮にもう一度戦ったら次は勝てないだろう。それは身体の調子に関わらず、万全だろうと関係ない。あの勝ちは、十に一つの幸運を拾っただけだった。

殺せてよかったと心の底から思う。もうあんなことはごめんだ。突然、誰とも知らない人に命を狙われるなんて。

もしまたあんなことがあったなら、もう俺は何もできない。誰も守れない。

 

何の役にも立たない自分を想像して、そんな自分が嫌になる。

傍目に突然落ち込んだ俺を見て、父上はアキのことで不安に駆られていると思ったのだろう。安心させるように、再び断言した。

 

「大丈夫だよ」

 

「……そうでしょうか」

 

「大丈夫。大丈夫。だって、椛さんだから。椛さんの子供だから」

 

そればかりを言う父上を横目に見てから視線を落とす。

言葉の端々から絶対的な信頼が感じられる。二人で積み重ねてきた年月がそれを言わせるのだろうか。

 

きっと、今までもこんなことは多々あって、二人はそれを乗り越えてきた。だからこその言葉なのだろう。

でも、俺にはその信頼が依存とか過信とかそう言うものに思えてならず、父上のように断言する気にはなれなかった。

 

こうしていると嫌なことばかりが頭に浮かぶ。

母上の欠点とか、アキの悪いところとか。それ以上に良いところがたくさんあるはずなのに、どうしてもそればかりが思い浮かんで易々と安心はできない。

 

不安に押しつぶされそうな自分に苦笑する。

こんなに心配性だったのかと新しい自分を発見した。アキのことを思うとじっとしていられなくなる。今すぐにでも駆け出したくなる。

 

兄離れなんて偉そうなことを言っておいて、そう言う自分が妹離れできていない。

こんなんじゃ駄目だなと己を叱咤する。俺は兄だから、手本にならないといけない。最低限、人のことが言えるようにならないといけない。

 

「……二人とも、無事だといいですね」

 

「うん。きっと、大丈夫だよ」

 

父上は朗らかに笑った。

本心はどうあれ、表面上は不安なんて全く抱いていない、そんな顔で。

 

この世界では女が外に稼ぎに行き、その間、男が家を守っている。

ならば、待つのもまた男の仕事の内なのだろう。不安や心配を押し込めて、無事に帰ってきた家族に笑顔を見せ、労わるのが男の仕事なのだろう。

 

頭では分かった気になっていたが、こうして待ってみて初めて分かった。

ただ待つことの大変さと、それがどれほど俺に向いていないのかが。

 

じっと待つだけなんて俺にはとても耐えられない。

誰かが俺のために戦うのなら、俺も一緒に戦いたい。後ろで待つのではなく、横で共に戦いたい。

 

誰かの背中に隠れて生きたくはない。守られるだけなんて真っ平だ。俺は強くなりたかった。男だからと言う理由で諦めたくなかった。猿に襲われたあの夜に、何もできなかった自分が、ただ守られるだけだった自分が、どれだけ惨めで悔しかったか。

一生忘れることは出来ないだろう。あの時の辛さや苦しさや痛みを。駆けつけた母上の背中を。抱いた憧れを。

 

俺には俺の価値観があり、常識があり、この世界に迎合こそしたけれど、否定出来ないものだってある。

性別を理由に諦めることは出来なかった。俺は男だ。やってみなくちゃ分からない。やりたいことがあるなら思いっきりやるものだ。そう思って力いっぱい頑張った。正直、いいところまで行ったと思う。

 

結果的にこうなったのが残念で、悔いはあるけれど、もし過去に戻れたとしてまた同じことをするだろうから、そう言う運命だったのだと割り切る他ない。

 

生きる目標はなくなった。けれど、この世界でいうところの普通の男になるつもりはない。

俺に残っている役目はアキが立派に成長する手助けと、剣聖まで上り詰めた母上の血を残すこと。つまり種馬みたいなことをすればいい。

この身体で射精できるかは甚だ疑問ではあるけれど、やり方を考えれば出来ないことはないはずだ。

 

とりあえず、今の俺に出来るのはアキの無事を祈ることぐらい。

いつまでたっても消えない嫌な予感から目を逸らしながら、遠くにいるであろうアキのことを思い続ける。

 

 

 

 

 

母上たちが発ったその日から、村長が我が家に訪れるようになった。

最初、玄関口に立った村長は応対した父上に向け、はっきり用件を告げたらしい。

 

「ご子息の様子を見させていただけませんか」

 

どんな顔の面の厚さかと半ば感心する。

自分が殺そうとしている子供に会うために、その父親にそう言ったのだから。

 

当然のことながら父上は断った。

「もう来ないでください」と取り付く島もなく。

 

普通はそこで諦めるだろうに、どのような理由があってか諦められなかった村長は家の周りをぐるりと回り、たまたま外を見ていた俺を見つけて声をかけきた。

 

「お加減どうですか」

 

俺は村長を招き入れ、話をすることにした。

何か得られることがあるかもしれないと少しばかり期待して。

 

「こうして話すのは初めてかねえ」

 

「そうですね」

 

縁側に腰かけた村長はゆったりとした物腰と同様に、穏やかな口調で話し始める。

 

同じ村に住んでいる同士、互いに相手の顔は知っていた。

今まで話したことがないのは、単に機会に恵まれなかったせいだろうか。

 

「剣聖様はどこかに出かけているようだね。どこに行ったか聞いてるかな?」

 

「西に。飢饉が起こるそうなので、領主様と話をしに行きました」

 

「そうか。流石は剣聖様は行動が早いね。いや、今年は寒くてね。ほら、もう雪が降っただろう。子供にとっちゃ嬉しいかもしれないが、そう嬉しいことばかりじゃなくてね。わかるかい?」

 

「ええ。おかげで不作ですから。そのせいで口減らしも」

 

どういう意図かは分からないが、どうにも話の流れが迂遠的で、そこはかとなく子供扱いされている感じがしたので、直球で本筋に触れることにした。

 

「俺を殺したいそうですね」

 

「……それは、剣聖様に聞いたのかな?」

 

「全部聞きましたよ」

 

俺がどういう子供かは知っているはずだが、実際に話してみなければ信じられないのかもしれない。考えてみれば、俺はまだ11歳だ。

 

「残念ですが、今はまだ殺されるわけにはいきません。母上が帰ってくるまでお待ちください」

 

「……そうか」

 

ふうと息を吐いた村長は、頭の頭巾を撫でて何か考えている。

考えが纏まるのを少しだけ待って、次にその口から出たのは全然関係ない言葉だった。

 

「今、いくつだろう?」

 

聞かれた内容を反芻する。

多分、俺の年齢を聞いている。

 

「11です」

 

「玄孫と同じ年頃だ。玄孫は9つだから」

 

「そうですか」

 

「最近は反抗期なのかあまり人の言うことを聞かなくてねえ。毎日泥だらけで帰って来るんだ。どこで何をしているのか」

 

「遊んでるんじゃないですか?」

 

「それはね。ただ、どこでどんな遊びをしてるのか。どこかの男の子に迷惑かけてなければいいんだけどねえ」

 

「子供は風の子と言います。じゃじゃ馬なぐらいが丁度いいと思いますよ」

 

「確かに、手のかかる子ほど可愛いくはある」

 

それ自体はよく聞く言葉だけど、経験者に言わせてもやはりそういうものらしい。

俺自身、手のかかる子と言う言葉でアキの顔が思い浮かんだ。……なるほど、確かに可愛い。

 

「ただ、最近は何かと物騒ですから、目を離さない方がいいと思います。また誰かが襲ってこないとも限りません」

 

「……そうだ、そうだ。それを忘れてた」

 

何かを思い出した村長は、言うや否や居住まいを正して俺に向けて頭を下げる。

 

「その度はありがとうございました。おかげで多くの子供が救われました。感謝してもしきれません。この村の長として礼を言います。本当にありがとう」

 

「……どういたしまして」

 

先代剣聖の襲撃について言っているのだとすぐに分かった。

確かに俺はあの時巻き込まれた子供を救っている。けれども、元を正せば母上の因縁が原因であるから、そこを突いて逆に糾弾されてもおかしくはなかった。

この人はそのことについてどこまで知っているのだろうか。全てを知った上で感謝を述べ、そして口減らしで俺を殺そうとしているのなら、この人は凄く頭のいい人で、そして色々背負っているのだと思う。

 

「頭を上げてください。あれは剣聖である母上にも原因があったことで、もう過ぎたことです。今は先のことを考えて、すべきことをしなければいけない時でしょう」

 

「……ありがとう」

 

いつまでも頭を上げなかった村長に、俺はそう言わざるを得なかった。

俺の言葉を受け、ようやく頭を上げた村長は無表情だった。感情の機微は読めない。母上の無表情は割と読めるのだが、他の人になると駄目だ。重ねた月日のおかげだろう。

 

「また来るよ」

 

「どうぞいつでも来てください」

 

最後にそう言って、村長は帰っていく。

その背中を見送りながら、そう言えばあの人も死ぬつもりなのだと思い出し、玄孫のことを語っていた嬉しそうな顔を思い浮かべながら、何とも言えない気持ちになった。

 



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第57話

副題は『噛み合わない人たち』


アキたちの帰りを待って、日がな一日縁側で過ごす日々が続いた。

 

待てども待てどもアキは帰ってこない。迎えに行くべきかと迷い、身体のことを鑑みて行かない方が良いと判断する。けれどもやっぱり帰ってこないから、無理を押してでも行くべきじゃないかと迷いが生まれ、理性で断ち切る。そんな毎日だった。

 

そんな日々を過ごす中、焦燥感に駆られる俺の内心など露知らず、待ってもいなければ歓迎すらしていない村長が他愛のない話をしにやって来る。

 

玄関口ではなく、縁側へと直接やって来る村長は父上を避けているらしい。それを迎え入れるのはどうかなと思いもしたが、村長から敵意は感じられず、家に籠りっきりで外の状況を知る術のない俺としては少しでも情報が欲しかった。

 

そういう考えから迎え入れてみて、村長の口から語られるのは大体は家族のこと。孫夫婦や玄孫のことが主だった。特に玄孫は溺愛しているのが言葉の節々に表れていた。その時の村長は穏やかで気の良い老人と言う風情。

 

互いの立場や置かれた状況さえ違えば仲良くなれたかもしれない。

そんなことを思ってしまう。そして残念にも思った。もうそんな機会は永遠に訪れそうになかったから。

 

そんな俺の内心を村長が露ほども理解していなかったように、当の村長の内心自体、どれほど会話を重ねたところで、俺は欠片も理解出来ずにいた。

普段は好々爺然としている村長であったが、時折血が凍るようなことを言うことがある。それはもっぱら飢饉に関連したことだった。

 

「もう、この村に私以外の老人はいないからね」

 

突拍子のない言葉だった。サラリと紡がれた声色に感情の類は感じられない。

しかし、その内容が衝撃的過ぎたために前後の会話を失念した。あまりにも脈絡がなく、突然過ぎた。

 

それを聞いた瞬間、疑問符が頭に浮かび、そして嫌な予感が駆け巡った。

自然と思い浮かぶ顔ぶれ。村長と同じ年代の人たち、老人と呼べるその人たちの顔。聞かずにはいられない。

 

「それは、どういう意味ですか?」

 

「昨日、死んだ」

 

二度目の衝撃に襲われる。

一体何があったのかと、何の変哲もなかったはずの昨日を順々に思い出しながら、最後には母上の言葉を思い出す。

 

『老人共は自ら命を絶つようだ』

 

どうやら、実行したらしい。

 

この村には村長と同世代の人間が他に四人いた。

その人たちは昨夜、毒を呷って自ら命を絶ったらしい。

かねてより相談していた約束の日にちが昨日だった。それだけの話だと村長は言う。

 

「みんなを先に逝かせて一人残るのは心苦しい。けれど子供を一人で逝かせるわけにもいかないから。最後の役目だ」

 

言葉だけ聞くなら狂気に満ちている。けれども実際の所、村長の瞳には慈愛が満ちていた。そこに悪意はなく、見る者を安心させる暖かな光が宿っている。

 

あの世がどんな所かなんて、この世の誰にもわからない。

素敵なところだったら何よりいい。優しくて救われる場所なら何も心配する必要などない。

けれどそうではないかもしれない。恐ろしいところかもしれない。怖い場所なのかもしれない。

 

そんな何一つ分からぬ場所に、自分たち大人の都合で子供を逝かせるわけだから、一人で逝かせるよりはせめて共に逝こう。連れ添っていこう。村長を始め、老人たちはそういう考えを持っていた。

 

それはこの人達なりの道理なのかもしれない。あるいは風習。習慣。善意。なんだっていい。

どれであったところで、俺には何一つ理解できないものだけど、それが悪意じゃないことだけは分かった。

 

村長が毎日俺の元にやって来るのも、死を待つ子供の苦痛を少しでも和らげようと言う意図があったのかもしれない。

けれども、そんなことで和らぐのか果たして疑問ではあったし、そもそも俺にとってはいらぬ世話だった。どんな形であれ、死は死である。もはや、俺は死を怖いとは思えない。村長にとっては、死を厭わない子供の存在など想像の埒外だったろう。

 

噛み合わない関係だった。相手のことを考えながらも、どこか致命的にズレていた。

互いを理解する時間さえあったなら、もしどこかで歯車が一つ噛み合うことさえあったなら、俺たちは仲良く出来たと思う。

村長の慈愛に満ちた顔を見ながら、心の底からそう思った。

 

 

 

 

 

「――――何を、やっているの?」

 

唐突に背後から聞こえた声に肩を跳び上がらせた。その感情を押し殺したような声は、まごうことなく父上の声だった。

恐る恐る振り向くと、やはりそこには父上が立っていて、母上の様な無表情でこちらを見つめている。

 

その視線の先には当然のことながら俺がいて、隣には村長が座っている。

まずいところを見られたと言う気持ちが込み上げた。父上が村長を家に上げずに追い返したのを俺は知っている。

 

油断した。気もそぞろだった。家の中のことは何も気にしていなかった。

俺の意識はもっぱら家の外に向いていて、アキたちが帰って来るのを今か今かと待っていた。

気にするべきだった。村長と密会めいたことをするならば。面倒を避けようと思うならば。

そんなことにも考え至らないなんて、今の俺はその程度の者でしかない。

 

「レン? 何してるの?」

 

再度の問いかけ。今度は的を俺に絞っている。

冷え冷えとした声音は変わらない。むしろ一層増している。

 

「……父上。あの、これは……」

 

「こんにちは」

 

下手な言い訳を連ねようとする俺を遮って、村長が矢面(やおもて)に立つ。

 

「お邪魔していますよ」

 

すっと父上の目が細まった。

 

「もう、来ないでくださいと言いました」

 

「確かに。聞きました」

 

「どうして、いるんですか?」

 

その声がわずかに震えているのを聞き取った。

殺しきれない感情が漏れ出している。激情に駆られる一歩手前と言う印象。

いつ爆発してもおかしくない。そんな人間を目の前にして、村長は相も変わらず穏やかな表情で応対する。何一つ悪びれることなく言ってのけた。

 

「それでも、会わなければと思いまして」

 

沈黙が場を支配する。

俺に言わせれば、村長の答えは答えになっていない。火に油を注ぐだけの挑発に思えてならなかった。

一度口から出た言葉はもう返らない。俺も村長も父上の反応を待つ。十中八九激高すると思っていたから、どのように落ち着かせるか頭を巡らせていた。

 

けれども、いつまで経っても何一つ言葉を発しない父上を訝しみ、俺の方から「……父上?」と問いかけてみれば、底冷えのする眼差しが向けられて言葉を飲み込む。

 

固唾を飲むひと時を経て、ようやく発した父上の言葉には、先ほどまでと同じように冷え冷えとした感情が乗っかっていた。

 

「僕には、子供を守る義務があります」

 

「ええ。ええ。もちろんそれは。それはそうでしょう。けれどご理解ください。私にも村を守る義務がある」

 

「……もう、来ないでください」

 

村長は頷いた。

一礼をして去っていく。

その背中をかける言葉もなく見送る俺の背後に、父上が音もなく近づいてきていた。

 

一瞬、殴られることも覚悟して身体を強張らせたが、父上は優しく俺を抱きしめ、耳元で懇願する。

 

「お願いだから。お願いだから、危ないことはしないで……お願いだから……」

 

その身体は小刻みに震えていた。

本気で心配されている。本気で俺を守ろうとしている。

それが伝わって来た。

 

俺は、今にも泣き出しそうな父親に泣いてほしくなくて、安心させようと言葉をかける。

 

「……大丈夫ですよ」

 

村長が母上がいない間に俺を間引くことはないと考えていた。

村長と母上は約束をしたと言う。もし母上のいない間に俺を間引いたら、それは約束を破ることになり、ひいては剣聖を敵に回すことになる。

いくら飢饉と言えど、まだそれほど追い詰められているわけではない。だから、この段階で拙速な行動はしないと踏んでいた。

 

思った通り、村長は俺に何もせず、ただ話をしに来ていただけだった。

話をすると言う行為にどういう意図があったのかはともかく、結果からして危害を加えるようなことはなかった。

 

俺の言い分としてはそんなところだったが、わざわざそれを説明したりはしない。

する意味などないと思った。よしんば説明したところで理解されるかは怪しい。だから俺は大丈夫だよと言う。父上が心配する必要なんかないんだよと伝える。

 

「大丈夫。大丈夫だから」

 

抱きしめたままいつまでも動かない父上は、やはり泣いているように思える。

その背中に手を回そうとして、身体が痛いからしなかった。代わりに壊れたロボットのように同じ言葉を繰り返す。それ以外に何かしようとは思えず、他の言葉も思いつかない。

ただ時間ばかりが過ぎていく。無意味にしか思えない時間が刻々と過ぎていった。

 

 

 

 

 

「お兄さん」

 

ついに村長が父上に見つかって、多少の面倒が起こった後、村長と入れ替わるように泥だらけのエンジュちゃんがやって来た。

 

「……エンジュちゃん?」

 

縁側で毛布に包まっていた俺の元にやってきたエンジュちゃんは薄汚れた格好をしていた。

衣服のあちこちに泥が飛び散っていて、特に手足は泥だらけで、顔にも泥を拭った跡があり、どこでどういう遊びをしているのかとちょっと心配になったのも束の間、差し出された薬草を見て顔をしかめる。

 

「必要、ですよね?」

 

そうに決まってると言う眼差しで見つめられる。

以前、山に入るなと注意してからそう日は経っていない。だと言うのに、早々に言いつけは破られた。そもそも薬草はいらないと言わなかったか。

 

妙な光を帯びた視線を見返し、ふうと短く息を吐く。

そうしたらエンジュちゃんの肩がびくりと震えた。

 

「あの、わたし……」

 

一気に潤んだ瞳。何を言われる前に、涙声で言い訳を連ねようとしている。

聞く気はなかったので、はっきりと言う。

 

「こっちに来て」

 

「わ、わたし……」

 

「来なさい」

 

有無を言わさない圧力を出す。

9歳と11歳。この年代の2歳差は数字以上のものがある。性別の差があったとしても、年上の言葉には中々逆らえるものではない。

 

「それを渡してくれる?」

 

「……はい」

 

エンジュちゃんから薬草を受け取り、いつもの薬草だと確認した。

それから改めてエンジュちゃんを見る。全身泥だらけで、あちこり擦り傷を負っていて、痛々しい姿を。

 

もうこんなことはさせてはならない。心を鬼にしなければならない。

本当であればゲンさんを参考に拳骨の一発でも与えるところだが、今の俺にはそこまでの余力はないので、出来る限りのことをする。

 

おもむろにエンジュちゃんの額に腕を伸ばす。

エンジュちゃんはぎゅっと目を瞑って震え始めた。この様子だと普段から殴られてそうだ。そう思って、少しだけ意思が挫けかける。

 

それでもやらなければならない。心を鬼にして――――デコピンをする。

べちっと、我ながら情けない音がエンジュちゃんの額から響いた。

きょとんと目を開けるエンジュちゃんは、何が起こったのか理解できていないようだ。

俺の方は割と思いっきり力を込めただけに大した威力にならないのが残念で、右腕に走った激痛を表情に表さないように必死だった。

 

「ごめんね。痛かった?」

 

左腕でエンジュちゃんの額を撫でる。叩いた所が少し赤くなっている。それもすぐに治るだろう。

撫でられるエンジュちゃんは束の間呆然として、次の瞬間には顔全体が真っ赤に染まった。

額を抑えながら数歩後ずさりする。あわあわと声にならない声を発し、ふるふると頭を振った。

 

「あ、あの……あの!?」

 

「うん」

 

「わたし、わたし!?」

 

随分と動揺している。あまりこういう経験はないのかもしれない。しかし、このままだと前回同様に逃げられそうだ。

それではまた同じことの繰り返しになるかもしれない。やるからには徹底的にやってやろうと気合を入れる。

 

「おいで」

 

「……え!?」

 

「こっちにおいで」

 

両腕を広げて催促した。

誰がどう見ても、抱き合おうと言う意思表示。なぜ抱き合うのかと言われれば自分でもよくわからないのだが、直前に父上に抱きしめられたのが理由かもしれない。

つまり、同じことをしてやろうと思ったのだ。エンジュちゃんを抱きしめて、その耳元でお願いする。もうこんなことはしないでね、と。

 

警戒心の強い野良猫のように、ゆっくりと近づいてくるエンジュちゃんは辛抱強く待つ。

ようやく腕の中に入って来たエンジュちゃんを抱きしめれば、全身泥を被ってるだけあって泥くさかった。多分、俺の服も泥で汚れる。まあ、それはどうでもいい。

 

抱きしめる腕に出来る限りの力を込めれば、エンジュちゃんの全身が震えた気がした。

耳元に息を吹きかけるように囁けば、明らかに身体から力が抜ける。

 

「危ないから、もうしないように。いいね?」

 

「……っぁ、の……」

 

「わかった?」

 

「んっ……ふ……」

 

「……返事は?」

 

「……ぁい」

 

正直、返事をしたか微妙なところだったが、多分しただろうと思ってエンジュちゃんを放す。

鼻がくっつくぐらいの距離から見たエンジュちゃんの顔は、今までで一番赤く染まっていた。

 

「もうしちゃ駄目だよ。次は本気で怒るから」

 

「……ほ、ほんき?」

 

「本気」

 

言いながら、エンジュちゃんの鼻頭を突っついた。

ごくりと唾を飲み込んだエンジュちゃんは、あわあわと慌てふためきながら俺の腕から逃れると、くるりと身を翻して躓きながら逃げ去って行く。

 

果たして、今ので効果があったのかなかったのか。正直よくわからない。もしこれでもやめないようなら、今度はゲンさんに叱ってもらおうと思う。

効果はてき面だろう。その場合、恐らく俺はエンジュちゃんに嫌われるだろうけど。

 

何にせよ、アキとゲンさんが帰ってこないと無理な話だ。

早く帰って来てほしい。そう思いながら意識を外に向け、二人の気配がどこにもないことを確認する。

 

今日も帰ってこないのかと落胆し、汚れた衣服を見下ろして着替えようと部屋に引っ込みかける。

その間際、一瞬誰かの視線を感じた気がしたけれど、振り向いた時には視線は消えていて、探しても見つからなかったため、気のせいだと片づけた。

 

言い知れない不安を抱えたまま襖を閉め、また一日を終える。

内心に渦巻くその不安は、きっとアキのことに違いないと信じて疑わず、足元まで迫っていた脅威に俺は気づけなかった。




この章では、父上とレン君の関係を掘り下げます


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第58話

真夜中に音がした。

がしゃんと何かが割れる音。陶器かガラスかその類。

瞬間、浅く漂っていた意識を浮上させて襖を見ると、月明かりに照らされていくつもの小さな影が舞っている。眠っている間に、わずかに雪が降り始めていた。

 

薬のせいでいささか朦朧とする頭が急速に醒めていく。

身体を起こして周囲の様子を探る。すぐ隣には父上がいるが、こちらはすやすやと眠っている。

家の中に他の気配はない。しかし外にはいくつか気配があった。

 

どれもこれも知らない気配。アキや母上ではない。恐らく、この村の人間でもない。

明らかな異常事態を前に身体の調子を確認する。相も変わらず、少し動かすだけで痛みが走った。

 

唇を噛み、呻き声を我慢しながら立ち上がる。

そのまま廊下に向かいかけ、自分が丸腰なことに気が付いた。

 

武器を探し辺りを見回して、火鉢の中に火箸を見つける。短く、弱く、刀の代わりには成り得ないが、ないよりはまし。

 

火箸を片手に音を立てないように襖を開ける。

半身を乗り出して縁側の様子を確認すると、窓が一枚割れていた。外から割られたらしく、破片は内部に飛び散っている。ご丁寧に、凶器と思しき小石も破片と一緒に転がっていた。

 

――――やっぱり外か。

 

空気がひりついている。戦いの予感がする。

この身体で真面に戦う自信はない。すでに変な汗をかき、息も荒い。長くもたないことは自分でよく分かっていた。

ならば即断速攻以外に手段はないだろう。とにかく外に出ようと窓に手をかけ、ヒュンッと何かが風を切る音が聞こえた。

すぐ目の前の窓ガラスが割れる。とっさに両腕で顔を守ろうとしたが身体の動きは鈍かった。頬に鋭い痛みが走る。

 

相次いで窓が割れていく。

状況が理解できない。とにかくその場にしゃがんで身を守る。

気配を探り、耳で音を聞いていた。窓が割れる一瞬前に聞こえる風切り音。……投擲かな。

 

いよいよ騒ぎになる。部屋の中で父上が起き出す気配がした。

それだけじゃなく、村中が起き出している。様子を探るに、どうやら投擲を受けているのはこの家だけらしい。間もなく大勢やって来るだろう。

時間はこっちに味方する。襲撃者もそれは弁えていたらしく、投擲が止んだ途端、家を囲んでいた気配が遠ざかっていく。

 

頭が良いのかどうなのか。

廊下に散乱したガラスとその中にいくつか紛れている石礫を見ながら状況を考える。

気配がした方向と距離。風切り音の方向。投擲が窓のどこに当たったのか。

 

「レン!? レン!?」

 

「来ないでください」

 

錯乱したと思しき父上の声に冷静に答える。

散乱したガラスを踏んでは怪我をする。多分、今の父上は足元なんか見えていないだろうから、先に言っておかなければならない。

 

「窓割れてます。危ないですよ」

 

「レン!?」

 

襖の向こう、ガラスの散乱した廊下を隔てて対面した。

薄暗さの中に見える顔色の青さは、何も月明かりに照らされているからと言うだけではないだろう。襲撃されたのだから当たり前だ。それも、よりによって母上もアキもいないこの時に。

 

膝立ちになった父上が、ガラスを踏まないよう懸命に手を伸ばしてくる。

意味が分からなくて訝しむ俺の頬に触れれば、その指先には血がついていた。先ほど、頬に痛みが走ったことを思い出す。

 

一瞬前まで気にも留めていなかったと言うのに、思い出してみれば血が頬を伝う感触までもが如実に感じられた。下を見れば垂れた血が顎を伝って衣服を汚している。

何だか鬱陶しくて、袖なりなんなりで拭いたかったが、今は指一本動かすのも億劫だ。意識の大半は襲撃者を追っている。

 

敵は森に逃げ込んだ。山を登っている。そこまでは追えた。しかしそれ以上は無理だった。一時的にアドレナリンが出ていたのだろう。今になって激痛に苛まれ、更には眩暈までする。途中、無理な動きをしたかもしれない。多分しゃがんだ時だ。

 

冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。白い息が天に昇っていくのが見えた。

敵の正体を考える。敵の目的を考える。こんなことをした理由。すぐに逃げた理由。敵の数は数人。攻撃は全て投擲だった。しかし山を登るあの速度は……。

 

「……人間じゃ、ないのか?」

 

あり得ない速度だった。

山の地形はある程度頭に入っている。奴らは急斜面をものともせず越えていった。そんなことは母上でも出来ないはず……出来ないのか?

 

考えている内に座っているのも辛くなり、ずるりと体勢を崩す。ガラスの上に掌を突いて、小さな痛みに顔をしかめた。

 

「レン!? 大丈夫!? 大丈夫!?」

 

うるさい。同じことを何度も聞かないでほしい。

 

足元のガラスをどけ、いつの間にか側まで来ていた父上が、相変わらず錯乱したように慌てている。

身体を揺らして容体を訊ねて来る。……揺らさないで。痛いから。

 

「血、血が……!! 誰か、だれか――!?」

 

だから揺らすなって。

頬の傷は大したことないよ。深い傷だけど、多分大丈夫。だから揺らさないで。

 

眩暈がひどいんだ。

目の前がグルグルしてる。吐くかもしれない。

 

……俺の身体なんてどうでもいいか。

あいつらはすぐに逃げた。大した効果の見込めない投擲だけして、やるだけやってすぐ逃げた。何の意味もない行動に見える。子供のいたずら程度だ。嫌がらせにしかなっていない。一体何がしたかったのかわからない。

 

ああ、駄目だ。頭が働かない。

すぐそこに答えがあるのにたどり着かないもどかしさ。いつもの俺なら答えにたどり着けるのだろうか。

 

こう言う時に自分がどれほど弱っているかを自覚する。

役に立たない火箸なんか持って、怪我をして襲撃者を取り逃してしまった。

母上なら今頃奴らは土に還っている。アキなら止める暇もなく追いかけただろう。俺はこうして座り込むだけだ。

 

敵はなんだ? 人間か? それ以外? 目的は? 何のためにこんなことを?

 

分からないことばかりが積み上がっていく。

一つ一つ解いていくしかないのに、最初で躓いている。分かるはずの問題を前に足踏みしている。

 

息を吐く。白く濁った空気が上っていく。

答えを求めて天を見上げても、結局何も分からなかった。

 

 

 

 

 

その後、怪我の手当てを受け、そして薬を飲まされた。

今飲むべきではないと抵抗したが、父上を始めとした見知らぬ大人たちに「あとは任せなさい」と無理に飲まされた。

そして起きた時には日は中天に差し掛かっていた。

 

起きたばかりで漫然とした頭で昨夜のことを思い出す。

ほぼ半日寝たおかげか頭の冴えは悪くない。いつも通りの俺だ。やはりあの薬はいざと言う時足かせになる。しばらく断とう。痛みは我慢すればいいわけだし。

 

布団の中で昨晩解けなかった疑問を考えてみる。

襲撃者の正体とその目的。人間なのかそうじゃないのか。悪戯なのかどうなのか。

敵が逃げたルートを思い浮かべる。頭にある地形と一致させ、やはり人間が通れるルートではないことを再確認する。

人間には無理だ。母上と言う存在がノイズになるが、少なくとも普通の人間には無理だ。そして投擲と言う攻撃手段を考えると……猿か?

 

この辺りで投擲できる獣は猿ぐらいしかいない。襲撃者を猿と仮定して、奴らの目的を考える。剣聖の家だけが狙われた理由。大した被害を与えずに逃げた理由。

正直、獣の考えなど分からない。悪戯と言われれば否定する材料はない。しかし……。

 

思い出すのは、六年ほど前に村が猿に襲われたこと。あの時、俺は怪我をした。母上が駆けつけて難を逃れたが、俺に怪我を負わせた猿には逃げられている。

 

今、この村に母上はいない。それどころかアキもいないしゲンさんもいない。もし六年前のように襲われたら、今度はなす術なくやられるかもしれない。最悪の状況だ。

 

そんなネガティブなことばかり考えていたら、不意に思い至った。もしかして、それを知るための投擲だったのか、と。

 

つまり、威力偵察。

いつかゲンさんが言っていた。今の山には春先の狼の件もあって、ほとんど食料がないと。食べ物を求めて獣が山から下りて来ても何ら不思議ではない。けれども、威力偵察するほど猿の頭が良いかと言うと疑問が残る。件の狼を考えるとあり得ないわけではない気もするが。

 

ともかく状況は揃ってる。備えるべきだと勘が告げている。

忠告するべきだろう。そう思い、父上を探して気配を辿ってみると、なぜか我が家の玄関前に大人たちがたくさんいた。

 

一体何をしているのかと疑問に思う。話し合いなら家に入ってすればいい。

まさか、また何かトラブルかと、壁に手を突きながら向かってみる。

 

近づくごとに空気が剣呑になっていくのを感じた。

怒声交じりの話し声が聞こえ、何か議論しているようだった。

玄関は開けっ放しになっていて、そこから外の様子が伺えた。

大人たちがぐるりと誰かを囲んでいる。知っている気配ではないので、昨晩の襲撃者と言うわけではないらしい。正体を知りたかったが、人が壁になって姿が見えなかった。

 

「余所者が一体何をしに来た!!」

 

大人の一人が詰問を始めた。無論、女性の声である。腹の底から出たような声が空気を震わせて実に迫力がある。

しかし俺にとってはゲンさんの声の方が怖い。声質の問題だろうか。価値観の違いも大きそうだ。

 

「ごめんなさいぃぃぃぃぃ!!!!!」

 

対して、輪の中心から迸った声は子供っぽさが残っていた。中性的な声で、心の底から謝罪している感じ。

大の大人が雁首そろえて子供を泣かせているのかと、あまりの絵面に顔をしかめた。

 

「まことに申し訳ありませんでしたぁ!!」

 

謝罪は重なり、勢いは増している。

 

「何をしに来たのかと聞いている!!」

 

「本当にごめんなさいぃぃ!!」

 

「聞かれたことに答えろ!! 目的は!?」

 

「かくなる上はお腹切りますのでご勘弁をぉ!!」

 

「そんなことは言ってない!!」

 

両者とも興奮しすぎて空回っている。相手の話を聞く気がない。冗談にも思えるやり取りだ。と言うか、一周回ってふざけてる気がした。

 

平時ならともかく、今は呑気に空回っている場合ではない。一旦落ち着かせるべきだが、誰も動こうとしない。事の成り行きを見守っているだけ。

 

はあ、と息を吐いて土間に下がる。

履きやすい草履を履いて、ぺたぺたと大人たちの元へ。

 

すぐ近くまで来ても誰も俺の存在に気づかない。

輪の中には父上もいて他と同様に成り行きを見守っていた。止めろよと思ったが、集団心理にでもかかったのかもしれない。

 

「何をしているんですか?」

 

一団に声をかける。

小さな声で全体に聞こえるかは不安だったが、近くにいた人がぎょっと振り向き、その反応のおかげで全員が俺を見た。

父上も俺がここにいることに驚いていた。

 

「レン!?」

 

「何をしているんですか?」

 

繰り返した質問はその場の全員に問いかけていた。

半ば父上を無視した形になったが、こちらも色々と無理をしているので声音はほぼ無感情になった。

それぞれが顔を見合わせた後、近くにいた人が答えてくれる。

 

「今、剣聖様の家を壊したと思われる人間を問い詰めているところで――――」

 

「昨晩の襲撃は人間ではなく猿です。何年か前の猿がまた来たと思われます。対策を講じる必要がありますので、村の人間を全員集めてください。山には入らないように」

 

抑揚なく一息に告げた。

内容を理解されるまでに一拍かかり、その後は困惑が広がる。

 

「え……。あー、と……? えー……それは、本当に……?」

 

「何か疑問でも」

 

「いや、でもこうして怪しい子供が」

 

そう言って視線を向けた先には地べたの上に正座している子供がいた。子供と言っても俺よりは年上だ。成人間近ぐらいだろう。この辺では珍しいことに紫がかった黒髪だった。ちょっと長めの髪を首の後ろで纏めている。髪色的に西側の人だろうか。

 

その人は俺を見るや否やキラキラと目を輝かせ始めた。救いの手が現れたことに感激しているのかとも思ったが、どちらかと言うとその目は面白がっている目だった。あれだけ渾身の謝罪をしておきながら、実は余裕があったらしい。

何だかなと思いながら話を続ける。

 

「その人はいつ捕まえたんですか」

 

「それは、ついさっきのことで」

 

「窓が割られたのは昨晩です。犯人ならとうに逃げていると思います」

 

「でも刀を持っていたから念のため」

 

「……そうですか。ならこちらで話を聞きます」

 

ぺたりと一歩踏み出すと大人たちは道を譲ってくれた。

まっすぐにその人の所に行き顔をよく見る。声から受けた印象通り、中性的な顔立ちだった。着ている衣服からして判断がつかない。

このご時世だ。旅をするなら刀ぐらい持つだろう。

 

「はじめまして。レンと言います。お名前は?」

 

「僕は紫苑です。はじめまして」

 

にこりと笑って答えたその人はシオンと名乗った。

自らを僕と言ったから男の子だろうか。しかし男が刀を持っていると言うところに引っ掛かりを覚える。

 

「おひとりですか? 仲間は?」

 

「僕一人です。剣聖様と約束があって参りました」

 

どうやら母上の知り合いらしい。もしかしたら俺の知らない弟子だったりしないだろうか。

そわそわと落ち着かない気分になりつつ、しかし普通男は刀を持たないと言う話を思い出す。

加えて一人旅だ。これは普通なのかなと周囲の様子を伺うと、誰も彼もが険しい顔をしていた。

怪しいぞと内緒話まで聞こえてくる。どうやら普通ではないらしい。

 

「剣聖は留守です。西に行っています」

 

「そうですか。折角来たのに、残念です」

 

残念と言いながら、さして残念ではなさそうな顔をしている。特段不満はないらしい。会えればいいやぐらいの気持ちだったのか。それでいて、どことなく満足げなのが不思議だ。どういう関係なのだろう。

 

「それで、僕はどうなるんでしょうか? やっぱりお腹切った方が良いですか?」

 

「切腹は結構です。このままお帰り頂いても構いません。ただ一つ確認を。あなたはこれから西に行きますか? 東に行きますか?」

 

帰ってもいいと告げた途端、シオンは白けた顔になった。おもちゃを取り上げられた子供みたいな顔だった。

 

「……西だね。山を越えるよ」

 

「わかりました」

 

会話を切り上げ、父上に視線を向ける。

野次馬の一員と化していた父上は、俺の視線を受け何故だかびくりと反応し、おずおずと近寄って来た。

 

「な、なに? どうかした?」

 

「この人、何日か家に泊められませんか?」

 

「なんで?」

 

「危ないので」

 

猿のことがあるので、今西に行くのは危険だった。母上の知り合いらしいし、色々はっきりするまで留まってほしい。これが複数人での旅だったなら止めはしなかったが、何せ一人旅。性別のことを考えずとも危ない。

 

「んー……」

 

しかし父上は眉を八の字にして明らかに渋っている。

母上の知り合いとは言うものの確認はとれていない。そんな人間を家に上げたくないのと、もしかしたら食料のこともあるのかもしれない。

そもそも現状の認識が俺と父上とでは天と地ほども隔たっていた。猿のことを危険視している俺とそもそも何のことか分かっていない父上。

昨夜の襲撃は猿の仕業で、この村が危険に陥っていると言うのも確証がなく、実際のところただの妄想かもしれない。

 

泊めなければならない説得力は皆無だ。

これは駄目かもしれないと父上の答えを待っていると、当のシオンが緊張感の欠片もなく俺に話しかけてきた。

 

「猿だっけ? 大変だね。こんな時期に」

 

「そうですね」

 

「この辺の猿は凶暴だよぉ。人を痛めつけるの大好きだからさ」

 

「そうなんですか」

 

妙に詳しそうな口ぶりだ。

興味本位で話を聞こうとして、横から声がかけられた。

先ほどまでシオンを問い詰めていた人だ。

 

「信じない方がいい。そんな話は聞いたことがない」

 

「あっははー。別に信じなくてもいいよ? おばさんが知らないだけでしょ?」

 

二人の間で火花が散った。

このまま喧嘩されるのも面倒なので割って入る。

 

「俺は昔猿に殺されかけたことがあります」

 

「そうなんだ。よかったね五体満足で。ぐちゃぐちゃにされなかったのは運が良いよ」

 

「……そうですね。それで、本当にこの辺の猿は凶暴なんですか?」

 

「この辺のは狐憑きの血を継いでるから凶暴なんだよ。知ってる? 狐憑き」

 

「言葉ぐらいなら知ってますよ」

 

狐憑きについては伝承として伝わっていて、半ば都市伝説と化している。信じていない人も多い。だから大人たちが苦笑しているのは当然の反応と言えた。

 

「知ってるんだ。意外と伝わってるもんだね」

 

「俺は狐憑きは俗信だと聞きました。違うんですか?」

 

「違うよ。突然現れるんだ。大抵は黒いよね。欲望が溜まりすぎると黒くなるの。だから黒いのには注意してね。狐憑きかもしれないよ」

 

その解答は俺の質問の答えとしては微妙にずれていたが、忠告には頷いておいた。

それで一旦会話が途切れた隙を縫い、父上が口を挟んでくる。

 

「レン。やっぱりこの子を家に泊めるのは……」

 

「いえ。泊めます」

 

「え……」

 

「泊まってもらいます。俺のわがままです。この人と話がしたい」

 

予想通りの断り文句が父上の口から飛び出していたが、俺は断行することにした。

 

話がしたいと言うのは別に嘘じゃない。嘘か真か色々知っている風な口ぶりのシオンとは話をしてみたかった。それと同時に、いざと言う時の備えにしたいと言う考えもあった。

 

そもそもこの状況で放り出すのは、例え刀を持っていようとも人道に反する気がする。母上の知り合いにそんなことは出来ない。

その言い訳を用いて父上の説得にかかる。

 

この状況と言うものを理解できていない父上の説得には骨が折れた。結局は俺が我儘を押し通す形になり、それを傍目に見ていたシオンの目は相変わらず輝いていた。

 

目は口程に物を言うなんて諺があるが、シオンのその目は「面白いおもちゃを見つけた」とでも言いそうな目だった。おもちゃ扱いは不本意だったが、実害はなさそうだったから放っておくことにする。

 

説得が完了したところで本来の目的を思い出し、大人たちに改めて猿のことを伝えた。はっきり言って皆半信半疑だったし、やはり鼻で笑うような人もいたが、とりあえずは全員の安否を確認すると言ってくれた。

 

その後、シオンを部屋に案内して少し話をする。

とりあえずは性別を聞き出そうと躍起になってみたが、シオンは面白がって答えてくれなかった。面白いのが好きらしい。

自分のことを僕と呼んでいるし男かなとは思う。そもそも、この世界で女性が性別を偽るメリットが思いつかない。

 

結局口を割らすことは出来ず、あまり長く話を出来る体でもないので、日が暮れ始めたころには自分の部屋に戻り休んだ。

そうして日が沈み切り、暗くなったころに家に人が訪ねて来る。応対した父上が俺の所にやって来て確認した。

 

「エンジュちゃんが見えないみたいなんだけど、レンは何か知らない?」

 

俺は、何も知らなかった。



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第59話

エンジュちゃんが見つからない。

とっくに日は暮れて辺りは暗くなっていると言うのに、家に帰ってきていない。

そのことを知らされ、居場所を訊ねる父上に対し、俺は暫し黙然としてから口を開く。

 

「山かもしれない」

 

俺はエンジュちゃんがどこに行ったかは知らない。

しかし心当たりはあった。山に行くなと何度も言って、その都度言いつけは破られてきた。二度あることは三度あるなんて諺を思い出す。三度目があったのかもしれない。

 

「山? なんで山に?」

 

「薬草を採って来てくれてたんです。いらないと言ったし、行かないようにとも言ったんですが」

 

そこまで言って言葉に詰まる。

自分の口から漏れていた言い訳に気が付いた。俺は注意したよと、知らず知らずのうちに自己保身に走っていた。

 

「そっか。昨日雪が降ったし、足を挫いて動けなくなってるかもしれないね」

 

その推測は楽観的過ぎる気がした。

そうだったらどれだけいいだろう。そうであってほしいと心の底から願う。

 

「伝えておくね。レンは休んで」

 

父上が早足で玄関に向かった。

自己嫌悪に沈む俺は到底寝ることはできず、かといって起きている意味もない。

昨晩、あの程度動いただけで息も絶え絶えだった俺に、山を探し回ることは出来ないだろう。薬を飲めばとも思ったが、やはり難しい。薬を飲めば思考が鈍る。そんな状態で山の中を歩き回るのは危険だ。

 

理屈が答えを出している。お前は寝ていろと。

けれど感情は納得しない。何か出来ることはないかと訴えかけて来る。

頭を悩まし、同じところを行ったり来たり。結局答えも同じところに帰結する。堂々巡りだった。

 

無為な時間を過ごしている。考えてばかりで成果は何一つない。何もしないなら眠るべきだ。そうじゃないなら行動しろ。黙って待つのは性に合わない。この世界がどんな世界だろうと、俺は俺だから。

 

逸る気持ちそのままに、何の考えもないまま立ち上がりかけたところ、襖が開き人影が姿を見せる。シオンだった。

 

「やあ」

 

浴衣の様な白い寝間着の上に藤色の上着を羽織って現れたシオンは、軽快な調子で手を上げて無造作に部屋に入って来る。

今まさに部屋から出ようとしていた俺は物の見事に出鼻を挫かれ、ただシオンの動きを目で追っていた。

直前の勢いはどこかに失せた。頭は冷え、考える余裕が生まれた。やっぱり今の俺が山を登るなんて、どう考えても無理がある。そう言う諦観を抱いていた。

 

そんな俺の横にシオンは何の躊躇もなく座り、世間話でもするように話しかけて来る。

 

「調子どう?」

 

「……こんな時間にどうかしましたか」

 

「ん。眠れなくてね」

 

枕が変わると眠れない人なのだろうか。もしくは馴染みのない場所では眠れないとか。

そんなに繊細そうには見えないけれど。むしろ図太い人だと思う。人をおちょくるのが何より好きそう。

 

胡乱げに見つめる俺の視線を受け、シオンは「あはは」と笑った。

「よいしょ」と言いながら身を寄せて来る。人の熱を間近に感じ、寄って来た分だけ横にずれようかとも思ったが、いちいちそんな細かい動きをしていては身がもたない。

そう言う事情から微動だにしなかった俺を見て、シオンは呆れた顔をする。

 

「君さあ……」

 

「なんですか」

 

「もし僕が夜這いに来たって言ったらどうするつもりなの?」

 

「……」

 

ちょっと言葉に困る。もしシオンが夜這いに来ていたら。一応考えてはみるものの、問いかけの意図がよく分からなかった。

どうするも何も、そっちがどう言うつもりなのか。

 

「あなたは男の子と言う話だったはずでは」

 

「僕はそんなこと一言も言ってないし、性別を偽ってる可能性を考えてみようよ。で、どうするの?」

 

「……こんな小さな子供を襲うんですかと訊ねます」

 

「小さな子供が好きなんだよと答えたら?」

 

「あっち行ってください変態」

 

「喜ばすだけだよ、それ」

 

罵倒で喜ばれてしまってはお手上げだ。何をすればいいのか分からない。打つ手が見つからない。

「じゃあもう無理ですね」とはっきり白旗を揚げた俺に対し、シオンは「諦めるなよ」と強い調子で思考を促してくる。

そう言うことならと、俺は両手を広げて受け入れる姿勢を作った。

 

「どうぞ」

 

「はい?」

 

「だから、どうぞ」

 

「何が?」

 

「貧相な体ですが、どうぞご賞味ください」

 

一転して虚を突かれた顔になるシオン。

出会って間もないから当たり前だが、そんな顔を見るのは初めてだった。

 

顔に向けられていた視線がついっと下に滑り落ちる。首筋から鎖骨を伝い、胸を経て腰辺りに。

舐めるような視線だった。人生で初めての体験だ。人の視線ってこんなに露骨なんだなと、若干の身の危険を感じ始めた辺りで、シオンはふいっと横を向く。

 

「まあ、今のは冗談なんだけど」

 

「でしょうね」

 

分かってたよと言う感じで応えはするものの、果たして冗談の一言で片づけていい内容だったろうかと首をかしげる。

シオンにそんな気がないことは一目瞭然で、分かっていて乗った俺も俺だが、そんな話題を振って来たシオンもシオンだ。

とは言え、言及するのは藪を突くのと同じ。変なものに出て来られても困るので、わざわざ蒸し返しはしなかった。

 

「寝てたんだけど、外が騒がしくてね。起きちゃった」

 

「申し訳ありません。少しゴタゴタしてまして」

 

「子供がいなくなったんでしょ? 可哀想だねえ」

 

知っているらしい。どこで知ったのか。

客間は近いから、盗み聞きしていたのかもしれない。案内する部屋を間違えた。うんと遠い客間にすべきだった。

 

「まだ何も分かっていませんよ」

 

「うん。大人はまだ何も分かってないみたい。折角警告したのに無駄になって。残念だね、レン」

 

肩に手を回され、慰めるような優しい手つきで撫でられる。

密着した身体から甘い匂いが漂ってきて、人の熱と柔らかさが伝わってきた。

 

「猿がどうこうは俺の想像です。何も確証はない」

 

「そうだったらいいなって、自分に言い聞かせてるように聞こえるけど」

 

「まだ何も分かってない。だからきっと――――」

 

――――きっと、なんだろう?

