jail (水原渉)
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 明け方の森の中は清涼感に包まれて、凛とした冷たさが、心地よく肌を刺激する。

 木々の匂いを嗅ぐように、両腕を後ろに伸ばして思い切り息を吸い込んでから、ルリアが明るい瞳を向けた。

「朝って気持ちいいですね!」

 なんとも抽象的な表現に、ジータは内心で苦笑しつつも、曇りのないルリアの笑顔につられて、頬を緩めた。

 最近のルリアはよく笑うようになった。

 と言っても、ジータは昔のルリアを知らないが、帝国の研究施設に幽閉されていた頃は、感情に乏しい女の子だったと聞く。

 ジータが何か答えるより先に、ルリアが楽しそうに続けた。

「森って、すごく私の最初の記憶なんですよね。もちろん、本当はそうじゃないんだけど、でもそういう感じなんです」

 ちょっと意味がわからなかったので、黙って頷く。ルリアは嬉しそうに「ですよね!」と言った。

「森にいると、ジータと初めて会った日を思い出します」

 懐かしむようにルリア。ジータは意味を理解した。

 ルリアには昔の記憶がない。そして、帝国に囚われていた頃の記憶は思い出したくないものなので、そこから逃げ出して、ジータと会ったその時を、「最初の記憶」と表現したのだ。少しこそばゆい。

 そういう意味では、ジータも似たようなものかもしれない。

 ずっと空に憧れていながら、故郷の村でただ日々を過ごしていた頃は、今思えば本当の自分ではなかった気がする。

 もちろん、その頃親切にしてくれた人たちとの思い出は大切だけれど、ルリアと出会ってからの日々こそ、自分の望んでいたものだったと断言できる。

 それを伝えようと思ったけれど、うまく言葉にできなかったので、黙ってルリアの手を握った。

 ルリアも嬉しそうに握り返して、二人はしばらく無言で森の中を歩いた。

 やむを得ず離れられない身となってしまったが、それがなくてもルリアとは特別な関係になっていたと思う。

 ジータはルリアが好きだ。このふわふわと掴みどころのない、元気で明るくて、正義感が強い小さな少女を、愛おしく思う。

 ルリアの方でも、随分ジータを慕ってくれているようなので、それが大変誇らしい。

 陽射しが枝葉の隙間から、光の筋を作っている。さえずっていた鳥たちが、二人の足音に驚いてか一斉に飛び立って、ルリアが足を止めた。

「そろそろ戻ろうか。みんなも起きてると思うし」

「そうだね」

 意味もなく見つめ合ってから、今来た道を振り返る。

 その瞬間だった。

 突然背中に衝撃が走って、ジータは身を仰け反らせた。ルリアと手が離れ、力なく地面に倒れ込む。

 背中が痛い。途方もなく痛い。

「あ、あぐあぁ……」

 言葉も出ず、硬く目を閉じて転げ回る。

 ナイフのようなもので刺された。そして今、その傷口から血が流れ出て、力が抜けていく。

 体ががくがくと震えた。冷たい汗が額に滲む。

 とにかく状況を把握しようと、最後の力を振り絞って目を開くと、青ざめて立ち尽くすルリアに、見たことのない男がナイフを突きつけて何か言っていた。

 大人しく……帝国に……助けたければ……。

 断片的に聞こえた言葉で、どうやら帝国の人間がルリアを連れ戻しに来たのだとわかった。

 何か言おうとしたら、急速に意識が遠のいた。

 喉が詰まって、それを吐き出すと視界が真っ赤に染まり、ジータの記憶はそこで途切れた。

 



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 気が付くと、硬い簡素なベッドの上にいた。視界には灰色の石の天井。首を傾けて見ると、小さなテーブルの向こうに鉄格子が見えた。どうやら牢屋のようである。

 恐る恐る体を起こすと、背中の傷は完治していた。魔法かアイテムかはわからない。とにかく自分は無事であり、つまりルリアも無事であることに安堵の息をついた。

 ルリアを殺す気がないことは会話の内容からわかっていたが、命のリンクを知らずに自分を殺すようなことがあったらと心配していた。

 鉄格子の向こうには素掘りの通路が続いていて、奥で右に折れている。人の気配はない。

 牢屋の中に窓はなく、地下であることが知れた。空気が淀んでいて息苦しい。

 ジータはベッドの上に座って考える。

 ルリアを殺す気がないなら、自分を殺す気もないだろう。しかし、ここに連れてきたということは、解放する気もない。ルリアが大事であればあるほど、ジータのことも守らなくてはいけない。

