鬼滅の刃~胡蝶家の鬼~ (くずたまご)
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第0話 終わり

 彼は満たされる事はなかった。

 自身の家がどれだけ裕福か理解はしていた。こんな珍しい食事を取れる事は、ここまで快適な生活を送れる人は、大日本帝国にもいくらかもいない。しかし、どれだけ自身が恵まれていても、『この程度』という感情が離れてくれなかった。

 両親は困惑していただろう。頭も良く手の掛からない孝行息子が何を与えても満足せず、不満を心に募らせていたのだから。

 彼にとってさらに幸福だったのは、両親が叱るでもなく、興味を失うのでもなく、会話をしてくれた事だった。

 一体何が不満なのか、これの何が悪いのか。事細かに彼に尋ね、聞き出した。そして、その不満を解消できるように、改修改良を加えたものを持ってきた。

 牛鍋の肉が生臭いと言えば、どこから聞いたのか香草類を練り込んだ牛肉が出てきた事もあった。どうしてそうなるのかと、思わず彼は笑った。

 彼の呟く不満に、全く異なった物を持ってきたこともあった。時には粗悪になった事もあった。

 決して心から満足するものは得られなかった。だが、いつしか一つ一つの『変化』に、一喜一憂するようになっていた。

 気づいた時には、心の内に澱んでいた不満は無くなり、『変化』が好きになっていた。

 

 

 ――だが、こんな『変化』なんて望んでいなかった。

 

 

 走れば汽車より速く景色が流れ、太々とした樹木を掴めば、半ばまで指が穿つ。

 深い暗闇も日中のように見渡せ、鋭い葉で切れた傷は瞬く間に塞がれる。

 何だ。何だこの変化は。

 そして何より耐え難かったのが、内より湧き出る渇き。川に頭を突っ込み、何度も何度も水を飲んでも渇きは引いていかない。腹も膨らまない。そして、この渇きを満たすために、本能が訴える。

 ――人を喰らえ、と。

 水を飲む、そのあまりの苦しさに彼は頭を川から出す。息を荒げ、自身の降りかかった事態に頭がついてこず、呆然とする。

 そうしてどれぐらいの時間が経っただろうか。顔を伝っていた雫は何時しかなくなり、波紋を広げていた水面が静かにたゆたう。そして、水面に一人の男が浮かび上がり──絶望した。

 白いを通り越して青白い肌。

 赤く煌めく瞳に、鋭い牙。

 水面に映し出された己の顔は――まさに鬼。

 どうしてこうなったのか。

 どうしてこうなってしまったのか。

 ぐるぐると巡る不安に、しかし彼はどうすることもできず。ただただ、腹を空かしながら涙を流すしか出来なかった。

 

 

 

 

 時は大正、場は帝都。

 ハイカラーシャツに黒いスーツを着た青年が夜道を歩いていた。帝都では、ようやく馴染み始めた洋服。しかし、道行く人々は彼の姿を見て顔をしかめる。首元にネクタイはなく、さらに幾つかのボタンは外されただらしない姿だったからだ。しかし、不思議とその格好に違和感はなく、いつの間にか不快感は露と消えていくが、その隣を見て再び顔をしかめる。

 水玉模様の和装の女性。少々つり上がった目尻と、腰まで伸びた艶やかな黒髪が特徴の可愛いというより美しい女性だが、目を引くのは容姿ではなく、その体躯だ。五尺六寸は優に超えており、その視線は大人の男性を見下ろすほどであった。そんな淑女らしくない女性が隣の青年と肩を触れ合うほど近くで歩いている。そのはしたない姿に、人々は顔をしかめているのだった。

 だが、隣を歩く青年──不破(ふわ) 弦司(げんじ)──は、周囲の視線を気にせず微笑むだけ。ご機嫌な女性──熊谷(くまがや) (たまき)──の姿がこの上なく嬉しく、それに比べると周囲の視線なんて気にもならなかった。

 

「今日は楽しかったか?」

「はい、すごく!! ──っ」

 

 

 彼女は思わずといった形で声を張り上げ、自身のはしたない行動に頬を赤らめる。

 今日は彼女にとって初めて尽くしの事だった。

 最初は緊張していた彼女も、活動写真を見て人が動いていると興奮を露わにしていた。初めて食べる洋食の馴染みのない味に、困惑していた。初めての飲酒、それもワインを飲んで盛大に咽せていた。

 コロコロと変わる環の表情に、かなり強引であったものの誘って良かったと心の底から弦司は思った。

 しばらくして、顔の赤みが引いた環が真剣な表情で弦司を見る。

 

 

「本日は本当にありがとうございました」

「いいよ。元々は俺が強引に連れ回したんだ。こちらこそ、最後まで付いてきてくれてありがとうな」

「そ、そんな、弦司様に感謝されるような事なんて、私は何も……」

 

 

 言い、環は視線を地面に落とす。

 

 

「弦司様は初めて会ったときから何もない私に、たくさんのものを下さいました。でも、私はあなた様に何も返せておりません」

「……」

 

 

 弦司が初めて会ったのは、たまたま入った喫茶店だ。そこで環は働いていた。

 初めて会った時、環は常に俯いていた。体の大きかった彼女は、男性から見ても背が高い。後に聞いた話だが、環は何回も背の高さを揶揄され、その度に縁談は破談になった。やがて、人の目を見て話せなくなり、人を見下ろさないために俯くようになったらしい。今も自分に自信を持てていないのか、時折不安そうに視線を落とし俯いてしまう。

 

 

(そこまでカッコいい話じゃないんだけどなぁ)

 

 

 弦司は初対面で環の内心全てを察していた訳ではない。多少は彼女の不安な表情に気づいたが、だからといって同情した訳でもない。

 線が細いにも関わらず、出るとこは出ている体。彫りが深く、鼻筋が通った美しい顔立ち。彼女の魅力にいち早く気づいて己のものにしようとした、下心満点の行動だった。

 たまたま環が弦司の好みに合って。幸いな事に弦司が環よりも背が高く、見下げる必要がなくて。お互いが欲しかったものを、お互いが持っていた。それだけの事なのである。

 そう、切っ掛けはそれだけの事。だけど、今はそれ以上の想いが胸の内にあった。

 弦司はしばらく思案すると、

 

 

「いっぱいもらっているよ」

 

 

 今抱いている想いを、そのまま伝える事にした。

 

 

「色々連れ回して珍しいもの見せたと思うんだけどな、俺が本当に好きなのは『変化』なんだ」

「変化、ですか?」

「今日見た活動写真だって、前はただの写真だったんだ。それが変化して、今じゃ写真が動くようになった」

「確かに、父と母の時代からは考えられない、すごい変化ですね」

「ああ。だけどな、きっとまだまだ変わっていく」

「今でも十分すごいのに、まだ変わるのですか?」

「まずは音がつく。写真に映っている人の声が、一緒に聞けるようになるんだ」

「ええっ!? それじゃあ、活弁の人はどうなるのですか?」

「なくなる。それに『変化』するのは、音だけじゃない。写真も白黒も終わって、今見ている景色と同じ色彩が着くようにもなるはずだ」

「本当ですか? ふふっ、そうなったら今よりドキドキして見れますね」

 

 

 道を曲がり、暗い路地裏に入る。月明かりが僅か差し込む。薄暗闇の中でも、環の大きな瞳がキラキラ輝いているのが弦司には見えた。

 

 

「そうやって、隣で一喜一憂『変化』してくれる君が、嬉しいんだ」

「え?」

 

 

 環が驚きからか足を止める。

 

 

「隣で自分と同じように過ごしてくれてる。考えてみれば当たり前の事だけど、俺は自分の満足ばかり考えていたんだ。俺は目の前にあるものは何でも、未来の『変化』を夢想できる。だけど、他の人から見たら目の前にあるのは拙い、珍品としか言えない代物なんだ。そんなものを見ても、物珍しいだけで楽しくなんてない。口さがない奴は、俺の事『悪食家』なんて呼んだりもしてる。それでも、俺は『変化』が感じ取れればいい……そんな風に思っていたんだ」

「弦司様……」

「けど、君は俺の隣で俺と同じように一喜一憂『変化』してくれる。誰かと同じ気持ちで同じ時間を過ごす……そんな当たり前に君は気づかしてくれたんだ。だから、いっぱいもらっている。今、この瞬間も」

「……」

「できればこれから先も。有るだけの限り、俺の隣で『変化』して欲しい」

「げ、弦司様……それって、あの……!」

「あっ……」

 

 

 気づけば、言うはずのなかった言葉まで声にしていた。それは裏路地の静寂な暗闇がもたらしたものか。まるで、この世界に弦司と環、二人きりしかいない錯覚に陥りそうになる。だけど、環となら本当に二人きりになってもいい。

 弦司は環の手を取った。

 

 

「熊谷環さん。俺は自分の時間を全て、あなたに捧げます。あなたの時間を、俺にいただけないでしょうか?」

 

 

 ──もし、ここで環が頷けていたら。

 二人は結ばれて、愛を育み温かい家庭を築いて。時々不幸に巡り合っても、小さな幸せを積み重ねて最後には笑い合えていただろう。

 だがこの時、環は頷けなかった。

 

 

「不愉快な会話だ」

「っ!?」

 

 

 一人の男の声が割って入り、弦司と環は手を離し声の元へと視線を向ける。

 そこにいたのは、白い中折れ帽を被り、黒いジャケットを羽織ったモダンな紳士。しかし、何より目を惹くのは服装ではなく、まるで作り物めいた美しさを持った容貌。欠点の見当たらない美麗な容姿に、青白いほど白い肌。むしろ人形といった方が納得できる、そんな容貌であった。

 

 

「……これは申し訳ない」

 

 

 弦司は咄嗟に環の前に出ると、優雅に頭を下げる。不躾な言葉であったが、往来での逢瀬。確かに、不愉快に思う人は多い。しかし、下手に出て何かされては堪らない。そう思い、卑屈にならないように考えた結果の行動だった。

 

 

「すぐに立ち去りましょう。お耳汚し、申し訳ない」

「『変化』はその全てにおいて劣化だ。私の望む『不変』から最も遠い」

「……あなたの考えは分かりました。私にあなたの考えを否定するつもりはありません」

 

 

 弦司は言いながら、全身から嫌な汗が流れる。男の自身以外全てを見下すような侮蔑しかない視線が、恐ろしかった。言葉が届いている気がしなかった。

 

 

「私の言は聞き流していただけるとありがたい」

「たかが人間の言葉など留める訳がない。だが、貴様は私を不快にさせた」

 

 

 最早、ここまで言われて会話が成り立つとは思えない。弦司は環を連れて大通りに逃げだそうとしたが──できなかった。

 

 

「報いが必要だ」

「がっ!?」

 

 

 気づけば、男の指先が首に突き刺さっていた。瞬間、何かが体内に流れ込む。同時に内臓を掻き回されるような激痛。弦司は地面に倒れ、のたうち回る。

 環の悲鳴が聞こえる。逃げろと叫びたかった。だが、口からは血と苦悶しか出てこない。

 

 

「貴様には『永遠』を与えよう。『変化』しない自分に『不変』の中でのたうち回れ」

 

 

 男が嘲笑を残して立ち去る。

 永遠? 不変? 男の言っている意味がまるで分からない。己に何をしたのか。何がどうなっているのか。湧き上がる疑問はしかし、まるで自分が塗り替わっていくような、不快と苦痛により露へと消えていく。

 激痛が走り吐血する度に、皮が、肉が、骨が、自分の知らない何かに変わっていく。そして、それはさらに身体の内側へ――心へと侵食していく。

 

 

『今、お前は優れた生物へと成ろうとしている』

『人間の部分を全て捨てろ』

『そして下らない人間どもを喰らえ』

 

 

 まるで心に直接囁かれているような。聞くたびに、酩酊のような感覚に陥る甘美な声がした。

 もういいじゃないか。もう頑張ったじゃないか。だから、心を渡したっていい――。

 何度も、そんな諦めが頭を過ぎった。

 

 

 ――だが、どんな激痛に苛まれても、弦司はこの『変化』だけは受け入れられなかった。

 

 

 皮膚が、肉が、骨が、自身の存在が何に変わろうとも。今この瞬間も抱いていた環への想い。

 自分でなくなってもいい。ただ、この心だけは、己が生み出した唯一無二のモノ。誰にも犯されたくはなかった。

 そう思った時、まるで走馬灯のように様々な映像が頭に思い浮かんだ。

 ――映画、エアコン、洗濯機――。

 しかし、そのいずれも弦司の見たことないもので、だが確かに経験したことでもあって。

 心を蝕もうとする何かと、次々と浮かび上がるモノ。

 二つはぶつかり合い、せめぎ合い、弦司の中で暴れまわる。永遠に続くと思われた二つの争いは、一際大きな音を立ててぶつかり合い、その衝撃に弦司は意識を手放した。

 

 

 

 

 最初に弦司が感じたのは、酷い渇きと飢えであった。まるで生まれて一度も飲食をしていないような、心の底から湧き上がる渇望だった。

 のろのろと身を起こすと、体から布団がずり落ちる。視界に入るのは、古い木造の一間。どうやら、誰かに部屋に寝かしつけられていたらしい。

 あれから何が起こり、自分はどうなったのか。本来なら尋ねる疑問も、今の弦司にはどうでも良かった。飢えを満たす……それしか頭になかった。

 

 

「弦司様っ……!」

 

 

 隣で小さく声が上がった。環だった。しかし、目の下には隈があり隠しきれない焦燥が顔に浮かんでいた。きっと、弦司を介抱したのは環なのだろう。

 それがとても嬉しくて愛おしくて――

 

 

 ()()()()()()()()

 

 

 あまりに自然に湧き上がった欲求に、弦司は一瞬それが正しいものと思ってしまった。だから、そのまま環を手にかけようとして──。

 

 

「弦司様……! 弦司様が目を覚ましたぁっ……!」

 

 

 歓喜で縋りつく環に、弦司は我に返る。

 今、自分は愛する人に何を抱いた? 何をしようとした?

 混乱の内にある弦司に、密着した環の感触が伝わってくる。しっかりと熟れた彼女の体は、どれだけの旨みを秘めているのか。想像するだけで、弦司の口から涎が溢れた。

 

 

「う……うわぁっ!!」

「きゃっ!!」

 

 

 本能から訴えかける衝動に、弦司は堪らず環を突き飛ばし立ち上がった。

 床に倒れ、呆然と見上げる環の目は大きく丸い。口の中で転がすと、どんな味がするのか。朱の差した頬肉も、柔らかくて美味しいだろう。そんな想像が次々と浮かび上がって止まらなかった。気づけば、布団は弦司の涎で濡れていた。

 

 

「弦司様……その、どこか悪いのですか……」

 

 

 呆然としながらも、環は立ち上がり弦司を慮る。だが、それは弦司にとって苦痛でしかなかった。彼女の甘い香りも、柔らかい声音も、温もりでさえも……食欲をそそる調味料にしかならないのだから。

 

 

「――めろ」

「うう、でもどうしましょう……こんな時間に病院は診察させていただけるか分かりませんし……心苦しいですが、診療所のおじさまの下を訪ね」

「やめてくれぇぇぇぇっ!!!」

 

 

 もう耐えられなかった。自身の欲求と矛盾だらけの想いに。

 弦司は堪らず環に背を向け、部屋を飛び出す。

 

 

「嫌……待って!! 弦司様!!」

 

 

 弦司の背中から、悲痛な叫びが上がる。振り返りたかった。抱きしめたかった。だが、次に環を見て食欲を抑えられる自信がなかった。

 

 

 サヨナラ

 

 

 そんな冷たい言葉しか返せず、弦司は夜の帝都へと逃げ出した。

 

 

 

 

「やめてくれ」

 

 

 逃げ出した先も地獄だった。

 人、人、人。

 当たり前だが、帝都はどこへ行っても人だらけだった。その度に本能は疼き、飢えと渇きがぶり返した。もはや、涎は留まることなく流れ落ち、弦司は涎を拭うことすら諦めた。

 とにかく人がいない場所へ、いない場所へと駆け続けた。それがより飢餓を増長させ自身を苦しめると分かっていても、人を想う心だけは譲れなかった。

 そうして無我夢中で走り続け、気づけば景色が変わっていた。

 鬱蒼とした木々とせせらぎ。いつの間にか、山奥のかなり森が深いところまで来ていた。

 人がいない。それが弦司に僅かな心の余裕を与えたのか、走りながら周囲を見渡す。

 木々がとてつもなく早く後ろに流れていた。

 足を止め木の幹に手を置き、何の気なしに握り締めれば、指が半ばまで樹木に食い込んだ。

 深い暗闇の中でも、日中のように木々を見渡せ、駆けていた際に葉で切った皮膚はすでに塞がれていた。

 己が変わってしまった事は分かっていた。だからといって、こんな『変化』受け入れられるはずもなかった。 

 

 

「もう、やめてくれ」

 

 

 弱音を呟くが、その声に応えてくれる人はいない。自ら人から離れたのだ。助けてくれる人など、周囲にいるはずもなかった。

 

 

「くっそ……! やめてくれよ! もう……収まってくれよ!!」

 

 

 そして、嘆くだけでは、苦しむだけでは、飢えと渇きが収まるはずもない。

 弦司はせせらぎへと向かった。すぐに小川が見つかり、水を手で掬って飲んだ。だが、渇きは引かない。腹も膨らまない。小川に頭を突っ込んで何度も何度も飲んだ。それでも、渇きは満たされず、本能が訴える。

 ――人を喰らえ、と。

 弦司は苦しくなり、頭を小川から出す。

 

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 

 荒い息を吐き、呆然とする。もう何も考えたくなかった。

 そうしてどれぐらいの時間が経っただろうか。顔を伝っていた雫は何時しかなくなり、波紋を広げていた水面が静かにたゆたう。そして、水面に弦司が浮かび上がり――絶望した。

 白いを通り越して青白い肌。

 赤く煌めく瞳に、鋭い牙。

 水面に映し出された己の顔は――まさに鬼。

 

 

「ああ……ああ……!」

 

 

 どうしてこうなったのか。

 どうしてこうなってしまったのか。

 

 

「うわあああああああああああああああっ!!」

 

 

 しかし彼はどうすることもできず。ただただ、腹を空かしながら涙を流すしか出来なかった。



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第1話 蝶と涙・前編

 弦司は呆然と山を登っていた。

 何度も何度も泣いた。

 涙が枯れるまで泣いて……全てを諦めた。

 人を喰らえず、飢えも満たせず。ただただ苦しいだけの生に、一体どれほどの価値があるのか。弦司には見出せなかった。

 だから、死のう。誰にも迷惑をかけず、ひっそりと。しかし、生きるだけで苦しいのだ、死ぬ時も苦しみたくない。そう考え、とにかく高い所を目指して山を登っていた。

 化け物の健脚が為せる業なのだろうか。すぐに切り立った崖にたどり着いた。

 崖から下をのぞき込む。そこはちょうど森の切れ目となっており、剥き出しになった岩肌があった。岩肌近くの森林は恐ろしく小さく見える。死ぬのには、高さは十分に思えた。

 ――後はここから、飛び降りるだけ。

 そう思いさらに崖に近寄り、落ちた事を想像する。身震いと共に眩暈を起こし、思わず後ずさる。

 

 

「俺は何をしているんだ……!」

 

 

 今後に及んで命を惜しむ己の行動に、呆れと怒りが湧いてくる。もう諦めただろう。生きていても、苦しいだけだと悟っただろう。そう何度も心の中で呟いても、足は竦んで最後の一歩を進む事ができなかった。

 そうやって弦司が逡巡していると、突如吹いた突風に背中を押される。それと同時に感じる浮遊感。

 弦司は崖から身を投げ出されていた。

 

 

「う、うわぁっ!!」

 

 

 望んでいたはずの一歩だったが、口から出るのは情けない悲鳴だった。さらに何かを掴もうと、空でもがく。頭は死を望んでいるのに。体は死から抗おうとする。

 

 

「――――っ!?」

 

 

 何かを思う暇もなく体は地面に引かれ、平衡を崩し――肩から墜落した。

 

 

「か――っ」

 

 

 肩がへしゃげ、首の骨は直角に折れ曲がる。落ちた勢いで二転三転と岩肌を跳ね飛び、樹木に背中から激突し止まった。

 左肘は曲がらない方向へ曲がり、肩からは血が噴き出す。頭も割れているのか、頭頂部から何かが流れる感覚があった。

 ――それを認識すると同時に、激痛が全身を襲う。

 

 

(痛い痛い痛い痛い痛い!!!!)

 

 

 喉も潰れたのか、弦司は叫び声も上げられず、心の中で苦痛を叫ぶ。

 普通の人間ならば、即死していてもおかしくない傷。想像を絶する痛みがあるのは、当然だった。

 ――そして、弦司はすでに普通の人間ではない。

 人間なら体験する事のない苦痛が徐々に消えていった。

 弦司の心臓が痛いほど鼓動する。あれだけ痛い目にあったのだ、無事であるはずが無いと常識が訴えかける。だが頭のどこか冷静な箇所は、最悪の事態を確信を持って予想する。

 弦司は恐る恐る己の体に視線を向け、愕然とした。全ての傷がまるで何もなかったかのように無くなっていたのだ。赤色に染まった衣装だけが、墜落した事実を物語っていた。

 

 

「あ、あはは……死ぬことも許されないのか……」

 

 

 ポツリと呟き、弦司は目を虚ろにし脱力する。もう何もしたくなかった。歩くことも、考えることさえも。何をしたって、絶望し苦しみの中でもがくだけだ。

 それからは、頭を空っぽにしてただただそこにいた。渇きも飢えもあったが、何も思わなかった。何も思わないようにした。

 何もしなくても、時は流れる。次第に空は明るくなっていた。

 

 

「こんな時でも、朝日は昇るのか……っ!?」

 

 

 そんな何て無い感想抱いていると、なぜか歯の根は合わなくなり、体が震え始めた。寒い訳ではない。だとするならば──これは恐怖。本能が太陽を恐怖していた。

 

 

「何だよ……太陽の光も浴びられないって言うのかよ!」

 

 

 もう何度目になるか分からない理不尽。何で俺だけがこんな目に、と思わずにいられない。

 しかし、頭の中で一つの案が浮かぶ。本能がこれだけ恐れる太陽の光。それを浴びれば死ねるのではないのか、と。

 

 

「そうだよ、このままこうしてれば死ね──」

 

 

 だが、同時に頭を過るのは苦痛。墜落であの激痛なのだ、この体が死ねる太陽とは、どれだけの苦しみなのか。

 周囲が一段と明るくなる。東の空と山の境目が、溢れんばかりの光を帯び始める。

 太陽が顔を出せば――弦司は死ぬ。

 

 

「あ……うわ……あああああっ!!」

 

 

 気づけば弦司は周囲を見渡し、ちょうど目に映った洞穴に向けて駆けていた。心の折れていた弦司には、墜落以上の激痛と徐々に迫りくる死に耐えられなかった。

 だが、逡巡した時間だけ駆け込むのが遅れた。洞穴に飛び込むと、逃げ遅れた左足が僅かに朝日を浴びる。燃え上がるような激痛が走り、弦司は頭から転倒してしまう。

 激痛に歯を食いしばりながら、陽の光を浴びた左足を見やり、弦司は声を失う。左足は文字通り灰になっていた。

 

 

「う、うわあああああっ!!」

 

 

 次第に目の前の現実が頭に追いつき、弦司は絶叫した。激痛の先にあるのは、死ですら生温い()()であった。

 なぜ、こんな仕打ちを受けなければならないのか。理不尽だった。

 喉が裂けんばかりに絶叫した。耳が痛いほど、洞穴に声は反響した。

 悲鳴のような絶叫を聞いた者は誰もいなかった。

 

 

 

 

 弦司は手足を投げ出し、堅い岩肌で仰向けに寝転がっていた。頭の中では、気絶する直前に流れた覚えのない映像を反芻していた。疑問に思ったからではない。絶え間なく続く飢えと渇きと絶望から、目を逸らすための現実逃避だった。

 とはいえ、これが中々面白かった。今はこの映像の中に存在する『映画』を見ていた。声と色彩が着いているだけではなく『CG』と呼ばれるものがあり、実在しないものをまるで本物のように映す技術は、弦司の想像を超える迫力を持っていた。例え現実逃避の行動とはいえ、映像の中には称賛すべきものがたくさんあった。

 ──そうして耽っていたせいか、()()の接近に気づかなかった。

 

 

「グゥゥゥッ……!!」

「えっ」

 

 

 間近で聞こえたうなり声に、弦司は立ち上がろうとして──その途中で後頭部に衝撃を受けた。そのまま吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。

 

 

「がっ……!?」

 

 

 衝撃に空気を吐き出す。同時に頭には激痛とへこんだような嫌な感覚。しかし、それもすぐに収まる。弦司は傷は気にすることなく、衝撃の元凶を見やる。そこには、全身毛に覆われた直立した巨大な獣──熊がいた。

 

 

「グオォォォッ!!」

「……なんだぁ」

 

 

 咆哮する熊を見て、弦司の内に沸き立ったのは怒りだった。今までの理不尽とは、どこにもやりどころがなく、嘆き叫び絶望するしかなかった。だが今回は違う。明確に他者がいる。感情を向ける相手がいる。つまるところは──八つ当たりできる対象が来た、という事だった。

 弦司は緩りと立ち上がる。

 

 

「グルゥゥゥゥ……!!」

 

 

 熊は明らかに怯え、くぐもったうなり声を上げる。死んだと思った敵が、何の堪えた風もなく立ち上がったのだ。生物から逸脱した現象に、怯えて当然だった。しかし、今の弦司にはその様子は映らない。この怒りをぶちまける事しか頭になかった。

 

 

「畜生の分際で、俺に何をした!!」

「っ!?」

 

 

 叫びながら飛びかかる弦司。その速さに熊は目がついていかなかったのか、弦司からすればただ突っ立っているようにしか見えない。

 弦司は熊の頭を掴むと、

 

 

 ──ブチッ!!

 

 

 そのまま引きちぎった。

 着地と共に首のない体は揺れ、そのまま仰向きに倒れる。弦司はそちらに目を向けることはなく、忌々しげに手元の首を見ると思い切り叩きつけた。

 

 

「馬鹿が! お前が何をしたか分かったか!」

 

 

 肉と骨と脳漿が辺り一面に飛び散り、弦司はそれを一つずつ踏み潰していく。怒りをぶちまける事しか頭になかった。

 

 

「分かったか! ……分かったか」

 

 

 粗方潰し終えたところで頭が冷えてきて、弦司は脱力した。爽快感なんてなかった。ただただ虚しかった。

 岩壁に背を預け、その虚しさの結果を見る。頭のない死骸、その首口からは止めどなく血が流れている。

 そのまま、血が広がっていく様を見た。自身が起こした惨状だが、何の感慨も湧かなかった。ただ、己はこうやって人を殺め喰らおうとしているのか、と漠然と思った。

 岩肌を広がる血。それを眺めていると、弦司はふと思いついた。

 

 

「こいつが人の代わりにならないか……?」

 

 

 自然と口をついた言葉に、弦司は一瞬背筋を凍らせる。人の代わり、という言葉が自然に出て事が、自身の悍ましい変化を否応なしに感じさせた。だから、この()()もはっきり言えば採りたくなかった。しかし、腹の虫は鳴り止まず、むしろ食を意識したせいか飢えと渇きがぶり返してきた。

 迷ったのは数瞬。やはり飢餓には勝てず、弦司は熊の腕を引きちぎり毛皮を引き剥く。新鮮な肉が剥き出しになり、血が滴る。血抜きはしない。この肉が人だった場合、生きたままでも齧りついていたと、嫌な確信があったからだ。代わりとするならば、このまま食べるしかない。

 弦司は恐る恐る口を近づけると、覚悟を決めて齧り付いた。途端、口に広がるのは血の香りと、生肉の柔らかい食感。味もなく美味くはなかった。はっきり言って、不味かった。それでも我慢し咀嚼し、無理やり飲み込んだ。

 感じるのは、不味いものを食べた不快感と、もう食べたくないという率直な感想。それでも、背に腹はかえられないと二口、三口と熊肉に口を付けていった。

 全ての腕を平らげた時、弦司は己の異変に気づいた。

 

 

「腹が膨れた……?」

 

 

 さっきから渇望していた飢餓という欲求が抑えられていたのだ。信じられなかったが、自身の感覚が正しい事を証明していた。

 正直、現状は昨日から考えると最悪もいいところだ。環から逃げ出して、帝都から離れ、人里からも離れていき、さらには太陽を浴びられぬ死ねない体。その上、食べられるのは人を除けば生の獣肉ときた。優雅に帝都で暮らしていた時から、雲泥の差である。

 それでも、人を喰らわず生きていける術を見つけた。弦司は前に変化できたのだ。

 前に進めた自分に。僅かに見つけ出せた光明に人知れず涙を流した。

 哀しい歓喜の涙だった。

 

 

 

 

 弦司が山に入ってから半年が過ぎた。人を喰らわず、人と交わらず。そんな生活も半年も経てば、ある程度決まった日常が出来上がる。

 日の入りとともに、弦司の一日は始まる。よく見えるようになった暗闇を進み、最初に向かうのは小川だ。洞穴に水を長期間溜められる場所がない。そのため、一日の最初は水場へ向かう。

 そこでは、主に水浴びと洋服の洗濯を行う。特に洗濯は洋服一着しかないので細心の注意を払って行う。一応、熊の皮を鞣しているものの、所詮素人の浅知恵だ。どこまで使えるか分かったものでないので、大事に洋服は洗う。

 次は狩りだ。この体の視聴覚は人とは比べものにならないほど優れている。例え夜でも、獲物は簡単に見つけられた。最近は手慣れたもので、眠っている猪に忍び寄り、眉間を一突きで仕留めている。

 後は薪になりそうな木材を拾いながら洞穴へ戻り、獲物の処理を行う。ここ一か月ほどは、火で炙った肉でも腹が膨れるようになった。味はあまり変わらないが、より人に近づいた食生活のために焼く。

 まだ陽が昇っていない場合は、そこから探索へと向かう。

 半年もいれば色々な物を見つける。岩塩や山椒、山葵は先月小川を辿っていたら見つけた。これらの調味料も、最初は直接齧らなければ味を感じられなかったが、最近では多少多めに肉に塗すだけで味が感じられるようになった。

 日が沈んでから、洞穴で薪を燃やす。木の枝に血抜きをした肉を刺し、塩と山椒をかける。十分に火が通ったところで、冷める前に肉に齧りつく。

 かなり固く、味も乱雑だ。それでも、今ではこれが山での最高の贅沢だ。

 食事を終え、陽が昇ったら洞穴に引きこもる。この時間は少しでも生活基準を上げようと、殴り倒した丸太や獲物の毛皮を加工する。

 最近は燻製用の箱を作った。丸太をくり抜いて蓋をしただけの簡素な物だが、日中の暇つぶしとして重宝している。

 それでも、日中の時間は長い。すぐに出来る事は無くなる。そういう時は、例の体験した事のない映像を思い浮かべた。何もない洞穴では、これが唯一の娯楽だった。

 ただ、こうして何度も思い浮かべ分かった事がある。それはこの映像が弦司ではない、誰かが体験した一生という事だ。映像からは彼は現在より、かなり進んだ文明で生きていた事が伺えた。もしかしたら、これが弦司の前世で、幼少期の燻った想いの原点だったかもしれない。

 そして、この前世と思われる映像こそが、弦司の心が人のままである原因と推察した。

 体が変わったとき、同時に心も変わっていく感覚があった。しかし、弦司の潜在意識には今の弦司とは他に別の弦司がいた。別の弦司がいた事で、彼が身代わりになり今の心が残った。弦司はそう仮説を立てた。

 無論、こんな仮説を立てた所で何も成らない。暇つぶしだ。だが、そうして現実逃避しないと不安に押し潰されそうだった。

 

 

(こんな日常が長く続くわけがない)

 

 

 そうやって今日も日中を潰した弦司は、日の入りが近づいた洞穴で一人不安を抱く。

 日常が続かない根拠は二つ。一つ目は食事量の増加だ。

 生肉を食べた日から次第に味覚は人へと近づいた。だが、それと比例するように食事量も増加していた。今日はすでに猪一頭を平らげている。山の動物を狩り尽くすのに、さして時間はかからないだろう。

 二つ目は人里だ。いくら山奥とはいえ、全く人の手が入っていない場所などそうそうない。その証拠に、この近郊にも村があった。村人は滅多に弦司のいる山へとは入らないが、全くない訳ではない。加えて、村では発展の兆しがみられる。いつかは弦司のいる山へ生活圏を拡大する事が予想された。

 二つの根拠。短期的にも長期的にも、この山にいられない。今の僅かに安定した生活さえ捨てなければならない。弦司はそんな未来、今は考えたくなかった。

 

 

(……とにかく、捜索範囲を広げよう)

 

 

 今日も日の入りまで結論は出ず。弦司は重い腰を上げて洞穴を出る。日課通りまずは小川に向かおうと足を進め──耳が捉えた音に足を止める。

 異常に強化された聴力を頼りに音源を割り出す。

 弦司は眉を顰めた。耳が捉えた音とは、すすり泣く音だった。一段高い木の上に登り、音の方角を見る。木の隙間からとぼとぼと歩く子どもの姿があった。

 

 

(マジかよ)

 

 

 弦司は渋い顔つきになる。子どもを助けたいという想いはあるが、安定を望む上では不利益しか生まない。

 まず子どもを助けようとしたとして、心を開かない可能性が高い。そうなれば、村へ戻った子どもが悪評を流す。それはそのまま、弦司の排除へと繋がるだろう。

 仮に子どもが弦司に懐いたとして、山奥に不審者がいる現状を村の大人が良しとする訳もない。弦司を探し出し、そのまま受け入れてもらえばいいが……今の生活を思えば、その望みは薄いだろう。

 どうなっても不利益しか生まない選択。しかし弦司はすぐに決断できなかった。何のために人を喰らわなかったのか。それは人を殺したくないからだ。だというのに、人それも子どもを見捨てる……自身の最後に残った矜持さえ棄てかねない。それだけはどうしても避けたかった。

 

 

(ああもう……やるしかないじゃないか)

 

 

 迷いに迷い弦司は大きく舌打ちすると、木から飛び降り子どもの下へと向かった。未来の事は未来で考える事にして、今は目の前の子どもを助けることにした。

 弦司はすぐに追いついた。変に大きな音を立てないよう静かに近づき、少し離れた所から声をかける。

 

 

「ぉい」

「っ!?」

 

 

 ここ半年もろくに喉を使わなかったせいか、掠れた声が出た。それでも、子どもには届いたのかキョロキョロと回りを見渡す。

 

 

「うえっ……」

 

 

 月明かりも射さない深い森の中だ。弦司の姿が見えないせいか、さらに嗚咽が大きくなる。

 

 

「ごめんな、急に声なんてかけたりして。落ち着いてからでいいから、少し話を――」

「あああぁぁぁっ!!」

 

 

 言い終わる前に、子どもが駆け出す。聞きなれぬ声、見えぬ姿、暗闇の森林……いずれも、子どもの恐怖心を掻き立てるには十二分だった。

 必死に走る子どもだったが、暗闇に足を取られたのか。すぐにこけてしまい、うずくまり声を上げて泣き出す。

 弦司は面倒そうに頭を掻きむしると、子どもに駆け寄る。

 

 

「うわああああああああっ!!」

「ごめん、驚いたよな。俺が悪かった」

 

 

 手を差し伸べる弦司の手を、子どもは払う。だが、起き上がる気力はないのか、そのまま大声で泣き続けた。

 

 

「ああ、本当にごめんよ。痛かったよな。俺が悪かったから、起き上がるのだけ手伝わせてくれ」

 

 

 何度も謝り、何度も手を払い除けられ、それでもしつこく子どもを起こそうとする。最後には子どもが根負けしたのか、弦司に身を任せ起き上がった。

 その頃には、嗚咽は止まっていないものの、ある程度話せるようになった。

 

 

「……だ……だれ?」

 

 

 強張った顔で問う和装の子ども。声音と体つきから、十歳程度の少年である事が伺えた。

 本能が呟く。

 ──子どもの肉は美味い。

 衣食足りて―─実際足りてはいないが―─食の当てがあるのが大きいのか、本能の呟きはあまり魅力的とは思えなかった。

 とはいえ、それは悍ましい思考だ。誰にも悟られてはならないし、表へ出してはいけない。弦司は茂吉の視線に合わせるよう屈むと、努めて優しく語りかけるように返す。

 

 

「弦司だ。お前は?」

「………………も、茂吉」

「茂吉って言うのか。茂吉、足は大丈夫か?」

「うん」

「強い男だなお前は……それで茂吉、お前の家は近くの村なのか?」

「……うん」

「そうか。いい村だよな、あそこは。東京育ちの俺には新鮮だよ」

「……東京?」

「ああ。茂吉は東京に行ったことはあるか?」

 

 

 茂吉と名乗った少年は首を横に振る。弦司はニヤリと笑う。久しぶりすぎて、ぎこちない笑みだった。

 

 

「それは勿体ないなー。最近は洋食店も増えて誰でも食べられるようになったし。楽しいから一回行ってみろよ」

「でも、僕の家……お金、ないもん」

 

 

 茂吉が俯き、再び目に涙を溜める。どうやら、家族の事と現状を思い出し、不安になったようだった。

 弦司は立ち上がる。

 

 

「まあ、ダメ元で一回頼んでみろよ」

「っ……でも、お家の場所、わ、分かんない……頼めない」

「大丈夫だ。村までの道は知ってるし、俺もちょうど用がある」

「ほ、本当!?」

 

 

 茂吉が顔を上げる。なぜ知っているのか。そもそも本当に知っているのか。そんな驚愕と疑念が混ざり合っているように弦司には見えた。

 

 

「ついてくるか?」

「……」

「ま、こんな不審者にはついてきたくはないわな。それじゃあ、俺が先に歩くから後ろついてくるか?」

「……」

 

 

 茂吉は答えない。いや、答えられないのだろう。あまりにも情報が少なく、判断ができない。しかし、弦司にはそもそも判断させるつもりはない。この子の安全が確保できれば、それで良い。

 

 

「それじゃあ、先行くぞ」

「っ!?」

 

 

 茂吉が答える前に弦司は村の方角へ進む。茂吉はしばらく動かなかったが、次第に離れていく弦司の背中を見たせいなのか。

 

 

「~~~~っ!! 待ってよ、兄ちゃん!!」

 

 

 一人になる不安には勝てず、茂吉は慌てて弦司を追いかけた。すぐに追いつき、弦司に張り付くように後ろを歩き始める。

 

 

「……」

「……」

 

 

 そのまま無言で二人、しばし歩いた時だ。

 

 

「…………ねえ、兄ちゃん」

 

 

 茂吉から話しかけてきた。嗚咽はもう止まっていた。

 

 

「なんだ?」

「兄ちゃん、昨日は村の辺り歩いてた?」

 

 

 弦司は首を傾げると、昨日を思い出す。

 昨日は水浴びと狩りしか行っていない。村の近辺は歩いていなかった。

 

 

「いや、その辺りは歩いてないな。何かあったのか?」

「……笑わない?」

 

 

 弦司が視線を後ろに流す。茂吉は不安と緊張が綯い交ぜになった、強張った表情をしていた。

 

 

「笑わない」

「本当に?」

「笑わないって。笑ったら、東京連れてってやる」

「本当!? でも、それなら笑ってくれてもいいかも」

「冗談言えるならもう大丈夫だな。それで、何を見たんだ?」

「う、うん……」

 

 

 茂吉が僅かに俯き、小さく呟く。

 ――口が裂けた、化け物を見たんだ。 

 

 

「っ!?」

「? どうしたの?」

 

 

 一瞬、己の事かと弦司に緊張が走る。しかし、茂吉が見たのは昨日。その日は村には近づいていない。ならば、茂吉の見た化け物とは一体何なのか。疑問は尽きないが、一先ず弦司はそれを飲み込み平静を装う。

 

 

「いや、何でもない。しかし化け物か。それは物騒だな」

「うん。だから僕、村のみんなに教えたんだ。なのに、村の誰も信じないんだ……」

「おい、それで何でこんな真夜中に歩いてるんだ?」

「……」

「誰も信じようとしないから、探しに来た……って、ところか?」

「……」

 

 

 茂吉が気まずそうに視線を逸らす。

 

 

「……俺からは何も言わん。しっかり説教されてこい」

「えっ」

「え、じゃないだろ。急に真夜中に村からいなくなって、お前の親が怒ってない訳ないだろ」

「どうにかならないの!?」

「どうにもならん。甘んじて受けてこい」

「嫌だよ! 母ちゃん、怒ると怖いんだよ!」

「母ちゃんは怖い生き物だ。諦めろ」

「謝っても絶対許してくれないんだよ!」

「普通に謝るな、誠心誠意謝れ。そうしたら、許してくれる」

 

 

 余程、説教が怖いのか。茂吉はどうにかならないかと、弦司にまとわりつく。

 ――それが幸いした。

 突然、突風が吹き荒れる。茂吉がまとわりついていたからこそ、弦司は咄嗟に茂吉を突風から身を挺し守る事ができた。

 

 

「くっ……!」

 

 

 そして、突風が通り過ぎ弦司は苦悶に表情を歪める。左肩が半ばまでばっさり斬り裂かれていた。

 血飛沫が飛び、地面に血だまりを作る。

 それを見て、ようやく茂吉が事態を理解すると、恐怖に顔を引きつらせた。

 

 

「に、兄ちゃん!!」

「少し待ってろ」

 

 

 弦司は茂吉を背中に隠すと、傷の原因となった奴を睨み付ける。

 そこには、頬の半ばまで裂けた口と、長い舌を持つ異形の化け物がいた。

 突風。それは単なる風ではなく、この化け物が高速で動いた結果だった。

 化け物は獣のように両手足を地面につけて座る。左腕についた弦司の血を見ると、乱雑に長髪を梳くと、裂けた口を不愉快そうに歪めた。

 

 

「ガキかと思ったら、ご同輩も一緒か。久々の食事だってのに間が悪い」

「兄ちゃん! あれだよ、僕が見たのは!」

「……」

 

 

 化け物は忌々しげに左腕を振るって、弦司の血を吹き飛ばす。そんな化け物の様子を見ながら、弦司の頭にはある言葉が残っていた。

 ──同輩。

 今の己の姿を、突きつけられた気分だった。

 そして思う。今、こうして茂吉と話せているのは奇跡だと。そして奇跡とは長く続くものではないのだ。いつかは己もこんな化け物になる。しかし、自分から奇跡を終わらせるつもりはない。少しでも、最悪の結末に抗う。

 弦司は茂吉の背中を押すと、親指で一点を指差す。

 

 

「兄ちゃん?」

「茂吉、重要任務だ。助けを呼んできてくれ」

「兄ちゃんは?」

「あいつを足止めする」

「!? でも、そんな怪我じゃ──」

「だから重要任務だ。早く行って、俺を助けてくれ」

「~~っ、うん!」

 

 

 茂吉は強く頷くと、森の奥へと駆けていった。弦司が示した方角に村があるのは確かだった。だが、弦司は助けなんて期待していない。子どもの足では、すぐにはたどり着けない。何より、弦司を見て助けようなどという人間は、もうこの世にいないだろう。

 化け物が苛立たそうに、細い目で弦司を睨みつける。

 

 

「……どういうつもりだ、小僧?」

「見れば分かるだろ。楽しい楽しい()()()()()だ」

「『鬼』が人間ごっこか? ケケケッ、こりゃ滑稽だな! 中々面白い見世物だったぜ!」

 

 

 化け物──いや、鬼が弦司を嘲笑する。同時に弦司は腑に落ちた。人を喰らう化け物である己は確かに、奴と同じ鬼なのだ。そんな化け物が人間のフリなど、滑稽以外の表現のしようがない。

 それでも、弦司は強く拳を握る。鬼の笑みが消え、長い舌を引っ込める。

 

 

「面白いか。それじゃあ、公演終了まで付き合ってくれるよな?」

「……おい、正気か? ()()()が近くまで来てるんだぞ? 冷静になれ。ガキは半分やるから、協力といこうぜ?」

 

 

 ──鬼狩り。

 また、聞き慣れない言葉だが、ある程度予想はついた。

 弦司は視線を左腕にやる。出血も止まっている。問題なく動く。

 ならば、弦司のやる事は一つだ。

 

 

「それは良い事聞いたな。なら、公演時間は延長だ。観客が揃うまで、ご起立はご遠慮いただこう」

「……狂ってやがる!」

 

 

 鬼は両手足で地面を蹴る。まるで爆発が起きたかのように、鬼は弾け飛び、風となり弦司へ迫る。速かった。だが、ここ半年間で何度も見た猪と同じ軌道。

 弦司は右拳を振り上げると、鬼の動きに合わせて一気に振り下ろす。鬼の背中へ拳を叩きつけた。

 

 

「かはっ……!」

 

 

 鬼は地面に追突し、衝撃で血を吐く。弦司も真っ向から受けて立ち、右腕は赤く染まっているが、損害は敵の方が上。手ごたえから、背骨は折れ衝撃は内臓にまで達しているだろう。

 が、そこは鬼。即座に四肢に力を入れ、弦司から距離を取った。

 

 

「小僧、鬱陶しい真似を……!! 手足を引きちぎって、太陽で燻ってやろうか!!」

「朝まで延長公演をご希望か? 中々あんたも好きものだな」

「その軽口、二度と叩けないようにしてやる!!」

 

 

 再び地面を蹴る鬼。しかし、今度は愚直には来ない。左右に高速で動き回る。時に木を足場に、時に木を陰に軌道を隠し予想のつかない動きをする。

 弦司は視線を左右に巡らせる。段々と速度を上げその姿が一つの塊となるも、弦司は鬼を見失わない。

 時間にして十数秒。鬼の速度が最高に達したと同時に、軌道を急激に変え一直線に弦司へ向かう。ほとんど黒い影となった姿を辛うじて捉えた弦司は、右拳を真っ直ぐ振る。

 確実に捉えたと思った攻撃は、しかし弦司の腕に右に受け流される感覚を伝える。

 

 

「っ!?」

 

 

 何が、と思う暇もなく、弦司の腹部に強烈な衝撃が突き刺さり、体が()の字に折れ曲がる。内臓が破裂し口中に鉄の味が溢れ、血を吐き出す。

 

 

「この――!」

 

 

 痛みに意識が半ば飛びながら、弦司は必死に突き刺さったそれにしがみついた。

 腕だった。しかし、()()()()()()()二本の内の一本。

 鬼は背中の腕で弦司の攻撃をいなし、もう片方で痛撃を与えていたのだ。今の弦司は、横向きにした背中の腕を腹部に受け、必死にしがみついていた。

 鬼は弦司を引っかけたまま再び地面を蹴り、

 

 

「がはっ!!」

 

 

 樹木に弦司を叩きつける。轟音と共に脊椎と後頭部が潰れ、辺り一面に血飛沫が飛ぶ。それでも鬼は手を緩めない。そのまま弦司を樹木ごと薙ぎ倒し、

 

 

「がっ!! あっ――」

 

 

 続けて、一本、二本。弦司の背中が粗方拉げた所で、鬼は急停止する。

 慣性に引かれた弦司は、樹木に叩きつけられる。そのままずるずると、大量の血痕を残しながら力なくずり落ち、ようやく動きを止めた。

 鬼は背中の腕で自身の吐血した血を拭うと、侮蔑の視線を弦司へと向ける。

 

 

「分かったか、小僧。鬼の力は人を喰らった数で決まる。未だ()()()()()に興じる貴様に、俺が止められる訳がないんだよ」

「ま……て……」

「それじゃあ、あのガキは俺が全部喰ってやる。せいぜい俺に協力しなかった事を、後悔してろ」

 

 

 鬼が背を向ける。このままでは、茂吉が喰われる。それだけは、絶対に嫌だった。だが、脳が半ば漏れ出し全ての脊椎が砕かれてしまっている。歯を食いしばった。何度も力を込めた。それでも、指の一本も動かなかった。

 人としての一生を失った。そうして残った最後の矜持も、今、失おうとしている。

 

 

(鬼になってまで、鬼に全て奪われるのか……!!)

 

 

 憎かった。無力な自身も含め、鬼という存在全てが。

 

 

(俺はどうなってもいいから……! あいつを止めてくれ……!!)

 

 

 何度強く祈っても、鬼は止まらない。

 鬼が四肢に力を込める。

 

 

(やめろ……!)

 

 

 強靭な肉体が、地面を押し飛ばそうとする。力が解放された瞬間、茂吉は奴によって喰われてしまう。

 

 

(やめてくれっ!!)

 

 

 弦司が最悪を幻想した瞬間――鬼が真横に飛んだ。

 砂煙をまき散らし飛び退る鬼。それは何かから逃げるような、我武者羅な動きだった。

 そのまま二転三転し転げ回り、鬼がようやく止める。

 

 

「えっ」

 

 

 弦司はようやく喋れるようになった口で、間抜けな声を漏らした。それもそのはず、鬼にあるはずのもの――両手足が欠けていたからだ。

 鬼が必死に飛び退いた跡、飛び散る砂煙に視線を向ける。

 砂煙には、いつの間にか一つの人影があった。

 全ての粉塵が収まった時、一人の女性が露わになる。

 まず目を引くのは、その服装だ。

 大日本帝国陸軍を思わす黒い詰襟。無骨な衣装とは正反対に、その上の羽織りの基調は白。さらに、外へ向かうほど鮮やかな色彩を帯び、まるで蝶の羽を想起させた。

 そして、服装以上に目を惹いたのは、女性の容姿だった。やや垂れた大きな双眸は可愛らしく、艶やかな唇には色香が漂う。さらには思わず手を伸ばしたくなるような、腰まで伸びた翠の黒髪。一対の蝶の髪飾りが、その美しさに華を添えていた。

 しばし容貌に目を奪われた弦司だが、月明かりに煌く刃を見て我に返る。彼女の手にあるのは、一振りの日本刀。外見からは想像もできないが、彼女が一瞬の内に鬼の手足を斬り飛ばしたのだ。

 

 

()()()()が茂吉君の言った鬼ですね」

 

 

 周囲を見渡しながら呟く女性。弦司は安堵した。茂吉が無事、彼女に保護されていた事が分かったからだ。そして、彼女が鬼の言う鬼狩り。これ以上ないほど心強かった。

 後は彼女が鬼を狩るだけ――と思ったが、女性は中々弦司達に斬りかかってこない。

 彼女はしばし周囲を見渡すと、

 

 

「先ほどの子ども以外に、()()()()()がいたはずです。男性はどこにいますか?」

 

 

 優しく、しかしどこか声音に刺々しさを込めて、女性が問う。

 

 

(……人間の男性? 茂吉のやつ、何を言ったんだ?)

 

 

 首を傾げる弦司。質問の意味が全く理解できなかった。ところが女性は弦司の対応が気に入らなかったのか、その双眸に明らかな苛立ちが生まれる。

 

 

「まさか……()だと!? こんな山奥に嘘だろ!?」

 

 

 鬼は震えた声で叫んだ。女性の問答の間に再生させたのか、鬼の手足が生えているが、恐怖のせいだろうか。両の手足は震え、とてもではないが力は入っていなかった。

 そんな震える鬼に、女性は切っ先を向ける。

 

 

「もう一度訊ねます。男性はどこにいますか?」

「し、知らない! 俺が来た時には、ガキとそこの鬼しかいなかったんだ! ガキが何を言ったか知らないが、俺は誓って何もしていない!! だからお願いだ――」

 

 

 ――()()()()()()

 鬼の必死の命乞い。何人も人を喰らっていながら、自身は助けろ。どこまでも身勝手な主張に、弦司は怒りを覚える。 

 

 

「……私はまた、間に合わなかった」

 

 

 対して女性は怒らず、その容貌を曇らせた。

 だが、それは一瞬。再び表情を凛とさせると、

 

 

「同族でさえ争うしかできない哀しい鬼達。せめて、私が哀しみを終わらせます」

 

 

 未だ動けない弦司は問題外としたのか。女性は鬼へと向かう。

 

 

「ひぃっ!?」

 

 

 鬼は悲鳴を上げると、四肢に力を込め逃げようとしたが――出来なかった。瞬時に距離を詰めた女性が、一瞬の内に鬼の首を刈り取っていた。

 静かに宙を飛ぶ鬼の頭。頬まで裂けた口を限界まで開いた顔は、絶望一色。そのまま首は落下し、残った体も力なく倒れる。

 ――そして、数瞬もしない内に灰となって散った。

 それはまるで、太陽を浴びたかのようであった。

 

 

(何で……一体、何が起きたんだ?)

 

 

 消えた鬼を呆然と見やる弦司に女性が振り返る。彼女の卓越した剣技が為せるのか、衣装も刃にさえも返り血を一滴も浴びていなかった。

 鬼を斬った、その姿さえ美しかった。

 弦司がそんな事を考えてると露とも知らず、女性は弦司の前に立ち刃を掲げる。

 

 

「最後に尋ねます。人間の男性を知りませんか?」

「知らないな。君の勘違いじゃないのか?」

「……そうですか」

 

 

 弦司の返答に、女性は哀しみを深くする。そして、弦司を射抜く視線。そこには、例えようのない悼みと哀しみがあった。

 

 

(彼女は化け物になった俺を、哀れんでくれているのか)

 

 

 嬉しかった。こんなになった己に対して、想ってくれている事が。

 死ぬのは今も怖かった。それでも、彼女に哀れまれて逝けるなら、これ以上の幸福はない。

 

 

(ありがとう。名前も知らない女性)

 

 

 弦司は女性に心の底から感謝し、その時を待つ。そして、それはすぐに訪れた。

 月明かりに輝く刃を女性が振り下ろす。

 刃は弦司の首に吸い込まれるように動き、首が飛ぶ。

 ――それで終わりのはずだった。

 

 

「兄ちゃん!!」

「――!!」

 

 

 森に響き渡る甲高い声。

 女性は咄嗟に弦司の薄皮一枚斬ったところで、刃を止めた。

 声の主はすぐに現れた。

 

 

「茂吉君。来てはダメだって何度も――」

「兄ちゃんから離れろ!!」

「お兄さんってもしかして――いぃっ!?」

 

 

 茂吉は駆け出すなり、女性の脛を持っていた木の枝で叩いた。

 さすがに予想外だったのか、女性はまともに喰らった。女性の額から汗が流れる。それでも、表情は変えず視線は弦司に固定。日本刀を鞘に納めると、茂吉の枝を没収し背後から抑える。

 

 

「茂吉君、ちょっと待って! それ割と本気で痛いから、落ち着いて!」

「兄ちゃんを助けるどころか殺そうとして! この嘘つき!」

「それはそうじゃなくて! そうだけど、そうじゃなくって、そういう事だったの!? ああもう私の馬鹿~~!!」

(んん? 何か噛み合わないと思ってたが、最初から認識がズレていたのか?)

 

 

 先までの凛とした佇まいが台無しになるほど狼狽する女性。暴れ回る茂吉。二人の言動から、弦司は状況を徐々に理解する。

 

 

(たまたま彼女に会った茂吉は、俺の言葉通り助けを求める。で、鬼が人を助けるなんて有り得ない事だと仮定したら、『人間の男性』と執拗に探してたのにも、納得がいく。そして、『人間の男性』がいないとなると……まあ、死んだか喰われたかと思った訳か)

 

 

 事ここに至って、女性も茂吉の言う『兄ちゃん』が弦司である事を理解したのだろう。しかし、首を斬り落とそうとしたのは事実。さしもの彼女の鬼を一太刀で斬り伏せる剛腕をもってしても、暴れる子どもを宥める事は困難を極める……という状況だった。

 もはや、首を斬ってくれとも言える雰囲気でもない。弦司は女性に助け舟を出すことにした。

 

 

「茂吉、俺は大丈夫だから落ち着いてくれないか」

「!? に、兄ちゃん!! すっごく血塗れじゃないか、本当に大丈夫なの!?」

 

 

 弦司の一言で、茂吉が落ち着いて駆け寄ってくる。女性がちょっと泣きそうになっていた。弦司はそれは見なかった事にして、無事を証明するために立ち上がりつつ、茂吉が納得するよう適当に話をでっち上げる。

 

 

「大丈夫なんだが……すまない、俺は茂吉に一つ隠し事をしていたんだ」

「隠し事?」

「実は俺、神隠しにあって妖怪に改造された妖怪人間だったんだ」

「「妖怪人間!?」」

 

 

 茂吉と女性が驚愕の声を上げる。お前は驚くなよ、と弦司は女性に責める視線を向ける。女性は俯いた。

 

 

「ああ。俺は体を妖怪にされて、心まで妖怪にされる直前に、どうにか逃げ出したんだ。そして、あの化け物は俺を追ってきた手先の一体だったんだ」

「妖怪って……兄ちゃん、それ本当?」

「本当だって。ほら、さっきの左肩の傷、もう塞がってるだろ?」

「本当だ……兄ちゃん、妖怪人間なんだ……」

「~~~~っ」

 

 

 女性が自身の口を押える。どうやら、妖怪人間がツボにはまったらしい。弦司はちょっと頭にきた。後でこの作り話に巻き込んでやると決意する。

 

 

「化け物たちは、夜な夜な人を攫い妖怪へと改造してしまう恐ろしい悪の集団だ。俺だけでは太刀打ちできない」

「それじゃあ兄ちゃん、これからどうするの……?」

「心配するな。悪の集団がいるなら、それの対となる正義の集団がちゃんと存在するんだ。その名も『悪鬼滅滅隊(あっきめつめつたい)』! 彼女はその隊員の『お蝶夫人』だ!」

「!?!?!?!?」

 

 

 女性が――否、お蝶夫人が信じられないモノを見るような目で、弦司を見上げる。その目が、弦司の正気を訴えかけるが、努めて無視した。

 

 

「苦戦の末、俺は化け物を倒したんだが、間が悪く彼女が来たんだ。茂吉の言う助けがいる人はいなくて、いるのは妖怪人間だけ……俺も悪の集団の一味と勘違いされて刃を向けられた」

「そ、それでどうなったの!?」

「斬られるその瞬間――あわやのところで、茂吉の登場だ。お前のおかげで誤解が解けて、今はお蝶夫人と俺は協力者さ。なあ、お蝶夫人!」

「~~~~っ!!」

 

 

 弦司に話を振られたお蝶夫人が、唇を強く結ぶ。何も語らないと、お前の話には乗らないとの意思表示だ。

 

 

「お蝶夫人?」

 

 

 だが、前世の弦司の絵物語を悪魔合体させた話に、茂吉はすっかり夢中になっている。キラキラと期待する少年の眼差しの前に、お蝶夫人は無力だった。

 彼女は満面の笑みで応えた。

 

 

「はい。茂吉君のおかげで、私は彼に人間の心が宿っているのを見ました。これからは、彼と協力して悪と戦いましょう」

「そうなんだ! 良かったね、兄ちゃん!」

「ああ。これも全部、茂吉のおかげだ」

 

 

 そうやって褒めれば茂吉は有頂天。もうこれで早々、女性に突っかかることはない。後は茂吉を村まで送るだけだ。

 

 

「そういえば、茂吉……大事な事忘れてないか?」

「え? 何かあったっけ?」

「おいおい、このまま帰ったら母ちゃんに叱られるの忘れたのか?」

「そうだった! でも兄ちゃん、誠心誠意謝るしかないんだよね!?」

「その事なんだが、お蝶夫人が協力してくれるらしいぞ?」

「本当!?」

 

 

 弦司の意図を察したのか、女性が頷く。

 

 

「今回の件は茂吉君のおかげで、彼と会う事ができました。そのお礼です。多少私からも口利きをしましょう」

「ありがとう、お蝶夫人!」

「……お安い御用ですよ。それでは、お家に帰りましょうか」

 

 

 女性が釈然としない顔つきで先導する。茂吉が彼女の後に続こうとして、振り返る。

 

 

「兄ちゃんは来ないの?」

「俺は妖怪人間だからな。彼女が代わりにやってくれるなら、俺は村に近づかない方がいいんだ」

「えっ……」

「悪いがここでお別れだ。ちゃんと謝れよ」

「……うん。さよなら、またね」

 

 

 沈んだ表情で、それでもしっかりと茂吉は別れを口にした。来て、とは言わなかった。本当に強い子だった。

 弦司の仕事はここまで。だから、彼らを見送った後は洞穴に帰ろうと弦司が思っていると、女性が弦司を見ている事に気づいた。

 

 

 ――待っていてね、妖怪人間さん。

 

 

 彼女が満面の笑みで、口だけを動かして弦司に伝えた。



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第2話 蝶と涙・後編

 待っていて、と言われた弦司は素直にその場で待っていた。しかし一度は負傷したせいか、かなり腹が減った。

 たまたま見つけた鳥を狩ると、解体して全て串枝で貫き焚火にかける。あいにく、調味料は手元にない。味付けのない焼き鳥だったが、空腹がいい具合の調味料となり全て平らげた。

 その頃にはさらに夜が更けた。深夜と言っていい時間帯となったところで、彼女がやってきた。

 陸軍軍装のような黒い詰襟と羽織り。優し気な双眸と艶やかな黒い長髪。未だ名前の知らない女性は、来るなり大きな瞳を可愛らしく丸くさせる。

 

 

「はぁ~。本当に待ってらしたんですね、妖怪人間さん」

「……お疲れ様でーっす。またな」

「え、お疲れ様――って、ちょっと待って! ごめんなさい! これは皮肉とかじゃなくて、純粋に褒めているんですよ!」

「本当かぁ……?」

 

 

 腰を途中まで浮かせた弦司。疑わしい目で女性を眺めてから、焚き火の傍の丸太に腰掛ける。

 

 

「それで、茂吉は大丈夫か?」

「はい、無事に村までお連れしましたよ。お説教の方は……頑張りましたけど、ちょっとダメでしょうね。今頃、怒られているかもしれません」

「まあ、しょうがないか。これに懲りて、無茶は控えて欲しいな」

「それには心から同意します」

 

 

 互いに苦笑を浮かべる。夜道を歩くのもそうだが、戦いの場にも乱入してきたのだ。これはお互い本心からの言葉だった。

 これで弦司の心残りはなくなる。

 

 

「そうか、ありがとう」

「その……いいですよ。これも鬼殺隊の仕事です」

「別に茂吉の事だけじゃないさ。君がいなければ、俺は死ぬほど後悔していただろう」

「……はい」

「それで、そっちは他に何の用があるんだ?」

「……えっと……」

 

 

 そこで、女性の言葉が途切れる。彼女の顔を見やれば、小さな口を何度も開閉していた。訊きたい事がある、それでも何と言えばよいか分からない。そんな風に弦司には見えた。

 

 

「とりあえず、時間はあるからその辺に腰を落ち着けたらどうだ?」

「あ、はい。それもそうですね」

 

 

 まずは落ち着くために、弦司は座る事を勧めた。幸いと言って良いかは分からないが、鬼が倒した樹木から座れそうな丸太を焚き火の周りに置いてある。

 女性はしばらく視線を彷徨わせた後、意を決したように口を強く結ぶ。彼女が座ったのは、弦司の隣だった。弦司は少し面食らった。

 焚き火のほのかな灯りが、弦司達を照らす。彼女は真っ直ぐ弦司を見ていた。

 

 

「お名前をお伺いしてもよいでしょうか? いつまでも妖怪人間さんだと、不便でしょうし」

「そうだな……俺の名前は不破弦司。不破でも、弦司でも好きに呼んでくれ」

「ふふ、弦司さんですね。私は胡蝶カナエです。私は妹がいるので、出来ればカナエと呼んで下さい」

「……お蝶?」

()()です!」

 

 

 女性……カナエが目尻を少し吊り上げ、ずいっと顔を近づける。彼女の甘く瑞々しい花のような香りが、鼻腔をくすぐる。

 

 

「あの後、茂吉君にお蝶夫人って村の人に紹介されて、顔から火が出るほど恥ずかしかったんですからね!! 思い出すだけで恥ずかしい!」

「ごめんごめん。君の悪い印象を吹き飛ばそうと思ったら、蝶々しか思いつかなかったんだよ」

「変な印象しか残ってませんよ」

「そうか? 蝶ってカナエにすごく似合ってると思うけどな」

「そうやって話を逸らしたってダメですよ。未婚女性を夫人と呼んだ罪は消えないんですからね」

 

 

 カナエは頬を膨らますと、顔を離し弦司を恨めしそうに見る。その様が可愛らしくて、弦司は笑った。

 誰かが隣にいて、何でもない会話をかわす。こんな日常と呼べる時間は、本当に久しぶりだった。そもそも、こんな時間は二度と来ないと思っていた。そう思うと、急に何かがこみ上げてきて胸が詰まった。

 

 

「大丈夫ですか!? あの、私何かしちゃいました!?」

「いや、そうじゃない……! そんなつもりじゃ、こんなつもりじゃ、なかったんだが……!」

 

 

 狼狽しながらカナエは、弦司を伺うように顔をのぞき込んでくる。

 カナエは弦司が鬼だと知っている。どんな恐ろしい存在か、理解している。なのに、彼女は弦司を気遣ってくれる。一人の人間として接してくれる。鬼になって全てを諦めた日から、二度とないと思っていたものをカナエが次々と運んできてくれる。それが嬉しくてたまらない。

 もう弦司はカナエを直視出来なかった。俯いて両手で顔を覆う。だが、どれだけ隠そうとしても、一度溢れた感情は止められなかった。

 

 

「おかしい、よな……ただ、話した、だけなのに……嬉しいなんて……! 鬼なのに、人といられて、嬉しいなんて……!」

「弦司さん……」

 

 

 涙が止め処なく流れる。もう涙は涸れたと思っていたのに、次から次へと溢れ出して止まらない。

 

 

「鬼になったあの日、俺は……恋人を、喰らおうとした……! 大好きだったのに、どうにも、できなくて……! もう、人の中じゃ、生きられないって……だから、ここに逃げた……! 逃げて、生きる価値、ないって気づいたのに、俺、弱くて死にきれなくて……! 全部諦めたくせに、生き続けて……半年も……!」

 

 

 分かってはいた。

 弦司は諦めるフリをして、感情に蓋をしただけで。だからひたすら苦しくて、死にきれなかった。

 それを全てカナエが壊してくれた。

 一度決壊した感情は昂り、嗚咽が止まらなくなる。

 

 

「俺は……うぅ、俺は……!」

 

 

 これ以上は言葉に出来なかった。今まで目を逸らし、耐えてきたもの。全てを吐き出すように声を上げて泣いた。

 

 

「弦司さん」

 

 

 泣いている弦司を、何かが優しく包み込む。柔らかくて温かい。不意にそれが弦司の背中を撫でる。人間の手のひらだと気づき弦司は狼狽した。

 弦司はカナエに包み込まれるように、抱きしめられていた。

 

 

「カナ、エ」

「ごめんなさい」

「なんで、お前、謝るんだ……」

「気づけなくて、ごめんなさい」

 

 

 カナエは弦司を胸に引き寄せ、謝罪を口にする。その声は震えていた。

 カナエの胸の柔らかさ、温かさ、胸に広がる花の香り。彼女の震えた声でさえ、今の弦司には心地良かった。全てをカナエに任せてしまいたくなる。

 でも、それはダメだ。

 弦司は人を喰らう鬼だ。どれだけ優しくされても、弦司が人を喰らわない保証とはならない。

 弦司はカナエから逃れようともがく。しかしそれは、鬼とは思えないほど、弱々しかった。

 

 

「やめてくれ……俺、鬼なんだ……」

「こんなに、頑張ってるのに。すぐに気づけなくて、ごめんなさい」

 

 

 カナエは離さない。むしろ、さらに腕に力を込めて、精一杯抱きしめる。

 

 

「私、あなたが話せる鬼だと思って、実はワクワクしていたの。そんなの有り得ないって思いながら、いたら楽しい。本当だったら一体何を話そうか、何をしようか、どうやって仲良くなろうか、って。自分勝手よね。あれだけ、鬼は哀しい存在だって言ってるくせに、自分の都合の良いことしか、考えてなかった。私の思う理想でしか、あなたを、見て、なかった」

 

 

 カナエの声が段々と湿ってくる。弦司は抵抗を止めた。カナエにされるがまま、抱き締められる。

 

 

「あなただから仲良く出来るんじゃない。あなたが頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って! それで一緒にいられる。そんなの当たり前の事、そんな簡単な事に気づかないなんて、本当に馬鹿……!!」

 

 

 カナエの声が詰まり、冷たい滴が弦司の頭に落ちる。

 カナエが大きく呼吸をする。村と森を往復しても息が荒れなかった彼女が、ただの呼吸に何度もつっかえた。

 

 

「なんで、カナエが、泣くんだよ……俺は、鬼だぞ」

「だって、弦司さんの頑張り、分かるから……」

「……俺の、何が分かるんだよ」

「──鬼は自分のお腹を痛めて産んだ子どもまで、喰らうの」

「え」

 

 

 カナエの言葉に、弦司の背筋が凍る。どれだけ大きな渇望と戦っていたのか、弦司は今更ながら理解した。

 カナエは弦司を理解している、理解しようとしている。その思いが少しでも伝わるように声を張り上げる。

 

 

「どれだけ深く愛していても、喰らってしまうの。そんなどうしようもない本能を抑えるなんて、どれだけ苦しい事か……! 私はそんな想像もできないで、浮かれてただけで……鬼殺隊に入って、哀しみの連鎖を断ち切るなんて言いながら、私は何も分かろうとしてなかったのよ」

「カナエ……」

「辛かったよね。誰ともいられなくなって、寂しかったよね。報われなくて、苦しかったよね。なのに、誰にも認められなくて、何も知らない私には、殺されかけて……! こんなの哀しすぎる! このままだなんて絶対ダメ! 私は……あなたを助けたい!」

「……っ!」

 

 

 カナエは本気で弦司の事を想い、考え、理解してくれようとしてくれる。彼女の言葉一つ一つが、弦司の心の中に染み渡って広がっていく。心の底の澱んだモノが、澄み渡っていく気さえする。

 もういいんじゃないか。彼女の差し伸べた手を、握り返してもいいんじゃないか。彼女と話す度、何度も何度も思う。思って……弦司は動けない。心のどこかで、彼女を信じられない。こんなの言葉だけじゃないかと、カナエを拒絶する。

 それが伝わったのか、彼女は歯軋りをしながら、さらに弦司を強く抱きしめる。そして、大粒の涙を零しながら、絞り出すように言った。

 

 

「私に、助けさせて、下さい」

「──」

 

 

 もう無理だった。信用だとか、出来ないだとか。そんな理屈、全て吹き飛んだ。

 

 

「カナエ!」

 

 

 弦司は想いのまま、彼女に抱きついた。彼女の伸ばした甘い甘い救いの手に縋りついた。

 

 

「死にたくない」

「うん」

「生きたくない」

「うん」

「こんなのもうたくさんだ」

 

 

 弦司は感情をカナエにぶつけ、彼女はただ頷いて受け入れる。

 弦司はもはや己を抑えるつもりもない。カナエも止める気はない。

 そして、膨れ上がった感情は、弦司の願いに辿り着く。死にたくない。生きたくない。そんな矛盾する弦司の想いの行き着く先は──。

 

 

「人になりたい」

「──」

 

 

 二人の願いは、誰にも叶えられない。

 弦司もカナエも泣いて泣いて泣いた。願いを叶える手段がない二人は、泣く事しか出来なかった。

 

 

 

 

 どれだけ哀しくても、泣いてしまえば感情は萎んでいく。次第に平静に戻っていった二人はある感情に苛まれた。

 

 

 ──恥ずかしい!

 

 

 二人は初対面。さらに異性である。にも関わらず、家族にも見せないようなあられもない姿を晒した。恥ずかしくて当然である。

 二人は身動ぎ一つしない。離れるのは相手を突き放すようで嫌……という以上に、少しでも動くと体の感触が返ってくる。それが生々しくて相手を必要以上に意識してしまい、身動ぎできなくなっていた。

 それでも、二人とも大人である。恥ずかしくても、口先だけは器用に動き出した。

 

 

「その……ありがとう、カナエ」

「あはは……どういたしましてでいいのかしら? 結局、私も泣きたいだけ泣いちゃったけど」

「俺は嬉しかったけどな」

「女性を泣かせて嬉しい?」

「言い方」

「ふふ。貸し一つね」

「酷い。暴利だ」

「乙女の涙は安くないのよ。覚えておいてね」

「ああ、わんわん泣いたこと、忘れない」

「ふーん。そういう事言うのね~。それじゃあ、この貸しは、これからどうやって使おうかしら?」

「……()()()()、か」

「……」

 

 

 ふと零れた、未来を思う言葉。

 今、弦司はカナエに会えて本当に幸せだ。だが、この先の展望は何もない。

 幸福はすぐに終わってしまう。なら、このまま全てが終われば、自分は幸福のまま……そんな諦観が伝わってしまったのか、カナエが痛いぐらい力を込めて抱き締める。

 

 

「……苦しい」

「良くない事考えたでしょ?」

「……ごめん、少し考えた。でも、本当にどうすればいい? これからも人は喰わないつもりだけど、いつまでもこの山で過ごせない。茂吉の件もあるし、少なくともここを離れるが、その先はどうする?」

「う~ん……とりあえず、人里離れた物件を探しましょう。今より生活環境が整えば、少しは気持ちも前向きになると思うわ。後は飢えをどうするかだけど――」

「確かに、最近は猪一頭平気で食えるようになったからな。なるべく食糧事情の良い、動物の多い山がいい」

「そうね、動物が多い山──」

 

 

 突如、カナエは弦司を腕から解放する。なぜと思う間もなく、肩を掴まれるといい笑顔のカナエが弦司の顔をのぞき込んだ。

 

 

「猪ってどういう事? 弦司さん、私何も聞いてないんだけど?」

「人の代わりに獣肉喰ってるって……言ってなかったっけ?」

「言ってないわ、馬鹿野郎」

「!?」

 

 

 (カナエ)が毒を吐いた。弦司はようやくいかに大事な情報を伝えていなかったのか理解した。

 

 

「特異体質? それとも、鬼の元々の生態? まあ、その辺りの調査は全部しのぶに任せればいいわよね」

「えっと……それで、俺の処遇はどうなるんだ?」

 

 

 カナエは懐を漁ると、包みを一つ出した。包みの中にはおにぎりが四つ入っていた。

 弦司はカナエの意図が分からず困惑する。

 

 

「これ食べられる?」

「ええと、鬼になってから試してないけど……いいのか? これお前の食事だし、そもそもこんな事に何か意味はあるのか?」

「細かい事気にしなくていいの。大事な事なんだから何も言わずに食べて」

「なら……いただきます」

 

 

 弦司は白いおにぎりを一つ掴むと、恐る恐るかじった。動く事を前提に考えていたのか、かなり塩気が効いたおにぎりだった。握ってから大分時間が経っていたのか、食感は固い。

 カナエは弦司が食べる様子を嬉しそうにじーっと眺める。

 

 

「どう?」

「半年間、肉ばかりだったからな。久しぶりに米が食べられて、かなり嬉しい」

「そうだったのね……ところでそのおにぎり、私の妹が作ったんだけど、どう?」

「美味いけど……これ、俺が食べて本当に良かったのか? 妹が(カナエ)のために作ったんだろ」

「大丈夫、しのぶなら分かってくれるわ……多分」

「不安しかないな……はぁ、四つもあるんだからカナエも食べろって。半分こだ」

「でも、それで足りる?」

「いや、お前が来る前に鳥狩って食べてたから、二つで十分だぞ」

「だからそういう重大な事は先に言ってよ……って、ああそうか。焚火があるのはそういう理由ね」

 

 

 カナエは嘆息しながら、弦司に言われた通りおにぎりを口に運び、美味しそうに頬張った。

 弦司ももう一つおにぎりを食いつく。ただの作り置きの、何の変哲もないおにぎり。半年ぶりに誰かと食べる食事は、今まで味わったどんな料理よりも美味しかった。それに腹が満たされる感覚があった。惰性のまま生き続けたこの半年間……確かに弦司の体は『変化』していたのだ。

 すぐにおにぎりはなくなった。

 

 

「ごちそうさま。美味かったよ」

「そう、良かったわ。それで、獣肉以外の食べ物でも、満足できた?」

「ああ、空腹が解消された感覚がある。植物もいけるなら、山の動物を狩りつくさなくても済みそうだ」

「ふふ、心配する所はそっち?」

「ごめんな、自分の体なのに何も分からなくて」

「いいわよ、これからたくさん知っていけば。それで、あなたのこれからだけど、その前に――」

 

 

 カナエは小指を立てた手を弦司に差し出す。

 

 

「一つだけ約束して」

「また突然だな、指きりなんて。ガキの時以来だな。それで、一体何を約束すればいいんだ?」

「あなたの命を私に預けて」

「さっきから、脈絡ないなホント」

 

 

 弦司は一瞬冗談かと思い笑うが、カナエは真っ直ぐ弦司を見据えている。

 

 

「正直に話すとね、あなたを人にする可能性に心当たりはあるわ」

「本当か!?」

「だけど、それは本当にか細い可能性よ。まだ実現もできていない。もしかしたら、私が生きている間は実現しないかもしれないわ」

「……やっぱり、難しいのか」

「そもそも、人を喰らわない鬼なんて、今まで一人もいなかったもの。鬼殺隊にとっても、鬼達にとっても、これは前例のない異常事態よ。もちろん私は全力であなたを助ける。それでも苦しい事も辛い事もあるわ。そんな時、死んだ方が楽だって思う時が来るかもしれないけど……私はあなたに生き続けて欲しい。だから約束。あなたが生き続けるために、あなたの命を私に預けて」

 

 

 弦司は感心する。何かあった時、弦司は()を選択肢に入れるだろう。本当に彼女が弦司の事をよく見ている。よく、見てくれている。

 だからこそ、弦司は冗談めかして返事ができる。

 

 

「勝手に俺の命を取るなよ」

「ケチ。あれだけいらないって顔してたんだから、くれたっていいでしょ」

「そもそも、まずは人を喰わないって約束が先じゃないか?」

「約束する必要ないもの」

「……指きりで俺が約束を守る根拠は?」

「守ってくれないの?」

 

 

 カナエがコテッと首を傾げる。

 弦司はため息を一つ吐いてから手を差し出し、カナエと同じように小指を立てる。

 

 

「鬼を転がして楽しいか?」

「純粋な乙女の好意なのに、そんな風にしか思わないなんて悲しいわ~」

「……俺はそんなに受け取っていいのか。俺は――」

()よ」

 

 

 カナエは弦司の言葉に割り込むと、そのまま強引に自身の小指で弦司の小指を絡め取る。カナエの華奢な体躯からは、想像できない強い力が伝わってくる。

 

 

「人を慈しんで、人を助けるあなたは立派な人よ」

「俺が人か……俺はカナエからもらってばかりだな」

「いいわよ。私がやりたいから、やってるだけだもの」

「人は助け合うものだと思うんだが、何か意見はあるか?」

「……そうきましたか」

 

 

 カナエは小指の力を緩め、眉尻を下げ困惑を表す。

 

 

「弦司さんのそういう所、とても好意が持てるわ。でも、もう十分に頑張ったのよ。もっと甘えていいのよ」

「そう言ってくれて、本当に嬉しい。きっと俺はカナエから百個は贈り物をもらってるんだろうな。だからこそ、たった一つだけでいい。俺に何かを返させてくれないか?」

 

 

 カナエは心から弦司を救いたいと思ってくれている。弦司の苦労を理解して、少しでも心が癒えるようやさしくしてくれている。その気持ちに甘えても、何ら隔たりなくカナエと付き合っていけるだろう。だが弦司はそれは嫌だった。そんな与えられるだけの関係を、カナエとは築きたくなかった。

 

 

「俺はもっとカナエと仲良くなりたい。ダメか?」

「……ダメじゃない」

 

 

 カナエは微笑んでくれた。陽だまりのような、心が温かくなる笑顔だった。

 

 

「それじゃあ、おいしいご飯を一緒に食べましょう。二人で同じおいしい食事を」

「了解。それじゃあ――」

 

 

 指切りげんまん

 

 

 ――鬼を哀れむ者と人を喰らわない鬼。

 この瞬間、二人はそんな『役割』を持った関係ではなくなった。

 ――『弦司』と『カナエ』。

 一人の人間と一人の人間。もっと強く血の通った暖かな関係に生まれ変わった。

 

 

「約束ですよ」

「ああ。ところでこの約束って回数決めてなかったよな? つまり千回でも万回でもいいわけだ!」

「~~っ、本当に憎めない人!」

 

 

 カナエは小指を解くと、弦司の手を引いて立ち上がる。彼女は晴れやかな笑顔を弦司へ向けると、

 

 

「それじゃあ早速、約束を果たすために向かいましょう」

「おお、早速美味い飯か。それで、どこに行くんだ?」

「もちろん、私の家です」

「えっ」

「私と弦司さんは一緒に暮らすんですよ~」

「はあっ!?」

 

 

 狼狽する弦司に、カナエはしたり顔で応える。どうやら、弦司の揚げ足取りに対する仕返しのようだった。そして、弦司はまんまとやられてしまった。

 それでも、弦司は訊き返さずにはいられない。

 

 

「……本気? 俺、一応男だぞ?」

「本気も本気よ。それとも弦司さんは、私という理解者のいない場所で、いつまでも待っていられる? あ、妹に変な事したら本気で怒るから、それだけは肝に銘じて」

「お、おう。仰せのままに」

「素直でよろしい。それに心配ないわよ。今の弦司さん、太陽が浴びられない以外はかなり肉体が人に近づいているもの。食事の用意に問題はないから、遠くにいるよりも近くにいた方が何かと都合が良いわ」

 

 

 弦司を驚かすだけでなく、実益を兼ねた案だった。

 ここまで信頼されて、弦司に断る選択肢はなかった。

 

 

「ああ、ありがとうな。それとこれから世話になるけど、よろしく頼む」

「こちらこそ。それじゃあ『蝶屋敷』に行きましょう」

 

 

 カナエが弦司の腕を強く引く。

 ――この手を二度と離したくない。

 二人の手は強く握りしめられたままだった。

 

 

 

 

 胡蝶しのぶ。

 鬼殺隊を支える()の一人、花柱・胡蝶カナエの妹だ。

 彼女は小さな体躯のため、鬼の首が斬り落とせない。一時は剣士として()()を言い渡されるも、持ち前の知識と機転で『鬼を殺せる毒』を発明した。そうして、しのぶは鬼殺隊唯一の『鬼の首を斬らない』剣士となった。

 天才と呼ぶべき頭脳を持つしのぶだが、状況が全く分からず苛立っていた。

 昨晩、唯一の家族であり優秀な剣士の姉が、予定の時刻を過ぎても屋敷へ帰って来なかった。しばらくして、鎹鴉――鬼殺隊で伝令を担う特別な鴉――から帰宅が遅れる手紙が届いたものの、非常にそっけない文面であった。

 そして、深夜である現在。続報は何一つない。

 ――もしかしたら、姉の身に何か起きたのではないか。

 鬼殺隊の任務は過酷だ。鬼は力も強く、手足が斬られてもすぐに再生する。中には『血鬼術』という不可思議な力を操る鬼もいる。対して、鬼殺隊は失った手足は戻らないし、不可思議な力も振るえない。

 例え柱と言えど、常に死は隣にある。しのぶの心配は至極当然の事だった。

 とはいえ、こんなにも苛立っていては『もしも』の時も即時対応ができない。しのぶは気持ちを制御するため、熱い緑茶を一杯用意した。

 ゆっくり湯飲みに口をつけようとした――その時、

 

 

「カァァ! 胡蝶しのぶゥ。花柱・胡蝶カナエヨリ手紙ィ!」

「! 見せて!」

 

 

 鎹鴉からの手紙に、しのぶは飛びつくように受け取る。

 突如届いた、深夜の手紙。嫌な予感がした。

 両親を鬼に殺され、しのぶに残された唯一の家族がカナエだ。もし、姉の身に何かあったとしたら――。

 しのぶは茹った頭を少しでも冷ますため、緑茶に口をつける。しかし、全然頭は冷静にならず、湯飲みを持つ手は小刻みに震えた。

 それでも、しのぶは覚悟を決めて手紙を開く。

 書かれていた文面は――。

 

 

 紹介したい男の人がいます

 

 

 しのぶは一杯、お茶を無駄にした。

 




ここまで読んで下さりありがとうございます。
短編としての内容はここまでとなっております。

次回以降は、連載となります。


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第3話 姉妹

(手紙書いたけど、内容が固いわ。これだと、しのぶが緊張しちゃわないかしら。ここはしのぶが思わず飛び上がるような一文を冒頭に――)


 ――弦司とカナエは危機を迎えていた。

 

 

 大日本帝国陸軍に似通った黒い詰襟。整った容貌は、やや垂れた目尻がやさしい印象を与える。艶やかな唇は強く引き結ばれ、意思の強さを表す。美しい黒髪は夜会巻きで一纏めにされており、後頭部の蝶の羽飾りが色を足す。

 胡蝶しのぶ。

 カナエの最愛の妹であり、彼女に残された唯一の家族――に、弦司は刃を向けられていた。

 どうしてこうなったのか。

 どうしてこうなってしまったのか。

 もう何度目になるか分からない嘆きに、弦司は少し時を戻して事態を再確認する事にした。

 

 

 

 

 弦司が最初に行ったのは着替えだった。大事に使っていた一張羅だったが、やはり半年も過酷な環境に晒していたため、すでに限界が近かった。そこで気分も一新する意味も込めて、カナエは衣装の変更を提案した。

 弦司はありがたく快諾し、最近はほとんど着なかった着物に袖を通す。真新しい藍色の着物に白い帯を結ぶと、気持ちも新たに生まれ変わったような気分になる。高揚感もあり、今までの澱んだ気持ちも全て洗い流された気がした。

 カナエの家『蝶屋敷』へは、徒歩で向かった。弦司を人目に晒されるのを避けた……というだけでなく、そっちの方が早かった。弦司の足が速いのは当然として、カナエの足も弦司に劣らず――いや、むしろカナエの方が早かった。

 ――鬼殺隊。

 夕闇の中、人喰い鬼から人々を守る政府非公式の剣客集団。それを支える()の一人がカナエだった。弛まぬ訓練の果て、鬼をも凌ぐ身体能力を彼女は有していた。

 カナエは弦司を頑張ったと何度も言ってくれる。弦司からすれば、彼女こそが本当の努力の人だと思った。

 道中の会話は鬼に関する情報共有を行った。

 ――鬼の弱点は陽の光である。

 ――日光を除けば弱点は首のみ。

 ――しかし、その首も特別な金属で作られた『日輪刀』でなければ、殺すに至らない。

 話を聞く度に、弦司は己の無知を思い知らされた。そして、己が鬼から外れ始めている事も理解できた。

 ――今の弦司は鬼でもなければ人でもない。

 それが弦司の率直な感想だった。

 鬼でもない、人でもない己の行き着く先は……。考えれば考えるほど、不安になった。

 そういう時は、カナエとの約束を思い出した。それだけで、前に進む力が湧いてくる。

 今になって思う。あれはカナエの気遣い……それだけではなかった。これから弦司が生き抜くための、覚悟を決める意味もあったのだ。

 気づき『ありがとう』とカナエに伝えた。彼女はしばし首を傾げると『どういたしまして』と微笑んで応えた。

 

 

「着いたわよ」

 

 

 夜のうちに『蝶屋敷』に着いた。

 大きな日本家屋だった。

 カナエに導かれるまま弦司が門をくぐる。そのまま玄関の扉に手をかけ、カナエが首を傾げる。

 

 

「どうした?」

「う~ん。鍵が閉まってるみたい」

「夜だから、当然だと思うけど」

「いいえ、しのぶが起きている時はいつもここは開いているの。手紙送ったのに、寝てしまったのかしら?」

「まあ、この際どっちでもいいと思うけど、どうする?」

「本当に寝ているかもしれないから、裏口に回りましょ。あっちなら静かに入れるわ」

 

 

 カナエは玄関から離れると、庭の方へ回る。

 広い庭だった。無骨な岩で組まれた池に、茂った木々。草木の伸び加減や、岩の見える角度。弦司から見て、その庭園には何ら計算された配置が見られず、美しさは感じられない。

 ただ、全てが()()。作られた美しさはない。作られていない、自然体な姿。それが穏やかな気持ちにしてくれる。疲れを取るならここ……と思えるいい場所だった。

 弦司は庭園を微笑ましく見る。対照的にカナエの顔は険しい。

 

 

「おいおい、今度はどうしたんだよ? 裏口に回らないのか?」

「……ごめんなさい。見通しが甘かったわ」

「おい、どういう――」

 

 

 その時、突如として蝶屋敷が一気に明るくなる。同時、襖が一斉に開いて黒い詰襟の集団が現れる。その腰には一様に日本刀が下げられていた。そしてそれは、弦司を唯一殺める事ができる『日輪刀』。

 弦司の顔が引きつる。

 

 

「歓迎会にしちゃ、ちょっと物騒じゃないか」

「手紙であなたは安全だってちゃんと伝えたけど、それだけじゃ足りなかったみたい……!」

「鬼は死すべし、慈悲はない……という所か。早く動いたのが、仇になったな」

「でも、根回ししてる間に弦司さんへ危害が行くかもしれなかったし……いるんでしょ、しのぶ! これはどういう事!?」

「それはこっちの言葉よ、姉さん」

 

 

 黒い詰襟の集団から、一人の少女が縁側から降りてくる。

 整った容貌はやや垂れた目尻でやさしい印象を与える。艶やかな唇は強く引き結ばれ、意思の強さを表す。美しい黒髪は夜会巻きで一纏めにされており、後頭部の蝶の羽飾りが色を足す。

 もし、カナエを幼くさせたら――そんな容姿を持った少女。

 

 

 胡蝶しのぶ。

 

 

 カナエから伝え聞いた、彼女の妹だ。

 しのぶはまるで細剣のような刀を抜くと、切っ先を弦司へと向ける。

 どうしてこうなったのか。

 どうしてこうなってしまったのか。

 弦司は嘆かずにはいられなかった。

 

 

 ――こうして、話は冒頭へと戻る。

 

 

(兎にも角にも、状況は最悪って事か)

 

 

 再確認し、弦司は思わず舌打ちをする。何にせよ、囲まれた最たる理由は弦司が鬼だから。鬼というだけでこの仕打ち、本当に鬼という存在が弦司は嫌になる。

 

 

(それでも、約束したんだ。何とかしないと)

 

 

 弦司が思考する間も事態は進み、他の剣士達はしのぶに倣って抜刀した。

 

 

「大丈夫。じっとしてて」

 

 

 カナエが弦司を庇う様に前に出る。しのぶの顔が怒りに歪んだ。

 

 

「鬼は平気で嘘を吐いて、本能のまま人を殺す……姉さんが一番知っているはずでしょ! どうして、鬼を連れてきたの!?」

「手紙に書いたでしょ、しのぶ。彼は……不破弦司さんはこの半年間、一人も人を喰らっていないのよ。それだけじゃない、私たちと同じように普通に食事を摂って生きていけるわ」

「そんなの有り得ない……! 姉さん、現実を見てよ……!」

 

 

 しのぶが吐き捨てるように言う。彼女の刀の切っ先が、小刻みに揺れる。

 カナエは揺らがず、ただ真っ直ぐとしのぶを見据え微笑みかける。

 

 

「その有り得ないが起きたのよ。鬼が、彼らの考える鬼から外れる……この事態は間違いなく、鬼達にとって不都合なはずよ。彼の体に一体何が起きているのか、これを究明すれば、今後の鬼殺隊の戦略に大いに寄与するわ」

「だったら、そいつを地下牢に放りこんでみればいいわ! 数日もすれば、飢餓で狂暴化する!」

 

 

 しのぶの言葉に、カナエは笑みを深くする。

 

 

「それじゃあ、地下牢に一週間ぐらいいてもらいましょう。弦司さん、一日三食栄養満点の食事ならいい?」

「おう、世話かける」

「えっ!? なんで――」

 

 

 弦司があっさり承諾したのが意外だったのか、しのぶが困惑する。このまま押し切れば、当面の弦司の身の安全は確保できる。弦司はそうは思ったものの、しのぶは頷かなかった。

 

 

「そ、そもそも、姉さんは鬼を匿おうとしているのよ。これは重大な隊律違反だわ」

 

 

 弦司もカナエから尋ね聞いただけだが、しのぶという少女は頭が良く真面目で理知的だと思った。今のような問答はあまりに頑なすぎる。

 カナエも弦司と同じ推論に至ったのか、心配そうに眉尻を下げる。

 

 

「しのぶ? あなた、一体どうしたの? 隊士を連れてるのもそうだし、何かあったの?」

「何かあったのは、姉さんじゃないの? 隊律違反をしてまで鬼を匿うなんて、今の姉さんは異常だわ」

「さっき言ったよね? これは鬼殺隊の戦略に寄与するって。これって、そんなに異常な事?」

「姉さん、そいつは人じゃなくて鬼なのよ……!」

「……ああもう、こんなことしたくないんだけどなぁ」

 

 

 しのぶからは絶対に鬼を受け入れないという、確固たる意志を感じる。このまま話しても説得は難しいと思ったのか、カナエは話の方向性を変える。

 

 

「ねえ、隊律違反隊律違反って言っているけど、あなた達はどうなの?」

「――っ」

「平隊員のしのぶにも、後ろのあなたたちにも、勝手に鬼殺隊の人員を配置転換する権限なんて持ってないわよね? 方法についてはこの際訊かないけど、今の状況、しのぶ達が隊律違反でしょ」

「……私達を見逃すから、鬼を匿えっていうの?」

「しのぶが何も話してくれないなら、私もそうするしかなくなるわ」

 

 

 悲しそうに語るカナエに、迷いが生じたのかしのぶの瞳が揺れる。

 ここぞと思ったのか、カナエは力強く語る。

 

 

「簡単じゃないのは分かってるわ……でも、弦司さんを他の鬼と同じように見ないで。それにほら……弦司さんの気配を感じてみて、分かるでしょ? 彼は他の鬼とは違う、人を喰らっていないって」

「姉さん……」

 

 

 しのぶが後ろの剣士に視線を向ける。後ろの剣士が隣の剣士に視線を向ける。そして、それは連鎖的に広がっていって――ヒソヒソと。

 ――お前、分かるか?

 ――分かる訳ないだろ。

 ――そもそも、人を喰らっていない気配って何よ。

 ――これだから、人をやめた柱は……。

 

 

「…………」

「そんな傷ついた顔しないでよ!? 私達が悪いみたいじゃない!? それにいつも言ってるでしょ。普通の人でも分かるように言ってって」

「うん……」

 

 しょんぼりするカナエ。空気が弛緩するが、それは一瞬。

 しのぶは殺意を込めて、弦司を睨みつける。睨みつけるが……弦司はなぜか、あまり恐怖を感じなかった。殺意とは何か別の感情があるのだろうが、弦司には読み取れなかった。

 

 

「姉さんはそいつに騙されているだけだわ。結局はどの鬼も同じよ。今は優しくて大人しくても、いつか牙をむいて人を喰らう」

「でも、半年以上も人を喰らっていないのは事実よ」

「それはこれから先も、人を喰らわない保証にはならない!」

「だから、それを証明させて!」

「証明するまでに人を喰らったらどうするの!?」

「そんな事しないし、させない。そうね、せっかくしのぶがこんなに隊士を集めたんだから、そのまま手伝ってもらいましょう」

「それで犠牲が出たら、姉さんはどうやって責任を取るの?」

「そんな事言ってたら何もできないじゃない……」

 

 

 完全に話し合いは平行線を辿る。当然、解決の糸口どころか妥協点も全く見えて来ない。しのぶが多くを語らないのだから、彼女が頑なに拒む理由が見えてこない。

 それでも、なんで、どうして……そういう想いがあるのだろうか。しのぶのカナエを見る目には、悲しみが垣間見える。しかし、弦司はしのぶという少女の詳しい人となりを知らない。考えても、結論は出なかった。

 そして、話し合いは何の進展もなく、争いの元凶となる弦司にしのぶの怒りが向く。

 

 

「お前が姉さんを誑かすか! 一体、どんな手管を使った!」

「しのぶ、いい加減にしなさい。私は私の判断で、彼をここに連れてきているの。彼に当たらないで、何かあるなら私に言いなさい」

「……姉さんが鬼に同情しているのも、哀れんでいるのも知ってる。仲良くなれたらって、願ってたのも知ってる。だけど、今日こそははっきり言うわ……そんな事、有り得ない! ()だからって絶対に有り得ない事よ! お願いだから、目を覚まして姉さん!!」

「だから、その先入観をやめて! 彼は鬼に襲われた子どもを救ったのよ! 人を助け、人を慈しめる! どこが人と違うの!」

 

 

 段々と二人が昂っていく。怒りが二人の冷静さを奪っていく。

 まずい、と思う。それでも、争いの切っ掛けである弦司は、簡単に介入できない。火に油を注ぐ結果になるのは、明らかだったからだ。

 ならば剣士達は、と弦司は彼らを見るもいきなり始まった姉妹喧嘩に、アタフタしているだけ。彼らは一体何のために来たのだろうかと、弦司は割と本気で尋ねたい。

 その間にも、言い争いは大きくなる。

 

 

「だから、姉さんは騙されているのよ! 鬼が子どもを助ける訳がない! どうしてそんな事も分からないの!?」

「嘘じゃない、本当よ! 彼は誰に言われなくても、子どもを助けた! 証人だっている!」

「そんなの仕込みよ!」

「そんな訳ないでしょ!? そもそも、一体そんな事をして彼に何の得があるの!?」

「姉さんは柱よ! どんな事をしてでも、罠に嵌める価値はある! もう鬼舞辻無惨に操られているのかもしれない!」

「何? 本当にどうしたの? 言ってくれないなら、私だって――!!」

 

 

 弦司は会話が途切れたのを機に、カナエの蝶のような羽織りの袖を引く。

 

 

「深呼吸」

 

 

 火に油を注がないように、弦司は端的にそれだけを伝える。

 カナエは目を閉じると、深呼吸を一回だけ行い、

 

 

「ありがとう」

 

 

 カナエも端的に返すと、再びしのぶを見た。これで仕切り直し……といこうとしたところで、なぜかしのぶが、強く唇を噛む。悲しそうに視線を落とす。

 

 

「――やっぱり、そういうこと……?」

「? ねえ、しのぶがここまでするのは、何か理由があるのでしょう? それを教えてもらわないと、私もしのぶが何を言いたいのか、何をして欲しいのか分からないわ」

「……なら、姉さんが何でそいつに拘るのか教えてよ」

「……人が鬼になる苦しみと哀しみを教えられたから。もう私は彼を放っておけない。それに……」

「それに?」

「毎日おいしいご飯を一緒に食べる約束、させられちゃったから」

「おい、言い方」

 

 

 弦司が苦笑しながら指摘すると、カナエは楽しそうに弦司へ微笑みかける。

 

 

(全く……変に勘違いされたらどうするんだよ)

 

 

 弦司は心の内で苦言を呈しながらも、居心地の良さを感じる。ちゃんと理解し合っていると心の底から思える。

 周囲から見ても、人と鬼が通じ合っているように見えるはずだ。これで少しは鬼殺隊も認識を改めてくれれば。そう思いしのぶを見るが、その表情はより一層悲壮となっている。

 それが何か引っかかった。

 

 

(この感覚……そうだ、カナエと初めて会った時の、こっちが思っている感覚と、何となく噛み合っていない感じだ)

 

 

 茂吉からの伝達でカナエは弦司を人間と思った。同様にしのぶも、弦司を何かと勘違いしているのではないか。

 弦司は再びカナエの袖を引く。

 

 

「何か見落としてないか?」

「どういうこと?」

「しのぶとカナエの認識、何か異なっていないか?」

「えーっと、そんな事あった……?」

 

 

 頬に手を当て思考するカナエ。何か情報があればと思って聞いたが、ここで時間切れとなる。

 見ればしのぶの目が完全に据わっていた。いつの間にやら、覚悟完了となっていた。

 

 

「姉さんにとって()が大切だって事、よく分かったわ。()()()()も、やっぱりそういう意味だったのね。だけど、それは絶対にやってはいけないの」

「しのぶ? えっ、ちょっと何? 本当に分からないんだけど」

「私が姉さんの目を覚ます……これが、鬼の悍ましさよ!」

 

 

 しのぶが日輪刀を構えた瞬間、鮮血が舞った。

 しかし、それは弦司ではなく、カナエでもなく――しのぶ。

 しのぶは自らの腕を斬りつけていた。

 鮮血が舞い散り、庭園を赤く染める。そして、立ち上った血の甘い香りに弦司は食欲を促される。

 

 

(本当に嫌になる――!)

 

 

 自身の恩人の妹が傷ついたにも関わらず、弦司の体は空腹を訴える。しのぶの血が滴る度に美味いと囁く己が身体が、本当に本当に本当に、心底嫌いになる。

 だからこそ、弦司はこの欲求に逆らう。鬼が大嫌いだからこそ、人のための最善を選ぶ。

 

 

「カナエ、手当!!」

「――っ、はい!」

「おい、後ろの剣士一行! 何ボーってしてる! 早く包帯と消毒液持ってこい! ――って、全員行くな!! 俺の見張りがいなくなるだろうが!!」

 

 

 弦司の指示に穴もなく、また彼らも冷静でなかったためか、全員が素直に従った。

 カナエはしのぶの腕を止血し、鬼殺隊の面々は一名だけ救急道具を取りに行くと、残りは弦司の周りに集まった。

 剣士達から困惑が伝わってくる。

 

 

「……なあ、あんた。鬼殺隊の俺が言うのもおかしい話だが、本当にこれでいいのか? いつでも斬れるぞ」

「斬ってもいいが、カナエに一生軽蔑される覚悟しろよ」

「えっ」

「妹の治療中に、治療の指示を出した男を討った……どう思う?」

「やめておくよ」

 

 

 弦司の言葉に、彼は苦笑を浮かべる。そして、剣士たちはお互い目配せすると刀を鞘にしまった。

 弦司は念のため尋ねる。

 

 

「そっちこそ、いいのか?」

「ああ、いいよ。人間の血を見て顔色一つ変えなかったし。何より、一番最初にしのぶさんを治療するように指示を出したんだ。カナエ様の言葉もある。信じるよ」

「そうか」

 

 

 そっけなく返す弦司だが、実はホッとしている。剣を持った大人に囲まれたのだ、普通に考えて動揺しない訳がない。鞘にしまってくれて、大変感謝している。無論、それは伝える必要のない情報。凛とした表情を崩さず、弦司は救急道具の到着を待った。

 ほどなく隊士が道具を持ってくる。

 カナエは受け取ると、しのぶへ治療を施す。

 カナエが口を開いたのは、しのぶの治療が終わってからだった。

 

 

「――終わりよ。痛くない?」

「……」

「しのぶ……」

 

 

 やはり、妹が自傷した……いや、させてしまった事が衝撃的だったのか、元気がない。目尻もいつもより垂れ下がっていて、哀しみ一色だ。

 対して、しのぶはバツが悪そうに視線を彷徨わせた後、弦司を見やる。

 

 

「……本当に、人を喰らわないの?」

「ああ、喰らわないし、喰らってやるものか」

「そう……」

 

 

 しのぶはそう言うなり、俯いて何かに耐えるように目を強く閉じる。

 しばらくすると目を見開き、再び弦司を見る。悲しくも覚悟を決めた、そんな表情だ。

 そして、

 

 

 ――姉さんをお願いします、義兄さん。

 

 

「??????」

「んんんっ!!」

 

 

 弦司は全く意味が分からなかった。対して、カナエの方は目を大きく見開き頬を引きつらせる。

 こいつが原因か。弦司はそう直感した。

 一方、しのぶは止まらない。

 

 

「姉は一見、やさしそうで包容力はあるけど、無茶苦茶な理屈で振り回す時があるわ。気をつけて」

「あ、ああ」

「でも、本当に思い遣れる人よ……これは、言わなくても分かっているわよね」

「う、うん」

「だけどそのせいで人一倍頑張って抱え込んでしまう時もあるから。なるべく気づいてあげて」

 

 

 聞いてるこっちが恥ずかしかった。止めて欲しいが、肝心の姉は顔を両手で覆っていた。耳が真っ赤だった。

 仕方なしに、弦司はしのぶに訊く。

 

 

「えっと……どうやってその結論を?」

「うん。実は姉さんからの手紙に、明らかに変な文章があったの。『紹介したい男の人がいます』って」

「いやぁあぁぁっ!!!!」

 

 

 カナエが手で顔を覆ったまま首を横に振る。

 

 

「鬼の説明がある後半部分と意味を繋げると『紹介したい鬼がいます』。でも、本来ならこの文章は婚約者を紹介するときに使う文章。つまり、二つを合わせると『鬼になった婚約者を連れてきます』って意味で――」

「なんでそんなに深読みするの!? 繋げないで、二つを合わせないで!?」

「え、でも、あの後の内容すごい真面目で! だから、この手紙には裏があるって!」

「出来心です! しのぶを揶揄っただけです!」

「……ならここ半年、継子の私も連れずに深夜によく一人になっていたでしょ!? 彼に会うためじゃなかったの!?」

「普通に任務です! しのぶにも一人で任務をこなして欲しかったんです!」

「……じゃあ、最近ご機嫌だったのは!?」

「しのぶが立派になって嬉しかったんです!」

「『毎日おいしいご飯を一緒に食べる約束』の意味は!? どう考えても、そういう意味よね!?」

「『おいしいご飯を一緒に食べる』約束はしたけど、回数は決めてなかったから! 話を盛りました! 調子に乗りました!!」

「…………」

「ごめんなさ~い!」

 

 

 カナエが悲鳴を上げて土下座。それを見て、しのぶが俯く。その表情は見えないが、何となく察しが付く。

 もうなんだか馬鹿らしくなった弦司は、隊士の面々に屋敷に上がろうと屋敷を指差す。そして、このままなし崩し的に住み着いてやる。

 置いて行かれそうになったカナエが慌てる。

 

 

「え、待って、弦司さん! 他の人も、待って!」

「姉さん」

「はいっ!」

 

 

 カナエはしのぶに声を掛けられ、再び土下座。

 弦司達は徐々に離れていく。

 

 

「私、すごい悩んだのよ。理由があったとしても、柱の姉さんが鬼を連れて帰るのが信じられなかったし、もし血鬼術の影響だと思うと怖かった」

「……ごめんなさい」

「もしも本当に婚約者だとしたら、姉さんに新しい家族を断ち切る事はできない。私が代わりに断ち切ろうって……例え姉さんに一生恨まれても、正しい道に戻すって思っていたのよ」

「本当にごめんなさい!」

「姉さんの馬鹿!」

 

 

 縁側から屋敷に入る弦司達の背後からは、そんな愉快な会話が聞こえる。

 弦司は振り返り、一言だけ呟いた。

 

 

「全部カナエが悪い」

 

 

 他の隊士も黙って頷いていた。

 

 

 

 

 男とも女とも判別がつかない巨大な影。それはゆらりと揺れると、掻き消えるように高速で動いていく。屋根と屋根を、まるで舗装された道のように危な気なく駆けていく。

 しばらくして、影はとある一角に身を隠すように飛び込む。そこは月明かりも指さない。影は影のままである。

 

 

「花柱が鬼を連れてるって聞いた時は何事かと思ったが、とんだ茶番だな」

 

 

 鬼殺隊が鬼と戦い続けるのは容易ではない。外敵である鬼との戦闘はもちろん、隊を内から食い破る輩にも注視しなければならないからだ。

 影はその前兆とも思える情報を掴んだ。

 

 

 ――花柱・胡蝶カナエが鬼を連れている。

 

 

 すぐに事の重大さを理解し、()が直々で一連の騒動を監視した。

 そして経緯はともかく、胡蝶家は鬼を匿う事に決めた。

 彼女たちの理屈も頷ける部分もあった。なぜ、他の鬼殺隊に黙るのか、理解もできる。

 しかし、我らは鬼殺隊だ。宵闇から人々を守る剣士だ。鬼を匿うなど有り得ない。

 胡蝶姉妹には処罰が必要だ。彼らに気づかれないように、()()()()()

 

 

「さあて、()()な仕事はこれで終わり」

 

 

 彼が宵闇を抜け出し、月明かりの下へ出る。

 巨大な男だった。

 身長は六尺をゆうに超え、袖のない黒い詰め襟から覗く腕は子どもの胴回りほど太く隆々。端整と言っていい容貌は様々な装飾が施され、見る者に過剰な印象を残す。そして、背中に背負われた巨大な片刃の剣は、なぜか柄を鎖で繋いでいる。

 この派手を体現したかのような男こそ、音柱・宇随天元。

 彼はまるで月に対して挑発するよう、宣言する。

 

 

「こっからは()()()に動くとするか」

 




ここまでお読み下さり、ありがとうございます。

――こっそり修正(2019/11/23)。


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第4話 緊急柱合会議・前編

いつも誤字報告ありがとうございます


 それは弦司が蝶屋敷を訪れて三日目の夜だった。

 今日も一日が終わり、後は眠るだけ。カナエは何の気なしに弦司の部屋を(おとな)って「おやすみ」と言った。

 

 

「おう」

 

 

 素っ気無い返事だった。

 「いただきます」も「ごちそうさま」も。あんなに嬉しそうで温かかったのに、この時だけは何も感じなかった。

 環境が変わって疲れが溜まっていたのだろうか。そんな風に思って床に就いたが、気になって眠れなかった。

 悪いとは思ったが、気配を消して弦司の部屋を覗いた。

 弦司は一人暗い部屋の隅に座っていた。それが酷く心細そうに見えた。思わず立ち入って訊ねた。

 中々答えてくれなかったが、カナエが聞くまで寝ないと分かると、ポツポツと語り始めた。

 

 

「寝静まった家の中、たった一人起きている」

「誰もが眠る」

「俺だけが眠らない。眠れない」

「たった一人取り残されたような気になる」

「洞穴にいた時は思わなかった」

 

 

 ――今は夜が長い。

 

 

 一人だけ眠れない夜。それは人をどれだけ孤独にするのか。

 また気づけなかった。こんな簡単な事に気づけなかった。

 カナエは部屋を飛び出した。自身の布団と本を数冊引っ掴むと、弦司の隣の部屋まで行った。

 

 

「何やってんだ」

 

 

 騒がしくしていたせいか、弦司がそう訊ねてきた。「お引っ越し」とだけ答えて布団を敷いた。

 弦司は何か言いたそうな顔をしていたが、本を渡して追い出した。

 そして、弦司が部屋から出る前に「おやすみ」と言った。

 

 

「……おやすみ」

 

 

 温かい声が返ってきた。今度はゆっくり眠れそうだ。

 

 

 

 

 弦司が蝶屋敷に居着いて五日が経った。

 なし崩し的に居着いた彼であったが、概ね良い影響を与えていた。

 一番大きいのは、身近な目標ができたことだ。人を唯一鬼に変えられる鬼・鬼舞辻無惨を倒すという目標が、鬼殺隊にはあった。奴を倒さなければ、悲しみは終わらない。最終目標として、カナエもしのぶと同じ目標を持っていた。

 しかし、誰も鬼舞辻無惨を見たことはない。どういう存在なのか、伝え聞いた話でしか分からない。形がない雲のような存在を追う……果たして、自身は無惨に近づいているのか、分からなくなってしまう時がある。

 だが、今は違う。明確に助けるべき()がいる。鬼舞辻無惨打倒をやめた訳ではない。新たに明確な目標ができた事で、日々に張り合いが出るようになったのだ。

 また、しのぶには「よく笑うようになった」と言われた。日々充実しているからだと、カナエは思っている。

 しかし、良い事ばかりではない。

 まだ、人を喰らわない十分な証拠がないため、しのぶとの相談の上、まずは半年。人間の食事だけで事足りるのか。それを確認するために、座敷に閉じ込めているのだ。

 それと課題が一つ。鬼舞辻無惨の情報についてだ。生き証人である弦司は、奴の情報を持っているはずだ。それを引き出せば、鬼殺隊に大いに役立つ。だが、カナエはそれができないでいた。

 鬼舞辻の呪い……とでも言うのか。鬼は奴の情報を口にしようとすると死ぬ。しかし、弦司の存在は鬼の理から外れ始めている。そんな存在を臆病者の奴が放置するとは、とても思えなかった。

 呪いが解けている可能性がある。だから、弦司から鬼舞辻の情報を引き出すことができるはず――。

 しかし、もし……もしも、呪いが解けていなければ。鬼舞辻の名を口にした瞬間、弦司が死ぬ。カナエが弦司を殺してしまう。その可能性が怖くて、カナエは訊けないでいた。

 だからといって、このまま半年を待つつもりはない。少しでも協力者を探すため、奔走する。今日は命の恩人でもある岩柱・悲鳴嶼(ひめじま)行冥(ぎょうめい)へ協力を取り付けるために、忙しい合間を縫って訪っていた。

 悲鳴嶼邸。

 柱にはそれぞれ屋敷が与えられる。蝶屋敷はしのぶの希望もあり、医療向けに改造を繰り返した。ここ悲鳴嶼邸は、柱の邸宅とは思えないほど質素で小さい。

 座敷に通されたカナエは、主である行冥を正座して待つ。

 すぐに彼は来た。

 

 

「柱合会議以来だ、花柱・胡蝶カナエ。お互い息災で何よりだ」

 

 

 現れたのは七尺を超える巨漢。

 カナエと同じ黒い詰襟、その上の羽織りには念仏が所狭しと刺繍され、首と合掌された両手には数珠。さらには、額には真っ直ぐの傷跡。

 得体の知れないこの男が悲鳴嶼行冥その人だ。外見からは想像もつかないが、これでも非常に涙脆く心優しい。

 ――それに、胡蝶姉妹に対する負い目もある。

 もちろん、この場で負い目につけこむつもりはない。それでも、他の柱と比べれば交渉はしやすい。理解はされなくとも、中立ぐらいは保ってくれるだろう……そんな思惑もあり、訪れたのであった。

 カナエの対面に行冥が正座する。

 

 

「一別以来です、行冥さん。それと、今日は私人として訪れましたので、そんなに固い呼び方をしないで結構ですよ。あっ、それとさっき来る途中にお饅頭見つけたんですけど、美味しそうなので買ってきました。後で食べて下さい」

「それでは、そうさせてもらおう」

 

 

 にこやかに挨拶を交わすカナエと行冥。

 それからしばらくは、世間話をした。行冥の口数は多くないため、自然とカナエが話すようになる。それも、カナエ自身としのぶについてが主だった。

 

 

「最近、ちょっと男性と話をする機会があったんですけど、それを見てしのぶったら()()()()()()にすぐ結びつけるんですよ~。やっぱり、思春期なのかしら~」

「この時期は多感だ。あまり揶揄うのはよしなさい」

「……はい。それはもう、海より深く反省してます……」

 

 

 終始、和やかな会話が続く。突然の来訪であり多少は心配もあったが、行冥に不機嫌な様子はない。

 カナエは頃合いだと思い、話を切り出す。

 

 

「それで、その男性についてお話ししたい事があります」

「あぁ……彼が鬼である事か」

「――えっ!?」

 

 

 行冥の言葉に、カナエは二の句が継げなかった。

 腹の底が冷えてくる。思考がまとまらない。

 鬼殺隊に弦司の情報は広まっていなかった。それなのに、なぜ。どういうことか。

 千切れる思考の中、行冥が涙を流す。

 

 

「情報は宇随天元からだ。信じたくはなかったが、その様子を見る限り……なんと哀れな」

「いつから……ですか?」

「私が聞いたのは一昨日。彼が情報を手に入れたのは、五日前だと聞き及んでいる」

「……最初から全て筒抜けだったわけですね」

 

 

 カナエは臍を噛む。先手を取ったつもりが、完全に後手に回っていた。いや、ともすればすでに手遅れかもしれない。

 もし、このまま自身の力不足で弦司の身に何かあったら。生きろといって、ただただ苦しめただけではないか。悔やんでも悔やみきれない。

 ――今、やれる事を全てやらねば。

 カナエは頭を下げた。

 

 

「申し訳ありません、行冥さん。伝え聞いているのなら分かっていると思いますが、私は彼……不破弦司さんを人を喰らわない鬼だと確信しております。それを証明するための時間が必要と判断し、()()()()()()報告していました。伝えていなかったのは、証明する前に危害を加えられる事を防ぐためです。決して、鬼殺隊を蔑ろにした訳でも、鬼殺を軽視した訳でもありません。それだけはご理解を」

「……かつて、私は鬼から君たち姉妹の両親を助ける事ができなかった。君の哀しみは分かっているつもりだ。なぜ、鬼を受け入れる? 私には理解できない」

 

 

 カナエは頭を上げる。行冥の目が、カナエを見ている。彼は盲目だ。その視界には何も見えていないが、まるで心を見透かすように、白い瞳がカナエを射抜く。

 ――理解。

 彼の心と在り方を理解するのは困難だ。鬼殺に身を置けば置くほど、弦司の存在は鬼から遠い位置にある。

 鬼殺隊一、鬼に甘いと自負できるカナエでも、弦司を殺しかけた。それぐらい、彼の存在は異質だった。

 もしかしたら、いくら言葉で説明しても、誰も弦司を理解してくれないのでは。彼の心が伝わらなければ、通じ合えないのでは――と、ここでカナエは首を横に振る。

 彼の在り方を伝え、理解者を一人でも多く募る事が、自分の役割ではないか。そして、弦司を理解したと思えるなら、それは難しい仕事ではない。

 カナエは彼のあるがままを言葉にする。

 

 

()()()()()()()

「……」

「想像してみてください。人を喰らえと求め続ける体で、心は人である自分を。人を助けます、人と心を通じ合わせられます、そして……人を愛せます。しかし、心の奥底では人を喰らえと体が囁くのです」

「ああ……なんと哀れな生き物だ」

「はい。ですが、私は哀れだと嘆くだけで、終わらせたくありません。知って理解した以上、助けたい。これは鬼殺隊……いえ、人として間違っていますか?」

「間違ってはいない。しかし、それは相手が人の場合だけだ。鬼にそのような慈悲は必要ない」

「――ごめんなさい。私、もう彼が鬼だとは思えません」

 

 

 カナエはもう一度、深く頭を下げる。

 行冥からバチリと破壊音がした。砕けた数珠が畳に散らばるのが、視界の端に見えた。

 

 

「……今、何と?」

「私は彼が()だと思っています」

「人を見て、涎を垂らす生き物を人とは言えない」

「彼は子どもを助けました。恋人を自身から助けるために離れました。大切なものを守るために、自身を犠牲にできる……それでも彼は人と言えないのでしょうか? 傷つくたびに涙を流す彼を、私は人としか見られないんです」

「……」

「私は頸を斬るのではなく、本当の意味で救うべき()を見つけたんです。彼の事を全て理解しろとは言いません。行冥さんが危惧している事も何も間違っていません。ただ……私の救いたいという気持ちだけは否定しないで下さい」

 

 

 行冥が沈黙する。

 失望しているのだろうか、それとも軽蔑しているのだろうか。そうなったら悲しい。悲しいが……自分の心に嘘は吐けない。弦司を助けたいという気持ちは、もう捨てられない。

 しばらくして、行冥は長く息を吐き出した。

 

「……思えば昔から君たちはそうだ。これと決めたら、決して曲げない」

「いつもいつも、心配ばかりかけてごめんなさい」

「鬼は理解できない。しかし、君の心は理解した。私から言える事は一つ……彼が人である事を証明しなさい」

「行冥さん……」

 

 

 カナエは顔を上げる。行冥は再び涙を流していた。

 彼は鬼に家族のように大事にしていた子どもたちを殺されている。自身と同じように、鬼に大切なものを奪われている。鬼の醜さを知っているゆえ、弦司を理解してくれなかった。

 それでも、カナエの気持ちには理解を示してくれた。本当に優しい人だった。

 

 

「ありがとうございます。黙っていた事、本当に申し訳ありませんでした」

「良い。それより、急いだ方がいい」

「どういう事ですか?」

「本日、緊急柱合会議が開かれる」

 

 

 行冥の言葉に、カナエは驚きで固まる。

 ――柱合会議。

 その名の通り、鬼殺隊の柱達による合同会議だ。通常、半年に一回開かれる。

 今回は名前の通り緊急なのだろう。問題は柱であるカナエが会議の存在を知らない事だ。

 

 

「今、宇随天元・不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)の両名によって、胡蝶カナエ・胡蝶しのぶ・()()()()三名に処罰を求める動議が出ている」

「っ! 情報封鎖の本当の意味は、そういう事ですか! 私たちを逃がさないように、対策も打てない内に処罰を下すために」

「緊急柱合会議では、()()()()()()()()()でお館様とともに会議を行う。今頃、不死川が蝶屋敷で胡蝶しのぶと不破弦司の拘束に向かっているだろう。決して殺すことはないだろうが……傷つけないとは言えない」

「行冥さん……」

「さあ、早く向かうといい」

「ありがとうございます! このお礼は必ず!!」

 

 

 カナエは行冥の返事も聞かずに屋敷を飛び出した。

 風柱・不死川実弥。

 カナエが穏健派だとすれば、彼は鬼殺隊一の過激派。全ての鬼を憎み、その存在自体を許さない。悪鬼滅殺を体現する男。

 会議にて処罰を決めるなら、今すぐ殺す事はないだろう。それでも、鬼を見て()()不死川実弥がただ拘束するとは思えない。

 カナエは全速力で蝶屋敷へと向かった。道のりは酷く遠く感じた。

 

 

 

 

 弦司の一日は単調だ。

 まず、飯を食う。三食食う。ひたすら食う。最近では、一食で力士三人前は軽く食べられるようになって、しのぶからは『穀潰し』というありがたい名前までもらうほどに。

 食べてからは、ひたすらじっとしている。たまには本を読むが、それでも基本部屋にいる。

 今は、食事のみで飢餓状態を耐えられるのか、検証を行っていた。そのため、食事以外の要素をなるべく省いた生活を送っている。

 これを後、半年――思うと弦司は溜息が出る。正直、カナエの頼みでなければ、弦司は断っていただろう。

 基本的に、この何もしない時間というのは苦痛だ。本もいずれ読み終える。前世の映像を見返すのもいいが、とにかく何か手につけたかった。囲碁か、それとも裁縫でも始めようか。そんな風に弦司が考えていた時であった。

 

 

「朝食ですよ」

「待ってました」

 

 

 襖の向こうからしのぶの声がかかり、弦司はちゃぶ台を取り出す。

 襖を開け、しのぶが持ってきたのは、お櫃にお鍋。それを直接ちゃぶ台へドン、と。これが現在の弦司の朝食である。

 もちろん、最初はお椀に盛っていたのだが、いちいちお替りが面倒だとこんな形になってしまった。ここから直接食べはしないが、全部弦司が盛れという事だ。

 お櫃にはご飯、鍋は野菜のごった煮である。弦司がよく食べると分かってから、鍋しか出てきていない。今後も鍋しか出ないのだろうか、ちょっと不安になる。

 

 

「不破さん、今日の調子はどうですか?」

 

 

 しのぶは、自身のお膳をちゃぶ台を挟んだ弦司の向かい側に置く。距離を感じる。

 

 

「特に何も変わった感じはないな。そっちこそ、腕の調子はどうだ?」

「っ、こんなのかすり傷ですから、何ともありません」

「そうか。重い荷物を運ぶ時は、声をかけてくれよ」

「かけません。そもそも、ここから出てはダメじゃないですか」

「うーん。でも、こうやってじっとしてるのもな」

「いいから、早く食べて下さい。私はお喋りしに来たのではなく、あなたの経過観察を朝食ついでにしに来たんです」

(固いなー)

 

 

 それだけ言うと、黙々と食べ始めるしのぶ。初対面の時、彼女にとって様々な失態があったせいか、今も壁を感じる。でも、時間はたっぷりある。なんせ半年だ。距離を縮める機会は、いくらでもある。

 弦司が自身のお椀に料理を盛ったところで、

 

 

「ああ、そうだ。囲碁とか裁縫とかなんか時間潰すもの用意してくれないか? さすがに暇でしょうがない」

「もう本は読んでしまったんですか……はあ、しょうがないですね。後で持ってきます」

「申し訳ない」

「申し訳ないと思うなら、これ以上姉を振り回さないで下さい」

「手厳しいな」

 

 

 厳しい言葉に、弦司の手が止まる。思ってた以上に、壁があるかもしれない。

 しかし、しのぶは弦司の様子を特に気にした風を見せる事もなく、再び食事を始め――その手を止める。

 

 

「どうした?」

「屋敷が騒がしいですね」

「えっ」

 

 

 しのぶに言われ耳を澄ます。鬼となり発達した聴力が、屋敷中の音を拾う。玄関も縁側も――裏口からも足音が聞こえる。

 

 

「全部で六人か? 何かあったか?」

「静かに。それと私から離れないで」

 

 

 しのぶが箸を置くと、ちゃぶ台とお膳を部屋の隅に置き中央に立つ。弦司も傍に立ち、何が起きてもいいように身構える。

 すぐに廊下から一段と荒い足音がし、一気に襖が開け放たれた。

 

 

「鬼を匿った馬鹿共はここかァ」

 

 

 現れたのは凶悪な目つきを持った黒い詰襟の男。身長こそ僅かに弦司より低いが、その肉体は鍛え抜かれている。何よりも目を引くのは、全身の傷跡だ。顔に腕に胸に――なぜか、詰襟の前が全開――晒した肌に押し並べて傷跡があった。

 

 

「テメェ……」

「っ!?」

 

 

 男は弦司を見るなり表情を一変させる。ただしそれは殺意などという表現は生温い。弦司の腕一本……髪毛一本でさえ、存在を許さない――悪鬼滅殺。男の目は弦司の全てを否定していた。

 男は腰に下げた刀に手を掛ける。

 

 

「鬼殺隊に巣食う鬼かァ!」

「不死川さん!」

 

 

 しのぶの小さな体が弦司と男の間に入る。

 不死川――その名前に、弦司は聞き覚えがあった。カナエが言っていた、鬼殺隊の柱の中でも要注意人物。鬼殺を体現したような男――それが不死川実弥だと。

 その実弥がしのぶを見て凶悪に笑う。

 

 

「おう、鬼を匿った馬鹿かァ。何の用だァ?」

「それはこちらの言葉です。朝食中に人の家に勝手に上がり込んで、一体どういうおつもりでしょうか?」

「どうもこうもねェ。鬼と馬鹿共を処罰しに来たに決まってんだろォ!」

「意味が分かりません。そもそも、鬼とは――」

「テメェら馬鹿共の行動は全部筒抜けなんだよォ!」

「えっ」

 

 

 実弥の言葉に、二人揃って身を固める。

 半年。弦司の無害を証明するために、匿うと決めた期限だ。当然、カナエは情報封鎖に努め目撃者や隊士に、情報が拡散しないように話をつけている。

 それが蝶屋敷に来てまだたったの五日。五日で全てがバレた。

 一体、いつ、どこで。そもそも、今は何が起きているのか。何も分からない。

 動揺する二人の前で、実弥は懐から一枚の書を出す。それを見てしのぶは顔を青くする。

 

 

「『胡蝶カナエ・胡蝶しのぶ・不破弦司 以上の三名を緊急柱合会議に連行する』」

「嘘……なんで……」

「鬼なんか匿ったからに決まってんだろうがァ!!」

「っ!!」

 

 

 屋敷が揺れるほどの覇気と怒気で叫ぶ実弥。弦司としのぶ、二人して身を竦ませる。

 

 

「『産屋敷』に連れていくゥ」

「……でも、こんな――」

「待て、しのぶ。従おう」

 

 

 弦司はしのぶの肩を掴み、止める。

 

 

「これは正式な命令書なんだろう?」

「……はい」

「なら、俺達の策は失敗だ。ごねることに意味はない。大人しく従――がっ!!」

「不破さん!!」

 

 

 弦司は気づけば、大きな手に頭を掴まれ畳に叩きつけられた。

 仕掛けたのは実弥。鬼となった弦司でも、その動きは追いきれなかった。

 さらに力も強い。弦司は抵抗もできず、後ろ手に畳に押さえつけられた。

 

 

「鬼、いい心だけだなァ。特別に頸を斬る時は、苦しまないようにしてやるゥ!」

「不死川さん! 彼は逃げません! だから、乱暴な事はやめて下さい!」

「誰も鬼なんざ信じないんだよォ! 黙って蹲っていろォ!」

「っ!!」

 

 

 またか。またなのか。

 何もしていない。ただ、生きてしまっただけなのに。鬼。それだけで、権利も尊厳も何もかも踏み躙られてしまうのか。理不尽だった。

 それでも、今の弦司に拘束される以外の選択肢は存在しない。

 しのぶも何もできない。確か、実弥はカナエと同じ柱だ。平隊士であるしのぶが言い返しただけでも、十分すぎる抵抗だった。

 弦司はそのまま何もできず、実弥によって拘束された。どこから取り出したのか、ご丁寧にわざわざ鎖を使って、芋虫になるまで何重にも巻きつける。

 さらには麻袋を取り出す。こんなものに入れられたら、ただ苦しいだけだ。

 弦司としのぶは抗議の声を上げる。

 

 

「おい、それに入れるつもりか!? やめてくれよ!」

「不死川さん! 本当にここまでする必要あるんですか!? 今、朝なんですよ? 外へ連れていくだけで、逃げる事もできません!」

「うるせェ。鬼なんて信用ならねえだろうがァ。これぐらいが丁度いいんだよォ。そもそも、どうやって連れて行こうが、()である俺の勝手だ。鬼の味方は黙ってろォ」

「お、鬼の味方だなんて……! 私はただ――」

「おい、誰かこの馬鹿も拘束しろォ」

「えっ」

 

 

 実弥が声を上げると、目元だけ開いた黒子のような衣装をまとった二人が現れる。おそらく、(かくし)。鬼殺隊の剣士達を陰ながら援助する部隊と弦司は聞き及んでる。そんな彼らが縄を取り出し、しのぶを拘束しようとする。

 

 

「待ってくれ! その子は縛らなくてもいいだろう!?」

「本当にうるせえなァ。そうやって、女にお優しい言葉でも囁いて篭絡したのかァ? 馬鹿共には通じても、俺には通じねえよ鬼ィ!」

「あああッ!!」

 

 

 うつ伏せになった弦司の背中に、実弥の足が圧し掛かる。

 苦しい。痛い。

 

 

「不破さん!!」

 

 

 しのぶの悲鳴のような声が聞こえる。

 手足は動かない。歯軋りしかできない。無力だった。悔しかった。しかし、弦司には最早どうする事もできない。

 

 

「もし」

 

 

 そこにかけられた優しい優しい声。あまりに場違いな声音に、全員が振り返る。

 胡蝶カナエ。彼女が、いつもの美しい笑みをたたえて、いつの間にか部屋に立っていた。ただし、額には大粒の汗を流し頬は上気しており、蝶の翅のような羽織はない。

 ()()()()()()()。ここにいる誰もが、カナエを見て緊張していた。笑っている。なのに、()()()()()。ここにいる全員が、同じように感じていた。

 カナエはひどくゆっくりと隠に近づくと縄を取り上げ、さらに実弥の麻袋に手を――。

 

 

「っ、胡蝶! テメェ!」

「あら酷い。女性の手を叩くなんて乱暴ですね~」

「ああん? ぶっ殺されてえのかァ?」

「ふふ、それはそちらでしょ? 随分と我が家で好き勝手しましたね~」

 

 

 縛られた弦司と悲しそうなしのぶを見やり、カナエは笑顔のまま殺気を実弥に放つ。いつもの優しいカナエと対照的な気配に、誰もが動きを止める。しかし、殺気を向けられた当人である実弥は、面白そうに口角を上げる。

 

 

「おいおい、勝手したのはテメエらだろうがァ。鬼殺隊は平和ボケした仲良し集団じゃねえんだァ。仲良しごっこのおままごとなら、姉妹だけでやってろォ」

「目に入るもの全て斬りつける暴力集団でもありませんけどね」

「鬼を匿う馬鹿の言葉は違うなァ」

「不死川さん、あなたが全てを主導していたなら、問答無用で斬りますよね? 斬っていないって事は、緊急柱合会議までの()()は全て宇随さんが描いたのでしょう? 対して、あなたは連行一つ穏便に遂行できないなんて。馬鹿は誰でしょうか?」

「……」

「……」

 

 

 互いに射殺さんばかりに睨みつける。互いに、腰の『日輪刀』に手を掛ける一歩手前。まさに一触即発。少しでもこの均衡が崩れれば、恐ろしい柱達の斬りあいが始まるだろう。

 止めなければ。ここにいる誰もがそう思い、恐ろしくてできない。一言も声を上げられない。

 ――そこへ無遠慮にずかずかと。()()に一人の男が乱入する。

 

 

「随分と派手にやってるな。祭りの神に黙って、先に祭り開催とはいただけないぜ」

「宇随ィ……!」

「宇随さん」

 

 

 額には大きな宝石、左目には血飛沫のような赤い模様。袖のない鬼殺隊服に鎖で繋がれた大剣が二振り。

 音柱・宇随天元。伝え聞いただけだが、弦司は一目で彼が宇随だと確信した。

 ――そして、この場には鬼殺隊の最高位・柱の三名が揃った事になる。

 鬼殺隊について理解の浅い弦司であっても、これがいかに異常事態か分かる。そして、それを引き起こした弦司は一体何なのか。これから己はどうなってしまうのか、全く分からなくなる。

 対して天元は、この異常の渦中をまるで予定調和のように歩き、カナエと実弥の間に入る。

 

 

「柱がこんなところで派手にドンパチする気か?」

「そこの馬鹿が邪魔してるだけだァ」

「そこのお馬鹿さんが余計な真似をしているだけです」

「ああん?」

「ふふふ」

「だから、俺よりも先に派手に始めようとするんじゃない! それと不死川はその鬼から離れろ!」

 

 

 言いながら、天元は実弥を押しのけると弦司の鎖を解いた。弦司には彼が何を考えているか分からず、混乱する。

 実弥は天元ににじり寄り、カナエは悔しそうに歯を食いしばる。

 

 

「テメェ、どういうつもりだァ……!」

「今回の会議は緊急で、かなり無理に時間を作ったからな。会議まで地味に時間がない。お前がやると拗れるばかりだ」

「私は――」

「被告が被告を連れていけるわけないだろ。胡蝶は不死川が連れていけ。俺が代わりに鬼は連れていく。そうすれば、拘束もいらない……これで納得か?」

「ちっ……」

「全部あなたの掌の上……という事ですか」

 

 

 今日、実弥が訪れ、カナエが止めて、天元が仲裁する。それが全て偶然とは、カナエには思えなかったのだろう。

 今回の一連の騒動、完全に主導権を宇随天元に握られてしまっていた。

 

 

「さあ、分かったならお前たちは一緒に地味に行け! 俺は派手に行く!」

 

 

 天元はカナエとしのぶ、実弥を追い出す。入れ替わるように、隠が箱型の赤い大きな駕籠を部屋に運んでくる。

 彼は駕籠の上に飛び乗ると、下を指差す。

 

 

「俺は上で派手に行く。お前は中で地味にじっとしてろ」

「あ、ああ。その、鎖解いてくれて、ありがとう」

「……鬼からの礼とか気持ち悪! 早くしろ、地味に調子が狂うぜ」

「気持ち悪いはないだろ」

 

 

 天元は面倒そうに対応すると、駕籠をコツコツと叩く。

 弦司は素直に従い、駕籠の中に入る。戸を閉めると、中は光が入らないよう穴一つなく、真っ暗だった。もちろん、弦司には全てはっきりくっきり見えてはいるが。

 ――音柱様、重いです!