エンジュちゃんは無事で、猿の襲撃なんて杞憂に過ぎず、昨晩の襲撃も何かの間違いで。

そう言うことを言うつもりだろうか。子供の夢みたいな、優しくて甘い嘘を吐くつもりなのか。

 

もしそうなら、俺は自分を軽蔑する。

現実を見ず、備えるべきものに備えず、行動すら起こさない。そんな人間は、俺の嫌いな軟弱な人間そのものだ。

 

シオンが俺を見ている。言葉を途切れさせた俺を優しい眼差しで見つめている。

おもむろに開いた口から言葉が漏れる。眼差しとは裏腹な強い言葉。

 

「君も無能の仲間入りをするつもり?」

 

二の句が継げない。

無能と罵倒されて、そうではないと言い返す言葉が見つからない。

代わりに出てきたのは、縋る様な言い訳だった。

 

「身体が、悪いんですよ」

 

「みたいだね」

 

「何をしたって痛いんです」

 

「大変だね」

 

「一人で山に入っても、何の役にも立たないんです」

 

「うんうん。それで?」

 

後から後から口を衝いて出る言い訳に、シオンは律儀に返事をしてくれる。

だから口が滑った。続く言葉は懇願に近かった。

 

「俺に、どうしろって言うんですか」

 

「君はどうしたいの?」

 

どうしたいかなんて、そんなの決まってる。

けれどそれが出来ないから悩んでいて、どうすればいいかと聞いたのに。

 

溜息を吐き、落ち着けと自分に言い聞かす。

シオンに苛立ちを覚えたところで意味などない。今は現実を見るべきだ。

 

「これから、大人たちが山に入るみたいです」

 

「そうなんだ。忙しなく動いてるから、どうするのかなあって思ってたんだけど」

 

見たような口ぶりだ。実際見て来たのかもしれない。俺は気配で人の動きを感じ取っているだけだが。

 

「今はただ見つかることを祈ります」

 

「……ま、早く見つけないと凍死しちゃうかもしれないし。とりあえず、それでいいんじゃない?」

 

昨晩は雪が降った。

まだ積もるほどではないが、気温は零下に近い。もし足を挫いて動けなくなっているのなら、満足に暖を取ることも出来ないだろう。そのまま一晩明ければ凍死するかもしれない。

だから一刻も早く救助しなければならない。まだ生きていることに望みをかけて。

 

「じゃあ次は駄目だった時のことを考えようか」

 

「……」

 

「猿に襲われていた時のことだよ」

 

「……それは」

 

「死んでるだろうね」

 

言いようのない痛痒(つうよう)を覚えて、胸を掻き毟りたくなる。

もし猿に襲われたなら、生き残っている可能性はほぼない。そんなこと、わざわざ言われなくても分かっている。ただ、考えないようにしていただけで。

 

「これから山に入る人たちもどうかな。襲われるかも。危ないんじゃない?」

 

「複数人で入ります。群れている人間を猿は襲いますか?」

 

「襲うだろうねえ、猿なら」

 

猿について素人同然の俺は何も言い返すことが出来なかった。

ゲンさんがいれば話を聞くことが出来た。あるいは母上でもいい。誰でもいいから、頼りになる人がいてほしかった。

 

「でも、ま、今は大人たちに任せようか。じゃなきゃ何のために年食ってるか分からないじゃない。わざわざ身体ぐちゃぐちゃの11歳が首を突っ込んでも仕方ないよね」

 

「……なんで、俺の年を知ってるんですか」

 

「知ってるに決まってる。僕は君に会いに来たんだから」

 

一方的に話の終わりを告げたシオンは、ワクワクとした気持ちを隠すことなく部屋から出て行こうとし、襖の手前で振り向いた。

 

「変なことに巻き込まれたなあって思ってたけど、おかげで楽しくなりそうだから良かったよ。次はあんまり失望させないでね、レン」

 

場違いな笑顔が襖の向こうに消えるのを見届けて、俺は胸の内から湧き上がる感情を抑えていた。

 

失望ってなんだ。楽しくってなんだ。

子供が死んでるかもしれないのに、なんでそんなことが言えるんだ。

 

怒りが湧いて身体が震える。痛みを忘れるぐらいの怒りがふつふつと湧いてくる。

けれど、それをシオンにぶつけることはしない。

それが八つ当たりに過ぎないことは分かっている。

あいつにとって、この村で起こっていることは所詮他人事だ。誰が死んだとか誰が怪我をしたとか。そんなことは対岸の火事に過ぎず、一々同情する義務はない。

 

だから、この怒りを向けるべきは自分だろう。

もしまたエンジュちゃんが森に入ったのなら、それは俺の責任だから。

 

こんなことになるぐらいなら、嫌われてよかったし、泣かせてもよかった。そうすべきだった。

泣かせたくないとか、嫌われたくないとか、身体のことを言い訳に使って、八方美人を気取り、中途半端にしか叱れなかった俺の責任だ。

すべきことを先送りにした結果、取り返しのつかないことが起こって後悔している。

 

馬鹿だった。愚かだった。身体の不調を理由に甘えていた。

もうこんなことはしないなんて、先のことを考えてみても、それは俺の勝手な決意に過ぎなくて、エンジュちゃんには全く関係のないことで。

そう考えるだけで死にたくなる。こんなにも時間が巻き戻ってほしいと思ったことはない。

 

とにかく今は無事を祈るしかない。無事に見つかってほしいと心の底から祈り続けた。

 

 

 

 

 

次の日の朝。我が家に大勢の人間が押し寄せた。

何故我が家にそんなに人が来たかと言うと、この村に何十人と人が集まれる家は我が家しかないからだ。

普段は使われず、掃除の手間ばかりがかかる広間が開け放たれ、大人たちが集まった。

中には夫や子供を連れてきた人もいて、そう言う人には客間が貸し与えられた。

 

これだけの人間が集まった理由と言うのは他でもなく、昨夜エンジュちゃんを捜索するため山に踏み入った人たちの内、何人かが行方知れずになったためである。暗闇の中を獣に追いかけられたと言う人もいる。突然石が降って来て怪我をした人もいた。

 

ここに来て、ようやく村の人たちは気付き始めた。自分たちの身に危険が迫っていることに。

 

だからこうして我が家に集まった。

しかし剣聖はおらず、山に詳しいゲンさんもいない。そしていざと言う時、知恵袋の役目を果たしていた老人たちの内、四人がすでに亡くなっている。残った唯一の老人である村長は体調を崩してこの場にはいない。

 

それ故に議論は紛糾した。

何が起きているのか分からないと言う人が多い。理屈など放り投げ、感情的に喚き散らす人の姿は、獣の群れによく似ていた。

猿が襲ってきているんだと、俺の言葉を持ち出して主張する人もいたが、各々が言いたいことを言うだけで、議論は纏まりが取れず言い合いと化した。

 

統率する人がいない。それだけで人間はこれほどまでに醜態を晒す。

村長がいれば統率出来たかもしれないが、肝心の村長はこの場におらず、それに連なる老人たちもいない。

何とか場の主導権を握ろうと孤軍奮闘する人もいたが、誰もその人の言葉に耳を貸そうとはしなかった。

 

俺は末席でその様子を眺めていた。

上座には父上の姿があった。周囲の人間を落ち着かせようと必死に宥めている。頑張っているとは思うが、父上の言葉を聞く人は誰一人いない。

 

議論と呼ぶにはあまりにお粗末な光景を目の当たりにし、この人たちは頼りにならないことを悟った。

剣聖の庇護下でぬくぬくと暮らしていたからだろうか。しかし、飢饉の心配が出てきた時にはそれほど大きな騒ぎにはなっていなかった気がするから、老人たちがしっかり手綱を握っていたのだろう。

年長者とは偉大なものだ。経験豊富で頼りがいがある。俺もそういう人間になりたいと思った。いつまで生きられるかは分からないけれど。

 

とにかく、今はすべきことをしようと隣にいた人に話しかける。その人は興奮して立ち上がり、何事か叫んでいたので、裾を引っ張って存在をアピールした。

 

「すみません。いいですか」

 

「はい!? ……あ。な、なに?」

 

突然話しかけてきた俺と言う存在に、一気に毒気が抜かれたその人は、頬をひくつかせながら応じてくれた。

 

「猿は食べられますでしょうか」

 

「……え?」

 

「あの猿は食料になりますか」

 

「しょくりょう……え?」

 

話は通じているのだが、今一理解してもらえない。辛抱強く繰り返す。

 

「つまり、猿を殺す時に、どう殺すかと言う話です。食べられるなら、食べられるように殺しますし、食べられないなら遠慮なく殺します。どっちがいいでしょうか。猿は食べられますか? 食べられませんか?」

 

ゲンさんに聞けばすぐ答えてくれそうな質問だったが、いないのだから仕方ない。

間近にいる人に聞いてみて、知らないなら知っている人に聞いてもらう。繰り返していけば、誰か一人ぐらい知ってる人がいるだろう。何なら村長に聞いてもいい。体調不良らしいが、そんなこと言ってられる状況ではない。

 

ポカンと口を開け、間抜け面で突っ立つその人は知らないらしい。なら他に知ってそうな人はいないかと訊ねる。

 

「安心してください。殺せと言っているわけではないので。俺が殺しますので」

 

反応が鈍い。なぜ? そんなに理解し難かっただろうか。よく分からないことを言っていただろうか。

時間がない。急ぎたいのに。何度も訊ねなきゃダメだろうか。

ああ、そっちの人も、馬鹿みたいに叫んでる暇があるなら、俺の話を聞いてほしい。答えてほしい。早く答えて。

 

「村長なら知ってますか? どうですか?」

 

早く答えろと目で圧力をかけながら、辛抱強く問い続ける。




Q. 窓ガラスあるんだ?
A. ありますね。以前からちょくちょく窓ガラスは登場していましたが、今回改めて疑問に思う方がいらっしゃったようなので断言しますと、主人公の家に窓ガラスはあります。具体的には縁側の雨戸部分にガラス戸が使われています。もしかしたら、全身鏡もどこかで出てきていたかもしれません(記憶違いかもしれません)。

Q. 窓ガラスの時代設定おかしくない?
A. 結論から言うと、権力者の家には普通に窓ガラスが存在する世界です。レン君の家はお風呂があるぐらい大きな家です。かつては椛の祖母である雅様が住んでいた家で、現在では今代の剣聖である椛が住んでいます。この二人はとてつもない権力者なので(椛の祖母である雅については、本編の44話で触れています)、家を建てよう、修繕しようとすると相応に豪華な家になります。本人が望んでいなくてもそうなります(椛の場合は相談していけない人に相談したと言う事情もありますが)。そのため、主人公の家には窓ガラスがついています。

Q. 窓ガラスは一般にはどのくらい普及してるの?
A. 不明です。個人的な事情を言うと、あまり設定を詰めて矛盾を作りたくないので、柔軟かつ幅広い設定を適用しています。つまり曖昧と言うことです。
一応、作者の頭の中ではっきりしている事例を言うと、まずゲンさんの家にガラスはありません。関係あるかはわかりませんが、ゲンさんは村で一番の貧乏人の設定です(五十歩百歩ですが)。
そして自警団の屋敷。54話でアキちゃんとカオリさんが仲良く語り合った縁側ですが、そこにガラス戸はないと思います。あのシーンは両者足をぶらぶらさせているイメージで書いたので、雨戸すらなかったかもしれません。
最後に和達の屋敷ですが、48話に「アザミは一人窓の近くに寄って空を見上げた」「開けた窓から身を乗り出して」と言う描写があります。これは、窓を通して空を見上げることが出来ると言うことと、身を乗り出せるぐらいには開く窓があると言うことなので、少なくとも和達の屋敷には開閉式の窓があり、もしかしたら窓ガラスが使われているのかもしれません(可能性としては、窓と言いつつ穴が開いているだけの可能性もあります)。
改めて答えますが、窓ガラスが一般にどのくらい普及しているかは不明です。

Q. 主人公の家の設定ってどんな感じ?
A. 親子が別々に寝れる部屋やたくさんの客間。59話で言及された広間があって、縁側に土間、お風呂(湯屋)があります。どうでもいい設定としては、押入れは客間にしかないとか、お風呂(湯屋)は母屋から離れた場所にあるとか、そう言う設定があります。近い将来、レン君が苦肉の策で押入れに逃げ込み、アキちゃんに追い詰められる姿が見られるかもしれません。没ネタですけど。

以上、Q&Aでした。


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第60話

猿は骨が多くて食べづらいが、食べられないほどではないとのこと。

五人目でようやく語ってくれたその話は、本人曰く年寄りの伝聞だそうだが、とりあえずはそう言うことらしい。

その人に礼を言って、広間を後にした。

 

これ以上あそこにいて得られる物はないだろう。まだ喧々諤々と議論は続いているが、それもどこかに帰結するとは思えない。

あの場で決まることは何もないのだと思う。時間を無為に費やしているだけだ。その間にまた誰かが襲われないとも限らない。

頼りにならない人たちを頼るのはやめにした。誰も何もしないのなら、猿は俺が殺すことにする。そう決めて、行動に移った。

 

まずは武器の調達。

家には母上の予備の刀があるが、今の俺に普通の刀を扱い切れるかは怪しいところがある。

鋼の塊でただでさえ重いところに、鞘に鉄が仕込まれていて更に重い。そんなものを持って歩き回るのは難しそうだ。

かと言って他に武器になりそうなものとなると、軽さでいえば包丁とか、あるいは鍬を始めとした農具とか、そう言うものになる。

 

しかし、包丁を握りしめて猿を殺しに行くのは蛮勇としか思えない。

確かに軽いと言えば軽いのだが、あんなもので『太刀』が使えるはずもなく、使い道と言えばザクザク突き刺すしかない。一匹や二匹ならともかく、複数匹に包丁で立ち向かうのは無謀に過ぎる。

ならば農具はどうかと言うと、やっぱりこちらも『太刀』なんて使えないし、手に馴染みがなさ過ぎて持て余しそうだ。鍬とかは先っぽに金具がついているので、振り回すと身体を引っ張られて転がりかねない。

 

短所ばかりが浮かぶ。とはいえ無い物ねだりしても始まらない。何か他に武器になりそうなものはないかと考えつつ、最悪は包丁と鎌をいくつか持って行くことになるかと思案していたら、ふと思い浮かんだものがある。

 

普通の刀ほど重くはなく、『太刀』も使えるであろう武器。

多分、現状を考えればそれはベストな選択のはずだ。感情面では複雑どころの話ではないが、この状況で感情を優先させては馬鹿を見る。

 

問題は母上があれをどこにしまっているのか。

記憶を探っても見かけた覚えはない。目の届かない場所に置いてあるのは確かだ。ひょっとしたら捨ててしまったのかもしれない。だとするなら探したところで見つかるはずもないが、しかし今の俺にあれ以上の武器はない。一縷の望みにかけて探してみることにした。

 

とりあえず母上の部屋に向かった俺の背中を、パタパタと足音が追いかけて来る。

振り向くまでもなく正体は分かっていた。横に並んだ人影を一瞥して問いかける。

 

「何か御用ですか」

 

「僕の方からは特に何も。君の方は何かある?」

 

シオンは聞き返してくる。あるよね? と言う顔で。お見通しだと言う素振りで。

 

「……実は、手伝っていただきたいことがあります。ろくにお礼も出来そうにありませんが」

 

「いいよ」

 

即答だった。あまりに考えなしに見えたから、不安に思ってこちらから確認する。

 

「まだ何も言ってませんが、本当にいいんですか?」

 

「猿退治でしょ? 全然構わないよ。お礼とかも別に。むしろ待ってたぐらいで」

 

目を輝かせるシオンはあからさまにウキウキしていた。楽しくなってきた、と言うことだろうか。

やはり、シオンは俺の考えをある程度見透かしている。正直良い気分ではないが、話が早いのは楽でいい。

 

「まずはどうしたらいいかな。どうやって退治しようか。何か策はある? 攻める? 守る?」

 

「……ひとまずは探しものです」

 

「害獣用の罠とか?」

 

「杖です」

 

予想外の言葉に首をかしげるシオン。

俺は母上の部屋の襖を開けながら言葉を足した。

 

「仕込み杖です」

 

 

 

 

 

母上の部屋をしらみつぶしに探してみて、目当ての杖は見つからなかった。

部屋の中心に腰を下ろし、杖はどこにあるのかと頭を悩ます俺の目の前には、胡坐をかいて座るシオンがいる。シオンはどことなく憮然とした様子で口を開いた。

 

「仕込み杖って、なんでそんな卑怯臭い物があるのさ。剣聖に相応しくないよ」

 

「母上の持ち物じゃありません。襲ってきた人の遺品です」

 

母上に対する風聞を守るため、割愛して説明した。

真面目に話せば長くなるのは目に見えている。そんな時間はない。

 

「遺品なんて残してあるんだ」

 

「恐らくですが」

 

「なんで?」

 

「なんでと言われても」

 

先代の剣聖だから。母上の師だから。形見だから。もしかしたら、そういう理由で残してあるかもしれない。

それでいて、アキを斬り、俺を斬った刀でもあるから、とっくに処分してしまった可能性もあるのだけど、どちらかと言うと残してある気がする。先代の剣聖がああなったのは自分のせいだと、母上は考えている気がするから。

 

隠し場所としてはどこだろうか。さすがに、俺に見られたらまずいぐらいの感情はあるだろうから、条件としては俺の目の届かない場所。絶対に目に触れない場所。

 

考えながら部屋を見回した。

ヒントになるようなものは見当たらず、開け放たれた襖の間から縁側を通して馬小屋が見えた。隣にはトカゲ小屋がある。

もしかしたらと思った。思いついた馬鹿な考えは、しかしすぐに否定される。いくらなんでもあんなところに置くはずはない。いくら母上でもそんなことはしない。

そう思いながらちょっとだけ怪しんでいる自分がいる。でも母上なら……。その思いを否定しきれない。

一応、あれは番犬代わりにはなるよなと別の理由も思いついてしまった。そっちを目的として、ついでに探してみて損はなさそうだった。

 

「シオンさん」

 

「なに?」

 

「酷い目に遭う覚悟はありますか?」

 

「は?」

 

言葉の意味をまるで理解していないシオンは、俺が一点を見つめていることを不審に思い、視線を辿ってトカゲ小屋を見つけた。

あそこに何かあるのかと訝しんでいる。

 

「え、なに」

 

「覚悟があるならついてきてください。ないならいいです。部屋に戻って布団被って寝てください」

 

ちょっと挑発気味に言ってみたら、シオンは誰に物を言ってると言う感じで立ち上がった。

負けず嫌いらしい。分かりやすくていい。一つ覚えた。

 

シオンを伴いトカゲ小屋へ。特に説明もなく開けようとする俺に、シオンは待ったをかける。

 

「ちょっと待って」

 

「なんですか。怖気づいたんですか。じゃあ布団に包まって寝てください」

 

「あんまりそう言うこと言ってるといい加減泣かすけど。これ中身なに? まさか剣聖とか飛び出してきたりしないよね?」

 

「剣聖が飛び出すと何かまずいことでもあるんですか」

 

「うん。刀持ってこなくちゃ」

 

何か母上を怒らすことでもしたのだろうか。

 

「中身はトカゲです。刀はいりません」

 

「……なんで、蜥蜴(とかげ)

 

「母上に忠実な(しもべ)なんです」

 

他に聞きたいことはないかと訊ね、シオンは不安そうに瞳を揺らしながら「……ない」と答えた。

 

「気が向かないならあっち行ってていいんですよ」

 

「あともう一回ぐらい僕を見くびる様なこと言ったら怒るからね。……いいよ。早く開けなよ」

 

「じゃあ開けます」

 

「――――あ、ちょっと待って。その蜥蜴の大きさってさ」

 

シオンが何か言っていたが、戸を開く方が早かった。

開きながら、俺は戸の影に隠れる。長年の経験と勘がそうさせた。

 

長々と戸の前で話し込んでいたせいで、すっかりスタンバイが済んでいたトカゲは、戸が開くと同時に猛烈な勢いで飛び出してくる。

俺の横を通り抜け、シオンに向かっていく。シオンは突然のことに目を丸くしながら、その手は反射的に腰の辺りを探っていた。いつもならそこに刀があるのかもしれない。でも今は刀を帯びていない。

 

トカゲがシオンの居た場所を過ぎた時、辛うじてシオンは飛び退いていた。

シオンの顔が恐怖に引き攣っている。

 

「なんで!?」

 

悲鳴のような声があがった。

 

「よりによってなんで!? もっと南が生息地でしょ!? なんでこんなところにいるの!?」

 

言ってる間に、Uターンしたトカゲがシオンに襲い掛かる。

トカゲは俺のことなど目にも映らない様子で一心不乱にシオンに突撃していた。

 

シオンに狙いが集中するのは予想外だったが、この好機を逃す理由はなく、俺はトカゲの寝床を漁る。

もしかしたら、この藁の中に杖が隠されているかもと思ったのだが、流石にこんな場所に隠してはいなかったようだ。

まあ、こんなところに置いといたら錆びるし。そうなるぐらいなら処分するだろう。

 

当てが外れ、小屋から出てシオンを探す。

いつの間にやら、シオンは近くの木に登っていた。その木の周りをトカゲがぐるぐると回りながら、時折木を揺すって落とそうとしている。

揺すってはシオンを見上げ、揺すってはまた見上げるその姿からは、今までにない妙な執念深さを感じた。しばらく誰も構っていなかったから、誰彼構わず遊んでほしいのかもしれない。

 

その標的にされたシオンが、木の上から俺を見ている。

 

「助けて」

 

頭上から聞こえたその声は、今までで一番切実だった。

 

 

 

 

 

結局、トカゲは俺を発見するや否や俺に襲いかかって来て、悲鳴を聞きつけてやってきた大人のおかげで難を逃れた。

そのまま助けが来なければ死んでいたかもしれない。少なくともトカゲの下敷きにはなったわけだし。

 

力づくで組み伏せられ、手も足も出ない状況には恐怖を覚えた。思い出すだけで身体が震える。多分本能的な恐怖だと思う。生涯でも類を見ない酷い体験だった。

 

家の敷地をのっそのっそと歩き回るトカゲを物陰から観察しながら、シオンが淡々と告げて来る。

 

「殴ってやろうかとも思ったけど、君もひどい目に遭ってたから許してあげるよ」

 

「ありがとうございます」

 

シオンにとってはどちらかと言うと加害者側にいる俺だったが、被害者仲間と言うことで許しを得た。

トカゲはきょろきょろと辺りを見回して獲物を探している。あれでいて村の人にはほぼ襲い掛からない。母上の調教の賜物だ。

先ほどシオンに襲い掛かったのは村の住人じゃないからか、もしくは強者の気配でも感じたのかもしれない。

奴は強い人間になら襲い掛かっても大丈夫だと思っている節がある。

 

予想以上に酷い目に遭ったが、とりあえずトカゲは解放した。これで万が一猿が襲ってきても大丈夫だろう。

あいつが猿ごときにやられるところは想像できない。例え十数匹の猿に襲いかかられても平然としている姿が容易に想像できる。一騎当千で蹴散らしてくれるに違いない。

 

「ところで、杖はあった?」

 

「なかったです」

 

「だよね。あんなところにあるわけないから」

 

そんな当たり前のことも分からないのかと、怒りの籠った口調だった。許すと言いながらも根本的には許されていないらしい。

実はトカゲを解き放つのが主な目的で、杖はあくまでもついでだったのだが、とりあえず反論はしておく。

 

「母上のことだから分かりませんよ。トカゲの腹に巻き付けてる可能性だってあるんですから」

 

「そんなわけ」

 

口では否定しながら、注意深く観察を続けるシオン。心なしか視点が下がっていっているようなので、腹に何か巻き付いていないか確認しているようだ。

 

少しずつかがんでいくシオンを横目に見ながら、俺は膝を抱えて座り込んでいた。

先ほどトカゲに組み伏せられたせいで、精神的にも肉体的にもダメージを負ってしまった。今は痛みが治まるのを待っている。

 

「レン」

 

「なんですか」

 

「なかったよ」

 

「そうですか」

 

知っている。圧し掛かられた俺が言うのだから間違いない。あるはずがない。

 

「レン」

 

「はい」

 

「大丈夫?」

 

「問題ありません」

 

あくまでも事務的に答える俺をどう思ったか、シオンが俺の横に座り肩に手を回してきた。自分の方へと引き寄せて来る。

跳ね除ける力もなかったからされるがままだった。相変わらず感触は柔らかい。

 

そのままお互い何もせず、話すこともせず、昨晩と同じ甘い匂いに包まれながら、静かな時間が過ぎていく。

こんなことをしている場合ではないとも思うけど、先々のことを考えれば今は休んでおくべきだった。どうせ無茶をすることになる。

だからと言って、シオンがくっついてくるのを容認する理由にはならないけれど、まあいいやと思う。くっつきたいならくっつかせておけばいい。

 

そんな感じで二人でくっついていると、玄関口の方から足音が聞こえて来た。父上の気配がする。

こんなところを見られたら妙な誤解が生まれる。この状況で更なる面倒事は避けなければならない。

シオンを押しのけようと力を込めて、それ以上の力で引き寄せられた。

 

「あの」

 

「なに?」

 

「離してください」

 

「やだ」

 

シオンの目が輝いている。

この状況を楽しんでいるようだ。もしかしたらトカゲの件の意趣返しかもしれない。俺としてはたまったものじゃないのだが。

父上が俺を呼ぶ声が聞こえ、シオンが「こっちだよー」と答える。余計なことをしてくれたと離れるのに必死になり、シオンは俺の頭を掴んで自らの胸に抱き留める。

 

「レン? こんなところで何して――――本当に何してるの?」

 

物陰で抱き合っていた俺たちを見て、父上の口調が冷え冷えとしたものになる。

傍目に見て、仲睦まじいにもほどがある構図だ。そう言う仲なのかと邪推するのも無理はない。

しかもシオンと俺は昨日出会ったばかり。と言うか、シオンは男の子じゃなかったのか。

そんな父上の思考が手に取るように分かった。

 

「こんにちは、お父さん!」

 

「こ、こんにちは……」

 

嫌味ったらしいほど元気のいい挨拶に、父上は困惑気味に応じた。

シオンはこの状況が楽しいらしい。楽しくて仕方がないらしい。声だけでニコニコしているのが分かった。その胸に抱かれている俺は無表情だ。

 

「ほら、レン。お父さんが呼んでるよ。いつまでも抱き着いてないで行ってあげなよ」

 

まるで俺が好きで抱き着いているかのような口ぶりだった。誤解を助長させる気か。

シオンの腕の中から、くぐもった声で抗議する。

 

「……これは、何の嫌がらせでしょうか」

 

「蜥蜴の仕返し」

 

「許すって言ったのに」

 

「だからその分可愛い仕返しでしょ?」

 

「どこが? 人生に関わる仕返しなんですが」

 

「責任は持つから。大丈夫」

 

溜息を吐き、シオンを押しのけて立ち上がる。

振り返り、父上の方に歩き出そうとしてふらりと転びかけた。

抱き留めようとした父上よりも一瞬早く、後ろからシオンに支えられる。

 

「大丈夫?」

 

「どうも」

 

直前のこともあって感謝の言葉はおざなりに済ます。シオンはそんな俺の態度すらも愉快そうにしていた。

極力その顔を見ないようにしながら父上の近くに寄る。

 

「何でしょうか」

 

「あ、うん……。話が、あるんだけど……」

 

そう言いながらもシオンが気になって仕方がないらしい父上は、チラチラとシオンに視線を向けながら話している。

こんな状態では集中したくても出来ないだろう。俺も聞きたいことがあったので、もっと落ち着いて話すために場を移すことにした。

 

「家に入りましょうか」

 

「……」

 

「父上?」

 

「……そうだね」

 

何かを悩んでいる様子の父上と二人で家に向かう。

後ろからシオンが問いかけてきた。

 

「僕は何をしてればいい?」

 

「大人しくしててください」

 

「了解」

 

出会ってまだ二日ほどだが、早くも互いに遠慮がなくなってきた。

と言うか、遠慮なんてしてたら振り回されるばかりだ。

礼節を投げ捨てるぐらいの気持ちで接する方が良いかもしれない。あっちが振り回してくるのなら、こっちも振り回してやろうと言う気概が大事そうだ。




終わり方が唐突だと思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、レン君とシオンのやり取りが思った以上に長くなったので途中で切りました。
作者の想定以上にシオンがレン君を気に入っています。多分ちっちゃい上にからかってて面白いんでしょう。たまに反撃してくるので更に楽しいんだと思います。
その調子で仲良くなってほしいです。


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第61話

「あのね、レン」

 

シオンの姿が見えなくなって早々、まだ家にも入っていないと言うのに父上が口火を切った。

一歩前から振り向いた父上は、人差し指を立てながら諭すような口調で語りかけて来る。言いにくいけど、言わなくちゃいけない。節々からそんな気配が感じられた。

 

「男の子を好きになってもいいけど、女の子も好きにならなきゃ駄目だからね」

 

わざわざ探していたぐらいだから、さぞかし大事な用件だろうと待ち構えていたら、実際言われたのはそんなことだった。何を言っているのかと目を瞬かせる。

内容を理解して、もう一度考えてみて、やっぱり意味が分からない。分かることは一つだけ。多分、父上の目は節穴だ。そうとしか思えない。

 

「なんの話ですか」

 

「男の子同士も駄目ってわけじゃないけど、子供は作らなきゃいけないから。だから女の子も好きになるんだよ」

 

何を言えばいいのか分からない。

なんだか無性に目頭を揉みたくなる。現実逃避がしたかった。物理的にも一度目を逸らしたかった。

うつむき、足元を見ながら言葉を探す。

 

「……男の子同士っていいんですか?」

 

「よくはないけど……でもそれが好きな人もいるから……」

 

奥歯に物が挟まったような言い方だ。

推奨はしない。だから自己責任で。そう言うことだろうか。

 

「女の子同士もありなんですか」

 

「……うん……それが好きな人もいるだろうから」

 

そうなんだ。

別に同性愛に思うところはないけれど、じゃあ自分がそうかと言うと違うので。多分、普通に異性が好きだと思うから、知識として覚えておくことにする。

 

「シオンのことなら違いますよ」

 

「……でも、抱き合ってた」

 

「無理やり抱きしめられたんです」

 

「……え?」

 

難しい顔で唸り始めた父上を置いて、一人家に戻る。

開けっ放しの玄関口をまたいで土間に腰を下ろし、ふうと息を吐く。

後からやって来た父上が玄関を閉めるのを見ていた。閉めるや否や、父上はすぐ側に座って怒涛の勢いで念を押してくる。

 

「子供は大事だからね。作らないと駄目だからね。じゃないと行く宛てないからね」

 

「わかってます。多分、その内ちゃんと作ります」

 

「……えっと、子供の作り方は知ってるの?」

 

「知ってます」

 

自分で聞いて来たくせに、答えてみれば釈然としない面持ちとなってしまった。そんな父を呆れ眼で見ていたら、家の中からバタバタと子どもの走り回る音が響いてくる。「ひろーい!」と楽しそうな声が追随する。

やけに賑やかだなと中の様子を探れば、子供のみならず大勢の人が客間にいるようだった。まだ広間で議論しているのかと思ったが、そっちはすでに終わっているらしい。

 

「他人様の家で走り回るな!」

 

「はーい!」

 

母親らしき人の怒鳴り声。子供の返事。鳴り止む気配のない足音。今まで、この家がこんなに賑やかになったことはない。アキがいてもここまで騒々しかったことはない。でもやっぱり子供は元気が一番だ。

自然と微笑みがこぼれ、エンジュちゃんのことを思い出す。心に冷や水を浴びせられた気がした。

 

「何人か家に泊まることになったよ」

 

「……なぜでしょうか」

 

「大勢集まっていた方が襲われにくいってことで」

 

事後承諾でごめんねと謝って来た父上にいえと答える。

別段、俺に拒否する意思はないし、その立場にもない。

実際、集まれば集まるほど襲われにくくはなるだろうし、悪い判断ではないだろう。食料に関しては各自持ち寄ってほしいところだが。

 

「もう一つ決まったことがあって」

 

「なんでしょう」

 

「今夜、山狩りに出るって」

 

「はい?」

 

理解が追い付かず反芻する。

やまがり……山狩り?

何を狩るつもりだ? 食料でも探しに行くのか? こんな時期に?

 

理解は出来ても意味は分からない。

答えに至る前に、分かりやすい言葉が足された。

 

「猿を駆除しに行くことになったんだ。大人たちみんなで」

 

その言葉で、頭の中がぐるぐると回り始める。

夜に、猿を狩りに、山に、行く。

 

一語一語噛みしめて呟く。

剣聖はいない。ゲンさんもいない。纏まりのなかった広間の様子を思い出す。到底、上手くいくとは思えない。

 

「え……なんで、そんなことに……」

 

「猿は昼行性なんだって。だから夜なら寝てて無防備だろうから、その時にみんなで襲おうって話になって」

 

誰がそんな話をした?

