とにかく明るいメディケーション (kodai)
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1

  大体私に言わせれば、鬱だのなんだのは甘え以外の何者でもないわ。そうでしょうスーさん! ほら、スーさんもそう言ってる。だから、永遠亭から薬売りの役を任命されたけれど、私は絶対に抗鬱薬なんて処方したりしない。だって体を動かせばすぐに治る病気じゃない。少なくとも、薬売り先輩はそう言っていたわ。戦場? なら鬱は甘えだって。

 とにかく、今日は私の初勤務なの。ルートも頭に入ってるし、薬を置く家も覚えてるし、どこにどの薬を置けばいいかも分かってる。

 ただ、わたしの巡回ルートに一件、抗鬱薬の処方があるのよね。気に食わないわ。会って、薬に頼ろうなんて考え方を改めさせてやるんだから。運動よ! 運動!

 

 野良猫軍団を見ると、里に着いたって感じがするわね。そういえば私、薬売りをやるって決める前は、えーりん先生に害獣駆除をやらされそうになってたの。みて、スーさん。あの猫達。あんなにまるっこくて、ふさふさしてて、愛らしい動物、私に殺せるわけがないわ! そうよね、スーさん? ああ、ダメよスーさん。スーさんは猫じゃないんだから、にゃあなんて返事をしたら。え? 関節が球体じゃないからイヤ? うーん、言われてみればそうね。あの、大腿骨が皮膚の下で蠢いてる感じが、なんともグロテスクだわ。

 それはそれとして、初仕事よ! 巡回ルートのお客さん達は風邪だったり、風疹だったり、喘息だったり、不治の病だったりするらしいけど、そんなの、みんな自力で治すべきなのよ! 運動、運動をすべきだわ。……でも、体が動かせなくて運動ができない人もいるのよね。

 だから私、偽薬? をいっぱい持ってきたの。薬なんだけど、薬じゃないんだって。薬売り先輩が言ってた。薬売り先輩はよく仲間? に飲ませてたらしいわ。効果はともかく、みんな幸せな最期を迎えられたって話よ。終わりよければすべてよし、いい言葉よね。私、好きだな。この言葉。よおし、気合い入れて配っちゃうんだから。

 

 薬売りも簡単ね! 薬の入ったカバンを持ち歩かなければ声をかけられることもないし、ポケットの偽薬を郵便受けに放ればすぐに済んじゃう仕事だわ。

 でも、大変なのはこれからよメディスン。いよいよ鬱病患者の家の前までやってきたわ。家の中が静かだから、多分寝てるみたいだけど、日中から眠るなんてとんでもない! 叩き起こして、すぐに更生させてやるんだから!

 

「ノックしてもしもーし」

 

 ……。

 反応がないわ。出掛けてるのかしら。いえ、そんなわけないわ! きっと、自分は鬱病だから、急な来客に対応しなくてもいいって考えてるんだわ。絶対そうよ。ううう、許せない。甘えよ、甘え! 鬱だからって、そんな甘えが許されると思ったら、大間違いよ!

 

「もしもーし! コンコーン! ノックしてるんですけど! もしもーし!」

 

 ……あ! 今、家の奥から物音が聞こえたわ。やっぱり居るのね、畳み掛けるなら今だわ! 上り口十六連打よ!

 

「コンコーン! もしもーし! 居るなら早く出てきたらどうなの! もしもーし!」

 

「は、はい! 今行きます!」

 

 うわぁ、聞いた? スーさん。蚊みたいに細くて、弱々しい声。情けないったらないわ。全く。

「どちらさまでしょう……?」

 

 戸が不健康そうな音を立てて開くと、出てきたのはやっぱり不健康そうな男。というより、蚊みたいに細い、蚊そのものみたいな感じ! 私のちっちゃい手で叩けば、腕とか足とか、折れちゃうんじゃないかしら。ふにゃって。

 

「私メディスン。メディスン・メランコリー。薬売りです」

 

「ど、どうも。い、いつもの人と違うみたいだけど」

 

 それがどうしたのよ! 怯えた目で人を見て、失礼しちゃう。

 

「薬売り先輩が部屋に引きこもっちゃったから、私が新しく薬売りに任命されたの」

 

「へ、へぇ。それはそれは。じゃ、じゃあ君が、薬、置いていってくれるのかい」

 

 ダメね。完全に薬に頼り切っちゃってる。そんなんじゃ一生治るわけがないのよ。薬売り先輩が元気なときに言ってたわ。外の美しく素晴らしい空気を吸えてさえいれば、あとはもうなんにもいらない、って。

 

「そんなわけないでしょ! 甘えないでよね!」

 

「え、えぇ! そんな!」

 

「ほら、運動しにいくわよ。早く着替えてきて! 運動よ、運動。健康のためには運動が一番だわ!」

 

 私が言うと、髭が伸びっぱなしのおじさんは狼狽した様子で部屋に引っ込んでいったわ。きっと、着替えたり、髭を剃ったり、外に出る準備をしているのね。鬱病患者って、思っていたより素直じゃない。感心感心。

 

 ……。

 …………。

 

 ねぇスーさん。あのおじさん、思ったよりおしゃれさんなのかもね。え? だって、外出の準備にこんなに時間がかかるなんて、それしか考えられないじゃない。どんなお洋服を着てくるのかしら、楽しみね。スーさん。

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 来ないじゃない!!



