鬼連れ獪岳 (はたけのなすび)
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一章 鬼連れ獪岳
一話


初めまして、或いはこんばんは。

これは、獪岳の物語です。

では。


 

 

 

 

 駆けつけたとき、山あいにあるその村は、既に壊滅していた。

 

 十戸ほどの家屋はすべて戸を蹴破られ、踏み荒らされ、そこ此処に人の食いかけが散らばっている。

 逃げようとしたと思しい男の側には、箸と茶碗飯が転がっており、そこから少し離れたところには、子どもを庇って倒れ伏している母親の亡骸がある。

 女の背中には、拳で貫かれたような大穴が開いており、幼い子ども諸共胸を貫かれて死んでいるのは明らかだった。

 

 どの体も頭や手足、胴体のどこかが食い千切られ、土の上に倒れ伏している。

 歪な形の丸太のように転がる彼らの体を、冴え冴えと冷たい月の光が照らしていた。

 濃厚な血と臓物の臭いに手で鼻を覆いたくなるが、そうはいかなかった。

 まだ鬼が残っているかもしれないこの村において、刀から手を離すのは愚か者のすることである。

 辺りを見回し、人間の仲間がいないことをよくよく確認してから、獪岳は背後の森の木々の間に向けて声をかけた。

 

「おい、ここらに鬼は残ってるか?」

 

 がさがさと枝を動かし、ころりと転がるようにして出て来た人影がひとつあった。

 先だけを三つ編みに結った長い黒髪に、紺と白の絣模様の着物を着、黒い羽織を纏った、七つか八つくらいの幼い子ども並みの小さな体。

 だが、『それ』は鬼である。

 

 縦に割れた金色の瞳孔と鋭い牙を持つ、幼い女の子どもの形をした鬼は、ふるふると首を振って、辿々しい口を開いた。

 

「ない。おに、ない。かいがく」

「本当だろうなぁ」

「おに、いない。ひと、ある、だけ」

 

 それを聞き、獪岳はようやく背負っていた日輪刀の柄から手を離す。

 ここを襲い、村人を全員殺した鬼は、既にどこかへ去った後なのだろう。

 間に合わなかったという苦い失望が、束の間胸を満たすが、獪岳はすぐにそれを振り払った。

 

 鬼がいないならば、鬼殺の剣士の役目はもうない。刀の柄から手を離し、改めて周りを見渡してから、傍らの鬼を見た。

 人間の獪岳がむせ返りそうなほどの濃い血の臭いの中にあっても、この鬼はまったく正気を保っている。

 涎を垂らして肉に食いつくこともなければ、牙を剥きだして唸ることも、鋭い爪を伸ばすこともない。

 茫洋とした瞳で、殺しつくされて静まり返った村を見ているだけだ。

 だがいきなり何を思ったか、鬼はぱたぱたと獪岳に駆け寄ると、くいくいと袖を引いてきた。

 

「かいがく、ひと、うめない?」

「あ?んなことは後から来る隠の連中の仕事だろうが」

「けもの、からだ、くう」

 

 要するに、遺体をこのままにして行けば体が野の獣に食い散らかされるから、埋葬して行かないのか、と言いたいらしい。

 舌打ちを一つして、獪岳は鬼の体を突き放した。

 

「面倒くせぇ。もうくたばった奴らなんざ知るかよ。行くぞ」

 

 死んだ人間の体を埋めた程度で、何が変わるというのだろう。

 どうせ、こちらの後を追っている後始末部隊、隠が彼らの埋葬を行う。

 剣士である獪岳の仕事は、一体でも多く、一刻でも早く鬼を見つけ、その頸を斬って殺すことだけだ。

 大体、埋葬なんてことをしている間に隠に追いつかれ、自分の姿を見られたらどうするつもりなのだろう。

 

「かいがく」

「うるせぇ。俺が話しかけるまで喋んじゃねぇ」

  

 吐き捨てれば、子どもの鬼はぎゅむ、と手で口を押さえて獪岳の後からとたとたとついて来た。いちいち仕草が幼く、無邪気に見えて腹立たしい。

 日が昇るまでは後三時間ほど。それまでに建物か洞窟を見つけなければならなかった。

 さもなければ、この鬼は他の鬼と同じように日に焼かれて死んでしまうだろう。

 鬱陶しい話だが、自分の役に立っているうちはこの鬼を殺すつもりはなかった。

 

「ったく。変な鬼だな、お前は。鬼になる前から変な奴だったけどよ」

 

 つい呟けば、鬼は顔を上げて、首をちょっと傾けた。

 未だ空気の中には血の臭いがあるというのに、この鬼は一向に食欲を刺激された様子はなかった。

 

 獪岳は鬼殺隊の剣士である。

 雷の呼吸を使い、背に負った日輪刀で鬼の頸を斬り、殺す剣士。

 だというのに、獪岳は鬼を連れていた。

 鬼を連れたまま、鬼を殺す。

 鬼の力を借りて、鬼を狩る。

 獪岳がそんな奇妙な鬼狩りになった理由は、何年も前にまで遡る。

 

 それにしても一体自分は、何故こんなことになったのだろう、と獪岳は、山道を下りながら考える。

 背後からは、子どもの足音がずっとついて来る。つかず離れずの距離を守り、ずっと側にいるのだ。

 

 軽いその足音を聞いていると、否が応でも昔のことが思い出される。

 

 今は鬼っ子と呼んでいるこの鬼は、元の名を(さち)と言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼狩りの剣士になるより前、獪岳は寺で暮らしていた。

 親も家もない子どもを集め、面倒を見てくれる物好きな坊さんがいたのだ。

 目は見えないが、体がやたらと大きく、それでいて優しい性格をした坊主だった。

 獪岳の他にも、寺には数人の子どもがいた。

 獪岳はその中でも年上のほうで、幸という少女はその一つ下だった。

 

 幸は、頭が良かった。

 計算が早く、文字もすぐ覚えたし、大人を相手にしてもまったく引かないくらいに口も回った。

 獪岳は体は強かったが、幸ほど勉強はできず、口も回らなかった。

 だが、引き換えのように幸は体が強くはなかったから、獪岳はそれで溜飲を下げていたようなものである。

 ちょっと小突けば、すぐ涙目になって言い返してくるのは痛快だった。

 

「遅ぇよ、グズ」

「獪岳が速いの」

 

 寺を出て村へ買い物に行くとき、計算が得意な幸と、体の強い獪岳はよく組まされては、そんなふうに言い合いながら歩いていた。

 それでも、村の子どもに幸がいじめられたときは、何だかんだと獪岳が庇っていた。

 赤ん坊の時分、生みの親にひどく扱われたとかで、幸は足が悪かったのだ。

 床に落とされて足を怪我し、骨が変なふうにくっついてしまったそうで、歩くことはできても、走ることができなかった。

 口が回るみなし子なくせに体が悪いと来れば、いじめっ子にとってはいい的になるだけだ。

 

「いつもありがとう、獪岳」

「うっせぇ。お前、頭良いんだったら適当に言いくるめて逃げろよ」

「できないよぅ。あいつら、数が多いんだもん。獪岳はやっぱりすごいね」

「……勝手に言ってろ、グズ」

 

 口が回ろうがいじめっ子は怖いのか、幸は何かと獪岳の近くにいることが多かった。

 歳が一番近いせいもあって、坊さんも話が合うのだろうと買い物やら何やらを、一緒くたにしてきたものだ。

 獪岳はすごいね、というのがあれの口癖だった。

 幼い子どもだったが、子どもなりに上手く動かない脚を持つ自分が情けなくて、体の強い獪岳に憧れていたのだろう。

 幸の素直な憧れは心地よく、からかうことはあっても本気で邪険にしたことはなかった。

 

 すべてが壊れたあの日も、幸は獪岳と一緒にいた。

 日が沈む前に寺に帰れと坊さんに言われていたのだが、獪岳はあるときくだらないことで坊さんに叱られ、ぷい、と寺を飛び出してしまったのだ。

 暮れていく山の中、一人でぶらぶらしているところに出てきたのが、幸だった。

 なんでもないように近寄って来て、獪岳の前に手を伸ばしたのだ。

 

「獪岳、戻ろうよ。みんな、獪岳のこと待ってるよ」

「……テメェ、どうやってここがわかった」

「獪岳は怒られたら、おんなじ道をぐるぐるしてる。だから、すぐわかるよ」

 

 それでも、動かしづらい脚を引きずって、山道を歩いて探すのは並大抵のことではなかったはずだ。

 手足には擦りむいたり切ったりした細かい怪我が、いくつもあったのを覚えている。

 頬に切り傷をこしらえてまで、自分に手を伸ばしてくる馬鹿なお人好しを目にすると、意地を張るのが馬鹿らしくなり、ふん、と鼻を鳴らして戻ろうと歩き出したときだ。

 

「危ないっ!」

 

 いきなり突き飛ばされ、獪岳は地面に転がった。何しやがると怒鳴る前に、体の上に倒れて来たのは、幸だった。

 何がなんだかわからず顔を上げれば、そこにいたのは、額から二本の角を生やし、血走った目と牙を剥き出しにする化け物。

 

 あれが、獪岳が初めて見た鬼だった。

 

 そこから、記憶は一度途切れる。

 次に覚えているのは、幸の首に腕を回して抱え込み、嫌らしく笑っている鬼の姿だ。

 

「おおっとぉ、逃げんなよォ。餓鬼ィ。逃げたら、この女の餓鬼の首をへし折るぞォ?」

 

 実際鬼には、痩せた子どもの首をへし折る程度、何でもなかっただろう。

 ぽたぽたと幸の背中の傷から溢れる血と、目の前にいる化け物に気圧され、獪岳は動けなくなった。

 

「に……ぇ、かいが、く」

 

 獪岳が我に返ったのは、名を呼ばれたからだ。

 首を抑えられながら、背中を深く切り裂かれながら、その少女は声を張り上げたのだ。

 

「にげて!」

「このガキィ!」

 

 鬼が声を荒らげた。

 幸が持っていた小刀を、鬼の腕に深々と突き立てたからだった。

 鬼の腕にしがみつきながら、幸は叫んだ。

 

「獪岳、にげて!いいから!にげるんだ!」

 

 そこから、どこをどう走ったかはわからない。

 気づけば、獪岳は山の中で倒れていて、朝日が既に上りきっていた。

 めちゃくちゃに走り、どこかで足を滑らせて斜面を転がり落ち、頭を打って気絶してしまったのだ。

 怪我をした脚を引きずって人里に戻れた頃には、何もかもが終わっていた。

 

 獪岳が住んでいた寺は壊れ、子どもは一人を残して皆喉を切り裂かれて殺されていた。

 化け物を寄せ付けないための藤の花の香炉は蹴倒され、扉も壁も壊されていた。

 そうして、子どもたちを殺した犯人として警官に捕まったのは、坊さんだったのだ。

 生き残ったただ一人の子どもが、あの人がみんなを殺したと証言したから、死刑になるだろうと警官に言われ、獪岳は愕然とした。

 

 そんなわけ無い、あの優しくてお人好しの坊主にそんな真似ができるわけがない、殺したのは山の中にいた化け物なんだと、獪岳は訴えた。

 だが一人だけ道に迷い、山にいた子どもの証言は誰にも取り上げられなかった。

 化け物に襲われた場所に行っても、幸の死体はおろか、血の跡すらなかったのだ。

 山で熊か何かに出くわし、怖い思いをして気が触れた子どもだと囁かれたときは腹が立って、その場にいた大人を殴りつけ、脛を蹴り飛ばしてしまったほどだ。

 

 それがまずかったのだろう。

 獪岳は捕まった坊さんに会うこともできずに、後は己で生きて行けと放り出された。

 幸のことを探してくれと言ったのに、熊にでも食われたのだろうから諦めろと、突き放されたのだ。

 

 幸が生きているとは、無論獪岳も思っていなかった。

 お人好しでグズで力も体も弱く、足まで悪いのだ。あの化け物から、逃げ切れるわけがない。

 それでも、腕や足の一本くらいあれば、墓に入れてやれると思ったのだ。

 だが、それすらなかった。

 きっと、全部喰われてしまったのだと思う他なかった。

 

「馬鹿だろテメェ。なんで俺を庇ったんだ」

 

 他人を庇って己だけが死ぬなんて、どうしようもない馬鹿のすることだ。

 獪岳はきっと、幸に逃げてと言われようが言われまいが、逃げていた。もし助けてと言われていても、見捨てただろう。

 頭がいいくせに、そんなこともわかっていなかったグズ。

 お前が命懸けで逃げろと言った相手は、そんなやつなんだと笑ってやりたかった。

 だのに、自分はそのグズのお陰で生き残った。

 そう思うと、笑うことすらできなかった。

 

 鬼を殺す剣士たちの噂を聞いたのは、放り出されて間もなくのことである。

 あの化け物は、鬼という人を喰うモノ。

 人より何倍も力も体も強く、殺すには日の光で焼くか頸を斬り落とすしかないのだと。

 だが、世には鬼殺隊と呼ばれる鬼狩りの集団がいて、彼らは刀で以て鬼を殺すのだと。

 

 これだ、と思った。

 どの道生きていく術はなかった。

 それならば、あのときの化け物を殺せるだけ殺してやろうと思ったのだ。

 どこにいようが、戦う術がなければあの化け物には殺される。守りだったはずの藤の花の香炉も、結局は役に立たなかったのだから。

 

 人から盗んだり奪ったりして金を得て、辿り着いた旅の果て、見つけたのはかつて鬼殺隊の頂点の『柱』の一人だったという老人だった。

 さらに幸運なことに、獪岳はその老人、桑島慈悟郎から『雷の呼吸』の才能があると認められて、入門を許されたのだ。

 

 獪岳は、鍛錬を積んだ。

 刀を振り、山を走り、やれることはすべてやった。

 師に殴られようが蹴られようが、鍛えた。強くなれるならば、なんでもやった。

 強くなりさえすれば、それでよかったのだ。

 

 弱かったから、あいつは死んだ。

 獪岳を探しに出るようなお人好しで、弱かったばかりに化け物から逃げられもせず、そのくせに最後まで獪岳を庇って守った救いようのない馬鹿。

 

 化け物からたった一人を守っただろうあの坊主だって、人殺しとして処刑されたはずだ。

 優しかったやつは皆、片っ端から死んでいく。他人への優しさや思いやりが報われることなんて、あり得ない。

 

 逃げてと言ったあのときの顔が、何度もちらついた。

 笑いそうにも、今にも泣き出しそうにも見える幸の不思議な顔。毀れる寸前の、ひどく脆いあの表情。

 走り込みすぎて脚の筋肉が剥がれそうなほど痛む夜や、刀を振り過ぎて腕が上がらなくなった日の朝。

 そんなときに、あの顔を思い出すのだ。

 弱ければ、あんなふうに死ぬことになるのだと。

 強くなれば、生きてさえいれば、あの顔だっていつか見えなくなるはずだと、振り払うようにして刀を振った。

 

 それでも、獪岳は六つの『雷の呼吸』の型のうち、一つだけをどうしても会得できなかった。

 寄りにも寄って、他の型の基本となるべき壱ノ型が、獪岳にはできなかった。他五つの型は、すべてものにできたにも関わらず、である。

 

 それだけでも腹立たしいのに、おまけとばかりに獪岳を苛立たせることがあった。

 途中で入門した弟弟子のほうが先に、この壱ノ型を会得したのだ。

 幸以上のグズで、鍛錬がつらいとぴぃぴぃ泣くような根性無しであるのに、彼は壱ノ型を得ていた。

 

 ふざけるな、と思った。

 だがどれだけ呪おうが罵ろうが、自分には壱ノ型ができず、弟弟子にはできるという事実は覆らない。

 

 しかし結局、さらに苛つくことに弟弟子は壱ノ型以外をものにできなかった。

 

 獪岳は壱ノ型だけができず、弟弟子は壱ノ型しかできない。

 まるで分け合ったような奇妙な具合が、腹立たしくて仕方なかった。

 

 そうして、師は自分と弟弟子を二人で『柱』の後継として認めると決めたのだ。

 お前たちは二人でようやく一人前となれるのだと、師は言った。

 

 ふざけるな、と思った。

 五つの型ができる自分と、一つしか型のできない泣いてばかりの弟弟子とが、何故同じにされなければならない。

 だが誰を罵ろうが、獪岳が壱ノ型を使えないという結果は変わらないのだ。

 そのまま、獪岳は鬼殺隊の剣士になるための最終試験に赴くことになった。

 年中、鬼の嫌う藤の花が狂い咲く奇妙な山に赴き、そこで七日間を生き残る試験だ。

 ただ七日を過ごせばいいと言うだけではない。

 山の中には、鬼殺隊が捕らえた鬼が生きたまま放たれている。

 藤の花で以て山の中に閉じ込められ、人の肉も与えられない鬼は弱らせられているがひどい飢餓状態にあり、人間と見るや襲いかかってくる。

 それらを躱し、或いは殺し、七日を生き延びてみせたなら鬼殺の剣士となれるのだ。

 

 上等だった。

 

 鬼殺隊最強の『柱』だった師に剣を学べる者は、剣士たちの中でも一部のみ。

 獪岳はその師に、雷の呼吸の継承権を認めると言われたのだ。

 自信が、あった。

 死ぬなよという弟弟子を、誰が死ぬかと蹴り飛ばしてから、獪岳は旅立った。

 

 そうして辿り着いた山の中で、獪岳はあの鬼と出会ったのだ。

 月の光に洗われて白く輝く岩の上、打ち捨てられた人形のように、そいつはひとりぼっちで座っていた。

 

「かい、がく?」

 

 長い前髪の隙間から覗くのは、縦に割れた金の瞳。小さな口元から生えた、白い二本の牙。

 あの溌剌とした声ではなく、舌っ足らずの幼い声で、その鬼は獪岳の名前を呼んだ。

 何故、と思った。

 何故お前が、幸が、鬼などになっているのか。

 最後に見たあのときと変わったのは、瞳の形と牙だけ。食い物が満足になく、村に住む同い歳の奴らよりずっと小さかった体は、まったく変化していないようだった。

 だが、戸惑ったのは一瞬だった。

 

 鬼は、斬る。

 

 腹が減れば、肉親だろうが友人だろうが喰らうのが鬼なのだ。

 理性はなく、ただ人の血肉を喰らうことしか頭にない化け物。幼い子どもであるとか美しい女であるとか、そんなものは見せかけの話でしかない。

 中身は例外なく腐り果てて、人間だったころの面影など残っていない悍ましい生き物なのだ。

 鬼とはそういうもので、鬼殺隊は鬼を殺す者。

 だから躊躇いなく、獪岳はその鬼の首に刀を振るった。

 

「ん」

 

 だが、その鬼は獪岳の一閃を軽々と避けたのだ。

 ひらりと跳んで、伸びていた枝の上に梟のように止まる。

 

「かいがく?」

「口を開くな、鬼」

 

 一太刀を避けられたこと、あのころとそっくりの顔で名を呼ばれたこと、何もかもが腹立たしかった。

 尚も追おうと、一歩踏み出した瞬間である。

 ぽぉん、と枝の上にいた鬼が、跳んだ。

 大きく弧を描いて跳び、獪岳の背後に迫っていた別の鬼の頭を、蹴りで飛ばしたのだ。

 

「ぎ、ザマァァァァ!裏切リモノォォォォ!」

「ん」

 

 だが、普通に頸を落とした程度では鬼は死なない。鬼を殺せる武器はただ一つ、日の光で鍛えられたにも等しい、日輪刀だけなのだから。

 口汚く、裏切り者の糞餓鬼と罵る鬼を、幸の姿の鬼は曇ったガラス玉のような瞳で見ていた。

 そして暴れる鬼の体を足で押さえつけたまま、獪岳の方を向いたのだ。

 

「かいがく、きって」

 

 獪岳はその鬼に日輪刀でとどめを刺し、やはり残った鬼に刀を向けた。

 鬼は、攻撃してこなかった。向けられた刃先に戸惑うように、首を傾げている。

 人間だったころの、幸の仕草だった。

 

「何のつもりだ」

「ん」

「テメェは鬼だろうが。鬼を先に殺したのはどういうことだ。横取りされたくなかったのか」

 

 ふるふる、と鬼は首を振った。

 

「かいがく、ひと。ひと、たべない」

「……あ?」

「ひと、ころす、だめ。ぎょうめいさん、いった」

 

 久々に聞いた、あの坊さんの名だった。

 目の前の鬼が、あのお人好しの馬鹿の成れの果てなのだと認めるしかなかった。

 大方あの後鬼になり、この山に最終選抜用の鬼として閉じ込められたのだろう。

 鬼に血を与えられたもの、傷口に血を浴びたものは鬼となる。鬼とはそうして、増えていくものなのだ。

 

 運が悪くなった人間は、とことん悪くなるものなのだと思うより他なかった。

 

 例え誰であろうと、鬼になったならば、頸を落として殺す。

 そうしなければ、こちらが殺されるのだから。

 

「何人、食べた」

 

 しかし刀を持ち上げ尋ねれば、幸の鬼は首をはっきりと横に振った。

 

「ひと、くう、ない。ひと、くう、だめ。ひと、だれも、くう、ない」

「テメェは、鬼になってから誰も喰ってないってのか」

「うん。さち、ひと、たべない、おに」

 

 人は誰も食べていない。

 人を殺すのは駄目なことだから、だから、誰も喰らっていない。

 人は食べない、殺さない。

 

 継ぎ接ぎの言葉をよく繋ぎ合わせて聞けば、そういうことだった。

 

「あ」

 

 すん、と鼻を犬のように動かした幸の形の鬼が、向けられた刀をものともせずに獪岳の手を引く。

 咄嗟のことで反応できないでいるうちに、獪岳は岩の陰に引っ張り込まれた。

 

「何しやが……!」

「だまる」

 

 しぃ、と口を手で塞がれる。

 重たい地響きが聞こえたのは、すぐ後のことだ。

 ずしん、ずしんと何か重いものが近くを通り過ぎていく。

 音が遠ざかってから鬼が手を放すと、獪岳は深く息を吐いた。

 

「なんだあれは」

「おおきい、つよい、おに。たくさん、くった、おに」

「ハァ?ここの鬼は、人間ニ、三人食っただけの弱ぇやつしかいないんじゃないのかよ」

 

 またも首を傾げられた。

 だがどう考えても、今通り過ぎた音の持ち主は相当な巨体。人を喰らい続け、異形に変貌した強い鬼としか考えられなかった。

 

 ある考えが獪岳の頭に浮かんだのは、そのときである。

 

「お前、ここにいる鬼のことよく知ってんのか?」

「ん」

「じゃあ、俺を手伝え」

 

 この選抜の目的は、七日を生き延びること。

 この山に閉じ込められて長い鬼ならば、山道のことも鬼のことも知っているはずである。何より、鬼は人間より気配に敏感だ。

 獪岳が気づけない鬼にも、この幸の形の鬼ならば見破れる。

 

 すべては自分が、生き延びるためだった。

 そのためなら、この明らかに鬼としては異常な生き物でも利用できる。

 

 でも、と胸を冷たいものが刺した。

 

 もしもこの鬼が、獪岳を恨んでいたらどうだろう。

 寺の外に勝手に出た獪岳を連れ戻そうと追いかけたから、幸は鬼になったのだ。

 鬼になって、ひとりぼっちでこの山に閉じ込められて腹を減らし、そんな有様になってもずっと生きていた。

 自分がこんなに苦しい思いをすることになったのはお前のせいだと、獪岳ならば思う存分罵っている。いや、罵るだけでは飽き足らず、殺しているだろう。

 どう答える、と刀の柄を握った手に力が籠もる。

 

 幸の顔をした鬼は、月明かりの下でにっこりと笑った。

 昔とそっくり同じ、やわらかな微笑みだった。

 

「いい。かいがく、いきる、てつだう」

 

 言って、鬼は手を差し伸べてきた。

 いつかの夜と、同じように。

 けれど戻ろうよ、と言ったあのときとは、決定的に違っていた。

 差し出された手は、尖った爪が異様に伸びて青白い。

 それは、紛れもない鬼の手だった。

 

 考えるより先に、獪岳はその手を振り払っていた。

 ぱしん、という乾いた音が、夜の山に響く。

 

「うっせぇ。精々俺の役に立て、グズ」

 

 振り払われた手を見て、子どもの形の鬼は目をぱちぱちと瞬き、こくりと頷いた。

 

「ん」

 

 こっちだよ、と先導するように歩き出す鬼の跡を、獪岳は追う。

 

 獪岳が、藤の花の山を降りたのはそれから六日の後のことであり、山から一匹の鬼が生きたまま消えたのもまた、同じ日のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう遠くないように思える過去に思いを馳せ、獪岳は目の前にいる小さな鬼を改めて見た。

 なんとか太陽が昇り切る前に辿り着いた宿屋の一室。その押し入れの中で、小さな鬼は眠っていた。

 鬼となった幸は、人を喰わない。

 代わりに眠ることによって体力を回復し、人を喰わずに済ませているようなのだ。

 そんな珍妙な鬼を、獪岳は他に知らない。

 

 藤の山からこっそり幸を連れ出すのは、あまり難しいことではなかった。

 幸の力を借りて選抜を終えたあと、そのまま帰ると見せかけて山の端に行き、そこから赤子ほどに小さく縮んだ鬼の幸を回収したのだ。

 隊員一人一人に支給され、上との連絡役を担う鎹鴉は、無闇にばらすと焼き鳥にするぞと脅かして、幸のことは報告させなかった。

 今のところ、獪岳が呼び出されたことはない。

 師匠のところに戻って選抜を生き残ったことを報告し、鬼殺隊員として旅立ってからずっと、獪岳は鬼となった幸と共に行動していた。

 

 鬼となった幸は、獪岳にひどく懐いていた。

 かいがく、かいがく、と回らない舌で名前を呼び、どれだけ邪険にしようがついてくるのだ。

 恨み言の一つも聞かされると思っていたのに、拍子抜けな話だった。

 やはり鬼となっても、お人好しは変わっていないのだ。

 

 幸は獪岳が鬼と戦うときは幸も共に戦うし、他の鬼の気配がないか探るのは専ら幸である。

 人間だったころ、脚をうまく動かせなかった少女は、鬼となって異様なまでに発達した脚力を持つようになっていた。

 目覚めた血鬼術も、獪岳にとっては都合が良いものだった。

 

 仕事をしくじって鬼に殺されかけたとき、幸に担がれて離脱したこともある。

 獪岳のせいで鬼となった少女は、鬼となっても獪岳の側を離れようとしなかった。昼に移動する際は赤子ほどの大きさにまで縮んで箱に入り、それを獪岳が背負っている。

 今では日輪刀とはまた違う、獪岳の武器の一つだった。

 

 おかげで獪岳は、幸を隠すために一人の任務をこなすことがほとんどになったが、構わない。 

 壱ノ型ができないとはいえ、雷の呼吸の継承権を持つ獪岳と同じほどの剣士は、鬼殺隊の中でも少ないのだ。

 下手に足を引っ張ってくるような人間の味方より、鬼であろうが獪岳の言うことをよく聞き、時には身代わりとなって庇うやつのほうが、都合が良かったのだ。

 尤も、『柱』の誰かに鬼を連れているとばれればただでは済まないだろうから、獪岳は彼らの側には寄らず、鉢合わせもしないように、細心の注意を払っていた。

 故に今も、獪岳が泊まる部屋には幸がいる。

 

「平和な顔しやがってよ」

 

 押し入れの中に持ち込んだ布団をくるりと巻き込んで、すぅすぅと眠っている幸は、人間だったころと変わらぬ安らかな顔をしている。

 人間だったころの夢でも、見ているのだろうか。

 だがそもそも鬼とは、夢を見る生き物なのだろうか。それも、獪岳にはわからない。 

 鬼となった幸は、言葉が満足に話せなくなっていた。

 言葉はいつも途切れ途切れで舌足らず。発音できる一番長い単語は『ぎょうめいさん』である。

 

 もしもこいつが人間に戻ったら、何と言うのだろう。

 そうなったらいよいよ、恨み言を吐かれるのかもしれない。

 お前のせいで鬼になったのだと、罵って来るのかもしれない。

 

「……くっだらねぇ」

 

 鬼になった人間を、元に戻す方法などある訳が無いし、獪岳にも探す気はない。

 幸はこれから先、頸を落とされるか日に焼かれない限り、永遠に生き続けるのだ。

 鬼とは、そういう生きものなのだから。

 

 何故か無性に腹立たしくなって、獪岳は開け放ったままの、青い空が広がる窓の外を見た。

 すると、黒い点が段々と近寄って来る。次の仕事を告げる、鎹鴉のご到着だった。

 窓から室内に入って来た鴉は、羽をたたんでぐぱりと嘴を開ける。

 

「次ノ任務!次ノ任務ゥゥ!」

「うっせぇ馬鹿ガラス。グズが起きたらどうすんだ」

「グギュ。……次ノ任務ハ、那田蜘蛛山ァ!那田蜘蛛山、那田蜘蛛山ニ向カエェェ!」

「やっかましい!焼き鳥にすんぞテメェ!」

 

 一頻り叫んだあと、鴉はどこかへと飛び去って行った。

 初対面のときに、幸のことをばらせば焼き鳥にすると刀を向けて脅したせいか、獪岳の鴉はなかなか獪岳に近寄らないのである。

 

「ん」

 

 案の定、馬鹿でかい鴉の鳴き声のせいで、幸は目を覚ましていた。

 布団を頭から被ったまま、押し入れの暗がりの中から獪岳の方をじっと見つめる。

 金色の瞳が、何かを問いかけているようだった。

 

「行くぞ、グズグズすんな」

「ん」

 

 こくんと頷き、幸はしゅるると縮んで箱の中に入る。

 刀と箱を持ち上げ、獪岳は立ち上がった。

 

 目指すのは那田蜘蛛山。

 何がいようが斬ってやると、獪岳は己の日輪刀を強く握りしめたのだった。

 

 

 

 

 

 

 





ぼちぼち続きます。


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二話

思うところがあって、タイトルを変えました。
よろしくお願いします。

二話です。

では。


 

 

 那田蜘蛛山の麓に獪岳がたどり着いたころには、すっかり日が暮れていた。

 ここならばいいだろうと、背負った箱を下ろし、蓋を叩く。

 

「仕事だぞ。鬼っ子」

 

 すると、ぱたりと扉を開けて幸が出て来た。

 地面に立った瞬間にその姿は伸びて、赤子並みから七つ、八つの子ども並みにまで大きくなる。

 その気になれば、幸は大人の女くらいにまで体を大きくできるのだが、疲れるのかなんなのか滅多にそこまで大きくはならない。

 自分が鬼に変えられたころの大きさが、一番馴染むらしいのだ。

 

「お前、もう少し大きくならねぇのかよ」

「う」

 

 箱を適当に隠しながら愚痴のように呟くと、ふるふると首を振られた。

 そのまま、幸は目の前に聳える黒い山へととたとたと歩いていく。

 獪岳の上を、鎹鴉が旋回していた。

 

「那田蜘蛛山ァ!山へ向カッタ隊士ガ十人、音沙汰無シィィィ!現在、新タニ三名ノ癸ノ隊士ガ入山中ゥゥ!」

「おいクソ鴉、俺は聞いてねぇぞ。他の奴らがいるなんて」

 

 鬼の幸を見られると面倒なことになるから、獪岳は単独任務を請け負うことがほとんどだし、今までそれで何とかしてきた。

 

 鬼殺隊がうろうろしている山に行けば、幸が斬られる場合もある。

 何より、鬼を連れているのは紛れもない隊律違反だった。

 特に柱にばれれば、罰せられるのは獪岳である。

 

「問答無用ゥゥ!任務、遂行スベシィィ!」

 

 獪岳の頬を翼でばしりと引っ叩き、鎹鴉は飛び去った。

 どこかで見張っているのだろうが、ああなると捕まえられない。

 そして無視すれば、後々面倒なことになるだろう。

 頭を乱暴にかいてから前を向けば、幸がじぃ、とこちらを見ていた。

 

「俺以外の鬼殺隊に見つかんじゃねぇぞ。お前が斬られても、俺は助けねぇからな」

「ん」

 

 こくり、と幸は頷く。しかし急に何を思ったのか、くいくいと獪岳の袖を引いて一点を指さした。

 その指の先、道の上で膝を抱えて座り込んでいる背中に、獪岳は見覚えがあった。

 

「……あ?」

 

 地獄の底から響くような低い声に、幸が無言で一歩引く。

 そのまま獪岳から離れて駆け出した幸は、事もあろうに道端に座り込んでいたその人間の肩を、ぽん、と叩いたのだ。

 

 途端、野太く甲高い汚い悲鳴が、夜の闇をつんざいて響いた。

 

「ひっぎゃああああああ!って女の子ぉぉぉぉ!!??」

「ん」

「ってこの子、鬼ィィィ!どうなってんの俺が一人になったら鬼が出るとか本当どうなってんのこれぇ!!」

 

 叫びながらのたうち回るその鬼殺隊員を、追いついた獪岳は全力で以て蹴り飛ばした。

 ほぎゃあああああ、と果てしなくやかましい声を上げながらごろんごろんと転がった少年は、獪岳を見るなり地面から一尺ばかり跳び上がった。

 

「え、獪岳!?獪岳なんで獪岳!!どうしてここにいるわけ!?」

「静かにしやがれ。カスが。任務に決まってんだろうが。テメェこそ道で何してやがる」

「俺だって任務だよぉ!だけどさぁ!炭治郎と猪頭が先に行っちゃったんだよしょうがないじゃん!!」

「ん?」

 

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔で叫ぶのは、獪岳の弟弟子である我妻善逸。

 同じ師の下で同じ時期に学んだ仲であり、だからこそ獪岳にとっては、どこまでも気に食わない相手である。

 

 鬼殺隊に入れたとは聞いたときは、最終選抜で死ななかったことが忌々しい奇跡だとすら思ったほどだ。

 

 無論、顔など合わせたくなかった。

 うるさく喧しく、意気地がなくてすぐに泣きわめく。だというのに、獪岳がどれだけ努力しようが使えなかった壱ノ型を、この出来損ないは使うことができるのだ。

 兄弟弟子同士にあるべき情など、持てるわけがなかった。

 まして、同じ任務にあたるなど真っ平御免である。

 

 あの馬鹿鴉は今度会ったらただではおかないと、獪岳はこの瞬間に決めた。空に逃げても、幸が本気で跳べば捕まえられるだろう。

 善逸の叫びが怖くなったのか、びっくりしたのか、幸は獪岳の脚の後ろに隠れる。

 それを見て、善逸は目を丸くした。

 

「え、獪岳その子なんなの?もしかして俺が知らない間に、少女趣味に目覚めちゃったの?」

「殺す」

「え、ちょっと待って刀鳴らさないで鯉口切るのはちょっと待ってぇぇぇ!!隊員同士の抜刀は隊律違反でしょぉぉぉ!」

「任務放棄して道端でぐずつくのも違反だろうが、カスが。どうせ怖気づいて、仲間に置いてかれたんだろ」

 

 たちまち俯く善逸に、獪岳は心底呆れた。

 いつもいつも、怖い痛い無理だと喚いて逃げ出そうとするのが、我妻善逸という弟弟子なのだ。

 

「テメェみてぇなカスに付き合ってられるか。そこで一生みっともなく喚いてろ」

 

 行くぞ、と促せば、幸は頷いた。

 すると、ひどい面のまま、善逸はついて来たのだ。

 

「え、待ってなんでそんなちっさくてかわいい子まで行く気満々なの?っていうか、本当その子誰!?」

「うっせぇ。ついてくんじゃねぇよ」

「嫌ぁぁぁ!ここ絶対ヤバいから!俺一人だと死んじゃうからぁぁ!てか、獪岳めちゃくちゃ強いんだから女の子を危ないとこに引っ張ってくなよぉぉ!」

「死んどけ」

 

 余りの喧しさに、本気で斬ってやろうかと背負った刀の柄に手をかけたときだ。

 

「かいがく、だめ」

 

 刀の小尻が、横に引かれた。

 

「かたな、おに、きる、もの。かいがく、おに、きる、ひと」

 

 鬼殺隊の刀は鬼を斬るためにあるから、人を斬ってはならない。獪岳は鬼を斬る人だから、人を斬ってはならない。

 大方、そんなところだろう。

 

「しゃ、喋った?え、禰豆子ちゃんはしゃべれなかったのに?って、そういえば炭治郎、禰豆子ちゃん持ってってんじゃん!!」

 

 びゃああああ、と汚い奇声を上げる善逸をもう一度蹴り飛ばし、今度こそその場に放り出して、獪岳は走り出した。

 これ以上付き合ってはいられない。

 山にどんな鬼がいるかは知らないが、善逸のように怖気づくのは真っ平御免だった。

 鬱蒼と木の茂る山の中は、踏み入ると嫌な気配に満ち溢れていた。

 そこかしこで、嫌な臭いがする。

 血と、死んだ人間の気配がした。

 

「鬼はどこだ?」

「とおい、あっち」

 

 鬼となった幸は高い脚力の他に、鬼の居場所をある程度把握することができる力を持っている。

 血鬼術とはまた違うのだが、恐らく、周り中敵の鬼ばかりの藤襲山に、何年も閉じ込められていた間に得た能力なのだろう。

 躊躇いなく、幸は暗闇のある方向を指さした。

 

「やま、おに、おおい」

「鬼が群れてやがるってのか」

「そう」

 

 鬼は、通常ならば群れない。

 集まれば途端に共食いを始める、あさましい生きものなのだ。そのお陰で鬼殺隊が鬼を殺せているとも言えるが。

 だが、鬼の例外で言うならば獪岳の前にいるこの鬼とてそうだ。

 理性を持って人を喰わぬ鬼よりも、鬼同士で群れて人を喰う鬼のほうが、何百倍も『らしい』存在だった。

 

「つよい、おに、いる」

「……十二鬼月か?」

「ん」

 

 やや自信なさげに、幸は頷く。獪岳は舌打ちを返した。

 鬼の中でも特に強い十二体の鬼は、十二鬼月といわれる。

 実力が上のものが上弦、下のものが下弦と呼ばれ、これを一体倒すことが『柱』になるための資格の一つでもあった。

 だが下弦の鬼ならばともかく、ここ百年以上の間、柱が上弦の鬼に負けて殺された話しか聞かない。

 獪岳は『柱』になりたい。

 誰にも殺されないほどに、強くなりたい。幸と共に鬼殺を続けて、五十以上の頸を落としたが、まだ壱ノ型には届いていない。

 

 死ぬのは御免蒙るのだ。

 下弦の鬼ならば獪岳でも倒せるのだが、上弦となると十中八九死ぬだろう。

 だが、ここで任務を放棄して帰っては、あの喧しい弟弟子と同じことをする羽目になる。

 それだけは絶対に嫌だった。

 ともあれ、幸の先導に従って山を駆け抜けること数十分。不意に幸が足を止めて、岩陰に獪岳を手招いた。

 

「かいがく、あそこ」

 

 幸が指差す先には、女の鬼がいた。

 長い白い髪の鬼で、山道をただ歩いている。獪岳や幸には、まだ気づいていない。

 あれならば、丁度良かった。

 

「俺がやる。お前は周りを見てろ」

 

 背に負った刀の柄を握り、低く腰だめに構える。

 息を深く、深く吸って吐き、獪岳は両足に力を込めた。

 

 ───雷の呼吸、×ノ型

 ─────××××

 

 瞬足の抜刀と踏み込みにより、一瞬で鬼へと肉薄する。

 すれ違いざまに振るった日輪刀が、女鬼の頚を過たず斬り落とした。

 

「え……」

 

 鬼にとっては、何が起きたかもわからなかっただろう。

 間の抜けた声を上げた頸が転がり落ち、残った体だけがしばらくふらふらと揺れていたが、それもすぐに倒れ伏す。

 獪岳は刀を一振りして鞘に納め、苛立ちを込めて斃れた鬼の体を蹴とばした。

 

 今の技は、違う。

 違う、違う違う違う違う!違うのだ!

 

 あんな醜いものは、本物の壱ノ型には及ばない。

 鬼の頸を落とせたとはいえ、獪岳が求める壱ノ型・霹靂一閃には程遠かった。

 

「鬼……狩りィ……!」

 

 転がった女の頭にはまだ意識があるのか、獪岳を恨みの籠った目で睨みつけた。

 つくづく、鬼というのは化け物だ。こんなザマを晒しても、すぐには死なないというのだから。

 だが、僅か数秒で女の鬼はぼろぼろと灰のように崩れて消え去った。

 鬼の死に際はいつも同じ。亡骸も残さず、崩れ去って風に散らされる。

 

「ん」

 

 岩陰から幸が出て来て、女の鬼が消えた跡に小さく手を合わせる。口からは、何か言葉がこぼれ落ちていた。

 寺にいたころ、坊さんから教えられた経の一部を幸はまだ覚えている。

 獪岳が鬼殺隊として鬼を殺すようになってからは、いつも鬼が消えたところに立ってそれを唱えているのだ。

 といっても、長い言葉を喋ることができない幸の経は、たどたどしくて意味も通りはしないのだが。

 

「何してやがんだ、グズ。とっとと次の鬼の位置を探れ」

 

 小さな手を合わせている幸の頭を、獪岳は刀の柄頭で叩いた。

 鬼になったくせに、時折人間だったころを思い出させる振る舞いをされるのは、腹が立った。

 

 馬鹿だったあの少女は、数年前に死んだ。

 今ここにいるのは、同じ姿形をし、たまたま理性を失わないでいるだけの、鬼。

 日輪刀と同じ、獪岳の使い勝手のいい武器であり、そうでなければならなかった。

 刀で小突かれようが、幸にとっては痛くも痒くもないのだろう。

 それでも、心無しか哀し気に幸は女の鬼の体が崩れた場所から離れ、目を閉じて鼻を動かした。

 

「あっち」

 

 数秒経ち、幸はまた森の奥を指さす。そのまま獪岳より先に走り出した。

 幸が本気を出して走れば、獪岳でも追いつけない。

 元から脚力に優れた体であるのに加えて、いつの間にか勝手に獪岳を見て覚えたらしい全集中の常中を使うようになってからは、いよいよ幸は、手が付けられない速さを持っているのだ。

 

 ちなみに、獪岳は決して幸に全集中の呼吸など教えていない。

 獪岳が常中の訓練を積み、会得している様を見て、勝手に覚えやがったのである。

 鬼と戦うための人体強化術、呼吸法をよりにもよって鬼が覚えると、手が付けられなくなると獪岳は身を以て知る羽目になっているのだった。

 

 そして今、放たれた矢の勢いで、夜の山道を物ともせずに進む幸の後を、獪岳は必死で追った。

 

「少、し、抑えろよ……!」

「ん」

 

 幸が首を振った。

 急がなければならない事情があるのだろう。

 こういう場合、大概行く先には鬼に襲われている人間がいるのだ。

 岩を飛び越え、木の枝から枝へと飛び移り、転がるように駆ける幸を追っていけば、行く手にまたも鬼の気配があった。

 

 今度の鬼の影は、大きい。

 大人の男を縦に二人分重ねたほどの体躯に、異様に盛り上がった筋肉に鎧われた異形の鬼。

 蜘蛛そのものな、牙を剥きだした貌の周りに、白い髪がざんばらになって散っている。

 異形の鬼の、丸太のように太い腕は、何か人間らしきものの首をつかみ、持ち上げていた。

 

「だ、め」

 

 小さな声と共に、幸がさらに加速した。

 ぐ、と足を曲げたかと思うと、弾丸のような勢いで幸は異形の大鬼に飛びかかった。

 真っ直ぐな踵落としが、人間をつかんだ鬼の腕に炸裂する。

 ボグ、と骨が粉砕される鈍い音がした。どさりと、つかまれていた者の体が落ちる。

 

「ギ、グァァァァァ!」

「ん」

 

 異形の腕が振るった腕を、ひらりと蝶のように幸が避けた。

 地面に落ちた人間を一瞬で担ぎ上げ、後ろに跳び退る。

 必然、幸の後を追っていた獪岳が前に出る形になった。

 

「チッ」

 

 ───雷の呼吸、弐ノ型

 ────稲魂

 

 

 瞬きの間に放ったのは、五連の斬撃。

 だが、まともに鬼の体を切り裂けた斬撃は三つまでだった。残りの斬撃を、鬼の体は耐えていた。

 単純に、この鬼の体は固く、獪岳の刀を弾いたのである。

 

 だがそれならば、斬れるまで斬ればいいだけの話だった。

  

  ───雷の呼吸、弐ノ型

  ────稲魂

 

 再びの五連撃が、蜘蛛そのものの悍ましい顔をした鬼に突き刺さる。

 一撃目は、右腕。だが、鬼の固い体は辛うじて耐えた。

 二撃目が、左腕を斬り落とす。

 三撃目が、左足首を半ばまで切断する。

 四撃目が、右足首を斬り飛ばす。

 最後の五つ目の斬撃が狙ったのは、再び右腕だった。

 一度目の斬撃を走らせた箇所を完璧になぞった一撃は、今度こそ鬼の右腕を落とした。

 

 四肢を斬り落とされ、達磨のようになった鬼の巨体が地に落ちる。

 だがまだ、鬼は死んではいなかった。

 頸を落としていないから、死ぬことができないのだ。

 

「この山で一番強い鬼は何処だ。十二鬼月は何処にいやがる?」

 

 日輪刀を頸に突きつけ、問い詰める。だが鬼は、錯乱したのか闇雲に暴れて、土の上をみっともなくのたうち回るだけだった。

 蜘蛛の目玉で、鬼は茫洋と佇む幸を睨んでいた。

 

「ヴェァァァァ゛!俺の家族ニ近ヅクナァア!」

「……役立たずが」

 

 刀を一閃し、頚を刎ねる。

 これ以上は時間の無駄にしかならないだろう。

 刀を鞘に戻せば、助けた人間の体を担いだまま、とてとてと幸が近寄って来た。

 だがその人間、辛うじて下に隊服こそ着ているものの上半身は裸だし、どこからどう見ても首から上が猪である。

 おまけに、幸に抱えられて尚じたばたと元気に動いていた。

 

「おい、なんだそいつ。鬼か?」

「ちっげぇぇよ!おいお前ら、俺と勝負しやがれ!」

「ん、むり」

 

 ごろん、と幸が猪頭を地面の上に雑に下ろす。

 即座に屈んだ獪岳は、猪頭の腹に柄頭を叩きこんだ。

 声も出さずに頽れ、猪頭は気を失う。

 

「うるせぇ。俺たちのこと見やがったなら、しばらく寝てろ」

 

 一瞬しか見ていないだろうが、この猪頭隊士は幸が戦うところを見たのだ。

 だがとりあえず気絶させておけば、ほとんど幻覚で処理されて気づかれないものである。

 今まで危ういときは、毎回そうしてきた。

 何より、この状況で勝負しろとかいう猪頭野郎の要求は、明らかに面倒くさいとしか思えなかった。

 訳のわからぬ猪頭はとりあえず置いておき、次へと進もうとする獪岳と逆に、幸はみるみる崩れて行く異形の蜘蛛鬼の体に、やはり手を合わせていた。

 

「お前、いつまでそうしてやがる。意味なんざねぇだろ」

「いみ、ある」

「ねぇよ。お前がやることなんざ、いつだって無駄だ」

「……」

「とっとと行くぞ。鬼はまだ死んでねぇ」

 

 異形の鬼は硬かったが、それだけで十人もの隊士が行方不明になるとは思えない。

 この山にいる鬼は、こんなものではないはずだ。

 幸は俯くこともなく、いつも通りの茫洋とした顔のままついてくる。

 鬼になってから、幸の表情はほとんど変化しなくなっていた。薄っすらと、悲しみや怒りを読み取れる程度だ。

 

「……ん」

 

 す、とその幸の表情が引き締まる。

 同時に獪岳も、こちらへと走って来る足音を聞きとっていた。

 微かに聞こえる、鞘走りの音。音の発生源は、幸の背後。

 次の瞬間、幸の真後ろに黒髪の男がひとり現れ、刀を振り被っていた。

 青い刀が狙っているのは、幸の頚。

 

 咄嗟に、本当に考える間もなく、獪岳は幸の肩をつかんで背後へと放り投げていた。

 男の刀は空を切り、獪岳は自然と幸を背後に庇う形になって、襲撃者と向き合うことになる。

 男の刀に刻まれている、悪鬼滅殺の文字を見た瞬間に、獪岳は己の行動を後悔した。

 刀に悪鬼滅殺の文字を刻んでいる者は、鬼殺隊を支える柱以外にあり得ない。

 柱の前で、獪岳は堂々と鬼を庇ってしまったのだ。

 だが、柱の男はむしろ興味深そうに獪岳と幸を見、刀を僅かに引いた。

 

「その娘、鬼か?」

「……そうだ。だが、人を喰ったことはない。俺が連れている鬼だ」

 

 他に、答えようがない。

 今からでも幸を斬ればいいのか、と迷う間に、男はさらに獪岳に問うてきた。

 

「それはお前の妹か?」

「は?」

「違うのか。お前も、鬼になった身内を持っているのかと思ったんだが」

 

 ─────この柱、何を言っているんだ?

 

 鬼になった身内を、お前『も』持っているのか、だと?

 その前に、幸は妹でも何でもない。獪岳に家族はいない。

 

 男の言葉の意味がわからなさすぎ、言いたいことがありすぎて、逃げればいいのか何をすればいいのか獪岳は固まった。

 

「ん」

 

 くい、と幸が袖を引き、我に返る。

 金色の二つの眼は、獪岳を真っ直ぐ捉えていた。

 

「おに、まだ、いる。うえ、いち。した、いち」

 

 この状況で律儀に索敵をして俺に報告するなボケ、と獪岳が罵る前に、柱の男は至極冷静な口調で問うてきた。

 

「その鬼の娘は、鬼の居場所がわかるのか?」

「……大体はな。今は山の上に一体。下に一体いるってことだ」

「そうか。ならば手分けしよう。下はお前たちが行け。上には俺が向かう」

 

 顔色ひとつ変えずに、柱は言ってのけた。

 

「何をしている。早く行け。それから俺以外の隊士や蟲柱の前では、その鬼は見せないほうが良い。俺は前に見ているからいいが」

「あ?何を見たって……」

 

 獪岳が尋ねる前に、柱の男は走り去り、消えていた。

 言いたいことだけ言われて去られ、気分としては荷車に追突されて逃げられたにも等しいのだが、あの男はどうやら幸をすぐに斬るつもりも、それを連れている獪岳も罰するつもりはないようだった。

 少なくとも、今この場においては。

 

「なんなんだ、あの柱」

 

 刀身が青ならば、恐らくは今代の水柱になるのだろう。

 水の呼吸に適性がある者は、刀身が青く変わりやすいというから。

 

「かいがく、おに、いく」

 

 だがともかくも今は、水柱の言うとおりに鬼を斬るしかなかった。

 おかしな水柱に加えて、毒使いだという蟲柱まで来ているとか最悪以外の何ものでもないのだが。

 

「いそぐ、おに、ちかい」

 

 状況がわかっているのかいないのか、幸は変わらない。淡々と告げ踵を返すや否や、全速力で以て走り出す。

 獪岳も、その後を追う。

 数間先の木々の中で、覚えのある気配を感じたのは、そのときだった。

 空気に微かに混ざる、物が焦げるような臭い。

 

「待て、止まれ!」

 

 闇の木立の中で叫べば、幸は急停止して獪岳を振り返った。

 

「あれは雷の呼吸の技だ。気配があった。鬼はもう、いねぇだろ」

「ん。おに、きえた、きいろかみ、ちかい」

「黄色って、あのカスかよ」

「ん。きった」

 

 認めたくはない弟弟子、我妻善逸。

 それがどうやら、下にいた鬼を獪岳たちに先んじて斬ったらしい。

 山の入り口で、めそめそとしていたくせに。

 

「……初めからやれ」

 

 いつもいつもいつも、獪岳にできぬことができるくせにやらないから、腹が立つのだ。

 だがこれで、獪岳が下に行く必要はなくなった。

 それならば、ややこしい柱に遭遇する前に、幸をどこかへ隠すに限る。

 だが、再び幸は走り出したのだ。

 

「おい!」

「ひと、ち、におう」

「戻れって言ってんだよ!」

 

 幸は止まらなかった。

 駆けて駆けて、ようやく止まったのは木々のない開けた場所。

 一軒の小屋の残骸が、糸によって地面からはるか離れた中空に浮いている、不気味な広場だった。

 辺りに目をやれば、何かカサカサと地を這って暗闇に隠れたものがいた。蜘蛛か何か、のように見えた。

 

「なんだここは。……鬼、の住処か?」

「ん」

 

 頷いて、幸は地を蹴り小屋の上に飛び乗った。

 そしてすぐさま、人間をひとり担いで跳び下りて来る。血の気の失せた血だらけのそれは、あの弟弟子に他ならなかった。

 

「そいつ、死んだのか」

「ちがう。いきてる。いきる」

 

 鬼は斬ったが、相討ちにでもなったのだろう。

 手足が異様に縮んでいるから鬼の毒でも受けて死にそうなのか、と獪岳は冷めた頭で考えた。

 そして面倒なことに、このように鬼のために死にかけている人間を見れば、幸はまず助けようとする。

 普段は従順に獪岳の言うことに従い、殴ろうが蹴ろうがついてくるというのに、これだけは直らない癖だった。

 

 地面に横たえた善逸の体の上に、幸が手をかざす。

  

「う……ぁ?」

 

 意識がまだあったのか、善逸が呻き声を上げた。

 虚空を見ていた視線が、獪岳へ向けられる。

 

「じい……ちゃん?」

「うるせぇ、カスが。何無様晒してやがる。呼吸をしろ。死ぬぞ」

 

 毒の巡りを遅らせなり出血を抑えるなり、呼吸を用いて己ひとりで何とかしろ、という話である。

 罵ったつもりなのに幻覚でも見たのか、善逸の顔がやや安らいだものになり、正しく毒の巡りを抑えるための呼吸が始まる。

 同時に、善逸の体に幸の手から放たれた薄紅の光が降り注いだ。

 

 ─────血鬼術・癒々(ゆゆ)ノ巡り

 

 それは、幸が持つ血鬼術の光だった。

 毒の浄化を行う癒々ノ巡りと、怪我を癒す癒々ノ廻りの二つしかなく、攻撃を行うことはできないが、効果が単純なだけに扱いやすい血鬼術だった。

 だが、この技を使うと、幸は戦いが終わったあとに深い眠りに落ちる。手遅れ寸前の人間を一人癒せば、丸二日、場合によっては三日は目覚めない。

 そうなると必然、獪岳が幸を抱えて帰らねばならなくなるのだ。それが面倒くさいのである。

 だが、血鬼術を発動させた幸を引き剥がすなど、不可能なのだ。

 

 癒々ノ巡りの光を浴びて、善逸の表情がみるみる安らかなものになる。

 光が消える頃には、ほぼ安らかに眠っているに等しい阿呆面で眠る弟弟子が、そこにいた。

 

「ん」

「終わりかよ。んじゃ、とっとと帰るぞ」

 

 言って、獪岳は立ち上がろうとした。

 だが、できなかった。

 いつの間にか、首元すれすれに刀が添えられていたのである。

 ひく、と喉が震えた。

 

「かいがく!」

「あら、鬼のお嬢さん。動かないで下さいね。少しでも動けば、この人の首が落ちてしまうかもしれませんよ」

 

 耳元で響く、やわらかな声。

 目だけを動かせば、異様なほど細い刀の鍔に近い部分には、『悪鬼』の二文字が刻まれているのが見えた。

 声の音だけが悍ましいほどに優しい女の声は、獪岳の背後で唄うように続けた。

 

「私は蟲柱、胡蝶しのぶ。あなたも鬼殺隊であるならば、名前くらいは聞いたことがあるでしょう。それとも、鬼を連れている掟破りの隊士さんは、私のことなどご存知ありませんか?」

 

 獪岳は答えられない。

 首元に日輪刀を突きつけられた状態で、何が言えるというのだろう。

 善逸の体を挟んだ向かいには幸がいるが、獪岳が押さえられているために動けないでいる。

 幸は、獪岳が怪我をすることに怯えるし、何より人間を傷つける行動を決して取れない。

 それを行えば、最後の理性を焼き切ってしまうとでも思っているのか、異常なほどに人を傷つけられないのだ。

 だから幸は、ただ獪岳の目の前で金色の瞳をいっぱいに見開いたまま、凍りついていた。

 

「あら、答えないということは、知らないということで構いませんね。さて、あなたがそこの鬼とこの山で何をしていたのか、しっかり聞き出させてもらいますからね」

 

 獪岳にとってそれは、悪夢にも等しい宣言だった。




【コソコソ裏話】
幸は耳や鼻ではなく、記憶力が異様に発達していました。

一度見聞きしたものは忘れず、それ故に育ての親の話す教えも、家族である皆との会話も、すべて覚えていたのです。

食人衝動を抑えることができたのも、この図抜けた頭のためであったりします。


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三話

三話です。

設定の把握ミスで誤りを書いており、誠に申し訳ありません。
修正しましたが、また何かあるやもしれません。
 
では。


 結果から言うと、那田蜘蛛山を降りたあとも、獪岳と幸の首はまだ繋がっていた。

 繋がってはいたのだが、獪岳はもう一人の鬼を連れた隊士と共に、柱と鬼殺隊の頭領が集まる裁きの場に引き出されることになった。

 

 那田蜘蛛山で獪岳たちが斬られなかったのは、あの善逸のお陰である。

 蟲柱、胡蝶しのぶと共に現れた別の女の剣士が幸の頚を刎ね飛ばそうとした際、土壇場で善逸が目覚めて、幸を庇ったのだ。

 それはもう見事に、怪我でまだ足腰が抜けてろくに立てないような状態の善逸は、体ごと幸の前に立ちはだかった。

 見ていた獪岳が、唖然とするくらいの勢いだった。

 

「ち、ちょっと待ったぁぁ!獪岳はともかく、この子は俺のこと助けてくれたんです!斬るのはやめてぇぇぇ!」

 

 助けてやったのに、獪岳はともかく、という言い草は腹の立つことこの上なかったが、幸の血鬼術でなんとか喋れるようになるまでには回復していた善逸が、ぎりぎり目覚めて喚いたお陰で、幸の頚は斬られなかった。

 

「あら、私はてっきり、彼と鬼が手を組んであなたを殺しかけていたと思ったのですが、違いましたか?その鬼があなたに向けていたのは、血鬼術ですよね?」

「違いますぅぅ!ヤバイのはなんか知らない間にいなくなってる蜘蛛の鬼ですぅぅ!この子の光で痛いのが治ったんですぅぅ!それに獪岳はともかくこの子は、本当に優しい音がしてる子だからぁぁ!獪岳はともかく、獪岳はともかくぅ!」

 

 なんで四回も言った。

 首に蟲柱の刀をあてられていなかったら、呼吸の力込みの本気で殴っているところだ。

 というか、蜘蛛の鬼とかいうのはお前が斬ったんじゃないのかと、問い詰めたかった。

 斬る斬らないの、殺すの殺さないのと、蟲柱と善逸が押し問答をしているときに飛んできたのが、鎹鴉だった。

 

 鴉は、山にいる二体の鬼と二人の剣士を殺さずに捕縛し、連行しろと喚いたのである。

 それを聞くや、蟲柱は引いた。

 

「では、私はもう一人の鬼連れの剣士を探しに行ってきます。カナヲ、ここは任せましたよ」

「はい、師範」

 

 蟲柱は弟子らしい剣士にその場を任せて去り、獪岳と幸は裁きの場に引きずり出すまで大人しく待てと言われた。

 とはいえ、もう一人の鬼連れの剣士が捕まるまでの間、獪岳たちは善逸と同じ場所に拘束されていた。

 幸の血鬼術は、毒を除きはしたが鬼の毒で縮んだという善逸の手足をすぐさま元に戻すには至らなかったから、包帯で蓑虫のようにぐるぐるに巻かれた善逸と、逃げぬようにと縄で縛られた獪岳、口枷の竹を噛まされて箱に詰められた幸は、まとめて地面の上に置かれたのだ。

 周囲では、後始末を行う隠たちが忙しく立ち働いていた。

 鬼殺隊と鬼が戦ったあと、周辺を直したり、負傷して前後不覚になった鬼殺隊を回収するのが、隠の仕事である。

 前に赴いた鬼によって全滅させられていた村も、隠が埋葬や始末をつけたはずだ。

 だが、現れる隠の数がやたらと多かった。

 入山したばかりの獪岳は知らなかったが、この那田蜘蛛山は、予想以上に人を喰う鬼が巣食っていたらしい。

 だからこそ、柱が二人も派遣されたのだろう。

 

「なぁ獪岳、その子誰なんだよ」

「……」

「なあってば。俺、お前が鬼連れてるなんて、知らなかったんだけど。もしかして、爺ちゃんにも隠してたのか」

 

 ろくに動けはしないが口は利ける善逸は、獪岳が無視しようが何度も問いかけてきた。

 あまりにしつこく、少しだけ喋ることに決める。

 

「……最終選別のときに拾っただけだ。俺の言うことなら聞くから、使っていた鬼だ」

「え、じゃ獪岳は、藤の花の山降りたときからずっとその子といたのか?どこの子で、どうして鬼になったのかとか知らないの?」

「そんなもん、俺が知るか」

 

 嘘だった。

 真実など語る気もないのだ。

 土台、語ろうとするとどうしても獪岳の過去まで話さなければならなくなる。

 見下している善逸にそれを知られるのも、丁寧に説明してやるのも嫌だったのだ。

 だが、いつもなら獪岳が少し乱暴に吐き捨てれば、意気地なく俯いて引き下がる善逸は、まだ顔を上げたままで、いつになく真剣な顔だった。

 

「獪岳、あのさ。これ、お前に言ったことなかったんだと思うんだけど、俺、ほんとすっごく耳が良いんだ。だから俺はさ、人が嘘ついてるかどうかすぐわかるんだよ」

「は?テメェは女に騙されて、借金背負うような馬鹿を晒してやがったじゃねぇか」

 

 善逸が入門した理由は確か、先代の『柱』である師範に借金を肩代わりしてもらったからという理由だったはずだ。

 くだらないことを言うなと睨みつけると、善逸はびくっと肩を跳ねさせた。

 

「いっ!?いやあの、それはともかくな!!俺は嘘ついてるかどうかわかんの!……だからさ、獪岳が今言ったことが……嘘だってことも、わかるんだよ。獪岳、本当はその子が何処の子か知ってんじゃないのかって思うんだけど、どう?」

「あ?」

「妹とか姉じゃないんだろ。獪岳と音が違うし。なら、その子にも家とか家族とか、そういうのがさ……」

「ねぇよ」

「へ?」

 

 善逸は、ぽかんと目と口を開けた。

 

「あるわけねぇだろ。こいつにも俺にも、家なんざ元からねぇよ。挙げ句に家族だと?そんなもん、いるわけねぇに決まってんだろ」

 

 これ以上腑抜けを見るのも嫌になり、獪岳は体ごと善逸から顔を背けた。

 とはいえ縄で縛られているから、大した距離は取れなかった。

 

「ご、ごめん……。だけど、俺みたいなやつでも嘘かどうかはわかるからさ、柱の人たちにじ、尋問とかされるとしたら……最初から全部、本当のこと喋ったほうがいいよって……言いたかった……んだけど」

 

 話すに連れて自信なさげに目を彷徨わせながら、善逸は続けた。

 

「その子が人間食べてないって獪岳がいうの、俺は信じてるよ。だって禰豆子ちゃんがそうだったんだし、その子、すっごく優しい音がするし、かわいいし。だけど……」

「おい、カス」

 

 殺気混じりで言えば、善逸はぴたりと貝のように口を閉じた。

 

「黙れ」

 

 それ以上反吐が出るほどぬるい言葉を聞いていられず睨みつければ、善逸は黙った。

 結局それから、獪岳は連行されるまで、善逸とは一言も言葉を交わさなかった。

 包帯蓑虫は隠の手でどこぞに運ばれて行った。大方、剣士たちの治療院を兼ねているという蝶屋敷だろう。

 最後まで、幸が入った箱と獪岳をちらちらと見比べ、不安そうな顔をしていたのに苛つく。

 

 そのような経緯を辿った後、獪岳は産屋敷邸の庭に引き出されていた。ここまで来ると、どうにでもなれと言う投げやりな気分である。

 いつもの、八歳そこらの大きさになった幸は、日光を避けるために厚手の布に包まれて上から縄をかけられ、横に置かれていた。

 善逸に使った血鬼術の代償があるため、場違いなまでに安らかな寝息を立てて眠ったままである。

 

 産屋敷邸に獪岳たちを連行してきた蟲と水、それに岩以外の柱はまだ来ていないため、裁判が始まらないのだ。

 獪岳の隣には縄で縛られた少年が、砂利の敷かれた地面の上に倒れて気絶していた。

 

 少年の名は、竈門炭治郎。

 連れていた鬼は元は妹で、竈門禰豆子というそうだ。

 

 炭治郎は那田蜘蛛山でひどく負傷し、気を失っているのだ。

 獪岳は出くわさなかったが、水柱が向かった先にはやはり下弦の伍の鬼がいて、竈門炭治郎は水柱が応援に駆けつけるまで、それと戦っていたそうだ。

 竈門炭治郎の階級は一番下の癸だというから、十二鬼月の相手は死闘になったらしい。

 その怪我で、竈門炭治郎はまだ起きないのだ。

 こいつが目覚めず、柱が来ないことには、裁判は始まらないというから、獪岳も縄で縛られたままである。

 だが、そんなことは何もかもどうでもよくなるほど、今の獪岳は混乱していた。

 表面は無表情でも、内面は嵐である。

 

 目の前、地面に正座で座らされた獪岳の膝のすぐ前に仁王立ちをする、岩柱がいるからだ。

 

 岩柱の名を、悲鳴嶼行冥という。

 

 柱の中でも最古参であり、鬼殺隊最強の剣士とされている岩の呼吸の使い手である。

 数珠を手に持ち、南無阿弥陀仏と書かれた奇妙な羽織を纏う、見上げるような筋骨隆々の大男が、白濁した瞳でただひたすらに無言で、獪岳を見下ろしているのだ。

 岩柱の鍛え上げられた体と精神が持つ威圧感たるや、炭治郎と獪岳を運んだ隠が、その尋常でない様子に完全に怯えてしまい、蟲柱に退出を許されて涙目で礼を言いながら逃げてしまったほどだ。

 

 その巨躯から放たれる強者の気配は、これまで会ってきたどんな鬼よりも、重く、強い。

 何か迂闊なことを話せば、自分など一瞬で殺されるとしか思えなかった。

 隣で聞こえる、くぅくぅという子犬のような幸の寝息がなかったら、土下座して命乞いでもしているところだ。

 自分より小さく、眠るしかできない無防備な生きものがすぐ隣にいるから、なんとか獪岳は理性を保っていられた。

 これがいるのに、無様を晒すことはできないのだ。

 

「名は、何というのだ?」

「……」

 

 しかし、上から降り落ちてくる岩柱の問いに、獪岳は答えられない。

 この『柱』の姿と、獪岳の記憶にある『彼』の姿はあまりに違い過ぎた。

 

「どうしました?あなたは獪岳君ですよね。雷の呼吸を使う鬼殺隊の隊員で、階級は丙。連れている鬼の名前までは、知りませんけれど」

 

 代わりのように、蟲柱の胡蝶しのぶが答えた。水柱は、少し離れたところで静観しているのみだった。

 

「この子が連れている鬼は、どのような姿をしている?」

「小さな女の子の形をしていますね。髪を三つ編みにして、紺地に白の矢絣模様の着物に群青の帯。黒の羽織を着ていました」

 

 岩柱は、目が見えない。だから、鬼の容姿も見ることができないのだ。

 幸の着物は、人間だったころによく着ていたものとよく似ている。

 元の着物は藤襲山に閉じ込められている間に襤褸きれ同然になってしまった。

 代わりを買わねばならなくなったとき幸がそれを着たがったから、獪岳が買ったものである。

 岩柱の白濁した目からは、それを聞いて彼が何を考えているのか読み取れなかった。

 

「鬼になったこの子の名前は何というのですか?獪岳君。あ、何も答えないというなら結構ですけれど、知っていることは話しておいたほうがいいと思いますよ」

 

 蟲柱が屈み込み、獪岳の顔を覗き込んで来る。

 藤の花の匂いが、鼻をくすぐった。

 

「……幸。幸福の幸と書いて、さちだ」 

 

 久々に口に出したその名に、皮肉な名づけだと、急に笑いがこみ上げてきた。

 幸福という意味を名に持っているくせに、生みの親によって足を折られた。

 それからも獪岳を庇って鬼になって閉じ込められ、散々人間のために戦わされ、今はその人間によって縛られ、殺されそうになっている。

 ほらやっぱり、他人に優しくするなんて無意味でしかない。

 

 そんなだからこいつはいつも、幸せにそっぽを向かれてばかりだ。

 

 そして、幸という名を聞いた岩柱の反応は、劇的だった。

 青い天を仰ぎ見、見えぬはずの眼から滝のような涙を溢す。

 

「あああ…よりによって、よりにもよって、その子が鬼になっていたのか。不幸なことだ。気の毒な子どもたちだ。可哀そうに……。早く殺して、解き放ってあげなければ…」

「は?」

 

 数珠をこすり合わせる音が強く激しくなる中、怒りが、岩柱に感じるほとんど本能的な恐怖を一時押しのけた。

 後ろ手に縛られたまま、獪岳は片膝を立てて下から白く盲いた瞳を睨み上げた。

 

「不幸?可哀そう?何言ってやがんだ。それはアンタだろ、行冥さん。馬鹿なガキの一人が外に出たばっかりに、みんな鬼に殺されたんだからな。おまけに、守ったガキはアンタが殺したって言ったんだろ。こんなとこで生きてるとは、知らなかったぜ」

「……やはり君は、君たちはあの獪岳と、幸だったか。嗚呼……哀しい。何ということだ。死んだと思った子が生きていたというのに、私は君たちの生を喜ぶことができない。鬼も、鬼に憑りつかれた剣士も、殺さなければならぬのだから」

 

 ぞわり、と悲鳴嶼行冥の体が、大きく膨れ上がったように感じた。

 無論、そんな訳はない。

 悲鳴嶼から放たれた気迫に、獪岳が気圧されただけだ。

 息が詰まる。呼吸が止まる。心の底から、こいつには敵わないと思い知らされる。

 堪らずに膝を折り、獪岳は恐怖から咳き込んだ。

 

「鬼を連れてた派手に馬鹿な隊員どもは、そいつらか?」

「そのようだな!癸の隊士だけでなく、丙の隊士までが隊律違反を犯していたとは嘆かわしい!よもやよもやだ!」

 

 低められた声と、やたらと威勢がいい声が響いたのはそのときである。

 威圧感がやや減り、獪岳はようやく呼吸を取り戻すことができた。

 そちらを見れば、派手派手しい格好の大男と、黄と赤が混ざった不思議な髪の男がいる。

 さらに辺りを伺えば、桜色の髪の女やら獪岳より年下に見える長い黒髪の少年までもが現れていた。

 気づけば、強い人間の気配が都合六人分、増えていたのだ。

 柱は九人なのだから、つまり彼らがこれから獪岳と竈門炭治郎を裁く人間たちである。

 だが、竈門炭治郎はまだ目覚めない。

 いい加減に起きろと、獪岳は脚で地面を強く踏み込んだ。

 呼吸により強化された踏み込みに地面が微かに揺れ、炭治郎の瞼がぴくりと動く。

 

「いつまで寝てんだ。起きろってんだよ」

「ぇ。……っっ!?」

 

 獪岳を見、周りの柱たちを見、炭治郎は大層驚いたらしかった。

 そもそも、癸で隊士になりたてであるならば、産屋敷邸のことや柱のことを知っているかすら怪しい。

 

「君たちはこれから、この鬼殺隊の本部で裁判を受けるのですよ。竈門炭治郎君に、獪岳君」

 

 蟲柱のやわらかな声に、竈門炭治郎が何かを言おうとし、咳き込む。喉が枯れていたらしい。

 すかさず蟲柱によって鎮静剤入りの水を飲まされ、炭治郎が語り出した。

 

 妹は確かに鬼になったが、誰も人を喰っていない。

 二年以上も正気を保ち、鬼殺隊として戦えるのだと、要約すると彼はそのようなことを述べた。

 

「派手に話にならんな。人を守る鬼だと?そんなものはド派手に存在していない」

「しています!妹は、禰豆子は人を喰ったりしません!」

「ではもう一つ聞こう。君はそちらの隊士と面識はあるか?名は獪岳。雷の呼吸を使う、丙の隊士だ」

 

 岩柱の問いに、炭治郎が獪岳の方を向いた。赤色がかった瞳には、素直に戸惑いが浮かんでいる。

 獪岳も、無論こんな少年のことは知らなかった。

 善逸が言っていた『たんじろう』と『ねずこちゃん』がこいつらのことだったのかと、そう思っただけだ。

 現状獪岳は『ねずこちゃん』の顔すらも見ていないのだが。

 

「この竈門炭治郎というやつを、俺は知らない。こいつが……幸が鬼になったのは、十年近く前だ。こいつ以外に人を喰わない鬼なんて、俺は見たことがなかった」

 

 十年というその言葉に、柱たちは驚いたらしかった。

 同時に、布の包みがもぞもぞと動き出し、その隙間で幸がちらりと覗く。

 獪岳の体でできた影にしっかりと隠れながら、今の自分の有様と、そして居並ぶ柱たちの有様を見て、茫洋とした眼を瞬かせた。

 ぐ、と細い顎に力が籠る。

 幸が何をしようとしているか悟って、獪岳は腰を浮かせた。

 

「あ、馬鹿こら、やめ……!」

 

 止めるより先に、幸は自身の口に噛まされていた竹の口枷を、噛み砕いていた。

 気色ばむ柱たちをまったく気にすることなく、幸は竹の破片をぺっぺっと吐き出し、ふんすふんすと鼻を鳴らしている。

 かなり、満足げですらある。

 尖った破片で傷ついた口の中は、鬼の再生力で一瞬で治っていた。

 単に、口に嵌められた枷がおさまり悪く、気持ち悪かっただけらしい。

 

 そうだった。

 空気を読むという概念は、この鬼には存在していなかった。

 

「馬鹿か!ここで動くんじゃねぇよ!小さくなってじっとしてろ!」

「ん」

 

 獪岳の怒鳴り声にこくん、と幸は頷き、体を赤子並みに小さくして布の中にもぞもぞと潜った。

 それを見て、蟲柱があら、と頬に手を添えた。

 

「どうやらあなたの言うことを、その鬼はよく聞くようですね。あなたも、その鬼は人を喰わず、襲わないと言うのですか?」

「……襲わない。俺の言うことは聞くから、連れていた。俺や他の人間が怪我をしたときに血の臭いを嗅いでも、鬼に襲われた村で人間の死体を見ても、こいつは理性を失ったことはない」

「禰豆子も同じです!妹も俺も、鬼殺隊員として人々を守ることができます!」

 

 やたら派手派手しい身なりの男、音柱の目が針のように鋭くなった。

 

「二人も隊士が揃って、何ド派手に馬鹿を抜かしてやがる。人を喰わないこと、これからも喰わないことをどうやって証明しやがるつもりだ」

「嗚呼、そのようなことは決して有り得ぬだろう。……その子らも、鬼となった子どもたちも、早く殺して救ってやるべきだ」

 

 岩柱が一歩、踏み込んで来る。

 かさり、と布の奥で幸がまた身じろぎする音がした。

 忘れていたが、あの坊さんに一番懐いていたのは、幸だった。

 寺にいるときはよく、『ぎょうめいさん』に纏わりついていたものだ。

 そうでなければ、念仏なんてもの未だに御大層に覚えているわけがない。

 だって獪岳は、もう忘れてしまったのだ。

 

「は。殺して救う?うっせぇんだよ。アンタが、俺たちを憐れむんじゃねぇ!」

 

 憐れまれること、ひいては己が下に見られること、それが獪岳は何よりも我慢できない。

 かつて寺で自分たちの面倒を見てくれた、お人好しな枯れ木のように痩せた坊主が、どういう経緯を辿って鬼殺隊最強の岩柱に至ったのか、獪岳は知らなかった。

 岩柱が誰なのかを知ってこそいたが、顔など見に行けるはずがない。

 獪岳のせいですべてを失ったはずの者に、何故憐れまれなければならないのか。

 恨みや憎しみを向けられたほうが、まだよかった。それならば、理解できるからだ。

 それが歪んだ思いであっても、間違いでも、獪岳はそう思うことを止められないのだ。

 

 岩柱を睨み上げる獪岳に、竈門炭治郎は驚いたように眼を見張っている。

 

「話にならねぇなァ、どいつもこいつも。とっとと鬼諸共斬ればいいだろォが」

 

 新たな声が庭に響いたのは、そのときだった。獪岳が持っている、幸を運ぶ箱とよく似たものを持った男が、そこにいた。

 

─────あの、男。

 

 いつからそこにいたのか、獪岳は気づけなかった。

 気配が九つあるのは感じ取れていたが、その男は急に現れたとしか思えない。

 白い髪はざんばらで、凄まじいまでに悪い目つきの男である。

 

「鬼が人間を守る?そんなことはなァ、有り得ねぇんだよォ!」

 

 叫ぶや否や、その男は己の刀を、持っていた箱に突き立てる。

 箱から、ぼたぼたと真っ赤な血がこぼれた。中にいたものが、刀で刺し貫かれたのだ。

 

「禰豆子!」

「ハッ!本性を表しやがれ鬼共ォ!」

 

 瞬間、男の姿が再び消える。

 だが今度は、見て集中していたから獪岳にも反応できた。

 男が来るのは獪岳の真横。地面に転がったままの幸だ。狙いは、その頚。

 

「チッ!」

 

 咄嗟に、片脚だけで獪岳は幸を蹴り飛ばした。

 鞠のように飛んだ幸は炭治郎に派手にぶつかり、彼らは諸共後ろに倒れる。

 一瞬遅れ、白髪男の刀が地面に突き刺さった。砂利が勢いよく飛び、幸を蹴り飛ばした衝撃で体勢を崩して倒れた獪岳の額に当たる。

 額のどこかが弾けたのか、たらりと血が流れた。

 

「なんのつもりだァ?テメェの階級は丙だろうが。それだけの階級になっておいて、鬼の本性がどれだけ醜いか、まだわかってねぇのかァ?」

 

 白髪男の刀が、ぴたりと獪岳の首元に添えられた。

 こいつもだ。

 こいつも、獪岳を見下している。気配でわかる。

 怒りで、目の前が赤くなった。

 

「わかってるに決まってんだろ。あいつは、俺の言うことならなんでも聞く道具だ。使いやすい道具を使って戦うことの、何が悪い?」

「道具ねェ。じゃ、こうすりゃどうだァ!」

 

 言うが早いか、刀の柄を横に振り抜き、男は獪岳のこめかみを殴り飛ばした。体が横に傾いだところで脇腹に強烈な蹴りが突き刺さり、体が吹っ飛ぶ。

 飛ばされる刹那に、左の肩口から右腰までをざくりと刀で斬られる感触があった。

 受け身を取りはしたものの、獪岳はごろごろと地を転がった。

 

「ガ……ッ!」

 

 骨がみしりと軋み、傷からだくだくと血が溢れる。体を起こす間もなく、獪岳の上に何かが投げつけられ、腹に直撃する。

 

「そら鬼ィ!お前らの大好きな、人間の血だぞ!」

 

 獪岳の上に投げられたのは、幸だった。

 飛ばされた衝撃でかけられていた布が僅かにずれ、日光がはみ出た細い足を焼く。

 じゅ、と肉の焦げる音がした。

 

「やめてください!」

「不死川さん、やり過ぎです」

 

 竈門炭治郎と、蟲柱の静止が入る。

 獪岳はと言えば、何とか体を捻って仰向けになったところだった。

 胸の上には小さな布包み。そこから、もぞりと顔が出た。

 まろい金色の瞳に、獪岳の血だらけの姿が映る。くしゃり、と幼い顔が傷を見て悲しそうに歪む。

 ぽう、と幸の体が淡く紅色に光った。

 

─────血鬼術、癒々ノ廻り

 

 幸の体から発された光が獪岳の傷口に触れれば、すぅ、と痛みが和らぎ、流れていた血が止まる。

 数秒だけ光ったかと思うと、幸は再び布の奥深くに引き籠る。獪岳が体を起こすと、幸はそのまま、ころりと地面の上に転がった。

 

「今のはなんだ!どうした!その鬼の血鬼術か?」

「鬼の女の子が、男の子の怪我を治したみたいに見えましたけど。……あの、やっぱり私たちだけで決めちゃっていいんでしょうか?だってお館様が、この子たちのことを知らないはずがないと思うんです」

 

 黄色と赤の髪の男と、桜餅のような色合いの髪の女が言う。

 だが、岩柱が手に持つ数珠を一層音高く擦り合わせ、獪岳と幸の方へ一歩を踏み出した。

 

「その必要はない。お館様の判断を伺うまでもない。如何な理由があれ、鬼は殺さねばならない。鬼となった可哀相な子どもも、それを庇う哀れな剣士も同じことだ」

 

 うるせぇボケ、と獪岳は罵りかけた。

 恨みすら見せず、ひたすらに人を憐れむ岩柱が、獪岳には腹が立つ。

 己の怒りが理不尽であるか正当なものであるか、獪岳はそのようなことは考えないし、できない。

 だが獪岳は結果的に罵れなかったし、岩柱がさらに近寄ることもなかった。

 誰よりも先に、動いたやつがいたからだった。

 

「あああああ!」

 

 竈門炭治郎である。

 叫びながら、まだ禰豆子が入った箱を持つ白髪男に特攻したのだ。

 白髪男の刀が、ちきり、と鳴る音を獪岳は聞きつけた。

 

「やめろ!もうすぐお館様がいらっしゃるぞ!」

 

 水柱の静止の声に、白髪男の動きが束の間止まる。その隙を見逃さず、跳躍した炭治郎は、あろうことか頭突きを白髪男に見舞う。

 見ていた獪岳の時間も静止した。

 

 何考えてんだあいつ。

 

 肉と骨がぶつかった鈍い音がし、炭治郎と白髪男の両方が鼻から血を流してぶっ倒れた。

 

「テメェ!!本気で殺すぞ!」

「うるさい!さっきから何なんだあんたたちは!幸ちゃんからは、人の血の臭いなんてしない!」

 

 縛られたまま、妹の入った箱を背中に庇って竈門炭治郎は叫んだ。

 

「道具と言ってたけど、獪岳さんだってその子を気にかけてる!大事に思ってる!幸ちゃんも同じだ!その獪岳さんが斬られても血を見ても、幸ちゃんは堪えただろう!善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら、柱なんてやめてしまえ!」

 

 大声で啖呵を切り、ぜぇはぁと竈門炭治郎は息を吐いた。

 しぃん、と庭が不気味に静まり返る。

 

「この餓鬼ィ、言うじゃねェかよォ……!」

「嗚呼……」

 

 だがそれは一瞬のことであり、白髪男の燃えたぎるような怒りと、岩柱が数珠を擦り合わせる音がさらに激しくなる。 

 

 庭の空気が膨れ上がり、今にも爆発寸前にまでなった瞬間。

 

「皆様、お館様のお成りです!」

 

 一丁の柝を入れるかのような、澄んで高い童女の声が、鬼殺隊すべての頭領の到着を告げたのだった。

 

 

 




【コソコソ裏話】

獪岳は任務のない夜ほぼ毎回、幸相手に鍛錬しています。

全集中の常中を使えるようになった幸の最高速度は、獪岳でも追いつけないほど速いため、いい鍛錬となっています。

しかしそれでも、壱ノ型・霹靂一閃を使うことができていません。


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四話

四話です。

本日二話目の投稿です。ご注意ください。
では。


 お館様、鬼殺隊の頭領である産屋敷耀哉は、不思議な静寂を衣のように纏い、庭に面した平屋敷の中から現れた。

 外見は痩身で黒髪の男性。かつ病の為か盲目であるらしい。

 白い髪の童女二人に脇から支えられながら、ようよう歩いているような有様だったが、立ち居振る舞いに、不思議と平伏したくなるような何かがあったのだ。

 

 彼が姿を現した瞬間、それまで好き勝手に喋っていた柱一同は跪き、炭治郎は白髪男に、獪岳は岩柱によって地に押さえつけられた。

 よくよく数えれば、姿が見えなかった縞模様羽織の柱までもが増えていた。

 

「ぐ……っ!」

 

 正しく巨大な岩に伸し掛かられたようで、動くに動けない。

 目玉だけを動かして、地面に打ち捨てられたままの布の塊を見ると、隙間から覗く金色の目と目があった。

 

────う、ご、く、な。

 ───く、う、な。

 

 と、獪岳は口だけを動かす。肺が圧迫されているせいで、全集中の常中はおろか、まともな呼吸ができないのだ。

 それでも、幸には伝わったようで頷いた気配があった。

 金色の瞳の奥にある手で触れられそうなほど濃い哀しみの感情を、獪岳は見ないふりをした。

 

 そこからは、なんとも流れるようだった。

 まず彼は、前『柱』であり今は水の呼吸の剣士を育てている鱗滝左今次と、現『柱』の冨岡義勇が、竈門炭治郎が鬼の妹を連れて行くことを認めてくれるよう出していた嘆願書を読み上げたのだった。

 そこには、もしも禰豆子が人を喰ったならば、竈門炭治郎と冨岡義勇、鱗滝左近次が腹を斬って責任を取る旨も記されていた。

 

 しかし、そうは言っても万が一人が喰われたならば責任など取りようがない。

 よって、即刻庇っていた隊士諸共処断すべきだという黄色と赤の髪の炎柱、白髪男こと風柱を前にお館様は穏やかに語りかけた。 

 

 鬼殺隊の長、産屋敷耀哉は、禰豆子と幸のことはとうに知っており、容認していた。

 双方ともに、すべての鬼の始祖である鬼舞辻無惨がかけた『呪い』を自力で外すことをやってのけており、また炭治郎は鬼舞辻と直に接触し、追手を差し向けられてすらいる。

 柱ですら、鬼舞辻には遭遇したことがないというのに、これは快挙である。

 鬼殺隊の宿敵が、僅かに垣間見せた尻尾を離したくはないのだと、お館様は語った。

 さらに重ねて、彼は幸にも語り掛けた。

 

「そうだね。では一つ、その子が呪いを外している証拠を見せよう。幸。君は人を喰う衝動を抑えつつ、自我をはっきりと保っているようだね。鬼舞辻無惨の名も、口に出すことができるのだろう」

 

 ややあってから、布の中から幸の声がした。

 

「きぶつ、じ、む、ざん」

 

 はっきりと聞こえたその声に柱たちが驚いたのは、鬼たちには共通して、鬼舞辻の名を口に出した瞬間自死するという呪いがかけられているからだった。

 すべての鬼には、鬼舞辻の細胞が与えられている。只の人間を人喰いの化け物へと変貌させるものこそが、鬼舞辻の血なのだ。

 彼の名を出せば、その細胞が暴走して宿主である鬼を殺す。それが、『呪い』のひとつである。

 

 だが、それが何の証明になるかと、柱は言った。

 『呪い』を外していると言っても、人を襲わない保証にはならない。

 獪岳は師である先代の雷の呼吸使いの柱にも、幸のことを隠していたから、助命嘆願の文などもあるはずがなかった。

 

「だがそれでも、獪岳と幸は、獪岳が鬼殺隊になってから五十体以上の鬼を倒しているよ。君たちも知っているだろうけれど、それは柱にもなりうる戦果だ。そしてその戦いのすべてで、幸は一度たりとも人を襲っていない。鎹鴉からの報告だから、これは確かだ」

 

 柱になるには、十二鬼月を一体倒すか、鬼を五十体討伐するかの二つがある。

 獪岳は確かに幸と共に、その片方を満たしていた。

 それでも階級が丙のままなのは、まだ明かすべきときではないと、お館様が隠していたかららしい。

 あの馬鹿鴉が、まさかお館様に直接報告していたとは獪岳も知らなかったことである。

 

「鬼舞辻が追手を放った炭治郎、五十体以上の鬼を幸と共に討伐していた獪岳、鬼舞辻にとって予想外のことを引き起こしただろう、禰豆子と幸。彼らの存在を私が容認していたのはそういうわけなんだ。皆、わかってくれるかな?」

 

 だがそれでも、風柱の不死川実弥だけは納得しなかった。

 鬼の醜さを証明してみせると叫ぶや否や、禰豆子が入っている箱と、幸が包まれている布の包みを一瞬で奪い、自分の腕を斬ってそこからこぼれた血を降りかけたのだ。

 そのまま彼は布の塊に刀を突き立て、中にいた幸も串刺しにした。

 だが、日向では鬼が出てくるはずもない。

 彼はお館様に断りを入れると、座敷の中に跳び込み、そこで改めて二体の鬼の前で自身で傷をつけた鬼を差し出した。

 

 人の血を目の当たりにすれば、通常傷を負って飢餓状態になった鬼は、理性を吹っ飛ばして喰らいつくものなのだ。

 水柱が、あまりにもきつい縞模様羽織の蛇柱による拘束を払い除けたため、自由になった炭治郎は叫びを上げて駆け寄り、禰豆子の名を呼んでいた。

 岩柱の拘束は重すぎて、獪岳は声を上げることもできなかった。日輪刀で刺され、左胸の辺りを、己の血で朱に染めた幸を、ひたすらに見ていることしかできなかった。

 

 だが、全員が見守る前で、血の滴る腕を前にした禰豆子は、炭治郎の言葉を聞いた途端にそっぽを向いて腕を拒絶し、幸は岩柱と獪岳の方を見た後に、これも同じようにぷい、と顔を背けた。

 禰豆子は血が零れるほどに強く拳を握りしめながら、幸はぎゅっと歯を食い縛りながら、人の血を拒んだのだ。

 

 獪岳を地にねじ伏せている岩柱、悲鳴嶼行冥は、その光景を見た途端に体を戦慄かせていた。

 獪岳は、彼の表情を見ることができなかった。

 

 結局、これが決め手になって禰豆子と幸が『人を襲わないこと』の証明ができる形になったのである。

 血を啜わせようとした風柱の行動が、結果的に二人の精神力の高さを示す結果になったのは皮肉な話である。

 

 そうして、炭治郎と獪岳の話はお開きになった。

 鬼を倒し続けること、ひいては鬼舞辻を倒すために戦い続け、禰豆子と炭治郎、幸と獪岳が、鬼殺隊として活動できることを皆に示し続け、認めさせ続けなければならない、というお館様の言葉と共に、ひとまずは無罪放免になったのだ。

 

 岩柱による拘束が解かれ、縄の縛めが解かれたとき、お館様は獪岳に語り掛けた。

 

「獪岳。そしてこれはもしもの話だけれど、もし幸が人を襲ったのなら、君は彼女の頚を間違いなく落とし、己の腹を切らなければならないよ。雷の呼吸の継承権を持つ、力ある隊士の責務とは、そういうものだからね」

 

 心に染み込んで来る言葉だった。従いたくなるような、不思議な高揚感を伴う声である。

 ともあれこの場において、是、以外の答えはなかった。

 

「わかり、ました」

 

 獪岳が頷けば、お館様は満足げに目を細めた。

 

「そうか。では一度君は、自らの育手の下へ行くことを勧めておくよ」

 

 これで二人の話はお終い、とそうやって彼は裁判の終わりを告げた。

 その場で手を上げたのは、蟲柱の胡蝶しのぶだった。

 炭治郎と禰豆子は、一度彼女の屋敷で預かるとのことだそうだ。確かに、怪我をしている炭治郎には休息が必要だろう。

 

 獪岳は、このとき自分たちにはまた鎹鴉からの任務が下されると思っていたのだ。

 炭治郎たちと違って、ほとんど怪我はしていない。

 一番ひどいのは、獪岳が風柱に斬られた傷であるが、それは幸の血鬼術でほぼ治っている。

 今は一刻も早く、岩柱がいるこの場から離れたかった。無言で背に突き刺さる視線が、物理的な痛みまで伴うようなのだ。 

 今更、話すことなどはない。

 なのだが。

 

「それから、獪岳君も私の屋敷にまで来てくださいね。君の刀と幸さんの入っていたと思われた箱、両方とも私の屋敷でお預かりしていますから」

 

 蟲柱のその一言で、獪岳まで蝶屋敷に向かうことになってしまった。

 ちなみに、庭から退出する際に、傷が酷い炭治郎は控えていた隠に背負われ、獪岳は彼らの後を幸を担いで追うことになった。

 一人で満足に歩けもしない、そんなずたぼろの状態で柱に頭突きしたり啖呵を切ったりしたのかこいつ、と獪岳が炭治郎を見る目は、完全に奇人を見るそれになる。

 

「お前らなぁ!ほんと何したの!!何やらかした!特にお前だよお前!勾玉つけてるお前!よりにもよって岩柱様がめちゃくちゃ怖くなってたんだぞどうしてくれるんだ!」

「あの人キレたらすげぇ怖そうなんだぞ!キレたとこなんて知らないけど!死ぬかと思ったんだからなぁ!もうほんと許さないからな!」

「謝れよ!」

「そうだ!俺たちに謝れ!!」

 

 と、隠二人から涙混じりに罵倒された。

 炭治郎は素直に謝ったが、勾玉の首飾りをしている獪岳はあっさりそれを無視した。

 勝手に怯えまくるほど弱い、こいつらのほうが悪いのだ。

 

「かいがく、へいき」

 

 もぞ、と胡蝶しのぶの屋敷である蝶屋敷へ向かう道半ばで、背負われたまま幸が動いた。

 隠の二人は当たり前だがここまで間近にいる鬼になれておらず、その声を聞いてひぃ、と情けない声を上げている。

 隠たちの様はともかく頭から追い出す。

 幸が刺されたところは、とっくに治ったものであるらしい。

 

「いいから寝てろ。鬱陶しい」

 

 血で一部が斑に染まった布越しに、頭のあるだろう場所を叩くと、幸は静かになった。

 運んでいる間、大抵は眠っているものなのだ。そのほうが静かでやりやすい。

 が、幸が黙ると、入れ替わりのように声をかけてくる者がいた。

 

「あ、あの!俺は竈門炭治郎といいます!獪岳さんでしたよね?」

「は?」

 

 で、なんでこいつは、竈門炭治郎は、獪岳にやたら親しげに話しかけるのだろうか。

 初対面である。そのはずである。

 お世辞にも、とっつきやすい性格や外見をしているとはいえない獪岳だ。

 ここまで裏表なく、しかも元気よく話しかけられたことはほとんどなかった。

 

「獪岳さんは、我妻善逸って隊士を知ってますか?雷の呼吸を使ってて、俺と一緒に那田蜘蛛山に行ったんですけど」

「お前、やっぱりあのカスの知り合いかよ。道端にあの馬鹿置いてったらしいじゃねぇか……ってぇ!」

 

 獪岳の声が途中で途切れたのは、背中の幸が肩に頭突きをしてきたからである。

 ぴょこ、と目だけが獪岳の肩越しに炭治郎の方を見たようだった。

 

「たんじろ。かいがく、ぜんいつ、あに、でし」

「え、そうなの?それに君は、言葉が喋れるのかい?俺の妹の禰豆子は喋れないんだけど」

「ん。さち、おに、ながい、から。ことば、うまく、ない」

「そんなことないよ。獪岳さんは善逸の兄弟子なんだね。ありがとう、幸ちゃん」

「ん。そ。ありがと、たんじろ」

  

 人の背中に乗ったまま会話するな、と文句を言おうとすれば、ぽんぽんと幸に背中を撫でるように叩かれた。

 

「たんじろ。かいがく、よく、おこる。き、しない」

「なるほど。獪岳さんはよく怒るけど、機嫌が直るのも早いから気にしなくていいと。教えてくれてありがとう」

「ん」

「テメェら……人の背中で勝手抜かすんじゃねぇよ!クソが!」

 

 布包みを前後にぶん回すと、きゅう、と幸は言って中で静かになった。

 

「獪岳さん!?あんまり幸ちゃんを乱暴にするのはよくないと思います!そんなに小さいのに!」

「何鬼の見た目で誤魔化されてんだ。こいつはお前とそんな違わねぇよ。縮んでるだけだ」

「え、ぇぇえ!」

 

 炭治郎が何歳かなどということは知らないが、善逸と同じくらいならばおそらく獪岳や幸よりは下だろう。

 鬼の外見の年齢など当てになった試しがない。

 これで黙るかと思ったのだが、炭治郎は懲りずに話しかけてきた。

 

「そういえば、獪岳さんと幸さんは善逸に会ったんですか?」

「ん。やま、なか、あった。ぜんいつ、けが、ある。あった」

 

 ぶん回しからはすぐに回復したらしい幸の言葉に、炭治郎が目を丸くした。

 

「ぜ、善逸は怪我をしたんですか!?山に入って!?」

「けが、ある。ぜんいつ、ぶじ、いる。かくし、はこぶ、いった」

「怪我はしてたけど無事で、善逸は隠の人に運んでもらっていたってことでいいんですね?」

「ん」

「そうですか……。よかったぁ」

 

 ぴし、と獪岳の額に青筋が立った。

 だから人の背中に乗ったまま、うるさく喋るなと。

 それに炭治郎のほうは、なぜ普通に会話を成立させているのだろう。

 場慣れしているはずの隠が、鬼の幸が口を開くたびにびくびくしているのに。

 だが、鬼が何をするのか知っている人間の反応としては、そちらのほうが正常だ。

 

「そのさ、善逸ってのが黄色い髪した剣士なら、俺たちで間違いなく蝶屋敷に運んだぜ。確かに色々ぼろぼろだったけど、多分大丈夫だろ」

「ほんとですか!ありがとうございます!」

「お、おう。これからお前たちが行くのが、蟲柱様のお屋敷で、病院でもある蝶屋敷だからな。ついたら会えるだろ」

 

 普通の怪我や休息なら、藤の花の家紋の家を探せばいいのだ。そこの家は、昔鬼殺隊に生命を救われたというので、隊員ならば無償で受け入れてもらえる。

 蝶屋敷は、重傷を負った者や重体になるほどの大怪我をした者が逗留するところだった。

 尚、獪岳は藤花家紋の家は使っても、蝶屋敷を使ったことはない。

 幸がいるから、柱の屋敷には寄り付けないためだ。よほどの重傷ならば、幸に治させている。

 隊員になってから、親しくなった者も特にいないために、見舞いなどで訪れることもない。

 元柱に指南してもらったくせに、雷の呼吸における基本、壱ノ型だけ使えない出来損ないだと罵倒してきた相手と派手に喧嘩をし、散々に叩きのめして以来、仲間の隊士との連携は縁遠くなっていた。

 刀と箱を取り返したら、また鬼を狩る毎日になるだけだ。

 そう思っていたというのに、空から降りてきた鴉がある。

 鴉は急降下すると、獪岳の頭の上に降り立った。

 

「カァ!獪岳、獪岳ゥ!コノ後ハ、己ノ育手ノ下ヘ一旦向カウベシ!向カウベシィィ!」

「なんだと?」

「拒否権ハ、ナァイ!ナァイ!オ館様ノゴ指示ナリィィ!説教サレルガイィ!カァ!ザマァ!カァ!」

「おいふざけんなこの馬鹿鴉!最後のはテメェの恨みだろうが!」

「グェッグェッグェェェェ!獪岳ノ自業自得ゥ!自業ォォ自得ゥゥゥ!」

 

 尾羽をつかもうとした獪岳の手をすり抜けて、ひらりと翼を翻し、空高くに逃げた鴉は、一頻り騒ぎまくるとどこかへ飛んで行った。

 昼日中ではさすがに幸に捕まえさせるわけにも行かず、地上の獪岳は歯ぎしりするしかない。

 ふと見れば、隠たちも竈門炭治郎も、唖然としていた。

 

「おまっお前なぁ!鎹鴉にあんなに言われるなんて、何やらかしたんだ?」

「この鬼を連れてこうとしたときにぎゃあぎゃあ騒ぐから、刀向けて焼き鳥にするって言っただけだ」

「十分やらかしてんじゃねぇか!もー!柱といいお前といい、鬼殺の剣士ってみんなこんなのばっかりかよぉぉ!」

 

 ぶわわっ、と目だけを出す覆面をつけたまま隠の一人がまたしても泣き出した。

 非常に、やかましい。

 

「ごめ、ん。かいがく、よく、おこる。からす、おこる」

「獪岳さんがよく鎹鴉を怒るから、あんなふうに鴉に煽られるんだね」

 

 だからどうやって、竈門炭治郎はそんなに初対面ですらすら幸の言葉がわかるのか。

 獪岳も幸のたどたどしい言葉の意味はわかるが、それは人間のころの癖やらなんやらを覚えているからだ。

 獪岳の胡乱なものを見る視線はまったく気にせず、炭治郎は真っ直ぐに言った。

 

「獪岳さん。事情はあったと思いますが、鴉も俺たちと同じに任務をこなしてるんですから、雑に扱ったらかわいそうですよ」

「うるせぇよ。なんとか次郎」

「俺は竈門炭治郎です!」

「どうでもいい」

「よくありません!」

 

 蝶屋敷への道のりは、そんなふうに獪岳にとっては果てしなく疲れるものとなったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 思いがけなく疲れる道のりを経た蝶屋敷は、名の通りに蝶が乱れ飛ぶ屋敷だった。

 獪岳の日輪刀と幸が入るための箱は、確かに二つとも屋敷の入り口にあり、受け取ることができた。

 それが返ってきたならここに用は無い。

 気が進まないのだが、獪岳の剣の師匠、桑島慈悟郎のところに向かわなければならなかった。

 流石にこの状況で、お館様から言われたことに従わないほどの馬鹿ではない。

 誤魔化せていたと思っていたが、あのお館様にはすべてお見通しだったのである。だから、従わなかったらすぐわかるのだろう。

 

 善逸に会っていかないのか、と竈門炭治郎に言われたが、獪岳は会いたくもなかった。そもそも、屋敷の中に入るつもりもなかったのだ。

 が、布包みから出てきた幸は箱に入らず、くんくんと鼻を動かすと、なんと箱をさっと奪い、半分そこに身を隠したまま走り出してしまったのである。

 隠と竈門炭治郎も、これには驚いた。

 

「なにしてんだ!」

「馬鹿ァ!お前その鬼のことちゃんと見とけよぉぉ!」

「ん」

 

 箱を甲羅のように持ち日除けにして、屋敷の中を迷いなく走った幸は、一つの部屋の戸を開け放つとそこで足を止めた。

 

「手間ァかけさせんな!」

 

 飛びかかって幸を箱に突っ込み、蓋をばたんと閉めたところで、獪岳は気づいた。

 幸が開けたのは、病室の扉。

 いくつもある寝台の一つに、半身を起こした状態で寝ているのは、我妻善逸だったのである。

 獪岳を見た瞬間、善逸の顔が引きつる。獪岳は目を細める。

 空気が凍った。

 

「善逸!」

 

 しかし、直後に竈門炭治郎を背負った隠が飛び込み、炭治郎が善逸の無事を喜んで騒いだために、完全に空気は解けた。

 しかも善逸の寝ている寝台の横には、あの山で見かけた猪頭がいたのだ。

 山妖などではなく、まさかの鬼殺隊員だったのかと、獪岳は驚いた。

 よく思い出したら下半身は鬼殺隊の隊服だった気がしないでもないが、如何せん頭のイノシシ皮が強烈すぎてそれしか覚えていなかった。

 伊之助!とまたも騒ぐ炭治郎に、あいつも仲間だったのかと、獪岳は冷めたふうに見ていた。

 付き合いきれずに部屋を出ようとしたところで、またも止められる。

 

「あ、あのさー、獪岳?なんかすっげえ斬られてない?主に左肩から右腰まで血まみれじゃない?鬼にでも出くわしたの?」

「あ?風柱に斬られただけだ。いちいち騒ぐな。血なら止まってる」

「ハァ!?いやなんで柱に斬られてるのォ!アンタほんとに何やってんだ!?」

「善逸!ここは病室なんだから騒ぐな!獪岳さんは風柱に斬られたけど、幸さんが治したからどうもない!」

「どどどどどうもないわけないでしょぉぉ!幸ちゃんは大丈夫だったわけぇぇ!」

「全員静かにしなさい!叩き出しますよ!」

 

 そして、負傷した隊士の看護役をしている蝶屋敷勤めの鬼殺隊員に、全員雁首揃えて怒られる羽目になった。

 ちなみにこの騒ぎの隙に、隠二人はとっとと去っていった。

 

「獪岳さんですよね?あなたも怪我の手当を受けて、少し安静にしてから行ってください。大体、破れた隊服でどうするつもりなんですか。それからさっきの鬼の子も、人の血まみれの格好で外に出す気ですか?」

「……」

 

 単に、この空間にいたくなかっただけの獪岳は、正論で来られると返せない。

 

「……手当はいらん。呼吸で血なら止める。服が来るのは早くしろよ」

 

 人をニ、三人殺してきたようなしかめっ面で、獪岳はそう答えた。

 服が直るまで、ここで待つことになったからだ。

 確かに幸の血鬼術は便利だが、使い過ぎると人体に影響がないとも限らないのだ。

 あくまであれは非常用で、乱発はできない。

 喧しい病室を出て、適当な部屋に入る。

 あの三人とあれ以上顔を合わせていると、神経が保たないのだ。

 似たような寝台だらけの無人の部屋に入ると、こんこん、と肩に担いだ箱が内側から叩かれた。

 

「かいがく、へいき?」

「どういう意味だよ」

「ぎょうめいさん、いた」

 

 ぐ、と束の間喉の奥で空気が潰れて、鳴る。

 幼い声が、箱の中から続けた。

 

「ぎょうめいさん、いわばしら。ないて、た。さち、おに、なった、みた」 

 ─────岩柱になった行冥さんは泣いてた。

 ────幸が、わたしが、鬼になったのを見てしまったから。

 

「さち、また、あえる。ぎょうめいさん。かいがく、へいき」 

 ─────わたしは、行冥さんにまた会える?

 ────獪岳は、平気?

 

 長い腐れ縁というのは、そんなふうに言いたいことを無駄に伝えて来てしまうものなのだ。 

 幸がまだ、あの『ぎょうめいさん』に会いたがっていたこと、そしてあのころのように会えることがないのだけは、確かだった。

 

「俺が知るわけねぇだろ。柱と、鬼だぞ」

 

 答えは、吐き捨てるようなものになった。

 岩柱には自分を憐れまれた。幸を憐れまれた。みすぼらしくて哀れな子どもと言われた。

 それを思い出せば、腸が煮えくり返るように感じる。

 同時に、日の光を避けた闇の中からでしか、人と語り合うことができなくなったこの馬鹿な幼馴染みを見ていると、怒りが乾いて行くようにも感じた。

 青空の下に立っていた、荒れ寺の庭。

 あそこでこいつが笑うことなど、もう二度とないのだ。

 鬼は、太陽に焼き殺されてしまうのだから。

 

 寺は壊され、他のやつらはほとんど死んだ。

 坊主は柱になり、自分は剣士になって、こいつは鬼になった。

 

「かいがく」

 

 いつも淡々としている声が震えたように聞こえて、獪岳の中で何かが弾けた。

 力任せに、幸の入った箱を殴る。

 バァン、と乾いた音が部屋に木霊した。

 見えはしないが、多分幸は箱の中でびくりと肩をはねさせただろう。

 

「俺は、寝る。お前は勝手にしてろ」

 

 部屋の暗がりに箱を放り投げ、適当な寝台に刀を抱いたまま横たわる。

 一晩、山中を走って鬼を斬り、そのまま裁判に引き出されたのだから、疲れていないはずはなかった。

 だが、箱の中から聞こえる規則正しい呼吸の音が妙に耳につき、なかなか眠りが訪れてくれないのだ。

 

 獪岳が眠りについたのは、それから四半刻後のことだった。

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

「あ!」

 

 那田蜘蛛山を切り抜けた三人の癸の隊士が、互いの無事をひとしきり喜んだ後のことである。

 不意に叫んだのは、竈門炭治郎だった。

 

「幸さんに、血を分けてくださいって頼むのを忘れてた……!」

 

 竈門炭治郎は、妹の禰豆子を人間に戻し、鬼に殺された家族の仇を取るために、鬼殺隊の剣士になった。

 妹を人間に戻す方法は、まだ見つかっていない。

 だが十二鬼月の血を採り、鬼を人間に戻す研究をしている珠世のところに送って彼女が研究を進められれば、人間に戻す方法が見つかるかもしれない、という可能性があった。

 珠世も、鬼である。

 鬼ではあるけれど、鬼舞辻の支配から自力で逃れた鬼のうちの一人だった。

 

 鬼舞辻に多くの血を与えられ、彼と近い血を持つ十二鬼月ならば、治療の手がかりがあるかもしれないというのだ。

 鬼舞辻の血を十二鬼月から集めるのと、極めて特殊な状況にあるという禰豆子の血を調べれば、必ず鬼が人間に戻る方法が見つかるはずだと、炭治郎は信じていた。

 

 だから炭治郎は、禰豆子や珠世と同じように鬼舞辻の呪いを自力で解除したと思われる幸の血も、採りたかったのだ。

 幸もまた鬼にされ、けれど人を喰わず、襲わずに生きていた鬼だという。

 きっと彼女にも、珠世が言っていたような『何か』があるのだ。

 もちろん、ちゃんと頼んで頼んで頼んで頼み込んで、それでも駄目だと言われたら引き下がるつもりだった。

 

 だが、善逸や伊之助の無事を喜んでいるうちに、幸と、幸を連れている獪岳はどこかへ行ってしまったのだ。

 獪岳は、炭治郎と同じく鬼を連れていたために裁かれることになった隊士だ。

 その階級は、十ある上から三つめの丙というから、一番下の癸の炭治郎たちよりずっと上になる。

 

 だが獪岳は、常に怒っているような匂いがするのだ。

 鼻が生まれつきいい炭治郎は、人の感情や鬼の弱点すらも、嗅ぎ分けることができる。

 その感覚に則れば、獪岳は常に苛立っているのだ。どうしてなのか、わからないけれど。

 一番その感情の匂いが揺れたのは、あの裁きの場で岩柱と相対していたときだ。

 あのときの獪岳からは、複雑な感情が絡み合った匂いがしていた。

 

「あー……あいつやっぱり、炭治郎の鼻でもそんな感じがするんだ」

 

 獪岳と同門だという善逸は、あまり獪岳とは仲が良くないらしい。

 

「仲が良くないどころか俺、弟弟子って言っても獪岳にめちゃくちゃ嫌われてるからさ、あんまり話したことないんだ。手紙出しても返事来たことないし。俺もあいつのこと好きじゃないから、そこは一緒だけど」

「そうなのか?」

「うん。でもアイツすっごい強いんだ。爺ちゃんもよく褒めてたし、俺にはできない雷の呼吸、みんなできるしさ」

 

 という善逸は、炭治郎にはどこか自嘲しているようにも見えた。

 

「確かに、獪岳さんって俺たちより柱に近い匂いがしてたな」

「んあ?」

 

 那田蜘蛛山で同じく負傷した、猪頭こと伊之助がそこで声を上げた。

 といっても彼は鬼に首を絞められたときに喉を傷めたため、あまり喋れない。

 その上山での戦いで鬼に歯が立たなかったので、思い切り自信喪失状態だったのだ。

 それが、獪岳の話になると少し復活した。

 

「バチバチ野郎か?あの野郎、すっげぇ強かったぞ」

 

 炭治郎と伊之助が出くわし、倒せなかった那田蜘蛛山の鬼の一体。

 蜘蛛の頭に人の胴体がついたような形の異形の大鬼を、獪岳と幸は一瞬で倒したのだという。

 伊之助曰く、しゅっと音がしたらがっと幸が現れて鬼の腕の骨をばきっと一撃で蹴り砕き、獪岳が鬼を切り刻んで倒したそうだ。

 

 その二人に助け出された伊之助は勝負を挑んだが、獪岳に一瞬で気絶させられて放置されたそうだ。

 

「当たり前じゃん!お前その状況でなんで勝負挑んでるんだよ馬鹿だろ!?」

「うるせぇ……」

 

 ぷい、と伊之助がそっぽを向き、炭治郎は頬をかいた。

 

「ともかく、俺はあとで幸さんに血を分けてもらいに行って来るよ。事情を話したら、あの人はわかってくれると思うからさ」

「あー、でも早くしたほうが良いかもな。獪岳、きっとすぐここを出てくと思うよ」

 

 そういう善逸からする匂いは、なんとも曰く言い難い、嗅いだことのないものだった。

 炭治郎はひとまず、わかったと答えたのだった。

 

 

 

 




pixivに投稿した分までは、予約投稿に設定されています。

日に二度、12:00と22:00に投稿されます。



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五話

五話です。

では。


 

 

 

 丘の上の家へ続く馴染みの道の両脇には、昼下がりの日の光に照らされて艶めく緑が茂っていた。

 懐かしくはないが見覚えはある景色の中、土を踏みしめて獪岳は歩いていた。

 背には日輪刀を負い、肩には箱を担いでいる。

 その箱相手に、獪岳は不機嫌に会話をしていた。

 

「で、結局お前はあの竈門なんとかいうのに頼まれて、血を分けたってのか」

「ん」

「勝手なことしてんじゃねぇよ」

「かいがく、ねてた」

 

 寝ていたから起こすのはかわいそう、とでも思ったのだろう。

 

「俺に断りなく、勝手なことするなって言ってんだよ」

「ん」

 

 肩にかけた箱と会話するなど、街中では到底やれない。人に見られれば、完全に奇人扱いをくらうからだ。

 だがここは、人里から離れているから、遠慮なく喋っていられた。

 蝶屋敷を後にして一路、獪岳は育手の下へ向かっていた。

 獪岳が眠っている間に、幸は竈門炭治郎と会って血を欲しいと言われたそうだ。

 なんのためにそんなものを、と疑問だったが、彼は鬼になった妹を人間に戻すために、鬼の血を集めているそうだ。

 

「鬼を人間に戻す、ねェ……」

 

 そんなことを信じて、あの炭治郎は剣士になったらしい。

 馬鹿馬鹿しい、と思った。鬼が、人間に戻れるわけがない。

 

 日の光には触れられない。

 言葉がたどたどしい。頭の中身が幼い。

 湯気の立つ白い飯も、甘い香りのする果物も何もかも、人間の食べ物が何も食えなくなった生き物。

 人の血肉を喰らわない鬼の例外ですら、十年もそのままで生きているのだ。

 

「できるわけねえだろ、んなことがよォ。お前、そんなやつに血を分けたのか。無駄なことしやがってなァ」

「ん!」

 

 ごんごんごん、と内側から箱が連打された。珍しく怒ったらしい。

 

「くだらねえことしようとしてるやつを、くだらねえと言って何が悪いんだよ。お前も戻りたいのかァ?」

「……」

 

 途端に箱の中が静かになった。

 何故そこで、黙るのだ。

 腹が立ったなら、言い返せばいい。

 大人顔負けに口が回ること以外、お前に取り柄なんてなかっただろう。

 いつも上手く動かない脚を引きずり、よたよたと獪岳の後ろをついてくる、グズだったのだから。

 そんな脚で夜の山になど行くから、鬼になったくせに。

 

 そう思っても、箱からはもう何の声もしなくなっていた。かすかな息遣いが続くだけだ。

 

「チッ」

 

 日の光に照らされてきらめく、雨に濡れた下草に、葉を生い茂らせる桃の木。高く鳴いて飛ぶ雲雀の声。

 今この瞬間、太陽の下にあって生を謳歌する、目にするすべてに苛ついた。

 鬼とは、この太陽に守られた世界に追い出され、居場所を失った生き物だ。

 

 今更元に戻るなど、有り得ない。

 

 苛立ちが募って足元の小石を蹴り飛ばしたときである。

 丘の頂上に立つ人影が、見えた。

 手には木刀。構えは低い。型は居合い。

 

─────あれは!

 

 即座に箱を放り投げ、背中の刀を抜く。胸の前に掲げる。

 瞬間、びりびりと凄まじい衝撃が手に走った。

 刀を上に振り上げて木刀をかち上げ、飛び退る。そのまま横っ飛びに避ければ、相手の木刀が地を叩き割った。

 相手はそこで、手を止めた。

 木刀を肩に担いでいるのは、獪岳よりも背の低い老人である。

 皺と傷が深く刻み込まれた顔の表情は厳しい。彼の片脚は木の義足だが、そのままで居合を放ったのだ。

 

「久しぶりじゃな、獪岳。この馬鹿弟子が」

「……先生」

 

 雷の呼吸を極めた元『柱』、桑島慈悟郎は、木刀を杖に獪岳を睨めつけた。

 

「精進はしているようじゃな。とっとと箱を拾ってついてこい」

 

 放り投げた箱を無言で拾い上げ、獪岳はかつて住んでいた家に入る。

 板張りの家は、記憶とどこも変わっていなかった。ただ、雨戸が閉め切られて全体に薄暗かった。

 

「座れ」

 

 獪岳が向かいに座ると、慈悟郎は深く息を吐く。そして、刀を抜き放つように前触れなく言い放った。

 

「お館様から文が来て、お前が鬼を庇ったと知らされたとき、儂は腹を切ろうと思った」

「え?」

「何を驚いた顔をしとるんだ馬鹿弟子。雷の呼吸の継承権を持つ者が、鬼を庇うという隊律違反を犯したんじゃぞ。かつて柱であり、お前を鬼殺の剣士に育てた儂が、責任を負うのは当然であろうが」

「それは!俺が、先生に黙ってやってたことで……!」

 

 腰を浮かせかけた獪岳の脳天に、慈悟郎の杖がめり込んだ。

 痛みに無言で悶絶する獪岳を前に、慈悟郎は淡々と語った。

 

「馬鹿者。お前が勝手にやっていたことであろうが、鬼を庇うような人間と見抜けずに剣士にしたのは、儂の責任だ。規律とは、そうして守らねばならぬものだ。そこに、お前はまったく思い至っておらんかったようだな」

 

 押し黙る獪岳に、もう一発杖の一撃が炸裂した。

 

「だがな、お館様は文の中で、お前が鬼と共に間違いなく鬼殺の隊士としての任を行い、人々を守っていたと書いておられた。くれぐれも、儂に腹を切ってくれるなと厳命されたぞ」

「……」

 

 慈悟郎の視線が、獪岳の隣に置かれた箱に向く。獪岳がぶん投げてから、幸は静かなものだった。

 

「もう一体、人を喰わぬ鬼もいるとも書かれていた。鬼舞辻無惨への手掛かりとなるかもしれない特例として、お前の連れている鬼ともう一体の存在を、認めるとな」

 

 正座したまま、獪岳は俯いた。

 何を言えばいいのだろう。

 何か言わねばならぬことはわかっていたが、言葉が一つも出てこなかった。

 

「獪岳よ。お前の連れている鬼は、どこの誰じゃ?もう一人の隊士は、鬼になった妹と共にあると書かれていた。が、お前には生みの親も実のきょうだいもおらんだろう。それとも、何処の誰とも知れぬ鬼がたまたま懐いてきたから、便利に使っていただけか?」

「違う!」

 

 喉から勝手に、声が吹き出したようだった。

 それで何かが、獪岳の中で音を立てて切れた。

 

「違う!全然違う!あいつは人間だった!俺のせいで鬼になった馬鹿だ!だから俺が使う!連れて行く!文句あんのか!」

「戯け!」

 

 三度目の一撃が脳天に炸裂し、獪岳は派手な音とともに後ろにひっくり返った。

 尻もちをついたまま、獪岳は仁王立ちした師を見上げた。

 

「……身内が、友が、鬼になるものなど多くいる。斬ってやるのが、慈悲とは思わんかったのか?」

「人を喰ってないと言った。俺の名前も呼んで、俺を助けた。斬らなきゃいけない理由がなかった」

「鬼の言うことを信じたのか!人を喰うためなら嘘も平気でつく!本能のまま血肉を啜って殺す!鬼とはそういうものだと教えただろう!」

「うるせぇ!喰ってねぇなら喰ってねぇんだよ!俺の怪我見ておろおろするグズが、他のやつの肉なんか喰えるわけねぇだろ!」

 

 都合四度目の杖の一撃を、獪岳は素手でつかんで止めた。

 ぎりぎりと杖を握りしめて師と相対していると、胸の奥からどす黒い何かが吹き上がってくる。

 師範の真っ直ぐな目と、盲目の岩柱の鋭い眼光が重なったとき、獪岳は吼えていた。

 

「俺にもわかんねぇよ!なんであのグズは恨まねぇんだよ!恨むのが当たり前じゃねぇか!テメェのせいで鬼になったって言うだろ!俺が馬鹿をやって外になんて出なけりゃ、鬼になんざなってなかったってな!なんであのとき、俺を庇った!どうして逃した!今だってそうだ!弱ェくせに!俺より弱かったくせに!なんで何も言わない!なんで……」

 

 息が切れて、獪岳は咳き込んだ。

 剣士として培ってきた呼吸も何もかもが乱れて崩れ去り、滅茶苦茶になっていた。

 獣のように吼え、叫びすぎた喉が焼け付くように痛かった。

 その痛みが、ひとつの記憶を引きずり出した。

 あの夜の山で鬼から逃げたときも、こんなふうに喉が、肺が、焼け付くように痛かった。

 ただ前だけを見て、痛む足を動かして咳き込みながら、暗闇の中を一人で走って逃げた。

 木の根で転ぼうが蔦で躓こうが、草の葉で手足が切れようが、ただひたすらに化け物から逃げたかった。

 

 生きたかった。生き残りたかった。

 ただ、それだけだった。

 

 後ろに置いてきた少女のことは、一度も振り返らなかった。

 そうして力尽きて気絶して、昇る朝日で頬を温められて起きたときに感じたのは、紛れもない安堵だったのだ。

 ぬくい日の光に、冷えていた手足が暖められるのを感じた。自分が、自分だけが生きていると、実感できた。

 自分が置き去りにし、二度と日の光の下に出られない化け物になってしまった少女のことは、あの一瞬、完全に心から消えていた。

 次の瞬間、獪岳は自分がどうしようもなく安堵しているのを理解した。理解してしまった。

 助けられなかったとか、自分だけが生き残ってしまったとか、そんなまともな人間がするであろう後悔や哀しみを、幼い自分は欠片も感じていなかった。

 

 獪岳が見た、最後の人間としての幸の儚い顔が、記憶に焼きついて消えなくなったのは、あのときからだった。

 

 その顔が浮かぶ度、あいつは弱かったから死んだのだと、思った。

 本当は違うと、わかっていたのに。

 鬼に喰われそうになりながら、それでも自分ではない誰かを庇い、小さな刀を持って立ち向かったやつのほうが、すべて忘れて逃げて、自分の生命の心配しかできなかったやつより強いと、わかっていたのに。

 

 獪岳に逃げろ、生きろと言った幸の強さが、小さく弱い体でそんなことができた幸が、獪岳にはずっとずっと、わからなかったのだ。

 口は回るが体が弱くて、いつも正しいことを言って獪岳を叱り、そのくせいじめっ子には負けて泣いて、自分が助けてやらなければならない弱虫だと、ずっと見下していた幸は、あのとき獪岳よりも強かった。

 その強さがわからなかったから忘れられなくなって、あの顔が消えなくなった。

 そういう、ことだったのだ。

 

「俺には、なんにも、わかんねぇんだよ……」

 

 呟けば、杖を掴んでいた手から力がするりと抜ける。

 師の杖は、勢いをなくしたまま下げられ、痛いほどの沈黙が、空間に満ちた。

 

「……初めてお前の本音を聞いた気がするわい」

 

 やがて、師がぽつりと言った。

 

「昔からお前は、善逸のように泣いたこともなければ、爺ちゃんなどと呼んでくることもなかったな。教えたことは覚え、鍛錬にも励んでいた。だからなのかのう」

「何抜かしてんだ。教えられたこと、全部は覚えられてねぇよ。俺は、壱ノ型がまだできてねェんだから」

 

 そう。

 本当に呪いではないかと思えるほど、獪岳は基本とされる壱ノ型・霹靂一閃だけができないでいるのだ。

 だが、師は首を振った。

 

「しかし、それ以外はできておった。これで壱ノ型だけできる善逸と補い合えば、雷の呼吸の継承者を任せられると思ったんじゃ」

「生憎だったな、先生。俺はあいつが嫌いだし、あいつも俺が嫌いだよ」

「急に砕けた口調になりおって。そちらが素か?」

 

 ぺし、と大分勢いを失くした一撃が、獪岳の額に当たった。

 

「とにかく、お前は出来が良い弟子だった。それがまさか、深い事情があったとはいえ隊士になってから鬼を庇っておったなどと想像できるか。善逸も馬鹿弟子と思っていたが、お前たちは二人揃って大馬鹿弟子じゃ」

「……」

 

 あいつと一緒にするな、とは言えなかった。

 師に腹を切る覚悟までさせていたのだ。確かにそれは、馬鹿弟子どころか破門沙汰である。

 あの出来損ないの弟弟子と二人揃ってようやく雷の呼吸の後継者だと言われたときは腹が立ったが、それでも桑島慈悟郎は獪岳には尊敬する師なのだ。

 

 ふいに、かりかり、と板を引っかく音がした。

 幸が、箱から出たがっているときの合図である。師を見ると、促すかのように軽く頷かれた。

 

「出て来ていいぞ」

「ん」

 

 蓋を開けて、ころりと板の間に幸が出て来る。七つ、八つの少女の姿を見て、慈悟郎の目が微かに下がった。

 そのまま、とたとたと近寄って来た幸は、丁寧に床の上に三つ指つくと、深々と頭を下げた。

 見本のような、綺麗な礼である。

 

「獪岳、この子がそうか?」

「ああ」

「名前はなんという?」

「幸。幸福の幸と書いてさち、だ。その成りでも、歳は俺の一つ下だぜ」

 

 つい最近も、似たようなことを言ったものである。

 師の鋭い目が、幸に向けられた。

 

「お前さんにとっては、酷いことも聞かせたな。だが、許してほしい。儂は鬼殺の隊士だった。鬼は斬るもので、そこに例外はなかった。鬼とは、儂にとって憎むべき敵なのだ」

 

 こくり、と幸が頷いた。

 茫洋とした瞳は、鬼殺の剣士にとっての当たり前の理屈を理解して、受け入れているようにも見えた。

 並みの七つそこらの子どもより、かなり小さめの体をしている幸を見て、師はふ、と目元の皺を微かに弛めた。

 

「そんな小さなころに、鬼にされたのか。……惨い目に、遭うたなぁ」

 

 ぽん、と師の手が丸く小さな頭の上に乗る。

 雑だが、優しげな手つきで頭を撫でられ、幸が伏せていた顔を上げた。

 素直な戸惑いが、そこに浮かんでいた。

 

「怖かっただろう。恐ろしかっただろう。痛かっただろう。それでも頑張って、獪岳を逃したのだな。えらい子だ」

 

 聞いたことがないようなゆっくりと穏やかな師の声に、幸の、曇ったガラス玉のような金色の瞳がみるみる濡れていった。

 水晶のような透き通った粒が、大きな目の縁に盛り上がる。

 粒は滴になってぽろりと零れ、滴は白い頬を滑り、紺の着物の襟に触れて砕けた。

 あとからあとから、宝石のような涙が頬を伝っては落ちていく。

 

 獪岳は、呼吸を忘れてそれを見た。

 鬼になってから、幸が泣いたことはない。

 昔は、ちょっと小突けばすぐ泣きべそかいたくせに、今は哀しそうに目を伏せたり、怒りで目を吊り上げたり、その程度のものしか見たことがなかった。

 否、それだけしか、できないのだと思っていた。

 

「儂の弟子を救ってくれたことに、礼を言わせてくれ。儂がお前さんにしてやれることは、それくらいしかないがのう」

 

 頭を撫でていた手で肩をゆっくりさすりがら、師が言う。

 幸は両手で顔を覆った。

 指の隙間から、子どもらしい甲高い泣き声が漏れていた。

 獪岳はただ、見ていた。

 涙を拭ってやろうとか、泣き止めばいいのにとか、そんなことは考えられない。

 えぐえぐと、小さな子どものように泣き続ける鬼の少女から、ひたすらに目が離せなかった。

 喉を鳴らしてしゃくり上げ、手や袖で涙をむちゃくちゃに拭い、鼻を啜り、それでも嗚咽を止めきれずに幸は泣き続けた。

 

 本当ならきっと、鬼にされた日にこうしたかったのだろう。

 怖いと、誰か助けてと、苦しいと、泣いて叫びたかったのだろう。

 けれどあのときは、誰もいなかった。

 誰も少女を助けなかった。助けられなかった。

 藤の花の封印で、化け物たちと一緒に山に何年も封じ込められ、そこから出られても泣けなかった少女が、初めて流した涙だったのだ。

 

 嗚咽が波のように引いていき、やがて幸が泣き疲れて静かになるまで、結局獪岳は何もできなかった。

 涙は出尽くしたのか、幸はぽうっと夢見ているように獪岳の隣に座っている。

 

「獪岳」

 

 名前を呼ばれ、獪岳は知らず俯いていた顔を上げた。

 

「この子を、ここに置いていかんか?」

「え」

「人を襲わぬ限り、斬ったりはせんよ。あんなふうに泣ける子だと、わかったからな。だが、この子を戦いの場に連れて行くのは正しいか?鬼ではあるが、知っての通り鬼は不死ではない」

 

 そもそも鬼にされたとはいえ、この子の気性で戦いに向いているのか、とそう問われていた。

 獪岳が答えに詰まったとき、膝の上に置いていた手を握られる。

 横を見ると、金色の瞳が獪岳を見ていた。

 

「かいがく、いやだ」

 ────置いて行かれるのは、嫌だ。

 

 は、と獪岳は固まった。

 少し前まで幼子のように泣いていた少女は、今は大人の女のように凛と背筋を伸ばして獪岳を見ている。

 それでも、幸は獪岳の答えを待っていた。

 獪岳が、言わなければならなかった。

 

「先生、せっかくの申し出だけど断る」

「ん。かいがく、みちに、まよう。だれか、いない、と、だめ」

「は?誰がいつ道に迷ってたんだよ!」

「いつも。この、とうへんぼく」

 

 ぽかり、と幸の手が獪岳の額を叩いた。

 もちろん痛くはない。痛くはないが、何をしやがるという気にはなった。

 やり返してやろうとすれば、ひょい、と軽い動きで避けられる。

 二度目三度目も、最小の動きで躱された。

 

「何しとるんだお前らは!子どもか!」

 

 途端に雷が落ち、獪岳の額と幸の額に、どごんと杖がめり込んだ。

 当然、幸は鬼の回復力であっさり治り、獪岳だけが痛みで床の上をのたうち回る羽目になった。

 全集中の常中の呼吸ができる剣士でも、痛いものは痛いのである。

 呼吸で、頭の硬さは上がらない。

 

「善逸も馬鹿なら、お主も馬鹿じゃのう。よし、決めたぞ。お前たち二人は、しばらく任務を共にこなせ」

「は?……はぁ!?」

「騒ぐな馬鹿たれ。お前たちは揃って未熟者だ。一度戦いの中で互いを見つめ直してみろ。何も、ずっと共に戦えと言っているのではない。任務を一つ、力を合わせてこなせと言っているだけだ」

「ふっざけんな!できるか!爺ィ!」

「師範と呼ばんか馬鹿弟子ィ!やらねば破門に処す!」

「横暴だろうが!」

 

 師と弟子の、雷の呼吸まで交えた乱闘と言い合いが止まったのは、それから一刻後のことである。

 そのころには幸はとっくに言い合いを聞くのに飽きて、部屋の隅っこで膝を抱えて欠伸をしていた。

 折れたのは、無論獪岳のほうだ。

 破門を盾にされたこともあるし、そもそもは事情があったとはいえ、年単位での隊律違反を師にも打ち明けなかった獪岳に非があった。

 そうしてその日の夜、眉間に皺を刻み、箱を背負った獪岳は師の家を後にした。

 夜になったのは、なんだかんだで、夕餉までご馳走になったからだ。

 鬼殺の剣士になってからのあれこれをぽつぽつと獪岳が語るのを、師は時々未熟者だとか馬鹿弟子だとか怒りつつも、聞いていた。

 まだ壱ノ型が使えていないというと、師はどんぐりをぶつけられた栗鼠のような顔になっていた。

 何故そこまで剣技と呼吸を練り上げられるのに、基本ができないのかと言われたが、獪岳も渋い顔になった。

 

 そんなことを言われても、獪岳とて困るのだ。鬼の身体能力を駆使する幸を鍛錬相手にしても、できていないものはできていないのである。

 それから打ち込み稽古を久々につけてもらって、気づけば出発は夜遅くになっていた。

 とっとと善逸に合流しろ、と師が言うので、獪岳はそのまま発つことにしたのである。

 

「獪岳、死ぬでないぞ。死ぬことなく、誇り高く生きよ。今度来るときは、善逸も連れてこい」

「……あいつが生きてたらな」 

 

 そう言えば、最後に一発、杖で強か額をぶたれた。

 丘の上の家を、そうやって獪岳と幸は後にした。

 日はとうに沈み、街の灯りだけが小さく見えていた。

 

「おい、出てきたらいいだろ。太陽はもうねェぞ」

 

 こんと箱を叩くと、兎のように軽やかに幸が出て来た。

 地面に降りると、獪岳を見上げて幸は首を少し傾けた。

 

「かいがく、どうした、の?」

「……お前、少し喋り方変わったか?」

 

 滑らかになったというか、自然になったというか、少なくとも前よりたどたどしさは消えていた。

 

「そ、う?ないたから、かも、しれない」

 

 泣いただけで、そこまでになるのだろうか。

 心の澱を涙で押し流して、言葉が滑らかになったというならなんとも不思議な話だった。

 

「この、とうへんぼく。わたし、頭では、ちゃんと、ずっと、かんがえ、てた。ことば、が、うまく、だせない、だけ」

「誰が唐変木だ!」

「かいがく、が」

 

 幸は夜の坂道を、くるりくるりと獪岳の周りを跳ねるようにして降って行く。

 後ろで編んで一つにした髪が、動きに合わせて千鳥の尾羽根のように揺れていた。

 楽しそうだ。

 嬉しそうだ。

 唐突に、殻を割るようにして起きた変化だった。

 一度の涙がそこまで幸を変えたのか、泣けたことで今まで堰き止められていた感情が溢れたかは、わからなかった。

 ただ、もっと早くに側にいた者が、こうしてやるべきだったのだと思う。

 

「よかった、ねぇ。しかって、もらえて」

「どういう意味だ」

「じぶん、で、かんがえ、て」

 

 べぇ、と小憎らしく幸が舌を出して、くすくすと笑った。

 

「あの、ね、わたし、がおに、に、なった、の、かいがくの、せい、じゃ、ないから」

 

 そしてそのまま、幸はさらりと言った。

 

「わるいのは、おに、だよ。こども、のころ、のかいがく、じゃない」

「だから恨んでないってのか」

「うらむ、のは、それは、むざ、んだけ。きぶつじ、むざん、だけ」

 

 すべての鬼の始祖の名を、幸は前を向いて夜道を歩きながら、告げた。

 

「わたし、たちを、おそった、鬼、も、わたしみたい、な、ふつうの、にんげんに、うまれたんだ。むざんが、いなかった、ら、みんなこんな、くるしいおもい、しなかっ、た」

 

 寺のあの子たちを殺し、獪岳も、行冥さんも皆を苦しめているのは、鬼舞辻無惨なのだ。

 

「鬼は、くるしい、よ。ひかり、に、さわれない。おなかは、へるの、に、ものが、たべられ、ない。強いんだって、いばっても、けっきょく、みんな、なにか、をなくしていって、しまうんだ」

 

 人と隔絶した肉体の力と引き換えに、鬼がすり減らせて行くのは、人間のころの記憶であり、感情であり、理性。

 すべて無くせば、待ち受けているのはただの人喰いの化け物として生きるしかない、地獄のような長い、永い時間だ。

 

「人間、は、ばけものに、なって、ひとごろしを、するため、に、だれかをくるしめるためだけ、に、うまれて、きたんじゃ、ない。そんな、くだらないことのため、に、わたしたち、は、生きてきたんじゃ、ない」

 

 だから、幸が許せないと全身全霊をかけて憎むのは、人を鬼に変える力を持ち、それを振るい続ける鬼舞辻ただ一人なのだった。

 そうは言われても、獪岳には納得できない。

 

「それでも、お前が鬼になったのは、俺のせいじゃねえのか。俺が、行冥さんの言うこと破ったから、お前を置いて逃げたから。あの寺だって……」

「おばか」

 

 黒い羽織の袖を翻して、幸が獪岳の方を向いた。

 

「うぬぼれないで。かいがく、は、じぶん、のこと、えらいと、おもい、すぎ。十歳にもなっていなかった、子に、なにができたの」

 

 言いつけを破って外に出たこと、それは行冥さんに謝らなければならないけれど、幸を置いて獪岳が逃げたこと、それは罪ではない。

 刀の持ち方も知らない子どもだけでは、二人とも喰われて殺されるか、一人が逃げて生き延びるか、どちらかしかなかった。

 

「かいがくが、あのおにを、寺につれてった、の?案内、したの?藤のはなのおこうを、けした、の?ちがう、でしょう」

 

 藤の花の香で守られていたはずの寺が、どうして鬼に襲われてしまったのかはわからない。

 でも、世の中には残酷な偶然というものがどうしたってあってしまうものだ。

 

「できもしなかった、ことをおもって、いつまでも、怒るのは、やめ、て。そうやって、じぶんで、じぶんのこころを、きずつけて、あなだらけ、にして、も、何も、かわらない。だいじなもの、を、なくしてくだけ」

 

 怒りの刃を振るうべき相手は、無惨ただ一人だけだ。

 自分で自分を傷つけて、不満と苛立ちを周りにぶつけて、自分のために声を上げて叱ってくれる人まで遠ざけて、そんなことをしたって、もう何も変わらない。

 それでは自分の大切な何かを忘れて、人から奪い続ける鬼と、一緒だ。

 

「鬼殺の剣士が、いつまでもわめくんじゃ、ない。まえを、むけ。刀を、ふるえ。男の子、でしょう」

 

 とん、と心臓がある辺りを指で突かれる。

 鬼にされてから、時を止めたように変わらない幼い姿が、その刹那だけ成長し、背が伸びた少女の姿に見えた。

 本当なら、本当だったら、幸はそうなっていたはずなのだ。

 太陽の下で今でも笑って、あの寺にいたあいつらだって、死んでいなかった。

 

 無論、それは錯覚だった。

 瞬きをすれば幸は小さいままで、ひとつの三つ編みにした黒髪を揺らし、猫のような金色の瞳を闇の中で光らせていた。

 ぐ、と獪岳は拳を握りしめた。

 

「言われなくたってやってやらァ!それに俺は泣いてねぇ!泣いたのはお前だろ、泣き虫!」

「そっちこそ。かいがくの、どんかん、とうへんぼく、がんこもの、わがまま、がんばりや、へそまがり」

「うるせェ!幸!」

 

 ん、と幸が眉を上げた。

 あ、と獪岳は固まった。

 細い顎に指を添えて、幸が首を傾げた。

 

「なんだ、なまえ、ちゃんとよべた、んだ」

「お前俺のこと馬鹿にしてんだろ!忘れてねぇよ!」

「なんであなたが、怒る、の。よく、わから、ない」

 

 呼びたくなかっただけなのだ。

 それは、あのとき死んだはずの、見殺しにしたはずの少女の名前で、そっくり同じ顔をしているだけの鬼の名前では、なかったから。

 だが今、ここでからかうように笑っているのは、紛れもなくあの少女だった。

 ずっと、幸は幸として、ちゃんといたのだ。変わったのは姿だけ。そこから、獪岳が目を背けていただけで。

 

 軽やかに道を歩いていた幸が、足を止めたのは、そのときだった。

 空の端が、徐々に朝に追いつかれていた。

 ひゃっ、と小さく言った幸は、箱の中に音も立てずに跳び込むと蓋を閉める。

 こういうところは、まるでうっかり土の上に出てしまった土竜のようである。

 箱を担ぎ直して歩き出すと、こんこん、と箱が叩かれた。

  

「かいがく」

「あ?なんだよ」

「ありが、とう。生きててくれて、うれしかった、よ」

 

 獪岳の足が、ぴたりと止まる。

  

「でも、ね、ぎょうめいさんに、ちゃんと、あやまりに、行こう、よ。わたしも、いかなきゃ、いけないんだ、から」

 

 それっきり、箱の中は静かになった。すぅすぅと寝息が聞こえる。

 この状況で寝るのかこいつは、と箱に振り下ろそうとした手を、獪岳は止めた。

 ここで殴れば、また、お馬鹿と幸に笑われるだろう。

 

「チッ!」

 

 手を途中で下ろし、頭を乱暴にかいた。

 空を見上げれば、あの馬鹿鴉が円を描いて飛んでいるのが見えた。

 

「カァ!獪岳!カァ!蝶屋敷ニ、忘レズニ戻ルベシ、戻ルベシィ!師ノ言葉守レ、守レェ!」

「うるせェんだよ!いちいち俺に指図するんじゃねぇ!つかテメェ!どこまで聞いてやがった!」

「カァ!スベテ、スベテェェェ!獪岳ノ、オ馬鹿、オ馬鹿ァァ!唐変木、唐変木ゥゥ!」

「降りて来やがれこのクソ鴉!記憶飛ぶまで殴ってやらァ!」

 

 当然、鴉が降りてくることはなかった。

 

「カァ!蝶屋敷ヘノ途上デ、北北西ノ村ヘ寄レ、寄レェェ!鬼ガ出タ可能性アリ、アリィィ!」

「ぴぃぴぃぎゃあぎゃあ喧しいんだよ!とっとと案内しやがれ!」

 

 けたたましく騒がれずとも、鬼ならば斬る。

 自分は鬼殺の隊士であり、鬼を殺すために刀を振るい続ける剣士なのだから。

 

 背に負った刀と、肩に担いだ箱の重みを確かに感じながら、獪岳は朝日に白く染め上げられていく道を、麓の街へと向かっていったのだった。

 




【コソコソ裏話】

獪岳の鎹鴉は、事あるごとに獪岳を煽りまくりますが、猫好き小動物好きで、木の実をくれたり羽づくろいをしてくれる幸とは仲良しです。

鬼なので当初は警戒していましたが、絆されています。

なので善逸からの手紙が来ていることも、獪岳がそれを無視していることも、幸には教えています。


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番外の一話

番外の一話、善逸の話です。

では。


 拝啓、爺ちゃんへ。

 暖かい日が続きますが、そちらは日々、如何お過ごしでしょうか。

 こちらは、なんとか鬼殺隊でやっていけている不肖の弟子です。

 最近あった怖いことといえば、毒を使う蜘蛛の鬼に噛まれて手足がすっげぇ縮んで短くなったことくらいです。

 早速ですが俺は何か、爺ちゃんを怒らせるようなことをしたでしょうか。

 確かに俺は、六つある雷の呼吸の型のうち、一個しかできませんでした。

 爺ちゃんにもぼこすこ殴られましたし、俺も大っ変申し訳なく思ったりもしました。

 五つ型ができる兄弟子より俺は出来が悪いし、すぐ泣くし逃げるし、情けない弟子であることは重々承知してます。

 だからと!!言って!!