広間の議論がそんなところに帰結するのは予想外だ。誰かが纏めたのか。よく纏められたな。終始言い争うだけで結論なんて出ないと思っていた。

 

「昨日、襲われたのは夜ですよ。昼行性だって言いきれますか?」

 

「それは……」

 

「ゲンさんもいないのに、夜の山を行くんですか?」

 

「……」

 

「そもそも、猿が襲ってきてるってみんな納得したんですか?」

 

俺みたいに気配を探って手がかりを得られるならともかく、ほとんどの人は何が起こっているのか分かっていないだろう。

何か異常な事態に見舞われている認識はあっても、それが猿によるものだとは断言できないはずだ。

それを思えば会議が紛糾するのも、そのせいで後手に回ってしまうのも、当然と言えば当然の話だった。

 

それなのに一体誰が話を纏めたんだと、顔も分からない誰かのことを憎々しく思っていたら、思いがけない言葉が父上の口から飛び出した。

 

「みんなのことは、僕が説得したんだ」

 

唖然としてまともに声が出なかった。

辛うじて「なんで」と、か細い声が口を衝いて出る。

 

「だってレンが言うんだから間違いないよ。椛さんの息子だもん」

 

「……」

 

「もちろん協力はしてもらったけど」

 

「……」

 

「でも言い出したのは僕だから、一緒に行くことにしたよ」

 

頭を抱えたくなった。次から次へと落とされる爆弾に振り回されている。

なぜ? と思う。単純に、どうしてそんなことになっているのかと。

 

「僕がみんなを説得したから、責任はとらないと」

 

「……」

 

「大丈夫。最近鍛えてるんだ。レンは安心してゆっくり寝ててね。危ないことは全部僕が終わらせておくから。守るから。レンのこと」

 

足元に視線を下ろし、考えを纏める。言うべきことを考える。

直前まで混乱していた思考は一周回って落ち着いた。何を言うべきかはすんなりと思いついた。

 

「心配してくれて、ありがとうございます」

 

自分の口から出たとは思えない声に、自分自身で驚く。

あまりに機械的な声だった。感情がこもっていない、抑揚のない声。

こんなことを考えている間も、無意識に口が動いている。

 

「でも、駄目です」

 

「え……? 駄目って、どういう意味?」

 

「そのままの意味です。だから、どうかお願いします」

 

依然、俯いたまま告げる俺に、父上は訝しげに聞き返してくる。努めて冷静を意識して告げた。

 

「父上が山に登っても何の役にも立たないので、ただ殺されるだけの足手纏いにしかならないと思うので、父上の方こそ家で大人しくしててください」

 

きっぱりと告げたその言葉に、父上は息を呑む。

 

「代わりに俺が山に登って奴らを皆殺しにしてきます」

 

視線を上げ、正面から父を見据える。動揺し傷ついたその顔を見てわずかに心が痛んだが、仕方のないことだと割り切った。

 

多少なりとも酷いことを言った自覚はもちろんある。例え事実だったとしても、言い方というものもあっただろう。

けれども、こんなことで傷つくような人が山に登ったところで、一体何の役に立つと言うのだろう。ただ山を登ればそれでいいと言う訳ではない。命のやり取りはそんな生半可なことではないのだと、俺は身を持って知っている。

 

「ぼ、僕だって!」

 

ようやく我に返った父上が、激情に駆られ詰め寄りながら言い募って来る。

 

「僕だって鍛え始めたんだ! また足手まといになるのが嫌で、椛さんやアキには遠く及ばないかも知れないけど、今のレンに比べれば役に立つと思う!」

 

「立ちません」

 

「なんで言い切れるの!?」

 

どうやら引く気はないらしい。

小さく息を吐く。視線を切り、あらぬ方向を見やる。

 

「父上だけじゃありません。他の大人たちも、今のままでは決して役に立たないでしょう」

 

どこまでも淡々と告げる俺の言葉を、父上は頭を振って否定する。そんなはずはないと。あれだけたくさん集まっているのだから、必ずやり遂げられると。

父上はそう信じているようだが、俺にそう思わせるほどの根拠は何もない。

 

「父上は知らないでしょうが、奴らはどうやら頭が良い。何の策もなく飛び込んでは一網打尽にされるだけです」

 

「どうして、そんなこと分かるの……」

 

「感覚的なものなので説明は難しいですが、俺はそう思っています」

 

「……なら、間違ってるかもしれない」

 

「そうですね。もし間違っているのなら、猿が襲ってきていると言うところから考え直さないといけません。ところで、父上は先ほど信じると言ってくれましたが、これについては信じてくれないのですか?」

 

ある程度意識してのことだったが、思った以上に嫌味ったらしい言葉になった。

信じたいものを信じ、信じたくないものは信じない。人間らしいと言えばそれまでだが、この状況で都合が良いことだけを信じられるのは困る。

 

「……僕は、役に立たないかも、しれない。確かに、そうかも……。でも、レンが行ったって同じことでしょ?」

 

途切れ途切れの言葉で、父上は自らの力のなさを認めた。

それが出来るだけ自分と言うものを知っている。あるいは、もっと優先すべきものがあるからこそ言えたのかもしれない。

 

「そんな身体で何が出来るの? 普通の生活も出来ないのに、山に登るなんて、出来っこないよ……」

 

「はい。その通りです」

 

「だったら――――」

 

「だから、助けを借ります」

 

わずかに父上の視線が惑う。

 

「……誰に?」

 

「シオンに」

 

告げられた名に、父上は理解出来ないと頭を振る。

 

「昨日会ったばかりの人に助けを求めるの?」

 

「はい。それが一番だと思うので」

 

「――――僕は?」

 

その声は、ともすれば叫びそうになるのを我慢している。そんな声音だった。

 

「僕は父親だよ? そんなに頼りにならない? 僕じゃなくて、見ず知らずの人に助けを求めないといけない理由は何?」

 

「強いからです。シオンは強い。だから助けを求めました」

 

「なんで、わかるの?」

 

「……これも感覚です。分かったから、分かったんです」

 

くしゃりと父上の顔が歪む。

誤魔化されていると思ったのかもしれない。

この感覚は父上にはわからないだろう。けれども、俺には分かる。見れば、話せば、顔を合わせれば。多少なりとて武の心得があるのなら、相手がどの程度の強さなのか。感覚で理解出来てしまう。

 

「それでも、僕はレンを守りたい……。誓ったんだ。守るって。今度は足手まといにならないって……お願い、行かないで。無理をしないで。大人しくしてて。ちゃんと出来るから。僕一人じゃ無理でも、みんなとなら――――」

 

「あなたも、この村の人も、今の状況では誰一人頼りにならない。俺が行きます。足手纏いにうろつかれてはかえって邪魔になりますので、家にいてください」

 

今一度、はっきりと足手纏いだと告げた。父は俯き、身体は震え始める。

泣くのを堪えているのだろうと思った。あるいは、すでに泣いているのかもしれない。可哀想なことをしたなと思った。

でもこれぐらいしなくてはならない。例え嫌われようとも、エンジュちゃんと同じ過ちを繰り返してはならないのだから。

 

話は終わった。これ以上話すことは何もない。

本来の目的に返らなくてはならない。

 

「一つ、聞きたいことがあるのですが」

 

答えてくれるはずはないと分かっていたが、念のため聞いておく。

 

「母上が杖を持っていませんでしたか。中に刀が仕込んである杖なのですが」

 

ぴたりと父の身体の震えが止まる。俯いたまま答えてくれた父の言葉は、意外なほどに冷静で落ち着いていた。

 

「――――それをどうするの」

 

「アキに自分の刀を渡してしまったので、使わせてもらおうかと」

 

告げた瞬間、父がすっと立ち上がる。

眦に涙の跡が光り、代わりに瞳に光はなかった。

不安になるその表情のまま「待ってて」と抑揚なく告げられ、声をかける暇もなくその場を去って行く。

ほどなくして戻って来た父の手には見覚えのある杖があった。アキを斬り、俺を殺しかけたあの杖だ。

 

「父上が持っていたんですか」

 

「……これなら、僕でも使えるかと思って」

 

先んじて、母の部屋から持ち出していたのだと言う。どうやら、母上は隠していたわけではないらしい。いや、隠すことには隠してはいたのだが、自分の部屋に隠していただけだった。考えてみれば、普段俺が母上の部屋を物色することなどないし、頭を捻って隠し場所を工夫する必要などなかった。

 

その場に立ち上がり、父上と向かい合う。

土間の上に立つ俺から、床の上に立つ父上を見上げる格好になった。

相変わらず光のないその瞳を見つつ、少しばかし警戒しながら手を差し出す。

 

「貸してもらえますか」

 

「レン」

 

静かで、尚且つ力強い呼びかけだった。

覚悟と狂気がないまぜになった声音で、それを聞いた瞬間嫌な予感が全身を駆け巡り、おもむろに刃を抜いた父が切っ先を俺に向けて来る。

 

「行かないで」

 

「……」

 

包丁を握る様な持ち方で、両手で杖を握っている。

その身体はがちがちに強張っていた。この様子では突き刺すことしかできないだろう。走って向かってくるに違いない。その光景が容易に想像できる。

 

「行ったら刺す」

 

「……」

 

切っ先と父の顔を見比べる。

面倒だと言う思いが真っ先に来た。刀など持ったことがないのはすぐに分かった。

身体に走る震えのせいで、ろくに目標も定まっていない切っ先を向けられても、恐怖など覚えるはずもない。どこに来るか分からなくて、ちょっと危ないなと思うだけだ。

 

「レン」

 

「何と言われようと、俺は行きます。刺すと言うならどうぞ刺しに来て下さい」

 

わずかに父の目が見開かれる。

杖を握る拳に力が込められたのが見て取れた。

来るかなと疑念を抱き、来ないだろうと確信する。あれだけ守らせてと言っておきながら、その対象を刺すなんて真似、この人に出来るはずはない。

 

「あなたに俺が刺せますか?」

 

「……刺せないよ。決まってるよそんなこと」

 

全身の力が抜け、だらりと崩れ落ちた父に歩み寄ろうとして、その手がゆったりと動く。今度は、刃を己の首に当てた。

 

「これなら、どう?」

 

「……」

 

「レンが行ったら、僕は死ぬ。これならどう?」

 

その問いかけには、すぐに答えることは出来なかった。簡単な二者択一ではあるのだが、天秤にかけられているものがあまりに重い。

考える時間を稼ぐために質問する。

 

「……どうして、そこまでするんですか」

 

「どうして? おかしなことを言うね。僕は父親だよ? 息子を守りたいと思うのは普通のことだし、身体を張ってでも無茶を止めるのは親の役目だよ?」

 

「その身体の張り方は正気じゃない」

 

「どうかな。正気じゃないのはどっちだろう。僕かな? それともレンの方かな?」

 

「俺は正気ですよ」

 

「死ぬつもりなのに?」

 

思いもしなかった問いを受け、答えるのに間が空いた。

その間が答えになっていた。

 

「子供の死を見たい親がいると思う? 僕は二度と嫌だ。あんな思いは」

 

「……」

 

「お願い。行かないで。僕が何とかするから。僕が守るから。頼りないかもしれないけど、足りない分は命を懸けて補うから」

 

息を吐く。身体から力を抜く。

両手を上げて降参と言うポーズを取った。それで、父上の瞳にわずかに光が戻った。俺が諦めたと思ったのだろう。

その希望が心に隙間を作った。父上の背後から聞こえて来た子供の声が、心の隙間に日常を呼び戻した。

 

「なにしてるのー?」

 

驚愕した父上が咄嗟に身体から刃を離す。そのまま刃を隠す素振りを見せた。

危ないと思ったに違いない。小さな子供がいる前で、慣れない刃物を扱うのは。

その思いは正しい。けれど、自らが作り出したこの状況には即さない。

 

「あっ!?」

 

全てを予期していた俺は、何の動揺もなく動き出せた。

父に迫り、勢いそのまま押し倒した後、その手から刃を奪う。

土間へと投げ捨てた刃は軽い音を立てて転がり、俺は父の胸倉を掴んで怒鳴った。

 

「何がしたいんだあんたは!?」

 

今まで積もりに積もった思いが堰を切って溢れ出す。

 

「男の癖にすぐ泣いて、なよなよと弱弱しくて、挙句の果てにこんなことをして!!」

 

すぐそこで、子供がひっと委縮している。そのままどこかへと逃げ去ってしまう。

そんなものは構わない。この際、言いたいことは全部言った方がいい。

 

「自分を人質に言うことを聞かせようとするな!! 男だろ!! 親だろ!? そんな卑怯なことをするんじゃない!!」

 

激痛に蝕まれながら気持ちをぶつける。一度溢れ出した気持ちはどうにも止められない。

 

「もっと強くなれよ!! 男だって強くなれるんだから!! 胸を張って、正しい生き方してくれよ!!」

 

肩で息をする。

感情任せに口を開いたせいで、自分でも何を言っているのか分からない。関係ないことを言ってしまった気もする。

もっと言いたいことはたくさんあるはずだった。けれど言葉にしてみればこの程度の言葉しか出て来なかった。

 

この世界では俺の方が異端だ。それは分かっている。だけど、それは身体的なことでしかない。心は違うはずだ。

強くなれるはずなのだ。女だろうと、男だろうと。誰でも強くなれるはずなのだ。

俺は、この人(ちち)に強くなってほしかった。ずっと前から、ずっとずっと思っていた。

 

しかしそれも所詮は俺の気持ちに過ぎない。押し付けるつもりなどなかったから、今まで口に出しはしなかったけど、でもいつかは言っていただろう。我慢の限界がいずれは訪れたはずだから。

 

力の限り動き、腹の底から声を出した。

おかげで身体は散々だ。嫌な汗を掻き、痛みのあまり眩暈もする。

先ほど強くなれよなんて言った手前、情けないところを見せたくなくて、奥歯を噛み締めて我慢する。

 

廊下の方からドタバタと足音が聞こえた。

俺の声が家中に響いたに違いない。間もなく人が来る。

そう考える傍ら、俺の下でまた泣き出した父を情けないと思っていた。男らしくないと、この世界に即さないことを考えている。

 

「強くなんて……正しくなんて……無理だよ、そんなの……」

 

「何がですか……諦めてちゃ、なんにも出来ないでしょ。少しずつで、いいんですよ……」

 

「無理だよ、無理だってば……」

 

メソメソする父に訊ねる。

何故無理なんですか、と。父は答える。無理なんだよ、と。

 

「だから、どうして無理なんですか」

 

「だって、僕は花屋なんだよ? どうして出来るの? そんなことを……」

 

「それに、何の関係が――――」

 

花屋を強調するその言葉を聞いて、不意に言葉に詰まった。

思考が巡り、今まで考えもしなかった可能性が導き出されていく。

 

「レンなら分かるでしょ? 花屋なんだよ……」

 

「なにを……」

 

「僕は花屋なんだよ、だから――――」

 

心が悲鳴を上げた。

聞かない方がいいと。考えない方がいいと。

よりにもよってなんで今それを言うのかと。

 

制止しようとした。

人が来るから。言わないでと。聞かれてしまうから。

 

けれども制止は叶わず、父はその言葉を吐き出した。

 

「――――僕は、椛さんに買われただけなんだよ」

 

 



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第62話

きりが良いので、いつもの半分ぐらいの文字数になります


「――――僕は、椛さんに買われただけなんだよ」

 

その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。

心が拒絶した。理解すること、知ること、認めることを。

けれども、全部が全部真っ白になったわけではなくて、呆然としながらも頭の片隅に母上の言葉が蘇る。

 

――――あれは元々花屋だ。

 

その言葉を咀嚼する。そして裏に潜んでいた意味を悟った。理解して、納得する。……ああ、そういうことだったのか、と。

 

どうして気づかなかったのだろうと今となっては不思議に思う。今まで、なぜ考えもしなかったのか。

分かっていたはずだ。花と言う言葉が隠語に用いられることぐらい。

気づけたはずだ。ほんの少し疑問に思いさえすれば。

 

しかし気づけなかった。悟れなかった。

一体なぜ、と自分自身に問いかけて、その答えはすぐに得られる。

――――目を逸らしていただけなのかもしれない。

 

とっくの昔に頭では気づいていて、けれど無意識に拒絶していた。

二人の関係が、二人の仲が、そうだとは思いたくなかった。そう思ったが最後、何を信じていいか分からなくなりそうだったから。母上の言葉と父上の言葉、どちらが本当でどちらが嘘なのか。記憶に残る仲睦まじい姿は嘘だったと言うのか。

真実は何なのか、何一つとして分からなくなってしまいそうだったから。

 

心は拒絶して、けれど頭は勝手に理解していく。

こんな状況で、突き付けられた事実を飲み込むためには、途方もない労力が必要だった。

父の泣き顔を見つめるだけの無為な時間が過ぎて、誰かの足音がすぐそこまで近づいている。何も出来ないでいる俺に対し、その言葉がかけられる。

 

「――――何事?」

 

その声にほぼ無意識に反応し、ゆっくりと顔を上げる。

土間から廊下へと続く戸の前に、広間で見た覚えのある女の人が立っていて、その背後には記憶にない男の人もいた。男の腕の中には子供もいる。先ほど逃げて行った子供だ。

 

俺に対して険しい視線を向ける女性。その目に宿っている感情は嫌悪に近い。

よくよくと慣れ親しんだ目ではあるが、改めて意識するとやはり辛い。どいつもこいつも、どうしてそんな目で見て来るのか。

 

僅かばかりの感情を込めて見返すと、女性の瞳に僅かに怯えが滲み出した。何かを言おうとして言葉に詰まった様子だ。

その背後に隠れるように立っている男の人は、俺たちのやり取りに気づかず、今なお泣いている父を心配そうに見ていた。

 

「……」

 

「……」

 

「あの、喧嘩ですか?」

 

見つめ合ったまま口を利かない俺たちに変わり、男の人がおどおどした態度でそんなことを訊ねてくる。

瞬間、女性が振り返り止めさせようとしたが、男の人は任せてと言わんばかりの態度で言葉をかけ続けてくる。

 

「喧嘩は、よくないです」

 

それはそうだと内心同意する。

紛うことなき正論。しかし、今そんなことを言われたところで答える気にもならなくて、変わらず無言を貫くと更に言い募って来た。

 

「子供も見ていますし、一旦落ち着いたらどうですか? 話、聞きます」

 

何を言っているのだろうと、目を細めて男の人を見つめる。すると男の人はびくりと身体を強張らせた。女の人が守るように移動して子供諸共背中に隠した。

多分、二人は夫婦なのだろう。そしてあの子供は二人の子供。これまでの行動から何となくそう思えた。

 

「……」

 

「……」

 

沈黙と、一人分の小さな泣き声が場を満たす。

視線を下げ、父の泣き顔を見つめ、未だに跨ったままであることを思い出した。

 

なんだか、酷く現実味がない。

さっきまでのやり取りが嘘のように思えてきた。嘘だったらいいなと他人事のように考えて、駆けつけた二人に聞かれた可能性を思い出す。

 

「……聞きましたか?」

 

「え、あ――――」

 

「何のこと?」

 

何かを言いかけた男の人を背中で押し留め、女の人が先に答えた。

声音からどことなく白々しさが感じられ、重ねて問う。

 

「俺と……この人の会話のことです」

 

「何も聞いてない」

 

即答だった。考える間すらない。

あまりに露骨だったから、あぁ……と察する。どうやら聞かれてしまった。戸は開いていたから、筒抜けだったのだろう。もう苦笑すら浮かばない。

 

「……他言無用でお願いします」

 

呟くように一言だけ述べ、立ち上がり転がっていた杖を拾いに向かう。

転がった際に刃こぼれなどしていないかを確認し、刃を収め、もう一度二人を振り返る。

 

「どうか、お願いします」

 

頭を下げてお願いした。

しかし反応はなく、頭を上げれば二人は微動だにもしていない。

何事かと思えば、その視線は俺の手元に集中している。身の危険を感じているらしい。俺にそのつもりはないが、脅しているようにも見えるのだろう。唯一、子供だけは妙にキラキラした目で杖を見ている。それが救いに思えてしまった。

 

溜息を吐き、踵を返して玄関口から外に出る。戸を閉めて身体を預けた。

気配や音で中の様子を確認してみれば、二人は父上に駆け寄って何か言葉をかけていた。心配してくれているようだから、一先ずはこれでいい。

 

もう一度大きく息を吐く。

視界が狭まっている気がした。胸の奥から込み上げる暗い感情。これの名前を、俺は知らない。

 

胸を抑え、じっと耐えていた俺のすぐ近くで草を踏む音が聞こえた。はっとして視線を向ける。

数歩先に、所在なさげに立つシオンがいた。

 

「あー……」

 

視線は惑い、見るからに困っている様子。何を言おうかと迷っているようでもあった。

それだけで察することが出来る。どいつもこいつも露骨すぎた。

 

「聞きましたか?」

 

「……うん。ごめんね」

 

「それは、何に対する謝罪でしょうか」

 

「盗み聞きしたこと……かなぁ?」

 

疑問調子でそんなことを言われても、俺に他人の真意など分からない。

答える代わりに息を吐く。俯いて足元を見る。何だか心が重い。指一本動かすのも億劫だ。身体に走る痛みを、どこか他人事のように感じている。

 

戸に背中を預けたままズルズルとその場に座り込む。

ゆっくりと近づいて来たシオンが屈みこんで視線を合わせてきた。労わるような、可哀想なものを見るような目に耐えられなくて視線を逸らす。

 

「それで、どうするの?」

 

「……どうする、とは」

 

「この後のこと」

 

そう言われて思い出した。やらなければならないことがある。

山に登り、猿を皆殺しにしなくてはならない。村人たちが山に入ってしまう前に。一刻も早く。

 

そう頭では分かっていても、身体は鈍く、心は沈んでいる。

答えなど決まっているのに、何も言えないでいる俺に対し、シオンは躊躇いがちに言葉をかけて来る。

 

「聞き流してもらってもいいんだけど」

 

それは随分と勿体ぶった口調に思えた。

「聞く?」と言わんばかりに首を傾げたシオンに対し、視線を向けて続きを促す。

 

「僕は、逃げるのもいいと思うよ」

 

「……逃げる?」

 

「逃げたいなら、どうしようもないなら、逃げるのも手だよ。宛てがないなら、手ぐらいは貸す」

 

何を言っているのかと、半ば呆けてその顔を見つめた。

数舜見つめ合い、真剣な顔で視線を返すシオンに、冗談で言っているわけではないと悟る。

 

「逃げるって、どこへ」

 

「どこでもいいんじゃない? 逃げられればさ。どこか行きたいところはあるの?」

 

「そんなのは……」

 

逃げるなんて考えたこともない。行きたいところなんて、あるはずがない。

 

生まれてこの方、俺の世界はこの村で完結していた。もっと言うなら、この家が全てだった。母と父と妹と、あとは馬とトカゲ。それで全部。小さな世界だが、それで満足していた。

いつかは失うものだと分かってはいたけれど、実際の所この世界が壊れるなんて考えたことはない。

しかし、今まさに壊れかけている。所詮は箱庭に過ぎなかったのだとようやく気が付いた。

 

「……ありません」

 

「じゃあ連れて行ってあげるよ。君に死なれたら僕もちょっと困るから」

 

差し出された手を見つめる。

その手を握れば、シオンはどこへなりとて連れて行ってくれるのかもしれない。

その時俺はどんな気持ちを抱いているのだろう。清々しい気持ちだろうか。後ろめたい気持ちだろうか。

清々しい気持ちだったらいいなと、その先にある都合の良い未来を想像し、自虐的に笑った。

 

「……助けてくれますか?」

 

「うん」

 

「碌にお礼も出来そうにありませんが」

 

「大丈夫だよ。生きてくれるなら、それがお礼になる時が来るから」

 

「……そうですか」

 

はあと息を吐く。

胸の辺りに痛みを感じ、身体の調子を思い出す。ズキズキと全身を蝕む苦痛。もうこれにも随分慣れた。あと少し、頑張ろうか。

 

「行きたいところがあります」

 

「どこ?」

 

「あの山に」

 

指し示す先には山がある。この言葉が力になるだろうと思って、断言する。

 

「猿を殺しに」

 

大きく深い山。恐らく、この村でもゲンさんぐらいしか立ち入らないだろうその山は、近頃の寒さで随分と葉が落ち、茶色い土が露わになっていた。まだ少しだけ残っている葉もほとんどが赤く染まっている。

 

指の先を追い、じっと山を見上げていたシオンの視線が俺の元に戻って来る。向けられるその目は、思いのほか優しかった。

 

「そっか」

 

その一言に様々な思いが込められていたように思う。

それをわざわざ理解しようとは思わない。知らなくていいこともあるだろう。特に、こんな俺には殊更多いに違いない。

 

「じゃあ行こっか」

 

立ち上がり歩き出す。

あの山に、猿を殺しに。



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第63話

ご無沙汰しております。
昨年末ごろからプライベートが忙しくなりました。
去年のうちにレン君とアキちゃんが再会するところまで書きたかったのですが無理でした。
暇を見て書いていきます。


山と村の境界線はどこになるのだろう。

そびえ立つ山を見上げながら、ふとそんなことを考えた。

 

目に見えてはっきりしたものは、当然のことながら存在しない。

草が生えてるとか傾斜があるとか、そんなことを考えてみるけれど、やっぱり判然としない。

かつて生きていた時代とは違い、今生きるこの世界は全てが曖昧だ。

境界線など自分で決めるしかない。良いも悪いも己次第。生きるも死ぬもその内だ。元来、生きるとはそういうものなのだろう。

 

見上げていた視線を前へと戻し、杖を握り直して歩を進める。

わずかに遅れていた距離を詰めるために歩幅は大きくなった。丁度その時、数歩先を歩いていたシオンが肩越しに訊ねてくる。

 

「登る山ってあれでいいのかな?」

 

「はい」

 

答えながら、シオンの格好に目を向ける。

腰に刀を差し、コートみたいな外套を羽織っている。その出で立ちにはどことなく洋の雰囲気を感じた。髪の色からして、恐らくは西側の人間のはずだ。生まれながらの雰囲気がそう感じさせるのかもしれない。

 

「それで、どうするの?」

 

続けられた問いはいささか言葉足らずだった。

けれども十分通じているから問題はない。「その身体でどうやって登るの?」と聞かれているのだと理解した。

 

「試したいものがあります」

 

「なぁに?」

 

言葉で説明するよりも実物を見せたほうが早いだろう。

そう思い、懐から葉っぱを一枚取り出しシオンに見せる。

 

それは、エンジュちゃんが俺のために採って来てくれた薬草。ゲンさん曰く、ただ噛むだけで痛みが和らぐらしい。

それがどれほどのものかは、実際に噛んでみないと分からない。いざと言う時のためにとっておいたけれど、まさかこんな形で使うことになるとは思わなかった。

 

「あー」

 

「ご存じですか?」

 

「痛み止めの薬草だね」

 

よく知っている。

狐憑きのことと言い、その知識はどこで学んだのか。気になるけども、今はそれどころではない。

 

「どれぐらいの時間効くでしょうか」

 

「人によるけど、大体半刻かな。早ければ四半刻」

 

半刻は一時間。四半刻なら30分。思ったよりも効果は短い。それでもないよりはましだ。

 

「痛みが完全になくなるわけじゃないよ。大体頭がぼうっとするし眠くなる人もいる。間違っても山を登るときに飲むものじゃないね」

 

「わかっていますが、これ以外に宛てがありません。山を登るのにどうしても必要です」

 

「それなら仕方がない。僕が守ってあげよう」

 

その鷹揚な態度に後ろめたさを感じる。

俺自身、最初からそのつもりでシオンに助けを求めた。

今の俺が一人で山を登るのは自殺行為だ。薬草を飲んだとしても、朦朧とした頭では山中で足を踏み外す可能性が高い。

そうならないための付き添いだ。シオンにはそれが可能だと思っている。

けれども、改めて考えてみればシオンの負担が大きすぎる。足を踏み外した俺の巻き添えで一緒に死ぬことだってありえるのだ。

 

そんな危険を冒してもらうというのに、見返りに差し出せるものは何もなかった。

シオンはお礼はいいと言っているが、そういうわけにもいかないだろう。

こういう時はやはりお金を渡すのが筋だと思うが、生憎と俺個人は一銭も持ってない。小遣いなんて貰ったこともなかった。

お金以外でシオンが喜びそうなものと考えると思い浮かばない。いっそのこと身体で払うことも考えた。

昨晩、シオンが俺に向けてきた視線から言って、興味がないというわけではなさそうだし。しかし、そうするなら前払いで払うべきだっただろう。昨晩のうちに決断しておくべきだったと後悔する。

 

「どうかした?」

 

「いえ……」

 

訝しむ視線で我に返る。余計なことを考えた。今は目の前のことに集中すべきだ。とりあえず薬草を口に放り込む。

 

「……」

 

「苦いでしょ」

 

シオンの言う通り、鼻を突き抜ける青臭さに顔をしかめ、我慢して噛んでみれば口内に広がった苦みに吐き気を覚える。

 

「よく噛んでから飲み込んで。そのほうが効果があるから」

 

嚙めば嚙むほど苦みは増す。本気で吐き出そうかとも思ったが、それをしたら元の木阿弥だと、無理をして飲み込んだ。

 

「よくできました」

 

「……それほどでも」

 

手の甲で口元を拭う。

口の中には酷い苦味が残っている。この場ですすぎたいぐらいだ。

 

「即効性があるはずだけど、どうかな?」

 

「実感はありませんが、行きましょう」

 

あまりモタモタしているわけにもいかない。

エンジュちゃんのことと父上のこと。それを考えれば、急ぐ理由しかないのだから。

 

 

 

 

 

山を登り始めて四半刻。

薬は効いている。身体に走る痛みはいつもほどではなく、ピリピリとした感覚があるだけだ。

 

多少なり山を知っている俺が先導する形で歩く。できる限り緩やかな道を行く。出来れば傾斜が急であろうと突っ切っていきたかったが、薬草の副作用のせいか時折足を滑らせている。そのたびに後ろを歩くシオンに支えてもらった。

自覚がある程度には注意力が散漫だ。注意してもしきれていない。崖を登るのは自殺行為だろう。この体で山道を歩いている時点でそれに近しいが。

 

「ぬかるんでるねえ」

 

「雪が降りましたから」

 

「あんまり無茶はできないかな」

 

その口調は穏やかだが釘を刺されたように感じる。

自覚はあるから反論もない。これ以上の無茶なんて出来るはずがなかった。遠回りでも出来る限り安全な道を行くことに決めた。

 

「ところで、山に詳しいのかな? 全然迷いがないけど」

 

「この山に登ったのは数えるぐらいで詳しいわけではありません。知っているのは地形ぐらいですよ。ただ、目的地はわかってます」

 

「目的地って? どこに行くの? そこには何がいるの?」

 

質問が多い。口を開くよりも歩くことに集中したいが、むげにするわけにもいかない。

 

「正体は知りませんが、奴らが集まってる場所に行きます。多分巣ですね」

 

「いなくなった子供は?」

 

その質問には答えられなかった。

薬草が効いてからずっと気配を探っているが、どこにもエンジュちゃんの気配がない。絶望的と言わざるを得ない。

 

「急ぎましょう」

 

「……ひょっとして、気配が分かるのかな? ふーん?」

 

この先にたくさんの気配が集まっている場所がある。夜襲を仕掛けてきた気配も一緒だ。気配の正体が猿かどうかはまだ不明だが、それもすぐにはっきりする。集団から離れた気配が三つほど近づいて来ている。

 

「来ます」

 

「うん。来るね」

 

目視などできない距離で伝えたのにあっさりと同意された。

どうやら、気配が読めるのは俺だけじゃないらしい。

 

「殺すけど、いいよね?」

 

「構いませんが、正体を見極めてからでお願いします。猿なら猿で、違うなら違うではっきりさせたい」

 

「この速さは猿だと思うけどなあ」

 

奴らがやって来る方向を見ながら待ち構える。

傾斜がある上に木々がひしめいているが、葉は落ちているからさほど視界は悪くない。

 

注視していると不自然に揺れる木が目についた。何かが木を伝って移動している証拠だろう。

 

「猿だね」

 

シオンが断言する。

どうやら正体が見えたらしい。俺にはまだ見えていない。

 

「殺していいね?」

 

「木の上の獲物を殺すのは骨ですよ。飛び道具はありますか?」

 

「三の太刀を使えば済む話だよ」

 

「……使えるんですか?」

 

「うん」

 

母上に教わったのだろうか。母上自身はよく剣術指南に出向いているから不思議ではないが、だとするならシオンはそれなりの身分ということになる。初対面時の言動を思い出すにそれは考えづらいのだが。

 

「なら、追い払うだけに留めてください」

 

「なんで?」

 

「一網打尽にしたいので」

 

「……まあ、まとめて殺したほうが清々するだろうけど」

 

「解体するのが楽でしょう」

 

話をしている間にようやく俺にも奴らの姿が見えた。シオンの言う通り猿だった。大きいのが二匹と小さいのが一匹。俺たちの姿をみとめてキイキイと鳴いている。威嚇だろうか。

 

こいつらは食料の足しにする。猿は一応食えるらしい。

何匹いるかもわからないのに散発的に来られては迷惑だ。たかだか猿ごときに労力を使いたくない。最低限の労力で終わらせる。そうしないと俺の体がもたない。

 

「投石くるよ」

 

「はい」

 

そうこうする間に石が飛んでくる。

木の上からの投石だ。頭上を取られるのは厄介この上ないが、それにしたってよく飛ぶ。夜襲を受けた時から不思議だったが、どうやらその理由はあの紐らしい。

 

「投石紐だね。猿にしては頭が良い」

 

「道具を使うのは驚きです」

 

「どうやって作ったんだろうね。狐憑きがいるのかもしれないよ」

 

「だとしても、殺すだけですよ」

 

次々投げ込まれる石の行方を追うと、大半は届いてすらいない。精度はそれほどよくない。というか、山中で投石なんかしたって木を盾にすれば当たるはずもない。

傾斜のある地形に加えて木々が生い茂っている条件下での投石だ。攻撃の仕方を間違えているとしか思えない。直接殴りに来たほうが早いだろうに。

 

シオンは奴らを頭が良いと称したが、こうして見ると頭が悪いように思える。環境を考えずに、教えられたことを愚直に繰り返しているだけだ。

 

「様子見は十分でしょ」

 

木の影に隠れながら奴らの様子を伺っていると、シオンがじれったそうに催促してきた。手早く片づけたいらしい。

確かにこれ以上観察しても得るものはなさそうだ。

唯一気になるのは、一番小さい猿が一番偉そうにしていること。何もしていない割にキイキイと喚き散らしている。それが指図しているように見えた。

 

「追い返すだけにしてください」

 

「三匹くらいならすぐ終わるけど……まあ、言う通りにしようか」

 

直後、木の影から飛び出したシオンがジグザクに走りながら猿たちに迫る。

足元はぬかるんでいて、木の根や石など躓きそうなものは山ほどあるが、特段苦にした様子もなく突き進んでいく。

 

頭上では猿たちが一層騒がしく鳴き始めたが、精々石を投げることしか出来ず、蛇行しながら近づくシオンに当たるはずもない。

 

一息に奴らのたむろする木の根元にたどり着いたシオンは、走ってきた勢いそのまま刀を抜いて幹を切った。

直後、倒れ始めた木から猿たちが一目散に逃げていく。

 

自らが切り裂いた木が音を立てて倒れるのを目の前にしながら、逃げた猿たちの行方を目で追っていたシオンは、杖を突きながら追いついた俺に若干不満そうな態度を見せた。

 

「あれでいいの?」

 

「いいと思いますよ」

 

シオンとしてはやれる時にやりたかったみたいだが、俺としてはまとめてやりたかった。

その方が都合がいい。自分勝手な理由だ。

 

「三の太刀を使いませんでしたね」

 

「使うまでもないからね」

 

逃がすだけなら必要ないと考えたらしい。

わざわざ近づいて切るよりも、三の太刀で遠くから切ったほうが安全だと思うのだが、シオンはそうは思わなかったようだ。

 

「それよりも。ねえ、どうだった?」

 

「何がですか?」

 

「格好良かった?」

 

首をかしげる。

意図を探るためにまじまじとシオンの顔を見つめた。

そうすると、どことなく自慢げにしていた顔が見る見る間に不機嫌になっていく。

 

「……格好良くなかった?」

 

「格好良かったと思いますよ」

 

とりあえず、そう言っておく。

格好良いとか悪いとか、そんなことは特段思わなかったというのが正直な感想だが、それを言ったら怒ってしまいそうだった。

協力してもらっている立場でわざわざ虎の尾を踏む理由もない。おだてて満足するならそれにこしたことはない。

 

「本当にそう思ってる?」

 

「思いました」

 

虚飾にまみれた人生だったが、その割には嘘は得意じゃない。多分母上の影響だ。変なところで似てしまっている。

口でどのように言い繕ったところで、嘘と見抜かれているのなら無駄でしかない。だから早々に会話を切り上げて先に進む。

 

すでに奴らの巣はほど近い。あと少しだ。



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第64話

数話前からですが、猿たちの描写を予定よりマイルドにしています
マイルドにした理由は作者のメンタル的な問題ですが、具体的に何をどう変更したのかは数話先のあとがきで説明します


三匹の猿を追い払ってから、さらに四半刻ほど歩いた。

その頃には薬草の効果はすっかり切れていた。また薬草を飲めば済む話だが、そうする気にはなれない。

 

目で見える範囲に奴らの姿はないのに、鼻は獣の臭いを感じとっていた。巣が近い証左だ。

この状況で薬草を飲んで朦朧とするか、飲まずに痛みに耐えるか。悩みどころだが、後者を選ぶ。何故と言うと判断力に欠けるのが一番困ると思ったからだ。いざとなれば体の痛みなんて何とでもなる。極短時間に限ればだが。

 

暑くもないのに額に浮かんでいた汗を拭い、手ごろな木に手をついて息を整える。

ここまで、移動時間は半刻というところ。

村から一時間足らずの距離に猿たちが巣を作っている。俺の足で、遠回りを続けての一時間だ。直線距離で考えたら驚くほど近いだろう。

 

以前からここに巣があったとは考えづらい。母上なら気配で気付いただろうし、日ごろ山に入っているゲンさんだって気付いたはずだ。

だから、この巣は母上が出立した後に出来たのだと思う。理由はおそらく、村を襲うため。

 

母上がいなくなった後に、ここに巣が出来たのは偶然だろうか。のみならず、村が襲われたのは偶然だろうか。

もし偶然なら、奴らにとってはとてつもない幸運だ。一生分の運を使い切ったと断言してもいい。鎧袖一触で終わっていただろうことは間違いない。アキがいたらどうなっていたかはちょっと分からない。

でもやっぱり、あまりに出来すぎている気がした。偶然とはとてもじゃないが思えない。アキがいないのも、俺が後遺症で戦えないのも、全て見透かした上で襲撃を仕掛けてきた気がする。

狐憑きかもしれないとシオンは言っていたが、投石紐の件と合わせて俄然信憑性を帯びてきた。

 

「……狐憑きは黒っぽくなるんでしたっけ?」

 

「うん」

 

春に山狩りを行った際、狼の大群と遭遇した。

その時に母上が狐憑きと思われる群れのボスを斬っている。

100匹そこらの大きな群れで、ボスは遠吠えで指示を出していた。大半の狼は緑色の毛皮だったが、件の狐憑きがどんな色だったかはわからない。何せ目視する前に母上が斬ってしまった。当時の俺は気配もろくに読めていなかったし、力不足を痛感したものだ。

 

あれからまだ一年も経っていない。それでどれほど強くなったかと言えばむしろ弱くなっている。まったく、人生は何があるか分かったものじゃない。

 

「辛そうだね」

 

「……心配は無用です。昔から痛みには敏感なので。大袈裟なだけですよ」

 

「そうなんだ。知らなかったよ。……まあ、君はここで休んでて構わないよ」

 

俯いていた視線をシオンに向ける。何を言うつもりかと目で問えば、邪気のない笑みを返される。

 

「僕が全部やっつけてくるから」

 

何の気負いもなくそんなこと言うものだから、ついつい笑みがこぼれた。頼もしい限りだ。

 

「……それだと、俺がここにいる意味がなくなりますね」

 

「そうだね。はっきり言って足手まといだった。こんなことなら家で大人しくしてくれたほうが良かったよ。何の役にも立ってないからね」

 

苦笑する。

随分と酷いことを言われた。けれども何一つ反論することは出来ない。実際、シオンの言う通りだ。

聞き耳を立てていたのだから、多分意識して言っているのだろうが、先刻、似たようなことを俺自身が言っていた。父に向って何と言ったのか、一言一句はっきりと思い出すことができる。

 

「役に立たない、か」

 

その言葉を反復する。

自覚はあったが、自分自身に返ってきて改めて理解した。本当に酷い言葉だ。恐らく、父上は父上なりに覚悟していただろうに、それを全て否定したのだから。

 

一度口から出た言葉は戻らない。そんなのは当然のことだ。今更考えるまでもない。だからこそ、俺の答えは決まっている。決まりきった言葉を口に出す。

 

「手出し無用です。奴らは俺が皆殺しにします」

 

息を整え、しっかりと自分の足で立ち、背筋を伸ばしてシオンを見つめた。

シオンはじっと俺の目を見返し、静かな眼差しと声音で訊ねてくる。

 

「出来るの?」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

信じてほしいとは言わない。

信じてくれとは願わない。そんなのは行動で示すものだ。

 

「ここまでありがとうございました。あとは大丈夫です」

 

「……」

 

「ここからは自分のことだけ心配してください」

 

もう俺のことは助けてくれなくていい。ここまで来れただけで十分すぎる。残っている力は全て、奴らを殺すことだけに使える。

 

一人で歩き始めた俺に少し遅れて、シオンの足音が聞こえる。その足音は俺と同じ方向に向かっていた。

 

「見てるよ」

 

呟かれた声が耳朶を震わす。

答える気にはならない。ご勝手にどうぞと心の中で呟く。

 

痛みはあるが心は静かだった。

気が充溢しているのを感じた。久方ぶりの感覚だ。戦いの前の静けさとはこういうことを言うのだろうか。

 

 

 

 

 

歩くほどに獣の臭いが濃くなり、奴らの息遣いが感じられるほどに近づいた。

どれだけ歩けば接触するのか、おおよその見当は付けていて、そろそろだと考えた途端、突然視界が開ける。山の中に突如として現れる、木の生えていない場所。

人の手が入っている様子はなく、自然と出来たものであるらしい。なぜこんな場所があるのかはわからない。土壌の問題かもしれないし、他の要因があるのかもしれない。現実問題として、こういう場所は少なからず存在していて、その一つが猿たちの巣になっていた。

 

木の上には、目視では数えるのも面倒なほどの猿がいる。猿たちは一様に俺に視線を向けていて、時折か細い鳴き声が聞こえてきた。

四方にぐるりと目を向けている間、襲ってくる気配はなかった。どことなく落ち着かない雰囲気こそあるものの、不自然なまでに大人しい。統率されているように感じる。

 

それらから視線を下げて正面を見据えると、自然とそれが目に映る。中央に座り込む黒い生き物。その背中。

それが生きていることは自ずと知れた。くちゅくちゃと何かを貪っている音が聞こえてくる。

この空間そのものが自分のテリトリーだというように、それは他のものを寄せ付けずに一人で食事をしていた。

 

こちらに背を向けているそれは、座っているというのに背丈は俺より僅かに小さいぐらい。立ち上がれば俺など見下ろされるだろう。加えて、肩幅は俺どころか大人でさえ比べ物にならない。

周囲の猿たちと比べても、目の前のそれは明らかに異常だった。猿というよりはゴリラに近いかもしれない。

 

狐憑きの単語が脳裏をよぎる。突然変異という言葉も浮かんだが、逸脱しすぎている気もした。ともあれ、すべきことは変わらない。

 

カチリと杖の金具を外した音がよく響く。そのまま持ち上げて抜刀した。からりと鞘が足元に転がる。

その音に反応したかどうかは知らないが、ようやく咀嚼音がやむ。のっそりと、巨体に見合った動きで肩越しに振り向いてくる黒いそれ。

心のどこかで、動物園にいるような可愛い顔を想像していたが、実際に見たそれは醜かった。知的さも素朴さも感じない。醜悪さが滲み出ている。人間、穴が三つあれば顔に見えるらしいが、その顔は猿よりもゴリラよりも人に近いと思えた。口元に血を滴らせながら、無欲とは程遠い濁った瞳。それが人に近い顔ならば、俺も同じ顔をしているのだろうか。

 

互いに見つめ合った僅かな時間。そこから得られたものは何もない。これが人間相手なら、表情や気配から大なり小なり感じるものはあっただろうが、猿が相手では何も感じられない。

見つめ合っている内に猿の口角が僅かに上がり、不意に何かを投げてくる。弧を描いて俺の足元に落ちたそれは、空虚に思える乾いた音が響かせる。

 

猿たちから視線を切って、赤黒いそれを注視する。それが骨だと気づいたのは、血生臭さが鼻についたからだ。

黒い猿が骨を投げたのを皮切りに、木の上の猿たちが一斉に何かを投げつけてきた。それはほとんどが骨だった。地面に落ちたそれらに白く見える部分は少なく、大半は赤黒く染まっている。まれに食べ残しと思われる肉片がこびりついていた。

投げつけられる骨に怪我をするほどの勢いはなく、当たっても精々怯む程度。それも来るとわかっていればなんてことはない。

 

俺は最初に投げられた骨を凝視し、それが一体何の骨なのか――――誰の骨なのか考えていた。

目の前の黒い猿が立ち上がり、こちらに向き直る。そうすると、これまで隠れていた物が露わになる。その手に握られていた小さな頭蓋骨。思わず、目を剥いて動揺する。

 

俺の動揺を見て取った猿の顔がにたりと歪んだ。げっげっげと不愉快な笑い声を上げながら、頭蓋骨を放り投げる。

転がるそれを目で追った。顎の骨こそなかったが、それを除いてもどう見ても人間の骨で、大きさから言って子供のものに思えた。

 

血の気が引いて全身の感覚がなくなる。天地がひっくり返ったような眩暈を感じて目を閉じた。一秒か二秒か目を閉じて、開いた時には眩暈は治まっていた。

 

頭蓋骨から目を離して黒い猿を見据える。奴は変わらず不愉快な声で笑っている。

頭に響くその声が不愉快で不愉快で。何もかもが不愉快で。ただただ殺したくて殺したくて、殺したくて。

 

胸の中をぐるぐると回り始めた感情に身を任す。落ちていく感覚がする。どこまでも下へ。

 

「……レン」

 

「大丈夫」

 

気遣う声に背中を向けたまま答える。

不思議と声は平静を保っていたが、何も大丈夫じゃないのは自分でも分かっていた。何も、何一つとして大丈夫じゃないと心が叫んでいる。

 

一際甲高く笑い続ける猿が俺を指さす。にたりと笑みを深め、何かを言った。猿の言葉はわからないが、殺せと命令を発したのは直感で分かった。

 

嘲笑に飽きたのか。それとも俺の殺意を感じて先手を取ったのかもしれない。どちらでもいい。結果は変わらない。

 

「伏せてください」

 

巻き込まないためにそう言った。

それが最後の理性だった。

 

刀を横に薙ぎ払うために構える。

すでに全方位から攻撃を受けていた。石を投げるもの、自ら躍りかかってくるもの。

この状況で狙いはつける意味はない。つけている間に殺されるのは目に見えている。だから、猿どころか周囲全てを斬り払うつもりでいた。

 

多分、体は痛かったのだろうが、心が感覚を押し流した。殺したくて殺したくて仕方がないから、感情に従って技を振るう。

後のことなんて考えない。死にたい。殺したい。心に抱く全ての気持ちをこの一刀に懸ける。

 

――――七の太刀

 

「『塵旋風』」

 

風が吹く。悲鳴が上がる。木が倒れ、石を刻み、命を刈り取った。

全てを飲み込み、無数の刃が命を奪う。

 

終わった後、見える範囲全てが切り刻まれたその場所の中心で、膝をつき頬に汗を垂らしながら呟く。

あぁ、しまった……。

 