 ――何であなた様まで乗っているんですか!?

 ――うるさい奴らだ! 黙って派手に運べ!

 そんな愉快な遣り取りがあった後、浮遊感。

 文句があった割には、揺れの少ないしっかりとした足取りで駕籠は進んだ。

 

 

(……一体何が起きているんだ)

 

 

 柱達のそれぞれの目的は。弦司に何を求め、何をしようとしているのか。全く分からなかった。

 

 

(俺は一体、どうすればいいんだ)

 

 

 そして思うのは、カナエ。

 初めて会った夜、蝶屋敷まで走って向かった。あの時の彼女は()()()()()()()()()()。対して、今日の彼女はどうだ。息が荒れていた上、羽織までなかった。一体、どれだけ急いだのか弦司には想像もできない。

 彼女に負担ばかりかける己が、このまま頼り続けてもいいのか。そんな考えが頭を過ぎる。

 いや、このままでいいはずがない。カナエがどれだけ理解を示してくれても、弦司は鬼だ。それは覆らない。

 そして何より、弦司は()()()()()()()。そう、()()()()()()()()()()()()

 人間社会にいて、何もしていない化け物が認められるか? 認められる訳がない。もっと形に、行動にしなければ、誰も認めてくれなどしない。

 足りない。何もかも、今の弦司には足りな過ぎる。

 生き続けるために、もう一度変わる必要があるのではと弦司は感じていた。

 

 

 ――そして、緊急柱合会議が幕を開ける。




ここまでお読み下さり、ありがとうございます。


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第5話 緊急柱合会議・後編

いつも誤字報告ありがとうございます。
少し長いですが、後編をお楽しみください。


 カナエは弦司より先に会議場となった座敷に着いた。今回は陽の光を浴びられない弦司がいるので、いつもの庭園ではなく、室内での会議となる。

 弦司は真っ赤な駕籠に乗せられてやってきた。駕籠から出た彼には、特に何かされた様子も見られない。カナエは胸をなで下ろしたが、すぐに気を引き締める。本番はまだこれからだ。

 駕籠から出た瞬間、弦司は三人の男に囲まれる。右は行冥、左は天元、後ろは実弥といった形だ。妙な動きをすれば、一瞬で頸は落とされるだろう。

 カナエはしのぶと隣同士でいるが、弦司はさらに天元を挟んだ向こう側。下座から見て右側が弦司、左側がカナエとなっており、かなり距離がある。手助けは難しい。カナエからは弦司の顔もよく見えない。

 カナエから見る天元は冷静そのもの。対して、実弥は敵愾心むき出しで、カナエと弦司を睨みつける。行冥は念仏を唱えるだけで、それ以上は語らない。

 

 

「姉さん」

 

 

 しのぶがカナエを呼ぶ。表情からは不安が伺える。

 

 

「大丈夫よ」

 

 

 カナエは微笑みで応えた。しのぶを、弦司をこれ以上不安にさせてはならない。

 後は重苦しい沈黙一色となる。

 『お館様』が来られてから会議は開始する。カナエは座って、ただただその時を待つ。

 重苦しい沈黙の後、

 

 

「お館様のお成りです」

 

 

 子どもの甲高い掛け声と共に、襖が開く。

 柱達が――遅れてしのぶと弦司が――跪く。

 

 

「私の剣士(こども)達。急な招集にも関わらず、集まってくれて嬉しく思うよ」

 

 

 流麗な黒髪に華奢な体躯の男性。

 鬼殺隊九十七代目当主――産屋敷(うぶやしき)耀哉(かがや)

 耀哉──お館様は病に爛れ半分しかない視界で、ゆっくりとカナエ達を見渡し、ある一点で視線を止めると柔らかく微笑む。

 

 

「初めまして、不破弦司。私は鬼殺隊当主、産屋敷耀哉。君の事はカナエから聞いているよ」

「……初めまして。本日はお手柔らかに」

 

 

 にこやかな耀哉に対して、弦司の声は固い。やはり、思うところがあるのだろうか。

 いつもなら、ここからお館様に対する挨拶合戦の始まりだが、今日のカナエにはそんな余裕はない。

 

 

「お館様」

 

 

 真っ先に声を上げたのは天元。主導権を手放す気はないらしい。

 

 

「益々ご壮健のことお喜び申し上げます。また、この度の緊急柱合会議においては、お力添えいただきありがとうございます」

「こちらこそありがとう、天元。不在の柱の委任状まで取り付けて、今回の調整は難しかっただろう」

「恐縮でございます。それでは畏れながら、緊急柱合会議の議題に入る前に、まずは不破弦司なる鬼に対するお考えをお聞かせ願えないでしょうか」

 

 

 天元の質問はカナエも気になる所だった。

 カナエは耀哉に報告はしていた。弦司の観察は続けるようにとの返答は来ていたが、それ以上の具体的な指示はなかった。耀哉の考えをカナエは知りたかった。

 耀哉が上座に腰を下ろす。

 

 

「彼の事なら私が容認し、カナエに任せていた。このまま、引き続きカナエに任せたいと思っている」 

 

 

 カナエに任せる……その言葉に、カナエは少なからず驚いていた。弦司の存在は特異だ。どこかで鬼殺隊として、管理される可能性も考えていた。これはカナエが耀哉に信頼されていると考えるべきか。それとも、カナエの想いを慮ってくれたのか。もしくは、その両方かもしれない。

 

 

「お館様、あの者は鬼でございます。鬼殺隊が、しかも柱が鬼を匿うなど、私は承知しかねる」

「我らは鬼殺隊でございます。胡蝶カナエは降格、胡蝶しのぶは除隊。鬼は即刻処断を願います」

 

 

 対する行冥、実弥の反応はどちらも反対だった。特に実弥の処罰は、到底受け入れる事は出来ない。しのぶに至っては、今にも殴りかかろうとして、それでも冷静になろうと歯軋りしている。

 カナエは短く深呼吸する。ここからは、弦司に対するだけではない。自身やしのぶには聞くに堪えない罵詈雑言や、仕打ちがあるだろう。それに頭を熱くしてはいけない。あくまで冷静に、的確に対処する。

 カナエは顔を上げる。

 

 

「畏れながら、不破弦司は鬼になってから半年以上、一度も人を喰らっておりません。加えて、報告している通りここ数日間は一般的な人の食事で、飢餓を克服している事を観察しております。彼を解析・調査する事は、今後の鬼殺隊の戦略に大いに寄与すると存じ上げます」

 

 

 カナエの説明に、実弥が噛みつく。

 

 

「半年間喰っていないから、なんだと言うんだ。これまで喰っていない事、これからも喰わない事、いずれも証明されていない」

「半年いただければ、証明いたします」

「人が喰われてからでは遅い! 即刻、処断を願います」

「鬼殺隊にも変化が必要です。手段の一つとしてご一考下さい」

 

 

 当然ながら、実弥とカナエの意見は平行線を辿る。これはよくない。天元は不明だが、行冥も反対意見なのだ。このままでは、反対多数で押し切られてしまう。

 ここ数日の経過報告で押し返すか。押し返しきれるか。確実とは言えない。やはり早朝、行冥に言われた通り、彼が人であることの証明が不可欠だった。しかし、そのための時間と手段がない。

 

 

「本件についてですが、提案がございます」

 

 

 天元が割って入る。今回の会議において、おそらく彼はおおよその()()を描いている。それがカナエの意に沿うか、それとも反するのか。彼の意向で弦司の未来は大きく変わる。

 カナエは座して注視する。拳に力が入る。

 

 

「調査いたしましたところ、不破弦司なる者の痕跡が追えました。胡蝶カナエの申告の通り、半年前に不破弦司が鬼になった姿を多くの者が目撃しております。その後、山間部へ向かったとの報告を最後に目撃証言は絶えております。山間部周辺で鬼による被害も確認できませんでした。半年間、人を喰らっていないのは事実と判断できます」

「テメェ、何のつもりだ……!」

 

 

 カナエの擁護ともとれる発言に実弥は色めき立つ。

 

 

「人をこれまで喰らっていない事を地味に証明しただけだ。普通の鬼とは違う……これは一考の余地があるとは思わないか、不死川?」

「そんなもん、生かす理由になるかァ! そもそも、こいつが人を喰らわない保証がないィ!」

「だから、今から派手に証明してもらう。人を喰らわない事、そして本当に鬼殺隊に寄与できるかどうかを」

 

 

 生きたければ鬼殺隊の役に立ち、人に危害を加えない事を証明しろ。天元の提言をまとめれば、単純な話であった。

 最初から、カナエの意に沿うか反るかなど、彼にとっては思考の埒外。鬼殺隊にとって害か有益か……きっとそれだけの事なのだろう。だからこそ、害しかない柱同士の衝突を最小限にするため、動いているのかもしれない。ならば、カナエはそれに沿う形で、自身の願いを引き出すだけだ。

 

 

「なら、当初の予定通り時間をいただけないでしょうか」

「ダメだ、胡蝶。半年はいくらんなんでも長すぎる」

「本件は鬼殺隊にとって、前代未聞の事態です。慎重すぎる程が丁度良いのではないでしょうか?」

「いいや。すぐに、今この場で全てを確認する方法がある」

 

 

 何を、とカナエが視線で天元を問い質そうとすると、彼は反対方向……弦司の側を向く。

 そして天元は弦司を見ると、彼に向って、

 

 

 ――鬼舞辻無惨。

 

 

 カナエは心臓が掴まれたかのように、胸が苦しくなる。息ができなくなる。

 天元の言う役立つ方法とは、鬼舞辻無惨の情報を弦司から引き出す事だった。

 天元はカナエが飛び越えられなかった線を、あっさりと踏み越えたのだ。

 

 

「きぶつじむざん?」

「――っ!」

 

 

 止める暇もなく、弦司はその名を自然と口にしていた。天元によるあまりに鮮やかな手腕だった。

 ――弦司が死ぬかもしれない。

 その思考が頭を過ぎっただけで、カナエの鳩尾の辺りが酷く冷たくなって、手足の感覚が分からなくなる。

 しかし、すでに事は起きてしまった。カナエは息を凝らしてただ祈る。意味はないと分かってはいたが、祈らずにはいられなかった。

 静寂が場を支配する。痛いほどの沈黙は、五秒、十秒と続いていき──。

 

 

「……なあ、どうしたんだ?」

 

 

 弦司が沈黙を破った。弦司は何も変わりなく、ここにいる。

 生きている。生きていて、本当に良かった。しかし、安堵している暇はない。

 カナエは詰まっていた息を吐くと、一気にまくし立てる。

 

 

「鬼舞辻の名を口にした瞬間、普通はどの鬼も死にますが彼は生きています。これは鬼舞辻の情報を得るまたとない機会でございます。弦司さん、あなたを鬼に変えた下手人、鬼舞辻無惨について、ご説明いただけませんか?」

「死!? っ、カナエの気遣いか……ああ、俺の知っている事なら、全部答えますよ」

 

 

 カナエの言葉に恐怖を見せながらも、弦司は半年前の出来事を気丈に語ってみせた。

 ――初めて聞く弦司の境遇は『理不尽』の一言に尽きた。

 『永遠』『不変』。

 奴の持つ価値観から正反対に弦司がいたから鬼にした……カナエは想像するだけで腸が煮えくりかえる。奴だけは、同情も救いも絶対に与えないと改めて決意する。

 弦司の話を聞いた者たちの反応は、だいたい二つに分かれる。カナエのように奴の存在そのものに怒りを覚えるのが、実弥と行冥。耀哉と天元は感情を露わにする事はなく、思案に没頭していた。しのぶだけが、情報量の多さに目を白黒している。

 考えがまとまったのか、耀哉が顔を上げ半分の視界に弦司を収める。

 

 

「ありがとう、弦司。君の命を懸けた証言は必ず鬼殺隊の役に立つよ」

「……はい」

 

 

 耀哉の礼にも、弦司は素っ気無い。耀哉は寂しそうに笑った。

 他にも言いたい事、伝えたい事が耀哉にはあるのだろう。カナエは申し訳ないと思いつつも、今が押し切る好機。遮る様に声を上げる。

 

 

「不破弦司は鬼殺隊において唯一無二の働きをしました。私はこれを以て、彼の処罰の取りやめを願います」

「……私はカナエの意見に賛成したい。他の剣士(こども)達はどう思っているかな?」

「お言葉ながら!」

 

 

 実弥はそう叫ぶとカナエを、弦司を睨みつけ立ち上がる。

 

 

「人間なら理解しますが、こいつは紛れもない鬼です! 何より、未だ人を喰らわない事を証明できていない!」

「ですから、半年いただければ証明を――」

「半年も必要ない! 今この場で……俺が証明します!」

 

 

 実弥は日輪刀を抜く。弦司を傷つける訳でも、ましてはカナエに刃を向ける訳でもない。

 ――刃の先は、実弥自身。

 彼は腕を斬る。鮮血が舞う。何事かと振り返った弦司の顔に血飛沫が飛ぶ。

 

 

 『(まれ)血』。

 

 

 人の中に極少数、珍しい血がある。鬼にとって希少な血とは、五十人にも百人にも匹敵する栄養となる事がある。

 実弥の血は、その稀血だった。しかも、さらに希少な()()()()()()()血。

 鬼達は実弥の血を浴びれば最後、前後不覚となり何も分からぬまま稀血を求めてしまうのだ。

 弦司は人に対する己が()()を最も嫌悪している。嫌悪して止まないものを呼び起こそうと、実弥はしている。

 耀哉の願いでもない。カナエは実弥を止めようと立ち上がり、しかし天元が立ち塞がる。

 

 

「退いてください、宇随さん。鬼舞辻の情報提供直後に追い詰めるなど、正気ですか? いくら何でも、惨すぎます」

「脳味噌爆発してんのか。人を喰わない事を派手に証明しない限り、鬼を生かす訳ないだろ」

「だから半年――」

「そんな地味な証明、一度の稀血で派手に覆されるぞ」

「――っ!」

「あいつが生き続けるには、稀血を派手に乗り越える以外ねえんだよ」

 

 

 カナエは反論できなかった。運が良ければ……本当に運が良ければ、稀血に会わなくて済む。

 だが、そんなの有り得ない。カナエは他の鬼のように人里を離れ、宵闇を生きる弦司を望んでいるわけではない。人の営みの中に、弦司がいる事を望んでいる。カナエと話しただけで流した涙……その想いを守っていきたいと思っていた。

 その想いを叶えるには、弦司は色々な人と出会い交わる。いつか必ず『稀血』と巡り合う。天元の言う通り、望みを叶えるなら乗り越えるしかなかった。

 そして、稀血に対する対応策を、カナエは何も用意していなかった。もうカナエには、弦司を信じて待つしかできない。

 それでも何かできないかと思い、

 

 

「な、何だよ。これなら、一回経験済みだ、大したこと――」

「弦司さん、気を強く持って!」

 

 

 そんな足しにもならないような、応援しかできない。

 弦司がカナエの意を汲み取ってくれたのか、立ち上がると実弥から慌てて後退った。

 大丈夫と思ったのか、弦司はカナエに視線を送る余裕さえ感じる。しかし、一滴、二滴と実弥の血が流れ落ちるたびに、弦司の顔色から余裕は消えていった。

 視線は段々と実弥の血に釘付けとなり、呼吸が荒れていく。

 ――ポタリ。

 弦司の口から、涎が一筋垂れ落ちた。それを切っ掛けに、次から次へと涎が溢れてくる。弦司は口を拭わない。実弥を、血を、物欲しそうに眺めるだけだ。

 段々と酩酊が回ってきたのだろうか。視線から意思が抜け落ちていき、足元が覚束なくなる。

 

 

「い、嫌だ……! 俺は、こんなの、こんな、違う……!!」

 

 

 弦司は欲求を拒絶しようとする。それでも、本能は稀血を求めるのか。ゆっくりと弦司の手が実弥に伸びていく。

 そんな弦司を見て、実弥は嘲笑を浮かべる。

 

 

「やっぱりなァ。こっちが本当の飯なんだろ鬼ィ!」

 

 

 何で笑う。何で笑える。

 彼の理性を奪って、彼が最も毛嫌いする本能を呼び起こして。どうして笑えるのか。

 カナエには全く分からない。

 

 

「ね、姉さん……!」

 

 

 しのぶがカナエの手を握った。いや、正確にはカナエの拳を解こうとしていた。いつの間にか、拳を強く握っていたらしい。血が畳に落ちていた。

 でも、これがどうした。こんな痛みの何倍も弦司は苦しんでいる。

 

 

「弦司さん!」

「……っ!?」

 

 

 カナエの呼び声でも何か効果があったのか。一瞬、弦司はカナエに視線をよこす。瞳に理性が戻り――絶望に染まる。

 どうして、何で、俺はこんな事をするのか。嫌だ。本当に嫌だ。カナエにはそんな声が、聞こえてくるようだった。

 見ているのさえ、苦しい。だけど、弦司はもっと苦しんでいる。

 乗り越えてくれと何度も何度も願う。弦司は歯を食いしばり、自身の手を止めようと腕に力を込める。

 それでも、段々と目から理性が失われいく。本能が、稀血を求める。

 こんな結末、あんまりではないか。これではまるで、弦司を苦しめるためにカナエが生かしたみたいではないか。

 嫌だと何度心の中で否定しても、弦司は止まらない。弦司が実弥に近寄る。後は、そのまま手を掛けるだけ。

 ――そう思った瞬間、鈍い音がした。

 血が、辺りに飛び散る。だが、それは実弥のモノではなく、弦司のモノ。

 弦司は自分自身を殴っていた。

 

 

「くそっ! 止まれよ!」

 

 

 血が飛び散ろうと、骨が陥没しようと構わず。さらに二発、三発と殴る。痛みからか、弦司の目に確りとした理性が戻ってきた。

 弦司は再び理性が失われる前に、部屋の隅に蹲った。もう動かないと、大きな体を小さく小さく丸めた。弦司はそのまま動かなくなる。

 実弥が呆然とし、天元は驚きに目を丸くする。行冥は見えない目で弦司を凝視していた。

 ――乗り越えた。弦司は、稀血を乗り越えてみせた。

 だが、カナエの心に喜びは湧いてこなかった。

 

 

「くそっ……! 何で……! 何で俺は、いつもこうなんだ……!!」

 

 

 弦司は泣いている。隅で蹲って震えて、血まみれで泣いて耐えている。こんなの、喜べるはずがなかった。

 

 

「カナエ、彼を別室に連れて行ってくれないか」

「御意!」

 

 

 耀哉の指示に、カナエは一も二もなく承諾し、弦司に駆け寄った。涙と涎と血で、顔はぐちゃぐちゃだった。

 連れて行かせようと手を取る。拳は彼の血と体液で濡れていた。努力の証とするには、あまりに惨すぎる。

 まだ足に力が入らないのか、弦司はカナエに寄りかかってきた。カナエはしっかりと弦司の肩を抱き、支える。震えが伝わってくる。

 

 

「弦司さん、ごめんなさい。こんな酷い事ばかり強いてしまって」

「……分かってる。分かっては、いるんだ。だけど、辛いよ」

「はい」

「苦しいよ」

「はい」

 

 

 ――何で鬼なんかになったんだろうな。

 

 

 こんな思いをさせて、後悔しかない。

 

 

「ごめんね」

 

 

 退室する際、背後から耀哉の謝罪が聞こえた。

 弦司にその言葉は届いていなかった。

 

 

 

 

 なんだこれ。

 それがしのぶの率直な感想だった。

 急に柱合会議の場に連れ出されたかと思えば、鬼舞辻の情報に、血まみれになってでも飢餓に耐える鬼。

 情報過多で頭の中が全く整理できない。

 その中でも、一番衝撃だったのは自身の姉と不破弦司。

 

 

「何が大丈夫よ……」

 

 

 しのぶから見た二人は、仲が良くて楽しそうで、弦司が鬼である事をつい忘れてしまう事もあった。その認識は大きな間違いだった。

 楽しいだけではない。その裏には、鬼ゆえの苦しみがある事を、しのぶは初めて認識した。

 今後、どうやって弦司と接すればよいのだろうか。少なくとも、今までの態度では接する事はできなかった。

 

 

「鬼という病を持った人」

 

 

 カナエと弦司が退室した後、耀哉が呟いた。

 言い得て妙だ。確かに、彼の振る舞いや心の在り方は完全なる人だ。しかし、心の奥底にはどうしようもない鬼の本能がある。本人だけの努力では取り除けない負なる面……確かに、その在り方は病と似ていた。

 

 

「彼の事は、きっとカナエにしか任せられないと思う。全てカナエに任せていいかな」

「御意」

「御意」

「……御意」

 

 

 三人の柱から承諾が返ってくる。

 耀哉は嬉しそうに笑うと、ゆっくりと立ち上がる。

 

 

「それじゃあ、私はこれで失礼するよ。少し疲れてしまったみたいだ」 

 

 

 そのまま耀哉は座敷を後にした。部屋には柱三人としのぶ、計四人が残される。

 正直、気まずい。血まみれの座敷に柱三名と同室とかどうすれば……と思うしのぶを余所に、実弥は真っ先に立ち上がる。

 

 

「不死川さん、どちらに行かれるんですか?」

「任務に決まってんだろうがァ」

「大変不本意ですけど、治療ぐらいならしますよ?」

「うるせえェ。こんなのかすり傷だァ」

 

 

 今朝、どこかで聞いたような言葉を吐いて、実弥は出て行ってしまった。歩いた後に、血痕はない。血は確かに止まっていた。やはり、柱になるにはあれぐらい化け物でないといけないのだろう。

 実弥が出て行くと、今度は天元が立ち上がる。

 

 

「派手に動いて疲れたから、俺も帰るわ」

「……お疲れ様です」

「そんな顔で睨むなよ。必ず丸く収まるよう、どっちに転んでもいいようにしただろうが」

 

 

 鬼殺隊にとっては丸く収まるよう、ね……という言葉をしのぶは飲み込む。鬼殺隊の不利益を歓迎するような発言は、さすがに憚られた。

 代わりに、部屋から出た姉とあの男を案じる。

 

 

「姉さんと不破さんは大丈夫でしょうか? 私には丸く収まっていないように見えるんですけど」

「あれは二人の問題だろ。俺は関係ない」

 

 

 それだけ言うと、天元は部屋を出て行こうとする。柱が掃けて助かる──とか思ってると、出る直前で振り返る。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて。

 

 

「そういや、あの二人はどこまで進んでんだ?」

「は? どういう──」

 

 

 天元の言葉で思い起こされるのは、五日前の出来事。自身の勘違いで、二人はそういう関係だと早とちりし、挙げ句の果てには弦司を義兄とまで呼んでしまった。

 未だ消化できない過去の想起に、しのぶは羞恥で顔が熱くなる。それをどう読み取ったのか、天元は口笛を吹き、悲鳴嶼は数珠を爆砕した。

 

 

「胡蝶もやることは地味にやってんだな。いや、相手が鬼だと考えると、ド派手だな」

「あぁ、なんと愚かなことを。彼には恋人がいると聞いている……早く愚かなあの男を殺して解き放ってあげよう」

「脳味噌爆発してんのか? 恋人の一人や二人、嫁の二人や三人いても問題ないだろ」

「問題だらけだ」

「あーっ! 違います、私の勘違いです!」

 

 

 あらぬ方向に話が飛んでいきしのぶは慌てる。収めるには、自身の恥を晒す他ないだろう。

 もうここにいない男を考えてもしょうがない。それに彼自身の努力の結果、今後も一緒にいるのだ。

 しのぶはとりあえず弦司の事は保留とし、二人の誤解を解く事にした。

 

 

 

 

 退室するなり、御内儀──産屋敷あまねが先導し、別室へと案内された。彼女は嫌な顔一つせず、すぐさま弦司の汚れを落とし、カナエの掌も治療。さらには、部屋には大量のおにぎりが用意周到に準備されていた。

 彼女は何も発言せず、会釈だけをして部屋を後にした。

 ――弦司と二人きりになった。

 カナエは弦司と隣り合わせに座る。

 弦司が黙々と食事を摂る傍ら、カナエは黙って俯く。声を掛ける勇気を持てなかった。

 理由は二つ。

 一つは守ると言いながら、何もできず空回りするばかりで、最後には弦司に負担を強いて、彼を傷つけさせてしまった事。

 もう一つは一時の感情に流されて、飢餓に苦しむ弦司の前で出血してしまった事。

 無様で滑稽で情けなくて、本来なら顔も合わせられないが、逃げるのは一番無責任な選択だ。カナエは罵られても軽蔑されても、最後まで弦司に寄り添わなければならない……もちろん、弦司が酷い事はしないと分かってはいる。

 弦司がおにぎりを飲み込んだ機に、なけなしの意地を振り絞り話しかける。

 

 

「弦司さん、落ち着いた?」

「ああ……」

「…………あの」

「なあ、カナエ」

「……はい」

「お互い酷かったな」

 

 

 カナエは顔を上げ、弦司を見る。彼の方が遥かに背が高い。自然と見上げる形になる。

 弦司の顔は力がなく、目には涙の後も残っていた。

 弦司はカナエを見下ろす。きっと、弦司の目にも同じように酷い顔のカナエが映っているだろう。

 

 

「……そうね。お互い行き当たりばったりで、空回りしてばかり。今、一緒にいられるのは……弦司さんが頑張ったから」

 

 

 カナエは堪らず目を逸らす。鬼舞辻の呪いに稀血……全て弦司が一人で戦い、勝ったからこそ今も彼は生きている。カナエは何もしていない、できてない。歯がゆかった。

 

 

「本当に弦司さんはすごいわ」

「……あんなみっともない姿が?」

「そんなことない」

 

 

 カナエは逸らしていた視線を戻す。弦司を貶めるような言い方は、例え彼自身でも容認できない。弦司と同じ事を、一体誰が成し遂げられると言うのだ。

 

 

「弦司さんは十分に頑張ってる。頑張りすぎてる。本当なら、もっと私が――」

「カナエ、もうそれじゃあ足りないんだ」

 

 

 足りないのは私だ――そう言い返そうとして、言葉に詰まる。弦司の涙の跡が残るその顔に、決意が宿っているのが見て取れた。

 カナエは場当たり的な反論を飲み込む。

 

 

「俺達は甘えてたんだ」

「甘えていた?」

「ああ。俺はカナエの『助ける』って言葉に。カナエは()って立場に」

「甘えって何? あなたを助けるのは、柱の立場がある私で――」

「違うんだ、カナエ。お前は柱の力を使って俺を助けて。俺は百回の恩恵にささやかな一個を返す。だけど、それだけじゃ、()の俺が生きるには全然足りないんだ」

「――っ」

 

 

 否定の言葉が出てこない。今さっき、何もできなかったのは()の自分だ。足りない。確かに何もかも足りていない。やっと本当の意味で救える人に会えたのに。自分では助けられない。あれだけ救うと謳っていたのに、何と滑稽な事だろうか。

 カナエが自嘲気味に笑うと、コツンと弦司が頭を叩いた。

 

 

「いたい」

「今、馬鹿な事考えただろ?」

「だって――」

「だってじゃない」

「……ごめんなさい」

「カナエが頑張ってくれているのは分かってるんだ。何もお前を否定したいんじゃなくて……これからはやり方を変えようっていう提案なんだ」

「やり方?」

 

 

 弦司はカナエの両手を取る。彼の大きな掌が、カナエの両手を優しく包み込んだ。

 

 

「俺を助けるとか救うとかじゃなくて。()()()()()()()、その手助けをしてくれないか」

 

 

 弦司の提案はカナエが考えたこともない内容だった。

 弦司が身を屈め、カナエと視線を合わせる。弦司の赤い瞳が、よく見える。

 

 

「俺が無害で穏やかな存在だって分かれば、平和に暮らせると思っていたんだろ?」

「……はい」

「でも、そんな存在認められるはずがないんだ。俺が化け物で、それでも人間社会にいたいなら、人間の役に立つことを示し続けなきゃいけないんだ」

「……そんなの、おかしい。弦司さん、何も悪くないのに……それに化け物じゃない」

「ありがとう。だけどな、これは良いとか悪いじゃないんだ。俺が人と暮らすなら、これは絶対にやらなくちゃいけないんだよ。柱合会議でそれは分かっただろ?」

 

 

 弦司の通り、思い知らされた。柱という立場に胡坐をかくだけではダメだと。ただ大切に壊れ物のように扱っても、周囲は安全で役立つのか証明を求められる。

 分かる。分かるが、これではカナエの取った行動は、いくら何でも惨すぎる。

 

 

「頑張ったと褒めそやして。守ると助けると嘯いて。結局は人の間に放り込んで、働かせる……これじゃあ、詐欺みたい」

「カナエ、その言い方はさすがに自虐が過ぎる。本気で怒るぞ。少なくとも、俺は命を救われてるんだ、自分の行動を否定しないでくれ」

「……ごめんなさい」

 

 

 窘める様に弦司は言う。しかし、細められた両目からは優しさを感じる。繋がった手から彼の体温を感じる。

 

 

(優しい。温かい。彼を助けたい……助けたいなぁ)

 

 

 心の底から渇望する。鬼となった弦司を助けたい。だけど、それは柱でも叶わない。カナエ一人では叶えられない。

 今日、散々打ちのめされた。夢を叶える力は自身にはないのだと知り、胸が苦しくなる

 ――それが、何でだろうか。

 

 

「これからはちゃんと()()で協力して頑張ろう」

 

 

 ──二人で。

 その言葉一つで苦しみは取り払われる。

 

 

「カナエ」

「はい」

「俺が人を助ける、手助けをしてくれ」

「はい」

「俺もカナエが(ひと)を助けられるよう、協力するから」

「――」

 

 

 一人でダメなら二人。

 助けてもらえないなら、まず助ける側になる。

 単純な話だ。だけど、とても気持ちのいい結論だった。

 胸の苦しみはなくなった。代わりに温かいものが広がっていく。

 カナエは自然と笑っていた。

 

「共同作業……」

「うん?」

「つまり、ここからは二人で初めての共同作業っていう事ね!」

「だから言い方!」

「? 何か間違ってる?」

「いや、だからそれは飯を食わせるアレで……いや? 今の文化だとそもそもないのか……やっぱ何でもない」

 

 

 何やら弦司が慌てて否定し、カナエの手を離す。何か気がかりでもあるのだろうか。でも、口元は笑っている。なら、大丈夫だろうか。

 それよりも、心が軽くなった。だからだろうか、お腹が空いてきた。

 

 

「弦司さん、私もおにぎり食べていいよね」

「まあ、俺が作った訳じゃないけど。これだけ食事あるんだし、一緒に食べようか」

「うん!」

 

 

 カナエは早速、大皿に大量にあるおにぎりの中から一つを掴むと口に運ぶ。米が一粒一粒立っており、食感が良い。冷めても美味しい。具の梅干しも良い物なのか、程よい酸味が疲れた体に心地良い。

 あっという間に一つを食べ終える。

 横目で弦司を盗み見る。すでに三つを食べ終えたにも関わらず、さらに追加でおにぎりを頬張っている。本当においしそうに食べてる。

 料理が美味しいだけじゃない。きっと今この瞬間、カナエと弦司が一緒にいるから、こんなにも美味しい……かもしれない。

 

 

(二人で美味しい食事に、共同作業か……)

 

 

 そんな事を思っていたためか、カナエの頭の中で二つの単語が合体。先の弦司の様子にある一つの推察が立った。

 

 

(……食事がどうのこうの言ってたけど、なるほど。弦司さんは二つの約束『美味しい食事を一緒に食べる』『二人で協力する』を合わせて、そういう想像をした訳ね。何て逞しい想像力かしら~)

 

 

 カナエの言い方が悪いのではない。弦司の柔軟な発想力が悪いのだ。

 ──そんな悪い男はイタズラされてもしょうがないと結論づける。

 

 

「弦司さん」

「どうした?」

 

 

 カナエは自分でも悪い顔だと自覚しつつも、口角が上がるのを抑えられない。弦司が驚く様を想像しながら、おにぎりを差し出し、

 

 

「あ~ん」

「!?!?!? げほっ! げほっ!」

 

 

 イタズラは大成功だった。咽せる弦司を見て、ますます顔の緩みが酷くなる。

 

 

「どうしたの、弦司さん? さっき話したじゃない、二人で初めての共同作業だって」

「っ!? やっぱりわざとだったんだな、カナエ!」

「心外だわ~。弦司さんの心中を察して、二つの約束が同時に叶うように気を遣ったのに~」

「いらんわそんな気遣い……! くそ、今までそうやって、何人男を泣かせてきた!?」

「え……弦司さんが初めての(泣かせた男の)人よ」

「だから言い方ぁっ!」

 

 

 憤慨する弦司を見て、笑いが止まらなくなる。こんな何でもないやり取りが、とても楽しい。だから、まだまだイタズラは止めない。

 

 

「ほらほら。手が疲れるから、早く食べて。あ~ん」

「……ちくしょう」

 

 

 ニコリと笑うと、弦司が諦観して口を開く。最近分かったが、笑顔が弦司は好きらしい。カナエもしのぶの笑顔が好きだからよく分かる。今後も頼み事をするときは、笑顔でいこう。

 そんな事を考えながら、カナエは弦司の口におにぎりを運ぶ。弦司がパクリと食べると、半分以上が彼の口の中に消える。カナエとしのぶと違って、口も掌も本当に大きい。そんな小さな発見が楽しい。

 一つ二つと次々と弦司の口へおにぎりを詰め込む。

 

 

「あの、カナエ? もうそろそろ」

「もう一回。あともう一回だけだから」

「……」

 

 

 ますます楽しくなってくるカナエ。表現は悪いが、動物への餌やり染みていて、食べてくれるのがとても楽しい。特に、しのぶが毛の生えた動物が苦手で飼った経験がないため、より楽しく感じる。

 

 

「も、もういいだろ」

 

 

 結局、もう一回が六回ほど続いた所で弦司が口を閉じる。もちろん、弦司が口を閉じた所でまだ終わるはずがない。

 

 

「あ~ん」

「な、何だよ。カナエが口を開けて、どういうつもりだよ」

「ほらほら、初めての共同作業なんだから、あなたもやってみて。あ~ん」

「やっぱり分かってやってるだろっ!!」

 

 

 言いつつも、弦司は律儀におにぎりを差し出す。

 何だかそれが無性に嬉しくて、カナエはおにぎりに食いついた。

 弦司が手ずから食べさせたおにぎりは、とても美味しかった。

 

 

 ──ちなみに、後に正気に戻ったカナエは、一週間ほどおにぎりを見ると赤面するようになった。台所では、嬉々としておにぎりを握る弦司の姿がよく見られた。

 

 

 

 

 ――熊谷(くまがや)(たまき)の生まれは恵まれていたと言える。

 片田舎の小さな町ではあったが、生家は地元では名家と呼ばれる家だった。

 厳しくも優しい両親に、頼りになる兄と姉。気の許せる許婚もいて、将来、幸せになる事を疑っていなかった。

 

 

 ――それが崩れたのは、十五の時だ。

 

 

 環を嫁に出すのを渋っていた父が、とうとう環を嫁に出すことを決めた年。環の体は急速に成長していった。

 身長はあっという間に、姉を、母を、兄を、そして父までも追い越した。

 困惑する家族。ただ、背が伸びただけなのに……そんな思いを許婚に告げると、返ってきたのは拒絶だった。

 ――お前みたいな男女と結婚はできない。

 何で、体が大きくなっただけで。自分は変わっていないのに。

 何度伝えても、今の環を受け入れてくれなかった。

 婚約は破棄になった。

 今までの人生はなんだったのだろうか。自分の積み重ねてきたものは、こうもあっさり崩れ去ってしまうのか。何とも空虚だった。

 そして、この婚約破棄は悪評となり、環の貰い手はいなくなった。

 気づけば、二十歳を迎えた。もう故郷に環の居場所はなかった。

 そんな時だ。東京に行った叔父から手紙が届いたのは。

 環の不遇を知った叔父は、新しく始める商売の手伝いを環に求めた。何の未練もなく、叔父の誘いに乗った。

 新しい商売とは喫茶店だった。そこの給仕として、環は働いた。

 だが、俯いていたばかりの環は、あまり優れた給仕とは言えなかった。

 ――そうして、鬱々としていた日々は、突如として終わりを迎える。

 『悪食家』。

 そう呼ばれる不破家の三男が、喫茶店を訪れた。

 どんな珍品だろうが、楽しく嬉しく受け入れる()()()。しかし、審美眼はかなりのもので売れると言ったものは必ず売れる。そんな悪評と好評が混じった、一般的に言えばおかしな男だった。

 彼は入店するなり、環に話しかけてきた。

 最初は警戒した。彼は何だって楽しむ『悪食家』だ。いくら行き遅れとはいえ、好きにされて喰い捨てられたくはなかった。

 それでも、彼はしつこく何度も何度も話しかけ、ついに環は言ってしまった。

 

 

 ――さすが悪食家様。私を食い散らかして、捨てるおつもりですか。

 ――人聞きの悪い事言うなよ!?

 ――私は二十でございます。

 ――あっ、俺、二十三。お似合いだな。

 ――身長が高うございます。

 ――俺の方が高いけど。

 ――だらしない体でございます。

 ――えっ……その、ありがとう?

 

 

 何と言っても彼は怯まず、楽しそうに……本当に楽しそうに話していた。

 そして、環は折れた。もう騙されてもいいから。少しでも、この時を過ごしたい……。

 もちろん、実際は騙すつもりなんて毛頭なく、嬉しくて楽しい時間を何度も何度も過ごせた。

 愛を示せば示すほど、彼も愛で返してくれた。幸せな日々だった。

 そして運命の日。彼に婚姻を申し込まれた。生まれて一番幸せな日だった。

 

 

 ――それもまた一瞬で壊された。

 

 

 何度思い出しても、何が起きたのか分からない。

 分かっているのは、最高の幸福を壊された事と、弦司を失った事。

 気が狂いそうだった。

 それでも歯を食いしばって立ち上がり、彼の生家を訪ね遮二無二頼み込んだ。環と弦司との間に、正式な婚姻関係はない。警察に駆け込んでも、捜索願は出せない。環には弦司を探してくれ、と縋るしかなかった。

 環はそのまま不破家に温かく迎え入れられた。弦司は本気で環との婚姻を考えており、すでに両親には伝えていたのだ。

 涙が出た。彼がここまで想っていた事に。弦司がいなくなり全てを失ったと思った人生にも、ちゃんと残っていたものがあった事に。

 不破家で寝泊まりし、給仕もしつつ、弦司を探す日々。辛くなかった……と言えば嘘だが、それでも確実に前に進めていた。弦司に再び会えても、恥ずかしくない自分でいられた。

 しかし、捜索は難航し、気づけは二つの季節を跨ぎ――八か月が過ぎていた。

 弦司がいない日々が日常となりつつあるその時、突如として手紙が届いた。

 差出人は『不破弦司』。

 心臓が高鳴った。彼か、いや本当に彼なのか。不安はあったが、手紙を読んだ。

 筆跡は全て弦司と同じだった。彼が生きていた。

 読みながら涙が止まらなかった。生きていた。それだけで、心の底から嬉しかった。

 しかし――書いてあったのは、自身の望まない内容だった。

 途中から、涙の意味は変わった。動悸がして、呼吸が定まらなかった。

 気づけば、弦司の父――不破弦一郎(げんいちろう)と母のあやのが傍にいた。同じように二人にも手紙が届いていた。

 

 

「手紙一つで済ませおって」

 

 

 弦一郎は弦司に似た大きな肩を怒らせて言った。

 

 

「何時になっても手のかかる子よ」

 

 

 あやのは弦司に似た柔らかい笑みを浮かべて言った。

 平たく言えば、どちらも弦司の意見を容れるつもりはない、との事だった。

 

 

「あなたはどうします?」

 

 

 あやのの大きな瞳が環に尋ねる。

 この八か月、弦司を想わない日はなかった。どれだけ苦しくても辛くても、彼がいれば、彼がいてくれれば。それだけで、力が湧いてきた。今だって、その想いは変わらない。

 答えは決まっていた。

 

 

「弦司様と一緒に帰りたい」

 

 

 弦司の帰る場所はいつだって(ここ)だ。

 もう二度と離さない。



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第6話 別れ・前編

誤字報告ありがとうございます。
いつもお手数をおかけしております。

長くなりましたので、分割します。
それではお楽しみください。

あと、キメツ学園のカナエ先生とカナヲがカワイイです。最高。


 ――その日は最悪だった。

 

 

 鬼になったのは、一人の少女だった。

 彼女は生まれた村を襲い、村人を次々と殺害した。そして、残された唯一の家族である姉をも襲った。

 姉は健気だった。自身の妹を正気に戻そうと、村人が襲われている間も、何度も何度も声を張り上げた。だが、それは通じる事なく、姉もまた襲われ――そこをカナエが助けた。いや……正確には、妹だった鬼をカナエが討った。

 ――何で、どうして。

 ――なぜ妹を殺した。

 ――この人殺し。

 消えていく亡骸を見て、姉はカナエを詰り罵った。鬼狩りをしていれば、何度も遭遇したありふれた出来事だ。しかし、柱となってからは、ほとんど未然に防いでいた事態だった。なのに、この時は間に合わなかった。

 自身の境遇と、知らず重ねてしまったのだろうか。そのまま最悪な気分で帰宅した。

 

 

「おかえり」

 

 

 そう言って、弦司だけがカナエを迎え入れた。日の出が近づいた時刻だ、睡眠のいらない弦司以外はみんな眠っている。出迎えがあるだけ有り難かった。

 だが、この日のカナエに余裕はなく「いいから、早く寝させて」と冷たく当たってしまった。

 弦司は嫌な顔一つせず、夜食を用意してお風呂も温めなおした。

 

 

「おやすみ」

 

 

 こんなに暖かい言葉をかけてくれたのに、食事は残し、体を綺麗にしたらお礼の一つも言わず。それどころか、返事もせずに無視して寝てしまった。

 翌朝、目覚めるなりカナエは自己嫌悪に陥った。家事に鬼殺に陰日向に……人の役に立とうと努力している彼を、他でもないカナエがぞんざいに扱った。前日に引き続き、最悪な気分だった。

 

 

「おはよう」

 

 

 弦司は笑顔で言ってくれた。

 すぐに謝った。昨日の任務が辛かった。でも、弦司に当たるのは間違いだった。全て正直に話した。

 

 

「頑張ったな」

 

 

 怒るでもなく、何か尤もらしい理屈を説くわけでもなく。それだけを、弦司はカナエに与えてくれた。それで十分だった。

 ――今日は昨日より、ちょっとだけ良い日になる。

 

 

 

 

 鬼殺隊の任務は過酷だ。最前線の剣士は言わずもがな、後方支援である隠も時に命の危険がある。目の部分だけ開いた黒子のような衣装。隠である彼は今、命の危機にあった。

 

 

「こっち来るんじゃねえっ!!」

「待てよ、人間!」

 

 

 追いかけてくるのは、異形の鬼だった。八尺を超える巨体に、大人の胴ほど太い頚。すでに人だった時の面影は失く、本能のまま人を襲い掛かる鬼となっていた。

 彼は山間部で隊士の事後処理を行っていた所、運悪く鬼に遭遇してしまった。追いかけてくる鬼から、今は必死の形相で逃げている。

 彼には剣の才能はなかった。それでも隠となるからには、体力は一般人を遥かに超えている。彼は巧みに木々の合間を縫って鬼から逃げていた。

 

 

「はぁっ、はぁっ」

 

 

 しかし、彼は人間だ。体力はあっても、いつかは必ず尽きる。

 対して、鬼の体力はほぼ無尽蔵。次第に彼我の距離は縮められていく。

 すぐそこに、鬼の気配を感じる。もうダメだ、追いつかれる。

 彼が諦めかけたその瞬間──。

 

 

「だあぁっ!!」

 

 

 鬼を横合いから、一人の男が殴り飛ばした。鬼は木々をなぎ倒しながら、吹き飛んでいく。

 殴り飛ばした男は、彼と同じ黒子のような衣装だった。ただし男の場合、目元は開いておらず表情は窺い知れず、声だけが性別を男性だと伝える。

 

 

「大丈夫か、後藤!?」

 

 

 殴り飛ばした男は、彼──後藤の名を呼ぶ。男の顔は見えないが、後藤はここ数週間、彼と任務を頻繁に共にしており、素性を知っている。

 

 

「すまん! 助かった!」

「俺は足止めするから、お前は──」

「前!!」

 

 

 後藤が男に注意を促す。鬼はすでに立ち上がり、男の眼前にいた。

 

 

「死ねっ!!」

 

 

 鬼が振りかぶった巨腕を男へ振り下ろす。男は舌打ちし、防御のために咄嗟に左腕を差し出す。

 しかし、防御は能わず。巨腕の攻撃に弦司の左腕は文字通り吹き飛び、さらには心臓を刺し貫いた。

 男の背中から飛び出た腕は拳ではなく、鋭利に尖っていた。鬼の腕は一つの巨大な杭となり、男の腕ごと貫いたのである。

 

 

「へっへっへ。馬鹿な男だ。邪魔しなければ、串刺しにならずに済んだのによ」

 

 

 嘲笑を浮かべる鬼。この男はもう死んだ、次はさっきから逃げてばかりのあの男である――。そう考えていた鬼は、次の瞬間、驚愕に目を見開く。

 

 

「~~~~っ、いってーな、おい!! 心臓と腕の代金は命だ、覚悟しろ!!」

「何っ!?」

 

 

 男は吐血しながら刺し貫いた鬼の腕を、残った右腕で掴む。決して逃がさないと、万力を思わせる剛力で鬼を拘束した。

 

 

「この気配、まさか鬼か!? なぜ、人間の味方をする!?」

「不破!! 大丈夫か!?」

「腕一本、心臓一個で済んだぞ!!」

「全然大丈夫じゃねぇ!?」

「この……! 俺を無視するなっ!!」

 

 

 鬼は懸命に弦司から腕を抜こうとするが、弦司は全身に力を込めて妨害する。弦司には日輪刀もなければ、剣の才能もない。弦司一人では鬼を討ち滅ぼす事はできない。

 だからこそ、一分一秒でもこの場に鬼を縫い留め、鬼を討つことができる剣士の到着を待つ。

 助けはすぐに来た。

 

 

「水の呼吸壱ノ型・水面斬り」

 

 

 木々の間から飛び出した剣士は、水面を想起させる流麗な剣筋で日輪刀を真横に薙ぐ。寸分違わず鬼の太い頚に吸い込まれ――甲高い金属音と共に、刃は止まる。

 

 

「馬鹿が。俺の頚は鋼より硬いんだよ。お前ら鬼狩りに俺の頚は、斬れやしねえよ」

「だったら毒はどう?」

 

 

 鈴の音のような綺麗な声とほぼ同時。

 蝶の髪飾りが特徴的な小柄な少女の剣士が現れ、鬼の全身に複数回、細剣のような日輪刀を刺突。

 大量の鮮血が辺りに舞う。

 鬼の頚は繋がっている。やはり、この鬼狩りも自身の頚を斬れなかった。

 鬼は嘲笑おうと口を開こうとして、ぐらりとその巨体が揺れる。少女に刺された箇所が爛れて、さらには灰となり崩れ始める。

 

 

「な……ぜ……」

「新しい毒です。苦しんで死になさい」

 

 

 鬼は一際苦悶の表情を浮かべると、全身を痙攣させながら大量の血を吐いて死んだ。もう鬼は動かない。少女の毒が鬼を討った。

 それを見て、後藤はようやく勝利を確信し脱力をした。

 

 

「た……助かった」

 

 

 これを合図に、剣士達は刀を鞘に納め、弦司は鬼の腕を引っこ抜く。

 

 

「本当にありがとうな、不破。隊士の方々も、ありがとうございます」

「げほっ! ……良いよ。討ったのは、しのぶと雨ヶ崎(あまがさき)だし。それより、服を貸してくれ。俺の乳房がこぼれる」

「俺は全然役に立ってないけどね。刃毀れしたし、これは怒られるなぁ……」

「良いですよ、これが剣士の役割ですから。それよりも、無茶するなっていつも言ってますよね、不破さん! 姉さんが心配するからやめてって! 何で学習しないんですか!」

 

 

 ここにいる全員が鬼殺隊の中では、いわゆる下っ端。何となく妙な一体感があり、つい口が軽くなる。

 しかし、今この瞬間も鬼は人を襲っている。きっと山を下りれば、すぐに次の鬼殺が始まるだろう。それまでの僅かな時間、四人は力の抜けた表情で談笑していた。

 

 

 

 

 蝶屋敷の一室。

 しのぶとカナエは向かい合いに座っていた。カナエの後継者……継子であるしのぶは、昨日の鬼との遭遇戦について報告した。

 

 

「任務遂行、お疲れ様。しのぶ達が活躍しているようで嬉しいわ」

「だったら、少しは嬉しそうな顔してよ」

 

 

 言葉とは裏腹に、カナエはぶすっとした顔で言う。

 ――弦司が蝶屋敷に来てから、早くも二か月が過ぎた。

 彼の鬼殺隊での扱いは、役職こそ『特別隊士』などという大仰な名が与えられているが、有体に言えば『雑用』だ。仕事の内容は蝶屋敷の家事全般に加え、夜目を生かした隠の後方支援。さらには、緊急事態には昨日のように体を張って鬼殺隊を守ることもある。しのぶの目から見ても相当頑張っていた。

 姉のカナエも弦司の働きに非常に満足している。お館様に掛け合って弦司の要望に応え、屋敷を増築したぐらい大変満足している。それでも不満顔なのは、全く自身と共に任務をする機会がないからだ。

 しのぶは溜め息を吐くと、よく冷えた茶碗を手に取る。中には、茶碗蒸しと相違ない薄黄色の柔らかい物が入っているが、それは見た目だけだ。弦司が作った『ぷりん』という洋菓子だ。

 ぷりんを匙で口へ運ぶ。口に広がる優しい甘み。茶碗蒸しと近い柔らかい食感も伴って、思わず頬が緩む。

 カナエは唇を尖らせ、空になった自身の茶碗を指で弾く。

 

 

「私と協力するって話だったのに、私とは一度も任務してないじゃない。それなのに、しのぶは家事に訓練に研究にお菓子に……毎日毎日楽しそうに共同作業して。こんなの不公平よ」

「家事は蝶屋敷の差配のため、訓練は私も不破さんも姉さんが強すぎて相手できないから、研究は毒と治療薬の開発のため。お菓子は姉さんだって食べてるじゃない。全部理由があるんだから、不公平とか楽しんでるとか、言いがかりはやめてよね」

「だって~」

「だってじゃない」

「私、柱なのに~」

「柱だからいなくても大丈夫でしょ。こっちは昨日、雨ヶ崎さんでも頚が斬れなかったんだから。不破さんが鬼を拘束してなかったら、ぞっとするわ」

「……そうだけど~。一回だけ、一回だけだから~」

「そんな恨めしそうに見てもできません」

「しのぶのいけず」

 

 

 カナエが半分おふざけ、といった感じにごねる。余裕がある証拠である。

 このように、弦司の鬼殺隊参戦は順風満帆だった。とはいえ、懸念事項もいくつかある。

 まず、弦司自体の戦闘能力と戦術だ。戦闘能力は……はっきり言って、そこまで優れていない。剣の才能はないし拳法は多少光るものがあるが、それだけだ。それにより取れる戦術は……言い方は悪いが『肉壁』だ。

 再生能力と腕力にものを言わせ、鬼の攻撃を受け止め拘束する。それ自体、かなり有効だ。雨ヶ崎――しのぶと同期の剣士で、以前のしのぶの勘違いにも全力で協力してくれた――のような一般剣士にとって、鬼の攻撃を躱し頚に迫るのは毎回命懸けだ。防御を弦司が請け負うのは、負担を相当減らしてくれる。

 しのぶにしても、致死量の毒を打ち込まなければならない。鬼が動けば動くほど、当然毒を打ち込む機会は減る。弦司が拘束してくれるのは非常に有難かった。

 しかし、その戦い方は非常に危うい。弦司は自身の身を全く顧みないのだ。

 すぐに治るから、という問題ではない。誰かを守るため、自然と体が動くならまだいい。だが、彼の動きにはどこか自暴自棄な所が見える。おそらく、鬼に対する嫌悪感が心の根底にあり、それが弦司自身にも適用されているのだろう。自身は鬼だから、いくらでも傷ついてもいい……その在り方は、非常に危うい。何か取り返しのつかない事態に陥る前に、改善する必要があるだろう。

 そしてもう一つ――むしろ、しのぶの中で、懸念の九割九厘を占める――問題がある。

 

 

 それはカナエと弦司の関係だ。

 

 

 この二人かなり仲が良い。おっとりしつつも芯の強いカナエには珍しく、弦司に対しては甘えを見せる。弦司もカナエとは会話が弾むのか、蝶屋敷にカナエがいれば必ずと言っていいほど話している。それを見て、周囲は言うのだ。

 

 

 ――この二人、いつから付き合っているの。

 

 

 付き合ってなどおらぬ。付き合ってなどおらぬのだ。

 しのぶは何度も周囲に説明するが、誰もが微笑ましいものを見るような生暖かい目で見てくる。あの音柱・宇随天元、さらには岩柱・悲鳴嶼行冥まで同じような目で見てきた。

 おかしい。こんなの間違っている。

 こんな奴、と弦司の粗を探してみるが、先からの説明の通り彼の功績は悪くない。むしろ、一般隊士よりよほど働いている。特にしのぶは鬼の研究や鬼殺などなど、鬼殺隊一弦司の恩恵を授かっているかもしれない。

 しのぶは危機感を持った。これはまずい。これが所謂、外堀を埋めるというやつなのではないか。

 このままではダメだ。しのぶにも何がダメなのかよく分からないが、とにかくダメだった。

 不機嫌な姉を見ながら何か対策を……と考えていると、部屋の襖が開く。全ての元凶、弦司だった。

 

 

「カナエ、しのぶ。少し時間もらえないか?」

「弦司さん」

 

 

 弦司を見て、カナエが笑顔に変わる。さっきの不機嫌はどこかに行っていた。それがまた、しのぶには不愉快でついつい弦司を冷ややかな目で見てしまう。

 

 

「不破さん、何の用ですか? 今、あなたの無茶ぶりを姉さんに報告していた所ですよ」

「えっ!? いや、あれは鬼が思ったよりも早くてどうしようも――」

「後で二人きりでお話ししましょうね、弦司さん……それで、用件は何?」

「えっ!? だからあれは――」

「ご用件は?」

「……ごめんなさい。それでご用件は、えっと――」

 

 

 自然と正座になった弦司。何やらしばらく目を泳がせた後、

 

 

「拗れてしまいました……」

「? 拗れたって何が?」

「……別れ話が」

「え?」

「恋人……環との別れ話が拗れてしまいました」

「ええ?」

「話し合いの場を設けてもいいでしょうか?」

 

 

 言い、土下座する弦司。

 しのぶはカナエを見る。眉尻を下げて困惑していた。きっとしのぶも同じような表情だろう。

 

 

「事情を伺ってもいいかしら?」

 

 

 カナエが尋ねる。まずは事情を知らなければ、答えようがない。

 弦司は頭を上げる。

 

 

「その……最近の功績で、私信の許可が出たよな」

「ええ、鬼だからって理由で今までどこにも連絡できなかったものね。今回の許可で、ご家族に手紙を出したらって勧めたのは私だもの。覚えているわ。それで、どうしたの?」

 

 

 しのぶもそれは覚えている。手紙の内容の相談もされた。自身の体について、全て話しても問題ないか、と。書く事自体は構わないが、どのような内容にせよ、覚悟を持って伝えるべきと、その時は答えた。

 弦司が俯き、苦悩をその表情に浮かべる。

 

 

「全部、正直に書いた。狂ってると思われてもいいから、今の気持ちも全部書いた。手紙で終わらせようとするのは、不誠実だとは思ったさ。でも、いつ治るか分からない体なんだ。将来を思えば終わらせるべきだと思ったんだ……最後に会ってから八か月も経ってたしな」

「……それで、別れの手紙を送ったの?」

「ああ。それで返信が来て……絶対に嫌だって。少なくとも、顔も見せずにそんな話、絶対に受けないって。両親からも似たような内容が来た……」

「……」

「だから、直接会って終わらせたい。ダメか?」

 

 

 しのぶもカナエも、すぐに言葉が出なかった。

 恋愛経験なんてあるわけないので、恋人の気持ちはよく分からない。でも、二十を過ぎて八か月も待たされて、それでも一緒にいたいという気持ち……それは非常に尊いはずだ。

 それに、全てを知って受け入れてくれる家族がいる。それも貴重な事だ。しのぶには弦司が間違っている気がした。

 

 

「困ったわね」

 

 

 カナエがぽつりと呟く。困った……その言葉の真意がしのぶには分からない。弦司がいなくなって、何が困るのだろうか。

 彼が鬼殺隊を抜けたら、恩恵を受けているしのぶは確かに困る。しかし、カナエには何の影響もないはずだ。しのぶにしても、今の状況がおかしいだけ。元に戻るだけである。

 しのぶは首を傾げる。

 

 

「姉さん、何が困るの?」

「えっ……だって弦司さん、やっと鬼殺隊に馴染んできたのよ? いきなり抜けられたら、しのぶも困るでしょ?」

「いや、そういう問題じゃないよね? 今、鬼殺隊にいるのは、不破さんを監視・管理するのが目的でしょ。もし、家族がちゃんと受け入れて管理する意思があるのなら、これまでの功績もあるし、鬼殺隊で縛る必要はないじゃない。もちろん、不破さんの意思も考える必要はあるけど」

「あっ……! そ、そうよね。すっかり馴染んでたから、気づかなかったわ~」

 

 

 気まずそうに、引き攣った笑みを浮かべるカナエ。何かおかしい、と思いしのぶはある推測が思い浮かぶ。

 

 

 ――まさかこの二人、本当に付き合っているのではないか!

 

 

 そう考えればカナエが困るのも、弦司が頑なに別れようとしているのも納得がいく――とまで考えて、さすがに想像が過ぎると思い直す。何より、二か月前はそれで突っ走って大恥をかいたのだ。同じ事態はご免被る。

 そもそも、カナエのような素敵な女性が、二股なんて許すはずがない。そう、はずがないが……それでも万が一、億が一が心配になる。

 それを阻止するには……としのぶはある妙案が思いつき、とある提案をする。

 

 

「別れる、別れないは一先ず脇に置いて、私は会うのは良いと思う。何だったら、私が話し合いの場にいてもいいわ」

「しのぶ?」

「その方が、不破さんの事情も円滑に説明できるでしょ。何を選択するにしても、正しい情報は必要だわ。姉さんはどう思う?」

 

 

 何て言いながら、しのぶは全く別の事を頭の中で思い描く。

 話し合いの場に乗り込んで、別れ話をしようとする弦司。そこをしのぶが、逆にいい感じに取り持ち、そのまま二人をくっ付けさせるのだ。弦司も幸せになれて、しのぶも姉の不純交遊が一掃できる。一石二鳥である。

 カナエはしのぶの心中が分からないのか、困惑気に頬に手を置く。

 

 

「……それは、そうだけど。しのぶはそれでもいいの?」

「不破さんもご家族も、本来なら鬼殺とは無関係の一般人よ。何をするにしても、支援は必要だわ」

「……そう。それじゃあ、そうしようかしら。弦司さんもそれでいい?」

「ありがとう、本当に世話をかける、しのぶ、カナエ……でも、本当にいいのか?」

「いいわよ。困った時はお互い様だし。それに、別に私は不破さんの味方じゃないわよ? 下らない理由なら、ご家族の味方になるから」

「肝に銘じておこう」

 

 

 色々理屈はつけてみたものの。結局はしのぶには、このまま別れさせるのが正解とは思えないのだ。弦司と環は結ばれるべきである。ついでに、変な噂も事実にならないよう、ここで潰させてもらう。

 ――この時のしのぶは、そんな風に簡単に考えていた。

 



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第7話 別れ・中編

いつも誤字報告ありがとうございます。

長くなったので分割しております。
それではお楽しみください。

お腹が痛い……。


 ――弦司がいなくなる。

 そんな事、考えた事もなかった。

 助けたい。

 助けさせて下さい。

 あの日の誓いは、まだ果たせていない。彼を私は本当の意味で助けていない。

 助けるまで、彼を離す訳にはいかない。

 それに、彼を助けられるのは私だけだ。

 そう思っていた。

 そう思っていたからこそ、この二か月間「おはよう」「おかえり」「おやすみ」。そんな当たり前の挨拶をくれるだけで、必ず私が彼を助けるのだと強く()()()

 ――想っていたのに。

 これはなんだ。

 彼のあの目は。

 彼のあの手つきは。

 彼のあの表情は。

 全部全部全部、私は知らない。そんなの見た事ない。見せてくれない。

 私にとって、彼は()だった。

 でも彼にとって、私は特別でさえなかった。

 それをまざまざと見せつけられた。

 家族と、恋人と会えて喜ぶ彼を、私は素直に喜べなかった。

 「おはよう」「おかえり」「おやすみ」も私にはなくなる。全て()()が持っていく。

 気づけば、拳を強く握りしめ、一人の女性を見ていた。

 

 

 

 

 会談当日。結局、しのぶとカナエは揃って弦司と共に会談場所に向かった。

 

 

「すごくおっきい……」

「うっそぉ……」

 

 

 日が沈み、訪ったのは弦司の実家・不破邸。その広大さに、カナエとしのぶは語彙力を失っていた。

 産屋敷邸も大きいとは思ったが、ここはそれ以上。外観こそ蝶屋敷と同じ和風だが、門といい塀といい、一つ一つの大きさが規格外すぎる。戦でもするつもりかと問いたい。

 そして、その豪邸の門を当たり前のように潜ろうとする弦司。別世界の住人だったのだと、今更ながらしのぶは気づいた。

 門を潜れば、当たり前のように数名の使用人が待ち構えていた。西洋服を着た使用人たちは、一糸乱れぬ動きで頭を下げる。

 

 

「お金持ちすごい……」

「ええ……私達、本当に入っていいの……?」

 

 

 しのぶとカナエは自身達の場違いを確信し、緊張は最高潮を迎える。

 

 

「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」

「おぼ!?」

「だから、お坊ちゃまはやめろって。えっと、カナエ? 本当に大丈夫か?」

 

 

 苦笑して答える弦司に、挙動が可笑しくなるカナエ。もう色々と規格外過ぎて、しのぶは考えるのを止めた。

 使用人たちの視線がカナエとしのぶへ向くと、使用人一同が笑顔を浮かべる。

 

 

「胡蝶カナエ様、しのぶ様でございますね。御当主様、ならびに御子息・弦十郎(げんじゅうろう)様がささやかながら歓迎の宴をご用意しております。どうかご出席の程、よろしくお願いいたします」

「あ、はい」

「よ、よろしくお願いします」

 

 

 気づけば空気に呑まれ、カナエもしのぶも頷いていた。

 弦司が頭を抱える。

 

 

「ああくそ、やっぱり父上の話に乗るんじゃなかったか……!? カナエ、しのぶ、本当に大丈夫か!?」

「大丈夫よ。こう見えて、私、カナエ。大丈夫よ」

「全然大丈夫じゃない!」

 

 

 カナエが緊張で、さらに語彙力が変になる。もう何もしなくても、勝手に話がまとまるんじゃないかとしのぶは思い始めた。

 後はそのまま流されて、食堂に通された。ここだけなぜか洋風だった。板張りの床には、踏むのを躊躇する華美な絨毯が敷いてある。長机に脚の長い椅子が十数脚ほど置いてあった。どれも目が眩むような高級品だと、一目で分かる。

 

 

「うわぁ……こんな事になるなら、隊服で来るんじゃなかったわ……うう、礼儀のなってない女って思われちゃいそう……」

「言わないでよ姉さん……! 急に恥ずかしくなってきた……!」

 

 

 話すだけだからと、鬼殺隊服で来たのを姉妹揃って滅茶苦茶後悔する。対して、弦司はネクタイまで締めてスーツをばっちり着こなしている。それだけで弦司が立派に見えてきた。

 使用人に案内されるまま、長机の端に座る。しのぶの隣にはカナエ、向かい側には弦司という並びだ。

 そのまま待つこと数十秒。時計の針の音だけがなる部屋に、重厚な扉の開く音が響く。

 入ってきたのは、四名の男女。年嵩の男女はおそらく弦司の両親で、若い男性はどことなく弦司に雰囲気が似ている。弦司の兄弟だろうか。いずれも、スーツやドレスなどの洋服を着こなしている。

 そして背が非常に高い和装の美女──。

 

 

「弦司様……!!」

 

 

 入った瞬間、緊張していた女性の表情が一気に和らいで、崩れていく。

 

 

「弦司様!!」

 

 

 女性は一直線に弦司へ向かって駆け出し、彼に向って飛び込んだ。弦司は立ち上がると、咄嗟に真正面から女性を受け止めた。

 

 

「弦司様! 弦司様!」

「……ごめんな、環」

 

 

 女性――環は弦司の名を何度も何度も呼ぶ。弦司に抱き着き、決して離れまいとしがみついて離さない。彼女は泣き笑い、弦司に縋りつく。

 弦司はそれを優しく受け止め、何度も何度も環の頭を撫でた。そしてその視線には、決してカナエやしのぶには向けない熱があった。

 ――しのぶにはこの時、なぜか二人がとても輝いて見えた。

 鬼により命の危機を迎え、そして助けた時。彼ら彼女らはお互いの無事と共に、自身の間にある気持ちを確かめ合う。

 それはある意味、何度も見た光景だった。

 今までの男女と違う点を挙げるとすれば、弦司は鬼である事。そして、環は背も高く容姿も凛々しく、誰よりも女性らしくて――。

 

 

(あっ、そっか……これ、私の理想なんだ)

 

 

 弦司は鬼になっても、一人の女性を想い続けて。

 環は誰よりも上背があって、それでも何もかもが女性らしくて。鬼になった男性を変わらず一途に想い続ける……。

 そこには、しのぶの考える理想が詰め込まれていた。だから、彼らの『愛』はこんなにも輝いて見えるのだ。

 それは鬼殺隊にいる自身では、一生手に入らないモノだった。

 

 

(二人を助けたい)

 

 

 だから、せめて代わりに、自身の理想を彼らに叶えて欲しかった。

 今までのあやふやな感情ではない。しのぶはしっかりと己の意思で、二人を繋げると決心した。

 ――だから、姉が強く拳を握っている事を、全く気づけなかった。

 

 

 

 

 いつまでも離れない二人を止めたのは、意外にもカナエだった。

 

 

「んんっ! そろそろ座ったらどうかしら~」

「──申し訳ない。すぐに始めよう」

 

 

 わざとらしく咳払いをして場の雰囲気を変えると、弦司の父――弦一郎の合図により、宴となった。

 料理が運ばれる間、しのぶは弦司の家族を見る。

 弦一郎は口ひげに細い目と、容姿こそ弦司に似ていないが、体躯は弦司と同じく大きかった。弦司の体躯は、きっと父親譲りだったのだろう。

 弦司の母・あやのは、まさに弦司とうり二つ。大きめの口や瞳や、笑うと柔和に見える表情といい、血の繋がりを確かに感じた。

 弦司の兄・弦十郎は、弦司が少し年を取った――数年後――といった容姿だった。ただ体は小さく、しかし笑う姿は豪快で性格はまさに闊達。弦司と再会し、一番喜びを露わにしたのは、彼だろう。

 彼ら彼女らからは、しっかりと血の繋がりと心の繋がりを、しのぶは感じていた。

 しのぶにも、姉のカナエがいるが……もうここにあるようなモノを、感じる機会は減っていた。そして、いつかなくなってしまう。

 弦司には別れないで欲しい……その気持ちがより強くなった。

 

 

「――私も、ワインがおいしく飲めるようになったんですよ」

「本当かぁ? それじゃあ、試すために今日は俺のとっておきの物を開けてもらおうかな」

「ふふ、後悔しないで下さいね。飲む量が減っても、恨みっこなしですよ」

 

 

 その弦司と言えば、環の隣に座り談笑している。

 環は笑ったり驚いたり、表情が忙しい。

 しのぶはマジマジと環を見る。上背もあって美人で髪も綺麗で所作も洗礼されて、見る度にしのぶの方がドキドキして、憧れが強くなる。姉以外の女性で、しのぶがここまで慕うのは初めてだった。

 

 

「…………」

 

 

 一方、カナエは環の向かい側に座って、無言で笑顔だ。いつもの笑顔なのに、なぜか身震いがした。

 料理が運ばれた所で、弦一郎が杯を掲げる。

 

 

「この度は、息子を助けていただいて感謝しております」

「ああ! 我が家のきかん坊を助けて感謝の念に絶えない! 坊がいないと、この家もまるで枯れ木のようであった!」

「それでは、最愛の息子との再会と、我らが恩人に感謝して……乾杯!」

 

 

 男衆が口々に感謝を伝え、皆が乾杯をする。もちろん、しのぶもそこに参加する。

 白いワインを舐めるように飲みながら、しのぶは不破家の面々を眺める。

 全員が笑顔。隔意は全く見られない。鬼になり、肌の色が変わろうと、目の色が赤くなろうと、陽の光が浴びられなくても、変わらない愛情がはっきりと見えた。

 

 

「弦司。そちらの恩人を、改めて紹介してくれないか?」

「ああ。こちらの方が胡蝶カナエさんで、こちらが妹のしのぶさんで――」

 

 

 それから自己紹介をした後、しばらくはただの宴となった。

 なぜか、ちまちま洋食が運ばれてきたり、金持ち特有? の理解できない点も多々あったが、しのぶにとって楽しい宴となった。もちろん、その中で当然のように話題はしのぶ達姉妹の話に及んだ。

 弦十朗が赤ら顔でしのぶ達に話を振る。

 

 

「しかし、まさか我らの恩人が、こんなにも麗しき女性とは!! 君達のような才女も鬼殺隊は多いのか!!」

「いいえ、女性隊士は希少です」

「姉さんは幹部です。もちろん、男性を含めてですよ。すごく優秀なんですよ」

「なるほど! 確かにその才気、我が社にいれば会社の一つぐらい任せていただろう!!」

「その……お世辞でもありがとうございます」

「世辞など言わん!! しのぶ嬢はその年で毒を作ったと言っていたか? なら、しのぶ嬢には薬品会社を一つ任せていただろう!! 毒と薬は表裏一体だからな!! しかし、君達のような優秀な人材さえ命を懸けねばならないとは、日本の……いや世界の損失だ!! 我らの代で、必ず鬼は滅せねばならん!!」

「兄上、ここに鬼がいますよ」

「揶揄うな!! お前は例外中の例外だ!! それぐらい分かっているぞ!! あっはっは!!」

 

 

 弦十朗は杯を一気に呷り、大笑い。闊達な弦十郎の話は裏が感じられず、素直に受け入れられてとても楽しかった。

 ――だが彼も、その家族も楽しいだけではない。

 軽く話した限りだと、不破家の鬼に対する認識は、かなり正確だ。

 鬼、頚、日輪刀、藤の花……。

 どうやら鬼殺隊を、政府非公認の私設の兵隊として代々調査していたらしい。さすがに、鬼殺隊の内情までは知らなかったが、鬼に関しての知識は、一般隊士と相違なかった。彼らはただの気の良い人ではない。お館様と同じく、生粋の人を使う側の人間だった。

 そして、前提知識があるにも関わらず、弦司を受け入れると決めた……そこには、彼らの覚悟が垣間見えた。弦司は別れると決めていたが、相当に困難だとしのぶは思う。

 弦十郎は使用人に、空になった杯を片付けさせると、

 

 

「楽しい、本当に楽しいぞ! 恩人に感謝も伝えられて、愛らしい弟と再会して……だからこそ、信じられん! なぜ、坊は俺から離れる!!」

 

 

 場が一気に静まり返る。そう、今回の場は弦司の進退についてが本題だ。今の楽しい宴は、ついでに過ぎない。

 弦司が飲みかけの杯を机に置く。

 

 

「みんなには申し訳ないと思っている」

「申し訳ないと思うなら、撤回せよ!! 我らの誰も、お前に隔意がないのは伝わったであろう!!」

「だからこそ、俺は居たくないんだ」

「何っ!?」

 

 

 弦司が自身の掌を掲げる。鬼の特徴である青白い肌と鋭い爪が、全員の目に入る。

 

 

「鬼の体は恐ろしい。どんなに大切な人でも、少しでも飢餓になったら、美味しそうに見えるんだ。そうだよ、俺は家族が食料に見えるんだ……もちろん、愛する人だって! みんなは俺を愛してくれるかもしれない。でも、俺は俺自身が一番嫌いなんだ、こんな俺を愛して欲しくないんだ」

 

 

 弦司は拳を握りしめる。自身の手を憎しみで睨みつける。

 

 

「それに俺が仮に暴走した際、どうやって止めるんだ? こう見えて、カナエとしのぶは俺より強い。もし、俺が誤ったとしても必ず止めてくれる。彼女たちなら、安心して俺を預けられる。父上、母上、兄上、環……お願いだから、俺に家族を手にかけさせないでくれ」

 

 

 隠しきれない鬼に、自身に対する憎しみ。それが家族の愛を拒絶する。

 しのぶには、否定の言葉が出せない。柱合会議の惨劇に、身を顧みない戦い。その二つを知っているだけに、彼の憎しみが根深い事を理解していたからだ。

 同じく憎悪を感じ取ったのか、弦十朗は口を閉じた。代わりに、弦一郎が立ち上がる。

 

 

「お前の気持ちは分かった」

「……ごめん」

「だからこそ、まずは理屈で反論させてもらおう」

 

 

 弦一郎が手を叩く。使用人が一人、入室する。その手には香炉と匂い袋がある。

 

 

「お前が人を喰らわない特別な鬼だから大丈夫……と言っても、納得せんのだろうな。万が一を考えれば、確かに私達には止められん。だが、被害の拡大を防ぐ事はできる」

「その匂い……藤の花」

「これは鬼が嫌うらしいな。この家に来た者には、藤の花の匂い袋。夜には周囲に藤の花の香を焚こう。これならば、少なくとも私達以外の被害者は出ないだろう」

「俺は父上達にこそ、身を守って欲しい」

「うーむ……気が進まんが、しのぶ嬢。我らに毒を分けてくれんか? それがあれば、多少は息子の不安も解消されよう」

「……そんなの、気休め程度だ」

「確かに、お前が本気で暴走した時の事を思えば不足か。ならば治療面ではどうだ? 我が家に最新鋭の医療施設を設置し、我が社の医療部門をしのぶ嬢に協力させよう。これは、鬼殺隊では受けられない待遇ではないか? ……最新の顕微鏡も使い放題だぞ、しのぶ嬢」

「使い放題!?」

 

 

 しのぶはゴクリと唾を飲み込む。顕微鏡が自由に使えれば、あんな研究もこんな研究もすごく捗る――。

 

 

「しのぶ」

「っ!?」

「物に釣られたりは……しないわよね?」

 

 

 耳元で囁かれる。しのぶはカナエを見るが、微笑むだけ。

 しのぶは慌てて首を横に振った。

 

 

「あ、あの! お気持ちはありがたいですけど、これとそれとは別問題です! 交換条件のような対応はお断りします!」

「むっ……それもそうか。まあ、顕微鏡の事はさておき、我が社の医療部門の協力は約束しよう。君に刺激を受ければ、我が社の利益にもなる」

「あ、ありがとうございます」

「とにかく、物資面においては可能な限り援助を行う。鬼殺隊で不安定な仕事をするより、我が家で治療を徹底する方が安全で安心とは思わないか?」

 

 

 弦司の管理体制に研究施設……少なくとも、治療面において弦司を鬼殺隊に留める理由は、ほぼなくなった。

 まさに至れり尽くせりに、当の弦司が疑問を実の親に呈す。

 

 

「父上……なぜそこまで?」

「いつも言っているだろう。金を稼ぐ事が目的になってはならん。幸せになるために、金を稼ぐのだ。金で息子の安心が買えるなら、安いものだ」

(覚悟決めたお金持ちすごい)

 

 

 稀血を耐え抜いた弦司が暴走する可能性はほぼない。ならば後は弦司の精神的な面。自身に対する嫌悪感……それさえ払拭されれば、弦司は晴れて不破家に戻るだろう。弦司と環が結ばれる。しのぶの肩にも力が入る。

 ところが、弦一郎や弦十郎、あやのといった不破家の面々は早々と席を立つ。

 環が戸惑い、腰を上げる。

 

 

「御当主様、弦十郎様、あやの様――」

「環!! 我と父上で道は整えたぞ!! 後はお前のやり方次第だ!!」

「これ以上、私達が息子に言っても無理強いにしかならないからな」

「後はあなたがもぎ取りなさい。私達は応援します」

 

 

 それだけ言うと、彼らは笑顔で本当に食堂を出て行った。最初から最後まで、器の違いを見せつけられた気がした。

 部屋には、しのぶにカナエに環と弦司の四人が残された。

 ――逃げられたと気づくのは、もう少し後だった。

 

 

 

 

「弦司様、心配は無用です」

 

 

 最初に口火を切ったのは、環であった。彼女は弦司の手を取ると、熱っぽく語る。徐々に弦司に顔を近づける。

 

 

「あなたは自身が嫌いだと仰いました。ですが、そんなもの些細な問題です。あなたが私に自信をつけたように、今度は私があなたに自信をつけてあげます」

(うんうん、その調子です、熊谷さん)

「自信って……そんなの、関係ない。俺は鬼そのものが嫌なんだ。鬼の俺が嫌いなんだ」

「大丈夫です。ちょっとだけ、目を瞑っていただければ――」

「ちょっと待って。私達の前で、何をしようとしているの?」

(んん?)

 

 

 そこに、カナエが笑顔で割って入った。しのぶは空気がヒリつくのを感じた。

 おかしい。ここから先は、環が愛を語らい弦司を説得し、しのぶがいい感じに取り持つはずだ。なぜお腹が痛くなるのだろうか。

 今度は環がカナエを見る。やはり笑顔だ。だけど、今度は空気がひび割れた気がした。

 

 

「えっと……胡蝶カナエさんと仰いましたよね。ごめんなさい、気が回りませんでした。では、ちょっと席を外していただけますか?」

「いいえ。まだ弦司さんは私達鬼殺隊の監視下にいますから、それはできません」

「う~ん……では不本意ですが、そのまま()()()()の語らいを見ていて下さいね。それでは弦司様、目を瞑って――」

「だから――止めてって言ってるでしょ!」

 

 

 カナエが机を叩きながら立ち上がる。表情から笑顔が消え、憤りに頬を引きつらせている。カナエにいつものおっとりした空気はない。しのぶには今のカナエの姿が信じられなかった。だが、それはカナエも同様なのか、震えた指先から動揺が伝わってくる。

 対して、環は勝ち誇ったように笑う。それがしゃくに障ったのか、ますますカナエの眉尻が上がる。

 

 

「どうされました?」

「どうされたじゃなくて……! 今、何をしようとしているの!?」

「言わないといけません?」

「っ! よく、人前でそんな事できますね!」

「だから、席を外して下さいって言いましたよね?」

「……体で繋ぎ止めようとして、恥ずかしくないんですか」

「全然。髪の毛一本に至るまで、私は彼の物ですから。何か問題でも?」

「……わ、私だって、弦司さんを助けるために()()()()()()()()()()

(その情報、私も知らない!)

 

 

 しのぶは弦司を見ると、顔を青くして思いっきり首を横に振っていた。つまりあれだ、最近多くなった言葉の足りない説明だ。

 問題はそれを聞いた、第三者。今度は環が笑顔を消すと、一度弦司を睨みつけてから、ゆらりと立ち上がった。

 机越しに般若顔の美人が睨み合う。しのぶの胃壁が悲鳴を上げる。

 

 

「人に恥ずかしくないと言っていながら、あなたのその発言こそ何ですか? 下品と思いません?」

「人前でやるのが恥ずかしいだけです。私は二人きりの時しかしてませんから、あなたと一緒にしないで下さい」

「……そもそも、あなた弦司様の何ですか? もしかして、弦司様に優しくされて勘違いされました? ごめんなさい、私と弦司様はすでに婚約してますので、あなたの入る余地はありません」

「……入る余地も何も。あなたと弦司さんは、八か月も離れていたそうですね。それなのに、まだ婚約者気取りですか? 弦司さんは、そう思ってないようですよ」

「だから、あなたは弦司様の何ですか、偉そうに。まあ、今はそれは良いでしょう。何と言われようと、私は弦司様を助けるだけです」

 

 

 カナエは冷ややかに笑った。こんなカナエをしのぶは知らない。今のカナエには自身の感情が全く制御できていない。何が起きているのか、理解したくない。

 

 

「あなたがどうやって、彼を助けるんですか? 生きれば生きる程、鬼と人との違いを痛感します。私は彼よりも強い……その事実が、どれだけ彼を救っているか。彼を本気で救いたいと思うなら、できない事は仰らない方がいいですよ?」

「別に今すぐではないです。時間を掛けてゆっくり助けるんです」

「ですから、できない事は仰らない方がいいですよ? 口だけならば、何とでも言えます」

「口だけではありません。例え命を失っても、私は弦司様を助け出してみせます……少なくとも、あなたには一生懸けても救えませんから」

「……ふふふ、救えない。救えないですか」

 

 

 空気が一段と重くなる。

 カナエは鬼でさえも同情し、救うために鬼殺隊に入った。彼女に救えないとは、まさに龍の逆鱗を撫でるような発言だった。

 しのぶは息をするのさえ苦しいのに、環は全く怯まず。それどころか、カナエを真っ直ぐ見据えた。

 

 

「あなたの生い立ちは御当主様より事前に伺いました」

「……」

「ご両親を鬼に奪われる……痛ましい限りです。あなたの鬼殺隊にいる理由も、おおよそ予想がつきます。それでもなお弦司様を保護したのは、あなたに高潔な精神があるからでしょう。でもだからこそ、あなたに弦司様は救えません」

「そこまで仰る理由を伺っても?」

「あなた達姉妹に()()()()()()()()()()()()()からです」

「――っ」

 

 

 言葉に詰まった。しのぶも、カナエも。

 『私達と同じ思いを、他の人にはさせない』。

 それが姉妹の誓いだ。この誓いを叶えるならば、例え姉妹のどちらかが欠けても、自身の命を失ってもいいと、覚悟の上で鬼殺隊に入った。

 彼女の言う通り、これまで通り戦っていたら、きっと遠くない未来に姉妹共にいなくなる。果たして、その未来までに弦司を救えるか――答えは否。しのぶとカナエが鬼を人に戻す薬を作る前に、二人とも死ぬ。

 不破家が手を挙げる前であれば、消去法でカナエが面倒を見るしかなかった。しかし、不破家は覚悟を決めた。鬼と共に生涯を生きる覚悟を決めたのだ。そして、カナエに彼らと同じ思いはない。

 カナエの夢がいかに薄っぺらいか、今更ながらに気づかされた。

 カナエの顔から表情が抜け落ちる。

 

 

「あなた方が全力で弦司様を助け、それでもしくじるなら私も何も言いません。ですが、他の何かを優先して、命を燃やすつもりなら、私は弦司様を手放すつもりはありません。それではカナエさん、改めて問いましょう……弦司様を本気で救う気があなたにあるのですか?」

「私は……そんなつもりじゃ……」

「そうですか、残念です。ですが、大丈夫。あなたの気持ちが偽りだったとは言いません。ただ、()()()()()()()()()()()()()なだけです。私が、私達が、一生を懸けて弦司様を救います。どうか、全てを託してお引き取り下さい」

「──っ」

 

 

 深々と環が一礼する。しのぶもカナエも、もう何も言えなかった。

 だが、置いてきぼりを喰らった弦司が、さすがに噛みついた。

 

 

「人を置いて勝手に話をまとめるなよ。俺は納得していない」

「不破さん」

 

 

 しのぶは立ち上がって弦司を呼び止める。彼が頑なな理由が一つ思い当たった。

 

 

「もしかして、鬼殺隊に拘るのは、私達を少しでも手伝うためですか?」

「……全くないとは言わない」

「なら、その気遣いは無用です。私も姉さんもすでに覚悟を決めています。それに、話を聞く限り鬼殺隊で無理に管理する必要は全くありません」

「だからって納得できるか。命を助けられて、こんなにも良くしてもらって……俺には最高の家族がいたから良かっただけで、本来なら――」

「本来も何も家族がいるのでしょう!」

 

 

 しのぶは弦司に怒鳴りつけた。憎いのではない。怒っているのでもない。目の前にある大切なものを守るため、しのぶは敢えて弦司の優しさにつけこむ。

 

 

「私達には、もう家族はいないんです! どうやっても取り戻せないんです!!」

「っ、それは――」

「ねえ、まだ家族がいるんでしょ? 大切な人が生きているんでしょ? 幸福なんて薄い硝子の上にあるようなものなんだから……お願い。家族を大切にして。今の幸せを大事にして──」

 

 

 しのぶは言うだけ言うと、弦司が反論する前にカナエの手を引いた。カナエは逆らわなかった。そのまま出口へ向かう。

 環とすれ違いざまに、

 

 

「熊谷さん、とりあえずはお試しで一週間という事で、上には報告しておきます。今後、何度か査察には入りますが、問題なければそのまま不破さんには住み続けてもらおうかと思います」

「分かりました、しのぶさん。それとカナエさん、今までありがとうございました。後はお任せください」

「これからも不破さんを、よろしくお願いいたします」

 

 

 それだけ伝えると、しのぶはカナエと共に部屋を出て行った。呆然とした弦司とカナエの顔が脳裏にこびりついた。

 これで良かったのだろうか。そんな思いが一瞬過るが、慌てて否定する。愛している者同士が一緒にいて、悪いはずがない。

 カナエも夢は最後まで叶えられなかったが、一人の鬼と仲良くなり、そして幸せにしたのだ。いつの日か、今日を懐かしむ時が来るはず。

 しのぶは何度も何度も己にそう言い聞かせた。

 

 

 

 

 それが浅い考えだと知るのは三日後。

 花柱・胡蝶カナエが負傷したと連絡が入った。

 

 

 



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第8話 別れ・後編

いつも誤字報告ありがとうございます。

遅れましたが、後編となります。
長くなりましたが、お楽しみ下さい。


 今日もまた遅くなった。

 鬼は神出鬼没だ。しかも、活動時間は夜。当然のように生活は不規則になる。

 ようやく任務が終わり、蝶屋敷に着いたのは日の出も近づいた時刻だった。

 玄関は開いていない。誰も起きていないのだろう。

 裏口に回って屋敷に入った。静かだった。

 ――おかえり。

 その声が聞きたい。

 ――ただいま。

 その言葉を送りたい。

 でも、聞かせてくれる人はいない。

 送りたい人はいない。

 おかしい。最初から、こうだったはずだ。ずっとずっとずっと、この先死ぬまでこうだったはずだ。これで良かったはずだ。

 だから、この感覚はおかしい。

 ――()()()なんて。

 何も失くしていない。むしろ、幸せにする手助けができたのだから。誰も誰も、私達と同じ思いはしていない。

 だからお願い。誰かこの気持ちを止めて。

 

 

 

 

 ――胡蝶姉妹と別れて、三日が経過した。

 光の射さない一室で、弦司は机に向かい書類を処理していた。内容は父・弦一郎の経営する会社の経理に関する書類だった。

 日中、外に出られない弦司の仕事と言えば、こういった書類の処理と、来客の対応が主だった。

 今日は雨音を背景音に、黙々と作業を進めていく。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 書類も片付き、一息つく弦司。こうして、ふと息をついた際、思い起こされるのは三日前の出来事だった。

 両親が兄が環が……全てを投げ打ってでも弦司を助けてくれようとした。そして、カナエとしのぶはその想いに負けた。

 弦司の意思が反映される事なく、なし崩し的に生家の不破邸で弦司は暮らしていた。

 不満はなかった。

 誰もが弦司を慮ってくれるし、変に甘やかしてくる訳でもない。弦司でもできる仕事を、毎日振ってくれる。

 未だ不安と憎悪は、弦司の胸の奥にある。しかし、それを家族と環が、上手く鎮めてくれていた。

 だからこそ、少しでも余裕が生まれてると思ってしまう。もう少し、やりようがあったのではないか、と。

 最後に見た、カナエの表情。あそこには笑顔も優しさもなく、ただただ呆然としていた。あんな顔を、弦司がさせてしまった。もっと弦司が現状を正しく把握し、決断を下していれば、こんな後味の悪い事態にはなっていなかっただろう。

 そう思うと、今ここにいる事。それさえも時々、正解かどうか分からなくなる。

 弦司が物思いに耽っていると、

 

 

「弦司様」

「ああ、どうぞ」

 

 

 扉を叩く音に返事をすると、一人の和装の女性が笑顔で入ってくる。

 環だ。弦司がいる生活が余程嬉しいのか、この三日で笑顔以外の表情を弦司は見ていない。

 彼女の手元の盆には、紅茶用の茶器が乗っていた。

 

 

「仕事も一段落終わったようですし、一杯いかがですか?」

「ああ、もらおう」

 

 

 洗礼された所作で、環が紅茶を淹れる。茶葉の良い香りが、部屋中に広がる。

 

 

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 

 書類を片付けた机の上に、環が紅茶を置く。茶葉の香りに交じって、彼女の香りが鼻腔をついた。

 一口運ぶ。すっきりとした苦みと茶の香りが、口の中に広がった。美味いと思う。人間の時の味覚を取り戻しつつあった。

 

 

「本当に美味くなったな」

「ふふ、ありがとうございます」

「……」

「何を考えてらしたんですか?」

 

 

 環が弦司の顔をのぞき込む。その際、彼女の長い艶やかな黒髪が、流れる様に机と弦司に掛かった。ふわりとして柔らかい。

 彼女の大きな瞳が、弦司の瞳を真っ直ぐ捉える。

 

 

「もう少し、やりようがあったんじゃないかって、考えていた」

「……そう、ですね。私も少々……いえ、かなりやり過ぎました。でも、弦司様もいけないんですよ? 綺麗な女性を二人も連れてきて」

「いや、何もないって事前に散々説明しただろ?」

「分かっているのと、納得するのは違うんです」

「……そうか、すまない」

「他には?」

「……このままでいいのかと、少し思ってた」

「……馬鹿」

 

 

 環は頬を膨らませると、弦司の後ろに回り込む。そのまま、後ろから弦司を抱きしめた。彼女の甘い香りが、胸に一杯に広がる。

 

 

「何だよ、いきなり」

「幸せじゃないですか?」

「幸せだ。だからこそ怖い。一瞬でこの幸せが手から零れ落ちそうで。鬼の俺がいつまでも、こうしていられるはずがないって」

「零れ落ちても、また私が幸せを拾ってあげます。鬼になろうが閻魔になろうが、ずっとず~っと。だから……絶対に離さないで下さい」

 

 

 環は弦司の耳元で囁く。吐息が耳へかかり、そこから頬へと移る。

 

 

「弦司様――」

 

 

 環は弦司の頬を掌で包むと、無理やり自身の方へ向かせ――そのまま唇を合わせた。

 甘い甘い香りがした。

 

 

「腹減った」

「やり甲斐のない人」

 

 

 

 

「ごめんね~、しのぶ」

 

 

 そう言い、カラカラ笑うのはカナエ。濡れネズミの彼女は寝台に腰かけていた。右腕には真新しい包帯が巻かれている。

 蝶屋敷の診療所で、しのぶはカナエの治療を終えた所だった。

 花柱負傷の報を聞き、慌てたしのぶだったが、実際に蝶屋敷に戻ったカナエは軽傷。最悪の事態を想定していただけに、思わず脱力してしまった。

 

 

「すみません、カナエ様。この度は本当にご迷惑をおかけして……」

 

 

 同じく診療所にいる雨ヶ崎が、カナエに向けて濡れた頭を下げた。

 カナエは笑顔で受け止める。

 

 

「ううん、いいのよ~。雨ヶ崎さんが無事で本当に良かった~」

 

 

 雨天の任務。視界が悪いのは言わずもがな、足場も悪くなる。夜目に優れる鬼に、有利な天候であった。そして、こんな時こそ鬼の動きは活発化する。

 雨ヶ崎の相手は、決して強い鬼ではなかった。それでも悪条件が重なってしまい、足を泥濘に取られてしまった。

 危機一髪のところをカナエが庇った。腕は負傷したものの、鬼はカナエの敵ではなく難なく撃退した。

 傷も数日のうちに塞がり、すぐに任務に復帰できる……それがしのぶの見立てだった。

 だが、しのぶはカナエを疑わしい目で見る。そもそも、カナエがこの程度の鬼に怪我をする事が有り得ない。例え庇ったとしても、無傷で返り討ちできていたはずだ。

 ――弦司が蝶屋敷からいなくなって三日。

 しのぶから見て、カナエはいつも通りだ。今だって、美しい笑顔を絶やさない。でも、何かが違う。

 夢が最後まで叶わなかったから? 夜の蝶屋敷に誰もいないから? 弦司がいないから?

 しのぶには分からない。どれも正解のような気がするし、不正解のような気もする。

 

 

「カナエ様」

 

 

 雨ヶ崎が苦悩に満ちた声でカナエを呼んだ。

 

 

「雨ヶ崎さん、どうかしましたか?」

「……カナエ様、お願いです。不調のまま、任務に出るのは止めて下さい」

 

 

 しのぶが思っていた事を、雨ヶ崎が先に言った。言わせてしまった。継子であるしのぶが、先に指摘しなければならないのに。

 しのぶは慌てて会話に割って入った。

 

 

「姉さん、雨ヶ崎さんの言う通りよ。報告にある通りの鬼なら、姉さんは傷一つつかないで勝ててるわ」

「怪我したからって、そういう意地の悪い言い方はやめてよ。私だって、調子の悪い日ぐらいあるもの」

「カナエ様」

「なに?」

 

 

 雨ヶ崎が口を一文字に結んで、緊張の面持ちになる。何度か口を開閉した後、彼は覚悟を決めたのか、強く拳を握り締める。

 

 

「不破さんの事、引きずっているんでしょう?」

「そんな事ないわよ~」

 

 

 雨ヶ崎の不躾な質問に、カナエは即答した。だが、それはまるで予め用意したような答えだった。

 雨ヶ崎は首を横に振る。

 

 

「カナエ様、それは嘘です」

「雨ヶ崎さん、今日は頑固ね。でも私、柱だから。理由を伺おうかしら?」

「不破さんがいなくなって、俺も後藤さんもしのぶさんも、普通に引きずってますよ。さすがに任務にまでは影響は出していない……いえ、出さないように努力していますが」

 

 

 雨ヶ崎の言う通り、彼も隠の後藤も、そしてしのぶも別れが急すぎて、心の整理ができていなかった。しのぶでさえそうなのだ、カナエが全く問題ないなんて、有り得ない。

 

 

「一番仲の良かったカナエ様が何ともないなんて、嘘ですよね? それとも、そんなに不破さんってどうでも良かったですか?」

「どうでもなんて――!」

 

 

 雨ヶ崎の指摘にカナエは反論しようとして、何を思ったのか途中で口を閉じ俯く。

 何が姉に起きているのか。何を姉が思っているのか。知りたいのに教えてくれない。

 いや、教えてくれなくてもいい。自分が為した事をしっかり理解しさえすれば、カナエは分かってくれるはず。

 しのぶは寝台に腰を下ろし、カナエの隣に座る。

 

 

「姉さん、不破さんがいなくなって、寂しいよね」

「そんな事ない」

「私はそんな事あるわ。日中は私の代わりに家事をやってくれて、暗くなったら夜間訓練に後方支援と戦闘。合間は私の研究に姉さんの相手……寝ないからって、やり過ぎよね」

「……」

「私、姉さんが取られたみたいで、不破さんの事、ちょっと嫌いだったの。でも、今思えばこれだけ私達に尽くしてくれてた……今は感謝しかない」

 

 

 最初は助けていたはずだった。気づけば、しのぶ達姉妹を助けてくれていた。柱合会議以降、人を助けると宣言した通り、しのぶ達を助けてくれていたのだ。

 思い出して、しのぶは思わず頬が緩む。

 

 

「彼だからきっとご家族も婚約者も受け入れてくれたんだと思う。姉さん……寂しいと思うけど、ちゃんと受け入れよう?」

「──て」

「それに見たでしょ。みんな不破さんに再会できて、嬉しそうだったわ。特に熊谷さんとは本当にお似合いだった。きっと、今頃仲良く手を繋いだりしてるんじゃないかしら?」

「――めて」

「も、もしかしたら、もっと大人な──」

「お願いだからやめてよ、しのぶ」

「え」

 

 

 しのぶの言葉に、カナエは拒絶するように膝を抱えて俯く。濡れた艶やかな黒髪が、カナエの顔を隠す。

 

 

「もう嫌だ。弦司さんの事、思い出したくない」

「……何で?」

「……」

「何でよ。答えて、姉さん」

「…………」

「姉さん」

 

 

 しのぶはカナエの肩を掴み無理やり顔を上げさせた。そして、息が詰まる。カナエは顔をクシャクシャにして、今にも泣きそうだった。

 衝撃を受けるしのぶ。だが、振り向かされたのが切っ掛けとなったのか、小さくか細い声でカナエが言う。

 

 

「嫌な事考えちゃう」

「嫌な事?」

「弦司さんは弦司さんのいるべき場所に戻ったのに。私はぎりぎりの所を助けた……それで良いはずなのに」

「……」

「失ったって。まるで私の物だったみたいに思っちゃう」

「姉さん……」

 

 

 一度決壊した感情は止め処なく流れ落ちていく。

 

 

「私は弦司さんを救いたいって思ってたはずなのに。戻ってきてって、私の手で救わせてって、勝手な事ばかり願っちゃう」

「……」

「私、弦司さんの事、夢を叶える道具としか、思ってなかったのかな……」

「それは違うわ。姉さんは本気で――」

「そんな事ない。弦司さんがいなくなって、どんどんどんどん、嫌になる。だから、もう思い出したくない」

 

 

 ――この気持ちを止めてよ。

 

 

 甘くて切ない叫びをしのぶは聞いた。

 

 

 

 

 それから、雨ヶ崎の落ち着かせるべきだ、という意見に従って、しのぶは診療所を出た。

 雨ヶ崎と隣り合って軒下に立つ。湿った空気と静かな雨音が、少し心を落ち着かせてくれる。

 それでも瞼を閉じると、今もカナエの切ない叫びが蘇る。

 

 

「……姉さん、夢が叶わなかったのが堪えたのかな」

「それもあるけど……しのぶさん、恋愛音痴?」

「!?」

「いや、驚いた顔しないでよ」

 

 

 当たり前のように苦笑いする雨ヶ崎。

 恋愛音痴? とにかくダメな感じは伝わった。達人ではないのは確かだが、音痴はあんまりだ。

 しのぶは笑う雨ヶ崎を睨み付ける。

 

 

「いきなり何よ。少なくとも、私はあなたより詳しいです」

「いやいや! どこからその自信が来るの!? そもそも、今のカナエ様見て、片思いしてるって選択肢がない時点で全然ダメだよね!?」

「えっ、もしかして不破さんに!?」

 

 

 しのぶが驚くと、雨ヶ崎がさらに驚く。

 

 

「そうだよ!? むしろ、あれ見て何でそうなるの!?」

「いやだって……二人は付き合ってなかったし……」

「付き合ってなかったら片思いもないって、そっちの方が驚きだよ!?」

「姉さんに惚れられて、付き合わない男がいる訳ないじゃない! そもそも、姉さんだって好きとか惚れたとか、一言も言ってない」

「あ~……そうなる? そうやって捉えちゃう?」

 

 

 雨ヶ崎が困惑気に頬を掻く。

 カナエは鬼殺隊に入る前は、町一番の器量良しだった。習い事だって何だって一番……そんな彼女に惚れられて、夢中にならない男がいるはずがない。はずがないのだが……しのぶの脳裏に思い浮かぶのは、弦司と環の寄り添う姿。

 本当に片思いなのか。しのぶは気になって、そわそわちらちら雨ヶ崎を盗み見る。

 雨ヶ崎がため息を吐いた。

 

 

「参考までに聞いて欲しいんだけどさ」

「うんうん、なになに」

「……カナエ様って割と本気で『好きな人が好み』って感じの人でしょ?」

「聞いた事ないから分からないけど。でも、それって普通じゃない? 容姿とかで人を判断するのって、失礼だと思うし」

「う、うん、そういう考えもあるね。まあ、それはともかく、そういう人はどういう人を好きになるかっていうと、強く心を動かされた相手をそのまま好きになる事が多いんだよ」

「ふーん」

 

 

 しのぶは前髪を指先で弄る。いまいち、雨ヶ崎が言いたい事が分からない。

 

 

「つまり、どういう事?」

「不破さんはカナエ様の夢を体現したような男性だよ? 当然、感情が強く揺さぶられただろうね」

 

 

 カナエの夢は平たく言えば『鬼を救う』『鬼と仲良くなる』。

 弦司をカナエが救い、それを切っ掛けに弦司はカナエを信頼した。カナエも懸命に生き抜こうとする弦司を見て、彼の人となりにさらに信頼を寄せ、友人以上の絆を得た。雨ヶ崎の言う通り、カナエにとって弦司とは夢そのものと言ってもいいかもしれない。

 それでも、としのぶは反論する。

 

 

「それだけで惚れたっていうの? 姉さんはそんな安くありません」

「そうだね。でも不破さんとカナエ様の繋がりってそれだけじゃないよね」

「例えば?」

「『おはよう』から『おやすみ』まで挨拶してくれるとこ。鬼殺隊にいるとついつい忘れがちな、有難い日常を感じ取れる言葉だね。これ、行為自体も優しく感じるんだけど『鬼と仲良くなる』って夢と、すごく合致しているんだよね」

「……」

「さらに、毎日些細な事で褒めてくれる。相手の良い所を褒めるって、他人と仲良くなる基本だよね。これ、普通に嬉しい上に『鬼と仲良くなる』って夢と合致してて――」

「うん、もう分かったから!!」

 

 

 しのぶが雨ヶ崎の説明を止める。姉の好感度の上昇がさっきから止まらない。

 

 

「姉さんの心に刺さったのは分かったけど、そう上手くいく? 嫌な所の一つや二つは、普通は目に入るでしょ」

「いや、カナエ様の夢って、滅茶苦茶目標高いよね? カナエ様だって、その認識あるだろうし。そんな目標を歯を食いしばって飛び越えてくれた男性の、嫌な所の一つや二つ目に入ると思う?」

「……」

「不破さんって存在がカナエ様に誠実に接すれば接するほど、カナエ様の心に響くんだ。そこに周囲が囃し立てて、異性として意識してしまう。ただでさえ高い好意を持っているのに、男性として意識してしまったら……心が動くのもしょうがないでしょ」

「……何それ。姉さん特効……」

「まあ、俺の所見だけど。参考にして」

「……うん、参考にする」

 

 

 しのぶは解説されてようやく理解した。

 雨ヶ崎がもう一度、深く深くため息を吐く。

 

 

「問題は二つ。そこまで想ってたのに、割とあっさりと不破さんを取られた事。絆はあったけど、自分が特別じゃないって突きつけられるのは、正直キツい」

「もう一つは?」

「……あの問答聞く限り、カナエ様自身が自分の気持ちに気づいてない事。あれ、自分の夢と好意がごちゃ混ぜになって、感情が複雑骨折してない?」

「ええ……何かいい解決方法はないの?」

「失恋の治療法は新しい恋とはよく言うけど……」

「姉さん自身が気づいてないなら、新しいも何もないでしょ」

「だね。となると、時間かけて癒すしかないよなぁ……」

「負傷したのはいい機会と思って、休むしかないわね」

 

 

 しのぶの結論に、雨ヶ崎も頷く。一体、傷が癒えるまでどれだけの時間が必要か。だが、そんな多くの時間など鬼殺隊に身を置く以上、取れる訳もない。

 困った――そう思っていると、一羽の鎹鴉がしのぶ達の元へ飛んできた。鎹鴉は雨に震えながら、

 

 

「不破家ヨリ伝令! 火急ノ要件ニツキ、至急救援ヲ求ム! カァァッ!」

「っ!?」

 

 

 伝令の内容に驚愕すると同時、診療所からカナエが飛び出してきた。顔色が悪い。雨に濡れて体が冷えた……だけではないだろう。

 

 

「し、しのぶ……弦司さんは……!」

「姉さん……」

「カナエ様、しのぶさん。蝶屋敷には俺がいるから、とにかく先に現場に向かって!」 

 

 

 準備する時間も惜しい。しのぶはカナエを連れ立つと、そのまま真っ直ぐ不破邸へ向かった。

 

 

 

 

 不破邸は重苦しい空気に包まれていた。

 

 

「待っていたぞ、カナエ嬢! しのぶ嬢!」

 

 

 迎え入れたのは弦十郎だ。弦一郎は仕事で今は不在らしい。

 しのぶは事情を訊きながら、不破邸の中を進む。

 

 

「火急の要件との事ですが、一体何が起きたんですか?」

「それがどうも、全て弦司の差配らしいのだが、詳細が分からん!」

「分からないとは?」

「事情の説明は後回しにし、とにかく救援と藤の花の香炉を焚き、自身を閉じ込めろと言ってきた! 我も下手に詮索する前に、まずは迅速な行動をと思い、君たちを呼んだ次第だ!」

「その肝心の不破さんはどこに?」

「仕事部屋に閉じこもっている! 我らを追い出して、さらには入れぬように内から鍵と家具で閉めているぞ!」

 

 

 しのぶは顎に手を当てて考える。何を彼がここまで駆り立てるのか。

 彼が不破邸にて最も恐れていた事は暴走だ。つまりは、それに類する事態が起きてしまったのではないか。そう考えれば藤の花の香炉を焚くのも、しのぶ達を呼ぶ理由も分かる。問題は弦司程の者が、暴走してしまうような切っ掛け……それが掴めない。だが、それも会えばすぐに分かるだろう。

 しのぶは頭を切り替えて、弦司の元へ向かう。カナエはその間、ずっと俯いていた。

 すぐに部屋の前には着いた。そこら中、香炉が焚かれている。

 

 

「弦司様! 弦司様!」

 

 

 部屋の前では、和装の美女が弦司の名を叫んでいた。環だ。

 彼女はすでに泣いて、扉に縋りついていた。あの時見た嬉しそうな姿は、微塵も残っていない。

 

 

「弦十郎さん」

「うむ! 環、しのぶ嬢とカナエ嬢が来た! 彼女たちに任せて、まずは離れよう!」

「弦司様! 弦司様!」

「ううむ……! お前たち! 気は進まんが、彼女を引きはがせ!!」

 

 

 取り乱す環を、使用人達が無理やり扉から引き離した。

 扉の前が空く。しのぶがカナエに視線を送る。カナエは怯えたような雰囲気を見せると、唇を噛んでゆっくりと扉へと近づいた。

 カナエが震えた声で尋ねる。

 

 

「弦、司……さん?」

「…………カナエか」

 

 

 部屋の中から返事が返ってきた。酷く気怠そうな声だった。しのぶは嫌な予感が止まらなかった。

 

 

「火急の要件と、伺いました」

「……やっぱり、鬼は幸せになってはいけないらしい」

「え? あの、どういう――」

「環は『稀血』だ」

「――は?」

 

 

 弦司の言葉に、しのぶは頭が真っ白になった。

 『稀血』? 環が? 何で?

