星見が丘 (茎わかめ)
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01. ブルー・ストラグラー

初投稿です。戸山さんが最推しなのに彼女メインの作品が少なかったので悲しみに暮れながら書きました。よろしくお願いします。


 恐らくは、出会うより以前から。俺は彼女に惹かれていたのだろう。

 

 あの歌を聞いた時から。あの唄を感じた時から。あの(うた)を識った時から。

 

 だが自覚してからどうにかなるものでもない。探して、求めて、そうして漸く見つかった彼女へのその感情の落とし所は、最初から決まっていた。

 星に手を伸ばしたとして、きっと届くことはないだろう。だから見上げる輝きにそれを委ねて、明滅して次第にひっそりと消える日を待っている。

 

 でもあの日。

 

 綺羅星に掲げた手を下ろして。そして──

 

「星、すっごく綺麗だねっ!」

 

 ──俺はもう一度、君に出逢った。

 

 

 

 *

 

 

 

 目の前の現実を見る。

 それは(さかき)秀星(しゅうせい)の生きる上での一本の柱のような、或いは背骨の代わりにでも身体の中を通っているような、そんな信条だった。芯と言えば聞こえは良いが、そう言い聞かせている秀星自身も時折その芯さえ現実が形成した痼であると感じてしまう、縛する糸のような。

 

 別に、現状に不平不満を溜め込んで爆発寸前だ、とまで叫ぶ気は秀星にはない。

 友人はいる。家族も皆健在だ。勉学、運動ともに能力は人並み程度。

 幸いなことに、秀星には悲劇的な背景が人生に張り付いている訳でもないし、逆に不幸なことに未知なるチカラだとか才能が右手やら何やらに宿っている訳でもなかった。

 

 兎に角外的にも内的にも平凡に──その尺度がそれぞれで揺らぎがあることは承知の上でそう思っている──過ごし続けてきた秀星の中には、必要以上に現実という二文字が重々しく伸し掛かっている。しかしそれが榊秀星の生き方だったし、言わば指針でもあった。

 

 

 

 朝、いつも通りに目を覚まし。顔を洗い、着慣れて少しくたびれ始めた制服に着替え。出張が多い父と部屋に篭りがちな兄を除いて母が作った朝食を食べつつ二言三言の遣り取りをして。SNSや動画投稿サイトをダラダラと眺めてから家を出る。

 

「行ってくる」

「秀星。この前の模試の結果、今日返ってくるのよね?」

「あーうん、そうだけど」

「アンタこの前もE判定だったでしょ? ホントしっかりしてよね、ウチは二人も浪人させられるお金なんてないんだから」

「分かってるよ。……晩飯、外で食ってくるから」

 

 出る直前に引き止めて母に言われた小言が喉奥につっかえて、秀星は小さく息を吐いた。返事を待たず、玄関からのそのそと出る。

 春らしい気候だった。素知らぬ風に青く霞む空と温かく注ぐ陽光が恨めしい、などと見当違いなやっかみが湧いて出て、振り払いながら駅へ向かう。

 

 大都市東京と言えども、住宅街はどこも同じだ。灰色のアスファルトに、黄色がかった朝の日差しが差し込んで照らす。似たような形の家屋が立ち並んで光を一面に浴びる、特に何がある訳でもないような……坦々とした街並み。

 

 将軍のお膝元なんて言葉があるけど、結局は膝下に群がる群衆が大多数な癖に群衆たる俺たちは名前も残らないんだろうな、と秀星は内心で頷いていた。

 昔は将軍にだって、何にだってなれる気がしていたのに。

 

 都電の早稲田停留場までの道で、一般住宅よりも幾分か背の高い雑居ビルや高層マンションが伸びかけの雑草のような中途半端さで灰色の地面から生えている大通りに差しかかる。

 ICカードを乗車リーダーにタッチして乗り込むと、もうドッと疲れが出てきたが、席は既に埋まっている。仕方なく吊革を握って窓から見上げた空は、次第にひしめき合うビル群に切り取られて狭くなっていく。

 

 もう少し広くはなかっただろうか。そんなことをぼんやりと秀星は考える。

 

 もっと子供の頃、見える景色は広くなかったか。

 

 世界一の舞台を駆けるスポーツ選手に、ロックでクールなミュージシャンに、なんでも買える大金持ちに。そんな未来が疑いなく見えていた古き良き時代は、いつの間にか通り過ぎてしまっていた。

 

 最近毎日毎日飽きずにそんなことを考えながら、秀星は開いたドアから吐き出されるように降車するのだった。

 

「おかーさん、仮面ライダーのベルト買ってよー!」

「そうねえ、今日もいい子にお母さんのこと待ってたら買ってあげるね」

「やったあ! 今度ね、学校のみんなでライダーになるんだ! へんしーん!」

 

 横断歩道を歩く時にそんな親子の会話が聞こえて、最後に仮面ライダーなんて観たのはいつだったかと思い返す。

 最後に何になれるかなんて考えたのは、いつだったかと回想する。

 

「よっす、秀!」

「おー、田中か。おはよ」

 

 無為な追憶も束の間、横断歩道を渡り終えるとこの近辺に住んでいるクラスメイトと出くわした。

 特に示し合せることなく、横並びで歩き始める。秀星はこんな感じで考え事をしながら歩いている時に人と歩くのは好きではなかったが、仕方なく流れに従う。新しく始まったばかりの高校最後のクラスで孤立はしたくない。

 

「秀さ、もう書いたか? 進路希望調査の紙」

「いや、まだ。田中はどうよ?」

「俺もまだ。大体おかしいよな、ウチの高校。進路指導つったって模試の結果だけで何処がいいかなんて勝手に決めて、押し付けてるだけじゃねえか」

「まあね。結局数字が欲しいだけだろ、『我が校は都内でも有数の進学校ですから』ってね」

 

 田中は「めっちゃ似てんな、教頭の真似!」とウケてくれたようだ。実際笑えない話だとも思うが、秀星は是正する気にもなれない。

 

 目下憂慮する問題は、今もクリアファイルに挟まっているその紙だった。

 

 進路希望調査、と題されたA4のプリントは、こんな薄っぺらに似合わないくらいに文字だけがやけに重々しい。田中の言うような愚痴も、自分が考えるような逡巡も、ガキの甘えに過ぎないのだろうか……。

 笑う田中の横で吐いた溜息が、歩道の横すれすれを通っていったバスの排気ガスに混じって消えていった。

 

「……そう言えば、田中は仮面ライダーっていつまで観てた?」

「あ? 何だよ急に……。えーと……あー、アレだな。カードから出てきた敵を封印するヤツ」

 

 聞き覚えのある設定だな、なんて思いつつ、適当な会話に言葉を滑り込ませて、いつも通りの通学路を歩く。

 

 ふと見上げた空は、やはり秀星には狭く写った。

 

 

 

 *

 

 

 

「進路希望の紙、提出期限は来週の月曜までだからな。この前の模試の結果も返ってきたし、それを踏まえてしっかり考えろよ」

 

 そう言った担任が出ていくと、放課後の教室はにわかにざわめきだす。

 半数以上は今から向かう予備校の課題について、何処其処が難しいだのと参考書を突き合わせていた。

 

「なーんか皆受験モードって感じだよな」

「他人事みたいに言うのな」

 

 クラスメイトを眺めながら溢す田中に、秀星は教科書をリュックに詰めながら言う。言ったセリフの割に、秀星にも勉強する気はなかったが。

 

「俺にはコレがあるからな」

 

 ポン、と肩から提げたエナメルバッグを叩いて田中は笑う。彼はバスケ部に所属している。もう引退も近づいてきている身としては、そっちを優先したいらしい。

 

「総体まで二ヶ月切ってるし。少なくとも、今は勉強してる場合じゃねーよ」

「あー、バスケか。そっちも大変そうだけど」

 

 スポーツ推薦は狙わないのか、と一度聞いたことがある。「そこまでガチでじゃないんだよ」と笑い飛ばしていたが、結局のところはどうなのだろうか。

 

「てか、お前も大変そうだなんて人のこと言えないだろ、元優等生の榊クン?」

「ヤな言い方するなぁ、お前」

 

 秀星は思わず渋面を作る。まあ頑張れよと笑いながら去っていった田中を恨めしげに睨んで、手元の紙に視線を落とす。

 

 河内塾全国一斉模擬試験、個人成績表。

 

 E──受験生にとって最も忌まわしいアルファベットが、判定の欄にしっかりと刻まれていた。

 

 

 

 昇降口を出て、暗鬱な気色を引っさげながら塾へと向かう。塾は学校から江戸川駅方面へと数駅の場所にあるので、いつも通りの時間に乗れば余裕で間に合う時間だった。

 電車が来るのを待つ。手持ち無沙汰になった秀星は、いつもと同じように単語帳を取り出す。ただ目の前の文字列を飲み込むことなく、ぼんやりと周囲の物音を聞いていた。

 

 さくらトラムの線路に揺れる電車の走行音、行き交う人の話し声、足音、音響式信号から鳴る『通りゃんせ』のメロディ……。

 数々の音がひしめいては消えていく。

 

 でも次の瞬間。その合間を縫うように、ふと聞こえてきた歌は──

 

 〜♪ 

 

 ──それだけがこの世に存在するかのように、秀星の耳にしっかりと響くのだ。

 

 来た。“あの子”だ。

 

 単語帳から完全に意識を手放し、聞こえる歌声に耳を傾ける。

 楽しそうに弾むメロディがスッと入り込んできて、自然と秀星の方まで楽しい気分になる。鼻歌ではあるけれど、不思議と情景が浮かんでくるような、心が浮き足立つような。

 

 この唐突でささやかなライブの主催者を、秀星はいつもチラリと横目で盗み見ていた。

 

 秀星とは反対側の乗降場に立っている少女。あの制服は、花咲川女子学園のものだろう。

 肩口まで伸びた鳶色の綺麗な髪の毛が風に靡く。耳みたいな特徴的な髪型も印象的だが、とびっきりの美少女だということも、秀星の目を引く要因だった。

 紫水晶のような綺麗に澄んだ瞳、すっと通る鼻梁、整った顔立ち。快活さを与える表情で、彼女はいつも歌っている。

 

 秀星が彼女を初めて見たのは、高校一年の春だった。

 駅で今と同じように電車を待っていると聞こえてきた歌。毎日聞いている訳ではない。別に行動がぴったり合うなんてこともないから、聞けて週に二、三日だ。

 それでも秀星にとって彼女の歌は、今まで聞いたこともないような刺激が詰まったモノばかりだった。

 

 晴れの日には輝る日の眩さを楽しく、雨の日には水の滴るリズムを淑やかに。実際のところ秀星には彼女の本心は覗けなくとも、勝手にそんなものを感じ取っては聞き入っていたのだ。

 その度に彼女を見ては見惚れている。

 その容姿には勿論、でも何よりも伸び伸びと歌うその姿が、どうしようもなく眩しいのだと思っている。焦がれる程の憧憬を抱いているのだと思う。

 

 それに、そんな彼女の姿を、俺はもっと前にも見たような──

 

 でも声をかけることなんて秀星はしなかった。気味悪がられるのがオチだろうし、それに話しかけてどうこうしようなんて、俺は別に……などと誰にする訳でもない言い訳を並び立てて、再び耳を澄ます。

 

 そこから数十秒して歌が終わった。

 またチラリと彼女を見る。いつも歌い終えるとどこか満足げな表情を浮かべていて、見ていると楽しいのだ。

 

