いつかその日は今日である (炉心)
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第壱話:緩やかにして、日常 ~その壱~


 艦隊これくしょんの二次創作の多くは戦中やオリジナル提督を中心に書かれたものが大半ですが、自分は戦闘描写や戦争あれこれに関するお話が得意ではないので、結果としていつも通りの日常系となりました。
 
 でも、多くの人が言うように『生きることは戦い』ならば、この話もまた艦娘達の戦いを書いた話なのかもしれません。

 ……と、冒頭くらいはシリアスに言ってみた今日この頃です。

 本編はゆるりとお楽しみください。




 

 

    They were good days. Yes, they have been good days.

 

 

 

 戦争があったらしい。

 

 それは突如として現れた海を支配する“何か”と人間とそれに味方する存在による戦い。

 

 随分と長く長く続いていた戦争だったらしいけど、それも僕が物心着く頃にはもうほとんど終わりに差し掛かっていて、数年前に行われたらしい最後の大規模作戦によって人類とその味方達は最終的な勝利を手に入れた。

そして、遂にこの世界には平和な海が戻ってきた。――そんな話を日々流れるニュースや新聞や雑誌の記事なんかで読んだ気がする。

 

 とは言え、僕が住んでいる地域では少なくとも僕が知る限りでは戦争なんて恐ろしい出来事からはまるで夢物語みたいに無縁の場所だ。そんな欠伸が出るくらい辺鄙な片田舎に生まれてから十四年間以上も住み続けている僕としては、戦争をしていたことも終わったことも何ひとつとして実感を得ることなんてないし、感慨を湧かせるわけでもない。代わり映えしない退屈で平凡で長閑な田舎暮らしな日々を恙なく過ごしているのだった。

 

「――何をしているのよ?」

 

 ぐったりとまったりとした至福の時間を過ごしていたのに、頭上から振ってきた諦めの篭ったような呆れ声に間延びしていた思考に少しだけ刺激を与えられ、億劫さを感じながらも頭を振り動かして声の方へと仰ぎ見る。

 

「ちょっとだけ寝不足なんだ。寝たのが多分夜中の3時を過ぎてたかな?」

 

「夜更かし? そんな時間まで何をしていたのよ?」

 

「ラジオ番組の特番があってさ。それを聞いていたら妙に目が覚めちゃってね。寝付けなかったんだ。だから今は眠気覚ましの為のモーニングコーヒーを片手にダレてる」

 

 コーヒーカップの取っ手に軽く指を添えると、ほんの一瞬だけカップをソーサーから少しばかり持ち上げてのアピール。カップの底に僅かに残る黒い液体は既に湯気も立たなくなって久しいけど、懐事情的には更なるもう一杯を注いでもらう予定も余裕も今のところはない。これでも僕は馴染みの常連客なわけだし、お代わり自由にしてくれればいいのに。まあ、メニューに記載されている定価よりはかなりサービスで安くしてくれているんだけどさ。

 

「ウチのお店はあくまで食事処なのよ? 確かにお昼前の今の時間帯が暇なのは事実だし、実際には喫茶店的なメニューも出してはいるわよ。だけどね、それでもあくまでメインは食事をするための店なの。コーヒーを一杯だけ頼んでいつまでもゆったりのんびりと、居座れることが当たり前みたいな喫茶店の感覚で長居されるのはね。正直言って困るんだけど?」

 

 数年来の付き合いで見知った顔には浮かんでいるのは、怒ったようにも呆れたようにも見える微妙な表情。柔らかい色合いに少し癖毛な髪を頭巾で纏めて被い、ラフなシャツにプリーツスカートとエプロンを身に付けて、片方の手を腰に当て、もう片方の手には今し方テーブルを拭き終えた台布巾を持った姿。

 

 この店の看板娘であるナルの口から出てくる正論と苦言に耳が痛み、同時にシャツから覗く健康的な二の腕の存在に気づいたことで意識が吸い寄せられてしまう気がして、思わず無理矢理背けた視線をあさっての方向で泳がせてしまう。

 

 それにしても、僕とは同じ年齢であるはずなのに、ナルは時折やけに年上染みた雰囲気を出してくるから不思議だ。これは真面目でしっかり者故の副次効果ってやつかな?

 

「ナルって真面目だよね~。今日は折角の日曜日で、しかも天気も良くて絶好の外出日和だよ? 日々休む間もなく続く学生生活で忙しいこの身の羽を唯一自由に伸ばすことを公に許された日だって言うのに、わざわざ率先して家の手伝いをしているんだからさ」

 

「真面目かどうかなんて関係ないわよ。私は私が家の手伝いをしたいと思った。だからしているの。自分のしたいことが出来るんだったら、それをするのは当然じゃない。しかもそれが誰かの役に立つのなら尚更でしょ」

 

 その考え方が真面目なんだと思うのだけれど。

 

「私のことは別にして、そっちの方こそどうだと思うわ。そもそも、絶好の外出日和だなんて言っているけど、そんなことを口にしている張本人の行動はどうなのよ? 全然外出なんてする気がないじゃない」

 

「いやいや、見て。ちゃんと見て。ルック・ミー・ナウをしてみて。ナルには今の僕の状況がどう見えてる? ほら、絶賛外出中だから。馴染みのお店に入っての優雅なコーヒーブレイクを楽しんでいる途中だから」

 

「優雅なコーヒーブレイク……ねぇ。まったく、変な言い訳ばかりなんだから。朝から居座ってダラダラしているだけじゃない。しかも、確かに一応は外出中ではあるかもしれないけれど、実際のところはあなたの家まで歩いてほんの少しの距離でしかないでしょ。百歩譲って見たとしても、どう贔屓目に取っても精々が家の近所を散歩ってレベルよね」

 

「そこはほら、僕はどちらかと言えばインドア派に属すると自認しているわけで。そんな僕としましてはね、たとえ自宅から数分の距離であっても十二分に外出していると思うわけなんだ」

 

「自認する部分が間違っていると思うわ」

 

 呆れ顔を更に深めたナルの盛大な溜息。不幸が嬉々としてやってきそうなレベルの溜息に、そのことをこの場で指摘したら怒られるだろうかと考えていると、溜息を吐き終えたナルはおもむろに店の奥へと引っ込んでしまう。――かと思ったら、何故かその手にコーヒーポットを持ってすぐに戻って来た。

 

「はい、サービス」

 

 言うやいなや、僕の空になりかけだったカップに熱々のコーヒーが注がれる。すぐさま広がった芳醇なコーヒーの香りが僕の鼻孔をくすぐり、温かな湯気が再びカップから立ち上がった。常々に思う。どうしてコーヒーの香りと湯気には味がないのだろう。あれば絶対に美味しいこと間違いないのに。

 

「いいの? 念の為に言っておくけど、今日はもう本当にお金ないけど?」

 

 自慢じゃないが、僕の懐事情は基本的に年中金欠気味だ。最も、一般的な中学生の身で使うお金に困らないなんて言う人間はごく少数だろうけど。

 

「いいわよ、別に。今は私達以外に誰もいないし」

 

 そう、見知った店内に現在いるのは僕とナルの二人だけ。僕以外にお客さんがいなかった所為かもしれないけど、少し前にお昼の忙しくなる前にちょっとだけ用事を済ませてくると言って店主の小父さん達は出ていっていた。店主不在のこの状況でもし新しくお客さんが大量に来たらどうするのかと考えなくもないが、「大丈夫よ、私がいるじゃない」と、何故か自身満々な態度のナルの姿を見ていると案外大丈夫なのかと妙な納得をしてしまう。……あれ? そう言えばナルの料理の腕前ってどんな感じだったっけ? 確か、お菓子とかはわりと上手に作っていた気がするけど。……まあ、田舎だから来るお客さんと言ってもどうせ皆知り合いばかりだろうし、誰もそこまで気にはしないか。

 

「おとうさん達には内緒よ」

 

 不意にナルが悪戯っぽい声で囁き、茶目っ気のある笑みを浮かべる。

人差し指を唇に当てる仕草をしながら見事なウィンクを決めてみせるナルを見て急になんとも言えない気持ちになり、なんだかいろいろとモヤモヤとする感じを誤魔化すかのようにコーヒーに口をつける。

 

「あっつぅっ!!」

 

 予想以上に熱かった。

 

「もう、なにやってるのよ。ダメじゃない。気をつけないと」

 

 火傷するほどではないにしろ、多少ヒリヒリする舌に顔を顰めながらコーヒーカップを置き、ナルがすぐさま注いで差し出してきた水の入ったグラスを受け取って口に含む。

 

「ちょっとこぼれちゃっているけど、服に飛び散ってない?」

 

 水と一緒に口内に入れた氷で舌を冷やす僕を横目に、カップからテーブルにこぼれたコーヒーを台布巾で素早く拭き取ったナルの言葉に自分の服をチェック。ぶっちゃけ、今の服装は安物の無地シャツの上に紺のパーカーと下は灰色のジャージ姿と気取ったような要素が皆無なラフさ全開の恰好だったりするので、少しどころか多少は汚れても気にしないと言えば気にしないのだけれどね。

 

「あ~、微妙にズボンに」

 

 ジャージのズボンの数ヶ所にコーヒーが飛び散っている。それほど目立つものでもないけれど、早めに処置してしまわないとこれは確実に染みになるだろう。

 

「どれ? これ、早く洗濯しないと染みになっちゃうわね。とりあえず、濡れた布巾か何かで……」

 

「ぃっ!?」

 

 不意に覗き込むようにして僕のジャージの汚れ状態を確認しようとするナルだけど、僕の方は思わず変な声で叫びそうになった。

 

 俯いたせいでたわんだエプロンと服の間には隙間ができていて、ナルが近付くにつれて血色の良い首元から鎖骨を過ぎて胸元に至るまでの部分が視界に飛び込んでくる。その上、ナルが今日着ているシャツは首元部分が結構緩いデザインをしている。そんなタイプの服で屈み込むとかすれば、ナル自身は意図せずとも胸元のかなり際どい部分までが覗いている。傍目からの印象では同年代と比べてもナルの発育は特別良好な方ではないけれど、それでも確かな起伏の結果が如実に分かってしまう。

 

 つまりは……いろいろとヨロシクないってこと!!

 

「いや、いいよ! これくらいならそこまで気にしないから。と言うか、もう家に帰って洗濯機に放り込んだ方が早い」

 

 最初の若干叫び気味の上擦った声は抑えきれない内心の動揺のため。それでも継いだ言葉は出来るだけ冷静な状態を装う。多少の早口は許容範囲内。一瞬向けられたナルの怪訝な表情もまあ許容の範囲内としておく。要はあまり深く考えないのが吉。そして変な気分からボロが出る前にさっさとこの場から退散するのもまた吉。実際、時間的にもいい加減にお暇した方がいいだろうし。あれれ? これってなんだかもの凄く言い訳っぽい?

 

「わかったわ。じゃあ、早く帰って着替えなさいよね。それと、この際だから思っていたことを言っておくけど、幾らなんでも外に出る時はもうちょっとくらいちゃんとした格好をした方がいいんじゃないかしら? 別に無駄に意識してオシャレしろって言うわけじゃないけどね。それでもジャージにパーカーって、流石に部屋着感が過ぎると思うわ」

 

「ナルって僕の母親だっけ?」

 

 母親から言われるお小言の定番みたいなことを言われた。そんなにアレだろうか? 逆に近所の馴染みの店に来るのにわざわざ服装を気にする人の方が少ないと思うけど……これは男女の違いだろうか? いや、むしろこれはナルの性格的なものか。母性気質とかお節介焼き気質とか的なものなんだろう。

 

「とにかく、ご馳走さま。そうそう、飲めなかった分のサービスのコーヒーは次回のツケにしておいてくれたりすると非常に嬉しかったりするんだけど?」

 

「図々しいわよ。……まあ、私も悪かったから別にいいけど。ただし、あくまでも私がいる時にだけにしてよね」

 

「おお、ホントに? 言ってみるものだね」

 

 席を立って軽く伸びをする僕の耳にナルのレジスターを打つ音が届く。提示された金額はサービス価格のモーニングセットの分だけで、当然だけどお会計もその金額だけ。なんだかナルは諦め気味な表情をしている気がするけど、律儀な性格のナルのことだから今日の約束を反故にすることはないはず。

 

 しかし、今日はラッキーだった。何がって? 当然、コーヒー代が次の一回分浮いたことがだけど。

 

「あっ、そうだった。今日の夜なんだけど、少し時間あったりする? ちょっとだけ話したいことがあるんだけど……」

 

 夜? 何だろう? 急にこんな改まった感じで前もって予定を聞いてまで呼び出しをするなんて、ナルにしては珍しい。

 

「別に大丈夫だけど。何時くらい? 7時とか8時くらい?」

 

「それくらいでいいわ。今日は日曜日だし、いつも通りならお店の方も早く閉めると思うから」

 

「りょ~かい。じゃあ、適当に時間を見計らって来るよ」

 

 夜にわざわざ呼び出しての話とは、これはもしや……うん? 何だろう? 駄目だ。特に何も思い浮かばないな。変なことは何もしてないはずだとは思いたいけどね。

 

 今すぐ内容を知りたい衝動に駆られなくもないけれど、そこはまあその時になるまでってことで、折角だから夜までのお楽しみってことにしておこう。ナルの表情を見る限りではそんなに重要でも深刻な話ってわけでもなさそうな感じではあるし。

 

「それじゃあ、ナル。ご馳走さまでした。お店の手伝い頑張って」

 

「勿論。言われなくても頑張るわよ。――ありがとうございました」

 

 快活な笑顔を浮かべたナルのお見送り。流石は店の看板娘。見事な営業スマイル……じゃなくてナルの場合は素の笑顔か。普通に可愛いから、正直言ってちょっと面と向かって見るのは気恥ずかしかったりするんだけどね。こんな感じのことを僕が考えているなんて本人に知られでもしたら、絶対に確実に僕のライフポイントが爆死しそうだから意地でも言わないけどさ。

 

 さて、それじゃあさっさと家に帰るとしよう。帰って服を着替えたら……折角の日曜日なわけだからどこか適当にブラブラしますか。

 

「――湊、また後でね」

 

 店を出る瞬間に聞こえた釘を刺すような台詞に笑顔で手を上げて答えた以上は、後でまた会った際にナルに変なお小言を言われたくないからね。

 

 

 






 Q:この話に出てきた少女は艦娘だと思いますか?




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第壱話:緩やかにして、日常 ~その弐~



 物語に於ける王道中の王道とはなんだろうか?

 先人は言いました。『ボーイ・ミーツ・ガール』だと。





 

 

「――何か御用ですか?」

 

 見惚れてしまっていた。

 

 絵になる光景というものは実際にあるわけで。一応の趣味と部活動で絵やイラストなんかを細々と描いたりしている身としては、そんな光景に出会った場合には画材道具とかがその場に無い状態でもついどんな風に写生しようかと考え込んでしまうことがある。

 

 後になっても同様の光景を見ることができるならばまだいい。だけど、殆どの場合はその瞬間を逃すともう見るチャンスが無いような光景ばかりだから、そうなるともうその瞬間を逃すまいと必死になってその光景を目と記憶に焼きつけてゆく。と言うより、正確には僕の場合は殆どがそう言った光景を見た時には印象をしっかりと自分の中に留めておいて、それを後から絞り出すような感じに近いのだけれど。

 

「聞こえている? あなたに質問をしているのだけれど?」

 

 何にせよ、我を忘れるような状態だった僕が我に返ったのは、いつの間にか僕の方を振り向いていた女の子の刺すような視線と声のせいだった。

 

「え、えっと。いや、その、特に用事とかはないんですけど……」

 

 どうしようか。「ただ単に見惚れていただけです」とか馬鹿な台詞を言えるわけもないし、だからと言って何か別の上手な言い訳が出来るわけでもない。

 

 そもそもが、ナルの店から家に帰って服を着替えた後、特に目的もなくブラブラとした挙句に田舎の良くも悪くも見慣れた光景に若干の飽きを覚えながらも少しでも変化を求めて海岸付近まで足を延ばしていた。

 

 潮の香る海岸沿い道路はまだ季節的に好んで人が訪れる時期じゃない。滅多に人の通らない道路を当て所なく歩いていた結果、埠頭付近に辿り着いた時に出会ったのがその光景だった。

 

 雲一つなく晴れ渡った梅雨の中明けの蒼穹。

 

 時折吹く潮風に僅かに波立つだけの穏やかな蒼海。

 

 そんな空と海の境界を切り分けるように伸びた使われなくなって久しい寂れた桟橋の先、まるで世界に唯一人だけで存在するように佇む人影が僕の視線と意識の全てを引き寄せた。

 

 気が付けばお互いの存在が認識できるくらいの距離まで僕の足は進んでいて、近づいたことでその姿はより鮮明になる。この近辺では見たことのない黒地のベスト付きの制服に白手袋を身に付けた女の子。だけど、それ以上に印象的なのはその髪の色で、吹く風に小さく揺れるポニーテールの髪は薄い赤味がかった紫色にも近い色をしていた。

 

 夜明け前の空みたいだ。――そんな印象をイメージさせる髪の女の子は、脇目を振ることもなく穏やかな海の遥か先をただひたすら見詰め続けている。それは横目からでも充分に分かる程に、強く睨みつけるかのような鋭い表情と視線だった。

 

 どうしてだろう。よく分からない奇妙な感覚があった。

 

 既視感。

 

 遠目から見ても全然似ていないにも関わらず、僕にはその女の子と知り合いの子の姿が一瞬だけ重なって見えた。

 

「用がないのならそこを退いてください。通れません」

 

 僕はこの子に何かしたのだろうか?

 

 向けられた鋭く射殺すような眼光と抑揚のない声。整った綺麗な顔に浮かんでいる無感情とも鉄面皮とも取れる硬質な表情は、言い様のない圧倒的な迫力を伴っていた。

 

「えぁっ、ああっと。うん。ごめん」

 

 小さな桟橋の中央で道を塞ぐように陣取っていたことに気が付き、慌てて脇に逸れるようにして通り道となる空間を空ける。

 

 終始一貫して表情を一ミリたりとも変えることなく足を進めたその女の子は、僕の前を横切る瞬間にほんの一瞬だけ僕の顔を一瞥すると、すぐさま興味を無くしたかのように視線を外してしまう。

 

「――――――――」

 

「え?」

 

 不意に聞こえた気がしたのは……呟き?

