水に憑いたのならば (猛烈に背中が痛い)
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第壱話 最初の一歩

冨岡さん憑依ものねぇかなぁーと思いながら探しても無かったので自分で書くことにした。需要?知らんな

「見たい物を書く」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!

更新速度は期待しないで。



 輪廻転生。死んであの世へと送られた魂が、この世に何度も生まれ変わってくるという仏教における思想の一つである。宗教知識を少しでもかじっているならば、単語くらいは聞いたことがあるだろう。

 

 無論、俺はその概念を本心から信じていたわけでは無かった。少なくとも()()()()はごく一般的な人間だった、筈だ。特に宗教にのめり込んでいたとか、そう言った意識は無い。故に俺は死ねばそこで全てが終わる、転生など実在しないと結論付けたまま無へと還っただろう。

 

 

 ――――今ここで、二度目の生を得るまでは。

 

 

「――――義勇(ぎゆう)。義勇? どうしたの、急に呆けたりして」

「…………………え?」

 

 自覚を持ったのは、おおよそ五歳くらいの頃だろうか。どうやら地面に絵を描いて遊んでいたらしき俺は、その女性の声が聞こえるまでピクリとも動けなかった。さながら、突然膨大なデータを流し込まれて処理が重くなったPC、とでも言えばいいのか。

 

 気が付けば覚えのない子供の記憶が頭の中に飛び込んできて……いや、この場合は、逆か。子供の頭の中に、何が原因かはわからないが、俺と言う存在が入れられてしまった。そして身体の奥底で頭の中が混ぜ込まれるような強烈な違和感と不快感の後、『俺』という存在は二度目の生を得たのだ。

 

「え、っと……」

「義勇、何処か怪我でもしたの? もの凄い汗だわ、風邪かしら……」

「い、や……なんでも、ない」

 

 その時の俺は、そんな焦燥し切った声で返事を返すのが精一杯だった。

 

 訳が分からない。一体何が起こったんだという疑問が頭を埋め尽くす。此処は何処だ、俺は誰だ。落ち着け、俺の名前は■■■■。年齢は■■。死因は……思い出せない。いや、前世の思い出を掘り返そうとすると頭の中に強烈なノイズが入り乱れる。

 

 結局、思い出せるのは前世で生きていた時代――――二十一世紀頃の一般教養と趣味だっただろうものの知識程度だった。一年程試行錯誤を繰り返してみたが、成果は無し。故に、俺はその辺りについての未練はきっぱりと切り捨てることにした。無駄なことに時間を割くくらいなら、別に問題について取り組むのが有意義だろう。

 

 さて、話を改めよう。……今生での俺の名前は、冨岡義勇(とみおかぎゆう)と言うらしい。

 

 もし俺に漫画やゲームといった娯楽関係の知識がなければ、特に何も思わなかっただろう。だが、残念ながらある。俺の名は知識の中で覚えているとある漫画の登場人物と一語もズレることなく同じであった。

 

 『鬼滅の刃』という、そこかしこが危険だらけのダークファンタジー漫画である。そして何よりその漫画のレギュラーキャラと名前が全く同じだというのはちょっと偶然が過ぎるのではないだろうか。

 

 勿論偶然の線もあっただろう。実際二度目の生を受けて一年経って落ち着きを取り戻し、その事実を知っても俺は偶然だと思った。いや思いたかった。しかし姉の名前が冨岡蔦子(つたこ)だと思い出して、悲しくもその可能性は潰えてしまった。流石に此処まで一致しておいて尚偶然と片づけられるほど、俺は楽観主義では無い。

 

 心底泣きたかった。よりにもよって主要人物に憑依転生。控えめに言って最悪だ。

 

 本来生まれるべきだった『彼』を消し――――いや、正確には“混ざった”ので残っているのかもしれないが、ほぼ消えたと考えていいだろう―――何より本来彼が行うべきだった役目を俺が果たさなければならない、という事実が何よりも俺の心を蝕んでいく。

 

 詳細はこの際省くが、冨岡義勇という者は一言で言えばクールなイケメンキャラの皮を被ったド天然ドジッ子残念イケメンである。しかし同時に柱――――味方陣営の最高幹部の一人であり、同時に主人公である竈門炭治郎(かまどたんじろう)に大きく関わる人物なのだ。

 

 そんな者が本来とは別の行動を取ればどうなるだろうか。

 

 最悪の場合ラスボス、鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)が太陽を克服して究極生命体(アルティミット・シイング)誕生と言う本人以外誰も望まない最悪の事態を迎えかねない。勿論そんなことにならない可能性もあるが、少なくとも状況が現状から好転する可能性は無に等しいだろう。

 

 故に、俺には大まかに二つの選択肢が今突きつけられていることになる。

 

 一つは大体原作通りに行動して、主人公たちを導く。

 

 もう一つは――――すべてに目を背けて、普通の人間として生きていく。

 

 正直言って、後者は選びたくない。無論危険度で言えば前者の方が遥かに高いだろう。それに今この世界は俺にとっては現実だ。漫画の様に全てが上手く行くとはとても思えない。何処か一つでも狂えば全てが台無しになりかねないのだ。

 

 ……だからと言って、後者が絶対安全かと言われれば迷いなく「NO」だと答えれる。

 

 この世界はラスボスである鬼舞辻無惨によって生み出された超常の存在、鬼が闊歩している。日光を浴びると灰化するため夜にしか行動できないという縛りはあるが、ある特殊な武器で首を刎ねなければ絶対に死ぬことは無いというフロ○ゲーより酷いクソみたいな仕様の敵である。

 

 そして一般人がそんな存在から身を守る術は、ほぼ無い。鬼殺隊……鬼を狩るための組織は存在しているが、動いてくれるのはほぼ手遅れになった後からだ。

 

 もし後者を選んで、その先で鬼に襲われたら?家族が食われたら? ――――想像するだけで悍ましい。

 

 故に、迷う。守る力を得るために茨の道を進むか、保身のために薄氷の道を渡るか。

 

(…………俺は、どうすればいい……?)

 

 考えて、考えて、考え続けても明確な答えは未だ出せず。

 

 結局俺は七年もの歳月を無駄にしてしまった。……いや、身体作りをしたり家事能力を磨いたりと全くの無駄という訳では無いのだが。おかげで同世代の子供の中では一番の力持ちだと近所ではちょっとした有名人である。全く自慢する気は起きないが。

 

「義勇、良ければ晩御飯の支度の準備を手伝ってくれないかしら」

「あ……うん。わかった」

 

 畳の上に座り込みながら窓の外の夕陽を見ていると、蔦子姉さんは微笑みながら俺に頼みごとを投げかけてくれた。

 

 優しい姉。七年間、俺自身の目で見てきて出せる結論はただそれ一つに尽きる。

 

 俺が五歳になる前に両親が病気で他界してから、甲斐甲斐しくただ一人の弟である俺を母親のように育ててくれている。俺にとっては母であり、姉であり、ただ一人の肉親だ。この世で一番、大切に思っている。

 

 だからこそ、思う。

 

 鬼の存在によって死ぬはずの彼女を、こんなにも我が身可愛さに迷い続けている俺が助けられるだろうか、と。

 

 ふと俺は、晩御飯の支度をしながら姉へと問いかける。

 

「……姉さん」

「なぁに、義勇?」

「姉さんは、自分の選んだ道を後悔した事はないか? この時ああしていれば、こうしていれば……もっといい結果を出せたかもしれない、って」

「そうねぇ……」

 

 蔦子姉さんは鍋の鮭大根をかき混ぜながら頬に手を当てて、思案する。しかし答えは意外と早くその口から発せられた。

 

「確かにそう考えることは何度もあったわ。自分は間違えたかもしれない、って。……でもね義勇、それでも私は自分が一番正しいと思う選択をしてきた。振り返ることがあっても、絶対に後悔はしなかったわ」

「……自分が、一番正しいと思う選択……」

「だからね、義勇。自分を信じて。自分が正しいと思ったら、迷わず選び取りなさい。何も考えずに何も選ばないことこそが、一番悪い事なんだから。……だから、友達と喧嘩したなら、早く仲直りしなさいね?」

「…………うん」

 

 そもそも俺に友達は居ない、と答えても良いのだろうか。

 

 何故かはわからないが、厄介なことに他人と会話をしようとすると変なフィルターがかかっているのか、上手く言葉が出なくなる。そのせいで俺に顔見知りはいても友人はいないのだ。

 

 幸い蔦子姉さんやある程度馴染み深い顔見知りと話すときはあまり効果は無いのだが、それ以外の人と話そうとすると妙に寡黙になってしまう。

 

 ……もしかしたらこの冨岡ボディの効果だろうか? いや、俺の性格が少し人見知りなだけか。はたまたその両方か。

 

「あ、そうだ。義勇、明日は私の祝言の日なのを忘れて無いわよね? 今日はちゃんと早寝するのよ?」

「――――――――――………………うん、わかってる」

 

 知っている。知っているとも。

 

 祝言の前日――――今日が、蔦子姉さんの命日であると。他の誰でもない、俺だけが知っている。

 

 そう思うだけで両手に自然と力が籠る。今まで散々悩んできたが……今だけは、自分の心に素直に従わせてもらおう。

 

 絶対に、守ってみせる。

 

 俺は弟だけど、同時に長男なのだから。……家族を、守らなければ。

 

「ほら、ご飯が出来たわよ。一緒に食べましょう」

「うん」

 

 俺は決意を固めながら、姉に不信感を抱かせない様に平静を装いつつ食卓に着く。今日の晩御飯は白米が少しだけ混ざった麦ご飯に鮭大根と山菜の漬物等々、祝言前だからか俺の好物を含めた少し豪華な食事となっていた。

 

「「いただきます」」

 

 手を合わせて挨拶をしながら、早速俺は鮭大根に箸を付けた。煮て柔らかくなった鮭と大根を箸で切り分け口に運ぶと、口いっぱいに広がる芳ばしい香りと美味で芳醇な肉汁に舌鼓を打つ。

 

「どうかしら、義勇。ちゃんと美味しくできた?」

「うん。姉さんの鮭大根は日本一美味しいよ」

「うふふ、ありがとう」

 

 一口一口を全身で味わうようにゆっくりと噛みしめる。これが最期の食事になるかもしれない。例えそうなったとしても、姉さんだけは必ず……。

 

 

 

 ――――ぐちゅり。

 

 

 

 おかしな程静まっている夜中に、その異音は酷くくっきりと耳に入ってきた。

 

 蔦子姉さんもその音に気付いたのか、怪訝そうな様子を見せる。

 

「何の音かしら……。義勇、ここで待っててね。少しだけ外の様子を――――」

「姉さん」

 

 食卓から立ち上がろうとする姉を、俺は腕を掴むことで無理矢理押さえつけた。そんな俺の行動に驚いたのか、姉さんは目を丸くしながら俺を見てくる。

 

「俺が、行ってくる。だから姉さんは此処にいてくれ」

「駄目よ、危ないわ」

「姉さんは明日祝言だ。もし何かあったら、俺は一生後悔する。……大丈夫、何もなければすぐに戻ってくるから!」

「ぎ、義勇!?」

 

 姉さんが声を上げるのを無視して、俺は戸の近くに置いてあった薪割り用の鉈と事前に用意しておいた小道具の包みを手に家を飛び出した。

 

 この選択は、一歩間違えれば自分の命を落とすだろう。

 

 俺が死んだら、この世界にどんな影響があるかは未知数だ。

 

 だけど、それでも。

 

 ――――俺は姉を助ける選択肢が、間違ったものであるとは全く思えなかった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 外に出てから異音の出所を探るのはそう難しいことでは無かった。単純に、凄まじい量の血の跡が嫌でも場所を教えてくれたのである。そして目的の“ソレ”に追いつくのには、走って一分ほどしか費やさなかった。

 

 目の前には凄惨な光景が広がっている。悍ましい人型の何かに、両腕をもぎ取られ頭を潰された人の死体が引き摺られながら血の一文字を描いていた。

 

 初めて見た猟奇的な光景に喉奥から先程食べた晩飯が逆流しようとして、俺は反射的に口を押さえる。

 

「あァ……?」

 

 俺の存在に気付いたのか、ソレは振り返った。手には人の腕があり、幾度も齧られた痕と、ソレの口に血肉がべっとりと付着している。

 

 あの存在こそ鬼。欲望のまま人を食らい、千年以上人を脅かし続けた夜の支配者たち。

 

 その鬼が今、俺を見てニタリと嘲笑を浮かべている。思わず手が震えて顔中から汗が滲み出始めた。

 

「子供……? いけないなぁ。夜に出歩いちゃだめだって親に教わらなかったかぁ? 夜には怖ぁい鬼が出るんだぞ~?」

「……両親は、物心つく前に死んだ」

「ああ、そりゃ申し訳ない。……ひひっ、子供かぁ。子供の肉は柔らかくて食べごたえがあるんだ。女ならもっと美味いが……まあいい」

 

 鬼は手にした人の腕と身体をゴミの様に投げ捨て、楽しそうに両手をわきわきとさせながらこちらに一歩踏み出した。反射的に一歩下がりたくなるが、ぐっとこらえて手にした鉈を構える。

 

「あん? そんなので俺を倒そうってか? きひひっ、鬼退治はそう簡単じゃあないんだぜ坊主」

「…………」

 

 知っている。この世界の鬼と呼ばれる存在は『日輪刀』と呼ばれる特殊な鉄を使った刀でなければ滅することはできない。百も承知だ。

 

 本来ならば鬼の嫌う藤の花――――鬼が日光の次に忌み嫌うもの、その香を焚いて引きこもるのが最善かつ一番楽だろう。だが天の意思か、それは許されなかった。

 

 単純に今は夏を過ぎた頃で、春ごろに咲く藤の花など咲いていない。ならば乾燥したものを使えばいい、と思うだろうが……非常に残念ながら俺の住んでいる地域の周辺にはそもそも藤の花が咲いていなかった。

 

 思わず生まれ故郷のこの町を呪ったものだ。無論遠くに行けば見つかるだろうが、俺はまだ十二歳だ。そんな子供がどうやって隣町まで無事に辿り着けようか。最悪道中で鬼に襲われると言う本末転倒な結末を迎えかねない。

 

 それに、金銭的な理由でも無理だった。俺は姉と二人でどうにか家庭を切り盛りしている状況。日々の食事すらギリギリで、最近姉の付き合っている男性からの微々たる援助でどうにか食いつないでいるという状況でそんな物を買う余裕など無い。

 

 金も無い、伝手も無い、目的の物品すらない。戦わないで済ませるという方法は最初から不可能だったのだ。

 

 それでも旅の行商人が運よく持っていた藤の花を一房、どうにか捻出した小遣いで手に入れられたものの、夜が明けるまで香を焚くには絶望的に量が足りなかった。

 

 故に俺は、閉じこもるのではなく、戦うことを選択したのだ。何もしないで神に祈って待つより、自分で前に踏み出した方がよっぽどマシだ。

 

 無論倒すのは不可能だ。俺に日輪刀を入手できる伝手など無い。――――しかし倒すのではなく時間稼ぎなら。鬼殺隊の隊員が来るまで耐えるのは、可能なはずだ。ならば幾らでもやりようはある。

 

「……初めて鬼という存在をこの目で見た。率直な感想を述べてもいいか?」

「ああん?」

「お前は、手足も短くて、腹も出ていて、顔も醜くて……とても弱そうに見える」

「……………………あ?」

 

 淡々と、俺は最大限平静を装いながら、いかにも舐めているような声で鬼を挑発した。

 

 効果は――――

 

「――――この糞餓鬼ッ! ぶっ殺してやる!!」

 

 どうやら覿面らしい。

 

 鬼は地面が軽く凹むほどの脚力でこちらへと飛びかかってきた。十数メートルはあっただろう距離は数秒もかからずもう目と鼻の先だ。

 

 しかしそんな事は予測済みだ。俺は予め腰に結んでおいた小包から匂い袋を取り出し、その中身を鬼が飛びかかってくるだろう方向へとおもむろにぶちまけた。

 

「うぎゃぁっ!?」

 

 中身を顔面に浴びた鬼は奇声を上げながら体勢を崩し、俺はその隙にそのまま横に跳んで鬼の突進を回避。

 

 空中で体勢を崩した鬼は顔を押さえながら地面を何度も転がった末、しかし立ち上がるそぶりを見せず蹲って顔を引っ掻いて呻き声を上げている。

 

 当然だろう。これは牛の糞と尿を混ぜて乾かし、苦心してやっと手に入れた藤の花の粉末を混ぜて作り上げた特製の肥やし玉だ。

 

(今だ――――!)

 

 俺は鬼にこれ以上ないほどの隙ができたことを確認し、両手で鉈を握り締めてそのまま鬼へと接近。全力の一撃をその脚へと振り下ろした。

 

「ギャァァアァアァアァアアアアア!?」

「っ……!」

 

 関節を狙ったおかげで、鬼の右足は一撃で半分までその長さを縮めることになった。再生による修復を少しでも遅らせるため斬り落とした足を蹴り飛ばしながら、更にもう一方の脚も斬り落とそうとして――――直感的に後ろへと全力で跳ぶ。

 

「くっ……!?」

「よ、くも……やってくれたなぁ!! この糞餓鬼ィ!!」

 

 羽織と、胸が薄く切れて血が出ていた。見れば鬼は逆立ちになって爪が長く鋭くなった片足を腕のように振りまわしている。やはり鬼と言う存在には常識というものは当てはまらない様だ。

 

 更に、斬り落とした足の断面の肉が時間が巻き戻るが如く、元の形になろうとしているではないか。苦労して与えた傷もこうして無意味なものへとなっていく。覚悟はしていたが、やはりこうも現実が無慈悲だと心が折れそうになる。

 

(せめて日輪刀があったなら……!)

 

 日の力を持った唯一鬼を殺せる武器。それさえあればこの戦いもずっと楽になっただろうに。しかし残念ながらあれは一般市民が手にできるような代物では無い。

 

(いや、無い物強請りをするな、冨岡義勇。今俺が持っている全てで鬼を足止めをするんだ)

 

 何時まで堪えればいいのかはわからない。運がよければ近くを通りかかった鬼殺隊隊員が救援に来てくれるかもしれない。だが逆もあり得る。

 

 確かなのは、死に物狂いで足掻かねば、最良の結果は得られないという事のみ。

 

「死ねぇぇぇぇええええ!!」

「うあぁぁあぁぁああ!!」

 

 決死の覚悟で、咆える。

 

 小袋の中から藤の花と花弁や肥やし玉を撒きながら応戦。鬼の動きが鈍るその一瞬を狙って、俺は幾度も鬼の四肢を落としていく。その度に体力と精神が削られ、疲弊という鎖が身体を重ねて縛り付けて行く。

 

 七年間鍛え続けたとはいえ、所詮は子供の肉体だ。先天的な突然変異でもなければ身体能力やスタミナは子供のそれを大きく外れることは無い。最小限の動きで対応しようが、鬼と全力の攻防を繰り広げられるのはせいぜいが十分か十五分だろう。

 

 その間に鬼殺隊が来てくれるのなら俺の勝利。間に合わなければ、俺の負けだ。

 

 心の中で数え切れない程の悲鳴を上げ、しかしその度に心を引き締め直して踏ん張り続ける。それしかできないならば、それだけを全力で成し遂げろ。

 

 耐えろ、冨岡義勇。この一歩だけは何としても成功させろ――――!

 

「かひゅッ……ひゅーッ……ふーっ、ふーっ……!!」

「アァァアァァアアア!! しつこいんだよお前ぇぇえぇええ! いい加減死ねよぉぉぉぉ!!」

「がっ――――」

 

 体が熱い。心臓は今まで聞いたこともないほど激しく大きく動いている。肺も今にも破裂しそうなほど痛い。

 

 それでも俺は立ち上がり続けようとして――――しかし天は俺を見放したのか、身体は言うことを聞かず、俺は鬼の攻撃をモロに腹へと打ちこまれた。辛うじて後ろに跳ぶことで多少は衝撃を逸らせたが、それでも口から赤い液体が飛び出るほどには痛烈なダメージを受けてしまった。

 

 受け身も碌に取れず無様に転がる俺の体。周りに鬼殺隊らしき影は――――無い。

 

 あるのはただ、醜悪な異形の鬼のみ。

 

「は、ぁがっ……がぼっ……!」

「ようやく大人しくなったなぁ……ひひゃひゃ! 生意気なガキめ、生きたまま踊り食いにしてやるから、精々良い悲鳴を上げて――――」

 

 

「義勇!!」

 

 

 心臓が、止まったような感覚を味わった。

 

 顔を上げれば、遠くには必死の形相を浮かべた姉がいた。一向に戻ってこない俺を追いかけてきたのだろう。しかし姉は俺の目の前にいる異常な存在を見て、顔を真っ青なものへと変える。

 

「義勇……そ、その人は、一体……?」

「逃げろ姉さん! はやくっ……逃げろぉぉぉぉぉおおおおおおおッ!!」

「あぁ……あれは、お前の姉か? いぃ事を聞いたなぁ! よし、お前の目の前であいつを食い殺してやろう! きっと楽しいぞぉ!」

「やめ――――」

 

 鬼が俺の制止を聞くはずもなく、その凶手は悪意を以て俺の護ろうとした存在へと襲い掛かろうとする。

 

 身体はいうことを聞かない。ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるな。此処までやっておいて何故言うことを聞かない。姉が目の前で殺されてもいいのか。

 

 駄目だ、やめろ、何か、何でもいい、何か手はないのか、諦めるな考え続けろ――――! 死んでもいい! 身体を動かせ冨岡義勇ッ――――!!

 

 

「が、ぁぁぁぁぁあぁあぁああァァァアアアアアアッッ!!!」

 

 

 額の血管からブチリという音がする、顔から血が吹き出し、何かが這い出るような感覚と同時に俺の体は何かの壁でも打ち破った様に限界を超えた速度で動き出した。

 

「あん? 一体なん()ねぇぇぇぇええええええええええええええええッ!!!」

 

 絶叫しながら、俺は鬼の横を通り抜けながらその四肢と首を刎ね飛ばし、全身を斬り刻んだ。例え鬼であろうともこの損傷の再生には手間がかかるだろうと確信できるほどに細切れになった肉片が、攻撃の反動に耐えかねて砕けた鉈の破片と共に飛び散る。

 

 同時に俺の体も糸が切れたように倒れ込んだ。

 

 もう、指一本すら動かせそうにない。

 

「義勇! 義勇っ! お願い、返事をして! 義勇!」

「…………………ご、めん……」

「どうして、どうしてこんな無茶を……! っ、身体が物凄く熱いわ。直ぐにお医者さんに診せないと!」

 

 俺を背負って歩き出そうとする蔦子姉さん。恐らくこの状況を何一つ理解出来ていないだろうが、それでも彼女は俺の事を心配してくれていた。だが駄目だ。早く逃げねば鬼が来る。子供とはいえ人を背負った状態で逃げ切れるような甘い相手では無い。

 

「ね、さ……俺を、置いて……逃げ……」

「何馬鹿なことを言ってるの! 弟を見捨てる姉なんて、居るものですか……!」

「最後の、頼み……だ」

「駄目よ。その頼みは絶対に聞かないわ」

 

 頑固な人だ。ああ、だからこそ俺は彼女を好きになったのだが。

 

 背後から聞こえていた肉が変形する音が止む。再生を終えたのだろう、鬼が不快に呻きながら、殺意の籠った声を上げる。

 

「よくもぉ……っ! よくも俺の体を斬り刻んでくれやがったなぁ! テメェも同じ目に合わせてやるっ……!!」

「大丈夫、大丈夫よ義勇。お姉ちゃんが必ず守るから……!」

「死ねやァッ!!」

「ッ――――」

 

 万事休す。打つ手が何もなくなった。そして鬼は五体満足で襲い掛かろうとしている。

 

 蔦子姉さんは目を瞑りながら俺を抱きしめて庇おうとして、俺は辛うじて握っていた折れた鉈を必死に振ろうとして――――

 

 

 ――――全集中・水の呼吸

 

 

 ――――【壱ノ型 水面切り(みなもぎり)

 

 

 

 水が、流れる。

 

 

 

 一閃。月光に照らされた青い刃が、音も無く宙に居た鬼の首を通り過ぎる。鬼は何が起こったのか理解出来なかったのだろう。呆けた表情を浮かべながら、鬼は大量の灰となって夢から覚めるが如く朽ちていった。

 

「え…………?」

「――――間に合った、か」

 

 おぼろげになる視界から微かに見えたのは、作務衣を着た天狗の面の老人。

 

 彼は綺麗な水色の刀を構えながら、面を被っていても分かるほど優し気な表情を浮かべて、俺たち姉弟を見ていた。

 

 それを最後に、俺は辛うじてつなぎとめていた意識の糸を手放す。

 

 全身の倦怠感に微睡の海へと引き摺られつつも、これ以上無い満足感だけが、俺の中には満ちていた。

 

 

 

 

 

 



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第弐話 弟子入り

とりあえず前もって作った分だけは毎日投稿するゾ



「…………」

 

 少しずつ、少しずつ。散らばっていた意識の欠片たちが集まっていく。

 

 酷く気怠い全身。瞼が今までで初めて味わうほどに重く、俺はそれに可能な限り抗いながら徐々に瞼を開いて行く。

 

 瞼が見開かれれば、まず見えたのは真っ白な見知らぬ天井だった。微かに匂う薬品の刺激臭から、恐らく病院の類であると見当を付ける。次に体を起こそうとする。

 

 ……が、無理に力を入れようとすると激痛が走って動作を阻害される。無理に動けば床で芋虫の如く這いずることになりそうなので、俺は早々に諦めた。

 

(……此処は、一体……? いや、それより姉さんは……! あの後どうなって!)

 

 気を失う前の記憶を掘り起こしながら、俺は思考する。最後に見えた光景は、作務衣を着た天狗の面の老人が俺たちを襲ってきた鬼の頸を刎ねた光景。これが極限状態からくる幻覚でなければ、俺と姉さんは九死に一生を得たのだろう。

 

 しかしやはり姉さん本人の顔を直に確認するまでは安心できない。とりあえず何かしらの方法で人を呼ばなければ。

 

 そう思っていると不意に、複数の足音が近づいてくるのを感じる。どうやら呼ぶまでもないらしい。

 

「――――はい、医師の話ではいつ目を覚ますかはまだ不明で…………………え?」

「…………姉、さん」

 

 廊下に続く扉から顔を出してきたのは、間違いなく蔦子姉さんだった。見慣れた無地の小豆色の羽織を着て、まるで幽霊でも見たような驚いた顔をしている。

 

「義勇……義勇っ!」

 

 果物の入った籠を投げ捨て、蔦子姉さんは涙を流しながら俺の体に抱き付く。ミシミシっと体から嫌な音が響いたが、それ以上に俺は安堵した。

 

 守れた。俺は、守れたんだ。死ぬはずだった姉を、自分の手で。

 

「とっても心配したのよ! もう二ヶ月も目を覚まさなくてっ、このまま死んじゃうんじゃないかって……!」

「……ごめん」

「もう、本当に……よかった……っ!」

 

 未だに不自由な体をどうにか力を振り絞って動かし、俺は泣きじゃくっている姉の背中を弱々しく摩る。二ヶ月も眠っていたのならば、身体機能の低下ぶりも納得だ。だが、たかが二ヶ月だ。姉を守れた代償としては安すぎると言う他ない。

 

「――――感動の再会に水を差すようで悪いが、失礼していいだろうか?」

「あ、す、すみません鱗滝(うろこだき)様! こんな見苦しい姿をお見せしてしまい……」

「いいや、弟を思う姉の何処が見苦しいものか」

 

 少し後から、天狗の面を付けた老人が入ってきた。彼こそが俺たち二人をギリギリで救出してくれた張本人にして、元鬼殺隊最高位『柱』の称号を持っていた――――

 

「儂の名は鱗滝左近次(うろこだきさこんじ)という。一応姉からお前の名は聞いているが、名を聞いてもいいか?」

「……はい、冨岡義勇です」

 

 俺は姉に助けられながらどうにか体を起こし、ペコリと頭を下げた。命を助けてもらった大恩人だ、失礼するわけにはいかない。

 

「うむ、礼儀正しい良い子だ」

「鱗滝様、本当に、本当にありがとうございました。俺と姉の命を救ってくださって、感謝の言葉もありません」

「私からももう一度感謝を述べさせてください。本当にありがとうございました、鱗滝様! 貴方がいなければ、私も弟もどうなっていたか……」

「実に、運が良かった。偶々近場まで買い出しに来ていた故、引退を一時だけ返上して駆けつけられたのだ。これも天の思し召しだろう」

 

 深く、深く頭を下げる。

 

 心の底からの感謝の言葉を貰って、鱗滝さんはお面に隠れていたものの、少しだけ柔らかい空気を纏ったような気がした。どうやら喜んでくれている様だ。

 

「さて、義勇少年。少しだけ聞きたいことがある。お前さんはどうやって鬼の足止めをした? 姉から、お前さんが鬼と十分以上戦い続けたと聞いた。その方法を是非知りたい」

「それは……聞き伝えで鬼が藤の花を嫌うと知り、いざという時に作っておいた家畜の糞尿と藤の花の粉末を混ぜたものを使って、何とか隙を作って戦いました。それでも紙一重でしたが」

「……義勇、この頃玄関が臭うと思っていたら、貴方の仕業だったのね?」

「……ごめん」

「ふぅむ……」

 

 鱗滝さんは腕を組んで黙考し、俺の言葉の真偽を判断している。しかし嘘はついていないのだ、特に怪しまれることも無い、筈だ。

 

「成程、これもまた天賦の才、か……。埋もれさせるには惜しいが……いいや、駄目だな」

「鱗滝様?」

「いいや、こちらの話だ。義勇少年よ、もう一ヶ月ほどこの場所にいてもらわねばならないが、了承してくれ。お前さんの体をこのままにして帰すわけにはいかんからな。治療代は儂が既に払っている、心配は無用だ」

「はい。ありがとうございます、何から何まで」

「では、儂はこれで。何かあれば、この烏を使って呼び出すといい」

 

 そう言いながら、鱗滝さんは服の中に隠れていた烏を引っ張り出して窓の縁に置き、軽い会釈をしてこの場を後にした。

 

 後に残ったのは、俺と姉の二人のみ。蔦子姉さんは俺の手を痛くない程度にぎゅっと握り、優しい手つきで俺の頭を何度も撫でてくれる。すると自然に涙が浮かんできて、それを見て慌てる姉の姿を見て……胸がこれでもかと満たされる感覚を味わった。

 

「義勇」

「?」

「ありがとうね。私のために、こんなに頑張ってくれて。義勇、私の可愛い自慢の弟」

「……………うん」

 

 止めどなく涙があふれ出す。

 

 俺は守れた、大切なモノの一つを。

 

 だが、この後は。

 

 俺が頑張れば助けられる命は、どうすればいいのだろうか。

 

 

 ――――答えは、既に決まっていた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 入院から二か月後、無事病院での機能回復(リハビリ)を終えた俺は数日ほど準備期間を置いて、記念すべき蔦子姉さんの祝言を見届けることができた。

 

 相手はとても優しそうで頼りがいのある男だ。既に交際から数年以上経過している、裏の顔とかそう言うのは無いので、姉を安心して託せる以上俺から言える文句は無かった。

 

 それに相手の職が高給取りというのも非常に助かった。これで少し値が張っても、遠い町から藤の花を取り寄せることができる。これについては俺は心底相手の男に感謝したものだ。

 

 そして、これから俺は姉夫婦と一緒に暮らす――――筈、だった。

 

 一ヶ月ほど姉と暮らしながら悩みに悩んだ末に、俺が鬼殺隊に入るという選択をしなければ。

 

「義勇……本当に行っちゃうの?」

「ああ、もう決めたんだ。自分の信じる道を行くって」

 

 軽い荷物を背負いながら、俺は姉夫婦の暮らす家の前で静かに姉へと告げた。

 

 鬼殺隊や鱗滝さんから事情聴取を受けたので、姉は鬼殺隊がどういう場所なのかは知っている。即ち死地。一歩間違えれば鬼と言う存在に殺され、貪り食われる。

 

 当然俺がこの道を行くことに姉は猛反対した。誰が唯一の肉親をみすみす死なせに行かせようものか。

 

 だが、それでも……俺は自分の成したいことをしたい。

 

 全てを救いたいとは言わない。でも自分が助けられる命は、助けたい。それが俺の望みであり、“役目”だ。

 

「毎月手紙を送る。何かあったらすぐに連絡するよ。だから……」

「義勇」

 

 未だに悲しそうな表情をする蔦子姉さんをどうにか安心させようと出せる限りの言葉を尽くすが、姉さんは悲哀に満ちた顔で俺を抱きしめた。

 

 俺も、姉の背に手を回す。

 

「頑張って。絶対に、死なないで。約束よ」

「……ああ、約束だ」

 

 その言葉を最後に、俺は姉と別れた。きっと幸せになれるだろうことを信じて、俺は目的の場所――――育手(そだて)……鬼殺隊に入る剣士を育てる者の一人である鱗滝左近次の住む狭霧山へと足を進め始めた。

 

 実は病院での訓練中、俺は何度か見舞いに訪れた鱗滝さんに鬼殺隊へと入隊するために弟子入りを頼み込んでいた。

 

 だが、

 

「駄目だ」

「え」

 

 その全てを断られた。だがその意図に悪意はない。

 

 推察するに、きっと俺を心配した末に出した拒絶だろう。もし俺が姉を亡くしていたのならば渋々受け入れていたのかもしれないが、姉は生きている。俺は鬼と関わらず家族と幸せに暮らせる選択肢がある。だからこそ断ったのだろう。

 

 お前は姉と共に普通に生きろ、と。

 

 確かに、その選択について未練が無いかと言えば嘘になる。だがそれ以上に俺は我慢がならなかったのだ。

 

 救えるはずの命を見捨てて、のうのうと幸せに生きる自分など腹が立って仕様がない。冨岡義勇()が救える筈の命を救わないで、更なる惨劇を起こすなど絶対に嫌だ。

 

 だから俺は決めた。彼の住む場所に行って直談判しようと。

 

 受け入れてくれるかどうかはわからない。だが誠心誠意頼み込んでみる。

 

 それでも無理だったら……我流で何とかするしかないか。

 

「…………此処が」

 

 そうこう言っている内に遠目でではあるが狭霧山らしき山が見えてきた。此処まで大体徒歩で二週間かかった。初めての遠出で、更に山も数個ほど越える必要があったが、もともと鍛えていたからかそこまで苦では無かった。

 

 初めての野宿は大分大変ではあったが。

 

 麓近くの農村を横切りつつ、俺は山の近くに鱗滝さんらしき気配が無いかを探りながら周囲を散策する。

 

「……あそこか」

 

 十分ほど経っただろうか。ようやくそれらしき木造の家を見つけることができた。

 

 だが何故か人の気配がない。どこかに出かけているのだろうか。とりあえず家の戸を叩いて不在を確認してみるが、やはり居ない。仕方がないので近くに座れそうなものが無いかを探そうとして――――

 

「――――動くなっ!」

「ふぎょっ」

 

 上から降ってきた何かが俺の背中を踏んずけ、そのまま碌な抵抗もできずに俺は地に接吻をすることになってしまった。

 

 痛みに悶えながらどうにか顔を動かして、人様の背中に乗っている奴の顔を拝むと。

 

「誰だお前は。お前の様な子供が鱗滝さんに何の用だ」

「……えっと、俺は」

 

 目線の先に居たのは、宍色の髪を持つ少年。木刀の先をこちらの顔に突きつけながら怪訝そうな表情で俺を見下ろしている。

 

「返事が遅い。それでも男か」

「……俺は、冨岡義勇。鱗滝さんに、弟子入りの申し込みに来た」

「弟子入り? そうか、そう言う事なら納得だ。何かのために強くなりたいと決意している男の目をしている」

 

 納得がいったのか少年は俺の背から足をどけ、俺もフラフラと羽織についた土埃を払いながら立ち上がる。すると件の少年はスッとこちらに手を差し出してきたので、俺は反射的にその手を握り返した。

 

「俺の名は錆兎(さびと)だ。お前が鱗滝さんの弟子になるというなら、兄弟子ということになるな」

「ああ、よろしく錆兎。所で鱗滝さんは何処にいるんだ」

「何を言っているんだ。先程からお前の後ろにいるだろう」

「っ!?」

 

 言われて直ぐに振り返れば、そこには天狗の面をした老人、鱗滝さんが無言で佇んでいた。その威圧感に押されながらも俺は直ぐに気を引き締め直し、何も言わずにその場で土下座を行う。

 

「何度も同じことを言って申し訳ありません。ですがお願いします、俺を……俺を弟子にしてください、鱗滝さん」

「……何故来た」

「鬼殺隊に入るためです」

「お前には肉親が残っているはずだ。何故傍に居てやらない」

「……姉から許可はもらいました。約束もしました。だから、お願いします」

「…………………」

 

 鱗滝さんは何も言わない。近くに居る錆兎も並ならぬ物を感じたのか声一つ上げなかった。

 

 その状態で五分は過ぎたか、やがて鱗滝さんは深いため息を吐き、無言で踵を返した。

 

「……ついて来い。お前の覚悟とやらを試させてもらう」

「っ、はい!」

 

 俺は後ろにいた錆兎に一礼を残しながら、有無を言わさず山へと歩き出した鱗滝さんの後についていった。

 

「何故、鬼殺隊に入ろうとした。義勇」

「……何故、とは」

「鬼は恐ろしい生き物だ。奴らとの闘いは命懸けだ。お前は姉に『死なない』とでも約束したのだろうが、現実はそう甘くない。死ぬときはあっさりと死ぬ。それが鬼殺隊だ」

「……わかっています」

「わかっていながら何故来た、この愚か者め。その意気は認めるが、果たしてその覚悟が見得による空っぽなものか、それとも心の底から来る本物なのか――――それは今から、わかることだ」

 

 二時間程過ぎて、鱗滝さんはその歩みを止めた。

 

 周囲は霧だらけ。空気も薄く、かなり寒い。下手するとそのまま迷って一生出られなさそうなほどだ。

 

「夜が明ける前に、此処から麓の家まで降りてこい。できなければお前の弟子入りは認めん。そして今後一切鬼殺隊に関わることも禁ずる」

「っ…………」

 

 予想はしていたが、かなり厳しい条件を突きつけてきた。その言葉に息を呑みながら、俺が無言でコクリと頷くと鱗滝さんはそのまま霧のように消えてしまった。まるで本物の天狗のようだ。

 

「早く、降りないと……」

 

 俺は、炭治郎の様な嗅覚は持っていない。精々人より勘が鋭い程度だ。故に臭いで罠を感知するなんて人離れした芸当はとても無理だ。だけど、それでもできることを見つけてこの試練を乗り越えるしかない。

 

 そう思いながら周囲を注意深く探りながら歩いていると――――ふと足に紐の様な物が引っかかった。

 

 直後、枯葉の下から押さえつけられていた竹が幾つも飛び出して俺の体を滅多打ちにする。

 

「ぐぁっ!!」

 

 どうにか両腕で防御出来たが、身体は後ろにふっ飛ばされてしまう。そのまま地面を転がると、何故か感じる浮遊感。そして全身が地面へと打ち付けられる。どうやら吹き飛ばされた先に落とし穴があったらしい。

 

(ふぅっ、ふぅっ……頑張れ、俺。頑張れ、冨岡義勇。お前は頑張ればできる奴だ。頑張れ!)

 

 心の中で何度も自分を鼓舞しながらどうにか落とし穴を這い出、もう一度麓へと歩く。方向感覚をしっかりと保たないとすぐにでも狂いそうなほど不安定だ。道を見失うな。己を信じろ。

 

「――――あ」

 

 また、足に紐がかかる。すると背後から何かが降り注ぐ音がして、振り返ると――――丸太の群れがこちらへと転がり落ちてくる光景が見えた。

 

(なっ……うぉぉぉぉおおっ!?)

 

 咄嗟に前方の木々の間に飛び込む。直後に襲い掛かる丸太たちであったが、木々に阻まれてその勢いを殺されてしまった。どうにかやり過ごせた俺はふぅと一息つき――――反射的に上体を跳ねさせ横から来た振り子仕掛けの丸太を回避する。

 

「危っ……!?」

 

 そして上から降り注ぐ小石の雨。すぐさま横に飛んで回避。ズドドドと凄まじい音を立てながら地面を叩く石たちを見て背筋が凍る思いだ。どれも一歩間違えれば致命傷になりかねない。

 

(少しの油断も許されないわけか……!)

 

 ――――上等だ。

 

 俺は拳を握りしめ、折れそうな心を必死の思いで立て直しながら駆けた。

 

 道中で幾つもの罠の襲撃を受けた。石が飛び、丸太が落ち、地面から棒が生え、紐で逆さ吊りにされる。とてもつらかった。痛かった。何度も挫けそうになった。

 

 その度に思い出す。あの夜の事を。

 

 一歩間違えれば全てが台無しになった。全てを失うことになった。そして、その瞬間はまた次訪れないとは限らない。

 

「俺は……!」

 

 俺は守りたい。俺が強くなる事で守れる人を。その為にも強くならなければならないんだ。

 

 こんな所で、諦めて堪るか――――

 

「うぁぁぁぁあぁあぁあああああああああっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 囲炉裏からパチパチと火が弾ける音がする。その暖を囲んでいるのは鱗滝左近次と、錆兎の二人のみ。

 

 日課である鍛錬を終えた二人は、夜はこうして師である鱗滝と共に休息を取る。鍋でぐつぐつと煮込まれる米と味噌汁と炭火で焼かれる魚は実に芳ばしい香りで二人の空腹を擽ってくる。

 

 だが錆兎はそれよりも気掛かりなことがあった。

 

「……帰ってこないな、あいつ」

「…………安心しろ。お前の食事を用意したら、すぐに様子を見に行く。死なせはせん」

「そうですか。だが、やはり心配なものは心配だ」

 

 同年代の者に久しく会えたのが影響したのか、妙に心配そうな錆兎を見ても鱗滝は何も言わずに鍋をかき混ぜていく。

 

「鱗滝さん。あいつ……義勇はどんな奴なんだ。どうやって知り合ったんです?」

「……気になるのか?」

「あそこまで真摯に頭を下げてきたんだ。余程の事情があると察しました。しかし鱗滝さんはこれを拒んだ。それがどうしても引っかかる」

「…………奴は、偶々儂が近くを通りかかった時に鬼の襲撃から助けた子供だ。義勇は強い子だった。たった一人で人食い鬼を足止めして、自身の唯一の肉親である姉を助けようと死ぬ寸前までもがいていた」

「! そうか、それでアイツは姉を……」

 

 味噌汁を掬って椀に注ぎ、錆兎の前に差し出す。だが先程までの空腹は何処に行ったのか、錆兎は鱗滝の話に夢中になって食い付いていた。

 

 それを見て話し終えるまで食事を始めそうにないなと察した鱗滝は、なるべく簡潔に話を畳むことにした。

 

「いいや、義勇は姉を守り通せた。儂が駆けつけるまで鬼を足止めしきったのだ。きっとあの子はお前と同じく天から大きな才を与えられたのだろう。鍛えれば、きっと強い剣士になる。――――だが、あやつには姉が残っている」

「……そうか、守れたのか。あいつは」

「儂はあやつに剣士になって欲しくないと思っている。一人残った姉と共に、普通の幸せを掴んでほしいと。……あやつはまだ、帰れる場所があるのだ」

 

 それだけを言って、鱗滝は言葉を止めた。錆兎はそれを聞いて複雑な表情を浮かべるが――――しかし顔を引き締めて、真っ向から質問をぶつける。

 

「じゃあ、義勇が夜明けまでに此処にたどり着けたらどうするんですか?」

「男に二言は無い。責任を持って、儂はあやつを鍛える。あやつの覚悟が本物ならば、儂もそれに応えなければなるまい」

「……なら、きっとアイツは此処まで来ます」

「何故、断言できる?」

 

 鱗滝に問われた錆兎は薄い笑みを浮かべて、力強く答えた。

 

 

「アイツの目は本気だった。漢としての決意と覚悟が籠っていた。なら、辿り着く以外の結果は無い!」

 

 

 その時である。

 

 おもむろに音を立てながら家の戸が開けられた。突然の出来事に思わず構える二人だったが――――戸の向こうから現れた者を見て言葉を失う。

 

「こほっ……は、ぁっ、はぁっ……た、だいま……戻り、ました……」

 

 全身泥と痣だらけ、口と頭から血を流し、今にも死にそうなほどかすれた呼吸をしながら、冨岡義勇はそこで確かに立っていた。鱗滝も、予想の倍以上の速さで降りてきた彼の姿に呆気にとられて茫然としている。

 

 恐らく数々の罠を無理矢理突破したのだろう。辛うじて骨折などの大きな怪我は無い様だが、怪我をしていない箇所を見つける方が難しい有様だった。

 

「義勇、お前さんは……」

「鬼から、守るんだ……姉さんを……友を……人、を……家族を……俺、は……」

「義勇!」

 

 搾り出すようにその言葉を残しながら、義勇はその場で倒れ込んだ。錆兎は直ぐに駆けつけてその倒れそうな身体を抱きとめて支えた。そして鱗滝の方に顔を向けながら、得意げに笑みを浮かべたのだった。

 

「俺の言った通りになっただろう、鱗滝さん」

「……ああ。お前さんの覚悟、本物だと認めよう。義勇」

 

 やっと踏み出せた一歩。辛く険しいものであったが、少年は少しずつ歩を進め出した。

 

 己の望む夢への、確かな一歩を。

 

 

 

 



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第参話 修行

 目を開ける。

 

 冷たくて、綺麗な水に全身を包まれている。小魚が泳ぎ、底に行くほど暗くなる水の中。そんな空間の中で、俺の精神は遥かに研ぎ澄まされていた。まるでこの水のように、静かで、深くて、純粋で。

 

 息を吸えば水が身体の中に入ってくる。するとどうだろうか。

 

 

 肺に水が入ってきたせいで思いっきり吹き出した。

 

 

「ごぼぶふぉぼごごごごっ!?!?」

 

 夢みたいだったけど夢では無かった。俺は必死にもがきながら水面へと一心不乱に泳ぎ、勢いよく川の中から這い出た。なんだ、何で俺は水の中で気を失っていたんだ。

 

 どうにか川岸まで上がり、ゴホッゴホッと肺の中に入ってしまった水を吐き出していると、不意に目の前に毛布が突き出された。顔を上げれば宍色の髪と呆れたような顔の少年が目に入ってくる。

 

「義勇、男なら滝壷くらい覚悟して飛び込め。後ろから突き落とされるより自分から飛び込んだ方がいいだろう?」

「あ、ああ……すまん」

 

 言われてようやく思い出した。

 

 弟子入りが許されておよそ一ヶ月。俺は厳しい鍛錬を毎日のように熟させられていた。無論これは望んだことだし覚悟の上であるが、その内容は過酷というレベルを通り越していたのは少し想定外であった。

 

 例えば断崖絶壁を命綱無しで素手で登らされたり、罠だらけの森の中を止まらずに走り抜けさせようとしたり、木々の枝の上を落ちない様に連続で渡らされたり、終いには崖の上から滝壷へと叩き落とされたりと――――実はこの老人は自分の事を殺す気なのでは? と思うくらい過酷であった。

 

 実際半分ほど殺す気だろうが。

 

 そんなこんなで錆兎に肩を貸されて川岸から上がり、錆兎は持ってきた小包から握り飯を二つと水筒を取り出して俺へと渡してきた。

 

「ほら、食べろ。腹を空かせていては身体は作れないぞ」

「……ああ、ありがとう。錆兎」

 

 自覚したことで顔を出した空腹に耐えかねて、俺は無心で握り飯を頬張った。少し冷めていたものの、疲れた体に塩味と梅干の酸味が沁み渡って、実に心地いい。

 

 ふと自分が叩き落とされた崖を見れば、鱗滝さんがこちらを見ている。勝手に休んでいる俺を見て特に何も言う様子はないので、休憩してもいいと受け取っていいだろう。

 

 全ての握り飯を食べ終えて水で喉奥に流し込んだ後、ぐぐーっと背伸びしながら芝生の上に寝転がる。空は変わらずの快晴。涼し気な風がぐるぐると回っていた思考を静かにさせてくれる。そのせいか、ふと変なことが思い浮かんできた。

 

「……もしや鱗滝さんは俺の事を嫌っているのだろうか」

「は?」

 

 口に出てしまったそれを聞いて錆兎が「何言ってんだこいつ」みたいな反応をしてくるが、仕方ないだろう。あんな訓練を容赦なくふっかけてくるのだから、そんな発想に至るのも無理はない、はずだ。

 

「いや、それはない。むしろかなり気に入ってると思うぞ」

「えっ」

「でなければあんな厳しい訓練を課したりしない。義勇に見込みがあるから鱗滝さんは厳しくしているんだ。俺の時も似たようなものだった」

「そうなのか……」

 

 どうやらあの地獄の訓練の数々は鱗滝さんなりの愛情表現の様なものらしい。愛の形歪んでないか鱗滝さん。

 

「いつもお面をしているからわかりにくいが、鱗滝さんは優しい人なんだ。それは義勇だってわかっているだろう?」

「ああ、わかっている」

 

 何度も断られたにも関わらずしつこく迫ってきた俺を受け入れて、丹精込めて立派な剣士に育ててくれようとしている。事実、基礎体力は訓練前と比較しても比べられないほど高まっているし、鱗滝さんが生真面目で誠実な人柄だと言うのはこの一か月間でよく理解している。

 

 ただまあ、少しは訓練内容を優しくしてほしいという愚痴が無いと言えば嘘になるが。

 

「心配するな。義勇はよくやっているし、確かに強くなっている。呑み込みが早いし、筋も悪くない。俺と同じくらいになるのに、そう時間は掛からないかもな」

「……買いかぶり過ぎだ。俺は、俺のできることを必死でやっているだけだ」

「全力で何かに取り組むことができるというのも立派な事だ。そう自分を卑下するな、義勇」

 

 錆兎はそうやって俺を褒めてくれるが、俺からすればまだ足りない。最高の結果を掴むには、この手はあまりにも貧弱すぎる。無論時間はまだまだあるが、それは今の時間を無為に過ごす理由足り得ない。

 

 もっと、もっと強くならないと。守りたいものを守るために。

 

「――――カァー! カァー! 義勇、手紙! 手紙! 蔦子ヨリ手紙! トットト読メ!」

「相変わらず口が悪いなあの烏は。本当に鱗滝さんの烏なのか?」

「もしかしたら言葉を喋れる野生の烏が成りすましているのかもしれないな」

「カァー! ソレ以上戯言ヲホザクトブッ殺スゾジャリガキ共! カァー!」

 

 突然森の中から黒い物体が飛び出てきた。それは鱗滝さんの鎹烏(かすがいがらす)――――鬼殺隊の使う連絡用の言葉を喋ることのできる烏である。普段は森の中で自由に暮らしているが、鱗滝さんの言いつけによって一ヶ月に一度俺と蔦子姉さんの文通を助けてもらうことになったのだ。

 

 不満げな烏が俺の頭に手紙の入った封筒を落としてきた。特に文句は言わず、早速封筒から手紙を取り出して読む。

 

 

『拝啓

 

 涼し気な秋風が少しずつ冷たさを帯びていくこの頃。義勇、お元気ですか。

 

 祝言を上げて早一ヶ月、夫婦仲はとても睦ましく、私の想像していた以上に今の生活は幸せです。一つ不満があるとすれば、今までずっと一緒に過ごしてきた弟が隣にいなくて寂しい事くらいでしょうか。

 

 今貴方はどうしているでしょうか。厳しい鍛錬に心が折れそうなのか、それとも新しくできたお友達と仲良く過ごしているのか、気になって夜も眠れません。蔦子姉さんは貴方が楽しい日々を過ごしていることを願います。

 

 機会があれば、偶には家に帰ってくることも考えてください。夫婦共々、何時でも歓迎するつもりで待っています。できればお友達も連れて来てくれるとお姉ちゃん的にも嬉しいです。

 

 追伸・子供の名前は男の子だったら「(あきら)」、女の子だったら「向日葵(ひまわり)」にしようと考えています。

 

 蔦子より』

 

 

「……ふふっ」

 

 文面から蔦子姉さんが今の新婚生活をとても楽しんでいると感じ取り、俺は思わず微笑みを溢した。それにもう子供の名前まで考えているとは、気が早いというかなんというか。

 

 しかしそうだな、帰省か。考えてはいたが一体どの時期に行うべきか。文通しているとはいえ、半年に一度は顔を見せに行くべきだろうか。いや、少し期間を開けすぎか……?

 

「義勇の姉、か。きっともの凄い美人なんだろうな。それに、楽しそうな人だ」

「ああ、町一番の美人で俺の自慢の姉だ」

 

 錆兎が姉のことをそう褒め、俺はそれを心の底から全力肯定する。そんな俺に何故か呆れの表情を浮かべる錆兎。なんだ、何がおかしい。

 

「……そうだ。もし帰省することがあったら、錆兎も一緒に来ないか。姉さんが友達――――錆兎に会いたがっているらしいからな」

 

 それに蔦子姉さんを見れば錆兎も俺の言っていることも分かってくれる筈。これは一石二鳥だ。

 

「ふむ……そうだな、挨拶くらいはしておいても損は無いだろう」

「そうか。ではまず、基本的な訓練を一通り終えなければ。中途半端に放り出しては、姉さんに怒られてしまう」

 

 あれだけ懇願して飛び出しておいて、訓練途中で帰るなど言語道断。折角応援してくれている姉の意思を台無しにしてしまう。

 

 手紙を折りたたんで懐にしまい込み、一度大きく深呼吸してから己の両頬を叩いて心に喝を入れる。

 

「よし……訓練再開だ。行こう、錆兎」

「無論だ。無理はするなよ、義勇」

 

 目指す場所までの道程は、まだ果てしなく長い。

 

 しかし一歩ずつ、ほんの少しずつ進んでいく。それが実を結ぶかどうかはまだわからないが――――俺は、俺にできることをするだけだ。

 

 努力に近道など無いのだから。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 弟子入りからおよそ半年後。俺は空気の薄い山奥の森の中を錆兎と共に駆けていた。

 

 傍から見ればそれは子供が互いを追いかけて走り回って遊んでいるという微笑ましい光景であるが、一つだけ差異があるとすればその速度は子供どころか成人した者からしても常識離れした高速だと言う事か。

 

「義勇! 遅い! 遅いぞ! もっと足を速く動かせ!」

「くっ――――!」

 

 少年――――錆兎の動きは実に凄まじかった。地面だけでなく周囲の木々の幹を蹴ることで三次元的な動きを実現し、縦横無尽に俺の前後左右を跳び回っている。その為視界に入れることすら一苦労だ。

 

 何よりその危機感知能力が異常だ。どうにか死角に回り込み攻撃を打ち込もうとしても後ろに目でも付いているのか的確な回避行動をして容赦なく反撃をしてくる。本人曰く「空気の流れを読んでいる」らしいが、全くもって意味が分からない。

 

「義勇! 限界まで速度を上げろ! 相手の動きを読め! 弱腰になるな! 進むことだけを考えろ! 男なら!」

「ぐ、おっ――――!」

 

 高速で飛び回る錆兎が放つ木刀の一撃をどうにか防ぐ。だが力の差から拮抗はせず、俺の体はあっさりと吹き飛ばされてしまった。だが、地面を這いつくばることだけはしない。俺は転がりながらも直ぐに体を跳ねて起き上がらせて、次の攻撃に備えて木刀を構えた。

 

 それを見て錆兎は笑みを浮かべ、更に速度を上げながら俺の方へと向かってきた。このまま待つだけでは先程の二の舞になってしまうのは想像に難くない。

 

 俺はそうならないためにも、この半年間で積み上げてきたものをゆっくりと確実に練り上げていく。

 

「ヒュゥゥゥゥウウウウッ――――」

 

 風が逆巻くような音と共に、大量の空気を肺の中へと取り込んでいく。すると体内の血の巡りが加速し出し、心臓の鼓動が早くなっていく。それに伴い体温が急上昇し、身体能力が爆発的に向上し始めた。

 

 これぞ、“全集中の呼吸”。人が鬼に対抗するために生み出した技術の一つ。

 

 乱れた呼吸を整え、再度常人を遥かに超える膂力を出せるようになった俺は今度こそと両足に力を入れて駆ける。地面が爆ぜる音と共に豪速で撃ち出された俺の体はそのまま錆兎の方へと突撃し、互いに振った木刀が正面からぶつかり合って木片を散らした。

 

「っ――――!!」

「その意気だ――――!」

 

 力の拮抗によってガチガチと擦れ合う木刀。直後互いに木刀を弾き合い距離を取る――――が、錆兎は間を空けずに再度こちらへと突撃してきた。こちらが態勢を立て直す前に猛攻を仕掛けるつもりなのだろう。

 

 それを予想していた俺は最小限の動きで防御態勢に移り、同時に始まった錆兎の攻撃を受け止める。だが一撃では終わらない。流れるように動作をつなぎながら行われる高速乱舞。一撃一撃を受け止めるたびに俺の木刀は軋みを上げる。

 

(このままじゃ折られる――――ならば……!)

 

 焦らず、錆兎の攻撃を観察し続ける。焦って攻勢に出た所で反撃を貰うくらいが精々だろう。ならばここは落ち着いて己が一番得意な対処の仕方をするだけだ。

 

(攻撃を正面から受け止めるのではなく、流す……!)

「――――!」

 

 木刀の一撃が与えてくる衝撃を全身で流しながら、流れるように滑らせる。予想外の事に錆兎が目を丸くして大きく体勢を崩してしまい、俺はその隙に彼の腹へと一撃を叩き込まんと木刀を振るった。

 

 だが、錆兎は倒れそうな身体を逆に加速させ、両手を地面に突いて跳ねることでそれを軽やかに躱してしまう。流石錆兎だ、渾身の反撃でも通用しないとは。

 

「いいぞ義勇! それでこそ……!」

「来い、錆兎!」

 

 一回転しながら錆兎は木の幹へと着地し、そのまま木を蹴ってこちらへと加速した。避ける、否。彼が足場を得たら再度こう着状態に陥り、こちらのジリ貧で負けるだけだ。

 

 ならば、逃げる場所の無い空中で勝負を仕掛ける――――!

 

 ――――全集中 水の呼吸

 

 【捌ノ型 滝壺(たきつぼ)

 【漆ノ型 雫波紋突き(しずくはもんづき)

 

 錆兎が繰り出す上方からの強烈な振り下ろしを、俺は水の呼吸の中で最速の技を以て迎撃した。

 

 今の俺は考えるまでもなく錆兎と比べて素の身体能力と呼吸の精度が劣る。同じ技を出せば結果など考えずともわかる。だからこそ地力を覆すための速さ。そして地に足が付いているという有利を最大に活かすために、俺は地を踏みしめて繰り出した全体重を乗せた一撃で錆兎の木刀を正面から穿った。

 

 技と技がぶつかり合って、けたたましい音を立てながら互いの木刀に罅が入る。そしてその拮抗は一秒も持たなかった。何故ならば、互いの得物が悲鳴を上げながら砕け散ってしまったから。

 

「まだまだ――――!」

「なっ!?」

 

 錆兎は衝突時の反動を器用に利用して後ろへと宙返りをしながら、俺の顎へと蹴りを叩きこもうとした。これを食らえば俺の気絶は免れ無い。

 

 ――――だが俺とて足掻くのは同じ。

 

 殆ど反射的にだが、俺の方は折れた木刀の柄を錆兎へと投げていた。ただの牽制として行った悪足掻きではあるが、錆兎が無理矢理な攻撃を実行しようとしたせいかそれは彼にとって不可避の一撃となって錆兎の頭へと向かい――――

 

 俺の顎に蹴りが炸裂するのと同時に、錆兎の頭に高速で投げられた柄がぶつかった。

 

 痛々しい音と共に訪れる互いの体が地に落ちる音と、その後の静寂。

 

 これで鱗滝さんとの鍛錬の後の自由時間を使った錆兎との稽古の成績は零勝二十一敗一引き分け。この自主的な模擬戦による鍛錬を初めて一ヶ月、ようやく俺は錆兎から引き分けをもぎ取った。引き分けるまで一ヶ月、これを長いと取るか短いと取るべきか。

 

「……生きてるか、義勇」

「……ああ」

 

 俺は痛む顎を押さえながら、同じく倒れている錆兎の声に答える。

 

 紙一重で顎を上げて衝撃を流したとはいえ完全に逸らすことはできなかったのか、凄く顎が痛い。罅は入っていないだろうが、暫くは食事に苦労しそうだ。

 

「義勇、また防御の腕を上げたな。つい一週間前までは俺の攻撃で一々吹き飛ばされていたというのに」

「錆兎と鱗滝さんの教え方が上手かったんだ。俺はそれを全力で磨き上げただけだ」

「謙遜も過ぎると嫌味に聞こえるぞ、義勇……」

「俺は謙遜してない」

「そう思っているのはお前だけだ」

 

 錆兎からの辛辣な言葉に打ちのめされながらも、俺は疲労でくたくたの体を心の中で鼓舞しながら立ち上がらせる。対して錆兎は既に立ち上がって羽織に付いた土埃を払っていた。

 

 あんな激しい運動をした後でもこの余裕ぶり、さすが錆兎だ。やはり彼こそ水柱になるべき男……。

 

「――――義勇、錆兎」

「「鱗滝さん!」」

「この一ヶ月の間、お前たちの戦いをこの目でしかと見させてもらった。……やはり、儂の目に間違いは無かった様だ」

 

 この稽古で一日の予定はほぼ終えたため、いつものように帰宅しようとすると突如鱗滝さんが音も無く現れた。その声はいつもよりどこか感極まった様に優しい声音で、しかし厳しい口調で鱗滝さんは告げる。

 

「義勇、錆兎……お前たちに教えることはもう何もない」

「えっ?」

「と、いうことは……」

「……最後の課題を教える。ついて来い」

「「はい!」」

 

 ついにこの時が来たと興奮からまた痛み出す身体に鞭打ち、俺は既に見失いそうなほど小さくなった鱗滝さんの背中を錆兎と共に追いかけた。

 

 奥へ入っていくほど深くなっていく霧。それらを嗅ぎ分けながら進む事十数分、鱗滝さんは丸く斬り削られた大人の背丈と同じほどの巨岩が二つ置かれた場所の前で歩みを止める。

 

「この場にある岩のどちらかを斬れたら“最終選別”に行くことを許可する。――――励め」

 

 それだけを言い残して鱗滝さんは去ってしまった。

 

 隣を見れば、突然そんなことを言われた錆兎がその場で目を丸くして固まっている。俺は事前に知識として知っていたためそこまで驚きはなかったが、やはり実物を見るとその大きさに圧倒される。試しに指で叩いてみるが、予想通りかなり硬い。普通の人間が刀で斬りつけようものなら間違いなく半ばから叩き折れてしまうだろう。

 

 俺が岩を撫でながら一人黙考していると、いつの間にか意識を取り戻したのか、錆兎は軽く息を呑みながら腰に差した訓練用の真剣を抜き放ち、正面に構える。

 

「錆兎?」

「スゥゥゥゥ――――ふんッッ!!!」

 

 全集中の呼吸で強化された膂力で刀を大上段から素早く、鋭く、重く振り下された。

 

 山中に響き渡る金属音。反射的に瞑っていた目を開けて結果を確認すると、やはり刀は岩の表面に少しだけ食いこんでいただけだった。やはり、まだ駄目か。

 

「……やはり駄目、か。義勇、お前は斬れそうか?」

「錆兎にできないことが俺にできる訳ないだろう」

 

 俺が刀を折らない様にこの巨岩を両断するには、呼吸の精度も、技の冴えも、地力も何もかもがまだ足りない。錆兎は身体さえ出来上がれば容易くできるだろうが……どちらにせよ最終選別の日までみっちりと鍛え上げる他ない。

 

 幸い俺はそれらの培い方を、俺はこの半年間でみっちり仕込まれた。ならば後は綿密かつ地道な努力によってそれらを芽吹かせればいい。

 

 即ち――――死ぬほど鍛えろ。これに尽きる。やはり真菰(ふわふわ娘)の脳筋理論は間違っていなかった。

 

「ところで、だ。鱗滝さんからの訓練に一応の区切りが付いた訳だが、そろそろ家族に会いに行かなくてもいいのか? 良い機会だと思うが」

「そうだな……」

 

 確か、最終選別まではまだ半年ほど間があるはず。無駄にできる時間は無いが、家族に顔を見せる時間を無駄と片づけられるほど俺は人間性を捨ててはいない。

 

 つかの間の休息を取るついでに、半年ぶりに顔を見せに行くのは決して悪い選択肢では無いだろう。

 

 そこからの俺たちの行動は早く、すぐに鱗滝さんに休みを取りたいという旨を相談した。多少は苦戦すると思ったが、しかし鱗滝さんはすぐに「時間を無駄にしない様に」とだけ言ってくれた。事実上のほぼ無期限での外出許可である。無論、俺たちの中に長々と修行を放り出して遊ぶ気など欠片も無いが。

 

 無事許可を貰った俺たちは鱗滝さんの鎹烏を蔦子姉さんへと飛ばし、錆兎を連れて一度帰省するという内容の手紙を送った。今の俺たちならば徒歩で三日とかからないだろう。何かあったときの返答もその間に貰えるだろうから抜かりはない。

 

 そうこうして準備が整い、俺が三日分の荷物と日銭を風呂敷に詰めていると隣で錆兎が何かを思いついたような顔で口を開けた。

 

「そうだ、義勇。折角なら競争しないか。日が暮れるまで走り続けて、どちらがより遠くに行けたかで勝敗を決めよう」

「……どう考えても俺が勝つ未来が見えないのだが」

「無論、差を埋めるために荷物は俺が持つ。時間を無駄にしないいい鍛錬になると思わないか?」

「それもそうだな」

 

 勝負はついで事として移動時間を使って基礎的な走り込みをすると思えば悪くない考えだ。特に反対する理由も無いので、俺は快くその勝負を引き受けた。

 

「よし、では行くぞ義勇!」

「ああ。行こう、錆兎!」

 

 半年ぶりに家族に会いに行く。俺はその事を楽しみに胸を躍らせながら、俺は軽やかに走り出した。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「結局勝てなかった……」

「そう落ち込むな。むしろたった半年でこれだけ仕上げたんだから、もっと胸を張れ。義勇」

 

 およそ三日後、夕暮れの下で俺たちは徒歩で目的地へと移動していた。もうすぐ日が暮れるし、距離もさほど残っていないので歩きで移動することにしたのだ。

 

 そして結論だけ言うとやはり俺は錆兎に一度も勝負に勝つことは無かった。単純に呼吸を持続させられる時間が違い過ぎる。今まで鍛えていた時間も回数も文字通り桁違いの錆兎に勝つのはほぼ無理だろうという事はわかっていたが、やはり俺も男だ。負ければ落ち込む。

 

「……最終試験までに錆兎から一本取るのが、今の俺の目標なんだ。故に、もっと鍛錬を積み重ねなければ」

「無理はするなよ。それと、俺はそう簡単に勝ちは譲らないぞ?」

「上等だ」

 

 軽く拳を突き合わせながら軽口を叩き合っていると、やがて町へ入り目的の家屋が見えてきた。家屋の戸に近付き、「姉さん、いるか」と声をかけながら戸を叩く。

 

 一分ほど過ぎただろうか、静かな足音が近づいて来て、ガラガラという音と共に戸は開かれた。

 

 そして、俺と錆兎は同時にギョッと驚きの顔で固まる。

 

「義勇! お帰りなさい、久しぶりね……あら、そっちの子はお友達かしら?」

「あ、ああ……姉さん、そのお腹は……」

 

 俺たちが驚いた理由は至極単純、出迎えてくれた蔦子姉さんのお腹が異様に膨らんでいたからだ。いや、理由は大体察せるけども、実際に目にするとやはり驚きを隠せない。

 

「うふふっ、義勇にもついに甥か姪ができるのよ。生まれるまでは、そうね……後半年ちょっとくらいかしら? あ、ごめんなさい。さぁ、早く中へいらっしゃい二人とも。お腹空いてるでしょう? 今から食事の用意をしますからね」

「そうだな。……ただいま、蔦子姉さん」

「お、お邪魔します……!」

 

 普段は堂々かつ快活とした性格の錆兎がまるで借りてきた猫みたいになっていた。友人の珍しい面をみれてちょっとだけ上機嫌になりながら、厨房へ行く蔦子姉さんを見送りながら俺と錆兎は客間でゆっくりと腰を下ろす。

 

 話したいことは沢山あった。あれから姉さんがどんな生活をしているのか、俺が鱗滝さんの下でどんな修行をしていたのか。そう考えながらそわそわと待ち、機を見計らって俺たちは厨房に行った。流石に妊婦に重い物を運ばせるほど常識知らずでは無い。

 

「あら二人とも、部屋でくつろいでてもよかったのに」

「姉さんに無理をさせる訳にはいかない」

「俺も手伝います!」

「ふふっ、いい子達ね」

 

 俺たちは三人分の夕飯の乗った盆を軽々と居間まで運び、それらをちゃぶ台の上に配膳してから席に着く。

 

 夕飯は麦飯に鯖の塩焼き、たくあん、ほうれん草の添え物。そして――――鮭大根。己の大好物を目にした俺の目はきっとキラキラと輝いているだろう。それを見た蔦子姉さんは微笑み、錆兎は呆れていた。

 

「……ところで蔦子姉さん、義兄(にい)さんは?」

「それがね。丁度二人とすれ違いに遠出の仕事が重なっちゃって……三日か四日は家に帰れないらしいの」

「そうか……残念だ」

 

 義兄、蔦子姉さんの夫の職は自営業の町医者だ。しかもかなり腕がいいのか、有事の際には大手病院の方から救援の声が掛かるほどらしい。

 

 普通の場合はその敏腕で大きい病院などに就職すると思うのだがこの男、蔦子姉さん……一目惚れした幼馴染との愛を貫くためにあえて小さな町に留まった猛者である。それでも人命が掛かっているので声が掛かれば街々を飛び回るのだが、最後は必ず姉さんの下へ帰ってくるのだから男として尊敬せざるを得ない。

 

 付き合いが長く、人格者で、稼ぎもいい優良物件。俺も交際を反対する理由が全く見つからず泣く泣く舌を巻く思いをしたのは記憶に久しい。

 

「それじゃ二人とも、召し上がれ」

「「いただきます」」

 

 手を合わせて唱和をし、早速汁の染みこんだ大根を一口。半年ぶりに味わう絶妙な味加減に思わず涙が流れた。

 

「泣くほどか、お前……」

「美味いだろう?」

「そうだな。義勇が毎日自慢してくるだけある」

「義勇ったらもう、お友達を困らせては駄目よ?」

「俺は困らせてない」

 

 便利な常套句を口にしつつ、俺たちは談笑を合間に挟みながら無事に食事を終えた。その後片付けと洗い物をして、改めてゆっくりと蔦子姉さんと話をする。他愛もない世間話が主だが、それでも久しぶりに帰ってきた実家で大好きな姉と話をするというのはとても良い事だ。

 

「本当に逞しくなったわね、義勇。この半年で、本当に見違えるくらい」

「鱗滝さんがみっちりと鍛えてくれたおかげだ。そして、錆兎にも随分世話になった」

「そうなの! 錆兎君、ありがとう。義勇と仲良くしてくれてるようで本当に嬉しいわ」

「いえ、俺は、その。俺は義勇の友人で、兄弟子なので、これぐらいしっかりしないと示しがつきません」

 

 そう謙遜する錆兎を、蔦子姉さんはゆっくりと身体に手を回して抱きしめた。突然の行動に固まる俺と錆兎。しかし蔦子姉さんはそれを気にも留めず、優しく彼の頭を撫で始めた。

 

「鱗滝さんから聞いたわ、貴方が物心つく前に両親を鬼のせいで亡くしたって。そのせいかしら、私は貴方が誰かに甘えると言う事を知らないように見えるわ」

「……俺、は」

「今だけは甘えていいのよ。私を家族だと思って」

「……………母、さん……!」

 

 いつも堅く塗り固められていた錆兎の何かが壊れたのか、彼は顔を歪ませて今まで一度も見たことのない涙を流しながら蔦子姉さんの胸の中で嗚咽を漏らし始めた。

 

 親友が実姉を母親呼びしながら泣き付いているという正直反応に困る光景ではあったが……決して笑う気にはなれない。同じ両親を失った立場ではあるものの、俺には姉さんが居た。甘えられる存在が身近にいた。錆兎にとって鱗滝さんは父同然の存在だろうけど、母親はいない。今この瞬間、物心ついて初めて感じている無償の母性愛に泣くなと言う方が難しいだろう。

 

「ほら、義勇もいらっしゃい」

「……ああ」

 

 俺も蔦子姉さんに言われた通りに、その腕の中に包まれた。

 

 暖かい。それに、姉さんのお腹に当てた手の平から微弱にではあるが命の鼓動を感じる。この中に命がある、俺が守れた姉さんの中に新しい命が宿っている。そう考えると、自然に顔がほころんだ。

 

 俺の行動は決して間違っていなかった。

 

 もし間違っていたのならば、この手の平から感じる鼓動が、どうして心地よく感じるだろうか。

 

 

 ――――願わくば、この子が生きる世に平穏のあらんことを。

 

 

 目を閉じて静かに願いながら、俺は微睡の中に身を落とした。

 

 

 

 

 



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第肆話 日暮れの前に

 少し広い庭の中央で、俺と錆兎は木刀を振るう。風を斬りながら切っ先が進み、互いの繰り出す攻撃がぶつかり合う。そして毎回俺の方は押し負けて弾かれる。

 

 やはり力……いや、正確に言うならば錆兎の剣は大分攻撃面に寄っている。俺と錆兎の使う水の呼吸は変幻自在、あらゆる敵に対応できるという特色を持つ。その言葉を反映して型の数は五つ存在する呼吸法の中でも随一に多い。

 

 が、この”あらゆる敵に対応できる”という言葉は”どんな敵でも倒すことができる”という訳では無い。打倒と対応は別の言葉だ。より正確に言うなら水の呼吸は”あらゆる敵の攻撃に対応することができる”だ。簡単に言うならば防御寄りのバランス型と言えばいいだろう。

 

 水の如く自在に対応することで生まれる堅実かつ柔軟な戦い方。これこそが水の呼吸の最大の武器だ。

 

 それで、だ。……当然水の呼吸にも弱点は存在する。それ即ち”決め手に欠ける”という事だ。

 

 使い手によってはそうでもないかも知れないが、基本的かつ堅実的故に技の威力は極めて普遍的だ。一応【陸ノ型(ろくのかた) ねじれ(うず)】や【拾ノ型(じゅうのかた) 生生流転(せいせいるてん)】のような特殊な状況に置いて極めて高い効果を発揮する技も存在しているが、逆に言えば条件を満たさなければ真価を発揮できないということでもある。

 

 とはいえ、使い手の力量が上がれば難なく流れるように敵を斬り刻めるだろうから、今まで並べてきた理屈はあくまでも「他の呼吸法と比較すると」という話だ。決して水の呼吸が地味だとか劣っているだとか、そういう事を言っている訳では無い。

 

 俺が言いたいのは、錆兎の剣についての話だ。今まで半年間彼の剣を見てきたが、やはり彼の剣は”水”というより、”嵐”だ。手数も威力も手本通りにやっているだけの俺と比べてまるで違う。水の呼吸に強い攻撃性を加えて独自に最適化しているのだろう。

 

 こうして考えると模擬戦の際に互いが攻勢の時にはいつも俺が押し負けて、錆兎が無理に防御をしようとすると互角の戦いになってしまう事に俺は今更ながら納得した。彼はやはり防ぐという事が苦手なようだ。

 

 まあ、だからといって、俺が勝てるという事には全くならないのだが。

 

「そこだ――――!」

「くっ!?」

 

 錆兎の猛攻を受け流しきれず、咄嗟に正面から受け止めてしまったのが運の尽き。俺の握っている木刀は爆ぜるように上方へと弾かれ、その隙に錆兎の木刀が俺の喉元へと突きつけられた。

 

 何処からどう見ても俺の負けであった。

 

「……また俺の負けか。やはりこの前の引き分けは偶然だった様だ」

「そう落ち込むな、義勇。お前が成長しているように、俺もまた成長しているんだ。今日はお前の負けだったが、明日はどうなるかはわからないだろ?」

「そう言われて勝てた例が無いのだが」

「だったら勝てるまで努力しろ。常に先へと進み続けろ。男なら、な」

「……ああ、わかっているさ」

 

 空を見て時刻を確認すれば丁度時間も昼時らしいので、俺たちは本日分の模擬戦を終了することにした。朝から昼まで錆兎と模擬戦。毎日続ければ狭霧山に帰る頃に体が鈍っているという事は無いだろう。

 

「――――凄い! まるで本に出てくるお侍さんみたいだったわ、二人とも!」

「姉さん」

「蔦子さん、見ていたんですか」

 

 パチパチと拍手をしながら蔦子姉さんが縁側から身を乗り出して庭へと出てきた。もう家事が一通り終わったのだろうか。やはり夫が居ない家というのはやることが直ぐに終わって暇を持て余してしまうらしい。

 

 そういう意味では俺たちが昨日ここへ来たのは丁度いいタイミングだった。こうして蔦子姉さんの退屈を紛らわせているのだから。

 

「ふふ、それじゃあ二人とも、食事の用意ができたから早く上がりなさい。折角のお食事が冷めてしまうわ」

「無論だ。すぐに行く」

「はい、御馳走になりま――――す……?」

 

 俺が蔦子姉さんの傍まで歩くと、ふと後ろにいる錆兎が何やら怪訝そうな声を発した。なんだ? と思いながら振り返ろうとして――――自身の直上から何かが崩れ落ちるような音がするのを聞き、後ろに向けるのは取りやめ上へと素早く顔を向けた。

 

「義勇、蔦子さん! 危ない――――!」

「っ――――!!」

 

 落ちてきていた。十枚以上の屋根瓦が。瓦を固定していた葺き土の癒着力が落ちていたのか? 何故よりにもよって今?

 

 いや理由などどうでもいい、後で考えろ。この瓦たちは俺だけでなく蔦子姉さんの方にも落ちてきている。何とかしないとまずい。

 

 蔦子姉さんを押し出す、いやダメだ。体に強い衝撃を与えてお腹の中の赤ん坊に万が一のことがあれば洒落にもならない。だったら俺が身代わりに、いや俺の体で全ては受け止めきれないし結局俺の体が落下して蔦子姉さんを圧し潰してしまう。

 

 なら、壊すしかない――――!!

 

「姉さん伏せろっ!!」

「え――――? きゃっ!?」

 

 俺と蔦子姉さんへと落ちてきている瓦はおおよそ八枚。それらを蔦子姉さんに落ちてくるものを最優先に片っ端から木刀を振るって破壊していく。

 

 だが駄目だ。時間がない。瓦を破壊するには威力が必要なのに、その為の加速時間が足りない。俺へと落ちてきている物を無視しても間に合わない――――!!

