PRIMEVAL - Reverberation (TUTUの奇妙な冒険)
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極東の地で Part1

緑の生い茂る山の中では、いまだにセミが勢力を振るっている。周囲を見回しても姿は全く見えないが、最後の繁殖の機会に賭けてオスたちが力を振り絞って空気を震わせているらしい。耳に入る音だけであればまだ夏真っ盛りと言わんばかりの喧しさに包まれている──もっとも、虫に詳しい者からすれば全く鳴き声も違うのだろうが──けれども、肌を撫でて流れてゆく風には熱気の中に清涼感が感じられる。秋はすぐそこまで迫っているのだ。

「フゥーッ……」

男は木々を見渡すのをやめ、滴る冷たい汗を肩にかけたタオルで拭うと、足元に目をやった。

そこにはノジュールと呼ばれる石がごろり、と転がっている。ここ一帯には珍しいほど硬いノジュールに手を焼いていたのだ。男は今年修士を終え、就職するつもりでいる。社会人になれば趣味に没頭する時間も気力もないだろう。彼は論文に追われる日々の時間を縫い、山の沢で石を叩いて化石探しに精を出していたのだ。限られた大学生活で最後の楽しみといったところだった。ハンマーの柄を握り直す。穏やかにせせらぐ冷えた川の横で、もう一度ハンマーを振り下ろそうとしたときだった。

 

バキン、と大きな枝の折れる音がした。

(……え?)

シカか?イノシシか?まさかクマということはないだろう、北海道じゃあないのだ、クマに対する特別な用意などしてはいない。そんな思考が巡るうちに、折れた枝が大きな音を立てて茂みに落下する音が響く。枝が折れたあたりからは葉や枝の擦れる音が聞こえてくるが、どうもその高さが妙だった。周波数による音の高さではない、発生源の物理的な高さだ。

ツキノワグマは木登りが得意だという。今枝を落とした犯人がツキノワグマである可能性が高くなってきた。疑心暗鬼になり、音のする方へ視線を送る。揺れ動く枝葉の間に、別の動く物体が見えた。

だがどうも、動いているのはクマではないようだった。

体はもっと灰色や青色に近く、一瞬ながら体毛はないように見えた。そして遥かに巨大。背丈にして4メートル近くはあるのではないか。そして重く響く足音。日本にこんな動物が存在したのか……一瞬アフリカゾウが頭をよぎるが、すぐに別の存在の可能性が浮上した。

 

「──恐竜、か?」

 

思わず声に出てしまう、驚きの声。彼自身何を口走っているのか理解できずにいた。遠い過去で滅び去った生物が、どうしてこの時代に、しかも日本で居合わせることが出来ようか。まだ動物園から脱走したアフリカゾウの方が現実味があるというものだ。

だがその生物の動く様子を見るほど、他の選択肢が消えていく。ゾウやキリンというまだいかにもあり得そうな哺乳類の候補は既に脳内からフェードアウトし、茂みの間に垣間見える姿と体格から、絶滅種の中で同定が進んでいた。角竜や剣竜では揺れ方がおかしい。遥かに横長に木々が揺れているからだ。同様の理由で鳥脚類も除外される。やはり竜脚類の何か、あるいはパラケラテリウムという可能性も──?

 

「……おいおいおいおい」

自分でも気づかないうちに、彼は物音のする茂みの方へ足を踏み出していた。何をしているのだ、危険だ、と冷静なままの自分が最大限の警告を発する。しかし動き始めた好奇心はその警告を無視し、一歩、また一歩と足を動かしていく。未知の存在を目の前にした喜びからか、危険に向かって歩を進める自身に対する呆れからか、男は白い歯を見せて笑みを浮かべながら前進していく。

(大丈夫、おそらくは植物食の何か……あまり刺激せず、後ろから見るだけなら──)

もし肉食なら?という思考が一瞬よぎるが、すぐにそれを押し殺した。目に入った光景からの希望的観測でしかないが、肉食恐竜でないという最大の根拠は──もしそうなら、非常に危険だからだ。そんなことは考えたくもない。

斜面に生えた植物を掴み、時には土にハンマーを打ち込みながら斜面を登る。安定した広い林道に手をかけ、全身をそこへ乗せる。不安定な足場から解放された喜びを一瞬享受するが、すぐに目的の物に目をやる。その動物は、まだ目に見える範囲の場所を歩いていた。

 

正解だった。

 

数十メートル向こうを行くその動物は、見るからに竜脚類の恐竜だった。

 

後ろ姿なので正確な姿は分からないが、どうやら尾は長くないようだ。この時点でディプロドクス科は除外される。4メートルもあるように感じたのは頭部の高さで、全身はそこまで巨大ではない──とはいえ、人間など容易に一撃で蹴り飛ばせる体格ではある。道の脇に生えていた樹に体を押し付けながら歩いているせいで、圧力に耐えられなくなった木が根元から崩落し、沢に向かって土砂とともに倒れ込んでいった。倒木による凄まじい音、そして恐竜が一歩一歩踏み出す足が地面に着く音が体に響き、男は感動を覚えていた。好奇心を必死に押し留めながら冷静に見極めようとしていたが、実物を前にしてその冷静さは吹き飛んでいた。現代のアニマトロニクスでは再現できそうもない滑らかな動きに、幻覚作用を疑ってしまう。男はこの動物がどこへ行くのか、着いていくことに決めた。

 

 

竜脚類を刺激しないよう注意を払いながら、数十分は歩いただろうか。幸いにも風向きが味方し、男の立つ側が風下になっていたため、竜脚類に気取られることはなかった。単に気付かれても距離や体格差ゆえに度外視されただけかもしれないが、何にせよ危害が及ばないのなら十分だった。

 

「……何だ、あれは」

やがて竜脚類の巨体の向こうに、白い物が見えた。竜脚類が歩を進めるほどに、その白い物体の姿が如実に現れてきた。物体は球体だった。白く光り輝く球体。何者かに砕かれた硝子の破片のようなものが宙を漂い、神秘的な球体を作り上げている。今まで耳にしたことのない形容しがたい音を立てて、その球体はぽっかりと宙に浮かんでいる。姿が見えても、その正体が全く掴めない。この竜脚類といい、そしてあの球体といい、男の脳にこれほど多くの疑問符が浮かんだ日もそうないだろう。

竜脚類は球体を前にしても歩を止めなかった。むしろその球体に向かって歩んで行く。高さ5,6メートルはあろうかという球体に近づくと、竜脚類はそこへ首をゆっくりと差し込んだ。

(何をしているんだ……!?)

球体に入り込んだ竜脚類の頭は、光に包まれて消えていった。だが存在はしているらしく、竜脚類は何事もないかのように依然前へ進んでゆく。ズブズブと光の中に身を埋めていき、やがて短い尾の先端も光に呑まれていった。

 

その後に残されたのは、男1人。

「一体……これは……?」

幼い頃より図鑑や文献で何度も目にした恐竜と違い、こちらは完全に初めて目にする物であった。自分の知識を遥かに超越した領域の存在。飛んでいる硝子片を掴もうとするが、空を切るようにすり抜けてしまう。電気やプラズマの類ではない、圧倒的に異次元の存在だった。

「……」

ゴクリ、と唾を飲み込む。竜脚類はこの中へ消えていった。これがもし、タイムポータルのようなものだとすれば、太古に絶滅した恐竜が山の中にいた理由が説明できる。ポータルそのものの原理は全く見当もつかないが、少なくともあの生物がいたごく単純な理由は掴めそうだ。

好奇心が再び首をもたげた。ぶるる、と身震いしながら震える腕をゆっくりと球体の方へ伸ばす。やはり物理的な感覚は無いに等しい。そのまま竜脚類がしたように光の中へ身を沈めてみよう──

 

──そう考えた時だった。

「止まれ!」

突如として背後から大声が響く。驚いて咄嗟に振り向きかけるが、それと同時に上着の後襟が凄まじい力で手繰り寄せられる。一瞬体が宙に浮きそうになり、そのまま後襟を掴んだ剛腕が振るわれる。バランスを崩し、男は腹側から地面に叩き付けられた。

「ぐあッ……」

砂利が布越しに肉にめり込む痛みに、苦痛の声が漏れる。だがそんな声を全く聞き入れないかのように、冷徹に銃口らしきものが突き付けられる。襟を掴んだままの人物が口を開いた。

「ちょっと静かにしていてもらおうか、抵抗すれば撃つ。結構痩せたナリだが、思ったより浮かなかったな。さてはその背中の荷物だな?」

背後の男の声は低く、いとも容易く振り回されたところを見るに体格もかなりありそうだ。地面に叩き付けられた男は彼を睨みつけるが、彼はそれがどうしたという目で男を見下ろしていた。顔のサイドに無精髭が茂り、肌は日本人の域から一歩踏み外したように日焼けしている。想像通り、腕には発達した筋肉が隆起し、浮き上がった血管が存在を主張している。彼はそのまま冷めた目線を浴びせ、片手で銃を構えたまま、滑らかな手つきで胸ポケットから何かの端末を取り出した。

「リーダー。突然通信を中断して済まなかったな。時空の亀裂に辿り着いた、かなりデカい。さっきの獣道も間違いなくここから出てきたヤツだ。……ああそう、じゃあ20分後だ。それともう1つ。報告なんだが……目撃者がいた。おそらく民間人だ」

 

自分がどれほど大きな事件に巻き込まれたか。

地面に組み伏せられた男は、まだ気づいていなかった。

 



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極東の地で Part2

「一体何なんだあんたは……」

疑問を提起する隙も与えず、銃を構えた男はトランシーバーを持つ手の指をピン、と1本だけ伸ばして口に当てた。その間も目線は地面に這いつくばる男を見下し、銃身は彼の頭を確実に射抜ける距離と角度にあった。筋肉で保持しているのではない、まるで金属の骨組みを使って空中に固定された砲台のように、真っ直ぐに震えなく男の頭部に照準がピタリと合っている。

「シィーッ……ンンン、失礼。分かった。黙らせておく。それじゃ」

通信が切られた。だが初めから男の目線と銃口は彼に向いており、雑音が消えた以外の変化はそこに一切なかった。

「さて、兄ちゃん。お前には寝てもらうぞ。質問に答えていると長いんでな」

「そんな待て──」

引き金が引かれると同時に、彼の肉体を大きな衝撃が貫く。頚椎が脱臼するかと思うばかりに頭が揺さぶられ、彼の意識は漆黒の闇の中へ沈んでいった。

 

 

「──小型獣脚類の恐竜です。2匹仕留めました!」

「おお、偉い偉い。俺も3匹仕留めたところだが……種類が分からない。データベースに合致する特徴の生物が登録されていないからな、とりあえずレントゲンは撮ったから、論文を照会しているところだ」

「またそのパターンですか~」

「そりゃそうでしょう。化石種は現生種よりも遥かに多いんですよ?同じ種が来る方が珍しいってものです──グシュッ」

「大丈夫か?」

「ええ、グシュッ、すみません、花粉かな……どうも目と鼻がムズムズして……ズビッ」

「そうか。無理するなよ。ティッシュあったかな──」

 

朦朧とする意識の中で、そんな会話が鼓膜を震わせていることに気が付いた。

──嗚呼、生きてたのか。僕はたしか撃たれて……そうだ、頭を撃ち抜かれたはずだ。奇跡的に当たり所が良かったのか……しかし、嗚呼、頭が痛い。頭が割れそうだ。

頭が内側から押し広げられるような鈍い痛みが延々と続く。それに加えて、目の前にある地面と空がぐるぐると猛烈な速度で回転している。地面に倒れ込んでいるはずの自分が、まるで激しい前転を繰り返しているかのように、目に映る景色は天動説を採用して巡り巡っている。吐き気もこみあげてきた。どうしようもない気持ち悪さと痛みをこらえながら、何とかして脳細胞を再起動させる。

どうやら僕を撃った男以外に、3人の声がしているようだ。1人はさっきの男に似た渋い声、もう1人は少し高いが男の声だ。最後の1人は若い女性のようだった。さっきの男は無線で仲間を呼び寄せていた……はずだ。その仲間だとするなら、こいつらも武装しているに違いない。正体は何だろうか、テロリストだろうか。こんな山奥に銃を持ち込んで何をしようというのか。

動けばどうなるか分からない状況だが、だがここで永久に死んだふりをしていても駄目だろう。奴らがとどめを刺しに来るか、あるいはその前に自分の吐瀉物が喉に詰まって死んでしまう可能性すらある。そんなのはまっぴらごめんだ。生存を気付かせて、交渉するしかない。

 

「カッ……ガハッ」

失神している間に口に溜まっていた唾液や苦い汁をわざと音を立てて吐き出すと、獣脚類を地面に置いて喋っていた人間たちが気付いた。その中でも中央に立っていた短髪の男が、大きな足取りで近づいて来る。

「目を覚ましたのか。大丈夫……そうじゃあないな。EMDで撃たれたんだ、気分は最悪のはずだ」

──こいつ、生きていると知っていたのか。それに何だと?イー、エム……?

接近する男に目線をやると、その男は介抱するかのように両手を広げて微笑んでいる。

「さて、立ち上がれるか?支えてやろう。おっと、急に立ち上がるなよ、立ち眩みが起こるからな。どこか座れる、近い岩まで案内する」

 

ふらつく身体を支えるその男の肉体は、先ほど銃を構えていた男ほどではないにせよ、こちらも鍛え上げられた筋肉が堅さという根拠を持って存在感を放っている。顔の風貌はまさに爽やかといったところだった。彼の命を造作もなく散らすことのできる立場にありながら、悪意や敵意は感じられない。

体重をその男へ預けながら安定しない目を動かすと、良い具合に座れそうな平たい岩が視界に入った。男はそこに彼を丁寧に座らせると、その横に腰かけ、待機している2人に向かってチョイチョイと指を動かした。集合の合図らしい。

「あの2人は私のチームメイト、うん、部下と言っていいかな。君をさっき撃った男もそうだ」

「……つまりあなたがリーダー?」

「そういうことだ。無線の内容を聞いていたのかな」

「いえ、緊迫した状況だったので……」

「うん、そうだろうな。全く織部め、やりすぎるなと言ってるのに──すまなかった。私の責任だ。今も気分は優れないと思うが、もし急に耐えられなくなったら言ってくれ。この辺りは全て森だ。吐ける場所へどこにだって案内できるから」

「ありがとう……ございます……」

彼が目を泳がせると、先ほど触れようとした球体が目に入った。相変わらず同じ場所に留まって煌々と光を放っているが、その周囲には見慣れない装置が何台も並べられていた。いかにもハイテクといった印象の金属の棒が球体に向かって四方八方を取り囲み、冷蔵庫ほどの台の上には色とりどりの配線がグニャグニャと生えた用途不明の装置が置かれている。どうやら彼らはあの球体に何かしようとしているらしい。つまり、球体を知っているということか。

「……あの球体。ええ、あの球体は何なのですか?」

 

「──ふむ」

男はポリポリと顎を掻いた。その表情には先ほどまで浮かんでいた笑みはなく、面倒なことに巻き込まれたぞ、という意思が見え隠れする。

そのうちに、先ほど合図を受けた2人が到着した。1人はビジュアル系バンドに1人はいそうな──彼に音楽の趣味はなかったが、肌が異様な白さを帯びていることもあって直感と偏見でそう判断した、派手な赤髪の男性だった。背は高い。180センチほどか。見ると鼻が赤く、呼吸と共に鼻水のような音がする。どうやらこの男が先ほど花粉に手痛くやられていたようだ。

一方で女性は肩にかかる程度のふわりとした黒髪。容姿は端麗、身長はこの中では最も低いが、女性の中では中間くらいではないだろうか。薄めの化粧だがそれゆえに美貌が際立ち、隣のビジュアル系もそうだが、こんな山の中には似合わない異色の存在だった。

体調不良の濁流に抗いながらしげしげと2人を眺めて観察していると、リーダーが口を開いた。

「よし、そうだな。我々としては君に自己紹介をしてほしかったところだが……確かに我々が先に名乗るのが道理だろう。我々が手を出してしまったわけだし、君は今すこぶる具合が悪いはずだからな。海の向こうの都市伝説だと、生身でタイムスリップをするとそうなるらしいが……まあそれはいいさ。おい、織部!」

突然リーダーが顔の向きを変えて大声を上げた。その方向に顔を向けると、そこには銃を携えた無精髭の例の男がいた。思考が十分には回り切らないこの状況でも、生存本能が警告を発する。即座に岩から飛び出して距離を取ろうとするが、脚に力が入りきらずに倒れかけたところを、咄嗟にビジュアル系が抱き留めた。

「大丈夫かい?」

「え、ええ……ありがとう……ございます」

「まあ仕方ないよねー、撃たれたんだから。さーて織部さん。あなたのせいですよ」

「……」

織部と呼ばれた男は沈黙を守っている。その様子に呆れたかの様子で、ビジュアル系は向き直して微笑みかけた。

「ゴメンねー。彼無口だから……大丈夫?座れる?」

「ええ、何とか……」

「そう、良かった。ところで君、痩せてるけどお尻はキュートだねえ」

「え?」

座ろうとした瞬間に告げられた想定外の言葉に思わず聞き直すが、ビジュアル系はしまったというわざとらしい表情をして、わざわざ手で口を覆ってみせた。

「ああゴメンねー。何でもないよ」

「……コイツは三条白夜。今ので分かったとは思うがオムニセクシャルというやつだが……気を付けてくれ、コイツは別格だ。君の後ろにいるのが織部直人。そして彼女は斎賀里亜」

「よろしくお願いしますね~」

「ああ、よろしく……お願いします」

笑顔で手を小さく振る彼女に対し、疲弊からか、それとも羞恥心からか、蚊のような声で目をそらしながら返答してしまう。

「あれ~嫌われちゃいましたかね?」

「おーっと、彼は僕が予約済みだよ」

「え~やめてくださいよそういうの~」

「おいその辺にしておけ。まだ調査も完了していない」

バツが悪そうな様子を見かねてリーダーが助け舟を出した。2人が黙ったのを確認して、彼はもう一度口を開く。

「私がリーダーを務めている千代田大吾だ。どうぞよろしく」

「よろしくお願いします……」

ふと、男の発言が止まる。数秒間思考を巡らせるような素振りで、確信を突く言葉が口からぽろり、と零れる。

「……そして、皆さんは何者ですか。名前ではなく、所属や、そう、正体──」

 

その場に居たメンバーが全員──織部を除いて──キョトン、とした顔をする。織部だけは厳めしい顔で銃を握っていた。そのうち白夜はフッと笑みをこぼして俯き、大吾も表情筋を動かしてみせる。

「フフ、名乗らずにそこを聞くか?」

「あっ、すみません。……ですが、皆さんの会話の中で気になる言葉が何度も出てきまして」

「ほう」

大吾が興味を示したように身を乗り出す。

「それは何かな?」

「まず、リーダーという言葉。そして調査。あなた方は何科の調査のためにここに来ているはずだ。それも地質調査や生態系の調査なんかじゃあない。もはや自明でしょう、あの球体の調査に来ているはずです」

「そうだね」

大吾は相槌を打つだけで、男の主張をただ聞き入れる。沈黙する織部は勿論、白夜と里亜も退屈そうに手を動かしてはいたが、発言を妨害するような真似はしない。まだ万全の体調とは言えないが、男の頭には少しずつ晴れ間が見え始め、舌に脂がのって呂律が回るようになっていた。

「そしてEMDという言葉。僕を撃ったのが実弾銃じゃあなく、ある種のテーザー銃のようなものだとすれば……あなた方がテロリストあるいはそれに準ずる集団であるという線は薄くなりませんか。もしそういった反社会集団であるなら、僕をとっとと殺して東京湾にでも沈めればいい。人質にでもするのなら話は別でしょうけど、それにしたって僕は秘密に近づいた邪魔者だ」

「我々はそんなことはしないさ。殺しもしない、人質にもしない」

「ええそうです。介抱してくださったとき、そんな印象を抱きました。あなた方は球体を私利私欲のために手に入れようとしているのではない、政府か何か、きちんとした組織の下で動いている。少なくとも法律を守る組織のはずだ、違いますか。そして、そんな公的な組織が武器を持たせて人員を派遣するあの球体は──一体、何なのですか」

「……」

「タイムスリップという先の言葉。僕は聞き逃しませんでしたよ。僕は恐竜をこの目で見た。生きている恐竜だ、見間違いじゃあない。実際に、四足歩行の、竜脚類が、目の前を歩いていたんです。何故タイムスリップなどという突拍子もない言葉を挟んだか。僕がどこまで知っているか、こうして探るためでもあった。あの裂け目と時間に大きな因果があるからだ」

「ふう……そうか、見たのか」

大吾はすうっ……と大きく鼻で息を吸った。とっくに笑みは消えていた。これからそれはそれは非常に重たい話を打ち明けよう、とでもいう雰囲気を醸し出す。

「仕方がない。何かの訓練だとか、趣味の射的だとかで済ませようと思っていたが。説明するよ」

男は唾を飲み込む。本やテレビでしか見たことのない、本物など決して誰も見ることがないはずの絶滅した恐竜。それを目撃した理由が、そしてそのバックボーンが明かされる。ここに来てようやく、自分が何か大きな出来事に立ち会っていることを実感する。

大吾が、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「あの球体は『時空の亀裂』。異なる時代同士を相互に結ぶ、時空間に発生した裂け目だ」

衝撃の事実だが、恐竜が出現した時点でその見当はついていた。しかし実際に肯定されると鳥肌が立つというものだ。現実離れした圧倒的な事象を前に気圧されている。頭皮から冷汗が噴き出て、雫が頬を伝っていくのが感じられる。

「そして我々は『亀裂』を調査するエキスパート。日本社会の表舞台には決して姿を現さない。警察・消防・自衛隊・政府。全てと裏で結び付く、日本という国家から承認された存在」

 

 

「『未確認現象調査局(Unknown Research Agency)』だ」



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極東の地で Part3

「URA……そんなものが」

突然明かされた突拍子もない秘密組織の存在。だがこうして武装した勢力に囲まれ、未知の球体とそれを取り巻く機器類、さらには地面に横たわる小型獣脚類を見せつけられた今、その言葉は圧倒的な説得力を持ってこの場にそびえている。

「我々の仕事は亀裂の封鎖と、生物による被害の軽減だ。君も既に目撃したと言ったな。亀裂を通って侵入する過去の生物からこの日本を守る。そのために亀裂の向こうの時代を調べ上げ、生物を同定して対策を練り、その確保ないしやむを得ない場合は処分する」

先ほどまで見せていた大吾の爽やかな顔には、大渓谷のように険しい皺が刻み込まれている。他3人の表情も硬く、真剣そのものだった。この場を統率できる銃という文明の利器を手にした人間が、糸の弛む様子さえなくこの場に居る。その緊張感は凄まじいものであり、男の全身に纏わりつく消耗の気配が薄れてゆく。

 

「さて。我々の職務を紹介したわけだが……無論、このことは他言無用だ」

それはそうだろうな、と男は思った。恐竜が現代に居るというだけで世間は大混乱だろう。それに加えて時空間の裂け目、さらには政府と結びつく秘密結社の存在。そんなものが明るみに出れば生物学や物理学は音を立てて崩壊し、ただでさえ随所で散見される現政権に対する不満は爆発的に沸騰するだろう。一般市民を不安に陥れる泥沼の論争が起こるのは誰の目からも明白だった。

「勿論喋りませんよ。……だがあなた方からすれば、僕が喋らない保証はない」

「その通り。だから──」

男に指差してみせた大吾は、その手でポケットへ手を入れる。取り出されたのは褐色の小瓶。中身はその距離ではよく見えないが、どうやら何かの液体であるらしく、チャプチャプと水音を立てている。

「これを飲んでもらう。大丈夫、毒じゃあないさ。ただ、今日1日分の記憶を失ってもらうだけだ。民間への影響を鑑みると、必要な処理なのは分かるだろう?」

 

「……毒でないという根拠は?」

先ほどは自分で彼らが悪人でないと口にしたが、彼らの大層な肩書を聞くうちに確証が揺らいでいた。政府とパイプがある組織なら、事態は重大だ。人間一人の生死など軽く捻り潰せる力がある。そして彼らが表沙汰にできない事象を取り扱うことが分かった今、この薬品が毒物でない証拠はない。

そんな思考回路を見越してのことだろう、大吾は丁寧に弁明をする。

「……君が言った通り、我々は殺人をするような組織じゃあない。なるべくは、ね。もし毒殺するなら死体の処理をしなくちゃあならないが──ああ、その程度なら根拠にはならないか。しかしね、我々は悪人じゃあないのは感じてくれたのではないかな。そうだ、それこそ君がさっき言ってくれたテーザー銃だ。それに、堂々と民間人を殺戮する集団に政府やその他組織と繋がることができると?」

「政治ってのはそういうものでしょう。表社会はどこかで裏社会と繋がる。完璧な白なんてものはない。次第次第に灰色を帯び、どこかで闇に呑まれて黒に転じるものなんですよ」

「陰謀論者かね、君は……」

「しつこいガキだ」

「まあそう言うな、織部。彼の発言にも一理ある。綺麗事で済むほど、世の中甘くはない」

「だが……」

 

沈黙が流れる。十秒ほどだった頃だろうか、白夜と里亜はチラチラと男へ視線を送る。早くアクションを起こせという目配せだ。事態の停滞に、織部もわずかに苛立ちを覚えていた。彼らのフラストレーションが爆発しないタイミングを見計らい、男は口を開く。

「──いいでしょう、テーザー銃を根拠に出したのは僕です。認めましょう。それが毒でないと、僕は信じます。あなた方を信頼します」

それを聞いた大吾の表情に笑みが灯る。

「ああ、非常に助かる」

「ですが拒否します」

急転直下の発言に、全員の表情が凍る。大吾の眼光は鋭く、遥か上空から獲物を見定めるハヤブサさながらだった。他3人も警戒態勢に入り、各々が銃に手をかける。織部に至っては銃口が完全に男の脳天を捕らえ、いつでも電撃を浴びせられるように構えを完了していた。

「……理由を聞いていいか?」

大吾はまだ平静を保とうとする。ゆっくりと男へ問いかけるその態度には、男の返答次第では強硬手段に出る雰囲気がにじみ出ていた。

「答えを聞く前に一つ言っておく。我々は確かに生物を殺さないし、人間に危害も加えない。やむを得ない場合は容赦なく撃つ。ここにいる3人はすぐにでも君を撃ち抜ける」

「またテーザー銃ですか」

「EMDだ。お前たち、最高出力に設定しろ」

3人が各自の銃をいじると、生じる電子音の周波数が上がってゆく。設定電圧が最大値に達したらしく、男の生命活動に危険を与えるレベルの砲撃が整えられた。

「もう一度拒否してみろ。最大出力のEMDはさっきとは段違いの威力だ。少なく見積もってまる1週間は君をコーマ状態にする。目を覚ましても三半規管へのダメージは数か月は癒えんよ。その間にゆっくり君を監禁させてもらう」

「撃たせないでくれよ……」

「ええ、私たちの本来相手にすべきは生物。人間のあなたじゃあないのよ……理解して」

「我々も単なる慈善活動家ではないのでね。手は出したくないというのが本音ではあるが、多少の犠牲が要求される瞬間もある。その身を鬼神(温羅)に変えてでも、日本を守らなくてはならない」

この極限状態に追い詰められてなお、男の決意は固まっていた。薬品の摂取を拒否する決意は、依然変わらずにいた。

「……すみません。ですが、僕はあの光景を忘れたくはないのです」

「……亀裂のことか」

「ええ。時空の亀裂というあの裂け目、そしてそこから出現した巨大な恐竜。僕が長年心の底から望み、追いかけ、そして諦めたものなのです。僕に感動を与えてくれた。あれを見たのは僕だ、記憶を消す権限があなた方にあるとは、僕には到底思えない。考えられない。社会的な立場など僕にはどうでもいい。そしてあなた、織部とか言ったな、突然押さえつけられて撃たれた恨み、僕は忘れちゃあいないぞ。千代田さんには悪いが、あんたの思う壺にはならない」

彼自身までもが信じられないほど、体温が上昇している。体が火照り、まるで胃の中でマグマが煮えたぎっているかのごとく、脳汁が沸騰しているかのごとく、口と舌が駆り立てられる。もはや自分が何を言っているのか分からない。だが自分の意思を、ノイズも含めて限界まで相手に叩き込もうとしているのは感じられる。

そんな弁舌に嫌気がさしたのか、織部が舌打ちする。

「……くだらない熱意と反骨心の混ざった幼稚な理論だ。現実を見ろ」

「そう一蹴されても構わない。適切に言語化できている自信なんてない。だがこれだけは言わせろ、僕はこの記憶を終生大事にとっておくだろうさ」

「──撃っていいか、リーダー」

「……許可する」

男が覚悟を決め、歯を食いしばる。男に向かって織部は冷徹な目線を向けたまま、正確に引き金が引かれる。

 

 

しかし、激痛に襲われたのは織部の方だった。

 

男が反撃に転じたのではない。URAは部外者に気を取られ、本来の職務を見失っていた。

彼らが真に警戒すべきは亀裂から現代へ侵入する生物。その生物を捜索し、捕獲しなければならなかった。彼らは既に獣脚類の恐竜を5匹は確保していたが、それがこの時代へ到来した個体群の全てではなかったのだ。侵入した群れはパニック状態になり、散り散りになって逃げて行った。そしてそのうち数匹が、亀裂をめがけて戻ってきていた。

そして戻ってきた彼らが目撃したものは、地面に積み上げられた同胞の遺体──厳密にはEMDで対処されたため死んではいないのだが、何頭も重なって不自然に倒れている様は、野生で生きる彼らからすれば死以外の何物でもない。そしてそこからそう離れていない場所に立つ未知の生物が5体。犯人は決まったようなものだった。彼らの狂乱は警戒と憤怒の色を交えて立ち上っていた。

 

織部の首に鉤爪が突き立てられる。鋭い爪を持った小型獣脚類が、織部の頸動脈をめがけて一直線に着弾していた。

幸いにも織部の鍛えた筋肉と分厚い襟が味方し、さらに鉤爪も悪名高いラプトルほど卓越してはいなかったため、辛うじて致命傷は避けられた。だが30キログラム近い野生動物が矢のごとく飛来したのだ。織部の肉体は紅い血を飛び散らせながら、突撃した獣脚類とともに吹き飛ばされて地面を転げ回る。

「うわッ!?」

「織部さん!?」

「ごぼッ……」

咳き込みながら体勢を立て直そうとするが、特攻をかました竜はそれを許さなかった。開いた口に並ぶ歯が飛び掛かる。咄嗟にEMDを狭間に割り込ませて直撃を防ぐが、到底人間に対処できる速度ではない歯と爪は銃身を着実に刻んでいた。

白夜と里亜は織部を襲う獣脚類へ銃を向けたが、既に彼らも襲撃対象にロックオンされていた。横から、背後から、頭上から、次々に同種の獣脚類が姿を現す。意識の外からの攻撃に彼らは地に引き倒された。構えたEMDも弾かれ、奪われ、執拗な攻撃に逃げ惑うばかり。

「くッそ──」

男に最も近い位置におり、獣脚類の潜む森から離れていた大吾は襲撃を免れた。記憶消去剤の小瓶を投げ捨て、秘かに忍ばせていたEMD拳銃を懐から取り出す。引き金を正確に引き、部下を翻弄する獣脚類を一匹一匹撃ち抜いた。獣脚類たちはブラックホールに吸い込まれるがごとく吹き飛んで行き、羽を散らしながら地面へ落ちて行った。

「……皆、生きているか!」

「ええ、なんとか。しかし、ああ、手痛くやられました」

引き裂かれた白夜の服の下に露わになった傷口からは、血が小さな泉のように流れ出ていた。里亜も顔や手に擦り傷を負い、服で見えない場所からは痛みが打撲の存在を主張している。

「リーダー、首をやられた。止血しなくては」

首の横を押さえる織部の指は赤く染まり、首の濡れた領域は拡大しつつあった。

「……分かった。急ぎ止血と消毒だ。済まなかった、私の指示ミスだ──」

そう言いつつ、大吾には悪い予感が走った。静かに振り向くと、そこに先ほどまで銃を向けられていた男の姿は、もう、なかった。

 

 

バッグを背負ったまま、動きが次第次第に緩慢になってゆく脚に力を入れつつ、男は茂みの中を逃走していた。獣脚類の襲撃は想定外だったが、外部からの干渉を全く期待していないわけではなかった。あてもなく時間稼ぎのために舌を動かしていて本当に良かったと、心の底から実感していた。極度に厳戒された状況から間一髪解放された彼は、斜面を走る消耗もあり、心臓の脈動が遥かに大きく速くなっていた。

「ハア……ハアッ……」

荒い呼吸で走る中、突如足に衝撃が走る。体が一瞬宙を舞って地面に倒れ込み、ぬかるみの中へ突っ込んでしまった。どうにかもがいて顔だけを泥から出して後ろを振り返ると、木の根がトラバサミのように突出していることが分かった。どうもそこに足をひっかけてしまったらしい。

不味い。このままでは追い付かれてしまう。連中は普段生物を相手にしているのだ、人間の足跡を辿ってここまで来られないはずがない。いくら恐竜に襲われたと言っても、エキスパートを名乗る彼らがあれで全滅しているとは思えない。すぐに応急処置を済ませて追跡を開始するはずだ。そしてこの泥も問題だ。ここを抜け出しても泥がついていては足がつく。早く抜け出して、泥を落とさなくては──

 

そこまで考えて手足に力を入れたときだった。何かの呼吸音が耳に入った。遠くない。近い。

身体を持ち上げようとするのをやめ、一時泥の中で静かに待つ。何が居るのか、見極める必要があった。この呼吸音は明らかに人間のものではなく、先ほどの小型獣脚類がこんなにも大きな音を立てるとも思えなかった。ぬかるみの中に身を沈めながら、呼吸を殺す。鼓動音がさらに増大していることに気付く。だがそれとは裏腹に、冷たいぬかるみに冷やされるよりも早く、体温が急速に下がってゆく。

やがて茂みが揺れ、白い歯と瞳が見えた。間違いなく、先ほどの獣脚類よりも遥かに大きい。背丈は人間ほどだろうか、明らかに捕食動物の風貌をした恐竜が目の前にいた。

鼓動の高まりが加速する。肉食恐竜を目にできた歓喜と、それに対する圧倒的な恐怖が同居する。幸運にもこちらに気付いている素振りはない。ぬかるみに潜航したまま様子を窺っていると、その恐竜は空気中の何かの匂いを辿っているようだった。不意に恐竜は首をもたげ、そのまま山を下り始めた。

 

揺れ動く尾が茂みの中へ消えていくのを見て男は安堵した。大きくため息が漏れ、張り詰めていた力が全身から抜けてゆく。だが数舜後にある事実が頭に浮上すると、大きく全身を揺さぶられるような衝撃が走った。

恐竜の進行方向の先にあるもの。それは時空の亀裂、そして襲撃を受けたばかりのURAのメンバーだった。



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極東の地で Part4

捕食動物が今まさに迫りつつあることなどつゆ知らず、URAのチームは応急救護と亀裂の封鎖に勤しんでいた。比較的軽傷であった里亜が自らの目立つ擦り傷を洗浄し、続いて百夜と織部の裂傷を処置した。織部の首の傷も太い血管は辛うじて損傷を免れており、病院送りになる事態は避けられた。とはいえ激しく動けば再び血が噴き出すことは容易に想定され、仮設ベッドの上での絶対安静が条件であった。

「それにしてもやってくれましたね~、彼……」

「しくじったな。部外者に気を取られすぎていた」

白夜の腕に包帯を巻きながらぼやく里亜に、大吾が装置をいじりながら返事をする。その装置は亀裂の前に鎮座する金属の台の上に置かれ、大吾はそのスイッチを調整して電子音を立てていた。最後にボタンを押すと、独特な音を立てて空気が歪み、亀裂と呼ばれた球体が形を変えた。外側に向かって開いていた硝子の空中破片たちがまるで外敵から城を守るかのように亀裂を取り巻き、より真球に近づいた形態へ変化した。大吾がそばに落ちていた小石を拾い上げて投げつけると、小石は亀裂に弾かれ、再び地面に転がる石の群れに混ざっていった。

「よし、封鎖した。これを最初にやっておくべきだった」

「我々が来る前に亀裂から侵入したのだろう。出入りする者は見ていない」

「そうかもな。だが我々が話している間にも亀裂が開いていたのは確かだ。我々の落ち度だ……彼を取り逃がしたのもな」

「上手くやりましたねー、彼。グスッ……失礼。こいつらが襲ってくるのも見越していたんでしょうか?」

「どうだろうな。……ありうるか。山中にいる自衛隊に指示を出して、彼と残りの獣脚類──いや、彼の言うことには竜脚類もいたそうだな。とにかく彼と生物の捜索の指示を出さなくては。里亜、頼めるか」

「了解です。必要ならヘリも要請しますか」

「……そうだな。行方不明者捜索として隠蔽しよう、具体的な判断は君任せる」

「分かりました」

里亜がトランシーバーを取り出し、自衛隊との連絡を取る。男を相手していたときのふわふわとした態度は消え去り、人命の危機が肩にかかった組織に相応しい態度が表れていた。

 

その間に白夜は痛みをこらえて立ち上がり、積み上げられた獣脚類のそばに置かれたディスプレイを見下ろしていた。あの小型獣脚類のものらしい記載論文、そして化石の写真が複数の窓で表示されている。

「あー、結果出てますよ千代田さん」

「読み上げてくれ」

その獣脚類との攻防に巻き込まれたEMDをチェックしながら、大吾が視線も送らずに返事をする。織部のEMDは設定に必要な部位が穿たれており、無数の傷に装飾された空洞が嘲笑っていた。基地に帰って修理が必要なのは明らかだった。対して白夜と里亜のEMDは地面に叩き落されたか銃身を咥えられただけであり、大した損傷もなく続投できそうではある。念のため簡単にオーバーホールして点検する。

「えーと、こいつらは論文に記載されている中だと、フクイベナトル・パラドクサスに似ていますねー。日本のでしたか、珍しいですねえ。こんなナリでドロマエオサウルス科じゃあないんですって……ふうん」

「フクイベナトル・パラドクサス……手取層群、北谷層か。時代は白亜紀の前期」

「ええ、だいたい1億3000万から1億1500万年前だそうですね。この時代だとえーっと……?」

「フクイティタン、フクイサウルス、とにかくフクイの付く奴らが多い。どれも大陸の奴よりは小型のはず──そうか、彼が見た竜脚類とはおそらくフクイティタンのことだな」

「あーなるほど、よし。データベースに追加できますね」

「そうだな、後でよろしく頼む」

 