 

 それが女の子の口から出たものなのかどうか瞬時に判断できず、浮かんだ疑問と二の句を発するべきかどうかを迷っている間に女の子の姿は遠ざかってしまう。

 

 キビキビとした澱みのない足取りは、なんだか軍人みたいな感じだった。

 

「不思議な子だな……」

 

 ボンヤリとしている内に気が付けば女の子の姿は見えなくなっていて、僕以外の人の気配は完全に無くなっている。天気も良くてあの女の子がいなくなった以外はほとんど何も変わらない筈なのに、何故だが今のこの場所はひどく色褪せて見えた。

 

「まさかこれを見越して……なんて訳ないか」

 

 耳に微かに残っている。

 

 消え入りそうな声で呟かれた言葉の意味を考えながら、僕も特に長居をする必要のないこの場所から離れることにする。

 

 潮風の吹く晴れ晴れとした海岸線を再びダラダラと歩きながら、女の子が見ていたであろう穏やかな海の遥か先を眺めて思う。

 

『なんでこんなところに』――そんな言葉を、あの子は呟いていた。

 

 

               *        *        *

 

 

「マズい。思いっきり寝過ごした」

 

 部屋の時計が指し示す時間を見て血の気が引いた。

 

 ブラブラと外を散策すること数時間。いい加減に飽きて家に帰った後は自分の部屋で浮かんでいたイメージを下絵として粗描して、ちょいと一休みとベッドに横になったのが運の尽き。仕事関係の用事で昨日から明後日までは家に家族が誰もいなかったことも相まって、当然ながら起こしてくれる人もおらずにそのままぐっすりと今の今まで。

 

「22時過ぎって、もう既に夜どころか夜中じゃんか」

 

 慌ててスマホを見れば、案の定だがナルからのメッセージアプリでの通知が何件も着ている。

 

 最初の方はいつまで経っても店に来ないことへの心配。その次は約束をすっぽかしていることへの怒り。そして次第に内容は不安を表すものへと変わり。最終的には僕の家にまで着てチャイムを押したけども応答が無かったためにどこかに遠出しているものだと思ったらしく、時間が出来たら連絡を返して欲しいとの内容のメッセージが着ていた。

 

 と言うより、家のチャイムが鳴っていたにも関わらずにまったく気づくこともなく僕は寝続けていたのか。一体どれだけ爆睡していたんだろう。

 

「とりあえず、謝っておこう」

 

 素早く謝罪のメッセージを打ち込んで送る。いくら近所で顔馴染みとはいえ、流石にこの時間に訪問するのはありえないだろう。明日学校であったら速攻で謝らないといけない。

 

「って、早いな」

 

 ものの数分もしないうちに既読となり、返信が送られてくる。内容は……まあ、当然だと言えるかな。そしてナルの性格も良く出ている。

 

「ナルの優しさに感謝感謝」

 

 口にしたそのままの文面を再びメッセージで送信し、すぐに返信でナルからのお許しのメッセージを受けて遣り取り終了。自業自得とはいえど、なんだかドッと疲れた。

 

「お腹が減っていると言えば減っているけど……晩御飯かぁ。どうするかな?」

 

 今日の晩御飯の予定――ナルの店へと早めに行って適当に食べる。とかを実は考えていただけに、予定が大きく狂ってしまった。カップ麺か冷蔵庫にある残り物の惣菜でも適当に温めて済ますしかないか。

 

 「何が残っていたかな?」と、冷蔵庫の中身を思いだしながら部屋の明かりを消して階下のリビングに行こうとしたところで違和感に襲われる。

 

「……なんでこんなに明るいんだ?」

 

 今し方部屋の照明を落としたはずなのに、何故かそれなりに明るさを感じる部屋の中。その要因となるのが月明かりにしては明るすぎるくらいの明かりがカーテン越しに窓から射し込んできているせいだと気付いて、違和感にプラスして疑問が一気に湧き上がった。

 

「隣の家? 今は誰も住んでいないはずなのに……。なんだ? 電気が点いてる?」

 

 隣は我が家よりも遥かに年季の入った平屋の一軒家で、長年住んでいたお婆さんが介護施設に入ったとかで1年程前からは誰も住んでいない。誰か別の人が代わり住むこともなく、お婆さんも帰ってこなければいずれは取り壊してしまうこともあるのだろが、今のところは特に音沙汰もなくそのまま空き家での放置状態が続いていた。

 

 窓に近付いてカーテンを引いて窓の外を見下ろしてみれば、確かに隣の家の照明が点いていることが確認できた。

 

「誰か引っ越してきた?」

 

 田舎特有の狭いコミュニティと独特のネットワークからか、他所から誰かが引っ越してくるとなるとすぐに情報なり噂なりは広がるから、特にその手の話題を耳にしていなかっただけに少しばかり意外な感じだった。

 

 これ、一応は挨拶とかをしておくべきなのだろうか?

 

「……まあ、別にいいか」

 

 もしも本当に引っ越してきたのだとしたらおそらくあちらの方から挨拶に遣って来るだろうし、それに家主でもない僕みたいな子供だけで挨拶をするのもどうかと言った感じだろう。どのみち時間が時間だ。常識的に考えても明日にすべきだろう。以上。

 

 隣の家のことはとりあえず明日に回すとの結論を導き出したので、そうなれば後はさっさと晩飯を済ませてシャワーを浴びて寝ることにしよう。明日は月曜だし。普通に学校だ。学校自体は嫌いじゃないし、特に明日はナルに謝る必要もあるんだけれど、それでも週明けの学校って正直言ってめんどくさいよね。あ~、何か突発的な施設の不具合とかで休校とかになったりしないだろうか。

 

 あまり褒められた考えではないけれど、それでも全国の同年代達の多くが考えそうなことをつらつらと考えながら階段を降りて、一階の照明を点ける。

 

 瞬間――“バチッ!!”っと、そんな感じの音が鳴ったかと思うと同時に一瞬にして視界が暗転した。

 

「えっ!? て、停電!?」

 

 急に真っ暗になったことで動揺したが、幸いと言うのか照明を点けたばかりだった為もあってか目が暗闇に慣れるのが予想以上に早かった。リビングの窓から途切れ途切れに射し込む月明かりも相まってすぐにそれなりに見えるようになる。窓の外の様子を見ると、どうやら家だけじゃなくてお隣さんとかも同時に停電しているらしい。

 

「ええっと、懐中電灯は……どこだ? って、そうだ。スマホで」

 

 とりあえず、動転した気持ちを落ち着けつつもスマホのライトを点灯させて周囲を照らし、玄関近くに設置されている電気の設備……何て名前だっけ? 電圧盤? いや、安全盤だっけ? とにかくそれを開いて確認。案の定、原因は分からないけれどブレーカーのスイッチが落ちていたので、それをひとつずつ確認しながら上げてゆく。おおっと、上の方にあるスイッチに手がギリギリだった。

 

「よかった。点いた」

 

 ホッと息を吐く。

 

 明かりが戻った室内を見渡すけれど、特におかしなところもブレーカーが落ちる原因になりそうなことも見当たらない。やっぱり、停電の原因になったのは家とは別のところにあるようだ。

 

「電線とかに落雷でもあったのかな?」

 

 突発的なアクシデントが発生したためかもしれないが、なんだか興奮気味と言うか自分のテンションが露骨に上がっているのがハッキリと分かる。しかも自分の家に特に問題がなかった安心感からか、今度は周囲の様子が気になって仕方ない。

 

 なんというか、居ても立っても居られない心境。

 

「近くで事故でもあったりしていたら大変だし、やっぱりここはちゃんと近所の様子は見ておくべきだよ」

言い訳がましい台詞で自分を納得させて、様子を見ようと家の外へ。

 

 田舎というものは都会と違って建物と建物との距離が遠い。地域によっては隣近所であっても数分の距離から数十分かそれ以上離れていることもざらにある。僕の家は庭を挟んで数メートルの距離にお隣さんの建物があるけれど、それ以外の近所の建物は少しばかり離れている。

 

 玄関から出ると少し冷たい夜風が興奮気味で火照った頬を冷やす。周囲を見渡して近所の様子を窺うと、停電の影響からか点在する古い街路灯の幾つかが明滅を繰り返し、夜空を雲が覆っている為か普段よりも暗く感じる。だが、目に付いた殆どの建物には明かりが確認できて、騒動と言った騒動が起きているようには見えない。

 

「……なんだ」

 

 不謹慎だとは思うけれど、安堵と同時に退屈を感じてしまう。

 

 いや、実際には何もないことに越したことはないだけどね。人様の不幸とか困難を喜びたいわけでもないし。そこまで自分の性格が捻くれて歪んでいるとは思えないし。でもほら、何て言うか日常とはちょっとだけ異なった出来事が起きることに対する渇望と言うか憧れと言うか、些細な非日常に心躍らせると言うか。あれだ、所謂“突発性エンターテインメント症候群”ってやつかな。

 

「ナルとかだったら『不謹慎だ』って言いそうだよな。絶対に。なんかイメージ的な感じで――って。誰かな?」

 

 噂をすればなんとやら。ナルからメッセージ通知を知らせる音がスマホから響く。

 

 内容自体は別に大したことはなくて、停電したことに対して僕の状況の確認と心配のメッセージだった。すぐに問題ないことを返信すると、すぐに既読に返信でナルの方も問題がないことを伝えてきた。……なんだろう、今日のナルとのやりとりはこの手の内容ばっかりな気がする。

 

「あれ?」

 

 お隣の電気がまだ点いてない。

 

 さっきまで電気は点いていたのだから誰かしら人は居るはずだけど、何故だかまだ建物の中は暗いままだ。引っ越してきたばかりだし、ブレーカーの場所が分からずに復旧に手間取っているのか?

 

「いや、それはないか」

 

 引っ越してきた際に家に電気類を動かす為には通電する必要から絶対にブレーカーを上げているはずだ。場所が分からないなんてことは流石にないだろう。

 

「となると……」

 

 1年くらい放置していた上に建物自体も相当古いはずだから、もしかしたら電気系統や照明関係に何かしらの不具合が発生したのか。はたまた引っ越してきた人自身に停電によるアクシデントが発生したのか。もしも後者の状況で、それも動けなくなるような怪我でもしている状態だったら流石にヤバいかもしれない。

 

「とりあえず、ちょっとだけでも様子を見てみるかな」

 

 初対面の挨拶がこんな形になるのはアレな気もするけれど、都会と違ってこんな田舎だと何かあった時の隣近所での助け合いや声の掛け合いは結構大切だったりする。それに、何かあったにも関わらず気にかけも知りもせずに一晩を過ごしました。その結果、大事に至ってしまいました、なんてことになったらその後の目覚めが悪すぎる。逆に何も問題が無かったのならそれはそれで特に問題ないのだし。

 

「『今晩は』? 『こんにちは』? いや、『すみません、夜遅くに失礼します』か? この場合だと、どんな感じで声をかけたらいいんだろう?」

 

 隣の家の玄関へと辿り着くまでの短い時間に考えたことは、こんな特殊な状況での初対面の挨拶をどんな感じでするのかということ。第一印象はその後のその人に対する印象の良し悪しの大部分を決定付けると言うらしいから、その第一歩である挨拶はきっと何よりも大事なのだろうと思うのだけれど、いかせん僕の人生の経験などは大学ノート数ページ分も書ければ良い方。要するにただの田舎の中学生男子なわけで、ボキャブラリーとか引き出しの中身が少なすぎて困る。

 

 畏まった真面目な感じか、それとも明るく軽い感じでいくか。さあ、どうするべきか。

 

「あの~。す、すみませーん。隣の家に住んでいる“鳩羽”って者ですけど。だ、誰かいますか~?」

 

 結論。なんだか非常によそよそしくもおっかなびっくりな感じになってしまった。なんなんだろう、このダメダメ具合は。

 

「……うん」

 

 返事がない。まるで空き家のようだ。

 

 インターホンも押してみたが反応ナシ。これが今起きている停電の影響なのか、そもそもが壊れていたのかは定かではないけれど……古いタイプだし後者か。

 

「さて、どうしよう」

 

 人は居るはず。おそらく。確証はないけど確率は高いはず。

 

 ここで僕に人の気配とかを敏感に察知できる技能なり高い野性の勘なりが具わっていたりすればよかったのだろうけど、残念ながらそんな特殊なモノなど持ち合わせていないのでしょうがない。

 

「って、これ。鍵が掛かってない?」

 

 なんとはなしに玄関扉に手を掛けてみたら、まるで施錠されている感じがしない。内心で「大丈夫かな~?」と思いながらも、そのまま手を横に動かせば予想通りいとも簡単に開いてしまった。

 

「これって、不法侵入になるのかな?」

 

 引き扉式の玄関は完全に開かれた。正しくオープン・ザ・ドアって状態で屋内へと入ることは容易な状況になったけど、この先に立ち入るのはどうなのだろうか? 流石にマズいだろうか?

 

 取り敢えず、スマホを取り出してライト機能をオン。正面を照らしてみる。

 

 田舎の古い家だからかどうかは知らないけれど、建物に奥行きがある上に構造的に玄関から奥へと続く通路部分に窓などの外からの明かりを取り込むものがない。その為か中が非常に暗くて見通しが悪い。おまけに建物の奥や隙間から吹き込んでいるのか変な風がこちらに向かって流れてくるようで、思わず息を飲む。正直、お化け屋敷とかは苦手とする方なんだよ。

 

 及び腰になっているのは自覚しながらも、意を決して建物の中へと入ってゆく。がま口でサンダルを脱ぎ、木張りの床を一歩一歩進むけど、踏み締めるたびに鳴る“ミシッ”“ミシッ”って音がもうなんか嫌だ。肝試しの季節にはまだ早いと思うんだ。

 

 にしても、暗い。ライトで照らしていなければ奥の方なんかほとんど見えない状態だけれども……予想外の事態発生。

 

「充電しとくんだった」

 

 スマホの充電が切れそうになっている。ライトを点けっ放しだとマズそうなので点灯をオフ。仕方ないので待合画面の明かりだけを頼りに周囲を照らすことにする。とは言え、一応すぐにでもライトをオンに出来る状態の位置に指は待機させているけど。

 

「だ、誰もいませんか~?」

 

 ……うん。自分でも変なことを口走っている自覚はある。けど、少々ビビりが入っているこの状態では文章的におかしいことを口にしてしまうのも仕方ないと思う。目の見える人間は周囲の情報取得の八割以上を視覚情報に頼っているらしいから、それが阻害される暗闇の中では僕のこんな反応もきっと当然のことなのだと思う。だって、見えないって怖いし。

 

 おっかなびっくりしながら通路を進み、幾つかの閉じられた引き戸の前を通り過ぎて行き止まりの手前付近まで来たところで左右を見る。右手には半分まで開かれた引き戸で、隙間からその先を窺い見ると中はおそらく居間的な部屋。逆に左手には曲がった先には通路が更に続いていて、どうやら中庭に面しているようだった。

 

 取り敢えず、まだ視界の利きそうな中庭に面した通路沿いに進んでみるけど、タイミングが悪いことに月が雲に隠れているのかガラス戸越しにまったく明かりが射し込んでいない。お月様もこんな時くらいは空気を呼んでサボらずにしっかりと仕事すればいいのに。

 

「――――――――」

 

「ん?」

 

 今、何か聞こえた? 空気の擦れるような……軋むような音?

 

 それに……水の匂い?

 

「なんだ――――うぐぅっ!?」

 

 襲撃は背後から来た。

 

 後ろで何かが動いた気配を感じたかと思うと、振り返る暇など無く後方から伸びてきた何かで口を塞がれ、混乱と動揺にパニック状態を起こす間も無く強い力と勢いでもって身体が後方に引き摺り倒される。

 

 残念ながらインドア系の平凡な中学生である僕には護身術や格闘技の経験などはなく、当然ながら受け身を取るなんて真似も出来ない。勢いもそのままに木張りの床に背中を打ち付けるようにして倒れ込み、衝撃で一瞬息が出来なくなる。痛み自体は思ったほどではなかったけど、それでもそれなりに痛いし苦しい。

 

 思わず閉じてしまった瞼が作った暗闇の中、数度咳き込んでいる中で感じたのは腹部に圧し掛かる重さ。そして、喉元付近に不意に当てられた冷たい感触。

 

「なん…ごほッ…んだぁ……ごほッ……」

 

 喉元にかかる僅かな圧迫感。

 

 閉じていた瞼を押し上げると同時に視界が開けていき、薄暗闇と涙が浮かんで霞む世界の先におぼろげながらも人の輪郭を捉える。

 

 突然の襲撃によって床に組み敷かれ、痛みとか混乱とか主に喉元部分から伝う謎の圧力とかでまともに身動きがとれない。そして、そんな中で不意に感じたのは突き刺すような意志のこもった視線。暗闇の中で冷やかな光を纏った眼は、その眼下で横たわる僕を睥睨している。

 

「だ……ごふッ…れ……?」

 

 その瞬間、まるで見計ったかのようなことが起きる。

 

 ずっと夜空を覆っていた雲が途切れて、それまでの夜の暗闇が嘘のように消え去ってしまった。

煌々と輝く月の透き通るような光がガラス越しに射し込み、照らし出された僕のぼやけていた視界は息衝く間もなく鮮明なものへと変わっていく。

 

 水気を帯びて艶を孕んだ肩に掛かる長い髪は夜明け前の空の色。

 

 得物を鋭く射抜くような眼光を備えた瞳は深い海の淵を想わせる。

 

 顕わになった輪郭は滑らかに人の曲線を描き、蒼白い月光に映える肌は透き通るような神秘的な白さを湛えていた。

 

「き…み……は……」

 

 夢の中にでも迷い込んでしまったんのだろうか?

 

 昼間出会った女の子の、一糸纏わぬ姿がそこにあった。

 

 

 






 Q:謎の少女の正体とは?




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第弐話:思い思いな、学校 ~その壱~


 謎の少女の正体は?

