【完結】いくら望まれたとしても、私はまどかに恋をしない (曇天紫苑)
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01 出会い

 

「暁海ほむらです」

 

 慣れた調子で転校生として迎えられた私達は、先生の隣で並んでいた。

 こうして転校初日にクラスメイトへ名乗るのは、昔はかなり緊張したけれど、今は何とも思わない。ただ、いつもと違うのが隣にもう一人いる事だ。

 

「暁海焔です」

 

 すぐ横で名乗った男の声が、強い違和感となっていた。

 

 先生が私達を双子として紹介している。

 厳密には私の方が姉で、彼が弟になるそうだ。『ほむら』と『焔』で分けられていても、どちらを呼ばれているのかが分かりにくく、不便だった。

 

 ともかく、教室に座るクラスメイトの大半の視線がこちらに集中している。明らかに私達を見比べている人も多かった。名前も顔もよく知っているけれど、性格までよく知っている人はさほどいない。

 上条恭介もなぜか怪我一つ無く教室に居る。それは少し不思議だけど、もう一人よりは見慣れた光景だ。

 

 この場にはいる筈がない者が一人。なぜか、佐倉杏子が制服姿で座っている。

 魔力で強化した目でよく見れば、ソウルジェムを身に着けているのが分かった。

 ちらと横目で伺うと、焔が頷いた。何を考えているのかは簡単に分かる。「なぜ彼女がここに」だ。

 これも、『暁美ほむら』が二人居るのと同じ様なこの時間軸の変化した部分なのだろうか。私の知っている佐倉杏子なら問題ないが、辿ってきた人生が違えば色々な部分に違いがあるだろう。協力関係を構築できるかは未知数だ。

 

 でも、今見るべき人は彼女じゃない。

 

 

 私達の姿を捉える視線。その中の一人に、まどかが居る。

 どこか明るい面持ちで私達を迎え入れる彼女も、視線は私と隣の男を行ったり来たりしている。

 

 まどかは教室の中で普通に座って、ごく当たり前のように生きていた。

 彼女が生きてここに居る、これより重要な事はない。

 これほど違いのある世界だから、まどかがクラスメイトではない危惧さえもあったが、幸いな事に変化はなかった。雰囲気も視線も仕草も、私の知ってる彼女そのものだ。

 姿を見るだけで胸の奥がキュゥと絞められるような気持ちになった。今回こそ、絶対に死なせない。絶対に守るんだと強く強く心に焼き付け直す。

 

 見つめ返したからか、まどかは目を逸らした。怖がらせてしまったかもしれない。

 こみ上げてくる罪悪感を振り切って一礼し、案内された席へ腰掛けた。隣には男の私、焔がいて、同時かつ全く同じ動作を取っていた。

 慣れた通りにホームルームが終わり、授業が始まる。

 いつも通りの流れに、心の中だけで安堵の息を吐いた。何もかもが違ったら、どう動けば良いのかが分からなくなってしまうから。

 

 隣に居る男も同じ考えかもしれないが、私達は目を合わせる事も無く、ちらとまどかの姿を確認する。

 彼女もまた私達を気にしていて、また目が合う。今度は逸らされる事はなく、柔和な笑みで手を小さく振ってくれた。

 舞い上がるくらいに嬉しくて、幸せで、気を抜けば私も手を振ってしまいそう。

 まどかが初対面の私達に見せてくれた温かさに、強く深く感謝した。

 

 ひとまず、転校の挨拶は無事に過ぎた。

 この時間軸には不安を覚えていたものの、教科書を取り出すまどかの生ある振る舞いに、ほんの少しだけ胸をなで下ろした。

 

 そう、病室で最初に彼の姿を見た時から、この世界は奇妙だった。

 

 

 

 

 

 

 見慣れた病室の天井を見上げ、私は意識を取り戻す。

 まどかを救う。それだけの為の時間旅行。これが幾度目だったかはもう覚えていない。数えていたらきっと心が折れてしまうから。

 そんな事よりも今回こそはまどかを守らなきゃいけない。ワルプルギスの夜はやはり強大な存在だけれど、負ける訳にはいかないのだ。当然、インキュベーターとの接触も妨害しなければならない。

 

 最初から決意は確固としてある。

 それを改めて磨き、いつもの様に身を起こす。

 

 隣にベッドがあり、見知った顔の持ち主が私と同じように上半身を起こして、こちらを凝視していた。

 

「えっ」

「え?」

 

 声が揃って困惑を表す。

 この部屋は個室だったはずだ。

 

「……え?」

「……え?」

 

 何とか落ち着いて確かめると、そこに居るのは私だった。これは鏡じゃない。

 

 顔は、私によく似ていた。かけている眼鏡もまったく同じデザインだ。年齢も私と同じくらいだろう。

 けれど、ほんの少しだけ雰囲気が違う。よく見ると肩から顔にかけての形も微かな誤差が感じられ、見える限りの上半身が私より心なしか大きい。

 何より髪型が違うのは明らかだった。私とは違って、美樹さやかよりも短いのだ。

 

「あなたは?」

「君は?」

 

 ほとんど同時に互いへ問いかけ、どちらともなく口を閉ざす。

 声に聞き覚えはないが、高めの落ち着いた男の子のそれだ。

 

 そう、見たところ、隣のベッドに居るのは男性。

 突然現れた同室の異性、それも私と姿がほとんど同じ。一体、どういう事だろうか。

 ひょっとすると、この時間軸の私には兄弟がいたのかもしれない。でも、それなら私の存在に疑問を持つ筈がない。

 

 私達は一切視線を逸らさなかった。

 先に沈黙を破ったのは、彼の方だ。

 

「あの、すいません」

「いいえ。ところでその……あなたは、私の同室の方?」

「……」

 

 黙りこくった彼の反応に、あまり良い質問ではなかったと悔いた。

 彼が以前から同室だった入院患者なら、こんな事を聞くのは記憶の欠落を疑われかねない。

「実は、分からない」

 

 だからこそ、その返答は意外だった。

 

「えっ」

「分からないんだ。君もそうか? ここは僕の個室だった筈だ」

「……私もよ。この病室が私の部屋だった筈なのに」

 

 私の返事でまた言葉が途切れ、彼の存在をしばらく見極めようと見つめ続けた。

 まったく知らない人物。こんな人は記憶のどこを探ってもいなかった。

 

「あなたの名前を、聞いてもいいかしら」

 

 試しに話を振ると、彼は目を細めた。

 

「僕は暁美ほむら。そっちは……さっきの言葉を聞く限り、妹とか、じゃないんだな?」

「私も暁美ほむらよ。あなたこそ私の兄弟ではないようね」

 

 その答えに彼は何やら考え込んだ。きっと私も同じような顔をしているに違いない。

 名前が同じで、兄でも弟でも姉でも妹でもない。

 何より、お互いの事を知らない。なのに同じ病室で隣り合って過ごしている。信じがたい可能性だけれど、私の中に一つだけ、それらしき答えが浮かんでくる。

 

「……未来から魔法で来た、のか?」

「っ」

 

 先に問いかけてきたのは彼だ。

 目の前の私と同姓同名を名乗る男が、小難しい顔で首を傾けている。

 それを私に問いかけてくるという事が既に答えだ。魔法か何かを受けた可能性も視野に入れたけれど、今のところ、それらしき現象は見て取れなかった。

 

「どうなんだ?」

 

 私が黙っている事に、男はやや冷たい声を浴びせてきた。

 いや、私も傍目から見ればこんな風なのだろう。警戒を一旦保留にし、彼に向かって小さく頷く。

 

「ええ、その通りよ」

「僕も同じだな」

 

 少しの間だけ口を閉じ、彼は言葉を続けた。

 

「……僕は、ワルプルギスの夜を越えて、まどかを魔法少女にさせない為に来た」

 

 私の姿をじっと見つめている。

 なんとなく、私の答えを待っているのだと分かった。

 

「私もそうよ。つまり、私達は同じ願い事を抱いているのね?」

「ああ、そういう事になる」

 

 彼はゆっくりと片手を見せてきた。そこにはソウルジェムがあり、確かな存在感を放っている。

 私もまた同じようにしてソウルジェムを見せると、彼は無言で目を瞑った。

 でも、なぜ男が魔法少女になっているのだろう。素直にそれを問うと、首を横に振った。

 

「分からない。インキュベーターも不思議そうにしていたよ」

「聞いた事もないわね」

「僕もだ」

 

 私達はどちらともなく変身した。

 私の方は見慣れた格好で、フリル付きのスカートと白い上着でその中は黒のシャツ、背中と襟元には紫のリボンだ。足はしっかりストッキングで覆われている。

 

「見ての通りだ」

 

 彼はほとんど無表情で頷いた。

 ただ、服装はまるで違う。

 着ているシャツは私と同じだけど、袖付きのコートを羽織っている。下は黒に四角の意匠を象ったズボンとロングブーツで肌を完全に隠して、日除けのない帽子を軽めに被っているのも印象的だ。全体的により細身に見える。

 色合いはほとんど同じだけど、全体的な格好はほとんど別物である。

 

「……こういう事かしら、あなたは男の暁美ほむらで、私が女の暁美ほむら。どちらもまどかを救いたくて契約して、同じ時間を繰り返している……」

「普通は信じられない事だ」

「ええ、私も信じられないわ」

 

 ほぼ同じタイミングで話しているからか、口にする言葉が返ってくるような錯覚がある。私も、まるで彼の発言をなぞっているかのようで、自分で喋っているような気がしなかった。

 

「だが、納得するしかないんじゃないか。僕も君も、なぜか同じ時間軸に来てしまった性別の違う同一人物。そうとしか言い様がない」

「……念のために一度確かめておきましょう」

 

 男の存在に警戒を残しつつも、部屋から一歩外に出た。

 すぐ隣にいる男も全く同じ動きで私と並び、部屋の前にあるプレートで自分達の名前を確認した。

 かつては一人分、『暁美ほむら』と明記されていたものが、確かに二人に増えていた。それも、名字が違う。片方は名前も。

 

「「暁海?」」

 

 顔を見合わせると、向こうが聞きたい内容は簡単に予想できた。

 

「……私はあかつきにうつくしいで暁美よ」

「僕も同じだ。この時間の僕は名字が違うのか。それに、僕の名前はひらがなのほむらで、漢字の焔ではない筈だが」

 

 ちょっとした違いだが、一文字違うだけで別人になってしまったような気がした。

 しかし、誤差だ。名前が確かに二人分ある以上、この世界では確かに私には兄弟がいる。そちらの方が遙かに強烈な事実だった。

 

 また同時に部屋へ戻り、同時に自分のベッドに腰掛けた。シーツに触れるタイミングまで同じだった。

 ベッドが二つあるのを除けば部屋の様子は変わらず、もう一人居るというのが嘘のようだ。

 

「どうやら、この時間軸は私自身が大きく乖離している様だわ」

「同感だ、僕が知ってる物とも違う」

「何か、この状況になった原因は分からないかしら」

「僕が聞きたいな。そちらには心当たりが一つもない?」

「一つもないわ」

 

 彼の声も、私の声も淡々としていた。

 この世界では恐らく家族だというのに、親しみの一つも感じない。逆に嫌悪感らしきものが沸々と湧き上がってくる。

 

「……」

 

 ただ、じっと、何も言わずに視線だけを交差させる。

 

 異性と見つめ合うなんて経験はまず無かったけれど、特別な感情はまるでない。

 ただ、彼はまどかを助ける為に役立つのだろうか、という打算は確かに働いている。

 仮に彼が私であるならば、信頼はできない。でも、目的だけは間違いなく一致する。

 

「確認させて。あなたは、まどかをどうしたいの?」

「救う。約束したんだ、絶対にまどかを守ってみせるって」

 

 重々しく断言すると、彼は鋭く冷たい瞳で睨み付けてきた。

 

「そちらは? 人に聞いたからには、答えられる筈だ」

「私も同じよ。当然でしょう」

 

 この現象が何なのかはまるで説明がつかない。

 まだ信じられていない自分がいて、目の前に居る男が魔女か何かによる悪戯ではないかと疑っていた。

 

 彼からは魔女の気配は感じない。まどかを想う表情は真に迫っていて、察しが悪い私でも、真剣さだけは確かに伝わった。

 私と同じ願いでここに居る、という意思は確かな物に思えた。

 

「そう」

「そうか」

「「なら」」

 

 ひょっとしたら、協力体制を築けるかもしれない。自分が二人居るだけでも、取れる手はかなり増えるだろう。

 だけど、私も、恐らくは彼もまだお互いの存在を信じる時間が足りなかった。

 

「……ひとまず、学校へ行きましょう」

「ああ、そうだな、うん」

 

 どこか気まずい空気の中で、私達はほとんど打ち解けずに頷き合った。

 なんて愛想の悪い男なんだろうか。話していて良い気は全くしなかった。

 

 それが、初日の彼の印象だ。

 もちろん、愛想が悪くて会話していても楽しくないのは私も同じなので、あまり人の事を非難できない。

 ただ、彼を見ていると他の誰に対しても感じないような嫌悪感が沸き立った。

 



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02 誰よりも素敵な女の子

 幾つかの授業が無事に過ぎた。内容もやる事も変わらないのだから簡単なもので、私も、焔も問題なく切り抜けている。

 焔は男子に囲まれて、私は前の時と同じで女子に囲まれていた。

 聞かれる質問の内容もあまり変わらず、決まっていた通りの言葉を返す。

 昔はこの会話も大変だった。何を言って良いのか少しも分からなくて、まどか達には迷惑ばかりかけていた。今もあまり得意ではないけれど、狼狽えないくらいには慣れている。

 

 さて、クラスメイトからの質問攻めを受けつつも、意識はまどかに傾いていた。

 美樹さやかと佐倉杏子が彼女を囲み、楽しげに笑い合っている。

 邪魔をするのは忍びないけれど、ここでまどかと接触しておきたかった。

 

 クラスメイトの質問を避けて不調を訴え、ゆっくりと立ち上がる。雰囲気の変化を悟っているのか、周囲に居た子達もすぐに離れていく。

 

「「鹿目さん」」

 

 言葉が重なり横目で焔を捉えると、向こうも私を見つめ返す。

 だが、そんな事をしても何の意味もない。改めてまどかを見つめると、彼女は何やら怯んだ様子だった。

 美樹さやかが首を傾げていて、その指には、ソウルジェムがあった。

 

「保健室に連れて行って貰えるかしら」

「鹿目さん、僕にも教えておいて欲しいな」

「え、えっと」

 

 私達が同時に話しかけた為か、まどかは何度か顔を見比べた。

 

「……うん、わかった。案内するね」

 

 けれど、すぐに穏やかな雰囲気で頷いて立ち上がり、私達の隣に来てくれる。

 どこか頼もしげな空気を纏った彼女に、思わず気圧された。ただ微笑んでいるだけだというのに、なぜか救われたような気がする。

 

「さやかちゃん、杏子ちゃん、ちょっと行ってくるね」

「ん、行ってらっしゃい」

 

 何気ない会話を背に、まどかは私達を手招きした。

 それに従い、私達は同じ歩幅と歩数で彼女の背を追う。記憶通りの小さな、だけど大きくて優しい背中が揺れている。

 優しくて魅力的な空気を漂わせて、まどかは私達を先導していた。

 

「暁海くんと、暁海さん?」

 

 まどかの歩みが少し遅くなり、私と焔の間に並んだ。

 両方にちゃんと話しかけようとしているからか、首を左右に動かしている。

 

「ほむらでいいわ」

「焔って呼んでいい」

「……ほむらちゃん、それに焔くん」

 

 噛み締めるように呟くと、何やら嬉しそうにもう一度私達の名前を呼んだ。

 

「あの、すごく良い名前だね。なんだかほむらちゃん達らしいなぁ」

「……そう」

「うん、カッコいいと思うの」

「……」

「え、ええっと……心が温かそうな名前だよね」

 

 まどかはそう言ってくれるけど、今でも名前負けだと思っている。冷血とか、そんな名前の方が私にはお似合いだ。

 なぜか焔から視線を感じる。何やら咎めるような雰囲気で、どうしたのかと目を向けると、彼はまどかに話しかけていた。

 

「僕は、君の方が優しそうな響きで素敵な名前だと思うんだけどな」

「え、そ、そうかな?」

「ああ、自信を持って良いと思う。そうだよな、暁海ほむら」

 

 一体何を言い出しているんだろうか。慌てて焔の顔を伺うと、ひたすら真顔だった。

 確かに、まどかという名前は彼女に相応しい響きで、とても似合っているのも間違いない。

 口に出してまどかを褒めろ、という事なのだろう。

 

「……思いやりのありそうな名前で、貴女に似合っているわ」

「そ、そっか、えへへ、ありがとう」

 

 満更でも無さそうに喜ぶまどかを目にするのは気分が良かった。

 

「ところで、二人は双子なんだよね?」

「ええ」

「ああ、そうだな」

「本当に息が合うんだね。なんだかそういうのいいなぁ」

 

 私達の顔を見比べながら、まどかがにこやかに語ってくれる。

 

「実はわたしにも弟が居るんだけど、まだ全然小さくてね。弟が生まれるのが結構後だったから、一人っ子の時間が長かったんだ。だから、生まれた時から一緒の兄弟がいるのはなんだか凄いなって思うの」

「あまり、良いものではないわよ」

「むしろ嬉しくないくらいだな」

「「名前が同じだから分かりにくいし」」

「「……同時に喋るから話しにくいし」」

「昔から、結構大変だったわ」

「ああ、大変だった」

 

 嘘である。

 ついこの間出会ったばかりの私達に、そこまで長い付き合いはない。

 だというのに、まどかは微笑ましそうにこちらを眺めていた。

 

「二人とも、仲良いんだね」

「……」

 

 何か反論しそうになって、彼女の顔色を見てやめた。焔も口を開けていたが、結局は何も言わなかった。

 

「「鹿目さん」」

「まどかでいいよ? わたしも名前で呼んでるしっ」

 

 輝くほどに眩しい面持ちでそう言われて、心の中で嬉しさと悲しさが同時にやってきた。

 目の前の彼女はとても元気で、いかにも健康な声音で私達を歓迎してくれた。

 

「「まどか」」

「うんっ!」

 

 名前を呼んでみると、まどかの顔色がもっと華やかになる。

 初対面だというのに驚くほど親しげな態度で、彼女は私達との心の距離を詰めてくる。

 

「これからよろしくね!」

 

 手に温かくて柔らかい感触が走った。

 まどかが、ごく自然な調子で、当たり前のように私と焔の手を握っていた。

 成された事に理解が後れて、自分と焔の戸惑う声だけが先に出る。

 

「「あの、まどか?」」

「え? ……あっ!?」

 

 私と握った手を見て、そして焔と握った手を見ると、まどかは飛び上がるような声をあげた。

 知る限りでは、異性の手をためらいなく握る子ではなかったのに。

 

「ごめんなさい! 急に手なんて繋いじゃって」

 

 まどかは真っ赤になって首を振り、すぐさま頭を下げていた。

 

「いや、いいよ」

「ごめんね。特に意識してた訳じゃなくてね、気づいたら……」

「大丈夫よ、本当に嫌ではなかったから」

「そ、そう? なら……」

 

 まどかが自分の手のひらをじっと見つめた。

 

「思ったよりあったか……ううん! なんでもない!」

 

 沸騰しそうな顔色となって、自分の行動にやっと気づいたといった風にまどかは首をブンブン振っている。

 まどかに引っぱられて、私まで顔が熱くなってきた。

 手を握ってくれる時はこれまでにも何度もあったのに、今回は胸の奥から恥ずかしさと、それを大きく超える幸福感がこみ上げた。

 

「あっ、あのね、保健室はこっちだよ!」

「あ、ああ、うん」

 

 まどかが意識しているからか、焔もまたぎこちなく自分の手を眺めていた。

 二人揃って顔を赤くして、それでも距離は近かった。

 まるで、付き合いはじめたばかりの恋人みたいに。

 

 なぜか、微かな悪寒が走る。

 

 慌ててインキュベーターか魔女かと探ったが、特別何も出てこない。まさか風邪にでもなったのだろうか。

 幸い、保健室はすぐ近くだから、少しくらい本当に休憩してもいいかもしれない。

 

 頬の熱さを感じながらも、私はまどかの背を追った。

 



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03 仲良くしたいに決まってる

 放課後のベルが鳴ると、教室の中は「今日もやっと終わった」という空気で包まれた。

 

 緩んだ空気の中で、私は教科書を鞄に戻す。

 特別な変化は何も起きなかった。最後まで知っている授業を繰り返して、問題も同じ物が使われていた。

 体育の授業もいつも通りで、焔もほぼ同等の成績を残している。性別が違っても、身体能力は変わりなかった。魔法を使うより前は、彼もまたひ弱だったのだろう。

 同じ教室で授業を受けた為か、私とあの焔に能力面での大きな違いはないのだと理解できる。

 

「帰りましょうか」

「そうだな」

 

 二人揃って席を立る。

 そんな時、まどかの気配が近づいてくる。

 

「二人とも!」

 

 鞄を両手で握りつつ、まどかは駆け足で私達に追いついた。

 今日出会ったばかりの私達だというのに、向けられる表情は友好的。好感触を抱かれるような事は何もしていないのに、昔からの友達みたいな扱いだ。

 

「あのね、一緒に帰ってもいい?」

「私達と?」

「うん、わたしと三人で……どうかな? 迷惑じゃなければだけど」

 

 迷惑なんてある筈がない。

 焔も同感らしく、念話の中だけで頷いた。

 

「他の友達とは一緒に帰らなくていいのかしら」

「今日は大丈夫だよ。それに、二人の事をもっとよく知りたくて」

「なぜかしら」

「どうして、って……うーん」

 

 きょとんとするまどかに、焔が口を挟んだ。

 

「君はそんなに僕達が気になるのかな?」

「そう、そうなの。どうしてだろうね、二人の事をもっと知りたいんだ。ほむらちゃん達と仲良くなりたいの」

 

 真心の籠もった声で私と焔の間に立って、また左右に視線を振る。

 やけにまどかが私達を構おうとする。距離を詰めに来る。

 本当に、彼女はどうしたのだろうか。

 

「良かったら見滝原の案内もするよ」

「……」

 

 善意と好意が詰まった声が届き、自然と泣きそうになって唇を噛んだ。

 彼女の気持ちを受け取りたい自分がいる。昔みたいな関係になりたいと泣き喚いている自分が、心のどこかで騒いでいた。

 そんな弱さはあっていい筈がないのに。

 

「僕達は学校に来る前に下見を済ませているから結構だ。それに、僕達にはこれから用事もある」

 

 私が言い出すよりも先に、焔が断りを入れた。

 同じ事を言おうとしていたけれど、横から聞くと思った以上に語気が強く、厳しい物言いに感じられた。

 気持ちはよく分かる。甘えないように、弱さに負けないようにと意思を強めると、まどかに語りかける言葉すらも厳しい物になってしまう。

 

「そ、そっか……」

 

 けれど、自分の言葉がここまで嫌な物だとは思わなかった。

 

 まどかは見るからにしゅんとして、声のトーンが落ちている。

 寂しそうに微笑むところを見てしまうと、それだけでたまらなかった。

 

「ごめん、ほむらちゃん達の都合があるもんね。じゃあ、また今度みんなで」

「いいえ」

 

 思わず言葉が漏れてしまった。

 撤回するにはもう遅い。息を整え、私の意思で彼女へ一歩近づいた。

 

「せっかく誘ってくれたのだから、私は甘えさせて貰うわね」

「えっ、でも用事があるんじゃ……」

「あなたの提案を蹴るほどの事ではないから、後回しにしても大丈夫よ」

 

 横から咎める意思が伝わってくる。

 だけど、まどかを落ち込ませる必要はなかった筈だ。

 そう念話で反論すると『君が言えた事じゃないだろ』と返ってくる。

 まったくその通りだった。

 

『この時間軸のまどかは驚くほど友好的よ。関係を維持すればインキュベーターとの接触を回避できる可能性もある。そして、魔女の被害にあってもすぐに助けられる』

『それは君の言い訳だろう』

『ええ、きっとね。だけど、彼女の心を傷つけずに済むのなら……その方が良い筈よ』

 

 顔に出さないように抑え込みながら、焔と私の間に感情が飛び交った。

 あんな顔をさせてまで誘いを断る理由がない。甘える訳にはいかないけれど、それは私の都合でしかない。そして、私の都合に彼女を巻き込むのは愚かだ。

 伸ばしてくれた手を理由もなく拒むのが、ワルプルギスの夜との戦いに、そして彼女を契約させない事に何の利益をもたらすだろう。

 

 

 私が一人しか居ないのであれば、まどかと仲良くなると行動が難しくなるかもしれない。

 でも、この時間軸に暁美ほむらは二人居る。魔女との戦いやワルプルギスの夜の対策は交代でやればいい。

 

「あの、二人ともどうしたの?」

 

 黙って話し合っていた私達に、まどかの不思議そうな声が響く。

 それが決め手となった。

 

「……せっかくだから、僕も行こうと思ってね」

 

 焔が冷たい面持ちで頷いた。私は、もう少しくらい愛想良くした方が良いのかもしれない。

 こんなそっけない反応であっても喜ぶ彼女に申し訳なかった。

 

「一緒に帰っていいかしら」

「うんっ!」

 

 声を弾ませ、まどかは私の手を握る。

 焔とも当たり前のように手を繋いでいるが、幸せそうな笑顔を見てしまうと、何かを言う気は一瞬で消し飛んだ。

 

「ほむらちゃんの家はどの辺りにあるの?」

「そうね、ここからだと……」

 

 繋いでいる手から彼女の気配が伝ってくる。

 どんな時も優しすぎる指先が、今は私の指に絡まり包み込んでくれている。

 気を抜けば涙が流れてしまいそうだった。ぐっと堪えて表情を整えるが、こんな私ですら仲良くしようと頑張ってくれる事実で、余計に涙が漏れかける。

 私への視線が逸れた一瞬の間に目を拭った。気づかれていなければ良いけれど。

 

「焔くんと一緒に住んでるんだよね?」

「そうなる。二人暮らしだから一部屋に二人で寝ると狭いんだ」

「へええー、同じ部屋を使ってるんだ」

「本当なら分けたいんだけど、部屋数が少ないからな。ベッドが二つあって助かった」

「最初の頃は寝苦しかったわ」

 

 私達の話に耳を傾けつつも、まどかは私達を先導する。

 その歩みに身を任せるのは何とも心地よくて、油断すれば力が抜けそうだ。

 

『分かってるよな』

『ええ』

 

 まどかとの約束も、想いも、ちゃんと覚えている。私がなすべき事を忘れる気はない。

 目的を忘れてはいけない。自分の幸福にかまけていれば、代償になるのは私の命ではなく、まどかの命だ。

 だから、後から後から溢れるこの幸せに拘泥するべきではないのだ。

 まどかに甘えきる訳にはいかない。

 

『あなたこそ、分かっているわよね』

『ああ。大事なのはまどかで、僕達じゃない』

 

 頭の中での会話を済ませ、意識を定めた。

 楽しく手を引いてくれる彼女の存在を、どうしようもなく懐かしい気持ちで受け止めながら。

 

 

 見滝原を楽しく歩いて、時間は消え失せるように過ぎていった。

 時の流れを加速させる感覚は私の魔法にはないもので、かつて契約する以前は持っていたものだ。ここ最近の時間経過は、むしろ恐ろしいほど遅かった。

 

「ここがわたしの家なんだ」

 

 胸を張って紹介してくれるその家は、私もよく知っている外観をしている。

 外からでも明るい雰囲気がひしひしと伝わって、彼女がどれほど温かな人に囲まれているかを証明しているかの様だ。

 

「素敵ね」

「あははっ、そう?」

「僕達の家は狭いからな。こういう明るくて良い雰囲気の家は凄くいいと思うよ」

 

 口元に手をあて、まどかは華やかな雰囲気を纏った。

 気を抜いてしまえば作り上げた心の城塞もドロドロに溶けてなくなってしまいかねない。

 

「ほむらちゃん達の家にも行ってみたいな」

「僕は構わないが、何も面白い所なんかないぞ」

「そうね。貴女の家と違って見所はないわ」

「でも、二人が住んでいる家が見てみたいの。それに、ほむらちゃん達の住んでいる家なら、それだけで見所になるよ」

 

 殺風景さをスクリーンで誤魔化しているだけの部屋だ。そんな何もない所でも、かつてまどかは楽しく遊びに来てくれた。

 

「二人とも家にあがっていく?」

「いや、悪いが僕達も帰らないといけないな」

「そっか。じゃあ、また今後遊びに来てね!」

「ああ。そうする」

 

 あらためて私達の前に立ち、彼女は幸せそうな微笑みを浮かべた。

 

「今日は一緒に来てくれてありがとう」

「お礼には及ばないわ。私がそうしたかっただけよ」

「でも、わたしは嬉しかったんだ」

 

 胸に手を当て、まどかは頷く。

 

「なんだか、初めて会った気がしないの。まるで昔から友達だった様な」

「……」

「……」

「って、変だよね、ふふっ」

 

 まどかが語る所に胸を突き刺された。

 痛みはないが、衝撃は残る。彼女が私をどこかで知っている様な素振りを見せるのは以前から幾度かあった。が、そんな事前の知識なんてまるで通り抜け、彼女の言葉は胸の中に鈍く響く。

 

「あのねっ」

 

 そんな私の内心には気づかないまま、まどかは照れた風な表情で私の手を握った。

 瞳がきらきら輝いていた。

 

「ほむらちゃん達と一緒に学校へ行きたいな」

「それは……」

「時間はわたしが合わせるよ。もちろん、二人が大丈夫ならだけど」

 

 素直に表現すれば、とても嬉しい申し出だ。

 一人なら他にもやらねばならない事があるから受けられない。が、二人居れば交代制が可能だ。

 ……それに、出来るだけまどかの居た方がいい気がした。どうしてなのか理屈は追いつかなかったけれど、その方が、まどかを救える気がしたのだ。

 

 ちらと焔の様子を見てみると、彼はこくりと頷いた。 

 

『君がまどかと一緒に登下校すればいい。その間にやるべき事は僕がやる』

『何故? 交代でいいわ』

『……いや、君に任せる。精々まどかと楽しい時間を過ごせばいい』

『あなただって気持ちは同じ筈よ』

『一緒に行動するのなら、僕よりは君の方が自然だろう』

 

 短い念話を終えて、まどかに向き合った。

 

「まどかさえ良ければ、そうさせて貰うわ」

「わ、いいの!?」

「でも、こっちの焔は朝が弱いから一緒に行くのは難しいのよ。私だけでいいかしら」

「そうなんだ? ちょっと意外。じゃあしょうがないね」

 

 理由を勝手に捏造したからか、横から視線を感じるが、無視する。

 

「待ち合わせ場所と時間を決めておこっか。さやかちゃん達と合流する所でも……」

「それには及ばないわ。時間になったら私がここまで迎えに行く」

「ええっ!? そんなの悪いよ。ほむらちゃんの家ってここから少し距離あるんだよね?」

「でも、あなたを待たせるよりは効率がいいから。いつ頃行けばいいの?」

「んー……本当にいいの? じゃあ……」

 

 まどかの登校時間は知っているが、念のため聞き出しておいた。

 知っていた通りの登校時間を改めて耳にし、まどかに「分かった」と頷いてみせる。

 

「直前くらいには迎えに行くわ」

「うん。ありがとう! 明日からよろしくね!」

「ええ、お願いするわ」

 

 さっきから手を握られたままで、彼女の両手から好意が注ぎ込まれているような錯覚すらあった。

 まどかが気づいて手を離すと、どうしようもない寂寥感が襲いかかってきた。もちろん、顔には出さないけれど。

 

「時間を取らせちゃったね。用事があるのに付き合わせちゃってごめんね」

「いいえ、問題ないわ」

「ありがとう、それじゃ、また明日!」

「ええ、また」

 

 まどかは私達に声をかけてから玄関の扉を開け、小さく手を振ってくれた。

 

「またあした、ね、まどか」

 

 釣られて私も手を振って返してしまう。

 まどかは小さく目を見開き、もう一度私達に挨拶をして中へ入っていった。

 

 魔力で強化された五感が、勝手に家の中から漏れる声を拾う。まどかと、まどかのお父様が話をしている。弾んだ調子で、私の知っている通りの家族が感じ取れる。

 家に魔女や使い魔が近づいている気配はどこにもなく、平穏そのものだ。

 家の全体像を眺めてみても、そこに別の時間との差異は見られなかった。

 

 まどかが、まどかのままで居てくれて本当に良かった。

 

 

「……」

 

 どちらともなく、無言でまどかの家を離れた。

 隣の焔はまるで喋らない。私も似たようなものだ。まどかと一緒に居る時とは違い、時間が過ぎるのは非常に遅い。

 なんといっても、私達を繋げているのはまどかの存在に尽きる。

 

 共に歩いているのに一言すら口にせず、無限のような時間の果てに家へ辿り着く。

 今日は焔が先に玄関の鍵を開け、中に入っていく。私もその背後へついていき、よく見知った部屋の中に足を踏み入れた。

 以前と変わらない内装で、やはり二人暮らしは大変だ。両親に文句はないけれど、歳の近い姉弟とはいえ部屋数が一つしかないのは中々に狭苦しい。

 

 鞄を置いて脱衣所へ向かい、私服に着替えて戻ると、焔は既にリビングの椅子へ腰掛けていた。

 彼もまた着替えを終えており、私が来るなり一瞬だけ目をやった。

 机の上に並べているのは今日のやっておくべき宿題だ。先に学校関連を片付けてから行動するつもりらしい。

 私も同じ気分で、鞄から出してきた宿題の紙をテーブルに並べ、ペンを片手に小さな机へ向かった。

 