 ただそんなにじっくりと見る訳にもいかず、少しすると彼女側の乗降場に電車が来ると彼女はそれに乗って去っていった。

 後ろ髪を引かれるような気色を感じて、走っていく電車を見送り、秀星は視線を正面に戻す。

 

 入れ替わるように行き先への電車がやって来る。乗り込んだオンボロな車体は、なりかけの夜に溶けるように、のっそりと移動するのだった。

 

 

 

 *

 

 

 

 授業が終わる頃になると、もう辺りはすっかり暗くなっていた。

 頭に霧がかかるような倦怠感を感じて、秀星はふらふらとしながら、まるで夢遊病者のように覚束ない足取りだと大袈裟に認知しながら帰路に就いた。

 

 駅に向かう道すがら今日やった授業の内容を整理しようと数時間前まで遡ると、そこはあまり覚えていないのに、どうしてもあの子の顔が脳裏に浮かぶ。

 あの眩い笑顔が、歌が、今日はやけに頭から離れてくれない。

 

 ……こんなことを考えている場合か? 俺は。

 

 今日の授業だって碌に頭に入っていない。ただ焦って、板書を写しただけの不恰好なページがノートに増えただけだった。

 何の為に何をしているのかも分からないで、解るわけがない。茫漠とした秀星の思考でもそれだけはハッキリと分かる。現実逃避をしていても変わらないだろう、そう自身を一喝して秀星は頭の中の女の子を振り払う。

 

 歩きながら空を見上げた。都心の薄汚れた空気に遮られると、星は見えなくなるらしい。真っ黒な夜空には、高層ビルの赤色灯だけが光っていた。

 

 ──昔は、もっと綺麗に見えていなかったか。

 

 朝に感じた窮屈さがここにきてぶり返したらしい。こりゃ重症だと空を仰ぎ見ていると、霞んだ夜空に一粒の砂金のような小さな輝きが見えて。

 ふと、ずっと行っていなかった“ある場所”を思い出した。

 

 

 

 星を見に行くために登っていた丘があった。

 自分だけの秘密基地のような、そこに登って世界を──星空を見渡せば、いつでも自由に、何にだってなれる。そんな小高い丘があった。

 どうせ家にいても息苦しいだけだと、秀星は久々にその丘へと足を運んでみることにした。

 

 電車を乗り継ぎ、揺られること数十分。

 着の身着のままで来るには遠すぎたかと、思いつきで行動したことを少し悔やんだ。

 

 麓から登り終えると、まだ肌寒い春の夜風が秀星の頬を撫でる。

 

「……」

 

 この一帯はなだらかな丘陵地だ。観光スポットとして整備されている区画もあるが、秀星の知っているここは人の訪れるような場所ではない。

 もう一度、宙を見上げる。何物にも遮られない、満天の星空が広がっている。

 秀星だけが知っている、秘密の場所。

 

「綺麗だなぁ……」

 

 思わず、といった様子で呟く。

 見上げた光景に今だけは全て忘れてしまおうと割り切ると、秀星は星ごと吸い込むような勢いで深呼吸をした。

 

 こうしていると昔に戻ったような気持ちになれる。

 星空を眺めて、その光にとてつもないパワーを感じていた。何か、こう……力強いビートのような。

 

 アレを俺は、いや、誰かに聞いたんだったか……。

 

 

 

 そう。確か、それは。

 

 

 

 星の鼓動──

 

 

 

「星、すっごく綺麗だねっ!」

 

 

 

「……えっ」

 

 

 

 横からの声に、唐突に意識が引き戻される。

 そして心臓を鷲掴みにされたような衝撃が秀星を襲った。

 

 いきなり話しかけられたというのもあるし、それに何より。

 いつも聞いていた、あの声だったから。

 振り返った秀星の視界に映ったのは。

 

 

 

 駅で歌っていた、あの女の子だった。

 

 




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02. 二重星

「……」

 

 秀星は暫く動けなかった。

 

 唐突に話しかけてきた女の子はずいっと距離を詰めて来ているし、今まで嗅いだことのないようないい匂いがして、心拍の速度がバクンと加速した。

 憧れの女の子が自分の秘密の場所に、自分のすぐそばにいるのだ。秀星の脳味噌は瞬間的に処理落ちしてしまっていた。

 

「……あ、そうですね」

 

 結果秀星の口から飛び出た言葉は何とも味気ないものだったけど、女の子は気にもしない風ににこやかな表情だった。

 パッと秀星から離れ、踊るような軽やかさで回るみたいに丘を見渡す。

 

「だよね。私、星が見たくなったらいっつもここに来るんだ!」

 

 星空を見上げながら、彼女の紫水晶は夜を写す。

 その横顔を見ることも、星に意識を集中させることも叶わないで、「はぁ」なんて愛想の悪い相槌が漏れて出た。秀星はまだ状況を咀嚼しきれていなかったのだ。

 

「キミ、よく駅で一緒になる人だよね?」

「えっ」

「あれ、私の勘違い!?」

 

 けれども彼女の発言が更に秀星の思考に混乱をもたらす。

 この子、俺のこと知ってるのか!? などと本格的に星見どころではなくなった秀星を他所に彼女は彼女で慌てだして、何とも可笑しな風体の二人を夜空が見下ろす。

 

「あぁいや、多分俺であってるよ。君は……よく駅で歌ってる……」

「聞いてくれてたの!?」

「うぉっ!?」

 

 少し落ち着きを取り戻して、勘違いであることを否定した秀星の言葉に再び少女が詰め寄る。

 キラキラと輝くつぶらな瞳が秀星をもう一度捕捉して、またもや顔に熱が集まるのを自覚させられる。

 秀星は女子に対して耐性がない訳ではないが、この少女となると話は別で、全くのコミュ障のような体をなしていた。

 

「いや! そんな聞き耳を立ててた訳じゃないんだけど……偶然聞こえた、みたいな! ほら、よく通る声だったから!」

 

 取り敢えず聞き耳を立てていた気持ちの悪い男と思われたくなくて(実際聞いていたという面ではそうなのだが)、秀星は勢いのままに捲し立てる。

 

「でもでも、聞いてくれてたんだよね?」

「……まぁ、一応は」

「えへへー、照れるなぁ」

 

 照れると言いつつも嬉しそうな少女を見て、引かれてなくて良かったとか可愛いなとかと内心で胸を撫で下ろす。

 

「あれ、私が自分で作った歌なんだ! 太陽がぽかぽかで気持ちいいとか、雨がパラパラ降ってていいリズムだなーとか、そんな感じで」

「やっぱりオリジナルだったんだ。聞いたことないのばっかだったから、そうなのかなって思ってたけど」

「聞いてみてどうだった?」

「よかったよ。楽しそうだったり、綺麗だったり」

「ほんと!?」

 

 頷くと、少女は跳ねるように喜ぶ。表情が豊かな子だなと、駅での印象と変わりない彼女の姿に秀星は軽く微笑んだ。

 彼女の親しみやすい雰囲気がそうさせているのかもしてないと、向き合っていてそう感じた。

 

「それでね、そういうメロディって星とか見上げてると思いつくんだ。キラキラ〜って」

 

 何となく分かるかもしれない、と思った。

 自分がこうしてこの丘にやって来たのも、在りし日の輝きのような、そんなものを追っているのかもしれないから。

 

「だから星が見たくてここに来たらキミがいて。いつもよく見るなぁって声掛けたんだ。その制服、城成だよね?」

「ああ。城成の三年だよ」

「それにしても城成か〜……頭いいんだね」

 

 感心するように言う少女に、秀星は苦い笑みを漏らす。ここに来る前の心地が思い起こされて、逃げるように視線が星に戻った。

 確かに通っている高校は都内でも名の知れた進学校で、曲がりなりにもここまでどうにかやってきた。でもそれだけ。首の皮一枚の継ぎ接ぎで手前の人生の岐路に立つ覚悟なんて、秀星にはまだなかった。

 

「いや、そうでもないよ。俺は落ちこぼれだし」

「そうなの?」

「そうなんだ」

 

 だから自嘲の言葉を責めて明るく吐き出す。

 遠くに見える赤色灯が、嫌に目に映った。

 

「じゃあ私と一緒だ! この前のテストもすっごく点数低くて有咲に怒られちゃって……。あ、有咲っていうのは私の友達で、一緒にバンドやってるの!」

「へえ、バンドやってるんだ」

「うん。Poppin’Partyって名前なんだけど、知ってる?」

「あー、ごめん。音楽はあんまり聞かないから」

「えー、そんなの勿体ないよ〜。あ、じゃあ今度ライブやる時に聞きに来て! すっごくドキドキするから!」

「そうだな。暇があれば聞きに行くよ」

 

 バンドをやっているからあんなに綺麗な歌声なのだろうか。それとも歌が上手いからバンドをやっているのか。卵か鶏かみたいなどうでもいい議論が脳内で一瞬起こった。

 丘の上に風がびゅうと吹く。頰を撫でて去っていった風は、チラつく都市の灯に向かう。

 

「でもいいね、バンドとか。カッコよくて」

「えへへ、でしょ? キミは何かやってるの?」

 

 自分のことを訊かれるとは思っていなくて、秀星は少し面食らう。その所為で返答に遅れたのだと、すぐに質問に答えようとして……何も返す言葉がないだけなのだと気づいた。

 

「……俺は特に何もやってないよ。部活も入ってないし、外で何かしてる訳でもない」

「そうなんだ」

 

 驚く少女。口に出したのではないが、意外だ、と思った。

 自分の周りでは、皆が皆やりたいことに目がけて一生懸命に頑張っている。バンド然り、各々の将来然り。だから少女には何もない、ということが想像し難かった。

 

 ましてそれが……。

 

「高校も親とか先生に勧められて入っただけでさ。しかも付いていくのに精一杯で、何とかやってきたと思ったら……もう高校生活終了寸前って感じ」

 

 おどけて言って見せた空元気が、少女には少し寂しく聞こえた。

 

「だから何をやるかとか、何をしたいとかは分からない。受験生だし、もっとしっかりしなきゃとは思うんだけど。……ってか、多分そっちも高三だよな? 君はどうなの?」

 

 再び話題を振られた少女は、もう一度空を見上げる。

 雲一つない紺碧に、散りばめられた星々の煌きが煌々と燃える。

 

 その輝きを仰いで。

 

「私も、よくわかんない!」

 

 少女は開き直るように元気いっぱいに言い放った。

 呆気にとられた秀星。何となく、目の前の少女は真っ直ぐな芯を持って突き進んでいるのかと思っていたから。

 空に手を伸ばしながら、少女は言葉を続ける。

 

 

 

「だってこんなにキラキラしてる星が沢山あるのに、あそこに行こう! って思っても一つの星にしか行けないんだよ?」

 

 

 

 幾つもの選択肢がある中で、選べる道は一つだけ。

 

 

 

「だったら、一番キラキラしてるところに行きたい。でも私は、今が一番キラキラドキドキしてるから! だから私は今なんだ!」

 

 

 

 ──だから自分は、一番輝く道を歩きたい。そして、それが今なのだと。少女はそう言ったのだ。

 

 

 

「……」

 

 

 

 秀星は全部を理解した訳ではない。少女の言い回しには大分突飛なものがあるし、近しい友人でも彼女の発言には振り回されることがしょっちゅうだ。

 

 それでも少女の一番言いたいことは、秀星にハッキリと伝わっていた。

 

「そっか」

 

 夜空を見上げる。確かに星はキラキラで、眩いくらいだった。

 

「なんか、いいな。そういうの」

「うん!」

 

 昔を思い出したように、秀星は微笑む。

 頷いた少女との間に、再び風が流れた。春先とは言え、まだ夜は冷える気候だった。

 

