ワンダーラスト (kodai)
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高等部二年、春。
1


週一ぐらいの更新を想定してます


 夕暮れ五時。錆びついた柱から黒煙が吐き出される。煙は紺色に溶ける。オレンジとダークブルーのグラデーションは、夕陽と可燃性有毒ガスによって織りなされていた。どこかでチャルメラが鳴りそうだった。海に囲まれたその町は、町と呼ぶには工場が多すぎた。グリッド線のように区分けされたそこかしこには朱と白の煙突が立ち並び、いずれも煙を吐いている。風通しの良さそうな数多の構造物は柵のような鉄の足場に囲まれて、風が纏わりついている。おざなりになったアスファルト、雑草の緑が色濃く靡いた。なにも変わらない日々。着実に過ぎ去っていく時間。油の匂い、夕景は優しかった。

 彼女は口を開けて歩いていた。ぽかんとして、歩いていた。彼女にとって世界は無音だった。かわりに、鼓膜にはメロディが突き刺さって、空っぽになった頭の中から口腔へと、歌が零れ出る。疎らに張られた鉄線の下、彼女は歌を口ずさんだ。もはや誰にも忘れられた、古いアイドルの歌だった。

 なにも変わらない日々。優しく過ぎ去っていく時間。彼女はあと数日で技師になる。

 

 

 

 

   ワンダーラスト

 

 

 

 

   一章~高等部二年、春。

 

 

 

 校舎はのっぺりと白い。正門は中等部の生徒たちが黒い蟻になって群れ、裏門もさして変わらない、高等部の生徒たちが似たようにごった返していた。予鈴と同等のやかましさでモラトリアムの努めをかろうじて果たさんとする生徒たちは、都合六年間、同じ校舎の世話になる。校舎のある広大な敷地の離れには、彼らがかつて通っていた幼、小の校舎があった。幼小中高超一貫型の学園が、この町と彼らにとってのすべてだった。

 校舎裏ともなれば、やかましい喧騒はかすかになる。日陰になったコンクリートの犬走りに、黒い学生服の二人が胡座をかいて、別の液体に満たされた赤い空き缶を啜っている。

 

 早速ではあるが、このあたりから力を抜いて描写させていただく。語り部の品位というものに固執したところで、満足できる者はいやしない。語り部の正体についてもここで明かす。語り部はこの物語に登場する人物の誰でもない。赤の他人が努めている。えへへ、よろしくね。

 

 さて、校舎裏でトルエンを啜っている不良生徒ふたりについてだが、ひとりは鬼人正邪、もうひとりを少名針妙丸と云う。わざわざ登校時間を守って学校に来ておきながら非行に走るのでは、律儀なのかなんなのかさっぱりわからない。ともかくとして、一年生の二人組だった。

 正邪は赤い前髪をうっとおしそうにかきあげ、夏の近い季節の日差しを睥睨して、忌々しげに口を開いた。

 

「なあヒメ、知ってるか。赤蛮奇、あいつやっぱ、売ってんだってさ」ヒメ、という呼称に多少の苛立ちを感じながらも、針妙丸も口を切る。「なにがさ」

 

「体だよ。体」正邪はまた空き缶の縁を啜って、校舎の壁にもたれかかった。すでに黒い制服は埃っぽく汚れている。お構いなしだった。「どうでもいいだろ、そんな話し」

 

 妙に鬱陶しそうな針妙丸の声に、正邪も似たような声色を返した。「まあな。でも、今日は緑色のセンパイも来てるらしいぜ」

「緑色ってあの、鍵山雛?」

 

「そう!」正邪は空き缶を敷地を囲む生け垣に放り投げて言う。「鍵山雛だ。淫売の、緑色。なぁ赤蛮奇は当然赤だろ。それで、やつは緑色。赤と緑は正反対の色だ。なあ?」「はあ」

 

 至極面倒そうな針妙丸を尻目に、正邪は言葉を続けた。

 

「でも、この色はおんなじ色なんだよ」

「どういうことさ」

 

「つまり、赤と緑は性犯罪の色ってわけ!」

 

 は行の二番目で笑う正邪の横で、針妙丸は深くため息を吐いた。「楽しそうだな、おまえ」針妙丸も諦めたように缶を投げた。

 それは二人にとって、悪辣で、なにも変わらない日常に違いない。気付けば聞こえなくなった正門の喧騒の代わりに、どこかで雀が鳴いていた。正邪は、ひとつ舌打ちをしたかと思えば、今度は靴底でリズムをとって、口ずさむ。ラモーンズの一番有名な歌だった。針妙丸のため息に混ざって雀がなく。そして、それらすべてをかき消すように、始業の鐘が鳴り響いた。

 

 河城にとりにとって世界は無音だった。さっきまで見ていたよくわからない夢も、授業が終わってはしゃぎだす同級生たちの声も、延々とループし続けてきたであろうアイドル歌謡にかき消されて、にとりはようやく一限の終わったことを悟る。幼稚園のころかっぱ組に属していた時点で将来の決定しているにとりにとって、継ぐ家業となんら関わりのない一般教養は虚しかった。にとりが外すまでもなく、イヤホンは友人の手によって取り上げられる。にとりは焦ってイヤホンを奪い返した。

 

「や、やめろよ。わたしがなに聴いてたって、おまえには関係、ないはずなのに」

 にとりの友人、からす組出身の射命丸文はけらけらと笑った。「隠すから気になるんですよ。隠さなけりゃいいじゃないですか」

 

「あっ、わかった!」文の隣でもうひとりが笑う。おおいぬ組出身の、犬走椛だった。「にとりさん、すっごい恥ずかしいやつ聴いてるんでしょ」

「なんですか椛さん、恥ずかしいやつって」愉しげな文に椛は多少恥ずかしそうに、けれど冗談めかして口を開いた。「そりゃあ、その。えっちなやつとか」

 

 詰襟、おずおずと首元を掴みながらそっぽを向く椛はむっつりとした男子生徒そのものだった。「え! 本当ですか!」などとにとりに詰め寄る文にしても、わなわなと口を開けて愕然とするにとりにしても、揃いの詰襟は、男子学生然と作用した。

 学園の制服は二着あった。男子用の詰襟と、女子用のセーラーの二着。冬用夏用含めれば厳密には四着となる。この町における性別とはどうにも抽象的な概念であるから、どちらを着用するも個人の自由だった。しかし制服を買うのは生徒本人ではなく、当然金銭を保有する両親である。仮に幼少のころから親に男子用を着せられて育った子供がいたとすれば、その子供は対外的に男子になる。

 

「それにしても、よくありませんねえ」

 授業中に居眠りとは感心しますね、の意で文が口を切る。椛も文の言葉に続ける。「そうですよ、よくないですよ」

「そっちこそ。将来なんの役にも立たないこと、よく真面目にやれるよな」

 

 唇を尖らせたにとりの言葉に、二人はへらへらと笑ってみせた。それは、三人の中でもう幾度となく繰り返されてきたやり取りだった。かっぱ組は技師に、からす組はマスメディアに、おおいぬ組は治安維持、労働力に。もちろんすべてがこの町の中で完結する仕事だった。にとりぐらいのかっぱ組出身者は、概ね中等部に上がったあたりのタイミングで自身の将来について知る。大抵の職種は町の統制により一本化されているが、技師は違った。かっぱ組の将来は沿岸部の工場務めになるか、家業としての技師を継ぐかで、にとりは後者だった。にとりのソレが始まったのは、にとりが中等部に上がったころだ。何十年もの間独自に油にまみれてきた父親から聞かされた自身の将来は、結局のところ町の工場の下請けだった。

 

「どうせ、おまえらだってからす組で、結局のところ、おおいぬ組なのにさ」悲観の染み付いた普段どおりのにとりの口ぶりに、文も普段どおりに軽口を返す。

「だって、別に楽しくないわけじゃないじゃないですか。いろんなことを知るってのはいいもんですよ。ねえ椛?」

 

「ねえ文さん?」椛は文の賛同者然として言葉をかぶせる。旺盛な知的好奇心というのはからす組出身者としての習性だったし、統制側に近い“からす組”に付き従う賛同者というのも、やはりおおいぬ組出身者の類型だろう。椛は幼い頃からよく、文のバーターなどという誹りを受けるが、普段それを気に病むことはなかったし、文にしても、椛をそんなふうには思っていなかった。にとりもそれをわかってはいたが、どうしても、ちょっとした拍子、友人との楽しい会話のなかに、この町特有の関係性、その類型を重ねてしまうのだった。

 

 にとりはため息を吐き、腕を机に投げ出してはそのまま突っ伏した。

 

「ちょっとー、寝ないでくださいよぅ。せっかく貴重な十分を友人との対話に割こうという私の気持ちを、無下にしないでくださいよぅ。……ねえ椛?」「ねえ文さん?」

 

(だいたい、楽観的すぎるんだよな。なにがそんなに楽しいってんだ)

 

 染み付いた悲観主義を自覚しないでもないにとりだったが、今日はことにひどかった。

 

(雛だ。鍵山雛。あいつが来ると、妙にいやな気持ちになる)

 

 机に突っ伏したまま、にとりは視線をちらりとやる。視線の先にはセーラー服を着た緑の髪。鍵山雛がいた。鍵山雛は誰と会話を交えることもなく、ひとり教科書の整理をしている。にとりの目には、鍵山雛のまわりになにか、特有のオーラがあるように見えた。それは、他を寄せ付けない、独特で、一種神聖なオーラだった。普段あまり学校に来ないものだから、他の生徒と同じように授業を受けていても、授業が終われば次の用意をする、物静かで真面目という生徒の類型に倣っていても、どうしても、周りから浮いているように見えた。それはもちろん、鍵山雛を取り巻く例の噂も、印象に深く作用した。

 

(あんな噂があって、よく学校に来られるよな)

 

 鍵山雛の座る窓際には、不自然な空間的余裕があった。半ば彼女を取り囲むように、クラスメイトはそれぞれ二、三人のかたまりになって、なにやらひそひそとやっている。しかしそれは、彼女の例の噂ではなかった。どうやら同じ高等部の一年に、そうとう遊んでいる女子生徒がいるらしい。女子生徒は赤い髪。名を赤蛮奇といって、この町唯一の“おしろ”に入るところを、誰かが目撃したと云う。にとりは聞き耳を立てることによってそれを確かめた。しかしどちらにしたって違いはない。彼女

のまわりは、いつもそんな話ばかりだった。

 

「ちょっとー、寝ないでくださいってばー。休み時間終わっちゃうじゃないですか……おわーっ!」

 

 文が突然悲鳴をあげる。突然の悲鳴に教室中のみなが三人の方を見る。胃が痛むほどの静寂をよそに、文は揚々と口を開く。

「そうですよ! 思い出しました、思い出しちゃった! 私ね、とうとう例のカメラを手に入れたんですよ! ね、ね、学校が終わったらついてきてくれますよね、試写に! ねえ、にとりさん!」

「えっ! 手に入れたんですか、ついに!」椛も興奮して文の肩肘を掴んで揺する。「私は行きますよ!」

「何言ってるんですか、椛がついてくるのはあたりまえ、問題はにとりさんですよ。ほら! どうなんですか、にとりさん!」

 

 教室中に筒抜けな“友人との対話”に、にとりは泣きそうになった。にとりは顔をぐちゃぐちゃにしかめて、本当に嫌そうに、泣きそうな声で口を開いた。

 

「行くよぅ、行くからさぁ……!」

 

 突然の悲鳴は文独自の習性だった。初等部時代、文はどんな大人からも「エキセントリックな子」と評されていた。賛同者然とした椛はともかく、にとりが文の奇癖に慣れることはなかった。教室の静寂はいつもにとりの胃袋をいじめた。にとりは都度、小さいころ親のブランデーをジュースと勘違いして思い切り呷ったときのことを思い出す。胃のキリキリする痛みは、思い出の中の痛みと酷似していた。奇癖を諌めるべくにとりが思い出を語ると、文はいつも逆噴射を起こす。

 

 ――なあ文。急に叫ぶのをやめてくれよ。胃が痛むんだ。間違って親の酒を飲んだ、あのときみたいに。

 ――やめてくださいよ! 私はお酒なんてもの、大嫌いなんですから!

 

 いつだって論点はずれた。



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2

「あの三人の中で一番スカートの短いのは誰だ? 赤蛮奇だろう。野暮ったく髪を伸ばした茶髪のスカートは長いし、青髪のやつに関しちゃもっと長い。まるでなにか隠してるみたいにな」

 

 相変わらずの校舎裏、正邪はアンパンに噛みつきながら話し続ける。針妙丸も今日の正邪の論調に慣れてきた様子で、牛乳、ストローを噛んで飲む。数分前に鳴り響いたのは昼休みを告げるチャイムだった。どうせ授業に出ないわりには、なかなかどうして律儀である。

 

「たしかにね」針妙丸は同級生の「まるでなにかを隠しているようなスカート」を夢想してはかき消し、今度は赤蛮奇のスカートについて考えた。するとひとつ、即した心当たりがあった。「ばんきちゃんはアレ、私服もすごいんだよ」

「なんだよばんきちゃんって。恋人か!」同級生の名前にちゃんを付けるだけで恋人呼ばわりされてはキリがない。ともすれば朝すれ違って挨拶を交わしたとあれば、もはや夫婦になってしまう。針妙丸は茶化す正邪を無視して続ける。「こないださ」

「こないだ見たんだ、彼女の私服。すごいよ、色とかさ。上はとりわけ無難なのに、なんだろうねあのスカートは。何色かもわかんないくらい奇抜で、模様だって、奇抜通り越して面妖なんだよ。うん、すごかった」

 

「へぇ」正邪は途端に興味を無くしたように相槌を打つ。心の僅かに苛立った針妙丸はまったく別のことを考えた。

 

(なんだっけ。たしか、射命丸。射命丸先輩だ)

 

 半ば伝説的な文に纏わるエキセントリックなエピソードの数々を思い出しながら、あらましエキセントリックな隣人を一瞥する。正邪は腕を組んで、なにやら考え込んでいる。正邪の黙考は不吉の予兆だった。組んだ片方の手には依然アンパンが握り込まれている。包装から顔を出したアンパンの歯型は妙に、針妙丸の目についた。「おい!」

 

「へっ?」突然の正邪の咆哮に、針妙丸は素っ頓狂な声をあげる。パンから即座に視線を外せば、そこには訝しげな顔があった。

「ヒメ、おまえそれ、どこで見たんだよ」正邪の眉間は深くなる。殆ど睨みつけながら、正邪は吠える。「わかるか? 今回の噂は赤色が体を売ったって話なんだ。なんでそんな噂がでた? 誰がどこで目撃すればそんな噂が立つ? なあヒメ、今回の火種はまさかおまえじゃあるまいな。今の今まで、すべて知っておきながらわたしの妄言を愉しんでたんじゃなかろうな。ええ? おい!」

 

 針妙丸は全てがめんどうになった。ヒメ、という呼称も、やや被害妄想の入った言動も、語勢にきょとんとしている最中に奪われた牛乳も、すべてが青い空に溶けた。「あーあ」「なんだよ?」

 

「知ってるくせに」

 

「わたしが何を知ってるってんだ? おい、いいか。わたしはな、例の“おしろ”だってまだ見たことがないんだぞ。西洋風だよ、目立つよ、すぐ見つかるよ。見つかりゃしねえよ! なあ、昨日わたしが何度歩数計のボタンを押したと思う? 六万回だぞ! 海に囲まれたこんな小島で、なんで“おしろ”が見つけられない? それも、わたしだけ!」

 

 なあ、おい。なんでだ。隣ではしゃぐ正邪をよそに、針妙丸の心は凪いだ。正邪の発言は針妙丸にとってはすべて嫌味といっても過言ではなかった。しかし、針妙丸は青空に凪ぐ。

 

「はいはい。せーじゃ、お前はなんにも知らないんだな。あー、憐れ。げに憐憫」

 

 早業で奪い返した牛乳のストローを咥えて空を仰ぐ針妙丸に、アンパンを完食した正邪が噛み付く。

 

「おいヒメ。そういうのよくないよ。そういう、適当なやつがいちばん、人を傷つける。ね、友達だろう? いっしょにうたお」「ほら、せーのっ」「わーたーしーは知りませんー! けーっぱくだー! うわはははは!」

 

 即興の「わたしは知りませんの歌」を笑いながらギャーギャーとやる正邪の隣で、針妙丸はため息を吐いた。

 

(じゃあなんでったって“ヒメ”なんだ? 何が潔白だ。白々しいの間違いだろ)

 

 しかし実際、正邪はなにも知らなかった。中等部三年の秋に編入してきた正邪には、針妙丸の意図するところなぞ知る由もなかった。

 

 

 

 

「やめてくださいよ! 私はお酒なんてもの、大嫌いなんですから!」

「そうだそうだ!」

 

 頑な過ぎる文の意思と椛の追撃に、にとりはもはやくたびれた。春の陽気に酔った空、にとりは家に脱いできた詰襟を思い、顔をしかめる。

 

(春も暑い。夏は論外。じゃあ、アレは一体いつ着るんだ?)

 

 無論、秋である。しかしにとりの頭は梅雨すら通り越し、来たる猛暑を嫌っていた。「肝臓いわすは海馬は縮む。吐くわ歌うわ喚き散らすわ。しまいにゃ暴力の沙汰ときましてね。なんもいいことありません。なんにも!」文は首に掛けたカメラをいじくり回しながら独りごちる。文はにとりと同様に詰襟を脱いできたようだが、椛は違った。「歌はいいんじゃないですか?」「たしかに!」

 

 椛の口から能天気な春の歌が零れると、文はそれをかき消すほどの大音声で椛に続いた。椛も負けじと声を張る。シャッターを切る音はキャッキャと猿楽う二人の声に混ざり、しきりに響いた。路傍の雑草や石っころにレンズを近づける文に、にとりは疑問を抱かずにはいられなかった。

 

「なあ、せっかくの良いカメラなら、もっと良いもの撮るべきじゃないか」

「えー? いいんですよ、これで。とりあえずは」カメラを構えっぱなしに文は答える。なにがよくて、どうしてとりあえずなのか。釈然としないにとりだったが、不意にどうでもよくなった。「そんなもんかな」「そんなもんですよ、そんなもん」

 

 ひび割れたアスファルト、雑草を揺らす微風は潮と油の匂いを運ぶ。工場の群れ、高い煙突に照る日差し。道の真中の白線は、物資搬入車両のためだけに引かれたものだった。しかし車両の行来は明け方にのみ行われる。三人がそれを知ったのは中等部のころだった。中等部、二年目といえば難しい年頃である。毎日なにかに感動し、絶望し、悲喜交交の眠りに就いて、夢の中でさえもあらしに見舞われるような年頃だ。なにもかも嫌になることがままあり、たまたまそういったタイミングの一致した夜には家を抜け出し、白む空に行き交う貨物自動車を三人で見送った。思い出の場所といえなくもなかったが、如何せん、今日ではいつもどおりの春の日だった。にとりはどうでもよくなって、胸中湧いた僅かな興味で口を切る。

 

「でもそれって結局アナログだろう? 支給品となにが違うんだ」

「なにもかも!」

 

 写真部所属の文は両手でカメラを天に掲げて叫んだ。「あんな安っぽい量産品と一緒にしないでくださいよ!」それを口切りに、目を皿にして掲げたカメラに食入りつつ、文は早口で性能についての呪文を繰り出し始める。ときにぶつぶつと、ときに揚々と。不安定な抑揚のついた文の呪文に、二人は苦笑する。椛は自身の襟を掴んで、混迷極まる文を眺めた。

 

「文さん、好きですよねえ。カメラ。私には正直なにが良いのかさっぱりです」

「わたしも。バラさせてくれるってんなら話は別だけど。……椛おまえ、暑くないか。脱いでくりゃいいのに」

 

 椛は襟を掴んだままきょとんとして、一寸の間を置いて、にとりに向き直って笑う。「いいんです。私はこれで」

 

 にとりは曖昧に「へえ」を発音し、慌てて目をそらした。最近、にとりには椛の笑顔が妙に思えた。常にうっすらきょとんとした顔立ちも、控えめで、しかしあっけらかんとした笑顔も、どちらも見慣れた顔のはずなのに、ふとした瞬間、にとりは椛の顔から目をそらしてしまうようになった。青い空、春の陽の下、黒い詰襟はよく映えた。「……おわーっ!」

