ぎゆしの (サイレン)
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ヤンデレぎゆしの
第1話 終わりの始まり


※読む前の注意
・本誌のネタバレを含みます
・原作とは異なる展開があります
・現パロを含みます
・とあるキャラがヤンデレ化します。キャラ崩壊が嫌いな方ご注意を










 パキ、パキンッと、氷が砕ける音が鳴り響く。

 

「冨岡さんっ、しっかりしてください冨岡さんっ!!」

 

 人と鬼と、一千年もの間続いた争いの、最後の決戦。

 そう表して相違無い鬼殺隊と鬼舞辻無惨の総力戦は、予期せぬ形で突如幕を開けた。

 

 上下左右が狂った血鬼術の空間に殆どの鬼殺隊士が放り込まれ、何百と蔓延る鬼共との熾烈な戦い。弱い鬼でも下弦の鬼程の力はあり、鬼殺隊の面々は各所で多くの者が散っていく。

 そして何より、最後まで残った上弦の月の、上から数えた最強の三体。

 彼らの強さは強大で、一対一では例え柱であろうと勝ち目が無い。百年以上も君臨し続けたその埒外さ。

 

 上弦の弐──童磨を討つのに、一人の犠牲が出た。

 一人で留まったのはその者が仲間を庇い続け、致命傷を一身に引き受けたからだ。鬼殺隊全体で見れば大金星と言っても過言では無いその成果。

 

 そんな思考に巫山戯るなと、胡蝶しのぶは叫んだ。

 

「すぐに治療を! 死なせません、死なせませんよ絶対に! カナヲ、伊之助君! 手伝ってください!」

 

 一緒に死闘を潜り抜けた嘴平伊之助と栗花落カナヲを呼んで、しのぶは必死の形相で倒れた冨岡義勇を抱きかかえた。

 ボロボロとなった姉の形見の羽織りを脱ぐ。切り刻んで多くの布として、患部に的確に巻き付ける。力の限り、少しでも義勇から溢れる命の雫を減らす為に。

 

 ──止まれ、止まれ、止まれ、止まれ!

 

 荒れ狂う心を押し付けてしのぶは手を動かし続けるも、願いとは裏腹に辺りは刻一刻と紅に染まってゆく。白かった羽織りはその面影をとうに無くし、ポタポタと血液が滴る程に酷い有り様。

 駆け寄ったカナヲと伊之助は側で義勇の状態を確認して、思わず手が止まった。

 

 悟ってしまったのだ、変えられぬ結末を。

 どう足掻いても救えない、自分たちの無力さを。

 

 一番良く理解していたのは義勇本人で。

 彼は優しい手付きでしのぶの手を取った。

 

「胡蝶」

「喋らないで下さい! 常中が解けてます、冨岡さん!」

「もうやめろ。俺は助からない」

「そんなことはありません!! そんな、そんなことは……っ!」

「お前にも判っているだろう……しのぶ?」

 

 名前を呼ばれても、しのぶは駄々を捏ねる幼児のように嫌々と首を振るだけ。握られた手を剥がそうとしのぶはもう片方の手を動かすも、こんな状態である義勇の握力にすら勝てなかった。

 

 なんと惨めな非力さか。

 頸も斬れず、唯一の長所である医術も死にゆく人を救えない。

 この戦いでも、しのぶは役に立ったと終ぞ思えない。

 

 この空間に落とされた時、しのぶは義勇と行動を共にしていた。

 柱が二人揃っていたのは幸運であった。並大抵の相手なら瞬殺可能な力量を備えているのに加え、普段から一緒に任務を遂行することが多かった義勇としのぶの連携は柱稽古が無くとも完成されていたから。

 

 それでも、上弦の弐には及ばなかった。

 結論から言えばこの一言に尽きる。

 

 義勇が斬り込み、しのぶが隙を見て毒を打ち込み、行動不能となった鬼に義勇が留めを刺す。

 上弦の弐に対しても有効であったこの戦術は早々に詰めのあと一歩まで戦況を運んだが、敵の血鬼術の強大さはこれまで相対した鬼とは一線を画していたのだ。

 

 攻撃範囲が広く、鬼殺の要である呼吸を潰す氷の血鬼術。

 

 気付いた時には、義勇の肺が壊されていた。

 その程度で倒れる義勇では無かったが、戦闘が長引くに連れてとある事実が頭を過ぎる。

 

 手が足りない。あと誰か一人、頸を斬れる者がいれば。

 自分を犠牲に血路を拓く決死の覚悟が義勇にはあった。だがそれでは敵を殺せない。鬼の頸を断てないしのぶでは、上弦の鬼は殺せない。

 

 一方でしのぶも戦闘開始からずっと機を伺っていた。

 自分を犠牲に活路を生み出すことが可能だとしのぶは知っていたから。髪の毛一本から血の一滴に至るまで藤の毒で満ちたこの身体を差し出せば、義勇なら確実に鬼の頸を断ってくれると確信していた。

 

 死の覚悟の仕方が異なっていたから、戦況が動いた時に即座に動けたのは義勇だった。

 部屋に通じる戸からカナヲが。

 天井を切り裂いて降り立った伊之助が。

 

 二人の参戦を機に電光石火で状況が動いた。しのぶが止める間も無く。

 敵の血鬼術の尽くを痣を発現させた義勇が特攻で切り拓いた。氷の吹雪も、降り注ぐ氷柱も、扇から放たれる一閃も、巨大な氷像も、上弦の弐へ至る全ての障害を。

 千載一遇の好機にしのぶが頸に毒を打ち込み、カナヲと伊之助の二人が渾身の三振りで切断。

 

 死闘の幕が降りたと同時に義勇はその場で崩折れ、もう二度と自力で立つことはない。

 

「……師範」

 

 か細い声でカナヲがしのぶを呼ぶ。

 義勇と目が合い、その遺志を汲み取ったカナヲは何度も呼び掛ける。

 

「師範」

「カナヲ! 何か布を! あと火を焚いて下さい! 最悪傷口を焼いてでも」

「師範……」

「ぼーっとしてないで早く──」

「──しのぶ姉さん!!」

 

 初めて聞くカナヲの怒声。

 罪を咎められた罪人のようにビクッと震えたしのぶは、姉と呼んでくれたカナヲを見る。

 瞳に涙を溜めて、唇を噛み締めていたカナヲは、残酷な現実を重苦しく吐き出すしかなかった。

 

「水柱様の、最期のお言葉です」

「────」

 

 時が止まったかのような、鈍重な静寂が訪れる。

 判っていた。こんな場面はもう何度も立ち会ってきた。

 

 遺言を聞き取る最後の役目も。

 

 助からない誰かを看取る時、いつものしのぶならそうしていた。

 なのにどうしてか、その者が義勇となったこの時、平常心なんて保てなくて。

 凡ゆる感情がしのぶの顔から抜け落ちるのをカナヲは初めて見て、遂に涙が溢れ出す。隣に立っていた伊之助も滂沱の涙を零していた。

 

「栗花落……」

「……はい」

 

 沈黙の帳を開けたのは義勇で、優しげな声音にその場の全員が思う。

 ……ああ、これは、本当に遺言になってしまうのだな。

 

「しのぶと……炭治郎を頼む。あと、炭治郎には、最後まで見届けられずにすまないと、伝えてくれ」

「……はい……っ!」

 

 拳を強く握り締めて、カナヲはその想いを受け取った。

 

「嘴平……」

「……おう」

「強くなったな、見違えた。……あとを頼む」

「おう……っ!」

 

 伊之助にとって義勇は初めて出会った格上の相手で、そんな義勇に認められた事が嬉しくて、何も出来ない自分が悔しくて、流れる涙は止まらない。

 相変わらずの言葉少なさに、次の瞬間には何事も無く義勇が動く姿を幻視してしまう。

 儚い幻想だと、分かっていても。

 

「しのぶ」

「……はい。何ですか、冨岡さん」

「ずっと、言いたかったことがある」

「……おや、それは初耳ですね」

 

 俯いたままのしのぶの顔を見詰めて、義勇の顔は能面のままだった。

 

「姉の笑顔を貼り付けるのはやめろ」

「っ!? ……あ、貴方って人は、こんな時に……っ!」

「久しぶりに、お前の笑った顔が見たい」

「っっっ!?」

 

 しのぶの言葉が喉の奥で詰まる。

 つい飛び出してしまう素の自分。

 そうだ。昔の自分は、姉を喪う前の自分は、もっと直情的な激情家だった。

 感情に振り回されがちで、今のように嫋やかに笑う事なんて一度も無くて。

 

 義勇を前にすると、少しだけその頃が思い出せて。

 

 だから自分は義勇にちょっかいを掛けていたのだなと、不意にそう自覚した。

 

「……全く、こんな時になんて事を言うんですかね。この天然ドジっ子さんは」

「……そうだな」

「柱とあろうものが情けない。昔から無茶ばかりして、少しは私と姉さんの苦労を分かってください」

「世話を掛けた」

「……仕方がないですから、お休みになるまで私が手を握ってあげますよ、義勇さん」

 

 ニッと、涙と悲しみを押し殺して、普段とは異なる懐かしい勝ち気なしのぶの笑顔が花開く。

 本当のしのぶが蘇ってくれて、義勇の口元が淡く綻んだ。

 

「……ありがとう」

 

 最期に良いものが見れた。満足だった。

 もう二度と目の前で家族や仲間を死なせない。

 己の魂に刻んだ誓いは守れた。初めて柱として誇りを持てた気がする。

 

 もう、限界だった。

 

 ──蔦子姉さん、錆兎。今行くよ。

 

 それが、最期で。

 ふっ、と。

 義勇の身体から、大事な何かが抜け落ちた。

 

「義勇さん……?」

 

 名前を呼んでも、返るものは何もない。

 仏頂面な沈黙も、対応に困っている反応も、況してや言葉なんて、何一つ返らない。

 呼吸は絶えて、鼓動は止まって、灯火が消えて。

 

 たった今、義勇が死んだ。

 

「…………嫌だ」

 

 頭が理解を拒否する。

 両親が殺された時、姉が惨殺された時。

 同等の感情が心に荒れ狂う。

 

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!?」

 

 しのぶは泣きながら義勇の手を握り締めて叫び続けた。

 

「義勇さん!? 目を開けて、目を開けて下さい義勇さんっ!? どうして、どうして私をおいていくんですかっ!? みんな……どうしてっ!?」

 

 どうして私をおいて、逝ってしまうの?

 私だけを残して。

 

 ──私が愛した、誰も彼も。

 

「……あっ」

 

 呆然と、しのぶの口から声を漏れる。

 気付いてしまった。

 自分の想いに、抱いていた恋情に。

 

 家族以外の、異性として初めて慕っていた人。

 

 彼が死んだ、その時に。

 

「……あ゛ぁああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!?」

 

 喉が張り裂ける慟哭が木霊する。絶望の嘆きは止む事が無く、歪なこの空間に響き渡って収まらない。

 パキンッと割れたのは、氷ではなくて。

 

 家族の二度の死でひび割れ壊れて、怒りと憎しみを糸に繋ぎ合わせたしのぶの心。

 継ぎ接ぎだらけで保っていたその心が、義勇の死で完全に砕け散った。

 

「しのぶ姉さんっ!!」

 

 このままじゃいけないと、カナヲはしのぶを包み込む。

 過去の自分のようになっては駄目だ。何も考えられず、何も判断出来ない。人として大事な全てを喪った只の人形に変わり果てる前に、その手を掴んであげなければ。

 ぎゅっと固く抱き締めて、泣き叫ぶしのぶに寄り添い続けた。

 

 どれだけの間そうしていたのか。

 その嘆きはやがて小さくなり、止んでいった。

 枯れた喉が声を出せなくなったからだ。

 音が消えた空間で、しのぶの中に残ったもの。

 

 憎悪、赫怒、殺意、悲痛、愛情。

 

 ただ一つ残った人としての理性を保つ感情()を糧に、しのぶは上を向く。

 その顔からは、笑顔の仮面が消えていた。

 

「義勇さん……」

 

 物言わぬ骸となった義勇の、ボロボロとなった羽織りを丁寧に脱がして手に取る。血で汚れたそれは所々赤く染まっているが、なんとか着物の形を整えていた。

 義勇の身体を地上へ持ち帰ることは出来ない。戻る方法も分からないし、最終目標である鬼の始祖を滅ぼすのにおいて、荷物にしかならないから。

 それでもしのぶは、形あるものを身に付けたかった。

 義勇が生きていた、その証を。

 

「そんなにあるなら、少しくらいいいですよね?」

 

 背の半分で模様が異なる羽織りを着たしのぶは日輪刀を手に取って、義勇の一つ結んだ髪束を切り取る。

 自身の羽織りの残骸で無理やり腰に括り付けた後、しのぶは最後に義勇の手を取った。

 

「必ず殺します。今日で終わらせます。だから、見守っていて下さい」

 

 瞑目して、祈りを捧げて、しのぶは義勇の両手を横たわった彼の胸の上に置いた。

 立ち上がったしのぶは、振り返ることを我慢してこの部屋を出る扉へと進む。

 その左頬には、蝶を模した痣が発現していた。

 

「カナヲ、伊之助君。いきますよ」

「はいっ!」

「おうっ!」

 

 部屋を飛び出して、三人は悪鬼をこの世に解き放った元凶の元へと向かっていく。

 三人のその様子を、一羽の烏だけが見届けていた。

 

『カァアアーーッ‼︎ 死亡‼︎ 冨岡義勇死亡‼︎ 上弦ノ弐ト相討チ‼︎ 義勇‼︎ シノブ‼︎ カナヲ‼︎ 伊之助‼︎ 四名ニヨリ‼︎ 上弦ノ弐撃破‼︎ 撃破ァアア‼︎』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、時は流れて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『行ってきます』

 

 少女たちの声に、行ってらっしゃいと両親の声が返る。

 通学路を進む制服に身を包んだ姉妹二人。

 同じ蝶を模した髪飾りを付けた彼女たちは、楽しげに話しながら歩いていた。

 

「今日からカナヲも高校生ね。どう、楽しみ?」

「はい。またしのぶ姉さんと一緒に登校できて嬉しいです」

「私も嬉しいわ」

 

 胡蝶しのぶと栗花落カナヲ。

 事情があって名字が異なるが、二人は中高一貫キメツ学園でも人気を誇る美人姉妹であった。

 

 道行く人の視線を集めているのを華麗に無視して、二人は雑談に花を咲かせる。

 

「カナヲは運動系の部活動は何かやらないの? バスケとかならカナヲ得意でしょ?」

「あはは。実はまだ決めてないんです。あっ、でも薬学研究部には入部します」

「部長として歓迎しましょう」

 

 学園に近付くに連れて知り合いの姿が多く見受けられる。

 人気者なしのぶとカナヲに挨拶をする生徒は多く、二人はどんな相手にも朗らかなに対応していく。

 

「それにしても……」

 

 挨拶の波が途切れたその合間に、しのぶは今朝の出来事を思い出して顎に手を寄せた。

 

「姉さんは結局どこに就職したのか……聴いても教えてくれないし」

「今朝も慌ただしく出勤してました」

「全く、姉さんにはもう少し落ち着きを持ってほしいのに」

 

 少しだけ頰を膨らませるしのぶ。

 どんなに聴いても「えへへー、内緒よー」としか言ってくれない姉の態度を思い出して、今更ながら腹が立ってきたのだ。

 その後もしばらくしのぶの小言を収まらなかったが、そんな感情豊かなしのぶを見てカナヲは心から安心する。

 

(しのぶ姉さんにはやっぱり記憶がないんだ……)

 

 カナヲには前世の記憶があった。

 鬼と呼ばれる人間の天敵である存在を滅殺していた、鬼狩りの頃の記憶が。

 はっきり言って、凄絶な記憶だ。残酷に彩られ、悲劇に満ちていた前世の記憶。

 

 しのぶのそれはその中でも極まっていただろう。

 両親を殺され、姉を惨殺され、共に戦った同胞を喪った。

 三度も大事な人を亡くしたしのぶは、死ぬ瞬間まで無理をし続けていたのだ。

 

(多分、きっかけになるのは水柱様……)

 

 存在しているだろう彼と会えば、しのぶはきっと記憶を取り戻してしまう。その確信がカナヲにはあった。

 カナヲが前世を思い出したのも大事な人たちと再会した時だからだ。

 親から虐待を受けて養護施設にいたカナヲを、しのぶの両親が引き取った時。幼いしのぶともう一人の姉を見て、頭を鉄槌で弾かれたような衝撃に襲われた。

 意識を失って次に起きた時には、鮮明に前世の記憶を思い出していたのだ。

 

 つまり、きっかけさえあれば思い出してしまう。

 しのぶが両親や姉を見て思い出さないのであれば、あとはもう彼しかいない。

 

 恐らく、慕っていたのだろう。

 彼を喪った後のしのぶは、殆ど抜け殻となってしまった。

 形見である羽織りと切り取った髪束を肌身離さず、最終決戦を終えて事後処理を完遂した直後、やり残した事はないと追うように息を引き取ったのだから。

 

(あんな凄惨な出来事は思い出して欲しくないけど、しのぶ姉さんの想いが成就してほしいって気持ちも嘘じゃない)

 

 心の内でうんうんと唸るカナヲであるが、自分に出来ることは驚く程に少ない。そもそも、その彼に出会わなければ何も進展しないのだ。

 

 ただ、予感はしていた。

 カナヲの代が高校生になったこの瞬間に、止まっていた時間が急速に動き出すような、そんな予感が。

 

 カナヲは願う。

 最愛の姉の、限りない幸せを。

 成し遂げられなかった人としての、女性としてを幸福を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昔から、何か大事なことを忘れている、そんな気がしてた。

 両親と言葉を交わす度に、姉と触れ合う度に。

 記憶の奥底に眠る、自分を形作ったのだろう大事な思い出が刺激された。

 一番揺らいだのは妹が出来た時だったろうか。

 血の繋がりはないのに、けれど掛け替えない家族だと、出逢った瞬間にそう思っていたのだ。

 

 その日から、しのぶは頻繁に夢を見るようになった。

 起きた瞬間には霞の向こうに消えてしまう夢特有の感覚を何度も体験した。

 内容は鮮明に思い出せないのにどうしてか深く残る、夢の欠片。

 

 この現象の正体が分からないまま結局高校最後の年にまでなってしまったが、答えは唐突に訪れた。

 

 

 

 キメツ学園は入学式と始業式を同日に行う。

 膨大な人数が入ってもなお余裕のある大きな体育館で、しのぶは粛々と式の進行を見守る。

 新入生の入場、新入生と在校生の代表が行う挨拶、校歌斉唱に学園長の挨拶。

 言ってしまえばいつも通りの、何一つおかしなことはない式典。

 

「最後に、この四月から新たにキメツ学園の先生となる方々を紹介するね」

 

 挨拶の後、進行役に回すことなくそのまま学園長がそう言い、舞台袖へと合図を送る。

 指示に従い、入ってきた数人の大人たち。

 

「……えっ?」

 

 見た瞬間に、しのぶの時が止まった。

 見知った顔がいて驚いたのもある。今朝慌ただしく家を出て行った姉が先頭で出てきたのだから。

 

 だがそうではない。

 驚愕だけでは説明の付かない、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃。

 しのぶが見詰める先は姉ではない。

 

 しのぶ以外にも、過剰な反応を示した者は少なからずいた。

 ある者は大きく瞳を見開き。

 ある者は口元に手を寄せて。

 しのぶだけは、鈍痛を堪えるように頭を抑える。

 

『胡蝶』

 

 懐かしい声が聞こえる。

 

『俺は嫌われてない』

 

 思い出せなくてもずっと胸を焦がしていた、彼の声。

 遥か昔に見た幾つもの光景が、ザザッとブレながら映像として脳内に蘇る。

 

『……ありがとう』

 

 痛みはどんどんと強くなってゆき、駆け巡る記憶の渦は唸りを上げてしのぶへと襲い掛かる。

 堪え難い激痛の中で、しのぶの視線はとある男性を捉えて離さない。

 方々に跳ねた癖のある、一つに結った漆黒の髪。

 彫刻のようにすっと整った目鼻立ち。

 白磁の肌に映える海の底のように深く綺麗な蒼い瞳。

 