 

「なんでしばらく獪岳と任務しなきゃいけないんだよぉぉ!炭治郎ぉぉ!」

「善逸!落ち着けったら!獪岳さんはちょっと怖いし不安定だけど、悪い人じゃないぞ!それに幸さんも教えてくれるじゃないか!」

「そっちもだよ……。何あの兄弟子は女の子連れて鬼殺してるんだよ……。しかも、妹じゃなくてかわいい幼馴染みとか。鬼殺隊舐めるなよ……」

「善逸、嫉妬はよくないぞ」

 

 わかってるわぁぁぁ!と同期の仲間によるド正論に、大絶叫した善逸である。

 一つ前の任務、那田蜘蛛山で救援に駆けつけた兄弟子の名は、獪岳という。

 確かに同じ時期に同じ師匠の下にいたが、獪岳が善逸に優しかった記憶はない。

 常に怖かったし、善逸を見るなり舌打ちするわ罵倒するわ物を投げつけてくるわと、色々と嫌われていたのだ。

 面と向かって、出て行けと言われたことも、ある。それこそ何度も。

 

 善逸も、獪岳が嫌いだった。

 

 嫌いではあったが、ひたむきに、真面目に努力して鍛錬に励み、型を覚えていく背中を尊敬してもいたのだ。

 壱ノ型だけ使えない出来損ないのくせに偉そうだ、どうせすぐ死ぬだろうよ、と獪岳のことを悪く言う隊士を見たときは、思わず殴り飛ばしてしまったほどだ。

 鬼殺隊に入隊してから、手紙を出したこともある。獪岳から返ってきたことはないが。

 

 実際、獪岳は強い。

 那田蜘蛛山でも、幸という鬼の少女の手助けがあったとはいえ、二体の鬼をあっさり斬って倒している。

 その場面を見ていた仲間の伊之助によれば、ばちばちっとしたかと思えば、鬼の手足がばらばらになって落ちていたのだという。

 その鬼の体は、炭治郎や伊之助では斬り裂けないほど硬かったという。それを苦もなく両断した獪岳が、相当に手練れであるのは間違いない。

 

 それに、あの獪岳は幸という鬼の少女を師にも隠して連れていた。

 聞いた話では、彼女は獪岳の幼馴染みなのだという。

 何があって、獪岳の幼馴染みが子どものころ、鬼にされたかまでは知らないが、鬼になっても庇っていたということは、獪岳にも善逸の知らない優しさ、のようなものがあったのかもしれない。

 いやまぁ正直言って、七歳か八歳か、下手すると五歳くらいに見える小さな女の子と並んで仏頂面をしている兄弟子の絵面が、色々とアレであったとも思う。

 そんな状態では、凄まれても前ほど怖いとは思わなかった。

 知らない間に、兄弟子が変な方向に走ったのかと思ったほどだ。誰を好きになっても構わないとは思うが、五歳相手はちょっと。

 言ったら殴られたので二度と言わないが。

 

 が、それとこれとは話が別なのである。

 

「獪岳だって俺と働くなんて嫌に決まってるよぉ!絶対死ぬぅぅ!」

「うるせぇぞ紋逸!俺はあのバチバチ野郎と勝負するからな!」

「バチバチ野郎じゃないぞ伊之助!獪岳さんだ!」

 

 喧々轟々病室で言い合う三人に、蝶屋敷の看護婦でもある隊員、アオイの雷が落ちたのはすぐのことである。

 三人とも、まだ那田蜘蛛山での負傷が治りきっていないのだ。

 ちなみに、三人のうち一番重症なのは、蜘蛛の鬼から毒を受けて手足が縮んだ善逸である。

 

「善逸さんは、静かにして薬をちゃんと飲んでください!それから獪岳さんという人なら、育手の方のところから帰ってきて以来、皆さんの回復待ちでずっとここにいますよ!というかあの人、育手の方のところで何故かたんこぶをつくって帰って来たんですよね。治療しましたけど」

 

 それ多分、爺ちゃんにぼこぼこ殴られたあとです、と言いそうになって善逸はやめた。

 鬼を連れていた炭治郎と獪岳は、那田蜘蛛山での戦いの後、鬼殺隊の本部で裁判を受けたそうだ。

 そこでお咎め無しとされたから、二人とも鬼殺隊を続けていられるが、初めから師が鬼となった妹のことを知っていた炭治郎と違って、獪岳は師にも隠していたそうだ。

 そのため、裁判が終わってすぐ、獪岳は育手のところに一旦呼び戻され、おそらく散々っぱら叱られて戻って来た、ということであるらしい。

 

 善逸にとっては、自分のようにぼこぼこに怒られる兄弟子というのは、見たことがないものであった。

 修行中も、獪岳を見習え、とか、獪岳のようになれ、と師からは怒鳴られ通しであったのだから。

 とはいえ、一度師に言い聞かされた程度で獪岳の性格が丸くなったのかと言われたら全然そんなことはなく、毎度顔を見るたびに舌打ちされるわカス呼ばわりされるわと、何も変わっていないようだった。

 が、炭治郎と幸が、いくら何でも人のことをカスとかお前とかで呼び続けるのは駄目だと注意しまくったため、獪岳のほうが根負けし、渋面ながらもその二人がいれば善逸、と呼ぶようにはなっていた。

 そもそも滅多に名前を呼ばれたりしないから、あまり変わっていないともいうが。

 優しさと善性の塊のような炭治郎は純粋な気遣いから、幸のほうはどうも出来の悪い弟を叱るような感じで注意したものであるらしい。

 それを聞いて、おかしいな幸ちゃんのほうが年下なんじゃなかったっけ、と善逸はやや遠い目になったものだ。

 とにもかくにも、炭治郎と幸の二人からは、そういう少し似た感情の動きを示す『音』が聞こえていた。

 

 自分の腰までか、少し高いくらいの背丈の小さい女の子に訥々と叱られて、しかも不機嫌ながらも逃げずに聞いている兄弟子の印象は、新鮮すぎだった。

 逃げても脚力で負けて捕まるから大人しく聞いているというだけかもしれないが、師や自分以外にも、あのとっつきにくい兄弟子をちゃんと見て、気にかけている人がいたというのは、善逸には嬉しくもあったのだ。

 

「っていってもさぁ、それで何でしばらく獪岳と任務こなさなきゃいけないんだよぉ……。爺ちゃん何考えてんの」

「善逸、幸さんが解説してくれたじゃないか。善逸と獪岳さんには、欠けてるところがあるから、一度戦いを通して見つめ直せって」

「わかってるよぉ!だけど、それ伝えに来たときの獪岳の顔、炭治郎と伊之助も見ただろ!?絶ッ対納得してないよアレ!人殺しそうな目付きしてたじゃん!」

 

 獪岳を叱り飛ばした師匠、桑島慈悟郎は、どうやら『任務を一つ、善逸と共同で片付けろ。やらなければ破門だ』と言ったらしい。

 獪岳の鎹鴉伝手で、爺ちゃんの手紙により念押しまでされたから、いよいよ善逸は逃げられなくなっていた。

 

「いいじゃねェか。あのクソ速三つ編み女に俺は勝つ!」

「三つ編み女じゃない!幸さんだ、伊之助!」

 

 那田蜘蛛山で、獪岳と幸に助けられた伊之助は、再戦する気満々だし、幸から鬼の研究のための血を分けてもらい、話も聞いてもらえたという炭治郎は、普通に受け入れている。

 現状、ぐずぐず言っているのは善逸だけだった。

 

「明日からは、三人揃って機能回復訓練にも行けるんだから、しっかりしないと駄目だぞ」

「うぅぅぅ……」

 

 那田蜘蛛山で蜘蛛の毒を受けた善逸だが、幸が血鬼術でかなり治療してくれたおかげで、回復は善逸に比べれば軽傷である炭治郎たちと同じくらいにまでなっていた。

 手足はまだ少し小さいままだが、明日から始まる鈍った体を鍛え直すための訓練にも参加できる。

 とはいえ、血鬼術による治療は、長期的に続ければ人体への影響がないとも限らないため、あくまで緊急時にしか使わないものだという。

 それだけ、善逸の状態が危険だったということだ。

 

「てか、その機能回復訓練って何するんだろ」

「さぁ。獪岳さんと幸さんは、それが終わるまでこの辺りにいるらしいぞ。今までは、どこにも寄り付かないで任務を受けてたから、ちょっとゆっくりできるって幸さんが言ってたな」

 

 一つの拠点を中心に任務に出ず、常に流れて特定の仲間もつくらず、そうやって獪岳が戦っていたのは、多分同じ鬼殺隊の仲間から、幸を隠すためだったのだろう。

 

 幸に関して、善逸が知っていることはあまりない。

 獪岳の幼馴染みで幼いころに鬼にされ、最終選別の山で獪岳が見つけて連れ出した、という経緯だけしか、善逸は知らないのである。

 あとはまぁ、小さいことと、可愛いこと、自分を血鬼術で助けてくれたこと、脚がやたら速いらしいこと。あんな可愛い幼馴染みがいるの隠してたのかよ獪岳の馬鹿野郎ということ、くらいである。

 最後の一つは、完全に私怨であるが。

 

「あ、獪岳さんだよ」

「えっどこ!?」

 

 頭を抱えていると、そんなことを言われる。

 窓の外を見れば、日輪刀を背負い、幸が入っている箱を肩に担いだ獪岳が蝶屋敷の庭を横切っているところだった。

 任務帰りなのか、獪岳の『音』はいつにもまして物騒な感じだった。

 ふと見れば、隣で炭治郎が今にも声を張り上げそうになっていた。

 

 善逸は炭治郎に慌てて飛びついた。

 

「わぁぁ!止まれ止まれ!何するつもりだよ炭治郎ぉぉ!」

「む。どうしてだ。任務から無事に帰って来たんだから、挨拶しないと」

「絶対獪岳キレるから止めろぉ!」

 

 おかえりなさい、と大音量で呼びかけでもしたら、確実に今の仏頂面の獪岳はキレる。

 と、箱を担いだ獪岳の前に現れた人影があった。

 

「え、誰?」

 

 背は高く、髪を頭頂部から後頭部にかけて一筋だけ残し、あとはすべて剃るという馬の鬣のような変わった髪形をしていた。

 そいつは、険しい顔のまま何ごとか獪岳に話しかけていた。

 庭から窓まで距離はあるが、善逸の聴覚は人並み外れているから、その声はすべて聞きとれていた。

 

「ヒメジマさんに会わないのか、だって……?」

 

 ヒメジマさんとは、誰だろう。

 ともかく、不思議な髪型のほうの彼は、そう獪岳に言っていた。

 獪岳のほうは、うるせェの一言で彼の腕を振り払ってどこかへと歩いて行ってしまう。

 残された彼は追おうと動いたが、獪岳は跳躍して屋根の上へ乗り、走り去ってしまった。

 

「……」

 

 徹底的な拒絶である。

 獪岳を呼び止めた少年は、諦めたように去って行った。

 

「最終選別のときの人だ!」

「ふわっ!?」

 

 いきなりの炭治郎の大声に、善逸はひっくり返った。

 

「最終選別……ああ!炭治郎が腕の骨折ったやつ!」

 

 鬼殺隊入隊のための最終選別で、早く鬼狩りの為の刀を寄越せと、案内役だった二人の少女を殴ったやつがいた。

 そいつの腕をつかんで止めた炭治郎は、最終的にその腕を折ったはずだ。

 剃りあげ頭の彼は、そのとき腕を折られたやつだったのである。

 

「ヒメジマさんって、岩柱の悲鳴嶼行冥さんじゃないか?裁判のとき、獪岳さんの感情のにおいが悲鳴嶼さんと話すときは乱れてたし」

「岩柱ァ!?なんでェ!?」

「お前さっきからうるせぇぞ。気になるんならバチバチ野郎をとっちめて聞き出しゃいいじゃねぇか」

「それ俺のほうが確実にとっちめられるやつだからぁ!」

 

 とはいえ確かに、知りたければ誰かに聞く他ないのである。

 善逸が知らない獪岳のことを知っていて、かつ怖くもなくて尋ねれば話してくれそうな相手といえば、目下のところ、一人しか心当たりがなかった。

 

 

 

 

 

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『ヒメジマさんは、確かに現岩柱の、悲鳴嶼行冥さんのことです。彼はわたしたちの、育ての親でした』

「育ての……」

『はい。かいがくやわたしは身寄りがなく、行冥さんに拾ってもらって似た境遇の子どもたちと共に、お寺で暮らしていました。今から大体十年ほど前のことです』

 

 日も暮れた蝶屋敷。

 善逸と伊之助の寝台の間に置かれた丸椅子に、ちょこんと人形のように腰掛けて、さらさらと巻き紙に筆を走らせているのは、鬼の少女、幸だった。

 昼間の一件や今の獪岳が何を考えているのかを知るため、善逸が相談相手に選んだのは幸だった。

 夜になり、放置されていた箱から出てきてとことこと蝶屋敷の庭を歩いていた幸に頼めば、快く引き受けてくれた。

 

 が、一つ問題があった。

 炭治郎の妹、禰豆子と違い、幸は本来の年齢相応に思考できるのだが、言葉を話そうとすると片言になってしまうのだ。

 人を喰いたいという衝動を常に抑え込んでいるから、言葉がうまく扱えなくなり、長めに喋ると疲れるようになってしまったとか。

 これでも、前よりはかなりマシになったとのことだが。

 聞き慣れている獪岳は普通に会話できているし、雀とも話せる炭治郎も平気なのだが、善逸にはそこまではできないし、疲れさせたくなかった。

 だが、書くならばできる、というので、こんな形になったのである。

 

 やや読みにくい金釘文字だが、筆先には淀みがない。

 尚、『悲鳴嶼行冥』は漢字で書くのに、何故か『獪岳』はひらがなである。なんでだ。

 

『詳しい経緯は省きますが、寺の近くに現れた鬼に、まず外にいた、かいがくとわたしが襲われ、わたしが鬼になりました。その後、鬼は寺を襲い、一緒に暮らしていた子たちは、一人を除きみんな鬼に殺されてしまったと聞きました』

 

 筆が紡ぐ話の重さに、善逸は絶句した。

 書いている幸はといえば、能面のような無表情だった。しかし、その内側では深い哀しみの音が木霊している。

 

『鬼は、寺のお坊さまが食い止めてくれているうちに、朝日を浴びたことで消滅しました。しかしわたしたちの家は壊されて、鬼から逃げることができていたかいがくも、帰る場所がなくなりました。そこから紆余曲折を経て、彼は善逸君の師匠でもある桑島さんのところに落ち着いたようですね』

 

 そのころには、幸は鬼になって藤襲山に封じられていたから、すべて後で獪岳から聞いた話だという。

 

『行冥さん、岩柱の悲鳴嶼行冥さんが、このお坊さまです。裁きの場で出会うまで、かいがくも私も、行冥さんとは一度も会えていませんでした。かいがくは、行冥さんが岩柱になっていると知っていたようです。わたしは知らなかったから、あのときはとても驚きました』

「もしかして……」

『はい。裁きのとき以来、かいがくもわたしも行冥さんに会えていません』

 

 物凄くその場面が想像できるだけに、善逸は、ああ、と頭を抱えた。

 予想以上に、重い話だった。

 淡々と書き記しているのが、外見は小さな女の子であるだけに、善逸は目の前がぼやけるのを感じた。

 中身は既に成長していると言えど、この子はこの幼い年齢のときに、今書き綴っている辛い体験をしたのだ。

 

『善逸君?』

「あっ、ず、ずみ゛ません……」

『こちらこそ、冷たい書き方になって申し訳ありません。わたしも、その、細かくは書けなくて』

 

 ぽた、と文字が滲んだ。

 よく見れば、人形のようだった幸の瞳から滴が零れていた。

 箱から出ていた禰豆子がとてとてと近寄って、その頭を撫でる。

 本当なら禰豆子のほうが年下なのだが、どうも彼女は自分より小さい幸のことを、年下と認識しているらしい。

 

『ありがとうございます。すみません。一度泣けて以来、よく涙がこぼれるようになって。いえ、いいことなのですが』

 

 ともかく、と幸は袖で涙を拭って続けた。

 

『かいがくに声をかけてくれたのは、不死川玄弥さんです。彼は今、行冥さんの弟子、という形になっているそうで、恐らくそのときに私たちの名前を聞いたのでしょう』

 

 行冥さん、と幸が書く岩柱は、裁きの場で躊躇いなく獪岳と幸を処刑すべきと判断したという。

 昔、共に暮らした子どもたちに対して下した判断にしては、あまりにも非道にも見える。

 けれど、鬼にすべてを奪われた者が、生き残っていた子どもの一人が鬼になり、一人は鬼殺の剣士になりながら隊の規律を破って、その鬼を匿っていた様を見たのだ。

 その心中を察するには、余りある。

 鬼になった者は、死なない限り、救われない。鬼となった身内を捨てられないものは、破滅するしかない。

 だからこそ、彼らの生命を絶つことで一刻も早く救うべき、と彼は言ったのだそうだ。

 鬼殺隊古参の岩柱ともなれば、鬼による悲劇など嫌というほど目の当たりにしてきただろう。それ故の判断とも言えた。

 

 お館様によって処刑はなくなり、禰豆子と幸が、鬼の特例として鬼殺隊の一員として存在するのをを認められたとはいえ、結局その場で獪岳と岩柱が和解することはなかった。互いに話しかけもしなかったという。

 

『というより、かいがくが避けていて。多分、行冥さんに哀れな子どもたち、と言われたのが我慢ならなかったんでしょうけど。……ほら、その、かいがくは、憐れまれたり見下されたりするのが大嫌いなものだから』

「あ……あー……」

 

 獪岳の性格を知っている弟弟子としては、納得の呻き声を上げるしかなかった。

 いやそれにしても、もうちょっと歩み寄ってもいいのではなかろうか。

 育ての親と再会できたというのに、意地を張って会わないままというのはあまりに切なすぎる。

 特に全員が、今は明日鬼と戦って死ぬかもしれない鬼殺隊員なのだ。

 獪岳にしろ、幸にしろ、今日の任務が無傷だったからと言って、次の任務もそうとは限らない。

 

『わたしだけで会う……というのも考えはしましたが、そうなるとかいがくがさらに拗らせそうですし、わたしは鬼ですから、一人で会いに行くなど馬鹿か、とかいがくには止められましたし』

 

 結果、不死川玄弥に問い詰められる段になる今まで、そのままの状態が続いていたそうだ。

 

『不死川君は、行冥さんがわたしたちの名前を呟いていたのを聞きとがめて、会わないのかと聞いてくれたのですが、またかいがくがつっぱねてしまって。元々、かいがくもわたしも器用な質ではないし、友だちもいませんし、こういうときはどうすればいいのやら、と……』

 

 金釘文字は、途中からぐにゃぐにゃと曲がってしまった。

 禰豆子がむぅと唸って、幸の頭を胸に抱き込み、その頭を優しく撫でた。

 幼い子どもをあやすようなその手つきに、幸の顔が少しやわらかくなる。

 それから、そっと禰豆子の胸を優しく押しやり、幸はまた筆を走らせた。

 

『……すみません。愚痴のようなものを書いてしまって。わたしは稽古に行ってきますので、みなさんは休んでいてください。明日の機能回復訓練に備えないと』

 

 くるくると紙を巻き、筆と一緒に懐に仕舞うと、幸は丸椅子からぴょんと飛び降り、ぺこり、と礼をした。

 稽古というのは、獪岳が夜にしている稽古のことである。

 夜になり、幸が動けるようになると、獪岳は彼女相手に稽古しているのだという。

 善逸は、その場面を見たことがない。

 屋敷を壊してはならないから、少し離れたところでやっている、と聞いたくらいだ。

 とたとたと、小さな姿は一人で病室を出て行きかけている。

 

「ね、ねぇ!」

 

 気づくと、善逸はその背中に呼び掛けていた。

 

「それ、俺も見に行っていいかな?」

 

 え、と言うふうに敷居をまたぎかけていた幸が、首を傾げた。

 

「ぜ、絶対、見つからないようにするからさ!駄目、かな?」

 

 この子をひとりで行かせてはならない、と何故かそんな気がしたのだ。

 こく、と幸が頷いたのは、それからすぐだった。

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 見つからないようにすると言ったからには、こっそりと幸についていかなければならなかった。

 善逸ほどではないが、獪岳も耳はいいし、鬼殺隊の剣士で勘が鈍いというのも滅多にいないのだから。そういう手合いは、もう死んでいる。

 しかも何故か、炭治郎と伊之助と禰豆子までついて来たのだから、善逸は頭を抱えた。

 

「俺も気になるんだ。大丈夫。ばれないようにするから!」

「そんな気になるもの見逃すわけねぇだろ!」

「むー」

 

 大体こんな感じで、彼らまでついて来ることになった。

 小さな姿で鳥のように街中を抜けていく幸を追い、辿り着いたのは街外れの空き地だった。

 獪岳は既に、木刀を構えてそこにいた。幸は大きく跳躍して、その前に降り立つ。

 物陰に隠れて様子を伺うと、獪岳の声はよく聞こえた。

 善逸がよく耳にする不機嫌そうなぴりぴりとした声ではなく、やや静かなものだった。

 

「始めるぞ」

「ん」

 

 獪岳が木刀の柄を握って腰を落とし、幸が爪を構えて右足を後ろに引く。

 

 ヒュ、と笛が鳴るような音がした瞬間、二人の姿が消えていた。

 

「え?」

「善逸、上だ」

 

 炭治郎に言われて上を見る。

 夜の闇が広がる空き地の上空では、鬼の爪と木刀がぶつかり合っていた。

 一瞬の交錯の後、二人は同時に地上に降り立って、再び衝突する。

 跳び上がったかと思えば、地の上を走り、まばらに生えている木を足場にしたかと思えば、空き地の中央と、目まぐるしく場所を変えていた。

 有体に言って、幸と獪岳はそれぞれの爪と木刀で斬り合っていた。

 時折獪岳の攻撃に混ざる五連撃や、回転しながら放つ斬撃は、雷の呼吸の型である。

 幸は主に長く伸ばした爪を使い、時折蹴りや拳も交えている。

 しかも、二人とも速い。

 目で動きは捉えられるが、あそこに放り込まれても体がついて行ける気がしなかった。

  

「く、訓練……だよな」

「そのはずだ。だけど、二人とも凄い気迫だ」

 

 遠目では二人の表情まではわからないのだが、聞こえて来る『音』は二人とも張りつめている。

 互いに、互いへの殺意がないのが不思議なくらいだった。

 バキッ、と乾いた音がしたのは、間もなくのこと。

 獪岳の木刀が、根元から二つに折れたのだ。

 だが、幸はまったく動きを止めずに飛びかかり、鋭く尖った爪を振るう。

 一方の獪岳も木刀が折れたことにはまったく怯みを見せていなかった。

 低く身をかがめるや、半分になった木刀の柄を、幸のこめかみに叩きつけた。

 鈍い音と共に、諸にくらった幸の体が毬のように跳ね飛び、木に叩きつけられて止まる。

 

「ん、一本」

 

 一秒後、幸はあっさりと起き上がった。鬼なのだから、無論回復は早いのだ。

 着物についた土汚れを払い、幸は折れた木刀の半分を拾ってとたとたと獪岳に近寄った。

 

「また木刀が壊れちまったじゃねぇか。これで何本目だ」

「九十三ぼん、め。……折れて、も、くだけても、てかげんし、ない、かいがくが、言った、こと。刀、おれても、鬼、とまらない」

「あーあー、わかってんだよ。クソが。そっちはいくら殴られようが、すぐ起きやがるんだからな」

 

 折れた木刀の半分を渡された獪岳は、乱暴に頭をかいた。

 してみると、これは彼らにとっては日常茶飯事なことであったのだ。

 しかし、鬼とはいえ、躊躇いなく小さな女の子の頭を木刀の柄で殴り飛ばすのも、それはそれでどうなんだ。

 確かに鬼の中には、幼い子どもや可愛らしい少女の外見を持つものもいるが。

 

「かいがく、壱、する?」

「ったり前だろ」

「ん」

 

 てってってっ、と歩いた幸は、空き地の隅っこに膝を抱えて腰を下ろした。その肩の上に、鎹鴉が止まる。

 折れた木刀を放り捨て、獪岳が取ったのは真剣である。

 低く腰を落とすその構えは、善逸には覚えがあった。

 深い呼吸の音が、聞こえる。

 声とならない獪岳の言葉を、善逸はそのとき確かに聞いたと思った。

 

───雷の呼吸、壱ノ型

────霹靂一閃

 

 鞘走る音が鳴ったかと思えば、獪岳の正面に立っていた細い木の枝が一本、切り落とされていた。とさり、と枝が地面に落ちる音がした。

 獪岳自身は、刀を振り抜いた姿勢で木よりも向こう側にいた。

 

「カァ!失敗!失敗ィ!」

「ん」

 

 ぎゅう、と鎹鴉の嘴を幸が押さえる。

 だがそちらを見た獪岳の声は低かった。

 

「……駄目だ」

「かいがく」

「こんなのは、壱ノ型じゃねぇ!霹靂一閃でもなんでもねぇ!お前も知ってるだろ!」

 

 そうなのか、と善逸の横の炭治郎が小声で尋ねてきた。

 そうだ、としか善逸には答えようがなかった。

 速く強く、鋭い一撃ではあった。

 それでも、かつて師から習ったものとはやはりどこか違う、としか言えないのだ。

 霹靂一閃を使える者の勘、とも言うべきなのか、善逸にはあれが、どこがどうとまでは言えなくとも、本来のものと違うということが見抜けていた。

 それは、獪岳にもわかっているのだろう。

 苛立たしげに、足元の砂を蹴りつけていた。

 

「もう一回だ。それからそこの鴉、静かにさせとけよ。気が散るじゃねェか」

「……わかっ、た」

 

 肩の上の鎹鴉を撫でながら、幸がこくりと頷く。獪岳は鼻を鳴らして、再び刀を構える。

 その夜、空の端が白み始めるまで獪岳が手から刀を放すことはついぞ無かったし、稽古に見入ってしまい、途中で抜け出す機会を完全に失くした善逸たち三人は、一晩病室を無断で抜け出したことで、蝶屋敷の女の子たちから、目玉が飛び出るほど怒られたのであった。

 

 

 

 

 

 




【コソコソ裏話】

 幸の髪は、解くと腰までほどある黒髪で、いつも後ろで一本の三つ編みにしています。編むのは幸だったり怪我をしたときは獪岳だったり、まちまちです。
 
 前髪は長めで、瞳は若干隠れ気味です。
 
 瞳が金色なのは生まれつきで、瞳孔が縦に割れたのは鬼になってからです。


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六話

六話です。

幸の話(上)です。

では。


 

 

 

 獪岳の弟弟子の善逸と、同期の炭治郎、伊之助が一晩病室を抜け出たことで、こってりと蝶屋敷の人々に絞られた話を、幸は箱の中で聞いた。

 蝶屋敷の縁側の片隅に腰を下ろし、刀の手入れをしている獪岳から、まるでついでのようにその話を聞かされ、幸は頭を抱えたものだ。

 何故かってそれは、概ね幸のせいであったから。

 とはいえ箱の中にいるしかない昼間では、謝りにも行けない。

 箱は、太陽が空にある限り、外を歩けない幸のために獪岳がそこらで調達してきたものである。

 これまで戦いの中で数度派手に壊れていて、その都度補修やら継板などをして使っているため、見た目はかなりみすぼらしい。

 同じように鬼を連れた鬼殺隊、竈門炭治郎が使っているように二本の肩紐で背負うものではなく、紐一本で肩に引っ掛けるようにして持つから、安定感があまりない。

 

「何してやがんだろうなァ、あの馬鹿どもは……」

 

 ちなみに、獪岳はよく無意識なのかわざとなのか、考え事をしながら箱を振ったり揺すったりすることも多い。

 今回も、手持無沙汰にでもなったのか、左右に箱がゆらゆらと揺らされた。

 

「ん」

 

 抗議のつもりで内側から箱を叩くと、すぐに止まる。珍しいことだ。前ならば、なかなかやめなかったのに。

 先日、剣の師のところで散々に怒られてから、獪岳は少し変わった……ような気がする。

 

 頑固で意固地になりがちな上、他人を尊敬するということが滅多にない獪岳でも、剣の師であるあの老人のことは、本気で凄い人と認識しているようなのだ。

 離れていた八年ほどの間に、獪岳がそういう相手に出会っていたことは嬉しくもあり、そういう相手に出会っていたのに、良い方向に変わっていないところのほうが多い、というのは悩ましくもあり。

 

 色々と、箱の中でも幸は複雑に物思いをすることになっていた。

 

 幸にとって獪岳は、兄のような弟のような存在である。

 生みの親に捨てられて、赤子の時分に引き取られた寺に後から来た、一つ歳上の幼馴染み。

 だから、歳は上でも寺暮らしの中では幸が先輩だった。

 幸を生かして育ててくれたのは、いつも赤の他人から与えられる善意だったから、肉親というものが、どういうふうに互いを慈しみ合うのかは知らない。

 ただ、一番近い繋がりの名前として、獪岳や、寺に引き取られてきた他の子どもたちとはきょうだいだと思うことにしたのだ。

 そのきょうだいも、もうほとんどこの世にはいない。

 

 十年ほど前、まだ幸が人間だったころに人喰い鬼に襲われて、みんな殺されてしまったからだ。

 幸はその中で、運良く生き残った。

 鬼になってしまったが、生きてはいるのだから、生き残ったと考えてもいいと思っている。

 あの日に、自分の人間としての部分が死んでしまったとは、さすがに考えたくないからだ。

 もしかしたら、あのときに幸という人間は死んでしまって、今こうやって物を考えたり、獪岳の隣にいる自分は、亡骸の中に宿ってしまった別の生き物なんじゃないか、とか怖いことを考えたりもするのだ。

 

 獪岳によれば鬼になっても幸という少女は、昔通りの馬鹿なグズ、だそうだ。

 そういう聞き慣れた悪態を聞くと、安心できた。

 寺にいた時分から、幸は獪岳の側に長くいたが、格別仲が良かったのかと言われると、ちょっと首を傾げる。

 

 行冥さんのお寺に拾われるまで、獪岳がどのように生活していたかは知らない。でも多分、幸せではなかったのだろう。

 初めて獪岳と会ったときの感想は、なんというか色々と捻くれて拗ねた目つきのやつだなぁ、というあんまりといえばあんまりなものであった。

 人から奪ってもいい、自分が生きてさえいればいい、何故なら誰も助けてくれないのだから、とそんなふうな荒んだ考えが、緑がかった瞳の奥に透けていたから、幸はどうしようと困ったものだ。

 

 わからなくもないけれど、他人からの善意で生きてきた幸には、その考え方を正しいと受け入れたくなかったし、元々少ない食べ物や粗末な服を切り詰め、爪の先に火を灯すように生活している寺なのだ。

 自分勝手なことをされては、すぐに叩き出されるに決まっているし、村から何か盗もうものなら、寺の全員ごと追い払われかねない。

 みなし子と盲目の若者だけが暮らす貧しい寺に、哀れな子どもたちだと優しい目を向けてくれる人もおれば、薄汚い子どもらは村にいらないのだと、厳しい目を向けてくるものもいるのだ。

 どこで誰に何で付け込まれるか、わかったものではない。

 十歳にもなっていないときから、そういうことに気を張ることができる程度には、幸も世間というものの気まぐれさと、冷たさを知っていた。

 

 仮に、寺の全員が追い出されることにならなくても、誰か一人でも追い出されれば、幸を拾ってくれた行冥さんはとても哀しむだろう。

 行冥さんが哀しむのは、ひもじさよりも寒さよりも辛いことだったから、そうならないように頑張ろう、と決めたのだ。

 元々目端が利いた幸は、そんなふうに獪岳の側によくいるようになったのだ。

 

 獪岳が何か間違ったことをしたり、下の子に意地悪をしようとしたら飛んでいって止めたり、手伝ってほしいと村への買い物に引っ張ったり、とにかくよく絡んだと思う。

 邪険にされてもめげなかったし、目を離したら危なっかしいからと、どこへ行くにもついて行った。

 幸が獪岳に構っていることに気づいた行冥さんに、幸は獪岳のことが随分好きなんだな、と言われたときは、曖昧なことを言って誤魔化したこともある。

 好きは好きだが、多分お互いに思っている意味が違っていたと思う。

 小さいときの怪我でうまく曲がらない片脚を引きずって、やんちゃでじっとしていない獪岳と歩き回るのはかなり疲れたのだが、幸は頑張った。

 とても、頑張った。

 

 幸は、昔から頭がおかしいと言われていた。

 どういうわけか、一度覚えたものを忘れることができないのだ。

 

 すれ違った人の顔とか、たまたま見上げた雲の形とか、一回だけ覗き見た本の中身とか、何気ない会話とか、とにかくそういうものを片っ端から覚えてしまって、忘れられない。

 人間は普通、そういうくだらないことは忘れてしまうし、覚えもしないものだと知ったのは、物心ついてからだった。

 女のくせに賢しらだと罵られたり、覚えてもいないことを覚えたふりする嘘つきだと、村人から言われることもあったのだ。

 それでベソをかいていたとき、行冥さんに幸は嘘つきではないよ、と慰めてもらわなかったら、幸は自分をわかってくれない世の中すべてに対して、ひねまくった性格になったろう。

 

 多分、何回邪険にされようが獪岳に構うことができたのは、そういうわけである。

 本来幸は直情的で、大して我慢強くもないのだ。

 理不尽と思ったら即言い返し、脚が弱いから殴られて負けるのが毎度のこと、という聞かん気さと気の短さ、不器用さがあった。

 一つ歳上の少年の中に、つまり幸はあったかもしれない自分の姿を見ていたのだ。

 

 貧しくはあれど、理不尽に奪われることもなく、寝床と食べものの心配をしなくていい生活が与えてくれる安らぎは、獪岳の心にもゆっくり染み通っていったようだった。

 

 幸が村の子どもと喧嘩して負けていたら助けてくれるようになったし、他の子の前でちょっとは屈託のない顔で笑うようになったからだ。

 

「獪岳は、ずっと笑ってたらいいのに」

「は?」

 

 お使いの帰り道、そんなことを言って獪岳に完全に変人を見る顔をされたことがある。

 何故か獪岳は、他の子には少しはまともに接するようになってからも、幸相手だと前と変わらない態度なのだった。

 まぁ、今更優しくなられても気味悪いだけなので、そのままでよかったのだが。

 

「別に。獪岳は、笑ってたほうがいいと思っただけ。わたし、獪岳の笑顔は好きだよ。笑顔は」

「……意味わかんねェこと言ってんじゃねぇ」

 

 交わされた言葉はいつもどおりの悪態で、いつも通りの帰り道だった。明日も明後日も明々後日も、そんなふうに過ごしていくはずだった。

 

 その日の夜、鬼に襲われるまでは。

 

 その夜、些細なことで叱られて寺を飛び出してしまった獪岳を迎えに行った夜、何の前触れもなく鬼は来て、幸は捕まって、食べられた。

 だって幸は脚が遅いから、仕方ない。

 捕まったときに、もう自分は無理だと思った。獪岳だけでいいから、生きていてほしかった。

 それでも手足を棒切れみたいにぽきぽき折られて、お腹を熟れた果物みたいに裂かれて食べられるときは、痛くて痛くて、死にたくなった。

 やめてと言ったのに、鬼はやめてくれなかった。 

 幸が苦しむのを嘲笑って楽しんで、喰っていったのだ。

 痛みと怖さで気を失って、再び意識を取り戻したときには、幸はもう鬼になってしまっていた。

 だから幸は、自分がどうやって鬼になったかを知らない。

 人が鬼に変わるとき、傷口に鬼の始祖の血を受けるらしいが、幸はそのときのことのみ何も覚えていない。

  

 目を覚ましたら、鬼だった。自分を食べていた鬼は、いなかった。

 手足や着ている物は血まみれだったが、それはすべて自分の血だった。

 その事実しか残っていない。

 

 自分が鬼だと自覚した瞬間から、人間を食べたいと思ったけれど、それを止めたのは、あの呪いのような記憶力だった。

 

 人を傷つけるのはいけないことだと、行冥さんが言っていた。

 人を悲しませてはならないと、み仏さまの教えは言っていた。

 

 駄目なのだ、とにかく駄目なのだ。

 人を食べてはならない。人を傷つけてはならない。

 行冥さんも獪岳も、寺のあの子たちも、みんな人だ。

 あの人たちを傷つけてはならない。食べたいなんて、思ってはならない。

 

 わたしは、そんなことしたくない。

 わたしは人喰いの化け物じゃない。

 わたしは人だ、人だったのだ。

 

 鬼になっても、幸からは人間だったころの記憶が何一つ消えなかったし、色褪せなかった。

 それを、幸は自分で自分を縛る鎖になるように変えた。強く深く、人を傷つけてはならないと思い込んだのだ。

 行冥さんが教えてくれたみ仏さまの教え、獪岳や沙代や、寺のみんなと過ごした日の記憶。

 全部全部、一つ残らず、欠けることなく覚えていた。

 食べたら駄目だと蹲って、頭の中を人間だったころの記憶だけで満たして、ずっとそうやって日陰に隠れて動かなかった。

 刀を持った人たちが来て、山の獣にするようにして網を投げかけられ、縛られて荷物みたいに運ばれるときも、ずっとそうやって自分でつくった殻の中に閉じこもった。

 運ばれて他の鬼がたくさんいる山に閉じ込められてからも、一人でかなり長い間眠って過ごしていた。

 

 幸を捕まえた彼らは鬼殺隊という鬼と戦うための組織の人たちで、捕まえた理由は、鬼殺隊入隊の試験材料にするからと知ったのは、かなり後のことだ。

 鬼は藤の花が嫌いで触れないから、藤の花が年中狂い咲きする山に閉じこめて使う。

 外から鬼殺隊になりたい人たちを連れて来て、山へ入れる。それで七日生き延びたら合格、死ねば不合格。

 

 鬼を倒すためには、修羅みたいな人間にならないといけないんだ、とそれを知ったときには思ったものだ。

 

 人を喰うことを幸は我慢できたけど、そもそも人を見て『美味しそう』、『食べたい』なんて思ってしまうことそれ自体が、もう化け物みたいな考え方なのだ。

 

 自分の頭の中がどのくらい化け物になってしまって、どのくらい人間の部分が残っているのか、誰か教えてほしかった。

 でも誰も、幸の言葉なんて聞いてくれなかった。

 

 幸の姿を山で見かける人たちは、みんな刀を持って追いかけてきたのだ。

 特に、幸は弱そうな鬼に見える上に人間への殺意がないから、山にいる他の鬼たちに比べて狙われやすかったように思う。

 鬼はどんな怪我をしても死ねないけれど、鬼殺隊の人たちの刀で頚を斬られたときと、太陽の光を浴びたときだけ死ねるのだ。

 太陽に焼かれて死ぬのは時間がかかってとても痛そうだったから、自分ではできなかった。

 自分から斬られておしまいにしようかと、何度も思ったけど、でもいざ刀を向けられて怖い目で睨みつけられたら、そんな勇気が出なかったし、獪岳や寺のみんながどうしているか知りたかったから、やっぱり死にたくなかったのだ。

 

 どうして自分が、死なないといけないんだろう、と思った。

 

 体が弱かったから、脚が悪かったから、大人の言うことを聞かないで一人で獪岳を追いかけたから。

 寂しくて死にたくなると、自分が悪い理由をそうやって一つ一つ考えてみたけど、納得できなかった。

 自分は悪いことをしたかもしれないけど、死ななければならないほど悪い子じゃ、なかったと思うのだ。

 人を食べたくなる衝動にも、耐えた。

 耐えて耐えて耐えて、一人でずっとずっと、ずうっと耐えたのだ。

 自分で自分の終わりに納得ができなかったから、もう少しだけ生きていようと思ったのだ。

 

 そんなふうにして藤の花の牢屋の中で過ごしていた、ある夜のことだった。

 

 いつもと同じ、月と藤の花だけが嫌になるほど綺麗な夜。

 随分大きくなっていた、獪岳に会ったのだ。

 幸は他人の顔を忘れるということができないから、獪岳の顔も見たらすぐに分かった。

 

 数年ぶりの顔はやっぱり何かに怒っているみたいで、すぐに幸に刀を向けてきた。

 それを見て、獪岳になら斬られてもいいか、と思った。

 だって獪岳なら、幸が人だったころのことを知っている。顔を見たときに瞳の奥が揺れたから、忘れてもいないみたいだった。

 

 同じ死ぬならせめて、幸が人間だったころを知っている人に、殺してもらいたかったのだ。

 死んで当然の、名前のなくなった化け物だと、恨みと憎しみのみが籠もった冷たい目で斬り捨てられたくなかった。

 

 獪岳が藤の花の山で死なないように手伝って、山を降りるときに斬ってもらえれば、それでよかった。

 知っている人間と同じ顔の鬼を斬らなければならない獪岳は、少しくらい哀しむかもしれないけど、でも幸ももう生きていくには疲れていた。

 何だかんだあったのだろうけど、ひとまず元気そうな獪岳を見て、安心して、もう辛いことしかない自分の生なんてどうでもいい、と思った。

 獪岳が、ちゃんと生きていてくれたのが、嬉しかった。

 鬼殺隊なんて危なそうなところに入っていてほしくなかったけれど、でも獪岳が決めて選んだことなら、仕方ないだろう。

 

 と、思っていたのだが。

 

 山を降りるときに、獪岳は普通に幸について来いといった。

 お前がいたら便利だし必要だから来い、と当たり前みたいに言って、本当に幸を藤の花の山から連れ出してしまったのだ。

 鬼を山から出したら、獪岳が怒られるんじゃないのかと思ったのだけど、獪岳は気にしていなかった。

 

 獪岳は、幸が鬼になっても自分についてくるし、傷つけたりはしないと、頭から信じているみたいだったのだ。

 

 その自信は、一体全体何を根拠にしているんだ、とまともな言葉が喋れたら問い詰めただろう。

 幸が力を込めて殴ったら、獪岳の頭なんて熟しすぎた柿みたいにぐしゃりと潰れるのに、どうして連れていけるのだ。

 どうして、前と変わらないままに悪態がつけるのだ。

 

 わからないまま、幸は獪岳と一緒に戦った。鬼を殺して、人を守って、また鬼を殺して、人を守った。

 そんな旅の中で、一番小さな沙代以外のお寺の子たちがみんな鬼に殺されて、行冥さんが犯人にされて、捕まってしまったと聞いた。

 きっと殺したのは鬼だったろうが、朝日を浴びれば死ぬ鬼は、遺体という証拠を残さないし、お上は鬼なんてものを信じない。

 

 なんで、悪いことなんて何もしていない行冥さんやみんなが、そんな目に遭わなくちゃならないんだろう。

 み仏さまは、誰も救ってくれなかったのだ。

 

 泣きたくなるほど悲しいはずなのに、涙が出なかった。

 記憶はたくさんあるのに、幸は泣き方がわからなくなってしまったのだ。

 悲しいとか、辛いとか、嬉しいとか、楽しいとか、そういうのに、随分鈍くなってしまった。

 獪岳はよく怒るから何を考えているかよくわかるけれど、幸は自分のことがわからない。

 

 鬼は嫌い。

───哀しいから。

 

 鬼舞辻無惨は憎い。

───人を鬼にするから。

 

 獪岳に死んでほしくない。

───最後の家族だから。

 

 その三つの想いだけが、幸の感情をほとんど埋め尽くして、操り人形のように体を動かしていた。

 記憶ばかりが鮮やかで、そこに当然あったはずの自分の感情とか、想いとか、そういうものが薄れてしまっていたのだ。

 

 鬼になったせいでこうなったのか、長いこと一人でいたからこうなったのか、幸にはわからない。

 

 鬼殺を獪岳と続けてしばらく経ってから、やっぱり鬼殺隊の上の人に裁かれることになった。

 裁くための場では、二人とも処刑すべきだ、という声が聞こえた。そしてそれを言ったのは、あの行冥さんだったのだ。

 何がどう転んだものなのか、あの寺の行冥さんは、鬼殺隊で一番強い九人の『柱』のうちの一人になっていたのだ。

 

 昔の面影がありながらも、低くなった重い声で、鬼は早く殺さなければならない、と言われた。

 

───そっか。

 ────そう、なんだ。

 ────仕方ないか。

 ───わたしは、鬼だから。

 

 心の何処かで、行冥さんも獪岳のように前と変わらないふうに接してくれないだろうか、と思っていたのだ。

 幻想が砕かれたことを、辛いと思うべきだったのだろうけど、なんだかその声もぼんやりと薄衣一枚隔てた向こう側から聞こえているみたいで、幸は布の中でじっとしていた。

 それだからか、柱の一人だという血のにおいが濃い人に刀で斬られたときも、あまり何も感じなかった。

 

 獪岳が柱の一人に斬られて治して、今度は幸が斬られ、人の血を啜るのを我慢した。

 幸と、もう一人鬼にされた知らない女の子が人を襲わない証明はそれで成されたと、鬼殺隊の頭領が言ったのだ。

 

 獪岳が死ななくて済むことに、ほっとした。

 だというのに、あの意地っ張りは、結局行冥さんの顔もろくすっぽ見ずに旅立ったりするから、幸は箱の中から背中を蹴っ飛ばしてやった。

 なんで人間のくせに、行冥さんと会わないのか。

 幸は鬼だから、会っても行冥さんを悲しませてしまうだろう。だけど、獪岳は違う。

 

─────ばか。

 ─────ばかばかばか。

────獪岳の、ばか。

 

 なんで、自分のことを気遣ってくれる人間とまともに向き合わない。

 一人で生きていけるような顔して、そんなことできやしないくせに。

 だから、唐変木だと言うのだ。

 

 それでもやっぱり、幸には獪岳を置いて行くことはできないのだった。

 だって、鬼殺の人は、本当によく死ぬ。

 足を斬られれば、もう走れない。

 指が一本千切れたら、もう刀を握れない。

 だのに彼らが戦うべき鬼は、もげた手足だっていくらでも生やせるし、病気にもならない。

 獪岳だって怪我をしたことは何度もあるし、それでも刀は手放さなかった。

 

 獪岳には、死なないでほしい。人間として、生きていてほしい。だから、離れられない。

 それは、本当に幸の本心なのだ。

 

 裁判が終わったあと、獪岳は剣のお師匠さんに呼び出されて、また叱られていた。

 何故鬼の言うことを信じたのか、と言われて獪岳の答えはなんとも単純だった。

 

 鬼になったのが幸だったから、信じたのだそうだ。

 いつもいつも、獪岳の近くにいたやつだから、人を喰ってないというなら本当に喰っていない。

 嘘などつけるような器用さなんてまるでなくて、そのために鬼に喰われるようなグズだったから。

 

 そんなことを馬鹿正直に言うから、獪岳は、また師匠さんに叱り飛ばされていた。

 箱の中で、幸はそれを聞いた。

 獪岳を追いかけて鬼に襲われて、そのときに獪岳に逃げろと言ったことが、獪岳の心にそんなにも深い楔になっていたのだと、幸は初めて知った。

 

 箱から出てみたら、獪岳の師匠さんが頭を撫でてくれた。

 獪岳はべしべし叩くばっかりで、そんなことしてくれないから、とても驚いた。

 

 乾いた手で頭をなでながら、頑張った、と師匠さんは言ってくれたのだ。

 

 ────そう、なのか。

────わたし、頑張ったんだ。

 ────頑張って、たんだ。

 

 気づいたら、幸は小さい子どもみたいにわぁわぁと泣いていた。

 初めて会った人の前で、泣き喚くなんて格好悪かったと恥ずかしくなったが、でも泣くだけ泣いたら、頭の中にかかっていた紗幕のようなものが、なくなっていたのだ。

 言葉は、まだ思った通りに話すことはできなかった。

 しかし、獪岳とまた会えたことが嬉しい、しろい月下の道を歩くことができて楽しいという感情が、しっかりと自分の中にあった。

 

 自分は、獪岳にまた会えたことを嬉しいと感じることもできなくなっていて、しかもそれに気がついてすらいなかったのだった。

 

 桑島慈悟郎、というそのお師匠さんに、幸は本当に深く感謝した。

 同時に、いいお師匠さんに心配ばかりかけまくっている獪岳をちょっとだけ怒った。

 頑張り屋なくせに、なんで自分が認められていないとすぐにひねくれるのか。

 一途に努力できるなら、自分に向けられている想いにも一途に向き合え、このわからず屋、と。

 

 そういえば、昔はこんなふうに言いたいことをもっと言えていたのだっけ、とお師匠さんのお家からの帰り道、考えた。

 最初は確かに、獪岳を監視しているつもりで、幸は側にいたけど、でもそのうち獪岳と話すのが楽しくなっていたのは、事実だった。

 確かに獪岳はひねくれやだし、すぐ誰かを見下す。

 だけど、鬼になった幸を、幸として扱ったのも獪岳だ。

 鬼になった人間を、人間だったころと同じに見てしまうなんて、己を滅して鬼を斬るべき鬼殺隊員としてはあるまじき行動なのだろう。

 だけど幸には、それが救いになったのだ。

 当然の如く、獪岳は幸がそんなふうに思っているなんて、気づいてすらいないだろう。

 いちいち説明してやる気も、幸にはない。

 言おうが言わなかろうが、これからも鬼殺を続けることに変わりはないのだから。

 

 そう。

 そんなふうにお師匠さんのところから帰ってきて、今は獪岳と共に獪岳の弟弟子たちの怪我の回復を蝶屋敷で待っていたりするのだ。

 何故そんなことになったのかといえば、獪岳の修行の一環である。

 欠けているところを弟弟子と修行して見つめ直せ、と獪岳の師に言い渡されたからだ。

 あからさまに不満そうな獪岳だったが、鬼を庇うという行動が師にどれほどの覚悟をさせてしまうものだったかを目の当たりにした後では、いつまでも意地を張り続けるということもしなかった。

 

「おい、幸。お前、あいつらのとこに行ったんじゃねェのか?」

「ん?」

 

 帰って来てから、獪岳が変わったことと言ったら一つくらい。

 鬼っ子か、お前としか呼ばなかった獪岳が、幸、と前みたいに呼ぶようになったことだ。

 嬉しい変化だったが、そんなふうに不機嫌な調子で呼ばれても、と幸は首を傾げた。

 

「余計なこと言ったのかって聞いてんだよ」

「よけ、いって、なに?」

 

 不死川玄弥と獪岳の押し問答の理由を、我妻善逸に聞かれたから、正直に答えただけだ。

 それから獪岳が夜にしている稽古も見せたけれど、幸はそれが余計なこととは考えていない。

 

「あいつ、黒い刀の竈門だったか。あいつがメンドくせェ。やたら話しかけやがる」

「ん。……はな、した。ぎょうめいさん、の、こと」

「何余計なことしてやがんだよテメェ!」

 

 箱をぶん回され、幸はきゅう、と目を回した。

 とはいえ、鬼だから一秒でそんなものは回復する。

 

「よけい、じゃ、ない。かいがく、に、いる、こと」

「は?」

「かいがく、人と、連携して、ない。鬼としか、連携していないのは、よく、ない」

 

 ぐ、と獪岳が押し黙る気配がした。

 そうなのである。

 鬼殺隊になってこの方、獪岳は同じ人間の剣士との合同任務というのをほとんどこなしたことがない。

 専ら単独任務をこなすか、合同で当たるべきと鎹鴉から言われた任務を幸と共に先に片付ける、ということばかりだ。

 そのせいか知らないが、自分勝手とか偉そうとか言われるが、獪岳は単に強くなりたくて死にたくないだけで、周りを気遣うことがまったくと言っていいほどできていないだけなのである。いや、それはそれでまずいが。

 

「わたし、は、かいがくにあわせて、戦、う。だけど、かいがく、人にあわせ、て、強い鬼と、たたかうこと、できて、ない」

「うっせェ」

 

 うるさいくらいでないと、人の話を聞かないだろうに。

 幸は気にせずに続けることにした。

 

「人、は、鬼とちがって、たすけ、あえる。かいがく、人なんだか、ら、どうして、やら、ない?」

 

 集まると共喰いしだす鬼とは、違う。

 人は、鬼殺隊は、力を合わせ、技や想いを伝えることができる。一人では敵わない相手に、多くの力を集めて立ち向かうことができる。

 鬼舞辻の使い勝手のいい駒としての在り方を強要される鬼が、決して持ちえない強みを活かさなくて、どうするのだ。

 獪岳だって、育手のお師匠さんの技を受け継いでいるのに。

 だが、獪岳はふん、と鼻を鳴らした。

 

「そんなに言うんなら、お前がやってみりゃいいじゃねぇか。あいつらはまだ、常中の呼吸も知らねェ雑魚だ。何故俺が合わさなきゃならねェんだ」

「わたし、が、やっても、意味、ない!」

 

 がんがんがん、と箱を内側から叩いて抗議したのに、獪岳から返事は返って来なかった。

 獪岳が、幸が入ったままの箱を縁側に放置して、一人だけで任務に赴いてしまったと幸が知ったのは、日が落ちて箱から自由に出られるようになってからで、それを知ると同時に、小さななりをした少女の、珍しい怒りの咆哮が蝶屋敷に木霊したのだった。

 

 

 

 




【コソコソ噂話】

 幸は完全記憶能力を持っており、自分のことを『一度覚えたことを忘れられない人間』と称しています。

 獪岳は、幸の物覚えがいいことは知っています。

 が、まさか物心ついてから今まで、ガキの頃の自分のことを含めてすべてを記憶しているとは思っていません。


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七話

七話です。

幸の話(下)です。

では。


 

 

 

 経緯は省いて結果だけを言うと、幸は獪岳によって蝶屋敷に置いてけぼりをくった。

 とはいえ、獪岳の鎹鴉と幸はそこそこ仲が良いから、何かあれば知らせてくれるだろう。

 追いかけても良かったのだが、置いてけぼりにするというなら、幸にも考えがある。

 その時間で全集中の常中の呼吸を善逸たちに伝えればいい、と幸は決めた。

 

 全集中の呼吸自体は、鬼と戦うために人が編み出した特殊な呼吸法だ。

 体に空気を大量に取り込み、人のまま鬼と戦えるほどに力や速さを上げるための技。

 無論、これにもできる者とできない者がいる。

 そして全集中の常中というのは、四六時中この呼吸を続ける方法のことだ。

 慣れていない者では、全集中を短い時間続けることすらかなりきついものがあるらしい。

 だが、それを乗り越えて文字通りに四六時中全集中の呼吸を続けることができれば、基礎体力などが飛躍的に向上する。

 これが、柱になるための最低限の技術というから驚きだ。

 

 獪岳も、鬼殺の剣士になってから、師に教えてもらったそうだ。

 曰く、呼吸や剣技をきちんと身に着け体がある程度出来上がってからでないと危ないと。

 師匠から教えられたことは真面目にこなす獪岳は、鬼殺隊として鬼を斬る傍らそれを身に着け、ついでにそれを横で見ていた幸も会得した。

 鬼が学んでしまっていいのかとも思ったが、できないよりできるほうがいい。

 それに幸は人の肉を一切食べないせいか体が小さいままで、傷の治りが遅い。自分の意志で体を大きくもできるが、消耗するのであまり使えないのだ。

 その分すばしこいが、より強くなれる方法があるならやらないでどうする、というふうになった。

 

 そんなこんなで、幸は全集中の常中を知っているし、できる。

 一方、まだ新米の鬼殺隊員という善逸たちはと言えば。

 

「え?全集中の……常中?」

『知りませんか?』

「……うん」

 

 訓練場からの帰り道、やけにしょげている善逸を捕まえて聞いてみれば、予想通りの答えが返って来た。

 なんでも、鈍った体を回復させるための訓練を手伝ってくれた蝶屋敷住みの同期の華奢な女の子の隊士にまったく歯が立たなかったとか。

 やっぱり、同年代の女の子に身体能力で負けるのは堪えるものであるらしい。

 

『常中とは、全集中の呼吸を、常にすることです。戦闘中は無論、睡眠、食事、会話、入浴など、とにかく四六時中呼吸を途切れさせないことです』

「……あ、それなんか爺ちゃんが言っていたかも。だけど俺、すぐ死ぬからってあんまり聞いてなかった、ような?」

『ありゃまぁ』

 

 縁側に並んで座って筆談しながら、幸は全集中の常中について善逸に伝えた。

 

『かいがくとわたしもしています。わたしは、かいがくがやっているのを見て勝手に覚えたんですが、確かに体が強化された感はあります。続けていると、体が強くなるんです。その女の子の隊士さんも、多分常中で体を鍛えているのではないでしょうか』

「あ、やっぱり獪岳もやってるんだ。あいつ、呼吸の音が俺たちと違ってるなと思ってたんだけど」

『そうですね。というか善逸君、耳がとても良いんですね。炭治郎君は鼻が利く、と言っていましたが』

 

 善逸は時々、『怒っている音』とか『優しい音』という独特な表現をする。

 ただの例えかと思っていたが、それはどうやら彼の人並み外れた聴力が聞きとっている音で、だから善逸には人が嘘をついているか否か、鬼か人かもわかるのだそうだ。

 炭治郎は同じように鼻で人や鬼を嗅ぎ分けるし、伊之助は触覚が優れていて離れたところの鬼の位置も読み取れるというから、幸には驚きだった。あなたたち、本当に人間ですかと。

 

「そういえば幸ちゃんは、物覚えがすごくいいって獪岳が言ってたけど」

『はい。わたしは、一度見たものを忘れられないんです。……そうか、これも体質ですね』

「え、何それすげぇ」

『だから、かいがくの小さいころ叱られてたこととかも、全部覚えてるんですよ。あ、言ったらわたしが怒られるので言いませんけど、小さいかいがくはかわいかったです。今よりは。今よりは、ですが』

「かわいい……獪岳?」

 

 団栗を喉に詰まらせた栗鼠のような顔になった善逸である。

 確かに今の仏頂面獪岳からは、かわいいという単語は間違っても繋がらないだろう。

 

「幸ちゃんは、獪岳の幼馴染みなんだよね」

『はい。そして、善逸君は弟弟子ですよね』

 

 善逸が、何度か獪岳に手紙をくれていたのを、幸は知っている。

 獪岳は読みもせずに捨てていたが、幸は回収していた。

 中身は読んでいないが、ずっと手紙をくれていたということは、善逸は獪岳を心配していたのだろう。

 善逸は、獪岳にできない壱ノ型・霹靂一閃が使えると言うが、逆に獪岳ができる他の雷の呼吸の型すべてが使えないそうだ。

 凸凹というか、その図ったような具合は何なんだろう。

 

「全集中の常中かぁ……。俺にできるかなぁ」

『できますよ!鍛錬あるのみ!ですが』

「うん。そっか。教えてくれてありがとう、幸ちゃん」

 

 そうは言って笑ったものの、どこかに陰のある微笑みのような気がして、幸は善逸の顔を下から覗き込んだ。

 

『善逸君?どうかしましたか?顔が笑って、心が泣いてますよ』

「うぇっ!?いいいいいやあのね!ご存知のように俺弱いでしょ!?みっともないでしょ!?獪岳よりも絶対弱いし、そんなことしててもすぐ死ぬしできないんじゃないかな……って」

 

 言葉が尻すぼみになって行って、幸は首を傾げた。

 那田蜘蛛山で蜘蛛鬼を倒していたのに、なんで弱いと言うのだろう。

 

『みっともなく、ありません。かいがくに、あなたはずっと手紙をくれていたでしょう。鴉が教えてくれていました。だからわたしは、会う前からあなたの名前は知っていましたし、感謝しています』

「う……。だけど、返事なかったしなぁ。獪岳、あんなに頑張ってるのに俺と来たらさ……」

 

 ずぅぅぅん、と善逸の背中に漬物石が乗っかっている光景を、幸は幻視した。

 

『もう一度、書きます。みっともなくありません。大体格好悪さで言えば、以前わたしに姫抱きされて戦線を離脱したかいがくの右に出る人は、今のところいませんから』

「はい?姫抱き!?え、なんでそんなことになったの!?」

『怪我しているところを鬼に襲われたので、わたしが大きくなって、担いで逃げたんです。あとで鬼はちゃんと倒しましたが』

「それ、獪岳の反応は!?」

『降ろせとか放せとか騒いでいましたが、しばらくしたら大人しくなりました。やっぱり自分より華奢な女に担がれるのは、堪えたみたいで。鬼のわたしのほうが、力が強いのは当たり前なのに』

「無邪気なのかと思ってたら黙らすためにわざとやったの!?わざとなのこの子!?何それ怖い!」

 

 頑張ったのにひどい言われよう、と幸はぷくりと頬を膨らませた。

 体を大きくするのは、血鬼術を使うより疲れるから滅多にやれないのだ。

 騒ぐだけ騒いで、善逸は安心したふうに肩から力を抜いた。

 

「でも、そっか。幸ちゃん、獪岳のことずっと見ててくれたんだな」

『ずっとじゃありませんが、ね。でもかいがくが鬼殺隊になってからはずっと、ですね』

 

 自分が鬼になってからの数年間、獪岳がどこで何をしていたか、幸は知らない。

 聞いていないのだ。同じころ、自分が何をしていたか思い出したくないから。

 

「ねぇ、幸ちゃんはさ、獪岳と一緒に行冥さんに会いたいんだよね?」

『はい』

「だけど獪岳が意地張ってるから、会いに行けてない、と」

『……そうですね。善逸君、何か案はありますか?』

「うーん……案ってほどじゃないけど、会いに行くのがあれでも、手紙はどうかなって思ってさ。俺も獪岳には書いてたし」

 

 あ、と幸は筆を取り落としかけた。

 そういえば、手紙という手段もあった。

 生まれてこの方、誰にも手紙など書いたことがなかったし、貰ったこともなかったから、さっぱり思いついていなかったのである。

 

 チュン、と不意に雀の声がして幸は顔を上げる。

 たんぽぽ色の善逸の頭の上に、茶色と白の丸っこい雀がちょこんと乗っかっていた。

 つぶらな黒い目が二つ、幸を見ている。

 

「あ、こいつね。俺の鎹鴉の、雀のチュン太郎。俺たちはしばらく蝶屋敷待機で任務もないからさ、幸ちゃんの手紙、こいつに届けてもらおうよ」

『いいんですか?』

「うん。幸ちゃん、那田蜘蛛山で俺のこと助けてくれたでしょ。生命のお礼にもならないけど、これくらいさせてくれよ。それに、チュン太郎も幸ちゃんに何かしたいみたいなんだ」

 

 チュンチュン、と雀が善逸に賛成するように鳴いた。

 

『じゃあ、お願いできますか?手紙は明日持ってきますから。あと、獪岳には……』

「わかってる。内緒にしとくよ」

『助かります』

 

 流石に弟弟子。言わなくてもわかってくれる。

 

『あと、あの、チュン太郎君に、触ってみてもいいですか?』

 

 チュン、と雀は首を傾げると、ぱたぱたと幸の膝の上に降りてくる。

 左手で掬い上げるようにして持ち上げ、右の指で頭を撫でると、雀は気持ち良さそうに目を細めた。

 

「雀、好きなの?」

「ふわふわ、が、好、き。かいがく、の、鴉も、ふわ、ふわ。猫、も好き」

 

 幸は自分より小さい、毛や羽が生えている生きものなら、なんでも好きなのである。

 あたたかくてやわらかくて、触れると生きているんだと実感できるもの、すべてだ。

 ただ、鬼になってから犬には吠えられ、猫には威嚇され、散々である。鬼のにおいが、彼らを警戒させるらしい。

 獪岳の鎹鴉くらいしか触らせてもらえないのだが、彼も最初は警戒していて幸の腕に止まったり、直に木の実を食べてくれるようになるには、随分時間がかかっている。

 

 幸はそのまま、ふくふくしたチュン太郎の羽を撫でるのを楽しんだ。慣れているのか、チュン太郎は驚いて飛び立ったりしなかった。

 滑らかな羽の感触に、ふくら雀は縁起物、という言葉を思い出す。

 ふくら雀は、寒さを凌ぐため羽に空気を入れて体を膨らませ、ぷんぷくりんに丸くなった雀で、幸も昔、何度か冬に見たことがある。

 ふくらは、福良や福来と書けて縁起が良い。

 名にちなみ、ふくら雀と呼ばれる娘用の帯の結び方があったのだ。

 帯を膨らませるやり方で、とても可愛らしく仕上がるのだとか。見たことはないが、噂で聞いたのだ。

 お寺にいたころは、もちろんそんな帯なんて持てなかった。ふくら雀どころか着たきり雀であったから、みんなとそんな夢の話をした。

 獪岳たち男の子にはさっぱりわからない話だから、何がそんなに楽しいんだと呆れ顔をされたものだ。

 

 あの子も、沙代もそんな帯を締めるのだろうかな、と幸は少し思う。

 十年近く前、少しだけ外に行ってくると手を振って、もうそれっきりになってしまった家族。

 あんな些細なやり取りがお別れになるなんて、思ってもみなかった。

 沙代は今、十四歳にもなるはずだ。

 鬼にされたころから姿形が変わらない自分では、会えばひどく驚かせてしまうだろう。

 

 あの子がどこかで幸せに生きているなら、それで良い。

 それだけで、良いのだ。

 二度と会えなくっても、幸は我慢できる。

 願わくば沙代が、ふくら雀の帯を締めて、綺麗な振り袖を翻して微笑む、そんな娘になっていてほしい。

 そうでなくってもせめて、もう二度と、二度と沙代が鬼に会うことがないように。

 怖い目に遭うことが、ないように。

 

 祈るように、幸は目を細めた。

 

 最後に一度だけ、チュン太郎のまろい頭をするりと指先で撫で、幸は鎹の雀を善逸の膝の上に返した。

 

「もういいの?」

『はい。艶々ですね、チュン太郎は』

 

 羽に色艶があって、筋肉もしっかりついている。きっとたくさん食べて、たくさん飛んで鬼殺隊の仕事を頑張っているのだ。

 自分も頑張らなくちゃ、と幸は小さな両の拳をきゅっと握った。

 

『ありがとうございました。善逸君。わたしは、手紙を書いてきます。全集中の常中、頑張ってくださいね。お手伝いできることがあれば、いつでも呼んでください』

「が、がんばりまーす……」

 

 巻紙と筆をしまい、ぺこりと一礼して幸はその場を去った。

 明日か、明後日か、そうでなくとも一週間以内には獪岳が戻ってくるだろう。

 それまでに手紙を出すにしても、何を書けばいいのだろうか。

 行冥さんが生きていてくれて嬉しかったこと。

 鬼になっても見た目があのころのままでも、中身は過ぎ去った年月の分成長していること。

 そういうことを伝えたいのだが、どう書けばいいのやら。手紙なんて、読んだことがないのだし、自分が思っていることを綴るのは難しい。

 どうしたものだろうか、と廊下を歩いていると、幸は部屋の戸が一つ、細く開いているのに気づいた。

 すぅっ、と音も無く戸が開いて、出てくる人影が一つ。黒髪をのばして、竹の口枷を嵌めた女の子、禰豆子だった。

 

「禰豆子、ちゃん?」

「むー」

 

 名前を呼ぶと、禰豆子は振り返る。

 幸を見ると、禰豆子はとたとたと近づいてきて、そして頭を撫でた。

 

「ん?」

「む」

 

 禰豆子のほうが、幸より頭一つ分以上は背が高い。でも歳は、幸が上なのだ。

 どうして、小さい子にするみたいに頭を撫でられているんだろう。

 驚きで、幸はその場で固まった。

 禰豆子は目を細めて嬉しそうだから、手を避けるのもしたくない。

 

「ど、うし、たの?兄、さん、探す?」

「むー!」

 

 体力を回復させるための眠りから起きて、兄の炭治郎を探しに出た。そんなところか。

 禰豆子も幸も、眠ることで人を食べるのを防いでいるから、眠りは重要だし、長く摂らなければならないことが多い。

 だからこそ、目覚めたときに一人だと寂しくなったりするのだ。

 

「いっしょ、に、探そ」

「む!」

 

 大きく頷いて、禰豆子は何故か幸の手を取って歩き出した。

 先導してくれているようなのはいいのだけれど、これだと禰豆子が幸の人探しを手伝ってくれているようで、あべこべだ。

 もしかして。

 

「禰豆子ちゃ、ん。わたし、かいがくを、探して、は、ない、よ」

「む?」

「かいがく、なら、帰ってく、るから。炭治郎君、探そ、う」

 

 禰豆子はきっと、幸が一人で歩いて、獪岳を探していると思ったのだろう。さっきのことと言い、どうも禰豆子は幸を年下に見ているようだし。

 確かに普段は箱の中にいるか、獪岳の周りをちょこちょこ歩いているかで、幸が一人で蝶屋敷の中をうろうろするのは、初めてといってもいいくらいだ。

 ただ今回は、逸れたわけではなくて、単に獪岳に置いてけぼりにされたのである。

 

「それ、に、かいがく、わたし、の、兄さん、じゃない、よ」

「む?」

「どちらか、言った、ら、弟」

 

 歳でいうなら、獪岳は幸より一つ上だが、最近は弟でいい気がしている。

 第一、あっちが兄というのは、うまく言葉にできないが色々と面白くないのだ。

 お師匠さんや善逸君や、たくさんの人に心配ばっかりかけて。いい加減気づきなさいと、何べん箱の中から背中を蹴ればいいのか。

 意味がわかっているのかいないのか、禰豆子はきょとんと首を傾げた。

 

「むー」

「炭治郎君、なら、けいこ、ば、の方、かな」

 

 と言って幸が稽古場の方を指さすと、禰豆子は幸の手と手を繋いだまま、そちらへ歩き出す。

 幸と似た、鋭い鬼の爪が生えた手。でもとても、あたたかい。幸よりもちょっとだけ大きいけれど、獪岳のよりは小さい手。

 沙代とも、こんなふうに手を繋いで帰ったことがある。

 

「父さん、とか、母、さんとか、弟、とか、妹と、か、どんなふう、なんだろう、ね」

「む」

「行冥さん、が、本当の、父さん、だった、ら。よかった、な」

 

 赤子のころに別れたっきりの実の親のことを、幸は覚えている。

 いつも怒鳴っていて酒浸りで、貧しい暮らしの中で、どこかの神さまに救いを求めて祈ってばかり。

 幸の脚の骨が歪むことになった怪我も、正体もなく酔った彼らに、床の上に落とされたせいだった。

 

 行冥さんとは、全然違う。

 夜の道で手を繋いでくれたり、泣いていたら頭を撫でてくれたりして、行冥さんは叱るときも決して、大声で怒鳴ったりしなかった。

 だから、岩柱の名を冠する通り、巌のような剣士になっていた行冥さんを見たときは、誰なのか一瞬わからなかった。

 記憶の中の姿は、上背はあったけど細くて、誰かを殴ったこともない柳のようなものだったから。

 行冥さんは、みんなの兄さんか父さんのようだったけど、二十歳にも届いていなかった。

 今の幸や獪岳と同じ歳か、ともすれば年下だったのだ。

 そんなこと、昔はわからなかった。

 

「あいたい、な。……てが、み、どうやって、書こうか」

「むー」

 

 呟いたら、また頭を撫でられた。解せない。

 

「禰豆子ちゃ、ん。わたし、あなたより、お姉さん、よ?」

「む」

「あ、その顔、わかってない、ね。……えい」

 

 思いっきり背伸びして、禰豆子の頭を撫でる。ぎりぎり届いて、幸は満足だった。

 

「炭治郎、君、に、会いに、いこ。ね?」

「む!」

 

 元気一杯に頷く禰豆子に、幸はそっと微笑みをこぼしたのだった。

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 獪岳が蝶屋敷へ帰って来たのは、四日後の日が落ちてからであった。

 そのとき、幸はちょうど箱から出て、禰豆子と一緒に炭治郎から教わった、あやとりを一人でしているところだった。

 

「あ、おか、えり」

「……」

 

 頬に薬臭い湿布を貼っていること以外は、五体満足至って健康そうな獪岳は、幸の声に片手だけを上げて少し左右に振った。

 ただいま、のつもりだろう。無言で仏頂面だが。

 

「おそかった、ね。ひと、りの、任務、平気?」

「ったり前だろ。お前こそ」

「ん。わたし、ひとり、慣れて、る。藤のお山、にずっと、いた、か、ら」

 

 嘘である。

 何年も藤襲山に一人だったから孤独に慣れたのかと言われたら、そんなことはない。

 むしろ、誰かの近くにいたい、側にいたい、という思いは大きくなったくらいだ。

 目覚めて一人ぼっちだと、山に引き戻されたのかと怖くなる。

 が、今回幸を置いていった張本人の獪岳にそんなことを言いたくない。単なる意地であり、幸は少し拗ねていた。

 

「……そうかよ」

 

 背中の刀を降ろして、獪岳は縁側に腰を下ろした。部屋の中でしていたあやとりをやめて紐を帯に挟み、幸はその隣にすとんと座る。

 

「炭治郎君と、善逸、君、に、伊之助、君、じょうちゅ、う、やってる。あと少し、した、らうまく、いきそ、う」

「お前何か、教えたのか?」

「ん。すこ、し」

 

 獪岳や自分が常中をしたときのことを、無論のこと幸はすべて覚えているから、説明するとわかりやすいと言われたものだ。

 後は、ああだこうだと悩みながら行冥さんに手紙を書いて善逸の雀に頼んで、禰豆子と鬼同士の脚力による駆けっこをしていた。

 尚、手紙の返事は、来ていない。

 獪岳は黙ったままだ。首に巻いた勾玉のついた首飾りを、手で弄っている。

 怪我をしたときの血のにおいはしないのだが、見えないところをぶつけて痣でもこさえたのかと、心配になる。

 

「外に、な」

 

 獪岳が、ぽつりと言った。

 

「蝶屋敷の外だ。塀のところに、猫がいた。お前、猫好きだろ」

「……好き、だけ、ど。かいがく、知って、るで、しょ。逃げられ、る、だけ」

「鬼殺隊が出入りしてる屋敷の側で、みゃあみゃあ鳴くやつだぞ。平気だろ」

 

 見に行くぞ、と獪岳は刀片手に立ち上がってすたすたと歩いていく。

 

「あ、まって、よ」

 

 草履を突っかけてついて行くのだが、獪岳のほうが歩幅が大きい。小走りのようになった。

 

「早くしろよ」

「ん!」

 

 蝶屋敷をぐるりと取り囲む白い壁。角のところに、確かに小さな黒猫がちんまりと座っていた。

 獪岳の後ろに貼り付くようにして、近づく。

 猫は座ったままで逃げなかった。金色の目がきらきらしていて、黒い毛並みには艶がある。

 野良猫ではないのだろう。

 

「お前なァ、いつまで俺にひっついてんだよ。歩きにくいだろうが、鬱陶しい」

「だっ、て、きしゃあっ、て。きしゃあっ……て、された、ら」

 

 きしゃあ、と猫が幸のにおいを嗅いだ途端に毛を逆立てたり爪を剥き出しにしたら、結構傷つく。

 まさか泣くほどではないが、悲しいものは悲しい。

 鬼の体ほど、心が丈夫と思うな。

 面倒になったのか、獪岳が鼻を鳴らす。

 そのままべりっと幸を引き剥がすと、首根っこをつかんで猫の前にぽん、と降ろした。

 

 小猫と幸の、金色の瞳が交わる。

 猫は逃げないで、みぃ、と鳴いて幸の足元に擦り寄ってきた。

 ゆっくりしゃがみ、怖々手を伸ばして顎の下をくすぐると、猫はごろごろと喉を鳴らしながら目を三日月のように細めた。

 

「あれ…」

「そら見ろ。猫にも変わり種がいるんだろ」

 

 幸の隣で膝をついた獪岳も、手を伸ばすと耳の後ろをかいてやっていた。

 猫は気持ち良さそうに、ひとしきり二人の間を巡ると、尻尾を振りながら暗闇に消えて行った。

 さよなら、と手を振る。

 毛並みと瞳の艶からして、野良ではなくどこかの家に住んでいる猫だという気がした。

 

「もういいのかよ」

「ん。あの、子は、あの、子の、家、かえらない、と」

「……飼い猫か」

「鬼殺隊、のいえ、の子、かも」

 

 それなら、鬼のにおいにも少しは慣れている。

 立ち上がって、幸は獪岳を見た。

 

「それ、で、かいがく、どうした、の?」

「あ?」

「猫を、見よ、う、なんて、言った、こと、ない」

「別にどうでもいいだろ。お前、猫好きなんだから」

 

 そうだけれど、そういうことではなく。

 

「もしか、し、て、謝って、る?置いてっ、たこ、と」

 

 蝶屋敷の門の手前にいた獪岳の足が、止まった。

 暗闇だが、鬼の視力には獪岳の耳の先がほんの僅かに赤くなっているのか見えていた。

 

「……かいがく、耳、赤、い」

「てめっ!?見てんじゃねェ!」 

 

 耳を押さえた獪岳の前にひょいと躍り出て、幸は下から獪岳の顔を見上げた。

 

「うれしいけ、ど、言葉で、いって、ね。それか、ら、行冥さ、んに、謝りに、行こう、よ」

「なんでそうなんだよ!」

「わたし、に、謝れた、なら、行冥さんに、も謝れ、る、でしょ。会いに、いこう、よ。いきたい、よ」

 

 くい、と袖を引くと、呆れ顔を返された。

 

「お前は呑気すぎんだろ。裁判のこと、もう忘れたのかよ」

「かいがくは、意地っ張り、すぎ。わたし、たち、鬼殺隊、だ、よ?明日も、生きて、るって保証、どこにある、の?」

「うるせぇ。明日はまたお前と任務に行くに決まってんだろ。あの三人が治るまで、まだかかるんだからな」

 

 やいのやいの言い合いながら、蝶屋敷へと並んで帰る。

 門をくぐろうとした瞬間、ふ、と懐かしいような気配を感じて、幸は敷居のところで振り返った。

 けれど、門の外に蟠る闇は何もかも飲み込んでいるようで、見透かせなかった。

 

「おい、幸」

「ん。いま、行く」

 

 きっと、気のせいだろう。

 獪岳の後をついて、幸は蝶屋敷の門をくぐったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 十数日後、善逸たちが完全に回復し、全集中の常中の呼吸を会得した後に鎹鴉から言い渡された合同の任務の行き先は、とある列車。

 無限列車、というのが行き先の名前であった。




『追記とお断り』

ふくら雀は明治以降にはあった帯結びということだそうですので、入れました。

鬼娘の、獪岳に見せる素は意外と幼いと思われるかもしれませんが、情緒が発達すべき七〜八歳から十六歳くらいまでの生活があれだったからということで。

感想の返信なのですが、返信が必要とこちらが判断した場合以外、返信しないことにいたしました。
作者がポカやって、ネタバレしそうなのが怖くなったのです。情けない話なのですが、ご理解くださると有り難いです。

感想はすべて読ませていただいて、励みになっております。とても嬉しいです。本当の本当に!

感想欄の増える黒死牟殿にはビビりましたです、はい。


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八話

八話です。

無限列車編開始です。

では。


 

 

 

 

 列車に乗る前から、獪岳は疲れた。

 師匠である桑島慈悟郎から言い渡された『修行』で、善逸とその同期の隊士二人との合同任務の行き先は、列車だったのだ。

 ただの列車ではなく、人が、もう四十人以上も消えている人喰い列車だという。

 先にその列車に乗り込んでいる炎柱、煉獄杏寿郎を手伝え、ということらしい。

 

 別に行き先が、列車だろうが樹海だろうが獪岳は構わない。

 回数はさほど多くないが任務で列車に乗ったことはあるし、幸はあれで西洋から来たものが好きだから、乗るとかなり楽しそうにしていて、手間がかからない。

 が、炭治郎と伊之助は列車に乗ったことはおろか、見たことがなかったのであるから、まるでお化けでも見たように騒いだ。

 普段、列車ほどでかくはないにしても異形の鬼ぐらい見ているだろうに。

 それより何より。

 

「刀!しまえ!」

「え?」

「あ?」

 

 人が屯する駅に、普通に日輪刀を持ったまま入ろうとする炭治郎と伊之助の肩を、獪岳は引っ掴んだ。

 

「お前ら、法律を知らねェのか。日輪刀見られたら捕まんだよ」

「そうなんですか!?でも、鬼だって街にはいるのに」

「お上のやつらが、鬼なんざ信じるか。本物を見ようが、ただの気狂いと思い込んだまんま喰われんのがオチだ」

 

 あいつらは、鬼が犯した人喰いを人の仕業と勘違いし、まったく違う人間どころか、鬼から子どもを守ったやつを人殺しとして逮捕するような馬鹿共の集まりだ。

 寺の事件の際、気が触れた子ども扱いされ放り出されて以来、獪岳は大の警察官嫌いなのである。

 

「いいから、刀は隠せ。それからそっちのイノシシは服を着やがれ」

「あんだと!」

「あんだとじゃねェ!捕まりてェのかこの馬鹿イノシシ!」

 

 上半身裸で猪の皮の被り物をしている上に、布を巻いただけの鞘のない二本の刀を持つ伊之助は、目立って仕方がない。

 この状況で怪しまれて駅員や警察官に問い詰められでもされたら、獪岳は堪忍袋の緒が切れて、そいつら全員叩きのめす自信があった。

 

「善逸!テメェこいつらなんとかしろよ!俺は切符買って来るからな!」

「えぇ!俺一人にこの状況押しつけないでよ!」

「知るかァ!」

 

 泣きついてきた弟弟子を全力で蹴り返し、切符を買って列車に乗るころには、無駄に疲れていた。

 これでは、何も考えずに鬼を斬っていたほうがマシかもしれない。

 

「お前らにはつきあってられねェから、そこら見てくるぞ」

「え、ちょ、獪岳!?」

「こいつが、列車の後ろが好きなんだよ。見せたらあとは、適当に歩いて戻る。一箇所に固まってても仕方ねェだろ」

 

 肩に担いだ箱を軽く叩くと、返事も待たずに歩き出した。

 炭治郎たちは、この列車に乗っている炎柱、煉獄杏寿郎と話す用があるという。

 炎の呼吸について、話を聞きたいのだそうだ。炭治郎は水、善逸は雷、伊之助は我流の呼吸を使うそうだから、炎とは関係ないだろうに。

 

『炭治郎君は、那田蜘蛛山で、お家に伝わるヒノカミ神楽を軸に剣の技を出すと、強い技が出せたから炎の呼吸を使う炎柱さまに、話を聞きたいんだって。火の神さまに捧げるお神楽舞だから、火の呼吸があるならそれを知りたいって言ってたよ』

「火の呼吸?そんなもんねェだろ」

 

 車両の外に出た獪岳と、箱から出た幸は、列車の最後方で並んで後へ飛び去っていく景色を見ていた。

 列車に乗ると、幸は後ろのデッキという場所に行きたがる。景色がよく見える外のほうが、好きだという。

 箱から幼い少女が出入りしている姿は見られたくないので、獪岳にも都合が良い。

 日も落ちた今ならば、箱の外に出ても幸に問題はない。最近覚えたらしい筆談で、彼女は流暢に『喋って』いた。

 

『聞いた話だけど、炎の呼吸を使う家は、絶対火の呼吸って言ったら駄目なんだって。火と言ったら、日に繋がって、混ざってしまうからじゃないかな。鬼の弱点は日の光だから、何か関係がありそうだよ』

「……お前、その話、竈門兄にしてやったらよかったんじゃねェのか」

 

 はた、と幸の筆が一度止まった。

 

『炎柱さまに直接聞いたほうが確かだし早いだろうから』

「字ィ震えてんぞ。忘れてたんだろ」

『面目ない』

 

 度が過ぎている物覚えの良さの割に、変なところで抜けているやつである。

 取り繕うように、幸の筆がまた走った。

 

『いつ戻る?』

「さぁな。炎柱との話し合いとかいうのが終わったら、様子見に行きゃいいだろ」

『もしかして炎柱さま、苦手?』

「俺とお前の首落とせと言ってきたやつの顔なんて、誰が見たいか」

『そんなこと言ってちゃ駄目だってば。炎柱さまのお話、聞かなきゃ。外の景色は、十分見られたよ』

 

 もう、と言いたげに、幸が頬杖ついて小首を傾げた。師の家を訪れてからこちら、日一日と幸の感情は目に見えて豊かになっている……と思う。

 曇りガラスのような瞳で、ぼうっと虚空を見つめていたころが嘘のようだ。

 その分、口数が増えて生意気になったが。

 と、幸が筆と紙を懐に入れて振り返る。同時に、獪岳も気づいた。

 

「お客さん。切符を拝見いたします」

 

 芯のない声と共に、亡霊のようにふらりと現れたのは、制服を着た乗務員の男である。

 切符切りか、と懐に手を入れて切符を取り出した獪岳のその手は、横からむんずと幸につかまれた。

 

「ま、って」

「は?」

「その切符、へん。臭い」

 

 途端、男の顔が歪んだ。

 踵を返して走り出そうとする男の背を、獪岳は蹴倒してその背中を踏みつけにするや否や、腕をねじり上げた。

 

「ひ、ヒィッ!」

「テメェ、なんで逃げやがった?切符に、何を仕込んだ?」

「わ、私は言われた通りにしただけだ!そ、そうすれば、あの人が家族に会わせてくれると……!」

「かいがく!」

 

 鞘に入った刀を、幸が投げてくる。

 片手で受け取り周りを見渡せば、すぐに異変に気づいた。

 乗客が、一人残らず寝ているのだ。

 というより、昏倒しているふうに見える。これだけ騒いでいるのに、一人も反応しないのは異常だった。

 だのに、ねじ伏せたこいつだけが起きて、動き回っている。

 鞘込めした日輪刀を、獪岳は男の顔の横すれすれに叩きつけた。

 木の床が弾けて木片が飛び散り、男が怯えて体を跳ねさせた。

 

「正直に答えろ。偽りは許さない。お前は、鬼に会ったな?」

「し、知らない!私は、こうすれば家族に、夢で会えると言われたから!」

 

 腕をねじり上げられながら、男が喚いた。これでは埒が明かない。

 乗客を眠らせたのは、恐らくは血鬼術。

 まさか車両すべてがこの有様なのかと、獪岳は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 

「俺と同じ服を着たやつらはどうした?鬼殺隊だ。前の車両に乗ってただろう」

「き、鬼殺隊?お、お前と同じ格好のあいつらならもう眠らせた!あとはお前たちだけなんだ!お前たち、だけだったんだ!」

「……クソが」

 

 世迷言をほざく男の首を締め上げて意識を落とし、獪岳は男を縛り上げて座席に転がした。

 幸は車両内を走り回り、何度か薄紅の光を乗客に向けてから首を振った。

 

「だめ。おこせ、ない。毒じゃ、ない」

「鬼を倒すしかないってか?」

「ん」

 

 幸の血鬼術は、鬼による毒の浄化と怪我の回復。

 それが駄目だと言うならば、大元の鬼を倒すしかない。

 

「鬼はどこだ」

「……ごめ、ん。わから、ない。風が、強くて、においが、とぶ。気配も、こすぎ、る。……だけど、たぶ、ん、先頭」

「機関部分かよ」

 

 この分では、他の車両の乗客も全滅かと舌打ちをしたときだ。

 ぞ、と背筋が総毛立った。

 

 ────雷の呼吸

────弍ノ型、稲魂

 

 周囲を切り裂く斬撃が、獪岳と幸に迫っていた肉の腕を叩き斬る。

 だが、まだ止まらない。

 乗客の一人の首元に伸びる太い腕を、幸の爪が切り裂いた。

 気づけば、車両の壁が不気味な肉に覆われて蠕動していたのだ。

 

「かいがく、かべ、鬼が……!」

「列車と融合しやがったんだ!放っときゃ、全員喰われるぞ!」

 

 しかもこれは、最悪なことに本体でなく末端。いくら斬ったところで、頚を斬るか日に当てねば鬼は死なない。

 乗客を守りながら先頭車両に向かうことも、八両すべてを一晩守り切ることも、獪岳と幸だけでは不可能だ。

 

 どうしたらいい。

 人を死なせず、鬼を殺すために必要なのは、なんだ。

 

「かいがく!」

「チッ!」

 

 考える暇なく、隣の車両の壁が蠢き、乗客を取り込もうとしていた。

 

 ────雷の呼吸

────伍ノ型、熱界雷

 

 下から上に切り上げるようにして放った斬撃が飛び、肉の壁を切り裂く。

 追いついた幸が、爪で壁を引き裂きざまに蹴り飛ばした。

 肉色の壁は後退するが、幸の背後から伸びた腕が小さな体を殴りつけて吹き飛ばした。

 

「幸!」

「だい、じょ、ぶっ……!」

 

 空中に跳ね上げられた幸はくるりと体を捻り、腕を殴りつけた。

 追いついた獪岳の刀が、腕を斬り落とす。

 幸が床の上に着地したとき、列車がぐらりと揺れた。

 勢い余ってよろけた獪岳の目の前に、炎が舞う。

 

「勾玉少年!」

 

 違った。

 炎ではなく、炎を模した羽織を纏う剣士が現れていたのだ。

 炎柱、煉獄杏寿郎は床の上に片膝ついた獪岳の目を、上から真っ直ぐに覗き込んでいた。

 

「状況は理解できているか!」

「……車両が鬼に乗っ取られた。触手を斬らねェと客が喰われる。鬼の本体は恐らく先頭。乗務員は敵だ」

「うむ!上出来だ!手短に言おう!俺は後方四両を守る!勾玉少年と勾玉妹は、黄色い少年と竈門妹と共に残り四両を守れ!本体には猪頭少年と竈門少年があたる!」

「わかっ、た!」

 

 幸が大きく頷き、走り出した。

 

「了解したが、あいつは妹じゃねェよ!」

「そうだったのか!では後で教えてくれ!」

 

 やたらでかい声で炎柱は叫び、再び列車を揺らす踏み込みと共に姿を消した。

 先程の揺れは、炎柱がこちらへと走って来た踏み込みが起こしたものだったのだ。

 どんな呼吸をすれば、踏み込みだけで列車が揺らせるようになる。それが、鬼殺隊の頂点に立つ柱の力なのだ。

 

「かいがく、はや、く!」

「わかってんだよ!」

 

 幸の叫びに、我に返る。

 そうだ。驚くのも何もかも、後でいい。今はただ、車両の中の人間を守る。

 前へと走る。走りながら、何本もの肉の腕を叩き斬るようにして落とした。

 車両の一つに辿り着いたとき、目の前で雷光が迸った。

 目にも止まらぬ連撃が、次々壁を切り裂いていく。

 

 それは紛れもなく、壱ノ型の霹靂一閃。

 六連続の霹靂一閃が、車内を駆け巡っていた。

 一つしか使えない壱ノ型を、何度も何度も連続で放ち、乗客を守っているのは、我妻善逸だったのだ。

 

 その動きに、霹靂一閃が、途切れずに生命を守る様に、獪岳の中の時間が一瞬だけ止まる。

 

「かいがく!呆けな、い!」

 

 直後に、背中の中心をずどんと突かれた。

 

「って!」

 

 獪岳の真横を、共に爪を振るう幸と竈門の妹が駆け抜けて行く。

 小柄な二人の体は、細く狭い車内の通路を走り、片端から鬼の肉を爪で裂いていた。

 

「獪岳、幸ちゃん!」

「いちいち名前呼ぶんじゃねェ!聞こえてんだよ!」

 

 善逸とすれ違いざま、獪岳が放った弍ノ型・稲魂の五連撃が肉の壁に炸裂し、肉塊が弾け飛ぶ。

 獪岳の背後では、善逸の連撃の壱ノ型・霹靂一閃が振るわれ、乗客を捕らえようとする腕を斬り飛ばした。

 

 認めるのは凄まじく、本当に凄まじく癪だが、同じ呼吸を同じ時に同じ師から教わった者同士。

 間合いや息の取り方は、いちいち測らずともわかる。

 一瞬でも止まれば、客の誰かが喰われかねないのだ。

 四の五の言うのは、餓鬼のすることだ。

 その上、ともすれば鬼の体は獪岳たちの刀を巻き取り、絞め殺そうと腕を伸ばしてくるから、さらに気が抜けない。

 

 幸の脚に絡みついた腕は、竈門の妹が踏み潰し、竈門の妹の首を絞めようと天井から伸びた触手は、天井近くまで跳んだ幸の爪がずたずたに裂いた。

 

 先頭の機関部にあるだろう鬼の頚が落とされるまで、凌ぐしかない。それがたとえ、一晩続く攻防であっても。

 

 何度も、何度も何度も四つの車両を行き来し、鬼の体を斬り刻む。

 疲労か、列車が横に揺れた際に一瞬だけ善逸の足捌きが乱れた。

 その隙を突いて、また壁が太い肉の腕を伸ばす。

 

「チィッ!」

 

 ────雷の呼吸

────伍ノ型、熱界雷

 

「カス!こんなとこでへばんな!」

「んぇっ!?」

 

 善逸の頭上すれすれに放った斬撃が、丸太のような腕を裂きざま、ついに屋根を切り裂いた。

 そこから覗く夜の闇は、未だ濃い。

 頚が落ちるのはいつだと、舌打ちをして刀を構え直した瞬間。

 

 ぐらり、と車両がこれまでにないほど大きく傾いだ。

 足が床ごと浮き上がり、体が倒れそうになる。

 最も体重の軽い幸が、割れた窓から車両の外へと飛ばされかけ、竈門の妹にすんでで腕を掴まれているのが見えた。

 

────横転!?

 

 冗談ではない。

 乗客満載の状態で横転などされたら、死人が出る。

 せっかくここまで、一人も壁に喰わせずに戦っていたのだ。

 ふざけるなと、獪岳は踏ん張って立ち、刀を下に向けた。

 

「おいカス!何かに掴まっとけ!幸と竈門の妹、お前らもだ!」

「獪岳!?」

 

 ────雷の呼吸

────陸ノ型、電轟雷轟

 

 ────雷の呼吸

────参ノ型、聚蚊成雷

 

 立て続けに大技を出し、脱線し転がろうとする車両の勢いを、殺す。止まるまで、殺して殺して殺し続ける。

 それ以外にない。

 周囲を巻き込み、敵を切り裂く陸と参ノ型を、獪岳は繰り出した。

 刀を振るう腕が重く、息を取り込む肺が熱い。

 車両ごと前後左右滅茶苦茶に揺さぶられ、自分がどこに立ってどこに刀を向けているかすら見失いかける。

 

─────知るか!

 

 目だけに頼るな。

 音を聞け、空気の流れを感じ取れ。

 呼吸を続けろ。刀を放すな。

 

 ─────雷の呼吸

─────遠雷、聚蚊成雷、稲魂、熱界雷、遠雷、稲魂!

 

 もう一度稲魂を放つと同時、強く車両が揺れた。いきなり動きが止まり、反動で獪岳は背中から天井に叩きつけられた。

 肺から空気が強制的に吐き出され、衝撃で手から刀が抜けそうになる。

 多分、ごく短い時間だが気絶していたのだろう。

 

 目の前が束の間暗くなり、次に明るくなったときは、星が瞬く高い空が上に広がっていた。

 頭の下に感じるのは、ひんやりと冷たい土の感触である。

 

「獪岳!」

「うっせェ。大声、出すな」

 

 視界に、逆さになった黄色頭が現れた。

 なんでよりによって、こいつの顔がいきなり現れる。

 鬱陶しくて、獪岳は顔を背けた。

 

「乗客は?」

「け、怪我している人はいるけど、ほとんど無事だよ。幸ちゃんと禰豆子ちゃんもあっちにいる」

「……そうかよ」

 

 軋む体を起こして辺りを見回せば、惨状が広がっていた。

 列車は横倒しになって線路から転がり落ち、鬼の体が木の根のように触手を張り巡らせていたために、醜悪な肉塊のようになっている。

 地面の上には車両から放り出された客の体が、転々と転がっており、しかしほとんどが自力で動いて、立ち上がろうとしていた。

 獪岳も、列車が止まったときに放り出されてしまったらしい。

 刀の鞘はと探れば、背中から叩きつけられたときなのか、真っ二つに折れてしまっていた。刀も、刃毀れがひどい。

 背骨が折れなかっただけマシかと思った途端、痛みが体に追いついた。

 大技を連続で出した反動と、受け身をうまく取り損なったために、体のそこ此処が鈍痛を訴えていた。

 

「かいがく!」

「……ああ、生きてたか」

「それ、こっ、ち、の、せりふ!」

 

 弾丸のような勢いですっ飛んで来た幸は、顔を真っ青にしていた。

 善逸と揃って不安そうな顔を向けられていると、さらに体の痛みが酷くなるようで、獪岳は立ち上がった。

 最も派手な出血は、恐らくどこかにぶつけて割れたらしい額。

 あとはひどい打ち身ぐらいで、骨が完全に折れているところはなさそうだった。

 息をする度にやや痛い肋骨は、呼吸で痛みを止める。

 あれだけ戦ってこれだけならば、運が良かったほうだ。

 

「鬼は?列車はどうなんだ?」

「音もないし、鬼は死んだと思う。列車は煉獄さんと獪岳が大技出してくれたし、鬼の体が当て布みたいになったから……」

 

 怪我人は山ほどいるが、死人はいない。

 それを聞いて、獪岳は大きく息を吐いた。

 

「怪我人、車両から出すぞ。下敷きになってるやつがいないかも確認すんだよ」

 

 さっさと行けと手を振ると。善逸は一目散に駆け出した。

 その姿からは、列車の中で閃くような速さで霹靂一閃を使っていた気迫が、嘘のように消えていた。

 

 なんなんだ、あいつは。

 

 訳がわからなくなって、獪岳は額を乱暴に拭った。額は、浅い傷でも血が派手に出るのだ。目に入ると面倒だった。

 

「ん」

 

 千鳥模様の手拭いが、突き出された。

 見下ろすと、幸である。

 三つ編みがほどけかかり、着物や髪が砂埃や血で汚れているが、目立つ怪我はしていないようだった。

 それとも、怪我はしたが既に治ったあとなのだろうか。

 

「竈門の妹はどうした?」

「禰豆子ちゃ、ん、は、けっき、術、つかっ、てくれた、から、ねて、る」

「お前は?」

「わた、し、は、へい、き。おきゃく、さん、引っ張り、だして、く、るから、かいがくは、休ん、で」

「あ?別に平気だっての」

「だ、め。頭、うって、た」

 

 顔色を見ろ、と幸は叩きつけるように言って獪岳の腕を草の上に引っ張って座らせ、手拭いで額を拭ってきた。

 白地に、青で千鳥が染め抜かれている手拭いは水で濡れていて、みるみる血と泥に染まり赤と茶の斑模様に変わっていく。

 汚れが取り去られて行くのは心地良く、獪岳は目を閉じた。

 瞼の裏の闇を見ていると、ぽつりと声が落とされた。

 

「心ぱ、い、した。かいがく、が、ふきとばされ、たとき」

「……鬼殺隊なんだから、戦うだろ」

「そ、うだけ、ど」

「ま、今まで戦った中で、一番クソみてェな鬼だったのは確かだがな」

 

 ここまで図体がでかく、しかも人を手先にし、列車を丸ごと取り込んで人を喰おうとした化け物は、獪岳も幸も初めてだった。

 もしかしたら、十二鬼月の一体であったのかもしれない。

 柱や善逸、竈門兄妹や伊之助がいなければ、乗客諸共死んでいたろう。

 それでも。

 

「ざまァみろ」

 

 互いに顔を見ることすらないまま、醜く膨れ上がった屍を晒す鬼を、獪岳は嘲笑った。

 日が昇れば、列車を包み込んでいた肉は塵になって崩れ去り、何一つ残らないだろう。

 鬼の死体は、いつもそうなる。

 奪うだけ奪い、暴れるだけ暴れて何も残すことはない。そんなものだ。

 

「隠、の、ひと、たち、たい、へんになる、ね」

 

 獪岳の心を読んだように、幸が言う。

 何しろ、列車が丸ごと一つ脱線したのだ。

 乗客の数は知らないが、怪我をした人間は百人は軽く超えているはずだ。

 彼らのほとんどは眠らされていたろうから、刀を振り回す鬼殺隊を目撃して騒ぐ客がいないだけ、後始末は楽かもしれないが。

 

「どうせ列車事故で処理される。俺たちが気にすることじゃねェだろ」

「……ん」

 

 もう大丈夫だよ、と手拭いがそっと退けられる。

 目を開けると、星明りを背にして幸が微笑んでいた。

 よく見れば、色白の小さな鼻や、血の気が元々あまりない頬の上には、泥や乾いた血の汚れがこびりついていた。

 こめかみから細い顎にかけて、薄っすらと血が流れた跡まであった。

 

「お前な、自分の顔見てなかったのかよ」

「ん?……怪我、も、うない、よ?」

 

 そういうことじゃない、と妙に疲れる気分で立ち上がる。

 幸の千鳥模様の手拭いは、もう血だらけ泥だらけで使えたものではなくなっていた。

 きょとんと首を傾げている頭を、ぐしゃぐしゃと撫でる。

 

「かいがく!髪、が、へん、になる!」

「元々じゃねぇか。どうせ後で直すんだろ」

 

 鼻で笑って、獪岳は列車へ向かおうとした。

 向かおうとした、そのときだ。

 

 場違いに陽気な声が、闇夜を貫いて耳に届いた。

 

「やぁ、凄いことになったものだねぇ。随分派手にやったものだ」

 

 土を踏みしめる音がする。

 薄い喜色を孕んだ声がする。

 冷たく感じる刀の柄を握りしめ、獪岳は振り返った。

 広々とした草地の上に、いなかったはずの男が一人立っていた。

 

「おや、こうまで暴れて誰も死んでいないとは驚きだ。君たちはとても頑張ったんだねぇ。うん、偉い偉い」

 

 明るく穏やかな声をしたその男は、自然体で星空の下にいた。

 色素の薄い髪、手に握っているのは一本の扇。

 頭髪の一部は血を被ったかのように赤く、暗闇の中でも目立つ虹色の両の瞳には、文字があった。

 片方の瞳に上弦、もう片方には弐の文字が、くっきりと刻まれていたのだ。

 喉が、笛のような音を立てた。

 

────嘘だろう。

 ────やめろ。

────やめてくれ。

 

 瞳に刻まれた文字の意味を、知らぬわけがない。

 獪岳の傍らで、幸の爪が鋭く、長く伸びる。白く尖った牙が口の端から覗き、獣のような唸り声が低く漏れていた。

 

「こんばんは、綺麗な月夜だね。鬼狩りの諸君」

 

 目の前にいるのは十二鬼月、上弦の弐。

 百年以上生き、鬼殺隊の柱たちすら屠ってきた正真正銘の化け物の一体は、闇夜の草地で、禍々しいほどにこやかに、微笑んでみせたのだった。

 

 

 

 

 




何故この鬼が来たかに関しては、伏線らしきものがこれまでの話の中にあります。

感想欄でまた黒死牟殿が出現したことに、またビビりました。


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九話

九話です。

無限列車編または、地獄の遭遇戦編です。

では。


 

 

 

 闇がのしかかる空の下で、鬼が嗤う。

 とても、とても楽しげに。

 ゆらゆらと、手に握った扇を弄びながら、構えも何もない自然体で、そこに存在している。

 

 上弦と、弐の文字が刻まれた、虹が浮いた不気味な瞳を細めた優男。

 手に持つ扇が、恐らくは武器。

 嗤ってこそいるが、それはあたたかみなど欠片もない無機質なものだった。

 

「どうかしたのかな。そんな化け物に出くわしたような顔をして。ああ、これを見たら君たちも本気になれるかい?」

 

 困ったふうに鬼が嗤う。

 嗤いながら、足元に転がる何かを無造作に掴み上げた。

 いや、何かではない。

 四つか五つの、幼い子ども。

 まだ術の影響が残っているのか、意識のない子どもの首をそいつは掴み、吊り上げていた。

 折れそうな手足がぷらぷらと、人形のように揺れている。

 

「……!」

 

 獪岳が動くより先、傍らから幸が消えた。捉えられないような速度で跳び、子どもを一瞬で鬼の手から奪い、抱えて戻る。

 だが、子どもをおろし、獪岳の横に戻った瞬間、幸は膝をついて口を押さえた。体が薄紅の燐光を纒う。

 幸が深い怪我を負ったときの血鬼術の発動に、獪岳の手足の感覚がようやく戻った。

 

「幸!」

「……なお、した。あい、つ、ちかよった、ら、だめ」

 

 我に返って駆け寄り名を呼べば、幸は蒼白な顔で立ち上がった。小さな手で、胸、特に肺の辺りを押さえていた。

 

「あぁ、俺の血鬼術は氷を操るんだ。そっちの小さい子は、俺の血鬼術を吸って肺胞が壊死したはずなんだけどなぁ」

 

 やっぱり鬼だから簡単に治せるよね、と上弦は楽しげに扇をくるりと手の中で回した。

 

「でも、近くで顔を見せてくれてありがとう。ねぇ鬼の女の子、俺を覚えていないかい?」

 

 閉じた扇で自分の顔を指し、上弦は幸に尋ねていた。

 目線で尋ねれば、幸は首を振る。

 引くほど物覚えがいい幸が覚えていないというならば、本当に知らないか……或いは忘れるほど嫌な記憶だったかの、どちらかだ。

 

「こいつは、テメェなんざ知らねェとさ。人違いしてんじゃねェよ、鬼」

「そうかな?そんなことはないと思うんだけど。大体、俺のほうこそ話を聞きたいんだぜ。その子、山で死にかけたことがあったろう?かわいそうだから血をやって鬼に変えたのに、どうして鬼狩りと共にいるんだい」

 

 この鬼の姿を目にしてから、うるさいほど鳴っていた自分の心臓の音が、遠ざかった。

 

 今、この鬼は嗤いながら何と言った?

 山で死にかけた子どもに、そいつに、かわいそうだから血をあげた?

 鬼に、変えた?

 

 下がりかけていた腕に、力を込める。

 刃毀れが目立つ刀を持ち上げ、正眼に構えた。

 刀を向けられながらも、若い男の形の鬼は、尚も言葉を続けていた。

 

「何年前だったかなぁ。俺のところに来た夫婦がさ、俺のこの瞳を見て面白いことを言っていたんだよ」

 

 酒に溺れて盗みに手を染め、仕事も家も失ったという貧しい夫婦は、自分たちの子どもの瞳も、教祖様のような珍しい色をしていたと語った。

 それは、家族の誰とも似つかない、黄金を固めたような金の瞳だったという。

 しかし、教祖様の虹色の美しいそれとは違って、あれは悪い、悍ましいものだ。

 あの子は、赤子なのに自分たちをじっと見る。目を逸らさない。滅多に泣きもしない。

 脚が折れても、ほとんど泣かずに虚空を見つめているだけ。

 見透かし嗤っているかのように不気味で、まるで自分たちの行いすべてを、記憶どころか記録しているかのようだ。

 

 怖い怖い、怖くて、不気味だ。

 怖いから、遠く離れた寺に捨てた。

 教祖様の瞳は、あれと似ても似つかない。

 美しい、尊い。

 

 その夫婦は、自分たちが娘を捨てたときの話を嬉々として語り、縋ってきた。

 

「あまりに愚かで面白いからね。どんな子かと思って、捨てたっていう寺に行ってみたんだよ。そうしたらその近くで、金の瞳の子どもが死にかけていたじゃあないか!」

 

 扇が翻り、幸を示す。

 縦に割れた金色の瞳孔が、針のように細くなっていたが、その顔には訝しげなものしかない。

 獪岳にもわからない。

 教祖様とは、なんなのだ。

 幸の実の親が、一体どうして鬼の話に出てくる。十年以上前、そいつらは娘を寺に捨て、幸も顔など忘れたと言ったはずだ。

 

「その子は腕も脚も千切られて、お腹の中をほとんど喰い散らかされて、かわいそうだったなぁ。そんなになってもまだ死ねなくて、芋虫みたいに這いずってるんだ」

 

 血だらけの、野獣の喰い残しのようなその子どもは、瞳ばかりが暗闇でも金色に輝いているようで、美しかったという。

 

「綺麗だったから、目玉を片方貰ったんだ。それでも死なずに、ずっと誰かの名前を言っていたねぇ」

 

 ねぇ、と鬼は首を傾げた。

 世間話のついでのような、自然な仕草だった。

 

「かいがくって、誰の名前だったのかなぁ」

 

 ぶちり、と耳の中で音を立て何かが切れた。

 腕に、脚に、力が戻った。

 呼吸が、空気が、体中を駆け巡った。

 

 ────雷の呼吸

────伍ノ型、熱界雷

 

 空気を引き裂いて、斬撃が男へ飛ぶ。

 

「おっと」

 

 扇がはたき落とされ、男は意外そうに体をふらつかせた。距離を詰め、獪岳は刀を振るう。

 

 ────雷の呼吸

────弍ノ型、

 

「だ、め!」

 

 弍ノ型を放とうとした直後、真横から突き飛ばされ、獪岳はふっ飛んだ。受け身を取って転がり立ち上がれば、髪から赤い血が滴る。

 獪岳の血ではなかった。

 自分は右脇腹と右肩を斬られただけで、それも今すぐ刀が持てなくなるほどの傷ではない。

 

「う……」

 

 鬼と獪岳の間に、小さな体が膝をついていた。右肩から左腰までを、ざっくりと斜めに深く切り裂かれている。

 ごぽりと、口から血の塊が溢れて草を赤く染めた。

 

「あれ、鬼なのに人間を庇ったのか。君、数年前に鬼になったにしては、なんだか気配が妙だけど、もしかしてずっと人を喰ってないのかい?」

 

 鬼が扇を一振りすれば、点々と血が地面に散った。

 扇は、二つあったのだ。

 一つをわざと落として見せて、二つ目で獪岳を斬ろうとし、間に幸が割り込んで、斬られた。

 

 幸はそれに気づいて反応し、咄嗟に鬼と獪岳の間に自分の体を差し挟んだ。傷を負ったのは、獪岳を庇ったせいだ。

 眠ることで体力を回復するせいか、幸は並みの鬼より再生力が弱いのだ。

 血鬼術で補っているが、使い過ぎれば眠らなければならず、無視して限界を越え続ければ理性が消える。

 

「幸、下がれ」

「だけ、ど……」

「それ以上やれば鬼になるぞ。わかってんだろ。俺は、お前の頚を落として切腹するなんざ御免だからな」

 

 悔しげに、幸が唇を噛むのが見えた。

 それでも、限界を理解してはいるのだろう。腹の傷を押さえて、後ろに下がった。

 骨まで断たれ、臓物が飛び出しそうなほどの、深い傷だ。人間ならば、数分で死んでいる。

 

 息をする、呼吸を続ける、刀を握る。

 何回も繰り返し、身にしみつけたはずの動作が、これほど難しいとは思わなかった。

 

 目の前の上弦は、これまで戦ってきた何者より強い。間違いなく、獪岳と幸よりも強い。

 当然だ。

 柱すらも殺してきたのが上弦で、弐ということは、こいつは上から二番目に強いのだ。

 それでも刀を手放さないのは、逃げられないのは、ひとえに恐怖を僅かでも上回る怒りが、獪岳の中で燃えているからだった。

 

 何がそれほど腹立たしいのか、獪岳にもわからない。

 傷つけられたのは幸で、憐れまれたのも幸。獪岳ではない。

 他人のことなど、どうでもいい。

 どうでもいいなら、何故自分は怒るのだろう。逃げないのだろう。

 わからないが、それでも昆虫のような目をした、この鬼の前から逃げるということが、できなかった。

 

「あれ、君が前に出るんだ。俺の動きについて来れてなかったのに。そっちの鬼の……ええと、幸ちゃんって子か。その子を出せば、まだ生き延びられると思うんだけどなぁ」

「……」

 

 聞かない。

 鬼の言うことなど、耳に入れない。

 鬼の一挙を、見逃すな。

 近寄れば肺を凍らせる鬼相手でも、近寄らなければ刀は届かないのだ。

 

「……テメェは、何しに来やがった」

「ん?」

「上弦の弍が、ふらふら散歩に出たわけじゃねェんだろ。人喰い列車の手伝いでもしに来たのか?そいつなら、もう死んでるのになァ」

 

 時間。

 時間が必要だった。最低でも、幸が傷を癒やすまで、動けるようになるまで。

 聞いてもいないことをぺらぺらと語ったことと言い、こいつはお喋りな鬼に見える。

 乗ってくるか否か、獪岳は刀の柄をきつく握る。

 柄巻きのざらついた感触が、この世に獪岳を繋ぎ止めている荒縄か何かのようだった。

 

「時間稼ぎかい?健気なことだねぇ。だけどまぁいいか。答えてやるよ」

 

 鬼の瞳がにんまりと歪む。

 

「この列車には、柱が来てるんだろう?そっちは、俺と同じ上弦の猗窩座殿が相手をしているよ。だから君たちにとっては残念なことに、柱はこっちには来られないね」

 

 上弦が、もう一体。

 では、炎柱はそちらにかかりきりだろう。

 言葉も返せない獪岳を見つつ、上弦の弍は続けた。

 

「俺が来たのは別件さ。要は、君たちを探して殺しに来たのさ。あのお方が最近、支配から逃れた鬼二体、見つけ次第両方殺せと仰るんだよ。特徴を聞いたら、そいつらの片方は金の目に黒髪の小さい子どもの鬼で、勾玉をつけた鬼狩りと共にいると言うじゃないか」

 

 それを聞いて、上弦はぼんやり思い出したのだという。

 何年か前に鬼にした、哀れな子。

 親からは見捨てられ、鬼に喰われ、目玉だけは満月のように綺麗だったから、覚えていた。

 人を喰わせてやろうとしたのに梃子でも喰わなかった、妙な鬼。

 

「あのときは、近くには人の気配が沢山する寺まであってねぇ。俺の扇で香を消してやったから、喰いたければ喰えたんだ。喰えば、怪我だってすぐ癒えたろうに」

 

 千切れた手足を治そうとせずそのままにして、涙を流して唸り続け、人喰いを拒んだ子どもの鬼。

 いつ人間としての残り滓というべき理性が切れ、人に襲い掛かるかと見守るのは面白かったが、夜明けが近くなってきたために捨て置いたのだ。

 

「日に焼かれるのは痛いだろうから、日陰には置いてあげたんだ。運が良ければ生きてるだろうとは思ってたさ。いやぁ、だけどまさか、鬼狩りと一緒にいたとは。だから俺がここに来たのは、後始末ってところだね」

 

 随分長くかかってしまったけどね、と上弦は嗤った。

 

「弱い鬼のままでいてくれてよかったよ。これで強くなられていたらさ、俺はあのお方に殺されていたかもしれないから。ところでさ、勾玉の鬼狩り」

 

 上弦が一歩足を進め、獪岳を瞳の中に捉えた。

 

「かいがくってのは、君なのかな?」

 

 瞬間、獪岳は地を蹴って走っていた。

 

 ────雷の呼吸

────参ノ型、聚蚊成雷

 

 敵の周りを埋め尽くす斬撃の波状攻撃が、鬼を襲う。

 

「お。雷の呼吸使いか」

 

 鬼が振るう扇の動きに合わせて出現した、氷の蓮の花。

 斬撃が砕いたのは、その蓮の花だけだった。

 氷の欠片が舞い散る中、鼻先に微かな冷気を感じ、獪岳は跳び退る。

 肺胞を壊死させられると、全集中の呼吸が使えない。そうなれば、動けなくなる。

 

 速さだけならば、まだついては行ける。

 力は並みの鬼よりないが、脚だけは阿呆のように速い幸と、何度も鍛錬した。

 動きには完全には追いつけず、反撃まではできなくとも、反応して避けることまでは辛うじてできた。

 

「あぁ、残念。やっぱり水辺じゃないから、俺も血鬼術を展開するのに時間がかかるし、威力も無くなるものだねえ。水が足りていないと、こんなものになっちゃうなぁ」

 

 だというのに、鬼は扇を揺らしてそんなことを宣う。

 

「今まで殺した剣士に、雷の呼吸を使うのはいたかな。ねぇ君、君がかいがくなんだろう?どうせ死ぬならさあ、他の技も見せてよ。次のは効くかもしれないよ」

「黙れ。テメェが死ね」

「刺々しいなぁ。幸ちゃんが鬼になったの、君にとっては良かったと思うんだけど」

「あ?」

 

 だってそうじゃないか、と上弦は聞き分けのない子ども相手のように語る。

 

「君は、その子に庇われるほど弱いだろうに。今までの鬼狩りで、何回その子を盾にして、生き延びて来たんだい?」

 

 空気が。

────凍った。

 

 刀の鋒の向こうにいる鬼が嗤う、嗤っている。

 決して手の届かない高い空で、ただ光るだけの、邪悪な三日月のように口を吊り上げて。

 

「俺が血をやったから、その子は生きてる。その子は君を守って、君に命を与えてる。死にかけの幸ちゃんは、恨み言も言わないで何度も君の名前を呼んでいたのに、君は何かをしてあげたのかい?今だって────」

「うるせェ!!」

 

 ────雷の呼吸

────肆ノ型、遠雷

 

 斬撃が氷の蓮を砕くと同時、ぴしりと嫌な音が鋼の刀身から聞こえた。

 上弦はひらりと躱し、扇を閃かせる。左肩と顔を冷たさが撫でた。

 

「ッ!?」

 

 咄嗟に足元の地面を伍ノ型、熱界雷で叩き、自身の体を背後へ飛ばした。

 そのままごろごろと、無様に地面を転がる。

 

「ぐ……が、ァ…」

 

 斬られた。

 左腕に力が入らない。

 顔の中心、鼻の辺りから血が流れている感触がある。

 後一歩踏み込んでいれば、左腕を落とされて両眼を斬られていた。だが、助かったとは言えない。

 左腕は付け根を深く斬られ、千切れかけだ。刀を握ることすらできない。

 呼吸で血止めをしようにも、太い血管が切られていて抑えられる怪我ではない。

 出血に意識が遠のきかけたとき、薄紅の光が肩にまとわりつき包み込んだ。

 肩に激痛が走り、ばきばきという音と共に肉と骨が新しく出来上がる。

 幸の血鬼術であった。

 

「へぇ、それが幸ちゃんの血鬼術か」

 

 痺れたままだが、ともかくも繋がった左手に力を込め、刀を構え直した獪岳に、上弦は楽しげに応じる。

 この鬼、遊んでやがると獪岳は悟った。

 攻撃を入れては、追撃せずに泳がせている。今だとて、幸の血鬼術が追いつく前に獪岳の首を斬れたろうに、治るのを見ていた。

 観察しているのだ。

 子どもが、捕まえた籠の中の虫を見て、楽しむように。

 

「うーん、でもこのまま俺が刻んでいっても、そっちの子が治すのか。いつかは限界が来るんだろうけど、それはつまらないなぁ」

 

 空中に、いくつもの蔓を持つ蓮の花が出現する。

 蔓が鞭のような勢いで伸びるのと、獪岳が放った陸ノ型、電轟雷轟が蓮を砕くのがほぼ同時。

 だが、砕けた蓮の破片は、空中に留まっていた。

 

─────不味いッ!

 

 槍のように尖った欠片が、一斉に射出される。半分を弍ノ型、稲魂で叩き落としたとき、刀が半ばで折れた。

 ぱきりと、呆気ない音を立てて。

 眼前には、氷槍の残り半分が迫る。咄嗟に顔を庇ったとき、獪岳の目の前を炎が満たした。

 

「えっ?」

 

 炎の壁の向こうで驚いたような声がし、残りの、炎の壁を抜けていた氷槍は刀で以て叩き落とされた。

 獪岳の目の前で、黄色の羽織が翻る。

 

「お前……!」

「……」

 

 刀の柄に手をかけた居合いの型を取り、獪岳の前に立っているのは、善逸だった。

 

「新手かい?おお、この炎は血鬼術みたいだね」

 

 炎の壁を、氷が切り裂く。

 頭上に差す氷蓮の陰に、獪岳は善逸の襟首を掴み、諸共背後に跳んでいた。

 一瞬後、獪岳と善逸がいた地面を、蓮の花が落ち、砕いていた。

 

「んえっ!?」

 

 そしていきなり、善逸から間の抜けた声が上がる。まるで、眠りから覚めたかのように。

 

「えっ!!えっ、ちょっと獪岳これどういうこと!あの鬼なんなの!」

「はぁ!?状況わかって飛び込んだんじゃねェのかよテメェ!上弦の弐だ!」

「はいぃ!?俺が見たの獪岳がバッサリ斬られたとこまでだよ!なんで俺の前に鬼いたの!?」

「退い、てぇっ!!」

 

 ぐい、と幸の叫び声と共に襟首を掴まれたかと思うと、獪岳の天地がひっくり返った。 

 逆さになった視界の中、幸が二本の脚で立っているのが見えた。善逸と獪岳を、まとめて放り投げたのだ。

 眼前に迫っていた氷の蔦を、幸が脚で蹴り砕く。残りの氷の花を焼き切ったのは、幸の後ろに立つ竈門の妹が放った炎だった。

 そこまでを見て、獪岳は善逸を下敷きにして背中から草地へ落下した。

 

「おや、今度は幸ちゃんと……ああ、もう一体の裏切り者の鬼っていうのは、その女の子か。君たちの両方を殺せばいいんだよね」

「……」

 

 空気を引っかくようにして、獪岳は起き上がる。

 幸は、先程までの姿ではなくなっていた。

 ほどけた髪が風になびき、何よりも背が高い。

 獪岳の腰までの高さしかないはずの身の丈が、肩先に届くまでになっていた。

 そして全身から、殺気が溢れていた。

 

「させ、ない」

「あは、君には無理だよ、幸ちゃん。そうやって、立ってるのがやっとだろう?人を喰いたくて、堪らないんじゃないかい?」

「名前、よぶ、な」

「君まで刺々し────」

 

 言葉が途中で途切れる。

 飛び掛かった幸の爪が、下顎を切り裂いたからだ。

 直後に幸の右腕が凍りつき、首元から血花が舞ったが、右腕は瞬時に炎に包まれ、幸はそのまま拳を振り抜いた。

 左頬に拳が突き刺さり、上弦の首の骨が折れる鈍い音が聞こえた。

 

「その炎、鬼だけを燃やす血鬼術か。だけどそれ、自分まで燃やしてて痛くないのかな。君、本当に鬼?」

 

 頭がぐるりと回り、まったく堪えていないふうの上弦は扇を一閃させる。

 軌跡に合わせて出現した蓮の蔦が、幸を叩いた。まだ燃えている体の肉が弾けるその音で、獪岳は折れた刀の柄を握りしめた。

 

「おい、カス。テメェ、戦えるか?」

 

 獪岳の刀は折れてしまった。

 まだ刀身は半分ほど残っているが、先程までのように型は使えない。

 霹靂一閃もできないのだ。

 弐から陸ノ型は、壱ノ型のように相手の懐に飛び込んで頚を取る技ではない。どちらかといえば、周囲を薙ぎ払うものだ。

 すぐに自身の周囲に氷の守りを展開できるあの上弦相手では、決め手にならない。

 

 獪岳には、一直線に懐に飛び込み頚を刎ねる霹靂一閃が、どうしても放てない。

 放てるのは、この場では善逸だけだ。

 しかし、善逸はぐずぐずの酷い顔で立ち上がろうとした瞬間、よろけた。

 

「……お前、脚やられたのか」

「う、うん。ごめん。だ、だけどあと一回ぐらいなら」

「立てねぇくせに馬鹿抜かすな、カス。……もういい。テメェの刀、俺に寄越せ」

「え、」

 

 霹靂一閃はまともに使えない。使えなくとも、飛び込んで頚を斬りでもしない限り、全員殺されるだけだ。

 幸はもう保たない。

 一年以上共に戦っていれば、鬼の力で戦うことの限界くらい測れる。

 度重なる血鬼術に、体の成長。あれ以上の負荷には耐えられまい。

 竈門の妹もいるが、あれは動きが幸より遅い。血が爆ぜる血鬼術も、勢いが無い。

 

「貸せ」

 

 獪岳の手に、善逸は刀を乗せた。

 

「なぁ、獪岳……」

「話しかけんな」

 

 そちらに割く余裕がない。

 刀を腰に佩く。

 何度も何度も、何度も何度も何度も何度も、気が遠くなるほど刀を振り、それでも成功したことのない壱ノ型の動きを頭の中でなぞった。

 最も鮮やかな壱ノ型の記憶が、列車内で見た善逸のそれであることは、何の皮肉なのだろう。

 嫌いで堪らない弟弟子に助けられるわ刀を借りる羽目になるわ、挙げ句にその技を模倣することになった。

 何もかもが最悪で、眼前に横たわる現実はどこまでも最低で、いっそあの鬼のように嗤いたいほどだ。

 

「幸ィッ!」

 

 嗤う代わりに、獪岳は腹に力を込めて叫んだ。

 上弦の氷を器用に避けていた幸が、その声を聞いた瞬間、一歩踏み込む、氷の蔦がその腹を抉る。

 血が舞った。氷が散った。

 そのまま、抉られる腹も吹き出る血も一切を気にすることなく、幸は上弦の下顎を殴り飛ばした。

 そして幸の拳が届く寸前で、獪岳は地を蹴っていた。

 驚いたふうに、僅かに仰け反る上弦の体。束の間見えたその頚だけが、獪岳の狙い目だった。

 

 ────雷の呼吸

────壱ノ、型

 

 低く深く飛び込み、すれ違いざまに相手の頚を狙う技、霹靂一閃。

 刀が伸びる。上弦の鬼の、驚いたような顔が見える。

 だが、その刹那に鬼は嗤った。

 刀の勢いが、殺される。獪岳の体が、がくんと力を失って落ちる。

 右脚が動かなかった。否、足首から先が無かった。

 斬られている。

 切断されている。

 善逸の叫び声が、ひどく遠くに聞こえた。

 

────死、

 

 それを、確信したとき、獪岳の胸に吹き上がったのは、目の前にいる敵への、どす黒い怒りだった。

 殺してやる、殺してやる!

 俺を、俺たちを殺そうとする者すべて、殺してやる!

 

────嗤うな、憐れむな!