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2

全く、私をこんなに待たせるなんていい度胸じゃない、挙げ句、出てくる気がないなんて! ねぇ聞こえる? スーさん。家の奥の方からすすり泣く声が聞こえてくるわ。薬が貰えないのがそこまでショックなのかしら、情けないったらないわね。ほんと。

 こうなったらアレをやるわ。薬売り先輩が部屋に引きこもってアルファとかブラボーとか激しい攻撃とか救援要請とか敵のスナイパーとか衛生兵とか、わけのわからないことを叫び始めたときにやったあれよ。お家の中に毒ガスを発生させるの。

 それにしても、あのときの薬売り先輩の慌てっぷり、面白かったわね。スーさん。外に出た途端幸せそうに深呼吸して、呼吸が出来るのは特別なことだ、だなんて。ふふふ。今思い出してもおかしいわ。今回もやりたかったけど、えーりん先生がやめてあげて、って言うから、我慢してたのよ。私。

 よおし。

 コンパロ、コンパロー……。

 

 ……。

 出てこないわね。でも、すすり泣きがやんだわ。泣き止んだってことは、あとひと押しよね。スーさん。

 コンパロ、コンパロー……。

 

 …………。

 しぶといわね。薬売り先輩はこれをされると生きたくなる、って言ってたのに。全然出てくる気配がないわ。うーん、もう少しだけ、続けてみましょうか。

 コンパロ、コンパロー……。

 

 …………………。

 死んじゃうわ!

 スーさん、お家の窓を全部開けてきて! 私は玄関から入っておじさんを見つけて引きずり出すから! もう! なんで出てこないのよ!

 

 上り口を上がって、あっ、靴を脱がないと。靴を脱いで、それから、それから。

「おじさん、おじさんどこー?」

 ああ、もう。なんでこんなに部屋が多いのかしら。おじさんの一人暮らしにしては家も広いし、扉が多くてまだるっこしいったらないわ、まったく! この部屋は、わっ、汚い! なにこれ、絵の具? びりびりの画用紙もたくさんばらまかれてるわ、片付けすらもやらなくなっちゃうのかしら、鬱病って。ああ、そんなことよりおじさんを見つけないと!

「おじさん? おじさーん……あっ、いた!」

「おじさん、ねぇおじさん! おじさん……?」

 おじさん伸びちゃってるじゃない! 

 

「うぅ、あのまま殺してくれたらよかったのに……」

「殺すなんてとんでもないわ! 私は薬売りなのよ、人殺しじゃなくて」

 お家近くの公園のベンチに座って、おじさんは顔を青白くさせて塞ぎ込んで私を人殺しに仕立て上げようとしてくる。もう、やんなっちゃう。

「でも、毒ガスを使って殺そうとしたじゃないか」

「違うわ! 私はおじさんに出てきてもらおうとしたの。おじさんがやろうとしてたのは自殺よ、自殺!」

「……自殺。自殺か、ははは……」

 なんか笑ってる。こわいわ、スーさん。私なにかおもしろいこと言ったかしら? そうよね、言ってないわよね。

「おじさん笑ってるけど、なにがそんなに面白いの。わたし、ちっともおもしろくないわ」

 だって、わからないことで笑われると、私が笑われてるみたいでつまんないんだもん。

「いやぁお嬢ちゃん。面白いんだよ。言われて気がついたんだ。動かなきゃ死ぬとわかってても動かないのはたしかに自殺だ。おじさんは絵を描く仕事をしてるんだけどね、仕事の絵、全部ダメにしちゃったんだ。今は貯金で食いつないでるけど、働かなきゃ貯金もいずれ尽きるだろう? でも、働けない、働かないんだ、おじさんは。ロープでも剃刀でも死ねなかったおじさんだけどさ、ただ動かないって自殺なら出来るんだ、って思うと、自分の臆病さが面白くてさあ……はは、はははは」

 なんか長いこと喋ってたけど全然頭に入らなかったわ。声が小さいのよ、声が。

「おじさん、なんで絵をダメにしちゃったの」

「なんでって、そりゃあ……」

「鬱になったから? なんで鬱になったの」

「……なんで、か」

 おじさんはため息を吐いて遠い目をしてる。きっと、昔のことを思い出してるのね。ほら、おもむろに口を開こうとしてる! なんだか長くなりそうね、スーさん。でも、これはちゃんと聞いておかなきゃ。根本の原因を叩き潰せば鬱だってなんだって治っちゃうに違いないわ。

 

「……おじさんはね」

 

 声が小さい!



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3

「おじさんには友達がいてね。そいつは易者をしていてね。易者と聞くと胡散臭い感じがするかもしれないが、そいつはすごくいいヤツだったんだ」

 おじさんの話が始まったわ! 第一声から長くなりそうな気配がむんむんで、気が滅入っちゃう。声小さいし。止めちゃおうかな。うん、そうしてみよ。

「読めたわ! 喧嘩したんでしょう、その友達と! そんなんで鬱だなんだって、舐めてるわよ。むしろ、おじさん鬱を舐めてるわ!」

「ははは……。それでね、そいつは小さい頃から頭も良くて、なんでも出来るやつだったんだよ」

 おじさんは短く笑って話を続ける。不快だわ! このおじさん、完全に私のことを無視してくれて! ねぇ、スーさん。え? スーさんこのおじさんの話聞きたいの? もう。スーさんは意外と好きよね、こういうの。

「その頃おじさんは、所謂弱視でねぇ。寺子屋に通っていたけど、周りの子みたいに駆け回ったりは出来なかった。悔しかったよ、なんで自分だけって。あぁ、思えばその頃から後ろ向きだったんだな、おじさんは」

 スーさん、弱視って知ってる? へぇ、目が悪いってこと? なるほどね。単に目が悪いって言えばいいのに、弱視だなんて病気みたいな言い方して、このおじさんはどうしても自分を病人にしたくて仕方ないみたいね! きゃっ、スーさんってば、なにするのよぅ。わ、わかったわ。ちょっと静かに聞くから、怒らないでったら。