 しばらく所在なく座っていたが、誰も来る気配がなかったので、ジータは一度ルリアの名前を呼んでみた。

「ルリア」

 声が反響して、消えていく。答える声はなかった。

 もう少し大きな声で呼んでみたが、結果は同じだった。

 このまま誰も来なかったらどうしよう。ふとそんなことを考えて、薄ら寒くなる。

 もちろん、ジータを餓死させることは許されないので、いつかは誰かが来るだろうが、それにしても孤独だ。これが囚人の境地だろうか。

 じっと座っていると、胸の奥が熱くなって、涙が溢れてきた。慌てて拭ってベッドに横たわる。

 涙が止まらない。ルリアに会いたい。

 どれくらいそうしていたのかわからない。ジータはいつの間にか眠っていて、小さな足音で目を覚ました。

 飛び起きて見ると、帝国の甲冑を来た若い兵士が一人、食事の乗ったトレイを持って歩いてくる。

 ジータは駆け寄って格子を掴んだ。

「ねえ、ここはどこ!? ルリアは!?」

 文字通り血相を変えて叫んだが、若い兵士はまるでジータなど目に入っていないかのように、小さな窓からトレイだけ中に入れて背中を向けた。

「ま、待って! ルリアはどこ!? 私をどうする気なの!?」

 食事になど目もくれず、格子の隙間に顔を押し付けて呼び止める。

 それでも兵士は、そう命令されているのか、来た時と同じ静かな足取りで行ってしまった。

「そんな……」

 ジータは崩れ落ちるように座り込む。

 ひとまず、自分以外の誰かの存在が確認できただけで、わずかの安堵はあったが、これから先毎日、毎月、毎年、ずっとこんな日々が続いたらどうしよう。

 置かれた食事に手をつける。丸いパンが二つと、たっぷりのクリームチュー。牢屋の中で食べるには、想像したよりは多い量だ。

 食欲はなかったが、無理やり胃の中に押し込んで、再びベッドに座った。

 何も起こらず、誰も来ない。朝か夜かもわからない、孤独な時間が過ぎていく。気が狂いそうだ。

 ルリアは一体どれくらいの期間、帝国に幽閉されていたのだろう。その間、どんな生活をしていたのだろう。

 想像したら、ルリアが感情の乏しい女の子だったというのも頷けた。こんな場所に永遠に閉じ込められていたら、死んだ方がいいとさえ思う。

 目を覚ましてから数時間にして、ジータは早くも絶望していた。

 いつか仲間が助けに来てくれるだろうか。いや、帝国を相手に、小さな騎空団に何ができる。いくつかの騎空団が団結したとしても無理だ。それに、自分のいた騎空団の団長は自分だ。誰が指揮して、自分とルリアを助けに来てくれる?

 何も起こらず、誰も来ない。

「誰か、誰か来て……。助けて……」

 ジータは泣いた。しばらく泣いて、泣き疲れて眠った。再び起きても誰もいなかった。同じ場所にいて、同じ景色だった。

「誰か! 助けて! 助けて!」

 大声で叫ぶ。それでも答える声はなく、残響も消えてジータは崩れ落ちた。

 もうダメだ。もうダメだ。もうダメだ。もうダメだ。もうダメだ。

 抱えた頭を大きく左右に振る。叫んでも、喚いても、寝ても起きても、何も変わらない。もうダメだ。

「もうダメ……。助けて……助けてよ……」

 何時間過ぎたのか、何日過ぎたのかもわからない。いや、ひょっとしたら、数分しか過ぎていないのかもしれない。

 涙も涸れ、ベッドの端に座って、虚ろな瞳で地面を見つめていると、奥から足音が聞こえてきた。

 ああ、次の食事かと思い、ゆっくりと顔を上げる。

 鉄格子の向こうに、ルリアが立っていた。

 



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 何が起きたのか、ジータはしばらく理解できなかった。

 ルリアの後ろには、うっすらと見覚えのある大男と、先ほどの若い兵士が立っている。大男の方は、自分を刺した本人だと思い出した。

 兵士が牢の錠を開け、持っていた二人分の食事を中に入れる。続けてルリアが入ってきて、大きな瞳で笑った。

「よかった。会いたかった、ジータ」

 耐え切れないように抱きついて来て、その温もりと重さで、ジータはようやく現実に立ち返った。

「ルリア?」

 そっと抱きしめると、柔らかな感触が両腕から伝わってきた。紛れもなく、ルリアが腕の中にいる。

「ルリア、ルリア」

「ジータ!」

 胸が熱くなって、わけもわからず、ルリアの名前を連呼しながらきつく抱きしめた。涙が溢れてくる。

 ルリアも泣いているようで、湿った頬をしばらくすり寄せてから、そっと体を離した。牢の扉は閉められていて、男二人はいつの間にかいなくなっていた。

「まず、ごめんなさい。私のせいで、ジータを巻き込んでしまって」

 向かい合って座り、ルリアが神妙に頭を下げる。すぐにやめさせて、ジータは尋ねた。

「ここはどこ? 私たちはどうなるの?」

「ここは帝国の……研究施設みたいだけど、前いたところとは違うみたい」

 ルリアは後ろの質問には答えず、それだけ言って食事を手にした。一人の時と同じメニューだが、シチューの中身は変わっている。

「ルリアも、この牢に?」

 何かもっと色々話したいが、うまく言葉が出て来ない。元々喋るのはあまり得意ではない。

 ルリアは首を左右に振った。

「私は別の部屋。どうしてかはわからないけど、一緒にご飯を食べていいって」

「そう……」

 一緒ではないのは残念だったが、毎日ルリアと食事ができるなら頑張れる。いや、もちろんこれが最初で最後かもしれないが、とにかくもう一生会えないかもしれないと思ったルリアと、こうして食事ができるのは幸せだ。

「何かされた? 何かされるの?」

 そもそもルリアの研究とは何か、ジータはよく知らない。それでも、あまり楽しいことをされるとは思えない。

 ジータが暗い瞳を落とすと、ルリアが少し慌てたように手を振った。

「大丈夫。まだ何もされてないけど、でも大丈夫だよ」

 ルリアが笑う。ジータは首を傾げた。

 たったの数時間で絶望したジータには、ルリアがどうして笑えるのかわからない。何か希望があるのだろうか。

 そう思って尋ねると、ルリアは薄く笑って答えた。

「私は元に戻っただけだから。ジータがいる分だけ、前よりずっといいです」

 ぞくっとなった。背筋が凍る思いがした。

 能天気で明るいルリアの根底にある、深い闇を見た。諦めの境地、一番底の底を、ルリアは「普通」だと思っている。だから、世界のありとあらゆることが眩しいのだ。

「私はもう一人じゃない。この場所にジータがいると思えば頑張れる。でも、それは私の独りよがりで、ジータはそうじゃないよね……」

 ルリアが視線を逸らせてため息をつく。

 ジータはすぐに否定することができず、ルリアがもう一度頭を下げた。

「ごめんなさい」

「ルリアのせいじゃない」

「私のせいです」

 呟くようにそう言ってから、ルリアはパンを千切って食べた。

 沈黙が落ちる。

 ジータは焦った。本当に、ルリアのことは恨んでも怒ってもいない。何か弁明しなくてはと思うが、どう言っていいかわからない。

 明日には会えなくなるかもしれない今この状況で、ルリアと気まずい空気にはなりたくない。

 無表情でパンを食べるルリアを見ながら、ジータが考えあぐねていると、ルリアがふと顔を上げて口を開いた。

「明日からも、こうして一緒にご飯だけでも食べられるといいですね」

「えっ? あ、うん……」

「私、あの人になんとかそれだけはお願いしてみます。今日はただの気まぐれかもしれないし、明日にはわからないですもんね」

 そう言って、ルリアはふふっと笑った。

 ジータは安心した。ルリアはわかっている。ジータが初めて入れられた牢屋でどういう思いでいるか。不安なことも、悲しいことも、寂しいことも、そしてルリアに勇気付けられていることも。