 

 腕と腰を捻り、地に叩きつけられる寸前で、獪岳は日輪刀を渾身の力で投げた。刀は、鬼の右肩に突き刺さる。

 肩の肉が瞬時に盛り上がり、日輪刀を押し返そうとしたとき、刀ごと傷を上から押さえつける手があった。

 

「つ、か、まえた」

 

 幸が、小さく呟いた。

 

 ────血鬼術

────癒々(ゆゆ)ノ廻り・狂い咲き

 

 薄紅を通り越し、真紅に染まった雷が、幸の手から鬼の体へ直接叩き込まれた。

 刀が突き刺さった肩を中心に、鬼の腕が醜く、巨大に膨れ上がる。

 

 血鬼術・癒々ノ廻りは、肉体が本来持つ再生能力を一時的に高める術であり、治療されるほうは、相応に激痛を伴う。

 故に、元々異常に高い肉体の再生能力を持つ鬼相手に、血鬼術を高威力で叩き込めばどうなるか。

 

「かいがく!」

 

 幸が獪岳の胴を抱えて、跳んだ。竈門の妹も、同じく跳ぶ。

 三人揃って草地に倒れ込み振り返れば、上弦の鬼がいたところには、肥大した肉塊があった。

 

 幸の血鬼術により、上弦の鬼の再生能力が度を超えて暴走したのだ。

 術が保てば、肉体が限界を迎えるまであれは止まらない。

 

「かいがく、足!」

「む!」

 

 幸と竈門の妹に言われた瞬間、それまで感じていなかった痛みに、獪岳は襲われた。

 見れば、木の切り株のようになった足から血がだくだくと溢れていた。

 竈門の妹が拾っていたらしい獪岳の足首を、幸が切り口に押し当てる。

 再びの紅雷と共に気絶しそうなほどの激痛が走り、思わず獪岳は呻いた。

 

「おまっ……!さち……!」

「黙って!!」

 

 張り飛ばされるような声だった。

 紅雷が止んだとき、獪岳の右脚は元の通りに繋がっていた。

 それを見届けるや、糸の切れた人形のように、幸が獪岳の腕の中に倒れ込む。

 しゅるしゅるとその体は縮み、あっという間に片手で抱えられるほどに小さくなった。

 寝息は深く、目は固く閉じられている。完全に意識を失っていた。

 限界が来たのだ。

 小さく軽くなったその体を抱え、獪岳は立ち上がろうとした。

 

 ふぅわりと、周囲に氷の蓮の花がいくつも出現する。まるで、檻のように。

 竈門の妹が低く唸った。

 

「いやぁ、してやられたねぇ。まさか俺が、柱でもない相手に、片腕を自分で斬り落とすことになろうとは」

 

 肉塊の影から現れ、氷蓮を従えた隻腕の上弦の弐は、その足元に善逸の日輪刀を無造作に投げ捨て、踏みつけた。

 ぱき、と音がし、刀は半ばから二つに折れた。上弦の腕が、一瞬で元の通りに生える。

 

「傷を治すだけ、なんていう弱い血鬼術で、まさか再生能力の暴走を起こされるとは思わなかったよ。その子がちゃんと人を喰っていたら、俺を殺せたかもしれないねぇ」

 

 獪岳は、幸を抱えた腕に力を込めた。

 幸はもう起きない。刀は二本とも折れた。

 獪岳自身、再生されたばかりの腕と脚は張りぼて。上手く動かせない。

 目の前が暗くなった。

 

「最後だから聞いてあげようか。かいがく、君、鬼になる気はないかい?」

 

 扇が、真っ直ぐに獪岳を指す。

 

「鬼になるなら、命は助けてあげよう。傷は治るし、年も取らない。何より君をずっと守っているその幸ちゃんとも、同じになれるぜ」

 

 腕の中、深い眠りに落ちた小さな少女を見る。肩や腹は血まみれで、顔も小さな傷だらけ。

 

 月の光に照らされて、歩いた道を思い出す。この少女が、身を振り絞って泣いた声を思い出す。

 誇り高く生きよ、と師は言った。

 鬼になるために、化け物になるために、わたしは生まれたんじゃない、と少女は言った。

 

 言葉が、口を突いて出た。

 

「……断る」

「んん?」

「断る。テメェみてぇな化け物に、なってたまるか」

 

 嗚呼言ってしまった、という思いと、言ってやったぞ、という思いが起こった。

 上弦の弐は、いっそ楽しげに扇を持ち上げた。

 

「そうか。でも安心していい。君たちは俺が喰べて、救ってあげるから」

 

 氷蓮の蔦が、槍のように尖る。

 一秒後に死ぬな、とぼんやり思った。

 しかし鬼の幸も竈門の妹も、氷の槍に貫かれた程度では死ねないだろう。

 最後に空へ、蓮の花よりも高い空へ放り投げたら、眠っているこいつだけでも助かるだろうかと、両腕に力を込めた。

 

「全員、伏せろ!」

 

 耳朶を叩いた腹に響く声に、反射的に体が動いた。竈門の妹を突き飛ばすようにして、頭を押さえ、地面に伏せる。

 頭上で、甲高い音がした。

 それは、氷が金属で砕かれる音。

 

 地面が揺れ、目の前に誰かの背中が見えた。

 経文が書かれた羽織に、聳え立つ大樹のような巨躯。その手に持つのは、鎖で鉄球と繋がれた、手斧だった。

 

「間に合ったか……雀と鴉の使いに、感謝しなければならないな」

 

 岩柱、悲鳴嶼行冥が、そこにはいた。

 

 

 

 







【二通目の雀の手紙】

悲鳴嶼行冥さまへ

この前は、取り留めのない手紙を送ってしまって、ごめんなさい。

手紙を書いたことがなかったから、慌てていました。

だというのに、これも急いで書かなければならないようです。

次の任務は、無限列車というところです。
炎柱さまの手伝いとのことですが、獪岳が喧嘩したりしないか、心配です。

獪岳がやたら急かすので、急いで書きます。
変な手紙を送ってしまったことを謝りたかったんです。

任務、頑張ってきます。

お体に気をつけて下さい。



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十話

十話です。

ファンブックネタがあります。

では。


 

 

 

 鉄球がすべての蓮の花を砕き、上弦の弐目掛けて唸りを上げて飛ぶその音を、獪岳は地に伏したまま聞いた。

 鬼は先程とは比べものにならない大きさの蓮を生成。

 それで以て鉄球の軌道を逸し、蓮が割れた後には姿が消えていたのだ。

 どこだ、と獪岳が周囲の気配を探った瞬間。

 

「楽しかったぜ。時間切れまで、よく頑張ったよ」

 

 嗤いを含んだ声が、獪岳の耳元で囁いた。

 

「ッ!」

 

 獪岳が振り返るより先、扇の刃がその背中を撫でた。言葉と同時に、上弦の扇が獪岳の背中を斜めにざくりと切り裂く。

 背中から血を吹き上げて、獪岳は、地面に膝をついた。

 そのまま、上弦の弐は恐ろしい速さで去って行く。去り際に、大量の蓮の花と蔓の鞭を獪岳たちの頭上に張り巡らせて。

 

「獪岳!幸!」

 

 振り返った岩柱の、悲鳴嶼行冥の鉄球と鎖がそれを打ち砕き、彼が駆け寄って来る間に、上弦の気配は遠ざかって行った。

 幸を抱えたまま片膝ついた獪岳は、意地だけで叫んだ。

 

「いい!死ぬ怪我じゃねェ!アンタはあっちに行け!上弦のアカザが炎柱の方に行ってんだ!」

 

 上弦の弐が獪岳を殺さずに斬って、蓮の花をばら撒いたのは、足手まといをわざとつくって岩柱をほんの僅かな時間でもここに留め置くためだ。

 肩も腕も繋がったばかりの足も、凡そ傷がない箇所というものが体になく、獪岳の感覚は半ば以上麻痺していた。

 傷は深く、痛いはずなのだが、ほぼ何も感じない。体が自分のものではないようだ。

 耳の奥でがんがんと、金属がぶつかり合うような音がしていた。

 

「……わかった。死ぬなよ、獪岳。幸もだ。……よく、戦った」

 

 岩柱が一瞬で、獪岳が示した方へ走り去る。

 それを見届けて、獪岳はふらりと後ろに倒れ込んだ。

 弾みで、幸が力の抜けた腕の中から転がり落ちて、竈門の妹が慌てて受け止めるのが見える。

 悍ましいほど巨大だった上弦の弐の気配は─────消えていた。

 

 手品のように、あの化け物は去って行ったのだ。

 

 は、と息を一つ吐き出した。

 

「獪岳ぅぅぅぅぅ!禰豆子ちゃぁぁぁん!幸ちゃぁぁぁぁん!」

 

 這うような勢いで駆け寄って来たやかましい弟弟子の絶叫に、獪岳は顔をしかめた。

 脚が動かないからとほとんど手で進むな。地を這うな。蜘蛛か、蜥蜴か。

 

「獪岳!獪岳生きてるよな!?」

「……うるせェ」

 

 動けないが、生きてはいる。

 何故まだ自分たちが生きているのか、最早訳がわからない。

 何度も何度も、死ぬと思った。

 視界に、目に痛い黄色頭が入るとほぼ同時に、息が速く、浅く、荒くなる。

 再生された体のあちこちが燃えるように熱いのに、瘧にかかったような震えが止まらなくなり、獪岳はぞっとした。

 負傷と出血と再生を繰り返した反動が来たのだ。

 幸の血鬼術は、肉や骨は繋いでも失った血液は補えない。

 呼吸を意識した。

 隠が来るまで、呼吸で止血する以外にない。もう、自力では起き上がる力すらなかった。

 

「獪岳!?目ェ閉じんなよ!寝たら死ぬぞこれ!」

「知って……んだよ。テメェ、ほんっと、うる……せ」

「うるさくもなるよ!って、幸ちゃん!?起きたの!?」

「ん」

 

 霞んでいく視界の中で、澄んだ金色の光だけが二つ、ちらちら動いているのが見えた。

 そこからきらきら光る雫が溢れ、ぽたぽたと落ちて顔に当たるのを感じた。

 

 とても、とても綺麗だと、最後にそう思いながら、獪岳の意識はすぅっと闇に溶けていったのだった。

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

「獪岳!」

 

 地面にじわじわと広がっていく血の染みを、幸は呆然と見ていた。

 善逸の悲鳴が聞こえる。獪岳の顔がどんどん白くなっていく。

 でも、手も足も動かない。

 頭がふわふわしていて、芯がどろどろ溶けてしまって、体が動かせない。

 目から、雫だけがほたほたと溢れる。

 

「む!」

 

 きゅ、と頬を挟み込まれて幸は目を動かした。

 正面に、禰豆子の顔がある。彼女の手が、幸の頬を挟んでいた。

 どうするの、とその大きな瞳が問いかけているようで、幸は我に返った。

 自分で自分の膝を勢い良く叩いて、幸は歯を食いしばった。

 しっかりしろ。ここで一番歳上なのは誰だ。

 

「善逸君!かいがく、を、ひっくりかえし、て!せなか、を、きつ、く、押さえ、て!」

「わ、わかった!」

 

 同じ人間に、短い期間で何度も血鬼術を使うことは躊躇われたが、せめて傷を塞いで血だけでも止めねば、獪岳は本当に死ぬ。

 獪岳の背、隊服に描かれている『滅』の文字は斜めに裂かれ、傷口からはじわじわと鮮血が滲んで隊服を赤黒く染めていく。

 傷口に手をかざし、幸は意識を集中させた。

 

 ────血鬼術

────癒々ノ廻り

 

 薄紅の光が傷口に降りかかり、新たな皮膚ができあがっていく。数分で血は止まり、幸は肩で大きく息を吐いた。

 血は止めた。

 あとは蝶屋敷に任せるしかない。

 幸の血鬼術は、当然万能でも何でもない。死人には効かないし、体力は戻せない。

 ほっと息を吐き、それから幸は悪寒を感じた。

 山の端、濃く緑が残る峰の上に、朝日が顔を出しかけていたのだ。

 

「あっ!」

 

 近くに禰豆子の箱はあったが、幸の箱は見当たらず、列車の残骸から板を引っ張り出して傘にした。

 

「あっ、ち、見てき、ます。誰か、よばない、と」

「あっ、ちょっと幸ちゃん!」

 

 獪岳は気絶だし、禰豆子は寝かせてあげないといけない。

 善逸はよっぽど無茶をして間に割り込んでくれた上に、幸が放り投げたとき獪岳の下敷きになって脚をひどく挫いたらしく、歩けなくなっていたのだ。

 誰か呼んでこなくちゃ、とその一心で横倒しになった列車と線路を越える。

 襤褸同然になってしまった着物を引き摺り、ひたすら歩く。

 

 千里にも思える距離を歩いて、線路が走る土手を越え、反対側の草地に辿り着いたとき、幸の鼻は濃い血のにおいを嗅ぎつけた。

 地面に一人、白い羽織の炎柱が座り込んでいる。その腹に、深々と鬼の腕が突き刺さっていた。

 

「え……」

 

 思わず上げた声に、炭治郎と伊之助、それに炎柱の正面に座していた行冥さんと、炎柱本人が反応した。

 ふ、と炎柱の顔が緩む。

 

「勾玉妹か。君たちは無事だったか。上弦の弍が来たと聞いたが」

「……ぶ、じ、です。乗客も、禰豆子ちゃんも、善逸君、も、かいがく、も。みんな」

「そうか」

 

 ゆっくり、炎柱が微笑む。

 その腹に刺さっている腕は、上弦の参のものだろう。片目が潰れ、口の端から血が溢れていた。

 煉獄杏寿郎の顔には、死ぬ直前の人間に現れるある種の影が、くっきりと落ちていた。炎柱はどう見ても、致命傷だった。

 何もしなければ、彼は死ぬだろう。すぐにでも。

 空を見て、自分の小さな手を見て、拳をつくる。

 

「炎柱、さま。いま、か、ら、死ぬほど、痛い、とおもい、ます、が、死な、ない、で、くだい」

 

 側で、行冥さんが反応したのがわかる。炭治郎は訝しげで、伊之助は……猪の皮を被っているから、顔がなんだかよくわからない。

 幸は、手を一層きつく握りしめた。

 会いたくて、ずっと会えなかった人が、隣にいる。だが今は、そちらを見ることができなかった。

 

「幸、まさか」

「行冥さ……い、え、岩柱、さま。血鬼術、を使い、ます。わたし、が、わたし、をおさえられな、くなった、ら、くび、を、斬って、くだ、さい」

 

 幸はぼろぼろで、今すぐ眠れと全身の細胞に絶叫され、叫ばれ続けているような状態だ。

 血鬼術を行使すれば、何が起きるかわからない。

 

 それでも、あれだけ獪岳や禰豆子や善逸と遊ぶように戦い、ずたずたにしていった上弦の仲間に、今この場で誰かを殺されることが幸には我慢ならなかった。

 体の中心の、最も深いところで、めらめらと猛る業火が灯ったようだった。

 

 あんな昆虫のような眼の鬼によって、自分が鬼に変えられて、血鬼術に目覚めたというなら、そいつに与えられたにも等しい力で、十二鬼月の思惑など砕いてやる。

 誰も、死なせてたまるものか。

 

 幸は炎柱のことなど、ほとんど何も知らない。向ける情も特にない。

 頑固な馬鹿と獪岳に何回も言われてきたけれど、今幸がしようとしていることはそれと同じ、単なる自分の意地なのだ。

 

「勾玉妹、何をする気だ?」

「治療、で、す。死なないで、くだ、さい。あ、と、妹では、な、い、です」

 

 溶かした黄金を丸く固めて嵌め込んだような、完全に据わった目で、幸は日除けの板を放り捨てた。

 それでも、成長できない小さな体は丁度座っている行冥さんの陰にすっぽり収まるから、日で焼かれることはない。

 

 真紅の光が両手に収束し、ぱちぱちと音を立てて空気を燃やす。

 血の気が失せつつある炎柱の顔が、赤く照らされた。

 

「いき、ます」

 

 朝日にしらじらと染められていく黎明の空を、真紅の稲妻が音高く劈いたのだった。

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 獪岳が目を覚ましたのは、無限列車の脱線事故と、それに伴う上弦の弐と参の襲撃から、十五日後の夕方だった。

 意識が戻っても体を動かせず、ぼんやり天井を眺めていた獪岳に最初に気づいたのは、病室をたまたま覗いた悲鳴嶼行冥の弟子、不死川玄弥だった。

 

「お前っ!お前なぁっ!意識戻ってんなら戻ってるでなんか言えよ!どんだけ心配かけてんだよっ!」

「……」

 

 無茶を言うな。喉が枯れているのにどうしろと。

 そう弁明するのも気怠く、無言で耳を塞いだ獪岳そっちのけで、玄弥は蝶屋敷中に獪岳が起きたと告げて回った。

 

「獪岳!」

「獪岳さん!起きたんですね!」

「バチバチ野郎!」

 

 その次にやって来たのは、善逸と炭治郎に伊之助である。

 三人団子になって駆け込んで来るから、何事かと思った。特に先頭のカスもとい善逸は、存在がうるさい。

 その次の次に来たのは、御神酒徳利三本立てのような、蝶屋敷の看護婦の少女たちだった。

 体温やら心拍やらを測られ、体にひとまずは異常がないことを確認され、この時点で獪岳は疲れた。

 自分が半月以上も寝ていたと知ったのは、それからの話だ。どうりで体がうまく動かせないわけだ。

 

「爺ちゃんから手紙が来てるよ。あと、悲鳴嶼さんからも」

「そうかよ。……で、幸はどうした?」

 

 こいつら三人が来て、幸が来ないのはおかしい。今は日が落ちたばかりで、箱の中から出て動き回っているような時間だ。

 予想通り、善逸と炭治郎の顔がみるみるうちに曇る。

 

「幸ちゃんは起きてないよ、獪岳。あれからずっと、眠ったままだ」

 

 やっぱりか、と獪岳はどこかその知らせを乾いた心持ちで受け取ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 炎柱、煉獄杏寿郎の重傷を治した後、幸は昏倒したそうだ。

 以来滾々と眠り続け、傷も一向に治らないという。

 

「限界超えて、血鬼術使ったからでしょう」

 

 理由を尋ねられても、獪岳には他に答えようがない。

 

「そうなのか!では、傷が治らないのも同じ理由か?」

「だと思います。血鬼術使って寝るときはいつもそうだ……です。先に消耗した分を回復させてからでないと、傷を治せないんじゃないかと」

 

 少なくとも、以前に幸が長く眠ったときはそうだった。

 あのときは七日目に起きていたが、まず五日はただ眠り、残りのニ日で傷を治していた。

 十日以上眠り、傷が治らないのは初めてだった。

 上弦の参に片目を潰されて腹に大穴を開けられ、それでも乗員乗客隊士含め全員を守り切った炎柱、煉獄杏寿郎は、下手な敬語を使う獪岳の答えにふむ、と首をひねっていた。

 

 何故か、本当になぜか、あの三人の次、獪岳が目覚めた翌々日に来たのが、こいつだったのである。

 ちなみに、蝶屋敷看護婦三人娘によると、獪岳は煉獄とどっこいどっこいで怪我が酷かったそうだ。

 出血多量と高熱で心音が一時途切れそうなほど弱まり、善逸が大騒ぎしたという。

 今も貧血気味で、動いているとふいに目眩に襲われる。それから斬られた顔には、横一文字に傷痕が残るらしい。

 幸いなのは、斬られてから繋がれた腕と脚は、今は感覚が鈍くなっているが、訓練すれば治ることだ。

 斬られてすぐに繋ぐことができ、切り口が綺麗だったから成功したことで、どちらかの条件が欠けていれば、二度と手足が使い物にならなくなっていたとか。

 

「アンタ柱でしょうが。柱なら自分の屋敷に戻ればいいじゃないですか。なんでここにいるんですか」

「獪岳少年が目覚めたというから、見舞いに来たのだ!獪岳妹が起きていないのは残念だがな!」

「妹じゃねぇって言っただろうが!」

 

 ついつられて敬語が外れて叫び返すと、顔が引き攣れたように痛んだ。

 思わず包帯の上から鼻の辺りを押さえると、煉獄は急に優しげな目になった。

 

「幸少女も同じことを言っていたな。自分は妹じゃない、と。幼馴染みというやつだと、悲鳴嶼さんが言っていたが」

「知ってんなら聞くんじゃねぇ……です」

「うむ!土壇場で彼が駆けつけられたのも、元を辿れば幸少女が出していた雀の手紙と、君の鎹鴉のおかげだ!目覚めたら礼を言うといい!」

 

 本当にどてっ腹に穴が開いたのかと言いたくなるでかい声で、煉獄はからからと笑った。

 これでも療養中で、現在待機状態だというからもう柱はどうなっているのだ。

 

「それから獪岳少年!君には三日後の緊急の柱合会議に参加し、上弦の弐についてお館様と柱に直接報告しろという指令が出ている。どの道、その怪我でしばらく任務は不可能だろう」

「はぁ!?」

「ではな!傷を癒やすとよい!」

 

 君たちは鬼殺隊としてよく戦った、とこれまたでかい声で言い残して、嵐のように煉獄は去って行った。

 

「また柱合会議かよ……」

 

 前は裁判、今度は会議。

 立場は違えど、想像するだに面倒な話だった。

 

「……お前が喋りゃ楽なのになぁ」

 

 布で窓を塞いだ小さな薄暗い部屋。

 小さな明かりに照らされ、布団の上で、仰向けに眠っているのは、幸だった。

 あれだけ声のどでかい炎柱がいても、閉じた瞼が震えることすらなかった。

 幸の体は、既にいつもの七歳くらいの姿に戻っている。

 ほどかれた黒い髪は、白い枕の上に広がり、やや体に合っていない大きめの寝巻きで隠れているが、脇腹や肩は包帯だらけで血が滲んでいる。怪我が治っていないのだ。

 丈夫だけが取り柄のような、鬼のくせに。

 

「クソッ」

 

 怒りの泡が浮かんできて、弾ける。

 畳を拳で叩くと、鈍い音がした。

 

 上弦の、弐。

 何度も、死ぬと思った。

 腕を千切られかけ、足首を斬り落とされ、その都度あの鬼は子どもが新しい玩具で遊ぶときのような目で、嗤っているだけだった。

 挙げ句の果て、幸を鬼にしたのは、あの化け物だという。

 腹が立つのは、あの鬼がいなければ、幸は十年前に間違いなく死んでいたという事実だ。

 

 手足を千切られ、腹を割かれて食い散らかされていた子どもから、綺麗だと瞳を片方抉り出したと、鬼は楽しそうに語っていた。

 子どもを鬼に変えてから、人を喰えるようにと香を消したことを、己の優しさのように思っていた。

 藤の香を焚いていた寺など、あの辺りには一つしかなく、その夜に別の鬼に襲われた。

 結局、幸がいくら耐えたところで、なんの意味も無かったのだ。

 幸は眠っている。あの日と同じ、幼い姿で。

 

「お前さぁ、何でそんなに頑張んだよ。何のために、何が楽しくて生きてんだよ」

 

 昔から、いつもいつもいつも、腹が立つほど前向きだった。

 親には捨てられ、腹一杯になるまで食えたことなんて一度もないような暮らしで、だのに年下に自分の飯を分けてしまうから、いつまでも体が小さかった。

 

 獪岳、獪岳、とついて来て、蹴ったり髪を引っ張ったりしてもやめなかった。

 村の子に泣かされても獪岳に馬鹿にされても、懲りるということを知らなかった。

 

 腹がどうしようもなく減ったとき、獪岳は寺の金を盗ろうとしたことがある。

 

 あのときは、盗る前に幸がすうっと音も無く現れた。

 転ぼうが殴られようが、寺の中ではにこにこしていたのに、能面を被ったような無表情だった。

 今度こそ言いつけられるかと思ったのだが、またすうっと消えたと思ったら、塩茹での芋を持って戻ってきたのだ。

 

 それは確か、その日の朝飯だった。

 

「食べて」

「は?」

「お腹が膨れたら、我慢して」

 

 笑みの欠片もない顔で、芋を突き出す金色の瞳は揺らいでいなかった。

 結局、獪岳はその芋を食べた。

 食べざるを得なくなる気迫のような何かが幸にはあったし、終わるまでじいっと金色の瞳で見つめてきたのだ。

 食い終わったら確かに腹は膨れていて、もう盗む気が失せていた。

 幸は、怖いほど真っ直ぐに獪岳の目を見つめて、一言だけ言った。

 

「獪岳。わたしの父さんや母さんと同じこと、二度としないで」

 

 幸が、実の父母のことを自分からまともに話したのはあれ一度きりだったし、幸は獪岳が金を盗もうとしたことを、誰にも言わなかった。

 普段は、親など忘れたと言っていたくせに。

 考えたことはなかったが、彼らは凡そ、真っ当な人間ではなかったのだろう。

 それがどう転んだか、上弦の弐と関わっていた。

 

 そいつらが、死んでいればよかったのに。

 

 だが彼らがいなければ、上弦の弐は訪れず幸は死んでいて、幸が鬼にならなければ、獪岳が死んでいたのだ。

 

 何度も獪岳は幸を盾にしたし、そうやって生き延びてきた。

 それをどうとも思っていなかった。幸も何かを言ったことはない。

 上弦が告げたことは、ただの事実だ。

 それなのに今、そのことでどうしようもなく惨めになったような気分の己がいる。

 

 何も変わっていない。

 呼吸を覚えても、刀を使えるようになっても、体が大きくなっても、幸を置いて逃げ、ただひたすら自分が生きていたことに安堵した餓鬼と、何一つ。

 

 幸は、起きない。

 もう二度と、目覚めないかもしれない。

 

 にゃあ、と唐突に部屋へ猫が飛び込んで来たのは、そのときだった。

 黒い毛並みに金の目の猫は、布団の上に飛び乗る。いつかの日に蝶屋敷の外で見た、あの人懐っこい小猫だった。

 何だこいつは、とつまみ出そうと手を伸ばす。

 

「獪岳」

 

 重々しい声と共に、部屋に入ってくる影があった。

 岩柱、悲鳴嶼行冥だった。猫はみぃ、と鳴いて、彼の足元に擦り寄った。

 飼い猫だろうと幸は言っていたが、まさか。

 

「そいつ、あんたの猫かよ。悲鳴嶼さん」

「そうだ。久しいな。……お前も、幸も」

 

 幸が眠っている布団を挟んだ反対側に、猫を肩に乗せた悲鳴嶼は座った。

 向かい合うと、圧倒されるようだった。十年近く前は枯れ木のようだったのに、今では巌のようだ。

 沈黙を続けたあと、悲鳴嶼が口を開いた。

 

「酷い怪我をしたと聞いたが、具合は良いのか?」

「血が足りてないだけだ。訓練すりゃ、手足も動くようになる。鬼殺隊もやめねぇよ」

「……そうか。よく、生きていたな」

 

 それは一体、上弦との戦いのことなのか、十年前のあの日からのことなのか。どちらなのだろう。

 答えられないでいると、悲鳴嶼は数珠玉を擦り合わせながら尚も続けた。

 

「幸は、煉獄の怪我を治す際に、万が一理性を失えば頚を落とせと、私に言った」

 

 如何にも、頭に血が上った幸の言いそうなことであった。

 

「あんたは柱でこいつは鬼だ。柱の前で柱に血鬼術かけたきゃ、頚かけなきゃならなかったんだろ」

 

 その場合、一緒に獪岳の首もかかっているのだが。

 幸が理性を飛ばして人を喰えば、獪岳がその頚を落として腹を切らなければならない。忘れていたのかこの馬鹿は。

 

────まァ、忘れてんだろうなぁ。

 

 髪をぐしゃりと手でかいた。

 

「こいつを鬼にしたのは、上弦の弍だった」

「何?」

「向こうがべらべら喋ったんだよ。こいつの親がこいつを嫌って捨てて、それを聞いた上弦が面白がってこいつを鬼にしたとさ」

「……それ以上はいい。柱合会議で聞こう。今は休め、獪岳」

「あんた、何か知ってんだろ。こいつの親のこと」

 

 悲鳴嶼を無視して、獪岳は尋ねる。

 沈黙の後、悲鳴嶼は口を開いた。

 

「酒浸りで、盗みに手を染めて身を持ち崩したとは聞いていた。……幸は、忘却ができない体質で、故にか自我の発達が異常に速かった。そのせいで疎まれたと、言っていた」

「俺には、親のことは忘れたって」

「それは嘘だな。幸に、『忘れた』は有り得ない。つらい記憶を敢えて忘却し、痛みを雪ぐことができないのだ」

 

 悲鳴嶼は首を振った。

 それでか、と獪岳は悟った。

 あのときに獪岳を圧倒した、幸の氷のような気配の理由が、わかった気がした。

 

「あの夜、お前たちは寺にいなかった。皆はお前たちは先に寝たと言ったが、鬼は外にいた女の子を喰い、男の子を喰い損ねたと言っていた」

「……こいつが、俺たちが抜け出したままだってことを黙っててくれってあいつらに頼んで出てきたんだよ。日暮れ前に帰ってこねェと、あんた、俺たちを心配して外に出たろ」

 

 くだらないことで叱られ臍を曲げ、寺を飛び出した獪岳を迎えに来たとき、幸は言っていた。

 みんなに嘘をついてもらって抜け出して来た。明日の朝、一緒に行冥さんに謝ればいいじゃない、必ず許してくれるから。

 だから、早く戻ろうよ、と。

 鬼に襲われたのは、その直後だった。

 

 叱られた原因は、もう思い出せない。

 思い出せないほど、くだらないことだったのだ。

 

「お前が鬼殺の剣士として生きていて、しかし鬼を庇った隊士だと聞いたときは、驚いた」

「そう見えなかったけどな。処刑に賛成してたじゃねぇか」

「……私は鬼殺隊で柱として戦い、その中で鬼の醜悪さなど幾らも目の当たりにした。それに私はあの日以来、とても疑り深くなった。お前や幸だからと言って……いや、だからこそ信じることができなかった。お前たちの生存を、喜ぶことができなかった」

 

 生き残りの子どもが、みんなあの人が殺したと言ったから、悲鳴嶼は殺人犯として役人に捕まったと聞いた。

 守り抜いた沙代にそう言われ、お人好しで優しかったあのころの悲鳴嶼は、何を思ったのだろう。

 

「役人になら、俺も会ったし言ったよ。あんたが子どもを殺すわけない。子ども殺しは化け物の仕業だってな」

「そうだったのか」

「役人共は信じやがらなかったけどな。腹立って殴ったら、俺を放り出しやがった」

「……また、随分乱暴なことをしたものだな」

 

 淡々としていた声に、僅かに昔と同じやわらかい色が混ざった。

 

────どうして。

 

 どうして、この声を先に聞くのが自分で、会いたがっていた幸ではないのだ。

 

「悲鳴嶼さん」

「なんだ?」

「こいつ、いつ起きるんだろう」

 

 言ってしまってから、獪岳は口を押さえかけた。

 そんなことを言ってどうする。

 誰にもわからないし、怪我を押しても炎柱の傷を治すと決めて実行したのは幸だ。

 獪岳がその決意に対して思うことも、今こうやって眠りに落ちている姿を見て憂うことも、必要はないはずだ。

 だが、一度言った言葉は、取り消せなかった。悲鳴嶼はゆるゆると首を振った。

 

「最も長く、この子の側にいたお前にわからないならば、誰にもわかるまい」

「……」

「私が言えたことではないかもしれない。が、それでも言おう。幸の側にいてやれ。昔から、お前はこの子の特別だった」

 

 大切な壊れ物を扱うかのように、悲鳴嶼は幸の額にそっと触れた。

 特別という言葉が、耳の中で反響した。

 

「俺が幸の、特別?」

「そうだろう。昔から、お前の側を離れなかった。理由を問うても、答えてはくれなかったな。理由など、なかったのかもしれないが」

「俺は、こいつのためになるようなこと、何もしてないのにか?」

 

 思わず顔を上げれば、少し上に盲いて白く濁り、それでも昔と同じ優しい瞳があった。

 頭の上にあたたかいものが乗せられた。

 それが悲鳴嶼の手で、自分が撫でられていると気づくのに、数秒かかった。

 

「損得など関係なく、ただ安らかに生きてくれているだけで嬉しいと思う相手は、いるのだよ。かつてはお前たちが、私にとってはそうだった。お前たちが健やかに生きて大人になってくれるだけで、私はよかった。ずっとそうして、生きていくつもりだった」

 

 それも、永久に叶わない願いになってしまったが。

 

「お前も幸も、鬼殺隊としてよく戦った。無辜の人々と、仲間と、自分の命。それらすべてを守り、生き残った。誇るべきことだ。今は、休め」

 

 悲鳴嶼は、その言葉を最後に出て行った。

 小猫もその後をついて行く。

 存在感のあった悲鳴嶼がいなくなれば、獪岳には急に部屋の中ががらんと広くなったように感じた。

 

 急に、目が霞むほどの疲れを感じて、獪岳はその場で自分の腕を枕にし、畳の上でごろりと寝転がった。

 拳二つ分ほどの距離に敷かれた布団の上で、幸は眠っている。

 小さく薄い体は、首元辺りまでかけ布に覆われ、深い呼吸にあわせてゆっくりと胸が上下していた。

 白い陶器のような横顔は静謐で、深い傷を負ったままであることを感じさせないほどに、穏やかなものだ。

 

 閉じた瞼の裏で、こいつはどんな夢を見ているのだろう。

 次に目覚めたとき、何と言うのだろう。

 それとも、もう二度と目覚めることなどないのだろうか。

 

 そう考えて、獪岳はそれを恐ろしいと思っている自分がいることに気がついた。

 手を伸ばして、細い手首の脈を探る。

 微かだが、それでも確実に脈打っている生命のあたたかさが、そこにはあった。

 

「……言いたいことが、聞きたいことが、まだあるんだよ」

 

 身勝手と罵られてもいい。

 何を今更と笑われて、呆れられてもいい。

 だから、だから頼むから、まだ死んでくれるなと、もう一度目覚めてくれと、そう思いながら、疲労に追いつかれた獪岳はゆっくり目を閉じる。

 触れた指先に、確かに巡る血の勢いを感じながら、獪岳は眠りに落ちていったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、病室にいない獪岳を探す看護婦の少女たちが見つけたのは、胎児のように手足を縮めて体を丸め、幸の手首に自分の手を重ねて布団の隣で眠る獪岳と、眠り続ける幸だった。

 

 とても気持ち良さそうに寝ているのに起こしてもいいのかな、と戸惑う彼女たちを置き、部屋から勝手に消えてあちこちに心配をかけた馬鹿を、通りすがりの不死川玄弥が容赦なく叩き起こして病室に突っ込んだのは、言うまでもないことだった。

 

 




【すべて見て知らせていた鎹鴉の一言】

 ソコデ、ゴメンナサイモ、アリガトウモ、言ワナイカラ、オ前ハ、カイガクナノダ。

 コノトウヘンボク!トウヘンボクゥ!!


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十一話

十一話です。

では。


 

 

 

 

 上弦の鬼と戦った者が一人、目覚めようが目覚めなかろうが、時間の流れというのは平等に過ぎて行く。

 蝶屋敷に眠り続ける幸を置いたまま、包帯が取れぬまま、獪岳は柱合会議に呼び出されて、戦いの模様を報告した。

 柱合会議は半年に一度だが、今回は上弦の鬼二体が現れたという異常を鑑みて開かれるそうだ。

 今度は庭に面した部屋ではなく、中の座敷だった。

 上座にお館様が座し、その両脇に九名の柱が二列でずらりと並んで、獪岳はその最も下座、列の間に座って話すことになったのだ。

 一番近くには悲鳴嶼が座っていたからまだましだが、相変わらず他の柱が発する圧が凄まじい。

 特に、蟲柱・胡蝶しのぶが獪岳が話すに連れて、殺気と紛うほどに鋭い気配を放ち出した。

 

 蟲柱の様子を不思議に思いつつも、獪岳はなるべく淡々と語った。

 特に、上弦の弍が扱う肺を凍らせに来る呼吸封じの技は、柱たちにも驚きだったらしい。

 くらったのが鬼の幸だから再生できたが、人間が迂闊に斬り掛かれば、肺胞が壊死して呼吸がままならなくなり、殺されるという最悪な初見殺しである。

 後は、外見、氷を自在に操ること、武器が二本の扇であったこと、穏やかで優しげな口調だが、中身が不気味で得体が知れないこと。

 そんなことを語った。

 

「鬼の性格なんざどうだっていいんだよォ。他に情報はねェのかァ」

 

 滅多やたら人相と口の悪い風柱、不死川実弥は不満げに吐き捨てた。

 最近顔を合わせるようになった不死川玄弥と似た顔で、しかも同じ名字なのだが、兄弟か何かなのだろうか。

 風柱の言い草に腹は立ったが、言われればもう一つ思い出したことがあった。

 

「……あの上弦は、人間と関わりがあるのかもしれません」

「それはどういうことかな、獪岳。何故そう思うんだい?」

 

 穏やかという点は同じでも、上弦の弍とは似ても似つかない、人を安らかな心持ちにさせる威厳を持つお館様は、やわらかく問うてきた。

 

「あの上弦の弍は、幸の実の親から慕われ、崇められていたようです。今はどうだか知りませんが、少なくとも十年前までは、教祖様、と人間に呼ばれていたはずです」

「教祖……どこかの宗教を隠れ蓑にでもしていたのかな。小さく閉じた集まりであるなら、見つけにくいからね。幸の実の両親の名や、住んでいる場所はわかるかい?」

「俺は知りませんし、生きているかもわかりません。幸は覚えていると思いますが、今は」

「ああ、まだ目覚めていないのだったね。……心配だね」

 

 寺にいたころも鬼殺隊に入ってからも、幸の名字は知らない。幸は名乗らなかったし、獪岳も聞かなかった。

 獪岳は獪岳、幸は幸。それで事足りたし、興味もなかったからだ。

 

「獪岳、まだ上弦の弍に関して、言うことはあるかい?」

 

 能力も手がかりももう喋った。まだ口にしていないのは、十年前の夜に関わる出来事だけだった。

 ありません、と言おうかと思う。

 だが結局、獪岳は口を開いた。

 

「幸に血を与えて鬼にした者が、あの上弦の弍でした。俺たちが昔住んでいた寺の、藤の花の香を消したのも、そいつでした」

 

 視界の端で、悲鳴嶼が片眉をはね上げたのが見えたが、獪岳はそちらを向かなかった。

 柱の何人かも反応したようだったが、努めて無視をする。

 

「あれは俺たちの、仇です」

 

 それだけを告げて、獪岳は深く頭を下げた。お館様は何も言わず、ただ深く頷いただけだった。

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

「で、なんでテメェらがまだここにいんだよ」

「俺も善逸も刀を無くしてしまったから、蝶屋敷で受け取るようにって言われたじゃないですか。獪岳さんもでしょ?」

「うん……まぁ、そういうことだから」

 

 柱合会議に呼び出された翌々日、蝶屋敷の病室で獪岳は炭治郎に善逸と向き合っていた。

 彼らは獪岳より怪我はましなのだが、炭治郎は無限列車に巣食っていた鬼の、手下になっていた人間に腹を刺され、善逸は無茶な加速をして脚を痛めており、結構な重傷患者であるのには変わりない。

 元気なのは、あの猪頭くらいだ。

 

 おまけに、今回の任務で三人揃って刀を失った。

 炭治郎は上弦の参、猗窩座に刀を投げつけて失い、獪岳と善逸の刀は上弦の弍との戦いで二つに折れた。

 新しく支給される刀が届くまで、三人仲良く待っていてくださいね、と蝶屋敷の主の蟲柱に笑顔で言われたとき、はい、と元気よく返事したのは竈門炭治郎だけである。

 

 桑島慈悟郎門下の兄弟子と弟弟子は、てんで違う方向を向いていた。

 獪岳はまだ待機命令中で蝶屋敷から離れられず、明日まで一切の稽古禁止を言い渡され不機嫌であったし、善逸はしょぼくれているからだ。

 しょぼくれた善逸を見ると獪岳は尚更苛立つから、元気なのは本当に竈門炭治郎だけなのである。

 

「俺、獪岳さんに聞きたいことがあるんです」

「……あ?」

「幸さんのことなんですけど、幸さんは禰豆子みたいに、長い間眠った後に目覚めたってことはありますか?禰豆子は二年くらい眠ってたことがあって、その間に細胞が変化したって珠世さんが」

「知らねぇよ。話しかけんな」

 

 珠世とはまず、誰だ。

 

「あっ、すみません。珠世さんは鬼ですけど、禰豆子や幸さんと同じで鬼舞辻の呪いを外した人です。鬼を、人間に戻すための薬を作ってくれているんです」

 

 そういえば、無限列車に向かう前、幸が自分の血を炭治郎に渡したとか何とか言っていた。

 鬼の医者が欲しがっているからだと聞いて、あのときは物好きだと鼻で笑ったが。

 

「鬼を人間に戻す、な」

 

 夢物語でくだらない、と言おうとして、善逸がこちらを見ているのが目に入った。

 苛立ちを込めて睨みつけると、目を逸らされる。

 舌打ちして、獪岳は寝台から立ち上がった。

 

「どこに行くんですか?」

「別に。屋敷からは出ねェよ」

「幸さんのところだったら、多分禰豆子がお邪魔してると思います!」

 

 でかい声に振り返ると、一点の曇りもない炭治郎の目と目が合う。

 何だかんだ、この兄妹は似ている。

 特にどちらも真っ直ぐこちらの目を見て話してくる辺り、獪岳は苦手だった。

 だのに、炭治郎は獪岳がどれだけ適当にあしらおうとしてもがんがん話しかけてくるし、妹のほうは自分より小さな体の幸を構いたがりで、頭を撫でたり添い寝してやったりと、何かと側をうろちょろしている。

 そいつはお前より歳上だというのに。

 本当にやめろ竈門兄妹、という獪岳の舌打ちは、やたらと大きく響いたのだった。

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

「それで幸少女の病室を覗いたら、見事に竈門妹がおり、手持ち無沙汰に一人箱作りをするに至ったという訳か!寂しいことだな!」

「……ふん」

 

 蝶屋敷の片隅の地べたに座り、箱を作っていた獪岳の前に現れたのは、眼帯の炎柱、煉獄杏寿郎である。

 幸を運ぶための箱は、無限列車脱線の際にどこかにふっ飛んだらしく、見つからなかったのだ。

 仕方ないので蝶屋敷で余っている木材と釘と紐を適当に貰い、獪岳は一人背負い箱を作っていた。

 手先は器用なほうなので、材料と道具さえあればどうとでもなる。

 鍛練は体が治るまで禁止、刀はなし、入院仲間が互いに嫌い合っている弟弟子とその同期と来ると、獪岳には本当にやることが何もないのだ。

 

 何かしていないと、苛立ちが募って当たり散らしたくなるし、そうなればなったでまたあの不死川玄弥というやつが睨んで来る。

 

 不死川玄弥は、悲鳴嶼の弟子だ。

 目が見えない悲鳴嶼の代わりに、幸からの手紙を読んでいたのも彼で、だから悲鳴嶼と獪岳や幸との間の繋がりも、なんとなく理解しているはずなのだが、前回幸の隣で寝落ちした獪岳を叩き起こしたのも彼である。

 

 幸がとっ散らかった手紙を送ったせいで、玄弥は獪岳と幸が、外見通りに歳の離れた幼馴染みと思っていたらしい。

 獪岳も手紙の中身を見たが、確かにあれでは十七歳が書いたものには見えない。

 多分、伝えたいことがありすぎ、手紙というものを生まれて初めて書いたから、あんなふうになったのだろう。

 それにしたって、ほぼ箇条書きなのはどうした。話も行ったり来たりで、とどめに字が金釘流だ。

 書き方なら聞かれれば教えたのに、もう少し何とかならなかったのか。

 頭はいいくせに、焦るとくだらないどじを踏んでいる。

 

 とはいえ、そんな手紙だろうが、幸が悲鳴嶼に無限列車のことを伝えていたおかげで助かったわけだから、文句は言えない。

 文句は言えないどころか、言うべき本人は今もまだ深い夢の中。傷は徐々に塞がってきているようだが、起きる気配が無い。

 いつまで寝ているのだ。

 

 あれやこれやで、一人黙々と箱弄りをしていた獪岳のところに来たのが、煉獄杏寿郎だったのである。

 

 いや、本当に炎柱は何をしに来た。

 柱なら、うろうろしていないで休んでさっさと任務に行くべきだろう。

 

「柱ならば引退するが」

「はぁ?」

 

 思わず振り向くと、隻眼の煉獄はほろ苦い感じで笑っていた。

 

「幸少女のお陰で生命は拾ったが、見ての通り片目は失ったし、内臓のいくつかの機能が元のようには動かん。柱としての任をこなすのは、不可能と判断した次第だ。今回の柱合会議で、正式に決定した」

「……」

 

 そういえば、師匠である元鳴柱も、鬼との戦いで片脚を失って柱を引退したという。

 鬼の力を借りられても、一度失われたものは戻らないのだ。

 

「……言っときますが、幸の血鬼術は、俺たちが元々持ってる回復力に働きかけて、一時的に再生能力を上げるってだけです。零から一を生み出すもんじゃないですから」

 

 あまり慣れない敬語で、なんとか喋る。

 前回は敬語も何もあったものではない話し方になっていたが、どちらにしても炎柱は気にしたふうもなかった。

 

「鬼の再生力を分け与えて、使っているわけではないのか?」

「そんなことしたら、人間に鬼の血が入っちまうじゃないですか。傷を治すのに使われたのは俺やあんたの生命力で、腹の穴塞ぐほどの分補うってんなら、相当削られてます」 

「君の場合はどうなのだ?重傷だったと聞いているが、大事ないのか?」

「俺は、腹に穴開いたあんたと違って、手足を繋いだだけだからまだマシです。それでも、血が足りてないわ高熱が出るわで、結局死にかけてますが」

「なるほどな!」

 

 要するに、体力や寿命に相当するような生命力が使われているのだ。

 が、あれも使いようである。

 上弦の弐には防がれたが、鬼に対して使うと、再生能力を暴走させて肉塊にもできる。

 ちなみに、相当見た目がえげつないことになるあれを考えついたのは獪岳ではなく、幸である。

 しれっと優しい顔で、幸は考えることがかなり怖いし、気が強いのだ。

 

「で、何の用ですか。こんなこと話すために来たんじゃありませんよね?」

「うむ!そうだった!獪岳少年!君、俺の継子にならないか?」

 

 手が滑って、獪岳は危うく木槌で自分の手をぶっ叩きかけた。

 煉獄の顔を見れば、本気であるというのは見てとれた。

 

「……俺は、雷の呼吸を使うんですが」

「知っているとも!何、呼吸が違っても継子となる例はある!それに、継子というより弟子だな!俺は柱ではなくなるからして!竈門少年にも列車内で声をかけたのだがな!」

 

 また竈門か、と獪岳は槌を再び動かす。

 あいつの、とにかく人を真っ直ぐに見てくる目は嫌いなのだ。

 人間だったころ、獪岳を真っ直ぐに射抜いて圧倒させた、幸の視線を思い出させるから。

 そんなやつと、また一緒になる。

 考えるだけ嫌だった。

 

 それでも、と手の中で形になりつつある箱に目を落とした。

 雷の呼吸、壱ノ型、鬼の頚を一撃で落とす、霹靂一閃。

 ずっと、ずっとあれに拘って来た。できるようになりたかった。

 あれさえできたら、雷の呼吸の継承者は自分一人になるから。

 だが、どれだけ努力しても、腕が上がらなくなるまで刀を振っても、壱ノ型には届かない。

 

 上弦の弐との戦いで、善逸が霹靂一閃で斬り込んで来、上弦の氷を弾き返さなければ、獪岳は死んでいただろう。あの瞬間は、幸も完全に間に合っていなかった。

 

 獪岳は、善逸と霹靂一閃に命を救われたのだ。

 

 黙っていると、背後で煉獄が立ち上がる気配がした。

 

「すぐに答えを出さずともよいが、早い答えを待っているぞ!」

「いやどっちなんですか!」

 

 去って行く煉獄に、思わず手に握った木槌を投げつけなかったのは、柱への最低限の礼儀だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日暮れ前に、箱は外側だけが出来上がった。後は鑢をかけて滑らかにし、漆でも塗れば丈夫になるだろう。

 だが、できたのは空の箱だ。

 持ち上げて肩にかけてみても、この中に入ってがんがん獪岳の背中を蹴ってくるやつはいない。

 

 空っぽ、虚ろ、役に立たないただの容れ物。

 獪岳が叩いてみても、音が反響するだけで何も返ってこない。中に誰も入っていないのだから、当然だ。

 

 急に、丸一日かけてやってきたことが虚しく思えて、獪岳は箱から手を離した。

 乾いた音を立てて、箱は地面に転がる。

 庭にある岩の上に腰かけたまま、獪岳は落ちたはずみで蓋が空いた箱の中に蟠る、小さな闇を見つめた。

 

 ふと、落ち葉を踏みしめる音がして獪岳は顔を上げた。

 

「……テメェか、善逸」

「うん、俺だよ。獪岳。……それ、幸ちゃんの箱?」

 

 木くずだらけの地面に転がる箱を指して、善逸が尋ねる。

 肩を丸めたその姿勢に、獪岳は収まっていた苛立ちがまた募るのを感じた。

 

「何の用だ。もうテメェらとは任務には行かねぇだろ」

 

 師から言い渡されていた『修行』は、善逸と一度任務を共にすること、それだけだ。

 まさか、そのたった一度が上弦との戦いになるとは思ってもみなかった。

 

「わかってるよ。俺が来たのはこっち。これ、爺ちゃんからの手紙。獪岳が寝てる間に届いたんだ」

 

 善逸が懐から取り出したのは、やや皺が寄った手紙だった。

 受け取りはするが、善逸がいる場では読みたくはない。

 しかし、善逸のほうは戻る素振りを見せなかった。

 ただそこに、立っている。

 

「あのさ、獪岳。俺、前にすごく耳が良いって言ったよな」

 

 意を決したように、善逸は口を開いた。

 

「だからさ、幸ちゃんが寝てても、なんとなくだけどあの子が何を思ってるかわかるんだよ。あの子、音が寂しそうだけど、燃えてるみたいなんだ。獪岳、幸ちゃんの側にいてやったほうが、いいんじゃないのか?」

 

 その言葉を聞いて。

 無性に、腹がたった。

 獪岳には、そんなものわからない。

 眠りに落ちた人間の心など理解できないし、こちらの声も聞こえない。

 獪岳が側にいようがいなかろうが、何も変わりはしないからこうしているのに、他にできることなど何もないというのに、側にいてやれ?

 ふざけるな。

 そんな音、自分には聞こえない。

 

「お、俺の言うことが信じられなくて怒るのはいいよ!?だけど、幸ちゃんの音が、何処か変わってきてるのはホントなんだ!」

「うっせェ!俺に命令すんじゃねぇ、カスが!」

 

 地面からすくい取って投げつけた小石から、善逸は顔を手で庇った。

 金に似た、黄色の瞳が腕の隙間から獪岳を捉えた。

 

 同じ色、と言う言葉が頭を掠める。

 

 糸が切れたように、善逸が叫んだ。

 

「俺は命令してるわけじゃないよ!獪岳の意地っ張り!なんっだよ!いつも不満そうな音ばっかさせて!幸ちゃんに心配かけてんじゃねぇよ!阿呆!」

「なんで俺があいつの心配しなきゃならねぇんだ!」

「他に誰がいるってんだ!気づけよ!」

「そんな音、俺にはわかんねぇよ!聞こえるわけねぇよ、眠ってるやつのことなんて!」

 

 どうして、何も知らないお前にはわかって、自分にはわからない。

 

────お前と俺と、何が違うんだ!

 

 幸が眠る顔をただ見ることしかできない中、胸に凝っていた、泥のような苛立ちが爆発しかける寸前で、ひょい、と間に割り込む人影があった。

 

「二人とも、一体全体何をしているんですか。夜に怒鳴り合いなんて、他の患者さんに迷惑です」

「む!」

 

 小柄な少女が二人、そこにいた。

 二人ともほどけた黒髪を背中に流し、黒い羽織を着て、背丈はそれほど違わない。

 否、夜でも映える金色の瞳の少女のほうが、もう一人よりはやや小柄だった。

 くる、と金色の瞳が獪岳の方を向く。

 

「やぁこんばんは、獪岳に善逸君。綺麗な月夜でいいことだけれど、あなたたちは一体、夜に何を叫んでいたんです?」

 

 母屋まで聞こえてしまうよ、と片眉をちょっと上げて見せる小憎らしい顔。

 獪岳は、無言でその額に手刀を振り下ろした。

 

「おっと」

 

 そして当然のように、最小限の動きであっさりと避けられた。

 

「獪岳、遅い。体力、まだ戻ったわけじゃないんだ」

「遅いのはどっちだこの寝坊助野郎!」

「野郎じゃないよ。こっちだって、好きで眠っていたんじゃないのに」

「うっせぇ!テメェいっぺん死んでこい!」

「なんて無茶な。ああでも、それだけ叫べるなら、怪我の具合はいいみたいだね。手足と背中、大丈夫かなぁ?」

「知るかクソがァ!こっの……この、馬鹿幸ィ!!」

 

 それはちょっとひどいんじゃないの、と月下で口を尖らせているのは、紛れもない幸だった。

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 幸は当たり前のように目覚めて、当たり前のように動き出したそうだ。

 目を開けたとき、隣に禰豆子がいたから、おはようと言って普通に起き上がり、布団を畳んでいたときに、外から獪岳と善逸の怒鳴り声が聞こえたから、出てきたという。

 普通すぎて、目眩がするような行動だった。

 

「よかった!幸さん、もう二十日も寝てたから心配してたんです!」

「バチバチ野郎もお前も、寝坊助過ぎんだよ」

 

 妹を探しに夜の庭にまで出てきた炭治郎と、一緒にいた伊之助は、幸を見るなり元気にそう言った。

 

「それに幸さん、大きくなってますか?」

「はい。起きたら背が伸びていて、言葉もこの通りです。では皆さん、今晩はもう遅いですし、おやすみなさい」

 

 そう言って、三人組と禰豆子にぺこりと頭を下げた幸の言葉は流暢になっていたし、背が伸びていた。

 起きてすぐに動けている辺り、やはりこいつは鬼である。

 人間ならば、そんなふうになれない。目下、獪岳の状態がまさにそれである。

 大体、寝て起きたら身長が一尺以上も伸びたなんて摩訶不思議な話があるか。

 眠る前は七つくらいの小さな子どもだったのが、今は竈門の妹と同じほどの背丈である。

 やや幸のほうが小さいが、そういえば上弦と戦っていたときに短い時間だが、ここまで成長していたような。

 

「お前、十七になってもチビなんだな」

 

 こちらを気にしつつ善逸たちが部屋へ戻ったあとに、すぐ呟くと、獪岳の肩に届くくらいにまで背が伸びた幸は、ぷいとそっぽを向いた。

 

「小さくはなれんのか?」

「なれるよ。箱にちゃんと収まれるくらいにはね」

 

 これ、と獪岳がさっき地面に放り捨てた箱を、幸は両手で嬉しそうに抱えていた。

 ち、と舌打ちが漏れた。

 

「まだできてねぇんだよ。返せ」

「いやだよ。あとは鑢かけくらいじゃないか。こっちでやるから、獪岳は寝たら?人間はもう寝る時間だよ」

「気が向いたらな」

 

 幸は首を傾けた。

 その瞳は縦に割れ、小さいが鋭い牙はまだ、生えている。爪も鋭い。

 あまりに普通に喋るから、人に戻ったのかと一瞬思ったが、そういうわけではなかったのだ。

 獪岳の視線に気づいてか、幸はまた口を開いた。

 

「体と言葉がこうなった理由はわからないよ。でも、あそこまで消耗して戻って来たから、その影響かもしれないね。ほら、死地から戻ると逞しくなると言うから」

「死地、なぁ。三途の川でも見てきたのかよ」

「うん」

 

 至極真面目に、頷かれた。

 どちらから言うとでもなく、縁側に並んで腰掛ける。

 

「あそこが三途の川かは、わからないけど、夢で川の辺りに出たよ。彼岸花が咲いていて、向こう岸に死んだみんながいた」

 

 正面だけを見て、幸は淡々と語った。

 

「ごめんなさいって言いたかった。わたしがいなかったら、上弦の鬼は来なかったのに、わたしが一人で死んでたら、お香も消えなかったのにって」

 

 温度がない声が、夜の闇を伝って身のうちに染み込んでいくようだった。

 

「だけどみんな、何か言う前に消えてしまったよ。顔もよく見えなかった。よく見えないのに、それでもあの子たちだってわかったんだ」

「……幻覚じゃねぇのか」

「そうかもしれないね。死んだ人たちが、そんなふうに、会いたいときに都合よく現れたりはしないからね」

 

 ねぇ、獪岳、と幸ははっきり名を呼んだ。

 舌足らずだが耳慣れていた、かいがくという言い方では、なかった。

 

「わたし、あの鬼を殺すよ」

 

 熱はないのに、触れれば切られそうなほどの何かが、短い言葉に籠もっていた。

 

「あの鬼は、絶対に殺す。意味なんてなくても、ただ殺すために殺してやりたいと思ったから」

「……復讐でも、するつもりかよ?」

 

 問い返した自分の声がいつも通りのものであるか、獪岳には自信がなかった。

 幸は、薄く笑ったようだった。

 

「復讐は、受けた痛みを相手に返すことだよ。あの日、苦痛と恐怖の中で死んだのは、あの子たちだけ。わたしに死んだあの子たちの言葉は聞こえないから、その痛みはわからない」

 

 だから。

 

「わたしが行うのは、ただの暴力だ」

 

 とん、と言葉が胸に突き刺さった。

 

「死は、鬼への救いになると思っていた。でも、今は、あいつがこの世に、生きていることが許せない。必ず無意味に、無価値に、塵のように殺してやる。あいつがあの子たちにしたように、その生命を踏み躙ってやる」

 

 そこに、意味などない。

 死者は死者で、生者は生者。

 死者は応えず、彼らの受けた痛みが、この世で和らぐことは決してない。

 それでも。

 

「生命を踏み躙ることで地獄行きになるというなら、それでいい。わたしがすると決めたから、する。それだけ」

 

 獪岳はそっと幸の顔を見る。

 嵌め込まれたような金色の瞳が、奥で炎を燃やしてそこに存在していた。

 月のようで綺麗な目で、だから一つを抉って持ち帰った、と宣ったあの鬼の戯言が頭を掠める。

 

 何が月だ。どうしようもない節穴野郎。

 こんなものが、高い夜空でただ光るお綺麗なものであるわけがない。

 ここにあるのは、双つの炎だ。

 憎悪を火種に燃え上がり、狙いを定めて自らの敵を焼き尽くそうとしている、黄金色の炎。

 あの上弦は、その炎を灯したのだ。

 地獄の業火というのがもしあったとしても、これより美しいものであるとは、思えなかった。

 そう考えて、獪岳は気づいた。

 

 自分は今、この猛る炎の瞳を、美しいと思ったのだと。

 

 それと同時に、思うのだ。

 こいつは、やっぱり、馬鹿なやつだと。

 確かに、幸が自分の生にしがみつかずさっさと死んでいたなら、上弦の弐は彼女を鬼に変えたりもせず、寺の香を消さなかっただろう。

 幸が一人ぼっちで死んでいたら、寺は襲われなかったかもしれない。

 一人分の喪失を抱えていようが、あいつらだって今も生きていたかもしれない。

 獪岳や悲鳴嶼が、刀を取ることもなかったかもしれない。

 すべては可能性の話で、あり得たかもしれない未来の話だ。

 

 だから幸は、多分自分を責めている。

 自分で自覚するより、もっとずっと、深く。

 同時に、そんなことをしても何も変わらないことも、理解している。

 時間の流れは戻せず、生命は決して回帰しないのだと。

 

 殺したいからただ殺すというのは、そうする以外に、自分の心を何処にも持っていけないからで、その不毛さを自分でもわかっているからこその言葉だろう。

 有難いみ仏さまの慈悲の心でも何でもない、ただ殺したいという衝動に目覚め、突き動かされている自分を、地獄に落ちても構わない人間なのだと、定めてしまっているのだ。

 

 塵のように殺すと言っているくせに、あんなやつでも、一つの生命を持つ者だと心の何処かで尊重している。

 

 獪岳は、上弦の弐が自分たちと同じ生命を持っているとは思えない。

 とっとと死ね、以外に言葉もない。

 幸が、何故自分を責めるかもわからない。

 

 生きてさえいれば勝ちなのだ。

 

 生きたいから生きるために行動して、何が悪かったのだ。

 死んだあいつらは確かに気の毒だが、幸だって死にたくなかっただけだろう。

 手足を千切られ、腹を裂かれ、生きたまま喰われた人間が、痛くなかったはずはないのに。

 誰がそれを責められる。

 誰がその痛みを拾い上げ、癒やしてくれた。

 

 寺に上弦が来たのだって、別に幸が何かをしたわけでもない。こいつをたまたま産んだ親が、屑の臆病者であっただけだ。

 そして何よりも、あの夜寺の外に出た獪岳を責める言葉が、一つも出ない。

 獪岳のせいじゃない、といつかに言っていたあの言葉は、本心なのだろう。

 

 幸は、復讐鬼には決してなれないような人間だ。あまりにまともすぎる、人間なのだ。

 だのに、自分は憎しみと怒りで燃えているその瞳を、事もあろうに美しいと思った。優しくてまともな人間ならば、憎悪の炎を収めなければならないと、諭すべきだろうに。

 

 そして、その瞳の炎が燃やしつくそうとしているのは、炎の矛先が向いているのは、上弦の弐であって獪岳ではない。

 

 水底から泡が浮かび上がって弾けるように、あの鬼への殺意が湧いたのはそのときだ。

 

「……無理だろ、お前には」

 

 せせら笑うように言うと、幸が獪岳の方を向いた。

 炎は既に鳴りを潜めていたが、それでも熾火のような熱が、ちらちらと奥に瞬いていた。

 

「俺たちなんて、簡単にあしらわれたじゃねぇか。お前一人が突っ走ったって、どうせ殺されて喰われるのがオチだろ」

「それは───」

「だから、俺も連れてけ」

 

 金色が、満月のように丸くなった。

 大きな瞳の中に、自分の翠色が映り込んでいるのが見えて、暗い満足感を覚えた。

 少なくとも今だけは、この瞳は獪岳しか映していない。他の誰をも映すことなく、獪岳だけを見ている。

 

「お前は、自分が地獄行きになっても、あの鬼を殺したいんだろ。俺もやるって言ってんだよ」

「……誰のためにもならない、わたしがしたいからする、殺害行為だとしても?」

「何忘れてんだボケ。俺だってあいつに恨みがあって、死んでほしいのは同じだ」

 

 それは嘘ではないが、混じりけない真実とも言えなかった。

 死んだ人間を想って怒り、殺意を覚えたのではない。

 獪岳は、単にあの美しい双つの炎を向けられている鬼が、自分の邪魔で目障りだから、殺したいのだ。

 金色の美しいものを、横取りされたようで腹が立つのだ。

 その瞳が自分のものであったことなど、ただの一度もないくせに。

 

 幸は、黙っている。

 じれったくなって、獪岳はその目の前に手を突き出した。

 

「やるかやらねぇのか、はっきりしろ。二人でやるんなら、俺の手を掴め」

 

 思えば、幸から手を伸ばされたことはあっても、獪岳から手を差し出したのは初めてかもしれなかった。

  

 ややあって、幸はその手を掴んだ。

 爪が鋭く伸びて青白い、鬼の手だった。

 

 家に帰ろうよ、と十年前に暗い山の中で伸ばされた手があった。

 その手が繋がれることはなく、獪岳の今の手は、あのころと似ても似つかぬ刀を握り続けて硬くなったもので、幸の手は人のものではなく、鬼のそれになってしまった。

 

 鬼さえいなければ、という言葉の虚しさと哀しさを、獪岳はそのとき初めて身に沁みて理解したように思った。

 

 鬼さえいなければ、こうはならなかった。

 不貞腐れながら、喧嘩しながら、手を繋いで夜道を帰って、お人好しな坊さんに叱られて、ただいまを言って、あいつらに笑われて、貧しくとも穏やかに暮らしていた。

 静かな月のような優しい瞳が、人を魅せる業火を湛えることもなかった。

 二度と戻ることがない遠い日のまぼろしが、繋いだ手の微かなあたたかさを通じて、束の間流れ込んでくる気がした。

 

「獪岳、もういいよ」

 

 幸が、そっと手を放す。

 不思議なものでも見るように細められた瞳は、もういつもの通りだった。

 静かな夜に、虫の音と風の音だけが聞こえる。

 

「こんばんは」

 

 その静寂を破って背後から聞こえた声に、獪岳は、本当に心臓が口から飛び出すかと思った。

 蝶の翅を模したような羽織をふわりと纏い、にこやかな笑顔で暗い廊下に立っているのは、蟲柱・胡蝶しのぶだった。

 

「やはり、蟲柱さまでしたか。いつ現れるのかなと思っていました」

「はい。盗み聞きするつもりはなかったんですが、熱心にお話しているから、いつ話しかけようかと」

 

 獪岳と逆に、幸は平気な顔をしていた。

 気配を察知していながら、黙っていたということらしい。

 

「獪岳くんは、もう少し周りに気を張っていたほうがいいですよ。幸さんは、私がここに来たときに、もう気づいていましたから」

「……はい」

 

 いつから気づいてたんだ、と小声で聞くと、獪岳が俺も連れてけと言った少し前辺りからもういたよ、と返ってくる。

 いやふざけるな馬鹿。

 いるならいると言え。

 

「獪岳が、剣士なのに鈍いのが悪い」

「そうですねぇ。獪岳くん、機能回復訓練に、気配察知も追加しておきますよ」

「ぜひお願いします」

 

 呆れ顔と笑顔を同時に向けられ、獪岳は遠い目になる。

 なんで幸は、蟲柱と妙に馴染んでいるのだろうか。

 蟲柱との初対面は、那田蜘蛛山で首に刀を突きつけられた状態、という凄まじいものであったのだが。

 

「で、何しに来たんですか?」

「まあ、構えなくてもいいじゃありませんか。任務から戻ったら、あなたたちの話が聞こえてきて」

 

 獪岳くん、幸さん、と蟲柱はにっこりと笑った。笑顔であるのに、何かが怖い。

 

「あなたたちの仇である上弦の弐は、私にとっても仇です。私の姉、花柱だった胡蝶カナエを殺した相手ですから」

 

 柱合会議での殺気は、そういうことかと獪岳は納得した。

 胡蝶しのぶは、微笑んでいる。微笑んだまま、幸の隣に音もなく腰を下ろした。

 

「ですから、協力しませんか?幸さんに、手伝って貰いたいことがあって」

「わたしに?」

「ええ。あなたの、毒の浄化を行う血鬼術、うまく使えないかと思って。傷を治す血鬼術であっても、あなたは武器として扱えるのですよね」

 

 蟲柱は剣士というよりも、毒使いだという話を聞いたことがある。

 何のつもりかは知らないが、蟲柱からは幸と同じ炎のような気配がした。

 幸が瞳の中に怒りの焔を宿していたように、この女は笑顔の下に怒りを溜め込んでいる。そんなふうに感じた。

 

 どちらにしてもこの二人、怒りという感情を通してならば、相性が良さそうである。ちょうど、体格も同じ程であるし。

 

「どうですか?あなたたちは、あの鬼を殺したい。私は姉さんの仇を取りたい。求めるところは、同じだと思いますが」

「……それはそうです。が、わたしは鬼ですよ。蟲柱さま」

「構いません。無限列車で生命をかけて乗客を守って戦い、煉獄さんを治したあなたは、鬼であっても鬼殺隊ですから。少なくとも私は、あなたをそうと認めました」

 

 だから、と蟲柱は微笑み、幸は頷いた。

 獪岳のときは迷う素振りがあったのに、今度はそのときより迷いがない。返答が速い。

 なんだか面白くなくて、獪岳は横を向いて頬杖をついた。

 その耳に、蟲柱の涼しい声が届く。

 

「それから獪岳くんに幸さん、不死川玄弥くんから伝言です。明日の夕方、悲鳴嶼さんが蝶屋敷を訪れるとのことです。会いたいのでしょう?」

 

 手配しますよ、という蟲柱の言葉に、幸が嬉しそうに頷いているのが見えた。

 

 悲鳴嶼の名前を聞いたときに幸の顔に浮かんだ笑顔の穏やかさを見て、つ、と胸の奥を、自分でも正体のわからない痛みが掠めたのだった。

 

 

 

 

 




【コソコソ裏話】

 幸の両親は、無限列車での戦いが起きた時点では健在です。

 彼らは教祖様の言うことを聞いて生きており、それなりに幸せでした。

 足がつく可能性を考えた教祖様により、こののちにすぐ殺害されますが、最期まで一人娘を思い出すことも、自分たちが何故殺されるかを理解することも、ありませんでした。


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十二話

十二話です。

これで第一部完です。

では。


 

 

 

 

 悲鳴嶼行冥が訪れる日の朝から始まった蝶屋敷での機能回復訓練を、獪岳は難なくこなすことができた。

 体のこわばりを取るための柔軟は痛かったが、その次の鬼ごっこという名の反射訓練は、普通にこなせた。

 相手になったのは、炭治郎と同期で蟲柱の継子という女の隊士だったが、幸より足は遅い。

 幸の速さでの斬り合いに慣れていた獪岳には、楽とは言えないが追いつけない速さではなかった。

 後は、薬湯のかけ合い合戦。

 苦い薬湯入りの湯飲みを幾つも並べ、これを正座したまま取り合って、先に湯飲みを掴んで持ち上げたほうが、相手の顔に湯飲みの中身をかける、というものだ。

 これにも獪岳は勝ったが、さすがに女の長い髪に苦い薬湯をぶっかけるのは気が咎めて、頭の上に湯飲みを置くだけにした。

 

 獪岳さん、顔に似合わず優しいんですね、と看護婦三人娘に言われたが、一言多い。

 鬼の血を頭から引っ被った幸の髪のにおいが、一時ひどいことになったのを覚えていただけだ。

 

「獪岳さん、速いんですね!俺まだ、そんなに速くはなれなくて」

「……」

 

 そして、一緒くたに訓練に参加した竈門炭治郎はこれである。

 答えるのも面倒なので黙っていたが、あっちはまったく懲りずに話しかけて来る。

 お前の後ろで死にそうな顔になっている黄色頭を連れて、どっかに行ってはくれないだろうか。

 一言くらい返さないと、延々構われそうで、獪岳はやむなく口を開いた。

 

「……速いやつ追っかけてりゃ、速くなるだけだ。それでも上弦には通じなかったけどな」

 

 もうこれはいいから木刀振って来る、と道場を後にした。外は、明るい陽射しに照らされている。

 獪岳や炭治郎、善逸の日輪刀は、明日届くと言う。

 木刀ではやはり重さに違和感があるから、早く刀を振りたかった。

 屋敷の裏庭で、一通り型を浚う。

 思った通りかそれ以上に動きが荒くなっており舌打ちが出たが、幸の血鬼術がなければ手足が千切れて死ぬか、二度と歩けなくなっている所だ。

 贅沢を言っている場合ではない。

 

 その血鬼術の使い手はどうしているのかと言えば、屋敷の暗い部屋でやはり、眠っている。

 元々日中は、寝てばかりなのがいつものことなのだ。竈門の妹と同じく、くうくう寝ているだろう。

 夕方になってもまだ眠っていたら、笑ってやろうと思う。

 急速に、本来の年齢にまで成長した体に異常はないのかと蟲柱があれこれと調べていたようだが、特になかったという話は聞いている。

 だが、未だ幸が何故理性を保ったままなのかはわからないままだ。

 竈門の妹もはっきりした原因はわからないというから、そんなものなのかもしれない。

 

 鬼になっても理性を失くさぬ者と、人に食らいついてしまう者、何が違うと言うのだろう。

 同じ病気にかかっても、死ぬ者と死なぬ者がいるのと同じ理屈なのだろうか。

 

 獪岳にはわからないし、そんなことを自分が逐一考えていることが驚きだった。

 

 風切り音と共に、木刀をさらに激しく鋭く振り下ろす。

 体の具合が戻るまで、あと三日と言ったところか。ひと月弱、任務から離れていたことになる。

 

「カァ!」

 

 空から、見慣れた鴉が降りて来たのはそのときだった。

 

「テメェか。任務ならまだ出られねぇだろ」

「当然!当然ンン!幸、起床シタト聞イタ、聞イタァァ!」

「あいつならあっちで寝てるぞ。やかましい鴉じゃ屋敷の中に入れねぇよ。残念だったな」

 

 からかってやると、翼でべしりと叩かれた。

 

「お前もなぁ、最初はあいつが鬼だから近寄りもしなかったよな」

 

 それが、今や幸の頭の上に乗って手から木の実を食べるほどに懐いている。

 尚、獪岳には全然懐いていない。

 事あるごとに煽って来るので、正直便利でなかったら焼き鳥にしたいと思ったこともある。今も思っている。

 藤襲山での帰り道に舞い降りて来たこの鴉相手に、獪岳がまず真っ先にしたことは、借り物の刀を突きつけて幸のことを言いつけるな、という脅しだったのを考えると、当然な気もするが。

 

「ケケケ!今回ハ、手紙、手紙ィ!師カラノ、手紙ィ!トットト読ム、読ムゥ!」

 

 げしげし、と獪岳の頭を蹴った鴉は、ぽとりと嘴に咥えた手紙を落として来た。

 腕が届きそうで届かない、ぎりぎりの距離で煽って来るあの鴉、一体何を考えている。

 だがそういえば、昨日幸が起きた後のやり取りですっかり頭から吹っ飛んでいたが、善逸に師匠からの手紙を渡されていたのだった。

 持ってみれば随分と重い。開けてみれば、これは幸の嬢ちゃんにも見せるように、との一言がついていた。

 

「チッ」

「確カニ、確カニ届ケタァ!カァ、カァ!」

 

 鎹鴉は飛び去って行った。

 二人で読め、とわざわざ但し書きがついているのだから、幸にも見せないとならないだろう。

 他の誰かからの手紙ならば無視しているが、相手は師匠だ。無視するわけにはいかない。

 履物を脱いで木刀を置き、屋敷に上がる。

 そういえば、炎柱からの話もあったのだと、師からの手紙を持って廊下を歩きながら思う。

 

 柱から継子に選ばれた、ということを、少し前までの自分ならば舞い上がっていただろう。

 だが、今はそんなことで舞い上がってどうする、という冷めた思いがあった。

 それほどに、上弦の弐は圧倒的であったからだ。

 回復特化の血鬼術使いがいなければ、獪岳など五回は殺されていたし、善逸や竈門の妹にまで助けられる始末だ。

 

 あれだけの力の差を見せつけられて、天狗になれる馬鹿がどこにいる。

 いたら、首でも落としてやるところだ。

 その上弦を殺したいという少女に、つき合うと獪岳は決めたわけだ。道が果てないことくらい、重々承知だ。

 

「おい、幸。先生からの手紙だぞ。お前と俺、二人宛てだ」

「ん?」

 

 幸に宛がわれている部屋に入ると、当の本人は起きていた。

 寝台から降り、姿見の前で立って髪を弄っているところだったらしい。

 普段は飾り気なく三つ編みで一つに束ねている髪は、ほどかれて腰辺りにまで届いていた。

 口に髪紐をくわえ、手には小さな蝶の髪飾りを持っていた。

 

「お前それ、どうしたんだ?」

「しのぶさんが目印にくれた。何かないと、隊士の人たちが普通の鬼と間違うかもしれないし、しのぶさんとは血鬼術で協力することになったから。けじめみたいなものだって」

 

 可愛いでしょう、という顔は嬉し気だ。

 確かに、同じものをここの看護婦の少女や、蟲柱の継子がつけていた覚えがある。

 

「じゃ、とっととそれつけろよ。先生から手紙が来てんだ」

「いやそれが……つけ方がよくわからなくて」

 

 三つ編みができて、どうして蝶の髪飾りひとつがつけられないのだ。

 思わず白い目になると、幸は不満そうに獪岳を振り向いた。

 

「仕方ないじゃないか。こんな綺麗なものちゃんとつけたことがなかったんだから。それに壊しそうで」

 

 思えば寺の暮らしの中では、当然そんな飾りを買う金などなかった。

 というか、多少余裕があったとしてもこいつの性格ならば、食べ物や薬、藤の花の香を買っていただろう。

 獪岳ですら、勾玉飾りを持っていたというのに、だ。

 

「面倒くせぇなぁ。お前そこ座れよ、俺がやる」

「本当?じゃあ頼む」

 

 部屋の隅にあった適当な椅子を姿見の前に置いて、幸はすとんと腰かけた。

 後ろに回って適当に手で梳いてやる。縺れもなく、髪は獪岳の手の中でさらさらと流れた。

 

「獪岳に髪を結ってもらうのって久しぶりだなぁ。前はいつだったっけ?」

「三ヶ月ぐらい前だろ。お前がカマキリみてぇな鬼に両腕斬られて、髪結べなくなったときだから」

「そうだった。両腕斬り落とされて喰われたから、再生に時間がかかったんだ」

 

 そこまで言って、気づいた。

 こいつは、覚えたものを忘れることができない体質だ。つまり、そのようなことを聞かなくともわかっているのだ。

 思わず顔をしかめると、鏡の中で幸がにこりと笑った。

 

「いやぁ、獪岳のことだから忘れているかと思ったんだよ。聞いてみただけ」

「お前こら、髪、適当にするぞ」

「謝るからそれはやめて。ちなみに正確に言うと、二ヶ月と二十八日前」

 

 本当にきっちり日付まで覚えていたらしい。質が悪い。

 さらに顔をしかめると、鏡の中で幸は今度はほろ苦い感じで笑った。

 

「わたしは小さいときからこういう感じだったから、父さんと母さんに気味悪く思われちゃったんだよね。普通にこんな話を聞いて信じてくれる人、あんまりいないから」

 

 それはどことなく、柱をやめたと告げて来た煉獄杏寿郎を思わせる笑い方だ。

 もう二度と、手に入らなくなったものを諦めて、微笑むしかできない人間の表情だった。

 軽いため息が漏れる。

 

「悲鳴嶼さんには聞いたけど、実際どれくらいまで覚えてるんだ?俺に、お前の父親と母親みたいになるなって言ったってことは、相当餓鬼のころまで覚えてんだろ」

「ああ、あのときのあれか。……いつからって言われたら、目が見えるようになって、耳が聞こえるようになってから全部だよ。わたしの記憶が欠けてるのは、鬼にされたときの部分だけ」

 

 悲しみも怒りもなく、ただ乾いた口調で語る幸の中で、親に捨てられた瞬間の記憶さえ、本当に過ぎ去った些細な記憶になっているのだろう。

 獪岳も人のことを言えた義理ではない生まれ育ちだが、自分を捨てた親の顔は真っ先に忘れている。

 

「仕方ない。人間、どうしても受け入れられない相手って言うのはいるものなんだ。それが、たまたま親と子だったんだよ」

 

 三つの束に分けた髪を編みながら、獪岳は幸の言葉に肩をすくめた。

 実の親に関しては、ほとほと淡白なやつだ。

 その分、自分を拾ってくれた悲鳴嶼やあの子どもたちに向ける情が、深くなったのだろう。

 

「そいつらの名前、何て言うんだよ。あの上弦の鬼を教祖様って崇めてたんだろ。何か手がかりとかあるんじゃねぇのか」

「あー……父は銀次で、母は朝って名前だったよ。名字はぬかづき」

「ぬかづき?」

「奴さんの奴に、加賀の賀、築くの築と書いて、奴賀築(ぬかづき)。ご体層で変な名字だから、探せば見つかるかもね」

「じゃお前は、奴賀築幸(ぬかづきさち)って名前だったのか。……馴染まねぇな」

「わたしはただの幸だよ。それだけでいい。もう関係がないから。……あの鬼を見つけるためにあの人たちを探すのはいいけど、でも生きてるのかなぁ」

 

 もう殺されてしまったかもしれないね、と淡々と言った。

 

「だってほら、足がつくから。現に、わたしがこうやって覚えているわけだし」

「ないよりはマシな手がかりだろ。後で知らせとく」

 

 髪を編み終わり、残った蝶の飾りの留め具を確認しながら、獪岳は尋ねた。

 

「覚えてるなら恨んでんのか?」

「少しはね。だって、愛してたから。小さかったから感情に名前はつけられなかったけど、今から思うとわたしはあの人たちを愛してたと思う。泥棒でも酒浸りでも、やっぱり親だから、さ」

 

 自分を産み、名前をくれた親だから、愛していたから、傷つけられ、捨てられて、裏切られたから、恨んだ。今はもう、どうでもよくなってしまったが。

 もしも喰われていたなら悲しいが、他の鬼の犠牲者たちに向ける感情しか、抱けない。そんなことを幸は言った。

 まぁつまり、こいつは実の親をもう見捨ててしまっているわけだ。先に見捨てたのはあちらだから、獪岳からすれば今更過ぎる話だが。

 

「愛してた人に裏切られるのって、つらいからね。どうでもいい人に裏切られても、別に何とも思わないけど、特別な人は違うから」

 

 そりゃその通りだなぁ、と呟くと、何故か笑われる。

 面白くなくて、獪岳はややつっけんどんに言った。

 

「……おい、これはどっちにつけりゃいいんだよ。髪の根元か?先か?」

「根元」

 

 留め具を締めれば、翅を広げた翠の蝶が一羽、黒い髪に止まっていた。

 終わったぞ、と軽く肩を叩くと、幸は椅子から立ち上がって姿見の前でくるりと回った。

 

「ん、ありがとう。似合う?」

「知るか」

「あなたはそこで嘘でもいいから似合うと言えないのか」

「お前相手に世辞言ってどうすんだよ」

 

 人の心のわからないやつ、と舌を出された。

 言葉が戻ると、前より五倍くらいうるさくて生意気だ。

 どうして自分は、こんなやつの瞳に見惚れて、魅入られてしまったのか、甚だ疑問だった。

 

「いきなりため息ついて、どうした?そんなに髪を編むのが難しかった?」

「ンなわけねェだろ。いいから先生の手紙だ。さっさと読むぞ」

 

 幸は椅子に座り、獪岳は寝台に座る。

 開いてみれば、中には無事を言祝ぐ文がある。

 上弦の弐と戦い、それでいて死者も出さず、生き延びたことを心底喜んでくれていた。

 

「誇りに思う、だって。よかったね」

「……ふん。当然だろ」

「あ、わたしのことも書いてある。嬉しいなぁ」

 

 獪岳も幸も、どちらも体に気をつけろ、という言葉が紙の上に綴られていた。

 その部分の文字を指さして、幸は目を細めた。

 

「手紙もらうのって、嬉しいんだねぇ。目の前にいない人の言葉が届くんだからさ」

「そうかよ。お前はへったくそな手紙書いてたけどな」

「元を正せば、どこかの誰かが意地張って会おうとしなかったからじゃないか。って、ちょっと待って!獪岳、あれの中身を読んだの!?」

「不死川が見せてくれたぞ。お前の下手な手紙をな」

「不死川君、何してくれてるんだ……」

 

 不貞腐れたように腕組みをした顔がおかしくて、獪岳は喉の奥で笑った。

 

「わたしの手紙のことは置いておこう。獪岳、ちゃんと返事書くんだよ。あなた、半月は音信不通の意識不明で、重体だったんだから」

「わかってるっての。ったく、お前、喋れるようになったらほんとうるせぇんだな」

「元からこんなものだったと思うけど」

「元っていつだよ。十年前だってんならお前、七歳児と変わってねぇことになるぞ」

「なんだとこの十八歳児」

 

 こいつ、と腹立たしくなって拳を握るが、どれだけ華奢に見えても、幸は鬼の腕力と脚力を持つのだ。

 素の殴り合いだと、人間は鬼に、まず勝てない。獪岳は、渋々拳を下ろした。

 

「獪岳、何かあった?いや、絶対何かあっただろう。善逸君と喧嘩した?」

「してねぇよ。なんであんなカスと」

「でも何かあったでしょう」

 

 薄暗い部屋の中で、大きな金の瞳が獪岳を見ていた。この目で見られるのは弱い。というより、獪岳がこの瞳に弱くなった。

 こいつの瞳は、血鬼術か。

 

「……炎柱に、継子にならねぇかって誘われたんだ」

「ならないの?」

 

 即切り返され、獪岳は黙った。

 椅子から降りた幸は、寝台に座る獪岳の前で膝をついた。

 獪岳の顔を、金の瞳が見上げる。

 

「あなたの戸惑う理由はなに?」

「は?」

「獪岳は迷ってる。それはどうしてかと聞いている」

 

 幸は一度言葉を止めてから、ゆっくりと言った。

 

 ────壱ノ型が、できないから?

 

 咄嗟に立ち上がりかけた獪岳の額を、幸の指が押さえた。

 そこを押さえられれば、立ち上がれなかった。幸はまったく力など入れていないようだが、それでも立てない。

 

「人の話は、最後まで聞いて。……わたしは鬼だけど」

 

 真っ直ぐ、なんの曇りもない瞳で、幸は獪岳を見ていた。

 

「壱ノ型ができない自分が許せなくて、霹靂一閃を諦めたように思えて、躊躇っているのかと思った。獪岳。あなたは乱暴で頑固だけど無法者ではないし、努力家だから」

「……お前それ、褒めてねぇな」

「褒めるつもりで、言っているわけじゃないから」

 

 幸は音もなく立ち上がり、獪岳の目を覗き込んだ。

 

「獪岳、強くなって。その躊躇いは、捨てて。そうでないと、また死ぬだけだよ」

「死んでねぇだろ」

「確かに、わたしたちの誰も死んではいない。でも、何度も殺されてるも同じだ。わかってるでしょう。そんな敵を、殺すんだよ。殺すと決めたんだよ。あなたが、霹靂一閃を何度も、何度も何度も練習していたことは知っている。そのために積み重ねた努力も見ていた。だけどそれでも、強くなって」

 

 何を迷っているんだ、と幸はほとんど囁くように言う。

 強いやつ、と不意に思った。

 情が強くて、その瞳は底無しのようだ。

 こいつが鬼と化しても人を喰わなかった理由も、ひょっとしたらそこにあるのかもしれない。

 

「チッ。わぁってるよ。別に迷ってねぇよ。あのクソ野郎を殺さなくちゃなんねぇのは、わかってんだよ」

 

 獪岳の理由は幸のそれとは異なって、金色の瞳が欲しい、という私欲が入っているが、幸は額から指を離して腰に手を当てた。

 

「ふーん。だったら、ちゃんとお師匠さんに手紙でこれこれしかじか炎の呼吸を教わることになりましたって、手紙を書くんだよ」

「……」

「こら、そこで面倒くさいって顔しない」

「いちいち口うるせぇんだよ。お前竈門に似て来てんぞ」

「わたしはあの子ほど察しは良くないよ」

「どうだか」

 

 鼻で笑って、獪岳は立ち上がった。

 

「俺は木刀振って来るからな。お前、騒ぎ起こすんじゃねえぞ」

「了解したよ。頑張れ剣士。髪結んでくれて、ありがとう」

 

 椅子の上に座り、片手をひらひら振る幸に背を向けて、部屋を出ようとしたとき、ふ、と獪岳は昔親しんでいた気配を感じた。

 幸を振り返ると、こちらも扉の外を見ている。

 

 今度は流石に、蟲柱のときのように気配を逃したりは、しなかった。

 

「来たのか、あの人。思ってたより早かったな」

「来たみたいだね」

 

 弾みをつけて、幸が椅子から飛び降りた。

 きらきらと、瞳が輝いている。

 

「お前が扉開けろよ」

「どうして。一緒に開けようよ。そのほうが行冥さん、喜ぶよ」

 

 ぐい、と幸に手を握られ、引っ張られた。

 会いたがっていたのはお前であって別に自分は、という一言は、結局喉の奥で声にならずに埋もれ、手は振りほどかなかった。

 たまには、こいつに付き合ってやってもいい。

 気配が段々と、近づいてくる。

 扉の前で気配が立ち止まったとき、幸が、がらりと引き戸を一気に横に開いた。

 

 廊下にはまだ斜陽の光が残っていて、その光を背負って、悲鳴嶼行冥の、あの大きな姿が立っていた。

 気配くらいあちらも読めていたろうに、幸の声に驚いたように固まっている。

 

「行冥さん!」

 

 言って、叫んで、幸がなんの躊躇いもなく兎のように飛びついた。

 一緒に手を繋がれたままの獪岳も、振り回されて体当りするような格好になる。

 巌のような体は、二人分の重さを受け止めても小動ぎもしなかった。

 離れる前に、上から大きな手が頭の上に優しく乗せられて、獪岳は固まった。

 

「獪岳に……幸、か?」

 

 悲鳴嶼は、どこか戸惑っているようだった。

 そういえば、幸が一晩で七歳から十七歳に姿が変わったことは、伝わっているのだろうか。知らなければ混乱しきりだろう。

 

「悲鳴嶼さん。こいつな、昨日起きたときに体がでかくなったんです」

「そんなことが……あったのか」

「あったんです。て言ってもなァ、中身は普通の十七歳のうるせぇやつなんで。あと、もうこの手、こいつはともかく俺はいいですよ。退けてくださいって」

 

 チビで泣き虫の幸ならともかく、自分が誰かに頭を撫でられているところを見られたら、必ず見たやつを殴り倒す。

 これが自力で外そうにも、外れないのだ。

 幸は隣で悲鳴嶼の服に顔を埋めて、黙っている彫像になってしまったし。

 

 それだけ会いたかった、ということなのだろう。

 ふぅ、と獪岳は息を吐いた。ようやく、頭から手が離れる。

 

「幸、獪岳。今日、私はどこにも行かぬ。お前たちの話を聞くために来たのだ。部屋に戻りなさい、幸。西日でも、お前にはつらいだろう」

 

 日は落ちきったわけではなく、廊下は徐々に斜陽で茜色に染められている。

 鬼である幸の体は、やはり日に触れれば崩れてしまうのだ。

 

「おら、早く離れろって。火傷したいのかよ」

「……してもいい」

「よくねぇんだよ、ばーか」

 

 べりっ、と猫の子にするように、獪岳は幸を悲鳴嶼から引っ剥がした。

 

「獪岳……もう少し丁寧にできないのか。お前は前々からそうやって……」

「俺なりに丁寧にしてますよ。こいつが頑固なんだから」

 

 部屋に戻って、戸を閉める。

 三人、椅子の上や寝台の上に適当に座った。幸は悲鳴嶼に頭を撫でられて、幸せそうである。

 

 それでも、師匠のときのように泣きはしないのだな、と獪岳はその様子を見てぼんやり思った。

 てっきり悲鳴嶼の顔を見た瞬間、泣くくらいはすると思っていたのに、幸は一滴も涙を溢さなかった。

 昔の話をして、獪岳と藤の花山で会ったときの話をして、そこからどうやって鬼狩りをしていたかを話して。

 

 一度も、泣かなかったのだ。

 幸の話を、悲鳴嶼は何度も頷きながら聞いていた。獪岳はそれを、黙って見ていた。

 あれこれは喋るのは面倒であったし、かといってこの状況で部屋を出ていくとなると、後で必ず幸に何か言われそうだ。

 頭を撫でているときに、獪岳がつけてやった胡蝶しのぶからの髪飾りにも気が付いたらしく、そのときに一度、大きく目を見開いた。

 

「幸、お前は、これからも鬼狩りを続けるのか?」

 

 言葉の裏に何か痛みがあるような気がした。

 悲鳴嶼は、覚えているのだ。

 小さくて、気は強いがよく泣いて、体が弱くて、脚を引きずっていた、そんな幸を。

 しかしそれは、この世で知っている者がもう二人だけになってしまった、人間だったころの幸だ。

 

 ここにいるのは、あのころの幸ではない。人間でも、なくなってしまった。

 

 それでも、悲鳴嶼にとっては、そちらの記憶の中の姿の幸をよく覚えているのだろう。

 というより彼の中では幸という少女の姿は、死んでしまったときの幼い形のまま、長い間その時を止めていたはずだ。

 それがいきなり生きて動いて、鬼になって現れて、鬼狩りをしていたと来た。戸惑いがないほうが、おかしいのだ。

 一年以上も、幸と共に狩りを続けていた獪岳は、最早何とも思わなくなってしまっていたが。

 

 多分、幸も言葉の揺れに気づいたのだろう。

 盲目の悲鳴嶼の目を、正面から見て、短く言った。

 

「続けます。わたしはずっと、獪岳と鬼狩りを続けます」

「ま、そういうことです。悲鳴嶼さん」

 

 あの上弦の鬼を必ず殺すために、とは言わなかった。

 

「……そうか。では、よく任務に励めよ、幸。鬼で、血鬼術を使えると言っても傷つけば痛みもあり、限界は存在するのだろう。それから獪岳、お前もだ。あまり幸の術に頼りすぎてはならないと肝に命じて置くべきだ」

「わかってますよ。散々死にかけた後ですしね」

 

 言うと、げし、と幸に脛を軽く蹴っ飛ばされた。

 

「何すんだてめぇ!」

「憎まれ口しか叩けないのかあなたは。他に言うことがないの?」

「一回この人とは喋ってんだよ俺は!お前が呑気に寝てるときにな」

「ずるい。ずーるーいっ」

「ずるくねぇ。寝てたお前が悪い」

 

 は、と鼻で笑う。

 笑ってやって、ふと悲鳴嶼の顔を見ると、彼は滔々と目から涙を流していた。

 合掌したまま、盲いて白い目から涙を流しているのだから獪岳は面喰う。

 

───そういえば。

 

 この坊さん、とても涙もろかったのだと、獪岳は今更のように思い出した。

 転んだ子どもを見ても、幸せそうな家族を見ても、嬉しかろうが哀しかろうがよく泣いている人だったのだ。

 他人のことでいちいち泣くなんて、なんと変な人間だろう、とあのころは思ったし、今もそう思うのだが。

 ちらりと幸を見ると、ぺろ、と舌を出して片目を一瞬瞑っていた。

 

────こいつ。

 

 さっきのやり取りはわざとか。

 獪岳は思いきりダシにされた、ということであるらしい。

 しかも、悲鳴嶼の涙はまったく止まる気配がなかった。

 そこまで泣くとは思っていなかったのか、最初見ているだけだった幸もやがてあわあわと布や水を探し始めるし、まさか十年分泣く気じゃあるまいな、と獪岳は天井を仰ぎ見る。

 

 悲鳴嶼行冥の涙が止まったのは、それから十分後のことであり、そこからまたあれこれと話をして、彼が帰ることになったのは、数時間後のことであった。

 慌ただしいと思うが、激務を背負う柱が、ここまで時間を割いてくれたこと事態、異例のことだ。

 そのころにはとっくに日が落ちており、獪岳と幸は蝶屋敷の門のところにまで、悲鳴嶼を見送りに行った。

 名残り惜し気に幸と獪岳の頭をまた撫でて、夕闇に消えていく広い背中が遠ざかって見えなくなるまで、幸はやはり泣かなかった。

 振っていた手を下ろした幸は、獪岳の視線に気づいたらしい。上目遣いに獪岳の方を見上げて来た。

 

「なに?」

「別に、なんでもねぇよ。泣き虫のくせに、先生のときみてぇには泣かないのかって思っただけだ」

「それ、全然なんでもない話じゃないと思うんだけど」

 

 天邪鬼なんだから、と幸は肩をすくめた。

 すくめてから、ぽつりと言った。

 

「泣けるわけ、ないじゃない。今更だよ」

「は?」

「なんでもない。それよりもう夜だよ。夕飯食べてきたら?お腹減ったんじゃないの」

 

 踵を返し、母屋の方へと歩き出す幸の髪には、翡翠の翅を広げた蝶の髪飾りが光っていた。

 その背中がどうしようもなく小さく見えて、獪岳は追いかけた。

 

「おい。今更ってなんだよ。俺にまで隠し事すんじゃねぇ」

「別に、なんでもないよ」

「なんでもないわけないから聞いてんだ」

 

 土を踏んで振り返り、立ち止まった幸が獪岳を見上げた。

 

「珍しいね。獪岳が、他人をそんなに気にかけるなんて」

 

 それは本当に、幸にとっては何でもない一言だった。

 瞳には何の色もなく、声も平らかだ。

 わかりきったことを言っただけ、という自然さがあった。

 

 それなのに、他人、という言葉で胸を刺されたようだった。 

 君は、あの子に何かをしてあげたのかい、という上弦の弐の嘲笑う声が、耳の奥に蘇る。

 あの夜からずっと心の何処かに刺さっていた棘が、この瞬間に幸の一言で深く押し込まれたようだった。

 

「獪岳?」

 

 すぅ、と音もなく幸が近寄って来る。

 立ち竦んだ獪岳の前に来て、下から顔を見上げている。

 自分の言った言葉に気づかず、ただ当たり前のように獪岳を気遣う色がそこにあった。

 

 どうしてこいつは、こうも人の目を真っ直ぐに見ることができるのだろう。

 どうしてそこまで、人として正しく在れるのだろう。

 

「……他人扱い、すんじゃねぇ」

「え?」

「お前が、俺を、他人扱いすんじゃねぇ」

 

 その言葉を口にした途端、獪岳は何かが怖くなった。

 これまで幸に何をしても何を言っても、怖いと感じたことはなかった。

 

 それなのに、今は。

 もしも、もしも今、自分が人であることを惨い形で奪われたのはお前のせいだと、そんなお前など他人だと、そう突き放されるかもしれないと考えると、それがひどく恐ろしかった。

 

 人のそれではなくなった黄金の瞳が、刀のように細くなる。

 く、と喉の奥で幸が弾けるような笑い声を上げたのはそのときだ。

 呆気にとられる獪岳の前で、幸は身を折って笑っていた。

 

「違うよ。全然違う。獪岳が他人だったことは一度もない。勘違いだよ」

「は?」

「あのね、わたしは、獪岳にとってのわたしは他人かなと思ってたの。わたしにとってあなたが他人じゃなくとも、あなたがわたしをどう思っているかは、まったく違う話でしょう?」

 

 そんな死にそうな顔で尋ねなくてもいいのに、と幸はくつくつと笑いながら告げた。

 かぁっ、と頬が熱くなるのを感じた。

 とんでもなく勘違いして、阿呆のような台詞を吐いたことになる。

 さっきの言葉、思い返すと、まるで捨てないでくれと縋った女のようではないか。

 言われたほうはといえば、笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を袖で拭っている始末。

 

「あー、おかし。獪岳の今の顔がいとおかし」

「テメッ……!忘れろ!今のは忘れろ!全部だっ!」

「わたしの体質を忘れたか。残念ながらあなたの間抜け面は、わたしが死ぬまで忘れられない記憶になったぞ。よかったな」

「何もよくねぇよ畜生が!」

 

 叫びながら気づいた。

 他人へ自分が向ける感情と、自分が他人へ向ける感情。その二つに食い違いがあるのは当たり前だと、幸は言った。

 獪岳が自分へ向ける感情が、仮に他人へのそれと同じくらい薄いものであっても、幸は気にしなかったろう。

 気にせずに、やはり今までと同じように獪岳を助けていただろう。

 何の見返りも、そこに求めていない。

 

 獪岳には、理解できない生き方だった。

 

「今度はなんでそんな珍妙な顔になるんだ。わかったよ。他人じゃないし他人になりたくない獪岳にはちゃんと言うよ。あのね、行冥さんの前で泣いたら、絶対あの人は慰めてくれたでしょう。それが駄目なんだよ」

「駄目?」

「うん、駄目。慰められたくない。受け入れられない。それだけ」

 

 とにかく駄目だから、と幸は念押しした。

 幸にしては珍しい、はっきりした拒絶である。しかも相手が、あの坊さんときた。

 

「……やっぱり俺には、お前のこと一生理解できそうにねぇな」

「わたしにも、獪岳の頭の中なんてわからないよ。でもわからないなりに、やっていくしかないでしょう。一人だと足りないんだから」

「あの鬼を殺すため、か?」

「そうだよ。殺すため」

 

 幸は、躊躇いなく頷いた。瞳がまた、焔のように燃えている。

 あの上弦の鬼への純粋な殺意を宿したとき、黄金の瞳は最も美しく見えるのだ。獪岳が欲しいと思った光が、そこにあるのだ。

 変なものに見惚れて、魅入られてしまったものだと、自分でも思う。

 

「獪岳。話はもういいじゃない。夕飯食べて来たら?食べたらまた、稽古しようよ。あなたもわたしも、強くならなきゃいけないんだよ」

 

 くるくるり、と胡蝶の髪飾りと瞳を光らせて、幸は歩き出した。

 

「強く、なァ……」

「そう。強くならなきゃ。殺すために、死なないために」

 

 ね、と大切な約束でもするように唇に指を当て、幸はほんの少し首を横に傾ける。

 小さいころから変わらない仕草なのに、初めて見たかのような妙に目を奪われる艶がそこにあって、獪岳はつい視線を逸した。

 

「おいこら。こっちを向いてよ。あなたに目を逸らされると悲しいぞ。わたしの他人になりたくない獪岳」

「お前それ忘れろって言っただろうが!」

「やぁだよ」

 

 あはは、と軽やかな笑い声を上げ、幸は高々と跳んで屋敷の屋根の上に乗った。

 上り始めた月を背に、思わず見惚れるような笑顔を獪岳に向けて見せ、幸は止める間もなく屋敷の向こうへ跳び去る。

 

 後には、一人獪岳だけが残された。

 あの分だと、恐らく獪岳が飯を食った後あたりでひょいと現れることだろう。

 

 強くならなきゃ、という何の衒いもない言葉の余韻が、そこらの空気の中に溶けて、漂っているようだった。

 

「強く、な……」

 

 強くなって強くなって、あの鬼を殺す。そのために生きる。

 そうやって進んでいき、仮に殺したその後、あの少女の瞳に宿る炎は、一体どうなるのだろう。

 彼女自身は、一体どうなるのだろう。

 

「わかんねぇなぁ」

 

 そこまで考えて、獪岳は頭を振った。そんな心配、後からいくらでもすればいい。

 今の自分たちは、羽虫のように叩き潰されかけ、すんでのところで救われた、ただの弱者だ。

 

 強くならなければならない。

 何かを諦めても、何かを捨てても。欲するものがあるならば。

 

 そう思って、獪岳は空を見上げ虚空に片手を伸ばした。

 

「……すみません、先生」

 

 あれだけ努力して、ついぞ手にすることができなかった、霹靂一閃。

 先生の特別になりたくて、認められたくて、手に入れたかったあの技。

 雷の呼吸のすべてを捨てるのでは無論なく、諦めたわけでもない。

 しかし。

 

「今の俺だと、雷の呼吸だけだと、あれは殺せないんです」

 

 半分とはいえ、雷の呼吸の継承権を持つ者が他所の呼吸を扱う者の弟子になるというのは、咎められるかもしれない。

 それでも、許されなくとも、強くならなければならない。いざとなったら、土下座でも何でもすればいい。

 少なくとも、ひとりぼっちで泥水を啜って生きていたころよりは、今の自分は何百倍もマシだろう。

 

 そう思うと、腹の底から笑いの粒がせり上がって来た。さっきの幸のように、喉を押さえて獪岳は、ひとり笑う。

 

 ひとしきり笑って、獪岳は口元を拭った。

 

 今のやり取りで、どこかが強くなったわけではない。何かが変わったわけでもない。

 それでも、自分が何かを手に入れたという感覚はあった。

 それをもう二度と誰にも奪われないよう、壊されないよう、強くなる。

 そんな決意と想いが、自然と湧いてきた。

 

 確かな足取りで屋敷へ向かう少年を、満月が静かに照らしていた。

 

 

 




【コソコソ本音話】


 獪岳。

 ありがとう。

 獪岳は多分、何とも思ってないんだろうことが、わたしにはあるんだよ。

 藤の山でわたしを見つけてくれたときのこと。
 あなたが思うよりずっと、わたしは嬉しかったんだよ。救われたんだよ。

 鬼のわたしに、ついてこいって言ってくれたこと。
 それでどれだけ救われたかなんて、ちっとも気づいてないんだろうね。

 だから、あなたのことを唐変朴と言ったんだ。

 うん、獪岳がね。鬼を自分のために利用したかったって理由はわかってる。

 それでも、それでもね。
 ここから出ていいって言ってくれたのは、あなただけだったから。

 だから、ありがとう。

 それから、ごめんね。

 わたしの復讐に、引き込んだこと。

 獪岳は、やっぱり気づいていないんだろうけれど、あなたは欲しいものがあると、瞳の奥がどろりと溶けるんだ。

 昔、お金持ちとか、美味しそうな食べ物とか、そういう、手に入れたくても手に入らないものを見かけたとき、どろりと溶けていたの、わたしはよく覚えてる。

 だから、わたしの目を見たときにあなたの瞳の奥が溶けたのを、知っているよ。

 わたしの復讐は、わたしのものだけにすべきなのにね、この瞳が獪岳の欲しいものになって、そこ瞬間にあの鬼への殺意が獪岳の中に生まれたんだってこと、わたしは知っているのにね。
 
 わたし、あなたの手を、取ってしまったよ。

 一人が、嫌だったから。


 ごめんね、獪岳。

 それから、ありがとう。

 ずっとわたしを覚えていてくれて、ありがとう。
 


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二章 羽織り獪岳
一話


二章『羽織り獪岳』の一話です。

pixivに上げている話はここまでです。

つまり、ここから不定期更新です。
よろしくお願いします。
では。


 

 

 

 上弦の参と戦った際の怪我が元で引退した炎柱、煉獄杏寿郎が獪岳を弟子にしたのは、目つきが理由であったらしい。

 

 何でも、見舞いに行ったときに、手助けがあれど上弦の弐を凌ぐという快挙を成した隊士が、とんでもなく荒んだ目をしていたからどうにかせねばと思ったとかなんとか。

 目つきの悪さもたまには役に立つんだねぇ、とは獪岳の幼馴染みの弁である。やかましい。

 

 その戦いの前に、獪岳は人を喰わない鬼となった幼馴染みを庇っていたため、同じく人を喰わない鬼である妹を庇っていた隊士、竈門炭治郎と共に柱たちによる裁判にかけられていた。

 煉獄杏寿郎は、その中で全員の死刑を求めていた柱だったのだ。

 裁判は、お館様の鶴の一声で鬼殺隊として戦い続ける限り無罪放免となったが、獪岳と煉獄杏寿郎の間の繋がりといえば、そんな程度しかなかったのである。

 

 それがどう転んだか、今では剣の師匠であるのだから、人生何があるのかわかったものではない。

 ちなみに、最初の先生・桑島慈悟郎とは区別する意味で獪岳は煉獄杏寿郎を師匠と呼んでいる。

 

「今日はここまで!」

「ありが……とう、ごさい……ました…」

 

 獪岳は、そんなわけだから今日も煉獄家の庭で、見事に地面に倒れた襤褸雑巾になっていた。

 元炎柱にして、獪岳の現師匠の煉獄杏寿郎、兎にも角にも鍛練が厳しいのである。

 無限打ち込みや走り込みなど序の口とばかりにどかどか鍛練を続けるから、任務帰りの獪岳は毎度息も絶え絶えになる。

 が、鬼が任務帰りだからと遠慮してくれるわけもないだろう、というのは当たり前だし、前回もまさにそのような状態で上弦と戦闘になったから、理に適っているとは思う。

 

 元々、獪岳は努力するのは苦ではない質だし、自分を大切にしてくれる相手ならば敬意も払う。

 

 できないならば、できるようになるまでやるのは当たり前だ。他に何がある。

 それをできずにびぃびぃ泣いている人間を見ればいらつくし、罵倒もするし殴る。

 弟弟子との、さっぱり解消される気配がない確執の原因もそれが原因の一つである。

 

 要するに、性格に難はあれど真面目にひたむきに努力して鍛練を正面からすべてこなそうとする獪岳は、これまた真面目に鍛練で以て弟子を鍛えようとする師匠と噛み合ってしまうのだ。

 だからほぼ毎回、足元が覚束なくなるほどの限界まで鍛練が続いてしまう。

 

「うむ!立てるか?立てないならば幸少女を呼んでくるが……」

「立ちます!立ちますからあいつなんていりません!」

 

 とはいえ、その一言を言われると、くらげ足だろうが木刀を杖にしようが何だろうが、意地でも獪岳は自力で立つ。

 幼馴染みの幸を呼ぶというのは、彼女に担がれて蝶屋敷まで帰るということだ。

 一つ歳下で、見た目は華奢で小柄な少女に持ち上げられて運ばれるなど、屈辱以外の何ものでもない。

 あちらが鬼で、腕力が大の男よりよっぽどあるとか、何なら獪岳より力があるとか、そういう事実はどうでもいい。面子の問題だ。

 

「幸少女の名を出すと、毎度君は立ち上がるな!それほど嫌か!」

「当たり前でしょうが!」

「今は日が出ているから、来られるはずがないのだがな!」

「……」

 

 はっとして、思わず空を見た。

 雲ひとつない快晴の空を、鴉が八の字を描いて飛んでいる。

 カァ、という泣き声が虚しく響いた。

 ぴし、と獪岳の額に青筋が立つ。

 にかり、と隻眼の師匠は快活に笑った。

 

「立てるならばよい!もう一本打ち込みだ!やれるか!」

「やりますよ!やりゃあいいんでしょうがぁ!」

 

 煉獄家に、やけくそのような叫びが鳴り響く。

 獪岳って、自分で思うより乗せられやすい性格してますよねぇ、とはその後本格的な襤褸布と化した獪岳を回収しに来た、幼馴染みこと幸の一言だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何度見ても凄い。見た目は派手にぼろぼろで疲れきってても、一晩寝て起きたら任務に支障が出ないくらいには回復するって。煉獄さんの打ち方が上手いのか、獪岳の打たれ方と呼吸が上手いのか、どっち?」

「どっちでもいいだろが」

 

 隣を歩く、三つ編みにした髪に翡翠色の蝶の飾りをつけた幼馴染みの少女、幸に、獪岳は渋面で返した。

 煉獄邸に、幸がひょこりと顔を出した途端、獪岳は呼吸を使って全身を無理やり動かして根性だけで立った。

 これで動けないと、幸に米俵よろしく担がれて帰ることになる。

 完全な善意でぼこぼこに鍛えてくるわっしょい師匠はともかく、獪岳の性格を知っていて顔を出しに来る幸は、単に性格が悪い。

 獪岳が、地面に這いつくばっているときを見計らったように現れるこいつは鬼か。

 鬼だった。

 

 今日もよくやった、と大声で見送ってくれる師匠に礼をして、獪岳は幸と蝶屋敷への道を歩いていた。

 それにしても、怪我が元で柱をやめたというのに何故師匠はあんなに元気なのだろう。傷に遠慮しようとすれば、遠慮などできないほどふっ飛ばされて終わる。

 まぁ、柱を辞めたのであって剣士を辞めたわけではないというのだから、そんなものかもしれないが。

 

 獪岳たちが上弦の弐と戦って死にかけてから、凡そ四ヶ月が経過した。

 それまでは、どこにも留まらないで任務に明け暮れていたのだが、鬼の幸を隠す必要もなくなった最近は、蝶屋敷から任務先へ赴くことが増えた。

 尤も獪岳は、弟子として煉獄邸で扱かれているか、任務に赴いている時間が長い。蝶屋敷には、寝るためにだけ帰っているような状態である。

 幸のほうは、任務が無い日は太陽が出ている間は箱の中で眠り続け、日が落ちると出てきて蝶屋敷の手伝いや蟲柱の手伝いをしている。

 あまり、人前には出ないようにはしているらしい。

 

「蝶屋敷は、怪我人が多いからね。鬼の気配がしてると落ち着けない隊士の人もいるから」

「まァ、そうだろうな」

 

 と幸はあっけらかんと言うが、それだけでは済まない話も起きている。

 半月ほど前、獪岳がいないときに、鉢合わせした隊士によって、幸は本性を見せろと斬りつけられてしまったそうだ。

 幸は獪岳にそのことを言っていないが、獪岳は蝶屋敷の看護婦の少女たちから、その話を聞かされていた。

 斬りつけた件の隊士は、過去、鬼になった身内に襲われたところを、鬼殺隊に助けられた者だったという。当然、鬼になった家族はその場で斬られて死んだ。

 

 あの人は鬼となって理性を無くしたのに、何故お前は平気だったんだ、何故お前は『例外』でいられたんだ、という思いが抑えきれなくなったが故の行動だったそうだ。

 

 理由が理由だけに、公には語れず、処罰も表立ってできない話だ。

 鬼となれば、人と見れば区別なく喰らってしまう。家族、友人、恋人の繋がりなど、意味もなく。

 人を喰うことなく、鬼殺隊の一員として戦っている竈門の妹の禰豆子や幸のほうが、異端なのだ。

 鬼殺隊として人を守るならば良し、と豪快に笑って受け入れた煉獄杏寿郎や、毒作りのために協力してください、と手を差し出してきた胡蝶しのぶなどの柱たちもいるが、割り切れない者もいただろう。

 

 鬼に堕ちれば、どれだけ穏やかな人間であっても、人を喰う化け物となる。

 『悪鬼』となって、変わってしまう。

 例外なくそうなるのだから仕方が無い、自分の大切なあの人が悪だったわけではない、と思うことで心を慰めていた者には、鬼となっても人間と変わりなく振る舞うことのできる存在は、見たくもないものだったらしい。

 

 そんなもの、獪岳からするとくだらない八つ当たりだ。

 理性が残る者は残り、残らない者は残らなかった。

 同じ時に同じ病にかかっても、死ぬ者と生き残る者はいるだろう。

 それだけのことに、八つ当たりの逆恨みで日輪刀を振り翳すなど、馬鹿らしいと思った。

 

 幸は初め無抵抗だったそうだ。

 数箇所は斬られるに任せていたが、頚を狙われるや否や、すれ違いざまに日輪刀を鞘ごと奪い、 

 

「蝶屋敷での抜刀及び私闘は、禁止です」

 

 と、鞘に戻した日輪刀を突き返し、自分の血で汚れた着物のまま、隊士をその場に残して歩いていったという。

 刀を突き返されたほうは、自分が斬りつけた鬼に常識を説かれたことに呆然自失したまま、任務へ赴いて行ったそうだ。

 それでも幸は鬼だから、傷などすぐに塞がる。

 たまたま騒ぎを目撃した看護婦の少女が言いに来なかったら、獪岳も気づくことはなかっただろう。

 

 などという結構な重大事件を、幸は獪岳に言ってこない。禰豆子を連れている炭治郎には、警告も兼ねてこっそり伝えたそうだが。

 信用していないとか、心配をかけたくないとかそういう理由でなく、多分獪岳に言うほどでないと判断しただけだろう。

 

 前と変わったことと言えば、箱の中に引きこもる時間が伸びた程度で、今日も今日とて日が落ちてからは、元気に獪岳を迎えに来ているくらいだ。

 

 それはどうでもいいか、と獪岳は口を開いた。

 

「そういや、師匠ンとこの弟がお前に礼を言ってたぞ。兄上を助けてくれてありがとうございますってな。千寿郎って名前のチビだ」

「千寿郎君……ああ、炭治郎君が前言ってた子か。ヒノカミ神楽を解明するために、破けちゃった歴代炎柱の書を修復してるって言う」

 

 煉獄千寿郎は、煉獄杏寿郎の弟だ。

 代々炎柱を排出してきた煉獄家に生まれながら、彼は剣士の才能に恵まれなかったそうだ。

 一通り剣術を習いはしたが、千寿郎は日輪刀の色が変わらなかった。それでは鬼殺隊の剣士にはなれない。

 剣士となる以外の方法で、人の役に立つことをする、と言っていたがそのために歴代炎柱の書とやらを解読することにしたらしい。

 何故獪岳がそこまで知っているかといえば、兄上の弟子なのですよね、と鍛練の合間に話しかけられ、そのまま何となく会話を続けたからだ。

 獪岳から見た千寿郎は、行儀がいいが気弱そうなチビという認識である。

 

 煉獄杏寿郎が柱を引退し、千寿郎は剣士になれない。

 故に、煉獄家が繋いできた炎柱の継承は断たれてしまう。

 それを千寿郎は苦にしていたから、無限列車で兄の致命傷を治した鬼を連れており、兄の弟子となった獪岳と話をしてみたかったらしい。

 

 剣士になれる者もいればなれない者もいるだろう、程度にしか獪岳は思わなかったのだが、師匠の弟となれば適当に聞き飛ばすわけにも行かず、結局ずるずると話を聞いていたら、千寿郎と仲良くしてくれたのだな!と杏寿郎に言われたりもした。

 そこまで話して、獪岳は引っかかりを覚えた。

 

「おい。歴代炎柱の書ってのは、貴重なものなんだろ?修復がいるほどぼろくなってんのか」

 

 あの師匠やその弟が、先祖から継いできた大事なものを雑に扱ったりしないと思うのだが。

 そう言うと、幸は肩をすくめた。

 

「どうやら、父君の槇寿郎さんが破いてしまったらしいよ」

「あの酒浸りの親父かよ」

 

 そっちなら納得だ、と獪岳は顔をしかめた。

 煉獄兄弟の父で元柱の煉獄槇寿郎は、兎に角飲んだくれている。昼間から酒を食らっており、何をしているやらわからない状態だ。

 世間の人並みな父親というものを見たことしかない獪岳からしても、槇寿郎は異質に見えた。

 別に元鳴柱の先生のように、足を鬼に喰われたわけでもないだろう。一見五体満足なのに何故柱をやめたのかと、訝しく思った程度だ。

 杏寿郎を、才能がないのに柱になどなるからだ、と罵倒している場面に出くわしたこともある。

 

 親子揃ってどちらも柱になっているだろうに、上弦の参を単身で凌ぎ、乗客二百人を守り切った息子を捕まえて才能ないとか頭が湧いてるのか、と雷の呼吸・壱ノ型だけがどう足掻いてもできない身としては、むかついた。

 むかつきはしたが、普通にやり過ごそうとしたのだ。関わると面倒だから。

 というか、親子関係のあれこれなど獪岳には手に負えない。

 止めると言っても、相手は師匠と師匠の実の父親である。どうしろと。

 が、獪岳を見つけた槇寿郎はこちらにも絡んで来た。

 お前も才能などないくせに戦っても無駄に死ぬだけだ、と。そもそもお前は雷の呼吸の基本、壱ノ型すらできない半端者だろう、と。

 どこで誰から聞いたのやら、槇寿郎は獪岳のことも知っていたのである。

 元柱に指南を受けながら、雷の呼吸の基本・壱ノ型だけができずに他ができるということもすべて、だ。

 そしてその発言は、獪岳にとっては逆鱗だった。

 

 うるせェくそ爺、と気づいたら叫んでいた。

 一度叫ぶと堰が切れたようになり、ついでに手も出て止められなくなった。

 

「殺したいやつがいて欲しいもんがあるから刀振ってんだ!俺の邪魔すんじゃねェ!」

「才能がないなら死ぬだけだ、だと?とっくに死にかけてんだよこっちはなぁ!」

 

 と、上弦の弐に斬られた傷跡がくっきりと残る顔を歪ませ、そんな調子で吼えた。

 それまで、表面は一応礼儀正しく取り繕っていた息子の弟子の素での口汚さに、槇寿郎は呆気にとられており、獪岳はその表情を見て我に返った。

 仮にも師匠の実の親に向かって何を言った、と珍しく後悔もした。杏寿郎は父親を尊敬しているのだ。

 その尊敬されている父親を、獪岳は目の前で罵倒してしまったのである。

 結果、申し訳程度に頭を下げて、煉獄家から飛び出した。頭が真っ白になっており、それ以上のやり方が思いつかなかったのだ。

 

「結局、煉獄さんは何も言わなかったよね。顔色真っ青な獪岳は、見ていて面白かったけど」

「なんも面白くねぇんだよ。こっちは破門されるかと思ったんだからな」

 

 本当に、本気でそれも覚悟したが、煉獄杏寿郎は、翌日行っても何ら変わりなく獪岳を扱いた。怒られないならば掘り返したくもないし、獪岳からは何も聞いていない。

 槇寿郎がどう思ったかも知らない。あれ以来、顔を合わせていないからだ。

 

「煉獄さんの家みたいな立派なおうちでも、親子で仲違いするんだねぇ。知らなかったなぁ」

「お前みたいな無駄な物知りでも知らねぇことはあんだろ」

「無駄言うな」

 

 幸は、形の良い細い眉をきゅっとしかめた。

 

「あの親子なら、生きてりゃどうにでもなるだろ。俺は、俺が巻き込まれなけりゃなんだっていい」

「あー、うん。わたしもあなたも、親はよくわからないからね。仕方ないや」

 

 獪岳も幸もみなし子である。

 幸は自分を捨てた実の親の顔を覚えているが、獪岳は覚えていない。それくらいの違いしかない。

 生きているか死んでいるかすら知らないし、今更どうでもいい。育ての親だった坊さんはいるが、また違う。

 二人とも、親と子に関してはあやふやな想像力しか持てないのだ。

 

「そういや、お前の両親は見つかったのか?上弦の弐を教祖様って呼んでたあいつら」

「隠の人たちに教えてもらったけど、とっくに行方不明だった。探したけど見つからなかったって。まるで誰かが消したみたいに」

 

 淡々とした幸の声には、なんの感情も乗っていない。

 まあそんなものか、と獪岳は頬をかいた。上弦の弐ともなれば、百年以上柱を含めた鬼殺隊を殺してきた化け物だ。そう簡単に尻尾など掴ませないだろう。

 

 が、幸は、その上弦の弐を殺したい。

 昔暮らしていた寺の子どもらの仇で、自分を鬼に変えた弐を苛烈に憎み、復讐心を燃やしている。自分が地獄に落ちようが構わないから、あれを殺すと決めている。

 というのに表面上、穏やかで朗らかな物腰が崩れないのが怖いところだ。

 幸と同じ寺に住んでいた獪岳もあれを殺したいが、理由は異なる。単に自分の邪魔だから、殺したいのだ。

 

「ん。んー?」

 

 と、歩いていた幸の脚が止まる。

 蝶屋敷の門の前、開いた門から漏れている光の中に、見覚えのある黄色頭と獪岳のものとよく似た色違いの黄色羽織、それに猪頭と箱を背負った剣士が見えたのだ。

 

「……」

「あ、こら」

 

 即座に踵を返そうとした獪岳の黒い羽織を、幸が掴んだ。

 

「離せ。あいつらと鉢合わせするじゃねぇか」

「なんで善逸君たちを見ただけで毎度離れる。面倒だ。というか、この距離ならどうせ、においと音でばれてるよ」

「面倒なのはあいつら……おまっ!引っ張んな!」

 

 鍛練上がりで、立って歩いて喚くのがやっとの獪岳は、簡単に幸に引きずられてしまう。

 

「こんばんは。これから任務ですか?」

「はい!こんばんは。獪岳さん、幸さん」

 

 何だかんだと腐れ縁のように話しかけてくる後輩にあたる隊士、竈門炭治郎は、こちらを見るとぱっと、顔を明るくした。

 こいつもこいつで、鬼となった妹をずっと連れ歩き、共に戦っている。妹は今は、背負った箱の中に収まっているのだろう。

 獪岳も、よく似たような箱に幸を入れて任務先に赴くが、今はその箱は幸が自分で背負っている。

 幸は、その鬼になった竈門の妹、禰豆子と仲がいい。

 任務が無い夜、時々外へ一緒に行って、花冠を作ったり鞠付きをしたり、そんなふうに遊んでいるのだ。

 禰豆子と遊んでくれてありがとうございました!と蝶屋敷中に響き渡るでかい声で炭治郎に礼を言われて、獪岳は初めてそれを知った。

 呆気にとられた獪岳を他所に、わたしも楽しかったからありがとうございました、とけろっとした顔で幸は言ってのけていた。

 

 妹の友達の相方であるからと、竈門炭治郎は獪岳にもよく話しかけてくるし、そうなると必然炭治郎と行動を共にしがちな、我妻善逸とも出くわしやすくなるのだ。

 

 それが、嫌なのだ。

 

 善逸は同門の弟弟子だが、仲が良いどころの話ではない。獪岳は善逸が嫌いを通り越して目障りだし、善逸も獪岳は嫌いだろう。

 今も、てんで視線を合わせようとしない。

 第一疲れているときに、嫌な相手の顔など見たくもない。

 

「幸。行くぞ」

「あ!……ではまた。みなさん、気をつけていってらっしゃい!」

 

 ぴょん、と兎のように勢いのいい礼をして、幸は獪岳の後についてきた。

 

 

「お前なぁ、毎度あいつらに絡むのやめろよ。俺まで巻き込まれるだろ」

「嫌だ。少しは巻き込まれて。獪岳、煉獄さんやわたし以外とろくに喋らないじゃないか。そんなふうだと、誰かと連携して戦えないよ。上弦のときだって、善逸君と禰豆子ちゃんがいないと、死んでたよ」

 

 獪岳の後をついて来ながら、幸は軽い調子で言った。

 

「うるせぇなぁ。なんで俺が、あのカスと仲良くならなきゃなんねぇんだよ」

「善逸君は仲良くなりたそうだけど。揃いの羽織り、喜んでたよ」

 

 くいくいと、獪岳の羽織りの裾を幸は引っ張った。

 隊服の上から獪岳が着ているのは、黒地に白い三角形が散っている羽織りである。

 善逸と色違いの同じ意匠のそれは、雷の呼吸を教えてくれた先生、桑島慈悟郎から贈られたものだった。

 正確に言うと、二着目である。

 一着目を、獪岳は捨てていた。

 善逸と同じ柄のものを贈られたことを、屈辱のように感じたからだ。

 炎の呼吸を習うことを許してほしい、と師匠に手紙を出したあと、許す代わりにこれを着ろ、今度は捨てるな、と鎹鴉に括り付けられて送られてきたのが、二着目の羽織だったのである。

 捨てたことも見抜かれていたか、と何か負けたような気になったものだ。

 思いがけぬ荷物を運ぶはめになった鎹鴉は幸の膝の上で労われつつ、これだけ自分が苦労したのだから捨てるのは許さん、とじと目で睨んで来たし、そんな大事なものを捨てたら駄目じゃないか、と幸は幸で夢に出そうな虚無の目でじぃ、と見つめて来た。

 

 鴉と少女の物言わぬが凄まじい視線に根負けする形で、獪岳は羽織りを着ている。

 羽織りを着た獪岳を初めて見た善逸は、なんというか、変な顔をした後、奇声を上げてどこかへ行った。

 友情の右手を差し伸べてこちらに歩いて来た猟犬と目が合って気が動転した野兎、と幸はよくわからない例えをしたが、妙にしっくり来てしまったのが癪だった。

 

「これお前らが無理に着せたようなもんだろうが。大体、あいつの間抜け面見ただろ。逃げたじゃねぇか」

「あのときは、獪岳の音が凄まじく不機嫌なことに仰天したのと、同じ羽織り着てることへの嬉しさが正面衝突しただけだって」

 

 門をくぐって母屋へと歩き、廊下へ上がる。

 夜遅いせいか、蝶屋敷はしんと静まり返っていた。

 

 善逸が言う、その『音』というのが獪岳にはわからない。だのに弟弟子は、自分にはわからないことで一喜一憂するのだ。

 しかも、幸や鎹鴉はそこらを普通に受け入れている。自分だけ取り残されたようで、なんとも気に食わない。

 

「だからとにかく、人間の仲間が少ないよ、獪岳には。確かに前は、わたしがいたから共闘できなかったときはあっただろうけど、今は違うだろう?」

「……疲れた、寝る」

 

 廊下と部屋を隔てる障子を、獪岳は幸の鼻先で閉めた。閉める直前、幸の困ったような顔が見えた。

 障子を閉じればどこかに行くかと思いきや、幸の影は立ち去らなかった。かと言って、障子を押し開けてくることもないまま、立ち竦んでいる。

 

「……あのね、獪岳。わたしが幾つになったか覚えてる?」

 

 

 しばしの沈黙のあと、障子の向こうの黒い影から告げられたのは、静かな声だった。

 獪岳は無言を続けた。

 そんなことは知っている。何故今言うのかが、わからなかった。

 

「十七歳、だよ。鬼になった七つのときから、もう十年も経った。わかってる?わたしが人間だった時間より、鬼になってからの時間のほうが、とっくの昔に長くなったことを」

 

 ─────ねぇ、獪岳。

 

「わたしがいつまでも、このままこうやって人間らしくいられるかは、わからないんだよ」

 

 明日も明後日も、漠然と『このまま』が続く保証など何処にもない。

 壊れるときは、一瞬だ。

 鬼として生きる時間が伸びれば伸びるだけ、人間の身体であったころの感覚は薄れていく。人であったころの記憶は何一つ擦り切れずとも、何かが消えて行く。

 自分がかつて、心臓が潰れても、胴が両断されても、簡単に死ぬような脆い生き物に生まれついたという実感が欠けてゆく。

 ぼろぼろと、乾いた泥の塊が日に当てられたときのように。

 

 崩れ切ってしまえば、後には何が残るのか。

 残ったものをかき集めて、それでも尚今と変わらずに人々と在れるのか。

 

 わからないのだ。

 『例外』が生きるというのは、そういうことだから。

 

「だから、鬼のわたしにばかり頼りかかるのは、やめて。あなたは、人間だから」

 

 冷たいほど静かな声に、堪りかねて障子を勢いよく開けると、誰の姿もない。

 ぽつんと、縁側の上に木箱がひとつ置かれていた。中は空だ。

 

「幸!」

 

 呼んでみても、獪岳の声だけが虚しく夜のしじまへと消えていくだけだった。




【新章用、ざっくり人物解説】

獪岳

主人公。
色々あって、現在は引退した元炎柱・煉獄杏寿郎の弟子。
特に特異体質とかそういうのはない。耳や鼻で鬼と人の区別がつくなんて何だそれは。
相変わらず霹靂一閃は使えない。そろそろ呼吸を混ぜだす。
顔を横一文字に走る傷痕、首の勾玉飾り、黒地に白い三角形が散った模様の羽織りが特徴。

寺で盗みをせず、従って追い出されもせず、鬼を招きもしていないが、作りかけだった幸せの箱は、作る手助けをしていた少女諸共一度叩き壊された。

現在、ばらばらになった箱を組み立て中。
自分が少女に向けている感情が何かは知らず解らず。
今日も今日とて、その少女と共に鬼殺を続ける鬼殺隊隊員。

上弦の弐を殺したい。



獪岳の幼馴染みの少女。鬼。
金色の瞳と、三つ編みにした髪につけた胡蝶の飾りが特徴。
完全記憶能力という特異体質持ち。

実の親のせいと、獪岳に関わったことで、人間を捨てることになった。
とはいえ、どちらのことも恨んではいない。
子は親を選べないし、もう一度やり直しができてもやはり自分は獪岳を放っておけないだろうと、ある種悟りの域にいる。
あの日の選択を、後悔はしない。
獪岳より一つ年下だが、気分的には姉。
行冥さんと桑島さんにこれ以上心配をかけたら許さん。
それから、わたし以外にも友達とかそういう存在はいないのか。

上弦の弐をどうしても殺したく、アヴェンジャー化した。
殺すためなら人間に戻れなくていい。
だって、人間の自分は弱いから。

獪岳以外の人間には基本的に敬語。


鎹鴉

名前はある。電右衛門という。
あるが、獪岳も幸も知らない。名乗りの機会を無くしたままである。
獪岳にはクソ鴉、幸にはかすがい君、またはからす君と呼ばれている。

鬼連れの隊士というとんでもない者が担当になってしまい、最初ははちゃめちゃに苦労したが、最近は幸の膝の上で昼寝するのが好きというくらいには順応した。

ただし、相変わらず獪岳のことは煽る。
初対面で焼き鳥にすると脅された恨みは深かった。


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二話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 翌朝のことである。

 昨晩あのようなことを言った割に、幸は夜明け前には箱の中に戻り、日が出てからは眠りに入っていた。

 箱の板越しに、すぅすぅと寝息が聞こえてきたときは肩透かしを食った気分だった。

 昨日のは何だったのかと拍子抜けしつつ、任務も無いからと刀の手入れをしていた獪岳のところに飛んできたのは、鎹鴉である。

 

「救援要請!救援要請ィ!至急、北北東ノ街へ向カエ!向カエェ!」

 

 しかも来たのは、救援要請。

 つまりは、任務に向かった隊士が鬼が手に負えないからと発した助けである。

 以前、十名以上の鬼殺隊が犠牲になった那田蜘蛛山のように、強力な鬼が待ち受けている可能性がある。

 あのときは山に巣食っていたのが下弦とはいえ十二鬼月であり、最終的に柱が二人も駆り出される事態になっていたが、今度はそこまでではないらしい。

 が、救援要請は救援要請で、緊急案件だ。

 羽織りを着て刀を持ち、箱を拾った。

 障子を開け放てば、よく蝶屋敷の中で見かける看護婦の少女たち三人が、敷布を抱えて歩いているところだった。

 

「あ、獪岳さん!任務に行かれるんですか?」

「幸さんも一緒ですか?」

「いつ頃戻るんですか?」

 

 三人に一度に来られ、獪岳は引いた。

 見かけることはあれど、幸とは違って獪岳は彼女らと碌な会話などしたことがないから、名前も覚えていないのだ。

 

「カァ!獪岳ト幸、救援任務!任務ゥ!至急向カウベシィ!」

 

 獪岳が答える前に肩に乗っかった鴉が喚き、三人娘は途端に表情を引き締めて道を開けた。

 幼くとも負傷した鬼殺隊員たちの看護婦だからか、判断が速い。

 気をつけて頑張ってください!という声援に見送られて獪岳は蝶屋敷を後にして駆けた。

 

 鎹鴉の案内に従って走り、一度列車に乗る。

 前のように、横転した挙げ句に上弦の弐と参が相乗りしてくるような最悪の列車じゃあるまいな、と切符を買うときに一瞬嫌な思い出が蘇った。

 あそこでは、乗務員と乗客の一部が鬼に唆されてこちらを罠に嵌めようとしてきた。

 自分の恨みと憎しみで目が曇って暴走し、幸に刀を向けた馬鹿な隊員も、鬼の甘言に引っかかったあいつらも、それでも人間だから鬼殺隊が斬るべき相手ではないのだ。

 

 殺すつもりはないが、例の馬鹿は、どこかで出会ったら何発か殴ってもいいだろう。

 

「獪岳?」

 

 日が沈み、箱から出て来た幸は向かいの席に座ってきょとんと顔を横に傾けていた。

 ちなみに幸は自分が入っていた箱は、自分で持つからと膝の上に置いている。今代わりにそこに入っているのは、鎹鴉だ。

 鴉を肩に乗せていては乗車できないので、鳥籠代わりになっているのだ。

 

「あ?なんだよ」

「悪い顔していたから、何かと思った。救援要請が心配?」

「別に」

「じゃあ、列車が嫌いになった?」

「なんでそうなんだよ。あんなひでぇ列車、二度もあって堪るか」

 

 舌打ちしてみせると、幸は軽い笑い声を上げた。

 本当に、昨晩の儚さはなんだったのだろう。殺しても死にそうにないくらい頑丈であるのに。

 ふと思い立ったことがあった。

 

「お前、行冥さんとは話せてんのか?」

「手紙を出してる。行冥さんは忙しいから、会えてはないけど。獪岳は手紙をくれぬのかとまた泣いてたって、鴉さんと不死川玄弥君に言われた」

 

 箸が転がっても決壊しそうな、悲鳴嶼の涙腺である。

 容易にその顔が想像できて、獪岳は額を押さえた。

 

「あと、少しでよいから玄弥君のことを気にかけてやってはくれぬかって」

 

 悲鳴嶼の弟子か、と獪岳は鼻を鳴らした。

 どこに行っても何になっても、あの坊さんは誰かの世話を焼かねば気が済まないのだろうか。

 

「不死川って、風柱と同じ苗字だよな」

「実の弟って言ってた。だけど事情が込み入ってるから、玄弥君にはただの玄弥君として接してほしいみたい」

 

 身内でがたつくのはこれまたどこも同じなのか、と獪岳は目を細めた。

 煉獄杏寿郎は父に、不死川玄弥は兄。幸は二親。

 幸のところとは違って、煉獄の家と不死川のところは身内が生きているだろうし、屑ということもあるまいに。

 といって、別に彼らをどうこうする気は獪岳にはさらさらないのだが。身内が絡んだそんなややこしい問題、関わり合いたくない。

 

「いや多分、玄弥君からしたら全然悲鳴嶼さんに会いに行かない獪岳は獪岳で、じれったいと思う」

「ふざけんな」

 

 そこまで口出しされる謂れはない。

 手刀を額に落とすと、幸はあは、と軽い笑い声を上げた。

 同時にくい、と鎹鴉の嘴が箱の蓋の隙間から覗く。

 

「カァ!次ノ駅デ下車!下車ァ!ソノ後、北北東ニ進路ヲ取レェ!」

「北北東?そっちには確か……山があったよね?」

「然リ!山道ニ巣クイ、旅人ヲ喰ラウ鬼アリィ!」

 

 では、救援要請はその鬼を討伐しに向かった隊士が出したものであるのだ。

 

「急ぐぞ」

「うん」

 

 徐々に速度を落としていく列車の中を、獪岳と幸は出口目指して歩き出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 救援要請を出した隊士を見た瞬間、幸が珍しく顔を強張らせた辺りで、嫌な予感はしたのだ。

 山道にある小屋で頬の傷の手当をしていたそいつもまた、幸を見るや顔をしかめた

 

「階級・丙の隊士、獪岳と連れの幸だ。あんたが救援要請をしたのか?」

 

 が、二人が固まった状態では話が一向に進まない。面倒ではあったが、獪岳しか口を挟める人間がいない。

 

「……そうだ。鬼は三体。山道を通る旅人だけを選び、喰っている。三体とも血鬼術を使い、不意討ちされてこちらは仲間が一人やられた」

 

 食欲に呑まれきったやつではなく、頭が回る手合いだと、獪岳より幾つか歳上に見える階級・甲の隊士、田津(たづ)という名の彼は応じた。

 隣人や家族が失踪に気づきやすい街や村の住人を見逃し、敢えて足がつきにくい旅人を選んでいるなら、狡猾な鬼である。

 実際、鬼は連携を取ってきて不意を突かれた隊士が一人、腕を肩から食い千切られたという。日輪刀も鬼に奪われ、一度撤退せざるを得なかった。

 その隊士に関しては止血はし、藤の花の屋敷へ獪岳たちと入れ違いに運ばれたが、二度と刀は満足に振るえないだろう。

 そいつの代わりに呼ばれたのだ。

 そうして獪岳と幸が来たため、剣士が二人に鬼が一人となる。

 

「鬼はどっから来た?」

「北の山道だ。北から登っていけば、恐らくあいつらの隠れ家を見つけられる」

 

 山狩りだ、というその隊士の目はぎらついていた。

 幸は黙ったまま、佇むだけである。

 よく考えると、幸が善逸たち以外の鬼殺隊と仕事に来て、初対面の鬼殺隊員の前に普通に姿を見せたのは初めてだった。

 

「……おい」

 

 山を進みながら、獪岳は声を低めて尋ねた。

 

「あいつ、お前を斬ったやつか?」

 

 夜闇でも、幸が驚いたように目を瞬くのがわかった。

 

「やっぱりか」

 

 やけに睨んでくると思えば、なんの事はない。蝶屋敷で幸を斬ったのが、田津だったのだ。

 

「隠すな、阿呆」

「……ごめん」

 

 ごめんで済む話ではないのだが、任務に来てしまったならば、鬼を始末するか死ぬか、重傷を負って戦えなくなるまで戻れないのが鬼殺隊である。

 獪岳とて、こちらを睨んでくる人間と長々仕事などしたくない。

 

「お前、鬼の気配探れるだろ。早くやれ」

「うん」

 

 こくりと頷いて、幸は目を閉じた。

 数秒後に目を開いた幸は、すぅ、と指を動かしてある方向を指す。

 道などろくにない木々の間の闇で、田津が向かっている山頂へ至るのとは逆の方向だった。

 

「おい、あんた」

 

 構わず先に進もうとする背中に呼びかけると、田津は振り返った。

 改めて見れば、彼は獪岳より頭半分は背が高い。歳は一つ二つ上だろう。

 蝶屋敷で抜刀騒ぎを起こすようなやつだから、どんな乱暴者かと思えば特段気性が荒そうに見えるというわけではない。

 どちらかといえば、優しげで人に好かれやすい風貌に見えた。

 尤も、獪岳と幸へ向ける顔が石のような無表情でなければ、の話である。

 

「なんだ?」

「そっちじゃねぇ。鬼はこっちだ」

 

 幸が示した方向だと言えば、田津は顔を歪めた。

 

「何を馬鹿な。そっちは村がある方向じゃないか。鬼がこっちへ逃げるのを俺は見たんだぞ」

「でも、あっちから気配はしています。鬼のほうが移ったんじゃないでしょうか」

 

 幸が口を開くと、田津は舌打ちを返した。

 

「貴様の言うことなんて信じられるか。人喰い鬼のくせに」

 

 幸から、するりと表情らしい表情が抜け落ちる。だが何も言い返さなかった。

 それをどう取ったか、田津は一歩距離を詰めてくると、幸の細い肩を突き飛ばした。

 ぐらりと幸の体が後ろへ傾ぐが、倒れることはなかった。数歩たたらを踏み、幸は伽藍堂の瞳で田津を見上げる。

 

「いいか、貴様が人の言葉を話そうがなんだろうが、人喰い鬼は人喰い鬼だ。いつか薄汚い本性を見せるに決まっている。鬼はそういうものだからだ!」

「あんた、いい加減にしろよ」

 

 ついに我慢ができずに、獪岳は田津の前に出た。

 

「ぐだぐだ話してる場合じゃねぇだろうが。こいつが鬼はあっちだって言うなら、俺はこいつを信じる」

「鬼を信じるのかお前は!」

「蝶屋敷で刀抜いて騒ぎを起こしたあんたより、黙ってるこいつがよっぽどマシだろ」

 

 夜目でもわかるほどに、田津の瞳は血走っていた。

 

「勝手にしろ!喰われるときに後悔すればいい!」

 

 ついには吐き捨てるように言って、田津は山の上へと走って行く。

 獪岳はもう、追いかける気にもなれなかった。

 敵より厄介なのは、足を引っ張る味方だ。あの分では共闘も糞もないだろう。

 ため息をついて、獪岳は頭をがりがりとかいた。

 

「仕切り直しだ、糞が。鬼はこっちだな」

「うん」

 

 いないものは仕方ない。

 最悪、血鬼術が使える鬼三体を二人で相手することになるが、上弦の弐に斬り刻まれたほどの絶望はないのだ。

 比較するものが明らかに狂っている自覚はあったが、そう思いでもせねば苛立ちが募って仕方がなかった、

 

「……獪岳」

「さっさと謝るくらいなら、斬られたことを俺に言っとけ。余計な手間くったじゃねぇか」

 

 蝶屋敷で斬られたんだろう、と尋ねれば、走りながら幸は頷いた。

 

「人から聞いたけど、あの人は許嫁だった女の子と、家族を鬼に喰われて鬼殺隊になった。その鬼は、弟だったんだって」

 

 そういう経緯を背負っているから、幸にはあの田津とかいう隊士を恨む気は起きなかった。

 どうせ傷は治り、着物は繕えば元通りだ。

 それに何より、人間に殺意や刀を向けられることは幸には初めてでも何でもない。

 藤襲山での年月はそんなふうに襲われては逃げ、襲われては逃げの繰り返しだったから、今さら恨む恨まないもない。

 そこまで聞いて、獪岳は走りながら幸の頭をかなり強く叩いた。

 ぼす、と間抜けな音が夜道に響く。

 

「馬鹿か。ここはもうあの山じゃねぇんだよ。お前、お館様と蟲柱に鬼殺隊として認めるって言われてんだろ。お前はもう、斬られるための選別用の鬼じゃねぇ。それを斬ってるあいつのほうが間違いだ」

「だけど……」

「第一、お前が下っ手くそに俺に隠し事するから、話が無駄に拗れたんだろ。どうすんだ、今の状況。下手すると三対二だぞ。馬鹿幸」

「……何度も馬鹿って、言うな。何が相手でも上弦の弐よりは、マシ」

 

 やはりこいつも比べるものがおかしくなっていた、と獪岳は鼻にしわを寄せている幸を呆れて見やった。

 と、嫌な気配がどろりと空気に混ざるのを感じた。

 二人同時に息を殺して身を屈め、木の陰にしゃがみ込む。

 首だけを伸ばして闇を透かし見れば、木々の向こうで蠢いている歪な丸い影があった。

 幸に目配せをすれば、指が一本立てられる。数は一、ということだ。

 背に負った刀を音を立てずに抜き、獪岳は指を三本立てる。幸が頷くのを確かめて、構えを取った。

 木立の向こうで蠢く影が、頭と思しい部分を持ち上げる。闇の向こうでぎらりと目玉が光った瞬間、獪岳は地を蹴って低く飛び出した。

 同時に幸が高く飛び上がり、地面から拾い上げていた礫を、羆に似た異形の鬼の顔面目掛けて雨のように投げつける。

 

「ギッ!?」

 

 耳障りな声を上げ、鬼が上を見たときには、獪岳はその懐の内にまで辿り着いていた。

 鬼の眼がぎょろりと動き、刀を捉える。

 鈍間、と獪岳は心中で吐き捨てた。

 

 ─────炎の呼吸

────弐ノ型、昇り炎天

 

 教えられた通りの、下から上へ斬り上げる斬撃が鬼の顔面を縦に割る。

 痛みに仰け反り、晒された鬼の頚を、斬った勢いそのままに体を回転させ、刀を横に倒した獪岳の一撃が刎ね飛ばした。

 頭を失った巨体が傾き、こちらへ倒れてくる。後へ飛び退り、獪岳はそれをかわした。

 回転するように体を捻り、刃に勢いを乗せた動きは、雷の呼吸の参ノ型、聚蚊成雷を軸にした動きである。

 炎の呼吸の弐ノ型、昇り炎天と組み合わせて一繋ぎの技のようにして使ったのは初めてだが、存外うまく行ったと思う。

 

「次、あっち」

「……ああ」

 

 が、成功の余韻に浸る暇もないのだ。

 くい、と幸に羽織りの袖を引かれた。

 鬼の体が端から塵になって行くのを認めてから刀を鞘に収め、山の麓、人里がある方へ向けて走り出す。

 人里に到達されれば、まずいことになる。一層、足を早めた。走る中で、幸が口を利く。

 

「最初の一撃、炎の呼吸?」

「は?……だったらなんだよ」

「綺麗な炎だなって思ったから」

 

 こいつにはちゃんと見えていたのか、と肩をすくめて応じた。

 やがて木々の間に、ちらちらと橙色の人家の灯りが見え始める。人里に近いのはまずい、と獪岳が顔をしかめたそのときだ。

 

「獪岳、上!」

「ッ!」

 

 間一髪で前に飛び出し、樹上から放たれた赤い斬撃を避ける。

 樹上を見上げれば、気味の悪い猿のような小さな姿が、枝の中に見えていた。左手に鷲掴みにした赤い何かを、そいつは振りかぶる。

 

「避けろッ!」

 

 幸と共に左右に跳べば、枝がばきばきと折れて降り掛かってきた。

 砂埃が巻き上がり、獪岳と幸のちょうど中間に位置する地面が、大鎌で切り裂かれたように深く縦に抉られているのがちらりと見える。

 

 斬撃を飛ばす血鬼術、と咄嗟に仮定。

 落ちてくる枝を避けつつ仰ぎ見れば、猿のような鬼は軽々と枝を渡って人里の方へと駆けていく。

 

「テメェ!待ちやがれ!」

 

 ─────雷の呼吸

────伍ノ型、熱界雷

 

 まぼろしの雷光を纏う斬撃が猿鬼の背を掠め、そいつが握ろうとしていた枝と、足場にしていた枝を切り落した。

 熟した柿の実のように、鬼は背中から地に落ちる。

 

「グギィィッ!鬼狩りガァァ!」

「ん」

 

 藻掻き、木の上へと逃げようとした猿鬼の脳天に、追いついた幸の踵落としが突き刺さり、再び地面に叩きつけた。

 だが、猿鬼の腕に、またも血色の刃が形成される。

 

「コノ餓鬼ィィィ!オレダヂノ邪魔をするナァァァ!」

 

 ひゅ、と振り向きざまに放たれた縦に回転する血でできた刃を、幸は首を横に振って避け、猿鬼の腕の関節を踏みつけにした。

 その背後で標的を外した血鬼術が、幾本もの木を轟音と共に切り倒して行く。

 腕を抑えられ、無防備になった頚に獪岳は日輪刀を振るった。

 

 確かな手応えに、はぁ、と深く息を吐く。

 

 正に、しわくちゃの猿のような形相の鬼の頚が転々と土の上を転がった。

 地面に倒れた子どものような矮躯は、猟師のような毛皮の衣を纏っている。毛深い猿に見えたのはこれのせいかと、獪岳は妙なところで納得した。

 塵になって死んでいく生きものの、底無しの昏い両眼から目を逸らしつつ、獪岳は幸の方を見る。

 僅かに避け損なったのか、右の頬がぱっくりと割れ、血が着物の襟を汚していた。

 

「これで、あと一匹か?」

「うん」

 

 羽織りの袖で、幸がぐいと頬を拭う。

 かなり深く見えた傷は、既に糸のような浅いものへ変わっていた。

 にしても、これだけ騒いだのならあの田津が引き返してこないものかと、獪岳は山の上を見る。

 が、幸はやおら顔を真っ青にして叫んだ。

 

「獪岳!最後の一つが村に入る!」

「チッ!」

 

 本音を言えば、村人の前で刀を振り回して大立ち回りなどしたくなかったのだ。通報されると、またぞろ警官が湧いて出てくるから。

 が、最早言っている場合ではない。

 人家の灯りがある方へと走り、木立を切り抜けて転がりでたところは、小さな山里の裏手である。

 既に、里の奥の方で怒声や悲鳴が聞こえてきていた。

 騒ぎを聞きつけたのか、外へ出てきたらしい里人の女は、獪岳の手にある抜き身の刀を見るなりぎょっとしたように目を剥いた。

 

「お前ら、家から出てここから離れろ!」

 

 怒鳴りながら、家が立ち並ぶ里を駆け抜ける。叫び声や悲鳴を上げ、逃げて来る人々の流れと逆らう方へ獪岳と幸は走った。

 

 ─────見つけた。

 

 篝火が炊かれた村の広場の中心。

 ぬめりと光る鱗を持つ大蛇が一匹、今にもやけに身なりの良い村人に、喰いつかんとしていた。

 

「だめっ!」

 

 幸が弾丸のような勢いで獪岳を追い抜き、大蛇の目を爪で狙う。

 だが、大蛇は幸を見ることもなく丸太ほどもある尾を振るう。鞭のようにしなるそれが、幸を横に薙ぎ払った。

 小石のように幸は吹っ飛び、一軒の小屋に叩きつけられる。板壁が割れて崩れ、幸は砂煙の向こうに消えた。

 

「ヒ、ヒィィッ!」

「何してんだテメェ!動け!」

 

 大蛇の頭の下でまだ腰を抜かしている男を、獪岳は引きずり上げて突き飛ばす。

 幸は後回しにするしかない。

 あの程度では、鬼は死なないのだから。

 相対した大蛇を、獪岳は見る。

 単純に、大きい。

 鎌首を擡げている今、里の家の屋根より上に頭がある。首は獪岳の胴回りよりさらに太い。

 人どころか、雄牛や羆でも一度で丸呑みにできそうなほどに口も巨大で、二股に裂けた赤黒い舌がちらちらと覗いていた。

 

 流石に悍ましい姿に、頬が引きつる。

 列車と融合した鬼もいたが、蛇に、しかもここまで巨大な姿に変貌したのは見たことがなかった。

 そして鱗に覆われた額、真っ赤な二つの目のちょうど中間辺りに、人間の頭らしきモノがあった。

 あの、体に反して異様に小さい箇所が本体の顔なのだ。問題はそれ以外の人間らしい部分がほぼ肉に埋没しており、頚が見えないこと。

 

「な、何だって鬼が村にく、来るんだ……!それに、お、お前らはだ、誰だ……!?」

「鬼殺隊だ!あれは俺たちが殺す!テメェらはどっか行ってろ!」

 

 本気で、うろちょろされると邪魔である。

 叫ぶと、身なりの良い中年の男は這うようにして遠ざかる。

 広場の周辺からは、既に里人の姿が消えていた。

 ふっ飛ばされた幸はまだ戻らず、獪岳の前には大蛇のような形に変貌した鬼が一匹。

 額の肉に埋もれた、木乃伊(ミイラ)のように干からびた顔が、口を開いた。

 

「鬼狩り、鬼狩りィィィ!オ゛レの弟タチハどうジたァァぁ!」

 

 蛇体がのたうち回り、篝火を跳ね飛ばす。火種が飛び散る中、走り回って巨体の攻撃を避けながら、獪岳は叫び返した。

 

「熊と猿みてぇなのが弟だってんなら、とっくにくたばってるぜ!後はテメェだけだ!クソ蛇!」

「ギザマ゛ァァァァ!」

 

 汚い叫びを上げながら、蛇が地面を尾で叩く。丸呑みにしようと迫って来た蛇の口を避け、獪岳は片目を刀で切り裂いた。

 蛇体が仰け反って、巨大な頭部が櫓を一つ倒す。

 

 煉獄杏寿郎に、散々打ち込み稽古で叩かれ慣れたせいだろう。

 今までとは違い、攻撃を予測して避けられている実感はある。

 吐くほど打たれ続けたせいか、打たれそうになる直前で、狙いが何処かがわかるのだ。

 杏寿郎相手では、狙いがわかったところで速さに追い付けずに結局打ち倒されるが、この蛇鬼は彼よりは遅く、攻撃自体は単調である。

 

 だが、兎にも角にも体がでかく重すぎ、本体がある頭に届かない。

 余り続ければ、獪岳の体力が先に切れて喰われる。

 頭上すれすれを通り過ぎる尾を避けたところで、小さな姿が視界の端に見えた。

 倒れた家の残骸からようやく抜け出てきた、幸である。

 

「鬼の本体は額だ!頸は肉に埋もれてやがる!揺らせ!」

「ん!」

 

 今度は蛇体を避けた幸は、倒壊した櫓の柱と思しい丸太を一つ、持っていた。

 丸太というより、それは折れて先の尖った杭である。

 小さな体に不釣り合いなその杭で、幸は蛇の頭を殴り飛ばした。

 蛇鬼の体が、横に揺らぐ。

 飛び出した獪岳は、その体を駆け上がった。

 滑りそうになる鱗の上を走り、額にまで取り付く。足元に、目だけがぎょろぎょろと光る鬼の顔があった。

 

 頸は恐らく、足の下。

 

 ─────雷の呼吸

────弐ノ型、稲魂

 

 五つの斬撃が蛇の首を抉る。

 だが、頚に届いた手応えがない。鱗が硬い。

 

 ──────技が、違った。

 

 一撃必殺ではない稲魂では、浅かったのだ。しかし獪岳は霹靂一閃は使えず、炎の呼吸の型も、雷の呼吸に比べればまだ威力に劣る。

 それでももう一度放とうとしたとき、ずるりと鱗で足が滑った。呆気なく体が横ざまに傾ぎ、宙に投げ出されるのを感じた。

 逆さまになった視界で、辛うじて蛇の尾が振り上げられるのを捉える。

 咄嗟に刀から片手を放し腕で庇った脇腹に、尾の一撃が強く食い込んだ。

 

「……ッ!」

 

 全身に響く衝撃は、内臓を口から吐き出しそうになるほどのものだ。だが、歯を食いしばって耐えた。

 空中を飛んだ体が家屋の板壁に叩きつけられる寸前、背中に何かやわらかいものがぶつかる感触があった。

 それでも勢いが殺し切れない。

 板壁を巻き込み、獪岳は地面に背中から落ちた。

 

 咳き込みながら、立ち上がる。

 後ろで同じように立ったのは、幸だった。獪岳の体が激突する直前で、割り込んだのだ。おかげで、背骨を痛めることはなかった。

 ずん、と再び地面が下から突き上げるように揺れ、割れた板壁の間からぐわりと開いた蛇の口が突っ込んで来た。

 呑まれては堪らないと幸共々転がるようにして避け、何とか家屋から外へ逃れれば、蛇は更に荒れ狂った。

 尾が地面を叩き、木片が飛び散る。

 もう一度、今度は頚を間違いなく落とさねばならないと、互いに刀と爪を構え直す。

 鋒を蛇へ向けたとき、ばち、と耳慣れた音を耳が拾った。

 

「退け!」

 

 背後からのその声に、体が動いた。

 獪岳が右へ、幸が左へと跳んだのと、ほぼ同時に雷光がその間を駆け抜ける。

 それが雷光でなく、霹靂一閃の光なのだと、獪岳にはわかった。

 田津の居合いが、蛇の頚を半ばまで断つ。

 だが、頚を寸断しきるには至っていないと見てとるや、獪岳は駆けていた。

 使うのは、炎の技。まだ完成してはいないが、他に手がない。

 

 ─────炎の呼吸

────壱ノ型、不知火

 

 暗闇に、炎が走る。

 霹靂一閃と似通う、相手の間合いに踏み込んでからの袈裟斬りが、繋がっていた蛇の頚を完全に断ち切った。

 そのまま技を放った勢いが余り、足が滑る。

 

 べしゃり、という抜けた音と共に、獪岳は土の上にうつ伏せに倒れた。

 

「獪岳!?」

「……平気だ」

 

 少なくとも体は、肋がやられた程度だ。

 最後の自分の間抜けさに、心が大分重傷になったが。

 尾で打たれた脇腹を擦りながら立ち上がれば、大蛇に変じた鬼の体は、徐々に塵へと還っていくところであった。

 鬼は、死んだのである。

 死体の近くに立つのは、滅の文字が描かれた、黒い隊服を着た鬼殺隊員だった。

 

「なんだあんた、来たのかよ」

「……あれだけ騒がれればな」

 

 せせら笑うようにその背中に向けて言えば、苦い顔で田津が振り返った。

 山を登っている最中に、こちらの戦う音を察知して駆け戻り、そのまま霹靂一閃で加勢した。そんなところだろう。

 寄りによって、雷の呼吸使いだったのか、と内心で吐き捨てる。

 元々いけ好かないと思っていたが、今の一撃で獪岳は果てしなくこいつが嫌いになった。

 

「大丈夫か?」

「別に」

 

 逆に、先ほどまでの刺々しさを忘れ去ったかのように田津は話しかけてくる。

 本音を言えば、尾の一撃をくらった肋がかなりの痛みを訴えているのだが、こいつに言う気はなかった。呼吸で痛みは和らぐし、治りも速まる。

 まだ何か言いたげな田津を無視し、幸を探す。

 何処へ行ったのかと辺りを見回せば、小さな姿が、先ほど破壊してしまった建物の陰に見えた。

 声をかけようとするより先に、幸のほうが何かを手に持ち、駆け寄ってくる。

 小さなその手に握られているのは、黒い鞘に収まった一振りの刀だった。

 

「獪岳、これ、日輪刀?」

 

 幸の手が刀を抜けば、姿を見せたのは赤く染まった紛れもない日輪刀の刀身。

 何とはなしに頭を過ったのは、鬼に奪われたという隊士の刀である。

 

 ────刀が何故、ここに?