「……大分冷えてきたな。もうそろそろ帰らない?」

「そうだね。あ、でもその前に……」

「?」

 

 隣り合っていた秀星に、少女が向き直り。

 

 

 

「私、花女三年の戸山香澄! キミは?」

 

 

 

 確かに、そう名乗った。

 

 

 

「……」

「ん? どうしたの?」

「あ、いや。……俺は榊秀星。よろしくな、戸山さん」

「うん。よろしくね、秀くん!」

 

 

 

 星空を背に少女──香澄はにこりと笑って。

 

 

 

 そんな彼女は、どこまでも綺麗だった。

 

 

 

 

 

 

 丘から降りて最寄りの停留所で乗車した後、それぞれの降りる駅で秀星は香澄と別れた。

 降車口から出て人工的な街灯の白い光の下を歩きながら、ぽつりと呟く。

 

 とやま、かすみ。

 

 心中で反芻したその名前は、聞き覚えのある、いや秀星にとってどうしても忘れられないあの日のことを思い出させるものだった。

 それに彼女に感じていた既視感。

 

 きっと彼女と自分は、その時に一度会っている。

 

 

 

 でも、彼女が本当に香澄なのだとしたら──

 

 

 

 秀星は香澄の姿を思い浮かべる。丘で今を楽しむのだと話していた横顔。駅での楽しそうな歌声。そして、

 

 

 

『じゃあさ、俺も──だから、君も──』

 

 

 

 在りし日の約束。

 

 

 

「……」

 

 

 

 ──俺は彼女に、合わせる顔がない。

 

 

 

 携帯が小さく震えた。取り出して見ると、先ほどメッセージアプリで連絡先を交換した香澄から通知が来ていた。

 

『今日はありがとう! また星見れるといいね!』

 

 通知を報せるブルーライトがそう照らして、秀星は未読のままポケットに携帯を戻す。

 

 もう一度夜空を見上げる。

 薄汚れた空気と機械仕掛けの光に侵されて、星々はもう見えない。

 

 広がるのは、ただの真黒だった。




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03. 紅炎

何とか年内に投稿できました、お待たせして申し訳ないです。


 掻き鳴らされたギターの弦が、下地に伸びるベースに被さって調和を生み出す。ドラムの規則正しくかつ力強いリズムが、続くキーボードへの軽やかな旋律を補強する。

 そこに響く歌声。真っ直ぐに突き抜け、染み渡るようなその声が楽器の音色たちと合わさって──彼女たち、Poppin'Partyの音楽が完成した。

 

「……今、すっごく上手くいったよね!?」

「うん。ここ最近で一番良かった」

「おたえちゃんたちもそう思った? めっちゃ良かったよ!」

 

 前に立つ三人がやいのやいのとはしゃぐのを見つめて、ドラムを叩いていた少女が隣で立ち尽くし余韻に浸っているキーボードの少女に声を掛ける。

 

「有咲、すごく嬉しそうだね」

「はぁ!? ……いや、まあ……すげーばっちり決まったから、ちょっと驚いてただけ!」

 

「ちょっとだけな!」と付け加えるキーボードの少女──市ヶ谷有咲を、ドラムの少女──山吹沙綾はにこにこと見つめる。

 その生暖かい視線から逃げるかのように、有咲はギターを置いて水を飲んでいる香澄の方を向いた。

 

「つーか、香澄今日やけに気合い入ってるな。何かあったのか?」

「そうかな?」

 

 ぱっと振り向いた香澄の額にはじんわりと汗が滲んでいる。繰り返し熱心に演奏していた何よりの証左と、当の本人の言葉は意外にも合致していなかった。

 

「確かに、いつもよりアツかったね。ぎゅいーんって感じしてた」

 

「ぎゅいーん」を示すように青いギターを一度弾いたリードギターの少女──花園たえにもそう言われ、香澄は少し考えるような仕草をした後ににこりと笑った。

 

「何でもないけど、やっぱりバンドって楽しいなって!」

 

「もう一回やろうー!」と紅く輝くランダムスターを提げ直した香澄は、自覚していないと言う割には些か張り切りすぎている気がして、横でピンクのベースを調弦し直していた少女──牛込りみはその手を速めながらもその様子をちょっと不思議に思った。

 

「あ、香澄ちゃん、ちょっと待ってね。もうすぐチューニング終わるから」

「あんまり急かすなよな。疲れたし私はちょっと休憩ー」

 

 どっかりとソファに沈み込む蔵の主は、疲れたと言わんばかりの溜め息。ただその疲労は心地好い感覚として有咲の体を包んでいて、皆も一様にそれを理解していた。

 

「有咲、先週模試受けてたもんね。成績優秀者が受けるやつだっけ?」

「そ。優秀者ですから」

「どうだったの?」

「それ聞くか……。やっぱりすげー難しくてさ。そりゃ城成とかが受けるようなヤツだから当然なんだけど」

「有咲ちゃんでもそう思うって、すごく難しいんだね」

 

 彼女たちの学年で一位の成績を誇る有咲であってもそうなのかと驚く一同。その様子を見た有咲は、今度は呆れたような溜め息を吐いた。

 

「ウチは平均くらいの偏差値だからアレだけど、基本70オーバーが受ける模試だからな? その中じゃ私は落ちこぼれもいいとこな訳」

「な、70……」

「私たちじゃ想像もできない数字だね……」

 

 決して頭が悪い訳ではない沙綾でも苦笑いを漏らすような数字だ。たえなんかは首を傾げて「よくわからないね」と呟いて、りみも神妙な顔で頷いた。

 

「有咲は大学、行くの?」

 

 そんな中、ずっと黙っていた香澄が有咲に呼び掛けた。てっきり苦手な勉強の話に頭を抱えているものだと思っていた有咲は、振られた話の内容に少し面食らいながらも答えた。

 

「まぁ、そりゃあな。ほら、今は婆ちゃんがやってるけど……流星堂も私の代で終わらせたくないし。経営とかの勉強もちゃんとしなきゃだろ?」

「有咲、流星堂継ぐの!?」

「いいんじゃない? 私も流星堂がなくなっちゃったら悲しいし」

「おぉー、若女将だ」

「それ、女将って言うのかな……?」

 

 初耳である面々は一気に沸き立つ。「まだ確定って訳じゃないけど、一応な」と付け加えた有咲の目は、それでも将来をしっかりと捉まえているように香澄には見えた。

 進学する意思があったことは知っていたけど、こうも具体的に将来の話をされると、そういう時期なのだと嫌でも感じてしまう。

 

 香澄は今いる蔵を見渡した。少し狭い所為か奥まった空気の匂い。手狭に置かれた楽器たち。一緒にいる仲間。

 少なくとも香澄にとっては、それが今ここにあるものの殆どと言っても過言ではないもので。将来という漠然な先の光景を捉えることは、まだできなかった。

 スタンドに立て掛けたランダムスター。その星は何度も取り零しそうになって──漸く掴んだ今の輝きだ。無数に浮かぶ瞬きを見つめることしかできていなかった自分が掴んだ、今。

 

 だからそれ以外は見えていなかったし、それでもいいと今は思えている。

 この瞬間がいつまでも続くかは分からない。だからこそこの五人でいられる今を大切に、悔いがないように過ごしたい。自分たちの音楽は、無敵で最強のキズナなのだから。

 

 願わくば、そんな今というキラキラを、彼にも知っていて欲しい。

 

 そう思いながら香澄はランダムスターを手に取る。

 

「よーし! じゃあ有咲の門出を祝って、もう一曲弾いちゃおう!」

「ちょ、門出とか気が早すぎるだろ!?」

「いいからいいから!」

 

 だって──

 

(──秀くんも、あの時私のキラキラドキドキを見つけてくれたから!)

 

 弾かれた弦からは、眩い今の輝きが、煌々と燃えていた。

 

 

 

 *

 

 

 

 初めてあの丘に立ったのは、一体いつ頃だっただろうか。

 遠くて、何も思い出せない。霞みがかった空を衝く高層ビルが邪魔で、あの丘がある場所は秀星に見えなかった。見えなくなっていた。

 

 昨日会った女の子の横顔は、星と変わらないくらいに眩しくて。あったかもしれない未来や過去のあれやこれじゃない、今を澄んだ瞳で見上げていた。

 秀星は背負ったリュックがずんと重く感じた。まだ親に見せていない模試の成績表。未来も過去も、自分はこんな紙切れ一枚で左右されている。安っぽい見開きのA4用紙とそこに刷られたインクとで、榊秀星という人間の全てが決定されるらしい。

 重く湿った息が漏れて、そのまま電車に乗り込む。

 

 初めてあの丘に立った時に見上げていたものは、一体何だっただろうか。

 星を見ていた。星を見て、手を伸ばそうとしていた。

 

 そんな時、彼女に出会った。

 

 下を向いて歩いていた彼女。星を見上げた彼女。歌を歌っている彼女。

 

 あれは確か、もうずっと前、十年くらい前だったかもしれない。

 だけどあの声が今の自分に向けられたとして、それに応えることなんてできない。夢を見れる時間は、とうの昔に終わっている。

 

『私、花女三年の戸山香澄!』

 

 でもきっとあの子は……。

 

 その時、暗い思考とは真反対の軽快な電子音がポケットから鳴って、秀星の意識は一気に現実へと引き戻された。

 メッセージの通知音。送り主は今まさに考えていた人物だった。

 

 ──おはよう! 

 

 戸山さん。秀星はそう登録していて、表示されるメッセージはぽんぽんと音を立てながら増えていく。ロック画面がどんどん埋められていった。

 

 ──来週の週末暇? 

 

 ──実はポピパでライブ出ることになったんだ! 

 

 ──時間があったら聴きに来て欲しいな! 

 

 どんな様子で送ってきているかは、何となく容易に想像できる。

 矢継ぎ早なメッセージの次に、あるサイトのURLが送られてくる。おそらくはライブに関する情報が載っているものだろうと推測しながら、特に返せる言葉がある訳でもなくポケットに仕舞い込む。

 もう一度その中で携帯が震えたが、再び取り出すことはしなかった。

 

「むむむ……」

 

 しなかった、が。

 

「……え、おぉっ!?」

 

 頬を膨らませた件の送り主が、秀星をジトっと睨めつけていた。

 思わず驚いて、秀星は声を上げながら半歩ほど後ずさる。情けない声をあげてしまったと自覚するも、香澄はそれに関して気にしている様子はない。かと言って依然と膨れっ面であり、怒っていることは変わらないのだが。

 

「……秀くん、今見るだけ見て返信しなかった!」

「あー……おはよう?」

「LINEでもそう返してよ〜」

「ごめんごめん」

 

 とは言え元々本気で怒っている訳でもなかったので、香澄もそれで落ち着いた。そしてもう一度携帯を確認すると、『後ろ見て!』とあった。どうやらこれで反応してくれるものだと思っていたらしい。少し申し訳ないことをしたな、と少々自省する。

 そんな香澄を見て、秀星はそう言えば行きの電車で時間が重なるのは珍しいと思った。

 

「戸山さん、いつもこの時間だっけ?」

「ううん。今日はいつもより早く起きちゃって、折角だから早く出ようかなって」

 

「たまには早起きもいいね!」なんてにっこりと笑う彼女を、つい数日前の夕方までは遠くから眺めているだけだったのにと思うと妙に不思議な気色になるのだった。思いの外ちゃんと話せている自分がいることにも。

 ベージュ色のセーラー服と赤いリボンが電車の振動に合わせてひらひらと揺れる。ただそれよりも秀星が注目していたのはその背中に背負われた黒いギターケースだった。

 