「だからおじさん、教室の端でいっつも塞ぎ込んでたんだ。でもそんなとき、あいつが声をかけてくれた。あいつは成績も良くて、他の子ともよく遊んでたから、おじさん。正直あんまり好きじゃなかったんだけど、でもやっぱり、嬉しかったな」

 遠い目しちゃって。このおじさん、声が小さいわりに案外お話し好きね。静かにしてなきゃ聞き逃しちゃいそうで、逆にそわそわしてくるのよ。

「それから、おじさんとあいつは友達になったんだ。二人でよく遊んだよ。遊んだとはいっても、周りの子達みたいには出来なかったけど、本を読んだり、その感想を言い合ったり、虫を捕まえて観察したりしてさ。あぁ、楽しかったな。その頃かな、おじさんが絵を描き始めたのは。もともと部屋に引きこもってばっかりいたから、絵を描くのは好きだったんだけどね。目が弱かったからさ、あんまり本気になれなかったんだ。自分の目で見たものをそのまま描けたとしても、あんまり上手には見えないんじゃないか、って。でも、あいつが言ってくれたんだ。……あれ? なんて言ってくれたんだっけな。ははは……」

 あんな大切なことすら思い出せないなんて、とかなんとか謳いながら、おじさんは瞳に涙を浮かべている。正直、隣に座ってる私より数倍生きてる大人のおじさんに泣かれると、なんだかいたたまれない気持ちになるわ。こういうときはどうすればいいのよ! 私みたいな子供をこんな、得も言われぬ気持ちにさせるなんて! わ、わかってるわよ、最後まで聞くってば。

「あぁ、ごめんよ。それでね、おじさんは絵を描いた。そしてあいつは占術を勉強し始めたんだ。随分熱心にやっていたから、おじさんはそのときにはもう、ああこいつは将来易者をやるんだろうな、と思っていたよ。まぁ、実際そうなったんだけどね。あいつが本格的に易者を始めるってころに、おじさん一度聞いたことがあるんだ。お前はなんでも出来るのに、なんで易者なんて胡散臭がられるものを選ぶんだ、って。日陰者だったおじさんと友達になってくれるほどのやつだったから、予想はついてたんだけれど。あいつの返答は真っ直ぐだった。明日は喰われて死ぬともわからないこの世界で、みんなを安心させてやりたい、だなんて言ってね。わかっちゃいたけど、あのときは感動させられてしまったな、実際」

 声を震わせたままおじさんは続ける。私はなんだか、関節が固まっちゃって動けない。声を出すのもはばかられるってこんな感じよね。いつか薬売り先輩が静かに渡してくれた紙に書かれていたことが、今ならわかる気がするわ。音を出したら死ぬ、って。

「それからあいつはどんどん実力を付けていった。おじさんもそんなあいつを見てたらなんだかやる気がでてね。頑張っていたら、いろんな仕事が来るようになった。稗田の九代目に直接頼まれて、挿絵を書いたこともあるんだ。そんなとき、あいつに新しい友だちができたんだ。その場にはおじさんも居た。あいつと二人で、酒屋で呑んでいたときさ。そいつはよく呑むやつだった。あんまりにばかばか瓶を空けるものだから、あいつ気になって、声をかけたんだな。おじさんはやめておけって言ったんだけど、好奇心の強いやつだったからね、止められなかった。あいつとそいつが話してるとわかったことだったんだけどね、その、そいつは。よく呑むそいつは妖怪だったんだよ。おじさんはね、やっぱりか、って思ったよ。悪い予感がしてたんだ、その日は草履の鼻緒が切れてね……。そもそも、一時間もしないうちに十も瓶を空けるなんて、人間とは思えないだろう? ははは……」

 スーさん、私わかったわ。いいえ、今度は絶対よ! 止めないで、私もうこの雰囲気がいやなの!

「読めたわ! その易者の人、死んじゃったのね。ずばりその妖怪に殺されて!」

「ははは……。そうとも言えるかもしれないね。……でも、その妖怪はすごくいいヤツだったんだ。おじさん、最初は怖かったんだけれど、何度か呑んでるうちに、気付けばすっかり友達だったよ」

 うう、なんだか意味深にしれっと流されたわ。ごめんね、スーさん。うん、もう口挟んだりしない。諦める。あぁ、おじさんの声がまた震え始めたわ。おじさんが目を潤ませて声を震わせると、私の関節が固まっちゃうの。なんでかな。

「それからだった。あいつが妖怪に興味を持ち始めたのは。その妖怪は蟒蛇って名前でね。蟒蛇はどうやら外の世界から来た妖怪らしいんだ。外の世界って知ってるかな? 知らないだろうね、ああごめん、どうか忘れてくれ。ともかくとして、あいつは妖怪に興味をもった。なりたい、とまで言っていた。もちろん冗談めかして言っていたんだけれども、おじさんはどうも、こいつは本気なんじゃないかと思ってしまった。でも、おじさんの想像は杞憂でね、それからずっと平和な日々が続いたよ。日中仕事をして、夜になれば三人で呑んだ。楽しかったよ、青春だった」

 スーさんはすっかりおじさんの話に聞き入ってる。前から思うことはあったけど、スーさんってちょっとおじさん臭いところがあるのよね。普段はあんまり気にならないんだけど、いざ直視してみると、なんか寂しい。

「そんな折、蟒蛇が死んだ。理由はわからないけど、あいつは巫女の仕業だと言って聞かなかったな。まぁ、巫女からすれば妖怪退治が本分で、糾弾される筋合いなんてないんだけれど、どうも、おじさん達は憎くてたまらなかった。だって、友達を殺されたんだ。あんなに、いいヤツだったのに。まあ、最悪なのはそのあとだ。あいつ、おじさんを残して死んだんだよ。自殺だった。……ああ! こんな話を君みたいな小さい子に話して、僕はどういうつもりなんだ! ごめんよ、つまらない話をして。忘れてほしい、全部忘れてくれ! それから、聞いてもらうだけ聞いてもらっておいてなんだけれど、まぁ、悪いついでだ。どうかおじさんのことはもう放っておいてくれないか? 抗鬱剤も、もういらない。先生にもそう言っておいてほしい。だから、おじさんのことはもう、放っておいてくれ!」

「あっ、おじさん!」

 話終わるが早いか走って逃げていくなんて! なにか凄まじい敗北感を感じるわ! こんな気持ちのまま、放っておけるわけないじゃない! 一方的に泣かれる恐怖を味わわせておいて、ただで済むと思ったら大間違いなんだから!