「……食料にするんだった」

 



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第65話

食料にするなんて勇ましいことを言っておきながら、結果として失敗した。

黒い猿は粉微塵になり、他の猿たちも半分はバラバラになって、もう半分は木の下敷きになっている。

怒りで我を忘れてしまったなんて、そんなのは言い訳にもならない。

 

七の太刀で一網打尽にするのは予定通り。しかし、予想以上の斬撃の嵐は敵を細切れに切り刻んだ。

黒い猿がいた場所には血の跡が残るのみで、成れの果てが肉片となって散らばっている。

周囲を取り囲んでいた猿たちも似たような末路を辿った。目に見える範囲全ての木が切り倒されている。気配を読むまでもなく、生き残りはいない。こんな状況で逃げおおせるはずもなかった。

 

やりすぎたといえばそれまでだが、まさかこれほどの惨事になるとは思いもせず、そもそもここまでする気もなかった。数か月寝たきりだったというのに、一体どこからこんな力がわいたのか不思議でならない。

 

限界以上の力を絞り出したのは言うまでもない。その代償で、身体の芯から襲い来る激痛に座っていることもままならず、その場に崩れ落ちた。

 

土の香りをかぎながら浅い呼吸を繰り返す。深く息を吸い込むとそれだけで痛みが増した。

どうすれば痛みが和らぐのか。どの体勢がましなのか。自然と頭はそればかり考えるが、いくら考えたところで指一本動かせない。

 

「やあ、これはすごいなあ」

 

シオンの声がした。

突っ伏しているから顔は見えない。声を聞く限りでは怪我一つなく、それでいて驚いているように聞こえる。

 

「これは先生の技なのかな? こんな技を作ってるなんて……なんと言うか、すごいなあ」

 

先生というのが母上のことなら、その推測は間違っている。これは先代剣聖の技だ。

その間違いを正すほどの余裕はなく、痛みに呻くばかりで立ち上がることもできない。

 

「それで、君は大丈夫なの?」

 

「……そう、見えますか?」

 

「全然見えないよ。一見すると死にかけてる。一応聞くけど、どうしたのかな」

 

見当ぐらいついていると思うが、念のための確認らしい。こうしている間もただただ辛く、口を開くとより辛いので短く答える。

 

「無茶を、しすぎました」

 

「だろうねえ。怒りに我を忘れて本気の本気って感じだったよ」

 

そんな身体で無茶をしたら駄目だよと言いながら、シオンは俺を引っくり返した。うつ伏せから仰向けになり空が見える。

痛みに顔をしかめながら、久しぶりに空を見た。記憶にあるそれよりも少しだけ紫がかっている。時間のことなんて頭にもなかったが、寒くなるにつれ日が落ちるのが早くなった。この分では、あと二時間もしない内に暗闇に包まれるだろう。

 

そんなことを考えながら空を見ている間に、身体のあちこちを物色されていた。シオンは懐や袖の下に手を突っ込んで何かを探している。追剥でもするつもりだろうかと半ば覚悟していると、シオンは目当ての物を探し出して俺の口元に差し出してきた。薬草だ。

 

「お食べ」

 

それの苦さを知っている分だけ躊躇し、小さく口を開いた。シオンは容赦なく薬草を突っ込んでくる。

良薬は口に苦しと言うが、これだけ苦い物を他に知らない。噛んでいる内に思わずむせそうになり、襲い来た激痛に咀嚼が止まった。

 

「仕方ないなあ」

 

俺の様子を見ていたシオンが若干面倒そうに呟いた。そして葉を一枚自分の口に含み、俺の上に跨りながらモグモグと口を動かし始める。

顔色も変えずによく噛めるなといささか場違いなことを思い、何をするつもりだろうかと一瞬だけ考える。すぐに思い至って、慌てて言葉をかける。

 

「自分で――」

 

言い切る前に唇が重なった。

条件反射で押し返そうとしたが、跨られている上にしっかりと両手も抑え込まれていて何もできない。

唇を引き結ぶ暇もなく、押し込まれるように舌と苦味に犯された。

 

「んっ……」

 

擦りこむような舌の動きに顔をしかめる。やめさせようとこちらも舌を動かしたが逆効果だった。自然と舌同士が絡むことになり、なぜかより激しくなる。

 

間もなく、ドロドロとしたものが流し込まれてきた。次から次へと来るそれを、味わえば吐き気を催すのは目に見えているので、味を感じる前に必死に嚥下する。

口移しとはいえキスをしている。互いに目は開けていたから、至近距離で目が合った。

やめてくれと訴えてみるも無視される。あるいは通じなかっただけかもしれない。

 

見つめ合いながら、舌を絡ませるほどのキスをする。

字面で見ても、実際に目にしたとしても、傍目には睦み合っているように見えるのだろうか。仮にそうだとしても、当事者としては拷問に近い。

 

飲むものを飲み干し、流れてくるものがなくなった所で、シオンが唇を離す。

上気した頬に濡れた唇。瞳には昨晩チラリと垣間見せた色を湛えて、反面、声には刺々しさを感じる。

 

「積極的なのは喜ばしいけど、いくらなんでも情熱的すぎだよ。これじゃあ先が思いやられる」

 

何故だか諫められた。どうして諫められたのか分からない。

キスの間、抵抗できないようにずっと両手首を抑えられていた。吐き気をこらえて全部飲んだ。その結果、諫められた。

 

そもそも、一言断ってくれればよかったのに。突然こんなことをされたら、抵抗してしまうのは当たり前だ。抵抗したから強く抑え込まれて、色々と激しくなってしまった。心の準備をする時間が欲しかった。

 

酷く理不尽な気分になる。無性に拗ねたくなって、そっぽを向く。

 

「もう、終わりですか?」

 

自然と口を衝いて出たのがそれだった。それは念のための確認に過ぎなかったが、言った後に言葉を間違えたことに気づく。

もう、なんて言わなくてよかった。これではおねだりしているように聞こえてしまう。すごく恥ずかしい。

 

カッと熱くなった俺の頬にシオンが手を当ててくる。そのまま首を伝って鎖骨のあたりを撫でた。

くすぐったさに身をよじり、何をされるかと緊張する俺に向け、妖艶な笑みを浮かべる。

 

「薬草は効いたかな?」

 

「……はい」

 

「じゃあ行こうか」

 

先に立ち上がったシオンは手を差し伸べてくる。

迷いと困惑を抱きながらその手を取った。

 

「急がないと日が暮れる。こんなところで野宿は嫌だからね」

 

夜に山を下るほど危険なことはないとシオンは言った。

山は登るよりも下るほうが危険だ。それに加えて真っ暗闇ときたら、それはもう自殺行為だろう。

だから日が暮れたならここに留まるしかないが、こんなところで野宿なんてしたくない。猿たちの死骸が無数にあるのだ。何が寄ってきてもおかしくない。

 

頷きを返して杖を拾う。最後に血染みと肉片を一瞥して来た道を引き返す。

復讐は成ったが虚しさを覚えた。なくしたものは返らないのだから当然だ。結局、食料も手に入らなかった。

 

俯きながら歩き始める。何歩か進んだところで背後から風が吹いた。

押されるぐらいの強い風。風に紛れて、誰かの呼び声を聞いた気がした。おにいさん、と。

 

足を止めて逡巡する。薬草のせいか、頭がうまく働かない。背後に何者かの気配を感じる。そんなはずはないと否定しながら、少女の姿を思い浮かべながら振り返る。

 

――――黒い猿が、拳を振り上げてそこにいた。

 

迫りくる拳に、身体は指一本動かなかった。何一つ反応できない内に殴り飛ばされる。骨の折れる音を聞き、運よく吹っ飛ばされた先で木の幹にぶつかって止まることができた。

身体がバラバラになったかと思うほどの衝撃で、息は止まり口の中に血の味が満ちたが、痛みはそれほどでもない。薬草はよく効いている。

 

咳き込み血を吐いた後、直前まで俺が立っていたその場所で、シオンが殴り飛ばされるのを見た。

身体が宙に浮き、斜面を落ちていく。助けたかったが身体が動かない。三の太刀が使えない。

 

雄たけびを上げた猿が俺の方を向く。

相も変らぬ邪悪な顔。弧を描いた口が開き、咽喉が震えて言葉を発する。

 

「オニイサン」

 

悪意に満ちていた。

嘲笑に歪んだ醜悪な顔を、歯を食いしばって力の限り睨む。

 

七の太刀で殺したはずの猿が、五体満足で生きている。

気配はほとんど同じだった。ほとんど。わずかに違和感があるだけで、別個体というわけじゃないはず。そもそも奴は突然現れた。なくなったはずの気配が、殺したはずの場所に現れた。

 

常識が音を立てて崩れていく。

再生したとしか思えない。間違いなくバラバラにしたはずなのに。そんな生き物がいるのか。そもそもあれは生き物なのか。

 

激流のように絶え間ない疑問。今考えるべきではない。しかし頭から離れない。どうにもこうにも、行動が遅れている。

 

一切合切の思考を頭から追いやり、無理やり立ち上がる。

気付けば呼吸が荒い。深呼吸したがうまくできなかった。

 

カタカタと身体が震えているが、理由はわからない。武者震いでも、怯えでも、怒りでもない。しかし震える。

痛みがないからどこをどう怪我したのかわからないが、直感を信じるなら手遅れな気がした。

肋骨が折れて肺に刺さっているとか、内臓が損傷しているとか、そういう次元の。

 

「……六、の太刀」

 

シオンの気配はまだある。だからそっちに懸けるべく最後の手札を切ったが使えなかった。もう、それだけの力も残されていなかった。

 

黒い猿が近づいてくる。

杖を構えて迎え撃とうとしたが、持ち上がらない。歩を進めようとしても、足から力が抜けて膝をつく。これでは、戦いにもなりはしない。

 

どこまでも無防備な俺を見て、猿は何か考えているようだった。

罠かもしれないと思ったのだろう。シオンが落ちた方向を見て、戻ってくる気配がないことを確認する。

恐る恐るという様子で、杖を握っていた腕を掴まれる。持ち上げられて左右に振られた。どうやら杖を奪いたいらしい。絶対に放すものかと、思うように動かない身体に喝を入れて力を込めた。

 

俺の顔を覗き見て、力の籠った腕を見た後、猿はおもむろに指を摘まんでくる。ゆっくりと力が込められていく。そこから何が起こるのかは容易に想像できた。赤子の手を捻るよりも簡単に、人差し指は本来曲がらない方向へと折り曲げられた。

 

痛みはなかった。しかし衝撃はあった。自分の指がそんな方向に曲がるのは未だかつて見たことがない。

人差し指の次は中指。薬指。小指。続けざまに三本、計四本の指が折られ、物理的に杖を握っていられなくなる。

 

取り上げられた杖は猿の背後に捨てられた。

手を伸ばして届かなくても、万全なら一秒足らずで届く位置だ。だが、今の俺にはそれすら届きそうにない。

 

折られた指を見ていたら嫌な汗が噴き出してきた。痛みはなくても、視覚的に理解しているのなら身体は反応するらしい。

 

今度は腕を掴まれ、反対側に折り曲げられる。骨が折れる音はこんなにもはっきり聞こえるのかと思った。

もう一本の腕も折られる。その間、猿はじっと俺を見ていたが、腕を折った後はどこか気味悪がっているように見えた。

 

「オニイサン」

 

恐らく、いたぶるためにしているのだろうが、猿はもう一度その言葉を使った。

目論見などお見通しで、そもそも絶望などするはずもなく、敵を喜ばせる趣味もない。ただただ殺意を抱く。

目に力を込めて猿を睨む。猿は望み通りの反応を見られず興が削がれたらしい。

気味悪がる気配はそのままに、頭を掴まれる。

変な方向に力が籠っている。このままへし折るつもりだろう。当然、そんなことはさせじと抵抗するが、俺ごときの抵抗など意にも介されず、あっさりと首をへし折られた。

 

ボキリという音が外からも内からも聞こえた。首から下の感覚がなくなる。視界が明滅し始めて、鼓動が弱くなっていく。呼吸が途絶えて目が見えなくなった。

感覚が消え、意識が消えて、闇の中に消えていく。痛みこそなかったが、それが死そのものだと言うことを、俺は知っていた。



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第66話

暗闇の中、溶けていた意識が少しずつ集まり出し、自分と言う存在を取り戻す。

消えたはずの命に再び火が灯った感覚。同時に、死んだという感覚も確かにあった。覚えのある感覚だ。今まで、何度か経験している。

 

先代剣聖を殺した時。戦いの最中で七の太刀を浴びた時。五歳の頃、猿に襲われた時。そして前世で。

 

今までで、俺は四度死んでいる。にもかかわらず、生きていた。

なぜと自問し、生き返ったからだと自答する。

たった今五度目の死を迎えた。この分なら、また生き返るだろう。これまでと同じように。

 

たゆたっていた意識が身体に戻る。目を開けた時、猿が見えた。背を向けてどこかに行こうとしている。方向から言って、目的はシオンのようだ。

視界の隅には杖が転がっていた。考える前に自然と身体が動く。音を出さないように拾い、そして振るう。

 

――三の太刀

 

「『飛燕』」

 

不意を打った一撃は猿を真っ二つにした。

飛び散った鮮血が奴の絶命を教えてくれるが、直後、傷口が癒着していく。

真っ二つになったはずの猿が治っていく様は見るもおぞましい。生物として根幹から間違っている気がした。

命は一つ。死は平等に。世界はそうじゃなくてはいけない。五回も死んでいる身で何を言うのかとも思うが。

 

折られたはずの腕と指が治っているのを確認する。刀を振っても、どこにも痛みがない。この数か月、悩まされ続けた後遺症はどこかに消えてしまった。

俺の身体は一体どうなっているのか。不安はあったが、長らく頭にかかっていた靄は晴れている。すっきりした気分だった。

 

猿が俺を見る。俺も猿を見る。杖を構えて対峙する。

細かいことは後回し。まずはこいつをどうにかして、それから考えるとしよう。

 

「第三ラウンドだ。かかってこい」

 

 

 

 

 

母上は言った。

俺は死んだ後に生き返ったと。

その言葉に嘘はなかった。俺は生き返る。死んでも、死んでも、何度でも。

理由はわからない。理屈なんて知りたくもない。考えなければならないことは山ほどあり、実際今も考えてはいるのだが、優先すべきことがあって思考はうまく回らない。

 

刀を振るい、猿を殺す。これで五度目だ。

五度死んだ猿はまたもや生き返る。いったい何度生き返るのだろう。五度で駄目なら十度だろうか。それとも百度か。

もしかしたら死なないのかもしれない。だとしたら面倒だ。死なないやつをどうやって殺そうか。

 

考えながら、三の太刀を放つ。

刎ねた首が転がって行き、脱力した巨体がぐらりと傾いた。重い音とともにうつ伏せに倒れる。

 

さて、どうなるかと固唾を飲んで見守っていれば、断面からぶくりと泡が噴き出して、なくなったはずの頭が生えてきた。

転がっていた首はと言うと、いつの間にやら消え失せている。

 

依然として仕組みは不明のままだが、両断しても、首を斬っても、この猿は元に戻る。そして動き出す。そんな光景を目の当たりにして、脳裏に浮かぶのはゾンビ映画。ホラーはあまり得意じゃなかった。生々しければ余計にそうだった。

映画みたいに頭を潰して済むならどれだけ楽だったか。現実はそうもいかないらしい。

 

一体全体何がどうなっているのか。これが狐憑きと言うやつだろうか。だとするなら、狐憑きとは一体何なのか。

この一年足らずの間に何度となく抱いてきた疑問だが、ここにきてその重要度が増している。

正体が分かれば弱点も分かるかもしれない。まさか銀の銃弾や十字架が弱点とは言わないが、何かしら命を絶つ手段はあると思いたい。

 

そこのところ、ゲンさんは何と言っていたか。確か俗信だとか迷信だとか言っていた。毛色の違う個体とも言っていた。

こうして思い出してみると、はっきりしたことは何も言っていなかった。はぐらかされていたのかもしれない。

死なないと言う特徴も毛色が違うで間違いはないのだが、それにしたって違いすぎる。突然変異では説明がつかない。そんな突然変異は考えたくもない。

 

何度殺されようが勇猛果敢に向かってくる猿に向け、抜き身のまま三の太刀を放つ。上下に両断された猿は死ぬことなくもがき苦しんでいる。

断末魔なのか雄たけびなのか判断に困る叫び声を聞きながら、背後から近づく気配に目を向ける。

 

斬り倒されていた木を乗り越えて現れた人影は、俺の顔を見て気安げに手をあげた。

 

「やあ。そっちは大丈夫かな?」

 

見た目五体満足に現れたシオン。しかし、よく見るとあちこちに擦り傷を負っている。

 

「どう見えますか?」

 

「元気そうに見えるね」

 

「そちらもご無事で何よりです」

 

「死にかけたけど、何とかなった。びっくりだよ。本当に」

 

シオンはどことなく剣呑な目で猿を見ている。

丁度、上半身と下半身がくっついたところだ。直前まで内臓がまろび出ていたというのに、瞬きの間にその痕跡すら見当たらなくなっていた。

 

猿は俺たち二人をみとめ、大きく吠えた。

勇ましさを感じる吠え方だった。自分に喝を入れたのかもしれない。

 

その勇ましさに冷めた目を向けるシオンは、自分と同じ轍を踏まないようにと注意を促してくる。

 

「近づかせたら駄目だよ。あれは斬られながらでも殴って来るから」

 

「なんだか実感が籠ってますね」

 

「両断したのに殴られたからさ。凄く驚いた。殴られた。むかつく」

 

「そうですか。ご無事で何よりです」

 

あの怪力を食らってよく生きていたものだと舌を巻きながら三の太刀を振るう。

左右に両断した猿が尻もちをつき、めりめりと生々しい音を立てながら元に戻っていく。治りきらない内から立ち上がり、こっちに来ようと歩き始めた。

……なるほど。あれなら確かに斬られながらでも殴って来るかもしれない。

 

「羨ましいぐらいの再生力だなあ」

 

一部始終を目にしたシオンがそんなことを呟いている。

当の猿は三の太刀の追い打ちを食らって倒れたところだ。

 

「あれが何なのかわかりますか」

 

「何かしらの不死性があるみたい。まあ、でも、それだけだよ」

 

それだけ、とは随分と頼もしい口ぶりだ。楽観的とも言える。口だけではなく、あれをどうにか出来る宛てがあるといいのだけれど。

 

「狐の肉を食べたわけでもあるまいし、完全な不死にはなっていないはずだから、その内死ぬと思うよ」

 

「……このまま殺し続ければいいんですか?」

 

「多分ね」

 

多分。

その言葉を使うということは、少しだけ自信がないらしい。

とは言え他にどうする宛てもない。殺し続ければ死ぬと言うなら殺し続けよう。

幸いシオンも無事だったわけで、交代で殺すのであればさほど危険もないだろう。

 

「三の太刀は使えるんでしたよね?」

 

「一応は。でも使いたくないなあ」

 

「なぜ?」

 

「君のそれを見ていたら使う気なくなっちゃった」

 

こんな会話をしている間も猿は殴りかかろうとしてくる。

無造作に振った刀から斬撃が飛ぶ。またもや猿の身体が両断され、内臓が飛び散った。

シオンの言うそれとはこれのことらしい。抜き身で放つ三の太刀。普通、居合の形で放つこれを、俺は抜き身のままで扱うことが出来る。

 

「我儘言ってる場合ですか」

 

「我儘じゃないよ。三の太刀は使わない。代わりにこっちを使う」

 

言うや否や、突然シオンは駆け出した。

瞬きの間に再生途中の猿に肉薄したシオンは、頭上に刀を振り上げて技を繰り出す。

 

――――桜華散花(おうかさんか)五月雨(さみだれ)

 

たった一度の振り下ろしで、猿の肉体は何百もの肉片に切り刻まれた。

飛び散った血飛沫でさえ切り刻んだその技は、印象としては七の太刀に似ていたが、七の太刀が広範囲を切り刻む技なのとは反対に、極めて狭い範囲を高密度に切り刻む技のようだ。

 

一瞬で細切れにされた猿の肉体は、再生に時間を費やしている。

切れば切るほど効果的なのだろうか。よくわからないが、色々試してみようと思う。

 

格好いいでしょ? と得意げな顔を向けてくるシオンに頷きを返し、少しずつ色の変わっていく空を一瞥してから猿に向き直る。

長い戦いになりそうだ。

 

 

 

 

 

予想通り、戦いは長期戦になった。

戦っている内に日は落ちて辺りは暗くなる。

息を吐くたびに白い呼気が立ち昇り、余計に視界を悪くする。

微かに照らす月明りを頼りに猿を視認し、気配から動きを読んで三の太刀を放つ。

 

一体どれほどの時間戦っているのか。正確な時間など知りようもないが、段々と猿の再生力に陰りが見え始めていた。

生き返る回数には限りがある。殺し続ければその内死ぬ。シオンの推測は正しかったようだ。

しかし、それと同時に猿が漂わせる気配が少しずつ変質しているのが気掛かりだった。

気配なんてものに良い悪いがあるとは思えないが、今感じているそれは明らかに異質だ。過去、感じたことがないのはもちろんだが、それに加えて生理的な嫌悪感を抱く。

 

「あと何回殺せばいいんでしょうか」

 

「泣きごと言わなーい。ほら、もう治ってるよ。斬って」

 

三の太刀を放つ。

不可視の斬撃は猿に深い傷を負わせはしたが、最初の頃のように両断することはない。猿がそうであるように、俺も疲弊している。

 

「よいしょっと」

 

猿の怯んだ隙を縫い、一瞬の間に駆け抜けたシオンが首を落とす。戦いが始まってからこちら、ずっと走り回っているシオンに疲れた様子はない。今も元気満々と言う感じだ。鼻歌なんかを歌い出しそうな気配がする。

 

「この感じならもう少しかな」

 

首のない体がじたばたと暴れている。切り口から泡が噴き出ているが、再生速度は緩やかだ。

あと一回か二回。そんなところだろうか。

 

寒さでかじかみ、感覚がなくなってきた指先を動かしながら、疲弊感を確認する。

シオンがいてくれてよかった。一人だったらジリ貧だったろう。

 

「……俺もそろそろ限界です」

 

「ありゃりゃ……。まあ、よくやった方かな。君が女だったらだらしないって言うところだけど、男の子だからね。男の子にしては頑張った。偉い偉い」

 

時代が時代なら性差別だと騒がれかねない言葉に顔をしかめる。

 

猿の再生が終わる。何度も何度も短時間に再生を繰り返したせいか、その身体は大きく歪んでしまっていた。

黒い体毛は半分ほどが抜け落ち、顔も押し潰されたようにひしゃげている。当初は人間に近かった骨格も今はどちらかと言うと狼などに近い。

 

「ちょっと狐っぽくなったかな」

 

シオンも似たような感想を持ったらしい。まあ、犬も猫も狐も四足歩行であることに変わりはない。

再生が終わったその場で猿はじっとしていた。動く気配はなく、息遣いだけが聞こえてくる。

ぜいぜいと苦しそうな呼吸だ。歪なのは見た目だけではなく中身もそうなのかもしれない。

 

「限界みたいだね。とどめはレンが刺す?」

 

「たくさん殺しましたから、今更こだわるところでもないと思いますが」

 

しかし、シオンに譲るのも変な感じだ。ここまでやったのだから最後くらいは締めておこう。

 

油断なく近づき切っ先を向ける。

開きっぱなしの口から涎がとめどなくこぼれていた。涙を流しているようにも見える。

これから訪れる死に絶望しているのだろうか。

 

「オ、オ、オ……」

 

振りかざされた刀を見て、猿の口から嗚咽がこぼれてその巨体が震える。殺すために力を込めた瞬間、その言葉が聞こえた。

 

「オニイサン……」

 

躊躇せず、振り下ろす。

感情は抱かなかった。怒りも恐れもない。殺した後に、哀れだと思った。

 

刎ねた首は転がって、そのまま残り続けた。切り口から泡が噴き出すことはなく、かといって血が流れることもない。

空っぽの死体が崩れ落ちる。気配はなくなった。もう蘇ることはないだろう。

 

「雪が降ってきたねえ」

 

シオンの言葉に天を仰ぐ。白い結晶が頬を濡らした。吐いた息が白く昇る。

目を閉じて、深く息を吸い込んでまた吐き出した。

夢だったらいいのに。ただそれだけを思った。



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第67話

空を見上げて目を細めた。

降りしきる雪は少しずつ勢いを増していく。

絶え間なく降り注ぐ湿った雪が、戦いの余韻と共に身体の熱を奪っていった。

視線を下ろせば地面はうっすらと白く染まり、凍えるような冷気が肌に突き刺さる。

 

この場に風を遮るものは何もない。七の太刀で全て刈り取ってしまった。自業自得と言うのとは少し違う気がしたが、このままここにいれば夜明けを前に死ぬのは間違いない。

ならば山を下りればいいかと言うと、それが出来れば苦労はない。暗闇に包まれた山中である。整備された山道があるわけでもなし。一歩どころか半歩間違えただけで滑落の危険がある。

 

せめて明かりがあればいいのだが、視線を巡らせたところで一寸先は闇だった。生き残るにはどうすればいいだろうか。いっそのこと生き残らない方がいいだろうか。

そんなことを考える。少し弱気なのは、心境的にそういう気分だからだ。

 

「お疲れ様ー」

 

沈鬱な気持ちに陥る俺とは対照的に、同じ状況に置かれているはずのシオンはあっけらかんとしている。すでに覚悟を決めているのか。訝しんでみて、顔を見るにそんなわけではないらしい。

 

「色々あったけど、とりあえず解決だね。お疲れ様」

 

「……お疲れ様です」

 

正直、色々の一言で済ませたくなかったし、まだ終わった気分でもなかったが、外様のシオンにしてみればそこまで思うことでもないのだろう。

おうむ返しに言葉を発し、ジロジロと不躾な視線を受け止める。

 

「どうかしましたか?」

 

「いや、身体の調子はどうかなと思って」

 

「痛みはありません。でも、凄く疲れました」

 

「そっか。疲れたのはそりゃあそうだろうけど、痛みがないのは不思議だね。あんなに痛がってたのに。不思議なこともあるもんだ」

 

本当に、まったく、その通りだと思う。

世にも奇妙で、摩訶不思議だ。死んだはずの人間が生き返り、同じく死んだはずの猿が生き返った。ここに共通点を見出さない方がどうかしている。

 

「それで、この後どうしようか。このままじゃ凍えて死ぬけど」

 

「考えてるところです。あまり良い方法も思いつきませんが」

 

「君と一緒に死ぬのも、まあ悪くはないかな」

 

シオンを見る。笑みを浮かべている。

本気で言っているのか、はたまた冗談なのか。判別つかないが、どちらでもよかった。

 

「俺はどうなってもいいですが、シオンさんだけは生き残ってほしいです」

 

「自分の命を粗末に扱うのは感心しないなあ。駄目だよ、死に急いじゃあ」

 

「他人の命なら粗末にしていいんでしょうか?」

 

「普通の人間なら、自分の命の方が大切なはずだよ。自分の命を粗末にする人は、他人の命も粗末にするもんなのさ」

 

「自論ですか」

 

「摂理だよ。この世界の」

 

そうだろうか。自分よりも他人を大事に思う人間なんてたくさんいると思う。例えば親とか。親に限らず、家族には愛を持っていてほしい。いつ生き別れるとも限らないのだから。

 

「シオンさん一人だけでも下りれませんか? 俺は放っておいて構わないので」

 

「遠回しに死ねって言ってる? 喧嘩売られてるのかな……」

 

「無理ですか?」

 

「無理って言うか、やりたくないよね」

 

「そうですか」

 

山を下りられないなら、ここで暖を取るしかない。雨風凌げる場所を見つけて火を起こす。最悪火は起こせなくても構わない。抱き合って温め合えば何とかなるかもしれない。

 

「ここに来る途中、洞窟か何かありましたっけ?」

 

「あるわけないじゃん」

 

駄目元で聞いてみたが、思っていたより冷たい答えが返ってきた。

言外に「馬鹿なの?」と言うニュアンスが含まれている。ちょっとへこむ。

 

「君はあれこれ考えるのが好きだねえ」

 

呆れた感じでそんなことを言われた。確かに色々考えてはいるが、人間誰しもそんなものだろう。人は考える葦であるとは誰の言葉だったか。

 

「他に何か聞きたいことはある?」

 

「……ありますけど、ここで聞くようなことでもありません」

 

「そっか。じゃあ話をできる場所に行こうか。さっき丁度良い場所を見つけたから、連れて行ってあげる」

 

差し伸べられた手を見る。馬鹿正直にその手を掴めるほどの信頼関係はない。色々と世話になったと言うのに、今一信用し切れないのは秘密が多そうだから。

 

「良い場所ってどこですか?」

 

「行けば分かるよ」

 

「さっきっていつですか」

 

「さっきはさっきだよ。質問が多いな君は」

 

いいから手を掴めと催促される。

雪は激しさを増し、風は強く吹き始めた。この状況で生き残りたいならば他に選択肢もない。

 

気の進まないままその手を掴む。瞬間、強い力で引き寄せられた。虚を突かれてたたらを踏み、シオンの胸に飛び込んだ。

 

「つかまえた」

 

抱きとめられた瞬間、頭上から聞こえた小さな声。

思わず見上げて、艶然と俺を見ているシオンと目が合った。

「大丈夫?」と聞かれる。「大丈夫です」と答える。

 

「じゃあ行こうか」

 

シオンに手を引かれて、引きずられるように連れていかれる。

掴まれた手首が熱を持っている。固く握られたその手は振り解けそうにない。

 

 

 

 

 

シオンに導かれるまま、おっかなびっくり斜面を下りた先で大きな木の前に立つ。木には根の近くにうろが空いていた。ぎりぎり人が入れそうな小さな穴だ。

 

「ここなら雪に降られなくて済むんじゃない?」

 

「確かに」

 

こういう発想はなかった。

うろと言えばもっと小さくて、小鳥なんかが巣にしているイメージだ。

しかし、この世界では山林の大部分には人の手が入っていない。いわゆる原生林がほとんどで、その分巨大な木が多い。自然とうろも大きくなっていた。

 

「お先失礼」

 

シオンが先にうろに入った。

膝を抱えた姿勢で首を少し曲げている。腰から抜いた刀を傍に立てかけていた。

奥行きは十分あるように見える。横幅もある。しかし縦には少し狭かったようだ。見るからに窮屈そうな姿勢になっている。

 

「どうですか」

 

「お世辞でも居心地が良いとは言えないかな」

 

不満そうな顔だ。一晩限りの宿とは言え、こんなところで夜を明かす人もそうそういない。

 

「早く君もおいでよ」

 

白い息を吐きながら、声尻に若干の棘を含んだお誘い。

自分一人だけ窮屈な思いをするのは我慢ならないという思いが透けて見えた。

 

「入る前に確認なんですが」

 

「なに?」

 

「火は起こせませんよね」

 

「当たり前じゃん」

 

「人肌で暖を取るしかないわけですよね」

 

「うん」

 

「シオンさんの性別は男でいいんですよね」

 

「女だけど」

 

あっさりと白状した。

何度か抱きつかれたし戦う姿も見た。

十中八九そうだろうとは思っていたが、やけにもったいぶっていたのは何だったのか。ただの秘密主義だろうか。

 

「……」

 

「何もしないって」

 

「それを信じられるほどの信頼関係はないと思います」

 

「あれだけ助けてあげたのに」

 

それを言われたら弱い。

と言うか、今日一日のお礼を身体で払うことも考えていたのだった。

初めてがどことも知れないうろの中と言うのはあんまりだと思うが、シオンが望むなら否やはない。個人的には場所を改めてほしくてたまらないが。

 

「……お邪魔します」

 

「いらっしゃい。膝の上においで。暖まるよ」

 

本当に何もするつもりはないのだろうか。

 

「したいことがあるならはっきりと言ってください。逃げられなくしてから本性むき出しにするのはやめてください。言ってくれれば覚悟を決めますので」

 

「君は僕を何だと思ってるの?」

 

「女性だと思ってます」

 

「確かに僕は女で、性欲が強くて、さっき死にかけたせいで妙にむらむらしてるけど、11歳の子供に手を出すほど飢えてないよ」

 

「何歳の子供になら手を出すんですか?」

 

「12」

 

年が明けたら俺も12歳になる。

数か月は誤差とか言われないだろうか。四捨五入したら12だよねとか言い出さないだろうか。

性欲に呑まれた人間は無茶を通して道理を引っ込めるものだ。恩人であるシオンが相手でも、彼女だけは違うなんて断言はできない。

 

まあ、恩人であるのは確かだし、くっつかないと死ぬのもその通りだしで、選択肢はない。

思うところは全部飲み込んで、シオンの膝の上にお邪魔した。

正面から抱き合う形になる。手の置き場に困って、視線のやり場に困る。なんとなく顔を見るのは恥ずかしかった。

結局肩の上に顎を乗せる形で落ち着いた。腕はシオンの背中に回している。シオンも俺の背中に腕を回していた。

思ったよりも強い力で抱きしめられて息が詰まりそう。

 

「どうだろう。これで暖かくなってる?」

 

「それなりです」

 

「僕は寒い」

 

実際はシオンの言う通り、あまり暖かくなかった。

多分外套を着ているからだ。どういう素材かは知らないが、熱を通しにくいのだろう。このままでもその内暖かくなるのかもしれないが、ならないかもしれない。恐らくならない。そんな気がする。

 

「仕方がないから、脱ごうか」

 

「……何をですか」

 

「上着」

 

「上着だけですか?」

 

「……中に着てる服も脱ぎたいって言うなら止めないよ。素肌の方が暖かいだろうし。でもその場合、僕がどういう行動に出るかは僕にもわからない」

 

「11歳の子供には手を出さないって言いましたよね?」

 

「むらむらしてるとも言った」

 

やっぱり俺のことを性的な目で見ているらしい。少なくとも、裸になれば理性を保っている自信はないと言うことだ。やっぱりお礼は身体だろうか。

問題は場所だ。ここでするかどうか。汗を掻いたら凍えるんじゃないだろうか。それを考えると、家に帰ってからが望ましい。

 

する気はないが、寒いと言うので体を起こして外套を脱いでいく。

シオンの目の前で首元の紐を解いた。一つ一つボタンを外していく。

その途中、チラリとシオンを見れば、その目は俺の手元を注視していた。

何だか無性に恥ずかしくなって視線を逸らす。

外套を脱ぎ、寒さで身を震わせる。右手で左腕の肘あたりを掴んだ。

脱ぎ終わった後、シオンの目はなぜか俺の首元に注がれていた。

 

「あの……」

 

「……」

 

妙な視線で見てくるものだから、たまらず呼びかけたが返事はない。身の危険を感じる。理性と性欲がせめぎ合っている気配。

11歳と言うことと汗を掻いたら凍える状況だということ。この二点がストッパーだろうか。ストッパーの補強が必要だと切に感じる。

 

「その、家に帰ったらじゃ駄目ですか?」

 

「……は?」

 

「家に帰ったらお相手しますので、この場は治めてほしいんですが……」

 

「……それ、ちゃんと理解して言ってるの?」

 

「命を助けられたので、そのお礼です。初めてなので上手く出来るかわかりませんし、ちゃんと射精するかもわかりませんが……」

 

瞬間、息を吞んだ気配がした。

直前まで感じていた視線が消える。

恥ずかしさのあまり背けていた顔を向け直すと、シオンは片手で顔を覆っていた。

 

「……子供には手を出さないよ。ましてや精通も済んでない子供には」

 

「お礼です。気にしないでください。乱暴でもなんでも、好きに使ってもらって構わないので」

 

「使わない」

 

不機嫌そうな気配が漂い始めたのでこれ以上の言及は避ける。

二人しかいない空間で喧嘩してもろくなことにならないだろう。逃げることもできないわけだし、我慢できなくなれば手を出してくるはずだ。覚悟だけしておけばいい。

 

少し乱暴な手付きで外套の前を開いたシオンに抱き着きに行き、脱いだ外套は背中から羽織った。

これでさっきよりは暖かい。それでも死の危険は隣り合わせだし、寝たら危ないことに変わりはないけど。

 

気まずい空気が流れる中、話題を探して思考を巡らす。

先ほど、聞きたいことがあると言ったことを思い出して口を開いた。

 

「それで、聞きたいことがあるんですが」

 

「……」

 

「聞いてもいいですか?」

 

「うん……」

 

「狐憑きってなんですか?」

 

短い沈黙の後、はぁとため息が吐き出された。

 

「もっと小さい時に聞かされなかった? 狐の話とか」

 

「狐に限らず、何かを聞かされたことはありません」

 

「……寝物語に聞かせてやればいいのに。本当に、椛はそういうところが駄目だなぁ……」

 

母上のことを名前で呼んだことに少し驚く。てっきり、もっと恭しい呼び方をしている思っていた。ニュアンス的にはかなり親しげだ。実際のところどうなのかは謎だが。

 

「暇だし眠れもしないから、特別に聞かせてあげるよ」

 

何故だか恩着せがましい言い方ではあったが教えてくれるらしい。

シオンの肩に顎を乗せたまま耳を傾ける。

 

「死なないはずの狐が死んだ話」



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第68話

人は欲深い生き物だ。

食欲を満たし、性欲を満たし、睡眠欲を満たして、また次の欲を満たす。

終わりがなく、限りがなく、どこまでも続く底の見えない欲望。

 

人生とは満たすことの繰り返し。途切れることのない渇望の中、満たすために繰り返す。

人間は何のために生きているのかと、哲学者はよくそんなことを問う。様々な答えがある。綺麗ごとも軽蔑するような答えも。

たくさんの答えがあり、しかし本質的にはただ一つの答えしかない。人は欲を満たすために生きている。

 

今日を生きるのにも難儀する者は目先の欲に囚われる。それが性欲であり食欲であり睡眠欲だ。

明日を見通せるようになると少し欲が増える。明後日を見通せるようになるとまた少し欲が増える。

そうして少しずつ欲は大きくなっていって、やがて途方もない夢を抱くようになる。永遠に生きたいと願うようになるのは自然の摂理なのかもしれない。

 

時代ごとに権力を持つ人間は様変わりし、けれど必ず存在していた。

ある一定以上の力を手にした人間が行き着く先は、ほとんどの場合は同じだった。

 

その者も例にもれず、絶大な権力を持ち、そして欲深かった。

金と武力と名声。考えうる限りの全てを手にしたその者は、両手に余るほどの欲望を抱き、一つ一つ叶えていく。そうして最後に抱いたのは不死への羨望だ。

 

手段を問わず、倫理を無視して、ありとあるゆる方法を試した。

不死の妙薬だとか不死になるための儀式だとか。悪魔に願い神にも祈った。そのどれもが失敗し、最後に残ったのはたった一つの噂だけ。死なずの狐の噂。

 

刀で切り、矢で射り、鈍器で殴っても死なない。腹を捌いて蒸し焼きにしようとも、火に投げ入れ黒炭にしたところで、いつの間にか元に戻り逃げ去るのだと言う。

 

その者は藁にも縋る思いで狐の捕獲を試みた。

金に物を言わせ、持てる力を総動員して狐を狩った。

山を一つ燃やしてようやく手に入れたその狐は、赤い毛に包まれて思いのほか小さかった。

 

その者たちは檻の中で大人しい狐を見ながら考える。

どのようにして不死を手に入れたら良いか。どうすればいいのか。

熟考の末、ある者が言った。

 

「食え」

 

血肉を貪り毛を飲み込んだ。

頭を割り、骨を砕いて、中身を啜って欠片を食った。血の一滴、毛の一本すらも腹に収めた。

 

血臭漂う場の中心、固唾を飲んで見守っていた者の中からある者が訊ねる。

 

「身体はどうか?」

 

その者は言った。

 

「変わりないわ」

 

結局、その者は不死にはなれなかった。

所詮夢は夢。夢を追う時間は終わったとばかりに、誰しもが諦めて現実に立ち戻る。

大半が不死のことなど忘れて幾年が過ぎた頃、突然その者が死んだ。階段から足を踏み外して頭を打った。頭が割れて血が止まらない。息が止まって鼓動が消えた。

 

駆け寄った者は手の施しようがないと嘆いた。

嘆き悲しむ者たちの中心で、その者は何事もなかったかのように起き上がる。

 

「いけないわ。躓いちゃった……みんな、どうかしたの?」

 

いつの間にか、その者は不死になっていた。

正確に言えば、死んでも生き返るようになった。

周囲の者は大いに喜び祝いの声を上げる。やったやったと歓声が木霊した。

 

しかし、喜びは長くは続かなかった。

その者は老いた。不死ではあったが老いはした。最初はなんてことのないように思えた。老いはすれども不死である。どんな弊害があろうか。周囲の人間は楽観視する。誰も深くは考えなかった。当の本人を除いては。

 

時が経つにつれ、喜びは不安へと変わっていく。

その者は二十になり、三十になり、四十になって、五十になった。

病を得て、事故に遭い、人に殺され、生き返る。

白く老いさらばえ、足腰立たず、寝たきりになっても、生き返る。

髪が抜け、歯が抜け、皮と骨ばかりになっても、生き返った。

 

生と死を繰り返す。その者は生き続ける。何度死んでも。どのように死んでも。もはや人とは呼べない何かになったとしても。

永遠に生き続ける。それが狐を食った者の運命だから。

 

 

 

 

 

「と言う話なのさ」

 

シオンの語りが終わった。

寝物語にこんな話を聞かされなくてよかったと思う。ホラーチックな話だった。行き過ぎた野望は身を滅ぼす。そういう話だ。

 

「結局、狐を食ったその人は何度死んでも命を絶てず、今もこの世界のどこかで生と死を行き来しながら生きている。そう言われてるよ」

 

老い切って、本来死ぬべきはずの人間が不死性のせいで生き返ってしまう。けれども身体は老い切っているから次の瞬間に死んでまた生き返る。

生と死を繰り返す。想像するだけで地獄のようだ。

 

「感想は?」

 

「惨いですね」

 

「全くだよ。身震いしちゃう」

 

実際にシオンの身体が震えた。芸が細かい。

 

「レンは信じる? 死なずの狐。食べたら不死になれるよ」

 

「そんなわけないじゃないですか」

 

「だよねえ」

 

桃太郎しかり浦島太郎しかり、昔話と言うのは決まって何かしらの主張が籠められている。

いわゆる故事というやつで、聞いた当初はピンと来なくても、後から考えると納得できるものが多い。先人の言い伝えは決して馬鹿に出来るものではない。

 

この話が伝えたいことは明白だ。行き過ぎた夢を抱くな。ほどほどで我慢しろ。分を弁えろ。身の程を知れ。そんなところだろう。

子供に伝えるにしては実に夢のない話だが、実際は先人と言うよりも支配者階級が流した話なのかもしれない。

大それた夢を見るなと言う忠告だ。自分たちの立場を少しでも長く維持するための小細工だろう。

 

「まあ、話は分かりました。それで、今の話が狐憑きとどういう関係があるんですか?」

 

「狐が出てきたじゃないか」

 

「本気で言ってます?」

 

「もちろん冗談だよ」

 

くすりと笑う気配を感じる。

 

「これはまあ、今の人はあまり信じているわけじゃないんだけど、実はこの話の狐はね。死んでないんだ」

 

「食べられたのは噓ですか」

 