 答えは本編で。




 

 

 週明けの朝の教室は喧騒に包まれている。

 

 普段とはまるで変わらないようにも見える光景だけど、実際には普段とはまるで様子が違っている。そこかしこから聞こえてくる騒めきそのものに違いはなくとも、その話題の内容の大半が大凡ふたつのことに集中していたからだった。

 

 まあ、僕自身はそんな朝から元気な教室の状況からは少しだけ距離を取って過ごしているのだけれど。と言うより、実際問題として寝不足を含めた何やかんやを抱えた状態で登校することになったので、現在は自分の席の机に突っ伏するような体勢でもって一人静かにへばっている状態だったりする。席が後ろの隅の方で良かった。

 

「みーなと、はようさん。んで、聞いたか? あの話を……っと、なんかメチャクチャ眠たそうだな。お前……目の下の隈がいつもよりも一段と酷いことになってるぞ」

 

「……眠い。すごく眠い。昨日の夜はいろいろとあってさ。もう、本気で完全完璧に寝不足状態。寝坊せずに登校したことを自分ながらに褒めたい状態。だから櫂人。お願い。せめて授業が始まるまでは静かに寝かせて欲しい」

 

 前言撤回。後ろの席で寝ようと突っ伏していたとしても、世の中には問答無用で話しかけられることはある。

 

「あー、確かに昨日の夜はビックリしたよな。いきなり何の前触れもなくの停電だもんな。しかもこの辺り一帯全部がだろ? ほら、俺の家なんかは無駄に年季が入っている上に広いからさ。時間も時間だったからお手伝いさんとかも大わらわでさ、もう復旧させるのとかが本当に大変だったんだぜ。なんかちょっとテンションは上がったけどな」

 

「ああ、それは大変だったね。ご苦労様。でも、それならそっちも疲れてるんじゃない?」

 

「うんにゃ。全然。こう、突発的な非日常って結構楽しいよな。なんかゲリラライブ的なイベント感があって。って、それはまあ別にいいんだよ。それより、今はそんなことよりも別にもっと重要な話があるだろ」

 

 傍から見ても疲れて眠そうにしているはずの僕の状況に気を遣い、空気を呼んでそっとしておくという選択肢など微塵もないのであろうか。気の良い友人であることに疑いはないけれど、それでもこの崎守 櫂人【さきもり かいと】と言う名の友人が持つ人間性と友情の在り様の片鱗を見た気がしながら、やけに興奮した様子の櫂人に僕はただ相槌を打つだけで応じることにする。

 

「クラスの連中でも耳の早い連中を中心にもうそこかしこで噂は飛び交ってるな。見た感じだと、真っ先に情報を入手できたのは部活の朝練で学校に来て朝一で職員室に行った奴等か」

 

 「俺としたことが出遅れたな~」なんて言いながら教室内を見回している櫂人に釣られて教室内の様子を確認すれば、確かに昨晩の停電とは別の話をしているのは朝練の有る運動系クラブ所属のクラスメイトが中心だ。あと、噂好きの人達とか。

 

「おはよう、二人共。何? 何の話をしてるの?」

 

「ナル、おはよう」

 

「おう、久藤【くどう】。おはよさん。真面目で優等生の久藤にしては珍しく遅い時間での登校だな。そうそう、さっき出谷と望房に学校に来ているかどうか知らないかって聞かれたぜ? 返信が無いって言ってたぞ」

 

 櫂人の背後から掛けられた声に反応して動いた視線が捉えたのは、少し眠たげな表情をしたナルの姿。スカート丈だけは若干短くして膝上丈にしていることを除けば学校指定のセーラー服をピシッと着こなした姿は見慣れたものだけど、どうにも眠たげな雰囲気も相俟って今日は微妙に活力的なものを感じられない気がする。

 

「逢と希ちゃんが? ……そっか。しまった。朝一のメッセージを既読だけで返信してなかったんだ。二人共教室には……居ないか。後で謝っとかないと」

 

「おいおい、なんだ? いつもきっちりしっかりがデフォルトな久藤 ナルさんにしては随分なボンヤリ具合だな。これは朝っぱらから何か疲れるようなことがあったと? ははぁ~ん。さてさてこれは、もしかしてもしなくとも幼馴染のみぃなぁとくぅ~ん絡みだと俺の第六感が告げたり……はしないな。この様子だと」

 

 うん? 何が僕絡み? ってか、櫂人。人の名前を急に変な緩急付けて呼ばないでくれないかな。すごく気持ち悪いんだけど。

 

「どうしていきなり湊に絡むのよ。それに、湊の名前を変な感じで呼ばないで。なんだかとっても気持ち悪いから」

 

 あ、ナルもそう思うんだ。ちょっと嬉しい。

 

「ああ、スマンスマン。悪かった。ちょっとしたノリだよ」

 

 謝罪の体裁は一応取っているけど、櫂人まるで悪びれていないよね。ナルも「まあ、いいわ」って呆れ気味の顔をしてるけど。

 

「他の皆もそうでしょうけど、昨日の夜の停電の影響があったの。それに、それとは別に朝に少しだけ用事があっただけよ。バタバタしているうちに遅くなっちゃったわ。しかも、結局はいろいろと予定も狂っちゃったし」

 

「そりゃまたなんとも……ご苦労さん?」

 

「どうして疑問形なのよ?」

 

「そりゃまあ、俺は久藤がどれだけ苦労したかなんて正直わかんないからねぇ。雰囲気から予想と推測するくらいはできるけどな。そんな俺っちの勝手な想像だけで苦労したと決めつけるのはよくないんじゃないかと思ってね」

 

「いや、何なの? その無駄に相手の状況と空気を深読みした気遣い」

 

「まったくだわ」

 

「意外と出来る男の子――崎守 櫂人の持つ隠された一面ってやつだよ」

 

 僕とナルの微妙な表情でのツッコミをスルーする“意外と出来る男の子”らしい友人の姿に疲労感が一段増した気がする。でも、そのおかげか眠気が多少解消されたけどね。……まさかそれを狙っての一連の遣り取りだなんてことはないよね?

 

「それはそうとしてだ。俺と湊が何を話してたってことだけど、そりゃもうたったひとつに決まってる。今さっき登校したばかりの久藤は初耳だろ? 初耳だよな?」

 

「一体なんのこと?」

 

「転校生だよ。とぅえんくぉうすぇい。つまりは別の学校から俺達の学校へと所属替えする奴。そんな俺達の見知らぬどこかの誰かが来るらしい。しかも今日。このクラスに」

 

 ドヤ顔の上に転校生についてのめんどくさい言い回しをわざわざした理由は不明だけど、それでも櫂人や他の噂話をしているクラスメイト達のテンションが上がる理由としては納得出来る内容ではある。

 

 気のせいかナルの微妙そうな表情が深まった気がするけど。……あ、ナルは取り敢えず通学カバンを自分の席に置きに行くみたいだ。

 

「転校生ねぇ。だけど、どうして今? 何でこの時期? もう三年生になってから2ヶ月近く過ぎちゃってるけど。あと1年と経たずに卒業になるのにさ」

 

「別に変ってことはないだろ。いや、俺自身は転校した経験なんてものがないから実際のとこは知らないけどな。とは言え、家の事情はいろいろあるんだろうし。それに、まだこの時期からなら修学旅行とかのイベントまでも多少は時間があるからな。参加するまでに学校に馴染む期間としては十分とは言わなくてもギリギリセーフなんじゃね? もっとも、転校してくる奴がどんな奴かにもよるけど」

 

「それにしても皆のテンションが無駄に高過ぎるような気が……」

 

「出ていくならともかく、こんな田舎に引っ越してくる奴は珍しいからな」

 

 確かに。田舎だから進学とか就職とかで出ていく人はそれなりにいる反面、わざわざ引っ越してくる人は基本的に極少数なのが普通だよね。実際、僕も昨日の夜まではそう思ってたし。

 

「受験もあるのにねぇ」

 

「あ~、まあ、それもまだ余裕だろ。どっか都会の進学校とかを志望するって話なら別だけど、そうじゃなければ受験に本腰を入れるのは夏休み明けの修学旅行が終了した後くらいだろうしな。てか、うちの学校の奴なら大半は近くの西高に行くのがほとんどじゃないのか? もしくは上のレベルを目指している奴だと大学進学率が高い県立くらいか? 私立の学校に行くとしたらどこが近かったっけ?」

 

「どこだろう? どのみち私立なんてこの辺りの近場には無いよね」

 

 我が家の教育方針は基本的に放任主義だから親はあんまり進路についての話はしてこないし、僕自身もまだそこまで真剣に考えていないからその手の話を振られても困るんだけど。……でも、流石に夏休み中にはある程度は決めとかないといけないよなぁ。

 

「ちょっと、大丈夫なの? 自分のことなのにそんな適当な感じで。言っとくけど、受験直前になってから慌てた挙句に、何でもいいからとりあえず行けそうな学校に行くことにしました――なんて、そんなのは絶対にダメよ」

 

「う~ん。まあ、わかってはいるんだけどね。とりあえず僕のことは置いといて、ナル自身は進路どうするつもり? 二年の学期末試験の成績だけなら学校内でも上位だったし、普通に県立とかも目指せるよね?」

 

「どうかしらね。どこに行くかはちょっとまだ決めかねていると言うか。……やっぱり。でも……ねぇ。正直なところだと、いろいろと考え中の模索中って言うのが現状だけど」

 

「ええっ!? 今さっき僕に言ってたことと違うじゃん。……にしても、意外だ。ナルはその辺は結構すぐに決めてしまって、さっさと進路に向けて準備をしていると思ってたのに。もしかして、どこかの私立とかも考えてたりする?」

 

「…………まだ、分からないわよ」

 

 あれ? なんだ?

 

 明朗快活タイプのナルにしては珍しく意思表示の曖昧な態度。どういうことだろうか?もしかしてナルは都会の私立の学校とかに進学するつもりなのだとか? もしそうなってナルの家から通うとしたらかなりの遠距離通学になるんじゃあ……。それとも、学生寮とかにでも入るつもりなのだろうか?

 

「おいおい、話が脱線しちまってるじゃないか。進路についてはまた今度でもいいだろ。それよりも今は転校生のことの方が重要だろ?」

 

「進路のことは重要でしょ。それにこうやって話している間にもホームルームになるんだから、すぐに答えが出るような噂話をしている意味なんてないと思うんだけど?」

 

「確かに。ナルの言うとおりだ。あと数分もすればどんな子が転校してくるのかの答えが一発で出るよね」

 

「わかってない。わかってないな~。湊も久藤も二人揃いも揃って全然わかってないぞ。確かにこんな風に言い合っていようがいまいが関係なく転校生の正体は判明するだろうさ。でも、今はまだ何もわからないだろ? だからこそ、その答えが知れてしまうまでの僅かな時間にいろんなことをあれやこれやと想像するのが楽しんだよ」

 

「心底無意味な上に暇ねぇ。それに、あんまり良い趣味をしてるとも思えないわよ」

 

 うわぁ、珍しくナルが毒舌だ。しかも結構キレも鋭い。

 

「何言ってんだい。趣味なんてものは傍から見たらいつだって無意味で暇なもんだろ。なあ、湊さんや?」

 

「いや、どうだろう」

 

「……ねぇ。私の気のせいかしら? もしかして崎守って、湊に喧嘩を売っているのかしら?」

 

 あ、あれ? 何故かナルの機嫌がいきなり悪くなってる。櫂人を見る若干冷たい目とか正面で組んだ両腕とか、ナルの全身から怒りのオーラが滲み出ているような気がする。

 

 どうして……って、これ、もしかしなくても僕のことで怒ってる? 

 

 確かに僕の趣味は絵とかイラストを描くことだから、興味の無い人から見れば根暗なインドア人間の暇人野郎にしか見えないだろうけど。他人様に見せられるような凄いものでも描ければまた話は違ってくるんだろうけどね。ぶっちゃけ、下手の横好きレベルを自覚しているようなシロモノだしね。

 

「ちげーから。俺の言い方が悪かったな。要するに楽しみ方も好きも嫌いも人それぞれって話。それに俺は湊の描く絵は嫌いじゃないし。もっとも、奏の描く絵を久藤がどう思ってるのかは知らないけどな」

 

「…………」

 

 あ、あれ? 何故かナルが僕に向けてくる視線がおかしい。奥歯に物が挟まったみたいな表情とか急に髪を弄り出した右手とか、ナルの全身からもの凄く答え辛そうなオーラが滲み出ている気がする。

 

「素直な勇気って大事だよな」

 

「何その台詞? 悪いけど、櫂人の言いたいことが何なのか時々本当にわかんなくなる」

 

「気にすんな。俺も特に意味もなく適当に言ってみてるだけだから。――って、予鈴が鳴っちまったじゃないか」

 

 何だか上手い具合にはぐらかされた気もするけど、予鈴が鳴った以上はこれまでかな。結局、何だかんだで転校生については殆ど話が出来なかったけど。

 

「おはようございます。朝のホールルームを始めますので、皆さん席に着いてください」

 

 予鈴を聞いて戻ってきていた何人かのクラスメイト達に声を掛けながら登場したクラス担任の姿を見た櫂人は早々に自分の席へと戻っていく。その後ろ姿は妙にウキウキした様子だけど、あれはきっとこれから転校生の紹介があるからだろう。

 

「あれ? ナルは席に戻らないの?」

 

 ナルの席は教室の入り口側の中間。列最後尾の窓際横隣りである僕の席からは距離があるのに、何故まだ移動していないのだろう?

 

「え? ああ、うん、戻るわよ」

 

 急にどうしたんだナルは? 人の顔を見ながらボンヤリして。

 

「そうだ、湊。昨日の夜に話すつもりだったことだけど、お昼休みにでも話すから。また寝過ごしてすっぽかすなんて真似はやめてよね」

 

「了解です。気をつけます」

 

 足早に自分の席に戻っていったナルだけど、置き土産的な感じで放たれた皮肉気な台詞が僕の心を容赦なく叩きのめしている。昨日の夜の件は僕が全面的に悪いからね、文句のひとつすら言い様もないんだけど。

 

「……さ~て。転校生か」

 

 クラスの皆は全員席に着いてはいるけれど、教室内の騒めきは全然止む気配なんてない。勿論、あからさまに騒がしいわけじゃなくて、隣近所の席同士でのヒソヒソ話とかで教室内のボルテージが上がっている感じ。

それにしても、既に転校生が来るって情報はクラスの人間全員に行き渡っているみたいだけど、それで勝手に盛り上がった挙句にこんな意味もなく高い期待値をかけられた状態というのはどうなんだろう? 僕が転校生側だったら絶対に嫌なんだけど。

 

「すでに知っている人達もいるような様子ですが、本日は転校生が来ています」

 

 因みに、僕達のクラスの担任は若い。大学を出て教師になってから確かまだ今年で2年目。そんな若い女性教師ということもあってか、どうにも普段から生徒達からの距離感も近い。本人もそのことを自覚しているからか、どうにも意識的に教師らしく振舞おうとしている部分がある人だ。

 

 明らかに普段とは違う雰囲気の教室。そんな雰囲気に若干気圧されているのか、何故か時折目を泳がせながらも口を開く担任に教室中の視線が一気に集中する。

 

「どうぞ、入ってきてください」

 

 入室を促す声に応じるように開いた扉。そこから現れた転入生の姿を見た瞬間、教室中にざわめきが奔った。

 

 ついでに、僕自身にも衝撃が奔った。

 

「うわっ、綺麗な子……」「ヤバくね? めっちゃ美人じゃん」「ちょっ、レベル高過ぎだろ」「何で制服違うの? ってか、なにあの髪? あの色って地毛?」

 

 うちの学校のセーラー服とは異なる黒のベスト付きの制服に身を包んだ女の子。綺麗なポニーテールにした髪は昨日見た時も思ったことだけど、本当に地毛なのかと疑いたくなる色をしている。

 

 教室のそこかしこで飛び交う言葉は聞こえているだろうに、そんなクラスの反応などまるでお構いなしなのか、ある意味で無表情に近いような静かな顔のまま担任の傍まで進むと、その子はそのまま眉ひとつ動かさずにクラス全体を睥睨するように正面を向く。

 

 実は転校生が来ると聞いた時から秘かに予想していた部分はあった。それでも、実際にこうして現実として直面するとなるとやっぱりそれなりの動揺はあったりする。否が応でもフラッシュバックしてくる昨晩の出来事とか、いろんな意味で気まずい。

 

「ええっと、この子が今日からこのクラスの一員となります」

 

 背筋をピシッと伸ばした不動の姿勢で屹立する姿が何だか軍人染みていて、しかもにこやかな雰囲気の欠片もない転校生の様子に戸惑いながらも口を開く担任の姿には思わず同情すら感じてしまう。よく耳にする話だけど、“教師”って職業は本当に苦労が多そうだ。

 

「では、自己紹介をお願いしますね。やつ――」

 

「不知火です」

 

 透き通るように響く声。それは、恐ろしい程に冷やかだった。

 

「……え? し、しらぬい? あ、あの……なんですかそれは? あなたの名前は“やつし――」

 

「知りません。不知火は不知火です。それ以上の紹介は必要ありません。――何か問題でも?」

 

 “問答無用”“言語道断”――正しくそんな四文字熟語が浮かんでくる感じ。

 

 動揺する担任の言葉を遮るように発せられた言葉は鋭くて、それに加えて向けられた視線は言葉以上に鋭かった。

 

 その鋭さは急展開に困惑するクラスの皆に対して向けられた一瞬の一瞥、ただそれだけで教室内に充満していたざわめきを瞬時に黙らせてしまうレベル。転校生が女子だったことでテンションが上がっていた一部の意気軒高な男子連中ですら問答無用で黙らせてしまうのだから、もはやある種の対人用兵器と言ってもいいんじゃないかって思う。

 

「何か問題でも?」

 

「え、え~と。じゃあ、そういうことで。え~、あ~、し、不知火……さん? どうやら今の彼女は緊張しているみたいですし、彼女に何か質問とかがある場合はクラスの皆さんが各自でしてくださいね。そ、それじゃあ、今日の朝のホームルームはこれで終了します。一時限目は山川先生の数学ですから、ちゃんと授業の準備をしていてくださいね。それと、先週に連絡はしていましたけど、今日の午後の授業予定が変更されていますのでそれにも注意してください。それで……し、不知火さんは……と、とりあえずは席に着いていてください。あの一番奥の窓際の席が空いていますから。隣の席の鳩羽【はとば】君、彼女のことをよろしくお願いしますね!」

 

 淡々と繰り返された言葉と相反するような鋭く射殺すような視線。自分よりも遥かに年齢が下の筈の女の子が放つ謎の圧倒的に迫力に気圧されたのか、顔をかなり引き攣らせた担任は口を開くと矢継ぎ早に言葉を発してホームルームを終わらせると、最後の最後で何故か僕にその後の対応を全て丸投げにするような台詞を放ってきた。

 

「マジですか?」

 

 思わず呟きが出る。確かに席は隣だよ。でも、幾らなんでも適当過ぎるというか、担任としても教師としてもあまりにも無責任過ぎる気がするのだけれど。

 

 幾ら教員生活2年目のまだまだ新米に毛が生えた程度の身の上で突如降って湧いてきた厄介な生徒への応対に窮したのは分かるよ。でも、曲がりなりにも生徒を導く立場である教職に就く人間がそれでいいのだろうかと思います。

 

 そそくさと教室を出ていった担任の姿を尻目に、教室中から注がれる好奇とか戸惑いとか若干の恐怖とかの視線を一身に受けながらもまるで自分には一切関係ないとばかりな様子で教室を縦断してゆく転校生。

 

 横を通り過ぎる瞬間に思わず身を引いてしまっている何人かのクラスメイト達の様子を見ていると、彼女のこれからの学校生活は相当以上に前途多難なものになるんじゃないのかと心配を募らせずにはいられない。

 

 黒板前から教室の一番奥である列最後尾窓際の席までに至る移動時間は十数秒。その僅かな時間が僕に心の準備を済ませるまでに与えられた猶予期間。ハッキリ言って全然足らないけれども、それでもどうにか踏ん切りと覚悟は決める。たとえ本当のところは決まっていなくても、決まったことにしておく。だってほら、もう彼女はすぐそこに来ている。タイムオーバーだ。

 

「……………………」

 

 うあああ、見てる。見てるよ。

 

 もしかしたら教室に入って着た時点から気付いていたのかもしれない。でも、間近に近付いたことで確実に認識したであろう僕の顔を鋭くて冷たい視線が刺し貫いてくる。

 

 教室にいるのは見知らぬ顔ぶれだらけで、その中で見知った顔に出逢ったのだから何かしらのリアクションがあってもいいと思うのに、鉄面皮な表情には変化の兆しが一切見受けられない。

 

 綺麗で美人ではあるけど。

 

 女の子だけど、“容姿端麗”と言うよりは“眉目秀麗”と言う四文字熟語が当て嵌まる子だけど。

 

 漂わせている空気に“愛嬌”とか“親しみ”とかって言葉が一切当て嵌まらない子だけど。

 

 終始無言を貫いて僕の横を通り過ぎ、指定された席に着いた彼女。前の席に座っている少し気の弱いところのある中村さんなんかは転校生の一挙一動で何度か肩を跳ねさせる反応をしている。大丈夫だろうか?