 

 駄目だ。間に合え。何としても間に合わせろ。考えるより前に体を動かせ――――

 

「――――よ、し……っ!!」

「義勇――――っ!!」

 

 身体の力を振り絞って蔦子姉さんへと落ちる最後の瓦を破壊した。だが残る俺へと落ちる瓦は多数。迎撃は間に合わない。錆兎も距離が遠すぎて無理だ。

 

 迫る。迫る。迫る。そして、

 

 

 

 ――――頭の中から一切の雑音が聞こえなくなった。

 

 

 

 ――――ただ一つの波すらない、凪いだ水面の如く。

 

 

 

 

「…………え」

 

 気づいた時には全てが終わっていた。意識が切れていた時間は恐らく数秒にも満たないだろう。

 

 後ろから心配した錆兎が駆けつけ、目の前には今にも泣きそうな表情で俺を抱きしめている蔦子姉さんが見えている。

 

「大丈夫か義勇!?」

「義勇! 無茶ばっかりして……! 怪我は無い? 頭は無事?」

「……あ、ああ。大丈夫だ、問題ない。俺は無傷だ」

 

 自分でも何が起こったのかよく理解出来ず、思考が混乱している。だが今の感触――――何かが、掴めたような、そんな気がした。

 

「にしても、どうしていきなり瓦が……」

「恐らく経年劣化だろう。見た限り、この家屋はかなりの年数ものだ。姉さん、これを機会に業者に頼んで一度家全体を点検した方がいいんじゃないか?」

「そうね……じゃあ二人とも、ちょっと頼みに行ってもらえないかしら? 人だけ呼んでくれれば後は姉さんが話を付けるから」

「ああ。もちろんだ」

 

 家の中でも全くもって油断ならない。可能な限り危険の可能性は削ぎ落すべきであると結論付けた俺は素早い提案で蔦子姉さんの安全を確保する最善手を打つことにした。

 

 それに、折角帰ってきたのにずっと家の中にいると言うのも変だろう。軽い散歩ついでだと思えば鱗滝さんの課す修行と比較すれば天と地ほどの差がある。

 

 ――――ぐぅぅぅぅぅ。

 

「あらあら。義勇ったら」

「とりあえず、昼を食べてから行くか」

「……ああ」

 

 空気を読めない腹の音を恨めし気に睨みながら、俺たちは食事の準備を始めた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 蔦子姉さんからの頼み事は結論から言うと外出から十分とかからなかった。街の中では蔦子姉さんの人徳が広まっているのか、業者には一声かければすぐに駆けつけていく程。

 

 特に長引くとは思わなかったが、まさか一瞬で終わるとは思わなかったので流石に拍子抜けというものだ。

 

「流石は蔦子姉さんだ。弟として鼻が高い」

「お前は本当に蔦子さんが好きだな」

「? 錆兎は姉さんの事が嫌いなのか……?」

「いやそう言う事では……まあいいさ。しかし、町に降りるのは物心ついてからは初めてになるか。やはり山とは大分景色も違うな」

「鱗滝さんは錆兎を山から出さなかったのか?」

「俺が興味を示さなかっただけだよ。しかしいざ直に見てみるとこれは……凄いな」

 

 その後暇を持て余した俺たちは気分転換ついでに少々細長い”包み”を手にしながら町を見回ることにした。俺としては生まれ故郷なために特に目新しい物はないのだが、錆兎はどれもこれもを物珍し気に見ている。

 

「……義勇、藪から棒だが、少し聞きたいことがある」

「なんだ? 俺に答えられることなら何でも答えよう」

「――――お前はどうして鬼殺隊に入ろうとしたんだ?」

「………………………」

 

 言われて、少しだけ固まる。

 

 何時か聞かれるとは思っていた。しかしこの半年間、そんな素振りを一切見せてこなかったために失念していたらしい。俺は止まっていた思考を少しずつ戻しながら、頬を掻きながら錆兎の質問にぽつぽつと答えた。

 

「正直に言えば、俺も迷った時期はあった。一ヶ月ほど姉の傍にいながら考え続けて、結果鬼殺隊への道を決意した。錆兎、お前が聞きたいのは何故俺がそんな結論に至ったのか、だな?」

「ああ。教えてくれ、義勇。お前は何故身近にある幸せを捨てられた。鬼殺隊などに関わらず、普通の道を歩みながら幸せになる選択だってできたはずなのに」

「……自惚れだと言われても、返す言葉は無いのだが」

 

 数秒程黙し、俺は重々しく口を開く。己の心の芯たる、夢を。

 

「もしだ。俺が鬼殺隊にならず普通の人間として暮らせば、俺が鬼殺隊になって救えるはずの人間はどうなるのかと、俺は考えた。人を脅かす存在である鬼に抵抗もできずに殺される人々を一人でも多く救える可能性があるのに、それを捨てるのか、と。……単純に、我慢ならなかったんだ。すべてに目を瞑って、将来起こりうる悲劇を見逃すのが」

 

 これが義憤なのか、それとも偽善なのかはわからない。だけど想像するだけで俺の中では怒りの炎が猛るのだ。”お前が諦めればお前が救えるかもしれない人々はどうなる?”と。そして、目を逸らそうとすればどこかから絶え間なく”声が”聞こえてくる。

 

 

 ――――お前が”冨岡義勇”になったのならば、その『役目』を果たせ――――

 

 

 行動理念には個人的な正義感もある。鬼と言う存在に対する怒りもある。だが一番の理由は、やはり――――……いや、これ以上は不毛か。

 

「俺は鬼殺隊になる。鬼を一匹でも多く狩り、死ぬかもしれない人々の命を一つでも多く救いたい。勿論、姉さんのことについて未練が無いわけでは無い。だけど……決めたんだ。俺は、俺の務めを果たす」

 

 ”成すべきことを成せ”。……それが今生に置ける、俺の至上命題だ。

 

「……義勇。記憶は無いが、鱗滝さんからは両親は俺を守るために鬼に抗い死んだと聞いた。そして鱗滝さんに拾われ、自身と似たような境遇の兄弟子たちと触れあい鬼と言う存在から人々を守る決意をした。……最終選別で、兄弟子たちが鬼に殺されたと聞いて、怒りと憎しみを抱いた。だがな義勇……聞いていて気づいたと思うが、俺は何一つ自分から選択することは無かった。全て、成り行きでの事だ」

 

 初めて、錆兎は自嘲するような表情を浮かべる。その顔はさながら迷子になって親と逸れてしまったような、道を見失ってしまった者の顔であった。一体何が、強気な彼の心の芯を此処まで揺さぶってしまったというのか。

 

 その答えは、意外と早く見つかった。

 

「義勇、俺はお前が羨ましい。己の進む道を選択することのできたお前が、血のつながった家族を守り通せたお前が、酷く羨ましい。……義勇、失望したか? 兄弟子である俺が、こんな器の小さい者だったのが」

 

 失望などするものか。そんな事で、俺がお前を蔑むとでも思ったのか、錆兎。

 

「……錆兎、それでいいんだ。全てを受け入れられる人間なんて存在しない。お前が俺を羨むことは決して悪い事じゃないんだ。それに――――俺と、蔦子姉さんと、鱗滝さんは、お前を家族だと思っている」

「っ…………!」

「血は繋がっていない。だけど……家族を形作るのは、決して血の繋がりだけじゃないはずだ。……錆兎、手から零れ落ちた物を拾うことはできないかもしれないが――――これから先、新しい大切な何かを手に入れることは、出来るはずだろう?」

 

 死んだ者が生き返ることは決してない。砂山の上に雫が落ちて、もう拾い上げることができない様に。

 

 だが、新しい水を手に収めることは出来る。同じでなくとも、同じくらい大切な何かを見つけることはきっと出来るはずだ。

 

「確かにお前は今までは流されて生きていたのかもしれない。だけど、明日もそうなるとは限らない。自分の未来を選択する機会など、生きていれば幾らでも来る。過去を振り返るのは決して悪いことでは無い。だが――――未来に目を向けろ。先へと進むための歩みだけは、決して止めるな。男なら、な」

「義勇……」

 

 錆兎がいつも口にしている言葉を使いながら、俺は笑みを浮かべて彼の前へと拳を突き出す。彼は少しだけ困ったような表情をしながらも、やがて吹っ切れたのかすぐにいつも通りの不敵な笑みを取り戻しながら拳と拳を突き合わせる。

 

「ああ。そうだ、何時までも過去の思い出に浸っているわけにはいかない。俺は進み続けなければならないんだ。俺を助けてくれた両親のために、無念の内に死んでしまった兄弟子たちのためにも」

「それでこそだ、錆兎」

 

 どうやら錆兎の鼓舞に成功したようで、俺は一安心と胸を撫で下ろした。人を励ますのは初めての事であったが、意外と上手く行ったようで何よりだ。

 

 さて、そろそろ町も見回り終えた頃だ。早く蔦子姉さんのところに戻ろうかと考え始めた――――刹那、耳にふと通行人の噂話が入ってくる。耳に注力せねば聞こえない程小さく、しかしとある単語が出た瞬間俺と錆兎は緊迫した空気を漏らしてしまうこととなった。

 

「――――おい、聞いたかよ。隣町で”鬼”が出たらしいぜ」

「はあ? 鬼って、御伽の? よせよ、子供でもあるまいし、そんな与太話を真に受ける歳かよ?」

「いや本当なんだって。周辺での噂も含めれば、もう二十人近く消えてるみたいなんだ。この前のは一家が一人娘を残して忽然と姿を消したらしい。鬼云々が与太だとしても、ただ事じゃないぞ……」

 

 俺は無言で隣にいる錆兎に目を配る。彼は無言でその手にある”包み”――――いざという時のために持ち出しておいた粗製の日輪刀を握りしめていた。

 

「錆兎」

「義勇、まさか止める気じゃないだろうな」

「それこそまさかだ。……共に行くぞ。初めての鬼狩りだ」

「ああ……!!」

 

 思えば、その時の俺たちは力を手にしていたことで少し増長していたのだろう。それについては反論をする余地もその気も無い。

 

 だが、それでも俺たちはその選択をしたことは後悔していなかった。

 

 そのおかげで確かに救えた命もあったのだから。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 そこからの俺たちの行動は早かった。鱗滝さんの修行により鍛え抜かれた身体能力を以てすれば隣町になど一刻掛からず到着し、そこから鬼の噂についての聞き込みをすることにした。

 

 現在時刻は太陽の位置からしておおよそ三時と言った所か。今は春を迎えたばかりなので、陽が沈むまでは四時間ほど残っているだろう。決して多いとは言えない日暮れまでの時間の中で、果たして鬼の所在を把握できるのやら。

 

「鬼? いや、知らないなぁ……。最近失踪事件が多いっては聞くけど」

「そうですか……。では最近失踪した一家については何かご存知でしょうか」

「ああ、真菰(まこも)ちゃんの所ね。可哀相になぁ、まだ十一歳なのに、両親共々どこかに消えちゃって……君たち、見た所そこまで歳は離れて無い様だし、会ったら励ましてあげなよ。今のあの子には、きっと言葉だけでも嬉しいと思うから」

「……真菰……?」

「義勇、どうかしたか?」

 

 意外な所で意外な名前が出てきた。真菰……錆兎や俺と同じく、鱗滝さんによって引き取られ鬼殺の剣士の卵として育てられる筈の少女の名だ。鱗滝さんの所に来る以上何かしらの接触をする可能性は考慮していたが、まさか今その名を聞くことになるとは。

 

「いや、何でもない。とにかくその真菰という者に話を聞きに行こう。何か知っているかもしれない」

「ああ。だが気を付けろよ義勇、鬼によって身内を失った者だ、下手な所をつつけばどうなるかわかったものではない」

「承知している」

 

 鬼の被害に遭った者は大抵の場合精神的なショックで言葉がまともに喋れないか酷く錯乱している場合が多い。

 

 ましてや今訪ねようとしているのは十歳の少女。彼女が”その瞬間”をその目で見ているのかはまだ不明であるが、だとしても無遠慮に心の中へずけずけと踏み込むほど俺の精神は図太くない。

 

 聞き込みによって得られた情報を頼りに目的の場所を探すのはそう難しいことでは無かった。どうやらその一家は織物屋としてそこそこ有名であったため、大多数の人がその場所を知っていたからだ。

 

 徒歩で十分ほど進むと、織物屋らしき家屋が見えてくる。

 

「……お前が真菰か?」

「え……?」

 

 少女はその家屋の前で膝を抱えて地に座していた。夜の様に黒く美しいつやを持つ髪とまだまだ幼さの残っている綺麗な顔。しかし顔からは濃い涙痕が見て取れ、この少女がどれだけ泣き続けたのかが察せる。

 

「ええと……貴方は、誰?」

「俺は錆兎。こっちは「冨岡義勇だ」。……それで、少し聞きたいことがあるんだが、いいか?」

「……うん、いいよ」

 

 真菰は無気力な返事をしながら俺たちを手招き、家屋の中へと入っていく。俺たちも互いに頷き合いながらその後を付いて行き、家の中の様子を改めて直で見ることとなった。

 

「これは……」

「酷いな……」

 

 天井や壁、床が、何か鋭い刃物で引っ掻いたようにズタズタに引き裂かれていた。更に言えば家の戸は無造作に壊され、その残骸が玄関で散乱している。どう考えても尋常では無い何かが起こったと確信できるほどの惨状だ。

 

 息を飲みながら、真菰に客間まで案内されちゃぶ台に茶を出される。少し冷めているが、そんなのは些事だろう。

 

「それで、聞きたいことって?」

「……お前が両親の失踪について何か知っていることを教えて欲しい。無論、無理なら言わなくても構わない」

「……もし私が素っ頓狂な事を言ったとしても、信じてくれるなら、いいよ」

「「信じる」」

 

 俺たちが即答したことに驚いたのか、真菰は目を丸くしながら固まった。鬼と言う存在は一般人に周知されていない。社会の混乱を避けるためもあるだろうが、そのおかげで被害者の言い分がまるで信じられないと言うのはよくある話だ。

 

 こう言う時に一番いいのは「相手は自分の話を信じてくれる」と思わせることだ。誰も自身の話を信じてくれないと思いこんでいる状態では、話すことも話せないだろう。

 

「二日くらい前の晩かな……。私が両親と晩御飯を食べていた時に、いきなり玄関から物凄い音がして……。それで、ただ事じゃないってわかった両親は、私を押入れの中に隠して、様子を見に行ったの。その後、木を無理矢理折ったような激しい音が何度も聞こえて……」

 

 徐々に真菰の顔が青ざめていく。俺たちもその話だけで何が起こったかは大体察した。そして彼女の両親はきっともう……。

 

「……私は怖くて外に出れなかった。だけど声だけは聞こえた。……『今日は大猟だ、湖に帰ってゆっくり食おう』って。それで、それで……!」

「もういい。大丈夫だ。これ以上話す必要は無い。ありがとう、よく話してくれた」

「朝になって大人たちに何度も話したのに! みんな信じてくれなくて……! 私、これからどうすればいいの……?」

 

 涙目になった嗚咽を漏らす真菰を、錆兎は何度も宥めた。

 

 恐怖の記憶を俺たちのために無理矢理掘り起こしてくれたのだろう。まだ十一だというのに、芯の強い子だ。されどまだ十一歳、己を守ってくれる両親が突如消え途方に暮れた不安と言うのは確かに彼女の心を蝕んでいる。

 

 何より、自身から両親を奪った鬼に対しての恐怖も。

 

「真菰、この辺りに湖はあるのか」

「……うん。小さいけど、町の水源になってるの。最近は出産期で気性が荒くなっている獣がうろついてるから、あまり人は入ろうとしないけど……」

「行くぞ、錆兎。きっと鬼はそこにいる」

「ああ。真菰、貴重な情報提供感謝する。安心してくれ、お前の両親の仇は俺たちが必ず取る」

「え……えっ?」

 

 事態が飲み込めず困惑する真菰を尻目に、俺たちは直ぐに件の湖へと向かうことにした。もうすぐ日が暮れる。これ以上被害を増やさないようにするには、鬼が町へと降りてくる前に本拠へと乗り込んで一気に叩く他ない。

 

「ま、待って! 私も行く!」

「駄目だ。真菰、お前は此処にいろ」

「…………!」

 

 困惑するまま真菰は俺たちについて来ようとしたが、錆兎は強い言葉でそれを止めた。一般人、しかも子供が鬼との闘いについてくるなど言語道断。鬼殺隊の上級隊員や柱ならば守りながらでも戦えるかもしれないが、俺たちはまだ鬼殺隊ですらない卵だ。一般人を守りながら戦いに勝てる保証は何処にもない。

 

 真菰からの返事は無い。彼女は無言で悔し涙を流しながら羽織の裾を強く掴むだけだ。錆兎は少しだけ悲し気な表情をしたがすぐに気を引き締め直し、家屋を出て駆けだす。

 

「義勇。念のために言っておくが、危なくなったら逃げろ。お前が死んだら、俺は蔦子さんに何と言えばいいのかわからない」

「安心しろ。姉さんの子供の顔を見るまでは死んでも死ぬつもりは無い。錆兎こそ無理をするなよ」

「ふっ、言ったな!」

 

 少年たちは走る。これ以上鬼に人を食わせないために。両親を無くして涙する少女のために。己の信念のために。

 

 夜は、近い。

 

 

 

 

 




若気の至りって怖いね。後から冷静になると自分がとんでもない事やってるって気づくもの。


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第伍話 鬼狩り

 夜の森というのはやはり恐怖以外の何物でもない。微かな月明かりさえ深い森では遮られ、目を慣らさなければ一寸先すら真っ黒な闇。かと言って松明などの明かりを持ち歩くのも憚られる。

 

 明かり、光源を持つという事は相手に発見されやすいという事であるし、何より光源を失った際は目が慣れるまでほぼ何も見えない状態を強いられる。鬼と対峙する上でそれは最悪の状況を意味する以上、俺と錆兎は暗がりに目を慣らしながら先へ進む以外なかった。

 

 幸い、俺たちは夜の森は慣れている。鱗滝さんの修行で夜中山を駆け巡ることなど珍しいことではなかったし、例え何も見えない状態であっても匂いや音で大まかにではあるが周囲の状況を把握できるようにはなっている。

 

 実戦で試したことが無い以上安心は全く出来ないのだが。

 

「錆兎、鬼の気配を感じるか」

「いいや、まだだ。……だが臭うぞ、間違いない、血の臭いだ」

 

 件の湖へと繋がる森を進めば進むほど血の刺激臭が強くなっている。更に木々の幹に血や肉片がへばりついている場合もあり、間違いなくここに鬼が住み着いている証拠をまざまざと見せつけられた俺たちは一歩進むごとに手に握る日輪刀の柄を強く握っていく。

 

 例え厳しい特訓を経ていようが、俺たちはまだ最終選別すら抜けていないひよっこだ。本当に鬼に勝てるのだろうか。そんな不安が俺の中に渦巻く。

 

 十二鬼月――――鬼舞辻を除く最強と呼ばれる十二体の鬼、それに当たる可能性はほぼ無いだろうが、相手は推定でも二十人以上を食い殺した鬼だ。下手な隊士でも死にかねない相手を、本当に俺たちなんかが――――

 

「義勇。止まれ」

「!」

 

 錆兎に言われて足を止め、前方を注意深く睨む。

 

 気づけばもう湖は目の前。血の刺激臭も最高潮に達していて、更に腐敗臭までしてくるのだから吐き気が込み上げてくる。だが此処でそんなことをするほど俺は空気を読めない男じゃない。ぐっと我慢して辺りを警戒し始めた。

 

「――――いた」

「はっ……!」

 

 俺は湖の浅い所でグチャリグチャリと音を立てながら何かを咀嚼している大男を発見した。

 

 その男、否、鬼は全身を魚の様な鱗で包み、しかしその両手は鋭い刃物のような巨大な鉤爪のようになっている。まるで魚を気色悪い巨漢に変形させたような醜悪な外見。間違いなく鬼だ。鬼が人の手足を爪に刺しながら食っている。

 

「あァ……不味い、不味い。やはり肉は新鮮なうちに食わねば。できれば生きたままがいい。きひひっ、昨日の奴らは美味かったなぁ。必死に命乞いする奴を生きたまま食うのは心も体も満たされるなァ……」

(っ――――!!)

(錆兎、落ち着け。激情のまま行動するな。鱗滝さんの教えを思い出せ……!)

(だがっ……!!)

 

 気持ちは痛いほどわかる。俺だって今すぐ飛び出してあの気色悪い魚男の頸を叩き切ってやりたい。だが怒りと言うのは冷静な判断を阻害する最大の天敵だ。落ち着いて最適な行動をすることこそが今ここで一番求められている物だ。

 

 故に怒りは、やつの頸を獲ることで晴らすことにする。

 

(錆兎、同時に行くぞ。左右から挟み込むように奴を斬る)

(了解。いくぞ、義勇。三、二、一――――!!)

 

 俺と錆兎は合図と共に全力で飛び出した。狙うは頸一点。奴がこちらに気付く前に一気に片を付ける――――!

 

 全集中・水の呼吸 【壱ノ型 水面切り(みなもぎり)

 

 水の呼吸の基本技かつ一番使い慣れているであろう技で、二方向から挟み込むように攻撃。敵の視線は未だ俺たちの方とは反対の方向を向いている。よし、これで――――

 

「――――だからよぉ、お前らを口直しに食わせてもらうぜェ!!」

「「ッ!!!」」

 

 俺たちの刀を、鬼は両手の鉤爪で防いでいた。何故、こちらに気付いた素振りは無かったはず。

 

 いや、そうか。こいつ、

 

「最初から気づいていたのかっ!?」

「俺の感覚は優れものでなぁ、空気の乱れを感じて鼠の場所を把握するくらい訳ないんだよォ!!」

 

 攻撃を弾かれ、俺たちは反動を利用しながら後ろへと下がる。

 

 不意打ちは失敗。敢え無く俺たちは鬼と正面から対峙することになってしまった。だが当初の予定に変わりは無い。気づかれたのならば、正面から堅実に攻めるまで。

 

「ひひっ、子供かァ。子供は肉が柔らかくて美味い。やはり俺は運がいい、極上の餌が自分からやってきてくれたんだからなァ」

「貴様……今まで何人食ってきた……!」

「ん~、ざっと二十三人は食ったなァ。一番美味かったのは、昨日食った女だ。特に乳房と臀部は柔らかくてとろける程――――」

「もういい、喋るな」

 

 冷静さを失うことは本意ではないが、俺とて許容できる限界というものはある。少なくとも目の前の鬼の気色悪い感想を受け入れられるほど、俺は我慢強くは無かったらしい。

 

 そしてそれは錆兎も同じだった。

 

「おぉぉぉぉぉおおっ!!」

 

 錆兎が水上を駆ける。振るわれるのは【肆ノ型 打ち潮(うちしお)(らん)】。流れるような動きから繰り出される連続攻撃は容赦なく鬼へと打ち込まれる。

 

 しかし、その全てが両手の爪によって弾かれてしまった。やはり奴はそこらの雑魚鬼とは違う。別格とまではいかないが、かなりの速度だ。

 

 だが諦めるわけにはいかない。此処で引けば、これから何人もの罪無き人々が犠牲になる。そんな事を許せるわけがない。

 

「全集中・水の呼吸……!!」

 

 【漆ノ型 雫波紋突き・乱曲(らんきょく)

 

 水の呼吸最速の突き技。俺はそれを応用し、直線的な軌道と曲線的な軌道を混ぜながら連続で刺突を繰り出した。やはりこれも鉤爪によってほとんどが防がれてしまうが、十分だ。これで奴は錆兎への対応を片手でしかできなくなった。

 

「よくやった、義勇!」

「ちぃっ……!」

 

 好機と見た錆兎はすぐさまもう一度技を繰り出し、片手しか扱えなかった鬼の防御を突破した。錆兎の攻撃に寄って腕が弾かれた鬼は頸を大きく晒してしまう。

 

「獲った――――ッ!!」

「ちょこまかと小細工をォ!!」

「っ、止まれ錆兎!!」

 

 錆兎が刀を振るって頸を斬ろうとした瞬間、弾かれた鬼の腕から手だけが稼働し、その爪先を錆兎へと向けた。俺は猛烈に嫌な予感がし、攻撃を中断してそのまま錆兎の羽織の襟首を引っ張りながら後ろへと跳んだ。

 

 直後、爪が凄まじい速さで()()()。鋭利な爪先は錆兎の居た場所を貫き、大きな水しぶきを立てながら地面へと深々と突き刺さった。

 

 もし俺が気づくのが数瞬遅れていたらどうなっていたことか、背筋が凍る。

 

「錆兎、どうやらあの鬼は爪を伸縮させられるようだ。気を付けろ」

「すまん、義勇。助かった!」

「なんでこれで死なないんだよォォォ!! 餓鬼は大人しく大人の言う事を聞いていればいいんだよォォォオ!!」

 

 今の技で決めきれなかった事に癇癪を起こす鬼。一見して無様ではあるが、だからと言って油断なんてできない。俺たちは乱れそうな息を整えて日輪刀を正面に構え、何が起こっても対応できるようにする。

 

「死ねやぁぁぁぁあああ!!」

 

 鬼が両手の爪を正面に向けた瞬間、両手の爪全てが高速で伸びる。俺たちはその攻撃をそれぞれ別方向に跳ぶことで回避。そしてその勢いを殺さないまま弧を描く様に走り出した。

 

 こちらの予想が確かならば恐らく――――

 

「まだまだ止まらねぇぞォ!」

 

 予想通り、爪を凄まじい速度で伸縮させながら鬼は餌を穿たんと腕を振るい、爪を何度も伸ばして攻撃する。が、俺たちは紙一重で回避しながら少しずつ距離を詰めていく。

 

 そして一定距離まで近づくと、俺は一気に距離を縮めるために大きく息を吸い――――駆けた。

 

 全集中・水の呼吸 【玖ノ型 水流飛沫(すいりゅうしぶき)

 

 可能な限り足と地面の接地面積を減らし、素早い左右の動きで敵の攻撃を回避しながら移動を行う。直線的な攻撃しかできないこの敵相手に距離を詰めるには最適な技だ。

 

「なっ――――!?」

「シィィィィィ――――!!」

 

 攻撃の機会を逃さず掴み取った俺はすかさず深く息を吸い込み、【肆ノ型 打ち潮】を繰り出した。波を打つようにしなやかで速い一撃が鬼の手を斬り飛ばし、軌道を綺麗に曲げながら頸を斬ろうと迫り――――しかし寸前で俺を攻撃していた方とは別の手で防御されてしまう。

 

 だが、それこそ愚策であった。もし俺が単独であったのならば仕切り直しになるのだろうが。

 

「今度こそぉぉぉぉっ!!!」

「糞がぁぁぁぁあああああッ!!」

 

 鬼の背後から俺とは時間をずらして接近していた錆兎が刀を振りかぶっていた。両手は俺への対応で使えない。即ち、俺たちの勝ち――――

 

「――――ひっ……!!」

「ッ!?」

「な、真菰!?」

「――――ヒヒッ」

 

 小さな、本当に小さな悲鳴が聞こえた。目だけを動かしてその源を探れば、小柄な黒髪の少女――――真菰がへたり込んでいる姿が目に入る。まずい、と思った瞬間には既に鬼は動いていた。

 

 俺の刀を受け止めている手の指一本だけを真菰へと向け、伸ばした。当然腰を抜かした少女にそれを防ぐ術などあるはずもなく。

 

「錆兎ォ!!」

「おぉぉぉぉぉおおおおおおッ!!」

 

 錆兎は目標を急遽変更して、爪を伸ばしている手を叩き切った。間一髪で間に合ったか、伸びた爪は僅かに目標をそれて真菰の顔の真横を通り過ぎた。

 

 だが、これで頸を斬る機会が失われてしまった。態勢を立て直すために俺と錆兎は素早く跳んで鬼から距離を取る。

 

「義勇! 真菰を安全な場所に運べ!」

「錆兎、だがそれでは!」

「早くしろ!」

「……了解した!」

 

 苦虫を噛み潰すような思いで俺は真菰へと駆けた。同時に後ろから罵声と剣戟の音が聞こえるが、腹の底から湧き上がる思いを抑え込みながら腰を抜かした真菰へと駆け寄る。

 

「何をやっている!? 家で待っていろと言っただろう!」

「だって、私、私……何かやらなきゃって……!」

「っ、ともかく早く立て! ここから急いで離れ「させるかよォ」ッ!?」

 

 背後に、「死」が立っていた。反射的に振り返れば、少し離れたところでうつ伏せに倒れた錆兎の姿が。そして、眼前には全身に鱗を纏った鬼が両手の爪先をこちらに向けながら佇んでいる。

 

「死ね」

 

 その宣告と同時に十本の死が迫った。回避? 無理だ、後ろに真菰がいる。防御? 手段が無い。対応、不可能。死、駄目だ、俺はまだ――――

 

 

 ――――どんな状況でも、己の理性を制御しろ。波の無い水面のような精神を忘れるな。

 

 

 鱗滝さんの教えが、走馬灯のように脳内を駆け巡る。

 

 

 ――――水の呼吸はあらゆる状況に対応できる。だがそれは状況に合わせて思案し実行できる理性あればこそ、だ。

 

 

 波の無い水面、即ち、「凪」の様な。

 

 

 ――――敵を見て、理解しろ。そして最適な動きを出せ。そうすれば、剣は自ずとお前の望む結果を出してくれる。

 

 

 爪が迫る。酷くゆっくりと迫る。見える、攻撃がどう来るか理解できる。体は、動く。まだ動ける。生きている。足掻ける。ならば――――十分だ。

 

 

 全集中・水の呼吸 【()()()()】――――

 

 

 水の呼吸に存在する型は拾までだ。そしてそれぞれが極めて高い完成度を誇り、並の場合ではこの拾の技があればおおよその状況に対応できる。しかし、それでも対応ができない状況というものは存在している。

 

 これは、既存の技では対応できない状況を乗り切るための業。

 

 あらゆる攻撃を祓い、守ることに特化した”冨岡義勇”の生み出した剣。

 

 

 ――――【(なぎ)

 

 

「…………あ?」

 

 気が付けば、鬼の両手は消えていた。いや、()()()()()。いつの間にか断面だけを残し、斬られた手はゴトリと地面に無惨にも転がっている。更に言えば、伸びた爪も悉くぶつ切りにされて辺りに散乱していた。

 

「っ、はぁっ……! はぁっ……!」

 

 本来ならば鬼の頸を断てる絶好の機会。だが、動けない。碌な呼吸もせず肺にある空気だけで全集中の呼吸を使った反動か、全身から汗が噴き出て動くこともままならない状態に俺は追い詰められていた。

 

 そして当然、鬼の動きは止まらない。

 

「この糞餓鬼がァ!」

「がッ――――」

 

 両手を再生しきれていない鬼は代わりに蹴りによって俺の体を軽々と蹴り飛ばした。胸からバギリという音を聞きながらゴロゴロと転がり、しかしどうにか立ち上がるが、時すでに遅し。

 

 鬼は真菰の体を握り、こちらに顔を向けてニタニタと気色悪い笑みを浮かべていた。

 

「ひひひ! 女、しかも子供だァ。旨そうだ、実に旨そうだ! 決めたぞ、お前は水中で苦しむ様を見ながらゆっくりと生きたまま食い殺してやる! ヒヒャヒャヒャヒャヒャ!!」

「ぁ、あ……や、だ。やだ、やだやだぁぁあぁあ!」

「真菰っ!」

「その手をっ……放せぇぇぇぇええええええッ!!」

 

 どうにか復帰した錆兎が鬼の背後から斬りかかるが、鬼はそれを容易く避けて大跳躍。そのまま湖の中へと飛び込んでしまった。

 

 水中。呼吸が極めて制限される特殊な場所。そこで俺たちは果たして鬼に勝てるのか――――そんな考えは、今はどうでもよかった。

 

「義勇ッ!」

「わかっている!!」

 

 上着を脱ぎ捨てながら俺たちは最大まで息を吸い込み湖へと飛び込んだ。

 

 大丈夫だ、水中での動きなど鱗滝さんとの鍛錬で何度も経験している。教えられたことを思い出せ。最後の最後まで足掻き続けろ……!

 

(――――いた!)

 

 直ぐに飛び込んだのが功を奏した。鬼と真菰はまだそう離れていない場所にいる。俺は無言で錆兎に目配せし、思いっきり足を引き絞った。錆兎もそれに合わせて足を折り曲げ、両足をくっ付ける。

 

(おぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおッ!!!)

 

 俺はその場で蹴りを繰り出し、錆兎の足底を蹴り飛ばした。同時に錆兎も折り曲げた足の力を解放することで水の中だと言うのに凄まじい速度で鬼へと迫る。

 

 それを見た鬼があからさまに驚愕し、しかし対応する暇など与えずに錆兎は真菰を掴んでいた方の腕を根元から斬り飛ばした。痛みに悶えた鬼が肺の空気を水中にぶちまけながら水底の闇へと紛れて姿を消す。

 

 俺は早く二人と合流し、水面へと上がろうと試みる。――――が、その前に闇の中から爪が迫り、錆兎の脇腹を貫いた。

 

「っ……ご、ばぁっ!?」

(錆兎っ!)

 

 腹を貫かれながらも錆兎は爪を刀で斬り割いた。だが痛みに耐えきれず身体から空気を吐き出してしまう。まずい、あれでは全集中の呼吸が使えない。急いで水から上がらねば――――!

 

 だが俺とて攻撃対象。直感で何かを感じ取った俺は素早く首を捻って背後からの爪攻撃を回避。同時に手が負傷するのを無視して爪を鷲掴みにし、全力で自分の方へと引っ張った。

 

「!?」

 

 鬼が闇から引き摺り出される。それと同時に俺は鬼の頸を狙って攻撃するも、回避されてしまう。だが代わりに流れるような動きで残った片腕を斬り飛ばした。これで遠距離攻撃は暫く封じられるだろう。

 

 しかしそれは時間を稼ぐだけの結果にしかならない。早く現状を打開する方法を考えなければ。

 

 急いで錆兎へと泳いで近づく。意識はあるようだが、やはり空気が足りなくて苦しんでいる。このままでは鬼の攻撃で死ぬ前に酸欠で死にかねない。だが鬼の追撃を受けながら水面まで上がり、更に言えば地上までたどり着けるか……?

 

 考えろ。考えろ。考えろ。この世に不可能は無い。必ず突破口は存在する。せめて、せめて空気さえ確保できるなら……空気を……。

 

(……………そうだ)

 

 ふと、真菰を見る。見れば彼女はまだ平気そうだ。水の中に引きずり込まれる前に空気を吸いこんでいたのだろう。それを見て俺はとある考えが浮かび上がる。

 

 ……俺は何も言わず真菰の口を指さし、次に錆兎の口を指さした。

 

 それだけで俺の考えを理解したのだろう。真菰は赤面しながら危うく空気を吹き出しそうになった。気持ちはわかる。非常に申し訳ないと思う。

 

 だが、今は非常事態だ、手段なぞ選んでられない。俺は後で何度も土下座をするつもりで真菰に頭を下げた。

 

 彼女は一瞬だけ硬直し――――しかしすぐにその口を錆兎へとくっ付けた。なんという行動力。

 

(!?!?!?)

 

 突然の奇行に錆兎も驚くが、口から空気を送られて意図を察したのか直ぐに冷静さを取り戻した。そしてついに、錆兎に必要十分な量の空気が送られる。

 

 直後、闇の中から凄まじい速度で鬼が飛び出し、こちらへと突っ込んできていた。両腕が再生途中である以上、直接突っ込んで攻撃するしかないのだ。そして相手はこちらが俺以外ほぼ無力化されたと思いこんでいる。

 

 その思い込みが、命取りとなった。

 

(義勇! 合わせろ!)

(わかっている!)

 

 錆兎が真菰を己の体にしがみ付かせるのを見届けつつ、俺と錆兎は目を合わせて素早く意思伝達。互いがやろうとしていることを直感で把握し、同時に反対方向へと全身を捻りながら刀を構えた。

 

((オォォオォオオオオオオオオオオオオ――――ッ!!!))

 

 繰り出すは()()()()()真価を発揮する技。上半身と下半身の捩じりによって強い渦動を発生させる渦の刃。

 

 

 全集中・水の呼吸 【陸ノ型・(きょう) ねじれ渦・相反(そうはん)

 

 

 二つの逆回転が生み出す圧倒的破壊の奔流。水中で生み出される二つの衝撃波の渦が周囲一帯を引き裂き、その中間に突っ込んできた鬼の体を細切れになるまで破壊した。

 

 断末魔すら上げることができず、鬼は灰となりながら水底へと沈んでいく。

 

 俺はそれを見届けながら二人の体を引っ張り、水面へと上がった。

 

「――――ぶはぁっ!!」

「げほっ、ぺっぺっ!」

「っ、はあっ、はぁっ……!」

 

 肺の空気を入れ替えながら、俺たちは湖の岸へ上がり、全員もれなく大の字に寝転がる。

 

 戦いが終わったことをようやく理解し、俺は身体の力を抜いて安堵した。――――瞬間、胸部から激しい痛み。

 

「ぐっ、う、ぉぉぉぉぉっ……!?」

「義勇!? どうした!」

「あ、肋骨が……折れてるっ……」

「それは――――っ、がっ……!!」

 

 錆兎もようやく自分の脇腹が貫通していることを思い出したのだろう、ドクドクと血の流れる腹を押さえながら身悶えていた。幸いなのは位置的に内臓が無事そうなのと、傷口が小さい事だろうか。何にせよ俺も錆兎もすぐに医者に診せなければならないが。

 

「二人とも……ごめんね、ごめんねぇ。私のせいで、こんな……!」

「……もういい、過ぎたことだ。鬼は倒せた。俺たちは生きている。それでいい」

「死ぬほど痛い目に遭ったがな」

「うぅぅぅ……ごめんなさい……」

 

 確かに真菰が来なければもう少し楽に終わっていただろう。だが「たられば」の話など時間の無駄だ。今の現実、鬼は討った、俺たちは生き残った。それだけでも十分な結果だ。戦闘中の負傷など、些細な事柄に過ぎない。

 

 さて、この状態でどうやって帰ろうか。例え帰れたとして蔦子姉さんにどう事情を説明したものか、と考えていると、森の向こうから何やら複数の足音が聞こえ始めた。

 

 しかし、それを確かめる前に俺の意識は落ちそうだ。あまりの疲労に瞼が今にも閉じようとしている。

 

「――――子供だ! 怪我をした子供がいる!」

「先行した隊員か! 鬼はどうなった!」

 

 台詞からして、どうやら鬼殺隊の隊員のようだ。それを理解した俺は遠慮なく意識の電源を落とした。

 

 少し、疲れた。

 

 今はとりあえず、眠ろう。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「はい、義勇。あーん」

「……あーん」

「はい、錆兎君も、あーん」

「ど、どうも……」

 

 鬼との闘いから早一ヶ月。俺と錆兎の二人は俺の実家の布団の中に居た。どうしてこうなった、とは思わない。まあおおよそ当然の帰結と言える有様だろう。

 

 俺たちはあの後鬼殺隊に保護され、致命傷では無いにしろ傷を負った俺と錆兎、そして重要参考人である真菰は共々鬼殺隊の保有する医療屋敷へと運び込まれることとなった。

 

 話を聞けば、俺たちが倒した敵はかなり厄介な類いだったらしい。縄張りを転々としながら見つかりそうになるとほとぼりが冷めるまで水中に逃げ込み姿を隠す。その性質のおかげで二十人以上の犠牲者を出す羽目になったようだ。

 

 当然ながら下級隊員では対応が極めて困難な相手であった。あと少し放置していれば異能さえ手にしていただろう。俺たち二人が倒せたのは、運が良かったと言うしかない。

 

 そして、戦いの後に屋敷にて詳細な検査を行った結果。俺は肋骨が二本砕け、錆兎は内臓は無事にしろ腹を貫通する傷が五つ。普通に重傷である。

 

 また、調査の結果俺たちがまだ鬼殺隊の正規隊員では無いと判明したため当然ながら大目玉を食らい。

 

「お前たち! 自分が何をしたのかわかっているのか!?」

「「はい……」」

 

 更に蔦子姉さんにも無茶をした罰として大目玉を追撃に食らい。

 

「二人とも無茶ばっかりして! 傍で見守っている人の気にもなりなさい!!」

「「すいませんでした……」」

 

 締めに明らかに怒っている鱗滝さんからの無言の威圧によって俺と錆兎はもれなく撃沈した。

 

「…………………………」

「「……心の底から反省しております」」

 

 若気の至りと言うのは実に恐ろしいものだ。とはいえ、反省はしても後悔は微塵たりともしていないのだが。

 

 あの鬼は潜伏に長けている様子だった。きっと俺たちの様な子供では無く正規の隊員が向かっていたら、逃げられた可能性が高かったであろう。そうなっていたら、あの鬼に食い殺される人間はさらに増えていただろう。

 

 そういう意味ではあの鬼は俺たちを子供だと舐めてかかったつけを支払ったということになる。俺たちも無謀な行動をした罰を身を以て受けたわけだが。

 

「義勇~? まだお粥は残ってるわよ~?」

「……あーん」

「うふふふっ、義勇が小さい頃を思い出すわね~」

 

 ……それで、だ。俺たちの傷はほぼ治ったが、一応数日間は安静ということで実家にて蔦子姉さんに世話を焼かれている。具体的に言えば蔦子姉さんに「絶対安静」の名分であらゆる行動を封殺されながら全力で構い倒されている最中だ。

 

 大好きな姉さんではあるが、流石に毎日付きっきりでお世話されると男の大事な何かが崩れていく様な気がしてくる。錆兎も同感なのか最近は「男なら……男なら……」と虚ろな目で何やら呟いていた。そろそろ限界らしい。

 

(とはいえ、傷が治れば暫く会えなくなる以上、そう邪険に扱うのも憚れる……)

 

 結論から言ってしまえばこの無茶で、俺たちは実戦経験と引き換えに一ヶ月もの時間を棒に振ってしまった。その分を埋め合わせるためにも、病み上がりの体に鞭打ち限界まで己を鍛えなければならないだろう。

 

 その為、俺たちは今日の昼前にはもう出立するつもりだ。その旨ももう蔦子姉さんに話している。だからこそ最後の最後まで俺たちを甘やかそうとしているのは何とやら。

 

「――――蔦子さん! 洗濯物干してきました~」

「偉いわねぇ、真菰ちゃんは。お姉さん助かっちゃうわ~」

 

 蔦子姉さんが俺たちに朝食の粥を食べさせ終えると同時にひょっこりと障子を開けながら入ってきたのは、真菰だった。

 

 どうして彼女がこの家にいるかと言うと、なんて事は無い。ただ蔦子姉さんが身寄りの無くなった彼女を引き取ることにしただけだ。まだ正式な手続きはしていないようだが、この様子では時間の問題だろう。

 

「……それで、どうするんだ?」

「ん~? 何が?」

「お前はこのまま姉さんと一緒に暮らすつもりなのか、と聞いている」

 

 俺としては特に反対する気はない。親戚はおらず、祖父と祖母も既に亡くなっているらしい彼女に行く宛てなどありはしない。だが蔦子姉さんに出会えたのは真菰にとって最大の幸運だっただろう。姉さんは真菰を引き取る気が満々であるし、それは恐らく悪くない……いや、現状において最高の選択に等しい。

 

 しかし何故か真菰は少し困ったような表情を浮かべる。遠慮しているのだろうか、それとももうすでに別の選択を視野に入れているのだろうか。

 

 どちらにせよ、大いなる不幸を体験した彼女にはこれから健やかな人生を送ってもらいたいものだ。

 

「この一ヶ月で気持ちの整理はついたけど、これからどうするかはまだ考え中かなぁ」

「うーん、真菰ちゃんがよければ私は直ぐにでも妹にしちゃいたいのだけれど……。私、ずっと妹が欲しいと思っていたのよね~」

 

 節操がないと言えばいいのか気が早いと言えばいいのか。まあ無理に話を進めないだけマシか。

 

「……姉さん、そろそろ」

「もうそんな時間なの? ……次に会えるのは何時になりそうかしら」

「わからない。だが時間があれば必ず会いに来る。約束だ」

「ええ、約束よ」

 

 俺と姉さんは互いに小指を出して絡めさせ、軽く上下に振った。男に二言は無い。必ず選別を抜けて、もう一度姉さんに会いに来る。できればその時に甥か姪の顔を拝めるならなお良しだ。

 

 その後、俺と錆兎は寝間着から私服に着替え、昨晩用意しておいた荷物を背負って家前へと出る。背後を見れば蔦子姉さんと、真菰がいる。わざわざ見送ってくれるらしい。実にありがたい。

 

 所で真菰の隣に何やら風呂敷の包みらしきものがあるのだが、何だろうか?

 

「それじゃあ義勇、錆兎君。元気にするのよ。帰ってくるときは、何時でも手紙を送って頂戴。御馳走を用意して待ってるから!」

「ああ。姉さんの鮭大根、楽しみにしている」

「鮭大根限定なのか……。んん! 蔦子さん、今までお世話になりました。この礼はいずれ必ず返します!」

「ふふっ、ええ。期待しているわ」

 

 そして俺たちは手を振りながら、二人を背に歩き出した。

 

 ただ数日間姉さんと共にゆったりと休暇を過ごす筈が、まさか一ヶ月も伸びてしまうとは。人生何があるか予想できる物ではないな、と心の中で零しながらチラリと後ろを見る。

 

 すると真菰が蔦子姉さんにぎゅっと抱き付いて、その後自身の足元に置いていた包みを背負いながらこちらへと走ってきた。……弁当でも届けてくれるのか?

 

「義勇~! 錆兎~! 私も行く~!」

「「…………は?」」

 

 一瞬幻聴を疑った。しかし聞き間違いでは無いらしく、錆兎も同時に驚愕の声を漏らしていた。

 

 俺たちが茫然と立ち尽くしていると、すぐに真菰は俺たちに追いついて目の前で止まった。その顔は相変わらずのニコニコ笑顔。俺はどういう反応をすればいいのだ。

 

「私も! 二人と同じように鱗滝さんの所で修行を付けてもらいたい! 大丈夫、蔦子さんにはちゃんと許可貰ってきたから!」

「いや、何故そうなる。意味が分からない」

「義勇の言う通りだ。真菰、お前は……」

「……確かに蔦子さんと一緒に暮らすのはとっても魅力的だよ。きっと毎日楽しく暮らせると思う。だけど……ちゃんと決めたから。私、鬼殺隊になる! 私のような境遇の子達を増やさないために!」

 

 胸を叩きながら誇らしげにそう言い切る真菰。確かに、彼女の心意義は立派なものだと言えよう。そこに文句はない。

 

 だが、しかし。

 

「………………錆兎」

「……ああ、義勇。わかっている。――――逃げるぞ!」

「え」

 

 突然の事に固まる真菰を尻目に、俺たちは凝り固まった身体に熱を入れて全力疾走を始めた。

 

 あの目を見る限り真菰の決意は固い。だが俺たちは彼女に鬼殺の道を歩ませる気は皆無だった。折角拾った命を態々危険に晒す必要が何故あるだろうか。彼女は姉さんと平和に暮らすのが一番――――

 

「――――待ぁぁぁぁぁぁてぇぇぇぇぇぇ!!!」

「何っ!?」

「速いっ!」

 

 ようやく意識を取り戻した真菰も全力疾走でこちらを追いかけてきた。こちらが一ヶ月間の安静で体が鈍り切っているとはいえ凄まじい足の速さ。凄い逸材を見つけた気がする。

 

「くっ、義勇! もっと足を速く動かせ! 男なら!」

「俺は全力で走っている!」

「はーっはっはっは! 天狗娘と呼ばれた私の足から逃げられると思わないでよね~!」

 

 走る。走る。走る。山に向かってひたすら走る。

 

 まだ見ぬ明日を見るために。大切な水を零さないよう手を大きくするために。俺たちはその命が付き果てるまで、人を脅かす悪鬼を滅するまで剣を握り続ける。

 

 泥の中で美しく咲く蓮華の花の如く。

 

 彼岸にて咲く紅蓮の華の如く。

 

 暗い闇の中で、俺たちは光を掴むまで足掻き続けるのだ。何時までも、何処までも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山奥にて鎮座する巨岩。相対する者を威圧するかの如き巨躯を誇る灰色の塊の前に、二人の少年が姿を見せる。

 

 二人は無言で腰から刀をゆっくりと抜き、音も無く正面に構えた。そして大きく息を吸い、一閃。

 

 鋭い風切り音だけが響き渡り、その後少年たちは何事も無かったかのように刀を鞘にしまい、踵を返した。

 

「帰るか」

「ああ」

 

 その言葉を発した瞬間、彼らの背後にあった岩はさながら豆腐の如く真っ二つに斬り割られていた。これで少年たちは最終選別を受けるための準備を全て終えたことを証明する。

 

 彼らの次の目的地は、藤襲山(ふじかさねやま)。鬼殺の剣士に相応しき者を選別する地獄の入り口。

 

 それでも彼らは恐れずにその入り口を潜らんとする。全ての鬼を滅するため。不当に奪われる命を守るため。

 

 二つ目の分水嶺が、訪れる。

 

 

 

 

 




《独自技解説》

【漆ノ型 雫波紋突き・乱曲(らんきょく)
 雫波紋突きの応用技。直線の突きと曲線の突きを交えて出すことで予測困難な連続刺突攻撃を繰り出す。防御が苦手な錆兎に対抗するために生み出した。
 実は最終選別前に行う最後の模擬戦への切り札として取っておいた技だったが、緊急事態によりこの手札を切らざるを得なかった。

【玖ノ型 水流飛沫(すいりゅうしぶき)
 水流飛沫・乱の派生元。技の原理は同じだが、此方は縦横無尽に動き回るのではなく左右への最小限の回避行動を重視している。直線的な攻撃しかしない敵に効果的。

【陸ノ型・(きょう) ねじれ渦・相反(そうはん)
 土壇場で生み出した即興の協力技。息を合わせて同時にねじれ渦を放つことで、その間に生じた圧倒的破壊空間で敵を完全粉砕する。水中では水の流れによる吸い込み効果も発生するため、非常に強力。ただし息を合わせないと真価を発揮できない。
 モチーフはワ○ウの神砂嵐。使い時が限定的過ぎるため、たぶんもう出番はない。



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第陸話 最終選別

 森の中の少し開けた空間。そこで刃と刃がぶつかり合う。

 

「はぁぁぁぁぁ――――っ!!」

「フッ――――!!」

 

 互いに繰り出すは水の如き流麗な攻撃。流れるように、踊るように、両者の攻撃は激流となり渦を形成する。一年前とは比べ物にならないほどの洗練された鋼の乱舞。それを紡ぎあげているのは他でもない、俺と錆兎の二人だった。

 

 ようやくだ。一年間死に物狂いで努力して、俺はやっと錆兎にまともに食い付くことができている。

 

 ただし長くは持たない。体力や集中力は俺より錆兎の方が遥かに上。故に、短期決着以外は狙えない。

 

「「ヒュゥゥゥゥゥウウウウウウウッ――――!!!」」

 

 双方が同時に深く全集中の呼吸をする。それは大きな技を繰り出すための前動作。

 

【壱ノ型 水面切り】

【弐ノ型・(かい) 水車(みずぐるま)(かさね)

 

 俺の繰り出す水面切りは、錆兎が繰り出す水車・重と正面からぶつかった。水車・重は錆兎が独自に技を改良し編み出したもの。空中で縦軸に何回も回転し、最大まで遠心力を込めた一撃を絶妙なタイミングで叩き込む高等技だ。

 

 その攻撃力は通常の水車とは比較にならない。俺は攻撃を受ける寸前で咄嗟に防御の構えへと移行し、錆兎の強烈な一撃を受け流すことで受け止める衝撃を最小限まで減らした。まともに受けていれば間違いなく刀が折れていただろう。

 

「くっ――――!」

「まだまだ――――!!」

 

 【壱ノ型・改 水面切り・双波(そうは)

 

 左右から挟み込む様な横一線の二連撃。一撃目は防御に成功するが刀を弾かれ、二撃目が容赦なく首筋へと吸い込まれていく。俺はそれを身体を後ろへ仰け反らせることで紙一重で回避。同時にその勢いのまま後ろへと後方転回し距離を取る。

 

「今度は俺の番だ……!」

 

 着地と同時に間髪入れず俺は前方に駆け、【漆ノ型 雫波紋突き・乱曲(らんきょく)】を繰り出した。目にも留まらぬ不規則な連撃が錆兎を襲い、彼は一時的にではあるが技に翻弄されてしまう。

 

 やはり防御が苦手なのは変わらずか。――――だが、決して成長してないわけではない。

 

「防御は不利、ならば――――!」

「ッ!」

 

 素早く後ろに跳躍した錆兎がグッと地を強く踏みしめ、身体を大きく捻る。そして、前へと踏み出しながらその捩じりを解放した。

 

【陸ノ型・改 ねじれ渦・天嵐(てんらん)

 

 回転し渦を描きながら錆兎は高速でこちらに突っ込んできた。初めて見る技、その動きを見て俺は思わず目を見開く。

 

 その動き水じゃ無くて風だろうが――――!!

 

「はぁっ!!」

「がっ――――!?」

 

 強烈な回転による力を乗せた一撃が放たれ、しかし俺はどうにかそれを受けきった。だが大きく隙を晒してしまう。

 

「そこだっ!!」

 

 当然その隙へと放たれる錆兎の一閃。普通なら防ぐ術などなく、俺はこの模擬戦で最後の最後まで一度も白星を取ること無く終わると言う惨めな結果を味わうことになるだろう。

 

 普通なら。

 

 

 ――――【拾壱ノ型 凪】

 

 

 俺は身を捩って強引に一瞬だけ態勢を整え、錆兎の攻撃を超高速で迎撃した。

 

 キィン! と硬質な音が森の中で反響すると同時に錆兎の手から刀が弾かれ、弾かれた刀が遥か後方の樹の幹へと突き刺さる。

 

「なっ――――…………ふっ、こんな切り札を隠していたのか、義勇」

「ああ。とっておきの奥の手だ」

 

 錆兎が動揺から気を静めれば、その首筋には既に俺の刀の切っ先が突き付けられていた。

 

 間違いなく、俺の勝利。

 

 弟子入りから一年。俺はようやく、ずっと遠い存在に思えた兄弟子から白星をもぎ取ることができた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 初の模擬戦勝利から数日後、最終選別まで鱗滝さんが用意した巨岩を斬ることができた俺たちは、無事に最終選別の藤襲山へと出発することになった。

 

 昨晩から綺麗に整えておいた服を身につけ、更に鱗滝さんから普段使っている訓練用の量産日輪刀では無い、刀身の青い日輪刀を腰に差す。最終選別用の携帯食料もちゃんと持った。これで準備は万全だ。

 

「二人とも、これを」

「これは……」

 

 出迎えに来てくれた鱗滝さんは懐から狐を模した面を取り出して、こちらへと差し出した。それを見た錆兎は懐かしそうな顔を浮かべ、俺は少しだけ珍妙な顔を浮かべてしまう。

 

厄除(やくじょ)の面だ。お前たちを災いから守るよう、(まじな)いをかけておいた」

「鱗滝さん……ありがとうございます!」

「ありがたく頂きます」

 

 厄除の面。鱗滝さん手製の面であり、彼の弟子である事を示すもの。そして、()()()()がこれを付けた人間を求めてやまないことを俺は知っている。

 

 その実態を知る身としては複雑な気分ではあるが、だからと言って鱗滝さんからの純粋な善意からしてくれている行為を無下になどできようものか。それに――――かの鬼は俺たちの代で滅すると決めている。むしろこの面があの鬼を引き付けてくれるのならば、是非も無い。

 

 見れば、俺の面は左頬に水玉模様が、錆兎の物には口の右横に傷跡が描かれている。

 

 どうやら渡す者の事を表現するような作りになっている様だ。

 

「二人とも!」

 

 俺たちが厄除の面を眺めていると鱗滝さんの後ろから少女、真菰が飛び出して俺たちの腹に突っ込んできた。相変わらず元気があり余っている。

 

 真菰は結局あの後俺たちに追いつき、それはもう決して離さないと言うかのように狭霧山まで錆兎の背中に引っ付き続けた。

 

 捕まった錆兎の方は何度か抵抗したが、最後には諦めてしまった。決め手になったのはやはりあの「嫁入り前の娘の唇を奪った責任取ってよね」の台詞だろう。あの時程俺が錆兎に恨めし気な目で見られたことは無かった。

 

 そして当然鱗滝さんも弟子入りを渋りまくったが、三日三晩くっつき続けて鱗滝さんも同様に根負けした。真菰の粘着力恐るべし。

 

「ちゃんと帰ってきてよね。鱗滝さんと御馳走を用意して待ってるから!」

「無論だ。約束する」

「俺も義勇も、そこらの鬼には負けないさ。……所で鱗滝さん、その……最終選別から帰ってきたら、欲しいものがあるのですが」

「何だ、儂に用意できるものなら何でも用意しよう」

「ええと……」

 

 珍しく錆兎は照れくさそうな表情を浮かべて頬をポリポリと掻いていた。何だ、まさか春本と言わないだろうな。いや、真菰の前で錆兎がそんな事言うはずもないか。

 

「帰ってきたら、鱗滝さんの苗字を貰ってもいいですか?」

「―――――――――――」

 

 ビシリと音を立てて鱗滝さんが固まった。無理もない、俺と真菰も口を開けて唖然としているのだから。

 

 苗字を貰いたい。即ち養子に――――鱗滝さんの息子になりたいという事である。正直に言わせてもらえば「え、まだ貰って無かったの?」と俺は思っているが、それは言わぬが花だ。

 

「ふ、ふふっ。ああ、いいとも。こんな物なら幾らでもくれてやる。――――必ず、必ず帰ってこい。錆兎、義勇。どれだけ惨めな姿でもいい、生きて帰ってこい……!!」

「「はいっ!」」

 

 鱗滝さんはその大きな腕で俺たち二人をその胸に抱きしめた。俺たちもそれに応えるように鱗滝さんの背中に手を回してぎゅっと抱きしめる。

 

 精一杯その温もりを堪能した後、俺たちは名残惜しく感じながらも二人に手を振りながら狭霧山を後にした。

 

 目的地は、藤襲山。一年中藤の咲き誇るという極めて特殊な場所であり、鬼を閉じ込める監獄の様な場所。

 

 その中で選別(蠱毒)が始まる。鬼を殺すに相応しい物を選び取る試練が。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「これは、圧巻だな」

「そうだな……」

 

 どこ彼処を見ても藤の花が咲き乱れている。此処が一年中藤の花が咲き続けている山、藤襲山。一体どういう仕組みなのかはさっぱりだが、何時訪れてもこの美しい景色を見れると言うのは中々に凄いことだ。

 

 ただ、中腹から上は鬼が跳梁跋扈しているのでその事実を知る者からすれば全く和むことなどできやしないだろうが。

 

 長い長い階段を昇る事十数分、ついに中腹を示す階段を挟む二つの赤い柱が見えてきた。そこを潜れば、平坦に整えられた場所にて何十人もの受験者が佇んでいた。強面の者や童顔の者、女子もいればなんか妙にキューティクルヘアーな奴もいる。十人十色とはよく言ったものである。

 

「――――刻限になりました。では、まずご挨拶を。皆さま、今宵は最終選別に集まっていただき心より感謝を」

(あの人は……)

 

 凛とした声を発しながら姿を見せたのは、銀の如く美しい白髪と漆のような瞳を持つ女性。さながら天から遣わされた天女の様な神秘的な美しさを纏う彼女の顔はうっすらとではあるが覚えがある。確か、産屋敷(うぶやしき)――――鬼殺隊の創立者の一族、その現当主である産屋敷耀哉(かがや)様の妻、産屋敷あまね様だ。

 

 そして、注意深く凝視すればお腹に少しだけ不自然な、しかし見覚えのある膨らみがある。間違いなく身ごもっている様子だ。半年ほど前に直で見たことがある以上見紛うわけがない。

 

(……そう言えば姉さんの出産はどうなったのだろうか)

 

 未だに知らせは来ていないと言う事は、まだ産んではいないと言う事だろう。しかしそろそろ妊娠から一年、もういつ産まれてもおかしくない時期だ。そう思い返していると実に待ち遠しい気分になる。

 

 いや、駄目だ。余計なことは考えるな。今は目の前の選別試験に集中しろ。姉さんについて考えるのは、それからでも決して遅くはない。

 

(しかし、お腹に子がいる状態で此処まで来るとは……。当主である耀哉様が病弱の身であるとはいえ、無理をなさる)

 

 お腹の子に万が一のことがあるかもしれないと思えば、真っ先に屋敷にて静かにするべきと考えるだろうに、そんな甘えた考えを押しのけて産屋敷一族たちは俺たちへ礼儀を示すために必ずここへ現れる。その気遣いに、俺も錆兎も心から敬意を表する。

 

「この藤襲山には鬼殺の剣士様方が生け捕りにした鬼が閉じ込められており、外に出ることはできません。山の麓から中腹にかけて鬼が忌避する藤の花が一年中咲き乱れているからでございます」

 

 鬼が閉じ込められているという言葉を聞いた途端、場の空気が一段と張り詰めたものになった。この場に居るは大半が鬼の脅威を身を以て知っている者ばかり。だからこそ緊迫した空気を出さずにはいられない。鬼という恐怖に打ち勝つために。

 

「そして、ここから先は藤の花は咲いておりません。故に鬼共がその中を跋扈しています。この中で七日間生き抜く、それが最終選別の合格条件となります」

 

 ガチャリとそこかしこから日輪刀の鞘を握る音がする。それから一人、また一人と歩を進め、鬼の巣窟への入口へと歩み始めた。

 

「では、ご武運を」

 

 長い夜が始まる。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「肉ゥゥゥゥゥゥ!! 食わせろォォォォォ!!」

「アレは俺の獲物だァッ! 邪魔を――――」

 

 闇の中から人間と同じ姿形なれど、頭から角を生やしている異貌の者――――鬼が絶叫と涎をまき散らしながら二体ほど跳び出てきた。眼先に在るのはボサボサの長い髪を一つに結った、小豆色の着物を着た仏頂面の少年。

 

 そのいかにも弱そうな見た目に釣られ、飢餓状態の鬼たちは高揚状態のまま襲い掛かる。が、

 

「喧しい」

 

 一言。少年――――俺はうっとおし気に呟きながら全集中の呼吸を行い、すれ違いざまに日輪刀を振るう。空気の弾ける音と地を踏む音が木霊し、その後訪れた着地音は一つのみ。背後で鬼が確かに灰と化したのを一瞥しながら、俺は止まっていた足を再度動かし出す。

 

(錆兎、まさか何も言わずに離れるとは……)

 

 当初の予定では、俺は初日から七日目までずっと錆兎とツーマンセルで動くつもりだった。彼が件の鬼――――手鬼と遭遇するのが何時なのか不明瞭な以上、「離れていたせいで気づいていたら殺されていた」なんて全く笑えない事態を避けるためだ。

 

 にも関わらず、錆兎は俺が木の上で仮眠をしている最中に、「他の受験者を助けてくる」という短い書置きだけを残して何処かへと行ってしまったのだ。

 

 まさかの初日から早々の独断行動に俺はキレた。柄にもなく口調が激しくなっているのはその証拠だろう。

 

「――――たっ、助けてくれぇぇぇぇぇぇ!!!」

「!!」

 

 走駆している最中に、近くから救援を求める声が聞こえてきた。俺は迷わず進路を変更し、声のした方向へと全速力で駆ける。

 

 明細な状況が把握できる程近づいた俺の視界に入ったのは、受験者が集っている際に見かけたキューティクルヘアーの少年。一体の鬼に木の幹に背を付けるまで追い込まれているにも関わらず、別方向から二体目の鬼に襲われようとしているという絶体絶命の状態であった。

 

 俺は素早く息を吸い、一歩で二体目の鬼へと肉薄。気づかれる前に一刀で鬼の頸を撥ね飛ばし、ついでに少年を追い詰めていた鬼の片腕も斬り飛ばす。

 

「ギ、ギャアアアアアア!?」

「たっ、助かった! ありがとう!」

「怪我は無いな。後はお前がやれ」

「え? ちょ、できれば最後まで助け「よくもやってくれたなテメェェェェエエ!!」ひぃぃぃぃぃ!」

 

 俺は少年が鬼と再度交戦状態に入るのを見届けて無言で鞘に刀を収めた。

 

 この場は鬼殺の剣士を選別する試験なのだ。最悪の状況ならば最低限手は差し伸べるが、余計な世話まで焼くつもりは無い。片腕の無い雑魚鬼程度にやられたのならば、少年はその程度の者であったということだ。

 

 まあ、流石に死にそうなったら助けるが。

 

「う、うぉぉぉおおおおおお!!」

「ごぎゃ」

 

 決着は三十秒もかからずについた。少年はどうにか鬼からの攻撃を躱しながら、その際に生じた隙を狙って一撃で頸を断ち切った。やはり選別に来たからにはそこそこの技量は持っているらしい。

 

「見事だ」

「な、何とかなった……。に、二体目の鬼が現れて、もう駄目だって手が震えて……」

「数が不利だと思えばすぐに逃げろ。鬼とは極力一対一で戦え。それと、合格条件はあくまで七日目までの生存。少し卑怯だが逃げ続ける事も選択の内だぞ」

「わ、わかった。何とか頑張ってみるよ。そっちも気を付けて」

「ああ。互いに最後まで生き残ろう」

 

 今日で恐らく試験は三日目。今日の夜を凌げばようやく道程の半分だ。

 

 この山にあとどれくらい鬼が残っているのかはわからないが、本来の通りの調子で錆兎が叩き切っているならば目の前の少年が最後まで生き残るのは決して難しいことでは無いだろう。

 

 俺は少年に別れを告げ、特に当てもなく辺りを無造作に走り回る。山中の鬼の分布はほぼ不規則だ。俺に匂いや音、触覚などで敵を探すなんて芸当が不可能である以上、勘頼りであの手鬼を探し回るしかない。

 

 幸い、鬼の気配は独特だ。大体三十間(約五十m)以内に入れば探知は可能だろう。

 

 そうこう考えている内に早速鬼の気配がつかめた。数は――――四体。随分群れている。負傷した受験生が固まっているのかもしれないと考え、俺は最高速で鬼の気配のする方へと跳んだ。

 

「みんな! 大丈夫、落ち着いて対処するのよ!」

「だっ、大丈夫なもんか! 何で鬼がこんな数で一度に現れるんだよぉ!」

「キヘヘヒャヒャヒャ! 女だ! 手負いの奴もまとまってやがる! 俺たちは運がいいなぁ!」

 

 予想通り負傷者多数。それを二人の受験者がどうにか守ろうとしている様子だ。だが戦える者に対して鬼が二倍の多さだ。これでは不利過ぎる。俺はすぐに彼らを救援することにした。

 

「た、頼む……た、助け……!」

「大丈夫。私は何処にもいかないから、だから――――」

「俺が一番乗りだァァァァァ!!」

「っ、しまっ――――」

 

 あの中で一番手強そうな少女は負傷者に泣き縋られている最中、その隙を狙った鬼が少女へと襲い掛かった。ほんの少しの気の緩みが死へと直結するいい例だ。

 

 だが、その死を俺は許さない。

 

 全集中・水の呼吸 【参ノ型 流流舞い(りゅうりゅうまい)

 

 水流の如く流れるような斬撃が少女を襲おうとした鬼を含めた全ての鬼の頸を一刀にて斬首する。反応する暇すら与えられず、鬼たちは何が起こったのかも理解出来ないまま唖然とした顔で灰となり消えていった。

 

 刀に付いた血を払いながら、救助した受験者たちを一瞥する。やはり皆、驚いた顔で固まっていた。

 

「……助けに来た。大丈夫か」

「え、ええ……あ、ありがとう」

 

 鞘に刃を収めながら、俺は襲われた衝撃で尻もちをついていた少女に手を差し伸べ起き上がらせる。

 

 彼女は珍しい蝶の耳飾りを頭の両側に付けた、長い黒髪を持つ美しい少女だった。更に蝶を模した羽織が彼女の神秘的な可憐さを更に引き立てている。この最終選別を受けている者の中ではいい意味で一番浮いている者だろう。

 

 しかし蝶の髪飾りに、蝶の羽織。それを見に付けているのは確か……

 

「私の名前は胡蝶(こちょう)、胡蝶カナエよ。貴方の名前は?」

「胡蝶……ああ、そうか。お前が」

「え?」

 

 そう、彼女の名は胡蝶カナエ……。将来、日輪刀でなければ殺すことのできない鬼を殺すことのできる毒を開発する少女である胡蝶しのぶの姉だと記憶している。まさか冨岡義勇()の同期だったとは。確かに時期的には何もおかしくはない。

 

「いや、何でもない。俺は冨岡義勇。所で聞きたいんだが、宍色の髪で口の横に傷のある少年を見なかったか。探しているんだ」

「冨岡、義勇……。そっか、貴方があの子の言っていた……」

「! 知っているのか!? 何処に行ったか教えてくれ!」

「へ? え、待っ……!?」

 

 やっと手掛かりらしきものを掴めると思った俺はつい反射的にカナエの肩を掴みながら迫ってしまった。おかげで先程まで切迫した雰囲気だったというのに何とも言葉にし難い珍妙な空気が満ちてしまう。

 

「……すまん、つい気が高ぶってしまった」

「あ、大丈夫。気にしてないわ。ええと……あの子と出会ったのは昨日の事だし、多分もうずっと遠くにいると思うわ。ただ、東の方角に行った覚えがあるから、そっちを探せば見つかるかもしれない」

「ああ、教えてくれて感謝する。……それと、広場の付近は藤の花の香りのせいで鬼が近づきたがらない。小さい物なら藤の花も咲いている。それを利用すれば簡素な安全地帯は作れるかもしれない」

「! うん、わかったわ! 教えてくれてありがとう、冨岡君!」

「では失礼する」

 

 必要なことだけを告げて、俺は一足跳びでその場を去った。向かうは東の方角。既に錆兎が別の方へと移動しているかもしれないが、それでも何のあてもなく虱潰しに探すよりはずっといい。

 

「う、うわぁぁぁああぁああっ!」

(…………仕方ない)

 

 が、やはりと言うが道中助けを求める声や偶然鬼と遭遇することも決して珍しいことでは無かった。とはいえ無視するわけにもいかない。

 

 俺は少々の遅れは許容し、通りすがった片っ端から鬼を殲滅することにした。せめて今もどこかで戦っているだろう錆兎の負担を少しでも減らすために。

 

(錆兎……無事で居てくれ……!)

 

 決して彼を死なせはしない。鱗滝さんや真菰との約束のためにも。

 

 ――――鞘を走る蒼い刃が、月の明かりで煌めいた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 最終選別開始から五日目の夜。錆兎は変わらずそこら中を駆け巡り、鬼を斬り、助けを求める者を安全な場所へと連れて行くという習慣をこなしていた。

 

 こんな無茶な行動を成立させられたのはやはり彼の飛びぬけた実力故か。選別に参加した者の中で確実に最強に位置する彼はあり余る剣の才覚を鱗滝左近次という元水柱の下で何年も磨かれ続けたことにより、たとえ今から実戦に投入されても通用するだろう域に達している。

 

 欠点を述べるなら、水の呼吸にて最も重要な「静水の如き精神」を未だ会得していないことだろうか。

 

(まさか五日目になっても義勇と再会できないとは……あの少女から無事だとは聞いているが)

 

 鬼の気配を探りながら走っている錆兎はふと自分が一人置いてきてしまった弟弟子にして親友の義勇の事を思い浮かべていた。

 

 自分の勝手な行動で一人にさせてしまったが、しかし死んだとは欠片も思っていない。

 

 彼とて自分と同じ元柱の手で磨かれた剣士。教えを受けてまだ一年だというのに義勇は既に錆兎に迫る実力を有するほどに成長していた。最終選別を受ける数日前、模擬戦で初めて彼から明確な一本を取られたのはいい思い出だ。

 

 特に【拾壱ノ型 凪】……義勇が新しく作り上げた型は、錆兎を実に驚愕させた。師である鱗滝も同様に。

 

 錆兎の推測ではあるが、彼は義勇が自身より水の呼吸に対する適正が遥かに高いと確信していた。技の精度だけならば、既に自身を越えられているだろうとも。

 

 故に、恐らく受験者の中で自身に次いで強い。そんな彼が例えこんな雑魚鬼にいくら群がれていようとも負ける光景など錆兎には到底思い浮かべられなかった。

 

「しかし、人の気配も少なくなってきたな……」

 

 負傷し戦えなくなった者のほとんどは胡蝶カナエという少女の作っていた藤の花の結界に待機させている。今この山で刀を握って戦っているのは(ふるい)を抜けた猛者たちだけだろう。である以上、自分がこれ以上救助活動をするのは無為か。

 

 そう思いながら錆兎は足を止め、張り詰めていた空気を刀と共に鞘へと収める。

 

(この五日間で既に三十近く斬り捨てた。鬼の気配ももうほとんど感じられない。……これならあと二日待つだけで良さそうだな)

 

 自身の長い活動も終わりか、と思い耽っていた――――瞬間、魚が腐ったような強烈な刺激臭が錆兎の鼻を突き刺し、猛烈に不快感を刺激した。

 

 まるで不意打ちの様なその臭いに顔を歪めながら振り返れば、誰かが悲鳴を上げながらこちらへと走ってきているのが見える。

 

「だっ、誰かぁぁぁぁ!! 助けてくれっ! 鬼がっ、鬼が!!」

「おい、落ち着け! 何があった、何を見た?」

 

 すっかり息を上げ崩れそうな少年の体を受け止めながら、錆兎は彼の走ってきた方を注視する。見えなくともわかる。何か並みならぬ存在がこちらへと近づいてきているのが。

 

「お、大型の、異形の鬼だ!! 話が違う! こんなの聞いていない! 選別に使われる鬼は人を二、三人食った奴だけって……ひぃぃぃぃぃ!!」

 

 ズン、ズンと地を踏む音と共に暗がりから”それ”は姿を現した。

 

 緑色の肌を持つ、大人よりも遥かに高い巨躯を誇る、全身から手を生やしてそれを纏う異形の鬼。今まで相手にしてきた木っ端共と違う。明らかに鬼殺の剣士見習いには手に余る存在だと錆兎はすぐに理解した。

 

「やっと見つけた、俺の可愛い狐ェ」

 

 不気味な声を出しながら訳のわからないことを呟き出した鬼。錆兎は息を飲み、すぐさま少年を遠くへと逃がす事を決断した。

 

 流石の自分でも、戦えない者を抱えながらあれを相手にするのは厳しいと思ったからだ。

 

「おいお前、急いで遠くに逃げろ」

「だ、だけどそれじゃあ君が……!」

「早く行け! 死にたいのか!」

「っ……待っててくれ! 必ず助けを呼ぶ!」

 

 少年は一度は渋ったが、自身の無力さを理解したのか直ぐに錆兎の言う通りにこの場から離脱した。

 

 そして、この場残ったのは錆兎と異形の鬼――――手鬼だけ。二者の間で並ならない殺気が漂い始める。

 

「狐小僧。今は明治何年だ?」

「お前の質問に答える義理は無い、鬼風情が。それに、今が何年だろうが関係無い。お前は今日、此処で――――!!」

 

 一瞬の動作で跳躍。抜いた刀を両手に構えて錆兎は目にも留まらぬ速さで宙を走り、水の呼吸【壱ノ型 水面切り】を繰り出した。

 

 だが――――

 

「馬鹿が!!」

「!」

 

 彼と相対した手鬼は雑魚鬼とは比較にならない反応速度で錆兎を迎撃しようとした。ボコボコと肉が不自然に盛り上がり、形成された巨大な腕が弾けるように伸び出す。

 

 それを間一髪で感じ取った錆兎は身体を捻って手鬼の攻撃を回避し、伸ばされた腕を足場に即座に地面へと帰還。素早い足運びで十分な距離を取る。

 

「ほう、相変わらず強いな。流石鱗滝の弟子だ」

「……何故お前が鱗滝さんの名前を知っている?」

「知ってるさァ! 俺をこんな忌々しい藤の檻にぶち込んでくれたのは他でもない鱗滝だ! 四十……いや、三十九年前のあの時、忘れるものか! 鱗滝め! 鱗滝め!! 鱗滝めェ!!!」

 

 突然師の名前が出てきて錆兎が訝し気に問えば、手鬼は全身の表面から血管を浮き出させながら発狂するように叫び出した。

 

 鬼の答えに一応の納得がいった錆兎は怒りの炎を胸に灯しながら静かに息を整える。先程の攻撃を見るに相手は腕を生やして伸ばす戦い方を行っている。そして、伸ばされた腕が戻る速度は伸ばされた際と比較してかなり遅い。攻撃後すぐには戻せないと考えていい。

 

 ならば相手に手を出させ尽くし、隙を作って頸を一撃で斬る。錆兎はそう結論付けて両足に力を込め出した。

 

「絶対に許さんぞ鱗滝めェッ!! 俺をこんな所に閉じ込めてくれた報いだ、精々戻ってこない弟子共に恨み殺されるがいい!!」

「……何? どういう意味だ、それは!」

 

 手鬼は錆兎からの問いを無視して何やら指を折り何かを数えている。その口にしている数を聞く度に錆兎は背筋に怖気が走り、憎悪にも似た感情が腹の底から溢れ出す理由は、すぐにわかった。

 

「十……十一……お前で十二人目だ」

「……何がだ」

「俺が食った鱗滝の弟子の数さ! アイツの弟子は皆俺が食ってやった。その狐の面が目印だ。……厄除の面とか言ったか? それを付けてるせいでみんな死んだ。みんな俺の腹の中だ」

 

 錆兎の頭の中で、音が消えた。彼の耳には今、クスクスと鬼の嘲笑だけが聞こえている。

 

「馬鹿な奴だ、鱗滝め。滑稽な善意が大切に育てた弟子共を食い殺す目印になるなんてなァ。全員あいつが殺したようなもんだ。ヒヒヒヒッ」

 

 音の消えた世界でブチリと、何かが切れた音が聞こえ――――瞬間、錆兎の中で憎悪と憤怒が混ざり合って爆ぜた。

 

 

「お前がァァァァァァァァアアアアアアアアアッ!!!!」

 

 

 今までの生の中で受けたどんな感情でも比較できないほどの凝縮された激怒。父にも等しき恩人を侮辱され、尊敬していた兄弟子たちを嬲り殺しにされた事実を自慢げに話す鬼を見て、錆兎の心は沸騰する暴流と成った。

 

 爪が割れるほどの力で刀の柄を握り、足裏の地面が衝撃で爆ぜる程の力で錆兎は駆け出す。彼の中にはもはや一片の慈悲も無い。一秒でも早く目の前にいる悪鬼を葬り去りたい一心で無謀にも突貫する。

 

 狙い通りに挑発に乗った錆兎の姿を見て嗤いを零しながら、手鬼は全身から無数の手を生やして錆兎へと襲い掛かった。だがその全てを錆兎は迎撃、回避し一瞬でその懐まで入り込む。

 

 腕は粗方伸ばされた。追撃は無い。ならば後は頸を断つだけ。勝利を確信した錆兎は跳躍して刀を振りかぶった。

 

「地獄に――――落ちろぉぉぉぉぉぉぉおおおお!!!」

「なッ――――クソォッ!!」

 

 【壱ノ型 水面切り】。それが放たれると同時に、猛攻を突破された手鬼は動揺しながらも咄嗟に限界まで首周りを手で補強した。苦し紛れの悪あがきだ、今の怒りに狂った錆兎ならば難なく鬼の頸を両断できるだろう。

 

 刀が折れなければ、の話だが。

 

「な、ぁ――――!?」

 

 錆兎の刀が鬼の腕に刃が当たった瞬間、”パキン”と――――そんな悲鳴を上げながら、刀は半ばから折れた。

 

 選別開始から現在まで錆兎は鬼を三十体近く斬り伏せている。当然刀にはその分の負担がかかるだろう。だが、だとしてもこの程度で折れる程鱗滝の渡した日輪刀は鈍では無かった。問題は錆兎の剣の気質だ。

 

 彼は水の呼吸にしては剣筋がかなり強引だ。どちらかと言うと彼は炎の呼吸に適正があるだろう。しかし剣の師が元水柱である以上、彼は水の呼吸を学ぶ土台しか無かった故に仕方のないことではあるが。

 

 だとしても彼の実力は目を張るものがある。非適正の呼吸でこれ程の強さを発揮している、それは誰が見ても驚嘆に値することだ。

 

 ……だが、彼の刀はそれに応えることはできなかった。足りない物を膂力と技量で無理矢理補いながら繰り出される技の数々。トドメとなったのは明らかに他の鬼に比べて跳び抜けた強さを持った鬼の体を斬りつけたこと。

 

 選別用に用意されただけの、雑魚鬼を斬る事くらいしか想定していない刀が、耐えられるはずもなかったのだ。

 

 余りにも予想外の出来事に錆兎は怒りが冷め、茫然となる。対して手鬼はニィッと嘲笑を浮かべ、先程の錆兎と同様に勝利を確信しながら首に巻き付いていた腕を彼の頭へと撃ち出した。

 

「死ねェ! 鱗滝の弟子ィィィィ――――!!」

「あ」

 

 錆兎の脳裏で大量に流れる走馬灯。

 

 物心ついた時から自身の世話をしてくれた鱗滝と兄弟子たち。厳しくも楽しかった修行の日々。選別に行ったきり戻ってこない弟子たちを憂い、天狗の面の下で涙を流す鱗滝の姿。初めて出来た弟弟子との新たな日常。初めての鬼狩り。柔らかな真菰の口づけ。

 

 それらの思い出が一瞬で過ぎ去り、目が覚めれば目の前には鬼の魔の手。

 

(義勇――――真菰――――鱗滝さん――――すまない……!!)

 

 一時の激情が死に繋がった。錆兎は三人への申し訳なさに胸がはち切れんばかりの後悔を抱き、そして――――

 

 

「――――錆兎ぉぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!」

 

 

 鬼の手が錆兎の頭に届く寸前、彼の眼前で蒼い閃光が走駆した。

 

 気が付けば彼の体は大きく弾かれ、地面へと受け身を取れないまま無様に転がっていた。喉に詰まった空気を吐き出しながら顔を上げれば――――

 

 

 ――――そこには男の背中があった。

 

 

 ――――錆兎が誰よりも憧れ、目指した鱗滝()の背を幻視させる程の気迫を纏う義勇の背中が。

 

 

「義、勇……」

「……ああ、間に合った……」

 

 義勇が振り返る。すると錆兎は今まで見たことも無いものを、彼の顔に見た。

 

 

 左頬から這い上がるように浮かび上がった、青い斑模様の痣を。

 

 

 

 

 

 




《独自技解説》

【弐ノ型・(かい) 水車(みずぐるま)(かさね)
 水車の応用技。通常の水車が体に対して横軸で回転するのに対して、こちらは縦軸に回転することで回転数を底上げし、増幅させた遠心力で上から叩きつけるように斬り込む技。
 水車の動作を隙を作らないように小さく、避けられないように速く、かつ更に威力を高めたものに変えるため錆兎が独自に改良した。

【壱ノ型・改 水面切り・双波(そうは)
 水面切りの応用技。改と銘打っているが単純に左右から高速かつ連続で水面切りを放つだけなためかなり地味。しかしこの技は得物を持つ相手を想定しており、一撃目で相手の防御を崩して、二撃目で頸を断つように作られている。地味ながら堅実かつ有用な技。
 錆兎は義勇の堅牢な防御を崩すためこの技を編み出した。

【陸ノ型・改 ねじれ渦・天嵐(てんらん)
 ねじれ渦の応用技。体に捻りの力を蓄積させ、突撃とともに一気に解放することで大渦を描きながら相手へと突貫。回転で周囲を切り裂きながら正面にいる相手に遠心力を乗せた強力な斬撃を叩き込む。
 実は動きはまんま風の呼吸【壱ノ型 塵旋風(じんせんぷう)()ぎ】のそれだが、偶然被っただけ。多対一や波状攻撃を仕掛けてくる鬼を想定して錆兎が独自に編み出した。


 真菰ちゃんの話が少ないまま最終戦別入ってんじゃねーよって? 投稿主はせっかちなんだ、すまない。

 たぶん後から番外編でも挟むと思うから許して。


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第漆話 鯉は滝を昇りて龍と為る

 最終選別五日目。一向に錆兎とは出会える気配がなく、俺は本格的に焦り始めてきた。

 

 定期的にカナエの所に戻って確認しているが、運が悪いのか毎度毎度すれ違いになっている。不幸中の幸いなのはその際にカナエから錆兎の無事を確認できることか。

 

 だがそろそろ合流しなければまずい。もういつ錆兎が手鬼と交戦してもおかしくない状態だ。一刻も早く見つけなければ。

 

「――――誰か! 誰かいないのか!? 誰でもいい、こっちに来てくれぇ!」

「!」

 

 周囲を散策しながら走り続けていると助けを求める声が耳に飛び込んできた。俺は即座に進路を変えて声のする方へと駆ける。

 

「おい、大丈夫か。何があった」

「あ、ああ……よかった! 頼む、あいつを助けてくれ! 俺を逃がそうとして今異形の鬼と戦っていて――――」

「っ、何処だ!? 何処にいる!」

 

 地面へとへたり込んでいた少年を助け起こそうとすれば、彼の口から重要な手がかりらしき言葉が出てきたことで俺の感情は一気に高ぶった。そして同時に現状も理解する。

 

 まずい、一秒でも早く駆けつけねばまずい――――!!

 

「あっちだ! 北の方角だ! 距離はそう遠くないはずだ!」

「感謝する!」

 

 俺は少年の指さす方向へと全力で跳んで疾走した。防ぎたかった事態が目前まで来ている以上余裕など少しもなかった。

 

 全身から搾れるだけの力を全て出しながら足を動かし、高速で森の中を駆け巡る。

 

 景色が高速で後方へと吸い込まれ続け、そうして凡そ三十秒も経たない頃に――――その景色は、見えた。

 

 

 今にも異形の鬼に頭を握り潰されそうな、錆兎の姿が。

 

 

「――――錆兎ぉぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!!」

 

 

 駄目だ。遠すぎる、間に合わない。駄目だ駄目だ駄目だ。ふざけるのも大概にしろ冨岡義勇。何のためにこの一年間死に物狂いで頑張ってきたんだ。その結果がこれか。(お前)はその程度の人間だったのか――――!

 

 一瞬でいい。

 

 手足が千切れても構わない。

 

 走れ。

 

 間に合え。

 

 

(届けぇぇぇぇぇぇえええええええええええええ――――ッ!!!!)

 

 

 ドクン、と。心臓の鼓動が跳ね上がり、全身から途方もない熱が出始める。

 

 これはあの時の――――蔦子姉さんを助けた時と同じ感覚。何かを代償にしてやっと踏み越えられる一線を飛び越えたことを知覚した俺は、一瞬だけ前足を踏み込み地面を、蹴った。

 

 刹那の瞬きの間に景色は一変し、俺の手は錆兎の羽織の襟首を掴んでいた。そして別の手で抜刀しながら錆兎の体を地面へと投げ、同時に迫りくる手鬼の腕を真っ二つに切断。撥ね飛ばされた腕は俺の頭皮を大きく掠めながら遥か後方にドチャリと音を立てながら転がり落ちる。

 

 俺も同様に地へと滑るように着地し、はち切れんばかりの怒りと共に鬼と相対した。

 

「……あ? その面は、そうかお前もか! 今日の俺は運がいい! 何せ鱗滝の弟子が二人も自分から姿を見せてくれたんだからなァ! さて、お前はどう殺してくれようか」

「義、勇……」

「……ああ、間に合った……」

 

 楽し気に嗤う異形の鬼を無視しながら、俺は後ろで倒れている錆兎を見る。

 

 大丈夫だ、大した怪我は無い。そしてやはりその手に握る日輪刀は折れている。木っ端共を二十少し切ったくらいでは結果が変わらないとは、やはりあの手鬼の硬さがそれだけ異常だったという事か。

 

 まあ、どうだっていい。

 

 元凶(こいつ)とようやく出会えたのだ。後は――――俺の手で滅殺するだけだ。

 

「二人で仲良く死んじまいなァァァァアアアア!!!」

「お前が死ね」

 

 手鬼が爆ぜるように無数の手を伸ばして、逃げ場を封じるように攻撃を仕掛けてきた。俺も諸共錆兎を潰し殺す腹積もりだろう。

 

 だが俺はその全てを見切り、剣を振るって全ての腕を輪切りにした。

 

 何故だろうか。この鬼の攻撃が酷く緩やかに見えてくる。走馬灯を見ているわけでもないのに、欠伸が出るくらい遅い。アイツが遅いのか、それとも。

 

「ア、アァァァァァアアアアアアッ!! よくもォ! よくも俺の腕をォォォォォ!! ゆるさァァァァァん! お前だけは絶対に苦しませてから――――」

「喧しいぞ汚物が」

 

 台詞を言い切る前に俺は一歩で距離を詰め、頸を固めていた鬼の腕を全て切り飛ばした。

 

 そのまま鮮血を出させる暇もなく即座にトドメの一撃を振ろうとして、しかし間一髪で地面からの不意打ちに気付き、跳躍することで俺は難を逃れる。

 

(仕留めそこなった! だが空中では攻撃は躱せない! 勝った――――!!)

 

 だがそれは一瞬の事。手鬼は新しく生やした腕を空へと伸ばし空中にいる俺を潰れた肉塊へと変えようと試みた。俺はゆっくりと自分へと伸びてくる腕の群れを見ながら、淡々と刀を構える。

 

「【凪】」

 

 そう呟いた直後、俺の間合いに入ったすべての攻撃が掻き消えるように切断された。何てことは無い、剣の間合いに入った腕を片っ端から超高速斬撃で斬り捨てただけの事。

 

 攻撃を凌ぎ、手を切断された腕という鬼の頸への直通足場へと俺は着地。間髪入れずに腕を踏み、走り出した。

 

「な、ぁ、ひィッ――――!?」

 

 ほぼ一瞬で距離を詰めた俺は迷いなく鬼の頸へと刀を振り抜こうとする。これでやっとこいつの息の根を――――

 

「――――正気に戻れ義勇! 息が止まっている! 死ぬ気かっ!!」

「ッ―――――――――!?!?」

 

 刃が頸に届く寸前、錆兎の声が聞こえた。瞬間、身体の中から内臓が掻き回されているような不快感と肺に強烈な圧迫感が生まれ、否、蘇った。

 

 命を削ることで限界を超えた力を引き出していた負債だ。四肢の筋肉が幾つも千切れ、骨の関節は悲鳴を上げている。肺や心臓も極限状態だったが故に空気の供給が遮断されていたため、酸素を求めて狂ったように暴れだしている。

 

 俺は最後の力を振り絞って鬼の体を蹴り、可能な限り遠くの地面に倒れ伏した。

 

「が、はっ! ごほっ、ご、ぶっ……!!」

「義勇! しっかり息をしろ! クソッ、一体お前の身に何が……!?」

 

 胃の中身が逆流し、胃酸と血液の混じった嘔吐物が口から這い出てきた。全身からは力が全て抜け、指一本すら動かせない。不味い、鬼が近くにいるという状況でそれは駄目だ。

 

 そんな俺の体が、不意にふわりと持ち上げられた。錆兎が俺の体を担いだのだ。

 

「お前のおかげで頭が冷えた。一旦引くぞ!」

「待ァァァてェェェェェエエ!! 貴様アアアア!! 逃げるなアアアアアアア!! 鱗滝の弟子どもがァ! お前らに刻まれた傷の分だけ苦しませてやるゥゥゥゥ!! 絶対に逃がすかァァァァァアアッ!!!」

「言ってろ鈍間が――――!」

 

 俺が限界まで生やされた腕を全て叩き切っていたことが幸運だった。

 

 鬼は腕を再生しており、俺たちに攻撃を加えることができない。更にその巨体が災いして追いかけることすらできず、手鬼は惨めにも俺たちという餌をみすみす見逃す他なかった。

 

 思わず不敵な笑みがこぼれ、俺は精一杯の挑発的な顔を鬼へと見せつけながらその意識を闇へと落とした。

 

 

 

 

 

 

 

「クソォッ! クソォォォッ!! 狐小僧共めェェェ……俺を此処まで虚仮にしやがってッ! 絶対に許さんンン! 許さァァァん!!」

 

 再生をようやく終えた手鬼が苛立ちを表現するかのように地団駄を踏みながら、目的の二人が消えた方向へと少しずつ歩みを進める。

 

 既に三十人前後食らって育ててきたこの身であるが、今この瞬間程不便と思った時は無かった。

 

 何せ、肥大化した身体が重すぎて碌に走れやしない。今まで逃げる奴は腕を伸ばすことで捕らえて来れたためこの問題を軽視していたが、問題を後回しにしてきたツケが今ようやく回ってきたらしい。

 

「身体を移動に適した形に変形させるにも養分が足りない……! クソッ、今回は一人も人間を食えなかった。血肉が足りない……! どこかに餌は居ないのか……!」

 

 鬼は人を食えば食うほど強くなり、肉体を変化させることができる。逆に言えば何も食えなければ何も変えられないという事でもあった。そして今回の選別ではこの鬼は未だ一人も人間を食うことができていない。おかげで飢餓による苦しみも手鬼の頭をガンガンと刺激していた。

 

 手鬼の苛立ちが最高潮に達した瞬間――――近くからガサリと草を揺らす音がする。

 

「アァ? 何だお前、同族か。クソッ、人間どもめ。一体どこに――――が、ぎゃッ!?」

「…………そうだ。身近に居たじゃあないか、上質な餌が」

 

 茂みから出てきた人型の鬼を見た瞬間、手鬼の脳内ではとある考えが浮かび上がっていた。そして反射的に手を伸ばして雑魚鬼の頭を握り潰さんばかりの力で捕まえ、自身の口元に引き寄せる。

 

 鬼は鬼舞辻の血によって生まれ、またその血を追加で摂取することで更に力を増幅させることができる(過剰に摂取すれば自壊するリスクがあるが)。そして、鬼の中には必ず多少なりとも鬼舞辻の血が存在している。

 

 その鬼を一体や二体ではなく、何体も取り込めばどうなるのか――――結果を想像するのはそう難しいことでは無かった。

 

「や、やめろォォォォ!! お前ッ、同族を食うのかァァァァァ!!?」

「安心しろ。お前の血肉はちゃんと俺が役立ててやる……」

「い、嫌、ぎゃごゅっ」

 

 グチャリ、グチャリと頭から食われる雑魚鬼。

 

 味は人間と比べて非常に貧しいものであったが、それでも一年ぶりの食事。久しぶりに取り込む新鮮な血肉に体が歓喜し、その中に鬼舞辻の血があるとわかるや否やドクンと手鬼の体に血管が浮かび上がる。

 

「ヒ、ヒヒャヒャ、ヒヒャハハハハハハハハハハハハハ!! いいぞォ! この調子で力を付けてあの狐小僧どもを、いや――――俺をこんな所に閉じ込めた鱗滝を殺してやる……! クク、クヒヒャハハハハハハ!!」

 

 醜い鬼の狂った笑い声が夜空に木霊する。

 

 四十年近く生き続けていた藤襲山最強の鬼が今、重い腰を上げて暴食を始める。それを止められる者は、まだ現れなかった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

「う……勇……! 義勇……! おい、そのまましっかり気を持て!」

「っ、起きたの!? 冨岡君、聞こえる? 気絶したら駄目よ!」

「……錆、兎? 胡蝶……?」

 

 多数の呼び掛けにより微睡の世界が突如霧散し、虚ろ気な視界には見知った顔が映り出してきた。

 

 宍色の髪に口横の傷跡。間違いなく俺の兄弟子であり親友である錆兎の顔だ。その横には、この選別中で何度も顔を合わせた少女、カナエの顔もある。

 

 それを見て、俺は深い安堵に包まれる。

 

 ああ、よかった。錆兎は生きている。助けられた。救えた……!!

