青天のち霹靂 (水夫)
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前篇・酷運

「ねえ、そこの君。ちょっといいかな?」

 

 ふと声が聞こえた。

 ちらりと首を回してみると、派手な着物の胸元を少しだけ着崩した女性が笑顔でこちらに手を振っている。線は細いが全体的な肉付きからはかなり健康を意識した生活を送っていることが窺えて、どこぞの金持ちの娘だろうというのが第一印象だった。

 だが生憎、何度も騙された挙句借金と長い時間を共に過ごした俺にとって、その類の女の子は苦手意識があった。いや、苦手というよりはさすがに軽率だった過去に自省してなるべく関わらないようにしているだけの話だ。

 

「おーい。なんだか外国人風?……の髪が似合う男前の君に言ってるんだよ」

 一瞬の硬直、のち興奮。「……え!? それって俺のこと? 俺のことだよね!? そんな男前に見える!? なんだ、そうならそうと早く言ってくれよまったく、男前の善逸くんって言えばすぐ答えたのにさ~!! 雷にも当たってみるものだなあ!」

 

 無論、相手の方から俺に惚れて近づいて来た場合は別。可愛らしい女の子にわざわざ寄り縋らなくても、割とこうやって声を掛けられることが最近は多い気がする。モテるってこんな感覚なのだろうか。

 日々の訓練のおかげで歩き方など立ち居振る舞いにはそれなりに芯が通っているし、いざとなった時に不良から女の子を助けることだって出来る。こればかりはあの手厳しい爺ちゃんに感謝している。

 ただ何故か、特に何もしていないのに相手が倒れることもしばしば。俺が強すぎるのが雰囲気で伝わるんだろうか。

 

 女の子は小走りに近寄って来てにっこりと笑顔を深めた。覗き見た時もそうだったけど近くで見るともっと可愛い。心なしか前屈みになって上目遣いになり、胸元の露出がより大胆になってしまっている。

 大丈夫? これ大丈夫かな? 俺に気があるみたいだしむしろ目のやり所には困らないから大丈夫だよね! 俺が大丈夫じゃない。

 しかしここは男たるもの、動揺せず自然な流れで会話の主導権を握り、遠まわしに気付かせる配慮を見せなければならない。紳士の嗜みだかなんとかいうものらしい。

 

「ところでその、俺が外国人に見えるって? 俺、本当に男前の外国人に見えるのかな?? よく分かんないけどカッコいいって具体的にどんなところが──」

「それより君さ、私の家に来てみない? 実はお見舞い相手がなかなか決まらなくて困ってるの。どうしようかなって思ってたら、偶然君を見つけてそれで」

「いいいい、家!? 家!? いきなり家に!? いやいやいやいやいや、いくら俺に一目惚れしたといってもそんな飛び級はねえ!? っていうかお見舞いってそれはつまり、け、け……」

 

 ぐいぐいと強気に言葉を遮ったかと思うと異常な速さで話を進める女の子に、俺は疑問を持つ邪心に目もくれず歓喜の戸惑いを口にした。

 だってお見舞いなんて、向こうから話しかけてくるなんてもう俺にぞっこんじゃん。こんな楽に勝ち組の仲間入りしていいのか、と早とちりな心配すら頭に過る。

 多分、そんな俺を見て励まそうとしてくれたのだろう、女の子が身体を寄せ付けて迫る。元々近かった距離が更に縮まり、つまりその、両手で組まれた腕に柔らかな感触がやばいくらいに伝わってくる。女の子の柔肌。衣服越しとはいえ、彼女はいま胸元がちょっぴりはだけているのだ。どうしよう理性飛びそう。

 

「うん! もちろん結婚前提だよっ。こうして直接話してみると本当に声掛けて良かったと思うし、そのたくあんみたいな……素敵な髪も私好みなの! 来てくれるだけでいいから、ね、駄目?」

「いやでも、やっぱり俺には禰豆子ちゃんが──ぶふぅっ!?」

 

 異論の余地も無い完璧な誘い文句(ほぼ告白では?)に男らしく即答しようとしたが、突如右頬に飛んできたとてつもない衝撃に呻きを上げた。さすがの女の子も驚いた表情を浮かべており、少しずれたところを見ている彼女の視線を追って振り向くと、そこには一人の男が立っていた。

 

 老人だ。顔に刻まれた皺とも傷ともとれない影を眉間に寄せ、左頬だけは確かな古傷として残っている巌の如き肌。練磨され尽くした眼差しで俺を睨めつける見慣れた険相が赤く茹で上がっている。

 少なくとも、俺を剣士として育ててくれた頃から真っ白だった髪と髭を靡かせながら仁王立ちになる男は、育手・桑島慈悟郎(くわじまじごろう)その人だった。

 

「……爺ちゃん!」

「師範と呼べい! 馬鹿者が。まったく……善逸(ぜんいつ)、お前は何回騙されても学習せんな。もしや、髪と一緒に脳みそまで焼き焦げたのか?」

 

 今しがた俺を殴った拳に手を当て、爺ちゃんは鼻息を荒く吐く。小馬鹿にした言い様に違わずいつもの呆れが交じっていた。

 ただそれも、本気で馬鹿にしている訳ではないのだと思う。

 

「さてお主。この馬鹿を選んだ眼力は大したもんじゃが、これ以上関わるというなら儂も加わらせて貰うぞ」

「……私は、簡単に騙されそうなこの間抜け面に用があるんだけど? 見たところ親子でもないみたいだし、勝手に首突っ込まないでくれる?」

「そうだよ爺ちゃん、お見舞いに爺ちゃんまで付いて行ったらもう結婚挨拶じゃ……え? 何て?」

 

 確かに血の繋がった家族ではないし見た目も似ていないのは分かる。でも、さっき『爺ちゃん』って呼んだんだからある程度察しはつくはずなんだけど。

 もしやこの女の子、俺の話をまるで聞いていないのでは?

 

 というか本気で馬鹿にされている気がする。どちらと言うまでもなく両方に。

 

「まあいい。事情は家に帰ってからじっくり聞かせてもらうからの。それ馬鹿者、おとなしく付いて来るのじゃ」

「いや、借金とかなんで急にその話……」つい首を傾げ、傾げた先に見えた侮蔑顔の女の子と目が合って稲妻の如き閃きが落ちた。「あ!? もしかして俺、騙されかけてたの!? 結婚詐欺ってやつに!? 怖っ……いや、怖っ!! 危うく色香と口車に乗せられるところだった……」

 色々と飲み込んだ表情の爺ちゃんがぼそっと吐き捨てる。「…………行くぞい」

 

 そう言っては傾げたままの俺の首根っこを掴み、力任せにずるずると俺の体を引き摺っていく。女の子との距離が離れることにそれでも後悔が残る俺の心中など酌むべくもないといったふうだ。女の子はというと、恰好のお見合い相手と引き離されたというより折角の機会が潰されたことに怒りを露にしたように、こちらを鋭い眼光で睨み続けている。

 爺ちゃんの言っていた眼力とやらはなるほど、恐ろしいものだ。さっきまで好意的に接してくれていた子にあんな顔されては冷静さも戻ってくる。爺ちゃんがここを通っていなかったら、俺はまた奇々怪々な壷や巻き物を買わされていたのだろうか。

 

「で、でもっ、俺がカッコいいってのは本当だよね!?」

「黙れ! お前なんか誰が好きになるかよ! 一生女に弄ばれて惨めに這いずり回ってろ、このチビ!」

「そこまで言う!?」

 

 外国人風の金髪が似合う男前という泡沫の可能性を諦め切れず、つい投げかけた問い。それが罵倒となって返って来、途端に握る力を強めた爺ちゃんに引き摺られる道中、俺は脱力して抜け殻と化していた。

 

 

 †

 

 

「久方ぶりに訪ねてきたと思った矢先にこれじゃ。先が思いやられるわい」

「ぐぼべっ!」

 

 布団は朝起きてすぐ畳むので硬い畳が剥き出しの床に、爺ちゃんは端からそのつもりで放り投げたらしい。滑るようにして顔から着地する。痛みに起こされた俺は鼻を押さえながら、うつ伏せの体勢で顔を上げる。すると、懐かしい家の風景が目に飛び込んできた。

 それだけじゃない。イグサが織り込まれた畳表のひんやりとした感触に、囲炉裏の上で火花の弾ける乾いた音。火持ちを考慮して薪を燻らせているため、薄黒い煙が髪先を撫でて上っている。半ば強引に舐めさせられた畳の味も加えればまさに五感で故郷を堪能していることになる。

 

 思わず込み上がってくる郷愁。体はすでに帰ってきているというのに、言い知れない恋しさが目と鼻に沁みる。泣きじゃくってばっかだったあの時とは違うのだと、今は大切な仲間と共に大切な場所が増えただけなのだと、改めて認識した。