 

「は、鳩羽 湊です。どうぞよろしく」

 

 何はともあれど、まずは挨拶だ。

 

 僕自身が一番当り障りのない思われる表情を精一杯顔面に浮かべ、可能な限り穏やかでにこやかな感じのニュアンスを込めて挨拶をしてみる。

 

 子供が愛敬笑いを振りまくようなことに眉を顰める人もいるらしいけれど、僕的には問題が起こらず人間関係が円滑に進むのならば愛敬笑いもゴマ擦り太鼓持ちもドーンと持ってこいだと思う。現実問題として、中学生くらいにもなると人間関係ってやつは非常に複雑で面倒臭くなるし。特に女の子相手は。

 

「……………………」

 

 ――ヤバいっ!! 何がヤバいって? 圧力! 僕を見詰めての無言の圧力が重い! とんでもなく重い!! そして、それ以上に向けられる視線が重い。いや、正確には怖い! 何をどう言っても怖い!! なんかもう、視線とかじゃなくて……眼光? そう、眼光の鋭さとかが半端じゃない! さっき担任とかクラスの皆とかに向けていたものとは比較にならないくらい!! 少なくとも、普通の中学生の女の子が放てるようなレベルの眼光じゃないよこれ!!

 

「名前……不知火さん? で、いいんだよね? 合ってるよね?」

 

 僕はインドア派ではあっても別にコミュ障とかではないと思っている。でも、気の弱い人間なら瞬時に射殺せるレベルの、それこそ魔王級とか戦艦級とかって感じの人の手ではどうにもならないレベルの眼光を向けられ続けて平然としていられる程に鋼の精神を持った人間でもない。その上、リアクションをまったく返してくれないような相手ともなれば対処の難易度が高過ぎる。

 

「あっ、僕の名前は鳩羽 湊って言うんだけど」

 

「知ってます。先程聞きました」

 

 嫌な汗が背中を伝う僕に対して、ようやく返って来た反応。その第一声は予想通りの冷たさ。機械的で無感情な平坦とした音程の声。強烈な意思を感じさせる眼光とはある意味で真逆だ。

 

「隣の席だし、何か困ったことがあれば言ってよ。僕に出来ることなら協力するから」

 

 既に今の状況からではどう転んでも不知火さんが僕に助けを求めてくるなんてことは絶対にないような気もするけど、それでも同じクラスで隣の席となった誼で親切にすることだけは伝えておく。勢いで「先生にも頼まれたし」と言葉を続けかけて、口に出す寸前で止める。流石にこの台詞は失礼だろう。

 

 教室中からの様々な種類の視線が集中している中、どうにも道化染みた役割を演じている気分だった。そして、残念ながら助けの手を差し伸べてくれる人間は今のところいそうにない。一限目が生徒に厳しめの数学の山川先生による授業だからその準備もしておかなければならない中途半端なこの瞬間、クラスの全員が下手に行動せずに様子見に徹している。成程、僕は道化じゃなくて生贄であり試金石でありモルモットだったのか。

 

 近しい友人達に救いの視線を向けてみれば、櫂人の方は何か非常に楽しげ且つ興味深げな表情で頷くだけ。ナルの方は意外にもあんまり興味がなさそうな顔で時折こちらに視線を送ってくる程度。

 

 ……あれ? 何だろう? 今、一瞬だけ険しい顔をしていたような……。でも、どちらかと言うとナルの視線は僕じゃなくて不知火さんの方を向いていた?

 

 不知火さんの方に視線を戻すと、既に教科書を机の上に開き終えていた。転校初日でまだ教科書やらを用意してなくて、横の席の人間が見せるって感じのよくマンガとかであるような展開もないわけか。

 

 周囲や僕からの視線なんてお構いなしなのだろう。彼女は窓の外へと顔を向けていた。微かに覗く鋭い眼光はそのままだけど、それでも五月晴れの青空をバックにした横顔はすぐにでも絵のモデルにしたくなる程に綺麗なものだった。

 

 つい昨日までは平穏な学生生活を送っていた筈なのに、ほんの数時間で劇的に変化しそうな状況と近い将来に穴が開くかもしれない自分の胃の運命を思って小さく溜息を吐く。

 

 本鈴のチャイムが響く中、数学教諭の山川先生が教室の扉を開いて現れる。今日の日直による号令と挨拶の後はすぐに始まる授業。山川先生の授業中には無駄話をしない姿勢は賛否が分かれるところではあるけど、今日のこの時ばかりは少しだけ感謝。

 

 黒板に休みなく羅列されていく数式の数々は相変わらず数学が苦手な僕には難解で、今日から隣の席に座ることになった彼女もきっと僕には難解なんだろう。

 

 僕の言葉に耳を傾けているのかすらまったくもって不明ではあるけれど、それでも聞き流す程度のことはしていると信じて言葉を掛けることにする。

 

「何はともあれ、よろしく」

 

 本当にね。よろしくできればいいと思う。

 

 

 

 






 山あり谷ありが人生。

 これより主人公の受難(主に胃への)が始まります。



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第弐話:思い思いな、学校 ~その弐~


 個人的な趣向は別にして、艦娘の話を書く上でどうしてもシリアスな話題を避けては通れないこの現実。

 基本的には明るく楽しい話がコンセプトですが。





 

 

 

「いや~、マジで凄いな。いろんな意味で」

 

「櫂人、何でそんなに楽しそうなの?」

 

 転校生って立場は最初の方は周囲の話題を独占したり凄くチヤホヤされたりするイメージがあった。でも、それも全ては当の本人次第なのだということを僕は今日の午前中だけで存分に思い知った。

 

 第一声――「答える義務はありません」

 

 第二声――「興味ありません」

 

 第三声――「お断りします」

 

 来たる休憩時間毎に興味津々で群がるクラスメイト達の口から放たれる質問の数々。それらに即座に返って来るのはこの三連句で、全ての質問は完膚なきまでに一刀両断。歓談タイムどころか質疑応答すらも一切発生せず。取り付く島もないとはまさにこのことだった。

 

 午前中に発生した三度の休憩時間で行われた一連の遣り取りの結果、対人拒否用の絶対防壁だか結界でも張っているかの如き転校生に対して、ようやく迎えた昼休みに昼食を誘ってみようなどと考える勇気のある人間は皆無だった。

 

「転校初日の昼休みだってのにクラス一同揃って遠巻きにして眺めてるだけとか、下手したらクラスの人間が全員で結託して転校生をハブっているようにも見える状況だよな。怖いわ~。最近の若い学生ってば、怖いわ~」

 

「その言い方、言いがかりの上に風評被害も甚だしくない? それに眺めるも何も、当の不知火さんは昼休みになった途端にクラスから出て行っていたから」

 

 学校での昼食の殆どをお弁当でなく購買組としている僕と櫂人は、今し方お昼の戦場と化していた購買部からお互いの戦利品を持って帰還したところ。

 

 因みに僕は“特製ハムカツサンド”と“ミニコロッケ付き焼きそばパン”が本日のお昼のメニュー。飲み物は無難にカフェオレで決まり。

 

「不知火さんの態度がアレ過ぎるから、反感を持つ子達がいるかもって不安にはなっていたんだけど……。今のところは大丈夫そうかな?」

 

「内心でどう思っているのかは微妙だけどな。見た目は文句が付けようがないレベルで可愛いからな。きっと女子連中の中にはあんまり心好く思ってない奴もいるだろう。まあ、これでもし野郎連中に対してだけは愛想が良いタイプとかだったなら確実にアウトだったと思うけど、誰に対しても徹底してあの態度と対応だからな。おかげで今の時点でのクラスの連中の印象としては、『転校初日の緊張で不愛想な態度しかとれていない子』って感じが大半か」

 

「え? そうなの? 意外だ。思ってたよりも皆大人なんだな」

 

「おいおい、真に受けすぎるなよ。あくまで俺が見た限りでの印象と想像でしかないんだから。特に女子が考えていることなんて……うん、流石にわかんね~な」

 

「駄目じゃん。当てにできない意見」

 

「俺なんかよりも湊の方がわかるんじゃないのか? 担任ちゃんに頼まれてんだし、席も隣なんだから。俺としてはちょいと意外な気もしてるんだがな。どうにも転校生のことをかなり気にしてるみたいだし?」

 

 「お前、あんな感じの子がタイプだっけ?」と、急にニヤニヤとした顔を向けてくる櫂人。問答無用で向う脛でも蹴っ飛ばしたい衝動に駆られる。

 

 ……一瞬、何かを悟られたんじゃないかって内心で不安になったのは内緒だ。

 

「普通にクラスメイトとして気にしてるだけだよ。転校してきたばかりなんだし。お節介って程でもないよ。……そう言えば、ナルが不知火さんに声を掛けているところをまだ見てないな」

 

「そうだっけ? あ~、そう言えばそうだな。あのお節介気質な久藤だから、転校生とかがいれば普通に率先して声を掛けそうなもんだが……何か思うところでもあるのかもな」

 

「思うところって、何を? 不知火さんと会うのは今日が初めてなのに?」

 

「大人の事情ってヤツじゃね? もしくは、女子の事情とか」

 

 なんだそれ。全然意味がわからない。また櫂人特有の意味深だけど実は適当な台詞の類だろうか。

 

「ナルも不知火さんもまだ大人じゃないでしょ。女の子ではあるけどさ」

 

「やれやれ、坊やだねぇ。いいか、湊くんや。大人とか子供の定義なんてもんは至極曖昧なもんなんだぜ? それこそ、パッと見た感じだけがその人の全てでもない。人間ってのはさ、本人が隠していたりする部分もあれば知らずに隠れていたりする部分もある。しかも他人から見えている部分だって見方や状況によってはいろんな側面が見えてくる。想像と現実はまるで違うなんてことはいくらでもある。人間の持つ面白みと魅力は多面性とギョップにこそ有りだ」

 

「それって、要は一筋縄ではいかないってこと? 櫂人みたいに?」

 

「おう、辛辣ぅ~」

 

 顔立ちとか纏っている雰囲気は間違いなく人受けのする方だし、頭の回転だって速い。実は生徒会役員なんかをしていたりするから、行動力とか信頼感もある。だけど、友人となると時折性格が微妙読み辛くて対応に窮することがある人となりをしているのが櫂人だ。

 

「おっと、忘れるとこだった。湊、悪いけど俺はこれから生徒会室に行くから」

 

「あれ? 何か用事?」

 

 てっきり教室で一緒に食べるものだとばかり思っていたんだけど。

 

「呼び出しがあった。昼休み中に体育祭に向けた簡単な打ち合わせをしたいんだってさ。まったく、のんびり昼飯を食う暇もないわけだ。やれやれだわな」

 

「うちの学校の生徒会は勤勉だね。約一名の男子役員を除いてだけど。とりあえず、応援くらいはしてあげるよ。頑張れ、生徒会副会長様」

 

「うぃ~す。心温まる応援サンキュ~。んじゃ、頑張ってくるか」

 

 僕の皮肉を華麗にスルーして、どうにもやる気の感じられない様子で生徒会室の在る方へと廊下を歩いていく櫂人を見送り、僕は教室へと足を向ける。

 

 購買部のある校舎から僕達三年生の教室のある校舎は中庭を隔てて別の棟となる。校舎間を繋ぐのは十数メートルの渡り廊下で、ちょうどその渡り廊下に差し掛かったところで吹き抜けた涼風と明るい日射しによる天気の良さに当たられて目を細める。春の花は既に散ったけど、梅雨入りまではまだ少しだけ猶予のあるこの時期は比較的好きだった。

 

 校内のあちこちから昼休み特有の喧騒が聞こえてくる。誰もがきっと思い思いの時間を過ごしている。

 

「平和だ~」

 

 昨日の夜に大規模な停電騒ぎがあって、その直後に思いがけない出来事を体験して、更に翌日には出来事の当事者が転校生としてクラスにやって来た。それでもこうやって「平和だ」と呟けるのだから、今の世の中は平和で穏やかなんだろう。

 

 とは言え、悩み事とかが何ひとつ残らず無くなったりはしないのが世の常。

 

「そう言えば、昼休みに話すって言ってたはずなのに、ナルはどこに行ったんだろう?」

 

 昼休みに突入し、「ナルの話を聞く前に、先に櫂人と購買に行ってくるから」と伝えようとしたのに、何故だか既にその時点で教室にいなかった。話をするって自分で言っていたのに、一体どこに行ったのだろうか?

 

「購買にも自販機コーナーにもいなかったし」

 

 ナルは基本的にお弁当派。だから校内で何かを買うとしたら飲み物くらい。それだって普段はあんまり買っているところを見たことはない。

 

「出谷さんや望房さんとかと一緒にお昼を食べてるのかな?」

 

 思い浮かべるのは、クラスの中でも特にナルと一緒に行動することが多い女の子達。仲の良い彼女達と校舎の中央ピロティとか中庭なんかでお昼を一緒にしている可能性はある。

 

「パッと見た感じ、中庭には見当たらないな~」

 

 中庭にある噴水周りとか幾つかのベンチとかで楽しそうにお昼を食べている子達は何人もいるけど、残念ながらそこに探し人の姿は見受けられない。

 

 今どこにいるのかとスマホでメッセージでも送ろうかと考えてスマホをズボンのポケットから取り出し、ナルからの通知がないことだけを確認すると何もせずにポケットへと戻す。僕自身は別に急ぎの用じゃないし、もし楽しく食事している最中だったら水を差すこともないだろうから。……我ながら変な気を遣い過ぎだろうか?

 

「――うん? あれは……不知火さん?」

 

 視界の端に偶然捉えた人物の影。結構な遠目だから見間違いを疑ったけど、彼女の髪の色や何よりも明らかにうちの学校のものとは異なる制服は見間違いようがない。

 

 では、何で見間違ったと思ったのかと言えば、それは不知火さんと一緒にいた人物のせいだ。

 

「ナル? 何であの二人が一緒に……」

 

 どこかに行っていたはずの探し人が不知火さんと連れ立って歩いていた。

 

 他人を完全シャットアウト状態である不知火さんと転校生に対して意外にも我関せずだったナルだから、今日の午前中だけだと特に接点なんてものが二人の間には発生はしていないはず。そんな二人がお昼休みに一緒に行動しているのが意外だった。と言うよりもむしろ、不知火さんが他の人と一緒に行動しているのが意外だった。

 

「って、どこに行くんだ? あの方向だと……旧校舎?」

 

 二人の行き先を推測すると、今は教室の一部が部活用の部室兼物置にされている旧校舎方向。新校舎からは若干の距離もあるし、部活の関係者でもなければお昼休みにわざわざ行く場所じゃない。……まあ、少し耳に挟んだ話だと、その“わざわざ行く”を行った先でいろんな何かをしたりされたりもすることがある場所でもあるらしいだけど。

 

 ……そう言えば、ナルは何回か呼び出されたことがあるって望房さんとかに聞いたな。ナル本人の口から聞いたことはないけど。

 

「行くべきか行かざるべきか、それが問題だ」

 

 劇そのものを見たことがない人が大半であろう有名古典劇の台詞を捩った言葉を呟きながら、実際には僕の足は旧校舎の方へと歩み始めている。

 

 既にナルと不知火さんの姿は旧校舎の影に隠れているけど、おそらくは校舎裏の人気の少ない場所に行っているんだろう。「何で二人がそんな場所に?」って思わずにはいられないけど、何かしらの人には言い難い相談なりをするにはうってつけだから……あれ? これ、もしかして僕のピンチ? 今の時点であの二人に接点はなさそうだ。でも、僕とナルは幼馴染と言う接点がある。そして、僕と不知火さんも一応は昨晩の出来事と言う接点がある。

 

「まさか、僕とナルが幼馴染と知ったから? それでナルに何か言うつもりとか……」

 

 冷や汗が流れる。

 

 出来るだけ思いださないようにはしてはいるけど、それでも時折否が応でも思いだしてしまう昨晩の不知火さんの姿にいろいろとどうしようもなくなったりして、その挙句に自己嫌悪なり後悔なりをする嵌めになっていたりする。そのことについて、だって男なんだから仕方ないじゃないかと、簡単に納得できるほど僕自身はまだ大人じゃない。

 

 何にせよ、状況的にも致し方ない部分があったとはいえ、それでも女の子の一糸纏わぬ姿を見てしまったのは隠しようのない事実。

 

「いやいや、あれは実際には不可抗力なわけなんだし、それに不知火さんは他人に自分のことを下手に話すタイプじゃないはず……多分。むしろ、午前中の不知火さんの様子からナルがお節介を焼こうとしていると考えた方がしっくりくる」

 

 言い訳がましい上に希望的観測混じりの台詞を呟きながら、それでも歩む速度は足早になる。ついでに妙に不規則な脈打ちを続ける心臓の鼓動とかも徐々に加速している気がする。全身を伝う嫌な汗と微妙な吐き気は不安と心配から来るものなのだろうか。

 

 鬼が出るか蛇が出るか――出来ればどちらも出て欲しくはないけど。

 

「――――うでしょ。私達はもう――――ないもの」

 

 旧校舎のすぐ傍まで近付いたところで聞こえてきた声。ナルの声なのは聞き間違い様がないけれど、どうにも変だ。口調が妙に強い気がする。

 

 ほんの一瞬だけ校舎の角から顔を覗かせて様子を窺う。そんなに距離が離れていない場所にいた二人を確認すると、素早く顔を引っ込めて校舎の壁に背を預け、聞き耳を立てる体勢に入ってしまう。

 

 ピーピング・トムは褒められたものじゃないけど、この手の場合に迂闊に出て行くのも躊躇してしまう。下手したら人間関係とかに支障をきたしかねないないし。じゃあ、そんな状況になりそうな場所に始めから行くなよって話なのだが、すでに来てしまったものはしょうがない。

 

 それに、聞こえてきた声からナルの様子がどうにも気になる。ナルは真っ直ぐな性格からか頑固な部分がある上に時々突っ走る傾向があるから、転校生の不知火さんと剣呑な状況にでもならなければいいけど。

 

「いいえ。違いません。やつし――――いった名前は復員局が勝手に――――って、それを不知火――――いません。だから――――以外の――――り得ません」

 

「少しだけ――――いたけ――――うに面倒ね」

 

「面倒? どう――――か? あなたに――――た憶えはあ――――んが」

 

「自覚が無――――ら? それ――――だわ」

 

 なんだろうか? 揉めているって感じではなさそうだけど、穏やかに話している感じじゃない。聞こえない部分も多いけど……不知火さんの名前のこと? “ふくいんきょく”?

 

「噂では――――わ。色々な泊地を転々――――いたって」

 

 噂? 噂ってなんのことだ?

 

 今日が初対面だと思っていたけど、ナルは不知火さんのことを前々から知っていたのかな? それに、“はくち”を転々? 転校ばかりしていたってこと?