 

 すべてをかき消すように文が叫ぶ。ひっ、と声を上げたにとりも、奇癖からなる文の奇声に興味津々の椛も、不可思議そうに文へと向き直る。視線の先には自身の頭を両手で押さえつける文がいた。文はまた目を見開き、なにかを見上げている。二人が文の視線を辿ると、そこには古びた信号機があった。それは横断用に設置されたものではなく、貨物自動車の運搬整理用に設置された信号機だった。L字を逆さまにして地面に突き刺さった信号機は、道のまんなかに影を落とす。無論灯りは消えている。信号機の点灯はやはり深夜から明朝に限られていた。「これですよ!」

「私は今日、これを撮るために二人をここに連れてきたんです! さあさあ、とっとと射線上からはけてください! 私の画角に影のひとつ落としたらひどいめに合わせますよ。ほら、もっとさがってさがって!」

 

 連れてこられたというより拉致されてきたにとりは夥しく浮かぶはてなマークを押さえ込み、文の言うとおりにした。椛はなんの不満を感じさせないニコニコとした表情で、にとりの隣につく。にとりの胸中、支離滅裂な文の言動に湧いた少量の不服はすぐに消え去った。嬉々としてファインダーを覗き込む文をみると、にとりにはすべてがどうでもよく思えた。にとりは文の撮る写真を思い浮かべる。ほどよく広い道路。途切れ途切れではあるが、たしかに色濃い一本の白線。青い空。端にはきっと、僅かばかり、ごちゃごちゃとした工場の群れが煙を吐く。写真には映らずとも、微かにきっと海の香る。それが、にとりの思い描く文の写真だった。「現像したらわたしにも一枚くれよな」「あっ、にとりさんずるい。私にもくださいね、文さん!」

「言われなくとも!」そう言って、文は唇を舐める。嬉々とした表情に、やや真剣な雰囲気が混ざる。

 

(ああ、やっぱり文は文だ。どうしたってからす組だ。部活サボらなきゃいいのに、そんだけ好きならさ)

 

 にとりは内心と同じだけ微笑んで、文の背中を眺める。なんとなくシャッター音が待ち遠しく感ぜられて、しばしやきもきとする。それは椛も同様だったようで、すこし緊迫した空気のなか、椛はにとりに困ったように笑いかけた。

 

 しかし、いつまで経ってもシャッター音は響かない。かれこれ数十秒が過ぎ去って、にとりも椛も首をかしげた。「文のやつ、どうしたんだろ」「さあ?」

 

 ファインダーを覗いたまま硬直した文に怪訝な視線が突き刺さる。また数秒間、こんどは先程までの緊迫感とは多少ずれた時間が流れる。ふと、青空に無常の鳥がチュンと鳴けば、おもむろに、文はカメラを降ろした。

 

「えーと」

 

 文は二人に向き直り、人差し指、恥ずかしげに頬を掻く。

 

「……やっぱりやめにします。なんか、恥ずかしくなっちゃって。アハハ……」

 

「わっ、でた!」「なんだよ! 引っ張るだけ引っ張って!」

 にとりと椛の冗談めかした声が重なる。文のそれが始まったのはつい最近のことだったが、二人にとって事の直前に冷める文というのは、もはや見慣れた習性となっていた。二人が文のいないところで協議した結果、新たなる文の奇癖は「瞬間冷凍」の名がついた。名前のわりに、現れるととりわけて盛り上がることが多い現象だった。今回も例に漏れず、にとりと椛は可笑しくなって、文の背中や肩を叩き続けた。

 

「なんなんですか文さんのそれ! 最近よくやりますけど、変ですよ。可笑しいです」

「いやあ……」

「まあそれが出たってことは、今日の撮影はここまでだな。どうする? このまま解散ってのも芸がないよね」

「あはは……」

 

 背中や肩へと訪れる規則的な衝撃に、文はへつらうように笑うのみだった。対照的に上機嫌なにとりはこのあとのことを考えた。椛が行きつけの駄菓子屋へ行くことを提案した。にとりは椛の部屋のラジオや雑誌類に思いを馳せた。ふたりは互いに進歩のない娯楽にはにかみながら、文の背中を押しつつ歩く。

 

(カラオケとかありゃいいのに。なんか、しょぼいよなあ)

 

 にとりは未知なる激しい娯楽を夢想したが、すぐに邪魔が入った。カラオケに連なってやってきたイメージは、おとなたちしか立ち寄らない町外れのスナックやらなにやらで、それは文の嫌いなアルコールに関連したものばかりだった。にとりも文ほどではないが、友人の嫌うものにはそれとない嫌悪があった。結局、肩を落とす文を尻目にふたりで協議した結果、駄菓子屋に寄って椛の家へ行くことになった。にとりの思うとおり、この町は狭かった。




今のとこどうですか?おもしろい?つまんない?評価で教えてやってちょうだいな!
よろしゅーに!


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3

「カラオケとかありゃいいのにな」夕暮れ五時。校舎裏の白壁には朱が差している。下校する生徒たちの声と、近くで鳴ったチャルメラが、正邪の退屈を気怠く刺激した。「カラオケったって、なに歌うつもりさ」

 

 だらしなく壁によりかかったまま、正邪は腕を組み黙考する。正邪の黙考は不吉の予兆である。キャッチボールなど試みず、カラオケなぞ無いことにして、それで済ませておけばよかったと、針妙丸は後悔した。「おい!」「あー始まった」

 

「始まったじゃねえよ。終わってんだよ、終わってたんだ。それをわざわざ始めたのはお前だろ。いいか? まず、カラオケなんざこの町にゃ無いんだよ。それをお前、カラオケでなに歌うの? なんて質問したら、考えちまうだろうが。なに歌うかをさ! 時間かえせ!」

 

 宣う正邪に針妙丸は辟易とした。仮に正邪が選曲に費やした数秒を返却されたところで、これまで通り無為に費やすのみだろう。「この町は異常だよ。向こうよりひでぇ。茶店もねー。カラオケもねー。終いにゃ公園すらもねー。ヒメおまえ、こんなとこで暮らしてっから背ぇ伸びねーんだよ」町と針妙丸に対する悪態は、もはや正邪が選曲に費やした時間を超過している。針妙丸は腹立たしくなって、思わずその口を開けてしまった。

 

「カラオケぐらいあるよ。お前が知らないだけで」

 

 正邪が「あ?」と発音したのち生まれた静寂は、針妙丸にとって辛辣だった。針妙丸は腕を組む正邪に居た堪れなくなり、立ち上がった。すると、正邪が慌てて口を開く。

 

「あっヒメ! ま、待っておくれよう。悪かったよ、背のこと言ってさあ。悪かった、このとおり! だからさ、そのう。教えてくれないかなあ。その、カラオケの場所をさあ」

 

 一変して袖に追い縋る正邪の腕は鬱陶しかった。針妙丸は苛立たしく正邪の腕を払い、言った。

 

「いい加減にしろよ! 昼からずっと“おしろ”がどうとかカラオケがどうとか。知っててやってんだろ! 私が嫌がるのを知っててさぁ!」

 

 そうして、針妙丸は家路を辿った。校舎裏を去るときに聞いたイジケた正邪の声が妙にこびりつく家路だった。

 

(なにが“知らないから聞いてんじゃん”だ。知らないはずないだろ。ヒメなんて呼んでさ)

 

 町は朱かった。またどこかで屋台の音が鳴る。針妙丸は玄関を見上げてはため息を吐き、扉を開け、それを潜った。「ただいま」

 

 

 

 

「ごちそうさまでした」

 河城家に家訓らしきものはない。けれど夕飯だけは家族全員が揃わなければいけなかった。にとり自身特別それを守らなければならないというような意識は持っていなかったが、プロレスや歌謡曲の番組を見ながら食べる夕飯は、もはやあたりまえの日常といってもよかった。にとりは当たり前に、聞かれずとも自身の一日を両親に聞かせた。とりわけて槍玉に挙がるのはやはりエキセントリックな友人の奇癖についてだったが、にとりが初等部の頃から続く語り草なので、誰も過剰に取り上げることはない。一家の団らんは、アイドル歌謡や司会の声に疎らに溶けるのだった。

 

 夕飯を摂り終えてぼんやりとテレビを眺めていたにとりだったが、テレビから或るアイドル歌謡のイントロが流れるとおもむろに立ち上がって食器を片した。その歌謡曲はにとりにとってお気に入りの曲だった。にとりは両親の前でお気に入りの曲が流れることがなんとなく気恥ずかしくて、いつも居た堪れなくなった。

 

(でもたぶん、バレてるんだろうな。きっと)

 

 にとりは台所で食器を洗いながら、居間から微かに聞こえるメロディを鼻歌にした。台所の蛍光灯は不健康に青く、蛍光灯に垂れ下がる紐は黄色くヤニ汚れている。「へや戻るね」皿の水を切り終え、にとりが模様ガラスの戸から居間に顔だけを出してそう言うと、にとりの父親は猪口をテーブルに置いて、にとりを呼び止めた。

 

 説教でもされるのかしらん。しかし心当たりもないので、にとりはおずおずと、時化た水玉模様のポッドの置かれたちゃぶ台に近づいた。

 

 

(小遣いなんて貰ってもなぁ。使い途ないし)

 にとりの部屋は台所にある裏口を抜けて、小さな裏庭の奥に縮こまった、物置を改造したものだった。小さいながらもしっかりとした玄関があって、温かみのあるフローリングには、照明に照らされたカーペットの水色が優しくなっていた。にとりは自身の部屋でひとり、机の上、緑色のデスクマットにラジオを分解している。それが将来の役に立つかどうかはわからないが、にとりにとってそれは習慣で、職人の子供としての責務でもあった。バラバラにしては組み直し、慣れた手付きで眠るまで何度も繰り返す。それをしている時間、にとりはあれこれと考える。今日のことや未来のこと、また、過去のこと。とりわけてよく浮かぶのは友人の顔だった。

 

(椛はラジオ買いすぎだな。よくよく考えると、使わなくなったラジオってなんだよ)

 

 にとりは続いて、エキセントリックな友人のことを考えた。昼間のように、文が不意に恥ずかしくなってしまうのはいつからだっただろう。いったいぜんたいどうして、そのようになってしまったのだろう。文はカメラが好きで、パーツや、写真雑誌をよく買っているようだった。文が嬉しそうに写真の話をするのを聞けば、にとりまで嬉しくなった。しかし一方、にとりが買うものといえば貯金箱程度なものだった。にとりはふと、幼少の頃に比べると随分おおきくなった陶器の豚を一瞥して、またすぐに机の上に向き直る。

 

(あいつ、なんで部活サボってんのかな。去年までは楽しそうにやってたのに)

 

 思考は次第に暗く低いほうへと流れる。狭い町、大きな学校、変わっていく友人、近づいてくる将来。想像のなかで、にとりの友人たちはみんな笑えなくなっていく。通常この町の子供は中等部に入ったと同時に、部活としての課外活動を強いられる。からす組出身者なら写真部に。おおいぬ組出身者なら何らかの運動部に。例から外れるのは親自体が職人のかっぱ組出身者ぐらいだった。

 

(やろうがやらまいが、結局はおんなじだ。あんだけサボってた先輩方だって、今じゃ立派に町の勤めを果たしてる)

 

 にとりのように課外に参加しないかっぱ組出身者は多いが、彼らの腕は結局のところ、町の工場の歯車となる。放課後しょぼくれた友人の背中を叩いたにとりの腕も、例外ではない。にとりはそのように毎日、この時間を用いて自身の過ごした一日をつまらないものに変えた。

 

(いらないよ、お金なんて!)

 

 締めすぎたネジの異音に、部屋は静まり返る。にとりが手を止めて脱力のままに天井を仰ぐも、そこには見知った天井があるのみで、明かりの紐の周辺には疎らに、優しくゆったりと、埃が舞っていた。

 

 小窓を開けてイヤホンをつける。にとりの鼓膜を優しく揺らすのは例の、お気に入りの曲だった。

 

「あなたにーあえてー、よかったねきっとーわたしー」

 歌以外のボリュームがゼロになった無音の世界でも、夜空の月は穏やかに欠けていた。

 

 

 

 朝。針妙丸はいつも蟻たちが黒く群れるよりも早く登校した。針妙丸は賑わう正門を見ると、どうしても居た堪れなくなる。身につまされるわけでも、せせら笑うわけでもなく、ただ居た堪れなくなってしまう。そもそも授業を受けるわけでもないのなら、登校ごとフケてしまえばいいのだが、針妙丸はいつだってそれをしなかった。皆が授業を受けている間の静かな校舎裏は、不思議とどこにいるよりも落ち着いた。いわばそれは針妙丸の生理であって、特にこれという理由もないものだった。針妙丸は今日も一番乗りで犬走りに腰を下ろして、白くのっぺりとした校舎にもたれかかる。薄い霧を徐々に浄化していく陽射しは見もので、針妙丸は和やかに息をつく。ともすれば針妙丸の口元に、程なくして微笑が浮かぶ。それは勤勉なる者達への皮肉と、自己憐憫の入り混じった、年齢よりもすこし子供じみた、偽悪的な愉悦だった。

 

「機嫌良さそうじゃねえか」似たような生理で動いている者もいる。それは鬼人正邪という名のはねっ返りで、正邪は昨日振り払われた左手を億面もなく針妙丸にかざした。「別に。いつもと変わんないね」「あっそ。ところでさ」

 正邪は針妙丸の左方に胡座をかいて、拳に顎をつけた。片方の手のひらを自身の太腿の上に重ねられている。今にも自信満々で話し始めそうな正邪に、針妙丸は自然と眉を潜めた。

 

「射命丸、射命丸文だよ。あの先輩、中等部の頃は随分いろいろな呼び名が付いてたらしいじゃないか。覗き屋、子からす、探偵、悪魔、後家作り……とりわけて、昼ドラを見過ぎた親御さんには疎まれてたって話だ」

 

「盗撮魔、犯罪者って呼び名もあったよ」

 

 針妙丸は相槌を打ちつつ、かつての友人のことを想った。足の悪い青髪の女子のことだった。その両親は射命丸文の奇癖により離婚の憂き目に遭っていた。針妙丸が腕を組みしみじみやっていると、正邪は勢いよく缶を投げ捨て立ち上がる。

 

「最近じゃずっとおとなしいって話だが、まあ、腐っても鯛だろ。なあヒメ」

「知るか」

 

 興味なさげな針妙丸を一瞥し、正邪は校舎裏を去った。正邪の曲がった背と突っ込んだ両手の後ろ姿を、針妙丸はぼんやりと見送り、それから、思い出したように牛乳を飲んだ。

 

(腐ったら鯛じゃないね。死体ってんだ、死体……)

 

 針妙丸は牛乳を一気に飲み干して、カラを力強く生け垣に放った。青い空の下、生け垣にはコーラや牛乳、アンパンやジャムパンの包装が散乱して、引っかかりまくっていて、針妙丸はまたしても、すべてがどうでもいいような心持ちになった。懐からもう一本を取り出して、蓋を押し込んだ。




よろしゅ


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4

 血液色の暗室に蠢く詰襟は野暮ったい。文の現像作業に付き合って、にとりと椛は緑の丸パイプ椅子に座し、流しのスペースに身を投げだして普段どおりをやっていた。一方の文は黙々と作業をこなす。結局、あれから文の気分に向上のないことを察していたにとりだったが、胸中には不思議な安心感があった。「イギー・ポップだろ?」「高見沢ですよ」

 

 文と椛は仲がいい。それがにとりのやや卑屈な自覚だった。文が本当にダメなときは、いつもにとりの知らないところで事態が解決していた。よって、普段どおりの椛こそが、にとりの安心を担ったといえるだろう。にとりは椛とたわいもない会話を交わす最中、緑の丸パイプ椅子から文の背中をちらちらと、何度も見た。癖の強い文の黒髪はもじゃもじゃとして、乱雑な暗室の暗さと類似しているように思えたし、黙々と、現像液に印画紙を浸らす友人の慣れた手つきには、どこか誇らしいような感じもした。「ああ、ザ・アルフィ」「ザじゃなくてジですよ」

 

 文のみが解する暗室の特有の構造的複雑さや、暗室を満たす血液色の光の意味など知りもせず、にとりは雰囲気という蛇の腹に呑まれ続ける。普段非行などとは無縁な三人が唯一犯す校則違反といえば、暗室の私物化だった。にとりはそんな、暗室の妖しい雰囲気が好きで、こんなときにはいつも少しだけ気取ってみせた。今にしても、詰襟の第二ボタンは開け放たれている。「で、どんな感じ?」

 

「まあ……普通、ですかねぇ……」

 

 そうして会話が程よく途切れだしたころ、にとりは文に仕上がりを尋ねてみた。暗室のビビッドな雰囲気がなんとなくたのしい今となっては、さほど興味のある尋ね方ではなかったかもしれない。しかしそんなにとりの普段通りに、文も普段通りを返した。文は頭を掻きながら曖昧に発音し、気恥ずかしそうに、現像を終えた写真の披露目を渋ってみせる。

 

「なんだよ、隠すことないだろ。隠されると気になるよ、なあ椛?」「ねえにとりさん?」

「いやあ、でも……」

 

 となれば二人が茶化し始めるのは道理で、文はますます気まずそうにもじゃもじゃに手を入れた。そんな文を二人で笑っていると、そのとき不意に、暗室の扉が勢いよく開け放たれた。

 

「射命丸文!」

 

 同時に怒号が響いた。「あちゃあ」真っ先に椛が口を動かせば、にとりはすかさず文を見やった。視線の先、文はまるでこの世の終わりが来たかのように顔をしかめて、とっさの動きで束ねた写真を後ろ手に隠してみせた。

 

(見計らったように来るよな。いっつも)

 

 セーラー服の波動をキャッチするが早いか、にとりはすかさずボタンをしめた。怒声の主は扉を開けた勢いそのままで接近し、また同じように口を開く。「というか、あんたら!」

 

「校則違反よ、校則違反! 何回言ったらわかるわけ? 暗室はあんたらの遊び場じゃないって。いくら文が写真部だって、部長の許可は必要なのよ。つまり、私の許可がね!」

 

 にとりと椛は適当なすみませんを発音して、パイプ椅子に座ったまま、所在なさげに身じろぐふりをした。二人は怒声の主をよく知っていた。無論、気まずそうに顔をしかめる文だってそれは同じだった。放っておけばすぐに矛先が文を向くことに関しては、二人より、文のほうがよくわかっていたかもしれない。

「だけどね、本当に悪いのはあんたよ。射命丸文! あんたこれだけ部活サボっといて暗室は使おうだなんて、ちょっと虫が良すぎるんじゃないの?」

 

 写真部部長、姫海棠はたての聞き慣れた文句に、にとりと椛は顔を見合わせてひっそりと笑った。怒れるはたてと対峙した文はただただ気まずそうに相槌を打つマシーンへと成り下がる。高等部はじめの頃ならもうすこし穏やかだったはたての説教は、文の無断欠席が重なるにつれその激しさを倍加させていった。しかし結局のところ自分たちに矛先が向くことのないことを知っているにとりにとって、それは友人とその幼馴染の女子との面映い交友で、もう何度となく繰り返されてきた普段通りの催しだった。こんなときにはいつも、にとりは暗室のビビッドな照明が、妙に淡くなるのを感じていた。「だいたいね」はたては追い討ちをかけるように口を動かす。

 

「だいたいあんた、今度のコンテストはどうするのよ。去年からうだうだうだうだ、ようわからん写真ばっか撮ってるみたいだけど。やる気ないならやめたらいいのよ。それをずるずるずるずるいつまでも……なによ、その、後ろに隠した手は。またくだらないの撮ってきたんでしょ? ほら、見せなさいよ。いいから、はやく!」

 

 渋る文の手から、強引に数枚が奪い取られる。椛が可笑しそうに「あーあー」と呟けば、にとりはつられて笑いそうになってしまう。奪い取った写真を眺めるはたての正面、文はしたたかにもじゃもじゃを掻いていた。

 

「石っころ、草、蟻、蟻、蟻、蟻……。はー。相変わらずってわけね」

「それは、ええと……」

 

 文は居た堪れなさそうに相槌を打つ。ここで、にとりは異変に気づいた。いつもの文なら「ええと」のあと、無理矢理にでも言葉を紡ぐはずだった。しかし、今日の文はバツの悪そうに言葉を濁すのみでいる。文のこじつけに近い写真の解説と、そういった文の反論を的確に潰すはたての問答を見たかったにとりだったが、落胆よりも、友人に対する心配のほうが先に立った。