「いや、食べられたよ。食べられたけど死んでない」

 

「……食べられた後に生き返ったんですか?」

 

「ううん。消化されて排泄された。土に撒かれて生き返りはしなかった。まあ、そもそも死んでいないんだけど」

 

「意味が分かりません」

 

いいかい? とシオンは説き聞かす教師のような口調で続けた。

 

「肉体は死んだ。でも中身は死んでない。魂はこの世界を今も漂っている。そう言われているんだ」

 

魂。漂っていると言うからには、いわゆる幽霊だろうか。化けて出てきたりしたのかもしれない。化け狐と言う単語には多少親しみがある。やっぱりホラーじゃないか。

 

「狐憑きと言うのは、狐の魂に身体を乗っ取られた生き物だと言われている。狐は新しい身体を欲しがっている。そして狐憑きが決まって人に害を為すのは、肉体を殺された恨みがあるからだと言う話さ」

 

「それはまた……信憑性のない話です」

 

「確かに。でもさっき見ちゃったし。猿の身体が何度も再生するところ」

 

それは俺も見た。その上で一笑に付そうとして思い留まる。

あの黒い猿の異常性は、俺から見て吐き気を催すぐらいのものだったが、シオンから見ても異常に映ったらしい。

俺の常識とこの世界の常識は乖離していることが多いからもしかしたらとも思っていたが、そういうことなら真面目に考えてみる。

 

死んでも死んでも生き返ったあの異様な光景。昔話の狐も似たような特性を持っていたらしい。

だがそれとこれを繋げるのはどうだろう。無理やり理屈を通そうとしているようにも思える。

 

肉体の死。精神の死。狐は精神的に不死で、肉体が死んでも生き続ける。

そして新しい身体を探して他の生き物を乗っ取る。乗っ取ったからこそ、あれほどの再生力を有していると言いたいのだろう。

 

確かに共通している点ではある。

いや、でも猿は再生したけど狼は再生してない。あれは母上が殺してそのままだ。そもそも本当に狐憑きだったのかと言う話でもあるが。

 

やっぱりただの偶然ではないだろうか。

たまたまあの黒い猿がとんでもない再生力を有していただけではなかろうか。クラゲとかは不死に近い種がいると聞いたことがあるし、その類ではないか。

所詮は突然変異に過ぎず、進化の過程で生まれた多様性の一つで、いずれは淘汰される種ではないか。

 

そういう結論に達する。

そもそも肉体的な不死はもちろん、精神的な不死なんてあり得ないのだ。肉体が死ねば当然精神も死ぬ。何故なら心は脳にあり、身体とは切っても切り離せないものなのだから。

 

その結論をシオンに伝えようとして口を開く。

しかし、開いた口からは空気が漏れるばかりで何も言い出せない。

 

「……ぁ」

 

あることに気づいてしまった。

動揺が波打って心を揺らし、動悸が激しくなる。胸を押さえて呼吸をする。深く吸い込んで吐き出した。それでも動悸は治まらない。

 

冷静になれと己に言い聞かせ、波打つ心に自問自答する。

精神の死とは何か。それは自我が死ぬことに違いない。

つまり精神の不死とは、肉体が死んでも心が残ること。記憶と感情が残ること。科学的に考えてあり得ない事象だが、それに当て嵌まるものを俺は知っている。

 

「ん……。どうかした? 身体震えてるけど」

 

「……なんでも……なんでも、ありません」

 

「……寒いのかな?」

 

ぎゅっと力強く抱きしめられる。

身体が密着して暖かくなる。けれども震えは止まらない。当然だ。これは寒いから震えているわけではない。恐怖で震えているのだから。

 

「……一つ、聞きたいのですが……」

 

「なあに?」

 

「狐憑きが本当にいるとして、狐は生き物に取り憑くとして、人に取り憑いた例はあるんですか……?」

 

「ああ……」

 

少しだけシオンの口調が沈んだ気がした。けれど次の瞬間放たれた言葉にその気配はなく、決まりきったことを答えるように平静だった。

 

「昔、あったらしいよ」

 

どくんと心臓が跳ねた気がした。内心を取り繕いながらそうですかと答える。

シオンの首元に顔を埋めた。腕に強く力を籠め、大きく息を吸って吐く。

ピクリとシオンの身体が揺れて身動ぎする。そんなことが気に止まらないぐらい、頭と心がぐるぐると回っていた。

 

少し前にゲンさんにも同じことを聞いた。

その時ははぐらかされたが、やはり過去に人間の狐憑きはいたらしい。

それがどう言う存在なのかは知らない。何をしたのかは分からない。

 

ただ、過去に例があるという事実が俺の心に影を落とした。

狐憑き。精神的に不死で、肉体が死んでも自我が保たれ、記憶をなくさず、他者の身体を乗っ取る存在。

 

もしも狐憑きが本当にそういうものなら、それに当て嵌まる存在を俺は知っている。

前の人生の記憶を持ち、その時の感情を引き継ぎ、見ず知らずの人間の中にいる存在。

 

――――その名前をレンと言う。

 

剣聖の息子に生まれ、男でありながら刀を振るう。斬られようと殴られようと、死んだ後に生き返る。

 

共通点が多すぎる。偶然で片づける気にはなれなかった。

他者から見た俺はどれだけ異常だったことだろう。記憶があるせいで赤ん坊のころから礼儀を弁え、老人でさえ知らない知識を披露し、この世界とは違う常識を持っているために異物感があったはずだ。

 

物の怪が憑いていると指さされたことがある。

狐憑きの存在を知ってからずっと疑っていた。

 

自分が何者なのか。なぜこの世界にいるのか。どうして前世の記憶があるのか。

不思議だったけど考えないようにしていた。考えたところで答えは出なかったから。けれど今なら答えが出せる。俺が狐憑きなら全ての説明がつく。

 

前世が狐だった覚えはないけれど、人間に害を為そうとは思ってないけれど。

精神的な不死。死んでも死ねない。老いた先で地獄の苦しみを味わうことになるとしても、避けることは出来ない。永遠に生き続ける。

 

自分がそんな運命に置かれているとは考えたくない。

ありえないと己に言い聞かす。考えすぎだと。本当にあり得ないのかと心の声が返ってくる。

少なくとも、死なないのは事実なのだ。斬られて死ななかったし、首を折られても死ななかった。そんな異常な人間が、常人のように死ねる保証はどこにもない。

 

「この昔話から得られることはたくさんあると思うけど、昔の偉い人も色々考えた。でも、結局行き着く先は一緒だった。――ただの不死じゃ駄目だと考えた」

 

どこか悲し気なシオンの言葉を、その首元に顔を埋めながら聞く。

心の整理がついていないから、そのほとんどは右から左へ素通りしていった。ある一言を除いては。

 

「不老不死じゃなきゃ駄目だと、考えるようになった」

 

不老不死。その一言が俺の心に突き刺さった。



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第69話

うろの中で一晩を明かした。

明るくなってから山を下りた。

積もった雪に足を取られながら斜面を下り、たまにシオンに助けられて、ようやく村へと戻ってきたころには雪は少し融け始めていた。

 

遠くからでも分かるぐらい村には緊張感が漂っていて、恐怖のトカゲが獲物を求めて歩き回っており、我が家にはたくさんの人が集まっていた。

 

何をしているのかと聞き耳を立ててみると、どうにも俺がいなくなったことで父があちこち探し回った結果らしい。

またぞろ猿が襲ってきたとでも勘違いしたのだろう。夜が明けるまでは一ヶ所に集まって難を逃れ、明るくなったので各々動き出している。

 

夜の内に村総出で山狩りをすると聞いていたのだが、それにしては随分と慎重な判断を下している。もしかしたら、七の太刀で木が倒れる音がここまで響いたのかもしれない。

 

どういう理由にせよ村の人たちは山に登らず、夜が明けてさあどうしようかと言うところに俺とシオンが戻ってきた。

にわかに騒然となる村人の中から父が飛び出してくる。

 

「レン!」

 

駆け寄られ、腕が振り上げられて、頬を打たれた。

少しよろける。痛くはなかった。物理的にも精神的にも。

 

「どうして勝手なことをするの!?」

 

どうやら父は怒っている。

勝手なことと言われても困るが、山に登ったことに対して怒っているらしい。

そうするとはっきり告げたつもりだったが、泣いていたので聞き逃したのかもしれない。

なんだか後出しじゃんけんを食らった気分になる。こんなことで怒ってもしょうがないので努めて平静に言い返す。

 

「そうすべきだと思ったので」

 

再度腕が振り上げられた。

火に油を注いでしまったらしい。まあ、別に構わない。いくらでも叩けばいい。逃げも隠れもしないから。

 

父の行動を冷め冷めと見ていた。

痛くもないのに恐れる気にはなれない。かと言って良心が咎めることもない。ただその場に立って見ていた。

 

叩くにしろ殴るにしろ、全て受け止めるつもりでいたのだが、振り上げられた手が届くことはなかった。シオンが割って入ってきたから。

 

「はいダメ」

 

「な、なんですか!?」

 

父が鼻白む。シオンの顔を見てあからさまに狼狽えている。

頭の先から足元まで視線を向けて、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「一回はいいけど二回目は駄目だよ。レンだって疲れてるんだから」

 

「家族の問題です……関係ない人が首を突っ込まないでください」

 

「正論だけど、それでも僕はレンの肩を持つよ。なにせ背中を預け合った仲なんだから」

 

言うや否や、シオンは俺の肩を掴んで抱き寄せてくる。

脱力しきっていた俺はされるがままだ。

 

「猿は皆殺しにした。犠牲者の死体も確認したよ。骨しかなかったけど」

 

今朝、山を下りる前に黒い猿の死骸を確認した。

死骸は確かにそこにあって、あの場所の近くにゴミ捨て場らしき物もあった。そこに無数の人骨が捨てられていた。

 

「それは、その……」

 

「信じられないなら連れて行ってあげる。今からでも行こうか?」

 

父だけではなく周囲の人間に向けられた言葉だった。

集まっていた大人たちは半信半疑のようだ。シオンはこの村の人間ではないから信じられないのだろう。俺が言葉を添えても大して変わらないはずだ。俺を信用する人間なんてこの村にはいない。

 

「俺も行きますよ」

 

「レンは休んでよ。疲れたでしょ」

 

「疲れてないです」

 

「嘘つき」

 

正面から顔を近づけられて目を逸らす。目元に指が這わせられた。

 

「そんなに疲れ切った顔をして。ゆっくり休みなよ。あとの雑事は引き受けるから」

 

「シオンさんだって疲れてるはずです」

 

「心配ないよ。僕は女だ」

 

「……俺は……」

 

「君は男の子」

 

それでもう何も言えなくなる。

最後に軽く抱きしめられて、シオンは大人たちを急かし始めた。その素振りから、人に命令するのに手慣れている印象を受ける。

あっという間に人が消えていき、最後に残ったのは俺と同じく所在なさげに立っていた父上だった。

 

「レン……その、ごめんなさい」

 

父は視線を逸らしながら謝罪を口にする。それがたった今頬を打ったことか、それとも例の会話のことを謝っているのか。その両方かもしれない。多分そうだ。そう思うことにした。

 

「俺の方こそすみませんでした。酷いことを言いました」

 

「そんなこと……」

 

「高望みしすぎたのかもしれません。あんまりたくさんを望みすぎたのかも。人には向き不向きがありますから」

 

俺も父上の方を見ずに言葉を発する。

あまり言葉を選ぶ気にはなれずに淡々と紡いでいく。

 

「俺は父上の生まれとか育ちなんて気にしません。どんな経緯があって母上と結ばれたのかも興味がない。過去はどうあれ、父上は父上ですから」

 

それは絶対に変えようがないこと。血の繋がりは望む望まないに関わらず不変だから。

それはそれとして、母上とは話をしなければならないが。父上に言えないことでも母上になら言えるだろう。俺にとって、腹を割って話せるのは母上だけだった。父上には言えないことが多い。気を遣うし、言葉だって選ぶ。その点、母上とは気安い関係が築けている。

 

「ありがとう……」

 

か細い声が聞こえて、会話が途切れる。

気まずい空気が漂った。

 

「レン」

 

「はい」

 

「身体は大丈夫なの?」

 

「治りました。不思議なことに」

 

そうなんだと呟いて父上は立ち去った。

最後までその顔を見ることは出来ずにいた。どうしようもない隔意が俺たちの間にあった。

それをどうにかするつもりは、今の俺にはなかった。

 

 

 

 

 

大人たちを引き連れて山に登ったシオンの帰りを、俺は木の上で待っていた。

なぜか父上も付いて行ってしまったのでとても心配している。雪も降ったし、融けているし、多分足手まといになっていると思う。

かく言う俺はトカゲに見つかり追い回されて、いつぞやのシオンのように木の上に追い詰められてしまった。

今もトカゲは真下にいて俺を見上げている。時折蛇みたいに舌を出している。怖い。

 

山に入った人たちの気配を追いながら、することもないので思案にふけっている。

大半は取り留めもないことをつらつらと思い連ねるだけだったが、ふとシオンのことを思い浮かべ、そう言えば、彼女は気配が読める可能性があることを思い出した。

山に入ってすぐ、三匹の猿に遭遇した時に俺と同じぐらいの早さで猿たちの接近に気が付いていた。目視などできる距離ではなかったので、恐らくは気配が読めるはずだ。

 

となれば黒い猿に首の骨を折られて殺された時、俺の気配がなくなったことに気が付いていてもおかしくない。

その割にはそんな素振りはまるで見せず、合流した時には慌ててすらいなかった。

俺の身体が治ったことを不思議の一言で片づけ、それ以後は詮索すらしていない。

 

思い返すに不自然だが、あえて触れないようにしていると見るのが妥当だろう。普通なら根掘り葉掘り訊ねるものだ。

問題はどんな理由があってそんな態度をとっているのかだ。シオンにはシオンなりの目的があるはずで、それが俺にとって都合が良いことである保証はない。大抵は悪い方に向かっている気がする。

 

これは全く根拠はなく、あくまでも妄想と偏見による考えだが、例えばシオンが実はこの世界の権力者の一人であり、狐の昔話に出てきた権力者よろしく不死に憧れていて、俺と言う存在を知って利用しようとしているのだとしたら、今までの不自然な行動も納得できる範疇だ。

警戒心を抱かせないよう、出来る限り核心には触れずにいるだろう。

 

そもそも母上と関係がある時点で権力者の可能性は高い。だからやっぱりそうなのかなと結論を出しかけて、一部おかしい箇所があることに気が付いた。

もし本当にそう言う目的だとしたら、狐の昔話をしたのは筋が通らない。

あの話を聞いたから俺は自分が狐憑きだと知ることが出来た。俺を利用しようと考えるなら、狐憑きの話を聞かすのは都合が悪いはずだ。自覚してしまっては元も子もないのだから、出来る限り隠そうとするだろう。

 

この矛盾を踏まえるなら、シオンの目的は別にあるはず。何か考えがあるはずだが、それがさっぱりわからない。

シオンの言動は不自然さが極まっている。最初に土下座して命乞いしていたのは最早意味が分からないし、母上に会いに来たと言っておきながら、その日の晩には俺に会いに来たとも言っている。

女なのに自分のことを僕と呼称していたり、露悪的な振る舞いを見せたかと思えば、一方で俺の頼みをすんなり聞いてくれたりもする。

剣術に関しては俺や母上と同じく太刀が使えるそうだが、それは一度も見ていない。そのくせ、見たことのない技を使っていた。確か桜華散花とかいう技だ。

 

桜華と言うことは、つまり桜のことだろう。

前の人生では一年に一度は必ず目にしたあの花びらも、この世界ではまだ一度も見たことがない。

少し前に町に行った時に桜の話をしたが、母上ですら知らなかった。どうにも海の向こうにはあるらしいのだが、この辺りには生えていないと言う。なのに、シオンは桜華散花と言う技を使う。

 

なんなんだろうと頭を悩ます。

シオンって一体なんなんだろう。何が嘘で何が本当なんだろう。何を思って何を考えているのだろう。

 

別に俺自身はシオンに悪いイメージは持っていない。なんだかんだ助けてくれたし、色々教えてくれもした。もしシオンが俺を食って不死になりたいと言っても、文句ぐらい言うかもしれないが、多分最後には頷くと思う。

 

シオンの本性がどうであれ、正直に本音を打ち明けてくれれば仲良くなれるかもしれない。……なれるだろうか。やっぱりなれないかもしれない。あの性格が本性ならば。

 

そんな風に色々なことを考えていた。

あんまり自分の考えに没頭しすぎたために周囲の様子を見ていなかった。

気が付けば真下にいたはずのトカゲはいなくなり、その代わりに見覚えのある頭巾を被った老人が立っている。

老人は俺を見上げて口を開いた。

 

「そんなところで何をしているんだい?」

 

「景色を見ていました」

 

「考え事をしていたように見えた」

 

「実はトカゲに追われまして」

 

件のトカゲは少し離れた物陰でこちらを見ている。俺の視線に気づいて姿を隠した。……あれは肉食獣の動きだろう。

 

今下りればトカゲの餌食になるかもしれなかったが、年長者をいつまでも見下ろしているわけにもいかず、観念して地面に降り立つ。

 

「随分と元気そうだ」

 

「ええ。まあ。村長もお元気そうですね」

 

「おかげさまで」

 

幸いなことにトカゲは襲ってこなかった。しかし未だに物陰から俺を見ている。

 

「何か御用ですか?」

 

「話を」

 

「では家で聞きます」

 

村長を伴って家に向かう。もちろんトカゲも付いてきた。

 

 

 

 

 

縁側にわずかに距離を空けて座る。

頭巾を取った村長は以前見た時より年老いているように見えた。

体調を崩していたらしいから、そのせいかもしれない。

 

「お茶はありませんが水なら出せます」

 

「結構ですよ。すぐに帰るから」

 

そうは言っても出さないわけにはいかない。

腰を浮かせた俺を村長は強く制止して押し留めた。そこまで固辞するのならまあいいかと腰を落とす。

 

「それで話とは?」

 

「ああ……身体は治ったのかな?」

 

「おかげさまで」

 

「それはよかった」

 

感情の籠っていない言い方だった。心ここにあらずと言う口ぶりだ。どうも本題は他にあるようなので話を進めていく。

 

「まだ俺を殺したいですか?」

 

「まさか。村の危機を救ったというのが本当なら、とてもじゃないが殺せない」

 

「猿の話なら、嘘は言ってませんが確定してるわけでもないですよ」

 

「それはすぐにわかることだろうから」

 

村長は目を細めて山の方を見た。それから溜息を吐き、胸に溜まった重い何かを絞り出すように言葉を紡ぐ。

 

「また君に救われた。辻斬りの件に続いて二度目だ。感謝してもしきれない」

 

「俺は剣聖の子供ですので、これぐらいは」

 

「誰の子だろうと、11歳の男の子に違いはなかろうさ」

 

ふうと二度目のため息。

 

「大人たちはあまり役に立たなかったようだね」

 

「纏める人がいませんでした。議論と言うよりは言い合いでした。聞くに堪えなかった」

 

「気を悪くしないでおくれ。みんな気が立っていたんだ。飢饉と猿とで初めてのことばかりだったから。次から少しマシになると思う」

 

「それはそうかもしれませんが、期待だけして人事を尽くさないわけにもいかないでしょう。急場をしのぐためにも、纏める人が必要です。あなたのような経験豊富な人が」

 

だから死なないでほしいと言外に伝える。

今回の件でエンジュちゃんを含めて三人死んだ。

これからのことを考えるに、まだ口減らしが必要なのかもしれないが、そこに老人は含まれてはならない。もうこの村に老人は村長しか残っていない。この人が死ねばリーダーたる者がいなくなり、纏まりのない集団になってしまう。それではこの冬を乗り切れない。

 

その意思は確かに村長にも伝わった。なのに、少しの沈黙の後村長の口から出た答えは否だった。

 

「私は死ぬつもりだよ。でないと先に死んだ四人に申し訳が立たない」

 

「それはあるかもしれませんが」

 

「それに、何度か話しただろう。玄孫がいると」

 

玄孫のためにも死ぬと言いたいのだろうか。自分が死んでその分の食い扶持を確保すると。

 

「家族のことを思うなら、なおさら生きるべきだと思います」

 

「玄孫のことを思うなら死ぬべきだと思う」

 

「そんなことはないかと」

 

「……そういえば、名を教えていなかった」

 

平行線を辿りかけた話の中で、唐突に村長は話題を変える。

 

「玄孫の名前は(えんじゅ)って言うんだ」

 

頭が真っ白になった。

 

「槐は君のために山に入っていたんだよ。役に立ちたいと言って薬草のことを聞いてきたから、場所を教えてねえ。毎日毎日、しきりに君のことを言うんだ。お兄さんお兄さんと。……あれは、多分、君のことが好きだったと思う」

 

目を伏せて足元を見る。口を開いたが何も言えない。

家族を亡くし、失意の底にいるこの人に、生きてくれとは言えなかった。

 

「あの子は今頃寂しがっているだろうから。どこに行っていいかわからないで、泣いているかもしれないから。誰かが一緒に行ってあげないと。それが私の最後の役目だ」

 

よっこいせと村長は立ち上がる。

背を向けて歩いていく。曲がった腰に手をあてて、ゆっくりと確かな足取りで。

 

「本当にありがとう。感謝しています。仇を討ってくれて。あの子もきっと喜んでいるでしょう」

 

その言葉を残して、村長は去って行った。

呆然と見送ることしか出来なかった俺は、長いこと縁側に座り込んでいた。

いつの間にか、トカゲが近くに寄ってきて鼻先を擦り付けてくる。それは獲物の匂いを嗅いでいるのか、もしくは慰めてくれているのか。

 

エンジュちゃんの顔を思い出し、村長の顔を思い出す。

幸せだった家族が一つ壊れてしまった。その責任は俺にある。

俺がきちんとエンジュちゃんを諫めていればこうはならなかった。嫌われてもいいから叱ることが出来ていれば、エンジュちゃんは今も家族と一緒に居て、村長も考えを改めたかもしれない。

 

村長は何も言わなかったが、俺のせいだと言う気持ちはあったはずだ。

他の誰かが俺のせいじゃないと言ってくれても、俺は俺のせいだと思う。俺がきちんとしていれば、こんなことにならなかったのは事実だから。

 

仰向けに倒れて空を見上げる。

曇り空だ。すぐにでも雪が降りそうな曇天模様。

心に(おり)がたまったような気持ちでその空を眺めた。

罪悪感に圧し潰されそうになる。いっそのこと狂ってしまえれば楽なのに、心のどこかで冷静な自分がいて、お前のせいじゃないと自分を慰めている。そのことが酷く嫌になる。

 

泣けば楽になるのかもしれないが、瞼から涙が溢れる気配はない。最後に泣いたのはいつだろう。自分のことなのに、もう覚えてもいなかった。

 

この世界は地獄のような世界だ。

俺は地獄にいるのかもしれない。前世で罪を重ねたから、その罰を受けているのだ。

 

そんなことを、半ば本気で考えるぐらいには参っていた。

涙の代わりに自嘲が溢れて辺りを見渡す。

周囲には誰もいない。一番近くにいるのはトカゲで、村長の気配は離れていき、シオンたちはまだ山中にいる。

 

聞く者がいないから、心の声が漏れた。

傷が、澱が、弱音になって吐き出される。

 

「……もう、いやだ」

 

誰にも聞かせたくない声が、誰に届くこともなく宙に消えていく。



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第70話

死にたい。

自らの死を望む。その言葉を何度も繰り返す。

自分のせいで、一人の女の子とその家族が死んだことが、今までにない罪悪感になって押し寄せる。

どうして俺は死なないのだろう。あの時、猿に首を折られた時に死んでいればよかったのに。先代剣聖を殺した時に一緒に死んでいればよかったのに。

なぜ生き返ったのだろう。どうして生き返ったのだろう。

どうして、どうして、どうして、どうして、俺は生きている。死ぬべきは俺だったのに。死んでよかったのに。か弱い子供が死ぬなんて。どうして。

 

そうやって、ひとしきり罪悪感に圧し潰されて。神を呪って、自分を恨んで。俺と言う存在を否定して。どこまでも広がる雄大な空を見つめる。

そこに青色はなく白い雲だけが流れていく。いつまた雪が降ってもおかしくない薄暗い曇天。息を吐けば微かに白い水蒸気が浮かぶ。ああ、やっぱり俺は死ぬべきだなと己の命の無意味さを再認識して、今すべきことを考える。

 

飢饉が来て、母は西に、妹は東に向かった。間もなく猿が襲ってきて、皆殺しにした。

母のことは考えても仕方がない。どこに行ったか分からないし、追いかけたくても追いようがない。だから妹のことを考える。

アキは東に行った。早ければその日の内に帰ってくるはずだったのに、数日が経ってもまだ帰ってきていない。何かに巻き込まれている可能性が高い。どんなに鈍かろうと、食糧難が迫っていることは誰しもが理解している。人心が乱れて暴動が起こっていてもおかしくはない。

 

人の本性は危機的状況にこそ現れる。大抵の人は自分のことを賢いと思っていて、けれど全然賢くはない。

俺を含めて、突発的な状況で理性的に振る舞える人間は思いのほか少なくて、大半の人間はその場の空気に流される。

アキはまだ子供だから、間違いなく流される。周囲がそうしているのなら、人の道など容易く外れるだろう。そうならないためにゲンさんが付いて行ったが、未だに帰ってきていないのだから不測の事態が起こったはずだ。

 

行かねばならない。アキを迎えに。それが俺が生きている理由の一つだ。

 

息を吐き、心の痛みをないものとして、トカゲの顔を押しのけて立ち上がる。

今すぐにでも発ちたいところだが、世話になったシオンに何も言わないわけにはいかない。今だってシオンは俺のために身を粉にしてくれている。その恩には少しでも報いるべきだ。

すでに山に登った人たちの気配は戻りつつある。一言話をして、それから出発しても遅くはないだろう。

 

杖を持ち、山に向かって歩く。後ろをトカゲが付いてくる気配がする。

藪の前で待つ。間もなく大人が一人姿を現して、俺を見てぎょっとした顔をする。

その一人を皮切りに、続々と大人たちは帰って来る。その顔は一様に悲しみに暮れ、あるいは恐怖を張り付けていた。俺を見て驚くところまで一緒だった。

どうやら死体の確認は済んだらしい。ついでに犠牲になった人の遺体も確認したのだろう。貪られて骨しか残っておらず、どれが誰の骨なのか、そもそも人間の骨なのかも分からない有様だったろうが。

 

何にせよ、直近の脅威がなくなったことは認識しただろう。

だから大人たちはそれぞれ自分の家に戻っていく。俺に声をかける者はなく、通り過ぎる背中に頼りがいは微塵も感じられない。

 

村長は間もなく自ら命を絶つ。また何かトラブルに見舞われた時には、この人たちを頼りにしないといけないが、その前に母かゲンさんのどちらかが帰って来てくれることを望む。じゃないと俺は一人で行動に移すことになるだろう。

 

人の列が途切れてわずかに待つ。最後尾にいた二人の気配が近づいてくる。

がさがさと藪が揺れ、姿を現したシオン。そのすぐ後には父がいる。

あれ? と言う顔で俺を見たシオンは、背後のトカゲを苦虫を嚙み潰したような目で見ながらゆっくり近づいてきた。

 

「なになに。また何かあったの?」

 

「特に何もありませんが。どういう意味ですか」

 

「自分がどういう顔をしているか自覚した方がいいよ」

 

どういう顔をしているのだろう。

死にそうな顔か、絶望に染まった顔か。自分で自分の顔は見られないから分からない。

 

分からないことはあまり気にしないようにして、おずおずと近づいてきた父に目を向けた。

意を決したような顔で、勇気を振り絞っているように見えた。どういう心境の変化だろうと物珍しく眺める。

 

「レン、あの」

 

それだけで、何か言いたいことがあるのは分かった。

多分腹を割って話すつもりなのだろう。しかし今それをされても困る。アキのことを優先したいので付き合うわけにはいかなかった。

 

「あのね、レン。僕は――」

 

「お疲れさまでした。山の様子はどうでしたか」

 

先んじて、こちらから言葉を発する。

出鼻をくじかれた父は二の句を継げず、代わりにシオンが答えた。

 

「道中ぶつくさ言ってる人もいたけどね。着けば分かってくれたよ。言葉もなかったみたい。あれを実際その目で見たんだから、疑いようもないよね」

 

「犠牲になった人の確認は済みましたか?」

 

「衣服の切れ端が残っていたから、それで確認してた。遺骨をいくらか持ち帰ったみたい。それとね」

 

父を気にしたのか、シオンが声を潜める。

 

「あの黒い猿が持っていた頭蓋骨が見当たらなくてね。もしかしたら、木の下敷きになったかも」

 

「……そうですか」

 

胸が引き裂けそうになった。黒い猿が持っていた、子供の物と思しき頭蓋骨。あれは多分エンジュちゃんのものだった。

シオンが言う通り、木の下敷きになった可能性もあるが、もしかしたら七の太刀で切り裂いてしまったかもしれない。そう思うと余計に胸が痛んだ。

 

「何から何まで、おかげで助かりました。ありがとうございます。お疲れでしょうから、家でゆっくりしてください。俺は少し出かけます」

 

「急だね」

 

「妹を迎えに行ってきます」

 

シオンは少し考える素振りを見せてから頷いた。

その横でなぜか父は言葉をなくしている。その様子を不思議に思うが、気にしてもしょうがない。

 

「折角だし、手伝おうか」

 

「いえ、結構です」

 

「大丈夫?」

 

「はい」

 

「……まあ、大丈夫そうには見えるけど」

 

引っかかる言い方だ。どういう意味で言っているのか。

訝しむ俺の内心を察したか、シオンは言葉を足した。

 

「今のレンは少しだけ格好いい」

 

「それはどうも」

 

「少しだけだから、勘違いしないように」

 

勘違いも何も真に受けていない。お世事か何かだろう。どうでもいい。

 

「こちらの都合で申し訳ありませんが、お礼は帰ってからお渡しすることになります」

 

「お礼はいいよ。十分得る物はあったから」

 

「それだとこちらの気が済まないので。……帰ったら、一緒にお風呂に入りましょうか」

 

ぴたりとシオンの動きが一瞬止まり、父の視線が痛いぐらい突き刺さる。

 

「いや、入ってどうするの。背中でも流してくれるのかな?」

 

「流しますし、ご奉仕もします」

 

「え……」と父上の絶句した声が耳朶を打った。

 

「……まだそれ言うの?」

 

「他に値のある物を持っていないので」

 

シオンは下手な冗談を笑い飛ばすように首を振った。

 

「11歳には手を出さないって言ったでしょ」

 

「年が明ければ12歳です。それぐらいなら誤差です。納得できないなら四捨五入してください」

 

「いや、精通だってまだなんでしょ?」

 

「擦れば出ると思いますよ」

 

「……本気で言ってるの?」

 

「大真面目ですが」

 

ついにはシオンの顔が引きつった。

少し待って、特に二の句もなかったので、会話を終わらせて父の方に向く。

 

「父上」

 

「……」

 

「馬を借ります」

 

「……」

 

「借ります」

 

呆然としていたため返事がなかった。念のため二度告げたが、多分聞こえていない。帰って来た時にまた後出しされるかもしれない。

 

「それでは、我が家でごゆるりとお過ごしください」

 

「……なんか、なんだろう……すごく強引じゃない?」

 

「気のせいだと思います。早ければ今日中に戻ってきます。遅くても数日中に戻ります。それ以上かかるようなら死んだと思ってください」

 

「聞き捨てならないんだけど。ひょっとして、死ぬつもりじゃないだろうね」

 

「いいえ。まだやることがありますし、そもそも死ねるかも分からないですし」

 

知ってるでしょう? と言う意思を込めてシオンを見つめる。

シオンは渋面で視線を返してきた。

 

「なんだか……凄くやりにくい」

 

「シオンさんには聞きたいことがたくさんあります。(ねや)で教えてください」

 

「本当にやりにくい……」

 

二人をその場に残し、踵を返して馬小屋へと向かう。

いつまでも後をついてくるトカゲがしきりに襟首を咥えてきて鬱陶しかったが、何とか馬に乗ることが出来た。

乗った後も足を咥えて落そうとしてきたので、命からがら馬を走らせる。トカゲはついてきた。いつまでもいつまでもついて来て、ついに振り切ることは出来なかった。

 

 

 

 

 

道中は昨晩降った雪のせいでぬかるんでいて、道の状態は非常に悪かった。この分なら歩いたほうがましだったかもしれないが、帰りのことを考えて馬は必要になるだろうと考えていた。トカゲは全く必要ないと思う。

 

隣町に着いたのは昼を過ぎてから。

澱んだ空気を肌で感じ、屋台の一つもない町並みに、変わるものだなと感想を抱く。馬から降りて散策する。

 

あちこち見て回った結果、この町にアキはいないと言う結論に達し、違う町に向かうことにした。

知り合いを求めて立ち寄った自警団の屋敷で、ここより東に大きな町があり、大半の団員はそこに向かったと言う情報を得た。

いつかの知り合いのカオリさんもそこに向かったのだと言う。ここにいない以上、アキたちも向かった可能性が高い。ゲンさんも一緒なのにどうしてそこまでしているのかと思わないでもないが、話は合流してから聞けばいい。

 

馬に跨り走り出す。町の人たちは俺を避けたので移動は苦にならない。

アキは無事だろうか。そればかり考えながら馬を走らせる。

 

東の都まで二日ほどかかると言う。途中に宿があるらしいが生憎と金がない。不眠不休で行けば一日で着くだろう。

 

知らない道を行く。がむしゃらに駆けて行く。振り返らずに進んでいく。振り返ればトカゲがいるから、振り返る気にはならない。

 

アキのことだけ考える。無事であってくれと願う。

願い続けて数刻。太陽が西に沈んで薄暗くなる。真っ暗闇な道を構わず走らせて、ようやく探し求めていた気配を感じ取ることが出来た。

 

不気味なほどの静寂の向こうから、がらがらと車輪の転がる音が聞こえてくる。

東から上った月を背にして、荷車を引く人影が一つ。荷車の上には三人いて、内一人はゲンさんだった。

 

「アキ!」

 

馬から飛び降りて走り出す。呼びかけながら駆け寄った。

アキはびっくりした顔をしていた。驚きと疑問の二つが表情に現れていて、眉をひそめて囁いた。

 

「……兄上?」

 

半信半疑の呼びかけに応え、万感の思いを込めて抱き着く。

良かったと心の底から思う。何よりも、それだけを胸に抱く。

 

「おかえり、アキ」

 

アキは答えない。

誰も言葉を発しない。

頭上に瞬く星々だけが俺たちを見下ろしていた。




ひと区切り。
70話に関してはいつか書き直すかもしれません。何度も何度も書き直して今の形に落ち着きましたが、やはり納得のいかない出来になりました。

さて、数話前のあとがきで猿の描写をマイルドにしたためその内解説すると書いてしまいましたので、それについて簡単に解説を。

もともと猿たちの描写はもっと凄惨なものにする予定でした。
20年ほど前にブルーノと言うチンパンジーが起こした事件がありまして、それを参考に書くつもりでした。
詳しくは検索していただきたいのですが、手足の指を全部嚙み千切るとか生きたまま顔面を食らうとかそういう事件です。

なので、「山のどこからか助けを求める人の声が聞こえる。それは子供の声に思えた」とか「絶えず断末魔が木霊する」とか、そういう描写をするつもりでしたが、メンタル的に書き切れませんでした。
ぶち切れたレン君が一人山に乗り込み、シオンが助けに来ると言う展開ですね。
いつか書いてみたいと思っています。



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第71話


短いです。
Q.名前が漢字表記の場合とカタカナ表記の場合があるんですが、何か意味があるのですか?
A.実は法則がありますが、キャラによって変わると思っていただければ結構です。


鬱蒼とした木々の生い茂る山の中、土が踏み固められただけの道の上で、妹を抱きしめる。

無事でよかったと安堵で胸を撫で下ろし、怪我はないかと一旦身体を離してじっくり眺めた。

記憶の中のそれと寸分違わず、華奢な身体には怪我らしきものは見当たらない。とはいえ服を着ているから、必ずしもそうだとは言い切れない。シオンよりも先にアキと風呂に入るべきかと考えあぐねる。

 

ひとまず結論は先送りにして、とりあえずまた抱きしめた。

生きているからこその温かさを感じる。死んでしまったら最後、記憶にしか残らない。エンジュちゃんのように。

 

「兄上……」

 

呟きと共に背中に腕が回された。ぎゅっと抱きしめ返される。

体温と心音、息遣い。慣れ親しんだ感触に不思議と心が落ち着いた。

抱き合う最中も込められる力が段々と増していき、思わず咳がこぼれてしまう。そして唐突に突き飛ばされた。一歩二歩と後ずさりし、月と星の瞬きに照らされる妹の顔を見返した。

俯いて影が差しているため表情は分かりにくい。しかし、視線に籠っている力に僅かばかり気圧される。

 

「こんなところで、何をしているのですか、兄上」

 

喜んでいるとはとても言い難い声音。何かを耐えるような雰囲気。東の都で何かあったのだろうかと、一度は治まった不安がぶり返す。

 

「迎えに来た。帰ろう」

 

「……迎え……兄上が?」

 

その声は困惑に満ちている。もっともな疑問だと思った。何せ、この数ヶ月間、俺は身体を壊していた。動くこともままならない日が続いて、アキに面倒を見てもらっていた。

けれどももう治った。その辺りの事情を理解してもらうのは中々に難しい。説明してもし切れそうにないし、そもそもしたくもない。他人に話せるほどの心の準備がまだできていない。

 

「もしかして、身体、治ったんですか」

 

「うん、治った」

 

短く答える。アキは頭のてっぺんから爪先までしげしげと眺めてくる。

 

「……そうですか――――そうなんですか」

 

声尻と共にアキの雰囲気が少し変わった。そのことにどうしてか警戒してしまった自分がいる。

何かが違う。決定的な違和感。直感が訴えている。危険だと。

 

何が危険なのかと理性で考える。危険であるはずがない。アキのことはよく知っている。この世界で一番身近な存在だ。

そう考え、不安を押し殺して歩み寄る。自分の直感を否定する。そして突き飛ばされて離れてしまった距離をなくして、じっと俺を見ているアキに近づく。その目に宿る光。爛爛と輝く瞳。それが何を意味しているのかよく分からなくて、緊張感から唾を飲み込んだ。

 

「どうかしましたか?」

 

「いや……」

 

思わず言い淀む。実の妹相手に緊張していたなんて言えない。言いたくない。

それをどう勘違いしたのか、アキは荷車へ指を差して告げてくる。

 

「安心してください。食料は手に入りました。米俵三つと乾物が少し。……私、とても頑張ったんですよ」

 

落ち着いた声だった。頑張ったとは言うけれど、それをあまり誇示していない。

少し前のアキならもっと主張したはずだ。どれだけ頑張ったか。どれほど大変だったのか。誇張交じりに、大袈裟に、子供のように。

 

付き纏う違和感を振り払い、荷車に目を向ける。米俵三つと言った。それはとても凄いことだと思う。正直、食料が手に入るとは思っていなかった。

このご時世だ。皆が食料を求めている。競争に打ち勝ったのだろう。問題はどのような競争があって、どんな手段を用いたのか。

 

「アキ、一体何が――――」

 

「それと、(ゲン)さんが怪我をしました。強情に色々と言っていましたが、うるさかったので荷車で寝かせています」

 

「え」

 

慌てて荷車に駆け寄る。

被せられていた布を剥がして中を覗く。

 

真っ先に目に映った三つの米俵。その上にいくつかの布袋が無造作に置かれていて、僅かに空いた空間に窮屈そうな体勢で眠っているゲンさんがいた。悪夢でも見ているのか、呻き声が聞こえる。見たところ大きな怪我はしていない。

ほっと胸を撫で下ろし、視線をその足元に向ける。そこには見覚えのない子供が二人いた。見たところアキと同じか年下に思える。二人は揃って膝を抱え、身を縮こませて、寄り添って眠っていた。

 

どこの子だろうと、その顔をよく見るために手を伸ばし、目元にかかっていた前髪を左右に分けようとした。

指が髪に触れる直前、エンジュちゃんの顔を思い出して、伸ばしていた手を引っ込める。

 

(つむぎ)(こずえ)です。反抗的なのが紬で、割りと従順なのが梢です」

 

背後からアキがそれぞれの名前を教えてくれる。

当然だがどっちがどっちなのか分からない。見比べてみても、寝ている子どもは可愛らしいと言う感想しか抱かない。反抗的とか従順だとか、そんなのは見た目で分かることじゃない。

 

「……この子たちは?」

 

「殺されかけていたので連れてきました。迷惑なことに、心が痛んでしまったので」

 

「親は?」

 

「残念ですが、一足先に殺されました」

 

淡々と告げられた事実に言葉をなくす。

 

「……どうして」

 

「元々恨まれていたようで、寄ってたかって殺されてしまいました。酷いことをする人間もいたものです」

 

子供が殺されそうになっていた。親は先に殺された。それもアキの言い方ではやむを得ず殺されたと言うよりは、嬉々として殺されたように聞こえた。

どうしてそんなことが起こったのか。食料不足のせいなのか。東はそんなに酷い状況なのか。次から次へと疑問が浮かび、上手く言葉に変換されない。

 

「なんで、そんな……」

 

「人心が乱れて世が乱れました。あちこちで強盗が多発して殺人も起きています。同じ地域に暮らす者同士で殴り合いの日々です。ここまで来るのも大変でした」

 

事も無げに言ってのけるアキは変わらず淡々としている。

アキには似つかわしくない無表情で、喋りながらじっと俺を見つめている。

何か言わなければと言う衝動に駆られて、具体的なことを考える前に労りの言葉をかけた。

 

「よく、頑張ったね」

 

「そうですか? ……そうですね」

 

思っていた以上のあっさりとした反応に何度目かの不安を抱く。

あのアキがこんな風になるなんて、一体何があったのだろうと考える。それは容易く想像できた。多分、人を殺したのだろう。それが何人かは分からない。一人や二人ではない。もっと多く、数人、下手をすれば十人以上。そういうことがあったのだろう。

 

「どうしました?」

 

何も言えなくなった俺に対してアキが怪訝そうにしている。

俺も人を殺したことがある。先代の剣聖を殺した。それに対して思うことはない。殺そうとしてきたから殺した。それだけの話だ。

それはアキだって同じはずだ。数の問題ではなく、正当防衛かどうかの問題。どっちが酷いと言う話ではないはず。なのに、アキが人を殺したと思うと酷く心が痛んだ。

自分よりも年下で、守ってあげなければいけない存在が人を(あや)めたと言う事実がナイフのように心に突き刺さる。

不甲斐ない。俺のせいでそうなった。その自覚が心に傷を生んだ。

 

じっと見つめてくるアキの瞳に、これまでになかった暗い色を見た気がして、たまらずその身体を抱きしめる。

力いっぱい、出来るだけ強く、抑えきれなかった感情を八つ当たりのようにぶつけながら。

 

ごめんと言おうとした。でも言えなかった。

ありがとうと言おうとした。でも言えなかった。

ごめんと言えば、アキの行動を否定する気がしたから。

ありがとうと言えば、アキが殺してしまった人たちの死を肯定する気がしたから。

 