大吾がEMDの確認を完了して装置を閉じた時、通信を完了した里亜が振り返った。

「千代田さん、30分後にローラー作戦が展開されます。ヘリも2機出動が決定しました」

「ご苦労。30分ならまだ下山できまいよ、良い判断だ」

「……ところで自衛隊の方から気になる報告がありまして」

「……どうした?」

突如立ち込め始めた不穏な空気に、大吾が眉をひそめる。画面を見つめていた白夜も、空気の変化を感じ取って里亜の方に顔を向けた。仰向けに寝そべる織部も、静かに目線を彼女の方へ送った。

「小型獣脚類の捜索にあたっていた自衛隊員が数名、音信不通のようです。私たちがそうだったように、奇襲を受ければ無理もないかと思いますが──」

「フル装備で警戒中の自衛隊員が、か?」

「茂みの中だと無理も無いんじゃあないでしょうか?いくら訓練された自衛隊員でも、コンクリートジャングルに慣れた人間と野生動物じゃあアドバンテージの差ってものがありますよ」

「……何とも判断しかねるな。だが警戒しておいて損はない」

「同感です。彼らにもそう伝えておきました」

「よし。白夜、里亜。EMDは使える。構えておけ」

 

白夜と里亜がEMDを取りに行こうとしたその時だった。茂みを掻き分けて突如、ギャアギャアと叫び声を上げながらフクイベナトルが1匹飛び出してきた。その形相は必死ではあったが、先ほどとは打って変わってURAのチームを襲う様子は全く無い。むしろ何かに怯え、ひたすらに逃げている様子だった。

白夜が冷静にEMDを向けてフクイベナトルを射抜く。騒音の元は吹き飛び、羽を散らしながら地面にどさっと落下した。動かなくなったのを確認して、百夜はフクイベナトルの方へ歩を進める。大吾も白夜の様子を視界に入れ、他の場所からの別固体の出没を見張るべくその場を後にする。

「何だったんでしょう、何かから──」

「シッ」

疑問を口にする白夜がそれを言い終わらないうちに、里亜が黙れと指示を出した。白夜はその意図を図り取ろうと振り向こうとするが、その必要はなかった。彼の耳にも、今この場で起きている異変が感じ取られたのだ。

騒がしかったフクイベナトルはEMDで沈黙し、そこで失神して無防備に横たわっている。しかし奇妙なことに、茂みの中の音は消えていなかった。むしろ、フクイベナトルが飛び出した時よりも枝葉の擦れる音が大きく奏でられている。

 

三人と、そばで寝そべる織部が視線を送る。四人の視線の交点にあたる茂みが大きく揺れ、フクイベナトルよりも遥かに大型の獣脚類が茂みを破って飛び出してきた。半ば想定していたことではあったが、飛び散る枝の破片が地に着くよりも早く三人の表情が驚嘆に呑まれる。

「フクイラプトルかッ……」

フクイラプトル・キタダニエンシス。日本では数少ない恐竜の1つであり、当時の生態系でも上位に位置していたとされる。かつてドロマエオサウルス科と誤認される原因となった禍々しい爪が前肢に備わっている。しかし最大の武器は爪ではなく歯であり、フクイサウルスの幼体や弱化個体を顎でもって血祭りに上げていた。フクイベナトルが逃げ出したのも当然の話であり、たかだか七面鳥より一回り大きい程度の彼らが──いくら錯乱状態とはいえ──人間を優に狩れるほどの存在に一対一で戦いを挑むはずがなかった。

しかしこのフクイラプトルはそばで気を失っているフクイベナトルには微塵も興味を示さず、最初から追ってすらいなかったようである。彼の興味が向いていたのは血の臭いを漂わせているフクイベナトルの山だったが、すぐそのそばに横たわっている哺乳類に意識が向いた。同じく血の臭いがそこから流れており、動かないところを見るに衰弱しているようであった。

フクイラプトルは織部に向かって進撃を開始する。運悪く織部のEMDは使用不能であり、そもそも彼の手の届かない場所に置かれていた。フクイラプトルに最も近い場所にいたのは大吾だった。既にEMDを向けていたが、フクイラプトルは大吾を相手にせず回避する軌道を取った。放たれた電撃は茂みの中へ消えていき、逆に大吾は強靭な尾の一撃をお見舞いされることとなった。地面を削りながらその上を転がり、砂利の混ざった唾を吐き捨て、歯を食いしばって立ち上がる。

 

フクイラプトルは既に山中で自衛隊との戦闘を経験していた。背中に見える黒い穴とそこから流れた血の跡がそれを物語っている。彼は人間の持つ何かが危険な代物であることを学習し、それを回避する術を覚えていた。自衛隊員と初めて交戦して血を流して以降、遭遇しては逃げ出すのを繰り返していた。だが何度目かの遭遇で偶然にも尾で銃を叩き落としたことがあり、このときに二足歩行の哺乳類が何も手出し出来なくなったことに気付いた。この奇妙な物体を奪えば連中は脅威ではない。その絶対的な真理に気付いた彼は、山中を動き回る自衛隊を逆に邪魔者として抹殺して回った。人間の性能と限界を把握しているのである。

特に彼らを胃に入れようという気は起らなかった。亀裂からやって来た直後に敵対要素に遭遇し、彼も食料どころではなかったのである。だが、いかにもご馳走ですと言わんばかりに横たわる肉体を見て気が変わった。邪魔者ではなく獲物の息の根を止めるために、彼は疾走する。

 

そしてEMDの性能もフクイラプトルへ味方していた。EMDは生物を傷つけず対処できる便利アイテムのようであるが、その射程距離に難があった。熟練の兵士がスナイパーライフルを扱えば2キロ前後は弾が届くだろうが、EMDはその物理的特性から数十メートルが限界であった。織部を標的に回り込む動きを取ったフクイラプトルは、既に白夜の射程圏内にはいなかった。

フクイラプトルを射程内に捉えていた里亜にも問題があった。それは射撃の腕前によるもの。今のまま接近するフクイラプトルを撃つなら、誤って織部にEMDの放電を食らわせてしまう可能性が捨て切れない。射程圏内に入れるため、誤射の危険を減らすため、EMDの放出電力を最大にしながら二人が駆け出す。

 

「くッ……!」

フクイラプトルは織部の命を奪える距離まで迫っていた。歯の並んだ顎が覆い被さる寸前に織部は寝返りを打ち、辛うじて攻撃をかわす。耳元で口の閉じる音を嫌でも聞かされながら、彼は仮設ベッドから地面へ転落して逃れた。先のフクイベナトルの襲撃で受けた傷に尋常でない痛みが走り、苦痛に喘ぐ。

「ぐあッ……」

そんな事情など全く関知せず、無情にも攻撃は続行される。鉄槌として振り回される前脚の鉤爪と顎が織部の顔をかすめ、生暖かい風に髪が揺られる。目の前で爪がその存在を激しく主張し、織部の脳には諦めの2文字が生じ始めていた。



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極東の地で Part5

織部を窮地から救ったのは、EMD持ちの2名が有効射程範囲に入ったことだった。本能でそれを感じ取ったのか、それとも彼らが銃を再び構えたことに警戒したのか。フクイラプトルは襲撃を中断して飛び退いた。大吾もEMDを持ち直して加勢する。自衛隊の銃との違いに気付いたのか、フクイラプトルは逃げ出さず、様子を窺うように射程範囲の外を彷徨い始める。

「織部、そのまま動くなよ……」

あまり大きく動くわけにもいかず、織部は小さく、しかし大吾には伝わる動作で頷く。転落したことで織部はフクイラプトルの死角に入っていたが、フクイラプトルは嗅覚を働かせて織部の位置を測っている。空気吸入のたびに鼻孔周辺が膨張と収縮を繰り返す。一方で視覚は三人の方へ集中しており、彼らの一挙手一投足も見逃さないという構えだった。

「あいつ、なかなか賢いな。恐竜ってあんなものなのか?」

「これは長引きそうですね……」

 

白夜の発言通り、場は膠着状態に陥った。三人は織部を防衛するため彼を中心にとった扇型を描き、フクイラプトルに対して半径を広げる形で前進する。一方のフクイラプトルは茂みの中へ一時的に身を隠し、その中を潜航した。このまま前進すれば奴を山の中へ放逐して自衛隊に処理を任せられる、という甘い思考が浮かんだが、すぐに頭から消えた。三人の間隔が広がれば各々が消される可能性が出てしまう。三人で固まったまま前進すれば、織部が再び標的にされる可能性が高い。ろくに動くこともできず、弧を描いたまま茂みを睨みつけるほかなかった。いつフクイラプトルが茂みから飛び出してくるか、緊迫する中での睨み合いが続く。一方で現場を翻弄する捕食者も、目の前に陣取る邪魔者をどうにか殺せないかと苛立ちを覚えていた。

汗が垂れる。茂みの揺れが突如として接近し、EMDを構える腕に力が入る。しかしその数舜後には揺れは収まり、遠ざかっていく。そしてそこから離れた地点で再び揺れが大きくなる。このサイクルを幾度となく繰り返し、三人の表情には緊張と焦燥に起因する消耗が見え始めた。

だが激しい動きを繰り返すフクイラプトルも痺れを切らしていた。やがて彼らを扇動するのをやめ、歩調を緩める。足をその場に止め、ひっそりと音を殺して佇んだ。沈黙が訪れる。だがセミの声は依然として鳴り響き、静寂に包まれたわけではなかった。

このセミの音で、フクイラプトルの足取りは曖昧模糊なものと化していた。動作を止めたのは三人にも薄々感じられたが、どこで歩みを止めたのかが正確に分からない。存在圧が周囲に溶け込み、どこまでも希薄になって溶けてゆく。どこから奴が飛び出してくるのか。三人は感覚器官をフルに働かせるが、状況を読めば読むほどその存在は朧げになっていった。

 

静かに力を蓄えていた筋肉を稼働させ、フクイラプトルが飛び立つ。地面を蹴り、茂みを破り、真っ先に里亜へ飛び掛かった。咄嗟にEMDが向いたものの、既にそこはフクイラプトルの間合いだった。歯が銃口をがっしりとホールドする。銃身が彼の力で捻じ曲げられるということはなかった。EMDごと里亜の体そのものが大きく力を受け、バランスを崩したからだ。

「あッ……」

里亜が現状を呑み込んだときには、既にフクイラプトルの脚が彼女の胴にクリーンヒットしていた。衝撃でEMDから指が剥がれ、体がゴムまりのごとく跳ね飛ばされる。処置した擦り傷の上にさらに傷を負いながら、彼女はなす術もなく地面に打ち付けられ転がっていく。体が地面との摩擦でようやく止まり、胸を広げて大きく肺に酸素を送り込むころには、EMDはフクイラプトルの口から放り投げられて放物線を描いて沢へ落ちて行った。セミの声にかき消されかけてはいたが、銃が水没して破損する嫌な音が耳に入った。

フクイラプトルは考えた。今駆け寄ってくる武装した二匹を先に無力化するか、たった今蹴りつけた相手を餌として亀裂へ持ち帰るか。散々ここで暴れ散らして疲労も蓄積した。そろそろ故郷へ戻ってよい頃合いだろう──と。彼は餌を優先することにした。

 

だが彼の計画はここで頓挫する。

激しい音と共に、頭部に突然強い衝撃が走った。自衛隊から受けた銃撃とは明らかに性質を異とする、外部からの攻撃だった。痛みをこらえながら、蹴り飛ばした餌を守ろうとした二匹の仕業かと睨みつける。だがどうやら彼らも驚いている様子だった。地面に目をやると、泥に塗れた謎の物体が落ちていた。

二人はフクイラプトルよりも状況を詳細に目撃していた。上空からの飛来物がフクイラプトルの頭を打ち、そのまま地面へ落下した。飛来物には見覚えがあった。それは、フクイベナトルの襲撃時に姿を消した男の荷物だった。

 

「斎賀さァん!無事ですかー!?」

山の斜面を何かが滑り降りる音がし、男の声が響く。茂みの間に時折明るい色が見え、人間の衣服であることが分かった。

「助け舟……ということか!」

大吾がEMDをフクイラプトルへ向ける。頭にショックを受けたフクイラプトルはいまだ倒れずに立ってはいた。しかし、足取りは不安定そのもので、腕はビクビクと震えながら宙を切っていた。頭部もどこを向けばいいのかといった具合に動き回り、目の照準もあっていない。回復の兆候を見せてはいるが、完全復活は果たしていない。これまで機敏に立ち回ってきた竜を倒す、最大にして最高の好機。

「ありがとう」

EMDの放電音が立て続けに3発鳴り響く。フクイラプトルの体は直撃のたび、氷山に衝突したように大きく揺れた。やがて彼の肢は自重を支えきれなくなり、その場に崩れ落ちた。

 

百夜が里亜を介抱し、大吾が倒れたフクイラプトルを観察していると、音を立てて茂みから男が姿を現した。

「ああ、よかった。無事でしたか」

「無事?君、これが無事に見えるっていうのー?全身に擦り傷、グスッ、多分蹴られたときに骨折したかも」

「あっ……すみません、ごめんなさい」

「大丈夫ですよ~、バッグ投げて助けてくださったんですよね、ありがとうございます」

事態が一応の終息を迎え、里亜の態度は柔らかなものに戻っていた。大吾もフクイラプトルのそばから立ち上がり、男に向き直す。

「ありがとう、君のおかげで助かった。おそらくその……荷物の中身は無事ではないと思うが」

「さっき沢で採ったノジュールたちです。まあ……人命よりも大切なものなんてありませんから。それに、案外今ので化石が石から剥がれたかも」

「フフ、それならよかった」

大吾は笑ってみせるが、ふとやらなくてはならないことを思い出して真剣な顔つきに戻る。男もそれを察知し、神妙な顔をする。既にこの次に上る話題を彼は理解していた。

「……恩人に申し訳ないが、君の記憶は──」

「僕をチームに加えてもらえませんか」

話を遮り、打診する。男が考えついた中でこれが最善の一手。突然の申し出にURAのメンバーはポカンとするが、大吾だけは納得した様子だった。

「逃げ出したことについては申し訳なく思います。それに、この事実を世間に漏らしてはならないという実情も痛いほど分かります。……ですが、滅び去った恐竜を見てとても高揚した、というのが事実なのです。身の毛のよだつ経験もしましたが、こう……」

 

「──分かるさ」

言葉に詰まる男に、今度は大吾が助け舟を出した。

「この世には我々の計り知れないことが数多く存在する。そのうちの1つが時空の亀裂だ。日常に縛られた人間では滅多に出会えない神秘。この世界の素晴らしさがそこにある。──だが辛いこともある。この世界がどれだけ恐ろしく、狂気に満ちているかも経験することになるだろう。それでもいいのかな」

「──いいですよ。ありがとうございます。僕は事実を知る数少ない人間の一人です。引き受ける義務はなくとも、僕は参加したい」

「えーっと、お話し中申し訳ない。」会話を遮り、白夜が口を挟む。「君、本当に入るの?」

「ええ。嫌ですか?」

白夜は、じっと男の瞳を見つめる。男も彼の瞳を見つめ返す。彼の瞳は澄んでいて清らかで、白夜というよりも極夜をイメージさせる美しい夜の色だった。

「……いいや。むしろ歓迎さ、君のその意思が本心ならね」

見つめ合いの果てにポン、と白夜に尻を叩かれると、男は若干の嫌悪感を示した。その背後から里亜が口を出す。

「もう、初対面で攻めすぎですよ~。気を付けてくださいね石済さん、そして歓迎しますよ!」

「ああ、ありがとうございます」

早くも仲間として認められ──織部はそこに居なかったが──喜びが湧く。

しかし、そんな中で男はある一点がひっかかった。

「……待って、どうして僕の名を?」

「君が撃たれている間に財布を抜かせてもらった。君の免許証に保険証、学生証、その他会員カードがいっぱいだったよ」

男はパタパタとポケットを探る。どのポケットもペタリと潰れ、財布をスられた事実を認めるほかなかった。ため息が出る。

「全く……本当になんてことを」

「必要な用心だ。君がもしそのまま失踪して、自衛隊の捜索網までかいくぐったら困るものな。もしそうでないとしても、生物と遭遇したアフターケアだとか、いろいろ手を回す必要があるんだよ」

「なるほど……まあ合点がいきましたよ。後で返してくださいね」

口ではそう言いつつも、心の底では不平不満が募っていないこともなかった。それを読み取ってかどうかは分からないが、千代田が話題を転換する。

「もちろんだ。ところで君の処遇については織部にも話すが……君の専門分野が具体的に分からないが、きっと君の趣味からして、亀裂調査プロジェクトにも一役買うものだろう。きっと我々にとって貴重な戦力になる。まずは君の口から自己紹介が聞きたいな。これから同じチームで働くことになるかもしれないわけだ、チームメイトの名前は把握しておかなくちゃあな」

「ええ、分かりました」

男は息を吸い込む。これからの人生に間違いなく史上最大の変革をもたらす出会いの場。ここで初めての自己紹介だ。

 

 

「石済葦人と申します。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」



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陥落の城 Part1

フクイラプトルがURAに対し大立ち回りを繰り広げて、ざっと半年後。ある基地に黒曜石の色をした車が乗り入れていた。運転席と助手席のドアが開くと、サングラスをかけたスーツの男がそれぞれ姿を現した。頭から足元まで黒色に統一されている。うち1人が後部座席のドアを開けると、1人の男が車を降りた。半年前の戦いで事態を終息に導いた第一人者、石済葦人である。

彼は周囲の景色に目をやった。カーキ色の装甲車や自走砲がこれでもかと並び、今すぐに他国からの侵略を受けても迎撃できそうな装備が整っている。これは明らかに、事実上の軍事組織の様相を呈していた。

「……ここは自衛隊の基地では?」

「はい。URAの基地は陸上自衛隊の駐屯地の内部に存在します」

「……なるほど。まるでイソギンチャクの中に暮らすクマノミですね。自衛隊の力を突破して踏み込める生物や集団なんてそういない。安全を保障してもらう代わりに、亀裂災害が起これば先陣に立って指揮を執る。完璧な共生関係──いや、電話一本で自衛隊を出動させられるその力。もはや寄生と言って差し支えないのかもしれませんね」

「URAは自衛隊のような高火力の武器を持ちませんからね。我々のようなガードがいるだけで、後は調査チームと研究者だけです。詳しい説明は中でされると思いますが」

「……ふうん。ご説明、感謝します」

 

葦人がURAの実情を知らなかったのには理由がある。彼はURAへの加入が正式に決定された際、ある条件をつけられていた。それは修士課程を修了すること。大学院での研究に精を出し、それを終えてからURAに就職せよという決定だった。これは織部が彼の加入を簡単に快諾しなかったことだけが原因ではなく、チーム全員の意向だった。

半年間彼の私生活には私服警官やエージェントの張り込みがなされた。やはりプロなだけあって素人の葦人に気取られることはなかったが、見張りがつくことを大吾から告げられていたため、一日のふとした瞬間に監視されている感覚を味わっていた。丁寧に盗聴器も設置されており、プライベートなど存在しないも同然だった。機密の漏洩を防ぐための処置なのは重々承知していたが、研究室での言動まで監視されていたのではたまったものではない。亀裂調査プロジェクト以外の内部機密など存在しないとでも言いたげな高圧的な印象を受けるが、組織の力を考えると無理も無いのだろう。

 

そうこうしているうちに、黒服2名を左右につけたまま、葦人はURAの本拠地へ到着した。網膜認証と指紋認証、さらにカード認証のトリプルチェックを経て、重々しい鋼鉄のゲートが開いてゆく。

その向こうにはメインフロアが広がり、白を基調とした近未来的な空間が3人を出迎えた。奥には映画鑑賞でもできそうな巨大なディスプレイが壁に埋め込まれている。直線と120°の角の意匠が散りばめられ、この世界に存在するどの先端組織にも比肩しうるデザイン。半年前に山で目にした装置に加え、得体も用途も知れない、洗練された設計の機器がずらりと並んでいる。

 

「おお、よく来た!」

陳列された装置を眺めていると、見知った声が響いた。顔を向けたその先には、向こうから他ならぬ大吾が駆け足で寄って来ていた。その後ろには里亜と白夜が歩いて向かって来ており、さらにその後ろには織部が首を鳴らしながら歩を進めていた。

「よく来てくれた。改めて石済葦人、君を歓迎しよう」

「おめでとうございま~す!」

「ありがとうございます。改めて、よろしくお願いします」

下げた頭を上げる際、奥に居る織部が目に入った。相変わらず葦人を快くは思っていないようで、口を尖らせて見下す姿勢をとっていた。鼻につく男ではあるが、この場でやり合ったところで全く得はないし、むしろ返り討ちにされるだけだろう。別に全員と何らかの関係を築く必要があるわけでもない、馬が合わないなら触れないでおけばいいだけだ。

 

「ほう、君がそうなのか」

突然、上から低い声が響く。見上げると、メインフロアの上に備わった通路の上に人影があった。オールバックの髪形に垂れた前髪、眼鏡をかけた長身の男だった。ラメの入った上等なスーツが周囲の光源の光を反射し、ひときわ存在感を放っている。

「……あなたは?」

「そうか、まだ聞かされていなかったか……」

男がパキンと指を鳴らすと、重い駆動音を立て、彼の立っていた通路の一部がゆっくりと降下を開始した。やがて通路はメインフロアの床と一体化し、手すりはコンパクトに畳まれて床へ収納された。通路と床の消失した境界の上へ、男が足を踏み出す。履いている革靴も丁寧に磨かれており、光沢を放っていた。

 

「私の名は神辺光輔。URAの局長だ。ここに所属するということは、私の部下になるということだ。そこのところ、よろしく頼む」

「ああ、あなたが局長の神辺さんでしたか。こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」

急いで頭を下げる葦人に、局長は微笑みかける。

「なに、頭を上げてくれ。新人職員を歓迎しよう。ほら握手を」

「あ……はい。ありがとうございます」

「うんうん。さて千代田くん、業務内容について説明は?」

「いえ、具体的な説明は、まだ」

「ではしてくれ。新人教育をしっかりな」

「承知いたしました。葦人、来てくれ。お前たちも作業に戻ってくれ」

局長に肩を叩かれて大吾は葦人を連れて別室へ消えていき、夜と里亜もそれぞれの部屋へ戻っていった。織部も休憩室で茶でも啜ろうと思い、肩を伸ばして部屋を移ろうとする。

 

「織部くん、少しいいかな」

織部は突然呼び止められ、不思議そうに振り返った。

「……何でしょう?」

局長が織部との距離を詰める。前髪が肌に触れそうなほどに接近し、局長は口を開いた。

「君、石済くんに反感を抱いているようだな。違うか?」

「……違うと言えば嘘になりますね。奴は元々部外者です、いきなり特権を与えて職員にするなど」

「まあ君の気持も分からんでもない……だが、くれぐれも仲良くな。我々は、いや、君たち調査チームは少数精鋭なんだ。親密になれとは言わないが、表向きだけでも仲良くしてくれたまえよ」

「……了解です、ボス」

織部の返事を聞くと、局長は口角を上げて指で軽く敬礼のポーズを取り、その場を後にした。残された織部は首を横に小刻みに振り、休憩室へ入っていった。

 

 

 

「──というわけで、この城が建てられたのは16世紀の後半ごろと言われていますが、この庭園が完成したのは江戸時代の初頭というわけなんですね。その後も何度も手が加えられ、現在ご覧いただいている庭園は江戸時代後期の姿を忠実に再現したものとなっております」

同日、とある城に観光ツアーの一団が訪れていた。老夫婦や春休みを迎えた親子連れ、歴史愛好家などがぞろぞろと並び、畳の上に立っている。荘厳な龍が掘られた鴨居の向こうには、年季の入った滑らかな縁側を挟み、気品に満ちた枯山水が湛えられていた。砂の芸術の中にはオアシスのように苔が生し、その奥に青々とした庭木と玄武岩が佇んでいる。数百年に亘って培われた日本文化が誇る、傑作と呼べる代物である。

「では次の場所に移りましょうか」

女性ツアーガイドの案内を受け、一行が縁側を進みはじめる。まだスマホや一眼レフで粘る観光客がいる中、年端もいかない男児が庭園の一角を見つめていた。子どもは傍で進もうとしている父親のズボンを掴み、ぐいぐいと引っ張る。

「お父さん、あそこ」

「ん?どうした?」

「お馬さん!」

馬がいると聞いた観光客たちが、どれどれと振り返る。妙だと思いながらツアーガイドも振り向いた。確かに、戦国時代の再現としてこの城の敷地内で馬は飼育されているが、ここまで入ってくるはずがない。脱走したのだろうか。そうなら早く管理事務所に連絡しなくてはならない。

ガイドの目に飛び込んできたのは、馬というよりもむしろラクダに似た動物だった。しかしラクダよりも鼻が伸びていて歪であり、不気味な印象を放っている。そして巨体。首を上げれば人の背丈を優に超えるであろうその動物は、蹄で枯山水の上を歩いて砂を崩しながら、生えている苔を食べられるか吟味しているようだった。

「……あれは馬なの?」

「馬じゃないだろ……」

「じゃあ何なの?」

観光客の一人がぽろっと不安をこぼすと、一斉にざわめきが伝播した。得体の知れない動物が近くに迫っている非日常に、不安が拡大している。これは不味い。

「皆さん落ち着いてください!あれは品種改良された馬でして、ここに連れて来られていることも秘密だったのですが、ちょっと逃げてきてしまったようですね!今事務所の方へ連絡いたしますので、どうか、どうかご安心ください!」

あれが何者であれ、やるべきことは変わらない。動物の侵入を事務所に報告し、必要なら近隣の動物園や警察に通報する。どうやら今の咄嗟の方便でツアーご一行様は若干の落ち着きを取り戻したらしく、ひとまずは安心だ。スマホを取り出し、管理事務所宛の電話番号をタップする。

「ママ、もう1匹いるよ!」

別の女児の声が上がった。ガイドが耳を疑って即座に顔を上げると、そこには2頭目の動物が現れていた。2頭目は枯山水の上を急ぎ足で進み、砂に描かれた文様を突っ切っていく。

どよめく観光客をよそに、3頭目が走り出てきた。そして4頭、5頭と次々に同種の動物が現れ、その速度を増していく。やがて数えきることのできないほどの群れが押し寄せ、砂を巻き上げて暴走を開始した。緑色が随所に浮かぶ灰色の庭園は最早栗色の毛皮に溢れている。子どもたちはパニックを起こして泣き叫び、大人たちも不安に怯えていた。

やがて100キロを超えようかという動物たちは、無残にも泥流に呑まれる庭園だけに飽き足らず、縁側に蹄を乗せて城内へ上がりこんだ。先駆者を追って続々と動物たちが縁側へ乗り込み、逃げ惑う観光客を蹴り上げながら畳を踏みつけて疾走していく。殴打の音と壮絶な群集の足音、そして悲鳴が響き、1分も経たないうちに阿鼻叫喚の嵐が吹き荒れた。

 

 

 

自衛隊の基地の一角では、開く扉から葦人と大吾が姿を現した。

「我々の仕事はそんなものだ。亀裂調査プロジェクトと銘打っているが、実際に亀裂をその場で相手することは多くない。まあ、ここ最近ではその限りではないが……しかし君が赴任してすぐに亀裂が生じるということもあるまい。今日はいろいろと施設を回って、できるだけ早くこの職場に──」

その時、白色に満ちていたメインフロアが赤色の点滅光と警報に包まれた。

突然に変貌を遂げた状況に戸惑い目を大きくする葦人に対し、全てを悟った大吾は額に手を当てて項垂れる。

「……あぁ」

「……もしや、このリズミカルなサイレンが?」

メインフロアの奥に備え付けられたスクリーンに光が灯り、日本地図が表示される。彼らの現在地からそう遠くない場所が拡大されていき、赤い円が表示される。

「そう、亀裂発生だ。いやまさか、初日からこんな事態になるとは……」

里亜と白夜、織部も部屋を飛び出してきた。大吾は自らの顔を勢いよく叩く。

「──出発だ。皆武器を取れ」

 



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陥落の城 Part2

封鎖された門が開かれ、自衛隊の車両数台が砂埃を巻き上げて山城の敷地内に突入する。車両群の中心には一台の乗用車が位置取り、カーキ色の護衛者ならぬ護衛車に守られていた。敷地内では本丸を落とした獣たちが草を食んでいたが、彼らの突入に驚いて一斉に四方八方へ距離をとった。

蹄を持つ彼らが乱入者の動向を恐る恐る窺ううち、自衛隊車両の側面が勢いよく開き、膝をついて銃を構えた自衛官たちが姿を現す。銃の照準が戸惑う野生動物にピタリと合う。

「てーッ」

ほぼ同時に銃声が鳴り響き、麻酔弾が動物たちへ命中していく。数頭は隊員が銃を向けた段階で敷地の奥へ逃げ出していたが、人間を知らない大多数の個体はそのまま地に吸い込まれるようにバタバタと倒れていった。

「生物、沈黙!」

指揮官が高らかに宣言すると、中央の乗用車からぞろぞろと人が降りてきた。URAの調査チームである。周囲の状況を目視で確認する。

「オーケイ、通報の通りですねー。自衛隊の皆さん、ここからは車では進めないので、うちのリーダーが指示したとおりに分かれてくださいねー」

 

 

騒動の最中にツアーガイドは管理事務所に報告を果たし、事務所は警察へ、事情を察知した警察はURAへ通報した。この時すでにURAと陸上自衛隊は出動しており、移動の最中に城の封鎖の指示を下していた。軽傷で済んだ者は自力で城を脱出して保護されていたが、満足に動けないほどの重傷者は城に取り残されていた。出現した生物が捕食者ではなかったことが不幸中の幸いであった。

植物食動物が相手であれば比較的簡単に片付きそうなものであるが、そうではなかった。

第一に、山城という防衛に徹した施設の存在。長きにわたる熾烈な戦乱の時代を生き抜いた当時の武将たちは、自らや部下の英知を結集して牙城を築き上げていた。その防衛機構は今なお健在であり、内部に出現した生物たちに圧倒的な優位性をもたらしている。URAを除けば日本国で最も強力な集団といえど、車両で山を登るには限界があった。

第二に、城が歴史的遺産である点。そこで自衛隊が車で乗り込んで縦横無尽に射撃を開始すれば、一般市民からの批判は避けられない。そこから亀裂調査プロジェクトへ辿り着く者もいるかもしれない。むやみに城へ乗り込むことは、どの観点から見ても避けたいことであった。

そこで今回の方針では、入り口まで車で突入した自衛隊が四手に分かれ、歩兵として生物を鎮圧する。さらに既に派遣されたヘリコプターが上空から状況を監視し、亀裂と生物の捜索、被害者の救出にあたり、マスコミの接近を封じる。山城の上をヘリコプターが合計で4機滞空し、そのうちの1機に大吾が乗っている。

 

「いいか、我々のなすべきことは上空からの探査。撃っていいのはやむを得ない時だけだからな」

「承知しています」

ヘリコプターには誘導弾の代わりに機関砲が備え付けられていたが、文化財を破壊しないためにも使用は最小限度に留める必要がある。それを差し引いても、生物を殺傷するには過剰なほどの威力。過去の生物を殺すことは避けなくてはならず、今回この機関砲が火を噴くことはないだろう。

大吾は窓に額を近づけて城の様子を見下ろす。本丸の裏で光っている物が目に入る。時空の亀裂である。正確な大きさは分からないが、直径は4メートルほどだろうか。

観測ヘリコプター2機に護衛されたUH-60JA多用途ヘリコプター2機に亀裂の所在を伝えると、部隊の降下が開始された。ロープから滑らかに隊員が降りて行き、第1機部隊の降下が完了すると続いて第2機がその位置につき、合計で6名の自衛官が降り立った。

「それでは、本丸から救出を開始だ」

大吾の指示を受け、6人は武装したまま本丸へ乗り込んでいった。

 

 

一方で四手に分かれた地上部隊はそれぞれ二の丸・本丸に向かっていた。亀裂の所在地が本丸であるため二の丸に分布する生物は少ないと想定され、里亜の率いる部隊だけが二の丸へ向かった。織部、白夜、そして葦人たちは、道中で生物を倒しながら本丸へ駆け上がる。

張り巡らされた城壁ゆえに周囲を一望することはできず、影に潜む動物を隈なく探して麻酔で眠らせてゆく。最初の突入が効いたのか動物たちは姿を見るや否や逃げ出していき、自衛隊と調査チームの手腕の前に倒れていった。稀にパニックを起こして飛び掛かってくる個体もいたが、部隊の持つ戦力差の前に封殺された。あと少しで本丸へ到達するという目前にも、暴走個体が飛び出してきた。

「おっと──」

流石に手馴れてきたか、白夜が片手でEMDを撃ち込む。生物はもんどりうって転倒し、その勢いで放たれた蹄が彼の顎をかすめた。

「っと、危ない危ない」

後ろへ2,3歩飛び退きながら顎をさすり、傷がないか確かめる。特に外傷はなく、動物も静かに地面の上へ横たわっている。白夜は動物に近づいてしゃがみ込み、しげしげとその顔を見つめる。バクのように伸びた鼻が特徴的である。

「いやあ、危なかったー……。いいですね、元気な子だ」

「こいつは何だ?ゾウの祖先か何かか」

「いえ、たぶんマクラウケニアで間違いないですねー。どちらかと言うとウマに近いかと」

白夜の推測に興味が無さそうに織部が頷く一方、葦人は眉をひそめた。

「……そうですか?」

「え、違う?」

「……マクラウケニアにしては鼻が短いかと。もっと長い復元図をよく見かけます」

「……復元によるんじゃあないかな。鼻が伸びているくらいなら骨格からでも推定できるけど、その具体的長さとなると研究者や画家の匙加減だと思うな。僕は」

「……そう、ですか」

確かに白夜の指摘の通りであるが、葦人はどうにも違和感を拭えなかった。マクラウケニアとは違う存在であるという感覚が、具体的根拠のないまま頭に浮かんでいる。

 

その様子を白夜はしばらく見つめたが、ふと思い出したように部隊に振り返った。

「亀裂は本丸の裏側にあるって、うちのリーダーは言ってます。もうじき本丸なので二手に分かれましょう。織部さんと葦人くんの部隊は本丸の裏へ、そして僕に付いてきてくれる皆さんは表へ。表にもこいつらがいる可能性は高いですからね。それに負傷者の皆さんの救出も手伝わないと。亀裂封鎖装置は織部さんの隊に任せます」

「え──」

「はいッ!」

葦人の戸惑いは勢いの良い返事にかき消された。部隊はそれぞれのURAメンバーに付いて二手に分かれる。織部は葦人に目線を送らないまま淡々と部隊を引き連れて歩を進め、気まずさと居心地の悪さを抱いた葦人も彼に並んで坂を上がっていった。

 

城壁のなす迷路を抜け、やや開けた場所に出たときだった。沈黙を破ってマクラウケニアが一頭、叫び声を上げながら必死の形相で部隊に突っ込んできた。耳をつんざくような雄叫びに、その場に居た誰もが驚き、反応に遅れた。

「ムッ──」

織部は突っ込んできたマクラウケニアを避け切れず、その身に体当たりを食らった。鍛え上げられた織部の肉体は80キロに迫っていたが、その倍もある野生動物に撥ねられたのではどうしようもない。織部の体はいとも簡単に吹き飛び、凄まじい摩擦音とともに砂埃を立てた。

暴走するマクラウケニアはそのまま部隊の中央で暴れ、次々に自衛官を蹴り飛ばしていく。宙を舞う隊員や、地面へ斜めに叩き付けられる隊員。地面を転がって危うく頭を踏み潰されそうになる者もいた。

 

煙幕のように舞い上がる砂と混乱が周囲を包む中、葦人は自分の頬に砂の混じった赤い液体が付着したことに気が付いた。自分の血ではない。マクラウケニアの特攻を自分は回避したからだ。蹴散らされる部隊のものかとも考えたが、砂埃の中で赤いものが動いているのが目に入り、考えを改めた。マクラウケニアの躍動する肉体、その臀部が大きく負傷している。血はそこから飛び散ったものであり、赤々とした鮮やかな傷がぽっかりと開いていた。

やがてその負傷ゆえかマクラウケニアの動きは次第にスローダウンした。隊員たちが銃を向けたとき、後方から葦人の袖をかすめてEMDの衝撃がマクラウケニアの首へ着弾する。そのままマクラウケニアは倒れ、背後から織部が歩み寄った。彼は腕を擦り剥いているようだった。

「危な──」

「負傷しているな、こいつ」

葦人のクレームを遮り、織部が個体の鑑定を始める。

「かなり最近の傷、というよりもついさっきついたような傷だな。皮が削げ落ちている。転んだ負傷にしては激しすぎるし、位置が妙だ。亀裂を抜ける直前に捕食者に襲われたか」

「……あるいは、こっちの時代に来てから襲われたかですね」

 

織部は喋るのを止め、葦人の方を向いた。城に着いてからはじめて目線を向けられた気がする。

「兄ちゃん、どういうことだ」

「この生物がマクラウケニアなら、同じ時代・同じ地域に生息した捕食者にはスミロドンやティラコスミルス……俗に言うサーベルタイガーやそれに準ずる捕食動物が居ます。封鎖は正解でした、余りにも危険すぎます」

「そいつらが現代に来ているということか」

「可能性は高いですね。半年前と同じですよ、今の血の臭いを嗅ぎつけて襲いに来るかも」

「あれはお前のせいだろうが」

「……」

返す言葉もない。触れないようにしていた罪悪感が掘り返され、葦人は口を噤む。織部は押し黙った葦人から顔を背け、舌打ちをしながら本丸の方を向く。

「てめえのしたことを棚に上げて語るんじゃねえ。俺はお前を認めていないからな」

「……分かっています、しかし」

「黙れ。進むぞ」

邪険に扱われ、罪悪感の背後にいた殺意が立ち上ったのが実感する。そうだ。元はと言えば織部が最初に自分を地面に押し付けてEMDで撃ったのではないか。ただ撃たずに大人しくさせておく手もあったはずだ。手が痙攣したように震える。急に怒りが湧いてきたが、ここでやり合うわけにはいかないと、燃え上がる感情を必死に押しとどめる。

「……それで、その時代の捕食動物はそいつだけなのか?」

歩きながら、織部が問いかける。黙れとほざいたくせに情報だけは要求するのか、と怒りのボルテージが一段階上がるが、これも全力で押し殺す。手足に震えが走り、歯に凄まじい圧がかかる。