 

「こういうのをね、フィルムの無駄遣いっていうのよ。これなら初等部のころのあなたのほうがまだマシだったわ」

「そのぅ、えっと、アハハ……」

 

 終いにははにかんでしまった文をみて、にとりは本当に心配になった。これはなにかおかしい。しかし、自分にとって友人の友人であるはたてを諌める言葉など持ち合わせていないにとりにできることなどそうあらず、はたての冷ややかな声の続くなか、にとりは椛に不安そうな視線を送るのみでいる。はたての詰問はいつまでも続いた。しばらくが経ち、にとりがおろおろするのにも飽きたころにようやく、はたては明確な決意を瞳に宿して、口を開いた。

 

「とにかくね、文。私決めたわ。あなたが今度のコンテストに参加しなかったら、私、あなたを退部させるから」

「そ、それは。ちょっと、そのぅ……」

 

 相変わらず歯切れの悪い文にぴしゃりと「いいわね」を突きつけて、はたては去っていった。暗室の扉もぴしゃりと閉まれば、にとりには、突っ返された写真を持ってうながれる文のみが取り残されているように思えた。

 

「お、おい射命丸、射命丸文……」

 

 しんとした雰囲気に、にとりは思わずフルネームを発音してしまう。しかし、かける言葉が思い浮かばず、にとりはまたしても目線で、椛に助け舟を求める。しかし、椛は曖昧に笑うのみで、文に言葉をかけることをしない。突然の退部勧告を受け呆然とする友人と、それをただ静観する友人のあいだで、にとりは揺れる。

 

(さ、さっきからなんだ。この、妙なふいんき……)

 

 それでもにとりは再度、うなだれる友人に声を掛けるべく勇気を絞った。脳内想定した語句は「どうしたんだ」或いは「落ち込むなよ」だ。どちらともつかぬまま、にとりは口を開こうと努める。「……私」

「ひっ」

 

 しかし、おもむろに開いた文の口に、にとりの口は中途半端に塞がれる。にとりが焦って椛を見やるも、椛は相変わらず、困ったような笑みを浮かべるのみでいた。

 

「私、帰ります。その、今日はちょっと、ダメそうなんで……それじゃあ!」

 

 あ、という間に、文は暗室を飛び出してしまった。椛と二人、取り残されたにとりは暗室の赤い照明が妙に鮮明に感ぜられて、沈黙から逃げるように、気まずく口を切る。

 

「お、おい椛! なんで、なにも言ってくれなかったんだよう。文、走って行っちゃったじゃないか」

 

 にとりの言葉に椛は腕を組み、顎を撫でてしばし考え込む素振りをみせた。椛が考えている間もにとりにとってはどうしたらいいかわからない妙な間であって、にとりはとにかく気まずかった。こうして話しているうちに、文を追いかけてやるべきだったのではないか。けれど、放っておいてやるのが正解ではないか。慌ただしい内心が表情に皺を寄せていた。そうこうして、ようやっと椛が口を開く。

 

「まあ、文さんなら大丈夫ですよ」

「えー……?」

 

 にとりには椛がわからなかった。自分よりずっと文と深い友情で結ばれているにも関わらず動かない椛に、幾許かの薄情さを感じた。不意に、またしても勢いよく扉が開く。にとりはやはり驚いて小さく悲鳴を漏らしたが、椛は平然と、普段どおりのうっすらきょとんで扉の方をみやった。

 

「射命丸文!」

 

 ループするかのように同じ名が叫ばれたが、声の主は別人だった。

 

「あれ? あなたたしか、一年の……」

 

「あ、どうも。先輩、射命丸文を探してるんですけど、いませんか。射命丸文は、ここに」

 

 入室の際に放った威勢のよさとは打って変わって、胡散臭く頭部を掻く詰襟は鬼人正邪という、素行不良で名高い一年だった。「今日はもう帰っちゃったんですよ」「ええ? 帰った?」椛と正邪が文の所在についてあれこれと交わしている最中、にとりは冷や汗をかいて、下唇をしまった。にとりは自らのまわりを螺旋のように取り囲む時間を感じていた。にとりはそれを、自分の関さぬ間に着々と積み上がっていく友人と後輩の会話に、触れるほどの実感をもって確かめていた。

 

「じゃあ、そういうことでお願いしますね。いやあ、お手数おかけして……それじゃあ放課後に! よろしくっす!」

 

 にとりが口を挟む間に二人の会話は済んで、正邪はさっさと暗室を去った。取り残されたにとりと椛のあいだに生まれた一瞬のしじまは、椛の開口によって打ち破られる。

 

「にとりさん。そういうことになったんで。放課後、お願いしますね」

 

 しまった下唇のままに二、三細かく頷けば、にとりは伝言人と相成った。干渉の有無を問わず、心身を巻き込んで更新されてゆく時間を自覚するには、にとりはとうてい足りないでいた。



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5

あと十話分ぐらいのストックがありますが、半ばにしてもはや行き詰まっております
とかいって!


 放課後、まだ陽の高い町のなか、町では珍しい洋食店にはテラス席があった。ガーデンパラソルの下、少名針妙丸はサンドイッチに齧り付く。サンドイッチはベトナム式で、切れ込みの入ったフランスパンには香草やらなにやらが挟み込まれている。針妙丸から少し離れた席には、怪しげなサングラスの二人組があった。二人組は一番安いたまごサンドをちびちびとやりながら、針妙丸の食事をちらちらと見張っている。

 

「買い食いにしては豪勢すぎやしないか。だいいち、こんな店、わたしは今日まで知らなかった」

「お金持ちの子なんですかね。案外、へび組だったりして……」

 

 河城にとり、射命丸文の二人に間違いなかった。椛がどれだけ大丈夫と言ったって、にとりは文が心配だった。教室のみなが部活動の支度を始めるか早いか、にとりは文の家に向かった。なにより伝言の義務があったから、にとりはとりわけて臆することなく友人の家の戸を叩けた。泣き腫らしてでもいるかと推察していたにとりだったが、チャイムを鳴らして出てきた寝癖と低血圧な表情を見れば、不安はたちまちどこかへ消えた。

 

「課外サボって買い食いなんてするかな、へび組が。それも制服のまんま」

「さぁ……。ただ、常連であることは間違いないですよ。あんな陽当たりのいい席に堂々と座っちゃって……」

 

 言われて、隅のじめじめとしたこの席が妙に落ち着くことに気付いたにとりだった。ともかくとして、詰襟のままに訪ねてきたにとりの話を聞くが早いか、文はにとりを着替えさせた。そのとき文が引き出しから取り出したサングラスに、にとりはひどく見覚えがあって、それはどうやら中等部のころの記憶だった。そのころ、文には様々な呼び名がついていた。覗き屋、子からす、後家作り。様々な呼称を一緒くたに象徴していたのが、そのサングラスだった。にとりはそのときに初めて、スペアの存在を確かめた。

 

「にしても。結局あれだろ? あの、針妙丸とやらをつければ解決する話なら、自分でつけりゃいいのにさ。どうしてこんな、回りくどいことするのかな」

 

「どうでしょうね。まあ、友情ってやつじゃないですか。気恥ずかしいとか」

 

 にとりはたまごサンドを啄ばみながら首を傾げる。小道具然とずり落ちるサングラスは紛れもなく文の私物で、サイズの合わない、少し大き目の服にしたって文が用意したものである。部屋でにとり伝いに正邪の〝頼みごと〟を聞いた文は即座に針妙丸に目星をつけた。そうして用意されたのが詰襟の代わりやサングラスといった所謂変装セットなのだが、尾行イコールサングラスという安直さに面食らう前に、にとりは友人の普段どおりと、ドラマ式の追跡劇に、安心と昂揚のそれぞれを覚えたのだった。テラス席のなか、しきりにシャッター音が響く。ウェイトレスや他の客はみな文の手元に視線を注いだが、被写体本人は能天気にベトナム式に齧り付いては、口の端のソースを上機嫌に舐めとっていた。

 

(友情ってんならなおさら、自分で確かめるべきなんじゃないか?)

 

 正邪の話はひどかった。

 

 針妙丸はわたしの知らない〝おしろ〟を知ってる。赤と緑は同じ色。針妙丸は赤色の方と仲がいい。針妙丸はカラオケを知ってる。終いには、きっとサ店だって、公園だって知っている。等々、正邪は今起こっている噂と、自身の感覚と疑念を織り交ぜて主体のない話を延々とした。にとりは文に説明する際になって、依頼人の話に主体のないことにようやく気がつき、そのときの説明にはひどく骨を折った。ともかくとして、文を頼りたいという主張のみが正邪の明確な意向であった。聞いてすぐに腰を上げるからす組らしい文のフットワークはにとりの尊敬に値したが、にとりには、やはり正邪の思惑がわからなかった。にとりの大脳皮質後頭葉在中視覚野にぼんやりと犬走椛のうっすらきょとんが浮かんだころ、今度は全く別の人物のイメージにその表情はかき消されてしまった。テラス席から覗く路面を、下校中の生徒数名が泳いでいく。

 

「それにしたってはたてだよ。ひどいよな、部長だからって。退部させる権限なんて、ほんとにもってんのか? だいいち幼馴染だってのにさ。ありゃ言い過ぎだよ。なあ文?」

 

「へび組ですからね、彼女。そんなもんじゃないですか」

 

 文はまた片手間にシャッターを切った。たまごサンドを掴んだ左手は口元に運ばれて、目線はレンズと真逆の方向を眺めている。あからさまにそっぽを向く文の視線を追えば、にとりは路傍の小鳥に気がついた。それはハクセキレイという市街にも海辺にもよくいる鳥で、白黒の小さな体でしきりに跳ね回って、いたずらに綺麗な声で鳴いた。ときおり意味ありげに羽をばたつかせては、自身がいつでも飛び立てることを誇示していた。にとりは文の、はたてに対する思う以上に辛辣な物言いにたじろいだ。文はそっぽを向き続けるから、にとりは居た堪れずにサンドイッチの片側などを捲って、食感を演出すべく申し訳程度に敷かれていたきゅうりの色に安心なぞを見出していた。にとりはどちらかと言えば気弱だが、調子に乗りやすいタイプで、また、挫かれた出鼻を修復できない性質でもあった。

 

「……私ね、空を撮りたいんですよ。構造物なんて一切映さずに、空だけを撮りたいんです」

「え、えーと。それは、そのう……」

 

 緩い風が吹いてガーデンパラソルが揺れる。同時に数羽のハクセキレイが飛び立てば、にとりはたまごサンドをおずおずと閉じた。文は飛び立ったハクセキレイの数羽を見ることもなく、気だるげなシャッターを下ろしてにとりに向き直った。

 

「にとりさん、私気にしてませんからね。はたてに言われたことなんて。だから、気を使ってくれなくてもいいんです。ああ! ほら、彼動きましたよ。追いましょう!」

 

「う、うん……」

 

 勇んであげた手で持ってウエイトレスを呼びつける文に、にとりは憂慮と屈託の入り混じった表情でもって追従する。能天気な針妙丸といえば両手でもって太ももに軽くリズムを取りながら、にとりと文には解さない、どこがで聴いたような洋楽を口ずさんでは街路を縫った。

 

 街路というのは如何なるときにでも、人々の心を格子状の網の中に絡め取る。格子状の網は即ち下町の風情で、要するに日常だ。文は日常の中に針妙丸の死角に潜み、にとりは日常の中に文の背後を追っていた。ともすれば針妙丸の延々と続く電撃バップの前奏も、日常の中にあるのだろう。針妙丸のご機嫌な口遊みを聞き飽きた頃、文は不意に足を止める。にとりといえば文の背中ばかりを見ていたので、針妙丸の動向に気が行かなかった。にとりが考えることといえば針妙丸の発する英語の歌詞の意味ばかりで、ともすれば文の懊悩に付随する自身の得もいわれぬ不安感ですら、日常の感に溶け始めていた頃だった。

 

「にとりさん! あ、あれって……!」

 

 小声で呼びかけられたにとりはハッとして、アスベストのブロック塀の角から、文の指差す先に視線をやった。狭い町、日常的な街路に聳えるは厳かな城だった。にとりの視線の先、そこには〝おしろ〟が聳えていた。

『ホテルニュー輝針城』

 大きな看板に歪な、ともすれば淫猥に歪んだ蛍光灯でその文字は縁取られる。

 

(噂にゃ聞いてたけど、こんな、露骨な、あまりにも露骨な……!)

 

 それは、この町で唯一のラブホテルだった。調子の良い学生なら興味本位で一度は見物に来るものだったが、興味はあるものの、そういったものに対して随分に奥手な二人なら、露骨すぎるホテルの外観に、同等の驚愕を共有できたことだろう。にとりは愕然とすることに終始するほかなかったが、しかし文は違った。文は本来の目的である針妙丸の尾行についてをしっかりと念頭に置き、その若く鋭い眼差しで針妙丸を捉えていた。

 

「にとりさん! まずいですよ、あれ! 私、止めてきます!」

 

 驚いてばかりのにとりはようやっと針妙丸の姿をホテルの門前に捉えた。針妙丸はなにやら、同級生だろうか、赤髪の、奇抜な色彩の洋服を身に纏った少女と馴れ馴れしく笑いあっていた。今にもそのまま、城門を潜ってしまいそうな雰囲気だ。関わりのないにとりが胸中抱く焦燥は模糊とした校則、不純異性交遊の六字で、慌てて飛び出ていった文が発したそれも、その六字に違いなかった。

 

「ちょ、ちょっと! 不純異性交遊!」

 

 呼びかけられた針妙丸と少女の二人は、焦り飛び出して来た文と、文に遅れておずおずと現れたにとりに、不可解であると言わんばかりのきょとん顔を向けるのだった。



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 ――やだなぁ、センパイ。ここ、私の実家だよ。

 

 針妙丸の一言でもって、文とにとりの焦燥には一時終止符が打たれたが、この町唯一の〝おしろの跡継ぎ〟との遭遇は、それはそれで形容しがたい衝撃だった。火事をようやく消し止めたような漠然とした安堵に、二人は半ば呼吸を止めて、眉を潜めては、どこを見つめるでもなく見つめていた。そんな二人は何がどうして、202号室の中にいた。同性二人でもって瀟洒の過ぎるベッドに腰掛けては、一点を見つめている。

 

 ――センパイたちも遊んで行ったらいいよ。202号とか良いよ。なんでって、私のできた部屋だから!

 

 そういってハを二、三乾かせた針妙丸の声を思い返しては、にとりはまた複雑な、まるでこの町の街路に絡め取られたような気持ちになっていた。

 

(あいつ、嫌いなんだろうな。この部屋)

 

 どういうわけか、にとりは針妙丸の一種諧謔的な態度に、深い共感をもってふれていた。ぐるぐると、網のような思考の中で暗い感情ばかりがその目を縫うように飛び交っていた。にとりは中等部時代の記憶に、詰襟を着て優等生然と課外を受ける後輩、お城の一人息子の姿を見つけた。自身が都合のいい家庭の事情でもって課外を免れ下校をする段に、廊下から覗くその後輩の姿がいやに象徴的に感じたことを思い返していた。ともすればその教室は〝なに組〟の課外に使われる教室だったか、それが思い出せず、にとりはそれを思い出すことばかりに苦心した。一方で、文はおもむろに腰を上げた。ベッドの揺れる振動で、にとりは文の行動に気がついた。

 

「なあ文、やっぱ帰ろうよ。あいつらが現に他の部屋で遊んでるったって、やっぱりこういう場所はさぁ」

 

「で、でもにとりさん。わ、私、私ちょっとだけ、興味があるんですよね。興味があったんですよ、こ、こういうの……」

 

 やおら興奮した様子の文に、にとりは呆れて一つ息を吐いた。文は興奮に震える手で、今にもそれに触れようとしている。薄暗い照明が、妖しく調度を照らしている。ホテルニュー輝針城202号の実態は、文へとたしかに健全な感動を与えているようだった。

 

(まあ、いいか。わたしも興味ないわけじゃ、ないし)

 

 何よりも、それが文の身に起きているであろう鬱屈としたあらしの発散、ないしは解消のためになるなら、にとりの不服は俄然薄れた。すると、にとりにしたって文の高揚が伝播して、やおらやる気になってきた。よく言えばノリが良く、悪く言えば流されやすい。それはにとりの習性でもあるが、同時にかっぱ組の類型でもあった。

 

「いいよ、文。やってみようじゃないか」

「は、はい!」

 

 文は途端に、勇んでそれに触れた。感触を確かめるように両手で暫し撫で、持ち上げては、付属した細棒の先端で、四角形の中央をおずおずと突いた。ぴっ、と音が鳴り、四角形には画面と呼ぶべき色彩と明かりが点いた。「お、おぉ……」文も、文の背後から覗くように見ていたにとりも、思わず感嘆をもらす。新曲、歌手名、曲名、あの頃、デュエット。等々、画面にはそれらの項目がずらりとあり、ともすればその四角形はデンモクに違いなかった。ホテルニュー輝針城にはカラオケがあった。部屋に各一台づつ、カラオケがあったのだ。正邪の早計によりここまで連れてこられた二人にとって、それは革命的な娯楽だった。レコードやカセット、8センチなどというのはこの町の学生にとってはお宝で、親から譲り受けるもの、時化た質屋雑貨屋の類で見つけ出したもの、学生たちの間で互いにやり取りされるものを除いては、それらすべてが出所不明のものだった。学生たちの親世代にしたってそれは同じことだった。とにかく音楽は聴くもので、口ずさむことはあれど歌うなどということを、二人は一切考えたことがなかった。加えて、音楽やその他のいろいろなものが〝遅れて〟流入することに薄々気が付き始めた年頃の二人ならば、この部屋の機械すべては、やはり革命的だった。かれこれ数分間逡巡したのち、文は初めて送信ボタンを押した。その間、リモコンを膝に曲番号の羅列された分厚い本を睨みつけていたにとりだったが、曲が鳴り始めると慌てて顔を上げ、瞳を輝かせた。文の選曲も相まって、それはまるで幼児の呆けてテレビに食い入るような、おおよそ瀟洒すぎるベッドの上には、釣り合いの取れぬ表情だった。

 

 

 

「こんな清々しい気持ちがあるもんですかね! ねぇにとりさん!」

「ほんと! いやあ、よかった。だって、今でもまだいい気持ちなんだもん。信じらんないね!」

 

 夕暮れ五時、二人は例の、沿岸沿いの、工業地帯を歩いていた。歌唱によってもたらされるオキシトシンの昂揚を抱えたままに、ひび割れたアスファルト、割れ目の雑草をはらり、はらりと横切っていく。二人の歩調は軽やかだったが、張り切りすぎたカラオケにより多少の疲弊の感もあった。半ば恍惚として真白い脳でもってふらりとふらつけば、時折二人は肩をぶつけた。ぶつかる右肩と左肩に伝わる振動ですらも、いまの二人にとっては素晴らしく、意味のある事象に思えた。

 

「や、でも意外でしたね。にとりさんがあんなの歌うなんて」

「そっちこそ! あんな音楽、どこで聴いたんだよ。椛の部屋にないやつばっかりだったじゃないか」

 

 二人の選曲に関しては紆余曲折があった。文の初めに選曲したのは〝ぞうさん〟というかの有名な童謡で、それは文なりの初めてのカラオケに対する照れ隠し、誤魔化しの類でもって選曲なされたものだった。文の照れ臭そうなぞうさんを聴きながら、にとりはおずおずと〝線路は続くよどこまでも〟を選曲せしめた。それから『故郷の空、紅葉、おお牧場はみどり』等々、互いに「これはちがうよね」を言い出せないままの童謡メドレーが続いたが、童謡のストックが切れかけてきたころに文の入れた『たま』によって童謡メドレーに終止符が打たれた。ふわふわとした優しく気丈とした童謡の世界から、たまの奇怪な世界観に引きずりこまれた際に感じたにとりの温度差は並大抵のものではなかった。しかしその温度差でもってにとりもようやっと自棄っぱちになり、自身の趣味を明かす覚悟ができた。にとりはやおら昂揚で震える指先でもって、デンモクの送信ボタンを押した。すると『夕方ガッタン電車が通るよ夕間暮れの空』の上部『あなたに会えてよかった』の十文字が、きらびやかにフェードインをした。暫し続いた互いの趣味の明かし合いもほどほどに、二人は共通した音楽を選曲しはじめ、二本のマイクでもって共に歌った。椛の部屋でよく聴く〝青春パンク〟を共に歌えば、口に出さずとも、内心、二人は今度の機会は椛を連れてくることに決めた。それほどまでに、二人の青春パンクに対する共通認識は深く、また、深さと同等の熱を帯びていた。ともかくとして、いい気分だった。

