真・恋姫†無双異聞 皇龍剣風譚   (YTA)
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第零話 One more time,One more chance

 この投稿は、TINAMIにて連載中の作品の最初期、約十年前に個別に公開した第零話の一章から三章までを纏め、大幅な加筆・修正を加えたものとなっています。
 恋姫リブートの情報が出て以来、萌将伝ベースの今作と、英雄譚及び革命シリーズの統合性を測る為にTINAMIでの連載も休止して様子を見ていたのですが、革命三部作が全て発売された事を機に連載を再開した事と合わせ、過去の投稿から他作品の設定を全て排してブラッシュアップしたものを、こちらでも公開しようと思い立ちました。
 読んで下さる方に少しでも楽しんで頂ければ幸いです。


 

 

 

 

 

 

「ご主人様、起きて下さい」

 耳元で、球を転がす様な優しい声が囁く。

「今日は会議が重なってて忙しいって言ってたの、あんたじゃない!」

 自信に満ちた、快活なもう一つの声が、怒った様に言う。

 あぁ、そうだった。

 みんなが待ってるんだもんな、早く起きなきゃ……。

 

 

 

 

 

 

 幸せな微睡(まどろ)みからパチリと目覚めると、そこには無機質なコンクリート打ちっぱなしの何時もの天井があって、中央に鎮座ましましている照明と一体型の扇風機が、何とも申し訳なさげにノロノロと蒸し暑い空気を掻き回している。

 労働条件の改善を求めて目下ストライキを決行中のクーラーに見切りをつけて開け放っておいた窓からは、夏の東京の熱気と朝の喧騒と排気ガスの臭いが徒党を組んで大挙して押し寄せ、北郷一刀の部屋を蹂躙していた。

 

 特に懐不如意(ふところふにょい)と言う訳ではなく、この十三年の間、いつ去る事になるかも知れない場所での生活環境を改善すると言う行為は、北郷一刀の人生に於けるプライオリティの下位に追いやられているものである、というだけの事に過ぎない。

「う―――ん……」

 

 一刀は、床よりは幾らかマシという程度の寝心地のパイプベットから起き上がると、サイドテーブルの定位置に置いておいたマールボロのパックから一本を抜き出してオイルライターで火を点け、深々と吸い込んだ。

「ありがとう。月、詠」

 

 そうして何時もの様に、この世界には存在しない、愛おしい二人の少女に礼を言う。

 “帰って来てから”直ぐの頃には恨みにすら思った、目覚めの前にだけ現れる浅い夢。

 だが、今の一刀にとって、全てを賭けて愛した人々の声を聞ける唯一の、そして刹那の時間だ。

 それは時に、『死ぬまで共に』と誓った義姉妹やその仲間たちの声であり、威風堂々と覇道を駆け抜けた黄金色の髪の少女と、その手足たる家臣たちの声であり、猛虎の血潮をその身に宿した強く暖かい親子と、その“家族”たちの声であった。

 

 一刀は煙草を揉み消すと、すっかり汗で濡れてしまった寝間着替わりのTシャツを脱ぎながら、まだ僅かに靄のかかったままの頭で考える。

 皆の夢を見て、悲しみよりも喜びを覚えるようになったのは、いつ頃からだったろうか。

 そう、十三年前のあの日から数えて、どれ程の時間が流れた頃からだったのか、と。

 

 

 

 

 

 

 心地よく頭皮を打つ熱いシャワーが、一刀の意識を覚醒に導いていく。

 こちらの世界に戻ってきて唯一の喜ぶべき点は、熱いシャワーと風呂を好きな時に好きなだけ使えると言う一時に尽きると言っても過言ではなかった。

 (もっと)も、愛する人々と共に生きる幸せを天秤にかける程では、まさかある筈も無い。

 

 とは言え、今現在、自分が置かれている状況にささやかな幸福を見出す位は罪にはなるまい。

『あなたが、この外史を救うにたる力を得る事が出来たなら、その時は―――』

 必ず連れ戻す、と、あの筋肉ダルマは確かに言った。

 外史の狭間と呼ばれる、あの場所で。

 

『前に進むが良い』

 マイクロビキニにガイゼル髭の巨躯が言った。

『救世の器となりうる資格があったればこそ、お主は外史に引き寄せられたのだから。天より与えられたその器を磨かくのだ。お主の宿星たる黄龍とは、その命運を以って因果を断つ星ぞ』と。

 

 とは言え、“前に進む”為のけじめをつけるのは、そう生半(なまなか)な事ではなかった。

 聖フランチェスカ学園の寮の自室で目覚めてから暫らくの間の生活は、自分を取り巻く全てのものに彼女達の面影を見出そうとする自分との闘いだった。

 『世界の絶景』等と言ったTV番組で、欧州の荘厳な礼拝堂や、美しい熱帯の魚たちが泳ぐ紺碧の海と白い砂場を観ては、蜀の義姉妹をあそこに連れて行ってやれたらどんな顔をするのだろうかと考え、街角で政治家の選挙演説を耳にすれば、魏の覇王はどう評するだろうかと空想し、港の向こうの大海原を帆も立てずに悠々と滑る巨大な鋼鉄の船を見ては、あれを見たら呉の面々はどんなに目を丸くするだろうと夢想した。

 

 大凡(おおよそ)、目に見えるありとあらゆる場所に、一刀の愛した、そして一刀を愛してくれた女性たちの影が居た。

 それでも尚、一刀の心が壊れずにすんだのは、『進まねばならない』と言う強迫観念じみた思いがあったからだ。

 前に進んでさえいれば、いつか必ず彼女達の手を、白昼夢や幻ではない、あの暖かい手を握れる時がくるのだと信じた。

 

 そう、願うのでも、望むのでもなく、ただひたすらに、信じたのだ。

 

 

 

 

 

 

 進学先に防衛大学を選んだ訳は、幾つかあった。

 一つは、考えうる限り、この国で最も戦いに近い場所にいる存在だったから。

 それに加えて、一般の大学生などよりも遥かに多忙であろう事。

 そして、家族やそれまでに得た友人と距離を置く口実が出来る事。

 

 一つ目の動機は単純明快、学び、鍛える為。

 二つ目の動機は、思い出に苛まれる時間と環境から逃れる為。

 そして三つ目は、罪悪感からだった。

 一刀にとって、家族や友人は、かつて捨て去った筈のものだった。

 

 “あちらの世界”で生きて行くのだと決めた、その時から。

 だから、痛かったのだ。

 友人達の変わらぬ笑顔や、長期の休みで帰宅する度に見せる父の不器用な優しさや、母の手料理の味や、妹のはしゃぐ様子の全てが、痛くて堪らなかった。

 

 本来ならば、真っ先にするべきだった鹿児島の祖父への剣術の師事を躊躇ったのも、それが理由だった。

 もう一度“あちらの世界”に帰るのだ、と言う想いは、もう一度、彼等を捨てると言う事実の裏返しなのだと気付いたとき、漠然と感じていた後ろめたさは、はっきりと罪悪感として一刀の心を穿ったのである。

 

 最も彼等にしてみれば、そんな一刀の思いなど与り知る事ではないから、進路希望の用紙の第一志望の欄に『防衛大学校』と書いて提出した時には、随分と訝しい顔をされたものだ。

 さもあろう。多少は武道の心得はあるとは言え、つい最近まで何処にでもいる唯の高校生だった少年の顔が突如として精悍になり、一本も取った事の無かった剣道部の先輩たちをいともたやすく打ち負かし、知識を貪るように勉学に没頭し、極めつけには、特に関心も示した事がなかった国防を担う為の高等教育を受けたいと言い出したのだから。

 

 一体、自分はどうやって両親を説得し、続く三者面談を乗り切ったのだろう。と、一刀は考える。

 当時は、兎に角、無我夢中で鍛錬と知識の吸収に努めていて、それ以外の事についてはろくに覚えてもいないが、恐らく、元来が放任主義である父母が自分の意思を尊重してくれたのだろう。

 やむを得ぬ事であったと思う。

 

 本来であれば、進路を決める事は、世界中ほぼ全ての高校生にとって一大事である筈なのだろうが、それに気持ちを割く余裕すら、当時の一刀にはなかったのだから。

 ともあれ一度、進むべき道を定めた一刀の行動は早かった。これも、曲がりなりにも戦国乱世で一軍を率い、知将猛将から薫陶を受けて来た経験の賜物であろう。

 

 まず、剣道に打ち込んだ。

 全国大会で上位に食い込めば受験の時に有利になるだろうし、基礎体力の向上にもなるからだ。

 続いて、勉強。これは、単純に睡眠時間を削れば両立できた。

 そもそも、全てが難解な古代の漢字で構成されていたあちらの文章を解読し、更には書かねばならなかった時の苦労に比べれば、何ほどでもない様に感じられた。

 

 ましてや、自分が至らないからといって人命だの国益だのが掛かる訳でなし、自分が学ぶ事、知識を得る事は、それだけ愛する人々の幸せに繋がるのだと思えば、苦労とも感じなかった。

 疲れがピークに達したところで泥の様に眠りに落ちる事にすら、この世界の何処にも存在していない恋人たちの夢を見ずに済むという、想定外の利点を見出していた程だ。

 

 悪友の及川祐などは、『お前、一体いつ寝てるんだ?』と、しきりに心配してくれたが、『疲れたとき』と答えてはぐらかした。

 おかげで、三年生の時のインターハイでは、部長として剣道部を率いて団体では全国ベスト4、個人では全国優勝を飾るという、男女共学になって日も浅い母校にとって華々しい快挙を(もたら)し、三年に進級してからは、成績も学年で五位から下になる事はなかった。

 

 一刀は常々、後者は努力の成果にしろ、前者はそんな綺麗事ではまさかあるまいと思っていた。

 武道だろうと武術だろうと、自分の肉体が持つ才能の限界を超えるなどと言うことは、多寡だか一年追っつきの努力などでどうこう出来る事では無い。

 他の選手と自分には、二つの決定的な差があったのだ。

 

 超人の域にまで至った達人たちからの惜しみない薫陶と、極限状態の戦場で、何度も剣を以って人の命を奪った事があるという、ある意味では卑怯とすら言える程の、埋めようのない決定的な差が、である。

 部活を引退した後は、全てを受験に費やした。おかげで、センター試験の時も受験本番でも、大して苦労をした記憶はない。

 

 試験だの面接だので生じる程度の緊張など、初陣の戦場に置いて来てしまったのだろう。そんなこんなで無事、第一希望の防衛大学校に入学を果たしても、別段の感慨は覚えなかった。

 ただ、不思議と居心地が良いと感じたのは意外だった。何故なら、不謹慎ではあるが、国防は元より、組織の中で成り上がろうと言う野心も、近代兵器への人並み以上の憧れもなかった一刀にとって、そこはただの通過点に過ぎない筈だったから。

 

 精神的にも肉体的にも多忙を極める中で、一刀は自分が持った不思議な感覚について考え続けたが、その理由が判明したのは、入学して一年が過ぎた頃、何時もの様に食堂で訓練だか食事だか判然としない昼食を、(せわ)しなく掻き込んでいた時の事だった。

 答えは、天啓の如く降って来た。

 匂いである。

 

 この学び舎に染み付いた、青年たち汗の匂い。それは、野営の時に使う天幕や、警備隊の隊舎を満たしていた若い兵士達の匂いと、不思議に似ていたのだった。

 現金なもので、そう思うと、ただの通過点だと思っていた場所にも愛着が沸いた。そのくせ余分な事を考える暇もなかったから、在学中の四年の間、一刀は戻って来てからこっち、“小田原刑務所”の異名を冠する地獄の学舎にあって、限りなく平穏と呼ぶに近い状況を手にする事が出来た。

 

 それもあってか、一般的な定義とは別の意味で、気が緩んでいたのかもしれない。

 だから、悶々と考え込む事こそなかったものの、一日たりと忘れた事はなかった筈なのに、あんな悪夢をみてしまったのだろう。

 それは、既に任官辞退を決めて卒業を三ヶ月後に控えた正月。一刀が、例によって何やかやと理由をつけて実家に帰る気も起きず、かといって寮にも居る事が出来ない為、短い休暇の時に何時も使っている伊豆の旅館に逗留していた時の事だった。

 

 暇つぶしに眺めていたTVの目ぼしい番組も粗方終わってしまい、正月の名物である深夜の騒がしいバラエティばかりになり始めた為、そろそろ寝ようかなどと考えながら、それでもだらだらとチャンネルを弄んでいると、派手な衣装で鳴り物に合わせて舞い踊る、赤いメイクを施した一人の偉丈夫が画面に移り込んだ。

 

 京劇だと気付くのに、そう時間がかかった訳ではない。

 何と無しに懐かしくなって、見惚れていたのだ。

 戦いの間隙を縫う様な平時は勿論、三国同盟が成った後も、政務の間に見に行った芝居小屋で観ていたものの息吹、あるいは残滓を感じたから。

 

 今となっては間抜けな話だが、ご丁寧に画面の端に表れたキャンプションが、『走麦城〈関羽最後の戦い〉』と題目を知らせてくれるまで、一刀は意外と楽しんでいた。

 言われてみれば成程、確かに黒く長い髭と煌びやかな装飾が施された偃月刀は、彼の軍神のトレードマークである。

 

 しかし、一刀にとって“関羽”という名は今や、艶やかな濡羽色の髪を持つ愛しい義妹の事であったから、思考の歯車が噛み合うのに酷く時間が掛かってしまったのだ。

「くそ、年の瀬だってのに縁起でもない……」

 一刀が、そう独り言ちてTVを消すと、今まで押さえ込んできた不安が生暖かい泥の様に体に纏わりついた。

 

 三国同盟が成ったのだから、麦城の戦いが起こる事などないし、そもそも正史であるこの世界の関羽と、外史であるあちらの世界の愛紗は同一人物では無い。

 性別すら、違うのだから。

 

“しかし”。

 

『今あなたが居なくなったら、三国同盟は間違いなく瓦解するわ』

 魏の覇王、曹操こと華琳から何時か聞いた言葉が、頭をよぎる。

 一刀はそれを振り払う様に頭から布団を被り、身じろぎすらせずに、不穏な眠りが訪れるのを、唯ひたすらに待ち続けた。

 

 

 

 

 

 

 爛爛たる赤の中に、彼女は立っていた。

 紅葉の葉が舞っているのだろうか。

 いや、違うだろう。

 紅葉の赤は、これ程に禍々しくは無い筈だ。

 

 第一、こんなに熱いはずが無い。

 してみると、これはやはり炎だろう。

 恐らく。

 そう思うと、赤は明確に炎となって逆巻き始め、美しく老いた義妹を照らし出す。

 

 青龍偃月刀を振るい、まるで力強く舞いを踊る様に敵を蹴散らすその美しい勇姿は、共に戦場を駆けていたあの頃と、少しも変わらない。

 それにしても、彼女が戦っているこの敵はなんなのだろう。

 まるで影の様で掴み所が無く、かといって、影の様に希薄には感じられない。

 

 青龍偃月刀が翻る度、幾つもの“それ”が断末魔を上げて消えて行くのに、義妹を囲む数は一向に減る気配すら無い。

 それからどれ程の間、魅入っていたのだろう。

 青龍偃月刀は際限無く振られ続け、美しき軍神の舞は止まる事無く続いていた。

 

 と、不意に、ヒョヒョヒョヒョッと言う鋭い音が、遠くで聞こえた。

 化け物の笑い声にも思えるその音は一刀にも覚えがある。

 弓兵が一斉射を行った時の、弓弦(ゆんづる)(いなな)きだ。

 数瞬の内に見えるのは、空を覆いつくして迫りくる、死の群れ。

 

 呆然とそれを見つめる一刀の横を、何かが凄まじい勢いで駆け抜けて往く。

「愛紗―――!!」

 瞬間、ふわりと立ち上った香りでそれと分かった。

 義妹の控えめな、けれども優しい香りの香油。

 

 年を得て尚、美しい黒髪を靡かせ、軍神は死の群れに向かって疾駆し、不敗と謳われたその刃が、死の群れを切り裂いてゆく。

 その一閃で叩き落としている矢は、十や二十では無い。

 証拠に、彼女の青龍偃月刀の切っ先の届かぬ場所は突き刺さった矢で埋め尽くされてり、最早、鼠の這う隙間すら無い様な有様である。

 

 それでも降り続ける矢の雨を、尚も払い、斬り、薙ぐ。

 だが、いかな不敗の軍神とて、そんな事を永劫に続けられる筈は無い。

 いよいよ、際限なく降り注ぐ死の群れの中の一匹が、軍神の左腕の肉を引き裂くと、他のモノ達が緩やかな鎖骨に、滑らかな腹に、しなやかな脚に、我も我もとばかりに喰らい付く。

 

 一刀は、何故か義妹には決して聞こえはしないだろうと内心で理解しながら、声が枯れる程の叫び声を上げて、矢で出来た醜悪な草原を走り出した。

 彼女を死の群れから救う為、もう一度、その腕に抱きしめる為に。

 しかし、矢の草原は余りに硬く、愛する人は余りに遠過ぎた。

 

 そしてとうとう、一刀の視線の遥か先で、軍神の喉笛を、死の刃が貫いた。

「愛紗!愛紗!愛紗!」

 何度も名前を呼びながら、矢の草原を掻き分けてようやくたどり着くと、一刀は彼女を抱き上げた。 

 いや、抱き上げようとした。

 

 だが、一刀の腕は、血に濡れた軍神の身体をすり抜けるばかりで、触れる事が出来ない。

「愛紗!愛紗!」

 聞こえまいが触れられまいが、そんな事はどうでもよかった。

 今はただ、名を呼ぶ事しか出来ないからそうしているのだ。

 

 いつの間にか、死の雨は止んでいた。

「愛紗?」

 軍神の腕がゆっくりと上がり、喉に刺さった矢の柄を掴む。

 と、矢はいとも容易に二つに折れた。

 

 ぜぃ、ぜぃ。

 

 口から悲痛な音を吐き出しながら、それでも軍神は首の後ろに腕を回して、刺さったままの矢尻を貫かれた方向から引き抜くと、ごろりと仰向けになった。

 琥珀の色を湛えた美しい瞳は、彼女をのぞき込む一刀の姿を捉える事はない。

 いつの間にか蒼く澄み渡った空を、穏やかに見ている。

 

 苦しげに息を吐く軍神の口が言葉にならない言葉を紡ぐのを、一刀は見た。

 『ご主人様』と。

 最早、声を出すことさえ叶わぬ、化粧気のない涼やかな唇が、彼を呼ぶ。

 彼女の横顔は、いつしか年老いた軍神などではなく、一刀が愛した少女のそれになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 いかがでしたでしょうか?
 これのオリジナルを書いていた当時は、まだwordも導入されていない格安PCを使っていたので、色々とゴチャゴチャしており、ずっと気になっていたので、大分スッキリ纏められたのではないかと思っているのですが……。

 さて、今回のサブタイ元ネタは

 山崎まさよし/One more time One more chance

 でした。
 言わずと知れた珠玉の名曲です。
 一刀が一人で正史に帰り、恋姫たちを想って長い修行の時間を送ると言う着想を得た時、このタイトルしか考えられなかったのを今でも覚えています。
 懐かしいなぁ……。

 では、また次回、お会いしましょう!!


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第零・弐話 戦闘男児―鍛えよ、勝つために―

どうも皆さま、YTAです。
今回のオリジナル版は元々、wordにして4P分くらいの分量だったのですが、ちょっと肉付けし直そうと書き始めたら、なんかこんな感じにになってしまいました。
一連の初期作の再構成はもう少しサラっと終わらせるつもりだったのですが、この調子だと、まだ暫くは続くかも知れません。
頑張りますので、お付き合い頂ければ幸いです。
また、励みになりますので、感想などお気軽に頂ければと思います。
では、どうぞ!


 

 

 

 

 

 北郷一刀が渡米という選択肢を考え出したのは、防衛大学校の二年生になって間もなくの事だった。

 同期に、同じ剣道部に所属している村田伸介という名前の親子二代で幹部自衛官を目指している男が居て、彼の父親が陸海空の混成で作られたラグビーチームに所属していた時期があり、その時に在日米軍との親善試合を通じて知り合った海兵隊の士官と家族ぐるみの付き合いをしていると聞いた時だ。

 

 彼の話では、その士官の兄も、合衆国海兵隊の精鋭特殊部隊であるNavy SEALsの中でアメリカ西海岸を担当するチーム7に所属し、タスク・ユニットのコマンドまで務めた生粋の職業軍人でありながら、早々に退官して探偵事務所を立ち上げ、主に賞金稼ぎで生計を立てている変わり者なのだという。

 拘束時間が軍属ほど厳格で長くはなく、尚且つ近代兵器を扱う事も、現代の戦場と戦術を知り尽くした熟練者に教えを乞う事もでき、更には常に生存本能を刺激し続けられるという理想的な生活が手に入るかも知れないのだ。

 

 このチャンスを、絶対に逃がす訳には行かなかった。

 一刀は、村田とも随分と親しくなった三年の終わり頃になって、自分が既に任官辞退を決めている事、“ここ”を出た後はアメリカに渡ろうと思っている事を話し、ついては、いつか聞いた元軍人の私立探偵とやらに、雇って貰えないか打診して欲しいと頼んだのである。

 

 村田は、成績も良く周囲からの覚えも目出度い一刀が任官辞退を選ぼうとしている事に驚いていたが、神妙な顔で頼み込む一刀の姿に何かを感じたのか、父の友人の士官の息子、即ち、当の探偵の甥を介して連絡を取ると約束してくれた。

 その後、卒業までにも多くの事があったし、任官拒否の話を切り出した時は流石の 両親にも眉を(しか)められたが、『海外で生活してみるのも良いだろう』と、最終的には頷いてくれた。

 

 無論、国の後ろ盾を捨てて、私立探偵だの賞金稼ぎだのと言った、日本では犯罪小説(クライム・ノベル)の中でしか存在していていない危険な個人事業に手を出す心算(つもり)である事は黙っていた。

 父親の仕事柄を考えても、それを持ち出したらまず穏便に国を出る事は出来ないだろう事は分かっていたし、流石に母とて許してはくれなかったろう。

 

 だがまぁ、当時の一刀は、もう随分と罪悪感には慣れていたのだ。

 そんな訳で、約束を守ってくれた村田のおかげもあり、一刀は卒業後した年の6月の初週には、カリフォルニアはロサンゼルス国際空港のタラップに降り立っていた。

 

 

 

 

 

 

「レイモンドだ。レイモンド・P(フィリップ)・ミッチャム。レイでもフィルでも、好きに呼んでくれ」

 一刀は一瞬、蟻の群れの様にごった返す人の波の中を迷う事もなく近づいて来て、すかさず大きな手を差し出して来た偉丈夫の言葉に面食らったが、その顔を写真で見たものと同じだと認識し、直ぐに笑顔を作って差し出された手を握った。

「初めまして。カズトです。カズト・ホンゴウ。短い名前ですし、カズトでもカズでも結構です、サー」

 

「俺はもう現役じゃない。サーも大尉(キャプテン)も付けなくて良いぞ。もう一度やったら、これからはお前をずっと曹長(サージ)と呼んでやるからな」

「分かりました、さ……いえ、レイ。あの、よく自分が分かりましたね」

「そりゃ分かるさ。お前さんの写真は見たし、軍人は軍人を見ればそうと分かるもんだ。お前さんの方もそうだったろ?」

 

「えぇ、まぁ」

 確かに、日焼けに慣れた肌やピンと伸びた姿勢、効率的かつ実践的な訓練をしていると見ただけで分かる引き締まった筋肉、均等な歩幅で踵からつま先に掛けてしっかりと大地を踏みしめる歩き方など、話し掛けられるまでの一瞬の間ですら、判別材料はいくらでもあった。

 

 しかしそれは、レイモンドが一刀に対して近づいて来たから自然とフォーカスされたのであって、何百何千という人間が一斉に動いている状態から見つけ出すのとでは、難易度は段違いだ。

 まして、サンフランシスコのアジア人の比率は全体の三割を超えていて、実際、二人の周囲には、多くの黄色人種が行きかっているのだから。

 

 

 

「さぁ、案内しよう。こっちだ」

 一刀が言われるがまま外の外に出ると、乾いた暖かい風が頬を撫でる。一刀は内心で、成程これが80年代のポップスの中で持て囃されたカリフォルニアの風かと独り言ち、小さく笑った。

 確かに乾燥していて程よく暖かいが、結局のところ、排気ガスの匂いは何処も大して変わりはしない様だ。

 レイモンドは、駐車場まで一刀を先導すると、モスグーリンのジープ・クラングラーに近づいて、ポケットからスマートキーを取り出してボタンを押し、バックドアを開けると、『荷物を入れろ』と身振りで示す。

 

 一刀は大人しく礼を言ってバックパックをそこに入れ、一歩下がって、レイモンドがドアを閉めるのを待ち、再びレイモンドが身振りで『乗れ』と指示を出してから、助手席のドアを開けて乗り込んだ。

「抜けないだろ」

「え?」

 

 走り出して間もなく、レイモンドはサングラス越しに愉快そうな視線を投げて、一刀を見た。

「クセだよ。一度、叩き込まれると、中々抜けないもんだ」

「はは、ええ。はい」

 どうやらレイモンドは、『上官』である自分に世話を焼いてもらっている間、一刀がどこか落ち着かない気分で居た事を言っている様だった。確かに、『上官』の前で命令がない時には、せめて直立不動で待機していないと気が気ではない。

 

 身体が、上官に「休め」と言われるのを待っているのだ。

それに、階級で言えば遥かに上の彼に車のドアを開けさせるのは、どうにも居心地が悪かった。

「娑婆に戻れば、その内に慣れる―――陸軍(ソルジャー)なんだって?」

「はい。まぁ、まだ仮免許みたいなものです――ご存じでしょうけど」

 

「あぁ、それでもエリートだ。どうして任官しなかったんだ?こっちに来て、賞金稼ぎなんぞをやりたいなんて言い出す位だ。別に腰が引けた訳でもないんだろ?」

「はい。守らなきゃ……いけないので」

「なに?」

 

 一刀は、『しくじった』と思った。他人からここまで明け透けにこの手の質問を投げかけられたのは初めての事だったので、特にそれらしい言い訳など用意せず、素直に言葉を口にしてしまった。

 レイモンドは、黙り込んだ一刀に僅かに視線を投げると、「少し寄り道でもするか」と言って、ウィンカーを出した。

 

「わぁ。此処、映画で見た事ありますよ!」

 世にも有名な、サンタモニカのパシフィック公園から海に向かってせり出すサンタモニカ桟橋(ピア)に立った一刀が感嘆の声を上げると、レイモンドは笑いながら、途中の売店で買ってくれたフラッペの一つを一刀に渡してくれたので、礼を言って極太のストローからそれを(すす)る。フレーバーはチョコレートだった。

「一つだけ訊かせろ、カズ」

 

 一刀を身振りでベンチに誘導したレイモンドは、共に座りながら、サングラスの奥から鋭い視線を一刀に投げた。

「何です?」

「お前は、不特定多数の誰かを傷つける為の経験を積みたくて、こんな仕事がしたいと言い出したんじゃないよな?」

 

「自分は、テロリスト志望じゃありません。ついでに言うと、若い女性の肌を剥ぎ取りたいとか、綺麗な目玉をコレクションしたいとかって言う欲求も、感じた事は無いですね」

「真面目に訊いてるんだ、カズ」

「自分も、真面目に答えている心算ですよ、レイ」

 

「……」

「……」

 場に似合わぬ、僅かに不穏な沈黙の後、レイモンドは溜息を吐いて、自分のフラッペを啜った。

「俺にはどうも、お前がピカピカの新兵には思えないな」

 

「よく言われます。面の皮の厚さだけは一人前だって」

「そうか」

「えぇと……自分は、自分の大切な人達を……愛してる人達を守る為に、技術と知識を学びたい―――それだけです」

 

「そうか」

 レイモンドは、これまた世にも有名なサンタモニカの夕日にサングラスを向けながら、それだけ言って再び沈黙した。一刀の視線の先を、屈託のない笑い声を上げながら、小柄な白人の少女が野生動物の様な俊敏さで駆け抜けて行き、それを追って、大学生ほどに見える年嵩(としかさ)の少女が二人、ゆったりとした足取りで通り過ぎて行く。

 髪や瞳、肌の色も同じだから、恐らくは姉妹か従兄弟の可能性が高いだろう。

 

 

 一刀が少しだけ視線でその影法師を追いかけていると、年嵩の二人の内の一人が、鋭さと優しさの交じった声音で、「あんまり遠くに行っちゃダメよ!」と、小柄な少女に声を掛ける。

『あぁ、本当に』

 一刀は小さく溜息を吐いて、夕日の染める赤を締め出す為に目を瞑った。

 

 愛しい三人の義妹たちを、この美しい場所に連れて来てやれたなら。

 彼女たちが自分に施してくれた多くの愛情と信頼の何分の一か分だけでも、返せるのではないかと考える。

 桃香はきっと、今でも独りで夜中まで山のような書簡と闘っているだろう。愛紗はまた、ろくに休みも取らずに働き詰めに違いない。鈴々は遊び相手が減って、どんなに寂しい思いをしているだろうか。

 

「カズ」

 一刀は、レイモンドの声で目を開き、その顔に視線を向けた。

「良いだろう。明日からの半年間は、研修期間だ。みっちり鍛えて、使い物になる様にしてやる」

「ありがとうございます。さ……レイ」

 

「だが、一つだけ覚えておけ、カズ」

「?」

「もしお前が、俺の教えた技術で何の罪科もない人間を傷付ける様な事をしたら、その時は――」

 レイモンドは、銃に見立てた人差し指を、一刀の胸の中央に軽く押し当てた。

 

「俺が、お前を殺すからな」

「肝に銘じます。レイ」

 レイモンドは、神妙な顔で答えを返した一刀の様子に満足したのか、銃の形にしていた手を解いて、改めて差し出した。

 その手を握り返した瞬間に、一刀のアメリカでの生活は、本当の意味で始まった。

 

 

 

 

 

 

 それからの半年の、なんと多忙であった事か。レイモンドは文字通り、夜明けと共に一刀を郊外や自分の家のプールに連れ出して、徹底的にSEALs仕込みの基礎訓令を施してくれた。

 

 無論、レイモンドにも仕事がある為、彼が賞金首を狙って出掛けている間は、SEALs時代のレイモンドの右腕で、退役後もレイモンドの元で働いているジェイコブ・ベイカーという名の壮年の黒人男性が、一刀の訓練に付き合ってくれた。

 彼は名うての狙撃手(スナイパー)だったが、任務遂行中に右脚を撃たれて名誉除隊となったのだそうで、いつも僅かに足を引きずっていた。一刀は彼らと付き合う内、レイモンドが軍を辞めたのはジェイコブの為ではないかと思うようになっていたが、結局、彼らと別れる時まで、本人たちからその話を聞く事は(つい)ぞなかった。

 

 彼との訓練は、レイモンドとは違った意味で刺激になった。映画やゲームなどでの一般的なイメージとは違い、スナイパーと言う人種は、社交的で協調性があり、頭脳明晰で優れた身体能力を有していなければならない。

 戦地の気候や地形の膨大な知識を駆使して、いち早く最適な狙撃場所(スナイプ・ポイント)まで見つからずに潜入し、小隊の進行や通信、標的の動きの観察から退路の確保までを一手に担うだけでなく、彼らの放った一発の銃弾がどこに当たるかで、仲間の安否や任務の成否が決定するからだ。

 

 ジェイコブは勿論、レイモンドが課しているカリキュラムを忠実に守って一刀を指導していたが、一刀が予想以上の成果を上げる様になると、“課外授業”と称して、自分の銃器のコレクションを一刀に貸し出して射撃訓練をしてくれたり、“座学”と称しては、ジャンクフードのランチを買い込んで郊外までドライブがてら、実践的な現場での知識を教えてくれたりした。

 尤も、一刀に煙草という悪癖を教えたのもジェイコブであったから、必ずしも良い事ばかりではなったと言ってもいいのかも知れないが。

 

 そうして半年が過ぎる頃、無事に『基礎課程修了』の免状(因みに、レイモンドの娘のメアリーの手作りだった)と共に、正式にM&B探偵事務所の社員となった一刀は、勤務時間外には、多くの特殊技能を学ぶ事に費やした。

 一刀もロスアンゼルスに住むことになって初めて知ったのだが、映画の都ハリウッドを有するこの街には、世界的な知名度を得られるアクション映画への採用を求めて、あらゆる種類の武術や格闘術のジムが立ち並ぶだけでなく、スタントマン達の養成所や、アクションスタントを自分でこなしたいと考えている俳優たち向けの個人レッスンを行う業者がいくらでもあったのだ。

 

 格闘術以外に一刀が特に好んだのは乗馬で、訓練だけでなく、単純に息抜きの為に赴く事もあった。仲良くなった馬と心地よく大地を駆けていると、西涼の娘たちの生命力に溢れた歓声が、どこかから聴こえて来る気がしたからかも知れない。

 そうして月日が流れ、一刀も一人前の調査員としてレイモンドやジェイコブの信頼を得る様になった三年目の夏、転機は突然にやって来た。

 

「嫌な予感はしてたんだよ」とは、後々、病院のベッドでジェイコブが口癖代わりに言っていた愚痴である。レイモンドが、デスクワークがメインのジェイコブにも同伴を頼んだ事もそうだし、普段は滅多に使わない45口径(フォーティーファイブ)のM1911A1や、ショットガンのレミントンM1100を(念の為に)持って行こうと言い出したのも、普段のルーティンからは逸脱した行為だった。

 

 有体に言ってしまうと、いつも通りの単純な、愚にも付かない保釈金踏み倒し犯(ベイルジャンパー)を捕まえるだけの仕事だった筈が、悪運が重なりに重なって、ギャング同士の撃ち合いの真っただ中に放り出される事になったのである。

 三人とも、そもそもが地力の違う元エリート軍人とは言え、相手は違法なMAC10サブマシンガンやアサルトショットガンのSPAS12で武装していた為、正に九死に一生の土壇場だった。

 

 当然の如く後の処理も面倒を極めたが、M&Bは品行方正で人死になど滅多に出さない優良企業であったし、レイモンドもジェイコブも一刀も、よく顔を合わせる事務官や判事たちとは良好な関係を築いていたので、十人近い死傷者を出した銃撃戦に巻き込まれた人間にしては、大分、融通を利かせて貰ったと言ってもいい。

 

 とは言え、一刀とジェイコブは肩を銃弾が貫通した他、レイモンドも含めれば、全身に到底20では利かない裂傷やら打ち身やらを頂戴する事になってしまったが、生きているだけで儲けものではあったろう。

 一刀が殆ど日課になっていたジェイコブへの見舞を終えて病院からリンウッド地区のアパートに戻り、自分も三角巾で吊った左腕に苦労しながら煙草に火を点けると(当時はキャメルを吸っていた)、ドアをノックする音が聴こえた。

 

「はい?」

「よう、俺だ。レイモンドだよ」

 一刀は、慌てて窓を開けながら返事を返す。

「レイ?ちょっと待って下さい。今、煙草臭いから!」

 

 レイモンドは、ジェイコブの喫煙癖を良く思っていない事を隠そうともしていないし、一刀を引き込んだ事にも(こちらは密かにだったが)お冠だったので、一刀はレイモンドの前では滅多に煙草を吸わなかったのだ。

「いや、今は気にしないで良い。それより、開けてくれないか?どうにもここ暫く、外でジッと立ってると落ち着かなくてな」

 

「そりゃそうでしょうね」

 一刀がそう言いながらドアを開けると、レイは未だに絆創膏を張った頬を綻ばせて、二つ重ねて持っていた特大のピザの箱を掲げて見せる。絆創膏とピザと言う組み合わせは、普段は精悍無比な印象の壮年の男性に、何処かイタズラ小僧の様な印象を与えていた。

 

「飯代は俺持ち」

「ビールは俺持ち、ですよね」

 一刀が笑顔でそう答えて招き入れると、レイモンドは勝手知ったる様子でダイニングテーブルの前まで行き、ピザをそこに置いた。

 

「アサヒしかありませんけど」

 一刀が冷蔵庫を開けてそう言うと、レイモンドから朗らかに答えが返って来る。

「大いに結構!『スゥパァドラ~イ』は好みだからな!」

 一刀が戯れに動画サイトで彼のビールのCMを観せて以来、何故かツボに嵌ったらしいレイモンド最新の持ちネタに、一刀は笑顔を浮かべてリトルトーキョーで仕入れて来たアサヒの半ダースパックから二本を抜き取り、残りを氷と水を入れたアイスピールに突っ込むと、キッチンカウンターの上に置いた。

 

「手伝って下さいよ。こっちはケガ人なんですから」

「アイアイ、曹長殿(サージェント)!」

 レイモンドは、ビシっと海兵隊式の敬礼をすると、大きな両手で全ての物を一度に掴み上げ、ダイニングテーブルに移してくれた。

 

 一刀は笑いながら、「ご苦労、大尉(キャップ)」と答えて敬礼を返すと、冷えたジョッキを二つ持って自分もダイニングテーブルに近づく、すると、レイモンドは尚もおどけて、“休め”の体制で顎をグイと引き上げて見せる。

「いえ、これもガンホーの精神でありますから、曹長殿!」

 

「もう止めて下さいよ、やり辛いなぁ」

 一刀が苦笑を浮かべてそう言うと、レイモンドは漸く“直れ”をして悪戯っぽく笑い、椅子に腰かけた。例の馬鹿騒ぎ以来、レイモンドはジェイコブや一刀に会うと、何時もこんな調子でおどけて見せる様になっていた。

 

 ジェイコブによると、「皆で生き残れて、嬉しいのさ。暫くしたら元に戻るとも」との事だったので、一刀は喜んで付き合う事にしていたのだ。

「そら、ケガ人、注いでやるよ」

 レイモンドがそう言ってプルトップを開けてくれたので、一刀は素直に礼を言ってジョッキを傾けた。

 

 

 

 ジェイコブが自分のジョッキにビールを注いで掲げて見せたので、一刀はそれに合わせて自分のジョッキをカチンと合わせた。

乾杯(チアーズ)

「乾杯」

 

「さぁ、敵はペパロニスペシャルとバジルシーフードだ。どちらから片付けるべきかな、曹長?」

「二面作戦を展開しては如何ですか、大尉」

「ふむ、四十を超えた俺にはちと厳しい手だが、お前の心意気を汲んで作戦を採用しよう」

「ありがとうございます、大尉」

 

 レイモンドと一刀は、思い思いにピザに手を伸ばし、むしゃむしゃと食べ始める。それから、すっかりピザを殲滅するまでに交わされた会話と言えば、レイモンドの「タバスコは?」という問いに、一刀が答えた「冷蔵庫ですよ。取ってきます」の二言だけだった。

「いやいや、食い過ぎたなこりゃ。今日は寝る前まで胸灼けとの持久戦を繰り広げなきゃいかんぞ」

 

「はは、帰りにでも、薬局で胃薬(Zantac)に支援要請を出しておいた方が良いのでは?」

「良い考えだ、カズ」

 レイモンドは、ニヤリと笑って、開け放たれた窓から流れ込んで来る夕暮れ時の風を心地よさそうに受けると、三本目のアサヒの缶を開け、直接口を付けて旨そうに流し込んだ。

 

「それでな―――」

 暫しの沈黙の後、ipodを繋げたスピーカーからレイモンドが好む80年代の流行歌が流れて来る中、彼は気が進まない様子で口を開いた。

「お前、もうそろそろ帰った方が良いんじゃないかと思うんだ」

 

「あれって、やっぱり俺が何か―――」

「違う。お前の仕事は完璧だったし、俺もジェイもそうだ。ただ、運が悪かったに過ぎないさ。だけどな、一刀。海の男と兵士は、昔から縁起を担ぐもんなんだ。その両方である海兵(マリーン)の俺やジェイ至っては、言わずもがなでな」

 

「俺が悪運を運んで来たって?」

「そうじゃない。“俺たちが三人で居る事が”悪運に好かれ始めてるんじゃないか、と思ってるのさ。考えてみろ、お前が来てからの三年、こんな事が今までにあったか?」

「いや」

 

 

「だろう。俺も、戦場じゃもっと酷い目にいくらでも遭って来たが、この仕事を始めてからは初めてだったよ。どうにも、潮目が変わった様な気がして仕方が無いんだ」

「じゃあ―――」

 一刀は、ipodの中の若き日のスティーヴィー・ワンダーが、透き通った声で『今夜は僕ら浮気な恋人たち(パートタイム・ラヴァー)のものさ』と歌うのを聴きながら、如何にか気持ちの整理を付けて言葉を絞り出そうとする。

 

 彼の美しい歌声を鬱陶しいと感じたのは、後にも先にもこの時ただ一度だけだった。

「これで、トリオは解散かい?」

「ああ。だが、勘違いするな一刀。俺はお前を追い出したいなんて、微塵も思っちゃいないんだ。でもな、お前には守らなきゃいけない人が居るんだろ?その為に、この街に――俺の所に来たんじゃないのか?」

「……そうだよ」

 

「なら、今が帰るべき時なんじゃないかと、俺は思う。教えるべき事は、全て教えた。お前は俺が軍を辞めて以来、ジェイ以外じゃ唯一、安心して背中を預けられる相手になってくれたよ。それはつまり、お前が学ぶべき事は、この街にはもう無いって事だ。勿論……」

 

 レイモンドは、そこで一度、言葉を切って、肯定と拒絶の両方を求めている様な複雑な表情を浮かべた。

「お前が本格的にこの街に落ち着いて、俺たちの後継者になってくれるって言うなら、話は別だが」

 また、沈黙が流れた。

 一刀が口を開いたのは、ステヴィーがビージーズにバトンタッチして、更にはケニー・ロギンスがフットルースの大サビを爽やかに歌い出した頃の事だった。記憶では、次にはアース・ウインド&ファイアが続く筈だ。

 

「帰るよ。きっと、あんたの言う通りだと思うから」

「そうか、じゃ――」

「ただ、ジェイが退院するまでは待ってくれ。せめて、皆で……あんたやジェイの家族と、お祝い位はしてから帰りたいんだ」

 

「あぁ。俺も、そう言おうと思ってたんだ。それに、お前の腕もな。わざわざ日本まで労災を送らなきゃいかんなんて、面倒で仕方ない」

 レイモンドはそう言って、軽く一刀の三角巾で吊られた腕を突くと、白い歯を見せて笑った。

 それから一時間ほどしてレイモンドが帰り、一人部屋に残された一刀は、気に入っていた大きな窓の縁に腰かけながらキャメルに火を点け、紫煙がロスアンゼルスの街明かりに溶けるのを、暫くじっと眺めていた―――。

 

 

 

 

 

 

 

 それから二月ほどが過ぎ、ロスアンゼルスの仲間たちに別れを告げた一刀は、一旦、東京に戻って家族に会っただけで、直ぐに母方の実家の鹿児島へと旅立った。久し振りに会う祖父は、白髪の数こそ増えたものの未だに矍鑠(かくしゃく)としていて、一刀を招き入れる時の背中は、小さい頃から感じていた、厳しさと優しさを備えた大きさを保っていた。

 

「もう一度、鍛えて下さい」

 ちゃぶ台を挟んで正座をし、そう頭を下げた孫を、北郷達人(たつひと)は静かに見詰めた。

「どげん風の吹き回しじゃ。子供ん時は、散々に嫌がって逃げちょったお前が」

「……」

 

 達人は、沈黙を貫き返事を待つ一刀の下げたままの頭を見遣りながら小さく鼻息を吐くと、するりと立ち上がった。

「着いて来い」

 一刀は、そう言ってさっさと茶の間を出てしまった祖父の背を追って、慌てて立ち上がる。

 

 一刀が黙って着いて行くと、祖父が一刀を導いたのは、子供の頃の一刀が嫌いで仕方のなかった、北郷家の裏手にある道場だった。実戦を想定した示現流の道場である為、床は板張りではなく、砂を敷いて高低差を付けてあるので、靴を履いたまま道場の門を潜る。

 達人は、壁掛けの木刀台から唯の木の棒と見紛う一本の木刀を取って、一刀に差し出した。

 

「そいば、爺ちゃんに向かって振ってみろ」

 一刀が木剣を受け取ると、達人は返事も待たずに道場の中央に歩いて行って、するりと一刀の方に向き直った。

 一刀は、覚悟を決めて祖父に正対すると、目を閉じる。

 

 そうして、剣道で教わった事は全て頭から締め出した。自分が学びたいのは、精神修養の術でもスポーツでもない。

 慣れ親しんだ右足を前に出す上段の型ではなく、自分の足の大きさ一つ分を開けて、左足を前に出す。

 眼前に居るのは自分の祖父ではないと言い聞かせる。敵だ、と。

 右八双に振り上げた木剣を一度止め、呼吸を整えて、腰を落とす。

 

「鋭!!」

 

 裂帛の気合の籠った一歩と共に、木剣が凄まじい風切り音を伴って振り下ろされ、達人の左の首筋の寸でで、ビタリと止まった。だがそれは、便宜上の事に過ぎない。一刀は、祖父の身体を袈裟に切り裂く心算で剣氣を込めていた。

「良か」

 

 達人はそれだけ言うと、構えを解いた一刀から木剣を受け取って壁に戻し、手振りで呼び寄せるて、今では自分よりも僅かに背の高くなった孫を見上げた。

「一刀、座らんせ」

肩に大きな手を置いてそう言う祖父に素直に従い、一刀が素直に設えられた木のベンチにに腰を下ろすと、次の瞬間、一刀は懐かしい祖父の匂いに包まれていた。

 

「ないしちょったんじゃ、一刀」

 自分を引き寄せて抱きしめ、頭に手を置いている祖父の震える声が降って来る。

「優しかったおまんが、こげんな殺気ば込めて剣ば振れる様になるまで……一人でないしちょったんじゃ、一刀よ」

 一刀は、喉に込み上げて来る熱いものを如何にか飲み下して、祖父のガッシリとした胴に腕を回した。

 

「俺は、強くならなきゃいけないんだ……じいちゃん、俺を鍛えて……鍛えて下さい……!」

 達人は、嗚咽を堪えてそう懇願する孫の頭を力強く撫でてやる。かつて、小さな孫をあやしてやった時と同様に。

「分かった。なんも心配せんで良かど。爺ちゃんが、お前を鍛えてくるっで。じゃって、もう泣くな、な?」

 

 達人は、その約束を破らなかった。

 それから五年の間、達人は正に『瓶の水を移すが如く』という言い回しの通りに一刀を鍛え、その全てを教え込んだのである。

「ま、段位が聖に届くかち言われるとギリギリじゃっどん、業に関しては四段で良かじゃろ」

 

 事実上の皆伝を告げられてから数週間の後、一刀はその証として、祖父秘蔵の一振りであり、大阪正宗の異名を取った井上真改国貞の打ち刀を譲り受け、登録やら何やらの面倒ごとを全て片付けて、鹿児島空港のエアターミナルに居た。

 見送りは断ろうとしたが、達人はのらりくらりとそれを躱して、結局はここまで着いて来てくれている。

 

 五年も寝食を共にしていれば、特にこの様な時に二人だけで喋る様な話題も持ち合わせて居ないので、二人は黙って座り、自販機で買ったコーヒーを飲む位しかする事もない。

 やがてアナウンスに搭乗を促された一刀は立ち上がりざま、祖父が孫を呼び止める静かな声に応えて振り向き、頭を殴り付けられでもした様な衝撃を受けた。

 

『こんなに、小っちゃかったっけ?』

 そこには、何処にでも居そうな小さな老人が座っていた。何時も厳めしく吊り上がっていた筈の眉尻も穏やかに下がって、大きかった筈の身体は、半分ほどにも縮んだのではないかと思える程だ。

 そこまで考えて、一刀ははたと思い至った。いくら矍鑠として見えても、祖父はもう、九十に手が届く古老なのだと言う事に。

 

 祖父は、残された時間のほぼ全てを、自分の為に使ってくれたのではないだろうか。

 一刀が、そんなどこか不吉な思いを抱いたのを知ってか知らずか、祖父は穏やかに笑った。

「もう、会えんのじゃろ?」

「分から……」

 

 一刀はそこまで言い掛けて口を閉じ、しばし祖父の穏やかな瞳を見詰めてから、小さく首を縦に振った。

「多分―――きっと、そうなるんじゃないかと思うよ」

「そうか」

「うん。あの、な、爺ちゃん……ありがとうございました!」

 

「男の別れじゃっど、爺ちゃん、湿っぽかこつは言わん。一刀、おまんは、爺ちゃんの自慢の孫じゃ。どげな時も前ば見て、気張って進め」

 達人は、深く下げられた一刀の頭を愛おしそうに撫でてから立ち上がり、「ほれ、乗り遅れるど」と言って頭を上げさせ、肩を叩いて送り出す。

 

 それから暫くして、空港の展望デッキに出た達人は、孫を載せたジャンボジェットが蒼穹に雲を引いて見えなくなるまで、何時までも静かに空を見ていた。

 

 

 




 今回のお話は如何でしたでしょうか?
 一刀を成熟した主人公として登場させると決めた時、そのバックボーンをきちんと書きたいという想いは当時からあったのですが、何分、早く続きを書きたくて焦れていたり、ボキャブラリーがまだまだ少なかったりした事もあって、曖昧な形にしてすっ飛ぼしてしまった部分が多々あり、後悔していた箇所でもありました。

 今回も、文章量は大幅に増えているものの、現代劇だからこそ出来る表現というのも沢山あって蛇足が過ぎてしまいそうだったので、結構、自制して纏めたつもりだったりします(汗)。

 さて、今回のサブタイ元ネタは、機動武闘伝Gガンダムより

 戦闘男児―鍛えよ、勝つために―

 でした。

 元々は主人公であるドモン・カッシュのキャラソンで、若々しい関智一さんが歌っているバージョンも良いのですが、古き良き香港映画を彷彿とさせる中国語版も秀逸
です(笑)。

 では、また次回お会いしましょう!
 


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幕間 星の一秒 前編

 どうも皆さま、YTAです。
 今回の投稿はエピソードと言うよりも、私が自分の作中に於いて正史と外史をどう解釈し扱うつもりでいるか、そして私の作品に於いての敵とは何か、と言う事についてを、今後の展開の鍵となる場所や人物の登場と合わせた説明回と言える物です。
 小難しいやり取りもある為、もしかしたら肌に合わない方もいらっしゃるかも知れませんが、世界観のバックボーンの概要は、この前後編でほぼ描き切っていると思うので、ここを抑えてさえ頂ければ、今後のエピソードも比較的すんなり(私の筆力不足の場合は別にして)読んで頂けるのではないかと思います。
 この前編は主に、正史と外史についてです。
 お気に入り登録、評価、感想など、大変励みになりますので、お気軽に頂ければと思います。では、どうぞ!


 

 

 

 

「大事なお話があるから、ご主人様と王様たちに一緒に来て欲しいのぉん♪」

 定例の三国会議が終わり、北郷一刀が三国の王たちと雑談を交わしていると、ピンクのブーメランパンツ一丁でクルクルと舞い踊り、スキンヘッドに揉み上げをおさげに結い上げた筋肉ダルマという完全無欠の変態が突如として謁見の間に乱入し、そんな事を(のたも)うた。

 

 眉間に凄まじい縦皺を刻んで固まる曹操こと華琳、引き攣った笑みを浮かべて冷や汗を流している劉備こと桃香、額に手の甲を当てて気を失う孫権こと蓮華。

 これで、他の文官や武官たちも彼(彼女?)と初対面の者たちばかりであったなら阿鼻叫喚の大騒ぎになっていたかも知れないが、一刀を含めて、なんやかやと都の街では世話役として知られている貂蝉と知り合いで真名まで許した者が多かった事もあり、混乱は直ぐに収束した。

 

 とは言え、流石に貂蝉の言葉に対する返答は保留されたままであったが。

「大体にして―――」

 どうにか平静を取り戻した華琳が、白魚の様な指で蟀谷(こめかみ)を揉みながら、深い溜息を吐いた。

「一般人が……まぁ、差し当りは“一般”人と言う事にしておくとして、どうやってこの城の奥深い謁見の間まで、衛兵に止められもせずに入り込めたのかしら?」

 

「あらん、曹操ちゃんてヴぁ、そんなの愛の力に決まってるじゃな~い?」

「……答えになっていないわよ」

 華琳が、額に浮いた青い筋をひくひくと痙攣させながら、それでも意志の力を総動員してそう言い放つと、一刀は乾いた微笑みを顔に張り付かせて、華琳を宥めようと試みる。

 

「いや、何て言っていいのか分かんないけどさ、華琳。こいつはそう言う、神出鬼没の存在だとでも思っておいた方が良いと思うよ、精神衛生の上でもさ。その、華佗も信頼してるみたいだし、武官や文官の中にも仲良くしてる連中は多いし……もしもコイツが俺たちに害を成そうとしてるなら、とっくにもっと酷い事になってるんじゃないか?」

 

「だからと言ってだな、北郷。この様な正体不明のへんた――もとい、一般人に、おいそれと君主方の身柄を預けられる筈もなかろう。それに、お前は何故、こやつに『ご主人様』などと呼ばれているのだ?」

 周瑜こと冥琳が、手巾で眼鏡を拭きがてらそう言って、自分の影に隠れて震えている蓮華を見遣る。

「いやまぁ、俺にもなんでそう呼ばれてるのかは分からないし、冥琳の話は一々、尤もだけどさ」

 

 一刀は、冥琳の正論に深く頷いた。そもそも一刀自身、貂蝉に着いて行きたいと思っている訳でもないのだ。

「別に、お外に連れ出そうって言うんじゃないわん。何だったら、お城の庭とかだって構わないわよん」

 貂蝉はそう言って、クイっと腰を捻り、熊でも卒倒しそうなウィンクを投げて見せる。

 その言葉を聞いた夏侯惇こと春蘭は、貂蝉が乱入して来た時点で既に気絶していた荀彧こと佳花を片手で猫のように軽々と引っ掴みながら、呆れた様に頭を掻いた。

 

「なんだ、その言い草は。それなら、此処でも構わんと言う話になるではないか。わざわざ華琳さまにご足労を願う様な事でないのなら、此処で済ませろ、此処で」

「いやん♪春蘭ちゃんたら、セッカチさんなんだからん。確かに、極論を言っちゃうとココでもイイけど、他人の目とか後始末とか、色々と面倒なのよネ。少し開けていて、余計な他人の目が無い所の方が良いのよ」

 

「ますます以って意味が分からんぞ」

 春蘭がそう言って凛々しい眉を(ひそ)めると、孫策こと雪蓮がケラケラを愉快そうに笑った。

「そりゃそうよ。貂蝉なんて、そもそも存在自体が意味不明なんだから」

「あら!花も恥じらう漢女に向かって、ヒドいわ、雪蓮ちゃんてヴぁ!アタシ、泣いちゃうわよ!」

 

「アハハ、ごめんね、貂蝉。でもまぁ、確かにアンタの言う事、聞いておいた方が良いかもね――ただの勘だけどさ」

「ふむ。雪蓮殿の勘、ですか。ともなれば、一考の余地はあるのでしょうが……」

 雪蓮の“勘”の精度をよく知る関羽こと愛紗が、それでも心配そうに、腰が引けそうな自分を叱咤している様子の桃香に視線を向ける。

 

 と、その様子を見ていた趙雲こと星が肩を竦めた。

「なに、心配はいらんとも、愛紗。貂蝉の人柄については、私が保証しよう。初めて会った時から他人の様な気がしなかったが、こやつならば、主や桃香さまに害成す様な事は決してせんさ。腕前の事も考えれば、返って護衛の心配をせずに済むだけ安心というものだ」

 

 

 

「むぅ……」

 愛紗は、天下に轟く曲者とは言え、幾多の戦場で背中を預けて来た戦友の太鼓判を無碍にも出来ず、唸り声を上げた。つまりは、消極的肯定、と言う事であるらしい。

 一刀は、場の空気は貂蝉の側に傾いて来た様子を察して、決を採る事にした。皆、多忙な身だ。どちらにせよ、さっさと終わらせるに限る。

 

「じゃあ、『行ってみても良い』って言う人だけで行くってのはどう?貂蝉も、それで良いだろ?」

「まぁ、アタシ個人としては、正直、どっちでもイイのよねん。ただ、後々の説明が楽になるだろうと思って、王様たちにも来て貰った方が面倒がないかもって考えただけだもの」

「だ、そうだよ。じゃあ行くのは、俺と雪蓮と――」

 

「気は進まないけれど、私も行くわ。春蘭たちが真名を許している位なのだし、ま、捕って食われはしないでしょう」

 そう言って、その内、溜息と呼吸の区別がつかなくなりそうな様子の華琳が同意を示すと、桃香も小さく手を上げた。

 

「私も行くよ。星ちゃんがここまで信頼してる人なら、間違いないと思うし」

「ん。じゃあ、蓮華はどうするの?私が代理って事でも、別に構いはしないけど……」

 雪蓮が、未だに冥琳に(すがり)付く事で漸く立てている様子の蓮華に微苦笑を浮かべながら水を向けると、蓮華は生まれたての小鹿の様に脚を震わせながら、それでも意地を見せる様に、冥琳の前に一歩、足を踏み出した。

 

「も、元々、王への請願だったのですから、先王である姉さまお一人を行かせて、当代の私が行かない訳には参りません!同行いたします!」

「あらん、流石は孫権ちゃん。凛々しくてステキよん♪」

「ひっ!?」

 

 蓮華は、貂蝉の強烈なウィンクに涙を浮かべながらも、どうにかよろよろと一刀の隣まで歩を進めて来た。

「か、一刀。その……」

「はは。分かってるよ、蓮華。怖ければ、俺の後ろに居て良いからね?」

 一刀が心から同情を込めてそう言うと、蓮華は申し訳なさと気恥ずかしさが()い交ぜになった様な表情を浮かべて小さく頷き、一刀の上着の裾を握って俯いた。

 

 

 

「それでは、さっさと済ませましょうか。今日は、秋蘭が新しい茶葉を仕入れてくれているらしいから、お茶の時間を少し長めに取りたいの」

「任せて、曹操ちゃん。お茶の時間までには、ちゃんと帰って来れるから」

貂蝉は、華琳の言葉に満面の笑みを浮かべながらそう答えると、クネクネと踊りながら、一行を先導する為に歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 一言に『城の庭』などとは言っても、そこいらの児童公園などとは訳が違う。

 日本人に分かりやすい様に、現在は皇居と呼ばれている(かつ)ての江戸城に例えるならば、その中心となる内壕(うちぼり)の部分、即ち、皇居と皇居外苑周辺だけでも約230ヘクタールに及び、更に俗な例えをすれば、東京ドーム約49個分にも相当した。

 

 城下町を含む外壕までを含めた総構は、千代田区と中央区のほぼ全域をカバーするほどで、正確な広さに至っては、曖昧なままだと言う。

 無論、今や中華の中心地として発展・増築が続けられているこの都の城も例外ではない。

 一度、『庭』に足を踏み入れれば、三国の文・武官たちが憩いを求めて集う東屋や庭園部分以外にも、手入れされた広大な敷地が広がっている。

 

「そうねぇ。この辺りにしようかしらん」

 貂蝉がそう呟いたのは、一行が城の庭の中央付近に位置し、茂みや木々が生い茂り、ちょっとした林になっている辺りにまで歩を進めた頃の事だった。

「随分と歩いたものね、まったく。本当に、お茶の時間までに帰れるのかしら?」

 

 華琳が呆れた様にそう言うと、どうやら貂蝉の放つ圧力にも慣れて来たらしい桃香が、同意を示して頷いた。

「そうだねぇ。どうせなら、お弁当を持って来た方が良かったかも。私、お腹が空いて来ちゃったよ」

「言えてる!良い天気だし、どうせならお酒も持って来ればカンペキだったわね~」

 

「もう、二人とも呑気なのだから……」

 桃香と、彼女の話題に乗ってクイと酒を飲む仕草をして見せる雪蓮を眺めながら、貂蝉と慎重に距離を取って歩いていた蓮華は、深い溜息を吐く。と、歩みを止めた貂蝉が華麗なターンで振り返った。

「お待たせしたわねん、みんな。ちょっと、この開けた辺りに、ひと塊になってくれるかしらん?」

 

「注文が多いなぁ、もう」

 正直なところ、桃香の意見に心から賛成したいほど空腹になっていた一刀が、愚痴っぽくそう言いながらも他の四人に目配せをすると、彼女たちも頷いて、それぞれに背を預けて円を作ってくれる。

「ありがとねん。それじゃ、えっと、どこにやったかしらん?」

 

 貂蝉はそう言って、あろうことか、おもむろに自分の股間に手を入れ、ゴソゴソと豪快に(まさぐ)り始めた。女性陣は目を覆う事すら忘れて茫然とその姿を眺めるしかなかったし、一刀に至っては、丸太の様に太い腕が肘の辺りまでブーメランパンツの中に納まっている事に対してすら、ツッコむ気力すら湧いてこない。

 

「ああ!あったわ!もう、いやあね。最近、忙しくて、すっかりお掃除するのを忘れちゃってたから――」

 貂蝉は、そんな五人の様子などどこ吹く風と人懐っこい笑顔を浮かべて、これまたおもむろに腕を引き抜く。するとそこには、龐統こと雛里が戦場で指揮を執る時に使っている指揮杖にどこか似た(などとは本人には口が裂けても言えないが)、ファンシーなピンク色のステッキが握られていた。

 

 どう見ても90cmかそこらの長さがある“それ”が、どうやってブーメランパンツの中に納まっていたのかなど、考えたくもないところである。

「本当に、華佗を呼んで鍼を打って貰いたくなって来たわ……」

「まぁまぁ、深く考えたら負けだってば、華琳」

 

 一刀が、苦痛を感じている様な表情で目頭を揉む華琳を宥めているのを横目に、貂蝉は高々とステッキを天に掲げた。

「じゃあ、カワイコちゃんたち、ちょっと驚くかも知れないけど、心配しないでね!」

「もう十分過ぎる程に驚いているのだがな……」

 

 そんな蓮華の呟きを無視したのか、はたまた聴こえなかったのか。貂蝉は華麗にステッキをクルクルと回すと、五人の周囲を、円を描く様に舞い踊り出す。

「ふんふふ~ん♪ふふふんふふ~ん♪あ、そ~れそ~れ!!」

 奇妙な舞と奇怪な鼻歌、それがどれほど続いたのか。もうそろそろ、いい加減にツッコむべきかと一刀が考え出した時、周囲の視界が一転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんじゃあ、こりゃあ……」

 眩暈を感じて瞼を閉じた一刀が、ほんの数秒で目を開けると、五人は、幅5m程、長さは25m程の、木で出来た橋の様な場所に立っていた。

 “橋の様な”と言うのは、それが川に架かっているのでも、谷の上に架かっているのでもなく、ただ黒い空間にポツンとあるだけであるので、本当に橋の役割を果たしているのか分からない為に、建造物としての形状からそうと判断するしかないからだ。

 

 橋の手すり部分には、等間隔で行燈(あんどん)が設えられていて、柔らかな光を湛えている。

 一刀には、全体の意匠が大陸のものと言うより、どこか日本のものに近い様に感じられた。

 そこまで思い至り、ハッとして左右を見る。

「みんな、無事か!?」

 

「ええ。おそらく、ね……」

 真っ先に返事をしたのは、やけの平坦な声の華琳だった。

「ご主人様、此処って一体……」

「参ったわね、これは……」

 

「一刀、周囲を警戒して。きっと、妖術の類に違いないわ!」

 続いて、桃香、雪蓮、蓮華の声が返事を返す。

「一体、どうなってんだよ、これ……」

 

 一刀は、一面の黒い空間を呆然と見詰めながら呟いた。

“これ”は、暗闇と言うには清廉に過ぎるし、虚無と言うには豊か過ぎる。上手くは言えないが、一刀にはそんな風に感じられた。

「気をつけてね、ご主人様」

 

 一刀が驚いて声のした方に視線を遣ると、橋らしき建造物の、自分達が居る所から反対の一端に、忽然と貂蝉が姿を現していた。

「“そこ”に落ちたら、帰ってこれなくなっちゃうかも知れないわ」

 どこかいつもと違う静かな様子の貂蝉の言葉に対して、蓮華が鋭い声を上げ、腰に佩いた南海覇王の柄に手を掛ける。

 

「貴様、やはり妖物の類だったか!私たちを斯様(かよう)な場所に閉じ込め、何を企てている!」

「違うわ、孫権ちゃん。確かにアタシは、正確に言うと人間ではないけれど、アナタ達を此処に招いたのは、閉じ込めたりする為じゃない。貴女たちと貴女たちの生きる世界、その全ての存続に関わる危機を知らせる為に来て貰ったのよん」

 

 貂蝉は、並みの兵士ならば腰を抜かしてしまいそうな蓮華の怒気を平静に受け流して、そう答えた。

 その言葉を聞いた華琳は片眉を吊り上げて、腕を組んで貂蝉を見据える。

「では、きちんとした説明をしてくれると言うのね?ならば早くなさい。私は、見た目ほど気が長くはないのよ」

 

「勿論よ、曹操ちゃん。まずはこの場所について話しましょうか。此処は、“外史の狭間”と言われる――そうね、ご主人様の世界と貴女たちの住む世界を繋ぐ場所よ」

「つまり、天の国とって事ですか!?」

 桃香が驚きの声を上げると、貂蝉は同意を示す様に大きく頷いた。

 

「ええ、そう考えて貰って構わないわん。もっと正確に言うと、ご主人様の世界を大河の本流とするなら、貴女たちの世界は、そこから数多く枝分かれする支流の一つなの。その合流地点に浮かぶ小さな中洲が、この場所と言う事になるのかしらね。私たち立っている“此処”が――」

 貂蝉はそう言って両手を広げ、足元に浮かぶ橋を示す。

 

「橋の形をしているのは、アナタたちが理解しやすい形に抽象化してるからよん。世界中の創生神話で、天の浮橋とか、大マンダラ山とか、巨人の骨とか、多種多様な伝わり方をしているけど、総じてその様な役割を持つ場所ってコト。今、此処を維持してるのが卑弥呼だから、意匠は天の浮橋に寄っているし、そう呼んで貰った方が便宜上、都合は良いかもねん。ご主人様になら、この説明で概念を分かって貰えるかしら?」

「あぁ、何となくだけどね。じゃあ、この“黒いの”は――」

 

 一刀が、自分達の頭上と周囲を覆う漆黒に目を遣ると、貂蝉は、どこか物悲しい目をして、同じ様に視線を投げた。

「えぇ、そう。混沌(ケイオス)大きく開いた淵(ギンヌンガガプ)、乳海……“そう言った様なモノ”だと思って貰えれば間違いないわね。形を得て外史と成るもの、想念のまま形を得る事なく、消滅するまでただ揺蕩(たゆた)っているもの――全ての存在と質量が曖昧な暗黒物質(ダーク・マター)よ」

 

「ちょっとちょっと!一刀ばっかりズルいわよ!私たちにも分かる様に説明してよね!」

 一応の危険はない事を理解したのか、それとも、勘でそれを察していたからか。他の三人よりは余裕のある口振りの雪蓮が頬を膨らませてそう言うと、一刀は曖昧な笑みを浮かべて、如何にか適切な言葉を探し出そうと首を捻った。

 

「えっと、そうだな。皆の所にも、“世界が生まれた時”のお(はなし)があったよね。確か、さんこうこうごてい?とかバンコ?とかが出て来る……」

 一刀が、読み書きの練習がてら軍師たちから勧められた書の一つに記されていた神話を思い出してそう言うと、華琳が一つ頷く。

「史記の三皇五帝と、盤古開天闢地(ばんこかいてんびゃくち)の神話ね。その真偽は兎も角、成程……では、この漆黒は神話に語られる“(タオ)”だと、貴方は言いたいのね?天地を成す源となった、“卵の中身の様なもの”と記されている存在であると」

 

 一刀が、華琳の理解力の早さに何時もながらの空恐ろしさを抱きながら頷くと、他の三人はそれぞれに唸る様な声を上げ、茫然と空間を埋め尽くす漆黒を見遣った。

「貂蝉、お前は一体……」

 一刀が畏怖を覚えながら貂蝉を見遣ると、巨漢は努めてそうしようとしているかの様に明るい声で腰をくねらせた。

 

「だぁいじょおぶよん、ご主人様!直ぐに“思い出す”わ!さっ、行きましょ――と、その前に」

 貂蝉は一行の前に、自分の右手を差し出した。その手の中には、四組の布で出来た輪が握られている。

「王様たちは、これを腕に付けておいてね」

「なによ、コレ?」

 

 雪蓮が、道に落ちている物を拾い上げるかの様に、恐る恐る指で“それ”を摘まみ上げると、貂蝉はニッコリと微笑んだ。

「ここから先は、更にご主人様の世界と貴女たちの世界の境界が曖昧になるから――そうね、さっきの説明に合わせると、貴女たちと言う支流に生きる存在が、ご主人様の世界という本流に呑み込まれてしまわない為の命綱、とでも思って貰えば良いわ」

 

「へ~」

 雪蓮が疑わしそうに腕章をヒラヒラと揺らすと、一刀の目に、そこに書かれた『外来者(ビジター)』と書かれた文字が見えた。

 一刀が、なるほど言い得て妙だと納得していると、桃香が引き攣った笑みを浮かべた。

 

 

「えっと、因みにそれって、どこから出して――」

「止めて、桃香!」

 蓮華は鋭くそう言って、姉に倣い、嫌々と腕章を摘まみ上げた。

「どの道、従わなければいけないと言うのなら、知りたくないわ……」

 

「あ、あはは……そう、だね……」

「はぁ。帰ったら、湯の支度をさせなくてはね……」

 桃香と華琳も嘆き節を口にしながら、呉の姉妹の後を追ってそれぞれに腕章を摘まみ上げ、歯を食いしばる様にして、服の袖に括りつけた。

 

「みんな、ちゃんと付けた?じゃあ、行きましょうか」

 貂蝉が王たちの顔を見ながら確認すると、蓮華が疑わしそうに眉を顰める。

「さっきから、先に進むとか行くとか言っているが、一体、何処に行こうと言うのだ。大体、此処には――!?」

 

 『この“橋”以外、何もないだろう』そう言おうとした蓮華は、目を見開いて、貂蝉の背後を見詰めるしかなかった。

 先ほどまでは、確かに何もない漆黒で満たされていた“そこ”に、忽然と赤漆(せきしつ)で塗られた木製(に見える)の階段が現れていたからだ。

 

「やれやれ。一刀ではないけれど、いよいよこれは『こう言うものだと思って受け入れる』以外に納得する方法が無くなってきたわね。さぁ、さっさと済ませましょう」

 華琳はげんなりした様子でそう言って、スタスタと歩き出す。

 貂蝉は、その姿を一瞬、見詰めてから、華琳を追い越して一行の先導役を再開する。残された者たちは、お互いに顔を見合わせた後、慌ててその後を追って歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 一行が階段を登り切ると、そこは板張りの床の広間の様な場所だった。広さは大まかに見て、30m四方ほどであろうか。

 だが、確かに、一刀たちが昇って来た階段に繋がっている面以外の三方には壁があり、一面に一枚ずつノブの付いた木の扉が設えられているものの、天井と言える物は存在していないので、頭上は相も変わらず漆黒に支配されていて、どうにも“部屋”と言う概念で捉えるには努力がいる不思議な空間だった。

 

 中央には煌々と辺りを照らす背の高い行燈が立っており、その下には、座り心地の良さそうな大陸風の揺り椅子を揺らしながら、品の良い黄褐色の三つ揃え(スリーピース・スーツ)に身を包んだアジア人と見える老人が静かに微睡(まどろ)んでいた。

 首には赤のアスコット・タイがボウ・タイ風に結ばれ、ベストのポケットからはシルバーの懐中時計の鎖が伸びていて、頭に被っているスーツと色を合わせた中折れ帽(フェルト・ハット)は、アイマスク代わりに小粋な角度で前に押し下げられている。

 

 椅子の意匠と合わせられたサイドテーブルには、牡丹の花をアールヌーヴォー風に彫刻した銀のティーセットが置かれ、その横には、黒壇(エボニー材)の板に鹿角を削った支えの建ったパイプ・スタンドの上に、龍の顔を(かたど)った海泡石(メシャム)製のパイプが鎮座している。海泡石がタールの茶色い光沢を帯びている所から、かなり使い込まれた年代物である様だった。

 

「遅かったな、ご主人様よ」

 一刀(おそらく王たちも)が、何処かの映画のワンシ-ンからそっくり切り取ってきた様なその光景に呆然と魅入っていると、すぐ横手から、やたらどダンディな声が聞こえてきた。

「卑弥呼?」

 

 一刀に名を呼ばれた声の主は、腕組みをして寄りかかっていた壁から身を起こし、小さく頷いた。

 長く伸ばした総白髪を左右で分けてサイドで瓢箪型に結い、口には立派なガイゼル髭。

 髪型と公家の様な眉は大まけにまけるにしても、首から下がまともであれば、さぞやこの場所に映えただろうロマンスグレイであるのに、実際の姿たるや、筋骨隆々の巨躯にマイクロビキニ、しかもその上に襟の立った燕尾服を纏うという、言葉にするのも恐ろしい組み合わせだ。

 

 既に顔見知りの雪蓮はヒラヒラと手を振って挨拶をしているが、他の三人は、最早リアクションをする気力も失せた様子で頬を引き攣らせるばかりだった。

「お前も、俺達に話とやらがあるのか?」

「左様。しかし、まだ“始まって”おらぬようだな。まぁ、話はそれからの方が良いだろう」

 

「おいおい、まだ引っ張る気か……よ……!!?」

 一刀が、卑弥呼の要領を得ない答えに意見しようとすると、突然、世界がグラリと歪んだ。

「あ、うううぅ!!!!」

 酷い宿酔いにも似た感覚はほんの一瞬。違和感は、あっと言う間に頭が破裂しそうな凄まじい激痛となって脳髄を駆け巡り、一刀は堪らず地面に膝を着いて絶叫した。

 

 様々な映像(ヴィジョン)が頭の中に浮かんで、いや、湧き上がって来る。

 銅で出来た鏡、冷たい目をした美しい少年、愛紗、鈴々と共に黄巾党に立ち向かっている自分。

そこに、桃香の姿は無い。

 

「うぅ、こ、れは――うああああ!!?」

「ご主人様!?」

「一刀!」

「ちょ、一刀、大丈夫!?」

「どうしたのだ、一刀!!」

 

「ふむ、始まったか」

 のた打ち回る一刀と、驚きの声と共に駆け寄る王たちを見下ろしながら、卑弥呼が呟く。

 貂蝉は祈る様に指を組んで、心配そうな眼で一刀を見詰めるばかりだ。

風、稟、星、香風――華琳、春蘭、秋蘭――大きな月の照らす小川の(ほとり)で肩を震わせる、後ろ姿の華琳。

 