『しのぶ』

 

 次の瞬間、しのぶの意識は闇に溶けた。

 誰かが自分の名前を呼んだ、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開けて映ったのは、見慣れぬ白い天井だった。

 

「ここは……保健室?」

「お目覚めになりましたか、胡蝶さん」

 

 どうして自分が此処で寝ているのか、という思考をする前に掛けられた声にしのぶは反応する。

 目の前にいた女性を見て、ポロっと漏れた。

 

「珠世さん……?」

「……やはりそうですか」

 

 その呼称で全てを察したキメツ学園の保険医である珠世は、一先ずその答えを余所に柔らかな表情を浮かべた。

 

「式典の途中で倒れたのを覚えていますか?」

「倒れた? 私が、ですか?」

「ええ。阿鼻叫喚でしたよ」

 

 男女問わず人気を博すしのぶが倒れたのだ。その混乱は推して知るべしというもの。

 皆に迷惑を掛けてしまったのだなと申し訳ない気持ちになると同時に、一体何があったのかを思い出そうとして。

 

「しのぶっ!!」

「しのぶ姉さんっ!!」

 

 派手に音を立てて開かれた扉にびくりと身体が跳ねた。

 

「姉さん、カナヲ……」

「しのぶ大丈夫なの!? 急に倒れるなんて、体調が良く無かったのなら言ってくれないと!」

「しのぶ姉さん、大丈夫ですか!?」

「わ、私は大丈夫だけど……」

 

 勢い良く迫る家族に簡単に返答するも、その背後で般若の微笑みを刻む女傑を見てしのぶは身震いする。

 

「栗花落さん、胡蝶先生?」

『ッ!?』

 

 ビクンッ! と身体を硬直させる二人。

 ギギギと壊れ掛けのロボットのように振り向いた姉妹は、其処に鬼を見た。

 

「保健室の扉をあんな荒々しく開けるなんて、他の患者がいたらどうするのですか!?」

『すみませんっ!!』

 

 鋭い叱責に即座に謝罪する。

 垂直に折られた腰と、ふるふると震える二つの脳天を見て、珠世は仕方がないといった様子で溜め息を吐いた。

 

「胡蝶さんが心配なのは分かりますが、もう少し落ち着いて行動してください」

『はい、申し訳ありませんでした……』

 

 しゅん、と凹む二人を苦笑いして見守っていたしのぶは、ふと今更ながらに違和感を覚えた。

 

「ん? なんで姉さんが此処にいるの?」

「それは私が新任の教師だからよー! サプラーイズ!」

 

 転瞬、急に元気になった実の姉──胡蝶カナエはしのぶにからりと笑う。

 いつもなら呆れて物も言えないと溜め息を吐く場面なのだが、しのぶは刹那、完全に止まった。

 

 カナエが言った、新任の教師。

 そうだ、式典で見た最後の光景はそれだった。

 視界が黒く染まって途絶えた、その前に。

 しのぶは一目で釘付けになったのだ。

 思い出したから。

 ずっと焦がれていたから。

 記憶の奔流の中、確かに見た、あの人の姿に。

 

「っっっ!!!」

「えっ!? ちょ、しのぶ!」

 

 気付けばしのぶは掛け布団を思い切り払って駆け出していた。

 背後から聞こえるカナエの声も無視して、しのぶは一心不乱に走っていく。普段なら廊下を走るなんてはしたない真似をするわけないのに、今は脚を止めることなんて出来なかった。

 

(思い出した……思い出した思い出した思い出した!)

 

 疾走する間にも掘り起こされていく記憶の数々。

 端的に言って、凄惨なものばかりだ。両親も、姉も、弟子も、同僚も、みんな死んでしまった酷い過去。

 己も常に傷付きながら、精神も身体も凡ゆるものを擦り減らしながら前へと突き進んでいた。姉の仇を討つことだけを胸に邁進し、その身体を鬼殺の毒で満たして、結局何も出来ず、愛していたと知った唯一の人を犠牲に生き延びて。

 

 そんな悲痛な記憶なのに。

 それでも、しのぶの心を埋め尽くしたのは歓喜だけだった。

 

 だって今は、みんなが生きている。

 鬼なんて理不尽な生物も存在しない。

 

 何よりも、あの人が生きているのだ。

 

(義勇さん……!)

 

 恋心の自覚と同時に、一生叶う事が無くなった共に生きる未来。

 あの時代の自分は女の幸せなど求めていなかったが、失って初めて思い知ったのだ。全身を引き裂くような痛みを。死んでしまいたいと思う絶望を。

 喪失してからも、いや、その後の方が募る想いは増大していった。思い出を指折り数える瞬間だけが、抜け殻となったしのぶが人間に戻れる時間だった。

 

 しのぶはもう、とっくに狂っていたのだ。

 

(ああ、やっと、やっと、やっと……っ!)

 

 視界の先に職員室が見えた。

 しのぶは一度止まって、乱れた髪と身嗜みを常備していた手鏡で整える。少しでも異性に良く見られたいなんて、体感した事の無い可愛げのある緊張が妙に心地良い。

 胸の高鳴りは止まない。あの程度の距離走っただけではあり得ないほどに鳴る心臓の鼓動がうるさい。身を焦がすような熱が内側から滾って、しのぶは目を閉じ胸に手を寄せて大きく息を吐き出した。

 

(感情の制御ができないのは未熟者、未熟者です。落ち着きなさい、落ち着いて……)

 

 自らに言い聞かせて、ゆっくりと瞳を開ける。

 ガララッ、と扉が開く音がした。

 

「いやー、知り合い多くて派手にビビるな!」

「うむ! 見覚えのある者が多いな!」

「……そうなのか?」

「あぁーっ……まぁ気にすんなよ、冨岡!」

 

 出てきた三人の男性教師にしのぶの平常心が吹き飛んだ。

 知っている、全員覚えている。

 本当にお前教師なのかと疑う派手な宝石が装飾された額当てをしている偉丈夫と。

 揺らめく炎のような髪が目を惹く強い眼光を放つ男と。

 

「──義勇さん!」

 

 気付けば、しのぶはその名を口にしていた。

 名を呼ばれた彼と、一緒にいた二人が一斉に顔を向ける。

 変わらない。あの頃とまるで変わらない。

 胡蝶しのぶが慕っていた、その人が。

 

 冨岡義勇が目の前にいた。

 

 しのぶは瞳が涙で濡れそうになる。制御なんて不可能な喜色が全身を彩り、ドクンドクンと血の巡りが早くなって熱くなる。

 固まっていた三人を置き去りに、しのぶは後ろで手を組みながら距離を詰めた。

 

「おや、久し振りの再会だというのに、返事も無いんですか? 全く、そんなだから義勇さんは……」

 

 にやけそうになる口元を抑えて近付くしのぶ。

 その頃になってやっと再起動した三人だったが、反応が二分された。

 派手な偉丈夫と炎のような男はしまったと言わんばかりに片手で頭を抱え、残り一人は小さく首を傾げて。

 黒髪を一つに結った蒼い瞳の教師──冨岡義勇が口を開いた。

 

「……誰だ、お前は?」

「……えっ?」

 

 誰何されたしのぶは、想定外の事態に静止する。義勇から発せられた言葉の意味が理解出来ず、無防備にも思考停止してしまった。

 

「すまん、胡蝶妹」

 

 ちょいちょいと手招きされて、しのぶは呆然と義勇から少し離れるように移動する。

 頭をがりがりとかく偉丈夫はどーすっかなーっとしのぶを見下ろして、諦めたように言葉を紡いだ。

 

「お前、記憶持ちでいいんだよな?」

「……はい。お久しぶりです、宇髄さん」

「式典で倒れたって聞いたが、まさか……」

「……その通りです」

「あぁーーー……マジかぁ〜……」

 

 隠された内容を推察するのは容易で、心底困ったという態度の偉丈夫──宇髄天元は、冷や汗なんて垂らして苦笑いした。

 同僚との会話でようやく脳が働き始めたしのぶは、とある可能性を確信した上で天元に問う。

 

「宇髄さん。もしかして義勇さんは……」

「あぁ、彼奴は思い出してねぇ」

「っ!?」

「煉獄はこっち側だがな」

 

 突如離れた二人を訝しむ義勇をわははと笑って誤魔化す炎髪の元同僚──煉獄杏寿郎。

 元気なその様子をしのぶは嬉しく思うも、数秒もしないうちその感慨は消え失せて義勇しか目に入らなくなる。

 

 なんで、どうして……。

 

 私は貴方を覚えているのに。

 頭がおかしくなるくらいに想っているのに。

 狂おしいほどに愛してしまったのに。

 

「しのぶ! 急に走り出してどうしたのっ……って、あれ?」

 

 混沌としたこの状況で現れたのは、保健室から廊下を走らずに、ただし競歩のような必死さで移動してきたカナエだった。

 

 うわこれ最悪の展開だぞ……と、天元は一人冷や汗を流していた。

 

「煉獄くん、宇髄くん、義勇くん。どうしたの? 何かあったの?」

 

 何処か不穏な雰囲気を察したのだろうカナエは小首を傾げて問い掛けるも、即座に返答できる者が居なかった。

 義勇はそもそも何も分かっていない。

 しのぶは黒くて暗い焔が点り始めていて正常な思考が不可能となっている。

 杏寿郎には記憶はあったが、途中で離脱した為にしのぶの気持ちを正確に把握出来ていない。

 カナエは義勇と同じで覚えてないし、この後爆弾を投下することが目に見えていた。

 

 天元だけが状況の全てを把握していた。

 

 俺こんな役目マジで嫌なんだけど! と内心嘆きつつも、既に崖っぷちに追い込まれて逃げられないと悟って天元は口を開ける。

 

「いや、別になんもおかしなことは──」

「カナエ」

 

 こういう時、義勇は絶対に裏切らない。主に悪い意味でだが。

 お前マジで喋らないでと天元の蟀谷に青筋が刻まれるが、動くのは名前を呼ばれたカナエの方が早かった。

 

「ん? どうしたの、義勇くん」

「其奴はお前の妹なのか?」

「しのぶのこと? そうよ、私の可愛い妹!」

 

 にへらーっと笑ってしのぶを紹介して、とことことカナエは義勇に近付いた。

 

「俺はお前の妹と会ったことがあっただろうか?」

「しのぶと? 私が知る限りないけど、なんで?」

「さっき名前で」

「ごほんっ! まぁまぁいいではないか! 先程倒れたと聞いたが、大丈夫そうで安心したぞ!」

「……そうだな、大事なくて良かった」

「えぇ。義勇くん、煉獄くん、心配してくれてありがとう」

 

 カナエは微笑んで二人に感謝を述べて、自然な足取りで義勇の隣に寄り添う。

 いつもの慣れで杏寿郎は一歩引くが、その行為が今だけは最悪の動きに天元には見えた。

 

「宇髄さん」

 

 地獄の底から響くような、怨念と虚無に塗れたその声音に天元は総毛立つ。

 無視するなんて到底出来ず、天元は何故か姿勢を正してしまった。

 

「義勇さんと姉は、仲が良いのですか?」

「あー、うん、まぁそうとも言えるな」

「関係は?」

「まだ彼氏彼女ってわけでは」

「まだ?」

「あーー、うーーーん……姉の方がな、まぁ色々あって気があるのかなーって、そんな感じじゃねぇのかなぁーと思わなかったりするんだが……」

「そうですか」

 

 ──やだやだマジ此奴怖過ぎるんだけど!?

 

 疑問を投げ掛けるしのぶは淡々としていたが、その藤色の瞳には明かな狂気を孕んでいた。

 しのぶがカナエに向ける眼は間違っても愛おしく大切な家族に向けるものではない。

 あの頃の眼、悪鬼を見る眼よりなお恐ろしい極黒。

 

「カナエ姉さん、しのぶ姉さん……っ!?」

 

 遅れてやって来たカナヲは場に揃う一同に瞠目して、しのぶが纏う異様な気配と義勇と仲良さげにしているカナエを見て時が止まる。

 刹那の間にその優れ過ぎている眼で一人一人を観察し、働いてはいけない女の勘も作動してカナヲは顔面蒼白となった。

 

「……えっ、嘘? まさか、そんな……」

 

 口元に手を寄せてカナヲは震え上がる。

 考え得る中でも最悪も最悪。どうしてこんなことにと、この不可思議な現象を初めて呪う。

 自分だけではどうしようもない状況に、カナヲは天元に縋り付いた。

 

「音柱様、音柱様っ!!」

「いや、……これはムリだろ」

「そんなこと言わないで下さい!!」

 

 ざわざわと騒ぐ外野の音。

 それらの一切がしのぶの耳には入らない。

 

 黒くてドロドロとした感情が際限無く湧き上がる。肉も骨も五臓六腑の全ても煮え滾って溶けるような、怒りとも憎悪とも違う感情の奔流。

 これは愛だ。一人の異性に向けるどうしようもなく大きくて重い愛。

 しのぶは喜ぶべきだろう。こんなに好きになれる存在がこの世に存在していたことに。

 この想いを成就させるためにしのぶは思い出したのだ。これはきっとこれまで頑張ってきたしのぶへのご褒美に違いない。

 

 だというのに、太々しくもそれを邪魔する者がいる。

 

 許せない、許さない。私の彼を淫らにも誘惑して誑かそうなんて。それが例え実の姉だとしても許されざる行為だ。今この瞬間にも色目を使っていることに、腑が焼き切れそうな嫉妬が燃え上がる。

 僅かに残った理性がしのぶを留めているものの、気を抜けば今にも叫び出しそうな激情が暴れ回っていた。

 裡で爆裂する熱を思考力に変えて、鬼殺の毒を生み出した聡明な頭脳を高速で回転させる。一刻も早く義勇を悪の手から救い出す方法を導き出す。

 

 そうだ、思い出してもらえばいいんだ。

 そうすれば義勇は必ず自分の手を取ってくれる。

 口下手なその言葉で愛を囁いてくれる筈だ。

 

 前世を思い出すのに必要なのは、恐らくあの頃の人々との再会。態度からしてカナヲや天元たちも思い出しているのだろう。あとは芋蔓式に全員を集めてしまえばいい。そうすれば義勇にだって何かしらの変化が生まれるはず。

 

 方針は決まった。

 もう一分一秒も無駄に出来ない。

 しのぶの意志は一つの未来に向かっていた。

 

 

 

 ──絶対に、渡さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




こういうのが好きなんです……




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第2話 胃痛戦士カナヲちゃん


結論
みんなぎゆしの大好きなんですね!
思わずヤンデレしのぶさんなるものを描いてしまいましたよ。あらすじに置いたので良かったら見てください。

前回のあらすじ


【挿絵表示】













 

「……ふふっ、義勇さんの髪はさらさらですね」

 

 陽の光がよく当たる、中庭に面した縁側。

 色とりどりの蝶が舞い遊ぶ蝶屋敷の一角で、胡蝶しのぶは愛おしそうに黒い髪を撫でて微笑んでいる。

 周りに人の姿は無く、しのぶの側にも誰もいない。

 背の半分で柄が変わる特徴的な羽織りを着て、綺麗な紐で束ねられた黒髪を、しのぶは()()()()()()()()()()()()()すいていた。

 

「いつもの髪は寝癖だったのでしょうか? まぁ、義勇さんが見た目に頓着するような方ではないのは知っていましたが」

 

 恍惚に蕩けた瞳でしのぶは髪を撫で続ける。

 返る言葉はないのに。

 生き物の熱は感じないのに。

 しのぶはとても幸せそうにしていて。

 

 その光景を、カナヲはいつも遠くから眺めていた。

 

(しのぶ姉さん……)

 

 人と鬼との最終決戦の後、蝶屋敷はしばらくの間は猫の手も借りたいほどに大忙しであった。

 あの戦いで多くの者が亡くなったが、生き残った者も確かにいた。戦列に加わった隊士で無傷の者は存在せず、早期の治療が必要だったからだ。

 その最前線で指揮を執るのが、蝶屋敷の主人であるしのぶであったのは当然の流れだろう。実績で及ぶ者が他には存在せず、鬼殺の柱であると同時に鬼殺隊の生命線であるしのぶを頼らないわけにはいかなかった。

 

 例えそこにいつもの優しい笑顔がなくとも。

 

 あの戦い以来、しのぶは笑わなくなった。否、笑顔の仮面を付けることが不可能となっていた。

 喪失が大き過ぎたのだ。愛していた人を三度亡くして、しのぶの心は壊れてしまった。

 これまでずっと側で仕えてきた少女たちはしのぶの変わりように驚き、事情を知って瞳を涙で濡らした。

 

 励ますなんて、出来なかった。

 

 思い出させる真似をしてしまえば、次の瞬間にはしのぶが泡沫のように消えてしまう情景が、少女たちの頭を離れなかったから。

 自分たちに出来るのはいつも通りに、しのぶのことを支え続けるだけだと無力感に苛まれながらも懸命に働くしかなかった。

 しのぶが一切休む気配を見せないのも心が痛んだ。他のことを考えまいとしているのか、しのぶは食事も睡眠も疎かに動き続けていた。

 

 まるで自らの意思で死の旅路へと突き進むように。

 

 少女たちの尽力もあってしのぶの休憩時間は捻出されていたが、当の本人はその時間で食事もしなければ眠ることもない。

 

 優しい思い出に沈むのだ。

 愛しい異性とのやり取りを想起して、もう存在しない人とお喋りする。

 抜け殻となったしのぶが笑みを浮かべて、人間に戻れる唯一の時間。

 

 邪魔なんて、出来るわけがなかった。

 

「カナヲ」

 

 背後から名前を呼ばれて、カナヲは振り向く。

 市松模様の羽織りを着た額に大きな痣がある少年と、麻の葉文様の着物に市松柄の帯を巻いた少女がそこに居た。

 

「炭治郎、禰豆子」

「しのぶさんは?」

「……水柱様と、お話ししてる」

「そうか……」

 

 カナヲの言葉に遣る瀬無せを滲ませた兄妹──竈門炭治郎と竈門禰豆子は表情を曇らせた。

 自分たちではどうにもならないと、打ちのめされるのはこれで何度目か。

 炭治郎と禰豆子はしのぶとその想い人──冨岡義勇に大恩がある。

 義勇がいなければ、禰豆子はもうこの世にはいなかった。

 しのぶがいなければ、禰豆子は人間に戻れなかった。

 一生掛かっても返し切れない恩だ。

 鬼の始祖を討滅して、ようやく返せると思ったのに。

 

「私、何も言えてないです。話したいことはたくさんあるのに、ありがとうございますも……」

「禰豆子……」

 

 涙ぐんで俯く禰豆子を炭治郎も泣きそうな顔で優しく撫でる。

 人間に戻れて最後の戦いから戻ってきた炭治郎と抱き合った後、禰豆子はいの一番に会いたい人がいた。

 

「鬼になった私を一番最初に助けてくれた、黒髪を一つに結った男性は? 御礼を言いたいの!」

 

 悪気は無かったのだ。本当に、感謝が伝えたかっただけで。

 禰豆子の言葉に当て嵌まる特徴の男性がすぐに結び付いた炭治郎は、一瞬だけ硬直した後に、顔をくしゃくしゃに歪ませて滂沱の涙を流しながら崩れ落ちた。

 理解してしまった。禰豆子は激しく後悔した。

 鬼殺隊のみんなが、明日をも知れない戦場に身を投じ続けていると知っていたのに。

 

 二人で大泣きして、ありがとうを天に告げるしかなかった。

 そしてもう一人の大恩人には、二人の存在は否応無く義勇を思い出させるからと言葉を掛けることすら出来ていない。

 

「大丈夫だ、禰豆子。いつかきっと、しのぶさんにもありがとうが言えるさ!」

「そうだね。禰豆子の感謝を、しのぶ姉さんなら受け止めてくれるはずだよ」

「……はい! 私ぜったいに、御礼を言わないといけませんから!」

「だから今は精一杯しのぶさんを支えよう!」

『うん!』

 

 ……だが、この決意から一月もしない日に、しのぶは二度と覚めない眠りに就いた。

 その日に誰もが思ったのだ。ひと段落ついたと。

 

 慌ただしさが無くなったと同時に、しのぶは糸が切れた人形のようにパタリと倒れて、それきりだった。

 