 

 二人はそんないい気分のままに、沿岸沿いの構造物の網目を這う。おしろを出る際に針妙丸の言った「ああセンパイたち、楽しかったでしょ? いつでも来ていいからさ。安くしとくよ、それじゃ」でもって帰途をたどるには、あまりにも淡白すぎた。だからといって、二人は何処へ行くともない。ふらふらと、オキシトシンの酩酊のままにほっつき回れば、自然と、ここに行き着いた。

 

「ああ、でもさ。その、わたしの歌った曲だけど、ええと……」

「はいはい、わかってますよ。椛さんには言いませんから」

 

「うん、なんかね。なんだろ、ええと、はは。いいや、そうして。ありがとね」

 

 文はにとりの有する中性を、無自覚なにとりよりも克明に察していた。にとりはなんだか面映い気持ちになって、そのまま、針妙丸と赤蛮奇の間柄について、ぼんやりと考えた。

 

(あいつら、妙に親しげだったけど。ほんとに歌うたってただけなのかな)

 

 にとりはそのまま、年相応の性に対する憧れに似た泥沼にやおら沈んでいく。思い出されるのは、やはり同級生の緑色。鍵山雛のことだった。誰かが、雛がおしろに入っていくのをみたと云う。しかしそれは単なる噂で、彼女の持つ特有の神秘的な膜によってもたらされた、年の頃にはよくある邪推、今回、正邪が陥った早計と似たようなものなのかもしれない。とにかくとして、にとりはやおら沈んだ。首にさげたカメラを朗々と弄る友人に気が付かないほど物思いにふけった。

 

「ほら!」不意に友人のあげたいつも通りの大声に、にとりはいつも通りに「ひっ」と短く声を切る。友人の朗々と、煌々と輝く視線の先には例の、古びた信号機があった。貨物車両の運搬整理用に設置された信号機、ひび割れたアスファルト、かすれた白線上の夕暮れに、L字を逆さまにして突き刺さっていた。しかし、にとりは友人の視線の意図するところが、信号機にないことがすぐにわかった。にとりは美しく巻雲の散った夕間暮れの空を、すぐさま文と同等の煌きの籠もった目つきで捉えた。にとりはこういったときには、いつも友人の情熱に感化され、半ば同化してしまう。言わずもがな、それはかっぱ組の類型だった。

 

「私、私ね! 今なら撮れるんです! この信号機のてっぺんでもって、私は空を撮れるんですよ! この、美しい空を!」

 

 文がそう言って信号機の細い棒を滑稽にも、しかし情動をもってよじ登ろうとする。にとりは俄然うれしくなった。文のその姿はまさに自分たちが“かっぱ組”、“からす組”だった際の憧景と合致していた。しかしまた、すぐににとりは不安になる。にとりは文の首からさげた古びたカメラが、文の家庭における所謂“家宝”であることを知っていたし、なにより、信号機のアルミめいたポールは幾分、人の立つにも座るにも細すぎた。

 

「お、おい文。危ないよ、やめとけよ。家宝だろ、やっともらったんだろ、それ!」

 

「いいやできます! ねえにとりさんわかるでしょう、私がいま最高だってこと! こんなセーフティなんざも必要ありませんよ! だって、昔ならこんなものつけてなかった! いつだって私は生身でもって生きていたんだから!」

 

 なんとか逆さのL字のてっぺんに達した文は、括り付けた紐を首から外した。よろめく足でもって、不安定な細い鋼管に立ち、堂々とカメラを空に構える。今にも、身体もカメラも、なにもかもが、落下してしまいそうだった。にとりは急激に湧いた不安でもって文に叫ぶ。「やい文! やめろったら!」

 

 ――依然、文は煌々とレンズを覗き込み、憧景に舌舐めずりをする。にとりはずっと、不安げに言葉を吐き出していたが、不意に、夕間暮れの空にシャッター音が響いた。

 

 にとりのあ、という小さな悲鳴よりもずっと小さな「きゃっ」は、踏み外した足でもって急転直下をする文の口から漏れたものだった。

 

 どこかで、チャルメラが鳴っていた。夕間暮れの空の下、間抜けで、陽気で、しかしどこか寂然としたメロディーは、地べたで放心した文と、身を強張らせるにとりとのしじまに、曖昧に響いた。

 

「あー、やっぱり。……だめなんですよね、今ではもう」

 

 痛む身体を気にもとめずにやおら立ち上がり、そのまま去っていく友人の背中を、にとりは下唇を噛んだまま、見送った。それは今朝の暗室で覚えた感情と同じものだった。無力感、とでもいうべきだろうか。とにかく、にとりは自らのまわりを螺旋のように取り囲む時間を、下唇に噛み締めていた。強いて今朝との違いをあげるならば、もたげる首の角度だった。後方、自身には用途のない信号機と、まるで同じ角度をしていた。そうして動き出せたのは、またチャルメラの鳴ったころだった。にとりは家路を辿っては、いつも通りの夜を過ごした。水曜一八半時のアニメ、歌謡ショー、メロドラマ、深夜の映画。いびつに与えられる大好きな娯楽と、大好きな町が、にとりはいつも大嫌いだった。けれども、いつだって不誠実なまでに意味を変えるお気に入りにアイドル歌謡は、どうしたって優しく、自室の窓から見る夜空は悲しいほどにきれいだった。




よろしゅ


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 文が教室に来なくなってから二週間ほどが経った。正邪と針妙丸の仲がどうなったのかも、にとりは知らない。にとりは椛とも、文が居なければうまく話せないことに気付いた。けれど、それでもぎこちなくではあるが、友人との対話は欠かさなかった。欠かせなかったというのが正鵠に近いかもしれない。休み時間の、喧騒と言うには穏やかすぎる日常のなかで、椛の好きな音楽グループの話や、映画の話をした。桜花はとうに落ちていたが、新緑の深まる頃だった。どうしたって、にとりは正邪から受けた依頼と、それに伴う追跡劇、ホテルニュー輝針城、それらのことの顛末について話さずにはいられなかった。あの日の翌日にはまっさきに椛にそれらを語ったし、音楽グループや映画の話といった日常的な会話の終着点にしたって、いつもそれら心配事の話になった。けれども、椛は相変わらず、あの日の暗室で言ったのと同じ顔をして「まあ、文さんなら大丈夫ですよ」と云う。薄情だ。そうも思ったが、そう語る椛の瞳は、クラスメイトたちが“淫売の緑色”などについて話すときの軽薄さが微塵も感じられず、むしろ確信に近い、いわば母性を感じさせる色をしていたから、にとりは椛を薄情と糾弾することができなかった。にとりはまた、自身のまわりを螺旋のように取り囲む時の流れを、感じていた。やはり、それは無力感だった。相変わらず、にとりは口内、下唇を収めていた。

 

 

 

「おいヒメ。おまえ、最近なんか、あったろ。あーいや、その、誰かと会っただろ。これはわたしの、いつもの妄言なんかじゃあない。わかるか? いや、わかってるんだ。この疑念ライクア想念は半ば確信に近いレベルで蛭状と化し、わたしの脳内を這い回っている。いいか、ヒメ。おまえは最近誰かと会った。もっといえば、そう、センパイだな。ヒメ、おまえはセンパイに会ったはずだよ」

 

 四限が終わり、食堂へ向かう最中だった。正邪が校内にいるのは異常で、ともすれば晴天の霹靂だった。優良、はたまた“ふつー”の生徒たちの奇異の眼差しを集めながら、針妙丸は構内を歩く。渡り廊下にずらりと在る窓は電車の車窓なんかとよく似ていて、グラウンドや体育館、それから幼、初等部の校舎といった構造物の遠い向こうには、街路樹が緑々と茂っていた。針妙丸は正邪と同様にサボるが、所謂“単位だけは取る素行不良の優等生”だった。母親譲りの背の低さと父親譲りの中性的なルックスでもって、針妙丸はよく“モテ”た。今にしても、下駄箱から持ってきた数枚のラブレターを眺めるともなく眺め、ともすれば、便箋やメモ書きの余白の白のみを眺めていた。その白色は校内食堂の壁の、不健康な白色とよく似ていたから、いつもなら砂埃や何かで白っぽく汚れた正邪の詰め襟が、針妙丸には不自然なまでに黒く思えた。

 

「おばちゃんサンドイッチひとつ。トマトのね。あと牛乳も」

「へー、針妙丸さんはトマトのサンドイッチがお好みですか。ジョー・ヤブキみたいですね。知ってる? あいつの好物なんだよ。あ、おばちゃん、こいつの頼んだのと同じものをひとつずつね」

 

 四限を終えてから、正邪はふらっと現れ、針妙丸にいつも通りの馴れ馴れしさでもって針妙丸に語りかけた。しかし、針妙丸は四限を終え、下駄箱から持ってきた恋文の数枚を携え渡り廊下を歩き、学食で注文した品を受け取り、それを持って席につくまでの間、徹頭徹尾正邪を無視した。素行不良の優等生と、好き勝手に喋りまくる一切の出席すらしないザ・不良生徒という対比は、傍から見れば混沌としたものだった。先程言及したその他の生徒から二人に送られる奇異の眼差しというものは、その点に起因しもたらされる現象だった。喧騒というにはあまりにも穏やかすぎる校内食堂の席にて、ようやっと、針妙丸は口を切った。

 

「わかった。望み通りを言ってやるよ。私はこの町で唯一のおしろ、ラブホの跡継ぎ。一人息子だよ。どうだ、満足か? センパイ方まで差し向けやがって、趣味が悪いにもほどがあるよ」

 

 針妙丸は自嘲気味にひとつ鼻で笑って、サンドイッチにかじりついた。咀嚼している間、針妙丸は対面の正邪をどうでもよさげに眺めた。針妙丸の放った言葉に対し、正邪はじっと、考え込むように俯き、腕を組んでいた。

 

(いつまで猿芝居を続けようってんだ。どうせ笑うんだろうに。なんせ知ってたんだ。知ってた上で私にセリフを吐かせようと画策したんだ。笑うなら早く笑えよ。ひひひ、知ってましたぁ、ってな)

 

 針妙丸はやおら苛立たしげにストローを噛み噛み吸う。しかし、相変わらずに正邪は腕を組んでは俯き、黙考している。依然として変わらぬ状況に痺れを切らして、針妙丸はまた、急き立てるように口を開いた。

 

「この町には何もないなんて言ってたな、お前。生憎この町にはカラオケがあるよ。サ店だってあるし、終いにゃ公園だってある。カラオケの場所か? 私の実家、おしろだよ。そんでもって私はカラオケのついたおしろの202号室で作られたガキ、このルックスでもって中等部が二年についたあだ名はヒメ。ほらどうだ満足か? 回りくどいやり方しやがって。どうしてお前はいつもそうなんだよ。いい加減、付き合いきれないね」

 

 正邪は俄然俯き黙考した。下唇すら口内に収めて黙考した。前髪に隠れた瞳はずっと右方の虚空を眺めているようで、眺めていないようで、まるで焦点がどこにも合わぬ様子だった。不健康な白の食堂、茶色と黒の簡易テーブル、クリーム色はチープなプラスチックの丸い椅子。喧騒というには穏やかすぎる食堂の静寂が数秒続き、針妙丸がいたたまれずに席を立とうとする。

 そのときだった。

 

「……それ、マジ?」

 

 正邪は俯いていた顔をあげ、組んだ腕のままに針妙丸に訪ねた。その表情といえば真実きょとんとしていて、本当に何も知らなさそうにするものだから、針妙丸は放心した。

 

「……は?」

 

 放心のままに針妙丸の口から漏れるそれに対し、正邪は似たような「え?」を返した。皿のような丸い目を自身に向ける正邪に対し、針妙丸は無自覚にまるきり同じ目の玉でもって正邪の瞳を見つめてしまっていた。針妙丸と正邪が出会ったのは半年ほど前、中等部三年の秋のことだった。二人は瞬く間に互いを友人或いは腐れ縁と呼べるほどの仲になった。きっかけらしきものはもはや定かではない。正邪は常に諧謔的な口調でもって針妙丸と接していた。だから、針妙丸は正邪の“嘘を言っているときの表情”を深く知っていた。しかし逆に言えば“本当のことを言っているときの表情”は知らなかった。現在針妙丸の眼前、友人は針妙丸の知らない表情をしていた。やはり、正邪の黙考は不吉の予兆だった。堰を切るように湧き続ける疑念から、絶とうと思っていた友人関係は、正邪の黙考により落ち着かされた。すなわち、針妙丸は依然、正邪と友人でいなければいけなくなってしまったというわけだ。なんとも、椅子の座り心地が悪いような気のする針妙丸だった。

 

「ヒメ! わ、わたしをおまえの実家に連れてってくれ! わたしにも歌わせろ、歌わせろよぉ!」

 

「いやだね。お前はもはや出禁だよ」

 

 ちなみに、その後判明したことがひとつある。正邪が針妙丸に対し用いるヒメ、という呼称については、詰め襟のくせに中性的な顔立ちをした針妙丸に対する正邪自作の皮肉だったという話だ。やいヒメ、やいヒメと、針妙丸がからかわれ、冷笑されていた事実を正邪は真実知らなかった。それから、これは筆者のみが知る事柄にはなるが、なにがどうして導き出されたヒメ、という皮肉はやはり、腕を組み項垂れた正邪の黙考の果てに、導き出されたものだった。

 

「出禁てなんだよ、まだ入ったことすらねーのに……あ? おい待てよ。じゃああの、赤色はなんだ。緑色はなんだよ」

 

「赤? 緑? なんのはなしだか。さっぱりだね」

 

 それから、針妙丸は必要最低限の出席もほどほどに放棄し、正邪と共に、校舎裏へと帰っていった。

 

「言っただろ! 正反対、赤も緑も、性犯罪の色だって!」

 

「さあね。まあ、ばんきちゃんの方なら話してもいいけど」

 

 二人は犬走りに胡座を書いて、生け垣と、緑色がところどころが剥げて赤茶羽になったフェンスの方へと視線をやった。もちろん、なにも見ちゃいなかった。「アレはね」

 

「アレの火種は本人だよ。一人カラオケが恥ずかしいんだってさ」

「ハァ? だとしたらあいつの首から上、どうかしてるぜ」

 

 二人はなんとはなしに、同級生の奇抜な服装、面妖なスカートについて思いを馳せる。イメージの中で彼女のスカートの模様は、ちょうど、色合いまでも、錆びたフェンスの緑と、赤茶羽色のまだらと、合致していた。

 

「ところで、おまえなに組?」

 

「それを聞くには、お前じゃまだはやいよ」

 

 互いの早計が、新学期に伴い始まったふたりの奇妙な不和のすべてだった。二人は互いに、校舎裏の犬走りに肩を並べる友人が、なに組出身であるのかさえ、未だ知らなかった。



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 鍵山雛はかえる組。小さな裏庭の大きな里芋の葉から暗澹とした水滴が地面に滴る、そんな雨の日に、にとりはまた、緑色に関する新たな噂を耳にした。かえる組というのは、にとりが幼、初等部時代の九年間、その二年目に撤廃された組だった。授業中、イヤホンとカセットでもってもたらされるにとりの無音の世界には、窓の外の雨の音ばかりがいやに響いた。にとりは初等部時代のことを思い出していた。幼、初等部四年目の頃、にとりにはかえる組出身の友達がいた。二年目に撤廃されたかえる組の生徒たちは各々、少々の杜撰さをもって適当な組に編入させられたが、得てして、かえる組出身の生徒というものは、教室内では孤立しがちな存在だった。かっぱ組に編入された、件のにとりの友達にしてもその例外に漏れることはなかった。しかし、とにかくとしてにとりはそのかえる組出身の生徒と友達だった。レインコートに似た制服、黄色い帽子をよく覚えていた。今にしてみると名前すら思い出せないその生徒と友達だったということを、にとりは雨の打ち付けるしたたかさと同等の暗澹さでもって、イヤホンから流れるアイドル歌謡に噛み締めていた。ひとつ、どうしたって忘られない出来事があった。

 

 そのころのにとりにはなんと行きつけのタバコ屋があった。ラジカセから、アイドル歌謡ばかりを流しているタバコ屋だった。タバコ屋、とはいえ、幼いにとりがタバコに用のあるわけもない。ともすればにとりは駄菓子を求めて、件の駄菓子屋に足繁く通った。幼、初等部四年目といえば、子の親からすれば胃の痛む時期だ。それまでは親の選択した“組”のなかでぬくぬくとやってきた子供たちから、不意に“組”という線引がとりあげられ、一緒くたになってはしゃぎはじめるという、そんな時期だった。へび組の子らを警戒するからす組の親もいれば、おおいぬ組の子らを警戒するへび組の親もいた。しかしにとりといえば年相応の人見知りを発揮し、その他の組の子らを自ら遠ざけていたから、親からすれば安心なような、むしろ心配なようで、気が気でなかった。そのころ町で持ち上げられていたニュースといえば『彗星接近、伴う気温上昇に世界滅亡の危機』というもので、異様に暑い日の続く夏だった。にとりの親、職人気質で無口な父親はさておき、母親の方は本当に、毎日が気が気でなかった。にとりは内気なわりによく泥まみれになって帰ってきた。よく怪我をして帰ってきた。よく泣き、ともすれば他の生徒との砂場の砂粒を取り合うように小さな諍いも、その頃のにとりにはよくあったように思える。そんなある日、にとりは例の友達と、件のタバコ屋へ行った。子供の手の届かない位置にまでずらりと駄菓子が陳列されている店内にはやはりラジカセのアイドル歌謡が流れていたし、店主の顔を隠す新聞には『彗星接近』の文字が踊っていた。幼少期における駄菓子の魅力と、夏のもたらす相乗効果に関しては言及するまでもない。幼いにとりは短い足でもってぽやぽやと駄菓子を選んでいた。例の友達のことなぞ気にもとめずに、百円玉の物足りなさにのみ没頭していた。そんな折、店主が新聞の影からぬっと顔をだし、にとりにおずおずと手招きをした。にとりはまたぽやぽやと馴染みのカウンターまで近づいて、店主が口元に当てた手に、なにも考えずに耳を寄せた。店主はにとりにとって駄菓子の国からの手先だったし、店主が口元に当てた手も、母が父にないしょでおこづかいを上乗せしてくれるときの動作と同じだったから、耳を寄せることには何の疑問を抱くことはなかった。しかし、直後に店主の小声で言った「あんまり、かえる組の子とは遊んじゃいかんよ」が、にとりには疑問で仕方がなかった。それはにとりが幾度となく聞いてきた言葉だった。喧嘩をしたり、怪我をしたりして泣きながら家に帰り、家に着き親からの心配もほどほどに泣き止み、直前までのどしゃ降りをど忘れしたように気分が晴れ晴れとしてきたころに、にとりはその言葉をよく聞かされた。

 

「あんまり、かえる組の子とは遊んじゃいかんよ」

 

 にとりはその言葉をよく覚えていた。空を素通りしていった世界に破滅をもたらす彗星や、例の友達の面影すら失くした現在でさえも、母親がその言葉を口にするときのいやに後ろめたそうな表情を、克明に記憶していた。忘られるはずもなかった。にとりと例の友達は“課外”が始まってから疎遠になった。にとりと違い、かえる組から編入してきた件の生徒は職人の親を持つでもない、課外を免れるはずもなかった。にとりは自身が課外から“免れている”ことを自覚するたびに、例の友達のことを思い出した。レインコートに似た制服、黄色い帽子。現在、窓の外の雨。登校前、部屋を出る際に見た、小さな裏庭の、大きな里芋の葉から滴る暗澹とした、水のかたまり……。どれもが、にとりが突っ伏した腕から盗み見る鍵山雛の面影に類似していた。

 

(雛だ。鍵山雛。あいつが来ると、妙にいやな気持ちになる)

 