「ぐぁぁぁぁぁ!!」

 雪蓮、祭さん、冥琳――額に矢をめり込ませ、仁王立ちになる炎蓮さん、血の気を失った顔に壮絶な気迫を(たぎ)らせて兵を鼓舞する雪蓮。美しい唇から絹糸の様に細い血を流し、自分の腕の中で静かに微笑みながら冷たくなっていく冥琳。

 沢山の子供達に囲まれている自分。

 

「記――おく?俺……の!?」

 どれ程の間、そうして転がり回って居たのだろう。

 意識を取り戻した一刀の眼の前には、皺だらけの手に握られた銀製のティーカップがあった。

「水じゃよ」

 

 優し気なしわがれ声がそう言うと、カップを口に近づけてくれる。

 一刀は、無我夢中でその手にしがみつき、喉を鳴らして中身を飲み干した。

「落ち着いたかね?」

「うん、ありがとうございます―――」

 

 そう言いながら見上げると、そこには先程見かけた老人の顔があった。

 若い頃はさぞ美男子だったのだろうと推察させる整った目鼻立ちで、皺に埋もれた瞼の奥の瞳には、優しく深い光を湛えている。

 一刀はその時になって初めて、老人のワイシャツの袖から覗くカフスが、紅玉を守る様に円を描く黄金の龍である事を見て取った。

 

「良かったよぅ、ご主人様ぁ!!」

「桃香……」

 一刀は、涙を浮かべて自分の胸に飛び込んで来た桃香の頭を撫でると、床に座り込んでいる自分を心配そうに覗き込んでいる華琳・雪蓮・蓮華の顔を、順に見遣った。

 

「意識はしっかりしていて?貴方、急に苦しみ出して倒れたのよ?」

「ありがとう、華琳。もう大丈夫だよ」

「もう、ビックリさせないでよね。まだ胤も貰ってない内に種馬が頓死とか、話が違うんだから!」

「ごめん、雪蓮。あのさ、炎蓮さんて、元気?」

 

「はぁ?さぁ……この前、手紙が来た時には、元気にしてるって書いてあったけど」

「そっか。じゃあ、冥琳って、どこか調子悪そうだったりしないよな?」

「なに言ってるのよ。冥琳なら、さっきまで貴方も会っていたじゃない。憎らしいくらいピンピンしてるってば」

 一刀は、怪訝な顔で自分の問いに応える雪蓮の手を握ってその温もりを確かめると、安堵の溜息を吐いた。

 

「うん、そうだよな。雪蓮も冥琳も、元気だよな。良かった……」

「一刀、本当に大丈夫なの?顔色も酷いし、まだ混乱してるんじゃ……」

 桃香の抱き着いている反対側から、一刀を支える様に寄り添ってくれていた蓮華が心配そうに眉を寄せて一刀の額や首筋に掌を滑らせ、熱の有無を確かめてくれる。

 

 程良くひんやりとしたその感触が、堪らなく心地良かった。

「まだ無理をせん方が良い。あれだけ多くの外史との“記憶の統合”があったのじゃ、相当の負荷が掛かった筈だからのぅ」

 老人はステッキの握りに僅かに体重掛けて立ちながら、一刀とそれを支える王たちに言葉を投げた。

 

「“記憶の統合”……じゃあ、あれはやっぱり、俺の記憶?」

「左様」

 今まで黙って事の成り行きを見守っていた卑弥呼が口を開く。

「今なら、私達が何者で、何でこの場所にご主人様を連れてくる事が出来たのか、分かるわよね?」

 

 

 

 貂蝉の問いかけに、一刀は眉間を揉みながら頷いた。

「あぁ、剪定者、肯定者――“思い出した”よ」

「思い出したとは、どういう事、一刀?」

 華琳が不思議そうに尋ねると、一刀はその視線を受けてから、『自分から話しても良いのか』という問いを込めて、一旦、卑弥呼と貂蝉に視線を移す。

 

 一刀は、二人が頷くの見て再び華琳に視線を戻し、それから、順に他の王たちの顔を見てから、言葉を選んで話始めた。

「うん。えぇと、そうだな。最初からだと……ほら、華琳とは初めて会った時に話をしたろ?胡蝶の夢って」

「ええ。覚えているわ」

 

「あれは荘子の思想を言葉にした例え話だけど、俺たちが今いるのは、あの話で言う所の夢の側の世界なんだ。言葉の通りにさ。ただ違うのは、その大本は誰か個人の夢だったとしても、その誰かが何らかの形――物語の本とかね。そういうものとして、大勢の人間の目に触れさせる事にした結果、それを見たり読んだりした人たちが、ある程度の共通認識の元に見る大きな夢になって、その想いから実体を持って生まれた世界なんだよ」

 

「それはつまり、私たちは一刀の世界の人間たちの見てる夢幻の産物だって言うワケ?私たちが感じて来たもの、成して来た事、人生の全てが?」

 雪蓮が、戸惑いを含んだ静かな表情を湛えながら一刀に問うと、一刀は勢い良く首を振った。

 

「違う。そうじゃないんだ、雪蓮。俺が言ってるのは、さっき話してた創世神話みたいなものなんだよ。最初の人間は泥から生まれたとか、大地は神様の身体から出来たとか、そういう話と同じような物なんだ。ただ、こっちの世界を生み出したのは、神様じゃなくて違う世界の国の人間たちだってだけ。一度、実像を結んだからには、もう夢幻なんかじゃない」

 

「そして、“其方(そなた)たちの英雄譚”を完成させる為に正史から外史に“呼ばれた”のが、この少年と言うわけじゃよ。周の武王と呂尚が出逢い、劉邦が蕭何と曹参の両名と出逢った事が、“英雄が英雄となるべく踏み出した物語の始まり”として語られる様に――其方らはこの少年と出逢う事で、物語の中に燦然と輝く英雄として語られるに足る器を得たのじゃ。お前たちの世界を作った人間たちは、その少年の存在を通して其方らの世界を見、其方らの生き様を愛した。例え触れること(あた)わずとも、健やかであれ、幸せであれ、華々しく生きてくれ、とな。だから其方らはこうして、大地に影を落としておるのさ」

 今まで黙って一刀の説明を聴いていた老人が、それを補足してくれる。

 

 

 

「私たちを好きになってくれた沢山の天の国の人達が、私たちの世界を作ってくれた……」

 桃香が、如何にか老人の話を飲み下そうと小さく呟いてから、首を傾げた。

「でも、どうしてそれを、ご主人様が知ってるの?天の国から来る前には覚えていて、落ちて来る時に忘れちゃってたとか?」

 

「いや。違うんだ、桃香……その」

 『以前、君が存在していない世界で一度、貂蝉に教えて貰っていたから』その事実を、どうやって目に前いる愛しい少女を傷付けずに説明したものか。一刀が逡巡していると、それを察しくれたらしい貂蝉が、助け船を出してくれる。

 

「あのね、劉備ちゃん。さっき、ご主人様の世界と貴女たちの世界を、川の本流と支流に例えたのを覚えてる?」

「え?あ、はい、勿論!」

「実は、貴女たちの世界は、初めて本流から分岐したものじゃ無いのん。ご主人様たちの世界の時間――つまり、本流の流れに沿って言うと、今の貴女たちの世界より前に本流から分岐された、貴女たちの世界にそっくりな支流があったのよ。その世界は、天の国の人々が、ご主人様という川を下る船を通して、その流れを見守られる時期を終えたわ。そうね、『皆は幸せに暮らしましたとさ、目出度し目出度し』という事ね。だけど――」

 

「汝らの物語を愛した天の国の人々……便宜上、彼らを『観測者』とするか。『神』なんぞではまさかあるまいし、それでは座りが悪すぎるであろう」

 卑弥呼が、貂蝉の言葉を引き継ぐ。

「その時、ご主人様と言う船の上から観測者たちが見た川は、まだまだ粗削りだったのだ。狭く流れが急すぎて、多くの魚や水棲生物が住む余地など無かったし、治水も行き届いておらぬので、僅かな雨が降れば、直ぐに決壊を起こしてしまいそうな箇所が山ほどあった。先ほど、このバカ弟子は、『目出度し目出度し』などと言いおったが、最後の最後で大瀑布に呑み込まれ、危うく転覆しかけた。貂蝉は、その時に事態を如何にか収拾する為に、“その世界に落とされたご主人様”に接触して事情を明かしておったのよ。そこまでして漸く、どうにかこうにか終端にたどり着いたという程、外史……支流としては危ういものであったのだ……しかし!」

 

 卑弥呼はそこまで言うとクワっと目を見開いて、大声を上げた。

「観測者たちは見た。住まう河と同様に若く粗削りながら、登龍の門に至らんとするが如く激流の中を力強く泳ぐ、美しい魚たちの姿を!!」

「相変わらず、声がデカいのぉ」

 老人が微苦笑を浮かべながらそう言うと、卑弥呼は「ご無礼を」と言って頬を染め、咳払いを一つして、再び語りだした。

 

「故に、観測者たちは願った。この美しい魚たちの為に、もっと広い川幅を、深く潜れる水底を、もっと多くの仲間たちが住める豊穣な川辺を用意してやりたい。思う様に泳がせてやりたい、と」

「でも、そこで問題が起こったのよん」

 貂蝉が、盛大に眉を寄せて、再び卑弥呼の言葉を継いだ。

 

「貴女たちの世界にそっくりだった支流の世界をそのまま治水したのでは、それぞれに適切な育成環境が違い過ぎて、全ての魚たちを龍に育て上げる事は出来ないという結論に達したの。だから観測者たちは、その支流を更に三つに分け、それぞれの水質に合った魚たちを移し、魚たち全てが無事に龍に育った時点で、再び三つに分けた流れを一つに戻す事にしたのよん」

 

「あ!それって、朱里ちゃんの!」

「然り。策士孔明の大計、天下三分を模したと言えよう」

「では、一刀はどうなるのだ?一刀が以前にも、似て非なる世界で私たちやお前と出逢っていたのは理解出来た。では、今の一刀はどうなっている?観測者とやらが一刀を通してしか私たちを見る事が出来ないのなら、一刀はその“以前の世界”?とか言う場所から、記憶を消されて来たのか?それで、都度、記憶を消されながら、三つに分かたれた世界を周って、今に至っていると?」

 

 蓮華が、豊かな胸の下で腕を組みながら困惑した様子でそう尋ねると、貂蝉は暫く考えた末に答える。

「そうね……ご主人様は船……そう説明したけれど、もう少し遡りましょうか。ご主人様は本来、とても大きな大樹だ、と考えてくれるかしら?」

「うむ、それが分かりやすかろうな」

 

 卑弥呼が貂蝉の例えに頷くと、貂蝉も頷きを返した。

「そう。本来のご主人様は、外史――貴女たちの世界の流れにただ一艘で漕ぎ出しても耐えられるだけの船を作る材木を切り出す為に選ばれた、大樹なの」

「我らはそう言った大樹と成り得る資質を持つ者を、“黄龍の器”と呼んでおる」

 

「黄龍……東西南北を守護する四匹の聖なる獣の長にして、その中央に君臨し、最高位の龍の証たる五本の爪と絶大な力を持つ、天子の象徴ともされる大地の化身ね。成程、『その世界を成立させる為に必要不可欠』という存在理由を鑑みれば、これほど相応しい例えもないでしょうよ」

 華琳はそう言って肩を竦めると、「続けて頂戴」と言って、ひらひらと手を振った。

 

 

「ふむ。そうして、ご主人様と言う大樹の枝から新たに削り出された三艘の船が、それぞれに違う支流へと送り出された。それぞれの水の流れ、川幅、風向きに、最も適切な“微調整”を施されてな。恐らく貴公らは、それぞれが共に過ごしたご主人様に対して、僅かに違う印象を抱いている筈だと、儂は思っておる。しかし、それらは真実、全てが本当のご主人様なのだ」

 

「そして、別たれた世界は、再び一つになった。だから、一気に三つの世界の自分を受け止めたご主人様が“こうなった”って事ですか?」

 桃香がそう問うと、卑弥呼はゆっくりと首を振った。

「それだけではない。先に説明した通り、此処は“外史の狭間”。時間も空間も超越し、正史と全ての外史をも繋ぐ場所なのだ。ご主人様は今、正史に於ける本来のご主人様、以前に一度、貴様らの世界の雛型となった世界に降り立ったご主人様、そして、お主ら三つの勢力のそれぞれの君主の元に降り立ったご主人様の、五つの自分の記憶、その総てを一身に受けてしまったが故に、一時的にああなってしまったのだ」

 

「成程ねぇ。だから、私たちはコレを渡して、一刀には渡さなかったって訳か。船である一刀ならちょっと揺れたって浮いていられるけど、水の中にいる魚の私たちがそのまま本流と支流が入り混じる此処に放り込まれたら、確実にそのままどっかに流されていっちゃうから」

 雪蓮が、自分の右腕に付けた腕章を眺めてそう言うと、貂蝉が頷いた。

 

「例えに沿うと、そう言うコトね。流石は雪蓮ちゃんだわん」

「大体は分かったわ」

 華琳は小さく頷いて、両の手首を腰に当てた。

「ただ、貴方たちが何者なのかと言う部分は、まだ説明されていないけれどね」

 

「あのさ、華琳」

 漸く調子が戻って来た事もあって、桃香と蓮華の手を借りて如何にか立ち上がった一刀は、支えてくれた二人に礼を言ってから、改めて華琳に向き直った。

「この二人は、俺たちが住んでる外史の世界の管理者――守護精霊みたいなものなんだよ。そうだな、本来なら俺なんかよりよっぽど、『天の遣い』って呼ばれるのに相応しい立場に居る存在――外史という概念を認め、見守る者。“肯定者”たちさ」

 

「そういう事。では、貴方がさっき呟いた“剪定者”と言うのはつまり、その逆――」

「あぁ。貂蝉や卑弥呼と同じ様に管理者だけど、外史の存在を認めず、その消滅を望み行動する者たちだよ。俺も細かい事までは知らないし、貂蝉や卑弥呼が言わないなら、それは知らない方が良いって事なんだろう」

 

 

「結構よ。これで、一刀が私たちの元にやって来た経緯、私たちの世界の成り立ち――ま、創世神話は言い得て妙だから、そう呼ぶとしましょう。そもそも私たちからすれば、天の国と伏犠やら女媧やらの違いなんて、大した差ではないのですからね。更には、“この場所”やそこの怪人物二人が成した妖術紛いの事象についても理解できた……と言う事にしましょうか、取り合えずはね。それで――」

 

 華琳は、一刀に向けていた視線をすいと卑弥呼と貂蝉に向けた。

「貂蝉、貴方は最初に言っていたわね。『私たちの世界の存続に関わる危機を知らせる為』に、私たちを此処に呼んだ、と」

「ええ、言ったわん」

 

「それは、人なる身に、()わば神の摂理の一端を垣間見せてでも事態を納得させ、その上で警告を与えなければいけない程の、と言う事よね」

「そうよん」

「まったく――雪蓮、貴女の勘を恨むわよ」

 

「あは、どういたしまして♪」

 雪蓮が、華琳の皮肉に茶目っ気たっぷりのウィンクを返すと、老人が咳払いを一つして、一同の注意を引いた。

「さて――では、そもそもの厄介事の元凶じゃが、こちらに来て、“実物”を見てもらってからの方が良いじゃろう。案内しようぞ」

 

「ありがとうございます。ええと――」

 一刀がそう言って言葉を切ると、老人は「おぉ」と言って、帽子のつばを摘まむと、小さく会釈をした。

「これは失礼。儂はこの場所を預かる者で、(たま)の時に卑弥呼や貂蝉の相談役の様な事もしていてな。人からは、姬大人(き・たいじん)などと大層な名で呼ばれておる老い()れじゃ。見知りおいておくれ」

 

 老人は洗練された優雅な所作で自己紹介を済ませると、背広の内ポケットから磨き上げられた古めかしい鍵を取り出し、一行の居る空間の三方の壁にある扉の内の一つまで歩いて行って扉の鍵穴に差し込んで小さく捻り、再び鍵をポケットに戻してから扉を開けて、一行を手招きをした。

「こちらじゃ。階段になっておる。暗い故、足元に気を付けよ」

 

 姬大人と名乗った老人に続いて卑弥呼と貂蝉が扉の奥に消えてしまうと、一刀は四人の王たちと目配せをし合い、誰ともなしに全員が頷いたのを確認して、先頭になって扉を潜った―――。

 

 

 




 今回のお話は如何だったでしょうか?
 オリジナル版を読み返してみて、やはりまだ構想が纏まり切っていない部分が多く、焦りや勢い任せな部分も非常に多い上に、物語の核心部分にクロスオーバー要素を突っ込むという愚挙をやらかしてしまっており、こりゃいかんぞと。
 結果、ほぼ書き下ろしとなったのですが……いざ書いてみたら、アホみたいに長くなってしまいまして(汗。

 オリジナル版もまぁまぁの長さだったので分けて投稿したのですが、それと比べてすら倍以上になってしまい、仕方が無いので今回も二分割にして微調整し、前・後編にしての投稿となりました。

 前書きでも書きましたが、私の作品の、後々明かされる構想になっているもの以外の細かい世界観設定やら何やらは、この前後編でほぼ語り尽くしておりますので、今しばらくお付き合い頂ければと思っております。
 さて、今回のサブタイ元ネタは、機甲界ガリアンED

 EUROX/星の一秒

 でした。
 二番は当時としては珍しい全英語詩だったりしますが、そんな珍しい所を抜きにしても素晴らしい名曲です。
 

 では、またお会いしましょう!


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幕間 星の一秒 後編

どうも皆さま、YTAです。
思ったよりも長くなってしまいましたが、書き終わったので投稿します。
今回は、私の作品に於ける敵についてと、一刀が独り正史に戻る事になった経緯がメインとなります。
お気に入り登録、感想、評価など、大変に励みになりますので、お気軽に頂ければと思います。
では、どうぞ!


 

 

 

(かつ)て、今は遠い昔、神代(かみしろ)の世――」

 貂蝉と卑弥呼を引き連れて一刀たちを先導する姬大人(き・たいじん)と名乗る老人は、薄暗い階段を降りながら話始めた。

「剪定者たちの中でも過激な思想を持つ一部の者たちは、肯定者たちとの鍔迫り合いを省き、より効率的に、より徹底して外史を剪定する為に、ある存在を……怪物たちを生み出したのじゃ。その怪物たちは、外史に生を受けた者であれば、近づくだけで対象の存在そのものを自身の中に吸収・同化してしまうという、恐るべき特性を持っておった」

 

 暗がりの中、一行の足音と姬大人の声だけが、虚ろに響いている。

「剪定者たちの思惑は図に当たった。怪物たちは数え切れぬ程の外史を瞬く間に食らい尽くした。肯定者たちも、初期の何度かは撃退に成功したが、怪物たちが多くの幻想を吸収し強大になっていくにつれて撃退は困難を極める様になり、次第に、ただ犠牲者を出して終わるだけになった。だが、その頃には、創造主である剪定者たちにも、想定外の事態が持ち上がり始めたのじゃ」

 

 階段を降り切った姬大人がステッキの頭で壁を叩くと、10m四方ほどの広さの石畳の床が淡いガス灯の様な意匠の照明で照らし出される。

 そこは先程の広間とは違い、ヴィクトリア風の鉄の柵で漆黒と隔たれているだけだった。

「怪物たちは多くの幻想を吸収する内に自我を持ち、創造主たちの命令を拒んで、外史を喰らうという行為を“愉しみ始めた”のじゃ。しかも、怪物たちの中で最初に作られた最も強力な個体は、恐るべき早さで進化を続け、他の怪物たちを自分を頂点とする軍勢へと育て上げただけでなく、自ら眷属を独自に生み出す(すべ)までをも編み出して、とうとう完全に制御不能になってしまい、正史の世界にまで散発的な干渉を始めたのじゃ。剪定者たちは多いに恐慌をきたして過激派を追い落とすと、肯定者たちに共闘を持ち掛けた」

 

「随分と勝手なものね。まぁ、神だの精霊だのの争いなんて、いずれも勝手なものと相場は決まっているけれど」

 一刀に続いて階段を降り切った華琳が、呆れた様に言って、続く三人に道を開ける為、部屋の中に歩を進める。

 

「まったくじゃな。で、共闘する事になった管理者の二つの勢力は策を練った。どれ程の超人的な英雄に助けを求めようとも、それが外史の存在である限り、怪物たちの相手とはならぬ。であれば、正史の英雄に助けを求めるしかない。しかし、幻想の力持たぬ正史の英雄だけでは、怪物たちを打ち倒すのは難しい。故に――」

 

「正史の英雄に、外史の幻想の力を貸し与えよう。さすれば、怪物どもにも対抗できるであろう、とな」

 卑弥呼は老人の言葉を継いでそう言うと、部屋の奥に歩いて行って、積み上げてあった荷物の中を、ゴソゴソと弄り始めた。

 その様子を見ていた姬大人が、再び語り部の役を引き受ける。

 

「そうして英雄は、外史・正史・管理者の仲間たちと共に、怪物たちに戦いを挑んだ。戦争は熾烈を極め、多くの仲間たちを失いながらも、英雄は何とか怪物たちの多くを打ち倒し、無二の盟友の献身的な犠牲を(たすけ)として、最も強大な原初の怪物とその腹心たちを、刻が流れる事もなく、あらゆる場所と時代から隔離された虚無の彼方へと封じ込めたのじゃ」

 

 姬大人は、そこまで話すと疲れた様に大きく息を吐いて、呼吸を整える。

「――その原初の怪物の名は、蚩尤(しゆう)。腹心たる四体の強大な怪物たちは、四凶(しきょう)と言った」

 姬大人の言葉を聞いた四人の王たちは、一様に目を見開いて息を呑んだ。さもあろう。蚩尤とは、中華文明の中にあって最強最悪の伝承を誇る魔神であり、四凶とは、中原の四方に封じられたという邪の具現とされる悪神たちだ。

 

 信じるかどうかは兎も角、知らぬ者などそうは居ない。

「では、実在したと言うのか……しかし……」

 蓮華は、呟く様にそう言うと、姬大人を顔を上げて見遣った。

「我々の識る伝承とは、時代も内容も随分と違っている所があるようだが?」

 

「左様。管理者たちが、“そのように仕向けた”での。当時はまだ、正史と外史の境界は今ほど強固ではなかったから、その様な(わざ)も可能であったのさ。まさか、正史と外史に実際の繋がりがあり――あまつさえ、特定の者たちは、その双方に干渉が――事によれば、侵略すら可能であるなどと、世に知らしめる訳にはいかぬからな。皮肉なものよ。外史の出来事と正史の出来事を交じわらせた上に、正史の認識を改ざんするなどと言う事は、剪定者たちが最も忌み嫌う行為の一つであろうに。自分たちの行動が原因で、正史に対する空前絶後の介入劇を演じる事になったのじゃから」

 

「じゃあ、もしかして、貂蝉さん達やお爺さんが言ってる『私たちの世界の危機』って……」

 桃香が、色を失った顔で恐る恐る姬大人にそう尋ねると、姬大人は静かに頷いた。

「そうじゃ。“奴等”が目覚めた」

「そんな……」

 桃香の唸るような呟きを最後に降りた沈黙を破る様に、卑弥呼が部屋の奥から見つけたらしいズタ袋を担いで部屋の中央まで進み出ると、手荒に床に投げ捨てた。

「儂と貂蝉は、最近、散発的に行われて来た五胡と三国との小競り合いの折り、今迄に感じた事のない(おぞま)しい気配を感じ取って、現場の近くを調べてみたのだ。その時にな、“コレ”を見つけたのよ――ああ、少し離れておれ皆の衆。少々、“臭う”からな」

 

 卑弥呼がそう言いながら、ズタ袋の口を縛っていた太い紐を解いて勢いよく袋を剥ぎ取った瞬間、周辺を強烈な腐臭が包み込んだ。一刀も桃香も華琳も雪蓮も蓮華も、今まで経験したどんなに激しい戦場でも嗅いだ事がない凄まじい臭気に、それぞれに口と鼻を覆い眉を顰めているが、それでも尚、匂いの原因となった物体から目を逸らす事が出来ずにいた。あまりにも異質過ぎたが故に。

 

 身の丈は180cmから2mの間ほどだろうか。身体は剛毛に覆われていて、猪と猿の合いの児の様な顔にはその醜悪な顔を上下に割るほど大きな口と、鋭く巨大な牙が生えている。白濁した獰猛そうな目。一見、骨格は人間と同じに見えるが、腕は膝まで伸びており、背骨は前傾しているし、膝の関節は四つ足の獣の様に後ろに曲がっている。足の大きさは、優に四十cmは超えるだろう。

 そして、その手足の先には、まるで猛禽類の様な巨大な爪が付いていた。

「ようく見ておけ、皆の衆。これが“罵苦”よ」

 

「バク?」

「うむ。罵倒の罵に苦痛の苦で、罵苦と書く。蚩尤とその眷属どもの総称だ。まぁ、夢を喰うという意味では、言い得て妙であろう。“これ”は、奴らの眷属なかの最下位に属する下級種の内、マシラと呼称される個体だ。まぁ、人間で言う所の兵卒だな」

「冗談でしょ……こんな小型の熊みたいなのが兵卒?ワラワラ居るって意味なワケ!?」

 

「見ただけでも、強靭な膂力(りょりょく)と俊敏性を有していると推察できますね。姉さま程の武人なら兎も角、兵士たちではどこまで対応できるか……」

「そもそも、この罵苦とかいう怪物どもは、私たち外史とやらで生まれた人間には近づく事も出来ない、と言っていたのではなくて?それなら、身体的に()する事が出来るかどうかなんて話以前の問題じゃないの」

 

「いや、良い知らせと言える程ではないかも知れぬが、この下級種に関してだけは、他の上位種――即ち、今や蚩尤のみとなった超級種、四凶と、それに比肩し得るごく少数の個体群を指す上級種、四凶の軍勢の部将格と言える中級種のように、外史の存在を吸収する事は出来ん。こやつらは、蚩尤が尖兵とする為に生み出す存在だからな。“生産性”と数をこそ強みとするが故に、中級種以上の罵苦が持つ個体としての性能には及ばぬ。尤も、それでも罵苦と言う種である事には変わらぬから、物理的な殺害と言う行為を以って人間を喰らいはするが」

 

「ふむ。と言う事は、この下級種と言う存在を相手取るだけであれば、少なくとも、我々にも罵苦の戦力を削る手段はあると」

「そうねん。あとは――」

 貂蝉が、おさげに結った揉み上げを弄びながら、気が進まなそうな様子で口を開いた。

 

「三国の中でも名の通った武人であれば、それだけ注がれている幻想が多いって事でもある。だから、中級種までなら、相手にしたとしても近づくだけで消えるなんて事は無いと思う。ただ、敵の個体差という不確定要素もあるし、“名の通った武人”の確実な線引きが出来る訳でもない。かなりの危険を伴うから、オススメは出来ないわん」

 

「そうか……」

 貂蝉の言葉に、蓮華が得心した様に頷いた。

「お前たちの話を総括すると、その“吸収”というのは、命脈を絶つと言う過程を省いているだけで、詰まるところは動物の捕食行為と同じと言う事なのだな?だから当然、個体別の摂取量も違うし、“獲物”が大物であれば、食べ切る事が出来ない場合もある、と」

 

 妹の導き出した見解に、雪蓮もポンと手と叩く。

「なるほどね~!直接、食い千切られたりする訳じゃないなら、ちょっとくらい“食べられちゃっても”何とかなる可能性もあるってコトかぁ」

「繰り返しになるけど、決してオススメしてる訳じゃないのよん、雪蓮ちゃん。相手の個体差にもよるから大丈夫だと確約も出来ないし、感覚的なものだから伝え辛いけど、吸収を受けると相当に体力を消耗するから、普段通りに戦えるとは思わない方が良いわ。怪我や病気じゃ無いから回復に掛かる時間も推測できないし、それになにより、上級の罵苦ともなれば、恐らく雪蓮ちゃんほどの英雄でもペロっと食べられちゃう筈よ」

 

「マジで?」

「大マジよん。だから、直接、中級種に挑むのは最後の手段だと思っておいてね。それに罵苦は、“吸収できる範囲”にも個体差があるの。範囲内の対象全てを吸収できるかは兎も角、小さな村や街なら全域を吸収の射程内に捉える出来る個体だって居るんだから、槍や弓どころか、目視すら難しい距離から攻撃される可能性だってあるってコトも忘れないで。絶対よ」

 

「分かったわよぅ。ちぇ、もしかしたら怪物を退治したって武勇伝が追加できるかと思ったのにな~」

「姉さま。お願いですから、軽率な行動は厳に、げ・ん・に!ご自重下さいますよう!!」

「分かっているってば、蓮華。冗談よぉ、じょ~だん!あははは」

 雪蓮が、蓮華のカマボコの様な目からの凝視に耐えられずに後ずさる様子に僅かに頬を緩めた華琳は、一連の話の本質が見え始めた事もあって、直ぐに表情を引き締めた。それと同時に、桃香が卑弥呼に質問を投げかける。

 

「あの、でも卑弥呼さん。どうしてこの怪物たちは、五胡の人達との国境にいたんですか?私たちをその……食べちゃうのが目的なら、もっと人が多い都市部とか、その周辺に来ればいいのに」

「うむ。中々に良い質問だぞ、劉玄徳よ。それは、五胡がお前たちの……いや、中華文明にとっての長年の敵対者であるからだろう。奴らは、この外史の狭間と似た、“あらゆる世界の外側にある場所”から、お主たちの世界へと侵入している。奴等の居る場所とお主らの世界を隔てている距離は、分厚いようでいて布絹一枚より薄いとも言えるのだ」

 

「つまり、アンタたちが私たちを城から此処に一瞬で連れて来たみたいに、ってコトよね?」

 雪蓮がそう言うと、卑弥呼は「その通り」と言って頷いた。

「だが、儂らと奴等には大きな違いがある。この外史の狭間もそうだが、我ら管理者は、言わば外史と呼ばれる多くの世界への扉を開ける鍵を持っているのだ。無論、無暗に外史と正史を繋げたりは出来ぬ。例外もあるにはあるが、乱用すれば外史どころか正史にまで影響を及ぼす事である故、極めて慎重に事を運ばねばいかんからな。しかし、外史と外史の間ならば、粗方は望む場所に出入りが可能だ」

 

「でも罵苦たちは、本来はアイツらを閉じ込めている筈の檻の隙間からコッチにやって来てるのよん」

 貂蝉が、大袈裟に困った様な顔を作って卑弥呼に代わる。

「その檻を作った側――まぁ、アタシたち管理者はって事だけど、二度と()ける心算なんか無かったから、外からも内からも絶対に(ひら)かない様に設計したワケね。だから、何で開いてしまったのかも分からないし、開け方も知らないのよ。作る時に、“開くと言う概念”すら組み込んでいなかった筈なんですもの。だから、その隙間の場所すら探せないのん。ここからはあくまでも推測なのだけれど――」

 貂蝉は、先程、卑弥呼が漁っていた荷物の山の前まで行くと、手ごろな高さに積み上がっている木箱に、無駄に色っぽい仕草で腰を下ろした。

 

「アイツらにとって、親和性が高い文化を有するこの外史は、比較的、繋げ易い場所ではあるけれど、それでも繋がったのは天文学的な確率の上での事の筈だわ。で、その精度をより高めて安定させる為には、更に自分たちに有利な概念で上書きするしかなかったんだと思うのん。つまり、この外史の人間であれ、正史の人間であれ、その多くがこの時代の中華文明に於ける『外からの侵略者』として認識し、実際にそう位置付けられている存在で、ね」

 

「うぅん。自分で訊いておいてなんだけど、イマイチよく分かんないよぉ。皆は分かる?」

「そーねぇ、感覚的には何となく掴めた感じではあるけど、噛み砕いて説明しろって言われるとぉ……」

 雪蓮が視線を彷徨わせて頭を掻きながらそう言うと、蓮華はその横で溜息を吐いた。

「上手い言い回しで逃げましたね、姉さま」

 

「ゔっ。そ、そう言う蓮華はどうなのよう!」

「さぁ。罵苦にとっては、五胡の存在なり土地なりに近い場所の方が入り込みやすい、と言う事くらいしか」

「ぶーぶー!結構、分かってるんじゃないよぅ!」

「その理由までは、貂蝉の説明を聞いても分かりませんでした。これでは、理解しているとは言えませんよ」

 

「どぅふふ。それだけ分かって貰えれば十分よん。まぁ、五胡と自分達の立ち位置を被せる様にしたって事なの。劉備ちゃんも、それだけ分かってくれてれば良いからね?で、入り込んだアイツらが今、何をしてるかと言うと――」

「敵地への侵攻経路が限定されるのならば、当然、適切な土地を偵知して、運搬量の限られるであろう兵員と物資を集積する為の策源地の確保でしょう。そうして敵地に斥候を放って警戒しつつ、更に偵知の手を広げ、最適な場所に防衛陣地か、出来得るならば堅牢な軍事拠点を建設。それを以って安定した補給線の構築を確実にする。定石だと、こんなところでしょうね」

 

 華琳の些かの淀みもない回答に、貂蝉は微笑みながら頷いた。

「そうねん。多分、アタリだと思うわん。問題は、その基地がワタシ達でも探し出せるかどうか分からないって事よ」

「そういう技術が、罵苦にはあるのか?」

 

 今度の蓮華の問いに応えたのは、姬大人だった。

「ある。尤も、出来るのはそれだけでもないがの。超級罵苦である蚩尤と一部の上級種は、剪定者に直接生み出された存在じゃによって、剪定者が外史に影響を及ぼす時に使役する術を成す力を与えられておるのじゃ。剪定者と同等の器用さで使えるかは兎も角としてな」

 

「やれやれね。つくづく、よくもそんな面倒なものを作ってくれたものよ」

「全面的に同意させてもらうよ、お嬢さん」

「で、罵苦が五胡の――そうね。北方高原の何処かに拠点を作ったとしましょう。で、その周囲を“領土”にしている確率は、どの程度なのかしら?」

 

「ま、物理的にか魔術的にかはさておき、自分たちが縄張りと定めた地域に不用意に近づかせない位の手は打っておろうが――領地と言われれば、まず可能性はあるまいよ」

「断言できるだけの理由は?」

「食い物がが欲しければ、そこいらをうろついている獲物を喰えばよい。家畜が欲しいなら、同じくそこいらをうろついているのに縄かけて連れ帰り、そのまま使い潰せばよい。奴らにすれば、わざわざ貴重な資材と人員を割いてまで領地などと言うものを整備する意味など、さしてないのじゃよ。そもそも、最終的には全て滅ぼす心算なのだから、経済活動なんぞ頭の隅を掠めもしまいて」

 

 質問を投げた華琳だけでなく、その場に居た管理者以外の五人は、姬大人の言葉に慄然として、ただ彼の深い皺の刻まれた顔を見詰める事しか出来なかった。

 それから暫くの沈黙の後、やはり最初に脳細胞が活動を再開したらしい華琳が、小さく咳払いをする。

「見苦しい所をお見せしたわね。失礼」

 

「いや、気にしてはおらぬよ。寧ろ、戦争の本質を十二分に熟知しておる其方らに、平然と今の言葉を受け取られる方が困るわい」

「えぇ。でも、そう。そこまで本質的に違うのね」

「うむ」

 

 華琳は尚も内心で怖気を振るって、思わず唾を飲んだ。彼女は――曹操孟徳は、根っからの政治家だ。肩書が刺史であろうと牧であろうと王であろうと――結局、華琳にとって侵略という行為は、常に手段以上のものでは有り得なかった。

 確かに武人でもあるから、特定の敵、特定の戦場に、感慨や執着を持つ事は無論ある。しかし、兵を損なわずに領地やその地の経済市場や資源を丸々と掌中に出来るなら、迷わずそちらを優先するだろう。

 

 桃香ほど臆面もなく口に出来る程の鉄面皮ではないが、有体に言ってしまえば、華琳が侵略と言う行為の先に目指していたのもまた、『戦争のない豊かで平和な国』なのだから。

 『そこ生きている命を(すべか)らく刈り取る事以外の目的など一つとして存在しない』などという形の“侵略”など、聞いた事も考えた事もない。いや、それは最早、華琳の知るどんな戦争行為にも当てはまらない悍ましさを秘めていた。

 

「さて。いよいよ、核心に近づいて来たわね。神仙じみた連中が接触してきて、天の世界――正史と、私たちの世界である外史の関係を明かし、古に存在していた怪物の存在と、それを封印した正史の英雄の話をして、その伝説の怪物が蘇ったと警告を与えられる。そして、怪物の特性上、外史の人間である私たちでは、例え各国の主力をぶつけたとしても敵の部将級を討ち取れるかどうかすら博打の範疇であり、あまつさえそいつらは、こうして居る今も、私たちの世界に深く静かに爪をくい込ませつつある。と説明を受けた――もう後に残されているのは、抜本的な解決策の提示くらいだと思うのだけれど?」

 

「うむ。流石は曹孟徳よ」

 卑弥呼が厳めしい表情でそう言うと、華琳は別段、嬉しくもなさそうな笑みを浮かべてみせる。

「それはどうも」

「では、暫し待て。“これ”を片付けてしまうとしよう――むゥん!!」

 

 卑弥呼は、おもむろに罵苦の死骸の足首を掴むと、そのままノーモーションで盛大に柵の外、即ち漆黒の空間に向かって放り投げた。皆が同時に空気が清涼になった事を感じて、密かに深く呼吸をする。

「大丈夫なのかよ、卑弥呼。あれ、不法投棄になんないのか?」

 一刀が訝しそうに尋ねると、卑弥呼は無駄にダンディに肩を竦める。

 

「なに、罵苦は本来、生命活動を停止すれば泥となって消滅するのだが、今回は皆に実物を見てもらいたくてな。我が術を以って、無理やり原型を留めておったのだ。だが、そのせいで、随分と臭ってしまったわ。場合によっては有効とは言え、やはり、(かばね)をどうこうする術は好かん」

 卑弥呼はそう言ってパンパンと手を叩くと、一刀たちに向き直る。

 

「さて。解決策の話なのだがな。恐らく、口にした曹孟徳には見当がついていようが、鍵となるのはご主人様、其方だ」

「―――はぁ?」

 一刀は、まったく予想していなかった答えに思わず間の抜けた顔をして、卑弥呼の顔をまじまじと見つめた。

 

「俺が?本当に?」

「うむ」

「いやいやいやいや!“このレベル”の人達でどうにもならないバケモンなんて、俺にどうにか出来る訳ないだろ!?」

 

「ちょっと、一刀。指差さないでよ指!しっつれいしちゃうわね!」

「あ、ごめん雪蓮。だってさぁ……」

 一刀が、グイと力強く親指で指さされてお冠の雪蓮に詫びを入れると、華琳が溜息交じりに首を横に振った。

「今までの話を聞いていれば、予想ぐらいは付きそうなものでしょう。私たちの世界と深い関わりのある天の国の人間なんて、差し当たって貴方しか見つかっていないのだから」

 

「いやだってさぁ……華琳だって、俺が一対一で化け物の相手なんて出来ると思ってないだろ?」

「それをどうにか出来る様にする方法を、これから卑弥呼が話してくれると言ってるのではなくて?」

「ぐぬぬ」

「なにがぐぬぬよ。まったく、これで本当に黄帝の再来になんてなれるのかしらね」

 

 眉を八の字にした華琳が溜息を吐きながらそう言うと、一刀は訝しそうに華琳の顔を見返した。

「コウテイだって?」

「ええ。三皇五帝を知っているなら当然、蚩尤の名も黄帝の事も知っているでしょう?」

「ああ。確か、三皇の最後――神農の一族から統治を受け継いだ、五帝の内の最初の人だよね。蚩尤を退治したのも、確か黄帝だって」

 

「その通り。姬大人の話を聞く限り、黄帝こそが『正史に生まれながら外史の力を使役した英雄』、と言う事になるわ。つまり――」

「ご主人様にも、同じ事が出来るってこと!?」

 華琳の言葉尻を奪うように驚きの声尾を上げた桃香に、華琳は肩を竦めてみせた。

 

「さぁ?私は今まで聞いた話から推論を述べているだけですもの。訊くならこの三人にお訊きなさいな」

 華琳の言葉に、その場に居た全員の視線が三人の管理者たちに注がれた。

「そうさな――」

 その視線を受けた卑弥呼が、目を閉じながら答える。

 

「結論から言ってしまうと、現段階では無理だ」

「えええ!?ちょっと何よそれぇ!メチャメチャ期待させといて!」

 雪蓮が、気の抜けた声を上げると、卑弥呼は気まずそうに咳払いをして、右の掌を雪蓮の前に突き出した。

「まぁ、待て。孫伯符よ。“現段階では”と言っておろうが」

 

「では、方法はあるのだな?」

 蓮華は僅かに安堵の息を吐いて尋ねると、卑弥呼は大きく頷いた。

「うむ。だが、今のご主人様では、膨大な幻想の力が(もたら)す身体と精神への負荷に耐えきれず、圧し潰されてしまうだろう――神話の怪物とも闘い得る強靭な肉体、どれほど強大で邪悪な敵意にも臆さぬ鋼の意志、与えられた力を十全に使いこなす為の智謀と(わざ)。どれが欠けても、幻想の力をその身に纏う事は出来まいよ」

 

「なぁんだぁ!」

 卑弥呼の言葉を聞いた雪蓮が、ほっとしたように陽気な声を上げる。

「なら、解決したも同然じゃない!此処から帰ったら、私たち全員で一刀を徹底的に鍛えて上げれば――」

「それじゃダメなのよ、雪蓮ちゃん」

 

 貂蝉が、悲しそうに首を振る。

「へ、なんで?」

「今この外史に居るご主人様は、必要とされる意味での英雄じゃないからよ」

「そんな事ないよ、貂蝉さん!ご主人様が居なければ、私たちはこうして、みんなで仲良く平和な時代を手に入れる事なんて出来なかった!そうだよね、蓮華ちゃん、華琳さん?」

 

「あぁ、勿論だ!」

「…………」

「華琳さん?」

 桃香は、一人目を閉じ、(おとがい)を拳に乗せて黙考する華琳を不安げに見遣った。

 

「恐らく――」

 華琳はそう言って目を開き、桃香を見返した。

「そういう事ではないのよ、桃香」

「え?」

 

「先程、姬大人が仰っていたでしょう?一刀は私たちに取っての呂尚であり、蕭何と曹参であると」

「うん、それが?」

「では彼らは、『自分こそが乱れた世を救うのだ』と天下に名乗りを上げ、旗頭として勢力を起こした?」

「それは違うけど……でも、みんな凄い功績を残した英雄じゃない!」

 

「貴女に言われずとも、そんな事は知っているわよ。一応、曹参は私のご先祖なのよ?」

「あ、う……そうだよね。ごめんなさい……」

「別に怒っている訳ではないわ。いいかしら、桃香。これは一刀の才とか人格の話ではないし、その功績の話でもないのよ」

 

 華琳は、俯いてしまった桃香にそう言って、少しバツの悪そうな視線を投げて溜息を吐く。

と、桃香は顔を上げ、困惑した眼差しで華琳を見る。雪蓮と蓮華も、華琳の話の続きを無言の内に促した。

「いいこと?呂尚も、蕭何と曹参も、“救国の志を掲げた英雄に付き従った結果として英雄になったの”。そして、“私たちの所に落ちて来た一刀の役割”は、正にそれよ」

 

「うん。分かるよ、華琳の言ってる事」

 今まで、どこか静かな思考の波の中で皆の話を聴いていた一刀は、そう言って小さく頷いた。

「だってさ。俺、桃香に会った時には、桃香の『苦しんでる人たちの事を助けたい』って言う気持ちに応えたかっただけで、世の乱れなんてものを嘆ける程この世界で過ごした訳じゃ無かったし、華琳の時には、兎に角ごはんを食べさせて貰うんだから役に立って捨てられないようにしないとって、最初はその一心だった……勿論、直ぐに華琳の夢を支えたいって思ったけどね。で、呉に拾って貰った時はその――」

 

「あはは……まぁ、母様に半ば否応なしでって感じだったもんね~」

 一刀は、そう言って気まずそうに頭を掻く雪蓮に、微笑みを返した。

「正直、当主が雪蓮でも大して変わってなかったとは思うけどなぁ」

「ちょ!どういう意味よぅ、一刀!?」

 

「言葉通りの意味では?姉さま」

「むむむ……で、でも、蓮華の代だったら、きっと『こんな怪しいヤツ切り捨てろー!!』ってなってたじゃない!」

「うっ!?そ、それはその……まぁ確かに、初対面の時は一刀に良い印象を持ってはいませんでしたが……!!」

 

「まぁまぁ、二人とも。もういいだろ、な?」

「んもう、元はと言えば一刀が――はぁ、良いわよ~だ」

「すまない、一刀。つい何時もの調子で……」

「うん、それでね?考えたんだけど、結局のところ俺は、自分の意志でこの国の腐敗とか、苦しんでる人をどうにかしたいとか感じて戦い始めた訳じゃないんだよ。殆ど選択肢の無い状態で皆と出逢って、皆に着いて行ってさ?その結果として皆に共感したから、自分なりに頑張ってみただけで。そんな半端なヤツに、たった一人で世界を滅ぼす力を持ってる怪物と戦うなんて、出来る訳がない」

 

「ご主人様はちゃんと凄いよ!」

 一刀の言葉を自嘲と思ったのだろう。桃香は目に涙を溜めて、一刀を睨む様に見つめた。

「そんなこと言ったら、私はどうなるの?愛紗ちゃんと鈴々ちゃんが居てくれなければ、小さな村を荒らす位しか出来ないような盗賊すら退治できなかった。折角、良い私塾に入れて貰ったのに、『今の世は間違ってる』って分かっていながら、ただ故郷で筵を織る事しか出来てなかった私は……」

 

「それこそ、“そんなこと言ったら”だよ。桃香」

「え?」

「愛紗がね、前に教えてくれたよ。初めて桃香と出逢った時の事」

「愛紗ちゃん達と初めて逢った時……」

「桃香はたった独りで、後ろに戦えない人たちを背負って、百人もの盗賊に剣を抜いて立ち向かっていたって。凄く、眩しく見えたって」

「そんな事……あの時だって、愛紗ちゃんと鈴々ちゃんが居なければきっと――」

「愛紗はこうも言ってた。『自分たちには、目の前の百人の盗賊を倒す力はあったけど、それで満足していただけだった。でも桃香は、自分に力が無い事をちゃんと分かってて、世を正す為に立ち向かわなければならない敵がどんなに強大かも分かってて、それでも戦おうとしてた』って。だから惚れたんだ、ってね」

 

「うぅ、愛紗ちゃん、美化しすぎだよ……」

「腕力や智謀があるかどうかじゃない。桃香は、自分自身の志の為に世界を相手に戦おう思えたからこそ、英雄になったんだ。俺なんかとは、モノが違うんだって」

「だって……じゃあ、如何したら良いの?私どころか、三国の誰にもどうにも出来なくて、ご主人様でもどうにも出来ないなら……どうしたら皆を守れるの?」

 

「うん、桃香。だからね――」

 一刀は、大きく息を吐くと、唇を噛み締める桃香の両肩に、自分の手を置いた。

「俺は、自分の世界に戻ろうと思う」

「…………え?」

 

 茫然と一刀を見詰める事しか出来ないでいる桃香に代わって、蓮華が桃香から引き剥がす様に一刀の腕を掴んで自分と向き合わせると、両手で襟を掴み上げる。

「一刀、まさか、臆して逃げ帰るなんて言うつもり!?貴方は――お前は何時からそんな腰抜けになった!華琳、姉さま、一刀に何とか言ってやって下さい!」

 

「不思議なものね」

 一刀の言葉を吟味する様に瞠目していた華琳はゆっくりと目を開き、微苦笑を浮かべて雪蓮を見遣る。

「貴女たち一族の中で、追い詰められると最も激しやすくなるのが、普段は一番冷静な蓮華だと言うのは」

「真面目過ぎるからね~。普段ちょこちょこ発散しないから余計なのよ」

 

 雪蓮は、華琳の言葉に同じ様に微苦笑で返して肩を竦めてみせた。

「な――二人とも何を!?」

「良いから落ち着きなさいって、蓮華。一刀は一言も『帰る』なんて言ってないでしょう」

「そんなもの、言葉の綾ではありませんか!」

 

「あぁ、いや。ごめんな、蓮華。言い方が悪かったみたいだ。桃香も、驚かせちゃったみたいでごめん」

 一刀は、自分の襟を掴んでいる蓮華の両手を自分の両手で包み込むと、この強張りを揉み解す様に、親指を使って優しく撫でた。

「逃げたりなんかするもんか。皆を置いて、逃げたりなんか……」

 

 一刀は、一度だけ強く蓮華の手を握り返し、意志の力を総動員してその温もりを手放した。

「でもきっと――今、皆を救う為に出来る選択は、これだけみたいなんだよ、蓮華、桃香」

 一刀は、まだ一刀の言葉の意味を理解できていない様子の桃香と蓮華の肩に、左右の手を一つずつ乗せた。

「…………そうなんだろ?姬大人、卑弥呼、貂蝉」

 

 一刀は、それぞれに自分を見詰める愛しい少女たちへの未練を振り切る様に目を閉じてそう言うと、一呼吸を置いてから静かに瞼を開いて、三人の管理者たちに向き合った。

「その通りだ」

 卑弥呼が、感情を殺した声でそう答えると、貂蝉が寂しそうな顔で言葉を継ぐ。

 

「今のご主人様は、“乱世を鎮める為に使わされた者”。救国を志す英雄たちの天祐となり、導き支えるのがその命題。このまま、この外史でどれ程の努力を重ねても、ご主人様がこの外史に招かれた存在根拠(レゾンデートル)であるその一点だけは、変える事が出来ないのん」

「もし、その天命を覆す事が出来るとすれば、手段はただ一つ――」

 

 姬大人は、そう言って、一刀の目前にまで歩み寄り、静かに少年の目を見詰めた。

「“乱世を鎮めたる天の遣い”として、使命を終えてこの外史を去り――“この外史を邪悪より救済せんとする天の遣い”として、外史に己の意志を示して縁を繋ぎ、再臨するより他にあるまいよ」

「はい。そうなんだろうって、思ってました」

 

「甘言を(ろう)するような真似はせん。如何な黄龍の器を宿す身と言えど、一度、閉じた外史の扉を己の力で抉じ開けるなどと言う事は――正史に生受けたる者が、己から外史に対し、我こそは救世の英雄たらんと認めさせるなどと言う事は、並大抵の努力では叶わぬぞ。必ず戻れるとも、戻れるとしてそれが何時になるかとも、確約はしてやれぬ。それでも尚、全てを投げ打つ覚悟で以って、正史に戻ると言うのだな?」

 

「俺は、皆に助けてもらわなければ、この世界で一人で生きてく事も出来ない半端者です。最初も今も、それは変わってないと思う。だけど――」

 一刀は、言葉を選びながらそこまで口にして、一度だけ自分の背中を見守っていた四人の少女たちの顔を見る為に振り返ると、再び姬大人に向き直った。

「だけど、だからこそ。彼女たちが俺を信じてくれるなら、どんな事でも成し遂げてみせます」

 姬大人は、決然としてそう言い放った一刀の瞳を見返して、微笑を浮かべた。

「宜しい。で、あれば、我らは其方に出来得る限りの助力を惜しまぬ。良いな、貂蝉、卑弥呼よ」

「うむ。それでこそ日本男児よ。流石はご主人様ぞ」

 

「ええ。アタシのオトコを見る目に狂いはなかったわん、ご主人様」

「ありがとう。宜しくお願いします」

 一刀は管理者たちに深く頭を下げると、気合を入れる様に短く息を吐いてから踵を返した。

「そう言う事になったよ。みんな」

 

「何が『そういう事になったよ』よ。まったくもう、国の――いいえ、世界の大事を独りで決めちゃって!」

 雪蓮が頬を膨らませてつかつかと一刀に歩み寄る。

「でも――」

 雪蓮は、どこか静かな光を湛えた一刀の目を覗き込んでから、ポンと一刀の二の腕を叩いた。

 

「それでこそ、私の一刀よ。ほら、蓮華?」

「一刀……」

 姉に促された蓮華は、唇が無くなってしまうのではないかと言うほど強く口を引き締めて、ゆっくりと進み出た。

 

「帰って……来るのよね?」

「勿論。俺の家は、皆の居る場所だからね」

「…………うん。分かったわ」

 蓮華は一刀の言葉を聞いて漸く僅かに微笑むと、半身をずらして、魏の覇王と蜀の大徳が並び立つ場所へ、一刀に道を譲った。

 

「華琳」

 一刀は、腕を組んで静かに一刀を見詰める覇王に声を掛ける。

「なにかしら?」

「留守の間、皆を頼む」

 

「良いわ……ふん。詫びなど言ったら、引っ叩いていた所よ」

「ははっ。そうだと思ってたよ――ありがとう」

「知っているでしょう。私が望むのは、謝意などより結果よ」

「あぁ。力を尽くすよ」

一刀は、鼻を鳴らして視線を逸らし、会話の終わりを宣言した華琳に苦笑を向けてから、桃香に向き直る。

「桃香。暫く里帰りして来るよ。土産は何が良い?」

「そうだな、ええとね――カッコ良くなったご主人様!!」

「おいおい、今でも十分カッコいいだろ?俺は」

 

 一刀が拗ねた様な顔を作ってそう言うと、桃香も何時もの様に笑って見せてくれる。

「あはは!うん、そうだね。じゃあ、元気で帰って来て?私はそれで――ううん。それが良いな」

「あぁ、任せろ。桃香ほどじゃないが、俺も図太さには自信があるからな」

「もう、ヒドいよご主人様!折角、私が良いこと言って上げたのに!」

 

 一刀は桃香と顔を合わせて一頻(ひとしき)り笑い合うと、また管理者たちに向き合った。

「あー、このまま行かなきゃ駄目なのかな?」

「この卑弥呼、そこまでの無粋は言わぬわ。別れの時間くらい、ちゃんと用意する」

「そうねん。ご主人様は、お別れを言わなきゃいけない()が多いものね♪」

 

 卑弥呼と貂蝉が、漸く何時もの調子に戻ってそう言うと、姬大人も微笑みながら頷いた。

(まつりごと)の引継ぎもあろう。一月ほどは待とうぞ。しっかりと別れを済ませて来るがよい」

「感謝します」

「んじゃ、また私が送って送って上げるわん♪行きましょ、みんな!」

 

 貂蝉は、姬大人に向かって頭を下げていた一刀の背中を叩くと、スキップを踏んで王たちの間を抜け、広間への階段を登って行く。

「まったく、締まらないと言ったら無いわね」

「まぁまぁ、華琳。貂蝉もアレで気を遣ってくれてるんだって」

 

 呆れ顔の華琳とケラケラと笑う雪蓮がそれに続く。

「じゃあ、私たちも行きましょうか」

 蓮華がそう言うと、桃香が頷いて一刀の手と取る。

「そうだね!ほら、ご主人様も早く早く!ご主人様のお里帰りまでに、やらなきゃいけない事が山積みなんだから!」

 

「あぁ。そうだな。本当に、天の遣いともなると、里帰りだけでも一苦労だよ」

 一刀は、二人に精一杯の笑顔を向けて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 気が付くと、五人は“外史の狭間”に連れて行かれたのと同じ場所に並んで立っていた。

「やれやれ、お茶の時間に関しての約束は守った様ね。律儀だこと。生憎と、今日の予定は変更しなければならない様だけれど」

 華琳が空を見上げ、太陽の位置が殆ど変わっていない事に、僅かに苛立った様に唇の端を歪める。

 

「え――でも、結構な時間、“あっち”に居たよね、蓮華ちゃん?」

「あぁ……そう言えば、あの場所は時間が流れていないとか言っていた様な気がするが、まさか……」

「まさかも(まさかり)もないでしょ。あの場所で聞いた事と見せられたものの事を鑑みればね。大体、太陽は、疲れたからって一休みなんかする訳ないんだもの」

 

 雪蓮の言葉を吟味していた桃香は、突然ハッと顔を上げた。

「それじゃあ、あの場所に居れば、お婆ちゃんにならなくて良いって事かな!?」

「!?――確かに!!」

 蓮華も、桃香の言葉の意味に気が付いて大声を上げ、ごくりと喉を鳴らした。

 

「例えそうだとしても、私なら、あの連中と四六時中、顔を合わせ続けなきゃいけないなんて、不老長生と引き換えにしてでも御免被るわね。と言うか、永遠に顔を合わせ続けるのが不老長生の条件、と言う事になるのでしょうけれど」

 華琳がそう言うと、桃香と蓮華は揃って息を詰まらせて乾いた苦笑を浮かべ、言外に華琳への同意を示した。

 

「第一さぁ、好きな時に行ける訳じゃないんだし、そんな考えたって無駄よ無駄。それより今は、これから一月の段取りを考えるのが先だってば!ね、華琳」

 雪蓮が、桃香と雪蓮に微苦笑を向けてから、表情を引き締めて華琳に水を向ける。

「そうね。差し当たりはこうしましょう。私が今から城の執務室に一刻(約二時間)から一刻半ほど籠り、この件に関して、参軍(幕僚)格の将たち全員に対し発布する為の草案を纏めるわ。私からの使いが各々に知らせに行ったら、一刀の執務室に集まってそれを推敲する。皆はその時までに、各国の軍師から代表を二・三名選抜し、事情を説明して同行してもらう手筈を整えておいて。今は、一刀の天への帰還に関して、どれだけ混乱を抑えながら周知させるかと言う事を、最優先かつ最速で考える必要があるから、この際、罵苦への対応を主に担当してもらう事になる武官への説明は、後回しにさせてもらいましょう」

 

 蓮華は華琳の言葉に頷きながら、腕組みをして思案顔をする。

「いずれにせよ、罵苦に関する情報の開示は、せめて奴等の目撃談が衆目の口に昇る位になるまでは、参軍級のみに制限して箝口令(かんこうれい)を敷くべきだろうが、特に五胡と国境を隣する魏と蜀には、いずれ守将と細作(さいさく)の量を増やして警戒してもらう事になるだろう。その時に手が足りない所があったら、遠慮なく言ってくれ。適材の将と麾下の兵を出向させよう。各国の軍師たちには、今の内にその点を了解して貰っておいた方が良いだろう?」

 

「うん。ありがとう、蓮華ちゃん!」

「気遣い、感謝するわ、蓮華。では、取り敢えずは解散としましょうか。一刀、蜀の軍師への根回しは桃香に任せて、貴方は執務室で三国の将たちの日程を集めて目を通しておいて。これからの一月は、過密な日程で動かないとならないでしょうから、しくじれば取り返しがつかないわよ」

 

「分かった……華琳、皆、何から何まで、本当にありがとう。じゃあ、動いた方が良いよな?」

 一刀は、その背中を暫く見守ってから、自分も執務室に向かって走り出す。

 今や、狂おしい程に時間が惜しかった。

 

 

 

 

 

 

 それから約一月後の夜。

 城の庭園では、紐を通して列になった色とりどりの提灯が灯され、その下に設えられた多くの卓には、三国中から集められた珍味や料理自慢たち渾身の御馳走が山と置かれていた。

 大いに歓談する諸将たちの間を、董卓こと月、賈詡こと詠、孫乾こと美花の三人の指揮の元、大量の杯の乗った盆を持った大勢の侍女たちが、忙しなく行きつ戻りつしている。

 

 そんな中、一通り皆との挨拶と杯を酌み交わしての歓談を終えた一刀は、庭園の端に植えられた木の幹に背を預け、愛おしそうに宴の光景を眺めていた。

 目に、焼き付けておきたかった。

 どれ程の間、そうしていたのか。

 

 一刀は、静かに木の幹の裏手に回り込んでから、足音を消して、ゆっくりと目的の場所――つい昨日の事の様に感じる一月前、貂蝉が自分達を異界へと誘った林へと歩き出した。

 そして、宴の音が遠のき始めた頃、一刀は少しの間だけ足を止めて、耳を澄ます。

「(あぁ、皆が、笑ってる……)」

 

 その音色の、何と愛おしく美しい事だろう。

 一刀は、喉が痛み出した事で自分が泣き出しそうになっていると自覚し、顔を挟み込む様にして、思い切り両手で自分の頬を張った。

「しっかりしろ、北郷一刀!!今まで、散々、守って貰って来たじゃないか!今度は、お前が皆を守る番だろ!」

 食いしばる様に自身に向かってそう言い聞かせると、一刀は再び前を向いて歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

「良いの?行かなくて」

 妹の蓮華と朋友の周瑜こと冥琳を引き連れた雪蓮が、如何にも世間話でもする様な口調で、一刀が消えて行った木の陰を眺めていた華琳に、そう問い掛けた。

「もう別れは済ませてあるもの。それに――」

 華琳はそう言い掛けて、ふいと視線と移す。呉の面々が倣うと、そこには、今まで華琳が見ていた場所を眺める、桃香、関羽こと愛紗、張飛こと鈴々の姿があった。

 

 桃香と愛紗は、木陰を一身に見詰めながらも、二人の間に立っている鈴々の両肩にそれぞれの手を置き、遠目にもそうと分るほど、強く力を込めている。鈴々の強靭な脚が、今にも義兄を追って駆け出そうと大地を踏みしめているからだった。

 だが、鈴々自身も頭では、それはしてはいけない事だと理解しているのだろう。目に決壊寸前まで涙を溜めて、黙したまま、義姉たちと同じ場所を見詰めている。

 

「『死ぬ時は共に』と誓ったあの三人が耐えているのに、私が抜け駆けなんて出来る訳がないでしょう」

 華琳が僅かに目を細めてそう言うと、雪蓮は皮肉が同情か判然としない眼差しで華琳を見て言った。

「へぇ。魏の覇王様ともあろうものが、そんな遠慮をするなんてね」

「前に、人相見に言われた事があるの。私はね、雪蓮。治世の能臣、乱世の奸雄なのだそうよ」

雪蓮は一瞬、ポカンと口を開けて華琳をまじまじと見つめてから、優しく微笑んだ。

「そっか、もう乱世は終わっちゃったもんね――だ、そうだから、蓮華、冥琳、私たちも我慢しなきゃいけないみたいよ?」

「ふん、最初から思ってもいない事を良くも言う」

 

 冥琳が呆れた様に肩を竦めると、蓮華も頷いた。

「ええ。本当に、姉さまは直ぐにそうして、偽悪家を気取るのですから。それに――」

 蓮華は言葉を切って、周囲に目を遣る。すると、今まで下世話な四方山話(よもやまばなし)で盛り上がっていた酒豪たちは喋るのを止め、各々の盃に満たされた液体に視線を落として、口の運ぶでもなく手の中で弄んでいるし、手合わせの順番を決めようと怪気炎を上げていた腕自慢たちは、得物をぶらぶらとさせながら、歯を食いしばって夜空を眺めていた。

 

 芝生に円座になって軍略談義に興じていた軍師たちは、思い思いの方向を眺めて呆けているようでいて、膝の上に乗せられた両手は、強く拳に握り締められている。

山と積み上げられた酒樽の影では、とうとう堪え切れなくなって嗚咽を漏らし始めた月を、同じく目に涙を溜めた詠が、強く抱き締めながら必死に慰めていて、美花はその横でピンと背筋を伸ばし、肘をしっかりと張って両手を下腹の辺りで組む一流のメイド然とした姿勢を維持して、一刀の消えた先に向かって、深々と頭を垂れていた。

 

 彼らだけではない。会場に居る誰もが、その中心で笑っているのが当たり前だった筈の存在が満たしていた何がが、突如ぽっかりと無くなってしまった事に気付いていて、各々がその状態に自分を適応させようと、必死になっているのだ。

「皆、想いは同じだからな」

 

 蓮華の言葉に、彼女の視線を追って会場を眺めていた三人は、静かに頷いた。

 

 

 

 

 

 

「よし、此処だよな」

 一刀はそう独り言ちてポケットをゴソゴソと漁ると、何かを取り出した。

 開いたその手には、複雑な文様が刻まれた小さな石板が乗せられている。

「(此処でこれを握って、目を閉じてゆっくり三十数える……)」

 一刀は、貂蝉に教わった通りに数を数えて、とうとう三十を刻み、ゆっくりと目を開けた。

 するとそこには、一月前に見たままの、空間を満たす漆黒と行燈と橋と階段と言う組み合わせの光景が広がっていた。一刀は一人、頭上の漆黒を見上げ、込み上げて来た心細さを振り払う様に、武者震いを一つすると、視線を前方に戻す。と、そこには以前と同様に、忽然と貂蝉が姿を現している。

 

「はぁい、ご主人様。もう、お別れは済んだの?」

「あぁ。ありがとう、貂蝉。ちょっと遅くなったのに、待っていてくれて」

「どぅふふ、良いのよ。ご主人様は、一度、口に出した約束は守るヒトだって、ちゃんと分かってるものん♪さ、行きましょ」

 

 一刀は、前回と同様に階段を上がっていく貂蝉の背中を追いながら、気になっていた事を尋ねてみようと思い、声を掛ける。

「なぁ、貂蝉。俺、思うんだけど、今から死に物狂いで鍛えたとしてさ、一年や二年、鍛えてどうにかなるもんじゃない筈だよな?」

 

「えぇ。そうね、多分」

「じゃあ、もっと長い時間が掛かったとして、罵苦たちの侵攻が本格化するまでに間に合わなかったら……」

「大丈夫よ、ご主人様。ちゃんと牽制策は講じているし、ヤツ等にとっても失敗できない初手ですもの。均衡は、そう簡単には崩れないわ。でも、そうね。時間の事で言えば、前にも言ったと思うけど、この“外史の狭間”は、時間の流れの外にある場所、外史と正史を繋ぐ中洲なのん。あの娘たちが居る時はこんがらがると思って言わなかったけど、ご主人様になら“特異点”と言った方が簡単かしらね?だから此処を経由すれば、正史での時間の流れの誤差を無視して、目的の外史の好きな時間と場所を指定して飛ぶ事が出来るのよ――本来はね」

 

「じゃあ……」

 一刀が思わず立ち止まると、貂蝉もその気配を察して足を止めて振り返った。

「えぇ。ご主人様を待ってる間に、他の外史に飛んでみて確かめたから間違いないと思うんだけど、罵苦、或いは罵苦の本拠地という、()わば違法な特異点から不法介入を受けているせいで、時間軸の操作が完全には出来ない状態なのよ。(いかり)を落とされてるようなものね。とは言え、全く出来ない訳ではないから、そこまで心配はいらないわよ。ただ――」

 

 貂蝉は、暫く逡巡してから、階段に腰を下ろして脚を組み、溜息を吐いてから口を開いた。

「私たちに操作する事が出来るのは、“外史の時間だけ”なの。この意味は分かるかしら?」

「うん――」

一刀としても、薄々は察していた事ではあったが、それでもはっきりと明言されるのは気が重かった。

「なら、ちゃんと言うわね。私たちには、“正史でご主人様が過ごした時間の経過”までは、どうにもならないわ。それはつまり、精神的にも肉体的にも、って事よ。ご主人様が無事に此処に帰って来れたとしても、今と同じ状態には戻して上げられない――ごめんなさいね。こんな土壇場で言う事になっちゃって」

 貂蝉が恥じ入る様にそう言うと、一刀は微笑みと共に答える。

 

「気にするなよ、貂蝉。察しはついてたし、それでも行くって決めたんだから。でもさ、俺も頑張るから、出来るだけ早く迎えに来てくれよな?」

 貂蝉は、その言葉を聞いて、穏やかな目で頷いた。

「モチロンよ。ご主人様。あなたが、この外史を救うに足る力を得る事が出来たなら、その時は、アタシが必ず迎えに行くわん」

 

「あ!ただ、さ。皆には、今、話した事を伝えておいて貰えないか?帰って来れた時にさ、びっくりさせちゃうのは嫌だし……」

「ふふ、そうねん。分かったわ。あちらに戻る機会にちゃんと話しておくから、安心してちょーだい」

 そんな会話を終え、再び貂蝉と共に階段を登り切った一刀が広間に辿り着くと、卑弥呼と姬大人が一刀を持っていた。

 

「よくぞ来た、ご主人様」

「準備は良いのじゃな?」

 一刀が頷くと、姬大人は背広の内ポケットから鍵を取り出し、この前とは反対の面にある扉の前に立って鍵穴に鍵を差し込むと、ガチャリと音を立ててそれを回して、一刀の為に場所を開けた。

 

「良いか、ご主人様」

 卑弥呼は、一刀の肩に手を置くと、力強くポンと叩いた

「どんな時にも、恐れず前に進むがよい。救世の器となりうる資格があったればこそ、お主は外史に引き寄せられたのだから。天より与えられたその器を磨かくのだ。お主の宿星たる黄龍とは、その命運を以って因果を断つ星ぞ」

 

「うん、やれるだけやってみるよ。ありがとう、卑弥呼」

 一刀は卑弥呼にそう返事をすると、姬大人が開けてくれた場所――扉の正面に立ち、姬大人の方を見て小さく頷く。そして、姬大人が姬大人が頷きを返してくれたのを合図にドアノブに手をかけ、それを回して扉を押し開いた。

 光が、広がってゆく。

 

 一刀は、静かに目を閉じた―――。

 

 

 

 

 

 

「帰って……来れるであろうか……」

 卑弥呼が祈る様にそう言うと、貂蝉は力強く頷く。

「当然よ。だって彼は黄龍の器――幻想の世界に選ばれた運命の人間なのだから。ね?大人さま」

 

 

 姬大人は、貂蝉の言葉を受けて穏やかに微笑む。

「そうである、と信じたくなる目をした男ではあったな」

 卑弥呼は、気を取り直す様に一つ息を吐く。

「そうですな。我らが黄龍の器を信じずして、なんの肯定者でありましょうや。では――儂は往きまする。後は、お頼み申します、大人さま」

 

「うむ。“先方”には既に詳しく伝えてある。宜しく言っておいておくれ」

「ハッ!」

「罵苦どもも、このワシが敢えて気配を晒しておれば、おいそれとは動けまいし、この際、貂蝉に多少、暴れて貰うても、過干渉には当たるまいしの」

 

「そうですな……貂蝉、暫し留守を任せるぞ」

「分かってるってヴぁ!いいから、さっさとお往きなさいって」

貂蝉がヒラヒラと手を振ってそう言うと、卑弥呼は頷いて、頭上の漆黒を見上げる。

「では、いざ往かん。ご主人様の力となる、幻想の力を求めて!!」

 

 次の瞬間、跳躍した卑弥呼は、瞬きの間に、漆黒の彼方へと姿を消す。

 後に残された姬大人と貂蝉は、視線を交わして頷き合うと、卑弥呼の消え去った方を静かに見詰め続けた―――。

 

 




さて、今回のお話は如何でしたでしょうか?
今回も小難しい話になってしまいましたが、ご容赦下さい。
次回も多分、加筆修正ではなく、ほぼ書き下ろしになってしまいそうなので、頑張らねばと思っておりますです、はい……。

では、また次回、お会いしましょう。


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第一話 Bad City

どうも皆さま、YTAです。
漸く第一話まで漕ぎつけました(笑)
今回も、ほぼ書き下ろしとなっております。
また、事後報告で恐縮ですが、R-18タグを外させて頂きました。
詳しくはあとがきに書いております。
評価、感想、お気に入り登録など、大変励みになりますので、お気軽に頂けたらと思います。
では、どうぞ!