「大丈夫。きっと大丈夫」

 ジータの心を読んだように力強く頷いてから、ルリアはジータの隣に移動した。

 そっと、どちらからともなく抱きしめ合う。また涙が零れた。

「大丈夫、大丈夫……」

 



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 何度か眠って、何度か目覚めた。

 その間に食事の時間はなかったので、ルリアが出て行ってからそれほど経っていないのかもしれない。

 朝なのか夜なのかもわからないので、日を数えることもできない。体の中のリズムが崩れていくのがわかった。太陽の光を浴びたい。

「みんなどうしてるかな……」

 わざと声に出して呟く。

 何も考えないように体を動かすと、少し気が晴れたが、喉がひどく乾いた。飲み物が欲しい。それから、お風呂に入りたい。

 服はずっとこのままなのだろうか。色々なことが気になってくる。

 また、気分が落ち込んできた。

 精神修行のように我慢していると、やがてまたあの若い兵士が一人で現れた。手には食事を持っている。

「ねえ、今は朝なの? 夜なの?」

 返事はない。

「水だけでもいつでも飲めるようにして。お風呂って入れるの? 少しくらい女の子扱いしてよ」

 兵士は窓から食事を置いて背を向ける。

「食事は1日何回なの? 私、それで日を数えることにする。何か答えて。聞こえてるんでしょ? 言葉もわからない阿呆なの?」

 わざと挑発するようにそう言ったが、兵士はそれには乗って来ず、そのまま帰って行ってしまった。

 ジータはため息をついてパンを取る。メニューは前回と同じだが、シチューの中身が違った。味は悪くない。

 次にあの兵士が来るまで何をしよう。食事が1日2回なら、12時間ほど、またこの何もない部屋で独りぼっちで過ごさなくてはいけない。

 無理だ。壊れてしまう。

 ルリアは、一体どうしていたのだろう。何度もそればかり考える。

 今だって、きっとどこかで一人でいるに違いない。それとも、研究は寝ている時間以外、ずっと行われるのだろうか。研究とは何をするのだろう。何をされているのだろう。

 一緒の部屋にしてほしい。それこそ、他の囚人と一緒でもいい。誰か、他の人と触れ合いたい。話したい。男でもいい。老人でもいい。殺人犯でも、気が狂った人でもいい。

 一人は嫌だ。

「ルリア、ルリア……」

 これを繰り返すのか。ずっとこれを繰り返すのか。

 いっそ死んでしまいたいと思って、首を横に振る。そして自虐的に笑う。

 一人で死ぬことはできない。それこそが自分につけられた枷であり、ルリアを縛り付ける鎖なのだ。

 そうこう考えている内に、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。1時間だろうか。それとも10分だろうか。

 もう嫌だ。

「助けて! 誰か、ここから出して! お願い! ルリア! ルリア!」

 叫んでみる。自分の声に少し元気が出たが、返事はない。

 何度も何度も押し寄せてくる絶望。気を抜くと壊れそうだ。

 考える以外にすることがなく、ジータは考え続けた。その内考え疲れて気持ち悪くなり、ベッドに横になる。

 少し眠って、目覚める。もう一度眠って、また目覚める。

 何も変わらない部屋。空気も時間も淀んだまま止まっている。

「もう嫌だ……」

 部屋の隅でふさぎ込んでいると、奥から足音が聞こえてきた。ゆっくり顔を上げると、ルリアを先頭に昨日(たぶん)の3人が歩いてくる。

「ルリア!」

 牢の扉に駆け寄ろうとして、ジータは足を止めた。

 ルリアは、昨日とは打って変わって暗い眼差しで俯いていた。ジータの声に顔を上げて、力なく微笑む。

「ルリア……」

 昨日と同じように、ルリアは食事と一緒に牢の中に入れられた。

 



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 最初はやはり、お互いを確かめるように抱きしめ合った。

 華奢な体。ジータと同じようにお風呂には入れてもらえていないのか、汗の嫌な匂いがしたが、それでもルリアの香りに胸が熱くなる。

 ずっとそうしていたいのを我慢して体を離す。ルリアはやはり疲れた顔で俯いていた。

「ひどいことをされたの?」

 もはや自分のことなど忘れて尋ねる。

 ルリアは首を横に振った。

「そんなことないよ」

 嘘だ。

 ルリアが食事を自分たちの前に並べる。パンとシチュー。今日のシチューには、珍しく肉がごろごろと入っていた。

 片方には入っておらず、ルリアは肉の入っている方をジータに差し出す。

「そっちの方が豪華だから、ルリアがそっちを食べて」

 ジータが提案するも、ルリアは無言で首を振る。

「じゃあ、二人で分けよう」

 やはり首を振る。

「食欲の問題じゃないから……」

 ぽつりと呟いて、ルリアは自分の分のパンをシチューに浸した。

 ジータは首を傾げる。ルリアは好き嫌いなくなんでも食べる。食欲の問題ではないのなら、なおさらルリアに栄養をつけてほしい。

 よほどまずいのだろうかと思い、ジータはその肉を口に入れた。食べたことのない味だが、柔らかくてまずくはない。

 その様子を、ルリアが青ざめた顔でじっと見つめている。

「ルリア、どうしたの? どんなに辛いことでも、隠し事はなしにしよう。もうここには、私とルリアしかいないんだから」

 優しく声をかけると、ルリアは目に涙を浮かべ、俯いて大きく首を横に振った。涙の滴が零れ落ちる。

「痛いことをされて。それだけ。前はそんなことなかったのに。それだけ」

「ルリア……」

「全然大丈夫じゃないけど、どうしたらいいかわかんない。ジータもそうでしょ? せめてジータと同じ部屋にしてって頼んだけど、それはダメだって。こうして1日に1回だけでも会わせてくれることに感謝しなくちゃって、そう思って」