 へび組の親子を警戒するからす組の親もいれば、おおいぬ組の親子を警戒するへび組の親もいた。そんななかでいつだって、どんな親からも警戒されていたのが、かえる組の親子だった。そのころ、件のタバコ屋ではいわゆる万引きが横行していた。

(喧嘩や怪我も、万引きも……それから、鍵山雛も。……みんな、あの彗星みたいに、ただの早計だったら、いいのにな)

 

 思い浮かべるのはいつかの空、よく晴れた宙を素通りしていった彗星のことばかりだった。にとりはスイカを食べながら、例の友達とそれを眺めたような気がした。今となってはなにもさだかではないが、ただ、そんな夏の憧景はまるで文の撮る写真のようだと考え、にとりはひとつ鼻で笑って、そのまま、雨天の泥濘と似た微睡みに溶けていった。

 

 夕鳴きの屋台の音が聞こえて目を覚ますと、教室は閑散とした静寂に包まれていた。窓の直方が橙を教室に刻んでいる。濃い黒色で伸びた影は、静寂のなか粛々と机上で教科書を揃える鍵山雛のものだった。いつもなら二限もそこそこに帰ってしまう鍵山雛が、夕暮れの教室に影を伸ばしている。寝ぼけ眼のせいかにとりには、そんな異様な光景が極めて自然に思えた。

 しかし不可解なこともあった。

 

「ねえ。雛ってさ、ほんとにかえる組なの?」

「……どうして、そんなことを聞くの?」

 

 それは話し声だった。にとりにとって不可解なのは声の主だった。

 

「どうしてって。だって、みんな噂してる。気にならないの?」

 

 そんなことを聞くには軽すぎて、また、自信なさげなその声は、なにか聞き慣れた声のように思えた。席に座り教科書を整える雛と、雛の机に片手を付けて立つ何者かの影は、窓側から、ふたりの対極に位置するにとりの突っ伏した机の、腕の中にまで伸び、潜り込んだ。授業中ならずっと降っていた雨がやんでいたことがまた、狸寝入りをするにとりに応えた。にとりは突っ伏した腕のなかの影とおなじ暗さをもった瞳で、ふたりの方を盗み見る。

 

「ねえ、にとりちゃん。昔なら、よく遊んだわよね、わたしたち。にとりちゃんたらよく泥んこになって、喧嘩したり、怪我したり。すぐに泣いて帰っちゃったりして」

「……うん。忘れてないよ。……いやあ。なんだろ、なんていうか……」

 

 にとりはおどろいた。盗み見た視線の先、鍵山雛と話している自分の後ろ姿と、なにより、雛の放った“にとりちゃん”という呼称には、どうしたっておどろいてしまった。瞬間、胸中で二、三心臓が跳ねるのを感じた。しかし、次の瞬間にはこの光景が夢だとわかった。にとりは高鳴る心臓を突っ伏した腕になんとか落ち着かせ、自身と鍵山雛との、ふたりの対話に耳を澄ませた。

 

「……声、かけにくくて。その、ごめんね」

「いいわ。いつも気にしてくれてるの、わかってたもの」

 

「……ほんと? 怒ってない?」

「ほんとよ。怒るはずないわ。教室が一緒になってから、ずっとだもの」

 

「えへへ、よかった。……あ、じゃあさ。ええと、その……なにから聞けばいいと思う?」

「にとりちゃんの聞きたいことは、にとりちゃんの聞きたいことでしょう? わたしには、わからないわ」

 

「えっと、じゃあ、そのう……」

 

 今にもチャルメラが鳴ってしまいそうなの自身のやり方に、にとりは机の上でやきもきとした。聞きたいことはたくさんあった。漠然としたところで、あれからどうしていたのか。古いもので、タバコ屋のことについて。新しいもので、緑色の噂について。単刀直入にやってしまえ! そう思わなくはないにとりだったが、口をついたのはその実あまりにもな質問だった。

 

「……今日はなんで、こんな時間まで残ってるのさ? めずらしいじゃんか。いっつもならすぐ、帰っちゃうのに」

 

「居残って、勉強してたの。……だって勉強は、学校でするものでしょう?」

 

 家でやればいいのに、と口をつく前に雛が二の句でもってそれを塞いでくれてよかった、とにとりは思った。自分が言おうとしていたそれは、口にしたらすこし冷たすぎていたかもしれない。にとりは反省を交えて安堵した。しかし一方で、鍵山雛に感じていた一種神聖なオーラが確信に迫っていくのをにとりは感じた。それは“オーラ”という言葉のもつおかしなミステリアスさそのもので、にとりは何故だかわからないが、やおら焦燥に駆られた。彼女はこのまま、どこか遠くへ、自分の知らないところへ行ってしまうのではないか。それが、にとりのなかで鎌首をもたげる焦燥の正体であることに、気づかないままで口を切る。

 

「万引きなんて。雛がそんなこと、するはずないよね?」

 

 それは、にとりのみた夢だった。



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 遠くでチャルメラが鳴った。夕鳴きの屋台の音が聞こえて目を覚ますと、教室は閑散とした静寂に包まれていた。窓の直方が、橙を教室に刻んでいる。にとりは突っ伏した腕から上体を起こして伸びをして、もはや自分だけが残された教室のなか、いつのまにか床に落ちていたイヤホンのふたつを拾って、耳につけた。カセットはにとり自作のすぐれものだった。録音した音を操作いらずにループさせることができるその構造から、にとりはそれを『エンドレスカセットテープ』と呼称していた。しかしどうやら故障らしく、耳につけたイヤホンから音は流れて来なかった。塞がれた鼓膜に響く自身の欠伸は無音よりもずっとけたたましく、にとりの頭蓋に響いた。

 

(なんだよ“ちゃん”って。よくて“さん”か、せめて“くん”だろ)

 

 自嘲気味にひとつ笑って、にとりは帰り支度を始めた。駆動しないプレーヤーのせいもあって、にとりは自身が着々と行う帰り支度に、いつも以上の味気なさを感じた。こんな日には文がいてくれたらよかった。文さえいれば少なくともつまらない時間は減った。にとりは一人で時間を潰す手段にさえ乏しかった。ともすれば、落ち込んだ友人を慰めに赴くことなど、できるはずもなかった。胸中に残った味気なさと昼間の雨の匂いを払うように、にとりはよれた詰め襟をすこしただして、教室の戸に手をかける。

 

(部屋に帰ったなら何も考えずにカセットとプレーヤーの修理をしよう。そうしたら、何も考えずに眠れるんだ。あー、毎日これが故障してくれたらいい。そうしたらわたしはまた、何も考えずに……)

 

 戸についた、とりわけてちいさな直方の窓二つに横切る詰め襟の姿を見つけるが早いか、にとりは、あっ、と声をあげる。硬直した身体のまま、視線のみで戸に並ぶ窓から廊下を歩いていく友人の後ろ姿を追った。よくは見えなかったが、詰め襟はどうやら手元になにかを弄っているようだった。にとりの見た詰め襟がにとりの友人で間違いがないのなら、あの癖毛のもじゃもじゃは紛れもなく文で、文で間違いがないのなら、手元で弄っているのは紛れもなくカメラだろう。ともすれば方向からして、文が暗室に向かっているのは間違いがない。そこまでは瞬時に脳を働かせることのできたにとりだったが、身体を働かせられるかどうかは別の問題だった。なにより薄情にも、あれからにとりは文に会っていない。会おうと思ったとして、家に赴くことさえしなかった。にとりはどうしようもなく足を止めて悩んだ。

 

(いまさら文と会って、わたしはなにを話したらいいんだ! ああ、椛がいてくれたらよかった。そうすれば、そうすればわたしは……ああ、もう!)

 

 今にも鳴ってしまいそうなチャルメラに半ば急き立てられるように戸を開け放つことができたのは結局数分後のことだったから、にとりは自身のどうしようもなさを憎みながらも、焦るようにして暗室まで急いだ。

 

 橙色の廊下は不思議なまでに静かだった。普段なら課外を終えた数名とすれ違ってもよさそうな時間にも関わらず、にとりは暗室の前につくまで誰とすれ違うこともなく、ただひたすらに自身の足音のみを聞いた。渡り廊下の角を折れる際にみた暗室に入ってゆく文の詰め襟の黒は、近頃文のいない校舎を見慣れたせいか橙の廊下に妙に映え、にとりからすると、その黒はまるで青天の霹靂のような黒だった。にとりは暗室の戸にへばりつくように、またしてもじっと足を止めていたが、それは号砲に似た黒い落雷のみに心の竦んだわけではない。にとりはじっと、戸に耳をあてて“それ”を盗み聞いていた。

 

「呼びつけておいて、またそんな話ですか」

 

「そんな話? そんな話ってなによ! あんた、自分のことでしょ!」

 

 暗室にははたてもいるらしかった。そもそも、どうやら昼休み、はたてが文の家まで出向いて、放課後に来るよう呼びつけたという話だった。にとりはこの期に及んで何もできない自分のどうしようもなさを、半ば肯定しながらやけっぱちに耳を澄ました。

 

「いいじゃないですか。どうせ部活……課外なんてやろうがやらまいが、私は結局からす組なんですから」

 

「なに? それで不貞腐れてサボってるってわけ? 自分の楽しいことがいずれつまらない仕事になるからって拗ねてるわけ? くだらないわ、そんなの!」

 

 今日の文はどこか変だった。いつも通りの文なら、はたてに反抗などせずに、曖昧にはにかんでその場を凌ぐはずだった。友人の態度、伴う雲行きの怪しさに、にとりは思わず冷や汗をかく。しかし無慈悲にも、文はにとりの知らない沈着さをもって口を切る。

 

「はたてさんにとってはそうかもしれませんけどね」

「何が言いたいの? この際はっきり聞かせてもらおうじゃない」

 

「じゃあ、言わせてもらいますけど……いいですよね。はたてさんは。からす組出身でもないのに写真部の部長なんかやって、お遊びの趣味に打ち込めて」

 

「な、なによそれ。遊んでるつもりなんて――」

「――じゃあなんだって言うんですか!」

 

 

 友人が不意にあげた大声に、にとりは思わずビクッと体を震わせた。しかし、友人の大声も震えていた。またしても、にとりの知らない声だった。急転する事態に椛の面影を浮かべることしかできなくなるにとりをよそに、文は言葉を続ける。

 

「こっちはねえ! 本気でやってるんですよ! 好きなんですよ、好きだったんですよ、写真が! でもそんなの、なんの役にも立たないでしょう! コンテストで入賞するような写真が良い写真ってんなら、私はくだらない、この町の望むような、そんなくだらない写真しか撮れなくなる! 意味ないじゃあないですか!」

 

「そ、そんなの! そんなの結局不貞腐れてるだけじゃない、自分の好きな写真で勝負したらいいでしょう!」

 

 にとりは文の怒声を知らなかったし、はたての震える声も知らなかった。にとりにとって文はいつだってエキセントリックな旧友だったし、はたてはそんな旧友のエキセントリックさの舵を取るセーラー服に違いなかった。にとりの空想のなか、恋はいつだって淡い赤色をしていた。しかしその色は今まさに、恋なんて言葉とは無縁な、刃傷沙汰に近しい血液色に変貌を遂げようとしていた。にとりはどうしてもそれを止めたかったが、どうしたって体が動かない。例えば足の速さにしても、行動の早さにしても、感情の代謝のはやさにしたって、いつだって、文はにとりよりも素早かった。

 

「……うるさいなあ! 撮りたくたって、もう撮れないんですよ! へび組に、へび組に何がわかるって言うんですか。いいですよねえ、勉強の片手間に部長やって、賞取って、からす組でもないくせに! どうせ近い未来私にあれこれ命令する立場になるんでしょう? だったら、もう黙っててくださいよ!」

 

 文の足音が聞こえても、にとりはすくんで動けなかった。そのまま戸は開け放たれ、にとりは裾を握るばかりで、勢いよく飛び出して来た文と目があってしまった。文は一瞬の戸惑いを見せたが、すぐに振り切って去っていった。取り残されたにとりは文の瞳に浮かぶ涙に、相変わらず、下唇に心を痛めつけていた。

 

 

 遮光のカーテンが開け放たれた暗室は橙だった。すこし目のまわりを赤く腫らしたはたてはそれでも気丈夫に振る舞ってカーテンを開けてみせる。そのとき初めて、にとりは暗室特有の構造的複雑さを、すくなからずこれまでよりは正確に理解した。暗室の妖しい暗さがそのカーテンによってもたらされる暗さだと、にとりはそれまで知りもしないでいた。

 

「聞いてたんだ?」

 

「ご、ごめん……なさい」

 

 妙な緊張に思わずにとりは敬語を吐く。にとりの敬語はとりわけてセーラー服、すなわち女子、ないしは、はたてと接した際に発露しやすい習性だった。そんなにとり特有の習性を知ってか知らずか、はたては可笑しそうに笑うから、にとりもつられてはにかんでしまう。暗室の窓から覗く橙の町は広く、すべてが穏やかに優しく動き続けている。夕鳴きの屋台なんかがその類型で、ともすれば、チャルメラは遠く響いた。「私ね」

 

「なにも、お遊びでやってるわけじゃないのよ。コンテストにしたって、入賞するための写真なんか、一枚も撮ったことがないって、自信を持って言えるわ」

 

 高いサッシに両手をつけて、鈍い風に髪とセーラーをなびかせながらはたては言う。にとりは気まずそうにその後ろ姿を見るともなく見つめながら頷く。

 

「文はあんなふうに言うけど、私ね、この町が好きなの。この町も、この町で働いてる人も、みんな好き。だからそういう写真を撮るのよ」

 

 夕鳴きの屋台のしつこさと云えばなく、にとりはそのメロディがなんとなく嫌いで、いつもイヤホンで耳を塞いでいた。しかし久々に耳にしたそれは、これ以上ないほど優しい気がしてならなかった。

 

「でも、文に言わせればそれが結局へび組なのよね。……ごめんね、にとり。こんな言いわけみたいな話聞かせて。だけど、見てよこの写真。ほら、面白い写真撮るのよ、あいつ。ほら、これとか。ピンぼけしてるけど、一体どこから撮ったのよ! って感じ」

 

 机の上、疎らに重ねられた写真を広げながら、はたては話す。にとりには写真の面白さは解せなかったが、それでもどの写真からも文らしさを汲み取った。

 

「ねえにとり、文に会ったら謝っておいてちょうだい。悪かったって。文がダメになるのは本意じゃないもの。頑張って欲しいんだ、私。あいつに」

 

 にとりの空想上、刃傷沙汰と化した暗室の血液色は、やおら夕鳴きに薄らいで、また例の色を取り戻そうとしていた。友人の詰め襟とはたてのセーラーの相関、その色こそが、にとりにとって淡い赤色で、仮にそれが早計であったとしても、にとりはふたりに“そう”であってほしかった。机の上に数枚の“気になる写真”をみつければ、早計は加速して組み上げられてゆく。聞けばその写真は昼休みにふんだくってきた文の家宝から現像されたもので間違いがないという。ともすれば、早計はますます加速した。

 

「ああ、この写真? さあ? いいんじゃない。気になるなら持ってったら?」

 

 にとりははたてに礼をして、慌てて暗室を飛び出した。出るが早いか慰めの一つなかったことを思い出し、暗室に戻りはたてに紋切り型をいくつか投げかけては、また踵を返して走り出す。なにやら慌てた様子のにとりに、取り残されたはたてはあっけらかんと、苦く笑ってみせるのだった。にとりはなんとなく嫌いだったチャルメラを愛せるうちに、文の家まで辿り着かなくてはいけない気がして、それはどこか強迫的な観念であるはずなのに、不思議と悪い気はしなかった。久々に走れば心臓が悲鳴を上げて打ち付けたが、にとりはどこか清々しい気持ちに満たされていた。どこまでも雰囲気に流されっぱなしのソレについての自覚はあったが、そんなこと、もうどうだっていいような気がした。



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10

 肩で息をしながらドアを叩けば、にとりは家の二階からの物音を聞いた。この町ではとりわけて珍しい鉄製のドアを叩く音も、文が二階から降りてくるときの物音にしたって、にとりにはひどく聞き馴染みのある音に違いなかった。一寸の間が空いてドアがゆっくりと開く。その僅かな隙間から訝しげに顔を覗かせる文の目のまわりは、はたてと同様すこし赤く腫れ上がっていたが、にとりは訝しげな文の表情に隠れた照れ隠しの健気さを見つけ、やおら安堵した。

 

「心配したよ。カメラ捨てちゃったりするんじゃないかって」

 

「しませんよ、そんなこと。いやあ、恥ずかしいところをお見せして……」

 

 缶ビールに飽和したゴミ袋だらけの玄関を抜け、ふたりは階段を上がって部屋に座った。文の部屋に入るのは久しぶりのことだった。初等部半ばまでは椛含めよく三人で遊び散らしたものだったか、いつしか文は「私の家は、ちょっと」と来訪を拒むようになった。にとりはその原因をなんとなく察していたから、以来気を使ってばかりいた。文の父親が町の許可も取らずに発刊していた新聞にはアカという枕詞がついていた。出回らなくなった今でさえも文が父親について言及することはなかったが、友人である以上、にとりは文の酒嫌いの由縁を解さずにはいられなかった。文の部屋にはたたまれた布団一式と、勉強机、床や壁に乱雑に配置された雑誌の切り抜きのみがあった。文は友人の居るときは勉強机の椅子に座ることをしなかった。今にしたって、フローリングで曖昧に足を組み、項垂れて、気恥ずかしげにもじゃもじゃ頭を掻いている。それはにとりに初等部時代の記憶を思い起こさせるには十分な仕草だったし、数多にある雑誌の切り抜きのなかに例の白昼を流れゆく彗星を見つけたから、俄然懐かしいような気分になった。夕鳴きの音が途切れた夕間暮れが窓の直方から差し込むので、ふたりのあいだの沈黙は妙に優しかった。

 

「写真、やめないんだろ?」

 

「やめませんよ。……やめられるはず、ないじゃないですか」

 

 文の俯き加減に眉をひそめて、諦観を含ませながら言う。その諦観にふたつの意味があることはにとりもわかっていた。どうしたらいいかわからなくとも、文はそれを人に尋ねることをしない。けれど、にとりは暗室で現像作業をこなす文をみるのが好きだった。奇行の目立つ友人が寡黙に、たんたんとこなしていく後ろ姿が妙に誇らしかった。

 

「……ねえ、文。これはわたしの思いつきで、きっと早まった考えなんだけどね」

 

 明確にはされていないが、組にはたしかに序列があった。上から、へび組、からす組、かっぱ組、おおいぬ組。例外的な最下層にかえる組がある。かっぱ組とおおいぬ組はほとんど同列ではあるが、にとりはおおいぬ組である椛が“らしい”運動能力を発揮するたびに、文に感じるのと同じうらやましさ、誇らしさがあった。かっぱ組である自分はともかく、友人にはすこやかであってほしい。それがにとりの奥底に根ざす、多少卑屈な願望だった。にとりは詰め襟の胸ポケットから数枚の写真を取り出し、文に手渡した。

 

「それでさ、記事を書いたらいいんじゃないかな。それを学校中、至るところに貼り出すんだ。そうしたら、おまえの撮った写真は、すくなくとも無意味じゃないよ。無意義なんかじゃ、絶対なくなる」

 

「あー……。……いいかもしれませんね、それ」

 

 その提案がその場しのぎで、今後の指針を決定するには至らない悪あがき程度なものであることを自覚していたが、にとりはそれでも、文の有する代謝のはやさに賭けた。にとりの思い描いた通り、文は妥協混じりの笑顔ではにかんだ。写真のなかには、ふたりで歌ったあの日に撮ったであろう写真の数枚があった。あの日、文のやたらと長い“トイレ”のあいだ、にとりは一人で熱唱していたわけだが、その際に感じた気恥ずかしさを克明に記憶していた。

 

「一人で歌うってのはやっぱり、なんとも滑稽なもんだね。趣味悪いよ、おまえ」

「いやあ。あはは……」

 

 にとりは文の眺める数枚のうち、そのひとつを指して言った。文はまたもじゃもじゃを掻きながら曖昧に笑う。写真には、マイクを握りしめ、目を瞑って熱唱する赤髪の下級生の姿があった。背景、瀟洒のすぎる家具調度品は、その場所が明確に“おしろ”であることを示していた。にとりの記憶がたしかなら、おしろの扉はいずれも鉄製で、窓なぞついてはいなかった。ともすれば、文はこっそりと扉を開け、その僅かな隙間から熱唱する下級生を盗撮したことになる。扉が開いたことにも気付かずに陶酔しきった表情でマイクを握る下級生は滑稽で、奇抜なファッションも相乗して、可笑しかった。