 

 疑問を浮かべて辺りを見回したまさにそのとき、獪岳はちり、と首筋を刺す殺気を感じた。

 崩れかけの蛇体の向こう、田津の背後に里人たちがいた。

 その先頭にいる男の手には、黒光りする銃。銃口が狙っているのは、田津の背中。

 

「おい!!」

 

 獪岳が叫び、動くより先に里人が引き金に指をかける。銃口が火を吹く。

 夜の山里の空に、一発の銃声が響き渡ったのだった。

 

 




人に信じてもらえない話。



【コソコソ裏話】
 
この山の鬼は、人間の頃からの三兄弟です。

羆、猿、蛇に似た姿になっていますが、羆が三男、猿が次男、蛇が長男です。

弟鬼が敢えて山頂へ逃げる姿を見せ、鬼狩りを上に誘う間に、兄たちで里の人間を食べようとしていました。
直ぐ様引き返してくるのが予想外だったため、ばらばらに倒されました。


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三話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 

 宙に飛び散ったのは、鮮やかな血と肉片だった。

 熊を撃つのに使われるような、大口径の猟銃が撃ち抜いたのは、狙われていた男を突き飛ばして転がし、銃口の前に立ちはだかった少女。

 右目を中心に、頭の半ばを吹き飛ばされた少女の体は呆気なく宙に浮き、それから仰向けに倒れた。

 銃弾によって深く抉り取られた頭から、脳の欠片と骨が溢れ、血が流れていく。

 

「ヒィッ!」

 

 撃った男は、甲高い悲鳴を上げた。

 至近距離で己の銃が抉った人間の脳の欠片と吹き出た血が、僅かに降り掛かったからだ。

 或いは、幼さの残る少女を撃ち殺したことに戸惑ったか。

 

「幸!」

 

 駆け寄ろうとし、獪岳は背後に殺気を感じて飛び退った。

 振り下ろされた鍬で地面が抉られ、土が撥ねる。背中に当たれば、致命傷にもなりかねない勢いだった。

 男が、鍬を地面から抜こうとする間に獪岳はその腹を蹴り飛ばした。

 呼吸法を使った威力の蹴りを腹にくらい、男が吹き飛ぶ。

 

「あなたたちは何なんだ!」

「知るか!逃げるぞ!」

 

 刀を抜くに抜けないまま、人々が振り翳す棒や鎌を避けていた田津に叫び返す。

 刀はあれど、人を斬るためのものではないのだ。

 やむを得ず鞘ごと刀を背中から外し、それで里人の棒を弾き返す。

 幸はと見れば、まだ地面の上に、壊れた人形のように倒れていた。抉られた頭を中心に赤い光が瞬き、傷は徐々に塞がっているが、明らかに遅い。

 思えば、幸が頭を吹き飛ばされたことはない。内臓が見えるほど深く胴を袈裟がけに斬られたり、腕を斬り落とされたときはあったが、あのときよりも血鬼術による治療が遅い。

 

 鬼は、頚が無事なら、太陽さえなければ、死にはしない。

 

 そうとわかっても、動かない体を見ると焦りが生まれる。だが、里人が邪魔で近づくことができない。

 猟銃を撃った里人が、幸を覗き込んだ。

 ぴくりと動いた幸の白い指が、その足首を掴む。再生しかけの、肉が欠け白い頭蓋骨が剥き出しの朱に染まった顔がのろのろと動き、男を見上げた。

 あ、と何かの言葉の切れ端が喉の奥で鳴る。

 

「ば、化け物ぉ!」

 

 男が引き攣った声で叫んだ。

 引き金に、今一度指がかかる。

 

「やめろ!」

 

 獪岳の手は、届かなかった。

 二発目の銃弾が、治りかけていた幸の頭を吹き飛ばす。

 生暖かい脳髄や肉や、骨の欠片が、金気臭い血が、獪岳の頬や髪にまで飛んだ。力を失くした手が、ぱたりと落ちる。

 腹の中に、黒い炎が吹き上がった。

 

「退けぇぇ!」

 

 鞘に収めた刀を、振りかぶる。

 

 ─────炎の呼吸 

────肆ノ型、盛炎のうねり

 

 怒りが起こした熱のない炎の壁が、獪岳の前にいた里人たちを薙ぎ払う。

 一足で幸のところに跳び、胴を抱え上げると小さく欠けてしまった頭が、ぐらぐらと不安定に揺れた。

 赤い光が剥き出しの肉と骨の上に、皮膚を、瞳を、形成しようとささやかに瞬いている。

 それでも、再生が追いついていない。

 抜けぬ刀を構え、片手で力の抜けた幸の体を持って獪岳はじりじりと下がった。

 田津も同じように前にいる農具や武器を持つ里人たちを前に、下がるしかない。

 

「何のつもりだ!鬼は殺した!どうしてあなたたちは俺たちを襲うんだ!」

 

 田津の鈍さに、獪岳は舌打ちした。

 鬼に奪われたという鬼殺隊の刀がここに、家屋の中にあったことが、何よりの証拠だろう。

 

「……鬼に、山を通る余所者を差し出してたんだろ。そうすりゃ、テメェらが喰われることはねぇ」

「なっ……!」

 

 山近くに住むなら、余所者を誘導して鬼がいる山に向かわせることもできたろう。

 獪岳の言葉に、里人たちは目に見えて顔を歪め、動揺した。

 

「日輪刀がここにあるってことは、鬼と取引きでもしたか?餌にしたやつらの持ち物でも、売っ払ったか?鬼は人間の血と肉にしか、興味なんざないからなァ」

 

 発見が遅れたのも当たり前だろう。

 この付近で姿を消した余所者がいても、住人ならば嘘をついて誤魔化せる。

 そんな人間は通らなかったと一言いえば、済む。鬼の食い残しを自分たちで片せば、痕跡も消せる。ついでに懐の金品を奪う程度のこと、朝飯前だろう。

 嗚呼、なんてわかりやすいやつらか。

 彼らは生き延びるためにそうした。他の生命を差し出した。

 獪岳にそれを、あれこれ言う気はない。

 そんなことは、どうでもいい。

 

「勘違いしてんなら言うけどよ。俺たちの仕事は、鬼を斬ることだ。あんたらをどうこうするつもりはない」

 

 田津が驚いたようにこちらを見るのを感じたが、努めて無視し獪岳は続けた。

 

「鬼を狩れないテメェらがどうしようが、どうでもいいんだよ。俺たちはここで見たものも誰にも言わない。役人が来て、刀を咎められりゃ困るのはこっちだって同じだ。だからとっとと、そこを退け」

 

 これだけ派手に立ち回れば、どのみち役人が来るかもしれないがそこまで知ったことではない。

 どうせ彼らが来る前に隠が足止めし、隠蔽するだろうから。

 だというのに、里人たちは引き下がらない。

 その目つきの異様さに、獪岳は嫌な感じを覚えた。

 同じだ。

 泥水を啜って路上で生きていたころ、薄汚れた自分を見下ろして、袖で鼻を覆って目を背けた、大人たちの。

 

────こいつ、ら。

 

 彼らは隠のことなど知るわけがないが、役人や警察が来るとは思っているだろう。

 これだけ破壊された里を彼らが見れば、根掘り葉掘り調べられると思っているかもしれない。

 そうなれば、余所者たちから奪っていた物を見られるかもしれない。鬼の死体という証拠は、今このときも崩壊し、塵になりつつある。

 自分たちを脅す人喰いの化け物がいた証は、何も残らない。

 後に残るのは、行方不明になっている山道の通行人から追い剥ぎしていたと思われる里。それだけだ。

 だがもしここで、刀を持った身元もわからないような人間が二人、死んでいれば。

 

「ああ、なるほど。テメェら、俺たちに押し付ける気か。このままじゃあ、追い剥ぎを里から出すことになるもんなぁ」

「……そうだ。あんたたちは、遅すぎたんだ。あいつらがあんな化け物になっちまう前に来てくれりゃ、俺たちもこんなことは……」

 

 人垣の一角から姿を見せたのは、先ほど蛇に喰われかけていた身なりのいい男だ。

 里長か、と当たりをつける。

 そいつの言葉は、途中で途切れる。

 獪岳の腕に引っかけられていた、死体のように静かだった幸が、ゆらゆらと頭を持ち上げたからだ。

 里人たちが一斉に、怯えた顔で後退った。

 

「だ、大体!そっちこそ鬼の餓鬼を連れてるじゃないか!そんな化け物を連れてるお前らのことなんて、信じられるか!」

「……どっちが化け物だよ、クソ野郎共」

 

 低い声で呟けば、男は打たれたように身を強張らせる。

 幸をゆっくりと地面の上に降ろし、刀を両手で構え直す。

 刃を振るうわけにはいかない。鬼殺隊が殺すのは、人でなくて鬼だ。人でなしだろうが、彼らは人間。

 鬼に脅されていた、糞ったれな守るべき人間なのだ。

 

 殺さず、殺されずに逃げる以外に、ない。

 

「おい、あんた。田津。俺があいつら吹き飛ばせば、霹靂一閃の踏み込みで、どうにか逃げられるか?」

「こ、呼吸を人に向けて使うのか?」

「使わなきゃ殺されるぞ。死にたきゃ勝手に死ねよ」

 

 小声で言えば、田津は青褪めながらも頷き、構えを取った。正直、こいつに構っている余裕がない。

 炎の呼吸の肆ノ型、盛炎のうねりで、吹き飛ばして人垣を崩す以外ない。それも、殺さないように威力を抑えて。

 

「幸、走れるか」

 

 頭を再生したせいで意識が混濁しているのか、幸は立っても人形のように静かだった。

 俯いていた頭が、かくり、と持ち上がって、獪岳を見上げる。

 その金色の瞳には───理性が無かった。

 膝ががくりと折れる。頭を抑え、幸はその場で蹲った。

 

「おい!」

「っ!さわ、るなぁっ!」

 

 幸の手が、獪岳の手を払いのける。

 異様に熱い手だった。小さく小さく丸まり、何かに怯えるようにして、幸は全身をがたがたと震わせている。

 これでは、連れて逃げるどころではない。

 

「う、撃てッ!撃ち殺せッ!」

 

 上擦った声に顔を上げれば、またあの猟銃がこちらを向いていた。

 銃口が真っ直ぐに狙っているのは、獪岳。

 背筋を悪寒が這い登る。弾丸より速くは動けない。

 だが引き金が引かれる刹那、銃口は空を向いた。

 

「あ、ヒィッ!」

 

 起き上がり、獣のように飛び掛かった幸の手が、銃身を掴んで上にねじり上げたのだ。

 無理矢理に標的を逸らされた男は、銃から手を離し、腰を抜かしたのか無様に尻もちをついた。

 その前に、幽鬼のような危うい足取りで、幸が立ちはだかる。

 

「ニン……ゲ、ん、おま、エ……かいが、く、ヲ、うっ……た?」

 

 細い手が握りしめた鉄の筒が、ぐにゃりと飴のように曲げられる。解けてもつれた髪から、血で汚れた蝶の飾りが落ちた。

 銃が手からずるりと抜け、幸は爪を振り上げた。白く鋭い凶器が、火を照り返して赤く輝く。

 

「やめろ!」

 

 咄嗟に獪岳は、後ろから幸を羽交い締めにした。

 牙が伸びている。目が血走っている。

 これまで何度も見て、何度も斬って来た人喰い鬼の形相が、そこにあった。

 

「ァア゛、ア、ァァァァぁ゛!」

「止まれ!こッの!馬鹿!しっかりしろ!」

 

 刀の鞘を口に噛ませた。みしりと、漆塗りの鞘が噛みつかれて軋む。 

 獪岳の腕の中で、恐ろしい力で幸は暴れていた。ぎらぎらと光る瞳が捉えているのは、獪岳に猟銃を向けた男である。

 獪岳のほうがかなり上背があるから抑え込めるが、折れた肋が痛み、それも危うい。

 

「幸!喰うんじゃねぇ!()()()()()()()!」

 

 里人に喰いつかんばかりの幸を、無理矢理に後ろへ引きずる。一人でも喰ったら、傷つけたら、すべてが終わる。

 が、どうすればいいのだ。

 こんなふうに暴れることなど、一度たりともなかったのに。

 幸の狂乱ぶりに脅えたのか、村人たちは手を出してこないが、逃げ去りもしない。

 どうすればいい、と臍を噛んだときだ。

 

 視界の外から、丸い玉が投げ込まれる。直後にその玉は空中で破裂し、煙が広場に立ち込めた。

 紫色がかったその煙を吸った途端、幸の力が弱まる。喉を抑え、しゅるしゅると体を縮ませる。

 

「お前!勾玉のお前だよ!こっちだ!」

 

 声がする方を向けば、黒装束に覆面の男が、建物の陰から獪岳を手招いていた。

 

「とっととずらかるぞ!刀とその子持ってついてこい!」

 

 辛うじて刀を拾い、頭を低くして煙を吸わないようにしながら、獪岳は隠が手招きする方へ駆け出した。

 広場には次から次へと煙幕が押し寄せ、村人たちはそこで右往左往しているらしい。

 

「お前ら……」

「話は後だ!逃げるぞ!」

 

 声に聞き覚えがあるような、無いような隠の後について走り、山へ飛び込む。

 幼子のように小さくなった幸は、気絶でもしたのか動かない。口の前に手をやれば、微かに風は感じた。

 木や草をかき分けて走り続け、里の灯りが見えなくなってから、ようやく隠の男は足を止めた。

 

「ここまで来りゃ平気だろ。大丈夫か?」

「俺はな」

 

 抱えていた幸を、草の上に下ろす。

 爪も牙も元の通りに引っ込められ、瞳は閉じられて眠っているようにしか見えない。着物は血で汚れ、赤黒い斑模様のものと化している。

 頬に触れても、あのときのように異常な熱さはない。

 思えば、入れてきた箱は最初に田津と話した小屋に置いてきてしまったのだ。

 と、獪岳の横にあの箱が置かれた。隠の男が、腰に手を当ててこちらを見下ろしていた。

 

「それな、この山の反対側の小屋ンところに置いてただろ。俺たちが通ったときに回収したんだぜ」

「そうかよ」

 

 箱を開いて、眠ったままの幸を入れる。もつれて頬に乱れかかる黒髪を、少しだけ指で梳ってやる。

 こいつが大事にしていたあの髪飾りも拾えなかったのだと、そう思うと疲れがのしかかって来る。

 蓋を閉じると、大きく息が漏れた。

 

「あんた、前にどっかで会ったか?」

 

 隠の男を振り返って尋ねれば、そいつは驚いたように目を瞬いていた。顔の半分以上が覆面で隠れているから、端から目しか見えないのだが。

 

「おう。覚えてたのか。俺は後藤だよ。柱様がたの裁判のときに、お前らを蝶屋敷まで送ったことがある」

「思い出した。悲鳴嶼さんにびびってたやつか」

「嫌みな覚え方してるやつだな!その通りだよ!」

 

 くわっ、と目をかっぴらいて叫んだ隠の男、後藤は、すぐに眉を下げた。

 

「あー、その、な、大変だったな。お前も、その子も。もう一人の剣士は俺の仲間が誘導してるから、心配しなくても大丈夫だぜ」

 

 途中から、田津のことなど完全に忘れていたのだが、一応頷いておく。

 それだけ、気分は最悪だった。

 肋が今更のように痛むのを、回復の呼吸で抑え込む。

 獪岳が箱を担いで立ち上がると、後藤も立ち上がった。

 

「さっきの煙幕はなんだったんだ?」

「ああ。藤の花の毒が混ざってるんだよ。弱い鬼が吸い込めば怯むからな。目くらまし程度にしかならねぇけど。けどそれで気絶するってこたぁ、お前の連れてる子、かなり弱ってたんだなぁ」

「……こんなこと、今までなかったんだ」

 

 人間の銃で頭を吹き飛ばされることも、理性を失って暴れることも。

 次に目覚めたときに幸がまだあのままだったら、頚を斬らなければならないのだ。

 箱の肩紐をきつく握り締める。

 

「あー……うん、その子なら大丈夫だろ。寝て起きたら戻ってるさ。柱会議のときもさ、柱様がたに詰め寄られても、耐えられた子なんだから」

「当たり前だろ」

 

 そういう以外に何も返せない。

 刀と箱を背に負い、後藤と山を歩く。

 歩きながら、そいつはぽつぽつと語った。

 獪岳たちが鬼を殺したことがわかったから、役人が来る前に暴れた跡を片付けようと辿り着けば、里自体があの有り様。

 どう止めればいいかと迷う間に、幸が撃たれて暴れ出し、藤の毒入りの煙玉を投げ込んで引っ掻き回すしかなくなったという。

 

「鬼に脅されてたってんなら、俺たちには後始末をつけるしかできねぇからな。あの里も、多分熊に襲われたとでも言うしかねぇだろうな。お前には腹立たしい話だろうし、正直俺もむかつくけどな」

「……」

 

 では、失踪した人々は誰に殺されたことになるのだろうか。それも無理くり熊の仕業にするのか。

 あの里から、人殺しの名を着せられて処刑されるやつがいるかもしれないと思っても、どこも心がざわつかない。いい気味だとも思えない。

 ああそういえば、幸を撃って鬼の血を間近で浴びたやつもいたのだと、冷めた頭で考える。

 あの程度で鬼になどならないだろうが、精々己が撃った()()()の血をくらったことで無様に怯えればいい。

 鬼がおらずとも、どうせ人は人を殺すし、踏みつけにし、喰いものにする。

 幸が撃たれて倒れたときは確かに怒りがあったのに、荒れ狂って理性をなくした姿を見た衝撃が、怒りの炎を消してしまっていた。

 触るなと、のばした手を叩き落とされた。そんなことは、初めてだった。

 

「グエッ!グエェエエ!獪岳、幸!任務完了!完了、カァ!」

 

 木々が途切れるころ、空から鎹鴉が舞い降りる。

 いつもならばやかましいと思うその鳴き声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。

 毎度のように獪岳を嘴で突き回すこともなく、鴉は羽をたたみ、肩に止まる。

 隠の男はそれを見て、どこか安堵したらしい。

 

「おし、じゃ、俺はまだ仕事があるからここまでだ。ちゃんと傷の手当しろよ。見えてねぇだろうけど、お前、ひどい顔してんぞ」

「ああ」

 

 獪岳の肩を軽く叩き、隠は去って行った。

 鴉と自分と、箱の中の幸。

 それだけが夜が開ける直前の、暗い夜道に取り残される。生温い風が、山の方へと吹きすぎていく。

 何もない草原を挟んだ遠くのほうに、小さく街の明かりが見えていた。

 あそこまで歩き、列車に乗って戻らなければならない。

 やらなければならないことがわかってはいても、体が重かった。

 鎹鴉もさすがに何かを感じ取っているのか、常のように騒ぎ立てることもない。

  

「おぉい!君!」

 

 背後から声がかけられ、獪岳は振り返った。

 近づいてくる気配があるのはわかっていたが、敵意も殺気も感じ取れず放置していたのだ。

 駆け寄ってくるのは、あの田津という隊士だった。

 

「君も無事だったのか、良かった……」

 

 どこがどういいのか、と獪岳は無表情に田津を見上げた。

 田津に目立つ怪我はない。最初から負っていた頬の傷以外、五体満足である。

 

「すまない!」

 

 突如、がばと彼は頭を下げた。

 獪岳は目を瞬いた。

 

「すまない!最初から君を信じていれば、あんなことにはならなかったかもしれないのに、俺が……」

「……」

 

 言い募ろうとする田津を、獪岳は遮るようにして見ることもなく歩き出した。

 こいつが初めから獪岳と幸を信じていようがいまいが、どうせあの人でなしの里はもう手遅れだったのだ。

 謝罪を受け取ったところで、こいつの心が楽になるだけ。そんな何の意味もない言葉など、これ以上聞きたくもなかった。

 その半端な善人面も、二度と見たくない。

 謝るならば、自分を庇って二度も撃たれたほうにしろ。むざむざ二回も撃たれるのを見せつけられたやつにではなく。

 それともやはり、こいつは鬼に頭など下げられないのだろうか。

 

「あんた、善良な鬼と、悪人の区別くらいはしろよ」

 

 足を緩めることもなく、それだけを言う。

 追い縋ってくるような足音が止まったから肩越しに振り返ると、田津は雷にでも打たれたように、その場で凍りついていた。

 こいつは鬼になった実の弟に、身内を殺されたやつだったか、と幸が言っていたことを思い出す。

 大方、幸が田津を恨んだふうに見えなかったのはそれが原因だろう。

 自分に向けられた言葉と態度に、真っ当に傷ついて、諦めてこそいたが、それだけだ。

 挙げ句、苦労して守った里人はあれである。

 

 お前たちは遅すぎた、と身勝手をほざいた村長の顔と、己が傷つけられたような、呆然とした顔の田津の姿とが被って、一緒に思い出された。

 死にたくないと思って、里の人間たちは他人を犠牲にしたのだろう。

 呼吸も知らず刀も使えないころ、獪岳も同じことをした。

 幸が鬼に喰われている間に逃げて、生き延びた。過程はどうであれ、結果はそういうことだ。

 だから自分には、里人の所業をどうこういう資格は、きっとない。

 苛立ちが爆発し、足元の小石を蹴り飛ばした。

 ぺし、と鴉の翼に頭を撫でるように叩かれる。

 

「カァ!獪岳、蝶屋敷ヘ戻ル、戻ルゥ!休メ、休メェ!」

「は?」

 

 てっきり、怪我が浅いならば任務を告げられると思っていたのだ。

 起きたことはともかく、怪我だけ見れば獪岳は直に治るだろう肋の怪我だけだ。

 一番に重傷だったのは猟銃で撃たれた幸だが、鬼なのだから傷はもう癒えている。

 

「いいのかよ?」

「鬼殺隊ハ、ソコマデ鬼デハ、ナァイ!ナァイ!」

 

 いや、無限列車とかいう前代未聞の糞のような死地があっただろうが、とばたばたと飛び回る鴉に、つい白い目をむけた。

 

「無限列車ハ別、別ゥ!当方モ、アレハ肝ガ冷エタ!冷エテイタァ!」

「心を読むんじゃねぇ」

「カァ!ショボクレ獪岳ゥ!シミッタレズ、顔ヲ上ゲンカァ!カァ!」

「なんだと」

「銃デ撃タレタノハ、オマエデハナァイ!抉ラレタノハ、オマエノ体デハナァイ!最モ痛イ想イヲシタノハ、オマエデハナァイ!」

 

 ばさばさと飛び回りながら、鴉はそんなことを宣う。

 言い返せず、獪岳は言葉に詰まる。その頭を、鴉の鉤爪が蹴っ飛ばした。

 

「オマエガ信ジズ、誰ガ幸ノ正気ヲ信ジルノダ!信ジルノダ!カァ!」

「って!テメェ、蹴るな!」

 

 羽を掴もうとした手は空を切る。

 鴉は翼を翻して、日が昇り始めた空へと上がって行った。

 何も掴めなかった空っぽの手で、頭を乱暴にかく。

 

「ッとに、どいつもこいつも、好き勝手言いやがって……畜生が!」

 

 胸に蟠る黒いものを吐き出す勢いで、最後の一言を叫ぶ。

 悔しさと腹立たしさと怒りが、どろどろに溶けた叫びは、草原に響いて消える。

 

「……帰る、か」

 

 戦いがこれで終わったわけでもなんでもなく、仕事を一つ片付けただけだ。

 蝶屋敷に蟲柱がいれば、やはり幸のことも相談しなければならないのだろう。獪岳には、鬼や人の体に関する知識はほとんどないから。

 

 うだうだと考えながら歩く間に、獪岳は列車が走る街にまで辿り着いていた。

 人々が目覚め始めた通りを、足早に俯き加減に通り過ぎる。

 田津の姿は辺りには見えない。見えないほうがよかった。

 

 あの毒の柱が屋敷にいるといいのだが、とやや眠気で重たくなりだした頭で考えたときだ。

 

 一匹の猫が足元を通り過ぎて、獪岳の目の前に躍り出た。

 胸のところに目玉のような模様が描かれた紙を貼り付けられた、茶色い猫の口がくわえているのは、所々が血で汚れてこそいたが、翡翠色の翅を広げた蝶の髪飾りである。

 猫は髪飾りを獪岳に見せつけるように頭を振ってから、裏路地へと走って行く。

  

「ま、待てっ!」

 

 尻尾を揺らす猫を追って、思わず獪岳も裏路地へと飛び込んのだった。

 

 

 

 




自分から手を払い除けたことはあっても、払い除けられたことがなかった話。

尚、鬼娘の理性がトンだ理由は次回で。

感想欄にて、違う呼吸の技を使うのは不可能では?というご指摘がありましたが原作でも呼吸を変えること、型を新たに派生させることは珍しくないという発言があり、また四ヶ月間元柱に稽古をつけられながら、自分に合った技が全く生み出せず強くなれないならば、恐らくこの先で命を落とすと思いますので、ご理解下さい。


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四話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 蝶の髪飾りをくわえて逃げた猫を捕まえたのは、人の気配が途絶えた、街外れの破れ屋の中である。

 消えたり現れたりと、巧みにちょこまかと裏通りを走って行く猫を追い詰め、ようやく掴み上げたと思ったら、そこは街外れの荒れた空き家の中だったのである。

 板が所々に打ち付けてあり、家の中は薄暗かった。

 

「手間かけさすんじゃねぇよ」

 

 首根っこを掴んで持ち上げると、猫は素直に口を開けて、獪岳の手に髪飾りを置いた。

 胸元に貼り付けられていた、目玉に似た模様が描かれていた紙がはらりと落ちる。

 名前札にしては、珍妙すぎるものである。

 

「本当にこれで釣れるとはな」

 

 急に間近で聞こえた見知らぬ声に、体が先に反応した。

 猫と飾りと箱を床の上に落とし、刀の柄に手をかける。

 声のあった方向に抜刀すれば、しかしそこには誰もいなかった。

 

「おい、その刀を仕舞わないか」

 

 逆の方向から不機嫌な声が飛ぶ。

 見れば、箱を持った見知らぬ男がひとり立っていた。猫がその足元に擦り寄り、獪岳に向けてぎゃお、と不満げに鳴く。

 

「お前、炭治郎に比べると勘が悪いな。鬼狩りというのは皆こんなものなのか?」

 

 炭治郎の名に、獪岳は斬りかかろうとする自分を止めた。

 目の前の若い男の気配には、妙なものがある。だが、人を喰い殺して来た鬼特有の嫌な気配というものは、なかった。

 幸や竈門の妹のような人を喰ったことのない鬼の気配と、そっくりなのだ。

 着物に袴を身に着けた、書生風の身なりの若い男である。外見の歳のころは獪岳と同じほどだろう。

 額に皺を刻んだ端正な顔には、ありありと不満が浮かんでいたし、何よりも胡散臭いが、殺気や人の血の臭いはなかった。

 

「あんた、鬼か?」

「その程度はわかるのか。ついてこい。お前たちに用がある」

 

 見せつけるように幸が入った箱を振って、青年は勝手知った様子で荒れ屋の中を歩き出した。その後を猫が追っていく。

 

「早くしろ。珠世様の時間を無駄に取らせるな。お前たちのために、わざわざ血鬼術まで使ったんだ」

「どういう意味だ」

「お前の連れているその女、人を襲いかけただろう。珠世様がその女を診ると仰ったんだ」

 

 珠世、という名前がまた記憶を刺激する。

 時々幸や竈門炭治郎が言っていた、鬼を人間に戻す薬を作ろうとしている医者の名前である。

 何度か幸は血を送っていたらしいが、会ったことはないはずである。当然、獪岳も顔など知らない。

 敵ではないその医者が、何故現れたのだ。

 

「おい!」

「……わかった。ついて行くから、それを返せ」

 

 刀を鞘に納め、両手を広げてから獪岳は青年が持っている箱を指さした。

 それを他人に取られたままなのは、気分が悪い。

 

「ふん。言っておくが、これを返したからと言って俺を斬ったりするなよ。尤も、目隠しの術をかけてあるから、お前には俺を斬ったりできないだろうがな」

 

 青年は不機嫌そうな表情を崩すことなく、箱を突き出した。

 言い草に腹は立ったが、珠世というその鬼は信用できる名前ではあった。

 あっさり箱を返してきたことといい、少なくともこいつに敵対の意思はないらしい。

 人の顔色を常に上目遣いに伺い、生きてきた時間が長いのだ。自分に向けられる敵意のある無しは、見抜ける。

 箱を肩に負って落とした髪飾りを拾い、青年の後をついて行く。彼が向かったのは、下へと続く階段だった。

 この青年もやはり鬼で、太陽の光は天敵なのだ。

 階段を下り、辿り着いた部屋には椅子に腰かけた一人の女がいた。

 

「初めまして。突然あのような方法で呼んでしまって、ごめんなさいね」

 

 着物の上から、医者が着るような白い服を羽織った若く、美しい女である。

 気配に、やはり、そこらの鬼とは異なった何かがあった。

 

「あんたが、珠世って鬼なのか?」

 

 直後、青年の肘がかなりの勢いで獪岳の脇腹に入る。

 ちょうど痛めていた肋骨に肘が諸に突き刺さり、獪岳は思わずしゃがみ込んで呻いた。

 

「お前!珠世様になんて口を利いているんだ!」

「やめなさい。愈史郎。どうしていつも暴力を振るうの。炭治郎さんのときのように」

「はいっ!すみませんっ!」

 

 女にやわらかい口調で咎められると、別人のように背筋を伸ばした青年、愈史郎を、獪岳は下から睨み上げた。

 なんなのだこいつは。

 愈史郎という鬼の青年が、獪岳の中で嫌いな相手に振り分けられた瞬間だった。

 

「あなたが、珠世さんという鬼です、か?」

「ええ。あなたは獪岳さんでしょう。炭治郎さんからの手紙で、何度か名前を見かけましたから」

 

 座って下さい、と珠世は椅子を示した。

 座る気はあまりなかったのだが、愈史郎が拳を構えたのが見え、ひとまず座ることにする。

 四角い地下室は、人が住んでいる気配こそないが、目立つような埃はなく綺麗に整えられている。椅子や寝台もあり、即席で作られた病院に見えた。

 

「やり方が唐突になってしまったことは謝ります。知っておられると思いますが、私は長年鬼を人に戻す薬を作って来ました。鬼ではありますが、医者でもあります」

「竈門や幸から聞いてます。幸が、何度かあんたに血を送ったと言ってたんで」

「ええ。彼女は炭治郎さんから私たちの話を聞き、協力してくれていました。……ですが、私も一度幸さんを直に診察したいと思ったのです」

 

 この珠世という医者も、かつて鬼舞辻の血によって鬼と化したが、自分で自分の体を弄り、鬼舞辻の呪いは外しているのだと言う。

 竈門の妹も一度診察したことがあり、そのときの記録や血、また炭治郎が送って来る鬼の血なども併せて研究することで、鬼を人から戻す治療を確立しようとしているのだ。

 その一環で、一度幸の診察もできないものかと、こちらに会う機会を伺っていたのだと言う。

 獪岳は監視されている気配などまったく感じていなかったのだが、そこは愈史郎の視覚に作用する血鬼術を使っていたそうだ。

 

「あなたたちが、あの里でどのようにして、何と戦ったかも見ていました。何も手助けができませんでしたが」

 

 痛ましそうに、珠世が目を伏せる。

 声音には本当にこちらを気遣っている色があり、不快ではなかった。

 

「俺たちのことを見てたってんなら、医者のあんたには、幸がああなった理由もわかるんですか?」

「それを含めて、一度幸さんを診たいのです。幸さんが鬼になったのはいつですか?」

「……十年前です。俺が八つで、こいつが七つのころだから、大体そんなもんです」

 

 珠世の目が大きく見開かれる。

 

「俺がこいつといるのは一年少し前からですが、そのときから今まで、こいつがあんなふうになったことは一度もなかったんです。理由があるなら、教えて……ください」

「おい、十年前に鬼にされたなら、九年間もそいつはどこで何をしていたんだ?」

 

 黙りこくっていた愈史郎が、腕組みをして尋ねてくる。

 話には混ざらないつもりなのかと思っていたら、そういうわけでもないらしい。

 

「……藤襲山で、鬼殺隊の最終選別に使われる鬼になっていた。俺と会ったのも、最終選別のときだ」

「なんだそれは。それじゃその女は、お前が見ていないときに人を喰っているかもしれないじゃないか」

「喰ってない」

「根拠は」

「こいつが、喰っていないと俺に言ったからだ」

 

 信じられるか、と愈史郎が鼻を鳴らした。

 

「お前、言ってることが滅茶苦茶だぞ。要するにその女が言ったことをただ信じているだけじゃないか。その女が嘘をついていなくても、さっきのように怪我をして狂っていたときに喰っていないと言えるのか?」

「うるせぇ」

 

 確かに、証拠も糞もない話なのだ。

 竈戸は鼻で幸が人を喰っていないにおいを嗅ぎ分けたらしいが、九年も前のにおいまで嗅ぎ分けられるのかはわからない。

 それでも、最もひどい飢餓に苛まれただろう九年前の夜、幸は寺を襲わなかった。寺を襲って子どもたちを殺したのは、他の鬼だ。

 詰まる所、喰っていないというただの言葉を、信じる以外にないのだ。

 

「わかりました。そのことについては、ひとまず別のことと考えましょう。幸さんが我を忘れたのは、二度頭を撃たれ、それからあなたが銃で狙われたのを見た、その瞬間だったように見えましたが、間違いありませんか?」

「ない……と思います」

 

 一度目に頭をふっ飛ばされたときは、まだ正気を保っていたように見えた。

 やめてとかなんとか、そんなことをあの里人に言おうとしていたのだろう。

 二度目に撃たれてからも、その場で蹲り自分を抑えようとしていた。

 箍が外れたように人に襲い掛かったのは、あそこの人間たちが獪岳に銃を向けた瞬間だった。

 

「……そうですか。獪岳さん、幸さんは確か、一度記憶したものを忘れないという体質だそうですね」

「関係あるんですか?」

「あるかないかは、まだはっきりとはわかりません。では、幸さんを診察して構いませんか?」

 

 珠世の視線は、獪岳が足元に置いた箱に向いていた。

 幸はまだ、箱の中で眠っている。決められるのは獪岳しかいなかった。

 起きていたらどういうのか、などということは考えない。獪岳が勝手に決めるし、勝手にやる。

 箱を珠世の方へ押し出して、頭を下げた。

 

「それ、頼みます」

 

 誰かに何かを頼むために、頭を下げたのは一体いつぶりだったろうかと、そんなことをちらりと考えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前、あの女のなんなんだ?」

 

 診察しますから、と部屋を出された獪岳は、不機嫌そうな愈史郎と隣の部屋にいる羽目になった。

 この愈史郎という青年は、鬼舞辻ではなくあの珠世の手によって鬼に変えられたという。

 飢えを満たすには少量の血で事足りるし、血鬼術も相手の視覚を操り、目くらましも行えるという優れものだそうだ。

 先ほどの猫にも、愈史郎が術をかけており、時々消えたり現れたりするように感じたのは、錯覚ではなく本当に血鬼術でそうなっていたという。

 ばかすかと人を喰わねばならない鬼舞辻の手による鬼たちよりも、よほど優秀ではないだろうか、と獪岳は首を捻ったが、愈史郎一人を鬼にするのに二百年というから、おいそれとできることではないらしい。

 となると、どう見積もっても二百歳以上になる珠世の年齢を考えるのはやめた。鬼はやはり、人とは違う生き物になっているのである。いずれ幸も、あんなふうに残されるのだろうか。

 そして、その珠世により鬼化した愈史郎は、やたら獪岳に突っかかって来た。

 部屋に入るなりそんなことを言うものだから、獪岳も毎度の仏頂面で応じる。

 

「お前とあの女は血縁ではないだろう」

「どうでもいいだろ、そんなこと。幼馴染みだよ、幼馴染み」

「惚れたのか?」

「ちげぇわ、阿呆。色呆けなテメェと一緒にすんじゃねぇよ」

「どういう意味だ!」

 

 どうもこうもない。

 どう見てもあの珠世という女に傍目からもわかるほど心酔しておいて、何を今更という話だ。

 白い目を向けると、顔を真っ赤にしつつも愈史郎はふんと鼻を鳴らした。大分、感情が面に出やすいらしい。

 

「惚れてもいない、鬼になった幼馴染みを利用しているわけか、お前は」

「あいつが、俺に大人しく利用されてるような馬鹿ならそうしてたな」

 

 あれが、そんな可愛らしい性格なものか。

 家族を殺した上弦の弐を殺したいと望み、その為ならば自分が地獄に堕ちても構わない、鬼の力でもなんでも使ってやると、殺されかけた後すぐに覚悟を決めたようなやつだ。

 思い切りが良すぎるし、情が深いし(こわ)い。普段は穏やかにしているが、頭に血が上ると、炎のようにかっと燃え上がる質なのだ。

 とはいえ誰が馬鹿と言ったら、復讐心で燃え上がったその瞳に見惚れて、その瞳に映っている上弦の弐を消したくなり、自分を勝手に突き放さずに地獄への道連れにしろと言った獪岳もだろう。

 馬鹿さ加減は大概という自覚はあったが、それでもあの黄金の瞳に、あの糞がいるということへの怒りが、獪岳の中の常識に僅かなりとも優ったのだ。

 

 だからこそ、こんなことになっているわけなのだが。

 それにしても、珠世の診察というのはいつ終わるのだろうか。一晩山の中を走って里で戦ったせいか、頭が眠気で鈍くなっている自覚があった。

 空腹は携帯食を食べれば治まるが、眠気は寝なければどうしようもない。

 くあ、とたまらずに欠伸が漏れた。

 

「おい、あんた、床の隅、借りるぞ」

「何をするんだ」

「寝る」

「は?」

「寝るっつったんだ。こちとら寝てねぇんだよ」

 

 愈史郎の返事を待つのももどかしくなり、刀の鞘を背から外し、部屋の片隅の床の上に腰を下ろす。

 埃っぽい上、地面の冷たさが直に伝わる板敷きの床だが、屋根もない泥の中で眠るよりは何倍もいい。

 

「じゃあな、勝手に起きるからほっといてくれ」

「……」

 

 胡乱な目つきの愈史郎の顔を最後に見て、獪岳は胡座をかき、刀を抱くようにして目を閉じる。

 大丈夫、大丈夫だ、とそう思いながら意識が闇に沈んで行ったのだった。

 

 いつものことながら、夢は良いものも悪いものも、ろくなものを見なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい」

 

 愈史郎の気配に、獪岳の意識はすぐに浮かび上がった。

 獪岳の眠り自体は深いが、何か気配があればすぐに覚醒できる。そんなふうにできているのだ。

 

「おい、鬼狩り。起きろと言っているんだ。珠世様の診察が終わったぞ」

「あいつは起きたのか?」

「知らん。気配はないからまだ眠っているんだろ」

 

 げしげしと叩いてくる愈史郎に追い立てられるようにして、元の部屋に入る。

 最初に目についたのは、寝台の上で仰向けに眠っている幸だった。

 ほどけて縺れて、ひどく乱れていた黒髪は丁寧に編まれて、先には綺麗になった蝶の飾りがつけられていた。

 

「お待たせしました。獪岳さん」

 

 珠世はその傍らに座っている。

 

「……そいつ、どうなってるんですか?」

「今から説明します。座って下さい」

 

 獪岳が椅子に腰かけるのを待ってから、珠世は話し始めた。

 

「幸さんは先ほど、短い時間ですが目覚めました。正気であり、私とも言葉をかわしてくれました」

 

 初めは警戒していたが、珠世が名乗ると警戒を徐々に解き、鬼になってからの覚えている限りの記憶を珠世に話し、それからまた眠ったという。

 

「ごめんなさい、とあなたに伝えてほしいと言われました」

 

 何に関しての謝罪だそれは、と頭が痛くなった。

 珠世は続ける。

 

「幸さんと話してわかったことがあります。彼女が人を襲っていなかったのは、精神力と、もう一つ、その特殊な記憶力によるものでした」

 

 生まれつき、幸は忘却という機能を脳に持っていない。

 十七年生きてきての記憶の欠損は、鬼にされ体が作り替えられた前後のみだ。

 本来、鬼になれば記憶や理性が薄れるところが、おそらく幸は体質のおかげでそうはならなかった。

 人間のころに教えられた、『人を傷つけてはならない』という言葉で自分を縛っていたのだと言う。

 その言葉を授けたのは、悲鳴嶼だ。

 よく彼の説法染みた話を楽しそうに聞いていたし、一緒になって聞かされるはめになっていたあれか、と獪岳は思い出した。

 幸は人間だったころの記憶で自分に暗示をかけ、自分を縛っていた。禰豆子にも同じく、炭治郎の師匠がかけた暗示があるという。 

 二人とも精神力が強靭であり、体質が特殊だからこそできたことだという。

 

「ですが、幸さんの特異性はそのほとんどを脳に依存しています。二度も深く脳を傷つけられ、また守るべき人間があなたを撃とうとしたことに大きく衝撃を受け、混乱したそうです。元々、幸さんは禰豆子さんよりも回復力に乏しいのでしょう。血鬼術で補って、ようやく並みの鬼と同程度の回復力と言っていましたから」

 

 要となっている頭を撃たれ、そのときに暗示が緩み、人を襲いかけた。

 だが、原因は恐らくそれだけではないと珠世は語った。

 

「数ヶ月前まで、幸さんは言葉や感情を表すことができず、幼子のような状態だったそうですね。そのころは今のように複雑な、人並みの十七歳と同じ情動は、なかったのでは?」

「俺にはないように見えてました。まともに喋るようになったのは、四か月前からです」

 

 そこらの十七歳ほどの少女たちと同じように喋るようになり、姿が成長したのは、桑島慈悟郎に慰められ、上弦の弐を憎んだことがきっかけのようだった。

 それまでは、幼子どころか、下手をすると獣並みの単純な言葉や行動しか取れていなかった。

 鬼になってからの九年、誰ともまともに言葉をかわせなかったから、そういうものなのかと思っていた。

 元には戻らないものと思っていたのだ。

 珠世はそれを聞いて、どこか悲し気に眼を伏せた。

 

「暗示は、思考が単純であるほどよく利く場合があります。複雑な感情や強固な自我を持つ者を暗示で縛ることは、難しいのです。幸さんの場合、人並みの感情や自我を取り戻したことで、却って自分で自分にかけていた暗示が緩んでしまったのではないかと」

「……つまり、あいつが人間らしくなったから人間を襲いやすくなったってことか?」

 

 簡単に言えば、と珠世は獪岳を肯定した。

 唐突に、掌に痛みを感じた。見れば、くっきりとそこに爪痕が残っている。無意識にきつく握りしめていたのだ。

 

「人を喰わないようにするには、もう一度、あいつはあの白痴に戻らなきゃならないってのか?」

「お前、珠世様に失礼だぞ!」

 

 それがどうした、と獪岳は怒鳴りつけて来た愈史郎を睨んだ。

 胸がむかついていた。

 ふざけるな、と叫びたかった。

 何故あんな臆病者たちは、人間だからというそれだけの理由で無条件で守られ、救われて、人を守ったやつが取り戻したものをまた捨てねばならない。

 何故自分たちがしようとすることは、したいと望むことは、こうも上手く行かないのだ。

 

 ─────いつも何かが、誰かが、俺たちの邪魔をする。

 

 珠世の向こうで、幸は眠っている。

 いつも失くしてばかりで、取り上げられてばかりのちっぽけな体で。

 

「手がないわけでは、ありません」

 

 獪岳に前を向かせたのは、珠世の静かな言葉だった。

 

「幸さんが己でかけていた暗示より強いものがあれば、これからも元のままに生きていくことは可能です。それでも、あれほどの傷を頭に負わないこと、という条件はありますが」

「つまり、お前を庇ってしなくてもいい怪我をしていれば、保たなくなるぞということだ。そいつは所詮、怪我を治すだけの血鬼術しかないんだろう」

 

 体も小さいし目方も軽い。

 本来なら脚で逃げ回るしかない弱い鬼だろう、と愈史郎の追い打ちのような言葉が入る。

 自分や他人の傷の治りを速くするという血鬼術は、共食いの性質を持ち、元々高い回復力を持つ鬼には無用の長物なのだ。

 人間と共に戦う、などという普通ならあり得ないことを幸がしていたから、大層便利であるだけで単純に強い弱いで言えば、弱い。

 攻撃に転用しているが、あれとて力をかなり無理に使っており、ひどく消耗する大技だ。

 

「暗示ってのは、どうするんですか?俺にやれるんですか?」

「お前に、そんな高度でややこしいことができるわけないだろう、阿呆。珠世様がやられるに決まっている」

「愈史郎!」

 

 珠世の叱責が飛んだが、事実その通り、おいそれとできるものでもないのだという。

 大体三日から五日はかかると言われ、流石に面食らった。それだけ自我がはっきりある者を暗示で縛るのは、難しいのだ。

 

「あなたたちがここにいることは、獪岳さんの鎹鴉にも気づかせていません。愈史郎の血鬼術で目隠しをしているからです」

「要はお前たち、今は鬼殺隊からすれば行方不明扱いなんだよ。丸一日程度だがな」

「はあ!?」

 

 確かに珠世も愈史郎も、無惨に支配されていない医者とはいえ鬼だから、鬼殺隊からも無惨からも、逃げ隠れしなければならないのである。

 愈史郎がやたら獪岳に突っ掛かったのも、鬼殺隊員を拠点に招き入れることが嫌だったからなのだ。

 それでも珠世という鬼は、幸のことを放っておけなかった。

 が、暗示がかかるまでずっと待っているわけにも行かない。

 鬼殺隊員の任務は途切れるということがないし、あのやかましい鎹鴉は、こちらの行方不明に騒ぎまくっているだろう。

 

「しばらく幸さんはお預かりします。暗示が問題なくかかったことがわかれば、必ずお伝えしますから」

「そうなれば早く引き取りに来いよ。俺は邪魔者は大っ嫌いだからな」

「……わかった」

 

 珠世と愈史郎に、獪岳は黙って頭を下げた。そんなふうに誰かに何かを頼み、臆面もなく縋ることは、初めてかもしれなかった。

 

 獪岳だけが先に戻るときも、幸は起きなかった。寝が足りていないから仕方ないのだが、寝坊助め、となんとなく腹が立った。

 

「では、獪岳さん。お気をつけて」

 

 愈史郎に、目隠しの術の範囲外にまで送ってもらう段になって、珠世はそう言った。

 最後まで丁寧で凛とした鬼である。人間でも、なかなかお目にかかったことがないくらいの。

 

「お前は、炭治郎のようにあの女を人間に戻したいとは言わなかったな」

 

 珠世の姿が見えなくなってから、愈史郎が問うてくる。独り言のようにも聞こえたそれに、獪岳は答えることにした。

 

「あいつと俺には、殺したい鬼がいる。そいつを殺すまで、幸は戻りたいと思わねぇよ」

「誰だそれは。鬼舞辻無惨か?」

「違う。上弦の弐だ」

「……身内でも殺されたか」

「お前には関係ない」

 

 少なくとも幸にとっては、そうだ。

 寺の子どもたちという家族を殺した仇、それが上弦の弐である。

 鬼殺隊の人間には、珍しくもない動機だろう。生き残れる隊員には、元々鬼殺隊の家系の者か、鬼に襲われたときの恨みや憎しみで刀を取った者が多い。

 翻って獪岳の恨みは、いささか毛色が違うものであるが、そんなことを愈史郎に説明する謂れはないのだ。

 

 愈史郎も面倒な気配を察知したのか、それ以上何も言わなかった。

 

「じゃあな。完了すれば猫を送る。いいか、くれっぐれも見逃すな。そしてとっとと引き取りに来い」

「しつけぇな。見逃すかよ」

 

 どれだけ念押ししてくるのだ、と鬱陶しく思いながら、獪岳は列車に乗った。

 

 行きは二人で乗った列車に、一人で乗って帰る。

 箱を抱えて向かいの座席に座り、獪岳に話しかけながら鎹鴉の頭をこっそり撫でていた少女の姿はなく、味気ない闇に沈んだ窓の外でも見るしかなかった。

 二人で任務に行って一人だけで帰ったならば、蝶屋敷の面々には事情を話さねばならないのだろうか。

 となると、珠世という鬼の話をどうしたものなのだろう。

 炭治郎によれば、お館様は珠世の存在を知っていたらしいから、蟲柱には告げても構わないのだろうか。

 

 説明というか、言い訳が面倒そうだと考えているうちに列車は、駅に着く。

 人の流れに沿い、外へ押し出された獪岳は、そこで駅舎の側に座り込んでいる最近見慣れてしまった黄色頭を見つけた。

 無視しよう、と思う間もなく、がばりとそいつは獪岳の方を見る。

 元々でかい目をさらにでかくして、我妻善逸は霹靂一閃ばりの速度ですっ飛んできた。

 

「獪岳ぅぅぅぅ!どこ行ってたわけ!?鎹鴉が行方不明だって騒ぎまくるから、俺たちめちゃくちゃ心配したんだけどぉぉぉ!」

「うるっせえ!大声出すんじゃねぇよ、カス!」

 

 容赦をかなぐり捨てた拳が善逸の鳩尾に入り、金髪の弟弟子はその場に蹲った。

 だが、十秒も経たない間に復活し、再び立ち上がった。全集中・常中を覚えた隊士は、回復が滅法速くなるのだ。

 自分の回復力を棚上げし、獪岳は善逸の立ち上がり方にドン引いた。

 

「とにかくちょっと!獪岳ちょっとついて来て!」

「テメッ……引っ張んなボケ!」

「ダメェ!獪岳絶対面倒だからって逃げるだろ!……って、獪岳、幸ちゃんはどうしたの!?何でいないんだよ!?」

 

 恐ろしい力で自分を引きずっていこうとする善逸をもう一発殴って引っ剥がし、獪岳は叫んだ。

 

「預けて来たんだ!一々騒ぐんじゃねぇよ!」

「はい!?じゃあそれも煉獄さんたちに説明しろよ!煉獄さんちに、岩柱のオッサンが来てなんかややっこしいことになってんだよぉぉ!」

「はぁ!?」

「いいからとにかく、あの人たち何とかしろよ!」

 

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ善逸と共に、獪岳は一路、煉獄家への道を辿ることになったのだった。

 

 

 

 

 




ちょっと離脱の鬼娘の話。

だいたいこの二人、間が悪い。
本人たちが悪いわけでなくとも、何か間が悪くなるという。
究極に悪くなると単独で上弦・壱に出会うのかもしれない。



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五話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。



 

 

 焚き火があった。

 赤々とした熱の舌が、積み上げられた落ち葉をちろちろと舐めて、炎に変えていく。

 灰色になって燃え崩れていくそれには、一体なんの意味があるのだろう。

 

「うむ!よく焼けているな!」

 

 その焚火の傍らに立つのは、何故か元炎柱、煉獄杏寿郎で、彼が手に持っているのは焼けたさつま芋だった。

 

 ─────なんだこれ。

 

 獪岳が我に返ったのは、焼き立ての芋を渡されてからである。

 熱さで正気に返った、とも言う。

 

「熱ッ!」

「ゆっくり食べると良い」

 

 それから何故か、同じようにさつま芋を持とうとして熱くて喚く弟弟子に、やたら存在感がある悲鳴嶼がいる。

 そう狭くはない煉獄家の庭にいるというのに、悲鳴嶼の巨体が三人分ほどの空間を占拠しているようだった。

 いや、本当になんだこれ。どういう状況だ。俺はどういう顔をすればいい。

 これで幸か鎹鴉がいれば、獪岳が黙っていても何かしら喋ってくれるのだが、生憎今は両方いない。

 状況が飲み込めぬまま、四人並んで煉獄家の縁側にさつま芋を持って座る。

 向かって右から、煉獄、獪岳、善逸、悲鳴嶼の順である。

 

「あの、師匠。これどういうことなんですか?何で俺たちは焼いた芋持ってるんですか?」

「うむ!勿論食べるためだ!獪岳、さつま芋は好きか?」

 

 好きかどうかでいうなら、好きである。芋は腹が膨れるし、溜まるからだ。

 だから根本的に、そこではないという前に、悲鳴嶼の声がかかった。

 

「獪岳、何故幸がいないのだ?」

「うむ!俺もそれを聞こうとしていた。君の鎹鴉が、君と幸少女が行方不明だと騒いだからな」

「それは報告します。だから、さつま芋の意味は」

「美味かろう。美味いものを食べると話しやすくなるのではと思ったのだ。ちょうど焼こうとしていたしな」

 

 さつま芋は師匠の好物だろうが、と獪岳は内心でぼやいた。

 ひと口齧ってみれば、確かに美味かったが、口の中の水分が吸い取られて話しづらくなりそうだった。

 明らかにこの場に向いていない食い物である。

 鎹鴉が騒ぎまくったらしいが、一体全体どこまで語ったのだろう。

 

「任務先で、人に襲われたと聞いたぞ」

 

 げほ、と獪岳は悲鳴嶼の言葉に咳き込んだ。

 

「……知、ってんじゃないですか」

「大まかな話だけだ。鬼を倒しに行った先で、里人に襲われたと。……幸が、理性を失くして人に襲い掛かろうとしたと」

 

 隣に座った悲鳴嶼の方をちらちらと見て怯えたような顔をしていた善逸が、ぐるんと頭を巡らせた。

 そこまで知られているなら、今更焦る意味もない。

 幸は、襲いかけただけだ。襲ってはいない。

 

「理由がなかったわけじゃないですよ。それにあいつは、誰も傷つけてません。襲い掛かろうとしたのは、頭を銃で撃たれて、半分ぐらい脳を吹っ飛ばされたからです」

「それは……人間にやられたのか?」

「そうです。あそこの里は、鬼に余所者を差し出してました。そのついでに追剥ぎ紛いなこともやってて、だからまぁ、役人に見咎められる前に俺たちを殺して、なすりつけようとしたんですよ。鬼の死体は消えちまうから、証拠もクソもなくなるって焦ったんでしょう」

 

 刀を持った余所者なんて、うってつけだったでしょうから、と付け加えると、煉獄と悲鳴嶼の顔が顰められ、善逸は顔を伏せた。

 過去、十年前の悲鳴嶼の話を、獪岳は今の彼の顔を見て思い出した。

 子どもらを殺した鬼を、悲鳴嶼は朝日が昇るまで殴り続けて足止めした。が、日に焼かれて鬼の遺体は崩れ去り、悲鳴嶼は殺人者として投獄されたのだ。

 死体を残さなかったあの大蛇の鬼に、今更のように怒りが湧いて来た。

 

「幸は、俺と、俺たちと共闘してた別の隊士を庇って、二度頭を猟銃で撃たれました。最後は俺が銃で狙われたから、それで動揺して暴れたんです。だけど俺の力で押さえつけられたから、人は喰ってません。傷つけてもいません」

 

 だから、隊律違反になるようなことは何一つしていない。

 そう一旦は締めくくって、獪岳は芋をまたひと口齧った。

 美味いは美味いが、獪岳にとって食事とは食べられればそれでいいだけのものである。雁首揃えて芋を食う意味がわからなかった。

 尋問というのなら、確かに気が緩んで口が多少回りやすくなるかもしれないが。

 

「君の鎹鴉は、その帰り道で君と幸少女が姿を消したと騒いでいたぞ。そして今の君は、幸少女を連れていない。これはどういうことだ?」

「幸は、珠世という鬼に預けました。お館様も知ってる鬼舞辻を殺したいと願ってる医者です。竈門も世話になったことがあると言っていました」

「え、炭治郎が言ってたあの珠世さん?獪岳、知り合いだったの?」

「んな訳ねぇだろ。会ったのは昨日が初めてだ」

「初対面の相手に幸ちゃん預けて来たの!?」

 

 喧しい、とぴしりと獪岳の額に青筋が立つ。

 悲鳴嶼と煉獄がいる前では、毎度のように蹴とばせないから我慢であるが、何故この弟弟子は関係ないことで一々騒ぐのか。

 

「獪岳」

「……あのままだと、幸の食人衝動は抑えるのが厄介になると言われました。元々あいつは、自分で自分を縛ってたんです。……元になってたのは、悲鳴嶼さんが教えてた言葉らしいです、が」

 

 年齢相応の自我を取り戻したが故に、暗示が効かなくなり始めていた。

 そこへ来てあの怪我を負い、このままではどうしようもなくなると言われたから預けて来た。

 数日したら連絡が来るから、そのときに迎えに行く。

 珠世という鬼は、少なくともあそこの里人たちよりは何倍も信用できるから、と。

 

「隊律違反はしてませんよ、俺たち。幸はあいつらを傷つけてません」

 

 寧ろ、獪岳と田津のほうが鞘に入れた刀を振り回して暴れ、数人の骨を折っている。が、そうでもしないとこちらが殺されていたろうから、正当防衛の範囲だ。

 

「報告は以上です。ご馳走様でした」

 

 さつま芋の最後の一欠片を、ほとんどやけっぱちのような感じで食べ切り、言い切った。

 

「……そうか、里人……人間がそのようなことを」

 

 毎度の如くに数珠を携えた悲鳴嶼行冥は、見えぬ目からまた涙を流していた。

 別に珍しかないだろうに、と獪岳はそれを見る。

 鬼は人を喰い殺すが、別に人殺しなどそこらにいる。嘘ばかりつくやつも、欲望のまま振る舞うやつも。

 

 寒くなれば地べたに冷えた(むくろ)を晒す乞食や親なし子、珍しくも何ともない。そいつらの懐から物を漁ることだってした。自分以外の生命なんて、(ちり)のように軽い。

 他人を騙して、奪って、殺すやつらもいくらだっている。

 獪岳は人殺しこそしたことないが、寺に拾われる前と寺が壊れた後、盗みはいくらでもやった。生きるためにそうした。

 あの寺の外には、自分の食べる分を削ってでも獪岳のひもじさを満たしてくれる相手も、盗みをやめてと腕を掴んでくるような物好きもいなかったのだから、仕方ない。

 

 まともなものを食べられずに力が無かったから、追い剥ぎこそやっていないが、もし先生に拾われずにいたならば、いつかしていただろうし、ろくな者になっていなかったはずだ。

 里人と己の違いなど、鬼を殺せる力を持っていたかいなかったか。ただそれだけ。

 

 だから獪岳には、あいつらの性根も考え方も、嫌になるほど簡単に見抜けた。

 それを考えると、あの田津とかいう隊士は大分おめでたいやつだった。

 鬼に家族を奪われるまでは、獪岳や幸よりよほどまともで、人間みのある暮らしをしていたのだろう。

 鬼の敵意には臆すことなく、人の悪意を目の当たりにすればあからさまに動揺していたのだから。

 そんな“善い”やつが、九年も人間性の一切を取り上げられても、恨み言も泣き言も言わずに守るために戦っているやつを捕まえて、悪鬼だ化け物だ本性を見せろ、と罵った。

 それで結局、人間の無償の善意など欠片も信じられない自分に罵倒され、阿呆面さらして野に立ち竦んだのだ。

 

 無様極まりない。

 自分も、幸も、あの隊士も、里の人間も。

 何が最悪って、最もまともで馬鹿な少女が、一番報われていない。

 

「つらかったな。よく耐えた」

「は?」

 

 やおら静かな声で師匠に問いかけられ、獪岳は素で頓狂な声を出した。

 

「守れたはずの人間に、罵倒されることは俺もあった。何故もっと早く来てくれなかったのか、何故自分の大切な人を守ってくれなかったのか、とな。だが、今回君たちが目の当たりにしたのはそれとも異なる、人の悪意だったな」

 

 柱は人間であり、いくら強かろうが腕も脚も一対で体は一つだ。

 血を吐くほどの勢いで走っても、間に合わないことはある。

 同時に救われた側の人間には、そのようなことは関係ない。

 自分を助けてくれるほど強いならば、自分の大切な人を何故助けてくれなかったのかと、身勝手に期待して、身勝手に罵倒する。

 同じことを、あの村長は言っていた。

 お前たちは遅すぎた、と。

 お前たちがもっと早くに来てくれていたら、こいつらを殺してくれていたら、自分たちもこんなことをせずに済んだのだ、と。

 間に合わなかったお前たちが悪いのだから、ここで里のために死んでくれ、とそういう理屈だった。反吐が出る。

 

「俺はそれでも、人間が好きだ。弱く儚く、それでも強い人間という生命を俺は愛しているのだ」

「愛せ、る……?」

 

 獪岳は目を瞬いた。瞬いて、まじまじと煉獄を見た。

 すぐ近くにいるはずの師匠が、いきなり何尋も隔てた向こう側から語りかけて来たように感じたのだ。

 人間を愛す、愛さないなど意味がわからない。弱さも儚さも、獪岳は厭う。

 弱さや儚さを慈しむという理が、獪岳の中には存在しない。

 弱ければ死に、なす術なく道端で屍となれば誰が愛してくれる。誰を愛せる。

 

 煉獄杏寿郎という、この数ヶ月師事して来た人間が、急に見知らぬ生き物に見えた。

 それでも彼は、常に無い凪いだ口調で語るのだ。

 

「俺はそう思って生きてきたし、柱にもなった。己が人よりも強く生まれたのは、弱き人々を守るためである。それ故に天から与えられた力で、人々を苦しめることは許されない、とな。亡き母のその言葉を、俺はひたすらに信じ、守り続けている」

 

 目が眩むような眩しさが、そこにあった。

 それは─────その、言葉、は。

 

「強者の理屈、だろうな。ああ、わかっているとも」

 

 生まれついてに強い己を律して律して、律し続けて煉獄杏寿郎は炎柱になったのだ。

 生まれついて与えられた強さと、何年経とうが守るべきだと思える言葉をくれる人を(しるべ)にして。

 

 獪岳に、そんなものはなかった。

 そんな人はいなかった。

 生まれついて持っているものなど、自分の生命と、名前だけ。

 帰ろうよ、と自分に手を伸ばした少女は、見捨てた。逃げてと言われて、振り返りもしなかった。

 そうしなければ、生き延びられなかった。

 圧倒的に強い者に出くわせば、皆そうするだろうと、そう恥とも思わず生きてきた。

 

 しかしこの師匠は、煉獄杏寿郎という男は決してそうしない。

 浄罪の炎のように燃え盛り、成すべきことをなすのだ。

 その生き方は眩しすぎて、怖い。

 炎に近づきすぎれば、人間の肌など簡単に焼き尽くされてしまう。

 

「それでも君は生きている、獪岳。なすべきことを為して、怒りに満ちていても、ここにいる」

 

 声が降ってくる。空から落ちる天の炎のように獪岳だけに向けて、真っ直ぐに名を呼ばれる。

 声には、俯いた顔を上に向かせる力があった。

 

「君と俺は違う。違うが、俺は君の師匠だ。無事を喜ぶのは当たり前だろう。上弦の弐という自分より遥かに格上の敵からも、君は逃げなかった。何故だ?」

「それ、は……」

 

 だって、それは─────。

 

「幸が、いたから。俺の横に、隣にずっと、いて、あいつは、戦うと決めていて、子どもを……列車にいた子ども、庇って……俺のことも」

 

 言葉が捻れてままならない。

 頭の中が捩れて、ばらばらになる。

 横にいるはずの弟弟子のことも養い親のことも、獪岳はこのとき忘れていた。

 

 鬼から人を守りたかったわけじゃない。

 拾われた人間に、才能があると、お前なら鬼を殺せると言われたから、鬼殺隊になったのだ。

 鬼殺隊が救うべき()()()()()()人間は、獪岳を助けてはくれなかった。優しくしてくれなかった。

 家のない子を哀れむだけで、手を差し出してくれなかった。汚いと顔を背けた。

 あいつらが何人喰われようが死のうが、知ったことではない。

 そんなやつらより、ただ獪岳が生きていてくれてよかったと言ってくれた、たった一人の生命を優先して、何が悪いのだ。

 鬼であっても、化け物になっていても、関係ない。

 でもそれを、当の本人であるあいつは望まないのだろう。

 

「君は、鬼である幸少女の生命と、人間である里人の生命のどちらを取る?」

 

 だから唐突に投げかけられたその問いには、鬼殺隊として正しい答えを返すことができなかった。

 一つ残った煉獄杏寿郎の燃えるような瞳が、怖くて見ることができない。

 は、と自分の息が漏れていく音が、呼吸が浅くなっていく音が聞こえた。

 

「ち、ちょっと待って下さい!」

 

 素っ頓狂な声が響いたのは、そのときだった。

 声の出どころは、獪岳の真横。焼き芋片手にそこにいる、弟弟子だった。

 顔を赤くしたり青くしたり白くしたり、目まぐるしく変えながら、我妻善逸はつっかえながら口を開いた。

 

「獪岳が……獪岳と幸ちゃんがもし、そうなっても俺がいます!俺たちが守らなきゃならない人たちと、幸ちゃんとどっちかが死ななきゃならない状況になんて、絶対、絶対にさせませんから!いやえっと……俺は弱いけど、炭治郎とか伊之助とか!獪岳と幸ちゃんは一人じゃないですから!そういうことにならないように、俺、頑張りますから!」

 

 捲し立てるように善逸が言って、言い終わると同時に沈黙が満ちた。

 叫びが、そこらの空気の中に漂う。

 黄色い頭は、きょときょと落ち着かなげに辺りを見渡した。

 

「え、え?いや獪岳、何か喋ってってか何とか言えよぉぉ!俺、お前のこと言ってんだよ!?」

「うるせぇ」

 

 ごす、と獪岳は善逸の脳天に拳を落とした。

 

「いった!今本気で殴っただろ!なんでだよ!」

「別に」

「別に!?幸ちゃんにいつも言われてるじゃん!言葉惜しむなって!」

「近寄んな」

 

 ぎゃあぎゃあと喚き散らす善逸の顔面を鷲掴みにして遠ざけた瞬間、腹に響く笑い声が聞こえた。

 笑い声の出どころは言うまでもなく、煉獄杏寿郎。そもそもここまで呵呵と衒いなく笑う人間など、獪岳の知る限り彼くらいだ。

 獪岳と善逸は、揃ってぽかんと彼を見た。

 

「いやはや、驚かせてすまんな。我妻少年、君は獪岳の弟弟子だったな?同じ師匠に師事していた、雷の呼吸の使い手だと」

「え、あ、はい……。そうです」

「ならば良し!」

 

 何がどう良しなのだ、と言いかけた獪岳の背を、煉獄が全力でばしんと引っ叩いた。

 げほっ、と咳き込む。

 

「君は俺から見ても些か以上に頑なだな。他人に対しても、自分に対しても」

「?」

「わからぬか、気づいていないかどちらなのだろうな。いずれにしても、今日の君は真っ当に怒り、悲しんでいただけだ」

「悲しむ?俺が、何を?」

「む?幸少女の負傷に関して、だろう。彼女は人を守った。だが、人は彼女を守らなかった。君はそれに怒り、かつ悲しんでいただけだ」

 

 それにしては目が荒んでいたがな、とまたも煉獄は獪岳の背中を叩いた。

 

「ままならぬことだ。君たちを撃った里人は誤りを犯し、君たちはそれでも鬼殺隊の本分を全うした」

「そりゃあ、しますよ。俺たちに、他に場所なんてないんだから」

「む」

 

 人を喰らう衝動を必死に抑えなければならない鬼と、剣術以外に生きる術を知らない人間。

 まともに生きる道が、鬼殺隊以外のどこにあるのだ。

 獪岳の言葉をどうとったのか、煉獄は今度は軽く優しく、獪岳の肩を叩いた。苦笑するような笑みがあった。

 

「ああ。ままならぬ。何もかもままならぬことばかりだ。だが、ままならぬことを見据え、逃げることなく、俺たちは心を燃やして生きてゆかねばならない。人間とは、そういうものだからだ」

 

 俯瞰したその物言いは、獪岳には理解できないものではあった。

 それでも、生きてゆかねばならないという言葉は不思議と耳に残った。

 心を燃やすなんて言う言葉は、如何にもこの炎そのもののような師匠によく似合っていた。

 ばしん、とまたも煉獄は獪岳の背を叩いた。

 叩かれ過ぎて、そのうち背中が平たくなりそうである。

 

「とにかく今は、旨いものを食べて休め!俺は珠世という鬼を直接には知らぬが、竈門少年やお館様、君が信じられるというならば、信じるべき鬼なのだろう!」

「……休もうとしてましたよ。こいつに駅から引っ張って来られなきゃ」

「よもや!それはすまんな!何せ鎹鴉が派手に騒いでいたからな。俺も悲鳴嶼さんも心配しようというものだ」

 

 じゃらじゃら、と悲鳴嶼の数珠が鳴った。

 

「知らぬ血鬼術の気配だけを残して、お前と幸が消えたと鴉が騒いだ故な。だが、あの鴉を怒ってやるな、獪岳。口うるさいかもしれないが、雷右衛門はお前たちを心配していたぞ」

「すいません。その、らいうえもんって誰ですか?」

「お前の鎹鴉の名だが。知らなかったのか?」

 

 そんな、武士そこのけの古い名前だったのかあの馬鹿鴉は。

 多分、獪岳より鴉と仲良くしている幸も、知らないのではなかろうか。かすがい君とか、からす君とか、割と適当に呼んでいたから。

 何気に衝撃であり、獪岳は固まる。

 

「うむ。では今は、幸少女の復帰を待つしかないな。ところで皆!焼き芋のお代わりはいるか?」

 

 それはもう結構です、と乾いた喉で獪岳はやや咳き込みながら答える。善逸も似たような感じで断っていた。

 貰おう、と答えたのは悲鳴嶼だけである。

 煉獄はやや残念そうに、眉を下げた。

 

「そうか?俺はいくらでも食べられるのだがな」

 

 底なし胃袋の持ち主と比べられても困るのだと、獪岳は深く息を吐いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一体いつまで人の庭先で焚火をするのだと、珍しく酒のにおいをまとわりつかせていない煉獄槇寿郎の小言が入ったことで、煉獄家での焼き芋大会は終わりとなった。

 途中から、焼き芋そっちのけで獪岳は木刀を持ち出してきた煉獄にしごかれ、逃げ遅れた善逸も一緒くたに手合わせに巻き込まれ、悲鳴嶼がそれを芋を齧りながら眺める、という訳が分からず、説明のつかぬ空間になったが。

 最終的には千寿郎まで出て来て、御無事で何よりでした、と見送られて獪岳は帰途についた。

 悲鳴嶼と善逸と、共に。

 特に会話らしい会話もないまま、日が落ちて暗くなった道を歩く。

 

「獪岳……今日は泊りに来ぬか?」

「え」

「お互い任務もないだろう。お前は手紙も寄越さないし、機会がなければ話ができぬ」

 

 筆まめな幸とは違って、獪岳は手紙など自分の用事がなければ出さないのである。

 幸が出しているのだから、自分が出さなくともよいと思っているのだ。

 何だか幼いころに叱られたときのようで、獪岳は首を縮めた。

 

「幸は手紙で話してくれるが、お前とは話せたように思えないのだ」

「それはまぁ……すいません、でし、た」

 

 滂沱と涙を流されながら言われると、思いっきり目を逸らしたくなった。怒るでもなく怒鳴るでもなく、大樹のような彼にただひたすら静かに泣かれると、どうしようもない気分になるからだ。

 頭の中で、行冥さんに心配かけちゃ駄目じゃない、と幸がつけつけと言って来る感じがある。

 うるさい喧しい。心配をかけない鬼殺隊員がいるわけないだろうが、とその幻聴をかき消した。

 

「玄弥とも話してくれると、嬉しいのだ」

「不死川玄弥ですか?俺、あいつからは嫌われてんじゃないかと思ってるんですが」

「そういうわけでは、ない……と思う。共に鍛錬でもすると良い」

 

 列車の中で、幸と話したことを思い出す。

 玄弥君とは、ただの玄弥君として接してほしいと行冥さんが手紙に書いていたと、幸が言っていた。

 

「獪岳、行ってきたら?悲鳴嶼さんと話せることなんか、滅多にないだろ?なほちゃんときよちゃんとすみちゃんには、俺が言っておくからさ。あの子たちも、獪岳たちのこと心配してたんだぜ」

 

 なほ、きよ、すみ、とはまたあまり聞いた覚えがない名だった。

 だが恐らく、あの蝶屋敷のそっくりな三人の看護婦少女たちのことだろう。

 確か彼女たちには任務に出るとき、いってらっしゃいと見送られていたのだ。

 普通に帰るつもりだったのに、結果はこうなってしまったのだ。

 

 煉獄家と、蝶屋敷のあいつらと、悲鳴嶼と、それに善逸と、随分とあちこちに心配をかけて、気遣われていたのだと思った。

 そしてそういうときに限って、幸はいないのだ。

 

「……今日は、やめときます。今度、幸がいるときに行きます」

 

 目を逸らしながら言うと、ぽん、と軽く頭に手が乗せられ、すぐ離れた。

 

「そうか。では、待っているぞ」

 

 それきり、辻で悲鳴嶼とは別れる。

 経文の描かれた羽織りを翻して、岩柱は去って行った。

 後に残るのは、黄色羽織りの弟弟子である。

 

「……」

「……」

 

 互いにこれまた、無言である。

 揃いの模様の羽織りの袖に両手を引っ込めるようにして、相変わらず善逸の視線は俯き加減で、頼りなげにさ迷っている。

 自分にできぬことをできるくせにと、修行時代と変わらぬ苛立ちがこみ上げて来て獪岳は足元の石ころを蹴った。

 その音をきっかけにでもしたのか、善逸はがばと顔を上げた。

 

「あ、あのさ、獪岳」

「あ?」

「さ、さっき俺の言ったこと、本当だからね。獪岳が俺のこと嫌いなのはわかってるけど、でも俺は獪岳にも幸ちゃんにも、いなくなってほしくないんだよ。それは、本当に本当だから」

 

 鬼か人間か、どちらか一つしか救えぬような絶望が訪れないように。

 

「幸ちゃんと獪岳がさ、二人だけで戦ってるわけじゃないんだからさ。いや、俺をあんまり頼りにされると困るっちゃ困るんだけどね!」

 

 そこは最後まで言い切るだけの度胸が何故つかないのか、と獪岳は横目で善逸を睨んだ。

 

「……テメェなぁ、偉そうなこと吠えんなら、鍛錬、逃げんじゃねぇぞ」

「いっ!?」

「常中の訓練のとき、お前サボってんだろ。でなきゃ、あんなにぐだぐだするわけねぇだろうからな」

「ぎゃっ!?」

「鬼に首の骨折られんのと、鍛錬で肋折んのと、どっちがマシかよく考えやがれ。カス。テメェに心配されるようなことなんざねぇよ」

「ちょっとそれは喩えが極端じゃないかな!?」

「黙れ」

 

 手刀を脳天に落とすと、善逸はびゃあ、と汚い高音で叫んでその場に蹲った。

 善逸をさっさとそこに取り残して、獪岳は足早に歩き出す。

 

「あー!ちょっと置いてくなよぉ!」

「静かにしろ。ついてくんな」

「おんなじ蝶屋敷に帰るのに無茶言うなっての!」

 

 喧しい、という獪岳の言葉と共に、再び手刀が善逸の脳天に振り下ろされたのだった。

 

 

 

 

 




時間的には遊郭編ぎり手前くらいの話。
友達増やそうね、でないと死ぬからね、という話。


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六話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。 

感想、本当に励みになっているのです。
返信したいのですが、うっかりネタバレしてしまうのが怖いため、このままで行かせていただきます。
当方の不徳の致すところです。

では。


 

 

 

 

 

 

 

 あれ、と任務帰りの我妻善逸は、目に入った光景につい蝶屋敷の門を潜ろうとする足を止めた。

 蝶屋敷の中庭にいるのは、看護婦の三人の少女と兄弟子の獪岳だったのである。

 反射的に、善逸は門の陰に飛び込んでから、そろそろと中を覗いた。

 黒地に白い三角形が散った、善逸のものと同じ柄の色違いの羽織りは、よく目に入るのだ。

 その羽織りを着た、しかめ面の兄弟子相手に、看護婦の女の子たちのほうがしきりと話しかけていた。

 獪岳はあの子たちの名を、まともに覚えているかすら怪しいが、獪岳が常に一緒にいる幼馴染みの少女、幸はあの子たちと仲が良いのを善逸は知っていた。

 看護婦の子たちも、最初は鬼というので禰豆子や幸を警戒していたが、禰豆子は幼子のように無垢で、幸は重いものを運んだりと面倒見が良い上に、しのぶの手伝いをしている内に薬の調合を片端から覚えてしまったらしいから、今ではすっかり馴染んでいる。あの子の記憶力は、ちょっと度合いがおかしい。

 そんな幸がしばらく戻らない、と聞いて、なほときよとすみが悲しそうにしていたのだ。

 だから多分、獪岳は幸がしばらく戻って来られない旨を、さらに詳しく説明するはめになったのだろう。

 獪岳は、あの子たちくらいの小さい女の子に強く出られると、やや当たりがやわらかくなる。

 少なくとも、善逸相手のように暴言や手が飛び出たりはしない。

 きっと、幼い時分に守れなかったという幸と重なるからなのだろう。

 本人に、その自覚は欠片もないだろうが。

 

 大体獪岳は、他人を顧みることもしないが自分を顧みることも少ないのだ。

 つまり、自分の行動を反省もしないが、自分の痛みや心の音も簡単に無視をする。気づけなくなる。

 性格が根っから捩れて捻くれている、と言ってしまえばそれまでだが、他人に向ける優しさがまるで無いのかといえば、そういうわけでもないのだ。

 だから、余計拗れている。

 

 煉獄家の槇寿郎や千寿郎などを、獪岳はほとんど気に留めていないようだが、あちらからすると息子と兄の弟子で、しかも今の恋柱以外、長く続いた試しがほぼないという元炎柱のきつい稽古に、嫌な顔もせずに食らいついていく隊士なのだ。

 昔から、稽古となるとひたむきに努力できるのが獪岳なのだ。善逸はどう逃げようかとつい考えてしまうけれど、獪岳にそれはない。

 鬼に首の骨を折られるより、木刀で肋骨折られるほうがマシだろうが、などという言葉を冗談でなく本気で言うくらいだ。

 

 獪岳さんとの稽古は、兄上が楽しそうなんです、とこちらにまで報告しに来てくれた千寿郎くんに、善逸は涙した。

 なんていい子なんだろう、と。

 いつも連れている鬼の少女は、血鬼術で杏寿郎の致命傷を治したことだってある。

 そんな人間と鬼が、任務先で人間に撃たれ、帰りに血鬼術の気配だけ残して失踪したと知らされれば、心配をしないわけがない。

 煉獄家焼き芋大会を止めに来た槇寿郎だって、(いかめ)しい顔こそしていたが、獪岳を見て安心したふうな音がしていたのだ。

 が、心配されていた本人は必要最低限くらいの挨拶しかしないのである。

 そりゃ善逸のように、心が音として聞こえるような耳がないのはわかるが、もうちょっと何とかならないのかあの兄弟子は。

 幸がいれば、一人でどこかへ突き進もうとする獪岳の手を握って引き止め、後ろを振り向かせることができるのだが。

 

 その幸が、珠世という鬼のところに行ってもう四日である。

 獪岳がいつも持っている箱は今はなく、よく聞くと不満と不安の音が、混ざるようになっていた。

 かと言って、それを面に出したりせずに淡々と任務はこなす辺り、善逸はやはり冷たくされても獪岳を嫌い抜けない。

 人間に幸を撃たれてどろどろと怒りの音を響かせていても、鬼殺隊の分は守るのだから。

 

「善逸、こんなところでどうしたんだ?」

「お、炭治郎じゃん。おかえり」

 

 後ろから声をかけてきたのは、別の任務から戻ったらしい炭治郎である。

 いつものように禰豆子が入った箱を背負っている。

 炭治郎も単独任務の帰りのようだが、怪我らしい怪我をしていないらしく、善逸は安堵した。

 当の炭治郎は、善逸の肩越しに蝶屋敷の中を覗いたようだった。

 

「獪岳さんじゃないか。声、かけないのか?」

「とんでもねぇ炭治郎だ」

「ん?どうしてだ?」

 

 いやいや無理でしょうよ、と善逸はぶんぶん手と頭を振った。

 

「だってあいつ俺のこと嫌いだし話続かねぇよ。幸ちゃんがいたらまだいけるけど」

「そうなのか?俺、昨日獪岳さんと話したけど」

「え゛」

「獪岳さんって、雷と炎の呼吸を混ぜて戦ってるじゃないか。俺も、それを聞いてヒノカミ神楽と水の呼吸を混ぜられないかって思ったんだ」

 

 獪岳の戦い方を以前炭治郎に話したのは、幸だという。さもありなん。

 それを聞いて、いつも通りに単刀直入に、真っ直ぐに話をしに行ったのだろうなぁ、とその光景が想像できて、善逸は引いた。

 確かに、自分たちの間近にいる人間の中で、複数の呼吸を使う剣士は獪岳くらいだが。それにしても相談相手としてもう少しどうにかならなかったのか。

 

「雷の呼吸の動きに、炎の呼吸の技の威力を混ぜる、としか言われなかったけど、それを聞いて俺も、水の呼吸の動きをしながら、ヒノカミ神楽の技を出せないかって思えたんだ。まだ完成してないんだけどな」

「へ、へぇ……」

 

 割とまともな答えを兄弟子が返していたことに、善逸は顎を外した。

 思い返せばこの長男坊、以前幸と一緒になって、獪岳に善逸への『カス』呼びをやめさせたことがある。

 炭治郎と幸の二人は、一緒にすると穏やかなのに押しが強く、めげない曲がらないへこたれないという、元々三拍子揃っている性格が、倍になってしまうのである。

 あと、何気に二人とも純粋な善意で性格がしつこい。彼らは、所々が似ているのだ。

 

「蝶屋敷に入らないのか?善逸はどうしてこんなところで、ヤモリみたいにへばりついてるんだ?」

「いやわかってよぉ!あの空気には入ってけないでしょうが!俺がまた獪岳に舌打ちされたら、なほちゃんたちが悲しそうな顔するんだぜ!?」

 

 ここに幸ちゃんがいたらいいのにぃ、と善逸は頭を抱える。

 無邪気さと優しさと少しの計算高さが、絶妙な感じで混ざりあった、少し不思議な音がするあの子は、手をそっと掴んだり、羽織りの裾をくいくい引っ張ったりと、実に自然な方法で獪岳を止めることができる。

 背丈は獪岳より幸のほうがかなり小さいし、歳も獪岳よりひとつ下だというが、端から見ると姉と弟である。

 が、その少女はまだ戻らないのだ。

 人喰いの衝動を抑える治療のためらしいが、獪岳も心配なのだろう。

 だからこそ不満の音が大きくなってきているし、善逸の顔を見るとそれがさらに響くようになる。

 

「そういうわけだから俺はここにいるの!獪岳がいなくなったら入るよ!」

「お前は何ごちゃごちゃ抜かしてやがんだ」

「ひっぎゃぁぁぁ!」

 

 ぬっ、と横から声をかけられ、善逸は文字通り跳び上がった。霹靂一閃ができる鬼殺隊員の脚力で跳んだものだから、結構な高さである。

 着地して横を見れば、毎度の如く眉間に深いしわを穿った兄弟子が、腕組みをして突っ立っていた。

 

「か、獪岳!?なんで!?」

「なんでも何もあるか。門前でぴぃぴぃぎゃあぎゃあ騒ぎやがって」

 

 ごちゃごちゃやってないで中に入りやがれ、と獪岳は善逸の襟首を掴んでずるずると引きずった。

 獪岳の音がなんだかぼんやりしているなぁ、と仰向けに引っ張られながら善逸は考える。

 

「こんにちは、獪岳さん!任務が終わったんですね?」

「……ああ」

 

 その真横では、はきはきと獪岳に話しかけている炭治郎である。

 獪岳からは露骨に鬱陶しがる音がしているのだが、一応、炭治郎には応えているのだ。これが善逸だと、こうはゆかない。

 予想はしていたが、こいつ本気で俺のことは嫌いなんだな、という事実に善逸はちょっと泣きそうになった。

 ずずずずず、と後ろ向きに引きずられながら、何気なく門を見たときだ。

 門前に、でかい男がひょいと現れたのである。

 布をぐるぐると巻いた頭に、光る石がいくつも嵌め込まれた派手な額当てと、石を綴り合せて作られた飾り。左目にはよくわからない意匠の化粧が施され、背中にはやたらでかそうな刀の柄が見えている。

 そして何より、筋肉が凄い。

 袖無しに改造された鬼殺隊の隊服を着ているが、筋肉で覆われた両腕が丸太のように太いのだ。

 

 ─────え、誰こいつ。

 

 こんな派手派手しい男、一度見たら忘れない。が、まったく覚えがなかった。

 蝶屋敷門前に立った男は、訪いを告げるためか大きく息を吸い込む。

 何かを察知した獪岳が振り返り、一瞬で善逸の襟首から手を離し、自分の耳をふさいだ。

 どしゃ、と善逸は尻から地面に落ちる。

 

「派手に邪魔するぞぉ!」

 

 びりびり震えるような大声に、善逸はとりあえず大急ぎで自分の両耳を覆ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 ─────さっさと寝ておけばよかった。

 

 現在の獪岳の心情は、大体これに尽きた。

 傷ついた隊士たちの休息所であり、一部の隊士の拠点ともなっている蝶屋敷では騒ぎが持ち上がっていた。

 突然来襲した派手柱もとい、音柱が、要件もろくに告げずに屋敷内にずかずか入り込むや、看護婦役の神崎という隊士と、三人娘の一人を俵担ぎにして連れ出そうとしたのだ。

 曰く、任務に女の隊員が必要だから連れて行くのだという。

 連れて行くなら勝手にどうぞ、と獪岳は思ったのだが、蟲柱の継子の、栗花落(つゆり)とかいう少女は、無言でひたすら音柱の服の裾を掴んで引き留めようとするし、三人娘の残り二人は音柱にやめてくださいと泣きながらしがみつくし、居合わせた炭治郎と善逸も人さらいだと叫ぶしと、収集がつかなくなりかけていた。

 

「かっ、獪岳さぁん!助けてください!」

 

 音柱に取りすがっているきよとすみに涙目で名前を叫ばれ、ここまで任務帰りの眠気を堪えつつ、面倒で成り行き任せに黙っていた獪岳は小さく舌打ちをした。

 

「音柱様。隊員の神崎はともかく、そっちの小さいのは放してやれませんか」

「あ?」

 

 ぎろり、と音柱の視線が獪岳に向いた。

 煉獄の炎のような視線に慣れたとはいえ、かなりの眼光の鋭さである。

 

「お前、煉獄の弟子か」

「そうです。そいつ……なほは隊員じゃないんで。任務に連れてくのは無理ですよ」

「なに?」

「ほっ、本当です!なほちゃんは隊服着てないでしょう!?」

「じゃ、こいつはいらねぇわ」

 

 至極あっさりなほを放した音柱は、神崎アオイのほうは解放しようとしなかった。

 

「その人を放せ!」

 

 堪忍袋の緒が切れた炭治郎の頭突きをあっさり躱し、音柱は門の上に軽々跳び乗る。

 使いものにならないかもしれないが、こんなやつでも隊員なのだから任務には連れて行くのだと告げる音柱の言葉に、抱えられた神崎が凍りついていた。

 隊服を着ている神崎アオイの身のこなしが、戦う訓練を受けた人間のものであるのに、刀を振るう様子が無いのはそういうわけか、と獪岳は納得した。

 藤襲山の最終選別を生き残っても、鬼への恐怖で心が折れ、隊士にならない者もいる。

 隠にもそういうのが混ざっているとは聞いていたが、神崎もその手合いだったらしい。

 神崎の事情は獪岳にはどうでもいのだが、そんな隊士になれなかった者、連れて行ったところで無駄死にである。最悪、鬼に喰われて養分にされるのが落ちだ。

 

「人には色々事情があるんだから突き回さないでもらいたい!」

 

 堂々と宣言したのは、やはり炭治郎だった。こいつは初対面の柱全員に喧嘩を売る気かと。

 眠気で半ばぼぅっとしつつ、獪岳は音柱と炭治郎のやり取りを見ていた。

 アオイさんの代わりに俺たちがゆくと言うのはいいが、任務にいるのは女の隊員だろうが、と獪岳は内心ぼやいた。

 

「そっちの呆けたお前も文句があんのかよ。煉獄の弟子にしちゃあ、覇気のねぇ目ェしやがって」

「は?」

 

 ぼんやりなのは眠いからで、目つきが悪いのは元からなのだが、覇気が無いと言われれば腹も立つ。かちんと来て、獪岳も音柱を睨んだ。

 

「なんだァ?一体なんの騒ぎだよ」

 

 そのとき、門から新たに入って来た猪頭が目に入った。

 

 ─────そういえば。

 

 伊之助君の素顔って、とっても綺麗なんだよ、と幸の言葉が頭を過った。

 

 後から思い返せば、このときの獪岳は、疲れていた。

 ニ徹明けに三人娘に捕まって、いつ幸が帰って来るのかと不安そうな彼女らに聞かれて答えていたから、単純に眠かった。

 そうでなければ、あんなことは思いつかない。言い出さない。

 

「あれ、獪岳?」

 

 善逸の疑問の声を無視し、ゆらりと伊之助の方を見て、無造作に踏み出す。

 瞬きの間に、獪岳は伊之助の後ろに回っていた。

 そのまま、両手で猪の被り物を掴むと、大根か何かのように引っこ抜く。

 

「んなっ!?」

 

 反応し損ね、叫ぶ伊之助の素顔を改めて間近で見て、獪岳は無言で驚いた。

 確かに、そこらのびらびらと着飾った少女よりよほど整った、色白の顔をしている。

 筋肉質な体の上に、そんな可憐な顔面が乗っているのは不自然ですらあるのだが。

 

「こいつ、女みたいな顔してるから、連れてくならこっちでいいんじゃないですか。女装させればなんとかなるでしょう」

「何ボケたこと抜かしてやがんだテメェ!それ返せよ!」

 

 返すに決まってんだろ、と猪の皮を乱暴におっ被せ、獪岳は音柱を見上げた。

 柱は、門の上で獪岳たちを見下ろして、にやりと笑った。

 

「ほぉ。そこまで言うなら、お前らに手伝ってもらうとするかねェ」

 

 あとから断言できる。

 このときの己は、疲れていたのだ。

 絶対に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 善逸は、獪岳の笑顔を見たことがない。

 基本的に、兄弟子は四六時中しかめ面をしているのだ。

 修行時代、師に褒められたときは少し顔が緩んでいたし、蝶屋敷で、無邪気に黒猫と戯れている幸を見ているときは眉間のしわが消えていたりするが、満面の笑顔ではない。

 そして善逸を見る獪岳の目にはいつも険があり、表情も硬いのだ。

 いつかはもう少し眉間のしわを浅くして喋ってくれないかなぁ、とそんなことを願ったりする。

 翻って、現在。

 

「………」

「………なんとか言ってくれる?」

 

 慣れぬ女物の格好でよたよたと街を歩く善逸の隣には、口元を抑えている兄弟子がいた。

 吐き気や吐血を堪えているのではないのは、小刻みに震えている肩を見ればわかるだろう。

 くつくつと喉奥でうめき声のような音を出しながら、獪岳は指の隙間から一言だけ漏らした。

 

「………ブス」

「誰の!せいだと!思ってんのぉぉぉぉ!」

 

 ぶち、と善逸は自分の血管のどっかが切れる音を聞いた。

 思わず殴りかかるが、あっさり躱されてついでに足払いまでかけられる始末。転ぶ寸前で踏み止まって、善逸は仕返しに、げしんと獪岳の足を踏んだ。流れるように、脇腹にどすっと獪岳の肘が入る。

 

「おい、そこの兄弟弟子共。お前ら騒ぐんじゃねェよ。化粧が剥げたらどうすんだ」

「すみません」

 

 秒で謝った獪岳だが、相変わらず顔がどこか歪んでいるというか、笑いを堪えている。

 普段聞けば嫌な顔をする兄弟弟子という言葉も、聞き逃しているくらいだ。

 

「おかしくないですか!?なんで言い出しっぺの獪岳は女装してないわけ!?」

「こいつじゃでか過ぎて女に見えねえんだよ。向こう傷が深ェし、目つきが悪ィし、こいつには無理だ」

 

 ぐぎぎぎ、と善逸は歯がみして、鬼殺隊の隊服でなく、着流しに身を包んで遊び人ふうに変装した音柱・宇髄天元を睨む。

 そりゃ確かに、善逸はいつか獪岳が笑ってくれないかとは思っていた。だがいくら何でも、女装した自分を見て笑われるのはあんまりである。

 

 何でこんなことになったんだっけ、と遠い目にもなろうというものだ。

 蝶屋敷での騒動は、アオイやなほの代わりに善逸たち三人と獪岳が任務に行くことで決着した。

 それはいいのだが、それ以外は問題しかなかったのだ。

 任務の行き先は、東京の吉原。要するに遊郭である。

 その夜の街たる吉原に、鬼が紛れているかもしれないというのだ。

 それを聞き、遊郭が何をするところであるか、そもそも知らないらしい炭治郎と伊之助は首を捻るだけだったが、意味がわかった善逸と獪岳は、片や顔を赤らめ、片や露骨に舌打ちをした。

 

 調査のため吉原の遊郭に女郎として潜入した宇髄の三人の嫁が、三人とも消息を絶ったため、音柱本人が赴くことになったのである。

 嫁が三人と聞いた時点で、善逸は羨ましさで発狂かつ絶叫しかけたが、獪岳に頭を叩かれた。

 女と手を繋いだことすらねぇやつがガタガタ抜かすな、という御説御尤もな暴言に、善逸は、諸々の説明がなされた藤の花屋敷の畳に突っ伏し、さらに獪岳のほうは幼馴染みの女の子によく手を握ってもらっていることを思い出し、畳の染みになった。

 そのまま話は進み、気づけば善逸、炭治郎、伊之助の三人は何故か女装して店に潜入することになった。

 元忍びで音柱の宇髄は既に怪しい店を三つに絞っており、潜入するのは三人でよいのだ。

 結果、伊之助を女装させればいい、と普段の彼からすると頓珍漢なことを言い出した獪岳は、女装は無しで普通に遊郭街の調査に回されていた。

 今も隊服ではなく、いつもの羽織りに胸元をくつろげた紺の着流し。鼠色の帯を緩く締めた格好をしている。首の勾玉飾りも相まって、音柱と同じく遊び人か何かのように吉原の空気に溶け込んでいる。

 まぁ、やはり目つきが悪いのだが。

 

「煉獄の弟子で、上弦から逃げれたってんなら多少は使えんだろ。お前、特に任務も入ってなかったよなぁ?」

「……入ってません」

 

 任務が入っていなかったからこそ、蝶屋敷で珠世の連絡を待っていたかったらしい獪岳は、上官である柱の命令には、しかめ面ながらも割合素直に頷いていた。

 というか、柱に直接命令でもされない限り、獪岳は善逸たちとの合同任務になど来ないだろう。

 

「じゃ、俺はここで別れるんで」

 

 四ツ辻に出たとき街を巡って鬼の気配を探って来ます、と言い残して獪岳はあっさり人混みに消える。

 宇髄もおう、と軽く答えただけであっさり見送り、一人残った善逸のほうにじとりと白い目を向けた。

 

「それにしても、お前全然売れねェのな」

「だから誰のせいだと思ってんのぉぉぉぉ!」

 

 炭治郎が女装した炭子、伊之助が女装した猪子が、それぞれの潜入先に買い取ってもらいいなくなった現在、一人残った善逸もとい善子は、有り体に言って売れ残りである。

 甲高い絶叫が、飾り立てられた不夜街の空に轟いて消えた。

 

 




遊郭編開始の話。かなり明るい話。

一人増えていますが、味方の戦力が増えるということは敵の油断が減るということなので、地獄に変わりはないと思われます。

以下、思いつき与太+コソコソ裏話。

炭治郎「鬼は、人間だったんだから」
獪岳 「鬼は、人間だったんだから」

同じ言葉を違う人物が言った場合の温度の違いたるや。




【コソコソ裏話】

柱合裁判官の際、幸が風柱の稀血の匂いに耐えられたのは、悲鳴嶼に哀れな子どもは一刻も早く死んだほうがいい、と告げられたためです。

当人に自覚はほぼありませんが、精神的ショックで呆然としており、外界からの刺激に一時的とはいえ極端に鈍くなっていました。

なので、現在風柱の血の匂いを嗅ぐと普通に酔うので、彼には近づきません。


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番外のニ話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。


では。


 

 

 

 

 

 

 小さな少女が一人、木の根本に座って空を見上げていた。

 丈の足りない薄物の着物から飛び出た、細く肉のついていない手足を無造作に地面に投げ出し、ぼんやりと動かずにいるのだ。

 金色の大きな瞳には、空に浮かぶ千切れた綿雲が映されていて、右手には先が土で汚れた尖った木の枝が握られている。

 棒を握ったまま、少女は見るともなく空を眺めていた。こうやってかれこれ数時間、ぼう、としている。

 朝飯時からお腹が減ったと腹をさすった子に自分の薄い粥を分け、腹が鳴らないように水をしこたま飲んだ。一番長くここに住んでいるから、平気だった。

 住まわせてもらっている寺の仕事は終わって、日課にしている字のおさらいも地面に木の棒で済ませた。

 だから、少女にはやることがなくなった。

 なくなったから、ぼんやり雲の数を数えているのだ。

 動くとお腹が減って気持ち悪くなるから、動かないのが一番楽だ。

 

「幸ぃ!どこぉ?」

 

 それでも、名前を呼ばれたなら行かないわけにはゆかなくて、少女は木の幹に手をついて、ゆっくり立ち上がった。

 右足は棒きれのようでうまく曲がらないから、どうしても動作が遅くなる。

 ひょこひょこと歩いていけば、名を呼んできた仲間の女の子に手招きをされた。

 

「どうしたの?」

 

 尋ねると、柱の陰に隠れているその子は、廊下に並ぶ部屋の一つを指さした。

 

「……また?」

「また、よ」

 

 二人で頷き合った。

 この寺に住んでいるのは、子どもが数人にお坊様が一人。

 子どもは皆お坊様に拾われた子で、流行り病に親を取られたり、戦争に親を返してもらえなかったり、売られた先で逃げたり、捨てられたりと、様々だ。

 お坊様────行冥さんは、そういう子を見ると放っておけない質で、だから時々子どもは増える。

 金目の少女は、赤子のころ寺の前に捨てられて拾われ、六年の間ずっとここにいるから、歳は一番上でなくとも、寺で過ごした長さは一番だった。

 だから自然、新しい子が来たら、彼女が面倒を見ることになっていた。

 ここに来たとき荒れている子も、金色の眼でじぃっと見ていると、なんとなく落ち着き、そのうち寺に馴染んでくれる。

 足が弱くて、他の子より外の仕事ができない少女には、向いている仕事だった。

 尤も、そんな機会はここのところ途絶えていたのだけれど。

 障子がからりと開いて、背の高い人が現れる。

 目は見えていないその人は、きょろきょろ辺りを見回した。

 

「行冥さん」

 

 名を呼ぶと、坊様の行冥さんはゆっくり微笑んだ。

 隣にいた子が他の子どもたちに話をするためか去って行くのを感じながら、少女は行冥さんを見上げた。

 

「幸か」

「うん。新しい子?」

「ああ。街外れで倒れていた。私はこれから少し出てこなければならないから、頼んでもよいか?」

「うん」

 

 こくり、と頷いた。

 一人増えると夕飯が足りなくなるから、行冥さんはその分を買いに行くのだろう。

 今はまだ蓄えがあるから、自分の分を削ると言い出さなくてよかった、と思う。

 これで十人目、と心の中で呟いた。

 行冥さんを見送って、入れ替わりに薄暗い部屋に入ると、件の子は布団の上に寝かされていた。

 

 多分男の子で、髪の色は黒、瞳の色は閉じているからわからない。右頬と左眼を紫色に腫らしていて、下唇には切った痕。腕は、治りかけの痣の上に痣が刻まれたせいで、黄色と紫、青の斑になっていた。

 殴られ、蹴られたのか、と察した。

 拳や履物の跡の大きさからして、大人にやられたんだろうと思いながら、少女は子どもの額に手を当てた。

 熱はない。

 が、それにしては呼吸が浅く速いから、もう少し経ったら熱が出るかもしれない。前に、別の子が熱を出したとき、こんな息をしていたのを覚えていた。

 冷えている井戸水でも汲んで来ようか、と考えている間に、ん、と男の子のほうがうめき声を上げた。

 じぃ、と少女はそれを見た。

 けぶる瞳が開かれて少女を捉え、一瞬で焦点を結ぶ。跳ね起きようとして仕損ね、彼はまた布団の上に倒れた。

 

「はじめまして。口はきける?」

「は?」

「あなたのけがはどこ?腹と背中に、あとは腰?」

 

 腕で胴と顔を庇ったからそんな有り様なんでしょう、というと男の子は、薄気味悪いものでも見たようにあからさまに引いた。

 最初は皆こうだから、少女はあまり気にしていない。顔にはいつも通りの、薄い笑顔が乗っているはずだ。

 

「……誰だ、お前」

「幸」

「あ?」

「幸福の幸とかいて、さち。名字はない。ここは寺。あなたは、行冥さ……お坊さんがひろって来た十人め」

 

 拾って来た、の一言に男の子が反応した。

 倒れていたのを連れてきたと言うなら、自分がどうなったのかわかっていないのだろう。

 ここまで痛めつけられている子は初めてだが、とりあえずいつものように名を名乗ったのだが、いけなかったのだろうか。

 

「拾って来た……って」

「街でたおれていたから、連れてきたといわれた。ここにいてもいいし、でていってもいい。でもたぶん、あなたは夜に熱がでる。そのけがだと、半里あるくまえにたおれる」

 

 夜の山で倒れるのは危ないから、ここにいたほうがいいと思うが、選ぶのはこの子だ。

 

「あなたの名前は?」

「……」

 

 言わないのも、この子の勝手だ。

 名前が無い子が来たことはないけれど、単に今まで来ていなかった、というだけかもしれない。

 

「ここは寺で、人買いの家じゃない。殴られることもないから」

 

 そこまでを言って、少女は男の子の顔を改めて見た、

 言えることは言ったのに、それでも男の子の瞳の奥から戸惑いや怯え、敵意がまったく薄れないから、少女は首を傾げた。

 

「水と布と薬、とってくる」

 

 石みたいに黙り込んだ男の子をそこに置いて、少女は部屋を出る。

 案の定、それから一刻後に男の子は熱を出して、一晩熱に浮かされることになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十人目になった男の子は、名を言わなかった。

 名が無いのではなく、言わない。

 その上ろくに口をきかない。ぎらぎら光る目で、こちらを観察しているばかりなのだ。

 怪我がひどいから動けないでじっとしているしかないから大人しいが、動けるようになったら大変かもしれない、と少女は思った。

 それでも行冥さんは、受け入れる気のようだった。

 行冥さんが受け入れると言うなら、受け入れる。追い出したら、行冥さんが悲しむ。

 だから、本心で心を込めて面倒も見る。

 他の子たちは、無愛想で寝てばかりの男の子をあまり受け入れたくなさそうだったけど、行冥さんの言う事ならばと渋々受け入れていた。

 一人増えるからには、布団を買ってこないとならないと、久しぶりに街まで降りたのは、少女と行冥さんだけだった。

 秋の終わりが近いから、他の子らは薪拾いやなんやらの冬仕度に忙しい。足が悪い少女は、どうせ大した量の薪も拾えないから、こちらの仕事に回されたのだ。

 これ以上誰かを拾ってこないように見張っておいて、という意味も含まれていたかもしれないけれど、少女はそこまでは知らない。

 

「古道具屋、いくの?」

「ああ。さすがに、ずっと私の布団を貸しっぱなしというわけにも行かないからね」

「うん」

 

 予備の布団など、孤児を抱えた盲目の御坊がやっている寺にはないから、あの名乗らない子は行冥さんの布団を使っていて、行冥さんは雑魚寝に混ざっている状態だ。

 

「ここで待っていなさい」

 

 傾いた看板を掲げた道具屋の前で、少女は頷いた。

 この店の中はごちゃごちゃしているから、足が何かを引っ掛けて壊してしまうと大変なことになる。

 だからいつも、外で待っているのだ。

 寒い、と薄い単衣(ひとえ)の着物を突き抜けて吹き付ける風に、手を擦り合わせる。

 いつもは夏の布団を売ったお金で、冬の布団を買っているのだ。あの子の分が一つ増えたら、どこかでお金を手に入れないとまた暮らしがきつくなる。

 食卓が侘びしくなったら、他の子は面白くないだろう。子ども同士が仲良くないと、行冥さんは悲しむから、それは嫌だった。

 また街に働きに出ようかな、と少女は考える。

 少女は物運びはできないけれど、読み書き計算と針仕事は一通りできるから、手が空いていれば商家やお金持ちの家で使ってもらえる。

 特に計算はべらぼうに速くて、学校を出た大人にも負けていないらしい。だから、帳簿付けを手伝ったりして、お金が貰えるのだ。鬼除けの藤の花のお香を買う分くらいにしかならないけど、やらないよりはいい。

 着たきり雀で、痩せて膝小僧が飛び出しているような子への哀れみでもお情けでも、お金が貰えるならなんでもいい。

 ちなみに、行冥さんには街に一人で出てお金を稼ぐことに難色を示されたけれど、子ども総出で押し切っている。

 ただ、流石に明らかな女衒(ぜげん)に会ったときは逃げた。

 お嬢ちゃんならきれいなべべ着て、男の人にお酌をしていればいい暮らしができるよ、お家に仕送りもできるよ、と言われたことがあるけれど、そんな甘い言葉は信じられなかった。

 悪い人は、いつも良いことしか言わない。

 そんな良い話なんて、あるわけないのだ。

 第一、足が悪い子どもなんて二束三文に決まっている。仕送りなんてできる道理がどこにある。

 こういうときは、体が丈夫な男の子が羨ましい。男なら、兵隊さんになれるからだ。

 

 土で汚れた自分の足先を見ていると、ふいに影が差した。

 

「ねぇあんた、泥棒かくまったってほんと?」

 

 耳の奥に突き刺さる尖った声に、俯いていた顔を上げる。

 目の前には着物の上に綿入れを着て、二本のお下げにリボンをつけた女の子がいた。

 絹なのか、艶のある黒髪を飾る青いリボンはしっとりした光沢を放っている。少女が着ている着物のように、襟元が垢じみててらてら光っていたりしない。

 その綺麗な布切れ、売ったらいくらになるのかな、と少女はぼんやり考えた。

 

「答えなさいよ。あんたのところに、泥棒小僧が拾われたって父さまが言ってたわよ」

 

 にやにや笑っている女の子が一人、その後ろには似た感じの女の子が二人と、男の子が三人。

 

「しらない」

「そんなわけないじゃない。泥棒をかくまったなんてばれたら、あんたたちみんな役人に突き出されるわよ」

「わたしはしらない」

 

 元々とんがった狐目をさらに吊り上げたこの子は、街で一番お金持ちの家の子だ。

 周りの子は取り巻きみたいなもので、少女のみならず寺のみなし子たちを見つけると、からかいに来る。

 こんな暇なことに時間を割く子でも、家族にとっては可愛い娘だから、ちょっとべそっかきになって帰ろうものなら、途端に周りが大騒ぎするのだ。

 特に、この子の兄は歳の離れた妹の可愛さしか目に入っていなくて、底意地の悪さがまったく見えていないようだから、厄介極まりない。

 本当なら関わり合うのも煩わしい。

 でもこの子は、少女を見つけるとこうやってよって来る。

 虫の死骸に群がる蟻のようなその嗅覚を、もっとマシなことに向けられないのだろうか。

 今日もこの女の子は、薄く笑ったまま淡々と語る少女の言葉が気に入らなかったらしい。

 偉い人みたいに反っくり返って、鼻の穴を膨らませた。

 

「知らないってんなら教えてあげる。そいつ、隣町でずいぶんあくどくやってた小僧よ。カイガクって変な名前の、人をだましてた盗人!」

「……盗人なんてしらない。盗られるものも、ない。気をつけないといけないのは、あなたたちの家だと思う」

 

 盗られたら困るものが多いお金持ちのほうが、泥棒が怖いに決まっているから忠告したつもりだったのだ。

 なのにやっぱり今日も、平手打ちされて顔を引っかかれてしまう。

 解せなかった。行冥さんに隠せたのはよかったけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かいがく」

 

 夕飯の、薄い粥と菜っ葉の汁物を持って行ったときに呼んでみれば、男の子は危うく白湯の入った湯呑を倒しかけた。

 

「お前、それ……」

「街できいた。やっぱりあなたの名前なんだ」

 

 泥棒の名前だって聞いた、と続けると男の子、改めかいがくは顔を歪めた。

 

「べつに、わたしはあなたを役人さんにつき出したりしないよ」

「は?」

「行冥さんがあなたをひろってきて、ここで暮らしてほしいって言ったから。役人さんが、わたしたちに何かをしてくれたこともないし」

「……」

「それから、隣町にはもういかないほうがいい。あなたの名前、ここまできこえたくらいだから」

 

 かいがくは、少女の言うことを測りかねているようだった。

 少女は限りなく本音で話しているのだし、そもそも本音を隠して語ると言う器用なことができないのだが、人に信じてもらえるのかと言えば、話は別である。

 

「どのみち、もう冬が来る。いくあてがないなら、ここにいればいい」

 

 言葉を重ねても、かいがくはじろじろと、引っかき傷をこさえた少女を睨めつけるだけだった。

 痣だらけの腕は持ち上げるのも痛くて困難だろうからと、食事を手伝っているのに、少女を不気味に思っているのか、かいがくは自分からはなかなか喋ろうとしないのだ。

 懐かれようが懐かれまいが少女にはどちらでもいいのだが、逐一睨まれながら世話をするのは、ひとえにやりにくいのだ。

 

「かいがくって、どういう字を書くの?」

「教えるわけねぇだろ」

「なんだ。あなたにはちゃんと字があるんだ」

 

 適当な呼び名だけで、字をもらっていないのかと思った。

 ちゃんと字をもらっているのなら、この子には少なくとも、名前をくれた誰かがいたのだ。

 少し、安心できた。

 

「うるせぇ!出てけ!薄気味悪ぃんだよ、テメェ!」

 

 それなのに、空になったお椀を投げつけられてしまったものだから、少女はそこでようやく久しぶりに笑みが剥がれた、困った顔になってしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名前の字がわからないかいがくは、怪我が治っても寺に居着いた。

 あの子はかいがくだよ、と少女が皆に言って回ったから、行冥さんや寺の仲間は皆かいがくと呼ぶようになった。

 

「かいがく」

「……どっか行けよ」

 

 それから、いつものようにかいがくの面倒は、少女が見ることになった。

 他の男の子たちは面倒だから嫌だと言ったし、行冥さんから頼まれたから、少女はこくんと頷いて、引き受けた。

 ただしこいつ、物凄く相手にしづらかったのである。

 声をかけたら顔を歪める。側に寄ったら髪を引っ張る。腕を掴んだら反対の手で突き飛ばしてくる。

 この寺で一番の古株じゃなかったら、泣いているところである。いや、結構涙で目が滲んでいた。

 というか、実際かいがくに突き飛ばされて井戸にぶつかった少女を見た一番歳下の子、沙代が大泣きしてしまった。

 打ち付けて痛い腰を庇いながら、沙代をあやしているうちにかいがくはぷいと何処かへ消えてしまうし、散々である。

 

「ねぇアンタ、アイツに関わるのやめない?」

「……ん?」

 

 井戸端で野菜を洗っているとき、少女に尋ねたのは二つ歳上の三津(みつ)だった。

 勝ち気そうな大きな黒目の女の子で、今日も腰に手を当てて少女を見下ろす目の中には、硬い光があった。

 

「アイツ、泥棒なんでしょ。そんなやつ置いてて、あたしたちが街の人に嫌われたらどうするの」

「かいがく、何も盗ってないよ」

「盗るものがないからでしょ。うちの蓄え見つけたら、絶対盗むわよ。アンタだって、アイツのこと嫌いでしょう?」

「嫌いじゃない」

「……それ、行冥さんがそう言ったからじゃないの?」

 

 こてり、と少女が首を傾げると三津は肩を落とした。

 

「わかったわよ。アンタ、行冥さんのこと大っ好きだもんね。それ以外がどうでもいいくらいには」

「どうでもよくは、ないよ。かいがくのことは、どうでもよくない」

 

 冬に追い出したりなんかしたら、寒さで凍え死んでしまう。名前と顔を覚えた子どもがそんな目に遭うのは、嫌だった。

 どうだか、と三津は少女の言葉を聞いて片頬だけで笑った。

 

「とにかく、あたしはアイツ嫌いだから。アンタは、変なことしないかちゃんと見といて。それから沙代の前で怪我とかしないで。あの子、アンタが怪我するの見たら、またぎゃんぎゃん泣くわよ」

「うん」

 

 変なこと、が具体的に何かはあまりわからなかったけど、頷いておいた。

 別に少女も好き好んで怪我したわけではないし、泣きたいわけでもないから、本心ではあった。

 足音荒く三津がいなくなるのと入れ替わりのようにして、物陰からかいがくがぬっと現れた。

 唇を固くひん曲げていて、相変わらず頑固そうだ。さっきの話も、聞いていたのだろうか。

 

「かいがく、どうしたの?」

「……」

 

 無言で突っ立っているかいがくを見て、少女はおや、と思った。

 かいがくは、手に勾玉を持っていたのだ。そんなもの、昨日まで持っていなかったことは知っている。

 

「行冥さんに、もらったの?」

「……ああ」

「そう。よかったね。それ、お守りでしょ?」

 

 あかぎれだらけの、かさついた小さな手は、突如握らされた艶めく石を持て余しているようだった。

 青菜の水切りを終え、腰の手拭いで手をふく間も、かいがくはそこに勾玉を握りしめたまま突っ立っていた。

 

「やることないなら、来て。いいものあげる」

 

 そういえば、案外素直についてきた。

 握ったままの勾玉は、行冥さんが子どもたちに何かしら一つずつくれるお守りだ。

 三津ならば柘植の櫛を貰って挿しているし、沙代は小さな姫達磨を転がして遊んでいる。男の子たちは駒や小さな数珠を貰ったりしていた。

 かいがくの場合は、お守りが勾玉になったのだ。

 

「すわって」

 

 縁側にかいがくを座らせて、その間に少女は私物を入れた箱を持ってくる。

 綺麗な石や、木の実を綴って作った飾りなどがごちゃごちゃと収められた箱の中には、青色の平たい紐が巻かれて収まっていた。

 

「おい、おま……」

「あげる」

 

 ぐい、と少女は平紐をかいがくに差し出した。

 

「石だけだと、無くすから」

 

 その紐は、少女が捨てられていたとき包まれていた布を捩って作ったものだった。

 二親の手がかりになるかもしれないから大事に取っておきなさい、と行冥さんに言われていたものだったが、少女は親が自分を迎えに来ることなど絶対にないと知っていたから、余分な場所を取るおくるみを、さっさと解して捻って紐にしたのだ。

 大事にしなさいと言われたから、捨てるに捨てられず、一応宝箱に入れて取っておいたものである。

 

 紐と勾玉を手にしたかいがくは、しばらくの間何も言わなかった。

 

「お前、その箱は?」

「だいじなものを入れてる箱。紐はあなたにあげる。勾玉、無くさないでね」

 

 箱の蓋を閉じて戸棚に戻すと、縁側から地面に降りて少女はがりがりと地面を木の枝で引っかいて字を書き始める。

 日課にしている、字の稽古の時間だったからだ。

 動かなかったかいがくは、ようやくのろのろ動いて紐を勾玉の穴に通すと器用に首に巻き付けていた。

 それから仏頂面のままで、地面に降りて少女の横に立った。

 

「それ、貸せ」

 

 少女の手から木の枝を半ば引ったくるように取り、かいがくは泥濘んだ地面に二つ字を刻んだ。

 

「獪、岳?」

「俺の名前。お前、聞いてきただろ」

「うん。……変わった字」

 

 素直に言っただけなのに、頭を叩かれた。

 誠に解せぬと、少女は珍しいしかめっ面で頬を膨らませたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「幸、獪岳」

 

 勾玉の飾りが獪岳に馴染んだころには、冬が終わって、春も通り過ぎていた。

 行冥さんに二人して名を呼ばれたのは、珍しく冷えこんた夜の翌日である。

 無口で仏頂面なのは相変わらずだが、獪岳は会話らしい会話もこなすようになっていた。

 幸のお陰だね、と行冥さんに頭を撫でられ、アンタの根気強さには負けたわ、と三津には言われたが、多分殴られたり怒鳴られたりすることがなく、量が足りなくとも食べるに困らないここの生活のお陰だろう。

 何せこいつ、小突くわ叩くわ引っ張るわと少女に対しては雑なのだ。一度、空腹で寺のお金を盗ろうとしたのを咎めて芋で我慢してもらってから、ずっとそんな調子である。

 しかも、決まって行冥さんたちが見ていないところでやりやがるから質が悪い。

 しかも、流石に苛立ちが爆発して、顎下に頭突きをかましたら、逆に驚いた顔をされた。

 何が、お前そんな顔もできたのか、だ。

 人を人形とでも思っていたのか。

 

「幸に獪岳。街に行って薬を買ってきてくれないか?沙代が熱を出してしまってね」

「うん」

 

 熱冷ましの薬草だけでは足りなくなったから、高いけれど街の薬屋に行ってほしいと言われたら、否はなかった。

 熱が出て苦しいから、沙代は行冥さんに側にいてほしいのだ。

 頷いて、寺を出た。

 

「早くしろよ、グズ」

「待ってよぅ」

 

 行冥さんだと、右足が曲げられない少女の足に合わせてくれるのだが獪岳はそんなこと、無論してくれない。

 結構頑張って、少女は獪岳の後を追いかけた。

 

「獪岳、街に行ったら目立たないようにしてね」

「あ?なんでだよ」

「わたしたちをからかう子がいる。見つかったら、薬もって先に帰って。あの子、特にわたしにしつこいから」

「……ふん」

 

 了解、の代わりに手をひらひら振られた。

 そのまま歩いていると、獪岳のほうが口を開いた。

 

「お前はさ、あの坊さんがくれたお守りっての持ってないのかよ」

「もってた。でもとられたから持ってない」

「は?」

「行冥さんに言わないで。泣かれたくない」

 

 少女も髪を結ぶ山吹色の組紐を持っていたのだが、二年くらい前に街の子に無理やり取られたのだ。

 雨上がりの日の溝に捨てられてしまい、どれだけ泥やごみを浚っても見つけられなかった。あのときは、哀しくて泣いた。

 行冥さんは目が見えないから気づいていないけど、聞いたらやはり泣くだろう。

 

「とられたくなかったら、あなたもお守りは、街で隠しておいたほうがいい」

 

 そう言うと、獪岳は勾玉飾りを外して懐に押し込んだ。彼も、貰った物を取られたくはないのだ。

 だというのに。

 

「ねぇ、あんた。あんたよ、そこの金目!待ちなさい!」

「……」

 

 薬屋から出た途端にきんきん高い声を聞いて、少女は金色の目を眇めた。

 薬の包みを獪岳にこっそり渡し、背中を押す。

 獪岳は、振り返りもせずにさっさと走って行った。わかっていたが、薄情なやつである。

 追いついてきた狐目の女の子は、にやにやと嫌な笑いを浮かべていた。

 

「あんたたち、あの盗人追い出さなかったの?」

「……それ、だぁれ?」

「カイガクよ!あんたもう忘れたの!」

 

 冬が来る前に聞いた名前なんて、忘れているのが普通だろうに、この子の中では覚えていて当然だったらしい。

 なんともまぁ、よい記憶力だ。

 

「盗人のカイガクなんて、知らない」

 

 街の子どもら数人が寄ってくるのを見ながら、少女は淡々と返した。

 

「わたしたちの寺に、たしかに子どもは一人増えた。だけど、盗人のカイガクなんて知らない」

「なによあんた、悪いやつを庇うの?」

「しらない。あなたこそ、そのカイガクって人を、見たの?そんな人、ほんとうにいるの?見てもいない人をつくって、あなたはわたしをいじめたいだけなんじゃない?」

 

 大した嘘つきだと、少女は心の中で自分自身を嗤った。

 獪岳は本当にいるし、なんならさっきまでここにいた。泥棒をしようとしたことも本当だ。

 だけどこの女の子が、正しいことをしようとしているのではなくて、少し自分らと毛色が違う少女をいじめて楽しみたいだけだというのも、本当なのだ。

 

 少女は盗人と酒飲みは大嫌いだ。

 親を思い出すから。

 

 だけど、獪岳は嫌いではない。

 一緒に住んでいるから。

 

 そしてこの子らは嫌いだ。

 人の宝物を捨てたから。

 

 しかし常は言葉少なに反論するだけの相手が、長く喋ったのが女の子の堪に障ったらしい。

 

「う、うるさいのよっ!親無しっ子のくせに!」

 

 どんっ、と突き飛ばされた。板塀に背中を打ち付け、肺からかふ、と空気が漏れる。

 咄嗟に顔を庇うと、間一髪で手の甲に痛みが走る。爪で引っかかれたのだ。庇っていなかったら、目に当たっていた。

 しゃがみ込んで腹を守れば、誰かに三つ編みにした髪を掴まれて、腰の辺りを蹴られた。地面に倒れれば、拳が降ってくる。

 

 ─────ああ、嫌だなぁ。

 

 こんな無意味を働かずに、自分たちの家でそれぞれの親の膝に甘えていればいいものを。

 すぅ、はぁ、と上手く息を吸って吐き、要らない力を抜く。

 腹や頭を深く怪我しなければいい。

 どうせ飽きたらやめる馬鹿な遊びだ。当たるのだって、やわらかい子どもの拳。

 一番古い痛みの記憶に比べたら、なんてことはない。

 

 わあわあと容赦ない雨のように降ってくる声は、頭の中から締め出した。

 こんな言葉、()()()()()()()()

 

 ぼんやりしていたから、少女は子どもたちが途中から手を止めて勝手に喚き出したのに気づくのが、遅れた。

 

「おい、グズ!」

 

 ぐい、と襟首の辺りを掴んで引きずりあげられる。

 

「え」

「ボケんな!走れ!置いてくぞ!」

 

 怒鳴られ、訳がわからないままに、足を動かす。息が上がり切るまで走って気づいたら、荷車の陰に転がり込んでいた。

 隠れ場所の前を、子どもたちが騒ぎながら通り過ぎて行く。

 ようやく少女は、ここまで自分を引きずった相手の顔を見た。

 

「……獪岳?」

 

 隣に座り込んで肩で息をしているのは、獪岳だったのだ。

 

「……なに、したの?」

「猫とっ捕まえて、あいつらン中に放り込んだだけだ」

「え、ねこを……」

 

 猫が好きな少女は少し固まり、ぜぇぜぇと息が荒い獪岳は、横目で少女を睨んだ。

 

「お前をほっとって帰ったらな、寺のあいつらに俺が怒鳴られんだ。下手すりゃ締め出しくうんだよ」

「……」

「なのにお前は足遅ぇし。なんでまともに歩けもしねぇんだ、馬鹿が。喧嘩もできねぇくせに喧嘩売ってんじゃねぇよ、グズ」

 

 喧嘩を売ったつもりはない、と言おうとして、口から出たのはてんで違う言葉だった。

 

「……けが」

「あ?」

「治らないけが、あるの。ごめん。わたしの足、一生こうだから」

 

 だから、ごめんなさい、とまたいうと目の前が滲んだ。

 無理に動かした膝が、痛みを訴えている。たった今叩かれ殴られた怪我より、白く残る古い傷が痛くて、少女は喉奥で泣いた。

 怖かった。本当はとても、怖かった。

 怖い思いをしていたときにいきなり掬い上げられたから、どういう顔をしたらいいかがわからなくて、勝手に涙が出てきたのだ。

 