 そんなしのぶの疑問に答えるように、扉から抑揚のない声が返ってくる。

 

 

「環から、甘ったるい香りがするとは、思ってた。すぐに腹が減るとは、思ってた。さっき茶器を割って、環が怪我をして……全部分かった。環は『稀血』だ」

 

 

 しのぶは膝から崩れ落ちた。嘘だ。嘘だと言いたかった。あんなに愛し合っているのに。助けたいと心の底から思ったのに。

 三日。たったの三日で、理想が崩れ去ったなんて。誰か嘘だと言って欲しかった。

 尋常ではない様子のしのぶに、弦十郎が近づく。

 

 

「しのぶ嬢……『稀血』とは?」

「……人の中に極少数ある珍しい血の事です。鬼にとってのご馳走で……普通の鬼なら、我を失って襲い掛かっても不思議ではない。そんな代物です」

「何っ……!? それでは、環と弦司は――!!」

「もう一緒にはいられません……っ!!」

 

 

 しのぶが答えると、誰かが胸倉を掴み無理やり立ち上がらせる。

 環だった。彼女は涙を流しながら、怒りを露わにする。

 

 

「適当な事言わないで!! 私が、どんな想いで耐えてきたと思っているの!! そんな、それをたったの三日で、こんな――!!」

「お前たち何をやっている!! 早く環を離せ!!」

「なんでなんでなんで!! よりにもよって『血』だなんて!! どうすればいいのよ!!」

 

 

 環は無理やり引きはがされる。

 その際、突き飛ばされたしのぶは、立ち上がれなかった。環の悲痛な叫びが、頭から離れない。

 

 

「環」

「っ! 弦司様!!」

 

 

 弦司が部屋の中から、環を呼んだ。それだけで、環の表情に笑顔が戻る。だが、それもまた一瞬で絶望へと叩き落される。

 

 

「今度こそ、お別れだ」

「――えっ」

「最後の最後まで振り回して、ごめん」

 

 

 それは別れの挨拶だった。しかも顔を見せない、声だけの。もう顔を合わせる事さえ容易ではない……それがまた、しのぶの心を抉った。

 環が絶望し、大粒の涙を流す。

 

 

「そんな、やめて、弦司様……! 捨てないでぇっ……!!」

「……こんな俺を、ここまで想ってくれてありがとう。この三日間、本当に幸せだった」

「聞きたくない! そんなの、聞きたくない! もう、食べてもいいから、一緒にいさせて――!!」

「兄上、後を頼みます」

 

 

 弟の悲痛な願いに、弦十郎は悔しそうに歯を食いしばる。

 

 

「鬼とは、何と惨い存在よ……! お前たち、弟の覚悟を受け止めろ! 環を連れていけ!!」

 

 

 弦十郎の命令に、今度こそ環は連れていかれた。不破邸のそこかしこから、すすり泣く音が聞こえてくる。

 こんなの有り得ない。弦司は懸命に頑張り、鬼であっても家族の元に戻れた。幸せになった。そう、幸せになったのに。

 鬼が人の心を持つとは、人の元に戻るとは、ここまで困難なものなのか。こんなに不幸せにするものなのか。

 涙が止まらなった。望んだ幸せが、むざむざと壊されたことに。そして、自分では救う事のできない無力さに。

 

 

「カナエ、しのぶ、入ってくれ」

 

 

 すぐそこの扉から聞こえるはずの弦司の呼び声が、酷く遠くに聞こえる。

 

 

「しのぶ」

「……うん、分かってる」

 

 

 しのぶは涙を拭い立ち上がる。どんなに辛くとも、前に進まなければならない。

 カナエが扉の取っ手に手を掛ける。簡単に扉は開いた。

 

 

「うぐっ……! すまない、早く入ってくれ」

 

 

 藤の花の香が入ったのか、部屋の中から苦し気な声で弦司が促す。カナエとしのぶは素早く部屋に入った。

 弦司は部屋の隅で椅子に深く腰掛けていた。一見、落ち着いて見えるが、それは装っているだけだろう。顔には隠し切れない焦燥。加えて、部屋の中が非常に荒れていた。

 割れたという茶器はそのまま床に放置されており、さらには机は真っ二つに割れていた。さすがに最初は荒れたのだろう、他にも家具やら小物やらがそこかしこに散らばっていた。

 いつもは穏やかな彼では想像できない部屋の様相に、カナエとしのぶが揃って言葉を失っていると、弦司が殊更気怠そうに切り出した。

 

 

「何度も何度も本当にすまないが、また俺を引き取ってもらえないか?」

「弦司さん……その、環さんの事は残念だけど、何もここを出て行かなくても──」

「それじゃあダメなんだよ」

 

 

 弦司が吐き捨てるように否定する。声には隠し切れない憎しみ、そして怒りが込められていた。

 弦司は続ける。

 

 

「ようやく分かったんだ。鬼は立ってるだけで幸せはすり抜けて行くって」

 

 

 しのぶもカナエも反論できなかった。

 弦司は何も悪い事をしていない。むしろ、自身が有益な存在だと何度も何度も証明してきた。なのに、人の時には当たり前にあった幸せが、次から次へと失われていた。全て鬼であるからこそ起きた悲劇だ。

 弦司は悲壮な覚悟を告げる。

 

 

「もうこんなのたくさんだ。俺はもう一度幸せを掴むために、必ず人になる。生きるために戦うんじゃない。人になるために戦う」

 

 

 それを聞いたカナエは、何も言えないでいた。しのぶは動けない姉を一瞥してから、弦司の目の前に立つ。

 弦司の気持ちは分かった。弦司が酷く傷ついているのも分かった。それでも、しのぶには言いたい事があった。

 

 

「どうして熊谷さんに『待って』って一言言わないの? 彼女なら、きっと待っててくれる」

「終わりの見えない苦しみに、どうして環を付き合わせないといけないんだ」

「一番苦しいのは不破さんでしょ? 彼女なら、あなたの重石の半分を背負ってくれる」

「それは俺の願いじゃない。俺の願いは、できるだけ長い時間、彼女が幸せであってくれる事だ」

「でも、それは彼女の願いじゃない。それに不破さんがいなくて、幸せになれると思うの?」

「鬼である限り、俺の幸せはない。だけど人の彼女なら、幸せは一つじゃないはずだ」

 

 

 弦司の答えは、どこまでも鬼に対する憎しみと劣等感、人に対する憧れと希望……そして慈しみが溢れていた。きっとしのぶとカナエが何を言っても、弦司は意見を翻さないだろう。それだけの覚悟を感じた。

 しのぶは踵を返す。

 

 

「姉さん、後は任せるね」

「しのぶ、どこへ――」

「熊谷さんの所。先に帰ってていいから」

 

 

 それだけ告げると、しのぶは部屋を飛び出した。

 使用人に環の居場所を聞き、部屋まで案内をしてもらう。

 彼女に会って何をするのか。何ができるのか。何も分からない。でも、鬼のせいで悲しんでいる人がいる。絶望している人がいる。何かしたかった。

 環は寝台で呆然と腰かけていた。環の自室なのだろう、部屋にはどことなく生活感がある。寝台の脇に置かれた弦司と環、二人の笑顔の写真が物悲しい。

 あやのと弦十郎もいた。だが、環に何も言葉を掛けられず、ただただ立ち尽くしていた。そして、彼らもまた憔悴しきっている。

 しのぶの胸に冷たい鈍痛が広がる。それでも環の前に立った。

 

 

「……熊谷さん」

「しのぶさん、ですか? 何の用、でしょうか?」

 

 

 鬼を殺す以外、救う方法を知らない己に何ができるのか。そんな自問自答を繰り返す。

 しのぶにできるのは、毒を作ることだ。薬学だ。それ以外は、全て姉のカナエに劣っている。

 それでもしのぶにできること。

 それは――。

 

 

「薬を作ります」

 

 

 自然とその言葉が口から出ていた。

 その時、焦点の合っていなかった環の瞳が、しのぶを捉える。

 

 

「鬼を治す薬を作ります。不破弦司さんを必ず治します」

「……それができるのは、いつですか? 明日? それとも明後日? 来年?」

「っ、それは……」

「そんな慰めにもならない言葉……あなたは何のために来たの!! 出て行って!!」

 

 

 環は激昂すると、声を上げて泣き始めた。

 一体、自分は本当に何をするために来たのか。しのぶは己の無力さに後悔の念ばかり沸き立つ。

 しのぶは辛うじて頭だけを下げて、部屋を出て行こうとすると、

 

 

「しのぶ嬢」

 

 

 しのぶの背中から呼び声が掛かり、振り返る。弦十郎だった。あやのは環を慰めている。

 

 

「環も落ち着けば、今回の件も感謝するだろう! あの言葉は気にしなくてもいい!」

「……はい。ありがとうございます」

「それと我が弟だが、今後どうするつもりだ!」

 

 

 しのぶは弦司が家を出て行くこと。人となるために戦う決意をした事を説明する。

 弦十郎は深々と頭を下げた。

 

 

「本当に申し訳ない! 我らが意地を張らず君たち姉妹に任せていれば、今のような事態は避けられていただろうに……! 詫び……ではないが、支援の件については何でも相談をしてくれ! 私たちにできる事は何でもしよう! だから……弦司の事を頼む!」

「……はい。任せて、下さい」

 

 

 しのぶはそれだけ答えると、足早に部屋を出て行った。弦司が生きているのに。誰も悪くないのに。誰もが彼が鬼である事に苦しんでいる。もうこれ以上、ここにいたら泣いてしまいそうだった。

 

 

 ――絶対に強くなる。殺すだけの剣士じゃない。人を救えるほど、強くなってみせる。

 

 

 しのぶはそれを胸に強く刻み付け、不破邸を後にした。

 

 

 

 

 カナエは弦司と二人で蝶屋敷へと向かっていた。すでに雨は止み、空には月が昇っていた。月明かりが弦司を照らし、端正な容貌を夕闇に映し出す。その表情には、覚悟が浮かんでいた。

 カナエはその横顔を見ていると、

 

 

「カナエ」

「……」

「カナエ?」

「っ、はい!? な、何でしょうか!?」

「いや……何かいつもより、距離取ってないか?」

 

 

 弦司の問いかけに、カナエはギクリと体を震わせる。

 失ってしまったと()()()()()()()。それが再び、何もせずに隣にいる。こんな想いはダメだと言う自分と、何もせず戻るのは自分の物だという証拠、と言う自分。

 カナエはもう色んな感情が綯い交ぜになって、弦司との距離感が分からなくなっていた。

 だが、弦司にはカナエのそんな内心など分からず、ある一点で視線が止まる。

 

 

「おい……それ、怪我か!? 何があった!?」

「えっ、これは、その……ちょ、ちょっと失敗しちゃって」

「もしかして、鬼にか!? 本当に大丈夫なのか!? って、もしかしてこれを隠すために距離取ってたのか!?」

「いや、そうじゃない! そうじゃないのよ!?」

 

 

 弦司がカナエの心配をする。し過ぎるぐらいする。心配されて嬉しいのか、心配させて悲しいのか。もうよく分からなくて、カナエは曖昧に笑った。それがどういう風に受け止められたのか、弦司は顔を顰める。

 

 

「俺はそんなに信用ならないか……」

「だから、そうじゃなくて! あの、私、環さんの質問に答えられなくて、それで……!」

「質問?」

 

 

 つい口を衝いた言葉は嘘ではなかった。

 本当に弦司を救えるのか覚悟を問われ、カナエは答えられなかった。弦司を託す相手もなく、鬼殺に殉ずるなと彼女に言われた気がした。

 弦司の隣にいる資格はない……そうも思っているから、近づけなかった。

 

 

「私、あれだけ救うって、守るって言って……でも実際は、そんな覚悟も全然なくて。もう、私は弦司さんと一緒にいない方がいいんじゃないかって、思って――」

「何で急にそうなるんだよ」

「……この怪我もそうだけど、鬼殺隊にいればいつ死ぬか分からない。救うって言いながら、先に私は死ぬ。そんな無責任な事、これ以上は……」

「でも鬼殺を止めるつもりはないんだよな」

「……っ」

 

 

 カナエが足を止める。遅れて弦司も止まった。

 カナエは弦司の顔を見れない。お前を救わないと言ったようなものだ。何と思われてしまったのだろうか。知るのが怖い。

 弦司は身を屈めカナエと視線を合わせる。カナエは慌てて視線を逸らした。

 弦司のため息が聞こえる。呆れられたのだろうか。そう思っていると、指を差し出された。弦司の小指だった。

 

 

「カナエは鬼殺を止めたくない。俺はカナエに協力してもらって人になりたい」

「……うん。それで、どうすればいいの?」

「預けた俺の命、お前のために使う」

「えっ」

 

 

 意味が分からなかった。弦司の言葉の意味もそうだが、心拍数が上がる自身の状態も理解できなかった。

 

 

「俺はカナエに死んで欲しくない。なら、俺のために預けた命、カナエのために使うぐらいしか俺にはできないだろ」

 

 

 説明された。何か屁理屈を捏ね繰り回して、さらにとって回した言い方だが、要は――。

 

 

「体を張って、私を守る……って事?」

「そんな気障なものじゃない。俺のために、カナエには鬼を使ってでも生き延びろって事」

「えぇ……何が違うの?」

「全然違う」

 

 

 何が違うのだろうか。全く分からない。だが、弦司にはそれが重要らしく、譲ろうとしない。

 

 

「えっと……それじゃあ、私は」

「いい。元々今までは不公平な約束だったんだ。これぐらいさせてくれ」

「でも――」

「今のカナエは何か頼りないからな。これぐらいがちょうどいい」

「~~酷い! 私、こんなに悩んでいるのに!」

 

 

 カナエが怒ると、弦司はニンマリ笑う。気遣いのつもりだろうか。それにしては、酷く失礼だ。カナエは悩んでいるのが馬鹿らしくなった。

 カナエは自らの小指を、弦司の小指へ絡めた。

 

 

「分かりました。じゃあ、弦司さんの体は胡蝶家のモノだから。扱き使うから、そのつもりでいて」

「は? そこまでは言ってないだろ!? 俺を使って、生き延びろって言ってるだけで、そんな――」

「指切った! はい、約束した! これで弦司さんはもう『胡蝶家(うち)の鬼』! 覚悟して!」

 

 

 カナエはそう宣言し、指を離すと駆け出す。慌てて追いかける弦司の気配を感じる。それだけで、何となく心が軽くなった。

 とはいえ、この『約束』で何か解決したかと言えば、何も解決していない。

 弦司は恋人と別れ、また幸せを一つ失った。

 弦司の言う通り、彼は生きているだけで幸せを失っていく。そんな弦司をカナエは果たして救う事ができるのか。今回の件で、ごっそり自信は無くなった。

 さらに、カナエの中に巣食う感情の正体は何なのか。それもよく分かっていない。

 何もかも上手くいかない。それでも残った事実は、弦司はカナエの隣にいる。何があっても、弦司はカナエの傍に()()()()()。そんな事ばかり考えてしまう。

 

 

 ――胡蝶家の鬼

 

 

 こんな時に何を考えているのかと思う。でも、言葉が頭から離れてくれない。

 

 

 ――胡蝶家(わたしだけ)(もの)

 

 

 今はこの気持ちを噛み締めて。

 月明かりの下を二人で進み続けた。




ここまでお読みくださりありがとうございました。

短編分を一部としたら、ちょうどこの辺りが第二部となります。第二部完です。色々課題ばかり目立ちますが、何とかここまで来ました。
物語もちょうど折り返し地点となります。
ここから少しずつ、ラストへ向けて走っていこうと思います。

それではまた次回、よろしくお願いいたします。


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第9話 可愛いは正義

いつも誤字脱字報告にご評価ありがとうございます。

……はい、ごめんなさい。
頭空っぽにして下さい、よろしくお願いいたします。


 弦司は激怒した。かの才色兼備のお蝶夫人(カナエ)を懲らしめねばならぬと決意した。

 

 

 ――私達の子どもができました

 

 

 手紙の冒頭がこれである。

 薄々感じていたが、お蝶夫人には男心が分からぬ。お蝶夫人は鬼殺隊の柱である。鬼の頚を斬り、妹と共に暮らしていた。邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。けれども、男に対しては、人一倍に鈍感であった。

 女性が男性に遊び半分でかけてはならぬ言葉がある。

 

 

『私と仕事、どっちが大事なの』

『生理が来ないの』

『あなたの子よ』

 

 

 全て男を一撃で打ちのめす言葉である。手紙の冒頭文はそれらに匹敵する。

 お蝶夫人はもう捨て置けぬ。一週間、湯豆腐の刑に処す事を弦司は決意した。

 

 

 ――それはそれとして(閑話休題)

 

 

 弦司は手紙の内容を読み返す。

 要約すると『女の子買いました』。

 久方ぶりにカナエとしのぶ両名で行った任務で、何でそうなるのか。弦司には女心が分からなくなった。

 分からない事は、棚に上げるのが一番である。

 兎にも角にも、胡蝶家に新たな住人が増えるのは決まった。事情はどうあれ、これは喜ばしい事である。今日は豪勢な歓迎会の準備しなければ。弦司は歓迎会の準備の傍ら、豆腐を切り始めた。

 

 

 こうして栗花落(つゆり)カナヲは胡蝶家の新たな住人として、温かく迎え入れられた。

 弦司が胡蝶家に来て、三カ月目の事であった。

 

 

 

 

 蝶屋敷には居住区の他に診療所、弦司の要望に応えた調理場などがある。

 今、弦司がいるのは、そのいずれでもない。訓練のための、俗に武道場と言われる場所だった。

 体を動かすには十分広く、天井も高い。床は畳敷きで怪我もしにくい。ここで、弦司はしのぶと対峙していた。弦司は隠の、しのぶは鬼殺隊の隊服をそれぞれ着ている。

 しのぶは木刀の切っ先を弦司に向ける。彼我の距離はおよそ二間もない。しのぶの一足で、彼女の間合いだ。対して、弦司は無手。

 攻防は音もなく始まった。

 瞬く間に、木刀の切っ先が弦司の肩を捉えた。弦司は体を捻り躱す。反撃に手刀を振るうも、すでにしのぶは間合いの外へ逃れる。

 仕切り直し、と思った時、しのぶの呼吸が変わる。

 

 

 蟲の呼吸 蝶ノ舞・戯れ

 

 

 しのぶの動きが変わる。人の動きから蟲の動きへ。緩急をついた不規則な前進。それはまるで蝶の羽ばたきのようだった。

 目がついていかない。体の反応が遅れる。それでも、二撃目まで躱した弦司だったが、三度目の突きが腹部を捉えた。

 弦司はそのまま吹っ飛ばされて、大の字に畳の上に倒れる。

 しのぶの動きが人に戻る。切っ先は弦司に向けたまま、深く息を吐き出す。

 

 

「私の勝ち」

「参りました」

 

 

 しのぶは優しく笑うと弦司に手を差し伸べる。弦司はありがとう、と答えてから彼女の手を取った。

 ──弦司が胡蝶家に来て四カ月。

 二カ月前の悲劇……しのぶには何か思う所があったらしく、彼女は変わっていった。これまで以上に鬼殺に訓練、研究に熱を上げる一方、顰めていただけの表情に柔らかさが加わった。今までなかった一本のしなやかな()のようなものが、しのぶの中に通ったように弦司には見えた。その証拠……とでも言うべきか。しのぶだけは、環と連絡を取り続けていた。あの日から、彼女が一番前へ変化していっているだろう。

 対して弦司は……彼女ほど変われていない。変わろうとはしている。戦い方も捨て身だけでなく、戦況に応じて臨機応変に変えるようにした。カナエに頼み込んで、彼女の任務に追随するようになった。より積極的に、しのぶの研究にも携わるようになった。だが、なぜか前に進んでいる気がしなかった。

 毎日、胡蝶姉妹に貢献し、鬼の研究にも協力してもらっている。それでも、停滞感が纏わりつく。原因は今も分かっていない。

 ちなみに、カナエもあまり変化が見られない。強いて挙げるとすれば、時々、異様に弦司との距離感が近い事があるぐらいだろうか。本当にそれ以外の変化が見られない。

 色々自信を揺るがされ、カナエこそ弦司は変わると思っていたのだが。蝶屋敷での日常を保とうと気遣っているのか。それとも他に思惑があるのか。弦司には分からなかった。本当に女心は難しい。

 弦司は難題を棚に上げ、しのぶに引かれて立ち上がる。彼女は体を解しながら反省を口にする。

 

 

「普通の動きを織り交ぜても、当たったのは、三撃目からかー。もうちょっと、動きの練度を上げないと使いづらいかも」

「いやいや、十分動きは鋭いって。俺じゃあ、もう止められない」

「二撃まで避けてて、それはないでしょ。そもそも、一撃も避けさせない自信、あったんだから」

「まあ、それは慣れってことで。しかし、突きの性質上、しょうがない部分はあるぞ。攻撃面積が狭いから、一度捉えられたら避けやすい」

「とりあえず、今は練度を上げる事に集中するわ。そっちの対策は、少しずつ考えてみる」

 

 

 こういった実践を想定した訓練は、しのぶとは頻繁に行っていた。弦司は無手における体の使い方を学ぶために。しのぶは()()()()()()の練度を上げるために、こうして模擬戦を繰り返していた。

 ――呼吸法。

 鬼に劣る人が、鬼と戦うために幾星霜を重ね編み出した、戦闘技術である。

 弦司は呼吸法が使えないので正確に理解はできていないが、呼吸を起点とした身体操法の一種らしい。

 身体能力の向上に加え、先のしのぶのように人それぞれの肉体に合った動作を行う事ができる。効果は絶大で、これにより数百年に渡り、人は鬼と戦い続ける事ができていた。

 しかし、人は人だ。呼吸法が使えたからといって、急に強くなる事はできない。絶え間ない過酷な鍛錬の末、ようやく鬼の頚に刃が届く。

 しのぶはもちろん、カナエも毎日欠かさず訓練を続けていた。そして今、しのぶは自身の肉体に適した呼吸法の練度を、上げている最中にあった。弦司の協力を経て、実戦に耐えられる段階まできているが、しのぶに慢心はない。少しでも練度が上がるよう、現在も試行錯誤を続けていた。

 

 

「でも、やっぱりカナヲには私の呼吸法は合わないでしょうね」

「しのぶ専用だ、仕方ないだろう」

 

 

 しのぶが大きく伸びをしながら、道場の隅を見る。そこには一人の和装の少女が正座していた。クリッとした大きく可愛らしい瞳で、しのぶを追っている。切り揃えられた前髪と、カナエとしのぶと同じ、蝶の髪留めで横に纏められた艶やかな黒髪が、さらに可愛らしさを演出する。

 この可憐な容姿を持った少女が、栗花落カナヲ。人買いにまるで動物のように縄で連れられていた。その様子に心痛めた胡蝶姉妹が、連れ帰ったのが彼女である。今は見取り稽古の一環として、カナヲに弦司としのぶの模擬戦を見学させていた。

 弦司はカナヲを見ながら、この一ヶ月を思い出す。

 

 

「しかし、しのぶが女を買ったって聞いた時にはどうなるかと……いてっ!!」

「その言い方やめてって、いつも言ってるでしょ」

 

 

 弦司の軽口に、しのぶが蹴りで応酬する。こんなやり取りができる程度には、弦司としのぶの仲も良くなっていた。

 弦司は蹴られた太ももを押さえながら、カナヲの隣に座る。今もカナヲの視線はしのぶに釘付けだ。弦司は溜め息が出そうになる。

 

 

()()()()、今もしのぶを見てるな」

「姉さんは大丈夫とは言うけど……カナヲ、もう訓練は終わったから自由にしていいのよ」

 

 

 しのぶに言われ視線を外したカナヲだったが、それ以上は何もしない。この年頃の少女であれば足を崩したり、先の模擬戦の感想を言ったり、何かあるはず。だが、カナヲは何もしない。

 カナヲは心に大きな傷を負っていた。

 カナヲをここに連れて来た時、汚れの方が目立ったが、実際は服の下には数えきれない傷があった。しのぶの見立てでは、その傷は日常的にできていた……つまりは、常日頃からカナヲは虐待を受けていたのだ。おそらく、苦痛に対する防衛本能として『心の声に耳を塞いだ』。だから、自分一人では何も考えず、何もせず。じっとしているのであろう。

 弦司もしのぶも何とかしたかったが、心因性のものに特効薬など存在しない。少しずつ、癒していくしかない。

 それでも、生きるとは判断の連続だ。いつも弦司達の誰かが付いているとは限らない。そこで、カナエは一枚の銅貨を渡した。一人で判断する時はこの銅貨を投げて決めたらいい、との事だった。

 しのぶは怒ってはいたが、弦司はカナエの案に賛成だった。無理に判断させるような事をすれば、カナヲが生き延びるために形成した防衛機能を壊す事になる。それによって何が引き起こされてしまうのか、弦司は恐ろしかった。カナヲの心を守りつつ、彼女が判断を下せるようにするには、銅貨に委ねる他なかった。

 だが、それとは別に弦司には不満があった。

 しのぶがカナヲの隣に座り前屈する。畳に顔がくっ付いて、後頭部の蝶の髪留めがこんにちわするしのぶに向けて、弦司は声を掛ける。

 

 

「それで、カナヲの訓練は続けるのか?」

「もちろん続けるわよ……不破さんの気持ちはよく分かってるから、あまり詰らないでよ」

「……すまん。分かっているつもりなんだが、どうしても思ってしまうんだ」

「いい。本当なら、不破さんの感情の方が一般的なんだから、しょうがないわ」

 

 

 しのぶは体を起こすと、カナヲの頭を撫でる。カナヲは感情の見えない瞳で、しのぶを見返す。

 弦司の不満は他でもない、カナヲを継子とした事だ。ただでさえ過酷な環境にいた少女を鬼殺に赴かせる……弦司はとてもではないが賛成できなかった。とはいえ、胡蝶姉妹の言い分も理解できたため、現在弦司は消極的に賛成している。

 まず、純粋にカナヲの能力が秀でている点である。一つ教えれば、一つ吸収する。体力・筋力はともかく、戦闘の技量はすでにカナヲが弦司を上回っているのだ……悲しい事に。彼女が鬼殺隊に入隊すれば、それこそ柱となり何百人、何千人の命を救うだろう。

 そしてもう一つ――これが弦司が反対できなくなった理由だが――カナヲは胡蝶姉妹を慕っているのだ。表情にこそ全く表れず、カナヲ自身にも自覚はない。しかし、カナヲは歩く時や食事をする時、日常生活の至る所で、自然とカナエとしのぶの近くに寄る。無意識下で彼女たちを想っている。

 もし、カナヲを姉妹から離したりすれば……その時こそ、カナヲは壊れてしまうのではないか。そんな予想が頭を過ぎり、弦司は反対の言葉を飲み込んだ。

 しかし、二人は鬼殺隊士。カナヲが姉妹の傍にいるには、カナヲ自身にも同じ力がなければならなかった。

 それでも、何かいい方法が他にないのか。弦司はついついついカナヲの頭を撫でながら、考えてしまうのだった。

 ――ちなみに栗花落カナヲという名は、カナエとしのぶが付けた。可愛いので特に意見もなく弦司は受け入れた。

 こうして弦司としのぶがカナヲを愛でていると、突如として道場出入り口の襖が開かれた。

 

 

「弦司さん! しのぶ! ここにいたの!」

 

 

 弦司、しのぶ、カナヲの三人が揃って、闖入者へ視線を向ける。

 艶やかな黒髪に一対の蝶の髪留め、蝶の羽を連想させる羽織。胡蝶カナエが満面の笑みを携えて、道場に乱入してきた。一目で気分が高揚しているのが見て取れた。 

 

 

「いきなり何なんだよ、カナエ? というか、そちらの方は……?」

「……」

 

 

 弦司としのぶが横に視線をずらすと、そこには鬼殺隊服に真ん中を境に左右で色合いの違う羽織を着た男性がいた。

 端正と言っていい容貌だが、切れ長の目に、真一文字に引き結ばれた口から漂う雰囲気は不愛想の一言。今も、神経質そうに眉を顰めていた。

 しのぶが小さく「あっ」と声を上げる。

 

 

「冨岡さん」

「……誰?」

「姉さんと同じ柱……水柱の冨岡(とみおか)義勇(ぎゆう)さんよ」

 

 

 しのぶの紹介に弦司に緊張が走る。鬼殺隊の柱が二人も揃ったのだ。これはただ事ではない……と思いたいが、カナエの様子に不安しかない。

 弦司の内心を知らないのか、カナエは楽し気にカナヲに近づくと彼女を立ち上がらせる。そして、カナヲを背後から抱き締めホワホワすると、弦司達三人に向き直る。

 

 

「今日集まってもらったのは、他でもありません」

「集まった覚え、一切ないんだが」

「ついに開催が決定しました!」

「おい、聞けよ」

 

 

 弦司のツッコミをガン無視し、カナエはカナヲを操り人形にして拳を突き上げる。

 そして、

 

 

 ――可愛いは正義★第一回カナヲ大会!

 

 

 そんな事を(のたま)った。

 義勇は踵を返す。

 

 

「俺には関係ない」

「いや、仰る通りです。本当に申し訳ない」

「冨岡さん、気を付けて帰って下さいね」

 

 

 帰ろうとする義勇と、謝罪と別れの挨拶を述べる弦司としのぶ。

 

 

「ちょっとちょっとちょっと!!」

 

 

 カナエはカナヲを解放して、慌てて止めに入る。

 全員律儀で真面目なので、止まってカナエの言葉を待つ。

 

 

「最後まで聞いて! 半分くらい真面目な話なんだから!」

「全部真面目にしてから出直して来いよ」

「今日の弦司さん、冷たい! カナヲ、慰めて~!」

 

 

 カナエは泣き真似をしてから、再びカナヲを拘束する。弦司は銅貨投げないかな、とか思ってカナエの次の行動を待つ。

 カナエはカナヲに頭を撫でてもらうと、

 

 

「カナヲが蝶屋敷に来て早一ヶ月……ここでの生活に慣れてきたけど、私達、誰一人として見てないわよね?」

「見てないって……何だよ?」

「カナヲの笑顔よ!」

 

 

 カナエの言う通り、蝶屋敷に来てからの一ヶ月。弦司はカナヲの笑顔を見ていなかった。しのぶに視線を送ると、彼女も悔しそうに首を横に振る。これは由々しき事態だった。

 カナエはカナヲの頬を両の掌でムニムニしながら続ける。

 

 

「だから私、考えたの。カナヲの真の笑顔を見るには、心の底から()()()()()()ような強烈な一発が必要だって。そして、それを引き出すのは、私達も真の一発勝負をやるしかないのよ!」

「つまり、どういう事だよ?」

「『可愛いは正義★第一回カナヲ大会』とは、カナヲを笑わせるための大会よ! 開催は三日後! 参加者はここにいる全員! カナヲを笑わせた人には、真のカナヲの笑顔と最高の栄光が手に入れられるわ! 私、しのぶの笑顔が好きだけど、今回はカナヲを優先するからね!」

 

 

 弦司は立ち上がる。正直、色々としょうもないとは思っている。真の一発とか言いながら、第一回とか何度もやる気じゃねえか、と思わなくもない。しかし、カナヲを笑わせる。それは最重要事項だ。心の傷を癒すには、笑顔は正しく薬なのだ。

 そして何より――弦司がカナヲの笑顔を見たい。

 弦司がやる気になっていると、隣から呆れたようなため息が聞こえる。

 

 

「不破さんまで、姉さんの馬鹿に付き合うの? 止めてよね」

「しのぶ、お前がそのつもりなら止めないさ。だが、笑わせた暁には、いつの日かカナヲにこう言われるんだぞ」

 

 

 ――一番最初に笑顔をくれたのはあなた

 

 

「!?」

「どうやら、事の重大さに気づいたようだな」

「っ、ふ、ふん。その手には乗りませんよ。どうせそうやって馬鹿に付き合わせて、私を笑い者にするんでしょ?」

「しのぶ、万が一この大会で俺がカナヲを笑わせると、お前は一生こう言われるんだぞ?」

 

 

 ――あの時のしのぶは何もしてくれなかった

 

 

「!?」

「出産に立ち会えなかった父親のようになっても、俺は知らないからな」

「こ、この……! いつも憎らしいほど回る口先男……!」

 

 

 しのぶが悔しがりながらも立ち上がる。

 彼女もとんでもない栄光と称号を、ようやく理解できたようだ。

 そうやって二人がやる気になっていると、

 

 

「……やはり俺には関係ないようだ。これで失礼する」

 

 

 義勇が道場を出ていこうとする。

 好敵手が一人減る。弦司がそうほくそ笑んでいると、

 

 

「冨岡さん、逃げるんですか?」

「!?」

 

 

 しのぶが呼び止めた。そして、彼女は嘲笑する。

 

 

「笑わせる自信がないんですものね、仕方ないです」

「……俺は逃げてない」

「いいんですよ、冨岡さん。人には何でも向き不向きがあります。そして、あなたには幼気な少女を笑わせる力はない……それだけの事です。さあ、尻尾を巻いて逃げて下さい」

 

 

 必要以上に煽るしのぶ。その目には、冷徹の色が灯っている。

 なぜ、と思い弦司は義勇の不愛想な面構えを見て理解した。彼は好敵手ではない。踏み台だ。何かさせれば一瞬で空気は凍り付く。そこを一発決めれば、大爆笑間違いない。さらに、彼を巻き込みさえすれば、事故っても最小限で済むのでは――そんな打算が、見え隠れした。

 弦司はしのぶの深謀遠慮に、身を震わせた。彼女は本気で永遠の称号を掴み取る気だ。これは本腰を入れて、戦わねばならないだろう。

 

 

「……三日後、また来る」

 

 

 眉間にしわを寄せて頷く義勇。これで永遠の栄光へ向けた道が、さらに舗装された。

 とはいえ、踏み台を踏んでも自身が飛べなければ意味はない。結局は、己の実力が試されるのだ。

 

 

「それじゃあ、私も行くわ」

 

 

 しのぶも続いて出て行く。彼女とは激しい戦いになるだろう。そのためには、さらに策を練らなければならない。

 弦司が策を練っていると、カナヲを解放したカナエが顔を引きつらせながら近づいてくる。

 

 

「その……参加、ありがとう。でも、何か雲行きが怪しくないかしら?」

「これは戦だ、カナエ。戦いが終わるまで致し方ないし、容赦はしない。冨岡さんには体のいい踏み台になってもらう。しのぶは最大の障害になるだろうが……」

「えぇ……そんな大袈裟な」

 

 

 カナエが何か辛そうな声を出すと、控えめがちに続ける。

 

 

「えっとね……実は冨岡さんを気遣って欲しいって、お館様からご相談があって……」

「それで?」

「カナヲをどうやったら笑わせられるか悩んでもらって、まずは笑顔の大切さを思い出してもらって。そうしたら、誰かと笑う事に興味を持って、もっと人の輪に入るんじゃないか……なんて思ってたんだけど、どう?」

「どうって……なあ、カナエ。カナヲと冨岡、どっちが大切だと思ってるんだ? カナヲだよな」

「どうしたの、弦司さん!? そこはどちらにも気を遣う所でしょ!? 正気になって!?」

「俺は正気さ……それと、そういうの本気でやりたいときは事前に相談しろよ。ご覧の有様だから」

「え、あ、うん」

 

 

 弦司は言いたい事全て伝えると、道場から出て行く。悲しいがこれは戦だ。カナエとも今回ばかりは、手を携える事はできない。弦司は涙を飲んで、前に進んでいった。

 

 

「あれぇ……? 想像してたのと違う……」

 

 

 後には目を点にして呆然とするカナエ。

 そしてカナヲは――銅貨を振って裏が出た――道場を出て、しのぶを追いかけて行った。

 

 

 

 

 

 ――三日後。

 ついに決戦の日がやってきた。やってきてしまった。

 再びカナヲと挑戦者たちが道場に集う。全員が隊服(弦司だけ隠の衣装)という力の入りようである。

 審査員であり主賓のカナヲには、道場の中央で座布団の上に座ってもらっている。感情の籠っていない瞳で四者を眺めるカナヲ……それが笑いに染まると考えるだけで、弦司は歓喜に震えた。

 

 

「可愛いは正義★第一回カナヲ大会! 開催!」

 

 

 この三日間で吹っ切れたのか、カナエが高らかに宣言する。

 

 

「果たして、この中から栄冠を手にする人は現れるのでしょうか!?」

 

 

 さらに興が乗ったのか、そんな実況まで付けるカナエ。素晴らしい。何とかカナヲに笑ってもらおうと場を温める。カナエなりの気遣いなのだろう。

 ――だが、これは戦だ。

 喰うか喰われるか。やるかやられるか。笑うか笑わないか。そんな戦場でそんな悠長な気遣い、やっている暇などない。

 さっそく弦司は攻撃を開始した。

 

 

「それじゃあ、カナエ。一番手は頼む」

「えっ?」

 

 

 事態が呑み込めず固まるカナエに、しのぶが笑顔で畳みかける。

 

 

「参加者は道場にいた全員なんでしょう? 言い出したのも姉さんなんだし、一番手はよろしくね」

「えっ!? ちょっと待って二人とも!?」

 

 

 ここでようやく弦司達の目的に気付いたのか、カナエは焦り始める。彼女が何の準備もしていないのは、この三日で調査済みだ。ここで矢面に立たされたら、惨劇しかないだろう。

 だが、これが戦だ。容赦はしない。弦司の勝利のため、彼女にも踏み台になってもらう。

 

 

「私は開催者だから、そんなのやるつもり――!」

「そっか。カナエはカナヲの笑顔が見たくないのか」

「姉さんって笑顔が好きって言ってるけど、それも怪しいものね」

「二人して~~っ!!」

 

 

 カナエがちょっと泣きそうな顔で弦司達を見る。地団駄までしている。弦司はちょっと楽しくなってきた。

 それからしばらく、あうあう言っていたカナエだが、最後の望みとばかりに義勇を見る。彼は顎だけでカナヲを指した。

 

 

「分かりました! どうなっても知らないから!」

 

 

 カナエはカナヲの前に座ると、チラチラと弦司達を見る。止めないからさっさとやっておくれ、と一同全員、顎でカナヲを指した。

 カナエは頬を思い切り膨らますと、ヤケクソ気味に自身の顔に手を掛けた。

 カナエの顔が、筆舌に尽くしがたいモノに変わる。

 

 

 ──俗に言う変顔だった。

 

 

「ぶっ!」

「「……」」

 

 

 しのぶは吹き出したが、弦司は悲痛に視線を逸らし、義勇は引いた。

 そして、肝心のカナヲは小首を傾げた。当然、笑顔ではない。

 ――カナエの女を棄てた捨て身の特攻は爆砕した。

 カナエはぷるぷる震え出した。

 弦司はカナエを凝視する義勇に忠告する。

 

 

「早く目を逸らすんだ」

「何の問題がある」

「あの顔を脳裏に焼き付けて、次の柱合会議は大丈夫か?」

 

 

 義勇は俯いた。

 

 

「……助かった」

「ふっ……いいって事よ」

「ちょっとちょっとちょっと!!」

 

 

 弦司と義勇が奇妙な友情を感じていると、カナエが弦司と義勇に迫る。

 

 

「しのぶのように笑うか弄るかしてよ!? 同情とか憐憫とか一番悲しいから止めて!!」

 

 

 カナエの顔は……いつもの端整な顔立ちに戻っていた。ただし、顔どころか耳や指先まで真っ赤にして、目元には涙を溜めている。これは可愛い。

 弦司は最後の一押しをする。

 

 

「一生懸命な人を嘲うなんてできる訳ないだろ」

「嘲わないでよ!? 普通に笑ってよ! 弦司さんの意地悪!!」

 

 

 カナエはカナヲに泣きつき、ヨシヨシされる。これでカナエの出番は終了だ。

 結果はあまりにも不甲斐ないが、弦司にとって満足いくものだった。ついでに、義勇を使うまでもなく場は整った。

 弦司が立候補しようと手を挙げようとすると、カナエがヨシヨシされながら弦司を睨み付ける。

 

 

「次はしのぶ」

「えっ。いや、俺が――」

「次はしのぶ! 開催者権限で決定!」

 

 

 不機嫌で開催者権限とまで言われたら、弦司には何もできない。このまま栄光を掻っ攫われる可能性もあるが、不承不承引っ込むしかない。

 しかし、栄光の可能性を得た当のしのぶはと言うと、苦々しい顔つきになる。

 

 

「……それじゃあ、ちょっと待ってて」

 

 

 しのぶはそう言い残すと、道場を出て行く。すぐに戻ってきたが、手には透明な鉢があった。金魚鉢だった。可愛いものを愛でて、自然な笑みを促そうとしているのだと弦司は推察した。

 ただ、こういうのは相手が興味を引くような、話術も必要なのだが――。

 しのぶは金魚鉢をカナヲの前に置くと、

 

 

「ほらカナヲ、見て。金魚よ、可愛いでしょ?」

「……」

 

 

 カナヲは金魚を見るが、特に反応はない。弦司達も反応しない。

 少ししのぶの声が上擦り始める。

 

 

「この尾びれの形なんて、とっても可愛いでしょ?」

「……」

(いや、知らんがな)

 

 

 カナヲに特に反応はない。弦司達も反応しない。

 しのぶの顔が段々紅潮し始める。

 

 

「このゆったりとした動き……可愛いでしょ?」

「……」

(可愛いばっかりだな)

 

 

 カナヲの大きな目が金魚を追う。弦司達も反応しない。

 それだけ。

 ――特に何の成果も盛り上がりもなく、しのぶの出番は終了した。

 弦司は手を叩く。

 

 

「切り替えていこう」

「切り替えないで! その前にちょっとは反応してよ!?」

 

 

 しのぶが顔を真っ赤にして、涙目で抗議する。

 

 

「こっちは姉さんや不破さんみたいに半分ふざけてないで、ずっと真面目に生きてきたんだから! 笑いなんて分かんないのよ!」

「ハハハ、息を吐くように罵りよる」

「しのぶ、反抗期? 反抗期なのね?」

 

 

 しのぶは金魚鉢を持って、部屋の隅っこに座った。姉妹揃って何をやっているんだか、と弦司は思う。やはり、ここは己が出なければ締まらないだろう。そう思っていると、

 

 

「じゃあ、次は冨岡さんで」

「ああ」

 

 

 カナエが義勇を指名する。これでは弦司が最後になってしまうが、彼に笑いの()の字も分かるはずがない。

 弦司が余裕綽々で待っていると、

 

 

「雨ヶ崎、例の物を」

「はいはい冨岡様。了解しましたよ」

 

 

 義勇が襖の向こうに声を掛けると、細目の優男が現れた。今や弦司の友人である雨ヶ崎だ。

 弦司は彼の手元を見て、驚愕に目を見開く。雨ヶ崎の手元には、黄色い色合いと焼き色が美しい菓子『カステラ』があった。

 部屋の片隅にいたしのぶが、驚きの声を上げる。

 

 

「冨岡さんが普通の差し入れ!? どういう事!?」

「……どうもこうもない」

「ま、俺が選んだんだけどね。女の子の笑顔と甘い物は定番の組み合わせでしょ? でも、前日に相談なんてもう止めて下さいよ、冨岡様」

「……」

 

 

 一瞬で雨ヶ崎にバラされて、目を細める義勇。怒っているのだろうか。だが、弦司は今それどころではない。

 脳内で演算を繰り返す。この事態を乗り越えられる方法は――。

 弦司を声音を抑えて、カナエに尋ねる。

 

 

「実は俺も食べ物を用意したんだ」

「ふーん、そうなんだ~。それで?」

「一緒に出さないか? その方が、食べ比べもできてカナヲも楽しいだろう?」

「ダ・メ」

 

 

 美しい笑顔で断られ、弦司は道場から飛び出そうとする。無駄に柱の力を全開にしたカナエに、弦司はあっさり押し倒された。

 

 

「な、何をする!?」

「どこへ行こうとしたの~?」

 

 

 カナエがいい笑顔で、倒れた弦司を背後から羽交い絞めする。胸やら髪やらが弦司を触れまくって、一瞬このままでいいかと思ってしまった。でも、ダメだ。弦司にはカナヲを笑顔にする使命がある(※ありません)。

 弦司は目一杯抵抗する。

 

 

「料理を取りに行こうとしただけだ! 準備に時間が掛かるんだよ!」

「え~、後藤さんに何時でも持って来られるように準備してたでしょ?」

「な、なぜそれを……!」

「後藤さ~ん。持って来て下さい」

 

 

 持ってくるな、と弦司は願う。だが、願いは虚しく隠の後藤はやってきた。

 

 

「はいはい。何で俺がこんな事……って不破、何やってんだ?」

 

 

 畳に押し倒された弦司を見て、白い目を向ける後藤。彼の手元にある物とは、先ほど義勇が持ってきた物と同じ『カステラ』だった。まさかの義勇ともろ被りである。今度は弦司が羞恥で顔を赤くする番であった。

 カナエが弦司の頭を撫でながら笑う。

 

 

「なるほど~。()()()()()()()なんだ~。()()()()()()()なんだ~」

「に、二度も言わなくていい。それと、撫でるんじゃない」

「ふふふ、照れてて可愛い……でも、それならそれで、どうして逃げようとしたの? 準備に時間が掛かるって何?」

「そうだったっけ?」

 

 

 弦司は適当に口を回して誤魔化そうとする。まさか、調理場に行って胡蝶姉妹に内緒で食べる予定の、卵三個を使った半熟オムライス(ソースもあるよ)と入れ替えようとしていた、とは言えない。

 しかし、カナエも弦司の言動に怪しさを感じたのか。さらに体を弦司に密着させて拘束してくる。

 しのぶも義勇も雨ヶ崎も後藤も見ている前で、弦司の背中にカナエの胸が押しつけられる。

 

 

「言ってた! ほら、早く白状しなさい!」

「俺は無実だ! それよりも早く離してくれ! 状況分かっているのか!?」

「犯人はみんなそう言うの! そうやって逃げようとしたって、そうはいかないわ! 私が恥をかいた分、弦司さんも同じだけ恥をかかないといけないの!」

「私怨の塊じゃないか!? いや、今はそれはどうでも良くて……! 逃げないから、俺をこれ以上、衆人環視の中で辱めるんじゃない! やめて、穢さないで!」

 

 

 しのぶ、義勇、雨ヶ崎、後藤の呆れ切った視線が、弦司達に突き刺さる。特にしのぶの視線には、殺気まで込められていた。

 本来なら今頃、カナヲを笑わせて永遠の栄光を手に入れていたのだというのに。何が楽しくて、畳の上でカナエに押し倒されているのか……字面だけは楽しそうだけど、楽しくない。

 

 

「また一週間、湯豆腐の刑にするぞ!」

「お、脅す気!? また、みんなが牛鍋食べる横で、私だけ湯豆腐を出すつもり!? この卑怯者!」

「卑怯で結構だから離してくれ!」

 

 

 そうやって、弦司とカナエが揉めていると、一人の少女が近づいてきた。カナヲだった。

 なぜ、と皆が疑問に思っていると、彼女は銅貨を投げた。『裏』だった。それを確認すると、雨ヶ崎と後藤からカステラを取り、何も言わず弦司達の目の前に置いた。

 これをあげるから、争わないで。何も語らないカナヲの、精一杯の声を弦司とカナエは聞いた気がした。

 

 

「ごめんな、カナヲ!」

「私達が間違ってたわ、カナヲ!」

 

 

 争いを止めて、弦司とカナエはカナヲに抱き着く。

 もう栄光や称号などどうでも良かった。

 カナヲは可愛い。

 可愛いは正義。

 正義はカナヲ。

 カナヲの前では、如何なる闘争も無力。

 それが分かっただけでも、良かったではないか。良かった事にしようではないか。

 

 

「カナヲは可愛いなぁ」

「可愛いは正義!」

「正義のカナヲには、カステラを食べさせてあげよう」

「ダメ、それは私の役割よ」

「……持ってきたのは俺だ」

「……それが?」

「……」

「……」

 

 

 カナヲにカステラを食べさせる栄誉。

 訂正しよう。可愛いは正義の名の下に、闘争はいくらでも繰り返されるのであった。

 

 

 

 

「……大会はどうするんだ」

 

 

 義勇の渋々行った質問に、誰も答えようとしない。結局、しのぶも混じって誰がカナヲにカステラを食べさせるか揉め始めた。

 最早、大会の事なんか誰も気にしていない。カナヲは可愛い。可愛いは正義。正義はカナヲ……それだけである。

 

 

(一体、俺は何をしていたんだ……)

 

 

 義勇が部屋の隅でカナエ達を見ながら思うのは、ここ三日間の事だ。いきなりカナエに呼び止められて連れて来られたと思ったら、しのぶの口車に乗り訳の分からない事態に巻き込まれた。前日まで一人で悩んだ挙句、何も準備しなかったので雨ヶ崎に相談したところ、あっさりと準備できた。そして、意気揚々と乗り込んでみれば、目の前の和気藹々とした光景である。

 ――鬼殺隊に己の居場所はない。

 鬼殺隊の入隊を決める最終選別で一体の鬼も倒さず、親友を失ってしまった義勇は、心に根深く悔恨が突き刺さっていた。本来ならこの場に立ち、微笑ましい光景を見ていたのも全て親友だったのでは。そう思わずにはいられない。

 彼ならあの輪に入っていただろう。入って一緒に笑っていただろう。だが、今いるのは義勇だ。義勇にはその資格が己にあるとは。彼の得ていたものを奪っていいとは、到底思えなった。

 そんな義勇の心中も知らず、彼らはわちゃわちゃと入り乱れる。ともすれば、主賓であるカナヲを忘れてしまうほどに。

 義勇は嘆息する。カナヲを笑わせられなかったのは口惜しいが、さすがにこれ以上は付き合いきれない。帰ろうかと考えて、もう一度彼らを見て――気づく。

 栗花落カナヲ。心を閉ざしたはずの少女は、カナエ達を見ながら確かに微笑んでいた。

 何のことはない。すでにカナヲは、カナエ達に心を開いていたのだ。きっと、彼らがカナヲの笑顔を見るのはすぐであろう。

 

 

「後はお前たちで勝手にやっていろ。俺はこれで失礼する」

「あ、どうもお疲れ様です」

「分かりました。伝えておきます」

 

 

 義勇は後藤と雨ヶ崎に挨拶すると、武道場を後にする。

 鬼殺隊に己の居場所はない。だが、ここには笑っている人がいる。助けを必要としている人もいる。

 ――ならばせめて、彼らの笑顔を守るために。

 

 

 心新たにする義勇。

 口元に浮かべられた笑みに気づいたものは、誰もいなかった。




カナヲの評価表
・カナエ:母親兼師匠兼姉。綺麗で柔らかい。大好き。
・しのぶ:師範兼姉。厳しくて優しい。大好き。
・弦司 :美味いものくれる奴。弱者。好きな日もたまにはある。


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第10話 新しい力

いつも誤字脱字報告ありがとうございます。

今回も沢山詰め込んでしまいました。
長くなってしまいましたが、お楽しみください。


 ――おかえり。

 ――ただいま。

 ――おはよう。

 ――おやすみ。

 いっぱいいっぱい言葉を送ってくれる。

 毎日温かい気持ちにしてくれる。

 鬼とこんなに仲良くなれるなんて。

 カナエの夢は叶っている。毎日が夢心地だ。

 後は、弦司の想いを叶えて、この気持ちを少しでも返すだけ――。

 だが、それを考えると気持ちが沈んでしまう。願いを叶えた後を想像して、気持ちが落ち込んでしまう。まずは、彼を人に治す方法を考えなければならないのに、なぜかその先を想像して、気落ちしてしまう。

 その時、カナエは恐ろしい感情に気づいた。

 今、己はこの状態に満足し始めている。彼が鬼である事に充足を覚え始めている。ともすれば、このまま時が止まってしまえばと──。

 彼を見ろと己に言い聞かせる。あの哀しみを、あの悲劇をまた彼に味わわせるのかと、叱責する。彼は自身の夢を叶える装置ではないと。物ではないと。この感情は、あの時の想いは、一時の気の迷いだと言い聞かせる。

 それでも足りないなら、彼の顔を見た。彼の体に触れた。それで恐ろしい感情は鎮まった。また、彼を救い出そうと思えた。

 だから大丈夫。

 ──きっと大丈夫。

 

 

 

 

 ──家族を鬼に殺された。

 よくある話だ。よくある悲劇だ。だが、それは受けた本人にとっては、唯一無二の全てだ。神崎(かんざき)アオイにとっても同様であった。

 己の全てを懸けて、鬼を殲滅してみせる。人生を全て鬼殺に捧げる。全ては、アオイの幸せを奪った鬼に復讐するために。

 しかし、アオイには才能がなかった。呼吸法は使えたものの、他の鬼殺隊候補生と比べても見るものはなく。それでも、復讐を諦めきれず、藤襲山(ふじかさねやま)の鬼殺隊の最終選別へ向かった。

 すぐに心が折れた。秀才だと思っていた剣士は、鬼に囲まれて殺された。剣は役割を果たす事なく折れ曲がった。その瞬間、アオイは逃げ出した。鬼殺に最も大事な覚悟……アオイはそれを欠いていた事を、この時になってようやく悟った。

 そこから先は覚えていない。気づけば七日間を生き抜き、鬼殺隊隊士となっていた。

 何もかもへし折れてしまった自分が隊士? 何の冗談かと思った。そして、鬼を殺せと言う。それだけでもう限界だった。

 何の目的も自分には残ってないのに、命惜しさに泣いた。悔しい。情けない。みっともない。色々な感情がアオイを叱責したが『死にたくない』……ただそれだけの想いに勝てれなかった。

 ──そんなアオイに手を差し伸べてくれたのが、胡蝶カナエとしのぶの姉妹だった。

 しのぶが診療所の開放を考えている。そのための人材が欲しい。アオイはまさに適材だと。包み込まれるような優しさと、美しい微笑みでカナエは誘ってくれた。

 嬉しかった。何もかもへし折れた自分を、こんなにも必要としてくれて。まだ、鬼殺隊に貢献できる道があると示してくれて。

 すぐに頷こうとするアオイを、なぜかカナエは止めた。そして、苦渋の表情で言った。

 

 

 ──あなたは大嫌いな人と、向き合わなければならなくなる。

 

 

 言っている意味は分からなかった。だが、彼女が苦み悩んでいて、それでもアオイを欲していた事は伝わった。だから、アオイは言った。

 

 

「会わせて下さい」

 

 

 その人の事は何も訊かなかった。先入観を持たず、この目とこの耳でその人を感じて、それから決めると。

 カナエは何度もそれでいいのかと尋ねた。アオイは何度でも会わせて下さいと答えた。

 今日、その彼と会う。

 己に何ができるのか、何度も何度も自問した。何もできないのではないかと、思い詰めもした。それでも、カナエの役に立ちたい。へし折れた自分でも、鬼殺の役に立ちたい。

 その想いを胸にアオイは蝶屋敷を訪れた。

 

 

 

 

 胡蝶カナエは悩んでいた。

 藤襲山の最終選別。そこで生き残り、心の折れてしまった少女・神崎アオイを連れてきた。

 最終選別を生き残る身体能力の高さに加え、彼女元来のテキパキとした性格と行動力。いずれをとっても、しのぶが開設する診療所には不可欠な人材であった。何より、心が折れたままの彼女を捨て置く事が、カナエにはできなかった。

 だが、ここで問題が浮上した。当然ながら、蝶屋敷には弦司がいる。何と言い繕うが、弦司は()だ。そして、アオイは極端に鬼を恐れている。

 しのぶのためにも、アオイの協力はどうしても欲しい。でも、彼女に無理強いをしたくない。

 もしかしたら、弦司とアオイなら大丈夫ではないかという甘い考えがカナエにはあった。

 だからこそ、曖昧な形で伝えた。大嫌いな人がいる、と。

 アオイは会わせて下さいと言った。そして、先入観を持たないように、情報も最小限しか聞かなかった。

 こんな騙し討ちのような形でいいのか、カナエは今も悩んでいた。

 

 

「本日はよろしくお願いいたします」

「よろしくね、アオイ」

 

 

 側頭部で纏められた、二つ結いの頭を勢いよく下げるアオイ。釣り上がった眉尻が、彼女の意志の強さを物語る。

 ――ついにその日は来た。

 事ここに至っては、カナエも腹を括った。それに、今回は以前の『カナヲ大会』のような突発的なものではない。事前にちゃんと、弦司にはアオイの来訪を伝えている。彼なら何とかしてくれるはずだ。

 そう言い聞かせ、弦司と待ち合わせとした居間へと向かう。

 近づくにつれ、アオイは次第に緊張してきたのだろう。動きに固さが見られるようになった。

 居間へと続く襖の前に立つ。カナエは一旦、足を止めるとアオイと向き直り、微笑みかける。

 

 

「大丈夫よ。アオイが誠意を持って接すれば、必ず相手も応えてくれる」

「……はい」

 

 

 やや引きつった顔だったが、アオイは力強く頷いた。

 カナエは優しく微笑みかけると、襖を開ける。

 

 

 ――居間には、スーツ姿の覆面男がいた。

 

 

 思わず襖を閉めた。隣のアオイから困惑が伝わってくる。

 カナエは蹲って、両手で顔を覆った。耳まで赤くなるのが分かる。顔から火が出るほど恥ずかしかった。

 

 

(格好は指定しなかったけど! 目と牙が見えないように、気を遣ったのは分かるけど! もっと他に対応方法はなかったの!?)

「あの、カナエ様……あれは一体……?」

「うん……! 分かってる……! 先に座ってていいから、ちょっと待ってて!」

 

 

 カナエは襖を開け放つと、寛いでいる覆面男を連れたって部屋を出て行く。

 覆面男――弦司はしばらくすると、

 

 

「おい、どうしたんだ?」

「それはこっちの言葉よ!? 何で洋服に覆面なの!?」

「同僚になるって話だから、初対面はビシッとスーツじゃないと……」

「気にする所が違う! どう見ても不審者よ!? せめて、任務の時の、隠の衣装にして!」

「ええ……あれ、任務中はともかく、見た目あんまり好みじゃないんだよな。それに、不審者には変わりなくないか?」

「いいから早く!!」

 

 

 カナエは無理やり弦司を着替えさせる。

 隠の衣装に、目元まで隠した覆面のような面覆い。カナエは一つ深呼吸をしてから、弦司を伴って居間へ戻った。

 アオイは長机の一角に座っていた。多少は見慣れた隠の衣装になったためか、アオイの視線から僅かながら警戒の色が薄まる。

 カナエはその対面に座りながら、頭を下げる。

 

 

「ごめんなさい! ちょっとした行き違いがあってこんなことに……!」

「あ、いいんですカナエ様! その、おかげでちょっと緊張がほぐれたと言いますか……! とにかく、私は気にしておりません!」

 

 

 お互いペコペコする一方、弦司は悠然と座る。ちょっと腹が立ったので、弦司の太ももを抓ってから対談を始めた。

 

 

「それで、彼が今後あなたの同僚になる――」

「不破弦司だ。よろしく」

「神崎アオイです。よろしくお願いいたします!」

「神崎……いや、ここは同僚として、親しみを込めてアオイと俺も呼ぼう。アオイも俺は呼び捨てでいい。事情はカナエから聞き及んでいる。きっと、今の俺と同じ仕事をやると思う。俺については色々聞いているようだが……それは後回しにして、まずは仕事について聞こうか。何か質問はあるか?」

「えっと……それでは、気になる点がいくつか――」

 

 

 始まりはともかく、穏やかに弦司とアオイは話し始めた。弦司も手慣れたもので、生真面目なアオイが話しやすいように仕事の内容を主に引き出してくれる。

 

 

「力仕事も多く鬼殺隊には男も多い。その点に関する不安はあるか?」

「全くないとは言いませんが、他の同性よりは優れていると思います。力仕事は今まで鍛えた経験が活かせます。男性はこの通り、私は物怖じしません。むしろ、彼らの方が私を避けたがるのではないでしょうか?」

「それは助かる」

「助かるのですか?」

「ああ。どうしても診療所となると、精神的に不安定な人も来るだろう。アオイみたいなしっかりした女性がいれば、患者も落ち着くし従う。そうなると、しのぶも負担が減る。大助かりだ」

「そうですか。そんな風に言われたのは初めてです……」

(……んん?)

 

 

 気づけば、カナエを蚊帳の外にして話が盛り上がり始める。

 もしかしたら、アオイならば先入観がなければ仲良くできるのではないか。仲良くしてから彼の事情を説明すれば、恐れはしても哀れんで寄り添ってくれるのではないか。そんな淡い期待の元、企画した会談のはずだったのだが――。

 

 

「そりゃ、周りの見る目がないな。物怖じせず、伝えるべき事をしっかり伝えらえる人は、有難いぞ」

「そうでしょうか? 男性は皆、私のような口喧しい女性ではなく、物静かな女性が好みなのでは?」

「全員が全員、そういう訳じゃないだろ。それにここは医療現場となる予定だ。情報伝達は何よりも優先される。必要なのは、しっかりと物事を伝えられる人だ。鬼に関する理解もある君は、まさにお誂えの人材という訳さ」

「……お世辞は止めて下さい。私はそんな褒められるような人間ではありません。鬼が怖くて戦えない、ただの腰抜けです」

「ただの腰抜けはここまで来ない。それに、前線と後方を行き来する俺からすれば、どちらも等しく戦場さ。アオイは今も戦っている。それは俺が保証しよう」

「……ありがとうございます」

(んんん?)

 

 

 仲良くなりすぎてないだろうか。仲良くなりすぎてないだろうか。

 というか、この男は口説いているのではないか。弦十郎もそうだが、不破家の男は女性を見たら褒める風習でもあるのか。

 何にせよ、不快――とまで考えて、カナエは首を横に振る。

 仲良くなるのはいい事だ。ただ、弦司のは度が過ぎている。それだけだ。それだけのはずだ。

 だから、この行為は何も悪くない。カナエはそう言葉を並び立てて、咳払いをした。

 

 

「んんっ! 仲良くするのはいいけど、仲間外れは寂しいわ」

「あっ……申し訳ありません」

「ああ、悪い悪い。こういうの見ると、勿体ないなって思うんだ。こんなに素晴らしいのに、どうして誰も気づかないんだろうな……」

 

 

 弦司は何かを懐かしむように、目を細める。自分の知らない何かを想う姿が……これもまた、なぜか不快だった。

 この感情はおかしい。カナエは誤魔化すように、アオイへと微笑みかけた。

 

 

「弦司さんの事、気に入った?」

「カナエ様、その、冗談が過ぎます! 気に入ったとかではありません。ただ、彼の同僚となる事への不安が、和らいだだけです」

「ですって、弦司さん」

「俺は少しも不安はないけどな」

「……」

 

 

 カナエの目が細まる。弦司の軽口が、なぜか今日は心がざわつく。言わなくてもいい苦言が口から出て行く。

 

 

「……私の時には、そんな事、言わなかったのにね」

「えっ!? ちょっと、カナエ、そんな誤解を生むような事は――」

「アオイ、信じられる? 初対面の女性をお蝶夫人なんて呼ぶのよ」

「その話、今ここで出す!?」

「あー、私、傷ついたな~。褒めてくれないかしら~」

「分かった。あれは悪かったから。後でいくらでも褒めるから、今はそれぐらいで勘弁してくれ」

「──ふふっ」

 

 

 アオイが忍び笑いをする。カナエと弦司の視線がアオイに注がれ、彼女は頬を赤く染める。

 

 

「っ、失礼しました。その、非常に仲が良いと思ったので。でも、お蝶夫人は女性にかける言葉ではないと、カナエ様に同意します」

「うんうん、アオイならそう言ってくれると思ってたわ~」

 

 

 仲が良い。非常に仲が良い。そんな当たり前の言葉が、なぜか心のざわつきを落ち着かせた。

 それはひとまず置いて、感触は上々。後は大事な真実をアオイに教えるだけ。問題はその機。そう考えていたカナエの前で弦司が質問する。

 

 

「アオイが蝶屋敷に来るには避けられない質問がある」

「何でしょうか?」

「傷を抉る様に申し訳ないが……もし、鬼と会ったらどうする?」

「っ!?」

 

 

 それは核心を突いた質問だった。

 鬼である弦司とこれから仕事をしなければならない。加えて鬼殺隊にいる以上……いや、生きていくには、どこかで鬼と向かい合う日が必ず来る。その時、どうするのか。

 アオイは表情を凍らせた。そんなの考えたくもないと、その表情が物語る。

 弦司は責めるでもなく、詰る訳でもなく、優しく語りかける。

 

 

「そう怖い事を考えなくてもいい。君を試している訳じゃないし、そもそも、正解なんてない質問だ。今のアオイならどうなるか……それだけを考えて、素直に答えてくれたらいいんだけど……」

「……」

「すまない、急ぎすぎた」

 

 

 アオイは俯き、膝の上で拳を強く握り締める。弦司はすぐに頭を下げた。

 カナエは立ち上がると、アオイの隣に腰を下ろす。

 

 

「ごめんなさい、アオイ。ちょっと不躾な質問だったわね」

「……いえ。私は腰抜けの役立たずです。これでそれがよく分かったでしょう」

「それは違うわ。弦司さんも言ったけど、あなたを試したい訳じゃない。アオイと本気で一緒に働きたいから、あなたの深い所まで踏み込んだのよ。今からすぐでなくてもいい。ゆっくりでいいから、いつか向き合ってもらえないかしら?」

「本気で……」

 

 

 アオイは静かに目を閉じる。それから、何度か深呼吸を繰り返すと、絞り出すようにか細い声で答えた。

 

 

「きっと、私は何もできないでしょう」

「アオイ、急がなくても──」

「早いか遅いかの問題です。なら、私は早い方がいいです」

「アオイ」

「続けます……私は鬼が怖いから。恐ろしいから、体がすくんで何もできなくなります」

「そう」

「ですが──!」

 

 

 アオイが顔を上げる。恐怖の色は消えていない。だが、眉尻はしっかり上がり、彼女らしい強い意志がそこにはあった。

 

 

「最善を選べる人になりたい!」

 

 

 それは心が折れたあの日から、アオイがずっと思っていた事なのだろうか。彼女の声は、カナエと弦司の胸の内にしっかり届いた。

 

 

「それは戦うって事?」

「いいえ……カナエ様にお声をかけていただいた日から、ずっと考えていました。私には何ができるのか。私には何ができないのか。その中の結論の一つに、例え恐怖に打ち勝ち、戦えたとしても、私では役に立てない可能性が高い、というものがありました。私の才能はその程度のものだと、最終選別でよく分かりました」

「アオイ……」

 

 

 アオイとて、最終選別までに文字通り血反吐を吐くような訓練をしてきたはずだ。磨いた自身の剣術が役に立たない……それを認めるのは、どれほどの苦しみを伴ったか。才能に恵まれたカナエには、想像する事もできない。

 

 

「それでも、あなた方は私が必要と仰って下さった。なら、私は私のできる事を為してみせます。鬼と出会ってしまったとして……私が邪魔になるなら逃げる、私の援護が必要なら援護する……そんな最善を選べる人になりたいです!」

 

 

 アオイが言い切り、カナエは自身の不明を恥じる。己が見出したと思っていた。それでも、まだ彼女の表面しかなぞれていなかった。一体誰がアオイを腰抜けと言ったのか。カナエの想像以上に、アオイとは勇気と知性を持った偉大な少女だった。

 弦司も同様なのか、感嘆のため息をそっと漏らした。

 

 

「アオイは凄いな」

「いえ、戦う隊士こそ尊敬されるべきです」

「ああ、前線で戦う隊士は尊敬されるべきだ。だけどな、戦いだけが全てじゃない。アオイがその想いのまま働いてくれるなら、尊敬されるだけの資格は十分にある」

「……ありがとうございます」

「──だからこそ、俺はアオイとここに居続けるために、分かり合いたい」

 

 

 それは弦司の本音だったのだろう。真っ直ぐとアオイを見て、弦司は言った。そして、弦司は伺うように目線をカナエにやる。全てを伝えてもいいかと、カナエに尋ねてくる。

 不安はあった。だが、アオイなら……そんな確信がカナエの中に生まれていた。

 カナエは隣り合って座ったまま、彼女の右拳を緩めると自身の左手で握り締めた。

 アオイが首を傾げる。

 

 

「カナエ様?」

「今から、アオイに隠していた事を伝えるわ。あなたは驚いて……傷つくかもしれない。でも、あなたを傷つけたかった訳でも、騙したかった訳でもない。乗り越えて、ここに一緒に居て欲しいから、今まで秘密にしていたのよ」

「……分かりました。どんな内容でも、受け止めます」

「あなたの感じたままの弦司さんを信じてみて」

 

 

 力強く頷くアオイ。それを見て、弦司は顔を晒した。

 赤い瞳と牙が露になり、アオイの眉尻が下がる。表情には一転して、絶望が浮かび上がった。

 

 

「嘘……何で……」

 

 

 アオイの右手が、カナエの左手を痛いほど握り締める。

 アオイは俯くと、何度も荒い息を吐き出した。恐ろしいほど、手は震えている。それでも、アオイは逃げ出そうとしなかった。

 

 

「カナエ様……! 何か、理由があるのは、分かります。ですが、これは、どういう、ことでしょうか……!」

「俺に全部話させてくれ」

 

 

 弦司は全てを語った。

 ――鬼舞辻無惨に鬼にされ、人としての幸せを失った。

 ――子供を助け、カナエに救われた。

 ――柱合会議で自身の生きる価値を傷つけながら証明した。

 ――それでも、残された幸せを失ってしまった。

 ――今は人になるために、戦っている。

 アオイは途中、何度も涙を流しながら最後まで聞いてくれた。

 

 

「酷い……そんな事、あっていいはずがない……!」

 

 

 俯きながら、アオイは何度も涙を拭う。しかし、拭った先から涙が溢れ出てくる。

 カナエはアオイを包むように、彼女の頭を抱いた。

 

 

「何度もごめんなさい。色々な事があり過ぎて、苦しかったでしょ。少しずつでいいの……少しずつ、ほんの一欠けらで良いから、弦司さんをゆっくり受け止めてみて」

「そうではないのです、カナエ様……! 私は、私が感じ取った彼と、カナエ様が信じる彼を信頼します。話も全て、信用します。でも……彼が鬼だという事実に、震えが止まらない! それが歯がゆいのです! こんなに信頼しているのに!」

 

 

 言い、アオイは空いた左手を掲げる。アオイがどれだけ力を込めても、震えは全く止まらなかった。

 それを見て、弦司が立ち上がる。

 

 

「ありがとう、アオイ。俺のために涙を流して、恐怖に抗ってくれて。でも、カナエの言う通り少しずつでいいんだ。少しずつ受け止めてくれて……そして、いつかここに来て欲しい。今日は俺ばかり焦って、本当に申し訳なかった」

 

 

 そのまま去ろうとする弦司。アオイはそれを眺めるだけ――ではなかった。

 

 

「ちょっと……待ちなさい!」

「ア、アオイ!?」

 

 

 部屋を出て行こうとする弦司に、アオイはカナエを突き飛ばし立ち上がる。

 足は震え、膝は笑っている。いつ崩れ落ちてもおかしくない。それでも、アオイは眉間にしわを寄せ眉尻を吊り上げ、弦司を睨み付けた。

 

 

「勝手に結論を出さないで下さい! 時間を掛ける事も大事でしょう。ですが、距離まで空けないで下さい!」

「えっ」

「そもそも、ゆっくり受け止めるなら、接触時間を徐々に増やすのが普通ではないのですか! いきなり無くすのではなく、まずは私と()()の仕事時間が重複しないように調整し、そこから徐々に協力する時間を増やしていく! それが上策です! それに、危害を加えないあなたと交流を増やすのは、私が鬼を克服する上で非常に有効です! 弦司が私から離れる利点は少ないと分かったでしょう! だから、勝手に離れるなどと結論を出さないで下さい!」

「はい。仰る通りです」

「分かれば――あっ」

 

 

 やってしまった。そんな風にアオイが小さく声を漏らすと、途端に今までの凛々しさが霧散し、あわあわと慌て始める。

 

 

「あのっ、申し訳ございません! その、本当に申し訳ございません!」

「分かってるよ。でも、これが俺達の求めていたアオイだな」

「ふふ、その通りね。私達が求めてるアオイだわ」

 

 

 カナエと弦司は声を上げて笑った。

 また二人して、アオイを見誤っていた。彼女はすでに、弦司を受け止めてくれていた。受け止めて、何が最善なのか頭を働かせていた。

 ならば、今の彼女に必要なのは気遣いではない。

 

 

「アオイ」

「はい」

「私達と一緒に、蝶屋敷で働いてくれる?」

「――はい!」

 

 

 間髪入れずに承諾の声が返ってきた。

 ――こうして、神崎アオイもまた蝶屋敷に迎え入れられた。

 

 

 

 

 アオイが蝶屋敷で働く事になった直後、

 

 

「一つ伺ってもよろしいでしょうか?」

「ええ。何が訊きたいのかしら?」

「不躾な質問ですが、お二人の関係を伺ってもよろしいでしょうか?」

「私と弦司さん?」

「はい。上司と部下では少し近すぎますし……もっと親しい関係に見えますが、どういった関係でしょうか?」

「うーん……」

 

 

 この時、カナエは上機嫌だった。調子に乗っていた。

 だからこの日も、言わなくていい事を言った……言ってしまった。

 

 

「家族にも見せないような、あられもない姿を見せ合った仲……かしら?」

「あられもない姿!?」

「だから言い方!?」

 

 

 弦司がツッコんだ瞬間、襖の外でガタガタと音が鳴った。カナエが恐る恐る視線を向けると、一気に襖が開かれる。

 

 

「姉さん」

「しのぶ!?」

 

 

 しのぶがいた。その傍らには、お盆を持ったカナヲもいた。お手伝いするカナヲは可愛い。だが、今は無表情のしのぶが問題だ。

 カナエは額の冷や汗を拭うと、努めて冷静にしのぶに語り掛ける。

 

 

「落ち着きましょう、しのぶ。これはホント冗談。英語で言えば()()()()という――」

「いつ?」

「だから――」

「いつの話?」

「初めて会った日ですぅ……」

「おい!?」

 

 

 答えなくてもいい質問に、真っ正直に答えるカナエ。初めて会った日に、あられもない姿を見せ合ったなど誤解しか生まない。

 そして、その誤解がさらなる誤解を呼ぶ。

 

 

「そういえば、体を張って慰めたって、不破邸で言ってた!!」

「!?」

 

 

 しのぶの中で点と点が繋がる。もう弁解は許されなかった。

 

 

「姉さん、座って!」

「はい……」

「不破さんも座って!」

「俺もかよ!?」

「正座!」

 

 

 案の定、しのぶは顔を真っ赤にするとカナエと弦司に正座を強要した。

 大人しく座るカナエと弦司。今日のお説教は長くなりそうだった。

 

 

「えっと、結局どういう関係なのでしょうか?」

「……上司と部下! 終わり!」

 

 

 アオイの質問にしのぶは断言した。その様子に、アオイは納得いかない様子で、眉根を寄せるしかなかった。

 

 

 

 

 アオイが蝶屋敷に迎え入れられ、数日が経過した。

 初日こそ、ぎこちなかったアオイだったが、優しい人ばかりであっという間に慣れた。

 弦司との家事の割り振りも、まずは日中と夜間で大きく分けた。弦司が夜間いない時は、アオイは弦司の分も働くので、相対的にはアオイの方が仕事量は多い。それでも、アオイはそれを苦だと思っていない。

 弦司の仕事をある程度分担できるようになったため、彼は前線での仕事が増えた。また、空き時間が増える事で、鬼の研究に協力する時間も増えた。ありがとう、と蝶屋敷では誰もが言ってくれる。その度に、鬼殺隊に役立てている事をアオイは実感できた。

 洗濯物を朝日の元に干す。これは弦司にはできない仕事だ。

 強い風が吹き、蝶の髪留めが目の端に映った。カナエとしのぶがくれた物だ。アオイは思わず笑みが零れる――と、蝶屋敷から弦司としのぶの言い争いが響き渡る。そういえば、しのぶが研究の進捗が悪いと不貞腐れ、弦司の指の一本ぐらい欲しいと言っていた。冗談だと思っていたが……どうやら、冗談じゃなかったらしい。

 ちなみに、弦司とは不意打ちでなければ話す事もできる。触れ合う事はできないが、それは今でなくとも良い。少しずつ、彼を受け入れるつもりだ。

 それよりも、今はしのぶだ。アオイは一旦作業を切り上げ、室内へ向かおうとして来客に気づく。仕方なしに庭から玄関へと抜けると、一人の隊士が立っていた。

 長髪を後ろで一纏めにし、瞳はまるで鋭利な刃物のように鋭い。口も大きく三日月を描いている。冷たい印象を受ける隊士だった。

 

 

「どなたですか!」

「……うるさいな。まあいい、ちょうどいいか」

 

 

 明らかな軽蔑の視線を向ける隊士。アオイは怯まず言い返す。

 

 

「まずは名乗っていただけないでしょうか?」

「知らないのか? 鬼殺隊隊士、風能(ふうの)誠一(せいいち)だ」

「それでは風能隊士、ご用件を伺いましょう」

「そんなもの鬼に決まっているだろ。これだから、腰抜けは困る……」

「っ!」

 

 

 風能と名乗った隊士の言葉に、アオイは怯む。だが、それは一瞬だけだ。

 ――最善を選べる人になりたい。

 自身が宣言したあの言葉を思い出す。

 腰抜け? それがどうした。何と言われようと、アオイは今の最善を選ぶだけだ。

 

 

「ご説明になっていません! 詳細を仰って下さい!」

「はぁ……ここに鬼を匿っているんだろう? なら、そいつを出せ。俺が腰抜けの替わりに頚を斬ってやる」

「――帰って下さいっ!!」

 

 

 アオイは激昂した。言い方もそうだが、何より内容が許せなかった。

 

 

「あれだけ鬼殺隊に貢献している、()()の頚を斬る? 馬鹿も休み休みにして下さい! 一体、あなたは何を考えているのですか!」

「鬼の頚を斬るのが鬼殺隊だ。腰抜けが一々、隊士の指示に疑問を持つな」

 

 

 高圧的に言い放つ風能。アオイは一切引かない。

 

 

「彼が生きているのは、カナエ様、ひいてはお館様のご意思です! 一隊士のあなたこそ、疑問を持たないでいただきたい! そもそも、自身が正しいと思うのなら、カナエ様が不在の時に訪れないで下さい!」

「……つけ上がるなよ、腰抜け」

「――っ!」

 

 

 風能は切れ長の目でアオイを睨み付けると、手を伸ばしてくる。アオイは避けずに、来るだろう衝撃に歯を食いしばった。だが、衝撃は来なかった。風能が地面に投げ飛ばされていたのだ。

 仕立て人は、胡蝶しのぶ。額に青筋を立てて、風能を見下ろす。

 

 

「アオイに触れないで」

「胡蝶……! 頚も斬れない欠陥隊士風情が……!」

 

 

 怨嗟の声を漏らしながら立ち上がる風能。このままでは隊士同士で争いが始まるのでは。そう思い、アオイは慌てて二人の間に入った。

 

 

「しのぶ様、落ち着いて下さい! これ以上争っては隊律違反になります!」

「大丈夫よ、アオイ。向こうから手を出してきたのよ。それに殺したとしても、姉さんが揉み消す」

「何を仰ってるのですか!?」

「やれるものなら、やってみろよ……!」

 

 

 アオイは一発殴らせて、相手を隊律違反にするつもりだった。それが、一触即発の事態に。こうなったら最善も何もない。

 アオイも風能をぶん殴ってやろうかと、拳を握ったその時――、

 

 

「同期のよしみで見逃すから引いてよ、風能」

「ふん。今度は才能なしか」

 

 

 風能が嘲笑を浮かべる相手は雨ヶ崎。荷物を運び入れるために訪れたのか、荷車を押しながら雨ヶ崎は蝶屋敷の門を潜ってきた。

 雨ヶ崎は蝶屋敷に入るなり、荷物である木箱を漁り始める。

 

 

「本当は本人の前でやりたかったんだけど……君みたいな面倒くさいのがいるならしょうがないよね。騒いでたのは知ってたけど、ここまで来るなんて予想外だよ」

「ああ? 何を言って──」

「君の言ってる鬼だけど、正式に鬼殺隊の隊士になったよ。このままじゃ、隊律違反になるね。ほら、この隊服がその証拠」

 

 

 雨ヶ崎が出したのは、確かに隊服だった。しかも、相当大きい。これを着こなせるのは、蝶屋敷には弦司以外いないだろう。

 隊服は特別な繊維でできている。これを偽造するのは難しいと、隊士である風能が良く分かっているだろう。

 風能が言葉を失う。一方で雨ヶ崎は続ける。

 

 

「後は日輪刀もあるんだけど……こっちは重すぎるから、刀鍛冶の代わりに俺が持ってきたんだ。彼に直接、お祝いも言いたかったし」

「最終選別も経ずにか? 有り得ない……」

「それだけ彼を評価してるって事。知ってる? 彼が関わった鬼は、過程はどうあれ()()()()()()討ってるって。まあ、知ってたらこんな馬鹿、しでかさないか……」

「雨ヶ崎……! 今は引いてやるから覚えてろ。鬼は所詮、鬼なんだよ!」

 

 

 風能はそう吐き捨てると、蝶屋敷から出て行った。

 アオイは脱力する。

 

 

「雨ヶ崎さん、しのぶ様、ありがとうございます……それにしても、彼は一体何だったのでしょうか?」

 

 

 問えばしのぶは顔を顰めて、雨ヶ崎は苦笑する。

 

 

「いけ好かない男よ。早く忘れればいいわ」

「ああ見えて、俺達と同期なんだよ。まあ、蝶屋敷にいたら気づかないけど、ああいう鬼だったら何もかも許せない人は一定数いるからさ。それ自体は仕方ないけど、さすがに表立ってやる人はいなかった……風能の奴、何かあったのかな?」

「そんな事より大事な事があるでしょ」

「あっ! ちょっとしのぶ様! さすがに弦司に悪いですよ!」

 

 

 アオイの制止も聞かず、しのぶは木箱の中を探り始める。

 

 

「アオイだって気になるでしょ?」

「それはそうですけど、一緒に見れば良いだけではないでしょうか? まさか、指をいただけなかったから仕返しに、うっ憤晴らしとか考えてないですよね?」

「……先っちょだけでいいのよ、先っちょだけで」

「しのぶ様……」

 

 

 さすがにアオイもこれには呆れる。しのぶはカナエが弦司に甘えるのを危機と見ているが、アオイからすればしのぶも十分弦司に甘えている。気安く指をくれ、などと言ったら、絶縁されても文句は言えない。例え相手が鬼でも、だ。これを甘えと言わず、何と言う。

 雨ヶ崎も同様に思ったのか、呆れた視線をしのぶにやる。これでしのぶは手を止めた。

 

 

「て、手伝うわよ。その、だからこのことは不破さんには言わないで」

「分かりました。それでは、早く運びましょう」

 

 

 そして、雨ヶ崎、しのぶ、アオイの三名で荷車を押す。玄関の中に入り日陰になったところで、しのぶが弦司に声を掛けた。

 

 

「不破さん、変な男はいなくなったから出てきても大丈夫よ! あと、日輪刀が届いたわよ!」

 

 

 風能の来訪に警戒し、隠れていたらしい。しばらくガタガタと、どこぞから物音が鳴ってから、弦司は現れた。

 

 

「悪い。色々世話をかけたようだな」

「だったら、指を――」

「どれだけ指が欲しいんだよ!? 任務の度に鬼の血は採集してるんだから、それで勘弁しろよ!?」

 

 

 弦司は反論しながら、木箱に手を突っ込む。楽しみなのか、反論の内容とは裏腹に顔は笑っている。

 アオイも話でしか聞いていないが、三週間ほど前、正式な入隊をお館様に求められたらしい。その際、剣術の才能がない弦司は新規に日輪刀を考案した。そのせいで、一悶着あったらしいが……弦司はそれを乗り越え、ようやく日輪刀を手に入れた。喜びもひとしおだろう。

 そうして、取り出した弦司の日輪刀は所謂、()ではなかった。

 黒く輝いたそれは、真っ直ぐな筒を()()も束ねられ、端には持ち手と引き金が着いていた。アオイの記憶が正しければそれは――銃。ただし、アオイの思っている物より銃身が多く、数倍は金属が厚く無骨だった。

 

 

「浪漫の塊、()()()()四連式散弾銃だ。そのうち、みんなこれを使うようになるかもな!」

 

 

 ――ちなみに重過ぎたため、後にも先にも使いこなせたのは、弦司ただ一人であった。

 

 

 

 

 ――助けて。

 

 

 兄の吉平は死んだ。

 父の吉郎も死んだ。

 母の()()()も死んだ。

 

 

 ――助けて助けて。

 

 

 隣のみほ姉も死んだ。

 ()()()おばさんも死んだ。

 なおだけが生き残った。

 

 

 ――助けて助けて助けて。

 

 

 二軒隣の弥次郎は真っ先に死んだ。

 その息子の晋弥は激昂して返り討ちにあった。

 その母親の()()()は、すみを庇って死んだ。

 

 

 ――助けて助けて助けて助けて。

 

 

 真向いの田原家は囮になった。

 集落で年少の高田なほ、寺内きよ、中原すみの三名だけでも逃すため、それぞれが散っていった。

 今は田原家の、健次と健三郎がきよ達の傍に残っているだけだ。

 

 

 ――助けて助けて助けて助けて助けて!

 

 

 違う。死んだんじゃない。全部全部全部、あの()()()が殺した。村人達をいたぶり、一人一人殺していった。

 もう村人は、ここにいる五名しか残っていない。遠からず、自分たちも殺される。

 怖かった。あれだけの人が犠牲になって、きよ達を生かしてくれたのに、誰の死も悼めず。ただただ怖かった。

 走る。恐怖から逃げ出すために。生きるために、ただひたすら走る。

 それなのに。こんなに逃げたいと思っているのに。こんなに生きたいと思っているのに。脚は段々と動かなくなる。

 肺が痛い、喉が痛い、頭が痛い、痛い痛い痛い――。

 何でこんな思いをしないといけないのだろうか。毎日、あの集落で生きたかった。家族と一緒に生きていきたかった。そんな儚い想いさえ、かよ達には許されなかったのか。

 痛み、苦しみ、絶望して……とうとう追いつかれる。

 闇夜の中、やめて、と叫ぶ間もなく健次が囮となって飛び出す。化け物の目を引いたのは一瞬。すぐに健次の絶叫が響き渡り、物言わぬ体となった。

 もう終わりだ。きよ達は死ぬ。

 

 

 ――誰か助けて下さい。

 

 

 寺内きよは絶望の涙を流しながら願った。




四連式散弾銃は欠陥品です。


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第11話 怯まず進め

 ――緊急の鎹鴉がやってきたのは、日没のすぐ後だった。

 

 

「鬼達ガ複数ノ集落ヲ襲撃シテイルゥ! 至急、救援ヲ求ムゥ! カァァッ!」

 

 

 カナエと共に巡回に出かけようとした弦司達の元に、その知らせは届けられた。

 鬼の複数同時出現。通常の巡回では手が足りなくなり、至急でカナエ、しのぶ、弦司の三名の救援を求められた。

 弦司達が請け負うのは、五カ所。

 すぐに弦司達は集合すると、駆けながら話し合う。

 

 

「罠の可能性は?」

「関係ありません。全ての集落を救いに向かいます」

 

 

 弦司の質問に、カナエは間髪入れずに答える。

 カナエが続ける。

 

 

「最も遠い集落は、速度と体力のある弦司さんが向かって。一番近い集落はしのぶに任せるわ。救援後は随時連絡を取り合って、合流を目指しましょう」

 

 

 弦司の受け持ちが一。

 しのぶも一。

 そうなると、残る三つは――。

 

 

「残りは私が行く……また会いましょう」

 

 

 言うが早いか、カナエは一瞬で風となった。本当に足が速い。

 とはいえ、弦司もこの数カ月の間、順調に身体能力は上がっていた。理由は分かってはいないが、有用なのは確かだ。単純な速度は、おそらくカナエより速いだろう。

 

 

「不破さん、気を付けて」

「ああ。しのぶ、生きてまた会おう」

「……はい」

 

 

 弦司はしのぶと別れると、全力で走った。先導していた鎹鴉が遅れてしまうほど、懸命に走った。

 緊張はあった。背負った日輪刀(散弾銃)。そして、鬼殺隊の隊服。正式な鬼殺隊隊士としての初任務に加え、初の単独任務。それでも、弦司は足を鈍らせる事はない。

 襲撃があってからの連絡だ。今、この瞬間。人は鬼に殺されている。新たに不幸が生まれている。それを一つでも減らすため、弦司は全力で駆け抜けた。

 辿り着いた集落は、血の匂いでむせ返っていた。惨状に空腹を覚える己が憎かったが……今、()()()()()()()()()()()()()()

 転がった死体は、誰も彼も表情を絶望と苦痛に歪めていた。それもそのはず、首には痛々しい()のような跡がしっかり刻まれていた。窒息死だ。最後まで苦しかったのだろう、顔を始め、穴という穴から体液が溢れ出している。これを仕出かした鬼は、命だけではない……人の尊厳まで奪っている!

 あまりの凄惨な光景に、怒りに視界が真っ赤に染まる。誰がやったのだ。叫びたかった。それでも面覆いの下で、歯軋りして耐えた。己の仕事は、怒りの発散ではない。この無慈悲を、ここで止める事だ。

 鬼の感覚を最大限に広げる。この体が未だ()()だと認識する動くものはあるか。

 すぐに見つかった。人数の詳細まで分からない。さらに、近くに()()と思われる気配を、はっきりと感じ取った。

 方向を定め駆けると同時に、悲鳴が上がる。間に合わなかった。だが、諦めてはならない。諦める理由にはならない。そこに悪鬼がいるなら、滅殺するまで終わらない。

 すぐに見つけた。集落の外れ。生きているのは、たったの四名。年嵩の少年が、三人の少女を庇うように立っている。

 そして、鬼。毛髪のない頭と、恐ろしく細身の体をした、袴だけを履いた男だった。

 鬼から何かが高まる気配を感じる。血鬼術を発動するつもりか。散弾銃では距離が有りすぎる。

 

 

「待て!」

 

 

 弦司は声を上げて、鬼の気を引いた。鬼の落ち窪んだ眼が弦司を捉え、()()()驚愕に見開かれる。その隙に、弦司は一気に距離を詰めた。

 拳を振りかぶる。手には散弾銃と共に作成を依頼した、特製の籠手。頑丈さと重さに特化した、まさに鬼専用の武具だった。

 弦司は無遠慮に鬼を殴りつけた。弦司の膂力と籠手の頑健さにものを言わせた殴打。鬼は咄嗟に腕で防御したものの、弦司はその腕ごと骨をバラバラにへし折りながら、鬼を吹き飛ばした。

 

 

「隠れろ!」

 

 

 弦司はそれだけ叫ぶと、再び鬼へ向けて殴りかかる。相手は血鬼術を使える可能性がある。使う暇を与えない。近距離戦闘に弦司は持ち込むつもりだった。

 

 

「待――」

 

 

 鬼が何か言う前に、顔面を拳で打ち抜く。顎が丸々飛んでいき、首の骨が折れた。弦司はそのまま鬼の腹を蹴り飛ばし、地面に転がす。

 

 

(とった――っ!?)

 

 

 そのまま散弾銃を引き抜こうとし、その中途、突如として弦司の足が引かれる。何が、という暇もなく、弦司は足を引っ張られ振り回された。

 

 

「ガッ!?」

 

 

 そのままの勢いで地面に叩きつけられる。さらに二回、三回、地面に叩きつけられて、ようやく足から何かが離れた。

 全身が痛い。体の至る所で骨折しているのだろう。それでも、立てるし拳は握れる。背中にある散弾銃は、あの衝撃でも歪んだ様子もない。まだ戦える。

 面覆いの中で血を吐き出しながら立ち上がる。

 鬼は顔も腕も再生を終えていた。そして、両腕にはそれぞれ縄が握られていた。これが鬼――いや、縄鬼の血鬼術で人々を殺めた武器であろうか。

 何にせよ、弦司の当初の予定は崩れた。弦司が頭を巡らせながら拳を構えると、ぎょろぎょろと縄鬼の落ち窪んだ眼が弦司を見据える。

 

 

「お前、鬼だなぁ」

「だったらどうした」

「そうか、お前が()()()()()()()()かぁ」

 

 

 縄鬼の口元が邪悪に歪む。なるべく素性を隠して戦ってはいたが、やはり弦司の情報を鬼達は共有していたようだ。それに縄鬼の言葉を聞く限り、それだけではないような気がする。

 弦司は敢えて敵の話に乗り、軽口をたたく。

 

 

「何だ? ご褒美に飯でも奢ってくれるのか? あの方もお優しい所があるな」

「馬鹿を言っちゃいけないよぉ。あの方はお怒りだぁ。心底お怒りだぁ」

「おいおい、再放流しておきながら、自由にしたら怒るってやめてくれよ。で、そのお怒りを鎮める方法はあるのか?」

「無理無理。あのお方はお前を許すつもりはないぃ。だが、あの方の前にお前を連れて行けば、お喜びにはなられるぅ。なあお前……俺に縛られろぉ!」

「っ!?」

 

 

 言うなり、縄鬼は縄を振り回し弦司に襲い掛かってきた。色々重要な情報が聞けたが、それは後回し。まずは奴の頚を落とすのが先だ。

 縄はまるで生き物のように、前後左右、さらには上下にうねりながら迫る。これで人々を縛り、命を奪ったのだろう。

 弦司の中に怒りの炎が灯る。人々の命を尊厳を奪った奴を、必ず屠る。

 弦司は真っ直ぐ縄鬼へ向かった。左右から挟み込むように縄が迫る。駆けながら獣さながらに姿勢を低くし縄を避ける。縄の通った後から暴風が吹き荒び、体を撫でる。縄と思って甘く見ると、痛い目を見るだろう。距離を取るのは危険だ。弦司はさらに脚に力を入れ、縄鬼へ迫る。

 

 

「逃げるなぁ!」

 

 

 今度は足下から縄が襲いかかる。小さく飛び避けると、もう片方の縄が弦司へ向かう。空中にいるため、動く事ができないが弦司は慌てない。

 籠手で縄の方向が変わるように、上手く受け流す。縄が弦司を捕らえる前に、地面を蹴って縄を完全にいなした。

 そして、弦司の間合いに入る。驚き目をむく縄鬼の顔面に向けて、低い姿勢から拳を振り上げる。再び両腕に阻まれたものの、骨を粉砕した。さらに拳を振り上げた事で、縄鬼の体は宙に浮く。そこを散弾銃で狙おうとして、背後から来た縄を宙返りして避ける。着地する前に、縄を蹴って距離を取った。

 墜落する縄鬼。弦司は追撃をしようにも、縄は鬼の周りを漂い、迂闊に近づけなかった。

 受け身も取れなかった縄鬼は、体を戦慄かせながら立ち上がる。

 

 

「何なんだよ、お前ぇ……! 縛られろよぉ……縛られろよぉ!」

 

 

 激昂する縄鬼。咆哮と同時に左右の肩から、それぞれ一本ずつ腕を生やす。新たに生えた手の中にも縄。

 弦司は小さく舌打ちをする。

 

 

「お前ら鬼ってのは、腕を生やすのが好きだな」

「オイラが好きなのは、縛る事だぁ!」

「そうかいそうかい。それじゃあ、()()()()()は違うって教えてやるよ!」

 

 

 上下左右、計四本の縄が弦司に迫る。弦司は恐れず、前へと踏み出した。

 

 

「ハッハァ! 馬鹿がぁ! 前に出てきたぁ!」

 

 

 弦司の選択を愚かと見たのか、縄鬼は嘲笑する。

 先の攻防で一つ分かった事がある。縄鬼は縄を使う事に慣れている。だが、当然ながら()()()()()()()()()()()()()。自然と縄の動きは、人体を拘束しようと動く。弦司は鬼だ。鬼は筋肉とは、別の理で体を動かす。でなければ、鬼達はあの細腕であれほどの力を容易には出せない。縄鬼はその理を分かっていない。

 弦司は姿勢を低くする。獣のそれよりも、さらに低く。そして、両の手足で地面を弾く。それは鬼にとって、埒外の動き。弦司は四本の縄を一気に潜り抜けた。

 低姿勢のまま腕を払う。鬼の両足を掬い、地面に転がす。

 今度こそ散弾銃を構えようとした所で、鬼が四本の腕を振り回す。うねった縄が迫り、弦司は鬼の上を飛び越えて躱した。

 再び、縄鬼から距離を取る。あと一手だというのに、その一つが遠い。しかし、弦司は焦らない。時間はこちらの味方なのだ。何も焦る事はない。

 

 

「またオイラを馬鹿にしたなぁ……! 縛るぅ……! 縛ってやるぅ!」

 

 

 怒りに身を震わせながら、鬼は立ち上がる。対して、弦司は長く息を吐き、冷静に仕切り直そうとする。

 確かに、弦司の見立ては間違っていなかった。ただ足りないものがあった。それは――戦闘経験。

 

 

「――もう許さねえぞぉ!」

「許さなかったら、どうするんだ?」

「あのガキどもから、やってやるぅ!」

「っ!?」

 

 

 鬼に言われ、周囲の気配を探る。隠れろと叫び、十分に時間を稼いだと思っていた。しかし、四名の子どもはまだ弦司が到着した時から動いていなかった。

 これが戦闘経験豊富なカナエであれば、瞬時に彼らが動けない事を看破した。もしくは、彼らを庇いながら戦った。しかし、弦司には全てに気を配りながら戦えるほど、戦闘経験がなかった。

 

 

「ほぉら、ガキが死ぬぞぉ!」

「くそっ!」

 

 

 弦司が動くよりも先に縄が四本、子ども達へと向かう。弦司は遮二無二駆け、子ども達の前に立ち塞がった。

 そこから、一本、二本、三本目まで籠手で縄を弾く。が、ここまでだった。

 

 

「ぐっ!」

 

 

 弾ききれなかった四本目が、弦司の左肩を激しく打ち、骨がひび割れる。左肩の再生が終わる前に、弾いた縄が動き出し、弦司の両腕に巻きついた。

 縄鬼の顔に喜色が浮かぶ。

 

 

「やった! 縛ってやったぞぉ!」

「ごめんなさい……わたし達のせいで……!」

 

 

 弦司の背後から謝る声が聞こえるが、今はそれに答える余裕はない。

 弦司は逆に引き寄せようと右腕を引くが、手応えはなく縄が伸びるだけだった。薄々感づいていたが、血鬼術により長さも動きも自由自在らしい。

 逆に左腕が引っ張られ、左肩に激痛が走る。さらに隙をついて、弦司の両足を残った縄が締め上げる。

 弦司が引けば縄は伸びて、力が緩めば縄鬼が引く。完全に相手の土俵に引きずり込まれてしまった。

 

 

「どうだ、俺の縄の味はぁ!」

「気色悪いんだよ! ぐっ……!」

 

 

 縄はまるで万力のように、弦司の両手足を締め付ける。激痛が走る。

 このままではジリ貧だ。弦司は歯を食いしばり前に出る。縄鬼は近距離を嫌って、弦司を振り投げようとする。それが狙い目だ。

 振り投げようと縄を強く引いたのを機に、弦司は両手足に力を込める。瞬間、縄が強く引き合い、四本の縄がピンと張る。

 綱引きのような形となった。ここが勝負所だと、弦司はさらに力を入れる。このまま近接戦に持ち込んでみせる。

 膂力は弦司の方が上回っていたのか、僅かずつ縄鬼が引き込まれた。

 

 

「無駄な抵抗しやがってぇ……! じっくり縛りたかったけど、もういい! 潰れちまえぇ!」

 

 

 弦司の抵抗に苛立ったのか、縄鬼は縄に力を流し込む。

 

 

「ぐあっ……! やめ、ろ……!」

 

 

 瞬間、縄は弦司の両手足に食い込む。力を込めるもそれでは止まらず。呆気なく、両手足は締め潰された。

 

 

「ああああああああっ!!」

 

 

 皮膚は破れ、肉が飛び散り、骨が擦り潰される。大量の血液を手足から噴き出しながら、弦司はその場に倒れ伏した。

 

 

「いやぁぁっ!!」

 

 

 子ども達の悲鳴が木霊する。

 その様子に縄鬼はニタリと笑うと、弦司の前に腰を下ろした。

 

 

「へっへっへ。さすがに、手足を失ってすぐには再生できないだろぉ? このまま縛る前に……あの方はお前の素性に興味深々だぁ。その素顔、見せてもらうぞぉ」

 

 

 縄鬼は弦司の面覆いに手を掛ける。手足を失った弦司に抵抗はできない。弦司の面覆いは、いとも簡単に取り払われる。

 そして素顔が――露わにならなかった。

 そこにあったのは、()()()()()の面。

 

 

「……はぁ?」

 

 

 予想外の物に縄鬼の思考が停止する。

 ――それを弦司は待っていた。

 

 

「あぐっ!?」

 

 

 右腕以外の再生能力を遮断し、瞬く間に右腕だけを元に戻すと、散弾銃で抜き打ち様に縄鬼の頭を叩き割る。

 地面に叩きつけられた縄鬼の頚に、寝転がったまま狙いを定めると――轟音。

 鬼の腕力で固定された四つの銃身は決してブレることなく、特大の四つの弾丸は寸分狂わず頚へと吸い込まれ、文字通り頚から上を挽き肉にした。

 体を再生させながら、中央部を折って銃身から排莢する弦司。元に戻った左手で弾を込めながら、何が起きても構わないように油断なく縄鬼へ照準を合わせる。

 そうして数瞬後、縄鬼の体は灰へと変わる。弦司は初めて単独で、鬼を討ち滅ぼした。

 

 

「勝った……か」

 

 

 弦司は再生を終えると、長い溜息を吐きながら立ち上がる。反省点や検討事項は諸々ある。だがそれよりも、最初にこなさなければいけない事がある。

 

 

「お前たち――」

 

 

 振り返りながら掛けた言葉が途切れる。弦司の頭に拳大の石が当たったからだ。石が飛んできた方向には――子ども達がいた。

 視線をゆっくり向ける。そこには、三人の少女を守る様に立ちはだかる少年がいた。

 そして、彼は言った。

 

 

「来るな……この、()()()!!」

「……」

 

 

 少年は震える体で石を拾うと、弦司に向けて投げる。面に石が当たる。予想以上の衝撃に頭が揺れる。

 弦司は呆然としながらも、少年の言葉に心の中で頷いていた。両手足が捻り潰され、それが一瞬で治る。確かに()()()だ。

 今までも、人を助ける機会はあった。だが、人と接する時は誰かが一緒に居た。正式な鬼殺隊の隊士ではなかったため、必ず誰かが間にいた。

 助けたのに、とは思わなかった。助けたって、それが報われるとは限らない。当然の事だ。こんなの前世の創作ではよくある話とも思った。ただ……想像以上に痛かった。

 しのぶにアオイ。後藤に雨ヶ崎。一度は受け入れてくれた家族と環。そして……カナエ。自身がどれだけ善意の上に立っていたのか、今更ながら痛感した。

 今後は、一人の時も増える。その度に、こんな想いをしなければならないのか。鬼だから、こんな想いをしなければならないのか。

 それでも、人に戻るまで歩みは止められない。

 弦司はその場に身を屈めると、面を取り彼に微笑みかけた。少年は益々顔を強張らせる。

 

 

「させない……! ()()()()()()も、兄ちゃんの分まで俺が守るんだ!!」

「そうか。頑張ったんだな。本当に、遅れてごめんよ。すぐに他の大人達が来るから、ここで待っているんだ」

 

 

 弦司はそれだけ伝えると、集落の方へ向かう。彼らの傍にはいられない。ならばせめて、誰か別の者を彼らの傍にいさせてやらねばならない。

 背を向ける弦司の足元に、再び石が転がる。

 それが二つ、三つと続いた所で、

 

 

「ダメだよ、健三郎お兄ちゃん!」

「あのお兄ちゃんは、助けてくれたんだよ!」

「投げちゃダメです!」

 

 

 少女達の制止を求める声が上がった。

 弦司は思わず振り返る。三名の少女が、必死に少年を止めようとしていた。

 

 

「ありがとう。今度は君達がお兄さんを助けてあげるんだ」

 

 

 最後に一言だけ弦司は伝えた。三人の少女が涙に崩れていく。

 今度こそ、弦司は立ち去る。

 

 

「本当に、ありがとう、ございます!」

「ごめんなさいー!」

「このご恩は忘れません!」

 

 

 少女達は口々に感謝を叫ぶ。その言葉で十分だ。弦司は胸の内に走る痛みを、感謝で誤魔化した。

 

 

 

 

「不破さん!」

「しのぶか。良かった無事で」

 

 

 集落へ向かう途中、しのぶと合流した。彼女の向かった集落には、血鬼術を使える鬼はいなかったらしく、すぐに討ったらしい。

 ただ、すでにその時には、カナエは一つ集落を救援して次へ向かっていたらしい。しのぶはカナエとの合流は諦めて、弦司の方へと向かったとの事だった。

 しのぶは弦司の血塗れの手足を見て、心配そうに顔を覗き込む。

 

 

「不破さんは……苦戦したみたいね。大丈夫?」

「傷は平気さ。ただ――」

「ただ?」

「子ども達を助けられなくて、困っていたところさ」

 

 

 弦司は少年に警戒され、少女達を泣かせてしまった事を伝えた。

 しのぶは悲壮に表情を変えると、

 

 

「分かったわ。私が子ども達の所へ向かうから。その子達の事は、心配しないで」

「ああ、助かる」

「それと、不破さんは姉さんとすぐに合流する事。いい?」

「……分かった」

「姉さんが来るまで、もう少しだけ気張って」

 

 

 しのぶは弦司の背中を強く叩くと、笑って子ども達の元へ向かった。どうやら、心配させてしまったらしい。意地を張らず、ここは甘えさせてもらう事にした。

 集落へと戻ると、すでに事後処理部隊・隠がいた。

 むせ返る血煙と糞尿の混じった異臭。苦悩に歪む人々だったモノ。あまりの凄惨な集落の様相に、時折すすり泣きさえ聞こえる。誰も彼もが悲痛に胸を痛めながら、遺体を一つ一つ丁寧に処置していく。

 その中に見知った顔がいて、弦司は声を掛けた。

 

 

「後藤」

「不破か。ご苦労さん。お前が鬼を討ってくれたんだよな? 本当に助かったぜ」

「いいさ。それより、生存者は俺の確認した限り四名だ。今、しのぶが向かってるから、誰か援護にやってくれ」

「本当か!? 幸い……って言っちゃあ悪いな。ともかく、生存者がいて何よりだ。すぐに援護に向かわせるわ」

「助かる。それと、カナエはどこにいる?」

「それなら、全部の集落解放して、こっちへ向かってる途中だ。もうすぐ着くから、ここで待ってた方がいいぞ」

「ああ」

「それじゃあ、そこら辺で休んでてくれ。俺は近くにいるからな」

 

 

 後藤は弦司の視界の範囲内で、別の隠に話しかけに行く。彼にも気を遣わせてしまったようだ。嬉しかった。おかげで、思考に余裕が生まれる。

 カナエを待って、色々と相談して……情けないが、愚痴でも聞いてもらおうか。そんな事を考えていると、

 

 

「まだ鬼が残っているじゃないか」

 

 

 緩やかな時間をぶち破るように、一人の隊士が現れた。一纏めにした長髪。他者を寄せ付けない鋭利な視線と三日月型の口。しのぶと雨ヶ崎より伝え聞いた、風能だった。

 彼の右手は、左腰の鞘に納められた日輪刀に、手が掛かっている。隠達に緊張が走る。

 気分転換も今日は許されないらしい。悪い事はとことん続く。

 弦司は溜息を吐くと、風能に向かい合う。

 

 

「それは俺の事か?」

「他に鬼がいるか?」

「いないが、俺は隊士だぞ。その刀を抜いたら、花柱様に泣きつくから覚悟しろ」

「女の威を借る鬼か。鬼とはどこまで卑劣になれるんだろうな」

 

 

 風能の切れ長の目が弦司を射抜く。

 弦司は違和感を覚えた。この男もご多分に漏れず、不死川実弥のような鬼という存在に恨みを持つ人間だと思っていた。しかし、この視線は実弥と違う。弦司を通して鬼を見ていない。弦司そのものを憎悪している。

 人間だった時の恨みとも思ったが、風能という名に覚えはない。ましてや、鬼になってからはどれだけ鬼殺隊に気を遣っていたか。風能に恨まれるような記憶は、全くなかった。

 苛立ちが落ち着きに変わる。何かがおかしい。風能の真意を知らなければならない。

 

 

「卑劣とは随分だな。少なくとも、他の鬼と同じ真似をした記憶はないぞ」

「……あくまでしらを切るか」

 

 

 言い、風能が日輪刀の柄を強く握り締める。弦司からはその様子に偽りを見つけられない。内容はともかく、風能の感情は本物としか思えない。

 弦司は焦る。

 

 

「待て待て待て! 本気で心当たりがない!」

「藤の花の家。これでも思い出せないか!」

「そんなの、たくさん世話になったから分かる訳ないだろ!? 人……いや、鬼違いじゃないのか!?」

「……そうか、もういい」

 

 

 風能の目が据わる。彼は弦司が何かを仕出かしたと決めつけている。これでは話し合いにならない。

 

 

「風能様! 隊士同士の戦闘は隊律──」

「黙っていろ! こいつは俺が断罪する!」

 

 

 後藤の制止も風能は振り切る。最早、戦闘は避けられない。覚悟し、弦司が構えを取った所で、

 

 

「──何をしてるの?」

 

 

 楽しげな女性の声音。弦司と風能までも動きを止めた。あまりに調子外れの声なのに、なぜか怒っていると分かる。別に弦司が咎められた訳でもないのに、緊張で体が動かせず、目だけで音源を追った。

 鬼殺隊服に、蝶の翅のような羽織。艶やかな長髪に蝶の髪飾り。

 胡蝶カナエがいた。ただし、声音とは裏腹にいつもの微笑みはない。目を怒らせ、明らかに憤った様子で風能を見ていた。

 このカナエは不破邸で少しだけ見た事がある。環に突っ掛かられた時の彼女だ。今のカナエは感情の制御ができないほど、大きな怒りを抱えている。

 風能はそれを知ってか知らずか、それとも敢えて無視したのか。カナエの前に跪いた。

 

 

「胡蝶様のお耳に入れていただき報告がございます」

「私、忙しいんだけど?」

 

 

 聞く気はないと、カナエは言外に伝える。それでも、風能は頭を上げて、

 

 

「その鬼は、胡蝶様に隠れて人を殺しました──」

「…………へー」

 

 

 風能が言い終わると同時に、空気が重たくなる。カナエが無表情になった。その重圧をまともに受けたせいか、弦司の目から見ても分かるほど、風能は汗を流し震え始める。

 カナエは口だけ弧を描くと、風能の耳元に近づく。

 

 

「弦司さんには常に監視がついています。鎹鴉、隠、隊士に……()

「……は、はい」

「彼の喜びも彼の悲しみも彼の絶望も彼の希望も全部全部見てきました。まだまだ知らない彼はいますよ? でも、この半年近くの彼なら()()()()()()()()()。あなたは、私の知らない彼を知っているのかしら?」

「……奴は、人を、殺しました……」

「つまり鎹鴉、隠、隊士に……そして、私。その全てを潜り抜けて、彼が犯行に及んだと? 私の目は節穴だってあなたは言うの?」

「いや……そうでは、なく……」

 

 

 カナエは笑う。一段と美しく、嬉しそうに。そして、より一層、風能の耳元に近づくと、

 

 

 ──柱を舐めるな

 

 

 その一言にどれだけの感情を込めていたのか。風能が腰を抜かし、地面に転がる。その瞬間、重い空気は霧散した。情けない事に弦司の体はこの時、ようやく動くようになった。

 

 

「……後藤、後は頼んだ」

「うえっ!? いや、その、お前こそ頑張れ……」

 

 

 後藤に一言だけ残すと、弦司はカナエの手を引いて場から離れた。カナエは抵抗しなかった。

 充分に集落から離れた所で立ち止まった。振り返ってカナエと手を繋いだまま顔をのぞき込む。感情を抑えようとしているのだろう、俯いて深呼吸を繰り返していた。瞳から、怒りの色はだいぶ落ちていた。

 

 

「カナエ」

「……ごめんなさい。私、弦司さんが斬られそうなの見て。頭の中、真っ白になって。止められなかった」

「いや、それはいいんだ。カナエがガツンと言ってくれなきゃ、もっと酷い目に遭ってた。本当に助かった」

「でも、冷静さを欠いてはいけなかったわ……今までこんな事、なかったのに……」

「……」

 

 

 目に見えて落ち込むカナエ。弦司は彼女を励まそう――とは、この時思っていなかった。なぜ、カナエがこれほど激昂したのか。そればかり考えていた。

 カナエの激昂を見るのは二度目。不破邸と、現在。あの時と何が共通するのか。

 弦司はカナエの大きく愛らしい瞳を見た。弦司を映した曇りなき瞳は、真っ直ぐ見返してくる。カナエの頬が少し赤くなる。

 

 

「カナエは――」

「な、何?」

「……いや、何でもない」

 

 

 思い至った感情に弦司は言葉を濁し、目を逸らした。そして、あからさまに話題を変える。

 

 

「これからどうする? しのぶと合流するなら、もう少し落ち着く必要があるぞ」

「……どうして?」

 

 

 弦司はカナエにも、少年に畏れられた事を伝える。カナエが再び落ち込んでいく。

 

 

「ごめんなさい。弦司さん、辛いのに、私、自分の感情をぶつける事しか、考えてなかった」

「だから謝るなって。俺のために怒ってくれたんだろ。それに、帰ったらしっかり発散に付き合ってもらうからな。それで、しのぶとは合流できそうか?」

「……やめておくわ」

「そうかい。それじゃあ、どうする?」

 

 

 そこへ、鎹鴉がやってくる。

 

 

「近辺ニ鬼ガ潜ンデイル可能性アリ! 増援ガ来ルマデ巡回セヨ! カァァッ!」

「了解」

 

 

 鎹鴉の指示に従い、巡回を始めようとする弦司。だが、動けなかった。カナエが弦司の手を握って離さなかったからだ。

 

 

「カナエ?」

「その……発散って、今からやった方がいいよね?」

「? 何だ、歩きながら愚痴でも聞いてくれるのか?」

 

 

 カナエが首を横に振る。

 

 

「弦司さん、愚痴なんて言わないわよね。相手が子どもなら尚更。どうやってあなたの傷を癒すの?」

「……それはそうだけど」

 

 

 弦司は答えに窮する。隠れて子どもの陰口など、確かに言いたくない。

 だったらどうすればいいのか。考えが顔に出たのだろうか、カナエが微笑んで手を強く握る。

 

 

「だからしばらくの間、こうしておきましょう」

「手を繋いで巡回しろと!?」

 

 

 コクリと頷くカナエ。

 弦司は嫌とかではなく、困惑が先行する。彼女の思考が今一つ理解できない。

 それをどう思ったのか、カナエは口を尖らせる。

 

 

「もう私とは繋がりたくないんだ……」

「だから言い方……! いや、そもそも何で手を繋ぐって事になる!?」

「人の体温が感じられるって、落ち着かない?」

「……そういうものなのか」

 

 

 弦司は溜息を吐くと、カナエの手を引いて歩き始めた。背後から、カナエの上機嫌な雰囲気が伝わってくる。

 

 

「そうそう。それでいいの」

「……」

「まだ苦しい?」

「全然」

 

 

 カナエの体温が手を通して伝わる。誤魔化した胸の痛みは、完全に消えていた。

 弦司はこの日、一番の溜息を吐いた。

 

 

「あ~あ」

「む、何なのよ。さっきから溜息ばかり。何かあったの?」

「教えない」

「え~! 教えて~」

 

 

 カナエが弦司の腕に纏わりついてくる。教えて教えてと、空いた手でツンツン腕を突いてくる。弦司は努めてそれを無視する。

 

 

 ――ずっと考えるのを避けていた事があった。

 

 

 不破邸でのカナエの激昂と苛立ち。あれが何だったのか。ずっと()()()()()()()()

 そして、今日。また彼女が激昂した。弦司には見ているしかできず、誰にも止められなかった。

 その二つが何だったのか、ついに()()()()()()()。すぐに分かった。

 あの日の激昂と苛立ちは環に対する嫉妬。今日の激昂は()()()()を奪おうとする風能への明確な敵意。

 

 

 ――胡蝶カナエは不破弦司に好意を持っている。

 

 

 彼女の様子を見れば、単純明快だ。そんなもの分かってる。だが、気づきたくなかったから、無意識下で考えてこなかった。

 理由はきっと、二つ。

 弦司が鬼で、カナエが人だから。彼女の気持ちに応えられない。鬼は幸せになれないのだから……そんな今まで積み重ねた弦司なりの結論。

 もう一つは……唯一無二と思っていた感情――環への愛――が壊れてしまう。そんな予感があったからだ。

 鬼だから幸せになれない。そんな考えは、想いの前に無力だ。環がそうだった。彼女が『稀血』でさえなければ、想いのまま今も一緒に居たはずだ。

 同じように、カナエも想いのまま一緒に居ようとするのではないか。今がまさにそうだ。幸せになれないとあれだけ伝えたのに、彼女は常に傍にいる。

 そして、それは弦司も一緒なのだ。カナエの好意に気づいて、彼女が手を伸ばせば手に入ると知って。不幸になるからと言って、どこまで無視できるのか。

 

 

 ――山にいた半年を思い出す。

 

 

 あの時の弦司は、まさに生きる屍だ。

 ただ生きている。それだけの存在だった。

 笑いもしない。泣きもしない。怒りもしない。鬼舞辻無惨が言った通り、弦司は『不変』となりただただ藻掻き苦しんでいた。

 

 

 ――それを壊してくれたのが、カナエだった。

 

 

 蝶屋敷に連れ帰ってくれて。

 笑顔を思い出した。涙を思い出した。怒りも、悲しみも、全部全部彼女が運んできてくれた。弦司は『変化』できた。

 そして今、隣で笑ってくれているのは? 隣で怒ってくれるのは? 隣で悲しんでくれるのは? 隣で『変化』してくれるのは?