 それだけ言って、ルリアは泣き出した。ジータもつられて泣いた。

 孤独の絶望に加えて、ルリアは痛い思いもしていると言う。外傷はないようだが、自分の背中の傷だって一瞬で治した連中のことだ。今の状態など、何の慰めにもならない。

「ジータがいることだけが私の希望なの。ジータもそうでしょ?」

 すがりつくようにルリア。ジータは真剣な目で頷いた。

「うん」

 ルリアの顔に安堵の色が広がる。

 食事を平らげる。改めてシチューを勧めてみたが、ルリアはやはり断った。

「結構美味しいよ? 食事だけは悪くないって思う」

「そう……」

 ルリアは曖昧に笑った。

 食べている時間がもったいないので、なるべく早く平らげると、二人はまた抱きしめ合った。

 状況はわかっているし、心は通じ合っている。温もりを確かめ合う以外に、もう二人には必要なかった。

「きっと誰かが助けに来てくれる。カタリナがルリアを助けたように」

「うん……」

「私も頑張るから、ルリアも頑張って。きっと大丈夫だって」

「うん……」

 小さく頷いて、何度か涙を拭って、ルリアはジータの目を真っ直ぐ見つめて、言った。

「頑張ろう、ジータ。それで、どうしても、どうしてもダメだったら……一緒に死のう」

「ルリ……」

 答えようとした口を、ルリアが柔らかく塞いだ。

 強く強く抱きしめて、キスをしたまま、ジータは心で誓った。

 この少女を、絶対に死なせはしないと。

 



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 翌日、変化があった。

 何度か眠って何度か起きると、あの日ジータを刺した大男が一人でやってきた。

 ジータはひどく驚いたが、とにかく心を落ち着ける。鉄格子を挟んで、先に向こうが口を開いた。

「気分はどうだ?」

 落ち着きのある低い声。今まで会ってきた性格の悪い帝国の人間とはまったく違うタイプだが、いきなり刺してきた男だし、ルリアをひどい目に遭わせている。声の穏やかさに騙されてはいけない。

「いいわけないでしょ」

 挑発しないように気を付けながら、それでもはっきりとそう言った。

 男は少し考える素振りをしてから、再び聞いてきた。

「昨日と今日とで、何か変わったことはあるか?」

「変わったこと?」

 ジータは怪訝な顔で呟いて、考える。

 そもそもどこまでが昨日でどこからが今日なのかわからないが、少なくとも変わったことはない。

 どういう意図がある質問なのかわからないが、ひとまず素直に答えることにした。

「毎日、確実に気分が落ち込んでるくらいよ。ルリアと同じ部屋にして。食事の時は一緒にさせてくれるんだし、それくらいいいでしょ?」

 男はしばらく考えてから、

「まあ、まだ1日だしな」

 そう呟いて踵を返す。ジータは慌てて呼び止めた。

「待って。私をどうするつもりなの? 私はいつまでここに閉じ込められるの?」

 返事は期待していなかったが、男は背中を向けたままその質問に答えた。

「永遠にだ。お前には用は無い。早まったことはするなよ。お前が死ねば、あの娘も死ぬ」

「わかってるわよ、そんなこと。言われなくても……」

 ジータはがっくりと項垂れた。ここに来てから初めて質問に答えてもらったが、余計に落ち込んだだけだった。

 男がいなくなってから、ジータは冷静に今の出来事を反芻する。

 男はジータに何か変化のある前提で聞いてきた。つまり、ジータにも何かをしたのだ。

 それがいつのことで、何をされたのか、まるで心当たりがない。例えば、寝ている間に、何か吸わされたのかもしれない。

 いずれにせよ、「用は無い」という言葉は嘘だ。ルリアと命がリンクしているジータに、あの男は何らかの役目を背負わせている。

 ただ幽閉されているわけではない。ルリアと定期的に合わせてくれることも、何か関係しているのかもしれない。

 近い内に事態は変わるかもしれない。そう思うと、少し希望が沸いた。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 待ち望んだその日の2回目の食事に、ルリアの姿はなく、若い兵士が一人で来たのだ。

「そんな! ねえ、ルリアは!? 今日はルリアは来ないの!?」

 ジータは掴みかかる勢いで聞いたが、例のごとく兵士の瞳がジータを映すことはなく、何も言わずに行ってしまった。

 たった一つの楽しみが失われ、ジータは再び絶望の淵に叩き込まれた。今度こそ本当に、二度とルリアとは会えないのかもしれない。

 昨日、痛い目に遭っていると言っていた。拷問のようなものを受けているのだろうか。

 命が無事ならそれでいいというものではない。もはや自分の分身とも言えるあの女の子が、一人で苦痛に耐えているのだとしたら、それは自分の痛みでもある。

「ルリア……」

 呟いてから、パンを取る。今日のシチューは昨日と同じ肉入りだが、血のように赤い色をしていた。トマトベースだろうか。

 口にした瞬間、ジータは眉をひそめた。

 今、血のようなと形容したが、これは本当に血のような何かなのだろうか。血ではないのか?

 いやしかし、そういうシチューがあっても不思議ではない。世の中には、動物の生き血を飲む部族もあると聞く。

 今日のシチューは美味しくないと断言できたが、肉は柔らかくて好きな味だ。空腹だったので一気に平らげて、ベッドに横になる。

 冷静に状況を整理する。

 今日はあの男が来た。そして、ルリアが来なかった。

 明日もあの男は来るだろうか。そして、ルリアは来ないだろうか。

 いずれにせよ、ジータにできることは何もない。交渉もできない。

 例えどんなものであっても、今は「変化」を歓迎しなくてはいけない。

 ジータは心を落ち着けて、少し眠った。

 