「……」

「……」

 

 前にも同じ宿題をこなした為か、知った通りの事を記憶の通りに書くだけで終わる。時間にして数分ほど、間違いがないかを確認しても問題はなく、無言のまま立ち上がった。

 冷蔵庫から水を取り出しコップに注いで飲み干すと、焔が隣で全く同じ事をしていた。

 傍目からはまるでお互いが視界に入っていない風な動きに見えるかもしれない。無視している訳ではないのだが、どうしても接触は事務的な物に限られてしまう。

 何かを話そうにも基本的に考えている事は同じで、やまびこの様に言葉を繰り返すだけで終わる。もう少し互いをよく知れば距離は縮められるかもしれないけれど、その気にはなれなかった。

 彼を見ていると、自分の欠点を見せつけられている気分になるのだ。

 

「……」

 

 焔は幾つかの資料に線を引き、この時間軸で起きている出来事を整理し始めている。背後から覗き込むと、気難しそうに眉を寄せていた。

 

 私達はほぼ完全に別々の生活をしている。

 同じ暁美ほむらとはいえ、お互いに覚えのない異性と同じ部屋で過ごすのは抵抗があった。最初の頃はどちらかが玄関で生活する事すら検討したほどだ。

 

「まどかとは」

 

 そんな状況だったから、部屋の中で彼の声を聞くのは非常に稀で、聞こえてきた時には驚いてしまった。

 彼は私の顔を見もしないが、それでも話しかけてきた。

 

「まどかがどうかしたのかしら」

「まどかとは、友好的な関係で行くつもりなのか?」

「……状況を鑑みれば、それが最善の筈よ」

 

 言い訳じみているのは自覚がある。

 だが、そうすべきだという確信があった。

 

「それは美樹さやかと佐倉杏子が魔法少女だからか?」

「ええ」

 

 学校内で顔を見た時には気づいた。あの二人は既に魔法少女だったのだ。

 接触はしなかった。先に彼女達がどういった状況なのかを判断しておきたかった。

 確実なのは、二人がまどかと近しい関係にあるという一点だ。

 

「身近な友達が二人とも契約している以上、まどかが知ってしまえば魔法少女になる道を選んでしまう可能性が高いわ。出来るだけまどかの傍にいて、止められる……出来れば説得が可能な位置に居るべきよ」

 

 先ほどの直感を言葉にするなら、こういった所だろう。後付けの理屈ではあるが、この時間軸でまどかを守る為には必要だ。

 しかし、焔の声は続いた。不機嫌そうな声音だった。

 

「本当に、それだけか」

「何を言いたいの」

「……まどかと仲良くしたいんだろう?」

 

 心の中で何かが燃えた。

 

「そう思っていたのなら、あなたは何故止めなかったの」

 

 傍目から見て、自分の目的よりもまどかと一緒に居る時間を取ったのだと思ったのなら、私なら許さず止めた筈だ。

 珍しく顔を合わせたままでいると、先に彼が頭を下げた。

 

「僕もまどかと一緒に居る方が、あの子の身の安全を守れると思ったよ」

「……」

「ただ、まどかと仲良くしたい気持ちがないとは……言えなくてな。確認したかったまでだ。どういうの気持ちで選んだのかを」

「私はまどかを救いたいだけよ。それ以外は余計だわ」

「分かってる」

「でも」

 

 言葉を切り、顔を逸らす。

 目の前にいるのは私自身。同じ自分だから、隠しようもない感情もある。

 

「……仲良くしたくない筈がないでしょう。私にとって、まどかは大切な友達なんだから」

 

 仲良くしたいに決まってる。

 幾ら誤魔化したって、抑えたって、心の中の願望とはまるで関係ない。

 彼女と一緒に居られると思った時はやはり嬉しかった。それがどんなに許せない弱さでも、本当に幸せだった。彼女が喜んで私の手を握ってくれて、その時間が何より宝物だった。

 

 だから、彼の前では一緒に居たくないなどという嘘は吐けない。

 他の誰にでも嘘つきでいられるし、自分の心にだって嘘は吐ける。でも、彼にだけは気づかれてしまう。私自身が己の弱さを隠す為に作り上げた虚構は、私にだけは通じない。

 

「ああ、そうだろうな」

 

 焔が俯いた。

 

「まどかと一緒に居たいな」

 

 か細い呟きだったけれど、私の耳には届いてしまう。

 同じ自分の事だから、哀れとは思わなかった。まどかを助けたいと願ったのだから苦しくても耐えるのは当たり前だ。

 ただ、この話題はもう続けようとは思わなかった。

 

「ところでインキュベーターを見かけないのだけれど、あなたは」

「……僕も見てないな」

「そう」

 

 続けようとした会話はそれだけで途切れて、後は沈黙のまま各々の作業に戻ってしまう。

 こうやってみると本当に無愛想だった。当然ながら私にも跳ね返ってくるけれど、その上で考えてもやはり可愛げが皆無で魅力がない。

 こんな私達を見捨てず手を差し伸べてくれたまどかに申し訳なかった。

 

 心を強く持つために意思を硬く持っていたが、せめてまどかへの態度はもっと軟化させて良いのかもしれない。

 そう思って鏡を見ながら昔みたいな笑顔を作る練習をしてみたが、どう見てもぎこちない物しかできなかった。



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04 何よりも誰よりも彼女は大切な女の子

本日二話目です


 まどかと再び出会って、幾分が日が過ぎた。

 

 私達は各々が決めた通りに行動していて、私は今日もまどかと学校まで並んで歩き、授業を特に問題なくこなした。

 初日に話しかけてきたクラスメイトも私達の存在に慣れてきたのか、自分の友達と一緒に居て、まばらに会話をするくらいに落ち着いた。

 焔の方も、時には男子と一緒に居て会話も進んでいる。が、親しい友達と思わしき人は居ない。どちらかと言えば佐倉杏子と話し込んでいる姿を見る程だ。

 いずれにせよ、私と彼は二人とも転校生からクラスの一人として受け入れられた。

 

 幸いな事にまどかは今も魔法少女の事は知らず、ただ普通に毎日を過ごしている。

 学校では私達のどちらかが出来るだけ近くに居るつもりで、今は焔が彼女と行動を共にしていた。

 

 私は無人の教室で帰りを待っている。まどかと彼は手芸部の活動中で、ここにはいない。

 

「ん? あれ、ほむらだ」

 

 そんな時、よくよく知っている声が私を呼び止めた。

 佐倉杏子がこちらに手を振り、やや駆け足で近づいてくる。彼女の制服姿も、ここ数日でやっと見慣れてきた。

 

「こんな所でどうしたんだ?」

「まどかを待っているの」

「ああ、なるほど」

 

 素直に頷き、彼女は自分の席に向かった。

 

「あなたこそ、どうかしたの?」

「ほら、忘れ物しちゃってさ。取りに来たんだよ」

 

 配られた紙を持ち上げて見せると、すぐに鞄へしまい込む。こんな小さな事でも、彼女は安堵した様子だった。

 そういった姿はまだ慣れない。

 

 佐倉杏子は、私が知っているより険が取れた面持ちをしていた。

 他人を近寄らせまいとする刺々しさと、根底にある心の強さと思いやりのバランスが、今は後者に大きく傾いているのだ。

 どちらの彼女が付き合いやすいかと言えば、間違いなく今だ。けど、いつもの感覚での会話が出来ないのはたまに不便だった。

 

「あなた、見滝原に住んでいるの?」

「んー? なんだ急に」

「特別な理由はないわ。ただ、なんとなくよ」

「ふーん。良い勘してるんだな。あたしは色々あって隣町から来てさ、今はさやかの家に住ませて貰ってる」

「……美樹さやかの?」

 

 思いがけない情報が飛び込んできた。

 同時に、巴マミの家じゃないんだ、と意外でもある。

 

「ああ、しばらく経つな。飯も食わせて貰ってるし……」

 

 ふと、彼女は首を傾けて、私の顔を覗き込む。昔より彼女の顔色が良い。

 

「そういえば、あんたらって飯はどうしてるんだ?」

「交互で作っているわ」

 

 料理は交代制だけど、殆どは簡単にできるメニューだった。料理の腕もどちらも同じ程度で、私も彼も味は残念ながら同じくいまいち。

 まどかの方がずっと上手だ。

 二人とも食は細く、お陰で食費は許容範囲内で済んだ。

 

「なんか、ちょっと意外かもな」

「なぜかしら」

「ほら、時間がもったいないからってインスタントとサプリメントで済ませてるイメージ」

「……もう少しくらいは気をつけているわ。あまり食べないと判断力が落ちてしまうし、体力も削ってしまう結果になる」

「ああー……その感じだと、試したのか」

「ええ」

 

 魔法があるから何でも平気というのは、必要な時だけにするべきだ。食事を無駄に魔法で代用する事は無かった。

 

「でもまあ、交代制って事は上手く行ってるんだな」

「何のこと?」

「あんたの弟と、だよ」

 

 佐倉さんは鋭い。ここまで緩んだ彼女でも、それはまるで変わらなかった。

 良い笑顔で私の内心を見透かしている様な気分で、何となく「仲良くした方がいいんじゃないか」と言われている気がした。

 彼女の瞳はいつも通りに燃え上がり、周囲の人を温めている。目を合わせるのが少しだけ心地よい。

 

「おっと、悪い。さやかと宿題やるんだった」

 

 彼女はそう言って視線を逸らし、鞄を担いで背を向ける。

 魔法少女としての活動はどうしているのか、それを問いかけた方がいいのかもしれない。いや、やっておいた方がいい筈だ。だけど、今がその時ではない様な気もする。

 結論を出すよりも彼女が帰る方が早かった。

 

「じゃあな」

「ええ」

 

 振り向かずに手を振ると、彼女は今にも歌い出しそうな足取りで教室を去っていった。

 そして、すぐに彼女の声が聞こえてくる。

 

「ほむらが中で待ってるぞ」

 

 声が響いた位置に目を向ければ、そこには確かにまどかと焔がいて、杏子は走り去っていた。

 二人は、いいえ、まどかは早足でこちらに近づき、調子よく教室の扉を開ける。

 私の元に駆け寄ってきて、瞳には曇り一つない。それが、今日も彼女が何ら憂慮すべき事態と遭遇しなかった証拠となった。

 

「お待たせっ、いつも待ってくれてありがとう。遅くなっちゃってごめんね」

「いいえ、今日は特に予定がないから」

 

 ごくごく日常的な仕草として私の手をしっかり握り、席から立たせると、そのまま後れてやってきた焔に微笑みかける。

 彼女の手はあたたかくて、握り方は私達への気遣いに溢れていて、慣れてきてもまだこみ上げてくるものがある。

 

「んっ」

「あうっ」

 

 焔の頬をつついて笑い、私の背後から髪を撫で始めている。

 

 あまりにも積極的なまどかの姿勢に、圧される時は幾度もあった。

 なにせ手を握るのはもちろん時には腕まで組みに来る。流石に距離が近くなりすぎて、照れを理由に断っているけれど。

 

「私の髪なんかを触って楽しいの?」

「なんだろう、落ち着くんだよね。あっ、くすぐったかった?」

「特にそういう事はないわ……むしろ心地よいくらいよ」

「良かった。あのね、ちょっと髪型を変えても……?」

「どうぞ」

 

 そのくらいならと了承すると、まどかの笑顔が更に鮮やかな色を帯びた。

 

「それじゃあ、ちょっとじっとしてて。あ、ごめん焔くん、少し待ってね」

「ああ、待っているよ」

 

 焔の興味の無さそうな声も、まどかは気にしていなかった。

 彼女が私の髪を触りだしたのは数日前からだけど、髪型を変えるのは今日が初。

 

「髪留め……わたしの予備のリボンでいい?」

「え、ええ。でも悪いわ」

「ううん。わたしがしたいだけなんだ。あ、使ってないリボンだから汚れてないよ」

 

 教室のガラス越しに見えるのは、ヘアゴムの代わりに換えのリボンを使い、私の髪型を編み込むまどかの姿だった。背中まで伸びた髪の分け目へと器用に指を絡め、二つの三つ編みを作っている。

 かつての私の髪型なんて知らない筈なのに。

 もしかすると、何らかの形で私の過去を知っているのかもしれない。記憶は無くても、どこかしらに。

 

「できたっ」

 

 慣れきった様子で私を三つ編みにすると、満足げな声をかけてくれる。

 

「どうかな?」

「え、ええ。上手いわね」

 

 私の元々の髪型だ。癖が残っているから少し触れば簡単に変えられる。それにまどかは手先が器用だから時間も殆どかからない。

 まどかにして貰うのは自分でするよりずっと気持ちが良かった。

 

「うん、この髪型はほむらちゃん! っていう感じがする」

「そう、かしら?」

「いつものも好きなんだけど、こっちの方がしっくり来るんだ」

「……実は、昔はこの髪型だったの」

「あ! やっぱり! そうじゃないかと思ったの。でも、どうして変えたの? 凄くかわいいよ?」

「転校する前にイメージを変えようと思って」

 

 編んで貰った髪を持ち上げると、それが自然と手から流れていかない事に今では違和感があった。

 まどかは良い評価をしてくれるが、これはやっぱり、今の自分の髪型ではない。

 

「うん、確かに今のほむらちゃんは格好いい感じだもんね……じゃあ、元に戻しちゃおっか」

「いいえ。今日くらいは構わないわ」

 

 まどかの声に隠された残念そうな雰囲気が伝わって、反射的に首を横に振った。その方が彼女にとって嬉しいのなら、多少自分の調子を崩すくらいなんて事でもない。

 

「ほんと?」

「ええ。今日だけね」

 

 こんな些細な事を喜んでくれるのなら構わなかった。

 

『……』

『何か言いたいの?』

『いや、まどかの気持ちを、流せなくなってきてるな』

『……そうなのかもね』

 

 飛んできた思念は、まさにその通りだった。

 いつもなら髪型だってその場で元に戻していただろうに、こうして日々を共に過ごしていると、少しくらいならと思ってしまう。

 私はもっと、彼女を突き放せていた筈なのに。今はそれがやりにくくて、やりにくくて、どうしようもないくらいまどかを落ち込ませる選択肢は取り難かった。

 

「焔くん」

「ああ、なんだ?」

 

 かけられた声に焔は素早く動いた。

 彼も彼で、まどかに対しては他とは段違いに好意的だ。

 表情こそ厳しく作り込んでいるが、時折隠しきれずに漏れる笑みを私は見逃していなかった。

 

「待たせちゃってごめんね。ところで、焔くんはどっちの髪型がいいと思う?」

「……結ばない方が好きだな」

「いつものほむらちゃんの方が好きなんだね。分かるよ、とっても格好いいもん」

「格好いいかは別にして、見慣れているからな」

 

 朗らかな口調でもないが、そんな声を向けられてもまどかは揺らぎがなかった。

 

「私も、ほむらちゃんみたいに伸ばしてみようかな」

「貴女はいつものままで良いわ」

「そうだな。今の髪型が一番似合うよ」

「そ、そうかな……そうだったら、嬉しいな……なんてっ」

 

 己の髪を撫でるまどかが、はにかんだ。健康で柔らかそうな頬は赤く眩しく、仕草や声から噴き出す心の輝きは、彼女の人間的な魅力を幾らでも引き上げる。

 そう、まどかは彼女自身が思っているよりずっと優美だ。私はそれを幾度も見てきた。

 

 だから、彼女らしい髪型なら何だって似合う。確かにリボンを解いて髪を下ろしても可愛らしいだろう。

 けどやっぱり、私にとってはこのツーサイドが彼女らしさを表すのだ。

 「ああ、でも」なのに焔が余計な事を付け足した。

 

「まどかなら髪を下ろすのもいいかもな」

「え? うーん、こう?」

 

 まどかは言われた通りにリボンをゆっくりと解いた。

 髪が揺らめき、自然と下りる。私とは違って彼女の髪は肩の下くらいまでの長さだから、髪型の印象は欠片も似通っていない。髪の癖も違って、きちんと纏まっている。

 魂を表すかの様に柔和な顔立ちが、髪型の印象をより良いものにしている。私とは大違いだった。

 

「どっ、どうかな?」

「やっぱり、こういう君もかわいいな」

「そっ……そう?」

「見たままだ。結んでいる時は明るくて優しい雰囲気だけど、今は穏やかで安心させてくれるよ。髪を伸ばしてもきっと魅力的だな」

 

 ……この男は何を言ってるんだろう。

 思い切り足を踏んづけてやりたい。けれど、まどかの手前そうもいかない。

 

「……私も同じ感想よ」

「えへへっ、そこまで言われると照れちゃうかも……」

 

 私が付け加えると、彼女はより一層喜んだ。

 

「あっ、帰らなきゃ。時間取らせちゃったね」

「いいよ。それより髪はそのままなのか?」

「うん。今日はね」

 

 まどかは自分の髪を撫でると、私達と並んで歩いた。

 もう学校に居る生徒はまばらで、遠くから運動部のかけ声が聞こえてくる。

 あれは野球だろうか。先生の姿はガラス越しに見かけるものの、授業中に比べれば人気はほとんどない。

 だから、まどかの足音がよく聞こえる。彼女が隣にいるだけで、自分でも驚くほどこの場が賑やかになっている様な気さえする。

 緩みかけた面持ちを、無理矢理に抑えた。気を抜いてはいけない。彼女を守る為には、この喜びに浸るのは危険だ。

 

 今日もまた、何事もなく一日が終わる。

 点々と残る学生を視界の端に入れながら無事に校門を通り過ごすと、まどかは幸福そうに伸びをした。

 

「うーんっ、今週もやっと終わったねー……」

「疲れたの?」

「ちょっとだけ。やっぱり勉強も難しいし」

「ええ、そろそろテスト勉強もしなきゃいけないものね」

 

 まどかは自信の無さそうな笑い声をあげた。

 英語は私よりずっと上だけど、他は私に助ける余地がある。

 

「良ければ僕が教えようか? それなりに出来るつもりだが」

 

 今回は、焔が私より早かった。

 

「焔くんが教えてくれるの?」

「まどかの空いた時間を使ってもいいのなら」

「うん! わたしは大丈夫。すっごく助かるよ! でも、焔くんはいいの?」

「僕に予定が入ったらほむらと交代するから、心配はいらないな」

「ほむらちゃんも?」

「構わないわ。私達の事は気にせず、自分の成績を考えればいい」

「本当!? やった!」

 

 足取りも弾ませた、幸福そうな声だ。

 

「そうだ、次のお休みって二人とも空いてる?」

 

 木々の間から差し込む夕方の柔らかな光を受けて、きらめく面持ちが私達の眼前に広がった。

 まどかの口にする次の休日は、インキュベーターを探すつもりだった。

 他の予定はない。今の私にはそれなりに暇がある。他の時間軸なら在るはずだった予定が、軒並み消えているからだ。

 見滝原は今のところひどく平和で、私達は未だ魔女と出会っていない。それどころか使い魔一つ倒しておらず、魔法少女として戦ってすらいない。インキュベーターの接触もない以上、やらなければならない事は自然と減っていた。

 こんな状況でまどかが誘ってくれる。断る気は起きなかった。

 

「私は大丈夫よ」

「僕もだ」

「なら、三人でどこかへ遊びに行きたいんだけど、どう?」

「ん……? 三人で……? 僕もか?」

「うん、焔くんも。ほら、前は来れなかったしね」

 

 焔が思い切り首を傾けて、顔色は変えずに声だけを不思議そうな物へと変えた。

 

「他の子は来ないのか?」

「今回はほむらちゃんと、焔くんと、わたしの三人がいいの」

 

 まどかからのお誘いを受けるのは今日で二度目だけれど、前は美樹さやかや佐倉杏子が一緒にいたし、焔は遠慮して断った。まどかがとても残念そうだったのはよく覚えている。

 今回はそうではないと首を振り、彼女は前屈みで焔の顔を見上げた。

 

「そんなに気遣ってまで、僕を誘ってくれなくていいんだが」

「ううん! わたしが二人と遊びたくって……」

 

 期待の瞳が私達を捕まえて離さない。

 

「いいよ。前は断ってしまったからな」

「ええ、私にも断る理由はないわ」

 

 受けても問題ないと判断し、焔と同時に頷いた。

 彼女が望むなら問題はない。それに、焔とまどかが二人きりで遊びに行くよりは、なぜか気持ちが楽だった。

 

「良かった。じゃ、どこに行くか決めよっか!」

「門限は大丈夫?」

「もう少しは平気だよ。それに、ほむらちゃん達が居るからね」

 

 まどかは素直に笑って、私達と共に居る時間を見るからに歓迎してくれている。

 

 冷たく素っ気なく突き放そうにも、彼女が悲しげに俯く姿が頭に浮かんで、どうしてもそれができない。

 記憶が正しければ、この時間に来る前の私はもっと冷たくて、最低で、まどかにとっては意味の分からない気持ち悪い人だった筈なのに。

 

 どうしようもないくらいの幸せを感じる自分を戒めるのは、中々に難しいものだった。




明日以降は1日1更新になります


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05 あなたの方がもっとずっとかわいい

 ショッピングセンターの休憩用のソファへ腰掛け、まどかの膝の上に広げたファッション雑誌を二人で一緒に眺めていると、水着のページでまどかの手が止まった。

 

「ほむらちゃんにはこういう水着が似合いそうだよね」

 

 まどかが雑誌を広げ、そこに写ったモデルを指さした。

 青く長い髪をした、細身で背の高い女性だった。彼女はどこか鋭さを思わせる瞳の下で口元は穏やかな笑みを浮かべ、綺麗な姿勢でポーズを取っている。

 下の方に「七海やちよ」と名前が書かれていた。聞き覚えがある様な気もしたけれど、それ以上に、見間違えようもないものに視線が向かう。

 この人は、魔法少女だ。

 

「?」

「いえ、とても綺麗な人だと思って」

 

 とっさに出た言い訳だけれど、写真の中の人は確かに綺麗だった。物静かな顔つきをしていて、細身の上に背も高く、見事なモデル体型の女性だった。きっと、何を着ても見合うだけの魅力を持ち合わせているのだろう。

 身に着けているのはチューブトップの白いビキニで、胸の真ん中は紐で留められている。

 モデルの女性は見事に着こなしているが、私が同じ物を着るのは自信がなかった。あまり肌を人に晒すのが得意ではないのもあって、似合う気はあまりしない。

 この手の大人びた水着なら、巴マミには相応しいのではないだろうか。

 

「このモデルさん、ちょっとほむらちゃんに似てるから同じ水着ならきっと似合うと思うの」

「そうかしら……」

「うんうん。綺麗な髪とか、細くてカッコいい所とか、顔立ちとか、雰囲気も少しだけ近いかも。あ、写真だけ見た感じはだけどね」

 

 言われてみると、確かにどちらも髪は長い。けれど、ひ弱な私とモデルとして整えられた女性では同じ痩せ型でも天と地の差がある。

 背丈も私よりずっと高く、顔立ちも身体と見合っている人だ。

 でも、私自身がどう思っていたとしても、まどかが褒めてくれるのは純粋に嬉しかった。

 

「私には少し派手かもしれないわ。それに、こういうモデルみたいな美人ではないから」

「そんな事ないよ!」

「きゃっ」

 

 まどかは、私の手を飛びつくようにぎゅっと握った。

 不意を打たれて声が出たけれど、まどかの声はもう少し大きくて、私には強く響いた。

 

「ほむらちゃんが転校してきた時にね、すごい美人な子が来たんだなって思ったんだ」

「そ、そう」

「ほむらちゃんにはね、良い所がいっぱいあるの。自信を持っていいんだよ?」

 

 嬉しそうに私の手を撫でると、頬の近くへ引き寄せる。

 両手で優しく揉んだり、さすったり。それを繰り返す。繰り返す。その手つきが途方もなく優しくて、なんだかとても心地よい。

 だからこそ彼女の指先を掴んで、その瞳をしっかりと見つめた。

 

「言葉をそのままお返しするわ。貴女は、貴女自身が思っているよりもずっと良い人よ。良い人過ぎて心配になるくらいに……いつか、友達の為に危ない事をしてしまうかもしれないわ」

「ええっ、わたしはそんな人じゃないよ!?」

「いいえ。貴女は自分の事がよく見えていない」

 

 不思議そうなまどかの顔色に、自分の言葉が届いていないのだと自覚させられる。

 

「初対面なのに私達を優しく扱い過ぎていたわ。私達が貴女を利用しようとする人間であれば、貴女は簡単に罠にかかっている筈よ」

「あの、迷惑だったかな……」

「い、いえ、そういう事では決してないけど」

「……ほむらちゃんだって、初めて会った時からわたしに優しかったよ?」

 

 それは違う。

 私にはまどかと過ごした沢山の思い出と記憶がある。まどかはそうではない筈だ。

 言葉を止めた私に向かって、彼女は顔を近付けた。

 

「じゃあ、一緒だね」

「え?」

「だって、私達はどっちも自分の事が見えてないんだから」

 

 私の鼻先をつんとつついて、彼女はくすくすと笑い声をあげた。

 

 夢中になって口を回してしまったが、語気が強すぎたかもしれない。遊びに来たのに、突然こんな話になるのはおかしいだろう。

 まどかの様子を窺うと、彼女は照れた風な顔色となった。

 

「えへへ」

「?」

「ごめんね。ほむらちゃんがここに居るのが、なんだかとっても嬉しくって」

 

 また私の手をなぞり、さすっている。何が楽しいのか、そうして私の指や手のひらに触れる彼女は本当に上機嫌だった。

 私も彼女に優しくして貰えるからか、指先から言葉にならない気持ちの良さがどんどんとこみ上げてきた。一瞬でも気が緩めばどろどろに溶けてなくなってしまいそう。

 

「ま、まどか?」

「どうかしたの?」

「いえあの……何でもないわ」

 

 彼女が楽しそうならいいか。そう結論づけて、されるがままに身を任せる。

 意識を外に切り替えると、館内の音楽がよく聞こえた。流行の楽曲で、私の耳にも覚えがある。まどかの好きな曲だった筈だ。

 見滝原のショッピングセンターはこの辺りで一番大きな商業施設だから、利用者もとても多い。まどかと話している間にも何人もの子供が通り過ぎ、買い物を終えた大人が袋を持ってお店から出て行っている。知らない女の子が走り回って、棒のようなものを振り回している所が視界に入り、通路の角を曲がって見えなくなった。

 点々と設置されたソファの一つに私達は体を預け、気持ちの良い状態で会話が進んでいた。少なくとも私の部屋の椅子よりは座り心地がよく、長く座っても後でお尻が痛くなる心配は無用だ。

 焔は何か食べるものを買ってくると言って席を外している。女同士で待っている方が話しやすいだろうからと、気を回したのだ。

 

「……」

「……ふふっ」

 

 どこまでも喜色満面のまどかと目が合った。

 沸き起こる昔の記憶を噛み締めて、私はふと、まどかとの会話に気になる所を見つけた。

 

「そういえば、なぜ急に水着の話になったの?」

 

 回答は楽しげな声だった。

 

「実は今度の夏休みね、さやかちゃんが海に行こうって誘ってくれたの。ほむらちゃん達も一緒にどうかなって」

「美樹さやかに了承は得ているの?」

「うん。この機会に色々と話してみたいって」

 

 美樹さやか。今の彼女との関係は決して悪くはない。

 まどかと最初から友好だからか、よく冗談めかした調子で話しかけてくれる。

 既に魔法少女だけれど、生来の快活で優しい性格のまま接してくる姿は眩しくて、そんな彼女を幾度も見捨ててきた自分のおぞましさがより深まった気がした。

 そんな彼女が、私を誘って良いという。

 

「みんなで水着を選びたいな。一緒に決めればきっと凄く楽しいと思うの。だから、ほむらちゃんに似合う水着を考えてみたくて。でも、ちょっと気が早いかな。えへへ……」

 

 まどかの声は幸せいっぱいだった。

 そういえば、彼女と海へ行く経験は一度も無かった。私が繰り返していた時間は長い休みとは被らなかったから、遠出はできなかった。

 今回だって一緒に行けるかは分からない。ワルプルギスの夜を倒さないと、彼女が夏休みを過ごす事すらただの夢想で終わる。楽しそうに立てている計画が何もかも無駄になってしまうのだ。

 だから、今度こそ未来を切り開いてみせる。そう決意を強める中で、まどかの言葉のニュアンスに気になる部分を見つけた。

 

「待って……私達? 弟も誘うの?」

「うん……出来れば来て欲しいの。焔くんと一緒に遊びたいし、さやかちゃんや杏子ちゃんとも、もっと仲良くなって欲しい」

「それは、難しいんじゃないかしら」

 

 あれは、まどか以外とは距離を取っている。私もそうだけれど、彼の場合は異性なのもあってより遠い。

 彼女はそれを分かっていない様で、寂しそうに声の調子を落として、私の指先をなで続けている。

 

「だから、このチャンスに仲良くなれたらいいなって」

「貴女の気持ちは分からなくはないけれど」

 

 しかし、行き先は海で、水着で、宿泊だ。

 

「やっぱり焔くんだけ男の子じゃ居心地が悪いかな……上条くんは予定日が音楽の発表会で忙しいみたいなんだ」

「いえ、そうではなくて……恥ずかしいとは思わない?」

「え? 焔くんだよ?」

 

 首を傾げられてしまった。

 まるで伝わっていない。どう説明すればいいかと悩んでしまう。

 学校指定の水着ならまだしも、遊びに行く時の水着を誰かに見せつけたいかと言えば、多少は、いえ、かなり抵抗がある。

 少なくとも私はそうだけれど、まどかは違うのだろうか。

 黙って何を言うべきか選んでいる間に、まどかは何やら考え込んで「あ」と呟き顔を赤くした。

 

「……うーん。でも平気だよ。さやかちゃんや杏子ちゃんに水着を見せるのも、ちょっとは恥ずかしいし……」

 

 これは、まどかが友達想いの素晴らしい良い子だからって、幾らなんでも。

 

「まどか、あなたは彼をどう見ているの?」

「え? ほむらちゃんによく似てて、凄く美人な男の子、かな」

 

 まどかは首を傾けていた。

 

「そうじゃなくて、その、どんな関係になりたいか、とか」

「これからもっと仲良くなりたい友達だよ。もちろん、ほむらちゃんも同じだけど」

「ありがとう。じゃあ……例えば、れんあ」

 

 致命的な問いかけを口にしかけた所で、聞き慣れた男の声が届いた。

 

「お待たせ、アイスを買ってきたよ」

「ああっ、ありがとう!」

 

 思わず彼を睨んでしまった。

 偶然にも邪魔となった焔は、私の視線に気づいて首を傾げる。

 見た目こそ私によく似ているが、こうして立っている姿を観察すれば男性なのは明らかだった。

 

「本当にありがとう、わざわざ買って貰ってきちゃって」

「僕がそうしたかったんだ」

 

 私の目など当然どうでも良かったらしく、彼は買ってきたアイスをまどかに渡す方を優先した。

 

「どれがいい? こっちがストロベリーで、こっちがチョコレート、これがバニラだ」

「わぁっ、美味しそう……あ、お金は足りた?」

「ちょうどだった」

 

 両手でカップを持っていて、中には大きなボール状のアイスクリームが一つずつ入っていた。

 どれも見るからに濃厚そうなクリームに小さなハートのチョコレートが幾つも中に埋められていて、僅かに溶けていた。

 

「焔君はどれにするの? ほむらちゃんは?」

「まどかが先に選んで。私は残った方にするわ」

「まどかが先でいい。僕は残った方から選ぶから」

「いいの? それじゃあ……これかな」

 

 まどかがストロベリーを選ぶと、私はチョコレートを、一番最後に彼はバニラを手に取った。

 紙のカップから冷気が伝わってくる。香りが広がって、まだ食べていないのに口の中が甘くなった。

 見ているだけでは意味が無い。桃色の使い捨てスプーンでボールを少し削ると、中までハートのチョコが入っているのが見えた。どう見てもまどかと私が渡した金額よりは高そうだ。

 

『意外に安かった。でも少し足りなかったから後で不足分は払え』

『もちろんよ』

 

 心の中だけで意思を交わしつつも、スプーンの上のアイスクリームを口に運んだ。

 深い味が広がって、口腔内が甘さに支配された。チョコレート特有の風味と濃厚なクリームの食感はややしつこかったが、それを含めても気分の良くなる後味だ。

 

「んんっ、甘くておいしいっ!」

 

 すぐ目の前でまどかは鮮やかな笑みを咲かせて、晴れ晴れとした声をあげた。

 そしてスプーンにアイスを乗せると、私の口元へ運ぶ。

 

「ほむらちゃんもこれ、食べてみる?」

「ええ、いただくわ」

「じゃあ、あーん」

 

 慣れた物で、私は迷わず口を開けた。

 

「……ん」

 

 飛び込んできたアイスの風味は確かにイチゴで、濃厚な味が柔らかに整っている。後味も軽く気分がいい。まどかのくれた物だからか、より美味しいという感覚が強かった。

 咀嚼しながら口の中で溶ける感触を最後まで味わって、それから飲み込む。

 私の感想を待って覗き込んでくる顔に、思わず微笑みかけてしまった。

 

「うん、爽やかな甘味ね」

「……」

「まどか?」

「ほむらちゃんが笑ってるところ、珍しいなって」

 

 呆然とした反応は予想外で、何のことだと疑問を抱いた。

 けれど、言われてみれば尤もだ。まどかの前で面持ちが崩れないように抑え込んできたのだから。

 

「笑っていなかったのね、私は」

「甘い物って凄いね」

「ええ」

 

 甘味が私を笑わせたのか、まどかが私を笑わせたのか。どちらにしても気が緩んでいた。

 

「……」

 