「待ちなさい! 悪いとかなんとか言ってるけど、私許すつもりないんだから! 話すだけ話して逃げるなんて一方的よ、暴力よ!」

 

 ……。

 

「待ちなさい! 待って、待ちなさいったら!」

 

 …………。

 

「待って! こら、待てって言ってるじゃない! 待ちなさいよー!」

 

 ………………。

 めちゃくちゃ足速いじゃない!



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4

「いやぁ、ははは。あぁ、疲れた。久しぶりだよ、こんなに体を動かしたのは。……でも、お嬢ちゃんがはじめに言った通りだね。健康のためには運動だ、ってさ。おじさん、はじめはお嬢ちゃんがあんまり怖い顔で追いかけてくるから、逃げるのに必死だったんだけどもね。途中からなんだか気分が良くなってきたんだ。重たいものがどんどん落ちていく感じでさ」

 

 ねぇスーさん。夕陽ってどうしてこうも綺麗なのかしら。こんな鬱病のおじさんと隣り合って眺めてるのに、焼ける川面の綺麗さときたら。こんな、鬱病のおじさんと一緒なのに綺麗なんだもん。きっと夕陽には、ほんとうになにかがあるのかも。

 

「ふふん。だから言ったじゃない。運動よ、運動。健康のためには運動がいちばんなのよ!」

 

「ああ、ほんとうだね。お嬢ちゃんのおかげで、今ならなんでもできそうだよ! ありがとうね、お嬢ちゃん」

 

「どうってことないわ! 私は薬売りだもん。病気を治すなんて、わけないのよ!」

 

 ふふ、おじさんったらもうすっかり元気ね。えーりん先生は私が薬売りをやるのはまだ早い、なんて心配してたけど、全然。もう立派に薬売りね。だっておじさん、こんなに元気そうだもの。もう完全に治っちゃったわね、鬱なんて!

 

「うん、ほんとうだね。ほんとうにお嬢ちゃんのおかげだよ、もうすっかり元気さ。そうだ! お礼にお嬢ちゃんに絵を描いてあげよう。お嬢ちゃんの絵だよ。もうしばらく描けていなかったけれど、今なら良く描けそうだ」

 

「ほんと! 私の絵って、私を描いてくれるの! えへへ、別に、そこまでしてくれなくてもいいんだけど。まぁ、おじさんがどうしても描きたいっていうなら、仕方ないわね。えへへ」

 

 な、なによスーさん。そりゃ、嬉しいに決まってるじゃない。だって私の絵よ? 自分を描いてもらうのなんて初めてなんだもん。えーりん先生には、お客さんからあんまり物とか貰っちゃダメ、って言われてるけど、これは仕方ないわよ。おじさんが描きたいって言うんだもの。

 

「ああ! そうと決まれば早速帰って描かなきゃね! や、ほんとうにありがとうお嬢ちゃん。全部君のおかげだよ、それじゃあ!」

 

 あーおじさんったら、笑いながら走って行っちゃったわ。ふふ、なんだか子供みたい。

 じゃあ、私達も帰りましょうか。ちょっと遅くなっちゃったけど、ひとりの人間の病気を治したんだもん。えーりん先生だって、褒めてくれるに違いないわ。

 ああほんと、夕陽って、どうしてこんなに綺麗なのかしらね。

 

 

 

 永遠亭に着いて、うさぎさん達に挨拶しながら廊下を抜けると、すぐに医務室の扉が見えてくる。

 ああどうしよう。きっと先生に褒められちゃうのよ。それはもう、たくさん! なんだかワクワクしちゃう。

 

「先生ただいま! ねぇ聞いてよ先生! 私、今日がはじめてのお仕事だったのに、おじさんの病気治しちゃったの!」

「うん、本当! おじさんったら別れ際、もうすっごく元気でね。うん、うん。私の絵を描いてくれるんだって、うん。約束したんだから! おじさん、ずっと絵を描けなかったって言ってたのに、私と話したあと、今なら良く描けそうだ、って、なんでもできそうだ、って言ってたわ! ね? 言ったでしょ、先生。私だって、もう立派にお仕事できるんだから!」

 

 ……。

 …………。

 

 私がそう言うと、先生は血相変えて出て行っちゃった。きっとおじさんのところに向かったんだろうけど、どうしてかな。私、なにか間違えちゃったのかな。でも、もしそうなら、なにか言ってから行ってほしかったな。あんなふうに血相変えて、急を要するー、みたいな感じで出ていかれたら、私だってすこし、不安になっちゃうもん。

 

 追いかけようと思って急いで廊下を走ったら、玄関で靴紐を結んでる先生がいた。ねえスーさん、なんて声かければいいのかな。

 

「先生、あの……」

 

 私が言い淀んでいると、振り返って私を見やる先生も言葉を詰まらせた。言葉が詰まるってことは、言いたいことがたくさんあるってことよね。

 

「……優曇華の様子を見ていてちょうだい」

 

 でも、先生はそれだけ行って、急いで出て行っちゃった。

 それしか言わなかったのは、急いでいたからなのかな。それとも、私が子供だから? さっきまであんなに、褒められるんじゃないかって、楽しみだったのに。なんだかちょっと落ち込んじゃう。