「馬鹿お前、泣きやめ!」

 

 そう言われても、涙はなかなか止まらない。

 結局、少女は泣き腫らした顔で寺に帰ることになり、それを見た三津や寺の子たちが勘違いで獪岳を殴りそうになり、それを止めようと散々騒いでいるうちに、行冥さんに、いじめられていたことから何から何まで、全部ばれた。

 そういうことは隠さないでもっと早くに言いなさい、と涙ながらに少女は叱られ、獪岳は頭を撫でられてほんの少し嬉しそうに笑っていた。

 

 夏の盛りを過ぎた、ある日のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アンタさぁ、アイツが来てから変わったわよね」

「うん?」

 

 獪岳が寺に来てから、季節が一巡りと少しした、ある春の日。

 縁側に少女と並んで、豆の鞘剥きをしていた三津が、唐突にそんなことを言った。

 寺を取り巻く空気の中に、藤の花のお香の匂いが混ざり始める、黄昏時のことだった。

 小刀を片手に、竹を削いで竹とんぼを作っていた少女は、きょとんと首を傾げる。

 

「あいつって、獪岳のこと?」

「そうよ。アンタ、前はいっつも笑ってばっかりだったでしょ」

「え?」

 

 自覚なかったのね、と三津はため息をついた。

 

「何があってもにこにこしててさ。アンタが悪いこと考えられない性格ってわかってても、ずれてるみたいで、ちょっと気味が悪かったのよ。アンタはさ、行冥さんに教わった通りの()()()()()しかできないのかと思ってたわ」

「……わたし、気味悪い?」

「前のことよ!前!獪岳が来る前のアンタ!」

 

 三津は、ばたばたと手足を振った。

 

「だけど、アイツ来てから、泣くし、怒るし、声上げて笑うようになったじゃない。だから、獪岳に困ってたアンタには悪いけど、あたしはほっとしたの。アンタも普通に怒れるんだって、ね」

 

 そこまで言って、三津はきゅっと唇の端を吊り上げた。

 

「あたしはまぁ、獪岳のことは今でも好きじゃないけどね」

「獪岳、やっぱりきらいなの?」

「だってアイツ、意地が悪いもん。すぐ拗ねるし、めんどくさいのよ。だけど、街のやつらよりはマシだし、もう追い出したりしないわ」

 

 そっか、と少女は少し笑った。

 相変わらず、髪は引っ張られるしグズと言われるし、優しいとはお世辞にも言えないが、三津が嬉しいのは嬉しかった。

 

「そうそう。その顔よ。前の変な笑顔より断然マシね」

「えぇ……」

 

 そんなに変だったのかなぁ、と頬を抓ってみた。

 どこかが変わった自覚はないのだけれど、自分の顔なんて見えないから、案外そんなものかもしれない。

 どたばたと、お堂の入り口辺りで騒ぐ音がしたのは、そのときだ。

 黄昏時の薄闇の中を、黒い着物の小さな人影があっという間に走って行ってしまうのを見た。

 

「は?」

「あれ、獪岳?」

 

 どういうことだろう、と三津と二人して腰を浮かせたとき、他の子たちがばらばらと寺から外に出てきた。

 一番小さな沙代が、べそをかいていた。

 

「何があったの?」

「獪岳がさぁ……」

 

 寺を囲むようにしてたく鬼除けの藤の香をつけていたとき、沙代の大事にしていた張り子の姫達磨をうっかり蹴飛ばし、壊してしまったというのだ。

 素直に謝ればいいのに、こんなところに置いておくほうが悪いのだと開き直ったものだから沙代が泣き出し、それを男の子たち皆に叱られてぷい、と飛び出してしまったというのだ。

 

「な、何してんのあの馬鹿は!もう夜になるのに!」

 

 剥きかけの豆の鞘を振り回して怒る三津を、少女は慌てて止めた。豆に罪はない。

 しかたないなぁ、と作りかけの竹とんぼを置いて、小刀を懐にしまう。

 

「わたし、むかえに行ってくる。獪岳がへそ曲げたときに行く場所、いつもおんなじだから」

「待ちなさいよ。アンタ一人で行く気?」

「うん。獪岳、多分みんなで行ったらまたへそ曲げそう」

 

 変なところで面倒な性格なのである。

 一人のほうが、さっさと説得できそうだというと、皆渋い顔ながら頷いた。

 

「行冥さんには?」

「……先に寝たって言ってて。でないと、おいかけてきちゃいそう」

 

 行冥さんは目が見えないから、夜道は危ないのだ。

 ちょっとした嘘をつくことになるのだけど、どうせそんなに遠くには行っていないはずだ。

 ぱっと行って、すぐ帰ればいい。慣れた道だから、迷うわけがなかった。

 

「気をつけるのよ」

「うん」

 

 三津や沙代、少し罰が悪そうにしている男の子たちに手を振る。

 歩き出した少女の前には、黄昏時の生ぬるい薄闇が広がっていた。

 

 

 

 

 ─────そう。

 

 

 鬼が隠れる夜の闇が、広がっていたのだ。

 

 

 

 少女は─────()()()()、それに気づいていなかった。

 

 鬼を知ってはいても、どこかで信じていなかった。

 見たこともない鬼がいる暗がりより、沢山の冷たい人間が住む明るい街が怖かった。

 

 だから、気がつかない。

 

 ─────これは()()()の、記憶で、もう決して取り戻せない昔の話。

 

 泣いても喚いても戦っても、時間は逆しまには流れない。

 失くしたものは戻らず、それでも生きていかなくてはならない。

 

 ─────だってわたしは、人間だから。

────化け物に生まれたわけじゃ、ないのだから。

 

 

 

 ─────そうやって。

 何処かの暗い部屋で、金色の瞳が二つ、開かれた。

 




過去の話、起きた話。
悲鳴嶼行冥の寺にいた子どもの名前及び、勾玉の入手時期を捏造しました。

しっかりもので少し短気な長女:三津
ほけほけでやや危なっかしい次女:幸
泣き虫で甘えん坊な三女:沙代
という具合。
全員が成長できていたら、物語現時点で19歳、17歳、14歳になったはずでした。


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七話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 饐えている、というのが率直な感想だった。

 どこがどう、というのではない、漂う空気が饐えている。淀んでいる。

 売られた少女を集めて借金で店に括り付け、客を取らせる街には相応しい空気だ。

 きらびやかに飾り立てた花魁も、内実は借金地獄で、花街からはなかなか抜け出せないと聞く。

 良い旦那に身請けされるか、年季が開ければここからは出られるが、そんな幸運に恵まれる女郎は少ない。足抜けに失敗すれば、よくて半殺し。悪ければその場で責め殺される。

 彼女らの多くは病で死んで無縁仏として寺に放り込まれるか、老いて客がつかなくなって切見世に沈むか、私娼窟に投げ込まれるかだ。

 生まれては苦界、死しては浄閑寺、とは誰の言葉だったか。

 その言葉に絡んで、わたしももう少し大きくて、足がこうでなかったら岡場所に売られていたろうね、といういつかの幸の冷めた声が思い出された。

 あれは、何かの弾みで街に出て、人買いに声をかけられたときだった。

 人買いは容易く人攫いに化けるから、これはまずいと、幸の手を引いて逃げたのだ。あのころの幸は足がうまく動かない鈍間だったから、逃げるのに手間をくった。

 売れる歳まで育てることすら嫌だったから捨てたんだろうけど、とあのとき七つの幸が言ったことは、真実だったのだろう。

 咄嗟になんと返せばいいかわからず、お前なら良い値で売れただろうな、と憎まれ口半分に答えた餓鬼の自分は、流石に顎下を平手打ちされたはずだ。

 今思うと、よく平手打ち一発で済んだものだ。

 

 それはともかく、と獪岳は過去の記憶から意識を逸した。

 

 吉原に鬼が紛れ込んでいる、というのは有り得そうな話だ。

 鬼は、男より栄養価が高くなる女を好んで喰うというから、遊女から見習いの少女から、とにかく女が多いこの街は餌に困らないうってつけだろう。

 だが、遊女というのは店の持ちものであり、財産だ。

 姿を眩ませれば、当然騒ぎになる。

 足抜けで誤魔化すにも限界がある。仮に売れっ妓の花魁が足抜けして姿を消したとなると噂になる。

 実際、誤魔化しきれなくなったから音柱に目をつけられたのだろう。

 が、まったく忍んでいない元忍びの音柱、くのいちだという彼の嫁三人でも見つけられないとなると、十二鬼月かもしれない、と獪岳は考える。

 雑魚な鬼なら、食欲に負けて人間を喰い、ばれているはずだ。

 身を隠し気配を消して、狙い定めたご馳走だけを喰っているとなると、格段に厄介になる。

 

「……どいつだろうなぁ」

 

 鬼が人に化けて潜んでいるとするなら、どこにいるのだろう。

 楼主や女将は長く見た目が変わらなければ怪しまれるだろうから外すにしても、こうも人が犇めいている場では、仮に竈門や善逸の鼻や耳で見分けられたとしても、下手に正体を暴けば今度は大立ち回りになって被害が甚大になりかねない。

 列車のときのように、人質を取られると一気に戦いづらくなる。

 幸がいれば、ある程度の範囲を離れた場所から索敵できたのだが、こちらは未だに珠世から連絡がないから、獪岳からはどうしようもない。

 

 いないと、本当に自分がどれだけあの小さい少女に頼っていたかが浮き彫りになる。

 剣の稽古でも、師匠から何度か言われているのだ。君は自身の護りが甘いきらいがある、と。

 それは獪岳が『幸が庇ってくれる』と思い込んでいる部分があるからだ。

 実際これまではそう戦ってきたのだが、珠世や愈史郎によれば、幸は頭をひどく怪我すれば、また理性を失いかねない。

 獪岳を庇っていらぬ怪我をし続ければ、限界が来るのだ。

 元々、幸が本気で動けば、獪岳では追いつけない。並みの鬼より体が脆い分、幸はそれだけ速いのだ。

 追いつけないはずなのに、追いつけて共に戦えているのは幸が獪岳を庇うために、遅く動いているからだ。

 自分が枷になっていると考えると、苛立ちで胃の腑が焼けそうになった。

 

 苛立ちはすべて、稽古で自分の動きを見直すために注ぎ込んだ。

 五日十日で、体に染み付いてしまった癖がどうにかなるものではないが、自覚ができただけマシだろう。

 

 この街の、饐えた空気を嗅いでいるとそんな苛立ちを思い出してしまった。

 昔は、こういう懐を掏られても気づかないような間抜けが彷徨く街にいれば、食うことはできていたのだが、今はなんともこの空気が煩わしかった。

 清潔で空気が澄んだ蝶屋敷に、慣れてしまったせいかもしれない。

 あの凸凹凸な三人組の女装など遅かれ早かればれるだろうから、それまでに鬼の情報があがればいいと思う。

 鬼殺隊員ならばばれても、自力で勝手に逃げて来れるだろうからと、獪岳はそちらはとんと気にかけていなかった。

 音柱が探しているという三人の嫁に関しては、正直なところ獪岳は生きているとは思っていなかった。

 死んでんじゃねぇの、と口にした伊之助が音柱に殴られていたから黙っていたが、鬼が捕まえた鬼殺隊の人間を生かしておく理由などない。

 まして女と来れば、既に喰われているだろう。

 が、音柱には諦めている様子がない。

 九年前に鬼に喰われて死んだはずの人間も生きていただろうがと言われれば、獪岳はその通りだと返すしかないし、本当に死んだとわかるまでは任務を続けるしかないのだ。

 ふらふらと歩く酔漢や忙しく歩いていく男たちを避けて歩いていると、耳に声が届いた。

 

「……あそこの……もなぁ……女将が死んだだろ?」

「ああ……どんな別嬪…ても……ナァ……」

 

 足を止めて振り返れば、声の出処は路地に置かれた縁台に座った男たちである。

 女待ちをしている客なのか、一様に洒落た和装洋装が入り混じる彼らは、皆煙草をふかして無駄話に興じていた。

 

「なぁあんたら、ちょっと聞きてぇことがあんだけどよ」

 

 妙な死に様にまつわる話は、とりあえず聞いたほうがいいだろうと獪岳は路地へ踏み込んで行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 我妻善逸が潜入できたのは、『京極屋』である。ここには音柱の嫁の一人、雛鶴という人がいたはずだった。

 だが、他二人と同じく姿を消したのだ。

 彼女を探しに来たわけだが、手がかりはとんと得られない。

 耳を澄ませてはみたが、大勢の女性が慌ただしく働く音しか拾えない。ここでは、鬼の音が仮に紛れていても聞き取れないかもしれなかった。

 テメェに耳の良さ以外の取り柄があんのかよ、という兄弟子の罵声を思い出しつつ、善逸はうろうろと店の中をそぞろ歩いていた。

 昨日入ったばかりの子どもとあってか、仕事は簡単な荷運びや、掃除くらいしか言いつけられていない。

 炭治郎や伊之助も似たようなものだろう。

 

 ガァ、と一羽の鴉が善逸の肩に止まったのは、まさに店の裏手を箒ではいているところだった。

 

「どわっ!?何なに!?」

「ガァ!善子ニ手紙、手紙イィ!」

 

 最後の言葉を二度繰り返す癖のある鴉の声に、善逸は覚えがあった。

 兄弟子の獪岳の鴉である。獪岳よりも幸と仲が良いらしく、時々彼女の手から木の実を貰っている食いしん坊な鴉だ。

 ぽと、と善逸の手の中に手紙を落とした鴉は、物陰に隠れた。

 とっとと読め、と睨まれているようで、善逸は慌てて手紙を開く。

 

「京極屋の女将さんが死んだ理由が何か……?」

 

 走り書きしたらしい斜めの字で、そんな一言が記されていた。

 引っくり返しても日に透かしてみても、それだけしか手紙には書いていないのだが、要はこれを調べろということなのだろう。

 

「獪岳、何かつかんだのかなぁ」

「グァ!獪岳ハ、不機嫌ニ街ヲ歩イテイル!歩イテイルゥ!」

「あ、やっぱり不機嫌なんだ……」

「グァ!幸ガイナイ!イナイィ!イタラ、鬼ヲモット調ベラレタ!故ニ不機嫌!不機嫌ンン!」

 

 この鴉も、幸がいつ戻るかは知らないらしい。

 改めて手紙に書かれた文字を見れば、大分斜めに傾いた金釘流だ。急いで書いたのがありありとわかる。

 丁寧に折り畳んだ紙切れを懐に仕舞い、善逸は鎹鴉の前に屈んだ。

 

「わかった。女将さんのこと聞いてみるよ。獪岳にもそう言っといてくれる?」

「了解シタ!シタァ!気配ニ気ヲツケロ!獪岳ノ弟弟子!弟弟子ィ!」

 

 ばし、と翼で善逸の脛を叩き、ぴょんぴょんと跳ねて離れてから、鴉は飛び立っていった。

 鴉に弟弟子と呼ばれたことが嬉しくて、少し頬が緩む。

 何気に、これが獪岳から善逸へ送られてきた初の手紙である。手紙というより走り書きだが、手紙は手紙だ。自分が手紙と思えば手紙なのである。うん、間違いない。

 

「よしっ!」

 

 頬を叩いて気合を入れかけたところで、白粉が剥がれることを思い出し、慌ててやめた。

 音柱に白粉を何重にも塗ったくられた善逸たちの顔を指して、獪岳は不細工なおかめ野郎と遠慮なくこき下ろしてくれたものである。

 あっちは女装なしなのが心底羨ましい。

 女装したらしたで、とんでもないものが仕上がっていたとしても、帰ってから一発くらい脛を蹴っとばしても、バチは当たらないと思うのだ。後で漏れなく百倍返しされそうだが。

 が、いつまでも愚痴っても仕方ない。

 仲は改善のかの字もないが、あの兄弟子と同じ任務で戦えているし、ほんの僅かにしてもあちらから頼られているのだから。

 それを思うと、頬が緩みそうになる。

 獪岳に見られたら気持ち悪ィとまたも蹴飛ばされそうだから抑えているし、鬼がどこにいるかわからず、行方不明者も見つけられない状況なのは笑っていられないほど大変で怖くて堪らないが、それでもだ。

 

「こらあんた!いつまで掃除してんだい!次の仕事はやったのかいっ!」

「は、はいっ!今終わりました!すみませんっ!」

 

 決意を新たにした端から矢のように飛んで来た店の女の甲高い怒鳴り声に、善逸は立てかけていた箒を慌てて掴んで答える。

 店の中に飛び込めば、女中の一人が腰に手を当てて仁王立ちになっていた。

 

「次は蕨姫花魁への贈り物を届けるんだよっ!早くしな!」

「わ、蕨姫花魁……?」

「北の角部屋に行きな!いいかい!くれぐれも花魁の機嫌を損ねるんじゃないよ!」

 

 善逸に怒鳴り散らした女は、どたどたと去って行った。

 その彼女から聞こえるのは、怯えを孕んだ音。たった今自分が口にした蕨姫という名前に、まるで怯えているようだった。

 蕨姫は確か、今の吉原で売れている花魁の一人だったような気がする。

 そういう花魁ともなれば、馴染みの客から贈られる物も山と積まれる。

 事実、どさりと置かれたきらびやかな小物や着物の山を目にして、善逸は目が点になった。これすべてをたった一人の花魁の部屋に運ぶのかと。

 こちとらそれなりに鍛えた鬼殺隊員でしかも男だから運べるが、音柱が化けた仲介人の売り込み通りの十五歳の女の子だった場合、そんなさっさと運べるものではない。

 それを全部押し付けるなんて、新人いびりかと思うが、あの怯えて狼狽えた様子ではむしろ、自分が蕨姫花魁と顔を合わせたくないから、全部押っつけて来たという感じがあった。

 

「北の角部屋って言ってたよなぁ……」

 

 荷を担いで呟けば、怖いことが頭を過る。

 蝶屋敷にいるときの獪岳は、幸がうろつくからと北側の、日の当たりにくい部屋を選んで居着いているのだ。

 北の角部屋、つまり日の当たりにくい部屋にわざわざ住まうなんて、まるで日光を厭うているようだ。それこそ、鬼のように。

 それに獪岳は、わざわざこの店の女将の死を調べろと言ってきたのだ。この店に何かあると思わなければ、あの兄弟子が自分に手紙など送ってくるわけがない。

 

「えぇぇぇえ……。嘘過ぎない?」

 

 自分の思いつきが足を竦ませる。

 しかしまさか、誰かを頼るわけにはいかない。

 周りは鬼のことなど何も知らない普通の人間ばかりで、彼らは皆、いざとなれば善逸が守らなければならない人たちなのだ。

 

「うぅぅぅ……」

 

 それでも行きたくないよぉ、と耳を澄ませた途端、善逸の足が止まる。

 人より何倍も優れた耳が拾ったのは、微かな女の子の泣き声。それは善逸が、今から向かおうとしている方角から聞こえていた。

 聞き取った瞬間、善逸はしゃんと背中を伸ばしてきりりと眉を引き締めた。

 

「よし、急ぐぞ!」

 

 泣いている女の子とみれば、誰であろうとどこにいようと放っておけずに駆け出してしまうのが、良くも悪くも我妻善逸という少年の変わらない性なのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 音柱が指定した定時連絡の場所は、屋根の上だった。

 なんでそんな場所で、と思うが上官命令は致し方ない。とん、と獪岳が屋根に飛び乗れば、竈門と猪頭を外した猪頭は、既に来ていた。

 しかし何故か、屋根の上では猪頭が竈門の頭をぺしんぺしんと叩いている最中である。

 なにやってんだこいつらと、獪岳は屋根の上で呆れた。

 気配に気づいたのか、箱を背負ったままの竈門が獪岳の方を見た。

 

「獪岳さん!」

「うるせぇ。お前ら、なんか見つけたか?」

「だから見つけたつってたところだよ!俺んところに鬼がいるってんのに、権八郎が信じねぇんだ!」

「い、伊之助、それはちょっと待ってくれ」

 

 叩かれながら竈門が反論するが、今来たばかりの獪岳は、何が何やらわからない。

 ぎゃあぎゃあ騒ぐ猪頭もとい伊之助の話をよく聞けば、要するに自分の潜入した店に鬼が出たからとっとと退治しに来い、ということなのであった。

 

「お前が入ってんのは、荻本屋だよな?」

「ああ!バチバチ野郎、お前ヒマしてんだろ!とっとと来やがれよ!」

「ヒマじゃねぇよクソが。で、その鬼の外見は?」

「見てねぇ!だけど気配があった!」

「おいこら、ふざけんな」

 

 きっぱり言い切った伊之助を、竈門が押し留めていた。

 

「伊之助、ちょっと待ってくれ。まだ宇髄さんと善逸が来てないんだ」

 

 竈門がそう言ったときだ。

 空気が動く。

 

「善逸なら来ない」

 

 屋根の上に音もなく現れたのは、音柱の宇髄天元である。獪岳に数瞬遅れて、竈門と伊之助も気づいた。

 

「来ないって、どういうことですか?」

「……死体でも出たんですか?」

 

 ほとんど同時に違うことを口走る。

 音柱は頭を振った。

 

「死体が出たわけじゃねぇ。が、善逸は行方知れずだ。昨晩から連絡がない」

 

 思っていたより早くばれたものだ、と獪岳はほとんど表情を変えることなく考える。

 

「ここにいる鬼に対して、お前らは階級が低すぎる。帰れ」

「えっ」

 

 音柱がそのまま告げた言葉に、獪岳はつい声を上げた。

 蝶屋敷から非戦闘員なやつらまで引っ張り出そうとした柱が、まさか鬼殺隊員に、鬼を殺す前に帰れというとは思わなかったのだ。

 音柱は、獪岳をちらりと見る。

 

「……お前らまで連れてきたのは、俺の落ち度だ。恥じるな。生きてたほうが勝ちなんだ。それから獪岳、お前はまだ残れ。だが、危ういと思えばすぐ退け。俺は京極屋へ向かう」

「待って下さい!」

 

 竈門の声が消える前に、音柱は去っていた。

 

「か、獪岳さん……」

「……チッ」

 

 音柱が竈門と伊之助に戻れと言って、獪岳に残れというのは単に獪岳が三人組に比べて階級が上だからだろう。加えて言うと、獪岳は煉獄杏寿郎の弟子でもある。

 が、竈門と伊之助は、要はお前らは弱いから信用できない、と言われたに等しいのだ。

 心なしか、竈門は肩を落としていた。

 

「残りたきゃ残って戦えばいいだろ。俺は、お前らにどうこう言う気はねぇよ」

「はい!」

「当たり前だろ!こんなとこで帰れるかよ!」

 

 勝手にしろ、と獪岳は頬杖をついた。

 ともかく、竈門にも伊之助にも帰るという頭はまったくないのだ。

 

「俺は切見世の方へ行く。お前らはその、怪しいと思う店に行ってみろ」

「き、切見世ってなんですか…?」

「客のつかねぇ遊女が沈んでるとこだ。京極屋から抜けた女が、何人かそこに落ちたって聞いたから話を聞きに行くんだよ」

「京極屋?……紋逸が行ってたとこじゃねぇか」

 

 流石に気づくか、と獪岳は頷いた。

 

「そこの女将が数日前に死んでやがんだ。客の話じゃ、酷ぇ死に様で、店の屋根より高いところから投げ落とされたのかって思うほどに、体がぐしゃぐしゃだったとさ」

 

 それこそ、人知を超えた力で蹴られるか、放り投げられでもしたように。

 並みの人間ならば、不気味な話として噂話と一緒にして片付けたろうが、獪岳は鬼殺隊だ。

 現に、脚力が高い幸辺りが本気の本気で蹴れば、人間の体など木の葉より軽々と吹っ飛ぶ。

 だから京極屋の女将の死を調べてみろと、善逸に伝えたのだ。

 失踪するなら、情報を寄越してから失踪しろと文句を言いたい。鴉にせっつかれて手紙まで出したというのに。

 

「おい。それじゃ俺んとこに出た鬼はどうなんだよ」

「一体の鬼が移動したか……そうじゃないなら分身する能力があるか、それとも複数いるんじゃないかな。獪岳さんはどう思います?」

「そんなとこだろ。鬼は群れねぇって話だが、もうこの際ンな話は当てにできねぇ」

 

 数ヶ月前の無限列車が良い例だ。

 柱は獪岳たちより遥かに強い。

 が、いくら強者であっても場に一人しかいないときに、十二鬼月などを複数相手にすれば、すり潰されて殺されるだろう。

 それに、柱がいても足止めされればやはり間に合わない。

 あのまったく追いつける気がしない炎柱すら、上弦の参を単独で相手にすれば死にかけた。弐も、鬼二人に鬼殺隊員二人で立ち向かっても、戦い自体がほぼ成立せず、何度も殺されたに等しい。

 

「わかりました!あの、俺は善逸も宇髄さんの奥さんたちも皆生きてると思ってますから!だから、獪岳さんも諦めないでください!」

「……ああ」

 

 諦める諦めない以前に、雷に撃たれても髪の色が変わるだけで死ななかったほど生き汚いやつが、こうまであっさり死ぬのかと疑問に思っていたくらいなのだが、言わないでおく。

 結局それから、夜になった後に竈門と伊之助はまず荻本屋を調べるということになり、別れた。

 

 もう戦いづらい変装するのも面倒になり、いつもの隊服に戻って羽織りを纏う。

 あの目に痛い真っ黄色の羽織りを、先生のところに届ける役になるのだけは御免被る。

 そう思いながら、獪岳は刀を背に負って、夜の街へと飛び出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 切見世は、竈門に説明したように客がつかなくなった遊女、或いは怪我や病をしたりで店から放り出された者が行く、最下層の女郎屋である。

 表に並ぶ大店(おおだな)と比べれば、吹けば飛ぶような荒れ屋が軒先を連ねている。通路は狭く、獪岳は苛立った。

 いざというとき、刀が振り回しにくいのだ。

 遊び人風に変装したとき、音柱から数本渡されていた藤花の毒が塗られた苦無もあるにはあるが、手に馴染んだ武器ではない。

 ともあれ、言っていられる場合ではないから踏み込む。

 誰でもいいから京極屋から来た女はどこにいるのかと適当にそこらの人間をつかまえて聞けば、獪岳の纏う荒事に慣れた空気と、ちらつかせた金で大体は口を開いたのだ。顔に残った傷も、凄みをつけるのに一役買った。

 多少時間はかかったが、見つけることはできた。

 見たところは、他の建物と何ら変わりない荒れた戸に手をかけた瞬間、獪岳は項にぴり、と何かの気配を感じる。

 

「ッ!」

 

 横に跳べば、たった今獪岳が開こうとした戸が内側から弾け、何か色鮮やかなものが飛び出してきた。

 さらに横へ回避してから振り返れば、ようやく正体が掴めた。

 ちらりと見えたものは、女物のぞろりと長い帯。それが蛇か蚯蚓のようにのたくって、木戸をぶち破ったのだ。

 珍妙で、無駄に派手な血鬼術である。

 刀を抜こうとした途端、帯を挟んだ向こう側の建物がガラリと開いて、半裸の男が顔を突き出した。

 

「おい!お前ら何の騒、ヒッ!?」

「馬鹿!出んな!」

 

 帯の化物を見、狼狽えている男の首目掛けて、帯が伸びる。

 

「チィッ!」

 

 背の刀を抜いて斬りかかる。派手な蛇のような帯は遅く、一跳びで追いつけた。刃を振り下ろせば届く。

 が、切り裂いた手応えがない。

 ぐにゃりと柔い布が刀を受け止め、勢いを殺していたのだ。

 刀が絡め取られる直前で刃を引いて帯を躱し、まだ凍りついている男を遠くへ蹴り飛ばす。悲鳴を上げていたが、知ったことか。

 狭い、と帯の攻撃を避けながら獪岳は舌打ちした。

 刃渡りが長い刀を振り抜けないところに、ぐねぐねと斬りづらい帯が襲って来る。

 刀で帯を縫い止め、苦無で刻むしかないのかと構え直したときだ。

 

「頭、下げて!」

 

 背後からの声を確かめる前に、体が先に動いた。

 屈んだ獪岳の頭上を跳び越えた人影が、帯に突っ込む。家の戸から漏れる細い灯りを、長く伸びた爪が照り返してぎらりと光った。

 

 数秒後には帯は鋭く尖った爪によって左右からばらばらに引き裂かれ、ぼろ屑のような汚い塵の山と化す。

 

 それを成した人影は、地面に音もなく着地するや、獪岳の方を見てぱたぱたと駆け寄って来た。

 目深に鳥打帽を被り、立て襟の白シャツの上に紺の着物、黒の袴を合わせた小柄な姿である。

 

「獪岳、大丈夫?」

 

 あっさりと帽子を取れば、その下から組紐のような黒い三つ編みが流れて、細い肩の上に落ちた。

 

「……どうもねぇよ、幸」

 

 刀を背の鞘に戻してそう返せば、変わらない黄金色の瞳の少女は、安心したように微かにはにかんだのだった。

 

 

 

 




一人消えて、一人戻った話。
戻ったほうが衣替えしていた理由は次回で。

そして花街事情に割と詳しい兄弟子と弟弟子。




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八話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 

 その、いつもとまったく違う格好はなんなのかと聞けば、幸は両袖を引っ張って服を広げてみせた。

 

「いつものだと、この街を歩けないから。珠世さんたちに頂いた」

 

 日が落ちた後、吉原で年頃の娘が一人でうろついていると、どこかの店の女と勘違いされてややこしいことになるだろうから、と言うことらしい。

 してみると、幸は珠世たちのところから吉原まで一人で来たのだ。

 

「愈史郎さんは、炭治郎くんに猫をつけてるから、その子を頼りに来た」

 

 髪をまとめて鳥打帽に押し込むと、確かにとても小柄な少年に見えなくもなかった。

 とはいえ、日が落ちてからしか動けないため、ここに来るまでにそれなり面倒なことにはなったのだろう、と土で汚れた袴の裾をちらりと見て獪岳は思った。

 

「わたしのことより獪岳、さっきの家は?」

「……ああ。そうだな」

 

 京極屋を出て来た遊女に話を聞きに来たのだ。だが、その女の部屋から帯の化け物が飛び出して来たならば、ここが当たりだったということだ。

 

「おい。誰かいるのか?」

 

 砕けて今にも倒れそうな木戸を跨いで入ると、薄汚れて暗い部屋の中には、布団とその上に倒れている女が一人いた。

 

「……だ、れ?」

「鬼殺隊だ。あんた、もしかして雛鶴か?音柱の嫁の」

 

 明らかに立っていられぬほどやつれていると思しいのに、獪岳を見る鋭い視線は女郎のものではなかった。

 試しに尋ねてみれば、女は頷いた。

 

「ん?」

 

 が、箱を背負った幸がひょこりと戸口から顔を覗かせた途端に、雛鶴の顔が引きつる。

 

「鬼……!」

「待った!ちょっと待ってくれ。こいつは鬼だが人を喰うやつじゃねぇんだよ。あんた、旦那の音柱から聞いてねぇのか」

 

 またしても人に襲われるのは御免だった。

 音柱と言えば、雛鶴はゆっくり頷いた。

 

「天元様の、言われていた、鬼を連れた隊員の一人が、あなた?」

「そうだ。あんたら三人を探しに来たんだ。音柱も来てるぞ」

 

 そう伝えれば、雛鶴の顔が明らかに和らぐ。

 だが彼女の呼吸は荒く、額には玉のような汗が浮かんでいる。明らかに様子が尋常ではない。 

 そろそろと戸を潜った幸が、雛鶴の傍らに膝をついた。くん、と鼻を動かす。

 

「……毒、ですか?」

「ええ。店を出るために、自分で飲んだの」

「ってことは、やっぱりあんたのとこに?」

「ええ。鬼がいたわ」

 

 そこで雛鶴は、一度咳き込む。

 幸が手ぬぐいで、その額に浮いた汗を拭った。

 

「ありがとう。鬼の名前は、蕨姫。花魁に化けていたわ」

「わかった。蕨姫だな」

「ええ。天元様に早く伝えて。……わたしなら、大丈夫。これでも忍びの訓練は受けてるから」

 

 儚げに雛鶴がほほ笑んだときだ。

 

「おい。こりゃ一体どうし……」

 

 破壊された戸に、ぬっと影が差した。

 振り返れば、背に刀を負った音柱である。

 幸が、ひゃっと驚いた猫のように跳びあがった。

 いやお前、大蛇になった鬼は平気の平座だったくせに、どうしてたかが人間の大男に驚く。

 大体そいつは、お前の大好きな行冥さんより背が低いだろうに。

 

「雛鶴!」

 

 名を呼んで妻に駆け寄る柱を獪岳と幸はさっと躱して、土間の片隅に引っ込んだ。

 妻の名を呼んだ彼と、手を伸ばした妻は、とてもではないが邪魔できる空気ではなかったからだ。

 懐から解毒薬らしい瓶を取り出した音柱の背中に、獪岳は声をかけた。

 

「宇髄さん、鬼は京極屋にいるとさ。俺たちはそっちに行くからな」

「ああ。助かったぞ。お前ら。俺もすぐ行く」

 

 よし行くぞ、と獪岳は幸と共に駆け出した。

 屋根に跳び上がり、その上を走る。

 日輪刀ではない幸の爪で斬って倒せたならば、あの帯は鬼ではない。

 鬼の分身としたら、倒したことが本体に伝わった可能性があった。急がなければならない。

 

「幸、お前、状況どのくらいまでわかってんだ?」

「吉原に鬼がいて、竈門君たち四人と獪岳に、音柱の人が潜入してること。鬼は花魁の蕨姫。だからこれから、それを倒す」

「十分だ。体の具合は?」

「暗示はかかってる」

 

 つまり、またも頭を吹っ飛ばされるようなことにならない限り問題はない、ということだ。

 

「……ごめん」

 

 こちらの方を見ず、前だけを向いて走りながら幸が短く言った。

 獪岳も、走りながら返す。

 

「そりゃなんに対してのごめんだよ。人間を喰いかけたことか?」

「うん。迷惑、かけた」

「ンなもん、かけられっぱなしだ。今更だろ」

 

 違う、阿呆、と獪岳は己で己を罵った。

 そう言うことが言いたいのではなかったのに、言葉はどうしてこうなるのだ。

 案の定、元々小さな幸の肩がさらに下がってすぼまる。

 走りながらもう一度口を開いた。

 

「お前は、ちゃんと俺に言ってただろ。いつまで自分が自分でいられるかわからない、怖いって」

 

 聞いて、無視したのは獪岳だ。これまでが大丈夫だったから杞憂だと。

 幸は知っていた。

 精一杯に守ってきた自分の理性が砂の上に築かれていることを、理屈はなくとも実感としてわかっていたのだ。

 わかっていたから幸は告げたのに、獪岳は聞かなかったのだ。

 だから、獪岳が今言わなければならないことは、一つだった。

 

「……俺が、悪かった。お前に散々無理させて、お前の言うことも無視した」

 

 沈黙が降りた。

 自分の行動を顧みて謝るなどしたことがなかったから、危うく舌が縺れかける。が、何とか言い切った。

 聞こえるのは互いの呼吸音と、瓦を踏み締めては、後ろに蹴る足音だけになった。

 なんとか言え、何か言え、と獪岳が叫びたくなったのと同時に、幸が言った。

 

「……うん、いいよ」

「いいのか?」

「いい。わたしも言い方がよくなかった。それに、足が速いのに、二度も頭を撃たれたのはわたしがのろまだった」

 

 だからあいこにしよう、と続けた。

 

「それより今は、鬼が先。獪岳、京極屋ってどっち?」

 

 それなら、と獪岳が指で示そうとしたときだ。

 京極屋がある方角からずれた街の一角が、轟音と共に崩壊した。

 建物が、まるで何か巨大な刃物によって切り裂かれたように崩れたのだ。

 

「もう始まってやがんのかよ!」

「急がなきゃ!」

 

 言われるまでもなかった。建物が崩れたのは、炭治郎が潜った店がある方角である。

 屋根から屋根へ跳び、走るうちに崩された建物がよく見えてくる。壁が真っ二つに切り裂かれており、その切り口は鋭い。

 巻き添えにされたと思しい人々が泣き叫ぶ声が聞こえ、血臭が濃くなる。

 人を逃がすが先か鬼と戦うのが先か、獪岳は一瞬逡巡して足が緩んだ。

 

 その刹那が、獪岳を救った。

 

 鼻先の空間を、何かが切り裂いたのだ。

 

「獪岳!」

 

 器用に身を捻った幸が、もう一度飛来した何かを回し蹴りで弾く。勢いで帽子が取れ、編んだ髪がふわりとなびいた。

 的を外され、くるくると宙を舞ったのは、二本の鎌である。形こそ草刈り鎌であるが異様に大きく、まるで骨を削って作ったかのよう。

 あと半歩先に進んでいれば、鎌で頭を縦に割られていた。それを理解して、背筋が冷えた。

 

「なんだぁ。お前死んでねぇのかよぉ」

 

 瓦屋根に、上から何者かが飛び降りる。

 鎌を二本とも空中で掴み取った男は、獪岳と幸をじろりと眼を動かし見た。

 肋を数えられるほどに痩せこけた、猫背の男である。

 下は袴とも呼べぬ布を巻き付けたような衣で上は裸。ぼさぼさの髪は、緑と黒という奇妙な色である。

 何から何まで尋常でない男、否、鬼だった。

 血のような黒い痣に顔を侵食された鬼は、にたりと口の端を吊り上げた。細められていた瞳が開く。

 

「上弦の……陸!」

「そうだなぁ。それでお前は、裏切り者の鬼と連れの鬼狩りだろぉ」

 

 男の両眼に浮かぶのは、上弦と、陸という字である。

 

「あっちの鬼は妹が殺すけどなぁ。お前らを野放しにして、また柱を助けられると面倒だからなぁ。だから先に殺しとくのさぁ」

 

 陸の鬼の手に握られた鎌に、黒い血のようなものが纏わりつく。

 咄嗟に抜いた獪岳の刀が繰り出したのは、雷の弐ノ型、稲魂だった。

 雷光を纏った五斬撃が、黒い斬撃を斬り飛ばす。

 

─────速い。

 

 それでも、いつ斬られたかすら見えなかった弐の扇よりは、まだ攻撃が見えた。

 喉元に迫った鎌を、上体を倒して避ける。鎌を振り抜いた体勢の鬼の側頭に、幸の爪が迫った。

 が。

 

「弱ぇなぁ。お前ら、本当弱ぇよ。人間に、人を喰ってねぇ雑魚鬼だもんなぁ」

 

 鬼の腕が、蛇のように素早く動いて幸の腕を掴み、止めていた。

 骨の折れる鈍い音が響く。鬼はそのまま腕を振り、幸を小石のように投げた。

 建物が崩れるほどの勢いで、幸は壁に叩きつけられる。粉塵に紛れて姿が見えなくなった。

 

「幸!」

「余所見してる場合かぁ?」

 

 鬼を見、認識する前に、訓練で散々戦い方を叩き込まれた体が先に反応した。

 刀を顔の前で横に構え、二本の鎌を受け止める。斬られるのは防げたが、みしり、と刀が軋んだ。

 鬼の膂力に人間は耐えられない。刀は簡単に折れる。

 

 

「離れろっ!」

 

 鬼の体が、横にぶれた。

 下から跳んだ幸が、頭を蹴り飛ばしたのだ。

 力が緩んだその隙に、獪岳は足元の瓦を蹴った。

 ごろごろと屋根を転がり落ち、地面に着地する。

 すぐさま、鬼も飛び降りて来た。数十先に音もなく山猫のように着地し、鬼はかくりと不気味に首を傾けた。

 

「弱ぇなぁ。鼠みてぇに弱ぇ。でもお前は鬼だからなぁ。殺すのが手間なんだよなぁ」

「……」

 

 ばきばきと、折れた骨が再生する音が、螺子曲がった幸の腕から響いていた。

 鎌鬼が、歪な笑みを一層深くする。

 

「手足を落として刻んで、首だけにしてやるさぁ。それで帯に閉じ込めて、日に当てりゃあ死ぬよなぁ。あっちの鬼と鬼狩りのほうは、もう妹が殺すだろうしなぁぁ」

 

 あっちの鬼と鬼狩りとは、言うまでもなく竈門と妹のほうだろう。

 吉原に潜んでいた鬼は、二体いるのだ。

 この鎌鬼と、その妹の鬼が。妹が、蕨姫と偽って花魁に化けていた鬼だったのだろう。

 極低い声で幸が囁いた。

 

「獪岳、炭治郎くんたちの方へ行って」

「は?」

「聞いて。禰豆子ちゃんの気配が変。あっちの鬼も強い。炭治郎くんたちだけじゃ、無理」

「……お前は」

「足止めする。鬼同士だから、できる」

 

 そう遠くないところで、また建物が崩れる音がした。悲鳴の音が高く、うるさくなる。

 

「何をごそごそ話してやがんだ、よぉ!」

 

 鎌鬼の手が動いた瞬間、獪岳は幸に襟首を掴まれた。

 

「早く、行って!行け!」

 

 ほぼ怒号に近い咆哮を聞くと同時、獪岳は宙に放り投げられていた。黒い鎌を振りかざした鬼を飛び越し、月が大きく見えるほどの高さに。

 

「このっ……馬鹿がぁぁぁ!」

 

 通り一本隔てた向こう側に届く勢いで、投げられたのだ。何もせねば死ぬ。

 咄嗟に地面に向けて混じり気なしの怒号と共に、刀を振った。

 炎の肆ノ型、盛炎のうねり擬きが下にあった屋根を叩き割り、獪岳はそのまま建物の中に落下した。

 

「ちょっ!なんなの!?」

 

 直後に背後にある鬼の気配目掛けて、遠雷で斬りかかる。鍛練で体に馴染ませた動きで半ば無意識にそこまでをやって、獪岳はようやく、刀を受け止めた相手を見た。

 

 女の鬼である。

 派手な帯を何本も侍らせている、長い髪に簪を幾本も差した美しい容姿の女。獪岳の刀を止めたのも、帯の一本。

 切見世で襲って来た、動く帯と同じ柄だった。

 殺意でぎらぎらと光る両の瞳には、またもや上弦と陸の字がある。

 

「お前らふざけてんのか!!」

「はぁ!?お前こそ何なのよ!お兄ちゃんはどうしたの!」

「知るか!」

 

 ─────雷の呼吸

────陸ノ型、電轟雷轟

 

 襲いかかる帯を、纏めて切り刻む。

 部屋の中の障子や畳、屋根が、鬼を巻き込んで吹き飛んだ。

 追撃しようとしたとき、獪岳はようやく気づく。

 ここは室内。まだ人がいる。部屋の隅で遊女と客らしい男が固まり、震えていたのだ。

 

「畜生が!」

 

 咄嗟に型を変え、炎の呼吸、盛炎のうねりを放つ。

 薙ぎ払われた帯が後退し、獪岳は動いた。

 腰を抜かしている男と女を、床に開いた穴から下の階に落とす。

 

「ぎゃっ!」

「女連れて逃げろ!巻き込むぞ!」

 

 這うように二人が逃げていくのを確認した途端である。

 

「獪岳さん!」

 

 技を放つ猶予がなかった。

 蹴ってかち上げ即席の盾にした畳ごと、帯に斬られる。

 獪岳の左肩から、赤い血が飛んだ。

 

「禰豆子、駄目だ、止まるんだ!」

「ガァ!ガ、ァァァァァァ!」

 

 首をひねって後ろを見れば、竈門と妹がいた。

 だが妹のほうには角が生え、しかもどう見ても獪岳の肩の傷の血を求めて暴れていた。それを竈門が羽交い締めにして、抑えようと藻掻いているのだ。

 数日前の幸と獪岳と、同じように。

 

「竈門、退()け!妹戻してから来い!」

「ど、どうやって……!」

「兄貴ならなんとかしろ!」

「……はいっ!」

 

 限りなく適当なことを吠えた獪岳の言葉に、竈門は躊躇いなく返事をして、妹ごと窓から外へ飛び出した。

 

「逃さないわよ!」

「テメェこそ動くんじゃねぇよ不細工!」

「なんですって!」

 

 竈門を捕らえようとしていた帯が曲がり、すべて獪岳の方へ向く。

 挑発への乗り方といい、こいつは頭が鎌鬼より単純にできているらしい。

 

 ─────雷の呼吸

────参ノ型、聚蚊成雷

 

 帯鬼の周りを巡って避けつつ、帯を斬る。

 

「テメェ、本当に上弦か?」

「はぁ!何言ってんの!アタシは上弦よ!見てわかんないの!」

「弱ぇんだよ!上弦の弐や兄貴と比べりゃ、お前、雑魚だろ!」

「うるさいッ!うるさいうるさいうるさいっ!死ねぇぇっっ!」

 

 身を捻り、刀で弾き、帯をひたすらにあしらう。

 数ヶ月、散々煉獄杏寿郎と打ち込み稽古をし、数えるのも馬鹿らしいほどに打たれ叩かれ、地に叩きつけられた。これくらいならば、いなせる。

 致命傷になる攻撃には、目や耳で感じるよりも先に体が動いた。

 それでも細かい傷は顔や腕につき、羽織りが切られていくが、対処はできる。

 しかし、挑発に乗らせてこちらにだけ意識を向けることができたはいいが、獪岳だけでは帯を捌き続けるのが精一杯。

 何かきっかけがあるか、もう一人でもいなければ、頸まで刀が届かない。

 しかも、こいつと兄の頸を両方斬ればそれで終わりと思えないのだ。

 鎌鬼の目にも、同じ上弦の印があった。

 しかし兄のほうが明らかに強い。気配がこの帯鬼より異質で、重かった。

 

 単に兄と妹で称号の名を仲良く分け合っているだけ、なのだろうか。

 鬼がそんな人間じみたことを、するか?

 強さに、大きく開きがあるのに?

 

─────まさか。

 

「ちょこまかと、鬱陶しいのよォ!」

 

 獪岳がぞっとする考えを思いついたと同時に、ついに堪忍袋の緒が切れたらしい帯鬼が喚き、帯が爆発した。

 天井を、床を、遠慮なく四方八方に振り回された帯が砕き、切り裂く。

 床が崩壊し、体が宙に投げ出された。

 全力で後ろに跳び、崩れ行く建物から間一髪で飛び出す。

 瓦礫を避け着地したそのとき、崩壊して来た瓦の一つがこめかみにぶち当たった。

 ぐわぁん、と撞木で突かれた鐘のように脳が揺らされ、星が散った。

 膝をつき、体勢を崩した自分目がけて、帯が波のように迫るのが見えた。

 

「獪岳!」

 

 幾筋もの雷光と斬撃が散って、獪岳を両断しかけていた帯が切り裂かれる。

 獪岳の前で肩で息をしているのは、善逸と伊之助だった。伊之助はいつも通りな猪頭を被っているが、善逸は女装した珍妙な格好のまま、手には日輪刀を握っていた。

 

「獪岳、平気か?」

「……お前、死んでなかったのか」

「死んでねぇよ!!」

 

 ぎゃあ、とよそ見して吠えた伊之助の前に迫った帯を、今度は獪岳は斬った。

 頭を打ったせいで吐き気がしたが、呼吸を整えて抑え込む。

 眼前に帯が迫っていた。

 

「避けろ!」

 

 三人別れて避ければ、開いた空間を帯が切り裂いていった。

 瓦礫の中から傷一つない姿で現れたのは、やはり帯鬼である。

 上弦と陸の字が刻まれた血走った眼を見開き、凄まじい目つきで睨む。

 さらなる帯が、瀑布のように押し寄せた。斬っても避けても、きりがない。

 

「上弦!?じゃあ、あっちで暴れてる鬼はなんなんだよ!?」

「騒ぐな猪!どっちも上弦の陸だ!」

 

 襲い来る帯を切り裂きながら、獪岳は叫んだ。

 

「どういうことだよ!?」

「俺にわかるか!いいからとにかく、頚を斬るぞ!」

 

 帯鬼を斬っても終わりではない。幸が足止めしている鎌鬼がまだいるのだ。

 鬼同士の戦いは、確かにどちらも死ににくい。長引かせることはできる。

 それでも十二鬼月の上弦の鬼と、人を守りながら戦うしかない鬼では、どちらが先に動けなくなるかはわかりきっていた。

 再生できなくなるまで切り刻む、とあの鎌鬼は言っていた。その通りにするだろう。

 急がなければならなかった。

 

「獪岳、落ち着け!あっちには宇髄さんが行った!炭治郎もすぐ戻る!俺たちはこっちの鬼の頸を斬ることに集中するんだ!」

「は!?」

 

 帯を避けながらの善逸を、獪岳は一瞬まじまじと見た。

 落ち着いているのだ。任務となれば、泣くわ喚くわ大騒ぎしていたやつが。

 上弦の弐との戦いに跳び込んで来たときの、善逸の動きが今の姿と被る。

 

 こいつに指図されたくないというどす黒い苛立ちと怒りが吹き上がる。

 それを、刀の柄をきつく握ることで抑え込んだ。

 

 ──────正しい。

 

 善逸の言うことが正しい。

 幸の言葉を受け入れなかったから、あんなざまを招いたばかりだ。

 今ここで焦ろうが何も変わらない。手元を狂わせた者から、死ぬ。

 柱が行ったならば、あの鎌鬼もまだ何とかなるはずだ。

 幸は()()()、と言った。

 強がりはあの馬鹿の十八番だが、一度言い切ったのならばもう、獪岳には信じるしかない。

 鬼にされても変わらなかったほどの、頑固で強い性格なのだから。

 

「……帯は俺が全部斬る!お前ら、まっすぐ突っ込んで頸を狙え!」

「わかった!」

「おう!」

 

 元々この帯鬼の狙いは、獪岳にあらかた向いている。

 不細工と罵ったことが、よほど勘に障ったらしい。

 三人ばらばらに散れば、思った通り帯鬼は獪岳にいの一番に狙いを定めた。

 

「お前だけは逃がさないわよ!苦しんで死ね!死ねぇぇっ!」

「きぃきぃうるせぇ!何百年も生きてる婆なくせに、癇癪しかできねぇのかよ!」

「ッッッ!!」

 

 怒りが振り切れたのか、最早言葉も無く帯を振るう鬼相手に、電轟雷轟、稲魂、その他の型を組み合わせて、帯を斬る。

 習ったことのすべてを受け取れなかったとはいえ、獪岳は二つの呼吸を教わった。手数を増やして来たのだ。

 避けそこなった帯が、体のあちこちを浅く抉っていく。羽織りが千切れ、襤褸布となっていく。

 それでも、帯を斬る手は止めない。止めてはならなかった。

 帯の束をまとめて斬った瞬間、踏みしめた足が、地面に転がった瓦礫の欠片を踏む。

 ずるり、と体が滑る。

 帯鬼がほくそ笑むのが見えた。帯の群れが、獪岳に向かう。

 

 それを見て取って、獪岳も口角を上げた。

 

 ──────狙い通り。

 

 帯鬼の注意が、束の間獪岳だけに向いた。

 ぎりぎりで踏ん張り、倒れ込む体を留める。

 その背後に、離れていた善逸が雷光を纏った踏み込みで回り込む。腰の刀の柄には、既に手が添えられていた。

 獪岳よりも速い、抜刀術だった。

 直前に気づいたのか、善逸を叩き落とそうとした帯は、獪岳の刀と伊之助の二刀流が落とした。

 

 霹靂一閃が、帯鬼の頸に吸い込まれる。

 

 善逸が刀を振り切る、その直前に獪岳は見た。

 帯鬼の額にさらにもう一つの眼が現れたのだ。

 ぎょろりと瞼を押し上げたそこにあったのは、逆さまになった陸の字。

 帯鬼の口から、まるきり違う調子の声が響いた。

 

「妹は、やらせねぇよぉ」

 

 異常に速い速度で新たに生えた帯の一本が善逸を薙ぎ払うと同時、家屋をぶち抜き巻き込みながら、黒い血の旋風が背後から来た。

 帯鬼に最も近い善逸は、咄嗟に動けない。技を外された故の硬直だった。

 

「クソがァ!」

 

 咄嗟に、獪岳は鞘を投げた。

 善逸の首を切りかけていた帯に鞘が当たり、軌道が逸れる。

 それを認識した瞬間、獪岳と伊之助は黒い風に飲み込まれた。

 上から次々と、瓦礫が振り落ちてくる。

 一際強く頭に衝撃が走り、視界が闇に閉ざされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぼと、と何か重たいものが落ちた音が遠くから聞こえた。ぬるい液体が頬にかかり、意識が闇の中から引きずり出される。

 うつ伏せに倒れたまま、重い瞼を押し上げた。立とうとしても、背中に何かがのしかかっていて、立てない。

 眼が、苛立つほどの遅さで色と像を結ぶ。

 

 明瞭になった視界に初めに映ったのは、腕だった。

 

 細く白く、鋭い爪が生え揃った鬼の腕が、瓦礫の上に転がされている。

 無理に肉と骨を引き千切られ、折られたように断面からは血を流す、獪岳が見間違うはずがない腕があったのだ。

 

 頭が、真っ白になった。

 

 

 

 

 




接敵即地雷踏み抜きの話。

妓夫太郎と堕姫が一体化していたことを炭治郎以外が目撃しておらず、また周辺の避難が行われる前に兄鬼が現れてしまったため、こういう具合です。


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九話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 

 吹っ飛んで離れていく怒号をよく聞いている暇は、なかった。

 鎌から放たれた斬撃が、首筋を掠めて行き、背後で軌道を変えて頬の肉をざくりと抉っていったからだ。

 放り投げた獪岳の懐から落ちた何かを拾い上げて懐に押し込み、幸は前転の要領で鎌を避ける。

 

 この血でできた鎌の刃は飛び、しかも曲がる。加えて、傷から痛みと痺れが全身に走ったのを鑑みれば、毒が混ざっている。

 鬼にこうまで効くならば、人間には間違いなく致命。

 毒を分解する血鬼術を、即座に使った。

 紅の光を纏いながら、幸は鎌鬼へ飛びかかる。

 躱し、爪で武器の軌道を器用にずらして、掌底で顎の下を打ち抜いた。

 ぐらり、と鎌鬼の体が後ろに揺れる。しかしすぐさま、上体を立て直し横薙ぎに鎌を一閃された。

 宙に飛んで躱す。頬の横の髪がざくりと斬られた。

 

「お前、本当にそれだけしかできねぇんだなぁぁ!人を助けて殴って蹴って、爪で斬るだけかよお!」

「……」

 

 無論、斬って殴るだけで鬼が死ぬわけはない。

 幸には刀を扱うことができない。

 刀の柄を十秒以上握ると手が震えだして、どうしても振り回せなかった。

 全集中の呼吸はできても、獪岳や善逸のように頸を正確に刀で切り裂けないのだ。

 だから、鬼殺の剣士がいなければ鬼をまともに殺してやることすらできない。

 ひゅう、と背後に迫っていた曲がる斬撃が袖を切り裂いていった。この斬撃は、鬼の血でできた鎌の刃だ。

 宙で曲がるだけではない。何かに当たって弾けるまで相手を追い続ける。

 猛毒が含まれ、並みの人間がくらえばまず即死。鍛えられた剣士でも、死ぬのが僅かに遅れる程度にしか、持ち堪えられないだろう。

 

「早く死ねよぉ。そんで、死ぬときやグルグル巡らせろ。俺は妓夫太郎だからなぁ」

「……」

 

 蟷螂のよう、と無表情の下で思う。

 両手に持った鎌を自在に振るい、しかも隙がなく、速い。

 幸はいくら斬られても、血鬼術を使える限り、動きは止まらない。力でも経験でも負けていようが、それでも速さは負けていないから、保たせていられる。

 ひらひらと緩く速く動きを変えながら、鎌鬼を翻弄し、いなす。

 周りからは、次々人が逃げていく。

 先程、幸が建物に投げつけられ、壁をぶち壊した音で起きた住人たちは、痩せ細って鎌を携えた男と、爪や牙を光らせる長髪の少年が宙で斬り合うのを見るや、悲鳴を上げて逃げていくのだ。

 それでも、何か声を上げようとした人間には、殺気混じりで視線を飛ばす。ぎらぎら金に光る、縦に割れた化け物の瞳で睨みつければ、皆逃げてくれる。

 その悲鳴が、また別の人間を叩き起こす。

 

 逃げて、逃げて、早くここから逃げて、と祈るように願う。

 この鬼は、決してあなたたちのところには行かせないから、と。

 

「なぁ、なぁなぁなぁ、お前はさぁ、童磨が鬼にしたやつなんだろう?死にかけの、みっともない有様だったって聞いたぞぉ」

「どう、ま?」

 

 鎌と爪で斬り合いながら、鬼、妓夫太郎が嗤うように告げる。

 幸いなことに何故か、この鬼の狙いは幸に強く向いていた。周りの人間を、ほぼ無視して幸だけを切り刻もうとする。

 さっきも獪岳のほうはあまり注意を払っておらず、上弦の弐のように、人間をこれみよがしに拾い上げ、喰おうとしたりしない。

 戸惑いに呟いた幸を見て、彼はにやりと嗤う。

 

「上弦の弐さぁ。俺と妹もなぁ、あいつが鬼にしたのさぁ。おかげで今じゃ、俺たちは上弦の陸ってわけだなぁ」

「……そうか。童磨って言うんだ」

 

 どうま。

 それがあの氷の鬼の名前、らしい。

 仇の名が、心の底に冷たく重く沈む。

 きひ、と妓夫太郎がまた嗤った。何がそれほど楽しいのだ。

 

「俺たちは童磨のおかけで十二鬼月になったけどよぉ。お前はみっともないまんまなんだなぁ。人間なんぞ庇ってよぉ。あいつも今から、どうせ俺たちに奪われるんだからなぁ」

「奪われる?」

「そうさぁ。俺たちは奪うのさぁ。人にされた痛みを苦しみを、人にやり返して取り立ててやるんだよ。それが俺たちの生き方だからなぁ。逆らう奴は皆殺しにしてきたのさぁ」

 

 胸が悪くなるほど濃い血臭を放つ十二鬼月は、あくまでも嗤うのだ。

 鎌からは毒血が滴り落ちて、傷口から体内に入り込み、体を死に至らしめようとする。鬼だから死にはしないが、痛みがないわけではない。動きが鈍くなってはならない。

 紅の光を纏いながら体を駆け巡る毒に抗いつつ、幸は返した。

 

「……あなたの生き方、好きじゃ、ない」

「あ?」

「わたしは、誰かから奪って、誰かに奪われるだけがわたしの人生だなんて、思いたくない。それで自分の人生を一杯にしても、満たされない」

 

 はた、と妓夫太郎の動きが一瞬止まる。

 次の瞬間、彼は引き裂かれたように口を吊り上げた。

 

「そうかよぉ。じゃあお前は、幸せな生き方してたんだろうなぁぁぁ!!」

「……そうだね。……うん、そうだよ」

 

 いつも、誰かが何かを与えてくれた。

 神さまも仏さまもいなかったけれど、人間はいた。

 親に捨てられたときは、行冥さんが拾い上げてくれた。

 鬼になったときは、獪岳がついて来いと言ってくれた。

 本当の本当に心の底から一人ぼっちになって、絶望に心を明け渡したことはない。ずっと、抗うことができた。

 それは、自分が特別強かったからじゃない。

 誰かに与えられた優しい記憶があったから、捨てたくないと思えるだけの、人間でいたころの縁を覚えていられたから。

 側にいなくても、触れられなくても、見えなくても聞こえなくても、色褪せない記憶の中の人たちをいつも、忘れなかった。

 

「あなたも妹も殺すし、童磨も必ず殺す。そのために、ここに、いる」

 

 この鬼は、人間だったころどうしていたのだろう。

 自分と同じように童磨と出会い、人に奪われたものを取り返すためだと、奪われてきた者の言葉を振り翳して、十二鬼月になるまで、一体どれだけの人を貪り喰ったか。

 だから、この鬼は、殺さなければならない。

 過去がどうであれ、この鬼もその妹も人を喰い続けている。

 なんの罪もない人からも、奪い続けていく。

 それは許されない。許さない。誰も救われない、報われない。

 

 首の皮一枚切り裂いた鎌を肘で突き弾いてずらし、その隙間から妓夫太郎の痩せ切った胴体に蹴りを放つ。

 鈍い音がして、妓夫太郎がわずかに下がった。同時に背後から迫っていた鎌が、幸の背をざくりと深く斬る。

 

「ッ!」

 

 衝撃で膝をつきそうになるのを堪えた。

 荒く浅くなりそうになる呼吸を抑え、整える。

 この鬼は、強い。

 幸より何倍も長く生きてきた、恐い鬼。

 だけど、だからこそ殺さなければならない。十二鬼月の陸は、弐より弱いのだから。

 殺したいのは、殺さなければならないのは、上弦の弐だ。

 上から斬りかかって来た妓夫太郎の鎌の二撃を飛び退って避けた。地面が深く抉られる。

 

「ヒッ!」

 

 場違いな声がした。

 頭を巡らせれば、そこにいたのは着物の女。逃げ遅れがいたのだ。

 

「逃げて!」

 

 幸の叫びに慌てて着物の裾をからげ、女は走り出した。

 

「ひひっ!逃さねぇよぉ!」

 

 瞬間、鎌鬼が跳んだ。

 鎌を振り上げ、女に飛びかかる。気配を感じて振り返った女の顔が、恐怖に歪んだのが見えた。

 

「……ぐ……っ!」

 

 間一髪で、届いた。

 振り下ろされる鎌と女の間に飛び込み、袈裟斬りをその身で受ける。傷をそのままに鎌鬼の両腕を掴むや、幸は頭突きをくらわせた。

 仰け反った鎌鬼の胸板を、全力で蹴り飛ばす。

 脚の筋肉が音立てて切れるほどの力で蹴り飛ばせば、やせ細った体の鎌鬼は礫のように吹っ飛んでいった。

 女の方を向く。喉が鳴った。

 鎌から放たれていた血の刃が、女の背後に迫っていたのだ。

 

「待っ……!」

 

 駆け出そうとしたとき、横合いから殴りつけるような二刀が走った。

 毒の鎌が叩き落とされ、地が割れた。

 

「待たせたなァ!無事かお前!」

 

 夜闇に、しゃらりと石を綴った飾りが鳴った。

 血鎌を切り飛ばした音柱は、幸の方を真っ直ぐに見た。

 ほっとした。心から。

 音柱は幸の方を見て、やや顔をしかめた。

 

「おい、その怪我でやれんのか?血の臭いがひでぇぞ」

「治し、ました。鬼の鎌は猛毒で、町の人がくらったら、死にます。斬撃は曲がります。当たるまで追ってきます」

「応」

 

 音柱が手短に伝えた途端に、影が差す。戻って来た妓夫太郎が、星空を背に天高く飛び上がっていた。

 ぎゅる、と空気が捻り、鳴る音を聞いた。

 

「下がれ!」

 

 前に出た音柱が、鎖で繋がれた二刀を構えた。

 鬼の両腕から放たれた竜巻のよう黒い血風の刃が音柱の連続攻撃と衝突し、相殺される。

 幸にはわからないが、あれがきっと音の呼吸なのだ。

 音柱の剣戟を掻い潜り、背中に迫っていた刃を蹴りで相殺する。刃で脚は切れるが、血鬼術ですぐ繋げば動きに淀みはない。

 幸が珠世にかけてもらった暗示は、前のものよりも強力だった。というより、幸は自分が自分に暗示をかけていたと指摘されるまで自覚はなかったのだ。

 

 感覚としては、前よりも無理が利く域が上がっている。血鬼術を使って戦える時間が増えているのだ。

 獪岳に追いついて早々に上弦と戦うことになるのは、完全に予想外だったけれど。

 あの短気者、ひとが動けない間になんてところに来ているのだ。

 

「おい鬼っ娘ぉ!こいつはなんなんだ?花魁の蕨姫ってのがこいつかァ!?」

 

 そんなわけがない、多分。

 幸はぶんぶん首を振る。

 

「違います!妹の鬼が、あっちに!」

「そうか!あっちには善逸と伊之助が行ってらぁ!こっちの鬼は俺とお前でどうにかするぞ!」

「わかり、ました!わたしの頚だけ、斬らないで!」

 

 逆を言えば、頚以外ならば多少巻き込まれて斬られても構わない。幸は鬼なのだから、案外簡単に繋がる。

 毒の鎌が、音柱と幸を斬り刻もうと次々襲い来る。

 だがその速さに、音柱も幸も慣れつつあった。音柱は鎖で繋いだ二振りの日輪刀で、派手に斬撃を弾いて寄せ付けず、刻まれても毒が回ろうとも、幸は死なないのだ。

 それに音柱の技は、どことなく獪岳と善逸の雷の呼吸の型と似ていた。隙間を縫うように立ち回るのは容易ではないが、できないことではないのだ。

 焦りからか、妓夫太郎が大振りな鎌の一撃を振るう。瞬間、音柱が間合いの外から深く踏み込む。

 到底届かないはずの距離から振るわれた一撃は()()()

 

 

「!」

 

 幸も驚く。

 鎖で繋いだ刀の一本の刃先を握り、もう一方の刀の間合いを手妻のように伸ばして一気に詰めた日輪刀が、妓夫太郎の頸に吸い込まれ深く食い込み、切り離される。

 が、幸は妓夫太郎の口元が弧を描くのを見た。

 

「危ない!」

 

 音柱の胴に腕を回し抱えて、幸は跳んだ。

 小柄な幸では体当りして吹き飛ばすような勢いになったが、振り返れば妓夫太郎を中心に毒刃の竜巻が迫っていた。

 

「逃さねぇよぉ!!」

 

 竜巻に乗って、妓夫太郎が飛びかかってくる。その有様を見て、幸は驚愕で束の間動きを止めてしまう。

 妓夫太郎は手に、己の頸を持っていたのだ。

 

「無駄なんだよぉ!」

 

 小脇に抱えられた頸が、獣の如き哄笑を上げる。

 宙をかいた片腕を凄まじい力で掴まれた。後ろに引きずられる。

 巻き込まれれば肉片になる、刃の暴風の中に。

 

「離せ!!」

 

 音柱を渾身の力で遠くへ突き飛ばした勢いで、幸は自分の腕を捩じ切った。ぶちり、と嫌な音がした。

 筋肉と血の管が纏めて引き千切られ、幸の腕を握っていた妓夫太郎は支えを失くす。が、直後に彼の蹴りが幸の腹に突き刺さった。

 目玉が飛び出そうなほどの衝撃が走る。

 先程の比ではない勢いで、幸は自分の体が後ろに吹っ飛ぶのがわかった。血を吐いた。胴が千切れかけだった。

 追いついてきた毒刃の竜巻に呑まれ、建物を幾棟も巻き込んで破壊し、飛ばされる。

 背に叩かれたような衝撃が走り、体がようやく止まった。

 目を下にやれば、腹を貫いて一抱えもある太い木の柱が生えていた。口から、血がだらだらと溢れていく。

 半ばから折れ、先が尖った支柱の一本が、幸の腹を突き破り、縫い止めて磔にしていた。背中には、天井板の硬さを感じる。

 柱をへし折ろうと動かした残った片腕が、風切り音と共に切り落とされる。

 

「捕まえた、なぁ。ったく、手間かけさせんじゃねぇよぉ。ちょこまかちょこまか、鬱陶しいったらありゃしねぇなぁ」

 

 幸を縫い止めている柱の上に、妓夫太郎が音もなく飛び乗って来た。その手に、切り落とした幸の腕を、鷲掴みしていた。

 一口齧り、不味いものを喰ったかのように顔をしかめると、放り捨てる。

 妓夫太郎の重みでぎしりと梁が軋み、腹の中の臓腑と肉を、木のささくれでかき混ぜられる不快感が走った。

 髪を掴まれ、上を向かされる。間近で見れば、妓夫太郎の頸の周りの傷は既に塞がりかけていた。

 頸をぐるりと巡る傷跡。

 音柱の一撃は、確かに頸を落としたはずだった。なのに、彼は生きている。

 

「っ!?」

「ヒヒッ。どうして頸を斬っても死なねぇのかってツラしてんなぁ」

 

 今まで殺してきた十五人の柱もそんな顔をしていた、と妓夫太郎は嘲笑う。

 

「……じゅう、ご?」

「ああ、そうさぁ。俺たちは二人で一つさぁ。そして俺が十五で妹が七。たらふく柱を喰ったもんさぁ。十六人目は、俺の血鎌に巻き込まれたあの色男の柱になりそうだがなぁ」

 

 そこで初めて、幸も辺りを見た。

 花街の一角は、瓦礫の山と化していた。

 人の血の臭いは濃くないが、それでも瓦礫の隙間に体がいくつか転がっているのが見えた。

 誰の姿も、ない。

 音柱も、炭治郎も禰豆子も、伊之助も、善逸も獪岳も、誰も。

 

「お前は刻んでばらばらにして、妹の帯に閉じ込めとくぞぉ。んで、太陽で炙れば死ぬだろぉ。夜明けまでは、まだ長いからなぁ。他の奴らが殺されるのを見とけよぉ」

 

 髪をさらに強く掴まれた。喉に鎌が添えられる。

 首だけにして閉じ込められれば、回復に時間がかかり過ぎる。何もできなくなる。

 千切られて斬られた両の腕の再生が、間に合わない。ぼこぼこと肉は蠢いているが、妓夫太郎の鎌が速い。

 骨が浮いた鎌を持つ腕が、振り上げられた。ぎり、と幸が奥歯を噛みしめる。

 

 鎌の刃がぬらりと光った刹那に、飛来した刀が、妓夫太郎の腕を切り落とした。

 

「どっせぇぇぇぇぇ!」

 

 瓦礫をぶち抜き、跳び上がったのは猪頭の少年。二刀のうちの一刀を投げて、鬼の腕を切り落とした伊之助は、そのまま妓夫太郎に背後から刀を振るった。

 跳びよけた妓夫太郎を、伊之助が蹴り飛ばす。

 ざく、と幸の顔のすぐ横の板に、妓夫太郎の腕を落とした伊之助の日輪刀が突っ立つ。頸すれすれだった。

 

「伊之助くん、柱、切って!」

「おう!」

 

 伊之助の二刀が、腹を貫く杭となっている柱を一息で切り刻む。

 解放された幸が彼に体当たりをして地面に転がった一瞬後に、殺到した帯が地面を砕いた。

 

「アンタたち!お兄ちゃんによくも!」

 

 次々振ってくる帯鬼の攻撃を、幸と伊之助は避ける。途中で伊之助が拾い上げてくれた片腕を、ともかくも切り口に押し当て繋ぐ。

 腹の穴から溢れそうになっている内臓は押し込みつつ、血鬼術を総動員して塞いだ。

 

「ありがとう、伊之助くん!」

「気にすんな!お前は紋逸と各角と派手柱を掘り起こしてこい!帯鬼はなんとかしてやらあ!」

「善逸くんと獪岳と音柱さまね!気をつけて!」

 

 妓夫太郎の攻撃に巻き込まれたと思しい伊之助の怪我も、軽くはない。肩や腹から血が流れている。

 それでも力強く刀を振った伊之助の背後に、影が現れた。

 腕を繋げ、鎌を持った妓夫太郎である。

 

「伊之助!」

 

 が、降って湧いたように飛び込んできた炭治郎が鎌を受け止めた。箱を背負い、刀を構えている。

 

「遅れてすみません!しばらくこっちはなんとかしますので、幸さんは皆をお願いします!」

「わかった!二人とも鎌の毒に気をつけて!」

 

 それだけを言い置いて、幸は走った。

 最も近い匂いは、善逸のものである。太い梁と梁の隙間に丁度挟まれていた。

 梁を蹴り飛ばし、引っ張り出す。気絶しているのか、善逸は目を閉じていた。

 彼の頭から爪先までを見て、幸は一言。

 

「……へんな格好」

「それ今言うことかなぁ!?」

 

 くわっ、と善逸は一瞬で正気に戻った。

 心なしいつもより引き締まった顔で、善逸は刀を掴んで立ち上がった。

 

「獪岳ならあっちだよ。鞘投げて俺を突き飛ばしてくれたから、その分逃げ遅れて……」

「わかった。大丈夫だから、鬼のほう、お願い」

 

 互いに頷き、別々の方向へ向けて地を蹴った。

 背後からは破砕音が続いていた。

 頸を落とされても、妓夫太郎は死ななかった。まさか上弦は、頸を斬られても死なないのかと、最悪の想像が過ったのを打ち消した。

 不死は有り得ない。

 殺す方法は必ず、ある。

 

 くん、と動かした鼻が、嗅ぎなれた匂いを探し当てた。

 崩落した屋根を、幸は、えい、と片腕で持ち上げた。運良く足元に落っこちていた自分の腕も拾い上げる。

 

「獪岳!」

 

 ようやく揃った両腕で襟首掴んで瓦礫の下から一息に引きずりあげれば、うつ伏せに倒れていた幼馴染みの青年は、ぽかんと目と口を開けていた。

 額に瓦礫でもぶつかって切れたのか、顔の半分が血で真赤だ。あちこち羽織りもぼろぼろで、まぁひどい有様だがともかくも五体は一つたりとも欠けていない。

 刀を手から離していない辺り、執念と根性は本当に人一倍である。

 襟首から手を離すと、獪岳はしゃんと立った。

 

「無事だったのか、お前」

 

 乱暴に目の周りの血を拭い、獪岳は言った。垣間見た呆けた顔はなかったことにして、幸は頷いた。

 あとは音柱か、と気配を探った途端に背後から、音柱の剣戟らしい轟音が聞こえた。

 彼は彼で、自力でどうにかできたらしい。

 

「獪岳、あの鬼、おかしい。鎌の兄鬼、頸が落ちても死ななかった」

「あ?」

 

 音柱の轟音が戻った戦場へ駆け戻りながら、幸が言えば、獪岳は口を引き結んだ。

 

「こっちも妙だった。妹の頸が落ちかけた瞬間に、兄が妹の体、操りやがった。陸の字だって両方にある」

「鎌鬼は、自分たちが、二人で一つって」

「言葉通りと考えるぞ。つまりあいつらは」

「二人で、一つの生命を分けてる」

「両方の頸を、繋がってない状態にしなけりゃ」

「きっと、死なない」

 

 二人で早口に話を突き合わせる。

 恐らくは、そうなのだろうという不思議な確信があった。

 

「一人でやり合えば柱でも殺されるわけだな」

「言ってる場合じゃ、ない」

「当たり前だろうが。お前、あっちの鎌鬼の方へ行け。俺は帯鬼の方へ行く」

 

 こん、と獪岳は裏拳で軽く幸の額を叩いた。

 

「お前は下手なよそ見して誰か庇うんじゃねぇぞ。んなヒマ、ねぇんだろ」

「……了解」

 

 だったら毒に当たらないで、と胸の中で呟いて、幸は獪岳と別れて駆け出すのだった。

 

 

 

 

 

 




少し間が空きました。
リアルで色々ありまして、ご理解願います。

間が空いたお詫びに小話を。
当SSの獪岳は、a.maz.ara.shiの「リビングデッド」、鬼っ娘は坂.本真.綾氏の「逆光」辺りの曲が合うと思って書いてます。
二人だと、am.azar.ash.iの「さよ.な.らごっ.こ」かと。

【コソコソ裏話】
 幸が刀を持てないのは約八年間藤襲山にいた折、選別者に刀を向けられることが長く続き、刀を持つことにトラウマがあるからです。
 
 包丁サイズの刃物は扱えますが、刀ほどの大きさとなると手が震えだし、剣術は修められません。尚、獪岳には気づかせていません。
 
 また、現在の柱の大方が選別を受けたとき、幸は既に鬼として山にいます。悲鳴嶼と出会わず獪岳と出会ったのは、単に運が良かったためです。


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十話

感想、評価下さった方々、ありがとうございました。

本当の本当に感想が励みになっているのですが、なにか迂闊なことを話して興醒めさせてしまいそうで、返信できておりません。
その文せっせと書きますればご容赦願います。(土下座

では。


 

 

 

 音を置き去りにする勢いで駆けて行った幸の背中から、目を逸らして獪岳は刀を握って走った。

 色鮮やかな帯を目印に、瓦礫を飛び越え着地すれば、速攻で帯が降って来た。

 

「まだいたの!アンタいい加減死になさいよ!」

 

 先程の罵りは、相当帯鬼の気に障っていたと見える。

 獪岳の姿を視界に捉えた瞬間、帯鬼は音立てて大気を切り裂きながら帯を振り回し、獪岳へと向かわせた。

 

「獪岳!」

 

 善逸と伊之助がこちらを見るが、うるさい。

 帯ならば一人で捌くから、お前らは頸を何とかしろと言っただろうが。

 苛立ち混じりに体を回転させ、刀の動きに帯を巻き込む。

 そうして一纏めにした塊から刀をするりと抜き、帯をまとめて断ち切った。

 高慢ちきに美しい帯鬼の顔が、驚愕からか歪むのが見えた。

 こちとら元鳴柱と元炎柱に師事しているのだ。これくらいやれなければ、散々稽古で打ちのめされている意義がない。

 

「獪岳、宇髄さんが、帯鬼と鎌鬼の頸は両方落とさなきゃ────!」

「うるせぇ!知ってる!さっきと変わんねぇ!帯は俺が抑えるから跳び込め!斬れ!」

「ッ、わかった!」

 

 まだあの頓珍漢な女装のまま、善逸は霹靂一閃を振るっている。

 猪頭共々傷が増えているが、今すぐ出血でどうかなるほどではなさそうだった。

 

 千切れた腕を小枝のように拾ってくっつけて、戦場に跳び込んでいった馬鹿は、一体いつまで保つのか。

 鬼だから回復能力など段違いとわかっていても、あの少女の腕が地面に転がるのを見るのはあまり良い気分にはならなかった。

 舌打ち一つで、獪岳は帯鬼の間合いにさらに踏み込む。

 このままではじり貧になるだけだ。

 鬼と体力勝負する以上の愚行はない。

 帯の密度がさらに上がるが、急所に届く帯のみ避けて、大半を切り裂く。

 広範囲を薙ぎ払う盛炎と、帯を斬り払う雷撃が入り混じる。

 足元の瓦礫を蹴り飛ばし、帯鬼の視界を一瞬塞ぐ。その合間に、藤花の毒が塗られた苦無を捩じ込んだ。

 

 獪岳が苦無を突き刺したのは、帯鬼の額に開いた三つ目の目玉。

 耳に突き刺さる悲鳴を上げて仰け反った鬼の帯が腹に当たり、獪岳は後ろへ吹っ飛ぶ。その肩を踏み台にし、一直線に前へ跳ぶ姿があった。

 

 雷が走り、鞘から解き放たれた刃が嫋と鳴る。

 

 善逸の霹靂一閃が、過たず鬼の細頸を斬り飛ばす。

 甲高い声を撒き散らし、鞠のように宙に跳んだ頸を、伊之助が受け止めた。

 

「持って走れ!繋げさせんな!」

「わかってらぁ!」

 

 叫んだ瞬間、肌が粟立つ殺気を感じた。

 握り込んだ刀を構え、獪岳は屋根へと跳び上がりつつ熱界雷を放つ。

 下から上への斬り払いが捕らえたのは、鎌鬼の片腕だった。

 

「またお前がぁぁぁあ!」

 

 斬、と鎌鬼の咆哮と同時に背中を冷たさが撫でた。

 飛ぶ血鎌の曲がる斬撃に、背後を取られて斬られたと認識すると同時に、凄まじい熱が体中に広がる。

 喉にせり上がる血の塊を吐いた。隣では猪頭が、肩を深く切り裂かれるのが見えた。

 捕まえていた頸が逃れて、転がっていく。

 毒、の文字が頭を掠めた。

 

「獪岳!伊之助!」

 

 跳んだ善逸の八連の霹靂一閃が、鎌を振り上げていた鬼と獪岳たちの間に振るわれた。

 鎌鬼はそれを掻い潜り、後退する。脇には帯鬼の頸を抱えていた。

 屋根の上に落ちていた首無しの胴に、女の頸が繋げられる。

 復活するや否や、帯鬼が鎌鬼の背に取り付き、ずぶずぶと体を沈めていく。そして彼らは、夜空を背にして高々と跳んだ。

 

「待て!」

 

 追い縋った善逸が叫び、獪岳は刀を杖に立ち上がった。

 鬼の兄妹が、一つに戻りかけている。

 逃げる気なのか何なのか、獪岳たちでは手が届かない空へと逃れかけていた。

 音柱たちの方はと見れば、瓦礫の山が見える。埋められたのかと、察した。

 毒血の鎌で鬼狩りの粗方を斬り、捨て置けば全員毒が回って死ぬと、あの鎌鬼は考えたのかもしれない。

 こちらには毒消しができる血鬼術使いがいる。追っても追わなくとも、死ぬことはない。

 

 どちらを選ぶべきか、獪岳の中で天秤が揺れた。

 迷いを強制的に砕いたのは、瓦礫の山が内側から爆発する轟音だった。

 

 蜘蛛のような手足を伸ばして上へ逃れた鎌鬼よりもさらに高く、より月に近い夜空に小さな姿が舞った。

 結わえ髪に留められた、翡翠色の蝶の翅が煌めく。

 深く呼吸し、全身に力を巡らせる音が聞こえた気がした。

 小さな体が、縦にくるりと回る。鉄槌のような踵落としが、融合しかけている二体の鬼を地上へと叩き返した。

 

「誰か!斬って!」

 

 鬼の兄妹を蹴りで落としながら、自分も帯に薙ぎ払われ大地へと落ちながら、幸が叫んだ声が届いた。

 

「各角、頼むぞ!」

「は!?」

 

 轟、と耳元で音がして、気がつけば獪岳は宙を飛んでいた。

 巴投げの要領で獪岳を鬼目掛けて放り投げたのは、伊之助である。

 宙をかいた脚が、そこらを漂っていた帯を捉える。

 疲労と毒による震えが来ている脚で、獪岳は帯を蹴った。

 

 毒が全身を犯していく痛みがある。

 口腔の中に溜まっていく血を味わいながら、落ちる獪岳が狙ったのは、鎌鬼と帯鬼の体の繋ぎ目。

 融合されて彼らが一つに戻ってしまえば、また殺し方がわからなくなる。

 二つに切り裂き、別々に殺すしかない。

 半身が既に兄と融合しかけている帯鬼の、腰に刃が食い込む。

 手から力が抜けかける。毒の巡りが速い。死が近い。

 折れそうなほど、奥歯を噛み締めた。

 霞む視界に、炎が行き過ぎる。

 未だ扱えない玖ノ型、煉獄の豪炎が瞼の裏に翻ったのだ。

 

 ─────あんなふうに、なれたなら。

 

 ひたすらに鬼を斬るため鍛えられた、炎刀の化身。炎柱・煉獄杏寿郎の太刀筋。

 あの領域には至れない。

 あの技には、まだ手が届かない。

 それでも、何分の一かでいいから、今この刹那にあの強さを手繰り寄せなければならなかった。

 記憶の中の動きをなぞる。

 体を目一杯捻り、刃に威力を上乗せする。聚蚊成雷の動きを思い出せと、己で己を叱咤する。

 

 届け、

 斬れろ、

 刀を放すな。

 

 獪岳の心にあったのは、それのみ。

 

 落下しながら振り抜かれた日輪刀が、帯鬼の体を腰で断ち切った。

 両断され、引き剥がされた帯鬼と鎌鬼の体は分かれて落ちていく。鎌鬼の頸に柄まで深々と刺さった苦無があるのを、獪岳は見て取った。

 

 あの苦無が、僅かなりとも鎌鬼の動きを鈍らせている今しかない。

 

 そのときには火と雷が、墜ちていく二体の真下に滑り込んでいた。

 火を纏った竈門の刀、紫電を放つ善逸の刀が、鬼の兄と妹の頸を捕らえた。

 逆さになって落ちて行く獪岳の視界に、二つの頸が断たれて舞い飛ぶ様が見える。

 

 気づけば、瓦礫だらけの地面が迫っていた。腹の底が冷えた。

 頭を下にして落ちる獪岳には、受け身を取る力すら残っていない。胴を断ち切ったときに、全身の力を使い果たしたのだ。

 このまま地面に激突すれば、首の骨が折れる。

 思わず目を瞑った。

 

「危ねェ!」

 

 間一髪、獪岳は自分の体が轟と吹き抜けた風に掬われて回り、背中が下になるのを感じた。

 仰向けになった視界に光ったのは、澄んだ金色の眼。なす術なく落下していた体は、やわらかく強いものに、しっかりと受け止められていた。

 

「獪岳!?」

 

 獪岳を両手で横抱きにしたのは、幸。

 地面に叩きつけられる寸前の獪岳の下に跳び込み、落ちて来た体を受け止めたのだ。

 

 降ろせこの馬鹿と言う前に、喉の奥から血がせり上がり、音柱の叫びが聞こえた。

 

「全員逃げろォォォォ!」

 

 またも吹き荒ぶ毒血の風が、轟、と幸の背後で吹き上がるのが見えた。

 

「舌、噛まないで!」

 

 そんな叫びを最後に、意識がぶつりと途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 炭治郎と善逸の刀が、鬼の兄妹の頸を落としたのと同時、妓夫太郎の体から吹き上がったのは毒血の嵐である。

 最期の足掻きとばかりに生まれた、すべてを飲み込み砕く暴風に真っ先に反応したのは、音柱だった。

 まだ鎌鬼たちの間合いにいた炭治郎と善逸を、彼が蹴っ飛ばして離脱させる。

 その音柱は、獪岳を抱えたままの幸が体当りして弾き飛ばす。

 もつれ合うようにして攻撃範囲の外まで転げ出て、地に伏せて嵐をやり過ごしてからようやく、幸はその場にへたり込んだ。

 膝をつき、腕に抱えていた獪岳を地面になんとか降ろす。

 回復と血鬼術を繰り返したせいか、頭の芯にずきずきと痛みが走った。

 だけどまだ、頑張らなくてはならなかった。

 妓夫太郎の毒がある。

 毒を、消さなくてはいけない。

 小刻みに震える手を獪岳の体の上に翳したとき、幸は横からその手を掴まれた。

 

「む!」

 

 長い黒髪をした、幸より小さな女の子がいた。ふるふると首を振られる。

 

「禰豆子ちゃん?」

「む、むむっ!」

 

 ぽんぽんと幸の頭を撫でた禰豆子は、とん、と獪岳の体に手を当てる。

 

「あっ」

 

 何が起きるか察した幸が、慌てて離れた途端、気絶している獪岳の体が()()()()()()

 けれど、幸は慌てない。

 禰豆子の血鬼術、爆血は、鬼だけを燃やすことができる。鬼の毒の浄化にも使えるということを、幸は知っていた。

 ただ、幸も鬼だから爆血に僅かでも触れれば、燃やされてしまうのだ。

 やがて獪岳の体から火が消える。

 毒に犯されて斑に変色していた顔が、元の色に戻っているのを見て、幸は禰豆子に思わずきゅっと抱きついた。

 

「ありがとう!ありがとう、禰豆子ちゃん!」

「む!」

 

 えへん、と言いたげに禰豆子が胸を張った。

 ほわ、と微笑みかけた幸は、思い出した。音柱も斬り合いの中で毒を受けていたのだ。

 

「禰豆子ちゃん!音柱さまに、も!」

「む!」

 

 地面の上には、炭治郎の使っている箱が蓋が開いて転がっていた。

 恐らく戦いの弾みで箱が飛んで、禰豆子は出て来たのだ。

 幸の言葉に大きく頷いた禰豆子は、瓦礫をぽてぽて踏んで、離れたところで目を丸くしている音柱の方へ寄っていく。

 

 毒を浴びつつも二刀で瓦礫の山を叩き崩して幸が空へ跳ぶための道を開き、炭治郎を庇って鎌鬼の頸へ繋げた音柱は、かなりの重傷だった。

 片目が斬られて潰れているし、脇腹を大きく抉られている。毒にもやられ、顔が爛れかけていた。

 瓦礫に背を預けていた彼は、とたとた近寄って来た禰豆子と幸を見て目を細めた。

 

「今のはなんだ?血鬼術か?」

「……禰豆子ちゃんの爆血、です。鬼だけを燃やし、ます。鬼の毒にも効きます」

 

 音柱の目が丸くなり、にやりと彼は笑った。

 

「なるほどねぇ。んじゃ、一丁頼むわ。炭治郎の妹。それから獪岳んとこの鬼っ娘、お前他のやつら探せるか?」

「む!」

「はい!いってきます!」

 

 身を翻して、幸は気配がある方へ走った。

 においと心音が一等近い伊之助は、瓦屋根の上に仰向けに倒れていた。

 毒で皮膚が爛れているのを見てとるや、幸は両手をその体の上に翳した。

 

 幸の血鬼術、癒々ノ巡りの紅光が伊之助に降り注ぐ。

 

 だらりと投げ出されていた伊之助の手足に、力が戻った。むくりと猪頭が起き上がる。

 

「おっ!?幸か!?鬼はどうなった!」

「気配はない、から。消えてる」

 

 いきなり動き出そうとする伊之助の肩を抑えて言えば、彼の肩から力が抜けた。

 妓夫太郎の気配も、その妹の気配も感じ取れない。

 それに二人の頸が落ちるのを、確かに幸は見た。

 

 倒したのだ。上弦の陸を。

 百年以上欠けることがなかったという、十二鬼月の一体を。

 

 けれど目の前で起きたはずの事実に、頭が追いついていない。

 ふわふわと雲を踏んでいるようで、何も心に浮かばなかった。

 

「他のやつらは?」

「今、炭治郎くんと善逸くん探してる。他の皆は、無事。伊之助くんは、動いちゃだめ」

 

 毒を止めたとはいえ、伊之助は重傷なのだ。

 それなのに立ち上がろうとした伊之助を抑えて寝かせ、幸はひょいひょい瓦礫を越える。

 炭治郎と善逸の気配は、ほぼ同じ場所にあった。

 二人はなんとか自力で起き上がったのか、地面に座り込んでいた。善逸は壁にもたれ、炭治郎は地面にある何かに、手を添えて見下ろしていた。

 近寄り、幸は炭治郎がそっと手を添えているものの正体を見た。

 黒い髪に痣のある顔は、妓夫太郎のものだ。切り離された頸は、既に崩れかけていた。

 彼の前には、もう崩れて塵になった、形のない何かの残骸がある。

 

「梅!!」

 

 悲痛な声を残して、妓夫太郎の頸が砂のように崩れた。

 空へ還っていく、妓夫太郎と妹の名残りの灰を目で追う。

 風に吹き散らされる輪郭を失ったあれが、自分と同じ鬼に掬い上げられ、鬼へと変わった兄妹の最期の姿なのだ。

 

 心の何処かが、きゅっ、と締まる。

 あの二人の名前は、妓夫太郎と梅と言ったのだ。

 さよなら、と彼らに向けて呟いた。

 

 空へ還る灰を見送った善逸の視線が下を向いたときに、こちらを捉えたのを感じて幸はひらっ、と片手を上げた。

 

「あっ!幸ちゃん!!」

 

 目敏く幸を見つけた善逸の大声が響く。

 幸は二人に駆け寄った。

 

「二人とも、毒は?」

「俺は大丈夫です!それより皆は!?皆はどこに!?」

「俺も平気だよ、幸ちゃん!だけどだけどさぁ!獪岳と伊之助は!?二人とも毒で斬られてそれでさぁ!!」

 

 伊之助と同じく、闇雲に立ち上がろうとする二人を慌てて幸は抑える羽目になった。

 

「待って、待って。お願い、おね、お願いだから二人ともおちついて。みんな、皆、生きてます。皆、心配、ないから」

 

 一言一言、区切るように言う。

 むしろ、この二人の怪我が一番深いかもしれない。

 毒こそ受けていないようだが、一体、体の骨が何本折れているのだ。

 特に隊服無しで戦っていた善逸は、炭治郎よりひどい裂傷も受けている。両脚とも、折れているのではなかろうか。

 頼むから、無闇に動かないでほしい。

 小枝が折れるみたいなぽきりという音が、人の体からするのは、本当に心臓に悪い。

 幸の言葉を聞いた途端、二人はすとんと力が抜けたように腰を落とした。

 

「……みんな、ですか?」

「うん」

「獪岳も?伊之助も?」

「皆、大丈夫。獪岳も、伊之助くんも、禰豆子ちゃんも、音柱さまも、みんな。毒も、うん、平気」

 

 皆生きてる、皆で生き残ってる。

 そう言えば、二人は顔を紙くずみたいにくしゃりとさせた。

 

「よかったよぉぉぉぉぉ!俺、俺さぁ!獪岳と伊之助が毒で斬られたの見てさぁ!もうだめかもしんないと思ったけど、二人がさあ!獪岳は斬れって言うし、伊之助は跳べって言うし!やるしかないじゃん!頑張ったよ!俺、俺ものすっっごく頑張ったよ!」

「ん。善逸くんは、えらい。……だけどそれ、二人に直接言ってくだ、さい。わたしじゃなくて、ね」

 

 ぎゃぉん、と縋りつかんばかりの勢いで、顔中を口にして泣き笑いする善逸の頭を、幸はとん、とん、とゆっくり撫でる。

 禰豆子の真似だが、たんぽぽ色の善逸の髪は意外と触り心地がよかった。

 何処ぞの誰かの真っ黒な髪は案外ごわごわしているし、普段は幸の頭より高い位置にあって、あまり触れられないのだ。

 善逸を優しく見ていた炭治郎が、いきなり顔色をざっと変えたのはそのときである。

 

「あっ!しまった!上弦の血!」

「わたしがとるから!愈史郎さんのお使いの猫ちゃんならわかるから!た、炭治郎くんたちは、お願いだから、じっとしてて!」

 

 鬼を人に戻す薬のために、炭治郎は鬼の血を集めているのだ。それも、無惨に近い鬼のものならば尚良い。

 十二鬼月上弦の血ともなれば、混ざっている無惨の血は濃くなる。だからといって、全身ぼろぼろのままで、瓦礫を乗り越えようとしないでほしい。

 炭治郎を押し留めて血を採るための道具を借りてから、くんと鼻を動かし、幸は血のにおいを嗅ぎ当てる。瓦礫の間に、ようよう手のひら一杯分ほどの血がこぼれていた。

 

 にゃぁん、と足元から猫の声。

 首に箱をつけた小猫が、賢そうな目で幸を見上げていた。

 

「……」

 

 小刀のような形の器具を血溜まりに入れると、血が吸い取られた。蝶屋敷にある注射器と、似た仕組みなのかもしれない。

 

「……できた。お願い、ね」

 

 小箱に器具を入れると、猫は一声鳴いて姿を消す。

 あのまま、猫は珠世と愈史郎のところへ帰るのだ。

 やるべきことはやったと思うと、脚から力が抜けた。眠気が抑えられそうにない。

 ぺたりと尻を地につけて座り込むと、辺りの惨状が嫌でも目に入る。

 折れた柱に千切れた障子や布団、割れた畳に砕けた箪笥や机などが折り重なる瓦礫の所々に、色鮮やかな着物や小物が埋もれかけている。

 それが、瓦礫の山に咲いた歪な花々のように見えた。

 幸いなのか、空気の中に人の血のにおいはほとんどない。人々の避難は、辛うじて間に合ったらしい。

 誰が、逃げ惑っただろう人々を導いてくれたのだろう。

 幸は、縦横無尽に飛んでくる妓夫太郎の血鎌から人を庇うのが精一杯で、到底気が回らなかった。

 眠気に覆われつつある頭をゆらゆら揺らしながら、そんなことをぼんやり考える。

 いつもの睡眠が、やって来ていた。

 

「ここにいたの」

 

 声がした方に顔を向けると、黒い髪の女の人がこちらに寄って来るところだった。

 長い黒髪を後ろで一つに結って、袖や裾が短い動きやすそうな着物を着ている。

 誰だろう、と思う前に記憶が答えを出した。

 

「……雛鶴、さん」

 

 音柱、宇髄天元の三人いる妻の一人だ。

 元々は、行方がわからなくなった彼女たちを探すのが本来の任務だった、はず。

 幸は、吉原で獪岳を探している間に偶然出会えた鎹鴉の雷右衛門から、おおまかな話しか聞いていない。

 他の二人の名前は、確か。

 

「まきをさんと、須磨さん、は?」

 

 雛鶴の瞳が驚いたようにまあるくなり、それから安心させるようにふわりと弓の形になる。

 嗚呼、とても、きれいな微笑みができる人だ。

 

「二人とも無事よ。あなたがなかなか戻らないから、探しに来たの。立てるかしら?」

「あ。……はい」

 

 怪我はもう無いし、眠気もまだ我慢できる。

 隣で倒れていた柱に手をついて立ち上がった。そういえば、愈史郎からもらった服には腹のところに大穴が開いていた。

 折れた支柱が、腹を貫いたときの穴である。腹の傷は消えたが、布地がごっそり抉れて、薄くて生白いお腹が見えてしまっていた。

 でも、しのぶからもらった蝶の髪飾りは壊れていない。嬉しい。

 

「平気?」

「……はい。雛鶴さんこそ、動いていいんですか?」

 

 破れ屋で倒れていた雛鶴は、毒を呑んだらしく随分憔悴していたけれど、今は少なくとも歩けてはいた。

 

「なんとかね。天元様に毒消しをもらったから、解毒はできたわ。街の人たちも逃がせたし」

「……そうです、か」

 

 手で目を擦りながら、幸は雛鶴の横をついて歩く。歩く途中で、体を七歳くらいのときの大きさに縮めた。

 このほうが、消耗しない。

 元の場所に戻れば、瓦礫にもたれて座っている音柱の傍には、二人の女の人がいた。

 わんわんと音柱に取り縋って元気に泣いている人を、もう一人の人がぺしんと引っ叩いているが、どちらも元気そうで、叩き方にも親しみが籠もっている。

 きっと、女の人のどちらかがまきをで、どちらかが須磨なのだ。

 四人とも無事であることに、ほっと息を吐いた。

 毒に犯され、潰されてから時間が経ちすぎてしまった音柱の眼球は、幸にはもう元に戻せないけれど。

 

「幸」

 

 寄り添い合う彼らと反対側の位置に立つ崩れかけの土塀に、獪岳が背中を預けて座っていた。

 意識が戻ったのだ。顔色は青白いが、血止めも、自力で完了させたようだった。

 雛鶴にぺこりとお辞儀して、幸は獪岳の横に膝をつく。

 傷が痛いのか、不機嫌そうに眉間にしわを寄せている。いや、これはいつもの表情だった。

 

「……平気?」

 

 尋ねると、ぴし、と額を指で弾かれた。

 鬼の額より人間の指のほうがやわいから、痛い思いをするのは獪岳のほうなのだが、獪岳はそんな素振りは欠片も見せなかった。

 

「平気に見えンのか、馬鹿。そっちこそ、足元ふらっふらだろ。とっとと寝ちまえ。つか、その腹どうした」

「……建物の柱が、こう、ぐさっと」

「ぐさっとぉ?」

「ぐさっと、刺さった。木のささくれ、気もち悪かった」

「当たり前だろ。死んでねぇだけ儲けものって思っとけよ」

 

 しかめ面の獪岳の傍らには、日輪刀が抜き身で置かれている。鞘は、どこかで失くしてしまったらしい。

 今回、刀は折れずに済んだのだ。目立つような刃毀れもない。

 つまりそれだけ、刀に負担をかけない、上手い斬り方ができていたということだ。

 幸も獪岳の横に腰を下ろした。

 こつんと触れ合った肩から、じんわりと生きているあたたかさが伝わって来て、目の前が滲む。

 

 生きていて、よかった。

 

 安堵と一緒に、くらりと目眩いが来た頭を横に倒すと、ちょうど獪岳の鎖骨が、耳の下にあたった。

 

「獪岳」

「あ?」

「ただいま」

 

 ずっと言いたかった言葉を口に出した途端、ぷつんと意識の糸が切れる。

 ことりと、幸は夢も見ない深い眠りに落ちて行った。

 

 

 

 

 だからこの後、疲労と負傷に負けた獪岳が、自分に半ばもたれかかるようにして諸共眠りに落ちたことも、善逸が、回収に来た隠の背中からその光景をしっかりと見たことも、幸は何一つ知らないで終わったのだった。

 

 遊郭の長夜は、かくて明けたのである。




遊郭激闘編終了です。
共闘雷兄弟弟子の話。

尚、妓夫太郎の頸に苦無を刺したのは幸です。
獪岳をぶん投げたときに彼の懐から落ちた苦無を拾い(前話参照)、踵落としのタイミングで投擲しました。

ちなみに特に言う必要ないかと思っていたのですが、以下にTwitterで漏らしたことを加えておきます。
不要ならば読み飛ばしてくださって構いません。

・このSSの獪岳は、仮に上弦の壱に城以外でエンカウントすると、問答無用で確殺されます。裏切り者の鬼を連れてる鬼狩りを鬼にする理由とか無い故。
・主人公も幼馴染みも、生き残るのかどうなるのか、当方にもわかりません、正直。さいごまで書けるようには頑張りますが。

以上です。


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十一話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 今度は、半月も意識が戻らず寝込むということはなかった。

 三日寝ただけで獪岳は意識を取り戻したし、獪岳が起きたときには幸も目覚めていて、真っ先におはようと返してきた。

 幸は蝶屋敷に運ばれている途中で起きたらしく、獪岳が起きるまで暇にしていたという。

 何にせよ、吉原遊郭で上弦の陸と戦って、戦いの後に昏倒した人間の中では、獪岳の目覚めが二番目に早かった。

 音柱なぞは、昏倒するどころか、嫁たちの肩を借りながらも自分の足で吉原から歩いて帰ったという。片目が潰れて脇腹が抉れていたというのに、だ。

 鬼の幸でも回復のために寝たのに、あの派手男は本当に人間なのだろうか。

 

 それはともかく。

 

 人間の隊士の中で目覚めが一番早かったのは、善逸だった。

 蝶屋敷に運び込まれた翌日には起きたというが、両脚をひどく傷めたから紛れもなく重傷。

 ついでに言うと、獪岳が投げた鞘で、善逸の腹には物の見事な青痣ができており、さらには肋もぼっきり折れていた。

 獪岳くんが綺麗な折り方をしてくれましたからすぐくっつきますよ、とは傷の具合を診に来た蟲柱の一言だ。

 痛くて寝返りが打ちづらいと善逸は溢したが、お陰で首が飛んでいないのだからむしろ感謝しろと、獪岳に謝る気はさらさらない。

 

 獪岳も、最後に帯を蹴ったときに無理に力を込めた右脚を酷く痛めたが、善逸はどうやら神速と名付けた、霹靂一閃よりさらに速い踏み込みを使ったため、両脚をやってしまう羽目になったのだ。

 

 毒で一度やられたからか目覚めに時間をくったが、獪岳の回復は速い。

 傷の数なら最も多いが、最後に妓夫太郎に受けた背中の傷以外は、深手というほどではない。

 急所を外して受けていたし、元々善逸たちより長く全集中の常中で体を鍛えていたのだから。

 ただしその掠り傷の程度は、あくまで鬼殺隊を基準としたものである。

 普通の人の基準に照らし合わせれば全員重体だったし、今も重傷だから、とは鬼の幸の一言だ。

 

 翻って、現在。

 蝶屋敷にての入院が始まってから、四日経った日の夜である。

 獪岳は寝床の布団にうつ伏せて、両耳を押さえていた。背中の傷のために、仰向けになれないのだ。

 

「直るかなぁ?幸ちゃん、直せる?」

「……ん……んー……うん、これなら、なんとか」

「よっしゃ!ありがとう!」

「でもちょっと、時間が」

「大丈夫大丈夫!俺たちまだ当分は入院だし!」

 

 かなり間近で交わされるひそひそ声のやり取りが、素直に鬱陶しかった。

 

「おい」

 

 ぶん投げた手近の枕は、さっと伏せた幸の頭の上を掠めて、善逸の顔面に直撃した。尚、枕の中身は重たい蕎麦がらである。

 

「へぶっ!?」

 

 間抜けな声を上げて布団の上に倒れた善逸を、幸が引っ張って起こす。

 両脚が石膏と布で固められて使えないので、毎度の情けなさに拍車がかかっていた。

 それは別にどうでもいい。よくはないが、今更である。

 弟弟子の醜態など、修行時代に散々目にしたのだから。

 で、何故に自分がこいつと同じ病室にされねばならないのだろうか。

 苛々して髪をかきむしると、心を読んだように幸が口を開いた。

 

「二人共、脚を怪我したから大人しくしてないと。寝台だと転げ落ちて危ないって、しのぶさんが」

「……クソが」

「あなたたちが、大人しく寝台の上で寝ているような性格だったから私も考えたのですけどね、善逸くんは騒ぐし、獪岳くんも脱走の常習犯です、同門の兄弟弟子ならば同室でも構いませんよねぇ、炭治郎くんと伊之助くんは、まだ面会謝絶の絶対安静で昏睡中ですし、だって。……自業自得」

「嫌がらせじゃねぇか。お前も一言一句再現すんじゃねぇ、記憶力の無駄遣いしやがって」

「何に記憶を割くかは、わたしの自由」

 

 襷で着物の袖を上げた幸は、肩をすくめた。

 二つの寝床の枕元、畳の上に広げられているのは、獪岳の羽織りが置かれた風呂敷だ。

 裾はまだマシだが、右片袖は半ばまで千切られ、左前身頃の布地は派手に破れている。背中はざっくり切られて、真っ二つになりかけていた。

 

 遊郭の戦いで、獪岳の羽織りはかなりぼろぼろになったのである。

 梅という名だった帯鬼の攻撃を、前に出て最も多く捌いた結果、纏っていた羽織りは、派手に切り裂かれることになった。

 捨てればいいだろうといえば、嫌だ嫌だ、と善逸が喚いたのだ。

 大事な先生がくれたものを捨てていいのかと切り返されては、答えられない。

 かと言って、一度自分で捨てたことがある羽織りをもう一度欲しいと自分から言うのは、獪岳には嫌だったのだ。

 

 喧々言い争う獪岳と善逸の横で、ぼんやりと破れた羽織りを弄っていた幸が口を挟んだのは、そんなときである。

 

「直せば、多分、いける」

 

 その一言に、そういえばこいつは針仕事が大人顔負けに上手かったのだということを、獪岳は思い出した。

 蟲柱や看護婦の少女たちから分けてもらったという黒い絹糸や布、借りて来た裁縫道具一式を抱えて戻って来た顔は、心なし嬉しそうだった。

 今も、ふんふんと鼻唄混じりに黒の糸巻きを取り出しているのを見ると、あまり邪魔したくない。

 だがその丈夫そうな糸、まさか傷口を縫うためのものじゃないだろうな。

 幸の手元を覗き込んで嬉しそうにしている善逸の顔面に、獪岳は二個目の蕎麦がら枕をぶち当てた。

 

「いでっ!!」

「テメェはとっとと脚治しやがれ。んでどっか行け。鬱陶しいんだよ」

「俺より獪岳のほうが怪我の治り速いじゃん!早く治るのはむしろそっちじゃない!?」

「うっせぇ。一々喚くな。耳が良いだか何だか知らねぇけどよぉ、テメェは声が無駄にでけぇんだ。自覚しろ、蛸」

「蛸!?蛸ってなに!俺あんな面じゃねぇし!」

「そうだなァ。お前と比べちまうのは蛸に失礼だったな」

「ちっげぇよ!」

 

「そうやって騒ぐから、しのぶさんに怒られる」

 

 しゃきん、と鋏が糸を断ち切る音が、やけに大きく聞こえ、二人同時にぴしりと固まる。

 言った当人は手元から顔を上げることもせずに、ただひたすら羽織りを繋ぎ合わせているだけだ。

 最後に針を持ったのは随分前だろうに、よくもまぁ淀みなくできたものである。

 細く白い指が、小鳥の羽ばたきのように軽やかに銀の針を動かすたび、幸の手の中で羽織りが段々と元の形に戻っていく。

 眺めていれば、見世物のようで案外楽しいものだった。

 今日の幸の髪型はいつもと違い、後ろ髪の上半分だけを上げて胡蝶の髪飾りで留め、余った分を背中に流していた。

 着ているものも、紺の行燈袴に薄青と白の矢絣の小袖だった。

 

「幸、お前そんな着物持ってたか?」

「持ってなかった。行冥さんにもらったの。前のが着られなくなったこと、知ってた」

「……あの人、いつ来たんだ」

「一昨日の夜。獪岳が寝てるときに来て、頭をなでて、帰った。忙しいから」

「……誰が、誰の」

「行冥さんが、獪岳の」

 

 他の誰が誰の頭を撫でたりするのかと言いたげに、ようやっと顔を上げた幸は片眉を上げた。

 

「わたしもなでてもらったよ。会えるの、待ってるって」

 

 ぽわぽわと頭から花を飛ばしていそうな能天気は放って、獪岳は呻いた。

 この病室まで悲鳴嶼がやって来たなら、まさか起きていたかもしれない善逸に、頭を撫でられるところを見られたのか。

 昔の、餓鬼だったころのように。

 

 横目で睨むと、善逸はへらっと笑った。それでもう答えは出た。

 投げる枕は無くなっていたので、獪岳は自分のやわらかい枕に突っ伏した。

 最悪だ。とんだ恥さらしだ。

 やはり弟弟子など、鞘を投げてまで庇わなければ良かった。ろくなことにならない。

 

「おう、邪魔すんぞ」

 

 がらりと障子が開け放たれたのは、まさにそのときだった。

 

「ゲッ!」

「ん」

「……」

 

 宇髄天元である。

 片目を眼帯で覆って髪を下ろしており、隊服も着ていないが、それ以外はあまり変わりがないように見えた。相変わらず、無闇に背が高い。

 

「よォ。お前らが一等早く起きたんだってなぁ。意外に元気そうじゃねぇか」

 

 片手をひらりと上げ、長身を屈めて部屋に入って来た音柱は、どっかと胡座をかいた。

 起き上がろうとすれば、手のひらを向けられてそのままでいいと言われる。

 寝転がったまま見下ろされるのは、落ち着かないのだが、無理に起き上がると背中の傷が痛むのも事実で、素直に聞いておくことにした。

 

「何しに来たんですか?」

「あ?見舞いに決まってんだろ。胡蝶に薬貰いに来たら、お前らは起きたっていうじゃねぇか。そりゃ顔くらいは見に来るさ。あとはそっちの鬼っ娘に聞きたいこともあったしな」

「?」

 

 繕い物の手を止めて膝の上に手を揃え、正座していた幸はきょとんと首を傾げた。

 

「まァ、くだらねえといやぁ、くだらねえんだけどよ。お前、悲鳴嶼さんのなんなんだ?」

 

 柱合会議にて、宇髄は吉原でのことを報告した。何しろ、百年以上欠けることがなかった十二鬼月の一体を倒したのである。

 無限列車といい、今回といい、上弦と会敵または撃破して鬼殺隊には死人が出ていないことは、良い流れなのだとお館様は仰ったらしい。

 片目を無くしたものの、結局宇髄も柱を続けることになったそうだ。

 

「煉獄が怪我で欠けたばかりってのもあるしな。ま、そうは言ってもしばらくは休養さ。俺の目もこうなっちまったが、雛鶴は毒を飲んだし、まきをと須磨も大分長いこと血鬼術に捕まってたからなぁ」

 

 嫁が三人もいると諸々大変そうだ、と獪岳は半ば呆れながら思う。嫁の名を聞いて血涙流しそうな弟弟子は無視である、無視。

 だがそれと、悲鳴嶼の名前が出てきた理由はどう繋がるのだ。

 

「あの、それで、行冥さんがどうかしたんです、か?」

「ああ、そうだった。会議終わったあとに、俺だけあの人に呼び止められたんだよ」

 

 曰く、幸を遊郭に行かせたのか、と。

 鬼殺隊の任地であるならば、遊郭だろうが何処だろうが幸が赴くことに否やは言えぬが、一人で吉原にて合流したというあの子は元気にしていたのか、何か精神的に参っているということはなかったか、と。

 やけにあの鬼の娘に拘るんだな、と尋ねれば、昔助けた子どもだからだ、と返されたそうだ。

 かつて助けた子どもが、人を喰わぬとはいえ鬼にされて現れた。その娘の幼馴染みが、鬼殺隊士になって鬼を庇っていた。

 確かに誰にとっても、そうとだけ聞けば不幸な話である。内情はもう少し複雑だが。

 

 それにしたって、聞き方に圧があったと宇髄は言う。その理由が何かと聞いているのだ。

 しかし、問いを振られた幸はあまり話を理解していないようだっだった。

 遊郭で戦ったことを、何故育て親にそこまで言われなければならないのかわからないという戸惑いが、素直に顔に出ていた。

 

 ため息をつきかけた。

 要は、世間知らずの気がある十七歳の娘が、一人で花街に行って精神的に色々と平気だったかを心配されているのだということに、気づけていない。

 男の格好で現れていた辺り、吉原の何たるかをまるきり理解していないわけでも、頭の回転が遅いわけでもないのに、時々鈍くなる。

 最近気づいたことだが、ふとしたときに、幸はこういう歪つな幼さが表に出る。

 心の時計の歯車のどれかが、七歳の夜で錆びて、止まったきりなのではないかと思うほどだ。

 黙っているつもりだったが、やむを得ずに口を開いた。

  

「助けたも何も、こいつを拾って育てたのがあの人なんですよ。赤ん坊のころから七つになるまで。そりゃ、思い入れもあるでしょうよ」

「……すると何か、幼馴染みだっていうお前もそうなのか?」

「俺は別に。あの人ンところで世話になったのは、精々二年ぐらいなもんです」

 

 思い返せばあそこは、貧しいが優しい人間がいる、珍しいところだった。

 自分たちも貧しいのに、身を削ってまで他人を慮れる人間など、本当に少ない。

 他人に優しくできるのは、自分に余裕があるやつらだけだ。

 しかしあそこは、拾われるまでの獪岳が、盗みを働いて生きていたことを知っても、もう二度としないならば自分たちは咎めないと、受け入れてくれた。

 最悪な形であの場所が壊されてしまってから先生に拾われるまで、獪岳はあちこちを転々としたが、あの寺以上に安らげた場所はなかった。

 そうと気づいたときには、もう()()すべてが、失われていた後だったが。

 

 話を聞いた宇髄は、がりがりと頭をかいた。

 元の顔がいいと、無造作な仕草でも逐一絵になるのだと獪岳は今学んだ。

 

「なんつぅか……お前らもあの悲鳴嶼さんも、色々あったんだな。あの人は、自分の昔の話とかあんまりしねぇし」

「訳有りじゃないやつとか、鬼殺隊にいるんですか?」

「ナマ言いやがるなァ」

 

 不敵に笑い、ぐしゃぐしゃと宇髄は獪岳と善逸の頭をかき回した。

 

「わっ、ちょっ!なんなんですかアンタ!怪我してんなら家帰ればいいじゃないですか!嫁さん待たせてんでしょ!」

「応。三人とも俺の帰りを待ってくれてるぜ。てか善逸よォ、お前にはいねぇのか。兄弟子みてぇに、繕い物やってくれる良い人の一人でもよ」

「余計なお世話ですぅぅぅ!!俺には禰豆子ちゃんがいますから!!な!獪岳!」

「テメェの妄想に俺を巻き込んでんじゃねぇよ、カス」

「獪岳。カスは、駄目」

 

 ぺち、と額を指で弾かれた。

 良い人、と宣った宇髄の言葉は丸ごと無視である。顔色一つ変わらないどころか、髪一筋たりともそよいでいない。

 流石に、良い人という言葉の意味ぐらい知らないわけないだろうにこの態度を取るということは、つまり宇髄の言を、幸はやり過ごしたいのだ。

 獪岳も派手男の戯言に乗るのは面倒くさいので、それに付き合う。

 何にしてもこの派手柱、いい加減帰っちゃくれないだろうか。

 からかわれてごちゃごちゃ抜かしている弟弟子の声が喧しく、獪岳は枕で耳を覆う。幸もあっさり、羽織りを縫い直すのに戻っていた。

 

「宇髄さん」

 

 底の知れない笑みを浮かべてそのとき入って来たのは、胡蝶しのぶであった。

 

「彼らも、まだ安静にしておかないといけないんですよ。あまり興奮させないで下さい。これでは、何のために煉獄さんに見舞いを止しにしてもらったのか、わからないじゃありませんか」

「……師匠が?」

 

 耳をふさいでいた枕を退けて尋ねると、蟲柱は獪岳に視線を据えて頷いた。

 

「ええ。あなたたちが運び込まれてからすぐに来ようとしていたんですが、あの人が来ると、獪岳くん、また鍛錬したがるでしょう?だから、少しの間だけですけれど、見舞いは控えてもらったんです」

 

 鍛錬だといって抜け出すのは、蝶屋敷で竈門たちと顔を合わせていたくないからなのだが、言うのはやめておいた。

 

 それにしても、そうか。

 師匠は、煉獄杏寿郎は、見舞いに来ようとしてくれていたのか。

 今の自分の表情を誰にも見られたくなく、獪岳は枕にうつ伏せた。

 

 そして宇髄は、しのぶに声をかけられれば、あっさりと腰を上げた。

 

「邪魔したなァ。お前ら、全集中の常中も忘れんじゃねぇぞ」

 

 からから笑い、音柱は歩き去って行った。

 音というより、嵐のようだ。

 彼を見送り、しのぶは軽く手を叩く。

 

「さて二人とも、もう消灯しますから静かに、ね。あ、幸さん、お裁縫なら私の部屋でどうぞ。しばらくは起きていますから」

「……いいんですか?」

「ええ。あなたとは、話したいこともありますから」

 

 こくん、と幸は首肯して、手際よく繕いかけの羽織りと裁縫道具を風呂敷に包むと立ち上がった。

 

「獪岳、善逸君。また明日。あんまり派手な喧嘩は、駄目」

「そこはまず、喧嘩をしないように止めてほしいんですけれど」

「それは無理です。ごめんなさい」

 

 ほぼ同じ背丈の蟲柱と幸は、並んでいなくなった。明かりが消されれば、白い障子がぼんやり闇に浮かび上がる。

 寝よう、と枕に顔を埋めると、隣でごそごそと寝返りを打つ気配があった。

 

「か、獪岳。まだ起きてる?」

「……」

 

 音でわかるだろうがと思いつつ、薄目を開けた。怪我のため寝返りがろくに打てないので、背を向けることもできないのに苛立ちが募る。

 

「……なんだよ」

「え、えっと……いや、その、しのぶさんと幸ちゃん仲いいのかなぁって、気になって……」

「仇が同じ鬼だからだろ。あいつは蟲柱の毒作りに協力してるし、蟲柱はあいつに戦いを教えてる。協力してんだよ」

 

 上弦の弐は、童磨という名だった。

 陸の兄妹を鬼にしたのもやつだったというから、少なくとも童磨はそれより前から十二鬼月にいた古参だ。

 その童磨は、元花柱の胡蝶カナエも殺しており、しのぶにとっては姉の仇になる。

 たった一人の肉親、最愛の姉を殺されたと語ったしのぶの菫色の瞳は、あれを殺すと言った幸の金色の瞳とそっくりだった。

 

 同じ復讐者なのだ。

 相通ずるものがあって当然だ。

 

 しのぶの作る毒を幸が自分の体で試して、より強力な毒を精製していると聞いたときは大丈夫なのかと思ったが、意地でもやめないと言うから獪岳は諦めた。

 試すうちに幸には藤毒への耐性が次々出来上がり、しのぶがより強い毒素を持つものを作る、というふうに回っているらしい。

 引き換えに、幸はしのぶから体術の基礎を教わっているというから、取り引きのようなものだ。

 鎌鬼の、妓夫太郎の攻撃を自分に集めつつ、街の人間を庇う器用なこと、数ヶ月前の突撃しかできない幸には、できていなかったろうから。

 

「話はそれだけか?なら黙れ」

「あっ、待った待って!それだけじゃないから!えっとあの……吉原で戦ってたとき、獪岳、鞘投げて俺のこと助けてくれただろ。それがその、嬉しくて、だから……ありが───ぶぇっ!?」

 

 三つ目の枕は、狙い通りに当たったらしかった。

 

「貸し借り消して、テメェの尻拭いしてやっただけだ。あんな馬鹿鬼に狙い外されやがって」

「へ?貸し?俺、獪岳になんか貸してた?」

 

 気の抜けた声は、完全に覚えていないようだった。 

 無限列車で上弦の氷に串刺しにされかけた獪岳の前に飛び込んで、霹靂一閃で斬り払ったときのことである。

 順の後先でいうと、獪岳のほうが先に善逸に助けられていた。

 初めて庇われた獪岳の屈辱を、庇ったほうが覚えていないならば、拘っていた自分のほうが馬鹿ではないか。

 

 こいつのこういうところが、自分は大嫌いだったのだ。

 昔も、それに今も。

 

「……もういい。次は死んでも助けねぇからな。テメェで何とかしやがれ。神速だか何だか知らねぇが、新しい技ぐらいあるんだろ」

「あれまだ二回しか使えないんだって!獪岳のほうこそ、雷と炎混ぜてなんか新しい技出してたじゃん!獪岳も新しい型つくるんだろ!?」

「……獪岳、()?」

「あっ」

 

 あぁぁぁぁあ、と訳のわからぬ鳴き声を上げた善逸は頭を抱えた。

 うっかり口を滑らせたらしい。

 やがて呻くのをやめて、ぼそぼそと善逸は口を開いた。

 

「だって俺、雷の呼吸、ひとつしか使えないだろ。八連、六連ができても、神速で速く跳べてもさ。……獪岳が帯鬼の攻撃前で受けてくれてたから、俺はこんな怪我で済んだけどさ、あんたは俺より起きるのが遅かったじゃん。毒までくらってさ」

「で、だから?」

「だから、心配したんだよ、俺!幸ちゃんも、獪岳が起きたときはにこにこしてただろうけど、それまではずっと泣きそうにしてたんだからな!」

「……今あいつは関係ねぇだろ」

「ある!あります!こ、今度はあんたの横で戦えるように、俺はもっと頑張んの!強くなるの!そのために新しい型つくろうとしてんだ!だけどできるようになるまで恥ずかしいから言いたくなかったの!!以上!寝る!おやすみ!」

 

 ふざけんな、と勝手に布団まんじゅうになった馬鹿の脛あたりを蹴ると、絞め殺された鶏のような声が上がった。

 

「イッタ!なんでわざわざ足蹴んの!?アンタそういうとこだよホント!幸ちゃんに愛想つかされても知らないからな!」

「ハッ。あり得ねぇし」

「本気で言ってんのが腹立ッつゥ!!」

 

「ねぇ」

 

 善逸が叫ぶのとほぼ同時に、障子が細く開いた。

 水のようにするりと入って来たのは、幸である。

 手には何も持っていないまま、二つの寝床のちょうど真ん中ですっと音も無く膝を折り、座る。

 障子の外の明かりを背にしているから、あまり表情が読めなかった。

 

「獪岳に言いたいことは、言えた?善逸君」

 

 ゆっくり、幸が首を傾けた。

 金色の目が、小猫のようにきらきらと光っている。

 

「あ、うん……。ありがとう」

「どういたしまして。……だけど、二人とも、声がすこぅし大きかった。すみちゃんなほちゃんきよちゃんが、気にしてる。……それに獪岳、自分の使うぶんの枕まで善逸君に投げた?」

「……ふん」

「……短気」

 

 一度立ってから戻った幸は、獪岳の顎の下にそっと枕を差し入れた。

 一瞬だけ額に軽く触れた手は、すぐ離れていった。

 

「今度は、二人がちゃんと寝るまで、戻らないから」

 

 そう言って、しゃんと背筋を伸ばして正座した幸の口から心地よい音が溢れた。

 少し掠れてはいるがやわらかい、低く、高く、また低く、途切れない漣のように続く節回しのそれは、唄だった。

 言葉を持たない唄の調べが、寄せては返す波のような響きが、薄闇でひたひたと満たされた部屋の空気にとけて巡り、巡る。

 緩くてあたたかい流れに、包み込まれていくようだった。

 元々体は、受けた傷を癒やしている最中である。騒いでいた分と相まって、眠気は割合すぐに来た。

 

 重くなる瞼を閉じる直前、薄闇の中で微笑んでいる顔が見えた気がした。

 

─────おやすみなさい、良い夢を。

 

 だから、その呟きはきっと、まぼろしの声だったのだろう。

 

 

 

 

 

 




ほのぼの回です。

獪岳が起きる前に善逸と鬼っ娘は、少々打ち合わせしてます。
この二人はお互いを、自分の知らない獪岳を知っていて、かつ獪岳を気遣うひとだと認識しているので、割りと仲良しです。

ちなみに善逸は、戦いの後半起きてました。
鬼っ娘に、「変な格好」と言われて目をかっ開いた辺りからです。

次話で二章が終わり。

尚、些細なアンケートを設置したので、ポチリとご協力下さい。





【コソコソ噂話】
 詞のない守唄は、いつかの日、女性の腕の中に抱かれて聞いた戯れ歌です。
 
 口ずさむと、ずっと昔、泡のように短い間だったとしても、そんなふうに抱かれていた日もあったのだと思い出します。
 
 それはそれとして、寝かしつけに何故かよく効きます。すごく便利です。


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十二話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

前話で二章が残り一話と言いましたが、カウントミスでした。
これ含め、残り二話です。

では。


 

 

 

 

 

 杖を使いながらも歩けるようになった獪岳が最初に向かったのは、煉獄家だった。

 蝶屋敷で安静にしていて下さい、と蟲柱には言われていたが、あそこにいては精神的に安静になれない。

 まだ目覚めない炭治郎や伊之助は静かで良いが、騒ぐ善逸にまた巻き込まれる。

 獪岳は、任務以外でこいつらと関わりたくないのだ。

 それこそ、十二鬼月を相手にするようなとき以外、間違っても共闘したくない。煩わしい。

 こいつらと関わった二度の任務で、二度とも十二鬼月の、それも上弦が現れたのはなんの冗談だ。

 柱とて、十二鬼月の上弦に出くわすことは滅多にないというのに。

 

 先生である桑島慈悟郎からは、上弦の陸戦に参戦して討伐に成功し、生き残ったことを言祝ぐ分厚い手紙が来たが、宛先は善逸と獪岳の名が並べて書かれてあった。

 わかっていたことだが、虫が好かない。

 だから幸が縫い合わせて直した羽織りを着て、籠を背負い、獪岳は煉獄家を訪れたのだ。挨拶以外に、外せない用事もあった。

 

「杏寿郎ならば出かけている。日が暮れる前には戻るだろうがな」

 

 が、現れたのは師匠の父である煉獄槇寿郎である。

 糞親父と罵って彼に殴られて以来、獪岳は槇寿郎と一対一でまともに言葉を交わしていない。

 今も寝ている炭治郎や毒にやられた伊之助ほどではないが、獪岳もそれなりの怪我は負った。遊郭での戦い以後、稽古に行けていなかったのだ。

 歩くのに杖は必要で、右脚は今も固定されているような有様だ。額や背にも、包帯が巻かれていた。

 幸が起きていたら、無理せず寝ていろと止めたろうが、獪岳は幸が深く眠っているのをいいことに、勝手に布で包んだ背負い籠に詰め、持って出てきたのである。

 尚、幸を運ぶための箱はまたも無くなったため、籠なのである。

 箱はよく壊れたり無くしたりして、そろそろ五代目か六代目だ。

 

「……失礼しました。出直します」

「待て。杏寿郎に用があるのではないのか」

「ありますが、急ぎでもないんで」

 

 槇寿郎の視線が、杖によりかかるようにして立つ獪岳の頭から爪先までを通る。

 彼から、以前訪れたときと同じく、酒の匂いが薄れていることに獪岳は気づいた。

 

「上がっていきなさい。茶くらいは出す」

「え」

「わざわざ訪れた怪我人を追い返すような家と思ったか。杏寿郎が戻るまで、上がって待っていればいい。その鬼の娘も連れていて構わない」

 

 早くしなさい、と急き立てるように言われ、獪岳は履物を脱いだ。

 

「千寿郎は買い物に行っている。少し待っていなさい。足も崩していい」

 

 足を傷め、正座がきつい身としては願ったりだったのだが、そう言い置いて厨へ消えて行った槇寿郎の背中を、獪岳は不思議なものを目の当たりにした思いで見送る。

 改めて見れば、濡れた着物のように彼に貼り付いていた荒んだ空気が、薄れている。

 何か、彼に酒から遠ざかることを決意させるような出来事があったのだろうか。

 通された部屋も、幸のことを考えてくれたのか、雨戸と襖で日が遮られている奥の間だ。ここならば、昼でも鬼が出てこられる。

 しかしどうしよう、となんの気なしに視線を上に向け、驚いた。

 幾人もの顔がそっくりな男や女が、並んでこちらを見下ろしていたのだ。

 

 一瞬身構えたが、よく見れば絵や写真である。

 先祖なのだろう。どいつもこいつも同じ顔だった。

 

 それを見ているうちに、悪戯心が起こった。

 

「幸。おい、幸。出て来い。すげぇもんが見れるぞ」

「……なに?」

 

 布を解いて呼びかけると、若干むすりとした顔の小さい幸が、籠からひょこりと出てくる。

 自分の預かり知らぬ間に、籠に詰めこまれて連れてこられた少女のしかめっ面は、しかし天井近くに並べられた煉獄家を見て、すぐ驚いたものに変わった。

 ぽかん、と口と目を丸く開ける。

 

「ご先祖さま、たち?」

「どう見てもそうだろ。こんだけ似た顔ばっか並んでんだからな」

 

 槇寿郎、杏寿郎、千寿郎の煉獄家の三人は全員が全員ともあつらえたように顔が瓜二つ、もとい瓜三つなのである。

 皿のように大きな目に、赤と金の二色という逆立ち気味の癖の強い髪と、墨をたっぷり含ませた筆で描いたようなくっきり太い眉。

 ひと目で、親子兄弟とわかるのだ。

 壁に並んだ彼らも、皆同じ顔立ちであった。

 膝立ちに手びさしをして、故人たちを端から端までを見た幸が、ぽつりと声を漏らす。

 

「若い人が、多いね」

「……炎柱の家だからだろ」

 

 先祖代々、最前線で鬼と戦う炎柱を継承してきた煉獄家だ。任務に殉じ、若くして死んだものも多かろう。

 だがだとしても、幸に言われて気がついた老境に至れた者の少なさに、胸の辺りがうそ寒くなる。

 師匠とてまだ二十歳の峠を越してすらいないという事実を、獪岳は過去の人々の面影の上に思い出した。

 

 無限列車での戦いを境に彼は柱を退いたが、あそこで死んでいれば、杏寿郎は獪岳の師匠にすらなっていない。

 炎柱というただの称号として、獪岳はその在り方も生き様も、何も知らぬまま終わっていた。

 煉獄杏寿郎は今頃、自分たちを見下ろす四角い額縁に、彼の先祖と同じく収まっていたのだろう。

 煉獄家にとっては、死とは連綿と続いてきた、先祖の流れに連なることなのだ。

 

 獪岳が知っている死の形では、なかった。

 死とは、華々しく誰かのために生を捧げるものでも、惜しまれながら穏やかに看取られるものでもなく、誰にも顧みられない土の上で、冷たい肉の塊に成り下がるものだ。

 鬼殺隊に入ってからも、変わらない。

 飢え、病み衰えた挙げ句のみすぼらしい死骸が、化け物に喰い殺された死骸に変わっただけだ。

 

 そういう生命の終わり方しか、知らない。

 それ以外があるなんて、誰も教えてくれなかった。

 死とは負けで、無意味なのだ。

 獪岳はあんなふうには、なりたくない。

 

 生まれたときから、血の繋がりを感じられる家族と暮らし、数多の先祖に見守られ、いつかは己もその一角になると信じていればこそ、煉獄杏寿郎という人間は、炎のように生きられるのだろう。

 

 獪岳には、到底無理な話だった。

 

「生まれたときから、自分とよく似た顔の人たちと一緒にくらすって、どんな気分なんだろう」

 

 煉獄家の先祖を端から端まで見終わった幸が尋ねた。

 自分の今の心を言い当てたのかと思ったが、幸は屈託なく首を傾けて獪岳の答えを待っていた。

 たまたま、同じ時に似たことを考えただけだった。紛らわしい。

 

「俺たちにわかるわけねぇだろ、馬鹿か」

「……ばかは、ひどい」

「考えるだけ無駄じゃねぇか。お前と違って、俺は親の顔も残ってねぇよ」

「残ってなくっても、思い出したくなくっても、想像はできるよ、獪岳」

 

 だから、自分たちがそうすることになんの意味があるんだと思いつつ、獪岳は眉間に皺を寄せた。

 暇なのだから思いつきの一つに付き合うくらい、いいだろう。

 

「良いことばっかりでも、ねぇんだろうなぁ。でなきゃ、元炎柱が酒に溺れっちまったりしねぇよ」

 

 一応、辺りに人の気配がないか探りながら、獪岳は思いついたままを口にした。

 

「そうなのかな、やっぱり。……あんなに強い人でも、お酒に逃げたくなるくらい、柱は重いのかな」

「だぁから、俺がわかるわけねぇっつぅの」

 

 獪岳は槇寿郎が嫌いだ。嫌いなやつのことを、わざわざ深く考えたくはない。

 初っ端に才能もない半端者のくせにと罵られたことは忘れていないし、真っ昼間から酒をかっくらっているのに、そこらの者より余程いい暮らしができているのも気に入らない。

 

「ん」

 

 むい、と幸の指が頬を抓った。音もなく、側によっていたから、避けられなかった。

 

「何しやがる!」

「口の端、ゆがんでた。そういう顔、あまりよくない」

 

 指を払い落とすと、幸は手をひらひらさせて返してきた。

 

「獪岳の好き嫌いは、わかりやすいね。獪岳が嫌いになる人、獪岳にないほしいものを持ってる人だから」

「……」

「獪岳は羨ましいんだ、槇寿郎さんのことが。……わたしと同じ」

 

 沸騰する湯のように瞬間滾った怒りの炎は、切なそうなその声を聞いて消え去った。

 代わりに舌打ちをして、眉間にしわを寄せた。

 

「どこが羨ましいんだよ」

「色々」

「色々ってなんだ。わかんねぇよ」

「色々は、いろいろ。だけど、言わない」

 

 幸は、真顔で自分の唇に指を当てた。

 自分で決めたことならば、誰が相手でも貫き通すやつだから、これは本当に聞き出せない。

 面倒くさいやつ、と呆れたとき、足音が聞こえた。程なくして槇寿郎が現れる。

 一家の当主が手ずから茶を持って現れた驚きで、獪岳も幸も固まる。

 しかも彼は去りもせず、その場に胡座をかいた。

 茶を飲めない幸は人形よろしく固まってしまうし、作法が定かでない獪岳はともかくも湯呑みを持ち上げて、味もわからぬ茶を啜った。

 一口飲んで湯呑みを置いたとき、槇寿郎が唐突に獪岳の方を見た。

 

「獪岳君。……すまなかった」

「……?」

「初めて会ったときのことだ。才能がない半端者など、すぐ死ぬというひどい言葉を君に向けて吐いた。謝罪したいのだ」

 

 深々と頭を下げた元炎柱のつむじを、獪岳はぼんやり眺めた。

 

「別に、構いやしないです。そう言われることは初めてでもないんで」

 

 壱ノ型が使えないくせに、どうせ大したことはないくせに偉そうに、出しゃばりめ、と陰口を叩かれたことなど、隊士になってすぐのころから今まで、いくらでもあった。

 鬼を連れていた獪岳には、彼らに構う余裕がなかった。

 下手に殴り返しでもして、階級が上の隊士や柱に目をつけられたら、詰むのは鬼を隠している獪岳のほうだからだ。

 それに、そういう口さがないやつらほどとっととくたばったから、放っておけば済んだ。

 だから他の隊士を殴り、問題を起こした善逸に苛立ったこともあった。どこまで行っても、世間から見れば獪岳と善逸は同門の兄弟弟子である。

 弟弟子の問題が、兄弟子へ流れて来たらどうしてくれるのかと。

 槇寿郎を殴り返したのは、幸を隠さなくても良くなったからである。

 要は、どちらも間が悪かった。

 

「君に、才能がないわけはない。君たちは上弦の弐、陸と戦い、生き残った。これは柱であっても生半な者では成せぬ。……だからこそ、君が何故雷の呼吸の壱ノ型のみできなかったのかが……」

「それは、もういいんです」

 

 ぐる、と胸の底で蠢いた獣を留めて、一言だけを絞り出した。

 

「よくない」

 

 だが、獣を抑えつけるのを良しとはしない声があった。

 羽織りの袖を引いて、幸が(かぶり)を振っていた。

 

「目をそらしたら、だめ。()()()()()()()()()()、考えて、話して。それは、()()()()()()()()()()()()

 

 汚泥の底に奇跡のように残った、砂金にも似た瞳が光る。

 胸に灯った怒りも憎しみも、ねじ伏せられるほどの、逆らえないうつくしさのある瞳だった。

 槇寿郎の前で、獪岳は辻に取り残された迷い子のように固まる。

 

「君は、何故鬼殺隊に入った?……竈門君のように、そこの娘を人に戻すためか?」

 

 その問を肯定しておけば、これ以上何も言わずに済むか、とちらりと思う。

 しかし、羽織りの袖にかかった重みが、偽りを口にすることを許してくれなかった。

 

「……いいえ、関係ありません。俺はこいつが、十年前に死んだと思ってました。鬼殺隊に入りたかったのは、自分で鬼を殺せるようになりたかったからです」

 

 復讐がしたかったわけではない。

 あの場所の人間たちに幸ほど心を傾けていたわけでもなかったし、第一寺が壊れたあとは、また食うや食わずの、何も持てない生活に逆戻りだった。

 生きていくのに精一杯で、復讐なぞ考えている(いとま)がなかった。

 また鬼に出会ったときに殺されないために、殺す技術を手に入れたかった。

 一度目は庇われたから運良く助かったが、自分の身を投げ出してまで救ってくれるような誰かが、二度も現れると思えなかったから。

 また鬼に出会ったら、今度こそ殺されて喰われる。

 死にたくは、なかった。

 

「桑島の先生に拾われたのは、たまたまです。俺には才能があるって言われたから、ついていきました」

「……獪岳、すごく、幸運だよね。そういうところ」

「うっせぇ。混ぜっ返すな」

 