 焔はそんな私を静かに見つめている。あまりスプーンが動いていない。

 

「じゃあ、焔くんもどうぞっ」

「っ? ああ、うん」

 

 特に抵抗もなく、焔は口を開けた。そこへまどかのスプーンが入り、ごく自然にアイスを食べさせた。

 私も同じ事をしたけれど、こうして見ると何やら妙な気分だ。

 間接キスという単語を思い浮かべたが、内心で首を振って消した。

 

「……まどか?」

「えっ? ……あ、今のはちょっと恥ずかしかったかも」

 

 スプーンを握ったまま、彼女は照れた面持ちとなった。

 焔が一瞬だけ難しい顔となったが、この話題は流そうと決めたのか、すぐに元通りの表情へと戻る。

 

「こっちもいいな。バニラも食べてみるか?」

「一口くれるなら、うん」

 

 焔はカップとスプーンを手渡して、好きなだけ取る様に伝えた。

 そう言われた中で、まどかは一口分だけ取って食べ、嬉々として感想を伝えている。

 

 まどかは、こんなにも異性へ近づいていく子だっただろうか。

 違った筈だ。男の子と一緒に居る時の方が少なくて、いつも美樹さやかや志筑仁美の傍に居た。

 ……でも、私が知らなかっただけで、まどかは男の子が相手でも前のめりで関わる方なのかもしれない。

 私が見てきたのは極めて限定された時間内のまどかだ。以前の彼女の事は分からない。

 そう思わないと胸の奥の痛みが抑えられそうにない。

 

「んんー、あまーい」

「私のも食べたいのならどうぞ」

「うん、ちょっとだけ貰うね」

 

 私の内心はともかく、まどかはどこまでも美味しそうに甘味を楽しんでいる。

 見慣れた店舗と誰かの話し声の間で、私達は同じ時間を共にしている。決して悪い気分ではなかった。

 

 そんな時、どこかから視線を感じた。

 確かな存在感だ。魔法少女だからわかる。

 

「……」

「やっぱりアイスは濃厚なのが美味しいよね」

 

 私が目配せすると、焔もまた頷いた。

 幾分か離れているが、あの姿はよく知っている。青い髪に健康な笑み、軽やかな足取り。心優しく善意も持った、まどかの大切な友達。

 美樹さやかは、私達が来た方の反対側からこちらに近づいてきていた。

 

 何やらにんまりと口元を緩め、まどかの背後に回り込んでいる。私達に向かって人差し指を唇にあて、忍び足でゆっくりと距離を詰めてきた。私達三人を見比べつつ、その面持ちは悪戯っぽくて楽しげだ。

 

「美味しかったぁ……」

 

 まどかがアイスを置いたタイミングを見計らい、美樹さやかは背後から抱きついた。

 

「まっどか!」

「あぅっ……さやかちゃん?」

「うんうん、あたしだよー」

 

 頭を撫で、歯を見せながら彼女は笑った。

 突然の登場にまどかが目を丸くしている。でも、すぐに親しい友達の登場を喜びの声で迎え入れた。

 

「さやかちゃんはお買い物?」

「まあね。ん、まどかの方は……」

 

 突如口を閉ざし、美樹さやかの視線が焔とまどかへ交互に向かう。

 何やら神妙な面持ちで頷くと、最後に私へ視線を送ってきた。

 

「ああ、デート」

「デートじゃないわ……!」

 

 思わず反論の言葉が溢れた。

 自分でも驚くほど語気が強くなって、大きな声にまどかが一瞬びくりと飛び上がった。

 嫌に腹立たしく、納得し難い感情が私の中で暴れる。自分の中で何かの忌避感めいた物が膨れ上がっているのが手に取るように分かった。

 

「ほむらちゃん?」

 

 私の変調を察したまどかは、不安そうに顔を歪めた。

 そんな顔をさせたい訳じゃない。慌てて抑え付けながら、分かる程度に微笑みを作って誤魔化す。

 まどかは安堵した様子で表情に明るさが帯び、小さな声をあげて笑う。

 

「さやかちゃんったら。ほむらちゃんも一緒に居るんだよ?」

「はいはい。ほむらはあんまりまどかの邪魔しないであげてね」

「……邪魔?」

 

 どの辺りが、と聞きたかったが、まどかの手前これ以上は空気を悪くしたくない。

 まどかが横目で焔を見ると、何やらすぐに逸らした。なぜか、とっても嬉しそうだ。

 

「そうだ、さやかちゃん。ほむらちゃんも一緒に海に行くよ」

「ほむらも参加ね。もう片方は?」

「僕か? いや、何の話かな」

「あのね焔くん」

 

 私にしたのと同じ風な説明を、焔は顔色を変えずに耳を傾けた。

 彼は全て聞き終えてしばらく考え、やや大ぶりに首を振る。

 

「不参加だ。女子だけで行ってくればいい」

「そっか、やっぱり女の子ばっかりの中に一人はちょっと困るよね」

「あたしとしては、まどかのボディガードに男子が一人居ればいいなと思ってたんだけどねー」

 

 ぽんぽんと焔の肩を叩きつつも、美樹さやかはどこか面白がった口調で語りかけた。

 

「まどかは可愛いからね、水着なんて着たら男の視線を釘付けにしちゃうかもしれないよ?」

「ええー。さやかちゃんも凄くかわいいよ? 前に見せてくれた水着だって明るくて元気で、とってもかわいかった」

「おおう。そこまで言われると流石に照れるなぁ。でも、今年は新調するから印象が違うかもよ」

「うん、一緒に選んでいい?」

「もっちろん!」

 

 二人で話していると、空気を共有しているのがよく分かる。まどかも美樹さやかも同じくらい明るい調子で、間違いなく一緒に笑っていた。

 やっぱりこの二人の仲はとても良い。お互いが幸せそうだ。その関係には距離感が全くなく、そこには確かな絆があった。

 

「あたしとしては二人とも来て欲しいんだけど、駄目?」

「……」

「実は男手も欲しかったりする。ほら、まどかも一緒に行きたがってるよ?」

 

 美樹さやかはあくまで愉快そうに焔を覗き込んでいた。

 長く考え込んで、やがて彼は己の髪をかき上げる。

 

「分かった。行こう」

 

 思わず焔にジトリとした視線を向けた。

 だが、まどかの歓声がそれを打ち消した。

 

「えっ、い、いいのっ!?」

「せっかくまどかが誘ってくれたんだから、行くさ」

「無理してる訳じゃない、よね?」

「嫌なら嫌と言うさ。嫌じゃないから誘いに乗るんだ」

「……二人とも来てくれるんだね! やった!」

「……ふふっ、楽しそうだね、まどか」

 

 美樹さやかはどこか感慨深そうに面持ちを明るくした。あんな表情をした彼女を、私を知らなかった。

 けれど、そのどこまでも柔らかな顔色はやがて消え、いつもの明瞭で元気そうな態度に戻る。

 

「二人とも参加決定ね。水着はまた今度一緒に買おっか」

「うん、焔くんはどうする?」

「流石にそれは別で買うさ」

 

 僅かな間だけ慈しむような顔をすると、彼女はまどかの両肩を撫でた。

 

「じゃ、あたしはそろそろ帰らなきゃいけないから、またね」

「うん。またね、さやかちゃん」

 

 話すことだけ全て話すと、続けてさりげなく焔の肩を叩いている。

 

「まどかと仲良くしなよー?」

 

 何度も叩かれた焔が顔をしかめるが、そんな事は知らないとばかりだ。

 ひとしきり叩くとと、彼女は満足そうに頭の後ろで手を組み、去っていった。

 姿が見えなくなった所で、私はアイスを食べ終えた。口の中に残った甘味が、嫌な予感を軽くしてくれる。

 何度も死の危険を掻い潜ったお陰で、反射的な危機察知くらいはある程度鍛えられている。本来なら戦う時にしか動かない部分だが、今は非常に嫌な警告を発していた。

 

「来てくれるのは凄く嬉しいけど……本当に大丈夫? 無理に来なくてもいいんだよ」

 

 とても明るい様子だけれど、まどかは焔の顔を見るにつれ、はっとした声となった。顔を覗き込んでいて、雰囲気はとても心配そうだ。

 

「いや、特に予定があるわけでもないし、まどかが僕を呼びたかったのなら構わない。僕だけ男子というのも、そこまで抵抗はないからな」

 

 彼女の視線を一身に受けても焔は顔色を変えなかった。

 

「本当に? それなら良かった」

「むしろ、まどかこそ僕が行っても構わないのか? 他の子もだが」

「それなら心配しないで。焔くんとほむらちゃんを誘って良いかはちゃんと確認したよ」

「なら問題ないな」

 

 焔は平坦な、だがどこか嬉しそうな声をしていた。私だって一緒に海へ行けるのはもちろん嬉しい。素直に認めざるを得ない、だけど。

 目の前で自分がそうしている姿は、なぜこうも危機感を煽るのか。美樹さやかが焔に語った内容と「デート」という単語が何度も頭の中でぐるぐると輪を描き、止まらずに回り続けていた。

 

「ほむらちゃん?」

「なんでもないわ」

 

 頭の中で警報が鳴り響くような気分を見通されている気がする。

 だけど何とか気づかれずに済んで、彼女は「そう?」と不思議そうに首を傾けると、それから明瞭な声で私達に声をかけた。

 

「アイスが美味しかったねー」

「ええ」

 

 空になったカップを三つとも重ね、その上に使い終わったスプーンを纏めた。どれもまだ濃厚な甘い香りを残している。

 満足そうなまどかに目を注いでいると、幸せそうな姿がとても心地よく、達成感すら沸いてくる。今だけは不安も危惧もどうでもいいようにすら思えた。

 

 もっとずっと、出来る限り長く彼女と共に居たかった。けど、時計を確認してみると、もうお開きの時間だった。

 

「さあ、そろそろまどかは門限でしょう?」

「えっ……あ、ほんとだ」

 

 残念そうな反応をして貰えて、心が弾む。

 名残惜しいのは確かだ。周囲を見る限り客足は落ちていないし、いまだ外は明るいだろうが、時間帯としてはそれなり。もう少し遊んでも大丈夫そうだが、そんな我儘は口にしたくない。

 

「でも、もう少しくらいなら遊んでも……」

「いいえ、ご家族を困らせちゃいけないわ」

「同感だな。二人暮らしの僕達が言えた事じゃないかもしれないが」

 

 お父様やお母様を心配させる訳にはいかない。

 私達は一緒に立ち上がり、空のカップとスプーンを分別して傍の四角いゴミ箱へ捨てた。

 まだまだ口の中は甘いが、楽しい時間は終わった。だからか、数秒前よりどこか味わいが落ちた様な気がした。

 

「家まで送っていこう」

「いつもの様に家までは行ってもいいかしら」

「うん、時間が大丈夫なら一緒に帰ろっ」

 

 慣れきった様子で私達と並び、そこには一欠片の警戒心も見て取れない。

 

「今日はすごく楽しかったよ。二人も楽しんで貰えたなら良かったんだけど」

「心配する必要はないわ。私達もちゃんと楽しかった」

「僕も同じくだ」

 

 焔の声も、きっと本心を口にしている。

 本当に、間違いなく楽しかった。まどかが気にしなきゃいけない事なんて、どこにもない。贅沢なまでに幸せ過ぎて、こんな時間を過ごしている自分に嫌悪感すらあった。

 

「本当? 良かったぁ」

 

 彼女は私達二人をちゃんと見て、交互に目を合わせていた。

 その瞳から垣間見える深みに心を震わせていると、気づいた時には既にお店の外だ。人の多い場所だが、魔女の気配はどこにもない。

 少しばかり夜にさしかかっていたけれど予想通りに空はまだ明るく、道路に沿って植えられた木々は風に煽られ揺れている。

 三人で並んで歩くと道は少し狭くて、後ろから来た女の人と肩が当たりそうになり、私はまどかの傍へ寄った。

 

「失礼します」

「いえ」

 

 知らない女性が会釈一つして私達の隣を通り過ぎていく。長く柔らかな銀のサイドテール。翡翠色の瞳。落ち着かない足取り。プレゼントだろうか、何かの、そうぬいぐるみか何かの包装紙を抱きしめている。

 会ったことはない筈なのに、どこか見覚えがあった。そう、あれは。

 

「っ」

 

 私はまどかの正面へ回り込んで抱きしめ、腕の中へ納めた。

 何かから彼女を守るように。

 

「?」

「あっ、いえ……これは」

 

 我に返ると、女性の姿は既にかなり遠ざかっていた。

 焔は私達の前に立ち塞がり、無言で佇んでいた。だけど、数秒も経つとこちらへ振り向き、私の状況を怪訝そうに見つめた。

 

「んっと、えいっ」

 

 私の口から何かしらの言い訳が飛び出す前に、まどかは私の腰を抱き返した。

 

「落ち着いて、ほむらちゃん」

「あ、あの、まどか……」

「どうしてそんなに緊張してるの? 焔くんも、なんだかさっきと雰囲気が違うよ?」

「それは……いや、僕は……?」

 

 言われてやっと、全身がひどく強ばっているのだと自覚した。背筋に冷たいものが走っていると気づいたのも、たった今だ。

 自分の行動の説明がまるでつかない。確かに私は何かに反応して、今の行動に移った。けれど、あの女性に見覚えがなかった。

 私と違う動きだったとはいえ、焔も同じ筈だ。だが、彼も首を傾けるばかりで答えは出てこない。

 

「……ごめんなさい、急に。私にもよく分からなくて」

「うーん……そっか」

「もう大丈夫よ、ありがとう」

「もう落ち着いた?」

「ええ、私は平気だから」

 

 不思議そうにしていたが、まどかは追求せずにいてくれた。

 私にも説明できないのだからどうしようもない。彼女の配慮に強く感謝しながら、何事もなかったかの様に帰り道へ向かう。

 

「やっぱり、ほむらちゃんはモデルさんみたいな服が絶対に似合うと思うの」

「?」

「あのね、さっき抱きついてみて、やっぱり細くて綺麗だなって」

「貴女だって……」

 

 私達にひっついて歩く彼女の体温を感じながら、私達はまどかの家へと足を進めた。

 こうして彼女と遊びに出かけて、何事もなく帰る。海へ行って遊ぶ約束まで取り付けて、本当にちゃんとした友達同士みたいだ。ずっとこうしていたいと思ってしまう。

 

 けれど、どんなに私が喜ぼうと幸せを噛みしめようと、ワルプルギスの夜はもうすぐ来る。まどかの命の危機が来る。

 倒せば私の知らない未来が訪れる。そこに私の居場所があるかないかは、倒してみればわかる事だ。

 決して彼女を犠牲にさせたりはしない。誰かを救うためにまどかが戦う必要も、誰かがまどかの命を奪う事も、絶対に許容しない。必ず防いでみせる。

 

「今日は風が気持ちいいねー」

 

 通り抜ける風に、私とまどかは一緒になって髪を押さえた。

 そよ風と呼ぶには勢いがあって、確かに心地よい。けれど、この心地良さを与えてくれたのは風じゃないのだと、私にはよく分かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 今日の夜も、私は夜の見滝原を出歩いていた。

 半ば夜の散歩と言ってしまっても良い状態で、補導される寸前までは歩き回っている。

 行き先は特に決まっていない。魔女の気配を探りながら、心の赴くままに歩くだけだ。

 

 見知った病院の屋上で、私はフェンス越しに外を眺めていた。

 ここは良い風が吹いている。でも、あまり気持ちの良さを感じない。ただ自分の髪が風になびいて顔に掛かり、その度にかき上げる。

 

 ここから見える町並みは、私の知っているそれと少しも変わらない。

 

 高い建物から眺めてみれば、見滝原は意外と薄暗い所のある街だと分かる。治安のよい安心して住める街でも、夜になってみると重い空気が漂ってきて、どこかから魔女や使い魔が私を見ている様な気にすらさせられた。

 だが、そんな纏わり付いてくる嫌な雰囲気を、今は少しも怖いと感じない。

 この病院に居た頃の私はもっと恐怖を知っていた様な気がするけれど、さして記憶にはなかった。自分がより弱く愚かだった頃の事はあまり思い出そうとは考えない。それより、今の自分が恐れている事の方が重要だ。

 

「やっぱりいない、わね」

 

 だが、そんな私の恐れを駆り立てる魔女も、インキュベーターも、どこにも見当たらなかった。

 この時間軸に来た時からずっと探しているというのに、それらはこの見滝原には存在の痕跡すらもない。まるで、どこかへ消え去ってしまったかの様だった。

 フェンスを握る指先に力が入る。魔法少女の手は人よりずっと力があって、危うく握り潰してしまう所だった。




運営の方からオリ主タグが必要とのご連絡をいただきましたので追加いたしました。
失礼いたしました。

なお本作は既に完結済みで全話予約投稿済みです。全14話、毎日20時更新予定です


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06 このおかしな世界

 今の私にとって自宅で過ごすのは最も落ち着かない時間だった。

 

 誰かと一緒に自宅を使うのは、何日経っても妙な違和感が拭えない。

 かつて私には家族がいて、確かに過ごした時間がある筈なのに、今はもう親の顔や思い出は曖昧模糊として、記憶に確かな形を取って残っているのはまどかの笑顔と彼女の声と、出会いと約束、それに彼女の涙と死だけだった。

 

 部屋が少ないと、二人暮らしで別の部屋を使えない。だからベッドを二つにして同じ部屋で眠るけれど、居心地は決してよくない。

 線引きはしていても大体の物は兼用するしかないのも、あまり好ましくなかった。

 

 この部屋は本当なら一人で住むはずの場所なのだ。殺風景で、他の人の部屋に比べれば魅力はないけれど、それでも私一人の住処としては十分だった。思い入れも少しはあって、だから余計に二人暮らしは心地良くない。

 

 例えば、私の使っているカップがいつの間にか使われて、乾燥機に入っている事が稀にあった。住んでいる者が二人居ると、知らない間に物の位置が変わるくらいはよくある。それもまたあまり良い気分ではなかった。

 

「なぜ僕を見るんだ」

「見てはいないわ。あなたこそ私を見てどうしたいの」

「僕も見ていないんだがな」

 

 声の刺々しさに辟易させられるが、それは彼も同じだろう。私の返答に不機嫌そうな顔で答えている。

 私達は同時に己の髪をかき上げ、同時に目が合い、同時に目を逸らす。

 焔の顔色は悪くないが、やはりどうしても好きになれない顔だ。

 

「睨み合いはやめましょう、不毛だわ」

「ああ」

 

 私達はパジャマ姿になって向かい合っていた。

 私と違う焔の服は、しかし同じ色合いだ。そんな所まで同じだから、余計に目についてしまう。

 腹立たしい事に彼の欠点は私の欠点で、私の愚かさは彼の愚かさ。だから今もこうして、まるで歩み寄りというものを知らない。まどかと過ごしている時はお互いに遠慮と配慮というものを知っているのに、二人だけになると途端にこの有様だった。

 

「それで、一度情報を整理したいんだったな」

「ええ。もうワルプルギスの夜も近いから」

 

 このままでは話の進みが悪いと分かっているのだが、出来ないことは出来ない。

 そんな時、端末から通知音が鳴った。私に届いて、直後に焔へ。その音でまどかからのメッセージだと分かる。

 即座に確認すると数秒後には返信し、端末をベッドの上に置く。

 

「まどかはもう寝るらしいわ」

「ああ、僕の所にも来た」

 

 漂う空気が柔らかになり、二人揃って勝手に浮かんだ笑みを抑えた。

 

「……あの子に連絡を貰えるのって、なんだかとても嬉しいわね」

「そうだな。本当なら、僕達はあの子におやすみを言って貰える様な立場じゃないのに」

 

 まどかから連絡が来たという事実は私達の間に漂っていたもやを晴らし、見事に消し去った。

 元気そうなメッセージには可愛らしい記号も入って、彼女らしい雰囲気が文面からも読み取れた。

 彼女が私に勇気をくれる。改めて焔に向き合うと、彼もまた真剣な面持ちで応えた。

 

「それで」

「ああ」

 

 一言で切り替え、私の知る情報を告げる。

 

「……美樹さやかも佐倉杏子もソウルジェムは持っている様ね」

「僕は二人が巴マミに接触している所を確認した。少なくとも繋がりはある様だな」

「だけど、彼女達が魔法少女として活動している痕跡がないわ」

「その通り。僕も見ていない。というよりも、僕達二人以外の魔法少女の活動が一切確認できなかった」

 

 それこそが、私達がまどかとほとんど同じ時間に就寝する理由だった。

 最初はもっと遅くまで、魔女や魔法少女の動向を探っていた。しかし、それはもうやめている。どちらも、まるで見かけなかったからだ。

 今だって近くに気配がないかは気をつけているが、完全に無駄に終わっていた。

 

「魔女の発生の痕跡もなく」

「インキュベーターも見かけないわね」

 

 同時に腕を組み、小さく唸る。

 時間的にはもう半月以上を過ごしているのだ。いい加減にまどかへ接触しようとする筈だけど、まだ奴の声も聞いていない。

 あの少年とも少女ともつかない声は思い出そうとすればいつでも頭の中に浮かぶ。聞いている時は警戒しか抱かないのに、ずっと聞かないのはそれはそれで危機感が沸々と浮かび上がってくる。

 

「明らかに異常よ」

「だが、もっと大きな異常がある」

「それは?」

「……気づいているだろう。僕と君が同じ人間なら、僕が気づいた事に君も気づいている筈だ」

 

 それともまだ気づかないほど愚鈍なのか、と、言葉にされなくても伝わってくる。

 不快感がこみ上げたが、吐き出さずに飲み込んだ。

 

「私達のソウルジェムが、濁っていない事かしら」

 

 焔が頷くのを見ながらも、ソウルジェムをつまんで眺める。

 綺麗な紫で、穢れはない。ソウルジェムが異常を起こす様子はなく、いつも通りに光っている。

 魔女が不在の見滝原でこんなに時間を過ごせば、浄化できない以上はもっと穢れを溜めていないとおかしい。

 しかし、結果はこの通りだ。

 

「魔法を使っていないから、という訳ではないんだろう」

「そもそも、魔力無しでは私達の身体能力は高くないもの」

「そこだ。魔力を扱っているのに、ソウルジェムに何の反応もないのは明らかに異常だ」

「ええ」

 

 魔女は倒さなければ魔法少女は生きていけない。

 にも関わらず私達は何ら問題なく今まで生きている。

 そして、この街に魔女はいない。魔法少女は居るけれど、グリーフシードを求める姿も、魔女を退治している姿も一度だって見なかった。

 

「前提が違うのかもしれないわ。この世界にとっては私達の知っている法則性が異常なのかもしれない」

「この世界は、魔法少女という理自体が僕達の知るものとは異なるのかもしれない、と?」

「そこまでは分からないけど……もしも、違うというのなら……」

 

 魔法少女が戦う必要がないのなら、私が望み願っていた全てが、この世界では何もせずとも叶うのではないか。

 

 いや、駄目だ。

 

 頭の中で首を振った。そんな願望で物を見てはいけない。どうやら焔もそうだった様で、「そんな訳がない」と呟いている。

 

「だとしても、真実を確認するまでは気を抜く訳にはいかないだろうな」

 

 彼は私と同じ様に世界が見えている。

 

 分かっている事だったが、やはり彼とは考え方を完全に共有できた。

 誰かに自分の目的や行動を伝え、分かって貰おうとするのが如何に難しいのか。私はよくよく知っている。それで幾度も失敗してきたし、他者に物事を伝える事にも限界があった。

 しかし、彼だけは違った。

 私は彼の考えのほとんどが読み取れる。言動の全てが好きではなかったが、絶対的に、まどかの事を助けたいという気持ちの上では私と一致していた。

 

「……私達は歩み寄る必要なんてないと思っているけれど、あなたは?」

「僕も同じだ。君と仲良くしたい訳じゃない」

「けれど、ええ、もう少しくらいは協力関係らしくしましょうか……今の状況を乗り越える為にも」

「……そうだな」

 

 同時に頷いて、それだけで終わり。握手などは必要なかった。

 たったそれだけだったが、私達の間にあった距離感はほんの微かに縮まって、嫌な空気は多少なりとも薄まっていく。

 

「ところで、あなたは」

「何かな」

 

 互いの態度が軟化した為に、問いかけやすくなった。

 

「あなたは、まどかの家に泊まった事はある?」

「……? どうしてそんな事を急に」

「私とあなたの経験がどれほどまで同じか聞いておきたいの。肝心な部分が同じなのは会った時に話したけれど、それ以外の部分は聞いていなかったでしょう」

 

 目を瞑って大切な思い出の一つを頭に浮かべる。今でも鮮明で、切ないくらいに恵まれた記憶。

 

「私はまどかの家に泊めて貰った事があるわ。ずっと前だけれど、あの子の部屋はぬいぐるみが幾つもあって凄く可愛らしかった」

 

 まどかは私を歓迎し、食事の時は私をご家族の輪に加え、就寝時間になると同じベッドで手を握ってくれた。

 あの日ほど安らいだ気持ちで眠った経験なんてそうはない。だから、眠そうな顔をした彼女の顔まで綺麗に覚えている。やや目を細めて、眠気でふわふわとした声で私と話をしてくれて、睡眠はこんなにも幸せなのだと教わった。

 

 だが、彼の場合はどうだろう。

 彼が私と違う点を一つ挙げるなら、それは性別だ。

 異性の家へ泊まるのは中々抵抗がある筈で、私ならクラスの男子の家に泊まるなんて幾ら仲が良いとしても考えられない。

 何より、まどかのご家族が気にするだろう。

 

「どうなのかしら」

 

 もう一度問いかけると、彼はしばらく黙り込み、私から顔を逸らした。

 

「……ある」

「あるの? ……あの子にはご両親も居るのに?」

「僕も不思議だと思うよ。よほどまどかが頑張って説得してくれたのかもな」

 

 恥ずかしがっている口ぶりではない。本人にはまどかの家へ泊まる事には抵抗がないらしい。

 まさか、と前置きをして尋ねた。

 

「一緒のベッドで寝たの?」

「その様子だと君はそうだったらしいな」

「答えて」

「……僕もだ。僕も、まどかと同じベッドで並んで眠った」

 

 やはり、照れているとは思えない。

 

「……恥ずかしくはなかったの」

「自然と、まどかが一緒に寝ようって誘ってくれたんだ。その時はあまり不思議に思わなかったんだが……」

 

 彼は俯いた。

 自分の感情を自分でも不思議に思っている風だった。

 そんな態度だからこそ、余計に気になってしまう。かつての彼とまどかは、一体どんな関係だったのか。

 彼自身の良し悪し以上に、それを考える方が恐ろしい。

 

「……あなたとまどかとの関わり方について話をしておきたいわ」

「構わないが……何か特筆すべき事があるのか?」

「ええ、あなたは自覚していないのでしょうね」

 

 何せ、異性であるまどかと添い寝に臨める精神性だ。

 その点だけは私とは全く違う人なのではないか。

 

「実はね、まどか達とお昼ご飯を食べた時、こんな話になったわ」

 

 数日前の記憶を参照しながら、私は必要な点だけを語り出した。

 

 

 




鹿目さんの誕生日の為次回は3日ジャストとなります


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07 彼女が抱く彼への想いの恐ろしさ

「ほむらちゃんは、自炊できるんだよね」

 

 空になった私のお弁当箱を覗き込みながら、まどかは関心の声をあげていた。

 似たような話は流れで幾度かあって、私はその度にこう返す。

 

「ええ、だけど貴女より不器用だから、あまり上手く行かないわ」

 

 まどかと二人きりなら、大体は「そんな事ないよ」か「一緒に練習してみる?」と返ってくるのだが、この日は違った。 

 

「へぇ、なんか意外。あんたって何でも器用にこなせると思ってた」

「美樹さんは私を過大評価しているわ。取り繕っているだけで、私はそんなに出来る人間ではないもの」

 

 美樹さやかにこんな事を口にするほど、己の弱味を見せる事に抵抗がなくなっていた。

 学校の屋上の端。そこには程よく座れる場所があり、私達はよくここでお昼ご飯を食べていた。

 ここに巴マミは居なかったが、杏子と美樹さやか、何よりまどかと食事を囲む。それもまた幸せな日々の一欠片だった。

 

 美樹さやかが私の顔を見つめている。

 彼女の青い瞳には、私への敵意はもちろん、悲しみと絶望の色もない。呆れた様子で見られるのは、中々に引っかかるものもあるけれど。

 

「自己評価が低すぎるんじゃないの? 何でもじゃなくても、文武両道って感じだしさ」

「運動は……別として、勉強の時間をちゃんと取っているだけよ」

「ええー? 本当に?」

「少なくとも、私の場合は学問に才能がある訳ではないわ。昔は何一つ分からなくて、本当に困った事があるから……その分だけ勉強しただけよ」

「でもさ、やろうと思ってちゃんと時間を取れたら苦労しないっての。それも十分に才能なんじゃない?」

「ほむらちゃんは努力家なんだね。わたしなんか、やらなきゃって分かってるのについつい遊んじゃって」

「そ、そんな事は……ないわ」

 

 まどかに褒められて言葉に詰まってしまった。

 その反応を見て取った美樹さやかが楽しげに笑い出し、私の頭を撫で始めた。

 

「な、なに?」

「なんだか、まどかが絡むとあんたって妙に可愛くなるよね。いつもと違って素直っていうか」

「そんな事はないわ。頭を撫でないで」

「ええっ。まどかにこの髪を独占させるつもり?」

「独占って……」

 

 私が戸惑っている間に彼女は満足げな調子で私の髪に指先を通し、後頭部から耳にかけて線を引くように這わせた。

 

「こーんなに触ってて気持ちいい髪なのに、まどかにしか触らせないなんてもったいないなー」

「今、あなたが触っているじゃない」

「まあ、そうだけど」

 

 くすぐったいが、好意的な優しい手つきで、悪い気分ではなかった。

 しかし、一目は気になる。この屋上は他にも利用している学生がいて、恐らく一年生だろう女の子達がこちらを眺め、何かをひそひそと話し合っていた。

 そんな反応を見せられると、急に今の状況がひどく恥ずかしくなってくる。

 

「んー……」

「まどか?」

「えっと、さやかちゃんはじっとしててね」

 

 まどかがゆっくりと立ち上がり、美樹さやかの後ろに回る。そこまでは見なくても分かった。

 振り返った時、彼女は美樹さやかの頭を鷲掴みにしていた。

 

「ふぇあっ!? この、まどかっ」

「えへへ。さやかちゃんの髪だって、ほむらちゃんと同じくらい気持ちいいよ」

「え、ちょっと、ううっ」

「さやかちゃんの明るい所が出ていて、わたしは大好きだなぁ」

 

 わしゃわしゃと髪を撫でると、すぐに腕を回して彼女を抱きしめる。

 思いきった風に彼女の肩へ頭を乗せ、青い髪を可愛い可愛いと口にしながら愛撫した。

 どこか悪戯っぽい声で美樹さやかの名前を呼んでいて、その面持ちはとても眩しかった。

 

「こ、こらっ、そういうのはあたしがやるのっ」

「ひゃっうぅ」

 

 反撃とばかりに頬ずりを仕掛けられ、今度はまどかがされるがままに気分の良さそうな声をあげた。

 

「まどかのほっぺたはもちもちで気持ちいいねっ」

「えへ、あははは、あはっ、くすぐったいよぉ」

 

 その間にも私の髪は撫でられ続けていた。

 美樹さやかの手つきは勢いに反して丁寧で、髪を傷めるような意図はない。常日頃から友達とこんな風にスキンシップを取っているのか、彼女の手が離れる最後まで不快感は覚えなかった。

 ついでとばかりに頬をつつかれた。それも嫌な気はしなかった。

 

「よし、ほむらも頬ずりやる?」

「遠慮しておくわ」

 

 断っても気分を害した風ではなく、「だよね」と面白がる風な声が返ってきた

 さほど強い喜びはないが、彼女の声の明るさが私にまで伝わってくる。

 一番端に座った杏子が呆れた風に牛乳を飲み干し、紙パックを畳んで片付けていた。

 

「なにやってんだあんたら……」

「お、杏子の頭も撫でてやろうかあー?」

「いや、そういうのはいいって、本当に。恥ずかしいし……」

 

 しかし、彼女の視線は美樹さやかから外れると、私の髪へと向かう。

 

「ところで、そんなに良い感じなのか……その、ほむらの髪」

「……気になるなら触っていいわよ」

「お、おう」

 

 それくらいならと許したけれど、彼女はやや遠慮がちに私の髪の先端に触れた。

 魔法少女になると髪が固まって纏まりが強くなるのだが、今はそういう事は無い。ただの長い髪だ。

 しかし、彼女は何やら関心の声を上げていた。

 

「あんた、お洒落には興味ないですって顔してるけどさ、髪には相当を気合い入れてるだろ?」

「いいえ、そんな事は」

「そうか? でも、意識しないとここまで触りやすくはならないと思うけどな」

「……そういうものなの?」

「ああ。あたしも髪が長いから、知り合いにそういう所でうるさいのが居てさ、よく言われるんだよ」

 

 杏子が言うならそうなのだろう。だけど、私には最近、髪をしっかりとお手入れした覚えがない。

 まどかと一緒に居ても不快だと思われない程度の、いつもと同程度の身だしなみは維持しているが、そこまで言われる程の心当たりはなかった。

 

「でも、本当に何もしていないわ」

「そうなんだ? こんなに落ち着く良い髪なのに」

 

 まどかは私の背後を取って、髪の一房を持ち上げていた。

 私を三つ編みにしようと髪を弄っているのがよく分かった。

 

「……やっぱりね」

 

 そんな私達を眺め、美樹さやかは納得したと言いたげに頷いた。

 こちらの視線を受けた彼女は口元を穏やかに緩めると、瞳を慈しむ様に光らせる。

 