 うん。薬売り先輩のとこ、行かなきゃね。

 

 

 薬売り先輩の部屋に入ると、先輩はむしろ慰めてくれたの。自分のほうがよっぽど大変なのに、私を気遣ってくれるなんて。先輩のそういう優しいところ、好きだな、私。

 おじさんのことを話したら、先輩はちょっと悲しそうに微笑んで、病気について少しだけ教えてくれた。

 急に元気になったときが、一番危ないんだって。

 頭の中で、おじさんが楽しそうに私の絵を描いてるところを想像しようとしてみたけど、不思議と、浮かぶのは出会ったときとおんなじ、暗いおじさんの姿だった。

 なんでかしらね、不思議よね。スーさん。

 

 だって、さっきまで、あんなに元気だったじゃない!.



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5

「まぁ、気にすることないわ。師匠も別に、あなたのことを怒ってるわけじゃないよ」

 

 薬売り先輩の部屋はなんだか薬っぽい臭いがして、羽毛の布団が床とかベッドとかでぐちゃぐちゃになってる。布団も、汚れてはいないんだけど、なんだかやけにつるつるしてるというか、さらさらしてるというか。

 薬売り先輩は鬱ではない、別の病気だって聞いた。だから普段の、お調子者で、元気な先輩はときどき何処かへ隠れちゃうことがあって。その、隠れる先がこの部屋なんだけど。先輩がこの部屋に入るとみんな先輩に対して露骨に優しくなるから、隠れるっていうのはちょっと違うのかも。

 隣り合ってベッドに腰を掛けてる先輩は、かるく膝を抱えて、なにか上の方を向いている。上の方を向いているのに、どこかうつむいているように見えるのは、先輩の病気のせいなのかな。

 いつもならこういうこと、聞いちゃいけないような気がして、あんまり聞けないんだけど。でも、今日はいいかな。落ち込んでるし、布団はさらさらしてて、ベッドはふわふわしてるから。

 

「ねえせんぱい。病気ってさ、病気って。……どうして、病気にかかっちゃうの?」

 

「どうして、って。うーん、どうしてかぁ。いろいろ、あるんだけどね。でもきっと、あなたには、メディスンにはまだわからないと思うなぁ」

 

「まだって? どうしてまだなの! 私が子供だからって!」

 

 私、すこし大きな声出しちゃったのに、薬売り先輩はあんまり気に留めない様子で小さい鉄のプレート何枚かを握り込んで、かちゃかちゃやってる。次の言葉を考えてくれてるんだろうけど、なんだかそっぽ向かれてるみたいで、ちょっと嫌。

 

「うーん、そうだなあ。じゃあ、春。春ってあるでしょう? メディスンは、春ってなんだと思う?」

 

 う。でた、意味深な質問。どうして大人ってこういう話し方するのかなあ!

 

「春って、春でしょ? 桜の季節。春は春よ」

 

「そうね。でも、実は泉かもしれないし、バネかもしれないわよ。じゃあ次ね。次は秋、秋はなんだと思う?」

 

 ま、まだ続く! もう、どうしてみんな、こんな回りくどい言い方するの! 言いたいことがあったらそのまま言ってくれればいいのに! わ、わかってるわよスーさん。ここで怒っちゃったら、余計子供っぽいわよね。でも、秋ってなに? 秋は秋じゃないの?

 

「あ、秋は、えっと、その。……落ち葉?」

 

「惜しいね。まぁ、惜しいも何もないんだけど。秋はね、落下かもしれないのよ」

 

 い、いみわかんない。先輩の病気って、こういう意味わかんないこと言っちゃうようになる病気なのかな。それとも、やっぱり子供だからって、からかわれてるの? なんにせよ、ちょっとかなしい。

 

「何が何だかわかんない、って顔をしてるね。つまりそういうことなのよ。治療は塩漬けかもしれないし、川岸は銀行かもしれない。今はまだわからないかもしれないけど、いずれ世界は大きな地雷になって、決まりごとも支配に変わるわ。自由だって無しになって、解決策は異物の混ざった水になる。興味はツケになって膨らんでいくし、涙は裂けるわ衣類は擦り切れるわでもう大変なの。だって嫌でしょ? 革命が実は公転で、一周りして戻ることを指す、なんて言われたら」

 

 こ、こわい!

 

「な、なんなの! 私のわかんないことばっかり言って、からかってるんでしょ! いくらなんでもひどいわ、私、先輩がそんなひとだって思わなかった!」

 

「ごめんね」

 

「え、え? なに、なんなのよぅ……」

 

 こんな、急に抱きしめるなんて、スーさん、私こわいわ。ちょっとだけ、ギュってしていい? う、うんごめんね。苦しかったら言ってね。

 

「つまりね。大人になっていくにつれて、そういう受け入れ難いことがいっぱい出てくるの。受け入れたくなくてもさ、受け入れなきゃいけないぐらい、時間っていうのは残酷に皺を刻んでいくの。でもだからって、焦って背伸びをしたり、一口に飲み込もうとしたりするとね、病気になっちゃうのよ」

 

 あ、ああ。私の質問に答えてくれてるのね。答えになってるような、よくわからないような。とりあえず真剣に話してくれてるのはわかるんだけど、でも、抱きしめる必要はあるの! こんな、頭を撫でる必要はあるの!

 

「く、薬売り先輩は、な、なんの病気なの……?」

 

「わたし? わたしは病気じゃないよ。ただちょっと、甘えてるだけ」

 

 先輩は私の肩に手を置いて、ふと笑う。照れてるんだか、悲しんでるんだかわかりにくい笑顔。

 ねぇスーさん。私思ったんだけど、先輩って普段結構お調子者よね。このすこし、いや、すっごくキザな振る舞いはもしかすると、病気とかじゃなくて、先輩の素なのかも。

 あっ、無理だわ。納得しようとしたけど、やっぱり無理!

