どこにでもある小さなお話。私はいつもそうなのだ。小さなことを気にして、大ごとを見逃して。とても小心者で。
この男は。
いつものように電車に乗り、大学から帰ろうとしていた時の話だ。高校時代の友達によく似た人物がいた。まぁ、目元から下しか見えなかったのだけれども。それだけですら、とても似ていた。きっとよくあることなのだ。
例えそれが、過去の思いびとだったのだとしても。
実際のところはただの人違い。目元を見た時、全くの別人だったのだが。その子を見かけた時、恋心というものを初めてその男は理解した。恋心とは、恋したものと、惚れられたもの、その2人以外には癒せぬ、心の痛みなのだと。それこそ、古傷なのだと。
男は未だに思っていたのだろう。いや、未だに思っていたことに気付かされたのだろう。ほんの少し、似た口元や、鼻の形を一瞬目にしただけで、その人を思い出してしまうのだから。
恋心とは痛みだ。失恋など古傷だ。ならば。恋に落ちるとは、針山に刺されることと同義なのだろう。古傷も、恋心も全て、トラウマと何も変わらない。苦しみだけが襲って。吐き気だけがその男を苛んで。それでいて、捨てられない。
この世の本当の痛みとは。確かな人の罪とは。
誰かに恋をすることなのやもしれない。
昔、人は八つの枢要罪を。七つの大罪を定めた。大半がマイナスの感情であり、忌むべき行動であった。怒ることなかれ。欲張ることなかれ。サボることなかれ。憂うことなかれ。妬むことなかれ。傲ることなかれ。羽目を外し喰らうことなかれ。騙すことなかれ。そして、
色に堕ちることなかれ、と。
きっと罪なのだ。誰かを恋焦がれる事は。
きっと罪なのだ。伝えられぬ恋心など。
きっと…
生き地獄、とはよく言ったものである。
心中、これはこの世で結ばれないが故の純愛だ、と。誰かが言っていた事を思い出す。
ならば結ばれない恋心の果てに死を選んだ者は?純粋なる恋心の果てに死んだとしても、それは純愛ではないのだろうか?清く正しい恋心を得て、それが結ばれなかった故に死を選んで。そのものの一生は、ただの悲劇?くだらない。本当の悲劇は、結ばれず死んだ事を、ただの悲劇としてしか受け入れられない事である。
もし叶うことがあるのなら、もし神がいるのなら。私などのように穢れたどぶネズミの叶わぬ夢を叶えずに。誰かの切なく淡く、簡単に消えてしまいそうな、優しく悲しいともしびを。小さく、それでいてたった一つの特効薬しか存在しない痛みを。守り、優しく育ててあげてほしい。そしてその火が消えず。
世界を照らす、新しい光となることを。私は心からそれを願う。
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