 

 

 

 

 今日は、朝からやけに昔の事を思い出す。

 数年前なら、何かの前兆かと胸をざわつかせて一日を過ごしていた所だが、晩度(ばんたび)そんな事をしていては神経がすり減ってしまう事もまた事実だったから、随分と自制心を養える様になった。

 北郷一刀は、窓の外から押し寄せる熱気にドライヤーを使う気にもなれず、濡れた髪をバスタオルで拭きつつ、冷蔵庫からペットボトルのコーラを一本取り出して一気に三分の一ほどを飲んでしまうと、ベッドに座って煙草に火を点け、紫煙を吐き出した。

 

 スマートフォンのロックキー・ボタンを押して画面を点灯させ時計を見ると、“事務所”に顔を出すには、まだ少し余裕があるようだった。

 ハムか何かを乗せたトーストを二・三枚作ってパクつく位の時間はあるだろう。

 一刀はそう考えて、着替える前にオーブントースターをセットしてしまおうと、もう一度、キッチンへ向かった。

 

 

 

 

 

 

 一刀が経営する探偵事務所は、新宿の中心地に程近い小さな三階建てのビルの二階部分にあり、三階の居住スペースと併せて、立地を考えれば格安と言える値段で借り受け、営業していた。

 大家は、数軒先のマンションに住みながら、一刀の住むビルの一階部分を使って殆ど趣味で喫茶店を開いているという裕福な老夫婦で、自分達の頭上に“私立探偵”なる非現実的な世界の住人が寝起きしているのが面白いらしく、一刀自身も家賃の滞納もせず部屋やその設備に口うるさく言わない良い店子なので、良好な関係を築けている。

 

 アメリカでの一刀の雇い主であるレイモンド・ミッチャムとジェイコブ・ベイカーは、『勝手な都合で辞めて貰うのだから』と、一刀に対して過分とも言える額の退職金を払ってくれていたし、東京に戻るまでの五年の間は鹿児島の祖父の家で生活していたので生活費は殆ど掛からなかった。

 それに、週に数日、祖父の知人の骨董屋で在庫整理やら店番やらをして働かせて貰って得たバイト代があれば特に小遣い銭に不自由も無かったので、アメリカ時代の貯蓄に殆ど手を付けなかっただけでなく、退職金も全額を投資信託に任せたままにしてた。

 

 その結果、いざ東京に帰る頃になると、幸運な事に、自営業者として生活を軌道に乗せるまでの間に多少の贅沢が許される程度には纏まった額の資産が、一刀の手元に入って来ていたのである。

 カーキ色のスーツに着替えを済ませた一刀は、錆の浮いた外階段を降りて一階へ向かい、大家夫妻への挨拶がてら、二つのタンブラーにアイスコーヒーとアイスカフェラテを、それぞれたっぷりと入れて貰う。

 今や習慣になっているので、代金は纏めて月末払いだ。

 

 世間話を終え、再び外階段を上がって、事務所のドアに掛かったCIOSEの札をOPENにひっくり返してから、二つ付いた鍵を順に開けてノブを回す。

 部屋の中に入って、更に以前の居住者たちの名残である受付の待合スペースから扉を開けて奥に進むと、途端にエアコンからの冷気を含んだ風と僅かな酒精の匂い、そして紫煙の残り香が鼻を突いた。

 

「まったく……」

 一刀が溜息を吐いて来客用のソファーを覗き込むと、そこには案の定、タブレットPCを縫いぐるみのように抱えたまま健やかに寝息を立てる旧友、及川祐の姿があった。

 テーブルに置かれたバランタイン・ファイネストの瓶の中身の減り具合と、灰皿に積まれたLARK100sの吸い殻を見るに、また昨夜も眠りに落ちるまでダラダラと仕事をしていたのだろう。

 

 一刀が額を軽く引っ叩くと、「んがッ!!?」と言う様な頓狂な声と共に、及川が目を覚ます。

「お?おぉ、一刀か。おはようさん」

 一刀は、呑気に欠伸をして身体を伸ばす及川に呆れた様な視線を向けながら、テーブルに及川の分のタンブラーを置いてから、自分の仕事机(及川曰く所長席)の奥にある窓を開け広げて、背もたれ付きの椅子に腰を下ろした。

 

「何がおはようさんだ。寝るなら奥の部屋を使えって何度言えば分るんだよ、お前は。仮眠用のベッドだってあるだろ」

 一刀の言う奥の部屋とは、これまた前の入居者が資料室として使っていたスペースだった。とは言え、今のご時世、個人営業者の事業規模で部屋一つを占領する程の紙資料など扱う事もないので、仕事が立て込んだ時の為に、折り畳みベッドなどを置いて仮眠室(という名目の及川の私室)として使っているのである。

「そうなんだけどさぁ。このソファー気持ち良くて、つい……」

 及川は悪びれもせずに笑ってそう言うと、冷えたコーヒーをブラックのままガブガブと半分がた飲み干してから、億劫そうに立ち上がってテーブルを片付け始める。

 一刀が、旧友であるこの及川祐との交流を再開したのは、祖父の家で世話になり始めてから一年以上が経ってからの事になる。

 

 クラス会を開くと言うので、幹事だった及川が連絡を取って来たのだ。

 なんでも、出席予定だった当時の担任から一刀の実家の連絡先を聞き、そこから更に祖父の家の電話番号を聞き出すと言う面倒な手間まで掛けて探したのだそうである。

 その時は、わざわざ酒を飲む為だけに東京まで出ていく心算(つもり)など更々無かったので、携帯番号やSNSのアカウントを交換して世間話をしただけで終わったのだが、それ以降、何を思ったのか、折りに触れて及川の方から連絡をして来たので、自然と近況を語り合う程度には旧交を温める様になったのだった。

 

 そんな関係を続ける内に、一刀の修行も終わりの時期を迎える事になり、自活の手段として、経歴を活かす事が出来、尚且つ、ある程度の自由な時間が確保できる可能性がある職業として私立探偵と言う選択肢を考え出したのだが、如何せん、十年以上、まともに東京に寄り付かなかった事に加え、事業を始めるにしろ、事務所の確保の仕方やら客の呼び方やら、基礎の基礎が何も分からなかった一刀は、既に社会人として先輩で東京にも住み続けている及川に、ダメ元で相談してみた。

 

 すると、及川は、今、一刀が借りているこの事務所を探し出してくれたばかりか、腕の良いHPの製作会社まで見つけてくれただけでなく、事業を始めるにあたっての世話を何くれとなく焼いてくれたのである。

 と言っても、別に及川の方でも、なんの損得も無く一刀の世話を焼いた訳ではなった。

 当時、東京の新聞社でスポーツ新聞の記者として働いていた及川は、その職業を望んで選択した訳ではなかったのだ。

 

 及川が大学の三年に進級して直ぐの時期に、父が病で倒れた。しかも、難病指定の稀なものであった為、保険と母の稼ぎだけでは治療費を贖い切れず、大学の卒業と同時に父のツテを頼って入社したのが、新聞社だったのである。

 及川本人は、大学時代に民俗学を専攻していた事もあり、将来はその方面の研究者になる事を望んでいたらしいのだが、現実に屈せざるを得なかったのだった。

 

 だが、一刀が修行を始めて三年目の年、とうとう父が逝き、丁度、一刀が東京に戻る云々の相談の電話をした半年前には、母も父を追うようにして乳がんで夭折すると言う悲劇が重なった事もあり、及川自身、心機一転を図りたいと考えていた時期だったので、新聞社を辞めてフリーのライターになろうと思い立ったのである。

 そんな訳で、『アメリカで元軍人と共に賞金稼ぎをしていた元幹部自衛官候補の若き私立探偵』という属性マシマシの人生を送ってきた旧友は、及川にとって絶好のネタ元だったのだ。

 結局のところ、一刀へのインタヴューを口実に事務所に入り浸っていた及川は、次第にそこで自分の仕事をする様になり、事務所の電話取りやら、一刀の仕事に同行して助手紛いの手伝いやらをするようになり、遂には自分のアパートを引き払い、居候同然に事務所で寝起きをする様になって今に至っていると言うのが現状だった。

 

 尤も、一刀にした所で、給料も払っていないのに従業員並みに仕事を手伝わせている手前もあって、水道光熱費を余分に支払う程度で給料の代わりになっている現状は、決して悪い取引でもなかった為、それなりに満足のいく関係であると言えた。

「で、今はどれをやってるんだ?この前に話してたネット記事か?」

 

 一刀が自分のマールボロに火を点けながら給湯室に向かって声を掛けると、グラスやら何やらを洗っている及川の声が飛んでくる。

「いや、それは一昨日、終わって、もうクライアントに送った。今はサイトの方」

「あぁ、趣味枠ね」

 

 一刀はそう呟いて、自分のタンブラーから冷たいカフェラテをちびりと啜り、製作途中の報告書(ちなみに内容は、よくある浮気調査だった)をやっつけてしまおうと、自分のデスクトップの電源を入れる。

 及川の“仕事”は大きく分けて四つあり、一刀の仕事の手伝いの他に、生業としてのネットや雑誌への寄稿、一刀へのインタビューを元にしてのルポルタージュ(本人はこれを、本格ルポライターとしてのデビュー作にすると息巻いていた)の執筆、そして学生時代からのライフワークである都市伝説を扱ったサイトの運営、がその内容だった。

 

 と言っても、一刀の仕事の手伝いは、ルポルタージュを執筆するに当たって、一刀の仕事への造詣を深めると言う意味合いもあるとの事なのだそうで、それぞれを単独の仕事と考えるべきか微妙な所ではあるだろうが。

「ほーいへははー」

 

 一刀がwordを起動させていると、給湯室から口を泡だらけにして歯ブラシを咥えた及川が顔を出した。

「口を空にしてからにしろよ。聞き取り辛い」

 一刀が視線も向けずにそう言うと、及川は素直に顔を引っ込め、口を(ゆす)ぐ音をさせた後で、改めて顔を出す。

 

 

 

「そう言えばさ。お前、今日は暇だよな?」

依頼人(クライアント)とのアポの予定がないって意味ならな。あと、午後からは道場に行くぞ。それが?」

「もし、稽古の後も暇なら、フィールドワークに付きあってくれないか?」

「このクソ熱いのに、趣味の為にご苦労なこったな」

 

 一刀が呆れの感情を顔に出すと、及川はLARKに火を点けて肩を竦めた。

「別に良いだろ。この手の事だって、将来ルポライターとして食っていける様になったら、仕事のタネにだって出来るんだし。ほら、好きこそものの上手なれって言うじゃん?」

「下手の横好きともな。別に構わないけど、まさかまた、三十路男が雁首揃えて、伊豆辺りまで夜のドライブなんて事は――」

 

「まさかまさか、近所だよ」

 及川は苦笑いを浮かべて、コーヒーに口を付ける。

「中央公園だ。どうも、本格的な“事件”ってヤツかも知れないぞ」

「なんだそりゃ」

 

 一刀は、報告書を暫し諦めて、どっかとソファーに腰を下ろした及川の方に顔を向ける。

「うん。何でも、あの周辺のホームレスが何人か、行方不明になってるんだってさ」

 嘗てはホームレスの聖地などと言われていた新宿中央公園ではあるが、今、敷地内にその住居の陰は無い。とは言え、ホームレスの存在自体が消滅した訳ではないから、夜に寝る場所を変えただけに過ぎないし、夜、涼しくなるまで中央公園をうろついているホームレスとて当然、居る。

 

「それ、間違いないのか?本田のおっちゃんとかムネさんとかにも裏取ったんだよな?」

 一刀が、自分も顔見知りのホームレスのまとめ役たちの名前を出して確認すると、及川は小さく頷いた。

「モチさ。ホームレスは文字通り浮浪者だから、二人みたいな地域の“顔役”に訊かないと、ただ河岸を変えてただけ、なんてオチになりかねないだろ」

 

「で、確実だったと」

「あぁ。しかも、今月に入って五人だってよ」

「五人!?居なくなったのがホームレスじゃなきゃ、とっくにニュースになってるレベルじゃなか、それ」

「その通り。しかも、コレ見てみろ」

 

 

 

 

 及川は自分のラップトップのスリープを解除して、一刀のデスクの上に置いた。

「お前のサイトの投稿記事だよな?どれどれ――」

 一刀が画面を覗いて見ると、そこにはサイトの利用者たちからの投稿が、投稿日時順に書かれている。

 曰く、日暮れ時の“区民の森”で毛むくじゃらで猫背の巨大な人影が凄まじい速さで遊歩道を横切って行くのを見たとか、深夜の“水の広場”で水浴びをする半魚人を見たとか、雑木林の中から巨大な昆虫の様な生物がこっちを見ていたとか、何とも統一感に欠ける話なのだが、関連ダグには全て『新宿中央公園』という文字が並んでいる。

 

 しかも、投稿が寄せられている時期も、先月の半ばを過ぎた辺りから昨日の深夜までに集中してた。

「文体も句読点の位置も違うから、同一人物がネカフェ周って違うPCから書き込んでるって訳でもなさそうだな」

「はは。ウチのサイトにゃ、そんなアイドルのストーカーみたいな連中は居ないって。そもそもマイナーな都市伝説のサイトでそんな事したって、旨味がないしな」

 

 及川が一刀の疑念を笑顔で一蹴すると、一刀は芝居がかった笑みを浮かべる。

「どんなに有り得無さそうでも、論理的に完全否定できないなら可能性の範疇なのだよ、ワトスン君。神や悪魔や――君の大好きな妖怪やら怨霊やらと同じでね」

「ご高説ありがとうよ、イギリスになんか一回も行った事ないホームズ。だがまぁ、奇妙な話だろ?」

 

「しかし、これだけ目撃証言があるのに、誰も被害にはあってないようだな」

 一刀が名探偵ごっこを止めてカフェラテを啜りながら片眉を吊り上げてそう尋ねると、及川はラップトップを持ってテーブルに戻り、自分もアイスコーヒーを啜る。

「“足が着くから”かも知れないぞ。噂になる程度ならまだしも、生活基盤のある人間を襲ったら警察が動き出すって事もあり得るし」

 

「……妖怪だか新宿の雪男(ビッグフット)だかが、襲う人間を見定めてるって?服装やら持ち物で?しかも、警察がおっかないからって理由でか」

「警察だってバカに出来ないぞ。噂じゃ、警視庁の地下には、科学捜査じゃ解決できない事件を専門に扱う部署があるとかないとか――」

 

「親父からは、そんな話聞いた事ないけどな」

 一刀がそう言って肩を竦めると、及川は不貞腐れた子供の様な顔をして煙草に火を点けた。

「そりゃお前、そんな部署があるとしたら極秘事項だからな。日本は近代化した時、名目上、オカルトと国事は決別すべしって正式に決めたんだし。刑事局局長なんて超絶エリートともなれば、子供にも話せない国家機密くらい、いくらでもあるって」

 

「そんなもんかねぇ」

 一刀はまたも苦笑いを浮かべて、ゴキゴキと首を鳴らす。

 一刀にとって、父が警視総監の地位すら視野に入るほどのエリート官僚だなどと言う事は、いい年になった今ですら実感の湧かない事だった。

 

 確かに浅草の実家は、マンションやアパートの場合の多かった同級生たちの実家に比べれば、比較的大きい一戸建てだったし、当時にしては珍しい監視カメラも付いていた。父も、他の家庭の父親たちの様に駅に向かうのではなく、毎朝迎えに来る黒塗りの車に乗って出勤していたものだ。

 だが、一般家庭との違いと言えばそれぐらいで、過分な小遣いを貰った事もなければ、英才教育を施された記憶もない。

 

 例外的に有無を言わせずにやらされたのは剣道くらいのものだが、それは祖父の意向もあっての事だったろうし、一人娘の入り婿であった父の立場上、『当家のしきたり』という言葉を振り翳されれば、選択肢などなかったのではないだろうか。あとは精々、幼い頃、父に仕事の内容を尋ねた時に、子供でも分かりやすい様に犯罪の予防法だとかを噛み砕いて教えて貰ったくらいであり、それこそ小学校を出る年になるまで、刑事局に努める父の仕事が、実際には刑事ではないと言う事すら知らなかった程度なのだ。

 父自身も、警察官僚の家系と言う訳でもなかった為、一刀を“跡取り”とは見ていなかったからと言うのも、大きな理由の一つではあるのだろうが。

 

 とは言え、父の“治安維持”と言う概念に対する基礎の基礎とも言える教えが、曹操こと華琳の元での一刀の地位をどれだけ支えてくれていたかを考えれば、実にありがたい事ではあった。

「兎に角さ」

 及川は、灰皿に吸い差しを押し込むと、のんびりと立ち上がった。

 

「そう考えれば、公園の北側に目撃談が集中してるのも辻褄が合うんだよ」

「まぁ、子供とホームレスじゃ、行方不明になったとしても世間の注目度がケタ違いだし、理性があって、尚且つ子供に対して執着もないなら、子供を遊ばせる為のスペースが集中してる南側をうろつくのは確かにリスキーだと分かるだろうが……」

 

「だろ?子供が多い分、親の目も光ってるし、そう言う意味もあって、うろついてるだけで通報されるおそれもあるから、ホームレスもあんまり南側には近づかないしな」

 及川は、そう言って仮眠室に姿を消すと、シャンプーやら石鹸やらが入っているプラスチックの桶と着替えを抱えて出て来る。

 

 

 

「そんな訳でな。俺はシャワー貰ってから夜まで次の記事の取材だし、中央公園の近くで落ち合おうぜ」

「分かった。十二社通りと南通りの交差点にあるコーヒーショップでどうだ?コインパーキングも近いし」

「O.K.だ。じゃ、後でな」

 及川は機嫌よくそう言って、鼻歌を歌いながら事務所を出て行った。

 

 一刀は、すっかり仕事をする気を無くしてwordを閉じると、グーグルクロームのショートカットをクリックしてブックマークを呼び出し、リンクから及川のサイトに飛んで、先程、及川が見せてくれたページを流し読み始める。

 半魚人やら巨大な昆虫やらには覚えはない。だが――。

 

「『毛むくじゃらで猫背の巨大な人影』ね――ふぅん」

 一刀はその文字を何度も読み返してから(かぶり)を振って、“記憶の宮殿”の中で書籍でも漁ろうと、静かに目を閉じる。

 記憶の宮殿とは、中世の学者や修道士たちが、当時はまだ貴重であった羊皮紙や紙に書かれた書物を記憶する為に編み出した(すべ)だ。

 

 自身の脳内に出来得る限り巨大で、精巧に思い描ける建造物を作り出し、その各所に引き金となるオブジェクトや部屋を配置する事で、自在且つ鮮明に記憶を呼び起こせるようになる、という記憶術である。

 (たま)さかペーパーバックのスリラー小説でその事を知った一刀は、直ぐに方法を調べて、実際の建造物と同様に、何年も掛けて自分の頭の中に、今は懐かしい都の宮殿を建造して来た。

 

 そうして、例えば、曹操こと華琳が喜びそうな詩や芸術の知識は彼女の私室に、内政に関する知識は諸葛亮こと朱里の執務室に、料理のレシピは食堂の調理場に、農業に関する知識は、献帝・劉協こと白湯の部屋に、と言った具合に、少しずつ記憶を溜め込んで来たのだ。

 今、精神の中の一刀は、自分の楽しみとしてだけでなく、物語を愛する文官たちに話してやろうと考えて、多くの物語を記憶している書庫へと足を運んでいた。

 

 部屋の意匠に反して、現代的な背表紙の装丁に英文で題名(タイトル)が書かれたものの中から、スティーヴン・キングの中編小説を一冊、手に取る。

 だが、何時もは直ぐに訪れてくれる筈の没入感は中々、訪れてはくれず、書棚の影の中から、獣の――以前、漆黒の空の下で見た、あの(おぞ)ましい獣の唸り声が聞こえて来る様な気がして、何度も顔を上げなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう、皆伝相当だねぇ」

 とは、祖父の剣友にして小野派一刀流の高弟の一人、中村光雄師範の言葉だ。

 『古来、継承者は他の道場に預け、そこで皆伝を頂戴する事で修行の完成としたもの。東京でも剣を振る場所は必要だろう』と祖父が紹介してくれたのが、半世紀以上の付き合いになる中村氏が、宗家の道場とは別に自宅に持っている道場だった。

 

 中村氏は、祖父からの連絡を快く受け、一刀の用意して来た謝礼も、中々、受け取ってくれぬ程の厚遇で、門弟として迎えてくれた。

 一刀自身、現代剣道の源流とも言われる小野派一刀流がすんなりと身体に馴染んだ事もあって、まだろくに仕事の依頼が来なかった時期は、毎日の様に一日中、入り浸って教えを請うていた事もあり、メキメキと腕を上げていたのだった。

 

「流石は、達人さんの鍛えたお孫さんだ。たった三年で、もう高上極意五点を納める程になるとは」

 稽古の汗を洗い流し、自宅の居間で相対して麦茶を飲んでいた中村氏が、微笑んでそう言った。

 年は祖父よりも僅かに若いが、それでも九十に手が届く年齢であるのに、背筋は棒を差し込んだ様に伸び、足運びも、修練を積んだ剣士が見れば、怖気を振るう程の達人である事がすぐさま分かるだろう。

 

「いえ、皆伝だなんて、そんな。自分ではまだまだ、祖父や中村先生の域には到底、及びません」

「いやいや、そもそも本来、免許皆伝と言うのは、『その流派で教えられる技術を皆伝(みなつた)えた』という免状を渡される事で、それ以上でも以下でもない。一刀君の様に、子供の頃から剣を学んで来た昔の侍の子息たちの中には、二十歳そこそこで皆伝を貰う者は珍しくもなかった。子供の頃から大学まで一刀流の末裔である剣道に触れて来て、腕前も確かな君であれば、三十を過ぎての皆伝など遅すぎる位なんだから。それでも、本格的に始めて三年は、やはり大したものだ」

 

「はい、恐縮です。先生。しかし、先生に立ち合って頂くと、まだまだ未熟だと痛感します」

 一刀が頭を下げると、中村氏は笑って、自分の麦茶を飲み干した。

「そういう、剣の話をすると目が熱を帯びるのは、達人さんの血筋だね。まぁ、皆伝を貰った後は、もう自分で考えて腕と心を磨くしかない。その気持ちを絶やさない事だ。で、今日は夕食は食べていくかい?」

 

「あぁ、いえ。折角のご厚意ですが、どうしても外せない仕事の用がありまして」

 一刀が、そう言ってもう一度、頭を下げると、中村氏はうんうんと頷いた。

「あぁ、また何時でもいらっしゃい。稽古だけじゃなく、顔を見せに来るだけでもね」

「はい。ありがとうございました」

 

 一刀は、暇乞いをして愛車のミニクーパーに乗り込むと、一路、新宿への道を急ぐ。

 そうして、途中の信号待ちの時間に随分と考えた末、一旦、事務所に戻る事に決めると、ウィンカーを出して右折レーンに乗った。

 

 

 

 

 

 

 一刀は、夏の夕日の薄明かりに照らされて朱に染まった事務所に入ると、自分のデスクの横の本棚に並んでいる六法全書やらなにやらの分厚い書籍を取り除いた。

 元より、依頼人に安心感を与える為の飾りの様な物だが、用途はそれだけではなかった。

 

 本棚の奥には本棚の裏面の一部ごと壁をくり抜いて(大家夫妻が知ったら何と言うかはこの際、考えない)金庫が設えられていて、一刀はそのダイヤルを左右に回転させると、キーチェーンから小型の鍵を抜き取り、鍵穴に差し込んで右に回した。

 カチリ、という玩具じみた音と共に金庫が空いたのを確認し、その中から、プラスチック製の薄い箱を取り出す。

 

 表面には、彼の有名なロゴデザインであしらわれた“Walther”という文字が刻印されている。

 一刀は一つ息を吐いてから箱を開け、中に入っていたワルサーP99と、そのアクセサリ一式を取り出して、テーブルに置いた。

 それは、アメリカから去る時、伝手のあった非合法な運び屋を通じて日本に送ってもらったものだった。

 

 まず、銃口(マズル)減音機(サプレッサー)を取り付けてみて具合を確認し、また逆の手順を辿って元に戻す。

 次に、純正のレーザーサイトを取り付けて、電源を確認。最後に、弾倉(マガジン)を挿入して遊底(スライド)を引き、もう一度軽く引いて見て、排莢口(イジェクション・ポート)から薬室(チャンバー)を覗き、弾丸がきちんと装填されたかを目視した。

 

 一刀は、昔の通り迷いなくスムーズに一連の動作を完了できた事に安堵を覚えながら、ベルトにヒップホルスターを通して、ワルサーをそこに差し込む。

そうして箱を金庫に戻して扉を閉めようとして考え直し、まだ中に残っていた予備の弾倉を三つ全部出してしまうと、数冊の本を詰め込んでデスクの下に置いてある豚皮の丈夫なアタッシュケースの蓋を開けて、減音機と共にそこに仕舞う。

 

「まぁ、万が一って事もあるしな、うん」

 そう独り言ちた自分自身すら、万が一を望んですらいるのではないかという考えが浮かんでから、一刀は直ぐにそれを打ち払って全てを元に戻すと、事務所の扉を開けて鍵を締め――そうして、二度と戻る事はなかった。

 

 

 

 

 

 

「いよぉ、遅かったな」

 一刀が注文したアイスコーヒーを受け取って階段を上がり、コーヒーショップの二階にある喫煙席に顔を出すと、二人掛けのテーブル席に陣取っていた及川が手を挙げながら声を掛けて来た。

「お前が早過ぎるんだよ」

 

 一刀は、LARKの吸い殻で死屍累々の様相を呈しているテーブルの上に苦笑交じりの視線を送ると、向いの席に腰を下ろす。

「別に急ぐ様な時間じゃないだろ。まだ明るいし」

「そうだけど、気が急いちゃってさ。新しい都市伝説の伝播の初期段階に出くわしたのかも知れないし」

 

「けど、学者先生なんかは、ネットに新しい都市伝説の雛型を流して、伝播の仕方を観察したりしてるって話じゃないか。別に、新しい都市伝説なんて珍しくもないだろうに」

 一刀がそう言うと、及川はチッチッと指を振る。

「ただ新しいだけじゃない。天然物だよ天然物。しかも、伝播の初期段階の筈なのに、バリエーションが多過ぎる。面白すぎるだろって」

 

 

 

 

「まぁ良く分からんが、お前が楽しそうで何よりだよ」

 一刀はそう言って笑うと、それから三十分近くの間、何時もならばさっさと切り上げさせてしまう及川の民俗学談義に耳を傾け、すっかり外が宵闇に包まれた頃になってからコーピーショップを後にした。

 外に出ると、夏の熱気が一挙に全身を包み込み、冷房とアイスコーヒーで冷やした身体の熱を、すっかり元に戻してしまう。

 

 一刀は、コインパーキングに停めておいた車のトランクから、図面を持運ぶ為のアジャスターケースを取り出して肩に担いだ。その姿を見た及川が眉を(しか)める。

「おい、かずぴー、なんぞそれ」

「その呼び方やめろっつってんだろ。見たら分かるだろうよ」

 

「夜の公園でプレゼンの練習でもすんの?」

「用心だよ、用心。気にすんな。ほれ、お前はコレ持ってろ」

「お、おう」

 及川は、何時もならば大いに嫌がる高校時代の呼び名にもおざなりな反応しか示さずに、自分に豚革のアタッシュケースを押し付ける様に渡してミニクーパーの鍵を締め直す一刀の背中を暫く見詰めてから、妙な不安を覚えて頭を掻いた。

 

 当の一刀は、そんな及川の様子を気にする事もなく肩にアジャスターケースを担ぎ直して、横断歩道を見遣る。

「お、もう直ぐ青だぞ。こっちから渡った方が楽そうだ。行こう及川」

「へいへい。まったく、お前も十分に楽しそうじゃねぇの」

 

 及川は苦笑を浮かべて、さっさと歩いて行ってしまった一刀の後を小走りに追う。

 だが、及川は分かっていなかった。

 北郷一刀の高揚は、無邪気な知的好奇心などではなく、戦うべき相手を前にした戦士のそれなのだと言う事を。

 それから程なくして、二人は芝生広場の区民の森寄りの一画に設えられたベンチに腰を落ち着けていた。

 

 周囲には、及川が持参して身体に振りかけた虫よけスプレーの匂いが微かに漂っている。

 都心も都心、そのど真ん中だと言うのに、喧噪がやけに遠く感じられた。

 街灯の光源が白熱電球の時代であったなら、フィラメントが赤熱するジリジリという音が聞き取れるのではないかとすら思える。

 

 

 

「なぁ、一刀さんよ」

「なんだ?」

 一刀は、静かに目を閉じたまま、及川の落ち着かな気な呼びかけに応えた。

 及川は、恐らく、また記憶の宮殿とやらに意識を飛ばしているのだろうと思いながら言葉を継ぐ。

「こんなベッタベタな台詞もどうかと思うけどさ……静かすぎない?」

 

「何を今更。どう考えたって、この時間の新宿の静かさじゃないだろ。大体、まだ宵の口だってのに、この辺りに人っ子一人いないなんて、普通じゃない」

「ですよねー。まさか、もう噂の伝播速度が劇的に跳ね上がって、とか……」

「お前のサイトのビュー数が、あと二桁違えば有り得るかもな」

 

「オカルト系のどマイナー投稿サイトがそんな事になるレベルなら、今日日(きょうび)はなんとかチューバーとかが動画でも撮りに来るのが先じゃねぇかな」

「じゃ、そういう事だろ。良いから集中してろ。どうも首筋がチクチクするんだ――お前が思ってるより、面倒な事になるかも知れないぞ」

「俺は民俗学が好きなんであって、オカルト信奉者じゃないんだけどなぁ」

 

 及川は大きく溜息を吐くと、この周囲の様子では見咎められる事もないだろうと、携帯灰皿を取り出して蓋を開け、自分の煙草に火を点けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 次に一刀は目を開けた時、及川は暇を潰す為に、音を消した携帯アプリのゲームでステージ周回に励んでいる所だった。だが、友人の声に今まで聞いた事もない様な硬質な響きを聞き取って、驚きと共に顔を上げる。

「聴こえたか?」

「は?何が?」

 

 一刀は、及川の声など耳に届いていないかの様に周囲の物音に耳をそばたてていたが、やがて豚革のアタッシュケースの蓋を開けて中から金属で出来た棒の様なものを何本か取り出すと、それをポケットに突っ込んで、アジャスターケースを肩に担ぎながらたち上がった。

「此処に居て、荷物を見てろ」

「は?あ、おい、一刀!!」

 及川の戸惑った様な声を背に、一刀は区民の森の方角に走り出す。

 頭の中では、今は遥か昔に管理者を名乗る人物たちから聞かされた話が渦を巻いていた。

 『制御を失った怪物たちは、正史の世界にも散発的な干渉を始めた』彼らは、そう言ってはいなかったか。

 

 迎えよりも敵襲が先とはまさか考えても居なかったが、もし、万が一、そうであるならば、戦うのが自分の使命だと、己の内に猛る声が叫んでいた。

 場所や時代など関係あるものか。

 自分は誓ったのだ。戦うと。

 

 管理者たちに、自分自身に、そして何より、命を懸けて愛し、また自分を愛してくれた女たちに。

 




 はい、今回のお話は如何だったでしょうか?
 オリジナルを書いた当初から、もっと探偵の一刀を書きたい言う欲はあったのですが、今回もそれを抑えるのに苦労しまして(笑)
 そのせいか、コンパクトに纏めようとし過ぎて、ちょっとダイジェストっぽくなってしまっている部分もありますが、ご容赦頂ければと思います。

 また、R-18タグに関してですが、これから濡れ場なども出ては来るのですが、あくまでも一刀と恋姫たちの生活の中の情景として書いているだけで、そこをメインにしている訳でなし、一般の年齢規制が掛かっていない小説以上の表現をしている訳でもないと思うので、大丈夫なんではなかろうか、と考えた結果、タグを外す事にさせて頂きました。

 さて、今回のサブタイ元ネタは

 Bad City/Shogun

 でした。
 謂わずと知れた。和製ハードボイルドの代名詞的なバンドさんですね。
 大好きな曲がたくさんあります。

 では、また次回、お会いしましょう!


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第弐話 覚醒

どうも皆さま、YTAです。
いやぁ、戦闘シーンのリライトって、こんなに疲れるんですね……。
お気に入り登録、評価、感想など、とても励みになりますので、お気軽に頂ければと思います。
では、どうぞ!


 

 

 

 

 

 北郷一刀は、呼吸が乱れない様に意識して走りながらワルサーP99をヒップホルスターから引き抜き、ポケットに予備の弾倉(マガジン)を突っ込んで銃口(マズル)減音機(サプレッサー)をねじ込むと、コッキング・インジケーターが赤く迫り出しているのを確認して、銃口を腰の左側に向ける様にして構えながら、雑木林に足を踏み入れた。

 

 既に気付かれているかも知れないが、待ち伏せには警戒すべきだろうと判断して、呼吸を整えて息を殺し、踏み出す足と逆の方向に体重を掛け、踏み出した方の足をゆっくりと踵から地面に降ろして、じわじわと体重を移しながらつま先まで接地させる。

 ストーキングと言われる、足音を殺して敵に近づく際の兵士の歩き方だ。

 

 悲鳴の主の命の心配をしたがる良心を叱咤して、手綱を引き絞る。

 生きているなら聴覚や視覚に予兆となる情報が入って来る筈で、その時になってから迅速に動けばいい。間に合わなかった、(ある)いは間に合いそうにない状況なら、無暗に正体も規模も分からない敵のテリトリーに突っ込んで行ってやるのは、命の無駄遣いになる。

 

 落ち葉の季節でないのは僥倖(ぎょうこう)だ。

 一刀は、全神経を暗闇に集中して、じわじわと悲鳴の聴こえて来た方向へと歩みを進める。と、街灯の光も届かない雑木林の奥の茂みに、薄っすらと蠢く影が見えて来る。

 そのシルエットからして、複数の“何か”が這いつくばっている様に思えた。

 

 と、風向きが変わった事で、一刀の鼻に、少年の頃に何度となく戦場で嗅いだ濃密な血の鉄じみた臭いが伝わって来る。それと共に、びちゃびちゃ、ぞぶり、ぞぶり、くちゃくちゃ、という、生物として原始的な嫌悪感を催す様な音が耳に届いて、全身が総毛立つ。

 一刀は、唾を飲み込みたい衝動を殴り付ける様にして抑え込むと、ストーキングを維持しながら、更に数歩、蠢く影の群れに近づいた。

 

 そうして、その蠢きの隙間から、人間の男のものと(おぼ)しき垢じみた腕がのぞいているのを確認した――してしまった。

 大体にして、人間の腕などという特殊な形状のものを、何かと見間違える事などあり得るだろうか?

「喰って……る!?」

 

 自分が目にしたものを拒絶したいと言う思考が一刀の口を突いて漏れ出た瞬間、影の蠢きがピタリと止まって、異様な光を帯びた何かが一斉にこちらに向けられた、その瞬間。

躲貓貓(さぷらぁ~いず)!」

 耳元で怖気を振るう様な耳障りな声が響いたのと同時に一刀の身体は宙を舞い、木の幹に強かに叩き付けられていた。

 

「かっ、は――!?」

 肺の中の酸素を全て外に押し出されながらも反射的に膝を突いて起き上がったのは、理性などではなかった。『敵の前で倒れたら殺される。決して寝転ぶな』という、十代の少年の頃から現在に至るまで、多くの師と呼べる人々からまず最初に叩き込まれた戦場の大原則を、身体が覚えていたが故の条件反射に過ぎない。ワルサーを落とさなかったのは至上の幸運、暴発させなかったのは奇跡の領域だった。

 

「ハッ!ハッ!ハッ!――グゥ―――!!」

 痙攣して胃液を吐き出そうとする食道を気合でねじ伏せ、酸素を求めて犬の様にだらしなく舌を垂らしたがる口に鞭を入れ、一刀はワルサーを構えて、トリガーガードの脇から迫り出したレーザーサイトのスイッチをオンにする。

 

 すると、暗闇に赤い焦点を結んだ暗闇から、ゆっくりと“それ”が染み出して来た。“それ”の放つ威圧感に比べれば、“それ”の後ろで、口の周りをタンパク質の塊と鉄臭い液体で汚した巨大な蟲や、猿と猪の私生児(あいのこ)や、ラヴクロフトの世界から這い出て来たかの様な手足の付いた鱒など、ちゃちな子供騙しにすら見える程だ。

 

「ククッ!正史デ人間ドモガ増エタ事モ、アナガチ面倒バカリデハ無イナ。コウシテ人避ケノ結界ヲ張ッテイテモ、鈍イ餌ガ迷イ込ンデ来テクレル」

 “それ”は、どう考えても人間の言語を使える様に出来ているとは思えない、鋭い牙の生えた大顎を左右に振るわせて、そう言った。

 

 剛毛に覆われた体躯の上、頭部と思わしき場所から、白目の無い八つの黒い瞳が、まるで嘲笑うかの様に一刀をねめつけている。

 人間に似た腕の下から腰と呼べるのであろう位置までには、三本の骨じみた鋭い腕が、左右に二対ずつ生えていて、臀部と思わしき場所からは、毛の生えた巨大な風船の様な肉塊が突き出ていた。

 その姿はまるで――。

「喋る――クモ!!?」

 そう、その異形の姿は、正しく蜘蛛だった。

 尤も、大柄な人間ほどの大きさで二足歩行の蜘蛛などと言う生物が存在し得るのならば、だが。

 

「中級……罵苦……」

 一刀は、管理者たちから聞かされた情報を刻から手繰り寄せて、そう結論を出した。と、蜘蛛は、嘲笑しているかの様な雰囲気をふと消して、昆虫じみた仕草で首を傾げた。

「ホホゥ、正史ノ人間ガ、我ラノ名ヲ知ルトハ――ンン?貴様、僅カニ臭ウナ。旨ソウナ幻想ノ匂イガ――」

 

 異形の蜘蛛は、尚も暫く首をカクカクと左右に振って一刀を凝視した後、道化じみた動きでピョンと飛び上がった。

「ハッハァ!貴様、此度ノ世ノ“救世ノ器”ダロウ!!」

 一刀は、未だ酸素が足りずに震えの走る足で、どうにか立ち上がった。蜘蛛の言葉は最早、警告のサイレンに近い意味を持っていると察したからだ。

 

「キヒヒヒヒ!マサカ、自分カラ出向イテクレルトハナァ!“奴等”ノ目ヲ盗ミ、痕跡ヲ追ッテ正史クンダリマデ忍ンデ来タ手前、糞不味イ餌ヲ喰ライナガラ長丁場デ探シ出サネバナラヌカト腹ヲ括ッテイタモノヲ、イヤハヤ――ヌッ!!」

 一刀は、蜘蛛に最後まで喋る間を与える事なく、背を向けて駆け出した。異形の怪物を相手に戦術も何もあったものではないだろうが、怪物たちの見た目を――昆虫や動物を模した姿――を鑑みれば、木々の生い茂る林の中で相対するなど、生身の人間にとっては自殺行為以外の何物でもあるまい。

 

 そんな真似をする位ならば、例え囲まれる事になっても、何もない開けた場所で戦った方がまだ幾分かマシと言うものだろう。

 一刀は、木々の間を縫う様にして追っ手の視界を遮る様に走りながら、芝生広場までの最短距離を移動していく。途中でワルサーをヒップホルスターに仕舞い、肩に担いだアジャスターケースの蓋を開けて祖父伝来の井上真改の打ち刀を取り出すと、ケースを投げ捨てて鞘をベルトに差し挟んだ。

 

「ったく、酷い夜になるな、こりゃ……!」

 一刀はそう独り言ちると、背後の気配に全神経を傾ける。頭上からは枝が大きく(たわ)む葉擦れの音。地面からは、怪物どもの強靭な脚と鋭い爪が大地を穿つ鈍い音――しかも、それぞれが、かなりの数である様だ。

 

 

 十中八九、一刀の前に姿を見せていたのは順番待ちの列に最初に並ぶ幸運に与った連中だったのだろう。

「冗談キツいんだよ、ったく――うわっ!?」

 一刀の後ろ、僅か0,1秒前に頭のあった辺りの空間に、バットをフルスイングした様な音を伴った何かが振り下ろされたのが、風圧と共に感じられた。

 

 まさか、何十メートルも距離を稼げるとは思っていなかったが、想像以上に肉薄されているらしい。

「もうちょっと待ってろって!」

 一刀は、端から聞いてなど貰えない事を承知でそう叫ぶと、更に速度を上げる。視線には、既に街灯の薄明かりが見えていた。

 

 

 

 

 

 

「だぁぁぁぁ!!」

 林を抜けて芝生広場に出た一刀は、即座に急制動を掛けて反転すると、上半身を思い切り屈め、勢いに任せて踏み込みながら、真改を抜き打ちに振り払った。

 頭上を掠める轟音と刃が肉を裂く感触は、ほぼ同時。

 

 一刀は即座にもう一度、振り向いて、気合いの声と共に右袈裟に新改を振り下ろす。そこは、脇腹から黒い血を滴らせて呻く、例の猪と猿の私生児(管理者たちは、マシラと呼んでいたと一刀は思い出した)の肩口に、ドンピシャの位置だった。

 断末魔を上げるマシラを蹴り倒し、素早く真改を左手に移して逆手に持ってピップホルスターに仕舞っていたワルサーを抜き、左腕を下にして十字を作る様に腕を組み合わせながら照準を付けると、林の方へと意識を集中する。

 

 そうして、ジリジリと摺り足で後退しながら街灯の明かりに目を慣れされつつ、視界の確保に努める。

 居た。それも、十やそこらの数ではない。視界に入る雑木林のあらゆる場所から、マシラが、魚人が、蟲――明かりの下で見ると、蚤と人を掛け合わせた様な見た目だった――が、殺意と捕食欲求に満ちた双眸をギラギラと輝かせて、一刀をねめつけていた。

 

 二匹のマシラが自分に向かって跳び掛かって来た瞬間、一刀は腹を括った。一匹目の大振りの爪を最小の動きで躱し、同時に一瞬、続く二匹目の視界を惑わせる様に一匹目の身体を障害物にしてフェイントを交えながら踏み込んで、中空で静止していた獣の腕の下に潜り込む様にして密着、自分の左手で持った真改の柄頭を獣の首に打ち付けて酸素の供給を奪うと同時に噛み付かれるのを防ぎ、剛毛に覆われた脇の下に減音機の先端を押し当て、心臓があると思わしき位置に角度を調整すると、引き金を二度引いた。

 

 更に、擦り抜ける形になっていた一匹目の背を横蹴りで強かに打ち据える。極至近距離から9mmパラベラム弾で胸部を撃ち抜かれたマシラが(くずお)れるのと同時に、蹴り倒された方の個体が地面にもんどりうちながら、苦悶のうめき声を上げた。

 一刀は、少なくともマシラと呼ばれる種には痛覚がある事を確信して、起き上がろうと藻掻くマシラの後頭部に向かって引き金を引くと、直ぐに横に飛び退いた。

 

 すると、一刀が立っていた位置に、上空から飛来した何かが土煙を上げて衝突する。

「うわぁ、やっぱ跳ぶんだ、お前ら……」

 一刀は乾いた笑みを浮かべて、特大の注射針の様な口吻をギチギチと不気味に蠢かせて、自分の方に向き直った複眼の持ち主にそう呟く。

 

「チッ、動くなよ!!」

 また跳ばれては面倒だ。一刀は膝立ち体勢(ニーリング・ポジション)のまま、ワルサーの引き金を絞ると、減音機のくぐもった音が立て続けに二発響いた――と、次の瞬間、一刀は茫然として、前方を凝視していた。

 

 蟲は、対の複眼の中央から僅かに黒い体液を滴らせて二・三歩後退こそしたものの、苛立たし気に身体を震わせただけだったのだ。

「全身が天然の防弾チョッキとか、バカじゃねぇの!?」

 一刀は、まるで滑稽な幽霊の物真似でもしているかの様な形の前腕から繰り出される攻撃を間髪で躱すと、素早くワルサーをホルスターに戻して右手に真改を持ち替え、幽霊じみた腕の付け根辺りを目掛けて、刃を振り下ろした。

 

 確かな手ごたえと共に、ビチャっと言う不気味な音がして、硬い感覚毛が生えた巨大な蟲の腕が地面に落ちる。

一刀はその隙を見逃さず、蟲の身体に出来た切り口に、渾身の突きを放った。

「関節か傷口狙いしか無いのか。ったく、ホント良く出来てるよ、虫ってのは!!」

 

 至近距離で巨大な蟲の顔を見せつけられて萎えそうになる自分を叱咤するつもりで、大きな声で叫びながら、蟲の胴に靴底を掛け、思い切り良く刀身を引き抜く。

 本来ならば、刀身が曲がる心配がある為、絶対にしない行為ではあるが、今は贅沢を言える精神的な余裕も時間もない。

 

 それからも、一刀は、絶えず動き回って囲い込まれない様に注意を払いながら、異形たちの攻撃をいなしては反撃し、自身に深追いを禁じてヒット&アウェイを心がけて、少しでも敵の数を減らそうと試みていた。しかし、時を追うごとに身体に刻まれていく切り傷や打撲以上に、身体中を蝕む乳酸と、目まぐるしく動き回る異形たちの動きを絶えず警戒し続けている視神経と脳が、『限界だ』と悲鳴を上げ始めていた。

 

 脳は必死にアドレナリンやエンドルフィンを分泌して事態の打開を図ってはいるものの、それすらも追い付かなくなっている。

「―――っ、はぁ、はぁ、情けねぇな、ったく」

 一刀は、頬の切り傷から滴る血を拭って、小さく呟く。

 

 軍神、万夫不当、魏武の大剣、江東の小覇王――戦国乱世に名を轟かせた猛将たちならば、『まだこんなにも屠れる敵が残っている』と、不敵に笑って見せるだろう。雄々しく得物を構えて、些かの迷いも見せず異形の群れに突っ込んで行くだろう。

 だと言うのに、彼女たちの背中を見てきた筈の自分と来たら、こんなにも無様な喘ぎ声を漏らして、死の牙に怯えながら恐る恐る刃を振るしか出来ないとは。

 

「だけど、な――!」

 魚人の鋭いヒレの付いた腕を躱して抜き胴で脇腹を裂き、真改を地面に突き刺すと、素早くワルサーに持ち替えて、魚人の影から跳び掛かって来たマシラの眼球に向けて引き金を絞る。銃を構えたままイジェクト・ボタンを押して弾倉が排出されるのと同時に、ポケットから取り出していた予備の弾倉を装填して、後脚を引き絞って一刀に襲い掛かろうとしていた蟲を足止めする為に、続けざまに引き金を引く。

 

「おぉぉぉ!!」

 一刀は、怯んだ蟲の複眼目掛けて、脇を締め真改を突き出した。粘膜に剣が沈んでいく感触に嫌悪感を催しながらも、眉を顰める時間すら惜しんで銃と剣を両手に構え、未だ数十は居るであろう異形たちを牽制する。

 

「(情けなかろうと弱かろうと、一度やると言ったからには逃げる気はないんだよ!)」

 死に物狂いで自分を鼓舞する。自分はまだ、誓いのとば口にも立っていないのだ。

 ジリジリと張りつめた空気が周囲を包んでいる。

 敵味方が呼吸を整えるタイミングが重なって、一瞬の空白を作り出す事があるのは、相手が化け物でも同じ様だった。

 

 

 

 

「一刀!!」

 そして、双方の予想外の出来事で均衡が破られる事に於いておや。

 一刀は、異形たちの視線が、自分の後方から聴こえた声の主に一斉に注がれるのを感じて総毛立つと、思わず後ろを振り向いた。

 

 

 

 

 

 

「バカ!逃げろ!!」

 そう叫んだ瞬間、一刀の横を、質量を持った何かが凄まじい速さで通り過ぎた。と、及川は状況を理解できていない困惑の表情のまま、後方5mはあろうかと言う距離を、身体を“くの字”にして吹き飛ばされ、地面に投げ出される。

 一瞬、思考が停止した一刀が、慌てて視線を戻すと、口から水滴を滴らせた魚人が、鱒の様なぽってりとした腹をポンポンと叩きながら、ぶるぶると身体を震わせていた。

 

「この――」

「駄目ジャアナイカ」

一刀の意識が魚人に集中したその刹那、耳障りな声が、一刀の顔の横で愉快そうに囁いた。

「っ!?がっ!!?」

 

 頭部に受けた衝撃に身体ごと引っ張られる様にして宙を舞った一刀は、幾度となく地面に打ち付けられてから木の幹に激突し、盛大な枝揺れの音と共に目まぐるしく回転する世界から漸く解放された。

「痛ってぇ……」

 と言ってはみるものの、それは取り敢えず意識がある事を自己認識したいだけの言葉に過ぎず、最早どこが痛くてどこが痛くないのかなど判断も付かない。

 

「悪イ怪物相手ニ、油断ナンテシチャア、ナァ?」

 本来は、表情や感情を移す機能など備わってもいないであろう黒い四対の目が、嘲りの笑みを込めて、一刀を見下ろしていた。

「この……節足動物が……舐め……やがっ……て……」

 

 

 

 そう口を動かしたは良いが、正直な所、この蜘蛛が自分を侮っていてくれるからこそ、まだ息をしていられるのだと言う事くらいは、一刀にも分かっている。

「オォ、ソウ言エバ、マダ名乗ッテモイナカッタ――ナァ!!」

「ごぉッ……!!」

 

 蜘蛛は、一刀の腹を蹴り上げて異形の群れの中央に押し戻すと、大顎を震わせて愉快そうに笑った。

「我ガ名ハ黒網蟲(くろあみむし)魔蟲兵団(まちゅうへいだん)ヲ司ル四凶ガ一、檮杌(トウコツ)様ノ僕ヨ。サテ――」

 黒網蟲と名乗った蜘蛛は、道化師が子供を揶揄う様にピョンピョンと飛び跳ねながら一刀に近づくと、立ち上がろうとしていた一刀の背中を鋭い爪の付いた足で踏み抜き、そのまま足を使って仰向けにさせる。

 

「ククッ!サテサテ――救世ノ者ノ肉ハ、ドンナ味ガスルノヤラ。少々、下品デハアルガ、“吸収”ガ出来ヌトアラバ、久々ニコノ牙ヲ使ウヨリ他アルマイテ。モシヤスルト貴様の肉ハ、我ニ上級種並ミノ“力”ヲ与エテクレルカモ知レヌナ?」

 黒網蟲は、どこまで本気で言っているのか読み切れない口調でそう言うと、六本の長く鋭い腕を、一斉に振り上げた。

 

「サァ、我ガ贄トナレ、救世ノ者ォォ!!」

 

 

 

 

 

 

「ギィィィィ!!?」

 異形の叫び声が響いたのは、その六本の腕が大地に穴を穿ったのと、ほぼ同時だった。

 渾身の力を振り絞った一刀が、黒網蟲の方へと身体を横に回転させ様に、真改を黒網蟲の顔目掛けて突き出したのだ。

 

「キ、貴様ァァァ!!」

 刀身を目に突き刺されながら、ボタボタと黒い血が流れ出る顔を抑えてヨロヨロと後退(あとずさ)る黒網蟲に、一刀は精一杯の意地を込めて笑顔を返す。

「手負いの獲物を相手にベラベラと喋ってるからだろうが、クソ蜘蛛」

 

 

「コノ――人間風情ガァァァ!!」

 黒網蟲は、振り向くと同時に巨大な臀部を使って、一刀の身体を横薙ぎに打ち据えた。

「ガッ!グ――ゴハッ!!」

 何度となく地面に叩き付けられながら地を滑り、土煙を上げて身体が停止する。まだ意識が途切れていないのは奇跡だろう。

 

 だが――。

「ゴフッ――あ、やべ……」

 元々、怪しいと思っていた肋骨は、今や確実に三本以上は折れていると確信できる。受け身も取れずに地面を転がる間、変な方向に曲がっていた左腕と右脚は感覚がない。

 口に滲む血の味は、明らかに口腔内を切って出たものとは違う粘着性を帯びていた。十中八九は内臓だろう。

 

 額から流れ出た血が入ったからか、右目の視界は赤く染まっていて、それでなくても宵闇に包まれいる世界を、殆ど認識できなくなっている。

 一刀は、ワルサーを引き抜こうとホルスターを探って、直ぐに諦めた。指の骨が折れていて、指を掛ける事すら出来ないのが直ぐに分かったからだった。

 

 仕方がないので、掌底を支えにして、どうにか起き上がってみる。決して無事とは言えない左脚だけが支えではあるが、どうにか立っているという体裁だけは整えられそうだったので、黒網蟲に視線を向けた。

「ガァァ、フゥゥゥ、殺ス……殺シテヤルゾ貴様ァァァ」

 黒網蟲は、今度こそ道化の様な態度をかなぐり捨てると、唸る様な声で大顎を震わせる。

 

「ハッ、霊長類様を相手に上等だ。やってみろや、節足動物」

 一刀は、どこにそんな力が残っているのかと自分でも訝しく思いながら、狭まった視界で黒網蟲の動向に注意を集中を戻した。

 身体が、もう限界だと悲鳴を上げている。

 

 脳が、もう脳内麻薬も在庫切れだと苦悶に唸る。

 だが、心が。

 誓っただろう、とそれらを叱咤していた。

 折れる事を拒んでいた。

 

 何の為に、十五年もの歳月を費やして、力を蓄えたのか。

 決まっている。誓いを――必ず帰ると、きっとまた抱き締めてみせるという言葉と共に覗き込んだ、あの美しい瞳たちへの誓いを守る為だ。

 たかが人間サイズの蜘蛛如きに、あの温もりを奪われて堪るものか。

 

「約束したんだ――」

「死ネェェェェ!!」

 一刀は、凄まじい跳躍力で肉薄する黒網蟲の顔に向かって右手を叩き込む準備をする。

 例え指は動かなくとも、真改が穿った傷口に突き立てる位は出来る筈だ。

 

「守ると、誓ったんだぁぁぁ!!」

 遥かに長いリーチを誇る黒網蟲の爪が、一刀の右手よりも数瞬早くその眼球を抉らんとした刹那、そこに居た全ての存在の視界は、光に蹂躙され消滅した。

 

 

 

 

 

 

薄っすらと白み掛かった視界に、黒網蟲が弾き飛ばされ、地面を転がっていくのが見えた。何がそれを成したのか、と言えば、金色に輝く帯の様な物だ。

 金色の帯は、緩々と中空を舞っている様でいて、そのくせ、目で追えない程に早い様にも思える。そもそも、音が伝わる振動や時間の流れが定かであるかすら怪しい。

 

 金色の帯は、一刀を取り囲んでいた異形たちの身体に風穴を開けて蹴散らしながら、何度か一刀の周りを周回すると、不意に一刀の面前に来て、ピタリと静止した。

「り……龍?」

 そう、金色の帯と見えたのは、白と金の境目の様な色合いの光に包まれた、全長にして10mほどの小さな龍だった。龍は、知性を湛えた瞳で暫く一刀を見詰めると、おもむろに身体を(しな)らせ、一刀の腹部に頭から突っ込んだ。

 

「あ――」

 『死んだな、これ』一刀がそう思考した瞬間、光の奔流は最高潮に達し、宵闇の中央公園だけが、まるで日光を独りいじめにしてるかの様な光の渦に巻き込まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「グゥゥゥ、何ガ……!!?」

 黒網蟲の複眼は、納まり出した光の中心に立っている存在を捉えて、驚愕の色を浮かべた。

「ソンナ……筈ハ……貴様ハ、二度ト、ソノ姿ニハ……」

 全ての言葉を口から出す前に、黒網蟲は気付いた。“アイツ”ではないと。

 

 見える人影はただ一つ。“アイツ”が何らかの方法で援軍に来たのであれば、つい先ほどまで、だらしなく喘いでいた救世の者と、二つの影が見えなければ道理に合わない。

 ならば、答えは一つだけだ。

「莫迦ナ――“ヤツラ”ハ、新ニ作リ出シタト言ウノカ!!」

 

 痛みが消えていた。五体も満足の様だ。しかし――。

「何なんだ、これ……」

 一刀は自分の両手――黄金の甲冑で覆われた両手を、ためすがめつして見詰めてみる事しか出来なかった。と、視界に丸い光の輪が出現して右の前腕を指して止まるのと同時に、中空に『虎王甲 生成完了 調整確認』という文字が出現する。

 

「は?」

 理解の追い付かない一刀が、何気なく視線を左手に移すと、今度は一刀の視線を追いかける様に光の輪も移動して、『武王甲 生成完了 調整確認』という文字が浮かび上がる。

「これは――」

 一刀が顔に触れてみると、金属の硬質な感触が伝わってきた。

 

 推測するに、自分は拡張現実(AR)機能の付いたヘルメットの様な物を被っているらしい。

 してみると、この光の輪は照準(レティクル)機能なのだろう。そう思い至ったのと同時に、視界の真下辺りに人型のシルエットが浮かび上がり、その身体の各部位を指し示すラインの先に、目では追えない程の早さで文字を映し出されていく。

 

 

 

 どれもに『生成完了』やら『起動確認』という言葉が付いているところを鑑みるに、どうやらシステムチェックを行っているらしい。

 『初期設定 最終確認』

 『音声認識登録 要復唱』

 

「は?音声認識だぁ?」

 一刀が視界に映し出された文字にポカンと口を開けていると、獰猛な唸り声が聞こえたのと同時に、画面が赤い色の警告表示に染まる。

 レティクルが示す先を追うと、立ち上がった黒網蟲が、全身の毛を逆立てている所だった。

 

「やべ!?」

 一刀が飛び退こうとした瞬間、黒網蟲の全身から無数の毛が針となって放たれる。一刀が思わず両椀で顔を覆うと、一刀の身体を覆った甲冑から、数多の火花が上がった。

「ヒ、ヒヒャ!油断ヲスルナト言ッタロウガ!ヒャヒャヒャ……!!?」

 

 一刀の周辺の大地ごと穿った針の群れが舞い上げた土埃を眼前に、黒網蟲が上げた嘲笑の声はしかし、その中から現れた金色の姿に掻き消される。

「びっくりした……」

 一刀自身すら、その事実に驚愕する事しか出来ないでいると、視界に再び文字が躍る。

 

日緋色金(ヒヒイロカネ) 通常密度維持 損傷軽微』

「日緋色金……生きた金属だって……この鎧が?」

『初期設定 続行 音声認識 再開 要復唱』

「あぁ、もう!何でも良いから、早くしてくれ!」

 

 一刀は、黒網蟲がジリジリと後退しながら、右の腕の一本を掲げるのを見て独り言ちる。周囲の異形たちが、黒網蟲の腕の動きに呼応して臨戦態勢を取るのが見えていた。

『音声認識 言語入力形式 日本語 確認』

『合紋入力』 

 

『一、皇』

「すめらぎ?違う、“こう”か!」

振り下ろされた蜘蛛の腕に従って、異形たちが脚を引き絞る。

『二、龍』

 

 

「“りゅう”!」

『三、王』

「おう!――うぉ!!?」

 

 一刀は、全ての言葉を言い終えたのと同時に飛び掛かって来たマシラの顔に、反射的に右手を突き出す。と、と、ビシャ!!っと言う、巨大な水風船を割った様な音と共に、マシラの頭部が消滅して、周囲に肉片と黒い血をまき散らした。

その有様はまるで、極至近距離から散弾を浴びせられたかのようだ。

 

「マジかよ……」

 怖気づいたかの様に一斉に動きを止めた異形に囲まれた一刀が、頭部を失ったマシラの身体が解けていく様と自分の右の拳を交互に見詰めていると、視界に『音声認識 確認 了承 賢者之石 臨界輪転』という文字が現れて、緑色に点滅する。

 

 瞬間、一刀は、自分の腹部で輝く紅い石から、膨大な質量が身体全体に流れ込むのを感じた。同時に甲冑に覆われた全身の関節部から、金箔でも含まれているかの様な輝きを帯びた粒子が噴出する。

『余剰神気 放出完了』

『対魔性殲滅用兵装 全機構 起動最終確認』

 

『皇龍王 来迎現臨』

 その文字を最後に、視界が一瞬クリアになると、レティクルが目まぐるしく動き回り、ピップ音を伴って罵苦たちを認識していく。

『敵残存戦力 認識』

『蟲型中級罵苦、一』

 

『下級罵苦獣人型マシラ、十五』

『下級罵苦蟲人型アカスイ、十七』

『下級罵苦魚人型トラウト、五』

『計三十八』

 

「随分、殺った心算(つもり)だったが、まだそんなに居たのか。でもまぁ――」

 一刀は拳を握って、異形たちを睥睨する。

「もう、負ける気がしないね!」

 跳躍とともに蟲人型アカスイとARに呼称された巨大な蚤に肉薄して右手で横面を殴り付け、近くに居たトラウトの不気味な白い腹に、蹴りを入れる。

 

二匹は、打撃を受けた部分を消失させて、もんどりうちながら地面に倒れ込んだ。

「さぁ、じゃんじゃん行くぞ――ん?」

 一刀が、黒い血が付いた右腕を振るって腰を落とすと、視界に再び文字が躍った。

『武装起動推奨 続行許可要求』

「良いね!続けろ!」

 

 一刀が、マシラの爪を手甲で受け止め、その顎を肘で打ち上げながらそう言うと、視界に文字が続けさまに浮かび上がる。

『武装起動認証 虎王甲 神気収束開始 要音声認識』

『輝光拳』

 

「きこうけん!!」

『確認 起動』

 文字が消えるのと同時に右手に力の収束を感じた一刀が、襲い掛かって来たアカスイの前腕を右の手刀で払う――と、白い光が一刀の右前腕を包み込み、銃弾すら弾き返したアカスイの外骨格を、熱したナイフでバターでも切るかの様に易々と切り裂いた。

 

「おぉ、こりゃ凄ぇ!」

 一刀は、パチパチと火花を上げ続ける右手を眺めてから怪物の中に飛び込むと、小太刀を扱う要領で、その間をすり抜ける様に右手の手刀を振るう。

「ゲェ!!」

 

「ギッ!!」

「ゴゴァ!?」

 異形たちは奇声を上げながら成す術もなく輝く手刀に屠られ、両断された。それを見ていた黒網蟲が、口惜しそうに唸り声を上げると、一刀を囲んでいた中で、アカスイ達だけが一斉に距離を取る。

 

「ん?」

 一刀が、訝しそうに警戒を露わにするのと同時に、アカスイ達は一斉に後脚に力を籠め、空中高くに跳躍する。その距離たるや、30mは優に超えているであろう。

「ちっ!いくらデカい蚤ったって、跳び過ぎなんだよお前らは!」

 

『相対距離算出 武装起動推奨――』

「良いぞ、早く!」

 一刀が浮かんできた文字にそう答えると、すぐさま新たな文字が浮かび上がる。

『右掌 照準準備 要音声認証 天縛鎖』

「右手で狙えって事か?ままよ!――“天縛鎖”!!」

 一刀が、中空のアカスイに向かって右手を掲げて叫ぶと、手首の裏の辺りの装甲が僅かに開き、そこから、黄金に輝く鎖が射出されて、アカスイの胴を撃ち抜いた。

「おぉっとぉ!よし、これなら!!」

 

 一刀は、瞬時にアカスイを重しにしたまま、砲丸投げの要領で、身体をその場で回転させると、自分に向かって落下しようとしていたアカスイ達を纏めて薙ぎ払う。

「ソンナ……コンナ事ガ……!!」

 黒網蟲は、みるみる数を減らされていく配下と、白味を帯びた金色の鎧を纏うの魔人の姿を、茫然と眺めている事しか出来なかった。

 

 罵苦と言う生物としての本能は、魔人を自分達の天敵だと認識して『逃げろ』と悲鳴を上げている。だが黒網蟲に備わった知性は、今ここでおめおめと逃げ帰れば、魔人は更に大きな障害となり得るだけでなく、主たる蚩尤や檮杌の逆鱗に触れて、死よりも尚、恐ろしい責め苦を与えられるであろうと確信してもいた。

 

「最早、是非モナシ!!」

 黒網蟲の逡巡は、最後のマシラが輝く拳で撃ち抜かれ、泥となって地面に消えるのを見た瞬間に終わりを告げる。

 『必ず、ここで殺さなければ』と、結論を弾き出して。

 

 

 

 

 

 

「さて、残るは――」

 一刀が、右手の手甲に付いた泥の血糊を振り落として視線を遣ると、黒網蟲は、警戒の色も露わに姿勢を低く落とし、正に蜘蛛そのものの格好で、じりじりと横に移動する。

 一刀も、地に足の裏をしっかりと押し付け、黒網蟲の動きに合わせて、正対を崩さぬよう摺り足で動きを追う。と、暫くの重い沈黙の後、先に動いたのは黒網蟲だった。

 

 全身から針を撃ち出して一刀を牽制するや、不規則な動きで間合いを乱し、空中に跳ね上がると、一刀目掛けて、臀部から白い糸を放出する。

 一刀が天縛鎖でそれを中空で絡めとる事が出来たのは(ひとえ)に、蜘蛛という生物が何を最大の武器としているかを知り、(あらかじ)め警戒できるだけの心の余裕が出来ていたからに過ぎなかった。

 

 自然界に於ける蜘蛛の糸は、ナイロンの二倍の伸縮性と、同じ太さの鋼鉄の五倍の強度を誇り、約7mmほどの直径にまで編み上げる事が出来れば、理論上はジャンボジェットの機体を受け止める事すら可能であるとまで言われる超繊維である。

鎧を纏う前の段階であの糸を使われていたら、抵抗の手段など皆無だった筈だ。

 

「(とは言え――)」

 古の超金属の鎖と、自然界が生み出した超繊維の糸。着地した黒網蟲と一刀の間を繋ぐ視覚化した力の均衡は、完全に拮抗していた。

 であれば、長引けば長引くほど、いずれ戦闘経験で上を行く黒網蟲に均衡の天秤が揺れるのは自明の理だ。それならば、黒網蟲が黄金の鎧の力を推し量っている今の段階で、一気呵成に攻め切らねばならない。

 

 一刀にもそれは分かっていたが、皮肉な事に、一刀自身も、未だに自分を護る鎧の力を完全に理解しているとは言い難いのが実情なのだから。

「(何か無いのか。何か、もう一手……!!)」

 一刀が、顔を動かさずに視線を動かすと、レティクルが追従して動き回り、直ぐに点滅して、痘痕(あばた)の様に地面を穿たれている芝生の一点を自動拡大(オートフォーカス)する。

 

 そこには、黒網蟲が投げ捨てた一刀の井上真改が突き刺さっていた。 

『武器種 日本刀』

『強度 神気剣仕様規定値 適合』

『神気剣 使用推奨』

「上等――!!」

 

 一刀は均衡を保つ鎖を即座に切り離すと、黒網蟲が後ろによろめいた隙を突いて、真改の元へと駆け出した。黒網蟲が慌てて放った新たな糸は、まともな人間の挙動であれば、間違いなく動きを捉えていたであろう位置の地面を毟り取る。

 その時には既に、一刀は100m以上の距離を一瞬で跳躍し、真改を手にしていた。

 

『要音声認証』

「さあ、クソ蜘蛛。泥に帰る覚悟はいいか!」

『光刃剣』

(こう)(じん)(けん)!!」

 

 

 一刀の声に応えて、示現流の蜻蛉に構えた井上真改の(はばき)から刀身へと光が満ちていく。

 鎧の背部が展開し、肩甲骨に沿う様に二基の推進器(スラスター)生成されて、光輪を描いてエネルギーが収束を始める。

「ギィィィ!小癪ナァァ!!」

 

 黒網蟲が振り向き様に放った無数の針を受けて全身から火花を散らしながら、一刀は黒網蟲目掛けて推進力の全てを解き放った。

「雲燿の極み、その身で受けろ!チェストォォォ!!」

 人知を超えた黒網蟲の目にさえ、それは消失としか認識出来なかった。

 

 黄金の鎧武者が存在していた場所の地面に二つの穴が穿たれ、轟音を伴って存在が消失した、と。

 だが――。

「成敗」

 背後から聴こえた静かな声に振り返ろうとして、異形の蜘蛛は悟る。

 

 己の身体が袈裟に切り裂かれ、そこに打ち込まれた膨大なエネルギーが、自分を内側から破壊しようとしている事を。

「オノレ……オノレェェェ!!!」

 一刀は、爆発音と共の中に消えた異形の叫び声を背に、静かに血振りをした。

 

 

 

 

 

 

 パキン、と言う乾いた音を聴いたのは、その時だ。

 見ると、真改の刀身が中程から綺麗に折れて、芝生の上に落ちていた。

「ありがとうな。俺を守ってくれて」

 一刀はそう語りかけると、地面に落ちた刀身を優しく鞘の中に落とし込み、次いで、柄と刀身の下半分を納刀すると一つ息を吐き、及川の元へと駆け寄った。

 

「おい、大丈夫か及川!」

 一刀が及川の横に屈み込むと、視界のレティクルが忙しなく動き出す。

どうやら、及川の身体をスキャンしてくれているらしい。

「脈拍・呼吸正常。軽い打ち身に脳震盪――そうか。良かった」

 一刀は漸く安堵の息を吐くと、友人が抱きかかえたまま、先程の魚人の水鉄砲(と形容していいだろう)を受けて水浸しのなった豚革のアタッシュケースを取り上げて振り向く。と、視線の先50m程の場所に、中空で小さく光る“何か”が浮かんでいた。

「あぁ、長かった……」

 

 一刀は、その光がなんであるかを悟って、万感の想いを込めて新宿のくすんだ夜空に見上げると、そのまま歩き出し掛けて踵を返した。

「おい、起きろ。及川」

 その場にしゃがみ込んで旧友の名を呼び、肩を揺らす。何度かそれを繰り返すしていると、及川の瞼がゆっくりと開いた。

 

「おう、一刀か。おはよ――って、はぁ?」

 及川は、気の抜けた様な声を上げて黄金の鎧の人物を見遣ると、慌てて周囲を見回した。

「あれ、化け物が消えて――いや、いやいやいやいや。まさか、お前が?」

「まぁ、そうだ」

 

「もう訳わかんねぇよ……」

「それは俺もだが、もう時間が無いんだ。話を聞いてくれ」

「だから、何の――」

 

「頼む」

「分かったよ。ったく」

 及川が黙ると、一刀はアタッシュケースから黒革の飾り気のないキーケースを取り出して、及川に放った。

「事務所の本棚の裏に、金庫がある。そこに、お前宛てと家族宛て、二通の手紙が入ってるから、自分の分に目を通して、家族にはお前が渡してくれ。朝、事務所においてあったとでも言えば問題ないだろ。信じてらえるかどうか分からないが、説明出来る限りの事情は、そこに書いてある。扉の番号は、そのキーケースのポケットだ。帰りは、俺の車を使え」

 

「は?お前はどするんだよ」

「俺は――」

 一刀は、及川の問いに答えるのを躊躇う様に黙したまま立ち上がると、一つ息を吐き、顎で光を指し示す。

「俺には、行かなきゃいけない場所がある」

 

 

「――なんかもう、訳わかんな過ぎて頭痛くなってきた……で、いつ帰って来るんだ?」

「―――いや、もう帰らないし、お前と会うのも最後だろう」

「…………」

 一刀は、言葉を忘れた様に口を開けては閉めてを繰り返す及川の顔を、仮面の中で申し訳なさそうに見詰めてから、今度こそ踵を返した。

 

「じゃあ、な」

「あ―――」

 及川は、光に向かって歩いていく鎧姿の背中を、茫然と見詰めていた。何か、言わなければと思う。

 たった今、今生の別れを口にされたのだから、間違いないのだろう。

 

 だが、何を?

 ほんの短い時間に多くの事があり過ぎて、頭から煙が出そうだと言うのに、チャンドラーの小説の登場人物の様な気の利いた別れの台詞など出てくるものか。

 しかし、せめて。

 

 自分たちらしい、別れの挨拶くらいは。

「なぁ!!」

 まだ纏まりの付かない思考を遮って、口が動くと、鎧武者は立ち止まって、ゆっくりと振り返った。

 及川は、どうにか笑顔を作って、軽く手を上げる。

 

 彼と会った時、別れた時、学生時代から何百と繰り返してきたであろう仕草だった。

「またな、かずぴー!」

 そして、自然と口が動いた。

彼の反応を面白がって何百と口にして来た、揶揄い文句が。

 

「ばぁか。その名前で呼ぶなって、何時も何時も言ってるだろうが」

 そう言って自分と同じ様に手を上げた友人は、強くなった光に及川が目を瞑ってから開くまでの数秒の内に、影も残さず消失していた。

 及川は思う。

 

 あの仮面の中で、北郷一刀は笑っていてくれただろう。

青い空を思わせる朗らかな笑顔を、きっと自分に向けていてくれた筈だ、と。

 




 今回のお話は如何でしたか?
 今回もオリジナル版から倍ほどの文章量になっているのですが、戦闘シーンでは、一刀の心理描写以外の部分は出来るだけ単調に、状況を伝える事を優先した感じで書いてみました。
 初戦闘と言う事もあって、擬音などを使うのは極力避けてシリアスを目指したのですが、まだまだ理想に筆力が追い付かないという悲しみ……。
精進しますです。

 さて、今回のサブタイ元ネタは、仮面ライダー剣第一期ED

 覚醒/Ricky

 でした。
 特ファンには『カモシェキナ!』のフレーズでも有名です。
 RickyさんがライダーCIPSに加入するきっかけになった曲でもあり、今回の一刀の心情と歌詞もとてもマッチしていたので、迷わずチョイスさせて頂きました。
 興味が湧いた方は、YouTubeなどで是非、聴いてみて下さいね!

 では、またお会いしましょう!


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第参話 It’s my life

 ご無沙汰しています、YTAです。
 今回のエピソードは、2010年に(年取る訳だ……)TINAMIさんに投稿したエピソードをリライトしたものです。
 本作での一刀のスペック説明回とも言える内容なので、気合を入れて書いたら、結構長くなってしまいました(汗
 お楽しみ頂けたら幸いです。

 また、感想や評価など、大きなモチベーションとなりますので、お気軽に頂戴できたらと思います。

 では、どうぞ!