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「ジータさん、鍵は要りませんか~?」

 唐突に、聞き覚えのある、場違いに呑気な声がして、ジータは目を覚ました。

 慌ててベッドに腰掛けると、鉄格子の向こうに小さな人影があった。

 いつもお世話になっているよろず屋の店主、シェロカルテが、にこにこと温和な微笑みを浮かべて立っている。

 ジータは大きく一度息を吸い、ゆっくりをそれを吐いてから口を開いた。

「シェロ。どうしてここに?」

「どこにでも現れる、それがシェロちゃんのよろず屋なのです」

 さも当たり前のように、シェロが答える。

 ジータは思わず頭を抱えた。確かにいつもどこにでも現れるが、いくらなんでも帝国の牢屋にまで現れるとは……。

「助けに来てくれたの?」

 誰に聞かれるでもないが、声を落としてそう聞くと、シェロはおどけたように首を捻った。

「シェロちゃんはよろず屋なので、物を売るだけです」

 そう言って、シェロがポケットから鍵を取り出し、顔の前で小さく振った。

「どんな錠でも開けられる魔法の鍵です。いつもお世話になっていますから、特別に安く提供しますよ?」

「それは、すごく嬉しい」

 ジータはまだ混乱した頭を必死に整理する。わけがわからないが、顔見知りが現れたのは心強い。

「シェロ。ここはどこ? ルリアは?」

「場所はルーマシー群島です。ルリアさんは知りません」

「ここはお城なの? 砦なの? それとも、ただの建物の地下なの?」

 矢継ぎ早に聞くと、シェロは少し間を置いてから、複雑な顔でジータを見上げた。

「森の奥の小さな施設ですね~。性質上、関わっている人は少ないです。シェロちゃんが持っている情報はそれだけです」

 性質上、というのは、ルリアの機密性のことだろう。ジータはシェロから鍵を受け取りながら、少し先のことに思いを巡らせる。

 この鍵で牢を脱出できたとして、ルリアを連れて果たして逃げられるだろうか。それに、昨日ルリアが現れなかったのも気になる。

 ルリアはひどい怪我を負わされて、それを回復してもらえなかった。考えたくない仮説だが、最悪のケースを想定すると鍵だけでは足りない。

「シェロ。ポーションと、それからなんでもいい。武器がほしい」

 ジータは懇願する眼差しを向けたが、シェロはあっさりとそれをかわした。

「ありません。それから、その鍵が使えるのは2回までです」

「そんな!」

 ジータは青ざめる。

「それじゃあ、私はここから出られる自信がない!」

 武器なしでどう戦うか。ルリアと合流できたら、星晶獣を召喚する? この狭い地下道で?

 考えあぐねるジータに、シェロがにっこりと笑って言った。

「それで出られなければ、ジータさんはそれだけの人だったということです。騎空士は他にもたくさんいますから、運も実力もない騎空士に、シェロちゃんは用はないんですね~」

 ドクンと大きく、胸が打った。

 馴れ合いは必要ない。はっきりとシェロにそう言われたと、ジータは感じた。

「それでは頑張ってください」

 小さく頭を下げてシェロが背を向ける。その背にジータは声をかけた。

「シェロ。最後に一つだけ教えて。今は、朝なの? それとも、夜なの?」

「もうじき夜が明けます」

 最後にそう言って、シェロは奥へ消えてしまった。

 鍵を握って、ジータは考える。

 順番からすると、次の食事はルリアのいない方だ。つまり、ルリアと食べていたのは夕食ということになる。

 あの男はもちろん、ジータが鍵を持っていることを知らない。知らない前提にしなければ事が進まない。

 しかし、灯りもなく場所もわからない状況で、夜に動くのは危険だ。幸いにも通路には常時火が灯されているが、それも目で見えない範囲はわからない。

 次の夕食にはルリアが来るかもしれない。ルリアの部屋の位置や、具体的な「研究」の内容を聞いた方がいい。

 しかし、ルリアは今日も来ないかもしれない。正直、ジータの体力は限界であり、さらに一日延ばすのは、成功率を極端に下げる気もする。

 恐らくあの男は、今日もこの部屋に来るだろう。動くのは、朝食を摂り、男を見送ってからしかない。

 ルリアの「研究」がどれくらい行われるかわからないが、終わるのを待つか、その隙をつく。夕食のタイミングまで、この部屋には誰も来ないから、バレることはないだろう。

 安易すぎる作戦だ。しかし、もうジータには冷静な判断ができるだけの力が残されていない。シェロの言う通り、やってダメならそれまでだ。

 ジータは覚悟を決めた。

 生きるか死ぬかの一発勝負。戦いは、いつだってそういうものだ。

 



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 朝食の後、案の定男がふらりと現れて、昨日と同じ質問をした。