「さやかちゃん?」

「二人とも、もう親友って感じだと思っただけ」

「あはは……なんだか、ほむらちゃんとは最近出会ったばっかりっていう気がしないんだよね」

 

 まどかは、私や焔へいつも言っている事を口にした。

 手元に髪留めがない為か、まどかはほんのり残念そうに私の髪から離れ、私の隣へと座り込んだ。

 ここまで深く望まれているのなら、いっそ三つ編みに戻してもいいかもしれない。あれは私の過去の象徴で、ずっと続けるのはあまり好ましくない。今の自分の髪型じゃないから、違和感もある。

 けど、私なんかの拘りとまどかの好み、どちらを取るかなんて明らかだ。ワルプルギスの夜を越えられたら、そうしようかと思う。そこに私が生きる余地があるのだとすれば。

 

「確か、ほむらの弟とも仲良いんだよな?」

 

 私が黙っている間に話題は別な方向に流れていた。それもあまり嬉しくない方へ。

 

「うんっ、焔くんは良い人なんだよ。あれ、でも杏子ちゃんもよく話してるよね?」

「まあね。まどかほど仲良くはしてないけどな、他の男よりは話が進めやすいよ」

 

 そう言いつつ、杏子はどこからか丸くて小さいチョコレートを取り出し、透明の包装から口に放り込んでいた。

 さりげなく私達に一つずつ渡す所が、今の彼女らしい。

 貰ったチョコレートを口にしてみると、外は固く、中はとろけていた。授業前に口をきちんと洗わないと、後で口に残ってしまいそうだ。

 

「うん。わたしも、焔くんは話しやすいと思う。ほむらちゃんと同じで昔から友達だった様な気がするし、話しかけやすいよね。それに凄く優しくしてくれるんだよ」

「あたしにはそこまで優しくないけどな。いや、むしろ無愛想……ま、そこは色々あるか」

 

 肩を竦めた杏子の顔は、いつもの気丈な彼女のままだ。

 焔の交友関係は私とそう変わらないのか、杏子とは傍から見ていてお互いに良い関係を構築できている。

 しかし、互いに線引きがあるのか、まどかほどに距離感を詰めた付き合いには見えなかった。

 

「あたしの場合は、そこまで話さないなぁ。まどか越しで時々、って感じ」

「そうね、あなたは彼と関わりが薄いもの」

「まあね-……」

 

 さっきからまどかを捉えていた瞳の柔らかな光が、焔の話題になるとより強まった様に見える。

 

「さやかちゃん?」

「いや、まどかが男の事を楽しそうに話してるのってさ、なんか、感慨深いと思って」

「え、ええっ? 変かな?」

「やっとまどかの魅力が分かる男が出てきたんだと思うと、あたしはちょっと複雑だなぁ。まどかの良さなら彼よりあたしの方が色々知ってるつもりなんだけど」

「あ、ありがとう。でも焔くんとはそういうのじゃないっていうか……」

「つまり無自覚なんだね」

 

 ははあ、と声をあげ、まどかへ顔を近付けている。

 

「まさか、まどかとここまで急接近する男が突然現れるなんて。高校か大学までは、まどかの青春はお預けだと思ってたんだけど」

「も、もう、違うってばぁ」

「ええ、そうよ、美樹さやか。違うわ」

 

 思わず口を挟んでしまって、一瞬だけ場の空気が悪くなった。

 本当なら喜ぶべき事ではある筈だ。まどかを大切にしてくれる別の誰かなら私もきちんと喜びに浸れるのに。

 

「ああ、ごめん。いやね、まどかにも恋の時期が……って、あたしが知らない所で男を作ったりしないよね?」

「し、しないよぉ」

 

 顔を赤くしながら否定するまどかの対応を、美樹さやかはぱっと輝くような笑みを浮かべて受け止めた。お陰で空気は元の明るさを取り戻す。

 そして柔らかい声を漏らしながら、人差し指をまどかに向ける。

 

「早く行動しないと、他の子に持って行かれちゃう……ぞっ、と」

「あう」

 

 額を軽くつつかれて、まどかは小さな声をあげた。

 

「さやかちゃん」

「ふふっ。頑張りなよー?」

 

 どこか寂しげな笑い声に、その場が少し静かになった。

 しばらく、誰も言葉を発さない。沈黙を破ったのは杏子で、彼女は悪ぶった風だった。

 

「経験者が言うとさ、説得力があるよな」

「う゛っ……」

 

 わざとらしく胸を押さえ、美樹さやかは「そうだけど」と不満げに息を吐いた。

 

「そういう杏子はどうなのよ」

「あたしはそんな予定はないし、相手も居なきゃ興味もねえ」

「むぅー……だってさ、しばらく安心だねまどか」

「え、ええっ?」

「彼と仲良い女子って、ほむら除くとまどかと杏子くらいだし。ああ、学校外だとそこの所どうなの? 前の学校で彼女が居た、とか」

 

 私に話が飛んできた。

 交わされた言葉から私の知らない情報を吟味しつつも、髪をかき上げる。

 

「私に聞かれても困るわ。恐らくあなた達以外に親しい相手はいないと思うけれど」

「……本当に?」

「ええ、疑っているのかしら」

「いや、別にそうじゃないけど」

 

 美樹さやかは何か言いたげだったが、どう聞かれても困る。

 私は本当に、焔の事をあまり深く知らない。

 

 ほとんどの時間をまどかと共に過ごしている関係上、私の知らない交友関係が生まれる余地は非常に少ない。

 彼の過去は分からなくても、私と同じなら恋愛経験の欠片すらなかった筈だ。

 その事実を口にすれば、話が更に大変な方向へ燃え上がりそうなので、言及はしなかった。

 

「やっぱりあんまり仲良くないんだな。弟は大事にしないと後で後悔するぜ?」

 

 さもちょっとした冗談だとでも言いたげな軽い雰囲気だが、多少なりとも杏子の過去を知る私には重い言葉だ。

 私が反応に詰まったのを感じ取ってか、彼女はもっと冗談めかした調子となった。

 

「そういえば、ほむらはどうなんだ?」

「何が?」

「いや、だから恋だよ恋。あるのか?」

 

 私には聞かれても困る質問だ。

 

「……全く縁が無いわ。それに、さっきあなたは相手が居ないと言っていたけれど、佐倉さんがその気になればすぐに彼氏くらい出来るでしょう」

「ん、あたしが?」

 

 不思議そうに首を傾げ、杏子は「まさか」と笑い飛ばす。

 だが、それを聞いたまどかが首を横に振った。

 

「わたしもほむらちゃんと同じ考えだよ。杏子ちゃんはとってもかわいいし……」

「は、はぁ? まどかはあたしのどこを見てるんだ?」

「うーん。色々かな? 優しい所も、強い所も、かわいい所も、みーんな杏子ちゃんのいい所だよね」

 

 まどかの言葉を聞く中で、杏子は顔を赤らめて下を向いた。

 

「確かに、まどかの言う通りね。あなたに頼りたいと思う人も、あなたに頼られたいと思う人も必ずいるわ」

「お、おい。ほむらまで何言ってんだよ」

「私は事実を言っているだけ」

 

 追撃をかけると、杏子が魔女に殴りつけられたような顔となる。

 

 彼女に魅力があるのは事実だ。

 こんな私と手を組み、時には戦友のような関係にもなれるのだ。必ずしも心が広い人ではないかもしれないが、決して狭量ではない。

 

 語気は強いが優しさを持ち、顔立ちは格好良く、あんなに食べているのに体も引き締まっている。

 何より、恋の相手として考えると、沢山の苦難に耐えられる心の強さは魅力的に映る筈だ。性格もどこか頼れる所があって、きっと惹かれる人は多いだろう。

 

 私しか知らない部分を取り除き、一般論ではっきりと伝えると、彼女はふるふる震えて睨んできた。

 

「だ、大体な、何が縁が無い、だよ。あんただって十分に縁があるだろ。目で追ってる男くらい何人か居るだろうが」

「仮にそうだとしても、私が好意に応える理由はないでしょう」

「あたしにもねえよ。まったくっ!」

 

 ぶっきら棒に応えつつも、まどかの「杏子ちゃんはやっぱりかわいいね」という声を耳にすると、大きく顔を逸らした。

 

「ほむらちゃんは、ラブレターとか貰った事はあるの?」

「……いいえ、今の所はないわね」

 

 実はある。記憶をひっくり返せば、そんな事があったと微かに思い出せた。

 だが今の時間軸ではない。あの時だって、応える気はほんの一欠片ほどもなかった。

 

「そうなんだ? 意外かも」

「転校してきたばっかりだからでしょ、もうちょっとすれば来るんじゃないの?」

「あっ、そっか。そうだよね」

 

 うんうん頷きつつ、まどかは照れた調子で微笑んだ。

 

「そろそろ、まどかも貰えるかもね?」

「嬉しいな。わたしも一通くらいは欲しいの」

「今の時代にあえて紙で送ってくるっていうのも悪くない感じだし、ちょっと欲しくなるよね」

 

 それにしても、と美樹さやかが呟く。

 

「あたし達の中で彼氏が出来たのは仁美だけかな。次はまどかかもしれないけど」

「えっ、ええー?」

「アハッ、冗談冗談」

 

 今度はまどかの髪を愛でる様に触れると、くすぐったそうな反応を楽しんでいた。

 髪留めとなっているリボンの先から髪の分け目までゆっくりと手のひらを進め、それを何度か続ける。それから、手のひらをまどかの手の甲に乗せると、弱く握った。

 

「ね、まどか」

 

 美樹さやかの表情に優しさがこもった。浮ついた楽しげな雰囲気すらも消えて、ただただ柔らかな微笑みでまどかを捉えていた。

 私のよく知る姿とは違う。

 

「ん? さやかちゃん?」

「楽しみなよ、色々とさ」

「え、ええっと……うん?」

 

 明らかに上手く伝わっていない。が、説明を追加する気はないらしく、意味深げな笑みを浮かべて話を終わらせた。

 

「さてっ! そろそろ戻りますかっと」

 

 美樹さやかの声に、私達も追従した。

 そろそろ休憩時間も終わりに差し掛かっている。

 歯を磨いて戻らなくてはいけないから、あまり余裕はない。ごく自然な流れで私達は立ち上がり、食べ終わった物を片付けた。

 

 何事もなかったかの様に美樹さやかは快活な振る舞いへと戻って、そんな彼女をまどかは楽しそうに受け止めている。杏子は二人に向かって首を傾げているが、追求をする気はないのだろう。

 私は、美樹さやかの背を眺めていた。私などよりずっとまどかとの付き合いが長く深く、親友と呼べる間柄を作り上げてきた人だ。

 

「美樹さん」

「んん?」

「……いいえ、なんでも」

 

 尋ねかけて、やめた。

 

 ああ、やっぱりそんな風に見えるのだろうか。

 

 焔と、まどかの関係は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 思い出しながら、学校で話した内容を掻い摘まんで伝えると、彼は見る見るうちに顔色を悪くした。

 

「これが、美樹さやかとの会話の中で挙がった内容よ」

「……」

 

 焔の目線は下がり、私の腹部か足の辺りで止まっている。

 今にも大きな溜息の一つでも漏らしそうな面持ちで、ひどく暗い。

 だが、私の視線に気づくと微かに目を瞑り、すぐに冷静な仮面を被った。

 

「僕にそのつもりはない。見れば分かる筈」

「けど、周囲からはまどかと恋愛関係の寸前にあると見られているわよ」

「実は僕も男子に言われたが、事実無根だな」

 

 冷たい風を装っているが、ぎゅっと握られた手や震える肩は全く隠せていなかった。ある程度の反応は予想していたが、それ以上に動揺している。

 こんな時、まどかなら手を差し伸べるのだろうか。きっとそうする筈だ。友達が苦しんでいると見れば優しく抱きしめ、励ましの言葉の一つや二つくらい言ってくれる。遠慮したって逃がしてくれないだろう。

 私はやらないが。

 

「あなたは否定しているけれど、まどかとあなたの距離感は私から見ても近すぎるわ」

「……君も、かなり近いけどな」

「私の場合は友達としての範囲に留まるもの。問題は、お前、いえ、あなたとまどかの間にある物を誰しもが勘違いしているという一点よ……勘違いだと思って良いのよね?」

「もちろんだ。まどかの恋人が僕なんて、釣り合う筈がない。まどかにはもっと彼女を支えてくれる様な頼りがいのある人が似合うだろう」

 

 なら、自分とまどかが釣り合う場合はどうするのか。

 

「仮に、ええ、仮にまどかが誰かに恋をするとしても、あなただけは嫌だもの」

「まあ、そうだろう。同感だ、僕だって君とまどかが結婚するって言ったら何をしてでも止めるからな」

「冗談はやめなさい。そういう目でまどかを見た事は一度だってないわ。逆に、あなたはどう思っているのかしら?」

 

 彼は俯いたまま深く考え込んだ。顔を付き合わせていると、その表情の些細な変化がよく見て取れる。

 眉根を寄せた彼は静かに顔を上げ、私と視線を合わせた。互いの紫の瞳に、互いの顔が写り込む。

 

「君、まどかの事がどう見える? どう感じる?」

「……まどかは、まどかよ。温和で慈悲深い性格の、とても優しい友達だわ」

「僕もそうだ」

 

 頷き、それから彼は落ち着かなさそうに耳にかかった髪を撫でる。

 苦悩の見て取れる顔のまま彼は続けた。

 

「僕にはまどかと恋人になりたいとか、その……キスしたい、とか。そういう気持ちは殆どない」

「……少し、あるのね」

「殺気立つな。基本は無いと断言できる」

「……」

「そういう目でまどかを見るつもりはない。君もそうだろう」

 

 抱いていた嫌悪に似た不快感は、その言葉で霧散する。

 命より世界より何よりも大切な友達は、私にとって最愛の友達であってそれ以外の存在ではない。

 

「僕は君と同じ人間だ。同じ経験をして、同じ風に考え、同じ事をする。その場その場で判断が違ったとしても、根ざす物はまるで同じ」

「でしょうね。あなたと私は同じ人間だもの」

「だから、まどかへと抱く感情は君と同じ物になる。つまり、そういう事だ」

「……信じましょう」

 

 本当に、まどかへの恋愛感情はないのだろう。彼は私だ。こうして素直に話を聞くと、本心を口にしているのだと不思議なまでに伝わってくる。

 でも、もう一つ問題は残っている。周囲の勘違いよりも、焔の気持ちよりも、もっと危険な問題が。

 

「なら、まどかがあなたに抱いている感情は、どうだと思うの?」

 

 瞬間、焔が震えた。

 顔が一瞬だけくしゃりと歪み、泣きそうな顔となっていた。

 

「なあ」

 

 彼が身を乗り出してきた。膝と膝がぶつかって、小さな音がした。

 額が触れかけるが、同時に頭を引いて避ける。悲痛なまでに揺れる彼の両目は、ほの暗い光を宿していた。

 

「仮に、まどかの気持ちが万が一にもそれだとして……」

「……」

「君は、まどかへ答えを口にする勇気があるか?」

 

 恐怖の入り交じった声がぶつけられ、私は答えられなかった。

 何も言えずにいると、やがて彼が顔を背けた。

 

「……ごめん。君には関係のない話だな」

 

 やっぱり彼は私だ。情けないくらい弱い人間が、弱さを抑え付けているだけだ。

 

「構わないわ。本当に、あなたと私は同じね。弱くて、馬鹿で間抜けで冷血非道」

「おい」

「事実よ」

「……そうだな、事実だ」

「でしょう? 私も、愚かで、弱くて間抜けで、冷血な女だもの」

 

 まどかとは大違い。

 そう呟くと、彼は大いに同意だと目だけで応えた。

 

「私にはあなたが分かる。あなたには私が分かる。ええ、自分の悪い所を見せられている様で不快にもなるけれど……」

 彼の頬に手を当てて、顔を少し上げさせる。

「他の誰にも伝えられない苦しみであっても、私達は共有できるわ」

 

 まどかなら抱きしめてあげたりするのだろう。でも、そんな事はしない。

 肌の感触まで私と同じ。自画自賛する様で気持ち悪いけど、触り心地は決して悪くなかった。

 微かな震えが伝わって、彼がどれほどの恐怖の中にあるのかは理解した。この程度の言葉でも、少しは気が楽になるかも知れない。

 

「……助かる」

 

 彼が前のめりだった姿勢を戻すと、自然と頬から手も離れた。彼はいつもの静かな態度を取り戻し、己の耳元の髪を音もなく撫でた。

 精神状態の悪化は良い結果を招かない。例えソウルジェムが濁らないとしても、魔法少女は魂の機敏一つでどこまでも変わる。

 抱えている悩みは健在だろうが、幸いな事に今は何とか立ち直っていた。

 

「ともかく、まどかがあなたの事をどう思っているかはまだ確定していないわ。私達が自惚れているだけかもしれない」

「本当に、そう思いたいな」

 

 淡々とした中にも懇願する響きが聞こえた。

 話している間に時間が過ぎて、まどかが連絡をくれてから少し経っている。眠くはないが、そろそろ就寝する頃だ。

 

「ごめんなさい、話が長くなったわね」

「いや、いい。少しは気が楽だから……」

 

 言葉を切ると、なぜか、彼の纏う気配がより重苦しい物と化した。

 

「それに関する事だけど……一つ、報告しておかなきゃいけない事項がある」

「ええ」

 

 私の中で警告音が鳴り響き、あまり良い報告ではないと確信させる。

 彼もまた、どこか言いにくそうに体を斜めに向け、私の正面からずれた。

 

「実は、まどかに二人きりで遊びに行こうって誘われた」

 

 予想していた通りだが、本当に良い報告ではなかった。

 この流れでそんな話になるのかと、思わず彼を睨み付けた。

 

「断らなかったの?」

「……断り切れなかった」

「そう……いつ、行くのかしら」

「ワルプルギスの夜の前日だ」

 

 自分の前髪をかき上げ、額を押さえて溜息を吐く。こんなに呆れるのは人生で初めてかもしれない。

 

「そんな大事な日に、断れなかったというの」

「まどかと一緒に居すぎたのかもな。僕も素っ気なく振る舞えなくなった」

 

 堪えきれなかったのか、彼からも溜息が聞こえる。

 呆れ返っても、責める気は起きなかった。

 今となってはまどかからの好意を無碍にするのは至難だ。体も心も、まどかの希望を聞く事が使命であるかのように勝手に動いてしまう。

 それがまどかにとって不利益になる事や、あまりにも行き過ぎた願いならば却下もできる。厳しい言葉や注意だって口に出来るかもしれない。だけど、ただ純粋に一緒に居ようとしてくれる願いは断れない。

 

「どこへ行くの?」

「遊園地、だ……」

 

 彼の口から漏れる言葉は中々に重たい響きだった。

 そういった施設にまどかと遊びに行った経験は無くもない。また行けるのなら本当に嬉しいだろう。

 けど、今の状況では素直に聞ける話でもない。

 

「確認するわ。あなたとまどかの二人きりなのね?」

「そうなる。今回は二人がいいんだと、まどかが」

「……」

「……」

 

 直前の話題で持ち上がった不安が余計に増大した。

 大丈夫。あの反応から見れば、まどかは友達感覚で付き合っているだけで、恋愛関係は望まない筈。

 そんな気休めは口にする気も起きない。

 

 有り得ないと思いたいが、まどかの想いに万が一があった時はきちんと断らなければならない。結果として彼女は私達の居ないところで泣くし、とても傷付くだろう。

 そんな選択は私だってやりたくなかったし、彼もやりたくない。

 けど、その時が迫ってきている様な気がして、私達は二人揃って震え上がった。

 

 彼女の命を守る為なら平気で吐ける嘘も、こういう時は口にできない。

 ああ、自覚してしまう。

 私達は弱くなった。一緒に居る時間が私達を柔らかくしてしまった。嘘吐きでは、いられなくなっていた。 

 

「……ついていくわ」

「まどかが嫌がる」

「大丈夫よ。こっそり後を追うだけだから」

 

 まどかの邪魔になってしまうかもしれない。そう思うと、ひどく後ろめたい。

 けれど、彼に任せておくには恐ろしすぎた。

 




鹿目まどかさんの誕生日、おめでとうございます!
こうしてずっと彼女の誕生日を、彼女が普通に生きていられる体で祝い続けられる度に、来年もそうであればいいのに、と思います。ああ、本当にめでたい。

次回は4日になります。


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08 わたしのわからずや

 コーヒーカップから下りてきた二人の姿はどう見ても恋人同士のそれで、私の背筋は凍り付いた。

 焔にその気がないという確信がなければ崩れ落ちていたかもしれない。

 

「すっごい勢いだったねー! あんなに早いのはじめてだよ」

「ちょっと頑張って回しすぎたかもな。目が回ったりはしなかった?」

「ううん。焔くんはどう?」

「僕もこう見えて丈夫な方だからな、平気だよ」

 

 聞こえてきた会話が頭に響き、顔を覆いたくなる。

 この日のまどかはいつも通りに、ひょっとするといつも以上に上機嫌だ。それが遊園地で遊んでいる為なのか、焔と二人きりだからなのか、両方なのかは判別がつかなかった。

 

 ここは決して大きくはないけれど、見滝原市の中では唯一のレジャーランドだ。

 観覧車やコーヒーカップ、メリーゴーランドと一通り必要な物は揃っている。あまり大きくはなく、やや古めかしいがどれも清潔で、夜になると眩しいくらいのライトアップで彩られる。

 開園はもう何十年も前らしいのに、今もお休みの日にはこんな風に人が集まってくる。施設内には二階建ての小さな旅館もあるそうで、まどかが小さい頃に泊まった事があると聞いた覚えがあった。中にはレストランも併設されているらしいけど、私はどちらにも入った事が無い。

 

 天気は見事な快晴、いつもより日光が激しいくらいだ。人通りも多く、遊園地の利用者の半分以上は家族連れだった。

 小さい子供がはしゃいでいる姿が視界の端々に入り込んでは去っていく。手にはさっき乗ったであろう小さな鉄道のミニチュアがあって、次は何に乗ると大きな声で家族にねだっていた。私にもあんな時期があったのか、今となってはよく思い出せない。

 

 視界の中心には常にまどかがいた。

 

 赤くて斑点模様のあるワンピースに、肌色のジャケットを身に着けて、華やかな色合いのそれはいつもよりお洒落に感じられる。気合いが入っている様に見えてしまうのは、私の憂慮が生んだ幻覚だろう。

 いずれにせよ彼女と彼は二人だけで無事に遊びに出かけ、今のところは何事もなく過ごしている様子だった。

 

 そんな姿を遠目に確認しながらも、私は慣れない変装に小さく身じろぎした。

 髪を魔力で団子状に纏めて大きめの帽子で隠し、赤いフレームの眼鏡をかけて、服装は焔の男物を借りている。傍目には男の子に見えるかもしれない。

 この格好で気配を殺し、ひっそりとまどかと焔の後を追っている。

 

 他の人達の話し声と混ざるために、今の距離ではどんな会話を交わしているのかは聞き取れない。

 ただ、少なくともまどかは楽しんでいる。そして、焔もどことなく柔らかな態度を取っていた。

 アトラクションを二人で仲良く堪能し、肩が触れるくらいの距離で隣り合って歩いている。

 楽しげに話しかけるまどかと、それを聞き入れる焔。見た限りではそう感じられる。

 

 こんな状況では、話の内容を耳に入れておきたかった。もう少し距離を詰めるべきだろうか。

 帽子を目深に被り、まどかに気づかれない程度にその背へ向かって歩を進める。

 その時、突然に誰かが私の腕を掴んだ。

 

「っ!?」

「ほむらちゃんっ」

 

 一瞬ぞわりとした感覚が走った。呼び方や抑揚の付け方はまどかの物だけど、声質は明らかに別人……この清涼感のある声は、美樹さやかのものだ。

 

「ふふん、まどかの物真似。似てた?」

 

 振り向いた先で、彼女はウインクを飛ばしてきた。

 

「そんなには似てないわね」

「ぐっ……そういう所は本当に素直な奴。あんたこそ、ずいぶん珍しい格好じゃないの」

「……こんな格好をしたい気分なのよ」

「ほほう。まあ、似合ってるけどね」

 

 いつもと変わらない快活な振る舞いだけど、どこか威圧感に似たものを放っている。

 ぐっと私の腕を掴んだままで離そうとしない。

 

「離して貰えるかしら」

「……それはちょっと保留」

 

 実力行使で引き剥がそうにも、今の彼女との関係は良好で、しかも彼女の膂力は想像よりも力強かった。

 隙を窺いながらも一旦は抵抗せず、美樹さやかに身を委ねる。

 すると彼女は私の腕を引っぱり、一番近くの自販機の方角へ連れ込もうとした。

 

「あそこで話さない?」

「ちょっと、私は」

「まどかのデートについてきたんでしょ」

 

 見事に正解を言い当てられてしまった。

 口を噤んでいると、彼女は「やっぱり」とだけ漏らした。

 

「あなたこそ、どうしてここに居るの」

「あたし? あたしは普通に遊びに来ただけだよ。実は杏子を待たせてたりする」

 

 見回してみたが、杏子はどこにも居ない。

 私の反応を認めた美樹さんが「入り口の方にいるの」と補足してきた。

 

「佐倉さんはあまり、こういう場所を好む人ではない様に見えたけれど」

「ここのクレープが安くて美味しいって評判だから。ついでに来たってわけ」

「……そうなのね」

「そこで、あんたを偶然見かけてさ。目的は見ればすぐに分かったよ」

 

 見抜かれている。隠されているが、彼女の視線がどこか鋭い。悲しい事に、険のある目を向けられる方がしっくり来てしまう。

 

「……」

「その上で、あんたとちょっと話がしたいの。大丈夫、長くはならないから」

 

 振り切るのは無理だ。

 黙って、彼女に引っぱられていく。その先の自販機は傍に休憩用の座席が設けられており、今は誰も使っていない。木製の素朴なベンチといった風で、使う分には何も文句はない。

 

「さあ座って座って」

 

 私を座らせて、彼女はすぐ隣に腰掛けた。突然に距離感が狭まりすぎて、何やら落ち着かない。

 

「それで、話というのは何かしら?」

 

 早くまどかを追いかけたい。

 その一心で促すと、彼女は咳払いを一つした。

 

「……その、ほむらはさ……恋って、したことある?」

「……? どうしてそんな話を?」

「いいから」

「覚えている限りでは……ないわね。もっと幼い頃にはあったかもしれないけれど……」

「そ、っか」

 

 彼女は一度だけ頷くと私の腕を引っぱり、自分の方へ体を向けさせた。

 

「あのさ、ほむら」

 

 すう、と息を吸って、そしてこちらを見つめる。

 

「まどかのデートについて回るの、やめた方がいいんじゃない?」

「デートじゃないわ」

 

 また反射的に言葉が口を突いて出た。自分でも分かるほど重苦しい声音だった。

 

「あの二人はただ遊んでいるだけで……」

「十分デートでしょ。男子とあそこまで距離詰めたがるまどかなんて、あたしの知ってる限りじゃ初めてなんだからね?」

「恋愛ばかりが付き合いではないわ」

「だけど、まどかは彼だけを誘ったんでしょ? なら、彼ともっと仲良くなりたいんだと思わない?」

 

 否定したい気持ちが募る一方で、恐らく間違っていないと冷静な部分が告げた。

 今までは焔とどこかへ外出する時は必ず私に声をかけてくれたけど、今回は違う。

 

「そりゃあ、自分の兄さんが心配なのかもしれないけど」

「絶対にないわ。あと彼は弟よ」

「あ、ごめん……まどかを心配してるの? あんたの弟って、まどかを弄ぶような奴なの?」

「まず、ありえないわ」

「じゃあ心配いらないじゃん」

「……」

 

 反論しようもなかった。

 この心配と恐怖は、美樹さやかにも、それどころかまどかにですら関係のない私情でしかない。だから、何一つ言い様がない。

 黙り込んでいると、美樹さやかは「だったら」と顔を近付けた。

 

「少し離れて、見守って欲しいの」

 

 彼女は、私が逃げられない様に肩と腕を掴んできた。

 

「まどかってさ、今まで女子に囲まれて生きてきたの。男子と長く関わったりする事は殆どなかったし、知ってる限りじゃ恋愛経験も無い」

「……それで、何が言いたいの」

「あたしは……失恋したけど、恋してる間は幸せだったし、まどかにだって機会があれば良いと思ってる」

 

 少し間を開けてから、まどかの場合は失恋して欲しくないけどね、と彼女が付け足した。

 

「だから、そっとしてやってくれない?」

「……まどかが抱いているのが恋心とは限らないわ。美樹さやか、あなたは男女が二人きりで一緒に遊んだくらいで恋愛関係になると思っているの? 流石に判断が早すぎるんじゃないかしら」

 

 自分で言っていて苦しい物言いだった。

 本当に私がそう思っているのなら、今こうしてまどかを追いかけている筈がない。

 

「そうまでは思わないけど、あたしにも男友達くらいいるからね。あたしだって初恋は、あー……あたしの事は置いておくとして、良いきっかけになるとは思わない?」

「思わないわ。ありえないもの」

 

 なぜか信じがたい物を見るような目をこちらに向けてくる。

 こうして見ると本当に感情豊かで、物言いの真っ直ぐな所が私には明るすぎた。

 

「いやいや、見れば分かるでしょ? あんたの弟がまどかを大事に思ってるのは誰だって分かるし、まどかもかなり積極的じゃん」

「あなたは彼と会ってまだ一ヶ月も経っていないでしょう。まどかを任せて良いのかしら」

「まどかが決めた事なら文句はないよ……あと、勘なんだけどね、彼もまどかの事が大好きで、大切に思ってるのが分かるんだ」

 

 それから、彼女は「もちろん、あんたがまどかを大切にしているのもね」と付け足した。

 

「勘では話にならないわ」

 

 顔には出さなくとも、心揺らされる。

 当たっていた。少なくともこの点においてだけは。相変わらず、彼女は意外な所で鋭い。

 

「もしもそれが恋愛じゃないにしても、男子と二人きりで遊びに行きたがるなんて今までなかったから……邪魔してほしくない」

「……」

「もしもまどかにその時が来るなら、あの子にとって、これが初めての事なんだ」

 

 思わず眉をひそめてしまった。

 さぞ私の顔は無愛想だったのだろう。美樹さんがやや苛立った風に見えたが、一瞬でどこか遠い世界を見るような瞳に戻る。

 

「あたしはね、まどかには沢山楽しい事があって欲しいと思ってる。だって、あんな良い友達がさ、誰かを好きになるのかもしれないって思ったら応援したくなるでしょ」

 彼女は、私に頭を下げた。

「あんたには気に入らない事なのかもしれないけど……頼むから、まどかを信じてやって。あたしより、きっとあんたより、ずっと優しい子なんだから。まどかの為に、笑って見てあげてよ……」

 

 さっぱりとそう口にした美樹さんの顔は、今まで見たどの表情よりも優しかった。

 

 分かってる。

 美樹さんに言われなくたって、分かっていた。

 まどかだって当たり前に恋をしたり、いつかは誰かと付き合う日が来る、決して許されない罪などではない。彼女が大切な人達と引き離されるような筋合いなんてどこにもない。

 

「……言っている事は、理解できます、美樹さん」

 

 けどね、と続けた。自分の物言いが崩れてきていると言葉にしてから気づいた。

 

「彼がまどかとそういった関係になっても、良い事は無いの……彼は駄目。私は……私は認めたくない。まどかとそんな風に付き合っていい人間じゃない。そんな風な関係に、なって欲しくない」

 

 こんな愚かな返答を耳にして、美樹さんが私を睨んだ。

 この時間軸では、初めてだった。

 

「そう言うけど、じゃあ、まどかの気持ちはどうなるの? まどかがどういう風に思っていたとしても、あんたが駄目だと思ったら、駄目なの?」

「……」

 

 その通り。まどかの気持ちより自分の決定、まどかの意思より私の行動。私は最低な人間だ。ああ、もう人間ではないんだった。

 

 私だって、まどかが恋をしたのなら出来る限り力になりたかった。

 彼女の恋が幸せな形で進む為ならば、魔法の力を使う事にためらいはないのに。

 誰かに恋をして付き合って。それがどれほど尊くて得難い幸福なのかを私はよく知っている。きっと最後には別れてしまったとしても、失恋になってしまったとしても、後には素晴らしい思い出になる筈だ。

 

「私は……」

 

 まどかと幸せな関係を築けるのは、お互いに愛し合えるのは、私達じゃない。

 彼が私とかけ離れた存在なら素直に、おめでとう、って言ってあげられるのに。

 

「私はっ」

「ごめん」

 

 答えようとした所で彼女が私を抱きしめて、口を閉じさせた。

 

「ちょっと、美樹さん……!」

 

 こんな風に美樹さんが私を抱きしめるのは、初めてだった。

 まどかの手とは違って、あの慈しみの心と寄り添って励ましてくれる優しさはなかった。だけど、背中をぽんぽんと叩いてくれて、そこから彼女の思いやりが伝わってくる。

 

「あたしの言い方が良くなかった。自分の弟の事だもんね、あんたにとってはもっと重要な事なのに」

「……いいえ」

 

 ひどく申し訳ない気持ちにさせられる。

 結局のところ、この気持ちは私達の身勝手に根ざす物でしかない。まどかの意思を何一つ尊重できていないという指摘は一切合切正しくて、美樹さんの考え方こそ、まどかを思うのなら尊重しなくてはいけない。

 

 それでも、出来なかった。

 

 まどかと彼が結ばれる姿を想像すると、どうしてもひどく受け入れがたい忌避感が膨らんで、あって欲しくない、あるはずが無いと思いたくなってしまう。

 