 

 

 

 気がつくと、一刀は、漆黒の空間にぽっかりと浮かぶ“橋”の上に居た。

「あぁ……此処は……」

 一刀は、十五年前に自らの旅立ちの場所となった空間を、万感の思いを込めて見渡した。

 以前は、貂蝉からの説明を受けて知識として理解した暗黒。

 だが、今なら“感じ取れる”。

 

「永劫、か」

 そう、他のどんな名称よりも、それが一番しっくり来る。

 人と共に生まれながら、人の身が決して関わってはならない禁断。

 神々の粘土。

 結局のところ、それがこの空間に満ち満ちる暗黒(モノ)の正体だろう。

 

『永劫とは関わり合うもんじゃない』とは、何の映画の台詞だったろう。

 アメリカ在住時代、映画館の夜のリバイバル上映で観た古い映画だったのは間違いない。

 確か、デニーロが出ていた気がするのだが。

 一刀は、怒涛の様な夜を過ごしてすっかり疲れ切った脳細胞で、そんな事を考えていた。

 

「お久し振りねん、ご主人様」

 酷く懐かしい野太い声が、そう呼びかけて来る瞬間までは。

「貂蝉!!」

 彼女(?)は、いつかの様に、何も無かった筈の場所に忽然と現れ、一刀にウインクを飛ばす。

 

 スキンヘッドに両のもみあげをお下げに結い上げると言う奇天烈な髪形も、ピンクの紅を引いた分厚い唇も、世紀末覇者にも劣らぬ程の筋骨隆々たる巨躯も、その気になれば朗々と言葉を紡げるであろうと容易に想像が付く力強い音声も、怖気を振るう様な角度で股間に食い込む桃色のブーメランパンツも、全ては昔の、十五年前の姿のままに、外史の守護者は一刀の前に忽然と立っていた。

「本当に……久しぶりだ、貂蝉」

 貂蝉は、一刀が自分でも気づかぬ内に差し出していた右手を、力強く握り返しながら微笑みを返す。

「ええ。信じてたわん、ご主人様。貴方ならきっと、“その力”を使いこなせる様になって、戻って来てくれるって」

 

「あぁ、そうか俺―――」

 一刀は右腕を見て、自分がまだ、黄金の鎧を纏ったままだと言う事に気付く。

「えぇと……これ、どうやって外せば良いんだ?」

「ドゥフフ。“それ”はね、ご主人様、もうご主人様の身体の一部なのよん。人は、一々考えながら息をしたり歩いたりしないでしょ?」

 

「なる……ほど?」

 一刀は、抽象的に過ぎる貂蝉のアドバイスに困惑しながらも、何とかしてみる心算(つもり)で呼吸を整えた。

息を吸う、息を吐く、手を握る、手を開く、解きほぐす。

 身体の動作確認をする様に、その一つ一つを繰り返し、繰り返し、繰り返す。

 

何週目かも分からなくなった頃、一刀は肌に空気が当たるのを感じて目を開き、自分の手を持ち上げて見た。

「おぉ、消えた……」

 腕には僅かに光の粒子が蛍の様に纏わりついていたが、目に見えているのは確かに自分の手だ。

 と、一刀の目に、Yシャツにこびり付いていた赤茶けた染みが飛び込んで来て、その瞬間にすっかり忘れていた重大事を思い出した。

 

 そう、自分は確かに命に関わるレベルの重傷を負っていた筈だ。

 多分、恐らく、体感的には。

 実際、スーツもYシャツも半ばボロ雑巾のような有様になっているし、布地の半分がたは赤茶けて鉄臭い染みで覆われているではないか。

 

 だがどうした事か、その下の肌には、擦り傷一つ付いていない。

「だぁいじょうぶよん、ご主人様。あの鎧の内側にはね、纏った者の傷を癒す高密度の内気功が満ちているの。それに今のご主人様の身体は、ちょっとやそっとの事じゃ“壊れたり”しないわ」

 貂蝉は、慌てた様子で自分の身体を弄っている一刀に苦笑を向けてそう言うと、お祈りでもする様な具合に手を組んで、くねくねと(しな)を作った。

 

 

「そんなコトは兎も角、ご主人様ってば、オトナの色気ムンムンじゃなぁい!!?ワタシ、ドキがムネムネしちゃうわぁん♪」

「なんだろうなぁ、この懐かしい様な思い出したくも無かった様な気持ち……いやまぁ、十五年も経ちゃあ、色気はさておき老けはするだろ、うん」

 

「十五年……そう、正史では、もうそんなに……」

「あれ、知らなかったのか?意外だな」

 一刀が驚いてそう言うと、貂蝉は申し訳なさそうに俯いた。

「ごめんなさいね、ご主人様。ワタシたちは元々、正史にはそこまで強く影響力を持てないの。この場所を経由して、辛うじてご主人様の存在と外史との縁を繋げ続けるのが精一杯でね。それに、ワタシたちにとっては刻の流れなんてあってない様なものなんだけど、この外史の狭間に居ると、余計に感覚が鈍くなっちゃうのよ」

 

「あぁ―――そう言えば、此処では時間が流れないとか言ってたなぁ」

「えぇ。今、言った通り、経年の方は元から関係ないんだけど、周囲の時間が止まってると、やっぱり影響は受けるみたいなのよねん」

「なるほどなぁ。ま、気にするな。むしろ、お前らが万能じゃない方が、俺も気が楽になるってもんだ」

 

「ドゥフ!ありがと、ご主人様。それじゃ、こんな場所で立ち話も何だし、もう行きましょ♪」

「そうだな。いい加減に座りたいぞ、俺は」

 一刀は、貂蝉のどこか空元気じみた笑顔に自分も微笑みを返して、踵を返して歩き出した彼女(?)の後を追って歩き出す。

 

貂蝉の逞しい背中越しに赤漆(せきしつ)の階段が忽然と現れた事にも、驚きはない。

 あるのは、突然、十五年前に時間を引き戻された様な奇妙な感覚だけだった。

 

 

 

 

 

 

 階段を登り切ると、そこにある空間もやはり、以前訪れた時のままだった。

 黒光りする板張りの床、扉のある三方の壁、中央に立つ、街燈と見紛うばかりの背の高い行燈。

 そして、その下の揺り椅子に座す、黄褐色の三つ揃え(スリーピース)を着て微笑む老人の穏やかな微笑みまで。

「ほっほっ。貫禄が付いたのぉ、北郷一刀」

 

 老人は、燻らせていた海泡石(メシャム)のパイプを椅子の横に設えたテーブルの上に置いたパイプスタンドに戻して、ゆっくりと立ち上がると、同じ様にテーブルに立て掛けてあった銀の握りのステッキを手に取って、一刀の元に歩み寄る。

 以前に会った時にも思ったが、高齢な見た目に反し、ファッション以上の目的でステッキを必要としている様にはとても思えない、矍鑠(かくしゃく)とした足取りだった。

 

 突然、音楽が流れ始めて、老人が往年のジーン・ケリーも()くやの鮮やかなステップで踊り始めても、驚きはすれど意外には思わないだろう。

 小粋な角度に曲がった中折れ帽(フェルト・ハット)から覗く銀髪も、老いの証と言うよりは、むしろこの老人の“老齢なのに年齢不詳”という様な不思議な印象を強めている。

 

「ご無沙汰しています、姬大人(きたいじん)

 一刀は、差し出された右手を握り返して、その力強さに内心、改めて驚きながら、そう挨拶をした。

「うむ。約定を見事に果たしての無事の帰還、喜ばしい限りじゃ」

「はい。少し、時間を食ってしまいましたが」

 

「なに、今が男の盛りよ。儂も其方(そなた)くらいの頃には“ぶいぶい”言わせとったもんじゃ」

 姬大人がそう言って茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせると、壁の扉(以前に来た時には、罵苦の死骸が置いてあった倉庫に続いていたと一刀は記憶していた)が開いて、懐かしい巨躯が姿を見せた。

「卑弥呼!」

 

「おぉ、ご主人様か!うむ、久方振りに(まみ)えたが、佳い男振りであるな。ちょうど、其方の部屋の準備を終えたところよ」

「部屋?俺の?」

 困惑した一刀が頓狂な声を上げてそう訊き返すと、卑弥呼に代わって姬大人が口を開いた。

 

「左様……其方は今すぐにでも、愛しき女性(にょしょう)たちの元へ立ち戻りたいであろうが、まだ仕上げが済んでおらぬ故な。お主自身、己が得た力を十全に使いこなせると胸を張れはしまい?」

「それは……はい」

 一刀は、姬大人の言葉に素直に頷きを返す。

 

 正直な話、そもそもあの鎧がなんだったのかすら分かっていない。中級罵苦、黒網蟲との戦いでも、鎧の方が補助してくれたから何とかなっただけで、とても自分から戦術的に立ち回れていたとは言えないのだ。自分の扱う装備への理解というのは、例えそれが兵士であれ戦士であれ、心構えの初歩の初歩である。

 この十五年間に得た学びを思えばこそ、例え見栄であっても、姬大人の言葉は否定など出来よう筈もない事であった。

「であろう。なれば、儂と卑弥呼が鍛えて遣わそうと言う訳じゃ。其方を(まこと)、三国の英雄豪傑に劣らぬ勇者にな」

「つまるところ、ご主人様をただ独りで正史に放り出したのは、謂わば、ご主人様を玉鋼(たまはがね)として製錬する行程であったのだ。これよりが正に、我らの(わざ)という火と槌で以って、ご主人様と言う鋼を(つるぎ)へと鍛え上げる、その本番と言う事よ」

 

 一刀は、姬大人の言葉を継いだ卑弥呼の言葉に、何とも言えない様子で溜め息を漏らした。

「なんつーか、果てしなく気の長い話に聞えるな、それ」

「案ずるな一刀。この場所は“外史の狭間”。此処では、刻は前へも後ろへも流れはせぬ。一年も百年も同じ事よ」

「まぁ、あっちで独りでやってた時よりは、終わったら確実に皆の所へ帰れるって解ってるだけ大分マシかぁ」

 

 一刀が諦念した様にそう言うと、姬大人は口髭に隠れた唇の端を僅かに吊り上げる。

「それでよい。それぐらい鷹揚に構えておった方が、万事うまく進もうと言うものじゃ。今日は其方も疲れておろうし、茶でも飲みながら基礎の座学で済ますとしようかの」

「お任せよん、大人さまぁん!!」

 

 姬大人の言葉を待っていたかの様に、暫く一刀の視界から居なくなっていた貂蝉がひょっこりと顔を出した。

 右の肩にはテーブルと椅子のセットが器用に積み上げられており、左の掌には、湯気の立ち昇るティーセットが乗った銀の盆を給仕の如く(たずさ)えている。

「はぁ、どっこしょっと!」

 

 貂蝉が見てくれにそぐわない器用さでテーブルのセッティングを終えると、姬大人は洗練された仕草で一刀に着席を促した。

 一刀が、ポットから漂う珈琲の香りで自分がどれほどカフェインと糖分とニコチンを求めていたかを悟り、独り苦笑を浮かべていると、席に着いた姬大人が微笑みを返す。

 

「其方には、こちらの方が良かろうと思ってな。砂糖とミルクも用意してある。話は、一服点けて寛ぎながら聞いてくれればよい。儂も、一服するでな」

「お気遣い、痛み入ります。大人」

 一刀が姬大人に礼を言って、胸ポケットから煙草を取り出してオイルライターで火を点けると、姬大人も、いつの間にか手に持っていたパイプに太いマッチで火を点けて、一刀に合わせる様に紫煙を燻らせた。

「また煙草が吸えて良かった。肺に穴が開いただろうと覚悟していたので」

「うむ。その有様を見ればさもあろうよ。で、だ。どこから話すべきかの、卑弥呼?」

「はっ。では、“石”の事からが宜しかろうと存じます」

 貂蝉と共に椅子に腰かけた卑弥呼がそう答えを返すと、姬大人は大きく頷いた。

 

「そうじゃな。さて、一刀よ。今、其方の腹の中には、これ位の大きさの―――」

 姬大人は、右手を握って拳を作ってみせた。

「石が、埋め込まれておる。感じておるかの?」

「はぁ。光る龍が腹の中に飛び込んだのは憶えてるんですが……」

 

「それじゃ。あれはな、正史に石を送り込んだ時に儂が化身させたものよ。本来、あの龍は“賢者之石”より出でて、其方の身体を幻想の力を纏える状態に導く存在じゃ」

「賢者の石……確か、錬金術の奥義と言われてる物ですよね?」

「左様。所有者に不老不死を始めとした数々の奇跡を(もたら)す、時に粉末であるとも液体であるともされる万能の赤き石じゃ。尤も、其方に与えた“それ”は、伝説に語られる石そのものではないがの」

 

 姬大人に下腹の辺りを指さされた一刀は、不思議な気持ちで腹を撫でてみた。

 特に何も感じはしないのだが、自分の腹の中にそんなものが入っているなどと言われると、何とも落ち着かない気分にはなる。

「本当ならば、(かつ)ての大戦で使われた亜細亜に伝わる石を其方にくれてやれれば良かったのじゃが、生憎と罵苦どもを封印した時に使い物にならんようになってしまったでな。その石はの、欧州方面の肯定者たちにも協力を仰ぎ、先の大戦で失われた石を模し、新たなる“幻想の力を宿す器”として、我らの総力を結集し創り上げた切り札よ」

 

「幻想の力を宿す器……」

「うむ。まずは、其方の肉体を幻想の力を纏えるだけの頑強なる“起龍体(きりゅうたい)”へと変える力じゃな。この状態となれば、常人を遥かに凌ぐ身体能力を得る事が出来よう。正史の生まれである其方でも、石から供給される膨大な氣の力で以って、外史の者たちと同様に、硬気功や内気功を自在に操る事も可能であろう。無論、それなりの修練は積む必要があるがな」

 

 姬大人はそこまで一息に説明すると、ポケットから取り出したタンバー(パイプの受け皿で燃える煙草葉を押し込めて燃焼時間を調整する道具)を取り出し、煙草葉をニ・三度、押し込んでから、再び口を開いた。

「次が“鎧装”。即ち、其方をあの黄金の鎧を纏った姿へと変ずる力じゃ。其方が言霊を込めて口に出せば、術式が起動する」

 

「じゃあ、うっかり言っちゃった、みたいな事であれになる心配は無いんですね?」

「うむ。そもそも、本来は起龍体への移行なくして鎧装の術式は起動せぬ。先の時は緊急時であった故、儂が起龍体への移行と同時に術式が起動するよう調整して正史に送り出したが、本来は扱うのにコツが要るでな。ま、言霊を使った術に関しては卑弥呼が専門じゃによって、後で説明させよう」

 

 姬大人は、一刀と卑弥呼が揃って頷くのを確認して咳払いを一つする。

「さて、鎧装を経た其方は、(すめらぎ)なる龍の王、即ち皇龍王となる」

「そう言えば、さっきの戦闘でもそんな文字がARに出て来たな……黄色い龍、ではなくてですか?以前、貴方や卑弥呼が、俺をそう呼んでいたけど」

 

「そうじゃ。鎧の意匠は、其方の宿星でもある黄龍(こうりゅう)(かたど)っておるが、その身に宿す力は黄龍のみに為らず。五神の長たる黄龍の力を以って、他の四匹の聖獣の力を一つに纏め上げたるもの。なればこそ、皇の龍なのじゃ」

「成程……そう言えば、白虎とか玄武とかの名前も出てたな……」

 

「鎧は、賢者之石が生成した日緋色金(ヒヒイロカネ)と氣を錬成したものじゃ。其方の生れた時代の兵器でも、少なくとも対人を想定したものでは傷一つ付けられまい」

 姬大人の言葉を聞いた一刀は、「うへぇ」と引き気味に呟くと、貂蝉が生徒に注意を促す教師の様に指を振る。

「でも注意してね、ご主人様。日緋色金自体の硬度は金剛石(ダイアモンド)すら上回るけれど、中のご主人様はそうじゃない。車で事故に遭うのと同じで、外殻を貫通して伝わる強烈な衝撃なんかは中のご主人様にダメージが行くし、日緋色金の結合に氣を使っている以上、その氣の密度を上回る様な超々高密度の闘氣による攻撃を受けたら、結合が断ち切られちゃうから」

 

「まぁ、その辺りは追々、実践込みでワシがしっかりと教えておこうぞ、貂蝉。ご主人様も、その方が分かり易いであろうからな」

「いや、いつから俺、肉体言語推進派に宗旨替えした事になってんの?つーか、お前と戦えとか、確定演出付きでDIE or DIEな未来しか無いんじゃないの?」

 

「心配するな、ご主人様。賢者之石には、不老不死とは行かぬまでも、優れた治癒の力が備わっておる。即死さえ避ければ、そう簡単に死にはせん。安心して死合おうぞ」

「なにその安全の概念に喧嘩売る様な言い草。あと、“しあい”のニュアンス絶対に間違ってるよね?」

 卑弥呼の体育会系を極めたあまりな物言いに、一刀がじっとりとした視線を投げつけながらグチグチと突っ込んでいると、姬大人が溜め息交じりに苦笑を浮かべる。

 

 

「元気なのは結構な事じゃが、話を進めてはどうじゃな、卑弥呼」

「はっ、これはご無礼(つかまつ)りました―――では、ご主人様よ、ワシから改めて、今後のカリキュラムを説明しよう。まずワシが教えるのは我が秘術、鬼道の極意よ。罵苦どもの中には、(あやかし)の術に長けた者も数多い。超級種や上級種に至っては、剪定者たちが用いる術すら使いこなす個体がおるからな。何も安倍家や加茂家並みになれとは言わぬが、それなりに遣えた方が良かろう」

 

「そもそも、それって俺に使えるもんなのか?」

「案ずるな。今のご主人様は、正史より出でて幻想を纏う者。出来ぬ道理などない」

「喜ぶべきか悲しむべきか分かんねぇなぁ……あぁいや、すまん。続けてくれ」

「うむ。続いては体術だな。徒手空拳から長柄・弓・剣・投擲・暗器の扱いに至るまで、実践込み込みでギッチリと詰め込んでやろう……ムフ」

 

「いやもうそれお前がやりたいだけちゃうんか」

「否!断じて否!!まぁ、基礎は程々に出来ておるようであるし、そこまで心配は要るまい。それに、理由もちゃんとあるのだぞ。本格的に修練を始める時に改めて教えてやるとも」

「あぁ、そう。で、他にもあるのか?もういい加減、小出しされるとツッコミが面倒になってきた」

 

「いいや、ワシの方は以上だ。皇龍王としてのご主人様に修行を付けて下さるのは、大人さま故な」

「へ!?そうなんですか?」

 一刀が驚いて姬大人を見ると、老紳士は愉快そうに口髭を(しご)きながら、鷹揚に頷いた。

「うむ。何せ、“石”の扱い方を熟知しておるのは、儂しかおらんでな」

 

「熟知……していらっしゃる?」

「如何にも」

「あの、大人。もし間違えていたら、大変に恐縮なのですが」

「うん?」

 

「もしかして貴方のお名前、軒轅(けんえん)さんと仰られたりします?」

「左様。姬軒轅(きけんえん)が儂の姓名である。よう分かったのぉ、感心感心」

 一刀は、からからと笑う老紳士—―伝説に語られる黄帝その人を、信じられないものを見た人間そのものの目つきで、茫然と凝視する他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの、平伏とかした方が良いですか」

「んん?あぁ、要らん要らん!斯様(かよう)な場所に隠遁して、(ようや)く堅苦しい些事より離れられたと言うに、今更、(みかど)面なんぞする気はないわい」

 割りと真面目に尋ねた一刀に対して、姬大人は大儀そうに手を振った。

 

「しかしまぁ、そこまで周到に隠す心算は無かったにせよ、よく思い至ったの、一刀」

「それは……敵が蚩尤だと聞けば、それを打倒したと伝わる人物の事も調べる位はしますから……黄帝の本名が分かった時に、貴方の顔が頭を(かす)めもしました。ただ、黄帝は本来、正史の方と伺っていましたし、まさか御本人とは」

 

 最凶最悪の戦神・蚩尤を討ち果たして、中原統一を成し遂げた勇者。

 鍼灸と漢方を根幹とする東洋医学と道教の祖にして、時には、数学、漢字、羅針盤、暦までをも発明したとされ、養蚕を編み出した嫘祖(れいそ)を妻に、蚩尤との決戦の折、蚩尤配下の神の内の三柱を下した日照りを司る戦天女・旱魃(かんばつ)を娘に持つ、存在そのものが中華の始まりとまで称えられる古の大英雄、黄帝。

 

 なんとか系主人公も真っ青の経歴を持つ当の本人が目の前に座って、珈琲を啜りながらパイプ煙草を吹かして居るとなれば、流石に三国志の英雄豪傑たちを恋人に持つ男でも、緊張くらいはする。

「あぁでも、陛下が前任者って事なら色々と納得がいくと言うか何と言うか」

「陛下も要らん。大人で十分じゃ。しかしそうか、納得がいくか」

 

「えぇ。俺の時代では、黄帝は龍と関わりが深い事を思わせる逸話が多いから、本来は龍神として崇拝されてたんじゃないかって説があるんですよね。あの鎧を着ていた頃は、大人も皇龍王を名乗っておられたのでしょう?」

「着眼点は良いのう。半分は当たりじゃな。尤も、儂の頃には正に黄色い龍と書いて黄龍王であった。なんせ其方の生れた時代からすると、四千五百年も前じゃったでなぁ。人々の幻想ももっと原始的で、今ほど多様では無かったからの。石もな、儂のは“龍玉”と呼ばれておった。ま、お主のは、その“あっぷでーと版”じゃな。儂が現役の頃に欲しかったあれこれをたっぷり詰めておいたぞ」

 

「ありがたい事です……それに確か、黄帝は金色の龍に乗って天に昇り、二度と帰らなかったと」

「ふむ。いい具合に伝わっておるのぉ。いやなに、少しばかり演出過多くらいの方が、大衆受けが良いかと思うてな。別にせんでも良かったのじゃが、派手に退場してみたと言う訳じゃよ」

「何というか、流石にスケールが桁違いですね……」

 

「ほっほっほ!照れるのぅ。まぁ、そんな訳じゃによって、きっちりモノになる様にしてやる故、安心せい、一刀よ。余裕があれば、巫術もちぃと仕込んでやろう」

「はい!宜しくお願いします、大人」

「うむ。さてさて、ざっとこんなものかの。一刀も疲れていようし、今日はこれぐらいでお開きとしよう」

 

「あれ、貂蝉は?」

 姬大人の言葉に疑問を覚えた一刀が、ふと気になって貂蝉を見遣ると、貂蝉は無駄に優雅な仕草で足を組み、珈琲を飲み干しているところだった。

「ワタシ?ワタシはお仕事に戻るわよん」

 

「え、どこか出掛けるのか?」

「えぇ。ワタシは今、ご主人様の戦いの助けになる様な“幻想の欠片”を探すのがお役目なの。“この中”には―――」

 貂蝉はそう言って、愛おしさと哀しみが綯交ぜになった様な表情で、漆黒の天を仰いだ。

「既に忘れ去られてしまったり、完全な形を得る事が無いままに漂い続ける幻想の欠片が沢山あるのよ」

 

「じゃあもしかして、俺を出迎える為にわざわざ?」

「どぅふ!だって、約束したじゃないのん。ワタシが必ず迎えに行くわ、って♪」

「律儀だなぁ……でも、ありがとうな、貂蝉。これからも宜しく頼むよ」

 一刀がそう言って頭を下げると、貂蝉は慌てた様に轟音を伴って手を振る。

 

「やだ、やめてよご主人様!水臭いじゃな~い!!」

「いや、よく考えたらお前とは“最初の頃”からの付き合いで色々と助けてもらってるのに、ちゃんと礼を言った事がなかった気がしてな。今、言っとかないと、今度はいつ顔を合わせられるか分からないだろ?」

「ご主人様……アチシ、俄然やる気が出て来たわん!ちょっくら行ってくるから、楽しみに待っててねん!!」

 

「お?おぉ……」

 一刀は、やおら立ち上がって猛然と階段を駆け下りて行く貂蝉の後ろ姿を茫然と見詰めるしかなった。

「どうしたんだアイツ、急に……」

「ふ、相変わらずの誑し振りよな、ご主人様」

「なんで俺が貂蝉を口説いたみたいな感じになってんのよ……」

 ニヒルな微笑を浮かべて『何でもお見通し』的な事を(のたま)っている卑弥呼と、げんなりした様子で渋々ツッコむ一刀の様子を暫し見比べていた姬大人は、苦笑しながら溜め息を吐いた。

「まったく、儂も付き合いは長くなったが、漢女と言うのは今以てよう分からんわい。さ、一刀よ、今日はもう休め。明日からは本格的に始めるぞ。努力したら努力しただけ、早く女性(にょしょう)たちの所へ帰れるのじゃ、励めよ」

 

 それから四半時も経たぬ内、以前は地下へ続く階段があった筈の場所が居心地良さそうなワンルームに変貌していた事に驚くよりも、強烈な睡魔に身を委ねる事を優先する事にした一刀は、程よくスプリングの利いたベットに飛び込むと、瞬時に泥の様な眠りに落ちたのだった。

 

 

 

 

 

 

「では、始めようかの」

「はい、師匠!!おなしゃす!!」

「待て待て待て待てぃ!!」

「んだよ、卑弥呼。折角、学生時代以来の気合の入り具合なのに、水差すなよな」

 

 ボロボロだった衣服を用意された拳法着に着替えた一刀が案内されたのは、今まで通った事の無かった最後の扉の先であった。

 そこは、目算で500m四方はあろうかと言う何もない部屋で、本当にただ壁で仕切られているからと言う理由だけで、辛うじて部屋と認識できる様な空間だった。

 

 ここにも天井は無いのだが、代わりに、一刀の精神衛生上の観点からとの理由で、青い空模様が映し出されており、姬大人いわく『サービス』との事らしい。

 一刀は今まさに、これから修行らしき事を始めようとして、卑弥呼の大音声に気勢を挫かれたのである。

「いいや、ここは詰めずにはおられん。師匠と呼ぶなら、どう考えてもワシの方であろう。キャラ的に!キャラ的に!!貴様、それでも“あらふぉー”か!!」

 

(やかま)しい!つか勝手に四捨五入するんじゃねぇ!!俺は漢女道に入る気なんか無いんだから、お前の弟子じゃないだろ!せいぜい生徒だろが!」

「ぐぬぬ!!正論パンチとかカッコ悪いぞ、ご主人様!」

「普段から正論を力でねじ伏せてるやつに言われたくないっつーの。はぁ、始まる前からどっと疲れたわ……」

 

「さて、そろそろ良いかな、お二人さん?」

 姬大人にそう窘められ、卑弥呼も漸く静かになり、一刀は一刀で落とした肩を気合で持ち上げ、姿勢を正した。

「よしよし。では、今度こそ始めるぞ。最初の履修科目は“起龍体”じゃ。一刀、ちと上着を脱いでみよ」

「は?はぁ……」

 

 一刀が戸惑いながらも言う通りにすると、姬大人はステッキの取っ手部分で、一刀の下腹辺りに当てる。

「其方も武術家じゃ、丹田は知っておろうな?」

「はい。それは勿論」

 姬大人がステッキで触れている場所が、正にその丹田—――即ち、元来は内気功を以って体内に霊薬を作り出す場所とされる、気力を練り上げる為の場所だ。

 

「然らば、集中せよ。“石”の脈動を感じるのじゃ―――石は其方、其方は石ぞ。呼吸を、鼓動を、脈拍を合わせよ。疑いを捨てるのじゃ。正史の常識を外に追い出せ。其方にとって、今や氣は概念に非ず。そこに、確かに在るものじゃ」

 一刀は、姬大人の言葉を子守唄の様に聞きながら瞳を閉じて、限りなくゆっくりと、深く呼吸を始めた。

 

 全身の血を丹田に集める様にイメージし、自身の意識をそれに乗せる様にして、奥へ奥へと感覚を伸ばす。“石”は―――氣は、確かにそこに在るもの。

 ならば、感じ取れる筈だ。心臓の鼓動を感じるのと同じ様に。

 飽く事なく、焦る事なく、同じリズムで呼吸を繰り返す。

 

 深く、深く、ゆっくり、ゆっくり。

 やがて。

「―――(見つけた)」

 “石”の脈動を感じ取れたと思ったその瞬間、身体の中に、凄まじい何かが湧き上がって来て、一刀は危うく、意識を飛ばしそうになる。

 

 血液が数倍の量にもなった様な錯覚。

 心臓の鼓動が二つになった様な幻覚。

 これは、奔流だ。

「好きに暴れさせるな」

 

 姬大人が、ピシャリと言う。

「それは“其方のもの”。其方がそれに所有されているのではない。しかと掴み、抑え、練り上げよ」

 そうだ。

 出来る筈だ。“自分のもの”という感覚が、確かにある。

 

「(俺の身体、俺の氣、俺の命—――)

 丹田から溢れ出ようとしているものの中心をイメージする。

 漏らさず、掬い上げ、固める。

 もっと固く、もっと強く、もっと小さく。

 

「ふぅぅぅ―――」

 漸く静まり出した悍馬の手綱をゆっくりと緩める様に、目を開きながら息を吐く。

 と、次の瞬間、一刀の下腹部から、昨夜見た黄金の龍が飛び出して、悠々と一刀の周りの中空を回遊してから身体に巻き付き、肌に吸い込まれる様に急激に立体を失う。

 

 今や龍は、白みがかった黄金の帯の如き痣となって、一刀の身体を包んでいた。

(よし)

 姬大人は、満足気にそう言って微笑んだ。

「その感覚を忘れるでないぞ、一刀」

 

「はい……そうか、これが氣って事か……」

 姬大人の言う通りだった。

 一刀がこれまで理解していた“氣”とは、徐晃こと香風が巨大な武器を悠々と振り回すのに使っているもの。楽進こと凪が、鋼の刃すら受け止め、業火と成して放つもの。

 

 詰まるところは、他人事だった。

 自身にとっての“気”とは、拳を打ち出す時や剣を振り下ろす時に“何となく身体に満たした心算になるもの”と言う、極めて概念的な存在でしかなかったのだ。

 だが、今は違う。

 

 自分の中に、“氣”を感じている。

 脚に、軽く力を籠めてみた。

 丹田から氣を注ぎ込み、太腿へ膝へ、脹脛(ふくらはぎ)へ、(くるぶし)へ、足の裏全体に。

 膝を曲げ、跳ぶ。

 

 

 一刀の身体は、5mはあろうかという位置の中空にまでふわりと浮かび上がり、すとんと地面に戻った。

「うん。これが、氣なんだな」

 初めて独りで自転車に乗れた時の様だった。

 踊り出したくなる様な喜びと言うよりは、心からの納得。

 

 今まで、他人の言葉からでしか理解できていなった理屈を、自分のものとした時の感覚だ。

 正に“腑に落ちた”という表現が相応しい。

「大したものじゃ。儂の時には、半日は掛かったぞ」

「師匠が良いですから」

 

「ほっほっ、世辞も儂より上手いの。さて、では、暫くその身体で居る事に慣れておけ―――卑弥呼」

「はっ。ではご主人様よ、其方にこれを取らす」

 卑弥呼が、一刀の前にぐいと右腕を突き出してそう言葉を発した瞬間、卑弥呼の握りこぶしの中に、忽然と一振りの日本刀が立ち現れた。

 

 長さは二尺三寸ほどと目測できたので、打刀(うちがたな)であろう。

 柄頭(つかがしら)(ふち)は艶消しの金で、柄頭には蜷局(とぐろ)を巻いた龍が、縁には泳ぐ様に体を伸ばす龍が描かれている。

 目釘を覆う目貫も金で、同様に小さな龍が彫刻されていて、柄巻きは純白の糸巻だ。

 柄頭と揃えの色の鍔は透かし彫りで、こちらにも何故か四つも開いた櫃孔(ひつあな)を悠々と避ける様にして、不規則な円を描き踊る龍が彫り込まれていた。

 

 一転して鞘は白石目で、鮮やかな深紅の下緒が巻かれており、その色合いはどこか連獅子を思わせる。こちらもやはり、笄櫃(こうがいひつ)を潰して小柄を納める小柄櫃(こづかひつ)を四つにしてあるのが特徴的で、一刀もこの様な造りは今までに見た事がなかった。

 しかも、本来、納まっている筈の小柄が一本も刺さっていないので、どうにも座りが悪い様に感じる。

 だがそれでも、人目で並みの刀剣ではないと分かる貫禄ある拵えだ。

 

「俺に……」

 卑弥呼から打刀を受け取った一刀は、ゆっくりを鯉口を切り、抜き放つ。

 息を呑む事しか出来なかった。

 正宗を思わせる(のた)れの刃文、冴えわたった沸などは、総毛立つほどの艶やかさである。

 

 模造の空を映す鏡の如き刀身には、忠綱を思わせる優美な登り龍が棒樋(ぼうひ)に寄り添う様に彫刻されていた。

 しかも、(はばき)には、ご丁寧にも、北郷家の家紋である丸に十文字の紋章が刻まれている。

「おいおいマジか……俺だってそこまで目利きって訳じゃないが、こんなの、最上大業物とか、どう見てもそのレベルだろ。おっかなくて振れないって……」

 

 一刀が物怖じした様子でそう呟くと、卑弥呼は僅かに唇の端を吊り上げた。

「そう及び腰になるな、ご主人様。それは、剣にあって剣に非ず。その証拠に、どうだ。重さを感じぬであろう?」

「……おぉ!?言われて見れば!どうなってんだ、これ……」

 一刀は卑弥呼の言葉を聞いて初めて、自分の手に握られた刀剣が異様に軽い事に気が付いた。

 

 どんなに多めに見積もっても、それこそ、精々が竹光ほどの手応えしか感じられない。

 しかし、どれ程ためすがめつしてみても、ぞっとするほど美しい鋼の剣にしか見えないのだから、何とも不気味だ。

「これぞ神仙の秘奥たる宝貝(ぱおぺえ)—―その名を、“神刃(しんば)”である」

 

「ぱおぺえ?あぁ、聞いた事あるぞ。確か、仙人のマジックアイテムだよな?」

「然り。儂の知り合いにその道に傾倒した仙人がおってな。なにをトチ狂ったか、“生きた宝貝”なんぞと言うもんを生み出した挙句、『暴れ者で手が付けられぬから助けてくれ』と養育の手助けを頼まれた事があったのよ。で、一つ貸しと言う事にしてな。折角なので、返して貰ったと言う訳だ」

 

「俺には、生きた宝貝なんぞより漢女道の方が怖ぇよ……でも、これが宝貝だっていうなら、やっぱり火が出たり竜巻が起きたりするのか?」

「しないぞ」

「あ、そう」

 

「なんだ、期待しておったのか?」

「うるせいやい」

 卑弥呼は、思いのほか残念そうにしている一刀の様子に気をよくしたのか、小さく鼻を鳴らした。

「仙人どものあれは、燃費が悪すぎるからな。使い道も限られようし、わざわざ新しく作る位なら、ご主人様が“石”の力を使いこなせるようになった方が話が早い」

 

「そうなの?」

「そうなのだ。故に、この宝貝には神珍鐵(しんちんてつ)と“石”から生成した日緋色金の合金を用い、ありとあらゆる戦場に対応できる力を持たせた。使用者をご主人様に限定する事で燃費を抑えた故、コスパも抜群だぞ。重さを殆ど感じぬのは、“北郷一刀以外が持とうとすれば持ち上げられぬほど重くなる”と言う(しゅ)の副産物よ」

「使い手を選ばないっていう兵器としての汎用性を度返しして、俺の為にカスタムメイドしてくれたって事か。それは凄いと思うが、コスパとか言い方が俗っぽ過ぎるだろ、仮にも仙人の武器にさぁ」

「む、しかし、宝貝と言う物は燃費が悪ければ遣い手が干からびるしな……使ったら多少、腹が減るくらいの燃費に抑えたのは、抜群のセールスポイントだと思ったのだが」

「それは(むし)ろ、携行兵器としては最低限の合格ラインなのでは?」

「むぅ……人間とは難しいものだな。まぁよい。それでな、ご主人様よ、神珍鐵については知っておるか?」

「えぇと、確か孫悟空の如意棒の素材……だっけ?」

 

 一刀は(彼自身にすれば大昔)、李典こと真桜が郭嘉こと稟の体質を巡る騒動の際、彼の逸物を指してそのような事を冗談で言っていたのを覚えていたので、自信なさげにではあるが、口に出してみた。

 すると、どうやら正解であった様で、卑弥呼は満足げに頷きを返す。

「左様。正確には、如意箍棒(にょいきんこぼう)と言う」

 

「あぁ、そうだったそうだった」

 確か真桜も、その様に言っていたと思い出す。

“言葉の響き”が似ているからと。

「神珍鐵の特性は、大きく分けて二つ。即ち、“物体の大きさの任意の拡大縮小”、“特定の入出力を行う装置を使わずとも遣い手の意志のみで思い通りの操作が可能”と言うものだ。だが残念な事に、その拡大縮小には、物性の変化は伴わない。そこでワシは……と言うか、実際に鋳造したのはワシの知人ではあるが、ご主人様の存在と極めて親和性の高い“石”が生成する日緋色金を配合する事で、これを克服したのだ。その“石”から作り出されるものに限っては、ご主人様の氣と結合し、自在に形を変える特性がある故な」

 

「つまりその……この刀、何にでも変われるって事か?」

「そうだ、と言ってやりたいが、制限もある。ご主人様がその存在を知らぬ―――即ち、“夢想できぬ”形にはなれない。また、現在のご主人様では、複雑な内部構造を有する近代兵器には変化させられぬであろう。石の力を最大限に引き出せる様になれば、鎧装を行っている状態なら或いは可能かも知れぬがな。また、その宝貝はあくまでも“武器”と言う概念の元に造られた物だ。それ以外の物にはなれぬ」

 

「ちょっと整理したい。えぇと、俺の腹に埋まってる賢者之石が生み出す日緋色金は、“俺が使う場合に限り”、形状を自在に変えられるんだな?で、大きさを自在に変えられて、それを特定の装置を使わずに行える神珍鐵とを掛け合わせて作られたのが、この刀の形をした、どんな武器にでも姿を変えられる宝貝、と。で、宝貝っていうのは本来、燃費が悪くて、生命力的なものを大量に消費するから、燃費をよくする為に“俺が使うとめっちゃ軽くなるけど、他の奴が使おうとすると重くて使えない”と言う制限を掛けた―――間違ってないか?」

「うむ。正鵠である」

「卑弥呼って、意外と策士なのな。確かに、使える人間に制限を設けるってのは兵器としての汎用性を損なう事にはなるけど、大量生産する訳でもない一品物なら、俺以外が使えないなんて寧ろ利点でこそあれ欠点じゃないのに」

 

「ふふん。覚えておけ、ご主人様。“幻想を扱う”というのは即ち、こういう考え方をするという事なのだ」

「勉強になるよ、ホント」

 一刀が素直に感心してそう言うと、卑弥呼は、それまで黙って卑弥呼の話に耳を傾けていた姬大人の方に顔を向けた。

「では、大人さま。本日は初日で御座いますれば、一通り流しで行いたいと存じます」

 

「そうじゃな。では、鎧を纏うがいい、一刀。やり方は昨日、教えた筈じゃ。起龍体への移行を成し得た今であれば、さほど難しい事はなかろう。基本は同じじゃからな」

 一刀は、姬大人の言葉に頷いて、再び集中を新たにする。

 自分の中にある賢者之石に感覚を伸ばし、そこから溢れ出る力を練り上げ、身体の隅々に満たすイメージを保ち、その意志を極限にまで鋭く研ぎ澄まして、言霊に変える。

 

「“鎧装”—――!!」

  一刀の腹部から賢者之石が姿を現し、そこから溢れ出た白み掛かった金色(こんじき)の粒子が身体を覆う。つぎの瞬間には、一刀の身体は淡い白が混じった様な色合いの明るい黄金の鎧に包まれ、鎧の節々から、鎧の生成に使われた膨大な神氣が蒸気の様に噴出して、まるで薄霧を纏った様に煌きを放つ。

『余剰神気 放出完了』

『対魔性殲滅用兵装 全機構 起動最終確認』

『皇龍王 来迎現臨』

 

 視界を覆うARデバイスからの情報を読み取り、一刀は自分が独力で鎧を身に着ける事に成功したと知った。

「改めて、エラいこっちゃだな、こりゃ」

 一刀が、左右非対称な意匠の手甲に包まれた両手を繁々と眺めていると、姬大人が(おもむろ)に口を開く。

「右手が白虎の力を宿せし虎王甲、左手が玄武の力を宿せし武王籠手じゃ。白虎が攻撃を、玄武が防御を担う。其方の言霊を受けて術式を成し、固有の武装を起動させる仕組みとなっておる」

 

 

 

「あの、輝光拳とか天縛鎖とかですか」

「うむ。輝光拳はこぶしに高圧縮した闘気を纏う他、波動として打ち出す事も出来る。天縛鎖は中距離での牽制や、闘気を通して軟鞭としても使えよう。武王籠手に“武王甲”の言霊を乗せれば、其方と周囲の者たちを守る無形の盾とならん。背中の装甲には朱雀の力が封じられており、“飛雲雀”の言霊で其方を空高く運ぶ(たすけ)となる。脚には青龍の力が宿り、その背鰭(せびれ)を模したる刃にて敵を切り裂き、一度(ひとたび)“青龍脚”の言霊を帯びれば、城砦の壁をも破壊しうる豪脚を其方に与えよう」

 

「武王甲、飛雲雀、青龍脚……」

 一刀が、姬大人の言葉とARに表示される情報とを相互参照していると、卑弥呼が右手を左手で包み込み、ボキボキと間接を鳴らした。

「一通り終わりましたかな、大人さま?では早速—――!!」

 

「どわぁ!?」

 一刀は、丸太の様な卑弥呼の腕が轟音を伴って打ち出されたのを、辛うじて横跳びに避けた。

「あっぶねぇな!!」

 一刀が地面で回転しから起き上がり様にそう叫ぶと、卑弥呼は表情を変えずに鼻を鳴らす。

「ふん、避けられたではないか。ワシは手加減はしておらなんだぞ。並みの人間ならば、気付く間もなく首だけが吹き飛んでいた所よ!」

 

「……そう言えば!」

 仮面越しにも感じる程の衝撃波(ソニックブーム)を伴った一撃だった。

 あんなものを極至近距離から打たれて、ただの人間が反応できるとはとても思えない。

「だが、挙動が大き過ぎる。もっとコンパクトに、常に次を考えて行動せい」

 

「そんな戦車の主砲みたいなもん不意打ちでブッ放されて、コンパクトになんか動けるか!(かす)っても死ぬわ!」

「敵にも同じ事を言う心算か?—――まぁ、良い。今日は基礎を一通りの予定だからな……むん!」

 一刀の非難など馬耳東風と、卑弥呼は再びこぶしを握り込む。すると、卑弥呼の手の中に、神刃の時と同様に一本の槍が現れた。

 

「さぁ、“これ”を相手にどう戦う、ご主人様?」

 卑弥呼はそう言うと、小枝の様に槍をくるくると回転させてから、腰だめに構えて腰を落とす。

「それなら―――!!」

 それを見た一刀は、神刃を左手に持ち変えると、右手に氣を送り込んだ。

 

 

「輝光拳!!」

 手から散弾を撃ち出す心算で、渾身の力を込めて前に突き出す。

 刹那、凄まじい爆音を伴った闘気の衝撃波が、不可視の奔流となって卑弥呼に襲い掛かった。

「ぬぅぅぅん!!」

 

 卑弥呼は10m近く後退させられながらも、両腕を十字に組んで顔を覆い、腰を落として両足で石床を穿って踏み留まる。

「ふん、まだまだ錬氣が足りておらぬ!それでは蚊も落とせぬぞ!」

「この!—――!?」

 

 卑弥呼に向かって踏み込もうとしていた一刀は、輝光拳を放った右腕がまるで内側からうねる様な違和感を覚えて動きを止め、まじまじと自分の右腕を凝視した。

「何を呆けておる―――!」

「待て、卑弥呼」

 

 一刀の様子を見て反撃に転じようとした卑弥呼を、姬大人が静かな、しかし良く通る声で押し留めた。

「どうした、一刀」

「師匠—―なんか今、腕が内側から……上手く言えないけど、血管が暴れてるみたいな感じで……」

「ふむ……、まだ上手く均衡を維持できぬのかも知れんな」

 

「均衡?」

「左様。四神は、遥か古より黄龍の住まう龍穴の四方を守護せし凄まじき神獣たちじゃ。皇龍王の鎧は、身に宿した強大な四神の力を“相克”、即ち、互いに打ち消し合わせる事によって制御し、特定の指向性を持たせて部分的に引き出す事で、武装に転用しておる。じゃが、今の其方では、力を使う際に力の源となる四神に感情を引っ張られ、その均衡を崩しかけてしまうのであろう」

 

「それって、やっぱりマズいですよね?」

「そうさな。完全に均衡が崩れれば、獣の意志に支配される事も在り得るからの」

「じゃあ、あんまり使わない方が良いんでしょうか?」

「いや、いざ本格的に罵苦どもと戦うとなれば、そうはいくまい。なに、こちらでも其方の成長具合を見ながら、より高い次元で力を安定させられるよう対策を練っておく。今は、戦闘の中で激情に流されず、平常心を保てるように心身を鍛え、慣れさせる事じゃな」

 

 

 

 

「はい!」

 一刀が姬大人の言葉に返事をすると、卑弥呼がガイゼル髭を(しご)きながら唸る。

「とは言え、今日はまだ初日。鎧の力を使うのは程々にして、神刃での戦闘に慣れるのが良いであろう」

「そうだな。えぇと、じゃあ、姿を変えてみるか―――で、どうしたら良いんだ?」

 

「言ったであろう、ご主人様。神珍鐵の特性は、“特定の出入力を行わずとも使用者の意志に応える事”だと。念じよ。今、自分の手に握るに最も相応しいと思う武器をな」

「今、自分が最も欲しい武器……か」

 一刀は、卑弥呼の手にある槍を見詰めて、頭の中でイメージを形作っていく。

 

 すると、手に持っていた神刃が(にわ)かに輝きを放つ。

「うぉ!?—――これは……」

 次の瞬間には、一刀の手には2m程にもなる、純白の柄と十文字の穂先を持つ槍が握られていた。

「ふむ。これはまた、玄人好みの武器を選んだものだ」

 

 卑弥呼は、困っているのか楽しんでいるのか掴み切れない声でそう言うと、自分の槍を再度扱いて、悠然と構え直した。

「では、仕切り直しぞ。参るがよい!」

「応、いざ!」

 

 姬大人は、目に見えぬ程の速さで打ち合う二人の姿を眺めながら、「此処も、随分と賑やかになったものよ」と、嬉しそうに呟くのだった。

 

 




 今回のお話は如何でしたでしょうか?
 以前に書いた時には、早く恋姫を出したいと言う思いもあって、ギャクテイストのノリで一気に書き切ってしまったのですが、今、改めてその後の展開などを考えて見ると、この回は正史世界から外史へと舞台を移す上で、作中のリアリティラインを引き直す回でもあったなぁと思い至り、少しシリアス寄りに方向修正をして、一刀のスペック説明なども丁寧に書き直しました。

 今回のサブタイ元ネタは、

 It’s my life/BON JYOVI

 でした。
 90年代から普通にファンだったのですが、最近では、なかやまきんに君のおかげですっかりトレーニング用の歌のイメージと言う事でのチョイス。
 古参ファンとしては、アルバム曲とかにも名曲が沢山あるので、若者たちには、そっちももっと聴いて欲しいと思ったりもします。

 そろそろ一刀も本格的に戦い出すので、作中での長い説明を省く為にも、次回はTINAMIさんに載せている設定資料を加筆修正して投稿しようかなと考え中です。
 では、また次回お会いしましょう!


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第参・伍話 Ride on Time & 設定資料集

 どうも、YTAです。
 利用規約をよく読み返していたら、ハーメルンさんでは設定資料集を単独で投稿するのはダメと言う事でしたので、前回ラストに持ってこようか、次回の冒頭にしようかと悩んでいた部分を3.5話として構成し直し、そのオマケとして設定資料を付属する事にしました。
 設定資料に関しては、物語の展開に合わせて随時、更新予定です。
 最新話の投稿と合わせて更新情報をお届けします。



 あの日から、どれだけの時間が過ぎ去ったのだろう?

 訓練の日々が始まって早々に、『精神衛生の観点から良くない』と悟った北郷一刀は、日数なるものを数えるのを止めてしまったので、全く分からない。

 そもそも、この時間の流れない場所で時間を計るなど、ナンセンス以外の何物でもない。

 始まりの日に師である姬大人が口にした様に、この外史の狭間では、一日も百年も変わらないのだ。

 

 あれから、何度か貂蝉が帰って来た程度で、一刀は姬大人と卑弥呼以外の存在の顔など見た事も無かったが、少なくとも二人が何も言わないという事は、焦らなければならない事態が発生していないと言う事だと思い直し、与えられた目標を淡々と(こな)す事に従事して来た。

 幸か不幸か、そんな或る意味の不気味さを伴った平穏な日々は、姬大人から座学を受けていた所に卑弥呼が足早に割って入った事で、唐突に終わりを告げたのだが。

 

「大人さま、揺らぎが大きくなっております。最早、今までの場所に錨を下ろしておく事もままなりませぬ」

「ふむ、いよいよ動くか。今少し時を掛けて鍛えたくはあったが……」

「戦と言うのは、思った通りには始まらぬものですからな」

「まったくじゃ。ま、是非もあるまい……一刀よ」

 

「はい、師匠」

「最早、時は無い。旅立ちの――いや、帰還の時じゃ」

 一刀は、唐突に告げられたその言葉に、一瞬、思考が停止し、そして直ぐに、体中の血が沸騰する様な興奮を覚えた。

 

「帰れる?皆の所へ――帰れるんですか!!?」

「声がデカいわい……」

「す、すみません……でも、あの」

「うむ。本来であれば、もう少し“石”の扱いと巫術を教えてやりたかったが、卑弥呼の方は粗方は済んだようじゃし、聞いておった通り時も無いようじゃ。致し方なし」

 

「じゃあ、えぇと――どうすれば?」

「年甲斐も無く狼狽えるでないわ、ご主人様。ワシと貂蝉が用意しておいた装備がある故、それに着替えよ。さ、こちらだ」

「おう!――って、ひのきのぼうと100Gとかだったりしないだろうな?」

 

「流石にそんな鬼畜な所業はせぬ。ほれ、早く来ぬか」

 姬大人は、卑弥呼に連れられた一刀が部屋を出て行くと、静かに溜め息を吐いた。

「ふむ。儂の時よりは準備をさせてやれたとは思うが、それでも……」

 栓無き事か、と呟いて、姬大人は二人を追うように部屋を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

「ふむ、寸法(サイズ)は合っておったか。何よりだ」

 卑弥呼がそう言いって、着替えを済ませて自室を出て来た一刀に微笑みを向けた。

「合い過ぎてて気持ち悪い位だけどな……」

 一刀は照れ臭そうにそう言って、卑弥呼と貂蝉が来るべき日に備えて用意していたと言う衣装を見下ろした。

 

「厄災を払う神虫の殻を魔法銀(ミスリル)の鎖で補強した胸当て、最高級の水牛(バッファロー)革を(なめ)して作った特製剣帯、そして5.12タクティカル社製ハイエンドモデルのタクティカルブーツ!どうだ、ご主人様、完璧なこーでぃねいとであろう!」

 

「百歩譲って剣帯までは兎も角、何でブーツだけやたらと最新技術詰め込みました感が出てるんだよ……」

「うむ。色々と吟味した結果、靴と言うのはご主人様の時代の物が一番だと言う結果になってな。丈夫で軽く、しかも通気性も良い。ご主人様とて、欲しいと言っておったではないか?」

「いやまぁ、確かに履き心地は抜群だし、俺も欲しいって言った記憶があるけどさ、なんか釈然としないなぁ」

 

「水虫覚悟で古式ゆかしい本革の半長靴が良いと言うなら、直ぐに用意してやろうか?」

「いや、これが良いですマジですみません文句とかじゃないですから」

「棒読みなのは気になるが、まぁ良かろう」

「しかし、この剣帯もすげぇな」

 

 一刀はそう言って、自分の腰に巻いた剣帯を弄った。

 今は左の腰に神刃が、右のホルスターにワルサーP99がそれぞれに収まっているが、左右にもう一ヵ所づつ剣を納められる様になっているだけでなく、腰の裏には予備の弾倉(マガジン)を最大で3本も差し込めるようになっており、ポシェットも左右に二ヵ所も付いていて、最早、剣帯というよりユーティリティベルトと言った方がしっくりくる程だ。

 

「うむ。ワシも状況が落ち着けば一度そちらに赴いてご主人様の支援体制を整える心算(つもり)だが、何分、暫くは動けぬ。そうなると、単独で後方支援も無く動かねばならぬ事も増えようからな。出来るだけ武器弾薬を携帯できる様に作ってみた。そら、これも差すが良い」

 卑弥呼はそう言うと、姬大人が何時も寛いでいるテーブルの上に置いてあった大小二振りの刀剣を手にして、一刀に差し出した。

 

「短刀の方は、ご主人様が持って来た井上真改を直しに出したものだ。折れた残りはな、ワシに少し考えがあるのでもらい受けるぞ」

「そりゃ構わないさ。俺が持ってても仕方ないし――おぉ、本当に真改だ。ありがたいよ。何せ、先祖代々の持ち物だからさ。戦で折れた訳だし怒られやしないだろうけど、心残りだったからなぁ」

 

 最早、『直しに出した』などとシレっと言われても、一々反応したりはしない。

 卑弥呼がふらりと居なくなって帰って来ると、何処からか姬大人と一刀の煙草やら、時たま射撃訓練をして目減りしていた筈の銃弾や食料やらが補充されているのにも、すっかり慣れ切ってしまっているからだ。

「それなら何よりだ。そら、こちらの打刀も見てみるがいい。神刃に人の血を吸わせるのは気が引けると言っておった故、手頃な物を見繕っておいたのだ」

 一刀は言われるまま、真改と揃いの肥後拵(ひごごしらえ)が詫びた風情の打刀の鯉口を切り、ゆっくりと抜刀した。

「――おいおい、相伝備前の三作帽子とか……つーか沸も冴え過ぎだろこれ……一財産とかの話じゃなくねぇか?」

 

「なに、本人は習作だと言って手頃な値で譲ってくれたぞ?」

「は?本人?」

「うむ。長船兼光だ」

「おぉ、もう……」

 

 慣れているなどと思った自分が馬鹿だった、と一刀は心底思った。

 言われてみれば確かに、肯定者としての力を使って“長船兼光の存在する外史”に飛べば、本人から直接、打刀の一振りも買う事など造作もない事なのだろうが。

「まさか、兼光なんか腰に差す日か来るとは……」

 

 如何な名工とて生活がある以上、今に伝わって居ない様な剣を鍛えて売っても居たろうが、それでも。

「まぁ、無銘であるし、流石に折り紙付き程ではあるまいが、実戦で振るうならば惜しくもない分、手頃ではあろう」

 そう宣う卑弥呼に、一刀はソウデスネと相打ちを打つくらいしか出来なかった。

 世の刀剣の関わる人間が聞いたら戦争ものの発言である。

 

「ほっほっ、似合っておるではないか、一刀」

 手に何やら白い布地らしきものを持った姬大人が、一刀の後ろから声を掛けた。

「あれ、師匠どちらに?」

「ん?いや儂もな、其方が此処を出ていく時には餞別(せんべつ)くらいはやろうと思って、昔の品を直しに出しておいたでな。それを持って来たのよ」

 

姬大人はそう言って、手に持っていた布地を一刀に渡す。

 一刀が実際に受け取って広げてみると、それは白い革の外套(ロングコート)で、襟には金の生地で縁取られ、下衿と袖口は青に染められていて、両の腰から背中に掛けられているベルトも同じ色だ。

 背中部分の中央には、丸に十文字をあしらった黄金のメダリオンが縫い込まれていた。

 

「これって、聖フラの制服っぽいような……」

 そう。それは、一刀にとって思い出深い聖フランチェスカ学園の制服を、そのまま外套にした様な意匠だった。

「うむ。あちらでは、天の御遣いの服と言えばこの意匠だと卑弥呼が言うておったでな。白龍の脱皮した皮で作った陣羽織が仕舞ってあったのを思い出したんで、仕立て直したのじゃ。いやぁ、流石に派手過ぎて数回しか着ておらなんだが、貴重な品ゆえ捨てるのも忍びのうてな。いい引き取り先が見つかって良かった良かった。ほっほっほ」

 

「ひぃみぃこぉ……!」

「♪~」

「ったく、わざとらしい……」

 一刀は、そう言いながらも、素直に外套に袖を通した。

 

 実際の所、あの制服は確かに天の御遣いのシンボル的な位置づけではあり、同じ意匠の変えを幾つも作られて(もっぱ)らそれを着せられていた事を思えば、他の色の服など着て帰っても、当時の服を引っ張り出されて着ろと言われかねない。

 

 当時は楽で良いなどと思って気楽に構えていたが、三十路も半ばに差し掛かって高校時代の制服で日常を過ごせなどと言われては、堪ったものではない。

 同じ派手な装束なら、学生服より外套の方が万倍マシと言うものである。

「うむ、少し大きいかと思ったが、丁度じゃのぅ」

 

「はい、胸当ての厚みもありますし。ありがとうございます、師匠」

「うむ。見た目に違わず、質も良いぞ。そこいらの金物(かなもの)程度では傷も付かぬし、風通しも中々悪くない。役に立とうて」

「さて、ご主人様よ」

 

 卑弥呼は表情を引き締め、改めて一刀を見る。

「其方には、巴郡に向かって貰いたい」

「巴郡……都じゃなくて?」

 一刀は、以外そうな顔で卑弥呼に尋ねる。

 

 巴郡は蜀の領土で、厳顔こと桔梗が治めている領地であり、山岳地帯の多い蜀にとっては貴重な穀倉地帯でもある。

「そうだ。(かね)てよりの調査で、巴郡に僅かな時空の歪みが発見されていてな。我らが関知しておらぬ以上は罵苦のものと考えて注視していたのだが、先刻、その歪みが強くなったのと同時に、我らが外史の時間の流れに対して干渉出来なくなったのだ」

 

 

「つまり、俺たちの外史には、もう好きな時間に戻ったり出来ないって事か?」

「左様」

 姬大人が言葉を継ぐ。

「儂らが外史の時間の流れに干渉出来るかどうかの可否を決めるのは唯一つ、その外史を“観測者”が観測していない事じゃ」

 

「シュレティンガーの猫ですか」

「左様。“観測者が観測していない、事象が重なり合った状態の箱の中”にのみ、儂らは自由に干渉出来るのよ」

「成程。実験前提としての時間経過を観測する観測者すら居ないなら、箱の中の時間が経ってるかどうかすら観測は出来ないもんな」

 

「うむ。即ち、ご主人様たちの外史を例にするなら、“ご主人が世界に存在しない状態”であれば、原則的に儂らは自由に外史に干渉出来る訳だな。だが、罵苦どもが入り込んだせいで、そうもいかなくなった。何故なら、“奴らは外史の外から外史を観測している”からだ」

「俺の代わりにって事か?」

 

 一刀が、卑弥呼の言葉に不安げな問いを返すと、姬大人が緩々と首を振った。

「そこまでの力は、今はないな。今までもそうだったからこそ、儂らはある程度、外史とこの狭間との時間の流れを調整できていたのじゃ。下級種が多少の数入り込んだ程度では、“物語”の行く末を決定する様な事は出来ぬし、相手が罵苦である事を鑑み、卑弥呼や貂蝉が赴いて密かに討伐した事もあるしの」

 

「大人さまがご存命で在れせられた事も大きいでしょうな。大人さまと蚩尤は、ある意味で対として語られる存在でございますれば、蚩尤の方でも、大人さまの存在を察知し、警戒もしておりましたでしょうから」

「さて、どうかのぉ。いずれにしても、儂らは奴らが“物語の行く末を決定付けかねぬ様な行動を起こしておらぬ事”を理由付けとして、謂わば外史の時間の流れに錨を打ち込んでおったのだが、それが外れたと言う事じゃな。故に、今この瞬間にも、外史の扉が開かれたのと同様の状態、つまり――」

「罵苦たちが、物語の行く末を決めかねない行動を越そうとしている――だから、時間が無いって事ですか……」

 

 一刀が、(おとがい)に握った手を当てて考えながらそう言うと、卑弥呼が大きく頷いた。

「うむ。重々に気を付けよ。時と場合によっては、四凶が出張って来るやも知れぬ」

「脅かすなって。でも、それなら早いに越した事はないな」

「頼んだぞ、一刀」

 

 姬大人が一刀の二の腕辺りを掴んでそう言うと、一刀はその手を自分の手で包み込んだ。

「はい、師匠。師匠の名に恥じぬよう努めます」

「うむ。よう言うた」

「ご主人様。この袋に、当座の生活用品と路銀、それからご主人様が正史から持って来た物を全部積み込んである」

 

 卑弥はそう言って、帆布の大きなリミタリーバッグを一刀の前にどかっと置く。

「一応、出城か街の近くまで転送できる様に努力はするが、ここまで不安定な外史に、自分ではなく他人を送り込むのはワシも初めての事。座標はズレるものと思って貰いたい」

「分かった。多分、成都や都に援軍を頼みに行く時間もないんだろ?」

 

「十中八九、な。ご主人様ならば鎧装して走り抜ければ時も掛かるまいが、向こうの軍勢がそうは行くまい。ただ、巴郡に於ける下級種の動きは多少、活発であったろうから、運が良ければ、成都から纏まった戦力が駐屯しているかも知れん。それを期待するしかないな」

「まぁ、何と言っても伏龍鳳雛がいるからな。期待はしても良いと思うけどさ」

 

「うむ。何かあれば、これでワシらと連絡が取れるからな」

 卑弥呼はそう言って、子供用のトランシーバーの様な物を一刀に差し出した。

「また、古いもんを持って来おって……今日日(きょうび)、もちっと便利なのがあるじゃろ……」

「いっ、いや!これもまだ十分現役ですぞ、大人!」

 

「あはは……いや、ま、無いよりはマシだからさ、うん」

 一刀は、通信機を受け取るとミリタリーバッグを持ち上げ、勢いを付けて肩に担いだ。

「うへぇ。結構、重いなぁ」

「ワシの愛が詰まっておるからな!」

 

「置いて行っていいですか?」

「なんだと、泣くぞ!!」

「ほっほっ、最後まで騒がしい事じゃ。ほれ、見送ってやる故、さっさと行くぞい」

 姬大人はそう言って、やいのやいのと言い合っている二人を置いて、さっさと階段に向かって歩き出す。

 

一刀と卑弥呼は、姬大人の背中を眺めてから顔を見合わせると、互いに気まずそうな顔をして、その後を追うのだった。

 

 

 

 

 

 

「では、気を付けてな」

「はい。師匠もお元気で――じゃあ、卑弥呼。頼む」

「うむ。ご主人様であれば心配いらぬとは思うが、くれぐれも用心を怠るなよ」

「あぁ――二人とも、お世話になりました!」

 

 漆黒の闇に浮かぶ橋の一端に立った一刀は、そう言って頭を下げ、もう一度、上げる――と、微笑みを浮かべていた姬大人と印を結んで目を閉じている卑弥呼の顔が、光に包まれる。

 次の瞬間、冷たく頬を裂く風を感じて目を開けた一刀の目に涙が一粒伝い、それは直ぐに風に運ばれて何処かへと消えた。

 

 眼下には、遥かに果ての見えぬ雄大なる大地と切り立った山々と、翡翠の色を湛えた川が返す水面の煌めき。

 北郷一刀は、愛しい人々の住む悠久の大地の空を、風を受けて飛んでいた。

 

 

 

 

 

                 設定資料集

 

                  注意

 

 これからのページにはネタバレを含む恐れがあります。

 それでも構わないと言う方か、最新話まで読み進んで下さった方のみ、スクロールして下さい。

 

 また、本項は設定厨の特ヲタが考えた中二設定で溢れています。

 そう言ったものがお口に合わないと思われる方の閲覧はおすすめ致しません。

 尚。張り付けてあるURLはTINAMIさんで過去ニ絵師さんに描いて頂いたキャラクターイラストになります。

 興味を持って頂けた方は、是非ご覧ください。

 

 

                 主人公設定

 

〇北郷一刀

 

http://www.tinami.com/view/593478

http://www.tinami.com/view/669208

 

 恋姫†無双シリーズの主人公。

 この外史では、黄龍の器と呼ばれる者として皇龍王となり、幻想を食らう古の怪物、罵苦(ばく)と呼と戦う事になる。

 太古の昔に封印された筈の罵苦が復活し、一刀達の外史を侵そうとしている事を察知した姬大人(きたいじん)、卑弥呼、貂蝉ら外史の守護者からの要請により、“乱世を治める天の遣い”から、“怪物の侵略から世界を救う天の遣い”として再臨する為に正史の世界に戻され、そこで“捨てた筈の世界で、もう一度全てを捨てる事を覚悟しながら己を鍛える”と言う過酷な試練を課せられて十五年の時を過ごした。

 

 その間、防衛大学校を卒業し、同期生の伝手を頼って渡米。

 L.A.にて、アメリカ海軍特殊部隊Navy SEALsの元指揮官だったレイモンド・P・ミッチャムと元部下のジェイコブ・ベイカーが共同経営する私立探偵事務所『M&B探偵社』に、調査員として勤務。

 勤めていた三年間の間に二人から徹底的に戦闘技術を叩き込まれた他、ハリウッドのスタントスクール等に通い、多種多様な技能を身に着けた。

 

 帰国後、改めて鹿児島の祖父・北郷達人(たつひと)に師事した示現流、及び祖父の剣友である中村光雄氏に師事した小野派一刀流は、共に皆伝相当の腕前である。

 東京に戻ってからは、個人で私立探偵事務所を経営。

 交友を再開した高校時代の同級生である及川祐を半ば助手として、ペット捜索から浮気調査まで手広く仕事を請け負っていた。

 

 新宿中央公園を中心として起こったホームレス連続失踪事件を追う内、外史から一刀抹殺の命を帯びて正史に潜入していた中級罵苦・黒網蟲と交戦。

 戦いの中で、己の力を外史に示し、再び開かれた外史の扉から飛来した黄金の龍と一体となる事で皇龍王へと変身を遂げる。

 黒網蟲を撃破した後は、及川に後事を託して外史へと帰還した。

 

〇皇龍王

 

http://www.tinami.com/view/600338

 

 北郷一刀が自身の腹部に埋め込まれた“賢者之石”の力を開放し、賢者之石が生成した超金属・日緋色金(ヒヒイロカネ)の粒子と己の氣によって錬成した白黄金(ゴールドプラチナ)色の鎧を身に纏った姿。

 

 

・身体能力

 

 身長:約190cm

 体重:約120kg

 最大腕力:70t

 最大脚力:110t

 跳躍力:垂直跳びで60m

 走力(100m):5.3秒

 

・起龍体

 

 北郷一刀が“賢者之石”の力を活性化させ、本来持っていた黄龍の器の力を引き出した状態。

 一刀が皇龍王になる為の過渡期としての性質も持ち、正史の人間である一刀の肉体が、外史由来の幻想の力を受け入れられる状態にする為の役割も持っている。

 この状態になる時、賢者之石から現れる“救世の英雄の幻想”の化身である黄金の龍が一刀の身体に巻き付き、身体に満たされる膨大な量の氣の制御を補助する役割を担う。

 その様子は、一見すると黄金に発光する刺青に似ている。

 

 正史の基準で言えば超人と定義できる程の身体能力を有し、肉体の治癒能力を促進させる他、幻想の力を使う事が可能。

 その為、軽功、硬氣功、内氣功などの氣功術を始めとして、卑弥呼から教えを受けた陰陽道の源流とも言われる鬼道や、姬大人から教えを受けた道教の巫術なども扱う事が出来る。

 

皇龍具足(こうりゅうぐそく)

 

 皇龍王となった一刀が纏う白黄金(ゴールドプラチナ)色の鎧兜の総称。

 『鎧装(がいそう)』の言霊によって、賢者之石内部で生成された日緋色金の粒子と一刀の膨大な氣を超高密度に錬成する事で完成する。

 現代に至るまでに人類が生み出した白兵戦用兵器では傷を付ける事も叶わぬ程の硬度を誇るが、鎧の錬成に使用しているのと同等、もしくは以上の超々高密度の氣による攻撃を受けると結合を絶たれて破損の危険がある他、鎧を貫通して一刀の身体にダイレクトにダメージを与える衝撃などは無効化できない。

 

 皇龍皇の姿になると、各部関節の保護の目的で体内に日緋色金が注入され、補助関節を生成する為、一時的に身長が高くなる。

 また、鎧の色が黄金ではなく白黄金なのは、日緋色金の本来の色が白金に近い為である。

 

黄龍兜(こうりゅうとう)

 

 一刀の頭部を覆う、黄龍を模した兜。

 視覚・聴覚・嗅覚の強化を一手に担う他、あらゆる状況下での酸素の供給までをも管理する為、賢者之石そのものに次いで重要な武装であると言っても過言ではない。

 

・金剛角

 兜の側頭部より生える、一対の枝角。

 神聖の象徴であると共に、(わざ)の使用と共に皇龍王の体内に蓄積されていく余剰神氣の体外への放出を担う箇所である。

 神氣の放出機能が最大限にまで高まると白く発光し、並みの魔性であれば、その光を浴びるだけで存在を維持で出来なくなる程。

 

黄龍瞳(こうりゅうどう)

 

 バイザー部分である龍王千里鏡の奥にあるデュアルカメラ・アイ。

“相手を視る事で発動する原始呪術(魔眼、邪眼、憧術等)であれば、その全てを相殺できる”という凄まじい能力を持つ、言わば魔眼殺しの魔眼である。

 その対象は、神性を帯びる程の妖精や魔獣などの保有するものも例外ではなく、また、“魔眼に捉えられた”と言う事実を遡って術式が起動する為、皇龍王が直接、相手を視る必要すらない。

 

 しかし、その絶大な能力に構成術式のほぼ全てをつぎ込んでしまっている為に、視覚情報の強化に於いては広視界化と画像の鮮明度の強化の二つに留まっており、その他は龍王千里鏡に依存する形になっている。

 能力使用時や、エネルギーが全身に行き渡っている時には、龍王千里鏡を通して発光する。

 

黄龍千里鏡(こうりゅうせんりがん)

 

 黄龍瞳を保護する緑色のバイザー。

現実拡張(AR)機能を内蔵し、望遠、敵性対象のマルチロック及び特性と惰弱性の検知、暗視、赤外線解析(サーモグラフィ)などの他にも、魔術的痕跡の検知及び情報分析、戦闘の状況に応じた武装選択補助システムなどを有する、多目的型視覚情報管理デバイス。

 スタンドアローンでの戦闘の機会が多い皇龍王にとっては、ある意味で最大の武器ともいえる部位である。

 

黄龍耳(こうりゅうじ)

 最大で(およそ)八里四方(一里500m換算)の音を聞き取る事が出来る聴覚強化装置。

 

黄龍顎(こうりゅうがく)

 

 皇龍王の顔面下部を保護する装甲。

 あらゆる環境下に於いて、一刀に適切な濃度の酸素をもたらすことが出来る。

 水の中から酸素を取り出す事も可能で、その際の活動限界時間は凡そ20分。

 

黄龍鎧(こうりゅうがい)

 皇龍王の胴を護る鎧。

 黄龍鎧と一刀の身体の間には、常に内氣功が満たされており、戦闘で受けた傷を癒し続けている。

 しかし、体力そのものを回復する事は出来ず、許容範囲を超えるような大怪我も瞬時には治療出来ない。

 また、四肢に宿った四神の力を循環させて相克し、均衡を保つ役割を担う。

 

・皇龍魂生甲

 一刀が皇龍王になった際には、下腹部に埋め込まれた賢者之石』が露出する。

それを護り、全身への氣の循環を補助するのが魂生甲の役割である。

 また、その性質上、皇龍具足の全ての部位の中で最も硬度が高い。

 

・雀王翼

 

 皇龍王の背部、肩甲骨の周辺を覆う装甲に隠された二基のバーニアスラスター。

 朱雀の力を宿し、一刀の『飛雲雀』の言霊を受けて装甲が開放され、瞬時に噴射口を展開する。

 名称に翼と付いてはいるものの、高圧縮した氣を動力源とする推進装置である為に単独での飛行までは出来ない。

 しかし、皇龍王の跳躍力を飛躍的に向上させる他、空中での姿勢制御や陸戦に於ける瞬発力の強化、水中での推進力の確保など、非常に汎用性の高い性能を持つ。

 発動の際は、白金色のフレアを放射する。

 

〇虎王甲

 

 皇龍王の右腕部を保護する手甲で、白虎の力を宿している。

 内蔵兵装として輝光拳、及び天縛鎖の射出機構を持つ。

 

天縛鎖(てんばくさ)

 

 一刀の言霊によって、掌の下にある射出口から射出される日緋色金製の鎖。

 直径こそ1.5cmほどだが、材質が材質であるだけに極めて強靭で、単純な剛性だけなら400t以上の超重量にすら耐え得る。

 素材となる日緋色金は賢者之石で生成された物を使用している為、一刀が賢者之石を起動状態に保っている限りは無限に錬成が可能。

 

 中距離戦闘に於ける敵性体への牽制や行動の抑制に使われるのは勿論、日緋色金が持つ氣に対する高い伝導性を利用して氣を注入し、軟鞭としても使用する。

 また、射出口から発射される際の最大初速は5.56x45mmNATO弾に匹敵する920m/秒にも達する為、発射シーケンスそのものを武器とする事も可能である。

 

 皇龍王の身体から切り離しても実体を維持できるが、その際は1時間ほどで日緋色金の結合が解けて消滅してしまう。

 

・輝光拳

 

 一刀の言霊と同時に起動する虎王甲の内蔵兵装。

 虎王甲の表面に神氣を集中させて力場を形成し、超振動を発生させる光の拳。

 打撃と共に敵に対して一気に神氣を叩き込む打の型、超振動によって敵を切り裂く斬の型、神氣を振動波と共に広範囲に放出する破の型の三つの用途が存在する。

 

 打の型は最大衝撃力が50tにもなり、斬の型は厚さ10cmの鋼鉄すら両断し、破の型の衝撃波は最大射程が30mにも及ぶ。

 

武王籠手(ぶおうのこて)

 

 皇龍王の左腕部を保護する手甲で、玄武の力が宿る。

 皇龍王の『武王甲』の言霊で術式が起動し、皇龍王を中心として薄墨掛かったドーム状の防御障壁を展開する。

 その防御力は絶大で、光学から物理(実弾・質量)に至るまで、あらゆる攻撃を防ぐ事ができ、極限まで硬度を高めれば、10TNTトンの爆発の直撃にすら耐え切れる。

 

 ただし、発動には皇龍王の言霊を必要とする関係上、皇龍王が感知し得ない攻撃方法には対応できない。

 また、展開している間は常に大出量の神氣を必要とされる為、お世辞にも燃費が良いとは言えず、長時間の展開は不可能である。

 最大で5m程にまで拡大する事が出来る。

 

青龍脛当(せいりゅうのすねあて)

 

 皇龍王の両脚を保護する装甲で、青龍の力が宿る。

 右足が龍の頭を、左足が龍の尾を現した意匠になっている。

 脛部分には龍の背鰭(せびれ)を模した刃があり、クロスレンジでの戦闘に於いては攻防に使用される。

 『青龍脚』の言霊で力を開放した際には、右脚が淡い緑の神氣に包まれ、そこから放たれる蹴りの衝撃力は110tにも到達する。

 これは徒手空拳に於ける皇龍王の武装の中では最大の物理破壊力を誇っており、四神の中で最も高位とされる青龍の名を冠するに相応しい威力と言えるだろう。

 

 

 

 

                    アイテム

 

賢者之石(けんじゃのいし)

 

 地・水・火・風の四大元素を全て内包する第五の元素であり、中世の錬金術師達がその製造を悲願とした、数々の神秘を内包する奇跡の石。

 一説には、錬金術の名の由来である卑金属を黄金に変えると言う秘儀は、この石を製造する為の研究の副産物であり、同時に、賢者の石の精製に至る為の研究資金を捻出する為のものであると言う。

 

 また、万能の霊薬として知られるエリクサー』は賢者の石を液体化した物であるとされ、ルネサンス時代の錬金術師の中には、これを用いて医療行為を行った者も実在する。

 姬大人は、この石の持つ“多くの神秘を内包する”と言う特性に着目し、一刀に罵苦と戦う力を与える為の依り代とした。

 

 その為、本来の不老不死と富を(もたら)すと言う存在からは在り様が変質している。

 以下が主に変質した内容である。

 

・黄金を無限に生み出せる→日緋色金の無限生成

 

・不老不死→驚異的な自己回復力・あらゆる毒物への耐性・死病の克服

 

・究極の知識の獲得→人間の脳が耐えられる内容量では無かった為、不必要なものをオミットした上で皇龍王の武装を成立させる幻想術式の構成に割り当て

 

・姿を消せる → 消失

 

・空を飛べる → 消失

 

 また、“完全な賢者の石の色は紅い”とされており、一刀の持つ賢者之石が紅なのも、“幻想の力”によって生み出された完全な賢者之石だからである。

 

日緋色金(ヒヒイロカネ)

 

 古代の日本に存在したとされる神秘の超金属。

“金より軽く金剛石(ダイアモンド)より硬く、永久不変の輝きを保つ”とされ、一説には日本皇室に伝わる王権の象徴“三種の神器”も、この日緋色で作られているという。

古代ギリシアのアトランティス大陸に存在したとされる神の金属オリハルコンと同一の物であるされる事もある。

また、命ある金属とも呼ばれ、日緋色金そのものがオーラ(生命エネルギー=氣)を放っているとも。

 

宝貝(ぱおぺえ) 神刃(しんば)

 

 宝貝とは、中国の仙人達が使うマジックアイテムで、人間が使用する白兵戦用兵器に超常的な力(自動追尾等)を付け足した物から精神に働きかける物、天変地異を操る物など、その性能は多岐に渡る。

 神刃は、卑弥呼が宝貝作りの得意な旧知の仙人に依頼し、神珍鐵(しんちんてつ)と賢者の石から精製された日緋色金を材料として作られた、一刀専用の宝貝である。 

 

 神刃には攻撃対象や森羅万象に働きかける力は無く、言わば“切れ味が良くて高硬度なだけの刀”であるが、材料とされた日緋色金と神珍鉄の特性を生かし、“人間の生み出した白兵戦用兵器”と言う条件であれば、殆どの物に形を変える事が出来る。

 これだけ聞くとあらゆる戦況に対応できる夢の万能兵器の様に思えるが、使用者である一刀がその存在を知らない(夢想できない)兵器にはなれず、また当然ながら、神刃が姿を変えた兵器の扱いに熟達していなければ、そもそも姿を変えられる意味がない。

 

 その為、必然的に使用者である一刀には、それだけ多くの兵器に対する知識と戦闘技能が要求さられる。

 また卑弥呼いわく、神刃を託された時点の一刀では、内部機構が複雑な近代兵器には姿を変える事は不可能であり、それが叶うとすれば、賢者之石の力を完全に引き出せる様になってからだろうと忠告されている。