 しばらく寝転がったまま無言でしみじみしていると、思い返させるような声が横顔に刺さる。

 

「なんでお前がここにいんだよ。任務中に尻尾巻いて逃げてきたのか? 逃げ足だけは速いもんなァ、おい」

 

 上下とも黒ずくめの着物に、そこだけ青色をした腰元の帯。雑に放置したような長めの髪は服と同じ黒色で、首の装飾に付けた勾玉も帯と合わせたのか青に輝いている。

 わざわざ確認するまでもない。露骨に嫌味を含んだ口調と威圧的な声。何よりこの場所に我が物顔で居座るような人物は、実際に家主である爺ちゃんを除けば一人しかいない。

 

 名を、獪岳(かいがく)

 爺ちゃんの下で共に後継者として育てられた俺の兄弟子だ。

 

 どのような理由で来たのかは聞いていないが、特別に何かしている素振りもないので多分俺と同じく休暇の場として足を運んだのだろう。

 意図せず訪れた再会の時間。同じ育手から排出された鬼殺隊隊員といっても、同じ任務を受ける訳ではない。改めて考えると落ち着いた環境で話すのは久しぶりだし、やはり相変わらず距離が遠い。二人揃ってこの家に腰を下ろしたのは稽古時代以来初めてかもしれない。

 

 しかし囲炉裏を囲んで会話するような間柄ではなく、実際、どすんと傍に腰を下ろしたのは爺ちゃんだった。俺も姿勢を正し、淹れられたお茶を啜りながら一息吐く。

 

「ごめんよ爺ちゃん……また迷惑かけちまうところだった。今度からはもっと気をつけるよ」

「その台詞ももう何回目だ? いい加減聞き飽きて辟易する。ずっとここに閉じこもってるか、金ぶんどられるなら俺の知らない所でやってろ。いっそどこかに売り飛ばされたらどうだ? むしろそっちの方が楽かも知れん」

「獪岳! 言葉には気を付けろと言ってるじゃろうが」

 

 心底うんざりした様子のしかめっ面で荒っぽく座り込み、はあ、と大仰にため息を吐いて舌打ち。そんな兄弟子を爺ちゃんは一瞥してから俺の方に向き直った。憂慮と心配がない交ぜになった目。罪悪感がつい直視を拒む。

 

「……なあ、まさかとは思うが、儂の知らない間にも変な女共に騙されてはいないじゃろうな?」

「そ、そんなことないって」

「本当か?」

「本当だよ。信じてくれよぉ。昼ごろにちょっと女の子と出かける予定以外は特に何も──」

「──あ?」

「へ?」

 

 その時自分が何を言ったのか、正直な所深く意識していなかった。ただ本当に騙された自覚はなかったし、これ以上迷惑をかけるのも嫌だった。そうかそうかで問題なく通るものだと思っていたのだ。

 しかし爺ちゃんの浮かべる顔はどうだ。あれは般若か? いや、鬼だ。鬼が目の前にいる。

 

「その予定とやらを、吐け。どこで。誰と。何をする予定じゃと?」

 

 逆光を背負って全身を兄貴のような漆黒色に染め、取って食わんばかりに鬼気迫ったその形相。十二鬼月も斯くやあらんという威圧感を骨髄の隅々まで轟かせる様は老齢ながらも正しく元鳴柱──離れて目も向けていなかった兄弟子でさえ、雷に打たれたかのように身を震わせた。

 いつも口煩く拳を振るって説教していた爺ちゃんが、今度は無言で射抜くだけなのだから尚更恐ろしい。毎秒落雷の如き轟音を響かせる心臓と萎縮した六腑に耐えかねて体中の血脈が荒れ狂っている。心臓がまろび出るどころか弾け飛びそう。何これ。俺ここで死ぬの? 爺ちゃんに見つめられて座ったまま死ぬの俺? 鬼に食われるのはさすがに嫌だけど全く関係ないところで死ぬのも嫌だよ?

 何か、俺のほうから何かを言うべきなのか。今すぐ家を飛び出して事を片付けてきた方が良いのか。それとも爺ちゃんの発言を待つ?

 

 ……分からない。

 

「善逸や」

「え、何急にそんな優しげに語り掛けるのどうしたの殺されるの? やだよ爺ちゃん、俺まだ禰豆子ちゃんとまともに会話したり手を繋いだりも出来てないんだよおォーッ!! やめてよー、悪かったよー、何でもするからさあ、許してくれよ後生のお願いだよ爺ちゃんさ──っ!!」

「断ってきなさい」

「……あ、はい」

 

 

 †

 

 

 結局どうなったかというと──どうなるも何も、あの状況で鬼神と化した爺ちゃんの機嫌を直す方法があったのなら、俺は今ここに立っていないだろう。

 

 丁度今朝方──爺ちゃんの家に行く途中──に声を掛けられてつい会う約束をしてしまった女の子。渡された紙片にあった住所通り来てみると、何ともまあ立派な屋敷が俺たちを迎えてくれた。

 門の広さから窺える敷地面積だけで並の一軒家の五、六倍はあるだろうか。僅かに聞こえる生活音は割と遠くにあり、とんでもない奥行きが想像できる。見上げるほどの威容に圧倒されつつ、町中にどでかく鎮座した屋敷の門前で俺は十数回目の深呼吸をしていた。

 片手には謝罪の意味を込めた贈り物を紙袋に入れて持っている。なんだかんだ言って爺ちゃんが用意してくれたものだ。ただ、怖くて中身は見る勇気が無い。もしかなり値の張るものでも入っていたとしたら、俺は爺ちゃんがいつか生を終えるまでに果たして恩を返しきれるのだろうか。まだ何もやってあげられていないのに貰い物ばかり増えていく。

 ちなみに日輪刀は物騒だと外されたので丸腰だ。

 

 つい項垂れていると一つの人影が目に入ってきた。

 

「クソが……何で俺まで馬鹿みたいなことに巻き込まれなきゃいけないんだ。折角の休日だってのにつまんねぇ面倒かけさせやがって」喉を押さえてえずく俺を傍目にも見ずに門から離れるのは兄弟子だった。「いいか。これはテメェの問題で、テメェの不始末だ。先生は二人でどうにかして来いと言っていたが、俺が尻拭いしてやる理由もつもりも一切無いからな。一人で勝手にやってろ。俺は帰る」

「……分かったよ」

 

 最後まで俺に目を向けることなく、そうとだけ行って兄弟子は踵を返した。非情で驕傲な態度は昔から変わらない。それを隠さずに自分の思ったままをぶつけるため、人との付き合いも悪く孤独に在る。

 俺より先に鬼殺隊に入ったが、俺の知る限りでは朗報も悲報も皆無。赫々たる武勲を立てたとも共に刀を振るう仲間が出来たとも聞いていない。あくまでも自分が正しいと感じた方へ他の何を捨ててでも進もうとするのだ。全て要らないものだと切り捨てながら、恐らくは同じようなことを口にしているのだろう。

 

 今更、絆がどうだ人情がどうだと説く気にもなれないけれども。

 硬く閉じ切ったその自尊心を、俺にだけは開けて欲しいと思ったりもする。それが無理だとするなら、ならばせめて──

 

「──あら、兄弟喧嘩ですの?」

 

 ふとその足を引きとめたのは、俺ではなかった。先の会話が聞こえたのか、向こう側から屋敷の門を飛び越えてきた控えめな声。それでもやけに心地よくて通る声に、俺も兄弟子も思わず振り向いていた。

 少しして門が開くと声の主が顔を覗かせた。

 艶を引いた黒い短髪がよく似合う可憐な少女。まだ幼げな雰囲気は俺と同じくらいか、少し上だ。先入観はどうしても、深々と礼儀正しく頭を下げる動作も大人っぽさを演技しているように認識しまう。俺は咄嗟に失礼な考えを振り払い彼女の目を見つめた。

 にこりという程でもない、控えめな笑みが返ってくる。

 

「さま。来て下さったのですね。今すぐ準備致しますので、どうぞ中へ。……お連れの方も良かったらご一緒いかがでしょうか」

「…………」

 

 どういう訳か彼女からは人を惹き付ける力のようなものを感じる。彼女自身が努めて人を惹き付けようとしているような、意識的な好印象。

 しかし問題はその強さだ。つい先ほど俺を騙そうとした女の子とは意志の強さが違う。彼女にさしたる興味があろうがなかろうが、それが完全な拒絶でない以上は等しく呑み込まれる圧。俺は一体誰に目を付けられてしまったのだろうか。

 俺と兄弟子は視線を交える。お互い無言だが、兄弟子の目は考えるまでもなく恨み言を含んでいた。それこそまさに、なぜ巻き込まれなければならないのか、といった風に。

 

「ちっ」

「……お邪魔します」

 

 二人の足は自然と、門を越え敷地内に踏み出していた。

 