 しのぶを慕う多くの者が布団を囲むなか、カナヲは最期までしのぶの手を離さなかった。

 

『しのぶ様……っ!』

「……アオイ、なほ、きよ、すみ、みんな、今までありがとうね」

「そんな……っ!? 私たちの方がお世話になりっぱなしで、何も返せていないのに……こんな、こんなことって……っ!!」

「しのぶ姉さんっ!!」

「カナヲ……」

 

 最期にしのぶは、最愛の家族へ微笑んだ。

 

「愛しているわ、私の可愛い妹……先に逝く姉さんを許して」

「っ!? 私もっ! 私もしのぶ姉さんを愛しています!!」

「……ありがとう」

 

 人形から人間に戻った妹を見て、しのぶの表情が和らぐ。

 天井を見上げるしのぶは、とても幸せそうにしていた。

 

 ──お父さん、お母さん、姉さん……義勇さん。今行くね。

 

 そう呟いて、しのぶは永遠の眠りに就いた。

 

 嘆きの叫びが蝶屋敷に響き渡る。

 胡蝶しのぶはこうして、人生の幕を降ろしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 月曜日が来ないで欲しい。

 

 度々耳にしたことのある言葉だったが、共感したことは無かった。労働もしていない学生の身分なのだから健全な感覚だろう。友達と話すのも想い人と触れ合うのもきっかけは学校があってこそだ。月曜日はむしろ楽しみである。

 だが、今ならその日常生活の始まりの日を厭う気持ちがよく理解出来た。

 

「……結局一睡もできなかった……」

 

 どんよりとした雰囲気でカナヲは思わず呟いていた。

 昨晩から明日が学校だと思うと不安で眠れなかったのだ。

 不安の理由は言わずもがな、姉がどんな行動を起こすのかが気懸りだったから。

 

 カナヲの姉である胡蝶しのぶが前世の記憶を思い出した。

 ここまではいい。あの頃の精一杯の感謝を抱いていたカナヲとしては思い出して欲しくもあったが、その記憶が凄惨過ぎるために逆も然りといった状況で、天運に任せていた部分もある。

 きっかけになったしのぶの想い人との再会は、しのぶの幸福を考えてカナヲも祝福するところであった。

 

 話がこれで終わっていれば問題無かったのだ。

 例え相手に前世の記憶が無くとも、しのぶならあの手この手で思い出させた上で幸せを手に入れるだろう。しのぶはそういう人間である。

 式典の途中、相手の姿を見てしのぶが倒れた聞いた時からカナヲは応援する気満々であったのだ。本当に、何も不都合が無ければ。

 

 しのぶの姉である胡蝶カナエもその想い人を慕っているらしい。

 

 どうしてそうなった……!? とカナヲは頭を抱えてしまった。

 寄りにもよってその展開はないだろう。一体何の恨みがあるというのか。姉妹で同じ男を取り合うなんて、どう考えても修羅場不可避である。

 そして、しのぶの想いの丈を見誤っていたのが最大の失態。

 過去から蘇った恋慕の情は、ただの思春期の恋愛感情で片付けていいものでは到底なかった。

 

 言うなれば常軌を逸した愛情。

 愛を知ったと同時に喪った百年越しの恋情は、病的なまでの狂愛となっていたのだ。

 

 その想いがやっと成就すると思ったところで、自分のことは一切覚えていないのに実の姉とは下の名前で呼びあう仲を見せ付けられた。

 

「……お腹痛い」

 

 かつて見たことの無い極黒の虚無の瞳を思い出して、カナヲはキリキリと痛む腹部を抑えて立ち上がった。

 取れない疲れというものを久々に体感しつつ、身嗜みを整えるために姿見の前に座る。

 映っていたのは、瞳をやや充血させた青白い自分の顔。

 

「ひどい顔……」

 

 目の下には白磁の肌を汚す黒い隈まであって、今世では虐待されていた時代まで遡らなければ見た記憶のない顔であった。

 流石にこれは家族に心配を掛けてしまうとパチパチと頰を叩いて、顔を洗うために部屋を出て洗面台へと向かう。

 誰にも会わずに辿り着いた其処でカナヲはパシャパシャと顔に水を掛け、滴る雫を俯きながらぼぉーっと見てみるも、さっぱりしたところで気分は晴れないらしい。

 

(何か方法は無いの……?)

 

 一晩考えても碌な結論が出なかったことをカナヲはもう一回思考してしまう。

 

(しのぶ姉さんとカナエ姉さんの仲が壊れないまま、二人共幸せになって、健全で、穏便に、この日本で合法的に二人が水柱様をゲット出来る方法は何か無いの!?)

 

 カナヲはとても疲れていた。

 

 

 

 

 始業式で剣道部副顧問と紹介されていた冨岡義勇先生が、朝登校したらフェンシング部と薬学研究部の副顧問になっていた。

 加えて高等部・3年蓬組の胡蝶しのぶが風紀委員長になっていた。

 

(しのぶ姉さんの仕業だ……!?)

 

 始業式があったのは日曜の昨日を挟んだ土曜日。

 つまりたった二日で書き換えたのだ。

 

 私利私欲の為には学園全体を巻き込む事も厭わない。

 

 どうやら理性という歯止めを失ったしのぶは、権力を持たせてはいけない部類の人間筆頭だったらしい。

 掲示板に張り出された紙ペラ一枚にどれだけの裏工作が働いたのか。想像すらしたくない現実にカナヲの胃壁が悲鳴を上げる。

 

「カナヲさん、どうかしたのですか?」

 

 青い顔をしていたカナヲを見てか、誰かに声を掛けられる。

 振り向くと其処には二人の男女の姿。

 瞳に花を咲かせたような虹彩が印象的な現世では久しく見ない髪飾りで髪を後ろにまとめた可愛らしい少女と、睫毛が桜色の細身ながら頑強な肉体が一目で分かる青年。

 

「恋雪、狛治先輩」

 

 キメツ学園のベストカップルと名高い二人──恋雪と狛治は、並んで心配そうにカナヲを見詰めていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「顔色が優れません。カナヲさん、体調を崩されているのでは?」

「ううん、大丈夫。心配かけてごめんね、恋雪」

 

 同級生で中等部からの友人である恋雪に、カナヲは胃痛をぐっと抑えて微笑みを浮かべる。

 強がっていることは容易に見て取れた恋雪だったが、心優しきカナヲが一度取り繕った仮面はそう易々と剥がせないのも知っていた。此処で問い詰めては逆に負担を上乗せしてしまうだろう。

 仕方ないと諦めた恋雪は、先程までカナヲが見ていたのだろう掲示板へと視線をズラした。

 

「……新任の冨岡先生の顧問担当がもう変更に? あと胡蝶先輩が風紀委員長になっていますね……狛治さん、知っていましたか?」

「いえ、今初めて知りましたが……」

 

 悩みの種はこれかと二人はすぐに結び付けるも、この人事にどのような思惑があるのかには流石に思い至れない。二人は()()()()()()()()をそれなりに知ってはいるが、全てを網羅出来ているわけではないのだ。

 隠し切れない内圧にカナヲの身体は不調を訴えるも、カナヲはふんすと気合いを入れてとりあえず無視した。

 

「それで狛治先輩、何かご用があったのではないですか?」

「お察しの通りなのですが……」

 

 普段から狛治は過保護とも思えるくらいに身体が強くない恋雪に寄り添っているのだが、学園では恋雪の同級生の友人を見かけた時点で離れるのが常だった。

 そんな狛治がわざわざ恋雪と一緒にカナヲへ声を掛けたのなら、何かあると勘繰るのが自然である。

 カナヲの推測は当たっていたようだが、狛治本人にはどうやら躊躇いがあるらしい。

 紳士的な彼が言い淀むなんて、正直嫌な予感しかしない。

 だが此処で聞かないのも後が怖い。

 頼むから別件であってくれと願いながら、大丈夫ですと一言述べてカナヲは狛治を促した。

 

 只でさえしんどそうなカナヲにこれ以上の心労を募らせるのは本意ではなかったが、後々波乱に繋がっても困ると狛治は口を開くことに。

 

「実は春休みに推薦の関係でキメツ大学に行ったのですが、その時学長から情報提供がありまして……」

「……鬼舞辻無惨からの情報提供ですか?」

「はい……」

 

 ほら見たことか、とカナヲは目に見えてげんなりする。厄介ごとの匂いしかしない。

 只の人間になりはしたものの、自分たちと同様にのうのうと生まれ変わっているあの野郎には文句が山程あり、喉までせり上がった罵詈雑言を飲み込んでカナヲは続きを求める。

 狛治の表情が曇り、嫌悪感を剥き出しにして告げた。

 

「昨年度卒業したそうですが、上弦の弐を確認してるそうです」

「なっ!? 本当ですか!?」

「はい。どうやら()()()()ではないようですが、相変わらずの屑……人間性だったようで。学長も嫌な顔をしていましたね」

 

 詳しく聞くと、色々と問題を起こしていたらしい。

 カルト宗教にしか思えない団体の教主様として活動していたとか、本人の妙なカリスマによって被害が続出して悲惨だったとか、とある一人の女性に妙に付きまとい始めて最終的に一時停学を命じたなどなど。あのワカメヘアーの男はちゃんと学長として仕事していたようだ。

 

「就職先にこの学園を望んでいたようですが、うちの学園長と学長で手を組んで断固阻止したとか」

「お館様……!」

 

 今世も心から慕える学園長に深く感謝して、カナヲの表情から気持ち分の剣呑さが溶ける。

 しかし、その存在自体が消え失せたわけではないのだ。

 狛治の忠告の裏を正しく読み取ったカナヲは再び、かなり露骨に消沈した。

 

「……今後は注意してみます」

「はい、そうして下さい。……、不躾かと思いますが、本当に大丈夫ですか? 恋雪さんの言う通りかなり顔色が悪いようですが……」

「……まだ大丈夫です」

 

 あまりにも真剣な眼差しで心配されて、カナヲからはつい弱気が漏れてしまう。

 その緩みを恋雪は見逃さなかった。

 

「カナヲさん。お力になれるかは分かりませんが、出来る限り協力いたします。悩みを吐き出すだけでも楽になるはずです。竈門さんには相談したのでしょう?」

「……ううん、実は炭治郎にもまだ言えてなくて」

 

 その発言に狛治と恋雪は驚愕に目を見開いた。カップルを通り越してもはやただの夫婦と言われている二人に、まさか隠し事があるとは思っていなかったのだ。

 カナヲが抱えている事情は余程特異な案件なのだろうと狛治と恋雪は察し、だからこそと恋雪は優しくカナヲの手を両手で包み込んだ。

 

「手もこんなに冷たいです。竈門さんにも言えないことを私たちに言えとは言いません。ですが、一人で溜め込んではカナヲさんが大変です」

「……ありがとう、恋雪。何かあったら、協力をお願いしてもいい?」

「はい、もちろんです!」

 

 花が咲いたような可憐な笑みを浮かべる恋雪を見て、カナヲは精神的な疲労が僅かに和らいだ気がした。

 

 仲睦まじい少女二人を見守り、これで要件が済んだので解散しようと思っていた狛治だったが、ふと今朝の出来事を思い出す。

 

「炭治郎といえば、今朝通学途中に寄ったのですが、炭治郎の家に胡蝶さんがいましたよ」

「……………………え?」

 

 ゾワッ、と、カナヲの背筋に悪寒が爆走する。

 上弦の弐など目ではない特大級の爆弾の話題に、知らずカナヲの喉が震え始めた。

 

「な、なんで……?」

「理由は流石に分かりませんでしたが、炭治郎と禰豆子さんに何か頼み事をしていたのかと」

 

 微振動が止まらないカナヲは、ここに来てようやく己の失態に気付く。

 ……しまった、完全に油断していた。

 少し考えればすぐに気が付いたはずのに、どうして見逃してしまったのか。

 

 義勇が記憶を取り戻すきっかけとして、身近な知り合いで一番可能性があるのはあの兄妹だというのに。

 

 慣れていたのだ、現世での関係性に。

 しのぶにとって炭治郎は、妹の恋人だった。

 他人よりは近しいが、自分から接触することは殆どない。炭治郎と何か話があるなら、必ずカナヲを間に挟む。

 

 今まではそうだった。

 だが、今は違う。

 

 しのぶが前世の記憶を取り戻した今、その関係性は大きく変化した。

 少なくとも、炭治郎たちにとっては。

 

 しのぶは恋人の姉ではなく、前世からの大恩人になったのだ。

 

「つ、栗花落さん? 本当に大丈夫で──」

「──あっ、恋雪じゃない! おはよー!」

「梅さん、おはようございます!」

「……で、なんでアンタがいんの? さっさと三年の教室に行きなさいよ」

「……恋雪さん、やはり友達付き合いは考え直した方がいいかと」

「そんなこと言ってはダメですよ、狛治さん。梅さんは私の大事なお友達ですから」

「ふっふーん、言われてやんの! 女の友情に男が首突っ込んでじゃないわよ、この過保護マツゲ!」

「誰が過保護マツゲだ」

「……梅なぁ、おめぇなぁ。カバンくらい自分で持って欲しいんだがなぁ」

「あっ、お兄ちゃん! ありがとね」

「謝花先輩、おはようございます」

「おはようなぁ。いつも妹がわりぃなぁ。こんなんだが、友達でいてくれると俺も安心できるんだよなぁ」

「何言ってるのお兄ちゃん、私が恋雪の友達になってあげてんのよ?」

「……こんなんだが、友達でいてくれると俺も安心できるんだよなぁ」

「はい、梅さんは大切なお友達です」

「ちょっとお兄ちゃん!?」

 

 焦燥がカナヲの全身を突き抜ける中、目の前で交わされる会話が耳に入らない。

 だというのに、その名前だけは聞き逃さなかった。

 

「てかあれはなんだったんだろうなぁ? あのガキはあんなことする奴じゃないと思ってたんだが……」

「あのガキって、炭治郎のことか?」

「ああ、なんかさっき校門で見世物みたいなことしてたんだよなぁ」

「……っ!?」

「カナヲさんっ!?」

 

 気付けばカナヲは恋雪の声を置き去りに駆け出していた。

 下駄箱へ急ぎ、行儀悪くローファーの踵を潰したのをトントンとつま先を叩きながら疾走。

 持ち前の俊足であっという間に辿り着いた校門で、カナヲは完全に思考停止した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ──???????????????????

 

 脳の情報処理が追い付かない。

 目が点となって、心底ぽかんとなった。

 自分の頭か眼がおかしくなったかと笑いたかった。

 

 だが現実とは非情なもので。

 どれだけ目をこすっても目の前の光景は変わらない。

 学園のジャージを着た義勇が珍しく表情を変えていて。

 姉のしのぶが手を合わせて笑っていて。

 炭治郎と禰豆子が懐かしい格好で寸劇を繰り広げていて。

 

 再起動したのち、カナヲは声なき声で叫ぶ。

 

(──夫と義妹が校門前でコスプレしてるぅううううーーーーっっっ!!!???)

 

 胃痛がさらに重くなったのは言うまでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとうございました、失礼いたします」

 

 学園内にある重厚で荘厳な両開きの扉を閉めて、しのぶは無意識に悦が滲んだ微笑みを浮かべていた。

 

(お館様が学園長で本当に良かったです。説得もすらすらといきました)

 

 元同僚の今日付けで美術教師となった彼なら「あれは説得じゃなくて脅迫」と言うだろうが、目的を達したしのぶにとってそんなのは茶飯事である。

 なお、しのぶの異常な様子を見てこの後事情聴取として彼は学園長に呼び出されるのだがそれは別の話。

 

 しのぶは月曜日からの想い人と寄り添える(半強制)学校生活を愛おしそうに思い描きつつ、次にやるべき作戦へ思考を走らせる。

 

(有象無象はともかく、姉さんだけは要注意です)

 

 私の彼に色目を使っているだけでも沸々と赫怒が煮え滾るというのに、名前で呼び合う光景は思い出すだけで獄炎の如き嫉妬が心を真っ赤に焼き尽くす。

 ──許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない──

 

「ふーーー、ふぅぅぅ……っ!」

 

 知らず顳顬に幾本の青筋が刻まれるも、鍛え抜かれた自制心でもってそれを押し殺す。

 藤色の瞳には依然狂愛が淀んでいたが、感情の乱れで本懐を遂げられないのではあまりにも無様。

 しのぶは無理やり冷やした頭で考えることを止めはしない。

 

(義勇さんが思い出してくれればいいんです。トリガーとなり得るのは……やはり炭治郎君たちですかね……っ)

 

 自分ではなかったという事実を考えると、絶望感で泣いてしまいそうになる。

 慕っている人の特別になれていないと有無を言わさず突き付けられたような、そんな悲痛。

 それでも、挫けるなんて有り得ない。

 しのぶはもう二度と何も失いたくない。

 両親も、姉も。

 異性として愛した人は絶対に。

 例え姉だろうと義勇が目の前で誰かに盗られるなんて、しのぶには耐えられない。

 

 そんな光景を見たら、しのぶは自死すら選びかねないから。

 

 この狂気はもう、止められないのだ。

 

 

 

 

「こんばんは、炭治郎君と禰豆子さんはいらっしゃいますか?」

「あら、しのぶさん。いらっしゃいませ。少し待っててくれるかしら」

 

 店番をしていた淑やかな笑みを浮かべる女性──竈門葵枝は快くしのぶを向かい入れ、子供たちの部屋がある二階へと声を掛ける。

 珍しい来訪者の名前を聞いて、とある可能性に思い至ったのだろうか。ドタバタと慌てて駆け下りる複数の足音が鳴り響く。

 

「こら、家で走らないの! 全く、あなた達はもう高校生なんだから」

「ごめん、母さん!」

「ごめんなさい、お母さん!」

 

 物凄く投げやりに思える全力の謝罪を口にして、現れたのは二人の兄妹──竈門炭治郎と竈門禰豆子。

 変わらないけど確かに成長した二人の姿にしのぶはどこか懐かしさを覚え、あの頃と同じように柔らかく微笑んだ。

 

「炭治郎君、禰豆子さん。お久しぶりです、蝶屋敷以来ですね」

『──っ!?』

 

 その一言で全てを察した。

 炭治郎と禰豆子は嬉しそうな、それでいて泣きそうな、万感に満ちたくしゃくしゃな顔で笑う。

 

『お久しぶりです、しのぶさんっ!』

「はい。……少しお話ししたいことがありまして、お時間を頂けますか?」

「勿論です!」

「さぁ、あがってください! お兄ちゃん、私の部屋でいいよね?」

「あぁ! 禰豆子、先に行っててくれ。俺はお茶菓子を用意するから!」

 

 ピューンと台所へ飛んでいく炭治郎を見送って、禰豆子に先導されたしのぶは階段を上って彼女の部屋へとお邪魔する。

 女の子らしい可愛い部屋には幾つかのクッションがあったので、しのぶは一つを拝借して座り込む。

 遅れてやって来た炭治郎はそれぞれに紅茶とお菓子を配膳。丸テーブルを囲んで三人が揃って。

 刹那の沈黙を破り、切り出したのは禰豆子だった。

 

「しのぶさん、あの、記憶は……」

「はい、全部思い出しましたよ。私は鬼を殺せる毒を作った、ちょっと凄い元鬼殺隊蟲柱、胡蝶しのぶです」

 

 しのぶのお茶目でありながら凛々しい名乗りを聞き、感極まって禰豆子は今度こそ涙を零す。

 

「ほ、本当なんですね……本当に……っ!?」

 

 あぁ、やっと、やっと言える。

 衝動が抑え切れなかった禰豆子は、次の瞬間にはしのぶに思いっきり抱き着いていた。

 

「禰豆子さん?」

「……ありがとうございますっ、ありがとうございます……ありがとうございますっ!! 鬼となった私を信じてくれて、兄と一緒にいさせてくれて! 人間に戻す薬を創っていただいてっ! ……ずっと、ずっと御礼が言いたかったんです……っ!」

 