 

 卑弥呼は、使用する際には生命力を消費する宝貝の特性を相殺する為、“一刀以外には重くて扱えないが、一刀が手に持つと羽の様に軽くなる”という、仙人の武器としての汎用性を完全に潰す呪法を施す事で宝貝が持つ神性を意図的に格落ちさせて(それでも、使うと腹が減る程度には体力を消費するらしい)その問題を解決したが、結果としては安全対策と軽量化を両立した強化に等しい結果となった。

 

打刀(うちがたな)

 

 一刀が普段から携帯している状態。

 全長は全長は2尺3寸(約73cm)で、一般的に言う所のオーソドックスな日本刀。

 柄頭(つかがしら)(ふち)、鍔は艶を抑えた金色(こんじき)で、柄巻は白の糸巻、刀身は美しい(のた)れの刃文と冴え渡った沸で彩られ、棒樋に沿うように龍の彫刻が施されており、鞘のは白石目で下緒は深紅。

 また、柄頭から刀身にかけて計五体の龍の装飾が組み込まれており、これは四神を全て龍の化身であるとする説(つまり所有者の一刀がその身に五体の龍を宿している事)と、最高位にして一刀の宿星の守護者である黄龍は、五指を持つとされる事の二つを象徴する意匠である。

 

千鳥十文字槍(ちどりじゅうもんじそう)

 

 千鳥が飛び立つ時の、翼を広げた姿に似ている事を名の由来とする、上向きの太く大きな湾曲した枝刃を持つ十文字槍。

 全長は6尺6寸(約2m)。

 

井上真改(いのうえしんかい)

 

 16世紀の刀匠、井上真改作の打刀で、当主から皆伝を受けた北郷家の嫡子に代々相続されて来た。

 真改は別称を真改国貞(しんかいくにさだ)とも言い、朝廷から許されて銘に十六葉菊花紋を刻む事が許された名工である。

 正宗の作風に挑み、その特徴的な湾れ刃文を得意とした事から、出身地に因んで“大阪正宗”とも称えられる。

 

 一刀の持つ刀は、最も秀作が多いとされる国貞から真改に改銘した時期の作で、最上作業物の折り紙が付いていた。

 黒網蟲率いる罵苦の軍勢との遭遇戦では、多くの下級種を切り捨てる活躍を見せるも、皇龍王が黒網蟲に放った光刃剣の威力には耐え切れず、自壊する形で二つに折れてしまう。

 

 

〇ワルサーP99

 

ドイツのワルサー社が開発した名銃P38の後継モデル。

38口径で装弾数は16発、9mmパラベラム弾を使用する。

 一刀が使用するトリガーバリエーションはQA(クイックアクション)モデルであり、この銃はグリップ後部のパーツが取り換え可能で、使用者の手の大きさに合う様に調節出来る為、総じてアメリカ人の手の大きさに合せて作られている他の銃より一刀の手に馴染んだ事から使用するようになった。

 

 一刀の持つP99は、アメリカ在住時代にジェイコブ・ベイカーに選んでもらったもの。

『ギャングじゃあるまいし』とのジェイコブの意向により彫刻(エングレーブ)などの装飾こそ施されいない普通の見た目をした拳銃だが、中身は彼の旧知の名銃工(ガンスミス)の手で一つ一つのパーツから選りすぐられ、更には一刀の射撃の癖までをも計算に入れてカスタムされた逸品である。

 

 尚、一刀は正式オプションのレーザーサイトと消音機(サプレッサー)も所有している。

 

 

 

 

                    キャラクター

 

・レイモンド・フィリップ・ミッチャム

 

 アメリカ合衆国 Navy SEALsチーム7に所属していた退役軍人で、最終階級は大尉。

 アイルランド系の白人男性で、年齢は45歳。

 現在は、元部下のジェイコブ・ベイカーと共にM&B探偵社を設立し、軽犯罪者の逮捕引き渡し(賞金稼ぎ)業務や身辺警護などを主な収入源としている。

 

 伝手を辿って連絡を取って来た一刀を受け入れ、SEALs仕込みの訓練を施した師でもある。

 実直で誠実な軍人然とした人物であり、ジャンルは問わず80年代の音楽を好む。 

 妻と娘が一人おり、家族仲は良好。

 

・ジェイコブ・ベイカー

 

 アメリカ合衆国 Navy SEALsチーム7に所属していた退役軍人で、最終階級は上等兵曹。

 アフリカ系アメリカ人の男性で、年齢は40歳。

 現役時代は百戦錬磨のスナイパーとして活躍していたが、チーム3への転属後、脚に大怪我を負い名誉除隊となる。

 

 その後、元上官だったレイモンドに誘われて共同経営者として独立。

 普段は主に経理と事務を担当しているが、時には現場に赴く事もある。

 レイモンドに代わって一刀の指導を行う機会も多く、現場一筋であった為、一刀の成長を認めてからは、より実践的な戦場での知識を教えていた。

 一刀に煙草の悪癖を教えた張本人でもある。

 

・及川祐

 

 一刀の高校時代の同級生で、同窓会の幹事を引き受けた際に、アメリカから帰国して鹿児島で修行中の一刀に連絡を取って以降、SNSなどを通じて旧交を温めていた。

 一刀が状況して探偵事務所を立ち上げた時に物件探しや広報活動への助言を行い助けた縁もあって、親しく付き合う様になる。

 

 勤めていた新聞社を退職してフリーのウェブライターに転職後は、一刀の半生を自身のルポルタージュ処女作にすると言う名目の元、取材も兼ねて調査の手伝いなども行っている為、殆ど住み込み助手の様な生活を送っており、一刀が外史に帰還する際には、家族への説明や事後処理などの後事を託された。

 

姬大人(きたいじん)

 

 大人とは目上の者や高貴な者に対する敬称で、本名は姬軒轅(きけんえん)

 その正体は、正史での時間の流れに沿うこと約4500年前、蚩尤と戦い打ち破った伝説上の大英雄・黄帝その人。

 熾烈な大戦争の末、多くの犠牲を払って蚩尤を含む罵苦の軍勢を次元の狭間に封印した後、帝として中華の始まりと称えられる程の功績を残し、人間としての生を全うした黄帝は、外史の守護者となる道を選び、姬大人と名乗って正史と外史を繋ぐ中洲とも言える“外史の狭間”にて隠遁生活を送る様になった。

 

 伝説では、黄帝は中華原初の帝王である伏羲(ふっぎ)以外では唯一、龍の身体を持っていたとされるが、その伝説の由来は、若き日の姬大人が伏羲の力が封じられた龍玉の力を使い、黄龍王と名乗って戦っていた事に起因する。

 姬大人によると、罵苦との最終決戦の折にその力を使い果たしてしまったとの事で、現在は黄龍王にはなれないらしい。

 

費禕(ひい)

 

http://www.tinami.com/view/701105

 

 字は文偉、真名は、聳孤(しょうこ)(青い麒麟)。

 幼い頃に実の両親と死別した為、縁戚を頼って益州に来た。

 義理の両親から深い愛情を受けて育っていたが、近隣で神童と評判になっていた聳孤の才能を聞き知った朱里と雛里の意向により、一刀の治世を支える次代の人材育成計画の一端を担う若手の一人として、都に召し出される事になる。

 一刀が正史に戻った後は、内政に向くと判断されて主に朱里に預けられ、その才能を磨く毎日を送っていた。

 初めて会った時に優しく接してくれた一刀に一方ならぬ畏敬の念を抱いており、その忠義は篤い。

 

 普段は人好きのする性格で、親交のある各国の重臣たちから同僚、庶人に至るまで多くの人にその人柄を愛されており、本人も人をもてなすのを好み、その為に料理に励んだりもしている。

 贈り物を考えるのも好きで、相手に気を遣わせない様に贈り物をしたいと考えた結果、手芸や縫製にも手を出したが、今ではそれが半ば趣味になってしまった。

 役職は門下侍郎だったが、朱里の計らいで、恋や音々音の協力の元で臨時の後軍師として巴郡に着任、司令官の任を経験する事になる。

 

 

 モデルは、諸葛亮、蔣琬(しょうえん)に続いてその地位を継いて三代目の宰相となった人物(役職としての丞相位は諸葛亮の永久欠番であった為、実際には大将軍・録尚書事・益州刺史の兼任)。

 呉への使者に立った時には、孫権と重臣たちから挑まれた論戦に(いささ)かも礼節を崩すことなく、またそれでいて一切屈しなかった事から、孫権は『天下の善徳の士』として激賞し、腰に佩いていた剣を下賜した上、『もっと話したいが、君は直ぐに出世するだろうから、そう何度も会う事は出来ないだろうな』とまで言って称えられたり、能力はあるが性格と口が最悪の楊儀と、現場一徹の魏延の関係が殺し合い一歩手前まで行った後も、二人から信頼されていた費禕が仲裁し続けたなど、人格と博愛精神を称える逸話が多い。

 人の数倍の速さで書物を読了し、その内容をよく理解し、また決して忘れなかったとされる。

 人をもてなすのが大好きだった費禕は、政務の合間に客と宴や食事をし、賭け事に興じたりもしたが、凄まじい事務処理能力だった為、仕事が遅れる事は一切なかったという。

 また、しきりに北伐したがる姜維をよく抑え、(いたずら)に国庫が消耗する事を防いだが、決してただのハト派と言う訳ではなく、魏が大軍を率いて侵攻して来た際には、鉄壁の守りを敷いてこれを撃退するなど、軍略にも優れていた。

 

・高順

 

 真名は誠心(せいしん)

 四十代半ば、虎髭が自慢の偉丈夫で、双戟の達人。

 副官としてまだ若い恋や音々音を支える呂布隊の屋台骨である。

 恋の武威に惚れ込んで臣従し、洛陽から落ち延びた後も各地を転戦して献身的に支えた。

 一刀と桃香に帰順してからは、半ば一刀の親衛隊扱いとなっている呂布隊の実務担当として辣腕を振るう。

 下戸である為、酒が一切飲めない。

 武勇に優れ、用兵の巧みさもさる事ながら、清廉で義理人情を兼ね備えた人格者で、桃香や幕僚たちからの信任も篤い。

 

 モデルは、呂布軍で張遼と共に二枚看板を張った勇将で、相対した敵軍を必ず打ち破る勇猛振りと用兵の巧みさから陥陣営(かんじんえい)と綽名され、夏侯惇が指揮する精鋭部隊を打ち破った事もある。

 呂布への忠義は篤く、呂布が裏切りに次ぐ裏切りで疑心暗鬼に陥り、高順に対しても冷淡な態度を取る様になっても、その忠誠心が揺らぐ事はなかったという。

 最後は、一切の弁明をせずに呂布と共に曹操に首を斬られた。

 

臧覇(ぞうは)

 

 字は宣高(せんこう)、真名は武悦(ぶえつ)

 副官である高順を除いた呂布隊の部将たちの筆頭格。

 武勇の誉れ高く、道義を弁え非道を嫌う熱血漢。

 私的な場では、一刀に対しても軽口を叩いたりなどする爽やかで取っ付き易い人柄である為、一刀に気に入られ、出掛ける時には請われてよく供をしたりもしている。

 余談だが、そのせいで朱里や雛里、蒼などから腐った視線を向けられており、界隈で攻め受け論争が白熱しているものの、本人は全く気付いていない。

 

 モデルは、呂布に加勢して曹操に敗れた後、気に入られて臣従し、魏で出世を重ねた驍将。

 武勇と人格を兼ね備えた人物で曹操の寵愛も篤く、曹否の代には、曹氏と夏侯氏以外で唯一の都督州諸軍事(複数の州を跨いで刺史を兼ねた権限を持つ都督)に列せられる程だった。

 

成廉(せいれん)

 

 真名は知拳。

 呂布隊の最古参の一人で、部将の中では随一の騎馬巧者。

 生真面目で一本気な為、融通の利かない部分もあるが、『蜀に帰順してからは大分(だいぶ)柔らかくなった』とは誠心の談。

 

 モデルは呂布に古くから仕えた猛将で、呂布が袁紹の元に身を寄せていた際には、同僚の魏越と共に数十騎の騎兵を率いて呂布に付き従い、一万数千にもなる山賊を散々に蹴散らしたという逸話を持ち、その事から、演義に於ける呂布軍八健将のモチーフになったと言われる人物。

 呂布が曹操に敗北してからは一切の記録が無い為、共に討ち取られたのだろうと言う説が有力。

 

 

 

 

〇罵苦

 

 かつて剪定者の過激派が、“外史をより簡単かつ合理的に滅ぼす為”に創造した魔導生物兵器。

 人々の強い“想いの力”を受けた外史を喰らう内に自我が芽生え、進化、暴走し、自らの創造主達に牙を剥くに至る。

 事態を重く見た剪定者と肯定者が超法規的に手を組み、黄帝を中心とした大同盟を結成して戦いを挑んで一度は封印に成功するも、4500年の時を経て復活。

 一刀達の暮らす外史に強い夢想の力を感じ取り、三国志の物語に於いて永遠の敵対者として位置付けられている五胡の存在に自分達を重ねる事で封印された次元から外史に介入、侵略を開始した。

 

蚩尤(しゆう)

 

 中華史上最凶最悪の怪物として伝わる存在。

 その実態は、外史の存在を否定する“剪定者”達の中でも過激派に属する者達よって作り出された、“対外史”に特化した殲滅能力を持った魔導生物兵器・罵苦のオリジナルである。

 単独で外史に介入し、その外史の人々を吸収する事で力を蓄え、その外史に最適化した下位個体を産み出して増殖するという機能を与えられた蚩尤は、創造主たちの期待以上の働きを示して数多の外史を文字通り喰らい尽くしてきた。

 

 正史以外の世界、即ち人々の“夢想”の世界に生まれた存在であれば、例え神の如き力を有していようとも関係なく捕食の対象として来た蚩尤は、数多の外史を吸収し滅ぼしていく過程で突如として自我に目覚める。

 蚩尤は、忠実に創造主たちから与えられた任務を実行するよう装いながら、自身の配下を産み出して軍勢を増やし続け、遂には、創造主たちが蚩尤の支援機として創り出した他の罵苦たちまでをも支配下に置き、創造主たちに牙を剥いて正史の世界にまでその食指を伸ばそうと画策した。

 

 長い戦いの末、黄帝とその仲間たちに次々と配下の邪神たちを討ち取られた蚩尤とその軍勢は、剪定者と肯定者の力を借りた黄帝の手によって、あらゆる時間と次元から隔絶された牢獄空間にその本拠地ごと封印され、未来永劫、表に出て来る事はあり得ない筈だったが、原因不明の事態が発生し、封印の一部が破れてしまった。

 

 尚、蚩尤を含めて創造主たちに直接生み出された罵苦たちは“超級”の位を冠しており、絶大な力を誇ったが、蚩尤を除いた超級種は全てが先の大戦で倒されたとされている。

 

 

 

〇四凶

 

 蚩尤に次ぐ実力を持つと言われる、四体の上級罵苦。

 中原の四方に流されたと伝えられる四柱の悪神の名を冠しており、それぞれが罵苦の一軍を預かる 軍団長達である。

 

饕餮(トウテツ)

 

http://www.tinami.com/view/649782

 

 あらゆるものを喰らい尽くす暴食の魔獣の名を冠した剣士で、獣を元にした罵苦で構成される魔獣兵団の長。

 西洋風の意匠の漆黒の鎧兜に身を包み、常に面当てと頬当てを閉じている為、その素顔を窺い知る事は出来ない。

 

〇中級罵苦

 

 各軍団長の元で作戦遂行を担う怪物たち。

 その素体とされた生物によって、饕餮率いる魔獣兵団、檮杌(トウコツ)率いる魔蟲(まちゅう)兵団、窮奇(キュウキ)率いる魔鳥兵団、渾沌(コントン)率いる魔水兵団の四軍団に別れている。

 また、各軍団長がそれぞれの軍勢の中から八体ずつ選出した個体は“八魔(はちま)”と呼ばれ、四凶に次ぐ軍事指揮権が与えられている。

 

黒網蟲(くろあみむし)

 

 檮杌配下の魔蟲兵団に所属する八魔の一体。

 肯定者たちの監視の目を掻い潜って正史への潜入を行える程の優れた隠形(おんぎょう)の力を持ち、檮杌から北郷一刀抹殺の命を受けて正史に赴くが、獲物を嬲って愉しむ性格が災いし、皇龍王へと覚醒した一刀の一太刀で両断されたが……?

 

黒狼(こくろう)

 

 人狼の姿をした中級罵苦で、饕餮の八魔の一体。 

 饕餮に次ぐ実力者で、副官として主に忠節を尽す。

 誇り高く、武人に近い感性を持っており、柄頭(つかがしら)を組み合わせて一振りとして使用できる雌雄一対の双刀を自在に使いこなす達人でもある。

 吸収の力を使い恋を追い詰めるも、最後の最後で敗北を喫し、瀕死の重傷を負った。

 

魔魅(まみ)

 

 狸の姿をした中級罵苦で、饕餮の八魔の一体。

 魔術や呪術の力を擁する外史の存在との戦いを想定して生み出された魔術戦闘に特化した罵苦で知性も高く、その為、流暢に人語を解する。

 巨大な火球を作り出して、呂布軍の二千の兵士たちが敷いた堅牢な陣形を一瞬で瓦解させるなど戦闘能力も高いが、乱入した皇龍王に右腕を切り落とされた。

 大きな尻尾が密かな自慢。

 

 

・下級罵苦

 

 それぞれの兵団に大量に割り振られる、罵苦の尖兵達。

作戦の性質や規模によっては、他の兵団に貸し出される事もある。

 各名称は以下の通り。

 

 魔獣兵団主力 猿ヒト型 『マシラ』

 魔蟲兵団主力 蚤ヒト型 『アカスイ』

 魔鳥兵団主力 鳥ヒト型 『アンズー』

 魔魚兵団主力 魚ヒト型 『トラウト』

 

 この中でも猿ヒト型のマシラは、高い汎用性と知性を持つ為、各軍団に頻繁に使用される。

 

 



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第四話 星の欠片を探しに行こう

 どうも皆さま、YTAです。
 今回は、一刀が外史に帰還して初めての話だった事もあって、2010年当時も気合を入れて書いたらしく、ストーリーライン自体は結構纏まっていた感じだったので、革命の設定込みでの物語の微調整と文章表現のブラッシュアップ位で済んだ為、早めに投稿出来ました。
 楽しんで頂けたら幸いです。

 評価、お気に入り登録、感想など、大変に励みになりますので、お気軽に頂戴できれば嬉しいです。
 では、どうぞ!



 

 

 

 

「解せぬ……」

 北郷一刀は、思わずそう呟いた。

 さもあらん。

 つい数十秒前まで悠々とフリーフォールを楽しんでいたのに、何故か今は四肢をガッチリと見えない力でホールドされており、“気を付け”の姿勢を取らされて足を下に向け、仰向けの体制のまま、対地ミサイルじみた角度で地面に向かって超高速で落下している最中ともあれば、文句の一つも出ようというものだ。

 

 一刀が冷静で居られるのは一重に、周囲を白い粒子が包んで彼を空気抵抗から守っている為、これが卑弥呼の仕業であると確信出来ているからに過ぎない。

 でなければ、不可視の棺桶に入れられた様な状態で猛スピードで落下しているなどと言う現実など、到底、受け入れられはしないだろう。

 

 なまじ、身体が自由でさえあればどうにでもなると言う自信があるだけ、その自由を奪われた時と言うのは恐ろしいものである。

 少なくとも、四度に渡る外史への転移の記憶を受け継いでいる一刀ではあるが、意識を保ったままで空中落下と言うのは初めての経験だ。

 

 逆に言えば、今まで意識が無かっただけで、今回の様な状態で外史に突入していたやも知れず、まぁ、そう考えれば――。

「いや、やっぱ怖いもんは怖いわぁぁぁぁ!!」

 ドップラー効果を伴った三十路男の悲痛な叫びは、誰に届く事も無く、排気ガスなどとは無縁の澄み渡った外史の空に掻き消えて行った……。

 

 

 

 

 

 

その部屋は、闇で満たされていた。

しかし、どう言う訳なのか、確かに明るく感じられ、視界は良好である。

してみると、生き物には闇だと感じられる光か、真実、明るい闇かのどちらかなのだろう。

部屋の中央には、滑らかに研磨された黒曜石で作られた椅子が、ポツンとあるばかりである。

建築物の定義で言うところの壁や天井に当たる部分は、呼吸をするように艶めかしく蠢いていた。

 

だと言うのに、生物としての息吹がまったく感じられないのは、やはり、生物の様でいて生物では無いからであろう。

饕餮(トウテツ)様、檮杌(トウコツ)様ヨリノ報セガ入リマシタ。転移陣ノ準備ハ、滞リナク整ッタトノ(ヨシ)

 

 独りでに開いた扉を抜けて椅子の前まで進み出た異形の影は、流れる様に(ひざまず)くと、深く(こうべ)を垂れたまま、黒曜の椅子に向かって、どこか片言を思わせる口調で語り掛ける。

 すると、黒曜の椅子が僅かに蠢いた。

 否、それは椅子が動いたのではない。

 

 椅子に腰かけた漆黒の影が、僅かに身じろぎをしたのである。

 “漆黒の”と言うのは比喩ではなく、その存在が纏っている鎧兜が、正に座している黒曜の椅子と見分けが付かぬ程の黒い輝きを纏っていたからだ。

「苦労」

 

 漆黒の男は感情のない声でそう応えると、ひじ掛けに肘を付いて首を傾げ、拳でそれを支える様にして、眼前に跪く存在を額当と面頬に挟まれた碧い眼で見下ろした。

「肯定者どもに気取(けど)られた様子は?」

「畏レナガラ、三年ノ時ヲ掛ケテ奴等ノ眼ヲ掠メ進メテ来タ大計、今ニナッテ、マサカソノ様ナ事ハ……」

 

「――つまらぬ」

「ハ?」

 異形の影は初めて頭を上げ、主を見上げた。

 その顔は、まごう事なき狼のそのものだ。

 

「捨て置け」

 漆黒の男――饕餮――は、虫でも払う様な仕草で緩々と手を振って、人狼の視線を(わずら)わしそうに受け流した。

「黒狼」

 

「ハッ」

「予定通り、二日でマシラを三万、編成しておけ。」

「御意ニ。デハ、“アカスイ”と“アンズー”ニ関シテハ、檮杌様ト窮奇(キュウキ)様ニ、如何ホド要請ヲ?」

「要らぬ」

 

「ハ?イ、イエ、シカシ……」

「要らぬと申した。此度は俺は出張らぬ故、奴等から兵を借りると後で面倒が増える。黒狼、軍勢はうぬが采配せよ」

「何ト申サレマス!?コレ程ノ大キナ戦ニ四凶タル饕餮様ガ御出馬アソバサレヌトアラバ、蚩尤様ヨリドレホドノ御叱リヲ(タマワ)ル事ニナルカ……!」

 

「蚩尤様からは、全て任せるとの御下命を賜ったのだ。俺に直接、出向いて指揮を執れとは、一言も仰せになってはおられぬ」

「ソレハ――」

「不満か?ならば、魔魅(まみ)を副官に付けて遣わす。うぬも八魔(はちま)に数えられる将であれば、功名は稼ぎたかろうが?」

 

「……我ガ双剣ハ、饕餮様ニ御捧ゲシタモノニ御座イマスレバ、我ガ功ハ饕餮様ノ功ト(オボ)()シ下サリマセ」

「忠勤、大義」

「ハッ。デハ、魔魅トノ打チ合ワセガ御座イリマスレバ、コレニテ御無礼(ツカマツ)リマスル」

 

「励め」

 饕餮は気の無い声でそう言ってから、立ち上がって一礼した後、即座に(きびす)を返して部屋を出て行く黒狼の背中が扉で遮られるまで視線を向けていたが、やがて再び肘を付いて拳を枕にすると、静かに目を閉じる。

「俺を殺せる者の居ない戦場(いくさば)になど、興味は無いわ」

 

 饕餮は、吐き捨てる様に呟いて、静かに寝息を立て始めた。

 

 

 

 

 

 

「そうか、饕餮様がな」

 黒狼から経緯を聞いた魔魅は、黒い体毛で縁取られた目元に皺を寄せ、鋭い爪の付いた指でポリポリと顎の下を掻きながら考え込む素振りをみせる。

 二人は、(おびただ)しい数のマシラが誘導されるのを眺めながら、広大な広間の壁に寄りかかって話をしていた。

 

「ウム。永キ眠リヨリ目覚メテカラ初メテノ大戦デ、蚩尤様カラ直々ニ全権指揮ヲオ任セ頂イタト言ウノニ、饕餮様ノ気鬱ハ深クナラレルバカリダ――ナァ魔魅ヨ、貴公、饕餮様ノ気鬱ノ原因ニ心当タリハナイカ?」

「ふん。我が魔獣兵団の序列第二位のお主に分からぬ事が、儂に分かる訳があるまい」

「饕餮様ノ御信任厚キハ、貴公トテ同ジ事デアロウ。マッタク、ソノ立派ナ尻尾ハ飾リカ?」

 

 黒狼は鼻から溜め息を吐くと、先端に縦縞(たてじま)の入った、魔魅の身体と同じ程もある巨大な尻尾に眼を遣った。

 魔魅は、呪術戦闘に特化した狸の罵苦であり、黒狼と同じく、四凶がそれぞれの軍勢の中から八体ずつ選出する最精鋭、八魔の一員である。

 

「喧しいわ。尻尾は関係なかろうが」

 魔魅はそう言って、まるで黒狼が自分の尻尾を食おうとしているのを恐れるかの様に、自身の身体に抱え込んだ。

「しかし、そうさな。思い当たるとすれば、檮杌様の御進言で蚩尤様がお命じあそばされたと言う、“当世の救世の者”の抹殺任務ではないか?お口の端に登らせてこそおられなんだが、饕餮様は殊の外、救世の者との戦に想いを馳せておられたようであったし」

 

「フン、アノ蜘蛛メノ件カ」

 黒狼は侮蔑の感情を隠そうともせず、吐き捨てる様にそう言って黙り込んだ。

 魔蟲兵団の長、檮杌の八魔である黒網蟲は(いたずら)に獲物を弄ぶ事で知られており、自分の山気を隠そうともしない破落戸(ごろつき)の様な罵苦である。

 

 黒狼の性格上、最も相いれない類の存在であった。

「まぁ、ろくでもない奴ではあるが、肯定者どもの監視の目すら()い潜る隠形の冴えは見事なものよ。先の大戦の黄帝の様な力を与えられた後なら兎も角、未だ正史の人間のままであるならば、黒網蟲に掛かれば一堪りもあるまいな」

 

「檮杌様ノ嫌ガラセデアロウ。我ラノ主ガ救世ノ器ト戦イタイト熱望シテオラレタ事ハ、隠シ事デモ何デモ無イカラナ」

 饕餮と檮杌は黒狼たちが自我を確立した時には何故か既に犬猿の仲であったから、檮杌であれば、間違いなくそれ位の事はするであろうと想像は付く。

 

「やれやれ。炎熊(エンユウ)剛猩(ゴウショウ)たちが目覚めてくれておれば、今少し楽が出来るのだがな」

「居ナイ者ヲ当テニシテモ仕方アルマイ。ソレニ、眠ッテイルダケナラ、マダマシヨ。我ラヨリ遥カニ古参ノ金獅子(キンジシ)殿ナドハ、今ヤ修復槽ニ浮ブダケノ生キタ屍ニナッテシマッタシナ」

 

「まぁ、な。いずれにせよ、今の我らに出来るのは、饕餮様に勝利をお捧げする事のみか」

「アァ、ソノ通リダ」

 二人は、お互いに愚痴の落としどころを見つけて頷き合うと、眼前を行き交うマシラ達に視線を投げるのだった。

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 巴郡を流れる長江から遠く漢水へと入り込む支流の一つにほど近い蜀の出城、その城壁の上で、亜麻色の髪を一本の太い三つ編みに結った少女が、肩から垂らしたそれを両手で弄り回しながら深い溜め息を吐いていた。

 

 彼女の名は費禕(ひい)、字は文偉(ぶんい)、真名を聳孤(しょうこ)と言った。

 彼女は、伏龍鳳雛とその名も高き諸葛亮朱里と龐統雛里の二人が見出して直弟子として育てている若手官吏の内の一人である。

 魏・呉・蜀からなる三国同盟の盟主であり、蜀の将達にとっては劉備こと桃香と並んで直接の主でもある“天の御遣い”北郷一刀が天に修行に帰ってから(聳孤たちはそう聞かされていた)、彼が三国の王たちに(もたら)したとされる予言の通り、大陸の各地で異形の怪物たちが目撃され、人を襲うと言う事件が頻発する様になった。

 

 事ここに至り、三国の王達はある決断を下す。

 今まで北郷一刀の住んでいた都に集まり、共同でその統治を行っていた王とその重臣達がそれぞれの国表に戻って各国の民の人心の安寧を維持し、今まで国表に勤めていた若手の武官、文官達に都の運営を任せる事にしたのである。

 いまだ未熟な(と、自分では思っている)聳孤にも、この政策は現状において、最も適切である事は理解出来た。

 まず何よりも、怪物の脅威に晒された各国の民草にとって、戦国乱世の間に自分達の生活を護ってくれていた王と、それを支えた英傑達の不在は、大きな心理的不安を齎すからである。

 

 これは、実際の若手の武官の実力や官吏たちの(まつりごと)の良し悪しの問題では無い。

 例えば、“蜀の軍神”と称えられる美髪公こと関雲長に護衛してもらうのと、名も知らぬ青年将校十人に護衛してもらうのとではどちらが安心と感じるか、と考えればよく分かる。

 要は、理屈ではなく人情の問題なのである。

 

 荊州の中心、即ち中原の中心に位置する北郷一刀の都は、三国中からやって来た人々で溢れる新興の都会である為、現段階に於いては良くも悪くも歴史観や土地への愛着が浅い人々が大多数であり、『最悪、故郷へ帰ればいい』と言う心理が働いている為か比較的、落ち着いていたが、各国の首都はそうは行かないのだ。

 

 政を人情のみで語るなど言語道断だが、人情を排した政など話にもならない。

 『国は人によって成り立っているのであり、国があるから人が成り立っているのでは無い』

 それは、師である諸葛亮孔明と龐統士元が一番最初に弟子達に教えた言葉であり、弟子達が師の元を巣立つ時に送った言葉でもあった。

 

 人心を疎かにすれば、それはやがて退廃思想に繋がり、一度(ひとたび)、秩序の(たが)が外れれば、国は容易に滅んでしまう。

 第二に、怪物たちの出現地域が中原中に広がっていると言う問題だ。

 怪物たちの数こそ大規模ではなかったものの、三国それぞれの領土に広範囲に渡って出没していた。

 訓練された兵士ならば十分対抗しうる、“下級種”と呼ばれるモノ達ばかりではあったが、“異形”で、しかも、“人を生きたまま貪り食う”という存在である以上、民に与える恐怖は、そこいらの山賊や野盗団の比では無い。

 

 迅速に鎮圧しなければ、瞬く間に人の流れが滞り、経済が衰退し、命知らずの無法者が街道を荒らし回るようになる、という負の連鎖が起きてしまう。

 それを解決する為には、一騎当千の武将達は元より、戦慣れしており、尚且(なおか)つ、命懸けの極限状態で国中を駆け回っていた優秀な下士官や熟練の兵士達の経験と土地勘が、どうしても必要だったのである。

 

 しかしだからと言って、三国同盟の盟主の都の民を蔑ろにしては後事に障るので、三国それぞれの幕僚達の中から将軍二名、軍師一名を選出し、一年交代で都の防衛に当たらせる事になった。

 三順目の今年は、蜀漢からは関羽将軍と厳顔将軍、右丞相の諸葛亮が都に出向いている。

 内政の司る右丞相の出向には、今までに直面した事の無い非常時と言う事もあり、選出の際に随分と反対意見が出たのだが、普段は人の意見を取り入れる事を厭わない師が、この時は頑として反対する者達の意見を聞き入れなかった。

 

「私は、この国の内政の全権をお預かりするにあたって、御主君、玄徳様とご家中の皆々様、そして蜀の民に対し、一度口にした約束は必ず履行する事を誓約と致しました。私は蜀の重臣たちのみならず、三国の王侯の前で、“都の運営と防衛は公平に選出した幕僚によって交代制で行うべき”と、献策いたしました。これを覆すのは、私の献策を受け入れて下さった皆様に対する背信に等しいと私は考えます。ですから、例え皆様が私の都への参勤を免除下さると仰って下さいましても、私自身がそれを赦せません。何としてでも、と仰せならば、御主君とご家中の皆様への誓約の不履行と言う罪に対し、罰を賜りとう存じます。つきましては、玄徳様の御名を持ちまして、右丞相の職をお取り上げの上、蟄居謹慎をお命じ下さりませ」

 

 小柄な五体に知将の覇気を滾らせた偉大な師は、幕僚達のみならず、居並ぶ百にも近い家臣一同を前に、僅かも言い淀む事無く一息にそう言切ると、深々と頭を下げたのである。

 それで、話は終わりだった。

 今日(こんにち)に至るまで、国の為、民の為に、文字の通りに寝る間を惜しみ、身を粉にして働いてきた大軍師が、己の矜持に関わるとまで言って通そうとする事に面と向かって異を差し挟める者など、その場には居なかったのだ。

 

 その当時、常に師の近くに控えて実務の基礎を教えてもらっていた聳孤は、師のその清廉な頑固さを、小さな胸がはち切れんばかりに誇らしく感じたものだった。

 後になって考えて見れば、主君である劉備こと桃香様や他の賛成派の諸将たちと示し合わせて、反対派の家臣たちを抑える為に一芝居打ったと言う可能性も思い浮かびはしたが、一方で師の言葉は、決してこけ脅しなどでは無かっただろう、とも思う。

 

 きっと、あの場にそれぞれ控えていた他の弟子たちも、自分と同じ様に誇らしかったに違いない、とも。

 そんな事があって、聳孤が師に従って都に上洛したのは、今から半年程前の事である。

 都では、魏から、覇王の両腕と謳われる夏候惇、夏侯淵の両大将軍と筆頭軍師の荀彧尚書令が、呉からは先代君主の孫策王と、水軍大将の甘寧将軍、美周郎の誉れも高い周瑜大都督がそれぞれ集うと言う、何とも豪華な顔合わせが行われ、僅かに気まずそうな表情の師に対して、一同の浮かべた優し気な微苦笑が、聳孤にとって印象深い、最初の思い出となった。

 

 同盟国の要人同士の親密な外交の場など、頭の中で想像する事し出来なかった当時の聳孤には理解の外であったが、最初に上洛する予定を組んで発表した蜀の面子が、官吏の最高位たる右丞相、五虎大将筆頭にして大将軍、百戦錬磨の熟練の勇将と余りに贅沢であった為に、他の二つの国が官位や実力が釣り合う人選をしてきた訳なのだが、実は主の桃香様が魏王曹操様と呉王孫権様に送った私信にて、重臣たちの居並ぶ中で師が切った見事な啖呵を報告していたしく、一同もそれを知らされていた為、『やってくれたな』と言う親愛を込めた皮肉が、あの微苦笑の正体と言う訳であったらしい。

 

 それからの半年間は、聳孤にとっては嵐の様に目まぐるしく過ぎて行った。

 師に『私の秘蔵っ子なんですよ』と紹介されるや、それならばと一同から真名を許され、顔を合わせる度に世間話をしてもらう内、勉学の手解きをしてもらったり、お茶に誘ってもらうようになったりした。

 それが余りに楽しく嬉しかったので、一日々々があっと言う間に過ぎて行ってしまったのである。

 

 そんな日々の中で聳孤が最も不思議で興味深かったのは、自身はまだ一度しか会った事がない、もう一人の主である北郷一刀に対する、各国の重臣達の話だった。

 聳孤にとって、一度しか会った事のない主の印象は“優しいお兄さん”である。

 (もっと)も、主の方は、自分の事など覚えてもいないかも知れないが 。

 ひょんなことから、師である諸葛亮に才能を見いだされて預けられる事になった聳孤が、主に初めて会ったのは、ちょうど主が天に帰る一月ほど前だった、と記憶している。

 例年になかった猛暑がようやく収まってきた頃だったから、多分間違い無い。

 

 師に預けられたその日に『まずはご主人様に御挨拶にいかなきゃね』と言われて、心臓が口から飛び出すのではないかと言う位に緊張しながら、とても広い城の廊下を、師に手を引かれて執務室に向かった時の事を、聳孤は昨日の事の様に思い出せた。

 折しも、もう一人の主である桃香様が成都にお戻りになっていたので、とりあえず先に主との謁見を済ませる事になったのである。

 

 部屋で拝謁するなり、緊張が極まって挨拶も出来ずに泣きじゃくってしまった幼い聳孤を優しくあやしてくれた声。

 どうにか真名を預ける所までは出来たものの、それでも嗚咽が収まらない自分の鼻水と涙で汚れた手を優しく包んでくれた、掌の温もり。

 『家臣になるより先に友達になってよ、ショウコちゃん』と、今まで呼ばれた事の無い不思議と魅力的な抑揚で自分の真名を呼び、手巾で涙を拭ってくれた時の、晴れ渡った蒼天を思わせる朗らかな微笑み。

 だからいつか、と己に誓った。

 いつか主がお戻りになられたら、その時は必ず、正式に臣下の礼を、と。

 

 そんな思いがあったからだろうか。

 聳孤は機会があれば、必ず各国の重臣達に北郷一刀との思い出を話してくれとせがんだ。

 しかし、話を聞けば聞くほど、この三年の間、常に心の中で主と仰いできた人物の実像が朧げになっていくのには、(いささ)か辟易とした。

 

 曰く『腕はからきしだが頭は切れる』だとか、また別人の曰く『いつも助平な事しか考えてない変態』、だとか、またまた別人の曰く『とっても佳い男♪』だとか。

 尚も困った事に、同じ人物の口からですら、全く異なった印象を抱かざるを得ない様な話が幾つも飛び出して来るので、人相見の大家と伝え聞く許子将ならぬ聳孤は、ますますの混乱を催してしまった。

 

 まぁ、一同、手厳しい人物評を奏する時であっても楽しそうに話してくれたので、きっと心底嫌っていたりはしないのだろうと思えた。

 いや、是非ともそう信じたい。

 しかしやはり、一番印象的だったのは、師である諸葛亮朱里の言葉であろう。

 

 都行きを決めた直後、仕事引き継ぎを終えて休憩をしていた時、聳孤はふと思い立って、師に尋ねてみた事があった。

「ねぇ、朱里師父(しーふ)。もしも北郷様が『行くな』と仰られたら、師父はどうなさいましたか?」

“自分はまだ、北郷一刀の正式な臣下では無い”、そう言う思いがあったから、聳孤はまだ『主』を表す言葉で北郷一刀を呼んだ事は無い。

 

「ぶっ!!はわわ、どうしたの?聳孤ちゃん、突然そんな事」

 師は、愛用の羽扇で口元を覆い、変なところに入ってしまったお茶で咳き込みながら言った。

「いえ、すみません!その、少し気になっただけですから……」

 慌てて師の背中を擦りながら言い訳をすると、師は『もう大丈夫』と片手で優しく聳孤を制し、呼吸を整えてから、「それは、公人としてではなく、個人的に、と言う事?」と聳孤に尋ねた。

 

「は、はい!」

 師は、聳孤の漠然とした質問からその真意を読み取って微笑むと、「そうね……」と言って、中空に視線を彷徨わせる。

「もしも、ご主人様が、私を優しく抱きしめて『行くな』と言って下さったら――」

「師父、何もそこまでは!」

 

「はわわ!?ゴホン!ごめんなさい、つい……でも、聳孤ちゃんが訊きたいは、そう言う事なんでしょう?」

「えぇと、はい……」

 師は、頬を染めて俯く聳孤を優しく見つめながら、言葉を続けた。

「そうね、もし御主人様にそう囁いて頂けたら、行かなかったかも知れないわね。それが例え、私が私でなくなる、と言う事であったとしても」

 

「そうですか……」

 ある意味、自分の中で望んでいた答えであった筈なのに、聳孤は何だかとても悲しい気持ちになったのだが、師は尚も優しく微笑んで、言葉を継いだ。

「でも、ご主人様なら、そんな事は絶対に仰らないわね」

 

「え?」

「きっと、『行っておいで』と仰るわ。あの方は、“そういう人”だから」

 複雑な顔をしている聳孤の頭をゆっくり撫でながら、師は自信に満ちた声でそう言ったものだった。

『いつか私も、あの様な優しい顔で主との思い出を後進の者達に語ってやれる時がくるのだろうか?』そんな事を思いながら日々を過ごす内、いつしか聳孤にも正式に蜀の臣下として官位が与えられ、毎日が更に忙しくなった。

 そして今から一週間前、聳孤の溜め息の原因となる事態が、降って湧いた様に訪れたのである。

 

 

 

 

 

                    辞令

 

                   費禕文偉 殿

 

          この辞令の発行を以て、貴殿に益州東部巴郡の出城におい

          て蜀漢軍将軍 呂奉先、並びに軍師 陳公台以下、呂将軍

          麾下(きか)の精鋭伍千と共に、巴郡の遊撃防衛任務を命ず。

          役職は総指揮官とし、周辺地域の治安の維持と将兵の規律、

          士気の堅持に尽力されたし。

          尚、任務の詳細は転任先にて呂将軍、陳軍師と取り決めの事。

 

                                   漢中王 劉備玄徳

 

                                   右丞相 諸葛亮孔明

 

                                   左丞相 龐統士元

 

                                   大将軍 関羽雲長

 

「師父!!これは、ど、ど、ど、ど、どう言う事ですか!?」

 師は、狼狽して執務室に飛び込んできた聳孤の大声にも動ぜず、読んでいた書簡からゆっくりと顔を上げた。

「あら、聳孤ちゃん。思ったより早かったのね?」

 表情と台詞から察するに、やはり、聳孤の行動などお見通しだったようだ。

 

「私が恋様やねね様の上官だなんて!そんなの、無茶です無理です不可能です!!」

 師は、事務机に前のめりになって捲し立てる聳孤を、両手で『まぁまぁ』と制して言った。

「でもね、聳孤ちゃん。多少の無茶なんて効くものだし、この世には覆せない(ことわり)なんかそうあるものじゃないし、不可能を可能にする事こそが軍師の仕事でしょう?」

 自分の単語のみで構成された言い訳すら完膚なきまでに粉砕され、聳孤は『うぅ……』と唸るしかなくなってしまった。

 こういう時の師は、本当に容赦が無いのだ。

 

「それにね、私や雛里ちゃんが初めてご主人様と桃香様の軍列に加えて頂いたのも、今のあなたと大して変わらない年頃だったのよ?」

 師は、聳孤の肩に手を置き、宥める様に言った。

「ここ最近、巴郡近辺で罵苦の目撃と被害の報告が相次いでいるの。巴郡は我が蜀にとって、貴重な穀倉地帯よ。対応が遅れてこの地域の民の反感を買う事は、何としても避けないと。ましてや、万が一にも罵苦に乗っ取られでもしたら、風評ばかりか、国庫に重大な損害を及ぼす事になる」

 

「で、あればこそ――!」

 師は、聳孤の口を人差し指で押さえで黙らせると、話を続けた。

「本来なら、元々あの地域を治めていた桔梗さんに行って貰いたいけれど、そういう訳にはいかないの。分かるでしょう?」

 聳孤は渋々と頷く。

 

 桔梗様は、任務で都を留守にしている愛紗様の代わりに都に駐留しなければならない。

「軍師にしたって、本来は兵站の調達と管理を得意とするねねちゃんの補佐としては、軍略を得意とする雛里ちゃんか詠さんが適任よ。でも、二人に頼めない理由も、聳孤ちゃんになら分かっているわよね?」

 分かる。

 雛里師父は、朱里師父に次ぐ左丞相。

 蜀軍本隊と、本国を離れている朱里師父の穴を埋める為に成都を留守にする訳にはいかないし、詠様はねね様との相性が悪過ぎる。

 本当はお互い大好きで喧嘩するのだろうけど。

 本心ではどう思っていようと、出城で朝から晩まで顔を突き合わせていれば、売り言葉に買い言葉の詰まらない(いさか)いが、致命的な亀裂に繋がる可能性は、否定できない。

 

 そこを敵に突かれる事にでもなれば、いかに恋様が飛将軍と謳われる程の武をお持ちでも、万が一の事態は十分起こり得る。

 他に頼りになりそうな方々と言えば、袁家の田豊こと真直さんか盧植こと風鈴先生だが、真直さんは蜀の大命題とも言える開墾事業の責任者だし、風鈴先生は、独りで内政と軍政を引き受けている雛里師父の補佐として欠かせないだろう。

 

 今は師の元を巣立った兄弟弟子達も、蜀の各地に散ってそれぞれの任務をこなしている筈である以上、蜀の官位を得ているとは言っても、事実上は師の政務の補佐を行っているだけの自分しか、“軍師”として体の空いている者は居ないのである。

「大丈夫よ。雛里ちゃんだって貴女の用兵には太鼓判を押していたし、内政や人心掌握の手腕に関しても、私が保証します。それに、あなたはこの半年、各国の名将の方々から教えを授けて頂いていたじゃないの」

「でも、私はまだ、初陣も済ませていない若輩です……」

 

 師は、自信なさげ俯く聳孤の顔を両手で包んで優しく持ち上げて視線を自分に向けさせると、にっこりと優しく微笑んだ。

「誰だって、“最初は初めて”よ。そうでしょう?」

 そう言われて、腹を括った――筈だった。

 

 最初は良かったのだ。

 気を張っていた事もあり、出城で恋様の部隊と合流してすぐに行われた大方針を決定する軍議でも、上手くやれたと思う。

 まず、情報収集が得意な者を五百を選出し、二人一組で巴郡全域に斥候として放って情報を集め、副官の高順様と、八健将と謳われた呂布隊生え抜きの小隊長を含めた残りの四千五百を二つの部隊に分ける。

 

 そしてそれを恋様と高順様がそれぞれに指揮し、恋様にはねね様が、高順様には自分がついて、二交代で各地域への巡回と城に詰めての警戒任務を持ち回る。

 もしも民や放っていた斥候からの報告、元々駐留中の警備部隊からの応援要請があった場合、敵の規模を計算して部隊を派遣し、予想よりも敵が多かった場合は決して無理をせず、速やかに援軍を要請した後、防戦に徹する。

 

 そもそも、巴郡にも本来、統治を任されている代官や城代たちはおり、駐留する正規の警備部隊が居る以上、呂布隊は遊撃を主とした助っ人部隊であるから、大方針としてはこれが最善とは行かぬまでも、上策だろう。

 そこまで決めて、一日の大休止を取った後、呂布隊は予定通りに任務を開始した。

 一緒に組む事になった高順様はとても実直かつ誠実な人物で、小隊長の面々も親しみやすい人達ばかりだったので、聳孤もすぐに打ち解け、緊張の日々は大した問題も無く、順調に過ぎて行った。

 いや、順調過ぎたのだと思う。

 不謹慎ではあるが、何だか生殺しにされて居る様な、真綿で首を絞められている様な気持ちになり、城壁の上で(くだん)の辞令を眺めながら鬱々としているところを、巡回出立の報告に来た恋様に見つかってしまったのである。

 

「聳孤、大丈夫。聳孤も、みんなも、恋が守るから」

 恋様はそう言うと、自分の頭を、仔犬にでもするようにクシャクシャと力強く撫でてくれた。

「はぁぁぁぁ……」

 聳孤は再び深い溜め息を吐いて、じき見られなくなるであろう、真っ白な夏の雲を眺めた。

 

 恋様の心遣いは身に染みて嬉しかったが、心中の不安を、名目上の事とは言え指揮下の将に悟られるようでは、指揮官としても軍師としても失格である。

 気心の知れた恋様だから良かったようなものの、新兵にでも見られていたら(尤も、主の近衛を兼ねている最精鋭の呂布隊には、新兵など殆ど居なかったが)信頼を失いかねないばかりか、良くない噂が隊内に蔓延しないとも限らないのだ。

 

 “一事が万事”とは、そう言う事である。

 あの穏やかな性格のお二人の師だって、『はわわ』とか『あわわ』とか言って慌てる事はあっても、すぐに迅速且つ正確な指示を出し、決して心中の不安をいたずらに表情に出したりはしない。

「いよっし!!」

 

 聳孤は勢い良く立ち上がり、気合を入れ直す為に両手で自分の頬を張った。

「いったぁ~い!うぅ、強くやり過ぎたぁ~」

 と、今度は涙目で頬を擦っていると、後ろから大きなドラ声が聞こえた。

「おお、此処におられましたか、軍師殿!」

 

 この声は、呂布隊の副官である、高順様だ。

 聳孤は急いで服の裾で滲んだ涙を拭うと、笑顔を浮かべて振り返った。

誠心(せいしん)様、何か御用ですか?」

「軍師殿、その“様”はおやめくだされ。軍師殿は若年とは申せ、この出城の指揮官です。たかだか副官風情に、“様”付けなどする事はありませぬぞ?呼び捨てで良いのです」

 

「いえそんな!誠心様は、洛陽の都で中郎将にまで登った御方で、御歳も遥かに上であらせられます。真名をお許し頂いだけでも畏れ多い事ですし、私は、いざ戦となったら皆さんに守ってもらうしかない若輩ですから」

 その言葉を聞いた高順こと誠心は、立派な虎髭で覆われた顎をモシャモシャと掻きながら、嬉しそうに笑った。

 

「はっはっは!軍師殿は、御大将や恋様と同じ様な事を申される!」

「え?」

「いや、お二人共、言葉遣いは軍師殿ほど丁寧では無いが」

 誠心が言う『御大将』とは北郷一刀を指し、王位にある桃香様の事は陛下と呼び分けている。

 

 誠心は聳孤の隣に並ぶと、先程、聳孤がそうしていた様に、蒼天に浮かぶ雲を眺めて少し遠い眼をしながら、口を開いた。

「恋様は、彼の虎狼関での戦の前、私達全員に真名を預けて下されたのです。『一緒に背中を預けて負け戦をするのだから、もう他人ではない』と仰って」

 

 女が男に真名を預ける、それがどれだけの事か。

 良く考えてみれば、恋様に仕えている古参の兵士達は、皆、恋様を真名で呼んでいた事に今更になって気付く。

 出会った頃からそれが当たり前だった為、なんの不思議にも思った事はなかったが、その経緯(いきさつ)は初めて聞いた。

 

「我らが参陣した初めての戦が終わった時、御大将も酒を注ぎに来て下さった折り、私らに丁寧に礼を言って下された。本来なら使い潰されても文句は言えぬ降将兵に、御大将自らに酌をして下さるだけでも、身に余る光栄でありますのになぁ」

 それだけではない。

 

 安全面から考えても、大いに危険が伴う行為だ。

 きっと、二人の師だけでなく、殆ど全ての幕僚たちが止めに入っていた筈である。

 だが、それでも主は、酒瓶を抱えて、少し前まで自分の命を狙っていた屈強な男たちの中に入って行ったのだ。

 

 恐らくきっと、あの人懐こい微笑みを浮かべて。

 聳孤は、相槌も打たずに誠心の話に耳を傾ける。

 今までの聳孤の立場では、男性の口から主の話を聞く機会は滅多に無かったからだ。

 聳孤のそんな心情を知ってか知らずか、誠心は偉容を誇る入道雲を眩しそうに見つめ、問わず語りに話し出した。

 

「ご存じの通り、私は生来の下戸でしてな。一滴でも喉を通ればもういかぬ。一呼吸もせぬ内に目を回して、醜態を晒してしまうのです。それ故、誠に心苦しかったのですが、丁重に杯をお断りしたのですよ。まぁ正直なところ、嫌なお顔をされる事を覚悟の上でした。初めてではありませんでしたから。しかし――」

 誠心はそこで言葉を止め、聳孤に向かって楽しそうに微笑んだ。

 

「あの御方は、『少し待っていてくれ』と言い残して、何処かへ走って行ってしまわれて……まさか、首刎ね役でも連れて来るのかと冗談半分に部下たちと笑っておりましたら、暫くしてから何やら瓶子(へいし)を抱えて、息を切らせてお戻りになられ、何が何やら分からぬ私の前に杯を置き、『これなら大丈夫』と中身を注いで下さったのです。『蜂蜜を水で溶いたものだよ』と仰られて……面食らいましたなぁ」

 

 聳孤は、まるで初めての恋人の自慢話でもするかの様に白い歯を見せる誠心に釣られて、笑みを零した。

「そうか。だから酒宴の時にはいつも、誠心様の前には蜂蜜水の瓶子が置かれる様になったんですね?」

「左様にこざる。『色付きの飲み物の入った瓶子が置いてあれば、差し当たり呑兵衛たちも煩くは言うまい』と、御大将が仰って。それで、酌をして下さりながら、こちらが恐縮してしまう程、何度も丁寧に礼を述べて下さるのです。『守ってくれてありがとう』、『助けてくれてありがとう』と」

 

 誠心は、目の前に北郷一刀が居て、今まさに礼を言われているかのように、照れ臭げに頭を掻いた。

「私は、この通りの武骨者でござれば、思わずこう言ってしまいました。『一軍の大将たる者が、たかが部将風情に軽々しく頭など下げてはなりませぬ。ましてや我らは降将兵なのですよ』と。すると、あの方はこう仰られた――」

 壮年の逞しい勇将は、少年の様に目を輝かせながら、(いさおし)を戴いたかの様に誇らし気に、ぐいと胸を張った。

 

「『教えてくれてどうもありがとう。でも、やっぱり自分を助けてくれた人にはきちんと礼が言いたいから、俺はこれで良いんだ』と」

 聳孤には、誠心の誇らしく思う気持ちが理解できる気がした。

 誰かを主と定めて仕えるという道を選んだ人間にとって、その主を天下に誇れるのは、どのような勲にもまして果報な事なのだと。

 

 同時に、今まで幾重にも重なって朧気だった北郷一刀と言う人物の印象が、自分の中で焦点を得てぴたりと合うのを感じ取れた。

「私が酔い潰れたのは、あの日の夜が人生で二度目の事でございました」

「へ?結局、お酒をお召しになったんですか?」

 

「いやいや、そうではなく――初めて酔ったのは、恋様の……飛将軍・呂布奉先の武を、この目にした時にございます。そしてあの夜、私は北郷一刀と言う御仁のお人柄に、足腰立たぬほど酔わされてしもうた。“男惚(おとこぼ)れ”、と言うやつだったのでしょうな。この方の為に死のう、と、心からそう思えたのですよ。しかしまぁ、あの恋様まで酔い潰してしまわれるとは思いませなんだが!」

 聳孤は、豪快な誠心の笑い声に釣られて、思わず自分も声を出して笑ってしまっている事に気が付いた。

 

 不思議と、先程までの憂鬱の虫は、何処かへ引っ込んでしまったようだった。

「北郷様は、この空の向こうで何をしておいでなのでしょう?」

 晩夏の空を眺め、聳孤はそう呟いた。

 誠心の熱が移ったのだろうか。

 

 聳孤は今、痛切に北郷一刀に会いたくて仕方が無かった。

「さて」

 誠心も同じ様にして空を仰ぐと、虎髭に覆われた顎を撫でて茶目っ気のある笑顔を見せる。

「あの、どこか底の知れぬ御方の事。もしやしたら、今こうしている瞬間にも此方(こちら)にお帰りあそばす準備の真っ最中やも――」

 

 『知れませぬ』誠心がそう言葉を締めようとした刹那、蒼穹の空を貫く矢の様な白い流星が、地平の彼方へではなく、山の向こうに消える事なく落ちて行った。

 二人は一瞬、顔を見合わせると、同時に太陽のある方向に顔を向ける。

 夏の残滓を残した日輪は、今や“流星の落ちたのと反対の方角”へと、すっかり傾ていた。

 

『天よりの御使い、乱れし世鎮めんが為、白き流星に乗りて東方の空より来たらん』

 

「―――っ、誠心様!!」

 嘗て、管輅なる占い師が齎した予言が脳内を掛け巡って硬直していた聳孤の脳は、(ようや)く送り込まれた酸素で息を吹き返し、半ば悲鳴の様な声で隣で茫然と立ち尽くす勇将の名を呼んだ。

 それを聞いた誠心も、はたと我に返るや、大きな武者震いを一つすると、戦場で鍛えた大音声(だいおんじょう)を張り上げる。

 

臧覇(ぞうは)成廉(せいれん)、疾く騎兵十を編成し、俺と軍師殿の供をせい!!」

 聳孤は、その声を聞きながら、我知らず、流星が落ちて行った山の向こうに祈りを捧げる様に、きつく両の手を組み合わせていた。

 

 

 

 

 

 

「ここで、野宿する」

 突然に馬の手綱を絞って馬脚を止めて、呟くようにそう言った主の顔を、陳宮こと音々音は驚いて見つめた。

 一度小休止を入れた事もあり、呂布こと恋の配下の将兵と馬達は、完全に日が落ちるまでにあと四十里は余裕で走れる筈である。

 

「なんですと――!?恋殿、まだ城から山を二つ程しか越えておりませんぞ?」

 音々音は、さっさと馬から降りてしまった恋を追って、ホットパンツから惜しげもなく露わにしている白い脚を揃えて馬から降りると、軽快な足取りで恋に近づき、怪訝な顔で己の主を見つめた。

 その目線は、もう恋のそれと殆ど変わらない。

 

「うん……でも……」

 恋はそう言って、深く俯いていた顔を音々音に向けると、確信に満ちた眼で続けた。

「恋は……ここに居なくちゃいけない気が……する」

「うぅ~、分かったのです。恋殿がそう仰るのであれば、それが良いのかも知れないのですよ……」

 後ろに控えた小隊長たちも、一瞬だけ苦笑いを浮かべて、各々の部下達にてきぱきと野営の指示を出し始めた。

 

 恋がこう言う顔をして話す時の言葉は不思議と的中するのを、誰もが知っていたのである。

 音々音は、腰まで伸びた美しい翡翠色の髪を先端で止めている赤い珠付きの髪留めを弄りながら、何かを恐れる様な口調で、主に尋ねた。

「あの、恋殿?その“気”は良い感じなのですか?それとも――」

 

 音々音は、何の根拠もない主の勘を恐れる自分を軍師として自己嫌悪しながらも、その精度がそこいらの易者などより余程、確かなの事を知っているが故に、尋ねずにはいられなかったのである。

 例え目に見える根拠があろうが無かろうが、主がこう言うものの言い方をする時の“勘”は、よく当たるのだから仕方がない。

 

「…………わからない」

 恋は、一部の(音々音に言わせれば)不遜な将たちが“触覚”と言って親しんでいるくせっ毛をひょこひょこと揺らしながら、広大な原野の果てを見定める様に遠くを見つめて、そう呟いた。

「わからない?」

 

「うん……良い事にみたいにも、悪い事みたいにも、感じる」

「はぁ、なるほど……」

 つまり、主が言いたいのは、『この近くで何事かが起こるのは間違いないが、それが吉事なのか凶事なのか、はたまたその両方なのかは、まったく分からない』と言ったところだろうか。

 念の為、今夜は見張りを誰かに代わってもらおう。

 音々音はそう考えて、振り返る事すらせずに原野を見つめ続ける主に断りを入れ、野営の支度を始めている小隊長達の処へ向かった。

 

 肝心な時に、寝不足で情緒不安定になりカッとなってしまっては困る。

 『あんたはすぐ頭に血が昇るんだから、出来るだけ気を付けなさいよね』と言う詠の言葉を(本人の居ない所でなら)素直に聞ける位には、音々音も成長していたのである。

 

 一人残された恋は、少しずつ朱を帯び始めた西の空を見つめて、愛しい人と手を繋いで帰った、いつかの日の夕暮れを思った。

 

 『もう、会えないかもしれない』

 

 愛しい人が故郷に帰ってからの三年余りの間、一度として感じなかった事の無かったそんな想いを、恋は今、初めて感じていた。

「ご主人様…………」

 飛将軍、紅蓮の戦神、三國無双—―大凡(おおよそ)、武人であれば、誰もが焦がれる様なありとあらゆる賛美を欲しいままにして来た深紅の髪の戦女神が、その半生で唯一人愛した男への呼び掛けは、緩やかに吹いた南風にさらわれて、やがて消えた。

 




 如何でしたでしょうか?
 少し拙い所もあるのですが、TINAMIさんでこれを書いていた当時、Wordすら入っていない中古のPCで無我夢中で書いていた時の事を思い出して、出来るだけ当時の熱と言うか、エッセンスみたいなものを残したいなと思い、こんな感じになりました。
 また、自分の物語を広げる為に、外史でのオルジナルキャラクターを登場させようと言う方向に舵を切った思い出深い回でもあります。

 蜀は特に、益州平定からラストまでのスパンが短い事もあってか、能吏として名高い益州組の人物が(今に至るまですら)殆どキャラクター化されて居ないので、正直、列伝すら立ってないお馬さんシスターズとかより、そっちの層を厚くした方が、絶対にストーリーが広がるのに、と思ったりもしております(別に、彼女たちが嫌いな訳ではないのですが……)。

 今回のサブタイ元ネタは

 星の欠片を探しに行こう/福耳

 でした。
 今みても豪華な面子のバンドでしたねぇ……。

 次回からはいよいよ、外史編の本格始動となります。
 この辺りも、当時としてはかなり頑張って書いていたので、直しがスムーズに進めば、早めに投稿できるかも知れません。
 では、また次回お会いしましょう。
 


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第五話 ゆずれない願い

どうも、YTAです。
書き出す前はあっさり終わりそうだと思っていたのが、そもそもの間違いでした……。
前回、勢いで書いていた所の矛盾点などを調整し始めたら、三行くらい書いては頭を悩ませるような状態に陥ってしまい、余分にカロリー消費した気分です……。
楽しんで頂けると良いのですが……。

感想、評価、お気に入り登録など、大変に励みになりますので、宜しくお願いします。
では、どうぞ!


 

 

 

「おぉ、もうチビるかと……」

 北郷一刀は、濃い緑が匂い立つ草原にがっくりと両手両膝を突き、チワワの様に震えていた。

 身動き取れずに高々度から地面に鋭角に突き刺さるなど、正気の沙汰ではない。

 まぁ、そもそもウィングスーツどころか、古式ゆかしい落下傘(パラシュート)すら付けずに自由落下(フリーフォール)などしている時点で正気では無いにせよ、だ。

 

「何で記念すべきタイミングで、こんな辱めを……」

 この大地を踏みしめる瞬間を、どれほど長い間、待ち望んで来た事か。

 だと言うのに、何の因果でその最初の感想が『パンツを濡らさなくて良かった』でなくてはならないと言うのか?

 

「いかん、いかんぞ。メンタルリセットだ、メンタルリセット……」

 一刀は、自らを叱咤して無理くり身体を起こすと、大きく息を吸った。

差し当たり、五体満足で傷一つ無い。

 地面に周囲の生態系を破壊する様なクレーターを穿(うが)ったりもせずに済んだ。

 

 万々歳ではないか。

 一刀は続いて、卑弥呼が持たせてくれたミリタリーバッグのジッパーを引き下ろし、中身を確認してみる。どこぞのカリスマ主婦にでも傾倒しているのかと疑いたくなるレベルで整頓されていた為、直ぐに目的の物――キャメルのパックのカートン、お気に入りのクローム製のシリンダーアシュトレイ――を見つける事が出来た。

 

 一刀はオイルライターで煙草に火を点け、有害物質が肺を満たす感覚に満足すると、行動方針に付いて考える事にする。

 落下中に体制を固定される前に見た周辺の地形では、西に見える山を越えた先に、出城が見えたので、とりあえずはそこに向かうべきだろう。

 

 知り合いが居れば会わせてもらえば良いし、居なければ、城の人間に一番近くにいる知り合いの居場所を訊き出せばいい。

 遥か上空からの目算ではあるが、それでも城までは20km前後の距離でほぼ間違いないと自信が持てる。荷物はあるが、ゆっくり歩いて行っても精々6~7時間の距離だ。

 

 鎧を着れば一瞬で踏破できる道程ではあるが、この濃厚な緑の匂いや清廉な空気をゆっくり感じて歩きたいと言う欲望は、自分でも驚くほど強いものだったので、それに逆らう気も起きなかった。

 となれば、問題は既に太陽が随分と西に傾きつつあると言う事だろう。

太陽の位置や空模様、気温を総合して考えれば夏か初秋と思われるので、まだ日照時間は長めの筈だが、それでも甘く見積もって、夜の光源など月明りと蛍くらいしかないこの世界の山中で日暮れを迎えるのは、絶対に避けたい。

 

「野宿か~。野宿いっちゃうか~」

 幸い、この周辺が山の麓にほど近い草原なので、焚き付けにも苦労はしないだろう。

 一刀が周囲を見渡すと、丁度、全長が3m程の大岩があるのが目に付いたので、近づいてみる。

 歩を進める度に、飛蝗(バッタ)蟋蟀(コオロギ)たちが慌てて飛び退いていくのを見るのも随分と久し振りで、それだけで胸が躍る様だ。

 

 一刀は、岩の直ぐ近くに焚火の跡を見つけ、満足気に微笑んだ。

 周囲もよく踏み慣らされているので、どうやら予想通り、旅人たちがよく野営に使っている場所なのだろう。一刀は、ここを野営地にする事に決めて、焚き付けを集める為に山に向かって歩き出した。

 少し早いが、日があるうちに火を起こしてしまうのも良いかも知れない。

 そんな事を考える一刀の心中は、とても豊かな思いで満たされていた。

 

 

 

 

 

 

 費禕(ひい)こと聳孤(しょうこ)は、必死の思いで、細い山道を疾走する馬の背にしがみ付いていた。目は向かい風を受けて干からびる寸前で、手綱を握る手には感覚がなく、尻は二倍に腫れ上がっている様な気がするし、内腿の筋肉は悲鳴を上げている。

 それでも聳孤がどうにか耐えていられるのは、鍛え上げられた呂布隊の駿馬(しゅんめ)を借りていて、尚且(なおか)つ、前に高順こと誠心が、左右にそれぞれ臧覇こと武悦と清廉こと知拳が張り付く様に並走して、聳孤の馬を上手く誘導してくれているからだ。

 

 乱世の時代には、『一匹の巨大な獣の如し』とまで言われ畏怖された呂布隊の騎兵の手綱捌きは、本来であればこんなものではないだろう。

 後ろを付いて来てくれている十名の護衛たちも、恐らく、今の倍の速さであろうと汗一つ汗をかかずに走る事が出来る筈だ。

 

「大事ありませんか、軍師殿?」

 聳孤は、大声でもないのに明瞭に聞き取れる武悦のその問い掛けに、無理やり笑顔を作って頷いて見せる。口を開けば、腔内の水分を一瞬で風に奪われてしまいそうだった。

 一方の武悦は平然としたもので、聳孤に向けた目をまた前方に戻して、誠心や知拳と馬足を合わせる事に注意を戻している。

 

 流石に、今にも胃がひっくり返りそうだなどとは言えない聳孤は、兎に角、前を走る誠心の背中を追う事に意識を集中する。

 この山を越えた先には自分の、いや、この世界が待ち望んでいた人物が居ると信じて。

 

 

 

 

 

 

豪奢(ごうしゃ)だねぇ」

 一刀はそう独り言ちて、焚火の爆ぜる音を聴きながら朱に染まり出した山々と緑の大地を眺め、卑弥呼が持たせてくれた干し肉を噛み千切った。

 紙巻き煙草が許されるなら缶詰くらいは入れてくれても良いじゃないかとも思うが、まぁ漢女の判断基準なので深くは問うまい。

 

 それに、洒落た革巻きのスキットルに入っていたウィスキーは中々の味だ。

 姬大人の筆跡で『祝杯』と書かれたメモ用紙が貼ってあったから、餞別の心算(つもり)で師が入れてくれたのだろう。

 遠目に野生の馬が数頭、此方を(うかが)っている姿すら、印象派の絵画の様に思える。

 

 いくら金を積んでも、この豊かさを買う事など出来はすまい。

 一刀がそんな事を思っていると、一頭の馬が鼻を上に向けて耳を(しき)りに動かし、傍に寄り添って草を()んでいた一回り小さい馬の頬を自分の鼻で一撫でして、一緒に駆け出した。

 それに気付いた他の馬たちも、後を追って走り去っていく。

 

 その様子を見た一刀は、僅かに眉を(しか)めてスキットルに蓋をすると、四つん這いになり、地面に耳を付けて意識を集中した。

「(5から10ってところか?)」

 大昔、毎日の様に聞いていた馬蹄の響きの記憶をどうにか呼び覚まして、そう見当を付ける。

 

  音が密集している事から考えても、野生の群れではなく、隊列を組んでいるのだろう。

 襲歩(しゅうほ)(全速)ほどではないが、駈足(かけあし)と呼ぶには十分な速度だ。

 光源に乏しいこの時代、まだ夕暮れ刻とは言え、騎馬の集団が何の目的もなく、視界が悪くなり出してから、こんな速度で移動するなどと言う事は、まず有り得ない。

 

 一刀は、酔い覚ましに水筒の水を半分ほど飲み下してから腰の兼光の握りを確かめた後、キャメルを一本パックから振り出して口に咥え、焚火から手頃な小枝を摘まみ上げ、赤く燻るその先端を煙草に押し付けた。馬蹄の方角からしても出城の人間たちである可能性は高いが、盗賊かと疑われて見咎められるかも知れない。

 

 そうなると、顔見知りでもない限り、今の一刀には身分を証明する手段が何もないのだ。

 第一、単純に馬賊の可能性とて捨て切れはしない。

「まぁ、なるようにならぁな」

 一刀はそう呟くと、藍色を帯び始めた空に紫煙を吐き出して小さく欠伸(あくび)をした。

 

 

 

 

 

 

 山を抜けた聳孤と呂布隊の面々は、山道から続く街道を暫く進んでから、馬を休ませる為に一旦、留まって、捜索の方針を決める事にした。

 ここから先は、低い山に囲まれた盆地となっている。

 二万三万という規模の大軍勢が自由に動ける程ではないが、それなりに広さがある為、乱世の折りには何度か数百程度の小勢同士での小競り合いがあった場所だったので、開墾もまだ進んでおらず、草原が広がるばかりの場所だ。

 

「この辺りには人里もありませぬし、日が暮れてからでは探索もままなりませんな。如何致しますか、軍師殿」

 誠心が思案気に虎髭を掻きながら聳孤に聳孤にそう尋ねると、聳孤は上がった息をどうにか隠しながら、(おとがい)に握りこぶしを当てて顎を引いた。

 

「そうですね……恐らく、まともに探索する時間は半刻(1時間)ほどしか無いでしょうし、無難にいきましょう。集合場所を決めて(のち)、散開して探索に当たるのが宜しいかと。この辺りは盗賊や山賊の報告もありませんし、そう危険はないでしょうから。それで見つからなければ、伝令を兼ねて半数を城に返し、翌朝に出直して頂きます。残り半数は、ここで野営し、夜明けと共に探索の再開を。明日、午前中いっぱい使って北郷様を見付けられなければ、私達の思い違いだったと言う事で探索を取り止め、帰還します」

 

「承知(つかまつ)った――皆も良いな!」

 誠心の呼び掛けに、一同が揃って返事をする。

 と、武悦がすぐさま口を開いた。

「では、此処から北西の、少し街道を外れた場所にある大岩を集合地点とするのが宜しいかと。城から遠乗りに来る者の休息場所になっております他、行商や旅人たちがよく使う野営場所となっておりますから。もし旅人と出会えれば、彼等から情報が得られるかも知れません」

 

「おう、それは良い。軍師殿?」

「はい。ではそこに向かいましょう」

 聳孤の言葉を聞いた誠心が武悦に先導を命じ、馬群は再び動き出した。

 そうして暫く、駈足の速度で移動していると、先頭を走っていた武悦が手綱を絞り、急制動を掛け、『停まれ』の意味で片手を上げる。

 

「如何したか、宣高」

 誠心が武悦の字を呼ぶと、武悦は「はぁ」と気の抜けた様な返事をして、訝し気な顔で馬首を巡らし、一行の元に戻って来た。

 その微妙な雰囲気を察して、誠心と知拳、そして聳孤が馬を寄せる。

「その、(くだん)の野営場所と言うのは、あそこなのですが、白い服を纏った男がおりまして……」

 

「なんと。であれば、御大将ではござりませぬのか!?」

 知拳の言葉に、武悦は小さく首を振る。

「それが、分からぬのだ。確かに似ている気もするが、御召し物も、色や意匠は似ていても以前とは違うし、何より、貫禄があり過ぎると言うか……」

 

「ふむ。あまり大勢で行って違っていたのでは、相手を驚かせよう。では、武悦、知拳、共に参れ。他の者は此処で待機—―軍師殿、参られまするか?」

「あ、はい。勿論!」

「では、我らの後ろに」

 

 聳孤は言われた通りに、誠心を中心にして、騎馬のまま先を行く三人の後ろに並足で馬を付けた。

 逞しい誠心の身体と乗馬が上下に揺れる隙間からは、遠目に焚火の火と、男の足元が見えるばかりだ。

 心臓が痛いほど動悸が激しくなっていた。

「そこな者、旅人か?私は――」

 

 誠心が、三十丈(約100m)ほどの距離を開けてそう声を上げると、男が立ち上がった。

「おぉ!誠心、武悦、知拳、ただいま!!」

 聳孤は、男たちが転がる様に馬から降りる姿を、息を呑んで見詰めるしかなった。

 

 

 

 

 

 

 一刀は、昔懐かしい呂布隊の部将たちに呼ばれて、改めて『帰って来た』と言う実感を噛み締めた。

 三人の男たちは、長揖(ちょうゆう)の礼を取って一刀の前に(ひざまず)く。

「御大将、よくぞ……よくぞ御戻り下さいました!」

「久し振りだなぁ、誠心。武悦、知拳も。皆、俺と違ってあんまり老け込んでなくて安心したよ」

 

「はっ!その、御大将は少々、貫禄がお付きに……」

 知拳が嬉しそうに軽口を叩くと、一刀は首を竦めた。

「まぁ、十五年も経ちゃあ、少しは貫禄も付くさ」

「はぁ?僭越ながら、御大将が天にお戻りになられてより、三年半ほどしか経っておりませぬが……」

 

 武悦が柄にもなく頓狂な声を出すと、一刀は困った様に苦笑を浮かべた。

「そうか、こっちでは三年か……説明が難しいんだが、天の国の時間とこっちは時間の流れが違うとで思ってくれれば良いかな」

 一刀は、そう言って頭を掻くと、改めて誠心の方へ向き直った。

「それより、皆が居るって事は、恋も来てるのか?」

 

「はっ、最近、この巴郡に於ける化け物どもの動きが活発になり、現地の駐屯部隊の応援に、我ら呂布隊が遣わされました」

 誠心がそう答えると、武悦が何処か申し訳なさげに口を添える。

「されど、恋様はねね様を伴い、巴郡西部の巡回に」

 