「……アルゲンタヴィスという巨大な猛禽もいたかと。鳥ですよ」

「そいつは飛べるのか?」

「気流を使えば──」

 

突然、2人の目に赤い液体が映った。彼らを護衛するように前方を歩いていた隊員が、曲がり角を曲がった途端に血を噴き出した。血の源は彼の首であり、そこを鋭利で硬質な何かが貫いている。頚椎は一撃で折られているようだった。

「何ッ……」

織部が驚きの声を漏らす中、葦人はマクラウケニアに覚えていた違和感の正体を悟った。よく見かける復元図より鼻が短かったのは、それよりも祖先的な生物だったからだ。おそらくは1000万年前ごろに生息していた祖先種。つまり先に上げた捕食動物はいない。この時代に侵入しているのは、それ以前の生物相からやって来た捕食動物のはずだ。

絶命した隊員の体が、血を靴底から垂らしながら高く持ち上げられる。およそ3メートル近くに持ち上げられると、隊員の首から鋭器が抜き取られた。彼の体は力なく地面へ落下し、べしゃりと音を立てて血を飛び散らせる。

葦人たちは惨殺された隊員の遺体から、上へ視線を送る。猛禽さながらの風貌の、しかし遥かに異質な形態の鳥がそびえている。ブロントルニス・ブルメイステリ。フォルスラコス科で最大級の巨鳥が、嘴から血を滴らせていた。

 



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陥落の城 Part3

上空から様子を窺っていた大吾たちのヘリコプターにも、戦慄が走る。

彼らが本来担当すべき航空部隊の進捗は遅々としていた。突入した部隊は一向に姿を見せず、負傷者の一人も出てこなかった。地上部隊を相手に戦いを繰り広げていたマクラウケニア──の祖先だが──の一頭も見えず、滞空するヘリコプターにはどの機もやきもきとした空気が漂っていた。一体何をしているのか、と不安や苛立ちが上空を取り巻いていた。

その空気を引き裂くように、隊員たちの焦燥を霧散させるように、本丸から使者が姿を現す。降下部隊が突入した出入り口に、動く物がいる。出てきた物は二本足で歩いてはいたが、明らかに人間の風貌をしていない。そして遥かに背が高い。だがマクラウケニアとも明白に異なる生物。部隊と生存者の帰還への期待は、無残にも完全に砕け散ることとなった。

大吾が息を呑む。URAが連携している海外の同業組織と共有するデータベースに、あの生物は記載されていたように思う。ディスプレイで何度も参照した。無数の生物が地球へ侵入した中で、要注意生物の上位に登録されていた。過去に幾度もイギリスとカナダを蹂躙した生物に、眼下の生物は酷似している。

「あれは──!」

 

その時、けたたましい叫び声が響く。嘆きの声とも、憤りの声とも捉えられそうな、常軌を逸した叫び声。彼の地では災いの使者と呼ばれていたそうだが、まさに彼らを形容するのに相応しい叫びであった。死神の鎌とも呼べよう禍々しい嘴は、刺突に特化した魔槍。地面を踏みつける強靭な脚は、獲物の意識を一撃で消し去る棍棒。この世に地獄を具現化させるべく降り立った魔物。この巨鳥の声に秘められた狂暴性は、周囲にいる何者をも押し黙らせるほどのものだった。

だが既に、周囲には何者もいなかった。既に城の敷地内に遺体が転がり、木の板の上を滑らかに紅の水が流れていた。降下部隊は全滅。民間人を救いに来た彼らは奇襲を受け、数発の麻酔段を放つだけして命を散らしていた。背後に人知れず広がる地獄を証明するように、2頭目、3頭目の巨鳥が姿を現す。

「こいつ──ッ!」

「落ち着いてください、千代田さん!」

「くそォーッ!」

「自分だって……!」

大吾がふと自衛官の方へ向くと、彼の瞳から涙が一筋、つうっと流れていた。だが彼らの悲痛な声はヘリコプターの壁と駆動音にかき消され、地上に蔓延る鳥たちは頭上の憤怒などつゆ知らず我が物顔で歩き回る。ヘリコプターから部隊の亡骸は見えない。しかし鳥の嘴と足が鮮やかな赤色に染まっており、彼らの壮絶な最期はゆうに想像できる。

怒りに震え、大吾の顎に力が入る。莫大な負荷に歯の感覚は消え、油の切れた歯車のような音を立てて軋む。痛恨を抱え、大吾が呻き声を絞り出す。

「頼む……こいつらを、必ず、元の時代へ──」

 

 

「これは……ッ」

部隊と織部も、目の前に突如姿を現した巨鳥に戦慄していた。一瞬で自衛官を一人屠った鳥は首をカクカクと動かし、血を垂らしながら次の標的をじっくりと鑑定しようとしている。部隊が距離を取り始めるころ、葦人はいまだ巨鳥を目の前にして数秒の思考の世界にふけっていた。

(大きい……フォルスラコス、なのか?やはりあれはマクラウケニアではなく──)

「馬鹿野郎ッ!!」

突如として横から剛腕が飛ぶ。織部のラリアットが葦人に炸裂し、プロレスラーさながらの容赦のない一撃に葦人は軽く吹き飛ばされる。口から空気の漏れる音を立て、葦人が突然暴力を振るった織部に文句を言おうとした、その時だった。

 

自分を弾き飛ばした織部の背後に、歪みがあった。空間が歪められていた。時空の亀裂ではない。自らの奥底に眠る生存本能が見せた幻影なのかもしれない。そこには、自分や織部の体が位置していた座標を、見るからに猛烈な勢いで貫いている脚があった。これを食らえば、果たして骨の何本が無傷で残ろうかという威圧。時間が止まったかのような体感。自らに迫っていた危険がどれほどのものだったか、今初めて実感する。

やがて時が動き出し、織部が自分に向かって倒れ込んできた。それと同時に、痛烈な風切り音とともに脚が視界から消え、再び巨鳥の体の下へ戻っていた。

「馬鹿野郎、あれを食らえば俺だって死ぬぞ!」

怒り心頭の織部に返す言葉が浮かぶ前に、巨鳥の追撃が襲い掛かった。織部が葦人の体を両手で勢いよく跳ね飛ばすと、ちょうどその狭間へ空を切って嘴が切り込んでくる。二人はゴロゴロと体を転がし、生命の危機に瀕したトカゲのごとく、手足をがむしゃらに動かしてその場から遠ざからんとする。織部の耳元で、嘴を閉じる大音量のシンバルが鳴り響く。

 

織部の窮地に駆け付けたのは、態勢を整えた隊員たちによる麻酔銃の一斉掃射だった。何発もの麻酔弾が羽毛の中に消えていく。しかし、ブロントルニスは全くそれを意に介さず、いまだ活発に脚を振り上げていた。脚という名のスレッジハンマーが地面へ叩き付けられ、その風圧に舞い散る枯葉のように織部は生と死の狭間を立ち回る。

「効かない!?」

「羽毛のせいだ、羽毛で麻酔銃が届いてないんだ!」

葦人の叫びを聞き、再び隊員が射撃を開始する。羽毛の薄い首元、そして脚部へ、照準が向けられる。銃声と共に麻酔弾が放たれた。ドチュッという音を立ててブロントルニスの首へ、脚へ着弾する。突然の痛みに脚の挙動が止まり、首を慣れない様子で横へ振るう中、織部のEMDが火を噴いた。真正面から巨鳥へ衝撃が走り、織部はすぐさま背を向けて脱出を図る。力なく巨鳥が崩れ落ちる間一髪、織部はその下敷きにならずに事なき事を得た。

隊員たちと葦人が荒い呼吸で状況を見守る。突如として場を攪乱した魔鳥が、再び立ち上がらないとも限らない。過度の精神負担に肩を大きく揺らして胚を動かす。織部はやれやれといった具合でため息をつき、口を開いた。

「……これが後何羽いるってんだ?」

 

 

「──というわけで、これはフォルスラコス科の鳥類。そのうちのどの属かまではすぐに分かりませんが」

倒したブロントルニスの体を眺めながら、葦人が判断を下す。織部は反論もせずに半ば興味を示していないようにコクコクと頷いていた。部隊は周囲に対し厳戒態勢を引き続けている。敵が何者かは整理する必要があるが、長居は無用である。身内の安全のためにも、そして本丸に取り残された被害者を一人でも多く救出するためにも。

「それで、対策は?」

「EMDなら問題なく通用すると思います。問題は自衛隊の麻酔銃ですね。羽毛の層があまりにも厚く、胴部では間違いなく効きません。それよりは先ほどのように脚や首を狙う方が得策です」

「だが動く動物の脚に麻酔弾を的確に当てるというのは……」

「ええ、走り回る人間でも難しいですね」

「つまり、狙うは首か」

織部が首を指し示すジェスチャーをしてみせる。葦人が頷く。

「はい。……とはいえこいつらは嘴も武器に使う生物です。戦闘の際には細心の注意を」

 

「だそうだ!」

織部が葦人から顔を背け、二人に背を向けて周囲を取り巻く部隊に向かって叫んだ。自衛官たちは傍に潜伏しているかもしれない巨鳥へ意識を向けたまま、織部の方へ耳を傾ける。

「お前達、今の聞いたな!俺たち二人のEMDは使えるが、お前たちの麻酔銃は限定付きの使用しかできないときた!」彼は続ける。「さらに城壁の裏には奴らが潜み、俺たちを陰から襲い掛かる。正直に言って、かなりアウェーなのは相違ない」

沈黙が流れる。数秒を待って、彼がその沈黙を破る。

「──そこでだ。EMDを使いたい者、あるいは逃げ出して安全を確保したい者へ告ぐ!許可しよう。武器が欲しいならEMDと麻酔銃を交換しよう。逃げ出したいのなら銃を持って立ち去ると良い。強制はしない。これは諸君のためだ。勝利の美酒を、必ずしも飲めるわけではないのだから」

彼が口を閉じると、再び沈黙が訪れた。隊員の誰一人、葦人も口を挟まない。皆が状況の過酷さを理解していた。瞬く間に同胞を一人消されたのだ。銃撃戦や空爆とは性質を異とする、野生動物の不意打ちによる落命。全く未経験の未知の状況下で、戦意の確認は必須事項である。

 

「……大丈夫のようですね」

部隊の一人が口を開いた。葦人と織部が彼の方を向くと、発言したらしい隊員は静かに背中を向けて立っていた。その手には銃がしっかりと構えられ、職務を全うする確固とした意志が漲っている様が、誰の目から見ても感じ取られた。

「今回の我々の任務は民間人の救出。それをこんなところで揺るがすわけにはいかないでしょう」

周囲を見回すと、他の隊員も同様の闘志と義務感を抱えているようだった。

「EMDも不要です。そもそもEMDが2丁だけで、全員に供給が回りませんよ」

「我々は麻酔銃で十分です。先を急ぎましょう!」

「……そうか」

織部が満足そうに口を緩める。

「よし、では──」

 

織部が指揮を執ろうとしたその時、彼の持つトランシーバーに通信が入った。こんなタイミングで誰だ、とでも言うように舌を打ちながら端末を取り出すと、発信元は上空のヘリコプターだった。

『織部、今の鳥退治は見事だった』

「……リーダー、何の用だ。今は──」

『集団決起して演説、これから本丸へ向かうところだろう。助け舟を出してやる』

「ああそう……助け船?」

『我々は上空から鳥公を見つけられる』

葦人が事態の進展を嗅ぎつけ、織部に近寄る。織部はトランシーバーを握り直し、一旦空へ視線を向け真正面へ戻す。

「……つまり?」

『私が指示を出す。上空からでもある程度の死角は残ってしまうが、それはやむを得ない。可能な限り死角はなくす。私が上空から鳥の位置を君たちへ教え、君たちはその不意打ちを躱せ。そして本丸へ乗り込み、民間人を救出するんだ』

織部が状況を理解した。全く見通しの悪い地雷原を歩く作業が、地雷の座標を既に周知されたマインスイーパーとなった。敵の地の利を極限まで削り取った、理想的な戦況。無意識のうちに織部がとっていたのは、予期せぬ喜びからもたらされたガッツポーズだった。

「……なるほどな。了解だリーダー」

『里亜や白夜との連絡を取るときには、申し訳ないが通信を切らせてもらう。だがその際は伝える。まず、次の曲がり角の付近だが、そこに奴らは居ない。すぐに駆け上がるんだ。健闘を祈る』

「聞こえたな!先の露見した簡単なゲリラ戦だ、行くぞお前ら!」

織部の掛け声とともに隊員たちが一斉に返事をする。EMDと麻酔銃で武装した集団は、本丸へ向かって坂を全速力で駆け上がっていった。



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陥落の城 Part4

幾重ものプロペラの音が響く中、砂地と砂利を踏みしめて無数の軍靴の音が駆けていく。その手には引き金を引かれるのを待ちかねた麻酔銃が携えられ、上空からの指示に従って鳥を撃破する算段でいる。爆音のプロペラ音の根源は上空を飛び交うカーキ色のヘリコプターで、その中には操縦士、そして眼を光らせた大吾がいた。

大吾は本丸を取り巻く兵士たちと生物を見下ろす。地上ではかつての大名たちの生活の場を巨鳥が根城とし、奪還を目指して斜面を駆け上がる部隊を今か今かと待ち構える。その状況を半ば軽蔑した目で見下ろし、彼はトランシーバーを口元へ寄せる。

「次の曲がり角の左右にそれぞれ1頭だ」

 

部隊が角へ突入すると同時に銃口を向ける。報告の通り、そこに居たのは殺戮の快楽を覚えたと見えるブロントルニス。引き金が引かれると同時に、鋭利な嘴が兵士の胸元へ飛び込む。

首を狙った麻酔弾は惜しくも羽毛に食い止められ、その効果を発揮できないまま沈黙した。だが自衛官は自らの放った弾の末路を悟る前に、胸を大きく穿たれていた。勢いよく嘴が引き抜かれるとともに、胸に開いた空洞と口から血を撒き散らす。引き締まった心臓の筋肉と胃が切り裂かれるように貫かれていた。不安定な圧力がかかった心臓がロケットエンジンのごとく血を噴出するが、肉体は血液噴射の方向に向かって落ちて行った。

だがこのまま黙って全滅はしない。犠牲となった隊員が射抜かれた直後、周りを取り巻く隊員たちが一斉に麻酔弾を放っていた。4発の弾が正確に首へ着弾し、ブロントルニスは突如力が入らなくなった脚に戸惑いながら、バランスを失ってその場に倒れ込んだ。

この命のやり取りは、会敵から5秒と経たない一瞬のうちに決着していた。辛うじて自らの命を守ることができた隊員たちが、改めてこの救出作戦の無謀さを悟る。これまで苦楽を共にした同士が、華麗に捌かれて横たわっていた。坂道を駆け上ってきた後だというのに、汗が奇妙な冷たさを帯びている。

背後でも大きな物が倒れる音がした。どうやら向こうのブロントルニスは仲間を手にかける前に倒されたらしい。だが消耗しきった顔を浮かべているのは向こう側の隊員も同じであった。たった数秒の攻防が、確実に精神を蝕んでいた。

「位置が割れていてこれか……」

『織部、倉の陰にいるぞ!』

突如として警告を発するトランシーバー。それにタイミングを合わせてきたかのごとく、ブロントルニスがさらにもう1頭飛び出してきた。咄嗟に迎撃態勢に入った部隊めがけて、巨鳥は急速に距離を詰めていた。麻酔銃が乱射され、ブロントルニスの首へ何発もの麻酔弾が突き刺さる。嘴は隊員たちの首元をかすめる寸前にベクトルを下へ変え、巨鳥は海を割るモーゼのごとく、飛び退いた隊員たちの間に墜落した。

 

『……よくやった。裏側に他に鳥は見当たらない。本丸の手前まで進んでも問題ないはずだ。申し訳ないが、私たちは白夜の方へヘリを回す』

「了解だ、リーダー」

織部が返答すると、ヘリコプターは船体を傾けて天守閣を飛び越えて姿を消した。プロペラの音が小さくなり、周囲に聞こえるのは襲われた隊員たちの呼吸音だった。彼らの荒い息が耳を刺激する中、葦人が息を吐く。

「なあ織部さん。やはりEMDを持つ僕らが先陣を切るべきじゃないですか」

織部は無言で葦人を見つめ返す。他の隊員ほど感情や消耗を表に出してはいなかったが、疲弊しているのは確かだった。

葦人の発言はもっともだった。羽毛で弾かれてしまう麻酔銃では、突如襲来するブロントルニスに完全に対処しきれない。これまでの4頭のいずれも、焦った隊員たちが必要以上の麻酔を撃ち込んでいる。このままでは弾切れ、そして全滅の最期が待ち受けている。第一、それでも麻酔銃の対応が間に合わず命を落とした隊員が一人出たばかりだ。彼の死が、麻酔銃がいかに不利な代物かを如実に表していた。

大きく息をついて無言を貫いていると、葦人が続けた。

「麻酔では不利が過ぎます。彼らだって人間だ、最前線に置く必要なんて──」

「分かっている。反発したんじゃあない、ただ呼吸を整えていただけだ」

「……」

「良いだろう。後悔するなよ」

「しかし──」

自衛官が一人会話へ割り込んでくる。織部は片手を伸ばして彼に待ったをかけた。

「さっき、麻酔銃で良いと言ってくれたのは君だな」

「……ええ、そうです」

「それなら次の意思決定は俺にやらせてくれ。どうせ亀裂調査プロジェクトは元々URAの仕事だ。俺たちが先頭を行く」

「……承知、いたしました」

他の隊員たちもここで異議を唱える気にはなれなかった。というのも、先ほどEMDの所持を拒否した手前、ここで容易く受け取るわけにもいかない。自衛官たちは織部と葦人の打診を呑み込むこととなった。

 

 

その頃、本丸の表側には白夜一行が待機していた。織部と葦人がトランシーバーの指示を受けた直後、大吾は白夜にもブロントルニスの到来を伝えていた。巨鳥の存在を警戒した白夜たちは本丸を目前にした斜面に潜伏し、里亜の部隊の到着を待っていた。

すると後方から軍靴の音が聞こえ、里亜と彼女が率いる部隊が姿を現した。その光景を視界に入れた白夜はパッと笑顔を照らし、彼女に向かって大きく手を振った。一方の里亜は苦虫を嚙み潰したような顔をし、警戒を怠るな、というジェスチャーを返す。ヒラヒラと動かす手の反対側には、トランシーバーが握られている。

「白夜さん!何してるんですか」

「来たね里亜。どうやら捕食動物も侵入しているらしくてねー。リーダーから聞いた?本丸に亀裂が発生したじゃないか。だから君たちと合流した方が安全かなって」

「……リーダー、どうなんです?」

数秒遅れて、大吾から返事があった。

『いや、表側に鳥はいない。さっきまでは表に出ていたんだがな、今はマクラウケニアが何頭かいるくらいだ。だが警戒は解くんじゃない。降下部隊は城の死角で奴らに襲われた。細心の注意を突入してくれ』

「……了解」

「ね?君を待って正解だった」

「そーですねっ」

ぶっきらぼうに返事をしてみせるが、不意に里亜は違和感を抱いた。

「──リーダー」

『どうした?』

「表に鳥がいないと言うのなら、裏側はどうなんですか?」

ピクリ、と白夜も何かに気付いたように反応する。大吾は押し黙っている。トランシーバーからは声は聞こえず、ただプロペラの音だけが聞こえてくる。

「……リーダー」

『……何もいなかった、はずだ。私の目には何も見えなかった』

「見えなかったって──」

「──リーダー。降下部隊が襲われたのは、城の死角だったのでは?」

大吾が黙る。里亜と白夜も様子を窺い、口を閉じている。

『……今から裏へ向かう。ありがとう、里亜』

ヘリは大きく傾き、天守閣の裏側へ飛び去って行った。

 

 

葦人たちは天守閣の裏へ到達しつつあった。先頭を行く葦人と織部が順に土を踏み、ついに本丸の壁をその視界に捉える。続々と隊員たちが続いて上陸を果たしてゆく。大吾の告げたようにブロントルニスの姿はそこになく、ただ彼らとマクラウケニアに破壊されたのであろう木片が散らばっていた。

「それで、今回の亀裂はどこにあるんでしょうね……」

「待て」

ポケットを漁り、織部がコンパクトなデバイスを取り出す。カバーをかけたスマートフォンよりも少し厚い程度のその装置には、レーダーや魚群探知機のような画面が表示されていた。同心円の中心から反時計回りに線が回転し、何かを探知しているようである。その正体が何か、葦人にはすぐに分かった。

「それが携帯用亀裂探知装置ですね、フクイラプトルの時にあなたが亀裂を見つけたのも、その装置のおかげですか」

「……ああ」

織部は葦人の方を見向きもせず、顎を撫でながら亀裂探知装置を見つめて訝しんでいた。

「……どうかしましたか?」

「……亀裂が見当たらない。このあたりのはずなんだが」

「その装置の有効距離はどのくらいですか?」

「半径50メートル。イギリスでARCが使っていたものの改良版だ、不具合ではないと思うが……」

「……亀裂が既に閉じた可能性は?」

「ありうる。もう少し進むか。ちょっと持ってろ」

EMDを葦人に軽く放り投げる。葦人がよろめきながらEMDを受け止めた時には、織部はトランシーバーを取り出していた。

「リーダー、戻ったか?亀裂が見当たらない、上空から見えるか確認してくれ」

『織部!そこから離れろ!』

「……リーダー?」

『奴らがいるッ!!!』

 

大音量で警告を放つ大吾の目に見えたのは、山を登り切った葦人たちと部隊と、本丸の死角に揺らめいた羽毛だった。死角に潜伏していた。降下部隊を闇に葬ったときのように、ブロントルニスたちは本丸の陰に潜み、ヘリの死角に溶け込んでいた。先に指示を出した時には出し抜かれていたのだ。

里亜の疑問を受けて戻った大吾の目には、本丸の輪郭線に沿って、倉の隅に隠れて、羽毛が蠢いている様子が映った。瞬時に状況を理解した。雷に打たれる衝撃が走った。既に葦人たちの部隊は複数のブロントルニスの包囲網の中心にいたのだ。

僅かに見える羽毛が、大きく動こうとしたのが目に入った。死角から堰を切ったように巨鳥が躍り掛かる瞬間、最大限の声で大吾は叫んでいた。

「周りにいる!気付け──ッ!!」

 

眼球が空を舞った。

骨の砕ける音が響き、人体の詰まった迷彩服が何着も空を飛んだ。同僚が破壊された轟音を認識した隊員たちは、続けざまに強健な脚を叩き込まれた。ある者は脊椎を破砕され、ある者は頭部を陥没させられた。銃声が次々に響くが、やはりここでも羽毛が防弾チョッキのように弾丸を受け止め、自衛官へ絶望を叩きつける。叩き付けられた絶望はそのまま物理的な破壊と化し、周囲にはさらに砂と血が飛散する事態となった。

 

「クソォォオッ!!」

もはやこの場で通用する武器は葦人の持つEMDを置いて他になかった。EMDの衝撃が次々と放たれ、1頭、2頭とブロントルニスを射抜く。だがこの場にいたブロントルニスは全部で7頭。残る5頭は蹂躙を続けながら、一斉にガラス玉の目を葦人へ向けた。

亀裂から侵入した個体のうち既に眠らされたものを除く全頭が、下界から這い上がる卑しい哺乳類を蹂躙するために集結していた。特にこの場に集っていたブロントルニスは、下で遭遇した個体よりもキレ者だった。わざわざ乗り込んでくる猿たちを真正面から叩き潰したのでは、恐怖して引き下がってしまう可能性がある。それだけならまだしも、さらに強力な群れを引き連れて戻ってくるかもしれない。ならば先頭の何匹かはそのまま歩ませ、側方から叩き潰し、殺戮してやるのがよい。

葦人と織部は率先して前を歩こうとした。それは武器や責任を考慮に入れた、自衛官たちへの配慮であった。しかしそれは今や、完全に裏目に出てしまっていた。

「うッ──」

葦人が一瞬立ちすくんだその時、もはや死体と区別がつかないほどに手痛く損傷した隊員の喉を引き千切り、1頭のブロントルニスが向かってきた。その場に転がっている死体を500キロの全体重で踏み潰しながら、この場で唯一脅威となりうる葦人を狙う。脚で壊すか、嘴で射抜くか。曲がるはずのない嘴が、嬉しそうな表情へ化けたように見えた。

 

「こっちだァーッ!!」

だが。圧倒的なブロントルニスの気迫に隠れ、鳥も、葦人も、ある人物を見落としていた。織部だ。全身の筋肉を躍動させ、全速力で葦人に向かって突進する。距離の離れていたブロントルニスの嘴が届くよりも早く、質量弾と化した織部が葦人に激突し、もろともに吹き飛んで行く。

「ぐあッ──」

頭を強打し、葦人の目に火花が散る。だが視界を取り戻す前に、彼らは硬い地面へ叩き付けられた。

 

否、それは地面ではなかった。

 

廊下。木でできた廊下の上に、二人の体は投げ出されていた。

「これは──」

「早く奥に入れッ!」

服を鷲掴みにされ、葦人は織部に片手で引きずり回される。

「ハハッ、やはり荷物がないと軽いな!」

「うああッ──」

畳との摩擦で火傷を負いそうになりながら、緑色の畳の上を転げまわる。井草の繊維に毛髪が引っ掛かり、千切れる感覚があった。織部も廊下を飛び上がると、近くにあったいかにも高級そうな襖をぶち破って畳の上に着地した。

織部の着地と同時だったか、それとも先だったか。ブロントルニスの嘴が、先ほどまで二人がいた廊下の床を貫通する音がした。木端を散らして嘴を引き抜き、真っ赤な口の中を見せながらブロントルニスが叫び声を上げる。

「喧しいッ!」

畳の上に転がるEMDを手に取り、流れるような手つきで織部が射撃した。二発、三発と引き金を引き、巨鳥は吹き飛ぶようにして地面へ倒れ込んでいった。

 

ブロントルニスが倒れるさまを確認し、荒れる呼吸を整えながら、葦人は周囲を見回した。丁寧な木彫りの彫刻が施された鴨居、そして金色の刺繍がなされた奥の襖を見るに、どうも城の中に突入したらしい。織部がEMDを下ろし、面白くなってきたとでも言わんばかりに口を歪めた。

 

「……なんとか本丸には入れたな。さあ、民間人はどこだ?」



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陥落の城 Part5

強襲の現場は凄惨たるものだった。一部骨さえも露わになった遺体が雑巾のように転がり、地面と草には血液が染み込んでいた。ある隊員は散り、ある隊員は葦人や織部と同じように城内へ逃げ込んでいた。破壊しつくされた血肉が並んだ場には、獲物を失った2羽のブロントルニスが残されている。地面には巨鳥の体がいくつか転がっており、うち2羽は崩壊する部隊が決死の抵抗で討ち取ったものらしい。同胞が起き上がらないことを嘴でつついて確認すると、2羽のブロントルニスは金属ケースを蹴り飛ばしながらどこかへ去って行った。

「クソ、逃げられたか」

EMDを構えて廊下に飛び出した織部の目に入ったのは、遠ざかってゆく揺れる尾羽、そして蹴られて地面に横たわったジュラルミンケースだった。中身は亀裂封鎖装置。本気で蹴り飛ばされたわけではなさそうだが、去り際の一撃で故障したなら今後の亀裂調査プロジェクトに支障が出かねない。

「まあいい、奴らは後回しだ。民間人を捜さないと」

「ええ。あの巨体ならここへ入って来ることはない……日本家屋の低さが幸いしましたね」

「ああ分かってる。だからここに入ったんだ」

本当か?と眉を動かす葦人をよそに、織部は彼の反対側に目をやった。襖が開き、大きな息を吐く自衛官たちが姿を現す。葦人と織部の姿をその目に認め、生きる希望を見出したような表情を浮かべている。

「やはりここでしたか。お二人が城へ消える姿が見えたのを頼りに、今、捜していたところです」

「ああ。君らも生き残ったようで何よりだ。生存者は何人だ」

「8名です。うち3名は負傷していますが、動けます」

「……犠牲は半分以上か。痛いな」

「……ですが急がなくては。死を悼んでもらえるのは恐縮ですが、事が済んでからにしましょう」

「──そうだな」

織部がEMDを肩にかけると、8人の隊員たちも銃を構えた。葦人も自分のEMDを拾おうと床に目を走らせるが、ふと、ブロントルニスの襲撃で落としてしまったことに気付く。

廊下の向こうに目をやると、先ほど織部が吹き飛ばした巨鳥の下に、EMDの銃口が放つ金属光沢が垣間見えた。だが回収はできない。数百キロに及ぶ肉の塊をどけて銃を拾う時間があるなら、隊員たちに防御を任せて民間人の捜索に徹した方が早い。それに今は城の中に居るからこそ安全なのだ。外に出れば再び奴らの時間になってしまう。ここは武器を放棄するほかなかった。織部もそれを察したらしかった。

「……石済。傍を離れるなよ」

「ありがとうございます」

どうやら半年前に彼の中で渦巻いていた嫌悪と憎悪は、巨鳥の襲撃を通してかなり薄れているようだ。それが根元からなのか、それとも上っ面だけなのかは分からないが、とにかく、彼もことを荒立てないようにはしているようだ。葦人が織部を見つめていると、彼は手に持っていたトランシーバーをカタカタと振り、状態を確かめた。

「──生きてるが、通信が接続できない。こんな古風な城でも、中は配線で一杯ってところか」

「戦時中に焼けた城を再建したわけですからね……電波、通らないですか」

「外に出れば通じるだろうが……」

外に一瞥をくれ、織部は諦める仕草をした。

 

 

EMDを持って進む織部、そして彼に寄り添う葦人を取り囲んで、10人からなる小隊が城の中を進んでいく。襖を次々に迷いなく開かれ、軍靴が畳を踏みしめる。この際日本の伝統などを考慮している暇はない。

彼らは既に民間人の所在を大まかに掴んでいた。ツアーガイドの通報ゆえだ。彼女の通報はある程度の座標を教えてくれた。彼らがマクラウケニアの祖先動物──テオソドンの群れに巻き込まれたのは枯山水の見える縁側周辺。そこから奥に逃げ込んだとしても、重傷者はそう動けないはずだ。しかも群れがすぐに散り散りになって敷地に拡散した以上、本丸に他の重症患者がいるとも考えづらい。縁側の手前を重点的に捜索するつもりでいる彼らにとって、それ以前の部屋は単なる通路にすぎず、捜索の弊害になるダミーですらなかった。

 

──と、思っていた。

複数回目となる襖の開放。普段と変わらない緑色の畳が広がっているはずだったが、目に飛び込んできたのは異質な光景だった。茶色。栗色。黄土色。哺乳類の毛皮を纏った者が犇めいている。テオソドンたちが、この本丸の中にまだ残っていたのだ。

「なッ……」

「構えろッ!」

人間たちが咄嗟に声を上げる頃には、突如として開いた襖に動物たちは驚嘆していた。パニックを起こし、一目散に四方八方へ逃げていく。即座に麻酔銃とEMDが放たれ、逃げ出す動物たちの意識を一頭一頭沈める。だが何頭かは撃ち漏らしが生じ、特にうち1頭が部屋の奥に向かって駆け出した。

その1頭が駆けてゆく向こうは、襖が突破されていた。おそらくは彼らの群れが破ったのだろう、見事に枠から外れ、各所に穴があけられている。さらにその向こう側には部隊の探し求めた存在があった。民間人だ。興奮したテオソドンに蹴り倒された民間人たちは、なおも血の染みがついた衣服に身を包み、部屋の隅で震えながら縮こまっている。そこへスピードを上げて突っ込んでいく生物。

「──不味い!」

「EMDじゃあ射程外だ、麻酔銃!早く!」

蹄が迫る直前に、自衛官の持つ麻酔銃が次々に火を噴いた。弾がテオソドンの臀部に何発も着弾する。勢いのついた動物はそのまま畳で倒れながら、ゴムまりのように跳ね、かつて枯山水だった領域へ放り出された。砂利の音を立てて、テオソドンは意識を失った。

民間人に目をやる。突然の突進に酷く驚いてはいてどよめいてはいるが、どうやら今の逃亡劇に巻き込まれた被害者はいないらしい。全員がホッと胸を撫でおろした。

だがいつまでも安堵しているわけにはいかない。テオソドンの排泄物が畳の上に散らばっており、このままでは何かの伝染病を貰うかもしれなかった。特に負傷者が動けずにいるこの場所ではまずい。すぐに隊員たちは救助に取り掛かり、民間人に声をかけに行った。

 

 

「大丈夫ですか、名前は分かりますか!」

「意識あります、立てますか」

迅速な診断が行われ、幸いにも意識不明者はいなかった。負傷者は全員で8人であり、隊員1人で1人の負傷者を担当しても2人はフリーに動ける状況だった。後はここへ向かって来ているはずの白夜と里亜に加勢してもらえば、残り2羽の巨鳥は駆除できるはずだ。希望が見えてきた。

「静かに!」

その時だった。自衛官の1人が静止を呼び掛けた。突然のことに民間人はビクッと肩を動かして沈黙し、隊員たちもやや動じた様子で指示に従う。葦人も同様だった。何のために、と問いかけようとした織部だったが、すぐにその行動を取り下げた。石臼を引くような音が、城の何処からか聞こえてきたからである。

「何だ……?」

ゴリ、ゴリという音が何処かで鳴っている。だがその場所は分からない。しかし、どうも音は少しずつ大きくなっているようだった。時折、木の割れる音が聞こえる。何かの削れる音。何者かが近づいている。音の正体がテオソドンや、隠れていた他の民間人でないことはほぼ確実だった。

負傷者たちは恐怖に呑まれていた。既に自分たちを長く蹂躙した生物たちが、また戻ってきたのかと。自衛官たちが静かに銃を構え始める。外で暴虐の限りを尽くしたあの怪鳥たちが、ついに中へ乗り込んできたのかと。次第次第に近づく音源に、得体の知れない恐怖と緊張が高まってゆく。

 

彼らの警戒心に大きく鐘を叩きつけたのは、城の中ではなく外の存在だった。庭園の方から、突如重く響く音がした。全員がその方向を振り向く。先ほど麻酔をその身に受けて吹き飛んだテオソドンが、鉄筋のごとく強健な脚に踏みつけられていた。

ブロントルニス・ブルメイステリが、もはや原形を留めない枯山水の荒れ地に立っている。

横たわるテオソドンの骨を破壊しながらブロントルニスが駆け出すのと、隊員が一斉に発砲するのは同時だった。EMDの衝撃と麻酔弾が空を飛び、ブロントルニスの胴や首元に命中していく。だが先ほどの暴動で精神力を増したらしいブロントルニスはなおも止まらない。慣性に身を任せ、人類に占拠された本丸へ特攻する。

「クソクソクソクソッ!」

EMDの連続射撃。度重なる衝撃を受け、ついに巨鳥の推進力に陰りが見えた。フッと巨鳥の意識が途絶え、繰り出された脚は縁側の板を踏み抜きながら、バランスを失ってその場に崩れ落ちた。自らよりも遥かに大きな鳥が倒れてきたことに民間人から慄きの声が上がる。だが隊員たちの顔には充足の色が浮かんでいた。同僚の命を無数に奪った怪物が、ついに残り1頭になったのだ。苦難の道の果てではあったが、これを喜ばしいと言わない者は自衛隊に居ない。

 

だが2人だけ、不安を抱えている人間がいた。

 

石済葦人は懸念していた。今襲ってきたブロントルニスは外にいたが、あの摩擦音は屋内から発せられていた。この城の中に何か、十中八九ブロントルニスがいる。どうやって入り込んだのかは知らないが、不可能なものを排除していけば最後に残る可能性はブロントルニスだった。負傷者の血やテオソドンの汚物の匂いが漂うこの場所は非常に危険である。すぐにヤツは決着をつけに来るはずだ。

織部直人は後悔していた。今しがた襲撃してきたブロントルニスは思いの外耐久力が高かった。その分、EMDのエネルギーを浪費してしまったのだ。あと1羽、あの巨鳥が残っているのは確認済みだ。果たして今残されているEMDの残存エネルギーと麻酔銃であの鳥に対応ができるのか。EMDを外に見つけたときに、石済に拾うよう指示をしておくべきでなかったのか。哺乳類の群れにEMDを使うべきではなかったのか。あらゆる後悔の波が彼に押し寄せていた。

 

葦人に悪寒が走る。

削れる音はどうなったのか、その様子を見極めようと彼は城の奥へ向き直した。

 

その眼前にそびえていたのは、鴨居に頭をこすりつけた最後のブロントルニスだった。羽毛は血でベタつき、汚らしく台風の後の稲のようにうねりを上げていた。極度の興奮でそのまま本丸の畳に乗り上げたこの1羽は、鴨居に頭を打ち付けながらもここまで歩を進めてきていた。ゴリゴリという削れる音は、鴨居が侵略者に悲鳴を上げる音だったのだ。鴨居さえ突破してしまえば、哺乳類殺しに覚醒したブロントルニスに弊害はなかった。赤黒く頭を染めながら、巨鳥はすぐ近傍まで迫っていた。

 

「とッ……」

葦人が声を発する寸前に、ブロントルニスへ背後を向けていた隊員へ凶器が襲い掛かった。頚椎が一撃で損壊し、一瞬で生命を断絶される。つい数舜前まで満足感を抱いていた隊員の遺体が崩れ落ち、轟音を鼓膜に受けた他の隊員と負傷者が振り向く中、ブロントルニスは次の標的を定めていた。

その標的とは、EMDを睨みつけて反応が遅れ、さらにブロントルニスの傍に座り込んでいた織部だった。

ブロントルニスが体を揺する。攻撃フォーメーション第一段階。襲撃の気配を察知した織部が情人ならざる反射神経を稼働させると同時に、大気を歪める蹴りが放たれた。織部の筋肉が全力で跳躍力を生み出し、蹴りの衝撃を最大限に殺しきる。とはいえ巨鳥の脚力は尋常でなく、凄まじい圧力で肋骨を軋ませながら、織部の体は襖を破りながら吹き飛ばされることとなった。

「ぐッ……」

床へ着弾した衝撃で持ち手から指が外れ、EMDは空中に放り出される。完全なる無力化の完成であった。そして巨鳥は進撃する。床に横たわり、生意気にも反抗的な目線をくれる下賤な者に、次の一撃を叩き込む。嘴か、脚か。いずれにせよ、圧倒的高高度からの爆撃と言って過言ではない。この哺乳類の命は風前の灯火であった。