 彼女に案内されたのは、少し歩いた先の客室と思しき部屋だ。長方形のテーブルを整然と並べられた座布団が囲んでいる。歩いてきた通路と中庭へ繋がった戸襖を上下に、左右は白い壁で出来た和風の内装。畳の縁を踏まないようにして適当に腰を下ろした。渋々といった顔で付いてきた兄弟子は俺から一番離れた場所に座る。間もなく、少女がせっせとお茶を出してくれた。俺たちの位置を特に気に掛けた様子はない。

 この広い屋敷に他の家族や使用人はいないようだ。物自体は面積に応じて多く見えるが、その反面最近使われたような痕跡が無い。親から受け継いだのだろうか。

 

「改めまして、本日はご足労頂きまことに感謝いたします、我妻善逸さま。それと……」

「獪岳だ。だが俺はあんたと世話話をするつもりはない。当事者同士で勝手にしろ」

「兄弟子!」

「なんだ愚図。お前、自分の立場がまるで分かってねぇようだな。鬼殺隊に入ってごっこ遊びの仲間が出来たのは嬉しいか? 楽しいか? 独り隠れて待ってりゃお仲間さんらが鬼倒して手柄を分けてくれるんだから、そりゃぁ最高だろうなぁ。違うかよ?」

 

 無意識に、ドクン、と心臓が一際強く鳴るのが耳に届いた。脈打つ血管が体の中で暴れだし、一気に頭まで駆け上る。

 到底看過することなど出来ない発言だった。

 熱くなる顔を、およそ初めて感じた心からの憤怒を俺は兄弟子へ向ける。兄弟子は一瞬だけたじろいだが、すぐに眉を顰めて睨みつけた。

 

「炭治郎たちのことを、悪く言うな……いくら兄弟子でも、それは許せない」

「おいおい、何怒ってんだ? 目が本気じゃねぇか。それが兄弟子に向ける目か? 言葉と態度か? なあ」一度口を閉じ、同じく顔を赤く染めて怒鳴り散らす。「許せない、つったなあテメェよぉ!? 愚図が調子に乗りやがって──!!」

「獪岳さま」

 

 自分以外の一切がどうでもいいとばかりに湯飲みを放り投げ、制止する少女も振り切って兄弟子が俺の胸倉を掴む。いつもなら泣き喚くか黙って俯いているかしかしなかった俺は、しかし決して目を逸らすまいと精一杯睨み返す。

 反抗的な態度が気に入らないのだろう、兄弟子は歯軋りをして俺を床に突き放したかと思うと、拳を高く振り上げた。俺は伏せたままそれを受け止めようと手をかざした。

 その直後のことだった。

 

「獪岳さま」

 

 今一度の、制止。

 起き上がった少女が俺と兄弟子の間に体を滑り込ませ、両手まで広げて立ち塞がったのだ。突然のことに兄弟子は瞠目する。だが、止まらない。

 

「危ない!」

 

 俺は少女の手を引っ張った。後ろからの動きは予想していなかったようで、さしたる抵抗もなく倒れ込む。そんな彼女と場所を入れ替わるようにして俺が覆い被さり、その首元に兄弟子の拳が振り下ろされた。

 あまり目立たないとはいっても、鳴柱から直々に呼吸法を伝授されて最終選別を乗り越えた男だ。全力で打ち込まれた拳は重く響く。背骨に鈍い衝撃が浸透し、思わず歯を食いしばる。すると飲み込んだ呻き声を聞き取ったのか、庇われた少女がはっと気を取り直し、再び語りかける。

 

「獪岳さま。どうか、暴力はお止め下さい」

「……ふん。俺に歯向かった出来損ないの愚図を懲らしめてやっただけだ。テメェが関わるようなことじゃねぇよ」

 

 そういって兄弟子は蹲った俺を蹴り、舌打ちを零して部屋から出て行く。来た道を戻りながら、「気味の悪い女め」と呟くのが耳の端に聞こえた。一般人には聞こえない声量だ。わざわざ彼女に伝える必要は無いだろう。

 俺は短く息を吐いて立ち上がる。背中が少し痛むが、一発殴られただけだ。大したことない……振りをする。本当はめっちゃ痛いよ、爺ちゃんに殴られたときよりじんじんする。

 でも彼女の前ではつい、虚勢を張る。男だからというよりも、彼女の発する力強い雰囲気に押されている感じだ。

 

「ごめんよ。兄弟子がこういうのにあまり慣れてなくてさ。でもそもそもは、俺が頼りないから同行させられたんだ。出来れば、悪く思わないで欲しい」

「いえいえ。私は大丈夫ですからお気になさらず。それより、治療しますから見せて下さい。痣ができてるかも知れません」

 

 彼女に勧められるままに黄色い羽織を下ろす。隊服も詰襟の部分を開け、うなじから背にかけて肩甲骨の間を診てもらう。

 女の子に肌を見せるという状況だけでも緊張するのに、時おり触れる指と息がくすぐったくて恥ずかしい。殴られたのが背中で良かった。前だったら顔を見られていただろうから。

 意識を他の事に逸らそうと耳を澄ますと、少女が俺の体を本気で慮り、心配してくれている音が聞こえる。ただその裏で微かに、俺ではない誰かへと向けられた不安もある。

 でも心情を問える空気でもないから俺は黙って治療を受けるだけ。やがて彼女が部屋の端にちょこんと置いてあった棚から何かを取り出し、よく分からないが軟膏らしきものを塗られながら温かく細い指の温もりを味わっていると、思い出したように「ああ」と切り出された。

 

「遅れましたが、私の名は琴都音(ことね)と申します。貴方がここにいるだけでも、私としては満足ですので」簡易的な治療を終えたにも拘わらず、彼女の声の調子はやや暗くなる。「しかし……獪岳さまを一人にするのは少し心配です」

「心配って?」

「鬼狩りさま……いえ、鬼殺隊、と仰っていましたね」

 

 返答は、予期していない形となって紡がれた。

 鬼殺隊? どうして今ここでその名が──いいや、どうしてこの子がそれを、という疑問が先に膨れ上がる。

 すぐにはっとして振り返る。そうだ。そういえば確かに言った。兄弟子が、一度だけ。

 

『鬼殺隊に入ってごっこ遊びの仲間が出来たのは嬉しいか?』

 

 政府未公認、それ以前に鬼の存在すら一般国民にはほとんど知る機会のない別世界だ。『きさつたい』が鬼を殺す集団を指しているのだと理解出来る者は少ないだろう。

 だが琴都音ちゃんは最初に鬼狩りと言った。鬼の狩人。狩るべき存在として鬼を言及したのならば、名称云々はこの際関係ない。人食い鬼の存在を、そしてそれを討つ組織をも知っているとなれば話が変わってくる。

 そもそも彼女が俺を呼んだ理由。詐欺だの謝罪だの、あるいはそんな次元では無いのかもしれない。

 

 改まって向き合った琴都音ちゃんから、数多の感情が複雑に絡み合って渦巻く音がわっと一斉に騒ぎ立てる。一個一個切り離すどころかまともに聞き取ることすら困難な、大きな鳥の巣と化したその塊。悪く言えばもうぐちゃぐちゃだ。

 これだけ毛色の違う感情を束ね合わせ、かろうじて心の形を保っている人間を俺は見たことがない。

 

「君は、一体……、」

「我妻善逸さま。まとこに身勝手ながら、一つ、頼み事があるのです」

 

 門前で聞いた屋敷の生活音は、今もなおこの部屋ではない遠くで空気を震わせていた。

 

 

 †

 

 

「最悪だ……」

 

 つくづく、今日は運と気分が悪い。

 先生に会うために帰郷したら、よりにもよって一番見たくない顔を見る破目になった。そればかりか、現在進行形で面倒極まりない事態に巻き込まれる有り様。

 なんだ、あの面は。表情は。一度も目にしたことの無い攻撃的な反応には些かならず驚いた。

 相も変わらず貧弱な体躯で、女が相手だとへりくだるだけの泣き虫野郎だったじゃないか。それが今度は分を弁えずに突っ掛かってきやがった。仲間のことを悪く言うなとか何とか、随分と偉そうに口を利いていたな。

 

 仲間。

 型を一つしか使えないあんな雑魚をよく受け入れたものだ。いや、所詮はその言葉で騙し、利用しているのだろう。それが自然だ。

 そうでなければ──

 

「──どこへ、行かれるので?」

 

 思考の途中、背後から穏やかで細い声がした。獪岳は振り向かずに立ち止まる。足音と気配自体は少し前から気付いていた。もしずっと付いて来るようだったら問い詰めるつもりだったが、向こうから話しかけてくるとは。

 最初は恐る恐るといった感じだったのが急に鋭く切り替わった。首だけ回して見ると、あの気味の悪い女かと思いきや別の人物だった。

 