「一足違いか。残念だが……それにしても、ねねの奴、まだ恋にべったりなのか?軍師が拠点を留守にしてまで巡回にくっ付いて行くなんて、仕方ないな」

 一刀が、懐かしそうに困った顔で苦笑を漏らすと、誠心が微笑みを返した。

「なんの。ねね殿も、最近では立派に軍師らしくおなりですぞ。城には新任の軍師殿もおられます故、ねね殿も安心して恋様のお供をする事にしたのでしょう」

 

「うん?新任の軍師?」

「左様にございます。さぁ軍師殿、こちらに御出(おい)でなさいませ」

 誠心が後ろを振り返って、当の新任軍師と言う人物に呼び掛けると、袖を合わせて長揖をしている為に顔は分からないが、小柄な女性か少女であろう事だけは分かる。

 

「北郷一刀様、無事の御帰還を心より寿ぎ申し上げ奉りまする。主、劉玄徳並びに各国の王侯の皆々様に先んじて、若輩の我が身が御拝謁(ごはいえつ)に浴する栄誉を賜りましたる儀、誠に恐悦至極に存じ上げ奉りまする」

「お、おぅ?あー、苦しゅうない。面を上げよ」

 

 格式張(かくしきば)った挨拶に面食らった一刀は、声が裏返りそうになるのを何とか堪えてそう言うと、両手を僅かに下げ、(こうべ)の角度を浅くした事で露わになった少女の顔を見て、安堵の溜め息を吐いた。

「なんだぁ、ショウコちゃんじゃないか!初見の新人さんかと思って、思わず身構えちまった。驚かさないでくれよ……でも、立派になったなぁ。もう独り立ちしたんだね?」

 

「あ、あの……私の事を、覚えて下さっておいでで?」

 聳孤が、耳まで真っ赤になりながら、おずおずとそう問うと、一刀は笑って頷いた。

「当たり前だろう。真名を預けて貰った友達を忘れたりなんかしないとも」

「こ、光栄の至りにごさいます……!!」

 

「え?あぁ……はは、そんなに畏まられると、どうも照れ臭いな」

 一刀が、委縮した様に頭を垂れる聳孤に戸惑っていると、誠心が助け舟を出してくれる。

「まぁまぁ、お二人とも、積もる話もござりましょうが、じきに日も暮れ申す。今なら、緩く駈足で馬を走らせれば、完全に日が暮れるまでに城に戻れましょう。積もる話は、その後で宜しいのでは?」

 勿論、願ったり叶ったりであった為、一刀はその提案に乗る事にして、焚火の始末をして荷物を持ち上げた。

 

 帰路では、重量を考慮して聳孤の馬に相乗りさせてもらう事になったが、聳孤は結局、城に戻るまでの間、一刀が何度、話し掛けても小さく返事をするだけで全く会話が続かず、流石の一刀も少々気まずい思いをした。この時代、年頃の娘が人の目のある場所で男と密着するなどそうある事ではないから、やむを得ないとは思いつつ、それでも、自分の膝に乗って屈託なく笑っていた聳孤の顔を覚えていた一刀は、時の流れを感じて、僅かに寂しく思うのだった。

 

 

 

 

 

 

「あぁ、中々にしんどい一日だったぁ……」

 城に帰り着いた一刀は、兵たちの熱烈な歓迎を受けた後、一刀は楼閣の階段に腰を下ろし、ゴキゴキと首を鳴らして溜め息を吐いた。

 それでも、この城は純粋な軍事基地で庶民が殆ど居ないので、幾分かは気が楽ではあったが。

 

 久し振りに馬に乗って自分の尻の皮を心配しなければならない様な状態なのに、天の御遣い然として振る舞うなど、流石に想像するだけで気疲れがする。

 すると、そんな一刀の様子を見ていた誠心が、白い歯を見せて笑い声をあげた。

「ははは、お変わりなきご様子、安心致しましたぞ、御大将」

 

「ふん、お前も身動き出来ずに空から落ちて見れば、俺の気持ちが分かるさ。お望みなら、喜んで手伝ってやるぞ?」

「いやいや、その様な恐ろしい事、何卒、ご容赦下さりませ!」

 普段は威厳溢れる副官の情けない声で、一刀ばかりではなく、周りに居た武悦や成廉、そしてその部下たちの間で、明るい笑い声が上がる。

 

 そんな中、成廉が不思議そうに辺りを見回した。

「おや、軍師殿がおられぬな」

「おぉ、確かに。御大将にお会いになるのを、楽しみしておられたのになぁ」

 一刀は、武悦のその言葉に、片眉を吊り上げる。

 

「ショウコちゃんが、俺に?」

「やれやれ、御大将はやはり、相も変わらずで在らせられる」

 誠心はそう言って苦笑を浮かべると、少し声を落とした。

「軍師殿は、『自分はまだ御大将に臣従の御赦しを頂戴していない』と、少々、気に病んでおいででしてな。私も皆も、御大将はその様な些事に(こだわ)る御方ではないからと申し上げているのですが、やはり……」

 

「あー、そうか。あの時は、あれが最善だと思ったんだけどなぁ」

 一刀がそう言って頭を掻くと、誠心は『分かっている』とでも言いたげに微笑んで口を開いた。

「軍師殿はよく、城門左の馬面(城壁の四隅にある長方形の張出部)で考え事をなさっておいでですぞ」

 一刀は小さく頷いて立ち上がると、ぽんぽんと尻の(ほこり)を叩いて歩き出すのだった。

 

 

 

 

 

 

「はぁぁぁぁぁ……なにしてるんだろう、私」

 聳孤は、肺の空気を全て絞り出す様な盛大な溜め息を吐いて、姫墻(ひめがき)(磁路の城壁の上部に凸凹に積まれた防護壁)に背を預けて座り込んだ。

 この三年半の間と言うもの、主に改めて臣従を願い出る時にどう切り出すか、毎日の様に考えて来たと言うのに、いざそうなって見ると、結局なにも言えず仕舞いだった。

 

 しかも、騎馬への相乗りを許されたばかりか、主は自分を気遣って親しくお声掛け下さったのに、殆どまともに受け答えも出来なかったのだ。

 これでは、軍師だの臣下だの以前の問題ではないか、と自分を叱責する。

 挙句の果てには、この城の指揮を預かる身でありながら、御帰還あそばされた主の歓待を、まるきり部将の皆に押し付けてきてしまった。

 

 いや、やってしまった事は仕方がない、と聳孤は気持ちを切り替えるよう努める。

 主をお迎えした以上、指揮官である聳孤にはやらねばならない事が山積みだ。

 成都へは勿論、都へも使者を立てねばならないし、城への着任前に魏と呉の諸将が共同で軍勢を率い、街道整備事業の視察と言う名目で、武陵より西の国境まで兵を出してくれると言う話だったから、そちらへも軍使を立てておくべきかどうかも検討しなければならない。

 

 しかし、流石に成都の許可なしに武装した軍勢を越境させるのは角が立つか。

「うん、まずは桃香様に――」

 聳孤が、気を取り直してそう独り言ちると、視界の僅かな死角になっていた階段の方角から声が聞こえてきた。

「おっ、良かった。まだ此処に居たんだな」

 

 その声の主は、北郷一刀その人だった。

 聳孤が慌てて立ち上がって姿勢を正すと、一刀は聳孤に向かって歩を進めながら、困った様な笑顔を浮かべる。

「誠心から、此処だと聞いてね。あ、誠心から真名は?」

 

「はい!お預かりしています!」

「なら良かった」

 真名は、許されていない者が居る場で三人称として使う事も、基本的には佳しとはされない。

 先程は思わず彼らの真名を聳孤の前で呼んでしまったので、少し気にしていたのだ。

 聳孤の言葉を聞いた一刀は笑顔のまま頷くと、聳孤の横の姫墻の凹になっている部分から、既に殆どが藍に染まり、気の早い星々が顔を出し始めた空をしばし眺めてから、聳孤の方に振り返った。

 

「あー、その、煙草良いかな?」

「はぁ?どうぞ……でも、こんな場所に煙草盆はございませんが……」

 主筋である一刀がわざわざ自分に喫煙の許可を求めた事を奇妙と思ったのか、聳孤はそう答えて曖昧に頷いた。

「ありがとう。火種は持ってるから大丈夫だよ」

 

 一刀は、外套の内ポケットから煙草をキャメルのパックとオイルライターを取り出すと一本振り出してライターの蓋を開け、フリントホイールを擦って火を点けて紫煙を吐き出す。

と同時に、聳孤が「うわぁ!」と声を上げた。

「凄い!それは仙術ですか!?」

 

「うん?あぁ、火が点いた事?いや、そんな大仰なもんじゃないよ。これはライターって、俺の国の火を点ける道具さ。ショウコちゃんにも出来るよ。やってみるかい?」

「よ、宜しいので?」

「勿論。ほら、こうして持って、ここの丸いところを、下に擦る感じで動かすんだ。消すときは、蓋を閉めれば良い」

 

 一刀は聳孤の手にオイルライターを握らせると、「やってごらん」と言った。

 聳孤は真剣な面持ちでライターを握り、恐る恐るフリントホイールを回す。

 すると、シュッという音と共に、オイルライター独特の香りを纏った炎が夕闇を柔らかく照す。

 同時に、聳孤が嬉しそうに声を上げた。

 

「わぁ、本当に出来ました!」

「良かった。やっと笑ってくれたなぁ」

「あ!えっと……その、あ、ありがとうございました……」

「笑顔が昔と変わってなくて、安心したよ」

 

 一刀は、聳孤からライターを受け取りながらそう言うと静かに待つ事にして、彼女にプレッシャーを掛けないよう、視線を空に向ける。

 空では、そろそろ夜空の主演である月が、青いカーテンの向こうから藍色の舞台へと上がって来ようとしていた。

 

「あの……」

 聳孤が漸く口を開いたのは、一刀が根元まで吸い切ったフィルターを携帯灰皿に捨ててから、二本目を吸おうか悩み出した頃の事だった。

「うん」

 

「わた……私は、以前、御拝謁を賜りました時、その、醜態を晒してしまい……」

「そんな風には思っていないよ」

「はい!北郷様の大御心を疑う様な事は、断じて!ただ、その……若輩の身ながら、畏れ多くも漢中王劉備様から官位を頂戴した今となっても、私はその、もう御一人の主である筈の北郷様に、臣従の御赦しを賜る機を逸したままで……いえ、それは勿論、ひとえに私の不徳の致すところなのですが……!」

 

「あのな、ショウコちゃん。俺は、そういう事には拘らない(たち)なんだ。だから、そんな格式張った事をしなくても、友達として、仲間として力を貸してれるなら、それで十分なんだよ。それじゃ、駄目なのかい?」

「駄目です」

 

 聳孤は、一刀が驚くほどピシャリとそう言うと、両膝を突いて長揖の礼を取り平伏した。

「私は、今日のこの日まで、誰に(はばか)る事なく、己は天の御遣いの直臣であると名乗る事を夢に見て、精進を重ねて参りました。我が非才、師や姉弟子たちに到底及ぶものではございませぬが、忠節だけは!北郷様の治世をお支えしたいと言う想いだけは、誰にも引けは取らぬものと自負しております!」

 

「いや、ショウコちゃん、そんな――」

 一刀が立たせようとしても、聳孤は頑として動かない。

「何卒—―何卒、私を臣下の末席にお加え下さいますよう、伏してお願い申し上げ奉りまする!」

 一刀は聳孤の頭頂部を眺めながら、小さく溜め息を吐いた。

 

「分かったよ。それで君の気持が収まるならな」

 『自分は神輿だ』と、ずっと思っていた。

 しかし、時が流れれば人の在り様も変わる。

 自分の前で跪くこの少女にとって、自分は出会った時から“三国同盟の盟主”だった。

 まともに馬にも乗れず、戦となれば青い顔をしていた頃を知っている古参たちとは、関わり方の取っ掛かりからして違うのだ。

 

「費文偉よ」

 背を伸ばし、精一杯の威厳を込めて、少女の名を呼ぶ。

 せめて、彼女の望む理想の君主像の何分の一かにでも届いていて欲しいと願いながら。

「ははっ!」

 

「これよりは我が臣として、その知略を、この大地に息とし生ける全ての者達の平穏と安寧を護る為に役立てて欲しい――頼んだぞ」

 聳孤は、ぶるっと小さく武者震いをすると、厳かにその言葉に答える。

「はっ!臣、費禕文偉、改めまして我が真名、聳孤をお預けすると共に、粉骨砕身、不惜身命の覚悟を以って、我が君の御期待を裏切る事なき様、精進致す所存にございまする!」

 

「えぇと、これで良いのかな?こんなに改まったのは初めての事で、上手く出来たか分からんが……」

 聳孤は、今度こそ一刀に従って立ち上がり、頬を上気させて、何度も大きく頷いた。

「はい……はい!これで、(ようや)く――!」

「うん、それなら良かった。で、早速、相談なんだが」

 

「はっ、何なりと!」

「俺が巴郡に落ちて来たのは、この地域で罵苦の大規模な動きがあるかも知れないって話があったからなんだ。罵苦の出現だけなら俺が察知できるんだが、それもギリギリにならないと分からない。だから、暫く此処に留まって様子を見たいと思ってる」

 

「現在、纏まった戦力は我ら呂布隊五千のみ。内、二千は恋様と共に巡回に出ていますが、三日の後にはお戻りになられる予定です。巴郡には警備部隊が一万ほどおりますが、誠心様が申しておりました通り、罵苦が頻繁に目撃されている事を鑑み、警備部隊に関しては、兵三千を本隊として、郡都である安漢からこの城にも近い郡中央部の宕渠に兵を移し、残り七千を郡の各所に分けて配置しておりますれば、明日にでも宕渠に使いを出し、我が君の名を以ちましてこちらに合流するに致しましょう。罵苦の作戦の規模は分かりかねますが、精兵中の精兵である呂布隊を含めた八千の兵を動かせる状態にしておけば、まったく対応できないと言う事はないかと」

 

「分かった。印章も何も持ってきてないが……」

「それは問題ありません。私と恋様の印章で十分でしょう。それから、成都への報せに援軍の申請も含めておきます。が、こちらは水路を使ったとしても、事が起こる前に間に合うかどうか――」

「流石に、編成からだしな。相手の出方が分からない以上、要請するなら多めにと考えると、兵站の問題もあるか……」

 

「然り。この城の備蓄だけでは、流石に二倍三倍の数の兵を長くは養えませんから。郡都からの供出と巴郡各地からの調達を図るとしても時間が掛かりますので、当面の兵糧は、成都から輜重隊を編成して運んでもらう事になります。なのでこちらは、万が一、間に合えば僥倖(ぎょうこう)、程度にお考え頂いた方が宜しいと存じます」

「よし、分かった。こちらの最大兵力は八千、その心算(つもり)でおけって事だな」

 

「はっ」

「で、恋とねねの事なんだが――」

 

 

 

 

 

 

「ほう……!」

 誠心は、北郷一刀の後ろに付いて大広間に入って来た聳孤を見て、思わず息を呑んだ。

 身に纏った空気が、目に見える程に違うのが分かったからだ。

 “飛龍乗雲(ひりゅうじょううん)”と言う言葉がある。

 それはこの国に於いて、龍は雲に乗って空を駆けると言い伝えられている事に由来し、才ある者が、それを活かせる場所や地位、或いは人を得た時に用いられる故事だ。

 

「(軍師殿もまた、“臥龍”であられたか)」

 誠心は、彼女の師である諸葛亮が、『その才、雲たる人物を得れば天駆ける龍が如く成ろう』と言う意味を込めて、水鏡先生こと司馬徽(しばき)よりその二つ名を与えられたと言う逸話を思い出し、心の中で一人ごちた。

 つい先程まで、溢れる才気を感じさせながらもどこか自信なさ気だった少女は今、北郷一刀という大空を飛翔する為の“雲”を得たのだ。

「皆、少し聞いて欲しい」

 

 次代の臥龍を従えた天の御遣いのその声に応えて、誠心を含めた部将たちが彼の前に集まった。

「軍師殿には先程、話したんだが、罵苦による大規模な作戦行動の予兆がある。で、軍師殿と相談した結果、宕渠の警備隊の兵をこの城に入れ、一時的に編成に組み込む事となった。これに伴い、奉先と公台にも帰還を命じ、城に詰めてもらう事にする。敵の規模が不明である以上、主戦力の分散は危険と判断しての事だ」

 

「成都には?」

 武悦の問いに、聳孤が答える。

「朝一番で我が君の御帰還を報せる使者を立て、勿論、その際に増援も要請します。しかし、罵苦がいつ動き出すか分からない以上、時を要する成都からの援軍を頼りにし過ぎるのは危険です。こちらは八千の兵で迎え撃つ、と(おぼしめ)()し下さい」

 

「お任せあれ!御大将の旗を頂きし我が呂布隊に、敵はおりません。十万の化け物が相手でも、その喉笛の(ことごと)くを喰い破ってご覧に入れ申す!」

 一刀は、知拳の力強い声に笑顔で頷きを返してから、再び口を開いた。

「で、恋には明日の払暁と共に伝令を出し、直ぐに城への帰還命令を伝える事にした訳だが――」

 

「応。であれば、私の手下(てか)から、早駆けの巧みな者を選んでおきましょうぞ」

 武悦がそう言うと、聳孤が困った様な顔をして、緩々と首を振った。

「いえその……我が君がどうしても、推したい御方がいらっしゃるそうで……」

 聳孤の様子を見た部将たちは、一斉に一刀を見た。

 

(かつ)て、蜀を支えた幕僚たちが、同じ様な顔をして己の主を見ていた時に彼が何を言い出すのかを、何度も経験して知っていたのである。

「お、みんな察しがいいな――うん、俺が行くぞ」

 一斉に漏れた溜息の後、最初に口を開いたのは誠心だった。

 

「まぁ、御大将ならば、そうおっしゃるかも知れぬとは思っておりましたが……」

「大将が自ら伝令などと、聞いたこともございませぬ……」

 途中で言葉を失った誠心に続いてそう言った武悦は、やれやれと言った様子で首を振った。

「何だよ、別に良いだろ。俺、恋やねねや、呂布隊の他の皆にも早く逢いたいんだもん」

 

「いや、“だもん”て、駄々っ子でもあるまいし……しかしどの道、お止しても、お聞き届け頂けぬのでしょうな?」

 知拳にそう言われた一刀は、胸を張って頷いた。

「当然!これは上意であるぞ!」

 

「まったく、そんな事に上意を使わないで頂きたい。しかし、そこまで仰られるのでは、致し方ありませぬな」

 誠心の苦笑混じりのその言葉で、話は決まったのだった。

 

 

 

 

 

 

 その翌朝、まだ夜も明けきらぬ早朝の城門で馬の手綱を渡されながら、一刀は他の伝令兵たちと共に、聳孤や部将たちの見送りを受けていた。

「良い馬を選んでおきましたが、くれぐれもお気を付けを」

 諦念が滲み出た顔で誠心がそう言うと、聳孤が言葉を継ぐ。

 

「昨日の伝令の話では、恋様はこの街道を一直線に西に進んだ先の――」

 と、聳孤は道を指し示した。

「山を二つ超えた更に先にある原野の入口辺りで野営をするとの事でした。ここから百三十里(約50km)ほどの距離になります。その後の行軍は、街道を西に逸れ、先に見える山の峡間(きょうかん)を通って、その先の街まで。そこで一泊の(のち)、御帰還と言う流れになっていました」

 

相分(あいわ)かった。なに、そう難儀な道でもなし、明日には戻れるだろ。俺より、他の皆の方が大変だ。宜しくたの――ん?」

 一刀は言い掛けていた言葉を飲み込み、耳に届いた激しい馬蹄の響きのする方向へ顔を向けた。

 他の者達も音を聞きつけ、それに倣う。

 と、高々と土煙を巻き上げながらこちらに疾駆して来る馬が見えた。

 

 その背には、呂布隊の証である赤備えの具足に身を包んだ兵士が、しがみ付く様にして手綱を握っている。一刀が目配せをすると、誠心が馬に向かって駆け出す。

 騎馬に長けた呂布隊の兵士が、不格好に馬に乗り、しかもその馬が襲歩(しゅうほ)で疾走しているとなれば、それだけで非常事態を察するのには十分な判断材料だ。

 

「高順である!馬を止めよ!!」

 兵士は道の真ん中に立ちはだかった誠心のその大声を聞くと、馬を棹立ちにして止め、転げ落ちる様に下馬した。

「でっ、伝令!昨日の野営地点から望む原野にて、罵苦の大群と遭遇、会敵しました!その数、優に二万を超えております!」

 

「それで、恋は!?」

「御大将!?」

 兵士は、誠心の後から駆けて来て手綱を握り、馬を落ち着かせていた人物が一刀である事を認めると、一瞬、驚愕したものの、すぐに努めて冷静な口調に戻って質問に答えた。

「現在、恋様は音々音様の指示で、近くの峡間に拠って罵苦と対峙し、応戦しております!また、罵苦共はただの群れではなく、統率された軍勢として行動を取っている由、確かに費禕様にお伝えせよとの、音々音様のご指示であります!」

 

「誠心、こいつと馬を休ませてやれ!ショウコ、至急、策を立て、全軍で救援に向かう準備を!」

 一刀は、部将や伝令兵たちと共に後を追って来た聳孤に向かってそう言言い捨てると、自分の馬の元へ駆け出していた。

「お待ち下さい!我が君はどちらへ!?」

 後ろから聞えた聳孤の叫びに、一刀は馬上で答える。

 

「知れた事だ。恋たちを助けに往く!後は頼むぞ!」

 聳孤は、返事も待たずに走り去ってしまった主の背から視線を戻すと、突然の展開に驚いている伝令兵達に向かって口を開いた。

 

「伝令の行き先を変更します!私が今から、急ぎ文を(したた)めますので、旅支度の荷は全て下ろして準備を!一刻でも早く、これからをそれぞれの行き先に届けて下さい!皆さんに、この大陸の存亡が懸かっています!」

 

 金色(こんじき)の龍と乙女たちが織り成す、この世界の存亡を賭けた戦いの火蓋(ひぶた)が今、切って落とされようとしていた。

 




如何でしたでしょうか?
下準備も終わり、漸く次回から、恋と音々音が本格的に登場します。
これほどの長期間、執筆を休止していたにも関わらず、お気に入り登録を解除せずに待っていて下さったのみならず、延々と恋姫が出て来ないエピソードを諦めずに読んで下さった読者様には、厚く御礼申し上げる次第です。

今回のサブタイ元ネタは、魔法騎士レイアース初代OP

ゆずれない願い/田村直美

でした。

では、またお会いしましょう!


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第六話 深紅 前篇

どうも、YTAです。
オリジナルを書いた当時は、(ようや)く一刀と恋姫を絡ませる事が出来て嬉しかった思い出があります。

感想、評価、お気に入り登録など、大変励みになりますので、お気軽に頂戴いただければと思います。
では、どうぞ!


 

 

 

 魑魅魍魎(ちみもうりょう)の群れ。

 目の前の光景を言い表す言葉があるとしたら、音々音にはこれしか思いつかない。

 (そび)え立つ峡間の入口から際限なく湧き出て来て、二千余りの呂布隊を取り囲んでいる異形の軍勢が既にどれ程の数に上っているのか、想像するのも恐ろしい。

 不幸中の幸いだったのは、奴らこちらを見つけるより先に、こちらが奴らを見つけられた事だ。

 

 その日の夜明け前、陳宮こと音々音が目を覚ました時、同じ天幕の中で寝ていた筈の主の姿は、既に無かった。

 寝惚け(なまこ)を擦りながら、主である呂布こと恋を探して外に出た音々音が見たものは、三十里(約10km)ほど先の大地に空から“降って来た”、異形の怪物の群れだった。

 茫然とその光景を見守る不寝番の兵達の中に主の姿を認めた音々音は、その背中に駆け寄った。

「三万は、いない……」

 音々音が口を開こうとするより早く、恋はそう言うと、ゆっくりと音々音の顔に視線を移した。

 

「何ですと――――!?では、二万は確実に居るのですか!?」

 恋は、音々音の叫びにコクンと頷いた。

 それが、答えである。

「それに、将が、居る……」

「は?罵苦に、ですか!?」

 恋は再びコクンと頷くと、すらりとした美しい右手で、怪物達が降り立った辺りを指差した。

 

 音々音がその指先を辿って視線を動かすと、そこには信じられない、いや、信じたくない光景が広がっていた。

 大地を埋め尽くさんばかりの数の怪物たちは、地上に降り立った順に整然と隊列を組み、“陣形”を形成し始めていたのである。

 音々音は、戦慄しなから自分の喉が唾を呑む音を聞いた。

 

 だが、真に恐れ、警戒するべきはその点ではない。

 いみじくも恋が言った通り、怪物が陣形を用いていると言う事は、それは最早“群れ”ではなく、れっきとした“軍勢”であり、軍勢には、それを指揮する“将”が居るのは、自明の理である。

 罵苦の将、それは即ち、近づくだけで相手を消滅させる事が出来る、“中級種”か、更に上の存在、と言う事になる。

 

 未だ組織化された罵苦と戦った経験の無い音々音には、二万と言う規模の軍勢を指揮するのが中級種なのか、それとも更に高位の種なのかは分からない。

 しかし、自分達が今、罵苦による初めての本格的な攻勢を受けようとしている事だけは、間違いなく分かっていた。

 

「ねね、どうしようか?」

 恋の何時もと何ら変わらない調子の声で、音々音は我に返った。

 恋がこう言う時に音々音に聞く『どうしよう?』は、退くの進むのと言った事ではない。

 それはつまり、『どう戦ったら良いのか?』と尋ねているのである。

 

 音々音は、大きく深呼吸を一つして、着々と原野に集結しつつある敵を見据えた。

 例え賈詡こと詠に将棋で勝てた事がなくても、朱里や雛里のように天下に鳴り響く二つ名が無くても、自分は飛将軍、呂布奉先の軍師である。

 今この時、彼女を知略で支えられるのは、自分しか居ないのだ。

 

「行軍予定の峡間に奴等を誘い込みましょう。幸い、こちらは全員が騎兵なのです。奴らに一当てして挑発し、一気に駆け抜けるのですよ。峡間を抜けた先で態勢を整えて迎え撃てば、少なくとも、当面は完全に包囲される事は防げる筈なのです。後は、援軍が来るまでもたせられるかどうか、ですね……」

「分かった……援軍は、お願い」

 

 恋はそれだけ言うと、襟巻(えりまき)をたなびかせて、自分の馬の所に向かって行った。

 音々音は暫くの間、じっとその後ろ姿を見つめていたが、やがて、大きく息を吸い込んで叫む。

「誰かある!大至急、高順殿と費禕に伝令を!!」

 音々音は、恐怖にカチカチと鳴りそうになる歯を気力で押さえ付け、伝令の兵士に要件を伝えて送り出すと、今一度、異形の群れに目を遣った。

 

「恋殿もねねも、こんな所で死ぬ訳にはいかないのです。アイツに、新技を喰らわせてやるまでは――!」

その言葉は、物騒な内容とは裏腹に、限りない親しみを込めて音々音の口から零れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 狼の中級罵苦、黒狼は焦っていた。

 まさか、転移陣の真下に、これ程の手練れが率いる部隊が居ようとは、想像もしていなかったからである。

 奇襲を受けた時も、峡間に誘い込むつもりだと察した時も、まさか、こんなにも粘られるとは思ってもみなかった。小癪な、踏み潰してやる、と。

 だが彼らは寡兵ながらも善戦し、未だに殆ど死傷者を出していない。

「(シクジッタカモ知レヌナ……)」

 

 黒狼は内心で独り言ちると、峡間の出口に陣取って、たった一人で殆ど全ての下級種を屠っている紅蓮の髪をした人間の少女を見据えた。

 既に二千に届く下級種を(たお)しながらも尚、その覇気が衰えを見せる気配は無い。

 この分では、撤退しようにも、背を見せたが最後、喉元に喰らい付かれるのは目に見えている。

 

 つまりこの戦は最早、どれ程の損害を出そうとも決着を付けるしかない総力戦、と言う事だ。

 どうにか少女の巻き起こす死の旋風を逃れた者たちも、少女の後方で堅牢な方円陣を敷いた兵士たちに討ち取られてしまっている。

 峡間に誘い込まれている以上、数に頼んで一気に押し潰してしまえないこの状況で、ジリジリと戦力が削られて行くこの状況は、間違いなく『多寡が人間』と相手を侮った、黒狼の過失であった。

 

魔魅(まみ)

 黒狼は、自分と同じく、骸骨を纏った様な異形の黒馬に跨って隣りに控える狸の中級罵苦、魔魅に話し掛けた。

「如何した、黒狼?」

「アノ女ハ、俺ガ抑エル。オ前ハソノ隙ニ、本隊ノ半数ヲ率イテ、後ロノ部隊ヲ潰シテクレ」 

 

 魔魅は目を見開いて驚くと、諌める様な口調になって言う。

「黒狼、焦れるな。如何な剛の者とて、所詮は人間、すぐに疲れて隙を見せる。さすれば、そこで一気に――」

「一気ニ畳ミカケラレル、カ?峡間ニ誘イ込マレ、既ニ戦力ヲ二割近クモ削ラレタ、コノ状況デ?」

「むぅ・・・・・・」

 

 魔魅は、静かな黒狼の言葉に唸るしかなかった。

「今デスラ手ガ付ケラレヌノニ、半端ニ手負イニシテオイテ楽ニ討チ取レルトハ、俺ニハ思エンナ。コノ上ハ、俺ガ往クシカアルマイ?」

「しかし……」

 

饕餮(トウテツ)様カラオ預カリシタ兵ヲ、ココマデ失ッタノハ、間違イ無ク敵ヲ侮ッタ俺ノ責ダ。始末ハ、自分デ着ケル」

 黒狼はそう言うと、異形の只中で鋼の旋風と化している紅蓮の少女に向かって、ゆっくりと馬を進めた。

 

 

 

 

 

 

 轟音を伴って方天画戟が振るわれる度、二十体にも及ぼうかという数の化生の身体が真っ二つに両断され、黒い泥に還っていく。

一体どれ程の敵を屠ったのか、既に恋にも分からない。

 千辺りまでは数えていたのだが、そのうち面倒になってやめてしまった。

 ただ、人間を相手にするよりは随分と気が楽だ、とはずっと感じていた。

 それは、敵の外見が化け物だからでは無い。

 奴らは、“屍体(したい)にならない”からだ。

 

 恋に限らず、豪傑が一つの場所に踏み止まって、多数の敵を相手にする場合、最も注意しなければならないのは、数に呑まれる事ではない。

 そもそも、数に勝る程の武を誇るからこそ、その様な状況に自らを置くのだから、当然と言えば当然であろうが。

 

 そんな時、本当に注意しなけれはならないのは、既に記した通り、敵の屍体なのである。

 積み重なった(かばね)は、自由に身動きするだけの足場を奪うばかりか、やがては退路すら塞いでしまう。

 そうなると、圧倒的な強者によっても(もたら)される生命の危機という極限の恐怖によって、半狂乱になった敵は恐ろしい。

 

 そこに転がっているのが、例え竹馬の友であろうが、長年の戦友であろうが、(つまず)こうが、つんのめろうが、数に任せてお構いなしに吶喊(とっかん)して来るからだ。

 だから、様子を見ながら場所を変えたり、屍を吹き飛ばしたりしなければならないのだが、そのいずれも、恋は好きではなかった。

 つまり、場所を変えるという事は屍を踏み付ける事になるし、屍を吹き飛ばす事も同様に、勇敢に戦った者を侮辱している様な気がした為である。

 だから恋は、そういった状況の妥協案として、“生きている内に吹き飛ばす”という方法を採用していた。

 これならば少なくとも、勇敢に戦って散った者の屍を辱める事にはならない。

 

 (もっと)も今度は、及ばないと分かっていながらも向かって来る相手の勇気を穢している様な気分になるのだが、こちらも命が懸かっている以上、そうそう殺さねばならない者の事ばかり考えてばかりはいられない。

 その点、捕食欲と悪意の塊の様な、この異形の怪物達を殺す事に心を煩わせるのはそもそも無いにしても、一々足場を気にしなくて良いのはありがたかった。

 

 思い切り吹き飛ばす必要もないから、無駄な力を使わずに済むのも大きな利点だ。

 おかげで、まだ体力は十分に残っている。

「ふっ――!!」

 方天画戟は、恋の小さな気合を掻き消す程の唸り声を上げ、飛びかかって来ようとしていた猿の化け物を空中で縦に両断すると、地面に届く寸前にその軌道を変え、距離を取って機を窺っていた者達の胴を薙ぎ払った。

 

 黒い泥の血が円を描く様に大地を穢し、その上を再び新たな怪物達が埋める。

 恋は方天画戟を担ぎ直して体勢を整えると、次に飛びかかって来る気配に神経を集中させた。

 しかし、今の今まで間断なく四方八方から襲いかかって来ていた怪物達は、方天画戟がギリギリ届かない所で足を止めて不気味に蠢くばかりで、攻めてくる気配がまるで感じられない。

 

 かと言って怯えている様にも見えず、恋は小さく首を傾げた。

 と、罵苦達が湧き出て来ている峡間から、今まで聞いた事もない様な不気味な馬蹄の音が、はっきりと聞えて来た。

 その不気味さを言葉で表すならば、“生気が感じられない”と言うところだろうか。

 

 生き物の足音を、こんなにも不気味に感じた事は、恋の生涯で一度として無かった。

 恋は、周りを取り囲んでいる怪物達から、注意力の比重を、その馬蹄の音のする方へと移した。

 暫く見ていると、大地を埋め尽くしていた化け物の群れが、まるで海を割るかの様に二つに別れ、そこから、身体の上に更にもう一つ骨格を纏った様な、異形の黒馬に跨った漆黒の鎧武者が姿を現した。

 

「大シタモノダナ、娘。我ガ魔獣兵団ノ精兵(セイビョウ)ヲ、ココマデ圧倒スルトハ……コノ黒狼、心カラ称賛ノヲ送ラセテモラウ」

 

「犬が、喋った……」

「狼ダ」

 恋の、そのものずばりの言葉を、黒狼は間髪入れずに訂正した。

「そう、ごめん」

 

「構ワヌ。時タマ、間違ワレル故ナ」

「うん……お前が、将?」

「ソウダ、黒狼、黒イ狼ト書ク。見知リ置キ願イタイ」

「恋は、呂布。よろしく…………」

 

 恋と黒狼は酒家の席で隣り合わせた客同士がそうする様な気軽さで、互いの名を名乗り合う。

「呂布――ソウカ、貴公ガ、“コノ時代最強”を謳ワレル武人デアッタカ。コレハマタ何トモ、喜ブベキカ悲シムベキカ」

 黒狼は、どこかおどけた口調でそう言うと、悠然と黒馬の背から降りた。

 

「イズレニセヨ、コウシテ将同士ガ戦場デ顔ヲ合セタカラニハ、スルベキ事ハ、唯一ツ。マサカ、嫌トハ申スマイ?」

 恋は黒狼の問いに頷いて答えると、ゆるりと得物を肩に担ぎ直した。

それを見た黒狼は、ニヤリと口を歪める。

 

「獲物ノ重量ヲ身体デ殺ス―――カ。貴公モ、“独リデ戦場ニ立ツ事”ニ慣レテイルト見エル」

 黒狼の見立ては、正しかった。

 方天画戟を持った恋の立ち姿を見た者は、まずそれを、圧倒的な力量差から来る余裕と取るだろう。

 (ある)いは、その武が既に、“型”を必要としないまでの高みにあるのだろう、と。

 だが、それはある意味で正しく、またある意味では間違いであった。

 

 初めて戟を握ったその日から、恋は常に多くの敵の只中に、独りその身を置いて戦ってきた。

 それは、長時間に渡って数十キロにも及ぶ重量の武器を休む事なく振り続けなければならない、と言う事をも意味する。

 如何な呂奉先とはいえ、その体力は無限ではない。

 

 ましてや、その間に一兵卒より数段上の強さを持った敵将とも戦わねばならないのだ。

 握力の低下と過度の筋疲労は、致命的な隙を生みかねない。

 巨大な戟をゆったりと肩に乗せて構えるその立ち姿は、特定の師に教えを乞うた事のない恋が、独力で その経験から編み出した、自身の疲労を最小限に抑える為の、唯一の“型”と言っても過言ではないのである。

 

 即ち、(はな)から独りで大軍を相手にする腹積もりである、と言う点に於いては“余裕”であると言えるし、殆ど独力でその境地に到達した、と言う点では、その武は既に、当代一流の武人達ですらも考えの及ばぬ“高み”にある、とも言えた。

 ある意味で正解、ある意味で間違いとは、そう言う事である。

 

 恋は戟の柄を握り直し、その茫洋とした紅い瞳に確かな警戒の色を浮かべて、黒狼を見返した。

 黒狼が指摘した事は、彼女が今までに干戈(かんか)を交えて来た名だたる勇将猛将ですら看破した事の無い事実だったからである。

 

 尤も、師に教えを乞い、一挙手一投足に意味の存在する、“武を学んだ“者達が、その獣の如く峻烈な、“生まれついて武を識る者”の理論を見抜けなかったからと言って、それは当然と言えば当然だ。

 

 恋が黒狼を警戒したのは、黒狼が彼女の“型”を正確に見抜いたという事の意味を、瞬間的に理解したから。

 即ち、今対峙しているのは自分と同じく、“生まれついて武を識る者”であると悟ったからだった。

 

「ムンッ!!」

 黒狼が気合を込めて右手を強く握ると、黒い輝きと共に、その掌中に彼の得物が姿を現した。

 持ち主の牙にも似た形の、漆黒の二振りの片刃剣。

 その柄頭は、それぞれの刃が反対を向く形で接着されている。

 

 黒狼は、異形の双刀を肩にゆるりと乗せて構えた。

 まるで、恋の歪な合わせ鏡のように。

 存在すべてが異形の戦士は、隙を見せる事なく背筋の凍る様な遠吠えを上げるや、疾風の如き素早さで恋に吶喊した。

 

 金属同士がぶつかり合う、鋭い剣戟の音が戦場の響き渡った次の瞬間、黒狼の後方に居た怪物たちが、恋と黒狼を囲んだ怪物たちの外側をすり抜け、呂布隊の兵士たちが防戦を繰り広げている方角へと駆け出して行く。

「済マヌナ、コレモ務メダ」

 

 方天画戟で双刀の初太刀を受け止めた恋が、僅かに目線を切って走り去る怪物たちを確認したのを見た黒狼は、呟く様に言った。

「将は、そう言うもの。気にしない……」

 恋はそう答え、黒狼の身体を、その獲物ごと押し返そうと渾身の力を込める。

 

「!?」

 しかし、彼女の強靭な四肢は常の力を発揮する事はなく、逆に力を込めて双剣を押し込んだ黒狼の膂力(りょりょく)に負け、体勢を崩したところに蹴りを喰らって、宙を舞った。

 

「くっ…………!!」

 

「重ネテ詫ビル、呂布ヨ。出来得ルナラバ、“コノ様ナ真似”ヲセズニ、貴公ト死合イタカッタノダガ―――コレモ、一軍ヲ任サレタ者ノ宿命ダ」

 恋がどうにか空中で体勢を立て直して着地すると、黒狼は間を詰めるでもなく再び武器を構え直し、心の底から残念そうに、そう言った。

 

 

 

 

 

 

 恋は、異形の双刀を受け止めるその度に、黒狼に向かって引きつけられる様な、不可思議な感覚に戸惑っていた。

 もしも彼女が海辺の砂浜に立った事があったなら、こう表現するだろう。

『まるで、波打ち際にじっと立っている様だ』、と。

 自分は確かにそこに立っているだけの筈なのに、海に向かって引き込まれて行く様な、そんな感覚に、“吸収”される事は良く似ていたのだ。

 

 黒狼の“吸収”は、その感覚に肉体的な疲労感を伴って、恋の体力を確実に削っていたのである。

 しかし、戸惑っていたのは恋だけではなかった。

 黒狼もまた、今までに遭遇した事の無い事態に、言い知れない不安を抱いていた。

何故なら、彼は既に“満腹”だったのだ。

 

 罵苦の“吸収”が一種の捕食行為である以上、“吸収”を行う個体にその上限があるのは、至極当然の事である。

 しかし、四凶に次ぐ八魔である黒狼の“吸収”許容量は、そこいらの中級種の比ではない。

 その力を全て注ぎ込んで目前に居る一人の少女に向けたにも拘らず、少女は、その動きが鈍くなってはいるものの、未だ影を落として存在し、黒狼の刃を受け止め続けていた。

 

「(ヨモヤ、コレ程マデトハ……)」

 黒狼は、心中で独り言ちながら、双刀を振るい続ける。

 本来であれば跡形の無く消滅するか、少なくとも、実像が朧気になる程の“幻想”を吸収されながら、ここまでその存在を維持していられる様な英傑を相手にするのは、初めてだった。

 

 この時代から、遥か二千年近くの未来にまで語り継がれる三国志と言う物語の中で最強を誇った武人に注がれていた“幻想”は、それ程に膨大であったのである。

「(勝テルノカ……?)」

 圧倒的に有利な状況であるにも関わらず、己の刃を受け止められる度に、黒狼の心の隅に芽生えたその疑念は彼を苛んでいた。

 

「(本当ニ勝テルノカ?コノ、真ナル英傑ニ―――否!!)」

黒狼は、恋を弾き飛ばして距離を取ると、猛虎でも身体を竦ませる様な凄まじい雄叫びを放った。

 勝てるかどうかではなく、勝たねばならない。

 それが、彼が己の主と定めた人物の心の(おり)(すく)い取る為に己が出来る、唯一の事だと信じるが故に。

 

 黒狼は、圧倒的に不利な状況に追い込まれても尚、静かな光を(たた)えた瞳で彼を見つめる美しい敵に向かって、再び疾駆する。

 甲高い金属音と共に、恋は大地に踏ん張った体勢のまま、地面に砂埃を上げながら吹き飛ばされ、方天画戟がその手を離れて地面に突き刺さった。

 既に体力は底を尽き、最早、立っている事もままならない。

 

 こと白兵戦に限るなら、相手が英雄と言わず兵卒と言わず、一騎打ちと言わず一対多と言わず、戦場に於いて一度たりと負けを知らぬ無双の飛将軍は、その生涯で初めて、一騎打ちの相手に膝を着いた。

「素晴ラシイ武働キデアッタゾ、呂布」

 そう言って近づいて来る黒狼の足音をただ聞く事しか出来ずにいる恋の胸に去来していたのは、初めての敗北を喫した屈辱ではなく、死への恐怖でもなかった。

 

「(ごめん……)」

 それは、後方で自分を信じて戦っている音々音と部下達に対して、出城に残してきた部下たちと聳孤(しょうこ)に対して、護ると誓った、全ての人々に対しての、謝罪の言葉だった。

 黒狼の双刀が頭上に振り上げられた瞬間、恋は、この世界で最も愛しい人の笑顔を想った。

 己の武に、ただ生き残る為の(すべ)以上意味を、どんなに苦しい時でも立ち上がる勇気をくれた、あの笑顔を。

 

「ご主人様……」

 そうして静かに目を閉じ、最後にもう一度、その名を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

「あいよ!」

 聞える筈のないその声は、空から降って来た。

次に聞えたのは、一合の剣戟の音と、それに被さる様な、黒狼の唸り声。

きっと、夢だ。

 

 そうに決まっている。

 でなければ、死に際に聴こえる幻聴か。

「貴様、何者ダ!?」

「何者、ってお前、今のやり取り聞いてなかったのか?呂布に“ご主人様”って呼ばれて返事したんだから、俺は呂布の主に決まってるだろう」

 

 その会話を聞いて、恋は(ようや)く、恐る恐る目を開けた。

 さっき迄ですら、こんなに怖いとは思っていなかった。

 もしも、そこに声の主などおらず、本当にただの幻聴だったら、まだ命があったとしても、悲しみで心が壊れてしまう。

 

 恋の開けた視界に映ったのは、真っ白な袖付きの外套を着た男の後ろ姿だった。

 その、大きな背中を。

 黄金に輝く記章に描かれている紋章の元で、仲間たちと共に駆け抜けた、戦いの日々を。

 

「よぉ、恋。待たせたな」

 

 いつでも、恋の心に温かな灯りを燈してくれた、その声を。

 一日たりとて、忘れた事はない。

「ご主人……さま?」

 

 北郷一刀は、恋の呼び掛けに振り向いて微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

「呂布ノ主、ダト?—――マサカ貴様、北郷一刀カ!?」

 黒狼の驚愕の声に、一刀は視線を戻す。

 それと同時に、今まで黒狼にその切っ先を向けていた美しい刀身の刃を、悠然と降ろした。

「おぉ、まさかしなくても、その北郷一刀さ。どうだ、驚いたか?」

 

「馬鹿ナ!貴様ハ、正史デ黒網蟲ニ!!」

「あんな腐れ外道に(タマ)取られたんじゃ、あの世でご先祖様に合わす顔が無いもんでね。それより―――」

 一刀はそこで、場違いとも言える朗らかな微笑みを引っ込め、射抜く様な視線で黒狼を見返した。

 

「俺の女を弄んでくれた礼は高く付くぞ、犬っころ……!!」

 

 黒狼が、全身が総毛立つ程の殺気に呑みこまれたその刹那、一刀の腹部から輝く小さな龍が出現し、瞬く間に上半身に巻き付いて、吸い込まれる様に消える。

「―――鎧装!!」

 一刀の言の葉と共に溢れ出した激しい光の奔流に思わず目を背けた黒狼は、次の瞬間、そこから出現した黄金の右腕によって、怪物で作られた醜悪な円形闘技場(コロッセオ)の壁を突き破っていた。

 

「ナ……ニ……!!?」

 怪物達の身体がクッションになったのが幸いして、どうにか意識を手放す事を免れた黒狼が、半ば本能的に起き上がり様、後転して体勢を立て直すと、その眼前に、黄金の鎧を纏った魔人が、紅蓮の戦神を護る様に立ちはだかっていた。 

 

「さぁ、泥に還る覚悟はいいか?」

魔人は仮面の下で静かにそう言うと、黒狼に向かって、ゆっくりと足を踏み出した。




如何でしたでしょうか?
今回からの恋・音々音編はテンポ重視で少し短めですが、その分、出来るだけ早目に投稿したいと思っています。
最後の一刀の台詞は、元は『恋』と真名で呼んでいたんですが、革命で‟例え真名を預かった間柄でも、そうではない第三者に対して三人称で呼んではいけない、第三者が居る場で二人称に使ってもいけない”と言う設定が加わったので改変したんですが、どうなんだろうと今でもちょっと迷ってるんですよね……。

さて、今回のサブタイ元ネタは

深紅/島谷ひとみ

でした。
当時から、私の中で恋のテーマソングの様に感じていた曲です。
格好良い曲なので、是非、聴いてみて下さい。
では、またお会いしましょう!


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第七話 深紅 中篇

どうも、YTAです。
今回も短めな事と、元の文章が比較的、整っていたので、早目に投稿できました。

感想、評価、お気に入り登録など、大変、励みになりますので、お気軽に頂戴できればと思います。

では、どうぞ!


 

 

 

 

 黒狼は、黄金の魔人が裂帛の気合と共に放った右八双からの斬撃を受け止めた刹那、本能的に脚の力を抜いて、その衝撃に身を任せた。

 次の瞬間には、異形の双刀が軋みを上げ、黒狼は凄まじい速度で背にしていた峡間の壁に身体をめり込ませていた。

 

 『薩摩者と対する時は初太刀を外せ』とは、(かつ)て薩摩藩の剣士達と死闘を演じた新撰組局長、近藤勇の言葉である。

 薩摩藩と佐土原藩の者にしか伝える事を許されていなかった示現流の初太刀は、受けたが最後、剣を折られて頭蓋を割られるか、()しんば受けきれてもそのまま押し込まれ、自分の刀の峰が頭にめり込んで絶命する程の威力を持っていたと言う。

 

 黒狼は、その一撃の危険性を受けた瞬間に察知して、苦肉の策に出たのだった。

「(危ナカッタ……)」

 ガラガラと身体から岩の破片を落としながら、黒狼は無理やりに自分の脳細胞を動かす事に注力する。

 もしも今の一撃を腰を落としてまともに受けていたら、間違いなく双刀の刀身ごと、頭蓋から身体を両断されていただろう。

 

 それ程の、斬撃だった。

 黒狼は、完全に感覚の無くなった手を支えにして如何にか身体を起こすと、周りを取り囲んでいた下級種たちを次々と切り捨てている黄金の魔人を、茫然と見つめていた。

「天縛鎖!!」

 

 神刃を左手に持ち替えた皇龍王が叫ぶと、右の掌の付け根から高速で射出された鎖が、マシラの中の一体の腹を撃ち貫いた。

 皇龍王は天縛鎖を握ってスナップを利かせ、断末魔の叫びを上げるマシラの腹から引き抜くと、瞬時にそれに氣を流し込こんで輝く鞭へと変化させ、群がるマシラ達を真横に薙ぐと、閃光の刃となった鎖は触れる異形の(ことごと)くを両断し、黒い泥になって消滅していく。

 

 

「ギィィィィィ!!」

 不意に、不気味な叫び声を上げた数体のマシラが、皇龍王の右腕にしがみ付いた。

 どうやら、振るわれる閃光の鞭を、その根元から止めようとしているらしい。

「成程、猿にしては良く考えた。だが―――」

 

 皇龍王はそこまで言うと天縛鎖を切り離し、右腕に力を込める。

 瞬間、魔人の右腕が白熱して、マシラ達が苦悶の声を上げた。

「輝光拳!」

 しがみついたマシラごと突き出された拳は、白い光を纏いながら、その射線上に居た五十にも近いマシラたちを、轟音と共に文字通り吹き飛ばす。

 

「所詮は猿知恵、だったな」

 右の手首を軽く振った皇龍王が視線を巡らせ、残った敵の様子を確認しようとしたその時、狼の遠吠えが大気を切り裂いた。

 皇龍王を取り囲んでいた低級種たちは、その遠吠えを聞いて一瞬動きを止め、一斉に一刀に背を向けて走り出す。

 

「お、おい!何だってんだ、一体―――」

 マシラたちの向かって行った方向を見遣った一刀は、小さく舌打ちをした。

 そこには、断崖を背にして円方陣を布き、マシラの大軍の攻勢を凌いでいる呂布隊の姿があったからだ。

「狼は森の賢王なんて言うらしいが、あながち間違っちゃいないみたいだな?」

 

 皇龍王は忌々し気に吐き捨てて、後ろを振り返った。

 そこには、傷付いた身体を双刀で支え、静かに佇む黒狼の姿があった。

 

「ドノ道、アレ等デハ貴公ノ相手ハ務マルマイ。ナラバ、役立ツ場所ニ配スルノガ適切ダロウ?」

 黒狼の言葉を聞いた魔人は、神刃を右八双に構え直す。

「ならこれは、世間様で言う所の、『往くなら俺を(たお)してからにしろ』ってヤツか?」

「然リ……」

 

 黒狼も再び双剣を肩に担ぎ、二人の間の空気が張り詰めようとしたその瞬間、魔人の黄金の二の腕に、何かが触れる。

「恋?」

 それは呂布こと恋の、しなやかな左手だった。

 

「ご主人様、ダメ……」

 恋はそう言って左手に僅かに力を込め、右手に持った方天画戟を一刀の前に掲げて見せる。

「これは、恋の、勝負……」

 恋はそう言って、呂布隊が奮戦している方角に、熾火(おきび)を宿した瞳を向ける。

「ご主人様は、ねね達を、助けて……」

 

「恋―――」

 皇龍王は、仮面の下から恋の紅い瞳を見返して逡巡すると、やがて小さく頷いた。

「分かった。信じるぞ、恋」

 

「深ク繋ガッテイルノダナ、貴公タチ主従ハ……」

 土煙を上げ。凄まじい速度で呂布隊の方に走り去って行く黄金の魔人の背中を見ながら、黒狼がそう呟いたのを聞いて、恋は不思議そうに黒狼を見返した。

「俺ニハ、俺ノ主ノ事ガ解ラヌ。ドレ程ノ忠義ヲ尽シテ仕エヨウトモ、“何カ”ガ決定的ニ違ウ気ガシテナ」

 

「恋も……一緒……」

 黒狼の独白に、恋は静かに答えた。

「恋も、ご主人様の全部なんて、解らない……でも……」

「デモ?」

 

「ご主人様は、約束……守ってくれた。恋たちのところに、帰って来るって。だから、今度は恋が約束を守る……それだけ」

「約束―――カ。ソレハ、ドノ様ナ?」

 

「恋は、ご主人様の傍では、天下無双」

 

 消えかけていた筈の覇気を再び身体に漲らせ、方天画戟を構える恋を暫く呆然と見ていた黒狼は、どこか悲し気に、僅かに口を歪めた。

「ソウ、カ。デハ、参ル!」

 その言葉を契機に、激しい剣戟の音が再び大気を震わせた。

 

 

 

 

 

 

 陳宮こと音々音は、陣形の崩れそうな小隊を的確に見つけて指示を出して鼓舞しながら、先刻こちらに大量の罵苦が雪崩れ込んで来たあとに、主である恋の戦っている筈の場所で起きた光の爆発と、それに続く轟音について考えていた。

 轟音の方は、恋が本気で方天画戟を振るったのだと考えれば説明が付くが、光の方はどう考えても解らない。

 

 敵の新兵器か、(ある)いは、高位の罵苦の超能力の類かも知れない。

 しかも、それから暫くして、更に増援の罵苦が現れた。

 主たる恋の武威を考えれば、多少は贔屓目に見ても、短時間の内に二度に渡って、この規模の増援は不可解である。

 考えられる答えは、二つ。

 

 一つは、敢えてこちらを先に潰し、恋を孤立させる策。

 もう一つは、既にあちらに戦力を裂く必要が無くなった、と言う事。

 音々音は、自分の不吉な憶測を頭を振って追い散らすと、革と鉄で補強した頑強な大盾で辛うじて阻まれている罵苦の大軍に視線を戻した。

 

 如何な百戦錬磨の呂布隊でも、馬を捨てた今の状態で二千余りと一万前後と言う彼我の戦力差を考えれば、近い内にジリ貧になるのは目に見えている。

 会敵の前に放った伝令が城に着いてから、最速で準備を整えて此処に向かっていると仮定して、呂布隊の騎馬の質と手綱捌きを考慮に入れても、一刻(二時間)から一刻半は確実に掛かる。

 

 矢を殆ど撃ち尽くしてしまった今、呂布隊に残された反撃の手段は、大盾の間から隙を見て()や槍を突き出して、眼前の敵を減らす位しかない。

 加えて、異形の怪物と戦うと言う、戦慣れした兵達ですら経験した事の無い極限状態の中、体力も限界に近いこの状況で、それだけの時間、確実に耐えられるかと問われれば、実に微妙であると言わざるをえない。

 

「(詠なら……)」

 音々音は、今まで必死に押し殺していた想いを、とうとう心の中で呟いた。

 詠だけでない、朱里や雛里ならば、この状況を打開出来るような策を考えつけたのではないか?

 いや、もしかしたら、この様な状況に陥る事さえなかったかも知れない。

 

 音々音はそこまで考えると、血が滲むほど強く、唇を噛み締めた。

 それでも如何にか自分を奮い立たせて、弓兵に最後の一斉射を指示しようとした刹那、耳を(つんざ)く凄まじい爆音と熱風が炸裂し、最前線で大盾を構えていた重装歩兵と、その後ろに控えていた軽歩兵達を吹き飛ばした。

 

 衝撃で吹き飛ばされた音々音は、軍師としての責任感から、瞬時に起き上がり、耳鳴りと揺らぐ視界を(こら)えて、兵達に視線を向けた。

 不幸中の幸いか、炸裂した“何か”は前方から大盾に直撃した為、パッと見た限りでは命に関わる様な怪我を負った者は居ない様だった。

 

 しかし、鞣革(なめしがわ)を何重にも重ね、更に表面を鉄の金具で覆った大盾は、黒く煤けて無残に破壊されていた。

 兵達の鎧も同様に、煙を上げて焦げ付いている。

 まるで、“火に焙られた”様に。

 

 だが、火薬を使った兵器でこれほどの威力がある物など、聞いた事がない。

 音々音が、(ようや)く晴れ出した煙の先を見ると、そこには、異形の黒馬に乗った、人の様な骨格をした獣が、右の掌をこちらに向けていた。

「相済まぬな、小娘。どうやら、手段を選んでいる場合では無い様なのだ」

 

 獣―――音々音には(たぬき)の様に見えた―――はそう言うと、音々音に向けていた掌を空に掲げた。

 すると、何もなかった筈の中空に、突如として炎の球が轟々と逆巻きながら出現した。

「まさか、人間如きにここまで軍勢を崩されようとはな。この上は速やかに撤収し、体勢を立て直さなければならぬ……」

 

 実のところ、中級罵苦の魔魅(まみ)も、音々音に劣らぬ程に焦っていたのである。

 黒狼があの紅蓮の髪の少女を引きつけ、魔魅本人と本隊の半数近くをこちらに通す事に成功した時点で、勝利は確定したようなものだった。

 いかな豪傑とて、孤立無援で“八魔”二体と一万にも近いマシラを相手に生き残る事など、出来よう筈が無い。

 

 ましてや、こちらには“吸収”と言う絶対的なアドバンテージがあるのである。

 しかし、あの光の奔流が起こった辺りから、状況は刻々と悪化していた。

 詳しくは分からないが、黒狼の闘気が一瞬で弱体化し、残してきたマシラたちの気配が瞬く間に減り出したのである。

 

 しかも、残った兵力の殆どがこちらに回されて来た。

 これは最早、黒狼を以てしても御し難い事態が起こったと考えて、間違いない。

 そもそも、電撃的な奇襲を想定した編成だった少数精鋭をここまで失った時点で、今回の侵攻作戦は失敗しているのである。

 

 この上は、出来得る限り無事な兵を纏めて撤退するのが最善だった。

 黒狼が、あれ程の猛者の幻想を吸収するつもりである以上、魔魅は自身の吸収を極力抑えねばならない。

 黒狼と並ぶまでの許容量こそ無いが、魔魅の吸収能力も、万が一、黒狼が紅蓮の髪の少女を仕留めそこなった時の切り札に成りえるものだからだ。

 

 魔魅はそこまで考えて、自身の力で事態を迅速に収拾すべく前線に出て来たのである。

「難儀な話ではあるが、これも巡り合わせよ。よく戦線を持たせたものだが、それもここまでよ――さらばだ、小娘!」

 魔魅の手が、極限にまで膨れ上がり、火球を音々音に向かって放とうとしたその時、鋭い風切り音を伴った物体が火球を貫いて、轟音と共に音々音の前の地面に突き刺さった。

 

 それは、鋭い刀身の左右に三日月を横にした様な鎌を持った、一振りの槍だった。

 

 穂先は澄んだ水面の如くに一点の曇りもなく、純白の柄の中央と石突には、不思議に白みがかった黄金の装飾があしらわれている。

 生命の危機に瀕していた事も忘れてその美しさに見惚れていた音々音は、魔魅の絶叫で我に返った。

 視線を戻すと、馬から転げ落ちた貉の怪物が、右手を胸に抱き抱えながら地面に(うずくま)っている。

 

 音々音が余りの事態の急変に茫然としていると、その身体にふわりと影が差しす。

「よう、ねね。暫く見ない内に、佳い女になったなぁ」

 空から降りて来た影の主は、酷く懐かしそうな口調でそう言った。

 

「へ?」 

 音々音は、突然に真名を呼ばれた事に怒るのも忘れて、その人物の顔を覆った黄金の仮面を見つめる。

「声で解らないか?」

 黄金の鎧の人物は少し残念そうにそう言うと、傍に突き刺さっていた十文字槍を引き抜いて音々音に背を向け、未だ蹲っている狸と怪物たちに正対した。

 

「あ……あ!!」

「話は後だ。今は兵たちを下がらせて隊列を整えさせるんだ」

 音々音がハッとしてその人物の名を呼ぼうとすると、黄金の魔人は振り向かずにそう言った。

 音々音は、その言葉の意味を察して頷くと、膝の砂を払いながら立ち上がる。

 

「全軍、今の内に隊列を態勢を整えるのです!怪我の無い者は負傷者に手を貸してやるのですよ!!」

 音々音と同様に事態の急展開に戸惑っていた兵士たちは、その号令で我に返り、百戦錬磨の精兵ならではの迅速さで、戦線を立て直すべく行動を開始する。

 

「へぇ。ホントに軍師らしくなったんだな」

 一刀は仮面の下で僅かに微笑むと、漸く起き上がった狸を見遣った。

「きっ、貴様!よくも儂の手を!!」

「ふん。その程度で済んで幸運(ラッキー)だったな。もしもお前があいつの顔に火傷の一つでもさせてたら、そのまま脳天ブチ抜いてたとこだ」

 

 魔人は、魔魅の怒りを涼やかに受け流しながら、十文字槍をくるくると回して答えた。

「貴様―――貴様は一体何者だ!」

 

「蒼天よりの使者、皇龍王。見参……!」

 

 黄金の魔人は十文字槍を腰だめに構え、眼前に群がる異形の大軍に向かって、高々と名乗りを上げた。

「おのれぇぇ!!いけ、マシラ達よ!!」

 魔魅は切り落とされた腕を抱いて後ずさりながら、未だ周囲の大地を埋め尽くしているマシラに号令を発する。

 

「やれやれ。こっちは本格的な初陣で、流石に疲れてきたんだけどな……まぁいい、相手してやるさ!!」

 一刀は、飛びかかって来たマシラの鋭い爪を槍の柄で受け止めながらそう言うと、左脚に具現化させた刃をマシラの腹部に突き立ててそのまま吹き飛ばし、異形の群れの中に身を躍らせた。

 

 魔魅は手首から先が失われた右腕を握り締めながら、目の前の光景を信じられない思いで見つめていた。

 圧倒的。

 全ては、その一言に尽きた。

 あの紅蓮の髪の少女と言い、この皇龍王と名乗った男と言い、余りにも圧倒的過ぎる。

 

 正面切っての戦では、八魔クラスの中級種が二人以上組んで相手をしなければ、打ち倒す事は難しいのではないか?

 しかも、その姿に士気を取り戻したのか、息を吹き返した兵士たちも、再び少しずつ前線を押し上げて来ている。

 

「(もう、いかんか……)」

 魔魅はそう呟くと、小さく溜め息をついた。

 かくなる上は、何とか残りの兵だけでも帰還させなければ、主に申し訳が立たない。

 この命に代えて戦えば、あの皇龍王とか言う男の足止めくらいなら出来るだろう。

 魔魅がそう考えて腹を括った瞬間、その身体に何処からか放たれた鎖が生き物の様に絡まり、瞬く間に締め上げた。 

 

「捕まえたぞ、カチカチ山の狸さん」

魔魅の視線が辿った鎖の先には、右の腕から伸びた鎖をしっかと握り締める、皇龍王の姿があった。

 

 

 

 

 

 

「何だと!?」

 魔魅は、我が耳を疑った。

『取引しないか?』魔魅を鎖で捕えた魔人は、友人を酒にでも誘う様な気軽さで、そう(のたま)ったのである。

「―――どう言う意味だ?」

 

「いや、取り合えずさ、話聞く気があるなら、“こいつら”を大人しくさせてくれないか?」 

 皇龍王は鬱陶しそうにそう言いながら、背後から飛びかかって来たマシラを裏拳で叩き落とした。

 

 頷いた魔魅が獣の声を上げた瞬間、マシラたちはピタリと動きを止め、皇龍王と魔魅の周りを取り囲む様に動き出す。

「どうも。狸の鳴き声なんて初めて聞いたよ」

「戯言はよい。早く先程の言葉の意味を聞かせてもらおうか」

 

「なに、難しい事じゃない。あんたとあの狼、それにこの猿ども―――みんな纏めて、“あそこ”からアジトに還してやろうって言うのさ」

 皇龍王はそう言って、峡間の向こうに僅かに覗く空を顎で示した。

 

「貴様、“あれ”が視えているのか!?」

 魔魅は、狼狽した声で叫んだ。

 皇龍王が差し示した場所の空中には、檮杌(トウコツ)が微に入り細に入り編み上げた不可視の結界を張った、巨大な転移陣が浮かんでいたのである。

 皇龍王は静かに頷くと、言葉を続けた。

「あぁ。このままお前を絞め殺すのは簡単だが、指揮官を失ったこいつらに散らばられたりすると、後mの始末が面倒だしな。その代り、お前らが“あれ”を通った後は、きっちり壊させてもらう。どうだ?」

「ふん、儂は兎も角、黒狼があんな小娘にやられると思っておるのか?それに、数では未だにこちらが有利である事に変わりは無い。一丸(いちがん)火の球となって攻め続ければ、例え貴様でも、全ての兵を護りきる事など不可能なのではないか?」

 

「ふむ……」

 皇龍王は暫く逡巡する素振りを見せて俯くと、やがて視線を魔魅に戻した。

「まず、最初の質問の答えだ。あの狼―――黒狼、だったか?あいつは、あの娘には絶対に勝てない」

 皇龍王は、絶対的な自信の込められた声で、そう言った。 

 

「何故?」

「彼女の名は呂布奉先。この国で最強の武人だ。俺なんぞより、よっぽど強いぞ」

疑り深い眼差しで問い返した魔魅に、皇龍王は事もなげに言い放った。

「な―――!?」

 

「それに、約束したからな」

 皇龍王は口の中で小さくそう言うと、仮面の中で微笑んだ。

「大体にして、俺が何の勝算も無しに彼女を放り出してこっちに来ると思うのか?」

「うぅむ……」

 

 魔魅は、自信に溢れた皇龍王の言葉に、迷いを含んだ唸り声を漏らした。

「それから二番目の質問の答えだが、その脅し文句は、もう少し前なら効果があったろうな、と言っとくぜ」

「なに?」

「折角、立派な耳が付いてるんだ。耳を()ませてみなよ」

 

 皇龍王に促された魔魅は聞き耳を立て―――そして、獣の瞳を驚愕に見開いた、。

 未だ僅かにだが、かなりの数と思われる馬蹄の音が聴こえて来ていたのである。

「さて、そろそろ“時間切れ”だ。このまま徒花(あだばな)咲かせるなら、それも良い。面倒だが付き合ってやるさ。だが、今なら引き返せるぞ?」

 

 皇龍王はそう言うと、魔魅を縛っていた鎖を自分の腕に巻き戻し、両手を広げて『さぁ、どうする?』と言うジェスチャーをする。

 魔魅は、小さく唸り声を上げた。

 

 

 

 

 

 

「往くで、往くで、往くでぇ!!」

 曹魏の誇る堯将、張遼こと霞は、紺碧の張旗を翻す旗本の騎馬を突き放す程の勢いで、愛馬を走らせていた。

「こら、待たぬか霞!そんなに急いでは、稟や費禕が付いて来れんじゃろう!!」

「そうですよぉ~。少し落ち着いて下さ~い!」

 

 布地を赤く染め上げた黄旗をたなびかせた旗本を従えた呉の宿将、黄蓋こと祭と、同じく赤い布地の陸旗を翻す旗本を従えた、軍師の陸遜こと穏が、大声でそれを諌めながらも追走している。

「アホ抜かしなや!恋が危ないかも知れへんねんで!しかも、久し振りに帰って来た一刀に会えて、おまけに罵苦の大軍と大喧嘩出来るっちゅーのに、燃えへん訳にいくかい!当分、つまらへん巡回に付き合わされるだけの貧乏クジ引いたかと思てたけど、どっこい大当たりやったわ!」

 

 霞は大声でそう叫ぶと、飛龍偃月刀の刀身の腹で馬に鞭を入れ、更に速度を上げて疾走した。

「やれやれ、気持ちは解らんでも無いんじゃがなぁ……」

 祭はそう言って、霞の姿を見失わない程度の距離を保ちながら苦笑いを浮かべた。

「でもぉ、こんな調子じゃ私、戦場に着く前に倒れちゃいますよぉ~」

 

「どうせお主は腕っ節では大して役に立たんのじゃから、馬に乗って起きてさえおれば良いわい」

「祭様、ヒドイ~~!!」

 穏は、祭の手厳しい言葉に大きな瞳を潤ませながら、栗鼠の様に頬を膨らませた。

「しかし、後ろの稟と費禕は付いて来れるかの?」

 

「きっと大丈夫ですよぉ~。百戦錬磨の呂布隊さんが並走してくれてるんですからぁ~」

 穏は表情をコロリと変え、ほにゃっとした笑顔で祭に答える。

「うむ。では、少し速度を上げて往くぞ、穏よ!」

「へ!?」

 

「儂も、北郷に良いところを見せたいでな!」

 祭は、驚く穏に向かって豪快に笑ってみせると、剣の鞘で馬の腹を叩いた。

 

 

 

 

 

 

「モタモタするな!もっと急ぐぞ!!」

 美しい切れ長の眼をした女性が、その髪の色にも似た銀色の戦斧を掲げながら、雄々しく追走する馬群を鼓舞する。

「将軍、これ以上は無茶ですよ!」

 

「そんな事は、やってみてから言え!我が主の恩人と戦友の危機に間に合わなかったら、今度こそ天を照らす日輪に顔向け出来んわ!」

その女性は、士官らしき人物の言葉を叩き斬るように退けると、前を向いてそう叫んだ。

 




 如何でしたか?
 当時、恋のエピソードなどを見直して、出来るだけキャラクターを上手く描写したいなぁと頑張った記憶があります。
 気に入って頂けると良いのですが。
 また、過去に投稿した分の誤字や文章が不自然だったところなど、修正したりしておきましたので、もし宜しければ、お時間がある時にでも読んでやって下さい。

 次回も、早目に投稿できると思います。 

 では、またお会いしましょう。


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第八話 深紅 後篇

 どうも、YTAです。
 今回も早目に投稿出来ました。
 皆さまのおかげを持ちまして、調整平均ケージにも色が付きまして、嬉しい限りです。
 引き続き、評価、感想、お気に入り登録など、大変、励みになりますのでお気軽に頂戴できればと思います。

 では、どうぞ!