「それ、ギター?」

「うん! ランダムスターって言って、真っ赤な星型のギターなんだよ。私、一目惚れしちゃったんだ」

「まさか自腹で買ったのか? ギターって結構するんじゃ」

 

 素人なりにも高いものだと数十万は下らない代物だという認識はあったので、自慢げな様子の香澄に秀星は驚きを隠せない。

 

「本当はそうなんだけど、有咲に格安で譲ってもらったんだ。実はね──」

 

 そんな秀星に目を輝かせてギターや仲間の話を始める香澄。その様子から本当に楽しんでいるのだと見て取れて、素直に眩しいなと感じた。

 前の夜にあの丘で言っていた言葉通りに、きっと香澄は今の瞬間を噛み締めて歌っているのだろう。その歌を、香澄の言葉を、秀星は果たして自分に聞くことができるのだろうかと思考した。

 

 ふとそんな秀星の目が何処か遠くを眺めているように見えて、香澄は半ば捲し立てるように話していた口の動きを止めた。

 

「秀くん?」

「……ん。あぁ、聞いてるよ」

 

 不意に引き戻されても彼の応答は上の空で、香澄は時折車内に差す影が顔に被さったままでいるような、妙な陰りを感じた。

 だから秀星の注意を引くように、彼の腕を取って──香澄は笑顔で言った。

 

「ねぇ秀くん!」

「ん?」

「さっき私がLINEでなんて送ったか覚えてる?」

「え……何だよ、急に」

「いいからいいから」

「……『後ろ見て!』だっけ?」

 

 その問いかけの意味が分からずに、首を捻りながら直近のものを回答する。

 ただどうも的外れの解答だったらしく、微妙な表情をされる。

 

「そうだけど、そうじゃなくて……。その前! ライブ!」

「あ、あぁ。そっちか」

 

 詰め寄られて息が詰まる。それは女の子に近寄られた緊張もあったのかもしれないが、秀星にとってはもっと別の意味合いが強いように感じた。

 

「あー……えっと、来週末だっけ。俺塾に通っててさ、授業が入るかもしれないから……」

「それなんだけどね、実は今日の放課後リハーサルやる予定なんだけど……」

 

 距離はそのままに寄せられた香澄の瞳は変わらず輝いていて──

 

「秀くんに聴きに来て欲しいんだ!」

 

 やっぱり、唯々眩しかった。




感想、評価等していただければ幸いです。


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04. 綺羅星

お久しぶりです。執筆とは中々ままならないものですね。


 秀星は基本的に押しに弱い。二つ返事のような形を装って頷く動作が相手の誘いを聞き終える前にもう始まっているくらいには、抗う労力とその後の影響を慮った結論が早く出るタイプの人間だ。

 

 そんな自分に嫌気が差すことは間々あることで、特に今回の憂鬱さときたら中々のものだった。

 目の前の趣きを感じさせる古くも広々とした和風建築には、『流星堂』と看板が出ている。

 

 朝方会った香澄に押し切られた形で指定された場所は、後からメッセージで添付された位置情報からもここで間違いなさそうだ。それにしても、と秀星は首を傾げる。

 

(なんで質屋……?)

 

 普通演奏を披露するのならライブハウスやスタジオに呼び出すのではないだろうか。それも質屋なんて高校生にとって縁遠い場所で。いや、質屋に縁があるのがどんな人間かなんて知らないけどさ……などと入口の前で思考を巡らせているのは、単にどうすればいいのか分からなかったからだ。

 ここに来いという指示は受けていたものの、どうやら店の方は既に閉まっているらしく明かりは消えている。それもその筈で、夕方の課外授業を終えてから向かったのでもう七時近い時間だ。個人の商店なら店仕舞いの頃合いとしては妥当だろう。

 

 取り敢えず香澄に「今着いた」とメッセージを飛ばして、秀星は壁にもたれ掛かる。空にぼんやりと浮かぶ下弦の月を見上げると、断りきれずに来てしまったことに対する後悔がじわじわと再燃しそうで思わず目を逸らす。

 暇をつぶそうと手で遊ばせていたスマートフォンをまた開いて、何となしに検索エンジンに香澄の所属するバンドの名前──Poppin’Partyという名前だった筈だ──を打ち込んで検索をかける。

 綴りは合っているだろうかという秀星の心配は杞憂に終わった。早い段階で予測変換の欄に出てきたからだ。それは彼女たちが名の知れたガールズバンドであることの何よりの証左で、検索結果が表示されるまでのコンマ一秒にも満たない内に、何だかそれを見るのも憂鬱になってブラウザのタブを閉じてしまった。

 

「秀くんっ」

「……お、戸山さん」

 

 そんなタイミングで香澄が来て、秀星は素早くポケットにスマホを突っ込んだ。

 薄暮時の中でもその人懐っこい笑みは変わらず眩い。

 

「遅かったからもう始めちゃってたよ〜。早く早く!」

「いや、こんぐらいの時間になるとは言ってたよ、俺。……で、ここのどこで演奏なんてしてるの?」

「ふふーん、ここには私たちの秘密基地があるんだよ」

 

 逸る気持ちを抑えきれない歩調の香澄についていきながら問う秀星に、香澄は自慢げな顔をしながら先導する。

 

「ここの蔵で練習とか、たまにライブもやってるんだ!」

「へー。ってそれ、秘密基地ではないんじゃ……」

「あ、そうだね。でも、大切な場所だから」

 

 香澄は秀星のツッコミを気にする素振りもせず楽しそうに話す。今日は何だかテンションが特に高い気がした。

 

 ここはバンドメンバーでもある有咲という子の実家で、結成当初から場所を借りさせてもらっているのだという説明を受けながら中に入る。外と変わらない薄闇に覆われた室内には、何が入っているか分からない木箱が山積みにされていたり、やたらと大きい壺やらが隅にひっそりと置かれていたりしている。

 

 ただ奥の方からギターの音と女の子たちの話し声が聞こえて、少々物々しい雰囲気だった蔵の中がパッと変わったように秀星は感じた。

 

「こっちこっち」

 

 手招かれて近づくと、床に扉がある。どうやら彼女たちの秘密基地は地下らしい。なるほど確かに秘密基地と呼びたくなる気持ちも分かるなと納得するも、扉に手を掛けた香澄に秀星は「あ、待った」とストップをかけた。

 

「? どうしたの?」

「……いや、ちょっとその、緊張しちゃって」

「大丈夫だよ〜。ちゃんと皆に友達連れて来るって言ってあるから!」

「んー、そういう問題でもないんだけどな……」

 

 香澄がグイグイと来るタイプだから話せているのであって、秀星本人はそれほど人とのコミュニケーションに積極的な人間ではない。孤立しないように立ち回ることはできても、女の子の集団に正面切って入っていく意気地は備わっていないのだ。

 二の足を踏む秀星を他所に、しかし香澄はそのまま扉を開けた。

 

「みんな〜、連れて来たよ!」

「ちょ、戸山さん……!」

 

 ちょうど真下に設置されている階段箪笥をとててっと軽やかに降りていく彼女に続いて、止むを得ず降りていく。

 下にいた四人の女の子の視線が一気に自分に集まるのを感じて、秀星の中でどっと緊張が増し勝手に重圧を感じた。

 

「わ、沙綾の言った通りだ」

 

 そんな風に内心で縮こまっていた秀星を見て開口一番にそう言ったのは、丁度調弦を終えたところのたえ。

 

「なんで分かったの、沙綾ちゃん?」

「なんだろ、香澄の最近の調子の良さとか見てたら……何となく?」

 

 感嘆するりみとたえに、沙綾は少し得意げな顔を見せる。

 秀星には何の話をしているのかなんて検討は付かないが、少なくとも招かれざる客という感じでもなさそうで、そこは一安心だった。

 

「あー……どうも、お邪魔します」

 

 取り敢えずと軽く頭を下げた秀星に「そんな畏まらなくていいよ」と沙綾が柔らかく笑う。

 

「私たちもいきなり連れて来るって言われてさ、結構緊張してるんだ。……あ、私は山吹沙綾。見ての通りドラム担当です」

 

 ドラムスローンから立ち上がってそう自己紹介する。言葉の割に緊張している風には見えないけど、そう言って貰えて幾らか肩の力が抜けたような気がした。

 

「私はギター担当の花園たえ。よろしくね」

 

 ただ久々の新しい来客に興味深そうな視線を向けるたえには、香澄のグイグイ来る圧とはまた違うものを感じていたりもする秀星だった。

 

「べ、ベース担当の牛込りみです。よろしくお願いします」

「あぁいえ、こちらこそ」

 

 りみはりみで少し緊張していて、二人して深々と頭を下げる。肩に提げたままだったベースがストラップに吊り下げられてぶらりと揺れた。

 

「りみりんまでそんな緊張しなくていいのに〜」

 

 そんな二人の様子を見て香澄は笑う。ベースを押さえたりみは「だって、男の子だとは思ってなかったから……」と伏し目がちな視線を香澄に向ける。

 

「沙綾ちゃんは、分かってたみたいだけど」

「本当になんとなくだけどね」

「私はロックでも連れて来るのかと思ってたよ」

 

 確かにガールズバンドと銘打っているくらいだから、男が聴きにくるのは珍しいのだろうか。制服を見るに全員花女の生徒、つまり女子校の子だろうし、りみは勿論沙綾やたえもひょっとしたら本当は緊張しているのかもしれない。

 ……それともう一人。

 

「……もしかして、本当にお邪魔だったり?」

「いやいや、そんなことないよ。ライブも近いし、お客さんがいるのはリハみたいで有難いから」

 

 すぐさま秀星にフォローを入れる沙綾。だけどその表情はその直後に苦笑に変わり、「って言いたいところなんだけど……」と続けられた言葉と共に後方に向けられる。

 

「ありさぁ、そんな隅っこ行かないでよー」

「いや、無理無理! 男子連れて来るなんて聞いてねぇから!」

 

 部屋の奥に置かれたキーボードの更に奥で縮こまる有咲に呼び掛ける香澄。ひそひそとしたやり取りではあったけれど、その概ねは秀星にも聞こえていた。

 実は有咲もたえと同じで大方六花か誰かでも連れて来るのかと思っており、まして初対面の男が来るなんて青天の霹靂もいいところだった。高校生活やバンドを通じて不登校時代だった中学以来の人見知りを克服したかに思われたが、まだ同年代の異性に対する免疫はなかったりする。

 

「じゅんじゅんは大丈夫だったじゃん!」

「バカ、それとこれとじゃ全然違うだろ! あぁもう、なんだって男子なんて……!」

「あ、有咲ちゃん。多分、普通に聞こえちゃってるよ……?」

「っ!」

 

 不味った、と表情を強張らせる有咲。そんな様子から一転、「ご、ごきげんよう〜……」とどこから引っ張り出してきたのか分からない妙に不自然な挨拶を秀星に投げ掛ける。猫被りの癖がまた再発してしまったようで、流石に初対面の秀星でもそのぎこちなさは容易に見て取れたし、ここまで嫌がられると些か以上に精神上くるものがあったりした。

 

「俺、やっぱり帰ろうか?」

「それはダメ! せっかく来たんだから、聴いていってよ」

「やでも、演者が無理って言うんじゃな……」

「有咲なら大丈夫だから、お願い〜!」

「ちょっ……!?」

 

 帰ろうかと提案する秀星にそれを断固拒否する香澄が、腕を取ってグイッと引き寄せる。

 顔が近い。良い匂いもするし、何やら柔らかい感触が当たっているような。引き寄せられた瞬間から五感に色々なものが襲い掛かってきて、秀星はたじろぐ。

 

「おぉー。香澄、大胆だ」

 