 

「――――フォローですって?」

 

 しまった。考え事に気を取られた所為で少し聞き逃した。

 

「そうよ。仲間――――ち度があれば、――――はフォローをするわよ」

 

「落ち度? 不知火に落ち度などありません。常に正しい――――沈める為に最適――――きました。なのに……」

 

 あれ? 気のせいかな。どうにも不知火さんの声の様子が……

 

「――それなのに!!」

 

 うぇっ!?

 

「周りの連中は無意味な馴れ合いと無駄で非効率的な行動をしようとするばかり。『仲間を護る為』とか『必ず皆で無事に帰る』とかのくだらない御託ばかりを並べて倒せるべき敵を倒さず、あまつさえ不知火の戦闘の邪魔まで! その挙句に不知火の行動すら非難する。司令も艦娘も誰も彼も敗北主義者の臆病者ばかり!! そうよ! あんな連中に何が分かるって言うの!! 不知火に……落ち度などあるはずがない!!」

 

 な、なんだ? 今のは不知火さんなのか? あんな叫ぶような大きな声を上げたのが?

 

「……重症ね」

 

「敵に無意味な情けをかけた挙句、無駄に助けるようなあなたとは違う。『生きては戦場の修羅となり、死しては護国の鬼となせ』と、それこそが……――誰?」

 

 うん? え?

 

「何をしているんですか?」

 

 あ、あれ? 確かに足音とかは聞こえなかったはず。なのにこれはどうしたことか。校舎の角から姿を現した不知火さんがいつの間にかすぐ目の前にいた。

 

「盗み聞き? 昨晩のことに続き、一体何のつもりですか?」

 

 「何で全然姿を見せていなかったはずなのに気がついたのか?」とか、「ナルと一体何の話をしていたの?」とか、「さっき叫んでいたのは本当に不知火さんなの? と、問い質したい気持ち」とか、いろいろと口から出したい疑問はある。

 

 でも、無理だ。

 

 絶対に無理だ。

 

 だって向けられてくる眼光がもう半端じゃないから。きっともう間違いなく本日一番の鋭さだから。纏っている雰囲気の冷たさも相俟って、眼光だけで物理的に押し潰されそうな威圧感を感じる。少なくとも、晒され続ければ胃に穴くらいは容易に開くと思います。

 

「話はここまでです。もうあなたと話をする気はありません」

 

 不意に僕から視線を逸らした不知火さんは、背けた先の相手に向かって冷たく言い放つ。

 

「これ以上、不知火に関わらないでください」

 

 そして、戻した視線で僕に一瞥を加えると、あとはもう僕達の存在など一切視界に入れたくないとばかりの様子で早々に立ち去って行ってしまう。

 

 遠ざかる不知火さんの後ろ姿を見て思うのは、「これはもう、『よろしく』していくのは不可能なんじゃないのか?」ってことで、そんな彼女と席が隣であるという重過ぎる現実に頭を抱えたくなる。

 

 ……それから、もうひとつ頭を抱えたくなる現実と言えば。

 

「湊……」

 

 不知火さんと先程まで会話していた相手の存在。

 

 つまりは、今この瞬間に僕の背後に居て、僕に冷たい汗を滝の様に流させる原因たる掛け声の持ち主。

 

 ノゾキ、ダメ、ゼッタイ。

 

 今更に後悔と反省をしてももう遅い。

 

 鉄板で溶接されたみたいに動かすことが困難となっている首を気合と諦めで無理矢理捻じり、振り返った先には……む、無表情?

 

 いつも笑顔が標準装備のナルが無表情?

 

 状況的に怒っているとか呆れているとかならまだ納得できる。けど、表情の端々に微妙に影を感じさせて、本当に考えていることが読めない感じの表情なんかは正直初めて見たような気がする。

 

 しかし、普段は特別意識することがないけど、不謹慎にもこうして見るとナルの顔立ちの良さってやつを改めて実感する。

 

 個人的な意見としては無表情美人よりはいろんな感情や表情を見せる方が好感も持てるのだけど……。要するに、ナルは笑顔とか感情が見える表情をした方が良いと思う――こんなことを口にしたくても口に出来ないのは、勇気だとか気恥ずかしさだとか云々以前の問題。ナルの顔の中で数少ない感情の片鱗を覗かせる部分の所為だろう。

 

 “目は口程に物を言う”。

 

「あ~、ナ、ナル……」

 

 詰る言葉に合わせるように顔の筋肉も引き攣っている。必死で繕っている愛想笑いは今にも崩れそうだ。

 

 喉はカラカラに渇いているし、少し前までとは違った意味での胃痛と吐き気を覚える。昨日から今日にかけての僅か十数時間の間だけで何故か僕の寿命がもの凄く削られているような気がする。

 

「お、お昼食べた?」

 

 購買で買ったパンが入った袋をかざし、脳をフル回転させて次に続けるべき台詞を考える。それと同時に、僕は思い知った意外な事実に驚愕していた。

 

「こんなところで何をしてるの?」

 

 ナルから向けられる視線は、不知火さん以上に怖くて冷たかった。

 

 

 

 






 うちの不知火さんは色々と事情がある模様。




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第弐話:思い思いな、学校 ~その参~


 失言には注意しよう。

 そんなお話。




 

 

 正直に言えば、お昼ご飯は美味しくなかった。

 

 正確に言うならば、味がどうとかと楽しむ余裕すらなかった。

 

 旧校舎裏で向けられた人生初体験であるナルからの氷柱の様な視線攻撃。

 

 冷や汗全開の中で何だか適当な言い訳とかを口走った挙句、最終的には不知火さんと連れ立って何処かに行くのを偶然にも見かけて、いろんな意味でナル達の様子が気になったので後を追ったことと少しだけ隠れて聞き耳を立てていたことを平謝りした。

 

 平身低頭。流石に地面に額を擦りつけてまでとは言わないが、それくらいの勢いと気持ちで頭を下げた僕に向けて返ってきたナルの反応は、

 

「ふ~ん」

 

 と、何だか淡白なもの。

 

 疑問符が湧いて止まないナルの声と反応。恐る恐る下げていた頭を上げてナルの顔を窺ってみると、先程までの無表情ではなくなってはいたけれど、今度はもの凄く微妙そうな表情と視線で僕を見ていた。

 

 表情も視線もその意味が理解できない。かと言って下手に問い質すわけにもいかず、精々できるのは愛想笑いでその場の空気を誤魔化すことくらい。不知火さんを相手にする時もそうだけど、明確な反応が無いってのは本当に対応が取り辛い。

 

 そんなこんなで今後の対応に窮していた僕だけど、そんな状況を救ったのは意外にもナルだった。つまり、

 

「そうだった。お昼まだ食べてなかったんだっけ」

 

 僕の呟きは、ぐうぅぅぅきゅるるるるぅ~っと、タイミングを見計らったかのように軽快に鳴り響く音に対してのもの。

 

 「何の音?」とは言わない。

 

 僕の正面から聞こえてきたこと。瞬く間に頬とか耳を赤く染めて、両手で身体のある一部を抑えるようにしたナルがいたこと。そのナルから今度はあからさま過ぎるくらいの視線――それは何故だか僕が非難されるような視線――を送られたこと。

 

 幸か不幸か、結果的にその音が契機となってそれまで停滞していた状況は動くことになった。

 

「マズい。昼休みの時間が思ったよりも過ぎてる。ナルもまだお昼食べてないよね? 今日もお弁当?」

 

「……そうよ。教室に置いてきちゃったから、早く戻らないと……って、湊はまた購買のパンなの?」

 

 目にした腕時計の文字盤に表示されている時間。既に休み時間の半分以上が過ぎていることに焦る。

 

「ダメよ。小母さん達が忙しくて家に居ないことが多いからって、そんな適当な食事ばっかりじゃ。自炊するのが難しいのも分かるけど、それでもいつも同じような総菜パンばっかりだと栄養が偏っちゃうじゃない」

 

「分かってはいるんだけどさ。でもほら、うちの学校の特製ハムカツサンドとかは美味しいからさ。こう、ついつい同じものに手が出ちゃうんだ、これが」

 

 本当に。一般的な公立中学校の購買部であるにも関わらず、何故か総菜パンのレベルは異様に高いしその上に値段設定も安い。時々、変な創作パンも平然と置いていることがあるのが玉に瑕だけど。

 

「ナルもたまには購買のパンを食べてみたら? ホントにハマるから。新しい発見が見つかるから。きっと病みつきになること請負だから」

 

「変な勧誘みたいな言い方ね。でも、残念だけど私はお弁当持参派だから。パン自体が嫌いなわけじゃないけど、それでも今のところは購買パン派になるつもりはないわ」

 

「知ってるけどね。でも、そこはこう方針を曲げてみてさ。新しいことにチャレンジしてみるのも大事だと思うんだ。……そう言えば、前々から思ってたんだけど、ナルのお弁当っていつも誰が作ってるの? やっぱりナルの小母さん?」

 

「どうしておかあさんが作っている前提なのよ」

 

「どうしてって、だって普通はその家のお母さんがお弁当を作るもんでしょ。……え? 待って。そんな台詞が出てくるってことは、もしかしてナルのお弁当ってナル自身が毎日作ってたの?」

 

 い、意外……でもないか? 曲がりなりにもナルは食事処の一人娘なわけだし。家の手伝いだって率先してするような性格なんだから。自分のお弁当くらいは自分で作ったりするか。

 

「なによぉぅ。何かおかしなことでもあるっていうの? 流石に毎日じゃないけど、自分のお弁当くらい自分で作れるわ。そんな反応されるなんて……ちょっと傷付くんだけど?」

 

 うわっ。何だコレ?

 

 あからさまに拗ねた表情のナルが半眼で睨んできている。不機嫌気味な様子はさっきまでとあんまり変わらないけど、別のベクトルでインパクトが強い。心臓に悪い。

 

「ああ、御免。ちょっとだけ考え違いをしていただけだから。そうだよね。ナルなら自分のお弁当くらい作っていても不思議じゃないよね。でも、やっぱ大変そうだけど」

 

「馴れの問題じゃないかしらね。変に気を張って手の込んだキャラ弁とかを作るって言うんなら話は別だけど、特に凝ったものさえ作らなければそんなに大変じゃないわよ」

 

「そうなんだ。自分で作る気がまったく無いからからな、全然分かんないや」

 

「どうして始めからヤル気ゼロなのよ」

 

「いや~、僕が作ってもきっと確実に不味いものしか出来ないし。もしくは冷凍食品とかを詰め合わせただけの完全手抜きお弁当になるのが関の山だし」

 

 僕に出来る料理なんて、精々が適当に食材を放り込んだ鍋物とかチャーハンくらい。揚げ物とか煮物なんてのはまず無理。ミッションインポッシブル。

 

 因みに、こんな会話をしながらも僕達は結構な早足で新校舎へ向かって移動していたりする。時間が無いのに敢えて全力ダッシュしないのは、流石にそこまですると疲れ果てそうだから。それと、本気で走るとナルの方が僕よりも足が速いので確実に置いていかれること間違いなしという悲しくも厳然たる事実があるから。

 

「そうだ。それじゃあ、今度ナルに余裕があって気が向いた時でいいからさ、僕の分のお弁当もついでに用意してよ。そうしたら僕も購買でパンを買わなくても済むし」

 

 我ながら特に考えもなしに口にした言葉。だから、横を歩いていたナルが急に立ち止まったことと、その後のナルの反応を見て僕は固まることになる。

 

「なっ、なっ、なっ、なっ、なぁぁぁっ!? 何を言ってるのよ!? 急にッ!!」

 

 立ち止まったナルに向かって振り返ると、そこには予想もしていなかった光景。――頬も耳も真っ赤に染め、見開いた瞳を潤ませたナルが叫んできていた。

 

「なんで私が湊の分のお弁当まで作ってあげなきゃいけないのよ。そりゃ、一人分作るのも二人分作るのも作業量には大して変わらないわよ。でも、それだからって私がわざわざ作ってあげる理由にはならないでしょ。確かに湊が毎日お昼を購買のパンですませていることは気になっていたし、幼馴染として何かできないかとは思ってはいたわよ。そう思っていたのは確かだけど、だからと言って湊の為にお昼のお弁当を作るなんてこと……。そうよ、それは流石にちょっと……それは……。別に本当に嫌ってわけでも面倒ってわけでもないけれど……でも……。そう、それこそ昔の私だったら……。いやでも、やっぱり今の私だといろいろと……」

 

 明らかにテンパった様子で、ナルが早口に捲し立ててくる。視線は常に左右に動き続けて定まらないけれど、それでも僕のことを時折一瞬だけ見ては逸らすが繰り返されている。

 

 こんな反応をされるとは思っていなかった。戸惑いを覚えつつもナルの反応が伝染してくるようで、何故だか僕の思考もテンパっていきそうだった。

 

 だからこそ、どうしてこうなったかと考えてみる。出来るだけ冷静になろうと自分自身に言い聞かせ、原因を追究しようと自分が言ったことを振り返ってみて……

 

「あ~……あははははっ」

 

 ……うん。我ながらもの凄く恥ずかしい台詞を言っちゃってる。言っちゃってます。

 

 あからさまな苦笑いの声を上げたのは自分自身を含めたいろいろなことを誤魔化す為。本当は今すぐにでも家に帰って自分のベッドに潜り込み、思いっきり絶叫した後で引き籠りたい気分。今日と言う日に、僕の人生の一ページにまたひとつ消し去りたい黒歴史が刻まれた。

 

「あっ、ナル!! こんな所にいた。あんた、今までどこに行ってたのよ?」

 

 自分自身の迂闊さで招いた微妙な空気。生きていればそれなりにあるようなそんな当事者達にはどうしようもない空気を払拭してくれるのは、いつだって第三者の登場だと思う。

 

「お昼休みになるなり少し用事があるって言ってどこかに行ってさ。すぐに帰って来るかと思って待っていたのに、なんでだか全然帰ってこないし。まだお昼のお弁当も食べてないんでしょ? グズグズしてると昼休みが終わっちゃうわよ? ……って、鳩羽も一緒?」

 

 ナルに向けられたハスキーな声。憶えのあるハキハキとした物言いの声が発信された方へと顔を向ければ、そこいたのは予想通りの人物。

 

 癖のない長い黒髪に強気な顔立ちの女の子。ナルの友人にして僕にとってはクラスメイトでもある出谷 逢【いずたに あい】さんだ。

 

「何? 用事って、鳩羽関係だったの? わざわざ昼休みを潰してまでの用事だから何事かって思ってたのに、その相手が鳩羽か~」

 

 出谷さんの驚いたような表情と視線が僕に向けられる。

 

「ナルちゃん、お昼に鳩羽君とこっそり逢引?」

 

 そして、どこか呆れ顔な出谷さんの傍から爆弾を投下してきたのは、穏やかな雰囲気を纏った明るく柔らかな髪色の女の子。これまたナルの友人兼クラスメイトの望房 希【もちふさ のぞみ】さん。

 

「ち、違う!!」

 

 望房さんの言葉に瞬時に反応したナルが叫ぶ。

 

「じゃあ、逢瀬?」

 

「希。それ、あんまり変わんなくない?」

 

「そう? それじゃあ……秘密のお昼休みデートだね」

 

「どれも違うから! 希ちゃん、からかってる!?」

 

「ナル、あんた……まあ、いいけど。希もあんまり適当なこと言ってんじゃないわよ」

 

 『女三人寄れば姦しい』とは言うけれど、本当にそう思う。ナルは基本的には男女分け隔てなく溌剌とした対応をするタイプだけど、それでもやっぱり異性である僕や櫂人と会話する時と気心の知れた同性の友人達といる時とでは明らかに雰囲気が違う。当然と言えば当然だけど。

 

「――んで? 結局、ナルの用事は終わったの? てゆうか、本当に鳩羽関係なの?」

 

「いや、違うよ。ナルとはさっき合流したんだ。僕も昼休みにちょっと用事があったんだけど、それが終わった後で教室に戻る途中で偶然に会ってさ。それで一緒に教室に戻っている途中だったんだよ」

 

 出谷さんの質問にすぐさま返答をする。もっとも、不知火さんとナルが会っていたことは敢えてボカして、虚実入り混じったものにはした。正直に話すには微妙すぎる内容だし、下手に話すとそれはそれで妙な憶測を生みそうだし。一瞬だけナルの顔を見て僕の行動が正しかったかどうかを確認したけど、特に口を挿まないと言うことはどうやら問題は無いようだ。

 

「へえ~。それにしては、なんだかナルちゃんや鳩羽君の様子が変だったよね? ただ単に連れ立って教室に戻っているだけって感じじゃなかったと思うんだけど?」

 

「え、ええっと、それは、その……僕がうっかり変なことを言っちゃったからで……」

 

「そ、そうよ。湊が急に変なことを言いだすから、それでビックリしちゃって」

 

「変なこと? 鳩羽君……もしかしてナルちゃんにセクハラ発言? いくら幼馴染でもそれは駄目だと思うな」

 

「いやいや、それは絶対に違うから! そんなこと言わないから!!」

 

 酷い誤解を招いている。

 

 柔らかな雰囲気から一変した望房さんが向けてきた蔑むような視線と苦言を全力で否定する。全身に鳥肌が立って背中を嫌な汗が伝っている。

 

「ほんと~? ナルちゃん、幼馴染だからって、鳩羽君に遠慮なんかしたら駄目だよ。ナルちゃんは優しいから」

 

「大丈夫よ、希ちゃん。確かに湊は失言をすることは時々あるけど、わざとセクハラ発言をしたりはしないわ」

 

 ナルのフォローの言葉。非常にありがたいけれど、同時に微妙にフォローされてない発言に対しては正直複雑な気分だった。確かに失言したのは事実だけどさ、そんな“時々”って頻度ではしてないと思うだけど。

 

「うん、そうだとは思うけどね。それでも、幼馴染って関係の気安さから無意識の内にしちゃってることもあると思うんだ。だから鳩羽君……――注意はしないとね」

 

「ははは、肝に銘じます」

 

 何やら恐ろしげな空気を纏いながら釘を刺してくる望房さんに対して、僕は苦笑いを浮かべながら答えるしかない。確かにナルとの関係は幼馴染ということもあって気安いものが多分にあるのは否定できないから、それ故に普段あまり意識しない性別に関しての発言には少し注意をしておかなければならないのかもしれない。

 

「ねぇ、ところで悠長に話をしているのは別にいいんだけど……。あんた達、二人共大丈夫なの?」

 

「大丈夫って、何が?」

 

「何か気になることでもあるの? 私と湊のことで?」

 

 出谷さんの不意の発言。意図が組み取れなかった僕とナルは揃って疑問符を浮かべる。

 

「時間。マジでヤバいわよ」

 

 そう言って腕を掲げる出谷さん。手首に巻かれているあんまり女子っぽくないシンプルなデザインの腕時計の文字盤を示し、それが伝える時刻。長針と短針が指し示したその意味が脳内でただの数字から現状への理解へと変換される。

 

「「し、しまった!!」」

 

 僕とナルの声が見事にハモった。思わず互いに顔を見合わせれば、お互いの表情から読み取れるのはタイムリミットに対する焦りと限られた時間に対する覚悟。

 

「それから忘れてはないと思うけど、今日の午後一の授業って体育になったのを覚えてる? たく、先生にだって都合があるから授業日程の変更は仕方ないとしても、食後に激しい運動をさせるなって言いたいわよね」

 

 焦る僕達に出谷さんが更なる追い打ちの言葉を掛けてくる。

 

「「あっ…………」」

 

 再び僕とナルの声がハモる。

 

 そうだった、朝一のホームルームでも言ってたじゃないか。完全に失念していた。忘れていた事実が絶望と言う名の現実として襲ってくる。

 

「湊……ごめんね! 私、先に行くから! 希ちゃん、逢、先に教室に行ってるわ!!」

 

 意を決したナルはそう叫ぶと、一目散に教室へと向かうべく走り出す。廊下を走るのは校則違反だけど、この際それには目を瞑っているようだ。そんなナルに笑顔を向けていた望房さんも、「じゃあ、わたしも行くから。鳩羽君も急いだ方がいいと思うよ」と言い残すと、小走りでナルの後を追いかける。

 

「そうそう、鳩羽。分かってはいるでしょうけど、教室は女子が更衣室代わりに使うから。着替え始める時間になったら問答無用で男子は叩き出すからね」

 

「……ジーザス」

 

 なんたる追い打ち再び。思わずクリスチャンでもないのに、天を仰ぐようにして言葉を呟いてしまう。いや、分かってはいるんだよ。体育前に教室が女子の更衣室代わりになるのはいつものことだし、男子は少し離れた場所にある視聴覚室とかで着替えるのが慣例になっているんだってことも。

 

「ちなみに、時間的な余裕ってあとどれくらい?」

 

 僕の質問に僅かに憐みが見て取れるような微笑みを浮かべながらも、淡々とした物言いで出谷さんが示した時間。それを聞いて僕が取れる選択肢はひとつしかなかった。

 

「教室で食べるのは諦めるしかないってことね」

 

 とにかく全力で教室に戻って体操服を回収。その後は先に体操服に着替えた上でどこか適当な場所で食べるしかない。

 

「……急ごう」

 

 品行方正を自認している僕だけど、今だけは校則違反も辞さずに廊下を走ることにした。

 

 ……そう言えばだけど、不知火さんは午後の授業が体育だってことを知っているのだろうか?