 

だがこの時、思いも寄らぬ衝撃がブロントルニスを襲った。

突然体に電流が走った。激痛。突然の痛みに、全身から力が抜けていく感覚がした。間違いなく他者からの攻撃だった。ブロントルニスはガラス玉の目を動かし、攻撃者がいると思われる方向を辿る。

そこにあったのは、どこかで見た金属の塊だった。目の前に転がる脆弱な玩具から離れていった棒。全く気にも留めていなかった棒が、今は別の哺乳動物に握られている。名を石済葦人と言い、これはブロントルニスの知るところではなかった。織部のEMDを、彼が継承していた。

 

「これが最後の一発だ」

 

引き金が引かれた。

 



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陥落の城 Part6

数時間が経った。織部は彼のデスクの上にコトン、と缶を置き、プルタブを立てた。気体の漏れる音を確認してすぐに口へ運ぶ。仕事終わりの缶ビールが彼の至福のひと時だった。

 

既に山城で発生した巨鳥の事案は終結していた。葦人の放ったEMDの放電がブロントルニスを鎮め、織部は彼に救われたのだった。すぐに里亜と白夜たちが駆けつけ、負傷者は迅速に救助された。自衛隊のヘリも着陸し、大吾も焦った表情で駆け寄ってきた。何度も謝罪する彼にURAのチームと自衛隊の隊員たちは「仕方のないことだから」と返した。哺乳動物を全頭処理したのち、命を散らせた自衛官たちへの非公式かつ簡素な弔いをした。

ヘリが城を飛び立ち、車両が次々に敷地から脱するとき、城壁を取り巻いていたやじ馬たちが大声で喚いていた。単なる興味だったり政治的主張だったりとその騒ぎの内容は雑多で様々だったが、いずれも警官隊と自衛隊が妨げにならないよう抑えていた。マスコミも彼らが退け、一大ニュースになりかねない今回の事案は静かに幕を下ろしたのだった。

 

炭酸の強いビールを喉に流していると、織部の部屋の自動ドアが開いた。大吾が立っていた。

「どうした、リーダー。報告か」

「そうだ、来てくれるか」

「ああ」

飲みかけの缶をデスクへ置き、織部は大吾とともにメインフロアへ向かう。既に白夜と里亜そして葦人は揃っており、その他研究者も亀裂探知装置の前に集まっていた。大吾は探知装置をいじっていた研究者に軽く礼を言うと彼を退かせ、キーをタイプした。ウインドウの表示が変化し、山城のデータが表示された。

「今回開いた亀裂の持続時間は1時間25分。時代は約1500万年前、中新世のパタゴニアだ。侵入した生物はテオソドン47頭とブロントルニス11羽。普段の亀裂事案と比較してかなり大規模な侵入だったと言える」

「ふうん。城壁に囲まれていて良かった、ってわけね」

「まーその分、脱出できずに困った人たちもいたわけだけど。でも救出できてよかったよ、うん」

「被害の拡大を押さえられたんだ。無制限に拡散するよりは随分マシさ。──生物についてだが、まずテオソドン。正直、マクラウケニアだとばかり思っていたが、その祖先にあたる動物のようだ」

「そこは僕も反省ですねー、ごめんね葦人くん」

「いえ、大丈夫です。化石動物ですから、無理もありませんよ」

「助かるよ」

ポン、と白夜が尻に手を当てる。葦人は相変わらず嫌そうな顔を示した。

「もう、すぐに手を出すんですから。やめましょうよ報告の時くらい」

「あー、ゴメンねー」

「謝る相手が違いますっ」

心にもなさそうな謝罪の言葉をにこやかに告げる白夜に、里亜は口を尖らせた。しかし彼女が自分で述べたように、ここは報告の場。すぐに真剣な顔つきに戻り、大吾の方へ顔を向けた。

「リーダー、それで鳥の方は?私今回遭遇しなかったので、分からないんですよね」

「ブロントルニス・ブルメイステリ。フォルスラコス科の鳥類の1つだ、葦人くん以外は皆目を一度は通したことがあるだろうが、あれをさらに一回り大きくした連中だ」

「ええ。あの強化版を相手に?はあ……お疲れさまでした」

「僕も鳥の相手はしてないけどねー」

「何なんですか、ほんと」

軽く白夜をはたきながら、里亜と彼が笑い合う。その様子を横目に見て、大吾は織部と葦人の方へ向き直した。

「こいつらの情報はデータベースで共有しておく。いいな?」

「分かりました」

「大丈夫だ」

「ありがとう。それで、諸君に対する報告は以上で終わりだが、1つ調査チームに事務連絡がある」

「事務連絡?」

白夜と里亜がふざけ合うのをやめて大吾の方へ注意を向けた。

「ああ。最近どうも電気代が高くついているらしいから、各自もうちょっと節電を頼めるか?経理から苦情が来た」

「それ、ウチの部署だけですか?」

「どうもそうらしいぞ。利用内訳までは分からないが。この時期に冷暖房は要らないだろうから、何だろうな。まあ、各自の部屋があるわけだから別に業務以外のことをやっていてもいいんだが、ほとほどにな。じゃあ解散」

 

解散の指示が出され、それぞれが自分の部屋へ戻ってゆく。織部もビールの続きをやろうと部屋へ戻ろうとしたところ、引き留める人間がいた。

「織部さん」

織部は立ち止まり、声のする方へゆっくりと振り向いた。その方向には葦人が立っていた。

「……何の用だ?」

「先ほどの山城、危ないところを何度も助けていただき、ありがとうございました」

礼を言って深々と頭を下げる葦人に、今度は織部が嫌そうな顔をした。面倒なものを追い払うような仕草で手を払ってみせる。

「頭を上げろ。仕事なんだ、当然だろう。それにお前こそ、あの銃を拾ってくれなければ俺は死んでいた」

「いえ、とはいうものの──」

「しつこいな。俺はビールを飲みたいんだ、行かせてくれ」

「あっ、すみません」

やはり気難しい人か、と葦人は引き留めるのをやめた。織部は背を向けて部屋へ歩いて行くが、ふと立ち止まる。諦めて帰ろうとした葦人の目にもそれが止まり、改めて織部の方へ目を向けた。彼はこちらに背を向けたまま、しかし横顔を覗かせていた。

「まあ、なんだ。もしまだ俺に恩義を感じているようなら、また次の時に助けてくれよ。兄ちゃん」

「……ありがとうございます!」

織部はまた前を向き、自動ドアの向こうへ消えていった。

葦人の心のうちには、ある記憶が流れていた。初めて織部と出会ったときの記憶。

 

『シィーッ……ンンン、失礼。分かった。黙らせておく。それじゃ』

『さて、兄ちゃん。お前には寝てもらうぞ。質問に答えていると長いんでな』

 

かつて言われた「兄ちゃん」という言葉。葦人の目には、長らく彼は冷酷で嫌な人間に見えていた。だがその行動にはきちんとした人間みが表れているように、今では感じられる。単に不器用なだけなのではないか。寡黙な性質であるのも、上手く表現ができていないからではないのか。彼が自分を嫌っていたのも、自分が彼に敵意を抱いてしまっていたからではないか。開いていた彼との心の距離が、幾何か狭まったような気がした。

 

肩の荷が下りた感覚を抱き、葦人はメインフロアを後にしようとする。入れ替わりにドアからメインフロアへ入ってきたのは、局長の神辺だった。

「お疲れ様です」

「ご苦労」

すれ違った後で、神辺はふと思い出したように声をかけた。

「ああ、石済くん」

「……?はい」

「どうだね、織部くんは。彼、君のことをあまり好きではないようだったが」

「……いえ、良い人だと思います。今回の案件でも、僕を何度も助けてくれました。恩人ですよ」

葦人の返事に、神辺は少し驚いたように目を丸くする。だがその表情は刹那のうちに満足気な笑みへ変わった。

「そうか。それはよかった。チームの絆というものが、大切だからな。邪魔したな、行っていいぞ」

「ありがとうございます」

軽く頭を下げ、葦人はメインフロアから出て行った。

 

神辺は亀裂探知装置に向かって歩んでゆく。その前には、解散の指示を受けても1人残っている人物がいた。ディスプレイに表示された光で、その後ろ姿は黒く映し出されている。1人作業しているその人物に、神辺が声をかける。

「やあご苦労。これは?」

「ああ神辺局長。お疲れ様です。今、亀裂が開くにあたって危険と思われる場所をリストアップしているところですね」

「危険……というと、亀裂の開く可能性が高い地点ということかね?」

「それもあります……が、亀裂が開くことで、そして生物が侵入することで、どれだけ大きな被害がもたらされるか。それを加味したものです。単純に言うと、可能性の高さと被害の大きさを掛け算したということですね」

「ふむふむ。なるほどな。これは有効なデータになりそうだ……引き続き、よろしく頼むよ。そういえば、過去に発生した亀裂の統計や、その時点で予測された亀裂の発生事案については、過去の亀裂研究のデータが使えるはずだ。目は通したかね?ニック・カッターの研究はアナログで進められていたためにデータベースには掲載されていないが……フィリップ・バートンとコナー・テンプルのものなら、コナー・テンプルがデータベースに載せていたはずだ。参考にするといい。『巨人の肩の上に立つ』という言葉もあるのだから」

「勿論、その言葉は存じていますよ。ありがとうございます、承知いたしました」

「うむ、ありがたい。頑張ってくれたまえ」

 

神辺は亀裂探知装置に背を向けて、また別の方向へ歩み去った。それを横目で確認しつつ、探知装置を操作する人物は、リストのスクロールを開始した。日本国内各地の名称がズラリと並んだリストが流れていく。ある時点でそれが停止し、1つのファイルが展開される。

人物は再び振り返り、メインフロアに誰もいないことを確認した。展開されたファイルに表示されているのは、先ほどリストアップされたうちの1つ。都市部に位置する大規模なアリーナだった。

 



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牙を剥く大河 Part1

ゆっくりと開くメインフロアの扉の向こうに、白衣を纏った葦人が立っていた。出勤である。

自衛隊の施設内に所在するURAで、職員が自宅に戻ることは滅多にない。研究員はこれまた自衛隊の設備にスペースを確保されており、そこで生活を送る者が多いのだ。また、URAにも研究室や簡易的なシャワーが完備されているため、URAから一歩も出ずに日々を過ごす研究者もいる。織部がその良い例で、彼は自らの部屋にテレビや冷蔵庫をどんと置き、缶ビールを転がしながら野球中継を見ることを過酷な日々に与えられた楽しみにしている。

葦人は前者だった。院生の頃は研究室で寝泊まりするなどざらであったが、URAに新規雇用された人間が早速そのように慣れすぎてしまうのも、考えものだった。

 

だが最大の理由はそれではなかった。

初日からブロントルニスの惨劇を目撃した彼は、彼自身気づかないうちに精神を消耗していたらしい。織部とのわだかまりが解け、心が緩んだ後のことだった。どっと疲労が彼に押し寄せた。フクイラプトルの時には直接的な死を目撃することがなかった。だが今回は、目の前で何人もの自衛官が血飛沫ともに命を散らせたのだ。あの時は恐怖と生存本能、そして湧き出すアドレナリンがショックを意識の彼方に吹き飛ばしてくれた。だがそれが鎮まってからは、カタカタと指が震え、自分の頬が冷えているのを感じていた。

その精神的な負担は、その翌日となった今朝でも完全には失せていない。URAの研究室に入り浸っていては、ブロントルニスの呪縛から抜け出せないように感じられた。だから自衛隊の設備を借りることにした。

しかしそれは失策だったらしい。自衛隊の宿舎と同じ建物ではなかったものの、夕食を終えて笑い合っている隊員たちの姿を見るたび、心が痛んだ。彼らにも仲間がいるし、彼らを拠り所とする人がいる。十数人の命の上に立つ自分が、そんなにも価値のある人間だとは到底思えない。夜にわずかに外から彼らの声が聞こえると、これまでに体感したことのない激しい呵責の念に駆られ続けた。

 

「おはよう。どうした、顔色が悪いな。きちんと寝たのか?」

メインフロアに入った彼に話しかけてきたのは、チームリーダーの大吾だった。彼の持つ湯マグカップからは白い湯気が立ち上り、コーヒーの芳ばしい香りが漂う。

「おはようございます。いえ……あまり寝付けませんでした」

「……ふうん。初日であれの相手は疲れもするさ。無理もない。悪かった、気づいてやれなくて」

「いえ、いいんです」

「あまり自分を責めるなよ。俺だって最初はそうだったから分かるんだ。悪いのはお前じゃない」

「そうですね、生物が暴れなければ──」

「いや、それも違うぞ」

葦人の言葉にハッとした大吾が、すぐに彼の発言を遮った。葦人はなぜ否定されたのか分からず、ポカンとした表情を浮かべる。

「生物も悪くはない。テオソドンは天敵に襲われてパニックに陥っただけだ。ブロントルニスにしたって、手近な獲物を襲っただけに過ぎない。それに彼らも違う時代に来て戸惑っていたんだろう。この仕事じゃあよくあることだ」

「……じゃあ、亀裂ですか」

今度の葦人の言葉に、大吾はボリボリと頭を掻いた。

「時空の亀裂は自然現象だ。憎むべき相手じゃあない。例えばだ、家屋が倒壊して死者が出たからといって、地震や台風を憎むのか?」

「いえ……」

「だろう。誰が悪いわけでも、誰に責任があるでもない。俺たちが戦う相手は悪ではないし、俺たちは正義の執行人でもない。確かに不合理に見えるだろう。その不合理と戦い、安寧を保つ。この国に暮らす多くの人間が苦しむ不合理を、一つでもいいから消し去ってやる。それが俺たちの役目なんだ」

「……はい」

「……分かってくれたかな。まあ、じきに折り合いのつけ方も見につくさ。とりあえず、今は責任を感じすぎるな」

「ありがとうございます」

葦人の返事に頷くと、じゃあ書類の整理があるから、と言って大吾は自分のデスクへ戻っていった。複雑さを増したようにも感じられる心情を抱えながら、葦人も自分の部屋の鍵を回し込んだ。

 

 

 

「よっしゃー、ここでやろーぜ!」

河川敷を見下ろしながら、小学生の一団がわいわいと騒いでいる。先頭に立つ少年は薄汚れたサッカーボールを脇にかかえ、後ろに続く少年たちも同調の声を上げている。女子児童も数人はいるようである。土手のどこから河原へ降りるか、全員が喋りあっている、その時だった。

「ねえ、やっぱりやめない……?」

一人の男子児童が、か細い声で提案した。当然のように、は?という反応を周囲から浴びせられる。

「ここまで来て何言ってんだよ!」

「ここしかできる場所ねーじゃん!」

「でも川の近くは危ないって先生が……」

「だって学校の近くの公園遊ぶの禁止じゃん!どこでやるんだよ!」

「そうそう、ここなら別学区だし!バレないって!」

「でも……」

「ウザいー」

「元々お前がボール家に突っ込ませたのが悪いんだろ!」

「もうこいつ追い出そーぜ。早くやろ!」

次々に批難の言葉を浴びせられ、提案した男子児童は完全に沈黙させられてしまった。意見を封殺し終えた子どもたちは満足げな顔で土手を駆け下り、ゴールもラインも設定せずにボールを蹴り始めた。提案した男子児童は目から零れる熱い涙をこらえながら、鼻を真っ赤にしてその様子を眺めていた。すぐにでも帰りたいが、帰ってしまえば次に学校で会うときに何と言われるか分からない。もしかすると声さえかけられなくなるかもしれない。打開策の見いだせないジレンマを抱えながら、男子児童は鼻をすする。

その背後に、支柱が錆びつき、保護ガラスが曇り、ボードが完全に色あせた掲示板が立っていた。もう町の誰も目にしてないのではないかと思われるほど傷んだ掲示板には、不釣り合いなほどに真新しい紙が貼られている。発行日はつい3日前だった。

『不審事件多発、要注意』

目立つ見出しの下には、この川の近隣で器物損壊事件が相次いだことが記されていた。そしてその紙の横には、『さがしています』と見出しの付いた古いペットのチラシが画鋲で留められている。

ふと河川敷から目を背けた男子児童が、掲示板の存在に気付いた。まだ満足に漢字の読める年齢でない彼は、その掲示の意味する具体的な内容までは理解ができなかったものの、黄・黒・赤といった派手なカラーリングの張り紙からはどこか危険な印象を受け取っていた。これが担任教師の言っていたことなのだ、と薄々感づいていた。先生に怒られないうちに帰った方がいい。彼は考えを固めつつあった。

 

その時だった。大きな水音が河川敷から聞こえた。

誰か落ちたのか、と思った矢先、女子の鋭い悲鳴と男子の大きな叫び声が聞こえてきた。一体何事だと川側へ駆け寄ってみると、先ほどまで玉蹴りに興じていた児童たちが一目散に坂を駆け上がってくる。何度も転びながら、しかし必死に脚を動かし、腕を振り回している。

土手の上にいた男子児童の目に次に留まったのは、水面の様子だった。

大きくうねる水面には、人間の姿はなかった。溺れて助けを乞う子どもなど一人もいない。水面には大きな気泡が上がり、さらに波が水面を横切って泡を飲み込んでゆく。

ようやく先頭の児童が坂を上り切り、膝に手を乗せて息を切らせた。

「ど、どうしたの」

「将が、将がッ……」

ただ目の前で友人が溺れただけでも、小学生にとっては大変な恐怖だろう。だがそれどころではない、比較にならない恐怖が児童たちを包み込んでいるのは、土手の上の男子児童にも容易に見て取れるものだった。

 

 

 

時計の針が午後1時を指したころのこと。葦人が自室を出てメインフロアに入ると、亀裂探知装置の前に腰かけて何やら画面を操作する人間が目に入った。URAの職員の中で一際存在感を主張する赤毛の長髪。ピアニストのように長い白い指を、キーボードという鍵盤の上で走らせている。三条白夜だった。

「お疲れ様です。要りますか」

「ああ、お疲れ様です。ありがとうねー」

白夜は葦人が差し出した缶ジュースを滑らかに受け取り、顔だけそちらに向けて礼の言葉を述べた。

「あれ、顔色悪くない?」

「いえ、大丈夫ですよ。健康です」

「……そう、ならいいのだけど。身体は大事にしてね」

ありがとうございます、と言って葦人は亀裂探知装置のスクリーンを眺めた。普段表示される日本国内の地図ではなく、真っ黒のウインドウに白色のアルファベットとアラビア数字が羅列されている。整備中のようだ。

「メンテナンスですか」

「そう。ほら、昨日リーダーが言ってたじゃない?電気代がかさんでるって。この階の電気は1つのシステムの制御下にあるから具体的にどこの部屋が電気を食ってるのか分からない。もしかしたら、この亀裂探知装置かもしれないし」

「……もし探知装置が、規定よりも大幅に電気を消費しているのだとすれば」

「そう。ウイルスが怪しいねー。国家機密とも呼ぶべきこの装置にそんなものが仕込まれているのは極めて由々しい事態だし、確かめないと。そうでなくても、必要以上の電気を使っているなら、必要以上の挙動をしてるってことでもあるし」

「ふむ……」

キーボードを弾くように叩くと、彼はキーボードから手を離した。次々に画面上で処理が進行し、動作確認が進められていく。ふう、と一息ついて百夜は缶を開け、口をつけた。

「ああ、これがおかしいって決まったわけじゃないから、まだ焦ることはないよ。僕はこの機械を信頼してるからねー……その分用心深く、ってこと」

「信頼?」

「うん。この装置ね、誰が最初に発明したと思う?」

「……」

沈黙が流れる。この問いかけをするということは、開発者はやはりこの男なのだろうか。先ほどのスムーズな指捌きを見るに相応しい気もするが、ある程度プログラミング言語を習得した人間であれば不可能ではない気もする。だがここは、この男を立てておいて損はないだろう。

「貴方ですか?」

「ハハ!ありがとうね、でも違うよー。コナー・テンプルだよ」

正解を外したことに何か感想を抱くよりも先に、突然飛び出した人名に疑問符がついた。

「誰ですか、その人は」

「あ、まだ人事に目を通してなかったのか。ちょっと待ってね」

白夜がキーをいくつか叩くと、1つのスクリーンが文字と黒色の世界から解放された。白夜はマウスを滑らせ、いくつかのファイルを展開して個人ファイルにアクセスする。Conner Tmple というタイトルの下に、髭が生えてはいるがまだ若そうな男性の写真が表示される。

「コナー・テンプル。亀裂調査プロジェクトを語る上では外せない男だ。イギリスの亀裂調査センター発足以来の初期メンバーで、プロスペロ社やカナダのクロス・フォトニクス社ともパイプを持つ、まさに伝説の職員さ」

「その彼が、この装置を?」

「厳密に言うと、この亀裂探知装置のプロトタイプ。彼が発明した亀裂探知装置に改良を重ね、それを日本に持ち込んでさらに改良を施したのがこの機械。でも、彼が開発したモデルと原理は同じだよ」

「なるほど、そんな経緯があったんですね」

「ああ。この装置を初めて見たときは惚れ惚れしたよ。一度彼に会ってみたいものだね……」

そうこうしているうちに、異常検査は完了したらしい。加えられた設定変更などの類が列挙されるが、装置に致命的なものは検出されなかった。

「里亜が何百曲か音楽をダウンロードしたようだけど、その程度じゃ問題ないでしょー。装置は大丈夫だね。よかったよ」

ホッと白夜が胸を撫でおろすと、同時に音を立てて大吾が自室を飛び出してきた。驚いて振り返る二人に向かって、彼はづかづかと速足で迫る。

「白夜!探知装置は作動していたのか!?」

「ど、どうしたんですリーダー。大丈夫です、点検はしてましたけど、バックグラウンドで時空異常現象の探索も続行していました!」

「そうか?今しがた、警察から通報が入った」

「警察?」

「生物が出たとの報告だ」

「え──」

「──あり得ない」

二人は思わず、顔を見合わせた。



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牙を剥く大河 Part2

男子児童が一級河川に飲まれた直後、土手に逃げ延びた小学生たちを包んだものは底知れぬ恐怖だった。つい一分前まで共にボールを蹴り合っていた級友が、忽然と水の中から戻ってこなくなる。その「元凶」に襲われたのが、彼ではなく自分だったら──と、十年と生きていない彼らの人生において、間違いなく未曾有の危機であった。

その恐ろしさは、児童の行動を著しく抑制した。状況の急激な変貌に彼らの脳は体から置き去りにされ、一切の合理的判断が不可能に陥った。大人への伝達。学校への報告。警察への通報。その全ての選択肢が彼らの頭から消え失せ、ただ涙を流して怯えるしかなかった。

唯一「元凶」を目撃しなかった男子児童だけは、クラスメートたちの異様な光景に当惑しつつも、外部の人間へ知らせることを考えていた。彼がクラスメートを説得してようやく大人が事態を知ったときには、既に一時間が過ぎ去っていた。

大人は迅速に警察へ通報し、児童の通う小学校にも通報した。やがて駆けつけた警察は捜索隊を展開し、児童に事情聴取を始めた。河川敷でサッカーをしていたこと、児童の一人が川へ落ちたことが彼らの口から小学生らしい語彙で語られた。嗚咽の中で語られる一部始終は当然滑らかに喉から発せられたわけではなかったが、話を聞く警察官たちは、彼らの言う一つの単語に引き留められた。

「ワニが出た。ワニが将を食べちゃった……」

 

 

「ワニ?」

舗装の整った国道を、自衛隊車両2台に守られるようにして乗用車が駆ける。乗員は調査チームのメンバー。運転席には大吾が座り、真剣な顔つきで行く先を見据えている。助手席に座る織部はいつものように沈黙し、後部座席に白夜・里亜・葦人の3人が座る。疑問の声を発したのは、男二人に挟まれて若干窮屈そうに身をよじった里亜だった。

「それ、動物園からの脱走とかじゃあないんですか?そうでなくても、飼育個体が脱走したとか。ほら、ワニを家で飼ってる人、いるじゃないですか。その場合は動物園の責任だったり、警察や猟友会の仕事じゃないですか?」

「今回のケースでは、出没した場所が河川敷だそうだ。近隣にワニを飼育する動物園や水族館はなく、上流域にも存在しない。飼育許可を持つ人間が付近にいないか環境省にも依頼して調査してもらっているが、おそらくいないだろう。それよりは、時空の亀裂を通って現代へやって来た可能性の方が高い」

「ですが、探知装置は作動しませんでした」

ハンドルを握って後ろを振り向かないまま返答する大吾に、葦人が考えを述べる。大吾はバックミラーにちらちと目線を配り、前を向いたまま口を開く。

「配属されて2日で、随分と探知装置を信頼しているんだな」

「原理を説明されましたからね。亀裂の引き起こす電波障害を、全国の基地局と連携して網羅的に解析しているんでしょう?亀裂が開いたなら分かりますよ。ましてや、開いた推定時刻は白夜がメンテナンスを始める前です」

「だいたいは合っている。だが2つ間違いがあるな」

「間違いですって?」

「1つは、いまだ時空間の構造は我々人類に未知であるという点だ。全ての時空の亀裂が電波障害を起こす保証はない。それに、これまでに発見された亀裂の多くは電波障害を引き起こしているが、その程度にもそれぞれの亀裂で差がある。一様ではないんだ。極限まで影響力の小さい亀裂が開いたなら、探知装置が別の要因によるノイズと解釈することもありうる。可能性が低くとも、用心は必要だ」

「……」

長年勤務しているであろう彼にそう言われてしまうと、葦人には返す言葉がない。彼らの窮地を救い、山城の奪還に貢献したとはいえ、目の前の運転手は自身と比較にならない経験とい知識を有する。彼の言うことに他の三人も黙っており、勤続2日の自分にこれを否定できる根拠はない。

「そして2つめ。用心が必要と言った直後にこう言うのも何だが、こっちの方が遥かに重要だ」

「はい」

「時空の亀裂が今日開いて生物が入り込んだとは限らない。ずっと昔、何年も前に開いた亀裂から侵入した生物が、今活動を開始した可能性だってあるのだからな」

「え──」

横から白夜が口を挟む。

「すまない!葦人。謝ろうとは思っていたんだ」

「……謝るとは?」

「僕も『あり得ない』と反応してしまったけど……実際に世界各地の同業組織が同様の事例を何件も確認していてね。すまない、あれは僕が探知装置を過信していたゆえに出てしまった一言なんだ」

「いえいえ、気にしないでください。人間誰しも判断を誤ることはあります」

「そうかい!?助かるよ!」

両手を合わせて謝罪する動作をしていた白夜は、葦人の言葉を聞いてパッと表情を明るくした。里亜の存在を飛び越えて肩を組もうとし、葦人は迷惑そうな表情でそれに巻き込まれ、里亜は突然の邪魔に小さく舌打ちした。

 

やがて車は国道から下って停車した。調査チームが次々に下車するとともに、武装した自衛隊が勢いよく飛び出す。迷彩服に身を包んだ彼らに申し訳なさを覚えるが、今は感傷に浸っている場合ではない、と葦人は頭を振るう。視界が捉えた先には報告を受けた河川敷が広がり、既に捜索隊や鑑識が展開されていた。

到着に気付いた鑑識の一人が、大柄な警察官に耳打ちをした。現場監督らしいその男はやや小太りではあったが、筋肉もその陰にしっかりと裏打ちされているようだった。調査チームの姿を目に入れた彼は被っていた帽子を取って頭を下げ、ぜひ迂回して階段から降りてくるように声をかけた。自衛隊に囲まれた調査チームはその指示に従い、河川敷へ降り立った。

「URAの方ですか。自衛隊の皆様もご一緒で。お疲れ様です。今回の事件ですが、現生のワニがどこかの施設から脱走したという線で操作しておりますが、どんな種類のワニかあいにく分からなくてですね。まあ細かい種類なんて捜査に関係ないだろうと思ったのですが、上がぜひ来ていただくとおっしゃったので。お手を煩わせてすみません。地球上の生物全てを対象にした遺伝学のチームと伺っています」

──なるほど。協力関係にあるとはいえ、国家の機密を警察や自衛隊に流して良いのかと疑問に思ってはいたが、そういうことか。科学捜査や危険生物の駆除班として他組織には話をつけておき、真相を知るのは上層部のみに制限されているわけだ──葦人は、世間におけるURAの扱いをこの場で察することとなった。

握手の手を差し出す警察に応えたのは、チームリーダーの大吾だった。捜査中に暑くなって袖を捲ったのであろう、濃い毛の生えた太ましい腕に、シャツの上からでも筋肉の存在が感じられる大吾の腕がはまり込む。

「いえいえ、ありがとうございます。そちらこそお疲れ様です。そして、何か進展は?」

「それがですね、襲ったのはどうやらワニのようですが、目撃者が子どもだけ。監視カメラの映像もない。詳しい特徴を聞き出そうとしても、あまりのパニックで細かいことまでは覚えていないようでして」

「まあ、道理ですね。子どもたちは?」

「既に家へ帰しました。捜査に支障が出るやもしれませんし、ここも安全は保障できませんからな」

「良い判断です。何か生物は、あるいは痕跡は見つかっていますか?」

「ええ、行方不明児童や生物そのものはいまだ見つかってはいませんが、足跡がこちらに。ただ、先ほども申し上げました通り、何の種類までかは──」

鑑識に誘導され、大吾が足跡の方へ向かう。残る調査チームも彼の後に続き、二人が覗き込む先に視線を送った。そこにあったのは、水を含んで柔らかく崩れかけた──否、もはや崩された茶色の土砂であった。生い茂った草は泥に塗れて土に練り込まれ、その上に足跡が重々しくスタンプされている。その付近でどうやら体を引きずったらしく、草も土砂も曲がりくねった軌道を描いている。

「この指の形状……明らかに哺乳類ではないですね。指と爪も発達しているように見える。おそらくは爬虫類。脚もまだヒレではなく、陸上を歩行できる半水棲の動物」

「つまり、ワニでしょうか?」

「どうでしょう。今の地球ならワニとオオトカゲぐらいしか容疑者はいませんが、過去の地球では話が別ですからね……」

そう言いながら大吾はスマートフォンを取り出し、足跡を写真に収めた。現生種・化石種を問わず収集されたデータとの照合が開始され、一秒間に数千枚という画像データが件の足痕と対比・解析されてゆく。その処理を進行させながら、大吾は次の判断を下した。

「現場での捜索は警察の方々にお任せします。現場を荒らすのもよくありませんからね。我々は別の場所を捜します」

「別の場所を?」

監督している警察官が訝しげな反応を見せる。作業に当たっている鑑識官もふと顔を上げ、発言した大吾を見つめた。一方の大吾は、さも当然という涼しげな顔を浮かべている。

「ええ。既にこれだけ捜索されていて未発見であれば、別の場所を当たって捜索範囲を広げた方が得策です。同じ場所を探すよりも」

「具体的にはどこを?」

「それはこれから検討します。調査チームで」

大吾は鑑識の面々に微笑みかけると、次に調査チームの方へ向き直した。畳まれた紙をするりと胸ポケットから抜き取り、それを目の前で展開してみせる。そこに記されていたのは、国土地理院発行5万分の1地形図。由緒正しい、日本で唯一の基本測量を反映した地図。

「諸君、作戦会議だ」

 

地図は警察が用意した卓上に置かれ、四隅は水筒やEMDを重石として固定された。大吾がある一ヶ所に丸をつけて指さした。そこは今面している一級河川沿いであった。

「ここが現在地だ。児童を襲った爬虫類がどこへ向かったか……」

「一括りに爬虫類と言っても行動パターンは1つじゃありませんよ~。それに亀裂を越えてきているなら、それこそ現生種の行動パターンはアテにできないと思いますね……」

「それはそうだが、ある程度の傾向が分かれば捜索範囲も限定される。十分だ」

「これだけ俺たちが首を突っ込んでおいて亀裂生物じゃなければ、骨折り損だがな」

「しかしその可能性があるんだ、やるしかないだろ」

「分かってるさ、リーダー」

フーッと息を吐いて、椅子を並べてベッドにしていた織部が体を起こした。首をコキコキとならしながら、地図の閲覧会へ出席する。自分の意見を折られた里亜も、心なしか口を尖らせていた。

「皆駄目だねー。もっと意識を高く持たないとー」

「五月蠅いですよ。そう言うならあなたも仕事してくださいよっ」

「分かったよー」

白夜が眼鏡の位置を調整し、地図をしげしげと眺める。その様子を見て他のメンバーもやる気を少し湧かせたらしく、地図上に視線を走らせてゆく。白夜がゆっくりと、思考をまとめた。

「──子どもを攫うほどの大型爬虫類で、かつ陸上でも行動可能……それでいて淡水のこの川に侵入して長らく生活しているところを見るに、海生爬虫類はまず除外されますね。プリオサウルスだとか、あとはモササウルスだとか」

「じゃあやはりワニか?」

「水かきもないんですもんね。ワニは過去・現在を問わず無数の種がいますから……解析に時間がかかっているのもそのせいかなと思いますねー。判断材料が足跡だけというのもあるかとは思いますけど」

「ふむ……」

織部は白夜の返事に納得しきって沈黙した。だがワニという分類群もいささか広いもので、種類や体格など、この川におけるワニの行動を左右する要素はいくらでもある。さらなる絞り込みが必要である。

「小学生を襲って水中へ引きずり込んだ……ううん、サイズの情報が乏しいわね」

「さっきの足痕はどうなんです?」

「ん、ああ、まだ解析が完了していないが、これだ」

大吾が携帯を地図の上に滑らせる。この端末はURAの技術という人類にとっての裏技を駆使して改良を重ねたもの。撮影時にスケールは置いていなかったが、被写体との距離を自動的に計測しておおよそのスケールを表示する機能が備わっていた。その機能を作動させると、数値が画面上に表示された。数値は約40センチメートル前後を推移した。

「かなり大型ですね……前肢か後肢かも分かりませんが」

「泥が崩れていて誤差も大きいとは思うが、ナイルワニやイリエワニに相当すると見ていいだろうな」

「それだけの巨体なら、生息域は下流でしょうか?」

「イリエワニは海を泳ぐこともあるから、ありそうだねー。化石種にも沿岸部から化石が産出したやつはいるし。ちなみにそいつ、イリエワニよりデカいよ」

 

「……」

調査チームのメンバーで議論が進む中、葦人は独り静かに考え込んでいた。四人の声が遠のいていく。水を通ってこもった音が伝わるように、彼らの会話が意識の外へフェードアウトしてゆく。厳密には、彼の意識の方が四人から遠ざかっていた。人間の暮らす地上から離れ、ワニの潜む水中の中へ意識を沈め、その行動を読み解く。

ワニが生息する環境を考えてみると、不自然な点がまず一つ思い浮かんだ。日本はワニが生息するには寒すぎる。ワニは通常熱帯・亜熱帯地域に生息する。確かに、イリエワニのように外洋まで進出するものには中国南部まで辿り着くものもいる上、そもそも揚子江にも土着のワニが生息する。従って、温帯の本州に絶対に生息できないと断定できる状況にはない。

しかし、この季節が問題であった。現在はまだ春も始まったばかりの3月であり、まだ肌寒さを感じる時期。布団から外に出れば鳥肌が立つし、外出にコートが必要な日もある程度の気温。恒温動物の人間でさえ根を上げかねないこの気温の中、ワニがどうやって水中で過ごすというのだろう。

そして重要なのは、ワニがこの冬には既にこの時代に潜伏していたということ。仮に過去に亀裂から侵入した生物であるのなら、この水温よりも温かいどこかの水域で冬を過ごしていたはずだ。

 

その水域がどこか、地図に目を通した彼には目星がついた。



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牙を剥く大河 Part3

「葦人?」

下流へ捜索範囲を広げる方針に固まりつつあった会議の中、葦人が黙りこくっていることにふと大吾は気付いた。どこか違う場所を眺めているようでいて、しかしテーマの中枢を射止めているような目つき。他の三人もまた、葦人の目に何かを感じ取った。

「……どうした、葦人?」

「……大吾さん。いえ、リーダー。生物の潜伏水域ですが、僕の予想は違います」

「何?」

全員がそこに浮かべていた顔は、虚を突かれた表情だった。

「……根拠を聞かせてもらおうか。私たちが話していた内容は聞いていたか?」

「ええ。巨体ゆえ川幅の広い下流や入り江を生息域に持つと。ですが──考えてみてください。このワニが亀裂から侵入したものなら、探知装置が開発されるよりも前からこの川で生息していたんですよね」

「そうだ」

「つまり、少なくともこの冬を生き延びたということですね。何故日本の川の水温でワニが越冬できるのか。加えて、大型爬虫類の時代は今よりも概して温暖だというのに」

「……確かに」

「南洋へ進出して戻ってきた……とかはどうだい?」

「まだ3月です。戻って来るには早すぎますね……。それに、渡り鳥と違ってわざわざ北へ戻ってくる理由もありません。熱帯域の方が適した気候で、食料も多いでしょう」

「それもそうかー……」

「では君が考える、潜伏場所はどこなんだ?」

「ええ、冬でも一定の水温が確保される場所──」

葦人が人差し指を伸ばす。その指先を地図へ降ろし、現在地から上流へ、川を辿って遡ってゆく。指が辿り着いたその場所は、2キロメートルほど北上した地点。派川との分岐点の直上。その岸辺には何やら巨大な施設の存在が示されている。

「工場ですか?」

その正体を掴みかねている里亜とは対照的に、これまで沈黙していた織部の目に光が灯った。その施設が何たるか、織部の記憶の倉庫から情報が取り出される。

「……ナガタビールの工場か!」

「そうです。僕も一度足を運んだことがあります。ビール工場といったものは通常もっと交通の便の良い場所に建てられるはずですが……ここは例外です」

「ビール製造に必要な莫大な水が簡単に手に入るからだな。一級河川に面した立地。まさに理想的だ」

「ええ。おそらくこの工場からの放熱を利用して、ワニは冬を生き延びた。水が温かいので魚も寄り付き、生存に必要な十分な食糧も供給できるのかもしれません」

「なるほど……」

「なくはなさそうだねー」

「……そうだな。実はついさっき警察から聞いたことだが、この近辺で家屋の被害やペットの失踪が相次いでいるそうだ。ナガタビールもその範囲内にある。可能性は高いな」

大吾はふう、と息をついた。

「よし、決まりだ。ナガタビール周辺を捜索する」

「ありがとうございます!」

「織部、自衛隊の方にも伝えてくれ」

「了解だ」

調査チームのメンバーはそれぞれ荷物を持って車の方へ向かって行く。大吾は卓上に広げた地図を畳んでEMDを仕舞うと、ふと動作を止めた。可能性の高い候補地が見つかったというのに、その目は喜んではおらず、むしろ余計な面倒ごとを背負い込んだようだった。