 場違いな感想を口にするたえと苦笑する沙綾、どうなるのだろうと狼狽するりみ。

 三者三様の反応だったが、有咲はというと一瞬前までの装った淑やかさをかなぐり捨てて怒鳴る。

 

「ちょ、ななな何してんだ香澄ー!!」

 

 どっかーん、とでも擬音が付きそうな勢いで制止する有咲にギョッとする秀星を他所に、香澄は「だって秀くんが帰っちゃうって……」と譲らない。「良いから離れろって!」と言う有咲だが、それでも離そうとしないのだった。まさに膠着状態といったところで、正直針の筵のような心地がする秀星にとってはあまりよろしくない状況だった。くっつく香澄に対してそれ以外の感情がないかと言えば、嘘になったりするのだが。

 

「だったらほら、有咲がやるって言えば大丈夫じゃない?」

 

 そんな状況に助け舟を出す沙綾の言葉に、有咲はぐぬぬと唸る。香澄が知らない男に引っ付いているという事態は許容し難く、腹を括ったかのように息を吐く。

 

「あー、わかったよ、やるよ! やればいいんだろ!」

「本当!?」

「でもしょうがなくだからな。確かにいきなりとは言え、客を門前払いするのは悪いし……」

「有咲ーっ!!」

「うわっ、くっついてくんなー!」

 

 了承を得た途端に秀星の腕から離れて有咲に飛びつく。左から消えた体温や感触やらに安堵する秀星だが、嬉しそうな香澄と口とは裏腹に満更でもなさそうな有咲を目の前でこうも見せつけられると、当事者の筈が蚊帳の外のような感覚に陥ってそれはそれで何か複雑だった。

 

「あはは、ごめんね。あの二人、いつもこんな感じだから」

「あー、なるほどね」

 

 笑いながら謝罪を入れる沙綾に、何となく納得する。

 少しの間くっつき合っていた二人だったが、待ち切れないといった様子でギターを持ち出したたえが「じゃあ、そろそろ始めようよ」と言い出したことで配置につく。

 

「キーボード担当、市ヶ谷有咲。……そっちは?」

 

 客と呼んでおいて少々睨め付けるような目付きでぶっきらぼうに問う有咲。とは言え小柄で童顔なこともあってか、あまり威圧感は感じない秀星は普通に受け答える。猫被りからえらい変わり身の早さだなという感想はあったが、胸の中に留めておくことにした。

 

「榊秀星。城成高校三年です、よろしく」

「榊……?」

 

 ただ有咲の方は何やら秀星の苗字を反芻して、少し考え込むような仕草を見せる。

 

「どうかした?」

「……あ、いや。何でもない」

 

 呼び掛けるとぱっと我に返りキーボードを軽く鳴らして調子を確かめた。特に大したことはないだろうと納得して、秀星はその澄んだ音を聴いていた。

 

 頷いた有咲を見て、それから皆を見渡して、香澄がにこりと笑う。

 

「それじゃあ改めまして、ギターボーカル、戸山香澄! 私たち──」

 

 音頭を取った彼女に、他の四人が呼応したように笑った。

 これから始めることが楽しくて仕方がないといった笑顔が燦然と輝く。

 

「「「「「──Poppin'Partyです!」」」」」

 

 その輝きはキラキラと眩しくて、メラメラと熱い。

 

「それじゃあ一曲聴いてください!」

 

 正にそれは──

 

「STER BEAT! 〜ホシノコドウ〜!」

 

 星のような輝きだった。




モチベーションを上げて頑張ります。よろしくお願いします。


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05. 逆行

お久しぶりです。



 四月も半ばとは言え、夜はまだ冷える日も多い。凍て刺すとまでは言わずとも首筋に容赦無く吹き付ける風に、秀星は軽く身を竦めた。

 それでも、先刻の熱はまだ冷め切っていない。未だに背骨を貫くような鮮烈な衝撃は余韻を残し響き渡っていて、ぶるりと震えたのは寒さだけの所為でないことは明白だった。

 

(あれが、バンド……か)

 

 とてつもない熱量だった。凄かったとしか言えない自分の語彙をもどかしく思うくらいには、秀星は香澄たちの演奏に心を揺さぶられていた。

 力強くリズミカルなドラム。技巧的な演奏に熱の乗ったギター。全体を支えるしっかりとしたベース。軽やかで心地良いキーボード。そして、響き渡る澄み切った歌声。

 どれもが目を引く魅力を音として響かせているのに、しっかりと一つの音楽として纏まっていた。いや、それがバンドというものだから当然かもしれないけどと思い返すが、実際に間近で聴くとそう静穏な心持ちでは居られないのだと秀星は結論付けた。

 

「ホント、凄かったな」

 

 ポツリと漏れ出た言葉は無意識の内で、傍を通る自動車の走行音にあっけなく掻き消される。

 それは単純な演奏と言うよりも、もっと別の所にあって……。

 

 ──本当に、楽しそうだった。

 

 彼女たちが音を合わせる度に、その詩が、旋律が、頭の中で情景として浮かんで踊るような。

 今日歌ってくれた歌には、鼓動というフレーズが何度か入っていた。五人が皆、その鼓動や情動を分かち合って一つになっている姿は、あの時と何ひとつ変わらない、純な夢で──

 

 俺とじゃ、もう大分違ってるよなぁ。

 

 そんな苦い味が、吐き出した口に広がった。

 街灯に映し出された影が、夜の色を濃く地面に塗りたくる。すれ違うヘッドライトの群れに掻き消えてはまた現れる影は、その度に闇を深くしている。

 

 風が吹く。先程よりも冷たいそれに、秀星は震えることなくただ前へと歩く。

 頭上には白色の街灯だけが、煌々と光を放っていた。

 

 

 

 *

 

 

 

 秀星が帰ってからも、練習を続けていた面々。

 流石に遅くまでやり過ぎたということもあって、今回はこのまま皆で有咲の家に泊まろうという話になっていた。

 

「は〜、いいお湯でしたー。一番風呂、ありがとね有咲」

「おー、まぁおたえが一番髪長いしな。さっさと乾かせよ」

「はーい」

 

 何だかんだ世話焼きの良い有咲に促されて髪を乾かし始めるたえ。香澄と沙綾は机で隣り合いながら次のライブについて話しているところだった。

 

「おたえおかえりー!」

「うん、ただいま香澄」

「じゃあ、次誰が入ろうか?」

「んー、私は別にいつでもいいけど……って」

 

 そう言った有咲の目に入ったのは、スコアノートを広げたまま船を漕ぐりみだった。

 

「すぅ……すぅ……」

「……こりゃお疲れだな」

「ふふ、だね。おーい、りみりん。寝ちゃいそうなら先にお風呂行ってきなよ」

「んぅ……?」

 

 沙綾が軽く肩を揺さぶると小さく声を上げて顔を上げるりみだが、未だに意識は微睡の向こう側らしい。「ん……、そうだね……行ってきます……」と言い覚束ない足取りで部屋を出て行った彼女を見送りながら、沙綾と有咲は苦笑する。

 

「りみりんも結構緊張してたもんね。……有咲も」

「そりゃ、誰かさんがいきなり連れて来るからな」

「えー、朝に言ったじゃん」

「だとしても唐突すぎるっての」

 

 言いながら有咲は香澄を睨め付ける。当の下手人は特に悪びれる様子もないが、有咲もさして気にはしていない。もう三年の付き合いになる。香澄の思いつきには今まで何度も振り回されてきたし、何か考えてのことだということも理解しているつもりだ。

 

「でも、本当に男の子だとは思わなかったな」

 

 髪を乾かしながらのたえの一言に、有咲はだからこそ内心で頷いた。

 今日香澄が連れてきた男子。その名前を聞いた時、小骨が喉に引っ掛かったような気掛かりがあったのだ。別に、悪い予感がするだとかの話ではないけれど。

 

「沙綾、なんとなく分かったって言ってたけど……エスパー?」

「あはは、違うよ。さっきも言ったけど、香澄の最近の雰囲気っていうか。調子良かったし、何か良いことあったんじゃないかなって思ったらさ」

 

「冗談半分だったんだけど」と付け加える沙綾に、たえは「名探偵だ」と目を輝かせる。そんなたえとは別に、沙綾は沙綾で好奇心に満ちた視線を香澄に向けた。

 

「で、榊くんとはどんな関係なの?」

 

 女子校とは言え、いやだからこそと言うべきなのか、沙綾もその手の話題にはそれなりに興味はある。

 ずいっと詰め寄られた香澄は、天井を見つめながら呟くように言った。

 

「秀くんは、恩人みたいな人かな」

 

 その声は、大切なものをそっと抱いて温めるような柔らかいもので。香澄の声音から、心からそう思っていることが他の三人は容易に読み取れた。

 

「私のキラキラドキドキ、笑わないで見つけてくれたから」

 

 香澄の様子から、少しだけ揶揄うようなつもりもあった沙綾はそんな心持ちもなくなって、ただ「そっか」と優しく頷くだけだった。色々聞いてみたい気持ちもあったが、それも野暮かと思い直して。

 

「ライブ、来てくれると良いね」

「うんっ」

 

 元気よく頷く香澄の横に座り直して、もう一度ステージのセッティングやらセットリストやらが書かれたノートに向き直った。

 しかしそんな香澄と沙綾を他所に、有咲は思考に耽って象られた表情を崩さない。

 

「……」

「有咲、またやきもち?」

「はぁ!? ちげーし! てかまたって何だよ!」

 

 たえに呼び掛けられて漸く意識を引き戻されて即座に否定する。

 

「……ちょっと榊って名前に聞き覚えがあったから、考えてただけ」

「そう言えばさっきも気にしてたっぽかったよね。前から榊くんのこと知ってたの?」

 

 沙綾に促されて、有咲は頷いて「別に大した話じゃないんだけど」と前置きをする。

 

「私がこの前受けてた模試あったろ?」

「すっごく難しいって言ってたやつ?」

「うん。そこで毎回成績上位の一桁には入ってる人で、榊ってのがいてさ」

 

 珍しい苗字だったこともあって記憶に残りやすかったのだと言う。

 

「それって有咲より凄いの?」

「当たり前だろ。そんな簡単に乗れるもんじゃないって」

「城成ってだけでも凄いのに……。そんなに頭良かったんだ、榊くん」

 

 感心するように言った沙綾と、「はぇー」と呆けたような声を出した香澄。

 

「って言っても、思い出したのは今さっきなんだけどな。一年くらい前から全然名前が乗らなくなってて」

「そうなんだ」

「てか、香澄は知らなかったのか? 恩人なんだろ」

「会ったの久しぶりだったから」

「ふうん」

 

 そもそも香澄との接点が見えないことだったり、きっかけは何だったのかだったりが気になる有咲ではあったが、また変に勘違いされて揶揄われかねないと言葉を飲み込む。

 

「でも、なんで今は乗ってないんだろうね」

「さぁ……。普通に成績が下がったとか、受けてないとかなんじゃねえの?」

 

 髪を乾かし終え櫛を通すたえに、有咲は投げやりな返事を返す。割とよくある事だ。途中までは成績優秀でも、そこから転がり落ちてしまうことは。

 今年は自分も受験生だ。人のことは気にしていられない。バンドも勉強も、やるだけやってみせるさと有咲は一人意気込んだ。

 

「それより香澄。明日までの英語の課題、終わってるか?」

「うっ……」

 

 ノートにさらさらと書き込んでいた手が止まり、わかりやすく嫌忌の声を上げる。予想通りではあったが、それ故の溜め息が漏れた。

 