 ソウルジェムが濁らない事に今は感謝した。

 もしも穢れを溜めていれば、まどかを守る事とは関係のない、こんな愚かしい所で命を落としていたかも知れないのだから。

 

「ほんと、ごめん」

「気にしてはいないわ。あなたが言っているのは間違いなく正しいもの」

「でも、そんな顔をさせるつもりはなかった。あんたを傷つけちゃって、ごめん」

 

 私は、そこまで言われるほどに酷い顔をしていたらしい。

 頭まで撫でられてしまい、くすぐったさから少し抵抗する。そうすると、美樹さんが解放してくれた。

 彼女はもう一度私の顔を見つめると、どこか疲れた溜息を漏らした。

 

「分かった……見に行くだけなら、もう止めないよ」

「……いいの?」

「でも、まどかには絶対に気づかれないようにね。デートを誰かに見られてるなんて気分いい訳ないんだから」

「……ごめんなさい、でも、どうしても……気になるの」

 

 彼女は一度咳払いをして、困った様に笑った。

 

「まどかの邪魔はせずに、今日の事は二人に任せるって約束してくれる?」

「……最初から、そのつもりよ」

「絶対だよ、約束」

 

 念押しに、頷いて返す。

 元々、焔が私と同じように考えているのは事前に共有しているのだから、本当なら私が陰で見ていなくてもいい。

 それでも来てしまったのは、紛いようもない私の弱さだ。

 

「ならいいよ」

「ええ。私もまどかの邪魔はしたくないもの」

 

 腰を浮かせたが、腕を掴まれたりはしなかった。

 行って良いというのだろう。黙って彼女に背を向けて、でも、私にはまだ言わなきゃいけない事がある。

 振り返り、困り顔に声を投げた。

 

「……ありがとう、美樹さん」

「あんたも、そういう素直さがいつもあればもっと可愛いんだけどね」

 

 しみじみとした呟きは聞かなかった事にして、一歩二歩と進む。

 

 この際だから、彼女達が魔法少女として活動しているのかどうかを確かめるべきではないか。

 だけど、その気にもなれず、私は黙って彼女から離れた。

 乱れた髪をかき上げて、そこに残った温かさを感じながら。



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09 ワルプルギスの夜へ

 まどかを見つけるのは意外に簡単だった。

 何となくだが、気配が分かる。まどかが無事でいるのは、姿を見なくても理解できた。

 その直感が導くままに人の間を通り抜け、彼女と焔の姿を見つけた私は、素早く人に紛れ込み、気づかれないように近づいた。

 

 遊園地の窓口の前。そこで彼女は知らない男の子の手を引いて、反対側では焔が微笑みながら状況を見守っていた。

 

 彼女達の前に居るのは、その子のご両親だろうか。まどかが確認するように男の子に声をかけると、彼は小さく頷いて親御さんに飛びついていった。

 恐らく、「大丈夫だったか」なんて母親に尋ねられたのだろう。その子はちょっとだけ胸を張り、まどかを指さして笑う。まるで、まどかが居たから平気だったと自慢するように。

 

 親御さんは子供を優しく抱きしめた後で、まどかに幾度も頭を下げた。

 まどかが慌てた様子で謙遜したように首を振っていると、男の子はご両親の手から離れ、まどかの元へ駆け寄っていく。

 目の前に寄ってきた男の子へと、まどかはしゃがみ込んで視線を合わせ、両肩に触れてにこやかに話しかけた。そうしている時のまどかは、私よりずっとお姉さんに見えた。

 

 

 しばらく男の子と何かを話してから、最後に親御さんに頭を下げて、まどかは手を振りながら窓口から立ち去っていく。

 私はその姿を追って、人の間を潜った。

 彼女達は近くのパラソルがついたテーブルへ向かい、その椅子に腰掛けた。いつも柔らかなまどかの面持ちが今はより爽やかで、彼女はその場で小さく伸びをする。

 

 聴力を強化しつつ耳を澄ませ、彼女を捉える事に集中してみると、あの鈴の音色より和やかな声が届いた。

 

「焔くん、手伝ってくれてありがとう」

「いいや。何の役にも立てずに済まなかった。まどかは凄いな、あんなに慣れてる」

「そこは弟がいるからかな……ふふっ」

 

 まどかは、思い出した風に喜びの声を上げる。

 

「?」

「あのね、誰かの役に立てるって凄く嬉しいなって」

 

 彼女の顔色は生き生きとしていて、常日頃から見せてくれる善性とはまた違う光を纏っていた。

 その心からこみ上げる感情が輝きとなっていて、この光がいつか彼女の身まで滅ぼしてしまう。そう分かっていても彼女の魂が眩しくて尊いものであると表現していた。

 

「……そうか」

 

 まどかが下を向いた瞬間だけ、焔は抑え込んだ無表情となった。が、まどかが顔を上げた時には静かな微笑を浮かべている。

 

「でも、無理しないようにな。いつでも協力するから、どんな些細な事でも相談して欲しい」

「うん。わたしが困ってる時は、焔くんが助けてくれるんだね」

「僕もほむらもいつでも聞く。まどかが困ってる時も、まどかが誰かを助けたい時も」

 

 口ぶりは真剣そのもの。

 そんな焔の顔をまじまじと見つめ、まどかは両手の指を合わせた。

 

「焔くんって、なんだか凄く付き合いやすいなぁ」

「……そうかな?」

「うんっ、クラスの他の男の子よりも身近に感じるんだ。なんだが安心しちゃう」

 

 それは口説き文句。殆ど告白だ。

 焔にはその気がないだけで、これが他の男ならまどかに惚れ込む筈だ。

 

「あんまり愛想の良い方じゃないと思うだけど、僕」

「そんな事ないと思うよ? 今もこうして、わたしと一緒に居てくれるし、沢山心配してくれる」

「……まどかだからな」

「えへへ、そう言ってくれると嬉しいなぁ」

 

 私の位置からは、二人を横から眺める形となっている。

 気づかれる可能性もあったけれど、今はまだ大丈夫だ。まどかの視線はこちらには向いていない。

 焔と過ごす時間にまどかが集中している可能性もあるが、あるいは変装の効果も少しはあるかもしれない。

 それにしても、二人の距離が近すぎる。

 

「……最初に出会った時、積極的に近づいてくれるから誰に対してもこんな風なのかと思った」

「他の男の子にやるのはちょっとやりにくくって。あ、でも焔くんもだよ?」

「?」

「誰にでもこういう風なのかと思ってた」

 

 肩を寄せてくっついて、まどかは嬉しそうに微笑んだ。

 思わずといった風に顔を逸らした彼が、私の姿に気づいた。だが、頷いてみせるだけで特に何も言っては来なかった。

 

「二人と出会ってからまだ一ヶ月くらいだよね?」

「でも、濃密すぎてまるで何年も経ったみたいだな」

「そう! わたしもそうなの。生まれる前から仲良かった気がする」

「それはまた」

「あはは、変だよね。でも本当だよ?」

 

 額に浮かんだ汗を拭くようにと、彼はハンカチを差し出した。

 まどかは遠慮して首を振るも、半ば強引に汗を拭かれている。気持ち悪いと思ってもいいのに、まどかはニコニコとしていて、どこまでも好意に満ちていた。

 

「疲れた?」

「ありがとう。でも大丈夫っ、熱い物を食べたからだと思う。焔くんこそ少し疲れた?」

 

 ハンカチをしまい込み、彼は笑みを作った。

 

「いや、体力には意外とある方だから。でも、まどかが疲れたらいつでも言って欲しいな。僕はそういう察しが悪い男なんだ」

 

 やや情けない発言にもまどかは嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうだ。

 

「やっぱり、焔くんは良い人だね。ほら、いつもわたしを気遣ってくれる」

「そんなつもりはないが」

「でも、わたしはそう思ったの。焔くんは自分が思ってるよりもずっと素直で、優しいよ」

 

 そこには確信がこもっていた。

 あまりにもはっきりとした言葉が焔に襲いかかり、彼は見事に討ち取られた。ほんのり顔を赤くして、何とか相槌を打つのが精一杯といった体だ。

 抑えきれなかった感情はすぐにまどかへと伝わっていた。彼女は破顔し、一層眩しく感情をきらめかせていた。

 

「やっぱり、家族なんだね。そういう所がほむらちゃんそっくり」

「そ、そうか。うん……確かに」

 

 同一人物だもの。

 口の中でまどかにそう告げている間に、彼女は焔の手を握っていた。

 両手で包み込み、彼を優しく引っぱった。

 

「じゃあ、もうちょっと遊ぼっか、ほらっ、行こ!」

「あ、ああ、まどかっ」

 

 彼は何一つ隠せず手を引かれ、楽しい時間に導かれようとしていた。

 どこから見ても押されっぱなしだけど、少しも嫌がっていない。むしろ喜んでいる。まどかの手を遠慮しながらも握り返している上に、口元の笑みが全く隠せていない。

 手を握ったまま、二人は次へ行こうとしている。方向から見た限りでは、観覧車だろうか。

 

「わわっ」

 

 はしゃいで、小走りだったからだろうか、まどかが何かにつまづいた。

 前に向かって倒れかけたまどかの両肩を、彼はきちんと受け止めた。

 

「あっ、ありがとう……」

「怪我はないかな?」

「うん、焔くんが受け止めてくれた、から……あ、あれ……」

 

 なぜか、まどかが動きを止める。焔に受け止められたまま、顔を少しだけ持ち上げて、じっとしている。

 

「うーん……?」

 

 まじまじと彼の顔へ視線を送り、何らかの感情が秘められた吐息を漏らしている。この距離でも分かるほどにまどかの顔色が変わっていき、それは彼女の内心を示すかのように真っ赤だった。

 私の強化した視力が、まどかの瞳に溜まりつつある涙を見て取った。

 焔とまどかの間に距離は殆どない。手を伸ばせばすぐに抱きしめられる距離感のまま、二人は見つめ合っていた。

 

「まどか?」

 

 焔が明らかに戸惑いはじめた時、まどかはとびっきり慈悲深い声を漏らした。

 

「ねえ、焔くん」

 

 彼の両手を握り、それから身体をもっと近付けた。

 密着して、二人の服が触れ合った。

 

「んっ」

「……!?」

 

 焔の悲鳴にも似た呼吸はまどかにすら届かなかったが、私には読み取れた。

 

「ま、まどか。一体、どうしたんだ?」

 

 まどかは、ひどく無防備に焔へ顔を寄せている。

 溶け合うのではないかというほどに指先を絡め、離れようとする仕草は少しもない。

 

「ほむら、くん……」

 

 対する焔はといえば、引き剥がす事はもちろん、抱きしめ返す事もできず、何も対応しないまま完全に固まっていた。

 そうしている間にも彼女達の周囲を人が通り過ぎていく。一瞥する人もいれば、特に不自然ではない物として気にも留めない人も居る。いずれにせよ、多少珍しい光景としか思われていない。

 でも私達にだけは冗談では済まない状況だった。

 

「きゅ、急にね」

 

 まどかの目に浮かぶ涙が溢れ出して、零れた。

 

「焔くんがここにいるのが、なんだか嬉しくて、すごく嬉しくなって……ごめんね、変だよね」

「……」

「会えて良かったとか、一緒に居られるのが嬉しいとか、いっぱい溢れてきちゃったの。なんでだろうね? 焔くんやほむらちゃんが転校してきてから、沢山一緒に居た筈なのに……」

 

 何も言えなくなったまま、焔は動いた。まどかがそうやって私を慰めてくれたみたいに、涙を流す彼女を抱きしめ返し、何度も何度も頭を撫でていた。

 顔色がどこかしら悪く、いつもの無感情な印象は全て消え失せている。まどかの涙にどう対応して良いのか、何を言えば良いのかすら分からないまま心の中で右往左往。

 私から声をかけるべきかとも思ったが、美樹さんとの約束もある。まどかが次に何事か口にするまでは、ひとまず我慢のしどころだ。

 

「あっ、あのね、焔くん」

 

 時間にしてどれほどだったのか、まどかの調子が戻ってきた。

 だが、感情を高ぶらせた面持ちで次に何を口にするのか、耳にする覚悟を決めるには僅かな時間が必要だった。

 焔もまた、緊張しているのが手に取るように分かる。視線が私に助けを求めている様な気すら感じる。

 告白されたらどうしよう、好きだって言われてしまったらどうしよう。そんな内心が透けていた。

 

 

「また、二人で遊ぼうね」

 

 まどかの面持ちは、雨が止んだ後の眩しい青空のような輝きを放っていた。

 この笑顔がすごく優しい物だというのは一点の曇りもなかった。

 

「うん、そうだね。私もまどかと遊びに行きたいよ」

 

 緊張感を高めすぎた反動か、焔の口調が崩れた。

 

「また二人で、という事は……ほむらは誘わなくていいの?」

「大丈夫だよ、ほむらちゃんとも二人っきりで遊ぶから、その時はわたしがほむらちゃんを独り占めしちゃう」

「あいつ、ほむらは君の物だよ。好きにすればいい」

「ええっ?」

「……いや、うん、気にしないで」

 

 二人が向かい合うと、まどかは焔の頬に手を当てた。

 それから、戸惑っていた彼もまた同じようにまどかの頬へと手を伸ばす。

 すりすりと頬を撫でられている間も、まどかは嫌な顔一つしなかった。逆にどんどんと表情が柔和でとろけた物になっていった。

 幸福そうな雰囲気が周囲まで浸透し、その喜びが人を癒やす。彼女の明るく豊かな感情の発露を感じ取れて、自分の心の冷たい部分があっけなく溶かされているのがよく分かった。勝手に私をまどかへ譲渡した焔の言も気にならなくなった。

 彼女の多幸な姿は、私の中にある何かを満たし、胸の奥に何かとても熱いものが溢れた。

 

「焔くんと友達になれて、凄く嬉しいなぁ」

 

 それから、まどかは感じ入るように呟いた。何気ない一言だったけれど、私は聞き逃せなかった。

 それは、一点の曇りもなく、清々しい友達宣言。

 当然のように焔も口を開けたままになり、おずおずと彼女の頬から手を下ろした。

 

「私と友達になってくれたのが、そんなに?」

「うん!」

 

 焔はしばらく目も口も閉ざした。

 

「……いいの?」

 

 恐る恐るまどかの反応を窺って、それからまた問いかけている。

 

「私は、貴女と友達でいていいの?」

「いいよ! 当たり前じゃない、ほむらちゃんは大切な友達なんだから!」

 

 急に呼ばれたものだから気づかれたのかと思った。 

 だけど違った。まどかは焔をそう呼んで、彼の首回りに飛びついていた。

 

「わっ……」

 

 焔は、目を見開いたまま完璧に硬直していた。

 数秒、それが続いただろうか。突然、まどかが声を上げて飛び上がった。

 正気に戻ったらしい。

 

「ぁっ! ご、ごめんね! さっきから、ほんとにどうしちゃったんだろうね、わたし……!!」

「い、いいよ。私も、嫌じゃなかったから気にしないで」

 

 調子を崩したままの焔を見つめると、まどかは手を軽く叩いた。

 

「あっ、焔くんって焦ると自分の事を私って呼ぶんだね」

「……似合ってないかな?」

「ううん! むしろ焔くんらしいよ!」

 

 まどかは、再び彼の両手を握って何度か振った。

 

「……私も、まどかと友達になれて凄く良かった。はっきりとそう思うよ」

 

 彼の心が歓喜で弾んでいる。極力抑えているが、私には隠せない。

 私もまた、喜びに浸っていたからだ。危惧がまったくの杞憂に終わってくれて、本当に良かった。少なくとも、今は。

 

 さあ、私の心配は、現状では有り得ないと確認できた。自覚のない所でも不安と恐怖に苛まれていたらしく、すっかり気楽で足取りも軽い。

 今となっては、早くここから離れなければならない。

 心配は的外れに終わり、ここに存在する自分が全くの場違いに思えた。周りはみんな楽しそうで、笑っているのに、私一人だけは何も楽しめていなかった。

 黙って、音を立てないように彼女達から離れる。幸いな事にまどかは最後まで私に気づかず、二人の声は徐々に遠ざかっていった。

 今は大丈夫だろう。彼がいれば任せていても大丈夫そうだ。

 

 

 足早に売店を通り過ぎ、すぐ傍にあるアーチ状の門から少し離れた所でクレープをかじる紅の髪が目に留まった時、私は小走りでそちらへと向かった。

 隣にはもちろん見知った美樹さんが立っており、今は互いのクレープを食べさせあって味を比べていた。全く意識していなかったが、彼女も今日は私服姿だ。

 全体的に明るい色調のシャツを着ていて、今は帽子を軽く頭に乗せている。隣に見慣れた緑のジャケットを羽織ってデニムのショートパンツを履いた杏子が並ぶと、まるで美樹さんは男の子のように見えた。

 

「ほむら」

「あれ、ほむらじゃねえか。一人か? ……まどかは?」

「一人よ。今日はまどかと一緒ではないわ」

「へえー。あんたって一人でこういう所に来る方だったんだな、意外だ」

 

 佐倉さんはまどかがここに居る事を知らない様子で、どうやら鉢合わせにはならなかったらしい。隣の美樹さんが配慮していたのかもしれない。

 そんな美樹さんは私の姿を見るや顔を僅かにしかめていた。

 

「……あんた」

「ありがとう美樹さん。貴女の配慮は杞憂よ」

「ん? 何のことだよ、ほむら?」

「私達の話よ……ええ、ええ、私達の杞憂だった」

 

 言葉に出すと安心感のあまり脱力してしまった。

 まどかは、本当に彼を友達以外の者だとは思っていない。

 言葉にしなくても美樹さんは私の言いたい事を受け取ったらしく、しばらく私の顔をまじまじを眺めると、首を傾げた。

 

「あたしへの勝利宣言?」

「……違うわ。ただ、教えておきたかっただけよ」

 

 私の答えは美樹さんに笑われてしまった。馬鹿にしているというよりは、愉快な事を聞いたというふうな声だった。

 

「んー? よく分からないけど、食うか?」

 

 私達の間に入ると、杏子は食べかけのクレープを私の口元へ運んだ。

 リンゴとシナモンの良い香りがして、ほのかにバニラの甘さも混ざっていた。

 

「……いえ、自分で買うわ」

 

 今日は食事が喉を通らなかったから、安堵で気が抜けると改めてお腹が空いてくる。目の前のクレープはとても甘くて美味しそうだった。

 美樹さんが言うには安いとの事で、ならば私の手持ちで足りるだろう。鼻先の突きつけられたリンゴが離れていく所を見ながら、財布の中の小銭と相談した。

 お店は向かい側の道にあって、連なる小さな建物の中の一つに入っていた。黒く塗り潰された店構えの上には名前とクレープが描かれ、カウンター下にはショーケースのようにサンプルが並べられている。額縁に入ったメニュー票を何人かが眺めていて、どれが美味しそうだとか、どれがかわいいだとか語っていた。

 その奥で忙しそうにしている白い制服姿の店員と一瞬だけ目が合った。私をお客だと感じ取った様だ。

 

「じゃあさ、あたし達の買ってない味を頼んでくれる? 三人で食べ比べするっていうのはどう?」

「分かったわ、そうしましょう」

「ああ、あたしはラズベリークリームで、杏子はリンゴとカスタードだから。それ以外でお願いね」

「ええ……選んでくるわね」

 

 クレープを買いに行こうとした所で、私を見た杏子が目を丸くした。さらに私と美樹さんへ何度か視線を移し、「へーぇ」と声を漏らす。それ以上は何も言われなかったが、どこか弾んだ声に聞こえたのはきっと勘違いではないだろう。

 

 私だって、今の状況に感じる物はある。

 魔法少女が絡まなければ、人と歩み寄るのはこんなにも簡単だったのか。

 軽やかな気分のままで、私は目の前のお店に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

「……ただいま」

 

 彼ははじめて、私に帰宅の言葉を告げた。

 クレープを食べてすぐに帰った私と違い、彼が自宅に戻ったのはもうしばらく後。まどかの門限の時間よりやや遅いが、夜中というような時間ではない。

 

 玄関から姿を現した彼の姿は一見普段と変わらないが、心なしか疲れを漂わせている。

 それでも全身から溢れる幸福そうな気配と、隠しきれない緩んだ表情を合わせれば、彼とまどかの時間が良い物で終わったのは明らかだった。

 

「お帰りなさい……まどかは」

「家まで送った。最後まで私、いや僕に優しくしてくれたよ」

 

 弾んだ声音を抑える努力をしているのか、私には判別ができなかった。

 

「……楽しかった?」

「もちろん。君が居なくなった後、観覧車に乗って夕日を見たんだ……あんなに綺麗な夕日は、いつぶりに見たかな」

 

 胸を張ってそう口にしている。

 それは、誘われなかった私に見せつけているのだろうか。他の人とまどかが一緒に居ても特別な感情は浮かばないのに、彼ばかりは気になってしまう。

 

「……良かったわね、まどかが友達だと思ってくれて」

「そう、だな」

 

 瞳は今も潤んでいて、明らかに泣いたのだと分かる。

 いつ泣いたのか気になった。まどかの前で泣いたんじゃないかと心配だった。

 けれど、見ないふりをした。ここからは、そんな話をする時間ではないから。

 

「明日に備えましょう」

「ああ、絶対に超えよう」

 

 私達は、どちらからともなく握手を交わした。

 明日にはワルプルギスの夜が来る。

 前日がこんな形で終わったのは、私にとっても焔にとっても幸いだった。

 もはや杞憂も心配の欠片も残っていない。今日に至るまで、まどかが落ち込んだ姿を一度も見なかった。それがただただ嬉しくて、泣いてしまうくらい幸せな一ヶ月だった。

 

「もし、どちらか片方が命を落としたら」

「ああ……その時は」

 

 後を託す。自分以外の誰にも託せないこの想いと決意を、片割れに。

 どちらも命を落とした時と、ワルプルギスの夜を倒せなかった場合の対応は口にしなかった。そんな事は言わなくたって同じ気持ちだろう。

 

 次の時間軸に私が二人居るという保証はない。いや、希望的観測を抜きにすれば、次はない。

 本当の意味で共闘できるのは自分自身だけで、この機会は逃せない。

 何としても、超えなきゃいけない。まどかの生きている明後日はその先にしかない。

 まどかの未来がそこにある。この確信がある限り、私達はどこまでも頑張れる。

 

 決して折れず、諦めず、ただ彼女の未来が明るい物になるように。その為に私達は生まれたのだから。

 

 いつもより身軽な体を前に進めながら、私は心にそう刻み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜も明けた頃、私達は自宅へと戻った。

 窓からは既に光が差し込んで、もうしばらくすれば早朝と言ったところだろう。最近は一晩中起きている事も少なくなったので、魔法少女なのに寝なかったくらいで疲れている。

 

「……」

「なぜ?」

 

 二人ともベッドに倒れ込み、ゆっくりと相手の顔を見た。

 共に寝不足の顔をして、今にも眠ってしまいそうだ。しかし、今日は学校があるので、睡眠時間はあまり取れない。

 

「……まどかと共に居られる時間が楽しすぎて、日付を間違えたのかしら」

「ない」

 

 端的な返答に、私もまた頷いた。流石にそれを記憶違いで済ませたりはしない。絶対にできない。

 一昨日の私達は全身全霊をかけて戦う気でいた。

 そんな状態で馬鹿馬鹿しい間違いはしない。記憶をどれだけ漁っても、実は別の日だったなんて事はない。

 

「これも……この時間軸の、おかしな箇所なのかしら」

「かも、な」

「別の日になったのかもしれない、わね」

 

 幾らかの可能性を思い浮かべながらも、考えは中々に纏まらなかった。

 

「今は、寝ましょうか」

「ああ……そうだな。シャワーは起きてからでいいか……」

「まどかの登校時間までには間に合わせましょう……」

 

 絶大な徒労感に包まれながら、私達は背を向けあった。

 

 ワルプルギスの夜は、来なかった。

 

 



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10 幸せそうな彼女達とあるべき姿

 ワルプルギスの夜は訪れず、私達は惰性のようにまどかとの日常を過ごしていた。

 

「水着も揃えたし、後は海へ行くだけだね」

「うん。さやかちゃんと海って久しぶりだし、楽しみだなぁ……」

「かわいい事言ってくれちゃって。あたしの方こそ楽しみにしてるんだよ?」

 

 五人で水着を買って、私達は帰路についている。空はほんのり曇っているが、十分に明るさは保っており、まどかの笑顔がよく見えた。

 見慣れたお店だったが、実際に使ったのはこれが初。並んだマネキンやハンガーに掛かった水着をみんなで見て回り、全員で似合う物を話し合って決めた。

 焔は不参加で、彼は別の日に自分の水着だけ買うそうだ。今日は一日家に居るのだろう。

 

「それにしても、この水着ちょっと派手だったかしら」

「いえいえ、マミさんなら少し大胆でも似合いますよ!」

 

 やや慌てつつも、巴マミは微笑んだ。

 

「そ、そう? そう言って貰えると嬉しいわね。でも、美樹さんの水着だってイメージにぴったりだわ」

「……夏の女、という雰囲気ね」

「だな。さやかの水着はそういう感じだ。さやからしい」

「えっ、ん、ま、まあそうだけどね、あたしも良いなって思って買ったし……」

 

 美樹さんは手に持った紙袋を持ち上げた。

 肩紐が黄色で、胸元がオレンジのビキニ。加えて水にも入れるショートパンツ。どちらも元気の良い印象を与える色合いで、満場一致で美樹さんに相応しいと結論付けられた。

 本人は派手ではないかと心配していた。確かに目立つ印象だけど、彼女が着れば間違いなく雰囲気と調和する筈だ。私を含めた周りからそう言われて、最終的には乗り気で買っていた。

 

「着るのが楽しみだね、ほむらちゃん」

「そうね、とても」

 

 水着の入った紙袋は買った時に付いてきた物で、中にはまどかが美味しいと言ってプレゼントしてくれたお茶の葉の缶もある。

 この水着は、まどかが選んでくれた物だ。

 紫色でフリルが沢山のビキニ。似合うかどうかは不安要素が残るけれど、まどかが褒めてくれたのだ。信じておきたかった。

 

「本当に……早く、夏休みが来て欲しいわ」

 

 私の呟きに杏子が身を揺らしながら頷いた。

 

「だよなー。勉強は疲れるんだよ」

「こーら、佐倉さんも頑張らないと赤点取っちゃうわよ? そうなったら私が責任を持って補修するわ。凄く厳しくやるから覚悟なさい」

「ちょ、なんでマミがやるんだよ!?」

 

 慌てて逃げ腰になる杏子の姿に、巴マミもみんなも微笑んでいる。二人の仲は決して悪くなく、喧嘩も言い争いも起きなかった。

 そう、今日は巴マミも一緒だ。最初に会った時から彼女は余裕のある雰囲気で迎え入れてくれて、欠片の敵意も向けられなかった。

 

「わたしも気をつけないと。本当に頑張らなきゃ危ないよね」

「そうだね。あたしも流石に危機感持つか……という訳で、勉強会でもする?」

「うん、良い考えだと思うわ。私の家を使ってくれて構わないわよ」

 

 まどかと美樹さんに向かって、巴マミが指を一本立てた。

 

「いいんですかマミさん!」

「マミさん、ありがとうございます!」

「ううん、私も受験勉強しなきゃいけないから、誰かと一緒に勉強できるのはちょうど良いのよ」

 

 腰に手を当てた巴マミの声音は優しく力強く、弱々しさはどこにもない。

 そんな頼もしげな姿にまどかはより一層声を明るくして、今度は私に意識を傾けた。

 

「ほむらちゃんはどうする?」

「……必要そうね、行くわ」

「うん、ありがとう! そうだ。マミさん、ほむらちゃんが来るので、焔くんも呼んじゃっていいですか?」

「ええ、弟さんが良ければ一緒で構わないわよ」

「はいっ、ありがとうございます!」

 

 それだけですっかり心配が無くなったというように、まどかは水着の入った紙袋をしっかり抱いた。

 素敵な水着を買って、彼女は見るからに浮かれていた。

 デザインはよく覚えている。赤いビキニを覆う薄い桃色の生地はフリルがかわいらしくて、彼女の柔らかなイメージをより強調するだろう。本人は自分には可愛すぎると謙遜していたが、そんな事はない。

 そこまで考えて、思わず笑みがこみ上げた。

 みんなで水着を買うという状況に浮かれて、杏子以外の四人が揃って自分では派手だと思う物を買っている。きっと、この時間が楽しくて仕方なかったんだ。

 

「……ほむらはこの間から付き合いが良くなったよな。ほら、一緒にクレープ食った日から」

「失礼ね、気のせいよ」

 

 そう言いつつも、紙袋を深く握った。

 杏子の指摘は確かだった。あの日以降、現れなかったワルプルギスの夜以降、より彼女達との距離は近づいていた。

 魔法少女としてではなく、ただ普通の知人友人として付き合えていた。美樹さんとも前より会話があり、杏子はたまに焔を連れて家に上がり込んでくる時があるほどだ。

 

「でも、確かにほむらちゃん、結構みんなの前で笑うようになったよね」

「そ、そうかしら? まどかがそう言うのなら……そうかもね」

 

 誤魔化すつもりだったけれど、まどかが嬉しそうだから認めてしまう。

 

「ほーんと、まどか大好きだよね、あんたって」

 

 美樹さんはそんな私に目をこらしていた。

 

「それは……当たり前でしょう? 美樹さんだって、まどかの良い所は沢山知ってる筈よ」

「んー……いや、分からなくはないけど」

 

 半ば同意を得られたと見て、私は深く頷いた。

 慌てた声をあげたのはまどかだ。私達に向かって首を横に振ると、ちょっと大きな声を出す。

 

「え、ええっ、わたしってそんなに凄くないよ!? 勉強はほむらちゃんに教えて貰ってばっかりだし、運動もイマイチだもん」

「でも、鹿目さんは性格が凄くいいと思うわ。親しみがあって、誰とでも仲良くできそうだもの」

「マミさんまで……」

「鹿目さんはもっと胸を張って良いのよ。私が保証する」

 

 巴マミは彼女の傍へ寄り、並び歩きながら口元を吊り上げた。

 瞳に映った色合いは柔らかだった。彼女が本当はどんなに弱くて繊細な心の持ち主か知っているのに、この力強い笑みと瞳を見ていると頼りたくなってしまう。

 今の巴マミは本当に安定感があって、それを目の前にしたまどかの面持ちは柔らかく崩れた。

 

「……はいっ」

 

 まどかの答えはほんの小さな声だった。

 頬は柔らかな赤みがさし、ゆるくも熱っぽい面持ちで目を閉じている。

 そんな顔をされたら、しかめ面や無表情なんてできない。歯を食いしばってでも抑え込んだ時とは違って、今は遠慮せずに笑えた。

 

 幸せで、得難く輝ける黄金のような日々だった。

 けど、何一つも成し遂げないままに続く幸福はひどく不安で心許ない気分にさせて、輝きをくすませる。

 明日には奴が襲来し、見滝原が壊滅するかもしれない。そう思うと眠れない日々が続いて、最近では交代で睡眠を取るようにしている。眠らなくても問題はないのだが、やや疲れた感覚は残ってしまった。

 

「マミは最近調子よさそうだよな? どうしたんだ?」

 

 杏子の疑問の声には、私も内心で同意した。

 僅かに遅れてまどかも美樹さんも興味津々で巴マミに視線を送った。

 急に四人の視線が飛んできた為か彼女は僅かに困り顔となったが、すぐに嬉しそうな表情で頷いた。

 

「あら、そう見える? 新しい出会いがあったから、かもね」

「おおっ、マミさんに出会い」

 

 何かを期待した様に美樹さんの瞳が光る。

 

「ふふ、年上の先輩なの。ちょっと街は離れているけど良い人達よ。連絡も時々は取り合っているわ」

「マミより年上かー……」

「年上なんですか!?」

「そうなの。大学生の女の人でね、スタイルが良くて、とっても綺麗な人なの……そうね、ちょっとだけ暁海さんに似てるかも」

 

 既視感のある言葉だった。確か、まどかと遊びに行った日だ。あれは確か、雑誌に。

 

「時々は、誰かの後輩でいたくって」

 

 ぽつりと呟かれた言葉が私の思考を遮った。

 巴マミの声音は低く、どこか落ち込んでいる風にも聞こえた。

 

 その時、さりげなく巴マミの手を握る者が居た。まどかだ。

 巴マミははっとした様子でまどかを一瞥し、目を細める。そして杏子と美樹さんに向かって顔をほんのりと赤くした。

 

「だから、その、恋人とか、そういうのじゃないのよ?」

 

 場が更に明るくなって、杏子の大笑いが響く。

 「笑うことないじゃない」と巴マミが膨れていたが、お構いなしだ。

 

「あんたって恋人は居ないもんな」

「マミさんは高嶺の花って感じですもんね。実はラブレターとかいっぱい貰ってたりします?」

「そ、それはっ、ええっと……い、いえ、貰ってないわ」

「嘘だろ、それ。あたしはあんたが手紙片手に浮かれてる所を見たからな」

「さっ、佐倉さん!?」

 

 柔らかな瞳で睨み付けられたくらいでは動じず、杏子は手を頭の後ろで組んで顔を逸らしていた。

 

「やっぱり貰ったことあるんですか!」

「あ、いえっ、あの、美樹さん。確かに貰ったわ。けど、私にはまだそういうのは早い気がして……でも、貰えるのは確かに……じゃなくて、そ、そういう美樹さんはどうなのかしら?」

 

 話が美樹さんへ飛ぶと、彼女は慌てて頬を掻いた。

 