 

 

 

 

 






 授業時間は長く感じるのに、同じ時間でも昼休みはあっと言う間に終わってしまう。

 学校生活を送る上での七不思議のひとつでした。





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第弐話:思い思いな、学校 ~その肆~


 彼女にもちゃんと一般人としての名前はあります。

 本人は決してそれを認めませんが。





 

 

「鳩羽君、この後でちょっとだけ時間は大丈夫かしら? 少し話をしたいことがあるのだけれど」

 

 本日予定されていた授業が全て滞りなく終了し、ホームルームも終えた直後。放課後に向けて俄かに騒がしくなっていたクラスの中で帰り支度をしていたら、何故か担任からの急な呼び出しを受けることになった。

 

 「おいおい、名指しで呼び出しか~。何したよ? どうしたよ?」と、軽い調子の言葉を掛けてきた櫂人や、出谷さんや望房さんと何かの会話をしながらも横目で様子を窺うような視線を送ってきたナルを尻目に教室を出ると、特に身に覚えのない呼び出しに対する理由を頭の中で延々と考えながら職員室へと向かう。

 

 人によりけりだとは言え、基本的に職員室なんて場所は学生にとっては好んで行きたくない場所ランキングでは絶対に上位に入る場所じゃないかと思う。もっとも、何故か一部の女子生徒とかで好んで行く子もいるという話だからからなんとも世の中は不思議だ。少なくとも僕はそんなマイノリティではないけど。でも、呼び出しを受けた以上は否応なく行かなければならないこのジレンマ。世の中は理不尽だ。

 

 職員室とは職員が居る場所。つまり、そこに居るのは学校の職員である教師ばかり。「失礼します」と声を掛けて入室した瞬間から回れ右して帰りたくなるのを必死に我慢して、僕は目的の場所へと早足で進む。

 

「先生、着ましたけど……話って何ですか?」

 

 呼び出した張本人たる我がクラスの担任の元へと辿り着くと、無駄話はせずに早速本題へ。放課後の時間も僕の精神ポイントも有限だ。無駄には出来ない。

 

「ああ、鳩羽君。来てくれてありがとう。先に確認しておくけど、今日は美術部の部活動はなかったわよね?」

 

「そうですね。部としての活動予定はなかったですね。一応、自主的に活動している子はいるとは思いますけど。それが何か話と関係があるんですか?」

 

「そうね、多少は。……え~と、それで話なのだけれど。要するに転校生の“八代さん”のことについてで――」

 

「“やつしろ”さん?」

 

「……つまりは“不知火さん”のことについてなのだけれど」

 

 ああ、成程。不知火さんの本名――“八代”と言うのか。

 

 どうやら先生も不知火さんのことをどう呼ぶべきかについては悩んでいるようだけど、ここは取り敢えず僕に通じるように“不知火さん”と呼ぶことにしたようだ。

 

 朝の遣り取りからも充分に予想出来てはいたとは言え、彼女は本名で呼ばれるのを頑なまでに忌避して“不知火”と言う呼び名を通している。今日の授業中でも何度か先生達から本名で呼ばれそうな機会はあったけど、その都度頑なに自身のことを“不知火”と呼んでいた。あの恐るべき眼光で睨みつけて主張を押し通していた不知火さんは、もしかしたら先生達の何人かに軽いトラウマを植え付けているかもしれない。

 

 どうしてあそこまでの強固な態度を取るのか。その理由は分からないし、本人も一切口にしないから下手に聞くことも出来ない以上はある意味でどうしようもない。取り敢えず、僕やクラスの皆は今のところは彼女のことを彼女の希望通りの“不知火さん”と呼ぶことにしている。

 

「彼女、今日は午後から早退しちゃったでしょ? 転校初日だったし、新しい環境に慣れてなかったからかもしれないけど」

 

 そう、不知火さんは本日の午後の授業は不参加。偶然にもその場に居合わせたクラスメイトの一人からの伝聞では、昼休みに職員室に現れた不知火さんは担任に向かって有無を言わせぬ口調で早退の旨を伝えると、そのまま返しの言葉を聞くこともなく帰ったらしい。個人的には昼休みに行われたナルとの遣り取りが原因の一因になっているのではないのだろうかと踏んでいるのだけれど、所詮は憶測の域を出ない。

 

「それでお願いなのだけれど、部活が休みの鳩羽君に彼女のところにプリントを届けて貰いたいの。彼女の住んでいる場所なのだけど、ちょうど鳩羽君の家の隣なのよ。知っていたかしら?」

 

 知ってますよ。昨晩は……ちょっと色々とありましたからね。

 

「プリントの配達ですか? まあ、別に構いませんけど」

 

 一応は美術部員とはいえども個人的には部室で部活動を積極的にする方じゃないし、今日は部活自体も休みなので帰るつもりだったからいいけど。

 

「本当に? 引き受けてくれるなら助かるわ」

 

「でも、僕が届けていいですか? 正直な話ですけど、転校初日の不知火さんとはそんなに親しいわけじゃないですし、ここはクラスの代表としてクラス委員長とかの方が適切な気もするんですけど?」

 

「そうなんだけどね。今日は生徒会が体育祭に向けた臨時のクラス委員会議を開くことになったから。それが終わった後だと時間も遅くなりそうなのよ」

 

 そう言えば、昼休み終了間際にそんな内容の放送が流れていたような……。櫂人も教室を出る前にそんなことを口遊みながら準備をしていたし。

 

「……了解です。そういうことなら引き受けます」

 

「ありがとう。――助かった」

 

 感謝の言葉の後に聞こえた耳で捉えられるかどうかギリギリの音量の呟き。僕の受諾の言葉を聞いて浮かべた安堵の表情も相俟って理解する。

 

 成程ね。憶測の域を出ない推測だけど、不知火さんのとの接し方について結構悩んでいるんだろう。気持ちは分かり過ぎるくらい分かるけど。不知火さんは徹頭徹尾であの感じだし。でも、生徒としてはもう少し先生としての矜持をみせて頑張って欲しい気持ちもあるな。

 

「それじゃあ、このプリントをお願い。今日のホームルームで皆に配った修学旅行に関する分。あとは来週の校外学習の件のプリントね」

 

 見た憶えのある内容が書かれた何枚かのプリント。クリアファイルに纏めて挟んで渡されたそれを通学カバンに入れ、「お願いね」と念押ししてきた先生に向かって一礼して職員室を出る。

 

「やれやれ……」

 

 職員室を出た途端、押し寄せてきた疲労感で思わず息を吐く。

 

 無理矢理押し付けられたわけじゃないけど、それでもかなりの面倒事を引き受けてしまった自分自身の人の良さに何とも微妙な気分になる。

 

 まあ、引き受けてしまった以上は今更だけど。

 

「先生から何の話だったの?」

 

 え?

 

「――ナル?」

 

 掛けられた声の方へと振り向く。

 

 放課後な上に職員室前という二つの要素が折り重なった人通りの少ない廊下。その外側の壁に通学カバンを持ったナルが背を預けるようにして立っていた。

 

「急に呼び出しなんかされて、何か変なことでもしたんじゃないわよね?」

 

 壁から離れたナルは僕の傍までやってくると、怪訝な表情と探る様な視線を僕に向けてくる。

 

 「変なことって、随分と信用がないな~」と、ナルに聞こえない程度に呟きながらも、教師から突然の呼び出しなんかを受ければそんな風に思われるのも当然かと思い至る。

 

「あ~、うん、大丈夫。特に僕自身がどうこうって話じゃなかったんだ。ちょっとした頼まれごとをされてさ。それを引き受けてきたとこ」

 

「頼まれごと?」

 

 少しだけ僕の顔を覗き込むようにして見てから、僕が何かしたわけじゃないと納得したからなのか、ナルの表情や視線が一気に和らぐ。その様子を見てつくづく思う。ナルは本当に僕とは比べ物にならないくらいにお人好しでお節介焼きな気質だと。

 

 ……あと、時々微妙に距離間が近い。今もこの一瞬、僕の顔を見る為にか近付いたナルの顔との距離が結構近かった。具体的には吐く息が届きそうなくらいの距離。ナルの明るい瞳の色がハッキリ分かりそうなくらいの距離。あまり心臓に良くない距離。

 

「そ、頼まれごと」

 

 「不知火さんにプリントを届けてくれって――」と、口にしかけたところを寸前で止める。昼間のこともあるし、これは口にしない方が無難なのかな?

 

「……ねぇ、湊」

 

 無駄に失言で予期出来ない波風を立てるのも馬鹿馬鹿しいし、ここは黙っていることにしよう。

 

「その頼まれごとって、‟あの子”……転校生のこと?」

 

「へ?」

 

 えっ!? 何!? エスパー!? ナルってば、いつの間にそんな特殊能力を!?

 

「その反応の感じ。そうなのね」

 

 あ、違う。これは所謂“カマをかける”ってやつだ。もしくは“読心術”ってやつだね、きっと。女子中学生名探偵“久藤 ナル”の誕生か。ヘイスティングズ役は誰だろう?

 

「まあ、うん。そうだね。今日のホームルームで配ったプリントとかを届けてくれってね。不知火さん、早退しちゃったし」

 

 バレてる以上は下手に隠す必要もないだろう。

 

「どうして湊が? 普通は先生の仕事かクラス委員の子とかに頼むんじゃないのかしら?」

 

「確かにそうなんだろうけど。今日は他の皆は色々と用事があるみたいだからね。だから席が隣の誼で僕にお鉢が回ってきたってわけ」

 

「幾らなんでも転校初日の子へのプリント渡しを異性である湊に頼むなんて、ちょっと無責任と言うか無頓着過ぎると思うわ」

 

 それは僕も思ったけどさ。

 

 でもまあ、住んでいる場所が我が家の隣だっていう僕に依頼するのにあたっての大きな理由が有るからね。不知火さんが故意に拒否しない限り、まず渡しそびれることはないだろうから。

 

 でも、不知火さんが僕の家の隣に引っ越してきたってことをナルは知らないから仕方ないか。

 

「きっと消去法で選んだのね」

 

 呆れ顔のナルの呟き。その台詞に疑問が湧く。

 

「どういう意味? “消去法”って」

 

「隣に住んでいるからってことよ」

 

 ……………………。

 

「えっ?」

 

「何その顔? 鳩が豆鉄砲をくらったような顔して。もしかして知らなかったの? って、先生からプリントの配達を頼まれているんだから、そんなわけないわよね」

 

 いやいやいや!! どういうこと? 何でナルは不知火さんが僕の家の隣に住んでいるのを知ってるんだ? 引っ越してきたのは昨日の夕方とかだよ。

 

 不知火さんが教えた? ……いや、それは絶対にないか。

 

「え~と、ちょっと疑問と言うか質問なんだけど。ナルは不知火さんが僕の家の隣に引っ越してきたことを知ってたの?」

 

 と言うか。

 

「もしかしてとは思ってはいたんだけど、ナルは不知火さんと知り合いなの?」

 

もう、これしかない。

 

「……なんでそう思ったのかしら?」

 

「いや、なんとなくだけど」

 

 普段だったら転校生に対してのナルのお節介焼き気質による気にかけ程度にしか思わないんだろうけど、今回は違う。むしろ、昼間の遣り取りとか今の妙に気にする感じとかを踏まえると、絶対に何かしらの関係があるとしか思えない。

 

「あの子とは……特別な知り合いと言うほどでもないわ。おとうさん達とか……昔の繋がりでちょっとだけ名前とかを知っていたってだけ。直接会ったことも今まで無かったし」

 

「はぁ。そうなんだ」

 

 なんだかナルにしては微妙に歯切れが悪い言い方だな。それにしてもナルの小父さん達との繋がり? 不知火さんの親と知り合いとかってことなのかな? 確かナルの小父さん達はこちらでお店を開く前は何か別の仕事をしていたって聞いたことがあるから、その仕事関係とか?

 

 昼休みのナルとの遣り取りで口走っていた内容の感じから、どうも不知火さんは引っ越しばかりしていたみたいだし。

 

「どうにも難しいわ」

 

 聞こえるか聞こえないか程度の小さく呟きに、一瞬だけ見せた神妙なナルの表情や様子からだと、他にも色々と事情がありそうだ。藪蛇になりそうだから敢えて聞く馬鹿なような真似はしないけどさ。

 

「まあ、いいや。――そうだ。それはそうと、なんだかんだで結局話しそびれていたけどさ。昨日からナルが話したかったことって一体何だったの?」

 

 無理に話題を変えるつもりじゃないけど、いい加減に後回しにしていた昨日から聞く予定だった話を聞かないといけない。気にはなっていたんだ。

 

「ああ、なんだか延び延びになっちゃてたわね。――あの子のことよ」

「“あの子”って……え? もしかして不知火さんのこと?」

 

 何の話かと思っていたら、その話だったの? あれれ? これって本末転倒?

 

「そうよ。あの子が湊の家の隣に引っ越して来ることが分かっていたから、そのことで話をしておきたかったのよ。もう、今更だけど」

 

 確かに今更だ。

 

「本当だと今日の放課後にあの子を引っ越し先の家に案内する予定だったから、その前に湊に話をしておきたかったの。だけど、昨日の夜の停電騒ぎとか色々と担当者との連絡の行き違いや手違いもあってね。しかも、どういうわけか昨日の夜にはあの子は先に家に行っていたみたいだし」

 

 成程。ナルは朝からバタバタしていたって言っていたけど、そういうことだったのか。

 

「おかげで今朝は大変だったんだから」

 

「それは……朝の櫂人の台詞じゃないけど、ご苦労様です」

 

「まだご苦労は続きそうだけど」

 

「あははははっ」

 

 何にも言えない。乾いた笑い声を上げるくらいしか反応のしようがない。

 

 目を細めたナルが僕のカバンを見て嘆息している。

 

 不知火さんは昼休みの時にナルと関わるのを拒絶する発言をしていたけど、ナルの性格を考えれば今の時点で不知火さんと関わるのを止めようとはしないだろう。似たようなことは前にもあったしね。あの時は結果的には上手い方向に物事が進んで、今では彼女達と親友になった。だけど、今回はどうなるんだろう?

 

「それじゃあ、僕はポストマンの役目を果たすべく帰るから」

 

 別の文明崩壊後の世界を旅するわけじゃないけど、それでも軽く口に出している以上には緊張していたりする。既に若干だけど胃が痛む気がする。

 

 不知火さんは僕の訪問に応じてくれるのだろうか?

 

 せめて無言だろうと拒絶感全開だろうと、プリントだけは受け取って貰えるといいなぁ。完全拒絶の門前払いだけは避けたい。

 

「じゃあね、ナル。また明日」

 

 さ~て、実際に不知火さんに会った時のことをうだうだ考えなら家路を行くとしますか。

 

「……さい」

 

 うん?

 

「――待ちなさいってば」

 

 校門へと向かおうとした僕の行く足を阻む何か。正確には後ろから制服の上着の裾を掴まれた。

 

 歩みを止めて振り返れば、何故か非常に複雑そうな呆れ顔という表現し辛い表情をしたナルが手を伸ばして僕の制服を掴んでいる。

 

「え? 何? どうしたの?」

 

「『どうしたの?』、じゃないわ。勝手に会話を切り上げて行かないで。まだ私の話は終わってないわよ?」

 

「そうなの?」

 

「当然じゃない。あの子のことで話があることは言ったけど、その話の内容までは言ってないでしょ」

 

 あっ……確かに。

 

「ごめん。なんか早とちりしてたみたい」

 

「しっかりしてよね。そんなんじゃ駄目よ」

 

 思いっきり呆れ顔したナルの言葉を否定出来ない。少しばかりボンヤリしすぎていたかもしれない。

 

「さ、行きましょう」

 

「……どこに?」

 

 颯爽と歩き出したナルの行動に面を食らう。話をするのでは?

 

「自転車置き場よ。他にどこに行くのよ?」

 

「いやいや、なんで急に自転車置き場?」

 

「私の自転車が置いてあるからに決まってるじゃない。あ、今朝は時間が結構ギリギリだったから自転車で来たの。湊は徒歩よね?」

 

「そうだね。僕はそもそも自転車通学の許可を取ってないし」

 

 校区が広く生徒達の通学距離が長くなりがちな田舎の学校は自転車での通学を認めている所が多い。僕達の学校も例に漏れずそうなんだけど、自転車通学の際には保護者の許諾証を学校に提出して許可を貰う必要がある。

 

「母さん達が今年は許諾証を書いてくれなかったんだ。『お前は普段から運動を殆どしないから、少しでも歩け』だって。酷いよね」

 

「小母さん達の真っ当な意見に一票ね」

 

 なっ……なんだと……っ!?

 

 ナルも母さん達の肩を持つとは。僕の周りは敵ばかりか。四面楚歌とはこのことか。

 

「……ところで、もしかしてナルは僕と一緒に帰るつもり?」

 

 てっきり出谷さんや望房さんと一緒に帰るものだと思っていたのに。

 

「そうよ。どうせなら一緒に帰るついでに話をすれば効率的でしょ」

 

 然も当然だと言わんばかりだけど、まさか徒歩通学である僕に合わせて自転車を押して帰るつもりなんだろうか?