 ……カナエだ。

 全部全部全部カナエだ。今の全てがあるのは、全部カナエのおかげだ。そんな彼女が手に入るとすれば……もう気持ちが止まらない。

 考え始めたら、本当にすぐだった。だから、これまで考えて来なかったのに――。

 

 

「弦司さーん? もしもーし。本当にどうしたんですか?」

「……カナエのせいだからな」

「えっ!? 何々突然!? さっきから本当に何なの!?」

 

 

 また隣で表情を変化させるカナエ。

 弦司はまた溜息を吐いた。吐くしかなかった。

 カナエが愛おしくて、狂おしい。彼女の全てが欲しくなる。

 しかし、想いのまま暴走するのは違う。お互いをただ傷つけるだけだ。

 とにかく今は向かい合おう。己の気持ちにも……そして彼女の気持ちにも。

 

 

「まあ、弦司さんが元気になったみたいだし……良い事にしましょう」

「そういう所だぞ」

「ええっ!? 本当に何なの!?」

 

 

 ――鬼を哀れむ者と人を喰らわない鬼。

 始まりはそんな役割を持った関係だった。

 ――『弦司』と『カナエ』。

 それはすぐに崩れて、人と人との温かい関係になった。

 ――そしてこれからは、男と女として。

 また、二人の関係は変わっていく。

 

 

 

 

 あの日の任務から数日後、蝶屋敷での事だ。

 弦司、アオイ、しのぶ、カナエ、カナヲという蝶屋敷の人員が全員集まった所で、

 

 

「中原すみです」

「寺内きよです」

「高田なほです」

「「「よろしくおねがいします!!」」」

 

 

 三人の少女が勢いよく頭を下げる。

 弦司はしのぶを見た。彼女はそっと目を逸らした。

 

 

「しのぶ……」

「……何?」

「反対はしない。むしろ、お前の判断には諸手を挙げて賛成しよう。だけど……犬猫みたいに拾ってくるのはどうにかならんのか?」

「言われると思っていたわよ!! だけど、しょうがないでしょうがぁっ!!」

 

 

 頭を抱えてうなだれるしのぶ。

 弦司と別れた後、しのぶは生存者とすぐに合流した。小柄な女性のしのぶは、すぐに警戒心を解かれ、無事に保護できた。問題は保護した後だ。

 彼らに行く当てがなかった。悩んだしのぶは診療所の開放に人員がいる……などという最もらしい建前を出して、蝶屋敷で引き取る事にしたのだ。

 鬼殺隊というものを知って、それでも彼女たちが蝶屋敷にいるのであれば、弦司からは何も言う事はなかった。それでも、訊きたい事はあった。

 

 

「他にも君達には選択肢はあったと思う。それでもどうして、蝶屋敷に来たんだ」

「……健三郎お兄ちゃんが鬼殺隊に入るって言ったんです」

 

 

 二つ結いの少女、中原すみが悲しそうに答える。

 それをおさげの少女、高田なほが引き継ぐ。

 

 

「お兄ちゃんが怪我をしたら、私達が治してあげたいんです。それにもしも何かあったとしても……ここなら、すぐに知る事ができます」

「……そうか。あの少年が……」

 

 

 決して、鬼を前に引かなかった少年。もし、鬼に出遭わなければ、勇敢な少年として何かを為しただろう。だが、その未来は閉ざされた。また一つ、鬼が憎くなる。

 

 

「それとですね――」

 

 

 なほがくせ毛のない長髪の少女、寺内きよの背中を押す。彼女は少しモジモジした後、

 

 

「弦司さんに、恩返しをしたいんです!」

「恩返し?」

「はい! あの時、私は死んじゃうって思ったんです。だから、誰か助けてって願ったら……弦司さんが来てくださいました。私は命も心も弦司さんに救われたんです。だから、少しでもこのお気持ちを弦司さんに返したいんです!」

「そうか……きよ、ありがとうな」

 

 

 彼女の言葉に胸の内が熱くなる。それを誤魔化すように、弦司は三人の頭を撫でた。弦司の大きな手が珍しいのか、三人はわーわーきゃーきゃー楽しそうにする。

 アオイは少しだけ表情を緩めると、すぐにキリリと引き締める。

 

 

「しばらくは、日中の家事を手伝ってもらいます。医療関連は私と共に、少しずつ技術を身に着けていきます。とはいえ、医療技術は一朝一夕とはいきません。診療所の開放までに()()()()()()を目指しましょう!」

「「「はい!!」」」

 

 

 元気よく返事をする三人。

 一方、カナエは三人をジトッと見る。そして、カナヲの頭を撫でて今度は自分の手を見て。なぜかカナヲを連れて頭のつむじを弦司に向けてきた。

 

 

「すごく楽しそうだったから、私とカナヲとしのぶも」

「やりません! 姉さんも子どもじゃないんだからやらないの!」

「……」

 

 

 意味が分からない。何なのだ。この女は何なのだ。

 弦司が困惑していると、きよ達は無邪気にはしゃぐ。

 

 

「すっごいおっきいですよ!」

「ゴツゴツして力が強いですよ!」

「ほんわかします!」

 

 

 カナエの真似をして、三人も頭を差し出す。しのぶは分かってるだろうな、と射殺さんばかりに睨みつける。

 さすがに衆人環視の元でやる気は起きず、弦司はきよ、すみ、なほ、カナヲの四人だけ、思い切り頭を撫で回した。

 カナヲを囲んできよ達がはしゃぐ。

 カナエが殊更不機嫌そうに、口をへの字に曲げた。

 

 

「そうですか。私は触りたくもないですか」

「いや、そうじゃなくて……」

 

 

 拗ねるカナエをはね除けられるほど、今の弦司は強くない。ほとんど反射的に、()()()()()()でカナエに接してしまう。

 カナエの耳元に口を近づけると、

 

 

「後で、二人きりの時にな」

「っ!?」

「あっ」

 

 

 場所を間違えた。そう気づいた時には、すでに遅かった。

 さすがに、この近距離では聞かれたのか。きよ達から黄色い歓声が上がる。

 

 

「二人きりの時だって!」

「一体、何するんですか!」

「大人です!」

 

 

 一方、しのぶは青筋を立てて、アオイは眉間にこれでもかとしわを寄せる。

 

 

「不破さん……姉さんと二人きりで、何するつもり……?」

「お二人ともいい大人なんですから、異性交遊を咎めるつもりはありません。しかし、少しは節度を持って下さい」

 

 

 弦司が悪いのか。いや、これは弦司が悪かった。

 少し頬を赤く染めたカナエを見ながら、弦司は蝶屋敷の姦しい声に翻弄され続けた。




いつも誤字脱字報告に、ご評価ご感想とありがとうございます。
よくよく見てみれば、前回の投稿で最初の話から一カ月経っていました。
ここまで続いたのも、ここまでお読みくださった方のおかげです。

ようやく、蝶屋敷のメンバーが全員揃いました。
ですが、三人娘の名前がゲシュタルト崩壊します。年でしょうか。
間違っていたら教えてください。

彼女たちの集合と共に、物語ももう一度大きく動いていくと思います。
それでは引き続き、どうかお付き合いください。


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第12話 選択・前編

いつも誤字脱字報告ありがとうございます。

今回は長くなりましたので分割します。
それでは、お楽しみください。


 己でなくなる瞬間は、何時だって嫌なものだ。

 その時はいい。感情に任せ、自身を突き動かすだけで終わる。

 問題は終わった後、代償を払う。

 後悔、悔恨、嫌悪。自身の中には、そんな後味の悪い感情しか残らない。どうしてそんな事をしたのか、苦味を延々と噛み締める。

 まさに後悔、先に立たずだ。

 つい先日、カナエは己でなくなる感覚を味わった。

 ――弦司を斬ろうとしていた。

 それを理解した瞬間、頭の中が真っ白になって、目の前の男に敵意を向けた。手を出さなかったのは、そいつがすぐに跪いたから。それがなければ、何をしていたか分からない。

 そんな事しなくても良かった。間に入って一喝。それだけで良かった。でも、できなかった。

 怖かった。最近、こんな事ばかりだ。

 カナエがカナエでなくなっていく。

 ダメだと思っている事を、それでもやってしまう。

 ――好きな男の子でもできたらカナヲだって変わるわよ。

 他ならぬカナエが言った言葉だ。それがなぜか、頭の中に浮かんだ。それと同時に、弦司の顔が思い浮かんだ。

 そんなはずはないと否定する。

 『好き』とは。『愛』とは。もっと綺麗で美しいものだ。

 ――胡蝶家(わたしだけ)(もの)

 ――私以外、仲良くして欲しくない。

 ――傷つくぐらいなら、閉じ込めたい。

 『好き』とは。『愛』とは。こんなにも醜くて、意地汚くて、薄汚れたものとは違う。こんなもの、違う。

 だがもし、カナエが弦司が『好き』で。それでカナエが変わってしまったのだとしたら。

 ――こんな気持ち、知られたくない。

 

 

 

 

 ――弦司が蝶屋敷に来て、もうすぐ六カ月になる頃。

 鬼になって、一年近く経った。一年間もの長い間、弦司は人間だった頃の生活を捨てていた事になる。

 鎹鴉より届いたこの知らせは、ある意味、当然の帰結だったのだろう。

 ――友人が死んだ。

 尋常小学校の時から友人だった。ずっと結核で苦しんでいた。

 弦司は手紙を送れるようになってからは、彼には自身も病だと伝えていた。嘘ではないが、本当でもない。それを心苦しく思うも、彼との繋がりを断ちたくなかった。

 返信には必ず、どちらが早く治すか競争だと書かれていた。結局、彼は完治する事なく、この世を去った。

 生きていれば、別れは必ず来る。カナエとだって、しのぶとだって……何時か別れが来る。だからこれは、自然な事なんだ。

 ――ならば、鬼である己は。

 ずっと日の光を浴びないで生き続けたら。

 十年も経てば、人であった時の弦司の足跡など消えてしまう。あの頃へと戻れなくなってしまう。

 そして、百年も経てば……鬼となった己を受け入れてくれた人も、消えて去ってしまう。何度も身を引き裂かれるような別れを、味わい続ける。

 恐ろしい。鬼とは、未来を思う事とは、こんなにも恐ろしいのか。

 それと同時に、もっと恐ろしい感情も生まれた。

 ――彼が鬼であれば。

 吐き気がした。

 己の苦しみに、友人までも巻き込もうとする、どこまでも自己中心的な思考に。それでも、病もなく一緒に一生健やかに過ごせるなら……そんな想いが頭を離れなかった。

 

 

「弦司さん」

 

 

 やわらかい声音が緊張感を持って弦司を呼びかける。

 座ったまま頭を上げると、目の前にカナエの顔があった。いつも間にか、弦司の自室に彼女がいた。

 刻限はすでに昼。たしか泊りの任務で、カナエは出かけていた。任務を終えて帰ってきたばかりなのだろう、少し裾が汚れた羽織が目に入る。

 どうやら、カナエの入室に気づかないほど、思考に没頭していたらしい。

 弦司は自嘲気味に笑った。

 

 

「心配ばかりかけてすまない……本当に、俺は弱いな」

「手紙が来てからおかしいってすみから聞いたけど、何かあったの?」

「――友が亡くなった」

 

 

 それだけで全てを察したのか。カナエは悲しそうに眉尻を下げると、弦司の手をそっと握ってくれた。

 現金なもので、彼女の気持ちに気づき、自身の気持ちが変化したあの日から。これだけで、苦しみは心から洗い流されていく。

 カナエが手を握ったまま、隣に腰を下ろす。

 

 

「葬儀には出るの?」

「時間帯が日中だ。俺は動けない。それに……」

「うん」

「…………もし、腹減ったら。それは最悪な別れだろ」

「――っ!」

 

 

 血の匂いを僅かでも感じたら。それを思うと、鬼の弦司は会わない方がいい。わざわざ、最後を汚す必要なんてない。でも、別れを告げられない事は、酷く寂しい事だった。

 弦司はふと、腑に落ちる感覚を得た。

 ――彼が鬼であれば。

 別れもできない。だからこそ、こんなにも恐ろしい思考が離れてくれないのか。本当に悍ましい考えであった。

 そんな事を考えていたせいか、カナエが弦司を抱きしめた。本当に負の感情に、彼女は敏感であった。

 

 

「弦司さんは弱くない。彼を想っている気持ちは、当然で尊いものなんだから。素直に悼みましょう」

「……」

 

 

 だが、やはり男心には人一倍鈍感である。

 確かに、悪い考えは全て吹き飛ばしてくれた。代わりに、どうしようもない気持ちが湧き上がってくる。友人が亡くなったばかりだというのに、直情的な欲求が生まれてくる。

 だが、それはダメだ。ただただお互いを傷つけるだけだ。でも、ここで抱き締め返しでもすれば、どうなるか分からない。

 結果、弦司は何もせず、されるがままになった。

 カナエが弦司の耳元に囁きかける。

 

 

「少ししたら、気分転換に出かけましょう」

「ああ」

「そういえば、みんなと一緒に遊びに行った事はなかったわよね。せっかくだし、すみもなほもきよも、しのぶもカナヲもアオイも、みんなで」

「楽しそうだな」

「ね? だからもう少ししたら、いつもの弦司さんに戻ってね」

 

 

 弦司は頷いた。

 もう友の事は考えていなかった。彼なら苦笑いして、蹴り飛ばすであろう。

 いつかそっちに行った時に謝る。だから今は――さようなら、倫善。

 ――たっぷり待つから、遅れて来い。

 そんな声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 それからの日々は多忙を極めた。

 蝶屋敷の面々は、はっきり言って忙しい。鬼殺は元より、鬼の研究に各種報告と鍛錬。簡単に挙げただけで、それだけの仕事がある。だというのに、全員が鬼殺に穴が出ないように同日に休暇を取る。忙しくなって当然だった。

 そして裏で行われた地味で激しい攻防の末、日取りが決まり当日――。

 

 

「うおおおおおんっ!!」

 

 

 カナエは這い蹲って吠えていた。あれだけ忙しかったのに。あれだけ頑張ったのに――今日に限って、緊急任務が来てしまった。

 

 

「カナエ様……」

「あんなに頑張っていたのに」

「可哀想です」

 

 

 きよ、すみ、なほの三人がカナエを慰める。すでに出かける準備をしてたため、三人ともいつもの白衣ではなく着物だった。それぞれ、赤・青・黄色を彩った着物で、蝶の刺繍が可愛らしい。

 

 

「姉さん。また機会はあるから。行こ?」

 

 

 カナエが頑張っていたのを知っていたからか。さすがのしのぶも姉の醜態を叱る事もできず、背中を撫でながら、優しい言葉を掛ける。彼女にもカナエと同じ任務が下されたため、着物ではなくすでに隊服を着ていた。

 

 

「それで本日はいかがいたしましょうか? 後日に改めますか?」

 

 

 アオイも少し気落ちしているのか。眉尻が下がった表情で、カナエ達に尋ねる。ちなみに、彼女も着物姿だ。紫を基調とした、蝶の模様が美しい着物だった。髪型もいつもの二つ結いではなく、後頭部で一纏めに結い、簪を挿している。彼女の凛々しさが引き立って、良く似合っていた。

 すでに鬼殺隊服に着替えているカナエは、のろのろと立ち上がると、薄紅色の着物を着たカナヲを抱きしめる。

 

 

「いいえ、みんなは行って。私の分まで、存分に楽しんで。それだけで、私は浮かばれるから……」

「よろしいので?」

「お土産買ってきたら、よろしいです……」

「分かりました。それでは、ご武運をお祈りしております」

「……」

 

 

 アオイはごくごく生真面目に対応しているだけなのだが、真面目過ぎて早く行けと言っているように聞こえる。ちょっと可哀想なので、弦司が声を掛ける事にする。ちなみに、弦司も皆に合わせて今日だけは藍色の着物である。

 

 

「何か欲しいものはあるか?」

「美味しい物と可愛い物」

「大雑把だな。まあ、俺の美的感覚に任せろ」

「それは不安……」

「ひょっとこのお面買ってくるぞ」

「不安的中」

 

 

 お互い軽口をたたき合って笑い合う。これで気も紛れたであろう。もう大丈夫そうだった。

 

 

「それじゃあ、行ってくるわね」

「ああ。気を付けて」

「弦司さんも気を付けてね。人が多いから大丈夫だとは思うけど、念のため準備だけはするのよ?」 

「分かってる」

 

 

 頷き、場には似合わない巨大な白い袋を掲げる。中には隊服から日輪刀まで、鬼殺に関わる物が全て入っていた。

 ――初の単独任務。

 あの時、鬼から得られた情報から、鬼舞辻無惨は弦司個人を狙っている可能性が高いと判断した。警戒をするに越したことはない。幸い、弦司が一体何者なのか、情報は漏れてはいない。今日のように、素顔で出ても問題はないだろう。

 それと、風能誠一。結局、彼が何を根拠に弦司を憎んでいるのか分からなかった。確かに、弦司が鬼殺隊で活動を始めてから数件、藤の花の家紋の家が襲われた事件はあった。下手人は分かっていないが、どれも弦司とは結び付けられなかった。風能は弦司の血鬼術の使用を主張したそうだが……もう相手をするだけ無駄だろう。

 カナエは処罰を求めたが、ああ見えて彼は同期の出世頭。単純な身体能力や剣技だけであれば、しのぶをも凌ぐ。結局、弦司との接触禁止だけで終わってしまった。

 この荷物は、そういった障害が現れた時の、もしものための保険だ。あれば安心だが、使われないに越したことはない。

 

 

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 

 

 お互いの無事を祈り、弦司とカナエは言葉を掛け合った。

 

 

 

 

 

 カナエ達が立てた計画とは、夜店回りだった。

 縁日である本日、東京府の寺で多くの夜店が開かれる。元々、物珍しい物や美味しい物には困らない東京府がさらに賑わうのだ。それに夜ならば、弦司も自由に動ける。

 全員が楽しめる計画だった。惜しむらくは、カナエとしのぶがいない事だろう。

 

 

「それで俺とは会うんだから、世の中分からないものだね」

 

 

 そう言ったのは、雨ヶ崎だ。青と白のまだら模様の着物を着こなしている。

 カナエ達の代わりに誘った訳ではない。移動中に同様に休暇を取っていた彼と、出くわしたのだ。そして、彼は同行を願い出た。

 女性五人に男は弦司一人。余計な問題を抱え込まないためにも、一緒に居ようという提案だった。

 元の計画からダメ出しをされているような気がしたが、雨ヶ崎の言にも一理あったので、弦司達は提案を受け入れた。何より、今日は人が多すぎた。まさに人がゴミのように混雑しており、少しでも気を緩めれば迷子になる。

 

 

「これが縁というもの。私は彼女達と出会えて、とても嬉しいですよ」

 

 

 そう言い、コロコロと笑うのは()()()と名乗った女性。癖のある黒髪をまとめて左肩から前へと流した髪型と、涼やかな目元が特徴的だ。彼女が噂で聞いた雨ヶ崎の恋人だった。

 アオイはきよと、雨ヶ崎はすみと、こはるはなほと、それぞれ手を繋いで人混みを歩く。ちなみに、弦司はカナヲを肩車して面白い夜店がないか探すよう指令を出していた。面白いとは何なのか、カナヲはまだ分かっていないのか、キョロキョロするだけだ。これもまた経験なので、カナヲはしばらくそのままにしておく。

 アオイは逸れない様に弦司に近づきながら尋ねる。

 

 

「それで、まずはどこを回りますか?」

「腹ごしらえだ」

「賛成です!」

「あれ、何ですか!」

「おいしそうー!」

 

 

 まだ色気より食い気なのか。三人娘が口々に食べたい物のある夜店を指差す。

 

 

「全部回るぞ! 金とか残すとかは気にするな! 金はカナエから貰ってるし、残しても俺が全部食べてやる!」

「やったー!」

「太っ腹です!」

「食べるぞー!」

 

 

 わいわい盛り上がって、年長者たちの手をめいめいが引く。

 誰もがそれを笑って受け止めて、夜店へ向かっていった。

 弦司はそれに着いていきながら、カナヲの足を叩く。

 

 

「どうだ? 何か面白いものは見つかったか?」

「……分からない」

 

 

 最近、簡単な受け答えができるようになったカナヲから、平坦な声が上から降ってくる。それを弦司は嬉しく思いながら、カナヲに答える。

 

 

「そっか。じゃあ、食べたい物とか、何か気になる物はあるか?」

「…………」

 

 

 探しているのだろうか。中々返事が返ってこない。それから、きよがたい焼きを買って、すみがどんどん焼きを買って、ようやくカナヲは指を差した。

 内心、弦司はちょっと驚いた。てっきり、何も決められないものかと思っていたからだ。

 カナヲの差した方には、荷車があった。男が荷車から、何かを取り出している。鬼の弦司にはそれが何なのか、はっきりと見えた。

 

 

「……あれ」

「ああ、ラムネか?」

「……ラムネ」

 

 

 配達夫だろうか。縁日に合わせて頑張って増産し、売りに来たのかもしれない。

 アオイ達に一言伝えると、彼女達も着いてきて、人数分ラムネを買った。

 カナヲはビー玉を落とすところから、じっとラムネを見ていた。

 弦司は受け取ると、すぐにカナヲに渡した。カナヲは興味深そうに見るだけで、何もしない。

 

 

「飲み物だ。飲んでみろ」

「……」

 

 

 弦司が手本として飲んでみせると、カナヲも真似をして瓶に口をつけ傾けた。

 

 

「……しゅわしゅわ」

「ああ、炭酸だな」

「……あまり飲めない」

「炭酸だし、傾けるとビー玉が塞ぐからな。慌てずゆっくり飲んでみろ」

 

 

 それからカナヲは、弦司が特に指示する事なくラムネを飲み干した。きっとこれが、彼女の初めての『好物』だろう。

 弦司はもう一本買うと、カナヲに渡す。何も言わず、また飲み始めた。

 

 

「いいか。それが『好物』ってやつだ」

「……」

「もっと『好物』を増やしていこう」

 

 

 返事が返ってこない代わりに、上からゲップが聞こえた。

 

 

 

 

 それからも粉物を中心に買い込んだり、どこに需要があるのか分からない装飾品を買ったり。めいめいが楽しんだ。

 あれだけ凄惨な悲劇に襲われたきよも、すみも、なほも笑顔だ。アオイも眉間のしわがなく、力の抜けた笑みを浮かべて、よく分からない面をしている。カナヲはラムネをがぶ飲みしている。

 カナエとしのぶには悪いが、今日は来て本当に良かった。

 とはいえ、ずっと遊び続ける事も体力的な問題でできない。軽い休憩も兼ねて、一旦人混みから抜け出して、適当な路地に入った。

 薄暗い路地で女性陣が話し込む傍ら、男性陣はそっと輪を離れる。

 弦司と雨ヶ崎は女性陣が余らせた両手一杯の料理を、少しずつ食べていく。

 

 

「いやー。楽しんだ楽しんだ」

「だね。やっぱり、こういうのは皆でわいわいするのが楽しいよ」

「でも、良かったのか? せっかく二人の時間だってのに」

 

 

 男二人。口をついて出るのは女性の話である。

 

 

「まあ、俺には勿体ないできた女性だから。分かってくれるんだよね……ホント、できた女性だよ」

 

 

 雨ヶ崎はラムネを一口飲み、喉を潤してから続ける。

 

 

「こはるはね、鬼殺隊をやめろって言わなかったんだ。他の女性は、誰も彼もやめろって言ったんだけどね」

「……」

 

 

 後藤から、雨ヶ崎は鬼殺隊に入隊してから恋人が途切れた事がないと、嫉妬交じりに聞かされた事がある。雨ヶ崎がもてるのはもちろんだが、きっと鬼殺隊の事で揉めて、別れを繰り返していたのだろう。

 雨ヶ崎の意見が絶対的に正しいとは、弦司には言えない。それでも、彼が必要としていたのは、こはるのような女性なのだろう。

 

 

「悲しませるなよ」

「努力はするさ」

「鬼殺隊じゃなかったら、ぶん殴ってやってたところだ」

「だろうね。俺も……本当はずっと、こうしていたいんだけどね。でも、悪い鬼がいて手の掛かる同僚がいたら、仕方ないでしょ?」

「誰だよ、手の掛かる同僚って?」

「さあ、誰でしょう」

 

 

 雨ヶ崎の視線の先には、こはるがいた。こはるはアオイと談笑している。彼女はきっと、雨ヶ崎をいつもいつも待っている。ただただ待っている。それは酷く、息苦しい事だろう。でも、弦司は笑顔以外の彼女を見ていない。カナエやしのぶ、アオイとはまた違った強さを持った女性なのだろう。

 弦司はすみが残したどんどん焼きを平らげる。

 

 

「彼女に贈り物は買ったか?」

「買ったし、もう渡したよ。不破さんこそ贈り物は?」

「なんか良さそうな簪があったから買った。帰ったら、カナエに渡すさ」

「攻めるな……でも、カナエ様って優しいから、趣味に合わなくても着けちゃうけど、その辺はどう考えてる?」

「その時は、また改めて一緒に買う約束でもするさ」

「……ちょっと冗談で話したつもりだったんだけど。不破さんって最近また変わったね」

 

 

 雨ヶ崎は言いながら、亀の子焼きを齧る。少女達が遠慮なしに買い込んだので、中々料理が減らない。

 

 

「変わるさ。変わっていかないと、いけないからな」

「やっぱり、カナエ様の……気づいた? 気づくか……」

「今までは、気づかない様にしてた……気づいたら、仕方ないだろ」

「それはまた酷い色男だね。でも、その様子だと向き合う事にしたんだ。良かった……って言えないところがダメだけど」

「何か心配事でもあるのか?」

「いや、不破さんの実家行った時、やりあったそうじゃない? 風能の奴のやらかしも考慮すると、カナエ様って俺の見立てじゃ結構重そうだよ? 女所帯にいて大丈夫?」

「……相談には乗ってくれよ」

「ただでさえ便利屋扱いされているんだ。お手柔らかに頼むよ……」

 

 

 ――本当に楽しい時間だった。

 慕ってくれる同僚がいて。仲間がいて。友もいて。

 人間だった自分がいなくなっても。こうして、その時共に過ごしている人がいてくれれば。そんな事を思った。

 ――何時だって、鬼は傍にいると一瞬でも忘れてしまった。

 

 

「……っ!?」

 

 

 たい焼きを齧ると同時に感じたのは、不快感だった。自身の内側から、何かが広がるような嫌な感覚。

 何か不純物でも入っていたのかと、確認のためにもう少し齧る。そして、確信する。これは味や風味ではない。

 別の力が自身を内から侵そうとするような、そんな感覚。つまり料理が元来持っている物とは、全く別種の力。

 そう例えば――血鬼術。

 手が怒りで震える。一体、お前たちは、なぜこうも人の幸せを脅かすのか。特に人の食べ物に仕込むなど最悪だ。

 燃え上がる感情を歯を食いしばり耐え、あくまでも冷静に尋ねる。

 

 

「これを買ったのは誰だ」

 

 

 きよが手を上げた。

 

 

「あ、私です! 鯛の形してて珍しいなって思って買ったんです! 餡も美味しくてついついたくさん食べちゃいました!」

「はい! とっても美味しかったです!」

「また食べたいです!」

 

 

 嬉しそうに語るきよに、すみとなほが同意する。

 弦司は血の気が引く。預かった少女達が、全員血鬼術に侵されているとしたら――。

 鬼に襲われ、まだ傷も癒えていないのに。健三郎少年が懸命に守り切った命だというのに。鬼はまだ危険に曝すか。また幸せを奪うのか。

 息が詰まりそうになる。それでも弦司は逸る気持ちを抑えつける。ここから先、一手の間違いが全てを終わらせる。

 

 

「っ、アオイ。お前は食べたのか?」

「……はい。他はきよ、すみ、なほと弦司だけではないでしょうか?」

 

 

 不審そうに眉根を寄せるアオイだが、弦司の質問に明瞭に答えてから、弦司に近づく。雨ヶ崎も寄ってきた。

 

 

「弦司、何かあったのですか?」

「……この食べ物から、血鬼術を感じ取った」

「っ、あ、そんな、嘘……!」

「ああもう、何でこんな時に……しかも食べ物とか、ふざけんなよ……」

 

 

 アオイは荒れそうになる息を必死に抑え、雨ヶ崎は頭を掻きむしる。

 誰もが思う。どうして。何で。こんな日に。

 だがすでに事は起きてしまった。後悔も怒りも何も意味は持たない。

 ──楽しい時は失われ、この瞬間から戦いが始まる。

 

 

 

 

「また外れ……ですか」

 

 カナエとしのぶは、とある民家の座敷にいた。対面に座った二人の間には、地図がある。地図には多数のバツ印がついていて、また一つしのぶが新たに書き加えた。

 緊急任務に招集されたカナエ達であったが、苦戦していた。なぜなら、そもそも鬼を誰も見つけていなかったからだ。ならば、なぜ招集されたかと言えば、『鬼による被害』が各所から挙がっていたから。だが、隊士が行ってみれば、暴れていたのはただの人間で、鬼は影も形もない。

 ──血鬼術。

 誰もがそう思ったが、一体どんなものなのか。誰も見当がつかなかった。仕方なしにカナエは待機し、この地域で使える隠と鎹鴉を動員し、情報が集まるのを待っていた。

 未だ、決定的な情報は上がってこない。あまりにも不気味だった。

 幸い……と言っていい訳ではないが、弦司達が遊んでいる地域から騒動は少々離れている。念のため、警戒の連絡ぐらいは伝えたかったが、人が多く彼らを見つけるのが困難である事に加え、労力を回す余力がなかった。

 カナエは長く息を吐き出す。終わりの見えない戦い。何時まで続くのか……そんな考えが頭を過った時、一羽の鎹鴉が来た。

 

 

「雨ヶ崎隊士、オヨビ神崎隊士、不破隊士ヨリ伝言! 我ラ、鬼ノ痕跡を発見セリ! カァァッ!」

「えっ」

「嘘……」

 

 

 カナエとしのぶは、揃って言葉を失う。今日、彼らは鬼殺と遠く離れた日常を送っていたはずだ。現に、今の騒動からも離れた場所にいた。それが突如として、奪われたのだ。彼らの事を思うと、カナエ達も苦しくなる。

 だが、そんな想いは一瞬だけ。鬼がいるならば、滅さねばならない。

 カナエは花柱として接する。

 

 

「痕跡は地図のどの辺り?」

「ココ!」

 

 

 鎹鴉が指した地点は、カナエ達も巡ろうとしていた場所で、地図の印から離れた場所だった。一緒に居ればと、僅かな後悔が生まれる。

 そして、彼らの情報により確信する。地図の印から離れた場所で鬼の痕跡を見つけた……やはり鬼の狙いは別にあり、それを隠すために各所で血鬼術を用いて攪乱を行っているのだ。

 

 

「それで、彼らは何と?」

「食事ニ血鬼術ガ仕掛ケラレテイル可能性アリ! 至急応援ヲ求ム!」

「分かりました。すぐに、私としのぶで行きましょう」

「タダシ緊急事態ニツキ、雨ヶ崎隊士、不破隊士、オヨビ()()()()()()ノ三名デ、追跡ヲ開始スル! カァァッ!」

「――っ」

 

 

 後悔が大きくなる。おそらく、すでに一刻の猶予も許さない事態だと、現場では判断したのだろう。

 そして、カナヲを伴うと聞いたからだろうか。しのぶの顔色が一気に悪くなる。

 

 

「姉さん! 何でカナヲまで……!」

「あの二人では、単純に戦力が足りないからでしょ」

「でも、カナヲはまだ幼いし、隊士でも――」

「しのぶ」

 

 

 カナエは自らでもおかしいと思う。しのぶの感覚こそが正しいと思う。それでも、カナエは花柱として言わなければならない。

 

 

「カナヲは継子です。そのための装備も、弦司さんに渡しています。鬼が目の前にいて、力が必要となれば戦わねばなりません」

 

 

 もし、カナエやしのぶがその場にいれば、必要はなかっただろう。だが、あまりにも弦司や雨ヶ崎では力不足だった。

 その場に継子がいるならば、戦わなければならない。それが柱の継子、ひいては未来の鬼殺隊士になるという意味なのだ。

 しのぶは悔しそうに唇を噛むと、立ち上がる。

 

 

「分かってる……! それじゃあ、雨ヶ崎さんの鴉! 彼らの所に案内して!」

「ソレハ無理!」

「はぁっ?」

「カァァッ!?」

 

 

 しのぶが思わず殺気を飛ばし、鎹鴉がカナエの胸元に飛び込む。

 カナエは鎹鴉の頭を指で撫でながら、

 

 

「無理ってどういう事かしら?」

「人ガ多イノ! アイツラ鬼ノ痕跡ヲ追跡シテルカラ、私ダケジャモウドコニイルカ分カラナイノ! カァァッ!」

「情報の共有と民間人の救助を優先した、という事ね……」

 

 

 鬼殺隊として、人命救助は最優先事項だ。彼らの選択は理解できた。だが、それはあまりにも危険だ。いや、だからこそカナヲまで引っ張り出したのだろう。

 全ては悪鬼滅殺と人々の命を守るために。

 

 

「しのぶ、私達で弦司さん達に追いつきましょう」

「うん」

「後、使える人員は全部こっちに回すように指示も出して」

 

 

 カナエはそれだけ言い残すと、間に合えと願いながら、屋敷を飛び出した。

 

 

 

 

「吐き出してきます! そして、吐き出させます!」

 

 

 立ち直ったアオイの第一声はそれだった。

 食べ物に血鬼術が混入? しているのなら、吐き出すのが一番だと。

 アオイはこはると一緒に裏路地に三人娘を連れ出すと、手本として己が嘔吐した。今は三人娘を泣かせながら、嘔吐させようとしている。残酷、などと言っている場合ではない。手遅れになれば、命にかかわるのだ。

 一方、弦司と雨ヶ崎とカナヲの三名は、服装を着替えていた。

 弦司は隊服と面覆いと散弾銃に籠手。

 カナヲは訓練着の和装と、しのぶが昔使っていた日輪刀。

 そして、雨ヶ崎も一応持ってきていた日輪刀を腰に帯びた。隊服はないため、裾を引き絞っている。

 この時、弦司は目ざとく雨ヶ崎の異常を見つけた。

 

 

「雨ヶ崎、お前怪我してたのか!?」

「あはは、バレちゃったか……」

 

 

 苦笑を浮かべる雨ヶ崎。彼の上半身のほとんどが、包帯に覆われていたのだ。

 

 

「休暇なのに緊急任務に呼ばれなかったのは、そういう事か!? おい、無茶は――」

「するなっていうのは聞かないよ。今は、無茶をしないといけない時だ」

「待て、救援を呼べば――」

「それが難しいんだよ」

 

 

 雨ヶ崎は肩に乗った鎹鴉の顎を撫でる。

 

 

「今日は人が多すぎる。二羽いるならまだしも、一羽しかいないんじゃ片道の連絡がせいぜいだよ」

「なら、鬼の居所を見つけてから、連絡すれば――」

「その間に、人がたくさん死ぬね」

「……くそっ!」

 

 

 弦司は悪態を吐く事しかできない。本当に状況は最悪だった。

 

 

「とにかく、俺が前線だ。雨ヶ崎は後衛を頼む」

「うん。でもその前に……鬼の襲撃は、ないみたいだね」

「ああ。血鬼術に気づかれたから、来るかと思ったんだけどな。となると、夜店の人は外れか?」

 

 

 今、弦司達が最も警戒していたのが、鬼の急襲だ。そのため、カナヲにまで戦闘態勢を取らせた。

 杞憂であったのは良かったが、そうなると鬼の痕跡が血鬼術のみとなる。

 早速手詰まりかと弦司と雨ヶ崎が難しい表情をしていると、アオイ達が裏路地から戻ってきた。ただしきよ、すみ、なほは号泣である。さすがのアオイもしゅんとしている。

 弦司はきよ達の頭を撫でる。

 

 

「みんな、すまない。辛い思いをさせてしまった」

「げ、げんじ、さん……!」

「なんで、こう、なるんですか……!」

「いやです!!」

 

 

 きよ達が弦司の胸に飛び込んでくる。全部、アオイが説明したのだろう。

 今日は最高の日になるはずだった。いや、ついさっきまでそうだった。それが、なんで、どうして。

 弦司は少女達の気持ちが痛いほど分かった。己もさっきまで、そうだったのだ。もう大丈夫だと言ってやりたかった。言って、もっと遊んであげたかった。だが、まだ何も終わっていない。弦司には、少女達を優しく抱きしめる事しかできなかった。

 

 

「ごめんな。今日はここまでしか付き合えない。蝶屋敷で待っていてくれ」

 

 

 きよ達はしばらくわんわん泣いた後、

 

 

「……はい」

「弦司さん、絶対に帰って来て下さい」

「雨ヶ崎さん、カナヲ様も気を付けて下さい」

 

 

 涙を拭って言葉にしてくれた。

 

 

「こはる、彼女達についていくんだ」

「はい。ご武運をお祈りしております」

 

 

 対して、雨ヶ崎は非常に簡素な別れだった。

 このままアオイ、きよ、すみ、なほ、こはるは蝶屋敷に向かう事になった。ここで問題になったのは、カナヲである。

 

 

「カナヲちゃんがこういう事態の時、どうするか決めてる?」

「……必要なら迷わず使え、と」

 

 

 雨ヶ崎の問いに、弦司は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てる。

 カナヲが継子になった時に出た話題でもあった。そして、カナエは先の弦司の言の通り、カナヲを戦わせるよう伝えていた。

 カナヲは今日、初めて自分の『好物』に出会えた。これからもっともっと『好物』を増やしていくはずなのに。どうして戦わねばならないのか、そんな想いが拭い去れない。

 それでも、歯を食いしばって進まねばならない。だが、弦司には決定的な命令を口にする事ができなかった。そして、雨ヶ崎に言わせてはならない言葉を吐かせてしまう。

 

 

「不破さん。君より階級が上の隊士として命じるよ。栗花落カナヲを連れて行く。彼女はすでに俺と同等の力量を持っている。遊ばせておく余裕は俺達にはない」

「……すまない。だけど……カナヲ、今からお前を緊急任務に連れて行くが、命大事に、だ。お前はお前の命を一番に考えて戦え」

「……」

 

 

 カナヲが感情の籠っていない瞳で、弦司を見返す。どうでもいい、とでも思っているのかもしれないが、これは弦司の譲れない線引きだ。これ以上の過酷は許さない。

 こうして、カナヲは残る事になり、蝶屋敷へと向かう面々はアオイへと託す。

 

 

「それじゃあ、アオイ。みんなを蝶屋敷へ案内してくれ」

「こちらはお任せ下さい! それと、血鬼術の影響か分かりませんが……」

「ああ」

「先までは、きよ達と話していたのですが、次はあちらの方角に行きたいと思っていました。今となっては、なぜあちらに行こうとしていたのか、全く分かりません」

「そうか、重要な情報ありがとう。後は連絡が取れるようになったら、すぐに鬼殺隊へ知らせるんだ」

「はい。それではご武運をお祈りしております」

 

 

 そうして、弦司達はアオイ達を見送った。

 アオイは別れ間際、とある方角を指差した。それが意味する所は何も分からないが、重要な手がかりだ。僅かな情報も取りこぼしは命に関わる。

 残されたのは、弦司と雨ヶ崎とカナヲ。戦いはまだ始まったばかりだというのに、後味の悪い選択ばかり続く。

 本当に最悪な戦いになりそうだった。



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第13話 選択・中編

いつも誤字脱字報告ありがとうございます。

想像以上に長くなりましたので分割します。
それでは、お楽しみください。


 鎹鴉を飛ばした後、弦司達は早速聞き取り調査を行ったが、これは完全に空振りに終わった。

 夜店からは鬼の気配は全く感じられず、店の主人の言動も特におかしな素振りは見えなかった。

 仕入先なども聞いたが、普通に卸して普通に作ったとしか分からなかった。鬼が血鬼術を仕掛けるとしたら仕入れ時だが、さすがに鬼もバレるような間抜けは曝していない。

 たい焼きに血鬼術が仕掛けられている。それ以上の事は分からなかった。

 できれば夜店の中止をさせたかったが、非公式の鬼殺隊にそこまでの権限はない。仮に無理やり止めたとしたら、その時点で警察を呼ばれて追跡は中止だ。

 鬼を見つけ頚を斬る。それ以外、勝ち筋はなかった。

 他にも聞き取りはしたが、決定的な情報は得られなかった。はて本当に困ったと思った時、意外な人物と遭遇した。

 

 

「不破か!?」

「……森か」

 

 

 相手の顔を見て、弦司は天を仰ぐ。人相の悪い男を一人連れた、明らかに身なりの良さそうな和装の男。人間時代――というのは、業腹だが――よく突っかかってきた森家の次男坊だ。

 カビの生えた古臭い家だの、本当に言いたい放題してきた輩だ。彼に関しては最低限の知識以上は持ち合わせていないが、関わり合いを持ちたくない類の人間だった。ちなみに、現在の弦司は聞き込みのため面覆いを外した上で、大きな羽織を着ているため、森は弦司と認識できた。雨ヶ崎とカナヲも和装のため、一見して鬼殺隊とは分からない。

 森は酒臭い匂いを纏って、弦司を見るなり嘲笑した。

 

 

「一年間も失踪したって聞いて、心配したんだぜ! 俺は死んだ方に賭けてたけどな!」

「そうか、それは残念だったな。負け額が小さいといいな」

「おいおい、何で死んでてくれなかったんだ~?」

「ホント、相変わらずだな。で、そういうお前はどうなんだ? まだ、定職についていない訳ないよな」

「……不破、お前――」

 

 

 森は一瞬、怒りで顔を赤くしたが、どう見ても並の肉体ではない雨ヶ崎と、六尺はある弦司の体躯を見て分が悪いと判断したのだろう。人相の悪い男に目配せすると踵を返そうとする。

 しかしながら、彼も重要な情報源である。念のため、弦司は尋ねた。

 

 

「まあそれはどうでもいいんだけどよ、ここのたい焼き食ったりしたか?」

「何だよ、突然? それに……おい、もしかして毒でも入っていたりしたのか!?」

「その様子だと、食べたのか……」

「な、何だよ!? だったら、どうなんだよ!?」

「いや、味を訊いて回ってただけだ」

「~~死ね! 紛らわしいんだよ!!」

 

 

 森はそう吐き捨てると、人相の悪い男を伴って去って行った――アオイが指差した方角へ向けて。

 これを偶然と片付けてよいのか。弦司は束の間迷い、雨ヶ崎へ目線を向ける。彼は頷いた。

 

 

「他に手がかりもない。追いかけよう」

「分かれなくていいのか?」

「ただでさえ、戦力が少ないんだ。賭けになるけど、固まって動こう。それに、彼は素直に不破さんの言う事を聞く人?」

「いいや、ありえないな」

 

 

 彼がいけ好かない人間だとはいえ、人命を思えば物を吐き出させるのが最善だ。だが、弦司が吐き出せと言って、あの男が素直に吐き出すかと言えば否である。無理やりやれば、それこそ傷害事件だ。彼を助けるなら、やはり事の発端である鬼をどうにかするしかない。

 弦司、雨ヶ崎、カナヲの三人は森を尾行した。

 森は他の夜店を回りながら、やはり例の方角へ進んでいった。彼の動きに目的は見えない。ただ、本当に何となく、同じ方角に進んでいるように思える。

 もしかしたら、本当に偶然では。そんな考えが何度も頭を過ぎったが、他に手がかりもない。自分達の直感を信じて進むしかなかった。

 時間にして数十分ほど、弦司達は森を尾行した。そして、途中から森の足取りは変わった。

 夜店には寄らず、まるであらかじめ決まっていたように。人相の悪い男に何かを話しかけながら、あくまで自然な様子で。それでも真っ直ぐ、例の方角へと進んでいった。

 ――そして、突然消えた。いや、正確にはまるで消えたように見えた。

 

 

「っ、あれ、何で――」

「落ち着け、雨ヶ崎。よく目を凝らして見てみろ」

 

 

 弦司に指摘され、雨ヶ崎は目を凝らす。弦司も同じように、森が消えた方角を見る。すると、まるで今までは焦点があっていなかったかのように、ぼやけていたものが見えるようになった。古びた道場が目の前にあった。

 そこへ一人、また一人と吸い込まれるように人が入っていく。しかし、気を緩めば見失ってしまいそうだった。

 

 

「不破さん」

「ああ、当たりだ」

 

 

 弦司達はここに鬼がいる事を確信した。恐ろしいほど存在が希薄な道場。この建物は間違いなく、血鬼術の影響下にあった。

 弦司達はカナヲの手を引いて、物陰に隠れる。

 

 

「見つけたのはいいが、まずいな」

「だね。道場の存在を隠す血鬼術。あの様子だと、食べ物に含まれていたのは、人間を誘導する血鬼術……計二種類となると、二体以上の鬼がいる事は確定だ。それにこれだけの血鬼術となると、弱くもないだろう」

「でも、やるしかない。鬼が人を集めてやる事なんざ、一つしかないからな」

「放っておけば、鬼がもっと強くなるだろうし……これは、覚悟決めるしかないかな」

 

 

 弦司は背中の散弾銃を取り出し、雨ヶ崎とカナヲも日輪刀を抜く。面覆いを被り羽織を脱ぎながら、状況の悪さを再確認する。

 

 

「室内で大量の民間人を守りながらの戦いになるな」

「は~。きついなぁ……」

「カナヲ、さっき言った事、忘れるな。お前の命が最優先だ。基本的には後衛で戦況を見守っててくれ」

 

 

 弦司達は大きく息を吐き出す。何度考えても最悪だった。今日という日に、鬼に気づいてしまう事も。緊急事態に非力な面子でいる事も。そして、あまりにあっさりと鬼の居所を突き止めてしまう事も。

 それでもやるしかない。人となるためと引き換えに、鬼殺隊に入ったのだ。人であるという証明のため、人のために戦わねばならない。そして何より……きよ、すみ、なほ、アオイの四人を危険に曝した事を、弦司は決して許さない。

 弦司が物陰から飛び出す。後を雨ヶ崎とカナヲが続く。

 道場へ向かう数名を追い越すと、入り口である引き戸を開け放った。それと同時にむせ返る血の香りと、饐えた匂い。この饐えた匂いこそが血鬼術だと、弦司の鬼の本能が訴えかけ口元を手で覆う。雨ヶ崎とカナヲも弦司に倣い口元を手で覆ってから、道場の中へ目を向けた。

 板張りの古びた道場の中央には、二体の鬼がいた。片方はみすぼらしい身なりで、頭に三本の角を生やした鬼。もう一方は、袴を着て腰に刀を差した短髪の鬼。彼らの足元には、多くの血だまりができていた。

 鬼の他には十数名の人間もいた。しかし、その誰もが談笑し、鬼達を気にも留めない。次に血だまりとなるのは、己かもしれないというのに――。

 弦司達は理解した。彼らは人間をここへ誘導し、思考能力を弱め、喰らっているのだと。そして、道場の血だまりは悲劇の跡だ。弦司達は間に合わなかったのだ。

 あの中に、何人の家族がいた。何人の家族が幸せの中にいた。一体、いくつの幸せを奪った。

 怒りで頭が沸き立つ。だが、我を忘れてはならない。心を燃やせ。それでも頭は冷静に。確実に、悪鬼は滅殺する。

 このまま突入……とはいかなかった。道場内では、血鬼術が充満している。雨ヶ崎とカナヲが呼吸法を使えば、血鬼術を吸い込んでしまうだろう。

 そう判断した弦司は、散弾銃で道場の壁をぶっ叩いた。木壁は衝撃で吹っ飛び、出入り口がもう一つ増える。

 新鮮な空気が舞い込み、血鬼術を薄めた。

 

 

「鬼殺隊か!?」

「な、何だと!? どうして、ここが分かった!?」

 

 

 これだけ騒げば、さすがに鬼に気づかれる。

 奇襲はできなかったが、これは必要経費だと割り切る。

 

 

「雨ヶ崎!」

「うん、行くよ不破さん!」

 

 

 弦司が先行して駆ける。銃口は刀を差した鬼へ向ける。

 弦司を見て、三本角の鬼が笑う。

 

 

「お前、あの方が言った裏切り者か!? ハハッ、ついに俺達にもツキが回ってきたぜ!」

「おい待て――」

「ガキと雑魚しかいないだろ! 勝てばいいんだよ、勝てば!」

「ちっ!」

 

 

 弦司の情報を得ていたらしい鬼達は、少々揉めた後、生きている人間を盾にした。二体の鬼は談笑する人々の首筋に、それぞれ爪を押し当てる。

 あれだけの命を奪いながら、平然と人を盾にする鬼の有様が、弦司の心にさらに火をつける。絶対に引くわけにはいかない。

 弦司は一瞬の内に判断を下す。瞬く間に二回、引き金を引いた。鬼の身体能力にものを言わせた、散弾銃の二連射だった。

 

 

「ぐわぁっ!!」

「なにっ!?」

 

 

 射線が通っていたのも幸いし、重なった轟音と共に鬼の手をそれぞれ吹き飛ばした。鬼の腕から血が噴き出す。血をまともに浴びても、人々は平然としていた。

 一方、鬼達は突如腕を飛ばされた事もあり、狼狽する。その隙に弦司と雨ヶ崎は人々の間をすり抜け一気に近づき、鬼を押し退け人質を解放した。

 

 

「作戦変更、そっちは頼む!」

「了解だ!」

 

 

 弦司は刀の鬼と。雨ヶ崎は三本角の鬼とそれぞれ対峙する。前衛、後衛などの事前の打ち合わせは全部なしだ。一人一体倒さねば、被害が拡大する一方との判断だった。

 鬼が刀を抜いた。弦司はすかさず距離を詰めた。散弾銃の銃身と刀が迫り合う。

 

 

「邪魔だ!」

「邪魔してるからな!」

 

 

 鬼――仮に刀鬼と呼ぶとして――が弦司を突き飛ばそうとするが、逆に押し込んで阻止する。道場には十数名の人間がいる。刀を振り回させれば、人々に危害が及ぶ。刀鬼を自由にさせる訳にはいかなかった。

 だが、刀鬼にとっては弦司の行動は、邪魔以外の何物でもない。刀鬼は距離を取ろうと弦司を蹴ろうとするが、逆に弦司が先に足で制する。さらに弦司は散弾銃を軽やかに返し、刀を上から押さえつけた。しのぶ、ましてやカナエと訓練している弦司にとって、鬼の剣技はあまりに稚拙だった。

 

 

「この……鬱陶しい!」

「お褒めいただき光栄の極み!」

 

 

 歯軋りする鬼に、弦司は軽口をたたく。

 完全に弦司の有利な態勢で、上手く膠着状態に持っていけれた。早々にこの形は崩せない。

 カナヲもいる。後は雨ヶ崎が鬼の頚を斬れば、弦司達の優勢は揺るがない。

 確実に勝利は近づいていると、弦司は考えていた。

 ――だが、それは完全に甘い考えだった。

 この時、弦司達は疑問を持つべきであった。なぜ、ここまですんなり、事が上手く運べたのか。そもそも、なぜ鬼が協力し合っているのか。

 目の前の見たいもののみを見るのではなく、もっとたくさんの可能性を考えるべきだった。

 

 

「かはっ――」

 

 

 空気が掠れたような声がした。雨ヶ崎の声だった。

 僅かに視線をやれば、雨ヶ崎は細身の鬼の頚に、半ばまで刀を入れていた。だが、その雨ヶ崎の胸を()()()()()()の腕が貫いていた。雨ヶ崎の手が日輪刀から離れ、胸から大量の血液が噴き出す。

 こんなにもあっさりと、隊士とは、人とは、死んでしまうのか。

 ――弦司はこの日、鬼に友を殺された。

 

 

 

 

 カナヲは弦司の指示通り、戦況を見守っていた。もし、自身の力が必要になったり、命が脅かされれば守るために戦う。そういう命令になっていた。

 カナヲの中では、人質を取られ戦況は不利だった。それを弦司の身体能力にかまけた射撃で、一気に有利にした。

 強そうな鬼を弦司が抑え、弱そうな鬼を雨ヶ崎が先に叩く。役割分担に問題ない。だが、カナヲの中で疑念が一つあった。

 ――鬼は本当に二体なのか。

 この饐えた匂いが血鬼術なら、饐えた匂いの強い三本角の鬼が怪しい。ならば、道場の存在を消した鬼とは、あの刀鬼なのか。どうでもいいが戦況に関わる。

 カナヲは銅貨を投げた。『表』なら伝える。『裏』なら伝えない。

 ――『裏』だった。

 カナヲは三体目の鬼の可能性を伝えなかった。

 戦況はそのまま進む。

 

 

「く、くそっ! 来るな!」

 

 

 三本角の鬼が叫ぶと、腕を大きく振るう。人々は談笑したまま、無意識で雨ヶ崎の進路を塞ぐように動いた。

 人の盾。しかし、それはあまりに稚拙な守りであった。雨ヶ崎を止めるのであれば、人間同士で争わせるぐらい必要であった。それができないのであれば、鬼の力量は知れる。

 雨ヶ崎は人々の間を縫うように、鬼との距離を詰める。

 

 

「水の呼吸漆の型・雫波紋突き」

 

 

 水の呼吸の型の中で、最速の突き。人の合間を縫うように放たれた一撃は、鬼の頚を高速で突いた。

 

 

「ぐあっ!」

 

 

 半ばまで斬れる鬼の頚。怪我が響いたのか、一撃で頚を刈り取れていなかった。だが、このまま横へ引けば、鬼の頚は斬れる……そう思った時であった。

 雨ヶ崎の背後に、突如として鬼の存在が露わになる。小柄で細身の鬼であった。

 カナヲは確信した。この鬼こそが、道場を隠した鬼であると。

 このままでは、雨ヶ崎が鬼に討たれる。だが、今の機に出てもカナヲでは確実に鬼を討てない。『命を危険に曝す』事になる。だから動かない。

 しかし、一方でこのままで良いのかという疑問もある。

 雨ヶ崎が討たれれば、危機となるのはカナヲなのだ。そうなれば、やはりこれも『命を危険に曝す』事になり、命令を守れない。

 選ばなければならない。

 カナヲは銅貨を投げた。『表』なら行く。『裏』なら行かない。

 ――『表』だった。

 しかし、カナヲが迷ったその一瞬。銅貨を投げたその一時。迷いの分だけ雨ヶ崎への援護は遅れた。

 それでも『表』が出た以上、カナヲは動く。

 

 

 花の呼吸肆の型・紅花衣(べにはなごろも)

 

 

 カナヲの小さな体は鬼の背後に一気に迫り、大きく刀を振るう。すでに、鬼は雨ヶ崎の胸を突き貫いていた。そして、皮肉にも雨ヶ崎を殺した事で、鬼は油断しきっていた。

 巨大な弧を描いた刀の軌跡は不意打ちとなる。鬼が小柄だった事もあり、頚はあっさりと斬り落とせた。

 消える鬼と、崩れ落ちる雨ヶ崎。鬼の返り血と、雨ヶ崎の血が混ざり合い、カナヲに降りかかる。

 鬼は倒した。しかし、雨ヶ崎は討たれた。まだ鬼は二体いる。命を危険に曝さないために戦ったはずが、未だ命の危機は脱していない。

 なぜ? それはカナヲが銅貨を投げたから。判断できなかったから。だから()()()()()()()()()()()()

 それを理解した瞬間、カナヲの中で何かがせり上がってくる。

 何も感じない。何も辛くない。だから、言われた事をただやればいい。どうでもいい事は、カナエからもらった銅貨で全部決めればいい。

 それがカナヲの全てだった。そう、全てなのだ。

 だというのに、言われた事もできなかった。カナエからもらった銅貨で決めたから、できなかった。銅貨を投げた事で、言われた事ができなかった。

 全てがひっくり返った気がした。自身を守ってきた何かが、崩れていく。頭の中ががんがん痛くて、目の前がぐるぐると揺れる。

 そして、まるで胃袋がひっくり返った感覚が走り――カナヲは戦闘中にも関わらず嘔吐した。

 ――数年後、カナヲはこの日の選択を悔いる事になる。

 

 

 

 

 雨ヶ崎が殺された。そして、雨ヶ崎を殺した鬼をカナヲが討った。

 それ以外の情報を、弦司は頭から遮断した。最善だけを必死に考える。

 弦司は刀鬼を肩で突き飛ばすと、早打ちの要領で三本角の鬼へ照準を合わせた。

 そして、再びの轟音。頚へ二連射。雨ヶ崎が半ばまで斬ってくれた事もあり、鬼の頚は吹き飛んだ。

 顔のない鬼の体が崩れ落ちていく。

 ――これで二対一。

 そう思った弦司の顔に刀が通り過ぎた。

 面覆いも下の面も刀が斬り裂き、顔面から血が噴出する。そして、とうとう弦司の顔が露わになった。

 弦司は真っ赤に染まった視界で、鬼を睨み付ける。

 

 

「それが裏切り者の顔か」

「……黙れよ、悪鬼が。お前も元々人だろうが。人を裏切ったお前を、俺は決して許さない」

「鬼のくせに。あのお方が苛立つのも納得だ。だが、これであのお方もお喜びになるだろう」

 

 

 刀鬼はまるで余裕を見せつける様に笑う。だが、それは引きつった笑みだった。弦司は疑問に思う。

 今の弦司は四発、全ての弾を打ち切った。弾丸を装填しなければ、頚は落とせない。装填の時間さえ与えなければ、弦司に鬼は倒せない。明確に刀鬼の方が優位だった。

 そして何より、

 

 

「オエェェ」

「子どもだからとあの馬鹿は油断したが、中々の才を持った娘だな。今は、随分と苦しそうだが」

 

 

 小鬼を討ったカナヲは嘔吐していた。蹲って床を掻きむしっている。今すぐにでも抱きしめてやりたいが、今は頭の隅に追いやる。

 すでに状況は一対一。そして現状、弦司に鬼の頚は斬れない。

 ――なのに、鬼に余裕は見られない。刀を構えて、じっくりとこちらを伺うだけである。

 思考を巡らせる。これの指し示す意味とは。余裕がないという事は、弦司が思っている以上に、鬼は追い込まれているのではないかと推察する。

 そうして、考えをまとめようとする弦司に、嗅覚が異常を知らせる。饐えた匂いが治まっていた。倒した鬼の中に、血鬼術を使っていた者がいたのだろう。

 しかし、血鬼術の終わりは、さらなる混乱の呼び水でしかなかった。

 

 

「……あれ?」

「何でここに……」

 

 

 道場にいた人々が、次々と正気に戻る。血鬼術が解かれた事は喜ばしい。だが、あまりにも最悪の機だ。

 血だまりの上で剣と銃を構え合う二人。そして、胸を貫かれている死体と、嘔吐する子ども。

 こんな光景を見て、平静でいられる人間はいない。

 

 

「うわぁっ!!」

「ひぃっ!?」

「助けてくれぇっ!!」

 

 

 道場に悲鳴が響き渡る。人々が我先へと出口へ向かう。

 二体鬼が倒れ、こちらも二人が倒れ、さらには人々が混乱へと陥る。

 戦況は混沌とした。

 そんな中でも、弦司に目を止める輩がいた。よりにもよって、森だった。

 正気に戻った森は、弦司達を指差すなり、

 

 

「化け物だ! 化け物がいるぞ! おい、早くあいつをどうにかしろ!」

 

 

 森は弦司と分かっているのか、分かっていないのか。狼狽した様子で傍にいる人相の悪い男に指示を出す。

 男は抗議のような視線を森へ向けるが、

 

 

「おい、早くしろ! 妹がどうなっても知らねえぞ!」

「――っ」

 

 

 森の一言で、男は懐から短刀を取り出すと、よりにもよって弦司の方へ襲い掛かってきた。

 

 

「くそっ!」

 

 

 弦司は男の手を叩き短刀を落とすと、突き飛ばした。だが、この機を逃す鬼ではない。

 鬼は刀を振り下ろす。弦司が男を庇うように差し出した右腕を、刀鬼は斬り飛ばした。散弾銃が、腕ごと弦司から離れていく。

 弦司は舌打ちをして、たたらを踏む男を森の方へ蹴り飛ばした。

 

 

「ぐはっ!?」

 

 

 森が悲鳴を上げると、男に巻き込まれ道場の端まで吹っ飛んでいった。

 その間にも、人々は出口へと殺到。将棋倒しになり、幾名かの怪我人を出しながらも、少しずつ道場から逃げ出していた。

 人間はこれで助かる。だが、腕と日輪刀を失った弦司は、このままでは負けてしまう。

 雨ヶ崎を失い、カナヲを傷つけてまで戦った。たくさんの人を喰われ、たくさんの幸せを奪われ、大切な日を台無しにされた。

 このまま負けていいのか。負けていいはずがない。

 弦司は残った左手を強く握り締める。

 ――この鬼だけは、絶対に逃がさない。

 

 

 

 

 弦司が考えていたほど、刀鬼――赤桐(あかぎり)は有利ではなかった。

 そもそも赤桐達三体の鬼は、弦司達が思っていたほど強い鬼ではない。むしろ逆で、それぞれ血鬼術を使えるにも関わらず、あまりにも弱すぎたために、鬼舞辻無惨に粛清されかかっていた。

 赤桐は粛清直前、三体合同による人間の捕食計画を鬼舞辻無惨に話した。これだけ大量の人を喰らえば、我々も強くなれる。だから一度だけ機会を与えてくれ、と。

 鬼舞辻無惨が期待していない事は知っていた。それでも、どうせ死ぬなら戦ってみろと機会が与えられた。

 計画は三本角の鬼――躑躅(てきちょく)と小柄の鬼――合歓木(むくのき)の血鬼術が肝だった。

 躑躅の血鬼術は彼の血を飲んだり、香りを嗅いだ者を操る血鬼術であった。それも広範囲で長時間である事に加え、大人数にかける事も可能だった。だが、あまりにも効果が弱すぎた。普通の人間でも、多少気の強い人間であれば無効化できるほど、弱かったのだ。

 合歓木の血鬼術もそうだ。彼は気配の()()()()が可能だった。例えば、別の鬼の気配を人間に譲渡する事で鬼の姿を隠し、人間に鬼の気配を与える事が可能だった。だがこれも弱すぎて、時に普通の人間にも見破られる可能性があった。

 だからこそ、まずは鬼狩りの攪乱を行った。食べ物に躑躅の血を混ぜる事で、多数の人間に血鬼術をかけ暴走させた。さらには、暴走した人間を鬼に見せかけるため、合歓木の血を食材に混ぜ、気配を譲渡した。念のため、捕食を行う場所から遠い所で、たくさんの人間を暴走させた。これで鬼狩りを遠退かせた。

 もう一方で、捕食の準備を進めた。こちらも食べ物に躑躅の血を混ぜ、多くの人間に血鬼術をかけた。ただし暴走とは違い、強い催眠ではない。目立たない様に、無意識下で自然と捕食場所へ向かうようにさせた。

 捕食場所も合歓木の血鬼術で、道場の気配を別の建物に譲渡した上、薄くする事で隠した。捕食場所に来た人間には、目を覚まさないようたっぷりと躑躅の血を吸わせた。

 後は鬼狩りが右往左往する陰で、大量の人間を喰らうだけ。そして強くなり、今度は赤桐達が鬼狩りを狩る……その予定だった。

 隠れて捕食する事が、赤桐達の目的だった。つまり、弦司達に見つかった時点で、赤桐達の計画はすでに破綻していたのだ。加えて、赤桐達は弱い。即座に撤退が正しい選択だった。

 撤退しなかった理由は二つ。まず、弦司――裏切り者がきた。鬼舞辻無惨は弦司の捕縛を望んでいる。彼の望みを拒否するような選択はできなかった。

 加えて、弦司に付き従っていたのは、明らかに弱そうな隊士に、隊服も来ていない子ども。こんな奴らに負けるはずがないと驕り、彼らは撤退の理由を完全に失った。

 結果は鬼狩りの一人は殺したものの、躑躅と合歓木は死んだ。さらには、血鬼術は解け人間は逃げ出した。道場の隠蔽も解けているだろう。鬼狩りが集まるまで、時間は残されていなかった。

 赤桐は次の鬼狩りが来るまでに、弦司を捕縛しなければならなかった。そうしなければ計画を失敗した上、裏切り者を取り逃した咎で鬼舞辻無惨に粛清されるだけだった。

 しかし、赤桐の血鬼術は自身の肉体から刀を生み出すだけだ。別に剣の才能がある訳でもないのに。

 本当に赤桐は弱かった。それでも、ここまで来たからには、彼にも意地はある。

 ――こうして、最後の攻防は始まった。

 

 

 

 

 最初に動いたのは刀鬼だった。だが、襲い掛かった先は弦司ではなく――嘔吐しているカナヲ。この鬼は本当に弦司の嫌な所を狙ってくる。

 

 

「カナヲ!!」

「――ぅぅ!」

 

 

 庇おうとする弦司よりも早く、カナヲは動く。日輪刀を再び握ると、吐瀉物と返り血塗れの体に喝を入れ、逆に刀鬼へと襲い掛かった。

 カナヲの天性の嗅覚が凶刃が届くよりも先に、日輪刀を振るわせた。しかし、呼吸も満足に使えない今のカナヲでは、ここまでが精一杯だった。刃は鬼の頚に届いたものの、薄皮一枚斬っただけで止まってしまった。

 せせら笑った鬼は、カナヲに向かって刀を振り下ろした。

 

 

「させるかぁぁっ!!」

 

 

 カナヲに迫る凶刃を、弦司は左手の籠手で受け止めた。欠けた右腕で左腕を支えどうにか均衡を作るが、この籠手は猩々緋鉱石で作られていない。鬼の刀を受け続けるには耐久力が足りず、徐々にひび割れ刃が籠手に食い込んでいく。このままでは、弦司ごとカナヲが斬り裂かれてしまう。

 

 

(どうする!? 弾くか? ダメだ、まだ右腕の再生は終わってない上に、右の籠手も散弾銃もない! いくら何でも、素手で勝てる程甘くない!)

 

 

 鬼の身体能力を限界まで引き上げて思考をするが、手立ては思いつかない。その間も刃は進み、籠手は壊れていく。カナヲの日輪刀もビクともしない。

 このままでは、カナヲが死ぬ。弦司の選択で、カナヲが殺されてしまう。友まで失い、娘と想って可愛がった少女まで、失ってしまうのか。

 

 

(それとも、カナヲだけでも――!)

 

 

 一瞬、カナヲを連れて逃げ出す事が頭が過ぎる。本当に弦司がこのまま何もできないのであれば、それも一つの選択肢だろう。だが、何もできずに終わりたくない。何かできることはないか。

 

 

(もう何でもいい! 奴を、鬼を討ち滅ぼせるなら、何でもいい! 何か――!!)

 

 

 弦司は考えるのを止めない。絶対にこの手にある命を、先にある人々の幸せを守ると、限界を超えるまで頭を回転させる。

 そして、一つの答えにたどり着く。

 ――血鬼術。

 鬼が使う異能の力。それを使えば、逆転の芽があるのではないか。

 だが、弦司は使えなかった。カナエやしのぶにも協力してもらって、何度か試してみたが、それでも使えなかった。

 あの時、しのぶは何と言ったか。弦司はある日のしのぶとの会話を思い出す――。

 

 

 

 

「精神的な問題かもね」

 

 

 しのぶの研究室。

 定期健診の一つである身体測定を終えた後、弦司はしのぶに言われた。

 

 

「身体能力の数値を見る限り、血鬼術が使える鬼達と、不破さんの身体能力は遜色ないわ」

「それで血鬼術が使えない理由が、精神的な問題にある、と」

 

 

 しのぶはコクリと頷く。

 

 

「通説では鬼の血鬼術の能力は、人だった時の深層心理に深く関わっているそうよ。不破さんが戦った縄鬼なんて、その典型ね。『縛る』という未練や執着が縄となり、縄を自在に操る血鬼術を授けたのでしょう」

「俺に未練や執着が足りないと?」

「その前の段階よ」

「その前?」

「不破さん……鬼の体が大嫌いでしょ」

 

 

 しのぶに指摘された通りであった。

 弦司は鬼の体が大嫌いだった。正確に言うならば、鬼となった体が嫌いで嫌いでしょうがなかった。

 人を見て腹は空く、日の光を浴びられない、眠る事もできない……挙げればきりがない。

 

 

「不破さんが血鬼術を使う鬼と違う点を挙げるとしたら、まずはそこだと思う……まあ、それとは関係なしに、折り合いはつけて欲しいわ。何て言っても自分の体だもの、好きになれとは言わないけど、嫌ったままだと苦しいだけよ」

「……」

 

 

 弦司の身を案じる様に、しのぶは心配そうに言った。

 

 

○ 

 

 

(――俺の精神的な問題)

 

 

 弦司はしのぶの言葉を思い出した。だが、結局折り合いをつける事はできていなかった。

 しのぶの気持ちは嬉しかった。しかし、鬼に対する、そして自身に対する嫌悪感は弦司の原動力の一つでもある。変えるのは難しい。

 

 

(何かないのか? 俺のまま、血鬼術を使う方法!?)

 

 

 そんな都合の良いものなど存在しない。分かっているのに、考えずにはいられない。

 何かないか。自身の内に存在する手札をもう一度、考え直す。鬼とは遠く、それでも鬼で使える武器は――。

 籠手が半ばまで壊れる。この時になってようやく、弦司の中で一つの方法にたどり着いた。

 

 

(俺の記憶――!)

 

 

 前世などと呼んでいる、弦司の体験した事のない記憶。娯楽ばかりに目が行きがちだが、人としての一生だ。確かに、戦闘に関する記憶もある。

 ――鬼の力で人の未来の力を引き出す。

 頭で何か歯車が合った気がした。足りないものが合わさり、今まで眠っていた力が表に出る。

 

 

 血鬼術・宿世招喚(すくせしょうかん)――(こう)

 

 

「死ね!!」

 

 

 籠手が砕け散る。刃が弦司の腕に触れるが、それ以上進むことはなかった。

 弦司の左腕が、漆黒へと変わっていた。それはまるで金属のように硬く、決して刃を通さなかった。

 『血鬼術・宿世招喚(すくせしょうかん)』。

 前世の記憶の中から、戦闘に転用できる物体の記憶を招喚し、体を『変化』させる。

 弦司の原点と言える『変化』と『前世』。鬼に対する嫌悪感を避けつつ、二つの原点を引き出すために生み出された血鬼術であった。

 その中でも、『鋼』は最も硬度が高いと思われる素材に、自身を変化させる術だ。並の兵器では、『鋼』を傷つける事さえ叶わない。

 弦司は再生した右腕も漆黒へと変えると、右手で鬼の刀を握る。傷つかないのであれば、刀など折れやすい細い棒と変わらない。弦司は鬼の刀をへし折った。

 

 

「――は?」

 

 

 事態に頭が追い付かないのか、弦司の目の前で堂々と呆然とし、折れた刀を眺める鬼。

 弦司はこの隙を逃さない。

 

 

「カナヲ!」

 

 

 弦司の声に応えて、カナヲは日輪刀を退く。そして、漆黒の手刀を刀鬼の両手足に向けて振るった。刀鬼の両手足は、それだけで半ばまで千切れる。

 

 

「な、何が起きている!?」

 

 

 立てなくなった刀鬼は、そのまま尻もちをついた。これで刀鬼はしばらく動けない。

 次に弦司は、カナヲの背後から日輪刀の柄に手を添える。彼女の力が足りないなら、弦司が足してやればいい。

 

 

「カナヲ!」

 

 

 弦司の呼びかけを合図に、カナヲと弦司は共に日輪刀を振った。弦司の無茶苦茶な太刀筋を、カナヲが丁寧に修正する。

 

 

「やめ――!」

 

 

 事ここに至って、ようやく鬼は自失から回復するが遅い。

 カナヲの技量と弦司の膂力が合わさった一閃は、いとも容易く鬼の頚を斬り飛ばした。頚がない体が倒れ、崩れていく。

 消える鬼を見送ると同時に、カナヲが力尽きる。

 

 

「……っ」

「カナヲ!」

 

 

 日輪刀が手から抜け落ち、崩れ落ちそうになる体を、弦司がしっかりと受け止めた。

 

 

「げん、じ……」

 

 

 カナヲは縋りつくと、弦司の名前を小さく呼んだ。

 弦司がカナヲの背中を撫でると、体を預けてくる。安心したのか、すぐに寝息を立て始めた。

 

 

「終わったのか……」

 

 

 吐瀉物と返り血でドロドロになったカナヲの顔を、袖で拭きながら弦司は呟く。

 民間人も全員逃げ出したのか、足音も悲鳴もない。鬼の気配も感じない。ただ、静寂のみが道場に満ちる。

 終わった。本当に戦いが終わった。それを理解した瞬間、今まで遮断していた情報が心に落ちてくる。

 ――死んだ。雨ヶ崎が死んだ。友が殺された。

 血だまりの上には、背中に大穴を空けた雨ヶ崎が、うつ伏せで横たわっている。

 

 

「うぅ……! 雨ヶ崎ぃ……!」

 

 

 今まで堪えていたものが溢れ出す。涙が止まらなかった。

 雨ヶ崎はカナエとしのぶ以外で、初めて弦司に心を開いてくれた人だった。鬼となって、初めてできた友だった。

 蝶屋敷を初めて訪れたのあの日。多数の隊士の中に、雨ヶ崎はいた。そして、カナエが信じたという理由で、すぐに弦司を受け入れてくれた。

 それから任務に、日常生活に、必ず雨ヶ崎はいた。彼がいたから、蝶屋敷以外にいても健やかに穏やかに過ごせた。

 常に誰かのために動いてくれた。今日だってそうだ、弦司達がいたからここまで来てくれた。

『不破さんがいてくれたから、今日も生き延びる事ができたよ』

 彼は目を細めて、よくそんな事を言って笑っていた。生き延びられたのは、お前のお陰だと、いつも返していた。だが、もう笑顔を見る事はできない。

 失った命は戻ってこない。弦司は得難き友を喪ってしまった。

 

 

「すまない……! 俺が、俺が間違ったから……!」

 

 

 後悔しかなかった。

 ――何で三体目の鬼の存在を疑わなかった。

 ――何で隊服を渡さなかった。

 ──何でカナエが来るまで待たなかった。

 ――何で雨ヶ崎の提案を断らなかった。

 ――何で今日、カナエがいないのに出かけたのか。

 いくらでも、雨ヶ崎が生き残る選択肢はあった。そして、その全てを弦司はふいにしてしまった。いくつもの判断を間違えた。

 そして何より悔しいのは、これだけ想っていても、雨ヶ崎が『食事』に見えてしまう事だった。

 血鬼術で消耗しているのもあるだろう。それでも、彼の遺体で空腹を覚えてしまう体が、素直に悼めない己が、情けなくて悔しかった。

 それでも残された者は前に進むしかない。弦司は涙を拭う。

 カナヲをどこかへ横たえるかして、雨ヶ崎の遺体を弔おう。そう考えて動こうとした時、出入り口から人の気配がした。

 民間人はすでに逃げ出している。森も、いつの間にか消えている。あれだけの騒動があったのだ、民間人は戻ってこないだろう。

 警察か、それとも隊士か。そう思い弦司が振り返ると――、

 

 

「とうとう本性を現したな」

 

 

 一纏めにした長髪。他者を寄せ付けない鋭利な視線と三日月型の口。

 風能誠一が日輪刀を抜いて立っていた。

 ――その切っ先は、弦司へと向いていた。



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第14話 選択・後編

いつも誤字脱字報告、感謝の極みでございます。

今話はこれで終了となります。
それではお楽しみください。


 ──鬼と話さなくなったのは、いつからだったか。

 鬼を救いたい。

 鬼と仲良くなりたい。

 そんな想いから、鬼と話す事はよくあった。弦司を見つけてから、しばらくはそれが顕著だったと思う。

 だが、鬼が人の心を持つ苦しみや哀しみに触れる度、現実を知った。弦司という存在が貴重で尊いと知った。そして、弦司を理解していく度に、鬼と話す事は減った。

 人を喰っているか喰っていないのか。一目見ればそれぐらいは気配で分かる。どいつもこいつも、人を喰らっていた。弦司と同じ苦しみを知っているなら、そんな事できるはずがない。できるという事は、弦司のように仲良くできるはずがない。

 そいつが仲良くできるかできないか、一目で判断するようになった。人を喰らっているのか、いないのか。それだけを感じ取ればいいから簡単だ。

 今はもう、鬼と話す事はない。話す必要もない。

 もうとっくの昔にカナエは変わっていた。気づかない内に変わっていた。

 弦司が来てから、こんな事ばかりだ。

 また変わってしまうのか。

 次はどう変わってしまうのか。

 ──今は変わるのが怖い。

 だから、変わらない様に心がけていた。

 救いたいと、彼と仲良くなりたいと。その原点に立ち戻って、弦司が辛ければ抱きしめて、人として生きられるよう努めた。

 だけど。気づいたのは何が切っ掛けだったか。

 休暇を取ろうと、忙しい日々を送っていたある時。ふと、弦司の視線を感じたのだと思う。何の気なしに振り返った。目が合った。

 ――熱を帯びた目が、カナエを見ていた。

 必死になっていたので、今の今まで気づかなかった。

 カナエは弦司の特別になっていた。

 ――弦司も変わっていた。

 自分は変化が恐ろしいくせに、彼が変わって嬉しい。

 そんな身勝手な感情がまた嫌になる。

 

 

 

 

 カナエは全力で駆けていた。

 弦司達の戦力不足は明らかだ。弦司は戦闘経験が浅く、雨ヶ崎は剣の才能が乏しく、カナヲはまだ体ができていない。彼らをそのまま戦わせたら、犠牲が出る可能性が高い。その前に、何とか合流しようと、カナエは必死に走っていた。

 この時、カナエの元に戦闘が開始したとの情報はなかった。だから、カナエはとにかくアオイが指し示した方向に駆けた。

 戦っていないなら、まだ弦司達は捜索中のはず。それまでに追いつけば、戦闘前に合流できる……そういう判断だった。

 だがこの時、弦司達は道場にいた。彼らは血鬼術に巻き込まれ、存在が希薄化していた。

 ――もし、カナエが『捜索中である』という先入観なく探していたら。

 ――合流を急ぐのではなく、しっかりと気配を探りなら進んでいれば。

 柱のカナエならば違和感を覚え、弦司達を見つけられただろう。しかし、存在の希薄化など、事前情報のないカナエには思いつきもしなかった。だから、とにかく急いで駆け抜けた。

 カナエは希薄化した道場の前を通り過ぎ、戦いに参加する事ができなかった。

 カナエもまた、選択を間違えていた。

 

 

 

 

「本性ってのは、どういう意味だ」

 

 

 詰問した声が震える。心が乱れて、言葉が頭に入ってこない。状況が理解できない。なぜ、自身が刃を向けられているのか分からない。

 風能は弦司を睨みつけると、事切れた雨ヶ崎を見遣り、

 

 

「とぼけるな。雨ヶ崎を殺したのはお前だろ」

「………………はっ?」

「鬼がいて、血塗れの隊士が倒れているんだ。当然の結論だ」

 

 

 言葉の意味が分からなかった。

 殺した? 弦司が? 雨ヶ崎を?

 徐々に頭が言葉に追いつく。風能は弦司を今もなお疑っていると理解する。

 何が視界を曇らせるのか。何が彼をそこまで駆り立てるのか。分からない。全く分からない。

 唯一分かるとすれば、それは弦司の千切れた心を風能は全く理解していないという事だけだ。

 弦司の中で、今まで溜まっていたものが一気に弾けた。

 

 

「そんな訳ないだろ!! 俺が雨ヶ崎を助けられなくて、どれだけ打ちひしがれていると思っているんだ!! 友を喪って、鬼の体のせいで正しく悲しめなくて!! どれだけ悔しいと思っているんだ!!」

「うるさいな。喚くなよ、鬼が。大事なのは、お前が雨ヶ崎を殺していないという証拠だけだ。ほら、どうやって雨ヶ崎を殺していないって証明する? 目撃者か? はっ、そこの役に立ちそうにもない、子どもの証言なんか、誰も聞かん」

 

 

 風能のあまりの言い草に、弦司の中で理不尽が募る。今まで決して言えなかった、溜まっていた感情が爆発する。

 

 

「何でお前はそんな事が言えるんだよ! 人間なんだろ! 俺がどれだけ切望してもなれない、人間なんだろ! 陽の光も浴びられて、人を見ても腹が減らないんだろ! なのに、何でお前はそんなに残酷なんだ! 何で人の心が分からないんだ! 何で俺が人間じゃなくて、お前が人間なんだよ!」

 

 

 それは今までずっとずっと弦司が抱え込んでいた憤りだった。

 こんなに自分は人間になりたいのに。人間であろうとしているのに。残酷なのは鬼だけではない。人間でも、平然と残酷になれる奴らがいる。

 何で己が人ではなく、鬼のような奴らが人なんだ。それが悔しくて、涙が流れた。

 

 

「何で人間のお前が、鬼のように残酷なんだ! 人間やめろよ!!」

「一々イラつく鬼が……! まあいい、何にせよ証明できないなら、俺のやる事は変わらない」

 

 

 風能は小さく息を吐くと、日輪刀を構えた。弦司の体が強張る。

 風能は強い。しのぶより強いとの噂もある。そんな相手に、弦司はどこまで抵抗できるか。

 体は消耗しきっている。血鬼術はもうほとんど使えない。それでも、弦司と雨ヶ崎の絆を鬼だからと踏みにじられて、蹲っているだけでは終わらせない。

 その時、拳を構えようとする弦司の袖を、そっと引く者がいた。

 

 

「カナヲ……」

 

 

 あれだけ叫んだためか、カナヲは目を覚ましていた。カナヲはじっと弦司を見つめるだけだった。だが、少女の柔らかな眼差しのおかげで、少しは頭が冷えた。

 戦うのは悪手だ。敵わないというのもあるが、理由はもう一つ。風能が来たのだ、他の隊士だって近くにいる。彼らが来るまで時間稼ぎをする。それが、生き残る最善の術だ。

 だが、風能がそれを許すのか。許さないだろう。

 弦司はカナヲの頭をそっと撫でる。少なくとも、カナヲを巻き込む事だけは弦司が許さない。

 

 

「カナヲ、部屋の隅に行ってくれ」

「……っ」

 

 

 カナヲの動きが鈍い。

 

 

「部屋の隅に行くんだ」

「……」

「早く行け!!」

「――っ!」

 

 

 弦司が強く命令して、ようやくカナヲは動いた。その際、彼女の小さな手が震えているのが見えた。

 カナヲからすれば雨ヶ崎が目の前で殺され、今は同居人が殺されようとしている。弦司が殺されでもしたら……もし、カナヲが心の声を聞けるようになった時、今日という日をどう思うか。

 死ぬ訳にはいかない。カナヲのためにも、一緒に戦ってくれた雨ヶ崎のためにも。

 カナヲが退いてから、弦司は拳を構えた。

 

 

「ほう。子どもを逃がすぐらいの良心は残っていたか? それとも、()()()()()の一環か?」

「ははっ」

「……何が可笑しい」

「これが笑わずにいられるか」

 

 

 カナエと会ったあの日。あの獣のような鬼も同じ事を言っていた。茂吉を守った弦司の行動を、人間ごっこだと揶揄していた。

 そしてまた、弦司はカナヲを守ろうとした。人である風能が、それを人間ごっこだと嘲笑った。

 人と鬼が同じ言葉遊びをする事も。あの日と同じ行動を取った弦司が、またもごっこ遊びだと言われる事も。

 人にこれだけ憧れているのに、人が鬼と同じ言動をする……笑いでもしないと、全てを放り出したくなりそうだった。

 だが、風能にはそんなもの一切伝わらなかったらしい。殺気を漲らせる。

 

 

「言いたい事はそれだけか……!」

「んな訳ないだろ。接触禁止とか、そもそも、何がお前をそんなに駆り立てるのか、とか」

「まだとぼける気か……! 俺はお前が藤の花の家の人間を殺したのは知っているんだ。いい加減、認めたらどうだ?」

「だから、それだけで分かるか! そもそも、お前の話は正式に鬼殺隊で却下されただろ」

「……お前は知らなかったかもしれないが、あの家には他にも人がいた。彼女が、家族が死ぬ前に、お前を見たと言っていた」

「はぁっ? そんなの聞いてないぞ」

「それはそうだろう。その子はとある体の特徴で、家庭内で虐げられて生きていたんだからな。生きていた証拠は何も残っていない」

 

 

 生きていた軌跡のない人がいて、鬼殺隊の調査では見つからなくて、風能だけが情報を見つけた。そんな話があるのかと思う。

 

 

「信じられないと思っているだろうが、隠の格好をした鬼だと、彼女ははっきりと証言した」

「……」

「さっきも森とかいう奴が、お前が雨ヶ崎を殺したとはっきり証言したな。そいつのおかげで、ここまでたどり着けたんだが……まあ、それは今はどうでもいい。これでも、まだとぼける気か?」

「森……!」

 

 

 さっきから、嫌に攻撃的なのは森の証言もあったからなのだろう。本当に昔から弦司の嫌がる事を率先してやる男である。

 そして、会話もこれで終わりという事だろうか。風能の呼吸が変わる。ここまで付き合う男だとは、案外、律儀な奴だったのかもしれない。

 

 

「それじゃあ――死ね」

「――っ!」

「風の呼吸壱ノ型・塵旋風・削ぎ」

 

 

 道場の床さえ巻き込むような激しい突進。一瞬で風能はまさしく風になる。

 弦司は必死に横跳びするのが精一杯で、すぐ間近を一陣の風が通過する。

 

 

「まずは一本」

「くっ!」

 

 

 避けきれず、弦司の右腕が斬り飛ばされる。弦司の体勢が崩れる。

 風能は攻撃を緩めない。

 

 

「風の呼吸陸ノ型・黒風烟嵐(こくふうらんえん)

「がっ!?」

 

 

 ほとんど暴風かと思う、荒々しい振り上げ。弦司は仰け反る事しかできず、胴体から二つに体が泣き別れになる。

 上半身のみ剣圧で吹き飛び、弦司の半分は道場を二転三転として止まった。そして最悪な事に、止まったのはカナヲの目の前だった。弦司から大量に噴出した血液が、カナヲを赤く染める。

 カナヲは血を浴びながら、全身から異様なほど汗をかいていた。半身のみとなった弦司をただただ眺める。

 

 

「離れていろ……!」

「……なんで」

「危ないから、離れろ!! 命令だ!!」

「――っ!」

 

 

 カナヲは一歩だけ離れた。突然来た反抗期なのか。今はとにかく危ない。

 

 

「もっと下――!」

「死ね」

 

 

 さらに言い募ろうとする弦司に、風能は近づくと一閃。

 仰向けになった弦司の頚に向けて、まるで断頭台の刃物のように日輪刀を振り下ろした。

 力が尽きている、などと言い訳を並べている場合ではない。弦司は再生能力を絞ってでも、血鬼術を発動させた。

 ――血鬼術・宿世招喚・鋼。

 頚が半ばまで斬られた所で、弦司の頚が漆黒に変わり、刃が止まった。

 風能の切れ長の目が大きく見開かれるが、それは一瞬の事。すぐに口角を大きく上げた。

 

 

「やはり血鬼術を隠していたな」

 

 

 さっきできるようになった、と反論したかったが、今の弦司にそんな余裕はない。

 無我夢中で気づかなかったが、宿世招喚の力の消費が恐ろしく大きかったのだ。さらに、状態の維持にも気を遣う。じっと集中しなければ、すぐにでも血鬼術が解ける恐れがあった。

 

 

「これならどうだ」

「っ!!」

 

 

 風能は戦いの空気だけは敏感に感じ取れるのか、弦司の顔を踏みつけにした。

 痛みと苦しみが、弦司の集中を妨害する。血鬼術の安定を阻害する。

 漆黒の頚が揺らぐ。それを見て、さらに風能が弦司を踏みつける。

 なぜだ。なぜ、人のためにこんなにも戦っているのに。最後は、人に踏みつけにされながら、殺されねばならないのか。

 人になるとか。鬼だからだとか。もう全部頭の中が、ぐちゃぐちゃなった。

 俺はどうしたかったのか。俺は何をしたかったのか。どんどんどん、自身に残ったものが削ぎ落されていった。

 そうして残ったのは、死にたくない。そんな当たり前の感情だけだった。

 死ななくて、生き残ってそしたら、どうするのか――。

 まずは、カナエに会いたい。今日の事をカナエと話したい。辛かったとカナエに慰められたい。最後にはお土産を渡して、カナエを笑顔にしたい。

 そして――カナエに伝えたい。この想いを余すところなく伝えたい。カナエを己のモノにしたい。

 死の淵に立って思ったのは、カナエの事ばかりだった。

 止まっていた刃が再び動き始める。漆黒が段々と薄まってくる。もうすぐ力を使い切ってしまう。その時、弦司は死ぬだろう。

 

 

「カナエ」

 

 

 最期と思い、彼女の名を口にした。視界の端に、蝶の翅を幻視した気がした。

 ――その時、何かが爆ぜたかと思うほどの爆音が鳴った。

 同時に、弦司の視界から風能が消えた。何を、と思う前に死にたくないとの感情が先行して、頚から日輪刀を引き抜いた。

 そして、目を巡らすと望んでいた人がそこにはいた。

 

 

「はぁっ! はぁっ! はぁっ――!」

 

 

 だが、それは弦司の知らない彼女だった。

 蝶の翅を連想させる、色彩豊かな羽織。その後ろ姿は間違いなく、カナエだろう。

 しかし、呼吸は激しく荒れて、肩は怒りで震えていた。右手の日輪刀は刃の背面である峰を向けて持っており、そこにはべったりと血がついていた。

 カナエの見ている方角を見れば、右腕を曲がらない方向に曲げた風能が、泡を吹いて倒れている。どうやら、爆音の正体はカナエが風能を叩き飛ばした音だったのだろう。

 弦司の知っているカナエであれば……殴りはする。蹴りもするだろう。だが、人を傷つけるのに日輪刀は絶対に使わなかった。

 おそらく、我を忘れて風能を峰打ちしたのだろう。そして、叩いた事で少しは頭が冷えたのか。だが、彼女の様子を見る限り、それもいつまで続くか分からない。

 弦司は嫌な予感がして、残った左腕で袖にしがみつくのと、ほぼ同時だった。

 カナエの右手が、日輪刀の刃を返していた。峰打ちではなくなっていた。

 

 

「カナエ!」

 

 

 名前を呼ばれ袖も引かれて、カナエはようやく弦司を見た。

 上半身のみで左腕一本となり、頚も半ばまで斬られた弦司がカナエにはどう映ったのか。

 一瞬、怒りが再燃したかのように目尻が上がったが、徐々に瞳に理性の色を取り戻していった。

 そして、最後には一粒の大きな涙を流すと、日輪刀を手放して弦司を抱きしめた。

 

 

「弦司さん、ごめんなさい! こんなにボロボロになるまで、遅れてしまって!」

「カナエ……しばらく、このままでいてくれ……」

「うんっ……! うんっ……! もう離さないから……! ちゃんと閉じ込めるから――」

 

 

 弦司はそのまま、心地よさに身を任せた。

 カナエの温かい胸の内。そこからは、カナエの肩越しに道場の様子がよく見えた。

 続々と入ってくる隊士と隠。

 その中に、しのぶもいた。しのぶは雨ヶ崎を真っ先に見つけると、縋りついた。道場に反響するほどの大声で、しのぶは泣いていた。

 他の隠にカナヲは世話をされて寝入っていた。

 そして、風能の言は誰に信じられる事もなく、接近禁止を破った処罰を受ける事だけを確約されて、どこかへ連れていかれた。

 

 

 こうして、長かった一日はようやく終わりを迎えた。

 今日、蝶屋敷にとって最高の一日になるはずだった。

 しかし、全ては鬼に奪われた。

 奪われたものはそれだけではない。

 鬼の犠牲になったのは六十三名。それだけの命と幸せが、鬼によって壊された。

 下手人である三体の鬼を見事討ちとり、悲劇は止められた。

 対して、鬼殺隊の被害は一名。悲劇を止めた彼の死を誰もが悼んだ。

 鬼殺隊は勝った。だが、誰もが忘れられない事件となり、蝶屋敷にも深い傷跡を残した。

 

 

 

 

 鬼殺隊の座敷牢。懲罰を受ける予定の者のみが入れられる。風能誠一は三角巾で首から右腕をつるした状態で、一人閉じ込められていた。

 風能は苛立っていた。あともう少しで鬼の頚が斬れるところで、邪魔が入った。その際、右腕を複雑骨折させられてしまった。医者からは、右腕ではもう二度と刀を握られないと告げられた。だというのに、犯人である花柱はお咎めなしだ。その上、今は風能の処罰を話し合っているという。

 風能はおかしいと思った。

 鬼とは、どこまでも卑劣で卑怯で卑しい生き物だ。そこに例外などあるはずがない。その証拠に、()()が奴の悪行を伝えてくれた。

 彼女は健気にも自身を虐げた家族を、それでも敵討ちがしたいと、胸の内を風能に告げた。彼女は止めてくれと言った。それでも、男が女に打ち明けられたのならば、成さねばらならない。

 事件から丸一日経っていた。

 最低限の食事以外、何もない一日に風能の苛立ちが最高潮に達しようとしていた時、

 

 

「鬼の頚を斬れなかった間抜けはここかァ」

 

 

 凶悪な目つきを持った黒い詰襟の男。鍛え抜かれた肉体と、余す所なく付いた傷跡が特徴の男。

 不死川実弥が現れた。

 せいぜい、隠が来ると思っていた風能は、柱の登場に動揺し慌てて跪いた。

 

 

「か、風柱様! この度はご健勝で――」

「そんな前口上なんざ、どうでもいいィ。今日は柱合裁判の結果が出たから、俺が教えに来てやったァ」

「ほ、本当ですか!? 不死川様が直々に!?」

 

 

 風能にとって、実弥は特別だ。同期の胡蝶や雨ヶ崎と異なり、剣士としての才にも溢れていて、そして何より、鬼に対して苛烈なまでに毅然とした対応。その全てが、風能にとって同じ風の呼吸の使い手であると同時に、大きな目標でもあった。

 そんな実弥からの直々の言葉。期待せずにはいられなかった。

 実弥は凶悪に笑うと座敷牢を開けて、

 

 

「お前は鬼殺隊を追放だァ」

「……は?」

 

 

 呆然とする風能。実弥は気にせず続ける。

 

 

「当然、隊服も日輪刀も没収だなァ。お館様のご温情で、それ以上の処罰はなしだァ。どうせ刀も握れねえだろうし、どこへでも行けェ」

「ま……待ってください!」

 

 

 背を向ける実弥に、風能は回り込み平伏する。風能には現状が全く理解できなかった。

 

 

「なぜ、私が追放されねばならないのです!? アレは鬼でございます! アレは人を殺している! 何より、鬼殺隊に鬼がいるなど、有り得ない! 私は賞賛される事はあっても、処罰などあっていいはずがない!」

「……言いたい事は、それだけかァ」

「えっ――いっ!?」

 

 

 実弥は平伏する風能の髪を掴むと、その剛腕で頭を引っ張り上げた。実弥が自身の頭の高さ近くまで風能を持ち上げて、間近で睨み付ける。それだけで、風能は震えあがった。

 

 

「俺が鬼の動向を探ってなかったとでも思っているのかァ? 鬼殺隊に鬼がいて、何もしていなかったと思っているのかァ!」

「あ……いえ、そんな……」

「じゃあ、テメエは俺の目が節穴だと、そう言うつもりかァ?」

「ち、違いま――っ!!」

「なら、反論するんじゃねェ」

 

 

 実弥は舌打ちをすると、風能を地面へ叩きつけた。

 風能の体が痛みと怒りに震える。

 何で。なぜ。そんな感情に支配された風能は、言ってはならない言葉を口にした。

 

 

「あなたは、鬼を許すのか!!」

「――」

 

 

 それは親を鬼にされ、親に家族を殺され、親を殺してしまった実弥にとって、絶対口にしてはいけない言葉だった。

 

 

「ひっ!?」

 

 

 気づけば、実弥の日輪刀が風能の首に突き付けられていた。実弥の気分次第で、風能の首が飛ぶ。

 

 

「鬼を許すゥ? そんな訳ねえだろうがァ!」

「な、ならなぜ、あの鬼を――!?」

 

 

 なけなしの勇気で尋ねる風能。実弥は忌々し気に舌打ちをすると、

 

 

「あいつが何人の命を助けたァ? 何度あいつが体を張ったァ? テメエは何も知らないんだろうなァ!」

「そんなのあいつの偽造――」

「じゃあ、本物のテメエは当然、偽物と同じ事ができるんだよなァ!」

「……っ」

「俺がテメエの何が一番気に喰わねえと思うゥ? 鬼の頚も碌に斬れない上に、その綺麗なお召し物と体だよォ! 体を張って何も守ろうとしないテメエを俺は心底軽蔑してるんだよォ!! テメエのできない事全てを、あの(げんじ)は全部やっているゥ!!」

 

 

 あの実弥が鬼を……いや、不破弦司を認めている。鬼であれば、必ず滅殺すると言外に語っていた実弥が、不破弦司を庇っている。風能には信じられなかった。

 

 

「俺と胡蝶で斬首を主張したがァ……お館様や他の柱が反対したんじゃ仕方ねえェ。テメエは追放で許してやるゥ。だがな、テメエには変な気を起こさない保証がねえェ。だから、よく覚えておけ――」

 

 

 日輪刀が風能の首筋に当たる。一筋、血が流れた。

 そして、実弥は風能の耳元で、

 

 

 ――鬼殺隊(うち)隊士(げんじ)に手を出すな

 

 

 実弥は日輪刀を鞘に納めると、すぐに座敷牢から離れた。

 後には呆然とした風能誠一だけが残された。




ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。

今話で第三部が終わりました。
これまた課題が目立つ内容になってしまいましたが、ラストへ向けての助走はこれで終わりです。

第四部で最後となります。
色々と不安はありますが、最後まで全力で行きたいと思いますので、どうかこれからもよろしくお願いいたします。


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第15話 あなたがいたから・其の壱

いつも誤字脱字報告ありがとうございます。

第四部開始です。
あと少しですので、最後までお付き合いください。


「カナエの乳房を触りたい」

「地獄に堕ちろ馬鹿野郎!!」

 

 

 弦司の漏れ出た魂の叫びを、しのぶが飛び膝蹴りで応えた。弦司は台所の端から端まで、吹っ飛ばされる。

 しばらく痙攣した後、弦司はゆっくりと体を起こした。

 

 

「台所で暴れるなよ。危ないだろ」

「あんたの頭の方が危ないわよ!!」

 

 

 しのぶが怒鳴るが、珍しい割烹着姿もあり、弦司はあまり恐ろしく感じなかった。むしろ、小柄なしのぶが割烹着を着ていると、何となく背伸びをしている感じがして非常に可愛らしい。手に持った包丁も、絶対に弦司に向けない。真面目で優しい娘である。ちなみに弦司も割烹着姿だが、蝶屋敷では見慣れ過ぎていて誰も違和感を覚えない。

 

 

「何!? 姉さんの体が触れないからって、妹の体を代わりに差し出せとでも言うつもり!?」

「いや……姉の代わりに妹とか、そういう発想はちょっと引く……」

「引かないでよ! そもそも、誰のせいよ!」

 

 

 叫びながらも、しのぶは手を止めない。丸々太った瑞々しいスイカを次々と細かく切っていき、一部は裏漉ししていく。

 ――あの事件から二日が過ぎた。

 雨ヶ崎の葬儀も終わった。時間は悲しみに寄り添ってくれない。無常のまま流れていく。人は前に進まなければならない。だが、そう簡単に割り切れないのが人だ。

 特に、蝶屋敷の面々は引きずっていた。

 しのぶは元気そうに見えるが、一人になるとどうしても雨ヶ崎の事を思い出し、しばしば泣いてしまった。これでは研究や鍛錬に手が付かないので、弦司に誘われ家事の手伝いをしていた。そして、弦司が馬鹿な事をすれば、いつもの調子が蘇る。そうやって、気を紛らわしながら、少しずつ前に進もうとしていた。

 しのぶは頭をガシガシと強く掻きむしると、これ見よがしにため息を吐く。

 

 

「こんな馬鹿野郎に慰められている現状に腹が立つわ……! 絶対にこの借りは返すから、覚えておきなさいよ!」

 

 

 歯軋りしながら、料理を続けるしのぶ。手先が元々器用なため、その動きは本職と遜色ない。

 今、作っているのはスイカのゼリーだった。

 実は今日、差し入れでスイカをもらった。中々熟れておいしそうだったのだが、食べる前になって問題が浮上した。

 ――きよ、すみ、なほの三人が食べるのを拒否したのである。

 あの事件から、三人は弦司やしのぶ、もしくはアオイが作った料理しか食べられなくなっていた。血鬼術を口にした、その事が心の傷となって、信頼した人間からの食事しか取れなくなったのだ。料理をしているのは、三人でも食べられるようにするためであった。

 きよ達は弦司達の手を煩わせて悪い、と謝罪してきた。それは全く問題ではない。むしろ、料理が好きな人員ばかりなので、楽しいぐらいである。

 どうやって、今後その傷を治していくか。今も方法が分かっていなかった。仕方なしに、対処療法的に弦司達は料理を作るしかなかった。

 

 

「おーい、きよ、すみ、なほ、カナヲ! 出来たぞー!」

「わーい!」

「おいしそうなスイカです!」

「配膳、お手伝いします!」

 

 

 そうこうしている内にできたゼリーを、四人を呼んで運ばせる。きよが途中で顔を曇らせる。

 

 

「アオイさんの分は、どうしましょうか?」

「……ちょっと声を掛けてみる」

「不破さん、私も一緒に行くわ」

 

 

 ここにはいないアオイの分を持って、弦司はしのぶと一緒にアオイの部屋へと向かう。

 ――あの日から、弦司とアオイは顔を合わせられていない。

 鬼に対する恐怖。それがまた、アオイの中で蘇ったのだ。

 戦いの時は気を張っていたので、大丈夫だった。問題は全てが終わった後だ。

 緊張が解けた時に、鬼に襲われかけたと理解したのだろう。それが、アオイの鬼に対する恐怖を思い出させた。今は弦司と話す事さえ、アオイは恐れている。

 それでも距離を置く事だけはしなかった。アオイはしのぶを通して『距離は置かないで』と伝えていた。

 初めて会った日、アオイは恐怖を堪えながら同じように自ら提案した。あの時と何も変わらない。二人で一緒に蝶屋敷で働きたい。その願いを叶えるために、弦司は何度でもアオイに話しかける。

 

 

「カナヲ」

「あなたも来る?」

 

 

 向かう途中、トコトコとカナヲが後ろをついてきていた。

 ――あの日から、カナヲもまた変わった。

 カナエとしのぶがいなければ動かなかった彼女が、弦司にもついて回るようになった。好かれたのだろうか。それとも、心に傷を負って、無意識のうちに追っているのか。感情の浮かんでいないカナヲの瞳からは、何も感じられなかった。彼女を守ろうという気持ちが、弦司の中で前よりも強くなった。

 蝶屋敷は広いと言えども、屋内の移動だ。アオイの部屋の前にすぐたどり着く。

 弦司はやや緊張した面持ちで、襖へ向けて声を掛けた。

 

 

「アオイ?」

「っ! 弦司、ですか?」

「大丈夫なのか!?」

 

 

 襖の先から、アオイのちょっと固い、けれど凛とした声が返ってきた。

 彼女の声が聞けた。それだけで、とてつもなく嬉しかった。

 

 

「はい、少し緊張はしますが……時間を置いたのが、良かったのでしょう」

「そうか……頑張ったんだな」

「……ごめんなさい」

「謝らなくていいさ。初めて会った時と同じだ。少しずつ、克服していこう。そして、また一緒に働こう」

「……はい、ありがとう、ございます……! また、一緒に料理を、作りたいです……!」

 

 

 襖の向こうからすすり泣きが聞こえてきた。弦司はしのぶに目配せをすると、彼女に任せて離れた。カナヲは弦司の後ろをそのままついてくる。

 あの日から蝶屋敷は、どこもかしこも傷だらけだ。今もみんな苦しんでいる。もちろん、弦司だって苦しんでいる。

 友が死んだ。雨ヶ崎と()()()との仲睦まじい姿が、今も頭から離れない。どうすれば振り切れるのか分からない。

 だが、苦しんでいる時間はない。

 先の戦闘で、素顔を鬼の前に晒してしまった。弦司の素顔が、鬼舞辻無惨にバレた可能性が高い。遠くない未来に、弦司の素性にたどり着くだろう。もう気軽に外を歩くわけにはいかない。いつ奴の追手が来てもいいよう、弦司の強化が急務だった。

 弦司は鬼だ。業腹だが人とは違う。一足飛びで強くなれる。その最たる例が、前回の戦いで発現した血鬼術・宿世招喚だ。前世の記憶の中から、戦闘に転用できる物体の記憶を招喚し、体を『変化』させる弦司のみが唯一持つ異形の力である。

 強くなるため、宿世招喚の試行錯誤を何度も繰り返した。その結果、幾つか分かった事がある。

 とにかく、力の消費量が大きい。それも、構造が複雑であればあるほど、『変化』と『維持』に力を使う。

 例えば、自身の体を銃に変化させたとしよう。銃口、弾倉、引き金等々、全ての部品ごとに力を使う。『変化』するだけで力を使い、さらに『維持』するために力を使う。今の弦司では、とてもではないが兵器類を宿世招喚するには、力が足りなかった。

 反面、最も硬度が高い素材に自身を変化させる『鋼』が、力の消費が少なく維持も簡単だった。再生能力を持つ弦司が、体の強度を上げるだけでも戦術の幅は広がる。今後は、これを軸に戦いを組み立てていく事になるだろう。

 しのぶの協力もあり、ちょっとした小細工もある。弦司はすぐに今の数倍は強くなる。

 とにかく、強さについては、どうにかなる道筋ができた。残った最大の問題は――カナエとの関係だ。

 結論から言うと、弦司は鬼とか人間とか幸せとか、とりあえず遠くへぶん投げた。

 カナエに救われて以来、初めて死を身近に感じた。風能とのやり取りで、人間への羨望、鬼への憎悪。様々な感情が綯い交ぜになった。全ては死の前に段々と剥がれ落ちていって……最後に残ったのはカナエだった。

 もちろん、自身の体や鬼に対する憎しみは消えていない。人間に戻る願いを、今も持ち続けている。

 それでも、今の幸せが欲しくなった。カナエを手に入れたくなった。何より弦司も、柱のカナエさえも、明日にはどうなっているか分からない。このままどちらかが死ねば、悔いしか残らない。鬼舞辻無惨に情報が漏れた以上、尚更今が大事になった。

 まずはカナエと付き合う。鬼殺とか、体が鬼とか、幸せとか……そういうのは付き合いながら考える。二人で話し合って決める。

 とにかく、未来を考える事は一先ずやめた。今の幸せを最優先とした。

 だが――肝心のカナエが捕まらない。

 あの事件から、忙しそうにカナエは走り回っている。何度か挨拶もしたが、何やら焦った様子ですぐにどこかに行ってしまう。蝶屋敷に来てから、カナエとこんなにも接していないのは初めてだった。台所での呟きは、カナエ成分が不足した結果の事故だったのだ。事故だったという事にしよう。

 

 

(いかんな。何かあったらカナエに甘えてたせいか、すぐにカナエに頼る。依存……しているんだろうなぁ)

 

 

 今の感情を正常とは、弦司自身とてもではないが言えなかった。でも、変化してしまった。辛い毎日が続いて、カナエに甘え続けて、弦司はそう変化してしまったのだ。もう後戻りはできない。するつもりもない。このまま進んで、また変わっていくしかない。

 触れれば触れる程。潜れば潜る程。弦司はカナエという女性から離れられなくなる。

 

 

沼女(ぬまおんな)め……)

 

 

 弦司は心中で密かにカナエをそう呼ぶ事にした。

 

 

「弦司さーん!」

「どうしたんだ、きよ?」

 

 

 弦司が居間に戻ると、ちょうど弦司を呼ぼうとしていたきよと遭遇した。その手には、手紙が握られている。

 

 

「隠の方からお手紙が届きました」

「ありがとう」

 

 

 弦司はきよから手紙を受け取ると、心を躍らせながら開く。少し前から弦司はある申請を出していた。これはその回答であろう。

 手紙の中身を確認する。待ち望んでいた回答が書かれていた。

 

 

「すまない、今日の夜には出かけるわ」

「任務ですか?」

「いいや」

 

 

 きよ達に手紙を見せる。

 それを要約すると、こう書かれていた。

 ――刀鍛冶の里へご案内します。

 

 

 

 

 宇随天元は頭が痛かった。

 何も怪我をした訳ではない。風邪という訳でもない。

 敬愛するお館様――産屋敷耀哉の難題過ぎる()()()に頭を痛めていた。

 

 

『カナエの相談に乗ってあげてくれないかい?』

 

 

 二つ返事で了承した。すぐに、了承した事を後悔した。

 緊急柱合会議の時は、まだ揶揄う余裕があった。定例の柱合会議では()()()()()()()()のがよく分かった。火中の栗を拾うのも馬鹿らしいので、そのまま放置した。

 そして柱合裁判後の今日、お館様の願いを盾に個室のある食事処へ呼び出してみれば――。

 

 

(派手に悪化してんじゃねーか!!)

 

 

 もう()()()()()()()()()()()。机を挟んで座ったカナエには、いつものおっとりとした空気があまり感じられない。それどころか、やや垂れていたはずの目尻には鋭さがあり、瞳の奥からは時折狂気の色さえ見える。

 どうしてこうなっているのか。天元は派手で優秀な元忍だ。原因は分かっている。

 鬼だ。男だ。不破弦司だ。

 特に先日の風能元隊士との一件。天元が報告を聞いた際、カナエらしくないとは思った。色々と爆発したのだろうと予想はした。だが、ここまでとは正直思っていなかった。

 こんなに拗れてしまったものを、どうすれば良いのか。さすがの天元も、すぐには対処法が思いつかなかった。

 

 

「……南無」

 

 

 隣に座った七尺を超える巨漢が呟き、両手の数珠をジャリジャリと鳴らす。

 彼――悲鳴嶼行冥を天元は巻き込んではみたが、この感じだと役に立つ気配が感じられない。そもそも、この男に恋だの愛だのは門外漢だった。

 そして、天元は最後の望みと隣を見れば、

 

 

「カナエさん、疲れてるんですかねー」

 

 

 お茶をすすり、うふふと暢気に笑う可愛らしい女性。長い黒髪と、垂れ気味の目元が何となく小動物を思い浮かべさせ、庇護欲を誘う。

 天元の三人いる内の嫁の一人、須磨だ。

 天元は自他共に認める()()()()()の彼女を、正直な所、連れてきたくはなかった。だが、彼女しか手が空いてなかった。致し方ないので連れてきたが、須磨らしい、とでも言うべきか。カナエの異常に気付いていない。

 人選を完全に誤った。もう腹を括って天元が頑張るしかなかった。

 

 

「先日は大変だったな」

「いえ、私がもっとしっかりしていれば防げた悲劇ばかりで、自身の不明を恥じるばかりです」

「お前の所の不破が、きっちりやり切ったって話じゃねえか。自虐はするな、あいつのためにも胸を張れ」

 

 

 カナエはニコリともしない。さらに空気が重くなる。早速、選択肢を間違えたかと、天元の胃が痛くなる。

 

 

「彼は友を喪い、腕を落とされ、体を二分にされて、頚も半ばまで斬り落とされてしまいました。どうして、胸が張れるのでしょうか。私がもっとちゃんとしていれば、あんなに苦しまなかったでしょうに……」

「お前の気持ちは分かるが、少しは男の覚悟と努力を汲んで報ってやれ。それに、お前のそんな顔を見て不破の奴は喜ぶ男か? もう一度言うぞ。あいつのためにも胸を張れ」

 

 

 カナエは瞼を下ろすと、何度も深呼吸を繰り返す。

 

 

「…………すみません、言葉が過ぎました。それで本日のご用件は何でしょうか?」

 

 

 次に目を開けた時には、目の色に冷静が戻っていた。しかし、いつものおっとりとした空気はほとんどない。こんな地味な綱渡りを毎回毎回せねばならないのかと、天元はげんなりする。

 溜息一つ吐いてから天元は本題に入った。

 

 

「さっきの件もそうだが、色々と不破の事で悩んでいるんだろ。最初に報告を聞いた際、俺は胡蝶らしくないと思った。お館様も心配されておいでだ。ここでの話は秘密にするから、正直に胸の内を話してみろ」

「…………そうですね。私も、以前から自身が不安定なのはずっと感じていました。柱だから気軽に誰かに話す事もできなくて……でも、宇随さんと行冥さんと須磨さんなら、安心して話せます。どうか、私にお時間をいただけないでしょうか?」

 

 

 見た目よりも理性が残っていたのか。カナエの発言には、所々に理知を感じさせるものだった。この感じならば、大丈夫かもしれない。

 

 

「私達はそのために来た。遠慮なく話してみなさい」

 

 

 安全圏に入ったと思ったら、途端に行冥が割り込んできた。天元はかなりイラっとしたが、今のところ話し合いは順調に進んでいる。

 ぐっとこらえて、カナエの言葉を待った。

 

 

「その、えっと……」

「どうした?」

「いえ、改めて言うとなると恥ずかしいな、と」

「まあな。かくいう俺も緊張してんだ。あまりかしこまって言うなよ」

「ははは。それじゃあ、言いますね」

 

 

 カナエは頬を僅かに赤く染めると、

 

 

 ――弦司さんが私に好意を持っているみたいなんですよ

 

 

「脳味噌爆発してんのか!!」

「!?!?」

 

 

 天元は思わず叫んだ。この女、この期に及んで何を言っているのか。本気で脳味噌が爆発しているのかと天元は思った。

 

 

「今はお前の話をしてんの! もっと重要な事があんだろうが! 何で不破の話になるんだよ!」

「えっ、いや、その」

「そもそも、逆だろうが!! お前が不破に好意持ってんの!!」

「ち、違います! 私は別に好きとか、違います!」

「違わねーよ馬鹿! なんで『私、惚れてませんから』みたいな顔しながら言っちゃってんだよ! どいつもこいつも、とっくの昔に気づいてんだからな!!」

「えっ」

「えっ、じゃねーよ! きょとんとするなよ! 驚きたいのはこっちだよ!」

 

 

 天元は頬杖を突くと、イライラと机を指先で叩く。つまり、カナエは自身の認識から間違っているのだ。そこから矯正しないと、歪んだ部分は治せない。

 何で同僚の子どものような恋愛観を、元忍の天元がわざわざここまで面倒見ないといけないのか。本当にイライラするが、お館様に頼まれた以上、天元がやり切るしかない。

 

 

「好きじゃないとは言うが。例えばお前の妹が不破と派手に結婚するとか言い出したら、どうするんだ?」

「―――─」

「ひぎぃ」

 

 

 須磨が小さく悲鳴を上げると、湯呑を取り落とす。カナエが真顔になり、殺気が漏れ出していた。イライラして雑に対処してしまったのが間違いだった。

 行冥が見えない目で、非難めいた視線を天元に投げてくる。確かに、さっきの応対は短絡的だった。だが、それならお前がやれと天元は睨み返してやる。行冥はそっぽを向いた。

 須磨のこぼしたお茶を布巾で拭きながら、天元は白い目でカナエを見る。

 

 

「少し想像するだけで、その有様だ。本気で言ってんのか?」

「あっ、これは、その……」

「さっきも言ったが、ここでの話は秘密にする。特に不破の奴には絶対言わない」

「…………」

「あのな、あの様で一人で解決できると思ってんのか? 少しでもできないと思うなら、今すぐ全部話せ。話すつもりがないなら、もう終わりだ。俺は帰る」

「……本当に、ありがとうございます」

 

 

 殺気が抜けたカナエは、悲しそうに眉尻を下げると、ようやく心の内を打ち明ける。

 

 

「私はいつの間にか、弦司さんがずっと私の元にいると思っていました。もちろん、そんなはずがなくて、一度は私の元から離れて、それが急に苦しくなって……それからです。救う以外の感情がある事を、はっきりと自覚したのは。そして、戻ってきて欲しいという醜い感情が現れました」

「醜い、ねえ……」

 

 

 天元からすれば可愛い感情だ。要は好きな人が取られたから、取り返したいと思った。独占欲、それだけである。

 だが、優しいカナエは、他人の幸せを奪うような感情を許せなかった。だからこそ、醜い感情と断じ、蓋をして閉じ込めようとしたのだろう。そして事件を切っ掛けに、箍が外れ蓋から溢れ出そうとしている。

 カナエの告白は続く。

 

 

「それで本当に戻ってきて……気づいたら、私だけの物と思っていました。彼は物でも、夢を叶える道具でもないのに」

「……」

「間違っているって、何度何度も自分に言い聞かせました。でも、全然止まらなくて、段々増長していって……いつの間にか、このままでいて。私以外、仲良くして欲しくないと思うようになりました。それが先日の事件の時、頚を斬られかけた弦司さんを見て、頂点に達しました。あろう事か日輪刀で人を傷つけてしまった上に、今は彼が傷つくぐらいなら……彼をその……」

「……その?」

「…………閉じ込めたいと、思っています」

「!?!?」

「今は本当に閉じ込めてしまいそうで……弦司さんに会うのが怖いです。私は、一体どうしたらいいのでしょうか……?」

 

 

 カナエは震えた声で言い、俯いた。

 天元は辛うじて驚愕を飲み込む。須磨と行冥は口を半開きにして引いている。本当にあの胡蝶カナエから出た言葉なのか、心底疑わしい気分だった。

 彼女がこうなるまで、なぜ放置していたのか。誰か知らないが、天元は小一時間説教したい気分だった。

 だが、今は何においてもカナエである。天元は慎重に言葉を選ぶように、率直な感想を述べる。

 

 

「俺には胡蝶が不破を好いているようにしか聞こえないが。一体、何が違うって言うんだ?」

「だって、こんな薄汚い感情が愛だなんて……絶対違います。もっと、美しくて尊いもののはずです。閉じ込めたいだなんておかしい。間違っています」

「それは違うな、胡蝶」

 

 

 天元はカナエの言葉を敢えて否定した。

 胡蝶カナエという女性は、一言で言えば優しい。鬼でさえも救いたいと、常日頃から宣言していた。そして、不破弦司という鬼を現実に救ってみせた。まだカナエは救っていないと思っているみたいだが、天元からすれば、命があり衣食住も揃い今も笑えているなら、それは十分救えている。後は、そいつの責任だ。

 それはともかく、心優しいカナエからすれば、好きや愛とは清廉で美しいものだったのだろう。確かに、そういった一面はある。だが、それはあくまで一面に過ぎない。嫉妬や不安に束縛。愛や恋の負の面はいくらでもある。

 でも、カナエは潔白な物だとしか知らなかった。だからこそ、カナエは自身の醜い一面に動揺した。そして、知らないからこそ抑える術が分からなかったのだろう……それでも、閉じ込めたいは極端だが。

 カナエには醜さも好意の一面だと教えねばならない。

 

 

「確かに、好きだの愛だのは一見美しく見える。俺も鬼殺と嫁を秤にかけるなら、嫁だと決めている。だけどな、それと同じぐらい醜い部分だってある」

「そうでしょうか? 私には、天元さんのその気持ちは、とても眩しいものとしか思えません」

「おいおい、派手な俺には嫁が三人いるのを忘れたのか? 本当に綺麗な感情なら、そんな事できると思うか?」

 

 

 天元の嫁である雛鶴、まきを、須磨は忍の棟梁である、天元の父親が決めた結婚相手である。勝手に決められた結婚……それでも、彼女達を幸せにしたいと思い、三人とも娶った。

 だが、どんなに言葉を着飾っても、これは誠実ではない。もちろん、彼女達がどんな待遇や境遇でも天元と一緒にいたい、という願いは知っている。それでも、結局根幹にあるのは『俺が幸せにする』という身勝手な欲望だった。

 

 

「全員平等に愛したって、俺の体は一つだ。一人愛するより、どう頑張ったって時間も密度も三分の一以下になる。それでも三人一緒に居るのは、俺が三人とも欲しいと思ったからに他ならない。胡蝶には、派手に欲望丸出しのこれが綺麗に見えるか?」

「……でも、いつも宇随さんといる時は、誰もが幸せそうです。本当に、そんな事あるのでしょうか……?」

 

 

 

 天元の欲望を聞いても、カナエは納得できないのか。俯いて肯定を返さない。

 仕方なしに、天元は須磨にも言わせる。

 

 

「……須磨」

「えっと、確かに天元様にはよくしてもらっているんですけど、やっぱり時間が足りないな~、って思う事はしょっちゅうです。そういう時は、本当に申し訳ないんですけど、他の人に引っ込んで欲しいというか、まきをさんあまりガツガツすんなよクソ! とか思います!」

「須磨」

「あと、雛鶴さんのあの態度は癪に障ります! なんですか、みんなして雛鶴さんを正妻正妻呼んで! 私達に一番も二番もないのに! なのに、雛鶴も雛鶴さんで正妻面しやがって、割と頭の中でいつもボコボコにしてますよ!」

「誰がそこまで言えと言った!!」

「あっ! ご、ごめんなさい――その」

 

 

 つい、と須磨は付け加える。つまり、割と須磨の本心であった。

 天元もなるべく嫁達の不満が溜まらないように気を遣っているが、それでも完全な平等とはいかない。やはり、もっと時間を増やすべきなのだろうか。

 帰宅したら嫁達を労おうと思っていると、カナエが顔を上げた。そして行冥を見る。どうやら、全員の意見を聞くつもりらしい。

 行冥は何やらジャラジャラと数珠を弄ぶばかりで何も言わない。天元は行冥を睨み付ける。お前もカナエが納得するような話をしろ、と重圧を掛ける。

 数珠のこすれ合う音が止まると、行冥は諦めたように口を開いた。

 

 

「私は母親に手を引かれ、楽しそうにしている子どもを見るだけで泣く男だ……だが、親を鬼にされ、それでも声を張り上げる子どもがいて、いっそ殺して解放したいと思ってしまった事もある」

(何言ってんだ、この男……)

 

 

 恋だの愛だのから一気に離れた。人間の二面性というのか。優しさの裏にある残酷な感情を、一応は行冥は説明したが、あまりに極端過ぎる。ちなみに、須磨はようやくとんでもない場所に連れて来られたと理解したのか、涙目で天元を見ていた。後で頭を撫でる事にして、天元は一旦は須磨を無視する事にした。

 そしてカナエは、

 

 

「行冥さんのような優しい人でも、子どもに対してそんな事を思ってしまうんですね……」

(何でそうなる!?)