「あっ、あたしですか? いやあー、あたしは一通も。全然人気ないし」

「そんな、美樹さんはとってもかわいいし、元気で眩しい子だと思うわよ?」

「そうなんです! マミさん!」

 

 まどかが深々と頷いた。

 

「ふふふっ、鹿目さんは美樹さんの事が大好きだものね」

「はいっ! さやかちゃんはすっごくいい人なんですから!」

「う、ううぅぅ……褒められるのは嬉しいけどさ、そこまで褒めなくても……」

 

 美樹さんはまどかと巴さんから褒め殺しにされてひどく恥ずかしがり、その場で真っ赤になって顔を覆った。

 そんな彼女達を杏子は一歩離れた所から眺め、鼻で笑うような素振りで参加こそしなかった。が、まどかの物言いにこっそり頷いているのが見て取れる。

 

 この場で楽しい空気を共有している事を示すために、私は少しだけ笑みを浮かべた。

 みんな、楽しそうだ。私がほとんど見た事もないくらいに。

 いつもいつも、私が踏み越えた彼女達の顔は悲壮で、それを見るのはいつも胸が痛くて。

 分かってる。他の時間軸と今は違う。今は沢山の奇跡のようなイレギュラーがあって、だからこそ成り立っているのだと。

 でも。それでも、私の行動はどれほど彼女達を傷つけ、苦しめてきたんだろう。

 

「ほむらちゃん?」

「……ううん、なんでもないわ」

 

 この楽しい時間が、本当は彼女達にあるべき物だった。そう思いたかった。

 例え魔法少女としての宿命があるとしても、こんな日々が許されないほどに彼女達は罪深い存在ではない。私はともかく、他のみんなは。

 

 いい加減、私は彼女達と話をするべきだ。

 今更に決意する。こうして行動を定めると、どうして今までそう考えなかったのか分からない。

 ワルプルギスの夜が来る前にすら、私は彼女達に協力を頼まなかった。それほどまでに愚鈍な私でも、ようやく彼女達と接触する意思が定まった。

 

 私はこの時間軸の彼女達をほとんど知らない。魔法少女としては何一つ知らない。

 

 彼女達が何を知っていて、何を知らないのか。

 仮に知らないのだとしたら、私の口から真実を告げる事も、真実を突きつける事も、もはや出来そうもない。

 

 だけど、もはや限界だ。

 

 ワルプルギスの夜が来ない原因は、私にも焔にも原因が全く分からない。相変わらずソウルジェムは濁らない上にインキュベーターは行方不明だ。

 彼女達が何らかの答えを持っている可能性に賭けなければ、後は何も手がかりがなかった。



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11 私がここにいる理由とその目的

 久しぶりに来た巴マミの家には、知らない写真が幾つか飾られている。

 中にはまどか達と写った物も多く、見るからに大切な思い出として扱われていた。

 今の彼女がどれほどの出会いに恵まれたのか、部屋の一つ一つが教えてくれている様な気がした。

 

「巴さん、美樹さん、佐倉さん、話を聞いてくれて感謝するわ」

 

 頭を下げると、彼女達は構わないと言ってくれた。

 焔は同席していない。あれが魔法少女だというのは気づかれているかもしれないが、話が厄介になりそうで避けた。

 

「まどか抜きでって事なら、何となく察しがつくけどね」

「ああ、この面子と喋りたいって事なら、理由は一つ二つしかないよな」

 

 彼女達は自分の指輪となったソウルジェムを撫でていた。

 私も、示し合わせる様に同じ仕草を見せる。

 

「あなた達……魔法少女でしょう?」

「ああ、そうだ。あんたも魔法少女だろ」

 

 杏子の指摘は特別驚くには値しなかった。

 

「その通りよ、気づいていたのね」

「いつも一緒にお昼を食べて、まどかと遊んでる所も何度も見てるんだから、あたし達だって気づくよ。当たり前でしょ?」

 

 促されるままに、三角の机を前にクッションへ座る。

 巴さんが紅茶を持ってくると、私の目の前に置く。一緒にスフレチーズケーキが付いていた。

 

「どうぞ?」

「ええ、いただくわ」

 

 見慣れたカップに口をつけると、知らない紅茶の味が広がった。

 

「……美味しい」

「良かった。これね、鹿目さんが気に入ってくれた物なの」

 

 思わず出てしまった感想を巴さんが拾う。

 それを聞くと途端にこのお茶がより美味しく感じられた。隣のケーキもフォークで少し食べてみると、クリームのように柔らかな食感の中で控えめなチーズの風味が広がって、これもまたとても心地良い味わいだった。

 心なしか、体に入っていた力が少し抜ける。

 前にまどかが言っていた。甘いって凄いと。私も同感だった。

 

「ちょっと緊張が解けたかしら?」

「はい。ありがとうございます、巴さん」

「ふふっ、いいの。暁海さんともちゃんと話をしてみたかったから」

 

 巴さんは半ば無防備で、私に対しても隙を晒している。

 ただ、そう見えていても、気を抜けないのが巴さんだ。急に撃ち殺される可能性は無さそうだけれど、拘束への警戒は続けていた。

 そんな私の感情を見て取ったかのように、巴さんはクスクス笑った。

 

「ああ、ごめんなさい。そんな風に警戒しなくても、何もしないわ」

 

 ソウルジェムを着けたまま、彼女はクッションを抱いて姿勢良く座り込む。

 

「暁海さんが魔法少女なのは、最初の頃から知っていたの。最初に佐倉さんが気づいたのよ」

「でも、あんたがどんな魔法少女なのか分からなかったからな。様子見したんだよ」

「それで、危険な事に魔法を使う奴じゃないと判断した、ってわけ」

 

 ケーキを一気に半分も頬張り、んぐんぐ言いながら食べ終えて、杏子がフォークの先を私に向けた。

 食べきれなかったケーキがまだ刺さっていた。

 

「あんた、あたし達とやり合う気はあるか?」

「少なくともあなた達が私の邪魔をしない限り、ないわ」

 

 私が本心から答えると、杏子は調子よくフォークに着いた残りを舐め取った。

 彼女がちらと美樹さんのケーキに目を向けた所で、美樹さんはケーキを皿ごと持ち上げて威嚇している。

 微笑ましい。巴さんと目が合うと、彼女は私にウインクした。

 

「ほら、人のケーキを取っちゃ駄目よ」

「いや、誰もさやかのを食うとは言ってないって」

「嘘つけ、そういう顔だったよ」

 

 美樹さんは自分のケーキを守り抜こうとしていた。

 何度か杏子へ疑いの眼を向けたが、早く食べてしまった方がいいと気づいたらしく、杏子の隣でフォークを手に取った。

 

「見ての通り、いつもこんな感じなのよ。三人揃ってお茶したり、時々は特訓したり、平和な物だわ。暁海さんとも、ぜひそうなりたいわね」

「……機会があればそうするわ」

 

 実際に参加するかはともかく、確かに良い空気だった。

 ここは時間の流れがゆったりとしていて、向かい合う彼女達には敵意の欠片すらもない。こうした関係になるまでにどんな事があったのか、踏み込むつもりはないけれど、気になった。

 

「んっ、美味しい……あんたが話の分かる奴で良かったよ。魔法少女同士で争うなんて事、やりたくないし」

「あたしはそれでも良いんだけどな」

「良くない。あたし達とほむらが敵対したら、まどかを巻き込んじゃうでしょうが」

「ええ、彼女は無関係だもの。決して巻き込んではいけない子よ」

 

 思いのほか私の声が大きく響き、三人の視線が集中する。

 お茶を口にして誤魔化したが、やはり無理があって、巴さんの朗らかな雰囲気が私に向けられた。

 

「そういう言葉が出るという事は、鹿目さんの事は本当に大切なのね」

「……」

「あ、照れてる照れてる」

「照れている訳では無いわ……」

「でも、大切なんでしょ?」

 

 じゃないと、まどかの恋愛事情にそこまで反応する筈がない。美樹さんの顔には、確かにそんな気持ちが浮かんでいる。

 彼女には私の行動を色々と見られてしまった。杏子や巴さんにも私の行動は伝わっていて、誤魔化しようもなかった。

 改めて他人に言われると恥ずかしさで顔が熱くなる。けれど、そうして私の行動の指針が伝わると、彼女達の態度はより一層打ち解けた物になった。

 

「……本題に、入っていいかしら」

「どうぞ。私達に分かる範囲で答えるわ」

 

 顔を上げ、彼女達と目を合わせる。そこにあったのは決して敵意でも疑念でもなく、クラスメイトや友達に注がれる穏やかな視線だった。

 

「幾つか聞きたい事があって来たの」

 

 話をしやすい空気を感謝してから、最初の質問を口にする。

 

「キュゥべえを、見ていないかしら」

 

 巴マミと杏子が顔を見合わせ、口元に指をあてて考え込んだ。

 美樹さんだけは少し上を見ると、「ああ」と声をあげた。

 

「あたしはもうかなり会ってないよ」

「うーん……確かに、見滝原ではあまり見ないけれど、ちょっと離れるとたまに会うわよ?」

「あれ、マミさん、そうなんですか?」

「あたしも風見野へ寄った時に見たな。話はしなかったけど、道の向かい側で走ってる所を見たよ」

 

 話を聞く限り、インキュベーターが絶滅した可能性はなくなった。

 

「……じゃあ、居なくなったという事ではないのね」

 

 胸をなで下ろした。

 まどかに接触させる気はないけれど、人の世の呪いを処理する為に必要だから居なくなるのは嬉しくない。

 

「この辺りに居ると、捕獲されたのかもって心配になるよね。いつ新種の動物としてニュースに出るか心配だったよ」

「……喋る猫っぽい生き物とか、だいぶ胡散臭いよな」

「あら、キュゥべえって動物でいいのかしら?」

「子供とか作るんですかね」

「さあ……でも、ちょっと見てみたいわね、小さいキュゥべえ」

 

 そんな物はあまり見たくない。

 

「なら、ソウルジェムの浄化について、だけど……」

 

 口を閉ざし、迷ってしまった。魔女の事や、グリーフシードの事、どれから聞くべきか。

 彼女達に、魔法少女の真実なんて教えたくはなかった。下手な質問をして本当の事に辿り着かれてしまったら、この状況だって壊れてしまう。

 それはあまりにも残酷すぎて、想像するだけで胸が鼓動を嫌に早めた。

 ソウルジェムが人の魂そのもので、穢れを溜めれば魔女を生む。こんな事に耐えられる程、人は強くない。私の胸の内だけで秘めておきたかった。

 

「どうしたほむら?」

 

 杏子の顔が近づいていた。首を傾け、私の手を取ってソウルジェムを見つめた。

 

「あれ? ほむらの所には来ないのか、グリーフキューブ」

「……いえ。来ているわね」

 

 とっさに嘘を吐いた。知らない単語だった。

 杏子はそんな私に気づかず、ソウルジェムの輝きを確認していた。

 

「ん? だよな、見滝原の魔法少女全員に配ってるみたいだし。それにしても、枕元に置かれてた時は驚いたよなあ」

「ええ、何度か徹夜で見張っていたのだけれど、気づいた時には置かれているものね」

「一体どんなサンタクロースなんですかね」

「あら、クリスマスはまだ先よ?」

 

 私が様子を窺っている間に話が逸れていった。

 グリーフキューブとは一体何なのか、音からするとソウルジェムを浄化できる物の様だけれど、グリーフシードとは何が違うのか。

 情報が足りないけれど、この流れでは詳細は聞けない。半ば賭けに近い気分で、思いきって一言呟く。

 

「……キューブ」

「ん? おいおい、魔獣の落とすアレの事だよ、名前知らなかったのか?」

「……いいえ」

 

 賭けは上手く行ったのに、また知らない単語が増えた。魔獣。

 いや、私は知っている。しかし知らない。でも、知っている。魔獣もグリーフキューブも、本当はきっと知っている。

 覚えのない単語でも、その響きは忘れられない何かがあった。

 

「じゃあ、あなた達も魔女……魔獣とは会っていないの?」

「んー。見滝原に居るとまったく見かけないかなぁ」

 

 そう答えてから美樹さんはケーキを口にして、何とも気持ちよさそうな声を漏らす。

 

「キュゥべえもそうだけど、他の街には居るんだ。腕が鈍っちまうから余所にも顔を出すから、間違いない」

「ん、だよねー。いざって時に体が動くようにしないと……そうそう、マミさんはそこで他の街の魔法少女と協力関係になったんですよね?」

「そうね、思いきって遠出してみて良かったわ」

 

 にこやかな巴さんの明瞭な声を背景に、話の内容を頭に入れた。

 分かったのは、この件が彼女達にとっても異常事態だという点だ。

 

「……あなた達の知る限り、これは見滝原市だけで起きている異常なのね?」

「そうだね。正確には、風見野の周りも魔獣はあんまり見ないけどさ」

 

 杏子の呟きで気づいたが、私達は隣町を確認していない。まどかと離れる時間が少なかったのもあるけれど、確認を怠った。

 確認する気がなかった。

 ……なぜ?

 

「原因は、何か知らない?」

 

 脳裏に響き渡った疑問を一旦振り払い、彼女達から情報を得る事に集中する。

 

「確かに、私達も見滝原市から魔獣の発生を排除している原因を突き止めようとしたわ」

「……結果はどうなったんですか?」

「全部空振りよ」

 

 端的な回答と共に、巴さんは新しいお茶を足してくれた。

 本当にさりげない仕草で、気づいた時には注がれている。私と目が合うと、彼女は落ち着きのある面持ちで返してきた。

 

「だから最近は様子見に回ってるんだよ」

「そうそう。ひとまず見滝原の平和は守られてるからね」

 

 揃ってお茶を口にすると、全員が示し合わせた風に黙った。お茶を味わいながら、今の話題について思い思いの考えを巡らせている様だった。

 やはり、彼女達にとってもこの一件は謎らしい。

 その中で私は魔獣の事を思い出そうとしていたが、単語の聞き覚え以上の情報は浮かび上がってこなかった。杏子辺りに打ち明けて、詳細を聞くのが最善手だろうか。

 両手でカップを持って水面に何となく目をやると、そこには難しい顔をした私が写っている。

 

「そういえば」

 

 ふと杏子が声をあげた。

 

「同じ時期にまどかが転校して来たんだよな」

「……まどか?」

 

 思わず腰を浮かせてしまった。

 そんな反応に、三人は一瞬目を丸くする。

 

「ごめんなさい、あの子が、転校?」

 

 尋ねながらも気恥ずかしさと共に腰を下ろしていると、杏子が快く頷いた。

 

「ほむらは後から来たから知らねーよな。まどかはあんたよりちょっと前に見滝原に帰ってきたんだよ。ちょうどその辺りだったんだ、見滝原から魔獣が消えたのって」

 

 説明を受ける内に、背中が冷たくなった。

 誰かに冷水を流し込まれたのかと思う程に寒く、震えてしまいそうだった。

 

「うーん……関係ないでしょ? まどかは魔法少女とは関係ない子で、あの時は転校生が来ても珍しくない時期だったんだから」

 

 美樹さんの指摘に杏子が頷く。

 

「まあね。でも、あたしらの周囲で起きた事と言えば、まどかの転校くらいだろ?」

「でも、佐倉さん。流石に無関係じゃないかしら。鹿目さんの周りだけじゃなくて、街全体で起きている事でしょう?」

「ま、そうだよな。悪い、今のは忘れろ」

 

 口にした杏子自身もさして拘らず、すぐに「無関係だからな」と首を振った。

 だけど、私には、魔獣の件とまどかの転校が無関係だとはまるで思えない。

 私は今日まで、本当にまどかが転校してきたという事実を知らなかった。まどかとずっと一緒に居たのに、気づいていなかったんだ。

 

「あたしも見滝原に来たのは似た様な時期だから、まどかの昔は知らないけどね」

「ちっちゃい頃のまどかはもうかわいくってさ、今もかわいいんだけど」

「鹿目さんの昔ね……ちょっと気になるわ」

「じゃあ、今度アルバム持ってきましょうか? まどかも呼べばもっと楽しいと思いますよ」

「あら、それはいいわね」

 

 話題が逸れ始めていたけれど、それは私には関係なかった。

 まどかの転校。それに気づかなかった私。

 

「っ」

「暁海さん?」

「いえ、すいません」

「そう……」

 

 そっとしておいてくれた巴さんに感謝しつつ、己の記憶を探った。

 そうだ。まどかだ。

 

 私はずっとまどかと一緒に居た。沢山言い訳をして、理由を並べていたけれど、私はまどかの傍に居た。ほとんど毎日同じ時間を過ごした。

 大切な友達と沢山の時間を共有できるのはとても嬉しくて、だから、今日まで深く考えていなかった。

 なぜ私は、まどかの傍に居る事を選んだのだろうか?

 

 自分がまどかの喜ぶ姿と優しさに甘えて、弱くなったんだと思っていた。

 けど、私達がまどかの傍に居る理由が、本当は私の弱さではないならば。

 

「すいません、私はここで」

 

 残ったお茶を一気に飲み終え、ゆっくりとクッションから立ち上がる。

 落ち着く味わいのお陰で、何とか見た目は整えられた。髪を小さくかき上げ、巴さん達に向かってまた頭を下げる。

 

「あら……もう帰るの?」

「はい。ありがとうございます」

「何か分かったのか?」

「いいえ……ただ、一度帰って考えを纏めるわ」

 

 二割ほどの嘘を混ぜて返しつつ、彼女達に背を向ける。

 考えなければいけない。私達の行動のおかしな部分について、焔と話し合わなければいけない。早く、答えを見つけなければならなかった。

 

「暁海さん」

 

 呼び止められて、足が止まった。

 振りかえると、そこには力強い笑みを浮かべた巴さんが居る。

 

「私達、時々特訓しているの。あなたも参加する?」

「……ありがとうございます。また、考えてから決めます」

「ええ、ぜひ来てね」

「それから……お茶、美味しかったです」

 

 思わず口をついた言葉を耳にして、巴さんはどこか笑みを深めた。

 彼女達と対立した時のこちらを睨む表情、絶望に苦しむ姿が一瞬だけ今の彼女達に重なって、私は顔を見ないように立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前で降り注ぐ雨を眺めていると、どこか暗い気分が息苦しさで余計に沈む。

 激しい雨は屋根に当たって音を立てていた。

 ここへ来る前は曇っていたけれど、雨の様子がなく油断してしまった。

 

「傘を忘れるなんてね」

「お互い、余程慌てていたんだろうな」

 

 外出中に降り出してしまい、私達は揃ってシャッターの閉まった建物の軒先で雨宿りさせて貰っている。慌てて鞄を片手に走っている人が前を通り過ぎ、行き交う車の数は先ほどまでより増えている。道路沿いの木々の葉からは雨水が流れ落ちていた。

 ワルプルギスの夜が来ている様子はない。ただの自然な雨が、私の前で降り注いでいた。

 あんな陰鬱な家よりも、どこか開けた場所で話をしよう。そう誘ったのだが、雨のお陰で身動きが取れない。

 雨宿りできる場所を見つけるまでに、二人とも濡れてしまった。髪から滴る雨粒が鬱陶しくて、いっそ犬みたいに首を振ってみれば飛ぶのかと試してみたくなってしまう。

 

「天気予報は見たか?」

「昨日はね。確か、曇りだった筈よ」

 

 急すぎる雨は予報なんて関係もなく、アスファルトに落ちては大きな音を立て続けた。

 その気になれば無視して通れるかもしれないが、あまり気乗りしない。

 ここへ逃げ込むまではまだ髪と肩が濡れる程度で収まったが、ぐっしょりと濡れる事を考えると、もう雨の中へ飛び込む気は無くなってくる。

 

 横目で窺うと、彼は襟元が気持ち悪かったのか、一番上のボタンを外している。

 垂れ下がった髪から落ちた水が、首を通って服の中に入っていった。不快そうに髪を触ると、疲れた吐息を漏らしている。

 

「ねえ、暁海焔」

 

 久しぶりに姓も付けて呼ぶと、この名前は喉のつっかえたような響きだった。

 

「んっ……なんだ?」

「あなた、本当に魔法少女の素質があったの?」

 

 例外的に魔法少女になれる才を持った男だと思っていた。

 だけど、彼が私と同じ暁美ほむらなら。一緒に居てこんなにも不快になるほど同じ人間なのであれば。

 私が、そんなにも特別な素質を持っている筈がない。

 誰かから奪い取ったか、与えられたか、という方が受け止めやすかった。

 

「……どういう意味だ? 僕は確かに魔法少女だけど」

「いいえ……特に、根拠があるわけではないわ」

 

 これは何の確証もない、ただの先入観だ。だから、あまり強くは聞かない。

 

「でも確かな事が一つあるわ」

 

 雨音がひどくなったから声が届きにくい。息を吸って、声量を僅かに引き上げる。

 

「私達の意思は、何かの誘導を受けている」

「根拠はなんだ?」

「あなたは自分の行動があまりにも甘すぎる事に疑問を持たなかったの?」

 

 彼は口を噤んだ。察しがついていたのだろう、驚いている身振りは見て取れなかった。

 

「まどかとはもっと距離を置いていた筈よ。間違っても毎日のように一緒に遊んで話をして、仲良くしている筈がない……例え理由があったとしても、私はそんな弱さを許せなかった」

「つまり僕達は記憶よりも更に深い所で状況を理解していて、だから、まどかへ近づいた、と」

「この一ヶ月と少しを思い返せばね。私達はあまりにも自分の行動を狭めていたわ。ええ、気づいていなければおかしかったのに」

 

 何となく足を組み、戻す。手足が落ち着かず、開いたり、閉じたり。

 考えてみれば簡単な話だった。自分らしくない判断や、何か知りもしない物に引っぱられている様な行動、どちらも時折確かに存在し、けれど深く考えてこなかった物だ。

 まどかが楽しそうに、幸せそうに笑っている姿を見るだけで深い満足感を覚えて、それ以外の何かを考えられなかった。

 

「確かに……僕達の行動にはおかしな点が多い」

 

 彼はこちらにぎこちなく目を向け、ゆっくりと頷いた。

 

「僕も、たった今気づいた事項がある」

「……何かしら」

「君は、自分がどんな魔法を使えるか分かるか?」

「時間操作」

「ああ、そうだ。僕もその筈だ。だけど、この街に来て僕達はそれを一度も使ってない」

 

 彼の言葉は全く正しい。

 同意を示しながらも、記憶を探ったが、やはりこの時間軸で時間を止めた事はなかった。魔女と戦わなかったから自然に使わなかっただけ、そうした言い訳で誤魔化すには、あまりにも強い違和感だった。

 

 すぐに魔法を試しておきたくなる。

 だが、車も人も雨の中で通っており、変身はできない。それでもソウルジェムから魔法だけを使うくらいなら可能で、己の指を眺めた。

 

「……ああ」

「やっぱり、使えないな」

 

 やはり、発動しなかった。

 分かるのだ。私達には、時間を止める力も、遡行する力もないのだと。

 力なく指を下ろし、髪に指先を通す。隣の焔も同じ仕草を取っていた。顔色はひどく青ざめて、その吐息は重苦しかった。

 

 いよいよ私達の行動が疑わしくなる。幾ら戦う機会がなかったとしても、気づくタイミングは他に幾らでもあった筈で、しかも私達の記憶すらも不確かだ。

 そして、ごく自然に焔と自分が同じ記憶を持ち、同じ事を考えていると確信している自分の存在も不気味だった。

 

 もう一度ソウルジェムを眺めてみると、この穢れのない紫色にも悪寒が走る。

 巴さん達は浄化が必要なのに、私達は違う。

 

「そもそも、これは本当に……ソウルジェムなの?」

「試しに壊してみるか?」

「……どうやって?」

 

 そこで気づいた。私達は銃を持っていない。調達していないのだ。

 私は装備品を手に入れた事がない。焔も恐らく気づいて息を呑み、「地面に叩き付ければ壊れるか」と呟いた。

 

「ねえ、焔」

 

 ソウルジェムを撫でる。わざとらしいくらいに記憶通りの手触りだ。

 

「なぜ私達はワルプルギスの夜が来ない事を知っていたの?」

 焔が何か口にする前に、理由を付け加える。

「武器を調達しなかったのだから私達は分かっていたのよ、多分ね」

 

 武器も魔法も使わず、その事に何の違和感も覚えなかった。

 ワルプルギスの夜が来ると考え、倒さなければと決意を定めていたというのに、本当は何の準備もしていない。

 戦う覚悟を決めていたというのに、戦う手段を得ようとしていなかったのだ。そんなひどい矛盾を許容していたのが、戦う必要などないのだと理解していた証拠ではないだろうか。

 

「なら、僕達の過去の記憶はどうなる。時間を戻ってきたのでなければ、ワルプルギスの夜を倒すという意思すら偽物なら、僕達は、誰だ?」

「それは……」

 

 分からないとしか答えようがない。 

 私の過去は、本当に私の過去なのだろうか。まどかとの思い出も、その時に感じた情動だって昨日のように思い出せる。しかし、それ以前の事はあまり明瞭ではない。

 前にも思い出そうとしたけれど、あの時は深く考えていなかった。あまりにも繰り返しすぎて、それ以前の事を見失ったのだと、その程度に済ませていた。

 しかし、この記憶全てが偽物だとしたらどうだろう。

 まどかが差し伸べてくれた手も、交わした約束も、彼女と共にあった思い出も、本当に私の記憶なのか。

 

 足下の水たまりへほんの微かに反射する己の顔。それはよく見ると人形のようで、手足はまるで案山子のような人間とは違う何かで出来ているように見えた。

 触れてみても、そこにあるのはただの体。まどかが沢山褒めてくれた私の体だ。だけど、化けの皮が剥がれかけているのか、己の手が己の手とは思えない。己の記憶と思考と肉体の全てが、真実味を見失っている。

 一度目を瞑って再び確認すると、そこに見えるのはいつもの自分の顔だった。

 

「……私達が、そもそも、魔法少女じゃない、としたら?」

 

 ひらめきをそのまま声に乗せると、思いのほか正解を当ててしまった気がした。

 焔は何も答えなかったが、顔色は更に悪くなっていった。

 

 魔法少女ではないとして、なら私は一体なんだろうか。

 胸に手を当てると、確かに鼓動はある。焔の手首を握れば脈が伝わってきて、けれど、私にはそれが人間の真似事としか思えなかった。

 こんな気分だというのに、ソウルジェムは穢れ一つなく光っている。そこに私の魂はあるのか。

 

「……なあ、ほむら」

「……」

「魔法を使えて、だけど魔法少女ではないもの……なんだと思う?」

 

 思わずスカートの裾をきゅっと握っていた。

 きっと、それが答えだ。

 

 どんどんと気分が悪くなって、ついには吐き気がした。喉元を押さえ、呼吸を整える。そうしなければ気分の悪さでどうにかなってしまいそうだった。

 一体何が、どんな存在がこんな真似を働いたのか、見当もつかない。一体誰が良い思いをするというのだろう。

 

 雨はまだ止まない。

 

 私達は、何も言えずに顔を覆っていた。

 まだ確定ではない。私達の全てが偽りだと確定したとは言えない。記憶に関する能力を持つ魔法少女による攻撃という可能性も考えた。が、なぜか「ありえない」と結論が出てしまった。

 インキュベーターもワルプルギスの夜も現れなくて、自分の中で行動を定めていた物が揺らぐ。戦う相手がいなくなったのは、まるで心の支えが消えてしまったかのようだった。

 涙がこぼれて頬を伝い、落ちる。わけがわからなくて、気持ち悪くて。自分がわからない。

 目的も目標も、戦う理由も疑わしくて。

 

「ほむらちゃん?」

 

 それでも、彼女はそこにいた。

 



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12 雨に唄わなければ

「どうしたの? 傘を持ってきてなかったとか?」

 

 反応して顔を上げると、まどかはすぐ前の道で立ち止まっていた。

 

「それに、焔くんも?」

 

 彼女は傘をさして、雨の中で首を傾けている。

 急な雨でまどかの髪が少し湿っていた。膝から下も雨で濡れているが、あまり気にした様子はなかった。

 ここまで近づいた彼女を察知できなかったなんて、私はどれほど混乱の中にいるのだろうか。

 

「……まどか」

「まどか……」

 

 声が聞こえた途端、淀んでいた感情は一気に洗い流された。それもまた偽りなのかと考えると息が止まりそうなくらい怖い。

 

「……二人とも、なにかあったの?」

 

 彼女はこちらに駆け寄ってくると、気遣わしげに軒下へ入り、私達の間で並ぶ。

 

「あはは、流石に三人はちょっと狭いかも」

 

 肩が触れるくらいの距離に彼女がいて、傘を畳みながら私達に微笑んでいる。

 沈み込んでいた気持ちが明るく持ち上がっていき、感情が膨らんで自然に身が震える。

 寒がっていると思ったのか、彼女は「濡れちゃった?」と話しかけてくれた。雨のお陰で目元に流れる物を誤魔化せたのは幸いだった。

 

「……少しだけ」

「そっか。風邪になるといけないから、早く帰らないとね」

 

 いつも以上に柔らかい声だった。

 

「まだ降りそうだねー……」

 

 雨の様子を窺って彼女は少しだけ眉を寄せる。

 それから私達に向き合うと、何を思ったのか自分の使っていた傘を私達に差し出した。

 

「この傘を使う?」

「いえ、私は」

「僕には、必要ない」

「大丈夫だよ、わたしは走って帰るから平気だもん」

 

 そんなわけにはいかない。

 遠慮しようと返事をするより、まどかの指が私の唇に当たる方が早かった。

 

「んむぅっ」

「ふふ、わたしが濡れるより、二人がこれ以上濡れちゃう方が嫌なんだ」

 

 私の思い上がりでなければ、その声は好意で彩られている。

 

「焔くんもだよ?」

「……ああ、知ってる」

 

 まどかは明るかった。その声は雨音よりも明瞭に聞こえ、眩しすぎる笑顔はその場の息苦しい空気まで一気に吹き飛ばし、私達もまた引っぱられて笑みを返す。

 でも、こんな時に出会いたくなかった。まどかを守りたいと思った記憶の上の自分と、ここに存在する自分は必ずしも一致する物ではない。己の行動が何者かに誘導されている以上、自分がまどかに対して危害を加えない保証はどこにもない。。

 それでもまどかを突き放せずにいるのも、誘導されているからなのだろうか。

 

「二人とも……」

 

 まどかは心配そうに覗き込んでくれる。

 気遣わしげな視線が差し込んで、抑え付けていた不安が溢れかえり、まどかの顔を正面から見れなかった。

 

「……焔くん……ほむらちゃん」

 

 ゆったりとした声で私達の名前を呼ぶと、彼女はまず私の目の前に立った。

 片手で私の肩を寄せ、頬に頬と当てて抱きしめてくれた。私達の足が絡み合い、濡れた服は触れ合い、彼女の体温は私の身に熱を伝えてきた。

 拒絶しようにも力が入らず、代わりに涙が浮かび上がって嗚咽が漏れる。

 

「何か、辛いことがあったんだね? わたしには言えない事?」

「……」

「いいよ。でも、落ち着いてからでいいから、ちゃんと教えてくれると嬉しいな」

 

 頭を撫でられながら、彼女の背中に手を回した。

 涙が止まらなくて、息が乱れた。まどかの言葉は、私の繕った心の壁なんか簡単に壊していった。

 

「ほむらちゃん」

「ごめんなさい、ごめんね……もう少しだけ、こうさせて……くれないかな……」

 

 最低な弱さを曝け出してしまって、分かっているのにまるで抑え込めない。

 ああ、どんなに私の存在に嘘があったとしても、この温かさはやっぱり本当だ。

 

「さ、焔くんも」

 

 私が縋り付いている中、まどかの声は焔にも向けられた。

 

「僕は……平気だ」

「ううん。二人とも顔色が同じだから、分かるよ」

「大丈夫、なんだ。僕はね」

「無理をしなくていいの。ほら……おいで?」

 

 声を聞くだけで焔がためらっているのが分かる。

 けれど、踏み留まれたのはそこまでで、まどかの慈悲を聞いただけで殆ど泣き声になっていた。

 

「ほむらちゃんは少し横に寄って、うん、そう、焔くんの場所を作ってあげなきゃ」

 

 言われるがままにまどかの左側へ抱きつくと、焔が右からまどかの体に密着する。

 肩に抱きつき頭を彼女にこすりつけ、溢れる涙を拭いもしない。

 二人とも縋り付くように泣いた。彼女の存在を確かめて、その頬を撫でた。彼女は生きていて、そこに確かに存在した。

 

 私が何だろうと、この子が鹿目まどかだという事実は変わらない。

 暁美ほむらであろうとなかろうと、まどかはこんな私の友達になってくれて、今も沢山優しくしてくれる。

 

 この子を守れる自分でいたいと改めて思った。例え自分が本物でなくとも、彼女が幸せになれる世界が欲しいという願いは変わらなかった。

 だって、まどかはこんなにも優しいのだから。

 

「……ごめんなさい……ありがとう」

 

 どれほど彼女にしがみついていたかは分からない。

 何とか気持ちが落ち着いて顔を上げた頃、まどかは目を瞑って私達の髪をゆっくりと撫でてくれていた。

 雨音を聞き忘れていたものの、まだ降り止んではいない。逆に勢いを増している様にも思える。

 その雨に打たれて、まどかの背中が濡れていた。私達を抱きしめていたせいで軒先から体が少しはみ出てしまったのだ。

 彼女こそ体調を崩させてしまったらと思うとたまらない。焔も同じ事に思い至ったらしく、同時に抱きしめるのをやめてくるりと反転し、自分達を雨の下へ、まどかを軒下の奥へ移させた。

 

「わっ、ふ、二人とも、もう落ち着いたの?」

 