 事実であるから割と腹が立つ。

 羽織りの袖を幸の指の間から引っ張って引き剥がし、槇寿郎に向き直った。

 

「俺の理由なんてこれだけですよ。でも鬼が死ぬなら、鬼殺隊にとっちゃなんだって構わないでしょう」

 

 言い切れば、槇寿郎は曰く言い難い顔になった。

 ゆらゆらと手の中の湯呑みを弄んでから、彼は口を開いた。

 

「……呼吸は、それを扱う者の心にも左右される。心技体揃っていなければ、成功しないものもある。見たところ、君には技と体は備わっている。ならば、残るのは心だろう。君が刀を取ったその心、そこに理由があるのではないか?」

「理由って、なんのですか」

「君が未だ霹靂一閃を使えない理由だ。遊郭での戦いの折りも、頸を取ったのは弟弟子で、君は彼を庇いつつ周辺の攻撃を捌いていたのだろう?霹靂一閃があったならば、君一人でも鬼の頸の最低、片方だけでも落とせたのではないか?」

 

 茶を槇寿郎の顔面にぶち撒けなかったのは、なけなしの理性のなせる技だった。

 手をきつく握ると、爪が食い込む。

 掠れた声で、獪岳は返した。

 

「仮にそうだったとして、それが、あんたとなんの関わりがあるんですか」

 

 獪岳が生きても、死んでも、槇寿郎にはなんら関係はなかろう。

 息子の弟子だからどうだというのだ。

 その息子たちを才能がないと罵っていたのは槇寿郎だ。

 何から何まで、元炎柱の行動の意味がわからなかった。

 

「関係はある。そこの娘は息子の生命を救ってくれた。そして鬼の娘があの戦いの場に居合わせることができたのは、彼女を殺さずに守っていた君がいたからだ。感謝する理由はあるだろう」

 

 息子とよく似た眼差しが、獪岳を正面から捉える。断固とした一本芯が通った口調も、師匠そのものかと思うほどだ。

 いや本当は、逆だ。息子が父に似たのだ。

 槇寿郎は、訥々と続けた。

 

「杏寿郎の継子に以前、甘露寺という娘がいた。知っているだろうが、今の恋柱だ。……個性が強すぎ、独立して恋の呼吸を確立させたがな」

「……こい」

「言っておくが、色恋の恋だぞ。私もそれを聞いてふざけているのかと言ったが、杏寿郎に言われたのだ。甘露寺は己の……なんと言ったか……ときめきを大切にしている。それが呼吸に深く繋がり、強さにも繋がっているのだ、と」

 

 恐らく重要なことを言われているとわかっていたのだが、獪岳は吹き出しかけた。

 桑島の先生のような、頑固親父然とした面の男の口から、恋だのときめきだのという言葉がこぼれるのだ。

 似合わないこと、甚だしい。

 ちゃんと聞け、とばかりに幸に肩をど突かれた。金色の瞳が、尖った三角形になっている。

 槇寿郎も似合わぬことを言った自覚はあるのか、やや眉間にしわを刻んでいた。

 

「……続けるぞ」

「すみません」

 

 温くなった茶を啜り、槇寿郎は口を開いた。

 

「言いたいのは、呼吸の適性は扱う者の心と関係があるということだ。……霹靂一閃は、鬼の懐深く飛び込み、一撃で頸を刎ねる居合いだろう」

 

 知っている。

 何より知っている。

 求めても焦がれても、手の中に降りてこなかった神鳴(かみな)りの一太刀だからだ。

 

「殺されないために殺したかったと君は言うが、君は初めて鬼と遭遇したとき、何を思い、何を心に刻まれた?……そこから目を逸らしてはならない、と君の連れている娘も言いたいのだろう」

 

 こくん、と幸が頷いて、丁寧にゆっくりと槇寿郎へ頭を下げるのが見えた。

 尤も、と槇寿郎が一つ呟く。

 

「目を逸らしてはならない、などと、私が人に言えた義理はない。瑠火の……妻の死からずっと蹲り続け、逃げ続けた、とんだ大馬鹿者だ。だがだからこそ、見え、言えることもあると思ったまでのことだ」

 

 手の中の湯呑みはすっかり温くなって、日は中天に差し掛かっている。

 槇寿郎は、見えない何かを探すように部屋の外を見やる。

 ぺしぺしぺしぺしぺし、と幸が高速で背中を叩いてきた。目線だけで振り返ると、お、れ、い、と口がぱくぱく動いている。

 礼を言うまで叩くのをやめない、と目が言っていた。

 

「……ありがとう、ございました」

「いや、いい。唐突に言っても、訳がわからんだろう。君の師匠は、あくまで杏寿郎だからな」

 

 もう間もなく帰る頃だ、と槇寿郎が立ち上がった瞬間、庭の方から障子がかたかたと震えるほどの声で帰宅を告げる声があった。

 続いて、どかどかと廊下を歩く音が続く。

 ぬっ、と隻眼の師匠が現れた。

 

「ただいま戻りました!千寿郎も共におります!父上!……獪岳!?幸少女!?いつ来たのだ!」

「しばらく前だ。お前の帰りが遅いから、二人とも待っていたぞ」

 

 面差しの似た息子を前に、父親は湯呑みを乗せた盆を手に立ち上がった。

 

「よもや!それはすまなんだ!それにしても出歩く許可が下りたならば、俺が蝶屋敷まで赴いたものを!怪我はまだ治っていないのだろう!」

 

 獪岳が答える前に、幸がしれっと言った。

 

「そんな許可、ありません。かってに、獪岳が抜けだしました」

「テメッ!」

「なんと!君が胡蝶の言いつけを破るのは既に十回目だろう!なかなかに無謀なことをするな!」

「……後で叱られますから」

「叱られる前に、任務に行ってごまかすのはだめ」

「お前ほんと一回黙れ!」

 

 騒ぐうちに、槇寿郎はいなくなっていた。

 獪岳の前に残った湯呑みを見、杏寿郎は元から大きな目を殊更大きく見開いた。

 

「これは父上か?」

「……ええ、はい。そうです」

 

 小さくなった幸の襟首を小猫よろしく掴んでぶら下げたまま、獪岳は答えた。

 幸は、ぶかぶかになった着物の中で手足をぷらぷら振っている。普通に眠たげに、二重瞼の目を擦っている。

 考えてみると、いつもなら寝こけているはずの日中に連れ回しているのだから、こうなって当然だった。

 

「寝てろ」

「ん!」

 

 ぼと、と獪岳は籠の中に幸を落として入れた。

 籠は、幸が膝を抱えて丸くなると丁度よい収まり具合になる大きさだ。やや不服そうに目を尖らせていた幸も、眠気には逆らわずすぐに瞼を閉じた。

 

「獪岳!それはそうと、父上と何を語らったのだ!」

 

 それを待っていたかのように、杏寿郎がすいと寄って来る。

 顔の圧が凄かった。

 

「大したことじゃありません。前のことの、その、謝罪と、あと師匠の前のお弟子の話を」

「甘露寺のことか!うむ!彼女は個性が強くて独立したのだ!そのうち、君も同じようになるのではないかと俺は思っているが!」

「俺も?」

「元々君は雷の呼吸の適性が高い!雷が走る日輪刀が何よりの証だ!出す技も、あくまで雷の技を基盤に炎が混ざった型になりつつあるぞ!」

 

 確かに、動きを組み合わせて、頸を斬りやすいように戦ってはいる。

 突進して薙ぎ払う型の多い炎の技と、複数の斬撃を繰り出す雷の技。

 それらを組み合わせて、一つにして、そうやって戦えていた、ということらしい。

 が、そこまでやっても、上弦の陸の頸を落とすことはできなかった。何も嬉しくない。

 

 足りない。

 足りないのだ、何もかも。

 強さが足りなければ、あの黄金はまた壊れる。また失う。

 最も欲しいものが、手に入らない。

 

 肉に爪が食い込むほどきつく手を握りしめたとき、ぽん、と頭の上に手が置かれた。

 

「眉間のしわが酷い!君は、何事にも集中しすぎるきらいがあるからな!」

「……俺は、元々こういう顔だって言ったじゃないですか」

「む!幸少女が、幼いころの君は笑うと愛嬌があったと言っていたのだが!」

 

 これまでの人生において、凡そ縁のない批評である。

 そりゃまあ、一度か二度くらいは素直に笑ったことがあったかもしれないが、そんなものはうんと餓鬼のころの話だ。当人も忘れている。

 ここまで来ると、幸のあの記憶力はいっそ異能か、化け物じみたものに思えて来た。

 一度見たもの、聞いたものを覚えて、しかも決して忘れないとは何なのだそれは。

 だから、実の親に気味悪がって捨てられたりするのだ。

 

「ともあれだ!上弦の陸戦では、よく生き残った!君の鎹鴉が相変わらず細かく報告はくれたが、俺は君の口から、直接戦いの模様を聞きたい!」

「あいつ、またここに来てたんですか……」

 

 馬鹿鎹鴉、ではなく雷右衛門。

 姿がないと思ったら、そんなことをやっていたらしい。

 

「うむ!父上や千寿郎も聞いていたぞ!特に千寿郎は、最近竈門少年と手紙のやり取りをしているようでな!以前より明るくなっていて、兄としては嬉しい限りだ!」

 

 煉獄千寿郎は、竈門が使うヒノカミ神楽とかいう独特の呼吸の研究のために、炎柱の書を復元しているとは、獪岳も幸から言われていた。

 

「というわけでだ!獪岳!二度目の上弦との戦闘はどうだったのだ!」

「話します!話しますから師匠は声ちょっと抑えてくれませんか!!傷に響いてんですよ!地味に!」

「ぬんっ!!」

「いや、ぬんっじゃなく!!」

 

 しっちゃかめっちゃかだと、獪岳は内心頭を抱えた。

 桑島の先生のように雷が落ちて張り飛ばされたりということはないが、煉獄の師匠は声がでかくて話を聞いていないときがある。

 

 くぅくぅという穏やかな幸の寝息を聞きながら、獪岳は日が傾くまで師匠相手に語り続けた。

 そうして獪岳の話が終わったころには、幸は籠の縁に顎を乗せて起きていた。

 

「話はこれで、終わりです。師匠」

「うむ!獪岳、よく戦った!師として俺もとても嬉しい!幸少女もよく戻った!」

「……はい」

 

 ころりと籠から出てきた幸は、ぺこりと畳に手をついて頭を下げた。

 

「だが君は、型を整理したほうがよいな!」

「整理?」

「名をつけ、数字を刻んで整理するのだ!己の技を整えることで、より励めるだろう!甘露寺も恋の呼吸と名をつけた技を使っているだろう!」

「恋柱様ですよね?その呼吸、他に使ってる人っているんですか?」

「俺の知る限りではおらんな!」

 

 だと思った。名前が珍奇すぎる。

 師の言いたいこともわかった。

 今は感覚で組み合わせて使っている新しい型もどきを、名をつけることで整えろ、ということなのだ。

 

「すぐに決める必要はないが、技の精度は即刻高めるべし!精進あるのみだ!」

「はい!」

 

 だから、声がでかい。

 そうは思いつつも、自分が自然応えるような大声になっていることに、獪岳は気づいていなかった。

 

「ん」

 

 隣に膝を揃えてちんまり座る幸だけが、幼馴染みの青年の横顔を見上げ、袂で口元を隠して小さく笑ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの、師匠。頼みたいことがあるんですけど、いいですか?」

 

 話が落ち着いたのち、獪岳は指を組み合わせたり開いたりしながら尋ねた。

 

「君が稽古以外で何かを頼むとは珍しいな!それで頼みとはなんだ!」

「……岩柱の、悲鳴嶼さんの家の場所を教えてくれませんか?こいつが帰って来たら会いに行くって約束してるんですけど、俺たちあの人の家の場所知らないんです」

 

 皿のような目が、ばしばしと瞬きされた。

 

「知らなかったのか!!幸少女もか?手紙のやり取りはしていただろうに!」

「こいつは、黒猫伝いで手紙送ったりもらったりしてるだけで、悲鳴嶼さんの住んでる場所は知りやしません」

 

 こつん、と幸の頭を拳の裏で突くと、肘が脇腹に入った。地味に痛い。

 幸はふん、と小さく鼻を鳴らすと、杏寿郎の方を真っ直ぐに見た。

 師匠もそうだが、幸も、どうしてこう人の目を、何の衒いも恐れもなく覗き込めるのだろうか。

 柄にもなく、そう思った。

 

「教えて、ください。あいに行きたいんです」

 

 答えは当然、是、だった。

 

 

 

 

 

 

 




煉獄家でのお話。

親子関係に関してまぁまぁに鈍い主人公。
鈍くはないが言えることがない幼馴染み。

尚、千切れた腕を繋ごうが、吹き飛ばされた頭を治そうが化け物と思わず、自分に都合の悪いことを覚えている記憶力を化け物かと愚痴る主人公。
そういうところでしょう。

次で悲鳴嶼さんちへ行きます。


アンケートありがとうございました。
次なるアンケートを設置したので、またよろしくお願いします。


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十三話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

これで二章終わりと言っていましたが、結局伸びましてまだ一話あります。度々変更し、申し訳ありません。

では。


 

 

 

 

 

「お前さぁ、前みたくに喋れなくなってんのか?」

 

 悲鳴嶼の家、岩柱邸へと向かう山道を歩きながら尋ねると、獪岳の数歩先を歩いていた幸は、三つ編みにした髪を揺らし、振り返った。

 

「前って、いつ?」

「前は前だよ。お前、無限列車の後はぺらぺら色々と喋ってただろ」

「別に、頭が暗示でまた鈍くなったということはないよ。ほら、ね?」

 

 それは確かに、炎柱の家や蝶屋敷での微妙な辿々しさがなくなった滑らかな口調だった。

 

「わたしはどこでも、普通に考えているつもりだけれど、緊張すると、こう、言葉がうまく出なくなるだけ。わたしが鬼であることとは、関係ないよ」

「ならなんで、今は……」

「獪岳に緊張はしないから」

 

 それだけ、と幸はまた前を向いた。

 岩柱邸は、炎柱邸からそこそこな距離にあった。

 それでも、日が暮れる前にはなんとか辿り着けるだろうと思っていたのだが、怪我をした獪岳の脚は思った以上に動きが悪く、山道を歩くうちに日が暮れてしまったのだ。担いで歩こうか、と幸に言われたのは全力で断った。

 幸が探せる範囲に鬼の気配はないが、ざわざわと葉が風で擦れ合う音と、服の上から染み込むような冷たい夜気、辺りに満ちる土のにおいが、否が応でも記憶を掘り起こす。

 闇の中を一人で逃げた日、小さな少女を見捨てて逃げた、あの夜のことだ。

 

 あの夜から成長したようにも、あの夜に閉じ込められたままにも思える少女は、小さな明かりを片手に、淀みなく暗がりを歩いていく。その明かりも、鬼の彼女には本来必要ない。

 怪我をして足元が覚束ない、獪岳のためのものだ。

 

 獪岳に緊張しないと、少女は言った。

 つまり、それ以外の人間には、仲間には、緊張しているのだ。

 獪岳よりよほどうまく人に好かれる、穏やかで朗らかな気質なのに、言葉がままならなくなるほど彼らの前では平静ではいられなくなる。

 獪岳は知らなかったし、知ろうともしていなかった。違和感を覚えてこそいたが、それだけだ。

 

「仲間の……あいつらの前でもそうなるのか?」

「なる。しのぶさんのお医者様の本にあったけど、長い間、人と話していないと、言葉がうまく出なくなるんだって。だからわたしも、多分それ。病気……というよりは、怪我らしい。それも、心の」

 

 見えないから、治せない。

 治せないから、どうしようもない。

 鬼になったことは、関係ない。

 

「知ってるよ、わかってる。皆、理由もなく刀を抜く人じゃないって、だけど……」

 

 藤襲山の選別用の鬼として過ごした年月が、枷になる。

 悪鬼と呼び刀を向けてくる人間と、飢えて肉を狙ってくる鬼しかいなかった八年間。

 太陽から隠れ、毒花の香りに包まれて眠るしかなかった八年間。

 根付いた恐怖と巣食った諦観が、言葉を自分の中から消してしまう。

 藤の山の夜が、終わらないから。

 

「どうして、急にそんなことを聞くの?」

 

 振り返った幸の瞳に、今まで気づいていなかったくせに、とそう咎められているような気がした。

 

 わかっている。

 そんなものは、錯覚だ。

 楽になりたいがために自分の心が生んだ、まぼろしで、嘘だ。

 だってこいつは、いつも優しい。

 怒るときがあっても、理不尽な、道理のない怒りを振り翳したことは一度だってない。

 幸は決して、獪岳に罰を与えない。

 お前のせいだ、というたった一言さえ口にしない。

 下る罰がないならば、与えられる赦しも永久になく、だから自分のような人間は、考え続けるしかない。

 

 あの夜。

 自分はどうすればよかったのか、本当はどうしたかったのかと、解が与えられることなどない問いを、永遠に、一人で。

 

 黙り込んだ獪岳に、幸は音もなく近寄って顔を見上げた。

 

「獪岳、脚が痛いなら戻る?」

「痛くねぇよ。今晩外したら、また悲鳴嶼さんは任務に行っちまうだろ。会いたくないのかよ」

「それは、会いたいけど」

「なら、勝手に遠慮なんかすんじゃねぇ」

 

 幸が純粋に、ごく単純に、獪岳の脚を心配しているのだとわかっているのだ。

 悲鳴嶼に会いたがっているのに、雷の呼吸には脚が重要だと知っているから、そういう言葉が出て来る。

 

「さっきから何か変だよ。煉獄さんのお父さんに言われたこと考えてるの?」

「……そりゃまぁ、考えるだろ」

 

 刀を取った理由、鬼を殺す理由。

 生きるために鬼殺隊に入ったとは言ったが、自分の行動が矛盾していることに気づかないほど馬鹿ではない。

 上弦の弐に鬼になれと言われたときに、自分は誘いを蹴った。

 誘いに乗らねば死ぬとわかっていたし、助けが都合よく来るとは微塵も思っていなかった。

 それでも、鬼になるのは嫌だったのだ。

 理性より先に心が口を利いて、あの鬼が伸ばして来た手を払いのけていた。 

 

 

 あの夜を想起させる山道を歩きながらやれることと言ったら、考えるしかなかった。

 

「獪岳って、桑島さんとどんなふうに出会ったの?」

「あ?」

「善逸くんは、女の人に騙されたときの借金を肩代わりしてもらって、弟子入りしたって言ってた。獪岳は?」

「ンな間抜けな借金するかよ」

「でも、普通に会ったわけでもないよね。……もしかして、桑島さんの懐掏ろうとして、捕まったり、した?」

 

 はた、と足が止まる。

 あぁやっぱり、と幸が額に手を当てていた。

 

「……悪いかよ。食わなきゃ死にそうだったんだよ、こちとら」

「開き直らないで。悪いことは、悪いことだよ。ちゃんと謝ったの?」

「謝る前にぼこぼこにされたからもう手打ちだろ。で、そんだけ逃げ足が速いなら弟子になれって言うんで、なった。鬼も殺せるって聞いたしな」

 

 かたわの爺だと思ったら、凄まじい気迫で追いかけて来て杖でぶん殴られたのだ。

 鬼殺隊の育手で元鳴柱と知ったのは、まず気絶から起きた後である。

 運よく育手に巡り合えたことに獪岳は驚いたが、鬼の存在を知っている獪岳に桑島の先生も驚いていた。

 鬼に襲われ、鬼殺隊に助けられることなく生き残った子どもに、驚いていたのだ。

 鬼に何を奪われたのかと尋ねられて、さてあの日の己は何と答えたのだろう。

 

 多分先生には、自分が、鬼に何もかもを奪われた子どもに見えていたのだ。

 元々何も持っていなかった惨めな餓鬼が、元に戻っただけだったのに。

 

「なれって言われたから、鬼殺隊になったんだ」

「俺がなりたかったからなったんだ。肝心なとこ間違ってんじゃねぇよ」

「それなら、どうしてなりたかったの?」

 

 灯りを胸の高さに掲げて、幸が振り返り、立ち止まった。

 

「獪岳が鬼をそこまで殺したがってるって、わたしは思っていなかった。だって鬼のわたしを、便利だからって山から出したでしょう?あの山に来る人はただの一人も、そんなことはしなかったよ」

 

 幼い子どもの姿であっても、鬼であるならば恨みと憎しみに満ちた目を光らせ、刀を振りかざすのが最終選別にやって来る人間たちだった。

 それが鬼殺隊で、それが当たり前のことだと幸は思っていたのだ。

 理由は簡単だった。

 

「そんなもん、お前だから山から出したに決まってんだろ。他の鬼だったら、人を喰ってねぇって言おうが殺してる。信じらンねぇからだよ」

 

 鬼の言葉を信じてはならない、と、繰り返し教えられていた。

 すぐ嘘をついて騙す、欲望をむき出しにする、腹が空くまま人を喰らう、本能と我欲の塊だ、と。

 聞いた時分には、人間だって大差はないだろうがと鼻で笑ったが、いや人はよほど追い詰められなければ、人の肉を喰らって飢えを満たしたりなどしないから、その点は確かに化け物の行動だな、と納得したものだ。

 

「俺は、鬼を殺したかったんだ。どっかで顔も知らねぇ誰かを喰ってるやつらじゃなくて、あの夜俺たちを襲った鬼を」

 

 見ず知らずの人間は、鬼に食われずともどうせ獪岳の知らないところで生きて死んでいく。

 彼らは獪岳の生き死になど頓着せず、獪岳にしてもそれは同じだった。

 他人のために生命はかけられなかった。かけたくなかった。

 

 そんな自分に逃げろと、生きろと、自分の生命を捨ててでも庇ってくれたやつがいた。

 自分の生命すべてを使った優しさを最期にくれたそいつを、惨たらしく殺しただろう鬼を、あれからも与えられるはずだった自分の幸福を壊した鬼を、心底恨んで、憎んだ。

 

 でも、その鬼はとうの昔に死んでいて、獪岳を庇ってくれたそいつは、また別の、塵のような鬼の手で、鬼に変えられていた。

 滑稽な話だ。

 何ひとつ、あの夜に逃げた獪岳にできたことは、なかった。

 

 

 ああそうだ、()()()()()、自分は。

 

 雷が落ちるように一瞬に、その事実が胸の中に降りて来た。

 

「獪岳……それ、鬼殺隊としては……」

「失格だってんだろ。悪かったな。俺はこういうやつだよ」

 

 人を守り、鬼を斬る。それが鬼殺隊だ。

 しかし自分は、見ず知らずの人間と、この幼馴染みの鬼と、どちらか一つだけしか守れないならば、躊躇いなく後者を選ぶ。

 何度問われようが、必ずそうする。

 鬼殺隊の掟など、くそくらえなのだ。

 だがそれがどうした。失格で上等だ。

 何も持てなかった自分が、どうしてこれ以上奪われなければならない。

 何も悪くないやつが、どうして殺されなければならない。

 

 恨みがましかろうが、誤りであろうが、変えられるものではなく、変えるつもりもなかった。

 ふわ、と幸が微笑んだ。

 

「獪岳で失格なら、じゃあわたしも失格だ」

「は?」

「だって今の、嬉しかったんだもん」

 

 くるり、と幸は前を見て、歩き出す。

 

「おいちょっと待て!どういう意味だよ!」

「教えない。自分で考えて」

「またそれか!!」

 

 肩をつかもうとするも、幸はひらりと蝶のように避けて、逆に体勢を崩しかけた獪岳の腕を支えた。

 

「ほら、気をつけて。片脚、まだいつもみたいに使えないんだから。あともう少しだよ」

「……」

 

 屈託のない顔を見ていると、肩から力が抜けた。

 どうして、こいつは、こうあれるのだろう。

 道の先には確かに、屋敷の灯りが見えていた。

 

「お前、なんで誰も嫌わねぇんだよ。あの糞野郎以外でさぁ」

 

 間近の顔には、幼いあたたかさと大人びた涼しさが混ざり合う不思議な透明さがあった。

 金色の瞳が瞬かれ、幸はごく小さな、ほとんど囁くような声で言った。

 

「そんなこと、ないよ。どうしても好きになれない嫌いな人ぐらい、いる」

「へぇ、誰だよ」

 

 それは何気ない問いだった。

 からかいついでのような、軽口のつもりだったのだ。

 

「   」

 

 小さな声が耳朶を打つ。ざぁ、と音立てて風が吹き抜けていった。

 聞き違えたのだと、獪岳は思った。

 

「……あ?」

 

 聞き返そうと、そう思った。

 だが、それはできなかった。

 ドン、という大きな音が、岩柱邸の方から聞こえたのだ。

 尋常でないその音に、幸も獪岳も身構える。

 

「なんだ今の。鬼か?」

「鬼はいない。……と思うけど」

 

 それならば何なのだと思った途端に、もう一度、ドン、と音が響いた。凄まじい力で何かを殴りつけるような、そんな鈍い音だ。

 

「ん?」

 

 空気のにおいを嗅いだのか、張りつめていた幸の肩から力が抜けた。

 

「大丈夫だよ。今のは、鬼じゃない。鬼じゃないけど、獪岳は鬼喰いを知ってる?」

「鬼喰い?」

「じゃあ、今から知って」

 

 行こう、と幸は歩き出した。

 門をくぐらず、屋敷をぐるりと囲う塀に沿って裏手へと進む背中を、獪岳は杖をつきながら追いかけた。

 歩きながら、幸は何故か小さく縮んだ。

 

「おい。鬼喰いってなんのことだよ」

「前に、しのぶさんに教えてもらった。わたしが鬼にしては余りにまともだから、もしかしたら鬼になったんじゃなく、鬼喰いから戻れなくなっただけなんじゃないか、って」

 

 その仮説は間違っていたが、鬼喰いに関して幸はそこで教わったのだ。

 

「鬼喰いは、人が鬼を食べること。食べてその力を使うこと。……今の鬼殺隊でそれができる人が、一人だけいる」

 

 屋敷の裏手の林の中、こちらに背を向けて立っている人間がいた。頭の両側を剃り上げた特徴ある髪型は、見覚えがあった。

 

「不死川、玄弥君」

 

 振り返ったそいつの目を見て、獪岳は身構えた。縦に割れた瞳孔と、白目の部分が黒く染まったそれは、鬼の目だったからだ。

 

「……お前らかよ」

「うん、そうです。こんばんは、玄弥君」

「悲鳴嶼さんならいねぇ。でも、あんたらが来るってことは聞いてる。……遅かったな」

 

 しかし、幸も玄弥もごく当たり前に挨拶を交わすのだから、獪岳は混乱した。

 玄弥の足元に転がっているのは、大穴が開いた木や砕けた岩の欠片である。

 苛立った子どもが当たり散らしてそこらの物を殴り、投げたあとのような野放図さだった。

 先程の音も、恐らく不死川玄弥が何かを殴った音だったのだろう。

 

「おい、何なのか説明しろよ」

 

 仏頂面の玄弥の後について屋敷の入り口に向かいながら、小声で尋ねると幸も小声で返してきた。

 

「あなたが、ちゃんと話を聞いてくれるなら、ね」

 

 思いがけなくも、深いところにぐさりと刺さる一言だった。

 言い返すのを抑えて、獪岳も岩柱邸の中へと入ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悲鳴嶼行冥は岩柱であるから、多忙である。

 今日会いに行くと何日か前に鴉伝手で伝えていたとしても、任務が入ればそちらに向かわねばならない。

 柱が呼ばれる任務は、既に事態がかなり悪化したものであるから、行かないということはありえない。それこそ、無限列車や那田蜘蛛山のときのように。

 そういう事情がわかっているから、任務でいないと言われても、だろうな、としか思わなかった。

 幸にしても変わらず、残念であっても肩を落とすほどのことではなかったらしく、すんなり頷いていた。

 

「お前らが来たら待たせとけって言われてるから、適当にいりゃいいだろ。悲鳴嶼さんは、多分あと少しすれば帰ってくる」

 

 悲鳴嶼の弟子だという不死川玄弥は、ぞんざいに言う。

 言葉や態度から滲み出ている、あからさまに歓迎しない空気に気づいているのか、気づいていて尚気にしないことにしたのか、ともかく幸はけろりとしていた。

 

「はい。あの、玄弥君、お勝手を借りてもいいですか?こっちが、お腹を減らしていて」

 

 こっち、と幸が獪岳を手で示した瞬間に、測ったかのように獪岳の腹が盛大に鳴った。

 考えてみれば、朝に蝶屋敷を抜け出して夕方に炎柱邸を出、ここまで歩いて来たのだから、腹が減っていて当たり前だ。

 あれこれと珍しく考えを巡らせていたから空腹感を忘れていたのだ。それにしたって、死ぬほど恥ずかしかったが。

 

「……お前なら、使っても悲鳴嶼さんは怒らねぇだろ。好きにしろよ」

「ありがとう、ございます。では」

 

 などと言って、幸はとっとと消えてしまった。

 その脚で歩いて来たんだからじっとしてて、と割とにべもなかった。

 後に残ったのは、これまでろくに話したこともない不死川玄弥である。

 瞳孔も気配も人そのものだったが、さっきは明らかに鬼のように瞳孔が割れて白目が黒くなり、気配が妙になっていた。

 鬼喰い、というやつの結果なのだろう。

 

 外へ出るでもなし、玄弥は獪岳の向かいに腰を下ろしてじろりと獪岳を睨む。

 顔を横切る白い傷跡に三白眼が目立つこいつの人相は、有り体に言って良くない。女子どもに怖がられそうである。

 尤も、顔面に派手な傷が残っているのは獪岳も同じで、目つきが悪いのも同じだ。幸に怖がられたことはないが。

 

「……なんだよ」

「お前、鬼喰いをしてたのか?」

「関係ねぇだろ。お前なんかには」

 

 かちんと来た。

 悲鳴嶼さんに会いに来い、心配をかけているぞ、と蝶屋敷で何度か遭遇したときは声をかけてきたというのに、何故こいつは今、獪岳に向け、気に入らないという感情を向けてくるのだ。

 自分へ向けられる嫌悪や敵意に、獪岳は敏感だ。

 玄弥君のことを気にかけてあげてほしい、と幸は言っていたが、これでは御免被る。

 完全に嫌われているだろうがこれは。

 

 しかし、それなら謎も出てくる。

 獪岳を嫌っているならば、何故こいつはどこにも行かず、仏頂面のままここにいる。

 

 これが竈門や善逸ならば、鼻やら耳やらで不死川玄弥の心がわかったろうが、生憎そんな便利なものは獪岳にはない。

 

「……?」

 

 幸が二つ膳を持って戻ってくるまで、無言の空間が続く羽目になった。

 何してたの、と言いたげに首を傾げられたが仕方ないだろうが。お前みたいに人当たりよく振る舞えるかと。

 とん、と自分の前にも置かれた膳を見て、玄弥が顔をしかめた。

 

「俺はいらねぇよ!」

「蝶屋敷の子たちに、頼まれてます、から。玄弥さん、多分食べてないだろうから、て」

 

 またも、ややぎこちなくなった言葉で幸はすました顔をしている。

 

「玄弥君は、これがまだ、ちゃんと食べ物に、思えるんでしょう?その感覚を見失わないために、少しでも食べたほうが、いいです」

「……っ」

 

 玄弥が、言葉を封じられたように一瞬凍った。

 

「はい、獪岳も。味は、多分普通だと思う。味見できてない、けど」

「お前、分量が正確なんだから失敗はしねぇだろ」

「だと、いいね」

 

 炊いた飯と味噌汁だけだが、米はふっくらと艶々していた。だが、鬼には食べられない。

 

「外で、薪をつくってきます。使った分は、戻すから」

「おい。待てよお前。鉈の……」

「いりません、わたしには。壊したく、ないし」

 

 置くだけ置いて、さっさと幸は外へ出て行った。

 双方無言である。薪割りなぞどうでもいいから、普通に残ってほしかった。

 が、食べられない物を食べている人間を見るのは嫌だったのだろう。或いは、食べもしないやつに見られたままの食事を、獪岳たちが嫌がると思ったか。

 どちらにしても、残るのは仏頂面としかめっ面の男二人という空間である。重い。

 味噌汁に手を伸ばして啜ると、普通に旨い味だった。玄弥は動かない。

 

「お前それ、食えば?鬼喰いだかなんだか知らねぇけど、お前は人間なんだろ」

「……関係ねぇだろ」

 

 ふい、と顔を背けた玄弥の前にある飯と味噌汁の湯気は、どんどんか細くなる。

 獪岳の額に、ぴきりと青筋が浮いた。

 

「それ無駄にしたら、殴るぞ」

「……っ!お前には!関係ねぇだろ!話しかけんな!」

「だったら俺の前でしけた面してんじゃねぇ!!鬱陶しいんだよ!」

 

 売り言葉に買い言葉である。

 玄弥が勢いよく立ち上がった弾みで膳が引っくり返り、味噌汁と飯が畳の上にぶち撒けられる。

 かっとなった獪岳が投げつけた箸置きは、玄弥の額にまともに当たった。

 

「何やってるの二人とも!」

 

 飛び込んできた幸に、両方襟首掴まれて引き剥がされるまで、二人の怒鳴り合いは終わらなかった。

 

「数分でケンカって嘘すぎでしょう!食べ物まで無駄にして!怪我人が雁首揃えて、怪我をふやすんじゃぁ、ない!」

 

 張り飛ばすように二人並べて叱られ、そこからの飯は通夜のように静まり返った。

 

「……どうしたのだ、お前たち」

 

 悲鳴嶼が帰ってきたときには、三人別々の方へ、そっぽを向いているような状態だった。おかえりなさいという言葉だけは、てんでばらばらにぼそぼそと出たが。

 

「あたま、冷やして来ます」

 

 

 流石に怒ったのか背を向けて縁側に座り、足をぷらぷら振っていた幸は、悲鳴嶼の横をすり抜けて出て行く。

 悲鳴嶼は困ったように、獪岳と玄弥との間で視線を動かしていた。

 

「何が、あったのだ?」

「喧嘩しました」

「喧嘩……では、裏手の岩や木は……」

「玄弥ですよ。俺たちじゃない」

「それはっ……!」

 

 腰を据えた悲鳴嶼が、数珠を巻いた手を打ちつける。

 ぱぁん、という音が響いた。

 

「座りなさい。理由はどうあれ、人がお前たちのために作った食事を、無駄にして良い理由にはならぬ」

 

 部屋の中にはこぼれた味噌汁の香りが残っていて、作った当人はたった今出て行った。

 

「あ」

 

 作った物を壊されたら、至極当然に怒るし、悲しむだろう。面に出すときにしくじるだけで、幸は感情豊かな質だから。

 

「………謝って、きます」

 

 先に喧嘩を吹っかけたのは玄弥だが、喧嘩を買って怒鳴って膳を倒したのは獪岳も同じである。

 急に、何か自分がとてつもなく悪いことをしたように思えて、獪岳は杖を支えに立ち上がった。

 

「あの子ならば裏手だ。気配がそちらにあった」

「ありがとうございます」

 

 軽く会釈して外へと出れば、不死川玄弥もついてくる気配があった。

 

「……」

「……」

 

 互いに、何も言わないまま土を踏みしめる音だけが続いた。

 裏手についてみれば、確かにそこには幸がいて、太い木の棒を手にしていた。

 ただし、その薪の作り方は随分と独特だ。

 薪を宙に放り投げ、長く伸ばした爪で切り割き、縦に割るのだ。普段使われているだろう鉈は、壁にたてかけられたまま、うっちゃられていた。

 一際高く投げ上げた木の枝を爪で真っ二つに割り、薪を受け止めた幸が、獪岳と玄弥の方を見る。

 感情の揺らぎそのものが欠片も読み取れない、凪いだ顔をしていた。金色の目が一切光なく据わっている。

 どういう気持ちの顔だこれは。下手な鬼より怖い。

 

「悪かった」

 

 頭を下げた。

 ばん、と幸がだんまりのまま手の中の薪を拍子木のように打ち付ける。

 何を悪いと思っているのか、と問い詰められているようだった。

 

「お前の作った飯、無駄にした、から」

「俺も、悪かった」

 

 一秒、二秒と時間が過ぎた。薪の音はもう鳴らない。

 

「……わたしも、やり方が強引だっだから……。ごめんなさい」

 

 獪岳が顔を上げれば、薪を片手に持ったままの幸が気まずげに頬をかいていた。

 

「だから、あの……すわって、話せるかな?」 

 

 幸のその問いは、獪岳だけでなく、不死川玄弥にも向けられていた。

 束の間硬直したようにも見えた玄弥は、ややあって頷いたのだった。

 

 

 

 

 




虹色の目も六ツ目も怖いだろうが、多分主人公が一番怖いのは光が皆無な金色の目じゃないか、と。

それと、この時空で最も幸せなのは、桑島師範でなかろうかと。
無論相応に心配はしてると思いますが。弟子二人とも上弦とバトっては負傷するし、手がかからなかったほうの弟子は鬼連れをやらかしていたし。

以下はお知らせです。
Twitter上での呟きを元にし、8000字ほどの短編を一つプライベッターに上げました。
興味のあるかたは、お手数ですが作者マイページにありますリンクから、Twitterアカウントの方へ飛んでいただければ。
尚、こちらに上げない理由は、本編と雰囲気が異なりすぎて作者が戸惑ったためです。書いたのは己なのですがね。

ざっくり言えば、どこかの平和な時代の学生たちの話であり、本編ネタバレはあるようなないような。

また、年末は身内の手術や入退院、負傷などがあったため、更新はまた遅くなりますことをお知りおきください。

それでは皆様。
少々早いですが、良いお年をと年末の挨拶をさせて頂きます。
来年もよろしくお願いいたします。


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十四話

あけましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いします。

では。


 

 

 

 不死川玄弥は、柱になりたいらしい。

 柱になってどうするのかと尋ねれば、実兄である不死川実弥に会うためだと言う。

 柱にならねば、柱に会えない。だからなりたいのだと、そう告げた。

 しかし彼の呼吸音や所作からして、剣士に必須とも言える『呼吸』ができていないことは、獪岳にもわかっていた。

 それを補うために手を出したのが、鬼喰いだったのだろう。

 が、流石に獪岳も、いくら飢えていたとしても鬼の肉を喰らうという発想をしたことはない。鬼舞辻の細胞を持つ化け物共の肉に、齧りつく気は起きない。

 自ら鬼を喰った不死川玄弥は、明らかにまともな精神状態でなかったのだろうし、そうでもせねばならなくなるまで追い詰められたとも考えられる。

 すべて、兄に再会したい一心で。

 

 そういう彼のところに、師匠である悲鳴嶼と関わりがあって、傍から見れば何の障害もなく呼吸を会得し、それぞれ違う上弦と二度戦って生き残った剣士がふらりと現れたらどうなるか。

 

 面白くないに決まっている。

 もっと言えば嫉妬もしよう。八つ当たりもしたくなろう。

 

「獪岳も、善逸君にはきついから」

 

 あまり話すのが得意でないのか、単に話したくないのか、三人で屋敷の壁を背にして並び、目線を合わさないままぽつぽつと語る玄弥の話を聞いて、幸が言ったのはこれだった。

 だから、そうやってざっくりと切り込むような一言だけを漏らして黙るなと。

 人の心がわかっているのかいないのか、いまいち判然としないまま、獪岳の心だけは的確に抉ってくる幼馴染みの少女の一言は無視して、獪岳は玄弥に水を向けることにした。

 

「……お前の兄貴ってあいつか?風柱の不死川実弥」

「そうだよ。なんでそんなこと聞くんだよ。知ってんだろ」

「別に。柱の弟でも呼吸使えねぇときあるんだなって思っただけだ」

 

 即、幸に後頭部を引っ叩かれた。

 加減された一撃だが、地味に痛い。

 

「玄弥くん、ごめんなさい。悪気しかないんです、この人は」

 

 真面目な顔で馬鹿のように真摯に謝る幸に対しては、玄弥も言うべき言葉が見つからなかったらしい。

 不死川玄弥はひどく疲れたように息を吐いた。何故かこいつは、本来の十七歳の姿になっている幸と微妙に距離を取っていた。

 

「……もう、いいよ。あんたが作った飯台無しにしたのは、俺も悪かった」

 

 ただしお前のことは嫌いだ、と言わんばかりに獪岳を立ったまま見下ろし、睨みつける玄弥である。

 上等だ、と獪岳も睨み返した。

 立つのが辛く、地べたに座る獪岳の隣でしゃがんでいる幸は、困り果てたように、抱えた膝に額を押し付けた。

 

「この、針鼠、山嵐」

「あ?なんだよそれ」

「しのぶさんの図鑑にのってた。全身針だらけのねずみ。獪岳にそっくり」

「俺が鼠に似てるって言いてぇのかよ」

「少なくとも、玄弥くんより獪岳のほうが、背、小さい」

「俺が鼠ならお前は豆粒じゃねぇか。俺よりどんだけ小せぇと思ってやがんだ」

 

 獪岳が鼻で笑うと、幸はつん、と横を向いた。

 二人を見た玄弥の目が、ふ、と落ちるように遠くなる。

 懐かしいものを見たような、失ったものを目の当たりにしたような、ここではない何処かを見る目だった。

 昔の、寺にいたころの話をするときの幸と、同じ目だった。

 

「お前、風柱の兄貴以外にもきょうだいがいるのか?」

 

 気づけば、そんなことを尋ねていた。

 聞いたところで、自分とは何ら関係はないはずなのに。

 

「……いたよ、弟と妹が。俺、上から二番目だったから」

 

 無意識なのか、顔を横切る大きな白い傷跡を撫でながら玄弥は言った。

 そいつらは、多分既にこの世にはいないのだろうとその仕草と目つきで察した。

 一言も話に出ない親のことは、聞くまでもないだろう。

 不死川玄弥にとっては、この世に残った唯一の身内が風柱なのだ。

 柱合会議に引きずり出されたときに、獪岳も風柱を見ている。

 最も苛烈な調子で鬼を殺せと言い、自分の腕を切ってその血で幸と竈門の妹を釣ろうとしたやつだ。獪岳も肩から腰まで浅くだが、斬られた。

 幸が言うには、風柱はあり得ないほど強いにおいのする稀血だったそうだ。理性が危うくなると思えるほどだから、二度と、絶対に風柱には会いたくないという。

 

「稀血の兄貴には近寄って平気なのかよ」

「……兄貴は、俺のこともう弟じゃねぇってさ。昔に俺がひどいこと言ったの、許してないんだ」

 

 つまり、近寄れていないのだ。

 兄弟か、と獪岳は息を吐いて空を見上げた。

 親やきょうだいと言われても、誰の顔も思い浮かばない獪岳の頭を過ったのは、悲鳴嶼行冥のことだった。

 幸を拾い、寺の子らを拾い、獪岳を拾った人が良すぎる坊さん。

 鬼にすべてを奪われて鬼殺隊に入り、入ってからは柱にまで上り詰め、子どもだった蟲柱とその姉を鬼から救った。

 けれどその間に、寺で拾った子どもらの一人は鬼に、一人は隊律破りの鬼殺隊になっていた。

 鬼殺隊に入ってから救った姉妹も、一人は柱になって死に、もう一人は今も柱として鬼を殺している。鬼の頸が斬れない、唯一の柱として。

 そして今、弟子だというこいつは呼吸も使えないまま鬼を喰って戦い、兄と会うため鬼殺隊に居続けているが、当の兄には突っぱねられた。

 

 獪岳が何か言えたことではない。

 ないのだが、悲鳴嶼という男は今一体何を想い、生きているのだろうという気分にはなった。

 

「そういえば二人とも、一体、なんて言って、出てきたの?」

 

 沈みかけた空気を引き上げるように、幸が口を開いた。

 

「お前に謝って来るって言って出て来たに決まってんだろ」

 

 幸が獪岳の方を向いて首を傾げた。

 

「なんで、獪岳が怒ってるみたいにいうの」

「怒ってたのはお前だろ」

「頭、ひやしてただけ」

「嘘つけ。怖ぇ顔しやがって」

 

 何か言い返そうとした幸を遮って、玄弥が呆れ声を出した。

 

「お前らさぁ、仲良いのか悪いのかどっちなんだよ。あんまり悲鳴嶼さん困らすんじゃねぇよ」

「うっせぇ。最初に喧嘩吹っかけたのはテメェだろうが」

「けんか、しないでったら。それこそ行冥さんをこまらせる、よ」

 

 もう、と幸は立ち上がって両腰に手を当てた。

 すると何故か玄弥が下がった。その顔はほんのりと赤いし、目が泳いでいる。

 そこに鬼への嫌悪はなく、単なる戸惑いと照れが透けていた。

 いかつい風貌の割に存外照れ屋なのかと思うとおかしく、獪岳はく、と喉奥で笑った。

 幸が鬼だから避けていたのではなく、単に一応は年頃の少女を前に照れていたから、近寄れなかっただけか。

 避けられた幸のほうが戸惑って固まっている始末だ。本当、こんな夜に三人揃って、何しているんだろう自分たちは。

 

「わかったわかった。じゃ、戻るぞ。あの人中で待ってんだろ。昔っから喧嘩止めんのは苦手だったしよ」

 

 寺にいたころ、子どもたちが喧嘩すると、悲鳴嶼はおろおろと間で困っていた。

 優しすぎて、叱るということができないのだ。加えて口下手でもあった。

 

「……悲鳴嶼さんて、昔から喧嘩止めるの、得意じゃなかったのか?」

 

 歩きながらに玄弥が尋ねる。

 こくん、と幸が頷いた。

 

「うん。わたしたちがけんかしたら、よく、こまってた。黙ってじっと見てて、静かになったころに、出てきてくれて、た」

「体がデカいから、俺らが怖がるんじゃないかってよく障子の陰にいたな」

「ぜんぜん、そんなこと、なかったのにね。あ、玄弥君、行冥さんって今でも尺八ふいてる、の?」

「吹いてるぞ。吹きすぎて、そこらの婆さんに箒で叩かれたことあるけどな」

 

 梅干しのような小さな婆さんに箒で叩かれる悲鳴嶼を想像すると、また笑えた。

 悲鳴嶼行冥は鬼殺隊の柱となり、あれだけかわいがって大事にしていた子どもの一人にすら、死んだほうが良い、生きていることさえ哀れだと言い放った。

 まるきり変わってしまったのかと、あのときはそう思ったのだ。

 だけれど、彼は獪岳の頭を撫でてくれてもいたのだ。最もあの子の側にいたのはお前だから、側にいてやれ、と。

 ふと、幸が眠っていたあの日に、悲鳴嶼の大きな手が撫でた自分の額に、髪に、獪岳はなんとなく触れた。

 当然そこには何ら、形のあるものは残っていない。だけれど何か、ぬくいものが心を掠めて奥底に沈んでいった。

  

「獪岳?」

「何してんだよ」

 

 戸口のところで、幸と玄弥が振り返る。

 今行く、と獪岳は二人の後に続いて屋敷に入ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 尺八と口下手以外にも、悲鳴嶼の変わっていないところはあった。

 ひどく、涙脆いところだ。

 台所の食材を使っていいと改めて屋敷の主から言われ、ぱたぱた駆けていった幸が作って持って来た、悲鳴嶼の好物の炊き込みご飯を見た途端、ぼろぼろと悲鳴嶼は無言で目から涙を流したのだ。

 南無南無言いながら涙をこぼす彼を前に、そんなに不味かったのかと幸がうろうろ焦り出し、締まらない空気になった。

 鬼殺隊最強の岩柱と、ほぼ根性で鬼舞辻の呪いを抑え込んだ鬼が、揃って何をしているんだか。どちらも距離を詰めるのが下手くそ過ぎだった。

 

「不味くはねぇだろ」

 

 冷静に突っ込んだのは、炊き込みご飯を一口食べた獪岳である。

 ついでに諸々が面倒になったのと小さな腹いせで、玄弥の口にも雷の呼吸の速度で匙を押し込んだ。玄弥は目を白黒させるはめになった。

 獪岳にとっては、食い物なぞ三度口に入るだけで万々歳。腐って腹を下すものでなく、腹が膨れればそれでいい代物だ。修行時代によく食べていた桃は別にしても。

 が、ともかくも出されたものの美味い不味いくらいはわかる。それだけしかわからないとも言えるが。

 これは美味というほどではないが、至って普通だ。

 

「うむ……。この味付けは……昔のままだな」

 

 と悲鳴嶼に言われると、幸は盆で顔を半分ほど隠したまま、嬉しそうに目を細めた。

 幸は鬼になって以来、人間の食い物を食い物として認識できない。口に入れても、砂を噛んでいるようでなかなか飲み下せず、腹がくちくなることもないという。

 当然味見もできないが、一度覚えた手順を間違わず繰り返すことで、食い物は作れる。

 だから、今回作ったこれも寺のころに覚えた味そのものになり、新しい味が作れない。

 この人にとっては却って良かったのだろうと、飯を食う悲鳴嶼とそれを見ている幸をまとめて眺めながら、獪岳は思った。

 

「わたしは、掃除してきます。しのぶさんに、この家に来たらあちこち見てきてって、言われてます、から」

 

 それでもやはり、幸はまたぱたぱたと何処かへ駆けて行った。

 同じ食事の場に居続けることへの、緩やかなだが確かな拒絶だった。

 変わらなかったものもあれば、変わり果ててしまったものもある。

 鬼と人では食べるものが違うし、鬼が通常食べる人肉すら拒否した者は、何も口に入れられない。

 その様を悲鳴嶼に見られるのが、幸は嫌だったのだろう。

 恐らく、蟲柱に屋敷の様子を見て来てほしいと言われたことも本当だろうが、何も今でなくともよかったはずだ。

 獪岳に見抜けることならば、悲鳴嶼に見抜けない道理もない。

 

「……悲鳴嶼さん。早く飯、食いましょうよ。冷めて不味くなったら、あいつまたうじうじするんで」

「いやお前、うじうじはねぇだろ」

「他に言いようがねぇんだよ。それにお前も食え。さっきろくに食う前に膳倒しただろうが」

 

 いらねぇとか何とか玄弥が言って逃げる前に、獪岳は玄弥の前にも椀に盛られた飯を押しやった。

 この状況で悲鳴嶼と二人にされては、堪らない。辛気臭くなっては敵わない。

 玄弥を逃がすつもりは全然なかった。

 

「玄弥、獪岳。少し、打ち解けたのか?」

「いえ全然」

「ンなわけね……ないです」

「そうか……」

 

 とは言いつつも、悲鳴嶼の口角は上がったように見えた。

 漬物の大根をがりりと齧り、獪岳はそっと椀越しに二人の顔を伺う。

 

「獪岳、上弦との戦いはどうだった?」

「報告は上げましたよね?」

「目を通したが、直接聞くのとはまた異なるだろう?」

 

 柱と一般隊士の間で交わされる会話としては、それ以上に相応しいものもなかった。

 感情を交えないで済む話のほうが、獪岳もやりやすい。

 

「……強かったですよ、上弦ですし。音柱様がいなかったら、俺ら全員死んでたでしょう」

 

 柱が一人、一般隊士四人に、鬼二人。

 それだけの数でかかって、吉原はあの惨状になった。鬼殺隊側の死者はいなかったが、町の女や客共は巻き込まれて不運にも死んだという。

 幸が妓夫太郎相手に粘れず、音柱の嫁三人が避難を誘導していなかったら、もっと大勢死んだろう。

 

「弐よりはマシとは思いましたけど、あいつらは十分反則でした。頸斬っても死なねぇんだから」

「兄妹の鬼で、同時に斬らねば死なぬという話だったな」

「ええ、はい。種は単純でした」

 

 だがその単純さに引っかかった結果が、あの大破壊だ。音柱がいなければ勝てなかった戦いだが、音柱一人だけでは絶対に勝てなかったとも言える。

 兄妹揃って、大勢柱を喰ったと宣っていたのも頷けた。

 

「では上弦は、頸を一度斬ったとしても油断できないな。簡単には死なぬか、敢えて斬らせて不意を突こうとする場合もあると」

「単に、斬れる間合いにまで入らせねぇってのもいると思います。弐がその類じゃないでしょうか」

「肺を壊死させる氷の血鬼術、だったな。初見では対処の仕様がなかったところだ」

 

 臓腑も再生できる鬼の幸が受けたから切り抜けられたが、獪岳や善逸だったら死んでいた技だ。

 先代の花柱が殺されたのも、もしかすると同じ技をくらったからだったのかもしれない。

 

「それと、幸が言ってました。上弦の陸の兄妹を鬼にしたのは、あの弐だったそうです」

「えっ?」

 

 十年前のおおまかな事情を知っているという玄弥が、驚いた声を上げた。

 

「またあの鬼、か。今回倒した陸も、百年以上生き残っていた鬼だったが……」

「あの氷の鬼は、あいつら以上長く十二鬼月を張ってたってことになります」

 

 上弦の陸と幸を鬼にしたのは上弦の弐であるが、今回陸の兄妹の討伐に幸も参戦した。

 かつて弐が手を出して鬼に変えたものの、鬼舞辻の配下にし損なった鬼が、十二鬼月の一角を倒すのに貢献したのだから、責任を取ってあの弐が粛清されたりはしないだろうかと、思わなくもない。

 本当あの屑には、一分一秒でも速く死んでほしい。できれば幸の見えないところで。

 

 が、そんな都合のいいことは無いだろう。

 柱単独でも殺せる下弦はどうだか知らないが、十二鬼月の上弦は幹部中の幹部で、鬼舞辻にとっては惜しい手駒である。

 むしろ目をつけられて、あの弐が気まぐれに襲撃しに来ないことを祈るばかりだ。

 今の自分たちでは殺されるだろうし、そもそもあの鬼は、馬鹿な親に忌み子だ化け物だと捨てられた子どもを好奇心で見に来、目玉が綺麗だったから抉り取り、死にかけで可哀想だったから鬼に変えた、と笑顔で言い放つようないかれ者だ。

 どう殺せばいいのかと、まともに考えたら挫けそうになる正真正銘の化け物だ。

 だが、幸は決して諦めない。

 元々の頑固な質故なのか、鬼になってからの日々故かはもうわからないが、刺し違えようが諸共地獄に落ちようが構わないという純粋な殺意で動いている。

 あいつはそういうやつで、そういうやつの瞳が、獪岳はどうしようもなく欲しくなってしまった。

 

 自分のほうが余程度を越したいかれ者に思えて、獪岳はかぶりを振った。

 それから後は、食べ終わるまで会話らしい会話はなかった。

 食べ終わったころ、測ったように正確に幸が膳を下げに来たが、とことこと呑気に近寄ってきたところで、その腕を掴んだ。

 

「悲鳴嶼さん、すいませんけどこいつ、籠で寝かしていいですか?」

「え」

「え、じゃねぇよ馬鹿。普段なら寝てる時間だろうが。寝ろ。縮んどけ」

 

 どす、と手刀を脳天に落とすと、そこを押さえたまま幸はしゅるしゅると小さくなった。

 

「籠ってこれか?」

「ああ」

 

 部屋の片隅に置いていた、布覆いがついた籠を玄弥が寄越した。

 

「片付けが……」

「あのな、お前は睡眠取らねぇと死ぬよりやばいことになるんだろうが。寝ろ。悲鳴嶼さん、いいですよね?」

「構わない。むしろ早く寝なさい、幸」

 

 悲鳴嶼に言われたら幸は逆らわない。

 ぽすん、と籠に入るや、膝を抱えてくるりと丸く収まった。籠の中に蟠った黒い髪と、奥がとろりと融けた金色の瞳が、そのまま小猫のようである。

 

「……おやすみなさい」

 

 そこだけは嬉しげに言って、幸はするりと眠った。毎度のことだが、寝付きはやたらいい。

 籠の布蓋を閉めて顔を上げると、悲鳴嶼の盲いて白濁した目と視線がぶつかった。

 何か言いたげな視線であったが、彼は何も言わない。獪岳も何かを返せない。

 

「あー、俺が片付けして来ます」

 

 頬をかいて、玄弥が言う。

 動きかけた悲鳴嶼を任務帰りでしょうと止め、獪岳のほうにはその足でうろうろするなと軽く睨んで来た。

 三人分の膳を持って玄弥がいなくなると、部屋の中には寝息を獪岳と立てる籠と、悲鳴嶼だけになる。

 視線を外に逃がした獪岳を悲鳴嶼は見下ろし、言った。

 

「獪岳、今日は泊っていきなさい」

「はい?」

「胡蝶から鴉が来た。お前たちがそちらにいるだろうから帰さずに、脚を動かすなと。……蝶屋敷を無断で抜け出して来たとは知らなかったぞ」

「別に、杖あったら歩けますよ。大袈裟ですって」

「鬼が出たらどうするのだ。お前は怪我人だというのに」

 

 要するに、説教だった。

 幸が気配を探りながら来ていたから、遭遇することはない、と言い返そうとして獪岳はやめた。

 今気づいたが、悲鳴嶼の叱り方と幸の叱り方は似ている。

 似ていて当たり前なのだ。彼らは養い親と、養い子だったのだから。

 

 夜道で聞いた、静かな幸の声が蘇った。

 最も長い間自分の隣にいた小さな少女、自分とは似ても似つかない少女が、嫌いだと吐き捨てた名前のことを。

 

「悲鳴嶼さん」

 

 呼びかけると、悲鳴嶼は数珠をすり合わせていた手を止めた。

 

「俺、ここに来るまでにこいつと話してたんです」

 

 幸が入っている籠を手で示すと、悲鳴嶼は頷いた。

 続けていい、ということだろう。

 

「こいつは自分のことが嫌いだって言いました。俺はその言葉の意味がわからない。あなたなら、わかりますか?」

 

 嫌いなやつはいないのか、と獪岳は尋ねた。

 その問いに幸は、『わたし』が嫌いなのだと返した。

 意味がわからなかった。

 精一杯、自分にできることをやって生きて、人を助けて、並みの人間よりよほど上等な生き方をしているだろう。

 とんでもない方向から、肩透かしをくった気分になった。

 

「あなたは前、こいつの側に一番長くいたのは俺だって言いました。けど、本当は違いますよね」

 

 確かに、寺にいたころの悲鳴嶼は子どもらを養うために働かなければならず、幸は幸で子どもらを宥めたりすかしたり自分も働いたりと、最も悲鳴嶼に寄り付かず、甘えることもなければ、甘える必要もない子どもだった。

 幸は一番の年嵩ではなかったが、一番の古株で、誰も不思議に思わなかった。

 だからこそ、最後に寺に来て馴染めていない獪岳が悲鳴嶼より近く、幸の近くにいたとも言える。

 鬼になってからは、言うまでもない。

 しかし、違うのだ。

 

「昔から、こいつはそんなことを言うやつでしたか?うんと昔のこいつを……幸を知ってるのは、もうあなたしかいない」

 

 生き残りには沙代もいるが、寺が襲われたときはようよう四つだった。ろくに覚えていないだろうし、第一会いに行けるわけもない。

 人間だったころの幸を知ろうとするならば、獪岳が頼れるのは悲鳴嶼しかいなかった。

 柱や隊士や鬼という枠を越えてでも、これは聞かなければならないと獪岳は思った。

 

「……言わなかった。が、手がかかるということが無い子だった」

 

 泣かず、ぐずらず、赤子のころは静かに眠り、伝い歩きができる歳になってもひたすらに密やかな気配を纏っていた。

 あまりに寡黙で、話しかけねば口を利かない不思議な子。

 さらによくよく話を聞けば、一度見たもの聞いたものを、覚えて決して忘れることがないという体質を持っていた。

 語る悲鳴嶼の目が、過去を透かし見るように遠くなった。

 

「自分を捨てる父の顔も母の顔も覚えている。人の善悪を知らぬ赤子の内はわからなかったが、今にして思えば父母は酒浸りで盗人の小悪党だった。あのまま育っていれば自分も同じになっていたから、そうならずに済んで良かった、と言っていたな」

「さすがに強がりでしょう」

「そうだったと思う」

 

 とはいえ、幸が三つ四つそこいらのころ、悲鳴嶼とて十四歳になるやならずだったはずだ。

 どんな苦労があったのだろう。

 確実にろくでもない暮らしをしていたはずのそのころの己のことを、獪岳は思い出せない。

 獪岳にとって、寺に拾われるより前の過去は既に曖昧だ。

 味わったはずの辛さ、苦しみ、悲しみ、痛みの記憶は、勝手に消えていく。抱え込んでいては、生きていくにも往生するばかりの塵同然の記憶だからだ。

 まともに見られないような過去に蓋をして、何でもない顔を取り繕い、口元を拭ってでも生きていくし、獪岳には、世の人間の大方には、そうするより他に道などないだろう。

 

「私は確かにこの子の体を拾った。だが、心まで拾い上げていたのかはわからない。出会ったころから、何か形を定めていた子だったから」

「あり得ません。幸はあんたのことが好きでしたよ」

 

 何言ってんだと、獪岳は思わず噛み付いた。

 

「一年前のこいつが喋れた一番長い言葉は、『ぎょうめいさん』だったんですよ。人を傷つけるのはやっちゃいけないって『ぎょうめいさん』が言ってたから、だから人は食べないんだって。……ほんと、そればっかりだったんです」

 

 悲鳴嶼の言葉を大事に大事に抱え込んでいたから、幸は悪鬼にならなかった。

 幸のひとりぼっちを助け続けていたのは、他の誰でもなく悲鳴嶼だった。

 孤独の地獄へ突き落としてしまった獪岳では、なく。

 だから、悲鳴嶼行冥が心を拾い上げられていなかったなんて、あるはずがない。

 よりによってあんたが、ひどい的外れを言うな。

 

 どろりと動いた獪岳の感情を感じ取ったのか、悲鳴嶼はまた数珠を持つ。

 虫と風の音が微かに届く静かな部屋に、じゃらりと珠が擦れ合う音が響いた。

 

「ああ、今、思い出したことが一つある」

 

 白く濁った目を虚空に据えて、悲鳴嶼が言う。

 

「この子が自分を嫌っていたかという問いに、私はそんな素振りはなかったとしか言えない。が、昔小さな問答をしたことがあった」

 

 綺麗な着物を着た、自分と同じ年頃の子を街で見てしまった沙代が悲しくなり泣き始めて、あやすために始めた雑談が転々としたときのことだ。

 

「幸せが何かと、皆で言い出したのだ。腹一杯食べること、綺麗な着物を着ることなどと皆が言っていて、幸も答えていた」

「何て、言ったんです?」

「……寂しくないこと、だそうだ。自分の幸せは、寂しくないことだと言っていた」

 

 ひもじさより寒さより、綺麗な着物を持てない惨めさより、何より寂しさが痛いのだと、幸は答えた。

 だからこそ『今』が、皆と暮らせる今この夜は幸せだから大切なのだと幸が楽しげに語れば、つられてか沙代も泣き止んだ。

 

 たったそれだけの、何ら特別のない夜だった。

 

「幸は、自分の幸せが何かを知っていた。言葉にしてわかっていた。……だが今は、自分のことが嫌いなのだな」

 

 自分の『今』が幸せだと語れる人間は、己を嫌ったりなどしないだろうに。

 

 詰まる所は、悲鳴嶼にもわからない。

 獪岳にも、わからない。

 だが果たして聞いて尋ねれば、答えてくれるものなのだろうか。

 はぐらかされそうな気もする。口では獪岳は幸に勝てない。というよりも、何か一つまともに勝てた覚えもない。

 

「……俺が聞きます。放っておいたらこいつ、また自分を盾にして頭吹っ飛ばされるかもしれねぇし」

 

 乱暴な口調だとわかりつつも、獪岳には他に言いようがなかった。

 要するに、獪岳は知りたいのだ。知らなければならない気がして、堪らないのだ。

 自分の幸せの形を知っておきながら、己を嫌いだと言う言葉を吐いた、その心を。

 幸が何を考えているのか、何を思って生きているのかを。

 

 そういう獪岳の内心を知ってか知らずなのか、悲鳴嶼は深く頷く。

 

 どこか遠くでは、虫が声を途切れさせることなく、鳴き続けていた。

 

 

 




月餅(げっぺい)様、柴猫侍様から頂いたイラスト二枚を、あらすじ欄に貼っております。
説明すれば野暮天になるほど大変素晴らしい絵ですので、皆様もぜひ。

ちなみに今話の彼らの身長は、
悲鳴嶼行冥:220cm
不死川玄弥:180cm
獪岳:175cm(推定)
幸:149cm
ぐらいのつもりで。
豆粒と言ってますが鬼っ娘は平均身長程度あります。
周りがでかい。

二章『羽織り獪岳』はこれで閉幕です。
次章はまたしばらくお待ちください。

『祖父』と『孫』、『親』と『子』を目の当たりにして来た人生で何を想ったかなぁ、と。
あと、暴走しかけて以来、蟲柱に言われて睡眠の時間管理は割とちゃんとやるように。


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三章 鬼狩り獪岳
一話


感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

三章、『鬼狩り獪岳』です。

では。


 

 

 

 

 鬼殺隊に入ってからは、人を助けたことは何度もある。

 鬼に喰われかけていた者、鬼に追われていた者、鬼に襲われた村の者。

 間に合ったときもあれば、間に合わなかったときもある。

 助けてくれてありがとう、と大いに感謝されたこともあれば、何故もっと早く来てくれなかったのかと罵倒され、恨みをぶつけられたこともある。

 鬼に人間を差し出し、生き延びていた里人たちに襲われたことは────胸糞悪いので早々に忘れたい。

 あれは運が悪かっただけだ。あのような集落に毎度毎度出くわしては堪らない。

 

 ともかく、獪岳がこれまでの人生で人から感謝されたのは、鬼殺隊の仕事絡みばかりだ。

 指令が来たから、強くなりたいから、生き延びたいから、刀を振る以外たつきの立てようがないから、獪岳は鬼と相対するのであって、別に見ず知らずの人間を助けるためではない。

 獪岳が人を助けるのは結果論でしかなく、感謝にも罵倒にも揺らがない。

 確かに罵倒されればむかつきはするし、感謝されれば面倒がなかったと思いはするが、自分の生命がかかれば人間などどうとでも醜悪に転ぶ。

 端から期待など、していない。

 

 善逸からすると、そういう獪岳は捻くれているそうだ。

 それを聞いて、獪岳は盛大に顔を歪めた。

 自慢の耳で嘘が見抜けるから、そんなおめでたいことが言えるのだ。

 大勢の女に騙されたとは言うが、騙される道を選んだのは善逸自身だろう。

 少なくとも善逸は、この人間にならば騙されてもいいと、信じる相手を選ぶことができた。

 獪岳には、選ぶ自由すらなかった。

 出会う人間すべてを疑ってかかって、一瞬たりとも気など抜けない。

 親もきょうだいもない子どもは、まともな暮らしをしている人々からすれば、野良犬や鼠にも等しい。

 何も盗っていなくとも、物がなくなれば、綺麗なものに触れれば、それだけでたちまち盗人扱いになる。

 そんな存在なのだ。

 同じ人間に与えられるような上等な感情を向けられるのは、死んで骸を道端に晒したときだけだ。

 死んでようやく、嗚呼、幼いのに生命を失うなんて、不幸で可哀相な子どもがいたものだと、吐き気がする一欠片の憐れみを垂れる。

 生きている自分が近寄れば、彼らは醜く汚いものを見たように顔を背け、着物で鼻を覆うというのに。

 

 先生のときだって、同じだ。

 大した用がないのに先生に近寄っても、じいちゃんなぞと呼んで甘ったれても、ただ縋るためだけに手を伸ばしても、払い除けたりなどしない人間かどうかなんて、どう見分けたらよかった。

 あの人も、獪岳に剣の才能があったから、拾ってくれたのだ。

 獪岳に刀を振るう才すらなかったならば、生き物を殺せるだけの力が備わっていなかったならば、どうしていたかなんてわからない。

 基礎となる型ができない才能であったとしても許されるのかどうかすら、弟子であり続けられるのかすら、あのころはわからなかった。

 わからないままに、痛みで腕が上がらなくなるまで木刀を振って、何度も何度も肉刺を潰して、それでもどうにもならない焦りで焼け付くような毎日の中で、後から来たやつに抜かされたときの自分は、きっと凄まじい『音』を立てたことだろう。

 

 獪岳には、何も聞こえない。

 善逸と同じ世界なんて、見えていない。

 

 息をするように簡単に、生まれつきの才能だけで人間を聞き分けられる甘ったれのお前が、俺と同じであるものか。

 

 だというのに、善逸は兄弟子だからと獪岳へ歩み寄って来ようとするのだ。

 ふざけている。

 同じ師に習っていたからと、それだけの理由でべたべたと側によるな。

 

 そういう獪岳の苛立ちを間近で見続けていたのは、幸だった。

 実の親に捨てられたとはいえ、こいつはすぐに悲鳴嶼に拾われているから、路上で人の顔色を伺いながら暮らしたことはない。

 だから善逸のように頭が能天気なのかといえば、そうでもなかった。

 

「できないことは、できない」

 

 未練がましい諦めというには、あまりに冷めきった瞳で、そう言い放った。そこには、後ろめたさもなかった。

 この世には、わかりあえない人間はいる。

 親でもきょうだいでも、無理なものは無理だと割り切っていたのだ。

 

「わたしがもっと優しかったら、父さんと母さんのことも許せたかもしれない。だけど、できなかったから。同じことを他人にやってみせろなんて、言えないよ」

 

 獪岳がどうしても善逸君と仲良くできないなら、それはそれでそういうものとしておけばいい、と、あっさりしたものだった。

 

「あなたたち、生命がかかっているときは、いっしょに戦えているんだから」

 

 桑島のお師匠さんもみとめてくれるでしょう、と淡白である。

 そして、自分が善逸と仲良くすることをやめるつもりは、さらさらないようだった。

 あれはあれそれはそれこれはこれ、自分は獪岳のように善逸君を嫌っていないし、修行時代の獪岳の話が聞けるから、とけろりとしている。

 同時に幸は、獪岳が捻くれているという意見に関しては、善逸と一致したらしい。

 

「だって、他人に期待なんてしていないなら、他の人のことなんてどうでもいいなら、どうして獪岳は、みとめられたいっておもうの?」

 

 本当に他人のことがどうだっていいならば、人からどう思われようが気にする必要はない。

 誰に憚ることなく、己だけの求道を行けばいいのだ。

 できないというならば、つまり。

 

「獪岳は一人が好きだけど、独りにはなりたくない」

 

 ちがうかな、と首をちょっと傾げるいつもの仕草と共に問い返されて、獪岳は答えられなかった。

 

「ひとりぼっちは、よくないからね。心を、くわれてしまうよ」

 

 獪岳の額を、長く鋭い鬼の爪が当たらないよう手のひらで撫で擦り、幸は微笑んで、言った。

 

「だけど、誰かに認められたいなら、自分の裡にもいる誰かをみとめないと、はじめられるものもはじめられないよ、獪岳」

 

 と、これが数日前のやり取りである。

 

「……お前、結局なんも聞けてねぇな。てか絶対それはぐらかされてるだろ」

 

 夕暮れ時、蝶屋敷の縁側にて箱を作る獪岳の隣に座る不死川玄弥は、呆れ顔でそう溢す。

 幸は籠に入って眠っている。まだ、西日の残滓が辺りを橙に染めているからだ。

 

「……うっせぇ」

 

 だんだんだん、と釘を打ち込みながら、獪岳は返した。

 幸の本心、何があって何を想って生きているかを、聞かなければならないと決心したはいい。

 したはいいのだが、逆に獪岳が善逸に抱いている苛立ちを指摘される始末。

 肝心要のことは、まったく聞き出せたものではなかった。

 どう足掻いても口で勝てないし、こういうときに向こうの勘はすこぶる良くなるらしく、話の矛先ごとぐいっと逸らされた形だ。

 

 玄弥はぼそぼそと続けた。

 

「悲鳴嶼さんは、お前らが来てすげぇ喜んでたよ。あれはお前がさ、あいつが鬼になっても人を喰ってなかったのは、悲鳴嶼さんが人を傷つけてはならないって教えてたからだって言ったからだろ」

 

 鬼喰いの定期検診だからと蝶屋敷を訪れ、獪岳の隣にまで来た玄弥は、あいつ、と言って幸が入った籠を指さした。

 

「悲鳴嶼さん、喜んでたのか?」

「喜ぶだろ。だからその……来てくれて、ありがとな」

 

 そうか、と返して獪岳は箱を作るのに戻った。

 刀を振るって生き物を殺すこと以外で、獪岳が誰かに感謝されたことなどほとんどない。

 まして、ただわかりきっているはずの事実を告げるだけで、自分が誰かを喜ばせることができるなんて。

 凡そ、意識の埒外だ。

 かん、と一際高く音立てて、金槌で箱に楔を打ち付けた。

 

「あんたはいつ任務に戻れるんだ?」

「三日先ってとこだな。お前は任務あるんじゃねぇのか」

 

 蝶屋敷で、自分にかかずりあって油を売ってる暇などなかろうと言外に言えば、玄弥には伝わったらしかった。

 現在竈門と嘴平はまだ眠っているが、獪岳は三日後、獪岳が綺麗に肋をへし折った善逸は、五日後に任務に復帰することが認められている。

 怪我の深さでは獪岳のほうが善逸よりひどかったのだが、常中を長く続けていた分勝っていた回復力が出た格好になる。

 

「あら、二人ともこんなところにいたんですか」

 

 相変わらず薄い気配で声をかけてきたのは、蟲柱・胡蝶しのぶであった。

 途端に背中に定規でも当てられたように背筋を伸ばして赤面する玄弥を、獪岳はしげしげ眺める。

 不死川玄弥は、女と名のつく生き物に照れまくる人間だった。

 看護婦三人娘にちゃんとご晩を食べてくださいと迫られていたときすら、真っ赤になってにっちもさっちも行かなくなっていたほどだ。見かけたときは、面白すぎて少し笑った。当然助けなかったが。

 そんな玄弥にとって、胡蝶しのぶも、例外ではなかった。

 いきなり背後から現れた彼女に対し、真っ赤な石になった玄弥を放って、獪岳は軽く頭を下げた。

 

「どうも」

 

 顔だけで食っていけそうなほど見目が良い女だとは思うが、初対面で首元に刃を当てられた獪岳はと言えば、しのぶに関しては美しさより怖さが印象として先に立つ。

 照れるようなことは特段なかった。

 

「何か用ですか、蟲柱様?」

「ええ。二人に少し用があって。獪岳くんは、既に機能回復訓練もほぼ終えていますよね?」

「はい。……刀、三日後には持っていいんですよね?」

 

 入院期間を、これ以上伸ばされては堪らない。

 機能回復訓練ということで、連日師匠の杏寿郎と木刀打ち込み稽古はしているが、真剣とはやはり諸々が違うのだ。

 警戒心も露わに目を吊り上げる獪岳を見、蟲柱はくすりと微笑む。

 

「そんな顔をしなくとも、いいじゃありませんか。今回は悲鳴嶼さんの家へ行ったくらいで、脱走の常習犯である獪岳くんにしては、大人しくしていたほうですから」

「お前……」

 

 常習犯だったのかと言いたげな玄弥の視線である。

 病室にいたらいたで、あの弟弟子が見舞いに来たり菓子を食おうと誘いに来たり、鬱陶しいのだ。

 夜だったら幸と禰豆子を一緒にしたところに善逸を押し付けるが、竈門が毎回蝶屋敷にいるわけでもないし、昼間だとそうは行かないのである。

 稽古に励んでいる間、善逸は話しかけてこないから、獪岳がちょくちょく抜け出して鍛錬に励むようになるのは当然のことだった。

 怪我の治りが遅くなるほど鍛錬に踏み込む一歩手前で幸に止められるから、支障はない。何も、悪いことはしていない。

 

「大丈夫ですよ。獪岳君は、三日後には勤務に復帰できます。ですがその前に提案があって」

 

 にこやかなまま、胡蝶しのぶは提案とやらを口にした。

 蟲柱の継子に、栗花落カナヲという剣士がいる。

 花の呼吸を使う彼女が今手隙なので、実戦形式の稽古をしてみないか、とのことである。

 獪岳も栗花落カナヲの顔や名前は知っているし、無限列車後の機能回復訓練では世話になったこともあるが、それきりになっている相手だ。

 その相手と、稽古をしてみないかと蟲柱は言うのだ。

 

「玄弥君もどうでしょうか?任務はまだ入っていませんよね」

 

 鬼喰いの効果が今は抜けているらしい玄弥は、何か躊躇っていたようだが頷く。

 満足げな蟲柱は、藤色の瞳を獪岳に向けた。

 

「では獪岳くんは、どうでしょうか?」

 

 断る理由は、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だからっつって、なんでテメェがいんだよ」

「いいじゃん!俺も修行して強くなるって言っただろ!」

「いちいちうっせぇ。声を下げやがれ」

「イデッ!」

 

 裏拳を脳天に落とすと、いつものように我妻善逸は喧しかった。

 なんでこうなったんだと青筋立てる獪岳がいるのは、蝶屋敷に近い空き地だ。

 栗花落カナヲに玄弥、それに幸がいるのはまだいい。今は夜だから、いつもの古着物を着た幸が箱から出てきているのはわかる。

 だが、善逸がいるのは聞いていない。まだ入院中だったはずなのに。

 睨むと善逸は手をぶんぶん振って声を張り上げた。

 

「俺も頑張ったの!呼吸やったしにっがい薬も全部飲んだしずっと大人しく寝たよ!!おかげで言われてたより早く動いていいって言われたんだよ!!」

「えっと、つまり善逸君は……獪岳と稽古に入りたくて、回復につとめて、がんばった……って、こと?」

「俺の言いたいことまとめてくれてありがとう幸ちゃん!」

 

 こくんと頷いた幸は、ちょんちょんと獪岳の羽織の袖を引いた。

 

「善逸君の、霹靂の一閃、獪岳よりはやいよ」

「……知ってる」

「自分よりはやい人と、稽古したほうがいいでしょう?」

「お前よりは遅ぇけどな」

「わたしは、鬼」

 

 最初から比べるものではないと、金色の瞳がみるみる縫い針のように尖った。

 こうなると、折れるのは獪岳のほうだった。舌打ち一つをこぼして、善逸を睨む視線を外す。

 

「あー、もういいか?」

「ああ」

 

 兄弟子と弟弟子から少し離れ、カナヲからはさらに離れつつ様子を伺っていた玄弥に、獪岳は頷いた。

 蟲柱の継子、栗花落カナヲは隊服を着て木刀を手にしているが、どこか視線が茫洋と彷徨っていた。

 獪岳の視線に気づいたのか、カナヲは音もなく近寄ってくる。

 

「あなたは獪岳ね。そっちの子は幸。……師範と、よく毒を試してる鬼の子」

「そうです。花の呼吸の人は、会ったことがないから……よろしくお願いしま、す」

「私も、あなたみたいな鬼は見たことない。とても脚が速いって聞いた」

「あなたは、目が良いって」

 

 一度も話したことがないはずの少女たちは、割合あっさりと挨拶を交わして馴染んだ。

 顔立ちは特に似たところもないのに、同じ髪飾りをつけているからなのか、表情の動かし方がどことなく似ているからなのか、衝突はしそうにない。

 それを見計らってか、玄弥が手を上げた。

 

「稽古っつってもさ、どうすんだ?俺、特に何かの呼吸ができるわけじゃねぇんだけど」

「わたしは……銃弾、よけられるか試したい、けど」

 

 玄弥が、木刀を取り落としかけた。

 獪岳はとりあえず、幸の後ろ頭に手刀を落とした。

 

「なに?」

「なにじゃねぇ。無駄弾撃てるような銃か、あれが」

 

 呼吸を扱えない不死川玄弥が使う武器は、色が変わっていない日輪刀と銃だ。

 銃は大口径の特別製。

 言うまでもなく銃弾もまた特別で、日輪刀の鋼と材質は同じらしく、鬼の頸すら撃ち抜ける。

 あれで頸を撃たれれば鬼は再生できず、殺せるのだ。

 そういう弾丸でない限り、鬼は頭の半ばを熟れ過ぎた柿のように吹き飛ばされようが潰されようが、元の通りに再生する。

 それが致命的な怪我になる鬼は目の前にいるが。

 言うまでもなく、特別製の弾はほいほい作れるものではない。

 じゃあさ、と声を上げたのは善逸だった。

 

「お、俺たち五人いるから、二人組で組み手して、余った一人に戦い方見てもらうってやり方はどう?玄弥の銃のことは……うん、後で考えるとしてさ」

「あ?」

「ヒェッ!!だ、だだだだってカナヲちゃんと幸ちゃんめっちゃ目がいいんでしょ!悪い癖とか見てもらいたいじゃん!俺、知らない呼吸とか戦い方してる人とかと組み手とかやったことあんまないし!」

 

 かなり上背のある玄弥を微妙に盾にしながら、善逸が言い募る。

 玄弥は迷惑そうだが何も言わず、獪岳は喉の奥で唸った。

 非常に、非常に不本意だが、現在それが悪くはない方法に思えた。

 とりあえず戦えば、何かはわかるだろう。

 栗花落カナヲの『眼』というのがどういうものかは知らないが、蟲柱が言うからには余程なのだ。

 

「……順番はどう決めんだ?クジでも作るか」

「え゛っ!?」

「何絞め殺される鳥みてぇな声出してやがる。お前が言い出したんだろ」

「えっ、え、いやそうだけどさ!獪岳はそれでいいの!?」

「うるせぇ」

 

 多少なりともびぃびぃ泣かなくなったと思ったらこれだ。

 根本的に声が喧しくなって、獪岳は両耳を覆った。

 

「クジ……これでいい、かな?」

 

 地面にしゃがみ、足元の枯れ草を細長く千切った幸が、先端に結び玉を作る。

 

「むすび玉一つのが二本、二つのが二本。むすび玉がないのが一本。……これで、どう?」

「いいと思う。器用ね、幸は」

「……ありがとう」

 

 少し嬉しそうに、幸は口の端をやや持ち上げた。

 

「規則は、参ったって言うか頸に木刀が当たるかでいいか?」

「当てたら駄目だろ。そこは寸止めにしろよ。あんたと善逸だって、まだ患者と言えば患者なんだから」

「刀に触んな任務に行くなって言われてるだけだ。怪我人扱いすんじゃねぇよ」

 

 

 そういうわけで、枯れ草でできたクジは引かれる。

 獪岳が引いたクジには、結び玉が一つあった。

 

「……私と獪岳ね」

 

 同じものを持っていたのは、栗花落カナヲである。

 幸の手には結び玉が二つの枯れ草があり、同じクジを持って百面相をしているのは善逸だった。

 

「嘘過ぎない!?幸ちゃんじゃん!」

「……うん。やりにくい?」

「当たり前じゃん!」

「そう、なんだ。それなら手合わせ、しよう」

 

 にこ、とあまりきらきらとした光がない目で幸が口元だけで笑った。

 善逸が兎のように跳ねた。

 

「待って今のそれどういう音!?ワケわかんなくて怖いんですけど!怖いんですけど!?」

「だって、やりにくい相手のほうが稽古になるときもあるよ?……わたしも、善逸君には気になることが、あるから」

「何それぇ!」

「四の五の言わない。男の子でしょう」

 

 やけに流暢な物言いでばっさりと言い切った幸に、善逸はがっくり肩を落とした。

 獪岳にはどうにもできないし、どうにかするつもりもまったくない。

 

「……よろしく」

「ああ」

 

 それよりも、この栗花落というやつのほうがよほど気になると、獪岳は目を細めるのだった。

 

 

 

 

 




三章ですが、本誌の続きを待ったりする影響などで、更新が遅れがちになると思われますが、ご了承ください。

また、しの様より新たな挿絵を頂き、あらすじ欄に掲載しました。
是非!!ご覧下さい!!

以下は新章用の簡易人物設定第二弾です。

獪岳

本作の主人公。
煉獄杏寿郎の弟子。最近は槇寿郎とも話はできる。千寿郎とは出逢えば挨拶はきっちりする。
外から見える分では、特に変化はない。
妓夫太郎に斬られたところは傷が残っているが、隊服の下なので見えていない。

雷と炎の呼吸を混ぜて使っているが、型の名前なぞはない。
炎の呼吸も全て修められたわけではないが、一番よく鬼の頸を飛ばせるように自分なりのやり方を探し中。
整理のため、型をつくるならば名を決めたほうがいいと言われたので、筆片手にぶつぶつ唸っている。

自分が自分でありさえすれば肯定してくれる人たちがいたこと、今も側にいることが実感できた。
受け取ったものは溜められる。

それはともかく上弦の弐は早く死ね。




獪岳の幼馴染み、鬼。
金色の目は生まれつき。

新しい着物を貰ったが、汚したくないらしく普段は獪岳の荷物の中に一緒に仕舞っている。大事なものは仕舞い込む。
蝶の髪飾りは、他の鬼と区別する目印でもあるので毎日つけている。

人間であった時間より、鬼になってからの時間が長いことを結構気にしている。
が、気にしていることをほとんど人に悟らせない。

本当は喋るのは疲れるからとても苦手だが、幼馴染みに伝えたいことと伝えなければならないことがあったため、頑張って言葉を真っ先に取り戻した。
獪岳以外の前では吃る。悲鳴嶼の前でも吃る。

上弦の弐は殺す。何があっても。


雷右衛門

獪岳の鎹鴉。
ついに名前が判明し、らいくん、えもんくんなどと一部から呼ばれるようになりドヤ顔が増えた鴉。
ただし、担当隊士からは相変わらずクソ鴉呼ばわりなのが許せん。

煉獄家によく飛んでって任務報告していたが、最近は時々岩柱邸にも向かう姿が見かけられるようになった。
煉獄家でよく薩摩芋をもらうので、最近は芋がお気に入り。


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二話

お待たせしました。

では。


 

 

 

 

 向き合い、木刀を構えて斬り結んだそのとき、本当に花が舞ったかと思った。

 蟲柱・胡蝶しのぶの継子、栗花落カナヲは、花の呼吸の使い手である。

 師匠と異なる呼吸を使う隊士はいるし、現に獪岳も、今の師匠となっている煉獄とは呼吸が異なる。

 とにもかくにも、獪岳はこれまで花の呼吸を扱う剣士と戦ったことはなかったのだ。

 しかも、この栗花落という剣士。

 

 ─────目が、とんでもなく良い。

 

 木刀で技を出しあい、わかったのだ。

 カナヲは、獪岳の動きを見て躱している。技を出す前の、僅かな体の動きを『見て』自身も動いているのだ。

 剣士であるなら、並みの人間より視力が良い者は多いが、カナヲはそれが図抜けているのだ。

 カナヲは目が良い、と幸は確かに言っていたが、良いと単純に言える範囲ではないだろう。

 端的に言うと、ここまで目が良いとは思わなかった。

 そう思いながら、獪岳は木刀を振る。

 腕力、膂力なら獪岳が上。速さも呼吸の相性もあって獪岳が上。

 だが、カナヲは先読みが上手く、体幹が鍛えられていて技の切れと躱しが優れている。

 見てから動くという、並みなら間に合わないはずのこともやってのけ、すぐに合わせてくる。

 やりにくい。

 体が小さく、ちょこまか速い幸とは、また違ったやりにくさだ。

 尤も、あちらは体術の基礎もくそも知らないため、鬼の身体能力任せな面が強く、動きが直線的で読み易い面がある。

 最近は蟲柱辺りの動きを見て立ち回りが上手くなってきているが、まだ対応できないほどではない。油断すると蹴り飛ばされるため、気が抜ける相手ではないのだが。

 桃色の花弁が翻るようなカナヲの斬撃をいなしながら、獪岳は腰を低く落とした。

 炎の型の弐を基にした斬撃で地を巻き込んで上へ切り上げ、土煙を起こす。

 直前に気づいて後ろに跳び退っていたカナヲだが、関係ない。

 技を当てるつもりなど、端からなかった。

 視界さえ少しの間塞ぐことができれば、それでいい。

 土を巻き上げれば獪岳の視界も諸共曇るが、見えずともカナヲの位置はわかる。殺気の場所を違えたりはしない。

 目を細め、土壁の中に飛び込んで突きを放つ。

 斬撃主体の雷の呼吸にはない動きだが、だからこそカナヲは戸惑ったらしい。

 土煙が収まったとき、獪岳の得物はカナヲの首筋横。カナヲの木刀は、獪岳の肩上で止まっていた。

 

「……チッ」

 

 実戦だったならば、獪岳の刀はカナヲの首をかき斬っているが、カナヲの刀は獪岳を袈裟切りにしている。

 思うようにはならず、獪岳は舌打ちをこぼした。

 相討ち覚悟で鬼の頸を刎ねようとするのが、鬼殺隊なのだ。

 死にかけでも相手を袈裟切りにするなど、蟲柱の継子ならばやってのけるだろう。

 

「ありがとうございました」

「……ありがとうございました」

 

 一応の礼として互いに木刀を引き、頭を下げる。

 土で視界を塞いだまではよかったが、そこからの攻めが強引で直線的だったと、獪岳は木刀を持つ手に力を込めた。これでは幸のことを言っていられない。

 

「さっきの技……」

「あ?」

 

 次にさっさと場所を譲ろうと歩き出せば、カナヲのほうから話しかけて来る。

 やや意外に感じながらも、獪岳は振り返った。

 

「さっきの土を使った技、雷の呼吸なの?」

「違ぇよ。炎の呼吸に下から切り上げるやつがあんだ。土使ったら目くらましにはなるだろ。特にお前みたいな目の良いヤツならな」

「私の目のことも、すぐわかった?」

「俺の関節見て動いてたろ」

 

 図星だったのか、カナヲは黙った。

 霹靂一閃は腰を低く落として抜刀し、鬼の頸を落とす技だ。獪岳にはできないが、中身が伴わない形だけならば、なぞれる。

 腰を落として抜刀するところまでは雷の呼吸、そこから後は炎の呼吸の技をまた弄って試したのだ。

 雷光のような閃く速さの剣技を弄り回した結果が、泥土を跳ね上げるだけの技。

 そう思うと、何か黒いものが腹の底でぐる、と蠢く。

 

「おつかれさま」

 

 とん、と入れ替わるためにこちらにやって来て背伸びした幸の指が、額を突いた。

 俯きかけていた頭が自然前を向かされ、見下ろしてみればいつもの金色の瞳。

 澄んだ眼に見透かされたようで腹が立って、獪岳はとりあえず丁寧に結われていた黒髪を雑にかきまわしてやった。

 

「……?」

「なんでもねぇよ」

 

 鳥の巣のようにくしゃくしゃになったみつ編みを摘んで、幸は一度髪を解いた。

 そのまま、元に戻すのが面倒になったのか結わずにそのまま髪を一束ねにして馬の尾のように括る。

 無言で髪飾りを手に押し付けられ、獪岳はは、と息を吐く。押し付けてきた幸は、あとで結い直せと言わんばかりの不満面で駆けて行った。

 

「お前な……」

 

 呆れ顔の玄弥から頭ごと目をそらして、獪岳は前を見た。カナヲはちょこんと膝を抱えて座り、こちらにはもう見向きもしていない。

 見ているのは、前で向き合っている善逸と幸だった。

 ろくにあちらの声は届いていないのだが、嫌だ嫌だと善逸が顔中を口にして喚いているらしいのは伝わる。あいつは本当に逆さに振ってもどうしようもないのかと、獪岳は見ていられなくなって夜空を仰ぎ見た。

 仰ぎ見た途端に、玄弥が呟く。

 

「あ、頭突きしやがった」

 

 面倒になったのか説得がややこしくなったのか、幸の頭が善逸の胸板に入っていた。

 そういえば、竈門兄が以前風柱に頭突きをくらわしていたが、まさか真似たのだろうか。

 もんどりうった善逸の襟を掴んで引き寄せ、幸が何か囁く。それで何某か決まったのか、善逸は木刀を構えた。

 

 さて一体、あの愚図に何を言ったのか。

 

「……」

 

 興味がないわけではないが、どうせ後で聞けばいいと、獪岳は目を凝らす。

 間隔を開けて立ち、幸と善逸が構える。

 互いに似た構えを取り─────ドン、と太鼓を叩くような音が響いて姿が消える。

 

「は?」

「上だよ」

 

 猿のように跳び上がり、速かったが故に消えたように見えただけである。目を瞬いた玄弥に、獪岳は上を指した。

 二つの影が交錯し、次の瞬間鈍い音がして同時に地面に降り立つ。

 善逸の足元に転がったのは、真っ二つになった木刀だった。

 

「速っ!!速いよ幸ちゃん!前より速いよね!?どうやったの!!」

 

 ここまで届くほどの大声で喚く善逸と、余り声がでかいのか耳を塞ぐ幸が戻って来る。

 幸が何かをしたのだろうことは、わかったが、何をしたのかは獪岳にも見えなかった。

 跳ぶ直前、脚に血鬼術の紅の光が纏いつくのが見えはしたが、それをどうしたのだろう。

 爪の先についた木屑を払いながら、幸は戻って来た。

 

「筋肉がきれるまで、脚に力をかけた」

「はい??」

「切れるはしから、血鬼術で治して、また力をこめて切って、速く跳んで、みた。ぎゅっと押さえた()()は、遠くまで跳べるから」

「い、痛くないの?」

「平気。すぐ治る」

 

 幸の血鬼術は、並みの鬼ほどの再生力がないのを補うかのように、体が本来持つ治癒力を一時的に増幅させて怪我を治している。

 それを使えば確かに、瞬間的に回復速度を跳ね上げることはできる。今回は、鬼の筋肉が断絶し、脚が壊れるほどの力を込めて動いた、らしい。鬼の肉体の限界をぶち抜いて速く動いたのだ。

 それで、雷の呼吸の霹靂一閃と正面から速さ比べしたわけである。

 結果、善逸の得物の木刀は幸の爪で割り折られた。

 だけれども、幸は善逸を見て首を傾げていた。

 

「遊郭のときのは?」

「霹靂の神速のこと?あれまだ、一日二回しか使えないんだ。あと、まだやったら駄目って言われてるから」

「……そう」

 

 幸はそちらの速さが見たかったのか、肩が少し落ちた。

 面白くなくて、獪岳は頭をかいた。

 霹靂一閃はただでさえ速い。神速は、それより上なのだろう。

 遊郭のときは、誰も彼もがそれどころではなくまともに見えていなかったのだ。

 幸の速さはどうだか知らないが、束の間とはいえ獪岳の視界から双方が消えたのは事実だ。

 何か一つ自分ができるようになっても、それは周りも同じだ。

 人間など最初から容易く殺せる相手を殺す生業なのだから、当然と言えば、当然であるが。

 

 それにしても、善逸の動きがどうも、()()()()()()()()()()()()()に見えたのが、引っかかった。

 獪岳の中で素直に善逸に尋ねるという選択肢は、最初からない。

 

 それから、相手を変えやり方を変え、丑三つ時の少し前まで手合わせは続いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぁ」

「……?」

 

 得られたものがあったのかなかったのか、どうもわからないまま蝶屋敷へ引き上げて、馬の尻尾のようになっていた幸の髪を結い直しながら、獪岳は尋ねた。

 縁側に正座したまま、幸は眠たげに船を漕いでいるが、却ってこういうときのほうが物を尋ねやすい。

 完全に覚醒し、頭が働いているときの幸に、獪岳は絶対口では勝てないからだ。真正面から躊躇いなく目を見つめて話すのも、まだ

 獪岳も眠くないわけではないが、幸ほど切羽詰まっているわけではないのだ。

 

「手合わせのとき、お前あいつに何言いやがったんだ?」

「……言わない」

「は?」

「獪岳にきかれたくないって。できるまで、言わないって」

「何ができんだよ」

「みんな剣士。なら、つくりたいものは……」

「型か?」

 

 さぁ、と幸が首を傾げる。

 言わないでと頼まれておいて半分だけ言っておき、肝心なところは言わないと突っぱねるとは。

 

「お前さぁ、結構いい性格になってるよな」

「……」

 

 こちらに背中を向けている幸が、なんとなく微笑んだ、ような気がした。

 からかわれているようにも思うが、まぁ、顔と心のつり合いが取れて笑えているだけで以前と比べれば万々歳である。いちいち言動が幼いと、相手がしづらい。

 竈門の妹も幼子のような意識で止まっているらしいが、あちらもいずれは年相応に戻るのだろうか。

 何も話さないと、手の中でさらさら流れる黒髪にしか意識が向かない。

 こうまで長いと、切ればいい気がしているが、鬼の髪だから切っても恐らく元の長さになるだけだろう。

 

「お前の両親がやってたつう宗教の話、なんかわかったのか?上弦の弐が教祖やってるっていう」

「……なにもない、って。しのぶさんが」

「お前が昔住んでたところは」

「町を見たら、わかる、とおもう。だけど番地は」

「覚えてねぇわけか。というより、お前の場合は見てねぇのか。……あ、馬鹿コラ頭動かすな」

 

 頷くのでなく口で言え、という話だ。

 

「ま、お前餓鬼だったからしょうがねぇか」

 

 餓鬼どころか、乳飲み子のころだったはずだ。

 まず、目がろくに見えていまい。

 上弦の弐は人間の世界でそれなりの地位にあるらしいのだが、見つからないのだ。

 それを言うならば鬼の首魁の鬼舞辻無惨は、何百年も鬼殺隊の前に姿を見せていなかった。

 無惨を直接見て生き残った隊士は、知る限りでは竈門炭治郎一人だけだ。

 

「鬼が教祖にいるなら、わかんねぇのかな。何百年も生きてる人間なんざ、どう考えたっておかしいだろ」

「ん……それは……教祖だか、ら?だって、だいじだもの。じぶんたち、を、救ってくれる人だったら、きっと、みんなで隠すし、みんなで護る、よ」

 

 並みの社会にいたならば、何年も姿形が変化しないのは化物の証だが、自分たちを救ってくれる教祖様であるならば、それは奇跡の証だ。

 

「周りで人が消えてても……ああ、教祖様の御心に沿わなかったから出ていったとか、適当に理由つけときゃ疑われねぇか」

 

 言っていて思うのだが、こいつの両親はどうなったのだろうか。

 顔も知らない男と女など、死んでいても生きていても獪岳にとってはどうでもいい。確実に死んでいるだろうなとしか考えない。

 が、下手に記憶に残りそうな嫌な死にざまだったならば、またぞろ無駄に気を揉みそうなのが目の前にいる。

 獪岳や他の誰がいくら気にするなと言ったって、気にするのが幸の性分だ。忘れられないのだから、薄まるわけもない。

 大体、忘れろと他人が簡単に言おうが本人が望もうが、頭を吹き飛ばされても何も忘れられない人間にはどうしようもない。

 一言で言ってしまえば、幸は面倒くさい。

 だが、その面倒くささと、悲鳴嶼から教わった情深さで人を喰わないで生きてこられたらしいのだから、結局それは表裏一体だ。

 どちらかが欠けたら、やっぱりこいつも人喰い鬼になっていたろう。

 よくもまあ、八年も生きていられたものだ。

 体がというより、心がまともであった事実だけで、こいつは一生に起こる奇跡を全部使い果たしていそうだ。

 

「どうか、した?」

「なんでもねぇから振り向くんじゃねぇよ。お前、髪長いから時間かかんだ。切ったりしねぇのか?」

「むだ。すぐ、もとに戻る」

 

 試したことがありそうな口ぶりである。

 くぁ、と欠伸をして、幸は眠気が漂っているのんびりした口調で続けた。

 

「今日みていておもったけど、獪岳の刀、あれでいい、の?」

「……」

 

 手が、一瞬止まった。

 これまでは刀を背に負っていた。腰に佩いていないのは、居合いが、霹靂一閃が向いていないと思ったからだ。

 だけど型を変えて、動きが変わった。

 背に負った刀は長いが、長い分抜くのに時間はかかる。

 薄々己で感じていたことを、眠たげで舌ったらずな口ぶりで言われ、獪岳は黙った。

 

「ンな簡単に言うなっての」

 

 刀は与えられたものを振っているだけだ。担当鍛冶屋の名は知っているが、顔は知らない。最終選別の後訪れてきたやつは、ひょっとこ面を被っていて素顔を見ていないからだ。

 刀を前折ったときは、新しいものはすぐに届けられたが、当人とは会っていない。

 だけども型を変えたなら、相談して変えるという手も無くはないのだ。壊れたから新しいものが要り用になったのでないのだから……と、そこまで考えて獪岳は気づいた。

 

「おい……おい?」

 

 この幼なじみ、普通に寝息を立ててやがる。

 突っ伏さずに正座したまま、それはもう器用に、見事に寝ているのだ。

 そりゃ眠気が限界になる前に寝ろとは常日頃から散々に言っているが、話の最中にまで寝ろとは言ってない。寝落ちするなと。

 が、髪を編むのを投げ出すのもまして叩き起こすのも、それはそれで癪である。

 最後まで結い終えて髪飾りを付け、そのまま体を少し押せば、起きることなく幸は猫の仔のように丸まった。

 箱に詰め直すために起こすのはややこしく思えて、そのまま羽織りをかけて放っておく。

 寝が足りれば、勝手に起きてくるし、日が昇るにはまだ間がある。

 

─────それはそうとして。

 

「刀、なぁ」

 

 考えていなかったことが、また出る。

 欠伸をこぼし、ふと見上げた夜空には細い三日月がかかっていた。

 

 

 

 




お待たせしました。

本誌の怒涛の展開で情緒がジェットコースターし、案の定まともに書けていませんでした。

その間にオリジナルTSファンタジー書いて完結させたり、なんやらかんやら作者もやらかしましたが…。
ともかく、完結まで頑張ります。


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三話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 刀鍛冶の里に行ってみたい、と獪岳が最初に打ち明けられた相手は、煉獄杏寿郎だった。

 正確に言うなら、自分から打ち明けたのではない。

 復帰の挨拶を兼ねて訪ねてみれば、何事か悩んでいるなと一瞬で看破されたのだ。

 柱こそ退いたが、鬼殺へ赴ける体力はもう戻ったとかなんとかで刀を腰に佩いた現在の師匠は、なんとも快活に獪岳を見透かした。

 何故どうしてどうやってとは、今更思わなかった。

 

「戦い方が変わり、武器が変わる話はままある!刀鍛冶の里へは許可が降りれば誰でも行けるのだ!」

 

 確かに、思い返せば柱の中には並みの刀とまったく違う形の得物を扱っているのは多かった。

 蟲柱や音柱は言うまでもなく、特に悲鳴嶼など斧と鉄球だ。刀は何処へ行った。

 

「けどそれ、柱だからじゃないんですか?別に、俺は今のでも戦えないわけじゃないんですし」

 

 長さを変えたい、体に合わせたい程度のことで、いちいちそんな許可を平隊士が取っていいのか、わからなかったのだ。

 

「案ずるな!俺から聞いておく!刀工の仕事は刀を作り、我らはそれを使って鬼を斬るのだ!自ら鍛えた得物が合わずに隊士が死ねば、それを造った刀工はどう思う?」

「……」

 

 多分、そいつは後悔するだろう。

 先祖代々刀を鍛えてきて、自分の仕事に誇りがあるやつなら、尚更。

 獪岳にとっては刀工など、一度会ったきりであとは紙面の上でしか知らない相手だが、そう思うのだろうなということはぼんやり予想がついた。

 だがそういえば、前に蝶屋敷で竈門兄がひょっとこ面に出刃包丁を持った、変な男に追いかけ回されていたような気もする。

 俺の刀を折ったとか、殺してやるとか、そんなことで騒ぎまくっていたと聞いたから、その男は刀鍛冶だったのだろう。

 刀鍛冶の里の人間が皆あんなのだと、普通に嫌である。

 

「任務を途切れさせることはできないが、里への訪問許可は俺がなんとかしよう!」

「……ありがとう、ございます」

「何、気にするな!」

 

 では行ってくる、と羽織りの裾を翻して旅立つ師匠の背に、獪岳は無言で頭を下げた。

 

「おい」

 

 そして、いきなり背後からかけられた声に振り返る。

 気配からして、そこにいることは察していたが、煉獄槇寿郎に話しかけられると勝手に体が身構えた。

 こつり、と背に負った箱が内側から揺れる。

 

「俺に何か御用ですか?」

 

 酒の香も放たず、瓶も持っていないのだな、と思いながら獪岳は、次の言葉を待った。

 

「……お前が連れている娘の、血鬼術について聞きたいことがある」

「なんでしょう」

「あれは、傷を治す血鬼術と聞いたが……代償はあるのか?」

 

 槇寿郎の問いを、獪岳は少し考える。

 結局、正直に話すことにした。

 

「……大きな怪我であればあるほど、治した相手の寿命が減ります」

 

 零から治すのではなく、元々人の体が持っている、怪我を治し毒から生き延びる力を引きずり出すだけだ。仕組みとしては、脳に働きかけてそうさせているらしい。

 鬼の幸ならば、体への負担は誤差の範囲内で済むようだが、人間は違う。

 それこそ、腹に大穴が開くような怪我ならば、負担は大変なものだ。腕や脚を繋ぐのとは訳が違う。

 何年どころか、何十年と寿命が削られたはずだ。だから幸も、潰れた眼までは治さなかったし……きっとあれは、治せなかったのだ。

 元々六十年生きられる体だったとして、二十年が仮に削られれば、残りは如何ほどになるのだろう。

 それでも、生命を伸ばすことはできる。

 何もしなければ死んでしまう人間の一日が十日になるならば、御の字だ。

 

 獪岳も、腕やら足やら背中やらを繋ぎ合わせてもらい、生き延びることができた。発熱や昏睡はしたし重態になったが、生きていられるなら安い。

 そうでないなら、あのときに血を失いすぎて最低三回は死んでいるだろう。

 

 言うまでもなく、そのことを煉獄杏寿郎は知っている。獪岳が直接に言ったからだ。

 まさか師匠、よりにもよってこの身内に言っていなかったのかと獪岳はたった今出て行った杏寿郎を問い詰めたくなった。

 

「それで、何でしょうか」

「……いや、伝えてくれてありがとう」

 

 必ずまた戻って来るように、とそれだけを言い残して、槇寿郎は屋敷へ戻った。

 

「何だったんだ」

 

 酒浸りと思っていたが、今日の彼からは酒の気配は微塵もなかった。

 鬼舞辻無惨と相対して隊士が生き残り、上弦の弐、参と交戦して人死にが出ず、陸が死んだ。

 鬼殺隊ではこの百年以上なかったことが、立て続けに起きているのだ。

 槇寿郎も、それに感化されて酒を手放したのだろうか。

 何にしたって、酒浸りが一人減るのはいいことだ。大酒飲みの親に大体ろくなのはいないと、獪岳は煉獄家に背を向ける。

 

 こん、とまた箱が内側から叩かれた。

 それと同時に、頭上にばさりと黒い影が翻る。

 

「ガア!獪岳、幸ィ、任務任務ゥ!北西ノ町デ人ガ消エタァ!至急向カウベシ!向カウベシィ!」

「うるせぇ。ぎゃあぎゃあ鳴くなってんだ」

 

 最近少しばかり静かだと思っていたらこれだと舌打ちしながら、獪岳は鎹鴉の後を追うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北西の町に出た鬼は、子どもの形をしていた。

 背が低くすばしっこく、外見は十になるかならないか程度で物言いも舌ったらず。

 鬼にされてから、時間は然程経っていないふうに感じられた。

 単なる勘だが、最近そういう勘が働くようになったふうに思う。

 一等悍しい気配をしていたのがあの腐れ氷鬼なら、陸がその次だ。あれらを基準にしていれば、何とはなしに測れる。

 だがだからこそ、あまり小さいガキが鬼にされているのを見ると、苛立ちが募る。背格好や歳のころが、誰とは言わないが似ていたからだ。

 外見が子どもだろうが鬼であり、もう人喰いになってしまったのだから、殺さなければならない。

 そもそも、それが自分たちの仕事だ。

 日輪刀を持つ獪岳に追われ、上へ逃れようとした鬼を蹴りで叩き落としたのは、先回りして隠れていた幸だった。

 尻でいざりながら壁際へ追い詰められ、頸を刎ねられるときに鬼が最後に漏らした声は、かあちゃんの一言だった。

 

 手のひらに収まりそうな頸が落ち、てんてんと転げてから、ほろりと崩れる。

 体も頭も、すぐに空き家の中の塵埃と入り混じり、見分けがつかなくなった。

 

 人喰いは、地獄行きなのだろうか。

 それとも、子どもだから賽の河原行きなのだろうか。

 

「?」

「……別に」

 

 猫のように音もなく着地し、鬼が消えたあとを見ていた幸が振り返って、首を傾げていた。

 どうでもいい、余計なことを考えたと、獪岳は刀を鞘に収めた。

 

「とっとと出るぞ。人が来ると面倒だ」

「ん」

 

 警官もそうだが、町の人間に見られるのが面倒だ。夜になれば人が殺されている町で刀を持ってうろついていたら、疑われる。

 空き家から抜け出せば、幸いにして辺りに人の気配はなかった。多少空き家の壁は壊したが、隠が駆けつけなければならないほどではない。

 

「次、次ノ任務!南ノ町沿イノ街道デ、人ガ死ンデイル!死ンデイルゥ!」

「馬鹿ガラス、静かにしろ。つぅか、またかよ」

「カァ。鬼ハ減ラヌ。減ラヌゥ」

「チッ」

 

 単純を極めた真理だが、鴉に言われるとむかつくのだ。

 拳を振り上げると、鎹鴉はさっと幸の肩の上に避難した。

 爪でしがみつかれた幸は、鴉の頭を指で撫でながら獪岳を見上げた。

 

「……疲れた、なら、おぶるよ?」

「お前冗談でもそれはやめろ」

「じゃあ、いこ」

 

 早く、と急かされて走り出す。

 人に呼び止められそうになれば、無視するか物陰に隠れるかでやり過ごし、走り抜けた。こんな時間に走り回るのは、邏卒か鬼か、あとは盗人か鬼殺隊ぐらいなものだ。

 街を抜けて、鴉の翼に導かれた先は切通しの街道。

 聳え立つ崖の間に切り開かれた隘路は、やりにくい。

 

「どっちだ?」

「あっち。左の……崖の、うえ」

 

 闇に溶け込みそうなほど高い崖の上部を、幸は指差す。

 ちらりと、岩の側に飛び込む尋常な獣でない何かの影が辛うじて見えた。同時に風向きが変わり、生臭いにおいが押し寄せる。

 ぐらりと、上から岩が降ってきた。

 二人揃って飛び退いて一つ避ければ、またその次が来る。

 血鬼術だかなんだか知らないが、落ちてくる岩に邪魔されて上に辿り着けそうにない。

 

「いってくる、落とす」

「わかった。一緒に落ちんなよ」

「ん」

 

 深く脚を曲げたかと思うと、幸が跳んだ。落ちてくる岩をも踏み台にして、あっという間に崖の上へ到達する。

 二度、三度と何かがぶつかる音が響いた。

 一際鈍く大きな音がしたかと思うと、ぎゃあとも、ぎぃともつかない悲鳴がし、仰向けになった黒い塊が落ちてきた。

 やたら多い手を蠢かせ、藻掻くそれからは、はっきり人の血のにおいがした。

 

 ────雷の呼吸

────弐ノ型、稲魂

 

 地面に叩きつけられ鬼が硬直した刹那の隙に、手と頸を五連撃で斬り落とす。四本まで腕を落とし、最後の一太刀で頸を斬る。

 虫のように腕が六本生えた異形の鬼は、それで死んだ。

 さっきの子どもの形の鬼と同じように、亡骸はほろほろと崩れて、土塊へ紛れる。

 差し詰め、崖の上から街道へ向けて岩を落とし、人を喰っていたのだろう。小知恵の回る鬼だと思う。

 他に気配がないことを確認して、獪岳は刀を鞘に収めた。

 見上げれば、幸の小さな姿がこちらを見下ろしていた。

 終わったと呼ばわる代わりに腕を大きく振ると、ぽん、と飛び降りてくる。

 着地と同時に、砂埃が小さく舞った。

 

「へいき?」

「無傷。帰るぞ」

 

 鴉も何も言ってこないのだから、多分もう任務はないのだろう。日の出ももう直である。

 背負っていた箱を下ろして蓋を開けると、縮んだ幸は中に入って膝を抱えた。

 

「……藤の家、行くか」

 

 怪我はなく、箱も壊れていない。

 何分鬼を連れているから度々蝶屋敷へ来いとは命令されているが、別に毎度顔を出せとは言われていないのだ。

 それに今戻ったら、またあの弟弟子がいる。毎度面を突き合わせるのは御免被るのだ。

 

「カァ!最モ近イ家ハ南東ヘ二里!二里ィ!」

 

 そんなものか、と獪岳は箱を背負い直して夜の道を駆け出す。

 そうして辿り着いた屋敷で寝て、翌日の朝一番に鴉に叩き起こされた。

 

「カァ!里ヘ向カウ許可、下リタ!下リタァ!」

「は?」

「カァァ!迎エノ隠、スグニ来ル!来ルゥゥゥ!」

 

 すぐ、とはいつだ。

 鴉に突かれるようにして藤の花の家から出れば、確かにそこには隠がいた。

 話を聞けば、刀鍛冶の里は隠されていて、訪れる者は隠に背負われて向かうのだという。

 途中で何度も隠を変え道案内の鴉を変えて行くから、隠当人や鎹鴉同士すら正確な道は知らないのだ。確かにそれなら、何処かで一人が捕まっても、里まで辿り着かれる危険は大幅に下がる。

 日輪刀は鬼殺隊の生命線であるから、それくらいの警備は当然だろう。

 

「こいつも背負ってっていいんですか?」

「構いません。お館様から許可は出ていますから」

 

 ただし目隠しはいると、案内の隠は言った。

 そういうことならば、と獪岳は従った。

 そのまま、上下に揺られたり左右に振られたりしながら、背負われて進む。

 もういいですよ、と言われた先で目隠しが解かれ、いきなりの眩しさに獪岳は目を瞬いた。

 目の前に広がっているのは、立派な町である。

 

「じゃあ、俺はこれで。長に挨拶しに行って下さいね」

 

 最後の案内役だった隠は去り、残されたまま獪岳は辺りを見回した。

 腐った卵のような臭いが、里全体に漂っている。行き交う人間は、ほとんど全員がひょっとこ面を被っていた。

 

「いおう?」

「らしいな。臭ぇけど、温泉があるんだと」

「……へぇ」

 

 箱の中で静かにしていた幸は、起きたらしい。獪岳が里長の家へ歩き出すと、普通の声音で話しかけてきた。

 

「温泉、て……みたことない」

「俺もねぇよ。時間が余りゃ見には行けるだろ」

「ん」

 

 湯を沸かすための薪が勿体無いし、銭湯に行く金があったら腹に何か入れているほうがよほどいい。

 湯に浸かるのは、結構な贅沢なのだ。そりゃ、使えるのならば嬉しいが。

 

「お前は鬼だから、風呂の必要はねぇだろ」

「ん、そう。でも……獪岳、行った、ら?……気持ちいい、よ。たぶん。硫黄はくさい、けど」

「臭い臭いって、二回も言うんじゃねぇ」 

 

 

 鬼は人間と違うからもしやと思っていたが、本当にそうらしい。

 とはいえ、血や泥を浴びたり汚れたりしたら水は被っていたし、着物は洗いたがっていたから、綺麗であるほうが良いことは良いのだろう。

 人間のものにしろ鬼のものにしろ、血のにおいなど、いつまでも纏っていたくはないのだろうし。

 

 たどたどしく喋る箱と、それと平気な顔で会話する奇妙な隊士へ注がれる視線を一切合切無視して、獪岳は里長の館へと歩いて行った。

 

 




ほのぼのです。

本誌で、寺の子どもたちから悲鳴嶼さんへの呼び方が先生とわかったのですが、このまま変えないでやります…。
セリフとか諸々狂いますし、鬼っ娘は人を名前で呼ぶほうが好きだからです。




鬼のいない明日が来ていたら、多分二人とも年頃になれば奉公に行って、時々里帰りする生活をしていたと思います。


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四話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 

「おかめひょっとこ、七福おふね、小槌小判に米俵、さてもめでたや酉さま熊手」

 

 妙に長閑な里山の木々の間を渡っていくのはどうにもこうにも気が抜ける唄であった。

 

「まつたけうめに、白ねずみ、鯉鶴、お富士へおあがりや、やれ、めでためでたのお酉さま」

 

 放っておけばそのうち止まるのだろうと思いきや、戯れ歌は続いた。

 何番まであるのだ。

 小柄だが不思議と貫禄のある里長に挨拶し、そういう要件ならば刀鍛冶のところまで行くと良いと言われた。

 なので獪岳は里の道を歩いているのだが、暇になったのか、幸が箱の中から唄い出したのだ。

 別に、歌うのは良い。

 頭を派手に吹っ飛ばされ、人を襲いかけてからこちら、聞き取りやすかった口調がたどたどしくなったり滑らかになったりと、まともと危うさの()()()を行ったり来たりしては、正気に留まっているようなやつが煩くない声で歌うのは、聞いていても苛立たない。

 だが、如何せん箱の中からの声である。

 傍から見れば、割と怪しい。

 

「おい、何番まであるんだよそれ」

「ここまで」

「どこの唄だよ」

「さぁ」

「嘘つくなってんだ。お前が忘れるなんてことあるか」

「……お祭りで聞いた。お面で思いだした」

 

 右を見ても左を見てもひょっとこ面だらけのこの里だからか、ふとそういう気分になったようだ。

 いつだったかには子守り唄も唄っていたし、幸は案外に唄を多く覚えているらしい。足が悪かったから、誰の手も借りず、動けなくてもできるそういう遊びに自然、詳しくなったのだ。

 お酉さまときたら、まぁ酉の市のことだろう。

 獪岳は縁起物のごてごて飾り立てられた熊手など買ったことはないが、行ったことはある。

 主に、浮かれて足元が疎かな客の財布を掏りとるために。

 こいつも、祭りに行ったことはあったのか、と少し意外に思った。

 まさか懐狙いではないだろうが、誰と行ったのだろう。

 

「まァ、ほんとにひょっとこ面だらけだからな、ここは」

「ん。……獪岳の鍛冶屋さん、はがねづかさんみたいな人かな?」

「はがねづかァ?」

「炭治郎くんの鍛冶屋さんで……出刃包丁のひと」

 

 ()()()()()とは、天下の蝶屋敷で出刃包丁を振り回して駆け回ったと噂の、あの鍛冶屋のことらしい。

 力のかける方向を誤ると刀は折れる、と獪岳も先生に教わった記憶はあった。

 だが、鬼と戦っていて毎度正しい力を込められるかと言われれば、無論否だ。

 大体あいつらは頸が硬い上、すんなり頸を差し出すわけもない。こちとら首切り役人でも、見世物を生業にする居合いの達人でもないのだ。

 肉と骨の隙にうまく刃が通れば、すとんと斬れるのだが、骨や筋肉に引っかかるといけない。

 刀の手入れも無論するが、する暇もなく駆け回らなければならない場合とてある。

 なのに、刀を折ったと毎回追いかけ回されていては堪らないのだ。鬼は殺せていても、仲間の鍛冶屋に殺されては世話もない。

 

「包丁、持ち出して来ない人だといいね」

「俺は刀を折ったわけじゃねぇよ」

 

 喋りながら、獪岳は足元に転がる小石を拾い上げ、左肩後ろの方の藪へ投げつけた。

 

「イテッ!」

 

 ごろん、と藪から芋のように転がりまろび出て来たひょっとこ面の少年に、獪岳は胡乱なものを見る目を向け、睨んだ。

 

「誰だ。さっきっからうろちょろしやがって」

「ひゃっ!」

 

 こんこん、と抗議するように板越しに背中が叩かれた。どうせ年下相手に大人げないと言いたいのだろう。

 

「お前、その面被ってんならこの里のやつだろ」

「そ、そうですよっ!」

 

 少年は、小鉄と名乗った。

 この里の生まれで、唄う箱を背負った目つきの悪いのが家の近くを通ったから、気になって様子を伺っていたらしい。

 ついでに言うと、刀工というより絡繰作りの家で、だから珍妙そうな箱に目が行ってしまったのだとか。

 

「格好見りゃわかるだろ。俺は鬼殺隊だ。それからこれも絡繰じゃねぇ。中に入ってるやつが勝手に唄ってただけだ」

「そっちのほうがびっくりですよ!どんだけちっさい子ですか!?」

 

 鬼だからだとか説明は面倒である。

 おかしなやつでないなら、放っておけば済む話だ。

 獪岳はまだ何か言いかけの少年に背を向けた。

 

「じゃあな、ガキ」

「あっ!ちょっと待って下さい!どこへ行くんですか!」

「関係ねぇだろ。うちへ帰れよ」

「待って下さいってば!担当鍛冶って多分、鉄康さんでしょ?ちょうど出かけていっちゃったんですよ!」

 

 はた、と獪岳の足が止まる。

 ケケケと、頭の上で鴉が笑った。

 

「あなた、獪岳さんでしょ?鉄康さんが担当してる剣士って聞いてます」

「……」

「出かけてる間に来てしまったら、ちょっと待ってもらえって言われてんですよ。まさか、箱が唄ってるとは思いませんでしたけど」

 

 こっちですこっち、とちびなひょっとこは、案外押しが強かった。

 だが確かに、いないなら行く意味もないのだ。

 よっぽど退屈なのか、ついには鼻唄を歌いだした箱を背負ったまま、獪岳は小鉄の後について行く。日が出ているから寝ておけばいいのに起きているということは、大方完全に知らない里にいるので妙に気が立っているのだろう。幸は変に、小心者だ。

 ともかく、絡繰弄りの家というだけあって、その家にはごろごろと道具や絡繰らしい箱などが転がっていた。

 狙いすましたかのように鴉が降りてきて、幸の箱の上に止まる。

 

「ガァ、コノ里ノ絡繰人形ハ、強イ!隊士ノ訓練ニモ使ワレル!使ワレル!」

「はぁ?絡繰っつっても、人形だろ」

「そんなことないですよ!三百年前からの人形もあるんです!百八つの動きができて、柱の訓練にも使えるんですからね!」

 

 小鉄と鴉は、連携でもしたようにまくし立てた。土間に立ったまま、獪岳は腕を組む。

 

「へぇ、百八つなァ」

「信ジテナイナ!ナァイナ!」

「興味ねぇし。お前は箱に爪立てんな」

 

 ケケケッ、と鴉はまたも鳴いて、家の奥へと飛び、暗がりに置かれていた一つの人影の足元に舞い降りた。

 

「コレダ、コレガ人形ダ!少シハ信ジロ、獪岳!獪岳ゥ!」

「そ、そうですよ!ってか、その通りなんですけど随分図々しい鴉ですね!」

 

 鉤爪でつんつんと人形を指す鴉の側に立つ人形の方を見たとき、ふと、耳元で何かが光るのが見えた。

 何とはなしに気になり、獪岳は近寄る。

 近寄ってみれば、人形には人の顔がついていた。光ったのは、その人形の耳飾りであったのだ。

 

「……ん?」

 

 と、気になることができて、獪岳は幸の入った箱の蓋を開ける。

 暗がりに転がり出てきた、並みの市松人形より一回り大きいくらいに縮んでいる幸の脇の下に手を入れ、絡繰の顔の前にひょいと持ち上げた。

 

「なぁ、この耳飾りはあいつのだよな」

「……うん。炭治郎くんのと、同じ」

「痣も似てねぇか」

「槇寿郎さんが言ってたっていう、痣?」

「ああ」

 

 時折煉獄槇寿郎がもらしていた、日の呼吸の使い手にあったという、痣の話。

 彼によれば、日こそが始まりの呼吸であり、他の五つの呼吸はすべて劣化でしかないのだそうだ。

 雷と炎まで劣化と括るのかと思えば、あまり面白い話ではなかったのだが、獪岳もそこで日の呼吸の名は覚えたのだ。

 

「それは、縁壱零式って言う戦闘用の絡繰なんですよ。実在した剣士を元に作ったらしいんですけど、獪岳さん何か知ってるんですか?」

「知り合いに、同じ耳飾りしてるやつがいるだけだ」

 

 人形の耳にぶら下がる、花札のような形と模様の飾りは、竈門炭治郎のものとよく似ていた。いや、似ているどころか瓜二つだ。

 竈門の兄貴のほうは、ヒノカミ神楽を使うと言ったか。

 槇寿郎は以前、煉獄家に来た竈門の痣を見て、日の呼吸の使い手が何をしに来たと騒いだらしいが、竈門によれば額の痣は、元々あった傷痕の上に、さらに別の傷が重なってああなったものだから、生まれつきではないのだそうだ。

 或いは、日の呼吸だからヒノカミなのかもしれない。

 獪岳にしてみれば、だから何なのだという話だが。

 

「昔に生きてた人、なの?……どんな人だったか、わかりますか?」

「すみません。俺も詳しくは知らないんです。三百年は前に作られた人形だし……って、ちょっと、箱から出てきたあなたは誰ですか!?」

 

 縁壱零式とやらの顔をしげしげと見ている幸は、獪岳に持ち上げられたままひょいと片手を上げた。

 

「……どうも。はじめまして」

「はじめまして!って、ああそっか!鉄康さんが言ってた、鬼の子ってのがあなたですね!」

「きっと、うん、そうだよ」

 

 身を軽く捻って獪岳の腕を離させ、床の上に跳び降りた幸は、縁壱零式の顔を金色の瞳を細めて見上げた。

 

「炭治郎くんには……顔が、似てないね」

「炭治郎くん?誰ですそれ」

「竈門、炭治郎くん。この縁壱さん人形と、同じ耳飾りをしてる隊士で、担当鍛冶屋さんは、はがねづかさん」

「鋼鐵塚さんですか……」

 

 小鉄がまだ幼いからか、幸は割合滑らかに話していた。

 身の丈が小さいやつ同士気が合うのか何なのかと、獪岳はそちらから目を逸らして人形を眺める。

 長い髪は総髪のような形でまとめられ、額には、竈門炭治郎と同じような痣が描かれていた。

 人が作った絡繰だからなのか、元となった人間がそうであったのか、顔立ちは端正に思える。左の額の辺りが割れて、中の無骨な骨組みや部品が、死骸のそれのようにむき出しになっているが、十分に元の顔立ちはわかった。

 同時に、人形は絡繰故に無表情で、そして何故か、腕が六本あった。

 人を模して作られたにしては、明らかに腕が多すぎる。

 

「あ、それはですね。腕が六本ないと、元になった剣士の動きを再現できなかったそうです」

「……縁壱さんが、それだけすごい剣士だったの?」

「はい。だけど、この人形も古くなってて、もう次使ったら壊れそうなんです……。直せたらいいんだけど、俺にはできなくて……」

 

 小鉄の肩が落ち、言葉尻があやふやになる。

 三百年前のものともなれば、迂闊に弄くり回せないのかもしれない。それだけ長く経てば、失われたものも多いだろうから。

 

「俺が……俺が、ちゃんとしないといけないんですけど……だけど刀にも絡繰にも才能ないから……」

 

 違った。

 一人で勝手にうぞりうぞりと暗いことを呟く小鉄は、更に肩を落としていた。

 

「ガァ!シミッタレルナ!タレルナ!」

 

 そして、釘打ちのように鋭い鴉に面を突かれていた。突然の奇行に驚きながら幸が止めようとしているが、あまり頼りになっていない。

 

「わぁ!?ちょっと獪岳さんなんなんですかこの鴉!」

「知らん。そいつ、別に俺の言うことを聞く鴉じゃねぇし」

「それでもあんたの鎹鴉でしょうが!って、イテッ!またつついた!」

「こ、こらっ!」

 

 ついに幸に捕まえられた鴉は、それでも尚ばさばさ羽を動かしていた。両手で鴉の胴を掴んで捕まえている幸は、よく見ると首の産毛が逆立っていた。

 鬼の握力で潰してしまわないかと、おっかなびっくりなのだ。

 

「おや、もう来られてましたか。すいませんねぇ、行違いになってしまったようで」

 

 場違いに呑気な声が聞こえてきたのは、まさにそのときである。

 肩を跳ねさせた幸の手をすり抜けて鴉は飛び立ち、獪岳は声のした方を振り向いた。

 外の明かりを背負って立つひょっとこ面の男は、ちょいと頭を下げて挨拶をしてきたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果から言えば、鉄康という男は包丁も持ち出さなかったし、門前払いもしなかった。

 とはいえそれが、普通なのだろう。はがねづか何某のほうが奇妙なのだ。

 

「十二鬼月の上弦と戦って刀が折れたって聞いたときゃ、肝が冷えましたよ。掴み折られたてぇ話でしたが」

 

 それは童磨と戦ったときのことである。

 あのときは、代わりの刀だけ届けられて本人は来なかったのだが、それはそれで何がしか事情があったらしい。他の隊士の刀も鍛えているのだから、そういうこともあるのだろう。

 陸のときは折れず、最後まで振るえる刀を作った刀工なのだ。

 ただし、案の定というべきなのだろうが鉄康の人相はひょっとこ面に遮られて読めない。

 ただ声音からして、穏やかで歯切れのいい人間であるようだった。鬼を見る目によくある悪意やざらついた感じも、ない。

 それに、彼の家というか仕事場は、窓が布で遮られていたから、鎹鴉を膝の上に乗せて手で押さえた幸も、正座して獪岳の半歩後ろに座ることができた。

 そのまま、刀鍛冶は穏やかに続けた。

 

「呼吸を変えるってのも、ない話じゃないですからね」

 

 炎の呼吸を使うようになった話は、鉄康にも聞こえていたそうだ。

 

「話の順が後先になってすんませんね。あんま話すのは得意じゃないんで。ともかく、さっきの小鉄の相手もしてくれて、ありがとうございました」

 

 絡繰の小鉄は、最近父を亡くして後を継がなければならなくなったが、これがなかなか上手くいかなず、沈みがちになっていたのだという。

 

「刀を変えたいって話なんですよね。いいですよ。こっちも、どんなふうに刀を振るってるのかは見たいですしね」

「……ありがとうございます」

「いいって話ですよ。あんたさんの刀はとても綺麗ですからね。なんてったって、稲妻が走ってるんですから。戦いのやり方を変えても、あんたは雷様に好かれてるんだ。あれが消えるなんてこたぁ、ないでしょう」

 

 多分、面の下で鉄康は微笑んでいるのだと思った。

 

「いやまぁね、担当剣士が鬼を連れてたり、十二鬼月と戦って刀を折られたりってのは、驚いてんですよ、これでも。顔、見えてないでしょうけど。で、そっちの子が、あんたさんの連れてる子、なんですよね。……こんにちは」

「幸です。……はじめまし、て」

「はいはいどうもね。そっちの鴉を押さえといてくださいよ。炉に飛び込まれちまうと大変なんで」

「はい」

「グェッ! ソノヨウナコトハシナイ! シナアイィ!」

 

 きゅ、と今度は鴉をしっかり握る幸は、生真面目に頷いていた。

 黒い数珠玉のような瞳が、ぶすくれたように見える鴉がおかしく、つい獪岳の喉の奥で笑いが漏れる。

 

「おや、笑ったな」

 

 刀工は意外そうな声で少し面をずらし、煙草をのんだ。

 

「前のときとはまた笑い方が違うね、あんたは。さだめし色々あったんだな」

「……ええ、まァ」

「アマリ、変ワッテイナイトコロモアルガナ!アルガナ!」

「今は、茶化しちゃだめ」

 

 嘴の間に茱萸の実をぎゅうぎゅうと突っ込まれ、さすがに鴉は黙る。それはそうと、何処から出したのだろう、それ。まさか袂の中か。

 対等にじゃれ合っている一羽と一人を見てか、今度は刀工のほうが低く笑った。

 

「いよし、わかった。刀を作ろう。だけどその前に、今のあんたの戦い方が見たいね、俺は。戦ってるとこを見せちゃくれんか?」

「は?何言ってんだあんた」

「そう尖がった声を出すない。何も任務を見せろたぁ言わねぇよ。刀を振ってるところを見たいだけさ」

 

 ひょっとこ面が、僅かに幸の方を見る。

 

「?」

「そう。あんたさんだよ」

「……手合わせ、ですか?それを見たいと?」

「ああ。話が早いってのぁ助かるさね。あんたさん、こっちの相棒なんだろ?だったら動きはよく見てるし、引き出せるはずだ」

「カァ!ソレハソノ通リ!通リ!」

「おい、勝手に決めてんなよ」

 

 そんなこと、前は言わなかったではないかと言えば、前は前で今は今なのだと澄ました顔で返される。無論顔は見えていないから、なんとなくである。

 この刀鍛冶にとっては、幸が鬼であるのとかそういうのはひたすらに些末事で、ただより良い刀を如何にすれば鍛えられるかどうかしか、興味がないらしかった。

 

「そういうことなら、喜んで」

 

 そして、鴉を膝に乗せたまま話を聞いていた少女は、獪岳が答える前にあっさり頷いていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今更ながらに、何回目かに思い知ったことだが、幸は見様見真似で全集中の呼吸法だけは身につけているのだ。

 刀が握れないから剣術はてんで無理だが、元々身体能力が高い鬼が呼吸法を扱うとどうなるのかという、ある意味凶悪な見本である。

 

 簡単に言うと、速い。

 体の目方も上背もないが、それでも人の頭を胴からねじ切れる鬼の腕力は持っているのだ。

 それで爪で切り裂きにかかり、脚で蹴りに来るのだから厄介なのだ。

 当然と言うべきか、手合わせに使われた草地は、土が捲れ上がるわ、木がなぎ倒されるわ、岩が砕かれるわと、かなりな惨状になった。

 幸も壊したが、獪岳も大概に壊している。

 それさえも、刀鍛冶にとっては気にしなくていい範囲だったらしく、むしろうきうきと声を弾ませ、見るべきはすべて見たとついには歓声を上げて、工房へかけ戻っていった。

 

「職人さんて、みんな変わってるのかな?」

「あれはマシなほうなんだろ」

 

 放りっぱなしはさすがに気が咎めたのか、土をならしながらの幸と、そんなことを話した。

 獪岳は肩で息をしているのに、幸はけろりとしているのだ。日に嫌われた夜の鬼とは、つくづくそんな、理不尽なものである。

 手合わせでは最終的に、獪岳は掌底で吹き飛ばされた。

 刀と爪を向け合うのを躊躇う気は、これまで何回も繰り返してきた中でお互いとうに薄れているので、純粋に負けである。

 勝ち星の数も負け星の数も、ある程度を超えれば数えるのをやめた。幸に聞いたら寸分狂いなく覚えているのだろうが。

 頭の上に影がさして、獪岳は夜空を見上げた。

 手合わせの最中はどこかへ飛んでいた鴉が、また戻って来ていた。

 星の光が翼を濡らし、箱に濃い影を落とす。

 

「カァ!任務!任務ゥ!獪岳、幸ィ、南南西ノ村ヘ向カエ!向カエェ!」

 

 自分の身の丈ほどある岩をごろりと押し転がした幸が、すぐにひと跳びで戻ってくる。

 

「鍛冶屋ニハ連絡イレル!スグ!スグニ行ケェ!村ガ襲ワレルゥ!」

「わかったから静かにしろってんだよ」

 

 ゆっくりするどころでは、結局ないのである。

 疲労は呼吸をしている間に、既に抜けた。刀を拾おうと探ると、それより先に目の高さに鞘ごと突き出されていた。

 

「行こ、獪岳」

 

 笑うでもなく怯えでもなく、普通の、平静な金色が二つ、獪岳を見ていた。

 

「……ああ」

 

 差し出された刀を持ち、翼を翻して飛び立った鴉の後を追う。

 日が暮れたところでこの知らせ。しかもこの刀鍛冶の里の近くでこれとは、よほど切羽詰まっているのかもしれないと、そんな気がかりがふと掠めた。

 しかし、鬼を殺すために行く以外に選びようがないのが鬼殺隊である。泣き言を言う前に、脚を動かさなければならない。

 それが、いつも通りなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうして、向かった先には。

 

 ─────六ツ目の月が、いた。




そういえば、明日はスーパームーンなので今晩の月が綺麗ですね。


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五話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 山を越えて駆けつけたとき、その家は既に襲われていた。

 

 

 家屋は戸を蹴破られ、中は踏み荒らされ、人の食いかけが二つ、転がっている。

 蹴とばされた膳、転がっている箸と飯粒、茶碗。倒れた男と老女の背中には、拳大の穴が開いている。

 血臭がひどく、息が絶えた体も頭や手足、胴体のどこかが食い千切られ、転がる彼らの体を、冴え冴えと冷たい月の光が照らしていた。

 

 いつかどこかでも見て、そして何度も見てきた光景だった。

 決して慣れない、化物たちの食事の後の風景だった。

 

 濃厚な血と臓物の臭いに手で鼻を覆いたくなるが、そうはいかない。 

 びちゃびちゃと、何かを啜る音がしていた。

 刀の柄に手をかけ、走る。家と家の隙間の暗がりにうずくまる影が、ぎょろりと血走った眼を向けた。

 

 ─────炎の呼吸

─────壱ノ型、不知火

 

 突進し、すれ違いざまに刀を一閃。

 ごろりと頸が落ち、胴体が枯れ木のように倒れて崩れる。鬼が食いつき、抱え込んでいた死体が、ぼとりと土の上に落ちた。

 まだ若い女の、虚ろな眼がこちらを見る。

 

「獪岳、こっち!」

 

 反転して駆けだす。

 人の気配の絶えた往来の真ん中で、鬼の背を膝で押さえて腕を捩じ上げる幸がいた。

 小柄な男のように見える鬼の口は血で赤く濡れ、眼が爛々と光っている。額の肉を突き破って、角が生えていた。

 

「おマエ、お前、鬼ノくせニ、鬼狩リ、ト」

 

 それ以上の言葉が紡がれる前に、獪岳の刀が振り下ろされる。

 打ち首のような形になった一撃に、鬼は絶命した。

 

「もう、いねぇか?」

「……この村には、いない」

 

 軽く眼を瞑った幸が、かぶりを振って言う。

 確かに、鬼の気配はなかった。

 村外れに建てられていた一軒を襲い、次を喰おうとしていたところに獪岳たちが駆け付けた格好らしい。

 珍しく複数の鬼を殺すことになったわけだが、連携して襲っては来なかった辺り、大方二体が運悪く鉢合わせしたのだろう。

 これから村を襲う前に、腹ごなしでもするつもりだったか。

 

「家の人は?」

「死んでた。裏手でも、一人喰われた」

「……」

 

 どれだけ急いでも、肺が潰れるかと思うほど走っても、間に合わないときはある。

 村の中心部に踏み込まれる前に倒せはしたのが、唯一僥倖と言えば僥倖だった。

 他の住民はまだ惨劇に気づいてすらいないのか、気配はあれど静かなものだ。そのままでいてくれたほうが、有り難い。

 戻るぞと腹に力を入れて声を出し、刀を鞘に収めようとしたところで、ふと空を見た。

 望月がやけに大きく、眼に痛いほどだ。

 眩しすぎる明かりというのは、ろくでもない誘蛾灯に見える。

 立ち上がって、袴の泥を叩いていた幸の動きが、ふいに縫い留められたように止まった。

 鞭のような勢いで、体ごと振り返る。

 闇夜の猫そっくりに光る縦に割れた金色の瞳は、たった今駆け抜けてきた村の入り口を凝視していた。

 

「どうし─────」

 

 た、の最後の一文字をいうより先に、獪岳も気づいた。

 鬼の気配。それも、肌が粟立つほどの気配が、もうすぐ、そこにあった。

 直前まで、何の気配もなかったというのに。

 ひゅ、と不自然な音が聞こえた。

 聞こえたそれが、自分の呼吸する音だと気がつく前に、獪岳の体は飛んでいた。

 遠くなった地面を、斬撃が駆け抜ける。

 次の瞬間には、たった今まで立っていた地面と空間が、背後にあった家屋諸共切り裂かれ、吹き飛んでいた。

 

「な、にが」

「しらない!」

 

 獪岳の胴を抱えて跳び、地面に転がるように着地した幸が吠える。

 内臓が浮き上がる不快さを感じたと思うと、獪岳は再び礫のように放り投げられていた。

 辛うじて地についた足裏に力を込め、なんとか踏み留まる。握った刀は、落とさなかった。

 その足元に、ぼとりと落ちたものがある。

 切られた黒髪の束と、半分に切られた蝶の髪飾りだった。

 は、は、は、と夏の痩せ犬のような浅い息の音が耳に届く。

 ざんばらに切られた黒髪のまま、幸が肩で息をしていた。左肩の着物が赤く染まり、開いた瞳孔は血走っていた。

 先程の一瞬で肩を斬られ、修復したのだ。

 

「獪岳、息をして!」

 

 張り飛ばされるような鋭い語気に、恐怖で詰まっていた肺と喉の強張りが解ける。

 胸を殴られたときと同じ、笛のような息が漏れた。

 それでも、二度繰り返せば常と変わらない呼吸ができた。

 狭まっていた視界が戻り、目の前がようやく見えるようになる。

 

「ほう…時をかけたとはいえ…もう動揺を…鎮めたか…」

 

 開かれた視界にいたのは、鬼、であった。

 刀を腰に差し黒い髪を束ね、纏っているのは紫の着物と黒の袴。

 時代遅れな、絵でしか見たことがないような侍の装束だった。

 だが、放たれている威圧感が、何とも比べものにならない。

 立つことに集中しなければ、呼吸がままならなくなって膝を折ってしまいそうなほどの圧が、雷を孕んだ暗雲のようにのしかかってくる。

 鉛の衣のような、重い気配だった。

 弐が、童磨が持っていた、あの何処か人を小馬鹿にしたような酷薄で軽薄な無邪気さは、ない。

 ひたすら、格上の者が放つ気配が、人の形をしてそこにいた。

 

「勾玉の鬼狩りと…蝶の飾りをつけた…金眼の…鬼。…間違いは…ないようだな」

 

 顔の左に三つ、右に三つの瞳。

 三対六眼の、真中の二つの瞳には、上弦と、壱の文字が刻まれていた。

 

─────死、ぬ。

 

 刀を振るおうとすれば、殺される。

 動こうとしても、殺される。

 何をしても、どう足掻いても、殺そうとした刹那に斬られて死ぬ様しか、思い浮かばなかった。

 

「ふむ…斬りかかっては…来ぬのか…雷の呼吸の使い手ともなれば…相応の立ち回りが…あろうに」

 

 鬼の手が、腰の歪な刀にかかる。

 上弦の壱の抜刀と、幸が小石を掬いとり目にも止まらぬ速さで空へ投げるのが、同時だった。

 夜空の一角で、ぎゃあ、という甲高い音が────鴉の鳴き声が響いた。黒い塊が地に落ちる。

 再び刀を鞘に収め、ゆらりと立つ壱は間延びしたような口調で続けた。

 

「童磨との…戦いの折には…お前たちの鴉が…柱を呼んだのだろう。だが…邪魔な翼はもいだ。……最早…あれは飛べぬ」

「おまえ……よく、も!」

 

 斬られた髪を伸ばすこともなく、幸が牙を剥いて唸る。

 人をかなぐり捨てるかのようなその形相に、獪岳の手足に力がようやく戻った。

 鬼はと言えば、幸の激昂など見えてすらいないように語るのをやめなかった。

 

「やはり、鬼だけに…眼が良いのだな…。一瞬で…私の狙いに気づき…鴉に礫を当てた…。首を落とし…胴を両断するつもり…だったのだが…。僅かな血しか与えられなかった身で…よくもついてくる…」

 

 幸が投げた石ころが鴉に当たり、鴉はほんの僅かに斬撃から逸れることができた、らしい。

 それでも、鎹鴉が飛べなくなった事実は揺るがない。助けは、来ない。

 

「鬼狩りのお前は…柱ではないが…素質はある…と言ったところか」

 

 言い終えそれから、ふ、と鬼の姿が目の前からかき消える。

 ぞ、と首筋に怖気が走った。

 気配に対して、体が半ば反射で動く。日輪刀を、幸の隣の空間に振り下ろした。

 細い頸を狙っていた横一閃が、獪岳の刀にぶつかった。

 瞬時に腰を落として放たれた幸の低い蹴りを、鬼は軽々と避ける。刀は木の葉のように弾かれた。

 力を込めて押さえていただけに、刀が引かれた途端に獪岳の体勢が崩れる。

 全身が粟立つと同時に、腹へ打たれたような衝撃が走り、体が後ろに飛ばされた。

 

「ッ!」

 

 背中から、獪岳は倒壊した家屋へ突っ込んだ。

 受け身を取り立ち上がれば、目の前が赤く染まっていた。

 斬られた額から流れた血と、頭にかかった血が、目を塞ぐ。口にも滴り落ちてきたものを、飲み下した。

 拭った視界に見えたのは、地面に倒れているひとかたまりの何かだった。

 右腕と右脚は体から離れて折れた枝のように転がっている。

 その喉元には、刀が卒塔婆のように付き立っていた。

 

 声にならない声を噛み殺し、獪岳は刀を手にした。

 動け、と脚を叱咤する。

 

────息を吸え、

─────吸って、取り込んで、吐け。

 

─────脚を、前へ。

 

 炎と雷が、闇夜に尾を引いて奔る。

 炎の肆ノ型、雷の弐ノ型が混ざりあった、出鱈目な斬撃は、すべて避けられた。

 刀から手を離し、無手となった鬼は、やはり余裕綽々と跳び退った。 

 喉元を貫いていた刀を自力で引き抜き、幸が片脚のまま立ち上がる。

 紅雷と共に血鬼術が発動し、二の腕から先と膝から先が再び生えた。

 地面に投げ捨てられた刀身は、脈打っているかのような赤い筋が走り、不気味な目玉がびっしりと貼り付いていた。

 

「今の呼吸は…炎と雷の合わせか…。お前も…派生した呼吸を…使うのだな…。雷を…極められなかったか」

 

 戯れのように宣う鬼の手には、失われたはずの同じ刀が握られている。血鬼術なのだろうとしか、判断できなかった。

 どうして、としか考えられない。

 何故また、こうなる。

 無理に決まっているだろうこんな相手。柱も鴉もおらず、人里も近い。

 斬撃が、()()()()()()

 氷の血鬼術を操った童磨とも違うのだ。

 これは恐らく、体術が図抜けている。

 鬼でありながら、呼吸を使った剣術を極めた、鬼狩りの鬼だ。

 

「お前たちが…柱と共に倒した上弦の陸も…今の上弦の弐によって鬼となり…二人でひとつとして…成立していた…鬼であった。奇妙に符号しているお前たちならば…欠けは…埋められるであろう」

 

 刀を、鬼が構える。

 折れそうになる脚を支えているのは、少し離れた隣で全身から血鬼術の紅雷を迸らせている、幸の光があるからだった。

 全身に力を漲らせ、身構えている。

 上弦の壱の動きは獪岳には捉えられず、反応ができない。 

 だが、幸は辛うじて反応ができていた。

 三度、獪岳を鬼の攻撃範囲から弾き飛ばしているのだから。

 生きるためには、逃げるしかない。戦うという考えは、とうの昔に消えていた。

 

「……お前()と、言った。あなたは、なら、()()()()に……縁壱さんに、届かなかった、ひと?」

「何?」

 

 脚に力を込めたまま、幸が低く問いかける。

 鬼の纏う空気が、変化した。

 いきなり何を言い出すのかと、獪岳は心底ぎょっとして幸を見やる。

 幸は、手繰るように言葉を続けていた。

 

「あの人とにた痣。六つ腕ならぬ、六つ目。日ではない、月の呼吸。……あなたは、()()()()()()ん、だ」

 

 言い終わるか終わらぬかのうちに、音が、大気ごと切り裂かれた。

 無音の踏み込みと抜刀。月のような刃を纏った斬撃が、真っ直ぐに幸の頚目がけて走る。

 頸が斬り落とされる寸前、幸の手が動いた。

 鬼の刀が、懐から幸が抜き出し宙に放った紫の分厚い布袋を微塵に切り裂く。

 瞬間、袋から漏れたのは、きつい藤の花の香りを放つ、紫の粉だった。

 粉塵を、六つ目の面貌にまともに浴びた鬼が、瞬きの間仰け反る。

 その瞬間に、幸は獪岳の胴に手をかけ、全身をばねにして跳んでいた。

 弾丸のように道を外れて、山に飛び込む。

 木を飛び越し、枝を次々と蹴り飛ばす。

 びゅうびゅうと顔を叩く風で、獪岳は我に返った。

 

「おまっ、今、何、をっ!」

「しゃべるな、舌を噛む!」

 

 着物の襟が、血で染められていた。

 あと半歩ずれていれば、幸の頚は落ちていた。

 それだけでなく、口の端から黒い血がこぼれ、片方の眼球から出血している。

 毒を喰らって、腐れたかのように。

 

「しのぶ、さん、の藤の、毒、当てられた、けどっ……そんなに、もたないっ!」

 

 言い終わるより前に、背後でばきばきと木が薙ぎ倒されて行く音がしていた。

 幸が微かに首を捩じって背後を伺う。

 獪岳の胴に回された腕に、いっそう力が籠るのがわかった。

 

「獪岳、今から、なげるよ。あの鬼はもう、わたししか、ねらわないだろう、から」

 

 大丈夫だよ、と耳元で囁かれた。

 

「がんばって、生きて。逃げて、よあけまで」

 

 一際高く、大きく月が見えた。

 次の瞬間、獪岳は背中から宙へ放り出され、落下していた。

 月を背にした幸の、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた瞳が、刹那だけ見えた。

 手を伸ばして掴む前に、全身を衝撃が打ち据えた。枝を何本も伸ばした木に、背中からぶつかる。

 ぶつかって枝を折り、叩きつけられながら、落ちていく。

 数度腕や手足を打ち据えられ、全身に細かい傷をつくりながら、獪岳は地面に転がり落ちた。

 刀はまだ、持っていた。

 だが、持っているその手が、小刻みに震えている。

 耳障りな音を立てて、手から刀が落ちた。

 息が、吸えない。

 冷たい土の上に蹲り、腹を蹴られたときのように、芋虫のように身を丸めた。

 知らぬ間に斬られていた脇腹の傷から、血が流れて行く。今すぐ死にはしないが、浅い傷ではなかった。

 

 ─────怖い。

  ──────怖い。

 

 ─────恐ろしい。

 

 闇に光る六つ目が、目を閉じていても睨んで来る。

 カチカチと歯が音高く鳴った。

 身につけたはずの呼吸が、上手くできない。吸っても吸っても、酸素が逃げて行く。

 肺が、縮んでしまったかのように痛かった。

 喉の奥からせり上がって来たものを吐けば、僅かな胃液だけが地面にぶちまけられる。

 口の中一杯に、気持ちの悪い苦さと酸っぱさが広がった。

 

 鬼から、逃げた。

 上弦の壱から、逃げられてしまった。

 断続的な破壊音は、遠くで起きている。

 上弦の壱は、確かに幸だけを狙っているのだ。獪岳への興味は、失せたかのように。

  

 獪岳だけ逃げることが、できてしまったのだ。

 そのことに、どうしようもなく安堵する。

 恐怖で吐こうが蹲ろうが、刀が持てなかろうが、鬼から逃げようが、己は生きている。

 生の実感そのものが、果てしない安堵感を齎していた。

 

「く、そ……が」

 

 吐瀉物と血が混じった土に爪を立てる。

 がりがりと土が削られる様が、ぐにゃりと涙で歪んだ。

 安堵と同じだけのどろどろとした熱が、水に垂らした墨汁のように腹の底に広がる。

 

 ─────悔し、い。

 

 鎹鴉は、羽を斬られて落とされた。

 生きているかも定かでなく、救援を呼ぼうにも刀鍛冶の里へは山を越えなければたどり着けない。

 日が出るまで、どう見積もろうが数時間はある。

 その時間まで、幸は一人で逃げ回れるのか。

 あの化物じみた強さの鬼は、幸の言葉に激昂していたように見えた。声も発さなくなるほどに。

 そうなるとわかっていて、幸はああ言ったのだ。狙いを引き付けるために。

 考えに考え抜いただろう幸の当てずっぽうが、きっと、見事なまでの()()()()を踏み抜いてしまった。

 

 ─────これから、どうすべきなのだ。

 

 そんな疑問が己の中から生まれたこと自体が、驚きだった。

 逃げろと言われたなら、逃げればいい。

 所詮敵うわけがないのだから、そうすることに何の躊躇いがある。

 鬼を前に逃げ出すなど鬼殺隊にはあるまじき行いなのだろうが、それがどうしたのだ。

 あれには到底、太刀打ちできない。柱でもないのに、戦えなどしない。

 生きるために鬼殺隊に入った。刀を取った。何も、死ぬために入ったわけではない。

 だから、逃げたって構わない。躊躇う必要はどこにもありはしない。

 他でもない幸に、()()()と言われたのだから。

 

「……ああ」

 

 逃げろというその言葉を、あの日の夜にも、聞いたのを思い出した。

 頭の中で、記憶が暴れ出す。

 血のにおいと、四方から押し潰さんと迫るような闇を孕んだ山。

 そうだ。あの日もこんな、夜だった。

 小さな手に突き飛ばされて転がって、見上げた視界に映った化物。

 恐怖と痛みで揺れる金色の瞳がそれでもつくった、壊れてしまいそうな、あの、微笑み、は。

 

 ここで逃げればもう、二度と、戻っては来ない。

 今度こそ永遠に、失われる。

 

 それは予感ではなく、確信だった。

 あのときも、そうだった。

 転がるように逃げて逃げて逃げて生き延びて、引き換えに何かをあの日に失った。

 

 のろのろと顔を上げれば、目の前には刀が転がっていた。

 獪岳のために鍛えられた、日輪の力を宿す刀。黄の刀身を走るのは、黒い雷。

 あのときには振るい方も知らず、持つこともできなかった、鬼を滅するための武器。

 汚れ切った柄と逆に、曇りのない刀身には、月が映っている。

 不吉なほどに鮮やかで、決して目を逸らせない金色の光が、そこにあった。

 

「……」

 

 地を這う蚯蚓のように、刀へ手を伸ばした。握ったそれをほとんど杖にして立ち上がり、鞘に収める。

 吐瀉物と涎と涙でべたつく口元を拭い、しくじりながらも呼吸でわき腹の傷を止血し、言葉を吐き捨てた。

 

「これで俺が死んだら、お前のせいだからな」

 

 一生、死んでも、何があっても、お前が忘れたとしても、地獄に行こうがどこに行こうが、恨んでやる。

 今、そう決めた。

 どうしてお前は、俺を逃げさせてくれない。

 どうしてまた、刀を握らせようとする。

 どうして、諦めることさえ許してくれないのだ。

 ここにはいない少女の影に、毒にも薬にもならぬ恨み言をぶつける。

 応えなどあるはずもないと、自分でもわかっている。

 この暗闇の中、獪岳は今、本当に一人きりだった。

 

 手負いの獣のように、くそったれと夜の月に吠えた鬼殺の剣士は、暗い山の中へと、一人疾風のように駆け出す。

 向かう先は、破壊音が響き鬼の気配がする、山の中腹だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




人材探しに引っかかった話。

鬼っ娘の挑発は、煉獄槇寿郎の言動、縁壱零式の話、上弦壱の顔と風体と言葉からの当て推量です。
鬼でなかったら、多分5回くらいは既に死んでます。

そういえば、原作の獪岳の鎹鴉ってどうなったんでしょうね?