「誰だ」

 

 この女は、違う。まずさっきの女より背丈が高い。その分、さらりと伸びた黒い髪先が胸元の膨らみに掛かっている。全体的に面影を残しながらも大人びた顔立ちが目立つ。しかし、佇まう雰囲気がまるで逆だ。

 物腰が柔らかく、外見に反してか弱く幼げな印象。母親というほどには老けていないところを見るに姉と思われる。

 

 獪岳の質問に女は薄く笑い、目尻を下げて答える。

 

「誰って、屋敷の住人に聞く台詞ではありませんよ。いえまあ、全部琴都音に任せて今になって顔を出したのですから、その疑問も尤もですけれど」

「なら最後まで引っ込んでればいいものを。なぜ俺の後を追う?」

「だってあなたが出口とは反対の方向に歩いていくもので、つい……」

「はァ?」

 

 言いさしては両手で恥ずかしげに顔を覆った。やや伏せて左右に振り、指の隙間から見える頬は熱を帯びている。

 話の内容と感情の発露が噛み合っていない違和感に、獪岳が眉を寄せた。そんな反応も面白いとばかりに笑い声を上げる女。気味の悪い妹に続いて不気味な態度を取る姉だ。吐き気がする。

 無視して先に進もうと踏み出し、硬直する。全身の毛が生温い風に舐められたような不快感。その発信源を求めて再度振り返った。

 

 女の笑い声が、止まらない。

 口元を隠しての含み笑いから、白い歯を剥き出して高らかに噴き出す品を欠いた笑い方へと変貌していく。次第に高音は耳障りな金切り音になり、屋敷中が共鳴するかのように激しく揺れ動きだした。

 次いで雨の降り注ぐ音──否。地面がせり上がってくる錯覚。小刻みな揺れの中に不吉な気配を察し、獪岳は数歩下がって飛び上がる。程なくして板張りの床が下からの圧力に引き剥がされた。土だ。

 足場を突き破り巻き上がった膨大な量の土砂は、十重二十重の螺旋模様の旋風を引き起こして女の元に集まっていく。妹が並外れた圧迫感で人を引き込む磁石だとしたら、こいつは屋敷全体を物理的に引き寄せて呑み込んでしまう蟻地獄だ。視界の不明瞭な砂嵐がひとたび過ぎ去ると、人ならざる見慣れた脅威が目前に現れた。

 

「今日はとことんついてねぇな……」

 

 腕の下から足首に至るまで、体の側面を飛び出た細長いそれは、飛来した土砂に巻き込まれていた石やら装飾やらが無骨に固められている。先端が荒く尖っており、ギチリギチリと波を打って蠢く様子は節足動物の足だ。

 

「美味しそうな獲物がまんまと引っ掛かったなぁ、なんて。思ってたり?」

「道理で気持ち悪い女だと思ったが……蟻なのか百足なのかはっきりしろよ、醜女鬼めが」

 

 仕草のみならず見た目まで生理的な嫌悪感を催す威容。間違いようもなく、こいつは排除すべき鬼だ。足が十本あろうが百本あろうが結局のところ首を刎ねて殺す他に選択肢は無い。これは鬼殺隊に入る前から決まっていたことだ。

 ゆえに問題は、獪岳が現在帯剣していないという一点に限られる。

 

 徹底して、運に恵まれない日だ。

 その主な原因である金髪の愚図を思い浮かべ、思わず漏れ出た悪感情に鬼が反応した。

 

「あなた達さっき、鬼殺隊、とか言ってたわよね。あの出来損ないの妹が……まさかわたしを貶める気かしら? ……ま、いいわ。見たところ弱そうだし。口は随分と達者なようだけど、中身が全然だめ、ね」

 

 言葉尻に乗って足が振るわれたのは、獪岳が皮肉を返すより早い。唐突に迫り来た足を空気の唸りから察知して回避し、低く構えた姿勢で次の動向を窺う。打撃から刺突。切り替わった攻撃は曲げた膝の反動を利用して跳躍しつつ、敵の姿だけは決して見放さず後退した。

 追って、長い廊下を複数の足が切り裂く。天上、戸襖、床の四方に切っ先を隠しては不規則に、そして的確に獪岳の動きに合わせた死角を突いてくる。加えて不幸なことにもう少しで行き止まりだ。敵が待ち構えていた悪条件下ということを除いても、この狭隘な場所で獪岳にとっての地の利は期待できない。

 一か八か、思い切って背中を斜め後ろに倒した。派手に戸を壊して部屋に転がり込むと、顎を掠った鬼の足が飛散した木材の破片を串刺しにしていた。幸い身を投げた方向に足を潜めてはいなかったようだ。

 

 素早く内部を見渡す。長いこと使われなくなって久しい古びた竈、他には様々な調理器具などが並んだ土間が広がっている。炊事場だ。

 ならばと目を巡らせ、包丁を探す。今は何よりも武器が最優先だ。剣を持っていない鬼殺隊とて、呼吸を応用すればそれなりに渡り合うことも可能だ。素手で逃げ惑う訳にはいかない。

 

「ちぃっ!」

 

 先の振動のためか、一部乱雑に転がっていた調理器具の中に刃の煌きを見つけた。武器として使うには厚さも長さも足りないナマクラだ。攻撃範囲が異常な広さを誇る百足鬼とは相性が最悪に近い。

 そもそも日輪刀で斬らなければ、鬼のしぶとい生命力を即座に刈り取ることは不可能だ。こんな包丁では仮に頸を切断出来たとしても太陽の光に当てない限り鬼は活動し続ける。

 だがこの馬鹿みたいに広い屋敷の一体どこに行けば出口があるのかも知り得ていない。探す間だって、身動き自由な身体が大人しく殺されるのを待つ道理など皆無だ。

 

 あの野郎のせいだ。あいつのせいで何もかもが悪い方向へ向かっている。

 あいつさえいなければ、今頃先生に稽古を頼んで壱ノ型を教わっていたはずだ。今度こそ雷の呼吸を極めて真っ当な後継者になれたかもしれない。なのに現実はどうだ。包丁片手に鬼に追われているだと?

 

『いくら兄弟子でも、それは許さない』

 

 腹立たしい。心底腹立たしく憎たらしい。

 ただ、今更囮に使おうにも距離が遠い。場合によってはすでに百足鬼の妹とやらに食われて消化されているだろう。独りで死ねばいいものを、俺まで道連れにしたのはわざとか。

 いや、腰抜けのあいつのことだ。自分だけ助かろうと俺を鬼に売り渡したのではないか。

 最初から鬼と知った上で俺を連れ込んだのならば、あの怒りは生きるための演技だったというわけだ。馴れ馴れしく兄弟子と呼んでいたのも休日が重なったのも。

 仮にそうでないとしても、この場所に獪岳を誘ったのがあのカスである事には変わりない。

 

 走馬灯が過ぎる。

 

「我妻、善逸うううぅぅぅぅぅぅぅ──ッ!!」

 

 獪岳の胸中で膨れ上がった殺意。思考を塗り潰さんとするそれに抵抗せず、ナマクラを構えて前に屈んだ。三和土(たたき)でできた土間の床が踏み抜かれ、傾けた重心を足の裏で爆発させる。

 踏み込みの衝撃は、稜線の彼方に弾けた落雷が如く。

 揺さぶる轟音をはるか後ろに木霊させて獪岳は間合いを突っ切る。

 

 雷の呼吸。

 肆ノ型、遠雷。

 

 鬼がその音を聞き届けた時は既に、黒く濁った雷光が首筋を撫でて通り過ぎていた。隙を狙って放った獪岳の一撃。それは戦況を逆転させる決定打に違いなかった。

 それが刀だったら、本当に撫でただけで頸は斬られていただろう。

 

「た、助かった……驚いたわ。錆びた包丁なんかじゃ、わたしの頸を斬ることは出来ない!」毀れた先端が首元に浅く食い込んだだけで半ばから折れた包丁、その落ちた持ち手の方を複数の足で潰しながら百足鬼が叫ぶ。「馬鹿な鬼狩りめ! 黄色い男と一緒に串刺しにして食ってやろうじゃない!」

 

 言っているそばから傷が塞がれる。

 奇襲は失敗し武器も破壊された。まさに万事休すだ。それでも、百足鬼の一言が獪岳を衝き動かす。

 一緒に串刺し?