 

「錆――――いっ!?」

「無理に体を動かすな。鱗滝さんから貰った軟膏を全て使ってもこの様か……」

「全身が筋肉痛を起こしているのよ。無理もないわ。それに、頭も強く打ったみたいだし……安静にしていないと」

 

 すぐに立ち上がって状況を把握しようと試みるも、途端に全身を縛り上げる激痛。身体を動かそうとすれば反射的に筋肉が悲鳴を上げて全身を硬直させる。鱗滝さんの修行でも味わったことすらない強烈な痛みに、抵抗空しく口から情けない呻き声が湧き上がってきた。

 

 それでもどうにか周りだけを視線で確認すれば、円を描く様に藤の花が置かれた場所の内側で多数の負傷者が比較的軽傷な者に看病を受けている姿が見えた。

 

 どうやら此処は、カナエの作った藤の花の安全地帯らしい。

 

「ここは……そうか、無事に離脱できたのか」

「ほら、鎮痛剤よ。傷を治すわけでは無いけど、痛みは大分和らぐはずよ」

「あ、ああ。ありがとう、胡蝶……」

 

 どうやら辛うじて命は拾えたらしい。俺は安堵しつつ、カナエから鎮痛剤入りの水を飲ませてもらいどうにか動けるまでには身体を復帰させた。

 

 痛みによって全身から吹き出す汗を袖で拭きつつ、俺は空を見る。まだ夜だ。気絶してからそう時間は経っていないのか……?

 

「錆兎、今は何日目だ」

「今は六日目の夜だ。お前、ほぼ一日中昏睡状態だったんだぞ」

 

 現実はそう甘くは無かった。気絶して、適切な処置を受けて一日経ってもこのザマか。

 

 一体どんな動きをすればたった数分の間に此処まで身体を酷使させられるのか。

 

「とにかくよかったわ、目が覚めて。体からは熱が出てるし、心臓の音も異常だったから本当に気が気じゃなかったけど、何とかなりそうね……」

「その上気絶している間俺の服を全く離さないと来た。子供かお前は」

「……すまない」

 

 言われて俺は自分が錆兎の羽織を無意識に握りしめていたことに気付く。途端に恥ずかしくなってパッと手を放すが、錆兎とカナエは変わらず優しげな瞳で俺を見るだけだ。やめてくれ、そんな暖かい目で俺を見るな。

 

 とにもかくにも、俺はこの選別における最大の目的を達成することができた。選別終了は七日目の朝。つまりあと数時間で俺と錆兎は無事鬼殺隊への門を潜り抜けることができるのだ。

 

 だがやはり、あの手鬼を仕留められなかったことが重大な心残りだ。あれを今仕留めなければ、次の最終選別でどれだけの被害が齎されるかわからない。

 

 最善策は鬼殺隊にあの存在を報告して上級隊員に討伐してもらうことなのだが……。

 

「……………」

「……錆兎?」

 

 何やら思いつめたような顔で、錆兎は無言で俺の刀の鞘を掴んで立ち上がった。それを見た俺は錆兎が何をしようとしているのかを直ぐに察してしまう。

 

「義勇。済まないが、少しの間借りるぞ」

「っ、待て錆兎! まさか行く気か!?」

「ああ。……アイツは俺の、俺たちの兄弟子の仇なんだ。何より鱗滝さんを、俺の一番大切な人を侮辱した……!! その頸を俺の手で断たねば気が済まない!」

「……だったら、俺も行く」

「冨岡君……?」

 

 俺は錆兎の目を見て、何よりも固い決意を抱いていることを理解して説得を諦めた。

 

 慕っていた兄弟子を殺され、鱗滝さんの顔に唾を吐かれた。その行為は彼に取って逆鱗を踏みにじられたに等しいことなのだから。

 

 故に俺は、立つ。身体が訴える痛みなど無視して立ち上がる。もう二度も、俺の居ないところで先程の様な状況を作らせるものか。

 

「義勇、身体は大丈夫なのか? 熱はまだ下がって無いんだぞ?」

「いいや、むしろ快調だ。この一年間の中で一番身体の調子が良いと思う」

「そんな馬鹿な……」

 

 そう、二人は俺が高熱を出していると言っているが、それに反して俺の体は今最高の状態を保っていた。

 

 原因に心当たりが無いわけでは無い。だがそれについて考えるのは後だ。どの道とっくの昔に踏み越えた一線だ、今の状況では俺の寿命だのなんだのという問題なぞどうだっていい。 

 

「そんな、駄目よ! 無理に動いたら怪我が悪化しちゃうわ!」

 

 カナエはそんな俺が無理して空元気を出しているように見えたのか、俺の事を必死に止めようとしてくる。気持ちはわからないわけでもない。折角助けた怪我人が勝手に飛び出して死なれては、彼女にとってはいい迷惑だろう。

 

 だが、生憎死ぬつもりなど毛頭ない。

 

 俺は帰る。錆兎と一緒に生き残る。家で待っている二人と、そう約束したのだから。

 

「大丈夫だ、胡蝶。俺は死なない。約束する。――――俺は、約束は守る男だ」

「!」

 

 俺はカナエと正面から向き合い、真摯に言葉と共に気持ちを伝えた。

 

 それに、俺は今少々怒っている。たった一年間とはいえ寝食を共にした大切な恩人を侮辱されて黙っているなんて、それはきっと俺らしくない。

 

 俺たちで、決着を付けねばならない。

 

 それを聞いてカナエは「はぁ」と呆れ混じりのため息を付き、何も言わずにコクリと頷いた。

 

「わかったわ、冨岡君。……絶対に死なないで」

「ああ。ありがとう」

 

 無事に許可を貰えた俺は、近くに落ちていた錆兎の刀を拾う。

 

 抜けば、当然半ばから刀身が折れた刀が姿を見せる。その後周囲を見渡し、怪我人や介抱をする人の様子を見て――――俺は何も言わず、折れた刀を鞘に納めた。

 

 日輪刀は鬼への唯一の対抗手段にして心の拠り所。それを個人的な事情で親しくも無い人間から借り受けようなど、虫がよ過ぎる話だ。

 

 それに……あんな鬼相手なら、この刀で十分だ。 

 

 準備が済んだ俺は、身体の痛みから身体を慣らしつつ錆兎と共に藤の花の結界から抜けて森の中へと駆けた。相変わらず真っ暗な森であるが、錆兎が隣にいる。だったら恐れる必要など何処にもない。

 

「義勇」

「なんだ、錆兎?」

 

 俺が痛みによる身体の違和感に対応しながら走駆している最中、錆兎は酷く柔らかい声音で俺に話しかけてきた。本当に心の底から感心したような、そんな声。

 

「本当に、お前は成長した。肉体的にも精神的にも、一年前とは比べ物にならないほどにだ」

「……そうか。錆兎にそう言われると、自信が持てる」

「自己評価が低い所だけは何時までも治らないな、全く。……勝つぞ、()()

「……無論だ!」

 

 互いに満面の笑みを浮かべながら夜の森を駆け抜ける。恐怖も迷いも無い、澄み渡った綺麗な水面の様な心。それを胸に俺たちは件の鬼を隅々まで気を巡らしながら探し続ける。

 

 そして十分ほど走り続けて、それは俺たちの鼻に入ってきた。

 

 とても濃く、腐ったような鬼の血の香りが。

 

「っ、錆兎!」

「ああ、こっちだ!」

 

 俺は懐から痛み止めの丸薬を口にしながら血の香りのする方へと走る。数秒程で木々の間を抜けると――――

 

 

 怪物が居た。

 

 

「「…………は?」」

 

 

 もはや異形と言うのも烏滸がましい。巨大な肉塊を不器用な子供が捏ねて作ったような不出来な緑色の百足(むかで)。グチャグチャと咀嚼音がするたびにボコボコと際限なく肉が盛り上がり続けて体が生成される様は、さながら地獄か。

 

「あァ……? ……フヒッ、イヒヒヒヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!! 狐が戻ってきた! 馬鹿な餓鬼共だ、態々殺されに来やがったか! 今更止めようとしてももう遅いというのになァ!」

「お前……一体何をした!?」

 

 食事を終えた手鬼は俺たちの気配に気づいたのか、血だらけの口元を拭いながら振り返った。そして前に出会ったときよりも更に醜悪な顔で哄笑し、数百の腕を見せびらかすように広げた。

 

「――――共食いだよ。あの方の血を沢山取り込んだ。もう負けない。お前たちも他の餓鬼どももみんな喰い殺せる! 鬼殺の剣士共だってもう怖くない! いずれは鱗滝も食ってやる! 四肢をもぎ取り、自分が殺した弟子共に謝罪させながら地獄に落としてやるよォ!! ギャヒャヒャヒャヒャヒャハハハハハハハハハッ!!!!」

 

 聞くに堪えない笑い声だ。あの鬼の一言一言が俺たちの尾を踏みつけ、静水の如き精神をグツグツと沸騰させていく。だが静かな怒りだ。獰猛な殺意と静水の理性を両立させるという極めて困難な精神状態を維持しながら、俺たちは一歩、また一歩と近づく。

 

 出会った瞬間の驚愕はもう無い。今は――――あの鬼を殺すという、純粋な意思のみだ。

 

 

「さぁ、今度こそ食い殺してやるぞォ! 鱗滝の弟子ィィィィィイイイ!!!」

「「死ぬのは――――お前だぁぁぁぁぁぁあああああああッ!!!!」」

 

 

 獣の如き咆哮がぶつかり合うとともに、俺たちへと濁流の如き腕の大波が押し寄せる。地面を抉りながら進むそれを見て、俺は錆兎の前に出た。

 

 そして、抜刀。――――刀身が半ばから折れている日輪刀が月の輝きの下に現れる。

 

 錆兎はそれを見て息を呑むが、俺は何も言わずに刀を正面に構える。

 

 

 全集中・水の呼吸 【拾壱ノ型 凪】

 

 

 刀の間合いに入った腕の波に抉り取られたような穴が開いた。刀身は半分になっているが、刃が残っているなら大した問題では無い。むしろ半分も残っているのならば、技を使うには十分すぎる。

 

 攻撃に穴が開いたことで経路を確保した直後、錆兎が俺の横から飛び出してその穴の中へと突撃。何事もなく素通りし、その奥から繰り出された無数の手による追撃を次々に斬り払う。

 

 そして最後の一本を跳躍で回避し、錆兎はそのまま腕の上に乗って鬼の頸へと駆けようとした。――――だが鬼がニィィと笑みを浮かべるのを見て背に悪寒が走る。

 

 

「【()()()】――――」

 

 

 鬼の口から出た言葉に悪い予感が当たったことを確信した俺は即座に加速。地面へと突き刺さった錆兎の足場になっている腕めがけて刀を振りかぶる。

 

 その途中、視界の端に何か気色の悪い丸い肉の様な物が地面に食いこんでいるのが見えた。やはり、こいつは―――― 

 

 

「――――【生腕種肉(せいわんしゅにく)】!!」

 

 

 丸い肉が弾け、その中から数本の巨大な腕が植物のように成長しながら俺たちへと襲い掛かってきた。錆兎には足場になった腕が地面の中に植え込んだ肉から、俺にはいつの間にか周りにあった種から生えた腕が押しつぶさんと迫る。

 

 それを見た俺たちは一瞬真顔になり――――フッと、笑いを零した。

 

 ()()()()()、と。

 

 

 【参ノ型 流流舞い】

 【捌ノ型 滝壺】

 

 

 俺は流れるように全方位から襲い掛かる腕を全て斬り落とし、錆兎は跳躍で回避しながらそのまま上空からの怒涛の連続攻撃で全ての腕を叩き潰した。

 

「なっ、ばっ、馬鹿なァァァァァアアッ!?!?」

 

 血鬼術。異能の鬼と呼ばれる、かなりの数の人を食した鬼が発現すると言われている特殊能力の総称。生前の未練や後悔を反映したものが多いと言われるソレは間違いなく鬼にとっての最大の切り札であり武器。

 

 それを難なく凌がれたという事実が耐えられないのか、手鬼は悲鳴にも似た叫び声を上げる。

 

 だがこちらにとっては拍子抜けだ。血鬼術と言われて警戒度を一気に跳ね上げたというのに、ただ腕の生える種を植え付けるだけ? 肩透かしにも程がある。

 

 今更そんな小細工で、俺たちが怖気づくとでも思ったのならば実に心外だ――――!

 

「クソッ! クソッ! クソがァァァァァァアア!! これでもまだ足りないのか! ならァァァァ――――」

「! 錆兎、後退しろ!」

「わかっている!」

 

 手鬼の全身が蠢くのを見てただならない物を感じ取った俺たちは即座に跳躍して後退。何が来ても対応できるように隣り合わせになりながら刀を構える。

 

 

「【血鬼術 無間手腕(むけんしゅわん)猛爆(もうばく)】――――!!」

 

 

 手鬼は百近い掌全てから肉種を生成し、それを周囲の地面へと同時に叩き付けた。そして全ての種が一斉に割れ、それに合わせて手鬼は全ての手を四方八方へと放射する。

 

 その様は正しく爆発。超高速で襲い掛かる広範囲無差別攻撃が俺と錆兎を襲い、しかし俺たちは冷静にその攻撃に対処した。見た目は派手だが狙いは稚拙ここに極まれりだ。百を優に超える腕の数だが、俺たちに当たりそうな攻撃はその十分の一にも満たなかった。

 

 そもそも少数相手にこんな精度劣悪な大技を放つなんて、まるで目暗ましでもしたいのか――――……いや、待て。まさか――――!?

 

「お前たちの相手は後だ……! 肉と血を……新鮮な肉と血の臭いィィィィィィイイイイイイッ!!!」

「なっ、待て貴様ッ! 逃げるなぁぁぁあああ!!」

 

 俺の悪い想像通りに手鬼はその巨体を蠢かせ、外見では想像ができない程の俊敏さでとある方向へと猛進し出した。

 

その方向は、カナエら負傷者の居る安全地帯のある方角。

 

「義勇! 急げ!!」

「わかっている! だが……!!」

 

 すぐさま追いかけようとするが、さながら群生する竹の如く生え散らかっている巨大な肉が自立でもしているのか執拗に俺たちの進行を邪魔してくる。

 

一振りすれば片手間に斬り払えるが、どうやら手鬼は進む間にも種をどんどん植え付けては発芽させているらしい。

 

 悠長に斬りながら進んでいてはとても間に合わない……!

 

 ……いや、一つだけある。身体に大分負担を強いることになるが、ギリギリ間に合うかもしれない方法が。

 

「錆兎! 玖ノ型と拾ノ型を()()()()()()使うぞ! これなら障害を排除しながら高速で追いかけられる!」

「! フッ、良い考えだ、義勇! ――――行くぞォ!!」

 

 縦横無尽に流体の如く動き回れる玖ノ型と回転する度に威力を増加させる連続斬撃技の拾ノ型の組み合わせ。命名するならば――――【生々流転(せいせいるてん)水飛沫(みずしぶき)】。

 

 高速かつ柔軟に動き回りながら、その刃の威力を上げ続けるという即興技。試す価値は大いにある。

 

 進行を阻む腕のほとんどを切り裂いた俺はすぐさま錆兎に合わせて地を踏み、駆け出す。……アレは俺たちの行動で生み出してしまった怪物だ。何としても犠牲者を出す前に、仕留めなければ。

 

 手鬼の逃げた先からは無数の手がこちらを握り潰さんとしている。――――だが今の俺たちにとっては全てが鈍い、遅い、弱い。

 

 

 斬る。走る。裂く。駆る。

 

 

 二頭の水龍が地を走駆した。天翔る、龍が如く。

 

 

 小さな鯉は滝を昇りて龍と為った。

 

 

 

 




《血鬼術解説》

【血鬼術 生腕種肉(せいわんしゅにく)
 手のひらから生成した”種子”を埋め込み、任意の瞬間に発芽させる。発芽した種からは巨腕が三~五本生え、術者の指定した対象か近くに居る人間を自動的に攻撃する。
 ただし動きが単調であるため、単体であれば回避は比較的容易。驚異的なのはその物量に物を言わせた波状攻撃である。下級隊士では対処は困難。

【血鬼術 無間手腕(むけんしゅわん)猛爆(もうばく)
 全ての手から”種子”を生成し、自身の周囲に植え付けてから全ての手を撃ち出すと同時に発芽。全方位広範囲を無差別に攻撃する。その様はさながら肉の爆発。具体的に表すなら某食物連鎖の頂点のひじき。
 しかし少数の敵を狙うには制度が劣悪すぎるため、基本的に多対一か牽制くらいにしか使い道が無い。

《独自技解説》

生々流転(せいせいるてん)水飛沫(みずしぶき)
 玖ノ型と拾ノ型を組み合わせた応用技。攻撃と回避を平行して行い、逃げながら攻撃してくる敵や追撃時に障害物が多い時に使える攻防一体の高等技。複雑な動きをしながら回転を損なわずに、かつ高速で敵に接近できるためかなり強力。
 当然ながら技の維持にかなりの集中力と体力を使うため、燃費は良くない。
 通常の生々流転では木々の間を抜けながら高速で追撃するのは難しいと考えたため、義勇が即興で発案し錆兎と共に実行した。結構使いやすそうなので今後も出番はある、かもしれない。


 思った以上に最終選別編が長引いてしまった……次で一旦区切りになると思います。


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第捌話 おかえり

何でこんなにお気に入り増えてるの……怖い……人間怖い……


 山の中腹付近。そこに作られた藤の花による簡素な囲いの中でカナエは最後の負傷者の手当てを今しがた終えた所であった。

 

 両腕の骨折と胸部の裂傷。多少手こずったが持ち合わせの物でどうにか応急処置は完了し、最終選別が終了して医療施設へと運び込まれるまでは十分持つと判断して、カナエは小さく息を吐きながら顔を濡らしている汗を蝶の羽織で拭いた。

 

「ふぅ……何とか最終日まで全員生き残れそうね……」

「そりゃあ、あの二人が頑張ってくれたおかげでしょうね」

「あ、村田君」

 

 落ち着いて腰を下ろしたカナエの前にスッと保存食らしき干し肉を差し出す椿油の香り漂うキューティクルヘアーの少年、村田。

 

 彼は目立った外傷こそないが、命からがらこの安全地帯までたどり着きその防衛の一角を担わされた一人である。

 

 カナエは干し肉を「ありがとう」という返事と共に受け取りながら咀嚼。久方ぶりの食物に胃が悦びで踊るのを感じた。

 

「あの二人って、やっぱり錆兎君と冨岡君の事かしら?」

「ええ。俺、あの二人に一度ずつ助けられたんで、多分此処に居る大半もそう言う奴らなんじゃないかなと思いますよ。アイツ等、この選別に集まっている中で明らかに頭一つ二つ飛び抜けてますし……ああいうのを天才って言うんだなぁ……」

「そうねぇ……」

 

 この選別に集まった者も決して弱いわけでは無い。師の制止を振り切って強引に参加した命知らずでもなければ、この場に居るのは全員”育手”、引退した鬼殺隊員による扱きを受けた者達だ。

 

 とはいえ普通の選別ではその大半が篩を抜けられず、空しく鬼の餌になるのだが――――今回の選別は極めて例外的状況に陥っている。

 

 即ち、六日目になっても尚死者無し。今まで行われた最終選別でも前例の確認されない状態である。

 

 そんな異常事態をもたらしたのはまず間違いなくあの二人。冨岡義勇と錆兎。使っている呼吸やお互いの態度から察して同門出身であり、共に選別参加者の中で一、二の実力を誇る鬼才たち。

 

 あまりにも飛び抜けた強さ故にこの選別に集まった者のほとんどが「実は自分は才能が無いのでは」とそれなりの腕のある者さえ思いこみ始めるという珍事が起こっている始末。それはカナエや村田も例外では無かった。

 

「さっき話を聞いて回ってみましたけど、やっぱり殆どの奴らは鬼殺隊に入るのは諦めるみたいです。潔く諦めて別の道を歩むか、それでも諦められない奴は裏方担当の”(かくし)”になりたいとか。俺は……一応隊員にはなりますけど、胡蝶さんはどうするんです?」

「私は、前もって隊員になるって決めてるの。一応、鬼も自力で二、三人倒せたから、腕に自信はあるつもりよ。……隊員になって、鬼に脅かされている人々を一人でも多く助ける。少しでも悲劇を無くす。そう、決めたの」

「……そう、ですか」

 

 年頃の女子が抱くには悲壮すぎる決意をその柔らかい声音から感じ取った村田は、しかし深く追求せずそこで会話を断ち切った。

 

 こんな麗しい少女が、こんな悍ましい試験に参加している。十中八九、ただならない事情を持っているのだろう。そして村田は知り合ったばかり彼女の過去を詮索する気は毛頭なかった。

 

 きっと、本人にとっても辛い過去なのだろうから。

 

「……ところで村田君、少し聞きたいのだけれど」

「ああ、はい。なんです?」

「さっきから小さな地響きがどんどん大きくなって聞こえてくるのだけれど、何か知ってるかしら?」

「え?」

 

 言われて、村田は無言で耳を研ぎ澄ます。そうすると確かに微弱な地面の振動と共に、遠くから何かが迫ってきているような、そんな音が聞こえた。

 

 即座に全身を駆け巡る悪寒。生来の危機感知能力が全力で警鐘を上げている。全身から汗を拭き出しながら村田は震える声でこの場に居る全員に叫んだ。

 

「全員退避しろ! 何かが来るぞぉっ!!」

「村田君!?」

「退避っ! 退避――――っ!!」

 

 最初こそ皆は突然焦り出した村田の様子を訝しんだ。――――が、地響きが耳を澄ましていなくても聞こえてくるほどに大きくなるにつれてこの場にいる者全てが顔を真っ青にした。

 

 何かが、来る。とてもよくない、何かが。

 

 

 

「にィ゛ィィイ゛イ゛くゥゥゥウ゛ウゥゥ゛ゥ゛ゥウウゥウ゛ウゥゥウウウウウウウウッッ!!!」

 

 

 

 泥を吐き出すような不快な音の入り混じる渇望の絶叫。

 

 聞く者すべてに恐怖と嫌悪を抱かせる叫びを上げながら、森の中から木々と共に風圧で藤の花の結界を吹き飛ばしながら”ソレ”は姿を現した。

 

 家屋を一つ二つ用意してもなお収めきれない程の巨躯。体高はおよそ十六尺(約六メートル)、体長は七十尺(約二十五メートル)以上はあるだろう異様な躯体からは全身から纏わりつく様に無数の巨腕が生えている。

 

 それは何処からどう見ても異形の鬼。少なくとも人を五十以上は食い散らかしているだろう醜悪すぎる肉の百足が、そこにはあった。

 

 

「――――逃げてぇぇぇぇぇえええええええええッッ!!!」

 

『うわぁぁぁああぁああああああああっ!!』

 

 

 怪物の登場で凍り付いていた者達がカナエの叫びによって自我を取り戻し、同時に爆ぜるように鬼の反対側へと走り出した。

 

「無事な者は怪我人を背負って! 戦える人は私と一緒に足止めをっ!」

「りょ、了解!」

「な、何だよあんなの……!? 誰だよこの山には人を二、三人食った雑魚しかいないって言った奴は!? ふざけんな畜生!!」

 

 異常だ。アレは明らかに選抜を受ける程度の剣士が相手にしていい鬼では無い。最低でも中ほどの位にいる隊士が対処すべき個体である。にも関わらず、今の今まで放置されている? それは何の冗談だと全員が心の中で吐き捨てた。

 

 だがこれは鬼殺隊に取っても想定外も想定外だ。可能性が無い訳ではなかったとはいえ、一匹の鬼が四十年近く生き延び、捕食と共食いを繰り返すことで異能にまで手が届くほどに肥大化するなど完全に予想の範疇外。

 

 もしこの山に鬼殺隊が何かしらの監視網を敷いているならばとっくの昔に対応されているか、今の異常事態を察して救援が来るのだろうが――――生憎、そんな物は存在していない。

 

 この手に余る怪物を、明らかに実力不足の自分たちだけで対処しなければならない。控えめに言って絶望的としか言えない状況に、鬼と対峙する者は全員身体の震えを抑えきれなかった。

 

(冨岡君と錆兎君が来るまで時間を稼がないと……! 私たちじゃアレに勝てない……! お願い、間に合って……!!)

 

 この状況を打開するためには、あの二人が駆けつけてくるまで耐えなければならない。できなければ全員仲良くあの鬼の腹の中だ。全く笑えない、現状に置いて最も実現する可能性の高い最悪の終わり方。

 

 それを想像しながらも、カナエは最後まで希望を掴み続ける。

 

(しのぶ、お願い。私に力を貸して……!)

 

 今この場に居ない妹の顔を思浮かべて己を鼓舞しながら、カナエは腰の刀を抜いて構えた。

 

 それに合わせて足止めに志願した他四名も抜刀。臨戦態勢に入る。

 

「新鮮なァァァ! 肉をよこせェェェェェエエエエ!!」

 

 狂ったように叫びながら異形の鬼は無数の手を伸ばして五人へと襲い掛かる。後方に退避している者がいる以上回避は不可。全員が迎撃するために即時に迎撃するための連撃技を練り上げる。

 

 全集中・花の呼吸 【伍ノ型 徒の芍薬(あだのしゃくやく)

 全集中・水の呼吸 【参ノ型 流流舞い(りゅうりゅうまい)

 全集中・雷の呼吸 【弐ノ型 稲魂(いなだま)

 全集中・風の呼吸 【陸ノ型 黒風烟嵐(こくふうえんらん)

 全集中・霞の呼吸 【弐ノ型 八重霞(やえがすみ)

 

 百を越える手に無数の連撃技が炸裂し、辺り一面に鬼の血肉が弾け跳ぶようにして散乱した。だが手のほとんどを破壊された鬼は驚異的な再生力を以てして腕を生やし直し、更なる追撃を仕掛けようとする。

 

 それらを再度同じように技で迎撃するが、鬼と違って彼らは人間。技を連続で繰り出すたびに呼吸に乱れが生じ始めてしまう。

 

「はぁっ、はぁっ……! クソッ、攻撃の密度が高すぎて近づけない!」

「このままじゃジリ貧だ! 何か方法は無いのか!?」

「ッ……!」

 

 このままでは確実に押し負ける。かと言って短期決着を試みるにも懐に入れる隙が無い。頼みの綱の二人が間に合うかどうかもわからない。

 

 あまりにも切迫した状況に潰れそうな気持ちになりながらも、カナエは刀を握る手を緩めない。

 

 今出来ることは、こうして時間を稼ぐことだけなのだから。

 

「――――くあぁぁあああっ!?」

「なっ、げはぁ――――!?」

「ひぃ――――おごっ」

 

 怒涛の波状攻撃を凌ぐこと一分、限界はあまりにも早く訪れた。捌き切れなかった鬼の攻撃が一人の腹に打ち込まれ、その体は冗談のように吹き飛んで地を転がった。

 

 それを見て動揺した者達が反射的に硬直してしまい、二人ほどが致命傷は避けたものの攻撃を受けて吹き飛ばされ、敢え無く気を失ってしまう。

 

 カナエは顔から血の気が一気に退くのを感じた。まずい、五人でも薄氷を踏むが如き有り様だったのに、一気に三人も欠けては――――

 

「カナエさん! よそ見しちゃ駄目だ!! 避けろォォォォォ!!」

「え――――」

 

 どう考えても覆すことのできない絶望的な状況に陥って、気が動転していたのだろうか。カナエは言われて初めて、自分の方に数本の手が伸びてきているのを村田の声でようやく認識した。それも、既に回避不能な距離で。

 

 死ぬ。

 

 その事実だけが彼女の脳内を埋め尽くす。どうにか回避しようとしても体が動かない。間に合わない。

 

(いや、駄目、駄目駄目駄目! しのぶを残して勝手に死ぬなんて――――たった一人の妹を残して先に逝くなんて――――!!)

 

 だがどうあがいても無理なものは無理だ。感情で現実は捻じ曲げられない。遅い、遅い、遅い。行おうとすること全てが間に合わない――――

 

 

 その手を、二頭の水龍が食いつくすまでは。

 

 

 

 

 

 

 

「――――…………え?」

 

 俺が背後を一瞥すれば、腰が抜けてへたり込むカナエが見えた。

 

 それもそうだろう。彼女は今先程殺される寸前まで追い込まれていたのだから。その恐怖から解放されたならば多少腰が抜けても仕方ない。

 

「すまない胡蝶、遅れた」

「死人は……居ない様だな。間に合ったか……!」

「お、お前ら! 遅いぞぉっ!」

「冨岡君……錆兎君……!!」

 

 辺りを見回し、それらしき人の死体や血痕が無いことを確認する。――――間に合った。一人でも死ぬ前に間に合って見せた。

 

 俺たちを見て奮戦していたキューティクルヘアーの少年は歓びのあまり涙と鼻水を出しながら声を上げ、カナエもまた安堵のあまり失神しそうになるのをどうにか堪えている様子だ。

 

 対して食事を邪魔された異形の鬼は全身に血管を浮き出しながら、プルプルと身体を震わせ――――絶叫した。

 

 

「アァァァアアアアアッ!!! またかァァァァァ!! またお前らは邪魔をォォォオォオオ!!! いい加減にしろォォォォオオ!! 俺のォォォォ邪魔をォォォォするなァァァァアアァアアア!!」

 

 

 怒りに狂った鬼はもはやどんな声も届かない。極度の飢餓状態に陥ったせいで正気を完全に失った手鬼は無数の手から種子を生成し、そこら中にばら撒いて攻撃準備を完了させる。

 

 

「【血鬼術 無間手腕・猛爆】ゥゥゥッ!!!」

「行くぞ錆兎! 今度こそ終わらせる!」

「ああ、義勇! お前と二人なら、負けることは決して無い!」

 

 

 ばら撒かれた種子から爆発するように腕が生え、そこら中を蹂躙する。だが、俺たちに同じ技は二度も通用しない。

 

 俺と錆兎は血鬼術が放たれたと同時に駆けだした。繰り出すは【拾ノ型 生々流転】。幾重もの回転で背後の者たちを狙う全ての腕を切り刻み、その手に龍を生み出しながら俺たちは鬼の元へと疾駆する。

 

 だがそれでも全ての手を対処できるわけでは無い。とりわけ地面を掘って直接後ろの者達へと直接襲い掛かる手は二人でも対処不可能だった。俺は失念していた可能性を思い出し、すぐに引き返そうとする――――

 

「ひっ、たっ、助けっ――――!」

「はぁぁぁぁっ! ――――大丈夫! 貴方たちは私が必ず守り通すわ!」

 

 ――――が、カナエは優れた動体視力でそれらの攻撃を見切り、避難中の者達への攻撃を悉く花弁が舞うように斬り伏せてみせる。

 

 どうやら、あちらは任せても良さそうだ。

 

 ならば俺たちがすべき事は、一秒でも早く、あの鬼の頸を斬ること―――――!!

 

 この場に生まれるは、巨大な異形の鬼を斬り刻む二頭の水龍。人を守るが如く美しく舞い踊る一輪の花。

 

 本来ならば生まれなかったはずの龍が孵り、花が咲き誇る光景は奇跡としか言い表せなかった。

 

「死ねェェェ! 死ねェェェェェエエ!! 鱗滝ィィィィイイイイイイイイイイイイッッ!!!」

 

 全身を再生が追いつかなくなるほどに龍に貪り食われた手鬼は、最後の抵抗と言わんばかりに全ての手を地面へと突き刺した。そして、そこら中の地面から大樹の如く太い手が幾つも噴火するように飛び出す。

 

 錆兎は横に跳躍することで難を逃れるが、丁度宙に居た俺はその手を避けきれず、しかし握り潰されることは避けながら夜空へと躍り出た。

 

「義勇!」

「冨岡君!!」

「ヒヒャハハハハハハ!! お前だけでもこの手でェェェェェェッ!!!」

 

 大樹の様に伸びる数百の手が一斉に俺の方へと軌道を変える。気絶する前のものと比べて質も量も桁違い。

 

 それに命の危険を感じ取った身体は心拍数を跳ね上げ、同時に体がまたもや熱を帯び出した。この感覚――――今度は、息を深く吸う。

 

「全集中・水の呼吸――――【拾壱ノ型】」

 

 腕が一斉に俺へと群がり、圧死させんばかりに纏わりつこうとする。だが、無意味だ。

 

 既に一度防いだ手法、二度目など通用するものか。

 

 

「【凪】」

 

 

 俺は最高速度で刀を四方八方へと振るい、全ての攻撃を俺に触れる前に叩き斬った。百以上の手は例外なくすべてが千切れ飛び、空へと霧散する。

 

 地表を見れば、渾身の攻撃を凌がれて唖然としている鬼の姿が。――――今度こそ、トドメを刺す。

 

 【玖ノ型 水流飛沫・乱】

 

 俺は降り立った鬼の腕を縦横無尽に駆けた。下から放たれる追撃を腕から腕へと跳ぶことで悉く回避し尽くし、ようやく鬼の懐へと入り込む。そして刀を振り被り――――

 

「――――!!」

 

 頸を守る腕を一本切断して、止められた。

 

「! そうか! お前は俺の頸が斬れないかァァァァ!!」

「ちぃっ――――!!」

 

 即座に刀を引き抜いて全力で後方へと後退。俺の立っていた場所を無数の手が掠める。

 

 滞空の最中、俺は己の握っている刀を見た。半ばまで折れた刀、更に酷い刃零れに、刀身に罅まで入っている。度重なる技の使用に耐え切れなかったか。やはり【拾壱ノ型】は刀に負担を掛け過ぎているようだ。

 

 だがこの状況下で刀を換えることなど不可能。

 

 ならば――――今俺が繰り出せる最大最速最強の一撃を、鬼の頸一点に叩き込む他ない。

 

 俺はクルリと宙で一回転し、鬼の正面に位置する樹木の幹へと着地。

 

 すかさず息を、深く、大きく吸う。

 

 

「ヒュゥゥゥゥゥウウウ――――」

 

 

 肺が一杯になるまで、限界まで空気を吸いこむ。取り込んだ空気を全身の筋肉一本一本へと送り込み、臨界点まで力を蓄える。

 

 溜めて、溜めて、溜めて――――

 

 

「全集中・水の呼吸 【壱ノ型・()】――――!!」

 

 

 ミシリと俺の踏む木の幹が軋み――――跳躍と同時に真っ二つに()()()()()

 

 空を駆ける蒼の雷鳴。

 

 風を裂きながら、折れた刀を鞘に入れ、親指を使って鍔を固定することで更に力を貯める。指の骨が、手足の骨が、全身の筋肉が悲鳴を上げる。脳内麻薬で痛みが麻痺していても尚わかる激痛。

 

 だが頼む。これが最後だ。この瞬間だけ、耐えてくれ――――!!

 

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!!」

 

 

(なっ、速っ――――防――――避――――無――――!!!)

 

 手鬼が迎撃をしようとするが、全てが俺の通った後を過ぎ去る。対応が間に合わないほどの速度。その勢いのまま驀進した俺は鬼の頸が刀の間合いに入った瞬間、

 

 

 全ての力を込めた一撃を、解放した。

 

 

 ――――水面一閃(みなもいっせん) 神速(しんそく)

 

 

 【壱ノ型 水面切り】に雷の呼吸である【壱ノ型 霹靂一閃(へきれきいっせん)】の要素を取り入れて応用・強化した即興技。今の俺が繰り出せる最強の一撃。

 

 振るわれた日輪刀が青色の残光を残し、神速の刃は鬼の頸へと斬り込まれる。

 

 だが――――刃は、鬼の頸を半分斬った所で押し留められてしまう。刃がボロボロに欠けた上に、半ばまで折れているのだ。最悪を下回っているだろう切れ味の刃では、この結果は当然としか言いようがない。

 

 しかしこれ以上の攻撃はもう出せない。まだ、届かないと言うのか……!!

 

「おぉぉぉぉおおおおおぁぁぁぁアアアアアアアアア――――ッッ!!」

「鱗滝の餓鬼がァァァァ!!!」

 

 だが諦めない。諦めるものか。

 

 俺は勢いのまま手鬼の巨体を押し込み、遥か彼方へと引き摺っていく。手鬼も抵抗して地面を手で抉りながら減速を試みるが身体は止まらない。木々を破壊しながら巨躯を引っ張っていく。

 

 行く先は当然――――錆兎のいる方向。

 

「義勇ゥゥゥゥ――――ッ!!!」

 

 両腕の筋肉を限界まで引き絞った錆兎が手鬼の後ろから飛びかかり、頸へと【壱ノ型 水面切り】を叩き込んだ。メキメキィッと骨と筋肉が潰れて切れる音が聞こえて刃が進む。

 

 が、あと少し。あと少しの所で刃が止まってしまった。腕の守りが厚い上に、頸の素の強度も尋常じゃない。

 

 一旦引いて立て直すか? いやダメだ、此処で決めなければ逃げられる。そもそも俺にこれ以上戦える余力は残っていない。

 

 だが、後一手足りない。後一手――――ッ!!!

 

 

「――――はぁぁぁぁああああああああっ!!!」

 

 

 虚空より桜色の一閃が光った。

 

 いつの間にか駆けつけたカナエが、雄たけびを上げながら渾身の一撃を鬼の頸へと打ち込んだのだ。

 

 足りなかった欠片が、埋まった。刃が進む。

 

 進む。

 

 

 進む――――!!

 

 

「「斬れろォォォォォォォオオオオオオオオオオオオ――――ッッ!!!」」

「斬れてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 

 

 そして――――

 

 

 

 夜空に、一匹の鬼の頸が鮮血と共に舞った。

 

 

(――――死? おれが、しんで……お、れ……は……)

 

 

 首だけになった手鬼は、月の綺麗な夜空を見て何故こんなことになったのと思う。

 

 どうして自分はこうなったのだろう。

 

 怖い。夜に一人は怖い。手を握ってくれよ、兄ちゃん。

 

 

(兄ちゃん、って……誰、だっけ……?)

 

 

 少しずつ、何かが浮かんでくる。今まで記憶の海の底へと沈めていた何かが確定した死をきっかけに少しずつ浮き上がってくる。

 

 そうしてやっと思い出す。自分は偶々出会った()()()に鬼にされ、心配して駆けつけてくれた兄を生きたまま食い殺したことを。

 

 涙が出る。悲しみが溢れる。

 

 

(兄ちゃん……ごめん……ごめんよ……!)

 

 

 今はもう無い体で手を伸ばす。少しずつ景色は真っ暗になり、すると伸ばした手を握ってくれる一人の少年が見えた。少年の顔を知っている。彼は他でもない、寂しい時、怖い時にいつも手を握ってくれた自分の大好きな兄だったのだから。

 

 ――――しょうがねぇなあ。いつも怖がりで。

 

(兄ちゃん……!)

 

 兄に手を引かれながら歩き出す。そして消える間際に、鬼は己の頸を斬ってくれた、この長い悪夢から解放してくれた三人の少年少女を見る。そして、心の中で思い浮かんだ事を、聞こえていないとわかっていても、口にした。

 

 

「あ……り、が……と……う……………」

 

 

 灰が、月の下で散った。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 暖かい海の中の様な優しい温もりに抱かれながら、目を開ける。

 

 目に入ってきた光景は、変わらない森。だが違う、此処は……藤襲山ではない。漂っている香りは、とても馴染深い山の香り。そして辺り一面を覆い尽くす深い霧。

 

 此処は――――狭霧山だ。この深い霧は狭霧山で間違いない。

 

 だがどうして俺は此処に? 最終選別はまだ終わって無いはず……。

 

「何故、俺は……?」

「――――勝った、か」

「!」

 

 声のする方に振り向けば、鱗滝さんが最後の試験に用意したであろう真っ二つに割れた二つ巨岩があった。あれは確か、俺と錆兎が斬ったものだ。その傍に、およそ十一人もの狐の面を被った少年少女が佇んでいる。

 

「お前たちは……」

「気にするな。去る前に、少しだけ挨拶に来ただけだ」

「本当に、本当にありがとう。これ以上鱗滝さんが悲しむ前に、あの鬼を斬ってくれて」

「これでようやく、俺たちも安心できる」

「錆兎の事、しっかりと見ていてくれよ。アイツは案外、寂しがりやだからな」

「ちゃんと鱗滝さんの所に帰ってあげてね」

「魂だけでしか帰れなかった、”ただいま”の一言も言えなかった俺たちの代わりに伝えておいてくれ」

 

 その言葉で、俺は全てを察する。

 

 ああ、この人達は。鱗滝さんとの約束を守ろうとした、俺の、俺たちの――――

 

「後は、頼んだぞ――――」

 

 俺は手を伸ばすが、届かない。歩もうとしても、進めない。

 

 そうして――――泡が、割れた。

 

 

 

 

「う、ぅん……」

「! 義勇! 起きたのか!」

「此処は……」

 

 目を開くと、隣に錆兎の頭が合った。

 

 どうやら俺は錆兎におんぶされているらしい。すぐに離れようとしても、身体に力が入らない。手は指一本すら動かず、両足が生まれたての小鹿のように震えている。

 

「戦いの後、糸が切れたように気絶したんだ。あれだけ無茶をやったんだから当然と言えば当然だが」

「……鬼は、どうなった」

「ちゃんと頸を斬れた。灰になって、消えたよ」

「…………そう、か」

 

 あの鬼はちゃんと仕留められた。それだけで俺が身体の力を抜く理由には十分すぎた。

 

 目だけで辺りを見れば、比較的軽傷の者たちが怪我人に肩や背を貸して山を下りている。空を見れば、微かにではあるが日が顔を出し始めていた。

 

 夜明けが、七日目の朝が、来る。

 

 俺たちは時間をかけて試験開始時に皆が集まっていた広場へと戻った。そこには初日目と同じように、産屋敷あまね様と、少々の差異として護衛なのか複数の隊員が隣に付いている。

 

 そして予想外すぎる数が目の前に現れたせいか、彼らはあからさまに目を見開いた。

 

 前代未聞の全員生還だ。奇跡とも呼べる光景に、言葉を失っているのだろう。

 

「――――皆さま、お帰りなさいませ。全員ご無事で生還したようで何よりです。そして、まずは謝罪を」

 

 あまね様はそう言いながら、深く頭を下げる。何故? と思ったが、すぐに理由はわかった。あの鬼の存在を何かしらの手段で知ったのだ。恐らく、全て終わった後から。

 

「六日目の騒ぎを訝しんだ監視員が鎹烏によって参加者の手に余る鬼の存在を確認しました。同時に、その討伐も。我々は此度の選別で極めて高い実力者を見つけられた歓びと、予想外の脅威に皆さんを晒してしまった事に深い悲しみを抱いております。……故に、今回は鬼殺隊の入隊を諦める者であってもある程度の被害の補償をすることを約束いたします。勿論、入隊を希望する者にはそれ以上のものを約束いたしましょう」

 

 人の命を金で買うことはできない。これでどれだけの者の溜飲が下がるかはわからないが、これは鬼殺隊にできる精一杯の補助だろう。

 

 そして、これ以上を求めるのは自己責任でこの場に集まった者にあるまじき行為だ。

 

 だからこそ皆、何も言わない。それに全員こうして生きている。

 

 ならば、それで十分だ。

 

「……皆さまのお心遣いに感謝いたします。では入隊を希望する者はこちらで隊服の仕立てを。そうでない方は――――」

 

 頭がクラクラする。目が回る。話声が少しずつ小さくなっていく。

 

 俺はそのまま意識を手放した。いや、握り続ける気力さえなかった、と言うのが正しいか。

 

 少し休もう。休んで、また、前へ――――

 

 

 

 

「――――勇。義勇。おい、義勇! そろそろ起きろ。もう狭霧山は目の前だぞ」

「……すまん。また、寝ていたか」

 

 目を覚ませば、もう夕方だった。変わらず俺は錆兎に背負われながら運ばれている。

 

 試しに手を動かせば、何とか動けるくらいには回復していた。痛みは残っているが、この程度なら呼吸で痛みを抑えつつ動けば大丈夫だろう。

 

「錆兎、降ろしてくれ」

「駄目だ。無理せず俺の背におぶさっていろ」

「断る」

 

 俺は錆兎の手を無理矢理引きはがして地面に足を付けた。途端に筋肉の痛みと疲労で足が崩れそうになるが、呼吸をして何とか姿勢を保つ。

 

「義勇、お前なぁ……少しは誰かに甘えることを覚えたらどうだ?」

「? 十分甘えているつもりだが」

「いつも一人で無茶苦茶やってるやつの台詞じゃないぞ」

「一人で無茶して死にかけたお前が言うのか、錆兎。……折角選別に合格して帰れるんだ。おぶられたままなんて恰好で帰れるか」

 

 要は二人に先程の姿を見られるのが恥ずかしいと言う事だ。

 

 俺の言い分に呆れを隠さない錆兎は小さくため息を吐くが、苦笑しつつ日輪刀を収めた竹刀袋を手渡してくれた。杖代わりにしろということか。

 

 改めて、夕日の下で狭霧山へと続く田畑の一本道をゆっくりと進んでいく。幸いもう少しで着く距離だ。少し頑張れば直ぐに着く。

 

「義勇」

「……? なんだ、錆兎」

「助けてくれてありがとう。お前がいなければ、俺はあの鬼にやられていただろう」

「礼など必要ない。お前が五体満足で生きていてくれているのならば、それで十分だ」

「友人の礼くらい素直に受け取っておけ、全く……――――見えてきたぞ」

 

 数分後、登り道を少しだけ上がれば、山の麓に小さな小屋が見えた。

 

 間違いなく鱗滝さんの家だ。注視すれば、家の前で素振りに夢中になっている真菰も見える。

 

「おーい! 真菰ー!」

 

 錆兎が元気よく声を上げれば、向こうの真菰の手が反射的にピタリと止まる。

 

 その後、こちらを向いた真菰は数秒ほど茫然となって手に持った木刀を手から滑り落とし、すぐさまポロポロと、その双眸から大粒の涙を流し始めてしまった。

 

「義勇! 錆兎っ! 帰ってきた! 二人がちゃんと帰ってきたよぉ~~~~!」

「うわっ、ちょっ、真菰」

「うぐっ」

 

 真菰は全力疾走の勢いを殺さず俺たちの胸へと飛び込んできた。錆兎が支えてくれなければ俺はそのまま後方に吹っ飛んでいただろう威力だ。この七日間で随分と成長したようだ。

 

「心配したんだからっ! 二人とも強いけどっ、もしかしたら死んじゃうんじゃないかって……! 私、私っ……!」

「ああ、大丈夫だ。俺たちはちゃんと帰ってきた」

「真菰。約束、ちゃんと守ったぞ」

「う、うぅっ、うわぁぁあぁあぁぁあああああん!!」

 

 感極まった真菰はそのままわんわんと泣き出した。そして、そんな俺たち三人を大きな腕が一斉に抱きしめる。

 

 顔を上げれば、天狗の面の下で滝の様な涙を流す鱗滝さんの姿が。

 

「……よく、よくぞ生きて帰ってきた、二人とも! ずっと、待っていたぞ……!」

「鱗滝さん……!」

 

 一体何年もの間、最終選別から帰ってきた弟子の姿を見ていないのかは俺にはわからない。

 

 だが今、鱗滝さんはようやく帰ってきた弟子の顔を二つも見ることができた。ボロボロで弱々しくても、確かな温もりを感じている。歓びのあまり心も体も震えている。

 

「錆兎……」

「ああ……二人とも」

 

 俺たちは家族の温もりに包まれながら、最後に言おうと決めていた言葉を口にした。

 

 

「「ただいま」」

 

 

 帰ってきた言葉は、考えるまでもないだろう。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 最終選別から一週間後。自身の刀が出来上がるまでの間に、俺は錆兎や真菰、鱗滝さんと共に蔦子姉さんの家にやってきていた。理由は単純に合格の報告もあるが……それ以上に重要な出来事があったからだ。

 

 それは、姉さんの――――

 

「義勇! お帰りなさい!」

「姉さん!」

 

 半年ぶりの姉の顔が戸を開けて目に入る。最後に見た姿と違うのは、やはり腹部。異様に膨らんでいたそれは、今ではすっかり元通りになってしまっている。

 

 それはつまり、そう言う事だろう。

 

 答えは考えなくても、蔦子姉さんの腕の中に抱きしめているソレが示していた。

 

「ほら、”向日葵”。貴方の叔父さんとそのお友達よ~?」

「うわぁ! 赤ちゃん! 可愛いぃぃ~~~~!!」

「……これは、凄いな」

「新たな命が生まれた、か。フフッ、祝うべきことだろう」

 

 俺はその光景に何も言えなかった。

 

 布に包まれながらも、その小さな手を一生懸命此方へと伸ばしてきている赤ん坊。目を覗けば、俺や蔦子姉さんと同じ深く綺麗な水色の瞳が見える。

 

「ほら、義勇。抱いてあげなさい」

「あ、ああ」

「うーあー、きゃっきゃっ」

 

 覚束ない返事と共に、俺は赤子の体を万が一にも落とさないようにしっかりと抱いた。

 

 暖かい。

 

 小さな命が、生まれるはずがなかった小さな命がこの腕の中にある。

 

「おい、義勇。どうした?」

「義勇? どうして泣いてるの?」

「え……」

 

 言われて俺は、己の頬に溢れた涙が伝っているのに気づいた。それを自覚した途端、俺の心の中で何かが決壊する。

 

 悲しみでは無い。歓びの感情が、止めどなく涙の形で溢れ出てきていた。

 

「ぅ、ぐ、うぅあぁぁああぁあぁぁぁぁっ……!!」

「うぁー?」

「義勇……」

「……頑張ったな、義勇。お前さんは、よく頑張った」

 

 蹲る俺の背中を蔦子姉さんと鱗滝さんが摩ってくれる。ああ、涙が止まらない。泣き止みたいのに、身体は言うことを聞いてくれない。

 

「ありがとう……! 生まれて来てくれて、ありがとう……!」

 

 願わくば、この子が幸せに生きる未来に鬼の姿が無いことを願う。

 

 否、作らなければならない。

 

 俺が、俺たちが。全ての元凶である鬼舞辻無惨を、必ず――――

 

 

 

 

 

 




《独自技解説》

【壱ノ型・改 水面一閃(みなもいっせん)
 水の呼吸に足りない攻撃力を無理矢理付加するために、その場で水の呼吸に雷の呼吸壱ノ型の動きを強引に組み込んで編み出した即興技。雷の呼吸については直接見たことが無いため知識で無理矢理再現している。故に不完全な技ではあるが、今の義勇の持つ最速にして最強の技(生々流転最大倍率は除く)。
 技としての理想の動きは直線では無く、滑るように流曲線状の動きをしながら神速で接近し居合の斬撃を叩き込むというものだが、前述の通り雷の呼吸が聞き齧った知識でそれっぽくやっているだけの杜撰極まりない代物なため、今のところは理想には程遠い、速度に物を言わせた特攻紛いの直線斬撃となっている。
 また、水の呼吸で雷の呼吸を無理に模して使っているため消耗も甚大。控えめに言って威力と速度以外取り柄のない欠陥技である。
 痣状態でのみ技名に”神速”の名が付く。


鬼殺隊の今回の受験者に対する補償
《入隊希望者》
・給金上乗せ(一年間限定)
・数段上の階級の隊員の同行権(一年間限定)
・週一の休日保証(使うかどうかは任意)
・定期的に薬や甘味など希少物資の無償提供(一年間限定)
・比較的危険度の低い(と思われる)任務への優先割り当て
《非入隊希望者》
・補償金の支払い
・一年間藤の花の家の利用が可能になる権利
・公務員への推薦就職枠



想像以上に読む人が集まって戦慄している。何なの、何でみんなこんな地雷丸出しの小説に集まってくるの……?

そして残念なお知らせですが、此処で一度更新を区切りとさせていただきます。またある程度ストックが貯まったら投下するつもりです。

それは何時になるかって? 私にもわからん(メタル○ン並感)


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番外編 冬を迎えた花勝見

おまたせ。番外編しかなかったけど、いいかな?

正直投稿がここまで遅れるとは思わなんだ。つっかえ!やめたら執筆?(自己嫌悪)

とりあえず前に宣言した通り真菰関連の掘り下げがクッソ薄かったので番外編一つ使うことにした。真菰ちゃん可愛いよ真菰ちゃん。何で殺した……。

つか本誌もうラスボス戦じゃん……本編完結する頃までにこの小説絶対完結しないことが確定しましたねこれは……。



 私の名は真菰。そこそこ賑やかな小さな町で織物屋を営んでいる夫婦の間に生まれた、ごく普通の子供だ。歳はこの前誕生日を迎えて十二になった。

 

 裕福では無いが、決して貧乏でもない、ありふれた当り前の幸せを甘受し、優しい父と母と共に日々を過ごす毎日。それが私にとっての日常。

 

 それが退屈だと思ったことは一度も無い。私はそれが幸福だった。

 

 朝は店の前で客を呼び込んで父の商売を手伝い、夜は母の隣で織物が出来上がっていく光景を眺める。そんな毎日が続けばどれだけ良かっただろうか。

 

 幼かった私は勘違いをしていたのだ。

 

 幸せはそこにあって当り前のものであり、それは毎日のように訪れるものだと。

 

 そこにあった幸せは、薄氷の上に成り立っていたものだったというのに。

 

 ……その日は、私の誕生日だった。

 

 毎年の記念として、その日の夕餉は白米や新鮮な魚等を使った豪勢なもの。決して裕福ではない私の家であったが、この日だけは特別だった。

 

 母が作ってくれたご飯はとても美味しかった。そしてご飯を食べた後、私は父から新品の着物を贈り物として貰った。花柄の、とっても可愛い着物だ。

 

 それがとっても嬉しくて、同時に申し訳なくもあった。私はこんなに一杯贈り物を貰っているのに、私は両親に何も返せない。まだ子供だから、まだ弱いから。

 

 だから決めたのだ。将来大きくなったら沢山お金を稼いで、両親に不自由なく、毎日白米を食べさせられるような暮らしをさせてあげたいと。その為に一杯勉強して、一杯見て学んで。

 

 そして――――唐突に、幸せの器は割れてしまった。

 

「真菰! 押入れに隠れなさい! 早く!」

「大丈夫だ、お父さんは強いからな。真菰、父さんと母さんが必ずお前を守ってやる」

 

 夕餉の片づけをしていると、唐突に玄関からおかしな音がした。直後に臭ってきたのは腐臭と、濃い血の匂い。

 

 直ぐにただならない状況だと理解した両親は私を押入れの中に隠した。その時の私は何が何だかわからなくて、とにかく両親の言う通りに押入れの隅で縮こまった。大丈夫、きっと何ともない。明日も同じような日々が続くと、根拠もない言葉で自身を言い聞かせて。

 

『な、何だお前は!? に、人間じゃな――――ぃ、お、ごぼッ』

『貴方!? いやぁぁぁぁ!! やめてっ! 放してぇっ!!』

『男と女かァ……男は死んでもいいが、女は生きたままがいいなァ。生きたままの方が美味い! 今日は大猟だ、湖に帰ってゆっくり食おう!』

 

 両親の悲鳴と共に、身体を内側から擽られるような不快感を感じる不気味な声で、訳のわからない言葉が紡がれる。ここで叫び出さなかったのは奇跡に近かった。

 

 必死に両手で口を押える。口から一言も言葉を出さない様に。目も瞑る。もし気づかれても何も目にしなくていいように。

 

 だが耳だけは、塞げなかった。

 

 遠くなっていく父の呻き声。母の助けを求める声。私はそれに応えることができない。涙を流して蹲るしかできない。怖くって怖くって、足がちっとも動かなかったから。

 

 ――――しばらくして、朝が来た。

 

 いつの間にか眠って、いや、気絶していたのだろう。私は昨晩の出来事が夢であると信じたい一心で押入れの戸を開け、玄関に出た。

 

 そこには、まるで熊が引っ掻いたような爪痕が、血痕と共に四方八方に刻まれた廊下しかなかった。

 

「あ」

 

 夢だ。夢なんだ。こんなのは悪夢で、覚めればいつも通り優しい父と母が抱きとめてくれる。昨日の様な幸せが訪れる。

 

 だけど、血が出る程握り込んだ手から伝えられる痛みはとても生々しくて。

 

 血に染まった父の羽織っていた着物の切れ端が目に入って、その望みは粉々に打ち砕かれた。

 

 

「うぅぅぅうぅぁぁああぁああぁぁぁあああぁぁああぁああああああっ!!!」

 

 

 あの日々には、もう戻れない。帰れない。

 

 惨めに泣き叫ぶ事しか、私にはできなかった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「――――うあぁぁああぁあぁぁああああああああああっ!!!」

 

 毛布を跳ね除けながら、私は飛び上がるように起床した。額だけでなく全身を濡らす汗。生暖かい汗の生み出す不快感で寝起きの機嫌は最悪を下回っている。

 

「はぁ……はぁっ……うぅっ……」

 

 頭からあの時の記憶がこびりついて離れない。もう両親の仇は取られたと言うのに、気持ちは晴れた筈なのに、あの夜の惨劇は未だに私の心を蝕んで手放さなかった。

 

 周囲を見渡せば、真菰の左右には未だにぐっすりと眠っている三名――――鱗滝、錆兎、義勇の寝顔が見える。窓の外を覗けば、綺麗な日差しが隙間から差し込んでいる頃。しかしまだ空気が冷たいから、起きるには少し早い時間か。

 

 かと言って二度寝する気は起きない。あんな夢を見た後で、どう寝付けというのか。

 

「……体でも洗って来よう」

 

 せめて汗だくで気持ち悪い感触でもどうにかしようと、私はできるだけ音を立てない様に家を出た。

 

 すると、ここに来て一ヶ月も経ってもう見慣れてしまった豊かな自然の光景が変わらず出迎えてくれる。微かに香る緑の香りが、荒んだ心を少しだけ癒す。

 

 一度外の空気を肺一杯まで取り込み、深く、息を吐く。それだけで真菰は気持ちを切り替え、近くにある川で水浴びをすることにする。

 

(……水かぁ)

 

 しかし私は自分が決めたことの筈なのに、あまり乗り気では無かった。

 

 単純に、水にいい思い出が無かった。無謀な蛮勇を絞り出した挙句鬼の手に捕まって水中に引きずり込まれた際の恐怖は未だに忘れられない。そして最近は鱗滝さんに滝壷へとブン投げられた記憶がある。

 

 正直あの時ばかりは己の師であり恩人の鱗滝さんを恨んだのは内緒だ。

 

 だが私とて女の子。体を洗わず「臭い」なんて言われるなんて真っ平御免。ここは嫌な気持ちを押し殺して、しっかりと体を洗うことを決意する。

 

 私は着替えを持って、近場の川まで足を運んだ。川に手を入れてみれば、結構冷たい。もうすぐ冬だから当然と言えば当然か。あまりの冷たさに心の奥底に押し込めていた気持ちが膨れ上がりそうになるが、そうなる前に私はすぐに服を脱ぎ捨てて川へと飛び込んだ。

 

 判断は早く行う。鱗滝さんの教えが役に立ったと思いつつ、身体に付着した汗を丁寧に洗い流していった。

 

 そうして改めて己の体を眺めると、やはりこの一ヶ月間の鍛錬でかなりの筋肉が体に付いているのがわかる。死ぬ思いをして鍛えたのだから、これくらい目に見えるほどの変化が出てくれるのはかなり嬉しい。

 

 私は女だ。女は男と比べて小柄で筋肉の付きも悪くなる。でも鱗滝さんは鍛えている内に「お前には才能がある」と言ってくれた。鬼の頸を斬るのに十分な力があると。今の体の変化を見ればその言葉は決して慰めの嘘でないことがわかる。

 

「それにしても……やっぱり強いなぁ、二人とも」

 

 体を洗いながら、ふと私は兄弟子である錆兎と義勇の二人の顔を思い出す。

 

 義勇は、普段は何を考えているのかよくわからないくらい表情筋が死んでいる。だが、意外と表情豊かだ。ちょっとだけ口下手だけど、偶に隠し持った飴や干し肉をくれたりする優しい子。鍛錬の後も私の事を沢山心配してくれる。弟がいたらこんな感じなのかなと思った。私の方が年下だけど。

 

 錆兎は……何と言うか、厳しさと優しさが一緒に住んでいるような子だ。いつもは口も態度も厳しいくせに、こっちが欲しい時に限って優しい言葉を投げかけてくれる。実は狙ってやっているのでは無いだろうか。もし無自覚だったらとんでもねぇタラシ野郎だ。将来女の敵になること間違い無しである。

 

 それで、当然だが二人は私なんかよりずっと強かった。鍛えた年数に差があり過ぎるため当然だが、あまりにも差があり過ぎるため何度も心の中でこんな言葉が過るのだ。

 

 本当に私もあれほど強くなれるのか。

 

 本当に私は――――鬼の頸を斬れるのか。

 

 怖気づいたかもしれない。諦めかもしれない。ただやはり、私の中で鬼殺に対する信念は未だ確たるものになっていないのだ。

 

 仇は二人が取ってしまった。それについて文句はないし、感謝している。それに鬼殺の道に進むと決めたのも自分の意思だ。自分以外の誰にも責任を被せるつもりなど無い。

 

 私は自分の様な物をこれ以上増やさないと覚悟して歩を進めた。しかしそれは高い壁を知らなかった子供の覚悟だ。

 

 こうして高くそびえ立った壁を前にして、ほんの少し天秤は揺れてしまった。……そんな弱い自分に反吐が出そうな気分だ。

 

「強くなりたいなぁ……」

「――――へくしっ。うぅ、冷てぇ……」

「……………………」

 

 聞きなれた声がして、私はギギギと覚束ない動作でゆっくりと振り向いた。

 

 見知った顔があった。何故かそこには――――冷たい川の水で顔を洗う、寝癖だらけの錆兎がいた。様子を見る限り完全に寝ぼけているようで、水の冷たさでようやく目が覚めたらしい。

 

 数秒間の静寂を間に置いて、私と錆兎の目が合った。

 

「………………………えっ、と、その……お、おはよう?」

 

 私はキレた。

 

 

「なぁにがおはようだゴルァァァァアアアアアアアア――――!!!」

 

 

 早朝の山中で少女の雄叫びが木霊した。

 

 

 

 

 最っ低。信じられない。

 

 女の子の裸をマジマジと見ておいて第一声が「おはよう」って何だ。喧嘩を売っているのか。

 

「錆兎、頭にたんこぶが出来てるぞ。何があったんだ?」

「あー、いや、顔を洗いに行ったときにちょっと転んで頭に石が当たってな」

「そうなのか」

「……ふん!」

「何をやっとるんだお前は……」

 

 折角の美味しい朝食もこれでは旨味半減だ。それもこれも錆兎のせい。

 

 せめてもうちょっとこう、顔を赤らめて恥ずかしがったりとかそういう反応を見せてもよいのではないか。あんな淡泊な反応では、まるで自分が異性として見られていないようで……。

 

「鱗滝さん、私は今日もいつも通りの基礎修練?」

「ああ。鬼殺において最も重要なのは、体力だ。どれだけ力が強くとも、すぐに息切れしてしまうのならば使い物にならん。せめてこの狭霧山を半日間駆け回れるようにならねばな」

「うへぇ……」

 

 このだだっ広く凸凹だらけの山の中を半日間。いまだ普通の感性を維持している私にはそれが途方も無く無茶な目標に見えてしまう。

 

「じゃあ、義勇と錆兎の二人はどうするの?」

「……俺たちはいつも通り自主的な修練だ。あの大岩を斬るには、まだ体が未熟だからな。そのためにも焦らずゆっくり、着実に鍛えなければならない」

「だな」

 

 大岩――――鱗滝さんが二人に課せた最後の試験。それは大人の身の丈をも超える岩を刀で真っ二つに叩き斬れ、というどう考えても無理としか思えないものであった。私は最初それを聞いたとき「馬鹿じゃないの」という言葉が口から飛び出たのは記憶に新しい。

 

 しかし全集中の呼吸……鬼殺隊に要求される基本技術であるそれを間近で何度も見ていれば、それが絵空事でないことはすでに理解している。

 

 岩を刀で斬る。きっと二人は近いうちに成し遂げられるだろう。当てのない勘ではあるが、それはほぼ確信に近かった。

 

 では、私は? 例え長い修練を終えたとしても、私はあの大岩を斬れるのだろうか。

 

 自信は、まだ無い。

 

「ふーん。具体的にはどんなふうに?」

「基本は走り込み数時間、素振り千回、模擬戦五本、崖登り、滝行一時間、丸太運び数十往復……とにかくやれることは全部やる」

「うわぁ」

 

 正直引いた。もしや目の前の少年たちは自殺志願者か何かなんだろうか。というかもしかして今並べた修業はいつか将来私もやることになるのか? ……マジか。

 

 私が半眼になりながら二人を眺めていると、錆兎が顎を摩りながらポンと何かを思いついたように手の平を拳で叩く。

 

「もしかして、真菰は俺たちの修行に興味があるのか?」

「え? まあ、そうだね」

「なら、今日一日俺たちに付いてきてみるのはどうだ? 見るだけでもいろいろと学べることはあるだろう」

「それは……」

 

 見たいか見たくないかと言われれば、無論見たいに決まっている。未だ未熟な身だからこそ、そのはるか先を進んでいる二人の動きを綿密に観察して見えてくるものもきっとあるだろう。

 

 ただ、鱗滝さんがそれを許してくれるかどうか……。

 

「……一日程度、好きにしても構わん。怠ける目的でないのならば、儂から言うことは何も無い。ただ、あまり一人で行動するな。今の時期は獣が多い」

「えっ、ホントに!? やったぁ~!」

 

 思わぬ許可を貰ったことで私はついつい気が浮足立ってしまう。だがこれはこの上なく良い機会だ。二人の動きを可能な限り見て盗み、今後の修練に役立てなければ。

 

 そうすれば……少しは、自信もつくだろうか?

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「フゥゥゥォォォォオオオオオオオオッ!!」

「だりゃぁぁぁあああああっ!!」

「うわぁ……」

 

 錆兎と義勇の二人が雄たけびを上げながら、半裸の状態で五十貫(約百五十キロ)はあるだろう、丸太を束ねた重りを押し込んでいく様を見て思わずそんな声を漏らしてしまった。

 

 一体あの小さな体の何処からそんな力が眠っているのか。呼吸の力ってすごい。私は改めてそう思った。

 

「っ……ふんっ、っしょっとぉ!!」

「よし、これでっ……ぷっはぁぁぁぁ……!」

 

 地面を抉りながら丸太をおよそ十五間(約三十m)押した所で二人はその動きを止めた。地面に着けた目印にピッタリだ。本当に押し切るとは、と私は驚嘆の表情で固まってしまう。

 

「はぁっ……はぁっ……三日前より、確かに伸びてるな」

「ああ。少しずつではあるが、俺たちが成長している証拠だ。こうして目でわかるものだと、やはり自信が付くな、義勇」

「……ねえ、二人とも。私もちょっとやってみていい?」

「「え?」」

 

 私の言葉が予想外だったのか、地面でへたり込んでいる二人が間抜けな声を出した。まあ、女の子である私が自分から率先してやるなんて思わなくて当り前か。

 

 だが、私とて二人と同じ鱗滝さんの弟子の一人。二人に負けたくない一心で、私は二人が押していた丸太の重りの前に立つ。

 

「すぅぅぅぅ……ヒュゥゥゥゥゥウウウ……!」

 

 丸太の幹に両手を添えて、教えられた通りの呼吸法で全身の血肉を活性化。身体能力が飛躍的に上昇を始め、丸太を圧す力が段々と強くなり始めた。

 

 だが――――

 

(っ……! 動か、ないッ……!!)

 

 ピクリとも動かない。当然だ。呼吸はあくまで身体機能を増幅させるだけ。地力が低ければ倍化しようと高が知れる。だけど私はそれでも諦められなくて、両手から嫌な音が聞こえ始めても手を止めず。

 

「やめろ、真菰」

「!」

 

 越えてはいけない一線を越えてしまいそうな寸前、義勇が私の着物の襟を引っ掴み、無理矢理重りの前から引き剥がした。そうしてようやく表れ始める両腕からの激痛に、私は思わず顔を渋めてしまう。

 

「……痛い」

「当り前だ。何で出来ないことを無理にやろうとするんだお前は。……少し休んで、冷静になれ」

「うん……」

 

 錆兎からの説教がグサグサと突き刺さってきた。こちらが勝手に無茶をしての自爆だ。反論の余地も無い。

 

 冷静になって振り返れば、自分が早まった真似をしたのが嫌でも理解出来て、自己嫌悪の黒い感情が淀んだ心の渦を更に濁らせてくる。焦っては駄目なのに、不安と言う獣が際限なく私に食らいつこうとしてくる。

 

 落ち着いて。駄目、鱗滝さんも言っていたじゃない。大事なのはどんな事があっても静寂を保てる精神だって。

 

「ごめん、ちょっと散歩してくるね」

「ああ。……あまり遠くに行くなよ」

 

 私はバツの悪い顔をしながら、二人にそう告げながら静かにその場を離れた。

 

 やりたいことが一杯あるのに出来ることが少ない。早く強くなりたいのに。早く鬼を倒せるようになりたいのに。

 

 ――――何のために?

 

 決まっている。私の様な者をこれ以上作らないために。守るために。

 

 ――――本当に?

 

 嘘じゃない。確かに私が決めた目標だ。決して偽りなんかじゃない。

 

 ――――本当に、()()()()

 

 

『真菰! 押入れに隠れなさい! 早く!』

 

『大丈夫だ、お父さんは強いからな。真菰、父さんと母さんが必ずお前を守ってやる』

 

 

「違う……」

 

 確かに偽りでは無い。だが、それだけでは無い。

 

 ああ、そうだ。これは、怯えだ。鬼に対する恐怖、失うことへの恐怖。そして――――()()()()()()()への、恐怖。

 

 私には鬼殺隊になる以外の選択肢があった。義勇の姉、蔦子さんの養子となって平和に生きる道が。彼女の人なりを見れば、きっと私を我が子のように可愛がってくれるだろうと言う事は想像に難くない。

 

 ――――だが私はそれを選ばなかった。

 

 何故? ……怖かったのだ。失うのが、無力なせいでもう一度大切な存在を手から取り零すのが。

 

 何より――――あの時、己を庇ってくれた父と母を見殺しにした私に、幸せになる資格なんて、無い。

 

 無いんだ、私なんかには。自分だけ楽な道を進む権利なんて

 

(お父さん……お母さん……)

 

 二人の顔を毎日のように夢で見る。だが決して良い夢などでは無い、あの晩に起こった悪夢が何度も何度も、私に忘れるなと言うかのように意識の底から浮かび上がってくる。

 

 これは戒めなんだ。自分たちの死を背負って生き続けろと言う、二人からの罰。

 

 だから、だから……早く強くなって、鬼を殺さなきゃいけないのに。怖い、怖い、怖い……!!

 

「……お父さん、お母さん……二人に会いたいよぉ……っ」

 

 心の蓋を押し出して溢れ出した感情の名は、寂寞。

 

 この手に遭ったはずの温もりをもう一度手に入れたい。例え出来ないとわかっていても、一度知ってしまった甘い蜜の味は決して忘れることなど出来やしないのだ。

 

 

 ――――怖い。寂しい。苦しい。辛い。逃げたい。憎い。殺したい。妬ましい。

 

 

「ひっ……!? いや、なんで、なんでぇ……!?」

 

 奥底に秘めていた感情が抑えていた蓋が取れてしまったことで止めどなく溢れ始める。

 

 自分でも自覚していなかった真っ黒に濁った感情の数々。もう一度押し込もうとしてもできない。心が言うことを聞いてくれない。体が震えて、涙が無情に流れ始める。もはや、自分の心身の手綱すら握れなくなったのか、私は。

 

「やだっ、やだやだやだぁっ……! 助けてっ、誰かぁ……!!」

 

 自分でもどうすればいいのか全くわからなくて、私はその場で頭を抱えて蹲りながら、情けない声を上げるしかなかった。

 

 助けてください。誰でもいいから、こんな醜い私を、罰して――――

 

 

「グルルルルルルゥ……」

 

「え?」

 

 

 ズン、ズンという足音と獣の様な唸り声が聞こえて、私は俯いていた顔を上げた。

 

 とても大きな影が視界を覆っている。そのまま上へと視線を移し、体勢が崩れて尻もちをついたことにも気づかないまま、私はそれを唖然としながら呑気に眺めた。

 

 涎を滝のように垂らす、両足で立ち上がった七尺(三m)はあろう巨大な熊を。

 

『あまり一人で行動するな。今の時期は獣が多い』

 

 ふと思い出したのは、鱗滝さんのそんな言葉。

 

 その忠告は、残酷なほどに的を射ていた。

 

「ひっ、あ、あぁ」

「フゥゥシュゥゥルルルルルルル……」

 

 本能を訴える恐怖。生物的絶対者と相対した弱者としての警鐘が、壊れるのも厭わない程に音を鳴らしていた。

 

 反射的に体を引き摺るように後ろへと移動させようとするが、それに合わせて熊が大きな一歩を進める。涙と共に股から生暖かい何かが漏れた。

 

 そしてバキリ、と何かが手の平の重みで折れて。

 

 

 

「オオォォォオォォォオォォオオオオオオオオオオッッ!!!」

 

 

 

 飢えた巨獣が爆発のような雄たけびを上げた。

 

「いやぁぁぁああぁあぁぁああああああ――――っ!!!」

 

 私は全ての生存本能に任せて逃げ出した。それが熊の狩猟本能を刺激したのか、熊はその鋭い牙を見せつけながらその四脚でこちらへと突進してくる。その勢いは巨体ながら尋常では無い速さだった。

 

「グルァァァアァァアアアアアッ!!」

「やだっ、やだぁぁあぁぁあああ!」

 

 こんな状況で正確な呼吸などまともに行えるはずもなく、私は錯乱したままひたすら走り続ける。だが熊は、人より早い。何より山中という慣れない悪地で、私が万全な走りを出来るはずもなく。

 

 熊が跳ぶ。その前脚を振り上げる。それを視界の端で捉えた私の頭が出した結論は当然。

 

 

 死。

 

 

 

『お父さん、お母さん! 私ね、私ね。将来二人に腹一杯ご飯を食べられるように店を大きくするのが夢なんだ~』

 

 何年前の出来事だろうか。それが鮮明に脳裏を駆け巡る。現実では一瞬で、しかし頭の中では酷くゆったりとして再生されていく懐かしい記憶。

 

『あら~、真菰は良い子ねぇ。優しくてかわいいなんて、将来真菰を嫁に貰う子が羨ましいわぁ』

『そうだなぁ。きっとそいつは世界一の幸せもんだよ、くそぅ!』

『ん~……お父さんとお母さんは、夢とかないの? 私が頑張って叶えてあげる!』

 

 何ともまあ、子供らしく純粋で馬鹿らしい言葉だろうか。だけど、ああ、幸せだった。父と、母と、三人で暮らす日々こそ、私にとっての太陽だったのに。

 

 どうして、どうして、私だけが。

 

『お父さんとお母さんはねぇ、真菰が幸せになってくれるのが夢なのよ~』

『そうだ。父さんと母さんの可愛い娘が幸せになってくれる以上に嬉しいことなんてあるもんか』

『うーん……じゃあ、二人の夢は叶ってるね! 私は今すっごく幸せだから!』

『うふふ、そうねぇ! その通りね、真菰!』

『はっはっは! そうだ、明日も明後日も、来年も、今日みたいに家族みんなで生きていこう。それだけで――――』

 

 それだけで、よかった。

 

 それだけで、幸せだった。

 

 

 ――――真菰。

 

 

 幻影だろうか。真っ暗な場所で、父と母が手を繋ぎながら、私を見ている。ああ、よかった。そこに居たんだ。

 

 待っててね二人とも、今私もそこに――――

 

 

 ――――駄目だよ、真菰。お前はまだ来ちゃだめだ。

 

 

 なんで……? どうして!? 私は二人と一緒に居たいのに!?

 

 

 ――――真菰、お前にはまだまだやれることが沢山ある。まだ幸せになれるんだ。それを捨てて、こっちに来てはいけないよ。

 

 

 二人がいない世界なんて要らない! お父さんとお母さんが隣にいない世界なんて、私には耐えられない!

 

 

 ――――お友達の事はどうするの? 天狗のお爺さんも置いて行って、身勝手な理由でみんなを悲しませるの?

 

 

 ……それ、は。

 

 

 ――――……真菰、先に逝ってごめんな。不甲斐ない俺たちを許してくれ。俺たちの分まで生きてくれ。

 

 

 ――――幸せになるのよ、真菰。それが、私たちの幸せなんだから。

 

 

 両親の姿が遠くなっていく。やだ、行かないで。私を置いて行かないでよぉ……!!

 

 

 ――――生まれてくれてありがとう、()たちの、可愛い娘。――――

 

 

 

 

 

 景色が戻る。目の前には迫りくる熊の爪。

 

 先程までの情けない心は既に無い。何をすればいいのかも、もうわかっている。

 

 そうだ。私は生きるんだ。

 

 お父さんとお母さんの夢をかなえるために。私を家族と思ってくれている人を悲しませないために。これ以上私の様な人を生まないために。

 

 生きて、戦い続けるんだ――――!!

 

 

「ヒュゥゥゥゥゥゥウウウウウウ――――ッ!!!」

 

 

 全集中の呼吸により励起される全身の筋肉。飛躍的に上昇した身体能力を以て、私は両足で地を踏みしめ――――跳ぶ!!

 

「グルォォッ!?」

「たぁぁぁぁぁあああああああッ!!!」

 

 目の前の兎が突如変貌したことに驚いたのか、熊は困惑の声を漏らしながら爪による一撃を空振りした。間髪入れず、その間抜けな顔に私の上段蹴りが叩き込まれる。

 

 熊の頭を弾き飛ばす代償としてミシリと悲鳴を上げる脚の骨。激痛に苦悶の表情を浮かべながら、私はそのままゴロゴロと地面を転がった。

 

「はぁっ、はぁっ……うぅぅぅっ……!」

 

 私は息を荒げながらもすぐさま身体に鞭打ち、痛む足を引きずって可能な限り熊と距離を取ろうと試みた。熊の頭蓋骨は猟銃の直撃すら耐える。ちょっと強くなっただけの小娘の蹴りなどで仕留められるはずもない。

 

 あの蹴りで多少は怯んだ筈だ。その隙に出来るだけ遠く、遠くに。最後まで足掻け――――!

 

「ウゥゥゥルルォォオオオオオオオッ!!」

「ッ………ぐ、ぅぅっ」

 

 非情にも頭から血を流しながらヨロヨロと予想よりもずっと早く立ち上がる熊が見える。反撃も防御も逃走も不可能。

 

 それでも私は諦めない。諦めて堪るか。両親と約束したんだ、二人の夢を叶えるって。

 

 幸せに、なるって。

 

「オオォォォォオォォオ!!!」

「うあああああああああっ!!!」

 

 咆える。反抗するように、喉が痛むのを無視して高らかに咆える。これが今の私にできる精一杯の抵抗だ。

 

 ならば例え無意味であっても、全力で成せ。私――――!!

 

「!!!」

 

 熊が一瞬だけ、ほんの一瞬ではあったが、硬直した。私の威嚇が効いたのだろう。だが一秒にも満たない時間だ。必死の叫びは私の寿命はちょっぴりだけ延びた。

 

 爪が振るわれる。小娘の命など簡単に刈り取れる凶爪が。

 

 だが、それが私に届くことは永遠になかった。

 

 

「――――おい、熊野郎」

 

 

 何故なら、爪先が皮膚に触れた直後その腕が斬り飛ばされ、空を舞ったのだから。

 

 目の前で宍色の髪と鋼色の刃が揺れる。

 

「俺の家族に……何してんだぁぁぁぁぁああああああああッ!!!」

 

 一瞬で決着はついた。

 

 熊は突如現れた脅威に反応することすらできず、その五体を瞬きする間にぶつ切りにされた。四肢と頸を斬り飛ばされた熊の胴体からは噴水の様に鮮血が散り、それが私と目の前の少年――――錆兎へと降りかかる。

 

「あ……」

「真菰、無事か? っ、右足が腫れてるぞ! 熊にやられたのか!?」

「う――――」

 

 恐怖から解放され、身体をこわばらせていた力が抜ける。その瞬間からぶわっと溢れ出す涙と鼻水。

 

 私は恥も外聞も無く錆兎に抱き付いて号泣した。

 

「うわぁぁあぁあああぁああああぁあああああん!! ごわがっだよぉぉぉおぉぉおぉぉぉぉおお!!」

「ちょっ、真菰お前鼻水! 鼻水が顔に付く!?」

「わぁあぁあぁあぁぁああぁぁぁあん!!」

 

 もう絶対離れないと言わんばかりに私はぎゅーっと身体に抱き付いて錆兎を放さなかった。文句なんて知らない、泣いてる女の子くらいちゃんと慰めろ、この馬鹿。

 

「――――錆兎! 真菰! 無事か!」

「ああ、俺は無事だが……真菰が怪我をしている。今日の鍛錬は打ち切って、早く帰ろう」

「わかった。……ところで錆兎、真菰の着物に血じゃない染みがあるようだが」

「は?」

「――――――――――」

 

 五分ほど経って、私の号泣も落ち着いたころにようやくやってきた義勇。こちらを心配して声をかけてくれたまでは良かった。そこまでは何も文句はない。

 

 だが変な所で鋭い彼は、私の股から広がる何かの染みを見て首を傾げている。

 

 義勇、お前は知り過ぎた。

 

「義勇」

「え? なんだ、真こ」

 

 言葉を遮るように必殺の右拳を義勇の頬に叩き込む。かなりいいものが入ったのか、彼は先の言葉を口にすること無くそのまま地面に崩れ落ちた。

 

 私は何も言わずに錆兎の方に振り向く。

 

「錆兎、おぶってくれるかな?」

「あっ、はい」

 

 今日、私は色んな意味で大きく成長した。肉体的にも、精神的にも。

 

 

 お父さん、お母さん。ごめんなさい、態々私のところまで来てくれて。

 

 そしてありがとう、落ち込んでいる私を励ましてくれて。

 

 私、怖がらずに幸せになってみるよ。

 

 幸せになって、最期まで生きて、そして今度こそ向こうで、二人と――――

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 私は言いつけを破って一人で山をうろついたことと、非常時とは言え無茶をしたことを鱗滝さんに怒られつつも、無事後遺症等なく復帰することができた。所詮はちょっと強めの打撲だ、薬を塗って食べて寝たら大体直っていた。

 

 そしてある程度歩くことができるようになった私は、すぐにある事を鱗滝さんからの許可の元行うことにした。

 

 別にそう特別なことでは無い。ただ、作らなければならない物を思い出しただけだ。

 

「………………お父さん、お母さん。私の事は心配しないで、ゆっくり休んでね」

 

 両手を合わせて祈りを捧げる私の目の前には、大きめの石が山状に積み上げられた物体が二つ程あった。それは私の手製のお墓。不格好で、とても自慢できるような出来ではないが、それでも二人のお墓は私が作りたかった。

 

 二人の遺体はもう見つからなかった。鬼に食われたのだから、当然だ。その代わり、墓の下で眠っているのは売り払った家から持ってきたわずかばかりの両親の遺品。

 

 そんな物しか用意できなかった私を許してください。そしてどうか、安らかに。

 

「真菰、大丈夫か?」

「あ、錆兎」

 

 何分も黙祷を捧げていると、心配そうな錆兎が声をかけてきた。今の私は、そこまで思いつめた表情をしていたのだろうか?