何も言えないまま抱きしめる。

アキは抱き返してこなかった。

アキの気持ちが知りたい。辛いのか、悲しいのか、あるいは本当に何とも思っていないのか。

それを知れれば、どういう言葉をかければいいのか分かると思ったから。



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第72話

本日二話目です
読んでない方は前話からどうぞ


再会を終えて、アキへの労りや状況の確認など、言いたいことや聞きたいことは山ほどあったが、俺自身混乱しているのに加えて、アキも疲れているのは間違いなく、怪我をしているらしいゲンさんを放っておくわけにもいかないので、全ては家に帰ってからということで、我が家に向かって歩を進める。

 

荷車は馬に引いてもらうことにした。

馬に紐を括り付け、荷車に結ぶ。

本来ならそれ用のきちんとした装備があるのだろうが、生憎と我が家にそれらしきものはなかった。

ないのならあるもので代用するしかない。そういうわけで紐の出番。紐と言ってもあやとりで使うような細いものではなく、太くて頑丈な、どちらかと言えば縄に近いもの。

 

これをどこにどのようにして結べばいいのかわからず苦労したが、「こうすればいいのです」とアキが慣れた手つきで括り付けた。一体どこで覚えたのか。それも東の都で学んだのか。聞きたいことばかり増えていく。

家に着くのを待つ前に、移動の間に聞けることは聞いてしまおうと思って、アキと手を繋ぎながら歩いた。

 

「兄上」

 

「うん?」

 

蜥蜴(トカゲ)が」

 

「うん……」

 

アキと合流してからこっち、トカゲの様子が少しおかしい。

今は俺たちの周囲をぐるぐると回り続けている。一定の距離を保って近づいてこない。不思議に思ってこっちから近づくと逃げていく。何がしたいのか分からない。

 

「どうして連れてきたのですか」

 

「勝手についてきたんだよ」

 

「ふーん」

 

思い返せば、アキはトカゲが嫌いだった。事あるごとに殺そうとしていた。今も冷たい目でトカゲの動きを追っている。

 

「……まあ、あれはあとでいいか。それで、兄上の方は何があったんですか」

 

「特には何も」

 

俺のことよりもアキの方が重要だ。その気持ちではぐらかす。多少なり見知った仲だったエンジュちゃんのことをどう伝えるべきか。それもまだ決めかねていた。

 

「そうですか。私はてっきり、またぞろ不幸に見舞われたと思いましたが、違いましたか?」

 

まさかそんなことを言われるとは思いもよらず、的を得ていたのも相まって言葉に詰まる。

そんな俺を見たアキはくすりと笑みをこぼした。

 

「見舞われたんですね」

 

呆れと感心が大半で、嘲りが少し混じっている。そんな笑い方だった。そういう笑い方をするアキは見たことがない。

 

「アキ……?」

 

「あ、すいません。馬鹿にしたわけじゃないですよ。ただ、やっぱりなぁと思っただけなので」

 

何がやっぱりなのだろう。

くすくすと笑うアキを横目で伺いながら、違和感が大きくなるのを感じた。何かが違う。一体何が違うのかは分からないが、確実に異なっている。そんな感覚。

 

「……早く帰ろう」

 

「そうですね」

 

違和感に蓋をして歩を早める。

俺の横で、アキは少しだけ楽しそうにしていた。その横顔に無邪気さを感じられて僅かに違和感が和らぐ。

気のせいだと自分に言い聞かせる。アキも大変な目に遭ったのだからと。

 

 

 

 

 

たまに休憩を挟みながら歩き続けて、空が薄っすら明るくなって来た頃にようやく村の付近まで辿り着く。

馬に引かれる荷車からひょっこりと顔を覗かせた子供に気づいたのは、村を視認した直後のことだった。

目が合った瞬間に子供は荷車の中に隠れてしまう。人見知りなのかと思いかけて、親を失くしていたことを思い出す。

単純に、初めて見る俺のことを警戒しているのだろう。下手をすれば殺されるかもしれないから。

 

そんな子供二人とどのように接するべきか頭を悩ませる。食料のこともある。アキがあの子たちを連れ帰ってきたことを責めるつもりもないが、ない袖は振れないのも事実だ。

俺一人死ねばあの子たちの食い扶持ぐらいは繋げるだろうか。やっぱりとっとと死ぬべきか。どのように死のうか。

 

状況が切迫してきた。シオンと話をしなければならない。いい加減正体や目的を明かしてもらおう。

それとアキとも話をしなければならない。具体的なことを聞き出して、必要ならメンタル的なケアが必要だ。ゲンさんとも話をして、子供たちとも話す。そういえば、父上とも話さなければならなかった。同じ理由で、母上が帰ってくればそちらとも話す必要がある。

 

やることが多い。まあ、身辺の整理と思えばそういうものなのかもしれない。

ひとまずはやれることからやっておこうと、アキと手を繋いだまま荷車に近づく。

 

荷車の後ろにいたトカゲが荷車を挟んで向こう側へ離れていった。昨晩はしつこいぐらい追いかけてきたのに今となっては避けられている。どうしてこうなったのか謎だ。不思議でたまらない。他人の気持ちも中々理解できないものだが、爬虫類の気持ちは殊更わからない。

 

理解の難しいトカゲのことは脇に置いておき、布を引っ張って荷車の中を覗く。

子供と目が合った。まだ眠っている子供を守るように抱きしめて、こっちを睨みつけている。

その様子は明らかに警戒しているし怯えてもいた。

どのような声をかけようかと迷い、時と場合を選んだ方がよさそうだと、布から手を放した。

 

「今のが(つむぎ)です。生意気そうな顔をしていたでしょう?」

 

「怯えていたよ」

 

「兄上に怯えるなんて見る目がないですね」

 

「親を殺されて、自分も殺されかけたのだから、当然の反応だよ」

 

もう一人の子供――(コズエ)ちゃんとゲンさんが目を覚ました後に改めて話をしよう。

アキもゲンさんも俺なんかよりは信用されているだろうし、仲介に立ってほしい。その方が話はスムーズに進む。

 

「あの子たちは出来れば(うち)で引き取りたいけど、まず母上と父上に話を通さないといけない」

 

とは言え我が家は赤の他人だ。子供たちの親族を頼ると言う手もあるにはあるが、そもそもいるかどうかわからないし、何よりこのご時世だ。どこも子供を抱える余裕はないだろう。

 

「そう言えば、母上は帰ってきましたか?」

 

「まだ」

 

「どこで何してるんでしょうねえ。いっそのこと帰ってこなくてもいいんですけど」

 

そんなことをのたまうアキの口ぶりは、どことなく辛辣(しんらつ)だった。

そう言えば、今の今まですっかり忘れていたのだけど、アキと母上の仲も拗れていたのだった。やることがまた増えた。この調子では果てなく増えそうな気がする。

 

しなければいけないことをつらつらと考えていた俺の横で、アキが唐突に立ち止まる。

釣られて俺も立ち止まり、数歩先で馬も立ち止まった。振り向いてくる馬の向こうに人影が一つ現れる。

 

ゆっくりと近づいてくるその気配を感じ取り、警戒する必要がないことを察した俺はそのことを伝えようと口を開きかけ、険しい表情を浮かべるアキに気づく。

 

「アキ?」

 

「……あれは……」

 

繋いだ手に力が籠っている。

もう片方の手が腰の刀に伸びていた。あまりに警戒しすぎているその様子に、このままでは邂逅一番斬りかかりかねないと、アキの手を引き寄せて抱きとめる。

背中から抱きしめる形になったが、俺よりもアキの方が背が高いのでいささか不格好に思えた。

 

万が一もないようにこのままの体勢で人影が近づいてくるのを待つ。

そうすると、人影よりも先にトカゲが近づいてきて、鼻頭をこつんこつんと当ててきた。ぺろりと耳辺りを舐めてくる。ぞわりと鳥肌が立ったが、すでに人影がすぐ近くまで来ていたのでアキを放すわけにもいかなかった。

 

べろべろと舐められて、ぞわぞわとしている俺に向けて、人影は親し気に話しかけてきた。

 

「やあ、レン。こんばんは。もしくはおはようだね」

 

そんなことを言いながら近づいてきた人影――シオン。

シオンはアキを後ろから抱きしめる俺を興味深げに眺めた後、トカゲを見つけて足を止めた。その声に反応したトカゲがシオンを捉え、束の間両者は見つめ合い、次の瞬間には踵を返すシオンと追いかけていくトカゲという構図が生まれた。

 

悲鳴はなく、足音だけが遠ざかっていく。

トカゲの方が足は速い。何せ馬についてくるぐらいだ。だから単純な徒競走では勝負は見えているのだけど、シオンはどうするつもりなのか気になった。また木に登るのかなと生末(いくすえ)を思い浮かべながらアキを放す。

 

アキは大人しい。シオンが駆けて行った方向をじっと見ている。

見ていたのは時間にして10秒足らず。その後は俺に向き直り、無表情で聞いてくる。

 

「あれは、どうして、ここにいるんですか?」

 

あれというのがシオンのことで、どうしてと言うのに答えるには、まずは経緯から話さなければならない。

 

「母上の知り合いらしい。剣聖に会いに来たと言っていた」

 

「でも母上はいないんでしょう? 追い返せばいいじゃないですか。とっとと帰らせるべきです」

 

「少し色々あって、助けてもらった。まだお礼も渡してないから、もう少し居てもらうつもりだ」

 

「お礼……金銭ですか? それとも食料? 食料なら、私が運んできたものを渡して、とっとと追い出しましょう」

 

アキから目を逸らす。シオンが消えた方向を眺める。今、シオンはトカゲに追いつかれている。その気配がした。

 

「……何を渡すにせよ、きちんと話してからだ」

 

沈黙が漂った。どことなく気まずい空気が流れてしまう。

「行こう」と声をかけて歩き始めた俺の手首をアキが掴んだ。

それは強い痛みを感じるほどの力で、顔をしかめる俺を自らの方へ引き寄せながら、アキは俺のことを睨んでいた。

 

「つかぬことをお聞きしますが、兄上は、あれに、何を、渡すつもりでいたのですか?」

 

「……」

 

「身体とか言わないですよね?」

 

まさか、アキからその言葉が出てくるとは思わなかった。

子作りはおろか性的なことを何一つとして教えられていなかったあのアキから。

 

「……それは、意味をわかって言ってるのか?」

 

「睦み事。まぐわう。やる。犯す。……まわす? どれでも好きな言葉を選んでください。どれも意味は同じみたいですから」

 

「……」

 

「黙らないでください。はぐらかすのもやめてください。私は、あれに兄上を渡したくありません」

 

溜息を吐く。一体どこでそれを知ったのか。

何故だかカオリさんの顔が思い浮かぶが、いずれにせよ、今までと同じやり方は通じない。それがよく分かった。

 

「俺が個人的に頼んだことだから、お礼は俺がする。それが何であれ、アキが口を出すことじゃない」

 

「私たちは家族です。口を出しますし必要なら手も出します。兄上が道を間違えそうなら連れ戻しますし、叩いてでもやめさせます」

 

「自分で選んだことだ。俺は自分の行動に責任も持てない無責任な人間じゃない」

 

「男のくせに何を言っているのですか」

 

再び顔をしかめる。今度は別の意味で。

 

シオンも似たようなことを言っていた。男だから、と。

それはまるで魔法の言葉のようで、何を言おうとそのたった一言で封じられる。反論を探しても思いつかない。俺が男であるのは事実で、この世界で男が弱い生き物であることもまた事実だ。性別は関係ないと言ったところで、この世界はそういう風には出来ていない。仕組みが違う。人権に関する認識も、そのありようも、俺の知っている世界とは根本から異なっている。

何を言ったところで理解されないだろうと言う諦めが、いの一番に出てしまう。

 

「兄上は男じゃないですか。男が自分の人生を決められると思ってるんですか? 責任を持てると思ってるんですか? 従うしかないんですよ。言いなりなんですよ。歯向かっちゃダメなんですよ。一生、ずっと、誰かの持ち物なんです。だから兄上の責任は私が持ちます。だって私は女ですから。当たり前のことですから」

 

アキは俺の手首を放さない。握ったまま引っ張られる。まるでペットにつけるリードのように、それは俺の意思に関係なく引き寄せて、正面から抱きしめられた。

 

「あいつには、渡しません」

 

抱きしめられながらも、依然として手首は掴まれたままだ。

握りしめられた手首が熱い。そう言えば、猿と戦った後、同じようにシオンにも手首を掴まれた。

あの時も振り解けそうになかった。そして小さく聞こえた「つかまえた」という言葉。

 

このままアキとシオンを会わせるとまずいことになるのは俺でも分かる。

何とかしなければとアキの腕から逃れるために抵抗してみて、力負けしてアキの胸に抱き留められる。

まるで歯が立たない。以前にも増して力の差が大きくなった気がする。どうにかしなければと思っても、どうにも出来ないことに気づく。

 

そのまま横抱きに抱えられて、じたばたと暴れてみても、やっぱりアキから逃れられない。暴れれば暴れるほどより強い力で抱きしめられて、今や全身が軋むぐらいの力が込められている。

 

アキが馬の尻を叩いて歩かせ始める。荷車が動く。その布の隙間から子供の目がこちらを見ていた。二対の瞳。いつの間にかコズエちゃんも起きたらしい。二人して俺たちのやり取りを観察していた。

今度は俺と視線が合っても隠れたりしない。

先ほどとは大違いの反応だ。それぐらい俺たちの会話に興味が引かれていると言うことか。

 

アキに身動ぎ一つ出来ないぐらい強く抱きかかえられたまま、この後のことに思考を巡らす。

シオンとトカゲの気配は一箇所で止まっている。向こうがどうなっているかは知らないけれど、このままではすぐに追いつく。

考える時間がない。対策を練る暇もない。そもそもどうすればいいのか全く分からない。

 

アキは俺をシオンに渡さないと言っている。

俺はシオンの物になってもいいと考えている。

ではシオンは俺のことをどう思っているのだろう。全てはそれにかかっている。

 

シオンの目的がどうであれ、狐憑きと思われる俺を見逃すとは考えにくい。アキの強情さを考えれば、衝突する未来しか見えない。

俺が何とかするしかない。具体的にどうすればいいのか。アキを説得するしかないだろうが、出来るだろうか。やるしかない。

 

母上がいてくれれば、家長としての鶴の一言で丸く収まるのに。そう思いながら気配を探ってみても、母上の気配は未だどこにもない。

早く帰って来てほしい。色々と込み合っている。俺ももうそろそろ終わりにしたい。



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第73話

アキに横抱きにかかえられたままシオンの元へ向かう。

歩が進むごとに視界が揺れ、ぐらぐらとした浮遊感を感じた。地に足がついていないのと妹に抱きかかえられている状況とが相まって、ふとした瞬間に手を離されるのではないかとありもしない不安を感じ、思わず身を固くしてしまう。

 

不安を抑えつつ、目だけで周囲の様子を伺った。

ガラガラと車輪の転がる音がする。馬の足音が断続的に聞こえた。アキの息遣いが微かに感じられて、目を閉じれば鼓動も聞こえるぐらいに密着している。

 

そうこうする間もシオンの気配に近づいて行く。不安ばかりが募る。どうにか引き返せないかと考え、抱きかかえられている現状では主導権がなく、指示したところで従ってくれないのは明らかだった。

アキとシオンを会わせるのは危険だという予感を感じつつも、どうにも出来ない状況に焦燥感が募っていく。

 

ちょっと身動ぎしただけでアキは目だけで俺を見て、少しだけ力が増す。

何度か繰り返す内に軋むを通り越して痛くなったけれど、わざわざそれを口にはしなかった。理由は自分でもよくわからない。兄としてのなけなしのプライドか、あるいは弱音を吐きたくないと、この世界では俺ぐらいしか持たない男のプライドなのかもしれない。

 

分からないことばかりを考えながら、視線は自然とアキだけに注がれる。

この状況を打破する方法も、自分自身の本音すらも、何も答えにたどり着けなくて、かといって何もしないでいるわけにもいかず、何となくその頬に手を添える。

そうすると、アキの顔が俺に向けられた。当然のことながらよく見知った顔だ。別人であるはずもない。目の下あたりを人指し指でなぞり、唇の横辺りに親指を這わせる。

それで何がしたかったわけじゃない。目の奥に宿る光だとか、どういう反応をするのかとか、そういうのを見て何かを感じ取れればよかったのだけど、何も感じられなかった。反応が薄い。俺がアキを観察しているとの同じで、アキも俺を観察しているように思えた。

 

僅かに口が開き、アキが何かを言いかける。兄上と呼ばれた気がしたが小さすぎて聞き取れなかった。聞き返す前に立ち止まり、並んで進んでいた馬も止まった。

いつの間にやら、前方からトカゲがやって来ていて、襟首を咥えられたシオンがずるずると引き摺られていた。

 

己の最期でも悟ってしまったのか、脱力しきって無抵抗のシオンを、トカゲは俺たちの側まで運んできて、ぽいっと放って寄こした。

転がされた勢いでごろりと仰向けになったシオンと目が合って、思いのほか穏やかな声が紡がれる。

 

「やあ、また会ったね」

 

声こそ穏やかではあったが、その目は被害者を名乗るには十分な暗い色を湛えていた。その目を見て、さすがのアキも気勢が削がれたのか何も言わない。同じ被害者同士、親近感をもって慰めた。

 

「ご無事で何よりです」

 

「……え? 無事に見える?」

 

シオンの目に光が戻る。一転して不機嫌な気配。

どうしたことかとその身体に目を向ける。汚れてはいるが傷らしきものは見当たらない。

 

「外傷はなさそうですが」

 

「そっかぁ。じゃあ一つ言っておくと、あの蜥蜴(とかげ)を何とかしないと、僕の怒りが君に向くことを覚えておいてほしい」

 

「わかりました。覚えてはおきますが、あれを止めるのは無理な相談です。被害者同士仲良くしませんか?」

 

「飼い主が何言ってんのさ」

 

むくりと起き上がったシオンは一つ息を吐いてから立ち上がる。

すでに若干遠ざかっていたトカゲを横目に伺って、抱えられる俺と抱えるアキを見た。眉を八の字にして、不機嫌そうな気配を纏わせながら訊ねてくる。

 

「で、なんなの君たち。ひょっとして見せつけてる?」

 

「何の話ですか」

 

言ってる意味が分からなかったので聞き返す。

シオンは俺の顔を数秒見つめて、二度目のため息を吐いた。

 

「箱庭も大概にすべきだね」

 

「箱庭?」

 

「わからないならいいよ。で、そっちの子は?」

 

シオンが水を向けたのに釣られて俺もアキを見る。アキは眦を吊り上げてシオンを見返していた。機嫌の悪さを隠そうともしていない。

 

「紹介します。妹のアキです」

 

「だろうね。(なぎ)にそっくりだ」

 

そんなに似ているかなと個人的には思うのだが、他人と家族で物の見方が異なるのは道理だろう。

外見だけで判断するのと中身も含めて判断するのとでは違った感想が出るのかもしれない。

 

二人の間に流れる微妙な空気を感じて言葉に窮する俺の眼前で、シオンが不自然に取り繕った笑みを浮かべてアキに話しかけた。

 

「初めまして。僕はシオン。君のお母さんとはそれなりに仲良しで、そっちのお兄さんともこれから仲良くしようと思ってる。君とも仲良くしたいな。よろしくね」

 

「帰れ」

 

アキの一言。シオンの言葉など聞いてもいない様子。

今にも噛みつきそうな顔のアキと、きょとんと目を丸くするシオン。しばしの間二人は睨み合い、あるいは見つめ合い、最初に口を開いたのはシオンの方。

 

「あれえ?」

 

すっとんきょうな声だった。

心の底から不思議がっている。そんな声。

 

「なになに? 僕嫌われてる? どうしてどうして?」

 

「いや、まあ、とりあえず落ち着いてください」

 

なぜだかシオンは大層な衝撃を受けたらしく、一気に距離を詰めてきた。

初対面の子供に第一声で帰宅を促されたのがショックだったらしい。そんなにショックを受けるようなことかなと俺の方こそ不思議になったが、そこそこ仲の良い知り合いの子供に嫌われてるとなれば、まあまあショックを受けるかもしれない。

 

「僕何かやったっけ?」

 

「シオンさんは何もやってませんよ」

 

「じゃあどうして?」

 

「それは……」

 

「帰れ」

 

アキの二言目。一言目より口調が強い。

拒否は許さないと断固たる姿勢が垣間見える。

 

「嫌われてるよねこれ」

 

「アキは誰にでもこんな態度です」

 

思い返せば、エンジュちゃん相手にも最初から喧嘩腰だった。

今回は手が出ていないだけましかもしれない。俺を抱えているから手を出せないだけかもしれないが。

初対面なのだからにこやかにとは言わないが、最低限の礼儀ぐらいは払ってほしい。

そういう思いでアキの襟を引っ張り促してみたが、出てきたのは全く同じ言葉。

 

「帰れ」

 

「おぉ……椛より酷い……」

 

「まだ子供なのです。許してやってください」

 

アキを庇って許しを請う。

まだ9歳だからこんな言い訳が使える。けれど数年経てばもう無理だ。

数年後のアキはどうなっているのか。考えてみて、愛想良くなっている姿は想像できなかった。多分一生こんな感じだろう。どれだけ改善できたとしても母上が良いところ。代を経れば右肩下がりで悪くなってしまうのか。明らかに教育に失敗している。

なぜこんなことに。何を間違ったのか。初対面なのに自己紹介をすっ飛ばし一方的な要求を突きつけ、しかも命令口調。異論は許さないと言う態度はあまりに酷い。一体どこの暴君かと言う話だ。

 

「お前に兄上は渡さない」

 

「……ふーん?」

 

俺の弁護など素知らぬ顔でアキは言い募る。それを受けてシオンは少しばかり考える素振りを見せた。顎に指を当てながらアキを眺めている。

 

「お前なんかに、兄上は幸せにできない」

 

「……」

 

「不幸にしかできない。それ以外できない。お前は、そういう人間だ」

 

「……なるほどねえ」

 

あまりの言い様に息を呑む。

間違いなくシオンは怒るだろうと思ったのだが、その予想を裏切って、シオンの顔には苦笑が浮かんだ。対するアキは険しい顔。嫌悪感が滲んでいる。

 

「君、お兄ちゃんのこと、好きなんだ?」

 

「……あ?」

 

「大好きなんだ?」

 

「……」

 

「愛してるんだ?」

 

「……」

 

「でも君は結局のところ妹だから、妹でしかないから、その気持ちは報われない」

 

「……」

 

言葉を吐くごとに、シオンの顔に浮かんでいた笑みが変わっていく。

親が子を見守るような苦笑が、敵対者を侮蔑するような嘲笑へと切り替わる。そのまま小馬鹿にした調子で突きつける辛辣な言葉。

 

「君の方こそ、レンを幸せにできないじゃないか」

 

無言で睨み合う二人。

未だアキに抱えられている俺はその二人の間にいる。

 

状況がよく分からない。どうしてこんなことになっているのか。

アキが無礼を働いて、シオンが怒っている。とりあえずはそういうことでいいはずなのに。

なぜだか分からないが、この二人の会話に口を挟むのを躊躇してしまう。黙して語らず、人形のように縮こまるのが最善だと言う気がしてくる。実際の所そんなわけはないし、二人が険悪になっていくのを指を咥えて見ているわけにもいかなかった。

 

「二人とも一旦落ち着いて――――」

 

意を決して口を挟んだその瞬間、アキの手が口を塞いでくる。

そして耳元で囁かされた。「兄上は黙っていてください」と。

 

「目下の人間が目上の人間を慕うのは当然のこと。四の五の言われる筋合いはない」

 

「君の場合は尊敬じゃなくて慕情でしょ? 駄目だよ。兄妹なんだから」

 

「お前に言われる筋合いはない」

 

「あるよ。だって」

 

シオンが俺を指さす。

半分笑いながら告げてくる。

 

「レンは僕のものだ」

 

アキの腕に万力のような力が籠った。

 

「……違う」

 

「否定したければお好きにどうぞ。でももう椛ですら認めてる。君一人が我儘を言っても、何が変わるわけじゃない。……あ、それとレンは連れて帰ることにしたよ。まだそのつもりはなかったけど、君みたいのがいるなら仕方がない。帰ってからゆっくり話すことにする」

 

「……お前なんかに、みすみす兄上を渡すと思うか?」

 

アキの身体から剣呑な気配が迸る。

武力行使も辞さないと言う意思表示に他ならない。

咄嗟にアキの手を掴んで暴れる。これ以上は本当にまずい。取り返しのつかないことになる。

 

本気で暴れ始めた俺に対して、アキは扱いに困ったようで、その場にしゃがんで抑えつけてきた。

腕だけではなく全身を使って抑えつけられて満足に暴れられなくなる。

口だけは自由になったが、それで状況が改善したとは思えない。

 

「ほら、レンも嫌がってる。放してあげなよ。と言うか、放せよ。僕のものだ」

 

「黙れ」

 

相変わらず言葉は汚い。

しかしその顔は焦っているように見えた。どうすればいいか悩んでいる。アキにしては珍しく頭を使っている様子。

東の都で頭を使うことを覚えたらしい。その成長が嬉しくもあり、寂しくもあり、何とはなしに頬に手を添える。先ほどと同じように。

 

アキの視線が俺に向く。

刹那、直前までの焦りが嘘のように消え去り、瞳の奥に暗い光が宿った。妖しげな気配すら漂う笑みが浮かんで、その顔が近づいてくる。

 

シオンが何か叫んだのが聞こえた。

耳に聞こえるものよりも、重ねられた唇の感触に囚われる。

訳が分からず硬直する俺の口をアキの舌がこじ開けてくる。ぞくりと背筋に刺激が走って、身体から力が抜けた。

駆けてきたシオンがアキを突き飛ばす。

アキは尻もちを打ち、しかし俺を放しはしなかった。俺はアキが自分の唇を舐めるところを見た。

 

「兄上の初めてもーらった」

 

その言葉と視線はシオンに向けられている。

子供とは思えない蠱惑的で挑発的な顔。

無表情で佇むシオンをせせら笑う。

言葉のみならず、行動でもって宣言した。

 

「兄上は私の物だ」

 

その言葉に背筋が震えた。



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第74話

熱っぽい吐息を吐くアキ。

無表情に見つめるシオン。

二人の視線が交差して、睨み合いが続く。

 

緊迫した空気の流れる只中で、当事者の一人である俺は何も言えずにいた。二人を止めることも落ち着かせることも出来ずに狼狽えるばかり。二人をどうこうするよりも、まずは自分自身を落ち着かせるのが先決だった。

 

たった今、実の妹とキスをした。普通のキスならまだ良かったが、舌を絡める濃厚なのをしてしまった。

まだ口の中に感触が残っている。生暖かい感触だった。不快感と快感が同時にやって来て身体から力が抜けた。その余韻が未だに残っている。

私の物だと言ったアキの言葉を思い出して唾を飲み込む。知らない味がした。

 

「ふ、ふふ……ふふふ……」

 

睨み合いと葛藤。延々と続いていた沈黙を打ち破り、感情を押し殺した空虚な笑い声が響き渡る。

シオンの口から発せられたその声は、聞けば聞くほど不安を煽り、強張った作り笑いを目の当たりにして、一層不安が増していく。

 

「初めて? 初めてだって? おめでたいね。そんなの、とっくに僕がもらってるのに」

 

髪をかき上げて落ち着きのない素振りを見せながら、視線はあちこちを行ったり来たりしていた。動揺しているのは一目瞭然で、それを見て少し落ち着くことが出来た。

 

シオンの言葉の意味はよく分からない。張り合おうとしていることだけは分かったが、張り合う必要がどこにあるのか。

 

「……は?」

 

無視してくれればよかったのだが、まんまとアキは乗せられる。土俵に上がったアキに対し、にんまりとシオンは笑みを浮かべた。

 

「初めては僕の物だって言ったんだ。もっと情熱的なのをしたんだよ。レンの方から舌を入れてきてさ。貪り合ったんだ。口どころじゃない。身体の奥までね」

 

自分の下腹部に手を置いてうっとりとした表情を見せるシオン。意外と芸達者のようだ。

当然だけど、俺はシオンとそういう行為はしていない。セックスなどしていないし、あれをキスと呼んでいいかも微妙だ。あくまでも口移しに過ぎなくて、そもそも事前に了解はなかったのだから、そういう意味ではこの二人の行動に差はないと言える。

 

そんなことを知る由もないアキは愕然とした様子で硬直し、次の瞬間、怒りで吊り上がった眦が俺の方に向く。

責めるような視線にいたたまれなくなって目を逸らす。なぜだか罪悪感を感じた。悪いことをした気になる。何も悪いことなんてしていないのに。

 

シオンの笑みが深まり、ここぞとばかりに言い募ってくる。

 

「無邪気に勝ち誇ってたところ悪いけど、レンの初めては全部僕の物なんだ。もう何一つ残っていないんだよ」

 

「……っ」

 

屈辱で震え始めたアキと喜色満面で頬すら染めているシオン。

アキの反論がないことで、自ずと雌雄は決したように思う。女同士だから言葉のチョイスがおかしいかもしれないけど。

こんなものを間近で見させられた身としては恐ろしくて仕方がない。どうして俺はこんなところにいるのだろう。

 

「理解したのなら、さっさとレンを放せ。君みたいなのがレンに近づくな」

 

「……」

 

「聞いてる? 近づくなって言ったんだけど?」

 

俯いていたアキの表情を、シオンは見る術がない。

だが俺は見ていた。爛爛と輝く瞳。怒りと憎しみと絶望と。ありったけの負の感情を宿した瞳を。

 

頬が引きつる。このままでは戦いになる。すぐにでもアキは刀を抜き、応じてシオンも抜く。そうして殺し合う。その未来がありあり想像できたので、何とか回避しようとして、とっさにアキのことを抱きしめた。

 

「……は?」

 

背後からシオンの声が聞こえた。声音だけでも呆気に取られているのが分かる。

 

「……兄上?」

 

「大丈夫。大丈夫だから。落ち着いて」

 

耳元に囁いた。

アキの身体から力が抜けた。「兄上……」と熱に浮かされたような呟きが吐息と共に零れる。

形はどうあれ、落ち着いてくれたのならやった甲斐があった。

ほっと安堵に息を吐き、背後から襟首を引っ張られる。首が閉まって苦悶が漏れた。

 

「何してるの?」

 

振り向けばシオンがいる。鬼のような形相だった。その怒りは俺に向いている。

 

「……いや、あの」

 

「君は、一体、何を、してるの?」

 

「ごめんなさい」

 

謝ることしか出来ない。何故と言うなら戦いを未然に防いだと言う答えだが、多分シオンは理解しないだろう。

と言うか、そもそもどうして謝らなければならないのか。悪いことをしたら謝るのは常識だが、俺は一体どんな悪事を働いたと言うのか。

身に覚えはない。いや、理由はおおよそ分かりはするのだけど、その前にはっきりさせないといけないことがあるのではないのか。俺とシオンの関係とか、その辺りについて。

 

「僕より妹をとるってわけ? へえ? そう?」

 

「違います。二人に仲良くしてほしいだけです」

 

「いや、無理だから。勝ち負けはっきりさせないと。今戦ってるんだよね。見たらわかるでしょ?」

 

戦いって何だろう。俺としては未然に防いだつもりなのだけど。

 

「戦わないでください。そもそも勝ち負けって何ですか」

 

「聞いてすらいなかったの? レンはどっちのものなのかって話だよっ!」

 

見るからにイライラしている。このままではシオンの方こそ刀を抜きそうだ。もっと冷静な人だと思ってたのだけど、意外な一面を見た気分だ。

ひとまずは目の前の問題に対処するべく、どうにか出来ないかと考えて、あまりに剣呑な目つきを前に、考えが纏まる前に口を開きかける。

 

「俺は……」

 

「兄上、こんな嫉妬深くて独占欲の強い、怒りっぽい奴は駄目ですよ。そもそもが人間もどきですから。まだ私の方がましです」

 

「嫉妬深くて独占欲強くて怒りっぽいのは君の方だろう。妹のくせにお兄ちゃんと結婚とか何言ってんの? 倫理的にダメだから」

 

「あんなのの言うことを気にする必要はないですよ。兄妹だから身体の相性は良いはずです。私なら兄上を幸せにできるでしょう。一生、二人で暮らしましょう」

 

状況は最悪だ。シオンに襟首を掴まれて面と向かい合ったまま、アキに背中から抱き着かれている。俺を挟んで二人は言い合いを続ける。言いたいことだけ言っている。俺の意見などそもそも聞いていないようだ。

これは最早成す術がない。常識的に考えて妹と結ばれるのはありえない。しかし、仮にここで旗色を鮮明にすればアキは怒るだろう。刀を抜いて殺し合いが始まりかねない。

個人的にも落ち着く時間が欲しくて、一度仕切り直したいのだが方法が思いつかない。

 

置物と化した俺の所有権を巡って、二人の言い争いは激化する。

いつ手が出てもおかしくない。その瀬戸際。こうなったら最後の手段で怒鳴り散らそうかと思っていたところで、別の怒鳴り声が響き渡った。

 

「何をやっとるか貴様らっ!!」

 

救いの手。そんなもの今の今まであてにしていなかったけど、この時ばかりは差し伸べられた。手の主は泣く子も黙るゲンさんだった。

 

少しふらつきながら荷車から下り立ったゲンさんは、肩をいからせてこっちにやって来る。突然の乱入者に今まで言い争っていた二人は言葉が出ない様子。

我に返る暇を与えずに近づいてきたゲンさんは、俺たち三人にゲンコツをお見舞いした。

 

「朝っぱらから迷惑な餓鬼どもだ。小僧、お前はこっちに来い。説教してやる」

 

二人から引き離され、強引に引っ張って行かれる。痛みに呻く二人は追いかけては来なかった。唯一、荷車から覗く二対の目だけに追われている。

 

ゲンさんは俺を近くの藪まで引っ張って行き、視線が途切れたところで「ふう」と息を吐いた。

その額には汗が滲んでいて、俺を掴んでいた腕は妙に弱弱しかった。

 

「……怪我をされたと聞きました」

 

「ああ? お前には関係ない」

 

ゲンさんはそう言うけれど、そういうわけにもいかない。

 

「申し訳ありません。俺のせいで」

 

「餓鬼が一々かしこまるな。気色悪い」

 

にべもない。いつも通りと言えばいつも通りなのだが、俺の気は晴れない。

 

「それより、お前、身体はどうした」

 

「治りました」

 

「………………そうか」

 

たっぷりの間は言葉を飲み込むのにかかった時間だ。言いたいことは山ほどあったと思われる。それらを口にする代わりに、ゲンさんはこんなことを言った。

 

「なら丁度いい。逃げろ」

 

「はい?」

 

「どこでもいいから逃げろ。あの妹からな」

 

妹から……アキから逃げろとゲンさんは言う。

どうしてそんなことをと思ったが、さっきの会話は聞かれていたのだろうし、兄妹でそういう関係になるのは、この世界では俺が思っている以上の禁忌なのかもしれない。

 

「逃げたとしても行くあてがありません。路頭に迷うだけです」

 

「どこだっていい。見覚えのない小娘がいただろ。あいつと一緒に行くのもいいし、(なぎ)は……まだ戻ってきていないなら探しに行くのでもいい。とにかく妹から逃げろ。西へ行け。それ以外は考えるな」

 

「はあ……」

 

並々ならぬ勢いにただ困惑する。

確かに今のアキは少しおかしくて、違和感が付き纏っているのは事実だが、逃げるほどのことでもない。と言うか、違和感があるからこそ逃げるわけにはいかなくて、色々と追い抜かされたとは言え、2つも年下の妹から逃げるのは相当に格好が悪い。

 

「とりあえず、話をします。東で色々とあったでしょうから。逃げるかどうかはそれから検討しますので……」

 

「その色々が問題なんだ。あれはもうお前の知ってる妹じゃねえぞ。違う何かだ」

 

「と言いますと?」

 

聞き返す俺にゲンさんは苦々しい顔を見せ、ちらりとアキたちの方を伺う。二人は未だに言い争っているらしく、時折声が聞こえてくるが、その内容までは分からない。

 

「俺にもよくわからん。はっきり言えるのは、あれが人を殺したということだ。カオリと言う女を知っとるか」

 

「カオリさんですか? 知っています。その内会いに行こうと思って――」

 

「あいつを殺した」

 

口をつぐむ。

 

「今、なんて……?」

 

「殺した。意味がわからなかった。どうしてそうなったのか。目が覚めたらそうなっていた。自警団の奴らとは協力してたはずだ。それを殺して、子供を助けていた。どうしてそんなことを……俺にはわからん」

 

ゲンさんも状況をほとんど理解していないようだ。

細切れの情報をもとに考えてはみるものの答えは得られない。情報が不足している。協力とは何だろうか。本当に殺したのだろうか。あの子供たちは殺されかけていたと聞いた。誰に殺されかけていたのか。自警団にか。別の奴にか。

 

「アキに話を聞きます」

 

「やめとけ。俺も少し話をした。だが駄目だ。あれはもう駄目だ。俺の知ってる小娘じゃない。別人だ。一旦逃げてしまえ。椛を探してこい。椛ならなんとかなるかもしれん」

 

「逃げれません。父上を一人に出来ませんから」

 

「……今は自分のことだけ考えろ」

 

「出来ません」

 

ひょっとしたら、人を殺して精神に異常をきたしたのかもしれない。それならばなおのこと逃げるわけにはいかない。ケアが必要だ。俺が動けなかった頃はアキが率先して面倒を見てくれた。俺のためにアキは東に行った。それが理由でおかしくなったのなら俺の責任だ。

 

「ありがとうございます。ゲンさんも怪我をされているのですから、今日のところはゆっくり休んでください。持ってきてくれた食料の分配などは改めて話をしましょう。その時に詳しい話も聞かせてください」

 

まだ何かを言おうと口を開きかけたゲンさんだったが、最後には首を振った。救いようがないと言わんばかりだった。

 

「……頑固なのは血筋か」

 

「そうかもしれませんね」

 

もし本当に俺が母上に似ているのなら、それは非常に喜ばしい。身体はともかく精神は全くの別物だから、単なる偶然と言うことになるのだろうが。

 

話は終わり、荷車のところに戻る。

険悪な雰囲気が漂っていた中、俺たちの姿をみとめたシオンはゲンさんに突っかかりに行った。突然ゲンコツを落とされたことに抗議している。

その隙にアキが近づいて来て、囁くような小さな声で訊ねてきた。

 

「あの人と何を話していたのですか?」

 

「何も。説教されただけだから」

 

「そうですか。……余計なことを話していなければいいのですが」

 

アキはうっすらと微笑を浮かべている。どことなく大人びた表情だ。これも違和感に繋がる。

 

「余計なことって?」

 

「向こうでは少し粗相をしてしまいました。悪食だったのです」

 

粗相。悪食。決して良い意味ではない言葉。

連想してしまう。アキがカオリさんを殺すところを。

頭を振って想像をかき消す。絞り出すように訊ねた。

 

「何か悪いことをしたか?」

 

「うーん、どうでしょうか。個人的には悪いことをしたとは思っていません。心の声に従っただけです」

 

「善悪の区別ぐらいつくだろう」

 

その言葉にアキは子供っぽい無邪気な顔で笑い、一瞬だけ身を寄せてきた。唇が重なる。触れるだけの優しいキス。

 

「愛してます、兄上」

 

後ずさり、何も言えない俺に対して、アキは言葉を重ねる。

 

「これを悪いことだとは思いません」

 

アキは返事を待たずに踵を返した。荷車の元へ歩き出す。

その背中を見ながら胸を押さえる。鼓動は激しく、動揺は治まらない。何をどうすればいいのかと途方に暮れた。

 



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第75話

一人になる時間が欲しかった。

考える時間が欲しくて、整理する時間が欲しかった。時間は問題を解決してくれないけど、落ち着かせてはくれるものだ。

 

思えば、先延ばしにしてばかりいた。

父上のこと。自分のこと。そして今度は妹のこと。

ぱっと思い出せるだけで3つ問題が起きている。忘れているだけで他にもあるかもしれない。

ゆっくりと考えたくて、一人になりたくて、今は風呂を沸かそうとしている。

 

アキの帰還に父上は大層喜んだ。

食料の積まれた荷車を見て驚いてもいた。

アキは子供らしい子供だから、そういう意味では俺よりも接しやすいのかもしれない。

保護した子供二人の事情を聞きつつ、世話になったゲンさんを家に留めようともしていた。

俺との間には相変わらず気まずい雰囲気が流れているが、それを感じさせないように取り繕っていた。

 

父上がアキたちの相手をしている間に、俺は風呂を沸かせるためにとその場を離れた。

全ては一人になりたいがためだったが、それで一人になれるかと言えばそう簡単でもなかったらしい。

火にくべるための薪を抱えた俺の元にシオンが近づいて来る。

 

「手伝おうか?」

 

「いえ、結構です。シオンさんも休んでもらって構いませんよ」

 

言外にあっち行ってろと匂わせてみたが、気づいてないのか分かっていて無視したのか、シオンは黙って俺の後ろをついてくる。

そのままついて来られても気になるし、はっきり言って迷惑なので、こちらから訊ねてしまうことにした。

 

「何かご用ですか?」

 

「話をしようと思って」

 

何の話をするつもりだろう。俺は一人になりたくて仕方がないのに。

 

何はともあれ湯を沸かす。火に薪をくべて火力を大きくする。

燃え盛る火をじっと見つめていた俺の背後で、気持ち小さめの声でシオンが呟いた。

 

「これ、僕も入っていいのかな」

 

「構いません」

 

「そう。じゃあ、一緒に入ろうか」

 

意味が分からなくて一瞬呆ける。しかしすぐに我に返った。

突然何を言い出すのかと突っ込む資格は俺にはない。今の今まですっかり忘れていたが、初めにそれを言ったのは俺の方だった。助けてもらった恩返しに身体を差し出すとかそういう話だ。

 

アキと再会することが出来て、ちょっと冷静になった今となっては頭を抱えたい言動ではあったのだが、自分から言い出したくせにまさか断るわけにもいかない。動揺を隠すのに苦労しながらも、辛うじて頷くことが出来た。

 

「ああ、じゃあ、入りますか」

 

薪を火に投げ入れる。

ぱちりと木の爆ぜる音がした。順調に温度は上がっている。しかし時間がかかる。ボイラーなんてものはない。保温も出来ないから、水なんてものは熱しにくくて冷めやすい。

 

これが沸いたら順番に入っていくことになるのだが、一番はアキだろう。二番はゲンさんだろうか。三番目ぐらいに俺とシオン。その頃には間違いなくぬるま湯だろう。どうしよう。沸かし直すべきなのかな。

 

ぐるぐると目を回しながら、不必要にもう一本投げ入れる。

一緒に入るからにはやっぱりそういうことをするのだろうか。ちゃんと勃つだろうか。精通しているか分からないのだけど、きちんと出てくれるだろうか。

そんな風に、不安で頭を巡らせる俺の内心を知ってか知らずか、シオンは再び口を開いた。

 

「夏ぐらいに椛から手紙が来てね」

 

話題の転換についていけない。突然何を言い出すのかと訝しむ。

刹那考えて、母上の名前が出てきたところから推測するに、俺の知らない裏話について語るつもりらしかった。

 

「息子が身体を痛めた。結婚の話はなかったことにしてくれって」

 