 言えなかったのだ。迷惑をかけた謝罪も、めいいっぱいの感謝の言葉も。

 目の前の恩人は戦いの果てに己を擦り減らし過ぎて、壊れてしまった。

 何も返せずに、逝ってしまった。

 心にいつまでも残った痼りは、禰豆子が天寿を全うしても拭えなかった。

 記憶を取り戻した今でも、結局言えずじまいで。

 

 ふわりと、しのぶは禰豆子を包み込んだ。

 

「人である禰豆子さんは、こんなに可愛くて明るい良い子だったんですね。鬼だからと殺そうした私は、あなたが人に戻っていた最期の一月でも、それを知ろうともしませんでした。情けない姿ばかりお見せして、幻滅したでしょう?」

「そんなことありませんっ!! しのぶさんの痛みも悲しみも苦しみも、私には想像すら出来ませんでした……それでもしのぶさんは素敵な方で、凄い方で、だから、だから……っ!」

「……ありがとう、禰豆子さん」

 

 言葉にし尽くせないのだろう感謝の想い。

 何も成し遂げず、大切な妹を一人遺して先に去った哀れなあの時代の自分が、禰豆子の存在で救われたような気がする。

 必死に生き抜いた証を、残せたのだと思えた。

 

 ──あぁ、良かった。

 

 ぐじゅぐじゅに声を抑えて泣く兄妹を見て、しのぶは思う。

 

 ──この二人はきっと、私に協力してくれる。

 

 どうか醜く利己的な私を許してほしい。

 カナヲではダメなのだ。優しいあの娘は、対立し合うだろうしのぶとカナエ、どちらの味方にもなれきれないから。

 二人が事情を知らないのは賭けだった。

 家族の問題にカナヲは即断で二人を巻き込めないと踏んでいたが、軍配は自分に上がったようだ。

 動き出すならこの数日中しかない。

 

 しのぶは禰豆子をぎゅっと抱き締める。

 その顔には、昏い微笑みが浮かんでいた。

 

 

 

「落ち着きましたか?」

「はいっ……すみません、ご迷惑ばかりで」

 

 未だ目は真っ赤な炭治郎と禰豆子だったが、泣き腫らしてすっきりしたのだろう。晴れ晴れとした表情でしのぶに向き直っていた。

 

 これでようやく本題へと入れる。

 

「それでしのぶさん、お話とは何ですか? 俺と禰豆子に協力できることなら何でもしますよ!」

「はい! 必ずお力になってみせます!」

「ありがとうございます。実はお願いがありまして……」

 

 一呼吸溜めて、予め考えていた流れでしのぶは会話を構築する。

 

「義勇さんのことなのですが、お二人は……」

「はい……その点はカナヲから聞きました。義勇さんは覚えてないんですよね?」

「そうなんです……お二人は会いましたか?」

「いえ、それが……カナヲが止めに来たので会ってないんです」

 

 シュンと落ち込む二人。その寂寥感はまるで迷子になった仔犬のようなもので。

 炭治郎と禰豆子は今日の式典で義勇を見た時、とてつもない歓喜が胸の内より湧き上がっていた。一緒に並ぶ天元や杏寿郎の姿もあったために、早合点してしまったのだ。

 これで義勇にも、あの時言えなかった感謝が伝えられると。

 後ほど教室で揃ってカナヲに伝えられた真実に、酷く項垂れたものだ。

 

 その様子に、しのぶは第一関門を突破したことを理解する。

 

「今更ですが、お二人は同学年なんですね」

「はい。あの頃はちゃんと一つ離れていたのですが、今は俺が四月生まれ、禰豆子が三月生まれの同級生です」

「お兄ちゃんの同期の方はみんな同学年なんですよ」

 

 にこりと笑う禰豆子は愛らしく、その事実がとても嬉しいと物語っているようだ。

 

「因みになのですが、お二人は誰と会って思い出したのですか?」

 

 ここまで当たり前のように話していたが、過去の光景を洗ってしのぶは二人が思い出していることを断定していた。今さっき聞いたところだ、炭治郎の同期とは既知の関係だと。

 自身の推測を他人の経験で補うのは常套手段。

 この前提条件さえ満たせれば、策を実行する価値が見出せる。

 

 しのぶの疑問にやや照れ照れと恥ずかしがる二人だったが、思いの外簡単に口を割った。

 

「俺はカナヲでした」

「私は善逸さんです」

「まぁ! 炭治郎君はカナヲだと思っていましたが、禰豆子さんは善逸くんだったのですね」

 

 ある程度当たりは付けていたが、しのぶは愉快そうに小首を傾げる。

 

「どんなご関係なのでしょうか? 私の中で皆さんは同期の子以外ではなかったのですが?」

「えーと、そのですね……」

 

 カァーっと頰を紅く染める兄妹をニコニコと見守るしのぶ。

 

「一言で言うと、夫婦です」

「あら! あらあらあらあらまあまあまあまあ!」

 

 絞り出すようにして告げられた言葉は、予想通りだった。

 あとはもう一つの事例の裏さえ取れればいい。

 

「思い出した時は大変だったのでは? きっと一同に会したのでしょう?」

「はい。中等部で再会したのですが、俺、禰豆子、善逸、伊之助、玄弥、アオイさんが一斉にぶっ倒れまして……」

「おや? カナヲは倒れなかったのですか?」

「カナヲはしのぶさん達と出会った時点で思い出していたそうですよ」

 

 ──条件が揃った。

 

 本人にとって思い出深ければ、きっかけとしては十分。必ずしも男女の関係で無くともよい。また恐らくにはなるが、近しい血縁者では思い出さない。

 

(二人なら可能性はありますね……)

 

 義勇が命を懸けて護ろうとしたこの兄妹なら。

 

「やはりカナヲはそうだったのですね」

「……しのぶさんは、その、やっぱり、今日倒れたのって」

「はい。私は今朝の式典で、義勇さんを見て思い出しました」

 

 息を飲む音が二つ鳴る。

 二人は半ば確信を持ってはいたが、いざそう言われるとどう反応していいか戸惑う。

 義勇が死してからのしのぶを知っているから尚の事。

 炭治郎と禰豆子からしても、しのぶの最期は、彼女が歩んだ人生は、悲しみに彩られていた。傷だらけのまま飛び続けて、最期にはその鮮やかな翅をくしゃくしゃに丸めて死んでしまった蝶のように。

 

 義勇はその終わりの引き金を引いてしまった人だ。

 

 彼はきっと満足して逝ったのだろう。死に様を見届けたカナヲからは、立派な最期だと聞いた。

 その結末が呪いとなってしのぶに重く残るなんて、予想すらしてなかっただろう。

 

「思い出したすぐ後、義勇さんに会いに行ったんですよ。……義勇さんは覚えてもいなくて、私を見ても思い出してもくれませんでしたが」

 

 悲しみの感情が溢れ、しのぶは瞳を伏せて俯く。

 その心中は炭治郎たちでは測り切れない。

 下を向いたまま、しのぶは胸の前で儚げにぎゅっと手を握り込んだ。

 

「私は、義勇さんが好きです」

『!?』

 

 炭治郎と禰豆子は硬直する。

 正直に言ってしまえば、しのぶの義勇に対する気持ちは知っていた。前世でのしのぶの行動を見ていたのだ、幾ら鈍感な炭治郎でもそれぐらいは分かる。

 ただここまではっきりと、しのぶが言葉にして自分たちに告げるとは思っていなかったのだ。

 

「もう二度と言葉を交わせないと思っていました。もう二度と会えないと思っていました。だけど、こうして奇跡が起こってくれました。私は……今度はずっと、義勇さんと一緒にいたいんです」

 

 恥ずかしげ頰を染めて、然れどとても綺麗な微笑みを見て、炭治郎と禰豆子は自然と顔が紅潮する。

 しのぶの顔があまりにも美麗で、つい見惚れてしまった。

 

「だけど、義勇さんは私のことを覚えていない。……私にはそれが耐えられないのです。あの頃の記憶は悲惨なものばかりです。きっと義勇さんもそうだったのでしょう。……それでも、私は思い出して欲しいんです。欲張りで、我儘で、自分勝手で、醜いこの気持ちが、抑えられないんですっ!」

 

 しのぶは両手で自分の腕を抱え込む。隠していた狂愛が自制心の外へと脱して瞳に宿る。

 一度は目の前で失った。

 後悔も悲愴も愛情も、捌け口を用意出来ずしのぶの中で行き場を無くして、何も掴み取れずに終わった一度目。

 二度目なんてあるはずが無かったのに、何の因果か奇跡が舞い降りた。

 

 それなのに、しのぶの想いは届かない。

 中途半端な奇跡は残酷な現実となって襲い掛かるのだと初めて知った。

 

 狂気を孕んで暴れる強欲は全てを巻き込んでも止められないと語るような、痛ましい姿。

 

 炭治郎と禰豆子は言葉にならない感情で胸が締め付けられる。

 安易な同情なんて烏滸がましいと、そう思わずにはいられない悲哀。

 

 鬼がいない平和な世界で、刀を握らずに普通の女の子としての日常を送れるのに、未だしのぶは幸せにはなれていない。

 

『──っ!!』

 

 そんなのは耐えられない。

 これまで己を顧みず頑張ってきたしのぶには、多大なる恩を受けたこの人には、誰よりも幸せになってほしい。

 あの時とは違うのだ。今なら力になれるのだ。

 

 しのぶの腕を握り潰そうとしてる彼女の手を、二人は優しく解いて両手で包む。

 

「しのぶさん、義勇さんの記憶を呼び起こしましょう」

「ですが……それは必ずしも義勇さんの幸せとは……」

「分かっています。俺たちも今まで、故意に誰かに働き掛けたことはありません。例え今、誰も喪っていなくても、あの時代は辛い思い出には違いないはずなので」

「でも、しのぶさんの為なら、私たちは心を鬼にできます。冨岡先生への罪悪感はありますが、それでも、私も、お兄ちゃんも……御礼が言いたいんです。恩を仇で返す真似になるのかもしれません。でも、今のこの気持ちも嘘ではないんです」

「……ありがとう。ありがとうございます、二人とも……」

 

 手を取られたまま、表情が見られないようにしのぶは蹲る。

 髪の毛で影となるその奥で、しのぶは破顔(わら)った。

 

 ──計画通り

 

 恋心の告白。

 秘密の共有。

 良心を凌駕する同情心の醸成。

 秘めた欲望の誘引。

 

 炭治郎と禰豆子はもう何でもしてくれるだろう。そうなるように仕向けたのだから。

 これまでの言動全てに、嘘はない。

 嘘さえ無ければ、匂いで感情まで看破する炭治郎であろうとしのぶなら造作も無く操れる。

 面を上げて、しのぶは協力者たちを真摯に見詰めた。

 

「二人には、一芝居打ってほしいと思います」

 

 

 

 

 

 

 

 

 決戦の月曜日。

 炭治郎と禰豆子は自らの格好と周りからの視線に早くも後悔に襲われていた。

 

(「お兄ちゃん! これかなり恥ずかしいよっ!?」)

(「予想できていたことだ! しのぶさんの為にも、俺たちが一肌脱がないといけないんだ!」)

 

 小声で揺らぎそうになる決心を再度固める仲良し兄妹。怪訝を超えて不審者を見る目が多数あろうと、今更引くことは論外である。

 キメツ学園の校門近くで潜む鬼殺隊の隊服を模した服に市松模様の羽織りを着た炭治郎と、麻の葉文様の着物に市松柄の帯を纏った禰豆子。

 

 どうしてこんなことになったのか。

 

「シチュエーションも込みで思い出に訴えましょう」

 

 先日の作戦会議で、しのぶはそう切り出した。

 

「シチュエーションですか?」

「はい。義勇さんは天然ドジっ子の超が付く鈍感さです。ただ再会するだけでは弱いかもしれません」

「なるほど、ファーストコンタクトが大事ということですね!」

「その通りです、禰豆子さん」

 

 ふむふむと頷く禰豆子はまさかこんなことになるとは思っていなかった。

 気付けばしのぶに丸め込まれて兄の隊服や自分の着物を類稀なる裁縫力で仕上げ、こうして装着するまでに至っていた。

 

「よし、時間も惜しい。行くぞ禰豆子!」

「ムー!」

 

 竹の口枷を付けるともう喋れない。

 

 ザッ、と校門の前に姿を現した二人。

 目の前には学園のジャージを着て生徒の服装チェックをする義勇と、今日付けで風紀委員長になったしのぶの姿。

 怪訝に眉をひそめる義勇に微笑みの仮面を付けたしのぶ。

 

 義勇の様子に大きな変化はない。

 やはりこれだけでは駄目なのだ。

 

「……っ!」

 

 炭治郎は義勇に向かい一歩前へと踏み込んだ。

 

「禰豆子は人間で、俺の妹なんです! 鬼じゃないんですっ!!」

 

 禰豆子は羞恥に負けて両手で顔を覆った。

 だがしかし、即座に思い直して毅然とした態度を取り繕う。

 兄がこんなに頑張っているのだ。妹であり長女の自分が目をそらすなどあってはならない。

 

「禰豆子は違うんだ! 禰豆子は人を食ったりしない! 俺が誰も傷つけさせない、きっと禰豆子を人間に戻す……絶対に治します!!」

 

 嘘や腹芸が苦手な炭治郎だが、その言葉と態度は迫真である。義務感と思い出と感謝と羞恥を熱に、炭治郎は既に頭が茹っていた。

 

 ──例え義勇さんに恐ろしくドン引きされた目で見られようとも!

 ──しのぶさんが素で笑い始めていると思っていても!

 ──俺が挫けることは絶対にない!!

 

 禰豆子は思う。

 

(あの頃の私「うー」と「ムー」しか言えなくて本当に良かったぁ……ごめんねお兄ちゃん!)

 

 中々に非情であった。

 

「家族を殺した奴も見つけ出すから! 俺が全部ちゃんとするから、だから……」

 

 炭治郎はそのまま膝を突いて両手を前へと下ろす。一般的に土下座といわれる態勢になり、義勇は更にギョッとする。

 

「やめてください……どうか妹を殺さないでください……お願いします」

 

 人聞きの悪過ぎる言葉を残す炭治郎に、義勇はどうしたらいいのか分からないのだろう。次第におろおろとし始め、咄嗟に側にいるしのぶに助けを求める。

 しのぶは口元で手を隠して小首を傾げるだけだった。

 

 義勇に望んでいた変化は未だ見られない。

 なら続行である。

 

 伏せていた炭治郎の腕の下へ禰豆子がのそのそと潜り込む。

 この時点で炭治郎はカナヲが側で見てることを嗅ぎ取っていた。

 例え妻に見られていようとも、その妻が全力の心の声で「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて!」と訴えていようとも、炭治郎はもう止まれない。

 

 上から禰豆子を守るような態勢を整えた後、炭治郎はキリッと顔を上げた。

 

「殺された人たちの無念を晴らすため、これ以上被害を出さないため……勿論俺は容赦なく鬼の頸に刃を振るいます。だけど鬼であることに苦しみ、自らの行いを悔いている者を踏みつけにはしない」

 

 ちらっと視界に映ったカナヲが両手で顔を覆っているが気にしない。気にしないったら気にしない。炭治郎は義勇の双眸だけを見つめ続ける。

 なおこの間、禰豆子は寝転び上を向いて目を瞑っているだけである。

 

「鬼は人間だったんだから。俺と同じ人間だったんだから。醜い化け物なんかじゃない、鬼は虚しい生き物だ……悲しい生き物なんです」

 

 ──さぁ、どうなる!?

 

 前回はこの言葉を述べ再会した場面で、義勇は二年前に出会っていた炭治郎と禰豆子を思い出したはず。

 ここまでやって無理なら炭治郎たちでは記憶のトリガーに成り得ない。

 

「っ!?」

 

 転瞬、義勇は柳眉を歪めて片手で頭を抑えた。

 

『──っ!!』

 

 事情を知る四人はビクリと反応を示す。

 この兆候には覚えがある。まず間違いなく記憶が揺さぶられているだろう証左。

 追い討ちを掛けるなら今しかない。

 

「──校門前でふざけてる子が居るって聞いたけど──義勇くんっ!? どうしたの、大丈夫!?」

「……ちっ!」

 

 思い切り舌を打つしのぶにカナヲは総毛立つ。

 悪ふざけの犯人であろう炭治郎と禰豆子を置いて、突如現れた胡蝶カナエは真っ先に義勇へ寄ろうとした。

 

「冨岡先生、大丈夫ですか?」

 

 勿論それを許すしのぶではないので、優等生の仮面を被りなおしてカナエの道を当然のように塞ぐ。

 

「……あぁ、問題ない。少し立ち眩みしたようだ」

「まぁ、それは大変です。体調を崩されているのかもしれません。私と一緒に保健室に行きましょう?」

「ダメよしのぶ。この後朝礼でしょう? 姉さんが連れて行くから」

「姉さん……いえ胡蝶先生には、この場の処理をお願いします」

「えっ? それこそ風紀委員の仕事じゃないかしら、胡蝶さん?」

 

 ──嫌だ嫌だ怖い怖い帰りたいよぉ!

 

 耳を塞いで現実逃避するカナヲを他所に、言葉の裏でナイフを突き刺し合うような女の争いが勃発。

 騒動の中心から逸れたと感じ取った炭治郎と禰豆子は、これ幸いとカナヲの側へと駆け寄った。

 

「カナヲ、カナヲ!」

「炭治郎、禰豆子! 二人ともなんてことを……っ!」

「すまない、話は後で聞くから! 俺と禰豆子は急いで着替えてくる!」

「ごめんなさい、義姉さん!」

「あっ!? ちょっと、待って!」

 

 カナヲの制止の声も虚しく、ピューンと駆けて二人は消える。

 振り返って残ったのは、カナヲの目からは義勇を巡って火花を散らしているように見える美人姉妹のみ。

 

「──あっ、いたいた。義勇!」

 

 そして、混沌は留まるところを逸したらしい。

 

「……あっ」

 

 新たな声に逸早く反応したのは義勇であり、釣られて三姉妹の視線が移る。

 

 見た覚えのない女性がいた。

 

 義勇と同じ烏の濡れ羽色の黒髪を後ろで三つ編みにまとめた、蒼い瞳が美しい女性だ。年はカナエより上だろうが、その淑やかさと美麗さはキメツ学園保険医である珠世と通じるものがあった。

 穏やかな微笑みを浮かべている女性は迷いなく義勇へと歩を進め、義勇もしのぶとカナエを置いて距離を詰めていく。

 

「はい、お弁当。もう、取りに来てって言ったじゃない」

「すまない。忘れていた」

「まったく、義勇は幾つになっても世話が焼けるんだから」

「ありがとう」

 

 呆れつつも慈愛に満ちた表情をする女性に、義勇も珍しく仏頂面を解いて返答する。仲睦まじいその様子は、二人の関係が普通ではないことを明白にしていた。

 

 弁当を作ってくれて、わざわざ職場に届けてくれる義勇と親しげな女性。

 

 そう認識した途端、カナヲの顔は青白く変色し、ついと視線を姉二人に投げる。

 見たことを物凄く後悔した。

 冷め果て黒く淀んだの二対の瞳。決して初対面の人へ向けてはならない類いの、怨念染みたその異様。しのぶだけでなくカナエも同じなのは流石姉妹と言ったところか。カナヲは全然嬉しくない。

 殺意と嫉妬を分かつ最後の一線の上を歩いていたしのぶは、終に跨いでしまったのではないか。そう思わずにはいられない恐慌がカナヲの裡で暴れ回る。

 

 朗らかに雑談に興じている義勇と女性。

 

 一人死にそうな思いをしているカナヲは、心の中で再び叫んだ。

 

(水柱様が全く見知らぬ女性と仲良くしてるぅうううううーーーっっっ!!?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





次回

第3話 絶対修羅場戦線ミズバシラ

つづく……?