 冗談じゃない。

 串刺しは串刺しでも、俺が刺す方だ。

 

「俺が憎いか! 俺が哀れか! これで満足かよ、いい気味だろうなあテメェはよォ!?」砕けた床の欠片を拾い、力強く歯軋りする獪岳はもう鬼を見ていない。「死ぬまでだ! 俺が百足女に殺される前に、必ずテメェを探し出して殺してやる! 覚悟も準備も知ったこっちゃねぇ! 地獄に堕ちるのはテメェも一緒だ!」

「急に何を言い出したかと思えば」ここにいない誰かに向けて啖呵を切った獪岳を百足鬼は嘲笑う。首元の傷は塞がっており、無数に生えた足の先をかち合わせ、不協和音を鳴らしながら背後に近づいた。「あたしに殺される前? そんな時間はもう残って無いわ!」

 

 二十を下らない足が一斉に開き、それぞれ別方向から獪岳へ襲い掛かる。獪岳は咄嗟に飛び退って逃走を図ったが、無駄な足掻きだ。単純な話、百足鬼の仕掛けた攻撃の数が回避の限界を上回っていた。それだけだ。

 背後に回っていた六つ。日輪刀が無い限り、床の破片では防ぎようもない。

 

「────」

 

 つまるところ。

 日輪刀さえ手に入れば、百足鬼の攻撃を捌くことは可能だ。

 それを知る者が、手を差し伸べたなら。

 

「兄弟子!」

 

 声よりも閃光の瞬く方が早かった。

 人の目にかろうじて視認が許される遠方、およそ五十間離れた戸襖の向こう。光源の乏しい部屋と廊下に一筋の稲妻が走る。

 

 獪岳の眼前に散るのは、百足鬼の足が二本とそこから吹き出た血だ。砂利や装飾品で構成された鬼の身体など紙も等しく、ナマクラとは比べ物にならない切れ味をなおも虚空に刻もうとするそれを、飛んできた稲妻を獪岳は掴む。

 余裕の出来た空間に片手を突き、振り返ると死角を狙った残り四本の足が迫っていた。人体を容易く貫き引き裂く理不尽な脅威は、しかし鬼を殺すことにのみ未来を捧げた者には届かない。

 

 床と平行に薙いだ黄色の刃が細い稲妻を描いて四本の足全てを斬り捨てる。百足鬼の呻きを背に、慣性に従って転がり、上半身だけ即座に起こす。距離が離れたことを確認した獪岳は、己の手に握った日輪刀を背後に掲げた。

 

「びびって出てきやがったか? 刀をどこから持ってきたのかは知らないが、いい度胸じゃねぇか」

「俺は兄弟子と地獄に行くつもりはないよ。殺すつもりも、毛頭……だけど、勝つ気ならある」

「テメェ……まだ生意気ほざいて──」

 

 雷光を写し取った黄色い刃文の指す方、同じ色の羽織をひらめかせながら一人の少年がゆっくりと歩いてくる。

 髪まで派手に染まった出で立ちゆえに暗闇の中でも目に付いた。

 

「──兄弟子と一緒に、勝つ。それだけだ」

 

 そしてやはり、真っ直ぐに見据えたその瞳は獪岳の神経を逆撫でするのだ。



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後篇・多地点同時雷撃

「私が生まれたのは十五年ほど前です」

 

 兄弟子と合流する数分前、俺は琴都音(ことね)ちゃんの話を聞いていた。

 ぬるくなったお茶を啜り耳を傾ける。琴都音ちゃんの語りは畏まった口調ではあるが、不思議と両の鼓膜を心地よく揺らす。いまだに感情が読み取れないけれども。

 

「その頃はもう、鬼となった姉様が屋敷を支配していました。両親と二人の兄、そして雇っていたという使用人も全員、私の記憶にはありません。私の家族は姉様ただ一人」

 

 悲しんでいるのか怒っているのか。

 懐かしんでいるのかいないのか。

 不定も肯定も曖昧な緩急の無い音を舌先に乗せて彼女は淡々と喋る。

 

「私と姉様が違う生き物だと気付いたのは、覚えている限りでは六年前だったと思います。いつも私の見ていないところで食事をする姉様へのささやかな反抗心が半分と好奇心が半分。入るなと言われていた部屋を覗いたのが切っ掛けです。当時はばれない自信がありましたが、恐らく気配と匂いで筒抜けだったのでしょう。次の日、姉様自ら鬼であることを打ち明けました。わざとだったのかやむを得ない判断だったのかは未だに分かりません。でもその日からでした。姉様が私に、『客引き』をさせるようになったのです。

 食糧調達……配達と言った方が良いでしょうか。客引きという言葉が嫌でしたら呼び込みでも人寄せでも構いません。とにかく私はあらゆる理由を付けて定期的に、見知らぬ人をこの屋敷に招待し、姉様に食べさせました。別にそうしなければ私が食われるかも知れないだとか、人や世界が憎いだとか、そういったものではないのです。ただ、姉様が生きるために必要なものを必要なだけ用意する。その程度の認識しかありませんでした。客観的に見れば人殺しの片棒を担いでいたわけですが」

 

 琴都音ちゃんはそこで一旦話を止め、不意に立ち上がった。何も言わずに戸襖に寄ったかと思うと、思い切りそれを左右に開け放つ。

 堰き止められていた水が氾濫するかのように、外の眩しい光が飛び込んできた。思わず翳す手のひら。自然の色を湛えた中庭から、土や花の匂いと、僅かな孤独の音が風に吹かれて部屋の中を漂う。

 

「それでもこうして生きているのは姉様のおかげです。物の道理を知らない私を、最後に生まれた妹をここまで育ててくれました。母親と変わりない存在です。しかし」

「……君は、俺が鬼狩りだと知って呼んだんだよね」

「ええ。以前にも何度か、鬼狩りさまを見つけて連れて来たことがあるんです。しかし姉様はいつの間にか私の知らない力を身に付けていて、初めは我慢していた食欲も最近になって抑え切れなくなってきました」言葉と共に、彼女の感情の放流も濃密さを増していく。「姉様に陽の光を見せて頂きたいのです。……今度こそ」

「どうして、俺を? 男前の剣士に見えたりした?」

「いいえ。だって貴方は、刀を……優しい刃を、持っていたから。鬼を一つの生き物として見られる目をしていたから」

 

 生まれながらにして鬼と密接な関係を築いた人生。驚愕や同情はあるが、それ以上が無い。

 鬼に何かしらを踏み躙られた過去を持つ者が多く所属する鬼殺隊としては珍しく、俺にはそういった経験が無いからだ。もちろん徒に人を殺し食い荒らす鬼は嫌いだし許せないが、それはあくまでも他人のための正義に過ぎない。

 自分か自分より大切な存在を傷付けられ、どうしても正義の一つ手前に鬼への確然たる憎悪が先行してしまう彼らとは、また少し違う。

 

 だから人と鬼の確執による止め処ない激情の音を聞く時、きっと自分はそのような人たちに心から共感出来ていないんだろうな、とふと思うのだ。事情を理解して納得する事は出来ても自身の経験と重ねて共感する事は出来ない。家族の一員が鬼である感覚は、今の俺には絶対に味わえない。

 

 幸せな悩みだ。

 絶望の種類を一つ知らないでいられるのだから。

 

 俺は家族といえば真っ先に爺ちゃんが思い浮かぶ。

 もし、爺ちゃんが鬼にされてしまったら俺はどうするか。元に戻す方法を探したり、人目のつかない場所に隠したり、あるいは命を絶って楽にしてあげるかも知れない。そうしたら家族の悲劇がより心に響くのだろうか。

 

 獪岳(かいがく)は?

 獪岳を、兄弟子を鬼にされて、俺は琴都音ちゃんの気持ちを理解出来るのだろうか?

 

 所詮は仮定話。誰も鬼にされなければ済む話だしそれが最良だ。身に沁みる共感が出来なくても、同感さえあれば正義の理由付けにはなる。仲間外れにされる訳でもあるまいし。

 ただ、俺がこの子に対してはどことなく共感を抱きたいと思った。

 全く異なる境遇にある姉妹。それなのに彼らを助ける理由が、他人のためでなく自分のためになるような気がしたから。

 

「分かったよ、琴都音ちゃん。その鬼は俺が倒す。でもその前に、一つだけ質問があるんだけど」

「はい」

「琴都音ちゃんはさ、どうして姉さんを……この生活を終わらせようと思ったの?」

 

 ふっと、彼女は安堵にも似た笑顔を浮かべる。

 

「切っ掛けはありません。私は、姉様の妹ですから」

 

 それは質問の答えとしてはやや省略が過ぎる返事だった。

 しかし、助けを求める者の覚悟を聞いておいて損は無い。可愛い女の子なら尚更だ。

 

「あ、そうだ。これ、つまらない物だけど良かったら……」

 

 格好つけて部屋を出ようとしたが、丁度目に入ったそれを無言で置いていく事も出来なかったので直接手渡す。爺ちゃんの用意してくれたお詫びのものだ。中身は結局分からずじまいだけど。

 ……そういえば俺、てっきり何か騙されたと思って断りに来たはずだったのに、いつのまにか鬼退治を引き受けてしまった。よく考えれば日輪刀も持っていない。これでは餌を増やすだけだ。

 

 今更、実は俺今は戦えないんだ、と言い出す勇気も無い。どうしたものかと気を揉んでいると、紙袋の中を覗いた琴都音ちゃんがあっと声を上げた。

 

「全然つまらなくなんてありませんよ。これは、あなたと獪岳さまがお持ちするべきです」

「へ?」

 

 そう言って袋ごと押し返される。疑問符を浮かべても彼女は黙って微笑むばかり。

 

 んん?