 

 

 驚きながら何やら納得しているカナエ。カナエの行冥に対する信頼感は、一体どこから来るのか。天元には理解できない。

 でも、行冥の言葉に一定の効果があったようで、カナエの瞳が揺れ動いていた。迷いの色が見える。天元には納得できないが、カナエは好きという感情に傾き始めていた。

 カナエは再び俯くと、何度も目を瞬かせ胸元に掌を当てる。

 

 

「本当に、こんな醜い気持ちが……す、好き、なんでしょうか?」

「ああ。それに、胡蝶のその気持ちは、本当に醜いだけか? 不破を助けたいって気持ちは、これっぽっちもないのか?」

「……あります。助けて、彼を幸せにしたいです。でも、物でもないのに、私だけの物とも思っています」

「独占欲だな。俺の嫁に対する気持ちもそんなものだし、好きになるってのは大なり小なり、そういうものだろ」

「他人と交わりたいと思う彼を、私以外、仲良くして欲しくないとも思っています」

「それも独占欲だな。仕事柄仕方ないが、あんまり男と話すなとか思う事は俺もある」

「……じゃ、じゃあ、彼を閉じ込めて飼ってもいいのでしょうか?」

「何でそこだけ、ワクワクして訊いてくるんだよ!? 脳味噌爆発してんのか!? というか、地味に飼うに格上げすんな!! ホント、派手に独占欲の塊だな!! ……だがまあ、自分の物にしたいって、誰もが持っている欲望の一つではある。実際にはやるなよ?」

「誰もが持っている欲望――」

「……」

 

 

 派手に特別な欲望だろ、と訂正しそうになる口を天元は咄嗟に閉じる。とにかく、カナエに弦司に対する好意を認めさせる。認めさせなければ、話は先に進まない。過激な所は、全部弦司に丸投げすればいいと天元は判断した。

 また少し、好きに理解が傾いたのだろう。カナエが今度はもじもじし始める。

 

 

「好き……私が、弦司さんを、好き……?」

「どう見てもそうだろ。なあ、須磨?」

「恋するカナエさん、すごく怖、可愛いですよ~」

 

 

 須磨がダラダラと汗を流しながら答える。だが、恋という単語が良かったのか、カナエは顔を真っ赤にさせて目を逸らしていた。

 

 

「恋……私が……弦、司さんを……」

 

 

 名前を呟き耳まで赤くする。一人の女が、恋を自覚した瞬間だった。正直、一体何を見せられているんだと天元は思わなくもない。

 とにかく、これで万事解決……とはいかない。すぐにカナエが不安に顔を曇らせた。

 

 

「でも、私は鬼殺隊の柱です。いつ死ぬか分からない上に、こんな恐ろしい気持ちを伝えてしまって怖がられないでしょうか? そもそも、私は彼を救うために一緒になっただけです。これでは救うと言いながら彼を自分の欲で手元に置いたみたいじゃないですか」

「地味に面倒くせえな。でもでもだってじゃねえ。そこからどうするかは、胡蝶の選択だろうが」

「す、すみません。どうすればいいのか、本当に分からなくて……」

 

 

 申し訳なさそうにカナエは頭を下げる。

 天元は投げやりに茶をすする。好意を認識すれば、後は惚れた腫れたの男女の世界だ。その悩みも苦しみもときめきも、全部二人のものである。天元の出る幕ではない。

 もう帰ろうかと天元が思っていると、ようやく行冥が自分から動いた。

 

 

「このような生業で一緒になりたい。救うために一緒に居るはずが、自身の幸せを考えてしまう。君の抱えようとしている矛盾は分かる。だが、それを受け入れ進んでいる者が目の前にいる」

 

 

 行冥が指しているのは、天元と嫁達の事だろう。

 天元と嫁は全員が鬼殺隊に入っている。当然、命のやり取りをする。明日、突然死ぬかもしれない。それでも、今まで忍として奪ってしまったものを清算し、陽の当たる場所で生きるために戦っている。在り方も、生き方も、はっきり言って矛盾の塊だ。だから、天元は派手に規則を決めた。それをカナエに教えるぐらいはいいだろう。

 天元は指を三本立てる。

 

 

「鬼殺なんざやってたら、嫁達の命か、鬼の頚か、必ず選択する機会は来る。どっちも選ぶなんて、矛盾だらけで選べる訳がないし、得てして贅沢な状況でもない。なら、俺は迷う前に派手にハッキリと命の順序を決める事にした」

「命の順序、ですか?」

「ああ。一番目は嫁達。二番目はのほほんと生きてる一般人。三番目は俺だ」

「えっ」

 

 

 そんな発想自体なかったのか、カナエはぽかんと口を開けた。

 

 

「派手にぶっちゃけると、俺は一般人よりも嫁の命の方が大切だ。嫁にも、任務より命を優先するように、ハッキリ伝えてる」

「でも私達、鬼殺隊ですよ!?」

「さっきも言ったが、好きだの愛だのは綺麗なだけじゃない。欲塗れで、汚い一面もある。両方あって然るべきなんだよ。銅貨みたいに表だけじゃなくて、裏もある。それが本来ある姿なんだ。俺の場合、嫁達を幸せにする事が表で、そのために命の序列を決めたのが裏。もちろん、欲のために何かを奪うなんてのは論外だ。だけどな、鬼殺隊だなんだ言っても、俺達は人なんだ。鬼殺より大事なものがあるってのは、そんなにおかしい事か?」

「……それは」

「ちなみに、上弦の鬼を倒した時には、普通の人間として生きると、ド派手にハッキリと決めている。その時は、後をよろしく頼むな」

「…………」

「ま、適当に参考にしな」

 

 

 そこまで言うと、須磨が天元にしがみついてきた。見遣れば、泣いているらしい。僅かに肩を震わせている。天元の言葉が嬉しかったのか。それとも、どれだけの困難を思い出してしまったのか。もしくは、その両方かもしれない。

 地味に鼻水がつくが、天元は黙って須磨の頭を撫でた。その様子をカナエは羨望や苦悩の混じった、複雑そうな面持ちで見ていた。

 

 

「……私の感情がおかしくないのは、分かりました。受け入れます。でも、本当にそんな風に振る舞って良いのでしょうか? 私はワガママになってもいいのでしょうか? 今までの生き方を変えても良いのでしょうか?」

「変わる事が恐ろしいのか?」

 

 

 突然、行冥がカナエに問う。

 カナエは少し迷うように口を結ぶと、静かに頷いた。

 

 

「……はい。その、私は行冥さんに認められるような、良い子でしたから。自分にこんな感情があった事に、驚いています。このまま激情に身を任せて、自分勝手に振る舞うことが……すごく怖い」

「そうだな。私も正直驚いている。君がどう変わるのか予想もつかず恐ろしいとさえ思っている。それでも……変わる事を恐れてはならない」

「それはどうしてでしょうか?」

「不破弦司が『変化』を好むからだ」

「えっ」

 

 

 この時、カナエと同じく天元も間抜けな顔をしていただろう。何やら説法が来ると構えていた所への、この行冥の発言だ。間抜けにもなる。

 行冥は生真面目に続ける。

 

 

「私は恋愛は得意ではないが、相手の好む行動が肝要だとよく聞いている。ならば恐れず『変化』する事だ」

 

 

 大仰に言うので何事かと思ったが、恋愛に関する助言だったようだ。天元は気が抜けて、クスリと笑ってしまう。

 対して、カナエは俯いて、肩を大きく震わせていた。当然、泣いているでも怒っている訳でもなく――。

 

 

「あはははははっ!!」

 

 

 カナエはお腹を押さえて、眉尻も目尻も下げ切って、大口を開けて笑い始める。微笑む姿は何度も見たが、ここまで大笑いするカナエを天元は見た事がなかった。

 ひとしきり笑ってから、カナエは涙を拭って微笑んだ。

 

 

「あーおかしい。いきなり、何を仰ってるんですか。でも、そうですよね。弦司さんが『変化』が好きなら、好まれるために『変化』を恐れていてはいけませんよね」

「……何も、そんなに笑う事はない」

「ふふふ、ごめんなさい行冥さん。でも、そっか。弦司さんは『変化』が好きでしたね」

 

 

 うんうん、とカナエは何度も頷く。

 この時、天元は弦司が鬼にされた理由を思い出していた。

 ――『変化』はその全てにおいて劣化だ。私の望む『不変』から最も遠い。

 鬼舞辻無惨は、己の価値観と弦司が対極に位置すると知って弦司を鬼にした。鬼舞辻無惨から最も遠い位置にあるのが『変化』ならば、鬼殺隊士としてなぜ『変化』を恐れる必要がある。そして、弦司は『変化』が好き。

 カナエには『変化』を恐れる必要も躊躇する理由もなかったのだ。行冥は知らず知らずのうちに、カナエに必要な金言を授けていた。

 カナエも気づいたのだろう。纏っていた迷いや嫌な鋭さが消え、いつものカナエらしいおっとりとした空気が戻ってきた。

 カナエが目を細め、行冥を見た。

 

 

「私は誰かのためじゃなくて、自分の幸福のために動く女になるかもしれません。鬼殺以外のモノに、たくさん目移りするかもしれません。私はそんな風に『変化』してもよろしいのですね?」

「…………」

 

 

 行冥は沈黙すると、見えない瞳から大粒の涙を流した。いつもの、流れ出るような涙ではない。心の内を震わせた感涙であった。

 これにはカナエも天元も動揺した。

 

 

「お、おい、悲鳴嶼!?」

「行冥さん!? あの、どうしたんですか!?」

「……私は君たちの覚悟を目の当たりにして、育手を紹介した。君は見事、最終選別を乗り越え柱まで至った。覚悟に応え、数多の人々を救っている。それは間違いなく、喜ばしい事であった」

 

 

 見えない目を閉じ、懐かし気に語る行冥。だが、天元はその声に混じる、僅かな悔恨に気づいた。

 天元は伝え聞いた話で、胡蝶姉妹は元々行冥が鬼から救った娘と聞いている。彼女達が鬼狩りになると聞いた時、そして覚悟を見せつけられた時。救ったはずの娘達が、地獄へ向かう……行冥が忸怩たる思いであった事は想像に難くない。

 行冥は瞼を開け、まるで心の内を見る様に、何も映らない瞳で真っ直ぐとカナエを見た。

 

 

「だがどこかで、強く優しい大人になって人生を歩んで行って欲しいと願っていた」

「行冥さん……」

「今、君は両親を失った日から初めて、自身の幸せを見つめ直した。私は君が未来を見た事が、嬉しくてたまらない」

 

 

 行冥の頬が緩む。滅多に笑わない男が、確かに笑っていた。

 

 

「君が未来を見つめる限り、私は君を認めよう。もし、君が道を違えようとしているなら私が正す。だから、心赴くままに『変化』しなさい」

「ありがとう、ございます……!」

 

 

 カナエが僅かに目を潤ませ微笑みながら、感謝を述べた。

 色々あった。はっきり言って、損な役回りだと天元は思っていた。だが、カナエと行冥の笑顔が見れただけで十分な報酬だと天元は思い直した。己らしくないと天元は思ったが、それでも微笑みが止まらない。

 カナエは目元を拭うと、気恥ずかしそうに頬を掻く。

 

 

「何度もご迷惑をおかけしてすみませんでした、行冥さん、宇随さん、須磨さん。私の中でようやく折り合いがつきそうです」

「もうこんな事、勘弁しろや。で、具体的にはどうするつもりだ?」

「そうですね……」

 

 

 カナエは胸に手を置く。しばらく考えるような間を置くと、頬を緩ませた。

 

 

「以前、私は弦司さんを救うつもりも託すつもりもないと言われ、身勝手にも()()()と思ってしまいました。あの気持ちが今の気持ちの原点なら、私はもう弦司さんを()()()()()()()()()。私が弦司さんを救って、幸せにしたい。だから……この命は鬼殺には捧げられません。すぐにではありませんが、鬼殺についてはどこかで一度、区切りをつけます」

 

 

 カナエの引退とも取れる発言に、天元は驚くほど落ち着いて聞いていた。優しい彼女にとって、鬼の頚を斬る事は向いていないと、どこかで思っていたからだろうか。

 

 

「その後は?」

「彼の治療に専念したいです。そして、いつか鬼を治せる薬を作れれば……なんて」

 

 

 今度は綺麗に天元の腹に落ちる。

 カナエの持つ深い悲しみと悲痛な覚悟。鬼でさえ救いたいと思う彼女にとって、本当に必要なのは断ち切るための刀ではなかったのかもしれない。未来を紡ぐ、治すための力が本当に必要だったのではないかと、天元は思った。

 次に、カナエは気まずそうに目を伏せると、

 

 

「もちろん、他にも考えて受け止めなければならない事がたくさんありますが、それもこれも、まずは恋愛成就しなければ意味がないので……この件が終わるまでは、もう少し面倒見ていただけませんか?」

「冗談キツイぜ。不破弦司は胡蝶カナエの事が好きなんだろ?」

「それとこれとは話が違うと言うか……! とにかく、そこを何とかお願いします」

 

 

 カナエは手を合わせて頭を下げる。調子を取り戻すとすぐこれである。だが、天元は悪い気はしなかった。

 今まで、カナエは未来を見て生きていなかった。それが『変化』を受け入れ、前を向くようになった。鬼殺なんて生業である。その大半が、数多の鬼を殺す事しか考えていない。行冥ではないが、この『変化』は素直に嬉しい出来事であった。

 もう少しだけ付き合ってやるか、と天元が考えていると、カナエは須磨の手を両手で握った。

 

 

「実は私、須磨さんが()()頼りになると思っていました」

「一番!?」

「はい、()()頼りにしているんです。最後まで、お付き合いいただけないでしょうか?」

「――お姉さんに、任せなさい!」

 

 

 頼られた経験の少ない須磨は、一にも二もなく了承する。それより、いつの間にか『もう少し』が『最後』に変わっている。須磨はそれに気づいていないのか。

 すっかり調子を戻したカナエに流れを奪われてしまう。

 

 

「それじゃあ、弦司さんが私に囲われる方法とか、私の独占欲を密かに叶える方法とか、弦司さんが無条件で私を甘やかす方法を考えて下さい!」

「欲張り三点組みはやめろ!! 恋愛なめんなよ!!」

 

 

 やはり付き合うべきではなかったか。僅かに後悔した天元だったが、カナエの弾けるような笑顔に、溜息を吐くしかできなかった。




私生活の方ですが、仕事などで時間の確保が難しい状況です。
加えて、最終話は複数話まとめて投稿したいと思っていますので、しばらくは週に一回ぐらいのペースでの投稿になるかと思います。
ご了承ください。


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第16話 あなたがいたから・其の弐

いつも誤字脱字報告ありがとうございます。

全体の構成を考えると、区切るタイミングがなくなった上、長くなったので分割します。
それでは、お楽しみください。


 カナエの願望にたっぷり付き合った後。

 部屋に残されたのは、疲労困憊の須磨と、結局、有効な助言はあれが最後となり仏像と化した行冥と、最後は頷く機械となった天元だった。最後の方は色々ヤバめな提案もいくつか通してしまったが、とりあえずカナエはご機嫌で先に帰っていった。

 ようやく終わって、天元は脱力する。

 

 

「地味に疲れた……どうにかなって良かったな、悲鳴嶼」

「だが、根は優しい娘だ。迷いが完全に振り切れる事はない。また迷う事もたくさんあるだろう」

「そりゃそうだが。ま、これでくっ付けば、ひとまずは落ち着くだろ」

「……それとこれとは別問題だ」

 

 

 行冥の手元の数珠がひび割れる。どうやら、彼女の恋心は認めても、その先については受け入れてないらしい。

 相手は鬼だ。不安や憤りが行冥の胸の内にはあるかもしれないが、はっきり言って、そんなものは今さらだ。弦司を強制連行した緊急柱合会議、あの時に彼を受け入れ、さらには鬼殺隊へ入隊した以上、彼は一人の人間として扱わねばならない。

 もしかしたら、男親のような感情が行冥の胸の内にはあるのかもしれないが……もう少し、それらしい事をやれと天元は言いたい。

 兎にも角にも、カナエと弦司の関係について、天元は二人に任せることにした。この話は、これで終わりである。そう思い、天元は別の話題を切り出す。

 

 

「悲鳴嶼、風能の件だが」

 

 

 弛緩した空気が、一気に張り詰めた。

 ――風能誠一。

 あの日、派手に問題を起こした鬼殺隊の元隊士だ。なぜ彼があそこまで、弦司の討伐に頑なだったのか、天元自ら追加調査を行っていた。そして、分かった事があった。

 

 

「あいつが言ってた女は実在した」

「……何?」

 

 

 風能がしきりに訴えていた女の証言。

 とある特徴を持ち、虐げられていた女性の情報を、確かに天元は入手していた。

 

 

「まだ理由までは分かっていないが、その家は頑なにその女を、死んだものとして扱っていた。鬼殺隊の情報網に引っかからなかった理由は二点。その女に風俗紛いの事をさせて、一部、下半身の緩い隊士に奉仕させていた。そんな馬鹿をしでかして、正直に女の話ができる訳がなかったってのが一点。それと先も言ったように、そこの主人が女を死んだものとして扱っていたため、生きていた痕跡が少なかったってのがもう一点だ。全部、馬鹿隊士達からの情報だけどな」

「なんと愚かな……」

 

 

 行冥が怒りで眉間にしわを寄せる。

 

 

「しかし、そうであればなぜ、風能元隊士はあそこまで不破弦司に拘った?」

「不破が便利屋だった時、確かに例の藤の家での出入りはあったみたいだが、直接不破と女との面識はなかった。執着する理由は俺にも分からないな」

「この事を彼らには?」

「伝えてない。何も分かっていない事を伝えて、地味に不安がらせても意味がないし、知った所で対処のしようがないからな」

「うむ……」

 

 

 二人して首を捻る。一体何があって、風能はああなってしまったのか。真相の形が見えてこない。例えようのない不安が二人の胸の内に生まれる。

 

 

「ま、その女が風能と接触した所までは分かっている。そいつを追えば、おいおい分かるだろうよ」

「……だといいが」

 

 

 結局、何の結論も出ないまま、この日は解散となった。

 

 

 

 

「どうもコンニチハ。ワシこの里の長の鉄地川原(てっちかわはら)鉄珍(てっちん)。よろぴく」

「初めまして、不破弦司と申します。よろしくお願いいたします」

 

 

 ひょっとこのお面を被った、子ども程に小柄な老人に対して、弦司は低頭していた。

 現在、弦司は刀鍛冶の里へ訪れていた。

 山岳部に巧妙に隠されていた里は、周囲を鬱蒼とした森林に囲われており、まさに秘境と呼ぶに相応しい装いだった。

 まずは一番に長へ挨拶を、という事で会ったのが、この小柄な老人だった。

 一目見て弦司は鉄珍に抑えきれぬ期待を抱いた。一見、小さなご老人としか見えない彼だが、不破家で数々の人物を見てきた弦司には、職人然とした空気を敏感に感じ取っていた。小さくもぶ厚い皮に包まれた掌然り、時折感じるお面の下の鋭い視線然り。

 弦司の直感が告げる。今まで出会ってきたどの職人よりも、鉄珍の前であれば霞んでしまう事を。胸の内の期待を弦司は隠しきれない。

 まるで少年のような心持でいたためか、お面の下の目が温かいものに変わる。

 

 

「君が鬼って聞いて、ワシも色々考えたのにな。そんなキラキラした目で見られたら、アホらしくなったわ」

「ありがとうございます。それと、何か里の外でお困りごとがありましたら、その時は是非、不破家を御頼り下さい」

「ガツガツしてるね、キミ」

 

 

 しばらく談笑したが、それは短い時間であった。里の長であり、里一番の刀鍛冶である鉄珍は当然のように忙しかった。今回、弦司が会えたのは、鬼殺隊に味方する鬼を一目見たいと、鉄珍自身の要望があったからに他ならない。

 

 

「何か困った事があったら、遠慮せずに言いや」

「はい、本当にありがとうございます! それと、里の外で困った事があれば――」

「不破家やな。よく分かったから、元気でな」

「はい、お元気で」

 

 

 挨拶もそこそこ、弦司は次の目的地へと向かう。

 

 

「て、鉄谷と申します。私の作った銃の使い心地は如何だったでしょうか?」

 

 

 別室に通され、今度はひょっとこのお面を被った男と対面する。声の質や体から、弦司と同年代の男性。この鉄谷こそが、弦司のわがままを叶えてくれた刀鍛冶だ。

 担当の刀鍛冶と話をして、より強力な日輪刀を作成する。それが弦司が刀鍛冶の里を訪れた理由だった。

 ただ、やはりと言うべきか。弦司が鬼と聞いているため、鉄谷はおどおどとしている。

 

 

「もっと重たく、威力を上げられませんか?」

 

 

 彼も生粋の職人だ。武器の話をすれば、いつもの調子に戻るだろうと弦司が要望を伝えると、俄かに様子が変わった。

 鉄谷はプルプルと震えると、

 

 

「馬鹿言ってんじゃねーぞ、ボォケッ!」

「っ!?」

 

 

 いきなり弦司に掴みかかってきた。

 意味が分からず目を白黒させる弦司に、鉄谷はひょっとこのお面を近づける。

 

 

「あんな技術も糞もない武器作らせやがって! もっと重たくだ!? それなら、鉄筋でも抱えて戦えってんだ!!」

 

 

 どうやら、弦司の脳筋仕様が気に入っていなかったらしい。それが職人としての誇りを傷つけられたようで、鉄谷は怒気を滾らせ弦司に突っかかってきた。

 ともかく、これで鬼とか何とか関係なく、鉄谷と話ができる。

 

 

「すみません、俺が剣の才能がないばかりに。でも、せっかく鬼の体なんですから、それを活かす武器を使いたいんですよ。重さは無理でも、銃の威力はどうにかなりません?」

「ならねえよ! そりゃ長に命令されて、銃の方も研究しているけどな! うちらは刀鍛冶なんだよ! 技術の蓄積もないのに、一朝一夕で改良できるか!」

 

 

 鉄谷の言う事はもっともだった。

 彼らの本質は刀鍛冶だ。銃は門外漢である。それでも、銃を取り扱ったのは、弦司も戦えるように、という気遣いだけではない。遠距離から鬼の頚が斬れるなら、今後の鬼殺に大いに寄与する。戦略面から必要と感じ、無理をして専門外の銃を作成したのだ。すぐに形になっただけでも素晴らしいのに、これ以上の品質改良は確かに難しかった。

 だが、弦司には秘密兵器がある。

 

 

「鉄谷さん、俺にはあなたの研究を一気に進める方法がある」

「……お前は何を言っているんだ?」

「最新鋭の武器、興味ありません?」

 

 

 鉄谷の目の色が変わる。彼は職人だ。新しい技術に触れられるかも、となると興味が湧いてきたのだろう。

 

 

「ただし、この里の中で秘密にする事が条件です。伝える事も、言い聞かせる事も、広める事も許可できません」

「……私が使う分には?」

「先の約束を守っていただければ、いくらでも」

「ふ、ふーん……ま、まあ、私が使えるならいいでしょう」

 

 

 鉄谷は僅かに思案した後、すぐに頷いた。やはり、最新という言葉に勝てなかったのだろう。

 それから弦司は準備をした。ただし、それは武器を見せるという行為からは、一見かけ離れているとしか思えない準備である。

 

 

「なんで飯? というか、量多っ!?」

 

 

 力士十数人分は超える料理を、部屋に運び込ませる。部屋の中に、料理と料理の匂いが充満し、匂いで鼻を殴りつけてくる。だが、こうしなければ、最新鋭の武器には触れられない。

 弦司は僅かに深呼吸を繰り返し心を落ち着かせる。そして、頭の中に知っているが、経験した事のない鮮明な映像を浮かび上がらせ、小さく呟く。

 

 

 血鬼術・宿世招喚――想起。

 

 

 すると、弦司の腕の形状が俄かに変わり始める。

 宿世招喚『想起』。弦司の前世にある物体に、体を変化させる血鬼術だった。

 小銃というには長い銃身と大きい口径。『対物ライフル』などと呼称される、大口径の狙撃銃……らしいものに、弦司の腕が変わる。

 

 

「ぬおっ!?」

 

 

 鉄谷は飛び上がって驚くが、すぐに見慣れぬ銃に興味を持ったのか。恐る恐る近づくと、ちょんちょんと何度も指先で触る。

 

 

「こ、これは……?」

「俺の血鬼術です、んぐ。記憶の中にある物体に、体の形状を変化できるのですが、あぐっ。中にはまるで未来の技術で作られたようなものがあって、はぐ。これを上手く技術転用できないかと、相談を――」

「すごいのは分かったけど、何で合間合間に飯食っちゃってんの!? 私は馬鹿にされてんの!?」

 

 

 喋りながら食事を始める弦司に、興奮しながら困惑する鉄谷。彼の言い分も最もだが、当然ながら弦司はふざけている訳ではない。

 

 

「この血鬼術、変化と維持に異様に力使うんですよ。まあ、この兵器が細かい部品で作られているのとか、色々と理由はあるんですけど」

「ああ、食事で力を補給しているから、回復しながら使うのにはこうなってしまうのか……」

 

 

 鉄谷は納得すると、弦司の腕を凝視する。もうそこに、弦司に対する恐怖や血鬼術に対する恐れはない。職人としての好奇心と向上心が、彼を突き動かす。

 しばらく鉄谷は眺めると、

 

 

「これ外せよ」

「えっ」

「えっ、じゃなくて。見にくいから外せよ」

 

 

 銃に変形はしているが、これは弦司の腕だ。銃を外すという事は、弦司の腕を切り落とすのと相違ない。

 弦司は当然、首を横に振る。

 

 

「いやいや、これは一応俺の腕だから! 外せないって!」

「いいや、私の見立てじゃ外せるね! だから頑張れ、ほら頑張れ! できるできる!」

「できないって!? 頑張れで腕は外せないだろ!?」

「ああもう、じれったい! 何でそんな良い能力持ってるくせに、全然使いこなせてないんだよ! 持ち込んできたくせに、こんなんじゃ全然研究なんてできん!」

 

 

 鉄谷は襖の外に声を掛けると、もっともっと食事を持ってこさせた。

 弦司は頬が引きつる。

 

 

「あの……これは……」

「まずは不破殿の能力を磨きましょう。研究の話はそれからです」

「いや、難しいようなら、また今度で――」

「能力磨くまで、日輪刀の整備しませんから! もちろん、粉々になった籠手もそのままです!」

「いやいやいやいや!! そこまでする!?」

「はい、そこまでします! 絶対、整備なんてしませんから! そのつもりで、腹括って特訓しましょう!」

 

 

 どうやら、変な方向に職人魂に火を付けてしまったらしい。

 研究を進めるなら、まずは弦司の能力を伸ばせ。伸ばして、それで正確な技術を確認する、と。確かに日輪刀の強化は望んでいたが、まさか血鬼術を磨くとは考えていなかった。

 鉄谷はやる気を漲らせて、腕で力こぶを作る。

 

 

「さあ、特訓開始です!」

 

 

 頑固になった職人を止める手立ては弦司にはなく、そのまま地獄の特訓に突き落とされた。

 

 

 

 

 鉄谷の特訓ははっきり言って糞だった。

 洞察力は優れている。弦司の伸びしろについては、確かに合っているかもしれない。だが、助言が全くできなかった。

 そもそも血鬼術について、感覚的も知識的にもよく知っていないのだ。助言ができるはずがない。

 だから、鉄谷がかける言葉は決まって『頑張れ』『できる』そして『できないとは嘘吐きの言葉』。

 精神論ばっかりで、何の役にも立たない。それでも、日輪刀の整備を盾に何度も何度も何度も何度も、弦司に宿世招喚を実行させた。

 食事が追い付かず、飢餓で朦朧とする事もあった。何で刀鍛冶の里に来て、今にも死にそうになっているのだろうと思うようになった。そうなると、次第に前世と今世と体と心の在処が混濁していって……その瞬間、何かが噛み合う感覚を得た。

 記憶も体も心も一体化し、その中から必要なものを引き出す。不要なものを切り落とす。言葉にすればそんな感覚が、弦司の血鬼術の幅を一気に広げた。

 

 

「で……できた……」

 

 

 寝る間も惜しんでの三日の猛特訓の末、弦司はついに血鬼術の新しい力をものにした。その成果として、目の前には大量の()()()があった。

 

 

 血鬼術・宿世招喚――化生(けしょう)

 

 

 前世の知識を複数以上を組み合わせて、体の一部を変化・分離する。弦司の新しい血鬼術だった。

 この模造銃達は『化生』。そして、宿世招喚を効率化するため、新しい発想を元に作られた。

 なんと模造銃は、様々な部品や機構こそ本物と同一だが、全て単一の素材で作成されていたのだ。

 複数の素材を組み合わせれば、それだけ構造が複雑になる。複雑になれば、『変化』と『維持』に力を使う。ならば、全て単一素材で作れば、力の消費を抑えられる。そういう発想の元、作られた物だった。

 そして、試みは成功した。力の消費を抑えられ、さらに体から分離するだけの余剰分の力も確保できた……もちろん、それでも力の消費量は膨大であり、すでに弦司の頬は空腹でこけていた。今は一心不乱に飯に食らいついく。

 

 

「ほーら、できた。私の見立て通りでしょ?」

「…………」

 

 

 自慢げに言う鉄谷。お前は何もしてないじゃないかと言いたいが、今の弦司は腹が減ってそれどころではない。

 

 

「私はしばらく研究します。整備はしておきますので、籠手と一緒に日輪刀は持って行って下さい。研究が進めば、鎹鴉経由で知らせますので。それでは、ゆっくりしたら蝶屋敷へ帰って下さい……ふひひひっ」

 

 

 鉄谷は気持ち悪く笑うと、弦司の作成した模造銃を大量に担いで、どこかへ行った。

 試射はあいつを的に行う。弦司は秘かに心の中で誓った。

 

 

 

 

 刀鍛冶の里に来て、弦司はその時間のほとんどを血鬼術に捧げてきた。このままでは、里がつまらない記憶ばかりで彩られてしまう。

 弦司は危機感を抱き、何か他に里にはないかと尋ねたところ、温泉が有名だと回答があった。血鬼術ばかりにかまけていたので、全然知らなかった。もちろん、鬼の体である弦司には効能は全くない。それでも、秘境の温泉。それだけで入る価値はある。

 夜になると、弦司は真っ先に温泉へと向かった。集落の外れの階段を上り、硫黄の匂いが混じった湯気をかき分けると、巨大な岩で組まれた温泉があった。それだけで、心躍る。弦司が全裸になり入ろうとすると、先客が居る事に気づく。

 凶悪な目つきを持った傷だらけの男。不死川実弥がすでに温泉に入っていた。向こうも弦司に気づいたのか、全裸の弦司を見つめると頭に手ぬぐいを乗せたまま固まった。

 実弥の表情が焦りに代わる。

 

 

「テ、テメエ!? 何でここにいるゥ!?」

「温泉に入りに来たに決まっているだろ?」

「そういう意味じゃねえェ!?」

「ん? それなら、日輪刀の整備だが……」

 

 

 弦司は素直に答えると首を傾げる。実弥の焦る理由が分からない。

 

 

「えっ、お前もしかして下半身は同性に見られたくない系? まさか、大きさを気にされておいでで――」

「どういう意味だァ!!」

「何か気にしてるみたいだからと思ったけど、違うのか……あっ、もしかして怪我してるのか? そりゃマズいか」

 

 

 実弥は『稀血』である。一歩間違えれば、男の全裸で涎を垂らす地獄絵図の完成である。

 弦司は離れようとするが、背中から声がかかる。

 

 

「そこらの軟弱隊士と比べんなァ! 怪我なんざしてねえよォ!」

「……それじゃあ、入ってもいいんだな?」

「…………チッ」

 

 

 実弥からは舌打ちが返ってくる。否定しないという事は、構わないと弦司は判断する。弦司は念のため、実弥から離れた場所から温泉に入った。

 足を伸ばして、体を揺蕩わせる。蝶屋敷でも毎日、湯船には浸かっていたが、あそこは女所帯だ。使うにしても、色々と気を遣っていたので、娯楽という側面はほとんどなかった。湯を純粋に楽しむのは、本当に久しぶりだった。

 

 

「ああ~。いい湯だな~」

「…………」

「不死川は里に来ると、必ず温泉には入るのか?」

「……テメエなァ」

 

 

 弦司が実弥に雑談を振ると、これ見よがしに実弥は顔を顰めた。

 

 

「よく俺に声を掛けられるなァ?」

 

 

 実弥との接点は、半年前の緊急柱合会議。あの場で、弦司は人を喰らわない事を証明するため、『稀血』に耐えられるか実弥に試された。結果、弦司とカナエは酷く傷つけられた。どうやらその事があり、実弥は弦司の態度に納得がいかないらしい。

 弦司は岩にもたれかかると、殊更気楽そうに言う。

 

 

「そりゃ、何も思っていないかって問われればそうじゃないが、あれは必要な事だったろ? その程度の判別はつくし、おかげで助かった件もある。感謝はすれど、恨むなんてお門違いさ」

「俺のおかげで元婚約者様を喰わなくてよかったとでも言うつもりかァ?」

「よく知ってるな。まあ、そういう事だ」

「……テメエ、皮肉って知ってるかァ?」

「ああ。だけど、真っ直ぐ受け取った方が気持ちが良い事が多いからな。なら、俺は自分の良いように解釈する」

「…………チッ」

 

 

 再び、実弥が舌打ちする。弦司には何となく、実弥が困っているのが分かった。

 鬼殺隊にこれだけ長く関わっていれば、嫌でも柱の話は耳に入る。

 ――母親が鬼にされ、弟妹を殺した。そして、その母親を実弥が討った。

 実弥にとって、鬼とは血と心の繋がりがある肉親でさえも、殺めてしまうような唾棄すべき存在だった。しかし、弦司は心の繋がりだけで全てをひっくり返した。弦司とは実弥の考える鬼とは、対極に位置する存在なのだ。カナエが初めて弦司に会った時、例えに出した鬼も実弥の母親だったのかもしれない。

 今の弦司の認識は、実は実弥に近い。誰も彼も面白半分で人々を喰らい、他人の不幸に心も痛めない。そんな場面を数多見てきた。あれらは、あってはならない生き物だ。

 しかしそうなると、例外である弦司とは一体何なのか。どのような距離を取ればいいか分からなくなる。仮に弦司が実弥と同じ立場なら、困惑していただろう。実弥の心情はそんなところではないかと、弦司は推察していた。

 弦司は弦司。鬼は鬼。そうやって区別をつけて接してもらいたいが、それも簡単ではない。弦司にできるのは、普通の鬼とは違うと、行動で実弥に伝え続けるだけである。

 湯船の心地よさに顔を緩ませながら、弦司は再び実弥に話題を振る。

 

 

「そういや、ここの温泉って混浴だったりするのか?」

「テメエなァ……まるで友達みたいに話しかけんじゃねえェ。そもそも、それ訊いてどうするつもりだァ?」

「一緒に混浴行こうぜ」

 

 

 実弥が頭から手ぬぐいを落とす。慌てて手ぬぐいを湯から取り出すと絞りながら、

 

 

「誰が行くかァ! 行くなら一人で行けェ!」

「いいか、二人で行けば『あいつが無理やり誘った』ってお互い言い訳ができるだろ? そうすれば、角が立たずに裸が見れる」

「角立ちまくりだボケェ! そんなガバガバな言い訳が、胡蝶姉に通じる訳ねえだろうがァ!」

 

 

 今度は弦司が焦る番だった。

 

 

「な、何でそこでカナエが出る!?」

「テメエが言い訳する相手なんざ、そいつしかいねえだろうがァ!」

「あいつ、そこまでバレバレなのか!?」

「気づかねえ奴なんざ、冨岡の野郎ぐらいだろうよォ」

「交流が苦手そうだとは思っていたが、冨岡ってそんな残念な奴だったのか……」

「はっ、あいつは俺達を見下してんだァ。興味なんかないんだろうよォ」

「そうか? 『可愛いは正義★第一回カナヲ大会』出てくれたから、興味がないとかそういう事はないと思うぞ」

「何言ってんだテメエ?」

 

 

 弦司は二カ月前の惨劇について、詳細を説明する。

 ――カナエの変顔。

 ――しのぶの大滑り。

 ――弦司の冨岡被り。

 実弥は何やら、納得したように頷いていた。

 

 

「前回の柱合会議で、冨岡の馬鹿が胡蝶に突っかかっていたのは、そういう事かァ」

「何かやらかしたのか?」

「『あの顔はやめろ』とか胡蝶に向けて言いやがって、猛抗議受けていたなァ。うるさかったが、そういう真相だったかァ」

「それは冨岡が悪いな。何で馬鹿正直に蒸し返すか……」

「だから言ったろォ。あいつは他人を見下して――って、ちげえェ!!」

 

 

 実弥は何やら突然立ち上がると、手ぬぐいを温泉に叩きつけた。水柱が立ち上り、湯が周囲に飛び散る。

 

 

「うわっ、すげえな……隠し芸か?」

「変な所で感心するなァ! そうじゃなくて、何普通に話してんだよォ!? テメエは鬼だろうがァ!!」

「えっ、俺達は一緒に混浴に入ろうとする仲だろ!?」

「どういう仲だァ!」

 

 

 実弥は弦司にずかずか近づくと、人差し指を弦司へ指す。

 

 

「いいか、俺は鬼が憎いんだよォ!」

 

 

 実弥が額に青筋を立てて、睨み付ける。

 弦司は間髪入れずに笑顔で返した。

 

 

「そうか。俺も同じだよ」

「――っ」

 

 

 実弥の表情が複雑なものに変わる。困惑で眉尻が下がって、それでも顔を顰めようとして、それも失敗して。結局、実弥は目を吊り上げ、力いっぱい弦司を睨み付けた。

 

 

「テメエは鬼だろうがァ。鬼が鬼を憎むなんざ、どういう了見だァ」

「人を憎む人がいるんだ。鬼を憎む鬼がいてもいいだろ」

「なら、テメエはいつかテメエを殺すつもりかァ?」

「カナエがいなかったら、そうなっていた未来もあったかもしれない」

「…………」

 

 

 ただただ生きていた山での日々。毎日毎日、心に蓋をした。いつか淀んで、枯れ果てて……心が死んだ時、弦司は陽の光を浴びたかもしれない。

 それを全て、カナエが止めてくれた。今、弦司の心が生きているのは、カナエが来てくれたおかげだ。そして、カナエは弦司の心を守り続けた。自死するような未来はもう有り得ない。

 

 

「俺が俺として生きる限り、俺は人になるまで生き続ける」

「……チッ」

 

 

 弦司が微笑むと、実弥は舌打ちをして背中を向けた。弦司からは、もう彼の顔は見えない。

 

 

「……テメエと話していると、調子が狂うんだよォ」

「そうか。俺が人だったら、狂わなかったか?」

「テメエがおかしいんだァ。大して変わんねえだろォ」

「じゃあ、俺が人間になっても変わらないか試してみるか?」

「……俺が生きているうちに、テメエが人間に戻れたらなァ」

 

 

 実弥は振り返らず、そのまま温泉を出て行った。

 実弥と普通に話す事が出来た。弦司はご機嫌で湯船に浸かり続けた。

 

 

 

 

 刀鍛冶の里での成果は、弦司にとって満足いくものだった。

 過程はともかく、血鬼術の練度も上がり、技術も鉄谷に伝えられた。さらには秘境の温泉を楽しみ、実弥とも交流を持てた。これ以上ない成果である。

 湯上りに鼻歌を歌いながら歩くほど、満足していた。

 ――だからこそ、彼女がいたのは本当に予想外だった。

 

 

「弦司さん、良いお湯でしたか?」

「――っ」

 

 

 垂れた瞳と眉尻。色香の漂う艶やかな唇に、絹のような長い黒髪。胡蝶カナエが弦司の借りている部屋で寛いでいた。

 カナエも風呂上りなのか、紅潮した頬と僅かに濡れそぼった髪が、常よりも色気を放つ。さらに、蝶の髪留めもなく、白を基調とした浴衣姿。肩の力が抜けた……悪く言えば無防備な格好もあり、その色香は倍増する。加えて、蝶屋敷ではない。非日常感とでもいう雰囲気が、弦司を否応なしに緊張させる。

 カナエの微笑むその姿はまさに妖艶で、弦司の知らない新しいカナエが脳裏に深く刻まれた。



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第17話 あなたがいたから・其の参

いつも誤字脱字報告ありがとうございます。

また切るタイミングを失ったのと、長くなったので一旦ここまでで投稿します。
それではお楽しみください。

もう、ゴールしていいよね。


 ――弦司がカナエに見惚れる。

 形の良い唇も、上気した頬も、弦司を真っ直ぐ映す大きな双眸も。弦司には全てが美しく愛おしい。

 そんな弦司の前で、カナエは不思議そうにコテッと首を傾げる。

 

 

「のぼせでもした?」

「……いや。カナエがいる事に驚いた」

「ふふっ、そうですか。作戦成功です」

 

 

 口を大きく弧を描かせ、カナエは悪戯っぽく笑う。我に返った弦司は、少し面食らう。

 最後にカナエを見たのは、いつだったか。確かすごく忙しそうで、なぜか余所余所しかった。それがなぜか今日はご機嫌で、何となくだが今までで一番カナエが綺麗に見える。

 

 

「いつまで驚いているのー? ほら、座って座って」

 

 

 カナエは自身の隣に座布団を置くと、その上をぽんぽんと手で叩く。釈然としないが、何も悪い事はない。弦司は大人しくカナエの右隣に座った。

 

 

「俺の部屋なんだけどな……」

「細かい事は気にしない気にしない」

 

 

 カナエはテキパキと動いて、弦司と自分の分の茶を机に置いた。ありがとう、と言ってから茶を口に運ぶ。何度も飲んだはずの茶の味が、よく分からなかった。

 隣では肩が触れ合いそうなほど近い距離で、カナエが同じように茶を啜る。

 

 

「ふー……弦司さん、ちょっと長く里にいるみたいだけど、色々あったみたいね?」

「何だかんだで血鬼術の練習する事になってな。とりあえず、今日で練習は切り上げて明日の夜には帰るつもりだ」

「ふふっ、楽しかった?」

「ああ、充実はしてたな……カナエこそ、急にこっちに来てどうかしたのか?」

「せっかく弦司さんがこっちにいるから、来てみたわ。日輪刀の研ぎ直しも近かったしね」

「それだと、俺に会いに来たみたいだな」

「みたいじゃなくて、そうなのよ。こうやって二人きりで、会いたかった」

「……俺も会いたかった。時間を作ってくれて、ありがとう」

「……ど、どういたしまして」

 

 

 ニコニコと効果音がありそうなほど、カナエは上機嫌で眩しい笑顔を弦司に向ける。それでも、やはり直接的な言葉は恥ずかしかったのか、頬がほんのり赤くなっている。

 だが、それは弦司も同じだ。しばらくカナエに会えてなかったのもあるが、どうも今日のカナエはいつも以上に真っ直ぐ気持ちを伝えてくる。もう少し迂遠で、漏れ出るような感情だったはずなのに。

 

 

(いや、これは誤魔化しか)

 

 

 茹った頭でも分かる。

 ――カナエは好意を隠すのを止めた。

 弦司は自身が彼女の心を溶かすつもりだった。それがどういう心境の変化なのか、カナエから仕掛けてきた。この変化は非常に面映ゆい。何より、カナエのような美女から寄せられる明確な好意だ。攻めに転じた破壊力は凄まじかった。

 

 

「…………」

 

 

 弦司は黙ってお茶を飲む。カナエの奇襲にやられて、彼女を完全に意識してしまった。いつもならポンポンと会話が続くのに、今日は中々次の言葉が出ない。

 

 

「…………」

 

 

 カナエも黙ってお茶を飲む。主導権を握ったのだから、そのまま攻めればいいのに、目を伏せて濡れた髪先を弄る。弦司に意識させるために退いた……という事はないだろう。よく見れば、頬だけではなく耳まで赤い。今になって急に恥ずかしくなったのかもしれない。今度は初々しいカナエの姿に、弦司の心をかき乱される。

 落ち着けと弦司は己に言い聞かす。カナエとの関係を進める事も大切だが、他にも話す事はたくさんある。まずは、やる事をやってからだ。そこから先は……もうなるようになれ、だ。

 弦司は空になった湯呑を机に置く。喉は全然潤った気がしなかった。

 

 

「ゆっくりできそうなのか?」

「うん。日輪刀の調整も明日には終わるし、明日の夜に弦司さんと一緒に発つつもりよ」

「じゃあ、今日はゆっくりできるんだな」

「明後日もゆっくりしようと思っているわ。しばらく蝶屋敷も空けていたし、みんなも心配だから」

「そうか。それなら、みんなも安心するな」

「……弦司さんがいてくれて本当に良かったわ。あの日はあんなに沈んでいた蝶屋敷が、今は明るかった」

 

 

 刀鍛冶の里に来る前に、蝶屋敷に寄ったらしい。カナエは空になった湯呑を机に置き、悲しそうに目を伏せた。カナエの長いまつ毛が、黒い影を落とす。

 

 

「大変な時にいられなくて、ごめんなさい。雨ヶ崎さんの事で辛いのに、無理をさせてしまったわ」

「いいんだ。これも年長者の務めさ」

「ありがとう。でも、本当に無理しないでね。辛いなら、辛いって言って」

「辛い」

「ふふ……弦司さんのそういう素直な所、好きよ」

「じゃあもう一つ。ちゃんと別れが言えなかったのが、キツイ」

「……うん」

 

 

 カナエの返事が少し遅れた。

 葬儀に出られないのは仕方ない。でも、本来ならあの場……戦場で別れは言えた。風能がやってきて、弦司をボロボロにしたから、ちゃんと別れを言えなかった。

 風能より早く着いていれば、別れだけでもできたと、カナエは未だ己の責任と思っている節があった。

 カナエは眉尻を落として、寂しそうに微笑んだ。

 

 

「いつか、一緒にお墓参りに行きましょう。こはるさんも、きっと喜ぶわ」

「……だといいけど」

「大丈夫よ。だから、お別れはそれまでにとっておきましょ」

「ああ。世話を掛ける」

「いいの。私と弦司さんの仲だもの」

「……」

「……」

 

 

 再び静寂が舞い降りる。弦司はそっとカナエを盗み見る。彼女は流し目で弦司を見ていた。瞳の奥に、熱っぽいものが垣間見える。弦司も、同じような視線を送っているのかもしれない。

 

 

「……」

「……」

 

 

 僅かに視線が交錯して、すぐにすれ違う。

 もう確認する事はないか。もう話すべき事はないか。弦司はない、と判断する。

 カナエも特に何も言ってこない。ここからは、二人の時間でいいのだろうか。

 弦司は寝転がってみる。カナエは特に咎めない。心なしか楽しそうに、微笑むだけだ。

 

 

「どうしたの?」

「……少し気分転換がしたい」

「そう……何か希望はある?」

「鬼舞辻にも見つかったし、外にはしばらくは出られないし……一緒にのんびりしたい。今日は一緒に居てくれないか?」

「ふふ、そんなのでいいの~?」

 

 

 カナエは少し声を弾ませると、同じように寝転がった。

 弦司は寝転がったまま、顔を横に向ける。カナエは体ごと弦司の方を向けていた。長い黒髪が横に流れ彼女の美しい容貌が僅かに隠れる。それが何となく、彼女が乱れているように見えて色っぽい。

 カナエは横になった姿勢で、器用に上目遣いになる。それだけで、弦司の血流が速くなる。カナエに見つめられて、目が離せなくなる。

 

 

「不思議な感覚。なぜかしら?」

「不思議?」

「うん。同じ部屋で転がっているだけなのに、それがすごくムズムズする」

「……俺が寝る事がないからか?」

「そうね。いつも弦司さんがおやすみって言ってくれて、それで終わりだもの……」

「……そうだな」

「だからね……今日は、一緒に……っ」

「……一緒に?」

「もうムリ……」

 

 

 カナエは煙が出そうなほど顔を真っ赤にすると、両手で顔を覆った。どうやら、羞恥に耐えて頑張っていたが、ここらが限界だったらしい。

 カナエの視線から解放され、弦司は僅かに余裕を取り戻す。いつもの悪戯心が湧きだし、カナエが呑み込んだ言葉を掘り起こす。

 

 

「添い寝しようか?」

「……意地悪」

「ごめんごめん」

 

 

 カナエは弦司に背中を向けてしまった。浴衣越しに肩甲骨や腰骨が浮かび上がる。腰に向けて細くなる背中の華麗な曲線が美しい。

 つい、カナエの背中に触れてしまいそうになる。でも、どこまで近づいていいのか。

 カナエは弦司に好意を持っている事を示し、弦司もそれに応えるように対応している。急に恋人未満のような関係になった気がした。

 変化が急すぎて、カナエがどこまで望んているのか、弦司には分からない。あれだけ抱き締め合ったのに、どこまでが許された線引きなのかが分からない。

 すぐに告白でもして恋人関係になれば早いが、まだそこまで雰囲気が整っていない。そもそも、カナエと弦司が同じものを望んでいるのか分からない。

 探りを入れる意味も含めて、指先で肩に触れた。触れた瞬間、ビクリとカナエの体が跳ねる。

 カナエの体は僅かに震えていた。緊張のせいなのか、それとも──。

 指先に伝わるカナエの体温が、弦司の胸の奥を熱くする。だが、感情のまま突き動いてはいけない。カナエの様子から、動くのはまだ早いと判断する。冷静になる意味も込めて、優しく肩を叩いた。

 

 

「ごめんって。揶揄って悪かったよ。お願いだから、こっち向いてくれ」

「……」

 

 

 振り返ったカナエは、真っ赤なままだった。ここまで勢いで弦司に攻勢をかけてきたが、ふと我に返ってしまったのかもしれない。

 

 

「大丈夫か?」

「……弦司さんは緊張しないのね。やっぱり、手慣れているのかしら?」

「いや、これでもいっぱいいっぱいだから」

「本当に……?」

 

 

 疑いの眼差しでカナエは弦司を見る。カナエより慣れているのは確かだが、こういうじれじれのはっきりしない関係に、いっぱいいっぱいなのも事実である。

 どこまでやってもいいのか。どうやって近づいたらいいのか。不安と緊張で探り探りだ。突然、カナエが主導権を投げ渡してくるので、なおさらである。

 それでも、一度高まった熱は中々引かない。このまま、行ける所まで行きたい。ただ、刺激の強すぎるものは今のカナエには、どうも吉とは思えない。だから弦司は少しずつ、段階を踏むように雰囲気を整えていく。

 

 

「本当だって」

「全然、顔色変わってない」

「嘘じゃない。ほら」

「――っ」

 

 

 弦司はさも自然な形でカナエの左手を取った。そしてそのまま、弦司の胸元へ持って行く。それだけで、心臓が早鐘を打つ。

 

 

「ドキドキしてるの分かるだろ?」

「……うん。私と、同じ」

 

 

 弦司が緊張しているのだと分かり、カナエが目に見えてほっとする。少しだけ、落ち着いたように弦司には見えた。もう少し刺激を与えても大丈夫かもしれない。それにせっかくカナエの手を取ったのだ、もっと()()()()()事を弦司はしたい。

 弦司は自身の指をカナエの指の間を通していた――俗にいう恋人繋ぎでカナエの手を握った。

 カナエが大きく目を見開く。

 

 

「弦司さん……!」

「嫌か?」

「……嫌じゃない」

 

 

 カナエは全身をカチコチに緊張させる。繋がった掌からは、カナエの震えが伝わってきた。それでも、弦司が力を込めれば優しく握り返してくる。

 浴衣が乱れて覗いた彼女の胸元は、紅潮して真っ赤だ。これ以上の触れ合いは、カナエとは()()しない方がいいだろう。

 

 

「…………」

「…………」

 

 

 それからはしばらく、二人して無言で手を握ってみたり、握り返されたりしてみる。

 カナエの手は小さく、華奢だった。だが、掌には数えきれないタコができていた。彼女の生きていた足跡のように思えて、弦司は何度も確かめる様に掌を擦り合わせた。

 最初は恥ずかしそうにしていたカナエも、段々と余裕ができてきたのか。タコをわざと強く押し付けたり。気づけば残った手も、指を通して握り合った。

 

 

「……」

「……」

 

 

 寝転がって向き合って、言葉でなくて両手で繋がる。

 二人の体温が伝わり合い、段々と同じ温度になっていき、感覚が混ざり合う。それでも思いがけない僅かな身じろぎが、二人を別々の存在だと知らせる。

 感情が昂る。優しい繋がりが段々とじれったくなってくる。もっと明確で強烈な繋がりが欲しくなる。

 

 

「弦司さん……」

「カナエ……」

 

 

 自然と互いの口から、相手の名前が漏れた。

 カナエも弦司と同じ気持ちなのか、目尻はトロンと蕩けていた。そして、大きく潤んだ瞳で、期待を込めて弦司を見つめる。

 もういいだろうか。カナエも弦司も同じ所まで高まっている……はずだ。

 弦司はカナエの手を強く握った。カナエは応える様に、痛いぐらい強く握り返してくれた。

 覚悟を決める。

 

 

「胡蝶カナエさん」

「はい」

 

 

 弦司は一度、小さく息を吸い込む。心臓が痛いほど、胸を強く打つ。

 彼女の気持ちは伝わっているはずなのに。覚悟だって決めたのに。酷く息苦しかった。これが弦司の弱さなのか。

 それでもあの日――カナエの好意に気づいた日――から抱き続けている気持ちを、そのままカナエにぶつける。

 

 

「俺はあなたに初めて会った時、心は死んでいた。ただ生きるだけの、屍鬼となっていた。あなたが俺を外に連れ出してくれたおかげで、俺の心は蘇ったんだ。それだけじゃない。辛い時は必ず傍にいてくれて、また死なない様に心を守ってくれた。今、俺の胸に宿っている気持ちは、あなたが救ってあなたが育ててくれたんだ」

「…………」

「俺は夢ではなくて、一人の男として近くにいたい。あなたの救ってくれた命で隣に立ち、育ててくれた心であなただけを愛してもいいでしょうか?」

 

 

 弦司が言い切ると同時に、カナエは目を大きく見開き、燃えるように顔を上気させていく。

 

 

「……ぁぅ」

 

 

 カナエが小さく呻いた。すると、両手を繋げたまま、弦司の胸に頭を寄せた。カナエの表情が隠れ、艶やかな髪しか見えなくなる。

 

 

「待って……今、何も考えられないの……」

 

 

 カナエは上擦った声で言った。弦司の耳がおかしくなければ、その声の奥には喜びが表れている。弦司は逸る気持ちを抑えて、カナエの返事を待った。

 しばらく、カナエは弦司の胸に顔を埋めたり、激しく深呼吸を繰り返したりする。少しは気持ちが落ち着いたのか、弦司の胸に顔を埋めたまま答える。

 

 

「いつも挫けそうになって、それでも立ち上がるあなたに、私は何度も心が震えていました。この気持ちを芽吹かして、花を咲かせてくれたのは、あなたです」

「カナエ……」

「私もあなたをお慕いしています……一緒に、いさせて下さい……」

「……本当に、いいのか?」

 

 

 弦司は馬鹿だと思いながらも、訊き返さずにはいられなかった。

 

 

「俺は……何て言い繕っても鬼だ。カナエを不幸にするような事も起きる」

「それは全然いいの。私はそういう弦司さんを含めて、一緒に居たいし幸せにしたい……逆に弦司さんこそ、本当に私でいいの? 私、すごい嫌な女よ」

「そうか? 俺には最高の女だけど」

「っ……私ね。弦司さんから告白してもらって、すごく嬉しい。なのに、『足りない』って思っちゃう」

「教えてくれ。俺にできる事なら、何でもするから。君を満たさせてくれ」

「……怒らない?」

 

 

 カナエは弦司の胸元から離れると、上目遣いで弦司を見つめる。弦司は即座に頷き返していた。

 

 

「怒るものか。全部受け止めるから、正直に話してくれ」

「……私、弦司さんの『心』が全部欲しい」

「そんなもの、すぐに――」

「本当にくれるの? 環さんを想っていた分も全部、私の物にしていいの?」

「……悪い女め」

「ごめん、なさい……」

 

 

 弦司は苦笑する。

 気持ちをあげると言えば、環への想いはその程度だったのか、カナエも同じように心変わりするのかと詰られる。ダメだと言えば、カナエへの想いはこの程度かと責められ、環へ筋を通せと指摘されるだろう。

 面倒な質問だった。だが、カナエが悪いとは、弦司は思わない。

 環と別れたあの日から、誰も弦司の前で環について触れなかった。弦司も環の事を話さなかった。誰にも、弦司の胸の内を曝け出さず、全て己の中で片づけていた。

 弦司がカナエと一緒になる以上、環との関係は弦司一人の問題ではなくなる。だから、この質問は必然なのだ。弦司が環と完全に別離し、カナエと結ばれるために避けては通れない。きっと何と答えても角が立つ。それでも、弦司は答えなければならない。

 弦司はカナエを真っ直ぐ見返して、はっきりと答えた。

 

 

「いいよ。俺の気持ちを全部、受け取ってくれ」

「……本気、なの?」

「うん」

「今すぐ人間に戻れたとして、環さんの所へは行かない?」

「カナエの傍にいる」

「何で? 弦司さんの誓いって……簡単に変わっちゃうの?」

 

 

 カナエは一瞬、後悔したように表情を崩すと、目を逸らした。言うべきではなかった、とでも思ったのだろうか。だが、弦司はカナエのそういう面も含め、受け入れたい。

 弦司は繋がった手を離し、カナエの酷く熱を持った頬に手を添えた。カナエは逸らした目を、困惑気だが再び弦司に向けた。頬をゆっくり撫でる。

 

 

「ごめんな、不安にさせて」

「ううん、私が面倒なだけだから……」

「いいや、俺が悪い。カナエに俺の胸の内を、何一つ見せてなかったからな。ちゃんと話すから、話を聞いてくれないか?」

「……悪い男。そうやって、すぐに私を甘やかす」

「ごめん」

 

 

 カナエが頬を弦司の掌に擦りつけ、気持ちよさそうに目を細める。彼女の可愛らしい姿に、弦司は小さく笑ってから続ける。

 

 

「俺の小さい頃の話って、した事なかったよな」

「えっ? した事ないのは確かだけど、それがどうしたの?」

「初めて牛鍋を食べた時、子どもの俺がどう思ったか分かるか?」

「えっと……『おいしい』とか『珍しい』とか?」

「『よくこんな糞不味い物を有難がって食べられるな』」

「えっ」

 

 

 思慮の外の言葉だったためか、カナエが小さく口を開けポカンとする。今の弦司からは、想像もできないのかもしれない。よくここまで変われたものだと、弦司は自身の事ながら感心してしまう。

 それでも、あの日の感情は今でも鮮明に思い出す事ができる。自身の家が裕福と理解し、それでも出てきた物が『あの程度』だった時の失望を。

 

 

「当時の俺は何を出しても満足しなかったんだ。もちろん、両親が劣悪な物を出した事なんて、一度もなかった。最高級の物を出してくれた事もある。でも、あの当時の俺の価値観では、何一つ満足できなかったんだ」

「目新しい物にはすぐに飛びつく、あの弦司さんが? 信じられない……」

「ありがと。もちろん、結果的には満足できるようになったのは、全部両親が尽力してくれたおかげで……まあ、今はそこは本題じゃない。問題は満足しなかった俺が、その後に取った行動だ。俺の不満を見抜いた両親は、事細かに尋ね、不満を解消できるように、改修改良をしてくれた。そして、俺は『変化』に心の充足を見出した。でも、実際はもう一つの道があったはずなんだ」

「もう一つの道?」

「俺自身が、満足する物を作れば良かったんだ」

 

 

 確かに『変化』が好きになった。しかし、そんなのどんなに言い繕っても()()だ。

 真に満足したいなら、『変化』など探すのではない。自身で満足する物を探して作れば良かった。だが、弦司はそうはしなかった。

 

 

「あの時、俺の思い描く牛鍋は数十年経たないと作れなかった。だから、俺は生きてる間に手が届かないと思って諦めた。『変化』が好きになったのは、結果に過ぎない」

 

 

 鬼になった時もそうだ。弦司は環の傍で耐え忍ぶ道は選ばなかった。できないと諦めて、苦しみの少ない道へ走った。

 カナエに初めて会った時もそうだ。彼女と分かり合えないと諦めて、ただただ安易な死を望んだ。

 何時でも弦司は、叶わぬと思った願いからすぐに手を引いた。自身の腕の届く距離までしか、手を伸ばそうとしなかった。

 

 

「俺にカナエのように、不可能に立ち向かう強さはない」

 

 

 『あの程度』と全てを断じたあの日から続く、今も克服できない弦司の弱さだった。

 

 

「もう俺は環を幸せにできない事は知っているよな」

 

 

 カナエは悔しそうに口を引き結んだが、その表情こそが全てを語っている。

 蝶屋敷に来てから、鬼の研究に弦司は全面協力している。だが、鬼の治療に進捗はない。画期的な技術革新がなければ、状況は変わらないだろう。今では誰も口にはしないが、環もカナエもしのぶも生きている内に、弦司が人に戻る事はない。

 だから、環が稀血と分かったあの日から、弦司は彼女を手の届かない存在と判断し、全てを諦めた。彼女の幸せを祈るだけにした。

 どれだけ願っても叶わない願いを求めるのは、酷く辛い事だ。だから、すぐに願いを諦める。叶う可能性のある願いに、手を伸ばす。それが、不破弦司という男であった。

 

 

「天に輝く(たまき)に、俺はもう手を伸ばさない。この手の届く美しい(カナエ)が欲しくなる……俺はそんな選択しかできない、弱い男だ」

 

 

 弦司の胸の内を聞いたカナエが固まる。彼女の大きな瞳が不安そうに揺れ、震えた声で尋ねる。

 

 

「私が手の届かない所に行ったら、弦司さんは他の人を好きになるの?」

「……ああ」

「――っ」

 

 

 弦司が頷くと、カナエは一層不安を深くする。弦司はカナエを不安にさせてしまった事を申し訳なく思う。反面、ここまで想ってもらえる事を嬉しかった。

 だが、カナエは一つ思い違いをしている。

 弦司はカナエの頬から手を離すと、彼女の頭へ持って行く。一瞬、ビクリと震えるカナエを無視して、絹のような髪に指を滑らせた。僅かに湿った毛先が、指先をすり抜ける度、気持ちのいい肌触りが伝わる。カナエの頭を撫でて、何度でも彼女の髪を触る。

 

 

「だけどな、決して苦しくない訳じゃない」

 

 

 弦司は鬼となって時、一度全てを諦めた。手に入らないモノを望んでも辛いだけだと、全てを捨てた。そのおかげで、孤独な山の生活を耐えられた。だが、胸を貫いた痛みが、なかった訳ではないのだ。

 今でも思い出す事ができる。ようやく手に入れたモノが、全て砕かれる感覚。当たり前だと思っていた日常が、全て奪われる絶望。あの苦しみは絶対に忘れない。

 思わず、カナエを撫でる手に力が入る。

 カナエは一瞬、怯んだように体を竦ませた。それでも弦司の元から動こうとしなかった。それが狂おしいほど愛おしくて、弦司の気持ちが溢れ出す。

 

 

「幸せを破壊される瞬間の痛みは、今だって覚えている。俺はもう、あんな思いはしたくない……!」

「弦司さん……」

「カナエ、前提条件が違うんだ。他の人を好きになるって事は、俺の幸福がぶち壊されるって事だ。カナエが手の届かない所に行く? 誰がそんな事させるか」

「きゃっ」

「この手に幸せが届くなら、俺は絶対に離したりはしない」

 

 

 溢れた想いが止まらず、弦司は想いのままカナエを抱きしめた。それでも壊れないように優しく、持てる力全てで、カナエの体を掻き抱く。

 弦司の突然の行動に、カナエの体は固まっていた。それでも、徐々に力を抜いてくれた。それが、まるで弦司を受け入れてくれている様で、嬉しくてたまらなくて、弦司は欲望のままカナエの耳元で囁く。 

 

 

「行かせるぐらいなら、俺は(カナエ)をかごの中に閉じ込める」

「っ!?」

「ようやく捕まえたんだ。絶対に逃がさないから、覚悟してくれ」

「――」

 

 

 カナエは一際、体を硬直させると、しばらくしてから弦司に身を預ける様に脱力した。

 

 

「……カナエ?」

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

 

 弦司の呼びかけに返事はなく、代わりに耳元からカナエの荒い呼吸音が聞こえる。それが弦司の頭を少し冷まさせた。

 やり過ぎた。そう思い力を緩める弦司だが、謝罪を口にすることはできなかった。

 

 

「うおっ!?」

 

 

 突如、体に衝撃が走ると、強制的に身体が仰向けになる。

 弦司の顔に、長い黒髪が掛かる。髪の先には、カナエの顔があった――ただし、その目は妖しく、ギラギラとさせて。どうやら、弦司は押し倒されたらしい。

 カナエは弦司を穴のあくほど見つめながら、ゴクリと唾を飲み込み喉を震わせた。あまりに妖艶な姿に、今度は弦司の頭の中が真っ白になる。

 

 

「えっと……」

「げ、弦司さんが悪いんですから! 変な事、言うから……!」

「わ、悪い!」

「私だって……私だって――!」

 

 

 カナエの顔が近づいてくる。蕩けた瞳が大きくなる。そして、唇と唇が触れ合うほど近づき……触れ合う直前、すれ違う。

 今度はカナエは弦司の耳元に唇を置くと、熱い吐息を掛けながら囁く。

 

 

「弦司さんが傷つくぐらいなら、私が閉じ込めて飼いたい」

「――っ」

 

 

 ――ゾクリ。

 そうとしか表現できない、歓喜とも驚愕ともつかない衝撃が、弦司の全身を駆け巡った。今世でも前世でも、こんな感覚は知らなかった。ただただ、カナエに与えられた刺激に弦司は翻弄される。

 

 

「弦司さんこそ覚悟して。あなたと幸せになるために、()()()()()()()()()。こんな重くて面倒な女から、逃げられるなんて思わないで」

「――っ!」

 

 

 カナエは弦司の耳に息を強く吹きかける。弦司はまるで電流が全身を駆け巡ったような感覚に襲われる。未知の感覚だった。

 その間も、カナエは止まらない。弦司の小指をカナエの小指が絡め取り……もう一度囁く。

 

 

「指きりしましょ」

「なん、て……?」

「命と体は、前の約束で預かったから。後一つ、預かっていないモノ、あるわよね?」

「…………」

「あなたの心。ちゃんと約束しましょ」

「……ああ」

 

 

 弦司は気づけば了承していた。

 耳元に小さく息がかかる。カナエが微笑んでいるのが、何となく分かった。

 そしてカナエは、

 

 

「でも、これじゃあ不公平よね?」

「そう、なのか……?」

「うん。だから、私も弦司さんにあげる――」

 

 

 ――命と体と心を。

 

 

「指切りげんまん」

 

 

 息が荒れて、心臓が暴れた。

 眩暈がした。雰囲気といい、状況といい、カナエの言動が全て刺激が強すぎて、まるで快楽を直接打ち込まれたかのように、快感が頭から湧き出て止まらなかった。

 弦司は動けない。あまりに今が心地よ過ぎて、動くという選択肢さえ思い浮かばない。

 弦司が固まっている間に、カナエが耳元から動く。吐息は弦司の頬に掛かり、唇に掛かり。

 吸い込まれるように、カナエと弦司の唇は合わさり。

 ――モサリ。

 

 

「うっ」

 

 

 どちらとなく呻くと、カナエは慌てて飛び起きた。弦司が見上げると、カナエは無表情で弦司の上で佇んでいた。ただし、その口にはカナエの黒い長髪が含まれていた。

 カナエは弦司を押し倒した。当たり前だが、重力に髪は引かれる。弦司もカナエも興奮しすぎて、その当たり前に気づかず、接吻した際に二人して重力に引かれたカナエの髪を食んでいた。

 カナエはペッ、と自身の髪を吐き出す。

 

 

「……」

「……」

 

 

 二人して無言になる。盛り上がった雰囲気はどんどん霧散していく。昂った体と心が沈んでいく。先のような昂ぶりは、今日は戻ってこないだろう。

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 自身の失態で雰囲気を壊したと思ったカナエは、ふらふらと部屋の隅に行くと、膝を抱え俯いた。

 

 

「何でもう私は学習しないのよぉ……興奮するとダメダメだって分かってるのに~……」

 

 

 ぶつぶつと言いながら落ち込むカナエ。彼女には悪いが、弦司は内心ホッとしていた。

 あのまま場の雰囲気に流されていたら、どうなっていたか。分かるのは、絶対に歯止めが効かなかったという確信だけだ。先を考えるだけで恐ろしい。それに『鬼殺隊をやめる』などという爆弾発言を、カナエはさらっと言い放っていた。その件については、ちゃんと膝を突き合わせて話し合う必要がある。

 とはいえ、このままではあまりにカナエが惨い。想いを伝えあったのに、自分の軽率で雰囲気を壊したとなると、今後の付き合いに影響が出る可能性もある。別の思い出で上書きしようと、弦司は何時でも渡せるようにと、荷物からとある物を取り出した。

 

 

「カナエ」

「……恋愛弱者に何か用ですか?」

「本当の弱者は、彼氏もいないっての。それはともかく、贈り物があるから受け取ってもらえないか?」

「えっ」

「お土産買ってくる約束していただろ?」

 

 

 緊急任務に行く直前、カナエにお土産を買って帰る約束をしていた。

 カナエが顔を上げる。すでに笑顔になっていた。

 

 

「弦司さん大好き」

「こら。そういう事すると、何かあったら物で釣るぞ」

「弦司さんがくれる物なら、何でも大丈夫よ」

「ひょっとこは?」

「私、そんな安い女じゃないの~」

「はいはい。しっかりと厳選させていただきますよ、お姫様」

 

 

 先とは違う、軽くて、それでもしっかりと繋がりを感じるやり取り。燃え滾るのもいいが、こういう温かい時間も良かった。

 弦司が贈り物を背中に隠して近づくと、カナエは期待の眼差しを向ける。

 

 

「夜店で買っただけだから、あまり期待するなよ」

「うん、分かったから早く早く」

 

 

 カナエに促され、弦司は緊張しながら贈り物――簪を取り出す。

 虹色……とでも呼ぶべきか。七つの色を使った色彩豊かな花簪であった。カナエの羽織によく似た色合いだったため、つい手に取ってしまった品物だ。

 いつもは蝶の髪留めがある側頭部に、そっと簪を差し込む。華やかなカナエには、これぐらい派手な彩でも良く似合う。

 カナエは、はにかみながら笑い、何度も指先で簪に触れる。

 弦司は気恥ずかしさから、つい防衛線を張る。

 

 

「気に入らなかったら言えよ。今度はちゃんと欲しい物を買うから」

「気に入ったら、もう次はくれないの?」

 

 

 上目遣いでカナエは口元を緩ませて言う。機嫌は直ったようだ。

 一安心し、弦司は長く息を吐く。

 

 

「あげるが、その発言はどう聞いても悪女のそれだぞ」

「はーい。気をつけます~」

「ホント、分かっているのか……まあ、しばらくは鬼殺以外で街は歩けないから、俺は選べないし。気に入った物があったら遠慮なく言えよ」

「今度町に行った時、選ぼうかな~。うーん、でも貰ってばかりだと悪いから、何か弦司さんにお礼を……あっ」

 

 

 カナエが声を上げると、慌てて視線を泳がせた。弦司は目敏く、彼女が最初に目を向けた場所を確認した。何やら部屋の隅に袋があった。

 

 

「どうした?」

「何でもないわ! 本当に何でもないの!」

 

 

 カナエは焦った様子で答えた。どう見ても、何でもありそうな様子だ。

 そっとしておくか、それとも原因を究明するか。束の間、弦司は悩んで袋に向かって飛びつく。これまでのカナエの言動を考えると、慌てている時は大抵良い事ではない。即座の処置が必要だ。

 カナエはぎょっと目を見開いた。そして、弦司を止めようとカナエは弦司にしがみ付く。

 

 

「待って!! 本当にダメなの!!」

 

 

 弦司の背中に飛びついたカナエの顔は、真っ赤で涙目だった。弦司はこの判断は正しいと確信する。

 袋を開けた。中に入っていたのは、黒いぶ厚い、固定具の付いた帯。長さや太さから帯革ではなく――首輪。

 

 

「えっ」

「ああああああああっ!!」

 

 

 意味が分からない弦司に対して、カナエは絶叫する。何に……いや、()()使おうとしていたのかは、一目瞭然だ。

 弦司は悶絶するカナエと向かい合う。雰囲気とか、空気とか今はどうでもいい。これは絶対に話し合わなければならない案件だ。

 

 

「これは一体何なんだ」

「待って! 説明させて頂戴!」

「言ってみろ」

 

 

 全身発汗したカナエが、引き攣った顔でバタバタと身振り手振りをする。

 

 

「弦司さんの頚が斬られかけたでしょ!? そんな事が二度と起きない様に、頚を守るために作られた防具が……これよ! あのゲスメガネ前田君に花柱が直接作成依頼した、弦司さん専用特注品! なんと隊服の倍以上の頑丈さを持った品で、しのぶの突きぐらいなら一度は耐えられるのよ! すごいでしょ!?」

「……」

 

 

 カナエが商品説明染みた口調で述べる。というか、嘘でなければ驚くべき性能である。着ける以外の選択肢はない。

 

 

「ねっ! だから、全然おかしくないの!!」

「……」

 

 

 カナエは汗を拭いながら、早口で捲し立てた。おかしくないならば、もっと落ち着いて語ればよいだろうに、冷静さの欠片もない。むしろ、もっと怪しいと弦司は感じた。

 弦司は袋をさらに漁る。今度は一回り小さい物が出てきた。

 カナエはさらに目を大きく見開く。

 

 

「ほう……これは何だ?」

「さ……さあ?」

「大きさから、ちょうど女性の首ぐらいの太さだったら、ピッタリに着けられるように見えるが?」

「……後生ですから、もう詰らないでぇ……!」

「だったら、全部正直に話しなさい」

 

 

 土下座するカナエの頭を上げさせてから、弦司は説明を求める。

 

 

「一時の気の迷いだったんです……!」

「本当に気の迷い? 捨ててもいい?」

「……」

「分かったから捨てないから。とにかく、どういう目的か話しなさい」

「……弦司さんの頚が斬られかけたから、頚を守るための防具が必要だと思って、作ろうとしたのは本当」

「そうなのか。うん、そこまではありがとうな」

「うん……それから形を思案していたら、中々良い形がなくて。前田君がとりあえず作りましたって、これを渡してきて……」

「渡してきて?」

「これだったら、疑似的に飼うような倒錯感が得られるなぁと、考えてしまった次第で……」

「考えてしまった次第か……じゃあ、何でお前の分まであるんだよ」

「首はちゃんと守らないと──」

「カナエ」

「……興味本位で、つい」

「……ふぅ」

 

 

 弦司は頭が痛かった。誰だ。こうなるまでカナエを放置してしまったのは……弦司だった。

 カナエにとって弦司は夢であり、想い人だ。そんな特別な感情を持つカナエに対して、半年で弦司は何度心配をかけた事か。もっと早くしっかりと対応していれば、ここまで拗らせなかったかもしれない。

 それでも、弦司は二人で幸せになると決めた。ならば、これも受け入れて進まねばならない。

 

 

「今日はとことん話し合うぞ」

「えっ、えっ……!? ちょっと待って、頭が追い付かない!」

「お互い好き合っているとはいえ、俺達は全く別の存在だ。やりたい事は全然違う。この首輪がいい例だ」

「はい……すみません……」

「怒っている訳じゃないって」

 

 

 これまでの経験上、カナエにあまり我慢を強いると碌な事にならない。適度に発散させるためにも、願望はしっかり聴き取らなければならない。それが例え、倒錯した感情であってもだ……もちろん、倒錯している感情は弦司の中にもある。カナエには、それをしっかり受け止めてもらわなければならない。

 

 

「何で私って、恋愛が絡むとこうなるの……」

 

 

 大きく肩を落とすカナエ。弦司は不憫に思うが、お互い捻じれに拗れた感情を抱く者同士。将来のためにも、ここらで一つ清算が必要だ。カナエのためにも、そして弦司のためにも。

 

 

「カナエだけが悪いって訳じゃないさ。俺もカッとなって滅茶苦茶言ったし……お互いホント、変に拗らせちゃったな」

「それは……うん、そうね」

「でも、割れ鍋に綴じ蓋ってよく言うだろ。俺達がこれでいいなら、それでいいんだよ」

「……馬鹿」

 

 

 こうして、恋人同士になった弦司とカナエの初めての夜は、至極真面目な話し合いに終始した。何とも締まらない初日となったが、少なくとも今の弦司とカナエは、この何でもない日常を過ごせて幸せだった。

 ──ちなみに、翌日から二人の首には新しい防具が着くようになった。

 

 



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第18話 あなたがいたから・其の肆

誤字脱字報告、いつもありがとうございます。

分割も考えましたが、内容的に一話にまとめる方が良いと判断しました。
非常に長くなりましたが、今話はこれで終了となります。


 カナエと弦司は夜道を肩を並べて歩いていた。

 弦司が鬼殺隊に協力するようになってから、カナエと弦司が二人きりでいる事は珍しくない。でも、今のカナエにとって、二人きりでいる時間は特別だった。いや、特別になった。

 

 

 ――昨夜、不破弦司と恋人になった。

 

 

 今までのような、一人と一人ではない。男と女。さらに深く強く、特別で()()()()()()関係となった。

 カナエは弦司を見上げる。一般男性より遥かに大きく、引き締まった体躯。均整の取れた顔立ちと、その大きな瞳から感じる優しい眼差し。見ているだけで、カナエの顔が熱くなる。

 火照った顔でさらに視線を下げれば、恋人となった彼の首元、隊服の詰襟の下から黒い帯が僅かに覗く。カナエの首元にも、同じものはある。想像するだけで、今度は別の未知なる熱い感覚が沸き立つ。

 ――二人お揃いの『防具』と心の内で唱える。

 分かっている。こんなのはおかしい。何度も己に問うた。だが、答えは決まって『彼を逃したくない』……そんな欲望に負けてしまう。

 最初は彼が幸せになってくれれば、それで良かった。だが、彼が傷つき倒れそうになる度、心揺さぶられた。彼を幸せにしたいと思うようになった。いつしか己こそ幸せにすると想うようになって……気づけば、その幸せに自身も含んで欲しくなった。

 恋とは、愛とは綺麗事だけではない。カナエは自身の欲望によって、身をもって知った。愛しているからこそ、誰にも渡したくない。離したくないと強欲になれる。

 もう嫌だった。彼が傷つく事も、奪われてしまう事も。だから、この身を捧げてでも、彼の全てを逃がしたくなくなっていった。その結実が首の『防具』なのかもしれない。

 倒錯、しているのだろう。捻じれて拗れているだろう。分かっていても、カナエはもうこの欲望を抑える事はできない。抑えたくない。彼の全てを欲し、彼が全てを受け入れてしまった以上、どうしても『防具』は外せなかった。

 ……ちなみに弦司からは、代わりに贈られた簪を着けてはどうかと提案を受けたが、やんわりと断った。簪はカナエが『防具』を着けられない時に使う予定なのだ。それまでは弦司には悪いが、何と言われようと大事にしまっているつもりだった。

 そんな特別で()()()()()()関係になったカナエと弦司であったが、昨夜は何か()()()()()()を積極的に行ってはいない。むしろ、色々失敗してしまい、艶っぽい事はあまりできなかった。結局、互いの倒錯した感情を埋めるため、真面目に話し合うだけで終わってしまった。

 だが、悪い時間ではなかった。初めてゆっくり取れた二人だけの時間で、カナエの知らない弦司をたくさん聞けた。幼少期の苦しみから始まり、数々の(多分、誇張された)武勇伝。特に前世の話は、良かった。内容が面白かったのもあるが、カナエにしか話していない……その事実が、カナエを唯一無二で特別な存在だと言外に語っている様で、嬉しくてたまらなかった。

 ただ、昨夜の時間は全てが楽しかった訳ではない。

 内容が未来に及んだ時。一年後、十年後、二十年後、二人はどうなるのか想像した。時を経るごとに人のカナエは老いていき、鬼の弦司は変わらない。分かりきった、しかし向かい合わなかった事実に、カナエは震えてしまった。

 果たしてその時が来た時、カナエは耐えきれるのだろうか。弦司は堪え切れるだろうか。それとも何かいい方法があるのか。弦司もカナエも分からなかった。

 きっとどれだけ考えても、解決策など存在しないだろう。できたのは、今の心の内をはっきりと伝え合う事だけだった。

 だが、それで良い。困難がある。それでも想い合い、一緒に居る。彼を愛しているのだと、何度でも知る。それこそが一番、大切な事だとカナエは思っていた。

 

 

「弦司さん弦司さん弦司さ~ん」

 

 

 カナエは隣を歩く弦司の名前を呼んだ。彼の名前を意味もなく呼んでみたかった……というのもあるが、いつになく緊張する面持ちの彼を落ち着かせるためでもあった。

 カナエが腕をつつくと、弦司がぎこちなく振り返る。

 

 

「どうした?」

「呼んでみただけ。弦司さ~ん」

「別の意味でドキドキするって」

「ふふ、ごめんなさい」

「……いや」

 

 

 カナエが笑顔を向けると、弦司は気まずそうに目を逸らす。

 確かに、想い合う事は大切だ。だが、想い合うだけでは全てを乗り越えらる訳ではない。困難を知った上で、何を為さねばならないのか。想いを遂げるために行動する事も、非常に大事だ。

 カナエと弦司は、二人で一緒に居続けたい。ならば、通さなければならない筋がある。

 

 

 ――家族(しのぶ)への報告。そして、交際の許可を得る事だ。

 

 

 弦司は柄にもなく緊張していた。胸の内は、しのぶに反対された場合を想定し、不安でいっぱいのようだ。意外にも、こういう()()を経験していない事も、関係しているようである。

 カナエは彼の緊張を和らげるために、敢えて軽く言う。

 

 

「弦司さんはしのぶと仲良しさんだもの、大丈夫よ」

「でも、鬼殺をやめるって話もするんだ。受け入れてくれるか?」

「しのぶは優しい子だもの、どうにかなるわ」

「……頚のこれは?」

「防具よ」

「いや、昨夜も言ったが俺はともかく、カナエは無理があると――」

「防具よ……それに、どうにもならなかったら、どうにかしてやるわ」

「お、おう……頼りにしているぞ」

 

 

 そうやって弦司を励ましている間に、蝶屋敷に着いた。

 弦司は大きく深呼吸してから門を潜ると、

 

 

「おかえり、姉さん、不破さん」

 

 

 背後から声を掛けられ、弦司は固まる。

 カナエが振り返ると、そこには目的の人物――胡蝶しのぶがいた。

 買い物の帰りなのか、割烹着姿で腕には買い物袋が下げられている。中身は薬草の類のように見える。選別をしていたら、遅くなったのかもしれない。

 しのぶの挙動に不審な点はない。いつものしのぶだ。防具には気づいていない。こんなもの、気づかれなければどうって事ない。

 カナエはにこやかに返す。

 

 

「ただいま。遅かったのね?」

「うん、ちょっと探してるものが見つからなくて。あっ、そういえば……同じ手は二回も効かないわよ、姉さん」

 

 

 門を潜りながら、しのぶは何やら自信を持って胸を張る。

 

 

「? 何の事?」

「手紙よ手紙。『紹介したい男の人がいます』って、半年前と同じ手を使って。どうせ不破さんを紹介する気なんでしょ。二度も私は慌てません」

「えっ、いや、しのぶ……?」

「信頼が篤いな、カナエ」

 

 

 弦司に指摘され、今度はカナエが気まずさから顔を背ける。しのぶへ事前に手紙を送っていたのだが、今までのカナエの所業のせいか、冗談と捉えられたらしい。

 勘違いを長引かせるのは、しのぶに申し訳ない。少しでも勘違いを短くするには、この場で正直に話すしかないだろう。

 カナエは観念して僅かに深呼吸をすると、自慢気なしのぶの前で弦司と腕を組む。

 

 

「へっ?」

 

 

 唖然とするしのぶの前で、カナエははっきりと告げる。

 

 

「分かってるなら、話が早いわ。私と弦司さん、結婚を前提にお付き合いする事にしました。どうか、私達の交際を認めて下さい」

「えっと……そういう事だから。その義兄になるかもしれんが、よろしくお願いします」

「けっこん。ケッコン。血痕……?」

 

 

 カナエと弦司は、揃って頭を下げる。

 しのぶは理解が追い付かないのか、目を点にしながらぶつぶつ何やら呟いてから――、

 

 

「えっ……ええぇぇえええぇぇっ!! 嘘!? 急に何でぇぇっ!!?」

 

 

 奇声を上げながら、なぜか庭の方へ後退していった。どうやら本当に想定しておらず、錯乱してしまったらしい。カナエと弦司は一度顔を見合わせてから、しのぶを追いかけた。

 

 

「アオイ! きよ、すみ、なほ、カナヲ~!」

 

 

 しのぶは縁側に倒れ込むと、なぜか助けを呼ぶように蝶屋敷の全員を呼ぶ。なんだなんだと、屋敷から全員が縁側に出てくる。

 

 

「どうしたんですか、しのぶ様?」

「あっ、もしかして、あの手紙の事ですか?」

「どんなイタズラだったんですか?」

 

 

 三人の問いかけに、しのぶの顔が段々と羞恥で赤く染まる。どうやら、蝶屋敷の面々に手紙の内容は全て話していたようだ。これが悪戯だと、断定した事も含めて。

 しのぶが蚊の鳴くような小さな声で答える。

 

 

「悪戯じゃなかったわ……本当に結婚するつもりっぽい……」

「だから申し上げたじゃないですか。二人で刀鍛冶の里にいる時点で、気づいて下さい」

 

 

 アオイが眉間に皴を寄せ、呆れたように頭に手をやる。そしてアオイはカナエを見て……弦司を見た。アオイの手が震えだす。まだ、恐怖を完全に乗り切っていないのだろう。それでも、弦司から目を逸らさず、逃げ出しもせず、弦司へ微笑みかけた。

 

 

「おめでとうございます!」

「……ありがとう」

 

 

 恐怖を乗り越えて、アオイが祝ってくれた。弦司はたまらず、目頭を押さえていた。親しくなった人が、鬼だからという理由で弦司の元から離れるかもしれなかった。それでも、恐怖を堪えて弦司の目の前にいる。心が震えない訳がなかった。カナエはアオイを蝶屋敷に誘って本当に良かったと、心の底から思った。

 一方きよ、すみ、なおの三人と言えば、ようやく理解が及んだのか。きゃあきゃあと黄色い声援を上げていた。

 

 

「きゃあああああ! すごいです!」

「ご結婚ですっ!!」

「おめでとうございます!」

 

 

 カナエと弦司は三人の素直な声援が嬉しかった。何の隔意もなく、二人のありのままを祝福してくれる。

 

 

「? ……ん」

 

 

 カナヲはよく分かっていないのか。何度も首を傾げ……最後には無表情で拍手を始めた。まだ、完全に心の声を聞くようにはなっていない。それでも、銅貨も投げずに行動を決めた。そんな小さな進歩が、今はとてつもなく嬉しい。

 本当に良い娘達に恵まれた。

 

 

「あれ? でも、そうなったら隊士はやめてしまうのですか?」

 

 

 きよが疑問をそのまま口にすると、上がっていた声援が一気に静まり返る。全員の視線がカナエに集まる。

 カナエと弦司はもっとちゃんと腰を落ち着けて、伝えるつもりだった。だが、ここで回答を濁すのはただの逃げだ。事ここに至っては、早いか遅いかの違いでしかない。

 カナエは静かに頷いた。

 

 

「ええ。私は弦司さんと幸せになりたい。もう鬼殺に命を預けられない。だから、引継ぎを終えたら隊士を引退するわ」

 

 

 一同が驚愕に息をのむ。中でもしのぶは、一度大きく目を見開くと、唇を噛み締め俯いた。彼女の握った拳が小刻みに震える。拳は肌が白くなるほど、強く握られていた。

 

 

「……本気なの……?」

「ごめんね、しのぶ。『まだ破壊されていない誰かの幸福を守る』。『私達と同じ思いを他の人にはさせない』。約束したのに、私から破って」

「姉さん……!」

 

 

 カナエはそっとしのぶの体を抱き締めた。カナエの腕の中に、すっぽりとしのぶの体は収まる。本当に華奢で小さな体だった。

 ――鬼殺隊を辞めさせたい。

 それがカナエの嘘偽りのない本心だ。だが、カナエは知っている。しのぶの持っている鬼に対する感情は、カナエの抱いている物と正反対である事を。

 カナエの内にあるのは、ただただ哀れみと憐憫だった。それがあったからこそ、弦司と分かり合う事が出来た。だが、しのぶは違う。燃え盛る憎しみの炎を、胸の内に秘めている。弦司を受け入れてくれたのは、彼女が本当は優しい娘だから。それでも、憎しみの炎が消えない内は、例え鬼の頚が斬れなくても、毒が効かない鬼がいても、しのぶは鬼殺をやめないだろう。

 しのぶの鬼殺を止める事はカナエにはできない。カナエは己の幸せを見つけた。しのぶにも見つけて欲しい。カナエにできる事は、それを伝える事だけである。

 

 

「今、私、すごい幸せなの。夢も叶って、好きな人もできて、彼が私の全てを受け入れてくれて……私はこの幸福を、一時でも長くしたい」

「姉、さん……」

 

 

 しのぶの声は湿っていた。カナエは微笑むと、優しくしのぶの頭を撫でる。

 

 

「私は弦司さんを人に戻して、もっともっと幸せになりたい。だから……ごめんなさい。私は鬼殺隊を続けられない。彼を人に戻すために、全てを尽くしたい」

「……」

「我が儘ばかりの、ダメな姉でごめんね」

「……ダメ、じゃない」

 

 

 しのぶがカナエを抱き締め返す。小さな体で精一杯の力を込める。

 

 

「相手が不破さんだったり、そんな重大な事、勝手に決められて色々言いたい事あるけど……姉さんが幸せならいいわ。認める」

「しのぶ」

「今までありがとう。私の前を走って、みんなの幸福を守ってくれて」

「そんな事――」

「そんな事、ある。こんな大きな屋敷で、鬼の研究を憚る事なくできているのは、姉さんのおかげよ。姉さんがいなければ、私はここまで生きてなかった」

 

 

 カナエは言葉に詰まった。二人で幸福を破壊されていない誰かの幸福を守る。そう約束したが、先に柱になったのはカナエで、その恩恵に授かっていたのはしのぶだ。知らず知らずのうちに、カナエの守る幸福にしのぶが入っていたのかもしれない。

 しのぶが見上げる。涙の溜まった瞳は、しかしいつもの勝気で強い力を込めて、カナエを真っ直ぐ見つめる。

 

 

「今度は私が姉さんの、破壊されていない幸福を守る。そして、姉さんみたいに誰かを救ってみせるから……もう謝らないで」

「しのぶ……」

 

 

 カナエは堪らず、もう一度しのぶを抱き締めた。

 この半年間、カナエと弦司の身勝手で何度もしのぶを振り回した。その度に、彼女は愚痴を言いつつも離れずついてきてくれた。そして気づけば、一人の立派な隊士として成長し、羽ばたこうとしていた。本当にカナエの自慢の妹だった。

 

 

「本当に成長したわね」

「誰かさんが振り回すから」

 

 

 しのぶはカナエの腕の中から離れると、はにかみながら微笑んだ。カナエはつい嬉しくなって、蝶の翅を模した羽織を脱いだ。困惑するしのぶに、そのまま手渡す。

 

 

「なら、この羽織はしのぶにあげるわ~」

「えっ」

「大事に使ってね~」

「いや、ちょっと、待って! さすがにこれは今の私には荷が重すぎる!?」

 

 

 慌てるしのぶを見て、全員が笑う。

 きよ、すみ、なほは大声援を送り、アオイは夜だからもう少し静かにと、口元を緩めながら苦言を呈し。

 弦司は――カナエを見て笑った。優し気な容貌を幸福に染めた、本当に幸せそうな笑顔だった。

 

 

「胡蝶カナエちゃんと裏切り者いる?」

 

 

 ――なのに、何で。

 こんなに幸せなのに。こんなにみんな笑い会えているのに。

 何でそいつがここにいるのか。

 

 

「やあやあ初めまして」

 

 

 全員が振り返る。気づけば、そいつは庭にいた。

 白橡色の髪に、虹色がかった瞳。優し気な容貌は青白い肌も相まって、非常に整って見える。

 彼が冠のような帽子を取ると、まるで血を被ったような模様が現れる。

 

 

「俺の名前は童磨」

 

 

 にこにこと屈託なく笑い、穏やかに優しく喋る。

 だが、その様相とは正反対のモノが右手に握られている。

 長髪を後ろで一纏めにし、瞳はまるで鋭利な刃物のように鋭い。口も大きく三日月を描いている。冷たい印象を受ける男――風能誠一の生首。

 誰も一言さえ発せられない。肌を刺し貫く強烈な気配も、風能の生首も、濃厚な血の匂いも、カナエ達にとっては些細な問題だ。

 

 

「わあ、若くて美味しそうな女の子ばかりだね!」

 

 

 左目に『上弦』。

 右目に『弐』。

 鬼舞辻無惨直属の鬼・十二鬼月。

 その内の百年以上討伐記録のない、上位六体『上弦』の『弐』番目。

 

 

「今日は本当にいい夜だねぇ」

 

 

 カナエの柱としての知識と経験が、確信を持って告げる。

 

 

 ――今日、胡蝶カナエと不破弦司は死ぬ。

 

 

 いつだって、幸福は薄い硝子の上に乗っている。

 

 

 

 

 風能誠一にとって、鬼は唾棄すべき存在だった。だが、それは両親を殺されたからでも、兄弟子たちを殺されたからではない。自身の努力に唾を吐きかけたからだ。

 風能は剣術道場の跡取り息子だった。継ぐに相応しい技術を備え、努力も重ねた。多少傲慢ではあったものの、上に立つ者の姿勢として受け入れられた。誰もが彼の才能を称え、認め、門下の繁栄を確信していた。

 ――突如として、鬼が現れた。

 両親と門下生が倒れる中、風能は一人で鬼に立ち向かった。都合五度、人間であれば間違いなく即死する一撃を与えた。それでも鬼は倒れなかった。自身の結晶を『鬼だから』。それだけで、全てを無に還された。

 寸での所で鬼殺隊に助けられ、九死に一生を得た。だが、自身の血の滲むような努力に唾を吐きかけられ、積み重ねた全てを踏み躙られた。風能は鬼という存在そのものを憎むようになり、鬼殺隊へ入隊した。

 風能は完全に歪んでしまった。鬼という存在を抹殺する。自身の才を認めさせる。隊士や一般人がどうなろうと、後はどうでもいい。それが風能誠一という隊士だった。それでも、剣術の腕前だけは同期から抜きんでていた事もあり、風能は順調に階級を上げていった。

 だが、風能の不満は晴れなかった。鬼は片端から滅殺した。階級は上がった。しかし、他の隊士は自身を認めないばかりか、同期ばかりを褒めちぎった。

 剣の才能のない無能と、鬼の頚も斬れない落ちこぼれ。

 なぜ、あんな奴らが褒められるのか。それどころか、なぜあいつらと力を合わせろと、指図されるのか。風能は不満ばかりが募っていった。

 ――そんな時だ、風能がその女性に出会ったのは。

 子どものように小柄で、左腕のない美しい女だった。特に金色に染まった頭髪はふわふわと雲のように柔らかく、見ても触っても飽きそうにないと思った。

 その女性――()()()は、薄汚れた着物で『どこにも行く宛てがない』と風能に助けを求めた。風能は興味本位で、彼女を家に匿った。

 最初は使うだけ使って、捨てようと考えていた。きくのは、何をしても嫌がらなかった。それどころか、風能が苛烈に扱う度に、優しくそれでいて恍惚の表情で受け入れた。

 

 

「貴方様は素晴らしいお方です」

 

 

 それがきくのの口癖だった。褒められるのは何年ぶりだったろうか。長い間、風能は誰にも認められてなかった事を、この時自覚した。

 彼女の言葉は、快楽そのもののようであった。聞けば聞くほどやめられなくなる。いつしか風能は、不満の捌け口を彼女に求める様になり、手放せなくなった。

 

 

「貴方様のおかげで、私は救われました」

 

 

 きくのはしきりにそう言った。ただの快楽の道具としか見えていない風能は、その度に座りが悪くなった。

 それだけではない。風能が帰れば彼女は必ず迎えてくれる。常に温かい食事と風呂は用意され、衣装は新品のように綺麗だった。

 

 

「貴方様は素晴らしいお方です」

 

 

 感謝を言えないでいる風能を、やはりきくのは褒めた。

 きくのの命を助けたのは風能だ。だから、彼女を良いように使うのは当然。そう思っているのに、彼女の好意が眩しい。居心地が悪かった。

 だからだろうか、つい目を引いた黄色の簪をきくのに渡してしまった。

 

 

「ありがとうございます」

 

 

 彼女は涙を流して、大切にすると喜んだ。気づけば、膨れ上がっていた不満が萎んでいた。

 多少、一般人や他の隊士に目を向けるようになった。

 

 

 少しずつ風能は変わっていっていた日々。夜に帰宅すると、きくのが泣いていた。

 訳を訊ねるが、きくのは中々話そうとしなかった。追い出すと脅しつけて、初めて話し始めた。

 きくのは藤の花の家紋の家の人間だった。

 藤の花の家紋。それは鬼殺隊に一族の命が救われ、無償で援助を行う家の事だ。きくのは、その家の生まれだったが、()()()()()として育てられたらしい。

 理由は二つ。

 まず、髪の色だ。きくのの両親は二人とも黒髪だったらしい。らしい、というのは母親が出産の際、殺されてしまったからだ。

 黒髪の両親から、きくののような金髪の子どもが生まれる……よほどのお人好しでなければ、不貞を疑うだろう。もちろん、きくのの父親は不貞と断定した。だが、憎むべき妻はこの時すでにこの世にいなかった。やり場のない憎しみは、一身にきくのに注がれてしまった。

 そして、もう一つの理由は鬼殺隊に命を救われた事。出産の際、鬼に襲撃され殺されてしまったそうだ。そこを、鬼殺隊が救った。

 きくのの父親は、藤の花の家紋を掲げている事を、常に誇りに思っていた。だからこそ、鬼殺隊に命を救われたきくのを憎みはしても、命までは奪えなかった。

 二つの理由が重なり合った結果、彼女は()()()()()として育てられた。

 だが、風能には()()()()()として育てられた事と、涙が結びつかなかった。

 さらに訊ねると、きくのは初めて美しい顔を憎しみに染めた。

 

 

「鬼殺隊に所属している鬼が、我が家に来ました」

 

 

 最近、噂になっていた、鬼殺隊に協力する鬼。そいつがきくのの家に訪れ……父親は殺されたらしい。幸い、閉じ込められていたきくのに鬼は気づかず、密かに風能の元まで逃げてきたとの事だった。

 風能には分からなかった。何を泣く事があるのか。理不尽に虐げる親はいなくなり、苦しみから解放された。少なくとも、当時よりはマシな生活を送っているはずだ。

 何が不満か風能は訊ねた。

 

 

「分かりません。ただ、唯一の肉親は殺されたのに、貴方様には幸せにしていただいて……急に、悲しくなったのです」

 

 

 きくのは風能には訳の分からない事を言って「忘れて下さい」と付け加えた。

 意味は全く分からなかった。きくのも、その鬼の行動も。ただ、その鬼はいない方がいいと風能は判断した。

 早速、鬼を殺す事にした。どうせ鬼だ、殺した所で何もない。何より、きくのは風能のモノだ。人のモノをかき乱しておいて、生かす訳にはいかない。

 一度目は不快な同期共の妨害で失敗した。

 二度目は柱が立ち塞がり、何もできなかった。

 どいつもこいつも風能を認めず、鬼ばかりを認める。鬼という存在自体が唾棄すべきものなのに、誰も彼も分かろうとしない。

 何より、きくのを()()()()()として扱う。誰もきくのの言葉を認めようとしない。

 証拠を出せと、証人を出せと口喧しく盆暗な隊士が言う。風能は知っている。その口で、きくのに何をさせたのかを。きくのをどうやって扱ったのかを。

 全てをぶちまけるのは簡単だ。だがそうした時、傷つけられるのはきくのだ。いや、傷つくのはまだいい。きくのを匿っていると知られ、取り上げられるのを風能は何よりも恐れていた。

 なぜ、と思う。しかし、何も分からない。

 苛立ちだけが募った。それをきくのは敏感に感じ取った。

 

 

「もうやめて」

 

 

 それは初めての反抗だった。

 黙れと何度も風能が言って蹴り飛ばしても、みっともなく縋って、這い蹲って、乞うた。

 あまりにも必死だったので、風能は訊ねた。本当にやめて良いのか、と。

 良いと言えば、やめていた。だが、きくのは束の間、視線を泳がせた。

 本当の事を言えと。さもなければ本当に放り出すと、風能は言った。

 

 

「殺して下さい。我が父の敵を討って下さい」

 

 

 大粒の涙を流して、きくのは言った。きくのを拾った時以来の、彼女の懇願だった。

 涙の意味は分からない。だが、女が男に打ち明けた願いは叶えねばならない。

 

 

 ――そして、三度目。

 

 

 風能は鬼を殺そうとしたが、鬼殺隊は取り合わず。それどころか、柱が立ち塞がり風能に大けがを負わせた上、鬼殺隊から風能は追放された。

 なぜだ。自身が正しいのに。何度も鬼は、風能の邪魔をするのか。鬼が、不破弦司が、許せなかった。それでも、もう剣も握れない風能に、為す術はない。

 家族を失い、道場主としての未来も失い、今、鬼殺の道も失った。

 今度こそ全てを失い……風能が思い至ったのはきくのだった。きくのだけしか、残されていなかった。

 覚束ない足取りで帰宅した家には、誰もいなかった。風能の胸には、まるで大きな穴が空いたかのように、空虚であった。

 しばらく呆然としていると、違和感を覚えた。そこかしこに、きくのの物が置いてあった。何かがあったとしか、思えなかった。

 家を捜索すると、走り書きを見つけた。

 ――見知らぬ男が家の周囲をうろついているから、例の場所へ行く。

 例の場所とは、何かあった場合に行くようにと伝えていた、風能の両親が遺した家屋の一つだった。

 風能は必死に向かった。途中、誰かにつけられないよう、何度も道を変え、姿を変えた。

 辿り着いた先に、きくのはいた。

 

 

「貴方様!」

 

 

 ふわふわとした金色の長髪。僅かに吊り上がった大きな青い双眸。大人びた容姿に合わない、小柄な体躯。

 そこには、いつものきくのがいた。

 風能は涙を流して、初めて人に謝った。

 約束を守れなかった事。それどころか、利き腕の自由を失い、もはや剣士として働けない事。

 もう何の役にも立てない。ただの無能になってしまったと、何度も何度も謝った。

 

 

「貴方様は素晴らしいお方です」

 

 

 きくのは全てを静かに聞き、それでもいつものように褒めた。

 

 

「もう鬼の事など忘れましょう。忘れて()()と静かに暮らしましょう」

 

 

 聞けば、きくのの中には新しい命が宿っている、と。

 もう鬼も剣術もどうでもよかった。誰にも認められなくとも、きくのさえ一緒に居てくれれば。

 

 

 ――だが、数日後。きくのは忽然として消えた。

 

 

 必死になって探した。彼女が。彼女だけがいれば。それだけでいいと、祈った事もない神に、何度も何度も願った。

 夜。風能の前に現れたのは、きくのではない。

 

 

「胡蝶カナエちゃんと裏切り者について、教えてくれないかな?」

 

 

 頭から血を被ったような鬼が、にこにこと優しく訊ねる。

 左目には『上弦』、右目には『弐』の文字。

 その鬼は、十二鬼月の『上弦の弐』であった。

 だが、風能にはそんなもの、どうでも良かった。その鬼の右手に握られた黄色の簪。

 風能は震えが止まらなかった。

 

 

「その簪の持ち主を、どこへやった……!」

「大丈夫だって、彼女にはまた会わせてあげるよ。だから、胡蝶カナエちゃんと裏切り者について、教えてくれないかな?」

 

 

 鬼など信用ならない。平気で嘘を吐き、人を騙し、食い物にする。何一つ信じられなかった。

 だが、相手は上弦の鬼だ。奇跡など、万が一にも有り得ない。

 風能は迷った。鬼は信じられないが、風能では鬼に勝つ事ができない。

 そんな風能に、諭すように、優しく鬼は語る。

 

 

「ねえ、君にとって大切なものって何? 胡蝶カナエちゃん? 裏切り者の鬼? それとも――この簪の娘?」

 

 

 鬼は黄色の簪を見せつける様に、ヒラヒラと揺らした。

 風能の腹の底から、熱いモノがこみ上げる。鬼に対する憎悪が沸き立つ。

 彼にとって、分かり切った問だった。きくのだ。きくのが大切に決まっている。助けたい。この鬼をぶちのめして、すぐにでも助けたい。だが、今の風能にその力はない。どうやっても勝てないなら、従うしかない。それが例え、蜘蛛の糸のように細い可能性であっても、きくのと子どものためなら、耐えるしかない。

 

 

「……本当に、会わせるんだろうな……!」

「もちろんだよ」

 

 

 欠片も信用ならなかった。だが、風能は頷くしかなった。柱や鬼がどうなろうと、風能には関係ない。きくのさえ無事なら、後はもうどうでも良かった。

 すぐに蝶屋敷へ案内した。

 

 

「案内した。早く彼女に会わせろ……!」

「いいよ」

 

 

 上弦の鬼は扇を振るった。風能の首が落ち、体が音を立てて崩れ落ちる。

 首から大量の血が流れ、血だまりを作る。首のない体を鬼は掴むと体に押し当てた。次第に体は鬼の体に沈んでいく。

 

 

「特別に男の君も喰べてあげるよ。家族一緒に、俺と共に永遠を生きていこう」 

 

 

 目を閉じ、鬼は穏やかに告げた。

 目を開けると、風能の生首を掴み蝶屋敷の門を潜る。

 ――跡には血だまりと、黄色い簪だけが残された。

 

 

 

 

 彼女にとって、この世は地獄だった。

 生まれた時には不貞の子だと、謂れのない罪で父と名乗る男に虐待された。この金色の髪が、お前の罪の証だと言われた。なのに、鬼狩り様に助けられた命だから生かされた。

 外には()()()()()として扱われ最小限の食事のみ与えられ、普段は暗い土蔵に閉じ込められた。

 男が彼女に教えたものは二つ。

 一つ目は、鬼という化け物について。

 この世には鬼という恐ろしい生物がいるらしい。いくら血を流しても死なず、人を喰らい不幸せにする化け物だと教えられた。

 二つ目は、自身の家が藤の花の家紋の家である事。

 化け物を日夜狩り続ける集団・鬼殺隊がいるらしい。彼らは鬼から人々の幸せを守り続けている。そんな尊敬すべき彼らを手助けするのが、藤の花の家紋の家という事だった。

 彼女にとって、どうでも良かった。だが、少しでも否定すると数日は食事を抜かれる。いつ、男の気が変わるか分からない。彼女が生き続けるには、その二つを唯一の価値観として、脳裏に刻み込むしかなかった。

 そんな苦しい日々、男は彼女がいずれ勝手に野垂れ死ぬだろうと思っていたようだが、彼女は生き残った――いや、生き残ってしまった。

 その当時、すでに家は傾き始めていた。当たり前だが、無償でいつまでも援助するなど、無理があったのだ。それでも、男にとって藤の花の家紋は誇り。何としてでも、鬼殺隊に報いようとし……男は彼女を鬼殺隊に使う事にした。

 皮肉な事に、彼女は美しかった。最初は渋っていた隊士も、彼女の美しさにやられて、言われるがままに彼女を使った。慣れてくると、それは段々と苛烈さを増していった。

 さすがの彼女も耐えられなくなり、隊士の一人に救援を求めた。だが、現状を良しとする隊士は取り合わなかった。

 彼女は初めて、家を逃げ出した。だが、みすぼらしい身形で、金色の髪をした不審な女に取り合うような人間はどこにもいなかった。また、外見で誰にも見向きにされず。このまま手を差し伸べられず、飢えて死んでいく……。

 ――そんな時、彼女はとある宗教団体の名を耳にした。

 そこは、駆け込み寺のような事をしているらしかった。彼女はそこへ逃げ込んだ。

 『万世極楽教』。

 それが、その宗教団体の名だ。

 教祖は白橡色の髪が美しい、若い男だった。

 『万世極楽教』に難しい教えはなかった。穏やかな気持ちで楽しく生きなさい。辛い事や苦しい事から、逃げても構わない。

 ――もうあの地獄にいなくてもいい。

 そんな風に言われたような気がして、彼女は泣いた。

 名前を聞かれて、彼女は咄嗟に『メアリ』と名乗ってしまった。あの地獄で使われていた名前を使いたくなくて、耳にした外国人の名前を適当に言ってしまった。だが、それが非常にしっくりきて、そのまま使う事にした。

 

 

 

 

 メアリにとって『万世極楽教』は極楽だった。常に穏やかな気持ちでいられて、辛い事も苦しい事もない。本当に幸せだったが……その気持ちは長くは続かなかった。

 ――教祖が鬼だった。

 幼い頃から、人を喰い物にする恐ろしい化け物と教わってきた。だが、人の幸せを守る鬼殺隊には救われず、鬼にメアリは助けられた。

 無理やり刻み込まれた価値観は、一瞬で壊された。いや、()()()()()()

 メアリは気づけば大笑いしていた。

 

 

「鬼を恨めと教えられた者が、鬼に助けられるとは……滑稽でございますね!」

 

 

 笑うメアリに、教祖は自身の『善行』を語ってくれた。

 

 

「この世に神も仏もない」

「生きている限り、辛くして苦しい事ばかりだ」

「でも、死を恐れなくていい。俺が君を喰べてあげるから」

「君は俺と永遠を生き続ける事ができる」

 

 

 メアリは心を打ち抜かれた気分だった。

 教祖の言う通り、この世には救いも何もない。でも、誰もが死ぬのは怖い。メアリもここまで生きてしまった。そんな哀れで気の毒な人間を、鬼の教祖が喰べて下さる。

 そして、鬼は永遠だ。メアリの苦しみを止めるばかりか、永遠の一部と成れる――。

 教祖とは、鬼とは、こんなにも神々しい存在だったとは。メアリは彼らに心酔した。必ず彼らに『救済』してもらう。だが、それまでにこの汚い命をもって、何か一つ報いたい。

 メアリは静かに決意した。

 

 

〇 

 

 

 ――その女が来なければ。

 ――そもそも、無惨が訪ってこなければ。

 ――さらに言えば、不破弦司が鬼となり無惨に逆らいさえしなければ。

 ――その女はただの童磨の食糧で終わっていただろう。

 メアリと名乗った女だった。小柄で真っ白な着物を着崩し、煽情的な体を曝した金髪の女だった。

 不貞の結果、生まれてきた子どもであるメアリは、父親に虐待されていた。だから『万世極楽教』へ逃げてきた。そして、信者となり『救済』を求める。よくある話だった。

 普通と異なっていたのは、藤の花の家紋の家の生まれであった事だった。そして、童磨を鬼と知ってもなおも『善行』を賞賛し『救済』を求めてきた。

 童磨が鬼と知って逃げ出さない人間は珍しい。鬼の恐ろしさを知る藤の花の家紋の家であれば、なおさら希少だ。童磨は面白いと思った。だから、しばらく手元に置いた。

 童磨から見て、彼女は可哀想な人間だった。

 親には虐待され家は貧困し、それでも見栄のために無償で鬼狩りに奉仕させられた。それでも()()()()()として扱われ、もてなした鬼殺隊士には『家庭の事情』だからと相手にされなかった。そして、『万世極楽教』では今までの価値観を粉砕され、童磨を心酔し『救済』される事を、この上ない幸福と捉えている。

 彼女にはもう童磨の『救済』という死しか残されていない。哀れだった。だからもう狂わないように、そろそろ喰べてあげるつもりでいた。

 

 

「童磨、私の支配を逃れた鬼がいる」

 

 

 白い中折れ帽を被り、黒いジャケットを羽織ったモダンな紳士。まるで作り物めいた美しさを持った容貌を持っており、肌は青白いほど白い。

 ――鬼舞辻無惨。

 童磨が敬愛して止まない主が、自ら足を運んで『万世極楽教』の本山までやってきていた。ただし、その表情は不快の一つ。

 無惨はメアリを喰べようとしたその日、突然訪れた。

 童磨は教祖の定位置である玉座から離れると、いつもの笑顔を持って無惨に接する。喰べられようとしていたメアリも、童磨に倣って平伏した。ただし、その表情には歓喜しかなかった。

 

 

「あの珠世に続いてですか? 馬鹿な鬼もいたものだなあ」

「お前には、そいつを連れてきてもらう」

「殺さないのですか?」

 

 

 珠世については、しきりに殺せと言っていた。意外に思い、童磨は疑問を返す。

 

 

「そいつの体には少し興味がある。何より――」

「?」

「散々私をコケにしてくれた。報いが必要だ」

「それは確かに!」

 

 

 笑顔で賛同する童磨。しかし、無惨の反応は芳しくなく、目を細める。

 

 

「見つけて連れて来い、童磨」

「承知いたしました! それでその鬼はどのような容貌で?」

「それも含めて調査して、見つけて連れて来い」

「えっ」

 

 

 さすがに驚く童磨に、無惨はそれでも連れて来いと念を押す。

 童磨は頭を掻く。

 

 

「そうは仰られましても、俺は探知探索が不得手でして。如何したものか……」

 

 

 思案する童磨を、ますます無惨は不機嫌そうに睨み付ける。さてどうしたものか、目玉の一つでも捧げて詫びるしかないか。そう考えていた時の事であった。

 隣のメアリが手を挙げた。

 元々、快く思っていなかったのだろう。人間の介在に、無惨は額に青筋を浮かべて童磨を睨み付ける。

 

 

「童磨、これはどういうつもりだ?」

「申し訳ありませぬ。ですが、これは中々面白い人間でして――」

「神祖様! この私にも手伝わせていただけないでしょうか!」

 

 

 メアリはまるで無惨が何なのか、分かっている上の言動であった。

 それでも無惨は手を振るった。メアリの左腕が飛び、鮮血が舞う。しかし、傷を受けた当のメアリは叫ばない。それどころか、恍惚に表情を変える。

 

 

「ああ……高貴なる鬼をお産み出しになる、神祖様に触れていただいた……!」

「この通り、立場を弁えている人間でございます。少し話を伺うのも面白いかと」

 

 

 心酔しきった女の姿に、無惨の目に興味の色が灯る。

 

 

「……いいだろう」

 

 

 童磨はニヘラと笑うと、メアリの傷を手当てしながら尋ねる。

 

 

「君に何か良い案はあるかい?」

「き、教祖様!? 貴方様に、このような事、畏れ多くて私は――」

「いいから。ほら、知恵を貸してくれるかい?」

 

 

 童磨は事情を簡単に説明した。無論、無惨については一言も話していない。ただ自身と同じ鬼であるにも関わらず、救いを捨てた馬鹿者を殺したいと。救いを壊す鬼殺隊に入ったと。そう伝えた。

 メアリはその鬼を知っている様で、

 

 

「時間は掛かりますが、腹案がございます」

 

 

 メアリは自身の血だまりの上で、すぐににこやかに答えた。ますます無惨が興味を示す。

 

 

「産屋敷は巧妙に隠している。他の鬼も調査を行っているが、未だ尻尾すら見せない。お前はどうやって探すつもりだ?」

「私が探す必要はありません。知っている者に……例えば、鬼殺隊に話してもらうのです」

「それができていたら苦労はしない」

「それは貴方様方が高貴な血筋ゆえです。清らかさ過ぎる空気は、下々の者には毒なのです。ならば、私のような下賤な薄汚れた人が働きかければ、同じく下賤な隊士は口を緩めるでしょう」

「……やってみろ」

 

 

 無惨はそれだけ告げると去っていった。残されたメアリは、再び恍惚に表情を染める。

 

 

「ああ、任されてしまいましたわ! 神祖様に、私のような下賤な人間が!」

「それで、君はどうやって情報を聞き出すんだい?」

 

 

 主が興味を示した人間。面白半分に手元に置いた人間ではあったが、童磨ももう少しこの女を観察したいと思うようになった。

 

 

「古今東西、情報を抜き出す簡単な方法がございます」

「へぇー! そんなのがあるんだ! 一体、何?」

「女、でございます」

 

 

 メアリは血煙の中で体をくねらせ、目を細めた。

 

 

「下賤には下賤のやり方を見せてあげましょう」

 

 

 ――こうして、本来であれば有り得なかった策謀が始まった。

 

 

 

 

 メアリの出した最初の指示は、彼女の家族を殺す事だった。

 家族に思い入れなどない童磨ではあったが、その他の人間にとってはそうではないという事を、知識で理解していた。

 だから、念のため訊ねた。

 

 

「本当にいいのかい?」

「教祖様のお気遣いが身に沁みます! ですが、ご無用でございます」

 

 

 心の底からの言葉なのか、非常に顔色は明るい。あまりにも童磨の知識から離れた姿に、疑問をそのまま口にする。

 

 

「それは俺のため? それとも、親が憎いから?」

「教祖様、私は貴方様の『万世極楽教』にお救いいただきました。今、あの燻るばかりの暗い感情はなく、明るくいられるのは教祖様のおかげでございます。このご恩を、私は少しでもお返したい」

「それだけかい?」

「――教祖様の真似事と私怨を少々」

 

 

 メアリは気恥ずかしそうに、頬に手を当てて笑う。ただしその目の奥には、確かに憎しみがあった。

 

 

「私の家は藤の花の家紋の家でございます」

「ああ、何度も聞いたよ」

「はい。彼らは家が傾いているのにも関わらず、無償で鬼殺隊などというならず者を支援し、娘は()()()()()として扱いながらも虐げる。穢れた血だと罵るくせに、鬼狩り様に救われた命だからと生かす。子どもでも気づく矛盾に、いつまでも気づかず続ける……あまりにも、可哀想だと思いませんか?」

 

 

 すでに傾いた家に、無償の支援など続くはずがない。終わりが近づいている。だというのに、それさえも分からず奉仕を続け、矛盾した心理で娘を生かし続ける。確かに彼女の言う通り、あまりに頭が悪すぎて可哀想と童磨は思った。救済が必要だ。

 

 

「うん、そうだね」

 

 

 頷いてあげたら、それだけで天にも昇ったかのように、彼女は有頂天になった。

 彼女も哀れだった。童磨と同じ思考にたどり着いた。頭が悪くなければ、死んでも無に還す事ぐらい分かるはずだ。なのに『鬼になる』。そんな簡単な結論も思いつかない。半端に頭が良くて可哀想な女だった。

 にこにこと童磨が笑っているためか、メアリは調子に乗ってそのまま続ける。

 

 

「鬼殺隊などという気狂いどももそうです。家庭の事情だからと、異国の血が流れているからと、隊士どもは見て見ぬふり。目の前の不幸に何もできないような無能どもが、なぜ神祖様に敵いましょうか? そもそも、神祖様は災害と同じです。なぜ、地震や雷に歯向かおうとするのですか? 天災に遭ったのですから、早くに忘れ日銭を稼いで過ごせばよいのに。鬼という高貴な者を人以下に考える事も愚かです。老いも病も克服し、闇夜を支配する! 何と高貴な事でしょう……! そんな簡単な事にも気づけない……彼らにも救済は必要でしょう」

 

 

 メアリの出す結論に、童磨は否やはない。彼女も喜んでいる。ならば、思い悩む事はない。

 童磨はメアリの指示に従い、彼女の父親を殺した。

 メアリは父を殺された直後に、一人の隊士の家に転がり込んだ。

 

 

 そこから先は、手紙だけのやり取りとなった。手紙自体は『万世極楽教』の信者が行う。余程、メアリを疑ってかからなければ、童磨との繋がりは見えてこない。

 すぐに成功の報告は届いた。風能誠一という隊士の家に、彼女は住み着いていた。あまりに鮮やかな手際だった。

 手紙には、成功の理由が書かれていた。

 

 

『彼は自尊心の塊でございます。俺はこんなにすごいのに。俺はこんなに偉大なのに。誰も彼もが口にするのは、欠陥剣士と才能なし。そんな可愛らしい彼に閨でそっと囁くのです……貴方様は素晴らしいお方です、と』

 

 

 そして最後には、『彼も戦う愚かしさを痛感し、教祖様と一つになればいい。万世極楽教バンザイ』との言葉で、締めくくられる。

 手紙が来る度に、風能とメアリは親密になっていった。童磨も恋愛とは知識で知っていた。実際手紙越しで目の当たりにして、こんなにも頭の悪くてもどかしいものだと、初めて理解した。

 気づけば、童磨はメアリの手紙を待っていた。三文小説を読んでいるみたいで、良い暇つぶしになった。

 そんなやり取りが数カ月続いた頃――。

 

 

「私の支配を逃れた鬼が分かった」

 

 

 鬼舞辻無惨が童磨の前に、再び現れた。首を垂れる童磨。そして、無惨を通して、裏切り者の姿を確認する。

 優し気な風貌をした、容姿の整った男であった。どうやら、鬼との小競り合いで容姿を暴いたようだった。

 

 

「それで私はどうすれば――」

 

 

 情報を伝えるなり、無惨は童磨の頚を斬った。童磨の生首を掌に乗せ、無惨は糾弾する。

 

 

「この数カ月、一体何をしていた童磨?」

「あの人間の女に、情報収集をさせておりました」

「その割には何も報告がないが、どういうつもりだ?」

「返す言葉もございません」

 

 

 無惨が苛立たし気に舌打ちをすると同時に、琵琶の音が鳴る。

 ――琵琶鬼・鳴女。

 無惨のお気に入りの鬼だ。琵琶の音色と共に、空間を操作する血鬼術を扱う。

 琵琶の音と共に、金髪の女が童磨の体の隣に現れた。

 

 

「えっ!? これは、一体――!?」

「女、裏切り者はどうした」

「神祖様!?」

 

 

 慌てて平伏するメアリ。無惨は童磨の頭を彼の体に向けて投げてから、彼女に近寄る。

 

 

「どうした?」

「さすが神祖様でございます! これから報告に伺おうと考えていた所で、お呼びいただけるとは!」

「……言ってみろ」

 

 

 僅かに無惨は緊張した空気を緩ませて、メアリを促す。彼女は平伏の下で、恍惚な表情で続ける。

 

 

「とうとう篭絡した隊士が、鬼殺隊を追放されました!」

「……何?」

 

 

 凶報としか聞こえない報告に、無惨は一度眉根を寄せる。しかし、メアリはそれこそ待っていたのだと、喜色を浮かべる。

 

 

「家族も失い、鬼殺隊も追放され、利き腕も満足に動かせない。最早、彼に残されたものは私だけでございます! ここで童磨様が私を人質にして脅していただければ、私しか残されていない彼は、どんな事をしてでも私を救おうとします――鬼の命など、真っ先に捧げるでしょう! 全ては私の計画通りでございます!」

「……」

 

 

 無惨の視線が、理解できないモノを見る目に変わった。

 人間とは、弱く愚かな生き物だ。奪われれば激昂し視野を失う。例え鬼が相手でも盾突く。だが、この女は進んで人間を追い込み、鬼に全てを捧げさせようとしている。確かに便利だ。しかし、こんな人間を無惨と童磨はよく知らない。無惨にとっても童磨にとっても、メアリは全く思考外の理解できない存在となっていた。

 

 

「童磨」

「はっ」

「後は任せる。その女は自由に使え。とにかく、例の鬼を連れて来い」

 

 

 それだけ言い残すと、無惨は琵琶の音と共に姿を消した。

 

 

「それで君はこれからどうするつもりだい?」

「最後の一押しを行い、彼を私に依存させます。然る後、仕上げを教祖様にお願いいたします……ええと、それでは元の場所にはどうやって――」

 

 

 メアリも琵琶の音と共に消える。童磨だけが残される。

 

 

「何だか俺だけ何もしてないような気がするのだが……仕上げを手伝うならいいか」

 

 

 童磨は満面の笑みを浮かべると、頭と体を繋げた。

 

 

 

 

 メアリからの手紙はすぐに来た。

 すでに風能は篭絡したから、指定の場所に来るようにあった。

 童磨はすぐに向かった。月の綺麗な夜だった。

 竹林に囲まれた、風情のある平屋がある。竹林の中に、童磨は呼び出された。

 メアリはすぐに見つかった。彼女は童磨を見つけるなり、土の上に平伏する。

 

 

「教祖様、お越しいただき恐縮でございます!」

「いいよ。それで、準備は整ったのかい?」

「はい! もう彼は私に依存しています! 後は教祖様の一押しで終わるでしょう!」

「すごいね! それじゃあ、君を人質に――」

「それでは私を『救済』下さい!」

 

 

 メアリは顔を上げると、蕩けそうな笑みを童磨に向けた。

 童磨は目を開けたまま固まった。

 先日の話では、メアリを人質にするはずだった。それを『救済』――つまり、童磨が喰べる。死ぬ、という事だった。

 童磨は少し、納得がいかなかった。童磨が『救済』をするのは、誰もが死を怖がり『極楽』などという有りもしない妄想に縋るからだ。苦しみや辛さから解放し、喰べてあげる事で気の毒な人達を幸せにしてあげるためだ。

 この女は違う。『極楽』など求めていない。死も恐れていない。童磨に喰べられる事こそ『救済』だと信じてやまない。頭が腐っているのか。それとも、すでに狂ってしまったか。

 今までの人間とは、やはりこの女は違う。童磨は最後に少しだけ、彼女を知りたいと思った。

 

 

「君はどうして『救済』を望むんだい? 馬鹿で愚かだけれど、君を愛する男はいる。お腹の中には、君達の赤ん坊もいるだろう? 俺の権限で『万世極楽教』の信者として君達を生かす事も可能だよ?」

 

 

 童磨の感覚では、確かにメアリの腹には別の命があった。『救済』されるならば、その命も童磨と一つになる。

 裏切り者――名を不破弦司というらしいが――を差し出した事を功績に『万世極楽教』で死ぬまで生かす事ぐらいは許される。

 そう提案するも、メアリは笑顔を崩さない。

 

 

「簡単でございます。この世は、この世こそが、私の『地獄』だからです」

「地獄?」

「はい。頭髪などという私では変えられぬ理由で虐げられ、私を救わぬ男共にいいように使われ、ようやく篭絡した男は、自意識過剰の暴力男でした。そして、真に救ったのは殺せや恨めやと囁かれ続けていた鬼! 何をやっても、何を為しても、私の先にあるのは苦しみと辛さでございます。これを『地獄』と言わず、何と言うのでしょうか?」

「そうだね。でも、それは君が人間だから、とは思わないかい? 鬼になれば『地獄』から解放されるとは、思わなかったのかい?」

「何と畏れ多い! ……ですが、神祖様も教祖様も、私を進んで鬼にはされませんでした。貴方様方には、私が鬼として強くなれないと理解されておられたのでしょう?」

「よく見てるね!」

 

 

 メアリの言う通りだった。童磨と無惨の直感では、彼女が鬼となった場合、特筆して強くなるとは思えなかった。だから、鬼になる様に言わなかった。

 メアリがやはり笑顔で続ける。

 

 

「憧れた鬼にもなれぬ賤しきこの身で、生き続けるのは辛く苦しく、悲しいのです。このまま生き続ければ『万世極楽教』の教えに背きます」

 

 

 『万世極楽教』の教えは、平たく言えば辛い事や苦しい事は、無理にしなくていい、というものだ。確かに彼女の言う通りだった。

 童磨は最期だからと、疑問を全てメアリにぶつける。

 

 

「それじゃあ、君は風能を愛していないのかい? あの手紙からは、何やら情愛のようなものが読み取れたよ」

「…………」

 

 

 この時、初めて彼女は笑顔ではなくなった。目を閉じ、胸元で両手を重ねる。静かで穏やかな表情だった。それは今まで一度も、童磨が見た事のないメアリだった。

 

 

「彼にとっても、この世は『地獄』なのです。家族を、地位を、輝かしい未来を失い、果ては私のような悪女に捕まり、剣の道まで壊されました。そんな中、私のような()()()と子どもを抱えて生きていく事など、自意識過剰な彼には不可能です」

「なら、見捨てるだけでいいだろう? 君と子どもだけでも、生きていく道はあるよ?」

「……彼は私に暴力を振るいます。ですが、暴力を振るった数だけ、優しくなるのです。そんな仕打ちも、慈愛を向けるのは私一人! そんなどうしようもない彼を、私だけを見つめる彼を、私は愛してしまったのです!」

 

 

 頬を染めて、微笑むメアリ。

 人に対する憎しみと、鬼に対する憧れを抱き、自身に危害を加える彼を愛しているという。まるで、矛盾に矛盾を塗り重ねたようであった。()()はすでに壊れていたのだと童磨は判断した。

 

 

「もう私は彼を捨てられない。だから、私は宿った命と彼と一緒に、生きるという『地獄』から解放され、教祖様の永遠となりたい」

 

 

 メアリはふわふわとした金髪から黄色の簪を抜き出し、跪いて童磨へと差し出す。

 そして、再び目尻を下げて頬を緩め、恍惚した表情で言った。

 

 

「あの日、教祖様に出会い、私は苦痛から解放される術を得ました。『救済』へと向かう過程は、私にとって『極楽』でした」

「そうか」

「それと、鬼の隣にいる柱は『胡蝶カナエ』という女性です。きっと教祖様が喰べるに相応しい女ではないでしょうか?」

「うん、ありがとう」

 

 

 童磨は簪を受け取ると、躊躇なく扇を一閃した。メアリの首と胴が別れ、血が辺りに吹き散る。

 

 

「一緒に高みに昇ろう」

 

 

 首だけのメアリが、笑顔で童磨を見つめる。童磨は微笑み返すと、彼女を骨も残さず全てを喰べた。

 

 

「『胡蝶カナエ』ちゃんかぁ……喰べるのが楽しみだなぁ」

 

 

 童磨は口の周りを真っ赤に染めて、柱の名を呼ぶ。

 ――童磨は終ぞ、一人の信者の名を呼ぶ事はなかった。




ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。
次話投稿を持ちまして、最終話まで一挙に投稿する予定です。

どうか最後までお付き合いくださいますよう、よろしくお願いいたします。


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第19話 幸福は薄い硝子の上に乗っていた

いつも誤字脱字報告、いつもありがとうございます。


 蝶屋敷の面々は冷や汗が止まらなかった。特に鬼と対峙したことがある、しのぶ、アオイ、カナヲ、弦司に……柱のカナエでさえも。

 今まで何体も鬼を見た事がある。カナエに至っては、十二鬼月の下弦の鬼を討伐した事がある。そのカナエをしても、童磨を見れば今までの鬼全てが、赤子としか思えなかった。

 きよ、すみ、なほも異常な空気を感じ取ったのか。風能の生首を前にしても、必死に自身達の口を押え、決して悲鳴を上げまいと懸命に堪えていた。

 状況は最悪だ。しのぶが日輪刀を帯刀していない事に加え、アオイとカナヲは明らかに力不足。きよ達はそもそも戦闘要員ではない。幸いなのは、カナエと弦司が刀鍛冶の里で装備を万端にしていた事と、弦司の血鬼術の練度が急激に上昇していた事ぐらいだろう。それでも、戦力不足は明らかだ。

 そんな彼らの胸中を知ってか知らずか、童磨は焦り始める。

 

 

「あれ? もしかして、胡蝶カナエちゃんいないの? 裏切り者はそこにいるし……おかしいなぁ、一緒にいるって聞いたんだけど……」

「胡蝶カナエなら私です」

「誰が裏切り者だ」

 

 

 カナエと弦司が緊張と恐怖を抑えつけて、一歩を踏み出す。それだけで、死が迫って来るような感覚がカナエと弦司を襲う。

 

 

(これが、上弦の鬼)

 

 

 喉がひり付く。逃げ出したいと、掴んだ幸せを捨てたくないと心が訴えかける。

 

 

(でも、今は絶対に退けない)

 

 

 昨夜の話し合いで、何かを選ばなければならない時、どうするかも話した。

 弦司は鬼である。カナエが違うと言っても、鬼である事実は変えられない。それでも、人として在りたい。人として在るために、守らなければならない一線……それだけは必ず二人で守ろうと、カナエと弦司は話した。今、カナエ達の後ろには、戦う力を持たない少女達がいる。守らなければならない一線がある。例え自分達の幸せを投げ出しても、決して退く事はできない。

 恐怖と恐れを全て飲み込む。少女達を守るために、カナエと弦司は敢えて童磨の注意を引くように会話に乗った。

 

 

「何の御用でしょうか?」

「君がカナエちゃんか。うん、上等な御馳走だ。俺が喰べるに相応しいかもしれない」

 

 

 童磨がカナエを見つめる。一見、優しそうに見えるその眼差しは、しかし、何の感情も込められていない。優しく見えるだけで、食物を選別しているのと何ら変わりはない。

 その無遠慮な視線が不快で、弦司がカナエを庇うようにさらに一歩前へと踏み出す。

 

 

「さっきから何だよ、お前は。勝手に裏切り者扱いしたり、喰べるに相応しいとか勝手な事言ったり。用がないなら帰れ」

「えーっ! 酷いな、初対面なのに。俺達()()()だろ。君は今日、あのお方に殺されるけど、せっかく会えたんだから最期に仲良くしない?」

「誰が同じだ。お前は人を喰う。俺は人を喰わない。同じ鬼なんかじゃない」

「そうか、だから君は弱いんだねえ。気の毒だ、鬼なのに誰も人を喰べさせてくれないなんて。辛かったろう? 人を喰べて強くなってたら、殺されなかっただろうに、あまりにも可哀想すぎる」

「……」

 

 

 鬼……童磨は無遠慮な言葉で弦司の心を踏み荒らす。挑発か、それとも素なのか。少しでも情報を得るために、弦司とカナエは童磨を注意深く観察する。

 その一方で、カナエは童磨に見えない位置で、手信号を使いしのぶ達に命令を伝える。

 ──逃げろ。

 それ以外の言葉はない。彼女達には、逃げる以外の選択肢は存在しないのだから。

 伝え終えた所で、再びカナエが会話に混ざる。

 

 

「つまり、あなたは弦司さんを捕まえ、私達を殺しに来たと? 彼を……こんなにして」

「殺すだなんて。俺は君達を『救済』しに来たんだ。もちろん、ここにいる彼にだって恐ろしい事なんてしていない。()()()()の望むがままに『救済』したよ」

 

 

 童磨は風能の生首を掲げると、ゆっくりと胸に押し当てていく。徐々に沈んでいく風能。彼の頭は童磨の体に喰べられた。

 

 

「ひぃっ」

 

 

 悍ましい光景に、きよ達が引き攣った悲鳴を上げる。怯える少女達に、童磨は笑いかける。

 

 

「怖がらなくていいよ。俺は『万世極楽教』の教祖なんだ。彼は信者じゃないけど、ちゃんと俺が喰べてあげたから。彼は俺の中で、家族と一緒に永遠を生き続ける……」

「……哀れですね」

「? どういう意味?」

「あなたは何も分からないのですね」

 

 

 首を傾げる童磨。童磨の声を聞き、仕草を見て、奴がどんな鬼かカナエは僅かながら理解した。

 カナエは緊張からか唾を飲み込んでから、童磨に答える。

 

 

「彼は絶望していました。それは彼の顔を見れば分かるはずです」

「だから、救ってあげただろう? これでもう、彼は苦しむ事も悲しむ事もない」

「違います。苦しんだのも、悲しんだのもあなたがいたから。あなたが幸福を壊したからに過ぎません」

「えーっ。俺のせいにするの?」

「さっきから『救済』などと言ってますが、私の心に全然響きません。あなたの言葉には、何も重みがない。何も気持ちが乗っていない。ひょっとして、あなたの中には喜びも悲しみも、当たり前の感情さえも感じていないからではないでしょうか?」

「……」

「あなたは当たり前を感じる事もできず、太陽の温かさも忘れてしまった。本当に気の毒で哀れなのは、上弦の弐・童磨、あなたです。あなたこそが『救済』されるべきです」

「……俺を心配してくれてるの? 君みたいに優しくて可愛い女の子は初めてだよ」

 

 

 童磨が口だけに笑みを浮かべると、両手に握られた対の扇を広げる。

 

 

「でも、残念だなぁ。君に俺は『救済』できないよ。だって柱っていっても君は女の子だ。俺、たくさん柱を倒してきたから分かるんだ。君、大して強くないよね?」

「……」

 

 

 カナエは言葉を返せなかった。

 女性の身でありながら、柱となるのは難しい。腕力で男性に敵わない女性が、さらに腕力の強い鬼に敵うはずがないからだ。それでも、柱となったカナエは俗な言い方をすれば()()だろう。才ある人間のカナエでさえ、童磨は歯牙にもかけない。百年以上変わらない、上弦の鬼。その一端を、聞かされた気がした。

 そんなカナエの心中を見透かしたかのように、童磨は笑みを深める。

 

 

「大丈夫。俺も優しいから、君だけを『救済』なんてしないよ。()()()俺が『救済』してあげる」

 

 

 ――だから、逃げられると思わないようにね。

 

 

 その言葉にカナエ達は一瞬、体を硬直させた。

 カナエと弦司は彼の一挙手一投足を観察していた。だが、当然ながら同じように童磨もカナエ達を観察していた。非戦闘員までいるカナエ達の思考など、察するにはあまりに簡単だったのだ。

 ――そして、その硬直は決定的な隙となる。

 『血鬼術・散り蓮華(れんげ)

 童磨が二対の扇を大きく振るうと、まるで花弁のような氷が大量に舞う。しかし、その量は蝶屋敷を飲み込むほどで、触れた先から庭の草花を凍らせ、バラバラに引き裂く。

 ――いつか人に戻った時。この広い庭で一緒に駆けよう。洗濯物を干して、太陽の匂いをいっぱい嗅ごう。

 全てが凍り付き、砕け散っていく。だが、悲嘆に暮れている暇はない。氷の向かう先は弦司とカナエ。カナエ達の後ろにいるのは守るべき少女達を、等しく襲う。

 最初に前へ踏み出したのは弦司だった。

 『血鬼術・宿世招喚――鋼』

 弦司の()()が漆黒に変わる。出し惜しみはしない。少しでも氷を減らそうと一歩でも前に出て、全員の盾になる。

 血鬼術と言えど、氷は氷。相性が良いのか、漆黒となった弦司の体に触れる度に、氷は砕け散る。

 『花の呼吸・弐ノ型 御影梅(みかげうみ)

 さらに、弦司の後ろから躍り出たカナエが日輪刀を抜き放ち、自身の周囲に斬撃を放つ。カナエの斬撃が通る先から氷が吹き飛び、目に見えて血鬼術が減る。

 カナエと弦司の全力の防御。しかし、氷の範囲があまりにも広すぎた。

 二人で防ぎきれなかった花弁が、蝶屋敷を、しのぶ達を襲う。

 しのぶはきよを、アオイはすみを、カナヲはなほを庇った。

 

 

「あああああああっ!!」

 

 

 悲鳴が重なった。

 しのぶは氷の刃が薄い個所を見極め、傷を最小限に留めたが、アオイはほとんどまともに受けてしまう。アオイの背中から大量の血液が噴き出す。

 カナヲも攻撃の弱い個所に逃げ込んだが、彼女のみ隊士ではない。隊服ではなく練習着の和装だったため、一番避けていたにも関わらず、大小様々な氷の破片により全身傷だらけとなった。さらに、傷口は冷気で凍らされる。体のできていないカナヲには、あまりにも過酷すぎる一撃であった。

 もはやカナヲに動く体力は残されておらず、なほに覆いかぶさったまま動かなくなる。

 

 

「アオイ!!」

「――は、いっ!!」

 

 

 しのぶは歯を食いしばり、きよとカナヲを抱え上げる。アオイも半ば意識を失いながらも、すみとなほを担ぎ上げる。二人は文字通り血反吐をはきながら、戦場の外へ駆けていった。

 

 

「あーっ。ダメだよ、逃げちゃ――」

「吸うな!」

 

 

 追撃をかけようとする童磨に、弦司は叫びながら散弾銃を背中から抜き放つ。そして、童磨の前に立ち塞がりながら銃口を向ける。

 ――凍てついた血を操る血鬼術。

 言葉にすれば簡単だが、この血鬼術は呼吸を扱う隊士と相性は最悪だ。

 弦司が息を吸う度、肺がまるで凍ったように冷え、激痛が走る。童磨が凍てついた血を霧状にして散布しているからだ。呼吸そのものに、危険を伴うのだ。呼吸を起点とする隊士にとって、まさに天敵。最初に弦司が前に出たからこそ、分かった事実であった。

 カナエに警告を伝えながら、弦司は狙いを童磨の頚に定めて、引き金を引く。雷鳴のような爆音が響く。四発の銃弾は童磨の頚に当たった。

 童磨の頚から、辺り一面に血飛沫が跳ねる。

 

 

「へーっ。これが君の日輪刀? 面白いねえ」

「化け物がっ……!」

 

 

 だが、血煙の先には、頚の繋がったままの童磨がいた。四発の弾丸は童磨を傷つけはしたが、頚を斬るには全く威力が足りなかった。

 童磨の頚から、特大の弾丸が落ちる。頚を貫く事もできていなかった。それどころか、すでに傷は塞がっている。

 童磨は畳んだ扇で自身の頚を叩く。

 

 

「でも、全然威力はないねえ。やっぱり、頚を斬るならちゃんとした刀だよ。可哀想に、剣の才能がないばかりに、こんな欠陥品を押し付けられたんだね。きっと、この日輪刀を作った人は大したこと――」

 

 

 『花の呼吸・伍ノ型 (あだ)芍薬(しゃくやく)

 横合いから、カナエが割り込む。血鬼術を吸わない様に細心の注意を払いながら、超高速で九つの斬撃を叩き込む。さらに、ドサクサに紛れて、弦司も距離を詰めて散弾銃を童磨に叩きつける。

 童磨は朗らかに笑うと、扇を振るう。

 

 

「うん、速くて綺麗な攻撃だなあ」

 

 

 『血鬼術・枯園垂(かれそのしづ)り』

 二対の扇による、高速の連撃。さらに、扇の軌跡は氷となる。

 連撃と氷の攻撃に、カナエの斬撃は全て捌かれ、弾き返される。

 

 

「うーん。君の攻撃は重いけど、俺には通じないなあ。でも、この血鬼術はすごいねぇ」

 

 

 弦司の攻撃などは意にも介さず、連撃の合間にあっさりと受け止められた。それどころか、間に扇の一撃を与えられる。ただし、全ては『鋼』が攻撃を防いだ。弦司には傷一つない。

 童磨の防御により、カナエと弦司の攻撃が僅かに途切れる。

 『血鬼術・()(ぐもり)

 攻撃の合間を逃さず、氷の煙幕が童磨の扇から発生する。触れるだけで、凍り付く煙幕。カナエは堪らず飛び退り、続けて弦司も退いた。

 童磨の追撃は来ない。カナエは大きく呼吸し、弦司は『鋼』を解く。

 

 

(単純な膂力も、血鬼術の練度も、下弦の鬼とは何もかもが違いすぎる)

 

 

 束の間、休息が彼我の力量差をカナエ達に痛感させる。

 奴の動きに、ついていけている。戦いにはなっている。だが、傷こそ負ってはいないが、刃が頚に届く気配さえない。勝機が何一つ見出せない。

 童磨も力量差を理解しているのだろう。笑みを崩さず閉じた扇でカナエを指し示す。

 

 

「カナエちゃんは思ったより強いねえ。でも、これといって特徴もない。天才じゃなくて優等生って感じかなあ。それじゃあ、俺の頚には届かないよ」

「……」

 

 

 次いで、弦司。

 

 

「君の血鬼術はすごいねえ。俺の血鬼術と扇で、傷一つつけられないなんて。でも、それだけだなあ。単純に弱い。それに、その血鬼術って力を多く消費するんだよね?」

「……っ」

「もっと人を喰ってたら力も増して、俺に届いてたかもしれないのにねえ……」

「……」

「二人ともだんまりかい? つれないなあ」

 

 

 『血鬼術・蔓蓮華(つるれんげ)

 童磨が再び扇を広げると、周囲に無数の氷の蓮が生まれる。蓮を起点として氷の蔓を伸ばし、カナエ達に襲い掛かる。

 弦司が漆黒へと変わり、カナエの盾となる。弦司を迂回し、襲い掛かる蔓は片っ端からカナエが斬り落とす。

 氷の蔓の猛攻が止まり……カナエはその場を動かない。弦司も動かず、散弾銃に弾を込める。

 ――頚に刃が届かないなら、今、できる事をするだけだ。

 

 

 

 

 ――上弦の鬼、襲来。

 その報はすぐに産屋敷邸へ届けられた。

 風能誠一と謎の女について、時間の取れない宇随天元は追加調査を隠と他の隊士に任せていた。だが、天元に届いた報は『二人を完全に見失った』。嫌な予感がした天元は、警戒態勢を敷いた。その一環として、蝶屋敷への緊急連絡態勢を整えていたのだ。何かあれば、蝶屋敷に連絡を入れる。その連絡網が予定とは逆に使われ、蝶屋敷の危機を即座に伝達する事になった。

 蝶屋敷への襲撃さえ予想外だったのだ、当然ながら上弦の鬼が現れるなど予想もしていない。即座に救援を呼んだものの、上弦の鬼に対抗できる者は柱のみ。すぐに招集できるはずもなく、救援は完全に後手に回っていた。

 そうして、ようやく呼び寄せた柱は一人のみ。

 ――水柱・冨岡義勇。

 百年以上、欠けた事のない十二鬼月の上弦。対応するには、最低でも二人以上の柱が必要だとの予想が立てられている。本来であれば、もう一人柱が集まるまで戦闘は避けねばならない。しかし、冨岡義勇は救援の依頼を受けるなり、蝶屋敷へと向かっていた。

 蝶屋敷には隊士だけがいるのではない。非戦闘員もいる。鬼殺隊ならば、彼女達を見捨てるような選択肢は有り得ない。

 ――何より、心を閉ざした少女がいる。

 栗花落カナヲ。駆けながら、義勇の脳裏に思い浮かぶのはあの日のカナヲの微笑み。次いで、しのぶの、カナエの……弦司の笑顔だ。

 今、彼らの笑顔が失われようとしている。義勇が守ろうとした笑顔と彼らの居場所が、無くなろうとしている。

 いつだってこうだ。守りたいと思ったものが、いつの間にか指の先からすり抜けていく。姉の蔦子や友の錆兎のように。あの時と同じ思いは、もう嫌だった。

 義勇は懸命に走る。持てる力を使って駆け抜ける。

 ――夜明けはまだ来ない。

 

 

 

 

 『血鬼術・(ふゆ)ざれ氷柱(つらら)

 滞空する無数の巨大な氷柱。童磨が扇を振るうと、密集してカナエ達に向けて飛ぶ。

 カナエと弦司、揃って横跳びで氷柱を避ける。それでも当たりそうなものは、漆黒になった弦司が片端から弾く。弾かれた、もしくは外れた氷柱は、庭や蝶屋敷に突き刺さる。

 ――ここで姉妹喧嘩をした事もあった。

 ――あの縁側でみんなと一緒に月を見た事もあった。

 ――台所はカナエが弦司のために増築してくれた。

 思い出が次々と壊されていく。みんなで築き上げたものが、崩れ去っていく。鬼が、全てを破壊していく。それでも、カナエと弦司は懸命に踏ん張っていた。

 勝機が見えないカナエと弦司は、方針を転換した。頚が斬れないなら、守るべき少女達をまずは逃がす。とにかく、時間稼ぎに徹する事にした。

 

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」

「キツい……!」

 

 

 しかし、それも容易ではない。()()()()の攻防を終え、カナエは何とか血鬼術こそ吸ってはいないが、全身細かな傷だらけですでに息が荒れ始めていた。弦司も消耗し、僅かに口元から涎が零れ始めている――とはいえ、弦司には対策がある。

 腰の袋から茶色い丸い物を複数個、掴み取る。これは俗に言う『兵糧丸』だった。ただし、しのぶお手製の。

 元々は圧迫する弦司の食費対策に作成された物だった。各種栄養が凝縮された兵糧丸は、大人であれば数個で満腹となる。食料により力を補給する弦司にとって、戦闘中の補給に最適な食べ物だった。

 弦司は兵糧丸を口に放り込み、飲み込む。それだけで、弦司の飢餓は止まった。また、血鬼術が使える。

 童磨が眉根を下げて、残念そうにする。

 

 

「えーっ。またそれ? 君もカナエちゃんも粘るなあ。もう時間稼ぎ止めない?」

 

 

 当初こそ、童磨も律儀に時間稼ぎに付き合っていた。

 童磨の血鬼術を弦司が防ぐ。隊士の天敵とも言える血鬼術を防ぐからこそ、現状の均衡を保てているのだ。ただし、弦司の力は長くは使えない。弦司が力尽きれば、カナエも遠からず崩れる。ならば、弦司が力尽きた所で二人を確実に仕留める……童磨はそのように判断したようだった。だが、兵糧丸による予想外の粘りで、今も戦闘が続いていた。

 ――それも終わりが近づいていた。

 童磨の纏う空気が変わる。

 

 

「うーん……もう少し付き合ってあげたいんだけど、今回ばかりは遊び過ぎると叱られるからなぁ。あの娘達も喰べてあげたいし、どんどん行くよ」

 

 

 『血鬼術・寒烈(かんれつ)白姫(しらひめ)

 無数にある蓮の二つに、美麗な女性の氷像が咲く。閉ざされた瞼でカナエ達を向くと、小さな口から吐息を漏らす。しかし、その可憐な仕草からは想像できないほどの凍気が広範囲に撒き散らされる。触れた先から、凍りついていく。カナエが触れれば凍死、弦司が触れても身動きは取れなくなるだろう。

 『宿世招喚――化生』

 弦司は右腕を突き出し、血鬼術を発動させる。瞬く間に、腕が先端から短くなると直角に薄く長い楕円形の巨大な()()が四枚生える。詰まるところ、弦司は腕を巨大な扇風機に変化させていた。当然、機能も再現できるように、腕の内側も変化している。

 羽根が回る。突風が生み出され、童磨の血鬼術が押し返される。冷気がそのまま、童磨へと向かう。

 さすがの童磨も、これには驚きに目を見開いた。

 

 

「えっ!? そんなのあり!?」

 

 

 童磨は血鬼術を止めるが、すでに吐いた冷気は元に戻らない。二体の氷像は自身の冷気で凍り付き、背後にいた童磨の脚を巻き込んだ。脚が凍り付き、童磨の動きが拘束される。この機を逃すカナエではない。

 『花の呼吸・陸ノ型 渦桃』

 凍った地面を飛び越え、童磨へ一直線に飛びかかったカナエは、空中で身体を捻らせ強烈な斬撃を頚へ向けて振り下ろす。

 『血鬼術・蓮葉氷(はすはごおり)

 童磨は受ける様に右の扇で氷の蓮を生み出すが、受ける直前で扇は弾かれ蓮は砕け散る。弦司の散弾銃が、扇と蓮を撃ち貫いていた。日輪刀を遮るものがなくなり、頚へと迫る――。

 

 

「うん、いい連携だねえ」

 

 

 しかし、童磨は慌てない。左の扇を()()()()へ振るう。氷漬けになった下半身が砕け散り、童磨の体が沈む。カナエの狙いがズレ、童磨の顔の上半分のみを斬り飛ばした。

 追撃をかけようとするカナエ。だが、先に童磨が扇を振るう。

 『血鬼術・(ふゆ)ざれ氷柱(つらら)

 カナエの上空に、巨大な氷柱が現れる。氷柱で童磨ごと、カナエを貫くつもりだった。

 カナエは慌てて童磨から離れる。先までカナエがいた場所と童磨を、無数の氷柱が貫く。貫かれた童磨は脚を生やすと、ゆっくりと体を起こす。立ち上がった時には、すでに氷柱に貫かれた傷は塞がれ、顔も元に戻っていた

 

 

(やっと傷つけたのに、再生が速すぎる!)