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第3話 絶対修羅場戦線ミズバシラ



前回のあらすじ


【挿絵表示】








 

 

 しんしんと、空気が冷えている。

 上を見上げれば空模様は灰色に汚れていて、幾分もしないうちに雨が降り出しそうだ。

 まるで自らの心境が現実に反映されているような光景に、その場に足を踏み入れた男は虚しげに笑った。

 

「よぉ、みんな。酒持って来たぜ」

 

 鬼殺隊士の墓石が立ち並ぶその一帯は薄く靄が掛かっていた。

 重くのし掛かるような雰囲気は来訪者に厳粛な姿勢を求めているのだろうが、知った事ではないと隻眼隻腕の偉丈夫は酒瓶を掲げる。

 男──宇髄天元は一つ一つ同僚の墓石に景気良く酒を浴びせ、追従する見目麗しい女性三人は次々と酒瓶を用意しては片付けていく。

 

「思えば、お前たちと飲んだのは本当に数えるほどしかねぇよなぁ」

 

 勿体ないことをしたと空笑いを浮かべる天元は、滔々と言葉を紡いでいく。

 

「鬼のいない世界はまぁそれなりに暮らしやすいぜ。なんつったって深夜にまで働く必要がねぇからな」

 

 元忍の自分が誰よりも規則正しい生活を送っていると聞いたら、きっと彼等は笑ってくれるだろうに。

 

 天元の側に、かつての同僚はもう一人もいない。

 三人は大願を成就させる前に散り、最終決戦で宿敵を討ち滅ぼした五人も短い余生を使い果たしてしまった。

 共に刀を手に取って戦ってきた同僚は、誰も彼もが天へと旅立ってしまった。

 

「たくよぉ、なんでお前らが俺より先に逝くんだよ……」

 

 誰よりも平和を、鬼のいない世界を望んだお前たちが。

 言われるがままに人を殺してきた暗い過去を持つ自分だけを残して。

 

 滲む寂寥を天元は即座に発散させる。

 想いは同じだったから。例え鬼のいない世界に辿り着いた時に、側に誰かがいなくても恨みっこ無しだと。

 むしろその誰かの分まで生を歩んでいくことこそが、彼等が最も喜ぶことなのだと。

 

「……仕方ねぇ。仕方ねぇから、お前等の分もしっかり生き抜いて、派手派手な大往生してやるさ」

 

 天元本来の勝気な笑みが蘇り、天への土産と残った酒を盛大にぶち撒ける。

 感慨を置いて天元は背を向けた。振り向けば愛すべき三人の嫁が柔らかに微笑んでいる。

 

 そうだ、これからは家族と一緒に暮らしていくのだ。

 日の当たる場所で、ずっと、一緒に。

 

 ──だけど、もし。

 ──もしも来世というものがあって、其処でまた巡り合えたとしたら。

 

「お前ら、派手に幸せにしてやるからな!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがこれは違う。

 こんな修羅場は知らん。

 

「放せ竈門嫁ぇええッ!! 家族の問題は家族だけで派手に解決しやがれ!」

「嫌です!! 絶対に道連れにします!!」

 

 いつまでも帰ってこない同僚を呼び戻そうと校門前までのこのこと足を運んだのが運の尽き。

 悍しい鬼気を発散させる胡蝶姉妹と、遠目に義勇の隣に女性の姿があることを確認した天元は刹那に反転したが、何があっても逃さんと高速移動した胡蝶家三女のカナヲにしがみ付かれる羽目になった。

 

(冨岡お前ホントマジ巫山戯んなよなッ!!)

 

 とんだ貧乏籤を引かされた気分の天元は渦中にある同僚を心の中で一発ぶん殴る。当然この程度晴れる怒りではないが、やらずにはいられなかった。

 心根は善良で優しいが無愛想で口下手で言葉足らずな顔だけは良い同僚が、こんなベクトルのトラブルメーカーだとは。片鱗はあったとはいえ、よりにも寄って社会人になってすぐとは予想外過ぎる。

 

 全身全霊で縋り付くカナヲの顔面を押すのを止めて、天元は諦めの境地にて足を留めた。

 

「……状況は?」

「音柱様っ!」

 

 パァッと花が咲いたような笑みを浮かべるカナヲ。死なば諸共の精神で天元を修羅場へと引き摺り込んだ張本人とは思えない晴れ渡った笑顔である。

 地獄への同伴者が出来たことが嬉しいカナヲはそれでも何故か拘束を解かず、万力の腕力をもって天元をその場に縫い留めて口を開く。

 

「水柱様にお弁当を届けに見知らぬ若い女性がやって来ました」

「刃傷沙汰だろそれ……」

 

 選択肢を誤ればまごうことなき流血案件に天元の眼が死ぬ。カナヲの眼と胃と精神は既に死んでいる。

 天元の無意識下でのこの場から離れたいとする力が増していくが、逃走など許さんとばかりにカナヲの両腕がギリギリと身体を締め付けてくる。

 

 やだこの姉妹本当にやだと天元は空を見上げてみて。

 

「あら? もしかして宇髄くんかしら?」

「……は?」

 

 思わぬ方向から話し掛けられ素っ頓狂な声が漏れるも──次の瞬間、惨憺たる重圧が天元に伸し掛かった。

 

「ひっ!?」

 

 少女のような囁きの悲鳴は己の口から溢れたのか。信じられない失態に、然れど羞恥に思う暇もない。

 この場において天元に自由など認められていないと神から宣告されたかのような圧迫感。頰に流れる冷や汗は、前世で上弦の鬼と対峙した時以来の緊張の証だろうか。

 

 チラリと視線を走らせれば、胡蝶三姉妹の昏く淀んだ三対の瞳が天元へと突き刺さっていた。

 目は口ほどに物を言うという言葉を心から理解した天元は、脳内で声なき声を再生する。

 

 ──あの女が誰だか知ってるの?

 

 

【挿絵表示】

 

 

 拒否権など与えられていない天元はごくりと唾を飲み込み、恐る恐る声を掛けてきた義勇の隣にいる女性へと焦点を合わせてみる。

 

 微かに見覚えのあるその姿に、天元は訝しげに口を開いた。

 

「……ん? もしかして蔦子さんか?」

「やっぱり宇髄くんね、久しぶりだわ」

 

 ふわりと微笑む女性を見て異様な雰囲気が形成されるも、神に与えられし平穏な状況打破の糸口を見出した天元の行動は早かった。

 

「んだよホント蔦子さんかよホントもうそういうのはホント早く言えよな冨岡っ!!」

「……何の話だ?」

 

 音速に勝る挙動でカナヲの拘束を抜け出て義勇の肩を乱暴に組む天元は割とガチでキレているのだが、愛に狂った女二人を放って置く方が怖いと遊びを抜きに本題へと移る。

 

「ほら、冨岡。ちゃんと紹介しとけ、な?」

「……誰に何を?」

「此処にいるメンバーに蔦子さんのことをだよっ……」

 

 何とか笑顔を保ちつつ顳顬に青筋を浮かべる天元。

 未だに何がなんだか分かっていない義勇ではあったが、流石に空気を読んだのだろうか。さっ、と軽く女性へと手を向ける。

 

「姉だ」

 

 三文字、まさかの三文字の紹介。

 然れどその単語は、場の熱を一時的に冷やすには十分以上であった。

 

「義勇の姉の蔦子と申します。いつも弟がお世話になっております」

 

 雑な紹介にも慣れた様子の女性──蔦子は、天元含めた初対面の女性三人へと丁寧に頭を下げる。

 思わぬ展開にぽかんとしていたカナヲであったが、冷静になりつつある頭で思考を回すことに。

 

(水柱様のお姉様……? 確かに、よくよく見てみると似てる気がする)

 

 義勇と同じ蒼い瞳、烏の濡れ羽色した漆黒の髪。所々の部位の酷似は、血縁と言われてみれば成る程、納得できる。

 義勇の好い人かもしれないという最悪の想像が打ち砕かれた瞬間、カナヲは一先ずだが心底安堵した。

 

 尤も、胃痛の種が消えた訳ではないのだが。

 

「……義勇くんのお姉様だったんですね! 申し遅れました、私は()()()と申します! 義勇くんとは大学時代からずっと、ずっと仲良くさせて頂いていますっ!!」

「ちょっと姉さん、蔦子お()()()()に失礼じゃない! 申し遅れましたました、私は()()()と申します。これから末永く、よろしくお願いいたしますね」

 

(人のこと言えた義理じゃないけど二人とも恋愛が下手くそ過ぎる……っ!?)

 

 顔良しスタイル良し器量良し性格良しと、およそ女性が羨む要素の殆どを内包したカナエとしのぶだ。これまで想われることは多々あっても、自分からというのは全くないのだろう。見るからに加減が分かっていない。

 気持ちが先走り過ぎてか、姉二人がマウントを取り合いつつ当事者だったら普通にドン引くくらいのロケットスタートをかまし出した。カナヲの胃壁が悲鳴を上げている。

 青い顔してあわあわするカナヲと、笑いたいけど笑えない状況に頬を痙攣らせる天元。

 どんな反応が正解なのかも分からないまま、一同は蔦子の返しを待つしかない。

 

 しのぶとカナエの勢いにややキョトンとした蔦子であったが、浮かべたのは柔らかな微笑みであった。

 

「……ふふっ。義勇をよろしくね、カナエちゃん、しのぶちゃん」

『はいっ!!』

 

 天使か女神なんだとカナヲは思った。

 義勇に似てもしや天然なのかとも考えたが、これ以上軋轢を生むことなくこの場を凌げるのであれば何だっていい。尊敬と感謝を込めてカナヲは心の中で蔦子お義姉様と呼ぶことにした。

 

 緊迫した空気が解れるのを感じ取って、此処しかないと天元は口を開く。

 

「おっと、もう朝礼が始まる時間だな。一旦校舎に戻ろうぜ」

「そうですね。カナエ姉さん、しのぶ姉さん、遅刻はダメだよ」

「あらいけない、本当だわ」

「私としたことが、うっかりしてました。ありがとね、カナヲ」

 

 狂愛の獄炎が無事鎮火されてるのを見てとって、カナヲと天元は内心で一息つく。痴情のもつれで流血沙汰など肝が冷える。

 ……ただまぁ、この業火はこれから頻繁に、いとも容易く着火されるのだと思うとカナヲは生きるのが辛くなるのだが。

 

「蔦子姉さん、ありがとう」

「えぇ。お仕事頑張ってね、義勇」

 

 何が起きていたのか全く理解していないだろう義勇は、そのままてちてちとマイペースに校舎へと向かっていく。両隣に連れ添うように歩くカナエとしのぶは朗らかだが、やはり空気がヤバい。

 

 三人が歩いていく光景を後ろから見て、カナヲはふと思う。

 

(……なんだろう、この一件で二人から致命的なものがなくなった気がする…………)

 

 遠慮とか、気遣いとか、恋愛の醍醐味であるむずむずとする心の動き的な、そういうのが。

 事故とは言え、取り返しの付かないやらかしだったのかもしれないと後悔しても時既に遅し。

 

 朝起きた時よりも確実に胃も心も重くなったカナヲは、とりあえず学生の本分たる勉学へと気持ちを切り替えようとして。

 

「二人とも、少しいいかしら?」

『?』

 

 振り向いた先にはちょいちょいと手招きする蔦子の姿。

 置いてかれる形で残っていたカナヲと天元は目を合わして首を傾げるも、拒否する理由もないので距離を詰めた。

 

「ごめんなさいね、時間もないのに」

「走れば間に合うんで」

「私も大丈夫です」

「じゃあ、単刀直入に聞くわね」

 

 チラッと離れていく義勇たちを一瞥して、蔦子は軽い口調で核心に切り込む。

 

「うちの弟はあの二人から逃げられると思う?」

 

『無理だと思います』

 

「そうよねぇ……」

 

 一切の反論を挟ませない二人の断言に、蔦子は頰に手を当てて諦念を滲ませる。

 それにしては慣れたように苦笑いする姿にカナヲは疑問を覚え、情報収集も兼ねて思考を巡らせた。

 

「もしかして、似たようなことが過去にもあったのですか?」

「そうなのよ。あの子、モテる時は異常にモテるから……大学入学時に、あまりにもあんまりだったから逃げるようにこっちに引っ越ししたのよ」

 

 驚愕の事実にカナヲは顔を青ざめさせ、天元は頭痛を堪えるように片手で頭を抑える。

 義勇はまず顔が良い。口下手で難ありだからそれだけで近付いてきた女性はそこまでだろうが、根は誠実で優しい男だ。のめり込んでしまう人はいるのだろう、カナエとしのぶのように。

 

「今までは物理的に距離を取ればね、みんな子供だったからなんとかなったのよ。大学入ってからはそういう話をとんと聞かなかったし、宇髄くんみたいなお友達も出来たみたいで安心してたのだけど……カナエちゃんが原因だったのね」

 

 家族になること前提で名字を名乗らない子は初めてだったわと蔦子はあははと笑ってみせるも、身内の恥にカナヲは両手で顔を覆った。

 

「貴方は二人の近親者かしら?」

「あ、えと、はい……血の繋がりはないのですが、胡蝶カナエと胡蝶しのぶの妹の栗花落カナヲと申します」

「そう、胡蝶さん……やっぱり姉妹なのね」

 

 心なしか疲れた眼差しで蔦子は宙を見詰める。

 

「義勇関係で結構凄い子たちを見てきたつもりだけど、あの二人は群を抜いている気がするわ……特にしのぶちゃん。義勇は一体あの子に何をしたのかしら……」

『…………』

 

 百年かけて熟成された狂愛です、とは言えない。一眼で見抜くその慧眼には恐れ入るものがあった。

 弟想いなのだろう蔦子はしばらくうんうんと悩んでいたのだか、最後に大きく頷いてカナヲと天元を見た。

 

「……うん、義勇についてはカナヲちゃんと宇髄くんに任せるわ」

『…………え?』

 

 頭が言葉の意味を理解したくなかったのだろう。

 丸投げされた二人は思わずぽかんとしてしまうも、蔦子の中では決定事項なのか前言撤回する様子はない。

 

「二人はあの三人の事情を知っているようだし、なんだかんだ放って置けないって顔をしてるもの。可愛い弟には旅をさせよって言うし、それに私が出張っても、ろくなことにはならなそうだしね」

「いや、その、蔦子さん? 出来れば俺は遠慮したいっつーか……」

「お任せください、蔦子お義姉様! 私と音……宇髄先生にお任せください!!」

「おまっ!?」

 

 遠回しの拒否を口にしようとした天元を先んじてカナヲが常に無い威勢の良さで了承する。

 

 カナヲは思ったのだ。

 自分は絶対にあの修羅場に関わることになる。一人胃痛と戦うぐらいなら、責任感で雁字搦めにした道連れを用意した方がよくない? と。

 鱗滝一門ばりの判断の速さの所為で、天元は犠牲となったのだ。

 

 カナヲのお義姉様呼びにも頓着せず、蔦子はただ嬉しそうに両手を合わせた。

 

「本当かしら! ありがとう、カナヲちゃん!」

「はい! 私と、宇髄先生が頑張ります!」

 

 どこまでも天元の存在を強調して、カナヲは両拳を胸の前で握る。

 その姿は何があっても地獄へ付き合ってもらうという強烈な意思を感じさせた。

 

 それじゃあよろしくねー、と去っていく蔦子を見送って、天元はカナヲへ青筋を刻んだ笑みを浮かべる。

 

「やってくれたなぁ、テメェ……」

「さて、何のことでしょうか?」

 

 こほん、と咳払いをして、天元の抗議を一蹴。

 カナヲは死んだ眼で今後の予定を組み立てることに。

 

「とりあえず、本日の放課後に人を集めて会議を開きます。人選は私がしますので、音柱様は美術室を確保して下さい」

「……ちなみに拒否権は?」

 

 ダメ元で抗ってみるも、カナヲの眼は冷たい。

 

「一度でも逃走を企てた場合、あることないことを姉さんに告げ口します」

「……ちなみにどんな内容なんだ?」

「……音柱様は水柱様の住所を知っている。音柱様は水柱様の休日の趣味を知っている。音柱様は水柱様の写真データを保持している。音柱様は水柱様の恋愛遍歴を知っている。音柱様は」

「OK、分かった。頼むからヤメロ」

 

 此処に、前途多難で悲惨な同盟が誕生した。

 

 その名も──

 

 

 

 

 

 

 

 

 キメツ学園、放課後の美術室。

 絵の具の匂いがつんと香るその広い一室に、幾人かの男女が集まっていた。

 

「本日はお集まり頂きありがとうございます」

 

 黒板の前で頭を下げるのは、蝶の髪飾りで黒髪をサイドテールでまとめたカナヲである。

 適当な配置で座る面々はどこか重苦しい空気に静寂を保ち、気にせずにはいられないデカデカと黒板に書かれた文字列に目を向ける。

 

 絶対修羅場戦線ミズバシラ──

 

 もう嫌な予感しかしなかった。

 

「絶対修羅場戦線ミズバシラ会議の議長にならざるを得なかった栗花落カナヲと申します。副議長は音柱様こと」

「……宇髄天元だ」

 

 議長と副議長の眼が会議早々に死んでいることには、誰も突っ込めなかった。

 

「というわけで、私の独断と偏見で集まって頂いたほぼ顔見知りの皆さんですが、自己紹介と決意表明をしてもらいたいと思います。はい、炭治郎から右にリズム良く!」

 

 やけくそとなったカナヲに会話の主導権を振られた少年──竈門炭治郎は溌剌とはいっ! と返事をして立ち上がった。

 

「高等部一年の竈門炭治郎です! 正直この場がなんなのかよく分かっていませんが、よろしくお願いします!」

「高等部一年の竈門禰豆子です! 会議名の時点ですごく逃げ出したいし、この後カナヲ義姉さんに怒られることが何となく分かったので今すぐ帰りたいです! でもダメそうなので頑張ります! よろしくお願いいたします!」

「本年度からキメツ学園に赴任してきた煉獄杏寿郎だ! 俺もこの場がよく分かっていないが出来る限りのことはしたいと思う! よろしく頼む!」

 

 エネルギッシュな自己紹介が三つ続く。

 発言の元気の良さに反して滅茶滅茶弱気な宣言を口にした少女──竈門禰豆子と、暑苦しいとすら思える大声を出す青年──煉獄杏寿郎。

 

 うんうんと満足げに首肯するカナヲは、続いて視線を同級の女生徒へと向けた。

 それを受けて、嫌々、渋々、粛々と立ち上がるのは、蝶の髪飾りで青みがかった黒髪を二つに結んだ少女である。

 

「……高等部一年の神崎アオイです。禰豆子さんと同様に今すぐ帰りたいのですが、当事者であろうしのぶ様への恩返しの一念のみで踏み留まろうと考えています。よろしくお願いいたします」

 

 キッと表情を改めた神崎アオイ。

 会議名からある程度の事情を察しているのだろうが、この後の説明を受けて頭を抱える姿が目に浮かぶ。

 

 順調に進んだ自己紹介の最後を飾るのはこの二人。

 

「高等部一年の恋雪と申します。えーと、その、頑張ります!」

「高等部三年の狛治です。恋雪さんの付き添いですが、なるべく力になれるように努めたいと思います」

 

 まさかの人選に天元はギョッとした顔でカナヲを見る。

 当人たちを含めて理由を求める視線に、カナヲは虚な瞳で虚空を見詰め始めた。

 

「恋雪は私の清涼剤なんです……癒しが欲しいんです……あとは、私たちの事情を把握していて、かつ客観的な立場にいる人が必要だと思ったんです。こんな面倒ごとに巻き込んでしまい、本当に、ごめんなさい……」

「い、いいんですよ、カナヲさん! 何かあったら言って下さいってお願いしたのは私なんですから!」

「恋雪……っ! ありがとう……」

 

 あまりの健気さにカナヲの胃痛が少しだけ和らいだ。

 なお、この後木っ端微塵になることをカナヲはまだ知らない。

 

「というわけで、狛治先輩と炎柱様は今仲良くなりました。共に頑張りましょう」

 

 カナヲの無茶振りに、然れど杏寿郎は快活に笑ってみせた。

 

「うむ、俺は一向に構わん! 君の活躍は耳にしている! 前世はあくまで前世! 共に頑張ろうではないか!」

「……あー、えーと……はい。煉獄先生に遺恨が無いのであれば、俺もそのように振る舞いたいと思います」

 

 細かい段取りをすっ飛ばしてカナヲは話を進めることを優先していく。平素ならもっと淑やかなのだが、今はそんな余裕などないのだ。

 

 さてと、とカナヲは一息入れて、状況説明に入る。

 

「えー、まずはこの会議の目的についてです。文字通りですが、水柱様こと冨岡義勇先生を取り巻く修羅場の解決となります」

 

 淡々と告げられる内容に炭治郎と杏寿郎以外の面々はまぁそうだろうなという悪い予感の的中に黙り込み、そこから先が気になっていたアオイは皆を先んじて発言する。

 

「それでなんだけどカナヲ、一体誰なの? 一人はしのぶ様というのは分かっているけれど……それにそんな心配しなくても、しのぶ様と渡り合える女性なんていないと──」

「カナエ姉さんだよ」

 

「……………………え?」

 

 アオイの思考が停止する。

 予想だにしていなかった方向からの一撃に頭が働くことを拒絶するも、自分のことを棚に上げて他人の現実逃避は許さないカナヲは厳然と告げる。

 

「だから、カナエ姉さんとしのぶ姉さんが水柱様を取り合う修羅場の解決がこの会議の目的だよ」

「あっ、私用事を思い出して」

「禰豆子逃げないっ!!」

 

 逸早く脱兎の如く逃げ出そうとした禰豆子の後ろ襟首を鷲掴みにして、カナヲはいやー! 