「ナガタビールか、面倒だな」

彼の小さな呟きは、その場の誰の鼓膜を震わせることもなく、風に流れて消えていった。

 

 

調査チームはナガタビールに向けて車を走らせていた。巨大な工場が小さなジオラマのように遠くから見え始める。ビール工場のすぐ下流は細い──といっても、一軒家を押し流せる程度の幅はある派川が本流から枝分かれしている。そのうちその派流に沿うことになる道を、彼らの車は走っていた。片側には山が、もう片側には民家がまばらに並んでいる。自衛隊車両を満足に展開するためには、この道が最適だった。

「警察の捜索隊の方は上流に当たらせないんですねー」

白夜が運転席の大吾に話しかける。社内の配置は児童失踪の現場へ向かったときと同じだった。白夜は自らの赤い長髪を手持無沙汰にいじっている。その様子や腕を組んで沈黙する織部を横目に見ながら、大吾が答えた。

「当然だろ?亀裂生物は我々の管轄だ。警視庁の上層部はともかくとして、彼らを捜索に参加させることはできんよ。それに、遠洋から偶然流れ着いたワニの可能性だって消えたわけじゃあない。その場合は下流で彼らに任せるのが筋だ」

「向こうだってきちんと対動物用の装備は整えているはずですもんね~。任せましょっ」

「そうですねー……。ところでリーダー」

「どうした」

「亀裂生物でも普通に今いる生物でも、どっちみちナガタビールの岸に潜伏していたら少し厄介じゃあないですかねー?捜索自体に何か言われる可能性だってありますよ」

大吾の目がやや大きく開く様子が、バックミラーに映る。横で会話を聞いていた葦人は白夜の発言の意図を掴みかね、そしてそれを聞いた大吾の反応も気にかかった。

「……お前もそう思うか」

「ええ。当然でしょう」

「まさかあんな所にナガタビールの工場があるなんて……ついてないですよ、本当」

「本当それなんだよねー。まあそんなこと言っても仕方ないんだけど……」

「まあ、事態が収束してから連絡を入れたら良いだろう。必要なら局長も引きずり出すさ」

局長を引きずり出す、という言葉でさらに会話の内容が掴めなくなった。鼓舞う座席からでは確認できないが、織部もどうやら快くない顔をしているようだ。どういう意図なのだろう。ナガタビールとURAに何か関係があるのだろうか。葦人は突然読めなくなった会話にメスを入れた。

「ちょ……ちょっと待ってください。どうしたんですか?ナガタビールに何か?」

「ん、ああ、そっかー。君はまだ知らないのか」

「……ええ、分かりません。何かあるんですか、ナガタビールとURAに?」

「えーっとね、ちょっと待ってねー。ナガタビールっていうのは──」

 

「え」

 

説明のために思考をまとめようと、空に目をやろうとした時だった。

 

窓から見える小山の麓には、墓地があった。

砂地に生えた雑草はその管理体制の甘さを証明していた。その墓石の隙間に植物でも岩でもない、何か異様なものが見えた。四肢が生え、腹這いの状態で横たわる生命体。長大な尾と鋭利な歯の並ぶ口からは、明らかにこの日本に野生で生息する生物ではないことが見せつけられる。

白夜の目が受容した情報は、一瞬で脳まで伝達された。

「車を止めろッ!リーダーッ!いましたッ!」

「何ッ!」

咄嗟に大吾が急ブレーキを踏み込む。凄まじい悲鳴を上げながら車が運動エネルギーを失う。後続の自衛隊車両を避けるために猛烈にハンドルを回して急旋回し、アスファルトを削ろうかという勢いでタイヤが路面をかき鳴らした。激しい反動が調査チームを襲い、壁や前方座席に叩き付けられて苦痛の声が上がった。

「痛ッ……ちょっと何ですか!?」

「白夜!どこで見たんだ!?」

「墓地です!墓地に生物がいました、外見はワニに似ていましたが、それでも細かくは──」

「構わん、実物を見る。全員EMDを持って外へ出ろ!」

調査チーム全員がEMDを構えて飛び出す。既に後方の自衛隊車両は反対側に逸れて緊急停止しており、異変を察知した前方の自衛隊車両もUターンを始めていた。既に生物を目撃してから車は数十メートル突き進んでおり、一同は墓地へ駆け戻っていった。

地面では背の低い雑草とコケが地面に黄緑色のコントラストを与え、墓碑には夥しい数の灰白色の地衣類が付着している。直方体の石碑が無数に立ち並ぶ、一種の石造りの迷宮と呼んで差し支えのない空間の中に、一行がEMDと麻酔銃を構えて立ち入ってゆく。

 

目撃した正確な場所を白夜は思い出そうとしていたが、その必要はなかった。ずるり、ずるりという、砂利に何かをこすって引きずる音が聞こえてきたからである。調査チームと自衛隊は息を殺し、音を極限まで抑え込んだ。だが地面の振動を察知するというワニの特性上、いかにしても生じる地面の上の足音から、おそらく向こうも人間の接近には気付いているはずだ。互いに場所を感知しあっているという実感を持ちながら、遮蔽物に身を隠してゆっくりと音の出所へ距離を詰めていく。

最初にその生物の姿を視界に捉えたのは、先頭を行く大吾だった。白夜が見かけた地点から十数メートル奥へ進んだその生物の風貌は、素人目にはワニのようであったが、ワニの持つ背中の外骨格は存在しなかった。頭部の形状もワニというよりはむしろヘビやトカゲに近い印象を受ける。後肢には足跡に残らない程度の小さな水かきが存在した。さらにその後ろへ伸びる尾は、二股に分かれてヒレをなしている。

(これは、ワニじゃあない──)

間違いなく現在の地球に存在するはずのない形態。亀裂生物の可能性があるという、警視庁上層部の判断は当たっていた。URAが駆り出される正当な理由であることが実証されたが、それに何かを思うよりも先に、悪寒が走った。この生物はワニではない。ワニよりも水棲適応段階が進みつつある、ある生物の基盤的グループ。陸地に上がっていたのは幸いだった。これが川へ戻ればワニよりも対処が困難になる。今ここで、取り押さえなくてはならない。こいつに逃げるチャンスを与えてはならない。

大吾がEMDの準備を完了させたとき、追い付いてきた葦人も生物の姿を認識した。

頭が横を向き、眼球がこちらを捕捉している姿を。

空気中に露出した、二股に分かれた赤い舌がチラチラと動く。その行動の意味を悟らせる時間をも与えず、強靭な尾の筋肉が始動した。尾の圧倒的な力が傍に佇んでいた墓碑を押し飛ばし、飛来する質量弾は大吾と葦人の傍の燈篭へ激突した。

「まずい、退けッ!」

石材と石材の身に響くような激しい衝突音の直後、大刀が斬りかかるように葦人へ倒れ込む。そして燈篭に激突した墓碑はわずかに方向を変え、大吾の半身を押し潰すような形で跳ね飛んでくる。凶悪な質量の直撃を受ければ、到底無事で済むはずがない。

二人は全力で脚を動かして脱出を図った。跳躍の瞬間、燈篭の先端が葦人の頭をかすめて激しい痛みを刻み込み、墓碑は大吾の肩に激突した。

「ぐあッ」

大吾の体は脱出運動の方向を大きく狂わされた。空中できりもみ回転しながら別の墓石へ叩き付けられ、苦痛に息を漏らしながら地面へ落ちる。叩き付けられた先の墓碑もバランスを崩すほどに大きく銃身を揺らし、傍にいた自衛官が数人がかりで抑えつけてようやく安定させた。葦人もいまだ、激痛に頭を押さえて動けなくなっていた。

その間に生物は逃走していた。その巨体からは想像しがたい爆発的な速度を以て、周囲の墓碑や燈篭を次々に挽き倒し、岩石の砕ける音楽を奏でながら逃亡していく。その様はまさに協奏曲、否、競争曲と言った具合であった。巨体を左右へうねらせて突き進むその姿は、家屋を次々に破砕してゆく津波や洪水を彷彿とさせる。

自衛隊が側方から麻酔銃を向けるが、それも生物が弾き飛ばす石材群に阻まれる。雪崩のように倒壊を続ける石碑を前にして、自衛隊も手出しを封じられていた。そして動きづらい墓地という構造までも、生物に味方していた。人間を一切寄せ付けず、生物は墓地を爆走して川へ向かう。

 

ただ一人、織部を除いて。

生物との直接戦闘経験も豊富な織部だけが、恐怖心ではなく警戒心をその身に滾らせていた。ここで取り逃がせば制圧可能性が著しく下がることを、大吾の態度から察したのか。それとも自分自身の感覚で感じ取っていたのか。最大出力に設定したEMDを携え、倒壊した石碑を飛び越えて単身生物へ突っ込んでゆく。

その道筋は横から攻撃した自衛隊のものとは違う。生物が破壊の限りを尽くして生み出した、文字通りの獣道。砕けた石材が散らばる道の上を駆け抜けてゆく。

「織部さん!?」

「織部、気をつけろ!」

調査チームの声を無視しながら、しかし心には留めながら、EMDの銃口を生物に向けて安定させる。それに気付いたのか、生物の方向から砂利が飛んでくる。凄まじい尾の威力で巻き上げられた砂が視界を遮り、さらに石礫や墓の備品が高速で飛来した。

「ぐッ……」

額に石が当たり、血が滲む。一時のたじろぎを挟みながらも、土煙の中へ突入していく。遮蔽物に阻害されず確実にEMDの一撃を浴びせるための距離まで詰める。ここで放てば陸上で鎮圧できる、その距離まであと一歩だった。

 

尾の次なる一撃が放たれた。灰のぎっしりと詰まった線香立てが、織部の腹部に直撃した。

そこは昨日、ブロントルニスの脚を叩き込まれた場所であった。勢いを殺したとはいえその威力は凄まじいもので、彼は翌日になっても痛みと不調を抱えていたままだった。そこに叩き込まれた陶器の一撃は、彼を一時的に行動不能へ追い込むのに十分だった。

バランスを崩して失速する織部へさらに砂埃を浴びせ、生物はそのまま破壊を続けて去ってゆく。やがて破壊音が止んだかと思うと、大きな水音が響いた。生物にアドバンテージを与えてしまった、その証明書となる音。絶対に取り逃がしてはならない状況で逃がしてしまうという、最大級の失態。己の不甲斐なさに、織部の表情が歪んだ。

 

「よくやったよ」

いつのまにか肩と頭の痛みを抑えながら追いつてきた大吾が、ポンと織部の肩に手を乗せた。驚いて振り向くと、大吾も苦痛をこらえた様子ではあったが、それでも顔には微笑みを作っていた。

「昨日の激戦の後だ、仕方ない。むしろ最初に取り逃がした俺に責任がある。よく頑張った」

「……ありがとう、リーダー。だがあんたも、仕方ないことだったさ」

「そうか?そう言ってもらえるとありがたい。立てるか?」

「ああ」

スゥーッと空気を吸い、織部が砂を払いながら立ち上がる。見渡すと、残る調査チームの三人と自衛隊もすぐ傍まで来ていた。皆露骨に悔しさを表してはおらず、織部にもそれはありがたいことだった。

 

ちょうどその時、大吾のポケットから通知音が鳴った。

「ん、今更か……足跡の解析が終わったらしい」

「ですがもう、だいたい絞れましたね。あれはワニではなく──」

「ああ、分かってる」

取り出された画面には、やはり足跡の解析結果が表示されていた。そこに並んでいる学名にワニのものはなく、いずれもオオトカゲ科の種のものであった。その一覧の最上部に位置した学名、最も可能性の高い名前は、当然ながら化石種のもの。

パンノニアサウルス・イネクスペクタトゥス。現在化石が発見されている中では唯一、淡水域に生息したモササウルス科爬虫類であった。



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牙を剥く大河 Part4

「このまま泳がせておけばワニよりも危険だ。どっちに泳いでいったか、検討はつくか!?」

「駄目です、分かりません!」

派流を上から見下ろして探りを入れていた自衛官たちが、残念な知らせを携えて、パンノニアサウルスの消えた地点から墓地へと引き返してくる。この状況では誰もが想定していたことではあったが、パンノニアサウルスは既に痕跡を残さずに水の中を泳ぎ去っていた。既に広がりきった消えゆく波紋が、弱弱しく水面を滑ってゆく。その消滅を網膜に収め、大吾がゆっくりと口を開いた。

「二つに一つだな。派流の上流、つまりナガタビールの方面に進んだか。あるいは下流を下って本流に合流する方向か」

「……答えは出ないぞ。どうする」

「ここでボートを展開して、二手に分かれる。織部と里亜で下流、私、百夜、葦人で上流へ向かう」

「シンプルですけど、それが最善ですかねー。武器はどうします」

「水辺でEMDは使い物にならない。我々も感電する可能性があるからな。だが、麻酔銃も爬虫類には効き目が薄い……」

大吾はしばらく考え込むと、大きく息を吸った。その目が何らかの決断に満ちていることを葦人は悟った。過去何年もの経験から足を踏み外す、苦渋の決断を下すかのようだと彼は感じ取った。

「もはや実弾しかない。89式5.56ミリ小銃および水中銃の使用を許可する」

 

通例、過去の生物と対峙する際に実弾銃を用いることはない。フクイラプトルの案件でも、ブロントルニスの案件でも、持ち込まれた武器はEMDと麻酔銃に留まっていた。2011年に英国亀裂調査センターの武器がEMDに一新された後を追い、URAも原則としてEMDを標準装備としている。これは生物の殺害による歴史改変を防ぐための配慮であり、かのニック・カッター時代の苦労に基づいたものである。

だがEMDは電気を扱うというその特性上、金属や水の豊富な場では致命的な欠陥を露呈していた。歴史改変の脅威と個人の命を天秤にかけ、大吾は実弾銃と水中銃の使用を認可したのだった。

自衛隊のボート複数隻が派流を遡上し、水飛沫を上げて次々に通り抜けてゆく。白く崩れる波頭の飛沫をその身に浴びながら、大吾の乗るボートが突き進む。目的地は、最も潜伏可能性が高いと考えられるナガタビール排水口。髪から水滴を滴らせながら、双眼鏡のレンズに着いた水滴を拭き取る。水面に睨みをきかせ、目的地点へ向かっていく。

「実弾銃があるからと言って慢心はするなよ。水中に向けて撃てば1,2メートルも弾丸はまともな力を発揮できないからな。本流の平均水深は3,4メートルだそうだ。二人の銃はあくまでも直接攻撃用ではない。発見次第撃て。適切なタイミングを見計らって、私が水中銃を撃ち込む」

「はい!」

威勢の良い返事を返す二人だが、葦人は不安を抱いていた。

彼がこれまでに経験した現場──と言っても二回だけだが、その二回はいずれも実弾を使用しなかった。今この手に握られている銃は、麻酔銃やEMDよりも遥かに危険な代物である。いくら相手が水中の巨大生物といえ、生命を奪うことのできる道具が手の中にある。これまで手にした物体の中で、最も異様な圧力と質量を帯びているようにさえ感じられる。

彼が重圧を感じていることを、大吾も薄々感づいていた。

「葦人!」

「は、はい」

「そう気張るな。この場で最大の責任者は私なんだ。私の援護をするだけのつもりで、銃を構えていたらいい」

状況に即した端的な励まし。だが、それは生物との対峙という極限的状況においては、ほんのわずかでも大いに効果を発揮しうるものであった。

「……はい!ありがとうございます」

 

一行の乗るボートはナガタビール工場のすぐ近傍まで到達した。イネ科の草本が繁茂するその奥に、わずかに円筒形の排水口の一部が垣間見える。ここ一ヶ所ではなく、この辺りに並んで配置されているらしい。大吾がブレーキをかけると、ボートは波を立てて減速した。後続の自衛隊ボートも速度を落とし、静寂に包まれた川辺にボートのエンジン音と水音だけが響く。

「水温上昇域に入りました。……奴の根城です」

温度計の値を観測していた白夜が報告した。それを聞き終わらないうちに大吾は水中銃を構え直し、続いて百夜と葦人も銃を動かす。現時点で水面を揺らす要因はボート以外に確認されていない。もし不自然な波が立てばそこにパンノニアサウルスがいるとみてよい。水面の変化を見逃してはならない緊張が、三人を包み込む。

「……いた!2時の方角、距離は……約100メートルか?」

大吾のレンズに、不穏な影が入った。彼方の水面が一部黒ずみ、そこを中心に盛り上がりを帯びている。そしてその水面の隆起は何やら運動しているようだった。間違いなく、生物がそこにいる。目測に長けたわけではないが、おそらくプールの端から端までよりは遠いであろうその地点に、あれだけの大きさで存在を主張している。間違いない。

 

大吾はまだ動けない。水中銃の有効射程距離は10メートルであり、生物の懐へ飛び込めるほどの肉薄した距離でなければ使えない。

だが既に、百夜と葦人の実弾銃はゆうにその有効射程圏内へパンノニアサウルスを収めていた。射撃が開始され、火薬の燃焼音が炸裂する。臭う火薬の空気と飛び散る薬莢を飛び越えた先に、5.56ミリNATO弾が螺旋回転を描きながら真っ直ぐに突き抜けていく。その到達点に向かって、損傷を与えるべく。

パンノニアサウルスは突然の連続した炸裂音に危険を感じたのか、身を水中の奥深くへ沈めた。だが当然、音速を突破した銃弾が間に合わないはずがない。水面に王冠を形成した銃弾は摩擦抵抗を潜り抜け、ウミトカゲの肉に食らいついた。肉を掻き分けて突き進む銃弾に叫び声が上がると同時に、銃創からドス黒い血が漂って川を濁らせ始める。それはボートの上に立つ三人からも明らかに分かるほどであった。

「よしッ!」

「まだだよー葦人。あれだけで死ぬなら苦労しない」

白夜の忠告通り、弾丸をその身に受けながらもパンノニアサウルスは健在であった。生物が生まれついて持つタフネス性と、わずかながらの水の障壁が味方した。トカゲはたった今の攻撃に驚き恐れるのでなく、むしろ外敵に激怒の炎を滾らせていた。自らの独壇場を侵害する存在は絶対的な天敵ではなく、排除すべき害意の塊であった。

彼は潜った。川の奥底まで潜り、急激に黒い影へ距離を詰める。どの影が最初に攻撃したのかは分からないが、現時点で最も近傍に位置する影に目を付けた。

「まずい、来ますよ!」

「白夜さん、撃ちましょう!」

「言われなくても分かってるさ!」

大吾の横に着いた二人が一斉射撃を再開する。だが今度放たれた中間弾薬たちは、強固な水の防壁を進むうちに急激に速度を失い、力なく川底へ沈んでいった。その間をウミトカゲは悠々と泳ぎ抜き、彼の巻き起こす水流は人類の武器を軽く押し流していった。

パンノニアサウルスにも計り知れないことではあったが、NATO弾が十分な殺傷威力を残したまま着弾しうる領域を彼は脱していた。安全圏に開かれた通路をエスコートされるように、ボートの真下へ高速で距離を詰めてゆく。白夜と葦人の焦燥は次第に肥大化を遂げ、冷汗が噴き始めた。

「くそーッ!どうして止まらないッ!血は出ているのにーッ!」

白夜が影に向かって乱射を繰り返すが、飛び出した弾丸はまたもや無力化されていく。彼が安全圏から戻ってこない限り、ボートの二人には打つ手はなかった。やがて白夜の銃が弾切れを起こし、それを目撃した葦人も弾の節約に走らざるを得なくなった。それでもなお、ウミトカゲはボートに向かって依然迫り来る。そよ風にたなびく鉛弾のカーテンを巻き上げて、太古の水辺の王が凱旋を果たす。

 

「やっと来てくれたな」

パンノニアサウルスの意識に、その武器の存在はなかった。突然痛みが走る怪現象を避けていたに過ぎず、その原理にまで理解は及んでいなかった。自動小銃に代わる第二の武器にして、この場で人類が持ち込んだ主力兵器。それを携えた男が、ボートの中心に陣取っている。

「歯の白いのが見えたとき──だな?」

大吾がそれを作動させる。白金色の光沢を放つ金属の銛が、強靭なワイヤーロープとともに勢いよく射出される。水の抵抗などものともしない一撃が水面を穿った。そのまま水の壁を突破する金属に、パンノニアサウルスは反応が遅れた。

ドグン、とくもった音が水中にこだます。水中銃の前に安全圏など存在しない。半径10メートル以内の物体を確実に攻撃対象に取る破壊兵器。その一撃を背側に受け、突然の激痛に錯乱を起こした。莫大な憎悪が瞬時に膨れ上がり、攻撃への原動力に転化する。

激痛を抱えながら尾を一振りする。爆発的な速度を纏ったパンノニアサウルスが、ボートに体当たりをくらわせる。船上に立つ三人は地震のごとき振動の直撃を受けた。特に長身である白夜がバランスを崩し、水の中へ投げ出される。

「白夜さんッ!?」

「白夜!」

「うぼ──ゴホッ」

大きく水音を立ててもがき、気管に水が入りかけてむせる彼を、パンノニアサウルスが見逃すはずがなかった。苛立ちまぎれにボートへ更なる一撃を加えると、そのまま白夜に向かって突撃する。その頭蓋骨を噛み割り、頚椎を破壊するために。

白夜も水の中で暴れる中、ウミトカゲを何とか視界に捉えていた。この状況で真っ先に狙われるのが自分であることも悟っていた。自分が圧倒的弱者の状況にあることを、彼は自覚していた。

時は来た。白い歯が目の前に現れ、彼も覚悟を決めた。

 

その直後に紅い血液を噴き出したのは、彼の頸動脈ではなく、ウミトカゲの背中であった。

驚いて目を動かすと、ボートの上に銃を構えた人間が立っている。撃ったのは葦人だった。ボートのすぐそばで狩りを行おうとした巨大なウミトカゲは、格好の的であった。彼は自前の5.56ミリ小銃に残された全弾をトカゲの背中に撃ち込んだのだった。

パンノニアサウルスは再び苦痛に悶え、歯を顔にかすめて急激に潜航した。退きぎわに尾を白夜に叩き付け、再び川底へ潜っていく。

「あっ、逃げるぞ!」

「リーダー!早くそいつを離せーッ!」

水中銃の射程10メートルを決定するワイヤーロープが、ものの数秒も経たないうちに川へ飲み込まれていく。そして限界を迎えたロープは凄まじい張力をその身に宿し、猛烈な力で大吾の体を川の方向へ引っ張った。

「ぐああッ」

身体をボートの各所に打ち付けながら、大吾の体が引きずられる。あまりの力にボートそのものが水面を滑って運動を始めていく。彼は水中銃の放棄を選択した。投げ捨てるようにして持ち手を離すと、水中銃はロープの引力により瞬く間に水へ溶け込んでいった。その水はパンノニアサウルスの流血により、おぞましい色に変貌を遂げていた。

 

白夜はボートに頭を強打していたものの、幸いにも意識や視力を失うような事態にまでは至っていなかった。自衛隊が次々にウミトカゲへ発砲する音をBGMにして、彼は大吾と葦人に引っ張り上げられた。

「ッー……こりゃあ痣になってるな……」

「すみませんリーダー。僕が落ちたばっかりに……」

「いや、こればかりは仕方ない。あいつが想定外すぎたんだ。実弾をかいくぐって水中銃を持ち去るなんて、誰が予想できる?……それにしても葦人、弾を残していたのはファインプレーだ。よくやった」

「ありがとうございます、ですがそんな──」

「謙遜するなってー。僕を助けんだからぁ……。僕は冷静さを欠いた。銃弾を残した上に僕を救った君には、到底頭が上がらないよ」

「……そう、ですか。ではそのお言葉、嬉しくお受け取り致します」

「フフ、それでいい」

水飛沫を被った二人と川に落ちた一人が束の間の休息を取った頃、自衛隊の銃声が止んだ。彼らもどうやらトカゲの討伐に失敗したらしい。落胆の表情を浮かべている様子は、三人の誰にも手に取るようにわかる。このままでは下流で捜索活動を続行している警察とパンノニアサウルスが衝突してしまう。その危険を考えれば、そのような表情が浮かぶのは至極当然と言える。

だが大吾は、彼らの様子に一つ不審な点を見出した。

「……聞こえるか。皆無事か?」

大吾がトランシーバーに語りかける。若干のノイズの後、すぐに自衛官から返答があった。

『ボートブラボー、無事です』

『ボートチャーリー、同じく無事です』

『ボートデルタ、同じく無事』

『ボートエコー、同じく無事です』

「……そうか。それはよかった。あのウミトカゲだが、負傷して血を流した上に水中銃を引きずったまま下流へ向かった。すぐに探知できるはずだ。すぐに下流に向かって、捕獲作戦続行だ!」

『はッ!』

返事とともに自衛隊ボートのエンジンが稼働し、方向転換の後に波を立てながら下流へ進み始める。大吾たちの乗るボートも同じく発進したが、彼らはウミトカゲの行動に違和感を抱き始めていた。

 

あれだけボートに接近して攻撃をくわえた生物が、自衛隊ボートには一切の手出しをせずに通り過ぎて行った。敵対行動を避け、逃亡を選択したのだ。銃撃と水中銃のダメージを考えると自然なことではある。

──しかし、逃げ延びることに希望を持って逃亡した先で、彼はおそらく捜索隊に遭遇する。彼がいかなる反応を示すのか、不穏な予感が彼らに訪れていた。



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牙を剥く大河 Part5

「おーりっべさん、全然出て来ないですよ?」

「しつこい。見張りに徹しろ、嬢ちゃん」

「あ~またそうやって子ども扱いして!私23ですよ」

「ガキじゃあねえか。うるせえな」

派流の下流では、織部と里亜がボートに乗って探索を続行していた。しばらくは無言で水面を探っていた彼らだが、やがて里亜は痺れを切らしたらしく、織部は彼女にしつこく絡まれる羽目になっていた。大層邪険に扱う織部だが、実際はまんざらでもない様子だった。

『織部、里亜、聞こえるか』

そこへ通信が入った。織部が素早くトランシーバーを手に取るとともに、里亜の表情から遊びが消え失せる。大吾の発言を漏らさぬよう、聴覚のリソースを織部へ向けていた。その鋭い眼光を横目に見ながら、全く切り替えの早い奴だ──と彼は感じた。

「ああリーダー。聞こえるぜ」

『すまない。奴を取り逃がした。奴は今、本流を下って捜索隊の方へ向かっている』

「何だと!?」

確かに通話先の大吾からは、猛烈なエンジン音と水の弾ける音が伝わってくる。全速力で彼らのボートがパンノニアサウルスを追っているというのは、どうも事実らしい。織部は小さく舌打ちする。

「急いで下流へ来いということか」

『ああ。少なくとも私のボートは弾を使い切った。全力の支援を頼む。では』

「了解だ、リーダー」

通信を切って里亜の方を向く。エンジンを動かすように指示を出そうとすると、既に彼女はエンジンを作動させていた。

「……早いな。良い判断だ」

「下流に出たというのなら、早急に向かうだけです。急ぎましょう」

「おう。お前達、さっきの通信は聞いていたな!?下流へ向かうぞ!」

ボート全機が一斉にフル稼働し、白波を立てて滑走を始めた。蛇行も加味し、捜索隊が展開する事故現場まで約3分。パンノニアサウルスが3分以内に捜索隊へ辿り着くか、織部と大吾達が阻止するか。デッドヒートが開始された。

 

「……時間だ。下流の捜索に加わろう」

警察が主導する捜索隊も、生物と行方不明児童が全く発見されない現状に痺れを切らしていた。生物は上流でURAと交戦しており、少年の亡骸もおそらく喰い尽くされた後に破棄されたため、彼らの捜索活動は全く徒労と化していた。そんなことをつゆも知らない彼らに、ウミトカゲの魔の手が迫っていた。

「警部補!あれは……」

河川上流に赤黒い領域が発生していることに、捜索隊の一人が気付いた。おどろおどろしさを持ったその汚濁は、ある一つの突出を捜索隊に向けて進んでいる。その先端を泳ぐ生物は、水中銃を背中に刺したまま、捜索隊のボート群には目もくれずにその真下を一点突破せんとしていた。

だが捜索隊からすれば、彼が攻撃を仕掛けてきたようにしか見えない。彼は捕食者、彼らは被食者の立場に束縛を受けている。この定めに隷属された彼らに、当初に抱いた認識の思い込みを覆すことなど不可能であった。どよめきを起こしながら、警官隊は銃を手に取った。狙うは、彼らへ真っ直ぐに迫る捕食動物。一斉に引き金が引かれ、銃声が響く。

だが水中で封じられるのは警察の銃も同様であった。鉛弾は勢いを失って水流に流され、逃亡者に存在を主張するだけに終わった。水に漂う銃弾はパンノニアサウルスの神経を逆撫でした。先ほど戦った外敵たちと同様の動きを見せるこの影たちは見せている。彼に備わった野生動物の勘は、害意の存在を感知していた。

やがて銛が水面から飛び込んでくると、その感知は確信へ変わった。頭上に蔓延る生物たちは自らに害意を持っている。ここで逃す気はないようだ。後ろからも追ってきていることだろう。それならば戦うほかない。生き延びるためには、戦って海への退路を生むほかに道はない。

 

二度、三度と銛が降ってくるのに合わせ、パンノニアサウルスは一隻のボートに狙いを定めた。尾を一振りし、強大な推進力を持って突撃する。捜索隊のボートは自衛隊の所有するボートよりも軽量らしく、体当たりの一撃で一瞬だけ宙に浮かんだ。その一瞬で十分だった。突然生物を見失って右往左往していた捜索隊は、その一瞬で吹き飛ばされることになった。ボートに乗っていた者は皆川へ、パンノニアサウルスのフィールドで転落した。

空気を吸いに浮上するよりも早く、細かい歯の並んだウミトカゲの顎が捜索隊の一人の頭を捕らえた。抑え込んだ獲物はゴボゴボと音を立てながら口から白い気泡を放って騒ぎ立てる。だがその抵抗も最早無意味だった。先ほどはし損ねたことをしてやる。パンノニアサウルスは勢いよく身をよじり、骨の折れる音を水中に響かせた。顎を引き離そうしていた腕から力が抜ける。顎を開いてやると、異様な方向に首のねじ曲がった肉体が漂い去って行った。

他の乗組員もまだ水中に居た。同僚の命を瞬く間に奪われ、怒号や罵声、悲鳴が水上で発されているのが耳に入る。だが進路を妨害されたウミトカゲにとって、その音は彼をさらなる興奮状態に誘うものに他ならなかった。川に取り残された残りの隊員を次々に噛み殺す。肺から空気を失いながら沈んでいく敵たちを、わざわざ捕食する気にはならなかった。既に好奇心から小学生児童を腹に収めた彼に、それよりも大柄な成体の人間を舌に乗せるつもりは毛頭なかった。ただ身の安全のために殺しておかなければならない、という強い本能が刻まれていた。

続けざまに別のボートへ体当たりをお見舞いする。転覆するボートを楯にして、他からの銃撃を防ぐ。そしてそのまま隊員にボートを被せ、残りを次々に噛み殺していく。人間を直接相手にすることは初めてであったが、既に犬猫を何匹も川へ沈めた彼にとって陸上動物の弱点は明白だった。ただ水中に押さえておくだけで、奴らはあっけなく死んでしまう。ボートでボートに挟み込まれた隊員も口から空気を漏らし、やがては動かしていた腕が止まってこと切れた。この要領でもう二隻のボートを壊滅させた。

 

次々にボートを襲う中で、ついに一発の弾丸がトカゲの肉を穿った。つい、攻撃の最中に安全圏を抜け出してしまったらしい。だがたったの一発の拳銃弾で止まる彼ではない。自らに攻撃を食わえたボートに向かって、勢いよく水面から飛び掛かる。

着地の衝撃でボートは大きく傾き、浸水が始まった。泣きそうな顔で悲鳴を上げる者もいれば、歯をむき出しにして武器を向ける者もボートにいた。手始めに武器ごとそいつの腕にかぶりつく。血管や腱の千切れる感触の後、絶叫と共に温かい血液が喉に流し込まれる。嗚呼、悪くない。だが今はそれどころではない。

叫び回る邪魔者を川へ放り投げ、ボートの奥にいる隊員へ襲いかかる。周囲の警官たちは、仲間に弾が当たることを恐れて迂闊に手出しができない状況だった。ボートの舵を取ってウミトカゲの背側に回り込もうとするが、トカゲもぐるぐるとボートをごと体を回していく。泣き叫ぶ人間の喉を食い破り、最後の一人に照準を合わせる。

「人間舐めるなああッ!」

最後の一人の持つ拳銃が火を噴いた。響く銃声に呼応するように、パンノニアサウルスの肉体からも血が飛び出る。しかし生物は全く意に介していないようだった。既に暴走状態に突入したこのウミトカゲは、もはや自らの命よりも敵の絶命を望んでいるかのように見えた。

「あ……」

カチカチと引き金が虚しい音を立てる。その音の正体は弾切れだった。単独でこの状況を打開することは不可能。それを察知した周囲の警察たちが一斉に銃を向ける。もう仲間の命を危険に晒してでも、この怪物を止めるしかない。

 

その時、一つの物体が乱戦の場に突撃した。激戦に夢中になっていたパンノニアサウルスも、暴れ回る生物に躍起になっていた警官隊も、迫り来るエンジン音を意識の彼方に置いていた。真っ直ぐに上流から、一隻のボートが高速で接近する。警察の包囲網の外側から、大吾たちの乗るボートが突っ込んできた。

パンノニアサウルスがそれに気づいたときには、既に回避不能な距離まで迫っていた。

「くらってろ」

時速90キロメートルで、ボートはパンノニアサウルスに衝突した。この体格の生物が到底発揮できないであろう反則級の運動エネルギーを受け、パンニノサウルスは水を撒き散らして大きく弾き飛ばされた。一方のボートもただでは済まず、大吾は大きく空中へ投げ出され、襲われていた警察ボートへ叩き付けられた。

「ぐおッ……ああっ、全身紫色になりそうだ」

「だ、大丈夫ですか!?」

「こっちの台詞だ、君。よく耐えた」

 

大吾の乗っていたボートは転覆間際まで傾いたが、やがてその運動は止まり、逆方向に倒れて大きく水面を打った。空を舞う木の葉のように大きく揺さぶられながらも、葦人と白夜は何とかボートにへばりついて振り落とされずに済んでいた。

「あっぶないッ……」

「しかし、こんな危険な作戦をよく考えましたね。ボートで特攻かますなんて!」

「ハハ。あれだけ捜索隊が密集しているなら、迂闊に銃は使えないからねー。かといって僕らも武器は使い切ってる。だったら、僕らそのものが武器になって、ぶちかますしかないさ」

「全く破天荒だ……ちょっと、意外でした」

「そうかい?まあ、普段がこんな低血圧な喋り方だからなー……フフ、これでまた一つ、僕のことを知れたわけだ。嬉しいよ。君と親密になれるのはね」

揺れが次第に収まってくると、白夜は腰を起こした。周囲の状況確認も兼ねて周囲を見回す。

「リーダー!声は聞こえましたけど、どこですか!?」

「こっちだ。無事だ。骨折は……たぶんしていない」

「ああ、それはよかったですー。すみませんね、無茶な作戦で」

「まあ、終わり良ければってやつだ。あのモササウルスも──」

 

瞬間、大吾の目が凍り付いた。

ボートの激突に弾き飛ばされたはずのパンノニアサウルスが、姿を消している。そして、水中に残された地の広がりは、生物が海へ逃げて行ったわけでもないことを示唆している。ウミトカゲはまだ、この川のどこかにいる。

「あれをくらってまだ動けるのか……!?」

「え?」

白夜もその血痕を視野に入れる。

「全員気をつけろ、奴はまだこの川に──」

 

大吾の叫びが終わらないうちに、パンノニアサウルスが水面から飛び出してきた。その顎が食らいついた先は、白夜たちの乗るボート。ボートの端に圧をかけ、その転覆を狙っているようらしい。大きくボートが傾き、葦人と白夜はバランスを崩す。

「くそッ、こっちに来るなよ!」

「白夜さん!どうします!?」

「……ああ、川に逃げるしかないだろうな!奴の反対側に飛び込むんだ!早く!」

指示された葦人は、すぐにボートの端へ駆け寄る。白夜はその姿を見ながら、頭の中で莫大な処理を行っていた。その処理とは、現状に対する恨みと葛藤であった。

(ああ、クソ。あれで生きているなんて、本当にツイてない。想定外だ。そもそも亀裂が開いてもいないのに、どうしてこいつがこの川にいるんだ。ああ、クソッ。もう川に飛び込むしかない。危険すぎるが、もうそれしか手が残っていない。こいつの棲み処に飛び込むしか、飛び込ませるしか──)

白夜もまた、葦人を追ってボートの端へ駆け出した。

ウミトカゲはそれを認識し、攻撃を激化させた。ボートの構造が悲鳴を上げ、浸水領域が広がっていく。葦人たちの駆け寄った側も徐々に持ち上がっていくのが、彼ら自身にも感じられた。

「くッ──」

葦人が今まさに川へ飛び込もうとしたその時、あるものが水中に見えた。一瞬視界に入っただけであったが、"それ"から発せられる違和感は、葦人の脳を大いに刺激した。

ボートの後ろをウミトカゲに襲われている現在で、悠長なことはしていられない。──だが、葦人は"それ"がどうしても気になった。何か、この場に存在してはならないものが網膜に映された気がした。

「どうした葦人!早く!」

飛び込むなら時間を浪費すべきではない。短時間ですばやく、判断を下さなくてはならない。

「白夜さん、水面を見てください」

葦人は踏みとどまって、もう一度水面に目をやった。

 

そこには"光"があった。

水面の光の反射ではない、明らかに水中に光源が存在した。その光源は水の揺らめきゆえに目視がしづらくなっているが、忘れもしない、半年前に見た"光"と似ていた。むしろ、同一のようでさえあった。

「こ……これは……!?」

白夜も驚きの声を上げる。葦人よりも彼の方が見慣れた"光"。それゆえに、彼の驚愕は葦人のそれよりも大きいようだった。パンノニアサウルスも、水面から照らされるその"光"に気付いた。視線を送る対象を、追い詰めた敵二人からその"光"へ移す。どこか懐かしい、大昔に見た光景だった。

 

 