いつか母上が言っていた。俺の結婚については先方と話が付いていたと。どうやらその先方と言うのがシオンのことらしい。俺が身体を痛めたことで話は立ち消えになったと思っていたが、実際に断りを入れていたようだ。

 

「で、あちこちに手紙を出し始めたみたい。腕のいい医者を探している。薬を探している。誰か知らないかって」

 

たくさん手紙を出していたことはゲンさん経由で知っていた。伝手を頼って治療の手掛かりを探してくれていたらしい。結果的には必要なかったわけだが、その行動には頭が下がる思いだ。

 

「それで、椛とは友達だし、困ってるなら助けてあげようと思って。僕がもらうよって言ったわけ」

 

「はあ」

 

「怪我の度合いによっては子供も無理かもしれないから、そうなったら側室と言うか多分愛人だろうけど、まあ文句はないかなって。一生面倒見てあげるつもりだったから」

 

「それは……ありがとうございます」

 

「いいよいいよ。あくまでも椛のためだったから」

 

愛人……。

言われてみればそうなるか。先日までの俺は自分の面倒すら見れていなかったわけだし。性行為も多分無理だったと思う。

夫として何一つ役割を果たせなかったはずだ。きっと贅沢品を貰うような感覚だったのだろう。金ばかりかかって何の役にも立たない贅沢品。

 

「けど、渋られてね。椛としては愛人は嫌だったみたい。まあ、それはそうだよね。手に塩をかけて育てた息子を愛人として送り出すのは、大体の親は嫌がると思うよ」

 

「そうですか。俺は別に構いませんが」

 

「うん。……うん」

 

何か言葉を飲み込んだ気配を滲ませつつ、シオンは話を進める。

 

「で、いつまで経っても返事が来ないから、こっちから出向いたわけ。怪我の度合いを見ておきたかったし。どんな子なのかも知りたかったから」

 

そういう経緯でシオンはこの村に来て、紆余曲折の末俺を助けてくれたわけだ。

おおよその事情は分かった。隠していることはまだまだありそうだが、知りたいのはあとひとつだけ。

 

「そこまで教えてくれたなら、ついでにあともう一つだけ聞かせてくれますか」

 

「言ってごらん」

 

「結局のところ、あなたはどこの誰なのですか? 母上とはどういう関係なのでしょうか」

 

少し待って返事はなかった。やはり教えるつもりはないのかと火に向き直る。

直後、シオンが口を開く。

 

「祖母が椛のことをとても気に入ってるんだ。元は東の人間なんてみんな殺してしまえっていう人だったのにね。気まぐれにもほどがある。そんなのが帝だって言うんだから救えない話だ。気まぐれにも程がある」

 

火の中で木の爆ぜる音がした。

 

「帝、ですか」

 

「そうそう。死んだら武帝って呼んでほしいんだって。剣聖になりたかったらしいよ」

 

祖母が帝と言うことはつまり、シオンは王族と言うか皇族になるのだろうか。

シオンが皇族……。脳裏に出会った時のことが思い出された。あの時、シオンは地べたに正座して謝っていた。

 

「いや、ないでしょ……」

 

「うん?」

 

思わず口を衝いて出た言葉にシオンは反応する。振り向けば楽しげな顔をしていた。

 

「だって、シオンさん初め正座してたじゃないですか」

 

「うん」

 

「謝ってたじゃないですか」

 

「うん」

 

「それで本当に皇族なんですか?」

 

「違うよ。継承権は手放したから。今はただの臣下だね」

 

「……と言うことはただの貴族?」

 

「うん」

 

皇族ではないらしい。しかし血が繋がっていることに変わりないと思うのだが。何かそういう仕組みがあるのだろうか。

 

「お貴族様ってあんな簡単に謝罪するものなんですか?」

 

「普通はしないかなあ。謝るにしても帝に対してがほとんどだろうね。ほら、あいつらって頭下げたら死んじゃうから」

 

面白い人達だよねえとシオンは笑う。

 

「じゃあシオンさんはなんで謝ってたんですか。実は何か悪いことでもしましたか?」

 

「別にまだ何もしてなかったよ。でもいきなり絡まれたんだ。それがもうしつこくてさあ。殺すにしてもここは椛の膝元だから不用意に殺せないんだよ。あっちから手を出してきたならともかく」

 

それでああいう状況になったのだと言う。

と言うことは、やっぱりあれ煽ってたのか。どう聞いてもコントだったし。その先に待っていたのが無礼打ちだったのなら全然笑えないが。

 

「知らないこととは言え、俺も大分失礼なことをしたと思いますが」

 

「そうだねえ……」

 

シオンは少し考えこむ。

 

「剣聖の息子であることと、あの椛に育てられたってことで大半は大目に見てあげる」

 

「大半?」

 

蜥蜴(とかげ)のことはまだ許してないから」

 

「そうですか」

 

恨みは根深いようだ。

 

「じゃあ、その辺りのお詫びもかねて愛人になればいいんでしょうか」

 

「潔いね。もっと抵抗していいんだよ」

 

「個人的な恩もありますし、別にあなたのことが嫌いと言うわけでもないので」

 

「……うーんと、理解してるのかな? 愛人なんだけど?」

 

「そうですね」

 

だからなに? と首を傾げる。シオンは溜息をついた。

 

「多分レンはよく知らないだろうから説明すると、愛人って言うのはね、地位も名誉もないんだよ。あるのはやっかみばかりで、酷い時には刃傷沙汰なんだから。毒殺もありうるぐらいで」

 

「でも愛人っていうぐらいですし、愛があればいいんじゃないでしょうか」

 

「……あるの?」

 

「頑張ります」

 

それ以前の問題として、狐憑き疑惑のある俺を権力者であるシオンは見逃すつもりはないだろう。俺もシオンに殺されるのであれば納得できる。それぐらいの恩があるから。

 

こんな話をしている間に風呂は沸いた。

火を消して、煙が消えるまでの間で考える。

 

「一つ、お願いがあるのですが」

 

「なに?」

 

「妹と二人っきりで話がしたいのです」

 

「……は?」

 

なぜか怒りを感じたので理由を述べる。

 

「妹の様子が少しおかしいので話がしたいんです」

 

「勝手にすればいいんじゃない」

 

「……多分、シオンさんは二人っきりになるのを邪魔してくるかなと思いまして」

 

それでなくてもアキとシオンを突き合わせると面倒になりそうだし、他人に聞かせたい話題でもないので、出来れば二人っきりになりたかった。

 

「邪魔って何? え、邪魔されたら困るようなことするつもりだったの? 駆け落ちとか? レンは知らないかもしれないけど、兄妹で恋愛はご法度だよ? 常識を知ってほしいなあ」

 

「いえ知ってます。するつもりもないです。その兄妹間での恋愛云々も含めて話がしたいのです」

 

「だから、勝手にすれば? どうして僕抜きでしようとするのか意味が分からないけど」

 

「……家族の話なので家族間で収めたいのです。見守っていてもらえませんか?」

 

「いやだ」

 

端的かつ明確に拒否されてしまった。

 

「ま、やりたいならやればいいよ。上手くいってる内は見守ってあげよう。上手くいくとは思えないけど」

 

「上手くいかなかったら大変なことになると思うのですが」

 

「そうだねえ。面白いことになりそうだねえ」

 

シオンはそう言って笑ったが目は笑っていなかった。

もしアキを説得できなかった場合は修羅場になるだろう。すでに半ばそうなっているし、今のところ面白いとは微塵も思えていない。

 

「どうかお願いします」

 

「あー、はいはい。仕方ないから我儘を聞いてあげるよ。全くしょうがないなあ」

 

個人的には大したことのない頼みだと思っていたのだが、酷く機嫌を損ねてしまったようなので、その埋め合わせに両手を広げて身体を差し出してみる。

 

「代わりにこの身体を好きにしてもらって構いませんので」

 

「……」

 

「愛人ってそういうものですよね?」

 

シオンはむにゅむにゅと唇を動かして言葉を探している様子。

しばらくそうしていたが結局言葉は見つからなかったようで、がっくりと肩を落とした。

 

「11歳に手は出さないよ……」

 

辛うじてそれだけを呟いて、シオンは踵を返してしまった。

その背中を見ながら、ひとまず貞操が守られたことに僅かばかりほっとした。



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第76話

シオンの後を追うように、風呂が沸いたと報告しに家に戻る。

道中、アキのことばかり考えていた。一緒に風呂に入りたがるかなとか、どうやって断ろうかなとかそんなことを。

実際問題、アキが我が儘を言い出したら骨が折れる。怒るのはいつものことで、最近は泣かなくなったが、代わりに妙な行動力を見せるようになった。

聞き入れたように見せかけて、あとで踏み込んでくる可能性は十分ある。それをどうやって躱すか。させないか。難題だった。

 

そんなこんなで、問題への対処法を考えるのに夢中になりすぎていた。周囲の気配を探るのが疎かになり、人がいることに気が付かなかった。

玄関を跨ぎ、土間の上、子供が二人膝を抱えて座っているのを見つけて足が止まる。

 

二人は壁に背中を預け、存在感をなくすように息を潜めていた。

傍目に分かるほどの悲壮感が漂っている。近寄り難い。先ほど、部屋に案内したはずなのになぜかこんなところにいる二人の顔は、子供とは思えないほどにくたびれて見えた。

 

親を亡くしたとアキは言っていた。それを思えばどんな言葉をかけていいかわからず、何なら近づくことすら躊躇する。

だからと言って無視するわけにもいかない。考えてみればまだ自己紹介もしていないから、まずは挨拶をしようと歩み寄る。

 

近づく俺に二人はほぼ同時に気が付いた。一瞬滲ませた警戒心は、俺の姿をみとめた瞬間に好奇心に変わった。

その思いもよらない変化に首を傾げたのも束の間、ぼそりと呟かれた言葉に耳を疑う。

 

「すけこまし……」

 

唖然とした。

一言も話したことのない子供にそんなことを言われたのだ。当然だが身に覚えなどない。

 

「えーっと……」

 

別の意味で言葉に困る。天井を見上げて考えた。

否定はすべきだろうが何と言っていいかわからない。とりあえず二人の前に膝をついて自己紹介をする。

 

「まだ自己紹介してなかったよね。初めまして、レンです。二人の名前は?」

 

「……」

 

「……」

 

出来る限り警戒させないように笑顔を意識したのだが、あまり効果はなかったようで、二人そろって固く口を閉ざしてしまう。

俺をすけこましと呼んだ子――アキはツムギと呼んでいた――は恥ずかしそうに目を伏せた。もう片方の子は露骨に身を固くしている。

二人がここにいる経緯を改めて思い出しながら、壊れ物に触れるような心持ちで言葉を重ねる。

 

「大丈夫。ここは安全だから。誰も君たちを傷つけたりしない」

 

「……本当?」

 

(コズエ)、ダメよ」

 

一方が希望に目を輝かせ、もう一方が暗い瞳で否定する。

 

「うそかもしれないから」

 

「嘘じゃない」

 

否定はするけど信じてもらえない。

思った通り警戒心が強い。当然と言えば当然だ。けれど会話が成り立つだけ心を開いてくれている。そう思うことにして、ツムギちゃんを相手に会話を続ける。

 

「安心して。もし誰かが君たちを傷つけようとしても、俺が守るから」

 

「そんなの、うそ」

 

「約束する」

 

「……」

 

僅かな沈黙。二人が顔を見合わせた。二人にしかわからないアイコンタクトを経て、首が横に振られる。

 

「守るって、なに」

 

「それは――」

 

「それなら、助けてよ」

 

頷こうとした。先日までならともかく、今の俺ならどうにかなる。

その自信があるから任せてくれと言おうとして、それより早く次の言葉がぶつけられる。

 

「お母さんを助けて」

 

虚ろな瞳から堰を切ったように流れ出した涙に言葉をなくした。

 

「助けてよ」

 

何も言えない。寄り添って泣く子供たちをただ見ることしか出来ない。

 

安っぽい慰めの言葉。嘘で満ちた希望の言葉。いくつか考えて、どれも口に出すことが出来ない。そのどれもが意味のないことだと分かっていた。

結局、言葉なんか出てこなくて、二人を抱きしめるしかなかった。これ以外の術を知らないことを心の底から後悔しながら、泣き止むまで抱きしめ続けた。――――エンジュちゃんのことを思い出しながら。

 

 

 

 

 

「お風呂に、入ろうか」

 

慰めの言葉の代わりにその言葉を投げかける。

出来ることなら、このまま二人とも抱き上げて連れて行きたかったのだけど、アキより少し小さいぐらいの子供二人。自ずと俺と背丈は変わらない。

どちらか一方ならいざ知らず、二人そろって担ぎ上げるのは無理な話だった。

 

「待って」

 

ツムギちゃんは乱暴に自分の目を拭って、コズエちゃんの目を優しく拭いてあげている。

拭き終わった後、生来の物だろう気の強そうな目つきで俺を見てくる。

 

「わたし、(つむぎ)。こっちは(こずえ)

 

その名前自体はアキに聞いて知っていた。頷いて応える。

 

「わたしたち、これからどうなるの?」

 

「その話はあとでしよう。先にお風呂に入ってから……」

 

「ダメ、今、して」

 

外見から受ける印象通り、ツムギちゃんは我が強いらしい。ならコズエちゃんはどういう性格なのだろう。アキは従順だとか言っていたが。

 

「しばらくはこの家にいて構わないよ。そのあとのことはこれから考えよう」

 

「……食べ物は大丈夫なの?」

 

賢い。素直にそう思った。現状をかなり正しく認識している。

まだ九歳そこらだと思うのだが、この世界の女の子は早熟なのだろうか。

 

「大丈夫。それは君たちが気にするようなことじゃないから」

 

「子供扱いしないで」

 

その言い方に子供らしさが感じられて微笑ましくなる。

 

「大丈夫だよ。アキが――君たちと一緒に居た女の子がたくさん食料を持ってきてくれた。しばらくは大丈夫」

 

「でも」

 

何か言いかけたツムギちゃんの唇に人差し指を当てる。「大丈夫」と請け負う。安請け合いかもしれないが、こんなことで子供を不安にさせたくない。

コズエちゃんに目を向けて言葉を続ける。

 

「コズエちゃんも、何も気にせずにこの家にいてもらって構わない。二人がどういう目に遭ったかは聞いている。大丈夫。守るよ。二人とも」

 

「……ありがとうございます……」

 

コズエちゃんの声はか細かった。緊張と警戒心を感じる。怯えも混じっている。これを解くのには時間がかかるだろう。

間違っても無理に距離を縮めないようにしないといけない。恐らくは逆効果だから。

それを心に刻みながら指をツムギちゃんの唇から離す。ツムギちゃんは顔を真っ赤にしてぷるぷると震えていた。

 

「すけこまし……!!」

 

その言葉、一体どこで覚えたのだろう。

 

「あの二人にも同じことしたんだ!」

 

「あの二人って?」

 

「人の心を弄ぶなんて最低だから!!」

 

「してないから」

 

よろしくない知識を仕入れてしまった思春期の子供みたいな反応。こういうのは経験がない分対処に困る。

とりあえず乱暴に頭を撫でてみると、マシンガンのように迸っていた言葉が止む。

 

「お風呂入ろうか」

 

二人の顔を見ながら再び提案する。

頷いてくれるまでもう少しかかった。

 

 

 

 

 

ツムギちゃんとコズエちゃんとの自己紹介を済まし、折角だからこのまま一緒にお風呂に入ることにした。

二人はまだ幼いし、誰か一緒に入った方がいいと思う。この世界の常識的には父上が一緒でもいいのかもしれないが、俺としては忌避感が強かった。母上がいたのなら丸投げしたのだけど、いないのだから仕方がない。いつになったら帰って来るのだろうか。

シオンに頼むのも気が引けたので、年の近い俺の出番である。

父上にこの子たちと一緒に風呂に入ることを伝え、なら一番風呂どうぞと言う話になり、どこで話を聞いていたのか、玄関に行くとアキが待ち構えていた。

 

「兄上、私のことを忘れてますよ」

 

玄関口を通せんぼするように立ちはだかる妹がそんなことを言っている。その若干冗談めかした言い方に困惑した。自慢ではないが我が家にそういった軽口を叩く人間はいない。言葉が足りない人間しかいない。

アキの視線は俺にだけ向いており、ツムギちゃんとコズエちゃんまで一緒になって俺を見てくる。

 

「忘れてはいないけど、一緒に入りたいのか?」

 

「いつも通り、二人っきりで入りたいです」

 

やっぱりこうなった。予想通りの展開に頭を抱えそうになった俺の横で、ツムギちゃんが「いつも入ってるんだ」と呟く。

 

「二人で入りたいなら、シオンさんと一緒に入れば?」

 

「虫唾が走る」

 

「……じゃあ、ツムギちゃんとコズエちゃんと三人で入ってくれる?」

 

「兄上と二人っきりがいいです!」

 

そうは言うけれども、アキと二人で入浴したら最後、どうなってしまうのか想像できない。だってキスしてきたし。愛してるとも言われたし。

先ほどあれだけ色々話していたシオンも、結局のところ俺と入浴するつもりはないみたいだから、それならツムギちゃんたちと入ろうとしているわけで。

仮に四人で入ったなら何もしてこないだろうか。……してくるかもしれない。わからない。

 

「この子たちと一緒に入るから無理だ」

 

「何を言っているんですか? 私と入ればいいんです。いつもそうしているじゃないですか」

 

「無理」

 

断固として拒否する。

声音に滲む頑なさを察したのか、アキの目が細められた。

「どうして……」と漏れ聞こえた声。拳が握りしめられる。

その小さな身体から圧迫感が漂い始めた。空気が張り詰めていくのが肌で感じられる。今までアキが怒ったことは何度となくあるけれど、こういう空気になったことはない。

 

冷静に観察しつつ、二人を俺の背中に隠す。

次の行動を予想する。何をしてきてもいいように身構える。

しかしアキが大きく息が吐いた瞬間、緊迫していた空気は雲散した。

 

「――――仕方ないですね。それなら私はあとで一人で入ります」

 

怒りなど微塵も感じさせない表情と軽い口調でそう言って、アキは走り去っていく。

気配を辿ってみると父上の方へ向かっている。父上は今食事の準備をしているから手伝いに行ったのかもしれない。

 

出来れば休んでほしいと思いながら、急変したアキの態度に思いを巡らせる。

マグマのような激情と今までにない素直さ。その二つを比べて考えあぐねた。

以前のアキなら間違いなく駄々をこねていたし、要求が通らないなら不貞腐れていたはずだ。成長したと言えばそうなのかもしれないが……。

 

「ねえ」

 

「うん?」

 

考え込む俺の思考を遮って、ツムギちゃんが話しかけてくる。

 

「いつもあの子と一緒にお風呂入ってるの?」

 

「ああ、うん」

 

「ふうん……」

 

ツムギちゃんの頬が少し赤い。

コズエちゃんの視線が俺に突き刺さっている。

 

いたたまれない気分になった。

何も疚しいことはしていない。そもそも兄妹だから。一緒に風呂に入るのも毎晩一緒に寝ているのも、それは普通じゃないのか。そういうことを言おうとしたのだが、すんでのところで思い留まる。

 

半端な言い訳は傷口を広げるだけだ。何も言わないのが最善だろう。

そもそも探られても痛くない腹なのだし。傷なんてないはずだし。好きに思わせておこう。

 

思考を打ち切って、二人を風呂に案内する。

心なしか、背後に続く二人とは距離があるように思ったけど、経緯を考えれば仕方ないことだと、深くは考えないようにした。



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第77話


以前お伝えしたかもしれませんが、この世界の女の子は現実より2~3歳成長が速い設定です
でも栄養状態が悪いのでほとんどの人はあまり大きくなりません
良い環境で育った母上などは例外になります


我が家は家族四人。だからしようと思えば機会自体はいくらでもあったのだろうけど、風呂に三人で入るのは初めての経験だ。入るとすれば母上かアキ、どちらか一方と二人でだった。

 

見るからに狭い風呂である。足を伸ばすことは出来ず、大人が座れば首から上が出るぐらいの高さではあるけれど、一杯になるまで湯を満たしているわけではない。大体は胸あたりで抑えている。

 

二人の手を引きながら、なんなら服を脱ぐのを手伝って、浴室へと足を踏み入れた。

ツムギちゃんの身体を洗いつつ、あの湯船に三人一緒に入れるか考えてみる。二人とも子供だから大丈夫だとは思うのだが、でもアキと一緒の時でも狭かったように思う。大体抱き合ってたから具体的にどの程度と言うと曖昧なのだけど。

 

身体を洗っている間、ツムギちゃんはイヤイヤと首を振り続けていた。抵抗が激しい。シャンプーハットが似合いそうな抵抗具合。しかし後ろにはコズエちゃんも控えているのであまり構ってもいられない。無視して(こす)り続けた。

俺自身もそうなのだが、旅を終えたばかりだからあちこち汚れてしまっている。ボディーソープのないこの世界、衛生的な問題を考えて念入りに綺麗にしていく。

 

そうして満足するまで擦った後はコズエちゃんの番。ツムギちゃんに先に湯に浸かるように言った後、同じように擦っていく。

ツムギちゃんの抵抗と比べてコズエちゃんはほとんど抵抗しない。たまに身体が跳ねたりはするのだけど、言ってしまえばそれぐらいでやりやすかった。

 

コズエちゃんをピカピカに磨き上げた後は、湯舟に浸かる二人を尻目に自分の体を洗う。やっぱりいつもより汚れているように思えた。

 

手早く済ませて俺も風呂に入ってみる。二人に場所を空けてもらってなんとかいけた。でもやっぱり狭い。肩は当たるし足も当たる。少しでも動けば密着しているのと大差ないぐらいのぶつかりよう。

子供三人でこうなのだから、大人二人だと抱き合わないと入れないのではないだろうか。子供はともかく大人が抱き合って入浴となると、途端に艶めかしい感じがしてきてしまう。

 

変な想像をしてしまいそうになったので、思考を戻して考える。

どう頑張った所で密着してしまうのなら、いっそのことアキの時と同じように抱き合った方がいいのではないか。そう思って、目の前にいたツムギちゃんに向けて「おいで」と手を広げてみた。

 

最初、ツムギちゃんは何を言われているか理解していなかったみたいだが、何度か続けて「こっちおいで」と言ったら理解したらしい。

顔が赤くなる。ただでさえ赤かった顔が面白いぐらい真っ赤になる。わなわなと震えて叫んだ。

 

「この人おかしいよっ!!??」

 

間違いなく外に聞こえてしまっただろう大音量。咄嗟に耳に手を当てた。

幸い近くに人の気配はなく、近づいてくる人もいない。

これにかこつけてアキが来なくて良かったと、ほっと息をついてからツムギちゃんの言葉を聞く。

 

「おかしいおかしい絶対おかしいっ!!」

 

(ツムギ)、うるさい」

 

「なによ!? (コズエ)だっておかしいと思うでしょ!? 思わないの!?」

 

「でも気持ちよかったから」

 

「………………それでもおかしいから!」

 

狭い風呂の中、ツムギちゃんは不必要に動き続けている。こうして見ていても身振り手振りが激しい。多分元からこういう性分なのだろう。自己主張が激しいと言うか、活発的な子供。

コズエちゃんからはあまりそういう印象は受けない。今も湯に口元まで浸かってぶくぶくと泡を出して遊んでいる。姉妹でも性格は全く違う。個性的だ。……エンジュちゃんはどうだったのだろう。

 

とりあえず、ツムギちゃんの手を取って引き寄せる。イヤイヤと首を振っていたけど、多分俺より力は強いと思うから本気になれば振り払えるはずだ。それをしないなら、まあ本気で嫌がっているわけでもないのだろう。

 

「……ぁぅ……」

 

案の定、抱きしめてみれば静かになった。俺の背中に手を回してもいる。

しばらくそうして、ツムギちゃんの顔が耳まで真っ赤になったあたりで湯から上がった。

 

服はアキのを借りた。

着せてみたらちょっと大きかったが、間に合わせとしては十分だろう。

時機を見て色々買いに行かないといけない。母上が帰ってきてからの話だろうか。

 

 

 

 

 

風呂から上がった後、玄関まで戻ってみればシオンが待ち構えていた。実に険しい顔である。一目見て不機嫌なんだなとわかる顔。出来ることならスルーしたいぐらい。

しかしその視線はしっかりと俺を捉えているので無視するわけにはいかない。今日はこういうことがよくある日らしい。とりあえず話しかけてみる。

 

「何かありましたか」

 

「あったねえ」

 

「そうですか」

 

一体何があったのだろう。

あからさまに怒ってるし、多分アキかゲンさん関係だと思うのだけど。

手掛かりを求めて二人の気配を探っていた最中、突如として襟首を掴まれる。

 

「あっちで話そうか」

 

半ば強引に連れて行かれる。

ツムギちゃんとコズエちゃんには部屋に戻るように伝えておいた。

そしてシオンに宛てがわれた部屋に連れられて、互いに正座。膝を詰めてのお話が始まる。

 

「まずは言い分を聞いておこうかな」

 

なぜか初手から俺の言い分を求められる。

訳が分からないので聞くしかない。

 

「何についての言い分でしょうか」

 

「あ、そこから?」

 

「……ひょっとしなくても俺のことですか」

 

「他に誰がいるのかな?」

 

表情こそ笑っているが目は笑っていない。

罪人にむかう裁判官はこういう目をしているのかもしれない。

 

「てっきりアキかゲンさんのことかと」

 

「仮にその二人と何かあったとしても内々で収めるつもりだから」

 

ゲンさんはともかくアキと内々で殺し合われても困るのだが。

 

「正直に言って心当たりはありません。俺が何をしたのですか?」

 

「女の子二人とお風呂に入ったよね?」

 

「確かに子供二人とお風呂に入りました」

 

「僕の見立てだとあの二人は九歳ぐらいだと思うんだけど」

 

「確認してませんが多分そのぐらいだと思います」

 

「……君の中では九歳の女の子とお風呂入るのは普通のことなの?」

 

問われたので考えてみる。

九歳の女の子と風呂に入るのが普通かどうか。前世で言えば小学三年生。俺の認識ではまだまだ子供だ。

銭湯だって子供の混浴は九歳まで可能な場所が多かった記憶がある。間違ってはいないはず。

 

「普通、だと思いますが」

 

「そうなんだぁ……へぇ……そうなんだぁ」

 

膝詰めでただでさえ圧迫感があったのに、滲み出した雰囲気のせいで圧が強まった。

反射的に武器を探して部屋を見回す。布団が敷いてあるだけだった。

 

「……駄目なんですか?」

 

「君は知らないのかもしれないけど、九歳なら大体の子は月の物が来てるんだよ。……月の物って意味わかる?」

 

それは知っている。

アキもつい最近来たばかりだ。

俺の感覚では九歳で月経を迎えるのは平均よりも早い感覚だったのだが、この世界ではごく普通らしい。

 

「そうなんですか。子供の成長は早いですね」

 

「……君はその月の物が来ているであろう女の子二人とお風呂に入ったんだけど、身の危険とか覚えないわけ?」

 

「いえ、特には」

 

首を傾げてシオンを見返す。シオンは戦慄した様子で若干引いていた。

正直に言って、月の物が来ているから危険と言うのはよくわからない論理だった。

精通だろうが月の物だろうが、結局のところは性欲の問題だと思うのだが。

 

(なぎ)ぃ……ちゃんと育ててよぉ……どうするのさこれぇ……」

 

俺個人の価値観はさておき、シオンのこの言動を鑑みるに、自分がかなりずれているのは理解した。

世間一般に九歳の女の子と混浴するのはいけないことらしい。……妹とならいいのだろうか。

 

「……よし、わかった。君はこれから女の子とお風呂入るの禁止! 理屈抜きに禁止! 年齢関係なく禁止! どうしても入りたいのなら僕と入ること。いいね?」

 

「でも、それだとあの二人と一緒にお風呂に入れる人がいないです」

 

「一人で入れるでしょ。ましてや二人いるし」

 

「でもまだ九歳ですし」

 

「過保護だね。一人で入らせろ」

 

「もし何かあったら……」

 

問答の末、シオンの圧迫感が復活する。

 

「だから九歳は子供じゃないって! 何度言わせるつもり!?」

 

そうなのだろうか。ツムギちゃんとコズエちゃんの言動を思い出してみる。……どこをどう思い出してみても子供としか思えなかった。

 

「……わかったよ……次から僕があの二人と入るから……それでいいでしょ?」

 

「そんなご迷惑をおかけするわけには」

 

「一番の迷惑は君のその常識のなさなんだけど」

 

返す言葉が見つからなかった。

この世界の常識がないことは理解しているつもりだったが、細かな差異が予想以上に大きな影響を及ぼしている。

九歳の女の子は子供じゃないと言われても、未だに理解すら覚束ない。

 

「……さっき二人の身体を洗ってあげたんですが、それもしてはいけないことだったんでしょうか?」

 

「二度とするなよ。するなら僕にしろ。その場で押し倒してぐちゃぐちゃにしてやるから」

 

睨むように険しい瞳。思わず顔を逸らして布団が目に入る。

直前の言葉もあって、身の危険と言うのを切に感じてしまう。

 

「目を逸らすな」

 

「あの……」

 

「わかったの?」

 

両手で顔を包まれて無理やり正面を見させられる。

シオンの顔が近づいてくる。さっきよりかは優しい眼差しだったが、近づく顔に身体は硬直してしまう。

俺の反応に構わず、なおも近づき続けるその視線は一点に定まっていた。

――――やがて唇が重なった。

 

「……ん」

 

何度か経験したが未だに慣れない。漏れた鼻息に少しの恥ずかしさを感じつつ、キスの時間は一秒足らずだった。

 

感触が消えて、瞑っていた目を開けるとばつの悪そうな顔が間近にある。

シオンにしては珍しい顔に嗜虐心がくすぐられる。意地悪がしたくなって、ついつい尋ねてしまった。

 

「11歳には手を出さないんじゃなかったんですか?」

 

「うるさい。……君が悪いんでしょ」

 

「何かしましたっけ」

 

「君が妹なんかと口づけするから、僕もしないといけなくなった」

 

「……そんな決まりがあるんですか?」

 

「女の意地だよ」

 

なるほどと理解を示す。

シオンは終始ばつが悪そうにしていたが、何となく照れ隠しも混じっている気もした。

 

「口、開けて」

 

「どうしてですか?」

 

「続きがしたいから」

 

頷いて、少し口を開けて目を瞑る。すぐに唇が重なってきた。

入って来た舌を受け入れて、こちらも懸命に舌を動かしてみる。

我ながらぎこちないとは思ったのだが、されてばかりも嫌だったので、探り探り気持ち良さそうなところ目がけて動かしていく。

 

そうすると自然、主導権を握る争いが始まったわけだが、終始シオン優勢だった。

シオンは基本(ねぶ)って、たまに吸ってくる。何より緩急をつけることを知っていた。勘なのか知識なのか、敏感なところはすぐに見つけられてしまう。

弱いところばかり責められて身体から力が抜ける。気が付けば布団に押し倒されていた。無意識に抵抗していたらしく、いつの間にか両手首を抑えつけられている。

 

与えられる刺激に耐えられず、しきりに足を動かす。そこ以外に動かせるところがない。

腰の上にはシオンが乗っている。垣間見える表情は夢中になって貪っているように見えた。

 

唇が離れた後は互いに荒い呼吸を繰り返す。

濡れた唇が艶めかしく感じた。口の中に残っていた唾液を嚥下する。

 

「レン」

 

見つめる眼差し。上気した息遣いと共に甘い響きを含んだ声音。

我慢の限界と言う感じ。それに答える俺の声はどうなっているのだろう。自分ではわからない。考えたくもない。

 

「どうぞ」

 

直前に風呂には入っている。

シオンはまだ入っていないけど、出かけていたわけではないしそれほど汚れていないだろう。

 

受け入れる準備は万端で、残るは心の問題だけ。

結局こうなるのかと心のどこかに諦観が顔を出したけど、所詮は遅いか早いかの違いでしかない。いずれにせよこうなっただろう。

だから――――と覚悟を決めかけたその時、ドスドスと足音が聞こえた。

 

何を考える前に気配を探る。心が跳ねて我に返る。シオンを押しのけて身体を起こした。

直後、開かれた襖の先にアキが立っていた。

 

「風呂」

 

一言そう述べながら、冷淡な目がシオンを捉えている。

よく見たらアキの髪は濡れていた。ぽたりぽたりと雫が落ちている。服もはだけてしまっていた。入浴後、満足に拭く間もなくまっすぐここに来たらしい。

 

「……ああ、そう……じゃあ、いただこうかな」

 

「早くしろ」

 

無礼極まりないアキの言い様を無視し、シオンが俺を見てくる。

 

「一緒に入る?」

 

本気か冗談か。

どちらにせよ、心臓が跳ね続けている俺に答える術はない。

そうこうする間にシオンは行ってしまう。出ていく間際、アキに何か呟いていたようだが聞き取れなかった。

 

そうして二人だけになった部屋の中、アキは戸の前から動かず非難するような目で俺を見てくる。

 

「危ないところでした。兄上って意外と雰囲気に流されやすいんですね」

 

故意に邪魔したのだとアキは言っている。

入浴していただろうに、どうやって俺たちの様子を察知したのか。それが一番気にかかったのだが、実際に出てきたのは全然別の言葉。

 

「……兄妹だから」

 

「はい?」

 

「兄妹、だから」

 

「ふーん?」

 

「兄妹では、無理だよ」

 

「関係ないですよ」

 

事も無げに言ってのけるアキがなぜかとても強く見える。

やはり俺の知らない何かがあるのだろう。それを問い質そうとしたが、一瞬早くアキは踵を返した。

 

「もうすぐ食事です。楽しみにしていて下さい」

 

そう言って、アキは去って行った。




念のため調べてみたところ、銭湯での子供の混浴は今は6歳までと定めているところがほとんどだそうです


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第78話

暗闇の中で膝を抱える。念願叶った一人の時間。考えるのはやはりアキのこと。

東に向かった直後は身の安全を祈り、帰りが遅くて不安ばかりが募っていた。

ようやく帰って来たかと安心して、少し雰囲気が変わっていて、突然キスをされた。愛してるとも言われ、兄妹であることを諭しても、関係ないと聞く耳をもたない。

 

何がどうしてこんなことになってしまったのだろう。途方に暮れて、膝に顔を埋める。

つい最近までアキは普通の子供だった。無邪気で、元気で、腕白な、ちょっと我儘で聞かん坊だけど、それを踏まえても普通の子供だった。

 

仲の良い兄妹であることは自覚していた。良い兄であろうと努力して来たし、友達の少ないアキにとって、俺は数少ない遊び相手であったのは間違いない。

母上や父上の懸念通り、ちょっと仲が良すぎるところもあったが、それは家族一丸となって改善するつもりだった。友達を作らせようと言うのはその一環でもあった。

 

アキが生まれたその日のことをはっきりと思い出せる。腕に抱いた感触も、生まれた瞬間の泣き声も。あの日から、四六時中ずっと一緒に居た。

今世において何よりも大事にしてきたかけがえのない存在だ。それは否定しないし、愛してるかと問われれば愛してると答える。嘘偽りのない本音だ。けれど、まさか、恋愛感情を持たれているとは思いもしなかった。

 

一体何を間違ったのだろう。正直に言って思い当たることはないが、可能性を考えるのなら、俺の人格が影響したのかもしれない。

 

摩訶不思議なことに、俺には前世と呼べる記憶がある。ただの妄想、精神疾患かもしれないが、全くの別人として過ごした記憶が俺にはある。

その記憶があるから、母上のことを母さんとは呼べず、父上のことを父さんとは呼べなかった。呼べば最後、記憶の中の父と母を否定してしまう気がしたから、分けて考えなくてはいけなかった。

 

その結果が今である。父上との関係は悪化し、アキから恋愛感情を持たれている。母上との関係はそう悪くないと思うが、親と子の関係かと言えば疑問符がつく。母上は不器用で言葉足らずで、剣聖と言う肩書きに似合わず弱い人だ。間が悪くて肝心な時にいない。優柔不断でもある。そんなことを思っている時点で、普通の親子とは違う関係ではないだろうか。

 

真に家族に成り切れていなかった。言葉足らずは母上の専売特許ではあるけども、父上もそうだし、俺だってそうだった。言うべきことを言わず胸の内に隠し続け、膨れ上がった感情が歪な関係を築いてしまった。

歪な関係は歪な愛を育む。アキが実の兄を愛してしまったのは、そこに原因があるのかもしれない。

 

恋慕の原因はさておき、アキの想いは拒絶するしかない。考えるまでもなく決まっている。受け入れられるはずがない。

問題は断り切れるかどうか。すでに一度断ったようなものだが、アキは関係ないと言い切った。元より負けず嫌いが服を着ているような性格。諦めは人一倍悪い。

従うしかないとか言いなりだとも言っていた。男とは得てしてそういうものだと。

あれが本心なら、元より俺の言葉など届きそうにない。説得など無理だろう。理を解いても感情論で反論してくるに決まってる。平行線になり、会話そのものが破綻する。

それ故に他の手段を講じるしかないが、説得と言う方法に固執するなら、残る方法は肉体言語ただ一つ。

 

俺自身を賭けて手合わせする。勝てば手に入るが負ければ諦める。そういう賭け。単純な腕試しになるが、実行するにはいささか分が悪い気がした。

手段を選ばなければ勝てる。その自信がある。七の太刀を使えばいいだけだ。しかし現実問題、そんなことは出来ない。

七の太刀は使わず、三の太刀も極力使わない。間違っても殺さずに、怪我も負わせたくない。そうやって手段を選んで戦うのなら、真っ向勝負で圧倒するしかない。真っ向からやり合えば腕力の差で分が悪いのは明白。圧倒など出来ようはずもなく、下手をすれば押し切られて負ける可能性もある。だから肉体言語での説得はあまり良い手ではない。

 

説得は難しい。さりとて放置はできない。今晩にでも夜這いをかけられても不思議ではない。そこまでの性知識があるかどうか。そもそもアキは誰にその辺の知識を教えられたのか。やはりカオリさんか? でもカオリさんはアキが殺したとゲンさんが言っていた。本当なのか。なぜアキはカオリさんを殺したのか。東で何があったのか。

 

考えている内に頭がこんがらがる。

答えの出ない問いに堂々巡りになっていた。アキがカオリさんを殺したかもしれないと考えるだけで胸が苦しくなる。

 

悩みに悩んで、答えは出ず、一周回っていい加減癇癪の一つも起したくなってきた頃、目の前の襖が音もなく開いた。隙間から一筋の光が差し込む。

顔を上げると、ツムギちゃんとコズエちゃんが覗き込んでいる。

 

「……なに、してるの?」

 

「…………」

 

答えに窮して黙り込む。情けないところを見られた。

暗闇に差し込む一筋の光。俺は今、押し入れに閉じこもっていた。

 

 

 

 

 

「お兄さん、大丈夫? 頭おかしくない?」

 

「大丈夫。おかしくなんてないよ」

 

「嘘。絶対嘘!」

 

(つむぎ)ちゃんはこう言ってるけど?」

 

「おかしくないよ」

 

答えられないところは黙殺するが、答えれるところには答えておく。

なぜに押し入れにいるのかと聞かれても、中々答えづらい質問だった。暗闇が落ち着く瞬間と言うのは往々にしてあると思う。考え事や不安や心配、悩みなどで一杯一杯ならなおさらだ。暗闇の中で自分を見つめ直したい。だから押し入れに閉じこもる。不思議なことに、この家では客間にしか押し入れがなかったから、ツムギちゃんたちの部屋にお邪魔して閉じこもっているわけだ。

 

二人にしてみれば不思議でたまらないだろう。いっそ不気味かもしれない。俺だって二人の立場なら聞かずにはいられないはずだ。どうして押し入れで膝を抱えているのですか、と。

 

俺の奇行を目の当たりにし、困り顔で顔を見合わせる二人。

子供は可愛い。アキのことを考え、昔のことを思い出す内に、いつの間にか募っていた欲求。大した欲求ではなかった。ただ懐かしさと寂しさが募り、無意識に目の前の少女に声をかけていた。

 

「ツムギちゃん」

 

「なに?」

 

「おいで」

 

「……は?」

 

「こっちおいで」

 

ツムギちゃんを押し入れの中に誘う。おいでおいでと手で招く。

別にコズエちゃんでもよかったのだけど、最初に目に映ったのがツムギちゃんだった。

 

「な、なにするつもり……?」

 

「抱きしめたい」

 

「何言ってんの!?」

 

ツムギちゃんは絶叫する。

俺は胸の内に寂しさを募らせて手招きを続けた。

 

思い返すに、俺とアキは度々抱き合っていた。それこそ欠かす日はなく毎日のように。

日中、じゃれ合いながら抱き合って、夕暮れは風呂の中で抱き合って、夜は布団にくるまりながら抱き合った。

 

兄妹だからできたことだ。子供と子供だから出来たことだ。

もうそんなことは出来ない。したが最後、性的に餌食になりかねない。

 

「やったね紬ちゃん」

 

「は!? な、なにが?」

 

「つぎ、私ね」

 

「なにが!?」

 

まごまごと躊躇するツムギちゃんの背中をコズエちゃんが押す。いやいやと言う割に自分から身を屈めたツムギちゃんが目の前までやって来た。じっと顔を見つめると、視線が右に左に惑う。

気分的な問題で、正面から抱き合うよりも背後から抱きしめたかったので後ろを向いてもらった。

浴衣みたいな寝間着を着ているツムギちゃんは、屈んだ時にちょっと着崩れしていて、うなじが露わになっている。

何となく、アキを膝の上に乗せたことを思い出しながらツムギちゃんを抱きしめた。

 

「うぅ……」

 

「紬ちゃん、うれしい?」

 

「うれしいわけないでしょ……」

 

ツムギちゃんと一緒に押し入れに入って来たコズエちゃんが襖を閉めてしまったため、中は薄暗い。

目が慣れるまでの僅かな間、二人の姿は輪郭しか見えない。抱きしめる身体は妙に力が入っていたのでその頭を撫でて落ち着かせる。

 

「お」

 

「なによぅ」

 

「うれしそう」

 

「見ないでぇ……」

 

ツムギちゃんは俯いて両手で顔を隠してしまった。それを眺めているコズエちゃんの表情はあまり変わらない。けれども楽しそうだ。当初、悲壮感漂っていた顔とは雲泥の差がある。

胸に来るものがあって、もう片方の手をコズエちゃんに伸ばす。同じように頭を撫でた。コズエちゃんは目を細めてされるがままだった。

 

穏やかな時間が流れる。

本当は、この二人に両親のことを聞きたかった。東で何があったのか聞いて、アキのことを少しでも知ろうとしていた。

思い出すのも、言葉にするのも辛いだろうことは承知の上で、それでも心を鬼にして聞こうとしていた。でも、こうして面と向かって、二人のやり取りを聞いている内に、その気持ちは萎んでしまった。

わざわざ二人に聞かなくてもアキに聞けばいい。そう思ってしまえばもう駄目だ。辛いことはもう十分。幸せになってほしい。

 

シオンの気配が近づいてくる。

アキもそうだがシオンも入浴時間が短い。烏の行水だ。折角風呂に入ったんだからもう少しゆっくりすればいいのに。

 