やめてー! と駄々を捏ねる禰豆子を席に連れ戻す。

 末恐ろしい理不尽な強権を振りかざす議長の姿に、呆気に取られた恋雪は口をぽかんと開けていた。

 

 カオスにカオスを重ねた現場。状況の劣悪さを目の当たりにして、それでも冷静だった狛治は意を決して発言する。

 

「……すみません、詳しい説明をお願いいたします」

 

 

 

 そこから語られたのは、前世で起こったしのぶの悲劇の数々。カナヲ視点でカナヲが知る限りのしのぶの過去。

 加害者側にいた狛治が罪悪感で死にたくなるくらいには凄惨な出来事が続き、恋雪は恋雪で感極まって涙目になってしまう。

 

「そんな……そんなことがあったんですね」

 

 ぐすんと鼻を鳴らす恋雪の目元を狛治はハンカチで拭い、冷や汗で青くなったままの彼は吐き気を堪えて話を進める。

 

「上弦の弐は水柱が……それで、その後は……」

「無惨を倒した後は抜け殻のようになり、笑顔を浮かべる時は虚空に向かって水柱様とお話する時間だけでした。そして、それ程時を置かずに、まるで後を追うように……」

 

 重苦しい沈黙が場を包む。前世の話をすると大抵はこうなってしまうのだが、恐ろしいことにまだ本題にすら入っていない。

 

「しのぶ姉さんは多分、水柱様が目の前で死んだあの時に、自身の恋心を知ったんだと思います……一生叶うことのない、たった一度の恋情だったのかと」

 

 カナヲの言葉に、遂に恋雪は本格的に泣き始めてしまう。これまで詳細に鬼殺隊士の前世の話を聞いた経験が無かったための結果だ。

 

 なお、自分たちの話は記憶のある元鬼殺隊士には出回っており、聞いた殆どの者が滂沱の涙を流してたことを狛治と恋雪は知らない。

 

 悲しみに暮れる恋雪が落ち着くのを見守る中、悲哀を上回る焦燥にだらだらと冷や汗を流すのは天元と杏寿郎であった。

 

「よもや……胡蝶が冨岡を……全く気付かなかった」

「ああー、ヤベーなー……これやべーなー……」

 

 杏寿郎はここまで話を聞いて、ようやくこの会議の目的を心の底から理解した。

 

 改めて、黒板に書かれたこの会議名を見てみる。

 

 絶対修羅場戦線ミズバシラ──

 

 畑違いにも程がある苦手分野に、杏寿郎は前世含めても生まれて初めてこの場から逃げ出したいと強く思ってしまった。

 

「……つまり、ここまでの話をまとめると、胡蝶さんは前世で好きだった冨岡先生と死に別れ、今世で運命的な再会を果たした、ということですか?」

「……美談で語れたのであれば、それが正しいです」

 

 狛治の要約に苦虫を百匹は噛み潰したような顔で肯定を返すカナヲ。

 まぁそうなんだろうなと狛治は思う。先程のカナヲとアオイとの会話内容とこの会議名から、最悪も最悪な事態に陥ってしまったということは既に察していた。

 

「細かいことを確認しますが、胡蝶さんは()()()()()んですよね?」

「はい」

「冨岡先生は?」

「それが……思い出していないようなんです」

「成る程……では、最後に一つ」

 

 こうしてやっと、本題に入れる。

 

「胡蝶()()が、冨岡先生のことを好きなのは確かなのですか?」

「……………………え゛?」

 

 ここにきてようやく、修羅場という言葉の意味を正しい意味で理解していなかった炭治郎が素っ頓狂な声を上げた。

 お前マジかと全員から半ば呆れた眼差しを向けられるも、軽いパニックになった炭治郎は気付かない。

 

「え? え? え? ど、どういうことですか狛治さん!?」

「どういうこともないだろう。むしろなんで分からないんだ。書いてあるだろう、修羅場って」

「……あ、修羅場って、そういう……」

 

 サァーっと青褪めた炭治郎は、ようやっとこの話し合いの本題を察する。

 狛治の問いの意味とそれに伴う惨状を想像して全員が顔面蒼白になる中、ふるふると怒りに身体を震わせたのはカナヲだった。

 

「というか音柱様っ!!」

「うおっ!? なんだいきなり?」

「どうしてカナエ姉さんが水柱様を好きになってるんですか?! 貴方はしのぶ姉さんが水柱様のことを好きだったって知ってたはずです!! どうしてカナエ姉さんと会った時点で、しのぶ姉さんと引き合わせなかったんですかっ?!!」

 

 そうすればこんなことにはならなかったのに!! というカナヲの心の叫びが轟く。たった数日だが、募り募ったストレスは膨大なものとなっているようだ。

 言わんとすることは分かるし、今になっては後悔も多少はあるが、しかし天元にだって言い分はあった。

 

「無茶言うな。胡蝶……カナエは記憶がない時点で只の同級生だぞ。妹に会わせろなんて会話の流れになるわけねぇだろ」

「これは個人の見解だが、例え前世を思い出していない者も、あの頃の性格や思い出は心の奥深くに刻み込まれているように思える! だからこそ当時の者とは出逢って仲良くなるのは早かったが、胡蝶……カナエは異性からの踏み込みには敏感だったぞ! 不用意な言動は警戒されていただろうな!」

 

 擁護ではないのだろうが天元の発言を補足する形で杏寿郎が続き、正論には違いない二人の反論にカナヲは怒りを抑えるように奥歯を噛み締める。

 ままならないという気持ちはあるものの、どうにかこうにか頭を冷やそうとカナヲは長く息を吐き出した。この路線での責任の押し付けは怒りの捌け口になるだけで、事態の解決には一切結び付かない。言ってしまえばかなり虚しい。

 

 それならもう、ずっと気になっていたことを尋ねる方が無難だ。

 

「……では、カナエ姉さんはどのような経緯で水柱様に懸想するようになったのですか? どんな人にも大らかなカナエ姉さんですが、恋にまで至ったのはこれが初めての筈です。何かきっかけがあってもおかしくはないのですが……」

 

 この疑問は至極真っ当だと思っている。

 義勇から、という可能性は疾うに頭から消えていた。見た感じそんな態度ではなかったし、もしかしなくともカナエとしのぶのあからさまな好意にすら気付いていない。蔦子の話であれば過去にそういう経験はあったのだろうに。

 

 ともあれ、ここを確認せずには話が進まない。

 

 たとえ聞いたことを心底後悔するのだとしても。

 

「あぁー、それな……結論からいうと、まぁ、あれだな」

 

 もうなんか疲れて逆の意味で吹っ切れ始めた天元は、キリッとキメ顔を決めてこう言った。

 

「劇的に恋に落ちたな、カナエは」

「うむ、俺も人が恋に落ちる瞬間というのを初めて見たからな! ある意味で爽快だったぞ!」

 

 わはは! と空元気で笑う杏寿郎。

 この時点で耳を塞ぎたくなった面々だったが、カナエの恋模様を知っている身としては盛大に巻き添えにしたいという願望があった。

 

「不死川や伊黒含めて俺たちは大学時代で仲良くなってな。俺の嫁含めて男女グループとしてわいわいやってたんだが、ある男にカナエが目を付けられてな」

「その者は厄介だった! カナエはその男に対して、女性がたまに言う『生理的に無理』という、カナエにしては珍しい状態でな。出会った瞬間に距離を取るくらいだったのだが、それが逆に相手の関心を惹いてしまったようで、気付けば相手が殆どストーカー紛いの行動に出始めたのだ!」

「…………あれ? その話、何処かで……」

 

 二人の話に顎に手を寄せて考え込んだのは狛治であった。

 

「狛治さん? どうかしましたか?」

「いえ、最近そのような話を聞いたなと思いまして……確か、キメツ大学で…………あ」

 

 狛治は今朝カナヲに話した内容に思い当たる。

 点と点が線で繋がった瞬間、狛治は拳をポンっと打って顔を上げた。

 

「もしかしてその男、上弦の弐──童磨のことではないですか?」

「なっ!?」

 

 まさかの名前にカナヲは驚愕を露わにし、天元と杏寿郎も目を見開いて驚いていた。

 

「よく知ってるな。俺たちも学長を問い詰めて後から知ったんだが」

「先日、俺も鬼舞辻学長の愚痴に付き合わされまして……」

 

 苦笑する狛治に幾つもの哀れみの視線が突き刺さるが、他人を慮る余裕が無くなっていたカナヲは茫然自失となって呟く。

 

「え、じゃあなんですか? カナエ姉さんが水柱様を好きになった原因は、上弦の弐ということですか?」

「ああ」

「その通りだな!」

「あの糞野郎……っ!!!!」

 

 常のカナヲからは考え付かない汚い言葉が迸り、激情に染まった顔で指の骨を鳴らすその様子に恐怖を抱いた竈門兄妹は思わず互いの両手を握り合わせて震えた。

 カナヲの急変に大人組も若干の恐怖を覚えたものの、ここは語りきる場面と判断して話を続ける。

 

「あいつは性根は屑だが不思議とカリスマ性があってな、酷い奴らは心酔しててほぼ下僕と変わらねぇ状態だった。ある日、そいつら使ってカナエに仕掛けに来たんだよ」

「言い分としては二人で話をしたいというものだったが、追い込み漁に近かったな! 気付けば俺たちも分断されてしまって、あわやというところで冨岡が颯爽と現れたそうだ!」

 

 おぉう……とカナヲは頭を抱えてしゃがみ込む。

 何故姉二人はそんな劇的な恋愛をするのだろうか。何気ない日常の中で、とかだったらまだ取れる手段だってあったものを。

 

「俺たちが駆けつけた時には粗方片付いていたな!」

「そんでまぁ最後に、冨岡が微笑みの爆弾をカナエにぶっ放してフィニッシュだ。急転直下で恋に落ちて、後は底無し沼に嵌まったかのようにズブズブと、って感じだな!」

 

 あいつにしては派手派手だったぜ! と天元は死んだ眼で愉しげに語り終えた。ああああああああ……と蹲って変な唸り声を上げるカナヲは不憫極まりない。

 仕方無しに話の進行役を担おうと、狛治は話の総括を行うことに。

 

「……つまり胡蝶先生も冨岡先生にゾッコンで、どちらも引く気は一切なさそう、ということですか?」

「端的に言えばそうなるな!」

 

 単純明快、だからこその修羅場である。

 

 この瞬間、もう既にどう足掻いても取り返しの付かない事態を全員が認識して、ズーンと音を立てて顔を手で覆い俯くしかなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

「……現状把握が完了したところで、今後の対策に話を移したいと思います。何か素晴らしいアイデアがある方!」

 

『………………………………………………………………』

 

 沈黙、圧倒的沈黙が場を襲う。

 藁にもすがるようなカナヲの問い掛けに、意見を出せる者は誰もいない。だってどうしようもないのだから。

 

「……下手に手を出さないで、見守るのはダメなの?」

「私に胃痛で死ねと、アオイはそう言いたいの?」

「そんなこと言ってないわよ!」

 

 アオイの様子見の一手を、カナヲは青白くなった顔でぶった斬る。切羽詰まり過ぎて冗談なのかすら分からないのが本当に怖い。

 とはいえ、簡単になんとかなるのならこうなってはいないのだ。発想を切り替える必要があるだろう。

 前世の罪を償う気持ちで狛治は場を回し続ける。

 

「胡蝶先生は冨岡先生に気持ちを伝えたりはしていないのですか?」

「多分だがしてないな。あれであいつも乙女チックなのか、告白は男性からして欲しいっていう願望があるらしい」

 

 嫁情報だから信憑性は高いと天元は付け加える。

 

「となると、行動に出るとしたら胡蝶さんの方ですかね。何か目的があるとして、誰か心当たりはありませんか?」

「あっ、それなら」

 

 控えめに挙手をする禰豆子は、隣にいる炭治郎と視線を合わせて大きく肯く。

 

「しのぶさんの目的は義勇さんに前世の記憶を思い出してもらうことだと思います。協力を持ち掛けられたので確かかと。……今思えば、親密度を一気に縮めたかったのかもしれません」

 

 禰豆子の推察に今朝の茶番劇を思い出したカナヲの双眸に闇が宿るも、竈門兄妹は知らぬ存ぜぬの態度で冷や汗を流しながらそっぽを向いた。

 

「ふむ、意外と理性的ですね。話を聞く限り、胡蝶さんならもっと過激な行動に出るかと思っていたのですが……」

「……えーと、その、狛治先輩。過激な行動というのは、例えば?」

「胡蝶さんは頭がいいので、現代の科学機器に慣れるのは早いでしょう。ですから、その、まぁ……愛情が暴走して、GPSや監視カメラ、盗聴器といったストーカー必須アイテムに手を出してもおかしくはないのかと……」

 

 大分酷い物言いではあったが、言われた全員が想像して違和感が無いことに絶望する。

 そして悪い想像とは際限が無く広がるもので、アオイの顔色が土気色へと変貌していった。

 

「それも怖いですが、しのぶ様の本領は薬学です。痺れ薬や睡眠薬、はては媚薬、など、も……」

「義勇さん逃げて、今すぐ逃げて!!」

 

 既成事実待った無しのゴールインまで想像した禰豆子が叫んだ。とんでもなく失礼な話をしているのに、当人たちには一切のお巫山戯が存在していない。

 

「……あのぉ、素朴な疑問なのですが」

「どうしたの、恋雪?」

「いえ、そのですね……」

 

 控えめに手を上げる恋雪にカナヲが会話の主導権を振ると、消え入りそうな弱々しい声音で触れてはいけない真実(アンタッチャブル)を問う。

 

「前世を含めても構わないのですが、冨岡先生には、どなたか好い人はいらっしゃるのでしょうか? 一番重要だと思うのですが……」

 

『…………………………………………』

 

 全員がまるで責任を押し付け合うように、無言のまま顔を見合わせる。

 

 前世では長い時間を柱という同僚の立場で過ごし、現世では同級生として学生時代を共にした天元と杏寿郎。

 家族の命の恩人にして兄弟弟子として最も仲良くしていただろう炭治郎。己の腹すら懸けて守ってもらい、幼児化して自意識がしっかりとしていなくとも無邪気に懐いていた禰豆子。

 蝶屋敷を訪れる時だけとはいえ、カナエとしのぶの側でそれなりの頻度で会話を交わしたアオイとカナヲ。

 

 これだけの面子をもってしても、誰からも明確な答えが出てこない。

 

『…………………………………………』

 

 この瞬間、カナヲを除いた全員の意思疎通が完了。一つの結論へと至った。

 

 

 

 ──あっ、これ無理だ。

 

 

 

「副議長、決を取りましょう」

「へ?」

「承った」

「へ?」

 

 唐突なアオイの提案にカナヲは呆けた声を出し、それに対して即答する天元にも呆然とした眼差しを向ける。

 

「神崎の『とりあえず様子見』という案に賛成の者は挙手を」

 

 間髪入れずにシュバババっと七つの手が天井へと伸びる。恋雪だけはカナヲを見限れずにおろおろとしていたのだが、狛治が問答無用で手を挙げさせていた。

 

「賛成多数を確認。以上を今会議の議決とし、第一回絶対修羅場戦線ミズバシラ会議を閉会とする……解散!」

 

 天元の宣言を受けて各々が静かに立ち上がり、何故か準備運動を始める。前屈やアキレス腱といったストレッチで主に下半身を解し、その間に部屋の間取りを確認。美術室には廊下に繋がる正規の出入り口が二つあり、一階に位置するため形振り構わなければ窓からも脱出が可能だ。

 狛治がおもむろに恋雪を横抱きに抱えて、突然のお姫様抱っこに恋雪の頰が紅潮する。

 

 一連の動きが逃走の準備だということに、カナヲはようやく気付いた。

 

「……いや、やめて、お願い…………」

 

 目の前の光景を信じたくなくて、カナヲの口から嘆きの囁きが溢れる。

 誰一人として視線が合わない。唯一の癒しである恋雪ですら羞恥が上回ってか狛治しか見ていない。

 

 絶望の現実を前に、それでもカナヲは願いを叫んだ。

 

「──お願いだから、私を見捨てないでっ!!」

 

 皮肉にも、その叫びが合図となった。

 

 カナヲ以外がこの部屋からの脱出を目指して、ダンッ! と音を立てて一目散に駆け出すのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 自慢でもなんでもないが、自分は他人から好かれ易いことは理解していた。

 特別なことをしているつもりはない。ただ自分の良心に従って思うままに振る舞っているだけだ。それが周りから好感を持たれているのは、幸せなことだろう。

 お陰で友人も多い。青春というのも一通りは何不自由なく楽しめたと思う。

 

 恋だけは、よく分からなかったけども。

 

 異性にも親しい友達は沢山いる。何なら告白されたことだって少なくない。彼氏彼女という関係には、なろうと思えばなれただろう。

 ただ、どうしても、その一線を超えてもいいと思えることがなかった。男女の仲にそれほど夢を見ているつもりはないのだが、軽々しくお付き合いするのもなんだか納得がいかない。

 

 そんな心持ちでいたからだろう。

 気付けば大学生で、恋愛経験は皆無だけど告白された数は両手の指では収まらないという厄介な価値観を持った美女が完成していた。

 

 名前は胡蝶カナエである。

 

 

 

 そんなカナエの転機となったのは、大学生活を送り始めてわりとすぐのこと。

 

「うまい! うまい!」

「煉獄ゥ、テメェは黙って飯を食えねぇのかァ」

「全くだ。毎回毎回馬鹿の一つ覚えのように感想を連呼するな」

「まぁいいじゃねぇか。煉獄が黙ってたらそれこそ異常だろ」

 

 やけに騒がしいグループを食堂で見つけた。

 カナエから見ても随分と顔立ちの整ったその男子たちは、喧騒な食事所においても一線を画して目立っていただろう。

 

 何故かは分からないが、彼らとは不思議な親近感が湧いていた。

 

「あいつらに何か用か?」

「っ!?」

 

 トレイを持ったまま中途半端な位置に突っ立ていたカナエは、突然背後から話しかけられて一瞬びくんと震える。

 慌てて振り返ったカナエは、これまた目を見張った。

 闇夜を溶かしたような漆黒の髪を一つに結んだ、深い蒼を双眸に宿す美丈夫が目の前に立っていた。こてりと首を傾げる仕草がどうにも子供っぽいが、それすらも可愛いと思えてしまうような魅力がある。

 思わず見惚れてしまうも、カナエはすぐさま再起動した。

 

「ご、ごめんなさい! ここにいちゃ邪魔よね」

「いや。何か用があったのではないのか?」

「う、いや、その、ね……」

「おーい、冨岡ー。こっちだ……って、あ?」

 

 後になって知った保護者役の一人である派手な装飾の男性が此方に声を掛けてきたが、カナエの姿を捉えた瞬間に声音の質が変化した。

 視線をそちらに移すと僅かにだが目を見開いた男性が四人もいて、カナエは内心疑問に思うも己の直感を信じて封殺。

 

 ここで会ったのも何かの縁だ。

 

 カナエは外行きとは違う種類の微笑みを浮かべた。

 

「良かったら、ご一緒してもいいかしら?」

 