 

 

 

 紅と漆黒、二つの色の武人は、全く同じリズムで肩を揺らして対峙していた。

 恋はその美しい顔に澄んだ汗を滴らせ、汗を掻けない黒狼は、口を大きく開いて長い舌を出している。

 既にその斬り合いが何十合に及んでいるのか、当の二人にすら分かっていなかった。

 それぞれの斬撃を、薙ぎ、払い、()なし、避け、互いに決定打を許さぬまま、四半刻(30分)以上の間、同じ事を千変万化の軌跡を描いて繰り返す。

 

 その光景は余りに峻烈で、余りに激しく、余りに静かで、何より美しかった。

 

 だが、それもそろそろ限界が近い。

 二人は、命を糧に舞う卓越した踊り手同士ならではの阿吽の呼吸で、敏感にその事を察していた。

 だから、ただ待っている。

 互いの呼吸が、意識が、刃が、肉体が、静かに流れる刻の一点に直列する、その瞬間を。

 

 しんと静まった空気が、二人に纏わり付くあらゆる(しがらみ)や雑念を洗い流し、音すらも存在を失ったその刹那、二人は同時に跳躍し、刃と肉体を交差させた。

 

美事(みごと)……!」

 

 一瞬の静寂の後、土埃を上げて大地に倒れ伏したのは、黒狼だった。

 紅蓮の戦神の最後の剣閃は、正に美事と言う形容詞でしか表せないものだった。

 見せかけ(フェイント)と言うには流麗に過ぎる軌跡は、まるで(あらかじ)めそう定められた様に、渾身の力で打ち込まれた黒狼の袈裟の斬撃を寸分だけずらして軌道を外させ、蝶が風に遊ばれながら舞う様な優雅さで、異形の戦士の脇腹を切り裂いたのである。

 

 黒狼にとって、敵の剣を“美しい”と感じたのは、戦う為だけにこの世に生を受けてから今迄で、初めての経験だった。

 

 正直に言えば。

 

 紅き戦乙女が己の脇腹をすり抜けた瞬間は、完全にその姿に魅入っていた。

 

「佳キ死合デアッタ……惜シムラクハ、勝者ノ貴公ニ、コノ首ヲクレテヤレヌ事ヨ……」

 黒狼はそう言うと、黒い泥の血の滲む脇腹を押さえ、己を恥じる様に口を歪めた。

「佳イナ、人間ト言ウ生キ物ハ……タッタ一ツノ“約束”デ、己ノ運命スラ覆ス事ガ出来ル―――定メラレタ(チカラ)ノ限界スラモ」

 

 黒狼は、遠い空を見ていた蒼い瞳を、己を討ち果たした美しき武の化身に向ける。

「サァ、止メヲ刺セ。武人ニ、余リ恥ヲ晒サセルモノデハナイ」

 恋は黒狼の言葉に小さく頷くと、支えにしていた方天画戟を再び肩に担ぎ上げる。

 黒狼は、自分を破った敵の姿を眼に焼き付けて、静かに瞼を閉じた。

 瞬間。

 

「黒狼―――――!!」

 

 

 聞き慣れたしゃがれ声が、黒狼の安息の時を打ち破った。

「全ク……“雑食ノ奴等”ハ、ドウシテコウ無粋ナノカ……」

 黒狼はそう呟いて、獲物を振り上げたままの体勢で声のした方を見つめていた恋に、再び視線を向けた。

「済マヌナ、構ワズニヤッテクレ」

 

 恋は静かに方天画戟を下ろすと、フルフルと前髪を揺らして首を振った。

「何故ダ!?マサカ、コノ後ニ及ンデ情ヲカケルトデモ言ノカ!?」

「違う……」

 恋は、黒狼の悲痛な叫びに答えて、声の方を指差した。

 

「ご主人様が、一緒……」

 黒狼が、億劫そうに首を(もた)げて見遣ると、確かに恋の言う通り、黒狼の馬の横を、あの黄金の魔人が凄まじい速さで並走している。

「きっと、何かあった……ご主人様が良いって言うまで、待つ……」

 

 恋はそう言うと、方天画戟を肩に担いだまま、奇妙な組み合わせの集団が向かって来る様を、静かに見つめた。

 

「黒狼!!」

 魔魅は、転げ落ちんばかりの勢いで馬から降りると、困惑する黒狼を抱え上げて馬に乗せた。

「離セ、魔魅!俺ハ―――!!」

「何も言うな!!」

 魔魅は、大声で怒鳴り、黒狼の言葉を遮った。

「停戦だ!お前がここで死んだら、誰が武で饕餮(トウテツ)様を支えるのだ!」

 

「シカシ……!!」

 黒狼が恋に視線を投げると、恋は小さく微笑んだ。

「おあいこ……」

「ナニ?」

 

「恋も、一回負けた……だから、おあいこ……」

 恋は、茫然とする黒狼の眼を、正面から見返して言った。

「次で、決着……」

 

 黒狼は、恋の瞳からその言葉の真意を見て取り、低く唸った。

 将は時に、己の誇りに殉じるよりも、泥水を啜ってでも生きねばならない。

 軍を率いるとはそう言う事。

 だから、『勝負は預けた』と料簡(りょうけん)して、ここは引け。

  

 恋の瞳がそう言っているのを、彼女と命を張り合った黒狼は、確かに感じ取ったのだった。

「無念……!」

 黒狼はそう呟くと、力を抜いて魔魅に身を委ねた。

 

「……どうして、逃がすの?」

 恋は、歩み寄って来た黄金の魔人に、その紅い瞳を向けて尋ねた。

「まぁ、今回は遭遇戦だからな。兵の数も兵站ままならない状態で指揮官を討ち取ると、掃討戦が面倒だ」

 二人がそんな会話をしている間も、マシラの大軍が二人の周りを、川の流れが岩を避ける様にして左右に別れながら、峡間の出口に向かって走り去って行く。

 

「さて、じゃあ、俺はもう一仕事してくる。恋はここで、ねね達が来るのを待っててくれ」

 恋は、そう言って自分の頭を一撫でするや、罵苦の大軍の後を追って走り去る魔人の背中を暫く見つめていたが、やがてストンと大地に胡坐をかいて、空を見上げる。

 

「ちょっと……疲れた……」

 

 恋はそう呟いて、少しだけ朱が差し始めた空に向かって、柔らかな微笑みを向けた。

 

 

 

 

 

 

「成程、こいつはデカい……」

 一刀は、無数のマシラ達が吸い込まれて行く空に浮かんだ巨大な魔方陣を見つめて、そう呟いた。

 その様子はまるで、SF映画で見たUFOによる生物の誘拐(キャトルミューティレーション)の様子さながらだった。

 

 龍王千里鏡は、視認出来ない程の速度で無数の数字や古代文字を吐き出しながら解析を行っているが、未だに終わる気配が無い。

 何十にも重ねられた円状の外周は、それぞれが違う方向に違う速度で絶えず動いている為に、パッと見れば、精巧な絡繰り仕掛けの大時計の様だ。

 

「西洋魔術の影響?……ふむ……」

 (ようや)く解析を終えた龍王千里鏡が導き出した結果に、一刀は独り言ちた。

 上空に鎮座する、直径二里以上(約1km)にも及ぼうかと言う巨大な外法の産物を構成する魔術理論の内の約三割が、東洋のものでは無いというのである。

 

 しかもその事実は、エッシャーの騙し絵の様に、複雑な術式の中に巧妙に隠されていた。

 恐らく、起動中の術式を念密に解析しなければ、卑弥呼や貂蝉でも見抜くのは難しいのだろう。

「また、随分と凝った事するもんだ。(もっと)も、そのおかげで脆い箇所が分かり易くなったなら、壊す側としちゃ僥倖だけどな」

 龍王千里眼がターゲットサイトで赤く差し示す外周部分を見つめながら、一刀は、最後の罵苦がそこを通り抜ける瞬間を、静かに見守った。

 

「さて、と―――飛雲雀!」

 

 巨大な魔方陣が、全ての罵苦を呑み込んで活動を停止しようとしたその刹那、一刀は言霊を込めた叫びを発して跳躍した。

 跳躍が最高到達点に届こうとした瞬間、皇龍鎧の肩甲骨付近の装甲が上下に開き、そこに、漏斗(じょうご)を逆さまにした様な形状の噴射口を持った一対のバーニアスラスター、雀王翼が出現する。

 

 雀王翼は、賢者之石を介して流れ込む膨大な氣の力を、白く輝くフレアを伴った推進力に変えて、皇龍王の身体を更なる高度にまで押し上げる。

 

「吼えよ青龍!龍王脚!!」

 

 空中で体勢を変えた一刀が、蒼い焔を纏った右足を魔方陣に叩きつけた瞬間、爆音と閃光が、蒼穹を満たした―――。

 

「いやぁ、一回言ってみたかったんだよね、この台詞」

 一刀は、着地するなり満足げにそう言うと、何事も無かったかの様に、夕暮れの空を悠然と流れる雲を見遣る。

「さぁ、帰るか」

 

 一刀は、今朝とは違う穏やかな気持ちで、峡間への道を引き返すのだった。

 

 

 

 

 

 

「おっ!帰って来おったみたいやで!」

 土煙を上げて向かって来る黄金の鎧を纏った人物をいち早く見つけた張遼こと霞は、嬉しそうに手を振って叫んだ。

「霞!久振りだな!それに祭さん、穏も!」

 一刀は速度を緩めて鎧装を解くと、懐かしい顔ぶれに手を上げて答える。

「おぉ!鎧が消えるとは、面妖な……」

「はぁ~、どんな技術なんでしょうねぇ~。考えただけで、身体が火照っちゃいますぅ~♪」

「なんや、便利なもんやなぁ!」

 

 一刀は、相変わらずの反応を見せる三人の顔を見渡して、嬉しそうに微笑んだ。

「ただいま、みんな!相変わらずみたいで嬉しいよ」

「応、おかげ様でな!お主の方は、また随分と男振りが上がった様で、何よりじゃ!」

「そうですね~。早く、新しい天の国の知識を教えて頂きたいです~♪」

「せやけど、久々の大戦(おおいくさ)で一刀にええトコ見せられる思て張り気っとったのに、ちょーっとばかし拍子抜けやわ~」

 

 豪快に笑って一刀の背中を叩く祭と、息を荒げながら身体をくねらせる穏を余所(よそ)に、霞は頬を膨れさせている。

「そんな事ないさ。霞や皆が、あの絶好の時機に駆け付けてくれたから、あいつらを撤退に追い込めた。十分に大活躍だと思うぞ?」

「そ、そかな?そんなら、まぁ、えぇか!」

 

「おい、張遼!いつ私を紹介する気だ!」

 一刀に頭を撫でられて頬を染める霞の後ろから、凛とした女性の大声が響いた。

「霞、そちらは?」 

 一刀は、霞の後ろに仁王立ちした、銀髪の女性に視線を向けた。

 

「なんや、もう少し浸らせてくれてもええやんか。相変わらずいけずなやっちゃなぁ……」

 霞はやれやれと言う様に肩を竦めると、身体を斜に向けて一刀の視界を開けた。

「こいつは華雄、ウチの元同僚や」

「北郷殿、直接お会いするするのは初めてになるな。元董卓軍驍騎校尉、華雄だ」

 銀髪の女性はそう言うと、拱手(きょうしゅ)の礼をとって深々と頭を下げた。

 

「華雄って、あの汜水関で鈴々と戦った!?生きてたんだな……」

「うむ。落ち延びたあと、部下達と共に隊商の用心棒などをして口を糊していたのだが、半年程前、成都の市で董た―――ゲフンゲフン。月様と詠に偶然に再会いたしてな。月様のお取り成しで士官が叶い、今は、罵苦の蠢動激しい巴郡の警備隊長として出向している身なのだ」

 

「そうか。だからここに来たんだ」

 一刀が得心して相槌を打つと、華雄は頷いて言葉を続けた。

「あぁ。主の命の恩人と戦友の危機と聞いて、馳せ参じた次第だ」

「主の?あぁ、その事か。もう随分昔の事だし―――」

 

「いや、命に関わる程の恩義に、昔も今も無い。北郷殿、改めて礼を言わせてくれ」

 一刀は照れ臭そうに頬を掻いて華雄の頭を上げさせながら、ふと気が付いた事を口にした。

「でも、巴郡の警備隊の華雄は兎も角、魏と呉の重臣の皆が、どうして此処に?」

 

「おぉ、三国の共同事業である街道整備で蓄積された技術を各国で活かす為に、我が孫呉からは穏が、曹魏からは稟が、国境の街道筋と宿場町を視察させてもらう事になっておってな」

「その護衛として、祭様や霞ちゃんに付いて来てもらってたんですよぉ―――と、言うのは建前でぇ、巴郡での罵苦の動きが活発だとの事で、魏と呉が共同で、巴郡の国境の警備をしてたんです~」

 

 祭の言葉を引き継いだ穏が、のんびりと締め括ると、霞がうんうんと頷いた。

「そしたら今朝、恋の部隊の鎧着た伝令が、ウチらの駐屯しとった出城に泡食って駆けこんで来てな?ここで罵苦の大軍と恋の部隊が大立ち回りてて、一刀も向かてるから、それに加勢せぇって。せやから、途中で費禕っちや高順の部隊と合流して駆け付けたんやけど……何や、一刀の勅命やって伝令の兵が言うてたけど、違うんか?」

 

「それについては、私が御説明致します」

 一刀が霞の疑問に対して口を開こうとすると、後方から聞えて来た声がそれを遮った。

 両腕の裾を顔の前に合せて進み出て来たのは、費禕こと聳孤(しょうこ)だった。

 その横には魏の軍師、郭嘉こと稟が付き添っている。

 

「文偉……それに稟、久し振りだな」

「ええ、一刀殿。よくぞお戻りに。しかし、積もる話は後ほど」

 一刀はその言葉に頷くと、聳孤に視線を戻してその言葉を待った。

「伝令の内容を、我が君の勅命と致しましたのは、私の独断で御座います」

 

 聳孤はそう言って息を一つ吐き、再び口を開いた。

「罵苦の総数、大凡(おおよそ)二万。しかも、統率された軍勢であると聞いた時点で、出城に残った兵に警備隊の兵力を足しても、約八千の兵では、とても万全の兵力とは到底言い難い――まして、全てが騎兵ではありませんので、既に会敵している奉先様への火急の援軍となれば、その数は更に少なくなります。また、罵苦の将がどれ程の力を持つのかも、その数も把握出来ておりませんでしたので……」

 

「確かに、それは大きな不安要素ですね。現に、罵苦の将の一人は恋殿と互角に戦い、もう一人は、妖術を以て一瞬で本陣の守りを崩したと言う話でしたし……」

 聳孤の説明に自身の見解を重ねた稟の言葉に、穏も大きく頷いている。

「はい。恋様や華雄様の武で互する事が出来たとしても、追い込んだ後の詰めが甘くなってしまったら、手痛い逆撃を喰らいかねないと言う不安もありました」

 

「そうですね~。そこまで考えると、同じだけの兵数の確保が難しい場合、恋ちゃんのずば抜けた武力を計算に入れても、優秀な将が率いた精兵が、あと数千は欲しいですねぇ~」

 さっきとは逆に、今度は穏の言葉に稟が頷いた。

 

「しかし、時間的に見て成都からの援軍を期待するのは論外ですし、巴郡内の警備隊を招集するのも同じ事です。そこで魏と呉の連合部隊が武陵近くの出城まで出張って下さっているとの話を思い出し――」

「成程。他国の将に、速やかに蜀領内に進行した上での軍事行動を取る事を決断させる為に、一刀殿の名前を出した、と」

 

 萎んでしまった部分を引き継いだ稟の言葉に、聳孤は悲痛な面持ちでコクリと頷いた。

「主の名を騙ったばかりか、我が国の為に兵を出して下さった同盟国の指揮官諸侯の責任問題にも発展しかねない行いである事は重々承知の上でございますれば、この場にて、いかようなお叱りもお受けいたしまする所存。皆様に於かれましては、何卒、我が首一つにて御怒りをお鎮め頂き、国同士の諍いには至りませぬ様、御主君方にお執り成しの程、切に切に、お願い申し上げ奉りまする」

 

 聳孤はそう言って、一刀と諸将を見渡してから平伏した。

「皆、文偉はこう言ってるが、彼女に『後を任せる』と言ったのはこの俺だ。どうか、大事にはしないでやってくれ。頼む」

 一刀は、聳孤の様子を見て、慌てて自分も頭を下げる。

 

 確かに、聳孤に後事を託したのは一刀だが、いくら罵苦相手の緊急事態とは言え、一刀の名前を使って他国の武装した軍勢に越境を促したとあっては、下手を打つと収まりが付かない事にもなりかねない。

 世が世なら、蜀に対しての反逆罪一歩手前だし、魏や呉の将たちにしてみれば、同盟にひびを入れかねない(はかりごと)に巻き込まれた形になる。 

 

 とは言え、聳孤の首で事を納めるなど以ての外だ。

 此処は、土下座をしてでもこの場で納得してもらわねばならない。

 一刀が腹を括って膝を折ろうかと考えたその時、霞が困った様な声を出した。

「いやいやいや、ウチ別に怒ってへんし、手柄にもならん首とか要らんちゅーねん!それに、一刀が桃香に話つけてくれるっちゅーなら、ウチの大将も文句なんぞ言わんやろ……多分。ま、『費禕っち寄こせ~!』とかは言いそうやけどな!」

 

 霞はそこで、平伏している聳孤をそっと見遣って、愉快そうな微笑みを見せる。

「何よりウチは、肝の据わった奴は好きや。こんなつまらん話で死なせとないわ」

「そうですね。頭の中でどれ程に大胆な策を練れても、命を張って実行に移す胆力がなければ、軍師とは言えません。彼女は、三国の将たちを巻き込んだ大博打を見事に成功させた。同じ軍師として、尊敬に値します。一刀殿が責を負うと仰せなら、面倒も省けて結構な事。私からはそのまま華琳様にお伝えしましょう」

 

「儂も、魏の連中と同じじゃな」

 祭もそう言って、どこか決まりが悪そうに豊満な乳房の下で腕を組む。

「そもそも、北郷が戦の真っ最中に、城でのんびり酒を啜っていたなどと知れたら、蓮華様や小蓮様に何と言われるか……なぁ、穏?」

「はい~。どちらかと言えば、知らせてもらえて助かったくらいですからね~。正真正銘、一刀さんの命令と言う事にしてもらえるなら、後は仲謀様に宛てて、一刀さんに一筆(したた)めて頂ければ、特に問題はないんではないでしょうかぁ」

 穏は、祭の言葉に頷いて、ほにゃっと笑った。

 

「皆、助かる!良かったな、文偉!」

 一刀はそう言うと、平伏したままだった聳孤を立たせた。

「しかし、本当にそれで良いのでしょうか……」

「良いと思う……」

 

 戸惑いながら俯く聳孤に答えたのは、いつの間にか現れた恋だった。

「恋、目ぇ覚めたんか!」

 恋は、霞の言葉に頷きながら、愛らしい欠伸を一つして、聳孤の元に歩み寄った。

「恋、寝てたんだ?」

 

「うん。ちょっと、疲れたから……」

 恋は、一刀に答えながら、聳孤の頭を優しく撫でた。

「しょうこは、頑張った。だから、良い……」

「恋様……」

 

「どうしても嫌なら、これから、もっと頑張る……死ぬのは、良くない……」

「恋様……はい!」

 恋は、漸く顔を上げた聳孤の頬を優しく撫でてから、一刀に向き直った。

「ご主人様、お帰りなさい……」

 

「ん?あぁ、ただいま、恋」

 一刀はここに来て漸く、ゆっくりと恋の顔を見て帰還の挨拶をした。

「ご主人様……恋……頑張った……」

「うん。そうだな、恋。本当によくやってくれたよ」

 

「恋、約束も、守った」

「おう、凄く嬉しかったぞ」

「だから……ごほうびが、欲しい……」

 一刀は、恋の唐突な申し出に少し面食らいながらも、その率直な物言いが如何にも恋らしいと思い直して、思わず頬を緩めた。

 

「おぉ、良いぞ。久し振りに、点心食べ歩きでもするか?」

 恋はピクリと前髪を動かして(しばら)く考えると、フルフルと首を振った。

「あー、違うのが良いのか?じゃあ、ねねやセキトと、弁当持って遊びに行くのはどうだ?」

 恋は、今度も同じ様に逡巡して、また首を振る。

 

「うぅむ。これも駄目となると、あとわっ!?」

恋は一刀の外套の左右の(えり)を持ってグイと引き寄せると、そのまま一刀と自分の唇を、強く重ねた。

 

「ん……恋!?」

「ちゅ、ごほうび……」

一刀は最初こそ驚いたものの、すぐにその唇の甘さに酔いしれて、強く恋を抱き寄せた。

 

 

 

 

 

 

 一刀が我に返って恋を離し、慌てて周囲を見渡したのは、それからたっぷり一分程してからの事だった。

「まぁ、今回の敢闘賞は恋やからなぁ、ええトコは譲ったるのは(やぶさ)かやないけど―――それにしても一刀、えらい情熱的な“ごほうび”やったなぁ?おっと稟、我慢しぃや。ここには風がおらへんねんから」

 霞は、とびきりの悪戯を思いついた時の猫の様な笑顔を浮かべながら、必死で鼻を摘まんでいる稟をポンポンと叩いた。

 

「ほぉ、あの恋がなぁ……」

 華雄は華雄で、そんな事を呟きながら腕を組んで何やらしきりに感心しているし、聳孤に至っては、顔を茹で蛸の様に真っ赤にしたまま絶賛放心中だった。

「いや!これは、だな!!」

「何を今更赤くなっておるか、あれだけ見せつけておいて!」

 

 祭はバンバンと一刀の背中を叩きながら豪快に笑う。

「ほんとですよぉ~♪こんなに大勢の前で、あんなに情熱的に、音を立てて舌までなんて~」

「ぷはぁーーーーー!!」

「アホ!稟、我慢せぇ言うたやろ!こらアカン、衛生兵!衛生兵――――!!」

穏のねっとりとした口調での描写がトドメになったらしい稟が盛大に鼻血を吹き出し、場が更に渾沌とし始めたその時、一刀の背筋を冷たいものが走った。

 

ドドドドドドドドド!!

 

『避けなければ!』

 

 大地を揺るがす足音を聞きながら、必死にそう考えるのだが、身体は蛇に睨まれた蛙の様に動かない。

 避ければ大切な何かを失う、と、頭の奥の誰かが叫んでいるのだ。

「ちーんーきゅーーーーうーーーー!!」

『ままよ!』

 一刀は覚悟を決めて振り向き、衝撃と靴底の感触に身構えた。

 

「にーぶろーーーーーっく!!」

「って、“きっく”ちゃうんかーーーーーい!!」

こめかみに鋭角な衝撃を受けながらも、完璧なタイミングでツッコミを入れた一刀が吹き飛ぶその刹那、空中の音々音は不敵に笑った。

 

「続いて!ちんきゅー“すぴん”きーーーっく!!」

「なにぃいいいいいい!?」

音々音は、一刀のこめかみから跳ね返った膝の勢いをそのまま回転に変え、一刀の腕に強烈な回し蹴りを放って吹き飛ばすと、クルクルと回りながら華麗に着地した。

 

「ふふん、変態誅滅!なのです!」

 

「“ちんきゅーにーぶろっく”からの、“ちんきゅーすぴんきっく”は、禁止……」

その後、何時の間にか設営されていたらしい天幕で意識を取り戻した一刀の元に、恋に連行されてやって来た音々音は、拳骨を喰らって叱られ、渋々と謝罪をした。

 その音が大分(だいぶ)痛そうだったのは、あの必殺コンボの危険性ゆえか、はたまた良いところを邪魔されて不機嫌だったからかは、聞かぬが華と言うものだろう。

 




 如何でしたか?

 オリジナルを投稿したTINAMIさんでは、ページ改行が出来るんですが、今回辺りからそれを意識した構成にしていたので、ちょっと再構成に手間取りました。
 これからも結構リライトに苦労しそうな点なので、今から気が重い……。
 ちなみに、何で華雄さんが出て来たのかと言うと、当時、TINAMI近辺では華雄さんをヒロインにした作品が流行っていたからなんですね。

 私も一篇書いてみたくなって、一刀と華雄のコンビで敬愛する夢枕獏先生の陰陽師シリーズをモチーフにした外伝を書きました。
 今回も、外伝をリライトしようかと考えたのですが、結構な長さである事と、英雄譚の新作で華雄がフィーチャーされそうな感じで、本家から新解釈があるかも知れないので、暫くは様子見にしました。

 特にストーリー進行に関わる話ではないので、英雄譚の発売後に、特に設定に支障が無ければリライトして投稿するかも知れません。
 次回からは、かなり大きく構成を変えなければならないかも知れないので、今回までの様にほぼ連日投稿の様な事は出来ないと思いかも……(汗

 では、また次回お会いしましょう。

 


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第九話 Take me home Country roads

すっかりご無沙汰しました。
革命以降のキャラや設定の刷新との折衷案が難しい……。
相も変わらず萌将伝をベースにして行きます。
サブスクのクラブネクストンで配信中なので、未プレイで気になる方は是非。
評価、感想、お気に入り登録など、大変励みになりますので、お気軽に宜しく願いします。


 

 

 

 

 

 

 北郷一刀と罵苦の軍勢の激突から、はや三週間ほどの時間が経った現在、一刀は今、呂布こと恋や費禕(ひい)こと聳孤(しょうこ)たちが拠点としている巴郡の出城にほど近い野中の屋敷で、ゆったりとした時を過ごしていた。

 早く皆に会いたいという気持ちは勿論、強かったが、なにせ戦闘の規模が規模であり、魏と呉の諸将も蜀領内に軍勢を進出させる結果となった事もあって、一刀から三国の王たちに書簡を送り、更には三国の王たちの間で一刀の今後の動向をどうすべきかの遣り取りがあり、その結果が一刀に(もたら)されると言う極めて面倒な順序を辿らねばならなかったので、罵苦の出現もない以上、特に身動きするだけの大義名分もない一刀は、恋や陳宮こと音々音、魏から救救援に来ていた張遼こと霞、呉から救援に来てくれていた黄蓋こと祭らと、旧交を温めていたのである。

 

 というのも、戦後処理に多忙な蜀の将たちに代わり、霞と祭が、一刀の書簡を携えて軍勢と共に国元に帰参する事になった郭嘉こと稟、陸遜こと穏たちと別れて居残り、一刀の護衛を買って出てくれたからだ。

 で、一刀としては、自分が出城に居ると指揮系統が混乱する事を懸念していたので、かつて巴郡の豪商が自分の別荘を兼ね、自前の隊商(キャラバン)の旅の中継地点として建てた野中の屋敷を借り上げて、そこで生活する事にしたのだった。

 

「ぬぁぁぁ!八十!!」

 時刻は昼時に差し掛かろうとする頃、一刀は、中庭にある手頃な庭木に渡した棒で懸垂をしながら、腕の筋肉に溜まる乳酸と戦っていた。

 特に仕事もなく、娯楽も乏しい場所である為、仲間たちと語らう他には、トレーニング位しかやる事がない。

 

 勿論、睦み合いを除いては、だが。

「おぉい、一刀!昼餉じゃぞ!」

 カウントが百を幾らか超えた頃になって、厨房の窓から、戦場で鍛えた祭の大音声が聞こえて来た。

 一刀は地面に降り立つと、その声に返事を返して身体を拭きながら脱いで気の枝に吊るしていた上着を羽織り、足早に厨房の勝手口に向かって歩き出す。

 

「おぉ、良い匂い!祭さん、今日の主菜は?」

 一刀がワシワシと頭を手ぬぐいで拭きながら勝手口を開けてそう尋ねると、エプロン姿の祭が卓に並べながら、自慢げに笑った。

「うむ。今朝、市場で良さそうな豚肉を見かけたからの。酢豚にしてみたぞ。夜は川海老と合わせて焼売にしようかと思うておる」

 

「あぁ、そうか。今日は恋と音々音は城で晩飯なんだ」

「うむ。泊まりではないと言うとったが、遅くなるそうじゃ」

 一刀は祭の言葉を聞いて苦笑いを浮かべながら腰かけて、祭が向かいの席に座るのを待ってから手を合わせると、早速、たっぷりと餡の絡んだ豚肉を口に運び、追いかける様に白米を頬張った。

 恋が家で夕食を食べる時には、家庭用の竈でも一度に大量に調理できる献立でないと、とても満足させてやれないのだ。

 焼売などとなれば、如何な料理上手の祭でも、夕飯までの間、一日中厨房に籠らなければならなくなってしまうだろう。

 

「うんまい!あれ、そう言えば霞は?」

「お主が朝、走りに出ている間に遠乗りに出掛けたぞ。もう暫くすれば戻って来るじゃろ」

「へぇ。そう言えば、最近、霞が馬に乗ってる姿を見てなかったもんな」

 一刀が茶で白米を飲み下してそう言うと、祭はくつくつと喉を鳴らした。

「それはそうじゃろう。あれだけ朝と言わず夜と言わず、閨に籠って“励んで”おればのぉ。流石の張文遠とて足腰が言う事を聞くまいよ」

 

「い、いや、それは祭さんもだろ……」

「はっはっは!だから儂は、こうしてお主の餌やりに勤しんでおろうが」

「餌ってなぁ……」

 一刀は何とも面映ゆい気持ちで、祭の思わせぶりな視線を受け流しながら汁物の碗を啜った。

 実際、祭の言葉の通り、最初の十日ほどは、仕事の合間を縫って帰宅していた恋や音々音も含めて、彼女たちを貪る様に求め続けてしまった。

 

 正直なところ、出来合いの物でさっさと済ませていた食事の時間と、意識を失う様に眠りに落ちている以外の時間は、のべつ幕なしに誰かしらとまぐわっていた様な気もする。

 女に溺れるとはああ言う状態を言うのかも知れないと、一刀は今にして思う。

「十五年振りの人肌だったから……それに、ずっと会いたくて会いたくて仕方なかった皆だったしさ」

 

 一刀が申し訳なさげにそう言うと、祭は愛おし気な眼差しを投げて溜め息を吐いた。

「天の国とこちらとでは、時の流れが違うという話じゃったな。まぁ、お主の姿を見ればそれも納得せざるを得まいが……それにしても、あの種馬が十五年も女断ちとはの」

「別に、意識して断ってた訳じゃないけど……みんな以外の女性が欲しいと思った事もなかった気がするなぁ」

「ほ!そう言う女が顔を赤くする様な事を平気で口にするところは、相も変わらずじゃな。それにしても……」

 

「うん?にしても、なんだよ、祭さん」

 一刀が、どこか気恥ずかしそうな、それでいて愉快そうな祭の視線に耐え切れずに続きを促すと、祭はからからと笑った。

「いやまさか、この儂がお主に気を失うまで犯される日が来るとは思わんかったと思うてな!」

「本当にごめん……もう何て言うか、無我夢中で……」

 

 祭はあっけらかんとしているが、一刀にしてみれば、自分の脳みそを疑いたくもなる行いだった。

 実際は、気を失うまでどころか、気を失った祭に口づけて唾を飲ませ、無理矢理に意識を引き戻して祭の身体を貪り続けたのである。

 音々音にはまだ理性が働いて気遣ってやれていたと思うが、武闘派の三人に相手をしてもらうとなると、間違いなく箍が外れていた。

 始まったのが朝なら夜が更けるまで、始まったのが夜なら朝陽が昇るまで、我を忘れて彼女たちの身体に酔いしれていたのだ。

 

「くくっ、阿呆。そこは胸を張るところであろうが」

「いやでもさぁ。あんな事したら、普通のカップル……じゃない、恋人とかなら別れ話になってもおかしくない様な気がするし……」

「はっ!儂らが普通の恋人か?」

 

「あぁ、いや……どうだろ?」

「であろうが」

 一刀は、祭の不敵な微笑みを見ながら、どれ程に年齢が近づいても、結局はこの人には敵わないな、と苦笑いを返し、そこで祭の異変に気が付いた。

「あれ、祭さん、今日は呑まないのか?」

 

 そう、何時もならば、食事時に祭の横にどっかりと鎮座ましましている酒瓶が、今日は影も形も見当たらなかったのである。

「うん?おう、今日は午後から、久し振りにお主に稽古を付けてやろうかと思うての」

「マジで!?ありがとう!!」

 

「お……おぅ?」

「なんでそこでちょっと引くのさ?」

「いや、以前のお主は、儂が稽古を付けてやると言ったら脂汗を掻いておったではないか。そんな、明命の様な反応をされるとは思わなくての」

「別に、昔だって嫌がってた訳じゃないよ。今はほら、自分がどれだけ祭さんみたいな達人に通用する様になったか、ワクワクする気持ちの方が強いって言うかさ」

「ほほぅ、言う様になったではないか、一刀。では、加減は要らんな?」

「勿論!」

「よしよし、それでこそ孫家の婿じゃ」

 祭は一刀の言葉に歯を見せて笑うと、箸を手にして自分の食事に手を付ける。

 出会った頃から、剣の筋も悪くない、素直で気骨のある少年だとは思っていたが、こうも見事に大成するとは。

 

 鍛え上げられた肉体から匂い立つ様な凄みも、閨での情熱的で猛々しい姿も、祭が望んだ以上の男になった。

 正直な話、この精悍な青年に狂おしい程の情念を込めて閨で真名を呼ばれ続けている間、彼の顔に(かつ)ての少年の面影か重なる度に、自分の中の女の上げる歓喜の声を押さえる事が出来なかった。

 年甲斐もなく、『これ程の雄の中に、十五年ものあいだ残るほど、自分の匂いを刻み付けてやったのだ』と言う自尊心が満たされていく幸福感と、彼の舌や指や剛直が齎す終わりのない悦楽に、(したた)かに酔っていたのだ。

 

 もちろん嘗ても、自分の事を仔犬の様に慕っていた愛らしい少年との逢瀬に歓びは感じていたが、それでも今感じている様に、酔いつぶれてしまうほど強烈ではなかった気がする。

 現に、全くそんな心算(つもり)はなかったと言うのに、こんな事を考えているだけで、自分の中に熾火の様な欲情の疼きを感じてしまう程だ。

 

「―――さん。祭さん?」

「おぉう!?なんじゃ大声で」

「いや、ぼーっとしてるみたいだったからさ。俺の話、聞いてた?」

「うん?」

 

「いやだから、なんで俺に稽古付けてくれる気になったの?『暫く得物は持たんぞ!冥琳(おに)の居ぬ間にぐうたらするんじゃ~!』って言ってたのに」

「なに、大した事ではない。昨日の霞とお主の稽古を見て、気が変わったと言うだけよ」

「完敗でしたが……」

 

「莫迦を言え。あの遼来々を相手に、何十合と互角に打ち合っていたではないか」

「いや、だってさぁ」

 一刀が一人で鍛錬をしている所にふらりと顔を出した霞が相手をしてくれると言うので、起龍体となって全力で挑んだのだが、結局と言おうか当然と言おうか、最後には霞の神速の剣閃を追い切れず、首筋に刃を突き付けられてしまった。

 

 俗な言い方をすれば、これでもかとバフを盛った状態ですら完膚なきまでの敗北を喫してしまったのである。

 相手があの張遼ならば仕方ない、と言われればそうなのかも知れないが、それでもやはり良いところ無しだったのは、長年、業を磨いて来た一武術家としては屈辱だ。

 

「ふん。贅沢な悩みじゃの。この儂の武人の血が疼くような仕合をしたのじゃ、少しは自慢に思えと言うに」

「う~ん。まぁ、そう言って貰えるなら……」

 一刀が祭の言葉に渋々と頷くと、高らかな馬蹄の響きが二人の耳に届いた。

「おう、噂をすればじゃな」

 

 祭はそう言って席を立つと、米櫃の蓋を開けて茶碗に白米をよそい始めた。

 すると、からころと言う軽やかな下駄の音と共に、大きな音を立てて厨房の扉が開く。

「えらいこっちゃで、一刀!」

「遅かったの、霞。昼餉は喰うであろう?」

 

「おっ、今日は酢豚かいな!食べる食べる!—――って、そうやなくてな!」

 霞はそんな事を言いながらも卓に付くと、懐から書簡を出してグイと一刀に突き付けた。

 霞は、一刀がそれを受け取るとの同時に祭が持って来た茶碗を受け取ると、いただきますの声もそこそに、猛然と酢豚と白米を掻き込んで飲み下してから、漸く口を開いた。

 

「帰りに出城に寄ったら、ちょーど一刀宛ての書簡が届いてたんで、預かって来てん。恋や聳孤(しょうこ)たちにも撤収の指示が届いたそうやから、大方それにも、そろそろ移動せぇって書いてあると思うで」

「そりゃありがとう。どれどれ―――」

 一刀は、封を開けて手紙を広げると、暫く黙読してから顔を上げた。

 

「霞の言う通りだな。三国で話合いの結果、空丹や白湯への挨拶もあるから、一旦、成都に帰れってさ。それから改めて都に凱旋だって。二人にも、恋たちと一緒に引き続き成都まで俺の護衛を頼むそうだ」

 今や公然の秘密の様になっているが、漢の先々代、そして先代皇帝である霊帝こと空丹と献帝こと白湯への拝謁は、やはり疎かにすべきではないとの判断が、三国の王たちの総意であるらしい。

 

「まぁ、順当やろな。それに、一刀は実質、蜀漢のもう一人の国主やし、将兵もウチらと違ってみんな直臣やしな」

 霞は祭にお替りを要求しながら、独り納得してうんうんと頷いた。

「でもそんなら、ウチと祭はこれからはずっと一刀と一緒やんな!まさか、成都から一人で帰参せぇなんて、華琳も蓮華様も言わへんやろし」

「ふむ。一人旅は気楽でよいが、流石に立場もあるからな。天の遣いの帰還、都への引っ越しに人事の引継ぎと、それでなくとも人手の足らん時期に、我等の帰参の為だけにわざわざ桃香様から兵をお借りするのも申し訳ないからのぉ」

 訳知り顔でそう言う祭に、霞は不敵に笑い掛けた。

 

「そーいう大義名分が立つ、っちゅーコトやろ?」

「まぁな。競争率が高くなる前に、たんと一刀に可愛がってもらわねばの?」

「なんやぁ、ついこの前まで足腰立たんて泣き言いうてたクセに、結局、まだ足りへんのん?」

「それはそれ、これはこれじゃわい」

 祭は、気恥ずかし気に顔を赤くして黙々と食事に戻っている一刀に愛おし気な一瞥を投げてから、自分も食事に戻る事にして、椅子に腰かけた。

 

「ともあれ、一刀と霞は、出城の手伝いに行ってやれ。儂の方は、こちらの片付けをしておくでの」

「じゃあ、手伝いを寄こすよう頼んでおくよ、祭さん」

 一刀がそう言うと、祭は肩を竦めた。

「不要じゃ。荷物と言うても、どうせ買い足した服くらいしか無いしの。のう、霞?」

「せやな~、着の身着のままやったし。でも、これで一刀を独占して一軒家で一緒に暮らすんも、あとちょっとかぁ。残念やわぁ」

 

「欲を掻くと碌な事にならんぞ。佳き夢を見たとでも思って諦めい」

「わーっとるって。な、な、一刀。あと一回くらい、ウチとしてくれるやろ?」

「どこに行ったって、ちゃんと時間を作るよ。霞が傍にいてくれるならな」

「うん、そかそか……」

 

「はっはっは!すっかり種馬殿も本調子じゃな!ま、いずれにせよ、忙しくなりそうじゃし、稽古は日を改めてとするか」

「いやまぁ……ははは……」

 一刀は、本調子に戻ってきたのは自分だけではないな、と思いながらぎこちなく笑って、兎も角、食事を終わらせる事に集中するのだった。

 

 

 

 

 

 

 それから更に一週間の後、都に戻ると言う聳孤と別れた一刀は、恋、祭、霞、音々音、高順こと誠心らと警護の兵士十名を連れ、成都に向かう街道をゆく馬上の人となっていた。

 都に向かう際には、早く、また大人数での移動にも適している水路を使う事になるであろうから、出来れば陸路で久し振りの蜀の国を見たいと言う一刀の願いを聞き入れてもらった形なのだが、どうせなら呂布隊の三分の二を水路で成都に帰し、残りを別々の街道を使って移動させ、街道整備によって新しく出来ている多くの宿場町に金を落としてはどうかと言う音々音からの献策もあり、一刀たちは極力目立たぬよう、少数精鋭で移動する事にしたのである。

 

「おぉ、あの辺りの山も、随分と拓けたなぁ。入蜀の時には緑しかなかったのに」

 一刀は手で庇を作って、嘗てはただの山肌だった場所に出来た小さな集落の家々の煙突から煙が立ち上る様子を眺め、そう独り言ちた。

 すると、それを聞きつけた音々音が一刀の隣に馬首を揃える。

 

「あの辺りは、斜面が急で耕作地には向かないですが、太くて肉厚の良い竹が採れるのです。なので、竹炭作りを生業にしてはどうかと入植者を募ったのですよ。大規模な宿場町も増えていますし、燃料の供給元は食いっぱぐれが無いですからな」

「いいねぇ。竹を減らしながら植林を進めれば、ゆくゆくは木炭も作れそうだな。そうなったら、質が良ければ税の代わりに納めて貰っても良いし」

 

「ほほぅ、燃料を税の代わりにですか……面白い考えなのです。国庫の燃料代を節約できますし、民の方でも、一度は銭に変えて税を払うより手間がかからず楽になるかも知れませんのー」

「まぁ、量と質が安定しないと税の代わりにってのは無理だから、集落の規模を拡張するのと併せて何年も掛かるとは思うけどな」

「それでも、今から考えておく価値はあると思うのです。業腹ですが、今度の評定に上げてやるのですよ」

 

「そりゃどうも」

 一刀は、眉間に皺を寄せて考えを整理しているらしい音々音に微笑みを向ける。

 本人は認めたがらないが、音々音は元々、軍略よりも兵站の管理や調達を最も得意とする軍師であり、転じて税制に関しては、臥龍鳳雛からも一目置かれる見地の持ち主だ。

 その彼女から一考の価値あり、との言葉を貰えるのは、素直に嬉しい。

 

「ご主人様もねねも、頭が良い……凄い」

 ゆっくりと馬首を並べた恋が誇らしげにそう言うと、音々音はぷんすかと抗議の声を上げる。

「恋殿、お褒め頂くのは嬉しいのですが、それでは、このねねの頭脳がコイツと同列に聞えてしまうのです!」

「はいはい。ねねは俺なんかよりずっと頭が良いとも」

「当然なのです!恩着せがましく言うななのです!」

 

「やれやれ。いつ見ても、蜀の主従は大らかじゃの」

 三人の遣り取りを後ろから眺めていた祭が、喉を鳴らしながらそう呟くと、霞も呆れた様に笑って頷いた。

「確かになぁ。ウチも大概、砕けた方やと思うけど、あそこまではでけへんわ」

「それどころか、蹴り倒したりもしとるしの。相手が北郷ゆえ流しておったが、よくよく考えたらとんでもない話じゃな」

 

 祭が半ば呆れた様に言うと、二人の後に続いていた誠心が、申し訳なさげに笑った。

「まったく、陛下と御大将には、どれほど頭を下げても足りませぬ。我等をありのまま受け入れて頂いて」

「しっかし、誠心の苦労も報われてよかったでほんま。アンタみたいな真っ正直な人間が馬鹿見るんは、(はた)から見てても悲しいからなぁ」

「お心遣い痛み入る、霞殿。しかし某は、苦労とは思うておらんよ。素晴らしい主を三人も得られた果報者だ」

 

「そうか。お主らは元同僚であったな。それにしても、真名まで預けておるとはの」

 祭が、はたと思い付いてそう言うと、霞は苦笑いを浮かべた。

「ただの同僚やのうて、同志っちゅうやつやからな。命預け合う覚悟が無かったら、大陸中の英雄豪傑を向こうに回して大喧嘩なんかでけへんて。都で顔合わせたら、たまに茶ぁシバいたりもしとったんよ」

 

「なに、天下に名の知れた堯将が雁首揃えて茶とな?」

「はは。恥ずかしながら、(それがし)は下戸の中の下戸でしてな。一滴でも呑むと目を回してしまうのですよ」

「ほぉ、いくらでも呑めそうな顔をしとるのにのぉ。人は見かけによらぬものよな」

「でもな、そん代わり、甘いモンにはめっちゃ詳しいねんで!洛陽と都の甘味処の事なら、季衣より詳しいかも知れんくらいや。な、誠心」

 

「さて、仲康殿とは情報交換の機会こそあれ、上下を競った事はない故な……うん?」

 四方山話に花を咲かせていた三人は、前方で一刀が手を振って呼んでいるのを見て、後続の兵士たちに合図をやると、共に駈足(かけあし)で馬を進め、一刀たちに並んだ。

「いかが致しましたか、御大将」

 

「あぁ。恋が腹を空かせたみたいでな。今日の宿場まではもう近いし、駈足で行きたいんだが」

「成程、それは一大事じゃ」

 今や恋の調子をすっかり理解している祭は、くつくつと笑って頷いた。

「ま、この辺りなら道幅も広いし、精鋭揃いやから問題ないやろ……一刀とねねを除いては、やけどな」

「ぐぬぬ、張文遠にそう言われると反論できん……正論で殴るの、よくない!」

 

「ぐぬぬ、癪に障るヤツなのです!!」

 霞の言葉に、揃って悔しそうに眉を寄せる二人を見て、兵士たちからどっと笑い声が溢れる。

「これ、お前たち、主を笑う者があるか」

 誠心は自身も笑顔を浮かべながら、そう言ってやんわりと兵士達を叱ると、咳払いを一つして、朗々と号令を掛ける。

 

「では、総員隊列を整え、一列になって駈足!間違っても民に馬を当てるなよ!」

 恋は、兵たちが声を揃えてそれに答えるのを聞くと、先導して走りだした。

 

 

 

 

 

 

 明るい闇が満ちた不気味な廊下に、荒々しく重い靴音が響いている。

 その音の主は、馬苦の軍勢の司令官を務める四凶の一角、魔獣兵団の団長、饕餮(トウテツ)であった。

 饕餮は漆黒の鎧を軋ませながら左右に開かれた禍々しい彫刻の巨大な門を抜け、不気味な緑色の炎が灯った無数の燭台が煌々と照らし出す大広間に入ると、最深部の“玉座”へと続く大階段の前に探していた人物の背中を認め、その場に足を止めた。

 

檮杌(トウコツ)

突然に背後から自分の名を呼ばれた人物が振り返ろうとした瞬間、その細い首に、漆黒に研ぎ澄まされた剣の切っ先がピタリと当てられていた。

バスタードソード。

現在のスイスに位置する地域において、ラテン系民族の刺突剣とゲルマン系民族の切斬剣の特性を併せ持つ剣として考案された、私生児(しせいじ)の名を持つその長剣の遣い手は、馬苦の中には一人しか居ない。

 

檮杌(トウコツ)は、振り向く事なく肩越しに首に当てられている黒刃に、篭手で包まれた指の腹を這わせ、真紅の紅を引いた唇に妖艶な笑みを湛えて、ゆっくりと振り向いた。

「これはこれは饕餮(トウテツ)殿……随分と荒っぽい御挨拶ですね。出会いがしらに女に剣を突き付けるなどと、騎士の名が泣きましょう」

 

「貴公、よくも抜け抜けと、俺に対してその様な口が利けたものだな」

「さて……何の事やら、私は一向に存じ上げませぬが」

(とぼ)けるな。貴公、なぜ北郷一刀を仕損じた上、奴が外史に帰還した事を俺に伝えなかった?そのおかげで、俺は危うく八魔を失うところだったのだぞ」

 饕餮(トウテツ)は感情を殺した口調でそう言うと、僅かに剣の切っ先に力を込めた。

「何をお怒りなのかと思えば、その事でしたか。どうやら、饕餮(トウテツ)殿は、大きな誤解をなされておられる様で……」

「ほう。誤解だと?」

 

 檮杌(トウコツ)は小さく頷き、刀身を押えていた指を緩やかに放すと、饕餮(トウテツ)に向かって一歩近づいた。

 目の前の偉丈夫の性格は、良く分かっている。

 この男には、剣も抜かずに対峙している者を切り捨てる事など出来はしないのだ。

 増して、それが女であれば尚の事。

 檮杌(トウコツ)は、自身の内に渦巻く暗く歪んだ感情など一欠片も表情には出さず、漆黒の兜の奥に隠された饕餮(トウテツ)の瞳を見返した。

 

「えぇ……確かに、北郷一刀を仕損じたのはこちらの落度。その一件に関しては、謹んでお詫び申し上げましょう。しかし、北郷一刀の帰還については、私も知らなかったのですよ……。何せ、黒網蟲(くろあみむし)は北郷一刀に身体を袈裟に切り裂かれ、瀕死の重傷を負って逃げ帰って来た上、暫くは口も利けない有り様のまま修復槽に浸かっておりましたのでね」

「ふん。仮にそうだとしても、黒網蟲がその様な状態で帰って来た時点で、北郷が近い内に帰還する可能性は予想出来た筈であろうが」

 檮杌(トウコツ)饕餮(トウテツ)の問いに涼やかに微笑むと、更にもう一歩、饕餮(トウテツ)に近づいた。

 漆黒の兜が無ければ、口づけが出来る程の距離まで。

 

饕餮(トウテツ)殿、先程から余りな物言いではないですか。ご自分の落度を棚に上げ、私だけを一方的にお責めになられるとは」

「何だと?」

「だって、そうでしょう?そもそも臣下に任せたりなどせず、四凶最高の剣士である饕餮(トウテツ)殿が御自(おんみずか)ら軍の指揮を執っておられれば、まだ経験の浅い北郷に遅れを取る様な事など無かった筈。その上、私が腐心して数年掛かりで用意した、大規模な転移陣まで失ってしまって……これで、蜀の地を手に入れるのはおろか、暫くは大規模な軍を動員する事もできなくなってしまったのですよ?」 

 檮杌(トウコツ)は、饕餮(トウテツ)の兜を両手で挟む様に包み込むと、そう(ささや)いた。

 

 妖艶な女騎士は、押し黙った饕餮(トウテツ)の兜の奥の顔を満足そうに覗き込む。

「いずれにせよ、謁見の間で余り礼儀知らずな真似をなさるのは、感心出来ませんね」

 檮杌(トウコツ)は、あやす様な口調でそう言って、腰まで伸びた芦色の髪を翻して饕餮(トウテツ)から離れる、と、その瞬間を待っていた様に、謁見の間の暗闇の何処かから、甲高く耳障りな声が響いた。

 

「そうだぜェ、饕餮(トウテツ)ゥ。それでなくても、蚩尤(シユウ)様は大変に御怒りだろうからなァ!!」

 

窮奇(キュウキ)か……」

 饕餮が愛剣を鞘に納めなら、そう呟いて遥か頭上のシャンデリアを睨みつけるのと同時に、今迄は緑の炎が漆出した揺らめく影であった筈のものが、ゆっくりと染みだす様に蠢いて二メートル程の大きさになったかと思うと、巨大な鷹の翼で身体を(おお)った“人間の様なもの”に変わった。

 

「ククッ。そう怖い顔するなよォ、饕餮(トウテツ)ゥ。別に、茶化した訳じゃないぜェ?」

 窮奇(キュウキ)と呼ばれた鳥人は、ふわりと空中に身を躍らせたかと思うと、身体を包んでいた巨大な鷹の翼を広げるや、滑る様に饕餮(トウテツ)檮杌(トウコツ)(そば)に着地して、獰猛な虎の顔にギラギラと光る猛禽の眼を二人に向けた。

「実際のところ、このタイミングで蚩尤様が四凶をお召し出しになられた理由なんて、それ以外に考えられねぇだろうが?」

 

 窮奇(キュウキ)が、大きな口から生えた牙を剥き出しにして威嚇するように笑うと、それを横目で見ていた檮杌(トウコツ)は溜息を吐いて、大胆に胸元の開いた藍色のドレスアーマーに包まれた豊満な胸の下で腕を組んだ。

「そのような事は、一々あなたに指摘されなくても解っています。最初からそこに居たのなら、饕餮(トウテツ)殿の暴挙を止めて下されば良かったものを」

 

「悪ぃな。放っといた方が断然おもしれぇと思ったもんでよォ」

 窮奇(キュウキ)は肩を竦めながらそう言って、悠々とした足取りで大階段まで歩いて行き、一段々々が背の高い椅子程もあるその階段の一段目に腰を下ろした。

「それによぉ、饕餮(トウテツ)が本気でお前の言うその暴挙ってヤツをやろうと思ってたんなら、今頃お前は首だけで喋ってらぁな。そうだろ、饕餮(トウテツ)?」

 

 檮杌(トウコツ)は、片足を階段に上げて愉快そうに視線を投げかける窮奇(キュウキ)と、黙してそれを受け止める饕餮(トウテツ)を交互に見遣り、一瞬、意味深に微笑んでから、芦色の長髪を靡かせて、大広間の入り口から大階段の前まで等間隔にそそり立っている巨大な西洋の神殿風の柱の一本の元までハイヒールの靴音を響かせながら歩いて行き、腕を組んだまま柱に背を預けて目を閉じた。

 

「一同、控えよ。我等が主、蚩尤様の御成(おな)りである」

 

 暫くの間続いた不穏な静寂を破ったのは、何処からかとなく聞こえてきた、くぐもった男の声だった。

 それまで思い思いの場所で休んでいた饕餮(トウテツ)檮杌(トウコツ)窮奇(キュウキ)の三人が大階段の正面に揃って並び、同時に片膝を着いて(こうべ)を垂れると、遥か頭上の天蓋で覆われた玉座に、凄まじい威圧感を放つ存在が忽然と現れるのが感じられた。

 

「一同、大義である……許す。(おもて)を上げよ」

 

 玉座の間に朗々と響き渡った青年とも老人ともつかない声に応え、三人は顔を上げて、自らの主の座る玉座を見上げる。

揺らめく天蓋(てんがい)の向こうに(しつら)えられた玉座に座す彼等の支配者の巨大な影からは、如何なる感情も読み取ることは出来なかった。

 天蓋の手前の右側には、先程の声の主である四凶の一人、混沌(コントン)が、鏡面(きょうめん)の如く磨き上げられた仮面に覆われた頭を垂れ、(ひざまず)いて控えている。

 

「さて、饕餮(トウテツ)檮杌(トウコツ)よ」

「はっ」

「はっ」

 名を呼ばれた二人は一瞬身を固くしたものの、背筋を伸ばし、改めて頭を垂れる。

「余は、うぬらの弁明などを聞く為に態々(わざわざ)、四凶を召し出した訳では無い。檮杌(トウコツ)

「はっ!」

(つまび)らかに申し述べよ」

 

 檮杌(トウコツ)は小さく息を呑んでから顔を上げ、重々しく口を開いた。

「はっ。臣檮杌(トウコツ)(おそ)れながら御注進(ごちゅうしん)申し上げます。蚩尤様の御下知(おげち)により、我が八魔たる黒網蟲に、各軍団から借り受けましたる下級種五十を預け、北郷一刀の抹殺を命じて正史に差し向けました。が、あと一歩のところまで追い詰めたものの、救世の器の覚醒を許し、惜しくも取り逃がしました。下級種は全滅、黒網蟲は瀕死の傷を負い、現在、修復槽にて治療中で御座います」

 

「―――饕餮(トウテツ)

  続いて名を呼ばれた饕餮(トウテツ)は、檮杌(トウコツ)と同様に顔を上げ、玉座の影を見詰めながら口を開く。

「はっ。臣饕餮(トウテツ)、畏れながら言上仕(ごんじょうつかまつ)りまする。蚩尤様の御下知の基づき、我が魔獣兵団の下級種から精兵二万を編成し、八魔たる黒狼にその全権を委任、同じく我が八魔の魔魅を副官として付け、外史に派遣しました。しかし、転移陣の近くに彼の飛将軍、呂布の軍勢が展開しており、これとの交戦を余儀なくされました。この際、呂布の凄まじい武働きにより二千強の下級種を失ったものの、黒狼が呂布を討ち取る寸前にまで追い詰めました。が―――」

 

 饕餮(トウテツ)はそこで一度息を吐き、兜の奥に隠された秀麗な眉を(ひそ)めた。

「途中、(かね)てより救世の器と目されていた北郷一刀が戦場に乱入。戦況を覆され、重ねて敵の増援が到着した事もあり、魔魅の判断で残存兵力を纏めて撤退。これに成功したものの、撤退完了後、北郷一刀によって転移陣は破壊されました。黒狼は呂布との一騎打ちの際に負った戦傷を治療中の為、詳細は未だ聞けておりませぬが、魔魅からの報告によれば、待伏せの様子が無かった事から、呂布軍が居合わせたのは偶然の可能性が高いであろうとの事です。また、北郷一刀は怨敵、姬軒轅(きけんえん)に酷似した具足を(まと)い、それ故か転移陣を視認出来ていたらしく、その破壊を優先しようとしていた、と」

 

「左様か……軒轅めにの。やはり、余の勘働きは図に当たっていた様であるな」

 蚩尤は、感情の読み取れない(こえ)でそう呟くと、天蓋の奥でふと顔を上げた。

「で、此度の救世の者の力の程は、如何であったのか?」

「は。魔魅と、治療に入る前の黒狼から僅かに聞き及んだ話を総合するに、中々の遣い手であるかと」

「申せ」

「は。何でも、黒狼を一太刀の元に組み伏せ、我が魔獣兵団の下級種二万を向こうに回して一歩も引かず立ち回り、ものの数分で、実に数百に及ぶマシラ級を殲滅せしめ上、魔魅に手向かいを許さず拘束した、との由」

 

 その言葉を聞いた四凶の面々の間に、驚きが走った。

 それまで黙ったまま蚩尤の横で控えていた混沌(コントン)は、鏡面に覆われた顔を初めてまともに饕餮(トウテツ)に向け、窮奇(キュウキ)はヒュウと口笛を吹く。

 既に配下の黒網蟲を退けられた檮杌(トウコツ)でさえ、目を見開いて横の饕餮(トウテツ)を見詰めている。

 それも無理のない話だった。

 

 四凶がそれぞれに有する八魔は、特に完成度の高い、言い換えれば、上級種たる四凶に最も近い存在である。

 それを、いとも容易く組み伏せるとは。

「ククク―――佳いぞ。実に佳い」

 

 大広間に落ちた静寂を破ったのは、愉悦を帯びた蚩尤の声であった。

「骨のある肯定者どもは、あらかた先の大戦で喰らい尽くし、軒轅めも永劫の(とき)の中に消えたと思うておった。しかし、中々どうして楽しませてくれる。この外史、一息に呑みこんでくれようとも思うていたが……折角だ、腰を据えて楽しませてもらうとしようぞ」

 

 蚩尤がそう言い終わるや否や、窮奇(キュウキ)が嬉しそうに立ち上がった。

「ならば、蚩尤様。次は是非、この窮奇(キュウキ)めの魔鳥兵団に、出撃の栄誉をお与えください!必ずや、御喜び頂ける結果を出してご覧に入れまする!」

「良かろう、では―――」

 その時、檮杌(トウコツ)の涼やかな声が、蚩尤の声を遮った。

「お待ち下さい。蚩尤様、窮奇(キュウキ)殿」

 

「恐れながら、私に一計が御座います。私に、汚名返上の機会をお与え下さる訳にはいかないでしょうか?」

「あん?檮杌(トウコツ)ゥ、何なんだよ、その一計ってぇのは?」

 檮杌(トウコツ)は、あからさまに不機嫌そうな顔で自分を睨みつける窮奇(キュウキ)に微笑んだ。

「蚩尤様、それに皆様。私のこの策の有用性を示す事が出来れば、我等の戦力を飛躍的に向上させる事も可能となります。さすれば、饕餮殿が失った兵力の補充にも役立ちましょう。何卒……」

 

 蚩尤は、天蓋の向こうで暫く黙考したのち、臣下達に下知を下した。

「では、檮杌(トウコツ)。やってみるが良い。饕餮(トウテツ)よ、うぬは、檮杌(トウコツ)の策の結果が出るまで軍団の再編を待っておいてやれ」

「御意に」

 頭を垂れたままそう答えた饕餮(トウテツ)は立ち上がり、蚩尤に一礼して大広間を出て行った。

 それを横目で見送った檮杌(トウコツ)も立ち上がる。

「有り難き幸せ。では早速にも」

 檮杌(トウコツ)は恭しくそう言って一礼し、大広間をあとにした。

 

「おうおう、わざわざ饕餮(トウテツ)の責任を強調たりしてよ。結局、あいつは饕餮(トウテツ)をどうしたいのかねェ?饕餮(トウテツ)の方も、突っかかる割りには本気で()心算(つもり)もなさそうだしよ」

 窮奇(キュウキ)は呆れた様にそう言って肩を竦めると、再び先程と同じ様に大階段に腰を下ろした。

「あの二人は、我々とは“違う”からな。解せぬのも、止む無き事だ」

 

「左様―――」

 

 蚩尤は、混沌の言葉に天蓋の中で頷いて、面白そうに言った。

「ああ言った感情と、それに伴う競争意識は、我々には希薄なモノ。だからこそ、面白いのだ。窮奇よ、お前も、久方振りの“変化”を愉しめ」

 「はぁ……」

 窮奇は曖昧に答えると、鷹の脚の様な肌を持つ腕から伸びた鋭い爪でポリポリと頬を掻き、饕餮と檮杌の消えた廊下を見詰めた。

 

 

 

 

 

 

「ちょっと待ってよ、姉様!飛ばし過ぎだってばー!!」

 馬岱こと蒲公英は、自分の前方を馬に跨って疾駆する従姉、馬超こと翠に向かって叫んだ。

「なに弱気な事言ってんだよ、たんぽぽ!早馬で来た呂布隊の兵の話じゃ、ご主人様たちは今日の朝には巴郡を発つ予定なんだろ?予定通りの経路を使ってたとしたら、もうそろそろ最初の宿場に着いてる頃だろうが!」

 

「それはそうだけど、どの道、今日中に合流するのは無理なんだよ!街道を使ってるご主人様達と違って、たんぽぽと姉様は行軍用の山道を通ってるんだから、そんなに飛ばさなくても予定してた宿場で合流出来るってば~!!」

 蒲公英は、出発してから幾度となく言ってきた台詞を、無駄だと解っていながらも、もう一度口にした。

 

 一刀たちの旅の道程を記した予定表を携えた早馬の伝令が成都に到着したのは、昨日の事。

 翠と蒲公英の二人が、もう一人の主である劉備こと桃香の勅命を受けて成都を出たのは、今朝の払暁である。

 一刀の帰還と、罵苦の軍勢撃退の報が同時に届いた段階でてんやわんやの大騒ぎだった成都は、数週間のまんじりともし難い時を過ごしていただけに、今度は天地をひっくり返した様な大騒ぎに陥った。

 今頃は、天の御遣い帰還の方を聞いた日から準備が始められていた飾り付けやら何やらが、成都の街中に溢れ返っている筈である。

 

 翠と蒲公英を含めた将達は、興奮して玉座の間で騒いでいたのだが、「あ、旗!!」と言う、珍しい龐統こと雛里の大声で、場は一瞬の沈黙に包まれた。

「旗?旗がどうしたの、雛里ちゃん?」

 桃香が、興奮でほんのり赤くなった顔で雛里に尋ねると、雛里は両手で頭のとんがり帽子を押えながら答えた。

「あわわ。ご主人様の牙門旗です、桃香様。あれ……この城の宝物庫の中ですよね?」

 

「「…………あ゛!!」」

 

 そう、丸に十文字の牙門旗。

 北郷一刀の象徴でもあるそれは、各国の王達が国表に戻る際、本来、一刀が桃香と共に治めていた蜀に持ち帰られる事になり、今日に至るまで宝物庫に保管されて来たのだった。

 

 牙門旗とは即ち、大将旗である。

 そして大将旗とは、その大将の掲げる理想そのものであり、引いては、その大将の元に集う人々の理想の具現化した物であると言っていい。

 三国同盟の盟主である北郷一刀の帰還に際して、その象徴たる牙門旗が翻っていないのは、実によろしくない。

 ましてや今回は、罵苦と言う未知の怪物の初めての大攻勢を撃退せしめた、華々しい凱旋でもある。

 凱旋帰国の際に、その軍勢の総大将でもあった北郷一刀の牙門旗が翻っていないなど、尚の事よろしくない。

 

 そんな訳で、急遽、一刀に牙門旗を届ける為に、馬術に長けた将を使者として遣わす事になり、厳正なる選考の結果、蜀の騎馬隊の中枢である西涼騎兵の長である馬家から、当主の翠と右腕の蒲公英に白羽の矢が立ったのである(因みに公孫瓚こと白蓮は、『何だか残念な事になりそう』と言う理由で選考から外れてしまい、玉座の間の隅で体育座りになっていじけていた)。

 そして今現在、騒動の元となった牙門旗は細く折り畳まれ、翠の背中の襷がけに結わえられている。

 

「くぅ~っ!!主の牙門旗を身体に結んで届けるなんて、目茶苦茶燃える展開じゃないか!今行くぜ、無事でいろよ、ご主人様!!」

「いや、無事も何も、敵とかと戦ってる訳じゃないから!ただのお届物だから!!敵陣突破とかしないよ!?」

 蒲公英は、妄想が暴走し始めた従姉にツッコミを入れながら、馬上で溜息を吐く。

 今の蒲公英の心境は、連れだって呑みに行った友人が先に泥酔してしまって、酔うに酔えないジレンマに陥っている若者のそれと、極めて似ていると言えた。

 まぁ、いくら従姉が暴走気味でも、馬を潰してしまう様な事はしないだろうし、今日の宿で一晩休めば、明日には少し落ち着いているだろう。

 蒲公英はその一時に最後の希望を託すと、再び手綱を握る手に力を込めた。

 彼女とて、早く北郷一刀に逢いたい気持ちは同じなのだ。

 しかし……。

 

「色々と溜まってたんだねぇ、姉様……」

蒲公英は、十文字の牙門旗を背負って先を往く従姉をしみじみとした眼差しで見つめながら、ポツリとそう呟いたのだった。

 



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第十話 天馬幻想 前篇

 とうとう、リライトに際して一番悩んだパートに差し掛かって参りました。
 楽しんで頂けたら幸いです。
 また、感想やお気に入り登録、評価など、大変に励みになりますので、お気軽に頂戴出来ればと思います。

 


 

 

 

 

 

 北郷一刀の剣帯に収まっている古めかしい通信機がビープ音を吐き出したのは、実に一ヵ月ぶりの事。

 罵苦の軍勢を退けた件を報告して以来だった。

「んん?一刀、なんか変な音なってんで?」

 張遼こと霞が杯に口を付けながら、不思議そうな顔でそう言った。

 

 現在、一刀は、霞の他に、呂布こと恋、陳宮こと音々音、黄蓋こと祭、高順こと誠心の五人と共に、宿場の一刀の部屋で風呂上りに一杯引っ掛けながらミーティングの最中だったのである。

「あぁ、これな。遠くに居る奴と話が出来る装置だよ。卑弥呼から連絡だと思う」

 一刀はそう言って通信機を剣帯から抜き出すと、プレスボタンを押した。

「卑弥呼。お客さんも聴いてるからな。お行儀よく頼むぞ」

 

「人が普段は行儀が悪いかの様に(うそぶ)くのは止めてもらおうか、ご主人様よ」

 小さな箱状の物体から卑弥呼の声が響くと、五人から小さな驚嘆の声が上がったが、一刀は特に関知しない事にして返事を返す。

「自分のぶ厚い胸に手を当てて―――いや、やっぱいい。で、要件は?」

 

「うむ。以前、貂蝉がご主人様の力となり得る幻想の欠片を探している、と言う話をしたであろう」

「あぁ、憶えてるよ。それが?」

「実は、貂蝉から連絡があってな。今のご主人様に必要な存在を見つけたので協力を仰いだらしいのだが―――」

「ちょっと待て。協力を仰いだって、ソレ、意志があるのか?」

 

「まぁ、そうだ。で、ご主人様の話をしたら、自分で勝手に“そちら”に向かってしまったらしくてな」

「おいおい……まさか、大陸中を探し回れなんて言わないだろうな」

「まぁ、心配するな。超常のもの故、あちらがご主人様を探し出すであろう。案外、すぐ(そば)まで来ているやも知れんぞ」

「そんなアバウトな……」

 

「なに、貂蝉も、ご主人様が成都に到着する頃に支給品を持って様子を見に行くと言っておった故、向こうから接触がなかったら、あやつに手伝わせれば良かろう」

「了解了解。じゃ、悪いけど煙草とコーヒー、あと9mmパラベラム多めに頼むわ。師匠はお変わりないか?」

「愚問だな。あの御方がどれほど生きておられると思う」

 

「だよな。宜しく言って置いてくれ」

「うむ。要望は承知した。しかと貂蝉に持たせよう。因みに、珈琲の豆に注文は?」

「マンデリンのシティーローストで頼む。パンツの中には絶対に入れるなって、念押ししといてくれな」

「分かっておる。ではな」

 

 一刀は、手の中で沈黙した通信機から視線を外すと、興味津々と言った様子でこちらを眺めている一同に向かって肩を(すく)めてみせた。

「だってさ」

「いや、『だってさ』て……」

 

「面妖ですのー」

「原理を説明しろとか言わないでくれよ」

 一刀が微苦笑を浮かべてそう言うと、誠心は呆れた様な顔で虎髭をもしゃもしゃと掻いた。

「まぁ、どうせ聞いても理解できるとは思えませんしなぁ」

 

「ねぇ、ご主人様」

「ん、何だ恋」

「それで、桃香たちと話せないの?」

「うぅん、桃香が同じのを持ってたら話せるけどなぁ」

 

「……残念」

「俺もだよ」

 一刀は笑って、杯を両手で包んで持ったまま悲しそうな顔をしている恋の頭をポンポンと撫でてやる。

「それにしても、いつぞやの“すまーとふぉ”と言い、天の国とは何とも不可思議で便利なもんが溢れとるんじゃなぁ」

 

「あれ?話して無かったっけ。スマートフォンも同じ事できるよ。つーか、遠くの人と話すのが主な機能で、あの肖像画はオマケ」

「なんと!?まっこと、益々もって便利よなぁ」

「まぁ、それは兎も角、何か来るかも知れないって話だから、寄り道もあり得るなぁ。ねね、その辺り、調整する事になったら頼めるか?」

 

 一刀が、この場で唯一の知恵袋にそう尋ねると、音々音はやれやれと溜め息を吐いた。

「むぅ。伝書鳩でも使えれば楽なのですが……差し当たり、予定に支障を来たしそうになったら早馬を立てる位しか手なんぞありませんぞ。まったく、面倒ばかり起こすヘボ主ですの~」

「毎度世話になるよ、軍師殿。じゃあまぁ、ちょうど飲み物も無くなったし、今日は解散にするか」

 

「御意に。では、(それがし)はこれにて。皆様、ご無礼(つかまつ)る」

 誠心はそう言うと、勝手知った様子で自分の急須や茶器を盆に載せて、慇懃に礼をして部屋を出て行った。

「何だろう。とても気恥ずかしい」

「別にええやん。気ぃ利かしてくれたんやから、素直に受け取っときぃな」

 

 霞は、照れ臭そうに頬を掻く一刀にニヤリと悪戯っぽく笑い掛けると、残った三人に挑戦的な眼差しを向けた。

「ほな、ジャンケンでええか?一回?三回?」

「三回でよかろう。人も多いしの」

「……頑張る」

「あぅ。ねねはその……明日、馬に乗れなくなると困るですから、辞退で構わないのです……」

 

「なんやぁ。随分と弱気やんか、ねね」

 意気軒高(いきけんこう)な武闘派たちを前に、音々音が頬を染めて辞退を宣言すると、霞は玩具(オモチャ)を見つけた猫の様な不穏な微笑を浮かべて音々音を見遣った。

「う、うるさいですぞ霞!ねねは軍師として、ちゃんと明日の事を考えてですな!」

 

「ま、逃げるんやったら好きにしたらええけど?主を残してさっさと撤退するクソの役にも立たん軍師なんぞ、信用してもらえるんかな~」

「おい、霞。ねねを揶揄(からか)うなってば。ねね、お前は間違ってないんだから、別に無理しなくても―――」

「喧しいのです、ヘボ主!」

 一刀が割と本気で心配して、プルプルと震えている音々音に声を掛けたが時すでに遅し。

 まんまと霞の挑発に乗ってしまった音々音は、遂に小さな火山と化した。

 

「上等なのです!軍師にジャンケンで勝負を挑もうなどと笑止千万!コテンパンにしてやるのです!!」

「おっ、根性みせてくれるやんか~。楽しみやなぁ♪」

「いや、軍師にジャンケン関係ない……まぁいいや。じゃあ、俺はちょっと一服してきますね」

 一刀は、音々音で遊ぶ気満々の霞の言葉を背に、今にもオゾンの匂いの立ち込めて来そうな部屋の扉を閉めると、自分も明日は馬に乗れるだろうか、などと考えながら、外の空気を吸う為に歩き出したのだった。

 

 

 

 

 

 

「こんな山に暴れ馬なぁ……」

 その翌々日、既に昼も近くなり、簡素な宿が併設された峠の茶屋で小休止を取る事にした一刀は、自分の席に着いた霞の言葉を繰り返した。

「せやって。酷い打ち身で済んだらしいけど、エラい馬鹿でかい馬だったらしいで。よう死なんかったもんやでホンマ」

 茶屋に入って菜譜を眺めていた時、たまたま従業員たちが怪我をして寝込んでいる客の話をしているのを横で聞いて、追い剥ぎや山賊の類かと心配した一刀が、誰とでも直ぐに打ち解けられる霞に頼んで、怪我人の相方という人物に聞き込みを頼んだのである。

 

 話の当事者の二人の名は陳良(ちんりょう)李順(りじゅん)といい、巴の郡都である安漢に住む商人だった。

 二人は、安漢と成都の間を行き来しながら道中の集落で行商を営んで生計を立てているそうで、今は成都からの帰りなのだそうだ。

 霞の話によると、四日ばかり前の事、二人は何時も使っている街道を歩いていたのだが、僅かに近道をしようとして、以前に何度か使った事のある獣道に()れた所、折り悪く濃霧に見舞われ道に迷ってしまったのだという。

 

 仕方がないので、せめて身体を暖められる場所を探して休もうと話し合い、森を歩いていたのだが、そこで唐突にぽっかりと空き地の様になっている場所に出くわして、(くだん)の馬を見つけたらしい。

 二人は、その馬のあまりの異様さに息を呑んだ。

 その馬は十一尺(約3.5m)にのもなろうかという偉容で、毛色は真珠の如き純白に輝き、(たてがみ)と尾は、焔を背負っているのかと見紛うばかりの紅蓮色をしていたと言うのだ。

 

 折しも、長年、苦楽を共にして来た驢馬(ロバ)を老衰で失ったばかりだった陳良が、どうしても捕まえたいと言い出し、もしやすると妖の類かも知れないからと引き留める李順の制止を振り切って近づいた所、読んで字の如く一蹴されてしまい、相方を背負った李順は、()()うの体で逃げ出して、この茶屋に辿り着いたというのが顛末らしかった。

 

「紅蓮の鬣、ねぇ。それって、恋みたいな、か?」

 一刀はそう言いながら、隣の卓で音々音に甲斐甲斐しく世話を焼かれながら、大皿に山と積まれた団子(因みに第三波である)を相手に殲滅戦を繰り広げている恋に視線を遣って微笑みを浮かべる。

 

「詳しゅう聞いてみたけど、そうらしいわ。どうも盛っとる様には思えへんし」

 霞は訝しそうにそう言って、自分の前に置かれている真っ当な量の団子の串を取り、もしゃもしゃと咀嚼する。

「なぁ、霞。俺、こっちに来てから何十万て馬を見て来たけど、そんな鬣の馬なんて見た事ないぞ。霞はもっと見てるだろ?どうなんだ、そこんとこ」

 

「ウチかて見た事あらへんよ。赤に近い茶ならあるけど……まして白馬やろ?そない珍しい馬やったら、それこそ空丹様に献上されててもおかしない筈やもん。でも都におった時もそんな噂は聞いたことないし、華琳のとこに来てからの話なら、当然、一刀にも話してたやろしなぁ」

「だよな。それに十一尺って……」

「うん。馬車馬でも、そんな馬鹿デカいのおらんで」

 

「でも、間違いないんだよな?」

「おう。ウチかてまさかと思て、ちゃんと確認したわ。それに商人やし、一尺も二尺も目算を間違えるなんて考え辛いやろ?」

「確かになぁ」

 

 行商ともなれば反物なども扱うであろうし、一寸や二寸(一寸は約3cm)なら兎も角、一尺(約30cm)レベルで目算を誤るとは思えない。

 “あちら”に居た時に乗馬を嗜んでいた事もある一刀も多少の知識は持っていたが、重種と言われる大型馬ですら体高(肩までの高さ)が六尺(約180cm)あればかなりの大きさであり、頭まで入れても精々九尺(2.8m)程だろうし、そもそも、この世界より遥かに育成環境の整った“あちら”であっても、そこまでの大きさに育つのは稀である。

 

 記憶によれば、インストラクターに教えて貰った世界最高記録の馬ですら体高220㎝程で、全長は3mあるかないか位だった筈だ。

3.5mと言うのであれば、間違いなく世界記録更新である。

「祭さんと誠心はどう?」

 一刀がそう話を振ると、二人も揃って首を振った。

 

駿馬(しゅんめ)を探すのが一苦労な呉にそんな馬が居るなどとなれば建業で噂に上らん訳が無いが、少なくとも儂は知らぬなぁ」

「だよね。祭さんが知らないなら、恐らく誰も知らないよなぁ。誠心は?」

(それがし)(とん)と存じませぬな。我ら呂布隊は、洛陽の都では霞殿の隊と並んで最精鋭の騎馬を有しておりましたから、そんな馬の話が人々の口に登れば必ず耳に届いていた筈ですが」

「それに、や。どうも妙な事が他にもあんねん」

 誠心の言葉を引き継ぐ様に、霞が食べ終えた団子の串を振りながら眉間に皺を寄せながら口を開く。

 

「何が?」

「うん。陳良が蹴られてたの、腹の辺りやねん。あいつの身長、五尺(約160cm)もない位やのに」

「成程。蹴られた箇所が低すぎるな……」

 一刀の言葉に、霞は茶を啜りながら頷いた。

 確かに、全長が3.5mもある馬なら、体高だけでも間違いなく2m以上はある筈だ。

 

 野生の馬が、近づいて来た身長160cm程の陳良を力任せに蹴り上げたのなら、頭か、最低でも胸を蹴られていなければおかしい。

 馬が後ろ足で攻撃する時には、前脚で下半身を持ち上げるから、それでなくとも上方に角度が付く筈なのに、だ。

「そもそもの話、仔馬ならまだしも、そんな巨大な野生の馬に力任せに蹴られてあの程度の怪我で済んでいるというのが、()ず奇妙と言えば奇妙ですな。頭と言わず胸と言わず腹と言わず、本来ならどこを蹴られても生きてはおられますまい」

 

「おぉ、確かにそれはそうじゃな。現実に蹴られた当人が生きておるから、その事にすっかり思い至らなかったわい」

 誠心の言葉に、祭がポンと掌に拳を打ち付けて頷いた。

 言われてみれば確かに、そんな小振りな象ほどもある大きさの馬でなくとも、そこいらの普通の馬に蹴られただけでも、人間は容易に死ねる筈である。

 