「それじゃあ、これはどうするのかな?」

 

 

 『血鬼術・結晶(けっしょう)御子(みこ)』 

 童磨の手元に氷像が現れる。だが、これは先ほどの精密なものではなく、まるで童磨を小さくし、簡略化・省略化したような姿だった。

 カナエは弦司の傍まで下がり、警戒する。小さな氷像……御子が童磨の生き写しのように扇を振るう。

 『血鬼術・散り蓮華(れんげ)

 

 

「はぁっ!?」

「分かってはいたけど、こんなの反則……っ!」

 

 

 御子は童磨と同じ血鬼術を放っていた。それも童磨本人と、ほぼ同威力。

 弦司は硬質化した体で、カナエは斬撃で広範囲に飛び散る氷の花弁を斬り落とす。単体ならどうにかなるが、もしも童磨と同時に放たれでもすれば――。

 だが、カナエ達の予想超えて事態は悪化する。

 

 

「どんどん行くよー」

 

 

 御子がさらに作られる。一体、二体、三体と。

 一体でも厳しいにも関わらず、三体目まで作られた。

 

 

「弦司さん!」

「っ、ああ!!」

 

 

 カナエが悲痛な叫び声を上げる。

 最早、時間稼ぎなどしていられない。力配分を止めて、童磨の頚を斬る。それ以外、カナエ達が切り抜けられる方法はない。

 弦司が腰の袋に手を突っ込む。童磨は体で人を喰った。弦司も同じように、全ての兵糧丸を掌で喰った。

 食べた分だけ、血鬼術を使う力となる。こうなれば、()()()も使用可能だ。ただし、弦司の継戦能力は無きに等しくなる。一気に決着をつける以外の選択肢がなくなる。

 『宿世招喚――化生・駆動銃士』

 弦司が散弾銃を背負い直すと、両腕が変化する。小銃というには長い銃身と大きい口径。『対物ライフル』などと呼称される、大口径の狙撃銃に変わる。ただし、銃把や引金。安全装置などと言った、人間のための機構は完全に排除している。邪魔な機構を排除する事で、『化生』の負担を減らしているのだ。それでも、力の消費量は『鋼』の比ではないが。

 弦司の両腕は銃となり、漆黒の肉体である事も相まって、さながら機械の銃兵となる。そして、この銃は飾りではない。

 弦司は両腕の銃口を御子達に向けると、轟音が鳴った。上弦の鬼でも目で捉えられない速度で、弾丸となった肉片が二つ。二体の御子の頭を弾け飛ばした。御子が氷の粒子となって、消えていく。

 

 

「あっはは! そうか、人間の道具に体を変化させられるんだね! 君の血鬼術って、本当に滅茶苦茶だなぁ」

 

 

 童磨は弾けた御子を見て、大笑いしながら弦司へと迫る。さすがの童磨も、弦司を遠距離に置くのは危険だと判断したのだろう。ただし、自身の方に銃口が向かない様に、一方で御子を作り、彼らをカナエに向かわせる。

 ――しかし、その判断こそがカナエ達の望んていたもの。

 今度は弦司の両肩と腰が変化する。合わせて四丁、『対物ライフル』が生えていた。

 『化生』は体を変化させるだけではない。生み出す事もできる。()()()()()()()()……そういう童磨の先入観を突いたのであった。

 とはいえ、分離は変化より力の消耗が激しい。たった一回きりの、まさに『切り札』だった。

 二つの銃身が御子、四つの銃身が童磨を向く。童磨が初めてぎょっとした。

 

 

「あっ、これはちょっとまず――」

 

 

 六つの発砲音が重なる。同時、御子が二体と、童磨の手足が吹き飛んだ。カナエの間合いで、童磨が四肢を失った。

 ――この戦いにおいて唯一無二の好機だった。

 カナエが手に、脚に力を込める。この一撃に、今までと、そしてこれからの。全ての想いと力を乗せる。

 再生する暇は与えない。一撃で、全てを決める。

 

 

 花の呼吸・捌ノ型 日影菘(ひかげすずな)

 

 

 花の呼吸に捌ノ型は存在しない。カナエが編み出した、新しい型だった。全力の踏み込みからの、肉体全てを使った一撃。光と見紛うほどの一閃である。

 

 

「あああああああっ!!」

 

 

 カナエは咆哮と共に踏み込む。地を割り高速で童磨に肉薄し、脚を、腰を、胴を、肩を、腕を、指先を、体の細胞一つ一つを連動させ捻らせる。その結実、日輪刀は一筋の光となり童磨の頚へ迫った。

 カナエが生涯を賭けて放った、最高の一撃。これが効かなければ、カナエに為す術はない。

 最速の一撃が迫る中、童磨は――笑顔を崩さなかった。

 

 

 『血鬼術・霧氷・睡蓮菩薩』

 

 

 日輪刀を遮ったのは、一体の氷の菩薩。しかし、大きさは今までの比ではない。蝶屋敷を遥かに超えており、横幅も厚みも高さに準じて広くぶ厚い。

 カナエの最高の一撃は、巨大な胴を半ばまで断ち切ってみせた。だが、それだけだった。

 菩薩が腕を振り下ろす。巨体に似合わずその動きは速い。カナエは攻撃後の硬直を無理やり解いて、ギリギリの所で避けた。弦司は反射的に菩薩を射撃していた。六発全て命中したが、あの巨体では効果はない。弦司は完全に避けるのが遅れてしまい、巨大な掌に叩き潰された。

 

 

「がっ――!!」

「弦――」

「よそ見はいけないよ」

 

 

 避けた先に童磨はいた。巨大な菩薩は、今までの比ではなく冷気を放っている。呼吸をする間がない。それに、日影菘から無理やり避けたため、体が上手く動かない。

 

 

(いや――っ)

 

 

 回避が間に合わず、カナエの右腕は斬り飛ばされた。日輪刀を掴んだ腕ごと、どこかへ飛んでいく。

 もうカナエに抵抗する術はない。それでも、童磨は笑顔で扇を振るう。

 恐怖している暇はない。冷気で肺胞が壊死するのを無視して、体を動かすために呼吸をした。遮二無二、童磨の攻撃を避けた。

 三歩下がる間に、胸を真一文字に斬り裂かれた。

 二歩下がった所で、右わき腹の肋骨が、断ち切られた。

 一歩下がり、首に扇が迫る。首輪が身代わりとなり薄皮一枚で助かった。

 

 

(もう、ダメ――)

 

 

 だが、もうカナエは動けない。胸が痛くて、呼吸もできない。視界も朧気だ。このまま、童磨の手に掛かって殺される。

 

 

「もう諦めなよ。中途半端に斬られて苦しいだろう? 大丈夫、今すぐスパッと首を――」

「ああああああああああっ!!」

 

 

 寸前、弦司が咆哮と共に最後の力を振り絞って血鬼術を発動させる。

 『宿世招喚――化生・畏鷲(いじょう)

 無数の棘を、周囲に向けて生やす血鬼術だった。ただし、棘の素材は『鋼』。全てを防ぐ金属は、全てを撃ち貫く槍となる。

 弦司が蝶屋敷を超える程の、高く長い棘を全方向に生やす。棘は菩薩を飲み込み、粉々に破壊した。そして、ついでとばかりに、童磨の全身を刺し貫く。

 

 

「カナエっ!!」

 

 

 弦司は術を解除すると、崩れ落ちそうになるカナエを、童磨が再生する前に回収した。

 童磨から離れた場所に、弦司はカナエをそっと横たえる。

 

 

「弦司、さん……」

 

 

 カナエの視界に、弦司が広がる。彼はボロボロで血塗れだった。畏鷲で隊服が吹き飛んだのか、裸になった体の至る所は赤く腫れあがっていた。全身、数えきれないほど骨折しているのがよく見て取れた。鬼であるにも関わらず、傷が治ろうとしない。力を使い果たした証左だった。

 弦司はただただ瞳に涙を溜めて、顔を歪める。悲しくとも腹は減るのか、涎が絶えず垂れてカナエの顔にかかる。飢餓で苦しいのだろう。それでも瞳には優しい眼差ししか感じない。カナエはそんな彼がたまらなく愛おしい。

 

 

「カナ、エ……! い、今、助け――」

「うう、ん……もう、間に合わ、ない……」

 

 

 カナエがせき込むと、大量の血が吐き出る。腕を斬り落とされ、肺も斬られ、きっと内臓も酷く傷つけられている。どうやっても、カナエは助からない。

 

 

 ――カナエと弦司は負けた。

 

 

 事実が重く圧し掛かる。

 後はカナエが喰われて、弦司は鬼舞辻無惨に連れていかれ、殺されるだけである。幸いなのは、しのぶ達の逃げられる可能性を、僅かでも上げた事ぐらいだろう。

 きっと今は最期の逢瀬だ。

 

 

「くち……ちょう、だい……」

 

 

 カナエは逃げてとは言わなかった。生きてとも言わなかった。全身駆け巡る激痛を耐えて、ただ弦司を求めた。

 もう二人で幸せに過ごす事は叶わない。ならば、愛する人をもう一度、この体で感じたかった。

 弦司が顔を寄せる。カナエは残った左腕で弦司にしがみつくと、彼の唇を奪った。貪るように彼の唇に、自身の唇を這わせた。

 

 

「んぅっ……」

 

 

 お互い血を吐いたせいか、血の味しかしなかった。だが、それもまた愛おしい。これは二人が戦った証なのだから。

 カナエは舌を弦司の口へ入れこむと、必死になって彼の血と唾液を飲み込んだ。己は彼の物だと示すため、少しでも彼で体を満たしたかった。

 カナエは何度も咳き込み、血を吐き出す。カナエは自身の血を弦司に押し流した。今度は彼が己の物だと示すため、少しでも己の物を彼に送り込む。弦司は逆らわず、飲み込んでくれた。

 体の芯に火が灯った様に熱くなる。不思議なもので、彼と繋がっているだけで痛みは吹き飛んだ。

 だが、こんな時間は長くは続かなかった。カナエはすぐに力が入らなくなる。血を流し過ぎたのだろう。カナエの唇が、弦司の唇から離れる。

 一筋の赤い糸が伸びて、最期の繋がりは途切れた。

 

 

「あーあ。頑張ったねって褒めたかったのに、残念だなぁ」

 

 

 その声が、カナエ達に冷や水を浴びせる。全身の再生を終えた童磨が、憎たらしい微笑みを添えて、ゆっくりとカナエ達へと歩み寄ってくる。

 

 

「俺、感動したんだよ? 憎い鬼と組んでまで、無駄だって分かっているのに、最後まで戦う愚かしさ。これが人間の儚さと素晴らしさなんだ、って。それに、あの血鬼術を使わせた柱って数が少ないんだ。君は俺が喰べるに相応しい……そう思っていたのに」

 

 

 童磨の視線は地面に落ちた黒い帯に注がれる。次いで、陥没した地面に落ちた、同じような黒い帯。カナエと弦司の首輪だった。

 

 

「君達って最初から壊れていたんだねえ。これ何? お揃いの首輪? 頭大丈夫? 鬼と一緒に居る柱だから、狂ってて当たり前かあ」

 

 

 アハハと声を上げて童磨が笑う。

 あの調子なら、すぐに喰われる事はない。弦司に一言、別れを言う時間はある。

 カナエは束の間考え、簡単に伝えた。

 

 

「愛してる――待ってるから、早く来て」

 

 

 どうとでも取れる言葉を添えた。勝つのを信じて待っているのか。それとも、天国で待っているから、早く来て欲しいのか。彼の生を願えない、かといって我が儘にもなり切れない。慈愛と独占欲に揺れる、カナエの半端な想いだった。

 弦司はそれを受け取ると、大粒の涙と涎を流しながら微笑む。

 

 

「俺も愛してるから――少しだけ、待っててくれ」

 

 

 弦司がカナエを離す。温もりが離れていく。

 弦司が童磨と対峙する。彼はカナエが手に届く範囲にいる限り、絶対に離さないと言ってくれた。カナエが生きている限り、カナエのために命を燃やしてくれるのだろう。

 彼の背中が嬉しかった。その背中が頼もしくて……悲しそうに見えた。

 童磨は弦司を嘲笑する。

 

 

「君は本当に馬鹿だなあ。柱を喰べていれば、生き残れるかもしれないのに。それに美味しそうなんだろ? 最後の晩餐って事で待っててあげるから、喰べてごらん」

「お前には一生分からないよ、糞野郎」

 

 

 童磨は溜息を吐く。

 勝負は一瞬で終わった。血鬼術の使えない弦司など、十二鬼月の足元にも及ばない。四肢を斬り落とされ、文字通り達磨にされた弦司が地面に転がされる。

 

 

「君は後で回収するから待ってて」

「カナエ! やめろ、彼女は、俺の物だ!!」

 

 

 手足を失った弦司が叫ぶが、童磨は止まらない。すぐにカナエの傍に童磨が立つと、顔を覗き込む。何の色もない、気持ち悪いただの笑顔が、カナエの前に広がる。童磨は目を細め、口を大きく歪ませ扇を掲げる。

 

 

「君は俺が喰べるに相応しいとは言えないけど、ちゃんと骨も残さず喰べてあげるよ。最後に何か言い残す事はない?」

「あなたの、中で、私は永遠に生きられる、のですか……?」

「! 君も俺の『善行』を理解してくれたのかい? そうだよ、俺に『救済』された人は、俺の中で永遠を共に生き続け、高みへと昇り続けるんだ」

「ふ、ふふ……」

「? 何?」

 

 

 カナエが忍び笑う。黒く薄暗い笑みだった。

 

 

「今、私の中は、弦司さんの(もの)で、満たされています……」

「……」

「私を喰えば、私は弦司さんと、あなたの中で、永遠を生き続けられる……」

「…………気持ち悪い」

 

 

 童磨は無表情になると、扇を振るった。カナエの胴が真横に斬り離され、二つに別れる。

 弦司の絶叫が響き渡る。カナエは一際大きく血を吐き出すと、体から力が抜けていく。

 カナエは動かない。目を瞬かない。

 この時、この瞬間――花柱・胡蝶カナエは死んだ。

 

 

 

 

 今日はいい夜だと思った。

 裏切り者を追い込み、優れた肉体を持った柱を喰べる事ができる。

 だが、蓋を開けてみれば鬼と柱は予想以上に粘り、喰べるに相応しいと思っていた女はイカレていた。普段を思えば、確かに充実していたが、童磨は肩透かしを受けた気分だった。しかしながら、まだ女はいる。特に、逃げた少女の中に、柱と肉質が似た者がいた。おそらく、柱の血縁だろう。彼女こそが、喰べるに相応しいかもしれない。

 次に思いを馳せる童磨。とはいえ、その前にまずは柱である。

 真っ二つに斬られた柱。死ぬ直前、本当にイカレた事を言っていた。

 ――自分の中に鬼の一部があるから、今、喰われれば一生、童磨の中で生き続けられる。

 あの言葉を訳すと、そういう意味だ。あまりにも気持ち悪くて、つい胴から真っ二つにした。こうやって、腹から血抜きをすれば、少しはマシになるだろうとの判断だった。

 

 

「貴様……童磨……!」

 

 

 童磨の背後から、怨嗟の声を鬼が上げる。童磨は思わず振り返って、彼に歩み寄る。手足を失い芋虫のように地べたを這いずり、憤怒で涙する彼に、身を屈めて優しく声を掛ける。

 

 

「大丈夫だよ。気持ち悪くても、ちゃんと『救済』してあげるから」

「許さん……! 貴様の命を、存在を、この世から跡形もなく、消し去ってやる……! 生まれてきた事を、必ず後悔させてやる……!」

 

 

 童磨は困ったように眉尻を下げた。ちゃんと別れも言わせて『救済』も約束したのに、憎悪ばかりを童磨へ向けてくる。

 

 

「あっ、もしかして君も『救済』して欲しいの? ごめんごめん、そればかりはあのお方の命令でできないんだぁ」

 

 

 童磨は謝るが、鬼は益々憎悪で睨み付けてくる。馬鹿だなと思う。もうすぐ死ぬのに。もう助からないのに。無駄な労力を重ねる。きっと馬鹿だからだろう。

 馬鹿の相手ほど無駄なものはない。童磨は早く柱を喰べたいと思うものの、まだ血抜きは済んでいない。とはいえ、このまま待っていたら、他の少女達を逃す可能性もある。

 

 

「あっ、そうだ。先にあの娘達を追いかけよう」

 

 

 いい考えだと、童磨は指を鳴らす。

 今から追いかければ、少女達には追いつく。彼女達を喰べている間に、血抜きは済む。それから、じっくりと柱は喰べればいい。柱の体は回収されない様に、結晶(けっしょう)御子(みこ)を置いておけば、迂闊にも救援に来た鬼殺隊も屠れる。

 まさに一挙両得だと童磨が笑うと、這い蹲った鬼は表情を固まらせる。どうやら、彼も童磨の案が効果的だと分かったらしい。

 とはいえ、万が一にも裏切り者に逃げられると面倒だ。彼だけは一緒に連れていこうと、頭を掴もうとし――視界が暗転した。

 童磨の感覚が訴えかける。

 

 

 ――今、誰かが童磨の頭を弾き飛ばした。

 

 

 鬼は達磨だ。柱も死んだ。ならば、それ以外の第三者。

 聡明な童磨でも誰の手によるものか分からなかった。とはいえ、そんなもの見ればすぐに分かる。童磨は瞬時に顔を再生させる。

 その犯人を見て、童磨は驚愕した。



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最終話 胡蝶家の鬼

いつも誤字脱字報告、ありがとうございます。


 しのぶは懸命に駆けていた。

 姉と弦司が命賭けで作ってくれた時間。家族を守るために、小さな体で二人の少女を担ぎ、走り続ける。

 しかし、それも限界が近づいていた。血鬼術による負傷に加え、元々筋力もない。二人の少女を担ぎながらの疾走は、しのぶには負担が大きすぎた。もう走るだけで苦痛が伴う。

 だが、それは隣を走るアオイも同じだ。いや、しのぶ以上に苦しいはずだ。しのぶより傷は深く、同じように二人の少女を抱えているのだ。すでにアオイの意識はほとんど飛んでいる。それでも最善を尽くすという誓いのみで、ここまで走り続けていた。いつ力尽きてもおかしくない。

 ――家族を守るためなら、何でもいい。誰か早く来て。

 

 

「胡蝶!」

 

 

 そんなしのぶの願いが通じたのか。

 真ん中を境に左右で色合いの違う羽織を着た、不愛想な男。水柱・冨岡義勇がしのぶ達と合流した。

 義勇を見て安心したのだろうか。しのぶとアオイは急に脚に力が入らなくなり、倒れ込んだ。

 倒れ込んだしのぶに、義勇が駆け寄る。

 

 

「冨岡さん……」

「喋るな! 状況は伝わっている! 今は治療に専念しろ!」

「私はいいから。アオイとカナヲを優先して」

 

 

 しのぶの体は小さい。その上、決して軽傷とは言えない傷を負っている。ここまで二人の少女を担ぎながら走るのは、並の労力ではない。しのぶは自身でも、治療が必要な事は分かる。

 だが、それ以上にアオイとカナヲこそ予断を許さなかった。

 アオイはしのぶよりも重傷だ。それでも体に鞭打って、二人の少女を担いでここまで来た。

 カナヲは隊服を着ていないため、多くの傷を負っていた。負傷の度合いで言えばアオイと大差はないが、体のできてないカナヲにとって、この傷は大きすぎる。

 二人ともすぐにでも治療が必要だった。

 きよ、すみ、なほの三人は奇跡的に無傷だ。彼女達に手伝わせ、義勇に応急処置をさせる。思ったよりも手際のいい手当で、アオイとカナヲは最悪の事態には至らずに済んだ。

 静かに横たわる二人を見て、しのぶはホッと息を吐いてから、今度は自身の治療をする。

 一方、義勇は蝶屋敷の方角を向いて、立ち上がる。

 

 

「ここで待っていろ」

「っ! ダメっ!!」

 

 

 しのぶが治療をする手を止め、義勇の袖を引く。

 

 

「あれには……上弦の弐・童磨には勝てない! 今行ったって犬死よ!」

「関係ない。それにお前の姉が――」

「もう、無理よ……!」

 

 

 口に出して、姉の死を想像してしまう。

 しのぶに残された唯一の家族。誰にでも優しくて、しのぶの憧れだった。もうあの笑顔も、声も、温もりも失ってしまう。

 しのぶは顔をクシャクシャにして、大粒の涙を流した。

 

 

「何でよ……! 守りたいって思ったもの、全部すぐに壊れて……!」

 

 

 思い出すのは、直前の誓い。今度は、私が姉の幸せを守る。そうやって啖呵をきったのにも関わらず、この有様だ。

 姉は救えず、他の娘も傷だらけだ。

 

 

「受け継ぐって決めたのに……! 環さんも、姉さんも、私、何で守れないのっ!!」

「……胡蝶」

 

 

 環の時もそうだった。救いたいと願ったものが、端から全て壊されていく。

 このまま冨岡を行かせたら、彼も帰ってこない。上弦の鬼とは、それだけ恐ろしい存在だ。もう目の前で親しい人がいなくなっていくのは嫌だった。

 

 

「もう守れないのは嫌……! お願いだから、私の言う事を聞いてっ……!」

 

 

 しのぶが悲痛に叫ぶと、義勇は止まった。

 僅かに逡巡した後、しのぶに問いただす。

 

 

「どうして無理と判断した?」

「奴の、血鬼術は冷気よ。不破さんが『吸うな』って叫んでいた。多分、冷気が肺胞を壊死、させるんだと思う。上弦の弐は私達隊士の天敵よ」

「……」

「蝶屋敷を覆うような広範囲の血鬼術も使える。きっと、他にも、術は隠しているわ……」

 

 

 言っててしのぶは涙が出てくる。こんなの反則だ。どうやったら勝てるというのだ。

 カナエは死ぬ。そして、弦司も――。

 しのぶはもう涙が止まらなかった。嗚咽を上げるしのぶを、義勇はしばらく見つめていた。

 そして、突如として義勇は日輪刀に手を掛ける。

 

 

「逃げろ」

「えっ」

「鬼が二体近づいてきている」

「う、うそ……」

 

 

 義勇に言われ気配を探ると、確かに鬼が二体近づいている感覚がある。

 蝶屋敷にいた鬼は二体。弦司と……童磨だ。

 弦司とカナエが離れるはずがない。これの意味する所を想像し、しのぶは顔色を失う。もう大切な人はいないのだと、絶望に沈む。

 そんなしのぶに、義勇は鋭く声を上げる。

 

 

「早くしろ」

「っ、冨岡さんは!?」

「お前には関係ない」

「でも――」

「日輪刀もないお前に何ができる!!」

「っ!」

 

 

 一喝されて、しのぶは悲痛な表情で立ち上がる。全部義勇の言う通りだった。ここで言い争う事に、何も意味はない。せめて、カナエと弦司が守りたかった少女達を、しのぶが守り切る。それだけしか、今のしのぶにはできない。

 しのぶはアオイとカナヲを担ぎ上げる。きよ達三人を担ぐ余裕はない。後は自身の脚で走ってもらうしかない。

 

 

「冨岡さん……」

「……」

「絶対、追いついて下さいね」

「……」

 

 

 義勇は返事をしなかった。

 しのぶは涙を拭う。何度拭っても、涙は止まらない。

 どうしてこうなったのだろうか。涙を流しながら、しのぶは再び足に力を込めた。

 

 

 

 

「ごめんなさい、弦司さん」

 

 

 ――その声を聞いた時、誰もが耳を疑った。

 

 

「えっ、どういう事……?」

 

 

 あの童磨でさえも、目の前の現実を見て、信じられず呆けた。

 大日本帝国陸軍を思わす黒い詰襟。ただし詰襟の腰から下は斬り落とされており、腹部の綺麗で青白い肌が良く見える。

 目を引く容姿はやや垂れた大きな双眸は可愛らしく、艶やかな唇には色香が漂うが血で汚れている。さらには思わず手を伸ばしたくなるような、腰まで伸びた翠の黒髪。

 ――胡蝶カナエ。

 五体満足のカナエが、手足を失った弦司を抱えて立っていた。

 抱えられた弦司が、震えた声で問う。

 

 

「カナエ……本当に、カナエ、なのか……?」

「はい。あなたのカナエです」

 

 

 微笑むカナエを見て、誰もが気づく。

 上がった口角。僅かに覗く犬歯が牙のように尖っていたのだ。加えて、瞳は赤く煌いている。

 確かに花柱・胡蝶カナエは死んだ。

 だが、ここにいるのは――()・胡蝶カナエ。

 胡蝶カナエは鬼となった。

 

 

 

 

 気づけばカナエは、綺麗な川の畔に立っていた。地面に咲き誇るのは彼岸花。

 カナエは自身が死んだのだと理解した。その証拠に、川の向かいには愛する父と母がいる。つまり、この川はあの有名な三途の川なのだろう。

 カナエは川の向かいの両親に手を振る。

 

「父さん! 母さん! ちょっと待ってて! 私、好きな人ができたの! 彼ももうすぐ来るから、来たら一緒に行くね!」

「カナエ。来てはいけません」

 

 

 笑顔で手を振るカナエに、父は厳しい声で応じた。

 カナエは納得できなかった。もう己は死んだ。彼らと同じように死んだのだ。もうしのぶとはいられない。ならばせめて、愛する両親の元にいたい。こんなに頑張ったのに、そんな事さえも許されないのか。

 カナエは笑顔を引っ込め、声を荒げる。

 

 

「何で!? 私、頑張ったよ! たくさん人も救ったし、しのぶ達だって助けた! なのに、何で頑張ったって褒めてくれないの!? 何でそっちに行ってはいけないの!?」

「あなたには、まだやる事があるでしょ?」

 

 

 今度は母が優しく諭すように言う。カナエは意味が分からなかった。

 

 

「やる事って何!? もう私、腕もないし、呼吸もできないし、体だって半分にされたのよ!? きっと、今頃喰われているし……一体、私に何ができるの!?」

 

 

 カナエは童磨に殺された。彼らがどんなに願おうと、それは変わらない。もう生は帰ってこない。失った命は回帰しない。

 だから、受け入れて欲しい。なのに、愛する両親は決してカナエを、あちらに来させようとしない。

 己は死んでも、幸せになってはいけないのか。それが悲しくて悔しくて、涙が出てきた。

 涙を流すカナエに、両親は優しい微笑みを投げかける。

 

 

「どんなになっても、カナエは私達の娘だよ」

「だから幸せになるために、もう少し頑張って」

 

 

 今一つ、両親の言葉は要領を得なかった。だが、その声には確かに、カナエに対する親愛が込められていた。

 涙の意味が変わる。死んでもなお、カナエを愛してくれている。幸せを願ってくれている。

 何ができるか分からない。何もできずに、またここに戻ってくるかもしれない。でも、愛する両親がカナエのために、くれた言葉だ。もう少しだけ頑張ってみよう。

 

 

 ――そう思っていた時には、視界は変わっていた。

 

 

 視界に広がるのは、星がきらめく夜空。死んだ時に見た景色と変わらない。だが、体は明確に変わっていた。

 腕もある。胴も繋がっている。体のどこも痛くない。その上、力が有り得ないほど湧いてくる。

 事態に頭が追い付かず、呆然と体を起こす。近くには、手足を失った弦司の傍に童磨がいた。弦司を連れ去ろうとしている童磨が、カナエに自身のやるべきことを思い出させる。

 カナエは童磨の頭を吹き飛ばし、弦司を救出した。

 

 

「カナエ……本当に、カナエ、なのか……?」

「はい。あなたのカナエです」

 

 

 事態が理解できていない弦司に、カナエは優しく微笑みかけた。

 ――弦司を抱えた時、カナエの鬼としての本能、とでも言うべきか。何が起きたか、おおよそを察した。

 人が鬼になるには、鬼舞辻無惨の血を摂取する必要がある。

 童磨に殺される間際、カナエは弦司に口づけをした。その際、カナエは意図せずして弦司の血液を大量に飲んだ。その血を切っ掛けとして、カナエは鬼となった。

 ならば、弦司の血を飲めば誰もが鬼になるのかと問われれば、そうではない。

 ――血鬼術・宿世招喚

 弦司の血鬼術の肝は『前世』などではない。『変化』させる事だ。ただし、その対象は()()()()()()()()

 そもそも、弦司がなぜ『変化』が好きなのか。彼は満足できないから『変化』に充足を見出したと言っていた。だが、カナエはそれだけではない事に気づいた。

 結局の所、彼が真に望む『変化』は自身の望むように『変化』する事なのだ。自身の理想へと成る事なのだ。

 考えてみれば、当たり前だ。目の前の物が劣化する場合と、改良される場合。どちらの『変化』が良いか。後者に決まっている。弦司も心の奥底では、同じ事を考えていたのだ。

 そして、弦司はいくつもの死と別れを体験した。潜在意識でこう望んでいたのではないか。『みんな鬼だったらこうはならなかったのに』と。

 ――そうして、カナエは弦司の『血』と『血鬼術』をもって、鬼へと『変化』させられた。

 弦司がカナエの血を飲んだ事で、僅かに力が戻った事も、関係しているのかもしれない。

 そして、カナエが鬼へと変えられた証拠とでもいうべきか。カナエと弦司の間を繋ぐ『力』のようなモノを、カナエは感じていた。これがある限り、カナエは『命』も『体』も『心』も、全て弦司の物なのだろう。もしかしたら、『命』も『体』も『心』も捧げた狂おしいほどの情愛があったからこそ、『変化』できた可能性もある。

 

 

(生き残れたけど……)

 

 

 カナエは複雑な思いで、自身の手の甲を見る。傷一つない、綺麗すぎる程、青白い肌があった。

 確かに生き残れた。ただし、カナエの中にあるのは歓喜だけではない。寂寥感も同じだけある。

 弦司を人に戻すと誓った。そんな己が、人ではなく鬼へとなる。妹が恨んで止まない、己が哀れと思う存在へとなる。

 きっとこれから先、カナエは何度も苦しむだろう。それこそ、今まで目の当たりにした弦司と同じように、苦しみ喘ぐだろう。だが、その良し悪しは今は脇へと置いておく。何においても童磨だ。あれを滅さない限り、カナエと弦司に平和は訪れない。両親が死んでも望んでくれた、カナエの幸せは来ない。

 ――ならば、カナエのやる事は一つだ。

 

 

「弦司さん、少し待ってて。今、悪い鬼は私が退治します」

 

 

 弦司を横たえると、カナエは童磨と向かい合う。

 童磨は冷や汗をかいて、呆然とカナエを見ていた。

 

 

「本当にカナエちゃんなの? それにその目に牙って……鬼になったって事? この短時間で?」

「そんな事、どうでもいいじゃないですか」

「えっ」

「あなたは私達を襲い、幸福を壊した。弦司さんを悲しませた」

「う、うん。それで?」

「『救済』してあげますね」

 

 

 カナエはニッコリと笑顔を咲かせると、同時に姿が掻き消える。そして、童磨の胸をカナエの右腕が穿ち抜いた。

 

 

「っ! 速――」

「どんどんいきますよ」

 

 

 腕を抜くと同時に、今度は左腕が童磨の顔面を襲う。扇で受けるが、鬼となった膂力に加え、全身をバネの様に使ったカナエの一撃は重い。扇を打ち抜き、カナエの拳は童磨の顎を弾き飛ばした。

 お返しとばかりに童磨も扇を振るうが、最小限の動きで躱される。合間にカナエの蹴りが、童磨の右膝を砕いた。

 童磨が膝をつく。すでに顔と胸は再生しているが、丁度いいとばかりに顔を再びカナエの膝蹴りが吹き飛ばす。

 ――戦いは一方的なものになっていた。

 それもそのはず。鬼となったカナエに、呼吸は関係ない。童磨の撒き散らす、粉凍りに効果はない。

 そもそも、低い身体能力で童磨と打ち合えていたのだ。鬼となり五感も身体能力も上がったカナエが、不利になる道理はない。

 とはいえ、童磨も上弦の弐。身体能力だけで力量差が埋まるほど、彼は弱くない。二人の優劣を決定づけているもの、それは――。

 

 

「っ!?」

「本当に便利ね」

 

 

 跪いた童磨が、扇でカナエの腰を斬り裂こうとするが、高い金属音が鳴るだけで傷をつけられない。

 カナエの体の表面、扇の触れた個所だけ『鋼』がかかっていた。童磨にとって相性の悪い『鋼』がカナエの有利を決定づけていた。

 ――カナエは弦司と同じ血鬼術が使えた。

 これも、カナエと弦司の精神が関係している。確かにカナエは弦司に『変化』させられた。彼に隷属していると言っていい。だが、弦司もまた『命』と『体』と『心』を捧げると誓った。彼もまたカナエに隷属していると言えた。

 この奇妙な関係が、弦司の支配下にいながらも、カナエに弦司の血鬼術を使わせていた……もちろん、カナエも弦司も知っていたから()()なったのではなく、本気である。

 

 

「これはどうです?」

 

 

 カナエは手刀を漆黒化させると、童磨の左腕を斬り飛ばした。

 カナエは攻撃を受けた個所、もしくは攻撃した部分だけ『鋼』を展開していた。最小の力で最大の効果を得る。血鬼術の使い方は弦司よりもカナエの方が上手になっていた。

 

 

「――っ!」

「上弦の弐・童磨? 不利となるとだんまりですか?」

「……」

 

 

 カナエの挑発に、童磨の顔から笑顔が消えた。

 『血鬼術・枯園垂(かれそのしづ)り』

 無表情の童磨が左腕を生やすと、二対の扇による氷と扇の連撃をカナエに加える。

 カナエの対応は簡単だ。攻撃が当たる箇所のみ『鋼』を展開。さらには、童磨の攻撃が『鋼』に当たった機に、カナエが攻撃し返す。

 カナエは傷つかない。だが、童磨は攻撃した回数だけ傷が増える。

 このままではダメだと思ったのだろう、童磨は手管を変える。

 『血鬼術・結晶(けっしょう)ノ――』

 

 

「それはダメ」

 

 

 御子を作成しようとした童磨を、カナエは蹴り飛ばす。氷像は途中で氷を霧散させられ、形にならない。

 血を吐きながら地面を転がる童磨に、この時、カナエは追撃をかけなかった。

 現状はカナエが有利だ。力の消耗も、再生と血鬼術を頻繁に使う童磨の方が激しいだろう。だが、カナエの体は未知数。何が切っ掛けで、再び戦況が傾くか分からない。だからこそ、確実な勝利が欲しい。

 カナエは落ちていた()()()()を拾い、握られている日輪刀を取る。

 ――童磨の頚を落とす。

 それこそが、カナエ達の確実な勝利。

 カナエは鬼となった己の全力を出す。全身を漆黒化したカナエが日輪刀を構えて童磨に肉薄した。

 だが、童磨も上弦の弐。カナエが日輪刀を拾った僅かな時間に、決断を下していた。

 

 

 『血鬼術・霧氷・睡蓮菩薩』

 

 

 遮るは巨大な菩薩。拳をカナエに向けて振り下ろす。

 『花の呼吸・肆ノ型 紅花衣(べにはなごろも)

 カナエの大きな斬撃が、菩薩の拳を迎え撃つ。

 均衡は一瞬。先に耐えきれなくなった菩薩の肘から先が砕け散る。

 

 

 『花の呼吸・捌ノ型 日影菘(ひかげすずな)

 

 

 カナエは透かさず突貫した。地面を割る踏み込みで、菩薩の胴へ襲い掛かると、光速の斬撃を放つ。

 先は半ばまでしか斬れなかった菩薩。しかし、鬼となったカナエの一撃は、見事に菩薩を断ち切った。

 菩薩は形を維持できず、崩れ散っていく。

 飛び散る冷気の中、カナエは童磨に襲い掛かろうとするが、その表情を一転、憤怒へと変える。

 童磨がどこにもいなかった。

 

 

「~~っ!! 逃げられた!!」

 

 

 カナエが歯軋りしながら周囲を感知して探ると、童磨の気配はすでに遠くまで行っていた。一応、しのぶの逃げた方向とは違う。

 童磨は自身の最強の血鬼術を、逃走のためだけに使ったのだ。あそこでその判断ができる鬼が、他にいるのか。強大な敵を逃してしまったと、カナエは後悔の念しか浮かばない。

 

 

「――カナ、エ」

「っ、弦司さん!」

 

 

 愛する人の声が、カナエを怒りから覚まさせる。

 声の方へ駆け寄ると、先ほどカナエが横たえた場所に変わらず弦司はいた。まだ手足は生えてきていない。力が戻っていないのだろう。

 惨いとしかいえない状態の弦司。しかし、彼は苦痛を訴える事はない。ただただ、カナエを再び目にして泣いた。

 

 

「カナエ……カナエッ……!」

「お待たせしました、弦司さん。あなたの、あなただけの、カナエです」

 

 

 カナエは弦司を抱き締めた。ここにある確かな温もりが、カナエに伝わる。

 もう二度と感じる事はないと思っていた。もう二度と手に入るとは思っていなかった。愛する人が、確かにいた。

 カナエも涙が止まらなかった。

 愛する人を抱き締めている。今はそれだけで嬉しかった。

 

 

「弦司さん」

「カナエ」

 

 

 一頻り泣いた後、カナエは弦司を小脇に抱える。

 そして、涙を拭い笑顔で言う。

 

 

「みんなの所へ帰りましょ」

 

 

 

 

 しのぶが駆けだそうとした瞬間。しのぶは自身が狂ったかと思った。

 

 

「しのぶ」

 

 

 脚が思わず止まる。こんなの有り得ない。ならば、これは血鬼術だ。絶対に振り返ってはいけない。アオイをカナヲを、きよを、すみを、なほを守るために、しのぶは駆け続けなければならない。姉との誓いを守るために。

 だが、しのぶは理性に反して振り向いた。これは姉の声だと。唯一残された家族の声だと。自身の感覚が必死に訴えかけていた。

 

 

「しのぶ!」

「姉……さん……」

 

 

 そして、そこにいたのは確かに姉であった。ただし、気配は人のそれではなく……鬼。その証拠に、彼女がいつものように微笑むと、口から牙が覗く。

 しのぶを庇うように立った義勇は、明らかに動揺している。鬼を前にしたというのに、日輪刀を抜いていない。確かに、気配は鬼だ。だが、小脇には弦司を抱えているし、何より弦司の気配と()()()()()()。いや、同じと言ってもいい。

 きよ達はしのぶの羽織の裾を掴んで、固唾をのんで見守る。

 荒れた呼吸が収まらない。しのぶは何度も深呼吸しながら、一先ずアオイとカナヲを静かに下ろした。二人も目を大きく見開いて、カナエを見る。

 姉であって欲しい。だが一方で、姉であってほしくない。そんな矛盾した想いを抱えながら、しのぶは震えた声で尋ねた。

 

 

「本当に、姉さん……なの?」

「うん。姉さん、鬼になっちゃった」

「なっちゃったって、そんな軽く……」

 

 

 声も、雰囲気も、仕草も。全部が全部カナエだった。

 ――だが、鬼である。

 たったそれだけの事が、しのぶに二の足を踏ませる。弦司という良い鬼の見本がいるのに、鬼の姉を簡単に受け入れられない。

 カナエは寂しそうに笑った。

 

 

「そう……これが、弦司さんが感じていた事なのね……」

「! 姉さん、私――」

「ううん。いいの。だけど、これだけは言わせて」

 

 

 カナエはしのぶだけに笑いかけると、一番言いたかった言葉を。しのぶが一番聞きたかった言葉を告げる。

 

 

 ――ただいま。

 

 

「――姉さんっ!!」

 

 

 もう無理だった。鬼だとか、鬼殺隊だとか、どうでも良かった。

 姉が、胡蝶カナエが、生きて帰って来てくれた。もうそれ以上は何もいらなかった。

 しのぶは駆け寄ると、カナエに飛びつくように抱き着いた。カナエは抱きとめようとして、つい弦司を離してしまい――地面に落ちる前に、義勇が受け止める。

 

 

「姉さん! 姉さん!!」

「ごめんね、しのぶ。また心配をかけて」

 

 

 しのぶはカナエの胸で泣いて泣いて泣いた。鼻腔をくすぐる甘い花のような香りに、柔らかさ。失ったと思ったものが、ここにあった。

 声が枯れるまで、涙が止まるまで、しのぶは泣き続けた。

 一方、義勇に受け止められたはずの弦司は、カナヲ達の輪に放り込まれていた。

 

 

「弦司……良かった……」

「弦司さーん!!」

「良かったです!!」

「もうどこにも行っちゃ、やです!!」

「げんじ……兄さん」

 

 

 さすがに傷口は塞がってはいるものの、手足のないボロボロの弦司に全員が縋りつく。生きていて良かったと、誰もが喜ぶ。

 色々なものを失った。

 全員の思い出が詰まった蝶屋敷。カナエの人としての未来。カナエと弦司が紡ごうとしていた、その先も――。

 築き上げるはずだった幸福は薄い硝子の上に乗っていて、あっという間に破壊された。それでも、誰も欠ける事なく生き残った。

 もうあの日々は戻ってこないだろう。きっと今以上に苦しい時は来る。

 それでも、生きていれば、いつか幸せを掴む日は来る。それを信じて、もう一度手を取り合い突き進む。

 ――でも今、この時だけは、目の前の幸せを味わい続けた。 

 

 

 

 

 帝都の裏路地の一角。

 無人の通路に一人の男がいた。白い中折れ帽を被り、黒いジャケットを羽織ったモダンな紳士。

 鬼の首魁である鬼舞辻無惨、その人である。

 佇む彼の後ろに、跪く白橡色の髪に、虹色がかった瞳の男――上弦の弐・童磨。

 

 

「ご報告に参りました」

「報告? 何を報告するつもりだ?」

 

 

 童磨の体に衝撃が走る。皮膚が、肉が、骨が罅割れていく。全身に激痛が走り、血が流れ出す。

 無惨は青筋を立てて、言葉を続ける。

 

 

「私は言ったはずだ。『裏切り者の鬼を連れて来い』と。難しい命令ではないはずだ」

「返す、言葉、も、」

「黙れ、童磨。それどころかまた一匹、余計な鬼を増やしたな。なぜ、余計な真似をした? 裏切り者と異常者の感傷などに付き合わず、すぐに殺していれば増えなかっただろう、この馬鹿者が」

「……」

「童磨……童磨! お前には本当に失望した。こんな簡単な遣いもこなせないとは。『上弦の弐』にはもう期待しない」

「……」

 

 

 無惨はそれだけ言うと、童磨を見向きもせず去って行った。

 童磨の激痛が引く。全身の傷が塞がる。

 

 

「あはは。怒られちゃったなあ」

 

 

 童磨は血塗れで笑う。ただし、それは顔だけだ。声は全くの平坦だった。

 常に成果を収めて、人を『救済』してきた。童磨にとって、ここまでの失敗は初めてだった。ここまで人に貢献してきたのに、一度の失敗でこの仕打ち……自身が可哀想と思う。

 だが、童磨にそれ以上の感情は湧いてこない。胡蝶カナエの言う通り、喜びも悲しみも、当たり前の感情さえ感じていない。

 

 

「胡蝶カナエと不破弦司、か」

 

 

 しかし、自身が敗北する原因となった二体の鬼については、しっかりと覚えた。

 蝶の髪飾りの女の鬼と、変な血鬼術を使う男の鬼。

 自身の血鬼術との相性は最悪だ。このままでは次に会った時も、同じ結末だろう。そうならないように、何か対策が必要だろう。

 その一方で、会わなければそんな面倒な事もしなくても済むと思う。彼らは、はっきり言って頭がイカレている。死ぬ直前に血液を飲むなど、正気の沙汰じゃない。できれば、付き合いたくない。

 

 

「……帰ろうか」

 

 

 色々と思考を巡らしたが、結局は童磨の思考は他人事から変わらなかった。感情は生まれない。

 ――上弦の弐・童磨。彼は敗北し打ちのめされても、何も変化しなかった。

 

 

 

 

 ――上弦の弐の襲来。

 ――花柱の死。

 ――胡蝶カナエの鬼化。

 

 

 全ての情報が舞い込んだ産屋敷邸は、多忙を極めていた。

 一挙に舞い込んだ情報は、ほとんど全て前例のない事態に加え、思わず耳を疑うような情報ばかり。

 とにかく、柱を緊急招集したものの、情報をもたらされた彼らとて、同じ反応を返す事しかできず。

 そもそも、何が正しくて何が間違っているのか。結果、産屋敷邸で開かれた緊急柱合会議は喧々囂々の会議となり、夜通し議論が交わされる事となった。

 会議に必要な証言をした蝶屋敷の面々は、産屋敷邸の一室に通され睡眠をとっていた。

 本来なら怪我人もいるため、医療施設に運ぶのが正しいのだが……それは少女達が全会一致で拒否した。少なくとも、今日一日は絶対に離れないと、全員がカナエと弦司を掴んで離れなかった。

 とはいえ、疲労は全員が頂点に達している。全員が同じ浴衣に着替えて布団を敷くと、すぐに力尽きたように眠った。ただし、カナエと弦司を捕まえたまま、である。

 弦司はきよ、すみ、なほ、カナヲに圧し掛かられていた。全員から、気持ちのいい寝息が聞こえる。

 一方のカナエは、しのぶとアオイにしがみ付かれていた。凛とした二人が甘える姿は珍しく、思わず弦司とカナエの目尻が下がる。

 全員分の布団があるにも関わらず、この状態だ。今日一日、彼女達が目覚めるまで……いや、もしかして目覚めてもこのままだろう。

 

 

「弦司さん」

 

 

 そう思っていた弦司に、カナエがひそひそと声を掛ける。ちなみに、カナエも弦司と同じように、食糧で力を補給できる事が分かった。就寝前に食事を弦司と共に摂っていたので、手足も元通りになり、今は二人そろって力が有り余っている。

 

 

「どうした?」

 

 

 弦司も同じように、声をひそめて返す。

 

 

「二人きりになりたい」

 

 

 カナエの提案に弦司は少し驚いた。優しいカナエの事だ、今日は少女達を思い切り甘やかせ、逢瀬は先の話と思っていた。

 カナエが縋る様に弦司を見る。思えば、ここまで急激な変化があったにも関わらず、カナエは気を張り続けている。カナエは一度も、気を抜けていない。弦司は二人の時間が必要だと判断した。

 弦司が頷くと、少女達を引きはがし布団へと寝かしつける。やはり疲れていたのか、誰も起きる事はなかった。

 静かに部屋を抜け出す。すると、意外な人物が部屋の外にいた。

 神秘的な美しさを持った和装の女性。産屋敷あまね。耀哉の御内儀だ。

 

 

「付いてきて下さい」

 

 

 彼女は綺麗な所作で弦司達を先導する。あまねの考えが読めず、弦司はカナエと目を見合わせるが、カナエも分からないと首を横に振る。

 あまねが良い人だというのは、二人の共通認識。特に危害もないだろうし、何か意図があるかもしれないと思い、とりあえず着いていく事にした。

 辿り着いたのは、普通の和室だった。特に広くもなく、かといって狭くもない。

 ――ただし、部屋の中央には布団が一つと枕が二つ。

 もしやと思った弦司に、あまねは告げる。

 

 

「周囲は人払いを済ませております。子ども達が目覚めましたらお声を掛けますので、どうかそれまで二人でごゆるりと」

「えっ? えっ?」

 

 

 首を傾げるカナエ。理解が追い付ていないようだ。

 弦司は眉間を揉みながら、訊ねる。

 

 

「……つまり、自由に使っていいと?」

「はい。何なら、汚して――」

「分かりましたから! とりあえず、二人きりにさせてください!」

 

 

 あまねは口角を少し上げると、頭を下げて退室した。

 残されるのは、弦司とカナエ。あまねがあんな事も言える人物とは思っておらず、少なからず弦司は動揺する。

 

 

「…………す、座るか」

「はい……」

 

 

 とりあえず、部屋に入って二人して布団の上に座る。カナエもようやく理解が及んだのか、顔を赤く染めてそわそわしだした。

 急に変に意識してしまったせいか、雰囲気もおかしい。というか、そういうために二人きりになった訳ではない。鬼となってしまったカナエを、少しでも受け止めたくて二人きりなったのだ。

 弦司は深呼吸しながら、向き合って座ってみる。

 カナエの顔が良く見える。艶やかな唇に、僅かに覗く牙。思わず触りたくなるような、腰まで伸びた翠の黒髪。いつもの蝶の髪留めではなく、今は七色の簪を差している。そして、やや垂れた赤く大きな双眸は、熱を込めて弦司を見つめる。

 

 

「ん」

 

 

 弦司の手は自然と伸びて、カナエの両手を握った。小さくて柔らくて、タコだらけの手。想いが通じ合った日、ずっと握り合ったあの手と同じだ。それがもう一度、弦司とカナエが生き残った事実を感じさせてくれた。

 

 

「カナエ」

「弦司さん」

 

 

 互いに名前を呼び合うと、カナエが胸に向かって飛び込んできた。優しく受け止め、抱き締め合う。

 浴衣越しに感じるカナエの柔らかさ。温かさ。花のような瑞々しい甘い香り。五感で感じる全てが彼女はここにいると教えてくれる。

 

 

「カナエ……!」

「弦司さん……!」

 

 

 弦司もカナエも涙を流していた。童磨が現れたあの瞬間。もう二度と、愛する人と一緒にいられないのだと、どこか心の底では思っていた。どこかで、もう手に入らないモノと、諦めていた。でも、確かな温もりをもって、今ここに弦司とカナエがいる。二人きりになれて、彼女の生を弦司はようやく実感できた。

 本当に嬉しかった。だが、抱き締めたカナエの体は震えていた。今の弦司には、それが単なる喜びではないと、なぜか分かった。

 弦司は涙を流しながら、カナエの言葉を待った。

 カナエはつっかえながら、弦司に訴えかける。

 

 

「弦司、さん、ごめんなさい……!」

「うん」

「私、生き残れて、嬉しい……だけど、生きるのが、怖い……!」

「うん」

「死にたくない……! でも、鬼になって、しのぶに、あんな目で見られるなんて……私、怖いよ……!」

「うん」

「みんなと一緒に、陽だまりを浴びて、一緒に眠りたいのに……!」

「うん」

「……怖い、よ……」

「……うん」

 

 

 鬼となって、初めてしのぶに会った時。最初、しのぶの目は姉を見る目ではなかった。憎悪こそなかったが、あれは全く未知の生き物を見る目であった。

 鬼となった時は、きっと生き残れた喜びが大きかったのだろう。だが、時間と共に高揚感は落ち着いていき、冷静となった頭が事実を再確認させた。それでも、不安に押しつぶされそうになる少女達が目の前にいたからこそ、今の今まで気持ちを抑えつけていた。

 そして今、抑えを失った不安と恐怖が、カナエを苛む。

 弦司を間近で見ていたからカナエだからこそ、分かるのだ。鬼になる事の苦しさ、鬼でいながら人の傍にいる難しさ。何より、妹が恨み、自身が哀れみ、己の人生を最悪へと叩き落した存在となる……その不安と恐れは余りにも大きい。

 カナエは感情をただただ弦司にぶつける。

 弦司は知っている。生きたくない。死にたくない。矛盾する感情の行きつく果ては――。

 

 

「人になれれば、こんな想い、しないのに……」

「分かるよ。俺も同じだから」

 

 

 弦司はカナエの不安を少しでも和らげようと、艶やかな髪を撫でる。心配ないと、少しでも伝わる様に優しく抱きしめる。

 

 

「弦司、さん」

「大丈夫。俺がついてるから。カナエが守ってくれたように、今度は俺がカナエの心を守るから。だから、安心して……『俺に助けさせて下さい』」

「弦司さん……!」

 

 

 これは初めて弦司がカナエと出会った日。彼女が弦司にくれた言葉だ。この言葉があったから、弦司の今がある。

 彼女が与えてくれたものを、今度は弦司が与える番だ。

 カナエが泣きながら、あらん限りの力で強く抱きしめてくる。弦司も涙を流しながら、より一層優しく彼女を受け止める。

 

 

「それに心配はいらないよ。しのぶにアオイ。カナヲ、きよ、すみ、なほ。不死川に冨岡に……たくさん、俺達を助けてくれる人がいる。それに……カナエも」

「私……?」

「ああ。こんなにも人が助けてくれるのは、カナエが俺を助けようと尽力してくれたからだ。俺が頑張れるように、カナエが助けてくれたからだ。それは全て、今のカナエを助けるために、繋がるんだ」

「今までの私が、私を……」

 

 

 カナエは鬼と仲良くなろうと、弦司を助けようと頑張っていた。弦司は、この鬼は大丈夫だと周囲に伝えてくれた。それはカナエが鬼となった今、彼女の身に返ってくる。弦司は大丈夫だと理解してくれた彼らは、カナエも同じように、この鬼は大丈夫だと理解してくれる。

 

 

「カナエの夢が今のカナエを助けてくれる」

「――っ!」

 

 

 彼女は誰よりも傍で弦司を見ていたから、知っている。鬼になる事で、たくさんのモノを失っていく事を。人として生きていた軌跡を、徐々に失くしていく事を。

 だが、弦司はそうではないと言った。カナエが弦司を助けた分だけ、カナエを助けてくれる。弦司を助けたからこそ差し伸べられた手を見る度に、カナエは自身の人として生きた軌跡を知る事ができる。

 

 

「……私の、夢が、私を……う、ううっ……!」

 

 

 カナエは声を上げて泣き始めた。縋りついて救いを求める彼女に、弦司は与えられたものを少しは返せたのかもしれない。

 弦司はカナエを撫でながら、先の事を思う。優しさだけでは困難は乗り切れない。きっと、弦司とカナエは何度も苦しみ喘ぐ事になるだろう。それでも、必ず乗り越えてみせる。一人で乗り越えられなくとも、誰かが傍にいれば。弦司がそうだったように、カナエなら必ず前に進んでくれる。カナエと一緒なら、弦司も進んでいける。

 涙の末に二人の心には、相手に対する愛しさが残る。愛する人が傍にいる。それだけで、二人の顔に笑顔が戻る。

 

 

「カナエ。これから先も一緒に居るから」

「はい……」

「絶対、一緒に治そう」

「……はい!」

 

 

 互いの愛を確かめる様に、弦司とカナエは抱き締め合う。

 いつの日か、愛する者と幸せになるために、必ず人になると誓いあう。

 ――二人の鬼は、その日が来ると強く信じて、長い時を共に在り続けた。

 

 

 

 

 竈門炭治郎は困惑していた。

 鬼となった妹を治すために、炭治郎は鬼殺隊に入隊した。鬼の彼女と共に鬼殺に従事していた。

 ――鬼を連れた隊士。

 噂では人のために戦う鬼がいると聞いたが、噂は噂。炭治郎は珠世という人を喰わない鬼に会ったが、他には会った事も見た事もない。

 自身がどれだけ異例か、炭治郎は十分理解していた。それでも二度と妹と離れたくなくて共にいた。

 だが、那谷蜘蛛山での戦いの折、ついに女性の隊士が妹に刃を向けた。彼女の判断は間違っていない。隊士が鬼の傍にいれば、炭治郎でも助けようと斬りかかるだろう。

 刃が届く寸前で、自身の恩人・冨岡義勇により助けられたが、兎にも角にも鬼を連れている事が他の隊士にもバレてしまった。

 もう鬼殺隊に居られないのか。抜けなければいけないのか。

 不安にかられながら、連れていかれた鬼殺隊本部で――、

 

 

「大丈夫ですか、炭治郎君。他にどこか痛む個所はありませんか?」

「あ、大丈夫です! 痛いですけど、長男なんで大丈夫です!」

「ふふっ。何ですか、それは」

 

 

 整った容貌と小さく艶やかな口、大きな双眸は優しく炭治郎を見つめる。

 夜会巻きにした髪型と蝶の髪飾り。蝶の翅のような羽織が特徴的な小柄な女性。

 ――蟲柱・胡蝶しのぶ。

 妹に刃を向けたはずの彼女が、甲斐甲斐しく炭治郎の世話を焼いていた。拘束をしないどころか、炭治郎を治療してくれた。今も異常なほど、炭治郎に気を遣ってくれる。

 炭治郎は鼻が良い。人の感情を嗅ぎ分ける事もできる。彼女からは嘘の匂いはせず、それどころか罪悪感と親愛の情まで香ってくる。

 訳が分からず混乱する炭治郎に、しのぶは優しく微笑みかける。

 

 

「大丈夫ですよ。妹の禰豆子ちゃんは絶対に信頼できる人に預けています。今、鬼殺隊本部にいるのも、私達柱に君の事情を説明するためです。それが終われば、君も禰豆子ちゃんも解放されるでしょう」

「えっ!? 本当ですか!?」

 

 

 炭治郎は思わず訊き返す。

 鬼殺隊とはその名の通り、鬼を殺すための組織だ。その多くが、鬼によって幸せを奪われた者で構成されている。炭治郎もその一人だ。

 そんな組織の中で、鬼を連れ歩く……炭治郎はやっておきながら、そう簡単に許されるものではないと思っていた。

 しのぶは悲しそうに眉尻を下げる。一見、悲しそうに見えるが、炭治郎の鼻は違うと主張する。

 怒りだ。ただし、それは炭治郎に対してではない。

 

 

「ごめんなさい、私のせいですね。ちゃんと私が炭治郎君と禰豆子ちゃんの容姿を、予想できていれば良かったんです」

「えっ、そんな、しのぶさんは悪くありません!」

「そういう事らしいですよ、冨岡さん?」

「…………」

「ねえ、何か仰ったらどうなんですか?」

 

 

 綺麗な庭園の隅にいる義勇を、しのぶは目を細めて見る。鼻を使わなくても分かる。しのぶは義勇に怒っていた。

 

 

「何度も言いましたよね。人を喰らわない鬼がいるなら、私に会わせて下さい、と。会っていればこんな事態、避けられたのではないですか?」

「えっ」

 

 

 炭治郎は驚いた。義勇が自身を鬼殺の剣士として育てた鱗滝以外にも、禰豆子の存在を伝えていた事に。

 炭治郎が義勇を見ると、いつもの不愛想な表情のまま、

 

 

「(姉の事で胡蝶は頑張り過ぎている。もうこれ以上、背負う)必要はない」

「またそれですか。いつも言ってるじゃないですか、言葉が足りないと。今日こそ説明して下さい」

「……」

「……もういいです」

 

 

 しのぶはため息を吐くと、義勇から視線を外した。怒りの中に、僅かに悲しみの匂いを感じた。

 そんな彼らの様子に、他の柱達がそれぞれ反応を示す。

 

 

「……地味に姉妹だな。もう勘弁してくれよ」

 

 

 大柄の派手な男は呆れてため息を吐き、

 

 

「け、喧嘩はダメだよ」

 

 

 胸元の大きく開いた隊服を着た、桜色の髪の女性は狼狽しながら間に入り、

 

 

「胡蝶は冨岡の何に怒っているんだ!」

 

 

 まるで炎のような髪型をした男は叫び、

 

 

「…………」

 

 

 少年の隊士は空をただ見つめ、

 

 

「……南無」

 

 

 念仏が縫い込まれた羽織を着た大男は、数珠を鳴らしながら念仏を唱え、

 

 

「冨岡の言葉足らずはどうにかならないのか。痴話喧嘩ならまだしも、柱合会議にまで持ち込んでくるのは、どういう了見だ」

 

 

 木の上で寝そべった左右の目の色が違う細身の男が、ネチネチと冨岡を責め、

 

 

「…………ちっ」

 

 

 凶悪な目つきの傷だらけの男だけは、炭治郎を見て舌打ちをした。

 炭治郎には柱はとにかく個性が強烈な事と、しのぶと義勇の間に何かがあった事は分かった。

 しのぶが咳払いをする。

 

 

「とにかく、事前に炭治郎君の事情や禰豆子ちゃんの状況は、私から柱達へと根回ししています。お館様がいらっしゃったら、一緒に禰豆子ちゃんも来ますから、安心して君の口から説明して下さい」

「何から何までありがとうございます!」

「うんうん。やっぱり素直が一番ですね。ずっと素直な君でいて下さい」

「えっと……はい!」

 

 

 ほどなくして、お館様――産屋敷耀哉が来た。

 流麗な黒髪に華奢な体躯の男性で、顔の半分は爛れていた。目が見えていないのか、視線は中空で固定されている。

 

 

「私の剣士(こども)達。半年に一回の柱合会議に、誰も欠けず集まってくれて嬉しく思うよ」

 

 

 柱が全員跪き、慌てて炭治郎も跪く。だが、炭治郎に彼の言葉は耳に入っていなかった。耀哉の背後で控えている人物に目が釘付けだった。

 やや垂れた大きな双眸、艶やかな唇に腰まで伸びた翠の黒髪。さらに、七色の簪を側頭部に差した、色彩豊かな洋服を着た女性。そして、その隣にいるのは、整った容姿と優しい眼差しを持った、こちらも洋服の大柄の男性。

 どちらも目は赤く、口元から牙が見える。

 ――鬼だった。

 だが、その匂いは清らかだ。人を喰らわない珠世よりも、ずっと澄んでいる。妹の禰豆子に近いぐらいだ。ちなみに、その禰豆子は楽しそうに女性の膝の上に座り、男性に頭を撫でてもらっている。

 炭治郎はしのぶを見る。女性の鬼としのぶ。容姿も匂いも、あまりに似すぎていた。

 見られている事に気づいたしのぶが、炭治郎に微笑みかける。

 ――鬼としのぶは姉妹だ。

 身内が鬼となり、それでも鬼殺隊にいる。きっと、しのぶも家族を治すために、今も戦い続けているのだろう。

 家族が鬼となってしまう不安、恐れ、恐怖。理解を示してくれる人はいる。師匠の鱗滝と恩人の義勇。同期の我妻善逸に嘴平伊之助。

 だが、本当の意味で分かってくれる人はいない。どこかでそう思っていたのかもしれない。

 ――彼女は自分と同じだ。

 自分と同じ気持ちが分かるから、親身になってくれるのだろうか。少なくとも、彼女が頑張ってくれたからこそ、こんなにも簡単に炭治郎と禰豆子は受け入れられている。

 ――気づけば、炭治郎は涙を流していた。

 嬉しかった。自分を分かってくれる事が。分かり合って、戦ってくれる人が鬼殺隊にいてくれて。

 同時に誰も味方がいない中、戦い続けていたしのぶを、心の底から尊敬する。

 

 

「噂は聞いているかもしれないけど、炭治郎にも紹介しよう」

 

 

 耀哉のその言葉で炭治郎は現実に引き戻される。

 炭治郎は目元を拭い、彼の言葉に耳を傾ける。

 

 

「彼らは禰豆子よりも先に鬼となり、人のために戦い続け、証明してきた」

 

 

 ――鬼殺隊には二人で一組の鬼が存在した。

 たくさんの人の命を救い、その強さと優しさで隊士と柱を手助けした。

 鬼殺隊では誰もが尊敬する彼らだったが、鬼が人の中で生きる苦しみはたくさんあった。

 叩きのめされる事も、一度や二度ではなかった。

 それでも、歯を食いしばり、前に進み、二人で寄り添いながら人と成ろうとした。

 彼らを見て、皆は親愛を込めて呼んだ。

 

 

「『胡蝶家の鬼』カナエと弦司だ」

 

 

 ――これは鬼を哀れむ者と人を喰らわぬ鬼。本来なら、交わらなかった者たちの物語。




最後までお読みいただきありがとうございます。

本編については、これで終了となります。
後は後日譚と、番外的な話をいくつか投稿するかと思います。

リクエストは活動報告へ、後書きや解説はまた後日にでも。
それでは、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

~追記~
リクエストは終了いたしました。
ご協力ありがとうございます。


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後日譚&番外編
中高一貫!! キメツ学園物語外伝設定集


書いてみたかった。


中高一貫!! キメツ学園物語外伝~僕が妖怪人間になった理由(わけ)

 

 

〇不破弦司

キメツ学園理事の一人。

親のコネで理事になったボンボン。勤務中に町中にいて買い食いする姿をよく目撃されている。

いつも何をしているか分からないが、知らない内に学園の利益になっているので、他の理事からは幸せの置物扱いされている。

約一年間、消息不明になっていた時期がある。妖怪人間になったとかなっていないとか、だいたい四クールの特撮ヒーローをやってたとかやっていないとか、色々と噂されている。

最近、生物のカナエ先生といい感じになっていて、爆破計画が練られている。

 

〇胡蝶カナエ

キメツ学園生物教師、華道部顧問でキメツ学園のOG。

霊能力が使えるらしい。

約一年間、妖怪人間と協力して悪の組織と戦っていたとかいないとか、一回死んで蘇って覚醒したとかしていないとか、お蝶夫人だとか、色々と噂されている。

最近、不破理事といい感じになっていて、同僚や家族からはやめとけと止められている。

 

〇胡蝶しのぶ

キメツ学園高等部三年。

最近、姉が半分ニートといい感じらしく、危機感を抱いている。

もしもの時は、爆発オチも已む無しと考えている。

 

〇栗花落カナヲ

キメツ学園高等部二年。

最近、カナエが不破理事といい感じなせいで、しのぶが不機嫌なため、自分も好きな人ができたけど、しばらく秘密にしようと思っている。

※姉妹のどちらにも、好きな人がいる事はバレています

 

〇大総領・無惨様

悪の組織の首魁。

永遠の存在になるために、違法な研究を行っていたとか。

最初の被検体である妖怪人間に逃げられた上、最期には幹部に裏切られて爆発したらしい。

 

〇教祖・童磨

悪の組織の幹部。

なぜか悪の組織に協力している謎幹部枠。

妖怪人間のストーカーの後は、カナエさんのストーカーをしてたとか。

大総領を裏切って真の黒幕は俺でしたムーブをかましたらしいが、最終決戦で負けて爆発したらしい。

 

〇熊谷環

不破理事の元恋人。

彼氏が妖怪人間になったとかなっていないとかで、数カ月放置されたので、普通に振りました。

今は新しい幸せを見つけました。

 

〇雨ヶ崎

キメツ学園化学教師。

授業も面白く人当たりも良く、キメツ学園では珍しい一般人のため、非常に人気のある教師。

既婚者で子どもも三人いる。

 

〇風能誠一

悪の組織の部隊長。

自身を認めてくれたので入ってみたけど、思っていたのと違ったので、途中でやめた。

実家の道場を継ごうと頑張っている。

 

〇先崎きくの

悪の組織の女幹部をやっていた。

呪術とか使えたそうだが、組織の方針が一転二転したり、パワハラが酷かったり、ガバナンスがガバガバだったりして嫌になり、風能と一緒にやめた。

今は風能家の道場で、お手伝いをしている。

 

〇森

ただの森。

最近、コンビニでアルバイトを始めました。

 

 




お納めします。
どうぞ妄想にお使いください。


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後日譚 蝶屋敷襲撃後 ~胡蝶カナエは奪われたい~

ここから先は後日譚空間となります。
基本、シリアスなしですので、本編の余韻だけを感じたい人は注意して下さい。


 ――蝶屋敷襲撃から、数日が過ぎた。

 あの日、蝶屋敷の日常は壊され、胡蝶カナエは人としての未来を失った。誰も彼もが傷ついた。それでも誰も喪う事なく生き残った。

 だが、鬼に蝶屋敷を見つけられたのは事実だ。また鬼に襲撃される可能性は残っている。もう蝶屋敷に住む事はできなかった。

 少女達は、蝶屋敷を捨てるしかなかった。

 さすがにしのぶの研究資料は、柱も投入して回収したが、思い出の詰まった品々を回収する時間も人手もなかった。全てを置き去りにして、去るしかなかった。

 後戻りはできない。今を生きる者は、前に進むしか道は残されていない。

 すぐに新たな屋敷は与えられた。広い家屋で蝶屋敷の七名が住んでも余裕がある。蝶屋敷にあった品々と類似した物も、取り揃えられた。

 もちろん、気遣いだけではない。蝶屋敷に似た場所を用意する事で、カナエと弦司をここに縛り付け監視下におき、鬼化による影響を観察するためでもあった。この観察の結果によって、カナエと弦司の正式な処遇が決まる事になっている。

 鬼舞辻無惨以外の鬼が、人を鬼にしたのだ。この措置は正しい。だが、仲間であった隊士が、尊敬する()花柱を監視しなければならない……その事実が、鬼となったカナエの過酷な運命を予感させ、誰もが心を痛めた。

 その代わり……という訳ではないが、蝶屋敷の他の人員には正式に長期の休暇が与えられた。

 東京府の事件、蝶屋敷襲撃と過酷な事件が相次いだ。蝶屋敷にいる誰もが、傷ついている。肉体的にも精神的にも、癒す時間が必要だった。

 結果的に、蝶屋敷は皆がのんびりとする時間と居場所を、久方ぶりに得た。

 鬼となってしまったカナエがいずれ来るであろう、過酷な日々。その時に備え、英気を養う貴重な時間となるだろう……。

 

 

 ――そして、胡蝶カナエは存分に休暇を楽しんでいた!

 

 

「うふふ」

 

 

 早朝、カナエはだらしなく顔を緩ませながら、弦司に着物を着せる。帯を締めて――少し不本意だが、割烹着を渡して――完成である。

 

 

「ありがとう」

「いいのよ。私と弦司さんの仲だもの~」

「……そうだな」

「うへへ~」

 

 

 カナエは顔を綻ばせながら、同じく割烹着を着物の上に着る。

 過酷な運命? 過酷な日々? 今、そんなものを考えても、カナエの処遇が決まるまで何もできないのだ。ならば、楽しんだもの勝ちである、というのがカナエの考えだった。

 だから、新しい蝶屋敷では間取りを自分好みにし、部屋は弦司と同室にした。食事中の隣の席も分捕ったし、食器やその他小物も全部、お揃いの物にした。食べたい物や今まで着られなかった華やかな着物だって遠慮なく頼んだ。こっそり首輪だって再発注した。

 今もこうやって誰の目も憚る事無く、弦司と時間を共有して一緒にいる。少しくすぐったくて、嬉しかった。

 一方で、こういう()()()だけではなく、ちゃんと『夫婦』として認められる準備も進めている。といっても、鬼のカナエと弦司が祝言をまともに挙げられるはずがないので、戸籍上だけの話である。

 正直、カナエも付き合い始めて一週間足らずで婚姻を決めるのは、急ぎ過ぎとは思ってはいる。それでも、弦司は己の物だと、カナエは弦司の物だと。一つでも弦司との繋がりを、誰もが分かる形で残したくて話を進めている。

 最初、話を聞いたしのぶは呆れた。それでも、最後には認めて祝福してくれた。

 しのぶだけではない。カナヲにきよ、すみ、なほ、義勇に天元に、弦司の両親に、行冥だって数珠を爆砕させて、祝ってくれた。

 カナエと弦司は彼らの祝福を受けて、このまま正式に夫婦となるだろう。とても有難い事だった。

 

 

「行くか」

「はい」

 

 

 最後に七色の簪を差すと、弦司と一緒にカナエは台所へと向かう。蝶屋敷の面々は現在、治療に専念している。家事は健康体であるカナエと弦司の大事な仕事だ。

 

 

「それでは始めますか、あなた?」

 

 

 台所に着いたところで、試しにカナエは呼び方を変えてみる。言うだけで顔が熱くなる。弦司も気恥ずかしそうに頬を掻く。

 

 

「……呼び方、変えるのか?」

「……やめておく」

「そうか……それじゃあ、始めますか」

 

 

 ちょっと残念そうな弦司の声が聞こえる。これはこれで何かの手札になるかもしれない。時々呼んでみようとカナエは思った。

 浮ついた雰囲気の中、二人は黙々と調理を始める。作る食事の量は多い。七人分と人数が多い事もあるが、とにかくカナエと弦司の食事量が多いのだ。どうやら、カナエの体は弦司の性質をそのまま受け継いでいる様で、彼と同じように食事から力を得る。食事量も弦司程ではないが、それでも多い。

 蝶屋敷での食事量は単純に以前の倍となっており、調理は忙しいものとなっていた。だからこそ、カナエと弦司で調理する必要がある。

 作業を進めながら、カナエは一方で別の事を考える。

 経過観察の間は蝶屋敷から簡単に外へは出られない。空いた時間で今までできなかった鍛錬も学習もするが、それだって一日中できる訳ではない。そうなると残りの時間に何をするか。

 

 

(弦司さんと一緒に居るしかないのよね~)

 

 

 嘘や誇張ではなく、本当にそれぐらいしかやる事はない――という建前でイチャつく。

 仕方ない仕方ない、と誰に対するか分からない言い訳をしながら、具体的には何をするか考える。

 もうカナエと弦司は夫婦みたいなものだ。なら、夫婦らしい事をしたい……とまで考え、カナエはある重要な事実に気づく。

 

 

(夫婦らしい事……そういえば、最近、接吻してない。いえ、そもそも、私達ってまともな接吻した?)

 

 

 初めては刀鍛冶の里。つい興奮したカナエが弦司の唇を奪おうとして、間違って髪を食んだ。

 二回目は蝶屋敷。ただし、死の直前の出来事だ。カナエから弦司の唇に吸い付いて、大量の血を飲んだり飲ませたりした。この行為のおかげで鬼となって蘇ったわけだが――。

 二回ともカナエから口づけしている上に、どちらも異物混入だ。これは由々しき事態、異常事態である。

 監視下であり、夜はきよ達に一緒に寝る事を強要されている。二人の時間というものは少ない。とはいえ、これではあまりにも色事が少なすぎる。せっかく正式に夫婦となれるのだ、接吻ぐらいまともなものを一つぐらいしたい。

 だが、カナエは立派な大人の女性だ。自分から強請るような真似は、あまりしたくない。

 それに――。

 

 

(奪うのもいいけど、奪われてみたい……)

 

 

 考えるだけで頭がボーっとしてきて、野菜を切り刻む包丁の動きが早くなる。

 とにかく、これでカナエの今日の方針は決定した。

 ――弦司に唇を奪われる。それも彼から迫る形で。

 だが、どうすれば奪われるのか。カナエは自身が奪った状況を考える。そう、奪いたくなるような雰囲気を作るのだ。弦司はカナエが大好きだ。そうすれば、後は弦司が勝手にやってくれる。何より、カナエが興奮してやった時は、だいたい上手くいかない。

 カナエは落ち着いて、冷静に弦司をその気にさせる。後は弦司が上手くやってくれる。カナエだって恋愛弱者でも学習するのだ。

 そう決定し、カナエは包丁でまな板をトン! と叩く。

 

 

「何事!?」

「今日は味噌づくしに挑戦する?」

「本当に何事!? ……それじゃあ、挑戦するか?」

 

 

 ――こうして、今日もカナエは蝶屋敷を振り回す。

 

 

 

 

 味噌づくしになった朝食も終わり、食器を片付けていた時の事である。

 弦司もカナエも食事量が多い。暴力的と言ってもいい。だから、少女達が胸焼けしない様に一度二人きりで食事を摂ってから、改めて全員で朝食を食べている。当然、食器の数も多くなる。ゆうに十数人分の食器……一人だけで片付けるのは難しく、今日もカナエと弦司で、食器を洗う事になっていた。

 ちなみに、アオイにカナヲ、きよ、すみ、なほも協力を申し出たが断っている。アオイとカナヲはまだ傷が塞がっていない。きよ達三人には、洗濯物など弦司とカナエでできない家事をお願いしているので、そっちに集中してもらった。二人きりになりたいから……という理由も多少はある。

 

 

「ねえねえ」

 

 

 弦司が食器を洗っていると、食器の水気を拭いていたカナエが、突如として手招きをした。いやに頬がゆるゆるな顔である。

 カナエと弦司が夫婦になると決めてから、彼女は浮ついている。調子に乗っていると言ってもいい。

 また、何かやらかしそうだが、喜んでいる彼女に水を差すのも本意ではない。だから、弦司はカナエをそのままにする。こうやって、弦司がまたカナエを甘やかすのが、やらかす一因とは分かっている。それでも喜ぶカナエを見たくてありのままの彼女を受け入れてしまう。

 もちろん、本当に間違っている時は本気で止めるが、今日のこれも悪戯程度だろう。弦司は手を止めると、カナエに逆らう事なく近づく。

 

 

「耳」

 

 

 言われるがまま、耳をカナエに寄せる。 

 カナエは僅かに背伸びをすると――そっと。

 

 

()()()()さん」

「!?!?」

 

 

 その一言で、全身に電流が走ったような痺れた感覚に陥る。慌ててカナエから離れる。

 カナエは笑みを浮かべたまま、自分の上唇を舐める。また新しいカナエが見れて、弦司の体は緊張する。

 

 

「あなたの名前を呼んだだけよ? どうかしたの?」

「そうだけども! ……もっと、普通に呼べないのか!?」

 

 

 実は弦司の婿入りという形で、カナエと弦司は夫婦になる予定だ。だから、カナエの言い分は何も間違っていない。間違っていないのだが、なぜ耳元で囁く必要があるのか。弦司には分からなかった。分かるのは、中々に刺激的だという事だけだ。

 カナエもそれは分かっているのだろう、悪戯っぽくクスクスと笑うと、内緒話をするように口元に手を添えると、小さく囁く。

 

 

「胡蝶弦司さーん」

「……っ」

 

 

 夫婦になるのだと、その一言で強く自覚させられる。鼓動が速くなる。

 

 

「返事がないですよ、胡蝶弦司さん」

「……はい」

「胡蝶弦司さん、胡蝶弦司さん、胡蝶弦司さん」

「分かったから!? 胡蝶家の弦司です……こ、これでいいだろ。まだ食器残ってるから、洗うぞ」

「ふふ。一度中断、です」

 

 

 弦司が逃げる様に家事に集中しようとすると、阻むようにカナエが距離を詰めてくる。弦司が後退れば、カナエが迫ってくる。

 

 

「な、何だよ……」

「次は胡蝶弦司さんの番ですよ?」

「えっと……」

「名前」

「……胡蝶カナエ」

「胡蝶弦司さん」

「……胡蝶カナエ」

「胡蝶弦司さん」

(何の遊びだ!? この……可愛いじゃないか!)

 

 

 弦司は心の中で悶絶する。

 同じ名字で呼ばれて、呼ばされて、夫婦になったのだと強く強く心に刻まれる。この美しくも可愛らしい女性が己の妻なのだと、意識させられる。

 カナエとのやり取りがじれったくて、くすぐったい。弦司は慣れない行為に顔が熱くなり、たまらず叫ぶ。

 

 

「待て待て待て待て!? ホント、朝から何だよ!? 変な気にさせて、どうするつもりだよ!?」

「変な気って何ですか? どういうこと、するつもりですか?」

「っ!?」

 

 

 気づけば、弦司は壁際に追い詰められていた。カナエが上目遣いで、弦司を見る。

 弦司は茹った頭で考える。つまり、それはそういう事か。カナエなりの合図なのか。

 家事中だとかつまらない言い訳を、全部捨てる。可愛い妻のお願いには応えねばならない。

 弦司はカナエの顎に指を添えようとして――彼女が弦司の手から逃れる。

 

 

「姉さん、今日の予定だけど――」

 

 

 その時、ちょうどしのぶが台所に入ってきた。しのぶの覚悟の証なのか、蝶の翅のような羽織を隊服の上から袖を通している。

 どうやら、しのぶの気配を察知したために、カナエは離れたようである。弦司はホッとしたような、でも残念な。ちょっと複雑な気持ちになる。

 壁際にいる弦司を見て、しのぶが首を傾げる。ちなみに、しのぶは最も軽傷だったためか、簡単な仕事には復帰している。

 

 

「? どうかしたの、()()()()?」

「あっ、馬鹿――」

 

 

 つい以前の癖で、弦司の旧姓(となるであろう名)を呼ぶしのぶ。カナエが顔を顰めて不機嫌になった。

 

 

「しのぶ」

「うぇっ!? いや、これはいつもの癖で、別に悪意があった訳じゃ」

「しのぶ」

「……に、義兄さん」

「よろしい」

 

 

 絞り出すような声で言うしのぶ。羞恥からか、耳まで真っ赤になっている。

 対して、カナエは一瞬で上機嫌となり、家事に戻る。

 今日はカナエに振り回されてばかりだ。だが、それはカナエにとって弦司が特別だからだ。むしろ、弦司はこの状況を楽しんでさえいた。

 弦司も食器洗いに戻る。慌てる事はないだろう。休暇はまだあるし、日中に二人きりになれる時間はほぼない。さっきの続きは、もう少し後だ。

 しのぶもバツが悪そうに、今日の予定について説明する。弦司もカナエも、しのぶの説明に耳を傾ける。

 ――この時、弦司はカナエが自身の口元を見ている事に全く気付かなかった。

 

 

 

 

 弦司は鍛錬でカナエにボコボコにされた後、カナエと一緒に検診を受けた。

 体に変化がないか、血液の採取から身体能力の計測など、簡単に検査を行う。二回に分けて行うのは面倒、との理由でカナエと一緒に受ける事になっていた。

 新しい診察室に弦司とカナエは並んで椅子に座る。向かいに座ったしのぶの表情は渋い。

 

 

「ふ……に、義兄さんは今日も変化なし。姉さんも……変化なし」

 

 

 カナエが鬼になった経緯は、鬼殺隊はもちろんの事、しのぶにも伝えている。

 口づけと聞いて赤くなったり、一度死んだと聞いて青くなったり、童磨をボコボコにしたと知って叫んだりと、色々と騒がしくしながら説明した。

 しのぶは一つの可能性を考えていた。

 ――血鬼術で鬼となったならば、時間経過で戻るのではないか、と。

 その可能性を信じて、姉が人に戻る事を願っていたが、検診の結果は変化なし。いくら今のカナエを受け入れているとはいえ、僅かな希望を見出し、それさえも失っていく……気落ちして当然と言えた。

 

 

「そうなると、ここの報告書は――」

 

 

 だが、しのぶはすぐに切り替えた。彼女は本当に強くなっていた。

 椅子を回転させると、弦司達に背を向けて書類に何かを書き始めた。集中している様で、カナエと弦司が放置される。

 声を掛けるのも憚られる。時間に余裕もあるので、しばらく待っておこう。弦司がそう判断すると――ツンツンと、何かが弦司の太ももを突く。

 弦司を突く指を辿っていくと、当たり前だがカナエがいる。弦司がカナエを見ると、口元に笑みを浮かべたまま突き続ける。

 

 

「何?」

「……」

 

 

 弦司が声を潜めて訊ねるが、カナエは何も言わない。笑顔のまま、むしろ突く力を込める。

 弦司は止めさせようとカナエの手を追いかけるが、あっさり躱される。そして、再びツンツンと――。

 太ももの付け根に向けて韻律を踏みながら迫ったかと思うと、急に力を弱めて膝に向けて指先をツーっと、ゆっくりと這わせていく。

 

 

(だから一体何の遊びだ!?)

 

 

 カナエの可愛らしくじれったい刺激に、いっその事抱き締めてやろうかと思うが、今は診察中だ。

 

 

(意識するな、しのぶは真面目にしてるんだ。意識するな)

 

 

 反応したら負けだ。そう判断した弦司が努めてしのぶの方へ視線を向けると、彼女が振り返る。ほぼ同時に、太ももの感触も離れる。

 

 

「そういえば、ここの所なんだけど……?」

「どうした?」

「? 何かあった?」

「何もないわよ~。それで、どうしたの?」

「……さっきの質問の回答なんだけど――」

 

 

 弦司とカナエが質問に答えると「ちょっと待ってて」と、しのぶは再び机に向かう。

 カリカリと何かを紙に書き込む音だけが、診察室に聞こえる。

 しばらくすると、先とはまた違う感触が太ももに広がる――。

 

 

「――っ!」

 

 

 柔らかい感触と温もりが、何度も何度も弦司の太ももを過ぎる。カナエの掌が、弦司の太ももを撫でていた。

 カナエの掌が太ももを滑る度に、背中にゾクリと変な感覚が走る。

 真面目に仕事をするしのぶの後ろで、カナエに太ももを撫でられている。背徳感とじれったい刺激で、声が出そうになる。

 こんな光景、しのぶに見られた日には、どうなるか。弦司は何とか止めようとカナエの手を追うが、柱の実力を無駄に発揮して、ヒラヒラと実に簡単に避ける。どれだけ追っても捕まえられず、再び弦司の太ももにはカナエの手があって、スリスリされる。

 このままでは、カナエに翻弄されるだけだ。だが、弦司ではカナエを止められない。

 

 

(仕方ない。ここは――こうだ!)

 

 

 攻撃は最大の防御――ということで、弦司がカナエの太ももを触る事にした。彼女の細く、それでいて柔らかい感触が、着物を通して伝わってくる。

 

 

「――っ!?」

 

 

 カナエもこれは予想外だったのか、慌てた様子で弦司の腕を掴んだ。

 女性の太ももを触る男性と、それを必死で止める女性。傍から見たら、弦司はただの痴漢である。

 だが、待って欲しい。そもそも、先に痴漢したのはカナエであり、弦司の行為は正当防衛ではないか。それに、カナエは弦司の妻なのだ。別にお触りしたっていいじゃないか。

 ――弦司も頭が茹っていたのだろう。そういう馬鹿な結論に至ると、意地でもカナエの太ももを撫でようとする。

 力と力のぶつかり合い。弦司は余った腕を添えてさらに力を込めるが、カナエも決して動かさないと力を込める。完全に膠着状態となった。

 いくら力を込めても動かない。弦司は力を抜いてため息を吐いた。カナエの防御が固くて撫でられそうにない。諦めるしかない。何より、いつまでもこうしていたら、しのぶに気づかれるかもしれない。

 弦司の力が抜けた事が分かったのか、カナエも力を抜く――その瞬間、弦司の手がカナエの太ももを滑る。

 

 

「!?!?」

 

 

 カナエの目が大きく見開かれる。ここまでの弦司の姿は、全て欺瞞だったのだ。さらに、弦司は余った手でカナエの腕を一本掴む。これで、弦司を止める事はできないだろう。

 焦るカナエに見せつける様に、弦司の大きな手がゆっくりと動く。柔らかいだけではない。しっかりと鍛え抜かれているのか、指を押し込むとしっかりと弾力が返ってくる。

 ここでカナエは何を考えたのか。カナエも弦司の太ももを撫で返し始める。

 

 

「……っ」

「……んっ」

 

 

 いつの間にか、二人は診察室で互いに向き合って無言で互いの腕を一本掴み、太ももを撫で合う。

 何がしたいのか。何がしたかったのか。もうよく分からない。

 ただ、ふわふわと浮ついた感覚と、何とも言えない快感が少しずつ体を満たす。相手しか目に映らなくなる。二人してだんだんと、おかしな気持ちになっていく。

 ――そのせいか、当然の帰結に全然気づかなかった。

 

 

「ねえ、二人とも何してるの?」

「っ!?」

「えっと、これは――!?」

 

 

 青筋を立てたしのぶが、笑顔のまま頬を引き攣らせて、じゃれ付く二人を見ていた。あれだけ二人して騒いだのだ、例え無言と言えど気づかれて当然だった。その当然に気づけないほど、二人は夢中になっていた。

 しのぶは立ち上がると異様なほど足音を立てながら歩き、診察室の扉を思い切り閉めた。その音に弦司とカナエは体を震わせ、互いから手を離す。

 振り返ったしのぶは、笑顔のまま。笑顔である事が、底知れぬ怒りを感じさせる。

 

 

「正座」

「しのぶ、これは――」

「正座!!」

 

 

 今度こそ憤怒に表情を変えたしのぶに、二人は慌てて正座して俯く。これ以上、しのぶの顔は怖くて見れなかった。

 しのぶは舌打ちをすると、腕を組んで続ける。

 

 

「姉さん達が夫婦になれて喜んでいるのはいいわ。仲睦まじくするのもいい。でも、少しは節操を持てないの?」

「も、持っているわよ……いぃっ!?」

「俺もか!?」

 

 

 しのぶは無言でカナエと弦司の頭に拳を落とした。

 

 

「痛いっ!? しのぶが姉さんをぶった!?」

「ぶつわよ!! 朝から台所でイチャイチャ!! 二人っきりになったらイチャイチャ!! 私達が寝たら朝までイチャイチャ!! 今日は二人きりにならなくても、イチャイチャイチャイチャ!! どこに節操があるのよ!?」

「そ、そんなに……?」

「そんなに!! そもそも姉さんは――」

 

 

 今までカナエが幸せだったらそれでいい、という想いもあったのだろう。しのぶはあまり口出しをしてこなかった。

 だが、今日の無節操さにさすがに堪忍袋の緒が切れたのだろう。今まで溜まっていたものを吐き出すように、日が沈むまでしのぶの説教は続いた。

 

 

 

 

「また失敗した……」

 

 

 夜。夕飯も終わり、カナエは食器を片付けながら肩を落とす。

 今日は弦司に唇を奪われたくて、色々とやった。途中まで良かった。弦司もその気になってくれて……だが、運悪くしのぶが入ってしまい実現しなかった。

 そうなると少しの合間に雰囲気を高めたくて、しのぶの目がない時に弦司にちょっかいをかけた。そこまでは良かったと思う。だが、他人の目を忍ぶという行為には、何とも表現しがたい背徳感があった。イケない事と分かりながら、手が止まらなくなった。この世から、忍ぶ恋がなくならない一端を知った気がした。

 そこからは弦司の予想外の反撃があって、頭が真っ白になって……後はもう、それどころではなくなった。

 冷静になれとどれだけ思っても、一度たがが外れてしまうと、ずるずると行ってしまう。感情的になるなとも思うが、そもそも恋愛という行為が感情そのものだ。感情的な行動をしながら感情を抑えるとは、矛盾の塊である。それこそ、困難である。

 本当に恋愛とは恐ろしい。だが、そういう己も悪くない、むしろこの感情と付き合って育てたいとさえ思っている。この想いがあるからこそ、今はこんなにも幸福なのだから。

 ――まあ、暴走する事と恋愛感情は別問題ではあるが。

 

 

(そこは気を付けて、上手く付き合わなきゃ)

「姉さん」

「はいっ!」

 

 

 いつの間にか台所にいたしのぶに呼びかけられて、カナエは姿勢を正して振り返る。

 しのぶはちょっとやり過ぎたと思ったのか、気まずそうに視線を逸らすと、

 

 

「みんなでお風呂に入るから」

「みんなで? それなら私も一緒に――」

「義兄さんと二人きりでゆっくりしてって意味よ! 察してよ、馬鹿姉さん!!」

「えっ」

「カナヲとアオイにも、あまり部屋から出ない様に言っているから! その……あまり二人の時間が作れてないのは、私達も甘えすぎてたって思ってるから! それじゃあ!」

 

 

 しのぶは顔を赤くすると、ピシャリと扉を閉めた。

 カナエは目を瞬かせる。突如湧いた二人の時間に、しばらく思考が固まっていると、再び扉が開く。

 誰かと思い身構える。弦司だった。

 

 

「カナエ」

「っ、弦司さん。あの、どうかしました?」

「えっと……縁側に行かないか?」

「はいぃ……」

 

 

 カナエは弦司に従い縁側に行く。

 縁側から見える庭には物干し竿以外何もない。殺風景な庭だった。いずれ蝶屋敷の様に、誰もが落ち着く庭を作るつもりだが、それはその内やる予定だ。

 縁側にはいつの間に用意したのか、徳利と盃が二つ。酒の肴なのか、漬物が各種置いてあった。

 弦司が庭を向いて縁側に座る。カナエは緊張しながら隣に座った。

 満月……とはいかないが、煌々と輝く月がよく見えた。

 

 

「ちょっとだけ飲まないか? まあ、鬼だから酔えないけども」

「……はい、お付き合いします」

 

 

 互いの盃を満たす。乾杯してから弦司が呷った。

 実はカナエはほとんど酒という物を飲んだことがない。作法が良く分からず、カナエは弦司と父親の姿を思い出して、一気に飲み干す。

 日本酒だろうか。口に広がる酒気。知らない味覚と、喉を焼くような感覚にちょっと咽る。

 

 

「っ!? げほっ、げほっ!」

「大丈夫か!? ほら」

「ご、ごめんなさい」

 

 

 周到に水差しまで用意していた弦司。カナエは水を受け取り、酒を洗い流すように飲み込んだ。世の男はこれを好んで飲んでいる。カナエにはちょっと分からない感覚だった。

 それでも、弦司が飲んでいるのだ。気持ちを共有したくて、盃を差し出す。

 

 

「なあ、もしかして飲んだ事なかったのか? なら、無理しなくていいんだぞ」

「確かに初めてだけど、無理はしてないわ。どうせ酔わないし。それに……鬼殺隊に入ってからは、酔うと任務に支障がでるから、全く飲めなかったの。今は気にせず飲めるから、味わってみたい」

「そうか……なら、ゆっくりでいいから、無理はするなよ」

「うん、ありがとう」

 

 

 もう一度、二人の盃を満たす。今度は一気に呷るような事はしない。二人ともゆっくりと、盃を傾ける。

 慣れてきたためか、酒気以外にも香りがある事に気づく。甘味類とは違う、ほのかな甘み。隠れた複雑な味わいに、少しだけ酒の楽しみ方を見つけた気分だった。

 だんだんと気持ちが落ち着いてくる。屋敷の風呂場からだろうか、少女達のはしゃぐような明るい声が聞こえた。微笑ましい気分になる。そして何より、愛する人と穏やかな時を過ごせている。縁側から見える景色が、何となく素晴らしい光景に見えてきた。

 

 

「カナエ」

「ん」

「もっと近づいて」

「うん」

 

 

 ごくごく自然に、カナエは弦司の肩に身を寄せる。そのまま頭を傾け、彼に身を預けた。

 弦司の大きな体はしっかりとカナエを受け止めた。とても胸が高鳴る。すごく優しい気持ちになれる。

 カナエの肩を弦司の大きく固い手が、優しく抱く。もっと弦司に近づく。酒だけのせいではない、熱い吐息が漏れた。

 

 

「ねえ、弦司さん」

「うん」

「こうやって、穏やかに一緒に過ごせて、夢みたい」

「俺も同じだよ」

「ありがとう。でも、もっと早く自分の気持ちに正直になって、しのぶに相談すれば良かったわ」

「そうだな。一緒に暮らしているんだ、もっとしのぶとも話し合わないとな」

 

 

 最初からみんなと話し合って、こうやって寄り添い合えば、一日悶々とせずに簡単だったのかもしれない。だが、誰もが最初から正解なんて見出せない。こうやって探りながら、間違っても少しずつ近づいていく。それが人間であり、夫婦なのかもしれない。

 

 

「ふふっ……胡蝶家に婿入りするんだから、もっと考えましょうね、あなた」

「仰せのままに、奥様」

 

 

 カナエは見上げ、弦司は優しい眼差しを向けると、微笑み合った。

 そして、カナエは自然な動作で瞼を閉じる。

 ほどなくして、カナエの唇に弦司の唇が落とされた。

 

 

 

 

「ふわぁ……」

「すごいです……」

「大人です……」

「!? みんな、退散よ退散!」

 

 

 ちなみに、風呂から出た少女達はバッチリ二人の仲睦まじい所を見た。

 誰も声が掛けられず、酒が空になるまで二人はずっと寄り添い続けた。

 少女達はあまり眠れず、次の日は寝不足となった。

 

 




リクエストについて集計結果をまとめました。
興味がある方は、活動報告よりご確認ください。


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後日譚 胡蝶家襲撃後 ~首輪と血鬼術と吸引性皮下出血~

大変お待たせしました。
分からない単語があれば、近くの大人に聞きましょう。

それでは、今回も肩の力を抜き頭を空っぽにしてお読みください。


 蝶屋敷襲撃から一カ月が過ぎた。

 しのぶはもちろんの事、カナヲもアオイも動けるまで回復した。きよ、すみ、なほもだんだんと立ち直っていき、カナエと弦司、しのぶの添い寝もなくなってきた頃の事である。

 

 

 カナエと弦司には、新しい日課がある。夜、縁側で二人寄り添い外を見る事だ。

 カナエと弦司は鬼だ。当然、陽の光は浴びられないため、日中は室内にいなければならない。

 夜になっても、監視の目が外れる事はない。屋敷の中で過ごさねばならない。

 常に誰かがいる。二人きりの時間は、あまり取れない。夜の縁側は、二人きりに中々なれないカナエと弦司のために作られた時間だった。その時だけは、誰もが気を遣い監視の目さえ外れる。

 夜空を眺めながら、穏やかに過ごす二人だけの時間。だが、今日は縁側に座る二人の間には、僅かに距離があった。

 ――原因は一通の手紙だ。

 日中、診察室で熱心に手紙を読んでいたしのぶ。カナエが悪戯心で足音と気配を消して近づいた。

 

 

「しのぶ!」

「ひゃっ!?」

 

 

 突然耳元で呼ばれたしのぶは、手紙を机に落とした。自身の上げた声に、しのぶの頬が赤くなる。

 

 

「~~っ! 姉さん! 子どもみたいな真似はやめてよ!」

「ふふっ。随分と熱心に読んでたから。一体誰からのお手紙? 最近、よくお家に来る冨岡さん? それとも、不死川君?」

「冨岡さんも不死川さんも、義兄さんの様子を確認しに来てるだけっていつも言ってるじゃない。すぐにそういう事に結び付ける……」

 

 

 呆れるしのぶ。カナエは笑顔のまま視線を手紙に落とす。

 

 

「本当かしら――っ」

「……」

 

 

 手紙の名前に、カナエは動きを止めた。

 ――熊谷環。

 弦司の元婚約者の名前だった。

 カナエの環に対する感情は複雑だ。

 しのぶが環と交流を持つ事は悪くない。むしろ、『稀血』である環を気にかける事は、鬼殺隊として正しいと言える。

 拗れて捻じれた恋心。それが環の存在を目にする事さえ、カナエに嫌悪感を抱かせてしまう。もう弦司はカナエの物だ。カナエの物を振り回すなと思ってしまう。

 だが、それと同じくらい環の行く末を案じてもいた。別れの慟哭。鬼さえいなければ起こりえなかった悲劇。鬼殺隊に身を置いていた者として、環には幸せを掴んで欲しかった。弦司の目に入らない所で……という但し書きはついてしまうが。

 とにかく、この胸の内にある気持ちは、簡単には言い表せない。

 

 

「熊谷さんは、今どうしているの?」

 

 

 カナエはしのぶに訊ねた。警戒心なのか同情心なのか。はたまた、両方なのか。カナエにも、はっきりした事は分からない。

 しのぶは手紙を拾い、封筒にしまう。

 

 

「大丈夫よ、姉さん。環はもう義兄さんと会う事はないわ」

 

 

 しのぶの環に対する呼び方から、二人の親密具合がよく分かる。二人の間に何があったのか気になる所だが、カナエが引っかかったのはそこではない。

 

 

「会う事はないって……それってどういう意味?」

「だって、日本にはもういないもの」

「日本にいないって……?」

「ご主人の仕事の都合で、一緒にアメリカへ行ったわ」

「えっ」

 

 

 しのぶは封筒を掲げると、何でもない風に言う。

 

 

「この手紙はアメリカに入国した報せ。今頃はきっと、新しい家庭で異国生活の真っただ中ね」

「……」

 

 

 少し寂しそうに、しのぶが笑う。カナエは言葉を返せなかった。

 あの日の環の慟哭は今も忘れられない。同じような立場になったらと思うと、それだけで体が震えそうになる。もしも環のように弦司に別れを告げられてしまったら……カナエは耐えられない。耐えられたとしても、どこまでも彼を追いかけていただろう。

 彼を好いたからこそ、環の悲しみが分かった――つもりでいた。

 環は弦司から完全に離れた。今は環の気持ちが分からない。

 

 

「何となく姉さんが考えている事は分かるけど……義兄さんが環の目の前から一度消えて、もう一年以上経ったのよ。彼女は十分に想い続けてくれたわ。全部を振り切って、進んでいってもいいじゃない」

「……そう、よね」

 

 

 恋や愛は綺麗なだけではない。同じだけ、黒いモノや醜い感情、打算もある。それはカナエ自身が何度も味わい、証明したはずだ。そうでなければ、弦司や己に首輪を着けようなどと捻じれた発想に至りはしない。

 彼女の心変わりだって、その一つに過ぎない。どんなに綺麗な誓いも、想いも、誰かが紡いでこそ永遠となる。たった一人では、いつか朽ちていく。

 誓いを捨てて、新しい道を探す。例えその選択が綺麗と言われなくとも、幸せになるためであれば、その選択は何も間違っていない。

 弦司だってそうだ。環への想いを断ち切って、新しい道を選んだ。カナエを選んでくれた。

 

 

(この考えは、傲慢なのかしら……)

 

 

 そう頭では理解しても、カナエは全てを飲み込めない。己ならたった一人でも、想い続ける。命を失う最後の瞬間まで、愛してみせると考えてしまう。

 一方で夫は……弦司はカナエが手に届かない存在になれば、想い続ける事をやめてしまう。そういう彼だと知って、納得して一緒になった。そんな彼だからこそ、一緒になれた。

 飲み込めないのはカナエの身勝手だ。全てを尽くして弦司の傍にいれば、幸せは永遠だ。環とカナエを比較しても、失った時の想像をしても、何の意味もない。

 それでも、何が起きてもカナエだけをずっと愛し続けて欲しいと願ってしまう。しかし、その願望には弦司の幸せは含まれていない。己の欲望だけを押しつけている。こんなの良くないと思っても止まらない。悪い想像に、歯止めがかからない。

 幸せな未来が見えない。何もできない未来を考えてしまう。

 ――その夜の縁側、微妙な心根が二人の距離となった。

 

 

 

 

「……カナエ」

「……何?」

 

 

 カナエから驚くほど、固い声が出た。隣にいる弦司は困惑する。

 夜の縁側。いつもなら、心置きなく楽しむ二人だけの時間。そのはずが、今日はカナエがしのぶと何か話してから、ずっとこの調子だ。どこか弦司に余所余所しく、固い。

 二人の間に、風が吹き込む。距離が寂しい。

 何を話していたのか、弦司は確認していない。その内、話してくれるだろうと高を括っていた。それは全くの傲慢だった訳だが。

 間違いは正さなければならない。弦司はカナエを伺う。

 

 

「その……カナエに距離を空けられると、悲しい」

「……うん」

「近づいても、いいか?」

「……」

 

 

 カナエは即答しない。弦司の体が強張る。

 僅かに逡巡するような間を空けてから、カナエは無言で距離を詰めると、寝転がり弦司の太ももに頭を乗せた。弦司はカナエの意外な行動に驚くと同時に、安心で息を吐いた。カナエの空気も、先のものと比べれば和らいだ気もする。

 弦司はカナエが少しでも居心地が良くなるように、脚を組み直しながら彼女を見つめる。浴衣姿の彼女は、今日は頭に簪を差していない。夕闇の中、艶やかな長い黒髪が、まるで絨毯の様に広がる。月明かりが美しく輝かせる。

 弦司の指が、思わずカナエの髪を梳く。カナエは動かない。殺風景な庭を見つめる。

 

 

「……何か、あったのか?」

「……」

 

 

 弦司が迷いながら訊ねる。カナエが話さないから訊ねるべきか迷った。だが、今の弦司にカナエが何を思っているか分からない。聞かなければ前に進めない。

 少しだけカナエから剣呑な空気が漏れる。それでも、彼女はポツリと呟く。

 

 

「……熊谷さんの近況、聞いた」

「しのぶからか?」

「うん」

「それで、何か嫌な事でも聞いたのか?」

「……熊谷さん、他の男性と結婚して海外へ行ったそうよ」

「そうか」

 

 

 突然、カナエが横目で弦司を盗み見る。目が合った。カナエは慌てて目を庭へと戻した。

 

 

「そうか、って。他に何かないの?」

「ホッとした。俺は酷い事したからな。彼女がどんな選択をしても、幸せになってくれるならそれでいい」

「……」

 

 

 弦司は正直な気持ちを伝えた。ハッキリ言って、それ以外の気持ちはなかった。

 環と別れて一年。その半分以上を、人としての生を諦めて過ごした。人としての生活を取り戻した後も、彼女と過ごせたのは不破家にいた三日間だけだ。

 この一年間、なるべく環を想わないようにしていた。想いが乾くようにと願って、何度も何度も傷つけ放置した。その上を新しい気持ちで塗り替えた。

 環に対する情は残っている。だが、好意と呼べるものはもう残っていない。これが良い事か悪い事か。弦司には判断がつかない。ただ、カナエと今を心置きなく過ごすには、最善だとは思っている。この気持ちを、弦司は変えるつもりはない。

 カナエの髪を梳く指に力が入る。

 

 

「それで、一体何が引っかかってるんだ?」

「私だったら、絶対に最期まで想い続けるのに」

「……」

「でも、弦司さんはそうじゃない……」

「――っ」

 

 

 弦司はドキリとした。環に対する己の心の変遷は、まさにカナエが危惧している通りだ。弦司に反論する術はない。

 カナエが言葉にして、気持ちを形にしていく。弦司は黙って聞く事しかできない。

 

 

「幸福を壊されない様に、頑張るしかないって分かってる。でも、別の道を進んでいくあなたを想像しちゃう。悪い未来が頭から離れない」

「……」

「今が幸せだからかしら。どんどん先が怖くなる」

 

 

 カナエは弦司を見上げると、腕を伸ばし弦司の頚に縋りついた。

 何となくカナエの気持ちが分かった。先が、未来が不安なのだ。

 どれだけ言葉にしても、どれだけ距離を詰めても、どれだけ想い続けても。環の様に、もしくは人間だったカナエの時の様に、幸福は一瞬で壊される。幸福が失われた瞬間、鬼のカナエと弦司は、きっと何も残らず消えていくだろう。

 今が幸せだからこそ、その一瞬が訪れる事が怖い。例え不幸を乗り越えたとしても、カナエが手の届かないモノになってしまえば、弦司は別の幸せを作ろうとする。いつまでも壊された幸せを探すカナエと、もう道は交わらない。

 環の近況は、カナエに未来を想起させた。失い、それでも進もうとする弦司。今だけを感じていたカナエが、考えないようにしていた未来を思い出させた。

 鬼になったあの日、弦司が無理やり閉じ込めた気持ち。閉じ込めていた蓋が、ふとした拍子に外れた。吹き上げた不安は、どんどん広がっていき止まらない。止める術がない。

 

 

(ままならないな。鬼になったからこそ、一緒に居られるのに。鬼だから、不安で押しつぶされそうになる)

 

 

 カナエは弦司に依存している。以前よりももっと大きく深く。弦司がいなければ、ふとした拍子で太陽を浴びるのではないかと恐れ、日中は一人では歩き回れない。夜は誰もが眠り、静寂となった世界に取り残された気になる。寂寥感に包まれ、一人では落ち着く事もできない。

 弦司とカナエは愛し合っているだけで一緒にいるのではない。日中は太陽が恐ろしくて。夜は酷く長くて寂しくて怖くて。昼も夜も恐ろしくて怖くて、弦司とカナエは絶対に離れない……いや、離れられない。

 ()は幸せを感じられる。だが、僅か一寸先の未来を考えるだけで、そこには闇しかない。そして、今は明るく幸福だからこそ、先の暗闇が深く暗く見えてしまう。

 

 

「カナエ」

「弦司さん……私、弱くなったのかもしれない。これからもっと、弱くなるのかもしれない。これから沢山、辛い事があるのに。強くならなくちゃ、いけないのに……」

 

 

 弦司はカナエが離れない様に、横抱きで受け止める。受け止める事しかできない。

 カナエの感じている不安は、鬼になった弦司がずっと抱えている現実だ。解決する術はない。あれば、弦司もカナエもここまで傷つかず、何も不安を抱かず過ごせていただろう。

 今の幸福を感じて、いずれ訪れるであろう不幸に怯えながら、それでも堪えて幸せを目指す。それしか弦司達、人の心を持つ鬼にできる事はない。

 

 

「弱くなってもいい。足りないところは補い合おう。怖いなら俺を使って埋めてくれ。俺で幸せを感じてくれ」

「……」

「二人で寄り添って生きていこう」

 

 

 カナエはぎゅっと弦司の頚に、ぶら下がる様に抱き着く。僅かに、カナエのすすり泣く音が聞こえた。全てを流し終えるまで、弦司はカナエの頭を撫でた。

 

 

「……首元が寂しい。あなたが私の物だって、証が欲しい」

 

 

 弦司の首元を撫でながら、カナエは少しだけ湿った声で言う。

 弦司はカナエの頭をゆっくりと撫でる。

 

 

「発注したんだろ? 届いたらちゃんと着けるから」

「やだ。今すぐ、あなたが欲しい」

「俺はお前の物だって。でも、う~ん、そうだな……」

 

 

 カナエが急に我が儘になって、弦司に甘える。不安を溜められるより、こうやって無理難題を言って弦司を困らせてくれる方が何倍もいい。何より、こういうカナエも可愛い。

 とはいえ、今回はどうやって応えたら良いものか悩む。前世の知識がある弦司は二人分……いや、それ以上の知識がある。前世が随分と平和だったためか()()()()()も豊富にある。カナエに()()()()()()を教えて、やらせればかなりの不安が解消されるだろう。

 だが、同時に別の不安がある。

 恋心が捻じれたせいか、性癖も歪んでいる傾向がカナエには見られた。いや、そもそもムッツリだったのかもしれない。変な事を教え込めば、のめり込んでポンコツになる可能性がある。

 

 

(これぐらいなら、いいよな……?)