 

「私は大丈夫だよ。心の整理は、もう付いたから」

「そうか。……すまない。あと一日早く駆けつけていたら、お前は「それ以上は駄目だよ」え……」

 

 錆兎は優しい子だ。だから私の事を気にかけてくれる。それについては素直に感謝している。

 

 だけど、それは駄目だ。両親の死の責任は、彼が背負うべき物では無いのだから。

 

「私の両親は鬼のせいで死んだの。錆兎や義勇のせいなんかじゃないよ」

「だけど……お前は、恨んだりしなかったのか? 間に合わなかった、俺たちの事を」

「やだなぁ、そんなの一度も無いよ。私だって恨むべき対象の区別くらいはつくよ。だけど、そうだねぇ。……嫉妬は、したことがあるかな?」

「嫉妬?」

 

 私はここ数ヶ月の間で独り溜め込んでいた嫌な感情を、少しずつ零し始めた。大丈夫、きっと三人ならば、受け止めてくれる、そう信じて。

 

「羨ましかった。お父さんとお母さんの仇を討てた二人が。私はきっと……自分の手で仇を取りたかったんだと思う。でもできなかった。あの場に居た私は結局、足を引っ張っただけだった」

 

 仇を討ってくれた事は感謝している。だけど心の中で引っかかっていた棘は、そんな身勝手なもの。

 

「だから今度こそ自分の命で大切なモノを守れるように、奪われても仇を取れるように、早く強くなりたかった。二人みたいに。だけど……やっぱり、感情だけじゃどうにもならないんだね」

 

 時間が足りない。強くなるには余りにも道のりは長く、そして踏み出せる一歩は短すぎた。

 

「怖いよ、錆兎。鬼と戦うのが、また大切なものが奪われるのが。私は怖い」

「……怖いなら、戦うな。お前にはそうする権利がある」

「うん。だけどね……怖いものから目を逸らし続けて、大切なものを奪われても見て見ぬふりをするのは、もっと怖い。それじゃあ私は、幸せになれない」

 

 だからようやく決意が出来た。私は強くなる。戦い続ける。自分の手の平から何も零さない様に。自分や誰かの幸せの箱を満たすために。

 

「約束したんだ。お父さんとお母さんの夢を叶えるって。幸せになるために生きるって」

「そう、か。……いい両親だったんだな」

「うん」

 

 錆兎の称賛に素直に顔を上下させながら、私は踵を返して錆兎と向き合った。

 

 優しい顔だ。血が繋がってい無くても、鱗滝さんとよく似た優しい顔。ああ、本当に、この顔を見ると心臓の鼓動が早まっていく。おかしいな。義勇の笑顔を見ても、こんな風にはならないのに。

 

 厳しさの中に隠れる底なしの優しさ。

 

 いつも家族として見守ってくれている暖かさ。

 

 決して甘やかしたりせず、私の事を正面から見てくれる誠実さ。

 

 そんな少年の静かに燃える情熱の炎に中てられてしまったのだろうか、私は。

 

「……真菰、空を見てみろ。初雪だ」

「あ」

 

 ハッと気づいたように錆兎が呟き、それに従って私は空を見た。確かに曇り空からは小さな白い結晶がゆっくりと地に降りてきている。

 

 今はもう十二月の上旬。少し早めではあるが、初雪が降ってもおかしくない時期だ。

 

「綺麗だな」

「そうだね。……ねえ、錆兎。丁度いい機会だから聞いてみたいことがあるんだけど」

「うん? 何を――――」

 

 錆兎が言葉を言いきる前に、私は少しだけ背伸びをして彼の顔に近付いて。

 

 

 小さく、口づけをする。

 

 

「――――――――――――――――」

「私と初めて口づけしたとき、どんな感じだったのかなって。聞いてみたかったんだ」

「なっ、な、なななななっ……!?!?」

 

 完全な不意打ちにこれ以上無く顔を真っ赤にして焦り出す錆兎。ほうほう、中々に新鮮な表情と反応に私はとっても満足感を覚えた。これは弄り甲斐がありそうだ。

 

「ねえねえ、どんな感触だった?」

「そ、そんなの覚えてる訳ないだろっ!? 戦いの最中だったんだから……」

「ふーん。女の子の初物を奪っておいて覚えて無いで済ませるんだぁ」

「アレはお前からしてきたんだろっ!?」

「そっかぁ。そっかぁ。錆兎はそういう男だったんだねぇ。残念だなぁ」

 

 へらへらと挑発するように言うと、錆兎は全身をわなわなと震えさせていく。それがついつい楽しくて、私は自然と口角が上がっていくのを感じた。

 

「………柔らかかった」

「ん~? 聞こえないなぁ~」

「あああああもうっ! 何でもいいだろっ!? 帰るぞ俺は!」

「んふふふ……錆兎」

「何だ!?」

 

 顔を羞恥で真っ赤にしながら逃げようとする錆兎の手を捕まえて、私はその隣を歩く。今はまだできないけど、いつかその隣で一緒に戦いたい。そう示すように。

 

「錆兎も義勇も、私を置いていなくならないでね」

「…………ああ」

 

 三度目の口づけは、どんな味がするのだろうか。

 

 将来の出来事に思いを馳せながら、私は歩き出した。

 

 

 

 

 




誰だって黒い感情の一つや二つ持ってるよねって話。十二の子供が両親を失った悲しみで自罰的になるのいいよねよくない。
だからこうして甘々なイチャイチャを挟むことで中和するね……(CP厨並感)


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第玖話 水と炎

最近本誌読んでいて感想が「無惨様早く死なねぇかな…」しか出てこない



 最終選別からおよそ十五日後。

 

 俺は早朝に家の前で今までの日課であった基礎鍛錬を行っていた。選別から帰った俺の体はかなりの損傷を内部に負っており、二週間ほど激しい運動は禁じられていたのだ。

 

 そして禁止令が解かれて、俺は鈍った身体を元に戻すために一時間以上身体をゆっくりと、内側から温めるように動かし続ける。

 

「ふーっ……ふーっ……」

 

 一番重要なのは、呼吸だ。深く、ゆっくりと、長く、全集中の呼吸を繰り返す。身体への負担を最小限に、そして呼吸の効果を可能な限り長く続かせるように。呼吸の負担を身体に慣らすように。

 

 この二週間、激しい運動が禁じられていたとはいえ何も寝たまま時間を無為に過ごしたわけじゃない。身体の傷を悪化させない程度には全集中の呼吸をできる限り長時間行う練習をずっと続けていた。

 

 即ち――――全集中の呼吸・常中(じょうちゅう)。常に全集中の呼吸を行い続けて身体に負荷をかけ続ける事で基礎体力を飛躍的に上昇させる技法の一つ。柱、鬼殺隊最高位の隊員にとっては基本中の基本であるこれを、俺は不完全ながらも会得していた。

 

 流石に戦闘中ほどの強さで呼吸を常に行うことはまだできない。が、休息中に呼吸を行い続け、負傷個所の細胞を活性化させることで自然治癒能力を増加させるという技を俺は長い練習の成果として手に入れることができた(ちなみに錆兎も同様の鍛練中である)。更に筋肉の劣化も防げる一石二鳥。

 

 おかげで復帰したばかりだと言うのに身体の鈍りは最小限まで抑えられている。これならば今すぐ任務に出発するとしても、十分実戦に耐えられるだろう。

 

「――――朝から精が出るな、義勇」

「錆兎。早いな」

 

 基礎鍛錬の締めとして指三本ずつでの逆立ちをしていると、逆さまになった錆兎の顔が目に入った。予想よりも少し早い起床。やはり彼も待ちきれないのだろう。今日届くだろう、己のために用意された日輪刀が。

 

「そろそろ戻れ。()()()()が朝食を用意してくれている」

「ああ、わかった」

 

 逆さまになった身体を戻して、顔を濡らす汗を布で拭きながら俺は味噌汁と漬物の香る家の中に戻った。囲炉裏の上に吊るされた鍋をかき混ぜる鱗滝さんと、食器の用意をしてくれる真菰の姿。

 

 これも今日でしばらく見れなくなると思うと、妙に寂しい気分になる。

 

「真菰、お前も早かったな。てっきりまだ寝ているものかと」

「今日で二人とも任務に行っちゃうからね。見送りくらいはちゃんとしないと」

「さあ、座れ三人とも。今日は米を炊いた。美味しく頂こう」

「「「はい!」」」

 

 俺たちは囲炉裏を囲み、目の前に置かれた食事を前に手を合わせて「いただきます」と一礼。早速ほかほかの白米を一口。

 

 炊き立ての暖かみと噛むたびに滲み出る甘味が実に舌を躍らせてくれる。

 

「美味い。やはり炊き立ての米は最高だな」

「ああ。鮭大根があれば尚良かったのだが」

「もう、義勇ったらいつも鮭大根鮭大根って……他に何か好きなものは無いの?」

「……この前町で食べた干し葡萄入りのパンが美味かった」

「流石にパンは作れないかなぁ」

 

 蔦子姉さんの所で入院療養生活していた時に、姉さんが街で買ってきた干し葡萄パンが妙に美味かった記憶がある。機会があったら是非また食べたい。

 

「――――そう言えば義勇。結局お前の顔に浮かんだ痣については、何もわからなかったな」

「……ああ」

 

 ふと思い出したかのように飛んできた錆兎の言葉に、俺はできる限り平静を装ったそっけない返事しか返せなかった。

 

 痣……戦闘時に鏡を見ることなど出来やしないためこの目で確認できてはいないのだが、錆兎はあの手鬼との戦いの際に俺の顔にそんな物が浮かび上がったのを見たという。

 

 そして、俺もその存在に心当たりがあった。

 

 鬼の紋様によく似たその痣は即ち――――”痣の者”として覚醒した証。

 

 痣を発現させたものは人の身でありながら鬼に匹敵する強さを発揮する。少なくとも痣を発現した俺はまだまだ未熟な体でありながら鬼の動体視力を振り切るほどの身体能力を得ていた。

 

 ただし、その代償は非常に重い。こんな強力な力が無償で得られるはずもない。

 

(……寿命の前借、か)

 

 原理は不明だが、この痣を一度でも発現させたものは特異な例外を除けば二十五歳で死ぬ運命を強いられる。俺は運命を捻じ曲げるために、既に引き返すことのできない一線を踏み越えてしまったのだ。

 

 だが、後悔はない。何しろこの痣が発現したのは恐らく最終選別時ではなく……蔦子姉さんを助けるためにもがいたあの時だ。

 

 俺がそう確信できたのは、痣を出して二度目。錆兎を助けるために駆けたあの瞬間。身体の底から熱と共に何かが湧き上がる感覚は、間違いなく蔦子姉さんを助ける際に爆発的な身体能力を発揮した瞬間と同じだった。

 

 つまり俺は、一年前にもう痣を発現してしまったのだ。本来あるべき未来を自分勝手に捻じ曲げようとした代償として。

 

 しかし後悔の二文字は無い。救いたい人を救えたのだ、何を後悔する必要があるだろうか。

 

 それに、まだ十二年も時間がある。

 

 それだけあるならば、やれることは沢山ある。

 

「……義勇? どうした?」

「いや、何でもない」

 

 当然俺はこれらの事を皆に伝えてはいない。伝えた所で良いことなど何もない。三人を気落ちさせるだけだし、真面目な錆兎は変な責任感を抱きかねない。例えこの痣の発現が彼をきっかけにした物では無かったとしても、だ。

 

 友人の寿命が十年ちょっとしか残されていないなど、聞いて楽しい話でもないだろう。

 

 無論、いつか話さなければならない時は必ず来るだろうが……。

 

「――――すみません、刀鍛冶の里の者ですが」

 

 丁度食事を終える頃、家の戸がコンコンと叩かれた。ついに来たか、と俺と錆兎は浮足立つ気持ちを抑えつけながら足早に戸を開いた。

 

 するとひょっとこの面を被った黒髪の男が姿を現した。

 

「どうも」

「む……」

「うわっ」

 

 このお面を付けているという事は彼は刀鍛冶の里の者で間違いないだろう。刀鍛冶の里の者は全員が例外なく何故かひょっとこの面を付けている。

 

 俺は前もって知っていたため表情から感情が少し抜け落ちるくらいで済んだが、錆兎は目に見えて引いていた。まあいきなりひょっとこの面を付けた男を見たらそうなるのも無理はない。わかるよ。

 

「この臭い……お主、鉄穴森(かなもり)の倅か」

「ご無沙汰しています、鱗滝様。私の名は鉄穴森鋼蔵(こうぞう)と申します。父が世話になったようで」

「いいや、世話になったのは儂の方だ。お主の父の刀は実に素晴らしいものであった。……こほん、世間話は後にしよう。早く上がるといい」

 

 鉄穴森鋼蔵と名乗った男性は一礼後家に上がり、早速背負っていた細長い木箱を床へと置いた。

 

 そして蓋をカパッと開くと、藁などの緩衝材に包まれた黒鞘の刀が日の光を浴びて輝き出す。

 

「こちらが黒髪の子の刀で、こっちは宍色の子の刀ですね。どちらも手によりをかけて硬く鋭く仕上げていますよ。多少乱暴に扱っても大丈夫なはずです」

「二人とも、言われてるよ」

「あ、あはは……」

「……すみません」

 

 錆兎は刀を乱暴に扱った挙句死にかけたことを思い出して、俺は元々破損していたものをそのまま使ったとはいえ技を乱発しすぎて刀を原型を留めない程粉々にしてしまったことを思い出して苦笑いを浮かべる。

 

 【拾壱ノ型 凪】。やはり改良と洗練の余地はまだまだ残っていそうだ。

 

「早速抜いてみてください。きっと綺麗な水色に変わりますよ」

 

 そう言われた俺たちは、早速日輪刀を鞘から引き抜いた。

 

 するとどうだろうか。俺の刀は根元から滲むように黒の混じった藍色へと変化したではないか。

 

 初めて色が変わる瞬間を見た俺は驚嘆の声しか出せなかった。

 

「ほう、綺麗な藍色ですね。良い色です。純色ではありませんが水の呼吸に中々の適正を示していますよ」

「凄い凄い! いいなぁ、私も早く日輪刀欲しい~」

「あと一年待て。それで錆兎、お前さんの方は――――……むぅ」

「あっ……」

「…………」

 

 視線を錆兎の刀に移した鱗滝さんから、少しだけ呻くような声が聞こえた。それに反応して俺と真菰が視線を動かせば――――

 

 

 ――――色鮮やかな、血の様な深紅が陽光を反射して光っていた。

 

 

「……赤系統、と言う事は炎の呼吸に適正がある。と言う事ですね」

「……そうだな」

 

 非常に、気まずい雰囲気だ。何せ錆兎は長年修行してきたものが己に合っていないものであったと突きつけられたのだから、どう声をかければいいのか。

 

 だがこういった事態はよくある事だ。日輪刀はある程度の腕前を持つ者が持たなければ色は変化しないため、修行を終えた後に「実は違う呼吸の方が適していた」と判明する場合は少なくない。そして今回それが現れてしまった。

 

 錆兎は刀を見てバツが悪そうに苦笑を浮かべ、何も言わずに刀を鞘へと納める。

 

「気にしないでくれ、義勇、真菰、義父さん。違う呼吸に適正があったからと言って、今まで積み上げたものが無意味になった訳じゃない。違うか?」

「うん……そうだよね。じゃあこの際だし、錆兎は水と炎両方極めてみる?」

「なぜそうなる」

「……すまんな、錆兎。後で炎の呼吸に詳しい所への紹介状を書いてやる。今の儂ができる精一杯だ」

「ああ。ありがとう、義父さん」

 

 だが錆兎は決して挫けることは無かった。そうなるとは露ほども思っていないが、やはり錆兎は強い男だ。それに適正の無い水の呼吸で此処までの強さを出せるのだ。適正のある炎の呼吸を覚えたらどうなるのか実に気になる。

 

 いや、いっそ水と炎を合わせて新たな呼吸を作り出すという事も――――

 

「――――カァー! カァー! 伝令! 伝令! 南南東ノ町ニテ鬼ノ仕業ラシキ被害ノ報告アリ! 冨岡義勇ハ速ヤカに急行セヨ! カァァァ!」

「――――カァァァ!! 鱗滝錆兎、北東ノ山中ニテ行方不明者ヲ多数確認! 至急調査シ、鬼ニヨルモノカ確カメヨ! カァーッ!!」

「「!!」」

 

 玄関の戸の隙間から烏、俺たちにつけられた鎹烏が甲高い声を上げながら飛び込んできた。そして口から放たれる鬼狩りとしての最初の指令を聞いて、俺たち二人はぐっと口元を引き締める。

 

 それから俺たちは素早く寝間着を脱いで支給された隊服へと着替えた。刀を含めたその他諸々の小道具も忘れずに身に付けたことを確認し、俺たちは家を出て、振り返る。

 

「義勇! 錆兎! 頑張って!」

「……お前たち、死ぬなよ」

「ああ、勿論だ」

「心配には及ばない」

 

 これで二人とはしばらく会えなくなるだろう。鬼殺隊の隊員には基本的に休みはほぼ無い。あっても大怪我をした際の休養期間くらいだ。無論近場に鬼が全ていなくなったのならば暇は出されるかもしれないが、あまり期待しない方が身のためだろう。

 

 一応最終選別での鬼殺隊の落ち度の保証として週一での休みが保証されているが、たかが一日だ。その程度では顔を見せる程度で精一杯だろうし、そもそも俺たち二人はその権利を使うつもりは無い。

 

 半端に一日休むくらいなら、一匹でも多く鬼を狩る方が余程有意義だからだ。

 

「それと義勇。お前が新しく作り出した型についてだが」

「はい」

 

 突如鱗滝さんに言われて、俺は身体を硬直させた。

 

 新たに作り出した型である【拾壱ノ型 凪】。この技については既に錆兎や真菰、鱗滝さんに報告済みだ。その原理はただ超高速で刀を振って攻撃を無効化するという単純明快な技。

 

 しかし、完成度はまだほど遠い。今の俺では一度の戦闘に二、三度使うのが精一杯だろう。それ以上は刀に負担を掛け過ぎてしまうからだ。洗練の余地は数多く残されている。

 

 故に鱗滝さんはこの技に不満を持っているのかもしれない。そう思ったのだが――――鱗滝さんから出てきた言葉は俺の予想と反していた。 

 

「あまり難しく考えるな。水の呼吸に存在する拾の技も、先人たちが少しずつ継ぎ足していった結果の産物だ。あの型がお前にとって次代に受け継がれるべきものだと確信できたのならば、遠慮なく伝えるといい」

「……はい!」

 

 言われて俺は気づく。そうだ、今俺が使っている技も先人たちが少しずつ作り上げ、磨き上げた物だ。であるならば、それに匹敵するくらい技の完成度を磨き上げる自信があるのならば、気後れする必要など無い。

 

 やはり師は偉大であった。こんな簡単なことに気付かせてくれるとは。

 

 

「――――行け、二人とも。己という名の刀を磨き上げ、熱し、鍛え、研ぎ……鬼を滅する刃となれ」

 

 

 師の言葉を背に受けながら、俺たちは今度こそ振り返らず、一年以上過ごしてきた我が家同然の場所に背を向けて歩き出す。

 

 これは決別では無く、旅立ち。

 

 人を脅かす鬼を狩るための始まりの一歩。

 

 果て無き研鑽の果てにて掴むのは、無意味な死か、安心して眠れる夜か。

 

 どちらを得られるのかはまだわからない。だが、

 

 

 明日も無事に夜明けを見るために、俺たちは前に進み続ける事を選ぶのだ。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 旅立ちから一ヶ月が過ぎた。

 

 いきなり過ぎる時間経過だと思うかもしれないが、仕方ない。だってその間に行ってきたのはただただ黙々と任務をこなす毎日だ。そんな物を長々と語ったところで退屈しか無いだろう。因みに階級はつい昨日(みずのえ)に上がった。

 

 そして、今も尚俺は鬼狩りの最中である。これで累計七件目。一体どれだけ跋扈しているというのだ、鬼と言う存在は。

 

「はぁっ――――!!」

「なっ、速――――ギャァッ!?」

 

 夜の街を長々と駆け巡った末に、俺の握った藍色の刃は早く、鋭く、流れるようにすれ違いながら鬼の頸ただ一点を斬った。特に血鬼術の類も持たない木っ端同然の鬼は短い断末魔と共に首が胴体に別れを告げ、そのまま灰化。

 

 これにて任務完了である。

 

 しかしこの一ヶ月間活動していてわかったのだが、やはり異能の鬼というのはそう出会えるものではないらしい。恐らく最終選別の件で比較的被害の少ない、つまり遭遇する鬼の脅威度が低い任務を優先的に回されているせいだろう。

 

 無論こんな木っ端でも一般の人々にとっては脅威だということは理解している。だがやはり、強い鬼を斬って力を付けたいという気持ちは大きい。

 

 もっと、もっと強くならねばならないと言うのに。この先に待ち大きな困難を乗り越えるためにも。

 

「……任務完了。さて黒衣(くろご)、次の任務は。次は何処に向かえばいい」

 

 声に出さずに深いため息を付きながら、俺は空に向かって声をかけた。すると夜の帳に溶け込みながら辺りを飛び回っていた烏が俺の肩へと降り立つ。

 

 この鎹烏の名は、黒衣。生後一年程度ではあるが、中々に優秀なヤツだ。

 

 しかし様子が変だ。いつもは騒がしく次の目的地を告げるはずなのだが、何も言ってくれない。何か変なものでも拾い食いして腹を壊したのか?

 

「任務ハ無イ。冨岡義勇ハ速ヤカニ近クノ藤ノ花ノ家紋ノ家ニテ、次ノ任務ヲ与エラレルマデ休息セヨ!」

「は? おい、どういう事だ。任務が無いだと? 鬼がいないのか?」

「カァァァ!! オ前トソノ相方ガ短期間デ殆ド狩リ尽クシタオカゲデ辺リノ被害ハ抑エラレテイル! 他ノ隊士ニ経験ヲ積マセルタメニモ、オ前モ偶ニハシッカリト休息ヲ取レ! デナイト何時カ倒レテシマウゾ義勇! カァァァァーッ!!」

「むぅ……」

 

 確かにこの一ヶ月間一日たりとも休まず駆けまわった結果、雑魚とはいえ鬼を七体も狩れた。柱ならともかく入隊したての新人隊士ならば移動や調査、戦闘とその後の治療諸々に掛かる時間を考慮すれば一ヶ月に二、三体狩れれば上等なくらいだ。

 

 ちなみに俺の場合は気配を感じ取るのが得意だったため、町を隅から隅まで駆け巡ることで潜んでいた鬼を無理矢理炙り出すことで鬼の捜索時間を大幅に減らし、短期間での大量討伐を実現している。

 

 かなり強引な手法ではあるが、人命が掛かっている以上そんなことは些事だ。

 

 話を戻そう。任務を受けられなくなった以上、俺には休息以外の選択肢はない。言われてみれば最近睡眠や食事はちゃんと摂っていても、微妙に体の重さが取れない。そろそろ疲労を無理に誤魔化すのも限界に近づいてきてしまっているのか。

 

 このまま無理を通せば、最悪戦闘中にぶっ倒れるなんて笑えない事態も起こりうるだろう。流石にそれは避けたい。

 

 ……良い機会だ、鬼の事は他の者に任せて、一度ゆっくり体を休めるのもありだろう。

 

「わかった。最寄りの藤の花の家に案内してくれ」

「了解シタ! カァー!」

 

 既に日が暮れて久しい。俺は早く藤の花の家紋の家――――鬼殺隊に無償で手助けしてくれる家へと烏の案内で赴くことにした。折角貰った休みだ、時間を有意義に使うためにも早く寝て早く起きるのが良い。

 

 そう結論を下した俺は空を飛ぶ烏を屋根伝いに追いかけることで移動時間を短縮。半刻もかからずに目的の場所へと辿り着くことができた。

 

 夜中だからか辺りはとても静かだ。本当に人がいるのだろうかと思いながら、俺は軽く戸を叩く。

 

 出迎えは、予想より数倍早かった。

 

「――――はい、鬼狩り様ですね。お待たせいたしました」

 

 俺を出迎えてくれたのは老齢の女性であった。しかし見た目に反して枯れた様な雰囲気は感じられず、並ならない生命力を秘めているようにもに感じる老婆だ。

 

「申し訳ありませんが、今日こちらは別の鬼狩り様を先に一人休ませております。それでもよければ歓迎しますが、如何でしょうか」

「はい。問題ありません」

「承知いたしました。では此方へと……」

 

 老婆に案内されて、俺は少し大きめの屋敷内へと案内された。少し古ぼけているがかなり立派な作りで歴史を感じさせる。

 

 その後一分ほど歩いて俺は客間へと案内された。戸を開ければ、先に食事をしていた先人の鬼狩りの姿があった。

 

 具体的には宍色の髪と口横に大きな傷跡を持つ少年の姿が。

 

「――――むぐっ?」

「……錆兎?」

 

 もぐもぐと飯を頬張っていた錆兎と目が合った。俺たちは互いの突然の再会に固まってしまい、錆兎は少し間を空けて「プゥゥゥゥーッ!!」と味噌汁の混ざった米を勢いよく吹き出した。

 

「ごほっ、ごほっ! 義勇!? 何でここに!?」

「何故も何も、任務が無いから休めと言われた。それで最寄りの藤の花の家に来たんだが、まさかお前がいるとは……」

 

 偶然にしては中々に出来すぎていると思うが、考えても仕方ない。俺は雑巾で汚れた畳を拭く錆兎を尻目に普段着から寝間着に着替えた。

 

 丁度着替え終わると食事が届いたので、俺は錆兎の隣に座って食事を始める。

 

「へぇ、義勇はもう七回も任務をこなしたのか。凄いな」

「そう言う錆兎はどうなんだ。順調か?」

「ああ、俺も同じ回数だ。異形や異能の鬼には出会えなかったが、何日もそこら中駆けまわるから中々くたびれたよ」

 

 どうやら錆兎も俺と同じ回数の任務をこなした様だった。二人で合わせれば一ヶ月で十四件もの鬼事を始末したということになる。成程、確かに辺りの鬼は一掃できるはずだ。

 

 悲しむべきはその全てが対して強くも無い雑魚鬼だと言う事だが。全く、運が良いんだか悪いんだか。

 

 おかげで補償で与えられた上の階級の隊員との同行権とやらも宝の持ち腐れと化している。まあ、俺と錆兎は最初からそんなものを使う気はないのだが。

 

 自信より力量が高い隊士を同行させれば生存確率は飛躍的に高まるだろうが、自身の成長に良いかと言われれば良くはないだろう。他人に頼ることが悪いとは言わないが、他力本願にまでなればそれは悪しきことだ。

 

「そうだ義勇、お前も何日か暇だろう。だったら俺に付き合ってくれないか?」

「? 何か用事でもあるのか?」

「ああ。この前義父さんが炎の呼吸について詳しい所に紹介してくれるって言っていただろ? 少し前に手紙が届いて、やっと話を聞けに行けそうなんだ。何でも大昔から代々炎の呼吸を継いで鬼狩りをしている家だとか」

「……もしや煉獄(れんごく)家か?」

「そう! そういう名だった。よく知っているな、義勇」

 

 煉獄家。数百年前から炎の呼吸を受け継いできた一族であり、優秀な柱を幾度も輩出した名家でもある。確かに炎の呼吸について聞くならこれ以上の当ては無いだろう。

 

 だが大丈夫だろうか。確か今の煉獄家は相当荒れた環境になっているはず。まともに話が聞けるならばいいのだが……。

 

「わかった。どうせやることも無いんだ、付き合おう」

「そう来なくちゃな! それじゃあさっさと食って寝よう。あ、所でもう義父さんからの手紙は読んだか? 真菰の奴また無茶して―――」

「はははっ、ああ……」

 

 友人の他愛のない世間話をしながら過ごす。実に心地いい一時だ。本当に、こんな時が脅かされること無くずっと続けばいいのに。

 

 ……今日は、安心して眠れそうだ。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 煉獄家の屋敷は錆兎の持っていた紹介状に住所が掛かれていたので、探すことに特に苦労はしなかった。

 

 外見は質素ながらかなり広大な敷地を持つ高い塀に囲まれた武家屋敷だった。木造の戸の横に張られた表札には確かに”煉獄”の二文字が掲げられており、此処で間違いないと俺たちは確信した。

 

 そして早速、錆兎は戸を少し強めに叩いた。

 

「すみません。紹介を受けた鱗滝です! 誰かいらっしゃいますか!」

 

 錆兎がそう声を張って一分ほど、少しずつこちらへと足音が近づき、止むと同時に閉じられていた戸が開かれた。出迎えてくれたのは、橙色と赤の入り混じった凄まじく独特な髪色を持つ、両目を見開かせた快活そうな少年であった。

 

「うむ! 話は元水柱様から聞いている! 確認だが、君が鱗滝聡司君か!」

「……俺は冨岡義勇だ」

「ではそちらの少年が鱗滝三郎君だな! よろしく頼む!」

「いや、俺の名前は鱗滝錆兎だ」

 

 開幕から凄まじい気迫でハキハキと迫ってくる少年に俺たちは後ずさりそうになりながらも、差し出された手を握って握手をする。

 

「紹介が遅れた! 俺の名は煉獄杏寿郎(きょうじゅろう)! 煉獄家の長男だ! 本来ならば家長である父上の元に案内すべきだろうが、父は現在調子が悪くてな! 話は俺が代わりに聞くことになるが、よろしいか!」

「ああ、構わない。煉獄家の長男ならば、炎の呼吸については十分聞けるだろう?」

「うむ! ここで立ち話もなんだ! 二人とも家に上がるといい! 存分に持て成そう!」

 

 そのまま有無を言わさず杏寿郎は俺たちの手を引っ張って家の中に連れ込んだ。成程、やはり彼こそが煉獄杏寿郎。未来の炎柱が一人。本編の八年前であっても変わらず我が道を行く性格らしい。

 

 俺たちは客間まで連れられ、杏寿郎はテキパキと茶や菓子を卓上へと並べる。そしてようやく落ち着いて腰を落とし、改めて俺たちとの会話を始めた。

 

「それで、今日は炎の呼吸について聞きに来たという話であったが!」

「ああ。実は――――」

 

 今日は錆兎の用事であるので、俺は口を出さない。とはいえ錆兎の話は単純明快。今まで習っていた呼吸が自分に合ったものでは無かったので、適正のある炎の呼吸について教えて欲しい。また可能ならば呼吸を教えてくれそうな者を紹介してほしい、という事だ。

 

 それで錆兎は一番熟知しているであろう煉獄家、更に言えば元炎柱である家長を訪ねたのだろうが――――

 

「成程、そちらの話は理解した! 結論から言わせてもらうならば、父上の教えを乞うのは無理だな!」

「え?」

 

 一番の当てであった元炎柱の伝手が真っ先に断たれたことで錆兎は瞠目した。

 

 まあ、仕方ないだろう。まさか元とはいえ柱が、息子の面倒すらほとんど見ずに酒浸りの毎日を送っているなど、想像出来るはずもない。

 

「実は父上は「誰だ貴様らは」……父上!」

 

 杏寿郎の言葉を遮るように襖を開けて姿を現したのは、今しがた話題に上がっていた煉獄家の家長――――煉獄槇寿郎(しんじゅろう)その人だった。明らかにズボラな服装のまま酒の臭いを漂わせており、横を見れば錆兎はあからさまに顔を顰めている。

 

「出ていけ。この家は貴様らの様な小僧が出入りしていい場所では無い」

「待ってください父上! 彼らは元水柱様から紹介を受けた客人です! 無下に扱う訳にはいきません!」

「元水柱……? 雨戸(あまど)か、水守(みなもり)か。それとも鱗滝のジジイか? フン、誰でもいい。用が済んだらとっとと帰れ」

 

 そう乱暴に言い捨て、槇寿郎さんは踵を返して部屋から出ていこうとする。

 

「父上、お待ちを! 一体どちらに?」

「酒が切れた」

「はい! では私は留守にしておりますので! 安心して買い出しに行ってください!」

「……………」

 

 目の前で繰り広げられる、とても親子のやり取りとは思えない一幕を見た錆兎は唖然とした顔になっていた。意識を取り戻したのは槇寿郎さんが姿を消した後であり、その顔は徐々に怒りに歪んでいくのをひしひしと隣で感じる。

 

 何処からどう見ても親失格だ。善良な第三者が見れば憤りを覚えるのも当然と言えよう。

 

「なんだ、あの男は! アレが元柱だと!? 信じられん!!」

「……そう言わないでくれ、鱗滝少年! 父にも事情があるのだ、あまり責めないでやってほしい!」

「だとしてもアレは行きすぎだ! 男である前に親ですらない! 何か事情があるのは察するが、だからと言って自身の子に対してあんな態度が許されていいはずがないだろうが!!」

 

 ガンッ!! と卓を割る勢いで叩く錆兎。気持ちはわからなくも無い。だがそれ以上に錆兎は親子の、家族の絆という物を神聖視している節がある。何よりも自分とは違って血の繋がった親子だ。

 

 だからこそ目の前の光景は信じられず、尚且つ怒るのだ。彼の根っこは、とても優しい少年なのだから。

 

「……ありがとう、鱗滝少年。だが気にしないでくれ。時間は掛かるかもしれないが、いつかきっと元の父上に戻ってくれるはずだ! いつも明るい笑顔で俺たちを育ててくれた、立派な背中をした父上に!」

「……すまない、熱くなり過ぎた」

「いいや! この熱さこそ炎の呼吸の適正の証! さあ鱗滝少年よ! 炎の呼吸についてだが「兄上? 大きな音がしましたが、何かありましたか……?」うむ! 今日は色々起こる日だな!」

 

 二度目の割り込みにもめげず、杏寿郎は襖を少しだけ空けて顔を見せる少年を手招きした。すると戸に半身を隠していた少年が部屋に入ってくる。杏寿郎や槇寿郎さんによく似た顔の幼い少年だ。

 

「弟の千寿郎(せんじゅろう)だ! 俺と同じく鬼殺の剣士を目指している!」

「よ、よろしくお願いします……!」

「ああ、よろしく。千寿郎」

「……よろしく頼む」

 

 ペコリと頭を下げる気弱そうな少年に、俺たちも同じく頭を下げて挨拶を返した。

 

 兄弟だというのに此処まで雰囲気が真逆なのが不思議なのか、錆兎は少しだけ首を傾げて二人を交互に見る。が、今はそんなことはさほど重要でもないので、俺は無言で錆兎の腹を突いて気を取り直させる。

 

「では仕切り直そう! 炎の呼吸についてだが、習得する当ては二つ程存在する!」

「っ! 本当か!?」

「無論! 一つは炎の呼吸の”指南書”を読み解き、独学で鍛える事だ! だが正直こちらは勧められないな! 何年かかるかわからない! 俺は父上に叔父上――――現炎柱に教えを乞う事を禁じられているため、この方法で学んでいるが!」

「……? それはどういう事だ? 他に育手は居ないのか?」

「俺の知っている限り、今代で炎の呼吸を十全に扱えるのは現炎柱の叔父上と元炎柱である父上の二人だけなのだ! 本来ならば引退した父上が育手となり後進を育てるはずなのだが、生憎父上はその気は無いようでな!」

「……あの糞爺め……」

 

 そろそろ錆兎の中で槇寿郎さんに対しての怒りが頂点に達しそうだ。杏寿郎もこの話を続けるのは不味いと悟ったのか、すぐに二つ目の方法を話し出す。

 

「もう一つは現炎柱である叔父上に教えを乞うことだな! だが一般隊士が柱と交流することは稀な上に、叔父上はかなり気難しい方だ! だが一度頼んでみるのも悪くないだろう! 後で紹介状を書く故、それまで待ってほしい!」

「ああ。ありがとう杏寿郎。世話になる」

「うむ! ではこれで話はまとまったようだな! 鱗滝少年、君の助けになれたようで何よりだ!」

 

 かなり短い話し合いだったが、良い方向でまとまったようで何よりだ。

 

 ところでこれ俺が来る必要性あったのだろうか。正直俺が居ても居なくても変わらなかったのでは? まあ、杏寿郎と千寿郎の二人と交流を始めるいい切っ掛けだと思えば儲けものか。

 

「ところで物は相談なのだが、良ければ二人とも俺の稽古に付き合ってくれないだろうか! 俺も未熟とはいえ炎の呼吸を扱う者! ならば一度剣を交えて何かを掴める可能性もあるやもしれん!」

「え? ああ、特に問題は無いが」

「俺は構わない」

「感謝する! 千寿郎も一緒にどうだ!」

「は、はい! お供します兄上!」

 

 どうせこの後の予定も無いのだ、少しだけゆっくりと此処で時間を過ごすのもいいだろう。槇寿郎さんが帰ってきたら問答無用で追い出されそうだが、そうなる前に頃合いを見て退散しよう。

 

 そうして俺と錆兎は煉獄家で軽く稽古をすることになった。

 

「では一通り技を繰り出す故、その指南書と見比べて何か違和感があったら直ぐに言ってくれ! その後に軽く模擬戦を行いたいが、よろしいか!」

「ああ、やってくれ」

「うむ! 千寿郎、剣を握れ!」

「はっ、はい!」

 

 始まる煉獄兄弟の剣武。彼らは己が修得した技を一つずつ順次披露していく。

 

 が、現時点では全て熟せるわけでは無いらしく、杏寿郎は陸の型まで、千寿郎は弐の型までしか使えなかった。それに幾つか動きがぎこちない所が見られるし……そもそも千寿郎は壱ノ型の時点で何やら躓いているように思える。

 

「ふぅ! どうだ二人とも!」

「力強い、良い太刀筋だった。俺たちは水の呼吸しか見慣れていないから、他の呼吸の動きというのもいい刺激になるな」

「……踏み込み、足の力の溜めが甘いように感じる。片足に力を籠め過ぎだ。重心だけを前に移しつつ、全身で踏み出した方が良い、と俺は思う」

 

 錆兎はまず率直な感想を述べたので、俺は代わりに動きを見て感じた違和感を述べることにした。隣で錆兎が笑顔を引きつらせているが、何か問題でもあったのだろうか。

 

「義勇、お前なぁ。知り合って間もない奴に駄目出しをきっぱりと言い切るか普通?」

「……駄目なのか?」

「いや、駄目では無いぞ! なるほど、片足に力を籠め過ぎか! 言われてみると確かにそうだ! やはり独学で学んでいると可笑しな癖が付いてしまうな! 反省せねば! 感謝する富成少年!」

「そうか、それは良かった。あと俺は冨岡だ」

 

 どうやら問題無かったらしい。では一番問題である千寿郎についても述べることにしよう。

 

「弟の方は、全体的にダメだ。まず基礎がなっていない。刀を振るときに腰を引くな。片手だけ力を緩めるな。太刀筋が歪んでいる。視線が刀の切っ先に向き過ぎだ、正面を見ろ。脇を引き締めろ、背を曲げるな、体幹をズラすな、刀に振り回されるな、呼吸を乱………………」

「………………ごめんなさい。僕なんかが剣を握ってごめんなさい……」

 

 ……ヤバイ、言い過ぎた。

 

 そう悟ったのは目の前の千寿郎がポロポロと大粒の涙を流しながら心折れたように虚ろ気に謝罪の言葉を呟いている様を見た頃だった。要は手遅れになってようやく気付いた。

 

「違う、責めてるわけじゃ……ええと、飴食べるか?甘くておいしいぞ」

「……ありがとうございます。すみません、僕のためを思って言ってくれたのに……」

「義勇……もう少し、歯に衣を着せてくれ」

「よもやよもや! ここまで遠慮なく言われてしまうと清々しいな! だが千寿郎が未熟だったことは事実! それに今まで気づけなかったこと、兄として不甲斐なし! 穴があったら入りたい!」

「本当にすまない……」

 

 善意も過ぎれば碌な事にならないと言うのは事実らしい。俺も穴があったら入りたい気持ちだった。

 

 その責任を取るために俺は千寿郎を隣に座らせて慰めつつ、錆兎と杏寿郎の模擬戦を二人で観戦することにした。勝負の行方はわかり切っているが、それでも杏寿郎が何処まで錆兎に食らいつけるかは実に気になるところだ。

 

「兄上! 頑張ってください!」

「うむ! 全力でやるとも!」

「錆兎、やり過ぎるなよ」

「わかっているさ。……来い、杏寿郎!」

 

 互いが木刀を両手に、正面に構えて佇む。場に広がる静寂、ピクリとも動かない二つの影。

 

 数分間とも思える何秒かの間を置いて、風に揺れた木の葉が両者の間に落ちる。

 

 それが合図となった。

 

 

 全集中・炎の呼吸 【伍ノ型 炎虎(えんこ)

 

 全集中・水の呼吸 【陸ノ型・改 ねじれ渦・天嵐】

 

 

 烈火の虎を生み出す噛みつくが如き大きな振りが強い踏み込みと共に放たれる。それに対するは嵐の如き突進斬撃。周囲の空気を巻き込みながら両者の大技がぶつかり――――轟音と衝撃波と共に両者は大きく弾かれた。

 

「むぅっ!」

「よもや……!」

 

 錆兎はすぐさま体勢を整えられたものの、杏寿郎は両手と両脚の痺れが抜けきっていないのか膝を着いて額から汗を流している。

 

 水の呼吸より遥かに攻撃性のあるのが炎の呼吸なのに、それを正面から弾き飛ばすとは流石錆兎だ。だが圧倒的な経験差があるはずなのに、技の威力だけならば今の錆兎とほぼ互角な杏寿郎もまた素晴らしい剣士だとわかる。

 

「これで終わりか、杏寿郎!」

「否! 俺はまだまだ行けるとも、錆兎!」

 

 互いを名前で呼び合い鼓舞しながら、両者は再び対峙する。今度は合図など無く、杏寿郎が先に駆けだした。

 

 【壱ノ型 不知火(しらぬい)

 

 一蹴りで間合いを急速に詰めてからの横一閃。高速で振るわれる強烈な一撃が錆兎の体へと吸い込まれ、しかしその一撃は敢え無く空振りに終わる。

 

 何故なら、錆兎は既に宙に躍り出ていたから。

 

 【捌ノ型 滝壷】

 

 上空から落とされる飛瀑の如き一撃。技を放った直後で動きが鈍っている杏寿郎は辛うじて木刀を頭上に構えて防御を試みるも、錆兎の一刀はあっけなく杏寿郎の握る木刀を半ばから叩き割り、彼の体を容赦なく吹き飛ばした。

 

「よもやぁぁぁ!?」

「あっ」

「兄上!? 大丈夫ですか兄上!?」

 

 土煙を上げながら盛大に庭を転がる杏寿郎。それを見た錆兎は完全に「やってしまった」という気まずい表情を浮かべている。どうやら熱くなり過ぎて加減を誤ったらしい。これでは人の事を言えないぞ錆兎。

 

「すまん杏寿郎! 無事か?」

「はっはっは! この程度でどうこうなるほど軟な鍛え方はしていない! しかし凄いな錆兎は! 非適正の呼吸で此処までの技を練り上げられるとは! これは炎の呼吸を覚えた時にどうなるのか、実に心が踊る!」

「ああ、俺もだ」

 

 グッと互いの手を強く握り合う錆兎と杏寿郎。新たな絆が生まれる瞬間だった。

 

 さて、そろそろ槇寿郎さんが帰ってきそうな頃合いだ。半刻にも満たない時間だったが、それでも俺たちが杏寿郎や千寿郎と仲を深めるには十分であったらしい。少なくとも俺はそう確信していた。

 

「ではさらばだ、錆兎! 義勇! いつかまた鬼殺の剣士として会いまみえよう!」

「ふ、二人とも、お気を付けて! また何時でもいらしてください!」

「ああ、勿論だ! またな、杏寿郎! 千寿郎!」

「世話になった」

 

 互いに名前を呼び合い、手を振りながら別れを告げる。

 

 煉獄家は実家や鱗滝さんの家とはまた違う落ち着きが得られる良い空間だった。機会があればまた訪れたいと思う。できれば槇寿郎さんとの関係も少しずつでいいから改善していきたいのだが……。

 

(……焦らず、少しずつ行おう)

 

 時間はまだまだあるのだ。ほんの少しでもよりよい明日を迎えるためにも、小さなものを積み上げよう。

 

 遠回りこそが、一番の近道なのだから。

 

 

 

 




将来のためにとりあえず煉獄家との交流と錆兎の独自呼吸習得フラグをぶっ立てていく。

錆兎の呼吸適正とか煉獄さんのいう「叔父」については完全に捏造です。でも錆兎は本編で日輪刀握る前に亡くなったし、杏寿郎の前の炎柱についても情報が全くないから幾らでも妄想の余地があるのだ。

後から本編で情報が明かされたら? ……細けぇこたぁいいんだよ!


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第拾話 胡蝶姉妹

 鮭大根。それは至高の料理。

 

 鮭大根。それは永遠なる美味。

 

 汁の染みた大根、ほかほかの鮭の身。炊き立ての米を添えて口に入れればあら不思議、思わず顔が発光するくらい綻んでしまう。しかもこの鮭大根は良い昆布から出汁を取っているらしい。実に味に深みがある。

 

「ふぅ……また一つ、お気に入りの店が増えてしまった」

「またってことは、此処以外にもあるのか?」

「ああ。いずれは鮭大根を扱う店の関東制覇を目指している。俺のお勧めはやはり漁村と農村の中間にある店だな。鮭と大根はやはり新鮮なものに限る。一番美味いのはやはり姉さんの鮭大根だが」

「公平性の欠片も無いな……」

 

 ズズ、と焼き鯖定食の味噌汁をすすりながら錆兎は呆れた表情を見せてきた。何を言う、姉さんの鮭大根が最高に最強なのはお前とて理解しているはずだろうに。

 

 現在、俺たちは昼食を摂るために町の小さな定食屋に来ていた。小さいと言ってもその質はかなり良く、言わゆる掘り出し物に相当する店だろう。店員の老夫婦曰く二十年以上営んできた生粋の老舗。安心安全美味ときた。鮭大根も完備していて完璧だ。

 

 こんな店を見つけていたとは、やはり錆兎は凄い。近い将来に水柱……は無理でも柱になるだろう男は格が違った。

 

「さて、呼吸についての用事も終わってしまった以上やることが無くなってしまった。義勇、お前は何か用事は無いのか?」

「無い。強いて言うなら、そうだな……」

 

 杏寿郎から炎柱への紹介状は無事貰うことができたが、だからと言ってすぐに訪問という訳にはいかない。柱は俺たち一般隊士と違って己の担当区域を毎日駆けずり回っている多忙の身だ。手紙で前もって連絡を入れて伺った方が良いだろう。

 

 しかし問題なのは俺たちは時間はあっても特にすることが無いと言う事だ。まあ最悪鍛錬に時間を当てれば問題無いが。というか初日だけ休んで後は鍛錬に当てるつもりだ。

 

 だが休みは休みだ。今日くらいは鍛錬の事は頭から取り除いて、俺は何かやることが無いかとご飯を頬張りながら熟考し――――ふと、あることが思い浮かんだ。

 

「……胡蝶の所に挨拶に行かないか?」

「? ああ、胡蝶か。そう言えばお前が世話になったしな。何か土産でも持って訪ねてみるか」

「そうしよう」

 

 最終選別時、錆兎は殆ど負傷することが無かったため世話にはならなかったが、俺は気絶した体から介抱してもらった恩がある。その礼をするために一度挨拶に伺うべきだろう。何より助けられた身のくせに最終選別で別れてから一度も碌に連絡していないのは流石に人間としてどうかと思う。

 

 もう一ヶ月も経ったから十分駄目だろうって? ……男なら、細かいことを気にしてはいけない。とりあえずその分は高級な土産を持っていくことで補填しよう。

 

 そうと決まれば後は行動あるのみ。俺たちは昼食の残りを口の中にかき込んで手を合わせて礼を残しつつ、急ぎ近場の高級菓子店を探すことにした。

 

 幸いこの街は首都(東京)付近。探せばそこそこ名の売れた菓子店くらい見つかるだろう。

 

 和菓子は当然として、珍しい洋菓子も幾つか包んで行こうか。少々値段は高いが、幸い金はある。鬼殺隊は高給取りなのだ。常に死と隣り合わせな対価に見合ってるかと言われればまあ答えに苦しむが、自分から危険な仕事に飛び込んでおいて文句など言えるわけがない。そもそも金目当てで鬼殺隊に入るような奴は余程の酔狂者くらいだ。

 

 そんなこんなで菓子を包み、俺たちは足早に胡蝶邸へと赴いた。

 

 烏の案内で少し街離れにある大きな屋敷、人が三、四人程住めそうなほどの敷地を持つ立派な屋敷にたどり着く。

 

 自然に囲まれた心安らぐ場の中央にポツンと建てられた屋敷。独特の雰囲気に少しだけ浮かれながら俺たちは戸の前まで歩み、取り付けられていた呼び鈴を鳴らした。

 

「…………来ないな」

「……留守か?」

 

 一分ほど待ってもうんともすんとも言わない。というか集中して意識を巡らせれば家の中には人の気配らしきものすら無かった。と言う事は今カナエは不在なのだろう。

 

 そも俺たちが休みだからといってカナエが休みとは限らないのだ。これは失敗した。前提からして間違っていたとは痛恨のミスである。

 

「仕方ない。錆兎、時間を改めてまた今度――――」

「――――誰よ、貴方たち! 人の家の前で何してるの!」

「あら? 貴方たちは……」

「「ん?」」

 

 諦めて帰ろうとした矢先に、背後から随分と鋭い声と柔らかい声が上がった。

 

 振り向けば――――そこには探していた少女(カナエ)と、その少女によく似た、しかし似つかない不機嫌そうな顔を浮かべた少女が洗濯物を入れた籠を両手に立っていた。

 

 不機嫌そうな少女の瞳の色や顔立ち、そして俺の場合は頭の中にある知識と符合して彼女が隣にいる少女――――胡蝶カナエの縁者であるとすぐに理解する。

 

「いや、俺たちは怪しい者では……」

「帯刀している人が言っても説得力皆無よ! 何の用事かは知らないけど、早々に立ち去らないと……って、その隊服」

 

 明らかに警戒心剥き出して迫る少女は俺たちの身に付けている服を見てすぐに顔色を変えた。どうやら私服ではなく隊服で行動していたのが良い結果に出たようだ。

 

「もしかして、鬼殺隊の人?」

「そうだ。……久しいな、胡蝶」

「ええ、二人とも久しぶり~。ずっと連絡も無いから、何かあったのかと心配したわ」

「……姉さんに何か用事ですか?」

 

 カナエによく似た少女は俺たちが姉の名を出した途端すぐに表情は先程の、否、更に冷えた険しい顔つきに変わった。何故だ。

 

 カナエはその様子に呆れ半分の笑顔を浮かべながら少女を窘めている。

 

 ”姉さん”、という事はやはり、この少女は……。

 

「ああ。最終選別で胡蝶に世話になってな。そのお礼を言いに来た」

「あらそう? じゃあ折角だし二人とも上がって上がって~。こんな所で立ち話も疲れるでしょう?」

「ね、姉さん!?」

「では遠慮なく」

「義勇、ちょっとは遠慮というものを覚えろ」

 

 折角の厚意に甘えて素直に家へと上がろうとするも、若干眉間にしわを寄せた錆兎とこの上なく苛立ちの表情を浮かべた少女から同時に肩を掴まれて阻まれてしまった。なんで?

 

「女子しかいない家にあっさりと上がろうとするなんて不埒! 不遜! 不快よ! 挨拶が済んだならとっとと帰りなさい! ほら姉さん、こっちに!」

「あ、ちょっとしのぶ~」

 

 ぶっきらぼうにそれだけを言い放ち、少女は姉の手を引っ張りながらずんずんと俺たち二人を横切って屋敷の中に入ってしまった。

 

 ビシャリ、と音を立てて締まる戸に哀愁が漂う。

 

「義勇、どうする?」

「……………」

 

 錆兎にそう問われた俺は、とりあえず無言でもう一度呼び鈴を鳴らした。

 

 それを見た錆兎が心底信じられないものを見る目で俺を見るが、理由がさっぱりわからない。俺はせっかく買って持ってきた土産の菓子を二人に渡そうとしているだけなのに。

 

「……なによ? まだ何か用事でも?」

「…………これを」

「あらあら! これって噂の洋菓子? これ、結構高級って聞くのだけれど、いいのかしら?」

「ああ。胡蝶には世話になったからな」

「うふふ、別に気にしなくていいのに~」

 

 俺は戸を開けて姿を見せたカナエに持っていた菓子入りの包みを手渡した。

 

 カナエは中身に気付いて大層驚くも、俺たちの好意を素直に受け取ってくれる。彼女が笑顔を浮かべると、俺の顔も自然と緩んでいった。

 

 ホワホワとなんだか柔らかい物が生まれる音がする。

 

「用事は済んだわね! ではこれで!」

「あ、しのぶ~! 大丈夫よ、二人は姉さんの友達で――――」

 

 少女は包みと俺の顔を三度ほど交互に見て、まるで得体の知れないモノを見るような顔を浮かべながら全く感謝の念が感じられない台詞を残して流れるように戸を閉めた。どんだけ警戒されているんだ、俺たちは。全く心当たりがないのだが。

 

 それにしてもあの見事な足さばき、さながら水の呼吸【参ノ型 流々舞い】に通ずるものがある。洗練された実に良い動きだった。

 

「お、おい義勇、とりあえずまた後で出直して」

「…………」

 

 俺は三度目の正直とばかりにもう一度呼び鈴を鳴らした。錆兎は頭を抱え出したが、俺は終ぞそんな反応をする理由がわからなかった。

 

 開いたと戸からはまるで般若のような顔をした少女とおろおろと不安な表情を浮かべたカナエが出てきた。

 

 ……何をそんなに怒っているんだ?

 

「あのね、いい加減にしないと人を呼ぶわよ? それともその蛆が湧いていそうな頭を川底に沈めて冷やして差し上げましょうか???」

「しのぶ~! 大丈夫だから! 冨岡君はちょっと天然なだけで悪気は無いのよ~!」

「……その、お手伝いを」

「え?」

「は?」

 

 久しぶりに初対面の者(知っている顔ではあるが)、しかも女子と喋るので舌が上手く回らない。が、俺は何とか精一杯言葉を出そうと努める。

 

「洗濯物が多そうだったし、屋敷も広いから……女子二人では大変そうだし、恩返しとして家事の手伝いを、と……」

 

 俺が弱々しく精一杯の説明をすると、隣と前方から二つの深いため息が聞こえた。

 

 ただ単純に、大変そうだから手伝いをしようとしただけなのに、何故ため息を吐かれなけれはならないのだろうか。辛い。

 

「……ねえ、この人っていつもこんな感じなの?」

「本当にすまん。普段はもう少しまともなんだが、初対面の者に対しては凄まじく口下手で奇行が目立ってな……」

「私はそこが可愛いと思うのだけれど~」

「……俺は口下手じゃない」

「「それ本気で言ってるのか(ます)?」」

 

 二人から同時に寄越される絶対零度の視線に俺は思わず膝を突いた。純粋な善意での行動なのにどうしてこんなにも悪い結果が出るのだろうか。世界はそう簡単にできていないと言う事だろうか。心が折れそうだ。

 

 というかカナエ、可愛いってどういう事だ。俺は可愛くないぞ。

 

「はぁぁぁぁぁぁぁ…………。わかったわよ、お茶くらいなら出すから。それでいいわよね、姉さん?」

「うんうん。しのぶも美味しそうな洋菓子貰って嬉しいのよね~」

「姉さん!」

「……その、お手伝い」

「しなくて結構」

 

 俺の善意は言葉の刃で一刀両断された。女心って複雑だと思った。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 その後、居間に通された俺たちはカナエと少女――――胡蝶カナエの妹である胡蝶しのぶの二人に客人として持て成されることとなった。湯気を立てる緑茶を口に運びながら、俺はしのぶを少しだけ観察する。

 

 とても華奢な少女だ。恐らく十歳程だろう彼女の体は年相応に小さかった。

 

 これからどれだけ成長するかはまだ不明だ。だが剣に精通する者ならばある程度直感的に理解してしまうだろう。彼女の体格では、鬼の頸を斬ることは無理だと。

 

 鬼の皮膚は極めて硬い。人を二、三人しか食っていない雑魚鬼であろうと人間の皮膚と比べると岩並の硬度を誇る。最強の序列に選ばれた十二鬼月ならそれ以上の、さながら鋼の如き堅強さだ。

 

 人間、鍛えたからと言って無限に強くなれるわけではない。鍛えて増やすことのできる筋肉量は個人個人で必ず決まっている。そして胡蝶しのぶの場合は、その限界量は鬼の頸を斬る最低基準にさえ達していないだろう。

 

 だがこうして相対すると、嫌でも見えてしまう。

 

 彼女の瞳の奥で燃える、鬼と言う存在に対しての憎悪の炎が。決して絶えることのない猛火が。

 

「……なに? 人のことをじっと見つめて。私の顔になにか?」

「いや……何でもない。姉に似ているなと、思っただけだ」

「確かに似ているな。まあ纏っている雰囲気は真逆だが」

「ふん、余計なお世話よ。……どうせ私は姉さんと違って可愛げのない女ですよ」

「あら、私はしのぶの事を世界一可愛いと思うんだけどなー」

「姉さんが言うと嫌味にしか聞こえないわ……」

 

 確かに女としての魅力はカナエの方が上かもしれない。カナエは温和で優しく、家事もできる上に、人当たりも良い。最早欠点を探す方が難しいレベルだ。まあちょっと性格がふわふわし過ぎているが、それはそれで一つの魅力だろう。

 

 対してしのぶは、一言で言えば凶暴な小型犬である。身もふたもない言い方だと思うが今の彼女にしっくりくる表現はこれしかない。常に不機嫌そうな顔で、姉に近付こうとする輩には分け隔てなく噛みつく。まるで切れた刃物だ。正直怖い。

 

 だからと言って可愛げが無いかと言われれば別にそんなことは無いのだが。むしろ個人的には、これはこれで結構可愛いと思う。

 

 そんな率直な感情が今の今まで気を張り詰めていた反動なのか――――ポロリと、不意に零れた。

 

「胡蝶は、可愛いと思う」

「は?」

 

 しのぶから殺気を飛ばされた。えっ、なんで。

 

「へぇ……やっぱり貴方も姉さん狙いなのね。ええ、ええ、わかってたわ。姉さんは超絶的なまでに魅力的な美少女だからね。その分不埒な男もいっぱい釣れるのよね。……さて、死ぬ準備はできてるかしら?」

「いや、その……姉では無く、お前の方に言ったんだが」

「……………へ?」

「あらあら」

「へぇ、義勇はああいう子が好みなのか」

「いや、好みという訳では……」

 

 なんだかとても盛大な誤解をされているような気がした。

 

 反射的に弁解しようとするが、今度は何故かカナエから威圧が飛んできた。花の様な笑顔のまま鬼顔負けの圧力が放たれるのだから、俺は本能的に黙っているのが正解だと察してしまう。

 

 アレか、妹に恥をかかせたら処すって事か。

 

「わ、私は、可愛くなんて……姉さんの方が、ずっと魅力的で……」

「ほらしのぶ、自信を持って! しのぶはとっても可愛いわ!(正義)」

「……強く生きろよ、義勇」

「ああ……」

 

 愛って怖いなぁ。

 

「……そう言えば胡蝶、今日は隊服を着てないんだな」

「ええ、今日は休みをとってしのぶと一緒に過ごすことにしたの。つい最近しのぶの育手の方から外出許可が下りたから、久々に姉妹水入らずで過ごそうと思って」

「それは……すまなかったな、水を差してしまって」

 

 此処で衝動的に「水の門派なだけに」と言わなかった俺を褒めて欲しい。俺も冗談を言うべき時とそうでないときはわかっているのだ。ムフフ。

 

「全くよ! 折角姉さんと二人っきりで過ごせると思ったのに……」

「でも人が多い方が賑やかで楽しいじゃない~? それにしのぶ、二人は水の呼吸を修めた隊士よ。私たちはその派生である花の呼吸を使っているから、二人の動きや技を参考にもっと腕を磨けるのではないかしら?」

「それは……一理はあるけど……」

 

 そうか、この時点でのしのぶはまだ蟲の呼吸を使ってはいないのか。しかし振る力の弱い彼女が、たださえ一撃ではなく連撃重視の花の呼吸で真価を発揮できるのだろうか。

 

 ……いや、出来ないからこそ、蟲の呼吸を生み出したのか。

 

「でも姉さん、あっちの傷のある人はともかく、この間抜けな顔をした人が強いとはとても思えないのだけれど。選別を突破できたのもまぐれじゃないの?」

(心外!)

 

 えっ、間抜け。人の顔を間抜けと言ったのかこの少女。そんな馬鹿な、確かに気を抜いてはいるがこの顔は普段浮かべている顔の筈。つまり俺はいつも間抜けな顔を公然と晒していたのか……!?

 

「しのぶ、流石にそれは言い過ぎよ。冨岡君の顔は、そう……何も考えていない犬の顔よ」

「胡蝶、それ悪化してないか」

「要は馬鹿犬ってことよね、姉さん」

「俺は馬鹿犬じゃない」

 

 何で俺は胡蝶姉妹から流れるように心を攻撃されているのだろう。俺は辛い。耐えられない。助けてくれ杏寿郎。

 

「あ、でもでも、冨岡君は本当に強いのよ? 選別の時は四体の鬼を一度に斬り伏せたし、異能の鬼が出た時ももう凄い動きで……」

「最後の一閃なんてもう目で追えなかったくらいだ。多分本気を出せば、同期の中で一番強いだろう」

「(痣という例外要素が無ければ)俺なんかより(何年も修行を積み重ねた上に才能もある)錆兎の方が強い」

「どっちなのよ……」

 

 確かに痣ありならば俺の方が強いかもしれないが、素の状態では俺は錆兎に負ける。同条件という縛りを設ければ同期最強は錆兎だ。

 

 大体、たった一年鍛えただけの俺がその何倍も修行を重ねてきた錆兎より強いなんて事があるわけないだろう。先の模擬戦の白星も、錆兎の知らない切り札で不意を突いてやっともぎ取ったような物なのだから。

 

 それに……()()()()()()()()()()()()不安定な力を自慢げに誇示したいと思うほど、俺は恥知らずではない。

 

「気にするな。こいつの謙遜癖はいつもの事だ」

「俺は謙遜してない」

「何で喋る度に意見の相違が発生するのよ貴方たち」

「うふふ、皆仲睦ましくて何よりだわ~」

 

 そんな調子で俺たちは世間話を交えつつこの一ヶ月間どうだったか、どんな鬼と遭遇してどう対処したか等の情報交換を行った。

 

 情報と言うのはとても大事だ。あるのと無いのとで大差がある。互いに少しでも生き延びる確率を上げるという意味では、彼女らとの会話はとても有意義なものだったと言えよう。

 

 話の種が尽きそうな頃にはもう日が暮れ始めていた。よく見れば雲行きも怪しくなり始め、暗雲が空を覆い始めていく。まるで嵐の前兆だ。

 

「……さて、そろそろ俺たちは出よう。雲行きも怪しくなってきた」

「むっ、確かに風が荒々しくなってきたな……もしかすると嵐が来るかもしれない」

「あら、そうなの……? なら泊まっていった方が良いんじゃないかしら。ここから町までは少し離れてるし……。折角の休みに風邪でも引いてしまったらいけないわ」

「姉さん! 絶対に駄目だからね! 歳の近い男を二人も泊めるとか何考えてるの!」

「えぇ、でも~」

「でももへちまもない!」

 

 流石に女子二人しかいない家に泊まるというのは気が引けるため、俺はしのぶの意見に心の中で賛成の意を送った。俺も錆兎も死んでも胡蝶姉妹に同意無しで迫るなんてしないし、あり得ないと思うが万が一間違いがあれば腹を斬る覚悟で謝罪するつもりだ。

 

 何にせよ、もう退散するのだから考えてもしょうがない――――そう思いながら戸を開けば、

 

 

 暴風と豪雨と遠雷が渦巻く光景が見えた。

 

 

「「「「…………………」」」」

 

 予想の数倍以上に荒れ狂っている光景に、見送りに来ていた胡蝶姉妹と俺と錆兎は無言で立ち尽くす。

 

 引手に手を掛けていた俺は無言で戸を閉め、傍に立てかけてあった心張り棒で扉が吹き飛ばない様に固定した。

 

 自然の力ってすごい、俺はこの状況でそんな小学生並の感想しか抱けなかった。

 

「何故だろうか。とても作為的なものを感じる嵐だぞ……何故こうも狙いすましたような瞬間に嵐が……?」

「……すまない胡蝶、今晩だけお世話になっていいか?」

「ええ、勿論! 二人のためにも、今日はお姉さんは頑張って御馳走振舞うわよ~!」

「むぅぅぅぅぅぅぅっ……! …………はぁぁぁぁぁぁ。仕方ないわね……。あ、もし姉さんや私に手を出そうものなら、最低限”コレ”を覚悟してもらうから。わかった?」

「「あっはい」」

 

 しのぶが笑顔のまま手をシュッシュッと何かを下から突き上げるような仕草をするので、男二人(俺たち)は何も聞かずに肯定の返事だけを述べた。あの動作が何を突いているのかは考えないでおこう。ナニだけに。

 

 しかし困った。まさか女子二人と男二人で一つ屋根の下とは。真菰の場合は鱗滝さんという頼れる大人が居たので家族の様な物だと認識できていたが、流石に歳の近い少年少女だけでというのは余裕でアウトでは。

 

 いや、落ち着け冨岡義勇。良く考えろ、間違いが起こる可能性なんて皆無だ。俺も錆兎もそこら辺の自制には自信がある。伊達に元水柱に育てられたわけでは無いんだ。

 

 明鏡止水。いかなることが起ころうと、俺たちの心に邪心が芽生えることなどない。

 

 ……と思う。

 

「じゃあちょっと早いけど、早速晩ご飯の用意をしましょう! 二人は何が好きかしら~?」

「鮭大根」

「鶉の卵だな。水煮を醤油漬けにするとご飯によく合うんだ」

「うーん……大根はともかく鮭は無いし、鶏の卵ならともかく鶉の卵は無いわねぇ」

「そうか……」

 

 今夜は鮭大根が食べられない事を聞いて、俺は思わず項垂れる。無いのか、鮭大根……。

 

「義勇、お前朝も昼も鮭大根食べたくせに夜も食べるのか? ……いや、まさかお前、今までずっとそんな食生活だったのか?」

「ああ、そうだが」

 

 思い返してみれば、この一ヶ月間、藤の花の家で泊まった時を除けば朝昼晩すべてに置いて鮭大根を口にしていた記憶しかない。おかしいな、鱗滝さんや錆兎たちと一緒に過ごしていた時は全然普通の食生活だった筈なんだが。

 

 そう思い耽っていた俺に対する視線はやはりというか呆れ一色であった。

 

「義勇、お前一週間は鮭大根禁止だ。少しは他のものも口にしろ」

「なん……だと……!?」

「冨岡君、固定食は栄養に偏りが出るからお勧めしないわ。成長期なんだから色々な栄養を摂らないと駄目よ?」

「いや、栄養云々の前に人としてどうなのそれ。私より年上のくせに自制心の欠片も無いの? 何なのよ毎日毎食鮭大根って。そんなだから人に嫌われるのよ」

「俺は嫌われてない」

 

 そうか……駄目なのか、毎日鮭大根は……。いや、良く考えなくても好物ばっかり食べるのは良くない事だった。ぐむむ、長い修行の反動でいつの間にか鮭大根に関する自制心が吹き飛んでいたらしい。

 

 何と言う失態。己の心を制御できないなど未熟にも程がある。猛省せねば。

 

「ま、それはいいとして、二人はとりあえず家の戸や窓が外れてたり、雨漏りしているところが無いか確認しに行って。その間に食事の用意をするから」

「了解した。行くぞ、義勇」

「ああ」

 

 料理の事は胡蝶姉妹に任せて、俺たちは屋敷が嵐の被害に見舞われてないか見回ることにした。

 

 幸い雨漏りは無かったが、代わりに数カ所ほどが強風によって戸が外れて倒れていたりしていたのでそれを直しつつ確認することおよそ十数分。粗方点検を終えた俺たちは味噌や飯の香りに誘われるまま少しだけ顔を出して厨房を覗き込んだ。

 

「全く! 何なのよあの無口男! 言葉足らずにも程があるわ!」

「あらあら。でもしのぶ、冨岡君は悪い人じゃないのよ? 錆兎君と一緒に選別に参加した人達を何度も助けたし、私なんて冨岡君に二回も助けられたんだから」

「え……そうなの?」

「ええ、あの時はもう本当にダメかと思って……。もし冨岡君がいなかったら、私は此処に帰れなかったと思う」

 

 戸の隙間から姉妹の会話が聞こえてきた。どうやら最終選別の時に起こったことを話しているらしい。

 

 思い返せば確かにカナエが危うくなった場面はいくつかあった。しかしどうもおかしい。本来の時間軸では彼女は何事も無く選別を通過できたはず。にも拘わらず幾度も命の危機に晒されるなど、少し違和感を感じる。

 

 ……もし、もし(異物)の存在や行動のせいで、変化が生じているとしたら?

 

 正史とのズレによって起こる事象に大きな変化が起こっている可能性は、きっと高い。いや、むしろ最初からそれを考慮すべきだった。だが、変化を予測するなんてできる訳がない。俺は未来を知ってはいるが未来予知ができる訳ではないのだ。

 

 だが、だからと言って何もしないわけにはいかない。何が起きても対応できるよう、力を付けねば。

 

「……だったら不本意だけど、あの人に感謝しないとね。絶対に伝えないけど」

「しのぶ~。感謝は伝えるものよ~?」

「いいの! あの人だって、姉さんならともかく私に感謝されても何も思わないわよ……」

「大丈夫! 冨岡君はしのぶの事を好いているみたいだから!」

「「は?」」

 

 あまりにも突拍子の無いカナエの言葉に俺としのぶの声が重なった。

 

 えっ、どういうこと。俺そんな事言った覚えない。

 

「姉さん、いきなり何言ってるの?」

「お姉ちゃんの恋愛勘にビビッと来たのよ! これは脈あり、間違いないわ!」

「えぇ……」

 

 ある訳ないだろう。何を言っているんだあのポンコツ恋愛脳は。そもそも今日が初対面だぞ俺たちは。

 

「しのぶは可愛いもの~。きっと積極的に攻めれば行けるわ!」

「行く訳ないでしょ! 大体、私はあの人の事好きでもなんでもないわよ! 今日会ったばかりの男をどうこう思う訳ないでしょうが!」

「えぇ~、お姉ちゃん的には二人はお似合いだと思うんだけどなぁ……」

「例え好かれていようと、あんな男お断りよ! 無神経で、不愛想で、きっと私の事も弱そうな小娘だのなんだのと見下しているに違いないわ!」

 

 俺は見下してない……確かに背が低く筋肉が細いとは思ったけど……。

 

「……で、実際の所どうなんだ? 好きなのか?」

「ああ、(誰かを引っ張り上げたり、倒れそうなところを支えてくれそうな強い女子だ。口こそ厳しいがしっかりと接していれば彼女がとても純粋で優しいとわかる。女性としてはまだわからないが、一人の人間としてはあの気強い在り方は好ましく思う。そういう意味では)好きだな」

「そうか……。では俺は兄弟子として全面的にお前を応援しよう。ふふっ、お前も立派な男になったな」

「……? ああ、ありがとう」

 

 何だろう、錆兎と俺の間に何かとてつもなく認識のズレが発生したような気がした。

 

 しかしそんなに重要なことでは無いだろうと思い、俺は早々に考えるのを諦めて錆兎と共に出来るだけ音を立てない様にして居間に戻ることにした。

 

 そして暖を取るために囲炉裏の炭に火を着けながら胡蝶たちを待つこと十分。お盆に夕食を乗せた二人がついに姿を現した。

 

 目の前に置かれたのは、山盛りの白米、山菜のお浸し、鰊の塩焼き、茸の味噌汁等々、素朴ながらもしっかりとした作りの料理たち。香りだけで既に美味いと確信できる。

 

「おお……」

「美味しそうだ」

「当り前よ! 私と姉さんが丹精込めて作ったんだから!」

 

 フンス! と鼻息をしながら胸を張りつつ輝くようなドヤ顔を見せつけるしのぶ。成程、やはり今はまだ年相応の十歳らしい。何とも可愛らしい仕草に、俺は思わず微笑みを零す。

 

「ふふっ、じゃあ皆、挨拶しましょう」

「「「「いただきます」」」」

 

 両手を合わせて一礼。そして早速俺は味噌汁を一口すする。

 

「美味い」

「味噌汁はしのぶが一人で作ったのよ~。凄いでしょう? しのぶは昔から手先が凄く器用で、薬師みたいに庭の薬草でお薬も作れちゃうの! この前冨岡君に飲ませた痛み止めもしのぶが頑張って作ってくれたものなのよ?」

「それは……凄いな」

「こ、この程度の事でそんなに褒めないでいいわよ。それに、それ以外は全部姉さんの方が凄いんだから。筝も、生け花も、お茶もなんでも上手く熟せて。私たちの居た町の男はみーんな姉さんに夢中だったんだから!」

「もう、しのぶ!」

「確かに、胡蝶はいい妻になるだろうな。嫁に貰える奴はこれ以上無い幸せ者だ」

「むっ、何よ貴方。貴方も姉さん狙いなの?」

 

 目の前の姉妹の団欒に顔をほころばせた錆兎がそう言うと、やはり顔を不機嫌そうに歪めたしのぶがじっと錆兎を睨みつけた。が、錆兎はそんなしのぶを見ても面白そうに笑みを崩さないまま返事をした。

 

「安心してくれ、俺の想い人はもう別にいる」

「え」

 

 待って。初めて聞いたんだけど。え? いるの? マジで?

 

 だっ、誰なんだ相手は。馬鹿な、錆兎と関わりの深い女性など俺の知っている限りでは既婚者である蔦子姉さんと妹弟子の真菰しか――――あ。

 

「錆兎、まさか」

「義勇、それ以上を口にしたら殴るからな」

「え!? 錆兎君に好きな女の子!? 誰かしら! 可愛い系? それとも綺麗系!? 私凄く気になるわ! もう付き合ってるの!? それとも片思い!?」

 

 カナエがものすごい勢いで、具体的には隣に座っていたしのぶがドン引きする勢いで食い付いてきた。色恋沙汰は年頃の女子には格好の獲物らしい。

 

「……………接吻は済ませた、とだけ言っておく」

「えっ」

「きゃーっ! 両想い! 両想いよしのぶ! お姉ちゃん高ぶってきたわー!」

「姉さん、うるさい」

 

 俺もしのぶと全くの同感であった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 ――――目が、覚める。

 

 閉じていた瞼を見開けば、見慣れない木の天井が目に入る。目をこすりながら布団を退けて体を起こせば、隣には就寝中の錆兎の姿が。

 

(ああ、そうか。胡蝶の家に泊まっているんだった……)

 

 結局夕食を食べても嵐は止まず、俺たちは仕方なく家に泊まったのだった。無論、胡蝶姉妹とは別々の部屋で寝ている。歳の近い男女が同じ屋根の下というだけで十分マズいのに同じ部屋など論外だろう。

 

 乾いた目元を擦りながら、俺は少し催してきたのを自覚する。就寝前に厠に行かなかったせいだろう。

 

 俺はボサボサの髪と少しだけ痒い腹を掻きながら、おぼつかない足取りで厠へと歩く。うろ覚えではあるが事前に場所の把握はしている。故に俺は特に何事も無く厠へ辿り着き、溜まっていたものを体外へ放出。束の間の安心感を堪能した。

 

(ふぅ……さて、戻るか――――)

 

 

「いやああああああああああああああああああっ!!!」

 

 

「!?!?!?」

 

 尋常では無い叫び声が聞こえて、俺の頭の中に漂っていた眠気は一片残らず吹き飛ばされた。

 

 俺は弾けるように走り出し、悲鳴の聞こえた部屋の戸を乱暴に開ける。

 

 その部屋は、胡蝶姉妹の寝室。障子の向こうには身体を震えさせながら縮こまり、カナエに抱きしめられるしのぶの姿があった。どう見ても尋常じゃ無い様子に俺は思わず喉を鳴らす。

 

「どうした、何があった! 盗人か!?」

「冨岡君……ごめんなさい。その、しのぶが、夢で……」

「お父さん……お母さん……!! あ、あぁっ、あ……」

 

 血を吐くような嗚咽。口から零れ出る言葉から、俺は大体の状況を察した。

 

 思うに恐らく、夢で見たのだろう。己の両親が鬼に殺される、その瞬間を。

 

「……両親が、死んだか」

「うん、やっぱりわかっちゃうわよね……」

 

 俺は元々前知識があったので少し違うが、それがない錆兎もある程度彼女らの事情を察してはいるようだった。姉妹が二人だけでこんな大きな屋敷で暮らし、剰え両方鬼殺隊を目指しているなどどう考えても嫌な想像しかできない。

 

 だからこそ俺も錆兎も触れずにいた。カナエはともかく、まだ幼いしのぶにとってそれに触れることはあまりにも酷すぎるだろうから。

 

「鬼が……鬼が、お父さんとお母さんを……う、うぁぁあぁあぁっ!!」

「大丈夫よしのぶ。大丈夫、大丈夫だから……!」

「なんで……なんで私だけっ……! 鬼を、殺したいのにっ……! どうしてぇっ……!!」

 

 半ば朦朧とした状態で、しのぶは呪う様などろどろとした声音で心中を吐露する。ああ、やはり彼女は、斬れないか。大好きな両親の命を奪った、鬼という存在の頸を。

 

「置いて行かないでよぉ……! 姉さん、私を、置いて行かないでぇ……!!」

「しのぶ……」

「やはり、足りないか」

「……ええ。育手の方から、初日から鬼の頸を斬るのは無理だってはっきり言われて。それでも一年間頑張ったけど……今はもう、ほぼ見捨てられたような形で」

 

 なるほど、しのぶはかなりいい目を持った育手に当たったらしい。彼女の素質を即座に見抜き、初手からしのぶの心を折るつもりだったのだろう。しかしそれでも少女は折れず、険しい道を進み続けた。例え無理だと言われても、突き進むだけの理由があったから。

 

 だが、気合や根性で全てが解決できるわけがない。ましてや生まれ持った才能という高く分厚い壁は。

 

「お父さん、お母さん……ごめんなさい……! ごめんなさい……! こんな、弱い体で生まれて……! 私、わたしっ……!」

「しのぶ、落ち着いて。駄目よ、自分を否定しては駄目……」

「う、ぅぅううぅぅうぅうっ……!」

 

 絶望のあまり無意識に自己否定まで始めるしのぶ。それを必死で慰める二人の姿が居たたまれなくて、俺は無言で二人の傍に寄った。

 

 そしてぎゅっと、震えるしのぶの手を握る。彼女の現実の冷たさに震える心を、少しでも温めたくて。

 

「あ、ぁ……ぅ、うん」

「しのぶ……よかった」

「ああ」

 

 そうする事数分。ようやく落ち着いたしのぶは泣き疲れたのか、そのまま気絶するように眠りに落ちてしまった。突然の事に驚いたが、上手く収まって何よりだ。

 

 さて、そろそろ俺も部屋に戻って寝直さなければ――――。

 

「いやっ!」

「えっ」

 

 しのぶが何故か俺の手を握って離さない。えっ。

 

「あら、しのぶ?」

「行かないで……お父さん……!」

「……………嘘だろ」

 

 少しだけ力を入れて手を解こうとするも、しのぶは力いっぱい握りしめて全く離さない。それに、震えて涙まで見せられては強引な方法に出るわけにもいかない。どうしたらいいのかわからない状況に突然放り込まれた俺は、思わず手で顔を覆う。

 

「ええと……ごめんなさい、冨岡君。少しだけしのぶの傍に居てあげてくれないかしら」

「……ああ、構わない」

 

 思わぬ展開にため息を付くが、俺は諦めて状況を受け入れることにした。落ち着けばいずれ手も放してくれるだろう。少しだけ辛抱しよう。

 

「……ねぇ、冨岡君と錆兎君は、どうして鬼殺隊に入ったの?」

 

 それを問われると同時に、俺の心臓は強く締め上げられた。

 

 果たして彼女は、彼女らは、この話を聞いて俺の事をどう思うだろうか。嫉妬するだろうか、怒るだろうか。だが、隠していれば解決する話でもない。

 

 俺は数秒間を置いて、腹をくくる。

 

「錆兎は、物心つく前に両親を失ったらしい。どういった経由からわからないが、その後育手に拾われて剣士として育てられた様だ。本人も、自らの様な者をこれ以上増やさないために、大切なものを守るために戦うと誓っている」

「そうなの……。私もしのぶも、同じような理由よ。これ以上私たちの様に、鬼によって悲劇に見舞われる人を減らすために。もう悲しみを広げないために、私たちは戦うことを決めたの。冨岡君は?」

「俺は……義務感や、使命感のようなもの、だろうか」

「え?」

 

 予想通り、カナエは酷く不思議そうな顔をした。当然と言えば当然か。そんな理由で鬼殺隊に入る者など、それこそ先祖代々鬼狩りをしてきた者たちくらいだ。そして勿論俺はそんな大層な家系に生まれたわけでは無い。

 

 ただ、いずれ起こるだろう悲劇を知っているのに、何もせずに傍観するのが絶えられなかっただけだ。

 

「俺は姉と共に鬼に襲われたが、ギリギリで元鬼殺隊の方が駆けつけてくれたおかげで、何とか両方とも生き残ることができた。本当に、運がよかった」

「その、ご両親は……?」

「物心つく前に流行り病で亡くなったらしい。鬼は関係無い」

 

 それを聞いたカナエは怒ることなど無く、深い悲しみを帯びた顔をする。これは少し予想外だった。

 

「……何故悲しむ?」

「冨岡君、貴方は寂しくないの? ご両親との思い出も、愛も、何も作れていないのよ?」

「…………ああ」

 

 言われて初めて気づいた。

 

 ああ、そうか。冷静に考えれば、俺も大概良い境遇とは呼べなかった。父や母からの愛を知らず、姉と二人きりで日々貧しい生活を送る。確かに傍から見れば、悲しく辛いものだ。

 

 寂しくなかったかといえば嘘になる。だが唯一の肉親である姉が俺にとっては母親のようなものであったし、少し自慢になるがちゃんと愛されて育ったとも思う。

 

 それに……それ以上に、俺は”罪”の意識を感じざるを得なかった。

 

 一人の人間の人生を塗り潰したという”罪”が。人の体を借りて第二の生を謳歌するという”悪”が。

 

 それを気にせずに過ごせるほど、俺の顔の皮は厚くなかったらしい。

 

「いいんだ、胡蝶。俺は十分幸せに育った。()()何も、理不尽に奪われていない。だからこそいつも思うんだ。奪われた悲しみを知っているお前たちの隣に……俺なんかが居ていいのかって」

 

 きっと資格なんて無いだろう。俺は未だ彼ら彼女らの心を真の意味で理解することはできない。命より大切なものを失った悲しみを味わったことが無いのだから。

 

 ……それでも、それでも俺は……。

 

「……例え他人から疎まれようと、俺は戦うよ。短い命が尽きるその日まで」

「冨岡君……そんなことを言わないで……」

 

 カナエはまるで泣いている子供をあやすかのように、俺を両手と胸で包み込んだ。

 

 いきなり抱きしめられたことに俺は瞠目した。だがそれ以上に、暖かい温もりが冷たい心を少しずつ温まっていくのを感じる。

 

 一言では言えない、不思議な暖かさだった。

 

「私は貴方を蔑まない、妬まない、怒らない。貴方はどうあれ、同じ剣を持って、同じ志で、同じ敵と戦う仲間だもの。例え貴方が誰かに否定されても、私は貴方の手を握り続けるわ」

「…………胡蝶は、優しいな」

「貴方も、とっても優しい人よ」

 

 そう言うカナエの表情は笑顔だった。だが、頬に涙を伝わせている。痛ましいほど優しく、悲しいその有様に、俺は何も言わず彼女の手を握り込んだ。

 

「……お前は、何とも思わないのか? 両親が鬼に殺されたことについては」

 

 しのぶですらこの有様なのに、共に死に様を見ていたであろうカナエの様子は異様に穏やかだった。

 

 普通の人間ならば多少なりとも怒りを抱く筈なのに、彼女の顔から観て取れる感情は哀れみと悲しみ、慈しみの感情だけ。正直に言わせてもらうと、俺は少しだけカナエに対して畏怖を覚えた。

 

 どうして彼女は、此処まで優しくなれるのだろうか。

 

「私は、助けたいの。人も――――()()

 

 知っている。彼女が何を思っているのかは。

 

 だけどやはり、理解しがたい。実際に目で見て戦ったからこそ、俺は複雑な感情を抱く。例え不本意で鬼にさせられた者がいたとしても、本能のまま人を襲い無数の悲劇を作り出す害悪にどうして慈悲を掛けることができようか。

 

 同情や哀れみを抱いていないかと言われると、俺も答えに詰まるが。

 

「……それは、本気で言っているのか?」

「ええ」

「鬼は、人を食らう化外だぞ」

「元は、人よ。鬼舞辻によって運命を捻じ曲げられ、死ぬまで人を食らうことを強いられる、悲しい生き物なのよ」

「…………」

 

 そんな事とっくの前から分かっている。極一部の、余程の事情もなく自ら進んで鬼となった救いようのない阿呆共を除外すれば、鬼舞辻無惨という害悪に目を付けられ、その在り方を歪められた者達に憐憫はする。

 

 だが容赦は無い。ただ幾つかの例外を除けば。

 

「ごめんなさい、冨岡君。やっぱり私、おかしいわよね。鬼を救いたい、だなんて……」

「いや、おかしいとは思わない」

「え?」

「鬼は加害者だが、()()()()()()()。鬼舞辻無惨という全ての元凶によって作り上げられた、人食いの因果に囚われた者達。その所業は決して許される訳じゃないし、鬼の中には自分から望んで餓鬼道に堕ちた同情もできない畜生にも劣る屑共もいるだろう。その上で、俺は彼らの首を断つことは、その宿業から解放することだと思っている」

「冨岡君……!」

 

 自身の考えを理解してくれる者が現れたのが嬉しいのか、カナエはこれ以上無い喜びの声を上げた。だが俺はそれ以上舞い上がらせない様に釘を容赦なく打ち込んだ。

 

「だが俺がそう思えているのは、俺がまだ何も奪われていないからだ」

「あ……!」

「俺は運よく鬼から大切なものを守り通せた。そして、そんな人間は基本的に鬼殺隊になど入らない。……胡蝶、鬼殺隊に入る奴らの大半は鬼に何かを奪われた者だ。故に、お前の思想に共感できる者など片手で数えられる程も居ないだろう」

「それは……わかっているわ」

「胡蝶、別にお前を責めるつもりはない。お前の底抜けの優しさは美徳だと思っている。だが……奪われた側の人間に、奪った者を許せと、あまり言わないでやってくれ。過ぎた優しさは、時に無自覚な悪意となりうる。薬が過ぎれば毒と変ずるように、な」

「……ありがとう、冨岡君。心配してくれているのね」

 

 直前とは打って変わって落ち込むカナエの姿を見て、俺は深いため息を付きながら天を仰ぐ。

 

 カナエは柔らかい笑顔だった。しかし頬には涙を伝わせている。痛ましいほど優しく、美しくも悲しいその有様に、俺は何も言わずその手を包むように握り込んだ。

 

「ねぇ、冨岡君。もし、もし私がしのぶの事を守れなくなったら。その時は、しのぶの事をお願いできるかしら」

 

 ふと、カナエは搾り出すようにそう呟いた。その言葉に俺は一瞬思考を止め、唇を噛む。

 

 何故そんなことを言うんだ。俺は、そうなることを防ぎたいのに。

 

「……何故、俺に? 探せばもっと他に適任がいるだろう」

「そうかもしれない。けど、今の私は、貴方に任せるのが一番だと思ったの。優しくて強い貴方に」

「…………善処は、する。だが胡蝶、自分が死ぬ前提で物事を考えるな。縁起でもない」

 

 そんな事させるものか。死なせるものかよ。

 

 未来は変えられる。運命などありはしない。彼女にも権利があるはずだ、姉妹仲良く笑顔で幸せな未来を生きる権利が。苦労が報われる権利が。

 

 絶対に、変えてみせる。

 

「ふふっ、本当に優しいわね、冨岡君は。――――ああ、それと……”胡蝶”だと少し紛らわしくないかしら?」

「……? 何がだ」

「だって、胡蝶って呼称だと、(しのぶ)の方と区別がつかないでしょう? だから、カナエって呼んでくれないかしら」

「いや、だが知り合って間もない女性を下の名前で呼ぶのは……」

「ほら、一回だけでいいから! ね? ()()君?」

 

 物理的に詰められる距離はもう無いというのに、更に精神的にも距離感を詰め出したカナエ。突然の行動に俺は困惑を隠せなかった。

 

 何だ、何が起こっているんだこれは。

 

「ねぇねぇ、ほらほら。名前を呼ぶだけなんだから」

「…………カナエ」

「もっと大きな声で!」

「……カナエ」

「うふふ、うんうん。カナエさん大満足~」

 

 満面の笑みでカナエは俺の両手を握って上下にぶんぶんと振った。最近の女性は距離の詰め方が凄いな……。

 

「う、ぅん……」

「……おい、待て。胡蝶、おい」

「うふふ、もう逃げられなくなったわね~」

 

 カナエは満面の笑みを浮かべているが俺の心は焦燥で満ちていた。何故なら、手を放すと思われていたしのぶが今度は俺の腰に手を回してしっかりと掴まってしまったからだ。

 

 こうなってはもう抜け出せない。俺は無言で空を仰いだ。

 

「義勇君、布団敷きましょうか?」

「…………頼む」

 

 深いため息を吐きながら、俺はカナエの提案に頷くしかなかった。

 

 それに、そろそろ眠気も限界だ。俺はカナエの敷いてくれた布団に横になりながら、俺の体を抱きしめているしのぶの寝顔を何となく眺める。

 

 綺麗だ。しかしまだ幼い。こんな幼子が、両親を目の前で失った悲しみを背負っている。

 

 それはきっと苦しくて、痛くて、悲しいものに違いない。

 

(……俺が少しでも肩代わりできればよかったんだがな)

 

 叶わぬ願いを抱きながら、俺は瞼を閉じる。

 

 

 

 ああ、鬼の居ぬ夜は、一体何時訪れるのだろうか。

 

 

 それはきっと、神にしかわからない。

 

 

 

 




(知り合ったばかりの歳の近い美人姉妹と同衾は)まずいですよ!