「ホンマ、どないなっとんのやろな」

 霞が茶を啜りながらそう呟くと、一刀は独り言ちる様な口調で口を開いた。

「そりゃ、手加減したんだろうさ」

「はぁ?慣らされた馬なら兎も角、野生の馬がかいな」

 

「霞。天の国の天才が『ありえない事を全て除外してしまえば、後に残ったものが、それが一見してどんなに有り得なさそうな事であろうと真実なのだ』って有名な格言を残しててな」

 架空の、とは敢えて言わず、一刀も霞に(なら)って、すっかり(ぬる)くなった茶を啜った。

 そもそも、一刀が今こうして存在している世界からして正史の人間からすれば架空の存在なのだし、そんな事は大した問題でもあるまい。

 誰の言葉であろうと、確かに真実を含むからこそ語り伝えられているのだ。

 

「十一尺もの体躯を誇る馬?まぁ、これは百歩譲って存在するかも知れない。しかし、だ」

 一刀は、団子の串を咥えて指を振る。

「紅蓮の鬣の野生の白馬?まさか。しかもその馬が、自分を捕らえようとして近づいて来た人間から逃げもせず、わざわざ窮屈な筈の角度で急所を外して、打ち身で済む程度に加減した蹴りを入れる?まさかまさか」

 

 椅子の後ろ脚を支点にして体を伸ばし、ぼんやりと天井を見上げて手を頭の後ろで組み、思考の波に身を委ねる。

「通常の倍近くの体躯があるとなれば、それこそ大人が幼子(おさなご)を相手に遊んでやる位の気遣いが必要だった筈なのに」

「まぁ、そうやな……」

 

「ところが、陳良と李順の話が事実であると仮定するなら、これらは全て現実に起きた出来事な訳だ。なら、『この世すべての幸運と神が味方して、熊よりデカい馬に蹴られた陳良を守った』もしくは『馬が殺さない様に細心の注意を払いつつ、陳良を追い払った』のどちらって事だろ。どっちと言われれば、俺なら後者を取るね」

 

「要するに、主は一昨日(おとつい)の話に出て来た幻想の欠片とやらの正体が、その暴れ馬だと考えていると言う事でしょう?」

 いつの間にか、恋の殲滅戦が完了して役目を終えたらしい音々音がそう言って、如何にも一仕事やり切ったという顔で一刀たちの卓の開いた席に座り、急須から茶碗に豪快に茶を注ぐなりゴクゴクと喉を鳴らして飲み干し、愛らしいげっぷを一つして口を拭った。

 

 一刀が音々音の言葉に肩を(すく)めて恋の方を見遣ると、どうやら恋は壁に寄りかかって、うつらうつらと船を漕いでいるらしい。

「あー、あの話なぁ!まー確かに、漢女絡みやったらそないな事もあるかもしらんな。なんせ漢女やし……」

「やれやれ。では結局のところ、暴れ馬を探しに行くという事じゃな」

 祭が溜め息を吐いて杯を舐めると、音々音はがさごそと懐を探って、折り畳んだ地図を取り出し、卓の上の食器を豪快に隅に寄せてからそれを広げた。

「面倒至極ですが、どうせコイツは言い出したら聞かないですからのー。霞、その商人が使った獣道と言うのは、どの辺りから入るのか訊きましたか?」

 

「おう。えぇと……この集落から二十五里(約10km)ぐらい進んで、この分かれ道をこう来て……確か、この辺りやな」

 霞は、地図に記された街道を指でなぞって、商人たちから聞いた獣道の入口があると思わしい地点をトントンと叩いた。

「ふむふむ―――では、この茶屋に着く前、商人たちが街道に戻った地点は?」

 

 音々音は、ポケットから取り出した碁石を霞が指した地点に置きながら、再び霞に尋ねる

 霞は眉を(しか)めながら、今度は茶屋の辺りから地図をなぞり始めた。

「う~んと、こっから十二里(約5km)くらい行って、この集落に行く道標(みちしるべ)の手前って言うとったから……うん、大方この辺りやな」

 

「ほうほう。では、と」

 音々音は、また霞の指さした箇所にもう一つ碁石を置き、その中間に広がる森林地帯に、指でぐるりと輪を描く。

「この辺りに、(くだん)の暴れ馬が居ると推察できますのー」

 一刀は、音々音の指先から視線を上げて、霞を見た。

 

「霞。商人たちは、何刻(なんどき)ごろに獣道に入って、どの位で街道に戻れたか言ってたか?」

「確か、四つ半(午前10時)ごろに集落を出たって言うとったな。で、『昼餉の時に相談して』って話やったから、獣道に入ったのは昼八つ(午後1時)過ぎから昼八つ半(午後2時)くらいちゃうかな。で、街道に出た時には日が暮れかけてたらしいから、暮れ六つ(午後5時~7時の間の二時間)」に入ってすぐ位やろか」

 霞はそう言って、音々音によって追いやられた自分の茶碗に手を伸ばし、茶を啜る。

 

「ふむ。と言う事は、二人が森を彷徨(さまよ)っていたのは、正味(しょうみ)、二刻(四時間)から二刻半ほどですな」

 誠心が地図を眺めながらそう言うと、祭も瓶子(へいし)から酒を注ぎながら頷いた。

「うむ。行商人の健脚を考慮しても、道は獣道、霧に巻かれ、途中からは片方がもう片方を担いでおったと言う事も考えに入れれば、そこまで深入りをしていたとは思えん。恐らく、獣道からはそう外れておらんじゃろう。この茶屋の者なら、獣道の近くにある空き地とやらについて何か知っておるのではないか?」

 

「どうでしょうなー。この茶屋は、開墾と街道整備が進んでから出来た店ですからのー……二人が滞在していた集落――今日、我々が宿を取る予定の所ですな。そこは昔からある比較的大きな村邑(そんゆう)なので、住んでいる猟師なら何か知っているやも知れませんが」

 音々音はそこまで言って、『どうするのか』と問う様に一刀を見た。

 一刀は(しば)し黙考し、窓から太陽の位置を確かめる。

 太陽はじきに、中天に差し掛かろうとしていた。

「よし。じゃあ、俺が今から会計ついでに店の人間に話を聞いてみるよ。それで何か成果があれば幸運だけど、まぁ、なくても、その獣道を通ってみよう。次の宿に着いてから聞き込んで行動じゃ、流石に時間を無駄にし過ぎるし」

 

「まぁ、それでええんちゃう?村邑で聞き込んでも、確実に情報が手に入るか分からんもんな」

「しかし、この大人数で森の中に分け入る訳にも参りますまい。それに、報告してある道程から全員が居なくなると、成都や巴郡からの急使があった時に差し障りましょう。組み分けが必要かと愚考いたしまするが、如何?」

 誠心のその言葉に、一刀は一瞬、逡巡してから口を開いた。

 

「それなら、俺と恋で獣道に行くよ。誠心と音々音は兵たちの面倒を頼む。霞と祭さんも、万が一、魏や呉から追っ付けの使者が来たりした時には俺の代理で対応して貰わないといけないから、誠心たちと一緒に居て欲しい」

「一応、護衛やねんけどな、ウチら」

「まぁ、北郷じゃからな。では、その集落の手前で合流するかの」

 霞が苦笑いを浮かべて肩を竦めると、祭も呆れた様に笑いながら最後の一杯を(あお)る。

 

「愛されておりますなぁ、御大将」

 誠心が珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべて一刀に向かってそう言うと、一刀は照れ臭そうに頭を掻いて席を立たった。

「ありがたい事だよ、ほんと。んじゃ、ねね~財布」

 

「ヒモですか貴様は!」

「だって俺、こっちの金なんか持ってないもん。全部、三国と都の金庫に仕舞(しま)ったままだし」

「まったく……甲斐性のないヤツですのー」

 音々音は、渋々と自分の巾着を取り出して、一刀に放る。

 受け取った一刀は、(こた)える風もなく、音々音に笑顔を返した。

 

「どうせ経費で落とすんだから良いだろうよ」

「ふん。ちゃんと領収書を貰ってくるのですぞ!」

「へぇへぇ。あ、宛名は?」

「返事は一回!上様でいいのです!馬鹿正直に名前を教える気ですか、お前は」

 

「へーい」

 一刀は、音々音の「伸ばすな!」と言う声を背中に、微笑を浮かべたまま会計を済ませに歩き出す。

 こんな何気ない遣り取りの、なんと懐かしく心の暖まる事か、と思いながら。

 

 

 

 

 

 

「本当に、こっちで良いのですかぁ?」

 音々音はそう言い捨てて、肩で息をしながら髪に絡まった木の葉を鬱陶(うっとお)しそうに摘まんで捨てた。

「多分、間違いないよ。何だろうな、これ。頭の中に……声、じゃないんだけど。『こっちに来い』って呼び掛けられてる感じがするんだよ」

 

「本当でしょうな……まったく、これで道に迷って野宿でもする事になったら承知しませんぞ~」

「だから、大変だぞって言ったじゃないか」

 獣道に入ってから、おおよそ一刻ほど。

 茶屋を出発して直ぐに、『よくよく考えたら、お前と恋殿を山の中で二人きりになどさせられるか!』と言い出した音々音は、一刀どころか恋の制止も振り切って強引に付いて来た割りに、(当然と言えば当然の事ながら)一番最初にスタミナが切れ、特に獣道を外れて完全に森の只中を移動する事になってからは、大自然を相手に盛大に呪詛の言葉をまき散らしていた。

 

 ともあれ、茶屋では何の情報を得られなかったものの、一刀の勘は当たった。

 獣道に入って半刻ほど進むと、遠くから何かに呼ばれる不思議な感覚に襲われたのである。

 呼ばれている、とは言っても言葉で呼び掛けられているのではないので、(むし)ろ鯨たちが使うという反響定位(エコーロケーション)の様なものに近いのかも知れないが。

 

「ねね、おぶって上げようか?」

 恋は、音々音を心配そうに見つめて何度目かになる提案をするのだが、音々音は音々音で、頑としてそれを受け付けない。

「いいえ!恋殿におぶって頂くなど、畏れ多いのです!ねねの事は心配無用ですぞ!」

 と、こちらも何度目かになる答えを返す。

 (もっと)も、必ずしも表情は言葉と噛み合っているとは言えず、それで恋も気になって何度も声を掛けているのだろう。

 

 とは言え、そんな事を不用意に口にするとキックが飛んでくる事は容易に想像できるので、一刀は黙って微苦笑を浮かべるしかないのだが。

「じゃあ、ここらで少し休憩しよう。多分、もうそんなに遠くないって感じがするしな」

「むむ!それは言外にねねが足手まといだと言っているですか!?」

「いや、そうじゃないって。俺も疲れたしさ。いいだろ、恋?」

 一刀がそう言って恋に目配せを送ると、恋は優しく微笑んでから小さく頷いた。

 

「うん……恋も、少し疲れたから」

「だってさ、ねね」

「そ、そうですか、恋殿がお疲れとあっては一大事なのです!あ、恋殿、あの木の根っこの所など、良い具合に座れそうですぞ!!」

 恋の言葉を聞いて、きょろきょろと辺りを見回していた音々音は、視界に入った丸太と言った方が良いような太さの木の根を指さすと、先程までの舌を出して喘いでいた小型犬の様な表情はどこへやら、嬉しそうに駆け出して行く。

 一刀と恋は、その姿を眺めた後に微笑みあってから、音々音の背中を追い掛けるのだった。

 

 

 

 

 

 

「お二方、あの峠を越えれば、件の村邑に御座います。今は宿場町として生まれ変わるべく整備をしている最中でしてな。いずれは、この辺りの旅人たちが旅の基点とする場所となりましょう」

 誠心は馬を止めて、後に続く霞と祭にそう言いながら峠道の頂上辺りを指さした。

「ふむ。蜀は順調に国を拓けておる様で何よりじゃの」

「せやなぁ。景勝地も()え温泉もあるっちゅうし、何時までも山ばっかりは勿体ないもんな」

 

「はい。御大将が天にお帰りなられる前、景色の良い温泉の近くに客を饗応する様な宿場町を建てて、物見遊山の客を呼び込んではどうか、と智恵を出して下さり、そちらも場所の選定を行っている所でしてな―――(たれ)かある!」

 誠心が大音声で兵士たちに呼びかけると、三人の後ろから追従していた兵士の内の一人が、早足で馬を走らせてやって来た。

 

「高順様、これに!」

「苦労。具足を脱いで先行し、宿を取っておけ。他の者どもにも、具足を脱いでおくよう指示を。くれぐれも民を怯えさせる様な態度はとらぬように致せよ」

「ははっ!」

 

 力強く返事をした兵士は、一旦、仲間たちのところまで戻って素早く具足を脱ぎ、手に持っていた槍と共に預けると、素早く馬首を巡らせて駈足(かけあし)で峠を越えて行った。

「うんうん。いつ見ても、呂布隊はピシっとしとんなぁ。見てて気持ちええわ!」

「あまり(おだ)てて下さるな。木に登らねばならぬ気分になってくる」

 

「はっはっは!では、儂らはあの峠の頂上辺りで北郷たちを待つとしようかの。あそこからならば、村も来た道も見渡せよう」

 誠心が祭の提案に頷きを返すと、前方を眺めていた霞が、手で(ひさし)を作って、不思議そうに首を傾げた。

「なぁ、誠心。あの隊員ちゃん、折角、峠登り切ったのに泡食って帰ってくんで?」

 

「む……?おい!何があった!!」

 誠心が大声でそう投げかけると、兵士は三人の前で馬を止め、慌てた様子で口を開いた。

「はっ!村からこちらに向かって、無印の早馬が二騎、土煙を上げて向かって参ります!恐らく、成都からの御使者かと!」

 

「旗は立っておらなんだのじゃろ?何故、民間の早馬ではなく成都からの使者と思うのじゃ」

「はっ!手綱(さば)きに西涼者の癖が御座りました故、馬超将軍のご家中と推察いたしました」

「成程なぁ。どうするんや、誠心」

 祭の問いに答えた兵士の言葉を聞いていた霞が、そう言って誠心を見ると、誠心は暫く目を閉じて黙考し、やがて眼を開けた。

 

「ここで下馬し、使者を待つ。お前は先ほど脱いだ具足を槍の穂先に結わいて立てておけ。目印に丁度良い。ついでに、他の者を下馬させて、道の端に寄らせておくように致せ」

「はっ!」

 兵士が下がり、他の者たちに下馬の号令を掛けるのを聴きながら、誠心は深い溜め息を吐いく。

 と、それを見た祭が、不思議そうな顔で誠心を見た。

 

「なんじゃ、其方ほどの勇将が溜め息とは」

「いや、御大将を放り出していた事を詠殿に知られでもしたら、大目玉を喰らうであろうなぁ、と思いましてなぁ……」

「はっはっは!成程な、あれの怒鳴り声は子布(雷火の字)にも負けぬからの!」

 

「詠はおっかないからなぁ……まぁ、一刀が執り成してくれるんちゃうん」

「火に油だと思うのだがな……」

「くくっ、ならば、使者殿がお主の立場を(おもんばか)って北郷の事を黙っておいてくれる、話の分かる人物だと祈っておくのじゃな」

「公覆殿、他人事と思うて……やれやれ」

 実際、祭の言う通りにする位しかない誠心は、実にらしくも無く、眉を八の字にして二度目の溜め息を吐くのだった。

 

 

 

 

 

 

「こいつは凄い……」

 一刀はそう言って、感嘆の息を漏らした。

「驚いたのです……」

 後に続く音々音も、そして恋ですら、ほぅと息を吐いて、目前の光景に見入っている。

 

 その場所は言うなれば、自然が作り出した庭園であった。

 中央にある大樹を中心にしてドーナツ状に拓かれた半径にして200m程の野原には、色とりどりの野草が控えめな花を咲かせ、晩夏の陽射しが木漏れ日となって、愛おしげにそれを照らしている。

 頭上からは、恐らく中央に鎮座している大樹を棲みかにしているのであろう小鳥たちの歌声が、そよ風に乗って聴こえて来た。

 空気がしっとりと水気を帯びているのは、そこかしこに点在する小岩に生えた、濃緑の苔のせいであろう。

 

「きっと、日差しや風の通り具合と地形なんかの条件が、奇跡的に重なったんだろうが……」

「まるで、人が意匠を凝らしたかの様ですのー……」

 二人が、会話なのか独り言なのか判然としない言葉を掛け合っていると、殿についていた恋が二人の横に並んだ。

 

「あの、大きな木のおかげ」

「あぁ。そうなんだろうな」

「む!このねねを差し置いて、恋殿と以心伝心など許しませんぞ!説明を求めるのです!」

 一刀が、恋のしなやかな指が指し示す大樹を眺めながら半ば茫然と答えを返すと、音々音が眉を(しか)めて抗議の声を上げた。

 

「はは、悪かった。いやな、この広場みたいになってる場所の上は、あの大樹の枝や葉っぱが、傘みたいに覆ってるだろ。だから、その下では日光が足りないし、地面にも根っこが伸びてるから、そっちからも栄養が取れなくて、他の大きな木は育たないんだよ。それでも、草や花には十分だから、森の中にこの自然の庭園が出来たって訳だ」

「なるほど~」

 

 音々音が、一刀の言葉を聞いて改めて辺りを見回してみると、確かに空き地のあちらこちらに育ち切らずに倒れてしまったと思われる木が幾本か散在していて、中だけが腐って空洞になり、外側には苔の衣を纏っていた。

 それらは、大樹に戦いを挑んで敗れた若木たちの名残なのだろう。

 

「山の神様の庭……」

 音々音の頭に手を置いた恋は、大樹から目を逸らさずに、そう呟く。

「山の神様?」

「うん。前に、成都で一緒に遊んだ子に聞いた事がある……。蜀の山の中には、山の神様のお庭があって……日頃の行いが良い人は……運が良ければ、行く事ができるって」

 

「成程なぁ……此処がその庭って訳か……」

「で、お前の探している馬と言うのは何処に―――!?」

 音々音は辺りを見回しながらそう言いかけて、小さく息を呑んだ。

 いや、音々音だけでは無い。共に空き地を見渡していた恋も、この場所での邂逅を確信していた一刀でさえも、只々言葉を無くして、大樹の後ろから姿を現した“それ”を、ただ見つめる事しか出来ずにいた。

 

「主殿。あれは、本当に馬なのですか……」

 音々音が瞬きすら忘れ、ようやっとの様子で一刀にそう尋ねたのも無理はなかった。

 通常の馬の倍はあろうかという逞しい体躯は、正に偉容。

 それを包み込む体毛は、日を照り返す処女雪も恥じ入るほどの純白である。

 木漏れ日を受けた鬣と尾の色は、轟々と燃え上がる焔が如き真紅であった。

 

「きれい……」

 一刀には、恋のその言葉が、ゆっくりと自分に向かって近づいてくる存在の全てを形容している様に感じられた。

 いや、むしろ『綺麗』以外に、この白馬を完璧に形容しうる言葉など、この世に存在しないのではないだろうか。

 白馬は迷う様子も警戒する様子もなく一刀の前で足を止めると、太く逞しい首を下げて顔を寄せ、興味深げに鼻を鳴らして一刀の匂いを嗅いでみせる。

 一刀には、深い知性を宿したその漆黒の瞳から投げかけられる視線が、試す様にも、また楽しんでいる様にも感じられた。

 

 一瞬か、数分か。

 やがて一刀が、ゆっくりと魅入られた様にその首筋に手を伸ばすと、白馬は『まだ早い』とでも言う様にすっくと顔を上げて優雅に馬首を巡らし、一刀に横腹を見せる。

 一刀が、どうしたら良いのか解らずに呆然としていると、白馬は首を曲げて一刀に顔向け、一度だけグイと上に振った。

 

「乗れって?」

 今の仕草からは、そうとしか思えない―――が、いくら馬が知性の高い動物とは言え、そこまで(人間にとって)明確な意思表示など、するものだろうか。

 一刀が逡巡していると、後ろでその様子を見守っていた恋が隣まで進み出て来て、「手伝う」と一言だけ口にするや、バレーボールのレシーブの様に両の掌を重ねて、片膝を付く。

 

 一刀はまたも逡巡したが、物事をありのまま捉える恋の感性を信じる事にして、白馬の脇腹に手を添え、恋の掌に足を乗せた。

 普通の馬であっても、足掛かりとなる(あぶみ)なしに背に乗るとなれば相当のコツを要するものだが、この白馬はその倍ほども大きいので、本来ならば懸垂並みの苦労が必要だったろうが、恋が絶妙の加減で一刀の靴底を押し上げてくれたので、普通のサイズの裸馬に乗るのと大差ない労力でひらりと跨る事が出来た。

 

「ありがとう、恋―――て、うおぉぉぉ!?」

 恋が数歩ほど下がるのと同時に、白馬は猛々しく(いなな)くや棹立ちとなり、獅子舞の如く紅蓮の鬣を振り乱し始める。

 一刀が慌てて脾肉(ひにく)に力を入れて鬣にしがみ付くのと同時、白馬の巨体は淡い光の粒子に包まれた。

 やがて光は白馬の頭に収束して何かを形作り始め―――数歩離れていた恋と音々音だけでなく、白馬の背にしがみ付くのに必死な筈の一刀ですら、あんぐりと口を開けて、白馬が前脚を再び地面に付くのと時を同じくして光の粒子を吸い込んで完全に形をなした“それ”をみつめる事しか出来なかった。

 

「つ……角ぉ!?」

 そう。白馬の両の耳の内側に生えていたのは、(まご)う事なき一対の枝角であった。

 別名を鹿角(かづの)とも言われる通り、本来シカ科のオス以外には存在しない筈のそれを有している生き物が居るとすれば、それは即ち、千の獣の王の眷属である事の証と同義だ。

 

 しかも、白馬の身体に起きた変化はそれだけではなかった。

 純白の体毛の下から、つるりとした感触の硬質なものが、規則正しく重なり合うような配列を成して浮き上がってきたのである。

「おいおい、真剣(マジ)かよ―――」

 

 一刀が思わず片手を放して、それに触れようとした瞬間、白馬は再び棹立ちになって鋭く嘶くと、その逞しい四肢で猛然と大地を蹴って奔り出した。

「恋殿……ねねは、夢でも見ているのでしょうか……」

 音々音が、白馬が瞬きの間に一刀を乗せたまま森へと消えた方角を茫然と見ながらそう呟くと、恋はくせ毛をふるふると揺らして首を振り、音々音の前にしゃがみ込んだ。

 

「ねね、乗って。追い掛ける」

 

 

 

 

 

 

「あの集落で間違いないのですね、天牛蟲(カミキリムシ)

 魔蟲兵団の長、檮杌(トウコツ)は、断崖に吹き荒ぶ風にその美しい芦色の長髪を遊ばせながら眼下を睥睨(へいげい)し、背後に控えた異形の配下に尋ねた。

「ハッ。救世ノ者トソノ配下ノ成都ヘノ進行経路ト速度ヲ考エマスレバ、今日ノ日暮レ前ニハ到着スルカト」

 

「それは重畳(ちょうじょう)。それで、“あれ”の様子は?」

「ハッ。御下知(おげち)ノ通リ、アカスイ級二個小隊分六十ヲ含メ、一個小隊分三十体、恙無(つつがな)ク配備予定ニ御座イマス。現在は、調整槽ニテ休眠状態ノママ待機中ノ(よし)

 

 天牛蟲と呼ばれた異形は片膝を立てて(かしず)いたまま、顔の下半分を占める巨大な大顎を左右に開閉しながら、主の問いに応えた。

 その額からは、腰の下にまで伸びた黒革の鞭を思わせるしなやかな一対の触角が生え、顔の上半分を占める禍々しく釣り上った複眼は、感情のない赤黒い光で爛爛と輝いており、全身は白の(まだら)が浮く漆黒の外骨格に覆われている。

 

「結構。では、予定通りに事を進めなさい。決して手抜かりの無きよう……おや、何か気に掛かる事でも?」

 檮杌が、人間には読み取りようがないであろう天牛蟲の表情を読み取って冷艶(れいえん)な眼差しを向けると、異形は小さく首を振った。

「イエ、滅相モナイ。タダ“アレ等”ハ少々、人間(ヒト)ノ臭イガ強イモノデ、ドウニモ落チ着カヌ心持(こころも)チニテ……御赦(おゆる)シヲ」

 

「構いません。その感覚は、我ら知性ある罵苦としては当然のものですからね。さぁ、もうお行きなさい」

 檮杌は、返事をしてから立ち上がった天牛蟲が姿を消すと、再び眼下の人間達の集落に視線を戻し、紅を引いた美しい唇を妖しく歪めた。

「さぁ、救世の者。間に合うにしろ間に合わぬにしろ、有益な実験資料(データ)を頼みますよ。とても……とても期待しているのですからね」

 

 




如何でしたでしょうか?
前回は忙しくて後書きは省略してしまいました。
一応、注釈という形なのですが、祭の一刀の呼び方が一刀と北郷でバラけているのは仕様です。
ライターさんの感覚なのか設定なのか私には不明なのですが、春蘭や秋蘭、冥琳なども、『一刀』を真名と解釈しているキャラ達は公とプライベートで呼び分けているようなので、それに準じています。

因みに、作中登場の高順は字不明と言う事で、多少、縛りが緩くなっていますが、気になっている方はご容赦下さい。
次回からはまた戦闘パート……気が重いですが、頑張ります(笑)。


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第十一話 天馬幻想 後篇

今回は分量的にはちょっと短めですが、きりが良かったのでこのまま投稿する事にしました。
楽しんで頂けたら幸いです。
例によって、感想、お気に入り登録、評価など、大変、励みになりますので、お気軽に頂戴できればと思います。


 

 

 

 

 

 

 風の如く、とはよく聞く比喩であるが、今現在、北郷一刀の置かれている状況は、比喩表現の域を超えていた。

 実際の話、この一対の枝角と鱗を有する異様な白馬のスピードは、馬のそれとは比較にもならない。

 品種改良が進んだ競走馬―――そのトップクラスでさえ、時速7~80kmを数分間、維持するのが精々の筈であるのに、少なくとも既に十五分以上は背に乗っている筈の一刀が感じている体感速度は、明らかに時速100kmを優に超えている。

 しかも、鬱蒼(うっそう)と茂る森の中で、だ。

 

「ひぇっ!あっぶねぇ!!?」

 一刀は、もう何度目になるか覚えていない台詞を吐いて、風を切って迫ってきた木の枝を(かわ)して頭を下げた。

 一体、この馬の姿をした存在がどんな理屈で、この森林の中を岩に蹴躓(けつまず)く事もなく疾走できているのかは皆目と分からないが、確信できている事が一つだけあった。

 それは、この白馬は、明確な意思を以って自分を試していると言う事だ。

 

 その証拠に、と言えるのかは判然としないが、少なくとも馬が本当に背に乗った人間を拒絶するのなら、棹立ちになったりその場で飛び上がるなどして、まず人間を背から振り落とそうとする筈だが、白馬はそれをしていない。

 急制動を掛けたり、張り出した木の枝の下を潜ってみたりと、あくまでも“乗り手側の過失(ミス)”で背から落ちる様に仕向けている節がある。

 

 まぁそもそも、自ら背に乗れと言う意志表示をして来たのだから、それだけの知性があれば、乗り手を試す位の事はしても決しておかしくはない。

 おかしくはないのだが、耐久レースでもあるまいに、超が付くほど高速で移動しながら常に神経を張り詰めていなければならず、しかもそれが、いつ果てるとも知れないと言うのは、精神的に相当辛いものがある。

 

 それに加えて、尻の皮が何時まで持つのか、と言う物理的な恐怖も結構なものだ。

 一日と言わず、半日もこんな事をやっていたら、桃の様にぺろりと綺麗に剥けてしまうのは間違いない。こちらにやって来てからまだ間もない頃に味わった屈辱と苦痛が頭を(かす)めるたけでも、三十路の男心が軋みを上げるには十分な圧力ではある。

 

 一刀が、いよいよとなったら、酷い打ち身を覚悟で迫りくる枝に衝突ついでにしがみ付こうかと本気で考えだした時、剣帯に収められている通信機が、けたたましいビープ音を鳴らし始めた。

 通常通信の時とは明らかに違う、聞く人間を不安にさせる様なその音は、緊急通信の証拠だ。

「チッ!間の悪い!!」

 

 一刀は、おっかなびっくり白馬の焔色の(たてがみ)から右手を放すと、どうにか通信機を取り出してプレスボタンを押し込んで、激しい風切り音の中でも聞こえるよう大声を出す。

「卑弥呼、今は立て込んでるんだけどな!?」

「それは此方(こちら)もだ。罵苦の反応がある。近いぞ」

 

 漢女(おとめ)らしからぬ、一切の余裕も冗談も差し挟まない卑弥呼の簡潔な言葉に、一刀は小さく舌打ちをした。

 どうやら、本当に差し迫った状況であるらしい。

「どうしてこんな近くになるまで分からなったんだ?」

 

「恐らく、隠形(おんぎょう)の得意な種なのだろう。今になって、個体ではなく軍勢を動かした為に感知できたのだ」

「じゃあ、ホントにギリギリかよ―――って、おっとぉ!?」

 一刀は、またも際どい高さで迫り来た枝をリンボーダンスよろしくブリッジで躱して、慌てて鬣を握り直すと、兎に角、必要な情報を聞こうと再びプレスボタンを押した。

 

「それで、敵の数は!?」

大凡(おおよそ)、百に足りるかどうか、と言ったところだろう」

「それだけの数を山の中で動かしてるとなると、目的は―――」

「うむ。十中八九、人間の集落であろうな。急ぎ、その近くにある規模の大きい集落に向かってくれ」

 

「いや、そうしたいのは山々なんだけど―――は!?」

 一刀が、思わず通信機に向けていた意識を前方に引き戻すと、森の木々がぽっかりと消失し、明るい空が開けているのが見て取れた。

 どうやら気付かぬ内に、切り立った山の上まで来ていたらしい。

 だが、問題はそこではなく。

 

「いやいやいや!!お前それは無理だろって!羽とか生えてないし―――うぉぉぉ!!?」

 白馬が僅かもその速度を落とす事をせず、その中空に向かって奔走している事だった。

 そして、今までもそうだった様に、白馬は一刀の言葉など意に介す様子もなく、断崖に身を躍らせる。

「くっ……!?て……いや、もう何なの、お前……」

 覚悟を決めた一刀が、馬の背から飛び降りて鎧を身に着け、着地できる時間はあるかと逡巡したのは、ほんの刹那。

 次の瞬間、白馬は一刀を乗せたまま、60度にもなろうかと言う切り立った山肌を、先程と変わらぬ速さで疾走していたのである。

 

 一刀が恐々(こわごわ)と、それでも見ずには居られなかったので、白馬の足元に視線を遣ると、白馬が地面に(ひづめ)を打ち付ける度に、枝角を纏った時に似た光の粒子が飛び散っているのが見て取れた。

 それどころか、身体には遥か眼下の地面に向けての重力すら感じられず、体感としては、普通に大地を駆けているのとなんら変わりは無い程だ。

 

 不幸中の幸いと言えば、遠目に今日、宿を取る予定の集落が見えて位置関係がはっきりした事と、白馬がそこまで見当違いの方向に向かっている訳ではない、という事だろう。

 (もっと)も、一刀に御される事を良しとしている訳でもないのだから、手放しで喜べる状況ではない事も確かだ。

「ったく、種馬がじゃじゃ馬()らしなんて、洒落にもなってないっての……」

 一刀は、いよいよとなったら飛び降りる覚悟を決めて、盛大に溜め息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

「なんだよ。じゃあ、ご主人様は一緒じゃないのか……」

 馬超こと翠は、高順こと誠心に経緯(いきさつ)を聞いて、がっくりと肩を落とした。

「はい。一刻半(約3時間)ほど前に別れまして。この辺りで合流の予定ではあるのですが」

 誠心は、『ご主人様はどこだ!』と、まるで主の危機に馳せ参じたかの如き気迫を(たぎ)らせた先程とは打って変わって酷く落胆した様子の翠に対し、何とも申し訳ない気持ちになりつつも、そう言葉を結んだ。

 

「だから、大袈裟過ぎなんだって、翠姉様は。こんなトコでがっかりしてる暇があるなら、先に村まで戻って、宿でお湯でも使ってようよ。そしたら、ご主人様が来る頃には準備ばんた―――あ痛ッ!!?」

 馬岱こと蒲公英は、高速で振り下ろされた翠のゲンコツを頭頂部に受け、両手で頭を押さえて(うずく)まる。

「いった~い!もう、何すんのよ、他国の人も居る前で!!」

 

「それはこっちの台詞だ!はしたない事を言うな、このバカ!」

「なによカマトトぶって!翠姉様だって、恋がご主人様からご褒美もらったって聞いた時、『良いなぁ……』って言ってたじゃん!」

「バッ!?だから、そういう事をこんな大人数の前で言うなってば!!」

 

「あの件、誰が成都に?」

 誠心が、拳が霞む程の速さでゲンコツを繰り出す翠と、それを華麗に避けながらケラケラを笑う蒲公英を困った様な顔で眺めながら、後ろに控えていた兵士にそう尋ねると、兵士も上官と同じような顔をしてそれに応える。

費禕(ひい)殿の筈です。あの方のことですから、悪気は無かったのでしょうが……」

 

「で、あろうなぁ」

 如何な諸葛亮孔明の秘蔵っ子とは言え、初陣の報告―――しかも、山ほどの想定外を纏めた上でのそれである。

 『兎に角、(つまび)らかにしなければ』という意識が高過ぎたのであろう事は、容易に推察できようというものだ。

 

「そんな顔しぃなや、誠心。ウチかて、キッチリ報告しといたで!」

「応、儂もじゃぞ」

 翠と蒲公英の某ネコとネズミも()くやの追いかけっこを、やんやと(はや)し立てていた霞こと張遼と祭こと黄蓋が、誠心の様子を横目で見て、揃って愉快そうに声を掛けた。

 

「ご両人まで……何でまた……」

「そんなん、そっちのがオモロそうやん?」

「そんなもの、そっちの方が面白そうだからに決まっておろう」

 誠心も呆れた様子の問いに、二人はまたも声を揃えて屈託なく笑う。

 

「ちゅーか、ぶっちゃけウチらはダメ押ししただけやしな」

「うむ。どうせ、奉孝(稟)や伯言(穏)が嬉々として報告していようしな」

 

 誠心は、さも当然の事の様な二人の言葉に、なぜ北郷一刀が男連中から羨望よりも(むし)ろ尊敬を集めているのかを思い出して、やれやれと溜め息を吐いた。

 自分がこんな事が毎日の様に続く状況に置かれていたら、ひと月と持たずに胃に穴が開いてしまうだろう。

 差し当たっては、流石に馬家の従姉妹たちの追走劇をいい加減に止めねばならないのだが、思慕する主にもう直ぐ再会できる喜びで猛っている二人の勇将の間に割って入って、果たして自分は無事でいられるのかと考え、やはりもう一度、深い溜め息を吐いて、生暖かい眼差しで二人を見遣るしかないのだった。

 

「コラ待て蒲公英!」

「や~だよっ!待てって言われて待つヤツなんか居る訳ないでしょ。大体、翠姉様がそんなんだったら、蒲公英が先にご主人様に可愛がって貰っちゃうんだから。もうおっぱいだって負けてないし~!」

「だから、どうしてお前はそういう―――!?」

 

 翠は何かに気を取られる様に、成長した自分の乳房を下から両手で押し上げて逃げ回る蒲公英を捕まえようとして走り出すのを止め、その場に立ち止まった。

 それを見た蒲公英が、不思議そうな顔をして翠の元に近づいて来る。

 直情型を絵に書いた様なこの従姉が、策を弄して自分を捕まえるような真似をする筈がない。

 だから、彼女が不審そうな顔をしている時は、本当に不審がっているのだと知っているのである。

 

「どしたの、姉様?そんな変な顔して」

「シッ!聞こえないか?」

「へ?」

 蒲公英は、武人の眼差しになってそう言う従姉に(なら)って聞き耳を立ててみる。

 

「あれ、これって馬蹄の……でも、こんなのって……」

 首が座って直ぐに裸馬に乗せられて育つ、とまで言われる西涼の民である二人にとっては、それこそ母親の腹の中にいた時から肌で感じ、また聞いて来た筈の馬蹄の響き。

 だがしかし、今、耳にしているそれは、馬と言う生き物を知り尽くしている二人にだからこそ、際立って異様に感じられた。

 

「速すぎる……?」

 そう口に出してしまってから、蒲公英は黙り込む。

 馬蹄の間隔と、こちらに迫って来る速度が、明らかに釣り合っていないのだ。

 その現象は、現代人の感覚で例えるなら、()わば、(まず)い編集で音ズレを起こした動画を見せられてでもいる様な、実に何とも言えない不快感を伴なっていた。

 

 しかもあろう事か、その馬蹄は、自分たちの居る街道を望む、急勾配の切り立った山の側面の辺りから木霊を伴って迫って来ていた。

 羚羊(れいよう)の類ならばいざ知らず、本来は馬が高速で疾走できる様な場所ではありえない。

「翠姉様、もしかして罵苦……かな?」

 

「情けない声を出すな、蒲公英。姿が見えりゃ、嫌でも分かるさ」

 翠は、蒲公英の不安げな声を、自分の感情を殺した声で上塗りする様にそう答え、背に負っていた愛槍、銀閃を手に持つと、穂鞘(ほざや)の紐をするりと(ほど)き、柄を振るって引き抜く。

 すっと細められた瞳から放たれる眼光には、最早、従妹の下世話な冗談に頬を染めていた少女の面影は無く、数多の戦場で、更に数多の敵を屠って来た騎馬の申し子、錦馬超のそれになっていた。

 

 蒲公英も、自分の影閃の穂鞘の紐を解いて鈍色の穂先を引き抜きながら、わき目に自分達の追い掛けっこを見物していた人々に向ける。

 すると、既に彼等は自分の得物を手に臨戦態勢を整えて、馬蹄が響く方へと鋭い視線を投げていた。

「さっすが、三国でも指折りの精鋭だよね」

 

 蒲公英の呟く様な言葉に、翠も僅かに口の端を歪めて答える。

「あぁ。頼りになるよな、全く―――来るぞ!」

 翠が鋭い一言を言い終えるのと、山肌を猛然と駆け抜けいていた“それ”が山肌を蹴って天高く舞い上がり、次いで麓の山林の中へと落下して姿を消したのは、ほぼ同時。

 

 次の瞬間、腰を落として穂先を下に下げた構えのまま、二人は同じ台詞を口にしていた。

「ご主人様!?」

 と。超人的な動体視力を持った二人には、馬とよく似た、しかし明らかに馬では有り得ない生物の上にしがみ付く、白い外套(ロングコート)を纏った男の姿が、しっかりと視認できていた。

 

 尤も、馬の首と焔色の鬣に隠れた顔までは流石に見えず、この大陸では北郷一刀以外に掲げる事を許されていない丸に十文字をあしらった黄金の記章が、その男の外套の肩口に縫い付けられているのを確認して、反射的にそう思ったに過ぎない。

 それでも、二人の確信は揺るがなかったが。

 

「おい、こっちに来るぞ!みんな気を付けろ!」

 翠の大音声に、その場の止まっていた時間が再び動き出す。

 すると森の中から、翠と蒲公英が覚えのあるよりも僅かに太くなった、それでも酷く懐かしい男の声が、ドップラー効果を供なって聞こえて来た。

 

「おぉい、みんなぁぁ!!敵が来てる!急いで宿場に向かってくれ!俺も直ぐに行くからぁぁ!!」

 声の主を乗せた何かは、そんな残響を残し、轟音を伴って翠たちから五丈(約10m)程の場所を横切って、街道の反対側の森の中へと消えてしまった。

「何だったんだ、あれ……」

 

 翠が、脳の理解が追い付かず、茫然と“それ”が走り去った方角を見遣っていると、数瞬ほど早く我に返っていた蒲公英が、従姉の袖を引いた。

「姉様!もう一つ何か来るよ!今度は街道の方!」

「なにッ!?」

 

 翠が慌てて蒲公英の指さす方向に視線を向けると、確かに何かが濛々(もうもう)と土煙を上げて、此方へと向かって来ていた。

 翠は一瞬、馬かとも思ったが、直ぐに明らかに馬蹄とは違う足音に気が付いて、土煙の大本に目を凝らして、あんぐりと口を開けた。

 

「れ……恋!?」

 まぁ、天下の飛将軍と呼ばれる程の武の持ち主であるし、その規格外の身体能力を何度と無く見せつけられて来た翠からすれば、『こいつなら馬並の速度で走れてもおかしくない』と思っていたし、冗談の種に何度か口にした事すらある。

 だがしかし―――。

 

「現実に目にすると、流石にビビるよなぁ……」

 問わず語りにそう呟いて蒲公英の方を見ると、どうやら従妹は既に溜め息すら出ない境地らしく、頭痛に悩まされている人間のように、(しき)りに指で蟀谷(こめかみ)を揉むばかりだった。

 程なくして、一行の前で大地を抉りながら急制動を掛けた恋は、馬家の二人の姿を認め、青い顔をして背中に負ぶわれていた音々音を降ろすと、不思議そうに呟いた。

 

「翠、たんぽぽ……どうして居るの?」

「いや、あたし等は、ご主人様の牙門旗を届けに来たんだよ。そう言う恋こそ、なんで音々音を背負って走ってたんだ?」

「恋、ご主人様を追い掛けてた……でも、嫌な感じがしたから……みんなの所に戻った」

 

「なんやて!?恋、それってもしかして―――」

 近づいて来た霞が全てを言い終わる前に、地面が揺れる程の轟音が山間に響き渡る。

「おい、あれを見よ!」

 一行が、真剣な眼差しの祭が指さす方角―――宿場のある集落に視線を注ぐと、太い黒煙が何条にもなって、晩夏の赤くなり出した空へと立ち昇っていた。

 

「間に合わなかった……急ぐ!」

 恋は、珍しく焦りを滲ませた声でそう呟くと、誠心に預けていた自分の馬の元に歩み寄ってひらりと跨るや、すぐさま襲歩となって猛然と集落に向かって駆けだした。

 翠も、誠心の「総員、具足を正して騎乗!恋様の後を追うぞ!」と言う号令を背中に聞きながら自分の馬に(またが)ると、恋に劣らぬ手綱捌きで馬脚を早め、その後を追い掛ける。

 

「ちょっと、ねね!蒲公英たちも行かなきゃだよ!自分で馬に乗れる?」

 蒲公英は、誠心や霞、祭ばかりか、具足を着なおした兵たちまでも、自分たちを追い抜いて行くのを横目に眺めて焦りを滲ませながら、未だに青い顔をして(うずくま)っている音々音に、そう声を掛けた。

「無理なのです……うぷっ……お花……相乗りさせて欲しいのです……」

 

「えぇ……良いけど、蒲公英の馬の上でゲロゲロしないでよね……」

 蒲公英は口を押えてコクコクと頷く音々音を疑り深く見つめてから、渋々と指笛で自分の馬を呼ぶのだった。

 

 

 

 

 

 

「ああそうかい、どうしても止まる気はないってか!」

 一刀は、未だ森の中を疾走しながら、こちらが鬣を引こうと脇腹を絞ろうと一切、反応しようとしない白馬に向かってそう言うと、臍下丹田(せいかたんでん)に意識を集中した。

 やがて、“石”の埋まっているそこから白金色の龍が現れて一刀の身体に巻き付き沈む様に消えて、一刀を英雄の幻想を纏うに相応しい超人へと変える。

 

 次に、全身に満ちた氣を、これから酷使する事になるであろう背中を中心にして更に練り上げた。

 硬気功と言われるそれは、楽進こと凪が最も得意とする、戦う為に氣を用いて肉体を強化する術だ。

 彼女ほど得手かはさておき、今、必要十分の氣は練れたと確信した一刀は、死に物狂いで掴んでいた鬣から両手を放し、跳び箱の上で手だけを使って身体をずらす要領で、掌のバネを使ってポンと身体を中空に浮かせた。

 

 当然の事ながら、白馬の身体に置いて行かれた形になった一刀は、間髪入れずに後頭部の後ろで両手を組んで身体を丸め、どうにか背中から地面に落ちれる様にと身をよじり、姿勢制御を試みる。

 甲斐あってか、如何にか狙いの通りに着地した一刀は、盛大な土埃を上げて10m以上も地面を転がり続け、(実にありがたい事に)木に衝突する事もなく制止した。

 

「いててて……いやもうホント死ぬかと思った……」

 一刀は、多少、痛む箇所を触って確認しながら身を起こし、外套の埃を払う。

 (ほつ)れ一つない所をみると、別に疑っていた訳ではないにしても、これを下賜してくれた師の龍の皮で出来ているとの言は本当で、今も一刀の身体を守ってくれたに違いないと改めて思える。

 

 

「やれやれ、あとで師匠にもちゃんと礼を言わないとな……」

 一刀が、そう独り言ちて顔を上げると、既に走り去ってしまったろうと思っていた白馬はしかし、ゆったりとした足取りで一刀から15m程の位置にまで戻って来ていて、僅かも息を切らせる様子すらなく静かにこちらを見つめていた。

 

「申し訳ない」

 一刀はそう言って姿勢を正し、頭を下げた。

「俺は、どうしても行かなきゃならないんだ」

 言葉を解するわけでもない生物に、何故こんな事をしているのかという考えが頭を(かす)める一方で、目の前の存在に対して、決して礼節を疎かにするべきではない、とも理解していた。

 

 千の獣の王の眷属の証たる黄金の鹿角と輝く鱗を持ち、あらゆる悪路を疾風の如く走破してみせる。

 正確な正体こそ不明だが、この獣は世に瑞獣と呼ばれる、大いなる存在である事は間違い様がない。

 瑞獣は、天の奇跡の具現ともいえる生物であり、当然ながら、彼らが人間を背に乗せるなどと言うのは、(ただ)それだけで、背に乗った人物が歴史に名を遺す事になる程に稀な事なのだ。

 

「お前が、俺を試してくれてたのは理解してる。それを途中で投げ出す事が、どれほど不遜で罰当(ばちあ)たりな事なのかも。でも俺には、護ると誓った人たちが居るんだ……その誓いを、破る訳にはいかない。本当にすまない。お前の背に乗せて貰えて、光栄だった」

 一刀が、神妙な口調でそう言い終えて頭を上げ(きびす)を返すと、不意に背中に、朗々と響くバリトンの声が響いた。

 

「それでよい。其方(そなた)が我が力欲しさに、本来、救うべき者たちの命を(ないがし)ろにする様な人間であったなら、この場で背骨を蹴り折ってやろうと思っていたぞ」

「あ……え、お前、喋れる……のか?」

「厳密には“喋っている”のではない」

 白馬は、一刀の間の抜けた顔が可笑しかったのか、どこか微笑んでいる様に思わせる声音でそう答えた。

 

「見てみるがいい。我の口は、其方らの様に動いてはおるまい」

 そう言われてみれば確かに、白馬の口は先程から全く動いていない。

 勿論、馬の口は元々、人間の言葉を使う様に出来ている訳ではないから、当然と言えば当然ではあるのだが。

「じゃあ、なんで……」

 

「我等は元より、“その様な存在”であるからだ」

「はぁ……」

「我等は人間(ヒト)の為に、人間に求められて生れた。瑞獣やら神獣やらと申せば聞こえは良いが、正しき人間、正しき治世の元に現れる存在などと言うものは、逆に言えば人間が存在しなければ必要とされないと言う事だ。なれば、そもそもの存在理由である人間と意思の疎通が出来るのは、当然至極であろう」

 

 一刀は、この馬の姿をした存在の声を聞きながら、(かつ)て卑弥呼が教えてくれた、“幻想を扱う事の意味”という言葉を鮮明に思い出していた。

「さて、本来ならばゆっくりと其方を見定める心算(つもり)であったが、今の其方には刻が惜しかろう。故に、我が問いに答えよ、外史に選ばれし者」

 

「あ、あぁ……」

「其方は真実、この世界の救済を望むや?」

「―――無論だ」

「誠なりや?我は、其方に“戦う覚悟”を問うているのではない。その身が果て血が枯れるまで、この造られた朧げな世界の為に“戦い続ける覚悟”を問うているのだぞ」

 

「この世界が、俺が産まれた世界にとって架空だろうと虚構だろうと、今この世界に生きている俺には関係ない。この世界の美しさも醜さも、俺が愛する人たちの肌の温もりも、笑顔や笑い声も、俺にとっては全て真実だから」

 一刀は、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)する様に、己の言葉を噛み締めながら口に出した。

「それを奪おうって言うなら、相手が神様だって知ったこっちゃない。俺は、この世界を護る為なら、鬼にでも悪魔にでもなってみせる」

 

 白馬は(しば)しの間、深い知性を湛えた黒い瞳で一刀をじっと覗き込んでいたが、不意に深く鼻から息を吐いて馬首を(もた)げた。

「よかろう。其方が答え、しかと聞き届けた―――」

 白馬はそう言って一刀の元まで近づくと、優雅に横腹を見せて、顔を向けた。

「さぁ、背に乗るがいい、我が主。龍馬の一族の名に懸けて、其方が望むならば、地が果て海の尽きる場所までとても、雷鳴よりも尚早く、その身を運んでくれようぞ」

 




 如何でしたでしょうか?
 これのオリジナルを投稿していた時には、まだまだ勢い任せに書いていた時期だったので、矛盾していたり説明が足りなかったり、はたまた後に生かし辛い設定だったりを入れていて、自分でも反省していたのですが、リライトに当たって大分、解消できたと思います。
 次回こそは戦闘シーン。
 前回より動かすキャラクターが増えているので悩みなら書き進めていますが、なんとか楽しんで頂けるものにしたいです。


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第十二話 ピュアストーン 前篇

動かすキャラを増やしたばかりに、プロット練り直すのも書くのも時間が掛かること掛かること……(汗
ともあれ、何とか見えて来たので頑張ります。

毎度の事ながら、感想、評価、お気に入り登録など、大変に励みになりますので、お気軽に頂戴できればと思います。




 

 

 

 

 

 

「恋様、孟起殿、下馬なされませ!このままでは民を()いて仕舞いまする―――皆の者、下乗!下乗!」

 高順こと誠心は、先を行く呂布こと恋、馬超こと翠の背中に向けてそう言うと、自分は乗騎の手綱を絞って棹立ちに馬を止めながら、後続に向かって大音声(だいおんじょう)を張り上げた。

 

 二町半(約1km)ほど先に見える村からは幾筋もの黒煙が上がり、入口からは、村民たちが我先にと無秩序に逃げ出して来ている。

「なんてこった……これじゃ、まるで戦場じゃないか」

 片手に愛槍を抱えた翠が、止まった馬の上から、つい先刻、通り過ぎた時には平穏そのものだった筈の村の惨状を茫然と見遣りながらそう呟いて、ぎりと歯噛みをする。

 

「早く、助ける」

 そう言って馬から降り、足を踏み出そうとした恋の腕を、誠心が掴んだ。

「お待ちを。如何な恋様とは言え、この混乱の只中に単騎で突っ込んでは救助も迎撃もままなりますまい。軍師殿を待って、ご指示を仰がねば」

「…………」

「恋様」

 

「……分かった」

 恋は、意志の力を総動員するかの様に眉間に深い皺を寄せて、誠心の言葉に渋々と頷く。

 誠心は、その様子を見て僅かに安堵の表情を見せてから、未だ馬上の翠に顔を向けた。

「孟起殿も、それで宜しゅうございまするな?」

「……あぁ、分かってるよ」

 

 翠は、苛立ちも露わにそう吐き捨てて馬を降り、(ようや)く追い付こうとしている従妹の馬影に視線を投げた。

 それから三分も経たぬ内に先行していた将兵たちの元に追い付いた馬岱こと蒲公英は、未だに青い顔をして息を荒げている陳宮こと音々音を犬の様に小脇に抱えながら馬から飛び降り、将軍たちの元へと駆け付けた。

「遅いぞ、蒲公英!」

「後で怒られるから!状況は?」

 従姉からの叱責を受け流して音々音を投げ捨てる様に降ろすと、引き締まった表情でその顔を見返した。

「音々音の物見と献策待ちだ。獣じみた鳴き声が村中から響いてやがる」

 

 翠が腕を組んで音々音に視線を投げると、音々音はよたよたと起き上がりながら、翠や恋の横に並んで、村と、今しも自分達の元に駆け寄って来ようとしている村民たちを見遣り、(せわ)しなく瞳を動かしてからぎゅっと(まぶた)を閉じた。

 

「まず―――」

 数拍の後に目を開いた音々音は、場に沿ぐわぬ程に平坦な声で“戦場”を見据えながら、口を開く。

「翠の持って来た主の牙門旗を此処に立てて救護所とします。兵三名を残して救護と避難民の警護に当たらせ、逃げて来た者の中で怪我をしていない民には、随時、手伝う様に指示するのです。馬家の二人には恋殿の呂旗と兵三名を預けますので、村の反対側へ突っ切り、反対の出口で同じ様にした後、兵士を置いて村に戻って、敵の迎撃と避難誘導を」

 

「おう!」

「了解だよ!」

 音々音は、翠と蒲公英の声を聞き届けてから言葉を繋ぐ。

「誠心殿、祭殿、霞は、残りの兵四名を連れて遊撃を願うのです。住民の避難を誘導しつつ、向かって来る敵を撃破して下さい。誠心殿、兵の指揮は頼めますか?」

 

「承知(つかまつ)った!」

「ふむ、儂らは手勢もおらぬ故、それが妥当じゃの」

「よっしゃ!やっとバケモン共をどつけるんやな!」

「宜しくお願いするのです。恋殿は、その剛力で()って、火災の延焼(えんしょう)を防ぐ為の打ち壊しをお願いします。不肖、ねねがお供をして壊す建物を指示させて頂くのです」

 

「分かった」

音々音は、また三人の合意の声を聞き届けてから、最後に締め括る様に自分と恋の役目を述べると、動き出そうとする将たちを呼び止めた。

「それから、万が一にも中級罵苦と会敵する様な事があったら、脇目も振らずに逃げるのですぞ。足止めだけでも危険ですから、必ず後続の主に任せるのです」

 

「んな事いわれても、あたし達は中級とか低級とかの見分けなんてつかないぞ?」

 翠の言葉に、恋以外の残った諸将も頷きを返した。

「確かに、この中で中級種と遣りおうたんは恋とねねだけやしな。そこんとこどうなん?なんか、見分ける方法とかあるんかいな」

「強い……」

「お、おう」

「あと……喋る」

 

「うぅむ」

 恋の言葉に、霞と祭が戸惑いの声で答えると、音々音が暫し黙考してから、小さく一つ頷いた。

「では、こうしましょう。一、明らかに戦闘能力が傑出している。二、他に同じような容姿の個体が居ない。三、人語を解して意志の疎通を行う。この三つの条件の内、どれでも二つが重なっていたら、中級罵苦と判断し、即座に逃げて下さい。前回は(たま)さか事なきを得ましたが、今回もそうなるとは限りませんからな」

 

「恋でもフラフラにされちゃったって報告にあったもんね。それでいいでしょ、翠姉様?」

「チッ、しょうがないな。分かったよ」

 蒲公英の、あからさまに不服そうな従姉を宥める様な口調に、翠も渋々と了承する。

「では、各々方、御役目を果たして下さいなのです!」

 

 音々音の号令を受けた将兵たちが、威勢の良い声を上げて仕事に取り掛かる。

 当の音々音はと言えば、再び自分に向かって視線を投げてから片膝を付いて見せた恋に頷きを返してその背に乗りながら、万が一にも将領級の“欠員”が出た場合、その(あがな)いは自分の首一つで足りるであろうか、と、どこか冷たい思考の隅で考えるのだった。

 

 

 

 

 

 

「おりゃぁぁ!!」

 裂帛の気合と共に放たれた錦馬超の流星の如き薙ぎの一閃。

本来ならば、僅かばかりの残心を残して次撃へと繋がる筈のそれはしかし、ぴたりとその動きを止めていた。

大柄な人間ほどもある巨大な蚤の鉄の様な外骨格に、穂先の()状になっている鎌部分がめり込んでしまった為である。

 

「くそ、この……!!」

「ギィィ!!」

 痛覚が存在するのか、それとも単なる苛立ち故か、異形は耳障りな声を上げて、己の右腕に刺さった槍の主に向けて、虎よりも尚長い爪を有した左腕を振り上げた。

 翠が、槍を手放して身を(かわ)そうかと僅かに逡巡したその刹那、轟音と共に空気を切り裂いた何かが翠の頬を掠め、蚤の異形――アカスイ――の頭部を打ち抜いた。

 

 殴られでもした様に(くずお)れたアカスイを翠が見遣ると、その碁石ほどの大きさの眼には、一条の矢が深々と突き刺さっている。

「無事か、孟起!」

 一町(約100m)ほども遠くから、黄蓋こと祭の声が聞こえて来た。

 

「おう!助かった!」

 翠が銀閃を引き抜きながら祭にそう声を掛けると、祭は尚も素早く矢を(つが)えて上空高くに飛び上がったアカスイの目を射抜いて地面に叩き落としてから、小さく頷いた。

「こやつ等の頑強さ、鎧を着ているが如くじゃ。関節と眼を狙え!」

 

「あぁ!聞いたな蒲公英!」

「うん!翠姉様は、先に兵を連れて先に行って!蒲公英が此処で防衛線を張るから!」

「分かった!下手を打つなよ!」

 翠は、蒲公英にそう言い捨てると、すぐさま三人の兵に号令を掛け、音々音に指示された場所へと吶喊を再開した。

 

「さぁて、と」

 蒲公英は改めて、現在、自分の置かれた状況を、努めて冷静に思考する。

 彼女は今、村の中央に(そび)える大鐘楼を有する広場の、翠たちが向かった村の反対側に位置する出入口へと続く通りの前に陣取っていた。

 彼女たちがやって来た方角では霞と誠心が居残り、避難誘導と罵苦の迎撃に当たっている。

 恋と音々音に関しては、轟音が轟いている場所を辿ればすぐに分かる。

 

 どうやら今は、村の北側で火災を防ぐ為に家屋の破壊に勤しんでいるらしい。

「うわわ!っと、やあ!」

 蒲公英は、地面に差した影でアカスイの上空からの奇襲を察して側転でそれを躱すと、着地した瞬間に不気味な脚の関節を狙って影閃を振り抜き、体勢を崩した怪物の目に向かってその穂先を突き立てた。

 断末魔の声を上げて地面に倒れ込み、泥となって地面に溶けた怪物の(むくろ)から槍を引き抜いた蒲公英は、祭に向かって声を掛ける。

 

「祭さ~ん!ここは蒲公英が引き受けるから、一旦、矢の補給に戻って!」

「む?ふん、甘く見てくれるな!この黄公覆、剣を握ってもこの程度の化け物なんぞに遅れは取らぬわ!」

「違う違う!蒲公英の勘だけど、これはもう一枚、切り札がある気がするの!ご主人様もいつ来るか分かんないし、その時に祭さんの援護がないと怖いんだって!今はちょうど、この辺りに人も居なくなったし、引き際としては上々でしょ!!」

 

 祭に言った勘は、実際のところ、言葉以上に可能性が高い筈だと蒲公英は踏んでいた。

 この場所に来るまで、そして来てから、蒲公英や祭、翠が倒した敵は十かそこら、他の将たちもそれと同数ほどは倒していると仮定しても、未だそこかしこで飛び跳ね回っている蟲の数は三十かそこらを下らない。

 罵苦の身体能力を鑑みれば、この規模の集落を襲うのに必要とされる数としては明らかに多いが、同時に、いくら街の中での遊撃戦とは言え、飛将軍をも含めた将領級を六名も仕留め切れる程の数でもない。

 

 そんな事は、飛将軍と実際に戦って千を超える兵を屠られた筈の罵苦たちであれば、身を以って分かっていそうなものだ。

 その上で、何らかの作戦行動の結果として、この中途半端な陣容とあれば、罠ないし後詰が控えていると考えた方が良い。

 

「ふむ、もう一波あると見るか。ま、いいじゃろう。では、言ったからには持たせろよ!」

 祭はそう言って、置き土産代わりに残り二本だった矢を瞬時に番えて屋根を飛び越えて姿を現したアカスイの眼に打ち込むと、素早く(きびす)を返して走り出した。

「って、カッコ良く言ったは良いけどさ―――!!」

 

 蒲公英は、またも飛び掛かってきたアカスイの関節を器用に狙ってひらりひらりと槍を繰り出し、四肢の自由を奪うと、眼を狙って渾身の突きを放つ。

「キモチ悪いし固いし面倒くさいから、早く帰って来てねぇ……」

 既に見えなくなった祭の背中に向けてそんな事を呟きながら、蒲公英は苦笑いを浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

「だっしゃおらぁ!!」

 張遼こと霞は、勇ましい雄たけびと共に飛竜偃月刀を一閃して、転んで(すく)んでしまった老婆に襲い掛かろうとしていたアカスイの肩口から右腕を切り落とすと、間髪入れずにその傷口に渾身の突きを放った。

 瞬間に泥となって刃に掛かる負荷ごと地面に泥となって飛び散った巨蟲の残滓を血振りで払い、下駄の音も軽やかに老婆へと駆け寄る。

 

「大丈夫かいな、婆ちゃん!?」

「あぁ、御武家様……こんな婆を気に掛けて下さって……」

「そんなんええから、はよ逃げ!村を出たら、一直線に走るんやで。したら、天の遣いの旗が立っとるさかい、そこが避難所やからな」

 

 

「あぁ!御遣い様がお戻りになられたので!!」

「せや!直ぐに助けに来てくれるよって、もうちょい気張りや!ほれ!」

「はい!はい!」

 霞は、(ようや)く、よたよたと走り出した老婆の背を見守りながら溜め息を吐いた。

 

「ったく、一刀のアホは何をノロくさしとんねや。あれ、実は馬やのうて牛やったなんてオチやあらへんやろな……ん?」

 霞が視線を投げるのと同時に、派手な音を立てて家屋の扉が吹き飛び、そこから投げ出されて来たアカスイが、そのまま向かいの家の壁を盛大に破壊して倒れ伏した。

 一拍の後、轟音と回転を伴って投擲された短戟がアカスイの身体に突き立てられ、断末魔の悲鳴と共にアカスイが泥になると、中空で支えを失い、どことなく間の抜けたカラン、という音と共に地面に落ちる。

 

「ゴホゴホ……あぁ、やれやれ。埃っぽくて敵わん」

 吹き飛んだ扉の奥から姿を現した高順こと誠心は、虎髭に付いた埃を心底嫌そうに払いのけながら落ちた短戟を拾うと、左手に握っていたもう一本の短戟でその柄をコンコンと軽く叩き、金具の留め金の具合を確かめてから、漸く霞に顔を向けた。

 

「これで、この辺りの居住区に潜んでいた蟲は粗方と言ったところだぞ、霞殿」

「おう、お疲れさんや。それにしても、派手にやったなぁ!」

「む……長柄の自分より私の方が向いていると申して役を押し付けたのは、其許(そこもと)ではないか」

「そらそうやけどな」

 

「どの道、修繕費用には支援金が出るであろうよ。で、そちらは?」

「あぁ、こっちも粗方、避難完了やな。今さっき、もたついとった年寄り連中も外に出したし」

「それは重畳(ちょうじょう)

「うん。ほんなら、後はウチがもちっと入口の近くまで戦線下げてバケモンが外に出ぇへんように見とくさかい、アンタはこのまま、南側の居住区を突っ切ってバケモン退治しながら、孟起らんトコに行ったりや。こっちは火も回ってへんかったから手早く済んだけど、東側は火の回りが早いみたいやし、北側の居住区は恋が建物ブッ壊すついでに面倒みてくれるやろ」

 

 誠心はその言葉に大きく頷いた。

 この村は元々、山間部を東西に貫く街道の上にあるので、北側と南側は獣除けと夜盗除けを兼ねた高い防護柵で覆われていて、当然ながら、地元民の居住区は街道を遮らぬように防護柵に沿う形で北南に集中している。

 火の手が上がったのはどうやら北東の辺りの様で、村を横断する街道と村中央の広場に隔たれている上、恋が延焼対策に回っている事も手伝って、西側と南側の居住区の被害は大分、軽微に収まっていた。

 

 ともすれば、誠心が暴れ回って出た損害が、一番大きい位かも知れない。

 それに加え、住民たちもつい数年前までは、いつ戦火に巻き込まれるか分からない生活だった事もあり、心構えが出来ていたからか、比較的スムーズに避難が進んだ為、二人にもこんな策を考えられる余裕があると言う訳だった。

 

「では、お言葉に甘えて。武運をな、霞殿」

「おう、そっちもあんじょう気張りや!」

 誠心は、霞の声を背中で聞きながら双戟を背に負って腰に()いた朴剣を抜き、家々の間の細い道へと足を踏み入れて行った。

 

「さて、と。ほんならウチは―――っと!?」

 霞はスッと眼を細め、誠心が扉を吹き飛ばして出て来た家屋の玄関辺りに、神経を集中する。

 先程まで相手をしていた蟲どもの、捕食欲を剥き出しにしたものとは明らかに違う、憤怒にも似た殺気を孕んだ“何か”の気配を、機敏に察知したが故に。

 

「あの四角四面のバカ真面目が討ち漏らしなんちゅう事もないやろし、後詰かぁ?それとも―――」

 何時でもこの場を離れられる様、半ばバックステップの姿勢を維持したまま、偃月刀の刃をするりと下段に構える。

 まさか臆したなどと言う事はない。

 (むし)ろ、三國無双の誉れも高い呂布奉先を一時は追い込みまでしたと言う中級種とやらと、是非とも一度くらいは死合うてみたいと言う欲は、真夏の蝉の鳴き声の様に(やかま)しく霞の理性を責め立てている程だ。

 

 とは言え、半分賓客の様な立場である手前、まさかこの国の軍師の策を無碍にも出来まいし、罵苦相手の遭遇戦ともなれば死んでも外交問題にはなるまいが、それでも音々音は気に病もう。

「ったく……難儀なこっちゃで、半端な立場っちゅうんも」

 苦笑いを浮かべてそう呟いた霞の顔は果たして、家屋の薄暗がりから姿を現した存在を見て瞠目(どうもく)となり、次いで狂気を孕んだ満面の笑みとなった。

 

 確かに、今まで相手をしていた巨大な蟲とは違う異形。

 しかし、同じ姿をしたモノがぞろぞろと十ほども居る上、その口からは聞く者を不穏な気分にさせる唸り声を発するだけで、言葉を弄しようとする様子も無い。

「くくっ!ええやんええやん、大漁やんか!!お前ら、喋れへんよな?おっと、答えんな!答えられるか分かれへんけど、兎も角、答えらるとしても黙っときや。そしたら―――」

 

 霞は心底、幸せそうな声で体の重心を後ろから前へと移し、虎も恥じ入る程の獰猛な笑みを湛えて、一歩を踏み出す。

「たっぷり()ぇ思い、させたるからなぁ!!」

 その言葉が発せられた瞬間、既に霞の身体は、常人には掻き消えたとしか感じられぬ程の速度に達していた。

 

 

 

 

 

 

 大型重機の鉄球(ブレイカー)でもぶち当たった様な轟音を伴って、簡素な造りの民家が粉々になって吹き飛んだ。

 それを成した紅蓮の髪の少女は、方天画戟を右の肩に担ぎ直すと、左手で額に浮いた汗を拭う。

 彼女が汗を掻いているのは疲れているからではなく、単純に暑いからだ。

 火事の延焼を防ぐ為に家屋を打ち壊すと言う事は、常に火の手の風下に立って動き回らなければならない事を意味する。

 

 流石の飛将軍とて、業火に炙られながら戟一本で家屋の解体などしていれば、辟易くらいはしもしよう。

 髪は束子(たわし)の様だし、肌は熱を持ってヒリヒリと痛む。

 まるで、叉焼(チャーシュー)にでもなった気分だ。

 唯一の慰みと言える程でもない慰みは、火を恐れてか、あの蟲の化け物たちもこちらには近づいて来ていない事くらいか。

 

「恋殿、お疲れ様なのです。既に、この辺りは心配ないようですし、少しお休みになられては?」

 恋は、そう言って駆け寄って来た音々音の言葉にくせ毛を揺らして首を横に振ると、今しがた壊した家屋のものであったらしい井戸に向かって歩を進め、縄を一息に引き上げて釣瓶(つるべ)を手繰り寄せ、水を頭から被る。

 

「みんなも、頑張ってる。恋だけ、休めない……」

「おぉ、恋殿!なんと、なんと気高いお言葉!この陳公台、改めて感服―――ひやぁ!!?」

 主の言葉に感激して瞳を潤ませていた音々音は、自分の頬の横を衝撃波(ソニックブーム)を巻き起こしながら何かが通り過ぎるのを感じて、反射的に悲鳴を上げた。

 

 音々音の視線の先には、渾身の決め球を放った直後のピッチャーの様な姿勢で静止している紅蓮の戦神の姿があり、今の今まで手に持っていた筈の釣瓶は、何時の間にやら消え失せている。

 となれば、これ以上は何があったかなど語るまでもない。

「れ、れ、れ、れ、恋殿!!?ねねは……ねねは何か、勘気(かんき)に触れてしまうような事を口走ってしまいましたかぁ!?」

「違う。ねね、後ろ……!」

 

「へぁ?—――ひっ!?」

 音々音は、恋の人差し指が示した方向へ顔を向けてみて、またも反射的に悲鳴を上げた。

 そこには、頭を押さえながらヨロヨロと立ち上がろうとする、武骨な鉄の鎧を着こんだ異形の大男が居たからだ。

 

「ねね、こっち。恋の後ろに下がって」

 恋は、そう言った時には既に、井戸に立て掛けた方天画戟を手に取っていた。

 視線の端で音々音の動向を気に掛けながら、水に濡れて艶やかさを取り戻した髪をかき上げて、異形に神経を集中する。

 

 身の丈は、七尺(約2m)ほどもあろうか。

 骨格も体格も完全に人間(ヒト)のそれだが、どこか茸を思わせる形に肥大した毛の無い頭部や、黄色く濁った瞳の無い大きく鋭い双眸(そうぼう)、耳まで裂けた大きな口にみっしりと生える鋭い牙が、明らかに人ではないと主張している。

 

 分厚い鉄板を折り曲げただけかの様な、通気性や重量など考えられてすらいなさそうな鎧を軋ませながら立ち上がった挙動を見るに、そこまで敏捷な印象は受けないが、いくら木製の釣瓶とは言え、至近距離から飛将軍たる自分の全力を込めた投擲攻撃を受けてすぐさま立ち上がれる頑強さと、節くれ立った手に握られた幼児の背丈ほどもある巨大な盤刀は、恋の警戒深度を低級罵苦に対するそれから一つ上げるには十分な要素だった。

 

「まさか、中級罵苦でしょうか?この前のマシラとか言う奴等や、この村を蹂躙している蟲どもと同じには見えませんが……」

「ううん……そこまで強くない」

「ほほぅ」

「……多分」

 

「た……多分なのですか……」

 出来るなら、自信を持って音々音を安心させる言葉を発してやりたかったが、こればかりは恋にもどうしようもなかった。

 少なくとも、あの吸収される感覚は感じていないし、黒狼と対峙した時の様な、自分の武人としての直感が警戒音を上げる様な凄みが無いのも同様だ。

 それでも、あの数万の罵苦の軍勢の中で、武器を使ったり鎧を身に着けていたのは、中級種である二体だけだった。

 

 だから、戦ってみないと分からない、としか言えない。

「でも」

「でも……なんですか?」 

「すごく……嫌な感じ」

 

 恋のその呟きに、音々音が「はぁ」と曖昧に相槌を打ったのと同時、牙を剥き出しにして恋を睨んでいた怪物は、唸り声を上げながら盤刀を振り上げ、紅蓮の少女めがけて吶喊する。

 『思ったよりは速い』とは思ったが、やはり黒狼の刃ほどの脅威は感じない。

 音々音がすぐ背後に居る事もあり、受けてみる、と言う選択肢を選んだ恋は、方天画戟を横にして、柄の板金で補強された部分を敵の刀の軌道に合わせた。

 

 インパクトの瞬間、自分のつま先がガクンと地面にめり込む感覚があったが、恋は気に留めず、そのまま柄を捻って敵の刃をいなし様に、戟の石突でグロテスクな側頭部に(したた)かに打ち据える。

 次の瞬間には、怪物は轟音を伴って家屋の残骸の中に頭から突っ込んでいた。

「やりましたな!恋ど―――」

 

「まだ」

 恋は、自分に歩み寄ろうとした音々音に腕を(かざ)して制止した。

「え……だって……」

 動きを止めた音々音は、怪訝な顔をして吹き飛ばされた怪物を見遣る。

 

 恋の戦いを長く側で見続けて来た音々音には分かっていた。

 あれは、飛将軍・呂布奉先が“仕留める心算(つもり)で”放った、渾身の一閃だ。

 例え刃ではなく石突の部分であろうとも、人間はおろかマシラ辺りですら、胴から頭が吹き飛んでいてもおかしくはない必殺の一撃だった筈なのだ。

 

 だが、あろう事か、怪物はがらがらと音を立てて家屋の残骸の山を崩しながら起き上がろうとしているではないか。

「ふっ!」

 音々音が、恋が息を吐く小さな音を聞いた時には、恋の身体は既に立ち上がった怪物の眼前にあり、風切り音を伴った方天画戟の刃は、分厚い鎧など意にも介さずに怪物の身体を縦に両断して、その穂先は地面を僅かに割っていた。

 

「もう、いいよ……」

 恋が、鈍い音を立てて(くずお)れた(むくろ)を見つめながらそう言うと、音々音が待ちかねた様子で側までやって来た。

「少々、手強くはありましたが、流石は恋殿!敵ではありませんでしたな!」

 

「うん……でも……」

「でも?」

「消えない」

「え?あ……」

 

 音々音は、恋の視線の先に自分の視線を重ねて、驚きに目を見開いた。

 二つに分かたれた怪物の躯は、臓腑や脳髄と共に赤黒い血液を地面にぶちまけながら、“ただそこに横たわっていた”。

「確かに……消えて……ない?」

 恋は、音々音のそんな呟きを意識の端で聞きながら、方天画戟の刀身にべっとりとこびり付いた赤黒い血を(しばら)くじっと見つめてから、もう一度、怪物の躯に視線を戻した。

 

「……やっぱり、嫌な感じ……」

 くせ毛を揺らして首を振り、次の目標地点へ向かおうと音々音の手を引いて走り出してもなお暫くの間、恋の頭の中には、自分の発したその言葉が、得物の刃に付いた赤黒い血糊と同様に頭の中にこびり付いていた。




お楽しみ頂けたでしょうか?
なんやかやで、今回は何と一刀君の出番なしと言う……。
次回大暴れ予定です。
因みに、今回のサブタイ元ネタは『赤い光弾ジリオン』のOPです。
この頃のタツノコプロは楽器曲も本編も名作量産し過ぎ……。
お若い方も、サブスク等で見かけたら是非w
では、また次回お会い致しましょう。


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