 

「だからさメディスン。そんなに焦らなくたっていいのよ。あなたに対する大人たちの振る舞いが気に入らないなら気に入らないままでいいし、許せないものは許せないままでもいいの」

 

「な、なんのはなしですか」

 

 ああ、思わず敬語になっちゃったじゃない! な、なにが言いたいのかさっぱりだわ!

 

「気にしてるみたいだったから」

 

「え」

 

「子供、って」

 

「あ、あー……」

 

「気にすることないし、焦ることだってな――」

 

 そのとき、部屋にノックの音が響いた。コンコン、って、二回。そしたら先輩はすごい速さで私を背中の方へ隠して、ドアの方へ指で銃をつくって構えたの。

 

「――誰!」

 

「私よ優曇華。ちゃんと貴女に言われたとおりにノックしてるのに、いい加減慣れて欲しいわね」

 

「あっ、師匠。これは、どうもとんだ失礼を……」

 

「今日の分の薬は飲んだ?」

 

「いえ、まだ。……でも、もう薬はいいかなって。だいぶ楽になりましたし、明日からでも働けます」

 

「こら。焦ることないって、いつも言ってるじゃない。少しずつでいいの。少しずつ、減らしていけばいいのよ」

 

「だ、だけど」

 

「だけどじゃないわ。仕事なら大丈夫よ。頼りになる薬売りさんもいることだしね。ほらメディスン、ちょっと来なさい。話があるの」

 

「は、はい」

 

「じゃあ優曇華、ちゃんと薬飲みなさいね。しばらくは私が薬の量を決めるけど、そのうち減らしても大丈夫か聞くから、それまではちゃんと飲むこと。わかった?」

 

「は、はい……」

 

「焦らなくていいの。少しずつ、少しずつね。さ、メディスン。行きましょうか」

 

「は、はい!」

 

 やっと先輩の部屋から解放されたわ。こ、こわかったわね。なんか、いろいろと。

 でも、薬売り先輩の台詞。あれってもしかして、先輩がいつも先生に言われてることなのかも。先輩ってば今まさに、似たようなことを言われてたわ。

 ふふ。そう思うとなんだか可笑しい。やっぱり、先輩はお調子者の先輩ね。

 あれ、でも。先生の言ってた「頼りになる薬売りさん」って、誰のことかしらね、スーさん。え、私! 嘘よ、だって、私今日おじさんのことで……あ! わかっちゃった、私。

 頼りになる、って、あれね。そうに違いないわ。

 それってきっと、大人が使う皮肉ってやつだわ!

 ああどうしようスーさん。やっぱりおじさんになにかあったんだわ。そして、私はこれから叱られるのね。おじさんの容態次第では、それだけじゃ済まないかも……。

 おじさん、大丈夫なのかな。死んじゃったり、してないわよね。ああ、先生のお話、聞きたくないよぅ。

 

 あーもう! 先輩の部屋を出たっていうのに、結局こわいまんまじゃない!

 



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「まずね、メディスン。私、あなたに謝らなきゃね。事情も伝えずに出ていっちゃって、不安だったでしょう。冷たくしてごめんなさいね」

 

 うぅ、怒られると思ってたのに、謝られるなんて。なんか、ほっとするような、調子狂っちゃうような、変な感じ。それよりおじさんよ! おじさんがどうだったか、聞かなくちゃ!

 

「ううん。私薬売り先輩から聞いたわ。元気になったときがいちばん危ないんだ、って。私の方こそごめんなさい、先生。それより、おじさんは! おじさんは大丈夫だったの!」

 

「そうね、結論から言うと……」

 

 ああ! ドキドキする! おじさん、大丈夫よね。死んじゃったり、してないわよね。スーさん、私こわいわ。薬売り先輩に抱きしめられたときよりずっと、ううん。いままで生きてきて、今がいちばんこわい!

 

「……生きてたわ。あなたの言った通り、絵を描いてた」

 

「ほんと!」

 

 よかった!

 

「ほんとよ。……首に縄はかかってたけどね」

 

 う、うわぁ! 私が悪いわ、私が悪いのよ。運動だなんて、おじさんに無理させたから!

 

「う、うぅ……。ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい。私、馬鹿だった。あぁ、でも、生きててよかった。いやでも、私のせいで」

 

「やめなさいメディスン。起きてしまったことは仕方ないわ。……それにね。私が焦って出ていったのは、おじさんよりも、あなたのことが心配だったからなのよ」

 

「……わたしのこと?」

 

 あぁ、スーさん。私、もうわけわかんない。安心したのと、後悔と、先生が妙に優しいので、もうぐちゃちゃになっちゃいそう! ……そうね、そうよね。まずは落ち着いて、先生の話を聞きましょう。でも、いいのかな。私はおじさんのこと、殺しちゃうところだったのに、こんなふうに優しくされて。あぁもう! 私、わかんないよ、スーさん!