「昨日と今日とで、何か変わったことはあるか?」

 ジータはわざとらしく首を振った。

「気は滅入って来るし、疲れたし、全部変わったわ。あなたの言ってる変化が、何を期待しているのかわからないから、答えようがない」

 つっけんどんに言い返すと、男は顎に手を当ててしばらく考えてから顔を上げた。

「明らかにわかる変化がないならそれでいい」

「待って」

 帰ろうとする男を呼び止める。

「昨日、ルリアはどうして来なかったの? ルリアに会わせて!」

 どうしてもそれだけは確認しておきたかった。それによって今からの行動が変わるわけではないが、本当に瀕死で寝込んでいるなら、計画を見直す必要がある。

 返事は期待していなかったが、男はやはり答えをよこした。

「あの女が行かないと言った。それだけだ」

「そんな!」

 にわかには信じ難いが、男は驚くジータに構わず行ってしまった。

 ジータは考える。

 今の言葉が本当だとして、ルリアはどうして来なかったのか。自分を嫌いになる何かがあったとは思えない。見られたくない姿だった可能性はある。

 いずれにせよ、今の男の口ぶりからは、怪我ではないと思われた。乏しい確証だが、今は情報と予感をすべて信じるしかない。

 ジータは少し体を動かして感覚を取り戻すと、格子から手を伸ばして、外側から牢の錠に鍵を差し込んだ。

 これで開かなかったら笑い話だが、シェロの鍵は的確に効果を発揮した。

 引き抜いた鍵を大事に仕舞う。後1回は使えるというが、何か変わるのだろうか。わからない。

 そっと牢の扉を押す。少し鉄の擦れる音がしたが、それで誰も来ないのはわかっている。

 耳を澄ませながら、慎重に奥の角まで歩く。身を屈めて下の方から右を覗くと、同じように素掘りの通路が続いていて、等間隔に火が灯されていた。

 大体50歩くらい先だろうか、そこが十字路になっていて、奥にはまだ通路が続いている。

 ジータは今さら靴を脱いで裸足になった。怪我のリスクはあるが、今はわずかな音も立てたくない。

 慎重に歩を進め、十字路まで辿り着く。さらに奥は突き当りで右に折れている。形からすると、ルリアの閉じ込められている部屋があるように感じる。

 顔を覗かせて左を見ると、少し坂になっていて、奥に扉があった。右は下りになっていて、やはり扉があった。

 あれにもしも鍵がかかっていたら、それで終了だ。いや、ルリアの部屋に鍵がかかっていなければいいが。

 奥がルリアの部屋、左は上り階段で外に続き、右は下り階段で、恐らく研究室に続いている。ジータはそう当たりをつけた。

 奥を目指す。角からそっと右を覗き込むと、さらに奥で左に折れていた。

 もどかしく思いながらも角まで歩き、慎重に奥の様子を窺う。

 すぐそこに扉があった。先ほどあった二つの扉とは異なり、こちら側に棒を差し込んで固定するタイプの錠がかかっている。あれではシェロの鍵でも、中からは開くまい。

 扉まで歩いて聞き耳を立てる。中から音はしない。

 そっと棒を抜いて扉を開けてみた。

 小さな白い部屋。白いベッドの上に、ルリアの服が無造作に置いてあった。

 壁やシーツのところどころに赤黒い跡がある。血としか思えなかったが、果たしてルリアのものだろうか。

 ここがルリアの部屋で、ルリアはおらず、ルリアは今、服を着ていない。十分な情報だ。

 服を持って行こうと思ったがやめた。荷物を増やしたくない。

 棒を元通りにして、十字路に戻る。上りの先を調べて出口までの道筋を確認したかったが、扉の向こうには確実に人がいるだろう。

 シェロはここが城や砦であることを否定した。それほど難しい構造にはなっていないはずだ。

 下りの先へ進み、同じように扉に耳を当てて奥を窺う。音がしなかったのでそっと押してみると、幸いにも鍵はかかっておらず、扉は微かな音を立てながら奥へ開いた。

 予想通り下り階段になっていた。灯りはなかったが、遥か奥から灯りが漏れている。

 足を踏み外さないように慎重に降りると、奥の方でルリアの声がした。内容は聞こえない。

 ゆっくりと、一番下に到達する。扉はなく、奥が折れていて、そこが部屋になっているようだった。

 ジータは細心の注意を払って角に近付き、中を覗き込んだ。

 そして、見た──

 



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 ジータが想像したよりも、遥かに凄惨な光景がそこにあった。

 石畳と石壁の部屋。奥に裸のルリアが座らされているのだが、白い肌が血でまだらになっていた。

 がっくりと項垂れ、肩で息をしている。右腕だけ壁に据え付けられた枷につけられ、無理やり上半身を持ち上げられている格好だ。

 ジータは思わず声を出しそうになって、なんとかそれを飲み込んだ。

 背中を向けて、例の大男が立っている。奥に台があり、その上に壺と、赤黒い肉の塊が小さな山になっている。そして、ギラギラと赤く光るナイフ。

 ルリアが顔を上げて、男を睨み付けた。

「もう、意味がないってわかりましたよね? いい加減にしてください」

 ルリアにしては強気の口調。

 瞳の輝きを見ても、ルリアは「今は」怪我をしていないように思えた。予断は許さないが、ひとまず安堵の息をつく。

「まだたったの2日だ」

 平然と男が言い放つ。ルリアの言葉になど、まるで意に介さない口ぶり。

「明らかに間違った仮説だって、わかってるでしょ? 私の力は私だけのもの。どうやっても、それがあなたのものになることはない」

「やってみなければわからない。怪我は治すことができる。つまり、成功すれば無限に能力を量産できる。実験で失うものはないのだから、やらない手はない」

「どうしてそんな不確かな実験のために、私がこんな目に遭わなくてはいけないの!?」

 ルリアが悲痛の叫びをもらすが、男はやはり淡々と言った。

「お前は、豚や鶏の事情を考えて飯を食うのか?」

 その言葉に、ルリアの顔が歪む。

 帝国の連中は誰も、ルリアを人として扱っていない。ルリアを痛めつけて何をしているかはわからないが、ルリアが喚こうが苦しもうが、この男にはどうでもいいことなのだ。

 ルリアは深くため息をついて、悲しげに目を伏せた。

「毎日毎日、こんな思いをするなら、いっそ死んだ方がましです……」

「それは、あのジータという女を殺すということだな」

 皮肉めいた口調で男が言う。

 卑怯な切り口だが、実に効果的だ。ルリアもそれをよくわかっているので、黙って俯いた。

 ジータは息を押し殺して、様子を窺い続ける。今すぐにでも飛び出して行きたいが、無駄に捕まって、前以上に絶望的な状況になるだけだ。

 ただ、もしも今、男がルリアを連れてここから出ようとしたら、ジータは気付かれてしまう。振り向かれたら逃げ場はない。

 どうするべきか頭を悩ませていると、不意に男が台のナイフを手にした。

「部位の問題もあるかもしれないな」

 何を言っているのだろう。

 よくわからないが、ルリアを傷付けようとしているのは明らかだった。

 ルリアが怯えた顔で体を震わせる。

 緊張が走った。ルリアを傷付けさせたくないし、そんな光景は見たくない。けれど、飛び出して解決することはない。

 ルリアが叫ぶ。

「本当にもうやめて! 私を食べても、何も変わらない!」

 ……ルリアを、食べる?

 意味がわからず、ジータは眉根を寄せた。

 ルリアの叫びを無視して、男がルリアの体に触れる。乾き切っていない血が、男の指先に付着した。

「どこまで回復できるのか、様子を見ながらになるが、やはり内臓の方が効果があるのかもしれない」

「ないから! 本当に! 本当に、絶対に何も変わらない! ジータも何も変わってないって言ってたんでしょ!?」

「まだ2日だしな」

「もうやめて! 助けて!」

 ルリアが絶叫する。

 ジータは台の上の肉塊に目をやった。あれが、ルリアの肉だというのか……?