「ライブの話もそりゃ大事だけど、それで評定1でも取ったらお話に──」

「──長くなっちゃってごめんね。お風呂上がったよ」

「あっ、じゃあ私次入ってくるね! 宿題はその後! ……多分」

「ちょ、こら香澄!」

 

 有咲の制止も他所にそそくさと出て行く。事情を今いち飲み込めていないりみでも何となく察しは着いて、トタトタと廊下を駆けていく香澄を苦笑しながら見送るのだった。

 

 逃げ出た香澄は、こなさなければいけない課題のことを思って溜め息を漏らした。

 今年は高校三年生。進学だって視野に入れているのだから、勉強は今まで以上に頑張らなければならない。それは分かっているけど……。

 

「うぅ、キラキラドキドキしないなぁ……」

 

 やはり価値判断の基準はそこだ。勉強にキラキラもドキドキも感じられないのだから、そればかりはどうしようもないと開き直る。

 ……とは言っても、流石に宿題は疎かにできるものでは無いのだが。

 

(有咲は凄いなぁ)

 

 勉強だって学年トップで、それでもまだまだだと頑張っている。

 

(そう言えば、秀くんもすっごく頭良いんだっけ)

 

 進学校の城成ということでそもそもが良いことは知っていたけど、有咲の話を聞いて改めて実感させられた。

 でも……。

 

『俺は落ちこぼれだし』

 

 そう笑いながら言った秀星の顔がふと香澄の脳裏に浮かんだ。

 何処か諦めたような、地に着いた覚束ない足取りが微笑に滲んでいた様子。あの丘での邂逅が想起させたのは、いつかの日の彼だけでないことだって分かっていた。

 でも、やっと気付けたから。

 

 今日の練習を見ていてくれた秀星の目は、きっと変わっていなかった。

 だから。

 

「うん、頑張ろう!」

 

 絶対にもう一度、キラキラドキドキを届けよう。

 そして、あの時の約束を──

 

 そう考えると、香澄は力が湧いてくる。

 歌を歌うことの楽しさを、夜空の星の煌めきを、勇気を出す為の一歩を。

 

 少女はいつだって信じてきた。

 




先日のポピパ7th実況を観て久しぶりに熱がこれでもかと言うくらい再燃したので思わず筆を。
やっぱり自分はどこまで行ってもPoppin’Partyのファンなのだなと改めて思える瞬間でした。メットライフドームでのライブ延期は残念ですが、今は忍耐が重要です。8月や10月のライブは無事開催できるよう、皆さんも不要不急の外出の自粛を心がけていきましょう。
長々と失礼しました。それではまた次話にて。感想等お待ちしております。


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06. 薄明

今回小説版の流れを汲んでいる場面が出てきますが、世界線的にはアニメ・アプリ版でお願いします。矛盾があれば修正していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。


 朝、薄らと霞む意識に飛び込んできたのは節々の軋むような鈍痛と、網膜を貫く朝日だった。

 椅子に腰掛けたまま机に半身を伏せて眠ってしまっていたようで、朝日だと思っていたのはデスクライトの白すぎる灯だった。深い息を吐きながら起き上がると、パラパラと頬に着いていたであろう消しゴムのカスが落ちていく。ノートを下敷きに突っ伏していたらしい。

 

 消えかけの英文は、何を書こうとしていたのか秀星自身も理解に苦しむものだったし、こうなると昨夜に何をしていたのかも朧気だった。半ば宿酔(ふつかよい)のような気色で(無論その経験なんてないが)自室から階下へ身体を引き摺ると、リビングの空気は重苦しかった。渋面を作る母の手には、一枚のA4サイズのプリント。

 

「あー……」

 

 出しあぐねていたそれがいつ目に触れたのかなんてものは秀星には分からなかったが、一つだけ分かることがあるとすれば。それは今から落ちる雷の大きさぐらいだろう。

 全く、バカらしい話だった。

 

 

 

「どうした、そのガーゼ?」

「あぁ、カミナリが落ちたんだよ。頭に」

「なんだそれ」

 

 からからと笑う田中がどう解釈したのかは秀星の知るところではない。ただひた隠しにする訳でもないが、わざわざ吹聴することではないのは確かだ。そんな理由で茶を濁した今朝の一幕は、田中もさして気にしていないようで追求を免れる。いやスマートフォンで天気を確認している辺り、案外気にしているのかもしれないが。

 少し前髪から覗いていた額のガーゼを見えないようにと位置を少しだけずらす。瞬間痛みが走って、小さく歪んだ表情をそのまま噛み潰した。

 

「そう言えば」

「うん?」

 

 スマートフォンの画面を見たままの田中が、信号待ちでやおら話題を振る。

 

「秀さ、ガールズバンドって興味ないか?」

「……」

 

 その話題というのが妙に近頃の自分の体験と合致していたから、色々な思考が脳裏を過ぎって秀星は黙り込む。

 ライブに来て欲しいと言った香澄の表情、蔵での演奏、あの日の丘と少女……。

 

「……んー、どうかな。知ってはいるけどって感じ」

「なるほどな。詳しくはないと」

「まぁ。……で、何でいきなり?」

 

 不意に湧き出た無為な思考を何処ぞへと押し込んで、田中の意図を尋ねた。すると田中は得意気な顔をして二枚の紙切れを秀星に見せつけた。ライブのチケットらしい。

 

「ライブハウスでバイトやってる友達のツテで貰ってさ。行かね?」

「ホント唐突だな。田中、ガールズバンド好きだったっけ」

「いや、俺もその友達から見せられてハマっちゃってさ。マジでおすすめ」

 

 言いながら青信号を渡る級友を横目で捉まえつつ、秀星の目には彼の肩から提がるエナメルバッグが映った。

 

「お前、部活はいいの?」

 

 ふと、そんな疑問が口を衝いて出る。

 投げ掛けられた田中は、きまりの悪そうな笑いを貼り付けた。

 

「まぁ、ほら、言ったじゃんか。そこまでガチじゃないって」

 

 俺にはこれがあるのだと豪語した手前若干の気まずさを覚えているのかもしれない。ただそこに触れるつもりもそんな資格もないことは、秀星自身が一番よく知っていた。諦観とそこからの逃避という点で見れば、まだ本気でなくとも好きなものや打ち込むものがあると言える彼の方が自分よりも余程マシだろうとも思った。

 ──少なくとも、こんな俺よりは。

 

「あー、そっか」

「……で、どうするよ?」

 

 気を取り直すように再度問い掛ける田中に秀星は逡巡するけれど、蹴る気にもなれずに「じゃあ行くかな」と頷く。

 

「お、いいねぇ。じゃあ決まりな!」

 

 渋るようだった友人の快諾に田中が喜色を顕にしたところで、信号が切り替わる。何処其処のバンドのレベルが高いだの可愛いだのと話し始めた田中の横を歩きながらも、秀星の内心は上の空だった。ビル群のカーテンウォールに反射する陽光に目を細めながら、その光を浴びて目を覚ましたような記憶に、蓋をしようとするので精一杯だった。

 

 

 

 *

 

 

 

 もう何年も前の話だ。

 その日は、晴れた空を染める夕影が落ちる街並みが何とも印象的だったのを秀星は鮮明に覚えている。子供心に感興を唆られたのか、普段は通らない道に行ったことも。

 偶然行き着いた河原で、小さく歌う女の子を見つけたことも。

 

「〜♪」

 

 流れる水の音に紛れるような声量でも、確かに秀星の耳には聞こえてきた。

 弾むような楽しいメロディが。コロコロと快く踊るようなリズムが。思わず惚けてしまうような綺麗な声が。そのどれもが、今まで聴いてきたどんな音楽よりも、秀星を高揚させていた。

 川の水流や烏の鳴き声に乗るみたいに続いていた歌は、いつの間にか終わってしまっていたらしい。川辺を見つめ歌っていた女の子が、秀星の方を向いて……。

 

「っ!?」

 

 ぱっと大きな目を更に見開く。たった今秀星の存在に気が付いたのだろう。幽霊でも発見したみたいな驚嘆を顕に彼女は後ずさる。砂利と靴底の擦れる音が派手に響いて、秀星の方もその大仰な反応に少し驚く。

 それでも感動が上回り、初対面の体裁も無意識にかなぐり捨てて目の前の女の子に声を掛けた。

 

「なぁ、今の歌──」

「き、聞かないでっ!」

 

 すごく良かった。いい声。なんていう歌なの? 

 そんな称賛の言葉や質問も口から出る前に、弾くような拒絶に引っ込んでしまう。さっきまでの淑やかな歌声とは一転、明らかに動揺した女の子の声は裏返っていたし、そのまま秀星とは反対方向へと逃げ出していった。

 

「ちょ、待って!」

 

 そんな彼女を放ってはおけない──なんて義侠に駆られた訳ではない。単純に気になったから、秀星は女の子を追いかける。キラキラと眩い程に綺麗で楽しい、そんな彼女の歌が気になったから。

 

 

 

 女の子──戸山香澄は、泣きそうな気色をどうにか抑え込みながら、未だに後ろをついてくる少年を振り切ろうと必死だった。

 まただ。また、私の歌をバカにする男の子が来たんだ──

 

 香澄は歌うことが好きだ。いや、好きだったと言うべきか……。ふっと頭に浮かんだフレーズを即興のメロディやリズムに乗せて歌うことが、楽しくて心地良くて仕方がなかった。そんな香澄のお気に入りの誰もいないワンマンライブ会場が、この河原だったのだ。

 そう、同級生の男子たちが現れて香澄をバカにするまでは。最初の頃はそれでも耐えてみせた。河原でカラオケ──カワカラなんて揶揄されても、歌を面白おかしく真似されても。

 だけど、そんな日が延々と続く内に香澄はとうとう耐えきれなくなったのだ。

 

 ──ちょっと男子、バカにして真似とかするのやめなよ! 

 ──はぁ? バカになんてしてねーよ、リスペクトしてんの! 

 

 泣き出し顔を伏せた本人を置き去りにしての口論。そこに先生までやってきて学級会が開かれて……もう散々だと香澄は思った。大嫌いだと思った。クラスの男子たちも。そして、歌うことも。

 

 けれどそう蓋をした心からはみ出るものがあるのも事実で、押し込めきれずにまたこの河原に来てしまったのだ。たったひと月ぶりだと言うのに、郷愁にも近い気色を感じながら。

 眼前を流れる水に煌く夕陽の緋色。真っ赤な空に鳴くカラスの群れや、かかる紺桔梗のカーテン。そんなものを眺めている内に、ふと口ずさみそうになる。頭にふわふわと過ぎるメロディを。

 

(っ。だめだめ!)