 

 もの凄くめんどくさいと思うけど。

 

「大丈夫。学校から少し離れた所まで行ったら後ろに乗せてあげるから」

 

 僕の表情から考えていることを読んだのか、周囲を軽く見渡した後で少しだけ声を潜めたナルがそんなことを言ってくる。

 

「通学中の二人乗りって基本的に禁止じゃなかったっけ?」

 

 自転車通学の規則に確かそんなことが書かれていた気がするけど。

 

「“基本的には”――でしょ。寄り道するわけじゃないし、あからさまに先生達が見ている前や商店街や駅方面の人が多くて事故が起き易いような場所でさえ乗らなければ問題ないわよ。逆方向だからそんな場所はそもそも通らないけど」

 

 意外な発言。

 

 基本的に真面目で優等生なナルにしてはリベラルと言うか柔軟な意見だ。ちょっと、かなり、ビックリ、ドッキリ。

 

「それとも……」

 

 そして、僕の反応の無さに不安になったのか、ちょっとだけ探りを入れるような視線。

 

「一緒に帰るの……嫌なの?」

 

 僕の中の未知なる感情を掻き乱すかのような予想外の姿に、少し、更に、ビックリ、ドッキリ。

 

 

 

 






 これにて第弐話は終了。

 次は放課後+お宅訪問篇です。




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第参話:ありふれて、放課後 ~その壱~

 
お宅訪問篇です。





 

 

 コンクリートロードの敷き詰められた都会と違い、碌な舗装もされていない道も多いのが田舎クオリティ。

 

 小さい時から見慣れたカントリーロードの帰宅道。向かう方面にもよるけれど、僕の家までの帰路の途中に在るのは田圃とか雑木林とか民家とかばかりで、寄り道して遊ぶ場所なんて殆ど見当たらない。

 

 ダラダラと道草を食って歩けば家まで一時間近くは余裕でかかる距離。それを自転車の荷台にお世話になることで半分以下の時間に短縮出来る。

 

 だけど、その道中での疲労感は意外なほどに大きかった。主に肉体的にではなく、精神的にはだけど。むしろ肉体的・体力的には楽だった。

 

 そして脳裏に浮かぶのは、そこに至るまでの一連の経緯と遣り取り。

 

 

             *        *        *

 

 

「この辺でいいかな? 湊、後ろに乗って」

 

 揃って下校した僕とナルが連れ立って歩くこと数分。少しだけ遠ざかった校舎を仰ぎ見た後、自転車を手押ししていたナルが荷台を示しながら僕に指示を出してくる。

 

「荷物も前カゴに入れちゃうから貸して。ほら、ボサっとしてないの。ちゃちゃっとする」

 

 有無を言う暇もなく僕の持っていた通学カバンをひったくり、ナル自身のカバンと一緒に自転車の前カゴへ放り込む。

 

 サドルに跨りスタンバイOKなナル。あとは僕が荷台に座れば即座に出発するだろう。しかし、ここで僅かばかりの躊躇が生まれる。それは主に僕の自尊心的なもの。

 

「ナル。自転車だけど、僕が漕ごうか?」

 

「どうして?」

 

「えっと……。特に理由とかがあるわけでは無いんだけど……何となく?」

 

「だったら私の自転車なんだから私が漕ぐわよ。急に変なこと言ってないでさっさと後ろに乗る」

 

 僕からの突然の申し出。その理由が分からなかったのだろう。一考することもなく僕の申し出を断ると、早くしろといわんばかりの視線を僕に向けてくる。

 

 二人乗りで運転する側になって、「ちゃっとばかりくらい男らしさを見せたいな~」――なんて僅かに抱いていた僕のささやかなプライドと願望だけど、そんなことを全然気にしないナルによって見事に打ち砕かれる。

 

「じゃあ、運転手さん。よろしくお願いしま~す。行き先は僕の家の隣までで」

 

「随分とアバウトな指示のお客さんね。お客さ~ん、そんなんじゃ何処に行けばいいのか分かりませんけど?」

 

「あー、すみません。それじゃ、とりあえず出発しちゃってください。近くまで行ったら教えますから」

 

「はいはいはい。分かりました。とにかく出発しちゃいますね。後部座席の方、シートベルトをお願いしま~す」

 

 と、そんな小芝居をしながらも素直に自転車の荷台に跨った僕を確認すると、ナルは元気よく自転車のペダルを漕ぎだす。曲がりなりにも男一人分の重量がかかっているのは間違いないのに、自転車をスムーズに漕ぐナルからはそんな荷台の負荷を感じさせる様子はない。

 

 舗装のされていない田舎の凸凹道。そこを進む中で自転車の荷台というのはとてもじゃないけど乗り心地が良い状況とは言えない。

 

 贅沢は言わないが、せめて荷台にクッションを敷いて欲しかった……冗談でも口にしたら確実に怒られそうだから言わないけど。

 

「それで延び延びになってた話だけど――――」

 

 歩くよりも遥かに速い速度で流れ出す景色。運搬物となった僕にナルが昨日の夜から話す予定だった話をようやく口にする。

 

 内容自体はなんてことはない。要するに僕の家に隣に転校生である不知火さんが引っ越して来るけれど、不知火さんは諸事情(理由は教えてはくれなかった)から一人暮らしをするらしい。

 

 不知火さんは諸事情(だから“諸事情”って何なんだろう?)から色々と面倒をかける可能性があるけど(不知火さんのあの言動に関してはある程度把握していたらしい)、それでも出来るだけ隣人として気にかけて欲しいとのこと。因みに、不知火さんが隣に引っ越してくることを僕の両親は知っているとのこと。

 

「……不知火さんが引っ越して来るなんてこと、僕は何ひとつとして聞かされていなかったんだけど?」

 

「みたいね。小母さん達、湊に言うのを忘れてたのね」

 

 ナルは軽い感じで流しているけど、それって結構重要なんじゃないかと思う。マイマザーに物申す。一言くらいは何か言伝を残しておいて欲しかったよ。

 

 どこかの空の下で日夜仕事に勤しんでいるであろう両親に向かって溜息を吐きだすと、自転車のペダルを鼻唄混じりに漕ぐナルの後ろ姿を見やる。

 

 ところで荷台に座っている僕だけど、実はその視線は基本的に遠くの空とか流れる景色とかに向けている。前方……特に下方面はあまり見ないようにしていた。

 

 何故そんなことをしているのかって?

 

 チラチラと視界の隅に引っ掛かる健康的で肌色が眩しい存在――ナルがペダルを漕いで足を動かすたびに翻るスカートから伸びる太腿、それも普段なら絶対に見えないはずの危険領域までが思わず見えてしまいそうで気が気じゃないからだよ!!

 

 勿論、非常に近い距離にあるせいで制服越しにも何となく分かるナルの後ろ姿のラインとか、風に吹かれて舞った後ろ髪の隙間から覗く細くて綺麗なうなじとかも気にならないかと言えば嘘になるけどね!!

 

 ……なんか、最低だな。

 

「どうしたのよ。急に黙ったりして? もしかして自転車酔いでもしたの?」

 

 いろんな葛藤やら悩みが絶えない思春期ボーイの繊細且つ複雑な気持ちなんて多分これっぽっちも分かってないであろうナルの明るい声に、なんだかまた溜息を吐きたくなった。

 

 

             *        *        *

 

 

 そんなこんなで帰りの道程を終え、遂に辿り着いたのは僕の家。でも、本日の目的地まだ先。我が家から徒歩で数秒な隣の家。

 

 僕の家の前にナルの自転車を置くと、僕とナルは早速目的地へと足を延ばす。

 

「不知火さん……居るかな?」

 

 さて、目の前に聳えるは魔王の城の門ならぬ隣人の家の玄関。しかしてその実態は?

 

 鬼が出るか蛇が出るか……不知火さんのあの眼光だったら鬼だろうが蛇だろうが物の数じゃなく瞬殺出来そうな気もするけどね。

 

 こういう時の定番の掛け声である「オープン・ザ・セサミ」を内心で唱えながら、昨晩ぶりにインターホンを押す。

 

 ……反応無し。

 

 もう一度押す。

 

 ……やはり反応無し。

 

 何度か連続して押す。

 

 ……一切反応無し。

 

 ――結論。やはりこの家のインターホンは壊れているようだ。

 

「もう電気は通っているはずよね。古い家だし、インターホンが壊れているのかしら?」

 

「みたいだね」

 

 昨晩から何となく知ってはいたけどね。そのことをナルに話すと確実確定で面倒事にしかならないだろうから口が裂けても言えないけどさ。

 

「仕方ない。呼んでみよう。帰っていれば出てくるはずだし。――不知火さーん、居ますかー」

 

 玄関扉を軽く何度か叩きながら、心持ち声を張り上げて不知火さんを呼んでみる。

 

「隣の家の鳩羽ですけどー」

 

 家の中の反応を窺いつつ呼び出しを続ける。

 

 居るのか居ないのか分からないけど、もし居ればこれで聞こえないということはないはず。

 

「……反応がないわね」

 

「不知火さん、まだ帰ってないのかな? それともどこかに出掛けているとか?」

 

 昼休みには帰宅しているはずだから時間的は帰っているはずだけど、外出している可能性も無きにしも非ずだ。……僕達に会いたくないから居留守を使っている可能性とかはできれば考えたくない。

 

「居留守かしら?」

 

 どうやらナルは普通に居留守の可能性を疑っているようだ。

 

 玄関前から離れると、家の様子を窺うようにしながら中庭方向へと足を進めようとしている。そんなナルの後を追おうと踵を返した瞬間、

 

「またあなた達ですか」

 

 不意に玄関扉が開く音が聞こえ、次いで届いた冷淡な声。

 

 無表情ながら若干の苛立ちを感じさせる様子の不知火さんが、開いた扉の奥から姿を現す。

 

「こ、こんにちは」

 

「『関わらないで』と、言ったはずですが?」

 

 円滑に物事を進めようと放った僕の挨拶を完全に無視し、不知火さんは僕と主にナルに向かってその鋭い眼光を突き刺してきた。

 

「まさか、不知火の言葉が聞こえていなかったのですか?」

 

「確かに言われたわ。でも、残念。それは聞けないから。だって、私にはあなたの言うことを素直に聞くような義理はないんだもの」

 

 ズイっと、一歩僕の前に出るようにして不知火さんと相対したナル。

 

 不知火さんの不快感全開な眼光に対して、どこか上から目線な気がする涼しげな表情を作ったナルの鋭い視線が空中で激突。極寒のブリザートと灼熱の劫火を背景に、バチバチと激しい火花を散らしている。――って、バトルマンガかっ!?

 

 いや、一瞬そんなイメージが僕の目に見えた気がしただけで、実際には普通に……とは言い難い様子の二人が対峙している状況なわけだけどさ。

 

「それに勘違いしないで欲しいわ。今ここにいる私はただの付き添い。用事があるのはこっちの方。湊だから」

 

 その場にいるだけで擦り潰されそうな空気。

 

 実際に知らないし体験したこともないけど、“修羅場”ってこんな雰囲気なんじゃないかと男子中学生の乏しい知識と経験をフル動員して想像して見たりする僕。要は『現実逃避中です』をしていたら、いきなりナルが僕の方に話題を振ってきた。

 

 「はいどうぞ」って感じで向けられたナルの両手。流される様に移ってきた不知火さんの視線が僕の全身を捉える。

 

 心臓を鷲掴みにされた気分。

 

 冷や汗ダラダラ。心臓バクバク。「先生、体調が悪いので早退してもいいですかー」って言いたい。でも、言えない。言う意味がない。

 

 深い深呼吸をするイメージ。自分の中で気持ちを整える。何にせよ、結局行くつくところはひとつ。やるべきことがある以上はそれをしないことには物事は前に進まない。

 

「これ、今日のホームルームで配ったプリントと前々から配っていた今後の学校行事に関するプリント。不知火さんが今日の午後は早退したからさ。担任の先生から纏めて届けてくれって頼まれたんだ」

 

 カバンから取り出した各種プリントを挟んだファイル。若干の愛想笑いを浮かべながら不知火さんへと差し出す。

 

 手汗が凄い気がするけど気にしない。文句を言われたら即座に謝るだけ。

 

「…………」

 

 僕の顔を3秒、僕の手にしていたファイルを3秒、ナルの顔をゼロコンマ3秒。

 

 睨み終えた不知火さんは無言で僕の手からファイルを受け取ると、即座に踵を返して玄関の奥へと引っ込もうとする。

 

 背中越しに見える気がするのは、きっと『もう関わるなオーラ』ってやつだろう。

 

「湊はあなたの為にわざわざプリントを持って来たのよ。それなのにお礼の言葉のひとつも言わないつもり? 他人様に手を煩わせたのにそんな対応をするなんてね。幾らなんでもそれはどうかと思うわ」

 

「…………」

 

 もの凄い眼光再び。

 

 玄関扉に手を掛けた状態の不知火さんが振り返って放ったのは、おそらくは今日一番の眼光。睨んだ先の対象はナル。だけど、僕自身に向けられているわけでもないという事実など関係なく、正直な気持ちとして僕は今すぐこの場から逃げ出したくなった。

 

 もうヤダ。僕ちゃんお家に帰りたいです。場所はすぐ隣だし。

 

 そんなこんなをもはや諦観と共に考えていると、扉が閉まる音が眼前から容赦なく響いた。

 

 どうやら不知火さんの堪忍袋の緒が切れたようだ。切れた結果がナルに対しての肉体的な実力行使とかじゃなくて良かった。本当に良かった。平和バンザーイ!!

 

「帰りましょう」

 

 不知火さんのあまり褒められたものではない対応に特に苦言を発することもなく、少しだけ溜息を吐いたナルは踵を返す。

 

「一応プリントは渡せたし。今日はこれまで。あの失礼な態度は正直許せないけど、今はもういいわ」

 

「……そうだね」

 

 僕自身は不知火さんの今の行動に対して特に言いたいことは無い。失礼なのは確かだと思うけど、それでも何故かあまり怒りの感情は湧いてこない。……僕も大概にお人好しすぎるのかな?

 

 とにもかくにも、先生から与えられたミッションはクリアしたわけだし、プリントを受け取った不知火さんがどんな行動を起こしてくるのかは明日以降に持ち越しだ。明日までとかそんな早急なことは言わないけど、どうか願わくば来週の校外学習までには少しずつでも歩み寄りをみせてくれると嬉しい。

 

 若干気分が高揚している気がするのは、心の重しとなる事案が終了したからだろう。

 

「ねぇ、湊。小母さん達が帰って来るのって、確か明日の夕方だったかしら?」

 

「そう聞いてるけど? 今のところは予定を変更するなんて連絡もきてないし」

 

 ちゃんと聞いたことがない上に殊更に興味もなかったのでうちの両親が揃って何の仕事をしているのかは知らないけど、夫婦揃って時々何日か家を空ける時がある。大抵は当初の予定通りに帰ってくることが殆どだが、時たま延長することもある。

 

「じゃあ、今日の晩御飯はうちのお店に来て食べること」

 

 急なナルからの晩御飯のお誘い。親が不在の僕がちゃんとした食事を取らないことに対する心配と懸念から出た台詞だろう。実際、ちゃんとした食事は取ってないことが多いし。

 

 だから、僕の返答は決まっていた。

 

「それは奢りと考えてもいいのかな?」

 

「ずうずうしいわよ」

 

 自分でもそう思う。でも、敢えて口にした。年中金欠で色々と入用なことが多い男子中学生の身としては、出るものは少しでも少ないに越したことはないのだから。

 

「洗い物を少しだけ手伝うこと。それくらいの条件は出すからね」

 

「アイアイサー」

 

「適当な返事ねぇ。それに私は“サー”じゃないわ。……とりあえず、一度湊の家に行きましょう。まだ少しだけ時間もあるし、私の家に行く前に今日出された数学の課題を済ませましょう」

 

「えっ!? あの数学の課題を今日やるつもりなの?」

 

「そうよ。当然でしょ」

 

「でも、提出期限は金曜日じゃなかった? 確かそうだったよね? まだ日にちはあるけど?」

 

「金曜日だからどうしたって言うのよ? それとも、後回しにしてギリギリで焦るなんてパターンをまたするつもり? そんなのダメよ。たいした量じゃないんだからすぐに終わるわよ」

 

 数学がまったくもって得意ではない僕にとっては、そのたいしたことのない量も結構大変なんですけどね。ホント、理数系の人が羨ましい!!

 

「やるしかないのか……」

 

「課題をするだけなのに、なんでそんな悲愴な顔で覚悟を決めたように呟いてるのよ」

 

「覚悟を決めないと出来ないことって、世の中には沢山あるよね~」

 

「言っていることは重い上に正しいけど、その覚悟を決めるべき対象が学校の課題なのは情けないと思うわ」

 

 ご尤もで忌憚の無い意見をありがとうございます。

 

「やる気がないよりはまだマシなのかしらね」

 

「満々ってわけにはいかないけど」

 

 とは言え、ナルと軽口を叩いたおかげか多少なりと課題をする気にはなっているので、このままモチベーションが維持出来れば課題もすんなりと終わるかもしれない。……多分。おそらく。……そうであって欲しいなぁ。

 

 だけど、この世の予定はいつだって未定。

 

「待ちなさい」

 

 僕達のその後の予定はすぐに瓦解することになった。

 

 玄関扉が開く音と共に掛けられた後方からの静止の声。僕とナルが揃って振り返った先には、先程無言で家の中へと引っ込んだはずの不知火さんの仁王立ち姿。

 

「お礼をします。家に入りなさい……――鳩羽 湊」

 

 鋭い眼光を僕に向けながら、有無を言わせぬ感じの不知火さんの言葉。

 

 とてもじゃないけど、「お礼をします」なんて雰囲気は微塵も感じ取れない。いや、“お礼”にも色々な意味や解釈の仕方があるから、意味合いの系統によっては不知火さんの纏う雰囲気でも問題がない可能性もあるか。

 

 ……下手したらバッドでデッドなエンドへのルートまっしぐら?

 

 脳裏を過ぎるのは、能面の様な顔に鋭くも光の無い瞳をした不知火さんが手に尖って光るモノを持って滲み寄ってくる光景。……何コレ? リアルに想像出来る上に本気で怖いんですが。

 

「あら? お礼をする気になったの?」

 

「あなたには関係ありません。不知火は“鳩羽 湊”に対してだけ話をしています。当然、あなたを招くつもりもありません」

 

 そんな僕の内心での失礼極まりない妄想など知る由もないであろう不知火さんは、ナルを本気で射殺さんばかりなどこぞの神話に出てくる魔眼染みた眼光で睨みながら冷たく言い放つ。ただ、氷点下な口調の中で僕の名前だけをやけに強調して口にしたような……。気のせい?