ボートの真下に存在した光源。

そこには、人が余裕をもって通れるほどの大きさを持った、時空の亀裂が開いていた。



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牙を剥く大河 Part6

「なッ……」

周囲の人間にも、亀裂の発する光が目に入っていた。一切の情報を知らされていない警察も、古代生物の存在のみを知らされていた自衛隊も、初めて目にする亀裂の光沢に驚異の目を向けていた。日光を反射して煌めく水面の下で、亀裂に由来する光が輝く。絶妙な美しさを湛える光景に、大吾もあっけにとられていた。

「何故このタイミングで……亀裂が……」

手元にある携帯用探知装置にも、目の前の亀裂の所在が示されていた。丁度数メートル向こう、葦人たちのボートの真下に亀裂が開いている。客観的な証拠を突き付けられ、自らの目が過誤を起こしていないと確認できる。

彼らが固唾を呑んで見守る中、パンノニアサウルスがボートへの攻撃を取り下げ始めた。尾を振って体を後退させ、ずるずるとボートの荷重を下げていく。偏っていたボートの重心が元に戻り、白夜と葦人の側の舟底も着水した。

ボートから完全に降りたウミトカゲは、尾を振って亀裂へ向かっていく。何者も邪魔をしなかった。誰一人引き金を引くこともなく、パンノニアサウルスは血痕を残しながらゆっくりと亀裂へ入ってゆく。

向こう側が故郷である保証はないが、未知の動物に襲撃されるこの川はもはやまっぴらごめんだった。それよりも、新しい環境へ逃げ延びる方が確実に生きられそうだ。一時は生存本能を上回った敵意と殺意が完全に鳴りを潜めている。彼は一つの希望を持って、光の中へ進んでゆく。

彼の姿が亀裂の向こうへ完全に消失した後、亀裂は拡大と縮小を繰り返し、やがて消滅した。後に残された人間たちには、脅威が過ぎ去ったことへの安堵と放心がもたらされていた。白夜が大きく息を吐いた頃には、織部と里亜の乗ったボートがようやく水飛沫を上げながら駆けつけてきた。

「おい、どうした?探知装置に反応があったが……もう閉じたのか?」

「ええ、終わりましたよー……。全く……厳しかった」

わずか3分にも満たない激闘は、こうして幕を下ろした。

 

 

 

「そんな都合のいいタイミングで亀裂が開いて、しかも勝手に閉じたってことですか?」

少年が行方不明になったその日の夕方。一同は既にURAのメインフロアに集まり、今回の案件について報告会を開いていた。河川での戦いに参戦できなかった織部と里亜には、あたかも白夜と葦人を救うように開いた亀裂というものは眉唾物であった。

「そうだ。私にもにわかには信じがたかったが、あれは間違いなかった。それもボートの真下に開いた」

「信じられんな。撃ち殺して死体を始末したんじゃあないだろうな?」

「そんなことないですってー。あんなデカい生物をどうやってあの短時間で処理できるんですかー。それに第一、そんなことを隠匿したって何のメリットもないですよ」

「う~ん、それはそうですけど~……」

早く終わってほしいものだ、と既に閉じた亀裂を巡る終わらない議論に葦人は退屈していた。確かに、目の前で突然時空の亀裂が奇跡的なタイミングで開いたことは驚くべきことだった。あの亀裂が偶然開かなければ、今ここに自分の命はなかったろう。とはいえ、それは既に現実のものとなった現象であり、人の手の及ばない自然現象である。今更ここで議論を交わしても何の価値もない──

「まあいいさ」大吾が話し合いを遮った。「亀裂が開いて生物が逃げ、俺たちは助かった。それだけだ。それだけが事実だ」

「まあそれはそうだが──」

「ところで、警察の方はどうしたんですー?行方不明の男子児童の件だとかぁ……」

白夜が話題を転換する。待ってました、とばかりに大吾は微笑んでみせた。

「警察に亀裂の話を漏らすわけにはいかないからな。あの場に居た職員だけならまだしも、報告書なんか書かれたら隠蔽が面倒だ。とりあえずあの場にいた警察官には、米国から密輸されたらしいワニの未記載種という話をつけておいた」

「なるほどですね~。それで、その"ワニ"に襲われて亡くなった警察の方について、ご遺族への説明はどうするんです?証拠の"ワニ"は逃げちゃいましたよ?」

「遺族に説明するといっても、わざわざ事故を起こした野生動物の証拠を見せることなんてないからな。仮に遺体を見せることがあっても、素人にワニの噛み跡との区別がつくことはないし、その道のプロでも化石種の噛み跡とまでは判断できないだろう。問題はない」

「確かにそうですね~……。亀裂そのものを見た警察官にはどう説明を?」

「うん……まあそこは……実力行使だ」

「うわっ腹黒い!」

「権力って怖いですねー」

「……全くだな。この仕事をやっていて、時々感じるよ。民間人や他組織の人間に隠蔽することが、こんなにも苦痛だとはな」

 

そう言って大吾は項垂れて押し黙った。メインフロアに沈黙が流れる。特に何も言うことがなく、他のメンバーと研究者も気まずそうに座っていた。特に葦人は一人重い空気を漂わせていた。ブロントルニスの案件で失った人命がいまだ重圧として残っているようだった。今回の警察官たちの死も、自分たちの無力が招いた結果に他ならない。

車で本部へ戻る途中、彼らの死を気にする必要はない、と白夜が励ましてくれた。自分たちは最善を尽くした。あれ以上にできることはなかったと、彼が持ち上げてくれた。そのおかげか、今朝ほどの重苦しい心情を抱いてはいなかったが、胸にひっかかる物が残されているのは事実であった。

しばらくの静寂の後に、大吾は頭を上げた。

「さて、今回については以上でいいか?」

織部・白夜・里亜は無言で頷き返す。だが調査チームでただ一人、手を上げた人間がいた。

「……どうした、葦人」

「パンノニアサウルスを陸上で捜索していたときです。ナガタビールの話が出ましたね」

「……ああ、そのことか」

「あの時の皆さんの反応。察するに、ナガタビールとURAの間で何か関係があるのですか?」

「……僕が答えるよ。あの時車で答えようとしたのは僕だったし」

葦人の隣に座っていた白夜が、垂れた髪を掻き分ける。

「ナガタビールって言うのはね……いや、ナガタビールが属する企業団体ナガタグループはね、この国の飲食事業を牛耳る最大派閥だ。聞いたことはあるかい?」

「……一応、名前だけは」

「名前だけ……か」白夜が息をつく。「まあ、確かに君は飲食系とは関係のない企業への就職を視野に入れていたようだから、仕方ないかなー。ナガタグループは国外からの輸入、国内の生産、商品化、その全てにおいて大部分のシェアを占める企業グループなんだよ。特にナガタビールは国外への進出も顕著で、既にドイツを除く西欧社会の酒造産業の中枢にも食い込んでいる、ナガタグループのドル箱さ。彼らの影響力は、戦前の財閥と同等かそれ以上なんだよ。もはや日本のGDPの何十パーセントを占めるかも分からない。当然政府にもその影響力は少なからず及んでいるというわけ」

贈賄や議員の国籍が騒がれるこの世の中、日本の政府が必ずしもまともな存在であるとは限らない、と認識していたつもりではあった。だが、予想を上回る利権の話に、葦人は並々ならない衝撃を受けていた。まさか現実にこのような権力の交錯があるとは、そしてそれに直面していたとは、想像もついていなかった。

 

「……つまり、彼らが面倒だというのは、その施設周辺だったから、と?」

どうにか頭に入った情報を取捨選択し、なるべく合理的な答えを合成して今回の案件に結び付けた。どうやらそれは正解であったらしく、白夜は驚きも何もない表情で正解の解説に入る。

「そう。彼らの重要施設の一つに亀裂生物がいたなら、僕らに対して物申すことがあるかもしれない。秘密裏に調査を行えたらよかったけど、銃や自衛隊を展開して派手にやってしまったからねー」

「既に私が簡易報告はしておいた。もし何かあれば、局長に任せるさ」

「ああ、ありがとうございます。まあ僕らもトップシークレットに近い秘密組織の人間だからね。いくら彼らの影響力が強いと言っても、そう簡単に槍玉に挙げられるわけじゃあないから、安心して」

「なるほど……ありがとうございます。納得がいきました」

URAに所属する自分が言えた立場では到底ない──が、比較的公正に見える日本の表社会にも、利権の渦巻く社会構造が多重に重なり合って存在している。自衛隊に守られた秘密組織に籍を置いて社会の頂点の一員になったつもりでいたが、それでも自分の知る由のない領域が無数に散在する。礼の言葉を述べながらも、葦人は新たな虚無感を心のうちに受けることとなった。

 

 

 

さらに数時間後。日は完全に落ちてあたりは闇夜に包まれていたが、自衛隊の施設に完全に格納されたURAの本部には関係のないことであった。煌々と輝く白い照明に照らされた明るいメインフロアで、大吾は独りコーヒーをすすっている。その視線の先には、全国を永続的にスキャンする亀裂探知装置。その進行をぼんやりと眺め、コーヒーの芳ばしい香りを吸いながら、彼は思考にふけっていた。

かつて亀裂調査センターのコナー・テンプルは、プロスペロ社とARCの間を往復していた時期があったという。彼と電磁気学の権威フィリップ・バートンは、"新しい夜明け"と呼ばれるある研究に関与していた。

その研究とは、時空の亀裂を人工的に開くことでやがて来たる"亀裂の収束"を止めようというもの。結論から言うと、その研究は成功と失敗を混ぜ合わせて混沌とさせたようなものだった。彼らは亀裂の開発には成功したものの、"亀裂の収束"を止めた結果として、研究施設は崩壊し、フィリップは崩壊に巻き込まれて命を落とした。第二のフィリップが出ることのないようARCはその理論と原理を門外不出とし──というよりも、プロスペロ社の壊滅とともに闇に葬られたのだろう。その実態はURAでさえも掴めていない。

 

──ここからが、本題だ。川で突然開いた時空の亀裂。あの時間にあの場所で亀裂が開くというのは、奇跡という言葉を何乗に重ねても決して表現できそうもない天文学的確率だと、大吾はそう感じざるを得なかった。"太陽の籠"と呼ばれる、亀裂の生じる可能性が高い人工物も、あることにはある。だがこれにはおそらく成分のマグネタイトが関与しており、あの河川の成分からは過剰量のマグネタイトは検出されなかった。周囲の磁場も簡易的に計測を行ったが、いたって通常の数値を示していた。

より可能性の高い仮説が頭の中に浮かんでいる。もしあの場を何者かが見ていたとしたら。そしてその人物が、亀裂を開く技術を手に入れていたとしたら。──全ての説明がつく。今はまだ推測の域を脱せないが、人為的な介入を彼は疑っていた。



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番外編 ほんの最近の過去へ

行方不明児童の案件から2日後。メインフロアの中央に設置された机の上で、白夜と里亜が会話を交わしていた。里亜は机そのものに腰かけ、ブラブラと脚を揺らしている。机には二人分のカップとコースターが置かれ、休憩中のようである。

「それで~明々後日がコンサートなんですよ」

「へー、誰の?」

「やだなあ、私の推しですって!分かりますよね!?寺田翔央ですよ!」

興奮気味に喋り立てる里亜の声には、歓喜の色が混ざっていた。その燃え上がる情熱を片手でどけるような仕草をしつつ、白夜は相変わらずの低血圧なトーンで返す。

「ゴメンねー、分かんないや」

「えええええ……この前探知装置にもダウンロードしておいたんですよ、誰でも気軽に聴けるようにって」

「ああ、あれね。ああいうの、探知装置に負荷がかかるからあんまりよくないよー。この前注意された電気代の件、そのダウンロードのせいかもしれないしね」

「ええーっ……何のためのハイテク機器なんですか……」

「うん、曲のダウンロード用の設備じゃないよ?」

「うーっ、正論だ……」

がっくりと項垂れる里亜をハハハと笑い、白夜は手元のティーポットから自分のカップへ紅茶を注いだ。彼曰く、本場イギリスから取り寄せた茶葉だという。かつて世界を席巻した大英帝国の正の遺産。コポコポという音とともに、長い歴史と伝統の渦巻く香りが漂う。

「いるかい?」

「ありがとうございます。あ、ミルクあります?」

「あるよー。入れといてあげる」

市販のミルクを取り出してペリペリとビニールの蓋を剥がし、そっと傾ける。紅茶に白い線が入り始め、やがてそれは全体にまどろんで広がっていった。ピアニストさながらの気品ある指で行われる一連の操作は、とても優美な雰囲気を醸していた。

里亜は礼の言葉を述べると、注がれたカップを手に取って口へ運ぶ。非常にまろやかな味が口に広がり、つい舌鼓を打ってしまう。甘すぎるわけでも、苦いわけでもない、しつこさのない簡素な味わい。何かケーキでも欲しくなる感覚だった。

「やっぱり美味しいですね~……いつもありがとうございます」

「うん、どういたしまして」

 

しばらくの団欒を楽しんだ後、じゃあ文献が残ってるんで、と言って彼女は自室へ戻っていった。独り残された白夜がまだ紅茶を嗜んでいると、今度は織部が自室から姿を現した。

「お、また斎賀と飲んでたのか」

「あなたが言うとお酒みたいですよねー。どうです?新しいカップも出しますよ?」

「いや、俺はいい。紅茶は好きじゃあなくてな。ビールなら付き合ってもいいが」

「まだ昼ですよ。……まあ、僕はビール、嫌いじゃあないですけど」

「なら今度のナイター中継で飲むぞ」

「あっ、良いですねー」

口角を持ち上げ、織部は白夜の横に椅子を出して腰を下ろした。溜まっていた作業疲れをいやすためか、肩をグイグイと伸ばす。やがて指先を機械的に動かすと、最後に首を鳴らして大きく息を吐いた。どうやら、ルーティーンが完了したらしい。

「そういえば、葦人くんとは打ち解けたんですか?」

「……あの兄ちゃんか。まあまあだな。とりあえずは」

「随分曖昧な返事ですねー。それがあなたらしいと言えばあなたらしいんですけど」

「フン」

「──最初は、随分嫌ってましたよね。彼の参加に反対したのも、あなただけでしたよ」

「……あいつの安全を考えたまでだ。いくら研究者として優れていても、現場には体力が要る。調査チームに加えるのは危険だった」

そう答えながら、ある過去が記憶の底から湧き上ってくるのを彼は感じていた。この組織に配属される以前の記憶。彼が鍛え抜いた鋼の肉体を持つ、その所以。

 

 

 

現在はURAに籍を置く彼ではあるが、かつては彼らと共に行動を共にする組織──自衛隊に所属していた。決して上の階級ではなかったが、上官と部下の双方から厚い信頼を受け、その能力は高く評価されていた。部下の間では毎日共通の話題に上り、上官からも期待を受けた。そうして日々を送るうちに、優秀な部下も配属される。知識と人徳に長けた部下を多く引き連れ、織部は自衛官としての充実した日々を送っていた。共に飯を掻き込み、共に風呂で羽を伸ばし、共に訓練で汗を流す部下がいた。しつこいぐらいにコンタクトを取ってくる部下も、あまり感情を表に出さない部下も、彼には尊敬の眼差しを向けていた。

 

ある日、URAとの合同任務が織部の隊に割り当てられた。

雨の中の任務だった。狂暴な有害鳥獣の駆除と聞かされていた。相応の装備と心構えを部下にさせ、隊長としての責務を果たさんと力を込めていた。実戦投入に緊張の色を隠せない部下も、ちらほらと姿が見えた。一人一人に声をかけて勇気づけ、いつもの訓練と同じでいけ、と直前の集合で激励の言葉を飛ばした。

 

その結果は、全滅。

雨でぬかるんだ地面に足やタイヤを取られ、隊は平常時の動きを展開できなかった。激しい雨は人間たちから視覚を奪い、雨音は彼らに迫る危機の察知を遅らせた。時空を超えて来訪する超生物たちに対して、劣位のコンディションにあった。

相手も悪かった。彼らを襲ったのは、今の地球上には存在しないと確実に言い切ることのできる生物だった。化石記録さえも残されてはいない。どういうわけか常に部隊の動きを先回りし、悪天候の中で次々に部下が消されていった。環境も相まって、敵の気配を全く感じられない。悲鳴も掻き消され、人員が削られていく。駆除に投入されたはずの人間側が、逆に狩られる立場にあった。見えない敵との戦いは、地獄と形容しても生ぬるいほどの残酷さを突き付けてきた。

 

ようやくその生物に鉛弾を撃ち込んだときには、周囲に居た部下は皆、紅に染まって地に伏していた。既に動かなくなった者が大半であったが、息のある部下もそこに転がっていた。そういった者にはできる限りの応急処置を施し、心を掻きむしられるような思いで病院へ運び込んだ。だがその彼らも、清潔な病室の柔らかい布団の中で、謝罪の言葉を喉から漏らしながら息を引き取っていった。

 

『足を引っ張って、すみません』と。

 

この時に彼は確信した。実戦に不得手な味方を表に出すべきではないと。任務に耐えられる強い者だけを危険に晒すべきなのだと。そして、自分もさらに強くなくてはならない、と。

部隊の全滅を以てスカウトされた彼は、新たに配属されたURAで肉体に極限まで鞭を打った。苦痛に耐えながら、そして周囲の人間に目をやりながら。二度とあのような惨禍を繰り返してはならない。自分が防波堤にならなくてはならない。心の奥底に誓ったのだった。

 

 

 

「ハハ、それ、僕と里亜にも刺さる言葉ですね」

白夜の台詞に、ハッと織部は現実に引き戻された。

「僕たちだって、リーダーや織部さんほど体力があるわけじゃあないですよー。武器の扱いだったり、それなりの得意分野はあるんでしょうけど」

「それはそうだが……俺自身のケジメとして──」

そこまで口にして、ふと織部の口が止まる。突然黙った彼を白夜は不思議に思った。

「……どうしました?」

「……そう言えばお前達、随分仲が良さそうだが……その割には」

白夜の動きが止まる。

「その割に……何です?」

「『武器の扱いだったり』──そう言ったな」

「はい」

「斎賀は決して武器の扱いに長けた方ではない……例を挙げればキリがないが、そうだな。石済と初めて出会った山中でも、あいつはEMDを上手く扱えずに苦戦を強いられた。この前のボートの操作は良かったが、それでも武器に完全に手馴れているとは言えない」

「まあ、大学を出て1年経っただけですからねー……」

「いや、理由は問題ではない。重要なのは、あいつが武器に長けていないという事実だ。お前はあいつよりEMDを巧みに扱えるが──口ぶりからして、さっきのは斎賀についての話だろう?」

「──ああ、なるほど。そういうことですかー」

ふむ、と白夜は顎に手を当てて、少し考え込む様子を見せた。

「……ごめんなさい。ちょっとよく考えてなかったですねー。すみません」

「……他人の職場恋愛に首を突っ込むタチではないが、まあ、何だ。その辺はよく見ておいた方が良いんじゃあないか?」

わずかに目を逸らしながら忠言する織部。だが白夜は、その言葉を受けて目を丸くしていた。少し状況が飲み込めないような様子だったが、じきに腑に落ちたようだった。

「あ……そうか。ああ、そう見えてたんですね。僕と里亜がくっついていると」

「……何?」

「ああ、ああ、そうだったんですねー。確かに紛らわしかったですね、でも、違うんです」

「おいおいどういうことだ?具体的に主語を使って話してくれ」

「ああ、ごめんなさい。いやね、僕と里亜は確かによく触れあってますけど、決して恋仲とかそういうんじゃないんですよー」

「……そうなのか?お前、男専門というわけでもないだろう?」

「ええ。僕自身は男女どちらでもイケますけどねー。でも、これは僕の好みというよりは主義の問題でして。ええ。なるべくボーイフレンドもガールフレンドも作らないようにしているんです」

「……一体どうしてまた?」

それまで予想外の勘違いに驚きながらも笑っていた白夜の顔が、急に冷え込んだ。何かあるな、と突然の変容に織部も感じ取った。

「聞きますか?」

「……無理がないのなら」

「分かりました。ちょっと長くなりますけど──」

 

 

 

三条白夜。性に関する偏見が抜けきれていない時代の日本に、彼は生を受けた。

多くの人間は成長するにつれて、やがて思春期という時代を迎える。多くの男子が女子に惹かれて絶妙な距離を取り、女子が憧れの男子の話を裏でしていた頃。白夜もその例外ではなかった。

だが彼の性の興味は、複数のベクトルをなしていた。運動部で汗を流す男子生徒の引き締まった肉体に心を動かされ、一方で艶やかさを徐々に帯び始めた女子生徒の肉体にも得も言われぬ気持ちを味わった。そして男女どちらの会話の空気も、彼にとっては快適そのものだった。男子生徒との親愛、女子生徒との友情が両立し、毎日が刺激に満ちた学園生活を送っていたのだった。

初めてできた恋人は、高校の剣道部の男子生徒だった。毎日朝早く登校して懸命に竹刀を振るその姿に、次第に心を動かされていたらしい。幸いにも彼には同性愛に対する理解があり、両者はすぐに打ち解けた。冷やかす人間も周囲にいるにはいたが、同じ中学出身の生徒たちが彼を守っていた。

 

しかし、そのボーイフレンドは交通事故で命を落とした。人格者だったから子どもか動物でも助けようとしたのだろう、いや同性愛を嫌う人間に突き飛ばされたのだ、と根も葉もない噂が飛び交った。深い関係にあった白夜にもその言論の矛先が向かった。擁護してくれる友人たちにも申し訳なさを覚え、その場に居づらくなった彼は高校を移り、そのまま遠く離れた地の大学へ進学した。

大学ではガールフレンドができた。全く違う地方からの出身の彼女には、方言や文化の違いといった興味深いギャップが感じられた。だが真に惹かれたのは、彼女の中枢を通った人間性であった。かつてのボーイフレンドを失った心の穴を、すっぽりと埋めてくれるような深い存在だった。共に講義を受けていた二人はいつしか足を揃えて外出するようになった。日本の文化遺産にはあまり興味が向かないな、という話をして、2年生の終わりにはイギリスへの海外旅行を計画した。

 

その日は曇りだった。厚い灰色の雲の下で栄える文明都市、ロンドン。その中心部に彼女を待たせ、近い露店でフィッシュ&チップスを買っていたときのことだった。約束の場所へ戻ると、彼女がいない。遠い異国の地ではぐれるなんて、と街中を捜し回った。道行く人に慣れない英語でたどたどしく話しかけ、自らの足を使って隅から隅まで走り回った。

そのサイクルを何度繰り返したことだろう。高い煙突の備わった、煤けた茶色の大型施設に、彼は辿り着いた。かつて発電所であったというこの建物の裏側に、彼女の体が横たわっていた。ついに発見した安堵と、様子が奇妙だという不安。その二つを心のキャンバスで複雑に混ぜ合わせながら駆け寄ると、既に彼女は冷たくなっていた。首が不自然な方向にねじ切られており、体の随所に抵抗したらしい痕が生々しく残されていた。明らかに殺人であった。

彼は旅行の日程をキャンセルしてロンドンの滞在期間を延ばし、地元警察に必死に訴え続けた。しかし、結局彼女の遺体から有効な指紋は検出されず、彼の訴えは封殺されることとなった。警察組織への失望と、愛する者を二度も失った苦痛を抱え、彼は日本へ帰国した。2011年のことであった。

 

 

 

「──だから、もう恋愛はしたくないんですよ。男性とも、女性とも。僕が関わったせいではないのかもしれませんけど、そう思ってしまうんです。……もう二度と、あんな思いは」

白夜の目は潤んでいた。普段よりも多くの塩水を湛えていることが、表情から読み取れる。彼は天井に顔を向け、目を温めるように手で覆った。

「……済まなかったな。石済に忠告していたも、そのせいか」

「……そこは、ご想像にお任せしますよ」

「フン……」

織部が返事をしないと、メインフロアは静まり返った。鼻音を立てながら白夜が目元を指でこする。その様子を、織部は腕を組んで眺めていた。やがて目の周りを赤くした白夜が、ふう、と前を向いた。

「ああ、すみませんね、こんな辛気臭い話を──」

「野球中継は夜からだが、録画していた試合がある。見るか」

ポカン、と口を開けて呆然と織部を見る。彼は白夜の方へ目を向けず、いまだに腕を組んで難しい表情をしていた。

「……え?」

「見るか、と聞いている。どうせ今溜まっている作業なんざ、明日には終わる」

──ああ、これか。この態度がやはり彼らしい。

「……良いですよ。でも、大丈夫ですか?」

「何が」

「結果の分かっている試合なんて……僕は初めてですけど、見て面白いんですかね?」

「……お前次第だな」

 

 

9時間後。出張から戻ってきた大吾が、メインフロアの扉を開けて入って来た。まだ研究を続けている人間がいないか見回りもして、彼自身就寝するつもりである。

真っ先に目に入ったのは、白い光が漏れている織部の部屋であった。近づくと、何か音が聞こえてくる。ラジオかテレビらしい。また何かしているな、とドアを開けられる距離まで足を運ぶ。

「……おや」

窓ガラス越しに、部屋の中が一部垣間見える。床や机の上に無造作に転がった無数の缶ビールに囲まれて、二人の人影があった。白夜は机に突っ伏して、織部は大きくのけぞるようにして熟睡している。テレビの光や音を一種の子守歌にでもするかのように、泥のように眠っている。

その様子をしばらく眺めた後、大吾はテレビを消して自室へ戻っていった。



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血染めの軌跡 Part1

メインフロアの机に向かって腰かけ、白夜が独り手を動かしている。その手の中では、カラフルな立方体が硬いプラスチックの音を立てている。連続的なその音は一定のリズムを刻んでいたが、やがて彼が手を離すと、その音も止んでしまった。

「ルービックキューブですか?」

気付いた白夜が振り向くと、背後には葦人が立っていた。彼は興味深そうにキューブを覗き込みながら、白夜の横へ椅子を出した。そこに腰を下ろして彼は言葉を続ける。

「変わった模様ですね。イギリス国旗ですか」

「そうだよー」白夜が手に取り、キューブを振ってみせる。「面一つ一つで色を揃えるんじゃあなくて、ユニオンフラッグを完成させる。色はどの面も同じだけど、線の向きを揃える必要があるから、こっちの方が難しいかなー」

そう言うと白夜はキューブを葦人に差し出した。受け取って回してみると、彼の説明の通り、赤・白・青の国旗が6面に並んでいる。面が正方形であるゆえに本来の国旗の比率からは外れているが、それでもイギリスの旗だとは一目で分かる。

「それでも、もう完成してますね」

「何度もやってたからねー。昔ロンドンを旅行したときの思い出の品さ。ちょっと思い出したから、久々にやってみた」

「へえ、良いですね」

「ああ。……でも、もう飽きてきたよ。面白いけど、やりすぎちゃってねー」

「あ、そうなんですか」

そう言えば、白夜は業務中・非業務中に関わらず、よく他の誰かと喋っているような印象を受ける。織部は普段からトレーニングルームを愛用しており、今頃ダンベルでも持ち上げているのだろう。大吾も彼とトレーニングしていることがあるが、チームリーダーという役職上、他の部署や局長との会議も多いらしい。つまり、白夜が普段よく喋る人間は葦人、そして里亜のことが多かった。

今日は朝から里亜を見ていない。言われてみると、彼女は昨日いつもより浮ついた雰囲気を漂わせていた。普段も亀裂調査に直接乗り出している時以外はふわっとした態度を取る彼女だが、昨日はそれに輪をかけていた。どこかに外出したのだろうか。白夜は話し相手の一人を失って、それで退屈に任せて指を動かしていたのだろうか。

葦人はルービックキューブを机に置いた。

「斎賀さんはどこへ?」

「今日は彼女の好きなアーティストのコンサートがあるんだってー。ずっと前から楽しみにしていたみたいだよー。有給まで取っちゃって、本気だよありゃ」

「なるほど……僕は音楽、サッパリですね」

「僕もさー」

瞳を閉じておちゃらけたように笑みをこぼす白夜を、葦人は意外に感じた。その長い指はいかにも鍵盤上を滑るのに向いているし、赤色の長髪はビジュアル系バンドに近いものを感じさせるというのに、音楽にはサッパリだという。

だが確かに、アフリカ系の人間が皆ヒップホップを愛するわけでもないだろう──という考えが頭をよぎった。織部や先日の白夜がそうだったように、人間の好みや特性というものは外見から見抜けないものである。そう考えると、白夜の賛同を意外に感じた自分は少し愚かしいようにも感じられる。

「音楽の分野で特に好きなアーティストはいなくてね。でも絵画なら──」

白夜が雑談の続きを振る。思考の海へ潜っていた葦人の意識は、彼との会話へ戻っていった。

 

 

 

駅は雑踏に呑まれていた。

通勤ラッシュなどとうに過ぎ去ったはずの午前11時、何かを楽しみにした表情の民衆で構内はひしめき合っている。数メートルもまともに歩くことができず、横切る人間に足止めを食らったり、前が突然詰まってやむを得ず迂回して回ったりの連続であった。隣を歩く人間が急に右へ左へと詰めかけてきて、靴が突っかかり、余計にフラストレーションが溜まる。

(ああ~もう、やっぱり混むかあ……それだけ人気ってわけで嬉しくはあるけど、これはちょっと何とかしてほしい……)

里亜は私服で地下鉄のホームを歩いていた。私的目的で交通手段と費用を政府は負担できない、という事実をしぶしぶ受け入れつつ、期待と高揚に胸を膨らませて彼女は外へ出ていた。しかし、大都市圏での混雑はポジティブな感情を物凄い勢いで削っていき、一刻も早く会場に着いて心を浄化したいという現状であった。

横からスーツ姿のサラリーマンがぶつかり、「すみません」と一言謝罪を入れて顔も見せずに足早に去って行く。

(クソ、次に何か来たらEMDで吹っ飛ばすか──)

苛立ちとともにポケットに手を入れたその瞬間に、前方からスマホを片手でいじりながら男が突っ込んでくる。衝撃で体勢を崩すとともに、彼女の中で何かが音を立てて切れた。

謝罪もせずにそのまま歩み去る男に向け、脇に小型EMDを挟み込む。すかさず引き金を引く。苦痛の声と共に何かが吹き飛び、落下してタイルに叩き付けられる音がした。立ち去りながら後ろに目をやると、腕や脚を震わせながら鼻を押さえる男がやじ馬に囲まれている。床にはスマホも転がっており、おそらくはEMDの電撃で破損したことだろう。

(よし!)

ひとまず胸に溜まった鬱憤が晴れ、里亜は乗り換え先の電車を待つ列へ加わった。

 

 

 

その頃、駅の地上部もそれなりの人が集まっていた。空きコマで遊んでいるらしい茶髪の大学生がたむろし、そのすぐそばをこれから昼食らしいサラリーマンが団子になって通っていく。その奥では、観光案内とにらみ合いながら外国人のカップルが立ち往生している。大都市圏ではデフォルトで見られる、普段の光景そのもの。コンサートに向かう一定数の人間も、雰囲気を大きく崩す要因にはなりえなかった。

 

問題はその奥にあった。

 

土産物屋が売店を構え、珍妙な現代アートが通路の中央に鎮座する。その近傍に、光り輝く芸術品が浮かぶ。周囲の光を反射する鏡の集合体なのか、見えないように工夫を凝らした電線が通っているのか。その芸術品はどこか不思議な音を立てながら、未知の仕組みで光を放っている。

道を行く人々はその球体を目に入れていくが、皆通り過ぎて行った。クリスマスでもないのに、いつできたんだ、新しいオブジェ綺麗だな、どういう仕組みなのかしら──口々にそんなことを言って通り過ぎて行く。当然この球体の正体に気付く人間はおらず、その異常性を真剣に気に留める人間も片手で数えられるほどだった。

 

「おう何だァこりゃァ?」

「こんなんあったっけー?まあいいや、ストーリー上げよ」

高校生くらいの年だろうか、若者数人が球体の傍でたむろしている。スマホとドリンクをそれぞれ片手にはしゃぐブロンドの少女の横には、ピアスをはめた少年たちがポケットに手を挿し込んでブラブラと動いている。決して育ちが良いと言えそうもない笑い声や奇声に周囲の人間が遠のいてゆく中、苦々しい表情を刻んで警備員が近づいてきた。

「ちょっとボクたち、静かにしてもらえるかな?」

「あ?何すか?」

「他の人たちもいるから、ちょっと静かにしていてね。展示物にも触らないで──」

「うわひっどー。ウチら遊んでるだけなんですけどー?」

「逮捕するんすか?警察の横暴!」

「ねえおじさん、これどうなってるんすか?」

「おい、触るんじゃ──」

少年の一人が球体に向かって手を伸ばしていた。その手首から先が、虚空へ消えている。錯覚でも、単にオブジェの陰に入り込んだのでもない。手が光の中に包まれて亜空間へ移動したようだった。この世から断絶された、どこか別の次元へ送られている。だが彼に痛覚はないようで、好奇心から笑顔までもを見せている。

「──!?」

当然、理解が追い付かない。周りにいる少年少女たちは、まだ事の重大さに気付いていないらしい。周囲を取り巻く民衆の中には恐る恐る様子を窺っている者もいる。無理解・無知・躊躇。その場にいる誰もが、各々の理由を以て少年の静止に動けない。警備員は現在進行形で起きている未知の怪奇現象を前にして、脚が超重力に囚われたかのように自由を失っていた。

「凄いよな、この細かさ……」

少年が顔を近づける。極限まで近づけていく──否、球体と外部空間に明確な境界線は存在しない。少年の顔が、瞳が、宙を漂う破片の間を縫ってゆく。やがて表情は光に消えて読み取れなくなった。その顔に何が浮かんでいるのか。驚嘆か、畏怖か、好奇心か。その答えを知る者は、この時点では少年を置いて他にいなかった。

 

「おいフリが長ぇって!」

「もうやめろよー」

いまだ状況に無頓着な少年少女が場違いな声をかける。だが警備員には既に見えていた。少年の脚が震えている。その震えは次第に増大し、やがて脚は体重を支えきれなくなった。少年はその場にへたり込み、その風貌に似合わない姿で怯え切っている。陸に打ち上げられた鯉さながらに口を動かし、その目には圧倒的な脅威を目にした色が如実に現れている。ここでようやく彼の仲間も状況の異様さに気が付いたようで、彼に駆け寄って安否を確かめ始めた。

「来る……あれがッ、来る……!」

慣れない手つきで介抱しようとする仲間の手を跳ねのけ、少年は尻を床につけたまま必死に逃れようとする。目の前に浮かぶ光の球体から、力の入らない腕と脚で全力で距離を取ろうとする。精密な動作が出来ず、床を転がり回りながら、羞恥心なども掃き捨てる。ただの防衛本能、それだけが彼を突き動かしていた。

「どうしたんだよあいつ……」

「さあ──」

いまだ実態を把握できていない少年らが、仲間の醜態に半ば呆れた様子を示す。だが、警備員がそれに関して特別に思うことはなかった。

 

というのも、彼らが巨大な物体による襲撃を受けたためだった。

 

光る球体から突如として、巨大生物が姿を現す。人の背丈ほどあろうかというその四足歩行の動物は、真っ先に少女の首に白い歯を突き立てた。横に居たもう一人の少年はその巨体にあえなく弾き飛ばされ、タイルに頭部を強打して瑞々しい音を立てた。

「げぼッ」

悲鳴とも断末魔ともつかない、ただ空気や胃液の漏れる音が少女の喉から零れる。だが人間の肩を容易に収められるであろうその顎は、その程度の破壊に留まらなかった。体格こそが力であるとでも主張するように、大顎が少女の華奢な肩帯を破砕する。骨の砕ける音とともに少女の絶叫が構内に響き渡った。

彼女の絶叫は民衆の叫びに掻き消され、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。パニックに陥った民衆は追突を繰り返した。倒れ込んだ者は後続の避難者に立て続けに踏み潰され、この事故は視界に入る構内の至る場所で発生していた。生物の出現による二次被害、すなわち"人災"が連鎖してゆく。

逃げ惑う民間人は、他の人間を押しのけて我先に助かろうと出口を目指す。引き倒された人間が次々に蹴り飛ばされ、靴底に押し固められて鼓動が止まる。何十もの人生が人命の下で幕を下ろし、紫色の打撲を作ったオブジェとして床に転がった。激痛に呻きながら腕を辛うじて蠢かせている肉体も、じきに亡骸の仲間入りを果たすはずである。

出口はさらに凄惨さを増していた。一斉に民間人が押し寄せた出口では、出口の壁に押し潰された人間が続発した。養鶏場の鶏が大量死を遂げるように、一度に多くの命が潰れていた。すぐ隣の人間が崩れ落ちても、彼らは逃げることを止めない。その身を赤黒く染めながら、保身のために逃げてゆく。

 

この光景を目にして、生物が沈黙しているはずもなかった。顎に挟み込んだ少女の体を噛み潰すと、生物は地面に転がる遺体や瀕死の人間を蹴散らし、逃げる民間人を追い始めた。その動きは軽快とは言い難いものであったが、思考の鈍った人間たちを駆逐するには十分すぎる走力があった。最後尾を走る人間に追いつき、その肩に食らいつく。次々に人間を後ろから屠り続け、遺骸のシャワーをその身に浴びて走り抜ける。

奇跡的に地獄を逃れた者たちは、呆然としてその場に立ち尽くしていた。映像を監視室で眺める警備員も、フロアに降りた警備員も。脅威が過ぎ去って分岐路から姿を現した民間人も。戦後日本の歴史で最悪の1つに数えられよう惨事が、目の前で起こっていると感じていた。だがその一方で、現実離れしたこの惨状を受け止められない自分がいる。一体何が起きているのか、己が目に信頼を置けないでいた。

 

 

しかし、立ち止まる猶予は残されていない。

この事故で立ち込めた鉄の臭いは亀裂を抜け、過去の世界へ流れ込んでいたのだから。



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血染めの軌跡 Part2

自衛隊が駅を包囲した頃には、既に事態は大きく発展していた。無色透明のドアの横には亡骸が積まれ、油や汗の混ざった血でガラスを濡らしている様が遠目にも見える。自衛隊包囲網の内側に止まっていた白バイとパトカーは撤退を始めた。4日前の行方不明事件とは違い、時空の亀裂の存在が明白となった今、現場はURAと自衛隊の管轄下にあった。とはいえここまで拡大した生物災害を民間に説明するには大規模テロのカバーストーリーを用意せざるを得ず、自衛隊の外側に説明のための警官隊も配備された。山城の案件を遥かに上回る人員が投入され、駅の周辺は騒然としている。マスコミも既に何局かがやって来たらしく、遠くで撮影機材を置き始める人間もいた。