 

 瞬間、我に帰って戒める。なんでこんなことになったのか、もう分かってるでしょ──と。

 そんなことを言い聞かせると、香澄はこの川底に沈んだような気分になるのを感じた。こんなにも眩しくて綺麗な景色の中にいるのに、気持ちは真っ暗だと。

 

「……」

 

 口が金魚みたいにぱくぱくと動きそうになる。そこから発せられる詞は空を切っても、気持ちの方はどうにもならなかった。

 小さい声なら。ちょっとだけなら。そんな一寸を重ねて、誰に対するものかなんて不明瞭な免罪符を以て、香澄は小さく歌を歌った。

 

「〜♪」

 

 思うままに、感じたことを。音に乗せて、そのまま頬を撫でる風にも乗せて。

 久々に、香澄は楽しいと感じることができた。久しく昔に焼き付いた星の鼓動と同じ、キラキラドキドキが胸の内に灯る。

 

 でも、物足りない。もっと大きな声で高らかに歌うのが歌だ、音楽だ。

 かと言って、同じ轍を踏むのなんて香澄はゴメンだった。だから、今日はもうここまでにしよう。そう思って後ろを振り向いたところで──

 

 ──知らない少年が立っていることに初めて気が付いた。

 

 

 

 私のバカ! と心の中で叫んでも、口から漏れるのは荒い息だけ。兎に角追いかけてくる彼を振り切ろうと必死だった。

 また何か言われる。それが何かは知らないけれど、バカにして嗤われることだけは知っている。

 

 それだけは本当に嫌だった。もう一度でも否定されたら、二度と立ち上がれない気がした。

 だから背を向けて走る。いつまで追いかけてくるのだろうと辟易しながらも、必死に縺れそうな足を動かして。

 

「はぁ、はっ……、待てって!」

 

 嫌だ、聞きたくない。聞かれたくない。

 河原を離れ、橋を渡り、坂を登って。

 もう限界だとぎゅっと目を瞑った香澄の耳に飛び込んできたのは。

 

 

 

「さっきの歌っ! めっっちゃ良かった!!」

 

「……ぇ」

 

 

 

 予想だにしない、香澄を褒める純な言葉だった。

 固く閉じていた目を驚きに開く。空隙を突かれた足は急停止して、香澄はそのまま蹴躓いた。

 

「きゃっ!?」

 

 土埃を上げながら膝を擦り、熱い感覚が膝頭を覆う。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 座り込んだ香澄の正面に周って、少年──秀星は手を伸ばした。

 伸ばされたそれに少々の逡巡を挟んで、でも今の言葉と、自分を見るその目は。

 

「う、うん……」

 

 掴んでもいいのだと、おずおずと指先を控え目に秀星の掌に乗せた。瞬間手を握られてグイッと引っ張られる。それと同時に、先の暗い水底からも引っ張りあげられたような気がした。その力強さを借りて立ち上がると、当たり前だが初めて真正面から目の前の少年を香澄は見つめた。

 背丈は自分を同じくらいか、少し大きい程度。香澄をバカにしていた同級生のガキ大将に比べたら随分と小柄だったけど、長めの前髪から覗く瞳は強い光を宿しているように見えた。

 

「あ、あの……」

 

 そんな爛々とした相貌が真っ直ぐに自分を見据えていて、戸惑いを覚える。

 香澄の当惑したような呼び掛けに、秀星は秀星で当初の用件を思い出した。

 

「いつもあそこで歌ってんの?」

「まぁ、そう……かな」

「へぇ。あ、さっきの誰の歌?」

「えっ、と。私のオリジナルで……」

「まじか。凄いな!」

「……」

 

 秀星は素直な感嘆を口にする。

 少し前までの自分なら、手放しで喜べたのだろう。彼の言葉に、湿った言葉がポツリと漏れた。

 

「……凄くなんてないよ」

「みんな、私のことバカにしたんだよ。面白がって真似されたり。もう歌うの、辞めようかなって」

「そんなのだから、凄くなんて……」

 

 辺りは陽が沈み、もう薄暗くなっている。今になって擦り剥いた膝がじわりと痛み出して、俯いた視線に赤い色が滲んだ。知らない男の子にこんなことを言っている自分が、香澄は惨めで仕方なかった。

 そんな香澄をじっと見つめて、秀星は呟いた。

 

「でも、俺はすごく好きなのに」

「──」

 

 呆気にとられる。

 秀星としては思ったことを口にしただけで、香澄にもそれが嘘なんかではないことは判った。だからこそ、香澄は驚きを隠せなかったのだ。こんなことを言うのは、目の前の男の子が初めてだったから。

 固まっていると、秀星は蹲み込んで香澄の膝にハンカチを巻き始めた。

 

「君も、歌うの好きなんだろ? 上手だったし」

「え、……うん」

 

 不器用に結びながらも、首肯した香澄にハッキリと言う。

 

「なら、それで充分じゃん」

「他のヤツがどう思うかなんて関係ねぇし、誰も反対する権利とかもない……から、俺は君の歌が好きだし凄いって思う」

 

「それでこんな逃げてたのな」と、この逃亡劇に漸く納得のいった秀星だった。

 

「でも……」

 

 温かいものが込み上げてくる。けれど、香澄はこれまでの失意も苦悩も捨て切れずにいた。

 そんな香澄の未だ晴れきらない表情に、秀星は一つ提案をした。

 

「じゃあさ、俺も何かやるよ」

「え?」

「何かやりたいこと見つけてさ、それでテッペン取る!」

 

 不格好な結び目を完成させて、秀星はその姿勢のまま俯いている香澄を見上げる。アメシストみたいな瞳が、じっと自分を見つめいていた。

 

「だから、君も歌とか、好きなこと辞めないで続けてさ。それで……」

「……それ、キミが得してるだけじゃ……」

「えっ、あれ? そう、か……? ……そうじゃん」

 

 何の交換条件にもなっていないと言外に伝える香澄に言いくるめられる秀星。そんな彼の姿に、香澄は本当に久々に笑みが溢れる。

 

 何と言えばいいかと頭を捻らせている彼を前に、小さく、小さく歌った。

 ──ありがとうと。

 

「……! うん。やっぱり、めっちゃ良いや」

 

 短いその歌を聞き終えて、その声に破顔した秀星は立ち上がる。

 

「てか、もう暗くなってんな。結構遠くまで来ちゃってたか……」

 

 言いながら、暗くなってしまった空を見上げる。見上げて、広がる景色に言葉を失う。

 そこには満天の星空が広がっていた。

 

「綺麗……」

 

 ほうと見惚れたように呟く香澄。

 追いかけて追いかけられて、来てしまっていた小高い丘の上。

 

 その時香澄の脳裏に過ったのは、幼い頃の記憶。焼き付いて離れない輝き。

 今もそれを感じて、きっと並んで星を見ている彼ならば聞いてくれるだろうと、香澄は口を開いた。

 

 そんな彼女の眩い表情は、星よりも何よりも、秀星の目を奪っていた。

 

 

 

「ねぇ、星の鼓動って知ってる──?」

 

 

 




前書きでも言いましたように何か矛盾があればご指摘の方を、そうでなければ是非感想等いただければなと思います。
それではまた次回に。


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07. 残光

 どうしても考えずにはいられなかった。

 駅で歌う香澄を見て、話をして、練習風景を見させてもらって。

 

 根雪のような思い出を追憶して、果たして自分は何が出来ただろうと。螺旋をぐるぐると回るような思考は、延々と一つの結論だけを弾き出した。

 

 ──何もできちゃいない。

 

 春の駅のホーム。伸び伸びと歌う姿と、その歌声に、秀星はずっと前の星空を幻視した。

 それでも彼女の方から声を掛けられるまで何も言えなかったのは、あたかも初対面の様に振る舞ったのは。これまで何も思い出そうとしなかったのも。偏に、かける言葉が見つからなかったからだ。

 

 前に香澄から誘われていたライブは、奇しくも田中が秀星を誘ったものと同じだった。

 何グループものガールズバンドが合同で行うものらしく、彼女たちPoppin'Partyの名前は一番最後に載っている。所謂大トリというやつなのだなと、秀星は納得した。

 

 思い出したようにチャットのアプリを開いて、香澄にライブに行く旨を伝えた。

 直ぐに既読が付く。

 

『楽しみにしててね!』

 

 そんな短文とともに添えられたスタンプは、星を模した謎のキャラクターが楽しげに舞っているよくわからないものだった。嬉しそうに入力している香澄の姿がなんとなく浮かんで、微かに苦味を含んだ緩みが秀星の顔に浮かんだ。

 

 電車がホーンと間の抜けた警笛を慣らしながら停留所に停まる。いつも乗る予備校行きの電車だった。扉が開く。アプリを閉じて、口を開けるようなその無機質な空洞に滑り込んだ。

 切り替える為にと開いた単語帳。そこに載っている英字の群をどれだけ覚えれば、彼女に近づけるのだろうか。不意にそんな考えが秀星の脳裏を過ぎる。

 ……何をどうすれば、なんて思考に意味はないのに。溜息混じりに単語帳から目を逸らし、車窓からの景色をふと眺めた。雑多な街並み。暗がりに呑まれる青。星は見えない。いつもの光景だ。

 この光景は変わらない。電車は引かれた軌道の上しか走れないから。

 

 だとすればきっと、今目に見えているものが答えなのだろう。

 

 結局行き着く結論はそこだった。

 

 ──本当に、情けない。

 

 心中で吐き捨てるように呟いて、視線を単語帳に戻す。

 集中しようと努めるも、その労力は無駄に終わりそうな予見が秀星にはあった。

 

 

 

 *

 

 

 

 毎日が過ぎていくことを意外と早く感じることがある。

 作業のような完全に構築されたスケジュールだけで過ごしていると、感覚として緩急の差が激しかったりする、というのが秀星が常々思うことだった。朝に起床し、登校。放課後は予備校に通い、夜はその授業と学校の課題の消化。それの繰り返しだ。

 

 過ぎるのがとんでもなく遅く感じることもあれば、一瞬で終わってしまうこともある。今回は後者だったということだ。

 

 そういう訳で、現在地──ライブハウスの前。

 男の観客もちらほらと見るが、やはりガールズバンドなだけあって大部分の客は女性だ。

 そこそこ大きな会場(ハコ)なだけあって、集まる人数も多い。秀星は居心地の悪さに身を捩りつつ、田中が来るのを待っていた。

 

「おいーす」

 

 聞き慣れた声での気の抜けた挨拶は、こんな時ばかりは少し心強く思えるというのは新たな発見だった。

 

「おー。遅かったな」

「わり、ちょっと準備に時間かかってな」

 

 そう手短に釈明すると、田中は思い出したかのように携帯を取り出しては電源を切る。慌てたような挙動に少し眉を顰めつつも、特に言及することなくハウスの中へと入っていった。

 

 入口を入ってすぐの場所でチケットの確認やらが行われているようで、そこへ行くとスタッフに身分証を出すようにと言われる。

 促されるまま学生証を見せてみると、秀星の名前を見た係員の女性は何か心当たりがあるような顔つきになった。

 

「え、取り置きですか?」

 

 何やら秀星の名前でチケットが取り置きされていたらしい。そんなことは秀星自身初耳で、隣の田中と共に困惑するだけだった。

 

「マジかよ秀、ここに知り合いでもいんの?」

「や、まぁ。でも取り置きなんて聞いてないし──」

「──あ。榊……くん」

 

 果たしてどうするべきかと固まっていると、見知った顔が奥から覗きながら、少しぎこちない風に秀星の名前を呼んだ。

 

「市ヶ谷さん」

 

 まだ衣装には着替えていないのか、スタッフと同じような黒いTシャツを着ている。

 出番は最後だから、もしかすると時間的に余裕はあるのかもしれない。なんて都合のいい希望的観測に頼って、彼女にチケットの件を訊いてみることにする。

 

「丁度良かった。あのさ、俺の名前でチケットが取り置きされてるみたいなんだけど……何か知らない?」

 

 有咲の方は別に時間に問題はなかったけれど、会うのが二回目の男子と一対一(サシ)で話すことに若干の気まずさなんかを感じていた。

 だから声を掛けた訳でもなくて、ただちょっと言葉として出てしまっただけだったのだが。

 

「え……香澄から何も聞いてないの?」

「いや全く」

「……マジかよ」

 

 何を言われるのかと一瞬だけ身構えて、訊かれた内容と此方の質問に対する回答に有咲は溜め息を吐いた。

 秀星はその反応で香澄の取り計らいだったのだと気付くのと同時に、彼女の溜め息に慣れたような(てい)を感じた。

 