 こういう贈り物って速攻で返された場合どうすればいいの? なぜか俺が断られたみたいな状況になってない?

 あの爺ちゃん何を入れたんだ……と紙袋に手を突っ込んでまさぐる。俺の好きな甘い菓子の箱が数個。重さと大きさからしてまだありそうだと奥まで手を伸ばす。

 指先に、馴染みのある硬い何かが触れた。

 

「日輪刀……!」

 

 それを掴もうとした途端、足元に激震が走った。足元だけではない。屋敷全体が唸って広大な敷地を揺らしている。明らかに地震とは異なる現象が悪寒を催し、しばらくして落ち着いてくると、俺の聴覚が音の洪水の中からその正体を掴んだ。

 出口の反対側、複雑に入り組んだ屋敷の中心部辺りだ。ここから中庭と部屋を幾つか隔てた先に鬼がいる。そして鬼のすぐ近くに、もう一つの気配が。

 

「──俺が憎いか! 俺が哀れか! これで満足かよ、いい気味だろうなあテメェはよォ!? 死ぬまでだ! 俺が百足女に殺される前に、必ずテメェを探し出して殺してやる! 覚悟も準備も知ったこっちゃねぇ! 地獄に堕ちるのはテメェも一緒だ!」

 

 しかし考えるまでもなく、自ずから存在を伝える怒号が屋敷内を反響して聞こえてきた。同時に俺は覚悟を決めた。

 

「獪岳さまです! 姉様に見つかったのだとしたら……もう時間はあまり、」

「雷の呼吸」

「え?」

 

 四方へ伸びた雑念を断ち切る。意識するのは地を踏む足と刀を握るこの手のみ。

 鯉口を切り、ハバキが外れた。力さえ込めればすぐに抜ける刃渡りを思い浮かべながら方向と高さの微調整を行う。狙うべきは鬼の傍ら、慌しく逃げ回っている方だ。

 

 踏み出した瞬間に五感までもが消失した。それでいい。今だけは、脳が足の先に宿っている気がする。

 加速は要らなかった。

 琴都音ちゃんの傍を滑り抜け、吐き切った息を刀身に乗せる。

 

 「壱ノ型・改──霹靂一投」

 

 雷の呼吸の基本型を斬撃から投擲に改変した即席の応用技。

 本来なら斬り捨てた後に収めるための返し刀を、空を切って有り余った反動で前方へ引き伸ばした。腰元に戻るはずの刀が放り投げられ、一直線を捉えた軌道に沿って飛翔する。

 中庭を越えて目視が届かない別棟の更に向こう側。殺意と動悸を振り撒くあの男のもとへ、真っ直ぐに、俺の意志を撃ち込んだ。

 

「兄弟子!」

 

 投じた刀は回転しながら、黄色く刻まれた波模様の刃文を上下斜めに折進させる。戸襖を破り、暗がりに立ち込めた冷気の隙間を埋めるようにしてジグザグに軌跡を残すそれは、さしずめ紫電清霜だ。

 

 上手く入った投射角を確認し、俺は不自然に抉られた地面──屋敷を揺るがした鬼の仕業だろう──に着地する。普段あまり使わない動かし方をしたせいか、腕の筋肉が痙攣していた。その事を琴都音ちゃんに悟られないよう左手で紙袋からもう一つの刀を取り出す。

 爺ちゃんが初めからこうなる事を想定していたのか、それともいざという時のために入れておいたのかは分からない。激怒状態だったから大方間違えたのだろうが、結果的に上手く転がったわけだ。

 結局、剣士は堂々と帯剣していた方が良いらしい。

 

「びびって出てきやがったか? 刀をどこから持ってきたのかは知らないが、いい度胸じゃねぇか」

 

 日輪刀は狙った通りに飛んだようで、追いかけてみると兄弟子が廊下の先で待ち構えていた。予想はしていたがやはり喧嘩腰だ。

 

「俺は兄弟子と地獄に行くつもりはないよ。殺すつもりも、毛頭……だけど、勝つ気ならある」

「テメェ……まだ生意気ほざいて──」

 

 兄弟子と対峙して一つ確信した事がある。

 もし爺ちゃんや兄弟子が鬼になってしまったとして、俺がどんな心境を得てどんな選択を取るかは、考えても分からない。

 なぜなら今は誰も鬼ではないのだから。人として分かり合える以上は、俺は爺ちゃんに迷惑をかけ続けるし兄弟子を怒らせ続ける。

 

 ただ、兄弟子が鬼殺隊で、鬼が目の前にいるのなら。

 俺は肩を並べて戦いたい。

 

「──兄弟子と一緒に、勝つ」

 

 言い切るのと同時に息を精一杯吸い、狭い廊下を突っ走る。目標は二十本前後の足を左右にくねらせる百足に似た鬼だ。蜘蛛とどちらがマシかなんて、あまり思い出したくない。

 一方の百足鬼は急速に入れ替わった攻防を把握したらしく、再生途中の足を引っ込めて守りの姿勢に固めた。ごつごつとした歪な形の関節肢。見たところ屋敷にあるものを人工物/自然物構わず煉りこめたようだ。

 

 ずっとこの屋敷に篭り一部を自らに取り込んだのは、罠としての陣地というより今まで暮らしてきた屋敷に愛着があるのだろうか。

 考えても詮無い事は一旦捨て置く。鼻白んだ兄弟子を飛び越える勢いで吶喊するが、近づくにつれ恐怖で音量を増していく心臓がうるさい。まだ直接矛を交えてもないのに首も手も脂汗でびっしょりだ。

 

「ぅう……っ、振り切れ! 俺は鬼なんか怖くないぞ! 死ぬほど帰りたいけど、ちょっと足が気持ち悪くてうねうねしてる鬼なんか怖くない!」

「失礼な……厄介な坊やね。でも、そんな刃でわたしの体が斬れるとは思わないで!」

「いや、え?」

 

 普通に斬れてたじゃないか、という言葉は目の前に迫った足に遮られた。すぐさま上段から振り下ろした刀と激突。そのまま振り抜けると思った刃は、しかし浅く食い込んだだけで完全に力を殺される。

 見れば四、五本の足が重なって衝撃を和らげている。その隙間から百足鬼の顔がぬっと覗いた。

 

「やっぱ無理無理無理無理無理! 無理だって! 無理だよこれは! 近くで見たら毛がいっぱい生えてるし、よく分かんない粘液みたいなの刀に付くしでほんと無理……ひいいぃぃぃぃぁぁああああああああああ──っ!?」

 

 撓んだ足が脈打ったかと思うと、凄まじい力で弾き飛ばされた。俺は悲鳴を上げながら、体勢を整えていた兄弟子に背中からぶつかって二人仲良く床を転がる。

 急いで立ち上がり、案の定文句を言い散らそうとする兄弟子の服を俺は全力で引っ張った。百足鬼とは反対側の琴都音ちゃんがいる方だ。

 

「テメェ、逃げる気か!」

「ふん、逃がすわけがないでしょう! あなたたち全員殺してあげる!」

「なんで二人して俺を責めるんだよ! 兄弟子は味方だろ!」

「勝手に味方にすんじゃねぇ。まずテメェを斬ってから鬼も斬る」

「嘘でしょ!?」

 

 なぜか構図がおかしい二体一の状況に戸惑いつつ、無理やり裾を引っ張って戸襖の前まで来る。日輪刀の投擲で穴の空いた戸から外の陽が射している。鬼は夜じゃないと出られないから、一旦中庭に退いて立て直そうという心算だった。さすがに兄弟子も気付くだろう。

 そう思って振り返ると、鼻先に鋼の冷気が突きつけられていた。

 

 「俺は本気だぞ」

 

 鬼を滅するべくして太陽の光をたっぷり吸ったはずにも拘わらず、刃は冷たく鋭利な光を薄闇に照り返す。雷に色付いた刃文も、その向こうで俺を睨む目も、黒い情感が淀んでいた。

 この期に及んでなお、兄弟子は俺を目の敵にしている。仲間割れと見て静かに接近を試みる百足鬼は気にも留めずに。

 そして、蹴った。

 

 「……えっ」

 

 何をされたのか、理解したのは戸襖を砕いて中庭に放り出された時だ。息が詰まる。手足の動きが鈍い。刃の代わりに突き出された靴底を腹に喰らい、肺が圧迫されたのだ。不意打ちという点も然ることながら、全集中の呼吸で身体能力を底上げしていた分呼吸器官の損傷は顕著に現れる。