 これが、運命との出逢いだった。

 

 

 

 

 その日から妙に気の合った面々とは性別を超えた親友となり、彼らの繋がりも介して同性の友人も増えていた。

 

「カナエさ〜んっ!! 課題を手伝ってぐだざいぃいいい〜〜〜〜っ!!」

「あら〜」

「須磨、アンタねぇ……」

「こら、カナエさんを困らせないの」

 

 淑女にあるまじき泣き顔で縋ってくる友人。彼女は以前食堂で宇髄天元の恋仲の一人である須磨という。連れ添って歩く女性二人が呆れた様子で苦笑していた。

 なんと驚くべきことに、この女性二人──名はまきをと雛鶴である──も天元と恋仲であるらしく、流石のカナエも衝撃で目が点となったのは良い思い出……なのだろうか。当人達が納得しているのであれば、他人がとやかく言うことではないと持ち前ののんびりとした性格で流していた。

 

 三人はこれまで出会ってきた同年代と何かが違っていた。持ちつ持たれつといえば表現が一番しっくりくる。気付けばグループの中心的立ち位置にいることが多かったカナエにとって、真に対等な関係というのは新鮮で尚且つ楽だったのだ。

 親しくなるのに然程時間は掛からず、大学にいる間は大抵この三人か天元たちと過ごしていただろう。

 

 今日も今日とて騒がしくも楽しい一日が始まるのだと思っていた矢先。

 

「わぁ、可愛い子がいるね〜」

 

 そんな風に声を掛けられて、平穏が崩れ去ったのだ。

 

「え?」

 

 明らかに自分たちに話しかけられたためにカナエは振り返り、相手の顔を見た瞬間に全身が震えた。

 其処にいたのは一言でいえば美男子に部類されるだろう男性だ。頭頂を紅で彩る金色の長髪を背に流した、瞳に虹を宿す青年。にこりと笑う姿は老若男女に好かれそうなもので、決して恐怖を抱くような容貌では無いというのに。

 

 カナエは何故か怖気に身体が震えるのが止められなかった。

 

「……あのぉ〜、何かご用ですか?」

 

 カナエのどこか異常な様子を見てとった須磨が、遠慮気味な口調ながらカナエを隠すようにずいと前に出る。雛鶴とまきをも双眸に警戒を滲ませながらカナエの両脇に付く。

 その一幕に青年は驚いたように少しだけ目を見開いて、また人好きする笑顔を浮かべた。

 

「あぁ〜、ごめんね。今のじゃナンパにしか思えないもんね」

「そうですねぇ〜。可愛い子って私ですか? だとしたらありがとうございますぅー」

 

 うんうんの楽しそうに頷く青年に対して、須磨は軽い調子で冗談を返しつつ会話の主導権を握りに掛かる。

 

「うーん、君も可愛いと思うけど」

 

 青年は視線を須磨からズラして、まるで怯えたように此方を見るカナエを捉える。

 

「俺はそっちの蝶の髪飾りを付けた子が気になるなぁ」

「っ!?」

 

 関心を向けられただけだというのに、カナエはこれまで感じたことのない悪寒が走った。

 声を聞くのも、姿を見るのも苦痛なんて。初めての経験にカナエは無意識のうちに雛鶴とまきをの袖を握っていた。

 

 流石におかしいと、もしかしたら何か因縁のある相手ではないか察した須磨たちは、即刻退散を決定付けた。

 

「今日は調子が悪いんですよぉ。今から帰るところなので、残念ながら貴方のお相手は出来ません」

 

 それではー、と続けて須磨たちは手荷物を纏めてその場を後にする。

 意外にもその行動を見逃されたが、去り際になって青年が声を掛けてきた。

 

「俺の名前は童磨。君の名前は?」

 

 無視すればいいものを、生来の善性からカナエは名乗ってしまった。

 

「……胡蝶、カナエです」

「そっか! よろしくね、カナエちゃん!」

 

 

 

 その日からカナエにとって心身休まらない日々が続いた。

 どうしてかその青年──童磨はカナエに興味を抱いたようで、事あるごとに絡もうとしてくるのだ。

 不安に思った須磨たちは天元へ相談して、護衛を兼ねて必ず男性陣の誰かがカナエに付くようになった。

 

「ごめんね、冨岡くん」

「俺は構わない」

 

 ぶっきら棒に思える態度でそう返したのは、食堂で初めにカナエに声を掛けた青年──冨岡義勇である。彼が口下手だけど優しいと分かっているカナエは嘘ではないと分かり安堵の微笑みを浮かべるも、それもどこか空虚なものであった。

 カナエとしても何故こんなにも童磨に恐怖を抱くのかが説明出来ず、迷惑を掛けっぱなしのこの状況に疲れ始めていたのだ。

 

 それなりの時間を共に過ごしてきたが、弱っているカナエというのを初めて見た義勇は内心焦りつつ、なんとか励まそうと言葉を紡ぐ。

 

「苦手なものくらい誰にでもある。胡蝶も人間なんだと俺は実感した」

「……ふふっ、なにそれ」

 

 斬新な気遣いにカナエの心労も少しだけ軽減される。義勇の独特な言葉選びには首を傾げることもあったのだが、今ではニュアンスで理解するようになっていた。

 義勇が弟気質であり、カナエが姉気質というのもあってか、天元たちと比較すると義勇との時間が一番過ごしやすかったのも事実だ。後に述懐するなら、この頃から片鱗はあったのだろう。

 

「今日もありがとね」

「明日は煉獄が迎えにくるはずだ」

 

 義勇がカナエを家に送り届けたその頃。

 

 ところ変わって、キメツ大学の学長室には前世の因縁をこれでもかと煮詰めたような状況が完成していた。

 

「にしても、アンタが学長なんて未だに信じられねーな」

 

 部屋にあるソファにどっかりと座った天元は横目に学長を見て、その姿にどうしようもない嫌悪が滲むも頭を振るった。

 他の面々──元柱である煉獄杏寿郎、伊黒小芭内、不死川実弥も同じような面持ちであるのだが、学長こと元鬼の始祖──鬼舞辻無惨は彼らの様子など気にも掛けなかった。

 

「無駄話をするなら即刻失せろ。私は見ての通り忙しいんだ」

「チッ、一々腹が立つなァ」

「不死川、幾らなんでもそれは暴論だと思うぞ!」

「全くだ。俺は逸早く此処を出たい。ならさっさと話を進めるべきだろう」

 

 喧嘩腰の実弥を嗜める杏寿朗と小芭内であるが、苛立つ気持ちも理解出来るためにその不躾とも言える態度の謝罪は一切ない。

 無惨とて今は紛れもない人間。人として感性はある程度蘇っているので、普通に煩いなぁとか居心地悪いなぁと思うも、絶対に埋まることのない溝だと一応は弁えていた。

 

「それで何の用だ」

「あぁ、んじゃ単刀直入に聞くんだが」

 

 天元が一枚の写真をピッと投げ付ける。

 脆弱な人間の動体視力しかない無惨は人間離れした柱の行動にギョッとし、精一杯の挙動でなんとか写真を躱した後に渋々拾い上げる。

 映っていた男の姿に、無惨は盛大に顔を顰めた。

 

「童磨……」

「やっぱり心当たりがあるんだな。んで、其奴はなんだ?」

「元上弦の弐だ」

 

 つまらなさそうにそう告げる無惨に、天元や実弥は当たってほしく無かった推測の答えを得て舌を打つ。

 

「それで、此奴がどうした?」

「連れがストーカーされてる」

 

 どうせ今世でもロクでもないと決め付けていた無惨は写真を裏返して話を促すと案の定だった。

 大きな溜め息を吐いた無惨は仕方無しに情報を提供することに。

 

「此奴はいわゆるカルト宗教の教主なんてものをやっている。前世でもそうだったが妙なカリスマもあってか崇拝している者が少なからずいる。学内にもいた筈だ」

 

 想像以上に厄介な相手だったのだと驚く一同を無視して、無惨は顎に手を寄せて思考に耽る。

 

「しかし妙だな。此奴は何かに執着するような感情とは無縁だと思っていたが」

「どんなヤツなんだ?」

「あくまで前世の話だが、屑だな。まともな人間性をしていない」

「お前が言うのかァ……」

 

 人間では無かった代表の無惨の言葉に実弥が米神に青筋を浮かべるも、無惨としては正直に話しているので撤回などしない。

 

「ともあれ、気を付けることだな。記憶は恐らくないが、此奴は頭がおかしい。常識など通用しないと思え」

 

 

 

 無惨の忠告が正しかったと知ったのは、すぐのこと。

 

 

 

「やあやあ、やっと二人きりになれたね」

 

 思えばその日はおかしかった。

 いつもと変わらないメンバーで過ごしていたいつもの日常。講義を受けて、お昼を食べて、他愛のない雑談に興じて。

 呼び出されたからと一人別れて、別の用事が出来たからとまた一人離れて。集団から小規模になり、連れ添いになり、瞬く間にカナエの周りから人が消えていった。

 極め付けはこの直前。

 

「きゃあ! ひったくりよ!」

『っ!?』

 

 気付けば義勇と二人で歩いていたその時に、女性の甲高い悲鳴が聞こえてきた。

 反射的に目で追えば一人の女性が道端に倒れていて、其処から走って逃走する男の姿。

 ()()()()()()()()()()()()違和感を他所に、正義感で動く二人の判断は早かった。

 

「胡蝶!」

「行って、冨岡くん! 女性は私が!」

 

 駆け出すと同時に二手に別れた二人。

 義勇は類稀な身体能力でひったくり犯と思われる男性を追走し、カナエは倒れ込んだ女性へと寄り添った。

 

「お怪我はありませんか?」

「はい……いえ、脚を少し擦り剥いてしまって」

「見せていただいても?」

 

 少しだけ場所を移したカナエは、常備していた簡単な消毒薬や絆創膏で傷口を治療する。

 滅多にない事件に身体を震わせる女性を励ましながら、カナエは安心させるように笑顔を浮かべた。

 

「冨岡くん、さっき追っていった男性なら大丈夫ですよ!」

「ありがとうございます。……お二人は付き合っているのですか?」

「え? いえいえ! わ、私と冨岡くんはそんな関係ではっ!?」

 

 結構踏み込んだ質問をいきなりされてカナエはやや慌てふためく。

 カナエのその様子をどこか観察するような眼差しで見詰める女性。

 その不自然さに気付かなかったカナエは、話題を切り替えるように口を開いた。

 

「そう思えば、その、何を盗られたのですか?」

 

 聞きにくいことであるためにおどおどしてしまったカナエだが、返ってきた答えは予想外過ぎるものであった。

 

「実は、何も盗られていないのです」

「…………え?」

「私の目的は、貴方からあの男性を引き離すことだったんです」

「な、何を言って……」

 

 理解の及ばない返答にカナエが硬直し、その間隙を縫って女性はいとも簡単に立ち上がる。

 呆然と見上げるカナエを置いて、その場にもう一人の声が割り込んだ。

 

「うん、ご苦労様。お陰で助かったよ」

「教祖様! 勿体ない御言葉です!」

「っ!?」

 

 その声にカナエは全身が震え始めるのが止められない。

 恐る恐る振り返れば、其処にはここ最近で望まない邂逅を繰り返した男である童磨の姿。

 

「あっ、君はもう帰っていいよ」

「はい、では失礼いたします」

 

 何事も無かったかのようにこの場を離れる女性。カナエからすればこの二人がどんな関係性なのかも分からず、ただただ状況の理解不能さに思考が停止してしまう。

 此処に来て、カナエはようやく嵌められたことに気付いた。

 

「やあやあ、やっと二人きりになれたね」

「……何が、目的ですか?」

 

 震える身体を押さえ付けるようにカナエは自身の腕をギュッと握り締める。やはり得もいえぬ恐怖は際限なく湧き上がり、本能的な忌避感に苛まれて仕方がない。

 

(どうして、どうしてこんなに怖いのっ!?)

 

 己のことなのに理解出来ない現象は、カナエの冷静な思考を狂わせていく。

 その状況下にあってもカナエは強かに、己がやるべきことをやり遂げるために、ポケットの中を手探り操作する。

 

「そんなに怖がらなくてもいいのにー。俺はただ、カナエちゃんとお話したいだけだよ」

「わ、私は話すことなんてありません」

「そんなこと言わずにさぁ。……うんうん、やっぱりだ」

 

 満足そうに頷く童磨はニコリと笑う。

 全く温度のないその笑みは、カナエの怖気を倍増させるだけで。

 

「君は俺のことを初対面の時から怖がってるよね。どうしてかな? 俺、女の子に出会った時点で嫌われるなんて今まで無かったんだ。カナエちゃんと会ったのも大学が初めてなのに、だからちょっと気になったんだ!」

 

 無邪気な好奇心だと笑うその言葉は嘘には思えない。

 それでも、ちょっと気になったぐらいでこうまでしつこく付き纏われるなんて。

 

 世間一般では、それをストーカーと言うのだ。

 

「貴方は……」

「ん?」

 

 まともな反応を見せたカナエに童磨は首を傾げる。

 無垢とも思えるその仕草。

 カナエはその本質を、出逢った時点で見抜いていたのかもしれない。

 

「貴方は、可哀想だわ」

「……何?」

 

 楽しげな表情が一時停止し、童磨の眉が僅かに動く。

 カナエは相手が不快に思うだろう言動をした経験は少ないけれど、何をされるか分からないこの現状に抗う術がこれしか思い浮かばなかった。

 

「貴方には、感情が殆ど存在してないんでしょう?」

 

 この言葉に、童磨の笑みが固まる。

 

「貴方からは喜怒哀楽を感じないわ。笑っているのもただ仮面を取り繕っているだけ。私のことが気になると言ってるけど、珍しい動きをする動植物に向けるような目をしているわ。……暇潰しで私にちょっかいをかけるのはやめて」

 

 恐怖と共に募った鬱憤を吐き散らかして、カナエはキッと眼光を鋭く光らせる。

 言ってやった。性質(たち)の悪いストーカーに対して反感を覚えるような言動は控えるべきだったのかもしれないが、幾ら温厚なカナエとてやられっぱなしは趣味ではない。

 重苦しい静寂が場を包み、童磨の雰囲気が一変。

 

「……今まで、随分な数の女の子とお喋りしてきたけど」

 

 すぅ、と冷える童磨の双眸。

 

「君みたいな子は初めてだよ。うん、やっぱり気になるなぁ」

「っ!?」

 

 その変化にカナエは息を飲む。

 明らかに童磨が宿す感情が変わった。新たに生まれたとも言える激変。

 

 初めて童磨の瞳に、欲望という感情が見えた。

 

「カナエちゃんの言う通りだよ。俺にはみんなが言う嬉しいとか悲しいとかがよく分からない。色んなことをやってみたつもりだけど、もう全然。正直、ずっとこのままなんだろうなぁ〜って思ってたんだ」

 

 達観した様子とは裏腹に微笑みを絶やさないその表情は最早癖なのだろう。だからこそ仮面たり得ているのだ。

 

「でも、カナエちゃんを一目見た時に、ふとね。なんか興味でてきてね。何だろう、うん。何なんだろうね」

 

 心底不思議そうにする童磨であるが、カナエからすれば迷惑この上ない。

 それでも、そんな不明瞭な気持ちですら、童磨にとっては新鮮だったのだろう。

 だからこそ、こうまでカナエに関心を抱いたのだ。

 

「そしたらカナエちゃんも俺のことを特別に感じてくれているみたいだし。だから思ったんだ。これがもしかしたら運命ってやつなのかもって!」

「…………は?」

 

 飛び出てきた単語に、カナエから思わず素っ頓狂な声が漏れる。

 カナエの困惑を余所に、童磨は滔々と語り続けた。

 

「実は俺、万世極楽教の教祖をやってるんだ。信者の皆と幸せになるのが俺の務め。極楽なんて人間が妄想して創作したお伽話なのに、それでも集まる人はいるんだよねぇ。可哀想だから話を聞いてあげるんだけど、そうするとね、何故か俺の言葉なら何でも聞いてくれる人たちが出来上がる。さっきの子なんて正にそうなんだよ」

 

 からからと笑う童磨に対し、先程の謎が解けたカナエは一歩後ずさった。

 

 これは拙い。

 このまま此処にいてはいけない。

 一刻も早く逃げ出さなければならないのに、脚が上手く動かない。

 

「今でも極楽なんて信じてないし、天国や地獄なんて存在しないと思ってる。でも、カナエちゃんとの運命があるなら、もしかしたらそういうのも存在するのかもしれないね」

「な、何を……」

 

 思考回路が全く読めない。

 ある意味で純粋無垢なその精神性は、カナエには理解不能の怪物にすら思えてくる。

 

「だからそれを確かめる為に、カナエちゃんには俺に付いてきてもらいたいんだ!」

 

 笑顔のまま近付いてくる童磨。

 まるで決定事項のように宣ったその言葉は、カナエにとって恐怖以外の何物でもない。例え相手が童磨で無かったとしても、これは普通に怯えずにはいられない状況だろう。

 

「いや、来ないでっ!」

「そんなに怯えずにさ〜。大丈夫、俺がカナエちゃんを幸せにしてあげるから」

 

「──胡蝶に近付くな、下衆が」

 

 突如、頭上から舞い降りる声。

 たんっと二人の間に降り立ったのは、長い黒髪を風に靡かせた一人の美丈夫で。

 

「と、冨岡くん……」

「済まない、胡蝶。遅くなった」

 

 颯爽と現れたのは、先程ひったくり犯と思われる者を追っていた筈の義勇だ。何故か身体の至るところが傷付いたように見える義勇であったが、その瞳には童磨に対する強い敵意が浮かんでいた。

 味方が現れたこと一気に緊張の糸が解けたカナエはすとんとその場に座り込んでしまい、童磨は突然の乱入者に驚いたように目を見開く。

 

「あれぇ、おかしいな。どうして此処に来れたのかな? 誰も近付けさせないようにお願いしたのに」

「あれはお前の手のものか。押し通らせてもらったが」

「あっはは! 凄いね、十人以上はいた筈なのに」

 

 愉快そうに笑う童磨に対し、義勇の敵意は萎むどころか増すばかりだ。

 強引な手段を訴えようとした場面を目撃されても、童磨には一切の反省の色がない。例えここで見逃したとしても、性懲りも無くカナエへとちょっかいを出してくるだろう。

 この場でケリをつけなければならないとその一瞬で考え至った義勇は、おもむろに携帯機器を取り出した。

 

「お前と胡蝶の通話は録音してある。然るべきところに出せば、お前は終わりだ」

「……へぇ。それは困るなぁ」

 

 鋭利に光る童磨の眼光。

 ぱんぱんっ、とそのまま手を鳴らすと、その大きな音を聞いたのだろう人々が集まってくる。

 彼等が童磨の言っていた信者だということには、流石のカナエも気付いた。

 

「じゃあ二人のスマホだけでも回収しないとね」

「っ、と、冨岡くん!」

 

 まさかここまで大事になるとは思っていなかったカナエは、自分の所為で義勇を危険に巻き込む訳にはいかないと思うも、一度頽れた身体はどうしても上手く動かない。

 そんなカナエの姿を一瞥して、義勇は迷いなく前を向く。

 

「安心しろ、胡蝶。力付くで来るのならむしろ都合が良い」

 

 すぅ、と冷徹を宿す義勇の碧眼。

 

「必ず護る」

 

 そこからは大乱闘、とはいえない一方的な殲滅であった。

 

 義勇の体術は並の相手など物ともせず、多勢に無勢であったにも関わらず次々と向かってくる相手を伸していく。一人二人と瞬く間に地に伏していく光景は目を疑うほとであった。

 

「うわぁ、凄いな君……これはもう無理かなぁ」

 

 鬼神の如き義勇の動きに童磨は空いた口を塞ぐように上品に口元に手を寄せる。

 

「うーん、仕方ない。ここは皆に任せようかな」

「おいィ、ここで逃げるなんて言わねぇよなァ?」

「……あれ?」

 

 音も無く童磨の周りに現れる四人の姿。

 ポンと童磨の肩に手を置くのは、怒りで米神に青筋を浮かべてただでさえ怖い形相が更に恐ろしいものへと変貌している実弥であり、後ろに続く杏寿郎、天元、小芭内も同じような表情をしていた。