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六話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 

 

 幸の親は、絵に描いたようなろくでなしだった。

 表情ひとつ変えずにひと殺しができるような根っからの悪人でなく、そのくせ人を羨むばかりで、自分の手には何もないのだと喚き散らしていた。

 気味が悪いからと、自分たちの子を捨てるような人間だ。

 産んだくせに殺す度胸がない。極悪非道にもなれない、ただのろくでなし。

 挙げ句に、救ってもらえるなんていう鬼の甘言に引っかかるような人たち。

 きっともう、死んでしまっているのだろう。喰われたかもしれないし、喰われずにただ殺されただけかもしれない。

 いずれにしても、もう彼らはこの世にいないという確信めいた予感はあった。

 喪失を確信しても、哀しみを感じるほどのやり取りは、幸と彼らの間にはなかった。

 そういう自分を、幸は殊更に冷たい質だとは思わない。

 鬼に殺された骸が、もう二つ重なったのだと胸の底に虚ろな風を感じたのみだ。

 何にもなかったから、何も感じないのは当然だと思うのだ。

 

 だが、彼らは親で、幸はその子。

 因果は、片方が死のうが生きようが断ち切れない。

 彼らのせいで化け物になって、その化け物になったから、今生きていられる。

 そうでないなら、とっくのとうに幸は細切れにされて事切れているところだ。

 

 ホオオオォ、という聞きなれない呼吸音が聞こえて来る。

 咄嗟に踏んでいた枝を足場にして跳べば、木が何本も切り飛ばされた。

 宙を舞う丸太と化した木々を飛び石のようにして、幸は空へ逃げる。

 

 背中に寒気を感じて身を捻ると、斬撃に付随する三日月の刃が脹脛の肉を深く抉った。

 片脚が千切れかけ、体勢が崩れる。

 そこを狙って放たれた無数の斬撃に飲み込まれる寸前で足の再生が間に合い、幸は斬撃の隙間に体を滑り込ませた。肉が削られるが、構っていられない。

 切り裂かれた岩や木々の欠片に混ざって崖を転がり落ち、再び走り出す。

 

 正真正銘、命がけの鬼ごっこだ。

 幸にとって山の中を逃げ回り続けるのは、何も、はじめてのことではない。

 八年ずっと、人も、鬼も、自分以外のすべてが敵であるあの山の中で、逃げて逃げて逃げ続けたのだ。

 気配を探るのに長けたのも、身が軽くなったのも、痛みを無視できるようになったのも、その間のことだ。

 だがあのころと違うのは、背後から迫って来るのは、あの六つ目の上弦の壱であること。

 あそこには、人を然程喰っていない弱い鬼か、鬼殺の見習いの剣士たちくらいしかいなかった。この鬼とは比べものにもならない。

 上弦の壱以外の鬼の気配がないことだけが、救いといえばそうだった。

 日の呼吸に届かなかったのかと幸が言った途端に、あの鬼の気配が様変わりした。

 息が詰まりそうなほどの重苦しさだったのが、今や圧し掛かって圧し潰そうとしてくるほどだ。

 

 刀鍛冶の里にあった絡繰、縁壱零式に似た痣と、日輪刀のような刀に、鬼殺隊の呼吸術。

 どう見ても、過去鬼殺の剣士であった誰かが、鬼となったとしか考えられなかった。

 それにあの鬼の、六つ目を取り去った顔立ちを思い浮かべると、縁壱零式と似て見えたのだ。異形の顔の下に、親子か兄弟ほどに、似通ったものがあった。

 身内で何事かがあった誰かが、望まぬ形で鬼になったのか、望んでなったのかそれはわからないが、上弦の壱とまでなったならば、今や行く立てがどうであれ、最早関係がなかった。

  

「逃げるばかりか…娘よ…」

 

 静かな声に、幸は全身の血が凍るのを感じた。

 仰け反り、そのまま前へとんぼを切れば、頸の皮膚一枚のところを刃が掠めて行った。

 手足や胴はもう、何度目も斬られてそのたびに再生したが、幸は鬼だから、頭さえ無くさなければ体は動かせる。

 だが、頚だけはだめだ。斬り落とされたら、動けなくなってしまう。

 宙に浮いたまま、全身から血鬼術の雷を放出。

 まだ立ち残っている木に雷は直撃し、瞬間上弦の足元から木の根が飛び出した。

 足場を崩された壱がたたらを踏んだその隙に、幸はさらに跳び退って距離を取る。

 

 以前、直接触れなければ効果を発揮できなかった血鬼術は、何度も戦闘を繰り返したせいか、今や雷を当てれば発動でき、鬼と人以外にも効果があるまでになっていた。

 幸の血鬼術は、生き物の細胞に動けと命じ、無理やり傷を塞ぐか、毒を消すものなのだ。そうやって一時的に、体の力を跳ね上げさせる。

 その血鬼術で以て木を弄り、無理やりに根を成長させたのだ。同時に枝や草を茂らせ、背後に壁を築く。

 すべてが、斬撃で障子紙のように引き裂かれた。

 斬り飛ばされた大木が腹に直撃し、幸は吹っ飛ばされた。背中から岩にぶち当たり、岩は蜘蛛の巣状に罅割れる。

 衝撃で内臓が潰れ、血を吐いた。

 うつ伏せに倒れたところに、次々降って来た木が両脚と胴を潰し、動けなくなる。

 

「私を…振り切る気が…ないのか。人里へ…向かわせぬためか。それとも…勾玉の鬼狩りを…逃すためか」

 

 その眼前に、上弦が着地した。

 したと同時に、腕が二本とも、根元から切り落とされる。

 金色の目を細めて睨みつけるが、上弦の鬼のを持つ手はだらりと下がり、威圧感はいくらか薄れていた。

 

「何故…お前が、縁壱の名を…口にした…日の呼吸について…お前は…何を知っている」

 

 ()()、と幸は内心で答えた。

 幸が知っていることは、日が、始まりの呼吸であることだ。

 煉獄家の槇寿郎が神の御技とまで言っていた、たいそう強い呼吸で、しかし今は失われたものだということしかわからない。

 縁壱にしても、ただ遠い昔に生きていて、六腕の形代が造られるほどの凄まじい剣士だったのだろうという、朧気なもの。

 日と音が似たヒノカミ神楽が()()であるのかもしれないけれど、縁壱の人形と同じ耳飾りを持つ炭治郎が鍵を握っているのかもしれないけれど、誰が上弦の鬼に情報を漏らすのだ。馬鹿ではなかろうか。

 返事代わりに、べぇ、と幸は舌を出した。

 六つの目が、一気に細められる。

 

「しらない。しってたって、おまえたちには、絶対に言わない」

「……そうか。だが、あのお方の…更なる血を与えられれば…拒むことなど…できなくなる。…お前のすべては…無駄な足掻きだ…」

 

 上弦の壱が手を握りしめる。

 そこから滴る血のにおいを嗅いだ途端、幸はえずきそうになった。抑えられずに、体が震え出す。

 

 ─────駄目だ。

 

 あれは駄目だ。

 あの血を、自分は()()()()()

 あの夜に飲まされた毒血、鬼舞辻無惨の、血。

 あれを、もう一度、飲んでしまったら。

 

 ─────壊れる、壊れる。

 ────()()()が、壊れてしまう。

 

 幸の喉から、喉を引き裂くような悲鳴が吹き上がった。

 これまでとは桁違いの紅雷が全身から放たれ、小さな体を押さえつけていた倒木が弾ける。血鬼術を浴びた木々は、上弦の壱目掛けて杭のように枝を伸ばした。

 片手の血を庇うように、壱はそれを避けた。

 木の枷から解き放たれた幸は、再び跳んだ。土埃を巻き上げ、着地する。

 切り落とされた両腕は生え揃い、体の欠損は既にない。

 その額からは、肉を突き破って一対の角が生えていた。

 

「鬼化を…進めたか。…血を飲めば…人とは比べものにならぬ強さを得られるものを。お前もあの鬼狩りも…何故拒む…」

「黙れっ!黙れだまれダマレェッ!獪岳を、鬼になんかにさせないっ!」

 

 吠える声に、怒りと恐怖が混ざる。

 駄々をこねる幼子のように、幸は何度も首を振った。

 濃い鬼の血の香りが、壊れていた記憶の蓋をこじ開け、頭の中が引っかき回される。

 去来する、鬼に喰われて鬼となった、あの夜の記憶。

 幸に蘇るのは、焼けつく腹の痛みと、骨が溶けていくかのような熱だった。

 赤く染まる右目を中心にして、傷跡のような赤い痣が白い頬を()んでいく。

 叫びに呼応するように紅雷が幸を中心に放たれ、上弦の壱を退かせた。

 真赤に染まった片目を押さえ、幸は指の隙間から六眼の鬼を睨みつけた。

 

「みんなを殺したくせに、強さ強さと────ふざけないで!なら、かえしてよッ!あの日こわしたもの、全部もどしてよっ!できもしないくせに、こわすばかりのくせに!おまえも、童磨もっ、勝手ばかりを言うなァッ!」

 

 めりめりと幸の額の肉は割れ、角がさらに伸びる。それを、上弦の壱は興味深く眺めた。

 泣くような叫びと共に血鬼術の勢いが増し、落雷のように辺りへ降り注ぐ。

 上弦の壱の刀が紅雷を受け止めた途端、その刀は内側から破裂した。

 砕け散る刀に、幸も、上弦も目を瞬いた。

 生き物の細胞に影響する血鬼術で壊れたというならば、あの刀は上弦の肉から生まれたものなのだ。

 それならば、武器を壊しても奪っても意味などない。

 

 ─────血鬼術

  ─────癒々ノ廻り・狂い咲き

 

 片手を空へ突き出し、幸は四方八方くまなく雷を発生させた。

 近づかれたら、上弦の壱の刀の間合いに留まり続けたら、幸は負ける。その上あの月の呼吸、間合いが恐ろしく広く、読みづらいのだ。

 避けるつもりで斬撃の隙間に飛び込んでも、細かに形を変える刃が発生しており、全身を切り裂かれて傷が増える一方だ。人間だったら危うかった。

 鬼だから斬られても平気だが、血鬼術を使い続ければ、どうしたって幸は人の血肉を欲してしまう。

 頸が斬られてしまえば、その後のことなぞ考えたくもない。

 さすがに、まともに血鬼術を受ける気はないのか、上弦の壱が下がる。

 幸も、背後へ跳んだ。

 この山の地理は、地図で見たことがあるから頭にあるけれど、何分滅茶苦茶に追い立てられて逃げていた。

 下手をすると、自分がどこにいるのかわからなくなりそうになる。

 それでも、人里からも刀鍛冶の里からも、獪岳を放り投げた場所からも、離れなければならなかった。

 この鬼を引き付け続けて、夜明けまで逃げ続けなければならない。

 幸の姿を見失ったら、この鬼は獪岳の方へ行くだろう。

 獪岳も強くなって、幸もそれを知っている。だけど、この鬼には敵わない。

 

 もしかしたら────岩柱すらも。

 

 切り立つ崖の上を走り抜けようとしたとき、踏んだ岩のひとつが、斬撃で割られた。

 体が横に倒れかけたところをさらに斬撃が襲う。足が、体から引き千切られるようにして落ちた。

 再生させ、崖を跳ぼうとした瞬間に、踏み込んで来た壱に首を掴まれ、そのまま、人形であるかのように持ち上げられる。足の下は、ごうごうと水が音を立てて流れる激流だった。

 鬼であるから窒息はない。故に、間近で六つ目を直視することになった。

 

「ここまでだ…立ち回りには長けていたが…お前には決め手がない。庇い、逃げ回るばかりの弱さは…如何ともし難い…」

 

 喉の肉を破り、爪が立てられる。

 そこから、何かがじわりと体内へ注がれかける感触に、幸は声にならない声で絶叫した。

 紛れもない恐怖で、幸は喉を掴んだ腕を叩き、爪を立てて暴れる。それでも、鬼の腕は小揺るぎもしなかった。

 血鬼術を使おうとすれば頭に激痛が走って、思考が漂白された。

 これ以上鬼の力は使えないという、暗示の枷である。

 意識が遠のきかけたとき、急に鬼の腕が緩む。開いた目に映ったのは、炎と雷が混ざった剣閃だった。

 

「ほう…戻ったか」

 

 鬼の腕が振るわれ、幸の体が放り投げられる。

 崖から落ちる直前で、尖り岩を掴んだ。ぶらり、と体が崖の縁にぶら下がる。

 幸が体を持ち上げ崖の上に転がり込めば、目の前に足が二本、あった。

 

「お前、どっちだ!」

「え」

「鬼か幸か、どっちだって聞いてんだ!」

 

 上弦の鬼と鍔ぜり合いをしながら、獪岳が吠えた。

 迷っている暇はなかった。

 

()()()っ!わたしは、わたしっ!」

「ならとっとと立て!逃げるぞ!」

「逃すと、思うのか…」

 

 鬼が、刀の柄を握りしめる。

 振りすらないままの斬撃が、辺り一帯に放たれた。

 獪岳の体が切り裂かれ、血が噴き出す。

 ふらついた体を、幸は足払いして引っ繰り返した。胴を薙ごうとした一撃が、逸れて空を切る。

 仰向けに倒れた獪岳が吐血する。生暖かい血が顔にかかった。

 顔の上に鬼の黒い影が差し、風切り音が聞こえた。

 斬撃が頸へ届く寸前で────幸は獪岳の体を抱えて、崖を蹴った。

 落ちていくその下は、水が逆巻き白く砕ける早瀬だ。鬼ならともかく、人ならどうなるかわからない。

 だが、ここ以外に逃げる場所がなかった。

 

「獪岳っ、獪岳獪岳かいがくっ!おきてっ!」

 

 獪岳の頬は紙のように白く、血がだくだくと流れていく。意識がないのか、薄目のまま体には力が入っていない。

 力の抜けた手から離れた日輪刀が、持ち主を追い抜いて先に濁流へ飲まれた。

 頭と手足、背中が岩肌にぶつかって擦れる。獪岳に当たらないよう、幸は全身で抱き締めた。

 そのまま揃って、濁流に落ちた。

 途端に、板で叩かれたような衝撃が、全身を襲う。水に全身を包まれ、口から吐き出された銀色の泡が、あとからあとから立ち上る。

 上下が滅茶苦茶になり、流されるのを感じた。思っていたよりも、川の流れが速く、激しい。

 鬼ではあれど、幸の体は小さいのだ。体を大きくする余裕もないまま、その体躯で、獪岳が流されないように掴む。

 押し流される中、伸ばした腕が引っかかった岩棚に、幸は全力でしがみついた。水にもまれていた体が止まり、水面に届く。

 もう片方の腕に引っかけたままの獪岳を、岩棚へと押し上げ、川から這い上がる。

 

「ぅ……っ!」

 

 不意に、頭に熱を感じた。

 崖の途切れ目に、日が差しているのが見えた。

 皮膚が焦げつき、煙を上げて焼けていくのを感じる。瞳が溶けるその前に、幸は日陰の中に飛び込んで、獪岳をそこまで引きずり込んだ。

 それでも、岩の割れ目からの日が、肌を焼く。

 上弦の壱の斬撃には耐えられても、鬼なのだから日の光には耐えられない。

 けれどまだ、幸いなことにここは張り出した岩の、その下にある岩棚なのだ。全身が焼かれるほどではなかった。

 

「獪岳っ!」

 

 獪岳の傍らに膝をついて、脈を取る。

 斬られた直後に落ちて水に流され、血が大量に体から失われたはずだ。

 水に叩かれ傷口は綺麗になっているが、だからこそ怪我の深さがよくわかった。

 

「しなない、で、死なない、で。────もう、やだよ。みんなが、死ぬのは────おねがい、お願いだから────」

 

 隊服の前を、爪で引き裂くようにして破る。

 落ちながら庇えたためか、水面に叩きつけられた衝撃で気絶したためか、獪岳は水を飲んではいないようだった。呼吸も続いているし、弱いが脈もある。

 ただ、血が止まらないのだ。

 生命の源が、恐ろしい速さで流れて行く。獪岳は体中、滅多切りに近い有様だった。生きているのが、不思議なくらいだ。

 だというのに、獪岳の血の匂いが呼び起こされる食欲が、忌わしくて堪らない。

 頬の肉を噛んで溢れた血を、幸は飲み下した。

 警告である頭痛も、振り切る。

 

 ─────血鬼術

  ───癒々ノ廻り

 

 幸の手から紅雷が生まれ、獪岳へと降り注いだ。伸びていた角が縮み、赤い痣も引いていく。

 特に酷い、脇腹、太腿の血管近く、肺の上と、肩の傷が塞がったところで、幸はその場に崩れ落ちた。

 消耗が激しい。

 僅かにしか日を浴びていないのに、焼け爛れた皮膚が痛かった。これは、なかなか治らない。

 こうも激しい痛みなんて、頭痛以外では随分久しぶりだ。

 お腹が減ったとまともに感じてしまうのも、久しぶりだ。

 消耗しきりの鬼の前に、血を滴らせている人間がいる。

 それで腹を満たしたいと思う自分が、耐えられないほど厭わしい。

 自分のいのちより大切な人を、栄養のある喰い物と感じてしまうこと、そのものが呪わしかった。

 

「だめ、だめ、だめだめだめ─────」

 

 自分が自分であるためには、人を喰ってはならない。一人でも襲えば、獪岳も桑島のお爺さんも、死ななければならなくなる。

 幸は蹲り、腕に噛みついて疼く牙を押さえた。

 打ち寄せるさざ波のような食欲が、血と肉の味で僅かに引いていく。自分の体ではあるけれど、何も啜り齧らないよりはましだった。

 口から腕を離し、切り立つ崖を見上げた。

 日は出たから、もう上弦の壱はいないはずだ。気配もない。

 さっき、上弦の壱は降って湧いたように現れたから、この感覚も頼りにならないかもしれないが、日が出たならばもう鬼は動けない。

 生き延びることは、できたのだ。

 だがこのままでは、獪岳が死んでしまう。怪我の具合が酷すぎるし、幸も幸で眠気が限界に近い。

 鬼のくせに、何故自分はこうまで弱いのだろう。

 

「上がらな、きゃ」

 

 日が出ているけれど、崖を上がるくらいの時間なら耐えられる。

 そこから後はどこまで保つかわからないが、とにかくこんな場所にいては、見つけてももらえないだろう。

 翼を切り裂かれて落ちた鴉の雷右衛門の姿が蘇って、目の前が滲んだ。

 生きていて、ほしかった。

 

「……」

 

 一向に起きる気配がない獪岳を担いで、幸は地面を蹴った。左右の崖を代わる代わるに蹴り上げ、上へ跳ぶ。

 

「ッ……!」

 

 崖の上へ辿り着いたそのときに、強烈な朝日が斜めに差した。

 担いでいた獪岳を背負う形に持ち変えて、体をぎりぎりまで縮める。

 だぼついた着物と獪岳の体が、いくらか陰になった。力無い獪岳の手足が地面をこすることになるが、勘弁してもらう他ない。

 誰かに、見つけてもらわなければならなかった。

 日に、骨まで溶かされて灰になる前に。

 

「だれ、か……」

 

 誰でもいいから、獪岳を助けてほしかった。

 大声で叫びたいのに喉が焼けて、ろくな声にならないのがもどかしい。

 体中が炙られて、泣き出してしまいそうなほどに痛む。

 陽光の熱は、鬼に容赦というものがなかった。

 人の気配がある方へ行くべきなのに、感覚まで狂わされる。においくらいしか、頼りにならない。

 一歩を踏み出すごとに、光で溶けていく骨から煙が上がる。

 

「あっ……ッ」

 

 ずるりと、足が滑って幸は倒れた。

 首をひねって足を見れば、焦げ付いてもう、動かせなくなっていた。

 かと思う間に、眼が見えなくなる。瞳が、瞼ごと焼き焦がされてしまったのだ。

 もう、悲鳴も上げられない。体が端から、灰みたいになって、小さくなっていく。

 それでもまだ、這いずれる腕があった。

 暗くなった視界に、不意に誰かの声が響いた。

 

「───いた!あそこだ!」

「生き……生きてるぞ!」

「誰か!誰か布か板寄越して!鬼の子が死んじゃう!」

 

 誰だろう。

 聞き覚えがある声とない声が混ざっているようだけど、鼓膜がおかしくてよくわからない。

 でも、嫌な感じはしなかった。

 

「生きてる?生きてるのかこれ!?」

「どっちも生きとるわ馬鹿!いーからとっとと運ぶぞ!!」

「大丈夫、大丈夫だからな!あと少し頑張れよ!!」

 

 上に乗っていた獪岳の重みがなくなり、誰かに持ち上げられた。そのまま、何かに包まれて体が焼け焦げるのが止まるのを幸は感じた。

 眠りに落ちそうになるのを押さえて、幸は声を絞り出した。

 

「か、いがく、は……?」

「生きてるよ!生きてる!だからお前も死ぬんじゃねーぞ!!」

「……う、ん」

 

 頷いて、そこから先の記憶は闇に飲まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 




奈落に落ちたが助けが来た話。

戻らなければ、無限城で頸を切っていました。
激戦続きで鬼っ娘の血鬼術も強くなりますが、太陽克服の体質は持っていません。






【コソコソ話】
黒死牟と鬼っ娘は「捨てた親」と「捨てられた子」にあたり、性格は全く合いません。
さらに、獪岳を鬼にするという最大の地雷を踏み抜かれたので悪化しました。
また、鬼っ娘は右眼を中心に痣が出ましたが、これは右側が童磨によって抉られた眼であるためです。


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七話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。
 
では。


 

 

 

 

 体の大きさが、半分になっていたそうだ。

 焼けて、燃えて、焦げついて。

 あと数分発見が遅ければ、日の光を浴びて灰になっていたと聞かされた。

 焼けきる前に隠たちが駆けつけることができたのは、翼を斬られても鎹鴉が鳴き続け、救援を呼んでくれたからだった。

 だが雷右衛門は、死んだ。血を流しすぎたからだった。

 それを聞いて、幸は一人で泣いた、らしい。

 そのとき獪岳はまだ目覚めていなかったから、幸は雷右衛門の亡骸を隠から受け取って、一人で埋葬したそうだ。

 蝶屋敷の裏に小さな穴を掘って、石を立てて。それらしいといえば、それらしい。

 見えないところで泣くだけ泣いて、寝台にほぼ括り付けられるような有様の獪岳のところへ戻って来たとき、幸には涙の跡もなかった。鬼であるから、仮に目を赤くするほど泣いても一瞬で元に戻るのだろうが。

 

「いやぁ良かった良かった!鍛えた刀を、危うく墓前に備えることになるかと思った!」

 

 と、夕方、影が忍び込んできている病室に押しかけてきてそんなことを宣ってくれたのは、あの刀鍛冶だった。少し言い草に腹が立ったが、あそこの鍛冶屋は変人揃いらしいから諦めた。

 刀を無くしても包丁が出てこない分、こいつのほうがマトモだ。

 

「上弦の壱に会って、よくも生命があったなぁ。膾切りみてぇになってるが」

「うるせぇよ。いいから刀を寄越せ」

「はいよ。つっても、しばらく振っちゃなんねぇんだろ」

「別に抜くぐらいはいいだろうが」

 

 獪岳は手のひらまで包帯が巻かれている。言うまでもなく、鍛錬も任務も許可は下りていない。

 今回は、三週間そこそこ眠っていたらしい。怪我だけで言うならば、斬撃だけなのだ。上弦の陸のときのような、体をじわじわと弱らせる毒を喰らったわけではない。

 それでも、血鬼術の止血がなければ、出血死していたほどの大怪我だったと蝶屋敷の看護婦娘たちからは言われたが。

 箇所により、骨まで斬られていたらしいし、額が斜めにがすぱりとやられたものだから、右眼ごとが包帯で覆われて視界不良である。幸い目は斬られなかったが、あとほんの僅かずれていれば失明だったそうだ。

 あの上弦壱の斬撃は、鬼殺隊の隊服も肉も、容易く切り裂いていったのだ。

 獪岳のいのちを拾った当の血鬼術の使い手は、案外元気そうに獪岳の日輪刀を見ている。

 獪岳が刀を手に持った瞬間、無色だった刀身が黄色く染まり、黒い稲妻模様が走るのを見たときは、ぱちぱちと小さく手すら叩いていた。

 そう言えば、日輪刀の色が変わる瞬間を、幸に見せたことはなかったなと思いながら、獪岳は刀を鞘に収めた。

 振った感触を確かめることはまだできないが、握った感じで言えば手に馴染む気はした。

 

「……どうも」

「はいよ。まー、それが届く前に戦いになっちまったのは不運だったなぁ。使ってたほうはどこに行ったんだ?」

「川」

「は?」

「俺たちが落ちた川に流された。見つかってねぇ」

 

 たちまち、泡を吹きそうになったひょっとこ面である。川床で錆びる刀を想像し、発狂寸前になってしまったらしい。

 だが、回収できる状況ではなかったから、仕方ないのだ。

 

「畜生ォォォ!お前ェ、その刀長いこと使わねぇと承知しねぇからなぁぁ!」

 

 常の口調をどこかへやり、そんなことを言って、どたばたと鍛冶屋は出て行った。まさかと思うが、刀を拾いに行くつもりなのか。今は夕方だが、これから夜だぞ。

 

「……いい人、だね」

「そうか?」

「刀を長いこと使えって。それだけ、無事でいろって、ことじゃない?」

「……ああ」

 

 そういう解釈も、しようと思えばできるのかと、獪岳は刀を脇に置く。

 置いてそのまま、寝台の横にいる幸の前髪を手で持ち上げた。

 白い額には、二つの小さな瘤のようなものが出来上がっていた。角の、名残である。

 幸は上弦の壱との戦いで感情を爆発させ、角と傷跡のような痣が出現した。痣は引き、角も消えたかに見えたのだが、角は縮んだのみで根を張ってしまっていた。

 血鬼術の威力は上がったが、また言葉が不安定になったような気もする。

 鬼化とは、一度苦しんで済めばそれまでなのかと思っていたが、そうではなかったのだ。鬼である限り、苦しみは終わらない。

 前髪から手を離して、獪岳は肩をすくめた。髪が下りれば、角は見えなくなった。

 額を摩りながら、幸は眉を下げる。

 

「そうかも、ね。……そう言われたの、はじめて、だけど」

「他に誰かに何か言われたのか?」

「ううん。ねてた、から」

 

 獪岳が眠っている間、鴉の墓を作ったときを除いて幸は動かず、箱の中にずっといて眠っていたらしい。

 あのとき幸は、上弦の鬼に首を掴まれていた。そのとき恐らく、血を流し込まれた。獪岳も幸も、はっきりとは口にはしないが、鬼化が進行したのは激昂したのに加えて注がれた血もあるのだろう。

 一般に、強い鬼ほど鬼舞辻の血の量が多いそうだ。だがその分、支配から逃れるのは難しくなる。自我が塗り潰されるためだ。

 恐怖で歪んだ幸の顔を、獪岳は初めて見た。数秒遅ければ恐らく、許容できない血を流し込まれていただろう。

 鬼化にも浅さと深さがある。幸はまだ、戻って来られる量の血しか与えられていない。が、あの鬼は戻って来られないほどの血を与えようとしていたと思しい。

 上弦の適当な穴埋めで、二人纏めて人喰い鬼になんぞされてたまるかという話だ。鬼舞辻に頭を弄くられて殺される鬼には、なりたくない。

 強い鬼を手っ取り早く作るために、呼吸を身に着けた剣士を使う発想は理に適っているが、己で試されるのは御免被る。

 

「……しんぱい、した」

 

 ぽすん、と幸は上半身を折って獪岳の脚の辺りに顔を伏せた。

 そのままくぐもった声で幸は続けた。

 

「ばか。ほんとばか。わたし、は、きられたって死なない。なのに、どうして前に出た、の?」

「馬鹿はお前だろ。俺が間に合ってなかったらお前、今頃人喰い鬼だぞ」

「でも……」

「お前が人喰ったら、先生も俺も腹斬ンだぞ。しかも、俺がお前の頸を落とさなきゃなんねぇし。付き合い長いヤツの頸斬るなんて胸糞悪ィこと、俺にさせんな馬鹿」

 

 鬼は、自分で死ぬことも大層難しい。

 人間ならば舌を噛んで死ねるが、鬼は自分の頸を自力で引き千切っても死ねない。

 殺せるのは日輪刀、日の光、藤の毒、それに鬼の始祖たる鬼舞辻だけだ。

 上弦の壱の目くらましに用いた藤毒は、蟲柱から貰ったものだろう。それも多分、自殺用に。

 幸はそういう考え方をするし、蟲柱はそのための道具を渡すだろう。

 鬼殺隊は鬼を殺すための組織で、戦いで自分の生命を捨てても構わない場所なのだから。二人とも、何も間違えてはいない。 

 硬い、鬼の角の感触が、布団越しに伝わる。 

 布団に突っ伏したまま、幸は起き上がろうとしなかった。気力が挫けたように、伏せて蹲っていた。

 

「童磨を殺して、あいつらの仇取るんだろ。お前、そのために生きてるんじゃねぇのかよ」

 

 撫でるのでなく、ただ幸の頭に手を置いて、獪岳は言った。綺麗に編まれた髪には直された蝶の飾りがついている。

 あの鬼に姉を殺されたという蟲柱が、目印にとくれた髪飾りだ。斬られて千切られた羽は、丁寧に直されていた。

 こいつと蟲柱の共通点は、そこだ。

 幸は殺すために生きている。

 もう二度と、戻って来ない誰かのために生きている。自分以外の誰かのために、生命を燃やすことができる。

 そして正否善悪感情一切関係なく、幸にはそうする以外にもう、生き方がない。

 人を喰わずとも幸は鬼で、生を許されるためには鬼を殺して、人を助け続けなければならない。

 

「……そう、だよ。そう、だけど、ちがう」

「あ?」

「獪岳がいきてないせかいは、わたし、いやだ。……いや、なのに、獪岳、わたしの前に、出て、きられ、た。……死んでた、よ。わたしがいなかったら、死んでたんだよ」

「死んでねぇだろうが。勝手に殺すんじゃねェよ」

「死んだんじゃないかって、おもった」

 

 ああそういえば、こいつは寺のあいつらの死に様も死体も、墓すらも見ていなかったのか、と獪岳は気づいた。

 生きていると思っていたはずのあいつらが、とうの昔に死んでいたと知ったとき、幸はどんな表情をしていたのだか。

 鬼殺隊に入ることができて、割合すぐのころだったから、まだ幸の頭が曇って、ぼうっとしていたころだ。

 死を伝えたのは、獪岳だ。

 大事な者を亡くした人間が浮かべた表情を、獪岳は思い出すことが、できなかった。

 頭に触れていた手を離して、肩を掴む。

 

「いちいちうるせーよ。俺もお前も生きてンだからもうそれで終いだろ。つか離れろよ。ツノが当たっていてぇんだよ」

 

 力づくでひっぺがすことは、残念ながらできない。腕力では幸に敵わないのだから。

 突っ伏したままの幸が、ゆるゆると頭をもたげる。金色の瞳は蜜を固めたように光っていた。

 

「いたくないでしょ、う。獪岳、脚をきたえてるん、だから」

「はァ?痛ェわ馬鹿。斬られてんだぞ。降りろよ」

「やだ。いたくないように、ちゃんとしてる」

 

 その通り、力加減が絶妙で痛くはないのだ。角が当たっているだけで。

 こうも幼いことを言い張る幸は、なんというか、()()()()()()()

 だが、七歳から十六歳になるまで、誰ともまともに会わず話さず閉じ込められていたのだ。

 だから多少なり、見た目がこれでも歳より幼い面も残っているのだ。言い合いが阿呆らしくなる。勝手にさせればいいかと、獪岳は寝台に仰向けになった。

 飽きれば、そのうち剥がれるだろう。

 

「寝返り打ちにくそうなもん生やしやがって。引っ込まねぇのかよ、それ」

「できたら、やってる。行冥さんに、あんまり見せたくないんだけ、ど」

「見えねぇだろ、あの人には。言わなきゃバレねぇよ」

「そう?……だと、いいなぁ」

 

 岩柱の名を聞いて思い出した。

 戦闘の報告書を上げなくてはならないのだ。鎹鴉が死んでしまったから、上弦の壱を詳しく覚えているのは、獪岳と幸だけになってしまった。

 書くものと紙といえば、幸はぱたぱと出て行って板と筆と紙を持って戻って来た。

 

「わたしが、書く」

 

 まあ書いてくれると言うならばそのほうが獪岳には楽だ。あまり綺麗な字ではないが、読める字なのだから誰が書いたって同じだろう。

  

「あの鬼、呼吸を使ってたよな?」

「うん。月、の呼吸だって。日と、対、みたい」

「ってことは古ィのか。そんな呼吸、聞いたことねぇけどな」

「けされたのかな?……鬼を、出したから。しかも、上弦の壱だも、の」

 

 呼吸を知ってかつ使っているなら、あの鬼は元々鬼殺隊だったはずだ。

 一門から鬼を出したなら、最低でも育手は腹を切らねばらない。

 月の呼吸とその一門も、そうなったのだろうか。残しておいてくれたなら、多少なりとも動きが読めたかもしれないのに。

 あの鬼の前では、焼け石に手で掬った水をかけるようなものだったろうが。

 

「あと、あの鬼、絡繰の縁壱さんと顔が、にてた。……親子とか、きょうだい、くらいには」

「……似てたか?」

「にてた。目を、へらしたら」

 

 六つ目を四つ取っ払った顔なんぞ、想像できるかと獪岳は呻いた。

 正直、人相などろくに覚えていない。

 六つ目から放たれる威圧感と、気がついたら斬られていた高速の剣術くらいしか覚えていないのだ。

 

「あいつの血鬼術はなんだ?刀をつくってたあれか?」

 

 刀鍛冶が発狂しそうな血鬼術である。

 んん、と幸は筆を持ったまま目を思い出すように動かしていた。

 

「たぶん。あと、呼吸の、というか、剣術がなにか、へん、だった。……よけられたはずなのに、斬られて、た。ひとふりで斬る範囲が、おかしいくらい、広い。ひとふりごとで、まあいが広くなる、のかな?」

「……やってらんねぇな」

 

 それは獪岳も斬られたから覚えていた。

 最後の一撃は、振りもなしに周囲を薙ぎ払ったのだ。僅かなりかわしたつもりが、全身を斬られた。

 刀生成能力というより、()生成能力なのかもしれない。

 毒や氷をつくるやつらもいたが、あの鬼はそれに加えて、呼吸まで使っていたのだ。元々の身体能力が化け物の鬼が、人の技を上乗せしているのだから、手がつけられないことこの上ない。

 上弦一体柱三人、といつか誰かから聞いた言葉を思い出した。

 上弦の鬼一体を討伐するのに、柱が最低三人必要という言い回しだ。だが実際には、柱は各地に散って任務にあたるため、三人もの柱が共闘できる機会などない。

 だから柱が各個撃破されてしまうし、何より上弦の鬼の情報はほぼない。情報がないまま初見で戦わねばならず、ここ百年は上弦が倒されたことなどなかった。

 列車、遊郭、今回と、上弦が頻発して現れる今が異常なのだ。

 それより前には、浅草では竈門炭治郎が鬼舞辻無惨と遭遇したと言う。

 

「あいつさえ死んでくれりゃ、それでいいんだよ……」

「?」

 

 筆を動かしていたからか、幸は本気で聞き落としたらしい。きょとり、と首を傾げていた。

 

「なんでもねぇよ。で、書くことそれくらいか?」

「あとは、戦闘場所と被害、かな。……かなり、山の木が、たおされた、から」

「それはいいだろ。薙ぎ倒したのは俺たちじゃねぇんだから」

「いや……わたしは、けっこう……木、壊した」

「黙っときゃいいんだよ」

 

 まともに戦わず、山の中を逃げ回った結果だ。あの分だと、まともに戦おうとした瞬間に死んだろう。

 が、鬼殺隊の掟と引き比べて、それがどう取られるのかと思わないでもなかった。

 近くに人里があったから、近づかせないようにしたのだと言えば言い訳のしようもあるし、その半分は事実なのだが、()()()()()()()()()()()()と取られると、罰せられるだろう。

 鬼は死ぬまで殺せ、己が死んでも殺せが鬼殺隊なのだ。できるできないでなく、やらねばならないことがあると、皆が考える。

 いのちを差し出したって、決して叶わないことだってあるだろうに。

 人間のいのち一つで賄えるものは、案外ちっぽけでつまらなくて、替えが効くのだ。自分のいのちはひとつしかないのに。

 だから逃げたし、間違ったとは思わない。

 何にしても、もう終わってしまったのだ。

 上弦にはまともな傷も与えられなかったが、人里はほぼ無傷。

 鎹鴉は死んでしまったが、獪岳と幸は生き残った。

 結果がすべてで、もう覆しようもない。

 はぁ、と息を吐いてふと横を見れば、やたら正確な上弦の壱の似顔絵が、紙の上に出来上がりかけていた。

 恐ろしさで胃の中のものをぶちまけるほどのあの面を、なんでまたもや見なければならない。丁寧に顔の痣まで再現され、しかも無駄に上手くて鳥肌が立つ。

 

「ん」

 

 そして、ずい、と獪岳の前に幸は似顔絵を突き出してきた。

 

「こっちに見せんな」

「にてるか、ききたい、のに」

「似てる似てる。似てるからしまえ」

 

 顔どころか服装まで覚えているのだから、記憶力が変わらずおかしい。普通はそんなもの、覚えている余裕がない。

 戸口のところに気配が現れたのは、ちょうどそうして、似顔絵を押し付けあっているときだった。

 

「あ」

「わ」

 

 敷居をくぐって入って来た気配に、揃って反応したときには、揃って丸太のような太い腕に抱き締められていた。

 頭を濡らすこれはなんだろう。雨粒だろうか。蝶屋敷がまさかの雨漏りをしていたのか。

 いや違う。雨じゃない。路地に落ちる雨はもっと、容赦なく冷たかったから。

 ────じゃあ、これはなんなのだ。

 

「ぎ、行冥さん!ぬれちゃう!包帯、ぬれちゃいます、よ!」

「ああ……そうか……すまないな」

 

 包帯で元々狭められている視界が開ける。

 相変わらずの巨体で、ぼろぼろと泣いているのは、岩柱・悲鳴嶼行冥だった。

 鉄鎖と鉄球、斧の日輪刀があるということは、任務帰りか。

 

「任務で上弦の壱と戦闘になったと、聞いた。無事か?」

「いや、まァ……俺も幸も、生きてますよ。肺も斬られてないし、目も無事です。治れば任務に戻れますんで」

「そうか……」

 

 悲鳴嶼の手のひらが額に触れる瞬間、ぴく、と幸が身を引いて後ろに逃げようとした。が、獪岳は背中に手を添えてそれを止める。

 隠したかろうが、もうこうなると駄目である。鬼の気配は、やはり柱には隠し通せたものではなかった。

 分厚い手が髪をかきわけて顕になった額には、小さな角が残っていた。瘤のようなそれを、岩柱は撫でた。

 

「この角、痛くはないか?」

「い、たくは、ないです。いたいのは、獪岳のほう」

「そうなのか?」

「怪我が痛ェのは当たり前ですよ。俺のは治るんで」

 

 怪我は治るが角は消えず、傷が塞がれば血は止まるが注がれた血は抜き取れない。

 それを知ってか知らずか、やはりこの人は泣くのだ。なんのための涙なのだろう。

 

「お前たちが戦った付近にあった村だが、村外れの一家以外は皆、無事だった。上弦の壱も、あの付近に現れたという報告はない。……よく、生きて戻った」

 

 はい、と応える声が揃った。

 じわり、と胸が疼く。

 嗚呼そうだ。

 あそこから、あの夜から、好き勝手を抜かす鬼の前から、ここにまで戻れたのだ。生き残ってやったのだ。ざまあみろ。

 ぞわぞわとした笑いが泡のように吹き上がっては弾けて、消えた。

 

「さっきは何を騒いでいたのだ?怪我に響くことはしていないのだろうな」

 

 ぴしり、と幸の背筋が伸びた。

 

「して、ません」

「こいつが上弦の似顔絵見せて来ただけですよ。似てますけど」

「報告にいるから、かいたの、に。獪岳が、ちゃんとみない、のが悪い」

「一回見りゃ十分だろうが。押し付けんなってんだよ」

 

 ふ、と悲鳴嶼の気配が和らぐ。顔を上げれば、薄い微笑みがあった。

 

「……」

「……」

 

 怒られるのでなく、微笑まれるとなるとどうしたらいいかわからない。わからないから、二人揃って黙った。

 

「報告なら後ほどまた上げてもらうが……何か、気づいたことはないか?お前たちは、何かと上弦と出会っている」

「……壱は、陸の穴埋めを探してたみたいでした。前の陸が童磨に鬼にされた奴らで、俺たちも二人で行動してて、その辺りが丁度良く似てるとかなんとか」

「壱は、たぶん、むかし鬼殺隊にいたんだと、おもい、ます。三百年は、前くらい、の」

 

 芝居か絵の、侍のような服装だったのは確かだ。そもそもあれは、現れたときからして、いきなり降って湧いたようで芝居がかっていた。

 幸の気配探知にもかからず、現れたのだ。

 そうだ、忘れていた。

 あれが、何より奇妙だった。

 

「獪岳、どうした?」

「いや、あの……あの鬼、いきなりでてきたっていうか、直前まで来るのに、気づけなかったんです。そういう血鬼術、ありますか?」

「無いことはないだろう。それがあの鬼の血鬼術か?」

「いえ、多分違うんです」

 

 ならあれは、別の鬼の血鬼術か。

 気配を消すものとは考えられない。姿を、見せなければよいのだから。

 いきなり、空から降って来るようにして移動する。

 そんな血鬼術使いが、まだあそこにいたのだろうか。────わからない。

 

 わからずに獪岳が頭を抱えたとき、悲鳴嶼が顔を上げる。幸も気づいたのか、椅子から立ち上がりかけていた。空気に、いがらっぽい慌ただしさが混ざって来る。

 

「二人はここで待っていなさい。様子を見てくる」

 

 そう言って、悲鳴嶼は出て行った。

 元の通り椅子に座った幸も、落ち着かなげに外と獪岳の顔を代わる代わる見ては、においを嗅ぐ仔犬のように鼻を動かしていた。

 

「怪我人です!そこを通して!道を開けて!空いている人は手を貸してください!」

 

 そんな声が聞こえてくる。

 蝶屋敷は、落ち着くということがなかなか無い。

 そわ、と幸が肩を揺らした。

 

「……手伝い、行きたきゃ行って来いよ。どうせ人手がいるんだろ。俺なら寝とくからほっとけ」

「うん!」

 

 椅子から飛び降り出ていく寸前、敷居のところで幸は獪岳を振り返り、手を振る。

 手を振り返し駆けていく軽い足音を聞きながら、獪岳は枕に深く沈み込んだのだった。

 

 

 

 




鎹鴉は殉職しました。
鬼っ娘にとっては初めて見た、親しい誰かの墓です。

刀鍛冶の里は既に襲撃されており、怪我人が蝶屋敷に運び込まれたのがこの日となります。
壱が出た後だったため、多少里の警備が強化されていました。


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八話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 

 物事は続けて起きるというべきなのか。

 刀鍛冶の里が、上弦に襲われたそうだ。それも二体。肆と、伍。

 死者も負傷者も出たが、上弦二体の討伐が完了したらしい。撤退させたのでなく、討伐である。

 恋柱と霞柱の二人がいたこともあって、里は壊滅を免れた。ただ鬼へ居場所がばれてしまったから、すぐさま場所を移したという。

 鬼殺隊の生命線とも言える刀鍛冶の里が襲われ、しかも立て続いて上弦が出たことから、緊急の柱合会議が開かれるとのことだった。

 そうしたことの一切を獪岳へ伝えて来たのは、新しい鎹鴉だった。

 

「カァ、オ前タチノ報告モモッテイク。今ハ休メトノコトダ」

 

 前と比べればやや静かめの声で喋る、頭のところに白い毛が少しだけ混ざった鴉は、そういって翼を広げる。

 そのまま見送ろうとして、獪岳は思わずその尾羽を掴んでいた。

 

「ガァ!ナンダイキナリ!」

「……名前。お前の名前、なんだよ?教えてから行け」

「雪五郎ダ!離サンカアホンダラ!!」

 

 嘴で獪岳の手を突き、雪五郎は窓の桟に止まる。

 

「名前ナラ、マトモニ聞ケバヨカロウガ!聞イテイタ通リダナ!」

 

 フン、と鼻息荒く鴉は飛び立って行った。誰に何を聞いたのか知らないが、鴉のことは鴉から聞いたのだろう。

 鎹鴉は、鎹鴉同士で集まって話すこともあったらしいから。

 

「……なんだよ」

 

 物言いたげな視線を感じて横を向けば、入院着の不死川玄弥が寝台の上で半身を起こしていた。

 

「いや、別に。……お前の鎹鴉、どうしたんだ?」

 

 前来ていたやつはもう少しうるさかったし、白い毛なんてなかっただろ、という玄弥に、獪岳は一言で返した。

 

「死んだ」

 

 大きな傷跡が顔を横切る玄弥の顔が、言い難い形に歪んだ。

 

「上弦の壱に斬られて、助からなかった。墓なら裏に幸がつくった」

「あ、ああ……」

 

 他に何か聞きたいのかと睨み返すと、玄弥は目を逸らした。

 彼も刀鍛冶の里にいて、奮戦したそうだ。

 蝶屋敷に入院しに来るほどなのだから、相当に激しい怪我である。さらに隣の寝台で今もすやすやと平和そうな顔をしている竈門炭治郎と比べ、傷の治りがやたらと速い気もしたが、不死川玄弥は鬼喰いをしている。

 怪我の治りが速いのは、そのせいだろう。

 上弦の二体を討伐できたのみならず、刀鍛冶の里ではもうひとつ重大な出来事があった。

 竈門禰豆子が、太陽を克服したのだ。

 現に今も、日の当たる外へ出て屋敷の少女たちと洗濯物を干しているのが窓から見える。

 遠目に見る限り、その額には角もなければ痣もない。目と牙と、言葉がたどたどしいこと以外、傍目からはすっかり人間に戻れたかのようだった。

 それでも、幸のように歳相応にものを考えることは、できていないらしい。自我があやふやなのだと聞いた。

 だが本当の特別とはきっと、ああいうふうなやつのことを言うのだろう。

 千年以上かけて一人の鬼も克服できなかった日の光を、堂々浴びれるようになったのだから。

 同時に最近聞きなれてしまった、欠片も聞きたくない高音の喚きも聞こえた気がして、獪岳は窓を閉める。お前は一度本気で口を縫いつけやがれと。

 

「平気なのか?お前じゃなくて、そっちの……」

 

 そっち、というのは寝台の脇に置いてある箱と、その中で今日も眠っている幸のことだろう。

 幸と鴉とが仲良くしているのは、割とよく知られていたらしい。

 

「俺にはわかんねぇよ。あとで鴉の名前は教えるけどな」

 

 玄弥や炭治郎と、ちょうど入れ替わるような形で退院許可が出た獪岳は、隊服の釦の最後のひとつを留めて、寝台から降りた。

 袖を通しっぱなしだった入院着は、今日で終いなのだ。復帰許可は下りていないから暇だが、寝台に市場の魚のように寝ているしかない日は、終わりだった。

 箱を背負い、新しい刀を持てば、いつも通りになる。

 落ちた体力は訓練で戻すしかないだろう。それもまた、いつも通りだ。鴉が一羽死のうが、変わることはない。

 竈門禰豆子が太陽を克服して以来、鬼の出現が一切なくなっているというから、訓練に当てられる時間はある。

 

「じゃあな」

 

 目立たないが、また新しい繕いあとだらけになった羽織りを最後に手に引っかけて、獪岳は玄弥に軽く手を振って病室を出て行った。

 刀鍛冶の里での戦いが終わって、怪我人たちが運び込まれてから、最早数日経っている。

 ちなみに獪岳に刀を打ってくれたあの鍛冶屋は、刀ができてすぐに届けに来、獪岳が起きるまで居座っていたため、運よく上弦の襲撃時に里から離れられていたそうだ。

 縁壱人形を見せてくれた小鉄という少年も怪我こそしたが無事で、川へ流された刀も根性で見つけたと、つい先日またも手紙が来た。

 手紙はそれだけで、あの縁壱人形と上弦の壱とにどういう繋がりがあるのかは、わからなかった。

 散々に斬られた上弦の太刀筋を、ふと思い出す。幸が見ただけでは、あの鬼が用いた型は五つかそれ以上はあったそうだ。

 報告書を書いているときに、その動きも幸が書いたものだから、獪岳もその型について知ることができた。

 できたが、あの鬼とどう戦えばいいのだろうか。あんな、正真正銘の化物相手に。

 すぅすぅと、耳を澄ませば聞こえて来る箱の中からの寝息だけが、変わらずに安らかだった。

 

「獪岳!」

 

 裏口から出たところで、かかった声に獪岳は足を止めた。

 予想通りと言うべきか、そこにいたのは善逸である。さっきまで竈門の妹や看護婦たちと一緒に物干し台の近くにいたろうに、よっぽどの勢いで走って来たのか軽く肩で息をしていた。

 

「獪岳、どっか、行くの?」

 

 聞かれるまで、どこへ行こうか一切考えていなかったことに気づく。

 が、口は勝手に言葉を絞り出していた。

 

「裏」

 

 鎹鴉の墓へ、獪岳はまだ行っていなかったのだ。

 

「あ、あのさ、なら、俺も一緒に行っていい?俺も、獪岳の鴉には手紙、届けてもらってたし……」

「……好きにしろ」

 

 来るなと告げるのも面倒で、獪岳は肩をすくめる。

 振り返ることもなく歩き出せば、善逸は常日頃とは打って変わって静かについて来た。

 途中、獪岳が足元に咲いていた名前もわからない雑草の花を千切ったときも、木陰に据えられた小さな墓石の前に辿り着いたときも、一言も口を利かなかった。

 幸が一人で掘った墓の石は、少し斜めに傾いでいた。爪で刻んだらしい、不揃いだがまともに読めはする字で、雷右衛門と名が彫られている。

 暗い夜に、幸は誰の手伝いも断って、一人で埋め、一人で帰った。

 数日前に幸の涙を吸ったであろう墓は濡れた跡もなく、その下に埋められた鴉はもう二度と鳴くこともない。

 もう語れないし、何もできない。涙を注がれても、死んだやつには届かない。

 それでも、幸は墓をつくった。

 つくって、泣いて、哀しみを呑み込み、自分の脚で獪岳のところへ戻って来た。

 紫色の雑草の花を墓の前に置いて、形だけの手を合わせる。

 坊主に育てられたこともあったのに、念仏のひとつもまともに覚えていないのだ。聞いたら覚えられる幸と、獪岳とは違う。

 

 軽く目を瞑り、ありがとう、と二度と言う機会のない礼の言葉を聞こえない声で吐き出した。

 この鴉がいたから生き延びることができたのは、確かだったからだ。

 寺のあいつらが死んだとき、獪岳はこうはしなかった。放り出されてまた一人になったのだ。寝床もなくなり、食い物も盗むかおもらいをするか、それとも拾うかしなければ、手に入らなくなった。失ったものを振り返って悼む余裕など、与えられなかった。

 獪岳が振り返れば、同じく手を合わせている黄色頭はまだそこにいて、帰る素振りもなかった。

 本当にこいつ、何をしに来たのかと獪岳は善逸を睨む。

 

「じゃあな」

「え、獪岳、どっか行くの?」

 

 少なくとも、善逸がいないところである。

 問いを無視し箱を背負い直して、獪岳は墓をあとにした。日はまだ中空にあって高く、踏みしめる草のにおいが鼻をくすぐる。後ろから膠のように貼り付いてくる気配は、無視することにした。

 振り払う気力が、湧かない。

 前だったならきっと、うるさい鴉がどこからともなく飛んできて頭の一つでも蹴っ飛ばしに来ただろうと、考えてしまったせいだった。

 屋敷を通り過ぎて足を向けた先は、街だった。

 今日が過ぎ明日が来て、明後日に届くことが当たり前、という顔をして歩く人々がいる場所だ。

 右眼を覆う包帯が、まだすべて取れていない獪岳の顔を見て、大体の人間はぎょっとした顔になる。

 背中に大きな箱を背負って袋に入れた刀まで持った出で立ちは、さて彼らにどう見えているのやら。警官に呼び止められさえしなければ、それでいいのだが。

 気配が紛れる雑踏の中を歩いていると、視界の隅に金色の光が引っかかる。南京豆を包んだ新聞紙の包みの横に、串の付いた金色の飴が並んでいた。

 

「……」

 

 一本買い、また歩き出す。

 食べるでもなく、路地に入って地面に置いた箱を細く開け、その隙間から差し入れた。

 

「おい、起きろ」

「ぅ……ん?」

「べっ甲飴だ。好きだろ、これ」

「……ありがと、う」

 

 食べ物としてでなく、見るものとして、金色にきらきら光るものが幸は好きなのだ。ひとつ渡しておけば、紙の独楽のようにくるくると回して遊ぶ。数ヶ月ほど前に知った、幸の好きなものだった。

 幸が満足したなら、飴は獪岳が食べる。甘ったるい味だが、体を動かす燃料にはなった。

 飴を受け取った手は中へ引っ込み、ぱたんと箱の蓋は閉じられる。

 

「で、お前はいつまでいんだよ。善逸」

 

 路地の入り口、完璧に手持ち無沙汰だと書かれた紙を顔に貼っつけたような善逸を、獪岳は箱の上蓋に手を置いたまま振り返った。

 

「さっきから一体なんなんだ。用がねぇなら消えろよ、鬱陶しい」

「だ、だけど、アンタ怪我してるじゃん。心配なんだよ、俺」

「お前に心配されるようなことなんざねぇよ」

 

 箱を背負い、路地の奥へ入る。

 軒先の下に出来た水たまり、板塀の上を歩いて行く猫、流れて行く千切れ雲。そんなものの横を通り過ぎて、歩く。

 箱の中の暗がりで、幸が飴玉を転がして遊んでいる気配が微かにしていた。

 

「なぁ、ホントに寝てなくていいの?まだ怪我、塞がってないんだろ」

 

 路地を抜けたところで、足を速めた善逸が隣に並ぶ。琥珀色の、色がほんの僅か似ている瞳は、本気でこちらを案じていた。

 

「お前こそ、なんでここにいるんだよ」

「なんでって……」

「なんで、俺たちのあとをつけて来るのかって聞いてんだ」

 

 蝶屋敷には見かける度に騒いでいる竈門の妹や、炭治郎もいるだろう。あちらと仲良くしていればいいのに、どうしてここまでしつこいのかが、理解できなかった。

 善逸の顔が紙くずのようにくしゃりとなる。

 

「し、心配なんだよ!獪岳が!じ、上弦と戦って死にかけたんだから!」

「お前がついて来たって、なんも変わりゃしねぇよ。真昼間から鬼に殺されるとでも思ってんのか、グズが」

「鬼は関係ないよ!アンタ今、普通に怪我人だろ!全ッ身包帯塗れなんだよ自覚して!なんでその顔色と怪我と痛そうな音ですたすた歩いてくのさ!せめて杖とかなんか持てよ!」

 

 やかましいその脳天に手刀を叩きこむ────寸前で、逆に善逸は獪岳の手首を掴んだ。咄嗟に振り払おうとするが、善逸の力が存外に強く、敵わない。

 

「……ほら、わかるだろ。アンタいつも俺より速いのに、俺に止められるんだよ」

 

 すぐ手を離し、善逸はほぼ懇願するように言う。

 

「体、大事にしてくれよ、頼むからさぁ。鴉がいなくなって、幸ちゃんが……幸ちゃんが大変なことになったのも、わかってる。だけどそうやって……怪我したままめちゃくちゃ歩き回るのよくないだろ。幸ちゃんが心配してるって、獪岳も────」

「うるせぇ!」

 

 往来の人々が振り返り、通りすがりの猫が跳び上がるほどの大声だった。

 不快だったのだ。

 耳とやらで心を覗くな、わかったふうな口を利くな、何も知らないくせに。

 ただ、同じ時期に同じ場所で過ごしたことがあるだけの────家族でもない、()()のくせに!

 目の前が怒りで赤く染まったとき、こつ、と箱が内側から叩かれた─────家族ではなく、拠り所はただ側にいたいという心ひとつしかない、そんな繋がりで側に居続ける少女の、小さな声だった。

 振り上げた拳を下ろす先が、急に遠ざかる。

 手から力を抜いて、獪岳は踵を返した。

 すわ往来で昼日中からの喧嘩なのかと、物見高くこちらを伺う通行人の視線を、避けるように進む。

 騒いだ上に気が少しばかり萎えたせいだろう。あちこちの傷が、思い出したように痛んだ。

 

「あっ、ちょっ、獪岳、待ってって!だからそんなふうに人混みずかずか歩いたら傷が開くだろ!」

「指図するなっつってんだよ。自分の傷ぐらいわかる」

「わかってないみたいだから言ってんの!ていうか、どこ行くのさ?」

「戻る」

 

 どのみち、蝶屋敷からあまり離れないで下さいね、と看護婦の少女たちには言われていたのだ。

 後ろから視界に入らないようにしてついてくることすらもやめたのか、善逸はしきりと隣から話しかけてきた。

 

「蝶屋敷に着くまででいいからさ。俺にも教えてよ、上弦の壱のこと」

「は?」

「し、知りたくなるくらい別にいいだろ。俺も上弦と戦ったことあるし」

「聞いてどうすんだよ。テメェが今考えてる新しい型ってやつの参考にでもすんのか?」

「……そうだよ」

 

 存外静かな声で、善逸は頷いた。

 こいつの性格からして、新しい型が出来上がるまで誰にも言わないのかと思っていたのだが、意外や素直かつ静かに肯定が返り、獪岳は目を剃刀のように細めた。

 教えなければ、善逸は聞く相手を変えて幸へ尋ねに行くだろうし、幸は快く応えるだろう。角なんて余計ものが生えたのだから、寝ておけばいいのに。

 

「これでも読んどけ」

「わぷ。……え、何これ?」

「見りゃわかんだろ」

 

 懐に入れていた、書き損じの報告書の巻紙を顔面に叩きつけるようにして押し付ける。

 入院している間、幸と二人で何度も、あれはこうだったこれはああだった、と額を突き合わせて書いたのだが、報告書を書く行為はつまり、威圧され嘔吐するほどの恐怖や、日に焼き焦がされて半身を失うほどの痛みを、逐一思い出して正確に細かく記すことだった。

 報告書を書いたことがないわけではないのだが、いつもは鴉が大半を行っていた作業を、すべて自分たちの手でやったのははじめてで、慣れもしなかった。

 そういう作業だったからか、書き損じもそれなりに作ったのだ。

 外で燃やそうと思っていたそれを、獪岳はまだ持っていた。善逸がいたから、蝶屋敷の厨で燃すことも外で燃すこともしそこねたのだ。

 巻紙を両手で持った善逸が、口をぽかんと開けた。

 

「えっ、こまかっ……。これ、報告書?」

「読んだら燃やせよ」

 

 これ以上のことをやってやるつもりは、さらさらなかった。

 

「うんっ!」

 

 だが善逸はそれで構わないのか、丁寧に巻紙を懐に入れるとにんまり微笑んだ。

 気味の悪さで、獪岳は一歩横にずれる。

 

「用は済んだんだろ。もう消えろよ」

「ヤダよ。アンタが屋敷着いて大人しくするまで、俺どっこも行かない」

「ふざけんなカス」

「グズでもカスでもなんでもいいよ!幸ちゃんに心配かけんな!」

「なんでンなことをテメェに言われなけりゃなんねぇんだよ」

 

 腹立ち紛れの蹴りが、物の見事に弁慶の泣き所に当たり、善逸が汚い悲鳴と共に跳び上がる。溜飲が僅かに下がって、獪岳はふんと鼻を鳴らした。

 大体心配をかけるなと言ったって、あんな上から降ってくる辻斬りかひき逃げじみた上弦の壱、どうできたというのだ。

 だが、一度蹴っ飛ばしたくらいで善逸が剥がれることはなかった。

 うるさく話しかけては来なくなったものの、蝶屋敷の白い塀が見えるようになるまで善逸はついて来たのだ。

 しかもそこまで来て、はた、と信じられないものでも目に、ではなく、耳にしたかのように足を止めたのだ。

 

「爺ちゃん!」

 

 本日何度目かの大声に、考えるより先に放たれた獪岳の裏拳が善逸の後頭部に炸裂した。

 悶絶する善逸を見てからようやく、獪岳は気づく。こいつ、大口を開けて何と言いやがった。

 前髪が跳ねるほどの勢いをつけて獪岳が蝶屋敷の門の方を見れば、見間違えようもない義足の老人が一人、杖を片手に門前に仁王立ちしていた。

 彼が着ている三角が散った着物の柄は、今路上で立ち尽くす獪岳と、その足元で頭を押さえる善逸が纏う羽織りと、同じものである。

 

「先生……」

 

 獪岳の呟きに、如何にも、と元鳴柱にして育手である桑島慈悟郎は、口髭を尖らせ目を弓の形に細めて応えたのだった。

 

 

 

 

 




久しぶりの登場です。



【コソコソ話】
善逸や炭治郎たち以外から見た獪岳は、異常な速さ(幸が運ぶため)で先行し鬼を斬ってはいなくなり、自分の鴉としかろくに話さないような変わり者です。
幸のことがばれるまでそうしていたため、同期に知り合いや友人などはいないままでした。


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九話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

「久しぶりじゃのう、獪岳、善逸」

 

 そう言った桑島慈悟郎は、最後に会ったときと変わりないように見えた。

 昔鬼と戦い失ったという義足の片脚に杖。小柄だが矍鑠とした、獪岳にとっての『先生』は、元気そうに見えた。

 

「先生はどうしてここに?」

「お館様に呼ばれたんじゃ。それに久しぶりに弟子の顔も見に来た。獪岳、体はどうじゃ?」

「平気です」

 

 言った途端に、善逸がまたやかましい顔でこちらを見たのが視界の端に映ったが、獪岳は無視した。

 復帰許可は出ていないが、平気は平気なのだ。手当てはされているし、傷口が腐ったわけでも熱があるわけでもないのだから。

 部屋の隅に置かれた箱の中から、無言の視線がちくちく板を通り抜けて来ているようにも感じたが、それもやり過ご────したと思った瞬間に、杖が脳天に落ちて来た。

 

「何を言うとるか。この屋敷の人間が言っておったぞ。安静にと言ったのに、またどこかへ歩いて行ってしまったとな」

 

 地味に痛くない一撃だった。修行時代に比べたら、大分優しい。

 

「……はい」

「不死川玄弥……だったか、あの隊士が心配しておったぞ。鎹鴉を亡くしたそうじゃな」

 

 あの鶏冠頭後で覚えとけ、と獪岳は喉の奥で唸る。あれこれぺらぺら、一体何を先生に言ってくれたのだろう。

 善逸が、そろそろと手を上げた。

 

「爺ちゃん。お館様に呼ばれたってどういうこと?最近鬼が出てないみたいだけど、それと何か関係があるの?」

「うむ。実はな、柱稽古というものが始まることになった」

 

 聞きなれない言葉だった。が、響きから何とはなしに想像はつく。

 

「柱に、稽古つけてもらえるんですか?」

「そうじゃ。鬼が出ておらず、『痣』を発現させた者が出たからのう。鬼殺隊全体の底上げじゃ」

 

 そういうことならば、育手である慈悟郎が呼ばれるのは納得できた。実際今、彼は弟子を取っていないのだろうから。

 ただ、聞き慣れない言葉もあった。

 

「『痣』?」

「……まだ、聞いておらんかったのか」

 

 髭をさすりながら、慈悟郎は語った。

 曰く、鬼殺の剣士には『痣』を発現させ、急速に力をつける者が現れる。呼吸で以て人は鬼に対抗するが、痣が出た者はさらに高い身体能力が発揮できるようになるのだ。

 これを持つ剣士は、かつて鬼舞辻無惨を追い詰めたとされる始まりの呼吸の剣士たちだという。

 以来痣を持つ痣者は鬼殺隊には出ておらず、またその存在すらも一部の者しか知らずにおかれていたが、最近その、痣を発現させた者が現れた。

 誰かと思えば、あの竈門炭治郎だというのだ。

 元々額にでかい痣があるやつだったが、鬼殺の痣はその痣とはまた異なっているそうだ。

 炭治郎が呼び水になったかのように、刀鍛冶の里では恋柱や霞柱にも痣が発現し、上弦を撃破できた。

 

「彼らのおかげで、痣の発現条件もはっきりした。痣者は痣を常時出しておけるように、出ていない者は痣を出せるように、と柱合会議で決定されたらのじゃよ。儂のほかにも育手は来ておる」 

「先生、その痣は鬼にも出るんですか?」

 

 思わず言葉を遮って、獪岳は尋ねていた。

 上弦と戦ったとき、確か幸にも痣が出ていた。右眼を中心にして頬までを覆う、赤い傷跡のような痣があった。

 今はもう消えているが、あれは確かに痣だったのだ。

 

「獪岳、幸に痣が出たのか?」

「はい。前に、上弦の壱と戦ったときに」

 

 ふむ、と慈悟郎は首を捻る。

 

「痣者の痣自体、鬼と似ている場合がある。じゃが、鬼と痣者の痣が同じとは思えんな。あの子は平気なのか?」

「俺には平気そうに見えてます。だけど、角が戻りません。それから、言葉がまた」

 

 数ヶ月前までは、幸は普通に話せていた。憎まれ口を叩いて来て、小憎たらしくなるほどだった。

 だけど今は、もうできない。

 一時よりは滑らかだし頭は比べものにならないほど霞が晴れているが、ぜんまいが切れかけて歪に針を動かす、時計のような話し方になってしまった。

 消し炭になる寸前まで日には焼かれ、額に根を張る角は取り除けず、鬼化は進むばかりで戻らない。時の流れと同じだ。

 師の前で一度口に出してしまえば、見ないように必死に目を背けていた事柄が、迫って来た。

 言ったところで、何も変わりはしないというのに。

 この人も、その下で習っていた己も鬼殺の剣士であって、仮に鬼となった少女を、人のまま終わらせてやりたいならば、結局のところ頸を斬ってやる以外為す術がないのだ。

 かりかり、と八畳の部屋の隅の日陰に置かれた箱が内側から引っかかれる。

  

「すみません、先生。続けて下さい」

「わかった。柱稽古は隊士の全員が参加することになっておる」

 

 柱の下を順に巡り、平隊士は稽古をつけてもらう。これまでそのようなことができなかったのは、ごく単純に柱が激務だったためだ。

 継子以外に柱が稽古をつけられないのも、鬼の討伐に追われて時間を取れないためだ。

 だが、鬼がぱったりと現れなくなった今、柱が稽古をつけることも、柱同士が手合わせをして高め合うこともできる。

 嵐の前の静けさであることは間違いないが、それでも準備をすれば嵐に立ち向かうことができるはずだ、というのが柱たちとお館様の意向であるらしかった。

 

「獪岳、善逸。ただし、痣者には代償がある」

 

 痣を発現した者は、例外なく二十五歳までに死ぬと、慈悟郎は告げた。

 部屋の空気が、冷えた。

 

「死、ぬ……んですか?……どうして?」

「痣は寿命の前借りをし、力を高めるものであるためじゃ。この寿命の枷に、例外はない。これもまた、すべての隊士たちに告げられることになっておる」

 

 痣を出す条件と共に、それは伝えられるそうだ。

 善逸の顔が青くなるのが見えた。しかし騒ぎはせず、拳を握りしめるだけだった。

 

 死ぬのか、と獪岳はぼんやりその言葉を聞く。自分に顧みて二十五と言えば、今から十年もない。とはいえ、十年先でどうこうしている自分の姿を考えたこともなかった。

 元から、鬼殺隊は死にやすい。

 藁束か葦の茎のように鬼に殺されるのも珍しくはない。

 同じときに選別を受けて隊士となった同期も、生きているかも定かでない。

 ただそれでも、必ず死ぬという定めと、死ぬかもしれぬという可能性の間には、深い溝が穿たれている。

 

─────それなら、俺には。

 

 痣など、出ないだろう、と確信めいた予感が獪岳にはあった。

 自分が死にたくないという想い以外で剣を取る理由が、どう心を浚っても出てこない。それなら多分無理だし、嫌だとどこかであっさりと諦めてしまえるのだ。

 同時に、幸が人間で、剣士として鬼殺隊にいたなら、痣は出ていただろうとも思う。彼女と自分とは、性質が違うのだ。

 鬼化が進んで現れたあの痣が人間と同じものであるのかは、わからない。

 幸は寿命があるのかも定かでない鬼だから、もしあれが人と同じ痣であったとしても二十五で死ぬようなことには、ならないだろう。

 だが、ここ数ヶ月でああも変動してしまうほど不安定な鬼が、五年以上もあのままでいられる保証など、どこにもないのだ。

 どこまで行こうが、暗夜の行路であるのに違いはなかった。

 

「柱稽古は厳しいものとなろうが、くぐり抜ければ必ず血となり肉となる。よく励めよ、二人とも」

 

 はい、と応える声が綺麗に重なり、獪岳は思わず善逸を見やった。

 修行していたころ、善逸はよく訓練がきつい厳しいと逃げては騒いでいた。毎度慈悟郎に捕まっては引きずり戻されていたが、やかましかったのは覚えていた。

 が、今応えた善逸の声にはあのころ獪岳をたまらなく苛つかせた、根性無しの甘ったれの面影がなかった。

 

「ちょ、獪岳その顔やめて!その信じられないものを見たって顔は!頑張るって俺言ったじゃん!そりゃキツイのはやだけどさ!」

 

 違った。全然うるさいままだ。こいつはグズであった。

 しかし一応慈悟郎の前であるから、いつものように罵ったり手を出したりするわけにも行かず、獪岳はす、と視線を善逸から無言で外して横を向いた。太陽が眩しい。

 

「あーっ!ちょっと俺の話も聞いてってば!獪岳、俺が前に煉獄さん家で言ったこと忘れてるだろ!」

「少しは落ち着かんか!お前の大声が獪岳の傷に響くじゃろうが!」

 

 今度は善逸の脳天に慈悟郎の杖がめり込み、かなりの重く鈍いが響いた。こちらは痛かったと見え、畳の上に善逸が潰れた。

 

「善逸!まったくお前は少ししゃんとしたのかと思えば、何をいちいち騒ぐんじゃ!少しは獪岳を見習わんか!!」

 

 く、と横を向いたまま獪岳は笑いを噛み殺した。潰れた黄色饅頭のようで、ざまあみろ、と思う。

 けれどふと視線を感じれば、畳の上で潰れたまんまに善逸が獪岳を見てくふふと笑っていた。

 やっぱりこいつは、気味が悪い。

 慈悟郎はそんな様を見て、急に思い出したかのように手を打った。

 

「そうじゃ。あの子を蝶屋敷の者たちが探しておったんじゃが」

 

 あの子とは、箱の中の幸である。

 時々手伝いもしていたからそれか、と獪岳は頷く。

 

「じゃ、俺届けてきます」

「ああ、待て。その傷であまり動き回るなと言われておったじゃろう。善逸、行って来い」

「へ?……獪岳、いい?」

 

 本音を言えば、よくない。箱に触れられたくないし、持って行かれたくない。

 よくないが、そう言われてしまえば動きづらく、それにそれだけでは済まない用事があるのは、察せられた。

 善逸が幸の入った箱を持ってそろそろと出て行き、気配が遠ざかってから慈悟郎は口を開く。

 

「先生、それで俺だけに何か、話があるんですか?」

「……やはりわかるかのう」

「わかりますよ。あいつにも幸にも、聞かせられない話なんですか?」

「いや、お前にだけ先に伝えておこうと儂が思ったのじゃ」

 

 竹を割ったような性格の慈悟郎にしては珍しい、重い口調だった。

 自然背筋が伸びる。

 

「これはまだお館様の予測であって、確実と決まったわけではない」

 

 それでもお館様こと産屋敷の洞察や勘は、並大抵なものではない。故に、限りなく事実に近い可能性なのだと慈悟郎は言った。

 嫌な予感だけが、日の暈のように広がる。

 

「獪岳、よく聞け。鬼の始祖である鬼舞辻の手により鬼にされた者は、やつが滅びれば─────」

 

 そこから先の言葉を、獪岳はただ黙して聞いた。聞くしか、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が暮れて夜になり、縁側に獪岳は箱を置いた。

 蓋を開けてみれば、ころりと膝を抱えていた幸が出て来て体をぐっと大きくさせる。

 紙に包まれたべっ甲飴をくるくる指で回しながら、どうかしたの、というふうに首を傾げている。

 

「今日さ、先生が来たの知ってるだろ」

「ん」

 

 あのときは起きていたから、幸も知っている。知らないのは、そのあとのことだ。

 

「そこで言われた。鬼舞辻無惨の血で鬼になったやつは、あいつが死んだら死ぬだろう、ってさ」

 

 ぱちり、と瞳孔が縦に割れた、金色の瞳が瞬かれた。

 縁側から地面へと下がる足をぱたぱたと振って、幸は膝に視線を落とす。

 

「それ、ね。……知ってた、よ」

「いつ」

「今日。しのぶさんが、ね。珠世さんと、きょうりょくするようになった、から、聞いた」

 

 以前世話になったことがある鬼の中の逃れ者、珠世と愈史郎。

 彼らは今、蟲柱と共に共同で研究しているそうだ。鬼を人へと戻す薬を作るために。

 鬼を救うためだけでなく、鬼舞辻を滅ぼすために。

 日の光を克服した禰豆子が現れた以上、鬼舞辻無惨は必ず彼女を手に入れようと姿を現す。

 現したそのときが、きっと最後の戦いになるのだろう。

 それは明日かもしれない。三日先かもしれない。

 だからこそ一刻も早く、その薬を完成させるべく彼らは薬を作っている。完成の目処すらも、立っているのだ。

 

「珠世さんや禰豆子ちゃんにわたし、が、死ぬ、かはわからない、よ。だっ、て、鬼舞辻の呪い、は、はずれているもの。愈史郎さんは、鬼舞辻の鬼じゃない、鬼だ、し」

 

 とはいえそれでも、愈史郎以外の他の三人が鬼舞辻の細胞、血によって鬼となっていることに変わりはない。 

 人間に戻る薬が完成すれば、真っ先に禰豆子はその薬を飲むことになるだろう。

 彼女が鬼舞辻に奪われ取り込まれでもしたら、鬼の始祖が日光を克服しかねない。そうなれば破滅だ。

 禰豆子が人に戻ることができたならば、無惨の企みはまた振り出しに戻る。

 

「お前、わかってんなら戻れよ、人間に」

 

 ()()()ことを言う幸の言葉を、聞いていられなかった。

 そういうだろうこともわかっていた。

 だけど本当に、こいつはわかっているのだろうか。己が死ぬかもしれないことを。鬼舞辻の、道連れにされるかもしれないことを。

 そんなもの、風に巻き込まれて潰される羽虫と変わらない。 

 

「いや。獪岳のいうこと、でも、聞けない。鬼じゃないわたしは、たたかえない」

 

 わかりきっている答えだった。聞きたくない答えだった。

 獪岳が助けようが手を引こうが、こいつの周りには、心には、いつも死んだあいつらが側にいる。忘れられないからだ。

 殺意と復讐という双子の怪物は消えもせず、童磨というあの鬼の息の根が止まるまで続く。

 

「戦えないやつだって、鬼殺隊には場所があるだろ。この屋敷の看護婦やってるやつも、隠やってるやつらだっているだろ」

 

 死んでほしくないと思う。

 頑固さに腹が立つ。

 自分がこれだけ言っているのに、どうして一人で勝手に死にに行く。

 自分が死ぬより、他人の死を見るのが怖いだけの弱虫のくせに。

 死人は戻らず、もうこちらが何をしたところで何も物思ったりしないことを、嫌というほど何度も理解させられたろうに。

 

「獪岳」

「あん?」

 

 顔を幸の方へ向けた途端、口に飴の棒が押し込まれた。甘い味が、口の中に広がる。

 膝立ちになった幸の顔は、思っていたよりも間近にあった。

 

「ありがと、う。でも、ごめん、なさい。……できない、や」

 

 飴の棒から手を離して、幸は縁側に膝を揃えて座り直す。

 

「わたしは、童磨が、にくい。今もこの世のどこかで、いきをして、また誰かを、食べてるんだって、おもった、ら。頭が、おかしくなり、そう」

 

 腹の底に熱があって、ふとしたことで吹き出しそうになる。

 あいつを壊したい、殺したい、消し去ってしまいたい。

 どうしてあの子たちが死んで、お前がこの世で息をして、嗤っている。

 認められない。許せない。地獄に落ちろ。

 死ね、死んでしまえ。跡形もなく。

 牙を剥きだして唸る獣のような衝動は、童磨が死ぬまで消えない。

 それに、思ってしまうのだ。

 自分があそこに、あの寺に、いなければよかったのに、と。

 

「それは、お前のせいじゃ」

「ないよ、ね。わかって、るよ。……知ってるんだ、そんな、こと」

 

 あの親のところに生まれて、捨てられて、拾われた。

 何も悪いことはしていない。間違ったこともしなかった。少なくとも、しないように生きていた。

 生まれて来たことに罪なんてない。

 だけど自分がいたばかりに、人が殺された。傷ついた人がいて、大事なものを壊されてしまった人がいる。

 だから、自分がいなければなんて思ってしまうのだ。

 役立たずの後悔だ。

 自分が生まれていなければ良かったのにと願うのは、築き上げてきた今を否定することだ。

 沢山の人に助けられたのに、死ぬなと言われたのに、そう思ってしまう弱さが、嫌いで堪らない。

 

「だから今、人には、もどりたく、ない。たたかって、こわすこと、を、そのための力を、わたしは、捨てない。……あいつが、死ぬまで、は」

 

 壊してばかりで戻し方など知らないくせに、勝手ばかりを抜かすな、とあの上弦の壱には激昂したけれど、その資格が自分にあったのかも、もうよくわからなくなってくる。

 幸がそう話し終える頃には、飴は獪岳の口の中で溶けきっていた。

 手足を斬り落としてでも、止めるべきなのだろうか、と思う。

 幸は獪岳に必ず手加減をするから、そこにつけ込めば勝てる気がする。

 本当にこいつを止めたいなら、引き留めたいなら、そうしてやるべきなのかもしれない。

 せっかく拾ったいのちを捨てるだけの価値が、あの鬼の死にあるのだろうか。獪岳には、そう思えないのだ。

 失っても与えられなくとも、生きていくしかないのに。敢えて死に向かうことの、意味は。

 だが、人としての正しさで雁字搦めの生き方しかできないやつがたった一つ、どうにもできない衝動を殺すのは、鬼としてのいのちを奪うよりも、人間の未来を与えるよりも、悪に思えた。

 正しさで救われないなら、間違っていても元凶を殺すしかない。

 且つ、仮に手足を斬って捨ててでも止めた暁には、永遠に嫌われる気がした。

 忘れられないから殊更しつこくなる幸に一度嫌われるのは、厄介を極める。

 

「……わかったよ」

 

 白旗だった。この頑固者は変わらない。

 いや、変わらないことで鬼となろうがここまで生きて来た相手を今更止めるなど、できるはずがなかったのだ。

 

「じゃあ、このはなし、はおしまい。……獪岳は、はやく、怪我、なおし、て。柱稽古を、がんば、って」

「その間、何してんだよ?」

「ここ、で、おてつだ、いして、る。薬の名前と材料、ぜんぶ、おぼえた、から。わたし、案外、役に、たつんだ、よ」

 

 ふふん、とやや得意げに幸が胸を張る。

 確かにこの話は、終わりだろう。

 だがそれなら最後にひとつだけ、聞いておきたいことがあった。

 

「お前さ、もしもだぞ。もしも童磨が死んで、無惨も死んで、それから人間に戻ったなら、後はどうするんだ?」

 

 幸の表情が、ふつ、と空白になった。何ひとつ考えていなかったのだろう。

 いつか足元を掬われて転びそうな、空っぽの顔だった。

 

「……」

「おい、聞いてんだからそこで黙るな。なんか決めとけよ。でなきゃ勝手に俺が決めるぞ」

「なん、で、獪岳が決める、の?」

「決められるのが嫌なら、自分で決めろって言ってんだよ。馬ァ鹿」

 

 馬鹿じゃないもん、と幸の頬がぷぅと膨らむ。

 ずっとそうしていればいいのにと心底思い、獪岳は空を見上げる。

 日が昇るまでには、まだ、時間があった。

 

 

 

 

 




笑顔の弟(弟子)が気味悪い兄(弟子)の話。
と、人を殺してしまう(かもしれない)善性の話。

次から柱稽古編です。


このSSでの獪岳の幸せの箱は、底だけ残して一度ばらばらに壊れました。底はあるので、直せます。
鬼っ娘の箱は壊れていませんが、削れて小さくなりました。なのですぐ溢れ、溢れた分は大体獪岳へ渡します。


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十話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

本誌の物語、終わりました。
色々と余韻を噛みしめていますが、鬼滅の刃という物語を読むことができる時代に生まれて、本当に幸運だったと思います。

このSSもこのSSで、終われるように頑張ります。
では。


 

 

 

 

 

 少しでも早く怪我や病から回復するにはどうすればよいか、という問いに対する答えは、多少医学が進んでも、古今東西変わらない。

 休め、である。

 噛み砕いて言えば、適度に身を清めつつ、滋養のあるものを食べよく眠れというわけだ。よく笑うことも良いそうだが、そちらはどうだか。

 ともかくも実際、それが確保できていれば人間は案外、死なないようにつくられた生き物らしい。

 無論、手の施しようがない場合とて多いが。

 なら、貧乏人が金持ちより長生きできないのも当たり前だ。体を休めたりなぞすれば、働けなくなって食えなくなる。

 寝ていれば治るというのは、多少寝て働かないでいたとしても、生きるのに困らない人間の言うことだろう。働くのを、動くのをやめたら、貧しさに殺されてしまう。住む所もない人間は、尚更だ。

 

 真理なんて御大層な題目でもなんでもなく、世間はそういうものなのだ。

 

 だから、ただ体を休めておればいいと言われても、休み方が獪岳には掴み切れない。

 ぼうっとしておけば、とは幸の意見だが、随分簡単に言ってくれる。

 人間のころからぼうっとしているのが得意だったやつの言うことは、この場合てんから役に立たなかった。

 第一、幸の呆とした人形振りも、足が古い怪我のせいで動かしづらいし、動けば無駄に腹が減るしと、動いても良いことが然程なかったから、何もしないことが得意になっただけである。それさえなければ、普通に歩き、走って遊んでいたかったろう。

 要するに、獪岳はじっとしていることを耐え難く感じる性格なのだった。

 しかし、動けば傷は治りづらい。

 じりじりと待って待って、眉間のしわがさらに深くなったころに獪岳の復帰許可が出た。

 そのころには柱稽古は既に始まっていたし、善逸も一足先に参加していた。

 蝶屋敷預かりになった幸を箱ごと置いて、獪岳が向かった先は、柱稽古第一段階の、音柱・宇髄天元の下である。

 

「お!お前か!上弦に会って、生きて帰って来れたとは運が強ェなぁ!あの鬼の嬢ちゃんがいなけりゃあ、五体満足とはいかなかったみたいだが!」

「……そうですね」

 

 上弦の陸と戦って片目を失った相手の言うことである。確かに獪岳も、幸の血鬼術がなければ、死んでいたはずだ。

 おまけに出血したまま激流に落ちたのだから、あれだけの速さの血止めがなければ失血で死んでいましたからね、とさらりと蟲柱に言われたときは、ぞっとしたものだ。

 

「善逸に伊之助はまだいるぜ。訓練一緒にや……るって面じゃねぇな」

 

 心底嫌だ、という感情がありあり顔に出たらしく、宇髄はとりあえず走って来いと、獪岳に告げた。

 ここでの稽古は基礎体力向上である。

 要するに、しごきまくられ体力を作ることが目的という単純さだが、周りの屍累々ぶりから考えて、相当きついらしかった。

 はい、と答えて獪岳はさっさと走り出す。

 山を上り下りし続けろ、という課題だが走るに慣れていないとこれはきつい。

 休んでいた分の体はやはり鈍っており、思っていたよりも早く息が上がり出すのだ。ただ闇雲に走るのでなく、疲れない走り方をしなければ、すぐ脚がもつれて転びそうになる。

 とはいえ、夜に上弦の壱に追いかけ回されながら逃げ回った山と比べれば、どんな険しい山でも天国である。天下の嶮たる箱根だって、あれよりは楽なものだろう。

 比較対象ががんがん人間としての最底辺へ近づいている気もするが、そんなことは今更だった。

 思うよりも動かしづらい体の軋みを確かめながら走っていると、ふと、試したくなる。

 助走をつけて、獪岳は岩の上へ飛び乗った。そのまま枝を掴んでくるりと体を回して、枝へ移る。

 幸の腕ほどしかない細い枝を折らぬよう、次の枝へ移る。

 自重を支えられるほど太い枝から枝へ飛び移ることなら割合楽にできるが、細枝から細枝へ飛び移ることは易しくない。

 幸なら、獪岳を担いだ状態でも重石がないかのように軽々跳んで動ける。

 猿のようなあの動きは、多分鬼故の身体能力の高さもあるが、自分の体の重さや動かし方を、よく知っているのだ。

 人や鬼から逃げ回った期間が長いだけに、体の動かし方を叩きこまざるを得なかったのだろう。技術はなくとも、感覚でそうなっているし、実際幸も全集中の呼吸は会得している。

 慈悟郎のところで修行をしていたときも、似たような話を教わったことがあった。

 己の体の寸法、筋肉や血管のすべてを把握してこそ、本物の全集中の呼吸だ、と。

 雷の呼吸は特に脚に意識を集中させる。尚のこと脚の筋肉のひとつひとつ、血管の一本一本にまで気を払い、力を込めて地を蹴って加速する必要があった。

 そうと聞かされても、何度も何度も何度も鍛錬しても、壱ノ型は獪岳にはできなかったのであるが。

 つ、とあの苛立ちと怒りが過った途端に体の制御をしくじり、踏みしめた枝がバキリと折れた。

  

「……」

 

 当然足場を失った獪岳は、折れた枝諸共空中へ投げ出され、音もなく着地した。

 さすがに脚を挫くようなことはないが、落ちた衝撃はそれなり腹立たしさを呼び起こした。

 舌打ちして髪についた葉を取ったときだ。

 

「おっ!お前角々じゃねぇか!久しぶりだな!」

「はあ?」

 

 誰が()()()()だと振り向けば、間近にいたのは見覚えがありまくる猪頭・嘴平伊之助である。

 

「お前、今何やってたんだ?猿の真似か?」

「猿じゃねぇ。枝を折らねえように跳んでたんだよ」

 

 それだけ告げて、獪岳はまた木を蹴って枝の上へ乗る。

 やや覚束ないながらも枝から枝へと跳んで移動すれば、なんと伊之助はその下を走ってついて来た。

 

「お前何の訓練やってんだよ、それ!」

「……」

 

 体を制御し、よく動かすためである。

 枝を折らないよう体重を意識し踏みしめて、一瞬だけ力を込め次に跳ぶだけだが、集中と呼吸をしくじれば枝が折れるか足が滑るかして、体が落ちる。

 木々が途切れたところでやむなく地上に降りれば、伊之助はついて来ていた。というよりも途中で同じように細枝に乗って跳ぼうとし、踏み折って落ちていたのである。

 木の葉と木っ端だらけの伊之助は、鼻息荒かった。毛皮についている猪のぎょろ目が煩い。

 

「雷岳!さっきのどうやってたんだ?」

「獪岳だっつってんだろ、猪頭。集中してやってんだよ」

 

 前々から思うのだがこの猪、頭の中身まで猪なのか四六時中人の名前を間違えている。

 しかも、しつこい。振り払おうとかなりの速さで走っても、楽々追いついて来るのだ。

 走りながら、獪岳は答えることにした。

 周りの隊士たちから何やってんだこいつら、という視線が刺さって来るが、今更気にすることではない。

 

「全集中の呼吸で、血管や筋肉にも集中するってのがあるだろ。あれだよ」

「なんだそれ!わかんねぇ!」

「わかれ。俺がやってたのはそれだ。お前も全集中の呼吸、使ってるだろ」

 

 伊之助が扱うのは我流の、獣の呼吸とかなんとか言っていた気がする。

 遊郭のとき、伊之助がとんでもなく変則的な二刀流で戦っていたのを、獪岳は覚えていた。あの鞘もない刃毀れ刀の切り口は、斬るというより犬に噛みつかれた傷や、獣の爪で引き裂かれたものに近かった。

 

「とにかく、テメェの体を上手く使えてなきゃ落ちるような跳び方してたんだよ。できるならやってみろ」

「おう!豚逸にも言っとくぜ!」

 

 余計なことを喋るなと言うより先に、伊之助は馬鹿のような速さで、猪突猛進と叫びながら駆け去ってしまう。

 どこかですっ転んで、頭でも打ってくれないだろうか。無理か。無理だろうな。

 苔が生えた岩を滑らないよう踏み、時折枝に跳び乗り、頂上についたらまた道を下る。

 延々同じことを繰り返している間に、気づけば日は暮れていた。

 一度止まれば、一日走り詰めだった疲れが脚に来る。獪岳は地面に座って脚を揉んだ。

 その目の前に、舞い降りて来た鴉が一羽。

 

「カァ!獪岳、獪岳ゥ!蝶屋敷ヨリ手紙ダ!」

「手紙?」

 

 鉤爪付きの足にくくりつけてある手紙をほどけば、割合見慣れた金釘文字が並んでいた。幸だ。

 要約すると、新しい鴉にはじめて頼んで手紙を出したことと、修行頑張れということだった。自分のことを書いていないのは、もう諦めた。

 それにしても。

 

「カァ、ナンダ?オ前モ手紙、手紙ヲ出スノカ?カァ?」

「出さねぇよ。必要ないしな」

 

 鬼が出してと頼んだ手紙を、出会ったばかりの鴉がよく運んだものだ。雷右衛門も、最初は幸を警戒して、腕が届く範囲に決して入ろうとしなかった。

 フン、と鴉の雪五郎は胸毛を膨らませた。

 

「オ前タチノコトハ、雷右衛門カラ聞イテイタ。味ガ良イ木ノ実ヲクレルムスメト、乱暴者ノ勾玉ノ隊士ダトナ!カァ!」

「娘、ねぇ」

 

 ではあの鴉は、少なくとも鴉仲間の前で幸を鬼とは呼んでいなかったわけだ。それだけ絆されてくれていて─────だからこそ、死ぬまで鳴いて、助けを呼んでくれた。

 助けがなければ、隠に見つけてもらえなければ、獪岳も幸も死んでいたのだ。

 ばさばさと羽音を立て、やや距離を開けて隣にチョンと止まった雪五郎を獪岳はそのままにした。

 数珠玉のような鴉の黒目が、試すようにじろじろと見てくるのを努めて無視し、獪岳は手紙を畳んでしまった。

 背中を預けている木の幹は硬い。周りには適当に、疲労でぼうっとした面の隊士たちがいる。

 音柱の三人いる妻が作ったという握り飯を食べたら、また走るかと獪岳もぼんやり考える。

 やることがあるのも、やらなければならないことがあるのも、なんら苦ではない。

 特に飛び去るわけでもなく、獪岳の周りを歩き回っていた鴉が、頭を上げるのとほぼ同時に、獪岳も気づいた。

 地べたに座って休んでいる隊士の一人が、こちらを見ている。

 視線が合ったかと思えば、そいつは握り飯を四つ持って、獪岳の前までやって来た。

 

「やあ、久しぶり」

 

 全体人が良さそうな、見覚えがあるような、ないような顔の隊士だった。雪五郎の方を見てみるが、キョトンと首を傾げられる。

 

「覚えてないか?田津だよ。鬼がいた山里で、一緒に戦ったこと、あるだろ」

「……ああ。あんたか」

 

 思い出したのは、人と鬼が組んで旅人を殺していた里の一件である。

 村人に殺されそうになるわ、幸が猟銃で頭を吹っ飛ばされて人を襲いかけるわと、散々な目に遭ったあの山里の戦いのときにいた隊士だ。

 田津という名も、随分久々に聞いた。

 さすがに階級が高いだけあってか、階級が低い隊士のように稽古が終わった途端にぶっ倒れるほどでもないらしい。

 

「なんだあんた、まだ生きてたのか」

「……随分だな。今日はあのときの……箱の鬼はいないのか?」

「日の当たる柱稽古に連れて来れるわけねぇだろ。預かってもらってんだよ」

「そ、そうか」

 

 どこかへ行くのかと思いきや、田津は隣に座ると握り飯を四つ、包みごと渡して来た。

 

「まだ食ってないんだろ。それ、やるよ」

「そりゃまぁ……どうも」

 

 田津は相当な鬼嫌いのようだったから、鬼に味方する人にも、人を庇った鬼にも、随分衝撃を受けていたはずだ。

 何か言った気もするが、如何せんあの後はそれどころではなかったから、獪岳の中での田津の印象は、朧なもので止まっていた。

  

「あれから上弦と二回戦ったんだろ?」

「ああ」

「俺はまださ、十二鬼月と戦ったことはないんだが、どうだった?」

 

 どうもへちまもない。

 死ぬかと思うほど強かったし、恐らく普通なら五回かそこいら死んでいたろうが、生き延びることができた。それだけだ。

 遊郭のときは音柱と竈門たちが、上弦の壱のときは幸と鴉がいたから、どうにかなった。

 そうして死線を越えて生き延びられたことはどんな稽古にも勝る、己を生かす経験になるのだと、煉獄の師匠には言われたのだったか、と指についた塩の粒を舐めとりながら、獪岳は考える。

 

「強かった。あれに比べりゃ、あの里の鬼なんか雑魚も良いところだ」

 

 やたらでかい図体の大蛇の鬼だったが、あれよりも鬼殺隊員が殺せない里人のほうが万倍も厄介だったし忌々しかった。

 あそこのあいつらは、あれからどうなったのだろう。

 案外、口元を拭って何事もなかったかのように生きているのかもしれない。もう、興味もなかったが。

 

「で、あんたは俺に何か用か?」

「よ、用がないと話しかけたら駄目なのか?」

「あんた、俺の連れを鬼だからって嫌ってただろ」

  

 嫌うどころか、一度蝶屋敷で斬りつけるまでに鬼の幸を嫌悪し、憎んでいたのだ。

 鬼殺隊士に珍しくない手合いだったとしても、そんなやつに話しかけられたら何事かと思うし、警戒だってするだろう。

 握り飯は有難かったし美味かったが、それとこれは別の話だ。

 無表情に獪岳が見やると、田津はああ、とか、うう、とかよくわからない呻き声を出した。

 出してから、意を決したように獪岳の方を見た。

 

「あ、謝りたかったんだ。きみたちに。あのとき俺は正しい判断をしなかったし……正しいことを言っていたあの鬼の子を、斬った。そんな俺に、きみは言っただろ。善良な鬼と、悪人の区別くらいしろって。あれがずっと、忘れられなかった」

「……」

 

 言ったような気もした。

 とはいえ善良な鬼、つまり人喰いをしないで済む鬼、済んだ鬼というのは、本当に例外中の例外だ。

 大体は鬼にされてすぐに飢えに負け、身近にいた人間を喰ってしまう。人を喰わずに済む鬼と喰ってしまった鬼の境目は多分、生まれついての体質という才能と、幸運だけ。

 いくら人間として優しかろうが強かろうが、恐らく才能がなければどうにもならない。

 どうにもならないで人喰い鬼になって、どうにもできずに殺された数のほうがよっぽど多かろう。

 田津に言ったことだって、ただの当てつけと八つ当たりだった。

 

「もういい。あそこの鬼は殺せたし、それにあんたが謝ったって、あいつは元々怒っても恨んでもないだろうから」

 

 体質があるから田津の顔も名前も忘れてはいないだろうが、変に頑なな幸には自分をわかってもらうことをはじめっから放棄している節がある。多分本当に本気で、斬りつけてきた田津を恨んだりしていない。

 憎むのも恨むのも、童磨と、精々鬼舞辻無惨だけだろう。

 何とも言えぬ顔で、田津は眉を歪めた。

 

「あの子は、元気にしているのか?」

「……それなりにはな」

 

 角が生えたり言葉がたどたどしくなったり、色々はある。あるはあったが、生きてはいるのだし元気は元気だ。

 なら、それ以上は望まない。

 人を喰わずに人に殺されずにあのままでいてくれるなら、それだけでいいのだ。

 何も、無理な願いでないはずなのに、そう思っていたら、あの冗談のような上弦の壱が現れたりする。

 もう、糞がと罵るしかない。

 そうして天に唾を吐いたところで、何処にも届かず顔に落ちて来るだけであった。

 

「音柱様の稽古の次は恋柱様だって、知ってるか?」

「知ってる」

 

 話の方向がまた変わって、獪岳は二つ目の握り飯を頬張ったまま目を瞬いた。

 恋柱・甘露寺蜜璃の柱稽古は、柔軟が主であるらしい。

 元々炎柱の継子で、独特過ぎて独立したという恋の呼吸の剣士に、興味はあった。

 何より、呼吸の名前から戦い方がまったく想像できない。

 田津は頬をかきながら問うて来た。

 

「俺は明日っからそっちに行くが、きみはどうなんだ?」

「俺は今日、許可が出て稽古に参加してんだ。まだ次には行けねぇよ」

「そうか。……なら、あまり奇抜に動いて無理はするなよ。さっき猪頭の隊士と黄色い髪の隊士が、きみと同じように枝を渡るのを試して落ちていたが、黄色い髪の隊士は、きみの同門なんだろ?」

「……育手の先生が同じだったんだよ」

 

 竈門炭治郎が合流してうるさくなる前に、とっとと次に行こうと、今獪岳は固く決めた。

 

「はは。じゃあ、生きていたらまたどこかで会おうか。……あのときは、本当にすまなかった」

 

 田津はそれきりで、去って行った。

 ずっと沈黙していた鴉が、二度ほど跳ねて膝の側に寄って来る。

 

「手紙、返サヌノカ?」

「返さねぇっての」

 

 齧りついた三つ目の握り飯は、甘塩(あまじょ)っぱくて美味かった。

 

 

 

 

 

 

 




貰った握り飯を食いながら喋ってました。
柱稽古編は、人と関わるほのぼの話with鴉の雪五郎です。

田津隊士は、二章の二~三話に登場した階級・甲の鬼殺隊員です。

今更ですが、原作とこのSSの獪岳の一番の違いは、

命懸けで助けてくれた他人がおり、かつそれが『家』を飛び出してもすぐ迎えに来た人間だったこと、
鬼に命乞いをし、他を犠牲にすれば生き延びられた経験がないこと、

の2つと思っています。
あとは、羽織り着てたり顔に向こう傷が二つぐらいできてたり。
彼らが旅の最後まで行けるように、頑張ります。


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十一話

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 

 

 あれから、雪五郎はふと気がつくと目に届く範囲にいるようになった。

 気を抜いたら頭を蹴っ飛ばしに来たり、ぎゃあぎゃあ騒いでいた雷右衛門とはまた違って、気がついたら獪岳の視界に入るどこかにはいるのだ。

 見当たらないなと思った辺りで戻って来て、ぽん、と幸からの手紙を放り投げて飛んで行く。

 受け取る手紙の中身はいつも、大したことは書いていない。草を見たとか花を見たとか、そっちは平気なのかとか、その程度。子どもの日記のようなものなのだ。

 獪岳が返そうが返さないでいようが、まったく気にしていない様子で向こうは几帳面にやって来るので、二、三通に一回は返すようになった。

 何かあったときほど何もないふうに装う幸の性格は、いい加減把握済みだった。だから多分、あちらにはあちらで『何か』はあるのだろう。

 かと言って、尋ねても素直に吐いたりしないのだから、獪岳は何にも気づいてないふうな手紙を返す以外にない。そういう手紙を、幸はほしいだろうから。

 本当の本当に駄目になっているときはさすがにわかる……と思っているし、雪五郎や蝶屋敷の面々が多分、放っておかない。

 それくらいには幸という一人の人格は、鬼であっても好かれているはずだから。

 

「なぁ、お前のところの鴉、よく手紙持ってくるけど、何かあるのか?」

 

 と、周りが稽古のきつさでへばっている中、そうやって頻繁に手紙のやり取りをしているのは目立つらしく、話しかけられるようにもなった。

 

「俺は村田って言うんだけどさ、お前、那田蜘蛛山にもいただろ?」

 

 もう遥か昔のことのように思ってしまう、那田蜘蛛山の一件。あれがきっかけで柱合裁判にかけられて、悲鳴嶼とも再会した。

 今から思えばあれが始まりだったといっても、よかった。

 

「いたよ。……こっちは蝶屋敷に連れを預けてるから、そいつからの手紙だ」

「連れって、お前がいつも持ってた箱の中にいた子のことか?」

「ああ」

 

 先日握り飯をくれて、今はもう次の稽古場へ移った田津と、目の前にいる村田は、何というか、似ていた。

 似ていたから、話をする気になった。

 どちらも、悪いやつではないのだ。鬼殺の隊士としても、恐らく人間としても。

 鬼に身内を殺されてここに来た、或いは来ざるを得なかった、ごく有り触れてしまった人間だ。

 尚、どうでもいいのだがこの村田という隊士、髪にやたら艶があった。

 ひょっとして、椿油でも使っているのだろうか。高いだろう、あれは。

 首を傾げる獪岳に、村田は、人の良さそうな笑みを浮かべた。

 

「そっか。ってことは、お前も我妻も蝶屋敷にいる女の子と縁があるのか」

「は?」

 

 自分の声が、いきなり低くなるのを獪岳は聞いた。

 

「あ、あれ?違うのか、蝶屋敷で待っててくれてる禰豆子ちゃんって女の子の名前、我妻がよく言ってんだけど」

「そいつ、竈戸の妹だろ。あの馬鹿が騒いでるのは俺も知ってる」

「ば、馬鹿……。あ、あのさぁ、こんなこと聞くのはあれかもだけど、お前と我妻ってもしかして仲悪いのか?」

「……仲が良いと思ったためしは、一度もねぇ」

 

 そう返せば、村田は不思議そうに目を瞬かせていた。

 無限列車でも遊郭でも共闘し、十二鬼月を相手にした同門で兄弟弟子ならば、仲が良いと思われていて当たり前だろう。獪岳も、村田と同じ立場だったならば、同じ判断をしている。

 だが、違うのだ。獪岳は善逸が嫌いだ。それはもう、どうしようもなく。

 どうしようもないのなら、どうしようもないままでいいと、そのままにしていたことだから。

 獪岳にそれを言った幸は、どうしようもなかった親を、恐らくは童磨に殺された。永久に、断絶したままになったのだ。

 獪岳と善逸の間にあるもの、幸と彼女の親の間にあったかもしれないものは、まったく違う。

 違ってはいても、もう決して結ばれることがない繋がりを持ったままの人間が、一人身近にいることは、変わらなかった。

 幸も善逸も、どちらも側にいないせいで、却ってあれこれと考えてしまう。

 あの二人は、時々不思議なほど真っ直ぐに獪岳を見てくるのだ。瞳の色も、少しばかり似ている。

 

「あー、うん、なんかややこしいってんなら俺はもう聞かないぜ。じゃあ、またな」

「……また、な」

 

 手を振って、別れる。

 走りながらも、少なくとも柱稽古の間、村田にはまた会いそうな気がした。

 鬼の出現がこうも途絶えていると、不気味で仕方がない。上弦の残りは三体のはずだが、揃いも揃って十二分に化物だ。あいつらが今もどこかで太陽を克服した鬼を────竈門の妹を狙っていると考えると、ぞっとした。

 特にあの、六つ目の鬼、上弦の壱。

 元々は鬼殺の剣士だったようだが、何があって上弦の壱となるまでに至ったのやら。

 あの鬼の顔に出ていた痣は、ひょっとすると痣者と同じなのではあるまいか。

 鬼になり容貌が変わっただけなのかもしれないが、人間のころに出た痣者の痣が残っているのなら、柱相当に腕が立つ剣士だったはずだ。

 

 ─────そんなやつが、どうして人を喰う鬼に。

 

 やめよう、と走りながら獪岳は頭を振った。

 あの鬼のことを考えたら、抜群に夢見が悪くなる。

 翼を斬られて落ちた鎹鴉の悲鳴と、幸の悲痛な金切り声に目を血走らせて牙を剥いた形相、鬼の剣術で全身を斬り刻まれた痛み。

 そんな諸々が夢に木霊して、夜中でも昼でも飛び起きる羽目になるのだ。

 あれ以来、眼が八つある蜘蛛までがなんとなく嫌なものになった。ばれたら絶対に幸に微妙な顔をされるから、死んでも知られたくない。

 

「おーい、獪岳」

 

 名を呼ばれて上を見上げれば、道を見下ろす岩の上に竹刀片手の音柱が座っていた。

 

「それ走り終わったら、もう次の稽古に行っていいぞ。体の鈍っちまってた分、もう戻せただろ」

「はい。……ありがとうございました」

 

 流石元忍びと言うだけあってか、話しかけられるまで獪岳には気配がわからなかった。

 それだけを言って、宇髄はまたあっという間に去って行く。でかい図体だというのに、音も立てていなかった。

 とはいえ、終わりと言われたならば終わりで良いのだろう。

 走り終わってすぐ、獪岳は荷を纏めた。その荷物の上に、雪五郎が舞い降りる。暇なのかこいつ。

 まあ、鬼がいないなら鎹鴉も暇になるのだろう。

 

「お前、どけよ」

「ケッ!」

 

 どく気がないらしい鴉をそのままにして、獪岳は荷を持った。

 当然追い落とされた雪五郎は、ばさばさ羽ばたいて今度は肩に止まる。だったら、最初からそっちへ止まっておけばいいだろうに、この鴉はわざわざ絡んでくるのだ。

 雷右衛門の悲鳴が耳から剥がれないせいか、殴って追い払う気も起きない。

 

「で、鴉。次はどこに行きゃあいいんだ?」

「恋柱邸!恋柱邸ト聞イテイナカッタノカァ!」

「順番は知ってんだよ。場所を知らねえんだ」

 

 柱たちの邸宅がどこにあるかなど、継子でもない限り普通は知らない。病院代わりの蝶屋敷は例外として。

 

「コッチダ!」

「最初からそう言え」

 

 肩に雪五郎を乗せたまま、その案内に従って歩く。

 辿り着いた先は、例に漏れず大きな屋敷だった。中から漂って来る菓子のような甘い匂いは、何なのだろうか。

 

「あっ、来たのね!こっちよ!」

 

 戸口のところで朗らかに声をかけて来たのは、桜色と黄緑色が混ざった髪を編んだ、若い女だ。

 直接顔を見て、薄っすらとしていた記憶が蘇る。柱合裁判にもいた恋柱、甘露寺蜜璃である。最近、刀鍛冶の里で上弦とも戦ったはずだ。

 

「ようこそ!あなた、獪岳くんよね?」

「え?……あ、はい」

「やっぱり!私は甘露寺蜜璃。私ね、昔あなたの師匠の煉獄さんに剣を教わっていたことがあったから、だから、同じ師匠の弟子の人に会うの、楽しみにしていたの!」

 

 刀鍛冶の里では入れ違いになってしまったし、と恋柱は屈託が一切ない笑顔で楽し気に言った。

 獪岳も、笑顔を見たことはある。

 あるが、こうも屈託なく、しかも開けっ広げで明るい笑顔というのは見たことがなかった。

 幸も微笑むことはあるが、牙を気にしてか微笑みそのものは小さい。雪五郎や雷右衛門は鴉だ。鴉の笑顔はわからない。

 知り合いの中で甘露寺と一番似ているのは、竈門家の二人だろう。あそこの兄妹の微笑みの底抜けなさが、最も近いものに見えた。

 

「獪岳くん、どうかした?そういえば、あの幸ちゃんはどうしたの?」

「あ、いや、いえ、何でもありません。幸は蝶屋敷で見てもらってます。昼間の柱稽古には連れて来れないんで」

 

 連れて来るだけならできたろうが、荷物のように持って移動していても時間の無駄になるだけだ。

 そう返すと、甘露寺は少し表情を止める。心無し悲しそうというか、気遣っているようだった。

 甘露寺蜜璃は、会ったこともない相手にも、そういう顔ができる人間なのだなと思う。

 

「別に、元気にはしてますよ。蟲柱様の手伝いができるってんで、張り切ってもいたんで」

「そうなのね、すごいわ!悲鳴嶼さんに聞いたけど、幸ちゃんは頭が良いのよね」

「ええ、まぁ……」

 

 良いのは頭というより記憶力だと思うのだが、些細な違いだろう。そのまま頷くと、甘露寺は屋敷の中に獪岳を導いた。

 肩の上の雪五郎も、そのままである。

 

「ここでは柔軟性をつけてもらおうと思ってるの、まず、この服に着替えてね!」

 

 そう言って渡されたのはなんとまあ、ほぼ胴体しか覆わないような、変わった形の服だった。

 動きやすそうではあるが、足など付け根までほぼ剥き出しだ。他の隊士も同じものを着ているが、何人か恥ずかしいのかもじもじとしている。

 鬼殺隊士は、大体全員上背もあり体格のいい男共で、何ならやくざ者以上に体や顔に傷跡があるやつもいる。獪岳もそうだ。

 そんな輩たちが、妙な服を着て小さい餓鬼のように恥じらっているのはなんというか、奇妙だった。

 その服を、獪岳も今から着なければならないわけだが。

 

「これを着て踊ったり、柔軟をするの。私の型は体の柔らかさが肝心だから、色々と視てあげられると思うわ!」

  

 恋柱から、悪気とかそういうものは一切合切感じない。多分、言っていることも正しい。服の形が少々あれなだけだ。

 肩の上で笑いを堪えてかぷるぷる震える雪五郎を、今すぐ焼き鳥にしてやろうかと思う。

 修行修行、これも修行、と頭の中で何度も唱えて、若干引きつった笑顔で獪岳は頷いた。

 見たものを絶対に忘れない幸がいないだけ、百倍マシである。

 

「わかりました。よろしくお願いします」

 

 他の答えは、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 柔軟は結局、ほとんど力業によるほぐしだった。

 飛んだり跳ねたりで鬼と戦う鬼殺隊士なのだから、体が固い人間はいない。いないのだが、恋柱・甘露寺蜜璃の柔軟さはそれ以上。

 見た目にそぐわない剛腕で体を引っ張ったり伸ばされたりする隊士からは、かなり悲痛な叫びが上がっていた。

 情けない声を上げるのは癪極まりなかったため、獪岳は根性で耐えたが、終わるころには疲れてもいた。

 華奢な外見の恋柱だが、完全記憶能力がある幸や、鬼喰いができる玄弥、稀血の風柱・不死川実弥と同じく特異体質の人間だという。

 彼女には常人より、筋肉が八倍ついているそうだ。筋肉の密度が半端なく高い。

 だから普通の町娘の細腕と同じに見えていても、実質は大男顔負けの腕力があるそうだ。いつだったか、師匠の杏寿郎がそう言っていた。

 鬼殺隊には、そういう特異体質者がかなりいるのかもしれない。

 軽く現実逃避をしてしまうくらいには、甘露寺の連日の柔軟は堪えていた。尚、雪五郎は飽きたのかなんなのか、どこぞへ飛んで行った。

 そんなふうに、二日目辺りで道場の隅の床の上で獪岳が潰れていると、甘露寺のほうから話しかけて来る。

 

「獪岳くん、平気?」

「平気……です。あの……甘露寺さん?」

 

 どう呼べばいいか迷った呼び方は、間違っていないらしい。なぁに、と甘露寺は微笑んだ。

 

「あなたはその、炎の呼吸から恋の呼吸をつくったって聞いたんですけど……どうやったんでしょうか?」

「ん?」

「だから、その……」

 

 獪岳は炎の呼吸と雷の呼吸、二つを習っている。

 どう足掻いてもどうやっても、雷の呼吸の基礎ができなかったからそうした。だが、かと言って炎の呼吸が完全にできるようになったわけではない。

 二つの型を組み合わせて動かすこともあれば、どちらかひとつの型だけを使うこともある。滑らかに動かせるようにもなり、手数も増えたが、だからこそ半端だと感じることも少なくない。

 甘露寺のように、元の呼吸から派生した、完全に自分に合った新しい型をつくるには至っていないのだ。

 あまり上手くないと思っている説明でなんとか言えば、甘露寺は真面目な顔になった。

 

「難しいわよね。私は習っていたとき、こうグァァッってなったから、ガーッとして、それで」

「は?」

 

 素の、地を這うような低い声が出てしまった。

 いやひとつも説明がわからない。何を言っているんだろうこの柱は。

 首を傾げると、わかりやすく甘露寺は眉を下げた。

 

「あ、ご、ごめんなさいね!私の説明、あんまり上手くなくって……」

 

 そうですね上手くないですね、とは言えない。

 確かなことは甘露寺蜜璃は、竈門炭治郎と似ているということだ。

 あいつもあいつで、人に何かを教えるのが爆裂に下っ手くそだった。擬音が独特過ぎるのだ。

 

「えっとね、私の刀はほら、こんな形なの」

 

 あわあわとしたまま、甘露寺は持っていた刀を抜く。でてきたのは、薄く長い、紙のような刃を持つ刀だった。

 よくしなるこの刀をどうやって扱うのか、見当もつかない。巻き付けるようにして、鬼の頸を捩じり斬るのだろうか。

 疑問が顔に出ていたらしく、甘露寺は慌てたらしかった。

 

「こうやってこう、ビュバッとして戦うんだけど……わかるかしら?」 

「すいません。全然わかりません」

「ぜ、全然?」

 

 途端にしょげられると、滅多に感じない罪悪感が湧く。

 だからと言って、すぐさま落ち込んだ人間を励ましたりなぞできない。そういうのが得意なやつは、今頃蝶屋敷の箱の中辺りで眠っている。呼んでも来られない。

 

「ううん……あ、そういえば獪岳くんは、上弦と戦ったことがあるのよね」

「はい」

「私はその、教えるのが煉獄さんくらいには上手くないけど、でもね、こう思うの。獪岳くんが上弦と戦ったこと、その経験はきっとつらかったし、痛かったと思うわ。お友達だった鎹鴉くんが、亡くなってしまったと聞いたし」

 

 友達。自分の友達、だったのだろうか、あの鴉は。

 仲間だったし、助けてくれた。幸を抜かせば、多分隊士になってから最も長く話していた相手だと思う。

 

「それでも、戦って生き残ったことと、戦った事実そのものは、長い鍛錬にも勝ることだと思うの。思い出すことは大変かもしれないけれど、獪岳くんはあのとき、どうやって戦ったの?」

 

 どうやって。

 常に必死で、一秒先にどう生き残るかを考えていた。それでも死にかけ、生き残り、今ここに座って恋柱の話を聞いているのだ。

 

「よく思い出して、その経験を生かすのが一番じゃないかしら?」

 

 刀鍛冶の里で痣者の痣を発現させ、上弦を一人で足止めしたという恋柱は、そう明るく微笑む。

 寿命の枷が嵌ったことなど、微塵も感じさせないように。

 

  ────本当に、どいつもこいつも。

 

 その言葉を飲み下して、獪岳は頷いた。

 

「……そうですね。ありがとうございます、甘露寺さん。あと……」

 

 あなたの言うこと、師匠に似てますね、と獪岳が言えば、甘露寺は一瞬きょとんと不意を突かれた顔をした。

 

「経験に何ものにも勝る価値があるって言うそれ、煉獄師匠も言ってましたから」

 

 師弟だったから、言葉も似るのだろう。

 そう返すと、恋柱はとても嬉しそうにはにかんだ。

 

「獪岳くん、幸ちゃんと一緒に列車で煉獄さんを助けてくれてありがとうね!お互い、頑張りましょう!」

「……はい」

「それからね、獪岳くんはもうここでの修業は大丈夫だから、次に行っていいわよ!頑張ってね!」

 

 むんっ、と拳を握って、甘露寺蜜璃は去って行く。

 その背中に軽く頭を下げて、獪岳は立ち上がった。道場を出たところで、ちょうど門から入って来る見覚えがある姿があった。

 

「お、久しぶり。ってお前、何なんだよ、その変な格好」

 

 鶏冠頭に顔を横切る傷跡、大柄な体躯。

 どう見ても間違えようがない、不死川玄弥がそこにいた。

 頭から爪先までじろじろ獪岳を見た玄弥は、かなり訝し気な顔をしている。

 ぴし、とこめかみに細く青筋が立った。誰が好きで着るか、こんな珍奇な服。

 

「生憎だな。ここじゃ皆これ着て鍛錬してんだよ。お前もやるんだぞ」

「え」

「じゃ、俺はもう次に行くけど精々頑張れよ。恋柱様がしっかり教えてくれるからな」

 

 獪岳は、ひとつも嘘は言っていない。鍛錬の中身は地獄の柔軟であるが。

 そういえば、体を大きくした幸に詰め寄られたときや、蝶屋敷の看護婦たちに寄ってたかられたとき、玄弥は顔を茹で蛸のように真っ赤にして照れていた。

 今回は、大丈夫なのだろうか。

 

 ─────まあ、大丈夫だろう。

 

 上弦と戦う度胸があるなら、大体なんでもいけるだろうし、獪岳がそんなところまで気にかける義理はない。

 多分今、自分は凄く悪い顔をしているのだろうと思いながら、獪岳は玄弥にひらひら手を振って歩き出した。

 

「えっ、はっ?いや、ちょっと待てよ!」

 

 誰が待つというのだろうか。時間が勿体ない。

 既に顔が赤くなりかけの玄弥をするりと躱して、獪岳は荷物を取りに向かったのだった。

 

 

 

 




恋柱は、弟弟子が来ることを実は楽しみにしていました。いつも一緒だという鬼の子にも会いたかったのですが、いないので残念。

尚、獪岳はパンケーキをご馳走になってます。食べられたら喜んだろうな、と思いながら。


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十二話

少々間が開きました。

何かと立て込んでおり、今度もこれくらいの更新頻度になると思われますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

では。


 

 

 

 

 

 獪岳は、酷い記憶を元々思い出さないようにしている。

 そうすると自然と薄れて来て、楽になれるのだ。

 寄る辺をなくしてから飢えを抱え路傍を流離ったことも、喉の渇きに耐えかねて泥水を啜ったことも、思い出さなければなかったのと変わらない。

 そんな具合だから、過去を顧みるというのは自然、苦手なのである。

 思い出すことで心を労ってくれるような過去の縁も、ないわけではないが薄い。今を失くさないようにするほうが、大事だった。

 生きることだけを考えて必死で藻掻く間に、記憶は良し悪しの別なく、襤褸布のように擦り切れてしまう。

 とはいえ呼吸を研鑽した柱であり、しかも姉弟子からせっかく貰えた助言を、無下に切り捨てる気にもなれなかった。

 様々な人に、同じことを言われるのだ。

 なら結局、思い出して立ち向かう以外にどうしようもないのだろう。人間、すぐには強くなれないし変われないのだから。

 開き直るしかないだろう。

 そんなこんなで恋柱のところの稽古を終えて、次に向かうのは霞柱のところであった。

 ここでは高速移動の稽古で、特に問題も何も起きなかった。

 霞柱、時透無一郎からは、玄弥と炭治郎の友達かと聞かれた。友達かはわからないが話すことはある、とかなり正直に返せば、霞柱からの答えは、ふぅん、である。

 何を考えているやら読みづらい時透無一郎は、刀を持って二ヶ月で柱になったというから、才能の塊である。無論、死ぬほど鍛えたのだろうが。

 何の為に聞かれたのかあまりわからなかったが、ともかく霞柱との打ち合いも含めた稽古は、数日かかって次に行っていいと言われた。

 獪岳は言ったことがちゃんとできてるから、とのことだ。霞柱は、できていないとみなした隊士には辛辣極まりなかった。

 そのため道場には疲労困憊死屍累々の隊士が積まれていたが、できていないところをできていないと言ってくれるだけ、有り難いだろう。

 霞柱の次は、蛇柱、伊黒小芭内である。

 ここが、これまでで一番の難所だった。

 一言でいうと、蛇柱からの当たりがきつかったのである。

 自分が何かやらかしたかと思うほど、稽古の度くどくどネチネチ小言を言われまくった。とはいえ、獪岳は鬼を藤襲山から連れ出して連れ歩いていたのだから、やらかしてはいる。

 それも、隊士同士で乱闘したなどという生易しい違反ではない。

 実際、柱合裁判にもかけられた。

 が、蛇柱のはそれを差っ引いても雨上がりの泥のようにしつこかったのである。

 しかも概ね、甘露寺に近づくなという小言だった。

 その上で、仮にも煉獄の弟子だというのに弱過ぎると、これまた湿度の高い繰り言の嵐だった。

 柱の中でどうしてその二人のことだけやたら言い立てるのかわからないし、しつこい。

 稽古形式も、道場の壁や天井から突き出している棒や柱の一本一本に隊士たちが括りつけられ、その隙間を塗って蛇柱と打ち合うというとんでもないものだった。

 しくじると当然仲間である隊士を木刀で叩くことになるし、その都度滅茶苦茶痛そうな音がして、隊士からは涙目で睨まれる。

 しくじり過ぎれば、今度はこちらが柱に括られるのだ。それは獪岳も断固嫌だったから、とにかく人をどつかないように太刀筋を柔軟にし、蛇柱に攻撃するしかなかった。

 あの蛇柱、攻撃がめったやたらに曲がるのだ。

 使っているのはそう変わらない木刀のはずなのに、獪岳の攻撃は当たらず、蛇柱の攻撃ばかりが人間柱をすり抜けるかのようにして当たる。

 本当に、岩の隙間をくぐる蛇の化身に思えた。

 