 

「メディスン。大丈夫よ、大丈夫。おじさんは生きてたの、だから、私の前でそんな百面相みたいに表情を変えないの。もう。私はね、あなたがそんなふうになっちゃうのが心配だったのよ。あなたがおじさんや、……優曇華みたいに、落ち込んじゃうのが心配だったの」

 

「でも、でもわたし……」

 

「ねぇメディスン」

 

 先生が、いっとう優しい声で私に語りかける。先生の言葉の先を聞いちゃったら、私はきっと、絆されて、おじさんに対して悪いなって思ってる気持ちが消えちゃう気がする。でも、だからって先生の言葉が聞きたくないわけじゃない。でも、でも、ほんとにそれで、いいのかな。

 

「メディスン。私がいないあいだに、優曇華と話してどうだったかしら?」

 

「どうだったって、言われても」

 

「早く治さなきゃ、って思った?」

 

「……ううん。急に抱きしめられたのは驚いたけど、今にして思えば、けっこういつもどおりの先輩だった気がする」

 

「そうでしょう? 意外と普通なのよ、病気の人だって」

 

 そう、なのかな。

 

「じゃあ、おじさんも元からあんなふうなの」

 

「どうかしらね。病気のせいで少し過剰になってる部分があるかもしれないけど、でも、人ってそう簡単に変わらないわ。あのおじさんもきっと、元からあれこれ心配しちゃう性質だったんじゃないかしら。もちろん、きっと、だけどね」

 

「……先輩は、なんの病気なの」

 

「秘密。患者の事情はあんまり他の人に話しちゃいけないの」

 

 うぅ、そっか。聞かなきゃよかったかも。なんか、恥ずかしい。え。なに? スーさん。うん、うん……。わかった。

 

「じゃあアレだけ教えて。先輩のもってた鉄のプレート、あれがなにか、スーさんが知りたがってるの」

 

「私も詳しくは聞いてないけれど、あれはね。昔の仲間から預かってるのあの子、隊長さんだったみたい」

 

 ……よくわかんない。スーさんはわかる? うん、そうだよね。わかんないよね。でも、わたしも気になることができちゃった。聞いていいと思う? そっか。スーさんがそういうなら、聞いてみる。

 

「……返さなくていいの?」

 

「私もむかし、聞いてみたんだけど。そうね……。いいわ、特別に教えてあげる。あの子ね、もう少し……もう少しだけ、甘えていたいそうよ」

 

 先輩、自分でもそんなこと、言ってたけど……でも! じゃあそれはいつまで続くの? 先輩にしたって、……おじさんにしたって、いつか、どこかで元気になろう、甘えたりなんてもうしない! って決めなくちゃ、いつになれば、病気が治るのよ! スーさんは黙ってて、どうせ、スーさんだってわかんないくせに!

 

「ねえ、先生! じゃあそれって、いつまで続くの? 先輩やおじさんは、いつまで甘えてたらいいの? 甘えてるっていったって、あんなにつらそうじゃない! だったらきっぱり、その、なんというか、あきらめる、というか。そう、大人に! 大人になるとか、しないといけないんじゃないの!」

 

 なんだか言ってる最中に泣けてきちゃって、先生はわたしを抱きしめた。恥ずかしいけど、やっぱりうれしくて、どうしようもなくって、いやになっちゃいそうだった。

 

「少しずつ、少しづつでいいの。メディスン、焦ることなんてないのよ。ほら、スーさんもそんなに握りしめられたら、かわいそうよ。あらら、ほつれちゃってる」

 

「あっ……」

 

 そう言って、先生はわたしの手からスーさんを取り上げようとした。だから、つい子供みたいに、待って、って、言わずもがなの声なんかを出しちゃって、それで……。ああ、違う! スーさんが、スーさんが怪我をしちゃった! わたしの、わたしが、乱暴に握りしめたりなんて、しちゃったから……。

 

「……ごめんなさい、メディスン。でも、違うのよ。私、あなたからスーさんを取り上げたりなんかしない。ただちょっと、治してあげようとしただけなの。……どうかしら、明日まで預けてくれれば、スーさん、きっと、きちんと元通りになってくれると思うわ」

 

 先生はわたしの髪を撫でながら、優しく喋ってくれる。でも、それはわたしが泣いちゃったからで、きっと、気を使ってくれていて……。

 

「あの、その……」

 

「いいのよ、ゆっくりで」

 

 先生はどこまでも、気をつかって、優しくしてくれる。……ねえ、スーさん。わたし、どうしたらいいかな。ごめんね、わたしのせいで答えられないのに、こんなこと聞いたりして。でも、だけどね、わたしわかんなくなっちゃった。違うの、スーさんのことは、必ず先生に治してもらうわ。必ずよ。だけど、その。……わたし、これからもスーさんと一緒にいて、いいのかなって。わたしがスーさんをそんなふうにしちゃうのは、その……ごめんね、そんなふうにしちゃうのは、やっぱり、その、いつものことなんだけど。違うわ、本当に悪いと思ってるの。本当に、本当にごめんなさい。……でも、今日、おじさんや、先輩にいろいろなことがあって、わかんないけど、わたしはスーさんといちゃダメな気がして……。ああ、いやよ。そんなのいや。だって、無理だもん。スーさんと一緒にいられないなんて、いまちょっと考えただけで寂しくて、かなしくなって、余計に泣けてきちゃったもん。スーさん、スーさんわたし、どうしたらいいのかな? もう、なんにもわかんなくなっちゃうよ……。

 

「……いいわ。メディスン。スーさんは明日まで私が預かる。メディスンは朝、必ずスーさんを迎えに来てちょうだい。これはただのお願いじゃなくて、ちょっとだけ仕事。お仕事としてお願いしたいの。……いい? お願いできないかしら」

 

「……でも、薬売りのお仕事は?」

 

「あれは、そうね。ちょっとだけ、お仕事の量を減らすわ。私がお願いした仕事なのに、減らすだなんて言って、ごめんなさいね。ただその代わり、あのおじさん。あのおじさんのことは、ぜんぶメディスンに任せちゃうから。もちろんメディスンのわからない、お薬のこととか、不安なことは、私がちゃんと用意するから。……ね? それでどう?」

 

「……うん、そうする……」

 