目を閉じてツムギちゃんの肩に顎を置く。

不安、悩み、心配。様々なことが脳裏を駆け巡った。それらを見つめ直し、意を決して目を開ける。決心が鈍らないように勢いよく襖を開ければ、丁度部屋に入って来たシオンと目が合った。

 

「お願いがあります」

 

「あぁ?」

 

不安、悩み、心配。自分のこと、父上のこと、アキのこと。考えることは多くあり、答えの出ない問いが山のように積まれている。

いくら考えても答えは出ない。堂々巡りで不安だけが増していく。だからもう気にしないことにした。いくら考えても結果は同じ。ならばやりたいことをやりたいようにする。

無責任ともとれる思考だが、他にやりようがないのだから仕方がない。くよくよ考えても気持ちが沈むだけでいいことは一つもない。やってダメなら砕けるだけだ。砕けると言ってもアキかシオンに犯されるだけだし。

 

「アキと二人きりで話をさせてください。今すぐに」

 

シオンは飛び切り不機嫌そうな顔をしていた。

水滴の滴る前髪をかき上げて、ぷいっと横を向く。

「好きにすれば」と拗ねたような口調で呟いた。



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第79話

二人っきりで話をする。

言葉にすれば簡単で、実際に行うにしても簡単なことなのに、どうしても踏ん切りがつかずに先延ばしにしてしまった。

確かに、すべきことはたくさんあった。他に話さないといけないこともあって、考えることなんて山ほどあった。しかし、そのどれよりもまずはアキと話をすべきだった。

 

誰かと風呂に入るよりも、誰かと他愛のない話をするよりも。何よりもまずアキと話をすべきだった。

それは愛してると言われたからではなく、キスをされたからでもなく、ただ嫌な予感がしていたから。危険だと直感が訴えていたから。アキと再会した直後のあの感覚は、先代剣聖に(まみ)えた時と似ている。それから目を逸らすべきではなかった。

 

一人になって考えて、現実を直視して、ようやく踏ん切りがついた。

やると決めてからはそれ以外に正解はないと言う気すらしてくるから、都合がよすぎて笑ってしまう。

 

シオンに直談判し許しを得た直後、父上に居間に呼ばれた。行ってみれば、囲炉裏を囲むように膳が置かれている。

父上に押し切られて滞在することになったゲンさんと、支度を手伝ったアキ。久しぶりに楽しそうな顔をしている父上の三人はすでに座っていた。ツムギちゃんとコズエちゃん、シオンも空いていた場所に座らせる。

 

さてどうしようかと考えあぐねながら囲炉裏の前に立ち、視線を巡らせる。正面にいたアキは行儀よく座っていた。

歩み寄って声をかける。「話をしよう」と。

 

「いいですよ。ここで話しますか?」

 

アキは嬉しそうな顔で答えた。待ちに待ったと言う面持ちで。

 

「二人きりで話そうか」

 

「では、鍛錬場はどうでしょうか。邪魔は入りません。寒いですけど」

 

異論はなかった。

頷く俺を見てアキは立ち上がる。俺たちのやり取りを聞いて、腰を上げかけたゲンさんを視線で制止する。大丈夫だと頷いて見せた。

一応シオンに目を向けると、頬を膨らませてぶっすりと不貞腐れていた。胡坐をかいて頬杖をついている。その横にいるツムギちゃんとコズエちゃんは居心地が悪そうだ。

俺とアキの間で唐突にそんな話になったので、驚いた父上が聞いてくる。

 

「何の話? 朝ごはん出来たけど?」

 

「聞かないといけないことがあるんです」

 

「それ、今じゃないとダメ? 冷めちゃうから」

 

茶碗の中の白米から湯気が立っている。白米は久しぶりに見た。しかし食欲はそそられない。

 

「これ以上、格好悪いところは見せたくないので」

 

「格好悪い?」

 

言葉の意味を父上は解さない。

一緒に食事の支度をしていたはずだが、違和感などは覚えなかったのだろう。

それならそれでいい。分かったからと言ってそこに優劣があるわけでもない。

 

「鍛錬場なら刀が必要ですね。取ってきます」

 

「話をするだけだから、必要ないと思うけど」

 

「いえ、必要になるかもしれません」

 

「兄上次第です」とアキは言った。

そうかと俺は答えた。それ以上特に言うこともなかった。

 

 

 

 

 

空は晴れている。久しぶりの晴天の気がした。何日ぶりと言うか何十日ぶりぐらいの印象。もちろん、理屈で言えばそんなはずはない。覚えていないだけで晴れた日もそれなりにあったはずだ。

 

「寒いですね」

 

自分の手に息を吹き付けたアキは、寒い寒いと手をこすり合わせている。

横目にそれを見ながら「そうだね」と答えて、遠くに見える山々に視線を映した。記憶にあるそれよりも白く染まった山頂にすでに秋の気配はなく、肌に突き刺さる冷気も冬のそれに変わっている。ただ雪が積もっていないだけのこの鍛錬場で、アキと並んで話をする。

 

「アキ」

 

「はい」

 

微笑むアキは喜色をたたえて目を細めている。

首元には俺が編んだマフラーを巻いていた。手袋はしていない。持ってきてもいないのだろう。代わりに腰には刀が差してある。俺も杖を持っていた。

 

「何があった?」

 

「さすがに、単刀直入すぎませんか」

 

呆れたと言う気配を滲ませて「母上みたい」と呟く。肩をすくめるその仕草。表情の移り変わり。目を離さず観察する。

 

「何がと言うならたくさんありました。話すと長いですが――そう、あの子たち、(つむぎ)と梢《こずえ》は殺されかけていたところを助けまして、なぜ殺されかけていたのかと言うと、どうにも自警団の人たちは頭がおかしくてですね――――」

 

「カオリさんを殺したと聞いた」

 

話を遮って、一番聞きたかったことを聞いた。

一瞬アキの表情が消えたが、すぐに笑顔に戻る。

 

「誰から聞きましたか?」

 

「誰からだと思う?」

 

分かり切ったことを聞くなと言外に匂わす。

 

「質問に質問で答えるのは卑怯ですよ。まあ、ゲンさん以外いないですけど」

 

腕を組み、うんうんと頷くその仕草からは子供っぽさが感じられる。しかし違和感が付き纏う。取り繕った子供らしさにも思えた。

 

「確かに、殺したと言えば殺しました。でもしようがなかったんです」

 

「理由は?」

 

「あー……」とアキは言葉に詰まる。考える素振りを見せた。何かを思い出そうとしてか、こめかみを指でぐりぐり()している。

その過程で外れた視線が戻って来た時、纏う雰囲気が変わっていた。

 

「お婆が死んで自警団は暴徒と化しました。結果的にとは言え、それを率いることになったのがカオリさんです」

 

「……」

 

突然始まった語り口に耳を傾ける。

お婆と言うのが誰なのか、言われずとも察した。脳裏に浮かぶ狂気の表情。狂っている人間と関わりたくはない。だが死んだと聞けば哀れみの一つも浮かぶ。

アキがあの人のことをお婆と呼んだ。そのことへの違和感を飲み下し、無言で続きを促した。

 

「彼女はとても不幸な人生を歩んできました。すでに余命は短く、破滅願望までありました。いつも笑みを浮かべているけど、内心では怒りと憎しみが燻っていて、全てを壊してしまいたかった」

 

カオリさんのことを思い出す。彼女の声と彼女の言葉。死に誘われた記憶。

あの人の人格や行動理念について、言及するほどの接点は俺にはない。それを自分のことのように語る妹を見つめる。口元には笑みが浮かべていた。

 

「それでも善意と良心があった。関係のない人を巻き込むのはいかにも心苦しい。剣聖様に助けられたあの日のことは忘れていない。でも、それで全てが救われたわけじゃないのもまた事実。ただ生きてるだけで毎日苦しくて、子供なんて望めるはずもない。何のために生きてるのか。いっそ死んだ方が楽なんじゃ。そう思って生きてきた」

 

「……アキ?」

 

語る声に熱がこもり始めた。それを異変と捉えて声をかける。

しかしアキは止まらない。こもる熱はより激しく、俺の声など聞こえなかったように話は進んでいく。

 

「そう思ってるうちにお婆が死んでこの騒ぎ。正直に言って、自警団の、あの愚かな人たちと一緒に死ぬなんて耐えられない。私にだって選ぶ権利ぐらいあるでしょう。ましてや親玉として処刑されるなんて。止めたのに。やめろと言ったのに。誰も話を聞かない。虐殺まで始めた。子供を殺そうともしている。こんな人たちの仲間? 冗談じゃない」

 

「アキ」

 

「だから殺した」

 

始まりと同じように、話は唐突に終わる。同時にアキの顔から笑顔が消えた。怒りを押し殺した無表情だった。直前まで声にこもっていた熱は消え去り、代わりに冷酷な気配が滲み出す。

その移り変わりに内心で気圧されて、表情に出さないよう苦心しながら訊ねる。

 

「……誰を殺したと?」

 

「あの女を。兄上を誘った、忌々しい、あの女を」

 

口調の端に刺々しさが生まれる。そこにあるのは憎しみに似た激情。

 

「自警団はどうなった?」

 

「それは私の知ったことではありません」

 

「アキ」

 

「兄上はどうしてあの女狐と一緒にいるんですか?」

 

また話が飛んだ。突拍子がない。女狐と言うのがシオンさんだとしても、なぜ今それを聞くのか。

 

「シオンさんには恩がある。言ったはずだ」

 

「……あれ? シオンと言うのですか? ……ああ、いや、そうでした。今はシオンだ。そうだ。あいつ、こんなところで何やってるんだ? まーた叱られるぞ。下手したらあたしまでどやされる」

 

口調がおかしい。

違和感どころではない。

 

「アキ?」

 

「好き勝手やって、壊せばそれで済むみたいに……。尻拭いはあたしだもんなあ……気楽でいいよなあ……」

 

不安を通り越して動悸を覚える。まるで別人だった。口調から仕草まで何もかも。

 

「お前……お前は……」

 

言葉に詰まる。

目の前で起きていることが理解できない。いや、違う。考えたくないだけだ。

無理やりでも頭を働かせて考えなければならない。思いつくのは精神的な疾患。人を殺したから精神が不安定になった。きっとそうに違いない。

 

「俺が、悪かった。今は休もう」

 

どもりながら、何とかそれだけを言う。

何はともあれ休息を。ゆっくりと休ませて、それからまた話をしよう。その時はもっと慎重にしよう。母上が帰ってきてから、父上とゲンさんも交えて、みんなで。

 

「……え? 休む? なぜ?」

 

何事かを嘆き続けていたアキが、俺の言葉を受けて我に返る。態度を一変させ、心の底から分からないと首を傾げた。

 

「疲れてるだろう? 考えれば、帰ってからまだ一睡もしていない。なのに父上の手伝いまでさせて……考え足らずだった。すまない」

 

「別に疲れていませんし、そもそも私は眠りませんよ?」

 

「無理をする必要はない」

 

駄々をこね始めた子供を叱るような態度で接する。以前と同じように。そう意識して。

 

「……ああ、そうだ。兄上は知らないんですね。私は眠りませんよ? 眠る必要がないんです。だって――――」

 

アキの手が刀に触れる。ゆっくりと抜かれていく。白い鞘から露わになる白銀の刀身。――――色付きの刀。

 

「私にはこれがあるから」

 

アキの声を聞くより早く、咄嗟に目を背けた。

心臓が早鐘を打っている。一瞬だが目を奪われた。あれは元は俺が持っていた刀だ。誰よりもよく知っている。絶対にあんな色ではなかった。

 

「それ、は……」

 

「大丈夫ですよ。兄上が思っているようなことは起きません。母上のようにはなりませんから」

 

視界の外から声が届く。

何を知っていると言うのか。何故知っているのか。疑問が浮かび言葉にはならない。アキは言い募る。

 

「これはただ奪うだけ。奪いたいものを奪う。望む限り、どんなものでも」

 

わからない。もう何がなんだか。

唯一わかるのは、俺の手には余る状況だと言うことだけ。

助けを求めるべきか。しかし色の付いた刀。あれがもし母上の言っていた藤色の刀と同じものなら、今助けを呼ぶわけにはいかない。

あの刀を鞘に納めさせる。全てはそれからだ。

 

息を吸い、大きく吐く。すべきことを定めて前に向き直る。アキと目が合った。自然、アキの持つ刀を視界に収める。今のところは何ともない。しかしいつ何が起きるかは分からない。

 

「何か決心したみたいですね」

 

なぜだかアキは嬉しそうな顔をする。それだけ見れば以前と変わらない。先ほどの言動と、その手に持つ白銀の刀に目を瞑れば。

 

「当ててあげましょうか。まずはこの刀をどうにかしよう。他のことは後回し。そんなところですか? 大丈夫だと伝えたのに、疑り深いんだから」

 

そう言いながらもやはり喜んでいるように見える。

考えれば考えるほどに分からなくなる。今のアキがどういう状態なのか。やはり精神的な病なのか。それとも俺の知らない何かがあるのか。

 

「折角兄上がその気になったみたいですし、手合わせついでに遊びましょう。これを奪ったら兄上の勝ち。奪えなかったら私の勝ち。どうです?」

 

「……悪いけど、遊ぶ気分じゃない。ただそれを渡してほしい。危険なものかもしれない」

 

「これは私のものです。意地悪言わないでください」

 

「アキ」

 

「うーん……。兄上がどうしてもと言うなら……まあ、やぶさかではないですが……でもやっぱり遊びましょう。遊びたいです!」

 

子供の駄々。

そのように見える。けれども信じることが出来ない。

 

「遊ばない。言うことを聞け」

 

「兄上こそ私の言うことを聞くべきでしょう。男なんだから」

 

「アキ」

 

「あはは。余裕のない兄上も好きですよ。次は格好良い兄上が見たいです。……その杖、刀ですよね? 抜いてください」

 

左手に持った杖を握り締める。手汗が酷い。喉が渇いて言葉に詰まる。

応とも否とも言わぬ内に、アキの重心がわずかに下がる。走り出す予兆。それがわかっていて、どうすることも出来なかった。

 

「行きますよ」

 

直後、アキは駆けて来る。

抜き身の刃を振り下ろしながら。



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第80話

白銀の刃が迫って来る。

当然だがそれで斬られれば人は死ぬ。実際のところ俺が死ぬのかは分からないが、アキはそれを知らないはずで、それなのに躊躇なく斬りかかって来た。

命の危機を前に体感速度は極めて遅く、思考は怒涛のように流れる。

 

徐々に近づくアキの顔は興奮で赤らんでいた。口元は弧を描き、振りかざされていた刀が今にも振り下ろされようとしている。

否が応にも対応を迫られる。杖を抜くか一瞬迷った。妹相手に刀を抜くのは嫌だった。殺し合いなど冗談ではない。だから一歩前に出る。

 

まさか自分から近づいてくるとは思っていなかったらしく、アキの顔に浮かんでいた笑みが崩れる。間合いを外されて、なお目標を外すまいと振り下ろされた刃に横から手を添える。

 

―――五の太刀『旋風』

 

白銀の刃が空を切る。呆然とし無防備になった手首を掴んで引き寄せる。そのまま倒れ込むように押し倒した。馬乗りになり、両手を抑えて身動きを封じる。

 

一連の流れの後、目を白黒させる妹の顔を苦々しく見つめた。

握りしめられた拳に手を重ねる。こじ開けようとしたが腕力では敵わない。アキが呟く。

 

「……すごい」

 

呟いた途端に目に輝きが満ちた。興奮に身をよじっている。あまり暴れるようなら多少の暴力は厭わないつもりだったが、拘束から逃げるつもりはないらしく、興奮で身を躍らせるばかりだった。

 

「凄い凄い! 兄上凄い! もっと弱いと思ってた! 今の私なら簡単に勝てるって! でも全然……やっぱり兄上は凄い! 凄いです!」

 

捲し立てられる内容に顔を歪める。いつだって褒められるのは好きじゃなかった。

そもそもの話、何も凄いことなどない。間合いを外された結果の歪な一太刀だった。五の太刀じゃなくても逸らすのは簡単だったろう。油断し切っていたから出来たことだ。

 

「俺の勝ちだ。刀をよこせ」

 

睨みつけながら出来るだけ高圧的に言い放つ。

潤んだ瞳と熱っぽい吐息。ゆっくり、見せつけるように、握られていた拳が開いていく。

 

手が開き切ったところで刀を奪った。よく知っている重みと感触。こんな状況なのに懐かしさすら感じてしまう。

感傷に浸っている暇はないと、急いで鞘に収めた。

白銀の刃が見えなくなって、ようやく一息つくことが出来た。

 

「……アキ」

 

「はぁい」

 

間延びした返事。小馬鹿にされたのかと思ったが、恍惚とした表情と妖しげな笑みに息を呑む。年に似合わない淫靡な雰囲気が感じられた。

 

「どうして、こんな……こんなことに……」

 

湿っぽい視線を受けながら、上手く言葉が出てこない。責めるべきなのか労わるべきなのか。そんなこともわからずに、辛うじて出てきた言葉は虚空に消え、いつの間にか自分自身に向けられていた。

 

自責の念に駆られて胸が痛む。

一体誰のためにアキは東に行き、誰のために人を殺したのか。

こんなことになってしまって、一体どうすればいいのか。

 

考えるまでもなく、今度は俺がアキのために出来ることをしなければならないだろう。

これが精神的な病なのか、それとも色付きの刀のせいなのか。治すためにもはっきりさせないといけないことは多い。

 

「俺は、俺だけは、お前の味方だから……どんなことがあっても……」

 

「はい?」

 

疑問符を浮かべる妹を見下ろす。

刀を奪ったのだから、いつまでも馬乗りになっている理由もないと腰を上げかけて、アキに胸ぐらを掴まれた。

そのまま上半身を起こしたアキは、俺を腰の上に置いて頬を撫でてくる。

 

「なんだか、勘違いしているようですが……あぁ、そんな兄上も愛おしい……。身体が疼きます……性欲って、凄いですね……」

 

恥ずかしそうに、それでいて隠すこともなく、アキは自らの下腹部を擦った。

「一つだけはっきりさせておきますね」と照れくさそうに笑う。

 

「私は、兄上を愛してます。一人の女として、貴方と言う男性を、心の底から。この世界の誰よりも。――――例えそれが(いだ)かされた思いだったとしても、この気持ちは変わりません」

 

一拍置いて、「だから」と言葉が続く。目と鼻の先にあった笑みの種類が変わった。

 

「次は私と遊んでくれる?」

 

また、雰囲気が変わった。

 

 

 

 

 

直後に投げ飛ばされた。

座ったまま、腕を掴まれて、腕力だけで投げ飛ばされた。

 

化け物染みた力だった。

いくらなんでも普通ではない。この世界の常識に照らしてみても逸脱しているだろう。

 

投げ飛ばされた瞬間、辛うじて刀だけは胸に抱き、しかし杖は手放してしまった。

勢いを殺すためにゴロゴロと転がり、ようやく顔を上げた時には、アキは杖を手に取っていた。

杖の中に仕込まれていた直刀を引き抜き、何度か振ってみせる。そうして俺の方を見た。

 

「怪我はない?」

 

その問いには答えず、視線を外さないようにゆっくりと立ち上がる。そんな俺を見て、アキは満足そうに笑っている。

 

「……これは、なんの――」

 

「行くわよ」

 

言わせるつもりがなければ聞く気もない。その意思を明らかにするように、猛然と襲い掛かって来る。

 

最初は突き。次に斬り払い。細かく小さく、隙は最小限に。

先ほどは大振りだったからその分隙は大きかった。その反省を生かしているらしい。

 

男と女である以上、腕力もそうだが体力にも差がある。自ずと躱すにも限界がある。

このままでは早晩押し切られる。それを避けるためにも、身体は無意識に柄を握っていた。

 

「く、そ……っ」

 

思わず抜いてしまいそうになるのを理性で拒む。それを見咎められて、猛攻の合間に声をかけられた。

 

「どうしたの? 抜かないの?」

 

口調は平坦だが挑発にも思えた。歯を食いしばって耐える。抜けない。色付きの刀と言うのもそうだし、抜いたら最後、殺し合いが待っている。その予感がした。

 

「アキっ……!」

 

「違うわ。分かってるでしょう? ちゃんと呼んで?」

 

反撃はせず後退し続けた。その結果、木の間際まで追いつめられる。

 

「終わりね」

 

失望感を覗かせた声音。大きく頭上に振りかざされる刃。

今までにない大振りはこれ見よがしの隙だった。誘われているのは分かっていて、寸でのところで耐える。ゆっくり進む世界の中で、自分が斬られた後のことを想像する。……他に道はないのだと悟った。

 

刀を抜く。光に照らされて白い刃が露わになる。

居合の形だが三の太刀は使わなかった。話さなければならないことがあった。俺の反撃を躱すために大きく後退した、他ならぬ彼女と。

 

「あなたは……」

 

喉元まで出かけた内容を逡巡する。実に愚かで、冗談にしか思えない。直感にのみ支えられて言葉を発した。

 

「カオリさん、ですか?」

 

「その通り」

 

口元に薄く彩られた笑み。一見して不気味さがある。何を考えているかわからない。覚えのある雰囲気だった。

 

片手で顔を半分覆い隠す。項垂れてしまいそうになる自分を必死に鼓舞する。

常識に照らし合わせて、最も高い可能性を言及する。

 

「カオリさんの真似をして……」

 

「違う。まだ分からないの?」

 

自分の胸に手を当てながら言う。

 

「私はここにいる」

 

「……ありえない」

 

「いいえ。そもそもアキちゃんが私のことをあれほど語った時点で――」

 

「ありえないっ!!」

 

言葉を荒げる。違うと繰り返す。もうやめてくれと心が叫んだ。

 

「お前はアキだ。他の誰でもない! ちょっとおかしくなってるだけで……休めば、またいつも通りに……――」

 

「レン君」

 

哀れみの眼差しに我に返る。動揺し切って、いつの間にか肩で息をしていた。深く息を吸って落ち着こうとする。

 

「何をそんなに狼狽えているの? 言ったでしょう、奪うって。その刀で奪ったの。全てを」

 

「奪う……何を、言って……?」

 

「全てを。記憶も、意思も、命も。奪えるもの全て奪ったの」

 

また口元に笑みが浮かぶ。笑っているのは口だけで目は笑っていない。

 

「だから私はここにいる。アキちゃんの中で生きている。これからもずっと生きていられる」

 

「……アキ」

 

「いいえ。今はカオリって呼んで? ……ねえ、レン君」

 

笑みが深くなり、目は闇に沈んでいく。背筋が凍るような凄絶な表情に変わっていく。

 

「またぞろ不幸に見舞われたのでしょう? 救われないわね。あなたはそういう運命だから……。でも大丈夫。助けてあげられるわ。この刀なら」

 

その手に持つ直刀が白く染まっていく。同じくして、俺が持つ刀の色が抜けていく。

思い出す。母上が言っていた。母上の持つ刀は勝手に赤くなると。

それを聞いていたから、目の前で起こる出来事に驚きはなかった。むしろ得心がいった。やっぱりそうなるのかと。

 

「あなたの全てを奪いましょう。そうして救いましょう。そうすれば、私たちは一緒になれる。一人じゃないわ。永遠に一緒よ」

 

「だから」と言葉が紡がれる。

 

「大人しくしていて? ただ刺すだけだから。痛いのは我慢してね? 慣れているでしょう? 死ぬほど痛いのは」

 

一歩近づいてくる。その様子を見ながら、胸いっぱいに息を吸い込む。吸い込んだものと一緒に、溜まっていたものを全て吐き出した。

 

「……アキ、お前を拘束する。抵抗するなら手足を折ろう。必要なら刀を握れなくしよう。だから大人しくしてくれ」

 

それを聞き、アキは意外そうな顔つきになった。

 

「……出来るの? 言っておくけどアキちゃんは死んでない。今は私が表に出てきてるだけ」

 

「今のお前は様子がおかしい。言っていることはとてもじゃないが信じられない。だから――――」

 

脳裏に浮かぶ。前世の記憶を持ち、死んでも生き返った自分のこと。狐憑きと呼ばれる、再生を繰り返した猿。母上が語ってくれた、藤色の刀とそれに魅了された人たち。

 

「――――拘束して様子を見る。大人しくしろ」

 

この世界では俺の常識は通じない。あり得ない出来事が続いている。そもそも、男より女の方が強いと言う時点で非常識な世界だった。

他者の人格を奪ったと言う妹を見て、いよいよ自分と言う存在が分からなくなる。他者の身体に違う人格があると言う意味では、俺自身も似たようなものだ。そしてその一例がある以上、アキの言葉を世迷言と切り捨てるわけにはいかなかった。

 

「そう……それじゃあ戦いましょうか」

 

「戦いにはならない。知っているだろう。俺はお前の兄だ」

 

「ええ。知っているわ。か弱い男の子だってこと」

 

アキは笑う。舐められていた。

つい先ほど簡単に押し倒されたことは覚えていないらしい。仮に本当に人格が複数あるとするなら……いや、今はそれを考える時ではない。

 

刀を握り締め正面に構える俺に対し、アキは構えもしないで俺の行動を待っている。

それが望みならこちらから行こう。

足に力を込めて駆け出した。目の前の常識を打ち砕くために。



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第81話

仮に目の前にいる妹が本当にカオリさんさんだったとして、その実力は如何ほどのものなのか。

先ほど、僅かだがその太刀筋を見ている。何も違和感はなかった。素人臭さはない。かと言って達人のそれでもない。

俺がよく知っているアキの動きと遜色はなかった。

 

知らねばならない。俺の勝利は殺すことではないが、だからと言って受けに回れば分が悪いのは目に見た。だから先手を取って斬りかかる。今、アキは俺の刀を苦も無く受け止め、鍔迫り合いとなった。間近で見る顔には笑みが浮かんでいる。薄い笑み。似つかわしくないその表情。

 

僅かに顔をしかめた俺に対し、アキは力を込めて弾き返した。

張り合うことなく受け入れる。大きく背後に跳んだ俺をアキは追いかけてくる。

一歩だけ後ろに下がり、振り上げられた刀を間一髪のところで避ける。予想以上の風圧が頬を撫でた。

 

「いくわよ」

 

妙な喜色を声音に湛えて、アキは再び斬りかかって来る。

繰り出される一太刀一太刀に万力の如き力が籠っている。真面に受ければその瞬間勝負が決するだろう。基本は躱す。無理なものは受け流す。

そうして瞬きも許されない猛攻を凌いだ後、アキは僅かに息を荒げていて、悔し気な眼差しで俺を睨みつけていた。

 

「ふふっ……」

 

アキは笑う。

距離を取ることもせず、一時の疲労感を滲ませながら。

 

「さすが。でもまだまだこれから――」

 

何かを言い切る前に刀を振った。

慌てたように後退するアキ。距離を取るにしては必要以上の動きだった。無駄が多く隙だらけ。試しに追撃してみれば、同じような動きばかりする。

 

こちらの攻撃に対して、一つ一つの対応は辛うじて及第点ぐらいはあった。しかし致命的に次への行動が遅い。

攻め手に回らなければならないと言う意識はあるのだろう。どうにかしてと言う内心が透けて見えるようだ。けれども出来ない。やり方は知ってはいる。しかし出来ずにいる。知識でしか知らないことをやろうとしても、身体がうまく動かないのだろう。

 

カオリさんの生い立ちを考えるに、剣術の経験があるとは考えにくい。もしかしたら知識では知っているかもしれない。アキの記憶を共有しているのなら、より具体的な知識として彼女の中にあるかもしれない。だが見るのとするのとでは天と地ほども違う。そもそもからして、剣術以前に基本的な運動すら満足に出来ていなかった可能性が高い。

 

故に対応力に欠けている。俺はそう判断した。そして主導権を渡してはならないとも思った。

アキの、カオリさんの一番の脅威はその膂力(りょりょく)だ。今までの攻防でそれを理解した。がむしゃらに攻め立てられれば、技のいらない力押しであれば、対応力など必要なく圧倒することが出来る。

 

強みを活かされては敵わない。ならば俺のすべきことは一つだけ。

徹底的に相手の土俵を避けること。七の太刀はおろか三の太刀も使わず、それでいて可能な限り軽傷でアキを拘束するにはそれしかない。

 

いくら難しかろうとそれしか道がないのなら突き進む。幸いにして、すでに道筋は見えている。

元よりアキは待つのが苦手で攻めるのを好んでいた。それ故に受けの技術は拙いものだった。記憶の共有。あるのかないのか知らないが、弱みを突くとすればそこしかない。

 

母上と言う共通の師を持つ者同士、今のアキの動きは読みやすい。例えるなら教科書通りの動き。以前のアキなら絶対にそんな動きはしていなかった。

 

攻撃の合間、反撃の糸口を探る際、アキの動きはどうしても一瞬止まる。数ある知識から目当ての物を掬い出す時間。この場、この状況において、それが正しいのか吟味する一瞬の間。

戦いの最中、その一瞬は致命的にすぎる。

 

数合の打ち合いの後、やはり一瞬止まったアキの腹に蹴りをくわえる。

この一撃は想像もしていなかったようで、アキの身体はくの字に曲がり、苦痛に顔が歪んだ。

次の一撃は確実に当たる。その確信を胸に、瞬時に峰へと持ち替えた刀で手首を狙いに行った。

手首を折れば刀を握れない。しばらくの間利き腕を使えなくすればそれで十分だろう。

 

手加減はしなかった。

腕を狙った一撃。俺の腕力では死ぬはずもない。確実に当たると思っていたから次の行動など考えてもいない。

まさかそれが空を切り、瞠目の内に刀が風を切る音がする。

反射的にしゃがんで躱した。ちらりと頭上を見ると憎々しげな顔と目が合った。

 

「反撃よ……!」

 

アキの猛攻が始まる。

後先考えていない攻撃。遮二無二とも言える。一振り一振りの隙が大きく、辛うじて攻勢が維持されているのは化け物染みた腕力のおかげだった。

 

「こんなものじゃ……っ!」

 

時折零れる呟きは、想像の自分と現実の自分の乖離に苦しんでいるように思えた。

理想通りに動けるなら誰も苦労しない。想像の中ではみんなヒーローだ。現実はそうじゃないと言うだけで。

 

攻勢は徐々に緩やかになっていく。

綱渡りをさせられた。それも一山越えて息を吐く。ついでに言葉も吐いた。

 

「まだやりますか?」

 

「……っ」

 

あえての挑発。

今の今までそうとは思っていなかったが一連の言動を鑑みるに、カオリさんも中々プライドが高そうで、この一言が挑発になるのは予想できた。

予想通り攻撃が激しくなる。それと同時に彼女自身の体力も消耗していく。疲れれば疲れただけ動きは鈍くなるだろう。それを狙っていく。

 

我ながら消極的だと思う。だがそれをしなければならない理由があった。彼女の攻撃を躱しながら考える。

先ほど、確実に当たると思いながらも空を切ったあの一撃。

まさか躱されるとは思っていなかった。今も信じられない気持ちでいる。

隙は作った。体勢も崩させていた。動揺し切っていたはず。あの状況で冷静に対処できるほどの判断力もないはずだ。

なのに躱された。もっと正確に言うなら腕だけが動いていた。まるでそこだけ別の意思が宿ったように。

 

……アキ、なのか? それとも……?

 

最悪を想定するなら、利き腕を折るだけでは足りないかもしれない。次が控えている可能性がある。

することを定め、これ見よがしに身体を沈める。カオリさんからは距離を取ろうとする動作に見えたのだろう。逃がさないとばかりに大股で一歩近づいてくる。

それを見とめた瞬間、力の方向を後ろではなく前へと移す。まさか懐に飛び込んでくるとは思ってもみなかったカオリさんは、予想外の事態を前に全ての動きが止まる。

 

持っている刀ごとその手を掴み、柄で鳩尾を殴打する。

カオリさんの口から空気が漏れた。頭の上から苦悶の声がする。

 

力を込めてそのまま押し倒す。

仰向けに倒れたカオリさんから刀を奪おうとするが、がっしりと握りしめられた拳は岩のように固くてびくともしない。

 

一瞬の内に見切りをつけ、即座に距離を取る。素手だろうと掴まれたらその時点で敗北する。

カオリさんは離れた俺を追う素振りを見せず、腹部を抑えて苦痛に呻いている。

 

「いったぁ……」

 

痛みで顔を歪めながら上体を起こす。そこから立ち上がろうとはしなかった。

根本的なところで舐められている。それを如実に感じるが、じゃあその隙を突くかと言えばしなかった。ただただ様子を見る。今下手に動けば命取りになると直感が訴えていた。

 

「……そっか、私じゃ無理か」

 

どこか気怠気にカオリさんは呟く。

前髪を掻き上げて虚空を見つめる。

 

「悲しいわ……。折角……でも、しょうがないわね」

 

溜息が聞こえた。それから、ゆっくりと立ち上がっていく。

ただ立ち上がるだけなのに、必要以上に時間をかけるその様子は、どこをどう見ても隙だらけ。思わず身体が動きそうになる。今なら制圧できる。今ならできる。間違いなく出来るはず――――。

 

その誘惑を抑え込む。今飛び込めば俺は死ぬ。ただの直感。根拠はない。しかし肌で感じる。冷や汗が流れる。先代剣聖と同じかそれ以上の威圧感。

 

「あー……これだけは言わせてくれ」

 

息をするのも辛いほどの重苦しい空気の中、それはどこか間の抜けた調子で口を開く。

 

「あたしは悪くない」

 

一瞬の後、アキの姿をしたそれは目の前に立っていて、何をする間もなく刀が振り下ろされる。

死の予感に条件反射で身体が動いた。ほんのわずか身を引いた直後、地面が爆発したような衝撃を受け、吹き飛ばされて転がる。

あまりの衝撃にすぐに起き上がることが出来ず、何とか顔を上げれば土煙が舞っていて、その向こうから声が聞こえる。

 

「悪いのはそっちだからな」

 

悠然と近づいてくる妹らしき何か。その足元に出来上がったクレーター。

束の間呆然として、歯を食いしばる。刀を握り締めて立ち上がった。

勝たねばならない。それを胸に期して。



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第82話

アキの顔をした何かと相対する。

それが何者なのかは大した問題ではない。怖気が走るほどの腕力も、素人とは程遠い威圧感も。

ただ勝たねばならない。絶対に。何が何でも。是が非でも。

 

決意に心が激しく燃ゆる。血が滲むほどの力で刀を握り締める。

構え、迎え撃つ姿勢を作る。激しく脈動する感情に反して、感覚は研ぎ澄まされていった。相手の一挙手一投足を観察し、僅かな隙も見逃すまいと集中する。

 

刀を構えた俺を前に、アキの動きが止まる。

かなりの距離が離れている。手を伸ばしたところで届くはずはない。しかし命には届くだろう。互いにとって、この程度の距離は障害にならない。

 

瞬きは許されず、目が乾く暇すらない刹那。

先ほどと同じように、それは一瞬で距離を詰めてきた。今度は見逃さず、振り上げられた一太刀を五の太刀でいなす。

そして返す刃で首を狙いに行く。殺す気などないがための浅い斬撃をアキは上体を反らして躱す。その場でくるりと一回転しながら反撃してきた。

 

今度はこちらが上体を反らす番。視線は常にアキを捉え続ける。ほんの少しでも余計な動きをすればその途端劣勢に追い込まれるだろう。極限の緊張感。常に完璧な最善手を出し続けなければならない。

 

鍔迫り合いなど出来るはずがないから五の太刀を使う。右手に刀を持ち、左手で受け流し続ける。ほんの少しの狂いで左手を失うリスクはあったが、防御と攻撃を同時に出来るメリットもあった。リスクを背負わなければ勝てる相手ではない。

 

一進一退の攻防を繰り返し、少しずつ優勢を勝ち取っていく。このままいけばこちらの刃が届く。確信を抱いたのとほぼ同時に、アキが大きく後退してしまう。

攻勢を続けるか迷ったが、無理な攻めになることを恐れて受け入れた。仕切り直しだ。

 

「いやぁ、思ったより強いな。妹が妹なら兄貴も兄貴だったか……兄妹揃って化けモンだ」

 

「……俺のことはどう思っていただいても構いませんが、妹は侮辱しないでください」

 

俺はともかくアキは化け物ではない。

そう思って、そう願って、本心から反論すれば、返って来たのは苦笑だった。

 

「ただの事実だと思うけどな。気分を害したなら謝るよ。現実を直視した方がいいとも付け加えるけど」

 

よくわからない親切心を受けて会話を続ける気になった。一番の目的は時間を稼ぐことだが、戦う相手のことを知るのは悪いことではない。注意する必要はあるが。

 

「……あなたは誰ですか」

 

「ん? 死人の名前聞いてどうすんだ。哀れな被害者だと思っとけ。お前の妹に全部奪われたんだ。可哀そうだろう?」

 

「意外と自由に話せるな」とその人は独り言を呟いて、切っ先を俺に向けてくる。にやりと挑発的に笑って言葉を続けた。

 

「お前、手加減してるだろ。気持ちは分からないでもないがやめといたほうがいいぞ。殺せる内に殺しとけ。じゃないとあたしの二の舞だし、みんな不幸になる」

 

「妹をこの手にかけるほど不幸なこともないでしょう」

 

「今手にかけなきゃもっと不幸になる」

 

優しさなんて余裕のある奴が与えるもので、他人を救えるのは強い奴だけだとその人は言う。

どうやったって無理なもんは無理なんだと決断を迫ってくる。

 

何が何でも俺にアキを殺させるつもりらしい。その目的は何だろう。アキに全てを奪われたと言う自分をこそ救いたいのだろうか。

死が救いになると言う理屈はよくわかる。けれどそれしかないのかとも思う。自分勝手な気持ちだ。他人のことだから欲が出るのだろうか。

 

「大人しくしてもらえませんか。俺はアキを拘束したいだけです。怪我一つ負わせたくないんです」

 

「拘束してその後はどうするつもりだ?」

 

「医者に診てもらいます。きっと精神的な問題だから――――」

 

「じゃあ駄目だ」

 

言いかけた言葉は強い語気で拒絶される。

 

「これは病気じゃない。医者なんかに診せても解決しない。……賢そうな顔してるけど、そう言う奴に限って頑なだ。根本的なところで目を背けてるだろ、お前」

 

「……」

 

図星を突かれて言葉が出ない。

信じろと言うのだろうか。他者から人格を奪ったと言うその言葉を。何がどうしてそんなことが可能なのか。俺にはてんで理解できない。

 

「……そうだな。理解させる必要があるか。話はそれからってことで」

 

「何を……」

 

「少年と違って、あたしは怪我を負わせるのに躊躇なんかない。同じ轍を踏むほど馬鹿でもないしな」

 

いくぞと宣言を受け、殺気を全身に浴びる。

次の瞬間、顔面めがけて突きが来た。左目を狙っている。

頭を傾けて躱しつつ、無表情に俺を殺そうとしてくるその人と目が合った。

ぞくりと背筋に悪寒が走る。次の攻撃を予感し、とっさに鞘を抜いた。それで蹴りを防ごうとしたが、とんでもない衝撃を受けて左腕の感覚がなくなり、一瞬身体が浮いた。

 

間髪入れず胸ぐらを掴まれる。足が浮かんでいて咄嗟に逃げることは出来なかった。刀を振ろうとして、近すぎる距離に躊躇した。

引き寄せられて額に頭突きを食らう。二度、三度と続けて食らって額が割れたかと思うほどの激痛に襲われる。視界がぼやけて眩暈を感じた。

 

そうこうする間に放り投げられ、受け身を取れないまま背中から地面に落ちた。その衝撃で一時的に呼吸が出来なくなる。

苦痛に悶え、必死に息をしようとする。そこを包み込む人影。

 

「あたしが本気になったら少年は勝てない。剣術だけなら多少……かなり……すごーく強いだろう。それは認める。でも体術はからっきしだな。筋肉ないし背丈も小さいから打たれてもそんなに効かねえし、組めば絶対勝てる。殺し合いなんて勝ってなんぼだからな。剣術が得意な奴と剣術でやり合ってくれる阿呆はいないだろう」

 

覆いかぶさられて両手を上から抑えつけられた。

 

「さあ、これで話をする体勢が整った。安心しろよ。あたしは我慢強いから。性欲なんかに負けねえから」

 

左腕の感覚は未だにない。鞘は落としてしまった。刀を握ったままだが、抑えつけられて抵抗は封じられている。

 

「……話とは?」

 

「お。妹よりは融通利くか? こいつはこの状況でも滅茶苦茶暴れたと思うぞ」

 

確かに、負けず嫌いで諦めの悪いアキならそうしたかもしれない。だが、それを言うのが当の本人と言う矛盾。

快活で、それでいてどことなく不敵な印象を受ける笑みが目の前にある。

よく知っているのに知らない顔。心がざわめいて焦燥感に駆られる。

 

「今ので演技でも何でもないってことはわかったよな? 妹ちゃんはここまで強くないだろ」

 

言う通りだった。俺の知っているアキはそこまで強くはない。人間離れした膂力と言い、場慣れした体術と言い、初めて見るものばかりだ。

けれども、もしアキが東で経験を積んだのなら、実践を経て成長したのなら、もしかしたら……。

 

「理解したならさっきの続きを話そうか。と言っても言うことは変わらないけど。……なあ、あたしを殺してくれないか?」

 

「……冗談じゃない」

 

「そう言うなよ。いい加減気付いてるだろ。もうどうしようもないって、わかってるんだろ?」

 

歯を食いしばる。心のどこかで訴えかけてくる声。最早取り返しがつかないと判断している自分がいた。

だが、所詮は直感に過ぎない。現状、それが正しいと断じる根拠は何もない。

 

「なあ、頼むよ。今ならまだ殺せるんだ。これで何もかも振り切っちまったら、いよいよ無理なんだ。人である内に殺してやってくれよ」

 

「……妹を殺すなんて……」

 

「現実から目を背けんなって。どんだけやりたくなくても、やらなきゃいけないならやるべきだ。やりたくない理由に正論使ったら駄目だって。後悔するぞ」

 

左腕の感覚は戻りつつある。

試しに全身の力を振り絞って抵抗してみたがびくともしない。

 

「おい」

 

「……何と言おうと、殺すつもりなんてありませんよ」

 

「そこを曲げてさあ」

 

「あなたの言葉で人は殺せない」

 

言われたから、命じられたから殺すなんて、俺はしない。

命は大事なものだ。それを奪うからには相応の理由が必要になる。アキの命を奪うほどの理由を俺は持っていない。

 

「あなたの言っていることを間違っていると切り捨てる気はありません。でも、だからと言って理由にはしない。殺さなければならないなら、それは俺が自分で決める。誰かの言葉で決めたりはしない。自分の行動の責任を他人に背負わすつもりはありません」

 

俺の言葉を聞いたその人は、何かを言おうとして口をつぐみ、結局何も言えず微笑んだ。

 

「何かを決断するには順序が必要です。まずは知ることから。それが普通でしょう?」

 

「……理屈っぽくてうんざりするな。もう少し楽に生きたっていいんじゃないか?」

 

「苦しく生きてるつもりもありませんが」

 

「そうか」

 

そう言って、その人は俺の上から退いた。

俺を見下ろし、溜息を吐いて離れていく。隙だらけのその背中に追撃することは可能だったが、それをするつもりはとうにない。

すでに俺の役目は終わっていた。身体を起こし、木々の間から現れた人影を見る。ゆっくり近づいてくるその人。

 

「今、戻った」

 

――――母上が帰って来た。



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