 突然動いた為に、まどかは目を丸くしている。

 私達の涙は雨で徐々に流され、熱っぽかった頭が冷やされていく。

 心配そうにこちらを捉える両目を、少し前までよりは心穏やかに受け止められた。

 

「ぬ、濡れちゃうよ、ほら、奥に詰めよう?」

「ええ」

「そうだな」

 

 焔の声音は落ち着きを取り戻していた。

 

「なんだか調子がよくなかっただけだ。気にしなくていい」

「で、でもっ」

「まどかの気持ちは嬉しいけど、本当に大丈夫なんだ。そうだろう、ほむら」

「その通りよ。あなたのお陰よ、まどか」

 

 雨が止む様子は全くない。私達の気持ちの浮き沈みなんて関係なく降り注ぎ、空は徐々に暗くなっていった。

 通りがかった車が水たまりをはねたが、私達の所までは届かない。

 

「ひどくなってきちゃったね」

「そうね……」

 

 こんな所でずっと傍に居て貰うのは忍びなかった。今も雨水が染みこんで、服が体に張り付いている。

 どうすれば、まどかを家に帰せるか。まどかの傘を借りて自分達だけが帰るなんて論外だ。しかし、私達を残して帰れと言ってもまどかはきっと納得しない。選択肢は一つだけだった。

 

「一緒に、帰るか」

 

 口に出すのは焔の方が早かった。

 

「……うん! 家に着いたら、わたしの傘を貸すね」

「貸して貰わなくても、私達は普通に帰るわ」

「でも、絶対にあった方がいいと思うの。大丈夫だよ、そんなに大事な傘とかじゃないから」

「……それなら、お願いしてもいいかしら」

「うん、まかせて!」

 

 快い反応を見せてから、まどかは傘をゆっくりと開く。

 揃って雨の中に踏み出すと、頭上の雨音は思ったよりも激しい。その雨に打たれる傘を持つまどかの手には、少し力が入りすぎている所が窺えた。

 

「僕が持つよ」

「私が持つわ」

「……」

 

 一瞬だけ目配せし、焔に譲った。

 

「傘に入れてくれたんだから、僕が持とう」

「うん、お願いしてもいい?」

 

 傘の柄を握ると、焔はまどかに最も雨が当たらない位置を探り、その角度を維持した。

 この傘の大きさでは精々が二人までで、三人では使い難い。焔の背中がより雨に当たっていた。

 

「流石に、狭いかな……」

「大丈夫よ。もう濡れているから、今更少しくらい平気だわ」

「ああ、だから気にしなくていいんだ」

 

 見知った道の上に雨水が幾つも落ちて、無茶苦茶で激しいリズムを刻んでいる。私達の通った女の子は傘を持たず、踊りながら走り去っていった。

 恐ろしく自由な人もいたものだ。真似をしたい気持ちはまるでなく、私は歩道の車道沿いを歩んだ。

 こうすれば、車がはねた水でまどかが濡れる可能性を減らせる。かなり密着して歩を進めている為か少し暑い。まどかは平気だろうか。

 

「平気だよ。むしろほむらちゃんこそ蒸れちゃってない?」

「少しね。けれど帰ったらシャワーを浴びるから、心配には及ばないわ」

 

 まどかも同じ事を考えていたのか、何度か頷いている。

 服がびしょ濡れになっているのは思いのほか不快で、早く体を洗い流し、服も急いで乾燥させたかった。

 もちろん、それも全てはまどかを無事に送り届けてからだ。

 

「わたしの家でお風呂に入っていく?」

「いや、遠慮しておこう。こんなずぶ濡れの人間が二人も上がり込むなんて、まどかのご家族に申し訳ないからな」

「気にしなくて良いよ? パパもそれくらいで嫌がったりしないと思う」

「いいえ。私達は本当に大丈夫だから」

 

 それに、まどかのお父様の話題になった時、焔は僅かに身じろぎした。

 まだ会うつもりはない。その意思がそれとなく伝わってきて、私はまどかの親切な提案をはっきりと断った。

 

 まどかは特に気分を害した風ではなく、私達と歩く時間を楽しんでいる様にすら見えた。

 

「やっぱり、まどかは優しいね」

「えっ、あの、急にどうしたの?」

「いいえ、特に何もないわ。ただ再認識しただけよ」

 

 触れた肩の温かさを感じながら、そこにいるまどかを感じる。記憶の中の彼女ではなく、今のまどかを。

 すると、気持ちが少し軽くなった。

 大事な大事な友達との思い出は私を支えてくれて、例え記憶が偽りでも、ここにいる今の私が抱いている気持ちは嘘なんかじゃなかった。

 

「へくちっ」

 

 冷たい風が通り、まどかが抑えたようなくしゃみをした。

 

「寒いの? 少し急ぎましょうか」

 

 彼女に合わせて歩幅を狭めていたが、却って体調を崩させてしまったかもしれない。

 何か濡れていない上着があれば渡す所だ。残念ながら私も焔も替えの服は持ち合わせていなかった。

 私達が顔を合わせて困っていると、まどかはそんな私達を楽しげに見つめていた。

 

「あはは、大げさじゃないかな」

「でも、病気になってしまったら困るでしょう。良ければあなたの家まで私が背負っても……」

「いいのいいのっ、そこまでして貰う様な事じゃないから。それに、その、重いだろうし」

「平気よ。まどかは軽いから」

「わたしなんかを背負ったら、ほむらちゃんが潰れちゃうよ」

 

 まどかはくすくすと笑い声を漏らした。

 確かに私が大げさだった。彼女を守りたい、その気持ちを固く結び直した影響で、神経質になりすぎていたのかもしれない。

 

「さあ、ほむらちゃんこそ濡れてるんだから、早く帰らなきゃ」

「……そうね、体を冷やしてしまう前に」

 

 決して大きくない傘の中で、まどかと私達の距離は殆ど空いていない。

 気持ちの上でも、私達の間はそう離れているとは感じなかった。どんどんとまどかが遠くなっていった記憶とは違い、私達はちゃんと友達でいられた。

 まどかに救われた。

 彼女の笑顔と気遣いと、沢山の友情が、沈み込んでいた私の意思を引っ張り上げてくれた。

 

 空いている手を強く握る。

 だからこそ、私が何なのかをはっきりさせなければならない。今の状況では自分がまどかを害する存在ではないとは言い切れない。

 

「……」

 

 今にも歌い出しそうなくらい上機嫌なまどかから、その姿をいかにも嬉しそうに見つめる焔に視線を移す。

 彼も、同じように私を見ていた。

 



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13 『暁美ほむら』

 夜の見滝原は、当然だけれど場所によって姿を変える。

 私達の家の前は外灯が点々と並ぶが、あまり明るくはない。ほのかな光で照らされたアスファルトが薄く光っている風だ。住んでいる人は多いけれど、交通の利便性は高くなく、その分だけ人気はあまり感じられない。

 雨がすっかり止んで、今日の夜空は明るかった。雲が消えた後に残ったのが沢山の水たまりだ。

 靴を濡らしてしまってはいけない、私達は水を避けながら歩道へと出て、共に外の空気を吸った。

 

 少し歩いた先で、ほどほどに人通りのある道路へと出た。

 私達より少し年上の人達の姿も見える。あと数時間ほどすれば学生の深夜外出で怒られてしまうだろうが、今はまだ問題ない。

 

 横を通った飲食店からトマトの焼ける良い香りがして、そういえばまだ夕食を口にしていないと思いだした。

 しかし、食事をする気はまるでなかった。

 本当のところ、私に食事は必要ないのかもしれない。魔力で誤魔化せるという意味ではなく、ただ人の真似事をして飲食を行っているだけなのではないかと。

 というのも、空腹感が無かったからだ。私達はまどかを家に送り届け終えてから、自宅に戻ってシャワーを浴び、しばらく勉強に費やした。それから、まどかと連絡を取り合って色々な話をしていたのだが、その間中、水分の一滴すら摂取していない。

 喉も乾かず、お腹も空かず、これがまどかとの時間が楽しすぎて忘れていただけなら良いが、そうでないなら私は人という姿から益々かけ離れていく。

 その疑念を焔にぶつけてみると、彼は溜息を吐いて「僕も同じだ」と呟いた。

 

「僕の場合は、まどかと話をしていた訳じゃないが、空腹という物を感じない。満腹感もな。きっかけがあるとすると」

「……私達が自分に違和感を抱いたから?」

「かもしれない」

 

 自覚したから、私達は人間ではなくなっていた。私の自覚が鍵なのだ。

 

「なら、私達の正体を知れば、私達はどんな物になるのかしら」

「どんな姿になるかより、何をする存在かだろう」

「そうね……」

 

 己がまどかに対して危害を加える存在だと確定した時点で、彼を始末して私も手早く死ぬつもりだった。もちろん彼も私を始末するつもりだろうから、実際には互いを消し去る結果となる。

 二人とも早急に消えなければならない。気は進まないが、まどかの安全と引き換えにできるほど、自分の命は高価ではなかった。

 

 魔法少女としてではなく人の力の範疇で歩くと、見滝原は相応に広く感じる。

 しばらく無言のまま歩いていると、高架の道の先に巴さんの住むマンションが見えてきた。

 どの部屋に彼女が居るかは分かっている。カーテンで中の様子は窺えないが、留守なのか、あるいは就寝しているのか、視力を強化しても隙間から明かりは見えなかった。

 眠っているのだと思いたい。この記憶が事実だとして、巴さんは魔女との戦いの為に夜中まで起きて、いつも私達を先導してくれたのだが、その実誰よりも無理をしていた人だった。穏やかな夜を過ごしているのなら幸いだ。

 魔法少女は、願いを叶えた時点で戦いに囚われる。

 条理を覆した代価は払わなければならない。魔法少女は、懸命に戦い続ける宿命にある。それでも、せめて日々を明るく生きる術があるのなら、彼女達には出来る限り幸せな道を歩いて貰いたかった。

 魔法少女になった事が彼女達の絶望であって欲しくはない。今は切にそう思った。

 

「こうして平和な時間を過ごしてしまうと……本当に残酷なものね……」

 

 思わず感情が声に出たその時、ちょうど巴さんの部屋にある窓から何かがすり抜け、飛び出していった。

 それなりの高さから落ちたものは私達の傍で着地し、何事もなく歩き出す。

 

「っ……!」

 

 私達はとっさに変身し、身構えた。そこに居るのは明らかに人間でも、魔法少女でもなく、三体の人形だった。

 金髪のロング、茶髪のボブカット、銀髪のロング、全員が頭に小さな帽子を乗せている。どれも黒の服に身を包み、何かの葬儀にでも行ったような格好をしていた。

 

 茶髪の子が握りこぶしほどの量のグリーフキューブを持ち、雑なステップを踏んでいた。幾らかこぼすと、他の二体が慌てて拾い集めては再びはしゃいで歩き出している。

 人形が落とした四角形を焔が拾い上げて、私はそれを覗き込んだ。グリーフシードに似た雰囲気を漂わせる、サイコロ状の黒い塊。確かに、ソウルジェムの穢れを浄化できそうだ。記憶のどこかで覚えがある。

 

「……返せ、というのか?」

 

 焔が拾ったグリーフキューブをじっと見つめ、人形達はこちらに向かって手を出していた。見たところ明らかに人間由来の存在ではなく、魔女の使い魔だと言われた方が納得できるのだが、不思議と戦意が沸かなかった。

 彼女達から敵意を向けられないのも理由の一端だ。

 持っておくべきかとも思ったが、ガラスか何かの目が潤んできて、私まで何故か泣きそうになる。

 

「返すから、その顔はやめてくれないかな」

 

 焔が一番前に居る人形の手にグリーフキューブを置くと、それは大事そうに受け取って、小さく会釈をしてきた。

 

「構わないよ。それより、君達がプレゼントを送っているのか?」

「……」

 

 言葉を発せられない、という事はない筈だ。今も、私には分からない外国語で会話していて、同じ単語を連呼しているようにも聞こえた。

 人形達は私達に向けて何度か頷いた。身振り手振りで意思を表現する様は、どこかしら操り人形の様相だった。

 

「あなた達が、巴マミや美樹さやかの家にこれを持ち運んでいる、そう言っていると思っていいかしら」

「……」

 

 ぶんぶん首を縦に振っている。

 

「何故、そんな事を?」

「……」

 

 人形が首を何かを答えているが、私には意味が伝わらなかった。

 これでは埒があかないと、焔が前に出る。

 

「君達に指示を出している存在に遭わせてくれないか」

 

 顔を見合わせ、三体は一斉に私と焔を指さした。

 だが、僅かほどもしない内に首を横へ振る。

 三体が集まり聞き取れない言葉を喋っていて、仕草だけで予想すると「チガウ」「ヒトチガイ」と言っている気がした。

 

「……」

 

 話し合いのような物が終わると、人形達の中の一体、金髪の子が私達に頷いて、背を向けた。

 

「着いていけば分かる、というの?」

「……」

「……分かったわ」

 

 不思議と意図が分かり、素直に飲み込めた。

 人形達は先ほどまでより心なしか鈍い足取りで巴さんの居るマンションから離れはじめ、私達もまたそれに倣った。

 背中から眺めてみた彼女達はまさに人形、仕草は作り物らしさが強い。しかし、その挙動から読み取れる感情は豊かで、幼い子供達のようだった。

 任されたお使いをこなしながらも、街中の外灯を掴んで一回転してみたり、どこからか花火を取り出して振り回してみたりと、自由に振る舞っている。

 今日は茶髪の子が当番なのか、はしゃぎ回る残りの二体を恨めしげに眺めていた。

 そうして遊びながら見滝原を闊歩し、通りがかった美樹さんの家へ入り込んでいったかと思うと、また窓から戻って現れた。先ほど持っていたグリーフキューブは全て無くなっている。恐らく、美樹さんと杏子に配ってきたのだろう。

 

「あなた達の仕事は、これで終わり?」

 

 美樹さんの家の近くにある歩道橋で声をかけると、彼女達は足を止めてしばらく悩み、揃って首を横に振っている。もう少しやる事がある様だ。

 しかし、彼女達は一仕事終わったという風に駆けだして、私達はそれを追うことになった。本当に好き勝手な人形達だ。

 自由な振る舞いの人形達が通り過ぎても、踏み台にしても、通行人はそれに気づかなかった。この人形達は恐らく普通の人には認識できない。巴さんの証言を思い返すと、魔法少女にすら見えないのかもしれない。

 

 人形達は建物の屋上から電柱へ飛び走り、私達はその下の道路を追いかけた。

 その方向は、まどかの家からは遠のいている。

 胸をなで下ろしていると、人形達が足を止めた。

 

「ここは」

「……」

 

 人形が私達に振り向いて、今度は人の間を闊歩していった。

 ここは、よく見知った道だった。さっき通った飲食店は今も良い香りが漂い、中のお客の数が増えている。

 

 この先にあるのは私達の家だ。

 

「……そういう事、なのかしら」

 

 なぜそこに向かうのか、察せてしまう。私達にグリーフキューブを配っていないのだから、暁美ほむらの家に行く理由は別にある。

 焔に視線を合わせると、彼もまた小さな溜息を吐いた。

 

「……ここは、魔獣というものが存在する世界で……だけど私達が現れる以前から見滝原には発生していない。なのに、ソウルジェムを浄化する為の物だけは配られている」

「見滝原に近づかないインキュベーター」

「少し前に転校してきたまどか」

「「何より、二人も存在する暁美ほむら」」

 

 声が合わさり、私達は頷き合った。

 どうして私達の名字が暁美ではなく暁海なのか。

 そんな物、答えは一つしかない。

 

「どうしてそうしたのかを考えれば、誰がやったのかは簡単に予想できるわ」

「ああ。こんなに分かりやすい物もない」

 

 察しも勘も自信はないが、こればかりはあまりにも簡単過ぎて、後はもう確定させるだけ。人形達が私の家を通り過ぎてくれれば良いのだが、それはあまりにも望み薄だった。

 

「……外れていて欲しいわね」

「僕だって嫌だ」

 

 そして、予想通りに人形達は私達の家の中へ消えていった。

 ノブを掴み、少し覚悟を決めてから鍵を開け、焔がドアを押した。さっき外出した時と寸分違わない玄関があり、奥は暗く、人間の気配はなかった。

 それでも今の私達なら気づける。この先に存在する確かな気配を。

 

 躊躇は抱かないまま見知った玄関を進み、普段より暗く感じる部屋の中へと足を踏み入れる。そこには何かの袋にグリーフキューブを纏める人形達と、それを従えるものがいた。

 二つの瞳が妖しく光り、いかにも何かをあざ笑うような声が聞こえてくる。

 

 

「遅かったわね。流石は私、我ながら察しが悪いわ」

 

 焔の明かりを点けて、そこにいる者の全身がよく見えた。

 居間の机に腰掛けて足を組み、太ももに肘をついた姿勢でこちらへ向いている。顔にある両目は妖しく濁り、口元は小さな笑みを浮かべていた。

 残念ながら、私達の確信は正しかった様だ。

 

「でも、本当は気づかせるつもりはなかったのに……誤魔化しきれなかったわ。一ヶ月を超えた辺りが境界線だったようね」

「ワルプルギスの夜の先にある未来なんて、私達は一度だって見れなかったもの」

「そうね、ええ、そうでしょう。私だって見たことがないわ」

 

 長い髪をかき上げて、机の上に置いたカップへ手を伸ばす。

 傍らにはお茶の袋があり、封が開けられていた。

 その袋に見覚えがある。あれは、まどかがくれた大事なものなのに。

 

「それ、まどかから貰った大事な茶葉よ。勝手に飲まないで貰えるかしら」

 

 腹立たしさを口に出すと、彼女はぴたりと止まった。

 無言でカップの中身を見つめ、それを持つ手が小刻みに震える。

 

「……ごめんなさい」

 

 思いのほか素直に謝罪してきた。だが、カップの中身はきちんと飲みきると、今度は茶葉の袋を胸の中で抱いている。

 その耳にはトカゲの形のイヤーカフスがかかっており、紫の宝石が垂れ下がっていた。

 

「時々いつの間にかコップが使われていると思ったら、あなただったのね」

「ここは私の家よ」

「だが、ここで寝食を営んでいるのは僕達だろう。家賃は……君の、ご両親が払っているが」

「あなた達のご両親でもあるわ」

「分かってる。いや、分からないな。君が僕達の本体でいいのか?」

 

 焔の質問には答えず、彼女は目を細めて写真立てを眺めていた。

 その視線は紛いようもなく、焔がまどかに向ける物と寸分違わない。

 

「本体、というのは誤った表現よ。あなた達も私も暁美ほむらで、どちらも本体だもの。ただ、あなた達と私はやるべき事が違うだけ」

 

 彼女はぞっとするほどおぞましい気配を垂れ流し、重苦しい空気を纏っている。仮にまどかの傍へ近づいたら、即座に戦闘を決意するほど邪悪な存在だった。

 目元は暗く瞳の色合いは紫だが致命的に濁っていた。髪の長さも体つきも、全体的な姿こそ暁美ほむらだったけれど、どこか致命的な不健康さが隠せない。

 着込んでいるドレスは真っ黒で、胸の間や背中はほとんど見えている。脇腹から腋までも思い切り露出していて、似合うは似合うがあまりに派手すぎるし、肌の露出が多いのはあまり好ましくない。魔法の衣装でなければ冬場は空調を効かせなくては寒そうだ。

 とてもではないが健康とは言い難い存在感の彼女こそ、暁美ほむら。暁海ほむらでも暁海焔でもない、本来あるべき女だった。

 

 ああ、大体は理解した。

 

 

 

 

 

「……あなたが魔獣とキュゥべえを見滝原から排除していたのね」

「ええ」

 

 特に誤魔化しもせず、堂々と認めた。

 髪をかき上げて人形達を下がらせ、彼女はその耳にあるソウルジェムらしき物を見せてくる。

 

「濁らなかったでしょう? それはソウルジェムじゃないんだから当然よ」

「魔法少女じゃないんだから、呪いを溜める筈がない……僕達は、そういう存在ではないのね」

 

 焔の言葉遣いがおかしい。

 隣を見てみると、暁海焔は暁美ほむらの姿に戻っていた。

 長い髪で体つきも異なる。

 

「そうならそうと先に提示しなさい。君にはずいぶんと焦らされたわ。僕達の記憶の欠落と、行動の制限。どちらも理由が分かるまではかなりの危険を感じたもの」

「私が悪魔としての、あなた達がまどかのクラスメイトで魔法少女としての暁美ほむらだもの、知る必要はないでしょう?」

 

 平然と、少なくとも見た目には平然と言い切って、彼女は欝々しい顔色を隠そうともしない。

 

「確かにあなた達の体は私を写し取って、記憶や魂は私が魔法で渡した物だけれど、偽物という訳ではないわ。だって、あなた達と共に居たまどかだって本来は人ではないし、本体から切り分けられた人間としての部分。あなた達は、あのまどかが偽物だと思うのかしら」

「肉体が作り物という時点でまどかとは違うでしょう。記憶も体もまどかの場合はちゃんと彼女が持っていた物だもの」

 

 「頑固ね。厄介だわ」と悪魔が呟いた。

 何を言われようと私の体が作り物なのは変わらないが、もう吐き気はしなかった。強い納得が気分の悪さを押し流し、まどかがくれた友情は目の前の邪悪に立ち向かう勇気をくれる。

 

「いいでしょう。あなた達が自分を偽物だと思うならそれでいい。あなた達の気持ちなんて知らないわ」

 

 ふいに、彼女は恥じらうように目線を落とす。どこか不安げに焔へ近づき、落ち着かない調子で彼へ顔を寄せた。  

 

「ところで……一つ聞きたいんだけれど」

「僕に聞きたい? 何かしら」

「まどかとは、どういう関係なの」

 

 「こんな時に何を」と言いかけて、やめた。

 私も少し前に問い詰めた事だからだ。彼女もまた私と同じ考え方でいるのなら、その問いかけが出る事は無理もない。

 少し前なら青ざめていた話題だが、焔は顔色を変えなかった。

 

「友達よ。あなたには、それ以外に見えたのか?」

「まさか、ひょっとしたらと思ったわ。でも、私とまどかじゃ」

「ああ、釣り合う筈がないよな……っ、ごめんなさい、つい癖で」

 

 こほんと大げさな咳払いをして、彼……彼女が髪をかき上げた。

 一ヶ月も話し方を別の物にしていれば、早々簡単に戻る物でもないのだろう。

 

「……性別が変わったくらいで、私がまどかに抱いた気持ちが変わると思ったの? まどかを恋人にしたいと願うようになると?」

「そんな事は考えていないわ。だけど……不思議だったの、彼女がどうしてあんなに積極的だったのか」

「君は、僕達の記憶や感情を共有している訳ではないの?」

「せいぜい遠目で見たり、使い魔を経由してまどかの状況を確認していた程度よ」

 

 彼女は机に両手をつけると、仰け反るように天井へ顔を向け、小さく息を吐いた。

 

「私も、あなた達の気持ちは分かるわ。どれほど不愉快でも分かってしまう。なのに、まどかの気持ちは難しいわね……」

「でも、分かる事はあるわ」

 

 あの、初対面の時から続くまどかの好意的な態度にも理由がある。実際にまどかと共に居て、記憶の中の彼女との違いを知る私には幾らかの予想があった。

 

「あら、どういった予想? 願望から来る妄想ではないのね?」

 

 言葉の端々にあまり好ましくない物が混じっている。恐らく、彼女は私の事が大嫌いだ。そして私も彼女の事が大嫌いだった。

 だが、私の好悪は関係ない。頭の中にまどかの笑顔を思い浮かべ、彼女が今まで私にくれた言葉と焔にあげた言葉を比べた。

 

「まどかは何かを覚えてる。記憶じゃなく、他のどこかで」

 彼女が息を呑んだのを、私は見逃さなかった。

「私達が暁美ほむらだと無意識のうちに分かっていて、暁海焔は恋愛対象じゃなく友達なんだと判断しているのよ。だって、まどかは暁美ほむらを恋人として見ていた訳じゃないんだから」

 

 仮説でしかないが、自分で口にしてみるとよりそれらしい。

 まどかの言葉は最初から今までずっと私達を大事にしてくれたが、この記憶が本物の暁美ほむらの物であるなら、最初はもう少し他人行儀な接し方で、あそこまで友好的ではない。

 焔もそう思ったのだろう。頷いて、どこか嬉しげにしている。

 

「かもな。まどかもまた、私達の事を昔から知っているような態度だった」

「私もそれが……ええ、正しいと思うわ」

 

 淀んで無理に調子を上げた声に、隠しきれない喜色が混じる。

 

「記憶がなくても、全部なくしても、あの子は……こんな私の事を、忘れずにいてくれたのね」

 

 濁った目とは別に声音は柔らかくなって、それがますます好かなかった。

 私達とよく似た泣き声らしき物が混じったのは聞かなかった事にして流し、彼女との距離を詰めた。たった一歩だ。

 

「不思議に思っていたの、なぜ私達が存在しているのか、どうして暁美ほむらなのか」

「……それで?」

「まどかに取り入る何者かの、例えばインキュベーターや魔女の仕業かと思った。でも、真相は単純なのね」

 魔女というのは案外間違っていないかもしれないけど、と前置きし、悪魔と真っ向から視線を交わす。

 

「暁美ほむらが、自分を役割分担させていただけ」

「そうよ、あなた達の存在理由はまどかを利用する事じゃない。まして彼女に危害を加える事でもない。全ては、彼女の存在を維持する為」

 

 全てを思い出した私には、その説明だけで十分だった。

 

 今の鹿目まどかは、魔法少女の為の概念的存在から削り取った一部分に過ぎない。

 安定はしているが、何かのきっかけで彼女が元の存在に戻れば、人としてのまどかという情報は世界から完全に消える。

 ただ魔法少女に手を差し伸べる慈悲を携えた何かに変わり果て、家族にも友達にも愛されず、どこかへ遊びに行ったり、誰かを好きになったりもできない、永久不変の牢獄に閉じ込められてしまう。

 そうならない為の見張りが、私達。まどかの日常を隣から支え、出来るだけまどかの幸せに尽くすべくして作られた人形。

 

「となると、君はまどかと魔法少女に接点を持たせないつもり? 魔獣を狩り続けてインキュベーターを追い出しているという事は、そういう事でしょう?」

 

 私達の質問を聞くと、悪魔はあからさまに露悪的な笑みを浮かべた。

 

 無意味に悪ぶった雰囲気に辟易しながらも、目の前の悪魔の意図は分かった。

 まどかに契約させたくない、戦わせたくない。それ以上に、まどかに魔法の存在を知らせたくない。その先にある自分のかつての姿を思い出してしまったら、何もかもが台無しだ。

 

「ああ、よくわかっているわね。そうよ、まどかを魔法に触れさせる気はないわ」

 僅かも好意的に笑わず、彼女は不気味に顔を曇らせる。

「まどかが気づかないように……あの子がそれらに触れてしまわないように。今の私の目的はそこだけよ」

「なら、他の子達にグリーフシー……キューブを配っているのはなぜ?」

 

 彼女は意外そうに目を見開いた。

 

「……ええ、言いたい事は分かるわ。魔法少女は戦い続けなければならない。願いを叶えた代価だもの。私は彼女達からその機会を遠ざけている。そうでしょうね」

 

 悪魔は鼻を鳴らすような声を漏らし、机から腰を上げた。

 だから、と彼女は続けた。

 

「まどかの周囲の人達の分くらいなら、私が代わりに動けばいい。まどかの近くて戦わせるくらいなら、宿命なんて」

 

 濁った目は狂気のように爛々と輝いて、目元に涙が浮かんでいるのに本人は拭いもせずにこちらを凝視している。

 

「まどかが人として生きられるのであれば、魔法少女の宿命なんていらない。そうでしょう?」

 

 私も焔も、気圧されるように同意した。

 気にくわないが、その意思が徹頭徹尾本気だというのはよく分かった。

 

「そう、そうなのよ。戦うのは私でいい。私は一人で十分よ」

 

 どこか虚ろな顔色で、彼女は私達の方を向いていた。

 だけど、彼女は私達と会話なんてしていない。暁美ほむらが時分自身に決意表明を行っただけで、これは問答ではなかった。

 

 魔法少女を遙かに超越した存在でも、心は私と同じ暁美ほむらで、疲労もすれば苦痛も覚える。

 辛い事を耐えられたって、辛くないわけではない。

 出口のない道を進む彼女の姿勢から回し車を想起させられた。ひたすら走り続けて回転させる為だけの歯車として生きる。それはもはや魔法少女でなければ、いっそ悪魔でさえもなかった。

 

「そうよ、私は私の望みの為ならどんな事だってできる。あの子が誰かを愛して誰かに愛される権利を、失っていい筈がないんだから」

 

 髪をかき上げ、私達の存在など忘れたように自分へと言い聞かせている。

 それでも私は止める気なんてなかった。

 誰かに救われたいなんて、少しも思っていないだろうから。

 

 

 

 私が悪魔を黙って眺めている時、電話が鳴った。

 流行の音楽が、これを薦めてくれた彼女からの連絡を示している。

 その音を聞き、話すべき事は終わったとでも言いたげに悪魔は私達に背を向けた。

 

「じゃあ、私はお暇するわ」

「いえ、待って」

「……あら、なぜ?」

「これはまどかからの電話よ」

「なら、尚更私は必要ないでしょう?」

 

 逃げ出すように歩き出した彼女の腕を、焔が掴んでその顔を見つめる。

 

「……何のつもり」

「自分の欲望のままにまどかの腕を掴んだのなら、君はもう少しそれらしくなさい」

「待ちなさい、私はそんなこと」

「傍目から見て、君がそこまで耐えられるほど心が頑丈な人間だとは思えないわ」

 

 その背を押して端末に近づかせている隙に私がスピーカーに切り替えて画面に触れると、端末からまどかの声が響いた。

 

「ほむらちゃん? えへへ……ちょっと話したくなっちゃって」

 

 邪悪な気配がどこかへ消し飛び、まどかのほんわかした声音で部屋がいっぱい。やや眠たげでおっとりと言葉を紡ぎ、人の心に明るい物を沢山広げてくれる。親しい友達として私に声を向けてくれるだけで、もう何もかもが鮮やかに彩られる気さえあった。

 暗闇から這い出るような風だった悪魔ですら一気に優しげな面持ちとなり、自分の胸元を抱いていた。口が開いたままだった。

 

「あ、ごめんね。もう寝ちゃってた?」

 

 しばらく私達が何も言わなかった為か、まどかの声に不安そうな色が混じり出す。迷惑にならないか気遣ってくれているんだ。

 焔は口を噤んだまま、首を横に振った。今の彼の話し方では不審がられるだろう。

 

 何も言わず、端末をそっと悪魔に差し出す。早く安心させてないと、無視されていると思われる、と。

 彼女は鬼気迫る眼光となったが、聞こえてくるまどかの声が「寝ちゃってるのかな……」と小さな声に変わりつつあり、このままでは通話が切れてしまうと無理矢理に押しつけた。

 おずおずと受け取った彼女は、恐れつつも端末に話しかけた。

 

「まどか……大丈夫よ。まだ寝ていないわ」

 

 一拍後れて、まどかの声が返ってくる。

 

「ほむらちゃん、疲れてる?」

「……ええ。雨だったから、かしら」

「凄く濡れちゃったし、帰る時は特に凄かったよね」

「そうね、まどかは……」

「わたし? ああ、あの後お風呂に入って温まったから、寒いのはなくなったかな。ほむらちゃんこそ、傘はちゃんと使えた?」

 

 悪魔はまどかの話している事がよく分からなかったのか、私に目をやった。

 話を合わせなさい、と無言で伝えると、首を傾けて難しい顔をしている。だが、まどかとの会話に戻り「ええ」とか「そうだね」と相槌を打った。

 目元の病的な隈はそのままではあるが、傍目にも元気を取り戻していた。

 

「じゃあ、ほむらちゃんもちゃんとお休みしなきゃ。そうそう。この間渡したお茶があったよね? あれ、リラックスできる効果があるみたいだから、飲んでみるといいかも?」

「うん。さっそく試してるよ。これ……結構、効くんだね……」

 

 一言一言発するごとに瞳が潤んで止まらなくなり、ついにはしゃがみ込んで端末を握りしめた。

 涙がどんどんこぼれ落ち、声に出さない為に唇を噛んで耐えている。

 

 それでも微かな声の震えは隠しきれず、まどかの反応が途切れた。

 再び聞こえてきた声は、これまでより更に確かな慈しみに溢れ、繊細な硝子細工を愛おしむようにゆっくりと、丁寧に耳へ流れ込んできた。

 

「辛かったら、いつでも話してね。力になれるかは分からないけど……ほむらちゃんの悩み事なら、わたしは聞かせて欲しい。聞きたいの」

 

 何も言わず、悪魔に任せた。ずっと話せていない彼女の方が、もっと幸せな心地の筈だから。

 

「わたしも、苦しい時とか悩んだ時は相談するから、ね?」

「……うん」

「じゃあ、わたしも寝ようかな。ほむらちゃんも今日は早く寝ないと」

「分かった。そうするわ」

「うん。おやすみ、ほむらちゃん」

「……おやすみなさい、まどか」

 

 通話が終わり、彼女はへたり込んだまま嗚咽を漏らす。

 床に髪が垂れ下がっている。きちんと掃除はしていても、そんな風に座れば多少は汚れが付着してしまうのだが、気にした素振りは一つもない。

 露出した肩を震わせ、うずくまっていて表情は窺えない。黙って衣装ケースからコートを取り出し、その背中にかけた。背中も肩も思い切り肌が見えていて、寒そうだった。

 

「……」

 