 受け身を取れずに砂利の地面に倒れた。すぐには起き上がれず身を丸めていると、琴都音ちゃんが駆け寄ってきた。

 

「大丈夫ですか!?」緊迫の表情で肩に手を添え、俺の体を仰向けに変える。「今手当てをしますから、動かないで……あっ」

 

 しかし言いかけた言葉は驚愕に潰される。見つめる先は俺を蹴飛ばした兄弟子──の向こうから首をもたげる百足鬼だ。

 気持ち太さが増したような関節肢。横に映る視界の中で、兄弟子は俺を見下ろしている。「後ろだ」と叫ぶための空気がまだ肺に届いていない。

 

 なんでだよ。鬼よりも、俺のことが憎いのかよ。

 なんで。

 どうしてなんだよ、兄弟子。鬼殺隊として一緒に戦うのも嫌なのか。

 

 ──ああ、もう。

 やってらんねぇ。

 

「……じゃあ」俺は寝転がった姿勢で大きく息を吸い込み、声を絞り出す。「じゃあさ、兄弟子」

 

 急な事件に巻き込まれただけで断ち切れるほど、俺たちの仲の悪さは脆くないってことが分かった。とりあえずは、それが今の関係。だったら琴都音ちゃんには悪いけど、どうやら鬼退治は後回しにしなくちゃいけないようだ。

 膝を突いて睨め上げる。当然、焦点は鬼に向いていない。鬼が相手でないなら怖くない。

 

「これは、鬼殺隊の任務じゃなくて……兄弟喧嘩ってことでいいのか」

「…………テメェは」

 

 目付きが一際険しくなった兄弟子は刀を右脇に立て、鬼殺隊から一剣士へと闘志を構え直す。

 俺も応じて刀身を鞘に納め、体勢をやや斜めに捻る。

 

「いっぺん徹底的に懲らしめてやらねぇと目が覚めないみたいだからな」

()()は少し、頭を冷やせよ」

 

 息を吐き切ると同時に引き絞った下腿の筋肉は、足首の反動──屈曲と伸展──を爆発的に増強させる。その弾ける音が、二つ。

 全く同時に響いた。

 

「「雷の呼吸」」

 

 鼻で吸った空気は肺を膨らませ、体中の血流を活性化させたのちに、自らも高熱を帯びて口から噴き出る。

 喉が熱い。吸って吐く度に全身が燃えるようだ。

 きっと兄貴も同じだろう。瞬きより遥かに短い単位で視界が前進し、そのどす黒い殺気が拡大される。しかし、口端は薄っすらと吊り上がっている。興奮か錯覚か、チリ、と脳天に痺れが走った。

 

 空気を裂くのではない。焼き焦がせ。

 兄貴に負けないほどの雷鳴を轟かせろ。

 

「壱ノ型、霹靂一閃──」

「肆ノ型、遠雷」

 

 熱は刃を伝って線条として放出され、青白い閃光を軌跡に残す。

 それが交ざり合った際に、本来あるべき鋼の激突音は鳴らなかった。刃先同士が縦と横に擦れながら火花を散らす。互いに衝撃を受け流してすれ違い、位置が逆になる。

 俺は振り切るが早いか片足で踏ん張って旋回。足首にかかる負担を次の動作に回す。まだ、終わっていない。

 

「──六連」

 

 背を向けたままでいる兄貴目掛けて刃を折り返した。

 後ろ姿を見てほんの少しだけ、鬼より俺を優先する執念が理解できる気がした。刀を振るっている間は他の何も目に入ってこない。世界が全て白紙と化し、唯一相手の刀だけが血色を湛えるのだ。

 もしかしたら兄貴とまともに向き合わずにいたのは、俺の方だったのかもしれない。仲良しだけが理解への道ではない。死ぬ気でぶつかり合えば、こんなにも簡単だったのに。

 

 第ニ撃が兄貴の首に触れる直前。腕にも肩にも予備動作はなく、いくら速く持ち上げても間に合わない。

 首を傾けて避けると、そう予測した。ゆえに全力で振るう。戸惑えば三撃目が遅れるから。

 

 跳ね上がったのは、刀身だった。

 まるで知性を持った生命体であるかのように、勝手に動いたのだ。腕がその力に振り回されているとさえ思えた。それほどの速度。動き始めが遅かったのは溜めか。

 振るわれたあとの空気は熱せられて膨張し、刀の峰が陽炎に揺らめく。

 

「伍ノ型。熱界雷」

 

 残像が目の前を通り過ぎると、俺の刀は弾かれていた。力一杯振るったせいで軌道のブレも激しく、対処しなければ連撃が完全に途切れてしまう。一方の兄貴は斬り上げた姿勢から振り向けば、安定してトドメが刺せるはずだ。

 しかしそうはしなかった。横目に窺っただけで、追撃を諦めて跳躍する。

 俺が、刀を放して三撃目を捨て身で突っ込んだからだ。

 刀が無くても型を維持すれば動きは止まらない。可能な限り低く足元を滑り抜け、再度来た方向に折り返して空中の刀に手を伸ばす。

 

 それを掴めば、霹靂の閃きは五撃目に突入する。移動のために二度の攻撃を無駄にしたとはいえ相手は人間だ。一撃で勝敗は決まる。

 目まぐるしく移ろう景色を肌に触れる風で把握し、迷わず疾走。高く飛び上がった兄貴は足首の反動を使えない。力で圧せると俺は判断した。

 助走に加速を踏み込んで一直線に詰め寄せる。

 

 気付けば、頬に切っ先が迫っていた。

 

「そういうところが甘いんだよ、カスが。──弐ノ型、稲魂」

 

 素直に感心した。

 地に足が着いていないという事は、技量次第では全方位に攻撃を届ける事もできる。そして兄貴は戦闘においての努力を怠らない男だった。

 気概も、また同様に。

 

 けれど俺は速度を緩めない。顔だけを傾げて不意の一撃を掻い潜り、かろうじて突っ切る──前に、すでに刃は頭上へ回り込んでいた。考える間も無く刀を振り返して防ぎ止める。だが衝撃を逸らせない。手と腕の関節が限界まで曲げられ、鈍く浸透した痛みに筋肉は悲鳴を上げた。

 これは受け切れない。綺麗に流すのも無理だ。

 柄の向きを僅かに変え、霹靂一閃・六連を殺さず強引に走る。無理やり捩ったせいで肩に激痛が伴いつつも、抜け出す事に成功した。

 

 ただ、稲魂も終わってなどいない。五つ連続する斬撃の中の、二つに過ぎなかった。

 だからこそ俺の足は再び反対方向に踏み入り、残ったその全てに最後の一閃を叩き込んだ。ほぼ同時に三筋の稲光が降り注ぎ、薙ぎ払ったしのぎに喰らい付く。

 

 赤い飛沫が舞った。

 誰のものか、どう斬って斬られたのか、知る由はなかった。

 大きく交差し、距離が一拍だけ遠くなる。体の隅々を屋敷のどこかにぶつけた感覚があるが、今はただ兄貴しか見ていないから、傷の程度が計れない。必要も無い。

 どうせ今に分かる事だ。

 

「雷の呼吸! 陸ノ型ァ、電轟雷轟(でんごうらいごう)ッ!!」

 

 降り立ったそばから地面がびきびきと断末魔を上げて割れていく。局地的に発生した磁界が砕けた砂利を浮上させ、木々を揺さぶる。葉の千切れ飛ぶ先に、兄貴は刀を持った右手以外を地に突いて荒ぶる獣の如く屈んでいる。

 もはやそれ自体が体の一部にも思えるほどに夥しい殺気。真っ向から浴びた俺の視界が、暗雲の垂れ込める激しい雷雨に曝されたかのように黒く染め上がった。

 

 手足の屈曲が限界に達する。

 一息に弾かれた体が突撃し、崩壊を同伴する様は雷電のそれに肉薄していた。

 

 間髪を容れず、俺も迎え撃つために刀を構える。

 立ち止まったのは一瞬。直後、せぐくまった横目に鼻緒を踏み切り、爆ぜ、飛ばす。

 気を抜けば塗り潰されてしまいそうな乱気流の中を、それよりも速く駆け抜けて。

 

 兄貴の顔が驚愕に歪む。

 

 汗と血と筋肉と、怒り。欠片も残さず、出せる限りを尽くしてこの一撃に全てを注ぎ込んだ。

 これは黒雲を振り払い日輪を焼き付ける俺の刃だ。

 

「雷の呼吸。漆ノ型──っ、火雷神(ほのいかづちのかみ)!!」

 

 一振りの紫電を以って、ここに斬り結ぶ。

 

「この技で、いつか兄貴と……肩を並べて戦いたかった」

「ほざいてろ」

 