 

「里亜には繋がったか?」

「駄目です、応答ありません」

「こっちもダメですねー。携帯の電源切ってるんですかね……」

走り回る自衛隊の靴音に紛れ、調査チームは不在の里亜へ招集をかけようとしていた。しかし何度電話をかけようとも応答はなく、メールの返事も、LINEの既読もない。コンサートに向けて通信を切っているのなら、コンサート会場まで被害の話題が及ばない限りコンタクトは絶望的だった。

「これ以上時間を取れない。突入するぞ」

大吾はそう言って駆け出しながら、自衛隊の指揮を執った。一斉に自衛隊が動き始め、東西南北それぞれの出入り口に向かって階段を駆け上る。北口に控えた調査チームも封鎖装置を持ってそれに続く中、各々の自衛官が構えて走ってゆく銃に葦人は既視感を覚えた。

「リーダー、あれって……」

「ああ、私たちのと同じEMDだ。山城の亀裂のとき、麻酔銃がいかに劣勢に立たされるかはお前も身に沁みたな。実はあの一件以前から、私は局長に掛け合っていたんだ。亀裂災害に対する出動の際には、EMDを装備させること。隊員の安全のためにも、迅速な処理のためにも。あの時に間に合っていればよかったな……」

「なるほど──」

葦人の脳裏には、ブロントルニスとの掃討戦が想い起こされていた。EMDとの交換を拒否した自衛官は、次々に巨鳥に貫かれて命を散らせた。あの日の夜ほど、武器の無力さを呪った日はなかった。その格差が今、是正されている。自らの肉体を縛り付ける鎖が軽くなったような感覚がある。

「──ありがとうございます」

「礼を言うには早い。今はまだ実験段階で、隊全員への配備には至っていないからな。だが大きな一歩なのは確かだ」

調査チームも階段を駆け上り、自動ドアと同じ段に立つ。目の前には遺体が生々しく転がり、血痕や得体の知れない体液が床を汚らしく彩っている。既に突入した自衛隊の靴跡が無数にタイルに残され、泥が血に混じって広がっている。既に突入して生物と生存者を捜す自衛官には、顔を隠しながら任務にあたっている者が散見される。

「──しかし初導入が、ここまで惨い事件だとはな」

ドアをくぐると、鉄の臭いが強く鼻を突いた。白夜が反射的に咳き込み、目に涙の粒をぽつんと浮かべる。残る三人も決して快い表情は浮かべず、先に自衛官が乗り込んだ奥へと歩を進める。滑りそうになる床を四人は踏みしめていった。

 

角をいくつか曲がると、一段と床の汚れや破壊が濃度を増した領域に入った。老若男女を問わず、ではなく、むしろ高齢者や若年の女性の遺体が目立つ。おそらくは生物に追われる中で最初に脱落した人々だろう。脆い骨が砕け、柔らかくなった紫色に変容した腕を晒している。数少ないまだ息のある者には既に自衛官たちが駆けつけており、懸命な救助を行っている。

壁には売店や窓口が埋め込まれているが、そこも破壊の嵐が過ぎ去った痕となっていた。ATMは引き倒されて液晶を散らし、窓ガラスは悉く粉微塵に砕かれている。つい先ほどまで駅員が対応していたのであろうみどりの窓口では、カウンターが大きく薙ぎ倒され、案内板も引き裂かれて床に散らばっていた。売店も商品が床に飛散し、上下反転した冷凍庫からは光と冷気が漏れている。冷凍庫内の霜は融解が進んでおり、水の領域が床に広がりつつあった。

だが、それよりも目を引くものがあった。この惨劇を引き起こした元凶が一つ、時空の亀裂。破損したオブジェ群の前に浮かび、その存在を主張している。

「封鎖しますか?」

「待て。これだけの駅で開いた亀裂だ、入り込んだ人間がいるかもしれない」

「じゃあどうする。捜しに行くのか?亀裂を抜けて、過去の世界に足を踏み入れて」

「そんな危ない橋を渡る必要はない。ここは幸いにも人口密集地。それなら、人同士のいざこざをどうにかする手段があるはず」

大吾の発言を、皆すぐには理解できなかった。分からないのか?という表情で彼は三人を見回すと、天井の一角に向けて彼は背中越しに指を向ける。

「監視カメラがあるだろう。管理人室だか警備室だか知らないが、あの映像を監視する部署があるはずだ。白夜。映像を確認して、亀裂に入り込んだ人間がいるか、そして生物が何頭入り込んだか調べてきてくれ。我々は封鎖の用意を進める」

「了解しましたー」

白夜はすぐに付近の案内板に向けて駆け出していった。残された三人はジュラルミンケースを開封し、封鎖装置を取り出した。宙に浮かぶ光の硝子は人間よりも遥かに高いが、ブロントルニスがそのまま通れるほど大きくはなさそうだった。おそらくは2.5メートルといったところ。足場を安定させ、機材を設置してゆく。

 

その時だった。突然、自衛官の悲鳴がフロアに木霊した。その後に続くのは、麻酔銃とEMDの射撃音。そして自衛隊の叫びと焦りの声。

三人が急いで振り向くと、直行する通路を横っ飛びに迷彩服が投げ飛ばされていた。自衛官はタイルに顔を打ち付け、銃を床に引っ掛けながら猛烈に転がった。銃身は衝撃で歪み、彼も苦痛に呻いて立ち上がれずにいた。

調査チームが現状を理解するよりも早く、続いて自衛官が何人も宙へ投げ飛ばされる。そしてその犯人も姿を現した。到底人間が食い止められる体躯ではない、明らかな古代生物。彼らが介抱しようとした虫の息の生存者は、人間たちの間で暴れ狂うその生物に咥え込まれていた。当然抗う力など残されておらず、骨の通った肉の塊として振り回される。既に四肢は脱臼してもおかしくない遠心力が加わり、その力は周囲の自衛官へ叩き込まれて吹き飛んでゆく。

「何ッだありゃあ──」

これまで数多くの猛者と直接対決に臨んできた織部までも、明らかな動揺を隠せないでいた。次々に人間が吹き飛ばされていく光景の中で躍動する生命体。背丈はかつて遭遇した獣脚類と変わらないが、体格はその比でない。森で人類を翻弄したフクイラプトルほどの速度はなさそうであるが、人間を缶蹴りのごとく弾き飛ばしてゆく様は、圧倒的な力のほとばしりを体現する。

「ゴルゴノプスか!?」

「いや、それよりは顎が細い。あれは──」

 

生物の矛先が、彼らに向いた。曲がり角に体を打ち付けながら、しかしその苦痛を意に介さない様子で、生物が一直線の最短距離を取って突っ込んでくる。振り切られて床へ落ちる自衛隊を進軍ラッパの応援団にでもするかのように、時空の亀裂と立ち塞がる調査チームへ質量を衝突させにかかる。

「まずいぞ避けろーッ!」

織部と葦人、大吾がそれぞれの方向へ跳ぶ。突如として道を開けられた生物は攻撃対象を見失い、既に停止できる段階にはなかった。だがそこには亀裂封鎖装置が残されている。生物の直進する軌跡延長上にぽつんと残された封鎖装置は、その直撃のエネルギーをモロに叩き付けられることとなった。装置は一瞬で崩壊した。ネジや金属板を散らしながら、生物とともに亀裂の彼方へ消えていく。

「そんなッ──」

床への落下運動を続けながら、葦人が叫ぶ。絶対に届くことのない、悲痛な叫び。ブロントルニスの襲撃をも耐えた封鎖装置が、ケースから取り出したばかりに、永久に失われてしまう。三人の体がタイルに着弾するのと、生物の尾が姿を消したのは、全く同じ瞬間であった。

 

だが生物は、過去の世界で運動の方向転換に成功したらしい。封鎖装置の消えた方に向いた葦人の眼前に、巨大な顎が出現した。赤色の口腔と、赤黒く染まった白色の歯が脳内で処理される。

(あ──)

葦人が危機を認識するとともに、彼の左右からEMDの射撃音が響く。織部と大吾の一斉射撃が、亀裂から顔を覗かせる生物へ撃ち込まれていく。連続した衝撃が襲い、生物は低い唸り声を苦し紛れに放ち、倒れるようにして再び亀裂の中で姿を消していった。

「……あれだけ撃てば、もう倒れてる」

消耗した様子で、大吾がEMDを床へ降ろした。織部も髪を汗に湿らせており、危険が計り知れないほどに迫っていたことが実感できる。

「あ……ありがとうございます。助かりました」

「ハア……ゴルゴノプスじゃあないのなら、今のは何だ?」

織部の疑問。状況の激変に呼吸を荒くした葦人が、思考を整える。呼吸と共に肩を大きく二、三度上下させ、もう一度息を吐く。

「……中学の頃でしょうか。一度だけ、展示を見たことがあります。それである保証はないですし、忘れ去った記憶から掘り出したばかりですが……おそらく、あれは、ワニです」

「ワニ?あれがか?この前のモササウルスの方がよっぽど──」

「陸生適応を果たしたワニの仲間です。ワニの仲間、クルロタルシ類は中生代では今とは比較にならない栄華を極めていた。ポストスクス、バウルスクス、新生代にもプリスティカンプススがいた。でもあれは──ああ、名前が出てこない、あれは、あれは……」

記憶を完全に取り出せず、半ば頭痛を患うように額に手を当てる。しばらくの苦悶の末、葦人の目に光が灯った。ついに記憶の扉に鍵がはまり、未知数であった名称が空欄へ埋められていく。

「あれは、セベコスクス亜目の爬虫類です。おそらくは、ラザナンドロンゴベ・サカラヴァエ。ジュラ紀に生息した、陸上適応を果たしたクルロタルシ類の一つです」

 

 

 

その頃、里亜は地下鉄を降りてコンサート会場の入り口に入っていた。ついに無秩序な雑踏から解放されて、整然とした行列に並ぶ。ようやく心に安息が訪れた彼女は、会場入りまでの時間つぶしにスマートフォンを起動した。

(──え?)

起動が完了するとともに溢れる不在着信と無数の通知。ひっきりなしに出現するバナーが否応なしに視界に入る。そのメッセージを、彼女の神経細胞はすぐさまに受容し、電気信号として脳へ伝達する。

つい先ほどまでいた駅に、亀裂が開いた。これまでに類を見ない甚大な亀裂災害の知らせ。応援要請が画面に表示されていた。

 



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血染めの軌跡 Part3

亀裂にEMDを向けて、調査チームの三人は立っていた。亀裂は憎たらしい様子で邪悪にかぷかぷと笑っているように浮かんでいる。亀裂は単なる自然現象に過ぎない、という大吾の言葉を葦人は思い起こし、湧き上がる苛立ちを必死にこらえていた。数百人に被害を与え、国家機密漏洩の危険さえ具現させた今回の亀裂。やり場のない怒りは理性という名の蓋を抉じ開けて沸騰しようともしている。

「ワニの仲間だと確定したのはつい最近です。今でも断片的な化石しか見つかってはいませんが……」

「全長7メートルの、グンバツな脚のワニか。なかなか強烈な個性の持ち主だな」

「まだあの時のトカゲの方が可愛げがある」

織部が悪態をついた。彼の頭に浮かんでいたのは、自らの土手っ腹に鈍器を叩き込んだウミトカゲだった。あの一件でパンノニアサウルスは警察を蹂躙し十人を超える死者を出したが、それは水辺においてだけの話であった。陸上でURAと自衛隊に遭遇した際、パンノニアサウルスはすぐに逃げ出す判断を取った。いかに水中で機敏に動けようが、地上を主戦場とする哺乳類に陸で包囲されてはたまったものではない。だから丁度良い具合に近場に並んだ石を体格に任せて弾き飛ばし、彼の独壇場たる河川へ逃げ込んだのだ。

だが今回のラザナンドロンゴベは話が違う。根っからの陸上特化型の爬虫類で、全長もパンノニアサウルスに並び、体格は遥かに上回る。群れる哺乳類の有象無象など、進路を妨害する殲滅対象に過ぎない。麻酔銃やEMDで囲まれようが関係なく、ただ蹴散らして突破するのみ。

三人が事の重大さを噛み締めていると、トランシーバーへ通信が入った。発信主は白夜だった。

 

 

 

しばらく経つと、駅前に新たに乗用車が飛び込んできた。警察と自衛隊の検問を通過するその車は、運転席に里亜が座って身分証を差し出している。彼女は列を抜け出して財布をはたいてタクシーでURAまで戻り、装備を整えてきたのだった。悪質な一般人を吹き飛ばせる小型EMDでは、今回の相手には立ち向かえない。大吾からのメールはそう告げていた。

「お待ちしておりました」

「現況は?」

颯爽と車から出て、歓迎する自衛隊の中を悠然と歩く。普段のふわりとした雰囲気は霧散し、生死を分かつ現場に相応しく凛とした態度。待ち焦がれた道楽から理不尽に外された現状に怒りを覚えてはいるが、それをわざわざ人前に出す真似はしない。

「情報の拡散を防ぐため、Line、Twitter、Facebookなど国内のSNSは全てブロックしています。JR・私鉄問わず駅に繋がる路線は全線封鎖。駅構内は各階ごとに封鎖し、現在生物の討伐中です。封鎖装置は破損しています」

「道理でLineが静かで電車も止まっていたわけね。生物の数と、具体的な居場所は?」

「残りは二頭、JRタワーの3階と5階で調査チームが対応中です。生物の詳細はお聞きになりましたか」

「陸生のワニ類。全長は7メートル、体高はヒトと同程度。極めて狂暴とだけ」

「……我々の認識も同じです」

「なら十分ってことね」

ドアを開いて構内へ入る。先ほどまで期待と苛立ちを胸に歩いていた駅がほんの不在の間に惨劇に襲われている。危なかった、という安堵。間に合わなかった、という無力感。その双方が胸に怒涛の圧力をかけ押し潰そうとする。

(──でも、そんな場合じゃない。起きてしまった事態には、収拾をつけなくてはならない)

圧迫感を払いのけると、トランシーバーの通信圏に入ったらしく、白夜から通信が入った。滑らかな手つきで通信機を手に取り、口元へ寄せる。

「白夜さん、えらくタイミングが良いですね。どこにいます?」

『監視室さー。僕だけが高みの見物で、全ての現状を把握できる立場にいる。御足労いただいた直後で悪いが、自衛隊を連れて至急3階へ向かってくれないか。リーダーが戦ってる』

「分かりました。織部さんと石済さんは5階ですか」

『そうだねー。もし3階のを先に眠らせたら、そっちにも向かってくれるか』

「了解しました」

通信を切る。傍にいた自衛官に目配せし、ハンドサインを送る。

「来て」

エレベーターの上昇ボタンを押すとともに、自衛官が六人ほど駆け出す。彼らの到達とエレベーターが音を鳴らしたのは同刻であった。エレベーターの扉が閉まり、彼らはその駆動に任せて上へ登っていく。

(……彼女、怒ってないか?)

監視室に残る白夜は、通信先に聞こえた彼女の声に、何かを感じていた。

 

 

5階では、織部と葦人の隊が破壊魔との激戦を繰り広げていた。

逃げ遅れた民間人が隠れていたカフェテリアを織部が発見し、彼らの避難誘導を行っていたときであった。彼らの焦りや恐怖の臭いを感じ取ったとでも言うのだろうか、3階に潜伏していたラザナンドロンゴベが奇襲を仕掛けてきた。綺麗に掃除の行き届いた窓ガラスが砕け散り、隊員と民間人に切り傷を負わせる。だがガラスの痛みを神経が受容する頃には、さらに強力な一撃が群集に叩き込まれていた。

既に退避を始めていた民間人はその直撃を避けたが、誘導中の隊員が二、三名撥ね飛ばされる。大理石の壁にヘルメットを強打し、壁と防具にヒビを入れるほどの衝撃が、鼓膜を通り抜けて直に脳を揺さぶった。

床に崩れ落ちた者に興味を向けず、ワニの殺戮衝動は背を向けて逃げ惑う民間人の方へ首をもたげた。それが伝わると民間人は悲鳴のボルテージを一層高め、さらにそれがラザナの神経を刺激する。

「させるか!」

巨大ワニと避難者の間に、調査チームと残りの自衛官が立ち塞がる。異物の邪魔をラザナが感じ取るよりも早く、EMDの一斉砲撃が放たれる。

だが中生代を彩った恐竜の蔓延るマダガスカル。その頂点に君臨するラザナンドロンゴベが、この程度の危機に倒されることはなかった。跳び退いて距離を置いたのではない。あくまでも真っ向勝負。否、彼にとっては勝負ですらなく、単なる邪魔者の排斥でしかなかった。

彼は目の前の邪魔者たちへ突進した。これまでの生命で銃火器を目にしなかったこともあり、己に向けられたEMDを意に介さない。一見すると自殺行為にも捉えられる行動であるが、運命の女神は古代の支配者に微笑むことを選んだらしい。奇跡的にワニの軌道はEMDの弾道を外れた。急激に距離を詰められたことで、退避を想定していた人間たちは裏をかかれた。自衛隊の放つ麻酔弾も同様に外れて後方へ飛んで行き、命中した弾も強固な外骨格に弾かれて回転しながら散っていった。人間がそれを認識できた頃には、既にワニはゼロ距離まで迫っていた。

「う──」

ワニが重心を中心にし、床と平行に軸回転を描く。丸太のような尾と胴が自衛隊の画面に直撃し、彼らは歯や鼻を折りながら薙ぎ倒された。回転運動はそのまま織部と葦人に直撃し、彼らに莫大な衝撃を与える。

「がッ」

数人の自衛官は頭から壁へ叩き付けられた。ヘルメットの割れる音ともに、嫌な音が発せられた。おそらくは頸椎が破壊を受けた音であり、それ以降彼の肉体は動かなくなった。

その光景を目にする余裕もなく、調査チームも壁へ叩き付けられる。全身の骨が軋み、葦人は激痛を耐え切れずに叫び声を上げる。織部も歯を食いしばり、その隙間から苦痛の声を漏れた。衝撃で全身に痺れが走り、立ち上がれない。筋肉に力が入らず、腱が脳の指令を聞かない。骨だけでは体を支えられず、バランスを保てないまま床に倒れ伏してしまう。

(まずい、殺られる!)

筋肉と腱に裏切られた葦人の脳は、それでもなお全力で未曾有の危機を知らせていた。

 

だが脳を裏切る者はほかにもいた。彼らを吹き飛ばしたワニは追撃を加えず、それどころか直撃時よりも離れた場所に立っている。何か得体の知れない物を食らったかのような素振りで、前脚を動かして不思議な動きをしている。未知の現象を目の前にして戸惑っているようだ。

「EMDだ。これであいこだな」

葦人や自衛官たちが現状を理解するよりも早く、織部が自信に満ちた顔で言い放った。既に彼が持ち上げた手にはEMDが握られている。

「さあ立てよお前ら。向こうも状況が分かってねえみてえだ。あいつが当たる寸前に最大出力のEMDをお見舞いしてやったんだ。一発で倒れないとはなかなかにタフだが、俺たちに反撃の時間をくれるとは甘い野郎だ」

その言葉は人間サイドに希望を与えた。弾き飛ばされた銃を自衛官が持ち直し、痺れの残る手つきで銃口を向ける。葦人も同様だった。痛みに筋肉を痙攣させながらも、EMDを最高出力に設定する。

ラザナンドロンゴベもまた、状況を次第に理解しはじめたらしい。あの筒は脅威だ。無力なピンク色の生物たちは、あの筒で何か毒のようなものを放つらしい──現状をそう解釈したワニは一歩退いた。それを見た自衛官たちが動き始め、一歩前進する。

ワニは突如として方向転換した。遮蔽物を求め、丸いテーブルを轟音と共に跳ね除けてカフェテリアの奥へ突入する。動ける人間サイドが完全に立ち上がり、ワニの向かう先へ脚を異動かす。

「階段脇の者は避難誘導を続け、完了次第合流せよ!」

自衛隊が高らかに命令を下す。続々と戦闘態勢を整え、ワニに立ち向かう人間が増えていく。

「立場逆転ですね」

危機的状況から好転していく様を目にし、葦人の口角は自然に上がっていた。だが織部の顔を見ると、相変わらず大渓谷のように険しい表情が存在を主張している。葦人の顔から笑みが消えた。

「甘く見るな、石済葦人。あいつとは潰し合いだ。一発で形勢が大逆転するほど楽じゃあねえ……隙を見せれば、狩られるのは俺たちだ」

 

 

 

事実、大吾のいる3階では、織部の指摘が現実のものとなっていた。

出会い頭にEMDを撃ち込んだ大吾の部隊は、人間たちを狩られる側から狩る側へ昇華させたように見える。だがその実態は、EMDという危険な存在をワニに教え、その対策を学習させてしまったということだった。家具販売店や書店が広がる広大なエリアを舞台に、ラザナンドロンゴベはゲリラ戦を仕掛けられる立場に立っていた。

次々に商品棚が倒壊し、隊員が巻き込まれる。ある者は棚に押し潰され、ある者は直接その歯に引き裂かれた。ガラス製品が次々に飛来して彼らの顔に傷を刻み込み、運の悪い隊員には光を失った者もいた。見通しの悪い店内でEMDは金属製品に当たって役に立たず、麻酔銃もその猛威を振るえずにいる。一人、また一人と部下が脱落していく。

「音を聞き取れ!ヤツがどこから来るか探るんだ!」

大吾の鶴の一声で、隊員が沈黙した。息を殺し、生物の立てる音に耳を立てる。

五、六秒後だろうか。先ほどまで暴れ続けていた巨大生物の、荒れた呼吸音が鼓膜に届いた。

「10時の方向だ!」

一斉に自衛隊が飛び出し、各々の武器をその方向に突きつける。高くそびえる棚のと棚の山脈の間に、ワニが潜伏している様が視界に飛び込む。その姿を視認するや否や、反射行動として引き金が引かれていた。電撃と麻酔弾が混ざり合い、一斉にラザナンドロンゴベに牙を向けた。

だが既に、ラザナも一手を打っていた。その爆発的な一手は、人間の発想スケールを超越した領域にあった。頭部から尾までを走る太い筋肉が、そばに置かれている寝具を拾い上げる。まるで投擲具で槍を投げるように、滑らかな動きで加速度がかかる。そのベッドは正確に自衛隊の中心めがけて運動を開始した。自衛隊の反応が声として現れた直後、加速した質量弾が彼らに直撃した。

店内を大きく揺るがす轟音が響き渡り、その音は1階の吹き抜けで話し合っている自衛隊にまで届いた。音源の3階では砕け散った木片が飛び散り、2人の自衛官が寝具の直下で粉砕骨折の憂き目に遭った。既にワニは別の場所へ姿を隠し、彼を狙った無数の砲撃は棚に命中して周囲に破壊痕を残すのみに終わっていた。

 

「おい、今助け──」

逃走したワニの追跡を後回しにし、寝具の下敷きになった隊員を助けようとする。だが大吾は直後に思い知ることとなった。ワニに圧倒的アドバンテージを与えてしまったこの状況で、他者に力を割く余裕はないと。

十メートルほど離れた場所で、これまた凄まじい音が響いた。そして1秒ほど遅れて、何らかの衝突音が響く。また1秒後、さらに1秒後。その音は次第次第に大きさを増しているようで、こちらに接近しているようにも感じられる。

(まさか──)

『リーダー!避けて!』

「千代田さん!棚が倒れてきます!!」

周囲の隊員たちと、通信越しの白夜の叫び。大吾の感覚は正しかった。音は大きさを増しつつ、さらに接近もしていたのだった。ワニは棚に体当たりをかましていた。棚はその圧倒的なパワーに敗北を喫し、ドミノ倒しの波は大吾たちを圧殺せんと迫ってくる。

「クソ──」

「行ってください、千代田さん」

寝具に潰された隊員は苦痛の表情を浮かべていた。だが彼を安心させるためなのだろう、無理な笑顔を作ってみせている。その笑顔が、余計に大吾の心を責め立てた。

「……全員出ろッ!早くッ!」

叫びながら棚の間から飛び出すのと、倒壊が到達したのは同時だった。脚が抜けるとともに棚が崩れ落ち、なおも波状攻撃は轟音を立てて続いてゆく。寝具の下の隊員は、もはや息をしていないだろう。

 

『リーダー、次が来ますッ!』

感傷の暇も与えず、追撃がやって来た。倒壊の波を脱した隊員たちを無慈悲に千切り飛ばす猛獣。圧倒的破壊の暴風雨が吹き荒れ、人間たちはなす術もなく叩き飛ばされる。嵐に巻き込まれた田畑のごとく蹴散らされる様相は、まさに彼が狩る側の地位に復古した証明。

「全員構えろッ!」

暴虐の限りを尽くすワニへ銃口が向けられる。お前達その筒が速いか、それとも爬虫類の歯と爪が上か。ほんの一刹那。試してみるがよい、という覇者の風格が場に降臨した。

その瞬間、自衛隊を恐怖心が突き抜けた。ほんの一瞬、彼らの挙動が制限を受ける。それは大吾までも例外でなく、引き金を動かそうという指が一瞬静止していた。

この一瞬は、日夜鎬を削る野生動物の世界では死に直結する時間であった。ワニが動く。目の前に並ぶ肉袋を引き裂かんと、その筋肉が躍動を始める。まだ人間たちの視神経は情報を伝達できない。無防備なまま立ち尽くす生物に破壊をもたらす──

 

──だが、何事にも例外というものがある。

ラザナは知らなかった。この構造物の中に、新手が一体侵入していたことに。

自衛隊も知らなかった。この駅の構内に、増援が一人増えていたことに。

大吾も知らなかった。この店の中に、仲間が一人駆けつけていたことに。

闘争の途中で足を踏み入れた彼女は、ワニの放つ覇気に恐怖心を抱かなかった。彼女にあったのは強大な怒りであった。第1フロアでは決して露わにせず心の奥底に鎮めていた莫大な怒りが、一気に噴火活動を始めていた。

そのエネルギーはEMDの一撃と化し、ラザナンドロンゴベを襲った。強力な一撃を頭に受け、ワニの巨体が崩れる。低い音がフロアに響き、大吾を含め、その場にいた人間の度肝を抜いた。全員がEMDの砲撃が飛んできた方向に目を向ける。

 

その方向に居たのは、EMDを構えた里亜だった。

片膝をつき、その視線は真っ直ぐにワニを刺すように向いている。

「棚を崩しれくれたおかげで撃ちやすかった……ありがとう。暴れてくれてよかった」



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血染めの軌跡 Part4

5階での戦闘はまだ続いていた。

カフェテリアのテーブルは全て横倒しになり、床に転がる木板には割られたものも少なくない。椅子の脚は奇妙な形状にねじ曲がり、天井から釣り下がった照明はことごとく床に落ちて砕け散っている。その上を自衛隊が軍靴で踏みしめる奥で、厨房の一角が大きく弾け飛んだ。キッチンを破壊して、ワニが飛び出してきたのだ。

破裂するように自衛隊員が吹き飛ばしながら、ラザナは逃亡する。ガラスを金属枠ごと破壊してカフェテリアから脱出を果たす。飛び出した先の通路は自衛隊の射程圏内だだったが、既にEMDを学習したラザナンドロンゴベには周知の事実であり、EMDの死角となる壁に逃れてゆく。彼を追ってカフェテリアから織部と葦人も飛び出し、まだ痺れの残る脚に全力で鞭を打つ。自らよりも遥かに強大な相手を万全と言えない身体で追う、過酷なレースに身を投じていた。

 

曲がり角のたびに振り切られ、対面すると猛烈な破壊力に晒される。何度かそのやり取りを繰り返すうちに、莫大な疲弊が体にのしかかってきた。

肺が擦り切れそうなほどに呼吸が激しさを増し、脚に震えが走る。訓練を積んでいる織部はそうでもなさそうだが、それでも膝に体重をかけて体を支えているところを見るに、相当な疲労が来ているようである。

やがてワニの呼吸音が耳に届いた。音の方向に目を向けると、意匠をこらしたデザインの焼き肉屋の陰に、巨大な影が潜伏しているのが見えた。間違いなく、数秒以内にこちらを血祭りに上げるつもりだろう。

「来るか……」

身体に鞭打って、織部がEMDを担ぐ。その照準を木枠越しに奴の目へ合わせる。隊員たちと葦人もそれに倣い、銃口を生物へ向ける。今度こそ絶対に倒してやるという、固い信念が疲れ切った場を統一する。

ワニは後ずさった。木枠から姿を消し、死角へ突入した。

「動くのは不味い。あいつのことだ、探りに行った我々をその場で全滅させる気だ」

「じゃあどうします?ここで待ちますか」

「……そうだ。ここに繋がる全ての通路を見張れ」

葦人が、自衛官が、一斉に360°に展開する。東西南北どの方位から巨体が迫ろうと必ず銃を叩き込める陣形配置。この場で終わらせてやる。民間にも政府にもこれ以上の死傷者は出さない。強靭な遺志に、空気が張り詰めていた。

 

姿を目撃したのは葦人だった。真正面に続く通路にラザナが姿を現した。

「来たぞおおおお!!!」

葦人の絶叫。自衛隊と織部が一斉にEMDを向けるよりも早く、ワニの脚が床を蹴りつけていた。大顎を開いて突撃する怪物を前に、EMDと麻酔銃が一斉に火を噴く。怪物の耐久力と銃の火力のいずれが勝るか、地獄の闘争が勃発した。

 

射撃開始から0.5秒。その身に衝撃を受けてなお、ラザナは止まらない。

 

射撃開始から1秒。自衛隊のEMDがエネルギー切れを起こす。

 

射撃開始から1.5秒。ワニのバランスが崩れるが、いまだその躍動は止まらない。

 

射撃開始から2秒。完全に横転した大質量の生物が、人間たちに突っ込んでくる。

 

射撃開始から2.5秒。自衛官と葦人がその直撃を受け、弾き飛ばされる。

床に叩きつけられた彼らであったが、微塵の間隙さえ開けない勢いで武器を向けた。寝込みを襲うことなど想定済み。即座に電撃を浴びせて今度こそ眠らせてやろうという気概があった。

だが既に、ラザナンドロンゴベは床で動かなくなっていた。

呼吸はしている。鼻を空気が通るとともに、腹部が拡大と縮小を繰り返しているのが見て取れる。だが四肢はピクリとも動かない。顎をこれ以上広げることもなければ、閉じることもなかった。

 

 

「……倒せた、のか?」

恐る恐る、確認するように葦人が口を開いた。

「……あれだけ全員で麻酔とEMDを撃ち込んだんだ、これで倒せていなければ絶望だ」

横たわるラザナンドロンゴベを見下ろしながら、織部が大きく息をついた。それを聞いて自衛隊にも安堵の空気が流れ、彼らは緊張しきった顔を緩めた。葦人も足腰から力が抜けてその場に座り込む。

「よかった、よかった……」

「なんとか鎮めたな」

織部はそう言うと、静かに自衛隊の方へ顔を向けた。疲れ切った顔をした自衛官のうち、幾人かは織部の視線に気づいて会釈した。

「君たちの仲間が何人散ったか分からない……それは済まなかった。だが全滅という、最悪の事態は避けられた。許してくれないか」

葦人が何かに気付いたように、ハッと顔を上げた。織部と目を合わせた自衛官は彼を真っ直ぐに見つめたまま返す言葉を考えていたが、じきに口を開いた。

「……許すも何も、問題はありません。これが仕事ですので」

「……そうか。俺たちだってそうさ」

 

織部の静かな顔つきに、葦人はあることに気が付いた。自衛官たちに対する申し訳のない気持ちが、ある程度弱まっている。以前は夜も眠れないほどに心を抉った事例であるが、アドレナリンのせいだろうか。犠牲が少なく済んで良かったという思考が浮かび、もしかすると今の自分の顔には微笑みさえ浮かんでいるのではないか。

おそらくはEMDが彼らにも支給されイーブンになったことが要因であろうが、既に計三回の亀裂災害を目にして慣れが生じたのかもしれない、という考えが浮かんだ。亀裂調査を続けるうちには良いことだろうが、人としてはどうなのか。だが彼らが全滅を避けられたのは良いことである、という思考が自分の中にも生まれている。確かにその通りではあるが、これを手放しで喜んで良いものか、葦人は考え込んだ。

 

「っと、トランシーバーは……」

心境の変化が生まれている葦人をよそに、織部は倒した成果を報告しようとしていた。通信機を探る手に機械が触れる。これだと思い取り出してみると、それはトランシーバーではなく携帯式の亀裂探知装置であった。

(間違えたか)

所在の分かっている亀裂に対し、探知装置は必要ない。装置を戻して改めてトランシーバーを探そうとしたが、その手にストップがかかった。

探知装置の表示が奇妙だった。

その奇妙な感覚の原因は掴めないが、何かが奇妙だった。何かがおかしい。どこがに違和感がある。織部は探知装置を手に取り、その表示に目を走らせた。

「──亀裂が、閉じた?」

 

 

 

「亀裂が閉じただと?」

3階の大吾と里亜、監視室の白夜も、織部からの報告を受けた。確かに探知装置には亀裂の存在を示すマークが何も表示されていない。駅の構内に出現した電波障害は消え失せており、全く何の異常現象も検出されていなかった。

『1階の自衛隊の皆さんも、結構慌てていたみたいですね。ほら、3階だと丁度ベッドが飛んだ頃です。とりあえず、僕が本部の研究員に連絡取ってみますねー』

「頼む、白夜」

「それにしてもタイミングが悪いですね……」

心なしか口を尖らせる里亜の台詞に、大吾は疑問符を呈した。

「いや、むしろ助かったぐらいだ。伝えていなかったか?封鎖装置が一頭に破壊されて、亀裂は誰でも通過できる状態で開いていた。あのままでは危険極まりなかったんだ」

「それは聞きました。でもリーダー。既にURAの生物収容施設はテオソドンとブロントルニスですし詰め状態ですよ?あんなワニを入れたらもういつパンクするか──」

「……そうだな。近隣の動物園にでも相談してみるか?」

「動物のプロに任せたら古生物だなんてすぐバレませんか?」

「ううむ……」

『話を遮って申し訳ないが、そっちのはもう片付いたのか?』

考える大吾に、トランシーバーから織部の声が流れた。

「ええ。私がEMDで撃ちました。今は眠ってます」

『それなら眠らせたままURAへ運ぶぞ。リーダー、1階でいいか?』

「問題ない。亀裂のあった、1階の吹き抜けで会おう」

『了解だ』

 

通信が切れたのを確認して、大吾と里亜は捕獲した生物の方を向いた。その巨体は相変わらず床に転がり、静かに眠りについている。大吾は高らかに手を鳴らし、周囲の自衛官の注意を引いた。

「諸君、こいつを1階まで運ぼう。台車か何かがあればいいが」

幾人かの隊員がその場を離れ、何か運べるものを探しに行った。指示を下した大吾も道具を探しにその場を後にし、その場には数人の隊員と里亜が残されることとなった。里亜はワニを見下ろし、冷たい目線を浴びせた。

(こいつがいなければ、私は今頃──)

色とりどりに輝く照明、熱狂するオーディエンス。飛び交う黄色い声援を一身に浴びるアーティストの姿が目に浮かぶ。楽しくコンサートに聴き入る自分の姿が想像される。

だが現実はせっかくの休日も職場に駆り出され、生物との対峙用でない、力を入れた私服のままワニを見下ろしている。凶悪な歯が並ぶ現実と、究極の娯楽とも呼べる理想。それぞれの極致が残酷なほどの落差を生み、彼女の心は滝に落ちたかのように沈んでいた。

ハア、とため息をついてもう一度現実に目を向ける。禍々しい巨大な歯に、呼吸を繰り返す外鼻孔。そして大きく輝く目。どれをとっても理想とはかけ離れ──

 

──大きく輝く、目?

──眠ったはずの生物が、目を輝かせているとでも?