冨岡さんの元が色濃いのか油断してると偶に浮き出てくる言葉足らずと天然のデバフパッシブスキル。天然はともかく前者は同年代や年下の同性の時には姿形もなかったのにどういうことだ! 答えてみろルドガー!

因みにフレーバー程度の設定ですがこの冨岡さんの中身の比率は大体四(元岡さん)対六(憑岡さん)です。

ほぼ半分冨岡じゃねぇか!


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第拾壱話 善意の毒

善意が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。ンッン~、名言だなこれは……。


 チュンチュンと、スズメの囀りを目覚ましに胡蝶しのぶはゆっくりと瞼を開けた。

 

「う、ぅん……ふぁぁぁ……」

 

 久々に味わう心地よい朝。言葉に言い表しがたい優しい温もりによって、しのぶは昨晩自身を苦しめた悪夢の痛みを忘れてしまうほどに快調を感じている。

 

 隣を見れば、いつも通り姉が眠っていた。気持ちよさそうに布団に包まりながらへにゃりと崩した幸せそうな顔を浮かべて寝息を立てている。それを見てしのぶも思わず笑みを浮かべ、姉の顔をそっと撫でた。

 

「…………あれ?」

 

 そこでしのぶは滓かな違和感に気付いた。自身を包む温もりの源、それが隣で寝ている姉のものであるとは理解した。が、何故か反対側からも同じような温もりが感じられるのだ。

 

 嫌な予感を胸に、しのぶは喉を鳴らしながら恐る恐る振り向く。

 

 

 そこには、何故か、見覚えのある男の寝顔が、あった。

 

 

「……………あ、あ、あ」

 

 状況が上手く呑み込めないしのぶは自分でも信じられない程震えている声を喉奥から漏らしてしまう。

 

 ――――何? どうなっているの? どうしてあの男がここに?

 

 そのまま何も言えずに固まってしまったしのぶをよそに、まるで狙ったとしか思えないタイミングで両隣の二人が目を覚ました。

 

「ふぁぁああぁあ……あら、しのぶ。もう起きたの? あ、義勇君おはよう~」

「……ん、もう朝か……おはよう、胡蝶、カナエ」

 

 名前で呼び合っていた。その事実を理解したしのぶの混乱は最高潮に達しようとしている。

 

 昨日までは普通に苗字で呼び合っていた筈。なのに何が起こったの? あの短い夜の間で一体何が!?

 

 寝起きという事もあるだろうが、混乱した頭をフル回転させたしのぶはおよそ数秒で最悪の予想を叩き出していた。男女二人が立った一晩で絆を深め合うなんて、それはきっと……

 

「姉さん……昨日、この人と、何をしたの?」

 

 しのぶは死んだ目と声で姉にそう問うた。しかし未だ頭が覚醒途中なのかカナエはしのぶの異変に気付かないまま、ホワホワと幸せそうな笑顔で返事をする。

 

「うふふっ、実は昨日の夜に義勇君と色々話し合っちゃって。やっぱり義勇君は、とっても優しかったわ」

(何が優しかったの? ナニが?)

「それに私が抱きしめると、子供みたいに手をぎゅっと握って……これがもうすごく可愛いの!」

「……俺は子供じゃない」

「もう、照れ屋さんね~」

(抱きしめた? 手を握った? えっ、えっ、えっ)

 

 悪い予想図を否定したいのに、それを肯定する材料がどんどん出てくる。嘘だ。そんなの嘘だ。そうだこれは夢だ、私はまだ悪夢を見ているのだ。

 

 しのぶはついに現実逃避を始めた。

 

「……冨岡、さん。昨日、私と姉さんに、何をしたの?」

「? ……昨晩は、お前をカナエと共に抱いて寝たが」

 

 そう言われたしのぶは無言で立ち上がり、棚の中にしまっていた訓練用の真剣を取り出した。

 

 突如そんな行動を取るしのぶを見て、カナエと義勇が訝し気な表情を浮かべる。何だ、おかしいのは私の方だと言うのか? そんな訳ない。姉さんはきっとあの男に誑かされて手籠めにされたんだ。

 

 

 ――――なら私が、目を覚まさせてあげないと。

 

 

「しのぶ?」

「胡蝶?」

 

 しのぶは義勇の前に立ち、抜刀した。

 

「え」

「とっととくたばれ糞野郎」

 

 

 その日の胡蝶家の朝は、凄く騒がしいものであった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 世界はとても理不尽なものだと、俺は今日再確認した。

 

 俺に非が無いのかと言えば嘘になる。家族でもなければ付き合ってもいない、知り合って間もない歳の近い男女が同衾など、俺も第三者の立場であれば余程の事情が無い限り正気を疑うだろう。

 

 そしてしのぶからしてみれば寝て目が覚めたら知り合って一日の男が隣で熟睡しているという光景。気が気じゃ無かっただろう。つらいだろう。叫び出したいだろう。()()()()

 

 だが、だがそれでも、いきなり真剣で斬りかかってくるのはいかがなものか。俺の白刃取りが間に合っていなければ間違いなく早朝早々に頭が真っ二つになり脳漿をぶちまけたスプラッタ惨殺死体が一つ出来上がっていた。

 

「…………どうぞ」

「ああ……」

 

 そんな衝撃的な朝を迎えた俺は、当然だがしのぶと気まずい雰囲気になっていた。

 

 あの後何かしらの誤解を解くために一時間にわたる事情説明を行った結果しのぶは何とか落ち着いたが、それでも俺が姉妹の寝る部屋で快眠していた事実は変わりない。不可抗力とはいえ男としては少々、いやかなり駄目な行動だ。

 

 くっ、穴があったら入りたい……!!

 

 俺はしのぶから受け取った米を死んだ目で咀嚼しながら、チラリと彼女の顔を見る。

 

 想像通りではあるがまるで石のように固まった無表情だった。ああ、うん。怒ってる。怒ってるよアレは。そうだよね、怒るよね……。ほんの少し顔と耳が赤くなっているのが何よりの証拠だ。

 

「……その」

「うるさい。黙ってて」

「はい……」

 

 三歳年下の女の子に怯える男子の図。情けないにも程があるぞ俺。

 

「義勇、どうしてお前は次々と厄介事を作るんだ」

「面目次第も無い……」

 

 半眼になった錆兎からの痛い言葉が心にぐっさりと突き刺さる。

 

 錆兎には事情はもう伝えてある。しかしだからと言って俺を庇ったりはしない。友人であっても悪い事をしたのならば、責任は取るべきだと錆兎は言った。俺もそれには同感だ。

 

 流石に真剣で斬りかかられたことについては同情の眼差しだったけど。

 

「義勇君、ごめんなさいね。私が無理言ったせいで……」

「いや、全責任は俺にある。カナエは悪くない」

「……お前たち、いつの間にか名前呼びになったんだ?」

「ああ、ほら。苗字だとしのぶと混ざっちゃうでしょう? なら名前で呼んだ方がわかりやすいし、親近感も生まれると思って。錆兎君も名前で呼んでいいのよ?」

「なるほど……まあ、弟弟子が道を踏み外していないようで何よりだ」

 

 俺って子供に手を出すと思われる程信用なかったのか……? 俺はそんな疑問を抱いたが、これ以上口を開くとしのぶに睨まれそうだと思ったので口には出さなかった。

 

 結局その後俺としのぶの間で言葉が交わされることは無かった。

 

 気まずい雰囲気のまま時間は過ぎ去り、気が付けば俺は錆兎と共に庭に面する縁側に腰掛けて、剣を振るしのぶの姿を眺めていた。

 

 ……あれ、何で俺たちはまだ此処に居るんだっけ。

 

「二人とも、お茶淹れてきたわよ~。御茶菓子もどうぞ」

「ああ、ありがとう」

「気遣いに感謝する」

 

 ニコニコと笑顔を浮かべたカナエが昆布茶とせんべいを持ってきた。何故だろうか、俺たちが家を発とうとする瞬間に限って狙いすましたかのように差し入れが飛んでくる。どういう事だってばよ。まるで意味が分からんぞ。

 

 カナエの笑顔はとっても綺麗で優しい。しかし今の瞬間だけは得体のしれない恐怖を感じるのは、きっと気のせいだと信じたい。

 

「しのぶ、無理はしないで少し休みなさい。身体を壊してしまうわ」

「っ……もう少しだけ!」

 

 顔に疲弊の色が見え始めたしのぶ。肩を上下に揺らしながらも懸命に全集中の呼吸を練り上げようとしている様は見ていて良い気分が浮かぶものでは無かった。

 

 彼女の目の前には大木から切り出したであろう太い丸太が鎮座している。幹は浅い切り傷でズタズタになっており、そこから彼女がどれだけ長い年月をかけて鍛錬を繰り返したのかが見て取れる。ただ、その結果は……。

 

「なんで、斬れないのっ……!!」

 

 俺たちがしのぶを見かけ、その修練を見てから既に百回以上の斬撃が繰り出されていた。だがそのどれもが丸太に浅い傷を作るだけに留まっている。

 

 先程も述べた通り、鬼の頸は極めて堅い。日輪刀は鬼の頸を斬ることでその命を絶つが、頸を断つには相当な力を要求される。雑魚鬼であってもその堅さは石を優に超え、故に刀を使っても石に傷を付けるので精一杯な一般人では例え日輪刀を持っていても意味は無い。

 

 頸を斬れないなら、日輪刀とてその価値を発揮できないのだから。

 

「っ、あぁぁあぁああぁあああああっ!!」

 

 しのぶは痛ましい、もはや悲鳴としか表現できない雄たけびを上げながら丸太へと斬りかかる。

 

 が、度重なる無理が祟ったのだろう。彼女の両手から訓練用の真剣がするりと、すっぽ抜けた。

 

「え」

 

 茫然とそれを見るしのぶ。彼女を置いてけぼりにしながら刀は回転し、明後日の方向へと飛んでいってしまう。

 

 敢えて言うなら、俺の顔面目がけて。

 

「避け――――!?」

 

 直後に起こるであろう惨状を想像してしのぶの顔から血の気が引き、あまりにも遅すぎる警告が発せられる。常人ならば今更声を上げても反応できない。

 

 常人ならば。

 

 俺は何も言わず飛んできた刀の刀身を人差し指と中指で挟んで制止させた。刃と顔の距離は、正しく目と鼻の先。

 

 ……次からはもっと早く止められるよう精進せねば。

 

「……しのぶ」

「っ」

 

 カナエの声から柔らかさが消えた。

 

 自らの忠告を無視し、剰え客人を危険にさらした。いくら温和な彼女とて怒るべき時には怒る。しのぶがカナエにとって唯一残った肉親だったとしても、それは決して過度に甘やかしていい理由にはならない。

 

「今日はこれ以上の鍛錬は許しません。顔を洗って、頭を冷やしてきなさい」

「……うん」

 

 悔しさのあまり唇を噛み、服の裾をくしゃくしゃになるまで握り締めながらしのぶは部屋の奥へと消えた。

 

 俺たち二人は何も言えない。俺はともかく錆兎は彼女らの事情をほとんど知らないのもあるし、何より身内の問題だ。何とかしてやりたいという気持ちは余るほどあるが、どういった行動を取れば良いのかがさっぱりわからない。

 

 満ちていく無言の時間。しかしそれは、傷だらけの丸太の表面を撫でるカナエによって破られた。

 

「義勇君、昨晩に言った事を覚えているかしら? しのぶは、育手に殆ど見捨てられたようなものだって」

「……ああ」

「何? どういう事だ?」

「しのぶはね、斬れないのよ、鬼の頸を。いくら鍛えても意味がないと、育手の方は言っていた。どれだけ研鑽しようと、どれだけ努力を重ねようと、あの子が鬼の頸を斬れる日は来ない。それは生まれた瞬間から決まっていたことなんだ、って」

 

 それはどれだけ辛い事なのだろうか。家族の仇である鬼を自らの手で誅したいのに、その力が無い。そしてその力は、生まれた時に既に決まっている。

 

 どうやっても覆すことのできない、才能という残酷な壁。

 

「……どうして私だけ、鬼の頸を斬れる力が備わってしまったのかしら。こんな事なら、いっそ二人とも斬れなければ、しのぶも諦められたかもしれないのに……」

「………………」

 

 自分は憎き鬼は殺せない。

 

 最愛の姉は鬼を殺せる。

 

 共に戦えない。役に立てない。

 

 自分だけ安全な世界にいながら、どうして愛する家族を死地に行かせて安心できようか。無力のままその場で燻ぶったまま、姉の死が訪れるその日が来れば――――果たしてしのぶという少女の心は耐えられるだろうか。

 

 ……言わなくとも、結果など分かり切っている。

 

「二人とも、少し席を外す」

「義勇?」

「義勇君?」

「少し励ましてくる」

 

 しのぶが今の状態でカナエの言葉を素直に受け入れるとは考えづらい。下手すると余計にこじれる可能性があるだろう。

 

 まずは落ち着かせるべきだ。話だけでも聞いて、今の彼女が心の奥に押し込んでいるものを吐き出させねば。

 

 そんな思いを抱きながら俺は水飲み場へと歩き、すぐにしのぶを見つけることができた。水滴の垂れる顔からはいつものような不満げな表情はどこかへと消え、憔悴が満ちたものになっている。

 

「……胡蝶」

「! あなたは……」

 

 こちらへと振り向いたしのぶは瞳から水ではない滴を頬から伝わらせていた。一瞬だけ呆け、しかしすぐにいつも通りのキッとした表情に戻った彼女は強がるように俺へと言葉をぶつける。

 

「……何よ、いきなりこっちに来て。用が済んだなら、早くここから出ていけばいいじゃない」

「言われなくともすぐに発つ。が……世話になった以上、何も言わずにさよならという訳にはいかないだろう。困っている事があるなら話してみろ。聞き手くらいにはなれる」

「……………………」

 

 少しの間しのぶは迷うように口の開閉を何度も繰り返し、やがて抑えきれなくなったのか静かに嗚咽を漏らしながら心の底に溜まった黒い沈殿を吐き出し始めた。

 

「……私たちの両親は、鬼に殺されたの。目の前で生きたまま、醜い怪物に貪り食われた。その鬼が好物を後に取っておく性格だったのが幸いして、食われそうになった寸前で駆け付けた鬼殺隊の方が鬼を倒してくれたの」

 

 言葉を出しながらその光景を思い出したのか、しのぶの目から流れる涙は少しずつ増していく。彼女がそれを服の袖で乱暴に拭くが、それでも涙が止まることはなかった。

 

「でも、だからと言って両親の死に様を忘れられたわけじゃなかった。ずっとずっと、何日かに一度はあの光景が浮かんで……なのに、鬼の頸は斬れないって言われて……! それでもいつかはできるって信じて、あんなにたくさん頑張ったのにっ……自分の手で鬼を倒せるんだって信じてきたのに……!! こんな、こんな事ってないよぉっ……!!」

 

 感情の波が最後の防波堤を打ち壊し、しのぶは双眸から滝のように涙を流し力なく膝から崩れ落ちた。俺はとっさに彼女の体を受け止める。

 

 彼女の細い腕が俺の腰に回されて、胸が涙で濡れていく。

 

「なんで私はこんなに無力なの……! なんで私だけ姉さんを見送らなければならないの……!! 一緒に戦うって、一緒に鬼を倒して、一人でも多くの人を助けるって決めたのにっ……!! っ、う、ぁあぁぁぁあぁあぁあああああああ……!!」

「…………そうだ、お前は頑張った。だから今くらいは泣いていいんだ、しのぶ」

 

 悲しみに叫ぶ彼女を宥めるように、俺はひたすら彼女の背中を摩った。

 

 いくら鍛えているといっても、彼女はまだ十歳だ。まだ成熟しきっていないだろう精神が両親の死や様々な挫折に耐えられる道理などない。それでも彼女はボロボロの心に鞭打ち、無理やり進み続けようとしたようだが……今くらいは、休ませてあげよう。

 

 片羽の蝶など、俺は見たくないのだから。

 

 

 

 

「落ち着いたか?」

「…………はい」

 

 十分ほど過ぎてようやく落ち着いたのだろう。しのぶは涙の痕を水で洗い流した後、恥ずかしそうに顔を俯かせながらそう返事をした。

 

 まあ、知り合って間もない人間にあれだけの泣き顔を晒したのだ。恥ずかしいに決まってる。

 

「その、ごめんなさい。色々と……」

「色々?」

「ええと……今朝の事とか……」

「ああ。いや、あれは俺が悪いだろう。胡蝶が謝ることじゃない」

 

 何故だろうか。しのぶの態度が急にしおらしくなった。おかしいな、俺の予想では前の様な強気な顔に戻ると思っていたのだが……ううむ、人の感情というのは思い通りにはいかないものだ。

 

「夢を、見たの」

「え?」

「両親が殺される悪夢の後……とても懐かしい夢を見た。お父さんとお母さん、カナエ姉さんみんなと一緒に寝る夢を。そんな夢、今まで見たことも無かったのに。……たぶん、貴方が隣にいてくれたから見れたのかもしれない」

「そうか」

 

 なるほど、どうやら悪い事ばかりではなかったらしい。ほんの些細な安らぎではあるが、荒んだ彼女の心を癒せたのならば何よりだ。

 

 では最後に、彼女へと置き土産を置いて行くとしよう。

 

「胡蝶、お前は鬼の頸を斬れない。そうだな」

「……はい」

「だが、それが決して鬼を殺せないと言う事にはならないだろう」

「え!?」

 

 俺の言葉にしのぶは心底驚いたように目を見開いた。さながら、暗い水底で一筋の光を見たように。

 

「大昔の人々は試行錯誤の末に、太陽の力を溜め込んだ鉱石を使って日輪刀を作り、それを使って頸を斬ることで鬼を殺す方法を見つけた。だがその事実から”鬼は日輪刀を使わねば殺せない”という結論に至る訳ではないことは知っているはずだ」

「確かに……」

 

 鬼を殺す手段は一つではない。現時点で判明しているのは日光を浴びるか、日輪刀で頸を斬られるか、鬼舞辻無惨の名を口にするかの三種類のみであるが。そしてこの話で一番重要なのは、鬼を殺す手段は複数ある事。そして他の方法を見つけられる可能性も無いわけではない、という事だ。

 

「鬼の生態は未だ未解明な所が多い。それらを調べ尽くし、幾多もの方法を試せば、非力な者であっても鬼を殺せる方法を見つけられる可能性はある」

「頸を斬れないなら……他の手段を……」

「確かカナエが、お前は薬師のようなことができると言っていたな。では、鬼の嫌う藤の花を使って薬を……”毒”のようなものを作れないか? 頸を断たずとも鬼を殺せる、藤の猛毒を」

「あ……………」

 

 しのぶは唖然と、目から鱗が落ちたような顔を浮かべた。

 

 それからわなわなと肩を震わせて、両手をぎゅぅと力いっぱいに握りしめながらまたもや両目から大粒の涙を落とし始めてしまった。

 

「こ、胡蝶……?」

「……ありがとうっ……ありがとう、冨岡さんっ……!」

「ああ。お前なら、きっとやれるさ。応援している」

「っ、ぅ、ぅうぅぅうっ……!!」

 

 今度は大声で泣き出すようなことは無かった。それでもしのぶは心の底から湧き上がる歓びを抑えきれないのか、両手で口を押えて嗚咽を漏らした。

 

 絶望という暗い闇の中に、明確に希望の光が差し込んだ。その高揚感が筆舌に尽くしがたい物だという事は想像に難くない。

 

 

「――――カァーッ! カァァ――――ッ! 緊急! 緊急! 冨岡義勇! 至急南西ヘト急行セヨ! 調査ニ向カワセタ隊員ガ十名以上行方ヲ眩マセテイル! 至急原因ヲ解明セヨ!!」

 

「「!!」」

 

 

 突如黒い物体――――黒衣が伝令を大声で叫びながら窓から入ってきた。そしてその内容を聞いて俺としのぶは無言で息を呑む。

 

どうやら休暇は返上せねばならなくなったらしい。しかしその内容を聞けば不満の気持ちなど湧かない。

 

 鬼殺隊員が十名も行方不明になった。鬼の仕業かどうかは未だ不明であるが、ただならない事態だということは確かだ。とにかく、呼ばれたのならばすぐに向かわねば。これ以上被害が広がる前に。

 

「では胡蝶、これで失礼する。世話になった」

「あ、と……冨岡さん!」

「なんだ?」

 

 すぐさま踵を返して胡蝶家を後にしようとするも、突然しのぶに呼び止められた。何か俺に用事でも残しているのだろうか?

 

 そう思っているとしのぶは袖から小さなお守り袋を俺へと渡してきた。触ってみると、中に何か固いものが入っているような感触がする。

 

「袋の中に強心薬が入ってるわ。自作だけど、効き目は確かな筈よ。きっと役に立つと思うから、いざという時に使って」

「そうか。では、遠慮なく使わせてもらおう」

「死なないでよ。貴方が死んだら、姉さんが悲しむんだから!」

「……ああ!」

 

 先日通りの快活な笑みに見送られながら、邸宅を足早に出た。すると玄関で佇んでいた錆兎が腕に己の鎹烏を乗せながらこちらへと振り向いた。

 

 どうやら錆兎の方も連絡を受け取ったらしい。

 

「義勇、遅かったな」

「ああ、少し話し込んでいた。直ぐに出発しよう。日が沈むまでには着きたい」

「無論だ!」

 

 俺たちは共に空を飛ぶ烏を追いかける。

 

 どんな鬼が潜んでいるかはわからない。だが、必ず生きて帰ろう。明日のために、未来のために、友や家族のために。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「……どうしよう」

 

 胡蝶しのぶは困っていた。具体的には、姉にどうやって話しかけようかという課題に。

 

 事の発端は自分が言いつけを無視して姉の友人かつ恩人に危害を加えかけたというところから始まっている。

 

 友人の方からはもう気にもされていないようなので問題は無いのだが、如何せんあの時の姉は普段と比べてかなり怒っていた。滅多に見せないその怒りに、しのぶはどうすればいいのかわからない。

 

「一番いいのは謝ることなんだろうけど……ううん、とりあえず話しかける所から――――姉さん! ……あれ?」

 

 姉の私室の戸を開けながらしのぶはカナエを呼んでみるも、返事は無し。

 

 居間や客間、厨房は既に確認済み。いるとしたら此処くらいしか無いはずなのだが、と訝しがりながらしのぶは部屋を見渡し、偶々視界に入った机の上に置かれている一枚の紙切れを手に取る。

 

 どうやら姉の書置きらしい。

 

『食材の買い出しに行ってきます。お姉ちゃんが居ないからって勝手な事はしないように』

「……姉さん」

 

 そう言えば昨晩と今朝に予想外の消費があったため、備蓄が無くなりかけてきたのをしのぶは今思い出した。

 

 だからと言って何も言わずに行くか、としのぶは姉の自由奔放さに呆れつつも改めて姉の部屋を隅々まで見渡してみる。買ったばかりとはいえ、女子の部屋にしては酷く質素だ。両親と暮らしていた時には、もう少し飾り気があったというのに。

 

「……いや、その必要が無いからよね」

 

 鬼殺隊員は余程の事が無い限り任務が終わって即帰宅、という事はほぼ無い。というか鬼殺隊に属している者の大半は身寄りの無い者。一々実家に帰る事など想定していない。

 

 故に飾ったところで意味などほとんどないだろう。使うこと自体が稀なのだから。

 

「……掃除くらいはしておこう」

 

 深く考える程気持ちが沈んでいく様な気がして、しのぶは気を紛らわすように姉の部屋の掃除を行うことにした。とはいえそこまで本格的なものでは無く、行うのは物の整頓整理くらいだ。

 

 棚から床に落ちている本を元の場所に収めたり、無造作に出された日用品を棚に入れたり――――そんな事をしていると、ふと棚の奥に何かの封筒を見つけた。

 

 何だろう、としのぶは好奇心のままそれを手に取り――――すぐに己の行動を後悔した。

 

「これ、って……」

 

 

 ”遺書”

 

 

 真っ白な封筒に刻まれた無機質な文字は、酷くしのぶの胃を絞め付けてくる。

 

 心のどこかではわかっていた。鬼殺隊はいつ死んでもおかしくない役職。才能の無い平隊員は当然のように鬼の凶手にかかり、例え才能があっても運が無ければ無慈悲に殺されていく。

 

 そんな鬼殺隊の隊員になった姉が、遺書を用意していない訳がなかった。

 

「…………………少し、だけなら」

 

 後になって思えば、やめておけばよかったと思う。

 

 私はまだ子供だったのだ。心がまだ未熟で、好奇心にすら碌に抗えない小さな子供。ただ感情のままに行動する、馬鹿な女の子。

 

 

『これを読んでいるという事は、私はもう死んでいるのでしょう。

 

 しのぶ、ごめんなさい。貴方を残して先に逝ってしまった私を許してください。そして、決して後を追いかけようだなんて思わないでください。

 

 私は貴方に生きて欲しい。もしこれを読んでいるときに貴方が鬼殺隊になってしまっているのならば、私は貴方が鬼殺隊を辞めることを願います』

 

 

「――――え?」

 

 

 声が、震える。

 

 どういう事だ。私に鬼殺隊を、やめて欲しい? なんで、どうして、だって――――

 

 

『貴方が両親のために、鬼に襲われるかもしれない顔も知らない誰かのために頑張っているのはよくわかっています。貴方のその優しさは、姉として誇りに思う限りです。

 

 でも私は貴方に普通の幸せを掴んでほしい。出来ないことを無理に続けなくてもいいの。

 

 普通の女の子の様におめかしをして、素敵な殿方と恋をして、可愛い子供をたくさん産んで、お婆ちゃんになるまでしっかり生きて欲しい。

 

 もう十分だから。こんな辛く苦しいことをするのは、私だけで――――』

 

 

 その先を読む前に、しのぶは遺書をくしゃりと握り潰した。

 

 ポタリ、ポタリと紙に生暖かい雫が落ちる。

 

 

「―――――――――嘘つき」

 

 

 悲しみもあるだろう。苦しみもあるだろう。

 

 だが、この涙が締める感情は。

 

 

 怒り、だった。

 

 

「一緒に鬼を倒そうって、言ったのに」

 

「一緒に困ってる人を助けようって誓ったのに」

 

「なのに、なのに、なのに」

 

 

 ふつふつと、しのぶの胸の奥底から黒いものが溢れ出す。今まで抑えつけていた不満が、爆発寸前まで熱されていく。

 

 何故? 決まっている。だってこの遺書の内容は、まるでカナエがしのぶを――――

 

 

「最初から……信じて無かったっ……!!! 最初から、私の事なんてっ……!!!」

 

 

 いつも優しい言葉で励ましてくれていたのに。

 

 それは全部嘘だったのか? 上辺だけのものだったのか? 怒りがしのぶから冷静な判断力を底なしに奪い続け、負の解釈の螺旋を描き始めた。

 

 きっとこれは、(カナエ)からの純粋な善意の筈なのに。

 

 

 ――――みしり、と。しのぶの心に罅が入った。

 

 

 理解出来ない。何もかも許容できない。どうしてなの姉さん。貴方は最初から私の事を信じて無かったの。一緒に約束したのに、一緒に鬼を一匹でも多く倒そうって約束したのに。それは嘘だったの?

 

 優しかった貴方の、一体何処までが本当なの?

 

 胸が苦しい。痛い。そう、これはきっと――――信じていたものに、裏切られた痛みだ。

 

「……………ろさなきゃ」

 

 しのぶはふらふらと、まるで幽鬼のように音もなく立ち上がった。

 

 視線の先にあったのは、無造作に立て掛けられている姉の授かった日輪刀。今知っている中では鬼を殺せる唯一の武器。

 

 何も言わずに、しのぶはそれを手に取る。

 

 

「私が鬼を、殺さなきゃ……一匹でも、多く…………ッ!!!」

 

 

 地獄の釜の底から湧き出るような真っ黒に濁った声で、しのぶは無謀な道へと一歩を踏み出した。

 

 

 

 

「――――しのぶ~! 姉さんが帰ったわよ~。怒ってないからお話しましょう~? 一体どこにいるの~?」

 

 

 その後帰宅したカナエは家の中を歩き回り、妹の姿を探し回った。

 

 やがて自室の前にたどり着き――――くしゃくしゃに握り潰された一枚の紙切れを見て、抱えていた風呂敷の中身をその場でぶちまけた。

 

 

「…………え?」

 

 

 

 長い夜が始まる。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 暗い。暗い。陽の光一本すら入り込まない暗黒の中、赤黒く固まった血と肉の腐る臭いが充満する。

 

「あぁ、あ、ぁ」

「――――不味い。やはり顔が素朴では肉も味わいが無い」

 

 天井から宙づりにされた女たちの死体。そこから肉を引き千切り、頬張る女の姿。豪奢な着物に身を包み、高価な白粉と紅をふんだんに使った美しい女だ。さながら高陵の花とも例えられるその女は、それに似つかわしくない光景を作っている。

 

 女は幾度か口の中を動かし、やがて白い塊をペッと吐き出す。それは紛れもなく人の骨。

 

「さて、お前はどうかな?」

「ひぃっ!!」

 

 手足を黒い糸の様な物で縛り付けられたいた少女は女に睨みつけられて悲鳴を上げる。それを見た女は更に嗜虐的な笑みを浮かべて彼女の頭を掴もうとする。が、

 

「――――死ねぇぇぇぇぇぇええ!!」

 

 女の背後で伏せっていた血まみれの少女が折れた刀を手に飛びかかった。完全に不意を突いた形、少女は小さく勝利を確信した――――そして次の瞬間、少女は己の視界を走る一瞬の閃光を見た後、悲鳴を上げることすら許されずそのまま幾つもの肉塊へと斬り刻まれた。

 

「由香!! そんなっ……!?」

「フン……死んだふりとは小賢しい。まあ良い、食事の再開だ」

「いっ、いやぁっ! 放してぇっ!!」

 

 女はむんずと少女の髪の毛を掴み上げた。そして自分の目の前まで持ち上げると、口を大きく開く。

 

 肉が裂けそうになっても止まらない。頬肉が裂け、顎肉が外れたように、人間のものとは思えぬ口へと変貌する。それを見た少女は恐怖のあまり何も言えず、股の間から暖かいものを漏らしてしまった。

 

「ひ、あ、いやっ、いやぁっ……!」

 

 少しずつ、少しずつ少女の顔に影が広がっていく。いくら泣き叫ぼうとも止まらない。逃れられない死が迫る。

 

 それを救う者は、この場には居ない。

 

 

 

「いやぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 

 

 部屋中に断末魔が響き渡る。それは空しく虚空へ消え去り、後に残ったのは肉と骨を噛み砕く音だけだった。

 

 

 静寂と暗闇の中で赤く光る、人のものとは思えない縦長の瞳孔が浮かぶ不気味な眼。

 

 

 ”下陸”と刻まれた左目が、愉快そうに揺らめいた。

 

 

 

 

 




「昨晩は、お前をカナエと共に抱いて寝たが」
正訳:昨晩はあなたが私の身体を掴んで放さなかったため仕方なく隣で寝ました。肌寒かったため寝ぼけて貴方の姉のように貴方を抱き締めてそのまま寝てしまったかもしれません。
誤訳:昨日は寝ているお前さんを姉ごと「自主規制」してやったぜグヘヘ。

これはひどい。


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第拾弐話 下弦の陸

 昼を少し過ぎた頃に俺たちは目的の場所に到着した。

 

 その町は所謂”貧民窟”。どこもかしこも廃れたあばら家が並んでおり、風が老朽化した家の穴を通っておどろおどろしい音を響き渡らせる。更に路地裏に目を向ければ鼠と白骨死体が当り前のように散乱しており、同時に異臭も漂っていた。

 

 都市とは歩けば半日かからない程度にしか離れていないと言うのにこの廃れ具合、時代の闇をひしひしと感じる光景に俺は思わず口を覆う。

 

「……酷いな」

「ああ。だが鬼共にとっては格好の餌場だろう」

 

 そう、こういう場所こそ鬼の天下だ。悲しいことだが、貧民が何を喚こうとも人々は耳を傾けない。ここでは人死など日常茶飯事。もし鬼の事を知って誰かに告げたとしても、貧しさのあまり頭がおかしくなったのかと思われてそれで終いだ。

 

 噂、情報が広まらない。故に鬼は長々と居座り続け、多くの人を食い殺していく。

 

 そして鬼は人を食えば食うほど強力無比になっていく存在だ。此処に住む鬼がどれだけの人間を食ってきたかは不明だが……隊士十名を行方知れずにした相手、全く油断できない強さであることは確かだ。

 

「義勇、鬼の気配はあるか」

「……いいや、周辺にはいない。とりあえず、それらしき痕跡を探しながら虱潰しにするしかなさそうだが」

「では二手に分かれよう。その方が効率がいい。異常があったら烏で知らせろ」

「ああ、承知した」

 

 手掛かりが無い以上、俺たちにできることは鬼がいそうな場所を片っ端から探し回ることくらいだ。本来ならば聞き込みやら事前調査やらで準備をしてから行動するのだが、今回の場合は緊急事態だ。多少効率を無視してでも強行しなければならない。

 

 何せ今回は今までとの雑魚とは違う、異能――――血鬼術を扱える鬼なのかもしれないのだから。

 

 血鬼術は鬼によって千差万別。故にその効力を事前に予想するのは不可能だ。それ即ち初見殺し。対応を誤れば位の高い隊士であっても一方的に殺されるかもしれない切り札。

 

 今まで以上に、心してかからねばなるまい。

 

(……しかし、酷い有様だ)

 

 周りの光景を見ながら出てくるのは、やはりそんな感想だけだった。

 

 都心部と比べれば正しく天と地の差。あれだけ明るくモダンに輝いていた町から少し離れればこの様。貧富の差が激しすぎるとしか言いようがない。

 

 汚水、排泄物、死体、鼠、蛆や蠅……とても人の住む場所とは思えず、だからこそ俺は今まで自分がどれだけ恵まれた環境に居たのかを再認識した。

 

 両親が早死にしたとはいえ、その遺産は決して少なくは無かったし、姉や俺も毎日のように小さな仕事をして小金を稼いでいた。そのおかげでこんな環境に落ちずに済んだのは正しく奇跡的だ。

 

「姉さんには、何度感謝しても足りないな……」

 

 そう呟きながら、人気の無い街を進む事数分。ようやく人らしき存在を見つけることができた。

 

 麻で出来た敷物の上に穴だらけの笠を被った老人が座り込んでいた。穴から覗き込めるその眼には生気は無く、まるで死人の様だ。

 

「すみません。聞きたいことがあるのですが」

「……………何も持たぬ老人に、無償で何かを差し出せと言うのか」

 

 枯れた声がそう告げる。それはつまり「話を聞きたければ対価を支払え」という事だろう。

 

 鬼殺のためならば安いものだと、俺は財布から数銭分の硬貨を出して老人の眼前に置いた。それを見た老人は何位も言わずに銭を掠め取り、懐に隠す。

 

「何が聞きたい。知らないことは言えないぞ」

「最近、人が消えたり、怪しい人を見かけて無いか教えてください。些細なことでも構いません」

「…………ここで人が消えることなど珍しくも無い。怪しい奴も、探せば五万といるだろう」

 

 想定はしていたが、どうやら空振りらしい。俺は諦めて別の者に当たろうかと踵を返すが、直後に老人が「ただ」と短い言葉で俺を呼び留めた。

 

「最近は女が減った。そして、男どもは夜な夜な可笑しな言動を見せる。夜道には気を付けろ。それと……貧民窟(ここ)で他者への施しをするときは、次からはもう少し隠れながらやった方がいい」

「え?」

 

 それだけを言い終えたら老人は手慣れた動きで暗い路地裏へと去ってしまった。骨と皮だけとしか思えない手足からはとても考えられない動きだ。……それだけ長くこの場所で生き抜いてきた、という事だろうか。

 

 しかし最後の忠告らしき言葉はどういう意味だ。まるで目立つように施しをしたら駄目だというような――――

 

「――――なあ、あんちゃん。俺にもくれねぇか……もう三日も食ってねぇ……」

「っ、な」

「私にも……」

「俺も……!」

「お願い助けて、子供がいるの」

「俺が先だ」「いえ私が」「どけ! 邪魔だ!」「恵んでくれぇ」「奪え!」「殺せ!」「金を寄越せぇ!」

「ッ――――!!」

 

 先程まで人気など無かったはずなのに、廃屋の奥から溢れるように人が出てきた。そして全員が貪欲に俺から何かを貰おうとする。

 

 俺はすぐに老人の言葉を理解した。成程、下手に見られるとお零れを預かろうと隠れていた住民が出てくるのか。

 

「申し訳ないが、お前たちに無償で何かを与える気はない……!」

「待て!」「跳んだ!?」「追いかけろ!」「妖怪だ! 妖怪が出やがった!」

 

 当然、今の俺に彼らへと等しく施しを与えられるだけの能力など無い。非常に心苦しいが、彼らを振り切る形で俺は屋根の上へと素早く跳び移り、可能な限り距離を取った。

 

 暫く移動した俺は、あばら家の集合地帯から少し離れた場所で歩を止める。

 

「……何時の時代も深刻だな、貧富の差というのは」

 

 今の俺は非公式武装組織の一員に過ぎない。恐らく逆立ちしたってこの場所の住人の抱える問題を解決できることは無いだろう。

 

 だとしても、やはり人としてこの惨状を見ていると、酷く無力感に苛まれてしまう。

 

 何かできることは無いのか、と。

 

「……いや、やめよう。それは今俺が考えるべきことじゃない。急いで、鬼の行方を探さねば」

 

 そうだ。今考えるべき事は鬼だ。この街に人食い鬼が巣食っている。此処に居る全員に等しく施すことは出来やしないが、悪しき鬼を殺して少しでも夜を安心して過ごせるようにする。それが今の俺にできる精一杯の事だ。

 

 頬を軽く叩いて気を取り直した俺は、早速別の場所で聞き込みを行おうと足を前に出し――――ガクンと、服の裾が何者かに掴まれていたことによって動きが止まった。

 

「なんだ……?」

「…………」

 

 振り返れば、碌に手入れもされていないであろうボサボサ頭の子供が居た。俺の服の裾を掴んで、ぼうっとこちらを見ながら突っ立っている。

 

「……その、すまないが、離してもらえるか。先を急いでいるんだが」

「…………」

 

 キュルルルル、と子供から腹の虫が鳴く音がする。子供は何も言わず、俺をじっと見つめるのみ。

 

「………………はぁ」

 

 俺は無言で蒼い空を仰いだ。何故こうも幸先が悪いのか。

 

 いや落ち着け。落ち着け冨岡義勇。何、パンが無いならケーキを食べればいいじゃない。偉い人もそう言ってた(言ってない)。

 

 深いため息を吐きながら、俺は腰に吊っていた布袋から小さな包み紙――――金平糖を取り出した。

 

 件の最終選別で謝礼として無料で定期的に支給される内の一つ。結構いい素材を使っているようで自然で適度な甘味が特徴だ。疲れた時に一粒、これが効く。

 

「食べるか?」

「…………?」

 

 金平糖を何粒か手渡してみるが、子供はそれが何なのかわからないのだろう。何時まで経っても手の上に乗せたまま動かない。まぁ、何も知らなければ突起の生えたカラフルな小石にしか見えないだろうし、仕方ない。

 

 俺は一粒摘んで子供の口の隙間に入れた。すると今まで感じたことも無い味に驚いたのか、ビクリと震えて口の中の者を咀嚼し出した。

 

「美味しいか」

「……………(コクコク)」

 

 言葉がわからないわけでは無いのだろう。子供は首を上下に振ってそう返事を返した。

 

 ほんの少し柔らかくなったその顔に思わず俺も笑みが漏れる。

 

「ほら、持っていけ。悪い大人に見つかるなよ」

「!」

 

 とりあえず俺は金平糖の詰まった袋を子供に握らせた。どうせまた貰うのだし、俺も偶にしか食べないのだから問題ない。

 

 自己満足、偽善と言われてしまえば返す言葉も無いが……だからと言って、それが何も行わない理由にはならないだろう。

 

 せめてこうして小さな施しでも。例えこの子の明日が厳しい物であっても、今だけでもほんのちょっぴりの喜びを与えたい。少なくとも今の俺は、そうしたいと思う。

 

「――――あっ、見つけた! おーい!」

「!」

「ん……?」

 

 遠くから誰かを呼ぶ声がする。ふと視線を巡らせば、向こうから同じくボロボロの服を身に纏った少年がこちらへと走ってきている。どうやら目の前にいるこの子を探していたらしい。

 

「ん? 誰だアンタ? 俺の妹に何か用か?」

「いや……腹を空かせていたようでな。腹の足しになりそうなものを渡しただけだ」

「これか? ――――! なんだこれ! 美味ぇ! ほんとに貰っていいのか!?」

「ああ。大切に食え」

 

 少年は妹の手の平にあった金平糖を一粒摘むと、初めての甘味に驚喜した。実に微笑ましい光景だ。

 

「ところで兄ちゃん、この辺では見かけない顔だけど、もしかして都会の人か? 何しに此処に来たんだよ?」

「少し探し物があってな。……ここ最近、怪しいことは無かったか? 妙に人が消えるとか、不可思議な現象が起きたとか」

 

 我ながら何とも杜撰な調べ方だと思う。いくら困っているからと言って子供に聞くかそんな事。子供の方だってこんな事聞かれても困るだけだろうに――――

 

「あー……そういや最近、兄ちゃんと同じような服着た連中を夜によく見かけるんだよな。なんか騒がしいし、悲鳴とか聞こえるから近づかない様にしてるけど」

「――――――――詳しく聞かせてくれるか?」

「? いいけど、その代わり俺も色々な話を聞かせてくれよ!」

 

 断る理由などあるはずもなく、俺はとにかく根掘り葉掘り子供から情報を聞き出すことにした。

 

 曰く、両親は兄妹たちを鬱憤を晴らす道具としか見ておらず、生きるためにはとにかく何かを食べなければならなかった故に夜中に何度も虫やら鼠やらを捕まえに出ている事。その最中に俺と同じ格好をした者――――つまり鬼殺隊の隊員を見かけたり、剣戟の音や悲鳴を聞いたりしている事。

 

 そして一番聞きたかった事である、それがどのあたりで起きていたのかを聞くことができた。これは非常に大きな収穫と言っても良い。聞くだけ聞いてみるものだと俺は自身の幸運に感謝した。

 

「へぇ~。その、でんとー? ってのが夜でも街をずっと明るくしてるんだな! 一々薪を入れなくていいから便利そうだなぁ。それにその、さけだいこん? ってのも食ってみてぇ!」

「ああ、美味しいぞ。……ところでお前たち、今の両親と離れて暮らすつもりは無いのか?」

「え? それは、まあ……」

「離れるつもりなら、出来るだけ早くした方がいい。お前はともかく……妹の方はもう保たんぞ」

 

 少年の妹の顔をうかがってみれば、やはり目に光が灯っていない状態だった。

 

 顔や身体は痣だらけ。日常的に虐待を受けている証拠だ。少年の方は奇跡的に心を保っている様だが、少女の未熟な心に日々の苦痛は確かな爪痕を残し続けている。

 

 この様子では、後数ヶ月もすれば……。

 

「わかってるよ、んな事……だけど、何処に行けばいいのか全然わかんねぇ。身寄りも金もねぇのに出ていくなんて、野垂れ死ぬのと大差ないだろ……」

「…………」

 

 孤児院に行く、という選択肢が無いわけでは無い。この時代には慈善団体が設立した孤児院が幾つもあり、そこまでたどり着ければ受け入れてくれる可能性はあるだろう。

 

 金もなければ身なりもみすぼらしい子供が何日も歩き続けて、無事に孤児院のある場所までたどり着ければ、の話だが。それに孤児院とて受け入れられる限度は存在する。

 

 どうにか辿り着いて「もう手一杯で無理だ」と断られた場合など、目も当てられない。

 

「……お前、兄妹は何人いる?」

「え? 三人だけど……」

「子供を何人か引き取ってくれる人に心当たりがある。高齢の爺さんだが、優しい人だ。お前たちが自立するまで養えるくらいの蓄えもある、はずだ」

 

 俺の脳裏に浮かんだのは天狗の面を付けた(おきな)、鱗滝さんの顔だった。十人二十人は無理だが、三人くらいなら鱗滝さんでも受け入れられるはずだ。

 

 正直恩師の善意に付け込むような形になるので非常に心苦しいが、任務に役立つ情報を貰った立場としては金平糖あげて「はいさようなら」なんて出来る程俺の情は薄くない。

 

 目の前で心が死にそうな子供がいるのに、見捨てるなんて俺にはできない。

 

「い、いいのか!? 本当に!?」

「お前たちさえよければ、俺も最大限努力しよう。流石に今すぐ、というのは無理だが」

「ありがとう兄ちゃん! ほらお前も、礼くらい言っとけって!」

「…………(ペコッ)」

 

 結局妹の方が言葉を発することは無かったが、しかし心はまだ生きているのだろう。少女は少年と共に小さく頭を下げて感謝の意を示してくれた。

 

「それじゃ兄ちゃん、よろしく頼むよ! 嘘ついたら殴るからな~!」

「ああ。……頑張れよ」

 

 そんなこんなで俺はやっと子供たちに別れを告げることができた。

 

 さて……勢いで色々やってしまったぞ。どうしようか。最悪俺が面倒を見るつもりではあるが、事が終わると自分が如何に後先考えずその場の感情で動いてしまうのがわかって嫌になる。

 

 この先、こんな調子で大丈夫なのだろうか……。

 

「――――ん……?」

 

 もうすっかり夕暮れに差し掛かった頃、俺はあばら家の屋根を伝いながら鬼殺隊員の姿を散策していた。そろそろ夜が訪れるころだと言うのに、探し人は影も形も見当たらない。

 

 もしやもうすでに――――そんな悪い考えが頭の中に浮かび始めた時、ふと視界の端で見覚えのある者の姿を捉える。

 

「……胡蝶?」

 

 胡蝶妹……しのぶが姉の物らしき刀を抱えて、何処か焦りを含んだ表情で辺りを見回しながら小走りぎみに駆けている。

 

 何で彼女がこんな所に……? いや、考えるのは後だ。早く追いかけて避難させねば。もう間もなく夜になり、鬼が現れる頃なのだから。

 

「胡ちょ――――」

「――――あ、ぁあ」

「う……?」

 

 屋根から地に飛び降りて早速追いかけようとした瞬間、突如隣の路地裏の影から呻き声が聞こえた。

 

 なんだと視線を其方へと向けると、真っ暗な影から一つの人影が見えてきた。暗くてよく見えないが、鬼の気配はしない。しかし念のため鞘を握りながらその者に声をかける。

 

「すいません。大丈夫ですか……って、村田?」

「…………………」

 

 その者は見覚えのある顔であった。

 

 あの丁寧に手入れがされていそうなつやつやサラサラのおかっぱ頭。間違いなく俺の同期である村田だ。

 

 俺は安堵して名を呼びかけるも、返事は無い。どうしたのだろうか、と俺は更に歩を進めて距離を詰める。

 

「村田、何があった」

 

 明らかに様子がおかしい。もしかして血鬼術にかかっているのかと、俺はその肩に手を掛けようとして――――

 

「――――ぉぉおぉぁああぁあああ!!!」

「ッ――――!!?」

 

 寸前猛烈に嫌な予感がうなじを刺激したため全力で後ろへと跳躍し俺は路地裏から飛び出した。直後、大振りの一閃が先程まで俺の居た場所を薙ぎ払った。

 

「村田、一体何を……!?」

「あぁあぁああうぅぉおぁ」

「ふぅぅぇあぁらぁあ」

「うぃっ、おっ、あが」

 

 突然の同士討ちの試みに驚愕する暇もなく、俺を取り囲むように複数人があばら家から出てきた。その手には鍬や鎌、包丁等々様々な凶器が握られている。そして風貌から間違いなく現地人。

 

 何故いきなりこんな事を――――そう問う気にはなれない。明らかに彼らは正気を失っている。

 

「ッ、血鬼術か――――!!」

 

 俺はただならない状態の原因を直ぐに血鬼術の効力だと断定した。そうでもなければ説明が付かない。恐らく洗脳系の血鬼術。こういった類は操っている物か、術者を倒せば解ける決まりだが、生憎術者は見当たらない。ならば、彼らを操っている何かを探すしかない。

 

 どんな仕組みだ。糸などの物理的なものならば切断すればいいが、念力的な非物理的な物なら対処の仕様がないぞ……!?

 

 それにまだ夕暮れだと言うのに、効力が衰えている気配が無い。血鬼術は日光の元では効果を弱化させるはずなのに。

 

(外見に変化が無さ過ぎて探りようがない! クソッタレが!!)

 

 夕日の下で照らされているにもかかわらず何も見えないと言う事は非接触の類。つまり術者を倒さない限り効果が消えない一番厄介な類だ。

 

 それに、彼らの血色は良くは無いが、死人のソレでもない。恐らく生きている。故に下手に傷つけることもできやしない。鬼ならば幾ら切り刻んでも構いやしないが、人間は駄目だ。それは、越えてはいけない線だ。

 

「うぉるばぁあぁぁあああ!!」

「るるぉぉぉごごぁがががぁぁぉおお!!」

 

 奇声を上げながら彼らは焦点の定まらない目のまま俺に襲い掛かってきた。早い。恐らく本人の肉体的限界を無視して無理矢理動かしているのだろう。よく見れば服の間から見える間接部分が痛々しく腫れ上がっているではないか。

 

 だが決して避けられない攻撃では無い。俺はすぐさま大きく跳躍し、あばら家の屋根へと避難した。

 

 戦えないのならば、戦わなければいい。彼らの相手をする必要性は無い。それより早く元凶を見つけて始末せねば。いや、それよりも先程見かけたしのぶを急いで保護して――――

 

「――――ん?」

 

 ふと、視界に違和感を感じる。すぐさま辺りを見回すと、その源はすぐに見つかった。

 

 ――――少し前に出会った少女だった。ボロ切れのような服に身を包んだ少女がぽつんと、茫然と佇みながらその場で俺の事をじっと見つめている。うろうろと、何かを探している様子だった。

 

 ふと目が合った。瞬間、操られていた者達が俺の視線の先にある子供へと視線を移す。

 

 

「――――ぉぉぉおおおろろろろろぉぉおあああ!!」

 

 

 突然、叫び出す者達。そして彼らは一斉に凶器を片手に少女へと群がろうとした。

 

 俺は瞬時にマズいと判断。全力の跳躍で一気に子供の元までたどり着き、振り下ろされようとしている凶器に対して刀を抜いた。

 

 

 【拾壱ノ型 凪】

 

 

 超高速の斬撃が凶器の柄部分をバラバラに切り刻む。これによって彼らの攻撃は空振りに終わり、俺はその隙に少女を脇に抱えてすぐに屋根上へと跳んだ。

 

「おい! 大丈夫か! 兄の方はどうした!?」

「……………」

 

 少女は喋らない。もしやこの子も洗脳されているのか? と思ったが、直感的に違うと判断する。この子からは先程の者たちから微かに感じられた違和感が無い。

 

 とにかくこの子を一人置いて行くわけにはいかない。何とかして安全な所に避難させねば。

 

「……………」

「……? どうした、何を見ている」

 

 子供が急に視線を真下へと向けた。一体どうしたのかと、俺は子供の視線の先を見て――――黒く、細い何かが俺たちに迫るのをやっと認識した。

 

 俺の生存本能が訴える。

 

 アレはマズい。アレを受けてはならない。アレを食らったら()()()――――!!

 

「ッ――――! 逃げるぞ! しっかり掴まれ!!」

 

 子供は俺の声に答えるようにギュッと服を掴む。そして俺も子供を落とさない様に強く抱え、下方から迫りくる黒い糸の群から逃げ出した。

 

 弾かれるようにあばら家の中から飛び出してきた黒い糸を屋根を飛び移ることで間一髪で回避した。そして、その糸は日光を浴びるや否や焼ける音を立てながら灰となって消える。

 

 間違いなく、鬼の一部。あれは――――髪か。

 

(まずいことになったぞ……!)

 

 先に送られた鬼殺隊員は恐らく全員が洗脳されたか食われたと見ていい。それに何人ほどかはわからないが、相手は異能の鬼、かつかなりのやり手だ。

 

 最悪の場合、この貧民窟に潜伏しているのが十二鬼月――――数居る鬼の中でも十二体存在する最強の列席という可能性がある。

 

 だが俺の知っている限り髪を扱う血気術を扱う上弦はいないし、彼らは百年以上顔ぶれは変わっていない。ならば相手が十二鬼月だったとしても恐らく下弦。もしくは追放され数字が剥奪された元十二鬼月だろう。

 

 どちらにせよ俺の警戒度は数段跳ね上がった。

 

(急いでしのぶを保護して錆兎と合流しなければ……!)

 

 元ならともかく、現十二鬼月であれば非常にマズい。少なくとも今の俺や錆兎では勝てない。柱や上級隊員でもなければあっさりと餌にされておしまいだ。

 

 最善の選択は可能な限りの情報を持って撤退。手に余る相手に対して無謀に突っ込むほど俺は愚かじゃない。

 

 悔しいが、今の俺は力不足なんだ……無理な事を無理矢理やろうとしてはいけない。事態を悪化させかねないのだから。

 

「………………」

「……?」

 

 俺は敵からの追撃を凌ぎながら、ふと脇に抱えた少女を見る。

 

 何処かを指さしている。それが何を指しているのかはわからない。もしや兄の居る場所か……?

 

「……女の、人。あっち」

「!?」

 

 初めて聞いた少女の声。驚きのあまり屋根を飛び移る足がもつれそうになった。

 

 だがすぐに気を持ち直して、俺は少女の指さす方向を見る。

 

 この子が何を根拠にあの方向を指し示しているのかはわからない、が……何の当てもなく探し回るよりはよっぽどいい。俺は少女の言葉を信じて、しのぶの居るだろう方向へと跳んだ。

 

 

(無事でいてくれ……!!)

 

 

 夜は、間もなく訪れる。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「っ…………」

 

 両手で刀を握り締め、肩を震わせながら辺りを彷徨う影が一つ。

 

 貧民街ではあまりにも浮きすぎる豪奢な羽織と衣服を身に付けた少女――――胡蝶しのぶは重度の緊張からくる汗を手ぬぐいで拭きながら、不気味な街並みを一望する。

 

「本当に、こんな所に鬼なんているのかしら……」

 

 どうして彼女がこの場所にたどり着けたか。その答えは至って簡単。しのぶは義勇と錆兎の後をつけていたのだ。一時間も続く疾走。全集中・常中を不完全ながら習得しているとはいえ、体力のない彼女の小さな身ではかなりの負担だっただろう。

 

 それでも彼女が意地を出して此処までやってきたのは他でもない、鬼を殺すためだ。

 

 鬼の頸が斬れない。彼女は幾度もそんなことを言われ続けた。だが彼女の中では一つだけ懸念があった。

 

 

 ――――本当に、私では斬れないの?

 

 

 実際に相対し、刃を交えていないが故の疑問。しのぶは確かに己の非力を自覚してはいるが、それが本当に鬼に通用しないか疑っていたのである。

 

 実は周りは自分を気遣って嘘をついているのではないか。自分を戦闘に巻き込まないためにそんな嘘をついているのではないか。そんな考えが、しのぶの心をつかんで離さない。

 

 今、精神的に不安定になっていたしのぶはその藁の如き細い心の隙にしがみ付いた。

 

 未練がましいかもしれない。現実逃避と言われるかもしれない。

 

 それでも、姉以外の全てをかなぐり捨ててでも鬼殺の道を歩みたいと決意したしのぶは、もう藁にもすがる思いだったのだ。そうしなければ、心の炎が自分を焼き尽くしてしまうような気がして。

 

 大切な人に、置いて行かれてしまうような気がして。

 

 自分の気持ちを裏切った姉を、見返したくて。

 

「鬼は……鬼は何処なの……!」

 

 恨み言を吐く様にしのぶは殺意をまき散らしながら街を闊歩する。今の彼女は怒りのあまり、普段なら確実に気付くだろう違和感……人の気配が酷く少ないことに気付いていなかった。少し考えれば、何かがおかしいと気づくだろうに。

 

 少しして、しのぶの目が微かな人影を捉える。鬼かもしれないと、彼女はその細い腕で刀を抜いて人影に近付いて行く。

 

 だが、その人影はしのぶがある程度近づいた瞬間、突如走り出した。

 

(逃げた――――!!)

 

 突然の逃亡。これは怪しいとしのぶは確信し、鬼で無くても有用な情報が聞き出せるかもしれないとその人影を追いかけ始めた。

 

 何度か右左へと曲がり、数分。人影はかなり大きめの家屋の戸を開けて中に入っていってしまう。

 

「……ここは」

 

 その家屋は、周りにあるあばら家と比べて少しだけ立派だった。だが所詮比較対象はあばら家。しのぶの住む屋敷と比べれば月と鼈だろう。

 

 戸の前まで近づいて、しのぶはようやく違和感に気づく。

 

 先程まで追いかけていた人影。足取りに迷いが無かった。まるで最初から決めていた道を走っているような。そしてその先は、この異様な気配を漂わせる怪しい家屋。

 

 そこまで考えて、聡明な彼女はやっと気づく。

 

(まさか、誘われて――――!?)

 

 瞬間、家屋の戸を突き破って黒い何かがしのぶへと襲い掛かった。その様はさながら黒い触手。

 

 しのぶは素早い判断でそれを避けようとするも、無情にもしのぶの反応速度をはるかに上回る速度で黒いソレは彼女の腕に巻き付き、家屋の中へと引きずり込んだ。

 

「ッ――――――――――!!!?」

 

 声にならない悲鳴を上げながらもしのぶはすぐに抜刀。ためらいなく己の腕に巻き付くものに刃を振り下ろす。

 

 ――――だが、ほんの少しの傷すらも、つかない。

 

「うそっ……!!」

 

 腕に巻き付いたものはワサワサと気味の悪い動きをしながら幾つかの部屋をまたがってしのぶを引き摺り続け……やがて真っ暗な最奥の部屋へと辿り着いてようやく動きを止めた。

 

 それに対してしのぶは一時の安堵の息を吐き……それは己の目の前に落ちてきた赤い雫によって阻まれてしまう。

 

 しのぶは反射的に天井を見上げる。

 

 

 バラバラに解体された幾多もの死骸が宙づりにされた天井を。

 

 

「ひっ、あ、いやっ! いやぁっ!!」

 

 しのぶはあまりにも凄惨な光景に悲鳴を上げながら腕に巻き付いたものを引きはがそうともがいて、しかしその動きは静かに響き渡る足音と共に止んだ。

 

「え……」

「――――ほう……これは中々」

 

 俯いていた視線を上げて、しのぶは鎮座した行灯の明かりに照らされ姿を現した目の前の女性を仰ぎ見る。

 

 一見すれば、その者の身なりはまるで遊女だった。貧民街には明らかに吊り合わぬ豪奢な着物。そして美しい顔に、足元まで伸びている夜の帳の如き黒い長髪。

 

 だがしのぶにとってはそんな外見的特徴などどうでもよかった。彼女が注視したのはただ一点。

 

 彼女の真っ赤に染まった両目の内、左目に刻まれた”下陸”という文字。

 

 それは、即ち。

 

「十二鬼月ッ――――――――!?」

「ふむ、その名を知っているという事はそなた、鬼狩りの一味か。隊服とやらは身に付けていない様だが……しかし鬼殺隊とやらにはこんな小娘まで属しているのか。随分と人手不足と見える」

 

 酷く澄んだ声が、しかし圧倒的な侮蔑の感情を乗せてしのぶの耳に入ってきた。

 

 だがしのぶはいつもの強気な姿勢で悪態をつくことすらできない。それは鬼から放たれる凄まじい密度の威圧と殺気に今にも押しつぶされそうになっているからだ。

 

 数年前――――己の両親を食い殺した鬼とは比べ物にならない。格が違う。

 

 これが十二鬼月。例えその中の最弱、下弦の陸であってもこれ程の存在感。ならば最強最悪である上弦の壱は一体どれほどなのか、しのぶには想像もつかなかった。

 

「――――そなた、中々美しい髪を持っておるな」

「え……い、一体、何を言って」

「美しい髪は良い。正しく女の命、”美”を引き立たせる一番の役だと言えよう。……下弦の参、八百海女(やおあま)に狩場を奪われ、以降上質な餌と中々巡り合えなかったが……良き。実に良きかな。お主は(わらわ)の、下弦の陸である蒐麗(しゅうれい)の糧となる資格がある」

「ッ…………!!」

 

 その言葉に、しのぶは体の竦みすら忘却して怒りの炎を燃え上がらせた。

 

 突如現れたかと思えば、人を上から見下すような態度で餌だの何だの。激怒しないはずがない。理不尽に両親を、己の幸せを奪われたしのぶが、あんな傲慢で身勝手な存在を許すはずがない。

 

「薄汚い鬼風情が……! 殺してやるっ……私の、この手で――――!!」

「意気や良し。されど、柱でもないそのか弱き身で妾の頸が断てる訳なかろうて」

「黙れぇぇぇぇえええええええ――――ッ!!!」

 

 怒りに身を任せてしのぶは手に持った刀を振り上げた。狙うは頸一点。怒りのまま疾走しながら、しのぶは斬撃を繰り出す。

 

 それがどんなに無謀な行為かも知らず。

 

「……………え?」

「愚かな」

 

 しのぶの渾身の一撃は、あっさりと止められていた。

 

 その手に持つ刀は周囲から飛び出してきた黒い糸――――下弦の陸、蒐麗の毛髪に刀を握る手ごと幾重にも絡め取られており、しのぶの攻撃は鬼の頸の薄皮すら斬れずに終わってしまったのだ。

 

 傷どころか、刃すら届かない。その事実に茫然とするしのぶをよそに、余裕磔磔にその光景を眺める蒐麗は気まぐれに彼女の持つ刀の刃を指で撫でる。

 

「鬼を殺せる刀。成程確かに脅威だ。だが、こんな非力な身で妾の頸に届くと? ――――不快。実に不快。武器さえあれば自身の様な惰弱な者でも妾の頸を取れると思うたか。だとすれば実に不愉快!!」

 

 嫌悪と激怒の表情を浮かべた蒐麗は顔に青筋を浮かべながら、無言で腕を大げさに払う。

 

 するとどうだろうか。その動作と同時に蒐麗の毛髪が急激に伸び、前後左右からしのぶに迫ってあっという間に彼女の体を雁字搦めにしてしまう。

 

 一応回避を試みたようだが、そもそも手を得物ごと既に捕らわれていた彼女に避ける方法などあるはずもない。碌な抵抗もできず、しのぶは全身を黒い毛髪によって縛り上げられてしまった。

 

 みしりみしりと縛り上げられるしのぶの体。蒐麗は嗜虐的な笑みを浮かべ、彼女の最後の抵抗の手立てであろう刀をおもむろに素手で奪い取り、遥か遠くへと投げ捨てた。

 

 これで、しのぶは全ての抵抗の手段を失ってしまう。

 

「弱い、弱いぞ。優れているのは見てくれのみか。貧弱な小娘よな。噛んだ歯応えすらないとは、全く以て愉快愉快。そして実に滑稽だ。だが許そう。何故なら、今からそなたは美しき妾の血肉となるのだ。光栄に思いて感涙に咽べ、小娘」

「誰、がッ……!!」

「力無き者の足掻く様。いつ見ても無様で無様よ。――――では、死ぬがよい」

 

 蒐麗の頭髪の一部が触手の様に蠢き、毛先が槍のように鋭く形成される。

 

 回避、防御、反撃――――不可能。

 

 死。

 

「あ」

 

 迫りくる純黒の凶器を前に、しのぶの脳裏に流れたのは十年というあまりにも短すぎる人生の焼き直し。短くもとても幸せだった、そして理不尽にその全てを失った道筋が無機質に一巡する。

 

(嫌だ)

 

 足掻く。理性では無駄だとわかっているのに。

 

(こんな所で死ねない! だって――――)

 

 足掻く。足掻く。足掻く。

 

 だけど、現実は万人に等しく平等だった。鼠が幾ら反抗しようとも、獅子に食われるのを避けられない様に。

 

 

(まだ、私は、何も――――)

 

 

 黒が目と鼻の先まで届く。

 

 死んだ。しのぶが遅すぎる確信を胸に抱いた――――瞬間、暗闇の中に一筋の糸が垂らされた。

 

 

 

「――――おおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」

 

 

 

 雄叫びと共に天井をぶち破りながら、小豆色の羽織を纏った少年が子供を小脇に抱えながら現れた。

 

「何奴ッ!?」

「させるかァァァァァァアアアアアア!!!」

 

 少年は飛び込みざまに一閃。それによってしのぶに迫っていた髪の槍は弾き飛ばされ、更に彼の背後から差す夕日がしのぶに絡みついた毛髪を残らず蒸発させてしまう。

 

 突然の出来事に、しのぶは尻もちを付きながら茫然と少年の背を見上げる。

 

「無事か、胡蝶!?」

「冨岡……さん?」

 

 鬼狩り様がやってきた。

 

 悪い鬼から、(しのぶ)を守るために。

 

 

 

 

 




ヒロインのピンチにはちゃんと間に合う男冨岡さん(憑)。お前白馬の王子かよォ!

なお目の前にはどう考えても時期尚早過ぎる敵がいる模様。頑張れ冨岡。負けるな冨岡。お前が負ければしのぶちゃんは死亡確定だからそこら辺よろしくゥ!(ド畜生)


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第拾参話 愛ゆえに

 顔や刀を握る手から冷汗が滝のようににじみ出てくる。緊張のあまり喉から空洞を通る風のような音が聞こえてくる。

 

 相対するは鬼。それもただの鬼ではなく、十二鬼月。

 

 鬼の首魁、鬼舞辻無惨に選ばれし十二体の猛者たちのうち一人が、俺の目の前に立っていた。

 

 まずい。俺一人ならともかく子供を一人抱えたまま、しかもしのぶが背後にいる状況など完全に想定外だ。少女はむしろ俺から離れた方が危険なため抱えたままで正解ではあるのだが。

 

「き、気を付けて冨岡さん! その鬼は――――」

「わかっている!」

 

 わざわざ言い出さなくても嫌でもわかってしまう。あの女鬼の左目に刻まれた『下陸』の文字。それは間違いなく目の前の敵が下弦の陸ということを示す何よりの証拠。

 

 俺は今の自分の力量を把握しているつもりだ。その上で断言しよう。

 

 無理だ。勝てない。情報も何もかも足りない状態で、尚且つ子供と女子一人庇いながら十二鬼月と渡り合え? 冗談を言うな、俺はまだ鬼殺隊に入って一ヶ月程度で、齢もまだ体が出来切っていない十三なんだぞ。

 

 未熟な体に未熟な技量。その上でハンデを負って十二鬼月とまともに渡り合えると思える程俺は自惚れられない。

 

「立て胡蝶。俺が隙を作るからこの子を連れて全力で逃げろ」

「逃げるって……そんな!」

「いいから早くしろッ! 時間が無いんだ!!」

 

 正直言って彼女と問答している時間すら惜しい。俺がぶち破った天井から夕陽が差しているからこうして呑気に会話が許されているが、陽の光も後数分もすれば弱まり始めてくる。完全に日が暮れればもう、鬼にとっての狩りの始まりだ。

 

 それまで何としても、アレから可能な限り距離を取らなければならないのだ。生き残るにはもう逃げるしか選択肢が残っていない。

 

「不快なり」

「………」

「仮の住いとはいえ、妾の屋敷に陽の光などと言うものを入らせるなど。ああ、不快。不快、不快、不快ッ!! 何たる侮辱か! 我が食事を邪魔するだけでなく、妾の髪を陽日で灼いてくれようとは! この行い、万死に値するぞ、小僧!!」

「……」

 

 返事は返さない。こんな奴と会話するだけ不毛だ。

 

 だが、食事。食事と言ったか。あの女鬼は今さっきまで、しのぶを食らうつもりだったようだ。後数秒遅れていたら、どうなっていたことやら。

 

 そう思うだけで、頭に血が上り始める。心臓が大きく跳ね、肺が深く息を吸い始める。

 

「言ってろ、年増」

「―――――――――――」

 

 心から思ったことを衝動的に口にした。

 

 瞬間、女鬼の顔中から青筋が浮かび出始める。……どうやら逆鱗を良い具合に逆撫でてしまった様だ。

 

「ほざいたな、溝鼠がぁぁぁぁああああああああ――――ッ!!!」

「!?」

 

 女鬼が激昂のまま頭から伸びる大量の毛髪を蠢かせ、それらを床下に這わせるとおもむろに数個の畳を床から引きはがした。

 

 そして持ち上げたそれを――――天井に空いた穴に打ち付け、髪で縫いつける。

 

 その光景を見て俺の顔から一瞬で血の気が引いた。

 

「っな――――」

「死ね」

 

 俺は止まっていた足を動かして即時に撤退行動に移る。四方八方から襲い掛かる髪を刀で弾きながら後ろにいたしのぶを片腕で抱え、子供を肩に乗せて俺は全力で後方へと駆けた。

 

「なっ、どっ、何処触って――――!?」

「文句は後にしろッ!!!」

 

 こんな時にまで馬鹿な事を言い出すしのぶに大声をぶつけつつ通路を駆ける。当然背後だけでなく前後左右上下から絶え間なく襲い掛かってくる髪の大群。逃げ場はない。

 

 だったら正面突破するしかない――――!!

 

「ヒュゥゥゥゥゥゥゥウウウウウウウッ――――!!!」

 

 【拾壱ノ型】

 

 前傾姿勢のまま、前に出した足に力を集中。目を限界まで見開き、動体視力を限界まで研ぎ澄ませ攻撃を俯瞰。しのぶと子供に当たりそうなものと、致命傷になりうるものを数多の攻撃から取捨選択。

 

 いける。

 

「ハァァァァッ――――!!」

 

 【凪】

 

 疾走しながらの拾壱ノ型の行使。反動のあまり刀とそれを握る右腕が悲鳴を上げるが、その対価として俺以外は無傷で攻撃の波を通り抜けることができた。ならば十分すぎる。

 

「凄い……!」

「ぅ、ぐ、っ……!」

「え、ぁ、ぁあっ!?」

 

 痛みのあまり崩れ落ちそうになる。だが気力で無理矢理足を踏み出して、駆ける。

 

 致命傷は避けた。()()()()。二人を庇う上でどうしても捌き切れない攻撃が幾つかあったのだ。それらは遠慮なく俺の右太腿と右脇腹を切り裂いていってくれた。力を込めると面白いように血が流れ出てくる。

 

 訂正しよう。全く面白くない。

 

「とっ、冨岡、さ……その傷……!」

「――――二人とも頭を守れ!!」

「っ!!」

 

 出口が見えた。それを確認して俺は一度刀を宙に放り、二人の服を無造作に掴んで思いっきりブン投げた。

 

 次の瞬間二人の居た場所を髪が正確に貫いた。まさに間一髪。直後に聞こえる扉をぶち破る音と、戸が壊れたことでそこから差し込む日光。俺は放った刀を宙で握り直し、振り向き様に襲い掛かる髪を迎撃しながら後ろへと跳び――――

 

 

 暗闇から飛来した桜色の閃光に左肩を貫かれた。

 

 

「がっは――――」

 

 俺の体はその衝撃で弾き飛ぶ。不幸中の幸いか、その方向には光のある出口だったことか。

 

 鋭い痛みと重心が崩されたことで碌に受け身も取れず、俺はゴロゴロと地面を転がる。身体が地面に打たれるたびに左肩が痛むのは、何故だろうか。

 

「っ、()……冨岡さん! 突然投げるなんて貴方――――正気、で……」

「……してやられた」

 

 理由はすぐにわかった。嫌でも目に入る、桜色の刃と花を模した柄。それが、俺の肩から生えていた。

 

 ジワリと広がる熱さが、酷く生々しい痛みをようやく呼び起こす。

 

「あ、ぁあ、あ」

「……胡蝶、子供を抱えろ。なるべく離れるぞ……!!」

「はっ、はい!!」

 

 鬼狩りは、手負いの獲物へと成り下がってしまった。

 

 頼みの綱の日は沈み出した。夜の帳が広がれば、逃げ切れる可能性は果てしなく低くなる。

 

 如何にしてこの場を乗り切れるか。

 

 それはもう誰にもわからないことであった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 ついに日が暮れた。空を塗り潰す残酷なまでの黒。代わりに月と星明かりが地を照らし始めるが、鬼狩りたちにとってそんな物は何の慰めにもなりやしない。

 

 空に浮かんだ真っ白な月は、鬼たちの時間が訪れたことを告げる合図なのだから。

 

(結局、逃げ切れなかったか……)

 

 後半刻あれば余裕を持って戦域から離脱できただろう。だがたったの数分では少し離れた場所で追跡を撒くのが限界だった。

 

 何とか人気の無い廃屋に駆けこんで身を隠すことはできたものの、安心なんて全くできない。

 

 何時見つかるかわからない。とりあえず、今行うべきことは迅速に終わらせるべきだろう。

 

 とりあえず俺は烏を呼んで錆兎を探させることにした。折角の貴重な連絡手段だ。こういう時こそ活用すべきだろう。俺は最低限の情報、しのぶや民間人の少女をこちらで保護している事、そして負傷している事を烏に伝えて空へと飛ばした。

 

 これで上手く行けばいいのだが……。

 

「と、冨岡さん……刀が刺さったままで、大丈夫なの?」

「大丈夫に見えるか?」

「……ごめんなさい。不躾だった」

 

 幸いと言うべきか、刀に貫かれた肩は傷口周りで血が固まったおかげで出血が抑えられていた。無論下手に動かせばまた血が出てくるだろう。

 

 それを承知の上で、俺は肌を貫いている刀身の、手で掴めそうな峰部分を凝視する。

 

 傷をこれ以上放っておいたら傷口が化膿するし、移動や戦闘の妨げにもなる。……放っておくわけにもいかない、か。

 

「冨岡さん……何を?」

「目を閉じていろ。子供の目も隠せ」

「っ、まさか!」

 

 俺は腰に吊った風呂敷から刀に着いた血糊を拭くための布を幾つか取り出し、それを束ねて捩じったものを噛む。

 

 そして、刀の峰の部分を空いた右手で挟み持つ。そこから伝わる手の震えでじんわりと滲んでいた痛みが徐々に激しさを増してくる。

 

 思わず手が止まるが、俺は布を噛みしめて覚悟を決めた。

 

「ふっ、ぅ、お、ぐっ……ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ……!!」

「っ…………!」

 

 鉄が骨肉と磨れる音が頭に響く。痛覚が必死の悲鳴を叫び続け、ゆっくりと全身を刺す痛みが体中の汗腺から汗を絞り出す。

 

 慎重に引き抜かねば傷口が広がるため、強引に引き抜いてはいけない。痛みに負けるな。耐え続けろ。少しでも生き残れる可能性を残すために。

 

「ふぅっ、ふぅぅぅっ、ふぅぅぅぅぅぅ―――――…………ッ!」

 

 痛みのせいか時間感覚が限界まで引き伸ばされたせいで、何分経過したかわからない。だが忍耐の末に、俺は肩に深々と刺さった刀剣を抜くことに成功する。

 

 震える手から零れ落ちた刀がカランと音を立てながら腐った木床を転がり、同時に俺も肺に溜まった息を深く吐いた。

 

 しのぶは恐る恐るといった様子で床に落ちた刀を手に取り、何も言わずに血を拭き取って鞘に納める。……やはりアレはカナエの日輪刀。もしかして無断で持ち出してきたのだろうか?

 

「すぅぅぅぅ……ふぅぅぅぅぅぅ……」

「と、冨岡さん、わ、私にできることはある? 何でも言って!」

「……風呂敷の中にある消毒液、布と包帯をくれ。あと、そこの小包にある針と糸を……」

 

 無気力にへたり込む俺を見て、しのぶは涙目になりながらそう言い出した。遠慮する余裕など欠片も無いので、俺は言葉に甘えて指示を出す。

 

 その後目の前に並べられたものを一つ一つ確認しつつ、俺は迅速に簡素ではあるが応急処置を開始する。

 

 消毒液を惜しまず傷口にぶっかけ細菌を消毒。傷に滲み渡る凄まじい激痛からくる声を全力で押し殺しながら固まった血を布で拭き取り、その間にしのぶが針に糸を通してくれたのでそれを使って俺は傷の縫合を始めた。

 

 この頃になるともう脳内から分泌される大量の脳内麻薬によって痛みも麻痺していた。これ以上痛みを味わったら失神する自信があったので非常に助かったが、もう少し早くしてくれなかったものかと俺は自身の脳に悪態をつく。

 

「ごめんなさい……私のせいで、こんな……!」

「謝るな。傷を負ったのは、俺の未熟さ故だ。それより聞きたいことがある。何故お前がこんな所に居る?」

 

 そうだ。一番気になっていたのはその事だ。

 

 姉であるカナエが来るのであればまだわかる。彼女も一端の鬼狩りなのだから休日を返上したり、緊急時故に強制的に派遣された等々理由など幾らでも思いつくからだ。

 

 だがまだ鬼狩りですらないしのぶがここに来ている理由が全然思いつかなかった。

 

 俺がそう問いかけると、しのぶは何も言わぬまま沈鬱とした表情を浮かべた。どうやら彼女によってこの場に居る理由は少々深刻なものらしい。

 

「……冨岡さんには、関係無い」

「……言いたくないなら言わなくていい。だが、鬼狩りでないお前は此処に居ていい理由は無い。まだ余裕があるうちにその子を連れて出来る限りこの場所から離れ――――「嫌」……」

 

 傷を縫っていた手が止まる。顔を上げれば険しい顔をした女子が一人。明らかに意地を張っているようにしか見えない。

 

 これが平時であればため息の一つや二つ付いて静観するだろうが、残念ながら今は命に係わる緊急時である。何より、先程の通り今の俺には戦力外の二人を連れて鬼と戦える程余裕はない。

 

 一刻も早く離脱してもらわないと、俺だけでなく皆死ぬのだ。それだけは何としても避けたい。

 

「一応聞いておくが、理由は?」

「私は……鬼を殺さなきゃならないの。証明する、私の様な者でも鬼を殺せるって。そうすれば、きっと師匠も、姉さんも……!」

「どうやって殺す」

「それは、当然その日輪刀で――――」

「やれるのか? 今のお前に」

「っ…………!」

 

 はっきり言おう。今の彼女では雑魚鬼の頸さえ斬れないだろうし、きっとこれからも彼女が普通のやり方で鬼を殺すことは不可能だ。要求される先天的な素質というものが欠けているが故に。

 

 つまり今のしのぶがするべきなのは頸を断つ以外で鬼を殺せる方法を手に入れる事。そして、今の彼女はそんな手段は持ち合わせていない。出来ないことを無理にやろうとする蛮勇に満ち溢れている。今のままでは、彼女は確実に命を落とすだろう。

 

 一体何が、彼女を此処まで焦らせているのか。

 

「冨岡さんも、そうなの。私には鬼を殺せないって、思っているの……?」

「そんなことは言ってない。……だが、今のお前では絶対に殺せない。出来もしないやり方を無理に貫いたら、待っているのは鬼の餌になる未来だけだ」

「そんな悠長な事言ってられない! だって今すぐやらないと、私は、私はっ……!!」

「……はっきり言おう。足手まといだ。とっとと逃げろ」

 

 俺の方も既に精神的余裕など限界まで切り詰められていた。何時鬼がこちらの場所に気付くかわからないのに何時までもこんな場所で悠長に話をしている暇は無い。

 

 例え嫌われることになろうとも構わず、俺は強い言葉で彼女を突き離した。でないと、しのぶは何時までもここから動こうとしないと何となく察してしまったからだ。

 

 だが、返ってきたのは……パン、と何かが弾ける音と共に俺の頬に走る鋭い痛みだった。

 

「あなたにっ……あなたに何がわかるの!! 目の前で両親を殺されて何もできず見ているしかなかった私の! 復讐したいのに、鬼を殺したいのに、この体じゃ鬼の頸が斬れないと言われた私の……!! 貴方なんかに何がわかるって言うのよ!! 鬼の頸を斬れる貴方なんかに!!」

 

 しのぶは今まで辛うじて被せられていた心の蓋を投げ捨てて、俺に向かって心の内をぶちまけた。

 

 見れば、しのぶはその両目に涙を流しながら怒りの表情を浮かべていた。……少し、言葉が強すぎたか。

 

「みんな応援しているようで、誰も期待なんてしてなかった! どうせ、貴方も私の事をできもしないことに無理矢理しがみ続けている哀れな小娘だとか思って見下しているんでしょ!? 師匠は諦めろって何度も何度も言ってくる! 姉さんは結局私の事を信じてなんていなかった! あなただって、上辺だけの言葉で私を――――っ!!」

 

 

「しのぶ」

 

 

 ぽろぽろと大粒の涙を零し続ける彼女の頭に、俺は自分の小さな手をぽんと被せた。

 

 正直、こんな時にどうすればいいのかなんて全然わからない。いや、俺が頭の中で思いついたことは行った所で彼女の怒りを刺激しそうなものだと何となくわかった。

 

 だから、心に従う。今自分がしのぶに対して何をしたいのか。どんな言葉を掛けたいのかを。

 

「俺は、お前を信じている。その言葉に嘘は無い」

「うそだっ……」

「嘘じゃない。もし嘘だったら、俺は腹を斬って詫びよう」

「そんなの、信じられるわけないじゃない!」

「俺を信じろ」

 

 ゆっくりと、しのぶの頭を撫でて宥める。

 

 この子は、まだ十歳だ。まだ親からの愛を貪欲に求める年頃だ。それが消えた以上、感情が不安定になるのは当然の帰結だろう。だから、代わりとは決して呼べないけど、俺なりの”愛”を彼女に示し、注ぐ。

 

 無論、性愛ではなく親愛の方だ。

 

「お前が姉との間にどんなことが起こったのかはわからない。お前の言葉通り、カナエがお前の気持ちを裏切った可能性もあるだろう。だが、これだけは断言できる。……しのぶ、カナエはお前を愛しているんだ」

「……そんな事、わかってるわ」

「彼女がお前に対して何をして、どんな言葉をかけたとしても、その根底には愛がある。お前を愛しているから、お前が幸せになって欲しいから。だからと言って別にその言動全てを許容してやれと言うつもりは無いが……拒絶だけは、してやるな。この世でたった一人の肉親ならば」

「でもっ、でもっ……私、置いて行かれたくなくて……! 姉さんを一人で戦わせたくなくて……っ!」

「だから、共に戦える方法を探せ。安心しろ、お前の姉は、お前が思っているよりずっと強い。きっと、お前が隣に来るまで待っていてくれる。……姉に自分を信じさせたいのならば、まずはお前が姉を信じろ、しのぶ」

「!!」

 

 ハッと、しのぶが目を見開きながら俯かせていた顔を上げた。

 

 そうだ。彼女は姉が自分の事を信じていないと言っていたが、それはしのぶにも同じ事が言えた。相手の事を信じていないのに、どうして自分が信じてもらえるだろうか。

 

 肉親の安否が心配なのは痛いほどわかる。だけど、少しだけでも勇気を出して、相手を信じてみてくれ。

 

「あ、冨岡さ……ごめんなさい、私……!」

「別にいい。俺も、強く言い過ぎたからな。それでお相子だ」

 

 俺の頬の赤みを見てようやく冷静さを取り戻したのか、しのぶは涙目になりながら俺の頬に手を当てた。だがまあ、そこまで痛まないから気にするほどでもない。むしろビンタ一発で彼女が落ち着けたのならば十分だ。

 

 状況が好転したのを理解した俺は止めていた手を素早く動かし始めた。急いで縫合を終わらせねば傷口が開いたまま激闘を行わなければならないという洒落にならない事態になる。

 

「むっ」

「冨岡さん? どうかしたの?」

「……流石に後ろは自力で縫えない」

 

 腹や足の傷はともかく、肩の傷は貫通している。つまり傷は前だけでなく後ろにもあるということだ。無論俺の目は後ろにはない。見えない傷を手探りで縫うのは無理とは言わないが、時間がかかりそうだ。

 

「じゃあ、私がやる」

「できるのか?」

「裁縫みたいなものでしょう? 大丈夫、私に任せて!」

 

 まあ、あながち間違ってはいないか。俺に至っては裁縫の経験すらないただの見様見真似だし、俺がやってもしのぶがやっても大差はないだろう。むしろ時間短縮に繋がるのだから拒否する理由は無かった。

 

 俺はしのぶに背を見せて、傷を縫合する時間を使って別の傷の手当てを行う。鱗滝さん特性の傷薬を塗りたくって包帯を巻くだけの簡単なお仕事だ。

 

「……冨岡さん、本当に色々、ありがとう。会ってまだ一日なのに、こんなに世話を焼かせてしまって……」

「気にするな。困っている奴を放って置けるほど薄情では無いつもりだし……お前の姉と約束したんだ」

「約束?」

「ああ。もし自分に何かあった時は、(しのぶ)を助けてやって欲しい、と」

「…………姉さん」

「俺は約束は破らない。何があっても、お前をカナエの元に帰してみせる」

 

 ――――例え命に代えても。

 

 傷の縫合がようやく終わり、そちらにも傷薬を塗って包帯を巻きつける。これで最低限の応急処置は済んだ。そして未だに襲撃の気配はない。実に運が良い。

 

 できればこのまま二人を逃がせれば文句無しなのだが……。

 

「…………ん」

「? ああ、大丈夫だ。安心しろ。お前もちゃんと兄の元に返す。もう少しだけ辛抱して……違う?」

「……!!」

 

 先程から一言もしゃべらず黙りこくっていた少女が突然、壁を見ながら俺の羽織の裾を強く引っ張ってきた。何だ? と少女が見ている壁を凝視すると――――ミシリ、と軋む音がした。

 

「何? 老朽化……?」

「いや、これは、まさか――――」

 

 ギシギシと木材に負荷がかかる音はやがてこの廃屋全体に広がっていく。

 

 そして――――窓から”黒”が入ってきた。

 

「伏せろッ!」

「っ!」

 

 俺はしのぶと少女を庇うように蹲り、窓から迫るもの……鬼の髪と思しきものを回避する。だがそれは一度では収まらず、外から壁を突き破りながら侵入してきた毛髪の群れは四方八方へと張り巡らされた。

 

 が、それは数秒で動きを止めてしまう。何だ、と俺が訝しむ瞬間――――”収縮”を開始した。

 

(ッ――――まずい!!)