 

「……ところでさ、その写真のなかに、あの日撮ったやつじゃないのもあるだろ? ええと、それはさ、いつ撮ったものなのか、気になったり、気にならなかったり……」

 

「あっ、それは! そのう……」

 

 にとりの言う「あの日撮ったやつじゃないの」はまた一枚の写真を指していた。写真には在る人物の後ろ姿が写っていて、長く陰鬱な緑髪は、鍵山雛のものに違いなかった。背景には城門があった。鍵山雛がおしろに入っていくのをみた、という噂は、紛れもない事実だった。

 

「こ、この期に及んで恥ずかしがること、ないだろ。ほら、どうせやるならさ、そいつ。雛、鍵山雛も救ってやろうよ。な? だからさ、教えてくれよ。それ、いつ撮ったのさ」

 

 にとりは友人を慰める最中に自身の純然たる興味を紛れ込ませることを恥じたが、どうしても聞かずにはいられなかった。文は写真を床に叩きつけるが早いか両手でもじゃもじゃをもじゃもじゃとする。それは激しい照れ隠しだった。「……笑わないでくださいよ?」「う、うん」

 

「……私ね、学校に行くふりをして、通ってたんです。あそこに。……ああ! 一人カラオケ、一人カラオケですよ! おわーっ、凄まじく恥ずかしい!」

 

 両手で顔を覆って天を仰ぐ文独特のエキセントリックな仕草と言葉選びに、にとりは思わず苦笑した。「あーっ! 笑わないって言ったのに!」文は顔を覆ったままにとりを糾弾する。「ごめんごめん」にとりが苦笑を交えて謝罪すると、羞恥の渦中にいる文もいたたまれずに、くっくっと笑った。ひとしきり笑い声を乾かせば、にとりはおずおずと、文に尋ねた。

 

「……どう? やれそうか?」

 

「はい。……やれます。……やりますよ、私!」

 

 その後、にとりは文とともに記事の原案を作成した。といっても、やり慣れているのはやはり文で、文の頭の回転のはやさに起因する独り言に似た提案に賛同するばかりでいた。それでも、にとりにとってその時間はなにか誇らしい、尊厳めいた感情を帯びたものに思えた。空の朱に紺が混ざった頃、にとりは帰宅し、自身のせいですこし遅れた夕食に謝って、それからはいつも通りにブラウン管を眺めながらの団らんに終始した。団らんのなか、もちろんにとりは文のことを話した。過剰に取り上げられることもなかったが、にとりはやはり、どこか誇らしい気持ちでいた。カセットとプレーヤーの修理にしたって、文の書く記事が愉しみなような、緊張するような、面映い心持ちで成し遂げた。修理を終えたカセットから流れるアイドル歌謡はまた不誠実にも意味を変えて、窓から覗く裏庭や夜空の星々を飾った。

 

 

 

 眩い陽射しは登校時刻。黒い蟻たちの営みをよそに、不良生徒ふたりはそれぞれの朝食にありついている。正邪のアンパンにつく歯型は楕円。針妙丸のトマトサンドにつく歯型は少名流作法に則って均一だった。正邪はコーラのフチを啜って、針妙丸は牛乳のストローを噛み潰し吸った。

 

「おいヒメ。掲示板のアレみたかよ? な? わたしの言う通りだったろ。鯛ってやつはな、どうしたって、腐っても鯛なんだよ」

 

「どうだか。あんなもんに意味なんてないよ。この町なら賞を取らなけりゃさ。……そうだな、予言してやるよ。……五位、五位だな。射命丸センパイは五位になる」

 

 日々は穏やかに流れゆく。掲示板から体育倉庫まで、隅々に貼られた新聞は教員から即刻“アカ”の誹りを受けた。しかし反響といえばそこそこのものがあり、一、二年生の間を跋扈していた噂話には終止符が打たれ、誰もが赤と緑に関しては押し黙った。記事の見出しはこうだ。

 

『町のおしろにカラオケ有り! アイツもコイツも歌に夢中!』

 

 新聞には三枚の写真が掲載されていた。一枚は例の熱唱する赤髪。一枚は一人熱唱するにとり。一枚は城門を潜らんとする鍵山雛の後ろ姿。記事は詳細をみれば根拠に欠けるこじつけばかりが綴られていたが、前述の通り、一定の効果があった。しかし、疑念を捨てきれない者もいる。

 

「けどよ、赤色とセンパイ方に関しちゃ歌っているのは確かだが、緑色は不確かなままだよな。怪しいもんだ、ただ単に後ろ姿だけじゃ判断しかねる。こういうのをアカ新聞と……あっ! アカ新聞で赤色の容疑が晴れたってのは、はは! こりゃ傑作だな!」

 

「せーじゃ、お前はつくづくくだらないやつだよ。……お前と緑のセンパイに面識があるって、私は知ってんだぞ」

 

 正邪は針妙丸を無視して、笑いながら靴底でリズムをとり始める。次第に『Hey ho, let's go』と漏れ出す正邪の声に、針妙丸は仕方なく調子を合わせた。ふたりの声は正門から響く薄っすらとした喧騒のなか、青い空の下、曖昧に溶けていった。

 

 

 

 噂も十六歳も長くは続かない。そんなものである。文はそれから以前よりかは地に足がついた。……かと思えばそうでもない。例の信号機上の空についてだが、結局文は諦めなかった。文が出席を再開したことによって、にとりは椛と文との三人組の平穏な日常を取り戻したが、伴って、文の奇行だって帰ってきた。十七歳を迎えた文はその日の放課後にふたりを拉致して撮影を開始した。ロケーションは例の信号機、被写体は空。しかし文が同じ鉄を踏むことはなかった。文は脚立を使うことにより、様々なリスクを回避してみせたのだ。にとりと椛は案外重たい脚立を運ぶのに骨を折った。しかし、そうしてやっとの思いで撮った空はそれほど良いものではなく、文はそれきり、あの空に固執するのをやめた。翌月のコンテストでは入賞を果たしたが、結果は五位。最優秀賞に輝いたのは姫海棠はたての写真だった。しかしそれでも、文がときたま指で作った逆さまのL字を空にかざし、片目で睥睨するのを見つければ、にとりの心は都度凪いだ。

 

 噂も十六歳も長くは続かない。そんなものである。

 

 




一章終わりです


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高等部二年、夏。
1


第二章です
ちょっと露悪的な表現がありますが安心してください
この物語は平和な話です


   第二章~高等部二年、夏。

 

 

 夏という漢字から連想されるのは直射や汗など、青春に連なる熟語ばかりだ。青春という熟語には春という漢字が含まれるが、青春は得てして夏の代名詞だ。私は識者に提言したい。青春の春を夏に置き換え、青夏と呼ぶのはどうだろう? 読みはせいか、語呂が悪い。昔生み出した造語に蒼夏というものがあるが、今回彼らの夏を描写するにあたってその語を当てはめるのはいかんせん不適切であるから、困ったものである。彼らの夏はそう、いうなれば倦怠や投げ槍、そういった語句が適切な夏だった。茹だる熱気に気をやられるのは彼らの特権ではない。それは筆者にしたって同じことなのだ。つまるところ、これまで以上に気を抜いた描写をさせていただくと、そういう話である。

 

 夏の前兆である雨季を、文と椛とにとりの三人組はいつも通りの平穏めいた波乱さで乗り切った。しかし異変が起きたのは夏が茹だり始めたころ、夏休みを間近に控えた灼熱のときだった。

「おい文、おまえそれ、なに書いてるんだよ。授業中も、休み時間もひたすらにやってるけどさ」

「ああ、これですか……。これはねえ、椛の悪いとこリストですよ。みますか?」

 汗ばむ季節、白いシャツは汗に透け、中にはシャツの着用すらボイコットする生徒も現れだした。唐突に椛が出席のボイコットを始めてからというもの、文は病的にノートに向かうようになった。にとりは恐怖を感じながらも手渡されたノートを吟味する。

 

 

 “椛のわるいところ!”

 

 ・急に学校に来なくなる。

 ・女子によくモテる。

 ・ラブレターを億面もなく処分する。

 ・うっすらきょとんのあの顔が憎たらしい。

 ・音楽の趣味が中途半端。

 ・私の言動に対しててきとーな紋切り型の美辞麗句を吐く。

 ・学校に来ない。

 ・私にすら理由を話さない。

 ・学校に来ない。

 

 にとりは戦々恐々とした。震える手でページを捲ると、これまた文の情緒不安定が体現された語句が羅列されているから慄いた。

 

 

 “椛のいいところ!”

 

 ・私の幼馴染、ともだち。

 ・空気が読める。

 ・バーターの誹りを気にすら留めない。

 ・優しいようで優しくない。そこがまた憎らしいけどムカつく。

 ・運動能力がわりと高い。

 ・私と同様にお酒が嫌い。

 ・うっすらきょとんのあの顔は愛嬌がある。

 ・よくモテる。

 ・私の幼馴染、親友!

 

 にとりは辟易とした。だったら家に引きこもっている椛を慰めに行ってやればいいのではないか。そう思って、それをそのまま口にした。

 

「そんなこと、できるはずかない!」

「なんでさ、友達だろ? 気にかけてやれよ」

 

「わ、私には、私には無理なんですよう!」

 

(これは仕方ない、どうしようもないな。わたしが動かざるを負えないだろう)

 

 春を過ぎてからというもの、にとりの習性にも幾許かの変化があった。自身が取りたい行動の意義についてとやかく考えることはない。必要なのは軽率さである。にとりは春に起きた一連の出来事から、一種の軽率さと年相応の全能感に突き動かされていた。わたしが動けば丸く収まる。わたしにはそれができる。現に文を救ったのはわたしなんだから。にとりは年相応の傲慢さを、夏の開放的な雰囲気に流されるまま、それを全肯定し行動するようになった。夜毎訪れる内面のあらしですら遠ざかって、そんなものは古い過去のように思えたし、伴って自信満々という風情で軽率に行動を起こせるようになった。それが正しいことであると、にとりは疑いもせずに決めつけていた。

 

「しょうがないなぁ。わたし、今日あいつの家に行くよ。文、おまえは来なくてもいいよ。わたしがみんな、なんとかしてやるからさ」

 

「う、うぐーっ! にとりさん、あなたはどうしてそう、私の喜ぶことばかりを言う! ああにとりさん、何卒、何卒、椛によろしくしてやってくださいね。……私はどうしても動けない! 無力、無力のその字が胸中森林に蔓延る蔦のように這い回っています。ああ、にとりさん、本当に、よろしくおねがいしますね。椛を、私を救ってやってくださいよ。後生、後生ですから……」

 

 文の自信は椛の情緒的支援によって安定のもたらされる事象であった。にとりは余裕綽々の笑みを乾かせては「まあ、わたしに任せておくといい」を自信満々に吐き捨てて、放課後、椛の家に向かった。おおいぬ組たちがグラウンドで連載しているスポ根をフェンスの外から一瞥し、道中椛の行きつけの駄菓子屋で椛の好物の三つ四つ購入せしめては、それを携え椛の家のチャイムを押した。しかし、チャイムの音は虚しく響き、間抜けな夏の白昼をしじまが支配する。この時間であれば椛の両親が働きに出ていることを知っていたにとりは臆面もなく、ポストに隠匿された鍵を慣れた手付きで手中に収め、当然であるかの如く木造二階建ての戸を解錠せしめた。椛の部屋は文の部屋同様に、二階にある。しかし椛の家は文のどこか“洋風”なフローリングとは違って、徹頭徹尾、湿気た木製と畳の臭気に満ちていた。いささか、角度の急すぎる階段をなんとか登って、ぼやけたガラス戸を開けば、そこには世の終わりを象徴するかのような缶酎ハイを煽る椛の姿があった。

 

「ああ、にとりさん。いらっしゃい。私、私はねぇ、おおいぬ組ですから、こういう缶酎ハイを嗜んで、肉体労働の疲労をぼかしているところです。なんせおおいぬ組、加えて、私は詰め襟ですから、将来発達した筋肉でもって勤労を慰める彼らに迎合する、その予行練習をしているわけですよ。はは! 愉快だとは思いませんか」

 

 それを受け、にとりの胸中には呆れと、まあ仕方ないで飽和した。しかし文を、赤髪の下級生を、同級生の緑色を救った張本人である自分ならば、椛の非行を諌め、また明るい日常へ回帰できるに違いない。にとりはあの春から、妙な全能感に支配されていた。

 

「まあまあ。それはおおいぬ組の類型で、ともすれば宿命ってやつかもしれないが、大丈夫だよ。だいたい夏休みが始まるぞ。どうするつもりなんだ、そんな二、三級の酒をやって、文がどう思うか。ちっとは考えてみることだな」

 

 酩酊した椛は不敵に笑う。わかってないですねと、言わんばかりの不敵さはにとりにとってはさしたる問題でないような気がした。それが、夏の持つ特有の魔力に起因することは言うまでもない。にとりは余裕綽々といった面持ちで、椛と似た不敵な笑みを浮かべては返答を編んだ。

 

(椛、椛は今絶望をやっているが、そんなものは一過性のものだ。文をみてみろ。今ではすっかりエキセントリックに回帰して、椛の悪いとことといいところのリストを積み上げている)

 

 にとりは片手で顎を撫で、今にも処世の洗礼を口にしようとしていた。しかし、椛は不敵に笑みをこぼしては、にとりに対して牽制の語句をもって口を切った。

 

「にとりさぁん。わかってませんね、にとりさんは。私は文さんの大嫌いな酒でもって気の大きくなってる今なら言えますが、いえ、気恥ずかしさは当然ありますよ。でも、あえて言います。カミングアウトをします。私はね、同性愛者なんです。ホモなんです、ゲイなんですよ。はは!」

 

 アルコールの饐えた臭気と、郷愁を煽る畳の匂いはにとりをどん引かせた。にとりの口から思わず漏れ出した「えっ」という語句を耳にするが早いか、椛は極めてわざとらしくため息を吐いてみせる。

 

「にとりさぁん。そんなに萎縮しないでくださいよ。そんな、あとずさりはよしてください。ねえ、おおいぬ組の末路を知っていますか? 私はね、知ってます。男同士のいびつな色の沙汰。紫外線で焼けたカルビのような角質でもって、彼らは仲間のカマを掘るんです。それがね、現場仕事につきまとう、どうしたって変えられない摂理なんですよ。私はおおいぬ組だから、それに迎合せざるを負えない。だからこの鯨飲は、そのための予行練習というわけですよ。はは! どうしましたか、笑ってくださいよぉ」

 

 酩酊、至らない呂律でもって椛は声をふらつかせては言葉を紡ぐ。普段うっすらきょとんとした椛の表情しか知らないにとりにとって、それは青天の霹靂めいた事象であったが、夏の魔力か、春以来の全能感か、にとりはなんだかやれそうな気がした。

 

「文は毎日、椛のことで気を病んでいるよ。おまえの悪いとこリストと良いとこリストでノートを飽和させる毎日だ。赤点の危惧なんかしちゃいない。どうだ? 文のためを思って考え直すってのは」

 

「はは! それこそ無意味ってやつですよ。再三再四にはなりますがね、私は同性愛者。どこまでいってもおおいぬ組の類型で、労働者という綴りにぴったり当てはまる、汗と汚濁にまみれたおおいぬ組なんですから!」

 

 昨今のにとりは考える前に行動する。それを是としている。椛の言葉など聞いてはいなかったのかもしれない。にとりはまた諌めるようにまあ、まあ、と笑って、押入れの戸に手をかけた。椛の部屋には低い机があり、机の上には蓄音機が置かれている。にとりたちはよくレコードを聴いた。押入れのなかには椛秘蔵の、レコードの山があることをにとりは心得ていた。勝手知ったる人の家とは、よくいったものである。しかしそのとき、どうせなんとかなるだろうを体現するかのようなにとりのにやけ面にぴしゃりと冷水が浴びせられる。

 

「やめてっ!」

 

 ずい、とシャツの襟を引っ張られ、にとりは「ひっ」と声をあげ、そのまますってんころりん尻餅をついた。幸い怪我には至らず、せいぜい尻の痛む程度のにとりだったが、椛の襟を引く勢いは半ば暴力的で、またしても、それはにとりの知らない友人の一面だった。間抜けな姿勢で両手をつくにとりに、椛は暗い表情で口を切る。

 

「……ごめんなさい。引っ張ったりして。……でも、すいません、今日は帰ってもらえませんか」

 

 にとりの口はどうしようもなく、考える前に動いてしまう。

 

「な、なんでさ。わたしはただ、いつもみたいにレコードでも聴いて、話しようと、しただけなのに。そんな、なにかみられたくないものでもあるみたいにして……あっ」

 

 押入れの戸は、にとりのかけた手によって僅かばかり開かれていた。その隙間からわずかに覗いたそれを、にとりの視界は捉えてしまう。押入れは二段あり、下段にはレコード類の収まったダンボールがあり、上段は、ハンガーラックに吊るされた衣類に満たされていた。替えの詰め襟や、椛が休日によく着る衣類のなか、異様に真新しく、異質すぎるものがあった。おそらくおろしたてであろうそれは、紛れもなくセーラー服だった。

 

「も、椛おまえ、これ……」

 

「……帰って。帰ってください!」

 

 椛の剣幕ににとりはたじろがざるを得なかった。自身の混乱などさておき、立ち退くほかなかった。なにかとんでもないものをみてしまったような、とんでもないことをやらかしてしまったような気持ちで、おずおずと「ご、ごめん」の三字半を吐き、にとりは椛の部屋を去った。後悔と申し訳無さと一寸の不服でもって靴紐を結び、玄関を出た。

 

(こ、このまま帰っていいのかな。それにしても、あの、セーラー……)

 

 後ろ髪を引かれるような気持ちもあったが、今までみたことのない椛の激昂が自身に向けられてることを思えば、恐ろしくて、悲しくて、申し訳なくてやりきれなかった。再度謝るべきだろうか、或いは不意に後ろの戸が開いて、椛の方から謝りに来てはくれないだろうか。数秒待ったが、にとりはとうとういたたまれずに、その場を去った。右手で二の腕を掴み、左手を額にあてて歩いた。後悔と自責と不服の念は、どうしたって振り切れなかった。




よろしゅーに!