 

「あぁ〜、皆来ちゃったん」

 

 これは拙いと思った童磨は何事かを喋ろうとするがもう遅い。

 

「死ね」

 

 容赦無く一発ぶん殴った実弥によって、この騒動は終幕を迎えた。

 

 

 

 此奴のことは俺たちに任せろと言って実弥と小芭内が童磨を連行してゆき、座れる場所を目指して移したカナエたちは公園へと辿り着いていた。

 

「怪我はないか、胡蝶?」

「うん、大丈夫……あの、その」

 

 労わるように義勇に声を掛けられたカナエは、もじもじと手を弄った後にバッと義勇へ視線を合わせる。

 

「あ、ありがとう、冨岡くん! 本当に、本当に……っ!?」

 

 今更になって恐怖がぶり返したのか、カナエの瞳からは大粒の涙が零れ落ちていく。

 突然の事態に義勇はギョッとし、おろおろと側にいた天元と杏寿郎に助けを求めるも、二人は空気を読んでか何も言ってはくれない。

 どうしようと悩む義勇は、ふと幼い頃のことを思い出す。犬に追いかけ回されて泣いていた時、姉がしてくれたことを。

 

 ぎゅっ、と。

 自分の体温を分かち合うように義勇はカナエを優しく抱き締めた。

 

「安心しろ、もう大丈夫だ」

「〜〜〜〜〜っ!!」

 

 柔らかなその温もりに包まれて、カナエの涙腺が決壊する。暫くの間は、嗚咽混じりの声しか響かない。

 ようやっと落ち着いてきたカナエだったが、途端に恥ずかしくなったのだろう。赤面する顔を両手で覆って、羞恥に震えながら縮こまってしまった。

 

「ご、ごめんね。私、迷惑ばかり掛けて」

「謝る必要はない。……胡蝶」

 

 呼び掛けられて、カナエは目と鼻の先にあった義勇の顔を見る。

 いつも無表情で無愛想にも見えるその口元が、その時だけは、穏やかに綻んでいた。

 

「お前が無事で良かった」

「…………ふぇっ」

 

 どくん、と心臓が跳ねる。

 かつてない感覚にカナエの全身の血の巡りはどんどんと早くなっていき、身体が熱くて堪らない。

 

 これが恋に落ちるということなんだと、カナエは初めて知った。

 

 いつの間にか距離を取って見守っていた天元や杏寿郎ですら一眼で分かったカナエの恋心。義勇の性格を知ってか、これは前途多難だなと快活に笑う杏寿郎に対し、あれこれヤバくね? などと天元は思っていたが、その懸念が後悔に変わるのはもう少し先のこと。

 

 その日以降、カナエはカナエなりの積極性で義勇との仲を詰めていく。

 疑うことを知らない義勇を口八丁手八丁で丸め込んで、名前で呼び合うように誘導し。

 練習も兼ねてと称してお昼ご飯を毎日作り。

 下心を持って義勇へと近付く女性の全てを遠ざけ。

 就職先すら同じところへなるように動いた。

 

 このままどんどんと距離を詰めていこう。

 そうすればきっと、義勇もカナエを異性として見てくれる。

 

 だと思っていたのに──

 

「冨岡先生、大丈夫ですか?」

 

 立ち眩みしたのだろう義勇へと寄り添う妹の姿。

 まるで行く道を遮るようにした妹の挙動。

 

 その瞬間、カナエは己の敵となる存在を認識した。

 

 どうして私の邪魔をするの、しのぶ?

 なんで義勇くんに近付くの?

 私はしのぶのことを愛しているけど、それはダメよ?

 

 灯る闇は確実に、カナエの心を広がっていく。

 

 極め付けとなったのは、その直後。

 

「──あっ、いたいた。義勇!」

 

 自分より義勇と仲が良い女性。

 後で義勇の実の姉と分かったが、それが判明する前に抱いた自分の感情は止め処なく。

 

 私以外の女性も仲良くしないでほしい。

 私だけを見てほしい。

 

 私だけ──

 

 際限なく溢れる独占欲。

 自分がこんな醜い考えを持っていたなんて。

 

 それでも、どうしても、欲しいと思ってしまう。

 初めてだったのだ。

 生まれて初めて好きになって、これまで側に居続けたのだ。

 

 だからもう、離れることなんて考えられない。耐えられない。

 

 そうだ、これは運命なのだ。

 

 私と義勇くんが結ばれないなんて、それこそ有り得ない。

 たとえ愛する妹であろうと、私から義勇くんを奪うなんて許されない。

 

 歪んだ心は元に戻ることはなく、自分の正義だけしか見えなくなる。

 もう悠長にしている心の余裕は無くなって。

 考えるのは最愛のあの人のことだけ。

 

 

 

 ──ああ

 

 ──ワタシダケノ、アナタ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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オマケ


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次回
閑話 しのぶさんの日常

つづく……?





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藤の毒を飲み、藤の花を吐く
神の呪いか、姉の祝福か




ヤンデレぎゆしのの続きじゃなくてすみません!
思い付いた短編がどうしても書いてみたくて

※読む前の注意
・本誌ネタバレを含みます。
・とあるパロネタを引用してます。








 

 

 きっかけは些細なことだったと思う。

 

「胡蝶、無理をするな」

 

 鬼殺の任務を遂行し、帰路についていた胡蝶しのぶに冨岡義勇は不意にそう言った。

 会話を自ら振ることすら珍しい義勇に、思わずしのぶはポカンとする。

 

「……? どうして急にそのようなことを?」

 

 最近増えてきた合同の任務であったが、体調の心配をされたのはこれが初めてだ。義勇は気紛れでそんなことを言う男ではないので何かしらの理由があるのだろうが、普段から言葉足らずなために慣れているしのぶをもってしても隠れた理由を察するのは困難である。

 小首を傾げるしのぶに、義勇はこれまた珍しく言葉を紡ぐ。

 

「調子が悪いのだろう? 化粧で隠しているつもりだろうが、顔色も良くない」

「!?」

 

 しのぶは素直に驚いた。

 目が良いカナヲはともかく、その他蝶屋敷の面々ですら気付いていないだろうしのぶの体調不良を、天然ドジっ子だとしのぶが勝手に思っている義勇が看破していたとは。

 しのぶの不調は一ヶ月以上続いている。

 これは只の風邪などではなく、明確な理由が存在していた。

 

 しのぶ自らの意志のもと、藤の花の毒でその身に侵し始めたからだ。

 

 鬼の頸を斬れないしのぶは毒で鬼を滅殺している。非力な身ながらしのぶが柱の地位まで上り詰めたのはひとえに、その成果が認められたからこそ。

 血鬼術が使える程度の鬼相手ならば、ただ毒を撃ち込むだけで済むだろう。

 だが、それでは駄目なのだ。足りないのだ。

 

 鬼の頂点に座する十二鬼月を討つには。

 最愛の姉の仇である上弦の弐を殺すには。

 

 考えた末に導き出したのは、自己犠牲すら厭わない方法。

 己の身体を毒で満たし、鬼に喰われることで道連れにするという絶死の戦略だった。

 

 家族を喪ったしのぶにはもう、この世に未練がない。

 姉を殺した仇を討つことだけが、しのぶの至上目的。

 鬼の居なくなった世界を見るという鬼殺隊の者なら誰もが抱く宿願すら、しのぶの頭の中には存在しないのだ。

 

「……冨岡さんに見抜かれるなんて、私もまだまだですね」

 

 うっかりです、と芝居掛かった態度でしのぶは返答とする。

 暗にこれ以上掘り下げてくれるならというしのぶの無言の圧力に、察したのかは分からないが義勇は二の句を継がなかった。

 

 二人の間に沈黙が訪れるが、元々義勇は会話能力が欠如した人間なのでしのぶは苦に思わない。

 ちらっと一瞥しても、義勇は前だけを見ている。

 

(見てるところは見てるんですよねぇ……)

 

 最初はもっと冷たい人だと思っていた。

 その認識が変わったのは少し前。雪山で偶々合流して義勇の任務に同行したあの日から。

 鬼となった者が死の直前に娘に遺言を。

 本当にその鬼が言葉を遺したのかは定かではないが、まさか義勇がそんな気遣いを出来るとは。

 

(たまに常識を疑いますが、根は優しいですし……)

 

 蝶屋敷で三人娘が運んでいる荷物を自分から受け持ったり、危機に瀕した隊士を身を呈して庇ったり、薬の受け取りの際には手土産を忘れなかったり。

 何気無い義勇の行動に目が行くことが多くなった。

 合同での任務では何度も背中を預けた仲だ。その強さは頼り甲斐があり、流れる水のように戦況に対応する義勇の実力には信を置いている。

 

 こうして振り返れば、義勇との思い出も増えていた。

 

 ふと思い返せば暖かな気持ちになれるその感情が、しのぶは嫌いではなかった。

 

「カァーッ‼︎ 伝令、伝令‼︎」

 

 帰りの途上で、義勇の烏が空から舞い降りて新しいを任務を伝えてきた。

 義勇は一も二もなく頷き、烏をひと撫でして労った後にしのぶへと向き直る。

 

「俺はこのまま別の任務に行く」

「はい、お気を付けて」

「お前は帰って一度寝るべきだ」

 

 気遣いにしては乱暴な言葉を残し、義勇は影となってその場から消える。

 走り去るその背中を見送りながら、しのぶは口を尖らせた。

 

「もう少しだけでも優しい台詞が言えないんですかね」

 

 ……恐らく、これがきっかけ。

 しのぶの中で何かの一線を超えた、義勇とのやり取り。

 

 藤の毒を飲み始めてから頻繁に襲う吐き気の性質が、思いも寄らぬ方向に変わった瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 義勇と別れ蝶屋敷に帰り着いて。

 自室で義勇の言葉を思い出し、寝ようかと思ったその瞬間。

 

「うっ!?」

 

 突如として襲いくる強烈な吐き気。反射的に口元を手で押さえる中で、しのぶは確かな違和感を覚えた。

 これまでのは臓腑がひっくり返るような悪寒や気持ち悪さが先立っていたが、今回のは毛色が異なる。体内に突然現れた異物をとにかく外に出したいという、奇妙な感覚。

 その欲求は凄まじく、しのぶは桶を用意する間も無く口から何かを吐き出す。

 

 吐物は悍ましい程に綺麗に色付いた、藤の花だった。

 

「…………は?」

 

 けほっ、と咳き込みながら、意味不明な事態にしのぶは呆然とする。あまりの突飛な現象に思考停止に陥って、頭がちっとも働かない。

 無意識のうちに藤の花を手に取り光にかざしながら繁々と観察するも、どこからどう見ても藤の花以外の何物でもない。

 

 ──今、自分はこれを吐き出したのか?

 ──一切消化のされていない藤の花を?

 ──体内の生成された? どんな原理で?

 

 その聡明な頭脳が再起動して凡ゆる考えを巡らしても、目の前の現実に理解が及ばない。

 しのぶは薬学や医学において天才だが、その存在自体を知らないものには対処出来ない。

 何となくの所管で、これは奇病に当たるものだろうと結論付け、しのぶは苦笑いを零した。

 

「我ながら、妙なものを引き当ててしまったようですね」

 

 現時点で最も可能性のある心当たりはやはり、藤の花の毒を体内に満たしていることだ。

 この試みの被験者は恐らく歴史上しのぶが初めてだろう。どのような副作用が発生するのかも定かでは無く、実際身体の不調は化粧で隠すくらいには著しい。

 治るのかも分からない容態ではあるが、吐き気を催す以外の問題は今のところなさそうである。

 

「面白いことになりました。……ただ、今日はもう寝ましょうか」

 

 とうに命を捨てる覚悟をした自分の身体をどこか他人事のように考え、しのぶは吐き出した藤の花を研究用にと一応保存してから布団の中へと入り込む。

 

 数時間の仮眠を経てまた仕事に取り組もう。

 任務で足手纏いにならぬようにもしなければ。

 義勇の足を引っ張るなんて御免だ。

 

 そんなことをつらつらと考えながら、やがてしのぶは静かに寝入る。

 

 今日起きたこの現象が後に運命の分かれ道になるとは知らずに。

 

 

 

 

 初めて藤の花を吐き出してから数週間。

 その期間も藤の毒を飲み、任務へと赴き、蝶屋敷の業務に勤しみ、藤の花を吐いていた。

 吐く前に藤の花か汚い吐瀉物かが分かるのだが、どうにも前者の場合は堪えるのが難しく、体外に放出してしまう。まとまった時間が取れずまだ手を付けていないが、その藤の花は全てしのぶの自室で保管していた。

 

「さて」

 

 誰も近付かないように助手たる女性隊士に言いつけたしのぶは、自室で注射器を手にして自身の腕に当てる。

 

「っ……」

 

 躊躇いなく針を刺して血を採取する。赤黒い血液が注射器に十分溜まったのを確認して針をゆっくりと抜き取り、赤い雫が浮かぶ患部に綺麗な布を押し当てる。

 全集中の呼吸を用いて完全に止血して、しのぶは手早く自身の血液を調査することにした。

 

 しのぶは毒を含んでから定期的に行うこの検査で、自身の身体を満たす毒の体内濃度を調べていた。

 成果としては上々。順調に濃度は上がっており、このままであればあと一年もあれば血液、内臓、爪の先に至るまで藤の花の毒で満たせるだろう。

 

 だからこそ、今回の検査結果には純粋に驚いた。

 

「濃度が下がっている……?」

 

 明らかに前回の測定時より低濃度となっている。

 誤診かと思い再び採血して調べてみるも結果は変わらない。

 

(摂取量はこれまでと同じ。調整中とはいえ、上がらないのはともかく下がるのは解せませんね……)

 

 前例の無い取り組みである為に不測の事態は幾らか想定していたが、摂取を続けた状況で下がる可能性は考慮していなかった。

 特段焦りはない。そういうこともあるだろうと仮定した上で、解決の糸口を見つければいいだけだ。

 

(単純に考えれば、摂取量より排出量が多くなったはずですが……)

 

 それらについては厳密に記録している。

 初めた当初は体調の変化に追い付けずに中々に苦労したが、一週間もあれば慣らすのは造作も無い。改めて日々の記録を見返しても変わりはなかった。

 任務で失血し過ぎたということもなく、この数週間のうちで大きく何かが変わったことなど──。

 

「まさか……」

 

 しのぶの視線が机の上に置かれた小箱へと向かう。

 蓋を開ければ其処には、水も何も与えていないにも関わらず枯れること無く咲き続ける少量の藤の花。

 もしかしたらしのぶは、明確な異常であるこの花を検査するのが恐かったのかもしれない。だからこそこの瞬間まで放置していたのだろうか。

 

 だが、この状況ではもう捨て置けない。

 

 試しに一輪手に取り、普段から毒を精製している研究室へと足を運んで精密な器具を用いて確かめてみる。

 結果は予想よりも酷かった。

 

「一輪の藤の花から取れる毒の量を遥かに上回っている……」

 

 質、濃度、量、全てが普通のとは桁違いだ。

 これが量産されることは望ましいのだが、状況が状況だけに素直に喜べない。むしろこんな副産物は要らない。

 

「仕方ありませんね」

 

 後日、しのぶは本格的に自身の病状を調べることにした。

 吐き出した藤の花については粗方調査を終えたが完治に至る手かがりは掴めなかった。思い当たる規則性といえば、義勇との合同任務の後に多くを吐いていることだが、関係性は全く判明していない。

 ならばと馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、そもそも花を吐く病気があるのかと調査に乗り出す。

 

 答えは意外にも簡単に見つかった。

 

「『花吐き病』とはまた……ひねりも何もないですね」

 

 手に入れた文献を前にしのぶは苦笑を浮かべる。

 正式名称は『嘔吐中枢花被性疾患』──通称『花吐き病』。読んで字の如く花を吐く奇病だろう。実際に体験しているしのぶがいるのだから間違いない。

 

「さてさて、何が出てくるやら」

 

 興味関心半分面白い半分にしのぶは表紙をめくって内容に目を通す。

 ……しのぶはこの時まで知らなかったのだ。花吐き病がどういう病気かということを。この文献の写本を専門家から受け取る際に、生暖かい眼差しで見送られたその真意を。

 

 花吐き病の発症の意味を知って、しのぶは固まった。

 

「…………は?」

 

 脳が理解を拒絶してしのぶは再度熟読するも、書いてある文章が変わるわけがない。

 何度読んでも、どのように解釈しても、示す答えは一つだけ。

 出だしにはこう綴られていた。

 

『花吐き病は片想いを拗らせると花を吐く奇病である』

 

「片想いを、拗らせる……」

 

 不意に、誰かの背中が浮かび上がる。

 背の半分で模様の異なる、特徴的な羽織りを着たその立ち姿。

 

「っ……!?」

 

 その情景を青白い顔で打ち消して、しのぶは文献を読み進める。

 年頃の乙女なら羞恥に顔を紅潮させる内容なのだが、読めば読むほどにしのぶの顔色から血の気が失われていく。到底受け入れ難い真実にしのぶは愕然となる。

 

 罹患の条件は花吐き病患者が吐いた花に触れること。

 発症の条件は意中の人が出来ること。

 生成される花は個人で異なる。

 想いが持続する限り症状は(おさま)らない。

 完治するためには想い人と両想いになり、口づけを交わすしかない。

 一度完治すれば、二度と感染することはない。

 

(……最悪だ)

 

 最悪だ最悪だ最悪だ、としのぶは茫然自失に陥る。

 なんて性質(たち)の悪い巫山戯た病気だろうか。人の感情を食い物に花を咲かせるなど、はっきり言って外道の所業だ。しかもその花が一等綺麗なのも癪に触る。

 

「どうして……」

 

 いつ罹患したのか、これはもう些事だ。今更解明することに意味が無い。

 病気として長年研究がされている以上、この文献は信用に値する。医学薬学に携わるしのぶだからこそ、信じられてしまう。

 

「どうして……」

 

 しのぶが取り得る道は二つ。

 完治させるか否か。

 

 鬼殺の毒を身体に満たす為には、花を吐くわけにはいかない。後顧の憂いを消し去るのならば、完治させるのが一番。

 

 だが、その選択肢だけは絶対に駄目だ。

 

 愛する人が出来てしまえば、未練が残る。

 死ぬのが怖くなる。

 死なれるのが怖くなる。

 愛する家族を二度も目の前で喪ったしのぶは、今度は相手を道連れに、死から遠ざかろうとしてしまう。

 しのぶは動けなくなってしまう。

 

 ならばもう、答えは出ていた。

 

 芽生えた想いを摘み取り、粉微塵に切り刻んで、業火燃え盛る炉に()べて、跡形も無く焼き尽くすしかない。

 こんな感情が二度と生まれないよう、徹底的に。

 

「……あれ?」

 

 ポタリと、雫が落ちる音。

 視線を下へ向ければ、文献の頁が一滴分だけ黒く滲んでいる。

 指で目元を拭えば、涙で濡れた。

 

「どうして、なんで……どうしてっ……!?」

 

 姉が好きだと言った笑顔の仮面を被り、鬼と仲良くしたいなどと妄言を吐き散らかして。

 そんな嘘を身に纏うのは簡単だったのに。

 

 自分の感情には嘘を付くことが出来ないなんて。

 

 姉の仇を取ると魂に誓ったのに。

 死の覚悟すらとうに決めたのに。

 女の幸せなど切り捨てたのに。

 

 ──どうしてその信念を踏み躙ろうとするのか。

 

 復讐に死ぬか、愛に生きるか。

 

 どちらも嫌なのに、どちらも欲しいのに。

 

『しのぶ』

 

 ──ああ、そっか

 

『鬼殺隊を辞めなさい』

 

 ──私は、きっと

 

『普通の女の子の幸せを手に入れて、お婆さんになるまで生きて欲しいのよ』

 

 ──神様に嫌われているんだ

 

『姉さんはしのぶの笑った顔が好きだな』

 

 嫋やかに笑う姉の声が、聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

 






愛か死か──
こういう究極の二択が好きなんです……

この後はあれですね、どんなルートを辿ろうとも運命の柱合会議でしのぶさんが暴走して……っていうところまで妄想しましたが続かない……






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