「お前、なんか蛇柱様に随分やられてない?大丈夫か?」

「……平気だ」

 

 水で打ち身を冷やしている間に、見ず知らずの隊士にまで声をかけられるのだから、傍から見てもよっぽどなのだろう。

 今回は雪五郎も静かで、屋敷にある立木に止まって綺麗なお澄まし鴉の面となっている。

 一回蛇に呑まれて痛い目を見ちまえと、けっ、と鴉を睨んで、獪岳は稽古を続けた。伊黒はしつこいし面倒だが、柱は柱だ。

 鍛錬ならば多分、つらかろうが死にはしないだろう。

 鍛えてくれているのであって、何も、殺そうとかかってくるわけではない。

 打たれては避け避けては打たれ、合間で鴉にカァカァと鳴かれ、繰り返している間にある日唐突に、蛇柱の羽織の袖を木刀でざくりと切り裂くことができた。

 不意に、攻撃が見えるようになったのだ。肩を狙った一撃を避けて突きを入れ、弾くために蛇柱が腕を引いた瞬間に、障害物の間を縫って木刀を瞬時に引き戻し、下から上へ切り上げた。

 その一振りが、蛇柱の羽織の袖を切ったのだ。

 薄い膜を突き破るように、いきなり攻撃が()()()

 できなかった型ができるようになったときも、そんな唐突さがあったと半ば呆然としている間に、蛇柱からは合格を言い渡されていた。

 

「ここはもういい。だがお前、二度と甘露寺と親しげに喋るなよ。煉獄と悲鳴嶼さんの顔に泥を塗れば、俺はお前を決して許さん」

「はい」

 

 だからなんでそこまで恋柱に拘るんだ、という疑問はすっぱり頭から消して、獪岳は次に行くことにした。

 

「カァ!次ハ風柱ノ稽古!風柱邸ヘ向ェエ!」

「わかってんだよ。テメェらはいちいちやかましい」

 

 風柱邸へ向かうまでも、雪五郎は肩に乗っかっていた。勝手に定位置にしたのか、なかなか降りないし獪岳も引き剥がすのを諦めた。

 それよりも、さっきのあの動きどうやったのだろうかと思い返す。

 ()()打ち込んでくると感じて、その通りに身を捻った。

 今までも、考えるより先に体が殺気や攻撃に対して反応したことはあったが、大体はぎりぎりの瀬戸際だった。

 蛇柱の羽織りを切れたときは、それよりも速くなれたのだ。

 雷の呼吸使いにとって、速さは生命のようなものだ。基礎である壱ノ型からして、鬼の頸を如何に速く取れるかが要なのだから。

 あの感覚を、もっと自由に使えるようになるべきだった。狙って入れた域ではないのが、悔やまれる。

 人間は、鍛錬して戦って死にかけて血反吐を吐いて、また鍛錬する。そればかりだ。

 感情任せで力を引きずり出し、体を組み替えて強くなることができてしまうのは、鬼だけだ。

 そのまま引き返せない場所まで踏み込んでしまうのも、鬼だけだ。

 つん、と肩の鴉を指で突く。

 

「お前、さっき俺がどう動けてたか見たか?」

「オレハ外!見エタハズガ無イ!ナイィ!」

「ンだよ、使えねぇな。鎹鴉のくせに。……ッてぇ!叩くな阿呆!」

 

 翼で、べしんと頭を一打ちされる。

 どうせ側にいるなら、それくらい見ていても良さそうなものである。

 幸だったら見ていたろうし、あそこがこうこれがああだと言ってくれたはずだ。何せ、一度見たものを忘れないのだ。

 

「フン!オ前タチハ、兄弟ガ言ッタトオリノヤツ!風柱邸ハコッチ!コッチダ!」

「あ?」

 

 兄弟の意味を聞き返す間もなく雪五郎は翼を広げて、獪岳の肩から飛び立った。

 頭に一筋だけ生えた、白い羽が風でふわりと揺れている。ふと、玄弥の、あの特徴的な鶏冠頭が思い出された。

 次に行く稽古先の風柱は、思い返してみれば不死川玄弥の実の兄貴である。

 その兄貴に会うために玄弥は鬼殺隊に入ったと言っていた。恋柱邸ですれ違ったきりまだ姿を見ていないが、あの丈夫さだから抜けて来るだろう。

 そうして、一つ角を曲がったところで。

 ゴウ、と風と炎が目の前を通り過ぎた。

 

「ギャッ!」

 

 煽りを受けて体勢が崩れた雪五郎は、慌てたように獪岳の頭の上に戻って来る。

 開けた空き地で向かい合っているのは、白髪の男、風柱と、煉獄杏寿郎だったのである。

 双方手に持っているのは、木刀。炎ノ呼吸と風ノ呼吸が、真っ向からぶつかる。

 風柱の動きは変幻自在で、掴みどころがない。それを迎え撃つのは、地に足をつけ、大気を切り裂くほど唸りを上げた杏寿郎だった。

 骨が砕けるような鈍い音がしたかと思えば、ぶつかり合った二本の木刀が叩き折られる。風柱の突き技と、杏寿郎の切り払いに、得物のほうが耐えられなかったのだ。

 折れた木刀を持った風柱は宙で一回転して危なげなく着地し、壁の陰にいた獪岳に目を留めた。

 

「テメエかよ。おい煉獄、お前の弟子が来てやがるぞ」

「ム!」

 

 べっきりへし折れた木刀を手にしたまま、煉獄杏寿郎は頭に鴉を乗っけた獪岳を振り返った。

 

「獪岳か!不死川のところへ稽古に来たのか?」

「ええ、はい。師匠たちは何をしてんですか?」

「手合わせだ!ところで不死川、しばらく獪岳を借りて行ってもいいか?」

「構わねェよ」

「うむ!ありがとう!そういうわけで獪岳、ついて来い!」

「へ?……はい」

 

 相変わらず視線が合わせづらいが力が籠っている杏寿郎の眼で見られると、頷いてしまう。

 鴉が、カァと鳴いて空の彼方へ飛んで行った。

 当然至極のように引っ張られ、気づいたら茶店の軒先の床几に獪岳は杏寿郎と並んで座っていた。

 

「息災のようだな!近頃は互いに何かと忙しかったな!」

「……そう、ですね。すいません、師匠のところにも伺えず」

 

 上弦の壱から逃げて入院して、そのまま柱稽古に突入したのだ。蝶屋敷に杏寿郎が訪ねてきてくれることはあったが、煉獄家のほうも煉獄家のほうで、何かと立て込んでいて訪れるのは憚られた。

 歴代炎柱を輩出してきた家とあって、柱稽古には色々と関わっているのだ。

 杏寿郎からして、負傷を理由に柱を退いても、風柱と手合わせしていた。その動きも、獪岳より遥かに強いことが伺える。

 隻眼になったのにこれであるのだから、悲鳴嶼といいこの人といい、柱は本当に同じ人間であるのに底が知れない。

 それに相変わらず、杏寿郎は食べる速度が尋常でない。獪岳が団子を二つ、三つと食べる間に、空になった一皿、二皿とぽんぽん手品のように積み上げられていく。

 この御仁、確かどてっぱらに大穴を開けられたはずである。胃袋も貫かれていたっておかしくなかろうに。

 

「食欲がないのか、獪岳?傷の具合がまだ……」

「あります。超あります。傷も治ってるんで」

 

 獪岳が団子を勢いよく口に放り込むと、杏寿郎はうむ、と頷いた。

 

「お館様より聞いたのだが、君と幸少女が遭遇した上弦は、元鬼殺隊であったと思しいのか?」

 

 一転した静かな声に、団子が喉に詰まるかと思った。

 差し出されたぬるい茶を飲んで、口の中を空にする。

 

「多分……そうなんじゃないでしょうか。幸が描いた似顔絵には痣者の痣みたいなのがあって、日の呼吸にも執着していたらしいんで」

 

 痣も呼吸も、鬼を殺すためでなければまず手にしない力だ。それを持っていたのなら、過去に鬼殺隊であったのだろう。

 あれだけ強かった剣士なのに、鬼になった。月の呼吸という、この時代には残っていない戦い方を引っ提げて。

 無理っくりに鬼にされた場合もあるだろう。幸や竈門の妹がそうだ。

 その二人とて、戦っている間に自我が薄れ、人の血肉を求める鬼の本能に飲み込まれかけたこともある。

 鬼になって十年や五年足らずの彼女たちでもああなるのだから、百年二百年鬼で過ごしていれば、人の感覚など薄れるはずだ。

 

「俺も無限列車で戦った際には、鬼にならぬかと誘われたな。君もだろう、獪岳」

「はい。……師匠には上弦の参、がそう言っていたんでしたか」

 

 獪岳はその場面を見てはいないが、無限列車に現れた上弦の参は、しきりと強い人間を鬼にしたがっていたのだという。

 童磨は反吐が出るような憐れみで獪岳に鬼にならないかと言っていたし、上弦の壱は陸の穴埋めで強い鬼になれそうな者を探している風情だった。

 鬼殺隊士が鬼に変えられる危機は、案外そこらに転がっているのだ。大概の場合断れば死、という状況なのがまた腹立たしい。

 前回は寸でのところで逃げられたが、あれは思い返すだに首の皮一枚である。鎹鴉も殺された。

 

「……俺は、鬼になるのは嫌ですよ。惨めになりたくないから」

「君から見て、鬼と言うのは惨めなのか?」

「そうですよ。日には焼かれて、大事に思ってた人間に嫌われる。おまけに、無惨の縛りを壊せなけりゃ簡単に殺されちまうんでしょ?前に無惨の名を口にした鬼は、俺とあいつの目の前で、体から生えてきた腕に腹をかっ捌かれて死にましたよ」

 

 挑発に簡単に乗るほどの馬鹿な鬼だったが、食った飯を吐きそうになる死に様だった。

 呪いによって、あんなふうに踏み殺される虫のような扱いをされるのは御免だ。

 それに、あれだけ自分を縛って人喰いに堪えていた鬼ですら、()()()は真っ先に慈悲の心で殺そうとした。

 かつて共に暮らしていた子どもであったのに、ただ鬼であると言うだけで。

 柱として正しい行いであっても、恨みなどはなく慈悲の心であったとしても、涙を流しながらであっても、殺される側からすれば関係ない。

 だって一番痛いのは殺されるやつだ。それも、慕っていた人の手にかけられるなど。

 鬼になるとはああいうことだ。

 だから獪岳は、鬼になりたくない。

 いつか杏寿郎が言っていたように、ただ人という生き物が好きで、儚さを愛おしんでいるわけではない。

 好きでも嫌いでも何でもない。

 そも人間の大体は獪岳に優しくなかったし、それが当たり前だ。全員一からげに愛おしむなど、できるものか。

 獪岳はもう、下へと堕ちたくないのだ。

 思い返すとまたも腹が立って来て、獪岳は湯飲みの中の茶を一息で飲み干した。

 杏寿郎は腕組みをして、首肯する。

 

「鬼は惨め、か。……鬼を人へ戻す薬の目処は立ったと聞いたが、君は幸少女を人へ戻したくはないのか?」

 

 それか、と獪岳は眉間に皺を寄せた。

 

「俺は戻れと言いました。言いましたが、あいつは自分で仇を取るつもりです。鬼でないと戦えないから、戻らないって」

 

 本来なら、首根っこ掴んででも人間に戻すべきだろう。それが正しい気がする。

 だけども、正しいことばかりでやりたいことができない鬼にされた幸なのだ。

 復讐しても、もう何も元には戻らない。そんなこと、己含めて皆がわかっている。

 そんな理屈はここに至ってはどうでも良い。元凶を殺せば、単に気が晴れる。

 憂さ晴らしだ。

 

「頑固というよりも……彼女は意志が硬いのだな。そうでなければ、君と共にいることもできなかったろうが」

「ほんとですよ。多分、竈門の頭より硬いんじゃないですかね」

 

 滅多に言わない獪岳の冗談で、杏寿郎はからから笑った。団子のお替りを持ってきた店員が、ぎょっと二度見するほどの大声だ。

 それが治まるのを待って、獪岳は口を開いた。

  

「師匠、俺のほうからも聞きたいことがあるんですが、いいですか?」

「む。なんだ?」

「鬼は、この先どう来ると思いますか?」

「それか……」

 

 今、鬼は姿を見せていないし、人がごっそり消えたような話も出てこない。

 ならば恐らく、鬼は戦力を溜め込んでいる。鬼殺隊も戦力を練っているが、鬼は次にどう出るのか。

 杏寿郎はうむ、と大きく頷いた。

 

「獪岳。お館様には、天性の勘があるのだ」

「勘?」

「うむ。それも並みのものではなく、未来を見通すと言っていいほどの先読みだ。お館様の一族は、それで以て鬼殺隊を導き、また資金も築いて来た。……それによれば、近く一気に事態は動くとのことだ」

「一気に?」

「ああ。一年や半年先などではない。数ヶ月、或いはもっと短いかもしれない」

 

 勘で、そこまでわかるのだろうか。

 確証はないが、煉獄杏寿郎にとっては信じられるものなのだろう。確かに、お館様の、産屋敷家の財力は生半なものではないから。

 それにしても、一気に全面戦争になるとは思わなかった。

 だが、陰に隠れた鬼に襲われて削られるより余程いい。人はひとりだと勝てないのだから。

 

「だからそれまでに励むことだ!俺も柱こそ退いたが、鈍らぬように手合わせは怠っていない!次は、竈門少年と共に冨岡の下へ向かってみようと思っている!」

「水柱様の?……なんでまた」

「冨岡が、己は柱ではないから稽古をつけられんと言い出したらしくてな!冨岡以上に水柱に相応しい剣士はいないのに、これはどういうことなのかと思った次第だ!」

 

 竈門と行くことになったのは、お館様が竈門に直接手紙を出して説得に当たってほしいと言ったからなのだとか。

 水柱がそんな馬鹿を言い出した事情は知らないが、この師匠とあの石頭が総出で説得にあたったら、多分水柱であっても三日も保つまい。

 獪岳だったら一日どころか半日で白旗だ。うるさ過ぎて。

 

「ではな!不死川、悲鳴嶼さんの稽古に励むように!」

 

 団子の代金を二人まとめて払い、杏寿郎は一瞬で去って行った。

 空になった皿の山を横にして、獪岳は立ち上がった。

 

「……行くか」

 

 ばさばさと戻って来た雪五郎が、伸ばした獪岳の腕に止まる。

 

「ヨウヤクカ!風柱邸ヘ向カエ!」

「だァから、案内しろってんだよ」

 

 腕から肩へ飛び乗った雪五郎の嘴が示す先へ歩いていく。

 見えてきた屋敷の塀の角で、獪岳ははたと足を止めた。雀を頭のてっぺんに乗せた、間違えようのない金髪が門前に突っ立っていたのだ。

 思わず頭を抱える。

 同じ稽古に参加しているのだから顔を見るくらいはあると思っていたが、鉢合わせはしたくなかった。

 当然のように気配に気づき、我妻善逸は片手を上げた。

 

「か、獪岳、久しぶり。あ、えっと、俺は今来たとこなんだ。獪岳もだよな?」

「……ああ」

 

 善逸は獪岳より先に稽古していたはずだが、何処かで並んでいたらしい。

 尚も善逸が何か言い続けようとしたところで、門からぞろりと伸びた手が金髪頭を鷲掴みした。

 

「ヒィェッッッ!?かかかかか、風柱ァ!?」

「入りもせずにぐだぐだしてんじゃねぇよ、糞餓鬼共ォ。ぶっ殺すぞォ」

 

 顔も体も傷だらけの白髪の男、不死川実弥は、善逸の頭を林檎のように掴んだまま獪岳を睨めつけた。視線で人が殺せそうな鋭さで、尋常でない険がある。

 

「テメェも何してやがんだァ」

 

 とっとと入れと、風柱は顎をしゃくって善逸と獪岳を屋敷へと放り込んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 




師匠による弟子カウンセリング問答。
そろそろ最終決戦です。まだ間がありますが。

尚、善逸は獪岳に並ばれないように稽古していましたが、ついに並ばれました。


【コソコソ話】
雪五郎と雷右衛門は、同じ親鳥が産んだ卵から産まれています。
また、雪五郎は担当していた隊士が殉職したために、獪岳たちのところへ来ました。


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十三話

お久しぶりです。

では。


 

 

 

 

 

 何と言うべきか、風柱の稽古は厳しかった。

 無限に手合わせを繰り返し、気絶して吐くまでやってようやく一度休憩という苛烈さなのだ。

 これまでの稽古を担当した柱は、皆休憩を挟んでくれていたのだが、疲れで失神するまで休憩が実質存在しないのだ。

 たまたま稽古先の重なった善逸が、最も逃げ出しそうな稽古であった。

 元々、桑島の師匠のところにいたときも、やれ稽古がつらいの苦しいのと言って、善逸は逃げ出していた。

 その都度、捕まっては引き戻されていたのは無様で、それを見る度獪岳は苛立ちつつ、若干憂さが晴れていたが、しかし、ここでは善逸は日が経っても食らいついていた。

 厳しい痛いもう嫌だ無理だと喚く割に、一通り喚いたら木刀をまた握って稽古からは逃げ出さないのである。

 おかしなものでも食ったかと、獪岳はつい二度見してしまうほどだった。

 獪岳も獪岳で、風柱には散々叩きのめされるのだ。

 嗚呼そう言えば、風柱はあの柱裁判のときに一等鬼に対して敵意がひどかったなと思い出したのは、何度目かの気絶から覚めてからのことだ。

 井戸端で善逸に頭から井戸水をかけられたときに、思い出したのだ。

 ちなみに、心配そうに見下ろしている善逸の顔がいきなり見えたため、獪岳はつい反射的に鼻面に頭突きをかました。

 

「いっった!獪岳、お前いつ炭治郎になったの!」

「うるせぇ。いきなりツラ見せるテメェが悪い」

「ひどくない!?そんなに言うなら幸ちゃんに起こしてもらえよ!あの子には獪岳頭突きできないだろ!」

「うるせぇ」

 

 べしゃ、と獪岳は濡れた手ぬぐいを善逸の顔面に叩きつけた。叩かれまくって、善逸の顔はぼこぼこになっている。

 見ていないが、獪岳も恐らく似たようなものだろう。冷やしてもまたすぐに稽古で元通りにされるから、当分はこのままだ。

 すぐに戻るには、手足から力が抜けすぎていて獪岳は井筒に背を預けて座り込んだ。

 当然のような顔をして善逸が隣に座り、獪岳は顔を背けた。

 

「あのさ、獪岳、調子どう?」

「良いふうに見えてんのか」

「み、見えてないです。風柱のオッサンがきつ過ぎて死にそうだし……」

 

 余りに太刀打ちできなさ過ぎて、頭に血が上り、剣を持ち出して戦いたいという輩が出る始末である。

 獪岳も最初こそ動きが見えていたのだが、疲労が重なるとどうしても動きが雑になって、そこを叩きのめされてしまう。

 見えてはいても、体が追いついてこないのだ。

 それは、あの上弦の壱のときも言えたことだ。鬼は基本消耗しないが、人間は時間がかかるほどに弱くなる。日が出るまでの消耗戦は、最悪の手段だ。

 斬撃すら見えずに斬り刻まれたあのときよりはマシだが、獪岳の体力は風柱には追いつけていなかった。

 

「獪岳?あのさ、ちょっとその、提案っちゃ提案なんだけど」

「……」

「ふた、ふ、二人で戦ってみないか?風柱のオッサンから、俺、一本取りたいんだ」

 

 誰だコイツ、と獪岳は目を眇めて善逸を見た。

 勝ち負けに拘るような気概を、善逸が獪岳に見せたことなどなかった。獪岳が善逸の顔をまともに見たことが、そもそも少ないのだが。

 

「や、だって俺たち爺ちゃんに習ってただろ。俺、獪岳の動き覚えてるもん。今は獪岳も違う型も使えてるけどさ」

「……同門だから、動きも併せられるだろうってか」

「そう。勝ちたいんだ。……えと、獪岳が良ければ、だし」

「いい」

「へ?」

 

 頼んでるのはお前だろうが、と獪岳は善逸の脇腹に肘を突きこんだ。

 

「他にも似たようなことしてるやつらはいるだろ。全員床に沈んでるけどな」

 

 風柱に叩きのめされまくり、風柱に勝つことが目的になっているのが多いのだ。

 別にそれでも支障はないと思うし、元々血の気が多いのばかりがいる鬼殺隊だ。そうもなるだろう。

 全員、風柱に叩きのめされて道場に積まれるのが関の山であるが。

 

「え、いいの?」

「いいっつっただろうが。手間かけさせんなグズ」

「いった!わかった!わかったから耳引っ張んな馬鹿兄貴!」

「お前なんぞの兄貴になった覚えはねぇ」

 

 弟弟子で、動きが似ているからだ。構う理由はそれだけだ。

 そもそも、あちこちから人間と共に戦うというやり方をもっと覚えてこいと言われている。幸からも、師匠からも、何なら鴉からも。

 かなり長い間、獪岳の言うことに黙って従う幸や、戦いのときには役に立たない鴉としか過ごしていなかった弊害だった。

 柱合裁判までは、鬼殺隊とそもそも出くわさないようにして、普段は藤家紋の屋敷すら避けるようにしていたほどだ。

 ふん、と獪岳は鼻を鳴らして善逸の耳を引っ張っていた手を離す。

 

「だけど、後にするぞ。力がまだ戻ってねぇからな」

「わかった」

 

 それにしても、死にたくないならともかく、こいつが勝ちたいと言い出すのは、珍しいことだった。

 白茶けた地面に点々零れた、汗とも水ともわからない水滴の黒い染みを見ながら思う。

 そう言えば、この弟弟子が強くなりたいとは言っていたと獪岳は思い出した。

 獪岳が、幸の頸を刎ねて責任を取るようなことが起きないように、と。

 善逸に言われたことは、大半覚えていたくないのでさっさと忘れることにしているのだが、思い出したら止まらなかった。

 

「お前、新しい型はどうなったんだよ」

「あ。あー……まぁ、ぼちぼちと」

「できてねぇのか」

「完成してないだけだし!絶ッ対に柱稽古の間で完成させてやるんだからな!」

「俺に吠えても仕方ねぇだろうが。先生か柱か鬼にやれ」

 

 この、『鬼のいない時間』はいつまで続くかは誰にもわからない。

 今日終わるかも知れないし、十日後かもしれない。それまでに、蟲柱や薬師の鬼や幸は薬を完成させられるのだろうか。

 完成したところで、幸は鬼から人へは戻らないだろう。童磨を倒すまでは、絶対に。

 

 顔を上げれば、まだ太陽は空高くにあって、日向に投げ出した獪岳の足先をあたためていた。

 まだ刀の持ち方も知らなかった頃、こんなふうに過ごしていたときもあったと、ふと思い出した。

 水汲み当番をさぼってだらけていたら怒られて、薪割りまでやらされた。

 遊んでいた沙代と幸が苦笑いしながら手伝ってくれたが、小さいのと足が悪いのとではろくな手伝いにならなかったものだ。

 うるさかったし煩わしくもあったが、あの寺は居場所だった。帰ることが、許されていた。

 馬鹿な理由で馬鹿な餓鬼が飛び出しても、連れ戻しに来てくれた。

 帰ることは二度とできなくなってしまったが、そんな場所もあったのだ。

 

 最近は、忘れていたことが、時々浮かび上がる泡のように還って来るときがある。

 いや、忘れていたというより、思い出さないようにしていたが正しかった。

 

「なぁ獪岳、獪岳と幸ちゃんってどんなとこに住んでたんだ?」

 

 そこへ来てこいつは、またも心を読んだようなことを言いやがる、と獪岳は額を押さえたくなった。耳が良いにしたって、察しが良過ぎであった。

 暇潰しにはなるかと、口を開く。

 

「寺」

「それは前聞いたよ?」

「うっせぇ黙れ。ぼろい寺だ。悲鳴嶼さんがいて、わらわら子どもが集まってた」

 

 何故、あの寺に集まっていたかは知らない。だが、身寄りがないから境遇は似たりよったりだったのだろう。

 

「やっぱ、岩柱さんてお坊さんだった……」

「見りゃわかんだろ。いっつも南無南無言って、尺八吹いてんだから。羽織りも経文だらけだろうが」

「そうだけど、やっぱちょっと想像できないっていうか」

 

 あのころの彼と、今の悲鳴嶼行冥は似ても似つかない。柳か枯れ木のようであったのに、今や岩を削って作られた仁王のようだ。

 中身にも、鬼への憎悪が焼き付いている。それでも幸と口喧嘩したときに悲鳴嶼から向けられる、あの見られるとむずむずするような眼差しは、変わっていなかったが。

 口からは、するすると言葉が流れて来た。

 

「俺は、あの人に怒鳴られたことも殴られたこともねぇよ。俺たちが喧嘩してたって、おろおろうろうろしてこっちが止まるまで手出しができねぇくらいだった。テメェの食いもん削っても、俺たちの皿数は減らせねぇお人好しだ」

「……」

 

 声を荒らげることがとにかくできなくて、しかも盲目で気弱だった。それでも、皆懐いていたし、大好きだったのだ。一番懐いていたのは、幸だ。

 獪岳は、自分が最も懐いていない自覚があった。

 

「そこにいた子たちは、どうしたの?」

「死んだ」

 

 ひぅ、と善逸の喉が窄まって滑稽な音がした。聞こえないふりで、獪岳は空だけを見上げた。日差しが、目に痛い。

 

 

「俺と幸と悲鳴嶼さんと、沙代っていう小さいやつ以外、全員鬼に殺された。夜になると鬼が出るって言われてたのに、信じてなかった」

 

 鬼避けの藤の香は面白がっただろう童磨に消され、幸を食った鬼が寺へ入った。

 その鬼は悲鳴嶼に殴り殺されたが、子どもは三人しか残らなかった。あとは皆、殺された。

 獪岳は、そこにいなかった。

 夢中で逃げて生き延びて、帰り着いてみたら寺はもう駄目になっていたのだ。

 悲鳴嶼が子どもを殺すわけ無いと言ったのに、誰も聞いちゃくれなかった。

 その場にいなかったから、獪岳が孤児だったから、身なりがぼろぼろで錯乱しているように見えたから。十分な理由だった。

 

 今更なことと割り切った過去を、我妻善逸に語ることは初めてだった。

 

「沙代は、多分誰かに引き取られた。悲鳴嶼さんは、お館様に助けられるまで人殺しで牢屋に入れられてたとさ。幸のことは説明しねぇぞ」

「なんで……子どもたち殺したの、鬼なんだろ?」

「日が出ちまえば、鬼は死体が残らねぇ。残ってたのは人の死体と、拳が血まみれの坊主と、錯乱したガキだけだ。誰も、言い伝えの化けモンが殺したとは思わなかったんだろ」

 

 鬼避けの香を炊く習慣ばかりが残って、本物の人食い鬼を誰も信じていなかったのだ。獪岳も幸も、皆が。

 そんなものいないだろうからと、獪岳は夜に外に飛び出して、幸はそれを追いかけた。沙代たちは、目の見えない悲鳴嶼が来ないように、二人はもう帰って来ていると誤魔化していたらしい。幸がそうしてくれと、頼んだから。

 帰れていたら、きっと、少し怒られるだけで済んだろう。

 

 

 こんなもの、全部抱えていても仕方ない未練なのだと、獪岳はかぶりを振る。

 疲れているから、こんなことまで考えるのだ。風柱のせいである。

 

「寺がなくなったから、俺はあちこちうろついて先生の財布スろうとして捕まって弟子になった。後はお前も知ってるだろ」

「獪岳が爺ちゃんの財布スろうとしてたこと、初めて聞いたんだけど……」

「テメェも、女に騙された借金の肩代わりしてもらったんだろうが。似たようなもんだろ」

 

 その弟子も、片や壱ノ型だけが駄目、片や壱ノ型以外が駄目という尖り具合だ。

 こうまで凸凹なら、もう笑うしかない。

 

「結局、ロクデナシな弟子しか見つけらんねぇんだよ、先生は」

「そ、そこまでかなぁ……。爺ちゃんに聞かれたら、また鉄拳飛んでくるよ」

「上等だ。今度は避けてやる」

 

 言った瞬間である。

 どこからともなく飛来してきた石礫が、善逸の額に当たった。獪岳が咄嗟に首を傾けたのが、直撃したのである。

 ダンッ、と重いものが叩きつけられる音がして顔を上げれば、風屋敷の屋根の上に、木刀片手の、人相目つきの悪い傷だらけの男が、こちらを見下ろしていた。

 言うまでもなく、風柱である。

 どこからどう見ても、不死川実弥である。

 休憩で姿を消していたのに、もう帰って来たのだ。

 

「クソ兄弟弟子共ォ、テメェらの師匠の話をグダグダする前に、やることがあるだろうがよォ。殺されてェのかァ?」

 

 殺される予定は、これまでもこれからもまったくない。

 石礫であっさり気絶した善逸を蹴っ飛ばして、獪岳は横っ飛びに跳んだ。

 直後に、屋根の上から飛び降りてきた風柱の木刀が、井筒を叩き壊す。

 獪岳が地面に転がしていた木刀を掴んで両手で構えるのと、不死川実弥の木刀が振り下ろされるのが、ほぼ同時。

 凄まじい衝撃に、受け止めた木刀が軋む音がする。

 馬鹿力も大概だ。

 炎と風の柱同士の手合わせで、木刀が枝のように圧し折れるわけだと、獪岳はどこか冷静な頭で思った。

 体格でも力でも負けている相手と、鍔迫り合いなぞしていられない。

 

「……ッ!」

 

 一瞬だけ木刀から片手を離し、砂をすくって投げつける。諸に目に浴びた風柱が僅かに仰け反った瞬間、獪岳は離れようとした。

 だが、引き換えに目の前に星が散った。

 頭突きを叩き込まれたと認識できたのは、蹴り飛ばされた後である。ごろごろ転がり受け身を取って立ち上がれば、今度は突きが飛んで来た。

 しかも、喉元である。

 殺す気かと、頭が冷えた。見えているものが、急に鈍くなる。

 真っ直ぐ伸びてくる鋒を、木刀で逸してかち上げる。突きを逸らされた風柱の腕が上がった隙に、獪岳は飛び込んだ。

 避けるだの防ぐだのは、最早考えない。前へ出ねば、嵐の前の木の葉のように吹き飛ばされて終いだ。

 懐に飛び込み、体を捻って横薙ぎに木刀を振るう。当たれば肋骨を折るだろう一撃は、素早く木刀を引き戻した風柱に上から押さえられた。

 

「馬鹿力かアンタッ……!」

「ハッ。攻めが浅ェんだよ、テメェはなァ。雷の呼吸を齧ってるってのに踏み込みが甘ェ。ンなんだから払われんだよォ。それでも煉獄の弟子かァ?」

「知って、らァッ!」

 

 無理やりに木刀を持ち上げ、再び打ち合う。

 

 井戸をぶち壊した風柱の一撃から始まった稽古は、頭をしたたか打たれて獪岳が地面に倒れたところで終わった。

 毎回毎回、失神するまで一区切りなのは変わらないのか糞ったれと、獪岳が苛立ちながら起きたときには、日が傾いていた。

 

「打ち合いになるだけいいだろ。俺なんか、気づいたときには吹っ飛ばされて目ぇ回してんだぜ」

「そーそー。相手になるだけお前すげぇよ。てか、なんでそんな全身刻まれてんのに生きてんの?」

 

 そんなことを宣ってくるのは、日向で叩きのめされてぶっ倒れた獪岳を、日陰にまで引っ張りこんでくれた隊士たちだ。

 丸坊主と角刈りという二人組で顔に見覚えはないが、どちらも疲労困憊という体だった。

 目の前では、相変わらず風柱によって木っ端のように隊士たちが吹き飛ばされていた。

 

「あ、そう言えばさ。お前の弟の……」

「あ?」

「弟弟子の!我妻な!あいつ、なんか竈門と一緒に乱闘騒ぎ起こして、出ていかされたぞ」

「ハァ?」

 

 聞けば、なんでも獪岳が気絶して寝ている間にあの竈門炭治郎がやって来て、その後から不死川玄弥もやって来た。

 そこまではまぁ良かったのだが、風柱が、話しかけた玄弥を目潰ししかけ、それを咎めた竈門炭治郎とたちまち大乱闘。

 元々反りが合わなそうな二人であったのだが、止めようとした隊士を巻き込んで殴るわ蹴るわ障子を吹っ飛ばすわと、それはもう凄まじかったようだ。

 とまぁ、炭治郎に巻き込まれる形で善逸も乱闘に加わってしまい、三人まとめる感じで叩き出されたという。

 聞くだに頭が痛くなって、獪岳は顔をしかめた。何をちんたらやって逃げ損なっているんだか。手を貸してほしいと獪岳に言っておきながら、できずに追い出されている。

 とはいえ今回ばかりは、寝ていて巻き込まれずに済んで心底助かった。

 不死川玄弥とは、悲鳴嶼を通じてなんだかんだ縁がある。

 そいつが実兄にすげなくされるどころか、重傷を負わされかけるのを放置していたら、後で幸や鴉に睨まれそうであった。

 さすがに獪岳が気絶している間に起きたことに関しては、あいつらもうるさく言えないだろう。

 それにしても。

 

「目潰し、な」

「そーだよ。俺チビるかと思ったね。風柱様スゲえ剣幕だったし」

「でも我妻に風柱様を悪く言われて、不死川のほうも怒ってたよな」

「……兄貴のことが好きなんだろ」

 

 だが、風柱は実弟に随分な対応である。

 不死川玄弥は、見た目の厳つい印象さえどうにかすれば、そこまで人から嫌われる人間には見えない。まして、身内から。

 それに、目を潰しても玄弥は堪えないのではないだろうか。鬼喰いで、体質まで変化しているらしいし。

 とはいえ、血の繋がった兄弟のことならお互い同士で何とかしろと、獪岳が欠伸をしたときだ。

 一通り隊士をあしらった風柱の三白眼が、ぎろりと獪岳たちを睨めつけた。

 炯々光る眼つきは、なるほど玄弥と似ていた。

 稀血のあの人には二度と近づきたくない、と幸は言っていたが、まず目つきの怖さで大概の女子どもには逃げられそうだと獪岳は思う。

 

「いつまで休憩してやがんだクソ共がァ」

「はいっ!!」

「すんませんっ!!あっ、俺ちょっと走り込みして来ます!」

 

 そんなことを言って、足早にどたどたと角刈りと坊主頭はいなくなる。一緒に走るべきかと獪岳が立ち上がったところで、風柱がその道を塞いだ。

 

「……何スか。俺も走ってこようと思ったんですけど」

「テメェにそれは要らねェ。構えろ。もう一度だ」

 

 空恐ろしい目つきと殺気に、獪岳はやるしかないかと木刀を構える。やられっぱなしは嫌いだ。どうせやられるにしても、盗めるだけ盗んでやると開き直った。

 その日、獪岳の腕が持ち上がらなくなるまで稽古は続いたのだった。

 

 

 

 




久しぶりで、何か忘れているかもしれません。

作者の精神的な問題と、その他私事で遅れました。


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十四話

感想、評価、ここすきボタン下さった皆様、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 次の稽古は岩だからとっとと出て行けと風柱の屋敷から叩き出されたのは、それから割合すぐだった。

 最初から最後まで、風柱はおっそろしい三白眼であった。

 鬼を連れているからあの柱からの敵意がとんでもないのは、獪岳も解っていた。

 敵意であって悪意でないなら、獪岳にとっては特に気にかけるほどのことではない、どうでもいい話だ。

 第一、目つきで言うなら上弦の壱のほうがよほど恐ろしい。

 身内でもない鬼を連れているほうが、変わり種で異端扱いなのは知っている。

 鬼にされた身内を庇う人間は往々にしているが、獪岳と幸は身内ではないのだから尚更だ。

 傍から見れば、自分たちは同じ人間に拾われて共に暮らしていた相手であり、あの鬼がお前にとっての何なのかと言われれば、かつて助けられ、そして見捨てた相手と獪岳は答える。

 喰い殺され死んだと思っていたら生きていて、利用できると思ったから拾ったのに、獪岳には、幸を利用しきれなかった。

 肝心要なところで、見捨てることができなかった。

 達成感よりも何よりも、何故己がそれをしたのかという、戸惑いが大きかったように思う。それは今も解けていない。

 獪岳にそういう感情を植え付けた当人とは、もう十日以上も会っていない。そろそろ二十日に届くのではないだろうか。

 だからどうと言うのではないが、それだけお互い顔を見ていない期間は、初めてと言えば初めてだ。

 

 それも終わるのだろうかと、風柱の屋敷から出たときにふと考えた。

 稽古が終わりだと言われたのは日が沈んだ夕方で、獪岳はそこからさっさと飛び出した。

 岩柱の稽古場へと歩いているうちに完全に日が暮れるのだが、夜歩くことは苦でも何でもない。

 泊っても良かったのかもしれないが、終わったらさっさと次へ行きたかったのだ。むしろ、ここ数日常に周りが喧しくてかなわなかったから、静かになりたいくらいだった。

 荷物を背負って歩いて、山道に差し掛かって、そして気がついた。

 後ろから、何かが凄まじい速さで走って来て、獪岳を追い抜いて行った。

 獣でもない、人でもないその気配は、とーん、とーん、と枝を軽々踏みしめ、地面を高く蹴っては跳び上がり、宙を踏むようにして進んでいた。

 編まれ、束ねられた黒髪が尾のように跳ねて、きらりと緑色の光が煌めいた。

 

 誰かと尋ねるまでもない。どこからどう見ても、幸である。あんな動き方をする山猿がいるか。

 夜の道を、少女は一人で走っていた。

 とん、と一際太い枝に飛び乗った幸が、何の気なしというふうに下を見る。目が合った。

 猫のように金色な瞳をまるくして、獪岳を見つけた幸は、あっさり枝から跳び下りて、音もなく着地した。

 とことことこと獪岳に近寄って来たその姿は、またいつもと異なっていた。

 黒い詰襟の服に、黒い袴に、包帯のような脚絆。鬼殺隊士の制服そのものだった。

 

「お前、今度は何やってんだよ」

 

 久しぶりの第一声は、そんな呆れ声のものになった。

 幸がその場で回って、背中に背負った物を見せる。中に何かが詰まっていると思しき小振りな背嚢だった。

 

「届けもの。岩柱の稽古場に。獪岳こそ、どうしたの?」

「風柱の稽古が終わったんで次のとこに行くんだよ」

「夜に?」

「いつ行こうが俺の勝手だろ」

 

 ぺしり、と頭が軽く羽で叩かれる。誰かと思えば、今度は鴉の雪五郎だった。

 姿が見えないと思っていたのだが、幸の側にいたらしく、ばさばさと羽を畳んで獪岳の肩に止まる真っ黒い鳥の面は、なんとなく得意げだった。

 お目付け役というところか。鬼を急がせてまで届けたい代物とは何なのだろうかと、気にはなった。

 

「いっしょに、行く?」

「ああ」

 

 鴉が翼を広げて空へ跳びあがり、その下をさくさくと草を踏みしめて歩く。生き物の気配がある夜道は、静かに二人分の足音と鴉の羽音を吸い込んでいた。

 

「届け物なんて誰に渡すんだ?」

「玄弥くん。鬼喰いの()()()()薬ができた、から」

「……なら、鬼を人に戻す薬も、できたのか?」

「そっちはあと、もうすこし。だけど、できるっ、て」

 

 こくり、と幸が頷いた。拍子抜けしそうなほど、あっさりしたものだった。いやお前当事者じゃあないのかと。

 

「だから、しのぶさんに、届けてと、いわれた」

「ああ、あいつ、鬼になれるんだったか。刀鍛冶の里で上弦の鬼喰ったって聞いたが」

「うん。……力、つよくなるけど危ない。体にもわるいから、そのための薬」

 

 そいつは素直に受け取らなさそうだと獪岳は、ため息を吐いた。

 呼吸が使えないくせに鬼殺隊に居続けている玄弥が、そんなもの素直に受け取るとは思えなかった。

 中和と言うからには、体の鬼の血を薄めるか抜くかするものだろう。

 鬼の血肉を喰らって鬼の力を振るうことで、体に差しさわりが出ないわけがないことなんて、本人がとっくの昔に思い知っているだろうに。

 それでも、薬ができたなら渡さずにはいられなかったのだろうか。

 

「獪岳、稽古はどうだった?」

「別に言うことなんてねぇよ。修行してただけだ。手紙出してただろ」

「蛇柱さま、の、ところについたあとから、きてない」

「風柱に扱かれてたんだよ」

「……そうなんじゃないかって、おもって、た」

 

 あちこち色が変わってる、と幸は振り返って自分の頬を指さした。

 冷やしはしたのだが、やはり殴られたりぶっ飛ばされたりしたところが、痣になっていたらしい。触ると痛いので、放置していたがよっぽどな面なのだろうか。 

 

「でも、嫌そうでもない。よかったの?」

「ふん」

「よかったんだ。よかったね」

「ケケッ」

「うっせぇよ」

 

 この能天気共、と屈託なさげな幸の金眼と、降下して幸の背嚢に器用に掴まった数珠玉のような鴉の黒眼を見ていると、善逸を思い出した。

 どいつもこいつも、曇りなく真っ直ぐに人の眼を見てくれるものだ。

 馬鹿兄貴と抜かしてくれたあの野郎は、一体何を考えているのか。

 今更、善逸の考えることがわからず、じわじわ腹が立ってくる。あのときは、疲れていて聞き飛ばしたも同然だったのだ。

 誰が誰の兄貴だ馬鹿野郎が。血など繋がっていないくせに、勝手に家族ごっこに巻き込むなと、むかむかした。

 しかし、文句を言いたい相手はとっくに風屋敷から叩き出されているのである。

 

「お前さ、兄弟じゃないやつに兄弟呼ばわりされたらどう思う?」

「ん?」

「ガ?」

 

 幸と鴉が、一緒くたに首を傾げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 たまにだが、幸は獪岳の脛を蹴っ飛ばしたくなるときがある。

 大事なことがわかってないというか、誰かに優しくするのが下手というか。

 心の何処かの根が地についておらずに浮いているような、そんな感じがするのだ。

 損得のみで動くなら賢く立ち回れるだろうのに、それを抜きにした心となると、なんだってこう不器用なのだろう。

 今回などはまさにそれだった。

 誰かにきょうだいと言われてどう思うかと言って、尋ねた相手がどんな気持ちになるのか、欠片くらいは想像してくれなかったのだろうか。

 

 まぁ、していまい。

 獪岳であるからナ、と雷右衛門なら言っていただろう。

 その一言で済ませてよいのかと思わないでもないが、そんなものだ。生きているなら、諦めも肝心である。

 はあ、と幸は素直に言うことにした。

 

「……うらやましい」

「羨ましい?」

「わたしは、きょうだいじゃない人、親じゃない人、と、家族みたいに、くらしたあの時間、好きだったから」

 

 忘れたとは、言わせない。

 獪岳だって、あそこにいた。

 来たときは傷だらけの犬のように刺々しかったが、いつの間にか棘が抜けて、満更でもない顔で頭を撫でられていたのを、覚えている。

 もう、忘れてしまったのだろうか。

 

「……獪岳にそれをいったの、善逸くん?」

 

 獪岳から、唸り声で肯定が返ってきた。

 寧ろ他に、獪岳を兄貴と呼ぶ人間がいたらそれこそびっくり仰天である。

 獪岳が善逸のことを嫌うのは、幸にはどうもできない。兄弟子と弟弟子として過ごした時間に、幸はいなかった。

 寂しいなとは思うし、嫉妬もする。

 同時に、どうもできないとわかっている。これは、空に輝く星に手を伸ばすようなものだ。

 兎にも角にも、兄弟子弟弟子のごたごたは、当人同士でどうにかしてほしいものだ。

 家族という存在に綺麗な憧れがあるらしい善逸が獪岳をそう呼びたくなるのも、憧れを理解できない獪岳がそう呼ばれて嫌になるのも、どちらにもやめろと言えないだけに、幸は困る。

 悲鳴嶼さんに、膝詰めで一刻半くらい説教してもらえたらわかるのかな、と頼りたくなる。

 獪岳は、それで素直に己や他人のことを顧みられるような(タマ)ではないけれど。

 

「わたしは、獪岳をすきな人がいることがわかって、うれし、い」

 

 言った瞬間、すごい顔をするなと、幸はこっそり見上げた獪岳の顔を見て思った。達磨か。

 幸には、獪岳は思っているほど弟弟子を嫌い抜けていないように見えるのだが、それを言ったら今度こそ臍を曲げられそうである。

 

「それに、そういってくれる、善逸くんがいる獪岳を、うらやましいと思う、よ。それ、だけ」

 

 幸は、そう思う。

 獪岳がどう思うかは、獪岳が向き合うことだ。

 獪岳が出した答えを、幸は聞くことができる。

 答えがどれだけ覚束なくても、たとえ耳を塞ぎたくなるようなものでも、聞くことができる。

 でも、答えを出すことはできない。

 

 それに、羨ましいのも本心だ。

 すべてが壊れたあの日から、獪岳にだって辛いこともいっぱいあったのだろうけど、でも、何かを与えてくれる人がいた。

 師匠と呼ぶ人も、できていた。弟だって、いる。

 

 どうしてあなただけ、と思わないわけはない。

 そこまで感情は死んでいない。

 ただ単純に、幸は獪岳が妬ましいのだ。

 

 だって、自分はその間ずっと一人で、名前も読んでもらえなかったのに。

 お腹はいつも空っぽでさみしくて、泣いても誰の耳にも届いていなくて、大好きな人が、この世で一番忌み嫌う生き物になってしまっていたのに。

 

 幸が欲しいもの、欲しかったものをたくさん貰ってるのに、持っているのに、それをわかっていなさげで不満を鳴らす獪岳の横顔をずるいなぁ、と思う。

 獪岳が獪岳じゃあなかったら、いっぺんくらいは愛想を尽かしているところだ。

 そんな日は、永遠来ないだろうけれど。

 

 けれど、でもやっぱり、つんけん太い眉を顰めている幼馴染みの顔を見たら、自分が()()()で良かったなあ、と思う。

 同じ人を見て、羨ましい妬ましいと思う心と、これでよかったと思う心のどちらもが本心なのだから、人間の心というのは複雑だ。

 感傷的なのを抜きにして、冷静に考えてみるのだ。

 何かの弾みで鬼になるのが逆さになっていたら、獪岳が、人を喰わずに済むことは無理だろう。

 人食いを我慢するためには、己の衝動を殺して殺して殺して、殺し続けなければならないのだから。そういうの、獪岳はいちばん苦手にしていそうだ。

 そうなっていたら、岩柱のあの人にも二人揃っては会えていないだろうし、善逸は獪岳のことを兄貴と呼べていなかったろう。

 世を救うのに忙しくって、一人ひとりにはそっぽを向いてしまうより他ない神様仏様も、少しくらいは助けてくださるのだ。

 その、ほんの僅かな、微かな手助けを、人は偶然や運と呼ぶのかもしれない。

 

「獪岳が、どん、なこたえをだしても、わたしはいいと言う、だろうけど────」

 

 雪五郎の翼の先を目を細めて伺いながら、言う。

 

「────ひとりでどこかへ、行かないで、ね」

 

 あの日の夜のように飛び出されたら、次は追いかけていけるかわからない。

 幸の脚はうんと速くなったけど、昼日中にいなくなられたら、自分では探しに行けないのだ。太陽は、痛い。

 だけど、口で言うほどそこまで心配はしていない。

 今なら、幸以外にも獪岳を探しに行ってくれる人はいるだろう。耳の良い弟弟子は、まさにその典型だ。

 よかったなぁ、と首を縮めて少し笑って、返事が返って来ないことに幸は歩きながら首を巡らせる。

 やっぱり何だか、獪岳は達磨みたいなしかめっ面をしていた。

 幸は獪岳のことを唐変木で鈍感だと思っているが、かと言って自分が人の心に敏感だとは考えられない。獪岳ほど世間の中で生きていないから。

 

 首を傾げると、背中の背嚢の中身が少し揺れて、中身がかさこそ音を立てた。

 これを、届けなければいけないのである。

 

「いこ。悲鳴嶼さんに会えるたんれん、楽しみじゃない、の?」

「別に。……会えて嬉しがんのはお前だろ」

「うれしくない、の?」

「……どうでもいいだろ」

 

 少し問い詰めたら、すぐそっぽである。

 勝手にしていろと放っておいて、幸は歩くことに集中した。

 獪岳が夜道で転ぶようなこともなく進んで行けば、ざあざあと激しい滝の音が聞こえて来る。

 

「滝……?」

「滝ダナァ!滝行ハ、立派ナ修行ダゾ!」

 

 げしげし鴉に突かれている獪岳を放っておいて、幸は辺りを歩く。

 しぶきを上げる滝に、ごろりと転がされた太い丸太、それに幸や獪岳の身の丈よりも大きな岩がある。

 丸太と岩には、人間の汗やら何やらのにおいがこびりついていた。

 どう考えても鍛錬の道具だった。いたずら心で試したくなって、幸は岩に両手をついた。

 

「っ……と!」

 

 体を大きく変え、えいやと鬼の剛力を込めれば、岩がごろりと動く。

 腕が短いから持ち上げることはできなかったが、これくらい大きなものを動かせるのは少し面白かった。

 しゅるしゅると縮むと、獪岳が呆れ顔で見下ろしてくる。

 

「何してんだ、お前?」

「岩、が、あった、から」

「だからっつって、動かして遊ぶかよ。餓鬼か」

「似タヨウナモノダロウ、オ前タチハ。何ヲ己ダケ賢シラブルノダ。獪岳ノクセニ」

「ンっだとてめぇこら」

 

 ぺし、ぺしと獪岳と幸の頭を順に翼で叩き、獪岳の手をすり抜けて雪五郎はケタケタ笑った。

 ここに辿り着けたはいいのだが、さて不死川玄弥はどこにいるのだろうか。

 においを嗅いで探そうかと幸は辺りを見回していると、獪岳が岩を見上げて呟いた。

  

「ここが岩柱の稽古場なんだよなぁ。何するんだ?」

 

 さぁ、と幸は首を捻る。見た感じだと、滝に打たれて、丸太や岩を担ぐのではないのだろうか。

 獪岳の疑問に答えたのは、幸でも雪五郎でもなかった。

 

「……ここでは筋肉を強化する。滝に一刻打たれ、丸太を三本担いで、岩を一町動かすのだ」

 

 暗がりからぬっと現れた姿は、やはり悲鳴嶼行冥である。

 

「よく来たな、獪岳、幸に……ああ、鎹鴉もやって来たのか」

「こんばん、は、行冥さん」

「……どうも」

 

 悲鳴嶼に会えるとやはり、幸は嬉しい。

 昔のようには関われなくても、姿を見ると安心するのだ。

 じゃり、と悲鳴嶼は数珠をすり合わせた。

 

「また夜通し歩いて来たのか……お前たちならば平気だろうが……」

「大丈夫ですって。俺は風柱様に、もう終わりって言われたから来たんですよ。こいつは蟲柱様に薬を届けろって言われてたみたいで、途中でたまたま会ったんです。で、不死川玄弥ってここにいますか?」

「いる。だが今は謹慎中だ。……届け物とは、胡蝶の言っていた薬か?」

「はい。できた、から、もって来まし、た」

 

 背嚢を降ろして幸が上に掲げると、悲鳴嶼は頷いた。

 

「獪岳、稽古は明日の朝からだ。中身は言っていた通りだが、わかったか?」

「わかりましたけど、あの、あの岩、自力で、本気で運ぶんですか?」

 

 獪岳の指差す大岩に、悲鳴嶼のほうが意外そうに片眉を上げた。

 

「そうだが」

「そうだが!?」

「む。何かおかしいか?」

 

 そりゃあんたなら運べるでしょうけど、とぶつぶつ溢しつつ、獪岳は岩を見上げた。

 確かに大きい。獪岳よりも大きいのだ。

 ふ、としかめ面の獪岳に悲鳴嶼の表情が和らぐのが、幸には見えた。獪岳は気づいていないらしい。

 

「獪岳、何も持ち上げて運ぶのではないぞ。押して、一町運ぶのだ」

「当たり前です。こいつでも持ち上げるのは無理ですよ」

「ん」

 

 蹴っ飛ばして宙にかち上げるならできそうだが、持ち上げるのは腕が短くて足りないから難しいだろう。

 だが、一町動かすのが鍛錬というなら、幸が動かした分は元に戻しておくべきだろうか。

 幸が岩を突いている背後で。訥々と悲鳴嶼は獪岳に言い聞かせていた。

 

「何も私の訓練は、絶対やり遂げなければならぬというわけではない。無理と思うなら、山を降りるのは構わない。他の者のように、終わるまで他所へ行ってはならないという訓練ではないのだが……」

 

 獪岳の瞳の奥に、激しい炎のような光が瞬いた。

 

「俺はできねぇとは言ってね……です!ここまで来たんですから、最後までやるに決まってます!」

「だろうな。煉獄や桑島殿からも話は聞いている。頑張ってきたようだな」

 

 すぐに吠えて食って掛かった獪岳に、悲鳴嶼はどこまでも鷹揚だった。

 悲鳴嶼相手だと、獪岳の猫が時々剥がれかける。猫どころか敬語まで剥がれかけるのは、見ていて結構、面白い。

 そう思っていたら、悲鳴嶼の眼が幸の方へ向けられる。

 

「幸。今から帰れば、日の出の時間に当たってしまうだろう。明日、日が沈んでから蝶屋敷に帰りなさい」

「はい」

「胡蝶から、お前の話も聞いているぞ。よく薬の手伝いをしてくれていて、助かると言っていた」

 

 そうなのか、と幸は少し俯いて、履き物の爪先に視線を落とす。

 ガァ、といつの間にか幸の頭の上を止まり木にしたらしい雪五郎が鳴く。

 蝶屋敷での薬の手伝いは、楽ではなかったが苦しくはなかった。

 幸がしていたことは、主に、いくつもいくつも試される薬の成分を正確に覚えて書き留めたり血鬼術を使ったりと、細々したことだ。

 あれこれ聞かれるのか、と身構えていたら、悲鳴嶼の気配が頭上で和らぐのを感じた。

 

「ついてきなさい。修行中の隊士たちが寝ている小屋がある。起こさぬように、静かにな」

 

 はい、とこれには二人揃って返事をして悲鳴嶼の後をついて行った。

 

 

 

 

 




久しぶりに登場の、鬼っ娘。お使いの途中。
またも衣替えしてきました。
着るまでは遠慮していましたが、着てみると動きやすいので気に入っています。釦で留める服が初めてだった。
無限城での愈史郎と同じ格好ですが、目は鬼のままです。

最後の稽古です。ここが終わったら最後の戦いかと。


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十五話

お久しぶりです。

では。


 

 

 

 

 

 鬼とは、理不尽な存在である。

 人間は何か月も何年も鍛錬を積んで、ようよう刀をまともに振るえるようになるだけ、という輩もいるのに、鬼は鬼舞辻の血を浴びただけで魔物と化すのだから。

 他にも腕が生えるだの足が生えるだの、傷がたちまち癒えるだのと、元が同じ生き物であるなどとは信じられないほどの生命力を持っている。

 だが、獪岳としてはこのときほど理不尽と思ったことはなかった。

 

「お前っ……お前、どうやって岩なんて動かしてやがんだよ……!」

「……」

 

 体格も貧弱で身の丈も己よりない少女の細腕が、いともたやすく大岩を転がす様を思い出して、獪岳は苦虫を嚙み潰したような顔になった。

 理屈はわかる。わかりすぎるほど。

 見た目がどうでも、幸は鬼である。

 一跳びで見上げるほどの高さの木を飛び越し、人の胴だろうが鬼の首だろうが、蹴りでぶち抜くほどの脚力を持つ。

 獪岳と善逸の二人をそれぞれ片手で担いで、山道を疾走して息切れ一つしないだけの腕力と体幹と体力もあるのだ。鍛錬を積んだからではなく、鬼舞辻の血に適応したために。

 ああ認めよう。

 基礎的な身体能力で人間は鬼に絶対に敵わないのだ。死ぬほど思い知っているそんなこと。

 だがだからと言って、きょとんと首を傾げている小柄な少女に動かせる大岩が、自分に動かせないのは苛立つのだ。

 地面に疲労で倒れて大の字になっている獪岳の顔を上から覗き込む形で、幸は膝を揃えて屈んでいた。日が沈んだから引きこもっていた箱の中から出て、これから蝶屋敷へ帰るところなのだ。

 逆さになった顔の中で、金色の瞳がよく光っていた。

 

「……わたし、鬼」

「知ってんだよ」

「鬼、は、感情でちからが、変わる。頭にかっ、と血が、のぼった、ら、わたしも、痣、でた」

 

 上弦の壱と遭遇したときに、片目を中心に現れた痣のことである。

 寿命を大幅に削る人間の痣と似ており、獪岳としては気になっている痣なのだが、出た当人はこのようにけろりとしているのだ。

 じぃ、と十五夜の満月のような瞳に見つめられていると、自棄を起こしている己の姿がみっともなく映っているようで、獪岳は無言で身を起こした。

 黒い、鬼殺隊の詰襟の服を来た幸も、膝を払って立ち上がる。

 二人の前には、見上げるような大岩が転がっていた。

 滝に打たれ、丸太を担げるようになれば、次は大岩を動かすのが、この岩柱の稽古場なのだ。

 ここに来た初日に、幸が面白半分でごろんと動かした、あの岩である。

 滝行と丸太運びは何とか完了できたものの、この最後の大岩転がしが難関だったのだ。とにかくでかいわ重いわと、草履の紐が千切れるほど踏ん張っても動かせない。

 それは他の隊士たちも同じで、大体ここでも屍累々となっている。

 とはいえ他と異なるのは、何も課題をこなせずとも不合格とはならないのだ。

 いつ稽古場の山を降りても構わないと、岩柱は言っていた。

 

「……がんばれ」

「言われなくてもやってやる。お前、今日蝶屋敷に帰るんだろうが。さっさと戻らねぇとまた日に焼かれるぞ」

「うん。……じゃあ、また」

 

 本来、幸は不死川玄弥へ薬を届けに来ていたのだ。

 用はもう済んだのにまだいたのは、ここしばらく会えていなかった反動だろうか。

 まさかな、と獪岳はこちらへ手を振って、山道へ駆け出していく幸を見送って、大岩と向かい合った。

 言うまでもないが、悲鳴嶼は動かしていた。しかも、これより大きな岩を。

 

「おい、お前。もう夜なんだから引き上げろよ。汗で体冷えるぞ」

 

 藪をかき分けて現れたのは、不死川玄弥である。

 規律を破って風柱と接触して乱闘を起こしたとかで謹慎処分をくらっていたのだが、最近解けたそうだ。

 幸が蝶屋敷を飛び出したのも、この玄弥に鬼化の治療薬を届けるためだ。

 受け取る受け取らないで押し問答をして、結局押し付けるようにして幸は帰って行ったのである。口先と押しの強さで、玄弥が幸に勝てるわけがない。

 

「ああ」

 

 適当にそこらの枝に引っかけていた上着を羽織って、獪岳は玄弥の後をついて小屋へ戻る。

 

「あ、獪岳さんお疲れ様です!ご飯できてますよ!」

「……ああ」

 

 ぺかぺかとした笑顔で炊き立ての白米を片手に持った竈門炭治郎に、獪岳は何とも言えない顔で相対した。

 こいつ以外にも、この稽古場には何だかんだよく見かける猪頭の嘴平伊之助もいる。

 その上。

 

「あ、か、獪岳。お疲れ」

「……」

 

 毎度のへらりとした笑いを貼りつけた、我妻善逸もいるのだ。

 無論他にも隊士はいるのだが、獪岳がまともに会話したことがあるのが、この三人と玄弥くらいなものだ。大体、獪岳はきちんと顔を覚えている人間自体が少ない。

 彼ら同期組と、任務以外でまともに会話した試しはないのに、傍から見れば先輩隊士と後輩隊士に見えるらしい。それを聞いたときは、鳥肌に拍車がかかるかと思った。

 米を炊くのがやたら上手い竈門から握り飯と焼いた魚を受け取って、小屋の片隅に座って食い始めれば、善逸がいそいそ近寄って来る。

 追い払うのも面倒すぎて顔を背ければ、こそこそと腰を下ろすのだ。こいつは鼠か。

 

「ンだよ」

「べ、別に何でもないけど獪岳お前、いつも隅にいるじゃん。見てあげてねって幸ちゃんが言ってたんだよ」

「あの馬鹿……!」

 

 最高に余計なことを言い残して帰りやがったと、獪岳は魚を食い千切りながら唸り、善逸は口を尖らせた。

 

「幸ちゃんのこと、馬鹿って言うなよ。獪岳のとこに来てくれるからいいじゃん。俺は禰豆子ちゃんと全然会えないし……」

「口を閉じて飯を食え。竈門の妹とお前は、別に何でもないだろうが」

「はー!?そんなことないですし!禰豆子ちゃんは、俺のことちゃんと蝶屋敷で待っててくれてますし!ていうか、口閉じてたら飯食えないんですけど!」

「なら餓えて死ね。それに、竈門の妹は俺と会おうが玄弥と会おうが、お帰りって言ってくれるな」

 

 やめろ俺を巻き込むなと言わんばかりに、玄弥が顔をしかめている。

 お前の同期だろうが何とかしろと、獪岳も玄弥を睨み返した。

 

「なあバチバチ野郎、お前岩は動かせたのか?」

 

 猪の被り物をずらして、女のように整った顔を晒している伊之助が、両手で握り飯を頬張りながら尋ねて来る。

 嫌みも屈託もない問いなだけに、獪岳は眼光鋭いまま答えた。

 

「まだだ。つうか、ここにいる中で動かせたやついるのかよ」

 

 動かせたなら、そもそもこの稽古場に残っていないだろう。幾人か、諦めて下山していくのを獪岳は見ている。

 絶対にやる、と悲鳴嶼の前で啖呵を切った手前逃げる気はないが、鬼の腕力でもない限り動かせないのではと思うほどに、あの岩の重量は凄まじかった。

 握り飯を配るのを終えたらしい炭治郎が、自分の分に齧りつきながら口を開いた。何故こっちへ来て座るのだ。

 

「確かに、俺もまだ動かせません。でも、悲鳴嶼さんは俺たちより大きな岩を動かしてるから、すごいですよね!俺もあんなふうになりたいです!」

「あのオッサンは規格外なんだよ炭治郎!腕も足もごついし太いし!俺たち何人分の腕力があるんだってはな……アイタッ!」

「喧しいつってんだろ。悲鳴嶼さんは元々ほっせえし弱ぇ坊さんだ。ぐだぐだ喚くな」

 

 え、と小屋にいた隊士たちが獪岳の方を見る。

 名前も知らない坊主頭やぼさぼさ頭にまで見られて、獪岳は顔をしかめた。

 ここにいる者の大半は、獪岳が昔悲鳴嶼と暮らしていたことなど知らないのだ。余計なことを言ったと、魚をまた齧る。

 炭治郎はお構いなしに続けた。

 

「そうなんですね。じゃあ、悲鳴嶼さんはどうやって鍛錬したんでしょうか?」

「なあ、お前ら」

 

 次に声を上げたのは、何も食べずにただ座っていた玄弥である。手を上げたことに己が一番驚いているのか、玄弥はやや目をさ迷わせていた。

 

「お前たち、反復動作って知ってるか?悲鳴嶼さんが使ってるやり方なんだけど」

「知らない。それ、何だ?」

 

 注目されていることに慣れていないのか、ややつかえながらも玄弥が語ったところによれば、それは悲鳴嶼や玄弥が行っている、体の力を引き出すための方法なのだという。

 予め決めている動作をしたり、言葉を唱えたりすることで集中力を極限にまで高め、一気に体の力を開放するという。

 痛みや、怒りの記憶を呼び起こしてその際の激情を引き金にする場合もあり、玄弥や悲鳴嶼もそうしているらしい。

 鬼殺隊に入るような者なら、そんな記憶には事欠かないだろう。

 

 だが言われてみれば、幸が力を爆発させたのは、感情が昂ったときが多かった。

 過去をほじくり返された童磨のときは言わずもがなで、上弦の壱との場合は、獪岳を鬼にすると言われたことに激怒して理性が飛びかけ、鬼の本能と力を振るったそうだ。

 爆発しかけた感情で鬼化を進めさせ、引き換えに力を得たから生き延びられたのだ。

 そうやって、感情のまま体をより強く組み替えることができるのが鬼で、できないのが人間とも言えるだろう。

 一朝一夕で体が組み変われば、普通人間は死ぬ。

 だが、その反復動作で集中力を高めるという方法は、良いものに聞こえた。

 死ぬと思ったとき、まるで時間が引き伸ばされたような感覚に陥ることがあった。その中で藻掻いて、どうにか生き延びてきたのだ。

 力が跳ね上がったわけでなく、一時的に別の世界を覗き、潜ったような感覚だった。反復動作で極限まで集中力を高めれば、同じことになるのではないだろうか。

 

「岩柱様、そんなことご存知ならどうして教えてくれなかったんだろ」

「あの人、教えるの得意じゃねえんだ。だけど、俺たちが鍛錬してるときは悲鳴嶼さんも岩動かしてただろ。真似してできるようになってほしかったんだよ」

「わかるわけねえわ!じゃあ、不死川もその反復動作できんの?岩も?」

「……できる。岩もまあ、何とか動かせる」

「すっげぇ!教えろ!」

 

 わらわらと隊士たちに集られて、困ったように眉を八の字にする玄弥を横目に、獪岳は塩味のきいた握り飯を食う。

 怒りや痛みの記憶と聞いて真っ先に呼び起こされるのは、あのにやついた氷鬼の顔だ。上弦の壱の六つ目は、恐怖が先に立つので速やかに思い出さないことにする。

 玄弥や悲鳴嶼の場合は、経文を唱えることを鍵にしているらしいが、何の言葉にすべきかと獪岳は首を捻る。

 経文はさっぱりだ。物覚えのよい幸とは違う。

 

「反復動作かぁ……俺は……」

 

 もごもごと握り飯を口に詰め込みながら思案しているらしい善逸から視線を逸らして、ふと窓の外に目をやれば、そこにはこちらをじっと見つめる悲鳴嶼がいた。

 無言ながら何故か彼に呼ばれているような気がして、獪岳は立ち上がった。

 

「あれ?獪岳」

「厠だ。……まさかついてくる気じゃねえだろうな」

「い、行かないよ!いってらっしゃい!」

 

 握り飯の最後の一欠けらを呑み込み、気配と足音を殺して小屋から出れば、誰にも声を掛けられなかった。

 小屋の裏手に回り込めば、そこには不動のように悲鳴嶼が立っていた。

 気配に気づいてか、盲いた目が獪岳の方を向く。

 

「あんたは中に入らないんですか、悲鳴嶼さん」

「……私がいれば、彼らは寛げないだろう」

「窓の外から覗かれてても怖ぇんですが。玄弥に用でも?」

「いや、お前に用があった。話ができるか?」

「できるから出てきたんですよ。稽古場の方へ行きますか?」

 

 頷いて、経文の羽織を翻して歩き出す悲鳴嶼の後をついて歩く。

 悲鳴嶼の足が止まったのは、ちょうど獪岳が、岩を押していた場所である。

 南無、と小さく呟いて悲鳴嶼は黙ってしまうし、獪岳も何も言えない。

 話の出だしで毎度こうなるのは、最早仕方ない習性じみてきている。悲鳴嶼も獪岳も、到底朗らかと言えない性格なのだから、こうなるのだ。

 とはいえ悲鳴嶼に関しては、昔はもっと何をするにもやわらかい、優しい印象があったと思う。獪岳が子どもであったから、そう感じていただけなのかもしれないが。

 

「悲鳴嶼さん、聞きたいことがあるんですがいいですか?」

「なんだ」

 

 埒が明かないと、七尺はある巨躯を見上げ……るのも面倒になり、獪岳は岩の上に飛び乗って座った。

 盲いている悲鳴嶼には目線の高さなど大して関係ないだろうが、見上げ続けて会話するのは首が疲れるのだ。

 

「痣のことです。あんた、二十五を過ぎてましたよね?」

「そうだ」

「俺は、痣が出れば二十五で死ぬと聞きました。それを超えてるあんたは、どうなるんですか?」

「……痣はまだ、私には出てない。だがそれは、鬼舞辻と戦うときまで、取っておくべきだろう」

 

 そうじゃない。そうではないのだ。

 悲鳴嶼が、鬼殺隊最強の岩柱が、痣を出せないわけはない。獪岳が聞いているのは、出した後どうなるかと言っているのだ。

 

「俺は、あんたが痣を出せないとは思ってませんよ。生命が二十五までになる痣を出したら、あんたはいつ死ぬんですか。寿命、絶対に減るでしょう」

「減るだろうな。……恐らく、痣を用いてから、保って数日だろう」

「痣を出して、戦っただけで?」

「そうなるだろうな。鬼は人間より遥かに強靭で、不死にも近い肉体を持つ。それらと戦い、倒すための代償が、軽く収まるはずがない」

 

 それは鬼殺隊の柱ならば、備えて当然であろう覚悟であり、獪岳には踏み込めない域の話だった。

 

「……だが」

 

 不意の苛立ちが募って岩に叩きつけようとした手が、悲鳴嶼の静かな一言で止まる。獪岳は、そろそろと悲鳴嶼を見た。

 白く濁った見えぬ眼で、悲鳴嶼は宙空を見ている。

 

「私が痣を出し、戦い、死ねば、幸は泣くだろうな」

「……わかってんなら、意地でも生き残って何とかしてくださいよ。ぴいぴい泣いてるあいつが、俺の手におえるわけねぇから」

 

 嘘だ、と言いつつ思う。

 どうせ幸はぐっと唇を噛んで、声も悲鳴も殺して、人前で泣かないに決まっている。

 周りに誰もいなくなってから、静かに蹲ってぽろぽろと顔を覆って泣くのだ。わあわあ声を出して泣いたほうが、気が楽になるだろうに。

 数珠を擦り合わせて、悲鳴嶼が再び尋ねてきた。

 

「お前は、泣くか?」

「……そのときになってみなきゃ、わかりませんよ。……まぁ、岩柱が死ぬような戦いで、俺が生き残れてるかはわかりませんけど」

 

 先程の口振りでは、悲鳴嶼は近々鬼舞辻と直接戦うことを視野に入れている。

 お館様も含めての見通しかはわからないが、柱たちのまとめ役である岩柱が言うならば、彼一人の考えということはまさか、ないだろう。柱稽古も、そのためのものなのだ。

 半ば本気で半ば冗談のその言葉に、悲鳴嶼の数珠玉がぎゃり、と鳴った。

 

「お前たちは、死なせない。柱ならば、若い芽は必ず守る」

 

 やけに、きっぱりと言い切られた。

 そこに含まれる覇気と決意に、獪岳は思わず口を噤む。

 柱ならば後輩を守る、というのは、あの炎柱の師匠も言っていた。次を戦える者を、今戦う者が守るのは当然なのだと。

 その理屈で煉獄杏寿郎は上弦の参に一人で立ち向かい、死にかけたわけだが。

 何故だか、ひどく己が小さく、惨めになった気がする。視線を膝の上に落として、つっけんどんに返した。

 

「そうですか。じゃ、俺たちが持って帰った上弦の弐と壱の情報、しっかり役立ててくださいよ」

「無論だ。お前たちと、雷右衛門までもが生命を懸けて得たものを、断じて無駄になどしない」

 

 獪岳にとっては常に煩かった鴉の名を、悲鳴嶼はあっさりと口にする。手紙のやり取りのときにでも、知っていたのだろう。

 焼き鳥にして食うぞと散々脅して、その度嘴で反撃してきたあいつも、もういない。鬼に殺されて、いなくなった。

 悲鳴嶼の周りを取り巻いていた子どもらも、もういない。鬼にされ、或いは鬼に殺され、皆いなくなってしまった。

 

 そんなことばかりだ。

 皆、鬼が殺してゆく。奪ってゆく。

 

 奪われたくなければ、強くなるしかない。

 この世は、そういうものなのだ。

 強くならなければいけない。もっと、もっと。

 鬼さえこの世にいなければと嘆くだけならば、誰にでもできるのだから。

 

 だらりと膝の上に置いていた手を獪岳は握り締めて、岩の上から滑り降りた。

 

「で、悲鳴嶼さん。さっき玄弥が言ってた反復動作なんですけど、あれ、教えて下さい」

「……うむ?」

「うむ、じゃありません。教えて下さいって言ってるんです。大体、見て盗めって言われたって、できるやつのほうが少ないんですよ」

 

 たとえば、そこいらにいる輩とか。

 地面から掬い上げた適当な小石を、林の方に投げる。何かに当たる音と共に、うわっ、と驚いた声がばらばらと上がった。

 真っ先に飛び出て吠えたのは、毎度の黄色頭だった。

 

「獪岳!お前今俺を狙っただろ!頭に当たったよ!」

「ああそうか。悪かったな、偶然だ。てめぇみたいな石頭なら、石なんざ平気だろうよ」

「顔が笑ってるんですけどぉ!それから石頭は炭治郎だよ!」

「うるせぇわ。ついて来るなって言ったのに、ぞろぞろ来やがったのはそっちだろうが」

 

 正確に言えば、獪岳はついて来るなとは、言っていない。ついて来るつもりじゃないだろうなと、凄んだだけだ。

 だが、善逸と小屋にいた隊士たちはやや決まり悪げにてんでばらばらな方を向いた。

 そこに玄弥も混ざっている上、その隣で特大に滑稽な顔をしている竈門は何なのだろう。にらめっこのつもりか。

 その中で、あまりいつもと変わらずに進み出たのは、猪頭もとい伊之助だった。

 

「おい、玉ジャリジャリ親父!俺たちにも岩の動かし方教えろ!」

「おまっ!馬鹿この馬鹿猪!す、すみません岩柱様!盗み聞きするつもりじゃなくて、ええと……」

 

 猪頭をぽかんとどついた坊主頭も、おろおろ視線を彷徨わせる。盗み聞きのつもりがなかったならば、何のつもりがあったのだろうか。

 ともかく誰も彼もが慌てふためくのがおかしく、獪岳は黙って突っ立っていた。

 悲鳴嶼の柏手が、皆を鎮めたのはそのときだ。

 

「……わかった。だが、今日はもう夜だろう。皆、明日朝早くこの岩へ集まるように。手本を見せよう」

「はい!」

 

 割合揃った返事が、稽古場の夜の空気を震わせたのだった。

 

 

 

 




あと少しで、雪崩のように色々変わると思います。


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十六話

お久しぶりです。

では。


 

 

 悲鳴嶼行冥が、教えるのが苦手というのは誇張でも何でもなく真実であった。

 説明が訥々として上手くなく、かつ時々南無阿弥陀仏が挟まるし、本人が些細なことで滂沱と泣くし、鬼殺隊最強の七尺を超える大男に怯む隊士がいるしと、なかなか教えると言っても進捗は芳しくない。

 捨て子たちを拾って育てたり、鬼喰いを繰り返す玄弥と蝶屋敷に繋がりをつけたり、面倒見が良い割に、悲鳴嶼は教えるのは上手くないのだ。

 それでも、見ていれば学べることも多々ある。

 昔手を染めた掏摸の技も、獪岳は見て覚えたのだ。教えてくれる者など皆無だったから。

 上半身に力を込めるのでなく、下半身に力を込めて全身で押す。

 押し負けないためには、これまた全身の力が必要なのだ。

 一瞬で集中力を高める記憶は、あの、最も惨めだった夜の森の記憶と決めた。

 自分よりずっと弱いと思っていた小さな少女に庇われ、突き飛ばされ、鬼から逃げるしかなかった日のことだ。

 あれからもう随分経っているのに、未だ思い出すだに鳥肌が立つ。思っていたより引きずっていたあのときの感情を、思い出して引きずりだせば、岩は僅かに動いた。

 

 といっても、どこかの鬼娘が遊び半分でやったようにあっさり動いたわけではない。

 獪岳が全身で突っ張ってようようずるずると動いただけだし、課題は一町動かすことだ。まったく足りない。

 それでも、全集中の呼吸が使えない玄弥でも動かすことができるのだ。ならば、獪岳にできないわけはない。

 ほとんど負けん気で粘って粘って数日経って、ついに岩は一町動いた。

 動かし終えはしたが、さすがに全身に重石をくくりつけられたように怠い。

 滝のような汗をかいたまま、岩に背を預けて呼吸を整えていると悲鳴嶼が現れた。

 

「やり遂げたのか」

「当然ですよ。やるって言いましたから」

「南無……」

 

 何が南無なのかは、相変わらずよくわからずに、獪岳は悲鳴嶼を見上げた。

 仁王のような岩柱は、獪岳が動かしたものよりも大きな岩と取っ組んで動かし、まったく疲れていないように見えた。底が知れない。

 悲鳴嶼と違って、全身が綿のようにくたくたで疲れてはいても、獪岳が行うのは全集中の呼吸で、そうしていると自然、体も休まる。

 回復の呼吸に、常中の呼吸、炎の呼吸に雷の呼吸と、思えば様々な言葉を言われ、習って来た。

 どれもこれも、極めたというにはほど遠く、しかしやれるだけのものを繋ぎ合わせてどうにかやって来た。

 とはいえ、獪岳一人ならばやはりどこかで死んでいたろう。

 上弦とあれだけ会敵して、五体揃っているのは奇跡だとか、あり得ないだとか、ちらほら聞こえる。幸の、怪我を治せる血鬼術がなければ獪岳の五体は揃っていなかったから、そういう声は正しい。

 

「じゃ、俺は山を降りますね。ありがとうございました、悲鳴嶼さん」

「うむ。……気をつけて行きなさい」

「はい」

 

 上着を着て礼をして、その場を立ち去る。

 言いたいことがあるような、しかし何を形にすべきかはわからないまま、離れる。

 稽古場のあちこちには、未だ岩を押そうと四苦八苦の隊士たちがいて、その中には黄色頭もあった。また親しげに声をかけられるのも面倒で、獪岳は迷わず人が目をかけない獣道へ踏み込んだ。

 下草をかきわけ、時間をかけて小屋へ戻り、荷物を取って建物を出る。

 その頃には疲労で震えていた手足も元へ戻っていて、山を降りて蝶屋敷へ辿り着く頃には、疲れはほぼ取れていた。

 

 見慣れた蝶屋敷の門をくぐったところで、奥からぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。建物の陰から、両手一杯に白布や端切れを抱えて現れたのは、竈門禰豆子だった。

 獪岳の姿を見るなり、無垢な瞳が輝いた。

 

「おか、えり!」

 

 おかえり、と繰り返す禰豆子は、まるで言葉を覚えたての幼い子どもだ。

 太陽を克服しても、頭にかかっている霞は晴れなかったのか、禰豆子はずっとこうである。かつては幸もこのような具合であったから、いずれまともに喋れるだろう。禰豆子の場合は、それより前に、薬で人へ戻るのだろうが。

 それはともかく。

 

「……おいお前、布の端引き摺ってるぞ」

「?」

「だから、持ち過ぎなんだよ。貸せ」

 

 古い肌着や敷布をほどいて、また何かに使うのだろう。だが、如何せん禰豆子は持ち過ぎで、白布の端が地面を引きずりそうだった。

 半ば奪うようにして、禰豆子が抱える布を半分ほど取ったところで、禰豆子を追いかけてきたらしいなほが、建物の陰から兎のような勢いで現れた。

 

「あ、獪岳さん!こんにちは!お帰りなさい!」

「……ああ」

 

 蝶屋敷の名物のような三人の看護婦娘の一人は、獪岳を見るやぱっと明るく笑って駆けてきた。

 

「幸さんなら、今屋敷の中です。難しい薬を作ってるから、その……」

「別に、あいつに今すぐ会いに来たわけじゃねぇよ。俺は薬なんてわからねぇからな」

 

 なら何をしに来たのかと言われれば、獪岳には応えられない。会いたいと、はっきり思っていたわけでもない。

 だが、修行を終えて真っ先に足が向くのは、幸がいるこの場所しかなかった。今は昼過ぎだから、今この屋敷にいる鬼たちは竈門の妹以外、誰も外に出てこられないことは知っていたのに。

 まあ、それは良いのだ。

 

「なほ。こいつに持たせ過ぎだ。布が汚れそうだったぞ」

「す、すみません」

「別に。……どこに持ってきゃいい」

「あ、えっと、案内しますから付いてきて下さい!」

 

 やはり物がわかっていなさげに、ただにこにこと微笑む禰豆子と、駒ねずみのようによく動くなほに挟まれるように、獪岳は布を運んだ。

 一体自分は何をしているのやらとも思うが、乗りかかった船でもある。

 常日頃、寝台のどれかがうめき声を上げる怪我人で埋まっているような蝶屋敷も、今は束の間の休息なのか、屋敷に漂う気配はやや穏やかだった。

 先を歩いていたなほが、首をそらせて獪岳を見上げる。

 

「獪岳さんは、柱稽古を終えられたんですか?」

「岩までは終わった。水の稽古はやるんだかやらねぇんだかわからないから、戻ってきたんだよ」

「水柱様は、この前炭治郎さんが追いかけに行って、稽古をなされることになったと聞きましたけど……」

「あいつが?」

「はい。脚の怪我が治りきらないうちに炭治郎さんが出ていかれてしまったから、しのぶ様が怒ってました」

 

「何やってんだ……」

 

 しかし獪岳も、治りきらない傷を抱えたままでふらふらとそこらを歩いて、蟲柱に怒られる口だ。

 怪我を無視して動き回るその手合いは、隊士の中には割といて、蟲柱に睨まれるところまで同じだ。

 

「あとですね、伊之助さんも前来られて、禰豆子さんに名前を覚えてもらってました!」

「名前ぇ?」

「おやぷん!」

「……」

 

 多分、何か間違えて覚えたのだろう。

 それにしても、禰豆子の頭の中身はかつての幸よりもさらに幼くなっているように見えた。

 幼子と縁のない生活をしていたから、比べるものが少ないのだが。

 詰まる所は、幸と禰豆子は優先されたものが違うのだろう。

 禰豆子は太陽の光を克服したが、理性が戻っていない。幸は理性はあるが、太陽には焼かれる。そこのからくりは、多分蟲柱や珠世が解き明かそうとしているところだ。ひょっとすれば、鬼舞辻無惨も。

 人間の体質とは、思えば不思議なものだ。

 禰豆子も幸も、どちらも大して力もない、ただの少女に見える。鬼にされたころは、今よりも幼かった。なのに、大人の男ですら抗えない鬼の食人衝動を耐え切って、笑顔を浮かべていられるのだから。

 幸運と、生まれ持った体質なのだろう。

 

「お前、絶対人に戻れよな」

 

 つい口から溢れた呟きを聞き取って、禰豆子がまた何もわかっていなさげな無垢な笑顔を浮かべた。

 

「いもふけ!」

「俺は伊之助じゃねぇよ。獪岳だ。いいか。か、い、が、く」

「かくかく!」

「……もういい」

 

 あの猪頭と、似たような間違いである。

 どいつもこいつも本当に、人の名前を覚えていない。だが、なほは振り返って小さく微笑んでいた。

 これが善逸だったならば笑ってんじゃねぇと一発入れているが、なほである。目を逸らすしかできない。

 裏手まで回れば、そこにはすみときよがいて、くるくると機械を回して包帯を巻き直していた。

 

「あ、獪岳さん!」

「獪岳さん、柱稽古は終わったんですか?」

 

 気配に気づいてか、顔を上げた二人の顔も明るくて、獪岳は布で両手を塞いだまま、軽く頭だけを下げた。

 

「なほ、これはどこに置けばいい」

「こっちです。一度、洗わなくちゃいけないから」

 

 鬼は今出てこないが、いずれまた現れる。そのときのための、準備と思えた。

 黙ったまま、洗い場まで布を運んで桶につける。そのまま流されるようにして布を洗っていると、三人娘と禰豆子は座って楽し気に布を洗ったり包帯を巻きなおしたりと、仕事を始めた。

 その会話に交ざる気はないが、うるさいとも特には思わず、獪岳は黙ったまま手を動かした。

 獪岳の隣のくぐり戸からゆらりと人影が現れたのは、日が完全に落ちて手元が覚束なくなるころだ。

 猫のように金眼を光らせた幸は、獪岳がいることに驚いたように目を瞬いた。

 

「よう」

「ん。稽古、終わった、の?」

「ああ」

「……おつかれ、さま」

 

 ぽん、と獪岳の背を軽く撫ぜるように叩いて、幸は中に入って来た。

 

「幸さん、終わったんですか?」

「ま、だ。……だけど、しのぶさ、んに、何か食べるもの、もってきて、と。珠世さん、が」

 

 わたしたちに合わせていると、あの人が倒れてしまう、という幸の拙い言葉を聞いて、きよとすみがぱたぱたと厨へ駆けて行った。

 幸は、愈史郎と共に物覚えの良さを活かして珠世と蟲柱の手伝いをしているが、蟲柱以外の三人は飲まず食わずでも平気な鬼なのである。

 彼らに引きずられて蟲柱が倒れないように、気も配らなければならないらしかった。きよとすみが持って来た握り飯を持って、幸は研究室のほうへ帰って行く。

 全体何をやっているのかは知らないのだが、鬼を人に戻す薬ができたのにまだああも忙しないということは、それ以外の毒だか薬だかも作っているのだろう。血鬼術を中和する薬、治す薬、鬼の毒血を和らげる薬。

 作るべきものなど、いくらでもあろうから。

 結局、幸が再び出て来たのはそれから随分時間が経ってからだ。

 しかも何故か、珠世たちが連れていた猫を抱いている。

 

「あ、獪岳」

 

 みゃあ、と鳴く猫を抱いたままの幸に、獪岳は片手を上げて応じた。

 三人娘と禰豆子は、寝に行った。獪岳はただ何となく眼が冴え、寝るでもなく縁側に座って起きていたのだ。

 

「その猫、どうしたんだ?」

「……鬼、になった、子」

「猫が?」

  

 鬼となるのは、人だけではなかったのかと目を剥いたが、どうやら珠世が猫も鬼にできる術を作ったらしい。とはいってもなり立てだから、体がきちんと動くのかどうか外へ連れ出して見てあげてと言われ、幸は猫を抱いて外へ出て来たらしかった。

 しかし、猫を鬼にして、一体どうするのだろう。

 珠世の作った鬼ならば、人の血肉を喰らうことはないのだろうが。

 幸が猫を庭に放せば、猫は軽やかに跳んではね、みゃおう、と鳴いた。前に見たときも思ったが、まるで人の言葉がわかっているようだ。

 鎹鴉と、似たような感じだろうか。

 

「大丈夫そうだな」

「そう、だね」

「けど、こいつ鬼にしてどうすんだよ。猫だろ」

「……愈史郎さん、の、ため」

「あ?」

「珠世さん、そう言った、よ。さみしくないよう、に、て」

 

 眉を顰めかけて、獪岳は思い至った。

 愈史郎が寂しくないように、同じ悠久の時を生きられる鬼の猫を増やした。ということは、つまりあの珠世という医者は、もうとうに自分は死ぬつもりなのだろう。

 己がこの先愈史郎の側におられないから、せめて寂しくないようにと心遣いをするほどに。

 三毛猫は、そんな想いも何もかもわかっているかのような賢しらな瞳でそこらを歩き回ってから、幸の脚絆にまとわりついて喉を鳴らした。

 

「うん。平気、そう」

 

 屈みこんで猫を腕の中に掬い上げ、幸は指で天鵞絨のようにつるりとしている猫の額を撫でた。

 爪を立てるでもなく、猫は喉を鳴らしている。知らぬ間に随分、幸は三毛猫に懐かれたらしい。鬼だからか、大概の小動物は幸に怯えるのに。

 

「獪岳、寝ない、の?」

「疲れてない」

 

 ふうん、とあまり信じてないふうに頷いた幸は、猫を抱いたままどこかへ駆けて行って、戻ってきたときには猫を持たずに、毛布を持っていた。

 

「おい」

「冷えると、だめ」

 

 寝ないなら寝ないでもいいが、体を壊すなと、そう言いたげに眉を下げて、幸は獪岳の額を軽く指で突いた。

 こちらがはっとするほど優しい眼でそれをされては、意地を張るほうが馬鹿馬鹿しい。

 獪岳の肩を覆うようにしっかりと毛布をかけて、幸は満足そうに首を少し傾けた。

 

「ちゃん、と休むんだ、よ」

「お前もな」

 

 しかめ面で返せば、幸は日だまりの猫のように目を細めてひらりと手を振り、戻って行った。極微かな、藤の花の香りを残して。

 鬼と人が、夜っぴて共に研究するなど、鬼殺隊の長い長い歴史の中でも、誰も考えつかなかったことだろう。その結果は恐らく、もうすぐ顕れる。

 そのとき己が生きているのか、幸が生きているのかはわからない。

 わかるのは、これからまた刀を握り、殺さなければ生きていけないということだけだ。

 鬼殺隊の人らしい幸せや和らぎは、鬼舞辻が生きている限り、所詮薄氷の上だ。

 それでも、そっとかけられた毛布のあたたかさは、まだ壊されていない。

 壊れてほしくなかったものほど儚く壊れゆく残酷さと、奪われるときの冷たさを幾度も思い知らされて来ても、それでも求めることを、やめたくはなかった。

 かけられた毛布からは、ごく微かに藤の花の香りがする。

 それに包まれていると、意識がゆっくりと解けていった。

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 岩柱の稽古場からは、その後数日かけてばらばらと人が降りて来たそうだ。

 竈門や嘴平は岩の稽古が終わると同時に水柱のところへ行き、そして善逸と玄弥は何故か獪岳の方へ来た。

 しかも、日暮れてから。

 

「だって俺、獪岳と稽古するって言ったし。獪岳もやるって言っただろ?」

「言ったか?」

「言った!絶対言ったよ!忘れんな!」

 

 その厚かましさは本当に見習いたい、と獪岳は頭痛を覚えたが、風柱屋敷で稽古すると己が言った記憶もある。

 久しぶりに、蝶屋敷の研究部屋から幸も出てきていた日のことである。

 曰く、やるべきことがなくなったからと、獪岳に背負われていたのだ。これまで持っていなかった鞄のようなものを腰の後ろにつけていること以外、何も変わらない幸は、くうくうと居眠りを始める始末だ。

 もう日は落ちているから箱から出てもいいだろうに、堂々さぼっている。要するに、兄弟弟子同士のあれそれには関わらないといういつものあれだった。

 結局、玄弥に箱を預けて獪岳は善逸と蝶屋敷近くの草原で向き合った。

 得物が互いに真剣なのは、雷の呼吸が抜刀術に重きを置いているからだ。木刀ではやはりどうしても、補えないところがある。

 

「始めるぞ」

「うん!」

 

 腰を低く落として、善逸が構える。

 だが、どうにも浮ついていた。顔を見ればわかる。

 そんな顔の相手と稽古したところで、得られるものなどない。知らずに怒気を立ち上らせながら、獪岳も刀の柄に手をかけた。

 審判役のようになった玄弥が手刀を上げ、下ろした瞬間に、獪岳は地を蹴っていた。一切合切の躊躇いなく、善逸の背後に回り込んで頸を狙う。

 澄んだ音と共に、半ばまで抜かれた善逸の刀が獪岳の刀を受けとめていた。

 

「真剣に、やれ」

 

 さもなければ、殺す。その勢いで、刃を押し込んだ。

 どうせ、善逸は音で獪岳の考えだか感情だかを読めるのだから、獪岳が限りなく本気であることが、聞き当てられるはずだ。

 聞き分けたのか、善逸の顔からすう、と無駄がそぎ落とされた。

 

「……ごめん、獪岳」

 

 シィィ、という独特の呼吸音。

 善逸の片脚が動いたのを視界の端で捉えると同時に、獪岳は刃を引いて片手斬りを放った。善逸が飛び退り、一度刀を鞘に収めるのと同時に、再び切りかかる。

 距離を取った瞬間に、懐に飛び込んで頸を刎ねるのが霹靂一閃だ。善逸の技のすべては、それを基盤に構成されている。

 一つのことしかできないならばと、一つを極め、広げていった。獪岳と、逆に。

 炎の呼吸・炎虎をやや崩して放つ、薙ぎ払うような獪岳の一太刀を、善逸はさらに跳ね飛んで避け、腰を大きく落として、片脚を下げる。

 大気が焦げるかような音と共に、善逸の体は一瞬で正面に来ていた。太刀筋は袈裟懸け。頸を刎ねるつもりはないらしい。

 上半身を逸らしつつ、刀で受ける。側面から叩かれないよう、刃を立てて。だが、逸らしきれなかった刀が頬を掠る。ひやり、と鋼の冷たさを感じた。

 だが、獪岳の刃が善逸の刃を弾いた瞬間に、善逸は即座に退いて回り込む。死角から斬り込む気だった。

 雷の呼吸参の型・聚蚊成雷の要領で獪岳も体を回転させ、善逸と向き合う。

 正面から向き合った金髪が縁取る顔には、眠気の欠片もなかった。いつのまにやら再び刀は鞘に収められており、抜刀の構えを取っていた。

 下から上へ、昇り炎天の切り上げで、獪岳は善逸の一刀を上へかち上げた。一瞬がらあきになった胴へ、体ごとぶつかるような当身をくわせて、その体を吹っ飛ばした。

 ごろごろと受け身を取りつつ吹き飛ばされた善逸は、その勢いのままにとんぼを切って立ち上がり、立ち上がりかけたところで、その顔面を掴まれた。

 斬りかかろうと間合いを詰めていた獪岳も、刀を握った手首を上からまとめて掴まれ、止められる。

 

「終い!そこま、で!」

 

 左手で善逸を、右手で獪岳を文字通り掴んで止めた幸は、そう叫んで手を離した。

 気づけば日は落ちて、辺りは暗くなっていた。

 斬り合いの真っただ中に飛び込んで来た幸は、目を細めていた。後ろから追いついて来たらしい玄弥が、肩をすくめる。

  

「一度止めろって言ったのに、お前ら聞いてなかっただろ」

「集中、し、すぎ」

 

 集中は悪いことはないが、周囲に気を張り続けるのも必要なことである。幸がやや眉を吊り上げるのも、無理なかった。

 だがそれにしても。

  

「なんで止めたんだよ」

「こ、れ」

 

 幸が眉を吊り上げたまま、玄弥が手に持つ『何か』を指さした。

 

「うげっ!何これ気持ち悪っ!」

「うるせぇ」

 

 ぽかりと善逸の頭をどついてから、獪岳も玄弥の手のひらの中のものを見た。

 蚯蚓と目玉がくっついた化物、に見えた。

 大きさは、膨れた青虫が一回りか二回り大きくなったほどだが、青虫には血走ったヒトの目玉などついていない。

 しかも、玄弥の手の中でその目玉はさらさらと灰のように崩れて消えた。消え方が、鬼と同じだ。

 

「何だこれ」

「知らねえよ。だけどお前らが戦い始めてすぐに、こいつが草むらから見つけたんだよ」

「ん。……そいつ、見て、た」

 

 ごく薄い鬼の気配を感じて、幸が飛びかかったのだ。果たして捕まえたのは、蚯蚓と芋虫が合わさったような化物。

 

「鬼か?」

「え、でもこれ小さくない?頸斬れたわけじゃないんだろ」

「斬って、ない。逃げようとした、から、握った。ら、つぶれた」

「お前、百足じゃねぇんだから何でも潰すなよ」

 

 毒の血鬼術だったら、どうするつもりだったのか。

 ともかくこれは蟲柱にでも報告すべきかと、獪岳も善逸も刀を鞘に収める。稽古などしている場合でなくなったのは、確かだった。

 ぴり、とした痛みを感じて頬を触ってみれば、浅く切れていた。

 蹴り飛ばされた腹を、幸に擦ってもらっている善逸を、獪岳は見る。

 打ち合っていたときは幾分ましな顔つきだったのに、既に緩んだ顔になっているのは、つくづく苛々する。

  

「獪岳?」

 

 善逸から離れて、幸が首を傾げる。

 何でもない、とそれに答えようとしたときだ。

 野原を見下ろす山の一つから、火柱が吹き上がった。

 え、という泡のような呟きは、誰が漏らしたものか。

 轟々音を立てて、山から火が吹き上がっている。どころか、まるで何かが爆発したかのように木が抉られて山の地肌までが遠目に見えていた。

 

「ば、爆発っ!?」

「え、どういうこと!」

「知るか!いいから行くぞ!」

 

 幸いにして、この場の全員が日輪刀と武器を持っている。

 鬼の手下か何かのような虫が出た途端に、爆発が起きたのだ。ほぼ勘だが、無関係には思えなかった。

 山道を、走る。

 走るにつれて次第に、焦げた臭いが漂って来た。獪岳の先を走る幸が、顔を歪める。人間より五感の優れた鬼には、何かに感づけるのだ。

 空から急降下して来た鎹鴉と雀たちが飛び回り、口々に叫ぶ。

  

「産屋敷!産屋敷邸!襲撃ィ!隊士ハ至急向カウベシィ!」

「襲撃!?襲撃って、誰が!」

「カァ!鬼舞辻ィ!鬼の始祖、鬼舞辻無惨ニヨル襲撃ィ!隊士ハ、至急急行セヨ!セヨォ!」

 

 獪岳と玄弥の鴉と善逸の雀が、狂ったように鳴き立てる。

 鬼殺隊の要が、鬼の始祖に襲われているのだ。騒ぐのもわかる。

 だが、何故今になって。これまで、鬼舞辻が自ら動いたことなどなかったのに。

 木の根を踏み越え、草を踏みつぶして走る。薄暗くとも、夜目は利いた。

 だが唐突に、踏んだ地面が消える。

 一歩踏み出したその先が、無かったのだ。飛び退る間もなく、四人全員が虚空に放り出される。

 無理に体を回転させて上を見上げれば、障子戸が閉じられるのが見えた。鴉と雀の尾羽ぎりぎりで、戸が閉められる。

 深い縦穴へ、放り出されていたのだ。

 なすすべなく落下していた体が、唐突に横から衝撃をくらい、吹き飛ぶ。

 内臓が浮き上がるような浮遊感を味わったと思う間に、獪岳は硬い床の上へ落ちていた。

 転がって受け身を取り、四肢を踏ん張って止まる。叩きつけられた感触は、畳だった。

 同時に上から感じるのは、鬼の気配。

 前転し、勢いのまま抜いた刀で頭の上にある妻戸から降って来た鬼の頸を切り裂いた。

 刀を引く間もなく横手から獪岳の胴に食いつこうとしていた犬に似た鬼の額に、銃弾が炸裂する。駆け寄って来た玄弥は、脇差でその鬼の頸をかき切った。

 鬼が塵のように崩れ、そこでようやく獪岳は一度息をついた。

 体に染みついた動きで鬼を斬ったが、ここはどこなのだ。

    

「大丈夫か?」

「ああ」

 

 銃を構えた玄弥が駆け寄って来る。だが、善逸と幸の姿が見えなかった。慌てて、廊下の縁に駆け寄る。

 廊下の縁は、まるで斬り落とされたような絶壁である。奈落を覗き込んでも、下が見えない。幸と善逸の姿はない。

 まさか二人とも、底まで落ちたのか。

 下へ向けて叫ぼうとしたまさにそのとき、下から声がかかった。

 

「かい、がく、こ、こ」

 

 見れば、廊下の縁に五指をかけて幸がぶら下がっていた。

 片手には、善逸の襟首を掴んでいる。ふらふら揺れる善逸の足元には、奈落の闇が口を開けていた。

 

「あ、ありがとう幸ちゃん……」

「ん」

 

 安堵を感じながら、玄弥と二人がかりで幸と善逸を引き上げて、ようやく獪岳は息をついた。

 だが、安心はできない。周囲はまるで建物がつぎはぎにされたようで、足元には畳があり、頭の上に引き戸がある。

 そして周囲いたるところから、鬼の気配がしていた。

 

「ここ、は?」

「鬼の根城だろ。どう考えても」

 

 恐らく、血鬼術で落とされたのだ。

 

「カァ!ココハ鬼ノ城!各員鬼ヲ撃破シツツ、鬼舞辻ノ下マデ向カエ!向カエェ!」

 

 玄弥の鴉の指示に、獪岳は目を細めた。

 各員ということはまさか、鬼殺隊全員がここへ落とされたというのだろうか。柱も、含めて。笑えない。何の冗談だ、それは。

 

「コッチ!コッチィ!ツイテ来イ!来ィィ!」

 

 獪岳の鴉、雪五郎は翼を広げて飛ぶ。

 誰からというでもなく、四人揃って走り出した。

 幸いなのは、それぞれ武器を携帯していたことか。これで丸腰のときに落とされていたら、目も当てられなかった。

 先頭を走る幸が、そのとき足を緩めた。

 

「ひだり!」

 

 幸が指差した漆喰の壁を、獪岳と善逸の一撃が砕く。その上に潜んでいたらしい鬼が、ばらばらと頸を落とされ塵になった。

 

「多くない!?さっきと合わせて何体いるんだよこれぇ!!」

「今まで姿消してた鬼全部が、ここに集められてんじゃねぇのか?」

「……だけじゃ、ない。血が、濃い」

 

 ぽつりと、幸が呟いた。

 襲い掛かって来た鬼すべてに、異様なまでに無惨の血が多く与えられているというのだ。ただし、与えられ過ぎた代償としてか理性はなく、外見も人からかなりかけ離れ、崩れている。

 要するに、雑魚鬼に無理やり血を与えて強化したということらしい。それに耐えきれなかった鬼が、このように理性も利かない異形となったということか。

 

「コノ屋敷ニ無惨!鬼舞辻無惨ガイル!イルゥ!協力者ガ無惨ヲ抑エテイル間ニ向カエェ!」

 

 走りながらも、鎹鴉からの指令は止まない。

 上弦と無惨を含めたすべての鬼がこの前後左右上下が狂った屋敷に蔓延り、鬼殺隊士も全員がそこへ落とされた、ということらしい。

 つまりここに、童磨もいる。

 刀の鞘を知らずに握りしめたときだ。

 

「あぁぁ!こいつ、こいつら何なんだ!血鬼術なのか!?」

 

 横手から、悲鳴が上がる。獪岳たちが立ち止まるより先に、幸がそちらの壁目がけて拳を振り抜いていた。

 板の壁が吹き飛び、その向こうに刀を構えた隊士たちの姿が見える。

 黒い残像が獪岳の横を駆け抜けて、隊士たちに迫っていた氷の像を蹴り砕く。

 ばらばらと人形が砕け、足を下ろした幸は尻餅をついていた隊士を見下ろした。

 

「大丈夫です、か?」

「あ、ありがとう」 

 

 幸に追いついて、獪岳は砕けた氷の像を見下ろす。

 一見したところ、膝丈までしかない小さな人形だ。だが、手には扇子を持っており、襲われていた隊士の手足は薄っすらと氷に覆われている。

 幸が頭を完全に蹴り砕いたからか、人形は倒れて動かない。だが、手に持っている扇子には血がついていた。

 こんな血鬼術を扱う鬼は、一体しか思いつけない。

 幸を振り返れば、元々白い肌がさらに青ざめていた。

 次の瞬間、幸の顔が強張る。強張って、上を見上げた。

 

「よけて!」

 

 全員が飛び退いて開けたその空間に、天井を突き破って、巨大な氷の拳が振り下ろされた。

 

 

 




何かが色々変わっている無限城編、開始。

落下の際、鬼っ娘は獪岳と玄弥を蹴飛ばして横穴に放り込んでいます。
善逸は間に合わなかったので襟を掴みました。

諸事情により月一更新と化していますが、完結まで頑張りたいです…。

コミックス最終巻も読めました。
とても心が洗われました。


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十七話

凄まじくお久しぶりです。

では。


 

 

 

 振り下ろされた氷の拳の最初の一撃は、全員が跳んで避けた。

 脚が速い獪岳や幸、善逸は次々と襲い来る拳も、比較的軽々と避けられる。玄弥も、転がるようにして拳を掻い潜った。

 

「なっ、何だよこれ!」

 

 何だもへちまもあるか、と拳の真下にいる襲われていた隊士を、獪岳は蹴っ飛ばす。

 宙に飛んだ隊士のその襟首を幸が掴んで、拳の範囲外へと放り投げる。

 投げられた隊士から悲鳴が上がったが、知ったことではない。拳に叩き潰されて挽肉になるよりはマシだろう。

 ぴりぴりと肌が切り裂かれるような冷気に紛れてふと、忘れようがない声が響く。

 

「おやぁ、やっぱり琵琶の君に頼んで正解だったよ。幸ちゃんに獪岳くん」

 

 氷の拳を振るった、見上げんばかりの巨像の肩に、鬼が一匹いる。

 

「童磨ァッ!」

 

 ばちばちと体から迸る雷で大気を焼いて、幸が吼えた。振り下ろされた氷の蔓を避け、その上に飛び乗って駆け上がる。

 

「おっと危ない」

 

 幸の血鬼術が放つ赤雷を躱した童磨は、軽々飛んで扇を振るう。身を屈めて凌いだ幸は振り上げた脚を氷の像に叩きつけた。蜘蛛の巣状に罅が走った像が、なんと音を立てて砕ける。

 捕まえようと伸ばされた童磨の氷の蔦を紙一重で身を捻って躱し、幸が地上へ帰ってきた。

 

「お前なぁ!」

「……?」

  

 絶妙に、きょとんとした顔を向けられた。

 怒りに任せて飛び掛かったかと思ったのだ。だが端から幸の狙いは童磨でなく、像の破壊だったのだろう。

 まさか、吼えたことすらも激高したと見せかけるための嘘か。

 落ち着いた殺意で、静かに光る金眼を見る限り、そうなのかもしれない。

 ともあれ、砕けた氷の像の巨大な破片が、周りで生み出されかけていた氷人形も砕いている。

 確かに刀で斬るより、力任せにぶん殴るのが正解なのだろうが、一瞬、もう早鬼に飲まれたかと思ったのだ。

 

「上弦の弐じゃんっ!もうこんなの出て来んの!?」

「見たらわかることを騒ぐんじゃねぇよカス!」

 

 緊張もくそもあったものではない悲鳴をひとまず怒鳴りつけて、獪岳は刀を構え直した。

 足場にしていた氷像を砕かれた童磨は、軽々地上へ降り立つ。

 列車で見えたときと変わらない、軽薄な笑みを貼り付けていた。

 

「相変わらず、気色の悪ィ面してやがんなぁ、上弦の弐」

「非道いなぁ。俺は君たちのこと忘れたりしなかったのに。柱でもない剣士と弱っちい鬼が、黒死牟殿とやり合って生きてるだなんて興味がつきないよ。ま、あの方には俺が怒られてしまったんだけど」

 

 あの方とは、十中八九で鬼舞辻だろう。そのまま怒りで殺されておけばよかったのに。

 軽薄な長広舌もまた変わっていないが、斬り込む隙もまた見当たらない。最悪なことに、この鬼はこちらを、特に獪岳を()()している。軽薄な口調や試すような攻撃の割に、目に嘲笑がない。

 こいつよりも強いだろう上弦の壱から生き延びることができてしまったツケ、なのだろう。

 今回は、今までの上弦との遭遇のどれとも違う。

 逃げる道が、ないのだ。

 鬼殺隊のほぼ全員が、おそらくこの気持ち悪い空間に落とされた。だから、殺して勝たねば生き延びられない。逃げられない。

 シィィ、という独特の呼吸音をさせながら、伸びた鬼の爪を構える幸もわかっているのだろう。金色の瞳が、完全に据わっていた。

 

「俺としては残念なんだけど、君と幸ちゃんは、早く殺しとけって言われてるんだよ。柱でもないし、太陽を克服した鬼でもないのに、俺たち上弦と出会って逃げては、情報を鬼狩りへしっかり届けるんだから、あの方はお怒りだったんだぜ?」

「知るかよ。そもそもテメェが幸を鬼にしたんだろ。自業自得じゃねえか」

「まだそこに拘るのかい?俺が鬼にしなきゃ、幸ちゃんはとっくに死んでるんだぜ?十歳にもなれないでさ。そこから救ってやったのは────」

「ふざけんな!!」

 

 鈍い銃声と、怒号が轟いた。童磨の扇に当たり弾かれたのは、不死川玄弥の弾丸である。

 

「最初に悲鳴嶼さんとこいつらの家を襲ったのが、お前ら鬼なんだろうが!お前たちがいなかったら、こいつらもあの人も、俺の家族だって、ずっと幸せだったんだよ!!」

 

 もう一発放とうとした玄弥の銃口を、幸が掴んで引き下ろす。弾の無駄だとばかりに、小さくかぶりを振っている。

 炎のような怒りを受けても、童磨は揺らがなかった。

 

「全員刺々しいなぁ。……ま、おしゃべりはこれくらいにしようか。俺は、君たちを早く殺して、城の中の鬼狩りを減らさなくちゃならないしね」

 

 童磨の扇が一閃され、軌跡に合わせて先ほどの氷人形が、六、七体も生み出される。行け、と童磨の扇が動けば、人形たちは四方へ散って行く。

 

「お前ら、止めろ!」

 

 咄嗟に叫んだ。あれはまずい。

 一体だけでも、本体に近い威力の血鬼術を操るのだ。

 床を蹴った幸が、最も遠くにいた一体の頭を蹴り砕く。獪岳も近くにいた人形の後頭部に柄頭を叩きつけた。血鬼術が来る前に、よろけた人形の頸に刃を滑らせ、切断。

 

「うわっ!」

 

 悲鳴を上げつつも善逸が刀の抜き打ちで一体、玄弥の弾丸が別な一体の頭の一部を砕く。しかし、すべてには手が回らない。

 首筋に悪寒を感じて刀をその方向へ構えれば、甲高い音が響いた。すぐ背後にまで、虹色の瞳の鬼が迫っていた。

 

「ほらほら、俺の御子たちの相手ばかりしてる場合じゃないだろう」

「!」

「あはは、必死だねぇ。獪岳くん」

 

 日輪刀を童磨の扇で押さえられる。腕がみしりと軋む上、頬に当たる空気が異様に冷たくなるのを感じてぞっとした。

 呼吸封じの凍てつく風とわかっても、刀と扇の迫り合いから抜けられない。産毛がぱきぱきと音立てて凍りつく。息が、続かない。

 

「獪岳ッ!」

 

 一瞬姿が消えるほどの踏み込みで、童磨の背後に現れた善逸が、下からの袈裟斬りで頸を狙う。だが、その一閃は空を斬った。

 

「ああ、そっちの君も雷だったね。いやぁ速い速い。獪岳くんより速いんじゃない?」

 

 宙へ猫のように飛び上がり、童磨が畳を踏みしめ着地する。追撃しようと脚を浮かせかけて、動かないことに気づいた。

 足裏が、床板に貼り付いている。氷だ。

 

「雷の呼吸の剣士は速いからねぇ。まずは脚から潰さなきゃ」

 

 童磨の両側に、二つの女の首が現れた。氷の風が吹き付け、動けない獪岳へ押し寄せる。

 

「獪岳、伏せッ!」

 

 ぐるんっ、と天井がひっくり返った。獪岳が縫い留められた床板を、幸が無理くり引っ剥がし、放り投げたのだ。

 板ごと投げ飛ばされ、床柱にぶつかってそのままごろごろ床を転がる。背中を諸に打って束の間呼吸が乱れたが、それでも、脚がようやく自由になった。

 なった瞬間、がくん、と再び体が下がる。足元の床が、障子にすり替わっていた。このままでは、奈落へ落とされる。

 

「危ないッ!」

 

 先ほど氷像の拳から庇った隊士が、横から抱き着くようにして獪岳を障子紙の上から弾き飛ばした。

 その彼の頭上に、寺の橦木のような太く巨大な柱が、落ちてくる。

 引き戻す暇も、声をかける間もなく、名も知らない隊士は柱に潰され、障子紙ごと下へ突き落とされた。びちゃりと飛んだ生あたたかい血が、頬へかかる。

 眼前で一人が────きっと、死んだ。

 

 頬を拭う間もなく、獪岳は勘に従い前転のように前へ飛び出した。たった今己がいた場所を無数の氷の蔦が突き破り、床を貫く。

 転がるようにして蔦から逃げ回り辺りを伺えば、残りの三人にも蔦が容赦なく降り注いでいた。

 避けることはできるが、反撃どころではない。刀の間合いに入れないのだ。

 さらには勢いよく、空間の四方から水が流れ込んでくる。水は、童磨の血鬼術の材料だ。たちまちのうちに、広大な部屋の床に薄く水が張られる。

 

「うん、やっぱり少し組み合わせが鬱陶しいね。分けようか」

 

 そぅれ、という戯けた掛け声と共に、砕かれていた氷像が再び動き出した。

 冷気と共に手刀が振り下ろされ、床を次々と割り、砕く。氷のみならず、木片からも逃げ回らねばならない。

 

「あっ」

 

 最初に崩れたのは、玄弥。床の小さな割れ目に、ほんの僅か足を取られて体が傾ぐ。

 その胴を氷の蔦が貫き、高々と持ち上げるや振り回した。

 

「玄弥、くんっ!」

 

 梁を足場に宙を飛んだ幸が、玄弥の体を蔦から引き抜く。だが、地上ほど速く動けない幸に、氷像の裏拳が直撃した。

 腹に穴が開いた玄弥を庇うように抱えた小柄な体が壁を幾枚も突き破り、踏み止まれずに飛んでいく。あっという間に、二つの姿は見えなくなった。

 悲鳴すら上がらない、束の間の出来事だった。

 

「まず二人、出てってもらったよ。あとは、琵琶の君がよろしくやってくれるからねぇ」

 

 氷像の肩に立ち、童磨は口の端を吊り上げていた。

 

「獪岳くんと幸ちゃんは、二人だとどうもおかしいくらい悪運が強いみたいだからさ、悪いけど、別々にさせてもらうよ。二人一緒に食べてあげられなくて、ごめんね」

「は?」

「だって君たち、鬼狩りと鬼になってもずっと一緒だったんだろう?そこまで想い合ってるなら、引き離すのは可哀想じゃないか。食べるなら人間のやわらかい女が一番だけど、男だって鬼の()だって、食えないわけじゃない。君たちは俺の中でずっと、永遠を生き────」

 

 気色悪い戯言を、獪岳は聞き飛ばした。そもそも真面目に聞く価値もない。

 両脚に力を込め、炎の呼吸の踏み込みで氷像の脚を狙う。

 雷の鋭さとは違う、炎の力強さで狙うのは、像の関節だった。人と同じ形をしているならば、人の壊し方も通ずるはずだ。

 同じことを考えたのか、善逸も獪岳と逆の脚へ切り込んでいた。

 こちらを貫かんと落ちてくる氷柱(つらら)と寒風の塊を掻い潜って奇跡的に重なった攻撃が、氷像の足元を砕き、斬る。

 だが、傾いだ氷像の脚に冷風が吹き付けたかと思うとすぐさま修復が施され、獪岳は舌打ちをした。

 

 水が豊富な場で、十全な童磨に勝つのは不可能だ。

 どうかして、この氷の鬼を別の空間へ叩き出さなければならない。

 

「真上!避けろ!」

「ッ!」

 

 善逸の声に、何も考えず横へ飛ぶ。

 開けた空間に、頭上で花開いていた氷蓮華の花弁が槍のように落ちて突き立った。

 

「へぇ、そっちの黄色い君は耳がいいのか。さっきから、音で俺の血鬼術をさけてたろ」

「……だったら、何だってんだ」

 

 急に温度の下がった声で、善逸が返す。童磨は、やはり変わらなかった。

 

「それなら耳から潰そうかなって。いやぁ、今の鬼狩りには面白い子が多いね。さっき飛んでった銃使いの子だって、珍しい鬼喰いだろ。楽しみがいがあるよ」

 

 好き勝手言いやがると、獪岳は冷たさで強張りかける手に力を込めた。

 こちらは凌ぐので精一杯だというのに、童磨は余裕綽々だ。わかっていたことだが、地力がまるで違う。

 柱が来るまで、どうにかこのまま僅かでも童磨に血鬼術を使わせて、手札を測るしかない。

 ぎち、と隣で刀をきつく握りしめる音がした。

 普段の情けなく見える抜けた笑みを、顔から一切消し去った善逸が、柄に手をかけて腰を低く落としている。

 

「お前、さっきから何言ってんだよ?」

 

 そのままの姿勢で、善逸が鋭く問うた。

 

「ん、何がだい?」

「獪岳と幸ちゃんを一緒に食うのが救いだなんて、本気で思ってんのか」

「当たり前じゃないか」

「……なら、おかしいよ、お前。人間の心なんて、全然理解できないんだろ。ずっと、心が動いてる音がない。なのに、どうして、救うなんてそんな簡単に口に出せるんだよ」

 

 ぱちん、と真顔になった童磨が扇を一度閉じる。奇妙な間が降りて、善逸の声だけが響く。

 

「俺は耳がいいから、沢山聞こえるんだ。お前は確かに全部そうと信じて言ってるけど、でも、木霊みたいに空っぽだ。……見下してるばっかりで、自分の心で、話してない」

「……ふぅん」

「お前は、自分の大切な誰かにつらい思いをしてほしくないって、その人の力になりたいって、本当に、自分の心の底から願ったこと、あるのかよ。……獪岳や幸ちゃんがどんなふうに生きて、どんな思いをしてきたかなんて、お前は一つもわからないんだろうが!」

 

 踏みしめられた床が弾け、善逸の姿が消える。

 黄色の閃光が駆け抜けた刹那童磨の横腹が切り裂かれ、赤い血が飛び散った。腹に手を当てる童磨の手首に、一歩遅れて獪岳も刀を振り下ろす。

 扇子を握った童磨の手が、床へぼとりと落ちた。そのすぐ近くに、獪岳と善逸も着地する。

 

「くっそ!外した!」

 

 童磨を睨み据え、歯を食いしばる善逸に、こいつはこんな顔もできたのかと獪岳は目を開いた。

 雷の呼吸らしく、頸をまっすぐに取ろうとしたのだろうが、やはりそう簡単には取らせてくれないのだ。

 善逸の脚に、薄っすらとだが氷が纏わりついていた。善逸が脚を踏み降ろせば氷は剥がれたが、危うく芯から凍りつくところだったのは間違いない。

 

「おい、高望みすんな。一撃与えて、離れる。それの繰り返しで行け」

「だけど、頸は」

「馬鹿かお前。さっきので脚一回凍りかけただろ。落ち着けカス」

「……」

 

 二回も罵倒を入れたのに、善逸は真面目な顔のまま何も返してこない。本気で、頭にきているらしい。聞こえ過ぎるのも不便なものだった。

 童磨が何を考えているかなど、獪岳には既にどうでもいい。

 心がないなどと言うが、あったとしても、獪岳は今更、憎たらしいあの人食い鬼の心などわかりたくも聞きたくもないのだ。

 幸はこいつを殺したがっているが、その本懐も遂げさせてやりたいとは思わない。幸だって、別にどうしても己の手で殺したいと切望していないのではないかと、獪岳は思っている。

 無論幸は童磨を許せないと思い、憎んでいる。

 だが最も願っているのは、自分のようになる人間がこれ以上増えないこと。鬼が消えることだろう。

 

 自分が駄目でも、鬼殺隊の誰かが、こいつを倒すと信じている。

 

 獪岳がひたすらに求めるのは、ただ童磨の死だ。こいつがいる限り、幸の眼も心も、たとえ一部であろうとそこに括られ続ける。

 それが、邪魔なのだ。

 今更、怒りはしない。無駄だと知っているからだ。

 童磨を殺す道を、自分が生き残る道を、探すだけだ。早く、なんとかして幸と合流したい。

 

「この部屋から、あいつを叩き出す。先に水場から引き剥がすんだよ。わかったか」

「……わかった。ごめん」

「謝んな、気持ち悪ィ」

 

 げぇ、と獪岳が舌を出した途端、二人揃って左右に跳び避けた。宙に浮いた女の氷の頭が冷気をはらんだ風を吐き出し、足元が凄まじい速さで凍りついていく。

 氷の上しか、走る場がない。

 

「この野郎ッ!」

「はは、頑張るといいよ。どうせ最後は、俺が救ってやるからさ」

「テメェの考える糞みてぇな救いなんかいらねぇんだよ、クズが!」

 

 叫んで体を動かさなければ、芯から凍らされる。壁や柱を足場に、ほぼ飛び回るようにして氷を避ける。

 だが、とにかく近づけないのだ。

 避けようのない刃物の如き細氷(さいひょう)を含んだ風までが叩きつけられ、たちまち顔や手が浅く切り裂かれる。隊服が、じわりと朱に染まる。

 その朱すらも、氷へと転じて枷になりかける。

 閉ざされた空間に血鬼術が満ちていくのだから、温度が徐々に下がっているのだ。まずいのはわかっているが、童磨は一向に揺らがす、逃げ道もない。

 

 白い息を吐きながら、霜が降りそうな瞼を押し開けた、まさにそのときだ。

 

 ずんっ、と床どころか部屋全体が鳴動した。下から突き上げるようにして、ずずんと部屋が揺れる。

 血鬼術かと身構えた獪岳の眼の前で、床板が下からの力によって弾け、ばりばりと音を立てて砕け散った。

 

 轟と鳴いた炎が、目の前に迫っていた氷の蓮華を飲み込み、切り払う。

 

「遅れてすまん!獪岳、氷人形を操る血鬼術の主はあれか!」

 

 床板を突き破り、羽織を翻して現れた煉獄杏寿郎は、声高々と獪岳へ話しかける。

 滲みかけた目を片手で雑に擦って、獪岳は頷いた。

 

「あれです!上弦の弐、呼吸封じの血鬼術を使います!」

 

 うむ、と元炎柱は、大きく首肯する。弾けんばかりの熱された力が、そこにあった。鋭い目が、驚きで呆けたような顔の童磨を射抜く。

 

「承知した!獪岳、我妻少年!俺が来るまでよく保った!だが、正念場はここからだ!力を合わせるぞ!」

「……はい」

「は、はいぃっ!」

 

 視界が滲み歪んだのは、単に目に貼り付きかけていた氷が溶けたからだ。師の背中を見ただけで、安心などできるわけがないと、自分に言い聞かすように思う。

 それでも、刀を握った手に新たな力が宿るのを獪岳は確かに感じた。

 

 

 

 




各々の場所で、各々の敵と戦わなければならない話。

毒デバフ無し童磨は、本当に難易度壺男ゲーだと思います。速さ特化の同門兄弟弟子だからまだ生きてる感じで。

煉獄さんは、隊士を殺している結晶ノ御子たちの出どころを追ってこの部屋へ辿り着きました。



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十八話

感想、評価、誤字報告、ここすき等、ありがとうございました。

では。


 

 氷の巨像の拳に捉えられ吹き飛ばされた瞬間、天地がぐるりとひっくり返った。

 掴んだ玄弥の体だけは意地でも離すものかと堪えられたが、天井や壁を掴むことはできない。飛ばされて奈落の穴に落ちる直前、笑みを含んだ童磨の瞳と視線が交わる。

 

 ─────やられた!

 

 悟っても、どうしようもない。

 何もできないまま、風に巻き上げられた木の葉のようになす術なく飛ばされた。

 生き物のように動く柱や壁に叩かれ弾かれ、ようやく止まったときには玄弥と幸はまったく見知らぬ場所に叩き落とされていた。

 

「玄弥、くん!」

 

 飛ばされる直前、童磨の氷に腹を貫かれた玄弥を、慌てて地面に横たえる。地面に叩きつけられたときは、幸が下敷きになったからいいが、服が生温かい血で濡れたのだ。

 玄弥の傷口の周りの肉が動いていたが、まだ完全には塞がっていない。爪を伸ばすや、幸は髪を掻き切って髪の束を玄弥の口元に押し付けた。

 意図を察してくれたらしい玄弥は、なんとも言えない顔で幸の髪を食べる。

 鬼の体の一部を取り込んだ途端、玄弥の腹に空いていた穴はみるみる塞がった。髪で効いてくれて、ほっと息を吐いた。

 

「悪ぃ、助かった。……だけど、結構飛ばされちまったな」

「ん。でも、気配、ならわかる、よ」

 

 鬼の気配だらけだが、ついさっき戦ったばかりの童磨の気配は、わかる。執念の成せる技かもしれないが、四の五の考えている場合ではなかった。

 玄弥も立ち上がり、脇差を鞘に一度戻す。

 

「なら戻ろう。あいつら二人で上弦の弍は厳しい」

 

 言われるまでもなかった。童磨の気配を手繰ろうと、幸は辺りを見回す。

 幾本もの柱が並び、床は格子状の陶製板か何かが敷き詰められた部屋だ。

 先ほどまでいた畳や障子で区切られた場とは、随分趣向が異なる。この城はおそらく、このように様々な種類の部屋が、でたらめに継ぎ接ぎになっているのだろう。それを空間に作用する血鬼術で操って、手足のように動かしている。

 この広大な城のどこかに、鬼舞辻と上弦の壱と参と、弍がいる。

 そう思うと、全身が総毛立つ。獪岳と、離されてしまったせいかもしれない。

 大丈夫、と想う。服の胸元を、きつく握りしめる。

 獪岳は善逸と一緒だから。二人とも、簡単に死ぬような人間でないから。

 あっち、と童磨の気配の方角を、指さそうとしたときだ。

 

 後ろで、静かに、()()が、降り立つ気配がした。

 

 咄嗟に屈むや、屈んだ勢いで幸は玄弥の脚を蹴りで払う。綺麗に足払いをくらった玄弥の体が倒れて開けたその空間の空気を、斬撃が切り裂いていった。

 倒れながらも、身を捻った玄弥の弾丸が今度は空中で叩き落とされる。刀身に目玉がびっしりとついた、刀によって。

 

「────ッ!」

 

 出し惜しみなしの血鬼術の雷が、大気を焼く。その雷鳴の中を、三日月の形の斬撃が縫うように襲いかかった。肌が斬撃で深く浅く切り裂かれ、床に血が飛び散る。

 

「…ふむ」

 

 軽々と静かに降り立つのは、上弦の壱。刀を手にしたその姿は、悍ましいほどに重みがあった。

 

「金眼の鬼に…貴様は…鬼擬きか…童磨の策が…当たったと…見える」

「……策、なに?」

「お前と…勾玉の鬼狩り…揃えて…戦わせは…しない……。柱でもなく…下弦…ですらない…者が…こうも足掻くのは……想定…していない」

 

 要するに、獪岳と幸と、二人揃っているのが予想以上にしぶといから、引き離して別に殺すと、そういうことであるらしい。それを思いつき実行したのは、童磨なのだろう。見事にやられたのだ。歯が軋む。

 柱でもない剣士と、下弦にすら至らないような鬼を殺すのに、随分と用意周到なことだ。

 確かに幾度か上弦と戦ってはしぶとく生き残ってきたが、いつも死にかけていた。そこまでのことか。

 

 ─────そこまでだったから、こんな事態になったのだ。

 

 逃げてどうにかなることは、もうない。そんな時期は、とっくに過ぎた。

 鬼舞辻を、ひいては彼と命が繋がっている童磨を殺すには、上弦の壱を倒さなければならない。それが、どれほど無謀に思えても、実際に無謀であったとしても。

 せめて、柱の誰かがここに来てくれるまで、持ち堪えなければならない。

 

「先程の…一撃で…引き裂く…つもりだったが…やはり…お前は…勘が…いい」

「……」

「わからぬ…何故…お前が…刀を…取らぬのか…。更なる強さが…得られる…だろう」

 

 幸は眉をひそめた。取らないのでなく、取れないだけである。

 この鬼は、以前もこんなふうに強さに執着したことを言っていたけれど、言われたところで幸は顔を顰めるだけだ。

 刀を向けられると、或いは握ると、幸は手足が震えてしまうのだ。きっと、藤の山に長くいて、何度も人喰い鬼と罵られて刀を向けられたせいだろう。刀やおおきな刃物そのものを掴んでいることも、いつの間にかできなくなっていた。

 心の状態が体に作用することもあるのだと、胡蝶しのぶが教えてくれたからわかったことだ。

 

「刀、なんて、取りたく、ない。……嫌い、だ」

「…何?」

「許される、なら、戦いたく、も、ない。なかった」

 

 上弦の壱は、聞く構えを見せていた。ただし、こちらが仕掛けようとすればすぐさま斬って捨てるだろうし、それができる実力も、ある。

 文字の刻まれた瞳は、不思議と静かにこちらを見ていた。弱い人間を足下に見下す、ありふれた鬼の眼だった。

 

「強くなろうと…励まぬ…のか。才を…持ちながら…。鬼となれば…お前も、あの勾玉の鬼狩りも…さらに…高みに…至れようものを」

「……」

 

 その問答の答えは、前も今も変わりはしない。

 強くなりたい。それはずっと、焼けつくように願ってきた。もっと強かったら、もっと何かできたんじゃないかと、何度も悔やんだ。

 でも強くなるのは、強くなって護りたいものがあるからだ。もう二度と、奪われたくないものがあるからだ。強さは手段であって、目的にはならない。永遠に。

 強くなるために鬼の血を取り込んで、それで、我を忘れて誰かを傷つけることだけは、あってはならない。してはならないのだ。

 玄弥が鬼を食べたのだって、食べて強くなければ家族の近くに行けなかったからだ。

 そうまでしても、彼は家族を護りたかった。護りたいその家族に拒絶されたとしても、諦められないほどに。

 そうでなければ誰が、変わり果てていく自分の体と向き合える。自分の体が、違う何かに少しずつ入れ替わっていく恐怖に耐えられる。

 鬼になることが、幸には怖い。

 何かを護るためでなく、傷つけないためでもなく、ただ強くなるためだけに強くなることは、絶対にない。

 ゆっくり、幸はかぶりを振る。

 僅かでも何かを違えれば、この鬼は斬りかかってくるだろう。綱渡りの気分だった。

 

「鬼殺隊、は、強くなること、が、目的じゃ、ない。人喰い鬼、から人を、護るため、の、場所」

「……ほう」

「今、鬼殺隊で、一番強いひとだっ、て。戦いが好きな、わけ、じゃない。そうしなければならなく、なったから、そうした、だけ。……()()()、は、ちがう、の?」

 

 かつて鬼狩りだったかもしれない誰か。仲間だったかもしれない鬼。

 上弦の壱となった何者かは、ゆるりと刀を鞘に収める。次の瞬間、空間を赤雷と三日月が縦横無尽に蹂躙した。

 壱の刀の軌跡に合わせ、斬撃が襲いかかる。防ぐために幸も血鬼術を飛ばすが、馬力と量が違う。完壁に、対応できない。

 

「う、わ───ッ!」

 

 玄弥の腕を輪切りにしかかっていた血鬼術を、伸ばした爪で咄嗟に弾いた。岩も引き裂く鬼の爪が、爪楊枝のように容易くおられる。

 ほう、と間近で独特な呼吸音。玄弥に肘鉄をくらわせて吹っ飛ばし、幸自身も後先考えずに瞬きの間に迫っていた壱の刀を避ける。

 壱の動きは、幸には見えている。反応もできる。

 だが、獪岳より遅い玄弥を庇いながら動かなければならない。玄弥が弱いわけではないが、獪岳よりはやはり遅く、連携が絶妙に合わない。何かがずれる。

 その上、日輪刀を扱えない幸では鬼に止めを刺せない。

 上弦壱の武器は、形を変える斬撃に、完成された剣術と、鬼殺のための呼吸法で上乗せされた身体能力である。

 十二鬼月の頂点は、ただただ絶対的な強さを持つ。修羅だ。

 反撃を考えず、ひたすらに回避しなければすぐさま頸を斬られそうになる。腕や脚ならともかく、頸は斬り落とされれば回復に時間がかかる。

 鎌鼬のように襲いかかる剣閃を躱して、踏み込んで爪を振るう。壱が避けようと微かに仰け反り、生まれた間合いの隙間に、地面に散っていた血から血鬼術を発動させた。

 四方から飛んだ槍の形の赤雷を、壱は危なげなく刀を振るい、叩き落とす。

 手首を返そうとした壱の間合いに、幸はもう一歩踏み込んでいた。深々と肩を抉られるが、構わず刀身そのものを掴んで、血鬼術を使う。

 生き物の細胞を破壊する鬼の力に、刀は硝子のように砕けた。けれど刀の破砕音が消えるより先に、一切動揺もなく壱は柄から手を離し、蹴りを放つ。

 砲弾を腹に浴びたような衝撃と共に幸は飛ばされ、柱に叩きつけられた。

 ひと抱えもあるような柱に亀裂が走って、背骨を強か打ちつけ内臓が潰れたせいで肺から空気が吐き出される。人間ならば、体が二つに引きちぎられていただろう蹴りに、立ち上がるのが遅れた。

 顔を上げれば、そこにはこちらに駆け寄ろうとする玄弥と、彼の背後で刀を振り上げる上弦、壱。

 やめて、という言葉が形になるより前に、刀が玄弥の胴と腕を両断した。

 肉の塊のように、玄弥の体が三つに分かれて落ち、倒れた玄弥の背後でしばし脚を止めた上弦は、無造作に刀を振り上げる。

 咄嗟に床から掬い取った礫の形の瓦礫を、壱の刀の柄めがけて投げた。人の頭骨にならば穴を穿てる勢いの一投が柄に当たり、刀が上へ逸れる。

 両手両脚に力を込め、獣のように幸は跳んだ。

 鋭く伸ばした爪が、空を切る。風にしなる柳の枝のように爪の一撃は避けられたが、空中でさらにもう一度身を捻って幸は蹴りを放つ。

 壱はこれも避けたが、爪先がその髪を掠めた。後ろへ飛び退った壱と玄弥の間に、幸は降り立つ。

 上弦の髪だけが、はらりと落ちた。まったくの無表情で、相手は泰然と佇んでいる。

 回復に使う力を血鬼術と脚力にすべて割り振ったために、塞がっていない傷を晒し荒くなった息を吐きながら、幸は上弦の前に立った。

 砕けたはずの刀も、もう元通りだ。前と変わらない。この鬼の血鬼術かは知らないが、武器を奪ったところで何の役にも立たないのだ。

 胴を両断された玄弥は、生きてはいる。鬼の血肉を取り込んでいるから。けれど、立ち上がれずにもがいていた。

 血鬼術でどうにかしたいが、目の前の上弦から一瞬たりとも意識を逸らせない。

 

 ─────手加減されて、これか。

 

 その気になれば殺せるだろうに、所々で手が抜かれているように感じるのは、この鬼が以前のようにまだ幸を完全な鬼舞辻の手駒にしようとしているからだろうか。殺すのではないのか。

 上弦下弦が、鬼殺隊によって倒されて数を減らしているのは事実だ。その穴埋めに誰かを当てようと考えるのは不思議ではない。やられてたまるかという話だ。

 

 迂闊に動けない。空気が重い。

 じり、と脚を動かしかける、その刹那だった。

 

 唐突に、()()()()()()

 上弦の壱と幸の、丁度間の天井が崩れて瓦礫が降り注ぐ。

 ばらばらと落下する破片の中に、黒い隊服の影がちらりと見えた。

 器用に瓦礫を蹴って姿勢を立て直したその黒衣の何者かは、銀閃を振るう。一閃を容易く避けた上弦の壱の、その横手から吹き荒れたのは肌を裂くような烈風だった。

 

「退けェ!」

 

 幸と上弦の双方を巻き込まん勢いで、横から迫ったのは風を纏ったかのような激しい剣だった。

 床に獣の爪痕のような傷が刻まれ、竜巻が吹き荒れる。鋭い舌打ちが、幸の耳朶を打つ。

 白い髪を吹雪のようになびかせ、部屋に飛び込んできた風柱と、上から落ちるように現れた霞柱に、幸は束の間呆気に取られた。

 

「おい鬼の餓鬼ィ、テメェはそこの馬鹿な弟連れて下がれェ。頸を落とせねェのは邪魔なんだよォ」

「君の血鬼術、怪我を治せるんでしょう?玄弥をお願い」

「……わかり、まし、た」

 

 怒気を立ち上らせる風柱・不死川実弥と、淡々と冷静に告げた霞柱・時透無一郎は、それぞれ日輪刀を構えて壱を睨み据えながら言う。

 上弦の壱は、柱二人の到着にも揺らいだ様子はなかった。隙のない立ち方で、観察するように呟く。

 

「霞に…風か……。いや待て…お前は」

 

 何故か、霞柱を壱は注視する。六つの眼で彼を凝視する壱の視線から逃れるように、幸は下がって玄弥を持ち上げた。見事なまでに、胴体が両断されている。切断面はあまり見たくない。

 

「このようなことが…あるのか…。お前は…私が継国家に…残した子の…子孫か」

「……俺の名前は、継国じゃない。霞柱、時透無一郎だ」

「そうか…継国の名は…絶えたのだな…」

 

 何が何だかよくわからないが、妙に重大そうな問答が為されているのを聞き流しながら、幸は玄弥の傷口に両手を当てる。血鬼術の雷が走り、腕と胴が繋がった。

 

「すまねぇ」

「いい。それ、より平、気?」

 

 玄弥が答えようとした途端に、ぐわりと頭上に迫るのは剣閃で切り裂かれて折れる柱。

 揃って転がるように避ければ、風と霞と三日月の斬撃が斬り合う、凄まじい空間が展開されていた。

 どうすればいいかと、幸はきつく拳を握りしめるのだった。

 

 




鬼っ娘は性格から境遇から信念から、黒死牟とひたすら相性最悪です。
それに鬼の頸を斬れてかつ気心知れて連携の取れる速い剣士と動いてないと、強みが活かせないという。


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