 

 外側から握り潰すように、内側から中心へと引っ張り込むように。二つの力がこの廃屋を丸ごと廃材の塊にせんと活動を開始した。俺は即座に二人の体を抱えて窓から外へと脱出し、砂利の上を転がった。

 

 直後反響する莫大な倒壊音。振り向けば、まるで団子の様に丸くなった廃材の塊が宙に浮いていた。もし判断が後数瞬遅かったらと思うと悪寒が湧き出る。

 

「――――ほう、生きていたか。鼠らしいしぶとさ、実に見苦しい」

「くっ……………」

 

 声のする方を見上げれば、下弦の陸は悠々と宙に張り巡らせた髪の足場の上からこちらを見下している。成程、どうやら彼女にとっては俺たちは小動物同然のようだ。脅威とすら見られていない。

 

 この傲慢さと驕り。付け入るとしたらそこしかないか。

 

「貴様は何故私の邪魔をする? 妾は貴様よりもずっと強く、美しい。弱者は何も言わず強者の糧となるべきだろう。故に、今頭を垂れて這い蹲えば苦痛なく首を刎ねるだけで許してやろう、小童共」

「戯言を……!!」

「戯言? 貴様らとて家畜の皮を剥いで売り物とし、肉を美味しく食らうだろうに、何の違いがある? 生物的強者が弱者を食らって何が悪い? それと同じだ。お前たちは我々の家畜なのだ。抵抗するな。逆らうな。付け上がるな。命じられた通り疾く死ね。己らに選択権があると勘違いするなど、畜生の分際で増上慢にも甚だしい」

「…………もういい。お前の持論なぞ聞く価値も無い……!」

 

 大人しく聞いて居ればべらべらと聞くに堪えない説法以下の囀りを垂れてくる。本当に、腹が立つ。

 

 俺たちの食事は、感謝し、命を頂く儀式だ。同じ命を奪う行為であれど、そこには確かに感謝が存在する。次の命へと繋ぐために、明日を健気に生きるために、礼を捧げて口にするのだ。”いただきます”、と。

 

 だが鬼にそんな物があるか。感謝があるか。繋ぐ命があるのか。無い。奴らは徒に、快楽に、人の営みを嘲笑いながら奪うだけなのだ。何も生み出さない。何も産まれない。

 

 それが同じだと? ふざけるのも大概にしろ。

 

「貴様らはこの世にあってはいけない命だ……!!」

「フン、言うに事欠いてまだほざくか。……ああ、丁度良いことを思いついたぞ。そうだ、これは中々に面白そうだ」

「何を――――」

「きゃあっ!!?」

「っ…………!!」

 

 背後で悲鳴が聞こえた。すぐさま振り返れば、全身を髪で雁字搦めにされたしのぶと少女の姿が。

 

 何時の間に――――!?

 

「小僧、貴様を半殺しにしてからその娘を目の前で生きたまま食ってやろう。何、傷はつけぬよ。楽しみが減ってしまうからな。クククッ……余興としては丁度良いとは思わないか? 妾を虚仮にした償いとしては実に温情に溢れていよう?」

「貴様……!!」

 

 完全に俺のミスだ。あんなやつの話など無視して全力で二人を逃がすべきだった。だがもう何を言った所で結果は変わらない。

 

 考えろ。今の俺にできる最良最善の行動を。足掻け、足掻くんだ。何としても――――!!

 

「――――さぁ、宴を始めようか!」

「――――これ以上、好き勝手はさせない……!」

 

 死闘が始まる。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「くっ……お前たち……!」

「おあぁぁがぁぁぁぁああ!!」

「うろろぉぁおぁあ!!」

 

 少し離れた場所にて、錆兎は剣戟を繰り広げていた。

 

 目の前には正気を失ったように白目を剥いている鬼殺隊員が複数。更に農具などを持った現地人が彼を囲い込んで嬲り殺さんと飛びかかっている。

 

 それらをどうにか相手を傷つけないように捌きつつ、錆兎は相方である義勇を探すために貧民窟を駆ける。

 

(クソッ、仕組みが不明な以上対処の仕様がない……。一番いい方法は元凶を叩くことだが、肝心の鬼が見つからない……! とにかく早く義勇と合流して――――)

 

 夜の街を駆ける最中、錆兎は自身が進んでいる先の方向で何かの諍いがあることを優れた感覚で感知した。もしかしたら義勇かもしれないと錆兎は更に足を速めていき、そこに予想外の人物を見つけて目を丸くする。

 

「――――胡蝶!?」

「っ、錆兎君!」

 

 そこに居たのは胡蝶カナエだった。彼女は自宅で休んでいた筈なのにどうして此処に? それに、持っているのも日輪刀ではなく訓練用の真剣。

 

 一体どういう状況なのか飲み込めず、しかし緊急事態なのは承知故に錆兎は彼女を囲んでいた者達の凶器を一瞬の内に破壊し尽くす。

 

「引くぞ! こいつ等は操られてる! 気絶させようとしても無駄だ!」

「え、ええ、わかったわ!」

 

 血鬼術の類なのだろう。錆兎は何度か気絶させることでの無力化を試みたが、全て無駄に終わった。恐らく本人の意思に関係なく、何かによって強制的に体を動かされている。関節部に見られた異様な腫れからもその事を推測できた。

 

 かと言って遠慮なしに傷つけることもできやしない。相手は同僚と無関係な一般人。彼らに向けてためらわず刃を向けられるほど、錆兎やカナエの心は成熟していない。

 

「何故此処にいる? 召集を受けたのか?」

「違う、違うの! しのぶが……しのぶが私の刀を持って飛び出して……!」

「何だと!?」

 

 予想だにもしていなかった状況に錆兎は驚愕の声を上げることしかできなかった。一体何がどうしてそんなことになったのか。

 

「その、私の部屋にあった遺書を見られて……それで……」

「何かまずい事でも書いていたのか……?」

「……鬼殺隊を目指すのは、やめなさいって」

「…………」

 

 この姉妹と知り合ってまだ間もない錆兎であるが、彼女の妹であるしのぶが鬼に対して並ならぬ執着を抱いているのはある程度理解している。そして望む力を得られず大きな悩みを抱えていることもだ。

 

 そんな中一番信頼している肉親から正面切って強い制止の言葉をかけられればどうなるか。

 

 答えはこのザマだ。

 

「私、嘘をついてたの。しのぶの事を信じてるって、一緒に戦おうって言ったのに……自分から遠ざけた! 私はしのぶの事を信じていなかった!」

「胡蝶……」

「ちゃんとしのぶに謝らないと……! ちゃんと謝って、今度こそあの子を信じたいの! お願い、助けて錆兎君……!」

「当然だ。男なら!!」

 

 目の前に現れた群衆を蹴散らしながら、錆兎は高らかに叫ぶ。

 

 そこに突如黒い鳥――――錆兎のものではない鎹烏が現れた。錆兎はその個体に見覚えがある。間違いない、義勇の烏だ。

 

 

「カァァ――――ッ! 冨岡義勇、胡蝶シノブと民間人ノ少女ヲ保護! ソシテ下弦ノ陸ト交戦シ負傷状態ニアリ! 鱗滝錆兎、至急救助ニ向カウベシ! 急ゲ! 急ゲ! カァァァ――――ッ!!」

「「ッ――――!!」」

 

 

 まさかの情報に錆兎とカナエは息を呑んだ。義勇がしのぶを保護している。それを聞いて一度は胸を撫で下ろしたが、直後に伝えられた下弦の陸という言葉を聞いて二人は戦慄する。

 

 十二鬼月。最強の鬼の列席の一人。確実に自分たちでは手に負えない存在。

 

 錆兎は手をグッと握りしめて、足に籠める力をさらに強めた。最早一刻の猶予も無いことを自覚した故に。

 

「胡蝶、急ぐぞ!!」

「ええ……!!」

 

 二人は間に合ってくれと、切実な願いを胸に烏の後を追い始めた。

 

 

 

 

 




※戦いに間に合うとは言ってない(間に合ったとしてもどう考えても戦力外)

知人の妹を助けようとしたら太腿と脇腹バッサリ斬られたり肩を貫通させられたり、助けた相手にビンタされて罵られたりと割と踏んだり蹴ったりな今回。もうやめて!冨岡さん(憑)のライフはもうすぐゼロよ!


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第拾肆話 死闘の果てに

今回でストックが尽きたので更新はここで一度終わりです。次回はエピローグなので出来次第投下するので遅くはならない、はず(震え声)。



 束ねられた髪が全方位から飛来する。その全てが致死の一撃。当たることを許されない攻撃の群れを紙一重で回避し、防ぎながら俺は一歩ずつ下弦の陸――――蒐麗と名乗った女鬼へと近づいて行く。

 

「ぐ、うぅぅぉぉおぉっ!!」

「クハハッ、チョロチョロと馬鹿の一つ覚えの様に動き回る。殺さない程度に加減してこの様とは、全く愉快よ」

「ッ……!!」

 

 たださえギリギリの綱渡りのような有様だというのに、相手は殆どお遊び気分。本気を出していない。にもかかわらず俺はいい様に翻弄されていた。

 

 当り前だ。身体能力も、経験も、技術も。何もかもが足りやしない。俺の様な凡才がたった一年少し鍛えただけで十二鬼月の首に届くわけがない。ごく一握りの天才ならばできるかもしれないが、俺は違った。それなりの才能はあるかもしれないが、突出した物とは決して言えない。

 

(せめて痣が自在に出せれば……!!)

 

 痣。命を対価として差し出し、とある神の如き人に近付くための技術。俺程度の者でも、発現すれば恐らくは十二鬼月に食いつける程度にはなるだろう。そして俺はそれを過去()()()()発現させることができた。

 

 だが、それは今発動できていなかった。何故か。

 

 前にも触れたと思うが、単純に制御出来ていないのだ。過去における二度の発動。そのどれもが怒りによる無意識の発現であり、任意に発動したことは一度としてない。

 

 条件はわかっている。体温と心拍数を上げれば、自然と出てくるのだろう。だが残念ながら、自力で今すぐそれらを上げられるほど、俺の技量は成熟していない。今も尚体温と心拍数を上げるために必死で呼吸を繰り返しているが、一向に痣の出る気配が無かった。

 

「だがいい加減手足の一本くらいは捥いでおこうか」

 

 ニタリ、と蒐麗が不気味な笑みを零した。瞬間、

 

 

 【血鬼術 斬刑(ざんけい)薄刃髪刀(はくじんばっとう)

 

 

 俺を取り巻く髪の束が変形し、薄い刃を模る。それらは準備運動の様に軽く振るわれ――――掠めた建物の屋根の一角が、まるで豆腐の様に切断され、するりと滑って崩れた。

 

 ぞっと背筋を悪寒が走り抜ける。

 

「さて、何本残る?」

「ッ――――!!」

 

 刃の数、計八ツ。それらが高速でしなって俺の手足を刎ねんと動き出す。俺は血眼になってその全ての動きを予測し捌かんとする。

 

 【参ノ型 流々舞い】

 

 縦横無尽に動き回りながら流水の様な斬撃を繰り出し死の断頭刃を弾き続ける。甲高い金属音が絶え間なく輪唱し続け、攻撃を受けるたびに両腕は痺れを蓄積する。

 

 髪が斬れない。俺の手には余るほど蒐麗の毛髪は硬く、弾き飛ばすしかできなかった。流石は十二鬼月。最弱とはいえ最強の十二の一人だと言う事か。

 

 だが刀は無事だ。ならば大丈夫。武器はまだ持つ。身体は動く。攻撃も防げる。ならば進める。戦える――――!!

 

「おぁあぁあああ!!」

「っ!?」

 

 背後から操られた者達が複数飛びかかってきた。反射的にその手を回避して――――目の前で、彼らは俺を狙った斬撃で胴体を輪切りにされた。

 

「お、前ぇぇぇえええッ!!」

「ちっ、捨て駒にもならんとは、使えない奴らめ!」

 

 自身の手駒だろうと関係ない。奴は俺を葬るために幾つも無辜の一般人を使い潰すつもりだ。無論奴にとっては痛くも痒くもない出費なのだろう。幾らでも確保できる、貧民窟の住人の命など。

 

 俺は怒りに任せて突撃を敢行しようとして――――生存本能が訴えるまま身体を捩って()()()()()何かを回避した。

 

 【血鬼術 千死翔毛(せんししょうもう)

 

「な――――!?」

「チッ、勘のいい……!」

 

 脇下から黒い何かがすり抜けた。それはズガン! と轟音を立てながら地表へと突き刺さる。

 

 それは……槍の様に編まれた髪だった。髪の束を武器として編み上げ、それを切り離しながら撃ち出しているのか。

 

 見上げれば、蒐麗は今放った物体を幾つも待機させ、その尖端はこちらへと照準されている。

 

 唖然とする暇もなく、それらは怒涛の勢いで放たれた。

 

「ッ、うあぁぁぁぁあぁあぁああああ!!!」

 

 悲鳴にも似た雄叫びを上げながら回避は不可能と断じ、俺は両足を踏みしめて両手で刀の柄を握りしめる。

 

 【拾壱ノ型 凪】

 

 己に迫る髪の槍を片っ端から叩き落とし続ける。動きの鈍い左腕を必死で鞭打ち動かし続ける。縫合した傷から血が噴き出て痛覚が絶叫するが無視する。でなければ、死ぬのは俺だ――――!!

 

 弾く。弾く。弾く。

 

 だが、無情にも限界は訪れる。

 

「ぐあぁぁあぁあああああッ!!?」

「冨岡さん――――!!!」

 

 すぐ傍を通過した髪の槍が突如変形、刃の付いた触手となって俺の知覚外から奇襲をかけてきた。嫌な予感がして直前で気づき回避を行えたが、それでも足の肉が深く斬り裂かれてしまった。

 

 傷を負ったことで凪の維持ができなくなり、更に他の髪の槍も変形を開始したのを見た俺は残った体力を絞り出して後方へと跳躍し距離を取った。目標を見失った髪の触腕はその場で気味悪くうねうねと蠢いた数秒後、そのまま灰となって消滅してしまう。

 

 まさか切り離した髪の自立行動まで可能とは。本体のソレと比べて遥かに動きは遅いし、時間が経てば消えてしまうようだが、それでもこの性能は脅威としか言いようがない。

 

 闇雲に近づくのは無理だと判断し、俺は後方彼方にあった川の土手の裏に潜り込むことでどうにか蒐麗の猛攻を凌ごうとする。だが碌に水分も無いカラカラの土があの鬼の攻撃を耐えられるはずもなく、髪の槍は容赦なく壁をぶち抜いて俺目がけて飛んでくる。

 

 だが幸い相手がこちらを視認できていないからか精度は多少鈍った。何とか掻い潜る隙を見つけた俺は蒐麗に対して回り込むように土手の裏を駆け抜け、視界から外れた所で土手を昇って遮蔽物に身を隠し荒くなった息を整える。

 

 正面から行っても無駄だ。物量と手数が違い過ぎる。ならば意識外からの奇襲しかない。

 

「成程。鼠らしくコソコソ隠れるか。下らん目論見を――――では、一掃しよう」

 

 微かに声が聞こえた。俺は嫌な予感がして地面に飛び込むように伏せる。

 

 

 ――――直後、黒い閃光が走り一帯が更地となった。

 

 

「きゃああああああああっ!!」

「な、なんだ! 何が起こってる!?」

「誰か助けてくれ! あ、足がっ!」

「ぐっ、う、ぐっ……一体、何が……!」

 

 周囲から住民たちの悲鳴が聞こえ始めた。今まで家の中に隠れていたのか、それらが纏めて破壊されたことでそこら中が阿鼻叫喚の有様だ。

 

 駄目だ、俺が隠れると奴は見境なく暴れて炙り出そうとする。これでは民間人に被害が広がってしまう。俺は事実上選択肢を一つ潰されたことに歯噛みしながら、蒐麗の前へと飛び出す。

 

「ハハハッ! 耐え切れなくなって出てきたか! 全く、無関係な貧乏人共等放っておけばよいものを……」

 

 巨大な髪の刃を見せびらかすように振りまわしながら、蒐麗は嗜虐的な笑みと共に俺を見下し続ける。そして髪を一度解くと、また幾つもの刃を形成する。

 

 奇襲は不可能。もう、正面突破しか残されていない。

 

 勝機は薄い。だが、相手はまだ俺の事を下に見て侮っている。精神的な隙は未だ健在だ。

 

 其処に全てを賭けるしかない。

 

「ふぅぅぅぅっ……! ふぅぅぅぅぅぅっ……!!」

「さて、次は何だ? 貴様らお得意の特攻か? それとも尻尾を巻いて無様に逃げるか? ククククッ……まあ、逃げても構わぬぞ? 邪魔者が居なくなったのならば、妾はあの小娘をじっくりと味わいながら食らうだけだ」

 

 落ち着け。挑発に乗るな。息を整えて、呼吸と技の精度を極限まで上げろ。一片の隙も見逃すな。

 

 地を踏み――――走る。

 

「オォォォオォォオォォォオオオオオ――――ッ!!」

「ハッ、特攻! 無様な!!」

「冨岡さん!」

 

 【拾ノ型 生々流転】

 

 うねる龍が地表を駆ける。回転しながら襲い掛かる髪の刃を弾き飛ばし、一回転、二回転、三回転。そして四回転目でついに髪の刃が俺の攻撃に依って寸断された。

 

「何ッ――――!?」

 

 その事実に蒐麗は動揺した。自分の中にあった絶対的な優位性、それが崩されたことでほんのわずかであるが彼女の動きが鈍る。

 

 この瞬間を待っていた。

 

「たぁぁぁぁぁああああああああああッ!!!」

 

 全霊で距離を詰める。髪の足場を伝って駆け上り、ついに俺は蒐麗の眼前にまで迫る。

 

 生々流転、最大倍率。それを一部の狂い無く蒐麗の頸目がけて振り下した。

 

 刃が吸い込まれるように空を走る。斬れる、勝てる。これでやっと――――

 

 

 

「薄汚い男風情が妾の肌に触れるな」

「冨岡さん下がって!!」

 

 

 

 底冷えた、どす黒い声音と警告の声が耳を突き刺す。俺は生物本能のまま髪の足場を蹴って後ろへと飛び、一秒の間もなく()()()()()()()が俺の居た場所を薙いだ。そして追撃に放たれる一撃を俺は宙で受け止め、

 

 赤い刃が、俺の刀を真っ二つに切り裂いた。

 

「     」

 

 口から漏れる声にならない声。咄嗟に首と身体を捩じって赤い刃を回避するも、掠った頬からは肉が焼ける音が響く。

 

 そのまま地面に落ちた俺は受け身を取りながら限界まで蒐麗と距離を取る。現状が把握できていない以上、やみくもに近づくのは危険だと判断したからだ。

 

(何だ、何が起こった)

 

 刀を見る。間違いなく、半ばから叩き斬られている。切断面を見れば微かに熱を帯びており、まるで焼き切られたようだった。いや、()()()()()()のだ。

 

 突然凄まじい熱を帯びた、髪の刃によって。

 

「……刀を握ったばかりの小僧かと思えば、成程確かに腕は立つらしい。妾の髪を切るとは。だからこそ、不運だった。――――妾は髪を切った輩は必ず嬲り殺しにすると決めている。楽に死ねると思うなよ、小僧……!!」

 

 今までの傲慢な顔は何処に行ったか、未だ宙でこちらを見下ろしている蒐麗の顔は憎悪の一色に染まっていた。最早一片の驕りなど無い、全力で俺を殺す腹積もりだ。

 

 蒐麗がやっと地面に足を付ける。瞬間、宙に張られた髪が徐々に赤く染まっていく。

 

「【血鬼術 紅鎧髪(くれないのよろいがみ)】。血を纏わせた妾の髪は更に速く硬くなる。もう、斬らせぬわ」

 

 マズイ。しくじった。今ので仕留めるべきだったのに。あと一手遅かった……!!

 

「なっ、何をしているんだお前たち! ひ、人の家の前で暴れてんじゃ……!」

「駄目だよせ! 前に出るなァッ!!」

 

 中年の男性がよからぬ気配を纏った蒐麗を指さして叫んだ。その内容は、至極常識的なものだ。

 

 だが、鬼という非常識な生き物にそんな声は意味を成さない。

 

 

「黙れ、塵め」

 

 

 赤い刃を一振り。視認すら困難な速度で刃がそこら中を駆け巡り、地面と家屋に赤く輝く線が深々と刻まれる。

 

 一拍間を置いて――――線から激しい炎が噴き出した。

 

「【血鬼術 妖緋髪(あやかしひがみ)】。髪を燃やすというのは心底気に食わぬが、やはり心地よいものよな。肉を焼いて斬る感覚は」

「ね、ぇ」

「あ、ぁぁ」

 

 べちゃりと音を立てながら、上半身と下半身が焼き切られた男が倒れ伏す。同時にまるで戦いの号砲のように辺りの家屋が斬られた個所から爆発、炎上を始めてしまう。

 

「誰かぁっ! 誰か助けてぇぇぇぇええ!!」

「うわあぁぁぁああぁぁあ! 火が! 火があああああ!!」

「かあちゃん! 返事しろよ! 何で何も言わないんだよぉ!」

「おあごぁぁぁがぁぁあああああ!!」

「なっ、なんだお前! や、やめろっ、来るなぁ!」

 

 燃える。地獄が燃える。

 

 先程までも十分悲惨な有様だというのに、あの鬼は更に悪化させた。なんだこれは、ふざけるな。こんな、こんなのが……!!

 

「違う……!」

 

 俺のせいだ。俺がもっと強ければ、もっと早く倒せていればこんなことにはならなかったのに……!!

 

「まだ生きていたか。全くしぶとい奴だ。とっとと死ね。周りにいる無価値な貧乏人共と一緒に地獄へと送ってやろう。一人では寂しいだろう? 感謝するといい」

「ふざ、けるな……ッ!! 地獄に落ちるのはお前だ……!」

「落ちるわけがないだろう。馬鹿か貴様は。私は死なない。死なない者が地獄に行くか?」

「俺が、殺してやる……!!」

「そうか、頑張るといい。――――ただし、先に死ぬのはお前だ。雑魚め」

 

 一瞬だった。

 

 たった瞬きする間に、蒐麗は俺の目の前に立っていた。そして背後には、髪で編まれた巨大な腕がそびえ立っている。反応はできない。しようとした瞬間に、その拳はもう俺の腹に叩き込まれていたから。

 

 ジュワリと肉の焼ける音が腹に広がる。まさか、俺をより長く苦しませるために即死しない形にしたのか。

 

「がッ、あぁぁぁぁあぁああぁぁあぁぁああああああああああああ!!?!?」

 

 拳が振り抜かれて俺の小さな体は弾むように吹き飛んだ。地面を回転しながら幾度も跳ね、遥か向こうの廃屋に突っ込んでようやく動きを止める。

 

 左腕が折れた。肋骨も何本か。苦しい、動けない。血が喉から這い上がってくる。

 

「は、ぁ、ごぶっ」

「冨岡さん! 冨岡さんっ!! 私の事はいいからもう逃げて! お願い……!!」

 

 遠くからしのぶの声が聞こえた。だがその声に従うつもりは微塵も無い。あるものか。

 

 約束したんだ。

 

 

「守るって……約束、したんだッ……!! だから、俺はっ……!」

「滑稽な」

 

 

 燃える家屋が二つ、空に浮かんでいた。大量の赤い髪が、それを掴み上げていた。

 

「貴様の相手も、もう飽きた」

「…………ご、ぼっ」

「死ぬがよい」

「地獄に、落ちろ」

 

 

 俺の居る廃屋に、燃える家屋が二つ叩き込まれた。

 

 最後に聞こえたのは爆音だけだった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「冨岡さん! いやぁぁぁああああああああああっ!!!」

「ハッハハハッハハハハハハハハハハハハ!!! 中々派手に吹き飛んでくれた! なんとまあ清々しい!」

 

 大量の瓦礫の山が燃え上がっている。冨岡が吹き飛ばされた廃屋は最早原型を留めない程崩壊しており、止めを刺すかのように激しい炎上をしていた。これはどう考えても、中に居る者は、もう。

 

 自分を守ろうとした人間が、また死んだ。

 

 あの夜、鬼から娘たちを庇って死んでいった父と母の様に。またしても、自分は何もできず、見ているしかできなかった。

 

 しのぶは己らの幸福が打ち壊された瞬間が何度も脳裏にフラッシュバックし、無力感のあまりわずかばかりの抵抗すらできなくなってしまう。

 

「しかし残念だ。宣言通りあの小僧の前で貴様を踊り食いする計画が台無しだ。まあ、所詮は余興。どうでもよいか」

「ッ…………」

 

 燃える髪を自切しながら、蒐麗は悠々とした足取りでしのぶの前に立った。

 

 眼下に広がる地獄。爆発した建物から次々と炎が燃え広がっている。このままでは貧民窟は一晩で焦熱地獄も同然となってしまうだろう。そしてその原因を作り上げた張本人、数多の人の命を何の悪びれも無く奪い尽くそうとする諸悪の権化を見て、しのぶはどろどろとした黒い炎を燃え上がらせ女鬼をキッと睨みつける。

 

「フン、そちらの子供は薄汚くて美しくない。妾が口にするに能わず。消えろ」

「!!」

 

 しのぶのついでに雁字搦めにされていた少女が髪の束縛から引きずり出され、そのまま無造作に放り捨てられた。そのまま地面に落ちて大怪我を負ってしまうと思われたが、落下先には幸運にも藁が積み上がっていたが故に無傷で済んだ様だ。

 

 しかし蒐麗はそれに見向きもしない。子供が一人死んでようがいまいが、彼女にとってはもうどうでも良いことなのだろう。

 

「ふふふっ、ああ、やはり美しい髪だ。これこそ妾が口にする価値がある。女は美しいほど価値があると思わないか? そして価値ある者を食らうことで、妾はより美しく、強くなる。そしてあの方にも認めてもらえる。例え我が身が限界に至っていようが関係無い。まだ妾は上を目指せるのだ、妾は……!!」

 

 言葉が紡がれるたびに、蒐麗の顔が歪んでいく。その言葉に師から鬼に付いての知識を片っ端から教え込まれたしのぶは彼女の現状をある程度察することができた。

 

 鬼と言うのは人を食えば食うほど強くなれるが、無限に強くなれるわけでは無い。個人個人に鬼としての資質、即ち成長の限界というものが存在している。

 

 ある一定の水準に達すれば大量の人食いができなくなり、それに伴い力を蓄えることも難しくなる。その限界が抜きんでて高く、長年生き残り続けた鬼が上弦と呼ばれる真の最強の六体だ。

 

 当然、資質が高い者もいれば低い者も存在している。蒐麗は決して資質が低いわけでは無い。だが彼女は上弦に至るほどの才は持っていなかった。

 

 だが彼女の貪欲な心は今だ鳴りを潜めていない。例え力が限界に至り、他の下弦の鬼たちに力を上回られ、下弦の陸と言う立場まで落ちぶれようともなお這い上がろうとするその執念。それは鬼の首魁たる鬼舞辻無惨が彼女に失望しつつも唯一評価した点だった。

 

「妾はまだ強くなれる! 妾自身が限界ならば、数で補うまで。強き人間どもを我が支配下に置くことで軍団を作り上げるのだ! いずれは鬼殺隊の柱も従わせ、あの方に献上する! それによって私はあの方から血を貰って、より上へと――――」

「下らない」

 

 蒐麗の高ぶる心に水を差すように、しのぶは不敵な笑みを作って吐き捨てる様に呟いた。それを聞き逃さなかったのだろう、蒐麗の動きがピクリと止まる。

 

「…………何だと?」

「下らない、って言ったのよ。結局は自分の限界を打ち破ろうとせず、他人の力に頼ろうとしてる。なんて無様なのかしら。向上心だけ立派で、他力本願なんて笑っちゃう。きっと鬼舞辻無惨も貴方の事を心の底で嘲笑っているんじゃない?」

「黙れ。貴様の様な小娘があの方を語るな」

「何よ、本当の事でしょう? 鬼舞辻の程度も知れるわ。アンタの様な小物を十二鬼月にするなんて、よっぽど先見性の無い小心者なのね」

「貴様――――!」

「ふんっ、否定できないのね! だからそうやって言葉じゃ無くて暴力で黙らせようとする! 千年間隠れ続けてる臆病者の組織の長に相応しいわ! そんな奴が自分より上の立場だなんて、私だったら恥ずかしくて自死を選ん――――で、ぇっ……ぐ、ぁ……!!」

 

 絶え間なく飛び出す剣幕を無理矢理黙らせるように、蒐麗はしのぶの喉を鷲掴みにして締め上げる。しのぶは苦しそうに嗚咽を漏らすが、笑みだけは崩さない。自分の心の最期の矜持だと言わんばかりに。

 

「言わせておけば鳥のように不快に囀ってくれる。そこまで妾に縊り殺されたいようだな、小娘」

「ふ、ふっ……アン、タ、なんか……怖くも、ない、わ……!!」

「もういい。貴様の言葉は耳を傾ける価値も無い。――――では、いただくとしよう」

 

 蒐麗が口を開く。それは加減など知らないかのように一杯に開き、やがて頬の肉が裂け、顎の骨が外れているのではないかと思える程大きく広がっていく。

 

「――――ホント、醜い、女」

 

 しのぶは最後の抵抗として罵倒と共に彼女の顔に唾を吐き捨てた。同時に、顎が閉じ始める。しのぶは何も言わずに目を閉じる。

 

 脳裏に流れるのは走馬灯。在りし日の、幸せな日々。

 

 

(姉さん、馬鹿な妹でごめんなさい。どうか、幸せに――――)

 

 

 ……怖い。

 

 死ぬのは、怖い。どれだけ強がっていても、まだ十つの少女でしかないしのぶはその感情を払拭することはできなかった。

 

 だからだろうか。誰も聞こえないようなほど小さな声で、助けを求めてしまったのは。

 

 

 

「誰か……助けて…………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガリッ、と土を爪で抉り握りしめる。

 

 熱い。痛い。灼熱に炙られ、家屋の残骸が幾つも背中に突き刺さっている。塞いだ傷は広がって血を吐き出し続けている。

 

 今にも死にそうだ。的確な処置をしなければ、後数分もすれば俺は確実に死ぬだろう。

 

(動け、動いてくれ)

 

 まだやらねばならないことが沢山あるのに。こんな所で倒れていられないのに。身体は俺の意思を無視するように、ピクリとも動かない。だけど仕方がないだろう。俺は人間で、傷つけば動けなくなるのは当然の事だ。

 

(何のために、此処まで進んだ)

 

 だけど、それでも、諦められない。

 

(選択した。よりよい未来のために。少しでも悲しい出来事を無くすために)

 

 覚悟なんてとっくの昔から決めている。己が身をすり減らしてでも、幸せになるべき人を幸せにしたいと思って、自分を奮い立たせてきたんだ。

 

 何より、カナエと約束した。しのぶを守ると。それを違えるなど――――男じゃない。

 

「だっ、たら……立た、ないと……!!」

 

 動く度に激痛という名の枷が俺を蝕んでくる。それに耐えながら、俺は身体を徐々に起こしていく。

 

 幸か不幸か、俺は瓦礫の下敷きにならず運よく隙間に避難できていた。ぶつけられた家屋が思いのほか空洞だらけだったのだろう。外傷は致命的なものは避けられている。

 

 ……だが、身体は依然重傷だ。左腕の骨と肋骨は折れて、全身は打撲と疲労でズタボロ。更に隊服が焼けて肉が焦げる音まで聞こえてくる。このまま出ていったとしても、あの鬼と戦うことなど出来やしないだろう。

 

 それでも、と俺は立ち上がろうとして――――不意に懐から何かが零れ落ちた。

 

(これ、は)

 

 小さなお守り袋。出立する前にしのぶがくれた、薬の入ったお守りだった。確か、中に入っているのは。

 

 それを思い出して、俺はフッと小さく笑う。

 

 

「――――ああ、役に立ったよ。しのぶ」

 

 

 袋から取り出したソレを、俺は無造作に口へと放り込み、噛み砕いた。

 

 

 

 

 

 しのぶは目を開いた。目を閉じた後には痛みしかないはずなのに、その代わりに凄まじい爆音が轟き、束の間の浮遊感の後に己の体を暖かいものが包んだからだ。

 

 目を開いて見えたのは、醜い鬼の姿などでは無かった。見えたのは、少年の姿。燃え朽ちてしまったのか上着を脱ぎ捨て、その鍛え上げ引き締まった肉体を外気に晒している見覚えのある少年の顔がしのぶの前に広がっていた。

 

 ただし先程とは少し違い、左頬に奇妙な痣を浮かべていたが。

 

「――――すまない、待たせた」

「冨、岡……さん?」

 

 先程まではまるで別人の様な気迫を纏う少年に、しのぶは思わず見とれてしまう。そう、まるで歴戦の戦士を見ているような。自身とそう歳は離れていないはずなのに。

 

「貴、様。何故、生きている……!」

「お前を殺してしのぶをカナエに返すまでは、死んでも死にきれないからだ」

「ふざけているのか……!!」

 

 視線を変えれば、そこには胸を深々と切り裂かれて地に倒れ伏した蒐麗の姿があった。今の今まで碌に外傷を負っていなかっただけに、突然の負傷にしのぶは目を丸くしてしまう。

 

 そして己を抱えた腕が握っている折れた刀からは、確かに血が垂れていた。つまり、斬ったのだ。義勇があの鬼を。

 

「何時の間に……」

「お前の拘束を解くときに、ついでに斬っておいた。頸を斬るつもりだったが、直前で避けられてしまった」

 

 一体どういう事だ。彼は先程まであの鬼に翻弄されていたというのに、まるで力量が違う。一体、何が起こっているというのか。しのぶの頭を疑問符が埋め尽くす。

 

 だがその問いの答えは返されることは無く、しのぶはゆっくりとその場に降ろされた。

 

「しのぶ、周りの人達を避難させろ。もうこいつはなりふり構わず暴れ出すだろう」

「で、でも」

「頼む。お前だけが頼りだ」

「っ……わかりました!」

 

 鬼と義勇の力を間近で見た以上、しのぶは己がこの戦いでは足手まとい以下だと言う事を嫌でも理解出来た。故に今は自分ができることをしなければならないと、覚悟を決めて動き始める。

 

 しのぶが離れたのを見届けると、義勇は――――俺は息を深く吐きながら一歩踏み出す。

 

「お前は俺と戦うのが飽きたと言ったな。――――俺も同感だ。お前の癇癪に付き合うのもいい加減飽きた」

「貴様ァッ……! ただのまぐれ当たりで調子に乗って……! もう許さぬ。出てこい! 妾の軍勢達よ!!」

 

 今の今まで隠れ潜んでいた蒐麗の手駒たち、血鬼術によって洗脳された人間たちが凶器を手に現れた。中には鬼殺隊員まで多数紛れており、彼女がどれほどの人々を食い物にしてきたかを示している。

 

「柱を相手にするまで温存するつもりだったが、もういい。貴様は精々同じ鬼狩りに嬲り殺されるがいい! お前の様な奴にはお似合いの結末――――」

「――――水の呼吸、【参ノ型】」

 

 俺はこの場に現れた四十人を見据え、流れるような動作で足運びを始める。それは、今までの比では無いほどに洗練され、力強く、素早いもの。そこにあって当然の様な自然さで四十もの人々の間を一瞬で駆け巡り、そして音も無く足を止めた。

 

「【流々舞い】」

 

 残心。それと同時に俺の背後にいた四十名全員が力なく倒れ伏した。その予想外の光景に蒐麗は狼狽えてしまう。

 

「きっ、貴様ッ!? 斬ったのか! 同胞を! 無関係の者まで!?」

「斬ってない、峰打ちだ。手足の関節を打ち付けて物理的に行動不能にした」

 

 そう。蒐麗の血鬼術による洗脳は仕組みこそ把握して居ないが、物理的な干渉でないのは確かだ。かと言って念力の様なものとも思えない。つまり、物理的に動けない体になってしまったら、どんな命令を出そうが無意味になるという事だ。

 

 もし糸などを使って物理的に操作しているならばその限りでは無かっただろうが、残念ながら彼女の血鬼術はその類では無かった。

 

 一部とはいえ、自身の作り上げた軍勢を容易く崩した俺に対し、蒐麗は畏怖を抱いたのか一歩ほど足を下げる。

 

(何だアイツは。先程まで妾に圧倒されていた様子は何処に行った。本当に同じ人物なのか)

 

(相手は死にかけの小僧だ。後一撃加えれば死ぬだろう)

 

(なのに、その一撃が遠い。先程まで奴は少し手強いだけの子供だった筈なのに。今回も簡単に縊り殺せるはずなのに。これは一体なんだ?)

 

「何なんだ、お前は」

「―――――鬼殺隊、階級壬。冨岡義勇」

「何なんだお前はぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!!!!」

 

 戦いの流れは完全に逆転する。

 

 冷静さを失った者に、勝利の二文字は掴めない。

 

 

 

 

 

「皆急いでここから逃げて! 燃えている家は燃え広がらない様に何かで壊してください! 女子供は川の近くに集まって!」

「な、なんでぇお前さんは!? いきなり何言って……」

「いいから! さっさと!! 動きなさい!!! 早くっ!!!!」

「ひぃっ! な、なんて子供だ!」

 

 募る苛立ちを足に乗せて近くの燃えている建物の壁を蹴り壊しながら、しのぶはまくしたてるように今だ狼狽えている者達へと指示を出し続けた。

 

 どんなに頭が鈍くとも今が緊急事態だと理解出来ない者はいないだろう。しのぶのただならない様子に圧されて人々は怯えながらも言われた通りに動き出す。彼女の有無を言わせない気強な性格が役に立った瞬間であった。

 

「――――!!」

「えっ!?」

 

 横から飛び出した影がしのぶの体にぶつかった。何だと思えば、義勇に保護されていた、そして先程藁の山へと落ちた少女ではないか。

 

 いきなり何だと言うのだ、としのぶは尻もちを付きながら少女に文句を言おうとするも――――直後に自身の頭上を髪の刃が通過したことで、その言葉は行き詰った。

 

「ま、まさか貴方……今の、見えていたの?」

「…………!」

「嘘でしょう……」

 

 自分ですら霞んだ残像が見えるのでやっとなのに、この年端もいかない子供は今の攻撃が見えていたらしい。一体どんな動体視力だと言いたくなるが……その前にしのぶはあることを思いついた。

 

「……ねぇ、貴方。あの人を助けたいと思うなら、私に力を貸して」

「…………(コクリ)」

 

 こんな手助けは余計なお世話かもしれない。必要ないのかもしれない。それでもしのぶはやらずにはいられなかった。

 

 彼女は願掛けの様に、刀の収まった鞘をギュッと握りしめた。

 

 

 

 

 

 

 地面が爆ぜるほどの速度で俺は駆ける。前方から燃える髪の刃が迫るが、俺はその全てを()()()()()。先程とはまるで真逆の結果。十全な身体能力と洗練された技から繰り出される斬撃は思い通りの結果を叩き出してくれる。

 

「ぐぅぅぅぅぅっ――――!!」

「シィィッ――――!!」

 

 全ての攻撃を正面から捻じ伏せた俺は蒐麗の懐に入り込み、その頸目がけて刀を振るう。しかし寸前で蒐麗は後ろへと跳び、刀が半分にされ長さの足りない刀は空しく彼女の喉笛を掻っ切って終わる。

 

 だが終わりでは無い。俺は飛び退く蒐麗を追いかけるべく跳躍。焼ける家屋の屋根の上へと逃げた彼女の後を追う。

 

「クソッ、クソッ!! 貴様さえ! 貴様さえいなければ!!」

「おぉぉぉぉおぉおおおおっ!!」

 

 髪の刃が八つから四つにまで数が減った。だが代わりに鋭さと硬度を増したのか、髪の刃は先程と違い切断されずに俺の刀と火花を散らし合う。戦い始めた時とはまるで違う、一進一退の互角の攻防。極限の均衡の上でこの勝負は成り立っていた。

 

 互いに決定打を出せないままこう着状態に陥っている。僅差で圧しているのは俺の方だが、同時にこのままでは負けるのも俺の方だ。鬼が疲労とは無縁なのに対して、俺の体力は有限だ。長期戦になればどちらが負けるかなんて想像しなくても分かる。

 

(だがっ、決め手がない! いや、()()()()()()()!!)

 

 攻撃範囲が半減したことで、俺の攻撃は先程から蒐麗の喉笛を斬る程度に留まってしまっている。せめて元の長さであればこんな状況にはならなかった筈なのに。

 

 だが刀鍛冶に文句を言う訳にはいかない。刀を折ったのは剣士である俺の未熟ゆえだ。

 

 しかしこのままでは――――!!

 

「しつこい! しつこい! しつこい!! いい加減死に腐れよ溝鼠が!! 塵畜生以下の分際で()をこれ以上イラつかせるなァッ!!」

「やってみろ厚化粧の年増が!!」

 

 蒐麗の顔は当然憤怒に歪んでいた。最早当初の美貌など微塵も感じられない、醜い女の顔だ。互いに罵り合いながら終わりの見えない剣戟を繰り広げる。だがもう俺の体力も限界が近い。まだか、まだなのか柱の到着は。この大惨事な有様が伝わっているのなら必ず駆けつけてくれる筈……!

 

 頼むから、これ以上被害が増える前に、誰か…………!!

 

 

「――――冨岡さん!!」

 

 

 しのぶの声が聞こえた。本来なら聞こえるはずの無い背後からの声に、俺の焦りが増す。馬鹿な、何故だ。やめろ何故来た。

 

「しのぶよせ!! こっちに来るんじゃない!!」

「小娘が邪魔をするなァァァ!!!」

 

 蒐麗が四つの髪の刃の内一つをしのぶに向かって振るった。不味い、この速さは彼女は反応しきれない。こちらで防がなくては、いやダメだ残り三つの刃に阻まれて間に合わない――――!?

 

「――――きゃっ!? や、やったっ!!」

「なっ!?」

「何、だと!? 貴様どうやって!!」

 

 避けた。どうやって。

 

 手数が減ったことでよそ見をする余裕が出来た俺はしのぶの方に視線を向ける。すると、信じられない光景が目に入ってきた。

 

 しのぶは一人では無かった。

 

 脇に少女を抱えていたのだ。俺が保護していたあの少女を。一体何をやっているんだアイツは。馬鹿なのか!?

 

「しのぶっ! なんでその子を連れてこっちに来た!? 危ないから逃げろ馬鹿!」

「大丈夫ですっ! それより、これを!」

 

 蒐麗の攻撃を避けながら、しのぶはその手に持った日輪刀を掲げた。そう、彼女の姉の物である、無事な形の日輪刀を。それを見た俺の行動は決まっていた。

 

 残った力を少しだけ振り絞って髪の刃を大きく弾き飛ばし、俺は屋根を強く蹴ってしのぶの元へと跳んだ。不利になっていく一方の戦況を、死の運命を打開するための一手を掴まんとする。

 

 

「ハハハハハハッ!! 隙を見せたな馬鹿共がッ!!」

 

 

 背後で強烈な炎熱が撒き散る。首だけを回して背後を見れば――――巨大な炎の蛇が顕現していた。

 

 

「【血鬼術 焔舞踊(ほむらぶよう)大炎蛇暴食(だいえんじゃぼうしょく)】」

 

 

 彼女の頭から生えた炎を纏う大蛇。見るだけでわかってしまうほどの凄まじい熱量を秘めている。

 

 恐らく蒐麗は此処で一気に勝負を決めるつもりなのだろう。彼女は全ての髪を集約し燃やす事で最大火力を権限させてきた。食らえばきっと、間違いなく消し炭になる。

 

「諸共に塵芥と成るがいい! 小童共ぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおッ!!!」

 

 蒐麗の叫びと共に、大炎蛇が顎を開いて獲物を食らわんと俺たちへと飛びかかった。

 

「冨岡さん!」

 

 しのぶが手に持った日輪刀を俺へと投げつける。そして彼女は少女を抱えたまま横へ跳び、術の射線上から抜け出した。そして俺は折れた刀を放り捨て、投げつけられた日輪刀の柄を掴む。

 

 俺は鞘が付いたままの刀を、地面に向かって振った。そうすることで鞘が勢いよく滑り抜け、地面に鐺が浅く突き立った。

 

 身体を捻る。鯉口を足底で踏みつける。

 

 そう、俺は――――鞘を足場として、後方上空へと跳び上がった。

 

 

「え――――」

 

 真下で轟々と燃え盛る蛇が通り抜けていく。俺たちには掠りもせずに空しく消え去っていく。

 

 恐らく、あの術は蒐麗の奥の手だ。あれだけの火力、上弦ならともかく下弦に過ぎない蒐麗がそう何度も使える物では無いはずだ。証拠に今、逆さまになった視界で蒐麗は茫然と突っ立っている。まさか無傷で凌がれるとは思わなかったのだろうか。

 

 だとしたら、とんだ間抜けだ。勝負を焦るあまりに己の首を絞めてしまったのだから。

 

「まっ、あ、いやッ!! 髪っ、髪無いぃぃぃぃいいいいいい!!!」

 

 その叫び通り、今の彼女は術の代償なのか髪の毛一本たりとも生えていなかった。美しかった姿は何処に行ったのか、頭は醜く焼け爛れ顔には炎が燃え広がっている。彼女が嫌悪する、醜い者達の様に。

 

「全集中・水の呼吸――――【肆ノ型】!!!」

「わっ、()がっ! ()がぁっ!!」

 

 ようやく蒐麗が後退を試み始める。だがもう遅い。俺の方が早い。

 

 逆さまになった身体を捩じる。呼吸を深く鋭いものにする。

 

 相手はもう防御も、回避も、迎撃もできない。

 

 刀を振る。もし刀が折れたままであれば、この攻撃は哀れな空振りに終わっただろう。だが、今持っているのは万全な状態の代物。

 

 足りなかった距離が埋まり、刃が鬼の頸を捉える。血が噴き出し、肉が裂ける。

 

 俺の、いや――――

 

 

「こんな餓鬼共なんかにィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイ!!!!」

 

 

「【打ち潮】ぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

 

 

 

 桜が薙がれて、月が欠けた。

 

 

 

 ――――俺たちの、勝ちだ。

 

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 貧しい時は、私はまだ美しい心を持っていた筈だった。

 

 その日その日を偶々知り合った男の子と手を取り合い、必死で生き抜いた。明日を生きればきっと幸福になれると信じて、耐えて耐えて耐えて、耐え続けた。母譲りの、男の子が綺麗だと言ってくれた髪すら切り売りしながら底辺の場所で生き続けた。

 

 そんな生活を何年も続けて、やがて私は男の子と将来を誓い合った。未来にどんなことがあっても、二人で生き抜こうと。

 

 時が過ぎて、私は遊郭で禿として働くことになった。男の子はまた別に道に行った。しかし二人とも心は確かに繋がっていた。沢山銭を稼いで、何時か二人で幸せな家庭を持とうと心血を注いだ。

 

 

 その誓いは、一体どこから歪んでしまったのだろうか。

 

 

 やがて私は花魁として名を馳せた。美しい髪と美しい顔。誰もが私の虜となった。誰もが私に大金を積んで顔を拝みに来た。その時私は確信した。「ああ、私は此処までこれた。そしてこれからも上に行ける。もっと幸せになれる」と。

 

 何のために上を目指したのかも忘れて。目的と手段を逆転させて、ただただ貪欲に美しさを求め続けた。

 

 やがて私はあの時の男の子と再会した。彼は小さな商売人として成功していた。――――だが、それだけだった。大きな成功もしていなければ、大きな価値を持っている訳でもない。ただ一人の花魁を身請けするためにコツコツと馬鹿みたいにお金を稼ぎ続けた間抜けな男。

 

 私は彼を切り捨てた。彼より魅力的な殿方は幾らでもいたから。

 

 そしてその晩、私のいる屋敷は炎で焼かれた。誰の仕業かは考えなくても分かる、切り捨てたあの男だ。過去に私が捨ててきた何人もの男どもと結託して私に復讐してきたのだ。

 

 私は呪った。私は美しいはずなのに。何をしても許されるはずなのに。まだ上を目指せるはずなのに。

 

 

 

「吉原で一等美しい花魁とやらを拝みに来たが……何ともまあ酷い有様だ」

 

 

 

 焼け落ちる屋敷の中で、高価な着物に身を包んだ妖艶な美しさを秘める男が現れた。彼は炎など気にも留めないような態度で、生きたまま焼かれている私の前で屈む。

 

 

「まだ生きたいか? 生きてお前をこんな目に遭わせた奴らに復讐したいか?」

「し……た、い……」

「よかろう、その貪欲さ気に入った。鬼となった後も精々、私の役に立てるよう精進するがいい」

 

 

 そうして私は鬼となった。人の頃の美しさを保ったまま永遠を生きられる至高の存在になった。全ての人間の上に立てたのだ。

 

 

 

 

 それで?

 

 

 それで私は何をしたかったの?

 

 

 上に立って、それで何を得られたの?

 

 

 

 

 

 私は何のために、こんな所まで来てしまったのだろう。

 

 

 答えなんてもうわかってる。

 

 

 だけど、あまりにも、思い出すのが遅すぎた。

 

 

 

 

 

 




 《血鬼術》
 【血鬼術 《髪》】
 読んで字の如く己の頭髪を操作する。基本的に伸縮自在かつ量も際限なく増やせる(ただし相応の時間と疲労を伴う)。ただし髪が自身から切り離されると(自分から切り離した場合は例外)操作ができなくなり、灰化してしまう。また自身から切り離した髪も大まかな操作はできるが反応や運動性は極めて劣化してしまうという弱点がある。また、時間が経てば強制的に消滅する(切り離した髪の量によって持続時間は比例する)。
 髪の操作も一本一本個別に操ることはできず、基本的に幾つかの束にして操作する。操作する量が少なければ少ないほど速度と柔軟性は上がり、多ければ多いほど力は増すが操作性と速度が低下する。
 【糸操人形(しそうにんぎょう)誘髪(ゆうはつ)
 時間をかけて作り上げた特殊な髪を対象の脳幹に打ち込み、生きた操り人形に改造する。特殊な髪の生成は一時間に一本と極めて時間がかかり、貧弱な者だと措置に耐え切れず死亡してしまう可能性がある。ただしこの術は要である髪が脳内に入っている特性上日の下に出ていても効果が持続する特異性を持つため、極めて厄介。
 なお、髪を打ち込まれた者の知能は著しく低下してしまう欠点があるため、鬼殺隊員を操り人形にしても呼吸が使用不可となってしまう。
 前述の通り発動には時間がかかるため本編では披露できなかった。
 【斬刑(ざんけい)薄刃髪刀(はくじんばっとう)
 髪を凄まじい切れ味を誇る薄い刃として形成する。岩すら容易に切断できる程の威力を持つが、他の要素を無視して無理に攻撃性を特化させたため強度が比較的脆く、また高精度の刃を形成するためにはかなりの集中力を要されるため基本的には近接戦専用。
 【千死翔毛(せんししょうもう)
 髪を槍状に束ねて射出する。射出した髪槍は着弾後も数秒間のみだが独立して動き、近くの人間へと襲い掛かる。制限時間が過ぎれば自動的に灰化して消滅する。
 【紅鎧髪(くれないのよろいがみ)
 髪に血を纏わせることで硬度や運動速度を格段に底上げする。実はかなり消耗が激しい上に、本人は黒い髪を気に入っているため余程の緊急事態でなければ滅多に使いたがらない。更に夜闇に隠れた黒髪が赤に染まってしまうため、視認されやすくなる欠点も存在する。
 奥の手を使うための仕込みになっている。
 【妖緋髪(あやかしひがみ)
 血を纏わせた頭髪に血を媒介とすることで高熱を付与し、熱による溶断を可能とさせる。この状態では髪による攻撃が鉄を豆腐の様に両断せしめるほどに強化される。ただし長時間この状態が続けば髪が燃え尽きてしまう上に、髪の再生も通常よりもかなり遅くなってしまうため蒐麗にとってもこの技は諸刃の剣となっている。
 【焔舞踊(ほむらぶよう)大炎蛇暴食(だいえんじゃぼうしょく)
 全ての髪を使用した蒐麗の奥の手。全頭髪に纏わせた血を励起させることで超高熱状態に持ちこみ発火。炎に身を包んだ大蛇を形成して相手に食らいつかせる。威力・射程共に最大級であり、自身の正面十町(約一km)を数千度の炎で直線状に焼き尽くす。ただしこれを放った後は全ての髪が消失し、また自身も技の反動でしばらくの間身動きが取れなくなる。この技を凌がれた場合後が無いことを意味するため、文字通りの最終手段である。


今回の下陸さんの敗因

<壱> 相手を格下と侮っての油断・慢心
<弐> それによる人質戦法などの除外
<参> 敢えて速攻で勝負を付けず態々苦しむ様を見るために甚振る(これによって少しずつ動きに対応された)
<肆> 逆鱗に触れられ本気を出したと思いきやまたもや慢心からの甚振りプレイ(冨岡さんをふっ飛ばした時に拳ではなく刃だったら終わっていた)
<伍> 目の良い少女の安否をどうでもいいこととして無視した(これに関しては運が悪かった)
<陸> しのぶとの舌戦に夢中になって冨岡さんの生死を再三確認しなかった
<漆> 冨岡さんが滅茶苦茶しぶとかった(厳密に言うなら強心薬によるドーピングが想定外だった)
<捌> 全然事が思い通りに行かず冷静さを失ったことで冨岡さんの痣発現による急激な身体能力の変化に対応できなくなった
<玖> 相手に大きな隙が出来た瞬間歓びのあまり勝負を焦って冷静に対応せず、使用後の隙が致命的な大技で纏めて吹き飛ばすという愚策を選んだ(よほど自信があったのだろうか)
<拾> 切り札が回避されることを想定していなかったせいで対処が致命的なまでに遅れた

他にも色々あるけど総合的な結論は「相手を舐めてかかった自業自得」。流石無惨の血を引く者よ……


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第拾伍話 夜が明けて

エピローグだけだから遅くならないと言ったな、あれは嘘だ(震え声)

年末は仕事が忙しくて碌に執筆できなかったのよ……(精一杯の言い訳)



 耳の中で反響する爆音、肌を撫でる巨大な熱気、吹き荒れる風に乗った砂。それらに晒されながら、しのぶは腕の中の少女を守るように地に伏せていた。

 

 そして、束の間を挟んで訪れる静寂に恐る恐る顔を上げて、息を呑む。

 

「…………やった、の?」

 

 先程まで女鬼が佇んでいた屋根の上には、膝を着いた頭の無い女の躯体があった。そして無くなった頭は地面の上で無様に転がっており、両方とも灰となって朽ちていってるのが確認できる。

 

 間違いなく頸を断たれ死を迎えた証拠。それを見てしのぶは底なしの喜びが湧き上がった。

 

「やった、やった! 倒せた! 冨岡さん! 倒せましたよ! 冨岡さ…………ん?」

 

 しのぶはこの場に置ける最大の功労者の名を口にするが、返事が無い。何故、と思いながらしのぶはかの少年の姿を探し、そしてそれはすぐに見つかった。

 

 落ちた鬼の頭のすぐ傍で、まるで死んでいるように倒れている姿が。

 

「…………え」

 

 息も絶え絶えで、身体中にある深い傷からドクドクと血が漏れ出ている。縫合したはずの傷も糸が千切れ飛んでおり、見るも無残な姿だ。

 

 このままでは後数分もしないうちに死ぬ。そう確信できる程の。

 

「とっ、冨岡さん! しっかりして、冨岡さん!!」

 

 守っていた少女の体から離れ、しのぶは必死の形相で倒れている義勇の傍に駆け寄る。幸か不幸か意識はまだ保っており、しかしその目に生気は無い。まるで今にも死にゆく者の様に。

 

「……し、のぶ、か」

「冨岡さん! はっ、早く傷を治療しないとっ……ど、どうすれば……!?」

 

 余りにも酷い状態に、専門家と比べればまだまだ未熟な域しか医学を修めていないしのぶはどうすればいいのかわからなかった。

 

 とにかく傷から出てくる血を止めるために自らの羽織を千切り、腕や足を縛り上げるがそれでも命の灯火が消えゆくことを止められない。このままでは死んでしまう。

 

 折角鬼を倒したのに、生き残れたのに、これではあんまりではないか。

 

「お願いっ! 冨岡さん死なないで! 私なんかのために死なないでよぉっ!」

「…………夢を、見るんだ」

 

 焦点の合わない瞳のまま、譫言のように義勇は言葉を紡ぎ出す。

 

「鬼の、いない世界で……辛く、苦しいことが、あっても……大切な人と、一緒に、生きていく。優しい人が……ちゃんと報われて……幸せになれる、優しい、世界を」

「冨岡さん! 気を失っては駄目! ちゃんと私を見て!!」

「俺は、命に代えても……お前の様に、幸せになるべき者に……そんな、世界を…………それ、だけで……俺…………は…………」

 

 力なくしのぶの頬へと伸ばされた手が、彼女の頬を一撫でして――――落ちた。

 

 呼吸が止まり、心音すら消える。

 

 

「冨岡さん」

 

 

 肩をゆする。反応は無い。

 

 

「冨岡、さん」

 

 

 胸に手を当てる。鼓動は無い。

 

 

「いや」

 

 

 しのぶは目の前の現実を否定した。己を守ってくれた人が、ただ己を励ましてくれた人が、幸せを願ってくれた人が、死んでいく様を。自身は何もできず、見ているしかできない現実を。

 

 

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああっ!!!!」

 

 

 絶叫しながら、涙を流しながらしのぶは義勇の体を抱きしめた。少しでも体温が逃げない様に。生きている証を少しでもこの世に留めようと、もう無意味な行動を必死で行い続ける。

 

 そんな彼女の悲痛な声に応えたのは、彼女のよく知る声だった。

 

「――――しのぶ!!」

 

 屋根を越えて現れる、しのぶの姉であるカナエ。そして隣には錆兎も居た。余程急いだのだろう、多大な訓練を積んできたはずの二人が息を荒げて肩で息をしている。

 

 しかし急いだにしては、あまりにも遅すぎた。

 

「姉、さん。冨岡さんが、冨岡さんが息をしてないの……!!」

「「―――――――――」」

 

 想定外――――否、想定はしていたのだろう。しかし最悪の想像が現実として突き付けられたのを直ぐには受け入れられなかったのか、カナエと錆兎は共に絶句した。

 

 しのぶに抱かれた義勇はあまりにも悲惨な状態だった。左腕は歪な方向に曲がっており、そこら中に火傷の痕が見え、深々と切り裂かれた裂傷からまき散らされた大量の血液が戦いの激しさをこれでもかというほど物語っている。

 

 これで生きていた方が、むしろ不思議だった。

 

 弟弟子の死に、錆兎は思わず崩れ落ちそうになる。そしてカナエは――――ぐっと拳を握りしめて、義勇の傍に駆け寄った。

 

「しのぶ! 心臓は何時止まったの!?」

「え……? ま、まだ三十秒も経ってない、けど」

「だったらまだ可能性はある! 二人ともまだ諦めるのは早いわ!」

「「!」」

 

 カナエの言葉にしのぶと錆兎の顔が上がった。カナエは服の裏に備えてあった救急用の道具を羽織をそのまま下敷きにしながら義勇の隣で並べて数多の傷口に注射を打ちながら止血と応急処置を開始する。

 

 そう、彼女は最後の最期まで諦めるつもりは無かったのだ。

 

「錆兎君! 義勇君の胸に圧迫をかけて! 肘は曲げずに真っすぐに! 一分間に百回! しのぶは気道を確保しながら圧迫三十回ごとに人工呼吸! 一秒を二回!」

「っ、了解した!」

「じ、人工呼吸って…………っ、わかったわ姉さん!」

 

 姉の言葉に反射的に言い返そうとするしのぶだったが、すぐに思い直す。命を救ってもらったのに、今更人工呼吸くらい戸惑っていられるか。一刻を争う事態だ、意地などぶん投げてしまえ。

 

「義勇! 死ぬな! 死ぬなッ!! お前が死んだら俺は蔦子さんや義父さん、真菰に顔向けできなくなる! 生きろ! 生きろ義勇! お前は死んでいい奴なんかじゃない!!」

 

 涙を流しながら錆兎は必至で義勇に心臓マッサージを行った。死なせるものかと必死で叫びながら繰り返す。

 

 優しい奴なんだ。誰かの幸せのために勇気を出して戦える奴なんだ。そんなやつがここで死んでいいはずがない。ちゃんと幸せになって天寿を全うする以外の死に方など認めない。

 

 そんな思いを込めて、いつもなら滅多に流さない涙をあふれんばかりに零しながら錆兎は叫び続けた。

 

 そして圧迫が三十回に達し、しのぶは息を呑みながら義勇の顔に近付く。一瞬だけ躊躇の心が出てきて――――しかし即時にこれを封殺し、しのぶは彼の口の中に息を吹きこんだ。

 

(お願い……! お願いだから死なないで……!)

 

 しのぶは自分のために人が死ぬなんて真っ平御免だった。それも、自分の失態のせいで、この何処までも不器用で優しい人が死ぬのだけは我慢らない。

 

 息を吹きこむ、己の命を削らんばかりの思いで。

 

「頼む、頼む、頼むっ、頼むからっ……!!」

「冨岡さん……!!」

「義勇君……!」

 

 三人は賢明に蘇生を続ける。ただ生きてくれと願い続ける。

 

 その祈りが天に届いたかはわからない。だが――――確かに、奇跡は起きた。

 

 

「――――が、はぁっ!!!」

 

「「「!!!」」」

 

 

 蘇生の試みを繰り返す事五度。ついに待ちに待ったその瞬間が訪れた。死人のようだった義勇が閉じていた目を開けて、確かに声を発して上体を跳ねさせたのだ。

 

「義勇! 生きてるか、義勇!!」

「…………錆、兎」

 

 幻で無いことを確かめるために錆兎は起こされた義勇の上体を支えつつ呼び掛けて、弱々しい声ではあるが確かな返事を確認した。息をして、心臓も再度動き始めた。

 

 間違いなく生きている。

 

 三人の必死の抵抗は、決して無駄では無かった。

 

「……俺、生き、て?」

「ああ! ああ、生きている! お前は生きているぞ義勇!」

「………そう、か」

 

 微かな微笑みを浮かべながら、義勇は静かに瞳を瞑る。

 

 まだ終わって無かったのかと三人は一瞬焦るが、今度は確かに息をしており、ただ眠っただけだとわかると深い安堵の息を付いた。

 

「よかった、本当に、よかった……!」

「ええ……心臓が凍り付くかと思ったわ……」

 

 最悪の事態を回避できたことにしのぶはその場で脱力してへたり込み、カナエも顔に滲み出た冷汗を服の袖で拭く。

 

 しかし未だに向こうで轟々と炎の明かりが見えているのに気づき直ぐに助けに向かおうかと腰を上げたが、目を凝らせば黒装束に身を包んだ人間たちが現れて消火活動の援助をしていたことに気付いた。

 

 彼らは鬼殺隊に所属する裏方担当の”(かくし)”と呼ばれる者達だ。救援が到着したのならばこれ以上事態が悪化することは無いだろうと、三人は一先ず胸を撫で下ろした。

 

 ――――が、これで一件落着、とか行かない。

 

「……しのぶ」

「! 姉さ――――」

 

 パン、と何かが弾ける音が木霊した。

 

 しのぶは鋭い痛みの走った頬を抑えて、茫然と姉を見上げた。錆兎は反射的に止めようとするも、カナエの真剣な表情を見て踏みとどまる。

 

「……心配、したのよ」

 

 押し殺すように、絞る様に出されたカナエの声。まるで冬の山中に置き去りにされたようなか細い声に、しのぶは何も言えなかった。

 

「貴方が、私の事を心配してくれてるのはよくわかるわ。だけどね、姉さんはもっとしのぶの事を心配してるの。大切に思ってるのよ。なのに、こんな事して……! 一歩間違えればもう二度と会えなくなったかもしれないのよ……!」

「あ……」

 

 何故、失念していたのだろうか。自分が死ねば、姉が取り残されてしまう事に。

 

 置いて行かれる悲しみは、恐怖は、誰よりも一番知っていたというのに。それを忘れて先走り、こんな事態を引き起こしてしまった。

 

 姉に二度も味わわせるつもりだったのか。肉親が死ぬ悲しみを、心の痛みを。

 

 なんて、なんて、愚かな。

 

「ごめん、なさい。ごめんなさい、ごめんなさい………っ!」

「……しのぶ、謝るのは私もよ。ごめんなさい、貴方の気持ちを知っていながら、それを裏切ってしまう様な真似をして。ごめんなさい……!」

「う、ぅあ、ぁぁあぁぁぁぁぁぁあぁぁああ……! うわぁあぁぁぁぁあぁあぁあぁぁああああん……!!」

「しのぶ、しのぶ……ごめんねぇ……ごめんねぇ……!!」

 

 しのぶとカナエはその瞳から大粒の涙を零しながら互いの体を抱きしめ合った。もう離すまいと、力いっぱいに抱擁する。

 

 それを見た錆兎は深く深く息を吐いて、己の腕の中で深い眠りの中にいる親友を見る。

 

「……よかったな義勇、お前はちゃんと守れたぞ」

 

 友を労う言葉に、眠る少年が仄かに微笑んたような気がした。

 

 

 

 長い夜が明ける。

 

 一晩で沢山の命が失われた。それでも、救えた命は確かにあった。その事実を胸に、私たちは前を向かなければならない。

 

 それが、残された者が唯一出来ることなのだから。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 下弦の陸討伐から凡そ三日。時間はあっけなく過ぎ去り、鬼によって付けられた数々の傷も少しずつではあるが癒え始めている。

 

 最弱とはいえ十二鬼月という称号は伊達では無く、蒐麗が齎した被害は正しく甚大と言えるだろう。火事による死者は確認されているだけで四十近く、重軽傷者は三桁を優に超えている。彼女が今まで食してきた人間を加味すれば死者も三桁を越すだろうが、それを確認する術はもう無い。

 

 彼の者の血鬼術によって洗脳された隊員も決して少なくは無かった。二十人以上にも上る彼らは洗脳によって無理矢理身体能力を引き上げられた反動で関節部の損傷が酷く、数週間は治療に専念しなければならないらしい。

 

 不幸中の幸いだったのは、彼らに後遺症の類は無く回復後は問題無く任務に復帰できることか。

 

 さて、表向きは大規模な火事に遭ったと処理された貧民窟であるが、当然ながら政府からの復興援助などは無かった。金もろくに持たない彼らに対して今の政府が何の得にもならない慈善事業など行うはずもない。そもそもその存在を認識しないようにしているのだから、関わるつもりは端から無いのだろう。

 

 しかし鬼殺隊にとっては鬼によってもたらされた被害である以上、放っておくわけにもいかなかった。今のところは仮住居の設置と小規模な炊き出し、怪我人の治療等を行っているが、やはり治安の悪い貧民窟か小さなもめ事が相次いでいる。運用している人員の状態から察するに、そう長くは続けられないだろう。

 

 それに、鬼殺隊頭領である産屋敷の莫大な資金力も無限ではない。何れどこかで支援も断ち切らねばならないだろう。鬼殺隊は鬼を殺すために作られた組織であって、貧民層の援助を延々と続ける役では無いからだ。

 

 心苦しいが、割り切らねばならない。

 

 何とも難しい世の中だ。

 

 

 

 さて、場面は変わって鬼殺隊の保有する医療施設、通称”花屋敷”。

 

 元花柱が営んでいる鬼殺隊専用の医療施設であり、古びた外見に反して産屋敷からの無尽蔵の資金援助によって確保された最新鋭の設備が供えられているこの場所の中で、胡蝶しのぶは寝台で寝ている少年の横で俯いていた。

 

 そんな彼女の対面に座している一つの人影。しのぶと比較するとまるで熊かと見紛う程の巨体を持つ男はジャリジャリと数珠をすり合わせながら目の前の少年に対して一礼をし、そしてしのぶを見て深く息を吐いた。

 

「…………随分、無茶をしたようだな」

「……はい」

 

 男の名は悲鳴嶼(ひめじま) 行冥(ぎょうめい)。鬼殺隊に属する者であり、つい数ヶ月前に柱に任命されたばかりの、しかし確かに鬼殺隊における最高位の称号を持つ者の一人。

 

 なにより、胡蝶姉妹を最初に鬼の手から救った者。しのぶにとって大恩ある人であった。

 

 そんな者がはっきりと怒りの気配を纏いながら威圧してくる。正直しのぶは逃げ出したい気分に駆られたが、自業自得なことなど言われずとも理解しているためこの状況を甘んじて受け入れた。

 

「カナエから事のあらましは聞いている。確かに、今回は互いの対話不足が招いた不測の事態だろう。お前一人に全ての責があるとは言えない……が、それでもお前が馬鹿な真似をしたことに変わりはない」

「…………申し訳、ありませんでした」

「……いいかしのぶ。鬼殺の道を志すのならば、感情に任せた軽率な行動こそが真の敵だ。何も考えずに選んだ選択によって、関係の無い者が何人も死ぬかもしれない。我々鬼殺隊は自分だけでなく、他者の命をも背負っている事を忘れてはならない。……私の言いたいことは、わかるな」

「はい……」

 

 鬼殺隊において命の価値は酷く軽い。人智の及ばない力を持つ鬼と戦っている以上、犠牲はどうしてもつきものだ。

 

 その犠牲が鬼殺隊内部で支払われるなら、まだいい。余程の例外を除けば皆自身の命を投げ捨てられる覚悟はあるのだから。だが無関係の一般人は? ――――答えは言わずともわかる。

 

 鬼との闘いは熾烈だ。鬼たちが目立つことを好まない故に人の多い場所で大規模な戦闘が起こることは珍しいが、決して起こりえない訳では無い。過去には極稀に大規模な交戦が幾度か行われ、その度に見るも無残な数の犠牲者が出ていた。酷いものでは三百以上もの人命がたった一晩で消えたこともある。

 

 それを引き起こすのは、我々の選択だ。人間は間違う生き物とは言うが、それは決してその間違いを許していい理由にはならない。

 

 一度の間違いが、多くの命を潰す事もある。

 

 しのぶの行動が此度の事件にて生まれた犠牲の原因なのかどうかはわからない。だがその一端を担っているのは否定しきれない。故に行冥は確かな怒りを以てしのぶを戒めるのだった。

 

「所で……此度の件に菫さんは何と」

「そりゃもう、カンカンに怒ってました。アンタが男だったら裸にひんむいて半日は干してる所だ、って」

「フッ……ならば私がこれ以上どうこう言うことはない。これからもしっかりと反省し、学ぶといい。お前が本気で鬼殺の道を歩みたいのならば」

 

 それだけを言い残して行冥はこの場を後にした。彼は柱であり基本的には多忙、むしろ貴重な時間を捻出して態々会いに来てくれたことをしのぶは深く感謝した。

 

 そうして再び静寂の訪れた病室の中で、しのぶは何も言わずに目の前で寝ている少年――――義勇の手をそっと握る。

 

「……冨岡さん」

 

 幸い一命こそ取り留めたが、三日経ってもまだ彼の意識は戻らない。臨死状態にまで追い込まれたのだ、無理はない。

 

 むしろ命を拾えたのは奇跡と言えるだろう。彼を診た医師――――しのぶの師でありこの屋敷の主である灸花(やいとばな) (かおる)によれば常人ならとっくに死んでいるほどの怪我だったらしい。というか、実際一度死んでいる。

 

 なのに何故生きているのかと言うと……不明である。

 

 本当に原因がよくわからないまま生きていたのだ。何でも常人と比べて代謝機能が異様に高くなっているせいだというのだが、何故代謝機能が高くなっているかはわからないのだ。彼の先天的な体質なのだろうか。

 

 とはいえ、大怪我に変わりは無い。菫曰く、目覚めるのは何時になるかわからないらしい。最悪月単位で経過観察をしなければならないとの弁だ。少なくとも、今日明日目覚めることはまず無いだろう。

 

 ……何にせよ、しのぶにとって彼が生きていてくれたことは心の底から喜ぶべきことだ。二度も自身の命を救ってくれたこの大恩、返す前に逝かれては仕様がない。

 

「早く目を覚ましてくださいよ。……じゃないと、悪戯しちゃいますよ?」

「――――あらあら。しのぶちゃんったら大胆ね~」

「あうあうあー」

「えっ?」

 

 しのぶが義勇の手をにぎにぎしながら遊んでいると、不意に背後から声が飛んできた。反射的に振り返れば、そこには長い髪を三つ編みで束ねている、赤子を抱えた妙齢の女性が佇んでいるではないか。

 

 その顔に見覚えはある。彼女らは昨晩知り合ったばかりの、義勇の姉である蔦子とその娘である向日葵だ。彼女と会話や顔を合わせた時間こそ一刻程度であるが、彼女の優しい人柄を理解するにはその程度でも十分すぎた。

 

 何せ弟がこんな大怪我をした原因とも言えるしのぶを責めることなく、むしろ慰めてくれたのだから。

 

「あ、いや、その、ちっ、違うんです! これは!」

「うふふっ、しのぶちゃんが義勇のお嫁さんに来るつもりならいつでも大歓迎よ?」

「うーあー?」

「そ、そうじゃなくて……ううっ……」

 

 何より雰囲気があまりにも自身の姉、カナエに良く似ていた。おかげでしのぶのいつもの気強な態度は何処かへとすっ飛び、すっかり良いように揶揄われてしまう。もし蔦子がカナエと同じ空間に居たらどうなるのか、しのぶは想像するだけで頭を抱えた。

 

 蔦子は微笑みながらしのぶの隣の席へと腰掛けた。見舞い品として持ってきた高価そうな果物の詰め合わせを寝台の横にある卓に置き、優しい手つきで弟である義勇の頭をそっと撫でる。

 

「全く……目を離すと、すぐに無茶ばっかりするんだから」

「……その、蔦子さんは冨岡さんがこうなった経緯については?」

「ええ、大体理解しているわ。鬼や、鬼殺隊についても」

 

 一般的に鬼は御伽の存在だと言われている。これは社会に混乱させないための処置であり、何より大半の者達は鬼などという超常の存在の事を聞いたところで法螺話の一種だと片づけるだろうからだ。

 

 しかし蔦子は鬼に襲われた経験の持ち主である。その存在を目で見て、また元とはいえ鬼殺隊に命を救われた身。義勇がこうして寝込んでいる経緯については大方察している。

 

 悲し気に、慈しむように蔦子は義勇に触れる。

 

 弟のこんな悲惨な有様を見て、一体どうして平気な心で居られるだろうか。

 

「……本当に、ごめんなさい蔦子さん。私が無理を通したせいで、弟さんがこんな目に……」

「いいのよ。こうしてちゃんと、生きて帰ってくれただけでいいの。それに……こうやって無茶をするのは、今回が初めてじゃないのよ?」

「そうなんですか?」

「そうなのよ。普段は兎みたいに大人しい顔をしているのに、いざという時には想像できないくらい無茶をやって……。私や義勇が初めて鬼に襲われた時も、一人で突っ走って大怪我をしたわ。でもそのおかげでこの子が、向日葵が生まれたのよ」

「うぅ?」

 

 それを聞いて、しのぶは反射的に膝の上に置いた両手をギュッと握った。

 

 聞けば、義勇の両親は彼が物心つく前に流行り病で他界したらしい。それからは蔦子と義勇の姉弟二人暮らしだったそうだ。それは、つい数年前まで何の不自由なく育ってきた己には想像もつかない程過酷な生活だっただろう。

 

 だが一つだけ共通するのは、不運にも鬼に遭遇し、襲われた事。そして最大の相違点は、義勇は家族を守り通せて、しのぶは何もできず両親が食われるところをただ見ているしかできなかった事だ。

 

 正直に言えば、凄く羨ましかった。何故彼は守れて、自身は守れなかったのか。どうしてもそう嫉妬せざるを得ない。助けられた身でありながら何と厚顔無恥だろうかと、しのぶは自身の脆弱な心を恥じた。

 

「しのぶちゃん、よかったら抱いてみる?」

「え? い、いいんですか?」

「ええ、優しくね」

 

 赤子を見たことはあっても、抱きしめてみたことはないしのぶは溢れんばかりの好奇心に身を任せて蔦子の提案に是非と乗った。

 

 しのぶは緊張しながら蔦子から向日葵を受け取り、その小さな両手にもっと小さな命を抱きとめる。

 

「あぶっ、あぅやぁ」

「可愛い……」

「でしょう? 小さな頃の義勇にそっくりで……うふふっ、ほら向日葵~、叔父さんの未来のお嫁さんですよ~」

「よ、よよよっ嫁って――――!?」

「うゆっ」

 

 あからさまにテンパり出したしのぶの頬に、向日葵の小さな手が触れた。

 

 その柔らかくて暖かい感触に、しのぶは一瞬言葉を失う。

 

 先程、自分は一体何を思ったのだろう。何故、何故自分は守れなかったのか、だったか。

 

 何と愚かしいのだろう。何と醜いのだろう。例え意識していなかったとはいえ、それではまるで――――今この両腕に抱いているこの子が生まれなけ(死んでい)れば良かったと、思ってしまったという事では無いか。

 

 それに気付き、しのぶは己の心臓を潰したいほどの苦痛と罪悪感に苛まれた。

 

「っ……なんでっ、なんでいつも、私はっ…………!!」

 

 反省していたと口にしたくせにこの様だ。結局、私は自分の事しか考えていなかった。

 

 誰かのために力を振るえる人達が傍に居るからこそ、しのぶは自身の浅ましさを酷く明確に自覚してしまう。それが悔しくて、怖くて、身体が震えて涙が出てくる。

 

「しのぶちゃん、いいのよ。そう思っても仕方ないの、貴方はまだ子供なんだから」

「うっ、うぐっ、うぅぅぅうぅぅぅぅっ……!」

 

 色々と察したのだろう蔦子はもの柔かな笑みを湛えてしのぶを抱きしめた。身体越しに伝わってくるその優しさはとても暖かくて、だからこそしのぶは泣きたくなる気持ちで胸が溢れてしまう。

 

 だって、この温もりは失われて久しい、母の様なものだったのだ。

 

 すっかり忘れていたもの。心の底で欲しくて止まないそれがこんな醜い自分を包んでくれている事に酷く申し訳なくて、しのぶはただ泣いた。

 

「あぅ? あいやいぁ~」

「あ、ひ、向日葵ちゃん!?」

 

 しのぶが大粒の涙を零していると、ふと腕の中にいる向日葵が突如義勇に向かって手を伸ばし始めた。腕の中でもがく赤ん坊をどうしたらいいのかわからずしのぶが泣きながら焦ると、蔦子は困ったような表情で向日葵を抱き上げ、義勇へと近づける。

 

 すると向日葵はペシペシと義勇の頬を叩き始めた。まるで早く起きて自分に構えと言わんばかりに。

 

「ひ、向日葵ちゃん……」

「ふふっ、向日葵は本当に叔父さんが大好きなのね~。でもごめんね? 叔父さんは今疲れて寝込んで――――」

 

 二人が一向に頬を叩くのを止めない向日葵を窘めようとした。

 

 

 瞬間、目が合う。

 

 

 ぱちくりと目を開けてこちらを見ていた義勇と。

 

「「「…………………」」」

「あーぅ」

 

 はて、一度死ぬほどの大怪我を負ったはずなのに、何故あの少年は目覚めているのだろうかとしのぶは熟考する。

 

 当然ながら考えども考えども答えは出てこなかった。推察するための情報が無いのだから当り前である。

 

 が、今確かに言えることは義勇は無事目を覚ましたという事だ。そしてそれは間違いなく朗報であった。

 

「……………姉さん、と……胡蝶?」

「あぶっ」

「……向日葵、か」

 

 枯れた声ではあったが確かに義勇は言葉を紡いだ。やっと現実を受け入れられたのか蔦子は無言で、飛びつく様に弟の体を抱きしめた。

 

「義勇! 良かった! 本当に良かった……っ!」

「……姉さん、心配かけて、済まない」

「いいのよ、義勇。私の大事な弟……」

 

 まだまだ片づけるべき問題は山積みだ。だがその一つが今消えたことには、素直に喜ぶべきだろう。

 

 涙を流しながら抱き合う姉弟の姿に、しのぶも思わず顔をほころばせた。

 

 

 

 



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第拾陸話 何処を見る

「全身複数個所に重度の火傷、左上腕部、第二から第四肋骨骨折、全身打撲、右肩脱臼、左肩貫通、右脇腹と右太腿と左脹脛に大きな裂傷。おまけにここに運び込まれた時にゃあ失血寸前の有様……アンタ何で生きてんだい?」

「……運がよかったとしか」

 

 俺が目を覚ましてから大体一時間ほど経過しただろうか。今の俺は主治医であるこの屋敷の家主である老齢の女性――――灸花 菫さんに一通りの検査を受けていた。

 

 彼女の口から改めて俺の受けた損傷がどれだけ凄惨なものだったのかを聞く度に俺は苦い顔を浮かべざるを得ない。しかし事実、俺は今身体の節々から伝えられる鈍痛によって一番マシな状態の右腕を動かすので精一杯な状態だ。

 

 本当に、今回ばかりは二度も死を覚悟した。いや、下弦の陸と相対した時点で無事に帰れるとは露ほども思わなかったのだが。

 

「……その、隊士への復帰は」

「残念ながら――――と言いたいところだけどね。この程度なら時間さえかけりゃあ全部元通りさ。幸い、内臓には傷一つ付いてなかったからね。全く、運が良いのか悪いのか」

「そうですか」

 

 それを聞いた俺はホッと一息ついた。こんな所で復帰不能な傷など負っていれば取り返しのつかないことになっていたのだ。可能な限りとはいえ意識して致命傷を避けた甲斐もあった。

 

「何にせよ、一ヶ月は絶対安静だよ。怪我を悪化させたくなきゃ大人しく療養するんだね」

「はい。ありがとうございます」

 

 菫さんは点滴の交換を終えて、ぶっきら棒にそう言い捨てながら部屋から立ち去った。

 

 そうして一人になった部屋で、俺は唯一動く右腕を上げ、感覚に異常が無いか右手を眺めながら逡巡する。

 

 下弦の陸の手によって多くの人が死んだ。今まで食い殺された人達は、仕方なかったとまだ諦めもつく。だが此度の戦いで生じた犠牲者の数を聞いて、俺は酷く苦い顔をするしかなかった。

 

 自分がもっと強ければ、こんな夥しい数の犠牲を少しでも少なく出来たのではないかと何度も思うのだ。事実、俺が痣を出すのがもっと早ければ最初の遭遇の時点で仕留められた可能性も決して低くは無かっただろう。無論、高い物でもないが……こんな犠牲を出す前に決着を付けることは可能だったはずだ。

 

 痣が無ければ、俺など少し腕の立つ新人隊士に過ぎない。十二鬼月の相手は荷が重すぎることなど分かっている。あの時点では情報を持って逃げることこそ最善の手だった。

 

 だが、それでも後悔は何度も心の表層を引っ掻き続ける。もっと強ければ、もしああすれば――――

 

「……ままならないな」

 

 右腕から力を抜いて布団の腕にぼすっと落とす。もう過ぎたことだと言うのに何時までも思い返し続ける己の何と女々しい事か。

 

 これからの事を思えば、こんな出来事程度で立ち止まっては先が知れるというのに……。

 

「義勇、お粥ができたわ~。しのぶちゃんと姉さんの合作よ~!」

「わざわざ冨岡さんのために腕によりをかけて作りましたからね! ちゃんと全部食べてくださいよ!」

「あうあー」

「……………」

 

 そんな俺の気を知ってか知らずか、向日葵を抱えた蔦子姉さんとしのぶが元気溌剌といった調子で部屋に入ってきた。先程菫さんの入室と共に席を外していたのだが、どうやら厨房を借りて粥を作っていたらしい。

 

 自分と空気の温度差に何を言えば良いのか思いつかず、俺はつい呆けた顔になってしまった。

 

「むっ、ちょっとなんですかその顔は。折角作ったのに、食べたくないんですか?」

「……いや、食べる」

 

 点滴を受けているとはいえ胃の中は見事に空っぽだ。粥の匂いに釣られて腹の音も鳴り始める。

 

 俺は姉さんに上体を起こしてもらい、膝の上に乗せたお盆の上に置かれた粥をレンゲで掬う。色が少し黄色がかっている所から、恐らくこれは卵粥だろう。仄かに香る胡麻と鶏ガラの臭いが実に芳ばしい。

 

 息を吹いて冷ましながら一口咀嚼。

 

「どう?」

「……美味しい」

「そうですか。良かった……」

 

 長らく空いていた食道が食物を確認して蠕動運動を始める。俺は身体の訴える空腹を埋めるために一心不乱に粥を口の中に運び続けた。勿論、口を火傷しないように注意しながら。

 

 粥の量は決して少ない物では無かった。しかし俺の食欲は予想以上で、粥はたったの数分で空になる。

 

「二人とも、御馳走になった。ありがとう」

「いいのよ。弟の面倒を見るのはお姉ちゃんの役目なんだから。……あ、お皿は私が片づけてくるから、しのぶちゃんは義勇をお願いね?」

「えっ、は、はい!」

「じゃあえ~」

 

 蔦子姉さんが何かを察した様子で向日葵を連れてそそくさとこの場を去ってしまう。一体どうしたのだろうか?