 

「ですので、さっさとお引き取りください」

 

 いきなりのお誘いと展開に戸惑っている上に了承の返事すらしていない僕だけど、どうやら不知火さんにはもはや関係ないようだった。

 

 そして、何かの意図があるのかないのか。再び僕の方を瞬くように見た不知火さんは、

 

「さようなら……」

 

 ほんの僅かにだけど口の端を上げると、

 

「――“いかずち”」

 

 不意に脈絡の無い言葉を口にした。

 

 

 





 ようやくあの“単語”が出せました。

 大方分かってはいたとは思いますが、つまりそういうことです。




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第参話:ありふれて、放課後 ~その弐~


 世の中の常識を知っていたとしても、イコールそれが世間ズレしていないことに繋がるとは限りません。




 

 

 静寂が支配していた。

 

 十数時間ぶりに訪れた隣家の居室。

 

 簡素ながら定番的な造りの居間とおぼしき部屋の中央には、年季物の木製卓袱台が置かれている。その上には白カップがひとつ置かれ、白い湯気を上げていた。カップの中身は透明――つまりは白湯。引っ越してきたばかりだし、お茶とかの常備がないのかもしれない。

 

 家具は元から置いてあったものをそのまま使用しているとして、このカップはどうしたのだろうか?

 

「…………」

 

 出された白湯を一口だけいただき、その後は特に何もせずに正座しているだけ。正座なんて今までちゃんとする機会があまりなかったこともあり、この場の空気も合わせて非常に居心地が悪いことこの上ない。

 

 卓袱台を挟んで対面には僕同様に正座している不知火さん。ピシッと背筋を伸ばして座している姿は堂に入っていて、今は何かを考えているのか静かに瞑目している。

 

 何か話すべきか?

 

 でも、何を話題にしたらいいのだろう?

 

 そもそも、プリントを持って来たお礼をすると言って家に招いたのは不知火さんの方であり、招かれた側の僕から話を切り出すのは変じゃないのだろうか? いや、でも、だからと言ってずっと無言でいるのも問題があるような……とは言え、不知火さんは無駄話を好む方じゃなさそうだし、ここはやっぱり不知火さんが話を切り出してくるまでは下手を打たずに出方を窺うのが正しいのかも。

 

 ……よし、決めた。ここはもう少しだけ様子見を続けよう。そうしよう。

 

「…………」

 

 そうと決まれば僕に出来ることは殆ど無い。敢えて言うならば部屋の中を失礼にならない程度に観察するか、不知火さんの整った顔を観察することくらい。後者は気付かれた場合は洒落にならなくなりそうだからより一層の注意必要だけど。

 

 で、改めて部屋の中に視線を向けてみるけど、基本的に見るべきものは何もない。

 

 不知火さんが引っ越して来る前にはお婆さんが住んでいたはずだけど、おそらく私物関係の大半は家を出て行く時に持って行ったか処分したのだろう。辛うじて大型の家具類が少しだけ残ってはいるけれど、テレビとかインテリアとなるような物がないので殺風景と言うか生活臭がしない。掃除をしたのか、特に埃なんかが積もっていることはないけど。

 

 本当に少し前まで空き家だったという感じの部屋。そこに中学生の男女が二人っきりで向き合って座っている光景は傍から見たらかなりシュールなんじゃないだろうかと思う。

 

 因みに、不知火さんにお招きを受けなかったナルは当然ながらこの場にはいない。

 

 玄関前で不知火さんが放った無礼極まりないとも喧嘩を売っているとも取れる台詞にも少しだけ眉を顰めただけで応じ、特に不知火さん向かって苦言を呈することもなく帰っていった。

 

 ……そう、ナルは一人先に帰っていった。

 

 ただし。

 

 た・だ・し!!

 

 帰る前に僕に対して行われた遣り取り。その時の様子が僕は忘れられない。

 

 時間にして3分とないであろうその遣り取りとは、

 

 

           *        *        *

 

 

『……湊』

 

 不知火さんの存在を完全に視界から外したナルは僕の方を向いているが、何故か微妙に俯き加減でその表情がよく見えない。そして、その声はまるで呟きの様。

 

『な、なに?』

 

『私は先に帰るから』

 

『う、うん。りょ、了解』

 

 奇妙な圧力を感じ、上擦る僕の声。

 

『……分かってはいると思うけど、後で必ずうちに来てよね』

 

 僕の家で課題を済ませるという予定こそ変更になったけど、その後の予定に関しては変更無しらしい。

 

 まあ、僕自身そんなに不知火さんの家に長居するつもりもないし、夕食を食べる為にもナルの家に行くのを取り止める気は無い。

 

『それと。大丈夫だとは思うけど……。注意すること! 変なこととか……とにかくね!』

 

『い、いや。変なことって……』

 

 ナルは僕が不知火さんに何かするつもりだとでも思っているのだろうか?

 

『ともかく、必ずうちに来ること! いろいろと話を聞かせてもらうから』

 

 有無を言わせぬ口調で語り掛けてくるナルに対して僕は下手に口を挿んで藪蛇となるのを避ける為、全力で首を縦に振ることで答えるしかなかった。

 

 不意に顔を上げたナル。薄茶色の瞳からの視線が真っ直ぐに僕の目へと向けられる。

 

 次の瞬間、快活な笑顔が似合うナルが浮かべた慈愛に満ちたような笑顔。

 

 そして、

 

『ワ・ス・レ・ナ・イ・デ・ネ?』

 

 鈴を鳴らすような軽やかな声での囁き。

 

 悪魔すら涙を流してしまいそうな天使の如きナルのその姿は、きっと僕の今後の人生の長きに亘ってのトラウマとなるだろう。

 

 

           *        *        *

 

 

 ……あ、駄目だ。思いだしたら妙な寒気がしてきた。

 

 思わず温かい物を求めて目の前のカップに手が伸びる。

 

「――鳩羽 湊」

 

 カップに触れる寸前だった僕の手を止めた声。

 

 それまで静寂と沈黙を保っていた部屋の空気が動き出す。

 

 思わず見詰めた先。瞑目していた不知火さんがゆっくりと閉じていた瞼を押し上げると、深い空の蒼を想わせる瞳が現れる。

 

 ごくりっ。

 

 唾を飲み込んだ喉が鳴り、タイミングを逃して宙に浮いたままの右手が行き場を求めて彷徨う。すぐに何をするでもなく膝の上に戻したけど。

 

 鋭い眼光から放たれる揺るぎの無い視線。

 

 僅か1日程度の付き合いでしかないけれど、何故か既に見慣れた気さえするその刺し貫く様な真っ直ぐな視線。だけど……なんだろう?

 

 妙な違和感。

 

 何故か今不知火さんから向けられている視線は少しだけそれまでと違う感じで、どこか揺れ動いているような気がした。

 

「は、はいっ」

 

 遅ればせながら応答の声を返していなかったことに気付いた僕は、接着剤で貼り付けされていたかのような唇を無理矢理引き剥がし、渇いた喉から絞り出すように声を出す。

 

「頼んだことではありませんでしたが、結果的にあなたの手を煩わせることになりました」

 

「え、え~と。うん、まあ、確かにプリントは持って来たけど。でも、そんな手を煩わせたって言うほどのことじゃないかな? 家が隣なんだし、大した手間じゃないし」

 

「不知火もそう思います」

 

「あ、うん。そうなんだ」

 

「ですが、事実は事実です。酷く無駄な気もしますが、それでも受けた行為に対してのお礼はします」

 

 む、無駄って……。たとえ内心でそう思っていても、敢えて口に出さなくてもいいと思うんだけど。

 

 それに、僕としてはプリントを届けたくらいでわざわざお礼をして貰うのは気がひける。それこそ、「ありがとう」の一言でも言って貰えればもうそれでいい。それ以上を望む気持ちなんてない。

 

「あ、あのさ。僕は無理に何かをしてくれなくても――」

 

 だから、変な気を遣われる前に断りを入れておこうとした僕だけど、その台詞は途中で遮られることになる。

 

 突然、何の前振りもなく立ち上がった不知火さん。

 

「えっ?」

 

 そして、何ひとつ前触れも言葉もないままに着ている制服のベストのボタンへと両手を向けた不知火さんは、上から順に留められていたボタンを外してゆく。

 

「エッ!?」

 

 全てのボタンを外し終えたベストを脱ぐと簡単に畳んで床に置き、今度は白シャツの首元を飾る紐リボンへと手が伸ばされる。

 

 シュルッ――というリボンが解かれる音が静かな部屋の中でやけに響く。

 

 不知火さんの白くて細い指に抓まれた赤いリボン。

 

 下に向かって垂れたリボンは緩やかに揺れていたけど、不意に指から放されたことで宙を舞うようにしながら音も無く床へと落ちる。

 

「ウェっ!?」

 

 不知火さんの綺麗な指が次に向かうのは白シャツのボタン。

 

 ひとつ、またひとつ、と外されていくボタン。それは同時に、留めを失ったシャツが徐々に肌蹴ていくことをも意味していて、上から四番目のボタンへと手がかかった時点でシャツの開かれた胸元付近から覗く白い肌と鎖骨、その下にある起伏を包む薄いピンク色の下着の一部が見えだして……

 

「ちょ、ちょっ、ちょぅっ、ちょおおおぉぉぉぉぅぅぅっ!?!? ちょぉっと待ぁってぇぇぇっ!!」

 

 な、何だこの子!? いきなり何をしようとしてるんだ!? 何を考えてるんだ!?

 

 混乱とか混乱とか混乱とかで頭の中がパンクしそう。訳が分からない。訳も分からない。訳なんか分からない。駄目だ!! 全然まったく訳が分からない!? というか、僕、混乱してる!? 何を叫んでる!? 

 

「……何か?」

 

 『何か?』じゃ、ないよッ!!

 

「な、何してるの!? 不知火さんは何をしようとしてるの!?」

 

 僕の魂からの叫びに眉を顰め、不快そうな視線で僕を睨んできているけど、そんなことは関係ない。鋭さ三割増くらいの眼光だって今だけは全然に気にもならない。

 

 四つ目のボタンを外し終えたところで停止した不知火さんの手。若干の安堵を覚えつつ、それ以上の混乱で正直言ってまるで気が休まらない。

 

 何が一体どうなっているって言うんだ。

 

「本当にいきなり何をするつもりなの!? お礼をするって言ってなかった!?」

 

「そうです。お礼をします」

 

 その言葉と行動が結びつかないんだけど!?

 

「“お礼”をする上で最も確実なのは相手が望むことをすること。ですので、不知火が得ている情報によるあなたの年代の男性が一般的に望むことと昨晩の状況を考慮した上で推測を行い、あなたの望む可能性が最も高い行為をしようしたまでです」

 

「ぼ、僕の望むことって。だとしてもどうして服を脱ぐような真似を……」

 

「昨晩、あなたは不知火の裸体を見る為にこの家に侵入しました」

 

 ……………………ちょっ。

 

 ちょ、ちょっ、ちょおぉぅっ! ちょぉっと待ってッ!!

 

 確かに昨日の晩に不知火さんの家には入った。だけどそれは停電の様子見の為であって、不知火さんの裸を見る為なんかじゃ決してないんだけど!! 第一、あの時の僕は不知火さんがそんなあられもない姿で居たことすら知らなかったのに。

 

「それはつまり、あなたの望みは不知火の裸体を見ること。男性が女性の裸体を見たいというのは不知火が得ている情報とも一致していますので、この推測にて間違いはないはずです」

 

 何なのその推測。その盛大で方向を間違えまくっているとしか言い様のない勘違い。

 

「不知火の推測に何か落ち度でも?」

 

「お、落ち度って……」

 

 め、滅茶苦茶だ。この子。

 

 本気で言ってるの? 僕を揶揄おうとしている訳じゃなくて?

 

 予想外にも程がある状況に顔を引き攣らせるしかない。本気かどうかも分からないことを平然と言ってのける不知火さんの真意を探りたくて、思わず穿った目で不知火さんの顔を見詰める。

 

「……何ですか? 不知火の顔に何か?」

 

 厳然たる事実として僕はたいした人生経験もないただの中学生だ。当然、他人に対する観察眼なんてたかが知れている。そして、そんな僕の目に映る不知火さんの整った顔に浮かぶ無表情は澄んでいて、邪な考えがあるようには見えない。

 

 意外な気もするけど、不知火さんって……実は天然なのかな?

 

「あ~、いや、なんと言いますか……うん」

 

 不知火さんがどうであれ、僕的には下手な勘違いの結果として取り返しのつかない事態(主に僕の社会的な死とか。言い訳するつもりじゃないけど、昨晩のことは不可抗力だからね)になることだけは避けたい。不知火さんが服を脱ぐ必要なんて、全然、これっぽっちもないし、僕だって望んでいない。全然、まったく、望んでなんか……いないよ。残念だなんて1ミリグラムだって思っていないよ。……1ピコグラムくらいだったらまあ、その、ねぇ。

 

 とにかく。伝えるべきことはハッキリと伝えて――

 

「もしかして、不知火の裸体を見るだけでは飽き足らないと?」

 

「……へっ?」

 

「そう。そういうこと」

 

 な、何だろう?

 

 全身を襲うこれまで感じたことがない程の悪寒。氷結地獄にでも堕とれたかのような錯覚さえ覚える圧倒的な寒気。切っ先の付いた液体窒素で突き刺されるような感覚。

 

「恩を売ることで醜悪な欲望に満ちた行為に及ぼうとする。そんな連中はどこにでも居るというわけね」

 

 それは小さな呟き。

 

 普段の僕だったら聞き逃してもしょうがないくらいに小さな声だったけれど、この時ばかりは何故かしっかりと聞き取れていた。

 

 だからこそ――

             “駄目だ!!”

                        ――閃光の様に頭の中を奔る言葉。

 

 不知火さんの呟き。それが正確に意味することについてはよく分からない。それでも、台詞の表面的に受け取れる部分やこの勘違いが生む状況はマズい。絶対に駄目だ!! 絶対に良くない!!

 

 それまでの混乱とか困惑を全部取り払って、僕は真っ直ぐに不知火さんを見上げる。

 

 降り注ぐ眼光。それまでの全てに勝る明確なマイナスの意志が篭ったそれは、今すぐにでも僕のことをこの世から消し去らんと言わんばかりに鋭い。

 

 でも、そんなことは今の僕には関係なかった。気にもならなかった。

 

 不知火さんの誤解を解く――それが最優先事項であり、今の僕が気にするべき唯一のことだから。

 

 居ても立っても居られずその場から立ち上がると、僕は殆ど勢い任せに叫んだ。

 

「ご、ご飯!!」

 

「…………ご飯?」

 

「そう、晩ご飯。それを一緒に食べない?」

 

 深く考えずに口走った言葉だけど、効果はあったようだ。

 

 僕の突然の行動と口走った言葉に理解が追い付かないのか、虚を突かれた表情をした不知火さんが怪訝な視線を僕に向けている。

 

「不知火さんが僕の望むことをするって言うんなら、僕的には晩ご飯を一緒に食べてくれるだけで十分嬉しい。だから、不知火さんからお礼をして貰えるならばそれがいい」

 

 不知火さんへの提案を口にしながらも、頭の片隅で「何かを忘れていないか?」と囁きかける声が聞こえた気がするけど今は無視。余計なことを考えている余裕はない。

 

「ど、どうかな?」

 

 言うべきことは言った。あとは不知火さんがどんな反応を返してくるのかのみ。

 

「…………」

 

 む、無言。不知火さんお得意の無言の反応。

 

 もの凄く心臓に悪い。一瞬前まで妙な興奮から身体の芯が燃え上がりそうなくらい熱かった気がするのに、今は全身に冷や汗ダラダラの身震いするような冷たさを感じる。

 

 訳もなく襲い来る不安に不知火さんのことを直視できない。あまりにも見当外れなことを言ったかもしれない。もっと別の良い提案とかがあったかもしれない。と、自問自答の乱気流が頭の中で渦を巻いている。

 

「……分かりました。それであなたが問題ないのならばそれで構いません」

 

 ようやく打ち破られた長い沈黙。

 

 不知火さんの開かれた口から出た声は相変わらず冷淡なものに変わりはないけど、それでも安堵の息を吐くには十分。ついでに言えば、不知火さんが外していたシャツのボタンを留め始めたのを見て更に安堵。

 

「よ、良かった。じゃあ、え~と、晩ご飯だけど……どうしようか?」

 

 ボタンを留め直している不知火さんを出来るだけ見ないように視線をあさっての方向に逸らしながら、了解を得たことで急遽発生したこの後の事態に対して脳味噌をフル回転で使用する。

 

「今日は僕の家には家族が誰もいなくてさ。だからどこかに食べに行くか買ってくるかって……あっ」

 

 血の気が引いた。

 

 ま、マズい! そうだ! なんで忘れてんだよ!? 約束をしてたじゃないか。ナルの家に行くって。そこで晩ご飯を食べるって。

 

「ど、どうしよう……」

 

「あなたにお任せします。不知火はあなたの提案に従うだけですから」

 

 焦りで思わず口にした僕の言葉。それを自分への問い掛けだと取ったのだろう。不知火さんとしてはこの後のことは僕に全任せするつもりのようだ。

 

 噛み合ってない筈の会話が何故か噛み合っているかのように感じる奇妙な感覚。だけど、今はそれは重要じゃない。それよりも大事なのは、この後の行動に対して大きな問題が発生したということ。大きくて切実な問題が発生したという事実。

 

 考えてみる……

 

 Q;ナルの家に不知火さんは行くことを望むと思いますか?

 

 A;絶対にNO。ありえない。下手すれば今度こそ眼光に睨み殺される。

 

 Q;不知火さんを説得出来ますか?

 

 A;おそらく無理。まず無理。天地が引っ繰り返っても無理。睨み殺されるのがオチ。

 

 Q;でも、不知火さんはこちらの提案に従うと言ってますが?

 

 A;僕に自殺願望はありません。ついでに言えば、嫌がると分かっている不知火さんに対して無理強いするつもりもありません。

 

 ……詰んだ?

 

 どうあっても進退窮まった? どうしたらいい? どうしたら?

 

 考えろ! 考えるんだ、僕!!

 

「じゃあ、出前でも取ろうか? 僕、注文してくるよ」

 

 口から出たのは、なんとも中途半端な提案。だけど、僕としてはギリギリでなんとかなるかもしれない提案。

 

 注文をしてくるという体裁でナルの家に行き、事情を説明した上で出前の体裁で晩ご飯を持って帰ってくる。ナルの家で晩ご飯を食べるという約束を反故する形になっちゃうので、ナルには本当に申し訳ないけど。でも、打開策としてはこれしかない気がする。

 

「不知火さんは何か食べたいものはある? 知り合いのお店で、普通の食事処だから高級イタリアンとか懐石料理みたいな感じのは流石に無理なんだけど」

 

 あと、ファーストフード系とかピザなんかもちょっと無理かな。だから、不知火さんがその手のものを食べたいと言いださないことを願うしかない。

 

「それに、何か苦手は食べ物とか食べられない食材とかがあれば避けるけど?」

 

「特にありません」

 

 色々と悩んだり不安になったりしている僕の様子なんかまるでお構いなし。簡潔且つ簡略。どこまでも素っ気ない不知火さんの返答に、僕はもう溜息を吐く気力すらなかった。

 

 

 






 不知火さんはアグレッシブ(良くも悪くも)。



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