里亜の体から、一気に冷汗が噴き出す。ラザナンドロンゴベの瞳が、大きく動き始めた。顎が開き始め、呼吸音とは明らかに異なる"声"が発せられる。

自衛隊も異変に気付いた。驚きながらも銃を向けるが、筋肉の詰まった尾はそれを許さなかった。盛大なフルスイングが銃ともども自衛官を吹き飛ばし、一撃で彼らを戦闘不能に陥らせた。

今度ばかりは里亜の激情を驚嘆が上回った。驚きの表情を浮かべる彼女をよそに、ワニは彼女の背丈を越える高さまで体を持ち上げた。その光景は破壊音を耳にした大吾の目にも、ふと監視映像に目をやった白夜の目にも留まった。

『里亜!』

「下がれーッ!」

大吾の叫びと同時に、ワニは走り始めた。全速力で駆けるその先には、1階まで床を貫く吹き抜けが存在する。そこからの転落を恐れないかのように、むしろそれを狙いとしているかのように、ラザナが床の端に向かって突進してゆく。

「まさか──」

里亜の懸念をよそに、ラザナンドロンゴベは飛び上がった。その巨体は吹き抜けに向かって吸い込まれていき、3階の床を越え、2階の床の高さまでもを突破する。落下運動は1階の床に阻まれ、床板を叩き割って停止した。着弾時の爆音に続く破片の散る残響が、1階にいた自衛官たちをどよめかせた。

ワニは彼らにも関心を向けず、一点に向かって駆け出した。その先に立ち塞がるシャッターをぶち破り、ワニは階段を駆け下りて行く。その先に存在するのは、里亜が先ほど使っていた地下鉄であった。

「嘘でしょ……」

吹き抜けに駆け寄った里亜は、ワニが1階に落下して逃走する様子をその目に焼き付けていた。追いついた大吾も、ラザナの尾が地下鉄の方へ消えていくのを目にした。

「地下鉄も封鎖済みですよね?」

「ああ、人はいない……が、線路を辿れば別の駅へ行ける。危険だ」

大吾は即座に振り返り、駆け寄る自衛隊に向けて大声を放つ。その手にトランシーバーを持ち、全隊員に一斉通知する。

「生物が地下鉄へ降りた。繰り返す!生物が地下鉄へ降りた!」

 

 

 

一方で、URAにもどよめきが起こっていた。白夜から連絡を受けて亀裂の状況を調べていた研究者たちが探知装置のスクリーンの前で息を吞んでいる。スクリーンに表示されているのは、亀裂が存在するという証拠。電波障害は消滅しておらず、時空の亀裂は今なお権限している。

だがその場所は調査チームや自衛隊のいる駅ではなかった。そこから地下鉄で3駅離れた駅に隣接するアリーナ。里亜が待ち望んでいたコンサート会場の中央に、亀裂の存在を示すマークが表示されている。既に開演時間はすぐそこまで迫っていた。アリーナは数万人の観客に埋め尽くされ、アーティストは既に準備の段階に入っているはずだ。

たった一つの亀裂が、数万人の命を奪い、数千万人の心を破滅させられる位置にいる。間違いなく、亀裂調査プロジェクト発足以降最悪の事例の一つに数えられる。研究者は戦慄した。一日に亀裂が2つ開く驚異と、危機に瀕する人命の脅威。

 

『過去ではある一点に留まる亀裂が、現在では流動する。つまり亀裂は、移動するんだ』

ある研究員の脳裏にある言葉が浮かぶ。それはURAの先駆けとなった亀裂調査センターの初代調査チームリーダー、ニック・カッターのものであった。

彼が予測した"時空の断層"現象が今、大洋を隔てた日本の地でも生じていた。



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血染めの軌跡 Part5

「断層?」

「そうか、説明してなかったな」

先刻まで亀裂の開いていた吹き抜けの最下層。ラザナンドロンゴベが着弾してヒビ割れた床の上に、調査チームが円を描いて話し合っている。織部と葦人は5階で倒したワニをエレベーターで輸送して自衛隊車両に預け、監視室で大吾の目と耳になっていた白夜もこの場に集まっていた。

白夜は研究者の報告を一言一句聞き漏らさず、観測された事実をそのままに調査チームのメンバーに伝えた。アリーナに亀裂が移動したこと。亀裂の断層を知らない葦人を除いて全員に衝撃が走った。特に目の前でワニをむざむざ逃がし、心待ちにしていた場所に災害の矛先が向いた里亜には、莫大な数の感情が呼び起され渦巻いている。見るからに消耗した表情で、異様な雰囲気が放たれている。

「時空の亀裂は移動する。これは2007年に当時の研究者ニック・カッターが発見した法則だ。時空の亀裂とは時間の流れが傷ついた場所に他ならない。時空間の破壊が起こった断層線に沿って亀裂は移動する。一見すると消えたようだが、別の場所にまた開くんだ」

「それがアリーナに?」

「ああ。それもツいてないよー。ワニがそっちへ逃げた可能性もあるんだから」

「一種の帰巣本能のようなものだろう。目を覚まして亀裂の移動に気付き、その方向へ向かったかもしれない。亀裂が閉じる前に、元の時代へ戻るために。アリーナは地下鉄と直接繋がっていて、地下鉄の利用者がすぐにアリーナへ足を運べるようになっている。全く便利な世の中だ、よりによって」

「戻ってくれるのはありがたいんですけどねー。いかんせん民間人が……」

「アリーナの方へ向かったのは確実なんですか?」

葦人が続いて疑問を呈した。生物を追う上では重要な情報だった。ワニの向かう先をアリーナと断定していては、他の場所に出現したときに対応が遅れる。鉄道路線は複数の駅と繋がっているため、他の駅に出没する可能性は十分に指摘できる。これだけの大破壊をもたらした生物がノーマークの駅から逃走すれば、一都市を相当の脅威に晒すことになる。

「それは大丈夫。監視室で地下鉄構内の映像も見れたからねー。アリーナのある方向に線路を走って消えていくのがバッチリ映ってたよ」

「亀裂の所在が分かるよりも前に奴が逃げたから、既に自衛隊は各駅に出動させた。もしアリーナに出没しなければ彼らが相手を──」

 

「白夜さん」

大吾の話を遮り、これまで沈黙していた里亜が口を開いた。静かに荒れ狂っていた感情の波は抑えられたらしい。だが、エントロピーが減少に転じて1つに固まった感情は、普段の穏和な空気からは遥かにかけ離れたものであった。その目は怒りを通り越して次の段階に至っている。

「……どうしたんです?」

尋常でない空気を感じ取り、思わず丁寧語を使ってしまう。大吾も里亜の突き抜けた情緒に気付き、腕を組んで静観を決め込んでいた織部も里亜に目をやった。

「轢き殺しましょう。あいつを」

その場に居た全員が戸惑う。群を抜いた度胸を持つ織部も、破天荒と評された白夜も、彼女の発言に絶句した。彼女の言葉が本心であることは、目つきを見れば分かる。

「──何を言ってるんですか、そんなこと──」

「最高出力のEMDからも回復する化け物です。このまま逃走を許せば甚大な被害が街を襲いますよ。数十トンの鉄の塊で轢き潰すのが、この場で取ることのできる最善手です。幸いにも鉄道は前線封鎖済み、電車は自由に走れます!」

「しかし亀裂生物を殺すのは──」

「リーダー!そんな悠長なことは言ってられませんって!今を生きる人間と、過去の生物!どっちが重要なんですか!」

「過去の生物を殺せば歴史が変わる!分かってるだろう!」

「落ち着け」

見かねた織部が横槍を入れた。この場ではリーダーの大吾よりも年長である彼は、この空気を止めるのに十分な貫禄を発揮した。荒んでいた里亜も一時口を噤み、場の進行が彼に一任される。

「斎賀、興奮しすぎだ。リーダーも言った通り、生物は極力殺さないのが我々の方針だ。それをなんだ、列車で轢くなんざ完全に頭から殺しにかかってる。頭を冷やせ」

「でも──」

「でも、じゃあない。お前が自分の趣味を破壊されて荒れているのは分かる。だが職場にプライベートを持ち込むな。私情を挟むな。お前の長所は切り替えの速いところだと俺は思っていたが……違ったようだな。感情がその場に大きく振り回されているだけだ。その振れ幅があまりにも極端で大きいから、お前は現場に立つと真剣かつ冷静になっているように見えるだけだ。癇癪を起こすただのガキだ」

「なッ──」

熱意がこもり、それでいて淡々とした織部の指摘。それが図星だったのか、里亜の中で大きく炎が湧き上った。だが爆発的に膨れ上がったその衝動も織部は涼しい顔で停止させる。

「反論できるのか?理論整然と、泣きわめかずに」

「う……」

「……今、支離滅裂に言い返してこなかったのは褒めてやる。そのくらいの冷静さは保てよ」

荒い息を吐いて顔を赤くしながらも、里亜は押し黙った。何かを言えば織部の正当さを補強するだけになってしまう、そんな気がした。この主張合戦で自らが劣勢に立っていることは、興奮の冷めないこの状況でも判断が付いていた。

 

目の前で展開される里亜と織部のやり取りを、葦人は意外に感じていた。

(──僕も、そうだと思っていた。フクイラプトルの時だって、いつもの軽いと受け取れる態度と真摯な態度、二面性を持つほどに切り替えの上手い人だと思っていた。でも実際は、まだ感情をコントロールできていないだけ。彼女が子どもだとは思わない。まだ、自分を大きく変える出来事に遭っていないんだ)

白夜に目を向ける。彼がURAでいじっていたルービックキューブは、単なる旅行の記念というだけではなさそうだった。具体的な根拠はない。ただ、どこか寂しそうな顔をしていじっていたように感じた。

織部も過去を語りそうにない人物だが、年長者である彼は四十年を超える中で何かに出会っていたのだろう。自分にそんなものがあるとすれば、おそらくはフクイティタンとフクイラプトルとの邂逅だろう。だが里亜にはそれがない。里亜だけは、過去との(しがらみ)がない。

 

「リーダー。ワニの挙動に関わらず、亀裂が開いたなら行かないとな」

織部が大吾の方へ顔を向けた。一時的にでも場を仕切って悪かった、と統治権を大吾に返上するかのようだった。彼は戻ってきた権力を受け取り、発案者の織部へ頷いた。

「ああそうだ。至急車で向かう。私が運転するから、里亜は助手席に座れ」

「……はい」

駆け出す四人とともに、当然葦人も車に向かって走り出した。その前方で、いまだ黒く塗りつぶされた目をして髪を揺らす里亜が視界に入る。

(──あるいはこれが彼女の(しがらみ)になるのかもしれない。この亀裂が。あの生物が)

 

 

 

ラザナンドロンゴベが線路上を走り抜けていく。元の時代では決してお目にかかることのなかった鋼鉄のレールと添木の上を、太古の島を支配した脚で踏みつけていく。封鎖された地下鉄は電車はおろか作業員の一人もおらず、都会の喧騒から隔絶された静寂の空間を形成していた。

数百メートルから一キロほどの感覚で並ぶ駅は暗闇に満ちた線路の光源をなしていた。そこだけが光に満ちており、離れるごとにその恩恵も薄れて小さくなってゆく。この長い洞窟は大部分が夜の世界にあった。

その慣れない世界を、故郷へ帰還せんとラザナは駆ける。時空の亀裂の存在が、自然界で培われた彼の感覚器官をくすぐった。その距離も、場所も、朧げながら察知できた。人間には存在しない勘とでも言うのだろうか。

やがて、その"位置"が来た。目の前に広がる光源。ここに間違いない。ここを乗り越えると、あと少しで故郷だ。

 

ワニが線路から駅のホームへ飛び乗る瞬間、里亜の提案した作戦は完全に瓦解した。ワニは人類の持つ大質量の鉄塊の軌道を回避し、その牙を哺乳類の柔肌へ向けられる領域に足を踏み入れた。改札口を破壊し、階段を駆け上がる。

光に満ちた世界が顔を覗かせるとともに、目の前に立ち塞がる邪魔者が存在を主張した。自衛隊だった。銃口を向けて攻撃を開始するが、迷彩服は数秒後に軽く飛び散り、幾名かは壁に押し潰されて絶命する。進行方向に捕捉されるだけで数百キログラムの力が加わり、自衛官は内骨格の砕ける音を奏でた。

自衛隊の総力戦もむなしく、彼らの陣形はラザナに突破された。いっそここで邪魔者を全滅させても良かったが、真の目的は人間たちの先にある。関所を突破した後に控えるのは、民間人の多く集うコンサートホール、そして時空の亀裂。すぐそこに亀裂が存在すると、全身の感覚が告げている。

轟音と銃声に驚いて飛び出した警備員が、瞬く間に吹き飛ばされた。軽く宙を飛んだ警備員の体は頭から自由落下して大きな窓ガラスに叩き込まれ、その破片とともに地面へ落ちて鮮血を散らした。その音と光景は他の警備員や設営係を大きく震わせ、ホールの外に阿鼻叫喚をもたらす。

だがその騒動も、防音設備の整ったホールの中には届かない。むしろホールの中は今、突然姿を現した宙を舞う光の球が混乱を巻き起こしている。既に球体の出現に奔走していたスタッフたちは加速度的に慌てふためき、なりふり構わず逃走を始めていた。

事の元凶であるラザナンドロンゴベが動く。真っ直ぐに亀裂へ向かう。亀裂のあるホールへ向かう。逃げ遅れた有象無象を蹴散らして、ワニは全力を込めてホールのドアを吹き飛ばした。

 

 

 

「里亜!あそこがアリーナか!?」

「……はい」

いまだ本調子ではない里亜を助手席に乗せ、大吾はアリーナに向かって車を飛ばしていた。高速道路かと見紛うほどのスピードを出し、クラクションを鳴らされながらも辛うじて無事故でアリーナの手前まで到達していた。

「よし、もう少し車を近づける。窓を破ってもいい。多少の荒いことは私が許可を出す。一早くアリーナに突入して亀裂を保護──」

そこまで指示を出して大吾の口が止まる。突然黙った大吾を不審に思った里亜が彼の顔を見上げると、彼の目は斜め前を見つめていた。まるで何か異様な物を見た様子で、一点をひたすらに見つめている。里亜も前を向いた。残る調査チームの面々も、彼らの視線の延長線上に広がる光景に目を大きくした。

無数の人間が逃げ出していた。透明なガラスの向こうで、ホール側面の出入り口を軒並み全開にして、夥しい数の民間人が腕を振り回して濁流のごとく逃げている。涙を目に浮かべて口を押さえる者、大きく口を開いて叫ぶ者。ついにここでも民間人に被害が出た、その証左。

「──!」

「突破されたか……!回り込んで間に合うかッ──」

 

大吾がハンドルを切ろうとしたその時、側方から勢いよく腕が飛び出してハンドルを鷲掴みにした。突然の動きに全員が驚きの目を向けた先には、当然助手席に座る里亜がいた。彼女は目を再び燃やし、シートベルトを既に外して立ち上がっていた。大吾の力をも利用してハンドルを全力で大きく回転させると、車の進行方向が大きく変動し、アリーナのガラスに向かって真っ直ぐに突っ込んでゆく。

「おいッ何を──」

「あそこからは観客が逃げていない……!つまりあの場所はワニに最も近い位置ッ!突っ込みます!掴まってッ!」

 

叫びとともに脚を蹴り出し、アクセルペダルを物理抵抗の生じる最奥まで踏み切る。キックダウンが発動し、猛烈なエンジン音とともにガラスに向かって1トンの金属塊が加速した。

突然捕食動物に襲われた動物は、通常その反対方向へ逃れる。わざわざ捕食者に向かって逃げる生物など、例外はあれど、人間のような思考をしているのであれば通常は考えられない。出入り口があるにも拘わらずそこから人間が溢れ出さないというのは、そこに捕食者がいるからだ。里亜はそこに目をつけていた。

「ああッ、もう仕方ない!」

大吾が全力でハンドルの中央部に拳を叩き付ける。大音量のクラクションがけたたましく鳴り響き、ガラスの向こうの民衆は乗用車の接近に気付き慌てて遠ざかった。弾着用に広く用意された人間バージンロードへ、ガラスを突き破って車が飛び込む。屋内外の段差で車が跳ね上がるが、そのような些末なことは気にしていられない。

「このままアリーナに突っ込むぞッ!!」

 

全開にされたドアの間隙を通り抜け、鉄の馬がアリーナに躍り出る。調査チームが目にしたものは、鮮やかに輝くスポットライト、煌びやかなステージ。いまだ脱出できずに逃げ惑う民間人と、煌々と周囲を照らし上げる時空の亀裂。そして座椅子群を崩しながら歩を進める陸ワニが、目の前に姿を現した。

「うおおおおおッ!!!」

高速でアリーナへ突入した車は、椅子の列を削り、壊し、吹き飛ばしながら突き進んだ。車内は猛烈な振動により頭を上下左右に打ち付ける悪夢の様相を呈していたが、その前方にいるラザナンドロンゴベも、突如凄まじい不快音を立てて襲い掛かってきた物体には驚いた。急いで離れようとするが、人間用に設計された椅子はラザナの脚を妨げる。文明の利器による破壊がトラップされたワニをその射程圏内に捕らえ、一気に破砕するかのごとく衝突エネルギーを叩き込んだ。

 

本来は音楽の響いていたはずのホールに、車体同士の事故とでも言わん限りの衝突音が反響する。ラザナンドロンゴベは猛烈な運動量を受けてその身を宙に浮かせ、座席最前列前に叩き落された。だが1トンを超す大型動物に特攻をかました乗用車も決して無事では済まない。自滅する形でフロントガラスを崩壊させながら、車体そのものも座席群の上に乗り上げて力なく転がった。次第次第に角速度が小さくなるのを見計らって、調査チームは車外への脱出に動いた。

「こっちが上だ、登って来い!」

「急いで!ヤツが起き上がる!」

衝突を受けたワニが、首を振りながらゆっくりと立ち上がる。だが打撃は相当に堪えたらしく、四肢には完全に力が入りきらず微細な振動を起こしている。ワニがまだ全身のプログラムを復旧し終えるまでに、逃げ遅れた最後の民間人が脱出を果たした。

車から出た調査チームの目に入ったのは、ラザナンドロンゴベが歩んだであろう座席の破壊痕、割られたステージ、そして床や座席に転がる民間人の遺体であった。数万人の絶叫は彼の神経を大きく刺激したらしく、血を噴いて横たわる肉体は数人では済まなかった。駅で目にしたのと同じように、出入口の傍にも死体が積み上がっていた。

 

「あれは──」

里亜の目には別の物が映っていた。

ステージの上に残された布地。十中八九本日脚光を浴びるはずだったアーティストのものだろう。決して新品ではなくむしろ着古されてもいるが、綺麗に手入れの行き届いた衣装であったことは、無残に引き裂かれて露出した繊維の様子からも見て取れる。今日のコンサートのために、楽しみにしてくれる観客のために、丁寧に仕上げてきたのだろう。ファンの声援の中で輝く様子を、この目で見たかった。

彼女の目に涙が浮かぶ。

最高出力のEMDをワニへ向けた。

「おい斎賀──」

「分かってますよ、織部さん」

ラザナンドロンゴベは満足に歩ける程度に立ち直ったらしく、調査チームの存在に気付いた。張り付いた邪悪な笑みにも見える顔を彼らの方に向ける。里亜もまた、怒りや憎しみといった単調な言葉では形容の仕様がない呪いの嵐を、その視線の中に纏っている。頬を伝う涙には、単なる化学成分以上の何かが溶けている。

両者の睨み合いが続き、膠着状態は1分にも10分にも感じられる長大な時間経過を調査チームに与えた。

 

「──行きなさい、ラザナンドロンゴベ・サカラヴァエ」

彼女はEMDの銃口を下ろした。調査チームがすぐさま里亜の方を向き、ワニもまるで首をかしげるかのような動きを見せる。様子を窺い尾を揺らすワニに、里亜は続けて言い放つ。

「元の時代に戻り、仲間がいるなら伝えろ。この場所には私がいると。お前に狂わされた人間がいると。復讐心を持って立っていると。そして二度と、この時代の土を踏むな」

沈黙が流れる。ワニはさらに様子を窺っていたが、その十数秒後だろうか。前脚を持ち上げ、四肢を動かして向きを変えた。時空の亀裂に向かって歩み始め、光の中へ包まれていく。巨体がみるみるうちに異世界へ呑まれてゆき、やがて鈍器のような尾の先端までもが消えていった。

 

ラザナンドロンゴベが去った後のホールには、スクラップと化した車とともに調査チームが佇んでいた。

 



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血染めの軌跡 Part6

「ぐうッ……こりゃあ鞭打ちになってるな」

 

ラザナンドロンゴベをジュラ紀へ戻した調査チームは、駅で捕獲したもう一頭もアリーナへ運び込んで亀裂の向こうへ帰し、一時被害の拡大はここで食い止めた。問題は事後処理にあった。駅とアリーナで起きた惨事は表向きには新興宗教による大規模テロとして片づけ、架空の人物を拘束したとカバーストーリーを流布して収束させた。当然それを疑う人間も出ようが、広域ブロックの課せられたSNSは意味をなさず、インターネット掲示板にも次々にクロールが行われて機密情報は抹消された。警察と政府の全面協力を以て、ようやく辛うじて国家機密が保持されたということになる。

残った調査チームの課題は今回の亀裂の報告会と、破壊した備品の始末書であった。ワニとの戦闘で破壊され尽くしたJRタワーの店舗、車で突撃した窓ガラスと座席、そして乗用車。被害総額は高くつき、特に後半の責任は運転を担った大吾と引き金を引いた里亜に課せられた。鞭打ち症による痛みを引きずりながら、大吾はそれをぼやいていた。

 

「お前たちは大丈夫なのか?」

「ちょっと怪しいですねー。いや僕が言うのも何ですけど、本当無茶苦茶な作戦でしたよ」

首を擦って白夜が答えた。織部も若干の症状は出ているらしく頻りに肩に手を当てている。ただし葦人と里亜は例外のようで、特に苦痛を顔に表してはいなかった。里亜は心理的要因による苦悶を引きずっているようではあるが。

「僕は何ともないですね」

「私もです」

「一応、病院には行っておけ。葦人はまだ亀裂調査に携わって4件目だから、他のメンバーより興奮して症状に気付いていないのかもしれない。里亜もそうだ」

「分かりました、後で受診しておきます」

「……一旦報告はここで中断しておくか。全員、検査を受けに行こう」

 

 

 

駐屯地に用意された自衛隊の医療施設。既に症状の出ている三人はすぐさま部屋に案内され、里亜と葦人は待合室で待たされることになった。長椅子に腰かけた二人の間に特に会話はなく、壁にかかった時計の長針は文字盤を半回転しようとしていた。窓から差し込む光の生み出す影は、いつしか角度を変えていたようである。

「……すみません、葦人さん」

ポロッ、と里亜が言葉を漏らした。突然のことに驚いて葦人は彼女の方を向く。そこには涙こそ流していないが、悲しみに暮れている彼女の横顔が逆光の中に置かれていた。

「ドン引きですよね……勝手に怒って、叫んで暴れて、その上皆を巻き込んで……本当に申し訳ないです。ごめんなさい」

「いやそんな──」

「私、URAを抜けると思います」

「……」

予想のできない発言ではなかったが、それでも衝撃は走った。たった1週間ともに働いただけでも仲間意識は芽生えていた。それを突然脱退するというのは──

「元々向いてなかったんですよ。織部さんの言う通り、23にもなって私はガキでした。気持ちの整理もつけられずに現場に出向くなんて。葦人さんが入ったので調査チームの人数も足りてますし。私はもう要らない人間です」

「……そんなことはないですよ」

そう言うと、里亜は彼の方へ顔を向けた。

自己嫌悪に陥る人間を励ますのは得意でないが、ここは立ち上がる必要があった。彼女には調査チームに留まってほしい。URAに居てほしい。彼女はたった五人しかいない調査チームの空気を作り上げる重要な人間の一人だ。さらにブロントルニスのときも、パンノニアサウルスのときも、彼女は他のメンバーと同じようにチームを支えていた。第一、彼女がいなければタワーとアリーナでの惨劇はその被害を増していたはずだ。亀裂調査プロジェクトに不可欠な人材。彼女の欠員は大きな損失だ。

「大切な望みを破壊されたんですから、同情できますよ。今回は仕方がないです。これから変えていけば十分だと思いますよ。人は皆、人生を送る中で変わっていく。それが進歩なのか、それともそうでないのかは人によってまちまちですけどね」

「……」

里亜は呆気にとられたように口を開けていたが、やがて思い出したように口を閉じた。

「そう思いますか?」

「はい。今回の事件での出来事は、きっと貴女を大きく変えますよ。僕もそんな経験をしているのかと問われると、怪しいですが」

「……」

再び天使が通り過ぎた。既に他の受診者は待合室から姿を消しており、秒針の定期的にコチコチと鳴る静かな音が鼓膜を刺激する。

「ありが──」

 

「ここに居たか。医務室に向かったと聞いたよ」

突然背後から男の声がした。驚いて二人が振り向くと、そこには上物のスーツに身を包んだ神辺がネクタイをいじりながら、長椅子に座る二人を見下ろしていた。

「斎賀君、今回はやってくれたな」

「局長……」

「駅での荒れ様は仕方ない。だが問題はアリーナの方だ。器物損壊罪を一体幾つ犯せば気が済むんだ?我々の隠蔽工作にも限界と言うものがあるのだよ。君のようなトラブルメーカーは私としても是非解任したい……」

「……申し訳ありません」

「だが、私は君の能力を高く買っている。織部君から聞いた。君の速やかな判断や行動には普段から助けられていると。今回も君が車で突っ込むという判断を取らなければ、犠牲者が大勢出ただろうとな」

二人は驚いて顔を上げた。

「だから、今回は始末書だけで済ましておく。今後は気をつけろよ」

「……ありがとうございます!」

神辺は口角を上げて頷くと、背を向けて立ち去って行った。その背中はこれまでに目にしたよりも広いように感じられた。

 

局長が去って再び静けさに包まれた待合室で、今度は葦人が口を開いた。

「……良かったですね、織部さんが話してくれていて」

「……葦人さん、どうして敬語なんですか?」

「え?」

「私の方が年下ですよ~。私、学部卒ですので」

口調だけでなく、彼女の態度はかなり普段のものへ回帰しているようだった。

「……いや、でも僕の方が所属は後ですし──」

「年上の人に敬語使われるって戸惑っちゃうんですよね~。言い出せずにいたんですけど、結構前から気になってたんですよ、これ。斎賀さん、じゃなくて下の名前でも構いませんし」

「いや──」

それでも、と否定する言葉が喉から出そうになるが、思い留まった。むやみにゴネるほどの必要性もない──むしろチームに打ち解けさせようと計らいを振り払うのは益がないし失礼だ。せっかく差し伸べられた手だ、ありがたく受け取らせてもらおう。

「そういうことなら、分かった、里亜。……これからもよろしく」

「フフッ、ありがとうございます~」

彼女は見るからに、普段の調子を取り戻していた。

 

 

 

里亜と葦人を施設に置いた三人は既に診療を終えてURAに戻っており、織部と白夜は安寧を取り、自室にこもって安静にすることを選んだ。一方で大吾は亀裂探知装置の前に陣取ってそのスクリーンを眺めていた。首の保護器具がディスプレイと照明の光を反射し、瞳もスクリーンの光を受けて白く像を浮かび上がらせている。

彼は今回の亀裂に対処する中で一つの疑問を抱いていた。探知装置に保存された数多くのデータファイルの1つに、亀裂の具現可能性を解析したリストが存在する。ブラックリストとも呼べるこのファイルは、気温・湿度・気圧をはじめとする基本的観測情報のほかにマグネタイトやビスマスといった化学成分の検出情報を研究者たちが収集し、独自のアルゴリズムに従って羅列したもの。時空間の構造を分析するというニック・カッターの研究に確実性においては劣るものの、リアルタイムで変動する環境を即座に反映できるという点は長所と呼べた。彼はその計算が弾き出した答え──ブラックリストを目に通していた。

彼の指が動いて一覧をスクロールし、視線が目的の文字列を求めて縦横無尽に液晶画面を撫でる。そして目標──件のアリーナと駅の名前が捕捉される。

(あった。時空の断層はさておき、アリーナに亀裂が生じる可能性は以前から指摘されていたか……)

大吾は怪しんでいた。全盛期のARCであればともかく、現在のURAには予測のできない、時空の断層という超自然現象。だが予測のできない現象と言えば、彼らはもう一つの別の現象にも直面していた。

 

それは4日前、パンノニアサウルスとの接触時。あの時、葦人と白夜の危機を救うように突如開いた河川の亀裂。あまりにも都合の良すぎる助け舟に、亀裂を開く技術の介入を疑ったものだった。

あの時に開いた亀裂の場所は、ブラックリストに載っていない。気象条件や周囲の物性を加味して計算され尽くしたブラックリストに、想定外の断層現象で開いた亀裂さえアーカイブしたブラックリストに、あの亀裂だけが載っていない。同じ想像の枠外にあった亀裂現象に、なぜこうも差がついたのか。

 

まず第一に考えられるのは、河川の亀裂が強制的に開かれた人工亀裂であること。到底開かないとアルゴリズムが判断した場所であっても、プロスペロ社の技術の残骸結晶を用いれば時空を抉じ開けることも可能になってしまうのかもしれない。

そして第二に考えられる仮説。大吾はこの仮説を破棄したかった。何故ならこの仮説はURAそのものに精神的な亀裂を入れかねない、危険な仮説であったからだ。だがもしこの仮説が現実であり、真実であった場合、これを阻却するという行動に道理は通らない。頭の中に置いておかなければならない重大な仮説の一つ。

 

それは、『URAの中に亀裂を開く張本人がいる』こと。

 

ブラックリストは亀裂災害の軽減を図るためのハザードマップではなく、亀裂災害を引き起こすための作業プロトコルなのではないか。アリーナに時空の亀裂が開くこともこの手順書に準拠して計画されていたのではないか。

河川の記述がないのは亀裂を開いた張本人の予定にないものだったから。絶体絶命に追い込まれた葦人と白夜を救うために、何者かがやむを得ず亀裂を開いた。そう仮定した場合には亀裂を開いた犯人は外部犯ではなくなる。最初からこのURAに所属し、何食わぬ顔で飯を食べ、研究書類を執筆し、布団に入って睡眠を取る、構成員の一人。調査チームの行動を監視して亀裂を開く人間がいる。

 

(これが正しいと決まったわけではない……他の可能性だってある。むしろ私だって否定したい。だが──考えなくてはならない)

大吾は指を動かしてスクリーンの表示画面を切り替えた。ブラックリストの閲覧ではなくファイル自体の情報にアクセスする。URAの職員には全員アカウントが割り振られており、このファイルを作成・編集した人間の情報が開示される。更新履歴を辿れば、少なくともアリーナの亀裂情報を握った人間が分かる。

大吾は息を吐いて呼吸を整えると、しっかりと画面を見据えて更新履歴にアクセスした。



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真相を秘めるベール Part1

「最近物騒ねえ……もう本当に、この国はどうなるんでしょう」

「ええ、全く。駅でテロリスト、でしたっけ?そんなものが暴れるなんて、もう世も末よ」

「電車は止まるし、携帯も使えなくなるし!」

ラザナンドロンゴベの侵入災害は、表向きには首都圏を狙った大規模テロという形で報じられていた。死者数はそのまま爆破による犠牲者としてカウントされ、遺族やアーティストのファン達、そして報道に心を痛めた民間人は真相を知らされないまま、彼らの墓地や命の散った場所へ花を手向けた。ラザナンドロンゴベを目撃しながら辛うじて生還した人間には、政府により直々に口封じが行われた。理不尽な社会的制裁をちらつかせた脅しから記憶処理剤の投与まで幅広い手法がとられ、亀裂災害の事実に繋がり得る証言は悉く封殺された。一般の電話回線やインターネット回線をも一時的に寸断し、恒久的に動画や写真の一つさえも規制する徹底的な情報統制。陰謀論者が聞けば泣いて喜びそうな話題であるが、背後に隠された事実へ近づけた者はいなかった。

 

マスコミはテロの脅威という全く虚構の危機を鬼気迫る表情で報道し、世論にもその情報操作は浸透していた。今公園で喋っている高齢者たちもまた、都市に迫るテロリズムという虚偽の情報に慄いている。

「私らはもうどの道あの世に行くからいいのよ。問題はあの子たち──」

井戸端会議に参加していた女性の一人が、皺に囲まれた瞳を公園の一角へ向けた。彼女の瞳には遊具で遊ぶ児童たちの姿が映っている。ブランコがキィキィと軋む音を立て、鉄棒で着地して砂の擦れる音とともに砂埃が舞う。天真爛漫で明るく振る舞う子どもたちの様子を目にし、井戸端会議は一層暗く重い雰囲気をその身に受けていた。

「あの子たちが大人になる頃、ちゃんとした世界は残っているのかしら?」

「もう、申し訳ないわ……この時代に生まれたばっかりに」

 

「……あら?」

社会の将来を憂いでいる頃だった。全く乖離した2つの空気を纏った公園、その茂みが突如として揺れた。子どもが遊んでいる状況では全く不自然ではないだろう。しかし、女性の一人はその揺れに違和感を覚えた。その根源は足音にあった。その足音は子どものものにしては、否、人間のものにしてはやけに重々しい。しかしウマやイノシシのような蹄の音もしない。ただ質量を感じさせる足音が、茂みの擦れる音とともに公園へ迫ってくる。遊びに興じていた子どもたちも異変に気付いたのか、笑みに満ちた表情が次第に木材のように強張り始める。他の児童の動きを互いに見習おうとして遊具から距離を取り始める。

「ねえ、何かしら、あれ」

「ん……?」

井戸端会議の他のメンバーが白内障も危うい目を凝らすよりも先に、その茂みから揺れの正体が姿を現した。その姿は公園にいる人間では咄嗟に形容できないものであった。蹄はなく、全身が体毛に覆われている。四足歩行で背丈は人間と同じ程度。クマではなく、その顔は肉を喰らうとは考えにくい風貌であった。

 

「何、あれは……」

「アレよ、アレっぽい……ええと──」

「カピバラ?」

「それよそれ!」

「動物園から逃げたのかしら?」

ここにいるはずのない動物に、井戸端会議は警戒心を強めた。携帯電話を持つ何人かで警察消防への通報を入れ、持たないメンバーも巨大なカピバラ様生物──とはいえ、太く長大な尾と体格がその差異を明らかにしているが──から目線を逸らさずに警戒する。だがもしあの生物が本気で人間に危害を加えるのなら、この場にいる全員が瞬く場に弾き飛ばされるであろうことは分かり切っていた。今この公園にあの巨大生物に立ち向かえるだけの人間も力も皆無。自らの安全が風前の灯火であると彼女らは身構えた。

だが子どもたちは、未知の動物に対する好奇心を駆動した。恐る恐る、しかし着実に、現れた動物の方へ手を伸ばして歩んで行く。動物もそれに気付くが、彼らの緩慢な動作のためか、すぐに逃げ出そうとしない。耳を動かしつつも、その場から動かない。

「な……何してるのッ!やめなさいッ!」

「危ないわよ、戻って!」

児童たちは井戸端会議の必死の呼びかけに「でも……」「だって……」と曖昧な返事を返す。これが猛犬やクマであれば彼らも警戒心を働かせたことだろう。だがこの時姿を現したのは巨大なカピバラであり、動物園で幸せを享受して草を食む姿しか見たことがなかった。巨体は恐怖も煽ったが、その実体験が恐怖心を探求心へ変換してしまった。やがて児童の一人の掌がカピバラの体毛に触れ、老女たちは息を呑んだ。

 

 

 

 

 

その頃自衛隊の駐屯地では、その中枢でサイレンが鳴り響いていた。亀裂探知装置のディスプレイが切り替わり、警告音に彩られた警告画面が点滅と共に電波異常の発生を告げる。

「場所は!?」

EMDを片手に持って駆けつけたのは、質問主の葦人だった。亀裂探知装置の正面の椅子には長い髪の持ち主──白夜が座っている。だが今回は、彼のトレードマークたる白い肌と長い赤髪の他にもう一つ人目を引く要素があった。彼の首にはいまだ補助器具が備え付けられ、先日のラザナンドロンゴベとの戦闘で負った鞭打ちの完全回復には至っていない様が無言で語られている。

「うーん、住宅街だねー。隣の県。今日は休日だし、結構ヤバいんじゃない?子どもの被害とかー……それにしてもこのタイミングかあ」

「向かいましょう、白夜さん……は──」

「うん、もし鞭打ちが治っていたら、ね?」

「……すみません」

「良いんだ。僕はここからの助言役に徹するよ。……それよりも心配なのは、葦人、君たちの方だ。リーダーも織部もまだ回復しきっていない。動けるのは君と里亜だけだ」

 

「いや、俺も動ける」

背後から響いた低い声の主は織部だった。首からは補助器具が取り払われており、強靭な筋肉に物を言わせて鞭打ちの苦痛を根性で耐えているらしい。だが当然、ハタから見ても万全と言えるような状態ではない。大吾と里亜も白夜の見解に同意する。

「無茶をするな、織部。トレーニングでもガタが来ていたじゃないか」

「そうですよ~、無理は禁物です。私と葦人さんに任せてくださいよっ」

「……だがお前達だけではどうにも心配だ。特に里亜、お前は先日のワニの一件で──」

「大丈夫です~。もうあんなことにはしませんからっ」

「しかし」

織部が言葉を返そうとすると、里亜の雰囲気が変わった。一瞬で変容した場の空気を織部はいち早く察して押し黙り、周りにいたメンバーも口を噤んだ。数秒の沈黙の末に、里亜が口を開く。

「安心してください。ここ数日で私も深く反省してきたので」

ふわりとした空気の抜けた里亜からは仕事人の圧が張り詰めていたが、その空気はこれまでのように暴走の気を孕んだものとは微妙に異質なようであった。焦燥や絶望といった負の感情を薄めさせ、剛健でありつつ滑らかでしなやかな性質を帯びている。先日の修羅場を潜り、一歩成長を遂げた様が感じられる。

「……まだ甘い。激情が完全に失せたわけではなさそうだ。……だが賭ける価値はあるか」

「……ありがとうございます」

「……おいおい、俺をほっぽって盛り上がってくれるなあ」

「あっすみませんリーダー」

「まあ良いさ。今回はお前達二人に任せる。知っての通り、俺たちは動けない。今回の亀裂はお前たちの掛かっているわけだが、俺たちがこっちでアシストする。安心して行け」

「「ありがとうございます!」」

 

 

 

里亜と葦人がメインフロアを脱してしばらく経たないうち、迷彩服に身を包んだ部隊が乗り込んできた。スーツ姿の男──局長神辺が彼らを亀裂探知装置の前へ誘い、指示基地の設営が開始される。

「時空の亀裂はTPOを弁えないようだな。最新鋭の医療でも回復しきらないうちに再び開こうとは」

「それが現実ってものですよー、局長」

「否定はしない。だが、国家機密の中枢へ自衛隊を、か」

「作戦本部は向こうに設置しますが、我々も調査チームである以上ここで要請には答えなくてはならない。さらにその場合、自衛隊の人間もいた方が遥かに効率が良いですから」

「うむ……気は進まないが仕方ない。現場に居なくてもリーダーは君だ、やってくれ」

「承知いたしました」

最低限の状況確認を済ませ、神辺は局長室に向けて踵を返した。残された調査チーム三人と自衛隊は真剣な表情で亀裂探知装置に向かう。白夜がキーを操作し、探知装置のディスプレイが一部変化し、ウィンドウが複数展開される。近隣の監視カメラ映像、作戦本部との通信画面、その他必要な情報が全て提示される。当然リーダーたる大吾も顎に手を添え、そのディスプレイの内容一つ一つに視線を注いでいた。

──さて、どう動く?

 

 

 

 

 

舞台は公園に戻る。児童が動物の毛皮に触れて1秒が経過したが、何も起こらなかった。やがてカピバラは頭を下げた。自らを恐る恐る撫でている少年に興味を抱いたらしく、彼の頭に顔をしかと近づけた。生暖かい鼻息が彼の頭髪を揺らすと、少年の顔にオレンジのように明るい笑顔が灯った。

周囲の児童たちもカピバラに近づき、想い想いに手を伸ばして毛皮に触れ始めた。特別警戒心の薄い個体なのか、群がる小さな人間たちに戸惑う様子を示しつつも、カピバラはその場に留まった。

「……襲わないの?」

「人間は食べないみたいね、良かった、良かった……」

大きな災厄が過ぎ去ったかのような空気が井戸端会議に漂う。ホッと胸を撫でおろし、落ち着いて警察の到着を待つ。人間に危害が加わらないのであれば、むやみに騒ぎ立てて刺激する必要もない。

 

だが、カピバラを囲む児童にも、通報した高齢者たちにも、到底計り知ることのない真の災厄はすぐそこへ迫っていた。そしてこれから始まる惨劇は、亀裂を潜り抜けて現代へ到来したフォベロミス・パッテルソニ自身までも予測がつくことではなかった。

 



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