 

 残ったのは寝台で横になる俺としのぶの二人だけ。蔦子姉さんが居なくなった途端、なんだか気まずい雰囲気になってしまった。――――しかし予想に反して最初に口を開いたのは俺では無く、いたたまれない表情をしたしのぶだった。

 

「その、冨岡さん。本当に申し訳ありませんでした。私が我が儘言わずに迅速に動いていたら……いや、それ以前に、私が考えなしに飛び出さなければ、こんな事には……」

「気にするな。俺にお前を責める気は無い」

「え……ど、どうして?」

 

 まあ、普通の人間ならこんな踏んだり蹴ったりな目に遭った原因の一つに対して悪態の一つでも付くだろうが、俺は特にそう言う事をする気にはなれなかった。

 

 相手はまだ十歳だ。先を考えて動け、なんていうのは口で言うのは簡単だが、大人でも簡単に出来ないことを子供に、更に言うなら早く親を亡くして情緒不安定になっている女子に対して求める訳にはいかないだろう。

 

 それに――――

 

「お前を守るという選択をしたのは俺自身の意志だ。カナエとの約束の事もあるが……最終的に困難な道を選んだのは俺なんだ。楽な道を選んで逃げることもできた。だが俺はお前を守ることを選んだ。そこからの怪我は、俺の未熟から来るものだ。決してお前の責では無い。だから、気にしなくていい」

「冨岡、さん……」

 

 俺は選んだんだ、逃げずに戦うという道を。そしてこの傷は、俺が弱かったから付いたものだ。俺がもっと強ければ、こんな大怪我など負わなくても済んだ。つまり今の俺がこんなことになっているのは決してしのぶのせいでは無く、自分の弱さのせいだ。

 

 そう言い聞かせ、俺は彼女の心の重石を少しでも取り除く。この傷は俺が背負うべきものなのだから。

 

「なんで……なんで、そんなに優しくしてくれるんですか」

 

 しかししのぶは変わらず俯いたまま震えている。……参ったな、一応これが精一杯の慰めなのに。

 

「私はまだまだ弱くて、力にもなれなくて、何も返せないのに……何の役にも立てないのに……どうして」

「それは違う」

「え」

 

 どうやら先の戦いで碌に戦力になれなかった事を卑下しているらしいが、俺からすれば見当違いもいい所だ。

 

 別に、刀を振るだけが戦いでは無い。

 

「お前はお前のできることを精一杯やった。少なくともお前は隠が到着するまで市民の避難誘導をしていたし、俺に刀を届けてくれた。お前の行動が無ければ、恐らく俺は死んでいただろう」

「それは、そうかもしれませんけど……」

「胸を張れしのぶ。俺がお前を助けたように、お前も俺を助けたんだ。その事実は誰でもない、俺自身が肯定する。だから、元気を出してくれ」

「っ…………本当に、姉弟揃って、底なしに優しいんですから……!」

 

 俺が言葉を終えると、しのぶは俺の手をぎゅっと握って泣き出してしまった。えっ、なんで。慰めようとして逆に泣かれるともうどうすればいいのかわからない。

 

 だが――――何となく、この涙は悲しみから来るものではないとわかる。どちらかと言うと感謝の様な……。

 

「……その、冨岡さん」

「なんだ」

「えっと、その……な、名前についてですけど! 前にも何回か、私の事を名前で呼んでましたよね?」

「ああ。そういえば、そうだったな」

 

 確か彼女を落ち着かせるために何度か苗字では無く下の名前で呼んだ記憶がある。家名ではなく本人の名を呼ぶことで意識をはっきりとさせる効果を狙って、半ば無意識に行ったことだが、もしかして癪にでも触ったのだろうか。

 

 まあ、知り合って間もない男に突然下の名前で呼ばれていい気にはならないか……。

 

「その、冨岡さんがよければ、下の名前で呼んでも構いませんから」

「え?」

「そ、その代わり、私も冨岡さんの事、名前で呼んでいいですか?」

「あ、ああ……別に構わないが……」

 

 予想していたものと真逆の状況で俺は混乱した。何だ、一体彼女の心境にどんな変化が起こったらこうなるんだ?

 

「じゃあ、私の名前を呼んでみてください!」

「……しのぶ?」

「っ……ぎ、義勇、さん……」

「……しのぶ」

「……義勇さん」

「???」

「えへへ……」

 

 これは一体どういう状況なんだ。誰か説明してくれ。

 

 俺は焦りながら誰かに助けを求めるように辺りを見回したが、当然俺たち二人しかいない――――と思っていたら、開かれた扉の前で何やら沢山の人が顔だけ出してこちらを見ていた。

 

「あら、気づかれちゃった」

「えっ!?」

 

 緩んだ表情で俺の手をぐにぐに弄っていたしのぶはようやく俺と自分以外の人の気配に気づき、顔を驚愕で染めながら背後を振り向いた。すると見えたのは姉のカナエ含む、我ら鱗滝一派。

 

 そう、錆兎や鱗滝さんだけでなく何故か真菰までこの場に現れていた。

 

「なっ、ななな……ね、姉さん!? 一体いつから居たの!?」

「うーん、『お前を守るという選択をしたのは俺自身の意志だ』ってところからかしら?」

「ほぼ最初からじゃない! もうっ!」

「やっほー。義勇、一ヶ月ぶり~。大怪我したねぇ」

「ちゃんと関係が進んでいるようで兄弟子として鼻が高いぞ、義勇」

「これも青春か……」

「?????」

 

 助けを求めた筈なのに状況が一層混沌と化しているのか気のせいだろうか。気のせいだと思いたい。

 

 何はともあれ、鱗滝さんと真菰はどうやら俺が大怪我をしたという知らせを聞いて当日中にすっ飛んできたらしい。何とも心配性と言うか。……いや、死ぬ一歩手前の大怪我しておいて言える立場でもないか。

 

「さて……まず、何を言えばいいか。死ぬ寸前まで無茶をしたことを叱ればいいのか、それとも十二鬼月討伐を褒めればいいのか。正直こんな事は初めてでな、儂もどう声をかければいいのかわからん」

「あ、あはは……」

 

 俺自身も正直複雑な感情を心の中で渦巻かせていた。

 

 入隊一ヶ月目で十二鬼月に遭遇。此処まではまあ死ぬほど運が悪かったという事で済むだろう。しかしそこで討伐なんて言われても、元柱である鱗滝さんだからこそ簡単に飲み込めなかったに違いない。

 

「だが……そうだな、今の自分の心に従って言わせてもらおう。……頑張ったな、義勇」

「……はい」

 

 大きな手が頭に乗せられた。そこから来る安堵に、思わず涙が滲み出始める。

 

「義勇君、私からもお礼を言わせて。……ありがとう、しのぶを助けてくれて。本当に、ありがとう」

「約束、だからな」

「俺からは謝罪を。すまなかった、義勇。俺が少しでも早く駆けつけていれば、少しでも負担を減らせたかもしれなかったのに……」

「錆兎……」

「義勇、早く元気になってよね。私の最終選別を突破する晴れ姿を見ないなんて、絶対許さないから!」

「……ああ」

 

 身体は相変わらずくたくただ。だけど周りにいる人達が俺の事を心配してくれている事が酷く申し訳なくて、しかし同時に嬉しいとも思ってしまう。自分は確かに、正しい選択をしたのだと、そう思えるのだ。

 

「にしても……これだけ大怪我を負ったのにもう目覚めるなんてな。これも愛の成せる業か」

「は? 愛? 錆兎、一体何の事を言ってるんだ」

「ん? 聞いてないのか? お前の心臓が止まった時、胡蝶妹がお前の口に「ああああああっ!! 錆兎さん! それ以上言うとぶっ刺しますからね!?」」

「しのぶ、暴力はいけない」

「貴方はさっさと寝て傷でも治しててください!」

 

 錆兎が訳のわからないことを言い出したかと思いきや、しのぶがその口を遮るように錆兎の肩を前後に揺らしまくった。いきなり何をしているんだと戒めようとしたが有無を言わさぬ勢いで叩き返されてしまった。理不尽だ。

 

 しかし傷に響くため大人しく寝ていなければいけないのは事実。本音を言えば、このまましのぶの言葉に甘えて泥のような睡魔に身を任せたい。

 

 だが、まだやるべきことが一つだけ残っている。些細な、しかし確かに交わした約束を、叶えねばならない。

 

「鱗滝さん、実はお願いしたいことがあるのですが……」

「どうした。何でも言ってみるといい」

「はい、実は――――」

 

 きっと何とかなると思っていた。全部上手く行くと、そう思いこんでいた。

 

 だけど現実と言うのは俺が思った以上に残酷で、厳しいものだと言う事を、俺はこの先思い知らされることになる。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 暗い部屋の中で、行灯の放つ仄かな明かりが揺らめく中、九名の男女が正座で佇んでいる。

 

 その中でも一際目を引くのが、烏の濡れ羽の様に美しい黒髪を肩口で切り揃えている美しい青年。まるで全てを包み込むような不思議な空気を纏っており、見る人が見ればただ者で無いことを察することはそう難しくは無いだろう。

 

「さて、柱合会議を始めようか」

 

 かの青年が放つ声音や動作の律動は、対面している者を心地よい気分にさせる。溢れんばかりの天性のカリスマとも言うべきか、青年――――否、現鬼殺隊当主、産屋敷耀哉は目の前にいる八名の男女をまとめ上げることに遺憾なく能力を発揮している。

 

 この八名こそ、現在の鬼殺隊における最高戦力たる「柱」たち。

 

 

 炎柱(えんばしら)――――煉獄(れんごく) 惣寿郎(そうじゅろう)

 

 水柱(みずばしら)――――(さざなみ) (しずく)

 

 風柱(かぜばしら)――――嶺颪(ねおろし) 豊薫(とよしげ)

 

 鳴柱(なりばしら)――――桑島(くわじま) 霆慈郎(ていじろう)

 

 岩柱(いわばしら)――――悲鳴嶼(ひめじま) 行冥(ぎょうめい)

 

 操柱(そうばしら)――――神子星(みこぼし) (めぐる)

 

 雪柱(ゆきばしら)――――明雪(あけゆき) 真白(ましろ)

 

 鋼柱(こうばしら)――――金綱寺(こんごうじ) 拳斉(けんせい)

 

 

 その彼らが半年に一度こうして集まり開く会議こそ、柱合会議。本来ならば柱は九名までおり、今は一人程欠けている様だが――――。

 

「皆知っての通り、六日前に花柱……桜が殉死した。瀕死になりながらも、烏が情報を届けてくれた。彼女を殺めたのは、上弦の弐だそうだ。残念ながら、どんな能力を持っていたのかまでは依然不明のままのようだけどね」

『……………』

 

 柱の損失。それは鬼殺隊にとって大きな損害だ。だが残る八名の様子はそれに反して異様に静かなものであった。

 

 何故なら、柱が欠けることはそう珍しいことではないのだから。そも、柱以前に平隊員すら常に死と隣り合わせの状況。全員がいつ死んでもおかしくはないし、全員がいつ死んでもいい覚悟を決めている。それが鬼殺隊だ。

 

 常人からば異常としか思えないだろうが、鬼との殺し合いに身を投じたということはそういうことなのだ。異常な存在を相手取るために常識なんぞ投げ捨てている。

 

 無論、良識までは捨ててはいないだろうが。

 

「では各自、担当区域に異常があった者は報告をお願いできるかな」

「……では、私から」

 

 まず先に手を上げたのは毛先の赤い橙色の、炎の様な髪を持つ青年、煉獄 惣寿郎。

 

 彼は一見すると何だか気弱そうな印象の男だが、その鍛えられた肉体と洗練された動きは確かに強者のそれだ。

 

「まず、巡回中に下弦の肆と遭遇。交戦しましたが私の剣技と呼吸では相性が悪く、仕留める寸前に逃してしまいました。面目次第もございません」

「ほう、炎柱たるお前が鬼を取り逃すとは、随分と府が抜けていると見える。もしかして、どこぞの町娘に懸想してよそ見をしていたのか? はははっ」

「……本当に申し訳ない」

 

 茶化すように惣寿郎の言葉に横やりを入れたのは他でもない黄色の混じった黒髪の青年、鳴柱である桑島 霆慈郎。柱らしからぬ軽い口調と様子で、彼は遠慮なく惣寿郎を言葉で突いていく。

 

 彼の軽い態度に幾人程顔を顰めるが、しかし鬼を取り逃したのは間違いなく惣寿郎の大きな過失。周囲の者は敢えて霆慈郎を止めず静観した。

 

「それと……散発的にではあるが神隠し、行方不明事件が多発しています。暫くは精査するつもりですが、恐らく鬼の仕業かと。可能ならばそれらの街々に隠を数人ずつ配置して調査をしたいので、後で許可の申請を願います」

「次は、私から報告を……。鬼がいるという噂がある森に隊員が何人か入り込みましたが……全員、未帰還という結果になりました。烏からは……隠とは違う、黒装束の集団が妨害していた、と……嗚呼、南無阿弥陀仏」

 

 次に口を開いたのは額に大きな横一文字の傷を持つ盲目の巨漢、悲鳴嶼 行冥。

 

 周り、鋼柱以外と比較すれば一回り抜きん出ている体格を誇る巌のような男。しかしその両目には滝の様に涙が溢れている。恐ろし気な外見なのに慈悲深そうに涙を流す様は筆舌に尽くしがたい。

 

「こちらも厳密な調査をし……鬼と無関係だと確信が持てたのならば、調査を切り上げる予定です……」

 

 そう言葉を言い終えた行冥の次に手を上げたのは、同じくらいの巨大な体躯を持つ男。鋼柱、金剛寺 拳斉。

 

 こちらもまた行冥と同じくただならぬ威圧感を鋼の様な筋肉と共に纏っており、彼を見れば子供どころか下手な大人すら腰を抜かすだろう。

 

「では、次は私が。私の担当区域では、生後五歳以下の幼児が突如失踪する事件が発生しています。目撃情報では『夜中に宙に浮いた水が赤子を攫って行った』との情報があり、十中八九鬼の仕業かと思われます。現在は多数の隊員と隠を使い、居場所の特定を行っております。ですが、成果は乏しく……」

 

 彼の剣呑とした様子の原因は正しくそれだった。今だ幼い赤子を連れ去っている鬼がいる。そしてその末路は言わずとも周囲の者達は理解している。故に彼の中に渦巻く怒りを理解し、この場に居る柱全員が同様の思いを抱いた。

 

 その後は、誰も手を上げない状態が十数秒続く。その様子を柱たちの中で一番耀哉の近くで座していた毛先が青みがかった長髪を持つ妙齢の女性、現水柱である漣 雫が見た後、小さく手を上げた。

 

「ふむ、私が最後の様ですね。まず初めに、担当区域内の街々に散らばっていた下弦の壱……の、分身らしき個体を合計十四体仕留めましたが、本体は依然と所在不明。また二日前、下弦の壱捜索中に上弦の肆と遭遇し交戦しました」

『!!!』

 

 その情報に雫と耀哉以外の全員が目を見開いた。上弦、十二鬼月の上位六体であり、百年以上もの間鬼殺隊の柱を仕留め続けた不敗の鬼たち。鬼舞辻の誇る最強の配下。その一帯を相手取り帰還したのだから、その驚きは必然だろう。

 

「交戦中、運よく夜明けが来たため相手が撤退。結果的にほぼ引き分けに終わりました。結論だけ言うなら……あれは私一人では無理ですね。ついでに言うなら相性も最悪です」

「雫さんがそこまで言う相手ですか……」

「ええ。何故か頸を斬っても死にませんし、斬ったら斬ったで分裂する上に、それぞれの分身が多彩な血鬼術を発揮していました。複数人で対応しなければ討伐は困難を極めるかと。詳しく話せば長くなりそうなので、後で得た情報を改めて皆と共有しましょう」

 

 雫の言葉に大きな頭巾を被った女性、雪柱の明雪 真白が気落ちするような言葉を漏らすものの、上弦の情報を得たことは間違いなく大きな収穫だと口元を引き締めた。

 

 この情報を活かせば、百年以上の不敗神話を崩せる可能性が高くなるのだから。こんな所で弱音など吐いてはいられないと言う事だろう。

 

「うーん、今回はあまり良い知らせは無いみたいですね。桜さんは亡くなるし、下弦たちの行方も上手く掴めないし……」

「仕方ないじゃろうよ。今代の下弦はどいつもこいつも隠れるのが巧い。最後に討伐したのは一年ほど前に雫さんが仕留めた下弦の伍じゃったか? いや、正確に言うんなら、ここ五、六年程下弦の肆と伍以外の入れ替わりが発生しておらん。ちとばかし、由々しき事態になってきたのう」

 

 この場に似合わぬ幼い声の持ち主は、操柱たる神子星 廻。若干十三歳にして柱を務めている神童であり、史上初の()()()()使()()()()()()()()()という偉業を果たした異色の柱。

 

 うなじ辺りで綺麗にまとめた焦げ茶色の髪を指で弄びながら少女は切迫した事態に苦言を零し、それに追随するように風柱の嶺颪 豊薫も同じく現状の危うさに苦々しく顔を歪めた。

 

 しかし耀哉は笑みを崩さない。その心配を拭ういい知らせを持っているのだから。

 

「そんな君たちに朗報だ。――――我々の手を十年近く逃れていた下弦の陸が、数日前に墜とされた」

 

 その知らせに全員が息を呑んだ。下弦の陸、今まで幾多柱たちの手を逃れ、毎回討伐寸前に追い込んでは人質や肉盾などの卑劣な手段を使われ逃してしまっていたあの鬼が討たれた。それは間違いなく喜ぶべき知らせだ。

 

 だが此処で一つの疑問が出てくる。それを成したのは、一体誰なのか、と。

 

「お館様、それは一体誰が?」

「うん。信じられないかもしれないけどね、下弦の陸を下したのは壬の子だ。つい一ヶ月半前に選別を突破したばかりの、異形の鬼を討伐した三人のうちの一人だね」

「……は?」

 

 耀哉の言葉にこの場の最年少である廻が信じられないと言った声を漏らす。

 

 遅すぎたとはいえ援軍として現場に駆けつけ、事の顛末をおおよそ確認出来ていた雫以外の殆どの柱の心の声も似たような物であった。

 

「ええと……それは、援軍に駆けつけた高位の隊士と共闘したという話でしょうか?」

「いいや、他の人の協力も少しあったようだけど、隊士はあの子一人だった様だ。複数の烏にも確認を取ったから、間違いなく彼の手柄さ。どうやら、今期の剣士(子供)たちは中々に優秀な子が多い様だね」

「……信じ難い」

 

 拳斉が訝し気にそう言うが、無理はない。何せ下弦という存在は柱の一つ下、甲隊士でも一歩間違えれば死にかねないという、平隊士には手に余る存在だ。経験を積んだ柱にとっては少々手ごわい鬼止まりではあるものの、彼らを下してようやく柱になる条件を満たせるのだから、その存在は決して予断が許されるものでは無い。

 

 それをまだ壬の隊士が討伐した。それもまだ入って一ヶ月少しの隊士が。そんなことを言われて直ぐ鵜呑みにしろと言うのは、現実というものをよく知る柱だからこそ難しい話であった。

 

 一応、史上最年少柱の廻という例外中の例外がここにあるといえばあるのだが。

 

「その子はどうやら水の呼吸の使い手らしくてね。雫、君がよければその子の面倒を見てくれるかい?」

「ええ、喜んでお受けいたします。これで私の後顧の憂いも無くなるというものです」

 

 それは雫にとっても願っても無い提案であった。何せ今の彼女にとって次を託せる相手が、今のところ見つかっていないのだ。甲隊士に水の呼吸の使い手がいない訳ではないが、その全員が雫にとっては安心して次を託せると見込めなかった。

 

 勿論今までも継子を作ってはきたのだが、大半は彼女の鍛錬の厳しさに逃げ出してしまった。残った者も、才能を開花させる前に鬼に踏みつぶされた。

 

 だが此処で、磨けば確実に輝くだろう特大の原石が飛び込んできた。それを逃す手は無い。

 

 ……その後は、各自の持つ鬼の情報を交換したり、今の鬼殺隊の問題点について柱たちが議論していく。

 

 時間はあっという間に過ぎ、障子の向こうが暗闇に包まれた頃には八人の間で交わされる言葉も少なくなっていった。

 

 そろそろ頃合いだと見たのか、耀哉は静かに手を翳した。それだけでこの場に静寂が訪れる。

 

「それでは、これにて柱合会議を閉めよう。……殉死した桜や、これまで死んでいった者達のためにも、皆の活躍を期待しているよ。私の剣士(子供)たち」

 

 

「「「「「「「「御意」」」」」」」」

 

 

 こうして柱合会議は終わりを迎えた。

 

 悪しき知らせも多かったが、それでも柱たちの闘志は潰えていない。むしろ鬼への怒りによって更に燃え盛っていると断言できるだろう。

 

 十数分後、誰も居なくなった部屋の中で静かに佇む耀哉は笑みのまま、宙で輝く満月を見ながら呟く。

 

 

「……波が来る。極めて強い、でも来るのに時間のかかる大波が。さて、どうすればこの波を君にまで届けられるかな? 鬼舞辻無惨……」

 

 

 産屋敷の眼は、何処(いずこ)を見るか。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 夜空の下で身体が揺れる。

 

 俺は今、鱗滝さんに背負われるまま錆兎や真菰、しのぶやカナエと共にとある場所へと移動していた。何故背負われているかと言えば、当り前だが今は怪我のせいで上手く身動きがとれないからだ。

 

 無理をすれば歩けなくもないが、傷が広がるのは明白なのだからやるわけがない。

 

 まあそれ以前に絶対安静の言を貰っておきながら無断外出する時点で、我ながら何とも無茶をしているとは思うのだが。

 

「まさか子供を引き取って欲しいなどとは。義勇、お前の口からそんなことを頼まれるとは儂も思わなんだ」

「……すみません」

 

 無茶なことを言ったと思う。まさか貧民窟でたまたま知り合っただけの子供を数人引き取って欲しいなどと。世話になった人の負担を更に増やすなど、一発打たれても文句は言えない。

 

 だが鱗滝さんは小言の一つも言わず、俺の頼みを受け入れてくれた。本当に、この大恩はどう返せばいいのか思いつかない。

 

「だが義勇、わかっているのか。助けられるのはあくまでもその子供たちだけ。他の者達に手を差し伸べることは出来ん」

「……わかっています。だけど、それでも……俺には見捨てる選択は、できない」

 

 彼らを助けたからと言ってこの貧民窟の状況が良くなるなんてことは決してない。何も変わらない、救えたのはほんの少しの子供たちだけだ。つまり、俺の行為はただの自己満足にしかなりえない。

 

 だからといって見捨てるなんて事も、俺にはできなかった。せめて数人、せめて少しだけでも、この暗い場所から引き上げたかった。

 

 例えその心が偽善にまみれたものだったとしても。

 

「義勇、そう自分を卑下するな」

「錆兎……」

「確かに考えれば考える程難しい問題だ。だけどな義勇、俺から見たお前の選択は決して間違ったものじゃない。それだけは断言できる」

「そうだよ義勇。何もしないより何かをやったほうがずっと良いって、私は思うよ?」

 

 錆兎と真菰は俺の心を察したが、精一杯俺を励ましてくれた。気休めかもしれないが、信頼している友二人からそう言われると、とても気が楽になるような気がした。

 

「大丈夫よ義勇君! 私たちもできる限り手伝うから、大船に乗った気持ちになって!」

「姉さん、また根拠のない事言って……。あ、私もちゃんとお手伝いしますからね!」

「……ありがとう、二人とも」

 

 まだ知り合って間もないのに、胡蝶姉妹も俺の背中を後押ししてくれる。それを感じて俺は思わず涙が出そうになった。

 

 俺の行いは少しずつ良い結果を出してきている。決して、無駄な行為なんかじゃないんだ。

 

 だからこれからもきっと良くなる。着実に頑張れば、いずれ鬼舞辻の頸にも――――

 

「あ……此処です、この辺りで出会いました」

 

 目当ての場所に着いたので俺はすぐに考えを切り替える。

 

 記憶が確かならば、この辺りであの少女と出会ったはずだ。遠出の場合あの責任感の強そうな兄が妹から目を離すとは思えないので、恐らくあの子達の家は近いと推測する。違っていたら、見つかるまで探すだけだ。

 

「この辺りは……ふうむ」

「酷い……こんなに焼けて……」

 

 火事の影響は此処まで手が届いていた。そこら中真っ黒な炭と、灰が山積みになっている。中には人の焼死体らしきものまで見えて、耐性があるだろう鱗滝さん以外は思わず口を押えてしまう。

 

 その光景を見ていた俺は、ふと嫌な予感に苛まれた。もしかしたら……あの子達は火事に巻き込まれてしまったのではないか、と。辺りがこんな状態だ、決して可能性は否定できない。

 

「義勇……」

「……探そう。最後まで諦めたくない」

 

 錆兎は俺を心配してくれたが、俺は覚悟を決めて捜索を続行した。

 

 巻き込まれた可能性はあるが、逃げ切れた可能性も確かにあるのだ。ならば俺はその可能性に賭けよう。男ならば、約束は最後まで守らねばならないのだから。

 

 一歩一歩、進んでいく。その度に俺は隅々まであの子達の姿を探す。だけど子供たちどころか、人間の影さえ見えない。もしかしたら、もう皆何処かへと避難してしまったのだろうか。

 

 そう思った瞬間だった。

 

「あっ、義勇さん! あそこに!」

「!!」

 

 半刻程探し続けて、見覚えのある少女をようやく見つけることができた。ああ、良かった。生きていた。

 

 俺は一先ず胸を撫で下ろし、鱗滝さんに少女の傍まで連れて行ってもらい地面へと降り立った。少しだけ足が痛むが、大丈夫だ。これくらいなら我慢できる。

 

「すまない、待たせてしまった。俺のことは覚えているか? 少し前に会った……」

「…………」

 

 声をかけてみるが、返事が無い。どうしたのかと、俺は反射的に俯いていた少女の顔を覗き込み、

 

 

 絶望を見た。

 

 

「…………何があった」

「…………」

 

 その両目に光は灯っておらず、顔は死人のように痩せこけている。まるで何日も飲まず食わずのような状態だ。

 

 肩を揺さぶっても少女の反応は無い。少女はただ、正面を見続けているだけ。

 

 

 真正面にある、焼けた家屋を。

 

 

「…………………まさ、か」

 

 手が、震え出す。息をするのも忘れ、全身の痛みを無視しながら俺は炭の山と化した家屋に手をかける。手が真っ黒になるのも構わず、焼け朽ちた廃材を退けていく。

 

 

 やめてくれ。そんな、何で。嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だと言ってくれ――――!!

 

 

 

 炭になった、子供の手が出てきた。飴状の何かが垂れている、甘い匂いのする袋を握りしめた、手が。

 

 見覚えのある、金平糖が入っていたであろう袋を握りしめた手が。

 

「あ…………ぁ、あ」

 

 それだけで俺は全てを理解し、幽鬼の様な足取りで再び少女の傍へと戻る。

 

 誰も声を発しない。きっと俺と同じように、わかってしまったのだろう。

 

「……ごめん、な」

「………………」

「俺が……俺が、もっと、頑張っていれば……こんな、こんな事には」

 

 もうすべてが手遅れた。いくら言い訳しても、泣き喚いても、死者は生き返らない。取り零したものは、もう拾えない。それが世の理で、現実だ。

 

 少女の家族は死んだ。少女以外、全員焼け死んだ。

 

 俺が、未熟だったせいで。

 

 俺が、殺した。

 

「ごめん、ごめんな。大事な時に、何もできなくて。助けられなくて、約束も守れなくて」

「………………」

 

 俺は少女を抱きしめながら、虚ろ気に謝罪の言葉を口にしながらただ泣いた。

 

 少女は何も応えない。

 

 ただ、俺の体を精一杯、弱々しい力で抱きしめ返すだけ。

 

 

「う、ぁ、ぁぁあぁあぁぁぁぁあぁぁあぁぁあぁぁああぁぁああああああっ!! あぁぁぁぁぁぁあぁぁあああああぁあぁぁああああああっ!!!」

 

 

 情けない少年の鳴き声が、無情にも月下に響いた。

 

 

 どうして、どうしてこんなにも、現実というのは残酷なのだろう。

 

 

 答えは得られないまま、それでも俺たちは歩き続けなければいけなかった。

 

 

 この残酷な世界を。

 

 

 

 

 

 




僕はね、速筆投稿者になりたかったんだ。

でもそんな事が出来るのは一握りの天才だけでね、社会人になると時間的に小説を書くのが難しくなるんだ。

そんなこと……もっと早くに気付けばよかった。


という訳で連続更新は此処で終了。次の目途は立ってないです。「貴様アアア!! 逃げるなアアアア!! 投稿から逃げるなアアアア!!」と思うかもしれないけど、これは逃げでは無く前を向いての後退だからセーフ(半天狗並感)


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第拾漆話 各々の歩む道

だらだら書いている内に本誌でやっと無惨様が死んで喜んだ次の週に「ふざけんなクソ死ねよ。クソッもう死んでる」ってなったわ。

ワニ先生もうやめて……(ガラスハート)



 全てを救える、なんて思っていたわけじゃない。

 

 自分が矮小な一人の人間に過ぎないことなど、とっくの昔から知っている。世の理から外れたような存在である継国縁壱(神の子)の惨酷たる人生を知っているからこそ、どんなに力があっても思い通りに事が運ぶなんてことは殆ど無いとはわかってはいた。

 

 わかってはいたのだ。……だが、それを容易く許容できるかは、また別問題だった。

 

「……これが、お星様。で、これをこうして、此処を通すと……流れ星。ほら、やってごらん」

「………………」

 

 骨折が治ったことで包帯を取ることができた腕を遠慮なく動かしながら、俺は寝台の上で対面している小奇麗な着物に身を包んだ少女にあやとりを教えていた。

 

 子供の頃に蔦子姉さんから教わった一人遊びがこんな所で役に立つとは、人生何が起きるかわかるものではない。

 

「そうそう、そこで指を搦めて……ああ、よくできたな」

「……………」

 

 教えた通りに糸を弄ぶ少女の頭を俺は優しく撫でる。……だが、変わらず反応は見せない。

 

 当然だろう。一夜にしてあらゆるものを失い、心が壊れてしまったのだから。

 

 皆の尽力でどうにか痩せこけていた肌の色こそ正常に戻ったが、心だけはどうしようもない。時間をかけて少しずつ治して行くしか無い。治る保証なんてどこにもないが、それでも俺にはやらなければいけない義務がある。

 

 故意で無かったとしても、彼女から家族全てを奪った原因の一端は、俺にもあるのだから。

 

「……な、なあ冨岡。いい加減元気出せよ。な?」

 

 こちらを心配そうな声で励まそうとするのは、隣で横になっていた村田だった。俺が集中治療室から一般の部屋に移された時、奇しくも隣になったのは同期である彼だった。

 

 隣人になって早三日、それからずっと死んだような目と気力しか見せない俺を心配してのことだろう。俺の弱音を聞いて相談にも乗ってくれたし、全く、優しい少年だと思う。

 

「その子が家族を失ったのは鬼の攻撃のせいだって、皆言ってるだろ? あんまり気負う必要はないって」

「そうだぞ、冨岡! 悪いのはあのスカした顔の鬼だ!」

「お前は頑張ったよ。だからそう落ち込むな」

「だ、大体、一番の功労者のお前がそんな様だと……高位の隊士と同伴して何の役にも立たなかった俺たちの立つ瀬がないだろ……?」

「……すまない」

 

 同室の隊士たちも同じように俺を励ましてくれる。その優しさに温かなものを感じ、しかしその通りにできない俺の不器用さが悩ましい。

 

 気にしないように努めても、被害を受けた少女を見るたびにそんな甘ったれた思考は消し飛ぶのだ。

 

 自分のせいだ。自分がもっと強ければ、もっと早く鬼を倒せていれば――――頭の中で幾度も反響していくその言葉を、どう無視しろと言うのだ。

 

「………本当に、どうすればよかったんだろうな」

「冨岡……」

 

 あの夜、俺は少女の身柄を引き取ることにした。あの場に置いて行くなど、端から選択肢にはない。

 

 当所こそ予定通りに鱗滝さんに預けようとしたが……他ならぬ俺自身が、それを許すことができなかった。この子を自分の目に届かない場所に預けることが、どうしようもなく”逃げ”に思えてしまったから。行動の責任を取らないで背を向けるなど、男のするべきことでは無い。だからこうして、身近な所に置いておくことにした。せめて傷ついた心が治るまでは、と。

 

 勿論、子供一人とは言え一人の人間の世話を見るなど生半可な苦労ではない。

 

 まず汚れだらけの少女を全身くまなく綺麗にしたり――――これに関しては蔦子姉さんとカナエとしのぶが半ば強制的に引き受けた――――食事の仕方が鷲掴みが基本だったため箸の使い方を一から教えたり、厠というものを理解していないせいで物陰で小水やらを済ますのを矯正したりと……この数週間、本当に色々と大変だった。

 

 何より自発的に何かをしないのだから、その苦労は倍増だ。喉が乾いてもそれを言うことが無いので、脱水症状で倒れたこともあったのだから。

 

 面倒を見るのが俺一人だったら、ノイローゼ気味になっていたかもしれない。そうならなかったのはひとえに共にこの子の世話をしてくれた胡蝶姉妹やこの屋敷の主である菫さんのおかげだ。

 

 本当に、手助けしてくれた皆には頭が上がらない。

 

「……………」

 

 不意に、少女が俺の服の裾をぎゅっと引っ張ってきた。この数週間の間で唯一少女が起こす自発的な行動だ。その訴える意味は、即ち睡眠欲。

 

 要は眠いらしい。

 

「ああ、おやすみ。あまり長くは寝るなよ」

「………」

 

 少女は俺の体に抱き付いたまま眠りに入ってしまった。俺の体温が高いからか、こうするととても心地良さそうに眠るのだ。今の俺の存在が少女にとって微かな温もりになれているのならば、これほど嬉しいことは無かった。

 

(……どうすれば、助けられた。どうすれば)

 

 もう後の祭りだ。結果は出て、覆すことなど出来やしない。

 

 最善は尽くした。それでも足りなかった。……それだけの話なんだ。今の柱にも及ばない俺では、出来ることなど高が知れている。

 

 だからこそ、より一層自分を鍛えなければ。一人でも多くの人間を救うためにも。

 

 

「――――随分と、落ち込んでいるようですね」

「「「「!?」」」」

 

 

 まるで虚空から現れた一撃の如く、この場に居るはずの無い女性の声が俺たち全員の脳裏を突き刺した。

 

 慌てて周囲を見回してその声の主がようやく見つかる。というか、すぐ近くに居た。具体的には俺の隣に――――毛先の青い美しい黒髪を腰のところまで伸ばした、流麗な波模様が描かれた青い羽織を羽織る麗しい美女が座していた。

 

 仙女の様な自然体の美。その極地を垣間見たかの如く、俺たちは等しく言葉を失った。

 

「どうしました? まるで人を幽霊でも見るように」

「え、いや、その……」

 

 まず最初に思い浮かんだのは「馬鹿な」という率直な感想。

 

 足音が無ければ扉が開かれた音すらしなかった。更に言えば誰しもが放っているはずの気配というものが限界までそぎ落とされている。まるでそこに存在していないかの様に。もしや幽霊か、と彼女の言う通り一瞬思ってしまったほどだった。

 

「い、一体どうやってここに……?」

「どうも何も、私も鬼殺隊ですよ。正面から入ったに決まっているでしょう? ……ふふっ、わかっていますよ。単純に気配と音を消してみただけです。ちょっと皆さんを驚かせようと思いまして」

 

 さらりと言っているが、言うほど簡単な事で無いことは誰にでもわかるはずだ。だからこそこの場に居る全員が察する。この女性は確実にただ者では無いと。

 

「そうですか。……それで、一体どちら様でしょうか?」

 

 が、それがわかったからと言って彼女が何者であるかは未だに不明だ。少なくとも俺の知り合いにこんな人は思い当たらない。もしかしたらこの場に居る者の親戚かとも一瞬思ったが、この場の一人も例外なく彼女に見惚れていることからその可能性は薄いと判断する。

 

 ではこの女性は何者で、一体何用で此処に居るのかが問題なのだが。

 

「ああ、そうですね。まずは自己紹介しましょうか。――――私の名は漣雫。鬼殺隊に於ける今代の水柱です。どうぞ、よろしくお願いしますね?」

「あ、はい。冨岡義勇です。よろしく――――は?」

 

 差し出された手を反射的に握り返した頃に、ようやく彼女の言葉が頭に入ってきた。

 

 ……水柱? この人が?? えっ???

 

「……水柱って、あの”柱”?」

「ええ、その柱ですよ」

「貴方が?」

「はい」

 

 部屋に広がる沈黙と静寂。無理もない。ただ者でないとはわかっていたが、その正体は予想を上回る大物だったのだから。

 

 皆今にも叫び出したい一心だろうが、目の前にいるのは柱。鬼殺隊に於いて九人しか存在しない最高階級にして最高戦力。失礼の無い様に両手で口を精一杯押さえていた。

 

 かくいう俺も困惑を隠せない。何故ここに柱がいるのかわからない。少なくとも水柱に関しては自分から接触を図ろうとしたことなど一度も無いと言うのに。

 

「その……水柱様が、何故ここに?」

「一応、貴方を此処まで運んだのは私ですからね。万が一にも病状が悪化していないか、一目見ておきたかったのです」

「!」

 

 それは初耳だ。まさか水柱直々に俺をこの屋敷まで運んでいたとは。てっきりカナエや錆兎、それでなくとも隠の方が運んでくれたと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

 

 思い返せば確かに二人からはそう言った旨の話は聞いた覚えが無かった。彼女の話と辻褄は合っている。

 

「それは、ありがとうございます。おかげで助かりました」

「いえいえ。感謝などしなくて結構ですよ。むしろ、感謝したいのは私の方ですから」

「……それは、どういう?」

「どうもなにも、私の駆けつける前に鬼を倒してくれたでしょう? 迅速な討伐によって多くの命が助かった。感謝以外の何物でもありません」

「………………」

 

 それを言われて、俺は言葉に詰まる。

 

 鬼を倒したことについて、後悔はしていない。しのぶを助ける上でどうやっても避けきれないことだった。ただやはりこうも思う。

 

 ――――俺が、俺たちが刺激したせいで、本来なら出ないはずの命が散ってしまったのではないか、と。

 

 勿論ただの「たられば」の話。今更討論しようが永遠に答えなどでない話だ。

 

 考えても無駄だとわかっていても、つい考えてしまう。俺の心が弱いから。

 

「――――もし、自分のせいで被害が広がった、なんてことを考えていたのならば……それは筋違いも甚だしいですよ。冨岡義勇君」

「え……」

 

 図星を突かれて硬直する。だが勘違いとはどういう事だ……?

 

「もし貴方が不用意に触れたのがどうしようもない天災の類ならば、貴方が責められるのも当然でしょう。ですが鬼は違う。奴らは悪意を持つ、明確に人に害を成す存在。厄だけを振り撒き、益など何一つ齎さない害虫以下の存在です。例え此方が触れていなくても、奴らは悪戯に人を貪り弄ぶ」

「それは、そうかもしれませんが……」

「それに、貴方がここで仕留めていなければ、もっと被害が広がっていました。私も下弦の陸に一度だけ遭遇したことがありましたが、奴は用心深く相手が自身より上だと気づくや否や迷わず逃げの一手を選ぶため、敢え無く逃してしまっています。そのせいで犠牲となった人が、どれほど居るのやら……」

 

 彼女の言うことが真実ならば、確かに此処で下弦の陸を仕留められたのは幸運以外の何物でもなかっただろう。

 

 俺が弱かったから奴は逃げず、痣が発現しても相手が冷静さを失い尚且つ実力が拮抗していたおかげで逃がすこと無く仕留めることができた。そういうことならば、弱さ故に荒んでいた心も少しはマシになったような気がした。

 

 それでも、気持ちは相変わらず暗いままだが。

 

「……そういう意味では、私は貴方がたや今回犠牲となった人々に謝罪しなければいけないでしょうね。私たち柱が幾度も遭遇しておきながら未熟にも仕留めきれずに逃がしてしまったこの不始末。おかげで、貴方たちに要らぬ苦労を背負わせてしまった」

「そんな事は……!」

 

 思わない、と言えば嘘になる。

 

 俺だって人間だ。もし誰かの失敗を自分が尻拭いをする羽目になったのならば、文句や悪態の一つくらい言いたくもなる。だが先程も言った通り、人生思い通りに行く方が珍しいのだ。

 

 その苦難を知っているからこそ俺は何とか慰めの言葉の一つでも出そうとして、しかし気休め程度のものしか出てこない。

 

 ……慣れない嘘など、吐く物では無いか。

 

「……全ての苦難を我が身に背負えて、その全てを後腐れなく捌けるのならば良かったのですが。中々、上手く行かない物です」

 

 本当に、儘ならない世の中だ。

 

「――――さて、次の話題に移りましょうか」

 

 先程よりも数段重くなってしまった空気を切り変えるように、雫さんがゆったりとしつつも軽快な声を響かせながらパチンと手を叩いた。

 

 色々思うところはあるが、後悔など後で幾らでもできる。今はとりあえず、態々俺に会いに来てくれた雫さんの話を聞くのが先決だろう。

 

「早速ですが冨岡君、私の継子になりませんか?」

「はい。……はい?」

 

 前振り無く落とされた爆弾にすぐさま反応できず、俺は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。

 

 ……こう言う話はもっとこう、長い前置きをするものではなかろうか。

 

「ええと……どうして俺を? 俺以上に優秀な水の呼吸の使い手ならば、上の階級の隊士には何人も居ると思うのですが」

「そんな事、私が確かめていないと思いますか? 水の使い手は全員把握済みです。その上で断言しますが、私の後継に足りうる者は一人として居ません。悲しきことですが、純然たる事実です」

 

 数分前の優し気な雰囲気は何処へ消えたのやら、そういう彼女の口ぶりからは一切の遠慮が無い。

 

 水柱たる彼女がそう言うのだから、それはきっと事実なのだろう。鬼殺隊に水の呼吸の使い手は多いが、その全員が才能溢れる者とは限らない。不運にも、今期の水の使い手たちは柱から見ればあまりにも力不足なのだろう。

 

「……つまり、俺は貴方のお眼鏡に適ったと?」

「端的に言えばそうなります。もう一つ付け加えるのならば……貴方が今まで百年以上確認されなかった”痣者”である事も、その一因でしょうか」

「!!」

 

 想定内ではあったが、やはり触れてきたか。

 

 鬼とあれだけ大規模な争乱を起こしていれば、鎹烏が何羽も空を飛び回っていたはずだ。当然、俺の痣に付いても報告されるだろう。そして産屋敷は痣に付いての情報……その効果と代償を把握している。不明なのは発現するための条件。

 

 そのため実例たる俺に接触してくるのは自明の理。……さて、どう対応するのが吉と出るか。

 

「貴方は戦闘中、顔に独特な紋様が現れたことがあるそうですね。それについて何か知っていることがあるのならばできる限り教えて欲しいのですが」

「…………それは」

 

 即座に答えが出せるわけも無く、俺は言いよどむ。

 

 痣者は一人現れたら共鳴するように他の者にも伝播する。――――()()()()()俺はその条件をなるべく口にしたくない。明細な条件が判明すれば、それだけ痣は発現しやすくなる。

 

 その代償は寿命の前借。痣者は一人の例外を除いてその全てが二十五を待たずに死ぬ。その例外も、正直生物としての例外過ぎて参考にならない。つまり発現させればもれなく死への階段が他人の四分の一に縮まるのだ。

 

 そして何より、発現した者が既に二十五を越えていた場合は、恐らく……。

 

 ……しかし、前述した通り代償に付いては産屋敷は既に把握している。未来予知じみた先見の明を持つ彼らならば、貴重な柱を無暗に欠けさせるようなことはしないだろう。決して悪い方向には転がらないはずだ。

 

 ならば……託すべきか。

 

「……戦闘中、身体能力が爆発的に上昇する現象は過去三度体験しました。そのどれもに共通するのが、体温と心臓の鼓動です」

「ふむ、体温と心臓の鼓動。具体的にはそれがどうなるのですか?」

「体温は熱病に掛かったが如く異様に発熱し、心臓の鼓動は激しい運動を無理にしたかのように早鐘を打ちます。恐らく、常人ならば死の境を彷徨うほどの状態でしょう」

「……なるほど。常人ならば間違いなく死ぬ篩を抜けることで、痣という理外の力を手にできる。そう言う事ですか」

 

 我ながら簡潔な説明ではあったが、雫さんは予想以上に聡明でこれだけで答えに到達してくれた。ならばこれ以上の説明は無用か。

 

 願わくば、この行為が後になってこちらに牙を剥かないことを祈るばかりだ。

 

「ああ、話が逸れてしまいましたね。それで、私の継子になることへのお返事は如何ほどに?」

 

 継子になるデメリットは殆ど無い。むしろ柱直々に指導を受けられるのだから、未来のためにも大きな力を求める俺にとっては端から端までメリットだらけだ。更に言えば同じ呼吸の使い手、ならない手は無い。

 

 だが……。

 

「……あの、もし継子になったら、この子はどうなりますか?」

「? その子は……貴方の妹ですか?」

「いえ。鬼の被害によって、天涯孤独となった子です。俺が、身柄を預かりました」

「…………」

 

 その為にこの子を手放すことになるのだとしたら、あまり気が進まない。例え雫さんの助力が将来にとって大いに役立つものだったとしても、だからといって無暗にこの少女と離れるのは、間違っている気がするのだ。

 

 我ながら、何とも女々しいと呆れてしまう。

 

「ええ……私の継子になるのならば、次期柱として訓練を積むだけでなく、通常通り任務も行ってもらいますから。やはり、その子の面倒を見る時間も少なくなるでしょう」

「……なら」

「ですが、私が要求する以上の努力を積み重ねるのならば、十分な時間を差し上げるのも吝かではありません。……私の言いたい事、お分かりいただけましたか?」

 

 その言い分に俺は瞠目した。

 

 要するに彼女はこう言いたいわけだ。力も欲しい、この子の世話もしたい。どちらもやりたいのならば、死ぬほど頑張れと。中々無茶な事を言ってくれる。

 

 だが――――面白い。

 

「わかりました。どうか貴方の継子にさせてください、師よ」

「ふふっ、善哉善哉。多くのものを掴みたければ、倒れ伏すまで足掻きなさい。成すべきことを成すのなら……」

 

 どの道、鬼舞辻無惨の討伐なんて夢物語の様な事を目標に掲げているのだ。今更鍛錬と子守の両立に何を戸惑うものか。心の底でやりたいと思ったのならば、成すためにも死ぬ気で足掻け。

 

 泣き言など、死んでから吐いても遅くないんだ。

 

「ところで、その子の名前は何でしょう? これから長い付き合いになる身、呼び名がわからないのは困ります」

 

 それもそうだと、俺は隣で寝る少女へと視線を移し、小さく頭を撫でる。

 

 断片的な情報を符合すれば、共通点は多々あった。しかしこんなにも早く会えるわけがないと思いこんでいたから気づかなかった。

 

 縁と言うのは、実に不思議なものだ。これを奇縁と言わずに何と言えばいい。

 

「……この子は親から名前を付けられなかったようで。苗字はまだですが、下の名前の方は胡蝶……知人に名を付けていただきました。この子の名は――――」

 

 

 

 

「カナヲ。それがこの子の名前です」

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 狭い部屋の中で紙に筆を滑らせる音が静かに木霊する。

 

 枯れた木を思わせる物静かな気配を纏う老婆、灸花菫はただ冷淡に机の上で事務作業をしている。自身の後ろで深々と綺麗な土下座を見せる少女――――胡蝶しのぶの事など眼中にないと言外に示すように。

 

 ただ付け足して述べるのならば、この状態は一時間以上もの間継続している。更に言うなら、この光景は一週間以上前から繰り広げられていた。

 

 ただ必死に頭を下げて懇願するしのぶ。やめろと言っても聞かないので、菫は暫く無視を決め込んでいたのだが、そろそろ堪忍袋の緒も切れる頃合いだ。その証拠に彼女の筆にも僅かではあるが乱れが生じてきている。

 

「一体何時までそんな情けない恰好を見せつけるつもりだい」

 

 痺れを切らした菫が口を開いて、ようやくしのぶが肩を揺らす。しかし頭は上げず、必死さの滲む声でただ一言告げるのみであった。

 

「……お願いします。どうか、私を弟子にしてください。鬼を殺す毒を作るために、どうか」

「…………はぁぁぁぁ」

 

 深い深いため息を吐きながら菫は筆を置き、背もたれに肘を掛けながらしのぶの方へと振り向く。その顔には取り繕うことの無い呆れが張り付いている。

 

「まだそんな世迷言を言ってんのかい。今まで何度も言ったと思うけどね、鬼を殺せないからと言って明日生きられない訳じゃないんだ。大人しく諦めて、好きな男と乳繰り合ってガキでもこさえながら余生を過ごしな。鬼狩りなんてもんは、日常を捨てた狂人共に任せりゃいい」

「だったら……だったらなんで菫さんは鬼殺隊に入ったんですか! 貴方だって、鬼に大切な何かを奪われたんじゃないんですか?」

「……………ふぅぅ、頑固な娘だねぇ」

 

 菫は引き出しから煙管を取り出し、慣れた手つきで火皿に煙草を詰めて火を点け、肺の奥まで浸透させるように深く吸いこんだ。そして、同じく深く吐き出す。

 

「ああそうさ、奪われたよ。一人娘以外全部奪われたさ。父も母も夫も兄弟姉妹全員、あたしを残して一夜で居なくなった。……そして娘も孫も、消えちまった」

「……え?」

 

 鬼殺隊に入る者は余程の酔狂者以外は誰かしら肉親を失っている場合が多い。だからしのぶも菫が鬼殺隊に入隊した経緯についてはある程度推察することはできた。

 

 だが、彼女から語られたのはしのぶの想像以上に惨い現実だ。

 

「娘はあたしが引退した後に赴任した花柱だった。当時は誇りに思ったもんさ。娘が立派に、人の命を救う仕事に就いたとね。だけど娘はたった数年で鬼に貪り食われた。遺体なんて残りやしない、あたしの手元に残ったのは羽織の切れ端と血塗れの簪だけさね。この時、ようやく後悔したよ。どうして娘をこんな組織に連れ込んだ、ってね」

「っ……だったら!」

 

 しのぶは反射的に叫び出すが、菫は無視して言葉を続ける。微かに滲み出る威圧感に、しのぶも思わず言葉を止めるしかなかった。

 

「孫は娘の後を継ぐように鬼殺隊に入った。これが中々頑固者で、あたしがいくら鬼殺隊をやめろと言っても聞きやしない。何度も喧嘩するうちに馬鹿みたいに早く育っていって、たった二年で柱になった。……で、つい数週間前に鬼に食われて逝っちまったさ。不運にも、上弦に出くわして。で、義理の息子は後を追うように自殺した」

 

 そう語る菫に、しのぶは何も言うことができなかった。

 

 一ヶ月前まで見ていた師とは明らかに違う。泥の様な黒い感情に染まり切った双眸がしのぶを射抜いていたからだ。息をすることすら難しい、さながら蛇に睨まれた蛙のような心境だろう。

 

 鬼によって己以外の全ての肉親を奪われた絶望。それは一体どれほど重い物なのだろう。

 

「なんで皆、揃いも揃ってこんな婆を置いて先に逝っちまうんだか。七十越えた婆さんを労う気持ちがあるんなら、一日でもあたしより長生きして、老体を安心させてほしいんだがね」

「菫さん」

「あんたの姉にも文句を言ってやりたいよ。何で妹連れてこんな自殺志願者の集まりみたいな所に来たんだと。本当に大切に思ってんなら、一緒に町娘として静かに暮らすか、無理にでも突き放せばいいものを」

「っ……………」

 

 彼女の言うことは全て人として正論だ。鬼と戦うという事は常に命懸け。一般人の目線からすれば、鬼殺隊は自分の命など顧みない気狂いの集団と見られても仕方がない。それだけ鬼殺隊が出している年間の殉職者数は目を覆いたくなるほどの代物なのだから。

 

 全てを忘れろとは言わない。しかし生き残った自分や家族の命を大切にしながら、陽の当たる場所で健やかに生きていけ。菫はそう言っている。

 

 普通の者ならばそうするだろう。誰だって自分や身内の命の方が大事だ。一体どうして見ず知らずの他人や下らない自己満足のために命を捨てる覚悟で異形の怪物と勇んで戦おうとするだろうか。

 

 そんなことは、命を投げ出してまで他人のために戦える愚直な馬鹿か、自らを燃やすほどの恩讐に全てを捧げようとする復讐者か、自分は死なないと思い込んで現実を楽観している大間抜けにしかできない事だ。

 

 しのぶをその中で表すのならば――――

 

「……だから、なんですか。私が流されて、この場所にいるとでも思っているんですか」

「違うなら違うと言ってみな。肉親を殺された恨みを忘れられず、怒りと憎しみに取り憑かれた訳じゃないと本気で言えるならね」

 

 その挑発するような菫の言い草に対し、しのぶは思いっきり拳を床に叩き付けながら立ち上がる。先程まで縮こまっていた様子など、まるで嘘の様だ。

 

「――――()()!!」

「……ほぉう」

「鬼に対する怒りと憎しみが無いと言えば嘘よ。そこは、否定しない。だけど、断じて()()()()じゃない!! 自分を蔑ろにしながら闇雲に突っ走る姉さんの助けになりたい! お父さんとお母さんの様に誰かのために頑張れる人間でありたい! なにより――――全部忘れて、毎夜毎夜鬼なんて下らない存在にビクビクしながら暮らすなんて真っ平御免よ!!」

 

 初めて、菫がその顔に微かな笑みを浮かべる。吹っ切れたしのぶの様子が面白かったのか、それとも……一年鍛えても剥けなかった殻を突如突き破ったことに興味を示したのか。

 

「私は私自身の意志で此処に居る! 私は自分のやりたいことをやるために此処に来ているの! 両親の敵討ちも、姉さんを支えるのも、困っている人を助けたいのも、全部私自身の決めたことよ!! これは、絶対に状況や感情に流されて決めたことなんかじゃない!!!」

「…………くっ、くっは、くははははははははっ!! はっははははははははははは!!!」

 

 心の底から絞り出すような叫びを言い切ったしのぶ。息を荒げ、肩を揺らしながらしのぶは菫を睨みつけ――――当の彼女は愉快愉快と高らかに笑いだした。

 

 何がそんなに面白いのだとしのぶがキッと睨みを強くしても、菫はそよ風を受けるように涼し気な顔のまま煙管を吹かす。先程と違うのは、今の菫は実に上機嫌といった顔であった事だ。

 

「な、なんで笑うんですか!」

「いやいや、全く。つい一ヶ月前までは鬼を殺さなきゃだのなんだのと亡霊にでも憑りつかれていたようなガキが、今は一丁前に鬼殺隊の卵のような面してるのが実におかしくてね。恋をすれば人は変わる……今の今まで迷信だと思っていたんだがね」

「な、こっ、こっここここここぉっ……!?」

「んだい、下手くそな鶏の真似だね。ったく、男一つでこうも変わられちゃあ、一年間頭をぶっ叩きながら矯正しようとしたあたしが馬鹿みたいじゃないか」

「……す、すいません」

 

 憑き物が落ちたような顔で重い腰を上げる菫。そしてしのぶの眼前にまで進むと、彼女の目の前に指を二本だけ突き立てた手を見せた。

 

「二年だ」

「はい?」

「二年であたしの持つ技術の全てをお前に叩き込む。それをモノにできるかはお前次第。できたとしても、それをどう活かして役立てるかもお前次第だ。……あんだけ自信満々に大言を吐いたんだ。今更無理だなんだの泣き言は聞かないよ」

「っ……はい!!」

 

 こうして胡蝶しのぶの、剣士ではなく薬師としての歩みがようやく始まる。

 

 剣士としては大成できない。しかし別の道を以て鬼殺を成す。過去千年の間一人として成せなかった、毒による鬼殺しという偉業を成すがために。

 

 誰もが望む、鬼の無き夜明けのために。

 

 



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第拾捌話 雪来たる

前話で誤字や誤植が予想の倍くらいあって草も生えない。ゴメンネ(文字に)弱クッテ……



 この世界には「闘気」というものが存在している。正確に言うならば「生命力」や「気配」とでも言い換えた方が良いだろうか。

 

 これは例え生まれたての赤ん坊であっても備えている物だ。そのほか虫や植物、無機物以外のありとあらゆるものが持っている。そしてそれを感知する方法は人間には基本的に備わっていない。

 

 感知するためには所謂”第六感”などの常識を外れた能力が必要ではあるが、それでも圧倒的強者と相対した場合、何の訓練もしていない人間だろうと必ず畏怖というものを覚える。

 

 即ち、本能的な恐怖。自身より上位の捕食者を嗅ぎ分ける生来の警鐘。

 

 それが今俺の中でけたたましく鳴り響いていた。

 

「………………」

「スゥゥゥゥゥゥゥゥゥ………」

 

 静かな訓練場内で小さく聞こえる全集中の呼吸音。一見隙だらけの自然体のようでいて、絶対に攻めるなと直感が叫んでいる。一歩でも不用意に踏み込めば即座に刈り取られると。

 

 俺と相対している女性の()()()が純白の長髪と共に揺れる。それに合わせて居合のように左腰に構えられた木刀を握った手に力が籠り始め、足さばきが陽炎の様に揺らめき始める。

 

「――――【雪の呼吸 参ノ型】」

「ッ――――!!」

 

 女性の持つ木刀がブレた。正確な造形が一瞬で捉えられなくなり、次の瞬間には女性の踏み込みと共に不可視とも言える幻惑染みた技巧が容赦なく撃ち放たれた。

 

 

「【細雪(ささめゆき)六辺香(ろくへんこう)】」

 

 

 幻の如き連撃が視界を覆った。

 

 

 

 

 

 俺は今、客間でひょっとこ面を付けた男と相対していた。面を付けた男の名は鉄穴森鋼蔵、十八歳。刀鍛冶の里に住む、一人前になったばかりの刀鍛冶である。

 

 そして鉄穴森さんは、静かな威圧感を放ちながら正座している俺を凝視してくる。怒っている。地味にではあるが、結構怒っている。

 

 理由はまあ、どう考えてもアレだろう。

 

「……まさかたった一ヶ月で刀を折るとは思いませんでした」

「すみません……」

 

 刀というのは当然ながら作るのにとても手間がかかる。素材となる良質な玉鋼を選別し、不純物を取り除いて純度の高い鋼に仕上げ、幾度となく折り返しながら鋼を粘り強くし、形を仕上げ……素人の俺では理解しきれない程膨大な手間と時間がかかる。

 

 日本刀が一種の芸術品と言われる所以もその膨大な工程と作業から生み出される美しさにあると言っても過言では無いだろう。つまり刀鍛冶に取って刀が折れるのは己が作り上げた芸術品が不出来だったという事実を突きつけられたに等しい。

 

 職人は偏屈人だらけというが、刀鍛冶の里の職人は更に一際濃い変人が多い。それだけ己の腕に誇りを持つ職人気質とも言えるだろうが……。

 

「結構力作だったんですけどねぇ。相手が十二鬼月だったという事もあるでしょうが、やはりまだまだ私は未熟のようです」

「いえ、そんなことは決して。一応ちゃんと攻撃も捌けていましたし、刀を折られたのは俺の未熟で……」

「違いますよ。折られるような鈍を作った私が悪いのです。認められたばかりで、少々調子に乗っていたことも否めませんしね」

 

 刀は決して鈍と呼べるような物では無かったはずだ。現に、痣を発現した際には問題無く下弦の陸の攻撃を正面から凌ぎ切れていたのだから。つまり刀が折れたのは俺が原因だと、何度言っても鉄穴森さんは自分が悪いと譲らない。

 

 恐らく刀鍛冶の里の長の教えによるものだろうが、やはり何も悪くない相手が自ら責任を負おうとするのはこちらとしても肩身が狭い気分になる。

 

「では早速こちらの刀をどうぞ。前より頑丈に、そして切れ味も可能な限り落とさぬ様仕上げています」

「…………おぉ」

 

 鉄穴森さんが俺の前に差し出した木箱から二代目となる刀を掴み、シャリンと音を立てながら慣れた動作で抜き放つ。刀の色は当然前と変わらない黒混じりの深い青。

 

 よく見れば、強度の底上げのためか刀身の厚みが前のと比べてほんの少し増している。軽く振ってみるが、重量の差異による違和感もほとんどない。

 

 実に見事な仕上がりだ。

 

「ありがとうございます、鉄穴森さん。今度こそは大切に扱います」

「はい、そうしていただけると私もありがたいです」

「刀は剣士の半身とも言えますからね。今度は折らない様に気を付けてくださいね、冨岡君?」

「はい、雫さ――――ん?」

 

 そこまで言って、言葉が止まる。

 

 え? と頭の中を疑問符で埋め尽くしながら、まるで壊れた人形のようにギギギと隣を見れば……何故か見覚えのある女性が湯呑両手に座っていた。

 

 

「ぎゃぁぁああああああああああああ―――――――っっ!!??」

「あらあら。人を見て急に叫び出すなんて、失礼ですね」

 

 

 驚きのあまり鉄穴森さんは反射的に近くに居た俺に抱き付きながらその場から跳び退いた。いや、突然隣に居ないはずの誰か現れれば誰だって叫ぶだろう。既に体験済みの俺にとって鉄穴森さんの驚きは想像に難くなかった。

 

 というか雫さん、この登場の仕方気に入ってるのだろうか。正直心臓に悪いのでやめて欲しい。

 

「誰!? 誰なの!? 怖いよぉ!」

「あ、鉄穴森さん。この人は水柱の漣雫さんですよ」

「み、水柱……?」

 

 雫さんの正体を聞いてようやく落ち着きを取り戻したのか、鉄穴森さんは荒げた息を整えながら何か深く考え込むように顎に手を当てながら首を傾げた。どうしたのだろうか。

 

「え……? でも確か、水柱は十年近く代替わりしていないと聞いたような……」

「……は? 十年!?」

 

 柱はおおよその場合、半年に一度は入れ替わりが発生すると聞く。その理由は、平隊員では任せられない過酷で危険な任務を多く任されているためであり、故に死亡率も高いからだ。いや、柱以外の隊員の死亡率も決して低い訳ではないというかむしろ高いのだが。

 

 ともかくそんな理由故に柱は就いて一年持てば良い方で、二年続けば歴戦となり、三年以降は間違いなく強者の証とされる。にも関わらず、水柱は十年間その座から不動。

 

 どんな冗談だ、それは。

 

「それに任命時の年齢が低かったとも聞かないので、推定三十路前後にしては見た目が若すぎ――――」

「…………………ふふっ」

 

 そこまで行った鉄穴森さんの言葉が詰まる。ふと雫さんの顔を見てみるが、特に変わりはない。

 

 しかし鉄穴森さんは何かを察知したのか面の下から滝のような汗を流しながら「ナンデモナイデス」と震え声で呟きながらそれ以上話題には出さなかった。何故だろう、途端に雫さんの笑顔が恐ろしい何かに見えてきた。

 

「それで雫さん、何故此処に? 任務はもう終わったんですか?」

「いえ、実は次の任務に向かう途中でして。それを伝えるために寄った次第です。すみません、冨岡君。せっかく継子にしておきながら、鍛えるための時間がなかなか取れず」

「それはまあ、仕方ないかと」

 

 何度も言ったと思うが、柱は平隊員と比べて倍以上に多忙だ。担当区域内のみとはいえあちらこちらを己の足で駆けずり回り各地に蔓延る鬼共を直接討伐しなければならないのだから、私的な時間を捻出するのは中々難しい事なのだろう。

 

 お館様辺りに言えば休みを取れるかもしれないが、態々そんな事をしてまで休みたいと思う様な者が柱になっている訳がない。俺だって必要以上に休むくらいならその時間を使って鬼を一匹でも多く滅殺する。

 

「あ、あの水柱様! 失礼ですが貴方様の刀を見せていただけませんでしょうか!?」

 

 短い時間ですっかり気を取り直した鉄穴森さんが手を上げながら興奮気味に雫さんに話を持ちかけた。というか大分興奮している。テンションの落差が凄いなこの人。

 

「ええ、構いませんよ。はいどうぞ」

「お、おぉぉぉぉぉっ……! こ、これが鉄珍様の打った最高の一振り……!! すばらしいっ、すばらしい刀だこれはぁぁぁっ!! うひょぉぉおおおお!!」

「……凄い」

 

 鞘から抜き放たれた雫さんの刀は、刀についてはズブの素人の俺ですら魅了されるほど美しいものであった。

 

 細身の女性を思わせるような、微かな乱れも無い美しい反りと極薄の刀身。深海の如き深く純粋な青色の刀身と合わさって、まるで浮世絵の激しい波のようにも見える美麗な刃紋。

 

 だが見た目の美しさだけでなく、その切れ味もまた最上。少し動いただけで空気を裂くような音が耳に届くほど洗練された刃は、相応しい使い手が握ればどんなに硬い鬼の頸であろうと一刀で断ち切るだろうと確信できてしまうと感嘆を覚える代物だった。

 

 時代が時代なら、国宝指定されてもおかしくない。鉄穴森さんの興奮する気持ちが今更ながら深く理解出来てしまった。これは、凄いものだ。

 

「ところで冨岡君、機能回復訓練はもう行いましたか?」

「いえ。これから行う予定ですが」

 

 雫さんに声をかけられて、俺はやっと刀から意識を外せた。

 

 ――――人の肉体というものは当然ながら長期間の間適度な運動を行わないでいると、”鈍る”。しかし日常に支障をきたすほどでは無く、一般人が普通に暮らす分には問題無い程度だしそこそこ身体を動かしていれば自然と元に戻る。

 

 だが、鬼殺隊に属する隊士の場合は話が異なってくる。

 

 鬼と互角に渡り合うためには呼吸技術はほぼ必須であるが、それは土台である肉体をおろそかにしていた場合は十全な機能を果たさなくなるのだ。呼吸はあくまでも身体能力を増幅させるだけ。素の身体能力が低ければ、その効力は想像をはるかに下回る。

 

 長期間の治療によって生じた隊士たちの肉体の鈍り、それを解消するために発案され行われ続けた訓練。それが機能回復訓練だ。

 

「見た所、適度に固まった筋肉を伸ばすだけで良さそうですね。不格好ながらも常中を行っているおかげでしょう」

「そうですか」

 

 しかし、俺の場合は他の新人隊士より少し事情が違ったようだ。

 

 全集中の呼吸は前述した通り身体機能の増幅を行ってくれるが、これには制限時間があるわけでは無い。呼吸が持続すれば効果も併せて持続する。つまり理論上は朝から晩まで一日中行うことも可能なのだ。

 

 そして全集中の呼吸は大なり小なり身体の負担となる。呼吸をするだけで適度な運動と等しい効果を得られることができるという訳だ。つまり、寝ている間も全集中の呼吸を行っていれば、筋肉の劣化は最小限に留めることができる。

 

 今の俺は未熟故に寝ている間も、という訳にはいかなかったが起きている間は基本的に浅い全集中の呼吸を常に行っていた。そのおかげで身体機能の低下は極限まで抑えられ、訓練によって態々筋肉を取り戻す必要性は比較的薄くなったのだろう。

 

「ではせっかくなので、この際今日中に完全な常中を実現しておきましょうか」

「はい。……はい?」

 

 さらりと雫さんは信じられないことをおっしゃった。

 

 今日中? 一週間じゃなく、今日中と言ったかこの人。……もしや俺の耳がまだ回復しきっておらず難聴になっているのかもしれない。

 

「大丈夫です。死ぬ気で頑張れば今日中に会得するのも不可能じゃないです」

「いや、そりゃそうでしょうけど……」

 

 どうやら難聴では無かったようだ。

 

 下地は出来ているのだから死に物狂いでやれば可能ではあるだろう。しかしやはり今日中に物にしろと言うのは無茶が過ぎる。

 

 ……だが、俺は彼女と「死に物狂いで鍛えろ」と約束を交わした身。これを違えるのは男じゃない。

 

「勿論、私も可能な限り手助けしますから。大船に乗った気持ちでいなさいな」

「……ん? あの、これから任務なのでは?」

「ええ。ですからちょっと助っ人を呼んできました。――――真白ちゃーん! 入っておいで~」

 

 雫さんの呼びかけに答えるように部屋の障子が開いた。

 

 その向こうに居たのは、隊服の上から真っ白な装束に身を包んだ……真っ白な髪と血の様な赤い目を持った女性。即ち、白子(アルビノ)。そんな希少存在の突然な登場に、俺も鉄穴森さん(お面で顔は見えないが)も驚きのあまりあんぐりと口を開ける。

 

「雫さん……用と言うのは、この子の事で?」

「ええ。今日だけでも構いませんから、死ぬほど扱き回してほしいのですよ」

「はぁ」

「あの雫さん、この人は……?」

 

 そんな俺の問いかけに答えたのは、雫さんでは無く白子の女性の方だった。彼女は一度俺を見据えると、小さく頭を下げながら自己紹介してくれる。

 

「初めまして。私の名は、明雪真白。雫さんの元継子で、今は雪柱を務めてる。……よろしくね、弟弟子君」

 

 ――――何から言えばいいのかさっぱりわからない。

 

 この場に柱が二人も居ることもそうだが、助っ人に同じ柱を持ってくるってどういう事だ。柱は多忙だってさっき俺が言ったばかりなのに。

 

「真白ちゃんは今武器の手入れの最中でして、暇そうなので呼んできたんですよ」

 

 なるほど、確かにそれなら納得だ。柱といえど武器が無ければ戦えない。それを今修理に出していると言う事ならば一時的に待機していても何らおかしくは無いだろう。

 

「でも、いいんですか? 折角の空いた時間を俺なんかに」

「どの道、白昼に外を出歩くのは難しいから」

「ああ……」

 

 白子……つまり先天性色素欠乏症を患っている者は紫外線を防ぐために体内に存在するメラニン色素が非常に少なく、従って常人と比べると紫外線に対する耐性が極めて低い。そのため何の対策も無しに日の下に出れば、たちまち肌が赤く焼けてしまうのだ。

 

 見た目こそ神秘的ではあるが、本人にとっては不便極まりない体だろう。

 

「それでは私はそろそろ出立しなければ。鉄穴森さん、刀を返していただけません?」

「えっ。も、もうちょっとだけ! 後五分だけ見せてください! 何でもしますから!!」

「だめです」

「アーーーーーーッ!!!」

 

 刀を没収された鉄穴森さんがまるで赤子と無理矢理引き離された母親の如く慟哭した。そこまで嫌かアンタ……。

 

「じゃあ二人とも、頑張って!」

 

 それだけを言い残して雫さんは残像も残さない程の速度でこの場から消えてしまった。これが噂の柱ワープ。

 

「ううっ……もっと見ていたかったのにぃ……」

「機会があれば、きっとまた見れますよ」

「しくしく……フンッ! こうしてはいられない! 私もいつかあのような刀を作るためにも、早く里に帰って己の腕を磨かねば!! では冨岡君、今度はもっと長く大切に扱ってくださいよ!! 言いましたからね!!」

 

 鉄穴森さんも後を追うように己の心を奮起させながら、すたこらさっさと部屋を出て行ってしまった。

 

 そうすると必然的に残ったのは俺と真白さんだけであり、互いに初対面なせいで何とも言えない微妙な空気が流れ始める。どうすればいいんだ、これは。

 

「……君は、この状況に不満は無いの?」

「……? 不満とは?」

「ううん。ただ……私は、この鬼殺隊ではあまり好かれるような立場じゃないから」

 

 不満と言われても、何に不満を感じろと言うのか。確かに本来ならば師事をすべき雫さんが不在という事はあるが、彼女には任務という大事な仕事を優先する必要がある。が、真白さんがそう言う事を言いたい訳では無さそうだ。

 

「どういう事でしょうか」

「……日光をまともに浴びられず、目が赤く、常人とかけ離れた容姿をしている。――――まるで鬼みたいだって、そう思わないかな」

「……はい?」

 

 確かに一部の要素を切り抜けば、些細な共通点はある。が、それは所謂こじつけや言いがかりというものだ。まさかそんな理由で俺が彼女に不満を持っているとでも思われたのだろうか。

 

 ……いや、きっとそう思わざるを得ない事があったのか。

 

「初めて会う新人の子とは、そういう誤解が生じることも珍しくなくてね。今だって、一部の隊員の中では『鬼柱』とか『雪女』なんて呼ばれてる。まあ、鬼殺隊は鬼憎しの理由で入隊した人が殆どだから、外見が鬼に似ている私が多少嫌われても仕方ないけど」

「……俺は、そんな理由で人を一方的に嫌ったりしません」

「うん。そう思ってくれるって事は、君はとても優しい子なんだね。雫さんの見込み通りだと、少しは信じても良さそうかな」

 

 儚げな笑顔を浮かべた真白さんはそこで言葉を切り、スッと立ち上がる。俺も後に続くために座布団に落とした腰を上げ始めた。

 

 そろそろ鍛錬を始めねばならない。限られた時間内で全力を尽くせねば、今日中に常中を習得するなど夢のまた夢なのだから。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 と、意気込んだまでは良かったのだが。

 

「……ぐふっ」

「あ」

 

 絶賛、俺は訓練場の床に潰れた蛙の様に転がっていた。周りにいる機能回復訓練中の隊員の視線が痛い。

 

 こんな無様を晒している理由は単純、超速の連撃にまともに対応することすらできず六発の攻撃全てが身体に打ち込まれたためだ。

 

 幸い当たる寸前に加減はされていたようで骨は折れず滅茶苦茶痛い程度で済んでいるが、もし真剣であったなら俺は今頃十数分割された愉快な死体になっていただろうと思うと心底ゾッとする。

 

「ごめんね。下の階級の子と稽古するなんて今まで無かったから、加減を間違えちゃったみたい」

「い、いえ、大丈夫です。ま、まだ行けます」

 

 恐らく寸止め以外は本気の速度だったのだろう。でなければ本気で観察していたのに木刀を振る手元すら見えなかった事に説明がつかない。そして打たれた感触からして恐らく六連撃。その初撃すら俺は捉えることができなかった。

 

 見た目こそ麗しい雪のような女性だが、その実力は間違いなく柱。舐めてかかったつもりは無いが、これは想像以上だ。

 

 しかし、これで折れるほど俺も軟では無い。痛む身体を摩りながらも俺は手落とした木刀を握り直して立ち上がった。周りが「マジかコイツ」というドン引きの視線を送ってくれているが、無視だ無視。

 

 さて、勘のいい者なら気づいているかもしれない。何故全集中・常中習得のためにこんな模擬戦を行っているのかと。呼吸の訓練なら座ってでもできるだろうに、とも。

 

 それは、実に簡潔な理由のためだ。

 

 

「座って呼吸の訓練しても、実戦でそれと同じことができるとは限らないよね?」

 

 

 ぐうの音も出なかった。いくら真面目に鍛錬しようが実戦で活かせなければそれは無駄な努力に他ならない。

 

 なのでこうして模擬戦の中で常中を実現させろと、実戦レベルの呼吸を戦いの中で常に継続させろという無茶振りをされ、今まさにその要求に応えようと俺は必死に食らいつこうとしている。

 

 まだ始まったばかりだ。この程度で諦めていては先が知れるというもの。

 

「じゃあ、少しだけ遅くするね」

「はい、お願いしま――――「【壱ノ型】」

 

 ぞくりと、身体が強張る。巡らせた思考によって身体へと即座に後退命令。その直後に神速の居合は放たれた。

 

「【雪花】」

 

 先程よりは幾分か遅い一撃目を辛うじて木刀で受け止める。後退しながらの防御によって衝撃は上手く流され、無事防御に成功――――かに思えたのだが。

 

「いぎっ――――!?!?」

 

 ――――不可視の一撃が左腕と右腿を打ち叩いた。

 

 突然の攻撃を防ぐことも避けることもできず、俺は空中で身体をきりもみ回転させながら床上を転がった。……今のは何だ。腕の振りは一撃分だけだった筈なのに……?

 

「呼吸、乱れてる。倒れても呼吸を止めちゃだめだよ」

「はっ、はい……!!」

 

 推測ではあるが、恐らくこの技は初撃を囮とした連撃技。一撃目を敢えて遅く放つことで次に放つ高速斬撃への反応を鈍らせる高等技だ。そして彼女が宣言通り普段より遅く技を放ったのならば、本気のコレは一体どれほどの早業になるのか。

 

「……もっと遅くする?」

「っ、いえ、大丈夫です! その、なんとか頑張ります!!」

「そう」

 

 もう一度立ち上がり、木刀を構える。

 

 彼女の扱う呼吸は、”雪の呼吸”。彼女が独自に生み出した固有のものであり、水と雷の複合系らしい。その神髄は、縦横無尽変幻自在な足さばきと超高速の居合連撃。立ち回り方は水、剣技は雷寄りと言った所か。

 

 雷を取り入れているからか当然その攻撃速度は尋常では無く、この通り攻撃を目視することすらできず一方的に叩きのめされてしまった。正直少し遅くなったところでどうこう出来るとは思えない。

 

 結論から言えば何処からどう考えても今の俺の敵う相手では無い……が、だからと言ってこんな序盤の序盤で諦める訳にはいかないだろう。

 

 まずは落ち着いて、呼吸。全集中の呼吸の効力を手足だけでなく、全身に行き渡らせろ。身体能力だけでなく動体視力も上げて、相手の全身を観察し、攻撃を予測しろ。呼吸も乱さず、規則正しく。

 

「ヒュゥゥゥゥ……」

「うん、その調子。じゃあ、行くね」

「!!」

 

 真白さんがまるで散歩でもするように俺へと近づいてきた。そして射程内に入った瞬間、抜刀。鋭くも速い閃光の一撃を受け止め、弾く。だが安心など出来ない。直ぐに次の攻撃を防げるよう心構えた。

 

 弾く、弾く、弾く。その度に一歩ずつ押し込まれていく、剣速もほんの少しずつ加速していく。それを認識して心臓が高鳴り始めるが、焦るなと心を落ち着かせる。

 

 挙動の一つ一つを観察しろ、目と身体をそれに合わせて慣らすんだ。決して不可能じゃない。

 

「ん……もう安定してきた。じゃあこの状態を十分くらい維持してみようか」

「っ…………!?!?」

 

 冗談だろうと叫びたかったが、生憎喋る余裕など既に奪われている。

 

 こっちは崖と崖の間を綱渡りしているくらいギリギリの心境だというのにこれを十分間も続けろという。そして勿論真白さんは本気だ。本気で「きっとお前ならできるだろう」と信じている。

 

 我が身には過分な期待すぎて非常に心苦しいが、それだけ信じてくれているならば結果はどうあれ最後まで全力で頑張らねば、男らしくない。

 

「ふっ、ぐ、ぉっ………!!!」

「その調子、その調子。でもせっかくの模擬戦なんだから、ちゃんとそっちからも反撃しないと」

「!?!?!?」

 

 ふざけんなこんちくしょう。怒涛の連撃をどうにか防御するだけで頭が破裂しそうだというのに、その上で反撃まで行えと。もしや煽りかこれ。

 

 気づけば周りの視線も同情じみたものに変わってきている。やめてくれ、そんな目で見ないでくれ。心が折れそうだ。

 

 いや、まだだ! 頑張れ義勇頑張れ! 俺は今まで(たぶん)よくやってきた!! 俺は(恐らく)できる奴だ!! そして今日も!! これからも!! 折れていても!! 俺が挫けることは(きっと)絶対に無い!!

 

「っ……!! っ、ぃ…………!!!」

 

 正しい呼吸を意識しろ。気合と根性任せの無理矢理な呼吸では無い、規則正しく自然体の呼吸を。全集中の呼吸をすることを当たり前だと思え。本当に正しい呼吸法ならば、身体を縛り付けようとしている疲労など生まれない。

 

 全身を制御しろ。自分の体を支配しきれ。あらゆる無駄を削ぎ落とせ。俺には、それが出来るはずだ。

 

(――――”先”を、見るんだ)

 

 どう動けば次に繋がるかを、視覚と聴覚を最大限まで駆使して把握する。相手の挙動から攻撃の軌道を読み、それに対して今の自分が出来る最適解の動きを繰り出す。そうすると今の今まで後ろに下がりっぱなしだった足が初めて、ピタリと止まった。

 

「……凄い、もう対応し始めてる。きっと君は、追い込まれれば追い込まれる程、爆発的に成長できるんだね」

 

 その後も木刀は何度も何度もぶつかり合い、木片を飛び散らせる。

 

 一秒が一分とも思える程引き伸ばされた世界の中で、俺は必死に耐え続けた。全方位から襲い掛かってくる攻撃を何度も無心で捌き続けて――――そしてついに、宣言通りの十分が経過した。

 

 

「――――【肆ノ型】」

 

 

 瞬間、一瞬生まれた安心をかき消すような宣告。

 

 ――――そうだ、彼女は「維持しろ」とは言ったが、それで訓練を終えるなどとは一言も言っていない。

 

 俺は微かな間でもそんな甘ったれた思考をした己を恨みながら、一瞬だけ止んだ剣戟の隙を縫うようにどっしりと正面に構える。これから繰り出される神速の乱舞に備えるために。

 

 

「【拾壱ノ型】――――」

 

 

 頭を回せ。身体を動かせ。全力で抗え。

 

 

 

「【銀世界(ぎんせかい)雪崩(なだれ)】」

 

「【凪】」

 

 

 

 技名の示す通りの雪崩の如き超連撃。興奮による脳内麻薬の分泌が無ければまともに視界に捉えることすら困難だろう連続攻撃を、俺は身体の反射反応を全力駆動させて対抗する。

 

 一撃目、受け流す。

 

 二撃目、弾く。

 

 三撃目、打ち上げる。

 

 四撃目、地面に落とす。

 

 五撃目、身体を捻りながら流す。

 

 六撃目、剣先を巻き取って上へ弾く。

 

 七撃目、脇腹に受ける。

 

 八撃目、左肩が打たれる。

 

 九撃目、右脹脛が叩かれる。

 

 十撃目、流すも頬を掠る。

 

 そして、十一撃目――――高速の打ち上げ攻撃に対して、俺は木刀を盾の様に正面から構えて真っ向から受け止めるも、抵抗空しくそのまま体ごと空へと弾き飛ばされてしまった。

 

 ――――だが、それこそが俺の狙いだった。

 

「!」

「【捌ノ型】――――ッ!!」

 

 強引に空中で体勢を整え、俺は木刀を大上段に振り上げた。繰り出すのは上から放つ強烈な一撃。

 

「【滝壷】!!」

 

 滝から流れ落ちる瀑布のような攻撃が真白さんの肩目がけて落とされた。相手は技を放った直後で隙を晒して回避は困難。

 

 ならば、これで――――!!