 ──実に奇しくも。

 引き寄せられるように、俺と兄貴の雷撃は置き去りにされていた鬼を挟んで激突した。

 

 

 †

 

 

 目が覚めたのは、眩い光に顔を照らされたからだった。

 

「ぅあああ……」

 

 漏れ出た声が欠伸と繋がり、吐いてんだか吸ってんだかこんがらかる頭を何かが叩く。

 痛い。でも眠い。

 

 何時だろう。というかどこだろう。背中に当たる感触は布団や畳じゃない。

 ぽん、と再度叩かれる。

 痛い。もう少し寝ていたい。

 

 風が気持ちいい。そういえば禰豆子ちゃんは起きたかな。今日はどこに行くんだっけ。

 ごん、と再三頭に硬いものが落ちる。

 痛い、痛い。あと十分でいいから痛い痛い痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいいいいぃぃ……

 

「ぃってええええぇぇぇっていうか禰豆子ちゃんもう起きたー!? 起きたよね!? わああ遅れた! 一昨日約束してたのに寝過ごしたよ! やっぱり起きたよね、ごめんね俺も起きるよ! なんか頭痛いな。あちゃー、もう太陽が中天に……ってえぇ!? あれ、ぅえええ!? 爺ちゃん!? なんで!?」

「騒がしい奴じゃのう……」

 

 痛みと焦りに飛び起きてひとしきり騒ぎ立てる俺の目の前には爺ちゃんの顔があって、もう何がなんだか分からない。

 夢なの? 夢にしては妙に現実感があるけど、俺昨日どうやって寝たっけ? 記憶がない。まだ寝起きでもやもやしてる。

 思い出そうと手を額に当てると、手首に痛みが走った。力を入れにくいというか曲げにくい。体中が同じ状況だ。首も背中も、腰も足も総じて痛みまくり。

 なにこれなにこれやだ怖い。生きた心地がしない……あ!

 

 そうだ、兄弟子だ。

 仲直りが破綻して喧嘩に発展し、最後に真正面からぶつかり合って、それで──

 

「え。もしかして俺って兄弟子に負けて死にかけたの……? いやでも大丈夫だよ爺ちゃん。俺、三途の川は禰豆子ちゃんと添い遂げてから一緒に手を繋いで渡ることにしてるんだ。だから、わざわざ追い返さなくてもいいよ。自分で帰る」

「死んどらんわ! 毎回毎回どうしたらこんな的確に逆鱗を引っぺがすんじゃお前は……」爺ちゃんは頭痛でも我慢するような仕草で顔を覆う。「お前も獪岳も、鬼の妹も死んじゃあいない」

 妹という単語に、寝ぼけていた脳の一部が覚醒する。「ああ、思い出した! 妹……琴都音ちゃんはどうなったんだよ、爺ちゃん!? 鬼は? うじゃうじゃした百足鬼は?」

「まあ落ち着け、善逸。全部説明してやるから。座って聞いてなさい」

 

 大声を出したら首がまた痛くなり、言われた通りに大人しく座ることにした。腰を下ろしてようやく気付く。

 鮮やかな自然の緑色を塗りたくった草原。見渡す限りに青天が続く空に涼風が吹き、その流れを追った先には一本だけぽつんと樹木が生えている。かつての記憶と変わりなく佇む姿がやけに懐かしく感じる。

 

 ああ、ここは。

 爺ちゃんから逃げてよく叱られたあの木の下だ。

 

 それから俺は、爺ちゃんに昨日起きた事の顛末を聞いた。

 

 まず、百足鬼は俺と兄弟子の兄弟喧嘩に巻き込まれて死亡。あの時は意識していなかったけど割と派手にやり合ったみたいだ。

 それを爺ちゃんが発見して鬼殺隊に連絡。幸い琴都音ちゃんは戦いに近づけなかったため無事だった。終わってからは鬼に人を誘導して食わせていたことを自白して、鬼殺隊が一時身柄を確保している。さすがに、数十人もの失踪事件の犯人は自分です、と十代の女の子が名乗り出ても誰も信じやしない。精々が精神病院を勧められる程度だろう。

 でも鬼殺隊は警察ではないし、特に琴都音ちゃんの父親が一部で高名な権力者だったそうで、裏で片付けるのにも難があった。そのため、処罰は先送りにされたのだとか。

 

 話を戻して、俺は最後の力を振り絞った後兄弟子と同時に気絶したらしい。鬼に立ち向かった恐怖心や人間と剣を交えた緊張感で、精神的にも肉体的にも疲弊していた。だから兄弟子が気を取り戻して去った後もずっと眠り続け、やっと起きたのだ。

 贈り物の紙袋の中に日輪刀が二本とも入っていた事に関しては、爺ちゃんも記憶にないと言っていた。そろそろボケかも知れない。耄碌かな?

 

「爺ちゃん……怒ってる?」

「……」

 

 屋敷に行った当初の理由としては、爺ちゃんの怒りを解くためというのが一つあった。しかし結果的にこの有り様だ。あろうことか、弟子同士で本気の斬り合いをしてしまった。一歩間違えれば即死、あるいは後遺症が残る可能性だって十分にあった。

 そのことを、爺ちゃんは。自ら手をかけて俺たちを育ててくれた師範はどう思うだろうか。それが怖かった。

 

「善逸。覚えとるか? 儂が前に何度か教えたことを」

「多すぎて分かんないよ」

「お前の頭を叩きながら言ったことじゃ」

「叩かれすぎて思い出せないよ」

「……刀のことじゃ。強靭な刀を作るためには、徹底して叩き上げねばならんと言ったじゃろう」

 

 言われて気付いた。俺は鋼じゃなくて人間なのに、爺ちゃんがとにかく頭を叩きながら説教した時の言葉だ。

 あれは今でも理不尽だと思っている。いやだって、俺を叩く必要は無かったじゃん。

 

「獪岳は、腕も筋も悪くない。協調性がちょいと問題じゃがな。あやつは自身が既に強靭な刀であることを、まだ自覚してないんじゃよ。鞘から抜けなければ、どんなに練磨された刀でもそれはただの鞘でしかない」座った俺を見下ろしながら、指を差す方には鞘に収まった日輪刀がある。「じゃから叩くんじゃ。目を覚まさせろ。叩き起こせ。そうすればいつかは気付いて、自ずから鞘を出るじゃろ。日の目を見れば鋼は輝く。叩かれた分な」

 

 例えているようでそのままのようでもある話は、なんとなく理解できた。兄弟子の精神面の問題だ。いつも不満の音が聞こえていたのを、俺は覚えている。

 昨日もそうだった。絶え間なく不満と苛立ちの音が続いて、口喧嘩してから敵意に、果てには殺意にまで変わった。聞いている方が息苦しくなるような閉塞感の中で、兄弟子は必死に声を上げていた。そこには誰もいないのに。塞ぎ込んでいるから、誰にも聞こえないのに。

 

 いや、違うか。俺には聞こえていた。

 不満も、苛立ちも、敵意も、殺意も──最後の一合に轟いた、絶叫のような雷鳴も。

 

「でも爺ちゃん、俺じゃ無理だよ。俺には叩けないんだ。昨日だって、」

「昨日、お前が初めて叩いたんじゃぞ、あの意固地の鉄塊を」

「え?」

 

 戸惑う俺を横目に、爺ちゃんが懐から何かを取り出す。大きさは手のひらに乗るくらいだろうか。拳に握ったそれを、俺の目の前で広げて見せた。

 

「獪岳が置いて行ったものじゃ」

「あっ」

 

 そこには、青い勾玉があった。

 すぐに分かった。兄弟子がいつも首に付けていた飾り物だ。

 

 砕けたそれの、小さな破片を嵌め合わせている。

 

「お前が、お前の刃で叩き割ったんじゃよ」

 

 実感はあまり無かった。あの戦いで勝った気も負けた気もしなかったから。

 何度となくぶつかって、ぶつけられて、それでもようやく俺の方からぶつけたものがここにある。物証って言うと無粋に聞こえるけど、これは確かな兄弟喧嘩の証だ。こればかりは俺が兄弟子から勝ち取ったものだ。

 

 叩いて叩いて叩き上げて不純物や余分なものを飛ばし、鋼の純度を高めて出来るのが刀。

 一度叩いたくらいじゃ、まだ足りない。鞘から出すのにはどれくらいかかるのだろう。

 

 というか俺が作った漆ノ型を爺ちゃんは知っているのだろうか。鼻緒もよく見れば直っているし感付いたかもしてない。そう考えると、無性に嬉しくてどこか気恥ずかしくて、顔を背けてしまう。

 爺ちゃんはそんな俺の頭に優しく手を乗せ、力強い声で励ましてくれた。

 

「よくやってくれたわい。……頑張ったな、善逸や」



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