 

 

 弦司は前世の知識から、一つの行為をカナエに伝授する。

 

 

「首筋に唇を当ててくれないか?」

「えっ!? あの、何で……?」

「まあまあ、とりあえずやってみてくれ」

 

 

 困惑するカナエに、弦司が勧める。

 しばらくカナエと弦司の問答が続いた後、カナエはしぶしぶと唇を押し当てた。カナエのぷっくりした唇が、感覚が鋭敏な首筋へと当たる。何とも表現しがたい快感があった。同時にイケない遊びを教えて自分色に染めている様で、ちょっと後ろ暗い悦びが生まれる。

 だが、本番はここからだ。

 

 

「そのまま、吸ってみてくれないか?」

「……」

 

 

 カナエは言われるがまま、チュッ、っと僅かな音を立てて、首筋に唇を当てたまま吸い付く。

 

 

「離れてみてくれないか」

「? ……はい。これで――っ!?」

 

 

 カナエが唇を離すと、目を見開いて固まった。弦司の首筋には横長の赤い跡がある事だろう。カナエは耳まで真っ赤になっていた。

 前世の知識でキスマーク――あえて、和名をつけるなら、吸引性皮下出血――と呼ばれるものだ。

 首元が寂しいと言うなら、自分の物だという跡を付ければいい……との考えで弦司は教えたのだが、

 

 

「はふぅ……!」

(やっべ。間違ったかもしれん)

 

 

 カナエがいつもより数段目尻をトロンと溶かし、熱い吐息をこぼす。新しい扉を開けてしまったのかもしれない。

 

 

「んぅっ」

「っ!」

 

 

 僅かに後悔する弦司。そんなもの知るか、と言わんばかりにカナエが再び弦司の首筋に吸い付く。心なしか、さっきよりも強く吸い込む。

 そして、カナエは大きく音を立てて唇を離すと、弦司の首筋を見つめ妖艶に微笑んだ――と思ったら、すぐに不機嫌になった。

 

 

「弦司さん」

「……何でしょうか?」

「すぐになくなっちゃうんですけど」

「あっ、そっか。鬼だから、すぐに治るのか……」

「…………」

 

 

 弦司が当たり前の事実を言うと、カナエがますます不機嫌になる。ただしその目つきは、恐ろしく鋭い。

 

 

「以前にも誰かにやってもらった事があるの……?」

 

 

 どうやら、弦司の言葉から人間だった時に経験した時と現在を比較した、と思われたようだ。

 今世では、こんな事やるような女性と会った事もない。カナエぐらいのものである。

 知識の元も前世である。正確には弦司ではない。

 

 

「違う違う。ただの知識さ」

「ふーん……」

 

 

 否定すれば、カナエの目つきは僅かに和らいだ。とはいえ、証明する()が残らないのは、カナエにとってかなりの減点だったらしい。上向いた気持ちはすでに霧散している。

 しかしながら、他に証明する方法も思いつかないのだろう。カナエは再び弦司の首筋に口づけした。

 

 

「むぅっ」

「いぃっ!?」

 

 

 ただし、吸い付く力は先の比ではない。チュルチュルと音を立てて、弦司の皮膚を吸い込む。弦司の首筋が、カナエの口に引っ張られる。

 純粋な快感はない。僅かな痛みと正体不明の背徳感が、弦司の感覚を狂わせる。

 だが、どれだけ強く吸い込もうと、音を立てようと、鬼の再生能力には敵わない。カナエの目の前で赤い横長は消えていき、彼女はますます頬を膨らませる。

 

 

「むむぅっ!」

「カ、カナエちょっと――!!」

 

 

 カナエは意地になって弦司の首元に吸い付いた。

 強く殊更音を立てたと思ったら、数打てば残ると唇を押し当てる箇所を短時間で何度も変えてみたり。さらには、弦司の浴衣をはだけさせ胸元にも口づけする。

 唇の音だけが、夜の縁側に響く。カナエの艶やかな口が何度も弦司の首筋に押し当てられている。その事実を認識するだけで、快感が溢れてくる。もう弦司の体は高揚感でふわふわしてきて、されるがままだった。

 カナエに飽きるような様子は見られない。口づけに快感を見出したのか、時折「残れ~」と呪文を唱える始末だ。

 もしかして、跡が残るまでこの時間は続くのだろうか。もう跡が残ったっていい。というか、彼女の跡が弦司も欲しい……そんな風に思い始めた頃。

 ――ついに奇跡は起きた。起きて、しまった……。

 

 

「んんっ? ……んんんっ!?」

「えっ?」

 

 

 カナエの声が焦ったものに変わる。弦司が不審に思い視線を落とす。

 浴衣がはだけた胸元に、カナエがしなだれかかって口を大きく開けている。その視線の先、弦司の胸と首元には――赤い横長の内出血が無数。ただし、治る気配は一向に見られない。キスマークが本当に残っていた。

 

 

「あれっ。えっ。嘘」

「えっ。いや、何で」

 

 

 二人してしばらく慌てた後、一つの答えにたどり着く。

 ――血鬼術。

 そう、変化を操る血鬼術だ。これを使い、肌に内出血を残した状態に『変化』させれば、跡が残っているように見える。

 弦司とカナエは乾いた笑いを上げると、

 

 

「なーんだ。もう弦司さん、驚かせないで欲しいわ」

「はー、焦ったぁ。驚かせるなよ、カナエ」

「……驚いたから、元に戻してもいいわよ」

「……驚いたから、元に戻してくれないか?」

 

 

 互いに笑顔を引っ込め、真顔で要求する。弦司の体の跡は一向に消えない。

 

 

「ね、ねえ、冗談よね、弦司さん……?」

「いやいや、カナエさんこそ冗談でしょう……?」

「私の事、大好きなのは伝わったから、もういいわよ?」

「俺の事、大好きなのは分かったから、戻していいぞ?」

 

 

 今度は二人して、頬を引き攣らせる。お互いの様子から、どちらも嘘や冗談を言っている風には見えない。

 ――つまり、これは二人にとって予想外の異常事態だった。

 

 

「どうするのよ!?」

「どうするんだよ!?」

 

 

 弦司は浴衣の胸元を隠し、カナエはきっちりと帯を締め直す。胸元の跡は隠れたが、首筋の跡は浴衣では隠せない。

 ――その数、十数個は下らない。

 弦司とカナエは焦る。つい先日、節操を持てずにしのぶにこってりと絞られた。

 しのぶの目の前に、弦司がこんな姿で現われでもしたら。ただでさえ目減りしているカナエの姉としての威厳が死に絶える。元々ない弦司の義兄としての尊厳は絶滅する。すぐにでも消さなければ、家庭内カースト大転落の危機だった。

 二人で必死になって皮膚を伸ばしたり、浴衣の袖で拭ってみる。だが、一向に跡は消えない。

 

 

「あーもう……マジでどうするんだよ」

「本当にどうするつもりよ」

「……」

「……」

 

 

 互いの声音に、どこか相手を責めるような空気を感じる。

 二人は苛立ちから、互いを睨み付けた。

 

 

「……ねえ、何でそんな他人事みたいに言うの?」

「はぁっ? そりゃ俺は被害者だからな。他人事にもなるだろ」

「……」

「……」

 

 

 互いの言い様に、カチンと頭にきた。

 

 

「弦司さんの血鬼術でしょ? どうにかしてよ」

「残れとか言ってたのはカナエだろ。どう考えたってカナエの血鬼術だ。お前がどうにかしろって。そもそも、俺の頚に吸い付きまくったのはカナエじゃないか」

「何それ? 無知で無垢な私に、イケない事を仕込んだのは弦司さんでしょ。あなたが責任取ってどうにかしてよ」

 

 

 ほとんどやった事もない喧嘩を、二人は絶体絶命の危機に始めた。

 どんな危機的状況でもぶつかり合わなかった二人が言い争う事態。それが、現状がどれだけ異常状態か知らせる。しかし、知らせた所で何か対応策が思い浮かぶはずもなく、二人の言い争いは激しくなっていく。

 

 

「そもそも、カナエが首輪とか言うのが悪いんだろ! 変な事言わなければ、俺は何も教えなかった! 俺は悪くない!」

「何で私のせいにしてるのよ! 弦司さんだって、最後にはノリノリで私に教えたくせに! 私は悪くありません!」

「無責任な事言うなよ! しのぶに見つかったら、どうするつもりだ!」

「あなたがやらせたって言うもの! 私は大丈夫です!」

「なら、何回もやったのはカナエだって俺は言うぞ!」

「ならって何よ!」

「ならはならだよ!」

 

 

 至近距離で睨み合う二人の耳が、足音を捉える。

 以前、夢中になったせいでしのぶに見つかってしまった。その時の反省を活かして、弦司とカナエは二人の時でも周囲に気を配る事にしていた。

 

 

「ああもう、どうしてこんな時に!」

「弦司さん、頚! このままじゃ見つかるわ!」

「えっ、あっ、どうすれば」

「とにかく隠さないと――!」

 

 

 二人は慌てて離れると――しかし、弦司の首筋の跡に思い至り――どうするあれするとワチャワチャしてから、

 

 

「お二人とも、どうかなさいましたか!?」

 

 

 縁側に繋がっている一室から、浴衣のアオイとカナヲが駆け込んでくる。

 

 

「……本当にどうしたんですか?」

 

 

 アオイは怪訝そうに眉根を寄せ、カナヲは無表情のまま首を傾げる。

 アオイとカナヲが見たものは、カナエを俗に言うお姫様だっこする弦司であった。首元が見えない様に、カナエの腕はガッチリ弦司の頚を抱き締めている。

 

 

「さっきから随分と大騒ぎされてましたが、どういった経緯でそうなったのですか?」

「えっと……」

「ほら、やっぱり俺とカナエってカナエの方が強いだろ? もっと強い所を見せろって言われて、これならどうだ! って……」

「そ、そうなのよ、アオイ! 私もやっぱり女性だから、夫の力強い所を見たいなぁって!」

 

 

 弁解する弦司とカナエに、アオイは不審の目を向ける。

 そして、溜め息を一つ吐き出すと、

 

 

「……まあ、お二人ならそういう事もあるでしょう」

「……」

「……」

 

 

 その一言でアオイは納得した。ちょっと複雑な弦司とカナエであった。

 とはいえ、これで一先ずは危機を脱出……と思う二人の前に、カナヲがお姫様抱っこされているカナエへ一通の手紙を渡す。

 

 

「これは?」

「二人とも明日は空いていますよね?」

 

 

 疑問符を浮かべるカナエに、アオイが予定を尋ねる。事実上、軟禁状態の弦司とカナエに予定など存在しない。

 

 

「空いてるけど……」

「どうかしたのか?」

「二人の処遇の報告に、柱の方々がいらっしゃいます。しっかりと準備していて下さい」

「えぇっ!?!?」

「うっそぉ!?!?」

 

 

 とんでもない報告に、弦司とカナエは驚愕に飛び上がりそうになる。

 柱が報告に来る事や、ついに二人の処遇が決まるのか等々、もちろん聞き逃せない事はある。

 だが、それ以上に――。

 

 

これ(キスマーク)で柱の前に出るの!?)

 

 

 二人して全身から冷や汗を流す。こんなものがバレでもすれば、ヤバイ夫婦確定だ。もしかしたら頭に変態、とか付くかもしれない。

 

 

「延期とかできないのか!?」

「どうして何も予定がないのに、弦司が延期するのですか? 柱の予定に合わせるに決まっているでしょう」

「だ、だよなぁ……」

 

 

 せめてもの抵抗として弦司が変更を提案するも、アオイに一刀両断される。

 

 

「それでは明日の午前中、忘れない様に。慌てないよう今日中に準備だけはしておいて下さいね」

 

 

 二人を残して、アオイとカナヲは縁側から離れていった。

 

 

「……」

「……」

 

 

 アオイとカナヲの姿が見えなくなってから、二人は動き出す。

 

 

「とにかく、明日まで血鬼術を制御下にして!」

「跡を消す!」

 

 

 今はとにかく、首元を綺麗にする。そればかりを考えて、鬼の夫婦は行動を始める。

 ――処遇や未来は、完全に脇へ置き去って明日を迎えた。

 

 

 

 

 長期間に渡った緊急柱合会議。カナエの経過観察の末、とうとう二人の処遇が決まった。今日はその処遇を伝えに、何と三人もの柱が訪れていた。

 ――盲目の隊士・悲鳴嶼行冥。

 ――元忍・宇随天元。

 ――不愛想・冨岡義勇。

 日の当たらない和室に柱を含めて計七名が正座する。カナヲときよ、すみ、なほは隊士ではないので、部屋にはいない。外で聞き耳を立てている。

 緊張の面持ちで、蝶屋敷の面々は柱達の向かい側に座る。その中でも、弦司とカナエは気合が入っているのか、二人とも洋服姿だった。

 弦司は黒色のタキシードで、襞胸のシャツで首元はきっちり蝶ネクタイを締めている。カナエは紺色のワンピース型の襟が高いドレス。彼女には珍しく化粧までしていた。

 二人は特に顔を強張らせて待つ。とうとう二人の未来が決まるから――ではない。

 

 

(見えてないよな……!)

(バレないでお願いします、天国の父さん母さんお願いします)

 

 

 弦司の首元の跡がバレないかどうか、気が気ではないからだ。

 結局、二人して血鬼術の制御は失敗した。次善の策として、襟の高い服を着飾る事で何とか誤魔化していた。そして、いい塩梅に緊張した事で「どんな処遇になるか気になっている」と誰もが勘違いしていた。

 とりあえず、掴みは成功だ。なるべく弦司は気配を消し、カナエが受け答えを行い、恙無く報告を終えるだけである。

 一番最初に口を開いたのは行冥だった。

 

 

「まずは、二人に祝いの言葉を贈ろう。二人の末永い健康とご多幸をお祈りいたす」

「ありがとうございます、行冥さん」

 

 

 何食わぬ顔で礼を言うカナエ。

 行冥は涙を流すと、次いで、見えない目が弦司を射抜く。

 

 

「ただし、少しでも彼女を不幸にすれば、私は君を認めない」

「はい、肝に銘じておきます」

「それと――」

「悲鳴嶼、今日の目的は違うだろ。ったく、こうなると思ったから俺が着いてくる羽目になったじゃねえか」

「…………南無」

 

 

 説教が始まりそうになり、天元は予想していたようで行冥を止める。誤魔化すように念仏を唱える行冥に天元はため息を吐きながら引き継ぐ。

 

 

「まずは結論から言うと、お館様は鬼に対処するよりも鬼殺隊へ貢献する事を望んでいらっしゃる」

「? それはどういう意味でしょうか?」

「鬼殺を主な生業とせず、訓練に援護、研究にこそ心血を注いで欲しいそうだ」

「……弦司さんの時と比べて、随分と消極的ですね」

 

 

 カナエが困惑気に眉尻を下げる。

 今まで、鬼殺隊にいた鬼は弦司一人だ。その弦司の役割は、主に()()の援護。隠や隊士の戦闘を補助し、時に鬼と相対し鬼殺を行っていた。だが今、天元が言ったカナエと弦司の処遇は訓練と援護と研究……後方支援に回すのとほぼ同義だ。今まで弦司の希望で鬼殺を行っていたとはいえ、今回の判断はあまりにも軽く、優しすぎる。

 

 

「今の私と弦司さんであれば、上弦の鬼とだって戦えます。使わない手はないでしょう。まさか、私達の心情を慮った……とは仰らないですよね?」

「ないとは言わないが、他にも理由はある」

 

 

 天元が指を三つ立てる。

 

 

「まずは単純に鬼殺隊の戦力の問題だ。胡蝶はともかく、俺や悲鳴嶼、冨岡と不死川は最低二人いて、ようやく上弦の鬼と戦える。胡蝶に柱二人いて、やっと討てる可能性が生まれる。ぶっちゃけ、今の鬼殺隊でそんな状況作るのは、まず無理だ。なら、上弦の鬼と同等の力を持つ胡蝶を、成功するかどうか分からない討伐に向かわせるより、隊士を鍛える方がよほど効果はあると判断した」

「ですが、私達なら少なくとも上弦の弐を討つ事は可能です」

「かもな。だが、お前達でも歯が立たない可能性がある化け物が、一体いるだろう」

「……上弦の壱ですか」

 

 

 童磨は上弦の()。つまり、あの童磨でさえ敵わない鬼が、鬼舞辻無惨以外にも一体存在する。

 

 

「お館様はお前達が活発に鬼殺を行う事で、上弦の壱が現れる事を警戒されておいでだ」

「上弦の弐が一方的に敗れたとなれば、壱が動く可能性が高い、と?」

「ああ。確かにいずれは討たないといけない鬼だろう。だがな、現状の戦力差で挑むのは勇気ではなく無謀だ。そもそも、お前達が上弦の弐に圧勝できたのも、血鬼術の相性が良かったからに過ぎない。上弦の壱を討てる……いや、そもそも上弦の鬼を討てると考えるのは、早計過ぎるだろう。まあ長々と話したが、上弦の壱に討たれる事を避けたい、というのがお館様のお考えの一つだ」

 

 

 今まで、鬼殺隊は鬼舞辻無惨を倒すという大目標はあったものの、どこまで強くなればそれが可能なのか、詳細な方針が定まっていなかった。それが上弦の弐の出現と、カナエの鬼化で一つの目安ができた。もちろん、目安ができたからと言って鬼舞辻無惨討伐に足りえる訳ではない。それでも、討伐に必要な下限値が見つかった。この基準まで、まずは柱を、そして他の隊士を引き上げる。最悪、引き上げはせずとも、上弦の鬼の強さを鬼殺隊全体で共有する。そのために、弦司とカナエは決して失えない、という事だろう。

 カナエは納得して、最後の理由を訊ねる。 

 

 

「それで三つ目は?」

()だ」

「それはお館様の……?」

「ああ。お館様が仰るには『まだその時じゃない』そうだ。どうやら、来るべき時までお前達にはあまり派手に動いて欲しくないらしい」

 

 

 産屋敷家は千年近く鬼殺隊を率いて鬼と戦い続けている。その歴史の中、壊滅の憂き目にあったのは一度や二度ではない。だが、その度に危機を脱し生き抜いている。

 代々産屋敷の当主が持つ直感……それが、今回の処遇を決断させたようであった。

 それに、と天元は続ける。

 

 

「お前ら()()の信頼は十分ある。この一カ月の動向を見ても、今までのお前達があげた成果を裏付ける結果しか得られなかった……まあ、監視を担った隊士には悪い事をしたが、それは地味にどうでもいい。とにかく、人を喰らうなんて事はないと、派手に信じている……喜べ、これは柱全員の意見だ」

「柱、全員……!」

「お前達がやってきた事が、ようやく派手に実を結んだって訳だ」

 

 

 緊急柱合会議で一度、弦司とカナエは糾弾された。その事もあり、弦司は身を粉にして人のために戦った。カナエは裏で、彼が危険ではない事を伝えて回った。

 味方となり得る鬼がいる事を弦司とカナエが証明し続けた。その積み重ねが、新たに鬼になったカナエに適用された。

 カナエが涙ぐむ。今までの功績が認められた、だけではない。仲間達が、カナエを認めた。鬼になる事で人であった軌跡も失われなかった。むしろ、今日の報告で人であった軌跡を確認できた。今までの活動が間違い出なかったと知れた。それが何より嬉しかった。

 行冥は大粒の涙を流し、 

 

 

「私達は君達を認める。これからも、鬼殺隊にいてもらいたい」

 

 

 弦司とカナエに否やはない。二人で喜んで頷く。

 こうなると気になるのは、二人の鬼殺隊内における立ち位置だ。少なくとも、普通の隊士と同じという訳にはいかない。

 カナエは目元を拭うと、天元に訊ねる。

 

 

「私はまた柱をやるんですか? あっ、でも鬼になりましたから、花柱ではなく鬼柱でしょうか?」

「いや、お館様は遊撃を頼みたいそうだ」

「遊撃?」

 

 

 天元の聞きなれない言葉に、カナエは頸を傾げる。

 天元は説明を続ける。

 

 

「胡蝶は陽の光を浴びられない。悪いが、これでは柱としては十全に働けない」

「それは……はい、そうですね。それは仕方ないです」

「だが、柱と同等以上の力は持っている。だからこそ、お前達には鬼殺隊の隊士とは別枠として、お前達が一番効果的になるよう働いてもらいたい」

 

 

 鬼と人間では、当然生活様式は異なる。人は日中動けるのに対し、鬼は夜間だけだがいくらでも動ける。弦司とカナエを効果的に動かすには()……いや、そもそも隊士という人間と同じ位置づけが非効率的なのだ。

 だからこそ、今の鬼殺隊にない遊撃という位置づけで、訓練と援護と研究に回って欲しいとの事だった。

 

 

「さっきも言ったように、お前達には隊全体の援護に回ってもらいたい。鬼殺の援護に、柱や隊士の援護に鬼の研究……ただ、そうなると常に蝶屋敷にいられなくなる」

「なぜですか」

 

 

 ここで初めてしのぶが割って入った。

 

 

「蝶屋敷を拠点にして、援護に回れば良いじゃないですか」

「おいおい、柱達が派手に忙しい事を忘れたのか? 忙しい柱の元には、お前ら夫婦が行くんだよ」

「でも――」

「それに、また上弦の鬼が来ないとは限らない。悔しいが、今の俺達じゃあ二人以上いなければ足手まといになる。戦力が集結できない内は、戦いは避けるべきだ。なら、二人には攪乱の意味も含めて、拠点を定めない方が良い」

「――っ」

「理解したか?」

 

 

 しのぶは下唇を噛むと、悔しそうに俯いた。最愛の姉が生き残ってくれた。鬼殺隊にも認められた。だから、また二人で暮らす事ができると思っていたのだろう。

 カナエはそんなしのぶを見て微笑むと、しのぶの隣に膝を進めた。

 

 

「しのぶ。宇随さんは()()って言ったでしょ。別に二度と来られなくなる訳じゃないのよ。私の経過観察や鬼の研究で立ち寄る事は少なくないから、そんな顔しないの」

「うん、ごめん……もう大丈夫」

 

 

 しのぶは目元を擦ると、すぐに顔を上げた。もう悔しさも悲しみも残っていない。すでに前を向いて動き始めている。

 しのぶの成長に、柱の誰もが目を見張った。そして、遠からず彼女こそが鬼殺隊を支えるだろうと皆が思った。

 

 

「話は以上ですか?」

「おっと、地味に忘れる所だった……冨岡」

 

 

 話は終わったのかとしのぶが訊ねると、天元が先から不愛想な石像となっていた冨岡を促す。

 冨岡は少しだけ頭を下げると、一言。

 

 

「世話になる」

「……何が!? えっ、私が冨岡さんの世話をしろという事ですか?」

 

 

 天元がため息を吐くと、

 

 

「今後、警戒を強めていくが、今回の様に蝶屋敷が襲われる可能性もない訳じゃない。その時、妹だけじゃ不安だろ。だから、冨岡がもしもの時のために、頻繁に蝶屋敷に訪れる事になった。訪れる時は『世話になる』からよろしくしてやってくれ」

「そう仰いたかったんですか!? 分かる訳ないでしょ! 冨岡さん、言葉が足りな過ぎです!」

「……」

「不思議そうな顔しないでよ!?」

 

 

 しのぶがワイワイ騒ぎ、場の空気が弛緩していく。天元と行冥も、微笑ましい物を見るような優しい眼差しで、しのぶと冨岡を見る。どうやら、彼らが伝えたい事はおおよそ伝えたようだ。

 つまり――。

 

 

(乗り切った!)

(やった……ありがとう、父さん母さん……!)

 

 

 弦司とカナエが肩の力を抜いて脱力する。キスマークがバレなかった上、鬼殺隊でも非常に良い立ち位置を手に入れられた。最上の結果だった。後は首筋が見られない様に細心の注意を払い生活し、旅立つだけだ。

 ――だが、また奇跡は起きた。起きて、しまった……。

 

 

「お話し中すみません、カナエ様、弦司さん、お荷物が届きましたよ」

「前田まさおさんって方からのお届け品です」

「隊服みたいですよ」

 

 

 きよ達三人が襖の向こうから声を掛ける。彼女達の口ぶりから、裁縫係・前田まさお(ゲスメガネ)から隊服が届いたらしい。

 

 

(マジかよ!?)

(嘘!? 何で今!?)

 

 

 弦司とカナエは内心、滅茶苦茶焦り始める。首輪は前田まさお渾身の一作だ。当然、カナエは彼に再作成を依頼した。隊服に混ざって入っている可能性が十二分にあった。ここで開くような事態は、避けねばならない。

 

 

「部屋まで運――」

「あのゲスメガネ……! きよ、その箱貸して」

「はい」

 

 

 指示を出すカナエをしのぶが遮った。そして、立ち上がり襖を開け放つと、目尻を吊り上げて隊服が入っていると思われる木箱をきよから受け取った。

 弦司とカナエが焦る。

 

 

「ちょ、ちょっとしのぶ!?」

「どうしたんだよ!?」

 

 

 弦司とカナエも立ち上がり制止させようと声を掛ける。が、しのぶは止まらない。

 

 

「いい機会だから見て下さい、悲鳴嶼さん、宇随さん、冨岡さん! あの男、女性隊士に対して卑猥な隊服を渡すんですよ!」

「何っ……!」

 

 

 しのぶの発言に行冥までが憤って立ち上がる。このままでは、箱の中身を皆に見られてしまう。

 弦司とカナエは焦り、しのぶから木箱を奪おうとするも、宇随と冨岡が不審の視線を弦司達二人に向けてくる。

 結果、弦司とカナエの動きは鈍る。

 

 

「これが、その証拠です!」

 

 

 そうこうしている間に、しのぶが木箱をひっくり返した。

 ドサドサと畳に散らばる二着の隊服。その上に、黒いぶ厚い固定具の付いた帯――いわゆる首輪が二つ、転がり落ちた。

 

 

「えっ……?」

(ああああああああっ!!)

(うああああああんっ!!)

 

 

 しのぶは言葉を失い、弦司とカナエは心中で絶叫した。

 状況は最悪だ。柱三人に加え、しのぶ、アオイに襖が開いてるから、カナヲ、きよ、すみ、なほにも見られている。まるで親戚一同に艶本が見つかったかの如き事態だった。

 この場を乗り切る方法は一つ。

 

 

(前田まさお――!)

(彼に罪を擦り付ける――!)

 

 

 弦司とカナエは一瞬、目配せをして全てを前田まさおに押し付けることにした。最低だった。だが、蝶屋敷の皆や行冥に変態に思われるよりかは遥かにマシだ。

 

 

「えっと……」

「何だこれ?」

 

 

 二人は素知らぬ顔で首輪を拾い、さも初めて見たという表情を浮かべた。この夫婦、すっかり面の顔がぶ厚くなっていた。

 カナエは困惑したように眉尻を下げ、弦司は興味深そうに首輪を眺め、しのぶに話を振る。

 

 

「最近、鬼殺隊でこんな防具でも流行っているのか?」

「馬鹿言わないでよ!? 流行っている訳ないじゃない! こんなの着けて戦うって、どんなド変態集団よ!?」

「ド変態……」

 

 

 しのぶが青筋を立てて怒鳴り上げる。しのぶの反応から、カナエが発注したものだと露見してしまえば……恐ろしくて二人は身震いする。何としてでも、隠し通さなければならない。

 

 

「全く……どういうつもりなんだろうな」

「前田君には困ったものね」

「困った、じゃないわよ。私、正式に抗議するから!」

「私からも伝えておこう」

 

 

 憤るしのぶと行冥を見ながら、弦司とカナエは苦笑して隊服と首輪を箱に戻す。このまま流せば、全部前田まさおに罪をおっ被せられるだろう。

 ――だが、弦司達の目論見は崩れ去る。

 

 

「それは何だ?」

 

 

 義勇が何やら落ちていた紙を指し示す。どうやら、ひっくり返した時に落ちたようだった。

 しのぶは拾うと、

 

 

「発注承りましたが、もう勘弁して下さい……胡蝶カナエ様!?」

「!?!?!?」

 

 

 読み上げ、信じられないものを見るように、目を見開いてカナエを見た。ちなみに、異常を感知したアオイはきよ達を連れて、部屋を離れていった。

 部屋に残った柱三人としのぶの視線が、カナエに集まる。カナエの額から、大量の汗が流れ始める。弦司はもう吐きそうだった。だが、まだ確信という訳ではない。疑惑の段階だ。弁明次第ではどうにかなるはずだ。

 カナエはやれやれ、とでも言うように長い吐息を吐く。ただし、指先は震えていた。

 

 

「私に罪を擦り付けるなんて、前田君は酷いわ」

「……姉さん直筆の手紙もあるけど」

「!?!?!?」

 

 

 しのぶが無表情で紙に添付された書類を見せつける。前田まさおに首輪の作成を頼む手紙だった。どうやら、前田まさおはもう二度とやりたくないため、証拠の品を揃えて突き返してきたようだ。それを最悪にも、しのぶに見られてしまった。

 しのぶは当然、カナエの筆跡を知っている。そのしのぶが、姉の手紙と判断した。もう言い逃れは不可能だった。

 

 

「はわわ」

 

 

 言い訳できない証拠に、今度こそカナエの表情が崩れて顔色を青くする。弦司は眩暈がして倒れそうだった。

 しのぶは書類を落として俯く。

 

 

「そん、な……」

「こ、これは違うのよ、しのぶ!」

 

 

 カナエは声音を震わせながら、しのぶに恐る恐る近づく。

 

 

「これは……そう、防具! 防具だから、決して変な意味は全く――」

「――った」

「えっ」

「姉さんが……ド変態になっちゃった」

「ドヘ――!? し、しのぶさん!?」

 

 

 しのぶは顔を上げると、大粒の涙を流して断じた。

 妹の涙に勝てるはずもなく、カナエが膝から崩れ落ち、流れるように土下座する。

 

 

「町でも評判の美人で習い事も何でもできて、優しくて清廉な姉さんが……首輪を頼むようなド変態になっちゃったぁっ!!」

「お願いやめて……! 行冥さんも宇随さんも冨岡さんもいる前で、もうやめてぇっ……!」

 

 

 最悪の事態になって呆然とする弦司は、妻の土下座する姿に俄かに我に返る。こうして呆然としている場合ではない。このままでは、弦司に延焼する可能性だってある。早く事態を収めなければならない。

 だが、どうすれば収まるのか、弦司には見当もつかない。

 

 

「おい」

「っ!?」

 

 

 どうやって収拾しようか考えていると、行冥が弦司を呼んだ。振り向いたその先には、身を震わせる行冥がいた。その背中には、般若が見えた。

 行冥はじゃりじゃりと数珠を苛立つように鳴らせると、

 

 

「しのぶの言う通り、優しくて清廉な娘()()()

(もう過去形にされてる……)

「それが突然、こうなった……原因は君だな」

「!?!?」

 

 

 断定されて、弦司の胃が悲鳴を上げる。

 それはある意味、当然の結論だった。弦司に会うまで、カナエにそういった傾向はなかった。なら、何が原因かなど考えるまでもなく弦司だ。

 しのぶが歯をむき出しにして、弦司を睨みつける。それだけで、胃に穴が空きそうになる。

 

 

「やっぱり、お前が姉さんを誑かしたか!」

 

 

 しのぶが怒りながら弦司に詰め寄る。案の定、弦司に延焼してしまった。

 弦司はカナエを見るが、あうあう言うだけで何もしない。いや、何もできない。

 

 

「おい、宇随に冨岡、助け――って、どっちもいない!?」

 

 

 破れかぶれに他の二名を呼ぶと、どちらもすでに部屋にいなかった。こんな面倒な事態に付き合ってられないと逃げたのだろう。

 

 

「姉さんに一体何をしたの! させたの!」

「これが幸せなどと私は認めない」

「いや、ちょっと、やめて!?」

「!? 二人ともちょっと待って!」

 

 

 弦司は抵抗できず、しのぶと行冥に掴みかかられた。弦司とカナエは危機感から制止の声を上げるが、二人は止まらない。服の下には、さらなる爆弾が仕掛けられている。見られたとしても、生真面目な二人なら何か分からないはずだが、見られないに越した事はない。

 弦司とカナエは何とか二人を止めようとするも、興奮したしのぶと行冥は弦司を掴んで左右から引っ張り続ける。

 

 

「私の姉さんは変態じゃない姉さんよ! 変態じゃない姉さんを返せ!」

「純粋無垢な彼女に何をした。私は君を許さない」

「待って! 服を引っ張らないで!」

「ふ、二人とも落ち着いて! もうこんな事しないからちょっと待――!」

 

 

 右へ左へ揺れる弦司……当然、ただの洋服が耐えられるはずもなく。あえなく、弦司の服のボタンが弾け飛び蝶ネクタイも解けた。

 ――キスマークがばっちり衆目の目に晒された。

 

 

(ぎゃあああああっ!)

(ま、まだ、可能性は……俺達が生き残る可能性は――)

 

 

 弦司とカナエは意識が飛びそうになるのをぐっとこらえて、行冥としのぶを伺う。

 二人は動きを止めていた。

 

 

「……すまない、私とした事が、君の服を破損させてしまった」

(やったーっ! 真面目な行冥さん、大好き!)

(おっしゃー! このまま罪悪感に付け込んで、有耶無耶にしてやる!)

 

 

 内心はしゃぐ弦司とカナエ。目が見えない事も関係しているのだろうか、行冥は弦司の首元と胸元の内出血に気づいていなかった。さすがにやり過ぎと思ったのか、涙を流して少し落ち込んでいるようにも見える。

 これで最大の難関は乗り越えた。後はしのぶだ。しのぶはカナエよりも幼い。こんなの分かるはずがない、と気軽に視線を向けると、

 

 

「~~っ!?!?」

(何でなの、しのぶ!?)

(おいおいおい!?)

 

 

 しのぶは顔を真っ赤にして、プルプルと震えていた。羞恥に打ち震えているようにしか見えない。つまり、しのぶは()()()()()()()()()だった。

 色々突っ込みたい所はあるが、兎にも角にも弦司とカナエの所業が全てしのぶに漏洩した。最悪だった。全てが露呈する事も、胡蝶姉妹がムッツリだと判明する事も。

 しのぶは目元に涙を溜めると、弦司達を弾劾する。

 

 

「や……やっぱり、あんたが姉さんに変な事教えてるじゃないの!!」

「待て! 何でこれを見て分――」

「っ!? 悲鳴嶼さん、この赤いの全部姉さんの接吻の跡です! このド変態ども、こんな重大な発表にも関わらず、わざと接吻の跡を血鬼術で残してこの場に臨んだんです!!」

「何っ……!?」

 

 

 しのぶが早口で捲し立て、再び行冥の怒りが噴出する。わざと、という所以外だいたい合っているから質が悪い。

 そして、悲鳴嶼行冥は鬼殺隊最強の一角を担う男だ。しのぶにこれだけの情報を与えられて、弦司の体の状況に気づかないはずがなかった。

 

 

「……おい、どういう了見だ」

「いや、これは――!」

「この際、君に接吻の跡が首筋と胸元にある事は置いておこう。私には制御できていないように見える。違うか?」

 

 

 嘘は許さないと、全身から闘気を滾らせて行冥が問いただす。もう誤魔化す事は不可能だった。

 

 

「はい……制御できていません……」

「いつからだ?」

「昨日の夜です……」

「なぜ黙っていた?」

「カナエに接吻されたら跡が残っただなんて、恥ずかしくて言えませんでした……」

「…………正座だ」

「姉さんも。反論はないよね?」

 

 

 この後、弦司とカナエはいつもこんな事をやっているのか、誰がこんな事を思いついたのか等々。今回の件だけでなく、根掘り葉掘り聞かれた。

 先日の件も含めて、節操がないと行冥としのぶにたっぷりと絞られた。さらには、血鬼術が制御できないのは問題だと、キスマークの件も含め詳細が産屋敷に届けられた。弦司とカナエ宛てに「二人とも落ち着こうね」と耀哉より手紙が届いた時は、羞恥で死にそうになった。

 

 

「弦司さん……私が悪かったから、落ち着きましょうね……」

「いや、俺も悪かったから……うん、落ち着こう……」

 

 

 二人は両手で顔を覆うと、耳まで赤く染めて決意した。

 ――ちなみに、その日のうちにキスマークは消えたが、問題を重く見た柱達は経過措置を二カ月延ばし、二人だけの新生活はしばらくお預けとなった。

 

 




シリアルデビルラブコメディ。
後日譚の進むべき道が見えたかもしれない。

それと環救済ルートの結論が出ないので、一度アンケートを取りたいと思います。
よろしければご回答ください。

<追記>
アンケートにご協力ありがとうございます。
結果は……分かりました……得票数の少ない物から、順番に全部書きますぅ……。


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後日譚 柱訓練 ~岩・風・音~

いつも誤字脱字報告ありがとうございます。

前回はアンケートにご協力ありがとうございました。
結果は前回あとがきにてご確認ください。

今話を含めて三話ほど、短編形式で各柱との交流を描こうと思います。
それでは、お楽しみください。


◆柱訓練・岩 ~幸せのあとさき~ ◆

 

 

 岩柱・悲鳴嶼行冥。

 彼の邸宅に隣接して建てられた大きな道場で、行冥は斧と鉄球が鎖で繋がった特徴的な武器を振るっていた。振るう相手は鬼ではあるが敵ではない。

 ()花柱・胡蝶カナエ。

 数年前から続く、胡蝶夫妻による柱訓練。定例行事となった訓練を今日は岩柱と行っていた。

 戦況は――胡蝶カナエの有利。縦横無尽に振るう行冥の巨大な鉄球を、カナエは異様に刃渡りの長い刀一本で流しつつ距離を詰める。ちなみに、カナエと行冥の武器はどちらもただの鉄な上、刃を落としている。二人のような達人が打ち合うため、よほどの事がなければ怪我など負うはずもなかった。

 それでも、巨大な鉄球が飛び交う道場は、傍から見る弦司にとっては危険そのものだ。決して傷は負わないと分かっていながらも、弦司の体には力が入る。そんな弦司の心中を察していても、カナエの脚は止まらない。ますます速度を上げて近寄るカナエに、行冥は鉄球を振るいながら、逆に距離を詰めた。瞬間、鉄球と斧、そして鎖による三連撃がカナエを襲う。

 

 

「――っ!」

 

 

 しかし、カナエは慌てない。この数年間で馴染み、さらに強靭となった鬼の肉体が唸る。

 鎖を刀の先で受け流すと、僅かに空いた隙間に飛び込み、鉄球と斧を掻い潜る。鬼の動体視力、身体能力、思考力、全てを十全に用いた業であった。

 そして、行冥とのすれ違いざまに、脛を撫でる様に刀が通り過ぎ――ようとした所を、斧が防ぐ。

 金属が打ち合う甲高い音が鳴り響き、行冥とカナエの位置が入れ替わる。

 一瞬の緊張の後、行冥は武器を下ろし、汗で滲んだ額を腕で拭った。対して、カナエには汗一つない涼しい顔だ。

 

 

「見事だ」

「いえ、技術は行冥さんに遠く及びません。私の全ては鬼の体があってこそです」

 

 

 カナエも鞘に刀を収めながら、行冥の神業を称える。あくまで鬼の肉体があってこその均衡だった。カナエの体が人間であれば、もはや行冥の足下にも及ばないだろう。

 だが、行冥は首を横に振る。

 

 

「上弦の鬼に勝つための訓練だ。身体能力差を言い訳にはできない」

「もう、本当に真面目なんですから……行冥さんはすごいんですから、少しは受け取ってください」

 

 

 今や鬼殺隊最強となった行冥。カナエと真正面から一対一で打ち合えるのは、彼だけである。カナエは心の底から、行冥を賞賛していた。

 カナエがニコリと笑顔を向けると、

 

 

「……南無」

 

 

 気恥ずかしかったのだろうか、行冥はそう言うとカナエに背を向けた。弦司とカナエは目を合わせると思わず微笑み合った。

 

 

 

 

 行冥は二人を悲鳴嶼邸に誘った。和室では行冥、一つの机を挟んで弦司とカナエが向かい合って座っている。行冥はお茶を用意すると、彼らがお土産に手渡された饅頭を分けた。お茶を啜りながら、甘い菓子に舌鼓を打つ。二人も同じ饅頭を食べながら、こそこそと談笑する声が聞こえる。穏やかな時間だった。

 行冥の目から、一筋涙が流れる。こんな時間を、カナエと過ごせるとは行冥は思っていなかった。

 

 

(何度失われたと思った事か……)

 

 

 思い出されるのは、年若いカナエを認めた日。そして、人としてのカナエと最後に会った日。

 幼いカナエを認めながらも、どこか己より先に命を失うと思っていた。それが弦司という鬼と出会ってから、一人の女性と変わり幸福へと向かった矢先、鬼となってしまった。

 どんなに願っても、カナエに幸福はやって来ない。何度もそう思った。

 ――それから数年の時が過ぎた。

 今では柱の顔ぶりも変わった。胡蝶しのぶも見事、柱まで上り詰めた。

 そしてカナエは今、愛する夫と幸福の中にある。また一筋、行冥の目から涙が零れた。

 

 

「幸せか?」

 

 

 幸福を確かめたくて、行冥はカナエに訊ねた。

 

 

「……」

 

 

 すぐに肯定が返ってくると思っていた。だが、返ってきたのは沈黙だった。

 カナエが笑う気配がする。ただ、それは弾けるような、嬉しい笑いではない。静かな、悲しく、寂しい笑いだった。

 

 

「ごめんなさい、行冥さん」

「なぜ謝る……?」

「確かに幸せです。でも、これは()()()()です。私の欲しい幸せは()()()()なんです。幸せになるために変化すると言っておきながら、まだ私は心の底から幸せと言えません」

 

 

 行冥は言葉の意味が分からず、隣の弦司に顔を向けた。弦司から返事はなかった。代わりに、拳を強く握る音を行冥の耳が拾う。

 カナエが俯いて続ける。

 

 

「春は桜、夏は向日葵、秋は菊、冬は椿。四季は移ろい人は変わっていきます。だけど、私達は、鬼は何も変わりません。暑い夏も汗一つ流れず、寒い冬に身を震わせる事もない。日向を避け、夜も眠らず一日を過ごす……確かに、比喩ではなく弦司さんと一緒に居られます。一緒にご飯を食べて、夜通しお喋りして、時には肌も重ね合って。何も変わらず、ずっと傍にいられます。でも、この幸せって鬼だからこそ感じられる幸せじゃないですか。私は……温かな家庭が欲しい」

 

 

 カナエの声に悲痛なものが混じり、行冥は言葉を失う。幸せの陰に、そんな事を感じていたとは知らなかった。

 カナエは自身の腹を撫でる。

 

 

「行冥さん、知っていますか? この体になってから私、一回も月の物がきたことが、ないんです」

「懐妊した、という事ではないのか……」

「はい。鬼の体には機能そのものが備わっていないと、しのぶには診断されました。それでも頑張ってみましたけど、やっぱり変わりませんでした。私は愛する人の子どもを、授かる事ができない」

「……」

 

 

 行冥はどう声を掛けたらいいか分からなかった。そして、それは弦司も同じなのだろう。何も言わず、カナエの頭を胸に引き寄せた。

 カナエはただただ弦司に身を預け、優しく頭を撫でられている。

 

 

(そんな悩みを持っていたとは。私はとんだ間抜けだな……)

 

 

 この見えない目で色々視てきた。他人では気づけない心の内も知った事もある。しかしながら、眼前の娘の想いも気付けないとは、とんだ盲である。

 ずっとカナエは幸福だと思っていた。ただ、もしかしたら長く幸せにいたからこそ、今になって思うようになったのかもしれない。自身の望んだ幸せとは、こうではなかった、と――。

 だが、彼女は自ら苦しい胸の内を打ち明けてくれた。助けて欲しいと声を上げた。応えねば……いや、彼女の声に行冥は応えたい。

 

 

「私には君の心を全て理解する事はできない」

「……いえ、すみません。つまらない事を言いました」

「だが、君が苦しみ悩んでいる事は分かった。その悩みは君達が変わった……いや、成長した証だと私は思う」

「成長だなんて、そんな……」

「最初、君達夫婦はただ一緒に居られるだけで良かった。先刻まで、今もそうなのだと私は思っていた。だが、本当は今はその一歩先、一つの家庭としての幸せを望むようになっていた。それは間違いなく変化であり夫婦二人の成長だ。誇って良い」

 

 

 弦司とカナエは互いに依存している。それは誰から見ても明らかだ。一歩間違えたら人になる事を諦めて、二人だけで世界を閉じていた可能性もある。

 だが、二人は手を広げた。間違いなくこれは成長だ。それを見越して、他者と交流が持てる様に、お館様は後方支援に回したのかもしれない。

 

 

「行冥さん……」

 

 

 カナエの声に戸惑い、そして僅かに喜色が生まれる。

 行冥は頬を緩めると、

 

 

「君の悩みは君達が夫婦であるからこそ、生まれた悩みだ。今は苦しいだろう。もしかしたら、望む結末を迎えられないかもしれない。だが、どのような結論であろうとも、それは未来を見て幸せを目指した結末だ。人として歩んだ結果だ」

「……」

「結論も幸せも千差万別だ。どのような結果だろうと、君は何も間違っていない。そのまま進んで行きなさい」

「――っ!」

 

 

 カナエが突然立ち上がる。

 

 

「わ……私、ちょっと、お、お茶淹れ直してきます!」

「カナエ――」

 

 

 弦司の制止も聞かず、カナエは部屋を飛び出していった。行冥の耳はカナエの嗚咽を捉えていた。どうやら、泣き顔を見られたくないらしい。

 

 

「……すまない。本当に助かった」

 

 

 部屋に残った弦司が、向かいから頭を下げる気配がする。

 この数年で、行冥と弦司も随分と気軽にやり取りをするようになった。二人の年が近い、というのもある。それ以上に、年の近い弦司に親戚のおじさんのような扱いを受けるのが、行冥が我慢ならなかったというのが一番の理由だ。

 だからこそ、行冥も気楽に返す。

 

 

「良い。近しいからこそ言えない事もあるだろう。それよりも、何があった?」

「前からこういう悩みはあったさ。でも、ここまで思いつめたのは……正直、間が悪かったとしか言いようがない」

「どういう事だ?」

「先週の話なんだが、蝶屋敷に訓練に行ったらしのぶの月の物が重くて中止になってな」

「ふむ」

「時間が空いたんで俺の実家に行ったら、二番目の兄上……弦蔵兄上が生まれたばかりの赤ん坊を連れて来ていたんだ」

「うむ」

「で、弦十郎兄上の奥さんが懐妊したって報告もあって……それから、ボーっとする事が増えた」

「……哀れな」

 

 

 きっと一つ一つならカナエも笑って受け止められただろう。だが、全てが一度にやってきた。人の体を持つ妹に、次々と生まれる新しい命……自身の現状を突き付けられたようで、思いつめてしまったのだろう。

 誰かが悪い訳ではない。弦司の言う通り、本当に間が悪かっただけだった。

 

 

「訊いても、何でもないの一点張りでな。俺がもっと何かできれば――」

「待て、全てを一人で背負い込むな。それに今回の件は、君もカナエと同じ気持ちなのだろう。迂闊な否定や肯定は拗れるぞ」

 

 

 行冥は思わず厳しい声で弦司を咎める。

 二人の子どもが欲しいのは、弦司も同じ気持ちのはずだ。子どものできない妻に、同じ想いの夫が安易に子どもができない現状を肯定や否定などしては、『本当は子どもなど欲しくはないのでは』と心の内が疑われてしまう……全ては仲間の僧の受け売りだが、こんな時のために説法を聞いていて良かったと行冥は思う。

 

 

「ああ。次からもっと、周りに相談する」

 

 

 弦司はありがとう、と礼を言うと立ち上がる。

 

 

「それじゃあ、カナエを迎えに行くよ。そろそろ、落ち着いた頃だろうし」

「ああ。しっかりと受け止めなさい」

「おう。それじゃあ、ありがとう」

 

 

 もう一度弦司は礼を言うと、足早に部屋を出て行った。一刻も早くカナエと話したいのだろう。本当に仲睦まじい夫妻だった。

 だが、同時に心配でもある。あれだけ仲が良くとも、どれだけ今が幸せでも、その行く末に明るいものは一向に見えてこない。

 

 

「簡単には死ねないな……」

 

 

 ――せめて、彼らが幸せを掴むまでは。

 行冥は全力で生き続けようと、決意を新たにした。

 

 

◆ 柱訓練・風 ~鬼嫌いとおはぎと鬼夫婦~ ◆

 

 

 風柱・不死川実弥。

 柱の中でも上位の力量を持つ彼でも、上弦の鬼に匹敵するカナエとの訓練は容易ではない。

 実弥の持ち味は、突風を巻き起こすほどの速度と凄絶な一撃だ。やや防御面が疎かになりがちだが、これは『稀血』である事を鑑みた上での戦術だ。鬼は実弥を傷つければ傷つける程、酩酊して弱体化していく。

 ――だが、カナエとの戦いはあくまでも訓練だ。『稀血』は使えない。

 速さは敵わない。人と鬼の身体能力差が埋められないからだ。

 速度を乗せた一撃も、簡単に受け止められる。カナエは鬼となり異様に刃渡りの長い刀を使うようになり、鬼の身体に合った剛剣を扱うようになった。もう膂力でも、カナエに敵わない。そして、元々カナエの剣術は柔を基本としたものだ。実弥の攻撃がカナエの防御を上回っても、刀の外装からは想像できない柔らかさで、簡単にいなされてしまう。

 そうなると、実弥にできる事は少ない。攻撃に虚実を混ぜて、時には手数を増やし、時には一撃に全てを込める。

 ――それでも、地力の差は埋められない。

 

 

「オラァ!」

 

 

 縦横無尽に道場を駆け回り、刃を落とした、ただの鉄で打った訓練用の刀を何度もカナエに打ち込む。しかし、カナエの目は実弥を捉えて離さない。全てを真正面で受け止められる。

 そして、攻撃が途切れた僅かな瞬間を狙い、カナエの大太刀が実弥を打つ。

 

 

「――っ!」

 

 

 寸での所を刀で受け止めたものの、まともに受けた実弥は吹き飛ばされ、道場の壁に叩きつけられる。

 

 

「ここまでにしましょ」

 

 

 それを合図に、カナエが訓練の終わりを告げ、刀を鞘に納める。実弥は歯を食いしばると、立ち上がりカナエに刀を向ける。

 

 

「待てェ。俺はまだやれるゥ」

「それは分かるけど、これ以上やったら鬼殺に悪影響が出るわ」

 

 

 全身から噴き出した汗が落ち、道場の畳にシミを作る。息が中々定まらない。実弥が消耗しているのは、明らかだった。

 

 

「チッ!」

 

 

 実弥は苛立ちから、強く舌打ちをする。以前より、確かに強くはなった。上弦の鬼と互角に戦える自信もある。だが、鬼相手に互角ではいけない。

 人は永遠に戦えない。いつか力尽きる。しかし、鬼に限界はない。夜が明けるまで戦い続ける事ができる。今の実弥では、上弦の鬼と単独で遭遇した場合、勝てる見込みがなかった。それを改めて自覚し、さらに苛立ちが募る。

 

 

「クソがァァ!」

「おい、不死川!」

「不死川君!」

 

 

 カナエと、道場の隅で見学していた弦司の制止を無視し、苛立ちのまま道場の柱に額をぶつけた。人は鬼のように一足飛びで強くなれない。分かってはいる。だが、日々鬼は人々を喰い物にする。悲劇を目にする度に鬼に対する憎しみは強くなるばかりだ。

 膨れ上がる感情に対し、己の強さが着いてこない。酷くもどかしく、悔しかった。

 しばらくして額から温かなものが流れてくる。どうやら、額が傷つき血が流れてしまったようだった。

 

 

「あ――」

 

 

 実弥は自身の失態に気づく。今、同じ空間には鬼が二体いる。人を慈しむ、優しい鬼が。しかし、いくら優しい鬼だと言っても、実弥の『稀血』は馳走に変わりない。

 すぐに道場が阿鼻叫喚の図となる。

 

 

「何やってんだよぉっ!! この、エロ柱!!」

「不死川君の馬鹿ぁっ!! 胸筋見せたいスケベ柱!!」

「言いたい放題言うなァ!」

 

 

 実弥の稀血を嗅いだ二人は、罵声を浴びせると叫びながら道場を飛び出していった。二人は決して鬼の本能に負けない。今も戦い続け、彼らは結果を出している。

 対して、実弥は思うような結果は出せていない。

 

 

「……チッ」

 

 

 自身の不甲斐なさに、実弥は恥じるばかりだった。

 

 

 

 

 道場に隣接する和室。止血し包帯を頭に巻いた後、傷が塞がった頃に洋服に着替えた弦司とカナエは戻ってきた。

 

 

「インランやろー」

「変態柱」

「なぜそうなるゥ……!」

「誘惑してくるから」

「しかも、男女問わず」

「こ、このォ……!」

 

 

 机の前で茶を啜る実弥に対して、二人は部屋の隅で実弥を白い目で見ながら罵る。当然ながら、二人の機嫌は最悪だった。いつもならブチ切れる実弥だが、今回ばかりはこちらが悪いので言葉を飲み込む。

 二人は鬼だ。人を喰らわず、人と同じ食事で力を補給できる。だが、弦司はもちろんの事、カナエも鬼の本能がなくなった訳ではない。そして当然ながら、二人とも人間に対して食欲を催す事を嫌悪している。

 鍛冶の里でもそうだったが、絶対に稀血に触れたくないというのが弦司の姿勢だ。

 カナエも稀血は絶対に見たくないと言う。鬼となった直後も、女性の前以外では絶対に試すなと何度も念を押してきた。鬼の本能を嫌っているという以上に男性の前で、涎を垂らすという状況を絶対に避けたかったらしい。

 だというのに、実弥の失態で見せてしまった。二人とも不機嫌になって当然だった。元々二人に対して()()()がある事に加え、自身の失態は明らかなため何と詰られても実弥は反論できない。

 

 

「ふむぅ」

「んぐぅ」

 

 

 弦司とカナエは一頻り実弥を詰ると、どこからか持ってきたお膳に山盛りとなった『おはぎ』を、むしゃむしゃと食べ始める。実弥へのお土産に持ってきたおはぎだった。どうやら、実弥へのお土産であり、好物でもあるおはぎを目の前で食べるという、彼らなりの仕返しのようだった。かなり美味しいらしく、すでに不機嫌そうな空気は無くなり始めている。

 実弥はどう反応を返せばよいか困る。もしかしたら、実弥が困る事さえも計算に入れているかもしれないが。

 

 

「……」

 

 

 実弥は謝らねば、とは思う。この鬼夫婦の事だ、謝らなければ食べ尽くすまで微妙な空気を続けかねない。だがしかし、実弥は素直に謝れない。どういう訳か、この二人は異様に実弥に好意的なのだ。

 柱訓練が開始された時からそうだった。最初から二人とも異常に馴れ馴れしいし、お土産には必ず甘い物を用意する。そして、おはぎが好物だとバレた時には『こしあん派? つぶあん派?』と実弥がキレるまで訊いてきた。次に来た時には、こしあんとつぶあんどっちも大量に持ってきて、実に楽しそうに食べさせようとしてきた。

 会えば傷がないか必ず訊ねてくるし、傷があればしのぶ特製の傷薬を渡してすぐに離れていく。

 実弥が年下だからだろうか。それとも、風能の件で半端な対応をしてしまった事に、実弥が負い目を感じているから気を遣っているのだろうか。実弥には分からない。

 ともかく、実弥がいくら攻撃的になろうと、この二人は全く気にしない。それどころか、謝ればそれを種にどれだけ揶揄ってくるか。だが、あまり放置するとこの夫妻は何をするか分からない。悔しいが、場がもっと混沌とする前に行動に移るべきだろう。

 

 

「おいィ……」

「何だよ?」

「分けて欲しいなら、先にいう事があるわよね?」

「違うゥ! ……悪かったァ。俺が迂闊だったァ」

「……」

「……」

「……何だよォ」

 

 

 実弥が謝ると二人が食べる手を止める。お揃いの指輪が、二人の左手の薬指で光る。結婚指輪、とかいう最近の流行らしい。二人の仲の睦まじさが良く分かる。

 弦司とカナエがじっと不死川を見ると、

 

 

「不死川がデレた!?」

「本当に謝った!? 長い反抗期の終わり!?」

「クソがァァ!! だから、言いたくなかったんだよォ!!」

 

 

 二人して跳ね上がって驚くと、山盛りのおはぎを不思議そうに眺める。

 

 

「これがおはぎの魔力か……」

「不死川君と会う時は、懐に入れておくよう冨岡さんにも言っておかなきゃ」

「絶対にやめろォ!! つーか、誰もおはぎのために謝ってねえェ!!」

 

 

 実弥がどれだけ凄んでも、二人は特に気にした風も見せず口々に冗談を口にする。

 

 

(……冗談だよなァ?)

 

 

 実弥が内心少し心配していると、二人は緩んでいた顔を真面目なものに戻し、対面に座ってくる。もちろん、おはぎは忘れない。

 

 

「冗談はそれぐらいにして……気持ちは分かる、とまでは言わんが、あまり自棄にはなるなよ? せめて、俺達の前にいる時だけは、体を傷つけないでくれ」

「不死川君の戦術として『稀血』が重要なのは分かるけど、傷ついていいとか思ってはダメよ。自分の体は大切にしなきゃ」

「ガキ扱いはやめろっていつも言ってるだろォ! あと、おはぎ押し付けんなァ!」

 

 

 ちゃんと謝ったから良し、という事なのか。先の不機嫌は何だったのか問いたくなるほど、二人は実弥を心配しながら目の前におはぎを積み重ねていく。

 

 

(クソがァ。相変わらず、調子が狂う夫婦だァ)

 

 

 実弥が諦めておはぎを乱暴に口に運べば、ようやく二人が落ち着く。ただし、視線は実弥に固定したまま笑顔だ。

 

 

「……チッ」

 

 

 なぜそんな表情を実弥に向けてくるのか分からない。二人の笑顔がイラついて、ムカついて……居心地が悪い。それでも、実弥は怒り切れない。

 ――決して言葉にはしないが、実弥はとっくの昔に二人を信頼していた。

 人でなければ仲良くなれないと言った実弥に対して、弦司はそれでも距離を縮めてきた。無理をするでもなく、無遠慮に近づくでもなく。実弥は実弥、弦司は弦司でいられる時だけ近づいてきてくれた。カナエは鬼となってしまってからも、今まで通りに接してくれた。

 実弥は家族を失い、唯一残された弟とさえ別れた。柱となり人々を守っている。誰かに頼る事もできず、気を許す事も簡単にはできない。二人は鬼とか稀血とか、全てを超えて純粋に不死川実弥という人間と接してくれる。そんな風に数年も接していれば、情が移って当然だった。

 

 

(鬼のせいで全てを失った俺が、鬼と仲良しこよしとはなァ。酷い皮肉だなァ)

 

 

 実弥は内心で自嘲する。だが、二人と離れようとは思わない。この時間はすでに、実弥にとっても大切な時間となっているのだから――。

 無言で食べる実弥に、弦司が訊ねる。

 

 

「美味いか?」

「……何だァ。またテメエが作ったのかァ?」

「もちろん」

「おいおい、胡蝶家の旦那様がそれでいいのかよォ」

「うんうん、不死川君もそう思うでしょ!」

 

 

 実弥の何となしに出した言葉に、カナエが身を乗り出して同意を求めてくる。面倒な事になったかもしれない。

 実弥が顔を顰めて茶を啜っていると、先に弦司が不機嫌そうな声を上げる。

 

 

「いいだろ、旦那が台所にいたって。そもそも、台所が女の戦場って考えが古い」

「だから、弦司さんの考えは新しすぎるっていつも言ってるでしょ。もう少し、今の時代に寄せて」

「いいじゃないか。俺が蝶屋敷で世話になっていた時と、変わらないだろ」

「あの時と同じにしないで。あれは仕事で、これは家庭内の話よ。あなたの妻は私なんだから、家事は私にやらせて」

「夫とか妻とか、そういうのもいいけど、俺はなるべく一緒の時間を作りたいだけなんだからさ。許してくれよ」

「そうやって煙に巻こうとしたってダメ。一緒にいたいだけなら、私の後ろ姿でも見ていればいいでしょ」

(また始まったなァ……)

 

 

 言い争い始めた二人を、実弥は無視しておはぎを食べ続ける。この二人、確かに仲は良いが全く喧嘩をしない訳ではない。だいたい、つまらない理由で喧嘩を始める。夫婦喧嘩は犬も食わないとは言うが、まさにその通りだと実弥は何度思った事か。

 夫婦と言って実弥が思い出すのは、小柄な女性に暴力を振るう粗暴な男……実弥の母親と彼女を殴る父と名乗る男だけだ。いや、あれは夫婦でさえなかったと、今の弦司とカナエの姿を見て実弥は思う。二人のように温かく血が通った関係こそが、本当の夫婦なのであろう。そして、もし弟の玄弥が家庭を持つのならば……彼らのようになって欲しい。

 

 

「――不死川!」

「不死川君はどう思う!」

「あァ?」

 

 

 思考に沈んでいた実弥を、弦司とカナエが引きずり起こす。何事かと睨みつけると、二人はおはぎを突き出してきた。

 

 

「俺のおはぎの方が美味しいよな?」

「私よね!?」

「そんなもんどっちでもォ――」

「どっち!?」

「どっちよ!?」

 

 

 何を言い争って味比べになったのか知らないが、振られた実弥はいい迷惑だった。つまらない夫婦喧嘩に巻き込まないで欲しいと心底思う。

 

 

「――うるせえェェ!!」

 

 

 弟にはもう少し静かな家庭を築くよう願いながら、実弥の怒声を上げた。全く堪えない鬼夫婦に、実弥の声は虚しく響くだけだった。

 

 

◆ 柱訓練・音 ~夫婦の座談会~ ◆

 

 

 夜は鬼の時間だ。日中に鬼を追い詰められれば良いが、強い鬼ほど身を隠すのも上手い。自然、鬼殺隊は鬼の活動に合わせて夜が活動時間となる事が多い。

 特に柱は顕著だ。強い鬼と戦う以上、夜に手が空くことは滅多にない。

 ――だが、今日はその滅多が音柱・宇随天元にやってきた。

 さらに偶然にも、カナエの訓練も可能と来た。この機を逃すのはもったいない。天元が実戦さながらの訓練を申し出たところ、お館様から快く快諾をいただいた。

 そうして、周囲に人家のない広場まで来た。天元、そして弦司とカナエが向かい合う。天元は柄が鎖で繋がった大太刀二振りを、カナエは刃渡りが異様に長い刀を、それぞれ持っている。もちろん、本物の日輪刀ではなく刃も落としているが、今回に限り血鬼術の使用許可も出ていた。そのため、弦司は宿世招喚の『鋼』を使い参加する。彼だけ武具の類は装備していない。

 訓練は合図もなく、天元とカナエの打ち合いから始まった。天元は手数と剣速で攻める。さらには、時には刀をまるで双節棍のように振り回し、自由自在に間合いと剣速を変える。対して、カナエは一方的に攻められながらも、天元の変幻自在な攻撃を全てを凌ぐ。

 

 

(技だけで、切り崩せないか――!)

 

 

 カナエの技術と身体能力の高さに、天元は内心舌打ちをする。そこへ、弦司が背後から『鋼』を纏って拳を振るう。

 ――天元と弦司の間で爆発が起きる。

 鬼を傷つける特殊な爆薬丸を剣戟の合間に投げ、爆発させていた。弦司は『鋼』を纏っているため傷つける事はできないが、拳を逸らし動きを止める事ぐらいできる。

 弦司が止まった一瞬、天元は一気に攻勢に出る。

 大量の爆薬丸を撒き散らし、日輪刀を文字通り振り回し縦横無尽に切り込む。

 ――音の呼吸・伍ノ型 鳴弦奏々(めいげんそうそう)

 巨大な二振りの日輪刀と共に、爆音と爆炎がカナエを攻め立てる。一太刀振るごとに、カナエが下がっていく。天元が大きく踏み込み追い立てる。しかし、カナエは爆炎の範囲ギリギリへ素早く動き、天元の日輪刀を顔色一つ変えずに弾いていく。

 攻められてはいる。戦えてはいる。しかし、たったの一撃さえカナエには与えられない。

 そして、天元の攻勢が緩まった瞬間、弦司が再び背後から拳を向ける。天元は視線も向けずに受け止める。だが、たったの防御一回で攻守は逆転する。

 カナエの剛剣が振り下ろされる。防御のために僅かに体は硬直してしまった。その僅かで、回避は不可能となる。

 カナエの刀を天元は二刀で真っ向から受け止めた。二刀で受けなければ、例え天元でもカナエの一撃を受けるのは難しかった。そして、受けたせいで掌は痺れ始める。

 

 

(まだ、こんなにも遠いか――)

 

 

 ――最終的には、天元はカナエと弦司を相手に数十合以上打ち合ってみせた。

 しかし、カナエには一太刀も浴びせられず、それどころか日輪刀の鎖を断ち切られ徐々に押されていき、天元は負けた。

 上弦の鬼討伐まで、道のりはまだまだ遠い事を痛感させられる天元であった。

 

 

 

 

 訓練後、汗を流した天元はいつもの装束から地味な和装に着替え、雛鶴、まきを、須磨に加え、胡蝶夫妻を連れて食事へと出かけた。

 案内を買って出た弦司とカナエの後を着いて行けば、辿り着いたのは小さな屋台だった。

 

 

「ここの支那そばとワンタンは美味いんだ」

「いくらでも食べられるから、おすすめよ~」

 

 

 夫妻に紹介されながら、天元達は席に座る。

 端から天元、弦司、カナエ、須磨、まきを、雛鶴と、自然と男女に分かれる。

 

 

「おじさん、支那そばとワンタン人数分お願い」

 

 

 弦司が注文すると、店の主人は黙って頷いて調理を始める。和装の天元達はそうでもないが、洋装の弦司とカナエは非常に目立つ。店の主人が何も反応を見せない所から、常連である事が見て取れた。

 店の主人の調理する姿を見ながら、天元は首を傾げる。

 弦司とカナエは特殊な鬼だ。人ではなく、食事を摂る事で力の補給を行う。ただし、食べる量は力士数人分は必要だ。注文の仕方が大人しすぎる。

 

 

「今日は地味に少ないな。何か食ってきたのか?」

「いやいや、さすがに外食の時は一つの店で満腹まで食べないって。特に屋台だと、それだけで今日は閉店になっちまう」

「それもそうだな」

 

 

 数年来、胡蝶夫妻と付き合いがある天元だったが、これは初耳だった。

 胡蝶夫妻と外食へ行く機会は、おそらく今日が初めてだ。食べるとしても、だいたいが日中でどちらかの屋敷にいる事が大半である。

 一か所で腹いっぱいまで食べられないとは、やはり人間社会に溶け込んで暮らすには、色々と気遣いが必要なのだろうと天元は思った――が、

 

 

「俺達は結構外食するけど、宇随は行くのか?」

「……いいや、あまり行かないな」

 

 

 天元は弦司と話しながら、死角となる位置の気配を感じ取る。弦司とカナエの手が重なり合っている。どうやら、こういった方面の気遣いは未だできないらしい。とはいえ、結婚当初に比べれば大人しいものではあるが。

 

 

(ま、仲が良いのは良い事か)

 

 

 天元は気づかなかった事にする。貴重な余暇だ。指摘して変な事態になるのもご免である。ちなみに、女性陣は女性陣で盛り上がっているので、天元は弦司と話す事にする。

 

 

「やっぱ、外食ってのは全員で行かないと不公平だろ。それに、俺の嫁達の料理は派手に絶品だからな。ぶっちゃけ、外食する必要性を感じない」

「あ~……そりゃそうか。特に雛鶴さんのはすごいからなぁ」

「お前の所だってそうだろ。夫婦揃って美味い物作れるから、あまり外食する必要もないんじゃないのか?」

「美味いとか不味いとかじゃなくて、俺達は量がとんでもないからな。たまには外食で済ませて、妻の負担を軽くしたいんだよ」

「いや、料理は半分はお前が作ってるじゃねーか。負担も何もねえだろ。つーか実際の所、お前の趣味だろ」

「はは、趣味と実益を兼ねて、だ。それに珍しい物とかあると色々と発見があって、新しい料理に繋がったりするんだ。やっぱり、ただ食事を補給するだけじゃなくて毎食楽しみたいからさ。料理の種類を増やすためにも、こういう時間は必要なんだよ」

 

 

 夫婦揃って鬼となって、二人は後方支援へと回された。切った張ったの世界から少し離れた。だからといって、毎日をのほほんと過ごしている訳ではないと頭では分かってはいた。しかし、こうして直に聞くと、天元の思考の外にある苦労が言葉の裏からにじみ出てくる。

 

 

「……そうだな。お前達はこれからが長いんだ、食事は派手に楽しむようにしないと、な」

「そうだろそうだろ」

 

 

 天元が同意すると、弦司は殊更嬉しそうにする。天元は眉を顰める。大抵、この男が大げさにする時は碌な事ではない。案の定と言うべきか、カナエが頬を膨らませていた。

 

 

「またそうやってある事ない事言って……」

「ある事しか言ってないって」

「弦司さんが私に気を遣っている所は……まあいいでしょう。でも、お店選びは私にもさせて」

「ハハハハ」

 

 

 弦司が頬を引きつらせて笑う。

 

 

「何やったんだ?」

「弦司さん、わざわざ評判の悪いお店を選ぶの」

「はっ? 脳味噌爆発してんのか?」

 

 

 天元と嫁達が白い目で見ると、弦司が慌てたように手を振る。

 

 

「いや……! やっぱり、人の噂っていうのは当てにならない時があるだろ! 俺は噂が本当かどうか、自分の舌で確かめたくてだな――!」

「それに付き合わされる身にもなって下さい」

「いつも俺に付き合ってくれてありがとう」

「話を逸らさない」

「それって、美味しい事ってあるんですか?」

 

 

 須磨が興味本位で割り込んで質問する。 

 

 

「全然よ。十回に一回ぐらい前評判と違ってたり、味が尖っているぐらいかしら……?」

「尖ってる?」

 

 

 まきをも興味がそそられたのか、先を訊ねる。

 

 

「要は()()に近すぎたりして、私達に馴染みがない味って事よ。ほら、珈琲とか最初飲んだ時、苦くて飲めなかったじゃない?」

「私達のような普通の日本人の口に合わない感じですか?」

「そうそう」

 

 

 雛鶴の要約にカナエは頷く。ようやく悪評とは違う店を見つけても、口に合わないのであれば労苦に見合わない。なぜそんな事をするのか、意味が分からない。

 

 

「わざわざ苦労してそんな店選ぶって……やっぱり脳味噌爆発してんじゃねえか」

「いやいや、そこから美味くなったりだな! 変化する可能性があったりだな!」

「弦司さんが口出したお店が二店舗だけね」

「地味に自作自演じゃねえか」

「……」

 

 

 弦司が目を逸らす。趣味ばかりで全く実りがない事は自覚しているようだ。

 カナエが溜め息を吐く。

 

 

「たまには行ってあげるから。店の選定には私の意見も反映させる事。いい?」

「くっ……! 周囲に証人がいる機会を伺っていたな……!」

「弦司さんに鍛えられましたから。それで、いい?」

「……はい」

 

 

 天元達の視線に耐え切れず、弦司が快諾する。夫婦の事情に、こちらを巻き込んでほしくないものだ。ただ……鬼となっても人としても当たり前の幸せを間近で見られたのは、良い収穫だったが。

 

 

「……おまち」

 

 

 店主が五人分の支那そばとワンタンが出てくる。ここで座談会は一旦切り上げだ。

 

 

「おっしゃ。それじゃあ、胡蝶夫妻のおすすめをいただくか」

「ふふ、美味しいですから、早く食べてみて」

「……美味しいぞ」

 

 

 カナエと、少し元気のない弦司に促され、天元達は料理に箸をつける。

 胡蝶夫妻のおすすめに間違いはなく、天元達は料理に舌鼓を打った。

 

 

 

 

「それじゃあ、俺達はもう少し回るから」

「今日は楽しかったです。次はまた訓練の日に会いましょう」

 

 

 食事を終えると、まだ満腹となっていない弦司とカナエは、寄り添いながら夜の街に消えていった。二人は本当に仲睦まじい夫婦になったと感じる。

 一方、天元達は、と考えてしまう。今も鬼殺は続いている。上弦の鬼を討ち、いつか天元も二人のように嫁達と一緒に過ごせるだろうか。

 上弦の鬼との力量差は、依然として残っている。それでも、天元は雛鶴、まきを、須磨と一緒に日向を歩きたい――いや、歩いてみせる。

 

 

()()来ようぜ。雛鶴、まきを、須磨」

「天元様……」

「……はい!」

「次は大盛を頼みましょう!」

 

 

 天元が言えば、愛おしい嫁達が声を返ってくる。

 彼女達と幸せになってみせる。天元は固く固く心に誓うのであった。




本当は全員分投稿したかったのですが、見通しの甘さによりここで終わりです。
今年の投稿もこれで終わりです。ありがとうございました。
また来年お会いしましょう。

それでは、良いお年を。


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後日譚 柱訓練 ~霞・蟲・水~

あけましておめでとうございます(遅い)。
今年もよろしくお願いいたします。


※以下、19巻の胡蝶家設定を読んで思いついた妄想

くず「うーん……カナヲは自分で決められないから、名前はカナエさんあたりが考えたんやろうな」
ワニ「カナヲが選んだぞ」
くず「さすが先生! (そりゃ、自分の名前ぐらい選ばせるか……)」

くず「カナヲが鬼殺隊に入るには、何か訳があるんやろな。例えば、胡蝶姉妹と一緒にいるため、とか……」
ワニ「カナヲが自分の意志で入隊したぞ」
くず「さすが先生! (初めての選択が鬼殺隊への入隊とは、相変わらず先生だな)」
ワニ「しかも無断で最終選別出たぞ」
くず「さすが先生! (意思強すぎない?)」

くず「カナエさんのあの性格や体格は、柱を数年しなきゃならないよな。多分、二十歳前後……最低でも、十八歳以上とみた」
ワニ「十七歳だぞ」
くず「発育良すぎぃ! (さすが先生!)」

くず「さすがに、しのぶさんも平隊士時代には診療所は開放してなかったよな。そもそも、入隊したての十代前半の娘に鬼殺と治療を任せるとか、いくら鬼殺隊でも超絶ブラック過ぎる」
ワニ「カナヲが入隊した理由は家事や怪我人の治療がうまくできなかったからだぞ」
くず「……ん?」
先生「カナヲの入隊をカナエとしのぶは認めていなかったぞ」
くず(つまり、カナエさん生存時にはすでにカナヲは入隊希望であり、蝶屋敷で治療行為を行っていた……!? じゃあ、しのぶさんは十四歳の時にはすでに――)
くず「……」
くず「きちくのしょぎょう(さすが先生!)」



◆柱訓練・霞 ~霞、未だ晴れず~◆

 

 

 霞柱・時透無一郎。

 刀を握り僅か二ヶ月で柱となった鬼殺隊きっての天才少年剣士だ。だが、彼でも胡蝶カナエの訓練は容易ではない。

 

 

(……これも引っかからない)

 

 

 無一郎には珍しく、不快そうに眉根を寄せて感情を露わにする。緩急をつけ、間合いも変え、虚実を交えて動いてもカナエが惑わされない。数年に渡る柱訓練が、柱だけではなく、カナエの技量を飛躍的に高めていた。さらに、惑わされないどころか、『緩』の瞬間を見極め刀を振るって逆襲してくる。こうなっては幻惑どころではない。

 カナエは上弦の鬼に匹敵する実力を持つ。このまま地力の勝負になってしまえば、無一郎の不利一辺倒だ。

 何とか幻惑しようとするものの、カナエが必ず出だしを叩く。そうなると、また後手となってしまい無一郎から仕掛ける回数が減る。ジリジリと真綿で首を締めるように、徐々に追い詰められていく。

 以前から課題は分かってはいた。自身の虚実が通じない相手、純粋な実力で戦わなければならない劣勢な時。まだ体が成長しきっていない無一郎は膂力が弱く、短期間で柱となったため戦闘経験も乏しい。他の柱と比べて危機に際した手数が少なかった。

 宇随天元であれば恵まれた体躯と豊富な手管と経験で、心臓が止まっても抗い続けるだろう。不死川実弥ならば自身の血を使って、最期の瞬間まで戦い続けるだろう。胡蝶しのぶであれば笑顔の下に深謀遠慮を隠し、鬼が勝利を確信する瞬間でさえ油断ができない。

 己には何があるのか。戦いながら思考を重ねる。しかし、いくら考えても頭の中は霞が立ち込め、何も見えてこない。その間も、どんどん追い詰められていく。

 そしてとうとう耐えきれなくなり、無一郎の模擬刀が弾き飛ばされる。戦いが終わる。思考が止まり、頭に立ち込めた霞が見えなくなる。

 

 

(今日もダメだったか……)

 

 

 負けた。まだ鍛錬が足りない。これでは上弦の鬼には勝てない。

 事実のみが頭の中に残った。

 

 

 

 

「時透君」

「……」

 

 

 カナエは刀を鞘に収めながら、膝に手をついた無一郎に声を掛ける。荒れた呼吸を整えているためか、返事はない。

 そうして呼吸が静かなものになると、

 

「もう訓練は終わりだね」

「そうね。それじゃあ休憩を──」

「刀は片付けてて。それじゃ、また」

「あっ! ちょっと──!」

 

 

 取り付く島もなく、無一郎は道場から出て行った。

 入れ替わるように、弦司が道場に入ってくる。差し入れにと持ってきたお盆の上には何もない。

 

 

「ダメだったな……」

「ごめんなさい、止められなかったわ」

「いいや、仕方ないさ」

 

 

 時透無一郎。鬼殺隊きっての天才少年剣士だが、彼もまた鬼による被害者だ。

 唯一の肉親である双子の兄を殺され、記憶を失っていた。皮肉にも、その時の悲劇を切っ掛けとして才能を開花させた。

 今の彼には、笑顔はない。子どもらしい……いや、人らしささえ見えない。

 少しでも無一郎の力になろうと、弦司とカナエは積極的に話しかけてはいるものの、思ったような成果を挙げられていない。

 そして、今日も何もできなかった。落ち込むカナエに弦司はお盆を渡す。

 

 

「全く何もない訳じゃないけどな」

「どういう事?」

「本当は腹ごしらえにおにぎりとお茶を持ってきたんだよ。ご覧の通り、全部食べて出て行った。前は俺達が差し出す物は何も興味を示さないで、手を着けようともしなかっただろ? だから、少しは進歩してると思う」

「それは……お腹空いてただけじゃない?」

「まあそうかもしれないけど……『また』とも言ったし。少しは心を開いてるとは思う」

「うん……」

 

 

 弦司の説明にカナエは頷くも、気分は晴れない。年単位で挙げられた成果がそんな微々たるものでは、いつになったら彼の心は開かれるのか。自分達ではいつまでも開く事は出来ないのではと考えてしまう。

 

 

「諦めずに頑張ろう。それに俺達だけじゃない、煉獄とか他の柱も気に掛けてる。信じて続けよう」

「……そうね! 無一郎君のためだもの、信じて頑張らなくちゃ!」

 

 

 ──未だ霞、晴れず。

 それでも、弦司とカナエは無一郎の心が花開く事を信じ、これからも彼に寄り添うと心に誓った。

 

 

◆柱訓練・蟲 ~この想いは~◆

 

 

 蟲柱・胡蝶しのぶ。

 鬼殺隊で唯一、鬼を殺す毒を作った女隊士にして、カナエの妹だ。

 数年前、ややきかん坊気味だったしのぶも、今ではすっかり落ち着いた大人の女性へと成長した。

 明晰な頭脳に裏打ちされた冷静な判断を下し、鬼を討つ。そして、ついに開設した診療所では、柔らかく優しい微笑みで数多の隊士の命を救っていた。個性の強い柱達も、四苦八苦しながらもまとめあげている。

 今ではしのぶは鬼殺隊になくてはならない存在となった。

 ──しかしながら、彼女はただただ優しい訳ではない。

 そもそも、元来の彼女は喧嘩っ早く気が強い。冷静さも優しさも、研磨の末に身に着けたものだ。理不尽を目をしたり、許されない線を越えてしまえば、たちまち牙をむく。

 とある桜餅模様の女性隊士がいる。ゲスいメガネ野郎に卑猥な隊服を渡されて、気の弱さから何も言えず唯々諾々と着ていた。その話を聞いたしのぶは怒り、ゲスいメガネ野郎を即座に締め上げた。ゲスいメガネ野郎と助けられたはずの女性隊士も、その時の様子を思い出す度に震えが止まらなくなるほど、しのぶの怒った姿は恐ろしかった。鬼殺隊の一部の一部、しのぶを見事怒らせてしまった隊士は『狂犬』などと呼んで、絶対に逆鱗に触れてはいけないと恐れられていた。

 ──そして何か許せない事があったのか。

 今日のしのぶは、かつてないほど荒れていた。

 

 

「今日は思いっきり体を動かしたいから、本気で鍛えて」

 

 

 弦司とカナエが今や使い慣れた蝶屋敷隣接の道場に来るなり、顔を顰めて不機嫌を隠さないしのぶは早々にそんな事を言い放った。こうなっては打ちのめして、物理的に冷静にさせるしかない。

 弦司は治療道具を取りに診療所へと向かい、カナエはしのぶの要望通りに本気の稽古を行った。

 

 

「遅すぎる!」

「っ!」

 

 

 高速の突き技を繰り出せば、突きが遅いと受け流し殴り飛ばした。

 

 

「本気で騙す気あるの?」

「ぐっ!」

 

 

 緩急をつけ踏み込もうとすれば、そんなのでは鬼は騙せないと蹴り飛ばした。

 

 

「何で下がってるの!」

「──っ!!」

 

 

 逃げようと後退すれば、鬼を前に逃げるなと刀を打ち込んだ。

 そうして何度も叩きのめして、打ちのめして、ついには道場に大の字でしのぶは倒れ込んだ。

 

 

「……ごめんなさい、姉さん」

 

 

 ボロボロになったしのぶは、荒れた息でカナエに謝罪した。目から険吞なものは取れ、少し晴れやかな表情に見える。ようやく、いつもの落ち着きを取り戻したようだった。

 機を伺っていた弦司が道場へ戻ってくると、冷たいお茶を手渡し治療する。見た目の激しさとは違い、しっかりと手加減はされていたので、怪我は軽い打ち身程度だ。

 

 

「何があったの?」

 

 

 しのぶがお茶を飲み干し、治療も終わった所でカナエが問いかける。しのぶは俯くと、空になった湯飲みを手の内で回す。

 

 

「どこから話したらいいものか……」

「時間はあるから、ゆっくりで大丈夫よ」

「……最初は不破家の医療部門の研究者から相談を受けたの」

 

 

 数年前、不破家に来訪した時、不破家の医療部門の支援を約束した。その時の支援は今も続いており、定期的に意見の交換が行われている。

 

 

「そう……どんな内容だったの?」

「地方の医師からの相談で、聞いた事もない症状だったから意見が欲しい、って。それだけなら、よくある相談だった。でも、内容が……鬼に関係する事だった」

「はぁっ?」

「どういう事……?」

 

 

 弦司とカナエは困惑する。普通に考えれば、鬼に関連するような内容であれば、のんびりと相談などできない。普通でない何かが起きたに相違ないが、二人には何が起きているのか見当もつかない。

 

 

「患者の名前は竈門禰豆子。何十日も眠り続けているにも関わらず健康体そのもの。こんな症状、見た事も聞いた事もないから知恵を貸して欲しいって相談で……よくよく情報を精査してみれば牙と爪があった。患者は、竈門禰豆子は……鬼だった」

「……それは、普通の鬼だったの?」

「私も、当時は同じように考えた。普通の鬼だったら、こんな悠長な事態にはなってない、すでに鬼殺隊が動いているはずだ、って。だから、より詳細な症状から診察までの経緯を聞いたわ。医者を呼んだ人の名前は狭霧山の鱗滝左近次。元水柱で今は育手の彼が、鬼を匿っていた」

「……おい。それってもしかして――」

「うん。患者は、彼女は人を喰わない鬼だった」

「っ!」

「……」

 

 

 弦司とカナエは言葉を失う。あまりにもそれは思考の埒外な事項だった。

 中々感情の整理がつかない。胸の奥がざわついて、呑み込めない。それでも、二人の頭の冷静な部分が疑問を投げかける。

 

 

「ねえ。本当にそれだけなの?」

「他に何があったんだ?」

 

 

 元柱の育手が匿っていたのは衝撃的だったが、言ってしまえば人を喰らわない鬼が新たに見つかった。それだけである。むしろ数年前、花柱であったカナエが鬼を匿った方が衝撃で言えば大きいだろう。ここまで、しのぶが乱れる原因になるとは弦司とカナエは思えなかった。

 そしてそれは当たっていたのか。湯飲みを手放したしのぶは、俯いたまま自身の胸を苦しそうに掴む。

 

 

「……私は最初、すごく喜んだ。人を喰らわない新しい事例だ、彼女と姉さんと義兄さんを調べれば、鬼を人に戻す目途が立つかもしれない、って……」

「うん」

「勢い込んでもっと調べてみたら、最初に鬼を、竈門禰豆子を預かるようにお願い、したのは……」

「……」

「お願い……したのは……!」

 

 

 しのぶの声が途切れる。声は震え、僅かに嗚咽が混じっていた。弦司とカナエはしのぶを待つ。

 何度か深呼吸を繰り返すものの、しのぶの呼吸は落ち着かず。しのぶは苦しみながら告げた。

 

 

「冨岡さん、だった……!」

「しのぶ……」

「何で……! 私、姉さんと義兄さん、治したいって、あれだけ話したのに……! どうして、何で、なの……!」

 

 

 しのぶの目から大粒の涙が零れ落ちる。カナエはしのぶを抱き締め、弦司は頭をそっと撫でる。

 カナエが鬼になった日、義勇はしのぶを助けに来た。それから言葉数は少ないものの、事ある毎に義勇はしのぶに気に掛けてきた。中々想いを口にはしないものの、義勇なりの優しさがそこにはあった。

 しのぶも不器用な彼なりの優しさを受け入れて、積極的に交流した。寡黙な義勇に、しのぶはいつも笑顔で話しかけて彼の意を汲み取ろうとしていた。当たり前のように蝶屋敷で二人一緒に居て、いつしか日常となった。

 しのぶにとって、義勇は特別な存在になりつつあった。だからこそ、しのぶは傷ついたのだろう。なぜ、しのぶの想いを踏み躙るような行為をしたのか。あの日々は何だったのか。大切に想っていたのは、しのぶだけだったのか。

 信じていたからこそ裏切られたという想いは、より一層強くなる。

 

 

「姉さん……義兄さん……!」

 

 

 しのぶがカナエと弦司を縋り付くように呼ぶ。二人にはどうすれば、しのぶの涙を止められるのか分からない。なぜ、義勇がそんな行動を取ったのか、二人も信じられなかったからだ。

 結果、二人は何もする事ができず。家族としてカナエと弦司は寄り添う事しかできなかった。

 

 

 

 

「ありがとう、姉さん……それと義兄さん」

「俺はついでかよ」

「ふふ。義妹の頭を許可もなく撫でたからです」

 

 

 目を赤く腫らしたしのぶが、恥ずかし気に笑う。

 泣いて泣いて泣いた。痛みも悲しみも全て涙で押し流した。今のしのぶの表情に硬さはなく、非常に晴れやかだった。

 しのぶは涙を拭いながら、カナエの腕から抜け出す。カナエが名残惜しそうにあっ、と小声を漏らす。

 

 

「しのぶ~」

「もう十分だから、そんな声出さないで。それにしても……こんなに泣いたのは、久しぶりかも」

 

 

 カナエが鬼になった日から、辛くて何度も泣いた。弱音も吐いた。それでも、カナエから託された羽織に相応しい人になると、しのぶは常に成長し続けていた。

 今日は本当に久しぶりに泣きに泣いた。だが、挫ける事なく、これもまた糧として前に進む。それが、胡蝶しのぶという女性の強さだった。

 

 

「しのぶは本当に強くなったわね」

「うん。あの日より、強くなったとは思う。けど、まだまだ足りない」

「どこまで強くなるつもり~?」

「昨日の自分より強くなりたいだけ」

 

 

 それは日ごろから、しのぶがよく使う言葉だった。

 どんなに体と心を鍛えても、上背が伸びる事はない。鬼の頚を斬る事はできない。できない事はどうやってもできない。だから、まずは昨日の自分より今日の自分を強くなりたい。そして、できない事はできる誰かに託す。

 簡単なようで最も難しい事を、しのぶは常に実行し続けている。それだけでも、しのぶがどれだけ大きな人に成長したのかよく分かる。

 

 

「決めた」

 

 

 しのぶは強く頷くと、拳を握りしめる。未だ目は腫れてはいるものの、決意を宿し眼差しを強くする。

 

 

「実はお館様にも相談していたの」

「お館様は何て仰ったの?」

「『今回の件については、どちらにも着く事はできない。義勇の考えにも私は一理あると思う。一度腹を割って話し合ってごらん』って。最初はこんな裏切り許せなくて、話し合うなんて絶対に無理って思ってた。でも……やっぱり、何の理由もなく隠してたなんて信じられない。だから、冨岡さんともっとちゃんと話したい。話して、彼の想いを知って、私の想いも知ってもらって……一緒に禰豆子ちゃんを、助けたい」

「……しのぶ!」

「姉さん!?」

 

 

 カナエは堪らずしのぶに抱き着いた。

 どれだけ傷つけられていても義勇を信じ、話し合い、分かり合おうとする。その決意は強く固く、何よりも格好良くて可憐だった。ここまで我が妹は強く可愛らしかったのかと、カナエは抱き締めずにはいられなかった。

 

 

「や、やめてよ姉さん!」

「しのぶは可愛い! 可愛いは正義!」

「……はぁ」

 

 

 しのぶは抵抗しようとする者の、鬼の力に逆らう事はできず、諦めてされるがままとなる。

 カナエはしのぶの頭を撫でながら、

 

 

「ねえねえ、私に手伝えることはある?」

「えっと……それじゃあ、訓練に着いて行ってもいい? 冨岡さんを絞り上げて動けなくなった所で話し合うから」

「まかせて! 足腰たたなくしてあげるから!」

 

 

 おっかない事を笑顔で話し合う姉妹。傍で弦司は微笑みながら、二人に訊ねる。

 

 

「でも、ボコボコにしただけで、あの冨岡が口を割るのか?」

「それでも口を割らない馬鹿男なら、これを喰らわせます」

 

 

 しのぶは拳を掲げると、口を歪めて力強く笑う。姉妹揃って話すまでボコボコにするつもりなのか。

 

 

「ほどほどにしろよ」

「冨岡さんが素直に話せば、ほどほどで終わる」

 

 

 弦司は苦笑を浮かべる。もちろん、本気ではないだろうが少し……本当に少しだけ義勇を不憫に思った。

 ともかく、しのぶは冗談が言えるぐらいまでは心に余裕ができた。まだ何も進んでいないが、彼女の心が軽くなった。それだけで、今は最上だろう。

 

 

(上手くいけばいいけど……)

(あの冨岡だしな……)

 

 

 弦司とカナエの頭に不安がよぎる。

 水柱・冨岡義勇。

 剣の腕前は鬼殺隊の中でも上位に列する男ではあるが、寡黙にして不器用という割と人間的に致命的な欠点を抱えている。その上、ここ数年交流を重ねても、未だ弦司とカナエに心の内を見せないという頑固さを併せ持つ。

 柱の中でも、飛び抜けて面倒くさい人間筆頭だ。だからこそ、僅かでも彼の意をくみ取れるしのぶは、義勇と親密になれた訳だが……。

 来たる会合で、少しでも義勇が心を開いてくれないか。弦司とカナエは願わずにはいられなかった。

 

 

◆柱訓練・水 ~この想いは~◆

 

 

 胡蝶しのぶは強い女性だ。義勇は彼女を姿を見て、何度も思った。

 最初、姉が鬼になってしまい、それでも進もうとする姿に危うさを感じた。だから、また鬼のせいで居場所を失わない様に気にかけていた。

 鬼殺隊にいる資格もない己に、何ができるか分からない。それでも、なるべく傍に居るようにした。だが、すぐに心配は杞憂だと思うようになった。

 蝶屋敷をすぐに立て直し、診療所も開設した。診察では、最初こそ笑顔がぎこちなかったが、今では板についた。到底なれないと思われていた柱にも、満場一致で就任した。気付けばしのぶは頼られる存在となっていた。義勇のようにただただ柱という役職に就いているのではない。本当の意味で、鬼殺隊の柱となっていた。

 その頃から、立場は逆転していた。気を遣う側から遣われる方へ。いや、そもそもしのぶの力になれていたかさえ怪しい。

 訪れれば笑顔で迎え入れられ、義勇の気持ちを少ない言葉から察してくれた。黙っていれば面白おかしく家族の事を話してくれた。居心地が良すぎて義勇は何もせず頷くばかりで、ただただ彼女の厚意に甘えていた。

 ──それが間違っていると思い始めたのは、些細な事の積み重ねだ。

 蝶屋敷で宇随天元に会った。身体能力に限界を感じていたため、医学的な方向からしのぶに助言を貰いに来ていた。

 蝶屋敷で時透無一郎に会った。記憶喪失のため、改善の兆しがないか定期的に検査を行っていた。

 蝶屋敷で甘露寺蜜璃に会った。特質な体質のため、異常がないか定期健診を行っていた。

 蝶屋敷で伊黒小芭内に会った。後天的に食が細い体質になった小芭内は、どうしても筋力がつきにくい。その体質を活かせる良い方法がないか、医学的な検査を通して手段を探っていた。

 実に柱の半数以上がしのぶを頼っていた。もちろん、柱としての仕事と鬼の研究を行いながら、しのぶは柱達の相談に乗っている。

 一体どれだけの仕事をこなしているのか気になり、義勇はしのぶを目で追うようになった。

 仕事は確かに多かった。だが、しのぶは愚痴は言うものの、疲れた様子も決して見せなかった。髪は常に艶やかで、肌も白くきめ細かい。

 理由を聞いてみた。なぜ、そんなに奇麗なのか、と。

 なぜかしのぶは慌てていた。慌てた理由はよく分からなかったが、しのぶは全てを話した。

 普段から全てを濃密にする事が、秘訣だと言った。その一つが食事で、少量で栄養価の高い物を……と言って、何かドロドロした物を取り出した。これで一日の栄養が摂れるなどと得意気に言っていたが、ゲロの方がまだマシな色合いと匂いと味をしていた。

 義勇は愕然とした。

 他の柱は、食事はかなり贅沢にしている。そもそも、食事を最低限しか摂らない蛇柱・伊黒小芭内は別として、命を誰よりも懸ける代償として、鬼殺隊の柱達はかなり贅沢をしている。義勇もよく、鮭大根を食べている。

 だが、しのぶはどうだ。誰よりも働いているのに、口にしている物は食べ物とは言えない悍ましい物。生活だって、鬼殺や訓練以外では診療所に引きこもっている事が大半だ。睡眠時間だって、義勇より遥かに少ない。

 ――しのぶは文字通り、全てを鬼殺隊に捧げていた。

 あの小さな体に、どれだけのモノが圧し掛かっているのか想像できなかった。なのに、誰もがさらに彼女に期待し、さらに重荷を乗せようとしている。そして、自身もまた彼女の重石になっている。鬼殺隊に居るべきではないくせに、しのぶに負担を掛けている。

 距離を取るべきだと思った。これ以上、しのぶの負担になるべきではない。また独りに戻るべきだと。

 だが、それでどうなるのか。しのぶの負担は変わらない。このまま離れても、別の負担が圧し掛かるのではないか。

 

 

 ――そんな折だ、竈門兄妹に出会ったのは。

 

 

 竈門炭治郎は家族を鬼に殺され、唯一残された妹・禰豆子を鬼にされてしまった。

 最初から、妙な雰囲気がする鬼だと思っていた。胡蝶家の鬼が頭によぎった。そんなはずはない、と心のどこかが否定し、少し試す様に禰豆子を離せば……飢餓状態にも関わらず、彼女は兄を守った。

 ――人を喰らわない鬼を、見つけた。見つけて、しまった。

 馬鹿正直に鬼殺隊へ報告をすればどうなるか。しのぶが動く。禰豆子を助けようとして、また負担が増える。

 恐ろしかった。自身の行動で、また彼女を追い詰めてしまう事が。

 だからこそ、二人の存在を隠した。後事を育手の鱗滝に託し、鱗滝にはしのぶの存在を隠し、全てを一人で背負おうとした。

 だが、それも上手くはいかなかった。どこから話を聞きつけたのか、しのぶは竈門兄妹の事を探り当て、義勇を問い詰めた。この時ばかりは、優秀過ぎるしのぶを恨んだ。

 義勇は口下手だ。しのぶに弁舌で勝てない。だが、全てを話してしまえば、優しいしのぶは全てを背負ってしまう。

 義勇は何も有効な手を打つ事ができず、ただただ黙った。拒絶しかできなかった。

 最初はしのぶも優しく問いかけてくれた。しかし、義勇に話す気がないと分かると激怒した。

 

 

『姉さんと義兄さんの何を見てきたの!?』

『苦しむ姉さんと義兄さんを見て、何も想わなかったの!?』

『私の何を見てきたの――』

 

 

 彼女の放つ言葉全てが、胸を穿った。だが、この痛みは正当なものではない。本来なら、別のもっと相応しい人が――いや、そもそも彼ならばしのぶを苦しめるような事もさせなかった。義勇が相応しくない、居るべき者でないがゆえの罰のようなものだ。だから、何も反論せずに全てを受けた。

 しのぶは義勇と関わろうとしなくなった。喫せずして距離が離れた。

 苦しくなかった……とは言えない。だが、どうせ義勇などしのぶにとってはただの負担でしかない。これが最善なんだと思った。

 後はどうにかして、己が竈門兄弟を導いていく。決して、しのぶの手は煩わせはしない。

 

 

 ――もちろん、それは甘い見通しだった。義勇はあれだけしのぶの傍にいて、まだ彼女の事を下に見積もっていたらしい。

 

 

 ある日の柱訓練。道場に鬼夫婦が到着すると、

 

 

「今日は本気で稽古つけてあげるわね~」

 

 

 軽快な声音とは裏腹に、不穏な事をカナエが言い放った。

 そこから先は、比喩ではなく地獄だった。その証拠とでも言うべきか。訓練中、義勇は自身の編み出した技『水の呼吸・拾壱ノ型 凪』ばかりをしていた。途中からもう凪った記憶しかない。

 凪って凪って凪って――精魂尽きて倒れた所で、目の前に水筒を差し出された。何気ないし受け取ると同時に、渡した人の顔が目に入った。

 やや垂れた大きな瞳。艶やかな唇は大きな弧を描き、笑みを口に浮かべる。胡蝶しのぶが、底意地の悪い笑顔を浮かべて、そこにいた。

 

 

「受け取ったお茶の分ぐらい、お話しして下さいますよね?」

(……まんまとしてやられた訳か)

 

 

 なけなしの力を振り絞り体を起こす。訓練が異様に厳しかったのも、全ては義勇を逃がさないためだと気づいた。だが、気づいた所で遅すぎる。道場にはカナエに加えて弦司もいる。消耗した今の義勇では、逃げる事は叶わないだろう。

 義勇は諦めて脚を崩して座った。

 

 

「冨岡さん」

「……」

「どうして私がこのような事をしたか、分かっていますよね」

 

 

 しのぶが義勇の隣に正座し、その大きな双眸で真っ直ぐに見つめてくる。強く輝かしい視線に、義勇は堪らず目を逸らした。

 

 

「私を竈門禰豆子さんに会わせて下さい」

「……何も話す事はない」

 

 

 つい、拒絶の言葉が口から出る。しのぶは口の端を上げて邪悪に笑う。

 いつもは義勇が拒絶し、すぐに逃げ出す。だが、今日は体力が尽きて、とてもではないが逃げ出せない。しのぶの笑顔は、全てを話すまで逃がさないと語っていた。

 

 

「そういえば、どうして私が竈門禰豆子さんを知ったのか、教えていませんでしたね」

「……」

「竈門禰豆子さんを診察した医師から、巡り巡って私の相談が来たんですよ」

「……何?」

「やっと反応してくれましたね」

 

 

 それは義勇にとって初耳だった。だが、冷静に考えればしのぶが竈門兄妹の情報を知れる経路は、確かに医師からしかない。しかし、なぜしのぶがそのような事を、今更言うのか分からない。

 しのぶが続ける。

 

 

「彼は立派な医者です。立派な人物なら、何十日も眠り続ける少女を目覚めさせてあげたいと考えるのは、当然でしょう? だから、知恵を貸して欲しいと私に相談が来たんです」

「……」

「確かに現状、異常はありません。私も彼の診察記録から、同様の判断をします。ですが、別に異常がないからと言って正常ではないのですよ? 冨岡さんと鱗滝さんは医師に異常なしと診断されて満足かもしれませんが、医者からすれば分からないとは非常に恐ろしい事です」

「……」

「竈門禰豆子さんに会いたいというのは、何も姉さんと義兄さんのためだけではありません。他でもない、竈門禰豆子さんの現状を鬼の研究の第一人者の私が、正確な判断と経過を確認するため……つまり、禰豆子ちゃんのためでもあるんです。冨岡さん、お願いです。彼女に会わせて下さい」

 

 

 しのぶが頭を下げる。その訴えはどこまでも真摯で、慈しみに溢れていた。だからこそ……義勇はその想いに応えたくない。

 あれだけの期待と命を背負っているのに、この小さく華奢な体にまた一つ、重石を乗せようとする。例えたった一つの重石でも、しのぶに背負わせたくない。

 

 

「断る」

「……」

 

 

 しのぶの下げた頭が、ピクリと動いた。彼女は小さく深呼吸を繰り返してから、頭を下げたまま続ける。

 

 

「禰豆子ちゃんはどうなってもいいんですか? もしそう思っているのなら、せめて理由を説明して下さい」

「必要ない」

「冨岡さんの判断はそうでしょうが、医者の判断はそうではありません。彼女を本当に想うなら、私に会わせて下さい」

「……」

「禰豆子ちゃんを、一緒に救いましょう?」

 

 

 義勇の気持ちが揺らぐ。

 あの日、禰豆子は飢えに苦しんでいた。兄を食べようとして、それでも食べたくなくて泣いていた。そして苦しんで苦しんで苦しんで……それでも、兄を守るため身を挺した。あの時の禰豆子の姿が、今も脳裏に焼き付いている。

 義勇とて禰豆子を救いたい。そのためには、鬼の知識に乏しい己ではなく、しのぶに託すのが最善だと分かっている。

 でも義勇は……義勇が、救いたいのは――。

 

 

「会わせない」

「っ!!」

 

 

 瞬間、しのぶが顔を上げる。目は吊り上がり歯をむき出しにし、怒りを露わにして義勇へと飛びかかってきた。

 義勇は避けない。動けないというのもあるが、我ながら最低の返答だという自覚があるからだ。彼女の怒りは正当である。だからこそ、甘んじて受けるべきである。

 だが、衝撃は来なかった。カナエと弦司が抱き締める様にして、しのぶを抑えていた。小柄なしのぶが二体の鬼の膂力に敵うはずもなく、二人の腕の中でもがく。

 

 

「どうしてよ、冨岡さん! 姉さんが鬼になって、心細かった私を支えてくれたあの優しさは、どこへ行ったのよ!!」

「……」

「何とか言ってよぉっ!!」

 

 

 怒声にも近い叫び。だが、義勇にはそれがまるで、縋る様に感じられた。己はそんな感情を向けられるような人ではないのに。

 しのぶの怒りは止まらない。

 

 

「禰豆子ちゃんが取り返しのつかない事になってもいいの!?」

「……」

「私は、冨岡さんの優しさを信じているのに!! どうしてあの日の優しさを隠すの!?」

「……」

「ああもう、さっきから黙ってばかりで!! 私がこれだけ胸襟開いて話してるのに、そっちは何も教えてくれない……!! 何も言わなかったら、何も分かんないじゃない!!」

「……」

「そんなだから、みんなに嫌われるのよ!!」

「――っ!?」

 

 

 確かに上手く付き合えていないが、嫌われている訳ではないはずだ。

 義勇は思わず、しのぶの方を振り返る。さらにしのぶの眉尻が吊り上がった。

 

 

「私の話には反応しなくて、そこに反応する!?」

「俺は嫌われていない」

「ああそうですか! 嫌われている自覚なかったんですね! それは余計な事を言って申し訳ありません!!」

「……」

「でも今は……私も冨岡さんを嫌いになりそうですよ――」

 

 

 しのぶが先までと打って変わって、静かに震える声で言った。それは心底怒っている様であって……悲しんでいる様でもあった。

 胸の奥底が冷たくなるような感覚があった。あれだけ相応しくないと思っていながら、いざ嫌うと言われて傷ついている。あまりにも馬鹿げていると義勇は思った。

 だが、同時に思う。もし、しのぶに嫌われたら、この件から手を引くのではないか。己と距離を取ってくれるのではないか。

 そんな単純で甘い考えから……義勇は言ってしまった。

 

 

「嫌われてもいい」

 

 

 ――しのぶを救えるのなら。

 

 

「……」

 

 

 しのぶは一瞬固まると、わなわなと震え始めた。口を強く引き結び、拳を強く握り締める。

 怒るのか。怒鳴るのか。それとも、殴りかかってくるのか。

 だが、何であろうと甘んじて受けよう。そう思い、僅かに身構える義勇に対し、しのぶは――大粒の涙を流した。

 

 

「何で……ばかぁ……!」

 

 

 何かを言い募ろうとしのぶは口を開くが、全ては言葉にならず嗚咽だけが漏れる。そしてとうとう顔をくしゃくしゃにすると、声を上げて泣き始めた。

 義勇は何が起きているのか分からなかった。分かるのは、自身の行為が原因でしのぶを泣かせてしまった事ぐらいだ。だが、どうして泣いてしまったのか、全く分からない。

 

 

「しのぶ。大丈夫よ、姉さんがいるから」

「ぅ……ぅっ……!」

 

 

 混乱する義勇。一方、カナエはしのぶを抱き締めながら義勇を睨み付け、弦司は深く深くため息を吐く。

 

 

「弦司さん」

「ああ、しのぶは任せた」

 

 

 カナエと弦司は短く言葉を交わすと、カナエはしのぶを抱きしめたまま道場を出て行った。

 弦司と義勇が道場に残る。

 

 

「泣かせたな」

 

 

 義勇の隣に座った弦司が、咎めてくる。息が荒くなる。呼吸が定まらない。

 

 

「……こんな、つもりでは」

「それは分かってる。つーか、泣かせるつもりで言ったんなら、本気で軽蔑する」

「……」

「でも、どうして泣いたのか……分かっていないよな。分かってたら、こんな馬鹿な真似してないもんな」

「……」

 

 

 弦司は呆れたように脱力すると、さらに深くため息を吐いた。

 

 

「本当なら、お前の頭で考えろって言いたい所だが、このままじゃしのぶが可哀想すぎる。全部言うぞ」

 

 

 前置きを一つ入れると、

 

 

「お前が大切だからに決まっているだろ。大切な人に嫌われてもいい……興味がないって言われたら、誰だって傷つく」

「……俺は、そんな価値のある男じゃない」

「冨岡がどう思おうが、関係ない。しのぶは間違いなく、お前を大切に想っているんだ」

「……」

「それを冨岡は思いっきり踏み躙った。それでも健気に近づいてきたしのぶを、さらに引き裂いた」

「……そんな、つもりは、なかった」

「じゃあ、どんなつもりだったんだよ?」

「……」

 

 

 弦司が厳しい声音で問い詰めてくる。ここで全てを話せば、当然弦司がしのぶに伝えるだろう。彼女を泣かせてまで、ここまで沈黙を守った。今更、話すことなどできず、義勇はただただ沈黙する。

 

 

「……」

「あのなぁ、冨岡……今更話せないって気持ちも分からないでもないがな、その結果が今のしのぶだぞ。本当に正しいと思っているのか?」

「……」

「お前はしのぶを傷つけてまで、何がしたかったんだ? しのぶを不幸にしたかったのか?」

「――っ」

 

 

 弦司の言葉が全て、胸に突き刺さる。しのぶの重石を軽くしたかった。少しでも彼女に楽をして欲しかった。それだけだったはずなのに、しのぶを泣かせている。

 違うと言いたかった。むしろ幸せにしたいと願っていたと、伝えたい。

 ――だが、義勇の口は動かない。

 己はここにいるべき人間じゃない。後ろ向きな重いが義勇の口を重くさせる。恨まれても憎まれてもいいと、身勝手な感情に身を任せて立ち上がってしまう。

 

 

「冨岡!」

 

 

 追いかけようとする弦司に、義勇は反射的に縁側へと続く戸を開いた。日が部屋に差し込む。陽の光を浴びれない弦司は慌てて下がる。

 もし、弦司が人だったら。きっと厠まで義勇を追いかけて、真意を問い質そうとしただろう。だが、弦司は紛れもなく鬼であり、義勇は人だ。弦司は日を浴びる事は出来ず、義勇は陽の元を歩く事ができる。

 義勇は意図せずして、厳しい現実を弦司へと突き付けていた。弦司の力強く握られた拳が、震えていた。そんなつもりはないのに、また大切な人を傷つけてしまった。

 

 

「……時間の無駄だ。もう俺に構うな」

「冨岡!!」 

 

 

 義勇は堪らず逃げ出した。やはり、ここにいるべきではなかった。資格も価値も己にはなかったのだと、後悔を胸に抱きながら義勇は駆け出した。

 何も繋がず、何も受け継がず、ただただ後ろに向かって進んで行く。

 

 

 ――義勇が前を向いて歩くには、一人の少年の成長を待つしかなかった。




問題児組、終了。

次回、本編未登場組です。


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後日譚 柱訓練? ~恋・蛇・炎~

訓練しません。

※煉獄さんだけ時系列がちょっと過去になります


◆柱訓練・恋 ~甘露寺蜜璃と恋話~ ◆

 

 

 恋柱・甘露寺蜜璃。

 珍しい桜と緑の髪色をした、綺麗というよりも可愛らしい女性。一見、か弱そうな見える蜜璃だが、『恋柱』の名が示すように歴とした鬼殺隊の柱だ。

 華奢な体格からは想像もできないが、その筋力密度は一般人のなんと()()。柔らかくしなやかな体。さらには、薄くて()()()鞭のような日輪刀を振るい、鬼殺隊の中でも剣技は恐ろしく速い。

 甘露寺蜜璃は鬼殺隊きっての異質の剣士だった。

 異質なのは、何も剣術や体躯のみではない。経歴も鬼殺隊の中では変わっている。

 鬼殺隊に入隊する人々は、大なり小なり鬼によって奪われた者が大半だ。復讐心を糧に、自身の大切な物を奪った鬼を滅していく。しかし、蜜璃は何かを奪われた訳ではない。産屋敷耀哉に見込まれ、力なき人々を守るという使命感と、強い殿方と結ばれたいという下心で鬼殺隊に入隊した。例外中の例外だった。

 そんな蜜璃は最近、柱訓練を楽しみにしている。

 

 

 ――柱訓練。

 

 

 人を喰らわぬ鬼・胡蝶カナエと弦司による、柱向けの特別訓練だ。その厳しさに正直、蜜璃はいつも泣きそうになる。あんなにすごい頑張って柱になったのに、まだこんなに厳しい訓練があるなど、想像していなかった。この訓練を乗り越えなければ、上弦の鬼ともまともに戦えないというのも、精神的に辛かった。それでも蜜璃が頑張っているのは、カナエと弦司が蜜璃を生かそうと一生懸命だったから。そして何より――訓練の後は二人と一緒に過ごせるからである。

 

 

 ゲロを吐きそうな訓練も終わり、蜜璃は自宅の居間で寛ぐ。

 

 

「宮さん宮さんお馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな♪」

 

 

 思わず上機嫌で歌ってしまう。地獄の訓練から解放されたから……だけではない。訓練が終わった恒例行事として、胡蝶夫妻は毎回蜜璃を労ってくれる。それが今から楽しみでしょうがない。

 

 

「トコトンヤレ、トンヤレナ♪」

 

 

 蜜璃はカナエと弦司――胡蝶夫妻二人が大好きだった。

 最初こそ、人を喰らわない鬼が鬼殺隊にいると聞いて、驚いたし戸惑った。だが一目見て、会って、話し合って、疑念は吹き飛んだ。

 お互いを見つめる視線は愛しさが込められていて。互いに自然に触れ合い、ふとした瞬間には手を重ねる。熱々で見ている蜜璃が恥ずかしいぐらい仲良しだった。

 二人は人を喰らう代わりに食事を摂っていた。食べる二人は美味しい物で笑顔になって、不味い物は顔を顰めて。食事が好きだと、見ているだけで伝わった。

 大喰らいの蜜璃に対しても、隔意なく接してくれた。それどころか、時間がある時は蜜璃と同じ量の食事を『美味しい』と言って、一緒に食べてくれた。

 鬼殺隊は、蜜璃の食事量を受け入れてくれている。ありのままの蜜璃を、好きでいてくれる。だが、誰も彼も見ているだけだ。

 もちろん、受け入れてくれているだけでも本当に嬉しい。でも、自分と同じものを共有して欲しいという欲求がない訳ではない。

 胡蝶夫妻は見るだけではない。同じ物を同じだけ食べて、同じ時間を過ごして、同じ感情を共有してくれる。本当の意味で一緒に居てくれるのは、二人だけなのだ。

 

 

「あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか♪」

 

 

 台所から漂ってくる良い匂いに、ぽかぽかと幸せな気持ちになる。

 弦司はたくさんのハイカラな料理を知っている。今日も知らない美味しい味を、大好きな二人と一緒にたくさん味わえるだろう。想像するだけで、蜜璃の気持ちは最高潮になる。

 

 

「トコトンヤレ、トンヤレナ♪」

「できたぞー」

「もう少し待っててね」

「わーい!!」

 

 

 ほどなくして弦司とカナエが声を掛けて、二人が料理を運んでくる。料理はパンケーキでなんと顔よりも大きく、しかも三段重ねだった。

 香ばしく甘い香りが、蜜璃の鼻腔をくすぐる。歓喜の悲鳴を上げた。

 

 

「ひゃぁっ!!」

「蜜璃の大好きなパンケーキだぞ。ただし、巨大なやつだ。ハチミツ以外にも、ミカンとブドウのソース作ったから」

「味を変えながら楽しんでね」

「素敵!」

 

 

 二人が料理を並べ終えると、蜜璃はフォークを手に取った。食べるのが楽しみで我慢が効かない様子に、弦司とカナエが微笑み。蜜璃は羞恥で頬に朱色が差すが、欲望は止められない。

 

 

「ほら、遠慮するな」

「どんどん食べてね」

「うん! いただきます!」

 

 

 最初は何もかけないで、端を大きめに切り取り口へと運ぶ。瞬間、ふわふわな食感と僅かな甘味が広がる。美味しい。

 もう一度大きめに切り取って、ハチミツをたっぷりかける。ハチミツの甘味と出来たての温かさ、やわらかな食感がたまらなかった。

 ミカンのソースも試してみる。今までの強い甘味と打って変わり、柑橘特有の甘酸っぱさが口に広がる。甘さに溢れていた口内が、丁度いい塩梅で中和されて、また甘味が欲しくなる。手が止まらない。

 弦司とカナエの笑みが深くなる。

 

 

「気に入ってくれたみたいだな」

「練習した甲斐があったわね、弦司さん」

 

 

 カナエが労い、そっと手の甲を弦司の手の甲へ合わせる。仲睦まじい夫婦を目の当たりにして、蜜璃はキュンキュンする。ただでさえ美味しいパンケーキが、もっと美味しくなった気がした。

 

 

「二人は今日も仲良しさんだね」

 

 

 蜜璃はパンケーキの美味しさに頬を緩ませながら、率直な気持ちを言葉にする。

 弦司が恥ずかしそうに頬を掻き、カナエは心なしか自慢げに胸を張る。

 

 

「……まあな」

「ありがとう、蜜璃ちゃん」

「私も素敵な旦那様が欲しいなー」

 

 

 一緒に料理をして、一緒に美味しい物をたくさん食べて。そんな人がいてくれたら、きっと楽しいだろうと、蜜璃は想像してドキドキする。

 すると、カナエがじとっとした視線をよこしてきた。蜜璃が首を傾げると、

 

 

「……あげないわよ」

「えっ……ええっ!?」

 

 

 どうやら、カナエは違う意味に捉えたらしい。

 蜜璃は慌てて首を横に振る。

 

 

「ち、違うよ、カナエちゃん!? そんな意味で言った訳じゃないから! 別に、弦司さんが欲しいとかそうじゃないの! 二人のような仲の良い夫婦になりたいってだけ!」

「本当?」

「本当!」

「本当に?」

「ホントだよー!」

「こらこら。あまり揶揄うなって」

 

 

 弦司が撫でる様にポンポンとカナエの頭に触れると、彼女は悪戯っぽく舌を出した。冗談だったらしい。

 蜜璃はホッとすると同時に、二人をほんの少しだけ羨む。

 今まで、素敵な殿方と添い遂げたいと思っていた。だが、二人を見てそれだけではないと思うようになった。

 添い遂げるだけではない。その先にある幸せを二人で掴む。それこそが、蜜璃の本当の願いだった。

 

 

「ねえねえ、カナエちゃん、弦司さん」

「何?」

「二人みたいにずっと仲良しさんになるには、やっぱり何か秘訣があるの?」

 

 

 気になって、思わず尋ねた。

 弦司は腕を組んでしばらく考え込むと、

 

 

「うーん……やっぱり、ちゃんと男女でいる事が大切なんじゃないか?」

「男女?」

「ああ。長い時間、一緒にいるとどうしても『家族』って意識が強くなるからな。二人っきりの時は、出会った時を思い出して……な?」

「? 『家族』になっちゃいけないの?」

「いや、そういう意味じゃないけど。やっぱり、男と女で結ばれたんだ。そこは大切にしないと」

「うーん……?」

 

 

 蜜璃は弦司の言っている意味が、いまいち分からなかった。結婚すれば分かるのだろうか。

 釈然としないまま、蜜璃はカナエに話を振る。

 

 

「カナエちゃんは?」

「そうね。弦司さんが言いたい事、だいたい言ってくれたけど、強いて言うなら……」

「強いて言うなら?」

「二人きりの時はと~っても()()()する事よ」

「おいっ!?」

 

 

 仲良く、を殊更強調してカナエが言った。なぜか、弦司が慌てている。

 蜜璃は首を傾げる。わざわざ強調するという事は、文字通りの()()()という意味ではないのだろう。そして、二人きりの時と限定してきた。つまり、二人きりでしかできないような事のはず。

 夫婦が二人っきり。そして、仲良く。

 この二つが合わさるという事は――。

 

 

「あーんとかしちゃうの!?」

「……そうよ!」

「ぎゃあぁぁっ!!」

 

 

 カナエの肯定に蜜璃は黄色い悲鳴を上げる。

 なぜか弦司はやれやれと言いたそうにため息を吐くが、もう蜜璃はそれどころではない。想像しただけで体温が上がって、ドキュンとして鼻血が出そうだった。

 

 

「じゃあ、後学のためにお手本見せてあげようかしら?」

「!?!?」

「あーん」

 

 