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2

 蝉が鳴く。額に手のひらをつけて、しばし歩く。気がつけば潮の匂いの濃い海沿いに来ていた。緩やかなカーブに沿った堤防の下、遊泳用の砂浜があった。水平線は遣る瀬無い。地面は赤茶のブロックに舗装されて、ところどころ、観光地でもないくせにヤシの木が街路樹の役割を担っていた。寄せては返す波の音を聞いていると、にとりはだんだんと冷静さを取り戻した。その冷静さは、言い換えると“春以来のネガティブ思考”ともいえよう。自身の行動は軽率過ぎたのではないか。文になんと報告したものか。けれどそもそも、十七歳になった文にしたって、いまだ十六歳の椛にしたって、自分にしたって、みんなすこし情緒がぐらつきすぎではないのか。自責の念と責任逃れがぐるぐると脳内を回った。

 

「くのっ! くのっ! 資本主義者めっ! 社会主義者めっ! ど田舎めっ!」

 

 そんな折、奇っ怪な言葉を吐きながらヤシの木をげしげしと蹴りつける後輩をみつけた。それは鬼人正邪という素行不良で有名な下級生で、正邪は春以来、にとりに妙に懐いた。妙に、町で出くわすようになった。にとりは正邪の“相手”をするのが苦手だったが、正邪自身を嫌ってはいなかった。それは不思議な共感で、にとりは正邪とどこか繋がっているような気がした。もっとも、それは正邪のよく吐く「わたしたち、似た者同士じゃあないですか」という胡散臭い台詞によってもたらされる共感だった。相変わらずの流されやすさを自覚しないにとりではなかったが、不思議と悪い気はしなかった。にとりはげしげしとヤシの木を蹴り続ける後輩の前で足を止め、とりあえずでもって口を開く。

 

「やい跳ねっ返り。ヤシの木いじめてたのしいか? 大変なんだぞ、こっちは」

「放っといてくださいよぅ。こっちはこれで、忙しいんですから……観光地でもないくせに! くのっ! くのっ!」

 

 依然ヤシの木を蹴り続ける下級生に、にとりはひとつため息を吐いた。にとりの着る、薄手のシャツには汗が滲んだ。正邪の額にも汗が滲んでいた。蝉の鳴き声がけたたましい。下級生の着る詰め襟の黒は夏にそぐわぬ重厚さでもって、にとりに妙な既視感を与えた。

 

「……暑くないのか? この時期に、そんなもん着て」

 

「わかってないなぁ、センパイ! 修行、修行。人生の修行ってやつですよ。わたしは如何なる時においても詰め襟を着用し、そしてこの、憎きヤシを蹴りつける。……くのっ! くのっ!」

 

 いつもどおりに滅裂な後輩に「平和そうでなによりだよ」を吐き捨て、一瞥くれて、にとりはその場をあとにした。後輩の奇行を眺めていれば懊悩は遠ざかったかもしれないが、にとりには後輩の着る詰め襟の黒がいやにあつ苦しくてたまらなかった。暑さでやられてしまいそうな額に、にとりはまた片方の手のひらを重ねる。

 

(待てよ、あいつに相談してみるってのはどうだろう……いや、やめだ)

 

 振り向けばヤシの木相手に下段蹴りを繰り出し続ける後輩とその背景、砂浜の向こう遣る瀬無い水平線があったので、にとりはどうしようもなく、街路に絡め取られることを選んだ。

 

 

 海沿いの住居とサ店の小路に折れ、そのまま紆余曲折トボトボと歩く。アスベストのブロック塀に囲まれた、狭く陰鬱な路地を歩く。有象無象、木造住居の庭に見事な一本松などをみつけながら、にとりは歩いた。しかし、どれだけ陰鬱な路地を歩けど蝉は鳴き、季節は夏に違いなかった。にとりは軽薄にも、セーラーを着た椛を浮かべては、自身の胸中に湧き上がる不可思議なときめきに眉を潜めた。「あれ? センパイだ」「うわ」

 

「うわ、て。ひどいなあ。私に声をかけられるのがそんなに嫌かな。センパイ、薄情だよ」

 

 にとりの眼前、大きめのビニール袋を片手に提げて足を止めるのは、またしてもにとりの後輩だった。それは少名針妙丸という素行不良で有名な下級生で、針妙丸は春以来、にとりに妙に絡んだ。妙に、町で出くわすようになった。にとりは針妙丸の相手をするのも嫌だったし、そもそも針妙丸自身を嫌っていた。主な原因は針妙丸の口調にあった。正邪ですら使える申し訳程度の敬語を、針妙丸は使わなかった。慇懃無礼とでもいおうか、針妙丸の口調や態度には、自分のすべてを見透かされているような気のするいやらしさがあった。何よりにとりにとって怪訝なのはビニール袋からはみ出した大量の火薬だった。

 

「え、えげつない量のロケット花火だけども」

「あ、これ? あいつに頼まれたんだよ、買ってこいって。そうだセンパイ、あいつみなかった? まだヤシの木蹴ってりゃいいんだけど」

 

 にとりは意外だった。先輩に敬語を使う気配すらみせない後輩が、同級生のいうことを素直に聞き入れるとは思えなかった。自身と同等の背丈を持った後輩には、自分にはない狡猾さがあるような気がしてならないにとりだった。とすれば必然、後輩の抱える火薬に黒い腹づもりのあることを察した。いくら正邪と友人をやっているとはいえ、相当の利害の一致がなければ針妙丸が動くはずもない。にとりはおずおずと口を開いた。

 

「さ、さっき向こうでみたよ、うん。ヤシの木蹴ってた」

「あーそれならよかった。ありがとね、センパイ。それじゃ」

 

「ちょ、ちょっと」

 

「え?」

「その、ソレは、どんな悪戯に使うおつもりか」

 

「妙な敬語だなぁ。えっと、これはね。センパイに話してもいいのかな」

 

 にとりは額にあてた手のまま、どうでもよさげに腕を組み逡巡をする針妙丸の開口を待った。

 

「……まあいいや。あいつがね、言うんだよ。気に入らない奴等がいるから、この町のロケット花火を買い占めろって」

 

「へ、へえ。それで?」

「いや、私もね。標的がわからなんだから、最初は嫌だったんだけど。聞けばどうやら私にも得のある話だから、まあ、乗ったってわけ」

 

「ふ、ふうん。そっか、まあ、いいんじゃないか。すまない、なんだか邪魔をしたね。……それじゃ!」

 

 雑談もほどほどに、にとりはそんな計画が自身とは全く関係のないものだと悟りその場を去った。なにより針妙丸と相対するのがなんとなく嫌だった。家に置き忘れたカセットとプレーヤーを思えばにとりの眉間にはますますシワが寄った。蝉が鳴き、口元にすら苦々しくシワが寄った。路地を抜けとりわけて広い大通りに出れば眩い白日がにとりを照らす。そこかしこで蝉が鳴き、不意に、にとりは我に返った。

 

(わ、わたしは椛に、なんてことをしてしまった!)

 

 自責の念と責任逃れのいたちごっこは唐突に終焉を迎えた。白日のもとにさらされて初めて、にとりは事の重大さを悟ったのだった。夏休みは間近に迫り、今すぐにでも、始まってしまいそうだった。




四月から六月にかけて書いたストックが切れようとしている
俺はもうダメかも知れない
おーえんしてくれたら、よろこんじゃうかもなー!


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3

夏だ!


 夏休みが始まった! 文のこさえた“椛の悪いところ・良いところリスト”はノート二冊を埋め、そのまま、三冊目に差し掛かろうとしている。夏休みの課題もさておいて机に向かう文の姿を、にとりは至極気まずそうにみつめていた。結局あれから、にとりは自身と椛との間に起きた軋轢を文に報告できずにいた。意気揚々と「任せておけ」と言った手前の不甲斐なさがあった。文の大嫌いな酒をかっくらっていたというあまりにもな事実もあった。性に対する理解の及ばぬ幼稚さもあった。にとりが文にそれを言い出せない理由はごまんとあり、夏休みが始まってからの一週間、にとりは真っ昼間、毎日こうして文の椛に対する愛憎を正座にて眺めていた。ひどく、足が痺れる日々だった。しかし、先に痺れを切らしたのはにとりではなく、文だった。

 

「にとりさぁん!!」「は、はいっ!」

 

「にとりさん、いい加減にしてくださいよ! 椛は、椛はいったいどうしたんですか! 私はいつまでこんなものを書き続ければいい? 勘弁してくださいよ!」

 

 文の情緒は椛の献身があって初めて保たれるものだった。十七歳になった現在であろうと、そこに変わりはない。文は椛がいなければどうしてもダメだった。それをわからないにとりではなかったが、しかし、こうも捲し立てられては責任逃れをしたくもなる。口をつくのは嘘っぽく照る太陽と似て、不誠実な言葉ばかりだった。

 

「で、でも、そんなに気になるなら、自分で確かめにいけばいいんじゃないか。そ、そもそも文、おまえはわたしよりずっと、椛と仲がいい。おまえが行って、確かめる。それが、自然ってやつじゃあないのか……?」

 

 正論ではあるが、やはり些か不誠実かつ、無意味な言葉だった。

 

「にとりさぁん!!」「は、はいっ!」

 

「にとりさん、窓の外、遠くから聞こえてくるでしょう? フェンスに囲まれた、広いグラウンドにて連載されているスポ根、いちに! さんし! の声が! なにが言いたいかわかりますか? 椛ですよ、椛の声が混ざってない! 私は、私の夏は椛の夏なんです。部活を終えた椛がそのまま私の家のインターホンを押し、その時すでに身支度を終えた私は玄関を出て、椛と一緒に帰途を辿る! その最中、私は撮った数枚を椛に見せつけてはよいしょをいただく! それは椛が帰宅し、部屋の橙になるまで続くんです! それが、私の夏なんですよ! ああ、蝉は、蝉はもう鳴いている! 鳴いてしまっているというのに!!」

 

「う、ううぅ……」

 

 文の語勢に思わず涙目になるにとりだった。

 

(じゃ、じゃあなおさら、自分でやってくれよ。もういやだ、わたしは!)

 

 気付けばにとりは、それをそのまま口に出してしまっていた。文は「う、うぐーっ!」と、声を上げる。にとりによって突かれた箇所は紛れもなく、文にとっての痛いところだった。あんまりに喚くものだから、隣室からドン、と壁を叩かれた。文の自室の隣には、文の父親の、作業部屋があったのだ。人の子にはおぞましい親の鉄槌はそのままふたりを部屋から追い出した。いそいそと外に出て、晴天のもと文はにとりに口を切る。

 

「にとりさんの言うことはもっともです。だけどね、私は怖いんです。だって、椛はいつでもうっすらきょとんとして、笑ってるんだか笑っていないんだかの表情で、私のそばにいたんです。その椛があろうことか不登校とくれば、私はそれが、どうしても恐ろしい」

 

「でも、わたしには無理だよ。椛は相当キちゃってるんだ。わたしには、わたしにはどうしたって難しいよ、無理なんだよぅ」

 

 文は不確かに歩き出す。方角からして、言わずもがな、にとりには文の目的地が察せた。蝉は白々しく鳴いて、路傍の空き缶を蹴り飛ばしつつ、文は野暮ったく言った。

 

「……もう、観念しますよ。私が行かなきゃいけないって、わかっちゃいたんですけどね。ただ、にとりさん、ひとつお願いがあるんです。いえ、お願いというより、もっと重要な……」

 

「わかったよ、ついて行ってやる。ついて行ってやるからさ、そんでもって、上手いことやってくれ。おまえはきっと、そういうの得意だろ? ただね、今の椛をみたら、おまえはきっと激昂するに違いないから。どうか冷静さを欠かないでくれよ、後生だから」

 

 ええ、ええ。と繰り返し、文は観念した様子で瞳を煌々とぎらつかせた。その瞳はやはり嘘っぽく照る太陽と似て、自棄っぱちの形相を呈していた。文の家から椛の家へ向かう道中は、広い学園のフェンスに沿わざるを得なかった。フェンスの向こうでは文の言う通りのスポ根が連載されていて、おおいぬ組出身者は「いちに! さんし!」でもって、将来町の歯車を担うべく部活動に勤しんでいる。延々と続くフェンス沿いを折れたとて、またしばらくフェンス沿いが続く。グラウンドは校舎に隠れるが、代わりにフェンスの網目に飽和する生け垣と、その向こう、校舎の白い外壁の下、犬走りでなにやら画策をする二人組が目についた。もちろん例の素行不良の二人組だった。文は急いだ歩調のままに二人組を一瞥しては、おざなりな感慨を述べた。

 

「なにか、剣呑な風情のある光景ですね。平和そうでなによりですよ、こっちの気も知らないで!」

 

 二人組の画策は手仕事に似て地味極まりない光景ではあったが、にとりには文の吐いた剣呑のその字があまりにも正鵠に近いことがわかった。二人組はただひたすらに、ロケット花火の火薬をいじくり回し、威力の強化に執心している様子だった。

 

(これはちょっとした事件になるぞ。やつら、退学になるやもしらん)

 

 しかし文の歩調に合わせればにとりに与えられる思考の余裕は目減りした。にとりは短い背丈でもって、文の長い足、早い歩調に必死になって足並みを揃える。そんなにとりと文に気がついた二人組はフェンスの向こうから呑気に手などを振って「どうも、センパイじゃないですか」系の言葉を送った。文は気にもとめず進んでいくから、にとりは目配せと申し訳程度の会釈でもって二人組をあしらい、文の背中を追った。

 

「にとりさん。ここまで着いてきてもらってなんなんですが、ちょっと、ここで待っててもらえませんか。やっぱり、私は一人で行こうと思うんです。だって椛は、私の親友なんですから」

 

「……帰っちゃダメ?」

 

「にとりさん、そんな薄情を言わないでくださいよ。にとりさんだって、私の親友なんです。絶対に帰らないでください。私を待っていてください!」

 

 そう言って、文はチャイムも押さずに椛の家、木造二階建ての戸を開け放って、勢いのままに階段を登っていった。椛の家周辺は土地柄、どうしたっておおいぬ組の邸宅が多く、おおいぬ組の邸宅は得てして木造二階建て、すなわち壁が薄かった。文の階段を登る音も、椛の部屋の擦りガラスの戸を開け放つ音にしたって、軒先に棒立ちをするにとりに筒抜けだった。にとりは下唇を噛み締め腕を組んでは冷や汗をかいていた。今にも、怒声やそれらに類する大きな物音、或いは大音声が響いてきてしまう予感で、気が気でなかった。

 

 ――も、椛! 犬走椛! あなたはなんてものをやっているのか!

 

 軒先に棒立ちをするにとりの上方、二階から響いた大音声と、伴って響く小気味の良いパアンというその音は、紛れもなく文の起こした暴挙だった。

 

(あ、文のやつ! 椛に平手を張りやがった。ああ、わたしは、わたしは止めに入るべきだろうか!)

 

 百面相の如き逡巡の刹那、二階から、椛の悲痛な「だ、だって!」がこだまする。かと思えば即座に文が叫んだ。

 

 ――にとりさん、聞こえてるかとは思いますが、じっとしていてください! これはもう、私と椛だけの問題ですから!

 

 にとりは下唇を噛み締め、腕を組み、冷や汗をかいていた。にとりのまわりを取り囲むのは、やはり例の感覚だった。自身のまわりを螺旋のように取り囲む時間、無力感と似た、無慈悲な時間の進行。蝉の音がけたたましい。しばしのあいだ、二階からは口論に似たやり取りが響いたが、一寸するとふたりは落ち着きをもって話し合いを始めたようで、にとりの鼓膜には蝉の声だけが張り付いた。アブラゼミの鳴き声は次第にゲシュタルト崩壊を起こし、文字に起こすには憚られる自殺教唆とも取れるその二字を繰り返し聞かされているような気がしてくるにとりだった。その時間は形容するなら灼熱、業火、地獄、それらに類するそれに違いなかった。にとりのかく冷や汗が冷めることはなく、ともすれば、それは日暮れまで続いた。繰り返しにはなるが、地獄のような待機時間だった。



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4

久々すぎて編集の仕方を忘れて再投稿になりました
元のからちょっと加筆しただけです


 軒先で茹だりブロック塀にへたり込むにとりを見つけたのは椛の父親だった。父親の怪訝そうな眼差しと「なにをしてるの」系の問いかけに、にとりはすわ飛び上がり「いえ、なんでも」系の言葉を発音してお茶を濁した。椛の父親はそんな返答に対し穏和そうに微笑んでは「それはそれは」系の言葉を発音して家のなかに入っていった。息子の友人が家の前にへたり込んでいるところを二、三言でもって納得し、そのまま置き去りにして玄関に入っていく汚れた作業着をみて、にとりは緩い郷愁に駆られた。

 

(あのひとは昔から変わんないな。うっすらきょとんとして、そっくりだ)

 

 土間に上がる前に土で汚れた地下足袋を脱ぐ椛の父親の習性は、にとりにとっても見慣れた光景だった。にとりたちが三人で遊ぶ際はたいてい椛の部屋が拠点となっていたし、土曜の半ドンや日曜日なら昼食だって何度も一緒にした。にとりは椛の父のみならず、母親のことだってよく知っていた。有り合わせで恥ずかしいけど、などとはにかみながら食卓に三人分の昼食を並べてくれた椛の母親は、にとりに言わせれば“気立ての良い奥さん”で、夫婦仲にしても円満のその語句がぴったり当てはまると、にとりは常々思っていた。両親共々おおいぬ組の出身であることを知っているにとりには、椛の放った“おおいぬ組の末路”などと云うのはやはり度が過ぎた一過性の絶望としか捉えられなかった。「……あの!」

 

 地下足袋を脱ぐのに滑稽にも四苦八苦する椛の父に、にとりは思わず声をかけた。「いま、椛は」

 

「いま、椛の部屋には文がいるんです。それで、わたしはその。ふたりが話し終わるのを待っている、というか。そのぅ、ええと……」

 

 うっすらきょとんの振り向き顔に、にとりの頭はぐちゃぐちゃだった。

 

(このひとは椛のことをどのくらいわかってるんだろう。親なんだから、わたしなんかよりわかってるに決まってる。けど、椛はお酒を飲んだり、セーラー服を持ってたりしてて、ああ! わたしはどこまでを話せばいいんだろう! どこまで話すのならゆるされるだろう!)

 

 煩悶するにとりを、椛の父は暫し例の面持ちで眺めていたが、そのうちに「まあ、大丈夫だよ」系の言葉を吐いて、そのまま家に入っていってしまった。椛の家の壁は薄い。生活音など殆ど筒抜けだ。だから、椛の父が二階に上がろうと階段を登ればにとりにもそれがわかるはずだった。しかし、階段の軋むことはなく、代わりに洗濯機が駆動し、その音はにとりに克明な“事なかれ”の感を与えた。すこし呑気すぎやしないか。そうも思ったにとりだったが、結局なにひとつできることはなく、けたたましい洗濯機の駆動音と、夕空、間の抜けたカラスの鳴き声を傍観することに終始せざるを得なかった。三つ四つとカラスの鳴き声を数えるのにも飽いた頃になってようやく、にとりは階段の軋む音を聞いた。

 

 ――ああ、どうも。おじゃましました。

 

 土間からそんな声が聞こえてから数秒立たずに、玄関の戸はがらがらと開いた。軒先で腕を組みっぱなしで足を棒にするにとりを見つけるが早いか、文は思い出したように頭を掻いて口を切った。

 

「いやあ、随分とお待たせしてしまって……どうも、申し訳ないことをしましたかね」

 

「申し訳ないというかだなぁ……まあ、いいよ。それで、どうなんだ椛は」

 

 それがですね、と、文は口を止める。しばしの沈黙の間にとりは組んだ腕の片方、人差し指で二の腕をとんとんと叩いて文の二の句を待った。眉は潜んでいたし、唇だって少なからず尖らせていた。今にもカラスが鳴いてしまいそうだった。にとりは痺れを切らして文を急かす。

 

「おい、どうなんだよ。こんだけ待たせといてなんもなし、なんてことないだろうな」

 

「ああいやそんな。……じゃあ、言いますがね。椛は、そのぉ……あーでもやっぱり、言っちゃまずいですかねぇ……」

「ああいえ、にとりさんがどこまで知っているかにもよりますが……ああでも、なんにせよ、やっぱりまずいかなぁ……」

 

 にとりは苛々とした。人差し指はよりしたたかに、かつついと二の腕を叩く。木製の電柱、疎らに貼られた電線に一匹のカラスが飛来し、とまった。カラスは動物然ときょろきょろ首を動かしては、そこかしこに丸い瞳を泳がせていた。今にも、間抜けな鳴き声が響いてしまいそうで、にとりの気持ちは俄然逸った。「おい、いい加減に――」

 

「――にとりさん、今回の件はやっぱり、私に任せてもらえませんか」

 

 にとりは組んだ腕のまま、がっくりと項垂れた。上空で間抜けなカラスが、カア、と鳴いた。

 

「いやあ、着いてきてくれとも言いましたし、待っててくれともお願いしました。ですからこんなことを言うのは大変恐縮ではあるんですけどね、ただ、今回に関しましては、ちょっと、そのぅ……」

 

「あー、あー。いいよ、もう。ふたりで勝手にやってたらいいよ。どうせ、お前らは仲良しなんだからさ。もう、勝手にやっててくれ」

 

 文の言葉に、にとりは一種の薄情さを感じて拗ねた。これまで三人組だったのが、不意にふたりとひとりにすり替わってしまったような感じがした。

 

「途中途中で、にとりさんにもなにかお願いしたり、すると思うんですけど。とりあえず私はしばらく椛の部屋に通おうと思うんです。ああ、夏休みの間にはきっと解決してみせますよ。にとりさん、なんだかごめんなさいね。……それじゃあ!」

 

 文は申し訳無さそうに頭を掻きながらも、にとりに礼をして、そのまま去っていった。頭の上でまた間抜けな声が、カア、と鳴くから、にとりはなにか捨て鉢になって、少々息を巻きながら家路を辿った。

 

(結局、わたしには関わって欲しくないってことだろ? なんだよ、それ。……もういいや!)