 それから、先生はわたしの手からスーさんを優しくほどいて、代わりのお人形をくれた。明日まではこのお人形さんといればいいから、なんて言われたけど、初めて会うお人形さんとどうお話すればいいかなんて、わたしは知らない。だから、ごめんね。スーさん。わたし、もう絶対乱暴にしたりなんてしないから。そんなこと言うくせに、いっつも傷つけちゃうから、そんな資格、ないかもしれないけど……だけど、だけどもうちょっとだけ……。そう、もうちょっとだけ、一緒にいてね。ごめんね、スーさん。……いつもありがとう。

 

 ……。

 …………。

 

 それから、初めて会うお人形さんとすこしお話をしていたら眠っちゃって、すぐに朝がきちゃってた。先生に言われたとおりにスーさんをお迎えに行って、それから、おじさんの家に薬を届けに行った。なんだか、きれいな朝だった。きらきらしてて、空気が澄んでて、でも、ちょっとだけ曇ってて……。でも、不思議なくらいきれいな朝だったの。

 

 家に着いたらおじさんはいつもの調子で、すごく落ち込んだ様子でわたしに謝ってくれた。心配かけただろう? なんて言われたけど、わたしは思わず、なんのこと? って、知らないふりをして、おじさんに嘘ついちゃった。でも、そしたらおじさんはまた申し訳無さそうに笑って……えっと、もっとぴったりな言葉なら、そう。おじさんは、はにかんだの。はにかんで、描きかけのわたしの絵をみせてくれた。おじさんは描きかけだなんて言うけど、ひまわり畑のなかにいたのは間違いなくわたしで、わたしは楽しそうに、だけどちょっとだけ……なんて、言うんだろう。わかんないけど、笑ってた。とにかくその絵があんまりによく描けてるものだから、わたしはご褒美におじさんに薬をあげたわ。おじさん、あんまり嬉しそうじゃなかったけど、でもちょっとだけ、安心したみたいだった。

 完成したわたしの絵は、いまではわたしの部屋にきちんとした額縁で飾られてる。だって、あんまりに嬉しかったから、持ち帰ったときに、先生にお願いしちゃったの。自分の絵を飾るなんて、自意識過剰? っぽいかな、なんて悩んだけど、でもお願いしちゃった。だって、ほんとに、あんまりに嬉しかったんだもん!

 でも、おじさんはまだ治ったわけじゃないみたいで、だから、わたしもまだおじさんのところに通ってあげてる。先輩の持ってたプレートのことを思い出して、おじさんの死んじゃったお友達にお墓はあるの? って聞いたら、ふたりともないんだって。だから、わたしはおじさんにふたりのお墓を作ってあげることを勧めたの。おじさんはでもとかだけどとか、またしょうもない言い訳を始めるからイライラしちゃった。おじさんはお金と、遺留品? がないことを不安がってたみたいなんだけど、わたし、言ってやったわ。そんなのどっちも絵で解決したらいいじゃない、って! そしたら今度は、おじさんてば、本当に嬉しそうに笑ってくれたの。

 

「うん、おじさんそうするよ。頑張って絵を描いて、そしたら……そう。いずれ、あいつらのことだって、描いてやろうと思うんだ」

 

 なんて言って。ふふ、あのときのおじさんの笑顔ったらないわ。普段笑わない人の笑顔って、あんなに可笑しいものなのね。え? ……ああ、うん。それでね。先生にそのことを話したら、褒められちゃったんだから。褒めてくれる前に一瞬だけ、考え込むような顔をしてたけど、あれってやっぱり、気を使って褒めてくれたのかなあ。どう思う? スーさん。ふふ、そうね。まったく、大人って大変ね。

 それにしても、本当に久しぶりね。スーさん。ほんとは、迎えに行ったあの日に会いたかったんだけど、でもなんだか、やっぱりダメな気がしちゃって。ううん、今はもういいの。わたしね、気付いたの。なんとなく、スーさんと一緒にいちゃいけない気がしてたんだけど、そもそもスーさんはわたしのお人形だもの。わたしのお人形とわたしが一緒にいちゃいけない理由なんてどこにもないわ。そうでしょ? うん、スーさんもそう思うわよね、やっぱり。なんだか悩んでたのが馬鹿みたい。だって、わたしがわたしのお人形といて、悪いことなんてひとつもないもの! だから、たまにはどうしても乱暴にしちゃうかもしれないけど、わたしのお人形さんだもん。いいわよね? スーさん? ……なんて、いいわけないわよ。……絶対とはいえないけど、できるだけ、乱暴にしたりなんかしないようにするから。だから、だからもうちょっとだけなんて言わずに、ずっと一緒にいてね? ……うん、ありがと。

 え、どうしたのスーさん? ああ、先輩のことかしら? 先輩もね、よくなってるわ。先生には内緒だけど、わたし、よく先輩のお部屋に行ってるの。先輩ね、今度ひさしぶりに、お友達と遊んでくるって。照れくさそうに言ってたわ。今まで随分ドタキャン? しちゃったから、さすがにそろそろ行かないと。なんて、はにかみながら。

 

 さて、そろそろ行きましょうか。なにって、決まってるでしょ。おじさんのところよ。わたしとスーさんは薬売りなんだから、処方しに行かなきゃ。おじさんのところへ、抗鬱薬をね。さ、行きましょスーさん! 鬱病患者がわたしたちを待ってるの! 今はおじさんだけだけど、おじさんが寛解した暁には、先生、もっと患者を任せてくれるって! そうよ、わたしたち、里の鬱病患者を一掃するくらいの薬売りになるのよ! いいえ、ならなくちゃ! ……え? あ、ああ、そうね、鬱病患者じゃなくて、鬱病だけを一掃しないとね。わ、わかってるわよ! スーさんに言われなくたって!

 

 ほ、ほら行くわよ! メディスン・メランコリーとスーさんのとにかく明るいメディケーションは、まだ始まったばかりなんだから!



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