 2日前の夕食の光景が蘇る。ルリアが食べるのを拒んだあのシチューの肉は、結局なんだったのか。

 男の言葉、昨日ルリアが来なかった理由、血まみれのルリア、そして今の会話。もう一度、台の上の赤黒い肉の塊を見た瞬間、ジータは思わずえずき、膝から崩れそうになった。

 手をついたドアが大きな音を立てて、男が勢いよく振り返る。

 もう、行くしかない。

 ジータは強く地面を蹴った。

 



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10

 

「ジータ!」

 ルリアの声を聞きながら、ジータは全力で男に突進した。

 不意打ちは成功し、男がバランスを崩して倒れ込む。手からナイフが転げ落ちた。

 ジータはそのままルリアに駆け寄ると、その体を強く抱きしめた。

「ごめんね、ルリア! ルリア!」

「ジ、ジータ?」

 ルリアが驚いた表情でジータを見る。その左手に、ルリアはシェロから受け取った鍵を握らせた。

 刹那、髪を掴まれて持ち上げられる。

「い、痛い!」

 そのまま放り投げられ、ジータは地面に倒れ込んだ。抜けた金髪が数本、キラキラと光って落ちる。

 立ち上がろうとしたらすぐそこに男がいて、思い切り肩を踏みつけられた。

「うぐぁっ!」

 刺すような痛みが全然を貫く。今の一撃で骨を砕かれなかったのは、日頃の鍛錬の賜物だろう。

 さらに爪先で腹を蹴られると、ジータの体は浮かび上がって、壁に叩き付けられた。

 体中が痺れ、手も足も動かない。ジータは顔だけで男を見上げた。

「どうやって抜け出したのかはわからないが、まあ、ちょうど良かった」

 平然とそう言いながら、男は一度台の方に歩くと、壺と肉塊を持って倒れているジータの傍に座った。

 目の前に置かれた壺は、真っ赤な液体で満たされている。もはやルリアの血なのは明白だった。

「ひょっとしたら、余計な調理をしたのがいけなかったのかもしれない。肉は、鮮度が命だからな」

「お、お前は、狂ってる……!」

「それを決めるのはお前ではない」

 口の中に無理やり壺の液体を流し込まれた。

 慌てて口を閉じると、ジータの顔が真っ赤に染まる。

「口を開け」

 鼻をつままれ、口をこじ開けられる。血の匂いが口の中に広がって、ジータは噎せた。

 無理やり飲まされた血が、胃の中に落ちていくのがわかる。

「げほっ、がはぁっ!」

「次は肉だ」

 言いながら、男は肉塊を片手で掴み、ジータの口の中に押し込んだ。

 感覚の戻ってきた手足をばたつかせると、一度強く腹を殴られて、ジータはそれに屈する。

 生暖かい生肉に歯が食い込む。噛んだところから何か液体が滲み出して、ジータは気持ちが悪くなった。

 顔をしかめると、男がやはり感情のこもらない、淡々とした口調で言った。

「どうした? シチューは旨かったんだろう?」

 言いながら、さらに肉を押しこんでくる。

 生々しい動物的な肉の匂いが、喉から鼻に抜けて、眩暈がした。

 美味しいものか。

 今思えば、自分はルリアの目の前で、ルリアの肉を美味しそうに頬張ったのか。あの日の自分を殴ってやりたい。

 だが、今はそれどころではない。ジータは両手で男の腕を持ち、とにかく口を解放しようとした。

 しかし逆に手首を捻られ、顎が外れるほど開かれる。

「んー! んーーーっ!」

「いいから食え」

 大声で怒鳴られる。ジータは息苦しくなり、やむを得ず何度か噛んで飲みこんだ。

 味などわからない。それよりも、ただひたすら背徳感に苛まれる。大事な友達の、今や文字通り命を共有している仲間の体を食べている。

 ジータは暴れた。暴れては殴られ、ルリアの肉を食わされる。

 男の力は強く、抵抗するだけ無駄だった。それでもジータはとにかくもがき、声を出し、痣だらけになりながら暴れた。

 そうする必要があった。

 こんな状況なのに、先ほどからルリアが一言も発していないことを、男が不自然に思わないように。

 ジータの渡した錠で枷を外し、男が落としたナイフを拾ったルリアが、背後に立っていることに気付かれないように。

 ジータは、男の注意を自分に引き付けるために、全力で暴れる必要があった。

「いい加減諦めて、大人しく食え! このガキが!」

 頭を平手で殴られて、意識が飛びそうになった。

 ぼやける視界に男の歪んだ顔があり、その向こうでルリアが両手で握ったナイフを振り上げていた。

 どうか、一切の躊躇なく、それを振り下ろしてほしい。

 自分の背中を軽々と刺し貫き、ルリアの肉を削ぎ落したその切れ味のよいナイフなら、ルリアの力でも男の命に届く。

 ジータの顔に影が落ち、反射的に男が振り返った。

 ルリアのナイフが煌めいた。

 



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11

 

 見たこともない険しい表情で、大きく肩で息をしながら、ルリアが床に倒れた男を睨み付けている。

 喜怒哀楽を顔中で表現する子だが、思えば怒っているところはあまり見たことがない。

 男は今や、白目を剥いてピクリとも動かない。首から真っ赤な血がドクドクと溢れ出ている。

 ジータは頭がくらくらしていたが、無理やり体を起こした。口の中にまだ肉片が残っていて、吐き出そうと思ったが、なんとなくルリアの前でそうすることが憚られたので、全部飲み込んだ。