 

 軋轢と呼ぶにはどこか足りない不協和を抱えて、にとりはこの夏を一人で楽しむことに決めた。帰宅すればちょうど夕飯の時間で、にとりは何杯もおかわりをした。それは気が立ったにとりの悪い習慣で、その日の夕飯には団らんと呼ぶに足る会話はなく、しらじらとブラウン管のお茶の間味のみが食卓を滑っていった。にとりの両親は息子の不機嫌さを克明に察せたので、とりわけて、カラスの間抜けな声ばかりが耳につく、気まずい夕飯であったといえよう。

 

 にとりは拗ねた。夏を拗らせた。やはりそれは自棄っぱちの心で、自棄というのは往々にして破滅願望の色味を帯びる。ビコーズ、やけに活動的になった。心情は敢えて正邪に重ねて、鼓膜にはラモーンズを突き刺して狭い町を徘徊した。性に合わない赤色の半袖を着て、半袖の胸元には痛ましくも“NO FUTURE”の文字が綴られていた。にとりはまず例の海沿い、赤茶のブロックで舗装された道に立ち、堤防の向こう、遊泳用の砂浜、水平線を睨みつけた。水平線は遣る瀬無く、にとりにこの町の狭さをどうしようもなく自覚させた。それは苛立ちだった。ともすれば、視界の端に映るヤシの木が妙に憎たらしく思えて、ついついげしげしとやってしまった。そうして年相応の偽悪的な笑みを浮かべては、鼻で笑ってその場を去った。もちろん、ジーンズのポケットには両手を突っ込んでわざとらしく背筋を曲げた。

 

(海、海、海なんて消えっちまえばいいんだ。壁を建てろ。水平線なんて、わたしに見せてくれるなよ)

 

  にとりはそうして路地を縫った。頭の中では片手にウイスキーのボトルを持って咥え煙草をする自身のイメージばかりが跋扈していた。しかしにとりに空想を実現するほどの豪胆さはない。にとりは自身の中途半端さを自覚して、また苦々しく口元を歪めては自身を嘲った。

 

 湿気った路地を抜け大通りに出れば身体は白日に晒される。にとりは煌々と照る太陽を視るともなく睥睨してはその眩さに毒を吐いた。シャツは汗で肌に張り付いて、周囲では蝉がけたたましかった。

 

(夏はバカだ。アホだ。わたしのことなんか気にもとめないで、嘘まみれに町を照らす!)

 

 にとりはそのまま椛の家の方面へと向かった。無論目的地は椛の家ではない。にとりは道中、学園の校舎裏、フェンスの前で足を止めた。

 

「おい不純分子ども! 何をするかはわからんが、火薬の激しさのなんたるかを、わたしが教えてやろうじゃないか!」

 

 にとりはフェンスに短い足をかけ、そのままひょいと飛び越えた。生け垣の細枝を堂々たる闊歩でへし折りながら、犬走りにてへらへらとする二人組に近づいていく。

 

「あー。どうもセンパイ! かっぱ組のセンパイが協力してくれるってんなら百人力ですよ」

 

 鬼人正邪は胡散臭い敬語でもって快く、にとり悪巧みの一員に招き入れた。

 

「でも、意外だなぁ。こういう悪巧みに加担するひととは思ってなかったんだけど。……もしかしてなんか嫌なことでもあったって、そういうわけ?」

 

 にやにやと自身の胸中を見透かす少名針妙丸に、にとりはひとつ舌打ちを打った。

 

「おい少名、少名針妙丸。おまえは敬語を使うべきじゃないか? 年功序列の語句を胸に刻めよ」

 

 針妙丸はハをへらへらと二、三乾かしてみせたが、別段にとりが腹をたてることはなかった。焼ききれそうなほどの夏空に詰め襟をまとった二人組は暑苦しくも犬走りに胡座をかいて、ふたりの間に散乱する山のようなロケット花火を一瞥して、にとりは輩然とした座位で腰をおろした。

 

「揃いも揃ってそんなもん着て、暑苦しいったらないよ。おまえら、だいたいわかっちゃいないね。ロケット花火弄るにしたって、これじゃあ自分の方に吹っ飛んできてしまうよ。それに、火薬だって詰め込み過ぎだな。飛ぶ飛ばない以前に、これじゃあもはや爆弾だぞ」

 

 おおいぬ組たちの「いちに! さんし!」をバックグラウンドミュージックに、にとりはその手腕でもってふたりに火薬のなんたるかを教授せしめたが、不良ふたりはその間ずっと生暖かくにやけ面で笑うことに終始した。

 

「これをこうしてこうすれば……どうだ、連装式ってやつだよ。火力だって朝刊ギリギリを攻めてるし、なにをするかは知らんが、これならお前らの企ても上手くゆくんじゃないか」

 

「へえ。さすが、かっぱ組の、にとりさんですねえ。おいヒメ、みろよこれ……て、あれ? おまえ、いつからカセットなんてもん持ち歩くようになったんだよ」

 

 にとりは狼狽した。工作の最中、犬走りになおざりにしたカセットが、針妙丸によって接収されていたのだ。針妙丸はイヤホンを耳にぶっ刺してにやにやとしている。

 

「あー、ひどいね。録音するにしたってもうちょいやり方ってもんがあると思うんだけど……なにより曲がひどいよ」

 

 正邪は嬉々として針妙丸からイヤホンを奪って、耳につけた。そうして不良ふたりに、にとりの録音したラモーンズが発覚してしまったのだった。

 

 イヤホンをつけ、正邪はにたぁっと笑った。それは本当に厭な笑い顔で、にとりはなにか生温かい汚泥に触れるような感覚がした。舐めるような正邪の視線から逃げるとまた針妙丸の顔が映る。針妙丸は正邪のようにわかりやすく笑いこそしなかったものの、貼り付いた微笑と笑わない瞳にはやはり何か厭な感じを讃えていて、にとりにはふたりの後輩はまるで生き写しかのように映った。

 

「先輩こんなの聞いてさぁ。ビートルズなんかも聞いてたりして。懐古趣味っての? 偏屈だなあ。もっとこう、そうだな……ビリージョエル、アバ、ポリス、突然段ボール、ザモッズを聴きなよ」

 

 正邪の心底馬鹿にした口調に、にとりは怒りを通り越して呆れかえった。

 

(ひねくれどもの嫌いな歌手リストの羅列はそれで終わりか? 流行が嫌いなのは言わずもがな、アングラにすら噛みつきやがって。とんでもないひねくれども……)

 

 にとりはカセットごとひったくって、ふたりの前でこれ見よがしにイヤホンをつけた。塞ぐ両耳でアイドンケアを示し、鼻で笑ってその場を去った。しかし冷静になればにとりは自分の行動はよくわからなかった。馬鹿にされて、イヤホンを奪い返して、それも負け惜しみのような嘲笑を残し、立ち去る。もしかすると自分は物凄くみじめなのではないか。背後から笑い声が聞こえそうだった。振り向けば二人は指をさして笑っているに違いない。駆け出したくなったにとりだが、それもできない。走って逃げれば、走って逃げたと笑われる!

 

 にとりはもうみじめで仕方なかった。フェンスにかけた短い足が一層、にとりの自意識を苛んだ。フェンスを越え、地に足をつけるがはやいかにとりはとうとう駆け出した。イヤホンから流れるラモーンズの向こう、さんざめくのは果たして蝉か、それともふたりの笑い声か、わからないままにとりは走った。

 

(なんて、なんて嫌な暑さ!)

 

 火照った顔の汗を拭い拭いに、にとりは走り続けたのだった。



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5

 空ののっぺりとした白が橙になる頃、にとりは幾ばくの平静を取り戻していた。走り疲れた頃、自分を慰める落としどころとして導き出した結論は、今日聴いていたのがラモーンズで本当によかった、というやや消極的なものだったが、痛ましいシャツの胸元“NO FUTURE”を撫でおろして、それ以上はもう考えないことにしたらしい。それからというもの、にとりは白昼を呑気一徹に堪能して、いよいよ夕方まで歩きおおせていたのである。

 

(気持ちのいいもんだ。なんだか、心が軽い感じがして)

 

 雑然たる町並みはにとりの抱えるあらゆるしがらみを絡めとっていた。文と椛のふたり、正邪と針妙丸のふたり、にとりにとってはそのどちらも路傍に転がる空き缶と同じ、どうでもいいことのように思えた。緩い風がにとりの頬を滑っていく。にとりは揺れる髪を軽やかに感じた。不意に耳元の騒音を思い出す。町はもう、あれからずっと忘れるほどに繰り返されたパンクロックが不釣り合いな夕景で、にとりは自然とイヤホンを外した。風のなか、静寂があった。それは束の間の静寂で、きっと風が止むまで続く一瞬の安らぎに違いなかった。にとりは安堵する。どうにも、風は永遠に吹き続けるような感じがした。緩く、緩く、いつまでも。そんなことを思えばすぐにシャツの“NO FUTURE”を陳腐に感じて、にとりはよくわからないままにはにかんだ。

 

(帰ろう、帰っていつもの曲を聴くんだ。そうしたら、じきに夕食の時間になって……それからいつも通りにテレビが流れて、夜がきて……)

 

 にとりはイヤホンをカセットにぐるぐると巻いて、ポケットにねじ込んだ。そうして踏んだ一歩目はどこか尊厳めいた感じがして、にとりの口を開かせる。「さよなーらさえー……」こぼれるのはいつもと同じ歌謡曲で、やはり風は止むことなく、にとりの頬を撫で続ける。あまり行かない駄菓子屋、馴染みのスーパー、つまらない路地の数々。路地を抜ければ懐かしい公園通りに差し掛かる。風が止んだのはそのときだった。驚いて足を止めたにとりの視線の先、一学期に教室を騒がせたかの緑色が在った。

 

(ひ、ひな! 鍵山雛がいる……)

 

 公園通り、並木道のなか鍵山雛は数名の子供たちと共にゴミを拾いをしているらしい。いわゆるゴミばさみと大きなゴミ袋を携え、袋の中には落ちた木の枝や丸まったチラシや、また別のゴミを内包した白いビニールなどがあった。ゴミばさみで今しがた剥がし終えたガムを支障なくゴミ袋に放って、雛はにとりに軽く会釈をして口を開いた。

 

「どうも。河城くん……でよかったかしら?」

 

 ボランティアだろうか。声をかけられたにとりの頭にまず浮かんだのはその言葉だった。

 

「いや、ええと。……どうも、鍵山さん」

 

 しかし雛が子供たちと行うそれが町に対する無料の、無償の奉仕だったとして、はたまたなにかそういったアルバイトだったとして、自身にはかかわりのないことをすぐにわかって、にとりは極力平静を装って挨拶を返した。内心ではいつか見聞きした噂や夢がにとりの心を慌てさせていた。雛の噂話にひとまずの終止符を打ったのが自分であるという浅ましい自負もあった。にとりはその場を離れるに離れられず、足を止めなんとはなしに口を動かす。「これは、そのう。なに、やってんの? ボランティア?」雛は可笑しそうにくすりと笑って、にとりの目をみて、聞き返した。「どう見える?」にとりは思わず目をそらす。馬鹿なことを聞いた。そう思った。「まあ、ボランティアだろうけどさ」雛はゴミばさみを持ったままの手で口元を隠してまた似たように笑った。にとりはどうも、蝉の声や夢中になってゴミを拾う子供たちの姿が不調和な気がした。なにと不調和なのかはにとり自身わからなかったが、とにかく腕を組んで窺うように眉をひそめた。

 

「なんだろ。なんていうか、ええと。いつまでやるのさ、それは」

 

「あと三十分くらいね。河城くんもやる?」

 

 なんだかわからないまま、にとりは頷いた。よく見ればあちこちにゴミが落ちている。余っていたゴミばさみでそれらをせっせと拾い集めている最中、にとりが考えるのはそれとは関係のないことばかりだった。家に帰ったらお風呂に入ろう、今日の夕飯はなんだろう、夕飯のあとはなんのテレビをみよう。とりとめもなく考えながら体を動かせば、辺りはすぐに暗くなっていた。

 

「はい、道具返すよ。ありがとね、混ぜてもらって」

 

 こちらこそ、の声に、にとりはにべもなく終わる雛の一日を感じた。雛はきっと、この暗い夕方を子供たちと歩いて、家に着けば同じように夕食を食べて過ごすのだろう。それはただの想像だったが、にとりはその想像に確かな実感をもって触れた。気付くと風が吹いていた。昼のそれよりずっと緩い、はたと忘れてしまいそうに緩い風だった。すこしだけ涼しい。子供たちは膨れたゴミ袋をどうして持ちたがっている。「ねえ、毎日やってんの。こういうの」雛は結び終えたゴミ袋のそれぞれを二、三人にひと袋ずつ持たせているようだった。「ええ、夏休みの間なら毎日」ふうん。と、こぼれる自身の声を、にとりはどこか他人事のように聞いていた。不思議なイメージがにとりを支配していた。黒いだけの空間に、突如としてうっすらと光る白い柱が浮かび上がってきたような錯覚を覚えていた。カア、とカラスが鳴いて、にとりは我に返る。ぼんやりと済ませた別れの挨拶に軽く手を振って、雛はもうどこかへ帰ろうとしていた。

 

「あの! ……あのさ、明日もやるなら、その。わたしも来ていいかな。たぶん明日もひまなんだ、わたし」

 

 雛は可笑しそうにくすりと笑って、もちろんと返した。

 

 帰り道、にとりは覚束ない足取りで歩いた。頭のなかは空想ともつかぬ空想でいっぱいで、自宅を通り過ぎたことに気が付いたのはすっかり夜になったころだった。ハッと冷静になって来た道を引き返す。しかし歩いているうちににとりはやはり考え込んでしまう。腕を組み、片手を顎にあて、むむむとうなりながらとぼとぼとした。路傍、ゴミ箱のふたの上で猫が寝ている。

 

(これはなにかがちがうぞ。文と椛のふたり。正邪と針妙丸のふたり……それらとは明確に、なにかがちがう!)

 

 とぼとぼと同時にぶつぶつとするにとりを、猫が片目で見送った。かくしてにとりの夏が始まるのだが、にとりはなんの自覚もなかった。胸に躍る“NO FUTURE”も、いつか見た夢も忘れるほどに、にとりの帰途は無自覚で、どこかでずっと、秋刀魚が焼ける匂いがした。



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6

 朝もやにスズメの声が響いている。にとりは寝間着のまま、小さな庭の小さな木椅子に腰かけていた。にとりは上の方を見ながらぼんやりとする。遠くでゴミの焼ける匂いがした。それはにとりが今朝はじめて感じたスズメ以外の生き物の営み、その気配だった。にとりの座る木椅子は本当に小さなもので、ともすれば膝元にすら届かないほどの高さしかなかった。幼いころ、何度目かの誕生日に、父親のつくってくれた椅子だった。朝露にじっと湿っている側面を、にとりの手が無意識に撫でる。半自動的に大脳皮質が思い出を出力すれば、にとりの朝は俄然しらんだ。それは思い出せない思い出で、幼さという抽象だった。霧が揺れている。吸い込めば溺れてしまいそうなほど白い霧だ。にとりは深く息を吸う。呼吸と、スズメの鳴き声と、幼い記憶の抽象のみが、夏の庭に茫洋と在った。「あー」声を出そうとまったく動じぬ霧の朝に、にとりは漠然と包まれ続けた。あんまりにまぼろしめいてこわくなったから、にとりは母親を起こしに行った。訳もなく起こした母親にお腹が減ったと小さな嘘をついてみると、にとりはぐんと現実が戻ってくるような不思議な感覚を覚えた。実際、ちょっとお腹が減っていたことに気が付いた。

 

 来る日も来る日も、にとりはゴミを拾い続けていた。初日こそ集合場所を聞き損じて合流に手間取ったにとりだが、二日目からはそつなく雛と合流してゴミを拾った。雛と子供たちは言葉通りに夏休みの最中はずっとゴミ拾いに明け暮れているらしかった。不思議に思わないにとりでもなかったが、如何せん毎日変わらない子供らの顔ぶれには率直にどうしてを尋ねることはできなかった。なによりもって不可解なのは引率を務める鍵山雛なのだが、にとりにとっては理由などはどうでもいいことだった。それこそ空き缶などと変わらない、どうでもいいこと。にとりにとって重要なのは自分をそのつながりに混ぜてくれない二人組の二つだけだった。文と椛、正邪と針妙丸、それぞれ睦まじくやってる様子の詰襟どもより、自分はもっと価値のある二人組を形成してやろうと、にとりはそう考えていたのだ。真夏、青い空が夕暮れ真っ赤に焼けるまで奉仕活動に興じる男子と女子、それはどうして素敵かもしれないと、にとりはそれだけを考えていた。よって、子供たち乃至は雛の境遇などちっとも興味がなかった。にとりにとって大切なのは男子と女子を対外的に強調する、長い髪や細い手足といった、雛の身体的特徴のみだった。

 

(もしあいつらに見つかれば、わたしはきっと一目おかれるに違いない。これはどうみてもなんだかいい感じだから)

 

 今日だって、にとりは二人組の二つ、そのいずれかに見つかることを空想してはゴミ拾いの退屈を埋めていた。しかしいくら時間を費やせど空想が実現することはなかった。にとりはもう何日も同じようにして、夏休みの貴重な一日をむなしいゴミ拾いで埋め続けていた。そう、学生にとって夏休み以上に大切な時間などあるはずもない。にとり自身それをわかっていたが、どうして退屈だった。理由と云えば明白なもので、間違いなくにとりの一人に起因するだろう。にとりは転がる蝉の死骸をゴミばさみで挟んで捨てる。鳴かなくなって転がるそれはまるで青春の抜け殻のようで、にとりは俄然むなしくなった。たまに死骸が音を立て蠢けばにとりは驚く。驚けば都度むなしさは“二人組”への妬みや僻みに転化した。

 

(……おもしろくない! これはどうして、おもしろくないぞ。なんだ、椛といい射命丸といい……わたしをのけものにして、いまごろ夏休みは青春の一ページを更新してる……違いないんだ!)

 

 青春の語句につられて、にとりの中で春以来の卑屈さが再燃していた。あたりにそれらしい“一人”がいれば八つ当たりすることもできたかもしれない。けれどにとりの周りにそれらしい一人は自身を除いてほかになかった。遠目に子供と笑いあってる雛の姿がみえる。にとりはどうしていたたまれずに、雛に声をかけることすらできない。

 

(おもしろくない、おもしろくない! なにが“それらとは明確にちがうふたり”だ! ばかばかしい。これじゃようわからん悪だくみをする正邪と針妙丸のほうが、よっぽどたのしそうじゃないか)

 

 それらしい一人が自分のほかにいないのなら、にとりはすぐに八つ当たりの標的を自分に定めた。そうすれば考えるのはひとつで、それは連日のゴミ拾いを決めた自身の軽薄さについてだった。にとりは即断即決のやり方をとれば、椛に起きた問題さえすぐに解決できると考えていた。しかし現実、上手くはいかなかった。男子と女子という“明確にちがうふたり”を形成すれば、それだけで楽しい日々が送れるだろうと高を括っていた。悪いのはぜんぶじぶんだ! にとりは急にすべてがばかばかしくなってきた。

 

(な、なにがゴミ拾いだ! わたしは馬鹿か? 馬鹿にちがいない! こんな、こんな無料の、無償の労働……金の為に働くのもばかばかしいのに、どうしてこんなことをしなきゃいけない? 馬鹿だ、こんな馬鹿なはなし、ほかにない……)

 

 そうと決まればにとりははやい。きたないゴミばさみと蝉でいっぱいのゴミ袋の両方をどこかにうっちゃってしまおうと、お誂え向きの場所を探した。雛や子供たちにすぐみつからないような茂みがいい。幸い、ここは公園だった。にとりは茂みに寄って、誰も見てやしないかと公園中を睨みつける。子供たちは遠くで集まってゴミを拾っている。(チャンスだ!)にとりは茂みの中に屈んで、両手のそれらを手放した。

 

「にとりちゃん、そんなところまで拾いにいくなんて。熱心ね」

 

「うわあっ!」

 

 気付けば茂みの前にいた雛に名前を呼ばれて、にとりはひっくり返った。にとりの反応に雛も一瞬驚いた素振りをみせたが、すぐに口元に手をやってくすくすと笑った。

 

「そろそろ休憩にしましょうか。お弁当、今日も食べるでしょう。ねえ、にとりちゃん?」

 

「う、うん……」

 

 尻もちをついて目をぱちくりやりながら、にとりはおずおずと答えた。

 

 



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