 そして有咲がカウンターの方でスタッフと話を済ませて、「ん」とチケットを渡そうとして──漸く田中の存在に気付いたらしい。

 

「あ、もしかして友達と来てたり……」

「そうなんだよ。チケット、こいつからも貰ってて」

 

 当惑する人数が一人増えるだけに思われた。

 

「いや、俺のは気にすんな。取り置きされてんならそっちのがいいだろ」

 

 が、田中が有難い提案をしてくれたことで問題は普通に解決した。

 

「いいの? 悪いね」

「いいっていいって。ま、お互い楽しもうぜ。……じゃまた後で」

 

 そう言うと、田中はそそくさと去っていく。先程とはまた違った挙動の不審さを感じさせたが、またしても言及することは特にしなかった。

 少しの沈黙を挟んだ後有咲が秀星の前に出る。

 

「もう開場してるから、着いてきて。案内してやるから」

「あぁ、ありがと。正直ライブハウスなんて初めて来たから、助かるよ」

「……そ」

 

 振り返ることなく、短く返す有咲。

 多くの人でごった返しその分だけのざわめきがひしめく会場の中で、有咲の淡々とした対応は却って強調されているように感じた。

 

「榊……くんはさ」

「ん?」

 

 やおら、振り返った有咲が秀星に向けて口を開く。

 ちらりと此方を見遣る上目遣いは、少し遠慮がちな光を湛えているような気がした。機を窺っていた有咲としても、これが適切なタイミングかどうかは判断しかねるところではあったけど。

 

 どうしても、訊かずにはいられなかったのだ。

 

「香澄の、なんなの?」

「……」

 

 ずっと気になっていた。

 秀星のことが話題に出るようになったのなんてほんの一週間くらい前からだったが、彼の話をする時の香澄はいつもに増して、その表情が華やいでいるように見えた。

 だから……有咲は確かめたかったのかもしれないと目の前の少年を見据える。

 

 じっと、少したりとも視線を逸らさない琥珀色の瞳に、自分自身が映っている。どこにでも居そうな、パッとしない見た目だ。

 平凡で、凡庸で。そんなやつの大言壮語で、香澄はここまで来たと言うのに。

 否定したい。そんなものは自意識過剰なのだと、自分に言い聞かせてこの劣等感と罪悪感を消してしまいたい。だけど香澄がこのライブに自分を呼んだ理由が分からない程、残念ながら秀星は鈍感ではなかった。

 

 香澄にとっての、自分。

 

(……そんなこと、俺が知りたいよ)

 

 とっくの昔、たった一度だけ話しただけの仲で。

 

 その時も今も、自分が勝手に彼女の歌声に惹かれていただけなのに。

 あの真っ直ぐな声と瞳が、なんでこんな自分を……。

 

「……」

 

 短く、気取られないように息を吐いた。

 詰まって、そのまま窒息してしまわないように。

 

「別に、ただの友達だよ」

「……本当に?」

「うん。何か変な想像してたなら、期待に添えず申し訳ないけどさ」

「ばっ、誰がんなこと!」

「はは、だよな。冗談」

 

 顔を赤くして勢い良く否定する有咲。この前の蔵でも思ったが、結構分かりやすい性格なのだなと秀星は一人納得した。

 

「……ムカつく」

 

 不貞腐れたような呟きは、しっかりと秀星の耳にも届いた。隠すつもりでもなかったようだが。

 

「ムカつくけど、一応客だからな。ウチらの曲、ちゃんと聴いていけよ」

「分かってるよ。楽しみにしてるって、戸山さんにも伝えといて」

「ん。……じゃあ席はここの前から二列目な。チケットにも席番書いてるから、それ見て探して」

 

 そうこうしている間に、観客席の方に着いていたらしい。案内を終えて戻ろうとする有咲に礼を言う。

 無愛想な返事を残して去っていく有咲だったが、その後ろ姿はどこか楽しげで、自信に溢れているように秀星には見えたのだった。

 そんな有咲を後目に指定の席へと向かったが、それにしてもかなりステージから近い。アマチュアのライブとは言え、結構な規模の会場だ。

 チケット代もそれなりにするのだろうなと野暮な考えが頭を過って、今度何かお礼をしなければならないなと思った。

 

 少し経つと、ライブが始まる。全方位から響く歓声と、力強く振られるサイリウムが秀星の聴覚と視覚を圧倒した。

 ステージに現れるガールズバンドの女の子たちは、皆一様に自分たちの音楽を歌い奏でている。そんな少女たちの姿は、秀星にはとても眩しく見えた。

 

 

 

 ただ、それでも。

 彼女たちは、その中のどのバンドとも違っていた。

 

 

 

「「「「「ポピパ! ピポパ! ポピパパピポパー!!」」」」」

 

 

 

 そんな謎のかけ声が、舞台裏から聴こえる。

 思わず笑いを誘われてしまうようなコミカルな台詞。だけれど湧き上がるのは笑い声なんかではなく、それまでとは全く違う質量を持った、そこにある全てを震わせるような歓喜の声だ。

 

 その渦の中、皆で楽しげに視線を交しながら出てくるPoppin’Party。

 各々が位置につき、真ん中の香澄がマイクを口元に持つと、先程までの歓声は水を打ったようになる。

 

「皆さんこんにちはっ! 私たち──」

 

「「「「「──Poppin’Partyです!!」」」」」

 

 そして、また爆発。

 メンバーの名前が至る所から叫ばれて、いつの間にかピンク一色になっていたサイリウムが不規則に振られて咲き乱れた。

 

 メンバー紹介ではそれぞれの色があるようで、叫ばれる名前と共にサイリウムの色が全く同じタイミングで一斉に切り替わる。

 この会場の一体感に、秀星は思わず感心してしまった。

 

「改めまして、Poppin’Partyギターボーカル! 戸山香澄です!」

 

 最後に香澄が前に出て、挨拶へと移った。

 

「ここでライブするの、久し振りで! 今とってもワクワクしてます!」

「前にやったのは何ヶ月も前で、あっという間に春になって、私たちももう高校三年生になりました!」

「色々なことをしっかり考えなきゃいけない一年になって、勿論皆もそんなことがいっぱいあると思います」

「でも、今日のこの瞬間は今だけだから! 来てくれた皆と、私たちとで! たっくさんキラキラドキドキできたらなって思ってます!!」

 

 その言葉が、この前の丘での会話を彷彿とさせた。

 

「それじゃあ早速一曲目いくよー!! 『Happy Happy Party!』」

 

 不意に湧く感慨も束の間、前口上も早々にとギターから入るイントロが始まった。

 

 楽しい歌詞とゆるりとしたメロディが、いかにもポピパらしい一曲だ。ここにいる皆との出会いを喜んで楽しむ、そんな思いが伝わってくるような気がした。

 

「ありがとう! やっぱりライブって楽しいです! このまま駆け抜けようー!!」

 

 次は五人のアカペラから入る特徴的な歌。

 

 前の曲とは違い、疾走感とカッコ良さが魅力的な、最高にロックな歌。「この手を離さない」と言った香澄には黄色い声が沸き上がり、秀星も男ながらに格好良いと思ってしまった。

 

 次に歌われたのは、夢に希望を詰め込んで新たな一歩を踏み出す勇気をくれるような曲。

 

 夢が醒めても、霞んでも。出会うことができて、繋がれたから。

 だから進むのだと。まっさらな未来へと、臆することなく……。

 

(……)

 

「次で最後の曲になります!」

 

 残念そうな声が広がる。それを聞いて、ステージ上の彼女たちは嬉しそうに微笑んだ。

 

 秀星もあっという間に時間が過ぎたように感じて、確かに彼女たちの曲はとてもいいものばかりで、このライブに来て良かったと思っていた。Poppin’Partyはとても良いバンドだとも思えたから。

 

 彼女たちの、香澄の芯のようなものが伝わる。一曲一曲を通じて、流れ込んでくるものがある。

 

「私たちの原点みたいな曲で、何回もライブをしてきた今でも、何度でも歌いたいし、聴いて欲しいと思う曲です!」

「いつか今日のライブが、この歌が。みんなにとっての星の鼓動になることを願っています!」

「それでは聴いてください! 『STAR BEAT! 〜ホシノコドウ〜』」

 

 

 

 きっとそれは、もう秀星にはないものだった。

 

 

 

 *

 

 

 

 ライブ終了後、秀星は香澄に呼び出されていた。

 一応田中に用事ができた旨を伝えると、これまたやけにあっさりと承諾を得ることができた。

 

 幸いにと楽屋の近くに向かうと、既に衣装から私服に着替えていた香澄が秀星を出迎える。

 

「戸山さん、お疲れ様」

「秀くん! どうだった? 私たちのライブ!」

「めっちゃ良かったよ。ライブって来るの初めてだったけど、なんか想像以上だった」

「えへへ、そっかそっか」

 

 秀星の素直な感想に、香澄は顔を綻ばせた。

 ステージ上よりも幼げな表情に少しだけ胸の鼓動が早まって、しかし直ぐに止む。

 

「ホント、凄かった」

「……」

 

 染み入るように吐かれた一言と表情に、香澄の方は何か翳りを感じていた。八年ぶりに会えたこの前の丘でも、確かに見せていた貌。

 それが何かを知りたかった。何か悩んでいるのなら、今度は自分が彼の力になってあげたかった。

 

 あの日確かに、香澄がなくしかけていたものをくれたから。

 

「ねぇ秀く──」

「お、榊くんだ」

「ライブお疲れ様、山吹さん。ドラムカッコよかったよ」

「あはは、ありがとう。面と向かって言われると、ちょっと照れるね」

 

 あることを口にしようとした香澄の後ろから、沙綾が顔を覗かせる。

 

「でも実は私も榊くんのこと見えてたよ」

「え、マジ?」

「うん。だってあんな前列でサイリウム振ってないの、キミだけだったもん」

「あ、そういう……。まぁほら、そこは初参加だったから許してよ」

「次振ってくれるならね」

「えー、なんか難しそうなんだけど。あの一体感」

 

 沙綾の柔らかい物腰での喋り方に、秀星も普段通りの態度で接することができていた。労をねぎらう秀星に礼を言う沙綾。

 二人の会話は香澄を挟んでそこそこに弾んでいた。

 

「そうでもないよ。ノリで振ってればなんとかなるって」

「そうか?」

「うん。あ、じゃあまた今度ライブがあるから──」

 

 そこで漸く沙綾の目が香澄に向けられた。

 少しそわそわと落ち着かないような、二人の間を行き来する香澄の視線。

 そんな様子の香澄に、沙綾は思わず苦笑してしまいそうな気色を抑え込んだ。

 

(こんな香澄、初めて見るなぁ)

 

 羨ましいような、可愛いような、少し寂しいような。

 二人がどんな関係なのかは知らない。知らないけれど、知らないなりに気を遣うことにしようと。

 

「──行ってきたら? 香澄と一緒に」

「……え」

「……!」

「その予定も立てなきゃだし、二人で今から話してきなよ。私たちは先に帰ってるからさ」

 

 そんな提案とウィンクを寄越して、「じゃあね香澄、榊くん」と沙綾は楽屋の扉を閉める。

 

 想定もしていなかった事態に、秀星は呆然と閉じたドアを見つめる他なかった。




お久しぶりでした。色々立て込んでおり投稿が遅れて申し訳ないです。
少し余裕が出来たのでまた今月中に投稿できればなと思います。Poppin’Party秋の単独ライブ全通できたのでモチベも高いですけど、コロナが心配ですね。皆さんも体調にはお気をつけください。
それでは今日はこの辺で。感想等お待ちしております。


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