 ルリアが顔を上げて、ジータを見て泣きそうな顔をする。ジータの記憶が確かなら、ルリアが自分の手で誰かを殺めるのは、これが初めてだ。

 そっと抱きしめた。

「大丈夫だよ。大丈夫」

 ぽんぽんと背中を叩く。

「ジータ、私、わたし……」

「大丈夫。震えるのも悲しむのも後。今はここから出ないと」

 今にも泣き出しそうなルリアを、半ば強引に立たせると、ジータは男の首からナイフを引き抜いた。

 勢いよく血がしぶき上がる。ルリアが口を押えて顔を背けた。

「これはルリアの武器。私を悲しませたくなかったら、今みたいに躊躇しないで」

 そう言いながら、ナイフを握らせる。

 人を傷付けるのも、殺すのも、あくまでジータのため。そう思えば、きっとルリアも戦えるだろう。

 ジータは男の腰から剣を抜いた。さすがに重たいが、使えないほどでもない。

 頭も肩も腹も痛いが、とにかく今はここから脱出しなくてはいけない。

 二人で階段を駆け上がる。幸いにも誰も来ることはなかった。恐らくあの男は、ルリアの「研究」の最中は、地下への立ち入りを禁じていたのだ。

 ジータは脱ぎ捨てた靴を履き、ルリアに服を着せる。

 もう誰の血かわからないほど、ジータもルリアも全身真っ赤に染まっている。早く体を洗いたい。

 扉を開けると、やはり上り階段になっていた。上り切ると、帝国の鎧を着た兵士が三人、ジータたちを見て驚いた顔で硬直する。

 いきなり扉が開き、血だらけの女が二人飛び出して来たら、それは驚くだろう。

「ええいっ!」

 ジータは情け容赦なく斬りかかった。もう善とか悪とかはどうでもいい。二度と牢屋には入りたくないし、痛い思いもしたくない。

 重たい剣を一人の顔面に叩きつけ、身を翻す反動で別の一人の首を斬り落とす。

 最後の一人が剣を抜くが、その太ももにルリアがナイフを投げつけて、バランスを崩した男の腹にジータは剣を突き立てた。

 再び武器を持ち直して走り出す。石の廊下には採光用の窓があり、向こう側から光が射している。

 何日かぶりの陽光。早く外に出て、思い切り浴びたい。

 また一人の兵士が現れる。

「どいてぇぇっ!」

 ジータは自らを鼓舞するように叫びながら、思い切り突進した。

 切っ先が男の胸を貫く。

 胴体を前蹴りにして刀身を引き抜くと、ジータは一度振り返った。

 目が合って、ルリアが大きく頷く。ジータは安心して、頷き返した。

 ジータも、実は人を殺したことはほとんどない。気分が高揚しているので気にならないが、きっと後から苦しむことになるだろう。

 その苦しみも、ルリアと分かち合おう。二人は一つだ。怖いものは何もない。

 通路の先に出口らしき扉が見えてきた。

 二人は真っ直ぐ走った。

 扉を開く。

 眩しい光が、二人を包み込んだ。

 



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エピローグ

 

 ルーマシー群島を形成する大きな森のとある場所に、澄んだ水を湛える小さな池があった。

 その透き通る水で、二人はこれでもかというほど体を洗いっこして、今は池のほとりに並んで座っている。

 ルリアはジータの肩に頭を乗せ、キラキラ光る池の水面を見つめていたが、やがて顔を上げずにぽつりと呟いた。

「ごめんなさい」

「うん、いいよ……」

 何のことかわからないが、ジータは即答した。まったく何一つ、ルリアを責める感情はない。

 ルリアが少し沈黙を挟んでから、小さく笑う。ジータも笑った。

 今度は顔を上げて、ルリアがいたずらな目でジータを見る。

「ジータ、あのシチュー、美味しそうに食べてました」

「忘れて。私はもう忘れたから」

「美味しかったんですか?」

 ルリアの綺麗な瞳に、ジータの金色の髪が映っている。大きくて明るい瞳。

 想像を絶するほど痛い思いをしたはずなのに、よくその話題をこんな笑顔でできるものだ。

 ジータは優しくルリアを抱きしめ、剥き出しになった首筋に顔を埋めた。そして、白くて柔らかな肌に唇を当てて、甘噛みする。

「ジータ?」

 怪訝そうな声を無視して、歯形が残るくらい一度強く噛んでからそっと離した。

 そのまま目を閉じてキスをする。

 ルリアもジータの背中に両腕を回し、二人はしばらく、まどろむように唇を重ね合った。

 鼻息がくすぐったい。そんな些細なことが、たまらなく幸せだった。

 やがて、ジータが何も言わないでいると、ルリアが口を開いた。

「ジータ。助けてくれてありがとう。何度も、何度も、ジータは私を助けてくれる」

「シェロのおかげね」

「ああ、あの鍵、シェロさんですかー」

 可笑しそうにルリアが声を弾ませる。それから両手を後ろについて空を見上げた。

 つられて顔を上げると、緑の向こうに青い空が広がっている。どこまでも深い蒼。

「お散歩の続きをしたいですね」

「まずはみんなのところに帰ってからね。きっと心配してる」

 元々アウギュステにいたので、別の島に連れて来られたことになる。

 もっとも、仲間と合流するのはそれほど難しくはないだろう。街に出れば他の騎空団がいる。騎空団同士の繋がりで、すぐにでも自分たちのことは、仲間に伝わるはずだ。

「ジータと二人きりの時間も、私は好きです」

 なんでもないように呟いて、それから急に恥ずかしそうにルリアが頬を赤らめた。

 ジータはくすっと笑った。

 黙って頭を撫でてやると、ルリアが嬉しそうにすり寄ってきた。

 目指す場所がある。

 大切な仲間がいる。

 毎日は緊張の連続だけれど、それが刺激的でとても面白い。

 ただ、何もかも忘れて、ルリアと二人で、静かに平穏な日々を過ごすのも、それはそれでいいかもしれない。

「あのシチュー、美味しかったなぁ……」

 髪を撫でながら、懐かしむようにそう呟くと、ルリアが大袈裟に驚いて身を仰け反らせた。

「ええーっ!?」

「また食べたいわ」

 わざとらしく舌なめずりする。

 ルリアが座ったまま後ずさりした。

「冗談よ」

「あ、当たり前です!」

 ルリアとなら、きっとどんな毎日でも楽しい。

 世界で一番大切な女の子の拗ねた顔を眺めながら、ジータは穏やかに笑った。

 

 ─ 完 ─

 



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