 彼女は端末だけを返し、何度か深呼吸をしている。吸って吐いている間に何度か息が震えていた。

 この分では完全に落ち着くまで時間が必要だろうから、しばらくそっとしておく事にした。 こんな状況では泣き止もうとしても難しい。

 だって、私は暁美ほむらの嘘の顕現だ。彼女の強がりは誰より知っている。

 

 

 この私は記憶も体も全て与えられた作り物で、けれど、今はあまり気にならなかった。

 私は暁美ほむらで、まどかの事が大切で、それが全て。

 

 心の中で反芻すれば、彼女の良い所が沢山浮かんでくる。包み込んでくれた腕の感触、頭を撫でてくれた手のひら、優しくかけてくれた声と彼女の体のあたたかさ、何よりもあの慈悲深い心。どれも私の中にしっかりと残って今の私の心を突き動かす。

 この一ヶ月の間に覚えた全てが、私の中でまどかを鮮やかに照らしていた。

 

 逆に言えば、それ以外の過去の全ては嘘なのだ。

 ああ、安心する。

 私は暁美ほむらとして戦えて、私には、まどかしかない。

 余計な物がなくなるというのは、なんて清々しいんだろう。

 

 

「……なさい」

 

 悪魔が顔を覆ったまま、何かを小さく呟いた。

 何となく意味が分かって、首を横に振ってみせる。隣で焔も全く同じ行動をしていて、私達はまったく同時に動いていた。

 

「あなたが誰かに謝る資格なんてないし、資格だってありはしないわ。それに」

「僕はね、自分の意思と責任でここにいるの。僕の意思はあなたの意思じゃない。これは、僕が選んだ道だ」

 

 記憶があろうと何があろうと、まどかを助けたい。

 それが、暁美ほむらの総意だった。



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14 あの子の時間は進み行き、私は足を止めない

 約束の時間が近づいて、私はそわそわしながら玄関先で待っていた。

 

 全てを思い出してから、私達がまどかに抱く気持ちは前より更に強まっていた。

 彼女の居ない世界は考えたくもないくらい寂しくて、友達として共に居られる時間の一秒一秒が震え上がるくらいに幸せだった。まどかの顔を毎日のように見られて挨拶を許して貰えるだけで私には過分な幸福だというのに。

 永遠にも思えるくらいの感覚で待っていると、音が鳴ってまどかの声が聞こえた。即座に扉を開いて彼女を迎え入れると、彼女は見慣れた赤いリボンを揺らせて部屋の中へ飛び込んできた。

 

「おじゃましまーす!」

 

 こんな元気の良い挨拶を聞いて、飛び上がるほどの幸せが溢れる。

 この家までまどかを案内したのは焔なのだが、彼は控えめに一歩下がって眺め、大した存在感も発していない。

 

 まどかは私達の家をきょろきょろと眺めながら、それはもう楽しげに靴を脱いだ。

 持参した大きめの鞄の中にはお泊まりセットと、一緒に買った水着が入っているのだろう。まどかにぴったりの可愛くて素敵な水着は、今も着られるのを待っている。ひょっとしたらもう着ているのだろうか。

 明日の友達旅行を誰より楽しみにしているのはきっと彼女だ。巴さんや美樹さん、杏子とは明日合流する予定で、今日はまどかが私の家にお泊まりに来てくれた。そういえば彼女を家に入れるのは初めてだ。

本当は巴さんの家に泊まろうという話だったのだが、最終的には美樹さんと杏子は巴さんの、まどかは私の家に来ることとなった。

 

 やや見栄を張りたくて、部屋を綺麗に整理し直した。生活の場を分けている様子で不仲と見られて余計な心配をかけてしまうからとやっておいたが、幸い、効果はあったらしい。

 落ち着かない調子で入り口回りから私に視線を移し、まどかは目をきらきら輝かせた。

 

「わー……!」

「?」

「ほむらちゃんのそのワンピース、すっごく似合ってる! 綺麗だねー……どこで買ったの?」

「これ、かしら?」

 

 スカートを摘まみ上げて見せると、まどかは何度も頷いた。

 魔法少女としてのインナーに近いデザインに運命的な物を感じてしまい、お財布と相談しながら買ってしまったワンピースだ。お金に余裕は無いのに、と焔に睨まれたのは、今では少し申し訳なく思っている。

 腰から上は黒一色のワイシャツのようで、襟の端や袖口、それから胸元に蝶結びで巻かれたリボンは薄い紫色だ。

 背中で垂れ下がる黒いベルトから下も同じく紫の色合いだけど、裾だけは余白のように真っ白で、レースが姿を覗かせているのがお気に入りだった。

 まどかが褒めてくれたお陰で、あらためて買って良かったと思える。

 

「これなら最近出店したお店よ。値段もそこまで高くないから、まどかが気に入ったのなら教えるわ。確か貴女に似合いそうな物もあったから」

「本当? じゃあ今度一緒に行ってもいい?」

「もちろんよ」

「あ、でも……お金がある時にね」

「そうね。水着も買ってしまったし」

 

 根に持たれていて、焔に白い目で見られた。彼は男物の服のセンスが全く分からず、とりあえずで揃えた安い服を着こなしている。

 その視線を流しつつもまどかを部屋に案内し、荷物は床に置いて貰う。

 用意しておいたジュースをコップに流している間、まどかは狭い部屋の中を見て回っていた。

 

「ほむらちゃん達のお部屋って、なんだかすっきりしてるね」

「そうでもないわ。まどかのお部屋と大して変わらないでしょう?」

「ええっ、わたしの部屋はぬいぐるみとかいっぱいあるから、結構散らかってる感じだよ」

「でも、その方が可愛らしいんじゃないかしら」

 

 私達の家はあまり広くなく、二人暮らしにしては部屋も一つしかない。元々が一人暮らしの暁美ほむらが居た部屋なのだから、狭いのはごく自然だった。

 今日は部屋に備え付けのスクリーンも使っていない。お陰で背景が真っ白の殺風景な状態だ。ひょっとしたら華やかな景色でも映せば良かったのだろうか。

 まどかの部屋と比べてしまうと、可愛らしさが全く足りない。

 

「そういえば、お父様やお母様には話してきたの?」

「うん、言ってあるよ? まず友達の家でお泊まりしてから、その次の日に海へ行くって」

「片方が男子なのは伝えた?」

 

 気がかりになって尋ねると、まどかはちょっとだけ下を向いた。

 

「えっと、一応は」

「まどか……」

「ほ、本当に伝えたよ!? パパとママは心配してくれたけど……そ、その、そういうのじゃないのにね、ほむらちゃんも居るのに」

 

 私にはご家族の心配がよく分かった。

 同級生の男子の家、しかも親の居ない家にまどかが泊まりに行くなんて、ご両親は間違いなく心配するだろう。力強さのあるお母様なら笑って受け入れてくれるかもしれないが、気にはなる筈だ。

 焔も同じように思った様で、眉を寄せている。

 

「大丈夫大丈夫、焔くんと友達になったのを話したら、パパもママも焔くんに会ってみたいって言ってたから」

「……」

 

 顔を見なくたって、焔が不安を覚えているのは分かった。

 彼女のご両親の中で、彼の存在はどんな物になっているのだろうか。異性に縁の無かったまどかに突如出来た男の友達。しかも転校生で、親御さんも性格を知らない。

 

「本当に、焔くんが怖がる事なんて何もないよ? わたしに友達が増えたことを喜んでくれたくらいだもん」

 

 まどかは機敏に察知して、彼の唇に指を当てた。

 蠱惑的ですらある柔らかな仕草と、それを受け止める焔の面持ちはまさしく仲睦まじい恋人同士という有様だ。

 

「分かった。僕もご両親に挨拶するから、今度まどかの家に行ってもいいかな?」

「もちろん大歓迎! ほむらちゃんも一緒に来るの?」

「……え、ええ。行くわ」

 

 頭を抱えたくなって、彼の心に声を飛ばす。

 

『落ち着きなさい。結婚の申し込みに聞こえたわ』

『……確かにそうね。僕の油断だわ……』

 

 念話の声から生気が失せた。

 この調子では、まどかのご両親に会った時にとんでもない誤解を生んでしまいそうだ。

 そういう事は苦手だけれど、私が仲裁するしかない。ちゃんと友達なのだと説明できれば良いのだが。

 決意を新たにしていると、まどかは声を弾ませた。

 

「じゃあ、今度は二人でわたしの家に遊びに来てね。あ、良かったらお泊まりもどうかな」

「誘ってくれるのなら歓迎よ」

「僕は……ご両親に迷惑じゃなければ」

「うん。パパやママにはちゃんと許可を貰うから、その後でね」

 

 全く恋愛らしい反応を示さないまどか。

 彼女はごく当たり前のように私達を友達の枠に入れている。これが本当に嬉しくて、今もその認識が全く変わっていないのだと分かって、こみ上げる不安感はたちまち薄れていった。

 ご両親に関わる話題は一端落ち着き、まどかの興味は焔へと向かった。

 

「そういえば焔くんの水着だけまだ見てないけど、どんな水着にしたの?」

「僕は大した物じゃないから、パーカーで隠すつもりで……」

「ええっ、もったいないよ!」

「も、もったいな……え」

 

 目を見開いたまどかに手を握られ、焔はいとも容易く真っ赤になった。

 彼も水着を買っているが、本人はあまり自分に似合うという自信がないようで、私にも見せようとしない。

 本当はどんな水着なのかは私も気になっていた。けれど、まどかはハッとした顔で小さく頭を下げた。

 

「あ、ごめんね。誰かに見られるのは、やっぱり恥ずかしい?」

「……ちょっと」

「そっか。そうだよね」

 焔が何か言いかけたのを、まどかは声を大きくして遮った。

「ううん、気にしないで! わたしもちょっと恥ずかしいなって思う時はあるから、すごく分かるよ」

 

 ほんのり恥ずかしげに顔色を変えながらも、胸を張って顔を上げている。

 

「でもね、今回の水着はみんなに選んで貰ったの。焔くんにも見て貰いたいな」

「ああ、それはもちろん楽しみだ」

「でもちょっと派手で、わたしにはかわいすぎるかも」

「きっと似合うよ」

 

 何かしら口出しをしたい気持ちを堪えながらも、私は二人の会話に耳を傾ける事ができた。

 私達の正体が分かって以降も、まどかと私達の関係は変わらなかった。

 かつて暁美ほむらを命がけで守ってくれたあの日の彼女と同じで、献身的で、気遣いができる、そういう最愛の友達だ。

 

「ひょっとして、ほむらちゃんの水着もまだ見てない?」

「まだだな」

「そうなんだ。なら楽しみにしないとね」

「まどか、流石にそこまで言われると恥ずかしいわ……」

 

 私は落ち着かずに髪をかき上げ、まどかを直視できなくなった。選んで貰ったとはいえ、あまり似合うと言われるとやはり来る物がある。

 

「……客観的に見れば、確かに、ああ、美人……うん、美人だと思う。みんなが選んでくれたなら、似合うんだろうな」

『考えてみると、ひどい自画自賛よね』

『そういうのじゃない』

 

 内心で互いに言葉を飛ばし合い、顔では二人ともまどかに微笑みかける。

 言葉で軽くお互いを馬鹿にはしても、喧嘩や敵対とはほとんど縁がなかった。人前では少なくとも家族でいるべきだ。そうでなければ悲しませてしまう。

 

「さて、水着の事は海へ行けば着るからその時にしよう」

 

 焔は髪に何度か指を流して、それから椅子を引いた。

 手で座るように促して、まどかが腰掛けると向かい側へ腰掛け、私もそれに続いた。

 対面する形となると、まどかの顔がよく見える。心配なんて何一つ無さそうで、悲しみも苦しみもそこにはない。そんな憂いのない面持ちを眺めていると、私はどうしても、悪魔の顔を思い浮かべてしまった。

 あれの望んだ通り、まどかは何が起きているのかを知らない。それが正しいのかはともかく、そこにある笑顔と幸せには他の何よりも意味があって価値がある。

 

「今日のまどかの寝る所だけど、僕のベッドを使うといい。あっちの方だ」

「え? 焔くんはどこで寝るの?」

「僕は床でいい。いや、部屋を分けた方がいいなら僕はお風呂場で寝よう」

 

 まどかが家に泊まる為の準備は終えている。じゃんけんで勝った焔がベッドを提供し、シーツはいつも以上に注意深く敷かれていた。

 寝心地が悪くてもいけない。空調を効かせつつ、お布団の柔らかさには普段よりずっと注意を払ったつもりだ。

 

「ん、一緒の部屋で平気だよ」

 

 まどかの答えに僅かだが間があった。何か言いたそうにしてやめた調子だ。

 気づいたからには無視はせずに、どこに気になる点があったのかを聞き出さなければいけない。焔と私は示し合わせたように僅かだが身を乗り出した。

 

「どうしたの? 何か希望があるなら聞くわ」

「出来る限り、まどかには楽しんで欲しいからな」

 

 そう尋ねてみると、まどかは二つ並んでいるベッドを何度か交互に見比べた。

 

「あのベッドは、動かせるの?」

「ええ、簡単よ」

「じゃあ、ベッドをくっつけて、それで……三人で一緒に寝たいなって」

 

 そう口にしたまどかは、華やかで好意に満ちた視線を惜しまず私達へ注いでくれた。

 

「三人? 私と、まどかと、焔で?」

「うん、どうかな」

 

 やっぱり、焔への扱いは友達そのものだった。どこまでも私達に気を許し、警戒のない姿勢を崩さない。

 私達にはあまりにも贅沢すぎる厚意に遠慮してしまいそうだったのだが、何がまどかにとって幸せなのかを考えると、断る道はないように思えた。

 

「……そうね、まどかがそうしたいのなら」

「僕は……うん、一回くらい構わないか」

 

 迷ったのも、頷いたのも同時。

 互いの目線が交差する。まどかを間に挟むとしても、私達が同じベッドに入る日が来るとは全く思わなかった。

 

『これで、いいのかしら』

『構わないでしょう。これくらい、あの子が背負ってきた物に比べれば』

『……確かに』

 

 全てはまどかにとってより幸せな道があればこそ。何より優先すべき使命だ。

 一秒一秒を、彼女が誰かを大切に思って、大切にされて生きられるように。その人生がどれほどの薄氷の上に成り立っているか。今は痛いくらいよく分かる。

 

「じゃあ、お風呂も三人で一緒に入ろうよ」

「えっ!? ま、まどか!?」

「えへへ、冗談だよ。流石にね」

 

 ぺろりと舌を出すまどかが可愛らしい。

 

「お、驚かせないで。ここには焔もいるのよ」

「んっと、じゃあ、ほむらちゃんだけなら、どうかな?」

「私なら一緒でもいいわ。でも少し狭いから、それで良ければね」

「わたしは平気だけど、ほむらちゃんは?」

「心配は無用よ」

「だったら決まりだね!」

 

 そのくらいならと了承した後で、少し気恥ずかしくなった。まどかと一緒に入浴するのは恐らく初めてだった。

 

 

 それから、私達はとりとめもない話をした。学校の先生の事や友達に最近あった事などだ。やっぱり私よりもまどかの方がずっと周囲の人に詳しくて、人の事をよく見ていた。友達の身に起きた幸せを我が事の様に喜んで、人の良い所を沢山挙げた。悪口も苦言も一切言わなかった。

 まどかが小さかった頃の思い出話なども聞いていてとても興味深く、見たいと思っていたランドセルを背負ったまどかの写真を持ってきてくれていた。今より少し背が高くて幼い雰囲気だけれど、今と同じくらい可愛らしくて、一緒に写った彼女のお父様やお母様が幸せそうに彼女と並ぶ姿に、やっぱりまどかはこの世に生まれてくるべき人なんだと確信が持てた。

 焔も私も過去は与えられた物だから、お返しで語る過去の思い出は何もかもが嘘なのだが、それでも頷いて聞いてくれる姿には人を饒舌にさせる不思議な魅力があって、気づいた時にはありもしない過去を自分の物として自然と口に出来ていた。

 まどかの人生と暁美ほむらの人生を伝え合っていると時間は一瞬で過ぎていき、気づいた時には彼女が訪れてから一時間は経っていた。しばらくすれば夕食にちょうどいい時間だ。私達は食事を必要としないが、まどかには必要だった。

 弟さんを初めて抱いた時の気持ちを語る彼女に一言声を掛け、私は席を立った。

 

「まだ時間に余裕はあるけど、夕食の準備をしましょうか。食べたいって言ってたシチューの材料は先に揃えてあるわ」

「うん。パパから作り方は教わったから、一緒に作ろうね」

 

 私は座って待っていて貰おうと思ったのだが、まどかが私達と料理ができる事をあんまりにも楽しみにしているので、そのまま手を貸して貰う事にした。

 台所もあまり広くないので、三人で調理に赴くと手狭な感はあった。だけど、まどかは喜んで私と焔に並んで包丁を握ってくれる。手慣れた調子で野菜を切る顔には自信が浮かび、私達の視線に気づくとクスクス笑いながら調理を続けていた。

 

「手先が器用なのね」

「ほむらちゃんだって、ほら、野菜の切り方がこんなに綺麗」

「でも……まどかの切った方が美味しそうじゃないかしら」

 

 多少の差だが、私の記憶にあるまどかよりも料理に慣れている気がする。何故かと疑問に思い、やっと気づいた。

 記憶の中のまどかはいつも同じ時間の中で生きていたが、今は違う。彼女の人生はようやく進み始めたのだ。

 

「やっぱり誰かと一緒にお料理をするのって楽しいね」

「そうね。一人で作るより、気分が良くなるわ」

 

 まどかが食べると思うと、いつもよりずっと手に力が入る。

 美味しく作りたい。心からそう思えた。

 

「今度、マミさんや他のみんなも誘って作ってみようかな。ほむらちゃんはどう?」

「楽しそうね。どんな物を作れば良いのかしら?」

「うーん……ケーキなんてどうかな、甘くて美味しいし、盛り上がると思うの。作った物をマミさんの家でお茶と一緒に食べたら、もっとみんなで楽しめそうじゃないかな」

「ケーキ? じゃあ……焔、何か手軽な材料はあったかしら」

「カボチャなんて美味しいかもしれないな。前に安く売っていたから、量も確保できる」

 

 美味しいケーキの材料について話しながらも、調理の手は止まらない。

 視界の端でアレの使い魔がまどかを見張り、包丁で怪我をしないか目を光らせていた。以前は気づけなかったけれど、自覚した今となっては人形達の行動が見えてしまう。

 あれらが大本となる私に幾分か情報を届けているのだろう。今日はまどかがどんな事をしたのか、どんな風に生きたのかと。

 悪魔の病んだ瞳を思い出す。

 あの日、泣き止んだ彼女と話した事が不意に頭へ浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まどかとの通話からずっと泣き続けていた悪魔も、やっと落ち着いて目元を拭っていた。

 また邪悪で近寄りがたい雰囲気が戻ってきて、心なしか顔色が穏やかになっていても、ひどく濁った瞳は元に戻らなかった。

 

「あなた達は、これからどうする?」

「こんな話を聞かされて、やる事は一つしか無いでしょう?」

「ああ……僕達もまた、まどかを維持する道を選ぶわ」

 

 私達が導き出した答えは、まったく同じだった。

 これは、まどかへの裏切りだ。

 

 まどかの意思を無視した惨い行為だと、三人とも分かっている。

 

 けれど自分の倫理観が悲鳴をあげる程度の事で屈せば、彼女は誰の記憶にも残れない残酷なものに戻ってしまう。

 この一ヶ月以上、記憶の上ではもっと沢山の時間をまどかと関わってきた。彼女がどんなに良い人で、どれほど家族や友達を大切にしていて、どれほど大切に想われているか。そんな事実の一つ一つがあまりにも尊かった。

 

 私たちは嘘吐きで、裏切り者で、どうしようもなくまどかの敵だ。それでも、やるべきだと思った事からは逃げられない。

 私達の全存在は、あるべき筈だった幸せと、失ってはいけなかった彼女の人生を守る為にある。

 

「そう、良かった。あなた達のその言葉に、嘘はないわね」

 

 返事を受け取った彼女の笑みは、自分の物とは思えないくらいに透明だった。

 顔色は青ざめて目元は不健康な隈でひどく暗いのに、その時だけは見事なくらい面持ちに曇り一つもなかった。

 

「私は、まどかを危険に晒す物事と、まどかに真実を気づかせてしまう出来事の回避に全力を注ぐわ。他はあなた達と人形達に任せる」

「それは、どれくらい保つの?」

 

 私が問いかけると、悪魔は押し黙った。お茶の袋を抱きしめ続けている。

 簡単ではあるまい。人形達に手伝わせているとしても、魔獣の発生を未然に潰して手に入れたグリーフキューブを他の人達に渡して回り、誰とも関わらず、敵も味方もなく一人で過ごし続けるのだから。

 

「……まどかは、何物にも代えられない平和で穏やかな世界の中で、家族に恵まれて、友達に恵まれて、きっと恋人にも恵まれて、愛されて、誰かを愛して、笑って、泣いて、また笑って……生きて、そして生きて……」

 声が掠れ、最後に消え入る様な声で付け加えていた。

「いずれ、亡くなる」

 

 

 

「……だから、百年くらいは、ね」

 

 

 

 痛ましい声だが、特別何か感情は覚えない。ただ、この調子では本人が言うほど保ちそうにないのは分かった。

 

「百年ね。厳しくなってきたらいつでも私と交代しなさい」

「……あなた達の能力では私の真似は難しいわよ?」

「でも、難しいだけなら何とかなるわ。つまらない事に拘って、体力が尽きて失敗したでは済まされない」

 

 彼女は私から顔を逸らし、「考えておくわ」と呟いた。こうして見ると私はかなり頑固で、自分一人で全部背負ってしまう性分なのだろう。

 それでも、無理をして潰れられては私達が困る。じっと彼女を見つめ続けていると、髪を一度かき上げ、目を瞑った。

 

「……検討しましょう」

「そうしなさい」

 

 会話はそこで区切られ、悪魔は人形を伴って私達から背を向ける。

 もはや語るべき事はないと言いたげだった。

 気を抜けば消え去りそうな背に、焔の声が向けられた。

 

「最後に一つ聞かせなさい。僕は結局、どうして男なの」

「……別な何かが見えるかもしれないでしょう? 微かな可能性でもね」

 

 頭を傾けて振り返り、悪魔はそれだけを答えた。

 本当にただ、それだけらしい。

 少しだけ、共感できた。今の自分ではなく、別の自分ならあるいは今より良い結果を生み出せるかもしれない、そう願いたくなる気持ちは誰にでもある物だと思う。まどかにもあったし、私も当然持ち合わせていた。

 

「でも、元の姿に戻りたいのなら」

「いや」

 

 悪魔が言い終えるよりも早く、彼は首を横に振った。

 

「今更そんな事を言うな。このままでいい。いや、こうであるべきだ。暁美ほむらは二人もいらない。僕がこのまま存在し続けるのなら、多少なりとも誤差があった方がいいだろう」

「……本当に、まどかとは友達でいいのね?」

「何を心配されているのかは分かっているつもりだが、誰が望んだとしても、僕がまどかに恋をすることはない。有り得ないことだ」

 

 何やら疑わしげな様子だった悪魔も、その切実な響きの乗った言葉を受け入れた。

 

「そう」

 

 悪魔は険しい表情を緩めた。

 

「そうね。あなたなんかがまどかに相応しいわけがないものね」

 一瞬だけ私達と目を合わせ、悪魔は続けた。

「気を悪くしたかしら。けれど自分の事だもの。暁美ほむらがいかにダメな人間かはよく分かっているわ」

 

 髪をかき上げながら嘲笑する姿からは強がりの匂いがした。

 私もこの悪魔も、自分を演じる事にかけては慣れている。 

 張り付くほど長く演じ続けた仮面は既に私の一部分だが、仮面は仮面だ。悪魔もまた同じく、その内側にあるであろう泣き虫で弱い姿が嫌でも幻視できてしまった。

 

「でも、そうね。あなた達はよくやっている。ちゃんとまどかの傍で、まどかを見ている」

 

 それでも、悪魔は両足でしっかりと立っていた。

 

「あなた達が二人いるのはね、もしもどちらかがまどかの事を忘れ、彼女を守りたいという気持ちを失ったら、都合の悪い方は……」

 

 途中まで言いかけて、分かるでしょう? とこちらに笑いかけてくる。

 涙の痕が色濃く残る目元とどこか赤らんだ顔に意思を乗せて、どろどろに濁った瞳は大きく開き、その背には黒い翼が現れた。

 

「でもやっぱり、あなた達も私も暁美ほむらで、だから、これからもまどかを見ていなさい」

 

 きっと慣れ親しんだのであろう真っ黒い気配を漂わせたまま翼に己を包んで姿を消し、瞬く間に存在を感じられなくなった。

 彼女のいた痕跡はお茶の袋とカップくらいで、まるで世界に溶けて消えたかの様だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 悪魔との出会いから、もう一ヶ月は経っている。

 あれから彼女とは会っていない。相変わらず魔獣は見滝原を探し回ってもどこにもいないのだから、活動はしているのだろうが、接触してくる事は一度も無かった。

 人形達がたまに私へ耳打ちして彼女の近況を教えてくれる。言葉は変わらず聞き取れないが意味は感じ取れ、悪魔は特に変わりないと伝えてくる。

 もしも弱りだしたら声を掛けろと思念で人形達に頼めば、彼女達はスカートをちょっとだけ摘まんでお辞儀した。

 自分の事だ。あんな生き方をして、耐え続ける事ができないのは分かっている。すり減らした心は悲鳴をあげ、いずれ限界が訪れる。他に誰も頼るべき者がいないならまだしも、私達が居るのだから失敗の可能性は削るべきだった。

 他の何もかもを頼れないとしても、暁美ほむらだけは暁美ほむらの味方でいられるのだから。

 

「そういえば」

 

 シチューを混ぜながら、まどかはふと顔を上げた。

 

「二人は泳げるの?」

「……どうかしら」

「実は久しく泳いでないんだ。ほら、病気だったから」

 

 彼女の笑顔が一瞬陰った。

 気を遣わせてしまった。久々に焔の足を踏みつけたくなるが我慢して、努めて笑みを維持する。

 まどかが何かを口にする瞬間に言葉を遮った。

 

「私達にとって嫌な過去じゃないわ。あの入院の日々があったから、私達は見滝原に来たの。あなたと友達になれたのよ。それだけで十分、私は報われているわ」

「そうだ。昔の僕達と違って、今は君がいる。だから気にしないで」

「……ふふっ、二人ともほんっとうに優しいね」

 

 まどかは輝ける感情で答えてくれた。私達二人に、等しく最高の扱いをしてくれる。

 

「ん、いける。ほら、焔くんも味見してみて?」

 

 味見に使った小皿を、まどかは何の躊躇いもなく焔へ差し出した。

 焔は微笑みながら受け取ると、シチューを混ぜていたお玉を掴んだ。

 クリーム状のシチューは三人で切った野菜が沢山入り、良い香りと共に湯気を立たせていて、普段食べている物よりもずっと美味しいのだと主張しているかの様だ。それに何より、まどかと一緒に作ったという事実一つで世界の何よりも幸せな料理に見えてしまう。

 焔もお皿に口を付け、小さく頷いていた。期待を裏切らない味だったらしい。

 

「うん、いい。やっぱり、まどかは料理もこんなに上手なんだな」

「ふふっ、三人で作ったんだから、わたしだけの料理じゃないよ?」

「いや、僕達はまどかに手伝って貰うつもりだったんだが、実際には逆だった。教わりたいくらいだよ。僕もほむらもイマイチ料理の腕がよくなくて……」

 

 シチューが焦げない様にさりげなく混ぜつつも、私は会話に夢中な二人の声に耳を傾けていた。

 真実を知っている私にも、やはり仲睦まじい恋人同士に見えてしまう。

 こみ上げてくる恐怖感はかなり薄れたが、今でも消えてはいない。

 

 今もまだ問題ない。幸いな事に、まどかの目に浮かぶそれは私に向けられる物と変わらず、友達としての親しさだけがある。

 だが、このまま仲良くなって、ずっと一緒に居ればどうなるだろう。

 素晴らしい事に、まどかの時間は着実に進んでいた。私がこの世界に現れた時よりまどかの髪が少し伸び、背も心なしか高くなった気がする。

 想いだって、どこかしら変わっていくのだろう。

 

 気持ち悪いことだけれど、あれがまどかにとって一番に身近な異性だというのは、理性では、客観的に見れば……百歩譲って、認める事ができた。

 うぬぼれかもしれない。でも、こんな私達を魅力的で素敵だって言ってくれる子だ。万が一がある。

 

 それが、今でも恐ろしかった。

 ことに私達は同じ暁美ほむらなのだ。人生の全てをかけて守りたい友達は、友達であって恋人じゃない。それは今も変わらない絶対の事実だ。

 

「二人とも、そろそろシチューが出来上がっているわ」

「あっ、ごめん。話し込んじゃった」

「構わないから、まどかは席に座って待っていて。お皿や他の食べ物は私が用意するわ。パンでいい? お米の方がいいかしら」

「シチューと一緒だから、うーん、パンがいいかも」

「そう。ならそれで行きましょう」

 

 焔の姿へ目をやると、彼はまどかの前にコップを置いている所だった。

 ……もしも、まどかが恋を望む時が来たとして、彼はどうするのだろう。

 

 考え込みながらシチューを真っ白なお皿によそって、パンとマーガリンを別のお皿に乗せると、焔がそれを受け取って、彼女の前へと並べる。

 ……あの時に、悪魔へと口にした言葉通りに行くのだろうか。

 

「ほむらちゃんも早く座ろうよ」

「え、ええ……うん」

「えへへっ」

 

 いつの間にかまどかは私の元へ来ていて、手を引いてくれた。

 あたたかな指先の感触が、命を私に伝えてくれる。

 

 ふと、心が少し軽くなった。

 心配事の全てが取るに足らない事だったような気がした。

 

 だって、彼女の人生は再び始まったばかり。失われるべきではなかった全部をこれから取り返していくのだ。成長も、学校も、恋だって。

 その一助になれるのなら、恐怖も絶望も苦しくない。これから先、どんなに苦しかったとしても、どれほど悩んだとしても、彼女がそこに居てくれる限りきっと平気だ。

 どういう選択肢だとしても、最後には、まどかにとってより明るい道を選びたい。途中で少し泣いたとしても、きっともっと幸せになれる道を。

 

「じゃあ、いただきます」

「「いただきます」」

 

 三人で声を揃え、口にしたシチューの味は予想よりも遙かに味わい深くて、涙が出そうなくらい美味しかった。

 暁美ほむらがまどかと一緒に作った料理。私達だけで独占するには幸せすぎる。まだ鍋には余分に残っていて、まどかがお代わりしなければ残る筈だ。

 残った分は、人形達に持たせてあの悪魔に届けよう。

 

「お水を足すけれど、まどかも飲むかしら」

「うん、お願いしていい?」

 

 三割ほどになっていたまどかのコップを持って、冷蔵庫から代わりの水を注ぎ、シチューの鍋に関心を示す人形達の頭を撫でる。

 料理の味とパンの相性について語り合う二人の声は幸せそのもので、口元に残ったものを焔に指摘され、顔を赤くして拭うまどかの楽しそうな雰囲気が私達の心まで明るい所へ連れ出してくれる。

 

「……」

「ほむらちゃん、さっきからどうしたの?」

「あなた達は本当に仲が良いわね」

 

 私の言葉に何を感じたのか、こちらに向かって身を乗り出すと、まどかは私の頬を包み込んだ。

 

「ほむらちゃんとも、仲が良いんだよ」

 

 その優しさにお礼の言葉を返して、私は己の中の意思が完全に固まっていくのが自覚できた。

 本当にそれが必要なら、私は選べる。今の私達は人の体ではなく、同じ暁美ほむらなのだから、もしも私と彼が入れ替わっても、きっと誰も気づけない。

 

 焔は、突如として向けられた私の視線の意味をよく分かっていない様だった。

 そして私も何も答えたりはせず、ただまどかと料理を楽しむ時間に戻るのだった。




これで完結となります。



鹿目さんが将来的にどうなるかとか、どうならないかとか、それは分かりませんが、とりあえず暁美さんは鹿目さんの心を読めるわけではないし、逆もしかりです。暁美さんの心配は杞憂に終わる可能性の方が高いでしょう


この作品はあくまで暁美さんの視点なので、鹿目さんが何をどう思っているのかは分かりませんし、書きませんでした。あと私自身が鹿目さんの思考をあまり真似できないので
ただ、鹿目さんは実は凄く我の強い人だという事は分かっています。暁美さんが、こうと決意した時の鹿目さんに言葉でも実力でも勝てないのは本人が一番わかっていると思うんです。
鹿目さんは本人が思っているより遥かに優しくて、それでいて頑固で力強い。「そんなのは違うって言い返せる、そう言い張れる」人。まさに主人公気質の持ち主。そんな彼女だからこそ、笑顔が似合うし、日常が似合うんですね。

だからこそ、暁美さんが鹿目さんを守り続けたければ、決して知られる訳にはいかない。何が起きているのかなんて知らないまま、ただ素敵な人に囲まれて生きてくれる様に全力を尽くすしかないのだと思います。
彼女に武器を取らせるような事があってはいけない。
例えそれが鹿目さんの想いへの裏切りだとしても、行動しない理由にはならないのですから。



ところで、小ネタは幾らかあります。マギアレコードから一人と、テレビ版の没デザインなんかですね。暁『海』ほむら、というのがそもそも暁美さんの初期設定での名前です。
男の方の暁美さんが変身した姿もうめ先生の初期デザインから。本作は暁美さんを三人にした為、ほんの少し変えました
あと遊園地の描写元は叛逆の物語のOPに出ていたあのレジャーランドの写真から持ってきました。


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