 カナエが弦司のパンケーキを切り取ると、慣れた手つきで彼の口元に運ぶ。

 蜜璃は両手で顔を覆う。指の隙間から、バッチリ二人を見る。弦司はしぶしぶといった様子で食べていた。

 口元に着いたハチミツをカナエがふき取る。二人が熱々すぎて、蜜璃の目は火傷しそうだった。

 

 

「美味しい?」

「美味しい」

「もう一口どう?」

「……二人きりになってからな」

「えーっ!」

「えー、じゃない! それよりも蜜璃、お前はどうなんだ!」

 

 

 誤魔化すように弦司が蜜璃を呼ぶ。残念半分、ドキドキが止まって安心半分で蜜璃は手を顔から下ろす。

 

 

「どうって?」

「いやいや。秘訣を訊くのは良いけど、相手はいるのか?」

「うっ……」

 

 

 蜜璃は言い淀む。

 

 

「その……まだだけど」

「なら、気にある相手とかは?」

「えっと……伊黒さんとか、不死川さんとか。最近は時透君も素敵だなぁ、って」

「相変わらず気が多いな」

「だってだって! 柱の人は素敵な男性が多いんだもの!」

「それは分かるけど。もう、性格とか色々分かっただろ? ときめくのもいいが、誰か一人に絞ってもいいんじゃないか?」

「誰か、一人に……」

 

 

 蜜璃の胸が高鳴る。柱の中の誰かと添い遂げると想像したから……だけではない。殿方と添い遂げたいという浮ついた理由で入隊した蜜璃を、弦司は受け入れ、さらには背中を押そうとしてくれているからだ。嬉しくて、ついドキドキしてしまう。

 でも、ドキドキしているだけではダメだ。彼はここまで蜜璃の願いを真剣に考えてくれている。彼の助言にしっかり応えたい。そのためには誰と添い遂げたいのか、しっかりと向かい合わなければならない。

 蛇柱・伊黒小芭内。いつもネチネチしていて、それでも仲間想いな。優しくて格好いい人。

 風柱・不死川実弥。会う度に傷を増やしているが、傷の数だけ人を救っている、口は悪いけど、努力家で優しくて強い人。

 霞柱・時透無一郎。いつもはボーっとしてて何を考えているか分からないが、やるときはやる格好良くて可愛い子。

 蜜璃が悩んでいると、弦司は冗談めかして、

 

 

「まあ、お前が二人以上がいいなら――」

「そ、そんな事しないもん! 私は……私は――!」

「はいはい。蜜璃ちゃん、そこまで」

 

 

 答えようとした蜜璃を、カナエが止める。

 

 

「今すぐ答えなんて出さなくてもいいのよ?」

「でも……」

「恋なんだから、迷って悩んでいいの。急がなくていい。大切なのは、しっかり気持ちに向かい合って答えを出す事なんだから」

「カナエちゃん……」

 

 

 カナエが目を細めて、側頭部に着けている虹色の簪に触れる。

 二人のおおよその馴れ初めを、蜜璃は知っている。

 きっと今の関係になるまで、何度も迷って悩んだのだろう。でも、迷いも悩みも全て今の二人の幸せに繋がっているのだ。

 

 

「うん!」

 

 

 蜜璃は力強く頷いた。

 もし、蜜璃が夫婦になるのなら二人の様になりたい。だから、これからもっと迷い悩もう。

 そしていつか、素敵な恋をする――。

 

 

 

◆柱訓練・蛇 ~伊黒小芭内と恋話~ ◆

 

 

 

「お前の旦那、浮気していないだろうな」

 

 

 色彩の異なる左右の瞳。長い黒髪に、口元は強く結ばれた包帯と蛇。

 蛇柱・伊黒小芭内。彼は柱訓練後、適当な理由をつけて胡蝶カナエと二人になるなり詰問した。

 カナエの答えは訓練用の模造刀だった。

 

 

「ちょっと訓練が足りなかったようね」

「ごふっ!?」

 

 

 カナエの嵐のような太刀を、小芭内は同じく模造刀で何とか受け止めるが、腕力が違いすぎる。小芭内は道場の端までぶっ飛ばされた。

 小芭内は咳き込み、愛蛇・鏑丸は目を回す。フラフラしながら立ち上がる。

 

 

「っ、やはり、心当たりがあるんだな」

「人の旦那を浮気者呼ばわりされて、怒らない訳ないでしょ!? ……どうせ蜜璃ちゃんの事なんだろうけど、事実無根です」

 

 

 カナエは一度小芭内をぶっ飛ばして満足したのか、頬を膨らませながらも模造刀を鞘へと納める。

 恋柱・甘露寺蜜璃。

 桜の髪色を可愛らしい女性。鬼殺隊はどうしてもその成り立ちや隊士の入隊理由から、後ろを向いてしまう。蜜璃はその生来の明るさで、みんなを前に向かせる。鬼殺隊における輝かしい光だと、小芭内は思っていた。

 だが今、輝かしい彼女が穢されるのではないかと、小芭内は懸念している。それが胡蝶弦司の浮気だ。

 蜜璃と弦司は恐ろしく相性が良い。十数年来の親友かと思うほど馬が合う。

 蜜璃は洋食などハイカラな食事を摂る事を趣味としている。美味しい物であれば、先入観なく割と何でも口にする。弦司も元々の趣味は食事であり、人間だった頃のあだ名は『悪食家』と呼ばれるほど、色々な物を食べていた。弦司は蜜璃の知らない料理をたくさん知っており、彼が蜜璃の知らない美味しい料理やお店を教える度、彼女は喜び距離が縮まっていく。

 価値観だって似ている。蜜璃は他人を色眼鏡で判断しない。その人の長所を見て、すぐにときめく。弦司も個人の長所を探し、すぐに褒める。特に、女性に対してはその傾向が強い。

 好みも趣味も同じで、価値観も似通っている。だから居心地よいのだろう、会う機会があればいつも長々と話している。何かの拍子に心が移ろい……いや、すでに懸想をして蜜璃に粉を掛けるのではないかと、小芭内は本気で懸念していたのだ。

 カナエは弦司を信じているようだが、恋は盲目とよく言われる。証拠もない精神論では小芭内は納得できない。

 

 

「信用しない信用しない。あの女好きの事だ、その内、妾にでもしたいとか言い出すんじゃないだろうな」

「あのねえ、弦司さんはその辺り、すごい気を遣ってるのよ? 蜜璃ちゃんといるのも、私がいる時だけだし。私が他の女性の話をしない限り、会話にも女性の名前は出さないぐらいなんだから。浮気なんて有り得ません」

「語るに落ちたな、胡蝶カナエ。女性について進んで話さない……逆に言えば、旦那はお前に恋愛遍歴を隠しているという事だろう? その調子で、浮気も隠しているんじゃないのか? やはり、信用できない信用できない」

「……そうとも取れるけど。それは私が嫉妬深いからで、何も弦司さんが悪い訳じゃないし……浮気なんて、しないし……」

「だから、俺が調べてきた」

「何しているの、伊黒君!? 私も恋愛関係はポンコツな自覚あるけど、伊黒君も大概そうよね!?」

 

 

 カナエが何やら言っているが、小芭内は無視して話し始める。

 

 

「まずは十二歳の時だ」

「まずは!? それに十二!? 待って、頭が追いつかない!?」

「実家の近隣に住む、四つ年上の娘と付き合っていたらしい」

「え、いや、四つ上!?」

「最初は姉のように接していたようだが、どうやら、娘の方は不破家は金持ちと聞いて玉の輿を狙うようになり、付き合い始めたそうだ」

「えっ、本当に子ども?」

「だが、付き合って一年後には娘の見合い話がまとまり、別れている」

「だから、何で全体的に生々しいの!?」

 

 

 忙しなく反応するカナエ。一つ目でこれでは先が思いやられるが、小芭内は気にせず続ける。

 

 

「二つ目は十六の時、友人の姉で二つ年上だ」

「私が結婚した年齢より上……」

「こっちも一年は付き合ったらしいが、外出が多い弦司に娘の方があまり付き合おうとせず、段々と距離を置くようになり自然消滅したらしい」

「……」

 

 

 徐々に聞き入り始めるカナエ。何だかんだ言っても、旦那の恋愛遍歴が気になるらしい。聞き入って邪魔にならないなら、小芭内は構わない。もちろん、この後は容赦なくネチネチと責め立ててやるつもりだが。

 続いて、三人目。

 

 

「次は十八。そろそろ落ち着けと親に勧められた、同い年のお見合い相手だ」

「ふーん……今度は普通な感じ。どうして別れたの?」

「三回目の逢瀬で『貧乳娘』と吐き捨てて、派手に喧嘩別れした」

「何してるのよ、弦司さん!?」

「女が全面的に悪いから心配するな。続けるぞ」

 

 

 ちなみに、別れた原因は価値観の不一致。見合い相手が選民思想で、華族以外を見下すという中々()()()()していたらしい。

 両家の顔を立てて三回も会った弦司だったが、たまたま出会った友を愚弄され堪忍袋の緒が切れた……というのが事の真相だ。もちろん、小芭内は弦司の印象を少しでも下げたいので、真実は今しばらく伏せておく。

 

 

「そこから先は付き合う、とまでいかない浅い交際がしばらく続き……最後は、お前が知る人物だ」

「……熊谷環さん」

「ああ。事の顛末は目の当たりにしたお前の方が分かっているだろう。省略するぞ」

 

 

 熊谷環。弦司に関わる一連の事件で、最も被害を被った女性だ。この件については聞くだけでも、鬼舞辻無惨に対して腸が煮えくり返るので、小芭内はわざわざ話はしない。

 それよりも今、肝心なのはこの恋愛遍歴がどう浮気に結び付くか、である。

 

 

「長々と説明したが、共通項が彼女らに存在する」

「共通項?」

「もちろん、お前を含めてだ」

「私も? それって――」

 

 

 怪訝に眉を顰めるカナエに、小芭内は言い放つ。

 

 

「乳房だ」

「……」

 

 

 カナエの視線が絶対零度になった。

 男なら誰もが慌てるような冷たい視線だが、視線の主は蜜璃ではないので小芭内は一向に気にしない。

 

 

「分からないのか、お前の旦那の事だろう」

「分かりません。分かりたくありません。旦那の恋愛遍歴を勝手に調べた挙句、変な事を言う伊黒君を軽蔑します」

「大きさだ」

「――っ」

 

 

 構わず小芭内が言うと、カナエが固まった。

 

 

「あの男は女を乳房の大きさで判断している」

「……待って」

「若年時から年上の女と付き合っていたのは、そのせいだ」

「待って待って」

「最も胸の小さかった女とは一番酷い別れ方をしている」

「待って待って待って!」

「お前も身に覚えが――」

「旦那の性癖を冷静に分析しないでぇ……!」

 

 

 カナエが両手で顔を覆って横に首を振る。恥ずかしいのか、手で隠し切れない耳や首筋は真っ赤だった。心当たりがありまくるのだろう。

 小芭内はますます確信を深める。

 

 

「分かっただろう? 胡蝶弦司は乳房の大きな女が好みだ」

「じゃあ何なの!? 伊黒君は蜜璃ちゃんの胸が弦司さん好みだから、浮気するんじゃないかって疑ってるの!?」

「そういう事だ」

「それだとしのぶも候補に入るんだけど!?」

「じゃあ、そういう事だ」

「暴論よ!!」

 

 

 カナエが顔を覆っていた両手をのけて反論する。案の定、羞恥心から顔は真っ赤で、目尻には僅かに涙が浮かんでいた。

 

 

「そもそも、お義父さんもお義兄さんも愛妻家です! 妾、ましてや妻の妹に手を出すだなんて、そんな発想ありません!」

 

 

 家庭環境を引き合いに出し、カナエが有り得ないと論じる。

 だが、相手は鬼殺隊一ネチっこい男・伊黒小芭内。その程度の反論を封じる術は、すでに準備していた。

 

 

「馬鹿め、俺が調べていないと思ったか?」

「えっ」

「俺の調べでは次男……旦那のもう一人の兄は三人ほど妾がいるようだが?」

「うっ……!」

 

 

 上の兄と父親が一途なせいか、不破家の次男は中々に性に奔放だった。

 その良し悪しは今は関係ないので脇に置き、呻くカナエに小芭内はさらに追い打ちをかける。

 

 

「義父の妻……義母は二人目であり前妻は義母の姉だと聞いたが、間違っているか?」

「ううっ……!」

「発想がない? 嘘を吐くな。むしろ奴にとって妻の一人や二人は日常だ」

「に、日常は言いすぎ……!」

 

 

 ちなみに、姉妹で愛憎劇を繰り広げた……などという事はなく、姉が流行病で死去してしまった後、家の繋がり保つために後妻となっただけである。今でも、前妻の墓参りは続いている。そんな温かな家庭を曇らせた鬼舞辻無惨は、死すべきである……が、今はひとまず蜜璃である。

 小芭内は再びカナエへ詰問する。

 

 

「性格も価値観も身体的特徴も胡蝶弦司と一致し、家庭環境も許容できる余地がある。それでも、お前の旦那は浮気をしないと思っているのか?」

「弦司さんは身も心も私の物だもの。そんなの有り得ない」

 

 

 カナエは即座に否定した。もはやそれは愛ではなく、執着であった。

 だが、どれだけカナエが感情を見せても、それに見合う証拠は提示されない。

 

 

「俺は信じない」

「私は信じる」

「ふん。なら、俺はこれからお前の旦那を詰問する。俺を納得させられなかったんだ、それぐらい問題ないだろう?」

「いいですよー。恥かくのは伊黒君なんだから」

 

 

 

 

 こうして、小芭内が弦司を問い詰める事になったのだが――。

 

 

「……お前は一体何をしている?」

「いや、話長いから。小腹が空いたから食事」

 

 

 弦司は伊黒邸の台所を借りて作ったオムレツ(半熟)を、美味しそうに頬張っていた。浮気を疑われているのに、本当に呑気な男であった。

 

 

「伊黒もどうだ?」

「いらない」

「そうか……それで、カナエはどうしたんだ? カナエの分も作ろうかと思っていたんだけど」

「しばらく席を外させた」

「ん? 何か話でもあるのか?」

「甘露寺の事だ」

 

 

 弦司の箸が止まる。

 この男、遠回しに言うと良いように受け止める傾向があるので、小芭内は直裁する事にした。

 

 

「随分と甘露寺と楽しくしているようだが。もしかして、友以上を望むつもりはないだろうな?」

「蜜璃と? ないない」

「お前は乳房が大きい女が好みなのは調査済みだ。信用しない信用しない」

「お前何してるの!?」

「否定をすれば、お前の恋愛遍歴を語る」

「ぐっ……! い、いいじゃないか……! 巨乳は夢が詰まっているんだから……!」

「やはりお前、浮気を――」

「考えてないって! ああもう、心配性だな……!」

 

 

 弦司は困ったように眉尻を下げると、箸を置いて腕を組む。

 少し悩んでから、

 

 

「伊黒は俺に浮気をしないように釘を刺したい訳だ」

「ふん。それぐらいは分かる脳みそはあるみたいだな」

「でも、口約束じゃ信じないよな? じゃあ、俺は蜜璃ともう会わなければいいのか?」

「……」

 

 

 小芭内は言葉に詰まる。

 弦司と蜜璃が会わなくなれば、心配は完全に杞憂となる。会うなと言ってやりたい。でも、小芭内はそこまではできなかった。

 間違いなく、蜜璃は弦司との時間を楽しんでいるのだ。それを勝手に奪ってしまえば、間違いなく蜜璃を傷つける。笑顔を曇らせる。

 だからといって、弦司をそのままにする事も納得できない。小芭内は弦司が変な気を起こさないように、ただただネチネチと責めるしかできなかった。

 黙る小芭内に、弦司が語りかける。

 

 

「いいよな、蜜璃の笑顔は。彼女の笑顔で俺もカナエも、何度救われた事か」

「……」

「だからこそ、蜜璃の笑顔が失われるのが怖い」

「……知ったような口を利く」

 

 

 小芭内は悪態を吐くが、特に反論はない。

 何よりも美しく明るくて輝かしい蜜璃の笑顔に、小芭内を始め何人の隊士が救われた事か。何物にも代えがたい笑顔だからこそ、傷つき曇ってしまう事が何よりも怖い。()()()()()()()()()()()()()、全てから守りたいと思ってしまう。

 

 

「甘露寺は……誰よりも優しく明るい。彼女の輝きが失われるような事は、あってはならない」

「俺もそう思う。だけど、何もしないってのは嫌なんだよな?」

「……」

「そうなると……そうだ。伊黒、蜜璃と付き合えよ」

「!?」

 

 

 なにが「そうだ」なのだろうか。弦司が名案とでも言いたそうに指を鳴らし笑顔になる。

 小芭内は無表情、鏑丸は恥ずかしそうにそわそわし始める。

 

 

「何を言っている? 頭が沸いているのか?」

「結局は蜜璃が独り身で、本人さえ同意すれば()()()()()()()だから心配なんだろ? 伊黒が幸せにすれば、万事解決じゃないか」

「……極論だな」

 

 

 弦司の言わんとする所は小芭内にも分かった。

 弦司が求め、蜜璃とカナエが受け入れさえすれば正当に成立してしまうのが現状だ。ならば前提……蜜璃が独り身を崩せば、心配しなくても済むと。さらに、笑顔が失われない様に幸せにしてしまえと、弦司は言っている。

 きっと小芭内が今の状況を外野から見ていれば、文句をつけるぐらいならお前が幸せにしろと、同じような事を言うだろう。でも、小芭内は頷けなかった。ほとんど反射的に反論する。

 

 

「お前が略奪しないとは限らないだろ」

「蜜璃が略奪されるような娘か? つーか、俺ってそこまで伊黒にクズに思われてる?」

「ふん。まあ百歩譲って、それぐらいの人間性は信用してやる」

「ほら、やっぱり伊黒が蜜璃と付き合えば解決じゃないか」

「……」

 

 

 殊更嬉しそうに言う弦司を、小芭内は睨みつける。

 

 

「……簡単に言ってくれる」

 

 

 蜜璃と付き合う? そんなもの、できるものならとうの昔にやっている。

 小芭内の一族は鬼と結託し人々から金品を奪い、しなくてもよい贅沢ばかりをしていた。薄汚れ穢れた愚か者たちだった。

 小芭内は一族では珍しい男で、さらには左右の眼の色が変わっていた。だから鬼の生贄に捧げられながらも、珍しいからと肥え太らせ生き永らえさせられていた。

 死にたくなくて、小芭内は逃げ出した。そのせいで一族の五十人は死に、生き残ったのは小芭内といとこだけだった。

 鬼殺隊に入り、たくさんの人を助けた。たくさんの人に感謝された。だが、いくら誰かのために命を賭しても、己の中に流れる穢れた血は変わらない。切り捨てた五十の命が、重石となって体から離れない。

 こんな穢れ汚れた体では、傍にいる事さえ憚られる。胸に秘めた想いを伝えるなど、もっての他だ。伝えるとしたら鬼舞辻無惨を討ち、汚い血が全て浄化され、真人間として生まれ変わってからしかない。小芭内は少なくとも、そう考えていた。

 だというのに、弦司は簡単に小芭内の罪を乗り越えろと言う。いや、弦司だからこそ簡単に言うのだろう。彼も小芭内と同じく、自身に流れる血を憎み、苦しんでいる。しかし弦司は小芭内と違い、想いを告げて好いた相手と共にいる。乗り越えた弦司だからこそ、小芭内はこんなにも危機感を募らせ、イラついているのかもしれない。

 

 

「別にそう難しく考えるなよ。とりあえず、蜜璃と付き合ってみて、それから――」

「おい」

「ん?」

「俺はお前が甘露寺を軽々しく名で呼ぶ事も気に入らない。馴れ馴れしく呼ぶな」

「そうは言っても、今さら変えたら蜜璃が傷つくし……そうだ、お前も同じように呼べよ。そうしたら、気にならなくなるし、蜜璃も超喜ぶ」

「なぜそうなる」

「まあまあ。付き合うのは難しいかもしれないけど、名前を呼ぶのは簡単だろ? まずはそういうところから、始めてみよう」

 

 

 押しつけがましく、弦司が言う。この男、意外と押しが強い。

 

 

「……」

「それじゃあ、まずは練習だ。蜜璃。ほら、言ってみろ」

「……なぜ練習する必要がある。そもそも、呼ぶ必要性も――」

「何でも予行演習は大切だろ」

「……」

「ほら、蜜璃」

「お前が言う必要はない」

「伊黒が言ったらやめるって。ほら、蜜璃」

「……」

「蜜璃」

「……ちっ」

 

 

 こんな戯れ言無視すれば良い。だが、言わなければこの男は不愉快にも延々と蜜璃と呼ぶかもしれない。

 どうせただの練習なのだ。この男を黙らせられるなら、蜜璃を呼ぶくらいならどうって事ない。

 小芭内は言い訳がましく言葉を心の中で並べ立て、

 

 

「……………………蜜、璃」

 

 

 たった一度。たった一言。その名を呼んだだけで、鼓動が速くなった。呼吸が乱れた。

 

 

「……」

「おっ、言えたじゃないか。それじゃあ、後は本人の前で――」

「……っ」

「あっ、おーい。どこに行くんだよ?」

 

 

 小芭内は逃げる様にこの場を離れる。

 非常に癪だが、弦司が一度付き合ってみろと言った意味が少し分かった。

 蜜璃の傍にいる事も憚られる。共にいるだけで、身の内から罪悪感で苛まれるような気さえした。だから、ただ見ているだけで良いと思っていた。

 だが、彼女の名を呼んだ。見ているだけではなく、己から近づいてみた。それだけで、沼の様に己を引きずり込む罪の意識から、離れられた気がした。

 

 

(違う。俺はどうしようもなく、薄汚れている。絶対に、許されない)

 

 

 あの場にそのままいて、弦司の口車に乗っていたら。己がどうなっていたのか、見当もつかない。だが、流されるような事は許されないと小芭内は否定する。

 しかし、一度味わった甘美な感情は簡単に離れる事なく。この夜、小芭内は中々寝付けなかった。

 

 

 ――ちなみに。

 全てを隠れて聞いていたカナエは、

 

 

「弦司さんが蜜璃って言う必要なかったよね?」

「えっ、いや、そうでもしないと、あいつ言わないし……」

「私も呼んで」

「カ、カナエ」

「もっと優しく」

「カナエ」

「もっと甘く」

「カナエ」

 

 

 ――この日、延々と妻の名を呼ぶ鬼がいたとか、いないとか。

 

 

 

 

 後日、小芭内が蜜璃に会うと顔を真っ赤にさせながら「お、おおおお、小芭内さん、って呼んでも、いい?」と半ば錯乱しながら提案された。どういう手管を使ったのか分からないが、弦司の仕業だという事だけは分かった。

 罪の意識? 蜜璃の提案を断る方が大罪である。

 ――その日から、小芭内と蜜璃は名で呼び合うようになった。

 

 

 

◆柱訓練・炎 ~煉獄杏寿郎と見合い話~ ◆

 

 

 

「今日の柱訓練は中止だ!」

 

 

 炎柱・煉獄杏寿郎。

 意志の強さを示す吊り上がった目と眉。髪は紅蓮の様に明るい。その快活な性格もあり、まさに炎を体現した好漢。

 カナエと弦司が煉獄邸の一室に案内するなり、訓練の中止を告げた。

 

 

「それはいいけど。これはどういう次第だ?」

 

 

 困惑する弦司とカナエ。突如、中止となり怒らないのは、杏寿郎なら意味もなく中止にはしないと、人となりを信じているからに他ならない。きっと真に困惑しているのは、今の状況のせいだろう。

 

 

「いつも兄がお世話になっております」

「……ふん」

 

 

 座敷にすでにいたのは、杏寿郎によく似た正座した年若い少年と、酒を片手に悪態を吐く壮年の男。

 千寿郎と槇寿郎。それぞれ杏寿郎の弟と父である。

 互いが互いを、なぜここにいるのだと言いたそうにしており、座敷の空気は非常に微妙な感じだった。

 あまり時間を取らせるのも悪い。弦司とカナエも腰を下ろした所で、杏寿郎が話を切り出した。

 

 

「今日、皆に集まってもらったのは他でもない! 相談したい事がある!」

「兄上が相談? その、僕で役に立つのでしょうか?」

「千寿郎、俺は皆の忌憚のない意見が欲しい! 遠慮なく言ってくれ!」

 

 

 心配は無用だと杏寿郎が告げる。安心させるために言ったのだが、千寿郎の顔が強張る。弟の意見が欲しいとは、それだけ杏寿郎が切羽詰まっている証左に他ならないと思ったのかもしれない。

 実は、そこまで切羽詰まっている訳ではない。困っているのは確かだが、少し大げさにし過ぎたかもしれない。

 杏寿郎は前置きもさっさと切り上げ、

 

 

「見合い話を受けた!」

 

 

 意外な内容だったのか、瞬間皆の表情が固まる。

 少しだけ間を置く。僅か、冷静になったところで、杏寿郎は集めた目的を告げる。

 

 

「受けるべきか否か、忌憚のない意見が欲しい!」 

 

 

 

 

 話は数日前に遡る。

 杏寿郎は馴染みの牛鍋屋に入った。店員の案内を受け、通された一室には、

 

 

「久方ぶりだな、杏寿郎!」

 

 

 大音量で挨拶をする大きな瞳と口、そして柔和な微笑を携えた小柄な壮年の男性。

 不破弦十郎。不破家の長男で弦司の十歳年上の兄だった。

 

 

「一別以来だな、弦十郎!」

 

 

 杏寿郎も大音量で挨拶を返す。

 柱訓練を通して何も弦司やカナエとだけ仲良くなった訳ではない。一部の柱は弦司を通して、不破家とも交流を持つようになっていた。

 その中でも最たる例が杏寿郎と弦十郎だった。年は親子ほど離れているが、今では無二の親友となっている。こうして、二人で鍋をつつきあうのも一度や二度ではなかった。

 杏寿郎が弦十郎と鍋を挟んで座る。それから、美味い牛鍋に舌鼓を打ちながら、会話に花を咲かせる。

 

 

「健勝そうで安心したぞ!」

「それはこちらの言葉だ! また業務を広げたそうだな。兄上は仕事をしすぎていないかと、弟が心配しているぞ!」

「最近は後進も育ってきている。心配無用だと伝えてくれ!」

「相分かった!」

 

 

 美味い料理と気の合う友人。本当に楽しい時間だった。

 

 

「子どもは良いぞ、杏寿郎! 今日もまた、新しい漢字を覚えていた! 俺なんぞ、もう忘れるばかりと言うのに!」

 

 

 話題は弦十郎の子ども、年少の三男についてである。かわいい盛りなのか、しきりに弦十郎は緩み切った笑顔で褒めていた。

 今だ結婚もしていない杏寿郎は、微笑ましく思うも縁遠い話であった。しかし、全く共感できない訳ではない。

 

 

「確かに! 俺の継子だった甘露寺も今ではあんなに立派になった! 年若い者の成長には目を見張るばかりだな、弦十郎!」

 

 

 甘露寺蜜璃。元々は杏寿郎の継子として、炎の呼吸を教えた女性隊士だ。気づけば、杏寿郎も予想だにしない急成長を遂げ、立派に独り立ちした素晴らしい隊士である。

 きっと子どもの成長と似たようなものだろうと話に出してはみたが、弦十郎の表情が真剣なものに変わった。

 

 

「杏寿郎」

「うむ」

「後継者を育てる事と子を育てる事は、似て非なる事だ」

「そうなのか!」

「ああ。命を繋げるとは、こんなにも難しいのかといつも痛感させられる」

 

 

 弦十郎の表情が憂いを帯びたもに変わる。

 杏寿郎と弦十郎は性格が似通っているだけではない。立場も、非常に似ていた。

 鬼殺隊の名門・煉獄家。肩や旧家の不破家。どちらも古くから続く家柄であり、家長に求められる役割は多い。その重圧は生まれた者にしか分からないだろう。そして、その重石を子へと繋いでいかなければならない。今は想像しかできない杏寿郎だが、それがどれだけ重い事かは理解できた。

 

 

「でも……いや、だからこそ、友の怠慢が気にかかる」

 

 

 弦十郎は憂いを消すと、真剣な眼差しで杏寿郎を射抜く。

 

 

「どういう意味だ?」

「なぜ、未だ身を固めない?」

「むぅ……」

 

 

 杏寿郎が言葉に詰まる。もうすぐ二十歳にもなるのに、杏寿郎は未だに独り身であった。

 

 

「今まで、突っ走る事しか考えていなかった!」

「杏寿郎、俺達の役割を考えれば、それは言い訳にはできん!」

「しかし、俺はまだまだ未熟だ! 些か、早くはないか!」

「何を言っている、杏寿郎! 我らは常に未熟であろう! 人生に成熟はない! 未熟を言い訳に使うな!」

「確かに! はっはっは、俺とした事がこれは恥ずかしい! 穴があったら入りたい!」

 

 

 家長の役割を考えれば、杏寿郎の現状は確かに怠慢であった。

 自力で炎の呼吸を極めるのに忙しかったから。まだ未熟だからなど、ただの言い訳にしかならない。それだけ、煉獄家の果たさなければならない役割は大きいのだ。

 

 

「間違いを認められる度量、見事だ杏寿郎!」

 

 

 弦十郎は笑顔で賞賛する。本当に良い友を持った。

 

 

「良い、弦十郎! それよりも、俺も良縁を真剣に探さねばならん! 何か助言はないか!」

「はっはっは! 俺が手ぶらで叱責したと思うか!」

「! それでは!」

「ああ――見合い話が一つある。受けるか?」

 

 

 

 

「――そういう次第だ!」

「勝手にしろ」

「父上!」

 

 

 事情を説明するなり、気怠そうに槇寿郎が立ち上がる。

 

 

「この中で婚姻し、子を持つのは父上のみです! ご助言をいただけないでしょうか!」

「くだらん……どうでも、いい」

 

 

 それだけ言い残すと、酒を飲みながら立ち去っていく。

 昔はこんな人ではなかった。妻・瑠火を早くに亡くし、それでも情熱を持って杏寿郎と千寿郎を育てていた。それがいつの日か心の炎さえも消してしまい、無気力となった。

 今回、かなり無理を言って参加させてみたのは、見合いの話を聞けば、何か変わるのではないかと淡い期待があったからだ。

 結果、何も変わらなかったが杏寿郎は落ち込まない。こういう事もある。大切なのは、諦めずに続ける事だ。それに「勝手にしろ」と許諾はもらった。ならば、後は勝手にこっちで決めるだけである。

 杏寿郎は切り替え、この中で唯一の夫婦である弦司とカナエを見る。

 

 

「弦司と奥方はどう思う!」

「……煉獄がいいならいいけど。正直、俺はお前が何を相談したいのか、よく分からない」

「私も。煉獄君は養える財力も度量もあるし、人格も立派だもの。一体、何か聞くような事があるの?」

 

 

 大丈夫だと、むしろ相談する事があるのかと弦司とカナエは言うが、杏寿郎はそうは思わない。

 

 

「それは買いかぶり過ぎだ、ご両人! 俺とて今の家庭環境が、妻を迎えるにあたって良くはないと分かっている! それにこの身は鬼殺に捧げている! そんな男の元に嫁ぐなど、あって良い事なのか!」

 

 

 杏寿郎が結婚に当たる己の欠点を挙げると、弦司とカナエからやや呆れた視線を向けられる。

 

 

「隠して結婚するなら、確かにやめろって言うけどな。隠すつもりはないし、承知の上で来てもらうんだろ? 相手が金目当てでもない限り、問題ないさ」

「それに一番大切な事は、困難をどうやって()()()乗り切るかよ? 煉獄君だけ、奥さんだけが頑張るんじゃなくて二人で頑張るつもりなら、大丈夫よ」

「つまり……今後の努力次第という事だな!」

「そういう事」

「あまり難しく考えすぎないで。いつもの煉獄君で頑張れば良いのよ」

 

 

 笑顔で肯定する胡蝶夫妻。杏寿郎に対する確かな信頼が感じられる。結婚と聞いて、名門の義務や責任ばかり考えていた重石が、少しだけ軽くなった。

 弦十郎の様に同じ立場ではなく、違う視線からもらえる言葉がすごく有難かった。

 

 

「千寿郎はどう思う!」

「兄上。僕も言わないといけないんですか……?」

「さっきも言っただろう! 俺は忌憚のない意見が欲しい! 何でもいい、思った事を言ってくれ!」

「ええと……それじゃあ――」

 

 

 千寿郎は困惑した表情のまま、なぜか杏寿郎ではなく胡蝶夫妻の方を向く。

 

 

「兄は忙しい身ですから、お見合いして、すぐに結婚するかどうか……っていう話になると思います。大きな決断です、兄でもきっと迷うでしょう。ですから、その、参考程度でいいので結婚の決め手とかって何かありますか?」

「千寿郎……」

 

 

 杏寿郎はすっかり結婚するつもりでいた。だがまずはお見合いなのだ。そして、お見合いとは相手がいて、当然杏寿郎の感情も介在する。人生の大きな選択だ。贅沢な話だが、相手次第では杏寿郎も迷うかもしれない。

 そんな時に、何か役に立つ情報がないか。義務ばかり先行する情けない兄に代わり、千寿郎が聞いてくれた。よく気が付く弟であった。

 

 

「決め手……決め手なぁ……」

「私達の場合は、好き合ってた……とは違うわよね。告白する前から、そんな感じだったし。決め手……」

 

 

 問いかけに胡蝶夫妻は頭を悩ませる。

 

 

「色々あり過ぎてなぁ……まあ、敢えて言うなら……そう勢いだよ、勢い!」

「うん、そうね。今思うと、場の雰囲気と勢いで色々決めちゃった感じよね」

 

 

 当時を思い出したのか、二人は苦笑いを浮かべる。

 二人の様子に後悔などは感じられない。きっと悪い決め手ではないとは思ったが、杏寿郎は聞かずにはいられなかった。

 

 

「言葉は悪いが、随分と軽いな。鬼と人が共になるという大きな決断だったのだろう? 覚悟とは違うのか」

「そんな大層な物じゃないさ。それにこんな事、覚悟だけじゃ決められないって」

「そうね。冷静に考えたら、私達の選択は滅茶苦茶だもの。それでも突き進むには、やっぱりその場の勢いが一番よ」

「つまり……機を見るに敏、という事だな!」

「そうそう。結婚なんて理屈だけじゃ考えられないし、正解だって分からないし」

「たまにはその時、その場の勢いで決めてみるのも、いいんじゃないかしら」

「うむ! そういうのは得意だ、任せろ!」

 

 

 杏寿郎が胸を強く叩いてみせると、皆が笑い場の空気が緩んだ。

 杏寿郎も微笑み、皆に感謝する。

 

 

「貴重な助言を感謝する、弦司に奥方! それとありがとう、千寿郎! 俺では気づけない視点だった! 感謝する!」

「これぐらいの相談なら、いつでも乗るさ」

「うん。また困った事があったら、いつでも言って」

「いえ、兄上のお役に立てたのなら僕も嬉しいです」

「よし! ならば善は急げだ! それでは皆、今日は感謝する!」

 

 

 杏寿郎は立ち上がると、座敷から飛び出した。

 

 

 

 こうして杏寿郎は弦十郎へ許諾の手紙を書いた。

 すぐに見合いの場は整えられ、そして――杏寿郎は大切な伴侶を得る事となる。




実は相性が良い三人組編。
相性良いのに本編出さなかった理由は、原作でカナエさん生存時に存在が確認できなかったからです。


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後日譚 柱合会議、変わる鬼殺隊

お待たせしました。
さくっと終わるかと思ったら、中々終わらなかった柱合会議となります。


 ――柱合会議。

 その名の通り、鬼殺隊の最高位・柱たちによる会議だ。半年に一回行われ、情報共有から鬼殺隊の今後の方針や運営など話し合う。ただし、今回の柱合会議は今までとやや毛色が違った。

 

 

「……大丈夫なんですかね」

「大丈夫だろ」

 

 

 産屋敷邸の一室。黒子のような衣装をした鬼殺隊の隠密部隊・隠の一人である後藤は、後輩の隠に即座に返答する。

 後輩の女性の隠は、少し不機嫌になった。

 

 

「ちょっと楽観視しすぎていませんか?」

「別に前例がない訳じゃない。お館様も大丈夫って仰っているんだ、信じればいいだろ」

「そんな簡単に信じられたら苦労しません」

 

 

 彼女は鼻を鳴らすと、不安そうに部屋の隅にある木の箱に視線を向ける。

 ――那田蜘蛛山の戦い。

 下弦の鬼が複数の鬼を率い、多くの隊士を失った戦い。その戦いには、何と()()()()()()()がいた。

 隊士の名は竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)。鬼は彼の妹・禰豆子(ねずこ)――そして、その鬼は人を喰らわぬ鬼であった。

 どういった経緯があったのか、後藤は詳しくは知らない。とにかく、今回の柱合会議に隊士と鬼(竈門兄妹)は産屋敷邸に呼ばれた。会議が始まるまでの間、後藤達が見張っているという状況だった。

 確かに、今は異常事態だ。鬼を連れた隊士など前例がない。後輩の言うように、不安になる気持ちも分かる。だが、人を喰らわぬ鬼は決して禰豆子だけはない。

 後藤は禰豆子()大丈夫だと思っていた。無根拠な自信ではない。あの仲良し夫婦である『胡蝶家の鬼』と蟲柱・胡蝶しのぶが、竈門兄妹の味方として陰で動いていると聞いたからだ。それだけで、後藤には十分信じるに足った。

 ただ、後輩は鬼夫婦と接点がほぼない。だから、ここまで不安になっているのだろう。

 そうして、微妙な空気の中待つ事、少々。後藤達のいる座敷へと、二つの足音が近づいてきた。

 座敷に繋がる障子が開く。

 

 

「ここが禰豆子ちゃんの部屋ね!」

「待たせた、後藤」

 

 

 入ってきたのは黒を基調としたタキシードとワンピース型の洋装を着た一組の男女。人を喰らわぬ鬼……その前例となる『胡蝶家の鬼』弦司とカナエだった。

 後藤は軽く手を挙げて挨拶をする。

 

 

「ういーっす。久しぶり。竈門禰豆子はその箱の中だから」

「世話になる。ありがとう、後藤」

「後は任せて大丈夫よ。二人は休んでて」

 

 

 後藤が気軽に対応していると、後輩に袖を引かれ小声で囁かれる。

 

 

「ちょっとちょっと!? 何でそんなに軽いんですか!?」

「お前だって『胡蝶家の鬼』の噂ぐらい聞いた事あるだろ? あの化け物染みた柱の面々より実力あるんだ、もう安全は確保できたようなものだって」

「それは、私だって功績ぐらい聞いた事ありますけど、柱訓練ばかりで接点が全然ないし……というか、後藤さんはどうしてそんなに馴れ馴れしいんですか?」

「いや、カナエ様が花柱で不破……じゃなくて、弦司が小間使いだった時からの付き合いだからな。付き合い長いし、普通に友人同士だぞ?」

「えっ、意外……」

「まあ、今じゃあ立場は天と地ほど離れたけどな。くっそ、弦司の奴。また高そうな装飾品、カナエ様に買ってあげてるな……!」

 

 

 カナエの首元には、以前にはなかった青色の首飾りがある。話した事はないが、柱に訓練をつけるぐらいになると、やはり給与面は違う。

 後藤が少し不貞腐れていると、カナエが後輩の方に近づいてきた。

 後輩が緊張する。

 

 

「もし」

「は、はい! 何でございましょうか!?」

「大丈夫よ、そんなに緊張しないで」

 

 

 昔から変わらない微笑を携えてカナエは近寄ると、後輩の手を優しく包み込んだ。

 後輩は目を白黒させる。

 

 

「えっと!?」

「心配事はたくさんあると思うわ。でも、何があっても私達が絶対に守るから。あなたはあなたの役割を全うして。それでちょっと余裕があったらでいいから。私達のありのままを見て」

「……はい」

 

 

 最後にニコリと。包み込むような笑顔を向けると、カナエは手を離した。

 後輩は瞬間、カナエに見惚れる。警戒心が解けていく。

 

 

(相変わらずだな、カナエ様は……)

 

 

 鬼になる前と変わらず、優しく包容力のある()だと後藤は呆れ半分で感心した。

 続いて、カナエは笑顔を木の箱――竈門禰豆子に向ける。

 

 

「禰豆子ちゃん、出てきて。お話しましょ」

 

 

 優しくカナエが呼びかける。僅かに間を置いてから、ゆっくりと木箱の扉が開いた。

 恐る恐る出てきたのは女の子。腰まである長く美しい髪と、大きな丸い瞳が非常に可愛らしい。ただし、口元に咥えた竹筒と牙、長い爪と青白い肌が、鬼だと知らせる。しかしながら、牙と爪は鬼夫婦も同じ。後藤は別段、禰豆子を見ても驚かなかった。

 対して、出てきた鬼――禰豆子は笑顔のカナエと弦司を見ると、目を大きく見開き固まった。自身と同じ鬼がいた事に驚いたのだろうか。

 一瞬、流れる静寂。それを崩したのはカナエだった。

 

 

「か……可愛い!」

 

 

 悲鳴のような歓声を上げると、禰豆子を抱きしめる。さらに、頬をスリスリし始めた。弦司もどさくさに紛れて、禰豆子の頭をヨシヨシしている。完全に子どもへの対応である。今のこの光景を見れば、誰も鬼同士だとは思わないだろう。ちなみに、禰豆子は眉尻を若干下げながら口角を僅かに上げている。困惑と喜び半々といった所だろうか。

 しばらく禰豆子の頬の感触を堪能したカナエは、スリスリをやめると後藤の方へ振り向く。

 

 

「後藤君、手拭いとお湯と櫛と……あれば着物を持ってきて!」

「えっ? 何でですか?」

「だってこの後、みんなの前に出るのよ! せっかく可愛いんだもの、ちゃんと綺麗にしなくちゃ。いいよね、禰豆子ちゃん?」

 

 

 カナエは訊ねるが、禰豆子は事態がよく呑み込めないのか、首をこてっと傾げる。この仕草がまたカナエの心に響いたのか、まずます目尻が下がった。

 

 

「この後ね、禰豆子ちゃんは怖くないって大人の人に伝えに行くの」

「君のお兄ちゃんもいるし……それまでに綺麗になって、お兄ちゃんを驚かせよう?」

「!!」

 

 

 兄を引き合いに出された途端、ぶんぶんと縦に勢いよく首を振り出した。妹が鬼になっても共にいる……炭治郎は間違いなく、禰豆子を愛しているだろう。そして、愛しているのはきっと禰豆子も同じなのだろう。

 後藤は覆面の下で微笑むと、座敷を出て行く。

 慌てて後輩が後ろを着いてくると、

 

 

「……あんな鬼も、いるんですね」

「ああ。良い子なんだろうな……」

「幼児趣味」

「ちげぇ!!」

 

 

 また新しく現れた兄想いの可愛い鬼。鬼殺隊のためだけではない、彼女のためにも後藤達は行く。

 

 

 

 

「『胡蝶家の鬼』カナエと弦司だ」

 

 

 耀哉から紹介を受けた弦司とカナエは頭を下げる。

 あれから禰豆子を身綺麗にした後、すぐに御内儀のあまねから声を掛けられた。禰豆子を伴い柱合会議に出て欲しいとの事だった。元々そのつもりで来ていたので、弦司達に否やはなかった。

 子どもらに付き添われた耀哉の後を着いて、縁側まで来た。日の当たらない所まで下がり、耀哉の背後に控える様に座ったところで、紹介を受けた。

 もちろん、紹介をしたのは庭にいる今や顔なじみの柱九名――ではなく、禰豆子の兄・竈門炭治郎に対してだ。

 炭治郎の反応は上々……というか、しのぶに微笑みかけられて泣いていた。似たような立場だからこそ、色々とこみ上げるものがあったのだろう。それでもすぐに気持ちを切り替え、今は耀哉の言葉に耳を傾けている。

 心の強い、そして妹想いの優しい男の子。それが弦司とカナエの炭治郎に対する第一印象だった。

 

 

(禰豆子ちゃんのお兄ちゃん、優しそうな良い子ね)

(自慢のお兄ちゃんだな)

 

 

 カナエの膝の上で寛ぐ禰豆子に、二人がそっと囁いて炭治郎を褒めれば、禰豆子は目を細めて嬉しそうに唸る。兄妹愛し合っている事が感じられた。

 弦司とカナエが兄弟愛にほわほわ癒されていると、小柄な女性――胡蝶しのぶが声を上げる。

 

 

「お館様におかれましても御壮健で何よりです。加えて、柱合会議の前にこのようなお時間もいただき誠にありがとうございます」

「いいよ、しのぶ。むしろ、君にはいつも苦労をかけているから、これくらいしかできなくてごめんね」

「ありがたきお言葉を頂戴して、恐縮至極に存じます」

 

 

 しのぶが声を弾ませ礼を述べる。他の柱から、ちょっとした歯軋りが聞こえるのはご愛敬だ。

 

 

(何とかここまでこぎつけたな……)

(うん。あなたの時みたいにならなくて、本当に良かった)

(ああ。しのぶ様々だな)

 

 

 弦司とカナエは柱合会議が目論見通り進んでいる事に、安堵のため息を吐く。

 随分と前から、炭治郎と禰豆子の柱合会議招集を提案していたのはしのぶだった。それは竈門兄妹を糾弾する訳でも罰する訳ではなく――自身達と同じ想いをさせないため。

 ――緊急柱合会議。

 忘れもしない、初めて弦司が白日の下にさらされた会議だ。

 あの日、受けた仕打ちに何も理不尽な事はなかった。鬼が人間社会で生きるために必要な事を、柱達はやっただけだ。

 でも、傷つかなかった訳ではない。弦司もカナエもしのぶも、鬼でなければ、鬼にならなければと何度も思った。

 誰かこの気持ちが分かってくれる人がいれば。そう思わずにはいられなかった。

 もちろん禰豆子にも鬼の治療へ参加させたいという下心はあるが、あの日あの時。自身達が受けた仕打ちを、二人に受けさせない。それが一番の理由で、弦司達はここにいた。

 

 

「それじゃあ、しのぶ。今回の進行をお願いするよ」

「はい」

 

 

 しのぶは顔を上げ、これでもかと明るい笑顔を義勇へ向けると、

 

 

「この度、竈門炭治郎および竈門禰豆子の存在を隠し、水柱・冨岡義勇が鬼殺隊へ入隊の手引きをしました」

「……」

 

 

 いきなり二人の間に剣呑な空気が流れ、一同は居心地が悪くなる。禰豆子の存在がしのぶに露呈したあの日から、二人の仲は今もなお亀裂が入ったままだった。ただ、この問題は義勇が少しでも心の内を晒せば全てを解決する。しかしながら、肝心の彼の心を開く方法が誰も分かっていなかった。

 それでも、一縷の望みをかけて一同はこの空気の原因である義勇に視線を集める。しかし、当の義勇は特に堪えた風もなく、いつもの不愛想のままであった。

 

 

「……はぁっ」

 

 

 しのぶはため息を吐き出す。そこには諦観と、僅かな怒りが込められていた。

 しのぶは義勇から視線を外すと、何事もなかったかのように鈴のような声音で続ける。

 

 

「この際、彼の不手際は一旦不問とします。大事な事は、竈門禰豆子が人を喰らわぬ鬼であった事。竈門炭治郎に鬼舞辻無惨からの追手が直接仕向けられた事。竈門禰豆子の存在は元より、鬼舞辻無惨が見せた尻尾を逃さないためにも、二人の存在は鬼殺隊に有益と判断し、この度の柱合会議で正式に鬼殺隊として認める事を提案します」

「……っ!」

 

 

 しのぶが言い終わると同時に、再び炭治郎の目から涙が流れる。同じ感情を共有できるしのぶだからこそ、心に響くものがあるのだろう。

 しのぶは炭治郎へ微笑みかける。しのぶにも炭治郎と共感できる部分が多くある。炭治郎に向ける微笑は、優しさしかなかった。

 

 

「いかがでしょうか、皆さん?」

 

 

 しばらくして炭治郎が涙を拭うと、しのぶは柱達に問いかける。実はこれは()()()()()だった。

 柱合会議開始以前に、すでにしのぶは全員に根回しを行っていた。

 ――二年以上、禰豆子は一度たりとも人を喰らっていない。

 ――睡眠により力を蓄えているが、これはカナエと弦司と比較しても異質であり、鬼の研究にこれまで以上に寄与する可能性がある。

 ――兄である炭治郎と共に、すでに複数体の鬼を討伐し人を守っている。

 ――炭治郎は鬼舞辻無惨と遭遇しており、彼の報告にある容貌は弦司の報告と一致している。

 これまで、そしてこれから挙げるであろう功績を、理路整然と説明した。

 もし、竈門禰豆子が前例のない鬼であれば、誰もまともに説明を聞かなかっただろう。だが、胡蝶夫妻という前例がいた。だからこそ、柱達はしのぶの説明に耳を傾け、竈門兄妹を客観視する事ができた。

 さらに、胡蝶夫妻との長い付き合いで、人を喰らわない鬼の気配というものを知っていた。身に染みついた人を喰らわない鬼の気配……禰豆子からは同種の気配があった。理屈や理論だけではない。感覚で、禰豆子が人を喰らう可能性がほとんどないと、柱達は理解していた。

 もはや、竈門兄妹を処断しようと思う者は皆無だった。ゆえに、ここから先は本当にただの確認となる。

 

 

「ならば竈門少年に質問だ!」

 

 

 真っ先に声を上げたのは炎柱・煉獄杏寿郎。声の大きさに、ちょっと炭治郎がビクつく。

 

 

「胡蝶は人を喰らわぬ鬼と言った! これは真か!」

「本当です。俺の妹は鬼になりました。でも、二年以上人を喰らった事はありません。逆に、これまで何人も禰豆子が体を張って守ってくれました。これからだって、それは変わりません、絶対!」

「うむ! 良い返事だ!」

 

 

 炭治郎の返事に杏寿郎と満足そうに頷く。

 続いて、蛇柱・伊黒小芭内。

 

 

「お前の妹は、先の戦いで血鬼術を使ったらしいな。喰わないと言うが、力がなければ鬼は動けない。血鬼術など以ての外だ。隠れて、喰っていたりしないだろうな?」

「そんな事していません! 禰豆子は鱗滝さんが言うには、代わりに睡眠で力を蓄えているそうです。多分、体を小さくしているのも、消費を最小限にするためだと思います。だから、禰豆子は人を喰らっていないし……これからも絶対にしないし、させません!」

「……」

 

 

 小芭内は気怠そうに息を吐く。

 二人の質問はしのぶの情報と炭治郎の証言に、相違がないか確認しただけだった。ここで炭治郎が話を盛ってしまえば、途端に信用は落ちただろうが、彼は正直に話した。しのぶと炭治郎が事前に話し合う時間はない。ゆえに、この話は信憑性が高いものとして、再び柱達に受け入れられる。

 とはいえ、そんな裏事情を禰豆子は知らない。妹を信じる兄の言葉に、禰豆子の大きな瞳は潤む。愛おしそうに兄を見つめる。

 

 

「おいィ」

 

 

 おおよそ決まりかと思われた所で声を上げたのは、風柱・不死川実弥。その凶悪な視線は炭治郎ではなく、弦司とカナエへ向く。

 

 

「鬼夫婦、お前らから見てその鬼はどんな感じなんだァ? 本当に喰わないのかァ?」

「人を喰ってないのは、俺達の感覚でも同じだ。今後は……きっと俺達が思っている以上に、この娘は強い。大丈夫だろう」

「それに、禰豆子ちゃんは私達の数段すごいから。このまま進んで行けばいいと思うわ」

「あァ? それはどういう意味だァ?」

 

 

 柱達の視線が一斉に禰豆子へと向かい、彼女が体を強張らせる。カナエは禰豆子を背後から優しく抱きしめ、弦司は頭を優しく撫でる。禰豆子の体から力が抜けて、カナエに体を預けた。

 弦司とカナエは禰豆子へ微笑みながら、出会った時からずっと感じていた感覚を再び感じ取る。

 自身達と禰豆子にある明確な差異。それを感じながら、弦司とカナエは表情を引き締め口を開く。

 

 

「俺と普通の鬼の相違点は摂取対象だ」

「私と弦司さんは人以外からも力の摂取ができる。言ってしまえば、普通の鬼との違いはたったのそれだけよ」

「結局、何かを喰わなければならない所は、鬼と同じなんだ。でも、この娘は違う。何も口に入れなくても、力が確保できる。俺達とは根本的に違う。俺達の知り得る鬼の理から完全に外れている」

「……お前達がそこまで言うほど、異質なのかァ」

 

 

 場が騒然としていく。

 鬼になってから数年……僅かずつだが弦司とカナエも力が僅かに増加している。今も鬼として、人として成長している。しかし、それ以上はない。弦司とカナエの変化など、今や常識の範囲内でしかなかった。

 ――だが、禰豆子は違う。

 まず、力の摂取方法が根本的に異なる。睡眠から力を得ると簡単に言うが、これは無から有を生み出しているに他ならない。生物の理から完全に外れている。

 その上で目覚めた血鬼術は――鬼だけを燃やす炎。まるで彼女の存在そのものが、鬼を否定しているかのようだった。

 さらに、その事実を補足するかのように、弦司とカナエの()()()()()()()が禰豆子は異質であると訴えかける。何が違うのかまでは、正直分からない。ただ、禰豆子が弦司とカナエでは辿り着けなかった場所まで行くのではないか。そんな確信めいた感覚が確かにあった。

 ――この娘は自分達の知る鬼とは何もかもが違う。

 だからこそ、明らかな劣化と言える思考能力の幼児退行……これにも何か意味があるのではないかと考えていた。

 今までの事実と鬼の感覚が合わさり、一つの推論が導き出される。

 

 

「さっき炭治郎が言ったように、禰豆子は体を小さくして力の消費を抑えている。身体能力を低下させる事で力の消費を抑えているなら、それは思考能力にも当てはまるんじゃないか? ……ただ、そうなると一つ疑問が浮かぶ」

「何だそれはァ?」

「抑えた力の行き先だ。外見に変化は見られない。そうなると、見えない場所が変わり続けているんじゃないか?」

「おいィ……それは、つまり――」

「今後もこの娘は飛躍的に成長……いや、鬼の楔から外れるように()()()()()()。そんな気がしてならない」

 

 

 弦司の言葉に、誰もが驚愕した。

 

 

「お館様の仰っていた()とは、この事なのか……」

「派手に事態が動きそうだな」

「何なんだァ、一体ィ……」

「異質だと思ってましたが、そこまでですか……」

「禰豆子ちゃん……」

「……」

 

 

 常は冷静な柱達も騒がしくなる。

 柱達はしのぶから、人を喰らわぬ鬼と聞いていた。しのぶも調査結果から、禰豆子が異質だとは思っていた。だが、誰もここまで特殊とは思っていなかった。

 鬼殺隊に有益だとか、そういう段階の話ではない。禰豆子の存在が、人と鬼の戦いを変えていくのではないか。誰もがそうは思わずにいられなかった。

 

 

 ――こうして皮肉にも、禰豆子の異質さが決定打となり、柱合会議は全会一致の空気が出来上がっていく。

 

 

 その最中、カナエは禰豆子を力強く抱きしめる。

 きっと禰豆子は、鬼殺隊の今後の戦いを変える切っ掛けとなる。それだけ大きな存在だ。きっとこの先、過酷な運命が待ち構えているだろう。ともすれば、弦司とカナエが味わった以上の苦難が降りかかるかもしれない。

 だが、異質だとか特異だとか言ったところで、禰豆子は元は普通の女の子だ。鬼にならなければ、鬼さえいなければ、今も幸せに暮らしていた、どこにでもいる優しい女の子だ。

 可能ならば、変わってあげたかった。しかし、待ち受けている苦難を取り除く力は、きっと弦司達にはない。それを思うと、悲しく悔しくて。せめて禰豆子は日々を健やかに過ごせるように、心に寄り添いたかった。

 抱きしめられた禰豆子がくすぐったそうに、朗らかに笑う。それだけで、弦司とカナエも笑顔になれる。これではどっちが慰められているのか、よく分からない。

 と、ここでしのぶが手を叩く。

 

 

「皆さん、各々思う所がありますが会議に戻りますよ。それでは、竈門炭治郎および禰豆子についてですが――」

「おい、胡蝶ォ。まとめる前にやる事があるだろうがァ」

 

 

 会議を進行させようとするしのぶを、実弥が止める。

 しのぶは大きくため息を吐いて答える。

 

 

「分かってますよ。ただ、不死川さんが提案すると、乱暴になって事態が拗れるんです。少し黙ってて下さい」

「んだとゴラァ!」

「じゃあ、提案前に不死川さんの好感度を上げますんで、ちょっと待って下さい」

「あァ?」

「炭治郎君、あの傷だらけで口が悪く粗暴な男は乱暴に見えますが、本当は優しい人なんですよ」

「おい、何を言――」

「この前なんか、雨の日に捨てられていた子犬を拾って、ちゃんと新しい飼い主まで見つけ――」

「やめろォ!! 俺はそんなことなんざしてねェ!! って、お前らもそんな目で見るんじゃねェ!!」

 

 

 しのぶの暴露に皆がほっこりして、生暖かい視線を実弥に送る。その中にはもちろん炭治郎と耀哉、禰豆子も含まれていた。

 実弥はわなわなと体を震わせてしのぶを睨みつけるが、しのぶは何食わぬ顔で思案しながら、指を一つずつ立てていく。それはまるで、まだまだ話の種はこれだけあると言っているようであった。

 

 

「……勝手にしろォ!」

「ありがとうございます」

 

 

 実弥は大きく舌打ちをすると引き下がり、しのぶは笑顔で答えた。だが、すぐに笑顔をしのぶは引っ込める。カナエと弦司も緊張に顔を強張らせる。

 ――ある意味、ここからが本番だった。

 しのぶは緊張と僅かに悲痛に滲ませ、炭治郎と向き合う。

 

 

「炭治郎君」

「はい!」

「私は君も禰豆子ちゃんも人を喰らうとは思っていません。ですが、私が君達を信用しているからといって、他の人にも信用を強要する事はできません」

「それは……そうですね」

「だからこそ、これから鬼殺隊に役立てると証明し続けなければならない。でもその前に、禰豆子ちゃんは誰の目にも分かるように、無害であると証明しなければ、取っ掛かりさえ与えられません。その取っ掛かりのため、ある『確認』を行ってもらいます」

「それは、どうやって――?」

「『稀血』です」

「っ!!」

 

 

 知識として知っていたのだろう、炭治郎の顔が強張る。

 『稀血』は鬼にとって御馳走だ。そして、人口増加著しいこの国で、確実に『稀血』は増え続けている。人間社会にいて、『稀血』に巡り合わないなどあり得ないのだ。

 禰豆子は証明しなければならない。例え『稀血』が目の前にあっても、耐えられる事を。弦司がそうであったように、証明して初めて人のために戦う事が許される。

 

 

「炭治郎君。禰豆子ちゃんが君と共にいるなら、これは絶対に避けられないものです。だから――今から人を喰らわない事を、証明してもらいます。いいですね?」

「はい!」

 

 

 炭治郎は即答した。共に居るならば、ここで言い淀むような事は許されない。それぐらい理解しているし、覚悟も持っていると炭治郎は声を大にする。

 しのぶは嬉しそうに頷くと、今度は耀哉へと体を向ける。

 

 

「お館様」

「うん、ちゃんと別室は用意しているよ」

「ありがとうございます」

 

 

 『稀血』による確認は壮絶だ。その姿を晒せば、例え乗り越えたとしても心が傷つく。弦司とカナエがそうだった。今回は考慮し、別室を予め用意していた。

 

 

「それと炭治郎、珠世さんによろしく」

「!?」

 

 

 耀哉が一言、何やら炭治郎告げると、

 

 

「炭治郎君、不死川さん、行きましょうか」

「……は、はい」

「……チッ」

 

 

 しのぶの声に炭治郎がなぜか慌てて、実弥が不機嫌そうに立ち上がる。炭治郎は実弥がいる意味が分からないのか、顔には少し疑問が浮かんでいる。

 

 

「禰豆子ちゃん」

「一緒に行こうか」

 

 

 カナエも膝から禰豆子を下す。

 

 

「……」

 

 

 禰豆子は不安そうにカナエと弦司と見上げる。申し訳ないと思うものの、この確認を覆す事はできない。人と共に生きる、最低限の義務だから。

 

 

「禰豆子ちゃん、ごめんね。これは絶対に避けられないの」

「どう思ってくれても構わないから、絶対に耐えてくれ」

 

 

 カナエと弦司が禰豆子の左右それぞれの手を引いて立ち上がる。禰豆子は眉尻を下げ、二人の手を痛いぐらい強く握る。

 少しでも禰豆子の不安が和らぐように、カナエは微笑みかけ弦司は頭を撫でる。

 

 

「大丈夫」

「俺達も一緒に受けるから。頑張ろうな」

「――っ!!」

 

 

 禰豆子の大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。

 鬼の苦しみは誰よりも分かる。だからこそ、言葉を掛けるだけで終わらせるつもりはない。

 禰豆子だけを苦しめやしない。共に苦しみ、共に乗り越える。それこそが、同じ痛みを知る者ができる事だから――。

 

 

「禰豆子ちゃん」

「行こうか?」

「ムー!」

 

 

 了解、とでも言う様に禰豆子が唸ると、三人で進んでいく。

 ――それでも、禰豆子の手から力が抜ける事はなかった。

 

 

 

 

 別室。炭治郎達は陽の差し込まない座敷へと通された。

 今、座敷にいる()は炭治郎としのぶ。そして、何と『稀血』の中でも希少な血を持つという実弥。確認には実弥の血を使うとの事だった。

 対して()は禰豆子と胡蝶夫妻。禰豆子を間に挟むように三人は手を繋ぎ、その時を待つ。

 

 

「本気かァ?」

 

 

 実弥は念を押す様に確認する。もちろん、カナエと弦司に対して、だ。

 二人は確認が必要ないほど、信頼も功績もある。それでも、禰豆子に付き合うためにここにいた。それを聞いた時、炭治郎はまたちょっぴり泣いてしまった。胡蝶家の人々は本当に良い人ばかりであった。

 

 

「ごめんね、不死川君」

「今度おはぎ作るから、勘弁してくれ」

「いらねえェ」

 

 

 実弥は大きく舌打ちをする。

 最初、実弥は血を少し提供するだけのつもりだったそうだ。炭治郎が話を聞く限り、どうやらこの確認は壮絶らしく、別室へ通されたのも少しでも衆目から遠ざけるためらしかった。

 血液だけを提供するのも、親交のある人を食事として見てしまう……そんな受け入れ難い鬼の本能で傷ついてしまう事を、少しでも和らげるためであった。

 だが、胡蝶夫妻は実弥にいて欲しいと逆に願い出た。彼らの心境がなぜ変わったのかは分からない。ただ、何やら覚悟めいた固いものを、炭治郎の鼻は嗅ぎ取った。

 

 

「……チッ、それじゃあやるぞ」

 

 

 実弥がもう一度を舌打ちをし、日輪刀を抜く。しのぶと実弥、胡蝶夫妻から強い緊張の匂いを、炭治郎の鼻は感じ取った。一度、確認を乗り越えた彼らでさえそうなのだ。どれだけ壮絶なのか、今の炭治郎には想像できなかった。

 実弥は自身の左腕に近づけると――何の躊躇もなく斬る。

 瞬間、血の匂いが部屋に充満する。実弥の腕から滴った血は、畳の上に置かれた皿に溜まっていく。

 ――すぐに変化は表れた。

 

 

「はぁっ! はぁっ!」

「うっ……! うぅ……!」

「フーッ! フーッ!」

 

 

 ほぼ同時に三人の呼吸が乱れる。そして、苦しそうに息を吐き出すと、大量の汗と同時に流れる――涎。

 誰も口元を拭おうとしない。ただただ実弥の腕に視線が釘付けとなり、それでも決して襲うまいと互いが互いの手を強く握りしめる。

 禰豆子だけではない。胡蝶夫妻がこんなにも乱れている。あれだけ優しく、穏やかで、実弥に対して信頼の匂いが感じられたのに。炭治郎は目の前の光景が信じられなかった。

 ――これが『稀血』。

 ――これが鬼。

 頭では分かっているつもりだった。だが、心では理解していなかったから、驚いてしまった。もしかしたら、そんな心根を読まれていたからこそ、炭治郎を同席させた上で胡蝶夫妻は実弥に直接血を流させたのかもしれない。

 しかし、炭治郎が理解したからといって、できる事は何もない。耐えるために、歯を食いしばるしかない。

 そして、しのぶも実弥も炭治郎と同じだった。しのぶは手が白くなるほど力強く拳を握りしめ、実弥からは歯軋りが聞こえた。二人からは悔しさ、そして怒りの匂いが強く感じられた。

 荒れた呼吸と、血の滴る音だけが室内に響く。音だけで炭治郎の心を削る。

 目を逸らしたい。でも、逸らしてはいけない。本当に苦しいのは、禰豆子とカナエと弦司なのだ。先に、炭治郎が根を上げるような事は許されない。だが、この苦しみがいつ終わるのか、炭治郎には全く分からない。

 先の見えない苦しみ――最初に動いたのは弦司だった。

 

 

「くそ……がぁっ!」

 

 

 悪態を吐きながら、弦司は実弥から目を逸らし跪く。涎は止まらない。だが、その瞳には理性の色がしっかりと見て取れた。

 何度も叩きのめされて、何度も立ち上がってきたのだろう。彼の精神力の強さを示すかのように、襲い掛かる飢餓を、気合のみで跳ね返していた。

 

 

「~~っ、このぉっ!!」

 

 

 次に動いたのはカナエだった。

 感じた匂いは自身に対する強い怒りと……弦司に対する僅かな恐怖。それがどういう意味なのか、炭治郎には分からなかった。ただ、彼女はその強い感情で無理やり視線を落とすと、そのまま崩れ落ちるように膝を突いてみせた。口から涎は流れ続ける。だが、害意も何もなく、決してこれ以上動かない。カナエもまた、『稀血』に打ち勝ってみせた。

 残るは禰豆子だけ。だが、禰豆子は目を実弥から逸らさない。逸らせない。それどころか、ミシミシと口に咥えた竹筒が今にも噛み砕かれそうな嫌な音が加わる。

 さらに一段と軽い、何かが弾けるような音がした。

 

 

「ぐっ!」

「~~っ!」

 

 

 同時に弦司とカナエが唸る。禰豆子が二人の手の骨を、握り折った音だった。

 歯痒かった。こんなにたくさんの人が手を差し伸べてくれているのに。禰豆子は期待に未だ応えられず、炭治郎は何もできずただただ眺めている。

 

 

「禰豆子!!」

 

 

 炭治郎は叫ばずにはいられなかった。

 これで一体、禰豆子の何の力になれるのか。そうは思ってはいたものの、そうせずにはいられなかった。

 

 

「!!」

 

 

 でも、その何でもない行為で、炭治郎の想いが禰豆子の届いたのだろうか。禰豆子はしっかりと炭治郎を見た。その瞳に()が戻ってきた。

 禰豆子が弦司とカナエの手をさらに力強く握ると、

 ――プイッ。

 そんな効果音でも鳴っていそうなほど思い切り、そっぽを向いた。決して喰わないと、その意思を示すかのように両目は力強く閉じられている。

 炭治郎は呆然とする。こんなもので乗り越えたと判断していいのか、よく分からなかったからだ。

 

 

「炭治郎君、もう大丈夫です」

「! はい!」

 

 

 しのぶに声を掛けられ、炭治郎はようやく乗り越えたと確信する。炭治郎は禰豆子に駆け寄り、力いっぱい抱き締めた。禰豆子も甘える様に顔を炭治郎の胸に押し付け、抱き着いてくる。

 

 

「ごめんな、禰豆子! 兄ちゃん、何もできなくて!」

 

 

 そんな事ない、とでも言うように禰豆子は首を左右に振ってくれた。炭治郎は堪らず禰豆子の頭を撫でると、彼女は気持ちよさそうに喉を鳴らす。本当に可愛い妹だった。

 那田蜘蛛山から続いた激闘に、ようやく炭治郎は一息つけた気分だった。

 そうして、少しは心の余裕を取り戻せたためか、自身に向けられている視線にようやく気付いた。身形を整えた弦司とカナエが、優しい眼差しで炭治郎と禰豆子を見ていた。

 

 

「す、すみません! 感謝も言わずに、勝手な事をして! それどころか、禰豆子が二人の手を折ってしまって、何と謝ったらいいのか――」

「いや、いいよ。むしろたくさん喜んでくれ」

「うん。あなた達が喜んでくれると、頑張った甲斐があったって感じられるもの」

「弦司さん……カナエさん……!」

 

 

 涙ぐむ炭治郎。

 もし一人だったら、どうなっていただろうか。人を喰わない鬼と信じられずに、心だけではなく体も傷つけられたかもしれない。二人がいて、一緒に苦しんで乗り越えてくれて、感謝しかなかった。

 

 

「はい、ハンカチ。禰豆子ちゃんを綺麗にしてあげてね」

「何から何までありがとうございます」

 

 

 炭治郎は白いハンカチをカナエから受け取り、禰豆子の汗や涎を拭う。そう言えば、那田蜘蛛山から直接来たため禰豆子の汚れを落としていない……と思いよく見ると、那田蜘蛛山で付いた血や汚れはすでに拭い去られていた。こんな事をしてくれるのは、禰豆子を連れてきてくれた胡蝶夫妻以外考えられない。もう炭治郎は感謝で頭が上がらず、地面にめり込みそうだった。

 炭治郎が重ね重ね胡蝶夫妻に感謝していると、

 

 

「おいィ」

「不死川さん……」

 

 

 治療を終えた実弥が、禰豆子を一瞥するとすぐに視線を外し、炭治郎に声を掛けてきた。

 実弥は凶悪な視線で炭治郎を見下ろすと、

 

 

「頑張ったのはテメエじゃねえェ。妹だァ。調子に乗んなァ。俺はテメエを認めねえェ」

「認めないで下さい。簡単に認められたら困ります」

「……あァ?」

 

 

 炭治郎は本当に何もやっていない。胡蝶家の人達が助け、禰豆子が頑張った。それだけである。

 今回、禰豆子が成し遂げてくれたのは切っ掛けだ。鬼殺隊の役に立つ、その証明をするための切っ掛け。認めてもらうのはこれからだ。

 

 

「俺と禰豆子は鬼舞辻無惨を倒します! 悲しみの連鎖を断ち切ってみせます! その時、認めて――」

「いや、今のテメエじゃ無理だろォ。まずは十二鬼月を倒せェ」

「……はいぃ」

 

 

 実弥に冷静に返され、炭治郎の顔が赤くなる。十二鬼月の強さは那田蜘蛛山の下弦の伍・累で分かっている。下弦に苦戦しているような炭治郎では、実弥の言う通り鬼舞辻無惨の討伐など夢のまた夢であろう。だというのに、つい興奮して大風呂敷を広げてしまった。

 弦司とカナエはますます笑みを深め、しのぶが肩を震わせそっぽを向いている事も加わり、炭治郎はさらに恥ずかしくなる。

 

 

「少しでも不審な行動を起こしてみろォ。その時は、俺がテメエらの頚を縊り切るから覚悟しろォ」

 

 

 それだけ言い残すと、実弥は部屋を出て行った。しのぶも後を追いかけよう――とする前に、炭治郎の方へ振り向くと、

 

 

「そういえば、今から何か予定があったりしますか?」

「いえ、特にはないです」

「それでは、この後は姉さん達と一緒に私の屋敷へ来て下さい。禰豆子ちゃんの検査もそうですが、炭治郎君の治療もしないといけないですからね」

「本当に何から何までありがとうございます」

「いいですよ。私にもちゃんと見返りはありますから。それでは『蝶屋敷』で会いましょう」

 

 

 そのまましのぶを炭治郎は見送った。

 

 

 最初、産屋敷邸に連れて来られて、炭治郎は不安だった。もう鬼殺隊にいられないのではないか。最悪、己も禰豆子も処断されてしまうのではないか。そう考えられずにはいられなかった。

 だが、実際は違った。炭治郎よりも先に、同じ気持ちで戦ってくれている人達がいた。彼らが炭治郎と禰豆子の手を引っ張って、共に乗り越えてくれた。終わってみれば、良い事しかなかった。

 

 

(でも、ここで満足してたらダメだ)

 

 

 炭治郎は気持ちを引き締める。

 先達がいた。それ自体は嬉しい。だが、それは炭治郎が頑張らない理由にはならない。

 鬼殺とは何時、命を落とすか分からない危険な戦いだ。炭治郎だけではない。しのぶでさえ、明日死んでしまうかもしれない。

 しのぶと炭治郎は同じだ。だから分かる。己が死んでしまった時、誰かにこの気持ちを引き継いで欲しいと思っている。

 もし、炭治郎が死んでしまったら。きっと禰豆子はしのぶが守ってくれるだろう。

 そして、しのぶが死んでしまった場合。カナエと弦司を守って欲しいと、しのぶは思っているはずだ。

 そんな事態、起こらない方が良いに決まっている。しかし起きた場合、炭治郎は全てを引き継いで戦わなければならない――いや、戦いたい。

 しかし、今の炭治郎はあまりにも弱すぎる。炭治郎は強くなりたい。鬼舞辻無惨を倒すためだけじゃない……他でもない、自身に寄り添ってくれた人々を守るために。

 

 

(俺はまだまだ力不足だ。もっと体を鍛えないと)

 

 

 心を改めながら何となしに禰豆子を見遣れる。禰豆子は眉根を下げてカナエと弦司の手を必死に撫でていた。手の骨を折ってしまった事を気に病んでいるのだろう。弦司とカナエは大丈夫だと何度も返し、むしろ良く頑張ったと禰豆子を褒めてくれている。一見し、三人が鬼だとは思えない光景だった。

 

 

(珠世さんの事、どうしよう……)

 

 

 三人を見て頭を過ぎったのは、もう一人の人を喰らわない鬼・珠世。彼女は鬼を人に治す方法を探すために、炭治郎を信頼して十二鬼月の血の採取を依頼した。

 炭治郎は鬼を倒す事しかできない。だが、しのぶは違う。話を伺う限り、彼女には医療に関する技術がある。そんな彼女が、肉親が鬼になって鬼を治療する方法を研究していないとは考えにくかった。

 炭治郎と同じく、人を喰らわぬ鬼を肉親に持つしのぶ。もしかしたら、珠世としのぶを結び付けられないかと炭治郎は考えていた。そして、結び付ける事が出来たなら、きっと今以上に鬼の研究は進む。

 だが、珠世が信用しているのは炭治郎であってしのぶではない。結びつけるならば、事は慎重に運ばなければならない。

 ――と、部屋の襖が開き、

 

 

「駕籠の用意ができました。蝶屋敷へご案内します」

(まあ、それは少しずつやっていこう)

 

 

 隠の人が入ってきて、準備ができた事を告げる。

 

 

「それじゃあ、炭治郎」

「蝶屋敷まで行きましょう?」

「はい!」

 

 

 禰豆子の手を引いて立ち上がった胡蝶夫妻に、炭治郎は力強く頷く。

 那田蜘蛛山の戦いから色々あった。

 ――ヒノカミ神楽。

 ――禰豆子の血鬼術。

 ――柱合会議。

 ――胡蝶家の鬼。

 ――稀血。

 思い返すだけでも色々あり過ぎて、ちょっと頭が痛くなりそうになる。

 でも、たくさんの人が炭治郎に手を差し伸べてくれて、今ここに居られる。ちゃんと前に進んでいけている。それはきっと炭治郎だけではなく……鬼殺隊も。

 

 

 ――人も鬼殺隊も前に進んでいく。



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後日譚 第三十八回カナヲ★大会 ~終焉の時~

頭を少々空っぽにしてお楽しみ下さい。


 苦しいのも。

 悲しいのも。

 虚しいのも。

 ある日ぷっつりと音がして、何も辛くなくなった。

 苦しいだけの毎日がなくなったから、それでよかった。

 ――そんな日々が壊れたのは、二人に手を引いてもらったあの日から。

 美味しい物をいっぱい食べて日々を過ごせた。

 それでも、一度途切れたものは取り戻す事ができず、楽しいも悲しいもよく分からなくて。何も己では決められず、全ての選択は銅貨で決めていた。何も感じず、ただただ決めていた。

 ――それが否定されたのは、初めてみんなで出かける予定だった日。

 大好きな姉達は急な任務で出かけられず。それでも『好きな物』が見つけられて、もしかしたら途切れたものがまた戻ってくるのではないか。

 ――全て鬼によって破壊された。

 自身の選択で姉と兄と大切な人を失わせてしまった。

 その日から、心の奥底では己で選択できるようになりたいと思うようになっていたのかもしれない。戦いの際は、銅貨を振る事はなくなった。食事の時は、好きな物を頼むようにした。普段は好きな人にくっ付いて歩く事にした。でも、それ以外の()()()()()()()()は……銅貨を手放せなかった。

 少しでもどうでもいいと思うと、どれを選んでも何も感じなくて。結果、何も選べずに銅貨を投げるしかなくなる。

 家族は誰も責めなかった。自然と投げなくなる、その時を待ってくれた。

 それでも、己は変わる事ができなくて。このまま己は変わる事ができずにいるのではないか。

 ――そんな日々は突然、変わった。

 

 

『表が出たら、カナヲは心のままに生きる』

『表だ!』

『カナヲ、頑張れ!! 人は心が原動力だからどこまでも強くなれる!!』

 

 

 カナヲが踏み切れなかった一歩を、少年は簡単に踏み越えさせてくれた。

 表が出たから。自身は銅貨に従っているだけ。

 そんな建前を元に、たくさんの選択ができるようになった。不思議なもので、一度選択ができるようになると、どうでもいいものはどんどん少なくなっていった。

 普通の人の様に選択できる訳ではない。判断が遅くて、迷って、放ったらかしにする事もある。

 それでも、カナヲは変わった。たくさんの人がこれまで支えてくれて……最後の一歩を少年が押してくれた。

 少年の名前は竈門炭治郎。

 これからきっと、変わっていく。

 ――炭治郎のおかげで変わっていく。

 

 

 想う背中を、一人の鬼が見つめていた事を最後までカナヲは気づけず。

 ――そして『第三十八回カナヲ★大会』は開催される。

 

 

 

 

 ――那田蜘蛛山の戦い。

 我妻(あがつま)善逸(ぜんいつ)はその戦いにおいて、鬼の毒を受けた。

 それは蜘蛛になる毒だった。髪は抜け落ち、手足は縮み、蜘蛛になるのは時間の問題と思われた。あまりの衝撃に気を失ってしまって……気が付けば鬼は討ち取られており、蟲柱・胡蝶しのぶにより解毒薬を打たれ助けられた。

 あれから善逸は長い間、蝶屋敷で療養に努めていた。今ではすっかり鬼の毒も快癒し、体力も那田蜘蛛山の時よりもついた。

 鬼殺隊に復帰する日も近い。また命を懸けないといけないのか、と日に日に意気消沈していた善逸。今は()()()()()に呼ばれ、夜の蝶屋敷を歩いていた。

 一体何の用事だろう、と考えていた善逸の良過ぎる耳が、微かな女性の声を捉える

 

 

「お馬さん」

「!?」

 

 

 善逸の足が止まる。

 声の主は善逸の耳が正しければ、胡蝶しのぶの姉・カナエである。

 女好きを自認する善逸であったが、実は蝶屋敷の女性陣は苦手だった。

 ――まずは、神崎アオイ。

 テキパキと働き者な気の強い女の子。ちょっと善逸が泣き言を言えば、その数倍でガミガミ説教が飛んでくる。可愛くて良い子だとは思うが、それと同じぐらい厳しくて善逸に全然優しくない。

 まあ、ここまではいい。ちょっと……いや、かなり怖い女の子。それだけだ。しかしながら、善逸はアオイを恐れている。それは彼女のとある()が原因だ。

 療養中、寝台で退屈にしていた善逸の良過ぎる耳が拾った、とある隠と隊士がしていた噂話。

 ――神崎アオイ伝説。

 ――曰く、神崎アオイは十二鬼月・上弦の弐と遭遇した。

 ――曰く、その戦いにおいて少女達を守り抜き、生き残った。

 ――曰く、蝶屋敷最強は実は神崎アオイである。

 その話を聞いて、善逸は震え上がった。

 普通の鬼でもあんなに恐ろしいのに十二鬼月。しかも上弦の弐。相対するだけでも死んでしまうのに、さらに戦った上で少女も守り抜くなんて、とんでもない話だった。

 そんなに強いなら代わりに鬼殺へ行って欲しいと思うが、きっとアオイでも無傷ではすまなかったのだろう。後遺症があり、それでも鬼殺隊に貢献したくて蝶屋敷にいる……と善逸は勝手に解釈した。

 とにかく、神崎アオイは善逸の想像以上にヤバい御人。本気で怒らせると、自身なんて簡単に塵にされてしまう。善逸はさらに頭が上がらなくなった。

 ――そして話は戻り、胡蝶カナエ。

 彼女もご多聞に漏れず、ヤバい御方であった。

 最初、カナエも人を喰らわない鬼と聞いた時、頭では禰豆子と同じだと分かっていても恐ろしかった。だが、彼女の音を聞いた時、そして会って話をして恐ろしさは吹き飛んだ。

 カナエの音はとても優しかった。実際に話してみても、常ににこやかだった。何より顔だけで飯が食っていけるほど美しかった。旦那がいると聞いてちょっとがっかりして、こんな綺麗な女性を娶ってけしからんと思っていたが、滅茶苦茶幸せそうなカナエを見て、色々と敗北感を味わった。

 ――それだけのはずだった。

 ある夜、厠へ行っている途中の事である。善逸の良過ぎる耳がまた、かすかな声を捉えた。

 

 

『お犬さん』

 

 

 それを聞いた時、善逸は混乱した。

 カナエの声。それは間違いない。

 甘ったるくて熱っぽい音。カナエが旦那と話している時に出す、嫉妬に猛狂いそうになる音だ。

 ただ、音の質と言葉の内容が全然繋がらない。

 そして何より、

 

 

(えっ? えっ? 何でこんなに()()()()()()()()?)

 

 

 一瞬、綺麗とさえ感じた音色。だが、それは良く聞けば旋律の全てが()()()()()()()()

 こんな音、善逸は聞いた事がなかった。先の発言も相まって、さらに善逸は訳が分からなくなった。

 聞き間違えだろうと思い、善逸はその日はとっとと厠に行って寝た。だが、それからどうしても気になって、カナエの音を良く聞くようになった。

 ――良く聞けば、全部旋律が微妙にズレていた。

 同じく療養中の炭治郎から聞いたが、カナエは上弦の弐と戦った折、鬼になってしまったらしい。さらに、旦那が――当時はまだ結婚していなかったらしいが――鬼になった時は、炭治郎から伝え聞いた柱合会議など目じゃないほど、色々と過酷な事があったとも聞いた。

 色々とあり過ぎて、どこかズレて行ってしまった。善逸の想像でしかないが、そんな気がした。

 同情もするし、すごく優しい人ではあるものの、やっぱりどこがズレてヤバい御方。善逸の中で、胡蝶カナエはその日からそういう位置付けになった。

 そして、今聞いた音は、あの日聞いた音と遜色ない。

 

 

(お馬さんって何!? 何でお馬さんでそんな音が出るの!? もう嫌だ、あの鬼夫婦!!)

 

 

 善逸は急ぎ遠回りして、目的の場所である診察室を目指す。その足は、音から遠ざかりたいという思いと、早く()()()に会いたいという思いで、殊更速くなる。

 

 

(早く女神(しのぶ)様に会いたいよぉ……)

 

 

 苦手な女性が多い蝶屋敷。その中の例外が待ち人である蟲柱・胡蝶しのぶであった。

 顔立ちも、カナエと遜色ないほど美麗で可愛いが、何より善逸を安心させるのは彼女の奏でる音色だ。

 カナエのように優しい音。一方で途轍もなく鍛え抜かれていた。

 考えてみれば当たり前だった。家族を鬼にされ、家族を治すために鬼の研究をして。さらには体が小さくて鬼の頚を斬れないから、鬼を殺す毒まで作って。そして、善逸のような鬼殺で怪我をした隊士の治療まで行っている。

 きっと何度も困難にあったのだろう。それでも、しのぶはここにいる。

 しのぶの音は人は何度でも立ち上がれるのだと教えてくれる。強くて頼もしくて安心できる音だった。

 もちろん、人柄も良かった。いつも自然な笑顔で優しく話しかけてくれた。時々厳しい事も言うが、たまに聞かせてくれる何でもない愚痴がすごく親しみやすくて安心できた。

 そんな途轍もなく(人として尊敬できるという意味で)好ましい女性に、善逸は秘かに呼び出されていたのだ。あんな怖い音は聞いた後だ、しのぶの元へと急がずにいられなかった。

 そして何より、夜に二人きり……有り得ないとは思うが、期待するなという方が無理だった。

 

 

「し、失礼します……」

 

 

 善逸は深呼吸してから緊張半分、期待半分で診察室へと入る。しのぶは机に向かい、何やら書類をまとめている最中であった。

 善逸の姿を認めるとすぐに手を止めてくれた。

 

 

「我妻君、夜分遅くに申し訳ありません」

「い、いえ! その、どうせ今は暇でしたし、全然かまわないですよ!」

 

 

 申し訳なさそうに眉尻を下げるしのぶを、善逸は慌てて気遣う。というか、ほとんど事実であるので気遣いでも何でもない。

 そもそも、善逸は元来、女性の頼みは断れない。そのせいで騙されて鬼殺隊に入ってしまった訳だが。とはいえ、今回は尊敬できる女性からの呼び出しだ。過去がどうあれ、絶対に断るつもりはない。

 対して、しのぶは善逸の言葉を素直に受け取ってくれて、笑顔を咲かせる。そして、用意していたであろう部屋の中央にある椅子を善逸にすすめる。

 

 

「ありがとうございます、我妻君。さあさあ、立ち話もなんですから、座って下さい」

「あ、ありがとうございます」

「いえいえ」

 

 

 しのぶは準備していたであろう紅茶を、洋風の茶器に注ぐ。あまり嗅いだことのない香り。少し安心できる香りが診察室に漂い、茶器が善逸の前に差し出された。

 しのぶは自分の分も用意し、善逸の対面に座った。

 

 

「義兄の影響で紅茶を飲むようになったんです。口に合えばいいですけど」

「ありがとうございます」

「それで、体調はどうですか?」

「いやもう、絶好調ですよ! もう診療受ける前より調子が良いです! やっぱり、医師が良いと違うんですかね!」

「あら、また調子の良い事言って。そんな事言ってると、今からでも任務へ行かせちゃいましょうか?」

「えっ!? いや、それは……!」

「ふふっ、冗談です。ちゃんと当初の予定から変えませんよ。ただ、他にも怪我人はいるので、他の場所ではあまり大きな声で言わないようにして下さい」

「はいぃ……」

「ですが、元気なのは良い事です。この調子で復帰まで過ごして下さい」

 

 

 善逸が緊張していた事が分かったのか、しばらくしのぶは雑談をしてくれた。

 

 

(ああ~……やっぱり、しのぶさんはいい人だな~……癒されるんだ~……)

 

 

 そして善逸の緊張が解れ、紅茶の中身も半分ほど無くなった時、しのぶから話を切り出した。

 

 

「つい長々と話しちゃいましたね。本来は別の目的で呼び出したのに、時間を使わせて申し訳ありません」

「いいえ! 俺もしのぶさんと話すのは楽しいですから! いくらでも使っても構いません、むしろ全部使って下さい!」

「ありがとうございます。それで、実は我妻君を呼んだのは……頼みたい事があるんです」

「頼みたい事?」

 

 

 善逸は正直、意外だった。

 しのぶはできる女性だ。それが善逸のような弱虫に頼み事なんて、普通に考えたら有り得ない。頼むとしても、他に頼める人はたくさんいるはずだ。

 一瞬、今までの女性のように己を騙すつもりか……と思い、善逸は心の中で強く否定する。しのぶがそんな事をするなんて有り得ないし、何より音が()()()()()。本当に困った事があって、善逸を頼ってきたのだ。

 しのぶに頼られて嬉しいと同時に、どんな困難なのかと善逸は身構える。

 そして、しのぶは表情を真剣なものに変えると、

 

 

「私の代わりに出て欲しいんです」

「出る? それは一体――?」

「カナヲ大会」

「えっ」

「カナヲ大会に出て下さい……」

 

 

 言ってて恥ずかしくなったのか、しのぶの声が段々小さくなり俯いた。

 一体何なのか、善逸は訳が分からなかった。善逸は恐る恐る訊ねる。

 

 

「あの……何ですか、カナヲ大会って?」

「私の継子で我妻君の同期である栗花落カナヲは知ってますね? カナヲは最初、全然感情を表に出さなかったので、笑顔にしようという目的で始めたのが『カナヲ大会』です。みんなであの手この手でカナヲを笑わせようと和気あいあいとする……それが『カナヲ大会』です」

「はぁ。分かるような分からないような」

「分からなくていいです」

 

 

 カナヲ大会が何なのか……とりあえず、馬鹿な大会とだけ解釈して善逸は分かった事にする。きっとしのぶも、その解釈を望んでいる事だろう。

 カナヲ大会はもういい。問題はなぜここまでしのぶが困っているのか。そして、善逸に何をして欲しいか、である。

 

 

「それで、どうして俺に頼みたいんですか?」

「――失笑」

「えっ」

「もう失笑されるのは嫌だから」

「……」

 

 

 しのぶは顔を上げると、滅茶苦茶心痛な面持ちでそんな事を言った。音に嘘はなかったが、善逸は思わず黙り込んだ。どう反応すればよいか、分からなかった。

 善逸の反応をどう思ったのか、しのぶが目を大きく見開き善逸に訴えかける。

 

 

「分かりますか、我妻君! 沈黙の後の失笑! 笑う練習をする姉と義兄! 真顔になるカナヲ! 忙しい合間を縫って参加して、この仕打ち……耐え難いんですよ!!」

「いや……笑顔にする大会ですよね?」

「それは最初だけで、今はただの隠し芸大会です! もう三十七回もやって……あいつら、騒ぎたいだけなのよ!」

「えっと……」

「……こほん。少し取り乱しました」

 

 

 誤魔化す様に佇まいを正すしのぶ。全然誤魔化せていないが、善逸はそれを務めて無視して続ける。

 

 

「出たくない理由は分かりました。それなら出なくていいだけと思うんですけど、どうなんですか?」

「一度その手を使いました。けど、ちゃんと私の予定のない日を狙ってやるから、普通に迎えに来て強制的に……!」

「うわぁ……」

「でも、我妻君が参加すれば、人数は確保できている事になります。時間の都合もありますから、私の参加は不要……いえ、むしろ参加できなくなって、私は平和に過ごせる……!」 

 

 

 そこまで言うと、しのぶは机に身を乗り出し、両手で善逸の手を取った。

 

 

「しのぶさん!?」

「お願いです、我妻君! 私、あなたを一番頼りにしていますから……どうか私の代わりに参加して下さい!」

「任せて下さい!!」

 

 

 善逸は即答した。

 ――大会当日、善逸は後悔する事になる。

 

 

 

 

「……チィッ!」

 

 

 善逸は蝶屋敷の道場に揃った面子を見て、まずは強く舌打ちをした。そして、白い目でもう一度面子を確認する。

 

 

「あれ? あれ?」

 

 

 キョロキョロ周りを見渡す女性。蝶の髪留めが着いた長い黒髪が、キラキラと揺れている。

 胡蝶カナエ。大会の主催者らしいので、彼女がいる事は特に問題ない。

 

 

「練習の成果を見せるぞー!」

「おー!」

「おおー!」

 

 

 気合を入れる蝶屋敷三人娘。

 寺内きよ、中原すみ、高田なほ。彼女達は笑わせる側の主役みたいなものだ、この場にいるべきだ。むしろ、居て下さい。

 

 

「二人とも……逃げたなぁ……!」

 

 

 怒りに肩を震わせる少女。

 伝説の隊士・神崎アオイもこの場にいた。見た目通り真面目らしく、この馬鹿な大会にも生真面目に来たらしい。まんまと逃げおおした二名に対して憤っている。あまり触れないでおこう。

 

 

「いたな、お蝶夫人! 今日こそお前に勝つ!」

「誰からその話を聞いたの!?」

 

 

 猪の被り物を着けた男。嘴平伊之助がカナエに突っかかっている。

 何でいるんだ、お前に笑わせられるのか、そもそも意味が分かっているのかと問い詰めたい。だが、今日は百歩譲って伊之助がいてもいい。

 

 

「……」

 

 

 さらに隅っこには、竹筒を加えた可愛い女の子。

 今日も可愛い禰豆子だ。どうやら、彼女は見学に来ていたみたいだった。

 善逸のやる気がちょっと回復するが……最後の二人を見て一気に盛り下がる。

 

 

「今日は俺がカナヲを笑わせてみせるから」

「そ、そう……」

 

 

 額に痣がある少年と、蝶の髪留めを側頭部に着けた可愛らしい少女。

 ――竈門炭治郎と栗花落カナヲ。

 二人を見て、そういう事なのかと善逸は一瞬で理解した。

 先日まで行っていた機能回復訓練。そこで見たカナヲはいつも意味もなく微笑んでいて、音はとにかく静かで、正直何を考えているか分からない少女だった。

 それが今。どう見てもその表情は固く、チラチラと視線を竈門炭治郎に注いでいる。そして、そんなカナヲの姿を、カナエが伊之助を締め上げながら嫌ったらしい微笑みで眺めている。

 善逸は心の中で憤怒する。

 

 

(ああそういう事! そういう事ですか、この堅物デコ助軟派野郎がっ!! 鬼殺隊はフラフラ寄って女の子とイチャイチャする所じゃないんだよ!!!)

 

 

 つまり、この急遽開催された『カナヲ大会』は、カナヲと炭治郎との仲を取り持つために行われたのだ。

 善逸はしのぶのために来た。だというのに、なぜ炭治郎の恋の仲立ちをしなければならないのか。腹立たしかった。

 

 

(うぐぐ……! でもここで俺が逃げたら、しのぶさんが……!)

 

 

 同時にこうも思う。しのぶがここに来たならば、やはり失笑されて、その上で二人の仲を取り持つ。想像するだけで、悲惨過ぎる。やはり、ここは善逸が頑張るしかない。

 善逸が涙をのんで参加を決めると、カナエが近づいてきた。

 

 

「あの……我妻君? しのぶと弦司さん知らない」

「今日は俺、しのぶさんの代理です。旦那さんは知らないっす」

「えっ。しのぶ参加しないの!?」

(えっ、じゃないよ。どうして参加してもらえると思ってたんだよ)

 

 

 ちょっと驚いているカナエに、善逸は冷めた視線を向けていると、カナエの後ろでのびていた伊之助が復活する。

 

 

「弦蔵なら、最強の俺に託してどこか行ったぞ!」

「弦司さん本当に来なかったの!?」

(旦那にも妹にも逃げられるって、一体何したんだよ)

 

 

 旦那も逃げ、しのぶも逃げた。もう善逸は嫌な予感しかしなかった。

 

 

「しのぶも弦司さんも全くもう……! 後でお話ししなきゃ」

 

 

 カナエは不満気に頬を膨らませるが、すぐに気を取り直す。そして笑顔で、道場に集まった全員に向けて拳を突き上げる。

 

 

「時間も来たし、『第三十八回カナヲ★大会』を開催するわよ!」

「わーい!」

「頑張りますー!」

「いくぞー!」

「おー!」

「猪突猛進!!」

(三十八回って、何回やれば気が済むんだよ)

 

 

 善逸以外が一気に盛り上がる。ちなみに、カナヲは静かに見えるが、炭治郎が何をするか気になるのか、チラチラと彼に視線を送り、別の意味で盛り上がっている。善逸は嫉妬で炭治郎の首を絞めたくなった。

 

 

「それじゃあ、まずは俺だ!!」

 

 

 善逸が炭治郎に殺意を抱いている間に、手を挙げたのは伊之助。さすが猪男、羞恥心も何もなく、最初からいきなり飛び出てきた。

 善逸は内心冷めながらも、山育ちで常識知らずのこの男が、何をするのかちょっと興味があった。

 他の面子も特に最初からやりたい訳ではないらしく、全員が固唾を飲んで伺う。

 伊之助はカナヲの前に出ると、

 

 

「天ぷら! 天ぷら!」

 

 

 突然意味の分からない事を叫び始めた。

 いや、言葉の意味は善逸でも分かる。揚げ物である天ぷらだ。それがなぜ、笑わせる事になるのか善逸には分からない。カナヲも訳が分からないのか、可愛らしく口を小さく開けて呆然としている。

 

 

「天ぷら! 天ぷら!」

 

 

 しかしながら、善逸は大変不本意だが伊之助との付き合いはそこそこある。少し、思い至る節があった。

 

 

(えっ。もしかして、自分が好きだから? 天ぷらって言えば、笑顔になれると思ってんの? 馬鹿だな、こいつ……)

「天ぷら! 天ぷら!」

 

 

 善逸の内心など知らない伊之助は、何度も何度も叫ぶ。しかし、カナヲの表情は変わらない。 

 伊之助はついにムキー! と叫ぶと、

 

 

「天ぷら! 天ぷら!」

「……」

「おい、何で黙ってるんだ! お前も言え!」

「!?」

「天ぷら!」

「……」

「天ぷら!!」

「……て、てんぷら……」

「声が小さい!」

「て、てんぷら」

「天ぷらぁっ!!」

「天ぷら」

「天ぷらぁぁっ!!!」

「天ぷら!」

「よし!」

(よし、じゃねーよ!! 何しに来たんだ、テメエ!!)

 

 

 結局、猪頭の伊之助は当初の目的を忘却。カナヲが大声で天ぷらと叫んで満足して、伊之助はカナヲから離れた。

 カナヲは一体何だったのか、誰か教えてくれと道場の皆に視線を送るが、答えられるはずもなく。全員が苦笑するか、首を横に振るだけだった。

 兎にも角にも、これで伊之助の出番は終了。かなり微妙な空気になる。善逸は正直、この空気で出たくはない。

 一瞬、全員が目配せすると、

 

 

「……それでは、私が」

 

 

 アオイが控えめに手を挙げた。

 この空気で名乗り出るとは、さすが伝説の隊士だ。善逸が内心感心していると、アオイは箱を持ってくる。

 中には青色を帯びた瓶が敷き詰められていた。

 

 

「カナヲの好きなラムネよ」

(えっ!? 物もありなの!?)

 

 

 善逸が内心抗議するが、咎める人は誰もいない。どうやら、これも()()のようだった。

 アオイがカナヲの目の前に箱を置く。カナヲの笑顔は変わらない。だが、善逸の耳は確かに音が、僅かに高くなったのを聞き取った。カナヲは喜んでいた。

 

 

(マジで好物なの!? そんなの知るかよ! つーか、箱丸ごととか卑怯だろ!!)

「善逸」

 

 

 善逸が憤慨し、でもアオイが怖くて黙っていると誰かが袖を引いた。炭治郎だった。

 善逸は嫉妬を込めて、炭治郎を白い目で睨み付ける。

 

 

「……何だよ、炭治郎」

「あれ、善逸怒ってる? ダメだって、怒っていたらカナヲを笑わせられないぞ」

「怒ってるのは、炭治郎に対してだけだっつーの」

「えっ」

「それで、何が訊きたいんだよ」

「えっと……ラムネって何?」

「知らねえのかよ。本当に田舎者だな。まあ簡単に言えば……シュワシュワして美味しい飲み物だ」

 

 

 善逸が簡単に説明すると、炭治郎は目を輝かせる。

 

 

「へー! そんな飲み物があるんだな」

「任務に復帰したら飲みに行けよ。隊士の給金なら、余裕で買えるぞ」

「ああ、そうす――」

 

 

 頷こうとした炭治郎の前に、瓶を握った手が突き付けられる。善逸と炭治郎が、揃って手を辿っていく。カナヲだった。

 カナヲがやや固まった笑顔で、ラムネを炭治郎に渡そうとしていた。炭治郎はやや困惑そうに眉根を落とす。

 

 

「いいの、カナヲ?」

「うん。多いし……炭治郎、飲んだ事がないんだよね?」

「そうだけど……アオイさん?」

 

 

 炭治郎がカナヲの背後へ視線を送る。贈った本人であるアオイが無表情で、カナヲの背後にいた。

 アオイは呆れたように溜息を吐くと、いつものキリっとした表情に戻る。

 

 

「いいですよ。元々、カナヲ一人で飲む量でもありませんし」

「ありがとう! カナヲ、アオイさん!」

「……うん」

「どういたしまして」

 

 

 炭治郎が笑顔になり、カナヲが僅かに頬を赤く染める。一瞬でも油断すれば、アオイのように二人の仲を取り持つ踏み台とされてしまう。『カナヲ★大会』は本当に恐ろしい大会だった。ちなみに伊之助は、ラムネを横から奪おうとしてカナエに絞め落されぐったりしていた。これでしばらく伊之助は静かだろう。

 カナエは伊之助を道場の隅に放り投げると、

 

 

「この調子でどんどんいきましょう」

「はい!」

「はいっ!」

「は~い!」

 

 

 きよ、すみ、なほの三人も元気よく続く。

 何をするのか善逸達が眺めていると、カナエが道場から出て行く。そして、()()()()()()()()のは大きく黒い厳つい形状の物。正面と思われる場所には、白と黒の鍵盤が交互に並べられている。善逸も伝聞でしか知らないが、確か『洋琴』と呼ばれる西洋楽器だった。炭治郎はやはり知らないのか、興味深そうに眺めている。

 カナエは洋琴を置くと、少女達は何やら思い思いに発声の練習を始めた。

 

 

「もう大丈夫?」

「はい!」

「準備万端です!」

「いつでも大丈夫です!」

 

 

 そして、喉が温まったところで、カナエが演奏を始める。街を歩けば、必ず耳にする流行歌であった。

 洋琴を伴奏に、きよから歌を歌い始めた。すごい上手い訳ではない。ただ、その歌声にはしっかりと努力の跡が伺えた。そして、カナヲのために歌っている想いが乗っていた。優しい歌だった。

 カナヲが目を瞑り、静かに聞き入る。禰豆子も部屋の隅から、カナヲの隣まで自然と歩を進めた。

 全員が聞き惚れる。きよが最後まで歌い切ると、誰もが拍手をした。

 

 

「すご~い!」

「練習の成果が出たわね」

「上手」

「えへへ……ありがとうございます」

 

 

 賞賛が収まったところで、今度はすみが続く。

 きよと同じく流行歌で、少し曲調の変わったしっとりとした歌。

 先の昂った感情を、良い意味で落ち着かせてくれる。

 終わった時、自然と水面のように段々と広がっていく拍手となった。

 

 

「すみちゃん、すごい大人っぽかった」

「……すごい」

「皆さん、ありがとうございます」

 

 

 最後はなほ。

 今までと打って変わって明るい曲調となる。

 

 

「手拍子お願いしま~す!」

 

 

 なほは禰豆子とカナヲに手拍子を求めて巻き込み、空気も明るく楽しいものへと変わる。

 盛り上がり過ぎたのか、なほの拍子がかなり早くなり、カナエが合わせるのに苦労していたが、それもご愛嬌。みんなが一体となり、この時を楽しんだ。

 歌い終わった時の拍手は、なほだけに対するものではなく、みんなに向けたものへと自然と変わった。カナヲの笑顔も、心なしかいつもより自然に感じられた。

 ちなみに、少女達が頑張る傍ら、物で釣ったアオイはちょっと表情が死んでいた。

 

 

「すごいすごい!」

「なほ、こんなのどこで習ったの? すごいじゃない!」

「みんな、ありがとう」

「楽しかったです!」

「いやぁ、みんなすごかったな、善逸」

「ああ……」

 

 

 三人娘の発表は滅茶苦茶盛り上がった。次の人……善逸か炭治郎はこの空気の中、やらなければならない。

 酷い重圧でもう逃げ出したい――といつもの善逸は思っていただろう。だが、今日の善逸は違う。ちゃんとしのぶから、策を授けられていた。

 善逸は熱狂が冷めやらぬ内に、道場の隅に置いていた三味線を手に取り演奏する。

 ただし、その曲は――。

 

 

「あっ、私の曲!」

 

 

 最初にきよが歌った曲であった。

 

 

(しのぶさんの言う通りだ! やったぜ!)

 

 

 当たり前だが、参加決定が直前だったため、善逸には芸を覚える時間はほとんどなかった。このままでは、伊之助と大して変わらない事しかできなかったはずだった。

 しのぶの依頼を承諾したものの悩んでいた善逸に、しのぶは彼女達が歌う事を教えてくれたのだ。

 

 

 ――そして、策を授けていくれた。彼女達の歌……それをその場で聞いて演奏してみてはどうか、と。

 

 

 これだけ盛り上がった音楽を、カナヲが大好きだと感じた曲を再現して、失敗など有り得ないとしのぶは太鼓判を押してくれた。

 善逸の耳は良い。一度聞いた音を再現するなどお手の物だ。

 善逸は少女達が興奮しているのを感じ取りながら、曲調を一気に変える。

 

 

「今度は私の!」

 

 

 しっとりとした曲調に変わり、すみ達がキャッキャと騒ぐ。善逸は調子に乗って、また曲調を変える。

 

 

「私のだ! 善逸さん、すごいです!」

「私も負けてられないわ!」

 

 

 なほの曲に変わったところで、カナエも演奏に加わり場の空気は最高潮となる。

 善逸の隠れた芸に誰もが驚き、さらにカナエの即興による連奏……盛り上がらないはずがなかった。

 誰も彼もが盛り上がって、禰豆子はなんと嬉しそうに善逸に向けて手拍子をしてくれた。善逸は嬉しすぎて泣きそうになった。

 さらには、きよ達も歌で参加し、最後にはもう訳が分からなくなったが、とても楽しい時間だった。

 

 

(最初はどうなるかと思ったが、最高じゃないか『カナヲ大会』! そうだよ、あのデコ助軟派野郎は放っといて、可愛い女の子とキャッキャウフフしてるだけで良かったんだよ!)

 

 

 善逸は最高のひと時にだらしなく表情を崩す。今は場の空気が良いので、誰も引いたりしない。

 さあ楽しかった、もう帰ろうと善逸が思っていると、

 

 

「この後に俺がするのか……困ったなぁ……」

「困ったんなら、やらなくてもいいんじゃね? この後、何やったって盛り下がるだけだろ」

「善逸!?」

 

 

 今の調子に乗っている善逸でも、この空気で最後を務める気は起きない。誰も求めてもいない。だったら、やらない方がマシだ。

 半分ざまあみろ、半分親切心で善逸はやる気を出す炭治郎に言うと、

 

 

「そんな事ない」

「!?」

 

 

 カナヲが善逸と炭治郎の間に入った。カナヲは微笑んではいるものの、若干足音が荒々しかった。

 善逸は小さく悲鳴を上げて後退すると、もうカナヲの視界からは善逸は消える。そして、カナヲは炭治郎と向かい合うと、

 

 

「私を、笑わせて」

「いいのか、カナヲ?」

「せっかく来てくれたから……炭治郎も参加して?」

「……ああ!」

 

 

 炭治郎が笑顔で答え、カナヲの頬が赤くなる。善逸の収まっていた嫉妬心が復活する。

 

 

(ああくそが、俺が頑張った成果を炭治郎は横から掻っ攫っていくって訳か! この長男が、失敗しろ失敗しろ失敗――)

 

 

 ここでふと、善逸は疑問が浮かぶ。

 

 

(あれ? 炭治郎、何する気だ? 何も持ってないし、まさか伊之助と同じ事、する訳ないだろうし……)

 

 

 疑問が匂いに出ていたのだろうか、炭治郎は善逸の方を振り向くと片目をパチッと閉じて、

 

 

「任せろ、善逸。今まで弟とどんな喧嘩をしても、これで一瞬で笑顔にしてきたんだ」

「……ん? 炭治郎、お前途轍もなく不吉な事、言わなかったか?」

「カナヲ」

 

 

 嫌な予感がした善逸だが、もちろん炭治郎は止まらず。カナヲも待ってましたと楽しそうな音を鳴らし、まあカナヲが喜んでいるなら他の皆も動かず。

 炭治郎はカナヲに近づくと、

 

 

「こちょこちょこちょこちょ~~!」

「!?!?」

 

 

 カナヲの脇腹をくすぐり始めた。

 善逸もアオイもきよもすみもなほも、そしてカナエも予想外過ぎて固まった。

 その間も、炭治郎のくすぐりは止まらない。

 

 

「どうだ、カナヲ。降参か? 降参するか?」

「っ、んあ、た、たんじろ、あっ――!」

「こちょこちょこちょこちょ~~!」

 

 

 気になる男子に触られるどころか、くすぐられるカナヲ。恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、それでも好意を持つ男子の手を拒絶できず、少し身をよじるだけだった。

 くすぐったいのか、それとも――と思った善逸の耳が、カナヲの音を拾う。

 炭治郎がくすぐればくすぐるほど、恥ずかしい、くすぐったいという音が消えていく。そして、代わりに芽生えた感情は――。

 

 

「あああああああああっ!!」

「ぐへっ!?」

 

 

 善逸は炭治郎を殴り飛ばした。

 解放されたカナヲはぷるぷる震えながら蹲り、炭治郎は道場を転がる。周りはどうすればよいか分からず、あわあわし始める。

 炭治郎は顔を抑えながら立ち上がると、

 

 

「な、何するんだ、善逸!? 後もう少しで笑わせ――」

「いやお前何やってんの!? 馬鹿だろ、馬鹿炭治郎だろ!!」

「だって、弟はこうやったら笑って――」

「あの子はお前の弟じゃないだろ! 俺達の同期の女の子!! しかも、お前より年上の女性だろうが!!!」

「あっ……」

「あっ、って言ったな、この馬鹿!! どうすんだよ、これ責任取れるのかよ!!」

 

 

 善逸は蹲ったカナヲを指差す。今も羞恥と若干の興奮で、体を震わせながら熱い吐息を吐いている。衆人環視の中、男子にくすぐられるという羞恥行為で何か目覚めてしまったら、炭治郎はどう責任を取るつもりなのか。嫉妬とか一先ず置いて、あまりにも酷かった。

 炭治郎もさすがに、異性に対してのくすぐり行為は拙かったとようやく自覚したのか、顔を赤くしながら慌て始める。

 

 

「ど、どうしよう、善逸!? 俺、こんなつもりじゃなかったのに」

「そりゃ、こんなつもりだったらお前の事、本気で軽蔑するわっ!!」

「軽蔑してもいいから、俺を助けてくれ! お前だけが頼りなんだ!」

「……チィッ!」

 

 

 善逸は舌打ちをしながら、三味線を取り出す。

 どうして炭治郎の尻拭いをしなければならないのか。大変不本意だが、このまま『お宅のカナヲさん、性癖捻じ曲がりました』とか報告できるはずがない。何とか有耶無耶にしなければ、カナヲもだがしのぶも可哀想だった。

 

 

「おい、炭治郎……さっきの曲は何度も聞いたよな」

「う、うん」

「だったら、下手な歌聞かせて、笑われて終われ」

「ごめん、善逸」

 

 

 もう格好良く終わる事は出来ない。なら、炭治郎には笑い者になって終わるしかない。それぐらいしか、善逸は思いつかなかった。

 

 

「紋逸と炭八郎! お前らだけずりぃぞ! 俺も参加する」

「伊之助……分かった、伊之助も手伝ってくれ!」

「応よ!」

 

 

 そして、丁度良く起きた伊之助がなぜか参加する事になり、念のため善逸が予備で用意していた太鼓を道場に持ち込む。

 善逸は演奏を始める。

 きよが歌った流行歌。あわあわしていた一同が、善逸の意図をくみ取り注目する。その中には、もちろんカナヲもいて……蹲りながらも、この期に及んで熱っぽい瞳で炭治郎だけを見ていた。

 

 

 ――プツン。

 

 

 この後、この世のモノとは思えぬ呪詛と怨念が一同を襲い、『カナヲ★大会』は中止となった。

 

 

 

 

「どうしてそうなるんですか」

「本当にすみません!!!」

 

 

 夜。今度はしのぶの自室に呼び出された善逸は、興奮も期待もなく、ただただ申し訳なさに体を縮こまらせていた。

 しのぶに頼まれ、策まで授けられた結果が強制中止である。正直、善逸は顔を合わせるのも辛かった。

 謝る善逸にしのぶは、いつもの微笑を浮かべる。

 

 

「責めている訳ではないんですよ、我妻君。あんな綺麗な演奏ができる人が、あんな怨念の籠った音を奏でるなんて、興味深かっただけです」

「いや、でも……」

「それにむしろ、感謝しています」

「えっ」

「姉さん、ああ見えて恋愛関係はポンコツで雑魚ですから。義兄さんの忠告も聞かずに決行したからには、何かやらかすと思っていましたので。我妻君には一切責任はありません」

「ええっ……」

「そして何より……もう『カナヲ大会』が開催されなくなった事! いやあ、最高ですね~」

 

 

 しのぶが良い笑顔で言う。そう、『カナヲ大会』はもう二度と開かれなくなったのだ。

 

 

「最初、カナヲが運ばれたと聞いた時には焦りましたけど、まさか炭治郎君の歌で倒れたとは思いませんでした」

「いや、本当申し訳ありません」

 

 

 炭治郎の圧倒的音痴と、善逸の怨念の籠った演奏と、伊之助のズレにズレた太鼓の拍子。聞く者の精神力を抉り取る演奏だった。

 それを全力で聞こうとしていたカナヲは、卒倒してしまったのだ。

 

 

「仕方ないですよ。これを予想しろだなんて無理です。それに怪我の功名とでも言いましょうか? 軽い問診しかしてませんが、カナヲから綺麗に今回の記憶が抜け落ちていて、しかも『カナヲ大会』の話をすると頭痛がするそうです」

「いや、怪我の功名じゃないでしょう!?」

「それぐらい嬉しいって事ですよ」

 

 

 軽い心因性傷害を負ったのか。カナヲは『カナヲ大会』と聞くだけで、軽い頭痛と眩暈を起こすようになっていた。しのぶの見立てでは、想い人の圧倒的音痴という事実を封じ込める本能的防衛処理との事だった。

 兎にも角にも、これで『カナヲ大会』の今後の中止が正式に決定した。もう二度と、しのぶが失笑される事はなくなったのだ。

 

 

「我妻君、少し待っていて下さいね」

「あ、はい」

 

 

 しのぶは再び上機嫌になると、楽しい足音を残して部屋を出て行った。

 戻ってくると、お膳を二つ持ってきた。美味しそうな匂いが、部屋に充満する。

 しのぶは善逸の前にお膳を、そして向かい側に自分のお膳を配膳する。

 白と黄色と野菜の配色が鮮やかなライスカレーだった。

 

 

「ご、ごちそうじゃないですか」

「私の代わりに出てくれたお礼と、快復祝いです。遠慮なく食べて下さい」

「ありがとうございます! いただきます!」

 

 

 善逸は対面にしのぶが座ると、遠慮なく匙を取りライスカレーを口に運ぶ。

 カレー独特の辛味と野菜の甘みが広がる。この味がまた、米に良く合っていて、善逸の手は止まらなくなる。

 次から次へと善逸がライスカレーを口に運ぶと、しのぶがホッとしたように微笑んだ。

 

 

「お口に合ったみたいですね」

「はい! 最高に美味しいです!」

「ふふっ、ありがとうございます。実は久しぶりに料理をしたので、上手く作れるか少し心配だったんですよ?」

 

 

 言いながら、しのぶもライスカレーを食べる。満足いく出来だったのか、嬉しそうに頷いた。

 そこから、しばらく善逸はしのぶと歓談した。美味しい料理に話の上手い美人。楽しくないはずがなかった。

 

 

「ごちそうさまでした」

 

 

 すぐに料理は平らげ、楽しいひと時は終わった。

 善逸が残念に思っていると、しのぶの表情がやや緊張したものに変わっていた。

 

 

「? どうしました、しのぶさん?」

「いえ、その……我妻君に訊ねたい事がありまして」

 

 

 言われて、善逸は少し納得する。診療所ではなく、わざわざ自室に呼び出したのだ。今回のこれは『カナヲ大会』のお礼というだけでなかったのだろう。

 だが、善逸にはしのぶが緊張する意味が分からなかった。訊いて、答えて……それで終わりなはずだ。どんな答えにくい質問でも、所詮相手は善逸だ。そこまで思い悩むはずもない。

 だから、善逸は軽く訊ね返した。

 

 

「訊ねたい事ですか? 大丈夫ですよ、何でも答えますって」

「禰豆子ちゃんに関する事でも……ですか?」

「っ!」

 

 

 竈門禰豆子。

 人を喰らわない鬼で炭治郎の妹で……今、善逸が好いている女の子だ。 

 一体何を訊ねるのか。しのぶが緊張しているのだ、きっと軽い質問ではないだろう。

 それでも、しのぶが意味もなくわざわざ場を設けて訊ねるはずがない。これにも、意味があるはず。

 善逸はしのぶを信じて頷いた。

 

 

「はい。答えます」

「それでは、我妻君は……」

「……」

「我妻君は、本気で禰豆子ちゃんと添い遂げるつもりはありますか?」

「……はぁっ?」

 

 

 一瞬、善逸が呆ける。

 添い遂げる。つまりは、そういう男女の関係になって夫婦となるつもりがあるのかという事で――善逸の顔が一気に熱くなる。

 

 

「そ、添い遂げる!? それはつまり、竈門禰豆子が我妻禰豆子になるっていう意味の!?」

「はい、そうです」

「そうです!!? いや、それは考えてない事もないですけど!! その、やっぱり、それはお互いの気持ちが大切というか!! でも、全然そういうつもりがない訳でもなくてですね!!」

「禰豆子ちゃんは鬼です。それでも、ですか?」

「……どういう意味ですか」

 

 

 しのぶの言葉に、善逸の頭が一気に冷える。

 禰豆子が鬼など、百も承知だ。それをなぜわざわざ訊ねるのか。鬼だから、駄目だとでも言いたいのか。

 善逸は頭に血が上りそうになるのを、ぐっとこらえる。しのぶは善逸と禰豆子を侮辱するつもりで言ってはいない。今も、声音がすごく痛々しかった。

 とにかく、しのぶは善逸と禰豆子を傷つけたくて言っているのではない。

 善逸はしのぶの言葉を待つと、彼女は何かを耐える様に告げる。

 

 

「私は無力です。未だ、鬼を治す薬を作れていません。もしかしたら、私が生きている間に薬はできないかもしれません」

「それは……」

「君も私も老います。ですが、禰豆子ちゃんも姉さんも義兄さんも老いません」

「……」

「今では、私は姉よりも年上になってしまいました」

「っ!!」

 

 

 しのぶの言葉が善逸の胸に深く刺さる。

 自身だけが年を取り、今では年上になってしまう……それは想像しただけで、酷く寂しい事だった。

 

 

「明確に外見に差が出て……最後は、私達が先に逝きます」

「……」

「我妻君、君は未来を想像した上で添い遂げると決めましたか?」

「それは……!」

 

 

 考えた事もなかった。

 禰豆子は可愛くて、優しくて、綺麗で、好きだったから。人も喰らわないなら鬼なんて些細な問題だと、簡単にしか考えていなかった。

 でも、善逸にも言いたい事があった。

 

 

「考えてなきゃ、一緒に居ちゃいけないんですか?」

「……そうではありません」

「それじゃあ、何で――!?」

「義兄が姉に恋をした時、まだ姉は人でした」

「……それが何か」

「義兄は姉には決して伝えませんでしたが、()()()()だと……そう思って接していたそうです」

「どういう事ですか……?」

「我妻君、君が思う以上に鬼に恋できる人は少ないんですよ。だからもし、禰豆子ちゃんが君の事を好きになるなら……きっとそれは最後の恋です。最後の恋を『鬼だから』……私はそんな理由で、己ではどうしようもない事で、絶対に終わらせたくないんです。それに……」

「……」

「鬼である義兄の恋を見てきました。彼と同じ苦しみを、禰豆子ちゃんにも味わって欲しくないんです」

 

 

 しのぶの言葉には、実感がこもっていた。不破弦司の恋がどんなものだったのか、善逸には分からない。だが、その結末が悲惨だった事は想像に難くなかった。見て知っているからこそ、しのぶはこんなにも気にしているのかもしれない。

 

 

「我妻君。鬼の現実を知った上で、君は禰豆子ちゃんと恋をして、添い遂げられますか?」

「しのぶさん……」

 

 

 しのぶの問いかけはどこまでも厳しくて、そして……優しかった。禰豆子と善逸を思い遣って、苦しんで、それでも二人の幸福を願って行動していた。善逸の師匠である桑島慈悟郎とは、また違った厳しさと優しさを持った人。本当に尊敬できる人だった。

 だから、善逸は正直に答えた。きっとそれをしのぶも望んでいるから。

 

 

「老いないって事は、いつまでも可愛いって事ですよね」

「そうですけど……?」

「それじゃあ、むしろ幸運っていうか、でもやっぱり大人になった禰豆子ちゃんも見てみたいっていうか! どっちにしろ、禰豆子ちゃんは最高なんで問題ないです!!」

「――我妻君」

 

 

 しのぶは不意に優しく微笑むと、なぜか善逸の頭を撫でた。よく分からないが、何か胸にこみ上げてきて、善逸の鼻の奥がツーンとした。

 

 

「決断してくれて、ありがとうございます」

「えっ、いや、その! これも禰豆子ちゃんのためだし、でも俺、まだ何もしていないんですけど!!」

「いいんですよ、答えなんてどっちでも。大切なのは君が鬼である()と、ちゃんと向かい合って答えを出す事です」

「しのぶさん……」

「長く生きていくと、必ず彼らを鬼としか扱わない人が出てきます。そんな人達は、絶対に彼らと向き合いません。私は君がちゃんと向き合ってくれて、決断してくれた事がすごく嬉しい」

 

 

 善逸の瞳から、大粒の涙がこぼれる。ただ、ちゃんと考えて答えた。それだけだ。それだけなのに、なぜか涙が止まらなかった。

 

 

「我妻君」

 

 

 しのぶが善逸の頭から手を下ろすと、今度は小指を差し出してきた。

 

 

「えっ」

「約束しましょう。君が禰豆子ちゃんに恋をしている限り、私は我妻君を応援します」

「い、いいんですか!?」

「はい。ただし、彼女が道を踏み外さないよう助け、そして守る。そのための労苦は惜しまない事。約束できますか?」

 

 

 つまり、善逸がこれまで通り禰豆子を好いた女の子として接する限り、しのぶは善逸を応援してくれる、との事だった。

 今までと変わらず、しのぶの援助を受けられる。善逸は即座にしのぶの小指に、自身の小指を絡めた。

 

 

「もちろん! 禰豆子ちゃんのためなら、例え地獄だろうが俺は助けますよ!!」

「ふふ、良い返事です。それでは――」

 

 

 ――指切りげんまん。

 

 

「約束ですよ」

「はい!!」

 

 

 

 

 ――後日、しのぶに機能回復訓練とは比にならないほど、厳しい訓練を課せられた善逸は、厳しすぎてガチで泣いた。

 だが、これも全ては禰豆子のため。禰豆子のためを思えば、ゲロ以下の食事も耐えられる……と必死に自身に言い聞かせ、善逸は頑張るのであった。




とりあえず、後日譚はこれで終わりです。
後はIFをちょこっと投稿したいと思います。


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