 

 

「お見事」

 

 

 小さな声。それが聞こえて、直後に両手から爆ぜる音と共に木刀が弾き飛ばされる。それだけでなく、頸と鳩尾に染み渡るような痛みが走って、俺は何が起こったのかすらわからないまま意識を失った。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「――――さん――――勇さん――――……義勇さん! 聞こえますか?」

「……しのぶ?」

 

 パチパチと、頬から伝わる軽い衝撃と共に目を開く。

 

 目の前にある、上から俺を見下ろしている顔は間違いなくしのぶのもの。はて、どうして彼女が此処にいるのだろうか。……いや、それより訓練はどうなった。俺は、確か。

 

「しのぶ、此処は……病室か?」

「はい、村田さんたちが運んできてくれたんですよ。それより、訓練中に気絶したって聞きましたけど、一体どんな無茶をやらかしたんですか」

「それは、まあ、色々と……」

 

 窓の外を見れば、もうすっかり夕方だ。どうやら俺は随分と長く気を失っていたらしい。

 

 なんてことだ。せっかく柱相手に鍛錬できる機会が訪れたというのに、そのほとんどをふいにしてしまった。不覚、未熟。なんという体たらく。穴があったら入りたい。

 

「――――起きたのね」

「えっ」

 

 そう思っていたら、予想外の人物の声が聞こえた。

 

 隣を見れば、なぜか真白さんが床の上で正座をしていた。さながら瞑想のような……いや、実際にしていたのだろう。鍛えるべき俺が気を失って暇を持て余してしまったから。

 

 そう思うと、とても申し訳ない気分になる。

 

「あの、すいません。俺が……」

「……倒れてからずっと見ていた。気絶中も全集中の呼吸を途切れさせなかった。戦闘中と睡眠中の呼吸の維持、ちゃんとできたね」

「え?」

「気絶させたのはわざとだよ。戦闘時の緊張状態を保ったまま意識を失わせて、無意識に呼吸を刷り込ませる必要があったから。常中が途切れたら叩き起こすつもりだったから、あまり気にしないで」

「え、えぇ……?」

 

 どうやら俺の気絶は事故ではなく故意によるものだったらしい。

 

 それは、彼女の期待外れにならなかった事を喜べばいいのか、あっさりと叩きのめされたことを悲しめばいいのか。……というか方法が少し強引過ぎやしないだろうか。

 

 しかし確かに彼女の言う通り、今の俺は意識せずとも全集中の呼吸をごく自然体で行っていた。無論戦闘時ほどの強さでこそないが、それでも寝てる間も行えるようになったのは大きな進展だ。

 

 この感覚をしっかりと忘れないよう記憶しなければ。

 

「これで稽古は終わりだね。うん、君との手合わせは思いの外楽しかったよ」

「こちらこそ、本当にお世話になりました」

「ふふっ……それじゃあ、もう私は行くね。……あ、これ。雫さんからあなた宛てに手紙」

 

 真白さんが袂から折りたたまれた紙を取り出して俺に手渡した。

 

 早速広げて中身を見れば、”常中を習得したならもう任務に復帰しても大丈夫。明日の朝九時に屋敷まで人を送るから、それまでちゃんと準備と挨拶を済ませておくように。”という文だけ書かれていた。

 

 ……人を送る? どういうことだ?

 

 手紙の内容の一部がよく理解出来なかったが、とりあえず真白さんに礼を言うのが先か。

 

「態々ありがとうございます、明雪さん」

「うん。……頑張って強くなってね、冨岡君。期待してるから」

 

 さすさす、と真白さんは俺の頭を何度か摩ってから部屋を後にした。

 

 ……まるで雪の様な不思議な女性だった。自然の絶景のように美しく、触れば融けてしまいそうな儚さを併せ持った人。それでいてあんなにも才に溢れているのだから、天は惜しげもなく一物も二物も彼女に与えたのだろう。

 

 ただ、美貌の代償として日の光をまともに浴びられない身体となってしまったのは、本人のためになっているとはとても思えないが。

 

「……義勇さんはああいう人が好みなんですか?」

「何だ、藪から棒に」

「いえ、その……ちょっとだけ気になって」

 

 突如しのぶが何の脈絡もなくスットコな事を言い出した。やはり多感なお年頃なのだから、もしかしたら男女の色恋に興味深々なのかもしれない。が、残念ながらその期待には応えられそうには無かった。

 

「綺麗な人だとは思うが、そのくらいだ。お前の思っているような感情は抱いていないさ」

「そ、そうですか……。じゃ、じゃあ義勇さんは他に気になる人とかは――――」

「それに俺は……誰かとそういう関係になるつもりは無いんだ」

「え……」

 

 子供から大人に成長して、同じ年ごろの女性と恋をして、結婚をして、子供を儲けて幸せに暮らす。当たり前の幸福。ありふれた幸せの姿。

 

 俺は、それを求めない。死ぬまで独り身を貫いて、鬼殺に身を置き続けてその果てに死ぬ。それは既に決めていたことだ。

 

 こんな不愛想な男を好きになる物好きなどいるとは思えないが、何にせよ俺は誰かとそういう関係を結ぶつもりは毛頭ない。

 

「俺は、俺たち鬼殺隊はいつ死んでもおかしくない。安易に誰かと恋仲になって、何かの不幸で帰らぬ人となり、愛した者を一人置いて行くなんて……そんな残酷な事は、俺はしたくない」

「義勇さん……」

 

 それに。……俺が死んだ時に、悲しむ人間は一人でも減らしたいから。

 

 何とも身勝手で、卑屈な理由だ。

 

 そのまま重苦しい沈黙が続いていると、不意に部屋の扉が開く音がした。顔を上げてみれば、顔をやつれさせた村田達がフラフラと気力を無くした様子で部屋に入ってきていた。

 

 機能回復訓練で相当しぼられた様だ。

 

「村田、吉岡、長倉、島本、野口。訓練はどうだった」

「あ、ああ……な、何とか全部熟せた……」

「苦しい……辛い……しんどい……」

「明日から任務だってさ……もうここに引きこもりたい……」

 

 どうやら全員訓練を一通り熟してきた様だ。その証拠に数日前まではほっそりとしていた身体にいくらか肉が戻ってきている。

 

 様子こそげっそりとしているが、これなら明日から任務に行ってもきっと大丈夫だろう。

 

「ちょっと! 鬼殺隊たるものこの程度で弱音を吐いてどうするんです!! そんな弱気では出る力も出ないんですから、嘘でも自分を鼓舞する言葉くらい言ったらどうです!?」

「ひぃっ!? と、冨岡! この子お前の彼女だろ!? 手綱くらいちゃんと握れよ!」

「なっ、かっかかかか彼っ「しのぶは彼女じゃない。(俺などとてもしのぶのような立派な子に釣り合うような男ではないのだからしのぶに対して)失礼なことを言うな」――――」

 

 あらぬ誤解を生みそうだったので馬鹿なことを言う村田にすぐさまきっぱりと否定の言を伝える。すると何故かしのぶがピクリと固まってしまった。

 

 そして何故か無言の笑顔で、額に青筋を立てながら俺をじっと見ている。

 

 ……なんだ?

 

「義勇さん」

「? なんだ、しの――――」

 

 

「この馬鹿ッ!!!」

 

 

 怒気の籠った声と共に俺の頬へと突き刺さるしのぶのストレート。抉り込むような一撃が叩き込まれた俺はぐるりと体を回転させられながらベッドから落とされた。なんで?

 

「この唐変木! 女タラシ! すけこまし! そんなムキになって否定すること無いじゃないですか!!」

「??????????」

 

 いや、ムキになったつもりは無いのだが。何故こんなに怒っているのかさっぱりわからない。

 

 もしかしたら、しのぶは俺なんかの変人の恋人だと思われていた事に自己嫌悪を覚えて腹が立っているのかもしれない。……ならば俺が取るべき行動はただ一つ。

 

「しのぶ」

「なんですか!?」

「俺は、しのぶはとても魅力的な女の子だと思うぞ」

「あ、ぅっ、え…………ッ~~~~~~~~~~~~~~~~!! もう知らないっ!!」

 

 俺はお前の事を優しくて心の芯が強い、素晴らしい人だと思っている。だからそう卑下せずに胸を張ってくれ。きっと素晴らしい殿方がお前の中の魅力に気づいてくれる。

 

 と……そういう意図を込めて言ったはずなのだが、しのぶは何故か顔を赤くしながら部屋を飛び出してしまった。

 

 よくわからないが、きっと人前で褒められたのが恥ずかしかったのだろう。年相応な可愛い反応に俺は思わず顔をムフフと綻ばせた。

 

「冨岡、お前さ。大人になったら背中に気を付けろよ」

「? 何の話だ?」

「うわぁ……ないわー。あれはないわー……」

「くそっ、顔も性格もイケメンの癖して鈍感とかふざけんなよお前……一つでもいいから寄越せチクショウ……!!」

「これで美人な師匠と姉弟子もついてるとか不公平過ぎる。俺たちも青春してぇ……」

 

 俺はこの五人が何を言おうとしているのかさっぱりわからなかった。うーむ、俺もまだまだ勉強不足ということか。円滑なコミュニケーションの実現はまだまだ先になりそうだ。

 

 しかし、一つ気になることがある。先程の雫さんからの手紙、”明日の朝九時に屋敷まで人を送る”とは一体どういう事だろうか。

 

 言葉から察して雫さん本人が来るわけでは無いのだろう。そして日が出ている間は外出不可能な真白さんも違う。そもそも普通の任務をこなすだけなのに何故人を寄越すのか。任せたい任務があるならば烏で連絡を送ればいいのに。もしかして病み上がりの弟子が心配で同伴者でも付けてくれるのだろうか。

 

 考えれば考える程疑問が尽きない。しかし、答えは明日判明する。ならば俺は言われた通りにやればいい。雫さんの事だ、きっと悪い様にはならない。

 

「……頑張らないとな」

 

 窓の外の夕陽を見ながら、俺はひとりごちる。

 

 もう、あのような無力感は味わいたくない。その一心で、俺は何も己の小さな手を握り込んだ。

 

 強くならねば。

 

 本当に守りたいものを、守り通すために。己の役割を、果たすために。

 

 

 




《独自技解説》

 【全集中・雪の呼吸】
 雪柱 明雪真白が独自に生み出した、水の呼吸と雷の呼吸を複合させた変幻自在の居合術。雷の呼吸と違い強い踏み込みを行わず、変化の加えやすい水の歩法によって一定の距離を保ち相手を翻弄しながら怒涛の居合連撃を打ち込むのが特徴。そのため技全てが連撃技となっている。
 日輪刀の色は銀色。

 【壱ノ型 雪花(せっか)
 超高速の三連撃。一撃目を敢えて遅く放つことで囮とし、次の二撃目、三撃目を本命の個所に叩き込む。

 【参ノ型 細雪(ささめゆき)六辺香(ろくへんこう)
 歩法によって相手の目を幻惑しながら正面六方向からの連撃を打ち込む。相手の視覚が優れていればいる程視覚が惑わされやすく、回避が困難となる。
 逆に言えば、視力に頼らない相手には効果が十全に発揮されないという欠点を持つ。

 【肆ノ型 銀世界(ぎんせかい)雪崩(なだれ)
 目にも留まらぬ速さの十一連撃による雪崩の如き高速連続斬撃。相手の防御や攻撃を速度と手数で真正面から削り潰すための技。
 速度を重視するあまり他の技と比べて攻撃の軌道が単調なため、血鬼術や肉体任せでない純粋な技巧で防御をする相手にはあまり効果を発揮しない。


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第拾玖話 灯火の様な男

 もぐもぐと口の中の米を咀嚼する。噛めば噛むほど甘味がにじみ出てきてとても旨い。

 

「えっ、俺たちも食べていいんですか!?」

「勿論よ! ほら、しっかり食べて元気を出して! おかわりもいいわよ!」

「うめ、うめ、うめ」

 

 現在、隊服を着込んで着実に任務へ向かう準備を終えた俺たちは朝食を摂っていた。ここ最近は味が薄めの病院食ばかり口にしていた反動か、俺と同室になっていた隊員たちは踊り狂いながら椀に盛られた白米を口の中にかき込んでゆく。

 

 いや、喜んでいる要因はもう一つあるか。そのもう一つとは他でもない、食事を渡しているのが鬼殺隊の中でも数少ない、そして間違いなく五指に入るだろう美少女、胡蝶カナエであるからだ。

 

 女っ気がほぼ皆無に近い鬼殺隊にとって、これほど貴重な施しもないだろう。

 

「しかしよかったのか? わざわざ此処まで来て、朝食まで用意してくれるなんて」

「大丈夫。溜まっていた任務は昨日のうちに消化したし、しのぶやカナヲの様子も見ておきたかったから。あ、もちろん義勇君の顔も見に来たのよ?」

「……ありがとう」

 

 俺は自分の隣でちょこんと座る少女……カナヲに視線を移す。

 

 先程からぐぅぐぅとお腹が鳴っているにもかかわらず、彼女の前にある盆に乗せられた朝食には全く手が付けられていない。ただじっと、目の前の食事を見つめるばかりである。

 

「カナヲ、ほら。箸を持って、食べるんだ」

「……………」

 

 カナヲは睡眠と何とか教え込んだトイレ以外は自主的に何かをしようとしない。それ自体は知っていたことだが、こうして直に接しているとその危うさが嫌でもわかってしまう。

 

 この子は言われないと腹が減っていてもご飯を食べないし、例え暴力を振るわれても抵抗どころか逃げようともしないだろう。心の傷によって、自己判断力というものがそのままごっそりと抜け落ちた状態だ。実に危うい。少しでも誰かが目を離せば何が起こるかわかったものでは無い。

 

 だが……俺にはこれから鬼殺隊としての任務と言う仕事がある。鬼との死闘にまだ隊員でもなければ十にも満たない子供を連れて行くなど論外なので、大怪我を負ったりなどの事態でもなければこれからカナヲと一緒に居られる時間はかなり限られてくる。

 

 幸いというか、しのぶが医学・薬学を勉強するためにこの屋敷にて長期間世話になるようなので、彼女にカナヲの世話を任せることが出来るのだが……自分が負うべき負担を押し付けているようで、やはり気は進まない。

 

「すまないな、カナエ。しのぶにこの子の世話を押し付ける形になってしまって」

「いいのよ。困った時はお互いさま、でしょう?」

「……重ね重ね、世話になる」

 

 本当に、胡蝶姉妹には頭が上がらない思いだ。

 

 壁に立てかけられた時計を見れば、そろそろ約束の時間が近づいてきた頃だ。俺は朝食の残りを急いでかき込み、路銀や非常食などの必要最低限の荷物の確認をし始める。鬼との戦いは何が起こるかわからないため、こういういざという時の備えこそ一番大事なのだ。

 

 そうして準備が完了し、来る人を待つために玄関を出る。さて、そろそろ時間の筈だが……。

 

「――――義勇!」

「! ……錆兎!」

 

 聞き親しんだ声がした。ハッと周りを見渡してみれば、道の向こうから見慣れた顔がこちらに向かって手を振っているではないか。あの宍色の髪、間違いなく錆兎だ。

 

 そして今気づいたが、もう一人分の人影が見える。

 

 毛先の赤く染まった黄色の髪という奇特な髪色、炎を模した羽織、途中から二つに割れた太眉に炎の様な赤い目を持つ人物。――――間違いなく煉獄家だと断言できる外見だった。

 

 と、いうことはもしや……。

 

「久しぶりだな義勇! まさか、お前"も"柱の継子になるとは思わなかったぞ」

「お前も、という事は……なれたんだな、炎柱の継子に」

「ああ。つい数日前にやっと弟子入りに成功してな……半日中頼み込んでも中々認めてくれないから、大変だったんだぞ?」

 

 近づいてきた錆兎とがっしりと手を握り合い互いの無事を確認した。二週間ぶりの再会の筈なのに、錆兎の変化は外見にこそ表れていないがかなりの差異を感じる。

 

 息の仕方や身のこなしから恐らく、錆兎も全集中・常中を習得したのだと感覚的に理解した。さすがは錆兎だ。俺と共に培った下地があるとはいえ、入隊二ヶ月少しでもう常中を完全にものにするとは。

 

 俺たちが互いの再会を喜び合っていると、少し遅れて煉獄家の人――――今代の炎柱と思しき人が到着した。一見して感じた印象は、灯火だろうか。杏寿郎のような激しい炎ではなく、ごく自然に揺らめいている仄かな火という言葉が脳裏をよぎった。

 

 一言で言うなら、剣の才を持って成長した千寿郎のような人だろうか。

 

「ははは……半日間も鱗滝君が数え切れないくらい頭を下げ続けるものだから、流石に無下にもできなくてね……」

「あなたは……」

「初めまして、冨岡義勇君で合ってるかな。俺は煉獄惣寿郎。未熟ながら、炎柱を務めている」

「どうも、初めまして。冨岡義勇です。……もしかして、雫さんの言っていた”人”って」

「ああ。間違いなく俺だ」

 

 炎柱、惣寿郎さんが手を差し伸べてきたので俺も手を出して握手を交わす。

 

 手を握り伝わる感触から、大まかに相手の実力を察してみるが――――なるほど、確かに間違いなく柱だ。纏う雰囲気こそ優男のものだが、その実力は俺が逆立ちしようが叶わないと確信する。

 

「それで、雫さんからの伝言は受けているよね。もう知っているとは思うけど、今日は俺と錆兎君と一緒に任務へ同伴してもらう予定で」

「え?」

「えっ?」

 

 上下に振っていた手が止まる。……どういう事だろうか。屋敷に人を送るとは聞いたが、炎柱の任務に同行しろなどとは一言も言われた覚えが無いのだが。

 

「……義勇、もしかして何も聞いてないのか?」

「ああ、いや。屋敷に人を送るからそれまで待て、とは言われたが」

「雫さん……また悪癖が出たか」

 

 何かを察したのか惣寿郎さんが顔を手で押さえながら呆れの混じった表情を見せる。悪癖、ということは。

 

「いやすまない。雫さんの継子である君の前で悪口を言うつもりは無いんだが……雫さんは手紙で連絡をするときに必要最低限の情報しか伝えない癖があってね。まあ、必要な情報はちゃんと伝えてはいるんだけど」

「なるほど」

 

 雫さんは口頭での会話は問題ないが、文通だと途端に駄目になるらしい。……今後も苦労しそうなので、肝に銘じておこう。

 

「しかし、雫さんはどうして炎柱様の任務に同行させたんでしょうか。柱との合同任務で経験を積ませるなら、雫さんに着いて行けば済む話だと思うのですが……」

 

 柱と共に行くのは、確かに俺たちの様な一般隊員にとっては貴重かつ大きな経験になるだろう。が、俺は水柱の継子だ。ならば水柱である自分の任務に連れて行けばいいのに、何故雫さんはわざわざ炎柱の惣寿郎さんに押し付けるような事をしたのだろうか。

 

 もしや、俺はまだまだ未熟だと遠慮されて……? いや、それなら炎柱とも行動させる訳がない。

 

「それも聞いてなかったのか……」

「やはり何か訳ありで?」

「ああ。恐らく雫さんは、今の君では自分が請け負っている任務にはまだ付いて行けないと判断したのだろう。彼女はここ最近、寝る間も惜しんで何日も道中の鬼を狩りながら関東中を走り回っているからね」

 

 それはまた随分な行動だ。休みも無く広大な関東区域を駆けずり回るとは、一体どんな任務ならそんな事をする必要があるのか。

 

 答えは、惣寿郎さんがすぐに教えてくれた。

 

「その任務とは一体?」

「……()()()()()、現下弦の壱の追跡。百年以上前から縄張りを転々と移しては、現れる際には一夜にして数百人前後の犠牲者を出す凶悪な鬼の捜索だ。雫さんはここ数年間、僅かな痕跡を頼りにその足取りを探っている」

「――――上、弦」

 

 その単語に俺は絶句するしかなかった。

 

 上弦。鬼舞辻の保有する鬼の中でも特に強力な六体。その顔触れは百年ほど前から変わらないらしいが、まさか現下弦の壱は元上弦だというのか。

 

 確かにあり得ない話ではない。元下弦である十二鬼月落ちもいくらか現存しているのだから、百年ほど前に入れ替わりの血戦で敗北し、下弦へと落とされた元上弦が居ても何らおかしくはないのだ。

 

 当然、その実力はただの下弦とは比べ物になる筈も無く……確かに、痣を発現させているとはいえ下弦の陸如きに殺されかけた俺ではその任務に着いて行ける訳がない。

 

 故に俺はそれ以上何も言えず、ただ自分の拳を握りしめる事しかできなかった。

 

「……そう悔しがらなくていい。冨岡君や錆兎君は最終選別を潜り抜けた立派な隊士だけれど、剣士としてはまだまだ未熟だ。どんな人間でも強くなるには時間が必要なんだ。焦らず、堅実に力を付ければいい。近道しようと危ない橋を渡ろうとして、そこから落ちない保証なんて何処にもないんだから」

「「はい!」」

 

 痣という代償有りの例外を除けば、人間の形を保ったまま突発的に強くなれる方法なんてありはしない。

 

 心底悔しいが、今の俺がすべきことは少しずつでも確実に己の刃を鍛えることだ。遥か未来にて待ちうける決戦、そしてその道中に立ちはだかるであろう数々の脅威を乗り越えるために。

 

 惣寿郎さんの励ましにしっかりとした返事で応えながら、俺は花屋敷の玄関へと振り向く。

 

「カナヲ、義勇君に挨拶しましょう? しのぶもほら!」

「……フン!」

「………………」

 

 ありがたいことに、胡蝶姉妹とカナヲが見送りに来てくれていた。しのぶは相変わらず不機嫌な顔だが、まあこれもしのぶらしいと言えばしのぶらしい。

 

「……しのぶ、怒ってるのか?」

「怒ってないです」

「その顔を見てその言葉を信じられる程俺も間抜けでは無いんだが」

「なんですか、乙女心を弄んだくせに白々しい顔をして! これだから義勇さんは!」

 

 なんだかよくわからないが俺はいつの間にか彼女の乙女心とやらを弄んでいたらしい。そんな記憶は全くないのだが……年頃の乙女は色々複雑なんだと自分を納得させた。

 

「はぁぁぁ……これ、どうぞ」

「へ?」

 

 しのぶは不機嫌そうな顔のまま、脇で抱えていた服のようなものを俺に差し出した。

 

 受け取って広げてみれば、これは……蔦子姉さんのお古を借りて着ていた小豆色の羽織ではないか。下弦の陸と戦った際に殆ど焼けてしまったので破り捨ててそのまま灰となってしまったはずだが、一体どうして。

 

「しのぶったら、義勇君のために態々町まで行って生地を買ってきて手作りしたのよ~。大切にしてあげてね?」

「姉さん! 余計な事言わない!」

「そうなのか」

 

 なるほど、どうやら完全に新しく仕立てたものらしい。しかもしのぶのお手製。蔦子姉さんの羽織が完全に焼失してしまったことは悲しいが、それでも俺なんかのためにしのぶがこれを作ってくれたのだと思うと、酷く嬉しくなる。俺も男という事か。

 

 大切にしなければ。俺は顔をほころばせながら早速羽織の袖に手を通した。体にピッタリ、良い仕上がりだ。

 

「ありがとう、しのぶ。大切に着る」

「……ちゃんと帰ってきてくださいよ。まだまだ言いたい事、沢山あるんですから」

「ああ、勿論だ」

「義勇君、気を付けて。……カナヲ?」

「……………………」

 

 カナヲは変わらず、何も言わずに服の裾を握るばかり。俺はそんなカナヲに苦笑しつつ、片膝を突いてその小さな体を優しく抱きしめた。

 

「……行ってくる。ちゃんと良い子でお留守番してるんだぞ」

「…………」

 

 返事は無い。ただ小さくこくりと、一度の頷きが返ってきた。……それで十分だ。

 

 俺は踵を返して、錆兎と惣寿郎さんの方へと歩き出す。名残惜しいが、何時までもこの屋敷に居るわけにはいかない。帰るのは、任務が終わってからか、大怪我してからだ。

 

 出来れば、前者の理由で戻ってきたいところだ。

 

 こうして俺は花屋敷へ別れを告げ、初めての柱との合同任務を行うことになった。

 

 この先に待ち受ける幾つもの苦難を知っていたら、一体俺はどんな顔になっていたのだろうか。

 

 どちらにせよ――――前へと進むのは、変わらない。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 窓の外に見える景色が高速で流れてゆく。ガタンゴトンと身体を微かに揺らす振動。少し遠くから響き渡る蒸気音が実に奥ゆかしい。

 

「おおお……本当にこんな巨大な乗り物が動くなんて! 汽車というのは凄いな義勇!」

「そうだな、錆兎」

「こらこら。他のお客さんの迷惑だからあまり大きな声を出しては駄目だぞ」

 

 もう予想はついているとは思うが、俺たちは今汽車に乗って移動していた。

 

 鍛えられた鬼殺隊員は本気で走れば馬並みの速度を出せるが、それを長時間維持できるかは別問題だ。柱ほどに鍛え上げられた者ならともかく、俺たちの様なひよっこは全力で移動できても精々一時間が限界だろう。とても柱と足並みを揃えられるとは思えない。

 

 なので惣寿郎さんは汽車での移動を選んだ。この文明時代、使える物は使わないと損だろう。余計な体力を使わず一纏めに効率よく長距離を移動できるのなら、これを使わない手立てはない。

 

「ありがとうございます、惣寿郎さん。切符だけでなく弁当まで買ってもらって。高かったでしょうに」

「いや、いいんだ。俺は私生活にあまりお金を使わないから、貯金が溜まっていくばかりで。こういう時に使わないと何時までも溜め込んでしまいそうだ」

 

 惣寿郎さんは切符代だけでなく道中で食べる弁当まで買ってくれた。それも握り飯のような素朴なものではなく幕の内弁当。そのお値段十二銭――――現代換算およそ二千円以上という高級弁当である。

 

 高価な分中身も当然豪華仕様。白米は当然として天ぷらやかまぼこ、卵焼きに魚焼き……と実に多彩な色どりで舌を飽きさせてくれないだろう。

 

 そんな物をポンと提供できる柱の収入には実に感心するばかりだ。給金無制限は伊達ではない。

 

 とはいえ、惣寿郎さんの口ぶりからして彼の場合は最低限の給金で留めているようだが。

 

「さて、移動の合間に任務について話しておこうかと思う。鱗滝君にもまだ任務の詳細は話していなかったからね」

「!」

 

 そういえば任務の内容についてまだ何も知らなかったと今更気づいた。これを聞かねば始まらないと、俺と錆兎は自分の席に着いて惣寿郎さんの話を聞き逃さないように耳を澄ます。

 

「まず今回の目的地は八丈島(はちじょうじま)と呼ばれる伊豆諸島の島の一つだ。つい数十年前まで流刑地とされていた場所で、今は一応観光地とされている。その島に向かうために俺たちは東京を経由して横浜港へと向かうこの列車に乗った訳さ」

「八丈島……? そんな陸地から離れた場所に鬼が?」

()()()()()()()()()、だよ」

 

 そう、陸地から離れているからこそ、人の出入りが限定されているからこそその場所は鬼にとっては絶好の餌場となりうる。

 

 脱出手段の限られた場所でものを言うのは絶対の強者。即ち、ただの人ではほぼ太刀打ちできない鬼こそがこういった隔絶した環境でこそ容易く頂点に君臨できるのだ。

 

 しかしこうやって鬼殺隊へと情報が流れてきたと言う事は、その鬼はついに情報統制をしくじったと言う事だろう。

 

「つい一週間前、島から脱出してきたらしい一人の男性を発見した。彼曰く、『あの島の山には蛇のような女が住みついている。大蛇を手繰り、怪力を持ち、一部の人間が庇護の対価に餌として百年以上生贄を捧げ続けている』と。これは、実に由々しき事態だ」

 

 惣寿郎さんが語る内容は想像以上に悲惨なものであった。

 

 鬼が人の目から隠れながら楽に食事にあり付けるために一つのコミュニティを丸ごと乗っ取っての百年以上の統治。食糧として飼いならすためにある程度の秩序は維持されているだろうが、恐らくそれは普通とはかけ離れたものであることは想像に難くない。

 

「その男性は何らかの血鬼術によって毒を受けていて、手足が動かない程に弱っていた。幸い彼の命は助かったが、この事から相手は毒に関する血鬼術を扱えることは確定した。それに最低でも百年以上生きてきた鬼だ。数字を持っているかは不明だけど、少なくとも下弦並みだと想定するべきだろうね」

 

 鬼は人を食えば食うほど強くなれる。ある程度の限度こそ存在しているが、それはあくまでも()()()()()()()()()()()()()()()というだけだ。時間をかけて大量の人間を食ってきたのならば……惣寿郎さんの言う通り相手は十二鬼月並み、最悪準上弦並みである事も想定しなければならないだろう。

 

 やはり柱が請け負う任務。一筋縄ではいかなさそうだ。

 

「それで師匠、俺たちはそこで何をすれば?」

「君たちは鬼との戦闘に巻き込まれそうな島民の保護を最優先としてほしい。無論、自分の命も蔑ろにしない様にね。そして万が一俺がやられたら、島民を可能な限り連れて撤退するんだ」

「それは……」

 

 もし炎柱が倒された場合、その鬼に今の俺たちが二人で掛かっても倒せるかは非常に怪しい――――いや、確実に敵わない。俺たちが二人がかりで襲い掛かろうが、惣寿郎さんに膝を突かせる光景すら想像できないのだから。

 

 故に、最高戦力が倒された場合に一般人を連れて全力で撤退するというのは決して間違った判断ではない。

 

 相手が俺たちをみすみす逃してくれるとはとても思えないが。

 

「……惣寿郎さん。もし島民から攻撃を受けた場合は、どうしますか?」

「ああ、先程の”一部の人間”の事だね」

 

 情報が正しければあの島は一部のみとはいえかなりの長期間鬼による支配が続いている。本土から離れた孤島とはいえ今の今まで不審な情報を全て隠し通すなど、鬼一人で出来るような所業の筈がない。確実に島民の中に複数人の協力者が存在していると推測した方がいい。最悪、島民全てが敵という可能性もある。

 

 それに強者の庇護というのは想像以上に人の心を揺さぶる物だ。定期的に生贄を差し出す必要があるとはいえ、人を越えた怪物の庇護下に居られるなど、力を持たない者にとってはこれ以上無い安心感を味わえるはずだ。それを利用すれば、人の心の懐柔などそう難しい事でもないだろう。

 

 無論、そんな理由で生贄などという行為が正当化されていいはずがない。しかし、彼らの未来は食われるか、協力するかの二つ。力の無い者に与えられた選択肢はたったこれだけだ。

 

 決して、一方的に責めることなど出来まい。

 

「そんな、自分を食うかもしれない鬼に協力するなど……信じられん」

「だけどあり得ない話ではない。流石に百年以上の君臨に前例はないけど、今まで鬼による小規模な集団の支配の例が無かったわけじゃないんだ。……もし攻撃を受けた場合は、なるべく気絶させる程度に留めてくれ。相手が鬼に協力していようが……人を殺すことは、いけないことだからね」

「「はい」」

 

 鬼殺隊は鬼を殺す組織だ。決して人を殺すための集団では無い。例えその人間がどれだけ意地汚くて、狡賢くて、卑怯な奴だろうと。鬼から人を守るために剣を取ったのに、その剣で人を殺すなど本末転倒に他ならないだろう。

 

「さて、これで任務についての話は終わりだ。目的地に着くまでたっぷりと英気を養ってほしい。戦場で腹が減っているせいで力が出ないなんて、笑い話にもならないからね」

 

 重苦しい空気を解く様に、惣寿郎さんは優し気な笑顔を浮かべてみせた。やはりというか、顔のパーツはほぼ一致しているのに、その印象は杏寿郎とも槇寿郎さんとも大分違う。

 

 窓の外を見てみれば、まだまだ目的地までは遠い。あと半刻以上はかかりそうだ。なので、暇つぶしがてらに俺は惣寿郎さんへと幾つか質問をしてみることにした。

 

「あの、炎柱様」

「惣寿郎で構わないよ」

「あ、はい。惣寿郎さんは、杏寿郎の叔父と聞きました」

「君も杏寿郎の知り合いだったのか? そうか、甥の友人が増えてくれるのは叔父として嬉しい限りだ。ああ、兄上……杏寿郎たちの父はどんな様子だ? やはり酒ばかり飲んで体を悪くしてないだろうか」

「ええと……いつか体を壊しそうではある、とだけ」

「……そうか」

 

 やはり惣寿郎さんは杏寿郎らの叔父、つまり槇寿郎さんの兄弟で間違いないらしい。しかし、今一番聞きたいことはそれではない。

 

「それでその、槇寿郎さん……兄とは随分疎遠になっているように感じますが」

「あぁ……。そう……だね、何と言ったらいいか……。俺としては、別に兄上や杏寿郎たちに悪感情を抱いている訳では無いんだけどね。……実家と距離を取ってから、もう十年以上経つ。偶に顔見せはしているけどね、今更どんな顔をして家の中に戻ればいいのか、わからないんだ」

「十年も……ですが、ご兄弟なのでしょう? なのにこんな他人の様な交流なんて」

「心配してくれてありがとう。けど……兄上は今更、俺と共に暮らしたいとは思っていないだろう。だから……もういいんだ」

「師匠……」

 

 聞けば聞くほど、煉獄家の複雑な家庭事情が鮮明になって見えてくる。これはきっと、俺たちの様な部外者が割って入っていい問題ではないのだろう。だが、惣寿郎さんのもう何もかも諦めたような顔を見ていると、胸が引き締まるような辛い気持ちになってくる。

 

 何とかしてあげたい。だが、どうすればいいのか。妻を亡くし、多くの部下を己の失態で死なせて、完全に意気消沈してしまった槇寿郎さんの炎をもう一度灯すには。

 

「すまない、暗い話になってしまった。任務前なのに気を沈ませるのはいただけないな。此処は一つ、皆でそれぞれ面白い話の一つでも披露していくのはどうだろう?」

「面白い話? ……参ったな、俺が思いつくのは義勇が狭霧山で修行中に野良犬の尻尾を踏んで追いかけ回された挙句尻を噛まれたことぐらいしかないんですが」

「……ぷっ」

「……なら俺もとっておきの話を一つ。狭霧山で修行中の話ですが、実は錆兎は寝ぼけて妹弟子の沐浴を覗き見したことが――――」

「おいちょっと待て義勇! それ誰から聞いた!? 真菰か? 真菰だな!?」

「ああ。いざという時のために弱みを握っておけ、と」

「……ふっ、ふふははは!」

 

 錆兎が他人に知られたくない嫌な思い出話を持ち出したので、俺も秘蔵のものを取り出して錆兎にぶつけてやった。正直あれは本当に嫌な思い出だ。いや、尻尾を踏んづけてしまった俺が全面的に悪いのだけれど。

 

 しかし俺たちのやり取りは暗い表情だった惣寿郎さんに笑顔を浮かべさせるには十分だったらしい。ならこんな思い出話も掘り出した甲斐があったという物だ。

 

 ガタンゴトンと電車が揺れる。

 

 任務終わりに自分がどんな姿になるのかはわからない。だが、俺の帰りを待っている人がいる。ならば死ぬまで生きようと足掻こう。

 

 それを胸の中で密かに誓いながら、俺は窓の外の曇り空を眺めた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 大昔から流刑地として利用されてきた八丈島であるが、今は既にその用途には使われておらず観光地となっている。

 

 観光地と言っても見る物は豊かな自然と牧場、薩摩芋とそれから作る焼酎があるくらいか。正直余程の物好きでもなければ態々足を運ぼうとは思わない島だろう。旅行が出来る程裕福な身ならば、まず京都や大阪などに行く。

 

 それでも本土とは交流は行っており、島からは薩摩芋や酒、黄八丈などの特産品を輸出するための、そして食糧や生活必需品などを島に運ぶために定期便が一応存在している。

 

 今回俺たちはそれに乗せてもらい、三宅島を経由してのおよそ半日ほどの船旅をすることになった。

 

 横浜港から出発したのがだいたい昼頃。目的地に到着する頃にはもう日が暮れて夜になっている頃か。碌な情報も無く夜間行動するというのは少し気が引けるが、昼間では確実に姿を隠しているであろう鬼が尻尾を出す可能性は極めて低い故に仕方のないことだ。

 

 それに何よりこちらには柱という切り札(ジョーカー)があるのだ。相手が上弦でもなければまず負けは無い。

 

 戦力的な不足が無いならば、なるべく騒ぎになる前に迅速に処理するのが一番だろう。下手に騒ぎが大きくなると島民全体が俺たちに敵対する可能性もあるのだから。

 

「――――しっかしお前さんたち、あんな島に態々足を運ぶなんざ随分と酔狂な事で」

「ええ……あの島に少し用事がありまして」

 

 訝し気な声を上げるのは今俺たちが乗っている船の持ち主だった。俺たちが中継地点として寄った三宅島で八丈島へ向かう船を探していると、丁度この人が島へと食料品を運ぼうとしていたのだ。

 

 それを呼び留め、俺たちは渋い顔をされつつも代金と引き換えに船に乗せてもらえることになった。傍から見れば俺たちは黒ずくめの怪しい集団に他ならないというのにこうしてあっさりと乗せてもらえるとは、運がいい。

 

「言っとくが、今あの島に行っても良いことなんざねぇぞ。毎年神隠しで何人も行方不明になっちまうし……噂じゃあ妖怪が住んでるなんて言われてんだ」

「妖怪、ですか」

「ああ。そんな噂を聞いてあの島に行ったきり帰ってこなくなる阿呆が増えてらぁ。何の用事かは知らんが、アンタらも精々気を付けるこった」

 

 やはり不審な事が起こっている噂程度なら島の周辺では蔓延しているのか。ただ死体が出てこないから神隠しやら妖怪やらとあやふやな情報になっているようだが、曖昧だからこそその真相が気になって飛び込んでしまう。好奇心猫を殺すとはまさにこの事だろう。

 

 これ以上不用心な犠牲者が増える前に何としても鬼を仕留めねば。

 

「………………ふむ」

「惣寿郎さん、どうかしましたか」

「いや、少し雲行きが怪しくてね。直ぐに出発してしまったのは、早計だったかもしれない」

 

 言われて空を見上げれば、昼見上げた時よりも更に分厚い雲が空を覆っている。確かにこれは天気が荒れそうな予感がする。

 

 船もまだ漕ぎ出して二時間ほど。距離はまだまだ半分以上残っているだろう。これは、一度戻って立て直した方が良さそうか……?

 

「……嫌な風がする」

「錆兎?」

「師匠、風が荒れそうです。一旦戻りましょう」

 

 突如錆兎の目がきつく細まった。物事の流れを直感的に読み取ることに長けた彼の言う事に俺は猛烈に嫌な予感を抱いた。こういう時の錆兎の勘が外れたことは少ない。

 

「わかった、そうしよう。――――すいません船長さん! 海が荒れそうなので一度戻った方が良いと思うのですが!」

「あん? ……あー、確かにこりゃまずいな。あい承知した! テメェら、島に戻るぞ! 舵を切れ!」

 

 船長の方も言われてやっと空の様子がおかしいことに気付いたのだろう。惣寿郎さんの言葉を素早く飲み込むと船長は船員たちに指示を出して弁才船を反転させた。

 

 此処まで来て引き返すのは残念だが、焦った結果船が沈んでは目も当てられない。急がば回れ、だ。

 

「カァー! カァー! 義勇! 義勇! 風ガ強イゾ!」

「カァァァァーッ! 助ケテ! カァァァァ!?」

「黒衣!」

「門左衛門!」

 

 先に偵察に行かせていた鎹烏の黒衣が錆兎の烏と共に戻ってきた。あちらも風が荒れだしている事に気づいて引き返してきたのだ。

 

 強くなっていく風で飛ばされ逸れない様に、俺はこちらに向かってくる黒衣の体を受け止め羽織の中へと入れた。錆兎も同様に羽織の中へと烏をしまい込む。

 

 まだ鬼どころか目的地にすら到着していないのに、前途多難だ。なんて幸先の悪い。

 

 無事に島まで戻れるといいのだが。

 

 

 そう思った矢先に――――ガコン、と船が大きく揺れる。

 

 

「なっ、なんだっ!?」

「波はそんなに大きくなっていないはず……?」

 

 風が強いとはいえまだまだ波は穏やかな方だ。ならば、何かが船にぶつかったのかもしれない。

 

 何が起こったのか確かめるべく、俺は船の横から海を覗き込んで……

 

 

 目が、合う。

 

 

「………………!!!!」

 

 瞬間、水しぶきを上げながら()()は海上へと姿を現した。

 

 人を軽く丸呑みにできそうなほど巨大な蛇が。

 

「な……」

「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃ!?」

 

 常識外の生物が突如出現したことで俺と錆兎、惣寿郎さん以外の者がその場で腰を抜かしてしまう。かくいう至近距離で見上げている俺も茫然とその蛇を見つめるしかできなかった。

 

「義勇! しっかりしろ!」

「冨岡君! 受け取れ!!」

「っ!」

 

 そんな俺に惣寿郎さんが木箱の中にしまっていた刀を投げ寄越した。錆兎の声ですぐに意識を取り戻した俺はそれを掴み取り、即座に抜刀。殺意に溢れた眼で俺たちを睨んでくる大蛇と相対する。

 

 現状を言い表すなら、まさに蛇に睨まれた蛙の如し。まるで時が止まった様に全員がその場でピタリとも動かない。

 

 そしてその静止した空間を真っ先に破ったのは、大蛇だった。

 

 

「シャァァァァアアアアアアアアアアァ――――――ッッ!!」

 

 

 怒りの様な咆哮を上げながら大蛇が船上にいる俺たちに向かって飛びかかってきた。俺は横に跳んでその飛びかかりを回避。大蛇は甲板を食い破りながら船を横切る。

 

「――――炎の呼吸、【伍ノ型】」

 

 隙を見せた大蛇に真っ先に反応したのは惣寿郎さん。木張りの床を踏み砕くほどの踏み込みで大蛇の胴体へと近づき、大きなうねりを加えた強烈な一撃を振り下ろした。

 

「【炎虎】」

 

 炎の虎が大蛇の体をあっさりと食い千切った。蛇の強靭な筋肉などものともせず真っ二つに断ち斬ってみせたその攻撃に思わず惚れ惚れとする。

 

 これが柱。鬼殺隊の誇る百連練磨の最高戦力。

 

 その光景に息を呑みながら、俺は身体を斬られた大蛇の残骸が灰と化していくことに気が付いた。やはりこの大蛇は血鬼術によって生み出された物。あの島を支配する鬼の先兵だ。

 

 それがこうして俺たちを襲ってきたということは……まさか、もう気づかれたのか。

 

「船長さん、急いで船を戻らせてください! これ以上ここに留まるのは危険だ!」

「あ、あんたら、何で刀なんて持って……いやそれよりさっきのでっかい蛇は一体なんなんだ!?」

「説明は後でいくらでもします。早くこの場から――――くっ!?」

 

 またもや船が大きく揺れた。そして今度はすぐにその原因が顔を見せる。だが一つだけ先程と違うところがあった。

 

 それは、数。

 

 一匹だけだった筈の大蛇は、十数匹以上という物量を以てこの船を囲い込んでいた。

 

「…………嘘だろ」

 

 あまりの光景に錆兎がぼつりとそう漏らした。その言葉がこの場にいる全員の総意だった。

 

 なんの悪夢だ、これは。

 

 駄目押しの様に降り注ぐ大量の雨。そして波も強風によって荒れ出した。まるで世界の悪意が形となったような惨状に俺は歯噛みするしかできない。

 

「シャァァァァアアアアアアアアアア!!!」

 

 一番船に近かった大蛇が動き出し、それを合図に大蛇たちが行動を開始した。まずい、攻撃が回避できても船を破壊されれば俺たちは――――

 

「義勇! 後ろだ!」

「なっ――――」

 

 正面から飛びかかってきた大蛇の攻撃を避けた直後、錆兎の声を頼りに振り返る。だがその対応はもう遅すぎた。

 

「が―――――――ッ!?」

 

 大蛇が暴れた際に弾いてしまったのだろうか、突然背後から水桶が飛んできて、それが俺の頭へと直撃してしまう。殺気の無い完全な事故のために反応ができなかった。

 

 意識が飛びそうになる。それでも何とか気力で堪えようとするも――――真正面に、今にも振り下ろされそうな大蛇の尻尾が現れた。

 

 ああ、畜生めが。

 

 

「冨岡君――――!?」

「義勇――――ッ!!!」

 

 

 尻尾が鞭のようにしなり、俺の体を軽々と船上から弾き出した。

 

 身体と共に意識が海へと沈む前に最後に見えたのは、海へと飛び込もうとする錆兎の姿だった。

 

 

 

 




今回のパーティには柱がいるぞ!きっと今回の任務は楽勝だな!(超楽観)



そしてこのザマである(諸行無常)


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第弐拾話 清算の時

 頭が痛い。何がどうなっている。

 

「――――勇――――起き――――」

 

 確か俺は、八丈島に船で向かっていて。途中で謎の大蛇の群れに襲われて、それで。

 

「おい義――――! 起きろ、義勇!!」

「ッ!!」

 

 気絶する直前の切迫した状況を思い出し、俺は身体を跳ね起こした。すぐに周囲を確認して現状の確認をして……すぐに、此処がどこかの建物の中であることに気付く。

 

 随分と豪奢な屋敷だ。だが一つだけ違和感があるとすれば、俺と錆兎の服が隊服から真っ白な襦袢に変わっているのと両手足に大きな木製の手枷が付いている事。そして太い木製の柵が牢の様に部屋の四方を囲んでいる事だ。

 

「ここは、一体」

「わからん。俺も先程起きたばかりなんだ。海に落ちたお前を助けるために海に飛び込んで、何とか荒れ出した潮の流れに乗って大蛇の群れから逃げ切ったことは覚えているが……その後の記憶がすっぱり無くなっている。なんとか生き残れたのは確かみたいだけどな」

「……すまん、俺のせいで」

 

 あの時ちゃんと周囲に気を配っておけば、後ろから飛んできた物体など十分避けられたはずだった。それができなかったのは大蛇の群れという衝撃的な光景のあまり身近なものへの注意が散漫になっていたせいだ。おかげで錆兎まで巻き込んでしまった。

 

 何という失態。結果的にはこうして運よく生き残れたから良かったものの、少し間違えれば二人とも海の藻屑と成り果てていたかもしれなかった。

 

 それにどうもこの様子では惣寿郎さんとは逸れてしまったようだ。まさか最初の一歩から一番強力な札を失うことになるとは……。

 

「義勇。もし俺がお前と同じように海に落ちたら、お前はどうする?」

「無論、助けに行くに決まっている」

「だったらそう深く気に病むな。まさか、俺だけお前を助けるなと言うつもりか?」

「それは、その……」

 

 錆兎の言う通り俺は自分の身の安全をあまり重視していない傾向がある。自覚はあるし……きっと今後もそれが変わることは無いだろう。俺にとっては身近な人の命こそが第一で、自分がいくら傷つこうがどうだっていい。

 

 周りの人が幸せそうに笑ってくれるのならば、それだけでいいんだ。それが実現できるのならば、俺の命など……。

 

「連れが起きたのか。意外と早かったな」

「!?」

 

 突如聞き覚えの無い声が聞こえた。予想だにしていない第三者の声に焦って辺りを見回してみれば、牢の隅っこに蹲るように足を抱えて座っている男か女かよくわからない、長い髪を後ろで纏めている子供の姿が。

 

 その子供は世にも珍しい、左目が青緑色で右目が黄色の虹彩異色症(オッドアイ)だった。いや、それよりも一番目につくのは――――両頬にくっきりと刻まれた、刃物で無理矢理裂いたような惨い傷跡。

 

 はて、どこかで見たような……?

 

「君は……?」

「ああ、義勇。どうやらこの子は俺たちと同じように此処に閉じ込められているみたいなんだ。名前は……」

「…………伊黒(いぐろ)。伊黒、小芭内(おばない)だ」

「……………………は?」

 

 突然すぎる邂逅に、俺の口から出たのはそんな間抜けな声。

 

 伊黒小芭内。その名は間違いなく、将来鬼殺隊の柱の一人である”蛇柱”の名であるはずだ。言われてみれば確かに部分部分の身体的特徴が一致している。頬の傷も、見られたくなくて包帯で隠していたとなれば辻褄は合う。

 

 俺の知識は黒死牟戦で止まっている。故にそれまで全く明かされなかった彼の身の内の話は一切知らなかったが……まさかこんな所で出会うなんて。どんな確率だ。

 

「僕の名が、どうかしたのか」

「ああ、いや。なんでもない。ただ頭を打ったから少し眩暈がしただけだ」

「大丈夫か義勇。一応俺の服を千切って巻いてはいるが……」

 

 頭に触れると何かの布の感触がする。錆兎を見れば彼の着ている襦袢の一部分が無くなっていたので、彼は態々服を千切ってまで俺を手当てしてくれたらしい。感謝の言葉も無い。

 

 しかし俺たちには鬼殺隊から支給された応急手当の道具一式があるはず。何故それを使わないのだろうか、と思いながら俺は一度身体を弄ってみるが……なるほど、使えないわけだ。

 

「錆兎、俺たちの刀は」

「何とか回収して身体に括りつけていたんだが、目覚めた時には既になかった。恐らくこの場所に連れてこられた時に持ち物と一緒に没収されたんだろうな」

「そうか……」

 

 刀さえあれば手枷や柵など切断してすぐに脱出できるのだが、やはりそう簡単には行かない様だ。

 

「! そうだ、黒衣たちは!?」

「……すまん、そこまでは」

「……そうか」

 

 どうやら鎹烏たちとは逸れてしまった様だ。海上で逸れたのか地上で逸れたのかはまだわからないが、とにかく彼らの無事を信じるしかできないようだ。

 

 例え烏であっても一つの命だし、俺たち鬼殺隊に取って無くてはならない相棒的存在だ。どうか無事でいてくれれば喜ばしいが……。

 

「……あの」

「あ、すまん。こっちだけで話し込んでしまって。自己紹介が遅れたな。俺は鱗滝錆兎だ」

「冨岡義勇」

「それで伊黒、色々と聞きたいことがあるんだが……」

 

 蚊帳の外に置かれてしまったのが気まずい様子の伊黒の傍に寄りながら、俺たちは早速彼から可能な限りの情報を得ようと試みる。しかし表情があまり乏しくない。喋りたくない、という訳では無さそうだ。

 

「……僕は、生まれてこの方、この座敷牢から外に出たことが無い。いや、一度だけ出たことはあるけど……あまり期待しないでくれ」

「何? それは、一体どういう……」

「……………」

 

 その言葉に俺と錆兎は目に皺を寄せて険しい表情になった。生まれてから一度も外に出たことが無い? それではまるで飼い殺しではないか。……いや、まさか、その通りなのか?

 

「伊黒。もし、もしの話だが……人からかけ離れた姿の異形の者を、見たことはないか?」

「っ……!」

 

 それの質問を聞いた途端、伊黒の表情が変わった。やはり、嫌な予想が的中したようだ。

 

 彼は恐らく、生贄。何らかの理由によってこの場所に監禁され、鬼に差し出す餌として育てられた。一体誰の仕業かはわからないが、胸糞悪いことをしてくれる。

 

「と言う事は、此処は八丈島で間違いなさそうだな」

「潮に流されて辿り着くとは……運が良いのか悪いのか」

 

 悪運があったのは確かだ。ただ一つしくじった点は俺たち二人とも一番重要な装備である日輪刀を奪われてしまったという事だが。それがなければいくら俺たちが手を尽くそうが鬼を殺すことは不可能だ。

 

 何とか、取り戻すための手立てを考えなければ。

 

「あら、もう起きたんですかぁ」

 

 部屋の襖が開く音がして反射的に振り返る。そこには食事を乗せた盆を持つ女性が佇んでいた。それが一人や二人なら、俺は特に不思議に思わなかっただろう。

 

 しかしそれが十人二十人なら話は違ってくる。何故か全員が、どう考えても二人三人では食しきれない程の大量の食事を部屋に運び込んできたではないか。

 

 一体、何のつもりだ。

 

「大丈夫ですよぉ。お腹が空きましたよね? 夕飯を持ってきましたから、たんと召し上がってくださいねぇ」

「……あの、貴方たちは、一体」

「何も心配しないでいいですから。悪い様にはしませんとも。ええ、ただ一生、私たちの種馬になってもらうだけですからねぇ」

「――――――――――」

 

 今まで生きてきてこれほどに女性の笑顔に対して生理的嫌悪を覚えたことがあっただろうか。

 

 固まっている俺たちを他所に、座敷牢を開いて食事を運び込む女性たち。全員が等しく笑顔で、気味が悪いくらいの猫なで声だ。平時ならば特に思うことなどないだろうに、見ているだけで言い知れぬ気持ち悪さが肌に纏わりつく。

 

 事実、彼女らの口から出た言葉が常識を疑うほどのとんでもないものであった。種馬などと、何を言っているんだこいつ等は。

 

「なにを、いって」

「ふふふっ……一杯食べて体力をつけないと、後が大変ですよ?」

「ひっ…………」

 

 恐怖。

 

 身体能力では圧倒的にこちらが勝っているだろうに、俺の中では未知の生物に対峙しているような形容しがたき恐怖が渦巻いていた。笑っているはずの瞳の中で垣間見える薄気味悪い違和感。高速で思考を巡らせ、俺は本能的に答えにたどり着いてしまった。

 

 こいつら……俺たちを人間とすら認識していない。ただ体のいい家畜か何かだと思っている。どういう生活をしていたらこんな精神が構築されるんだ。

 

 食事を置くだけおいて、女性たちは最後までこちらに笑顔を向けつつ退室していった。襖が閉じて気持ち悪い視線がようやく途切れたことで、俺たちもようやく肺に溜まった息を深く吐いた。

 

 女性と言うのは、こんなにも化けるものなのか。なんと恐ろしい。

 

「義勇……これは、想像以上にマズい状況だぞ」

「ああ……」

 

 何が何でもここから脱出しなければ。でなければ、俺たちは越えたくもない一線を無理矢理越えさせられてしまうだろう。

 

 それは絶対に嫌だ。自分の貞操くらい自力で守れずに男を名乗れるか。

 

 少なくともあの女たちに初物を差し出すのは死んでも御免だ。

 

「伊黒、聞かせてくれないか。お前の知っている限りの、この場所の全てを」

「…………わかった」

 

 第一に得るべきは情報だ。伊黒は自分に期待するなとは言っているが、それでも生まれてから此処で暮らしていると言う事なのだから俺たちよりは余程この場所に詳しいはずだ。まずは何か、脱出に繋がるものを掴まなければ。

 

「僕たちの一族は、女ばかり生まれる家だ。一族で男が生まれたのは、僕で三百七十年ぶりらしい。それで僕は、一族でも一等珍しい男という理由で生まれてからずっと此処に監禁されて、毎日毎日こんな食い切れもしない大量の食事を出される毎日を過ごしてきた。……お前たちの言う、異形の御馳走にされるために」

 

 生まれてからずっと、周りをあんな気味の悪い笑顔を張りつかせた女たちに囲まれて過ごし続け、終いには自分は食われるために育てられてきたという事実。しかもそれを、よりにもよって自らの親族たちが率先して行っている。それは伊黒にとってどんなに絶望できることだっただろうか。

 

 下種の極みの様なふざけた所業に、俺は腸が煮えくり返るような怒りを覚える。

 

「その異形……鬼は、どんな見た目だった?」

「……少し前に、座敷牢から出されて直にこの目で見たことがある。下肢が蛇の様な女の……鬼だった。あっ、あいつは、僕がまだ小さいから、もう少しだけ生かして大きくしてから食うと言っていた。代わりに、僕の頬を自分とおそろいにすると言って、姉妹たちに裂かせて……零れ落ちる血を盃に溜めて、目の前で飲んだ……」

 

 そう零す伊黒の体が震え出す。きっと恐ろしい記憶を思い出したせいだろうと、俺は部屋に置かれた布団で彼の体を包めて背中をポンポンを軽く叩いてやった。

 

 やはり同性の他人がいるというのは落ち着くのか、伊黒は予想より早く落ち着きを取り戻して話の続きを語る。

 

「……さらに、僕たちの一族は、あの異形がこの島を訪れる船を襲い、人を殺して奪った金品で生計を立てている。その対価として、赤ん坊を差し出しながら。お前たちが捕まったのも、きっと子を産むための種を確保するためだ。確かこの前、この屋敷からその為の男が逃げてしまったと聞いたからな……」

「……ふざけているのか?」

 

 今度は錆兎の声が震えている。しかしそれは恐怖では無く怒りの震えだ。その気持ちは痛いほど理解できる。

 

 自分たちが生きるために、生んだ赤子を差し出す。ふざけるなと今にも叫び出したい。大人とは、親とは、子供を庇護する存在ではないのか。自分が生きるためなら人食いの化け物に血を分けた子を捧げられるのか。

 

 もし彼女らの顔に微かでも嫌悪があるならば、一万歩譲って納得はできるだろう。運悪く鬼によって支配された可哀相な被害者たちだと認められただろう。

 

 だが明らかに違う。奴らの顔には罪悪感など欠片も無い。それに衣服も素人目に見てもいい素材ばかり使った代物だったし、こんな大量の良質な食事をまるで当然のように用意できる。明らかに過剰な消費だ。

 

 つまり、あの女たちは、奪った金品でこれでもかというほど贅沢な生活をしているということになる。

 

 狂っているのか。

 

「あっ、あいつらは他人を貪って自分たちが贅沢することしか考えていない……。ぼっ、僕は、嫌だ。あんな奴らなんかのために、死にたくない、しにたくない……っ! 食われるために生まれて、何もできずに死ぬなんて、絶対にいやだ……!」

「伊黒……」

 

 誰だって死ぬのは嫌だ。しかも、一歩たりとも外に出れずに、身勝手な奴らのために大人しく食われろだなんて到底受け入れられる筈がない。

 

 想像以上に壮絶な環境に、俺は何も言えない。ただ震える彼の背中を宥めるしかできなかった。

 

「落ち着け伊黒。俺たちが居る限り、決してそんなことにはならない」

「ど、どうしてそんな事が言い切れる……?」

「俺たちはその鬼を狩りに来た者だからだ」

「!!」

 

 錆兎の言う事は、何も知らない伊黒にとってはすぐに信じられるような物では無かっただろう。何せ人間ではない、一族を一つ丸ごと支配するような化け物を退治しに来たなどと。しかし微かに希望を持ったのか、暗かったその瞳に僅かながら光が差し始める。

 

「ほ、本当、なのか?」

「ああ。……ただ、此処に船で来る途中に襲われた挙句漂流して、装備を丸ごと奪われてしまった。実を言うと俺たちが今置かれている状況は非常に不味い」

「だから伊黒、俺たちを助けて欲しい。装備さえ取り返せば後はこちらの物だ。必ずお前を助けてみせる。鬼になど、食わせたりはしない」

「……………信じても、いいんだな。後で嘘だったなんて言ったら、許さないからな」

 

 全てを飲み込んだわけでは無い、がそれでも伊黒は俺たちを少しは信じる気にはなった様だ。だがその少しでも十分だ。俺たちはただ、それに全力で応えるのみ。

 

 まず俺たちが聞き出したのは、人が来る頻度とその間隔。何時間に一回、何人訪れるのか。そして部屋の中に何か見張りらしき存在は居るかどうか。一族は合計何人か等々。

 

 これを真っ先に聞いたのは、あまりにも頻繁に人が出入りしていたり監視が付いている場合はあまり派手な身動きが取れないからだ。その場合でも何とか知恵を捻り出すつもりではあるが。

 

「人は、食事時以外はおおよそ一時間に一度見回りに訪れるくらいだ。監視もいない。ただ……」

「ただ?」

「……深夜には天井裏に何かが徘徊しているような音がする。だから夜に怪しい動きをするのは、あまりおすすめしない」

「夜か……」

 

 鬼の行動時間帯だとするとその音の正体は鬼本体かあるいは血鬼術で作り出した眷属の類だ。刀を手に入れるまでは日が暮れてからの行動には細心の注意をしなければならないだろう。

 

「だとすればやはり昼の内に刀を奪取する他ないか……」

「だが一番の問題は、此処からどうやって抜け出すかだ」

 

 そう、後回しにしてきたがこれが一番の問題点だ。

 

 座敷牢は木製なので鉄製よりは脆くはあるだろうが、どう考えても壊すのは大変な作業になるだろうしなにより音を立てずに破壊するなど至難の業。刃物、いや何か固くて鋭いものでもあれば牢の一部を削って脱出口を作ることもできただろうが、生憎そんな物は無い。

 

 どうしたものか……。

 

「あ、あの」

「どうした」

「実は、抜け道に心当たりがある」

「! 本当か!」

 

 伊黒がおずおずと手を上げながら、俺たちを部屋の隅へと誘導する。そして彼が指さす柵の一部を凝視すれば、確かに何か固いもので削り取ったような細い線がくっきりとあるではないか。

 

「これは、一体どうやって?」

「……牢の外に出た時、この簪をくすねておいた。それで少しずつ削ってきたんだ。頑張ればあと少しで削り切れる、と思う」

「でかしたぞ伊黒! これなら外に出られる!」

「あ、ああ……」

 

 褒められることに慣れていないのか伊黒が照れくさそうに俯いた。……これが将来ああなるとは。とてもじゃないが想像つかない。

 

「じゃあ後は抜け出す時間だな。朝か、昼に抜け出して刀を取り返すのは……」

「その時間帯は人が多いだろう。刀を見つけた後ならともかくその前に見つかって騒がれたら、この状態で逃げ切るのはかなり難しいぞ」

 

 脱出の問題は解決できたが、最後の最後に立ちはだかるのはやはりこの手錠と足枷。先程から力を入れてはいるが、木製のくせに妙に頑丈なのかビクともしない。当り前だがこの状態では走るなど到底無理だろう。どう考えても逃げるときには外しておかねばならない。

 

 鍵を見つけるのは面倒なので刀で破壊してしまおうという魂胆なのだが、その刀が何処にあるかもわからない状態で無計画に抜け出すのはあまりにも危険すぎる賭けだ。

 

 相手が一人二人ならいざ知らず、十数人相手は流石にこれではキツすぎる。

 

「だが義勇、人が寝静まった夜に行うにも鬼やその配下に見つかる可能性だってあるんだぞ」

「そうだな……」

 

 非常に悩ましい問題だ。朝か昼に行えば人目は避けやすくなるが、夜に行えば鬼に出会う可能性が跳ね上がる。人に見つかるだけなら貴重な男と言う立場から殺されはしないだろうが、監視の目が増えるのは間違いないし、その後に脱出経路も即座にバレる。二度目は無い。

 

 どうするべきか。

 

 ――――ぐぅぅぅぅぅぅぅ~~~~~~。

 

「「「………………………」」」

 

 俺は無言で顔を覆った。腹の虫よ、こんな時ぐらい空気を読んでくれ。

 

「いや、恥ずかしがることは無いぞ義勇。腹が空くのは生きていれば当り前のことだ」

「ああ……すまん、先に食べている。伊黒はどうする?」

「僕はいい。油っぽいものは……好きじゃない」

 

 確かにこんな碌に換気もされていない狭い場所で充満した脂の臭いを嗅ぎ続けていると腹がもたれそうだ。初日の俺たちならまだ美味そうな匂いだと思うが、長い間こんな匂いを嗅いでいては食欲が失せるのも頷ける。

 

 とりあえずお言葉に甘えて近くにあった盆から食事を摂ろうと箸をとって――――不意に目が合う。

 

 いつの間にかこちらをじっと見つめていた白蛇と。

 

「……………食べたいのか?」

「シュー」

「ちょっ、おい義勇下がれ! 毒蛇かもしれないぞ!」

「まっ、待ってくれ! その蛇は俺の友達だ! 傷つけないでくれ!」

「え?」

 

 ぎょっと顔を歪めた錆兎が白蛇を捕えんと動くが、すぐに伊黒がそれを制した。どうやらこの蛇は彼の友人……人? らしい。つまりこの蛇は、

 

「こいつの名は鏑丸。……生まれて初めて出来た、友達だ」

「そうなのか。すまない、知らないとはいえ無礼を働いた」

「別にいい。平気だ」

「シュー、シュー」

 

 白蛇の鏑丸は小さく鳴きながら畳を這って俺の傍まで近寄った。俺は慎重に手を伸ばして指で頭を軽くこすってやると気持ちよさそうに身震いしてくれる。

 

 どうやら敵とは認識されなかったようだ。

 

「良い子だ。ほら、伊黒。受け取れ」

「あ、ああ……すごいな。もう懐いたのか」

「犬には噛まれるのにな」

「……思い出させるな」

 

 どうやら俺は毛が生えた生き物とは相性が悪いらしく、前に述べた通り尻尾を踏んでしまった犬に噛まれただけでなく、たまたま目が合っただけの猫なんかに突然飛びかかられたこともあった。しかし意外にも毛の無い動物なら大丈夫なようだ。………個人的には犬猫の方が好きなのだが。

 

 とにかく、食事の再開だ。匂いから察して不味くはないはず。俺は早速米を箸で掬い上げて口に入れた。長く話し込んでいたため少し冷めてはいるが、許容範囲内だ。

 

 そういえば、先程食事を運び込んできた女性はこれを夕飯と言っていた。つまりもう日はすっかり暮れている頃なのだろうか。ならどの道脱出は明日になりそうだし、今は少しでも休んで体力を温存しておくべきか……。

 

「…………?」

「どうした義勇?」

「いや、何でもない」

 

 何故だろう。舌先がほんのりとだが違和感を感じている。もしかしたら海水を飲んだせいで味覚が少し鈍っているかもしれない。

 

 そんな懸念を頭に残しながらも、俺は一人分の食事を綺麗に平らげた。正直、これらが人から奪った金品で作り上げられたものだと思うと苦い顔をしたくなるが、腹が減っては戦は出来ぬと言う。せめて被害者の人達に深々と礼をしておこう。

 

「……………ぐ、っ」

 

 ――――しかしその十分後、俺の舌に狂いはなかったと知らされることとなる。

 

 突如視界がぼやけ始めて頭の中に強烈な睡魔が入り込んできた。どう考えてもおかしい、気絶から覚醒してまだ一時間程度しか経っていないというのに、もう眠気が襲ってくるなどありえない。

 

 ということは、まさか……。

 

「錆、兎」

「義勇?」

「食事に、薬が入ってる……口に、するな……!」

「っ、義勇! おい、義勇!!」

 

 頭の中を飲み込むような微睡に逆らえず、俺の意識はそのまま落ちた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 頭がぐわんぐわんと揺れている。腹の中で何かがモゾモゾと動く感覚で意識がわずかにだが覚醒を始めた。瞬時に唇の一部を噛み切って痛みを使い頭を強引に叩き起こす。

 

「っ……!!」

「あら、起きたの」

 

 目が覚めれば、俺のいた部屋とは別の景色が目に入ってきた。薄暗く、行灯の光がわずかに室内を照らす中、俺は大きな布団の上で寝転がされていた。そして、俺の体にまだ十五か六そこらの少女が馬乗りになっている。

 

 さらに、微かに体が熱い。意識がまだ朦朧としている。……寝ている間に何か飲まされたか。

 

「大丈夫よ、痛くしないから。きっといい体験ができるわ。だから抵抗しないで、ね?」

「…………お前、たち、は」

 

 覚束ない舌をどうにか動かしながら、俺は少女へと語りかけた。暴れる前に一つ、聞いておきたいからだ。

 

「なんの、罪悪感も、ないのか…………? 人から、奪う生き方、なんて」

「? どうして感じる必要があるの? 私たちは生きるために必要なことをやっているだけだよ?」

「……奪われた者の、気持ちは……どうなる……」

 

 その言葉を聞いた少女が……ニチャァと、不気味な笑みを見せた。

 

 ああ、これはもう、駄目だ。

 

「知らないわよそんなこと! なんで私たちがそんなことを気にする必要があるのよ!」

「……………そう、か」

 

 予想通りの答えが帰ってきて、俺は落胆と共に静かに息を吸っていく。

 

「さて、そろそろ始めましょう? まずは服を脱がせて――――」

「フンッ!!」

 

 少女が俺の襦袢に手をかけた瞬間、俺は腹筋に力を入れて体を起こし、勢いのまま全力の頭突きを少女の額へと叩き込んだ。

 

「ぃ、ぎっ――――!?」

 

 予想すらしていなかっただろう激痛に怯んで少女が後ろへと下がる。駄目押しにその意識を刈り取るため、両手にかけられた手錠を腕ごと振るって少女の首へと加減しつつ打ち込んだ。

 

「ぁが――――」

「…………ふぅ」

 

 これによって頸動脈が一瞬強く圧迫され、脳の信号に誤作動が引き起こされる。千鳥足で数歩ふらついた後、少女は白目を剥きながら意識を失い、そのまま倒れた。

 

 狙い通りに少女が悲鳴を上げずに大人しくなったことで、俺はやっと額に流れる汗を拭いた。

 

 あの強烈な眠気、盛られたのは睡眠薬でまず間違いない。その目的は、ご覧の通りだ。……目覚めるのがあと数分遅れていたらと思うと怖気が走る。

 

「とり、あえず……脱出しないと」

 

 殆ど反射で気絶させてしまったが、もう後の祭りだ。彼女が起きたらこの事を報告されて、最悪二人とは別室に隔離されかねない。そうなれば面倒な事この上ないだろう。故に、この場所を抜け出す絶好のチャンスは今しかない。

 

 幸い、既に皆就寝しているのか周りに人の気配は無かった。これなら部屋から抜け出せる。

 

 最悪なのは、今の俺は睡眠薬で眠らされていた脳を無理矢理叩き起こしたせいで激しい頭痛が襲ってきているのと、媚薬によって身体にふらつきがある事か。

 

 控えめに言ってコンディションは最悪。だがやらねばなるまい。

 

「はぁっ……はぁっ……!」

 

 乱れそうな呼吸を可能な限り調整しながら、俺は四つん這いで音を立てない様に廊下を進む。まずは刀を探さねば始まらない。

 

(泣き言を考えるな、身体はまだ動くんだ。死んでないなら、十分だ……!)

 

 正直、辛い。不快感で胃の中身を吐き出しそうだ。

 

 だけどそれは後で幾らでもできるんだ。今を頑張って、後で休めばそれで十分。泣き言を吐く暇があるならば、前に進むための力を欠片でも搾り出す。

 

 進むんだ。前へ、前へ。

 

(――――何だ……?)

 

 鈍った感覚が微かな違和感を頭へと訴える。転がり落ちそうな意識を叩き直しながら廊下の奥の暗闇を見つめれば……赤い瞳が微かに輝いたのが見えた。

 

 それと目が合った瞬間――――白い何かがこちらへと飛来する。

 

 俺はすぐに四つん這いの姿勢から後方へと跳んで後方転回。間一髪で回避することができた。

 

「くっ……!!」

「――――おやぁ……? 誰かと思えば、女どもが拾ってきた小僧共の片割れじゃないか……」

 

 ズルズルと這うような音を立てて暗闇から姿を現したのは、下半身が蛇の様な女。それは間違いなく伊黒から聞いた通りの外見。

 

 即ち、この島を支配している張本人……!

 

「お前は……!」

「あたしの外見に驚かないって事は……そうかい、アンタ鬼狩りか! ヒヒヒヒッ、なぁるほど。この島が気づかれたって事かい。やっぱりこの前種用の男を逃したせいかねぇ……ちっ、夜明けさえ来なけりゃとっとと仕留められたものを……」

 

 ペロリとさながら品定めするような舌なめずりと視線。いつもならば何も思わないだろうが、今の俺は絶不調かつ非武装。そして両手両足に枷がかけられていて満足な動きもできやしない。

 

 まずい。この状況は非常に不味い。

 

「まあ、仕方ない。気づかれたんならまた別の場所に行けばいいさ……くくっ、ならもう女たちを生かしておく必要もないねぇ」

「何だと……!?」

「起きなお前らァ! 飯の時間だよォ!!」

 

 蛇鬼が嘲るように叫んだ。するとどうだろうか、建物の至る所から何かが蠢くような音がし始めるではないか。

 

 伊黒は言っていた。夜になると天井裏に何かが徘徊していると。そして海で見たあの巨大な蛇。それがもしあの鬼が生み出したものだとして、それは一体何体存在しているのか。

 

 島から離れた場所でさえ十匹を優に超えるのに――――本拠である島は、そんな数で済むはずがない。

 

「さて、引っ越しの準備を始めようかァ」

 

 殺戮の夜が始まった。

 

 

 

 

 





弱冠十三歳で二重に薬を盛られて貞操の危機に陥る冨岡さん(憑)。でもこの小説はR18じゃないからね……健全な描写を心がけているからね……(大嘘)

今回の更新は次回で最後です。改めて見ると二か月おきにしか投稿してねぇなこのクソ遅筆投稿者(自虐)


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第弐拾壱話 少年は夜明けに涙した

 座敷牢の中でゴリゴリと何かを削る音がする。何故そんな音がするかといえば、それは錆兎が金属製の簪で牢の一部を高速で削り取っているからだった。

 

 非力な伊黒とは比べ物にならない速度で牢が削り取られていく。彼では数日かかる作業も、数々の鍛錬や修羅場によって鍛え抜かれた身体を持つ錆兎ではあっという間だった。あまりの作業速度に、これを見た伊黒は今までしてきた自分の努力が少しだけ馬鹿らしく感じてしまう。

 

「伊黒、何か異常は」

「え、な、無いぞ。誰も来ていない」

「そうか。じゃあ少しだけ下がってくれ」

 

 何をする気だと思いながらも伊黒は言われた通り数歩下がった。そして錆兎はそれを見た後両腕を振り上げ、手錠を鈍器の様にして牢の削った個所へと叩きつけた。

 

 バギッ、と何かが強く折れる音。それに怯んだ伊黒は思わず目をつぶり、恐る恐る目を開けると……そこには綺麗に折れた牢の一部を持った錆兎の姿があった。

 

「や、やった!」

「ああ。これで出られる……」

 

 早速錆兎が牢に出来た隙間に体を通してみる。少し狭いとは感じたが、何とか抜けることができた。それに伊黒も続き、錆兎より小柄な彼は何の抵抗も無く抜け出すことに成功した。

 

「じゃ、じゃあ早く冨岡を助けに行かないと」

「……いや、俺たちはこのまま装備を探しに行こう」

「え!?」

 

 想像もしていなかったその言葉に伊黒は驚くしかない。まさか義理深い彼から、相方を見捨てるような言葉が出てくるなんて思わなかったのだ。

 

 伊黒の反応を見た錆兎は言葉足らずだったかと苦笑しながらすぐに説明を付け加える。

 

「無論、見捨てる訳じゃないぞ。義勇ならあれぐらいの危機は乗り越えられると信じている。それに……万が一この状態で鬼に見つかるとさすがの俺でもどうしようもない」

「そ、それはそうだが……」

 

 およそ一刻の事か。睡眠薬を食事に盛られ、それを口にしてしまった義勇は敢え無く女たちに連れて行かれてしまった。

 

 勿論錆兎は最初それに抵抗しようと思ったが、すぐに考えを改めた。例え今ここを凌いだとしても、次に何をされるかわからなくなるからだ。少なくとも食事に睡眠薬を盛る以上の事をやってくるとは想像がつく。故に、わざとその蛮行を見逃した。

 

 男としてこれ以上無い危機だが、義勇なら何とか切り抜けられると錆兎は信じている。しかしもし……もし考えうる限りの最悪の状況になっていたのならば、その時は殴られる覚悟をして誠心誠意詫びようと心の中で誓った。

 

 幸いなことに女たちの話を盗み聞きした限りは、眠らせて運んで相手をする娘を決めるのは少し間があるらしいので義勇がそれまでに起きたのならばきっと何とかなる筈。そう自分に言い聞かせながら、錆兎は今後の予定を素早く組み立てる。

 

「伊黒、鏑丸に俺たちの臭いを辿らせることは可能か?」

「臭いを?」

 

 蛇はヤコプソン器官という、鼻より優れた嗅覚器官が口の中の上顎の部分に存在する。要は口の中に鼻がもう一つあるようなものだ。そして蛇は空気中に舌を出すことで、空気中の”臭い”を舌で絡め取り、口の中のヤコプソン器官に運んで正確に感じ取ることが出来るのだ。

 

 それを使えば臭いを辿る事も決して難しくは無い。……ただし、蛇と意思疎通が出来て言うことを聞かせることが出来れば、という前提条件が必要だが。

 

 しかし、今回の場合その条件を満たしている人物がいる。そう、鏑丸と長い間共にいて友情を培ってきただろう伊黒小芭内が。

 

「できる、と思う。やったことは無いが」

「頼む」

「ああ。鏑丸、錆兎や冨岡の臭いを辿れるか?」

「シュー……」

 

 伊黒が呼びかけると鏑丸は錆兎の髪の近くでペロペロと舌を出し入れし、おもむろに身を起こした。まるで自分の体を矢印にするように。

 

 二人はそれを見て小さく頷き合い、早足で部屋を立ち去る。もうすっかり日が暮れて、監視の目も軒並み就寝してしまっている。

 

 普通ならば寝ずの番くらい付けるだろうが、この一族は何も知らない子供を除いて全員が堕落しきった思考に染まり切っている。そんな者たちの中で誰がわざわざ辛い役目を請け負うだろうか。

 

 そのせいでこうも易々と脱出を許しているのだから、実に皮肉としか言いようがない。

 

 錆兎は両手両足が拘束されているためぴょんぴょんと飛び跳ねながら、伊黒は運動などしたことも無い体に鞭打ちながら廊下をなるべく静かに、しかし素早く移動する。

 

 道中、部屋を通りかかる度に誰かの寝言や寝返りを打つ音が聞こえて冷汗を幾度かかいたものの、十分ほどでどうにか無事に目的の場所らしき部屋にたどり着くことができた。

 

 しかし、

 

「くっ、鍵がかかってる……!」

 

 当然と言えば当然だ。この鉄の格子が表面に巡らされ、木製扉と鉄製の南京錠で守られているのは、恐らく宝物庫。今まで鬼が奪ってきた金品や値打ち物が保管されている場所。そこを厳重に守らないわけがない。

 

 扉も錠も破壊は困難。伊黒はこの状況にどうしたものかと頭を悩ませる…………が、錆兎は無言で扉と相対し、一歩二歩と可能な限り距離を取り始める。

 

「……錆兎? 何をする気だ?」

「まあ見ていろ。きっと上手く行く!」

「え、まっ――――」

 

 制止の声を振り切って錆兎は連続で側転を始め、身体を大きく回転。そして扉に近づいた瞬間両足で大きく跳び上がり、下半身にに全体重をかけながら足の枷を宝物庫扉へと打ち付けた。当然、凄まじい音が鳴り響き、伊黒は顔から一気に血の気を引かせた。

 

「なっ、何をやっているんだお前は!? 馬鹿か!?」

「いってて……いや、ちゃんと目的は果たせたぞ?」

「何……?」

 

 扉の傍で尻もちを付いた錆兎は反動が直接返ってきたせいで痛めてしまった両足を摩りながら、扉の方を指さした。瞬間――――鉄製の扉があっけなく開いていくではないか。

 

 どういう事だと伊黒は扉を見て、何故そうなったかを直ぐに気づく。

 

 そう、扉の蝶番があっけなく折れて壊れている事に。

 

「南京錠は頑丈そうだったが、蝶番が酷く錆びていたからな。強い衝撃を加えれば壊れる可能性が高いと思ってやってみたが、上手く行くもんだ」

「な、なんて無茶苦茶な……」

「無茶苦茶だろうが結果を出せばそれでいい。伊黒、何でもいい、切れ味が良さそうな刀を持ってきてくれ! なるべく早く!」

「わ、わかった!」

 

 言われた通りに伊黒は宝物庫の中に入り、その直後己が目に飛び込んだ光景を見て絶句した。

 

 部屋の中にあったのは金銀細工に高そうな陶芸品、業物のような刀剣類、一般庶民では手も出せないだろう大陸由来の薬草の数々……それらが溢れんばかりに大切そうに置かれていたのだ。そしてその光景は、伊黒が絶望するには十分すぎるものだった。

 

(こんな物を揃えるために、僕の一族は一体何十何百の人間を死なせてきたんだ)

 

 伊黒にはこれらがどれだけの価値があるかはわからない。わかったとしても、彼はこう思うだろう。

 

 これは、こんな物は、人を殺してまで奪う価値があったのか?

 

 お前らはこんな物のために外道に落ちたのか?

 

(こんな物のために、僕は――――!!)

 

「伊黒! 早く! 人が来るぞ!」

「あっ、貴方たちそこで何をしているの!」

「って、私たちが連れてきた男じゃない! どうしてここに……!?」

「みんな大変よ! 牢に居た子供たちが脱走して……っ、こんな所に!!」

 

 後ろの扉から声が聞こえて伊黒はようやく意識を再起動させた。

 

 そうだ、今は絶望している場合では無い。伊黒は手近にあった刀を手に取り、それを鞘ごと扉の外にいる錆兎へと投げつけた。それを見事に受け取った錆兎は刀の柄を両手で握り、振り払う事で抜刀。即座に両足へと振り下ろして足枷を二つに叩き斬った。

 

 両手の方はすぐには無理だが、足の方が自由になった。ならばこの場を切り抜けるには、あまりにも十全すぎた。

 

「ヒュゥゥゥゥ――――!」

 

 刀の向きを反転させた錆兎が自由になった足で女たちへと駆ける。戦ったことなどあるはずもない女たちにその動きを捉えられるはずもなく、錆兎がその首に一撃入れるのは赤子の手を捻るように簡単な事であった。

 

 

 【参ノ型 流々舞い】

 

 

 女たちの間を通り過ぎた錆兎は綺麗に納刀。鯉口を鳴らせた瞬間、女たち全員が糸が切れたように倒れ伏す。

 

 無論、全て峰打ちである。

 

「すごい……すごい!」

「言っただろ? 刀さえあればこっちのもんだってな」

 

 手枷や足枷の残りの部分を切り落としながら錆兎は深いため息を付いた。ようやく状況を打開の方へと転ばせられたのだ。張り詰めていた気も緩むというもの。

 

 ――――ただし、それを状況が許してくれるとは限らない。

 

「っ、なんだ!?」

「ひっ」

 

 天井裏から聞こえる何かが蠢くような音。それが一斉に周囲から聞こえ始め、尋常ではない事態に錆兎は汗を流す。伊黒もまた日々の恐怖を呼び起こされたことで反射的に錆兎の服を掴んで縮こまってしまった。

 

 そして――――バキリ、という音と共に、それらは落ちてきた。

 

 海でもその姿を現した、白い大蛇が。

 

「な……………」

「う、あぁ」

 

 海で見たものと比べれば一回りは小さい。だが子供一人のみ込むには十分すぎるその巨大な蛇に睨まれたことで錆兎は身構える。天井に空いた穴からボトリボトリと大蛇が落ちてくるたびに、錆兎の額に浮かんだ汗はその筋を増やし続けた。

 

「キシャァァァアアアアア!!」

「伊黒伏せていろ!!」

 

 大蛇が一斉に錆兎へ――――否、此処に居る全ての人間へと飛びかかった。予想と違った動きを見ても錆兎は焦ることなく冷静に刀を振るい、攻撃が届く片っ端から蛇の胴体を真っ二つに断ち切った。

 

『きゃあぁぁぁあぁあああっ! いやっ! どうしてぇっ!? 守ってくれるって約束じゃ――――』

『誰か助けてぇっ! ぁぁぁあぁあああっ!!』

「何がどうなっている……!?」

 

 周りから聞こえる悲鳴。それは間違いなく別の場所に湧いただろう蛇たちに女たちが襲い掛かられている何よりの証明だ。

 

 だからこそ錆兎は状況が飲み込めなかった。伊黒の一族は生贄を差し出すことで鬼の庇護を得ていた筈。なのにこの土壇場で突然手の平を返されるなど訳が分からない。

 

「伊黒! そこの奥にある刀二本と服を持ってきてくれ! 急いでここから離れるぞ!」

「あっ、ああ!」

 

 ただ一つ確かな事は鬼はこの場に居る全ての人間を皆殺しにするつもりであり、自分たちが一刻も早く鬼を仕留めねば今宵何十人もの人が食い殺されるという事だけだった。

 

 鬼と共生していたとはいえ、錆兎も鬼殺隊の端くれ。目の前にいる人間を見殺しにするつもりは毛頭無い。

 

(無事でいてくれ、義勇……!!)

 

 次々と襲い掛かってくる大蛇を斬り捨てつつ先程気絶させた女たちを叩き起こしながら、錆兎は武器も持っていないであろう相方の無事を祈った。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 蛇鬼から繰り出される両手と巨大な尾、そして従えた大蛇を使った怒涛の連撃。俺は両手両足を拘束された身を限界まで酷使しながらそれらをどうにか紙一重で躱し続けている。

 

「あぁもうウザったいねぇ! いい加減捕まって楽になりな小僧ォ!!」

「誰がっ……!!」

 

 身体が重い。頭が痛い。それでも身体の奥底から気力を絞り出して手足を動かす。でなければ俺は奴に捕まって確実に貪り殺される。

 

 普段から防御を心がけているからこその立ち回り。身体の動きを大きく制限されていたとしても動体視力まで鈍るわけでは無い。常に最適な動きを頭の中で導き出し、回避と防御を続けることで俺は時間稼ぎに徹していた。

 

 今の俺に奴を倒せる手段も無ければ状況を逆転させる一手も無い。精々自分が生きる時間を少しでも伸ばせるくらいだ。

 

 だから信じるしかない。錆兎たちが自力で牢を抜け出してこちらにやってくることを。無論それが蜘蛛の糸ほどの儚い希望だと言う事は重々承知しているが、この場を打開できる確率が一番高い手がそれしかないのだ。

 

 【血鬼術】――――

 

「!!」

 

 蛇鬼の動きが一瞬止まった。そして奴は口を大きく開けると、喉奥から鋭く太い棘のようなものを吐き出した。間違いなく血鬼術の前触れ。

 

 【蝕毒(しょくどく)散牙(さんが)

 

 予想通り蛇鬼はその棘を高速で撃ち出した。だが避けられない程では無い。俺は余裕を持って距離を取り、難なくその攻撃を避ける。

 

 が。

 

(かぁつ)ッ!!」

「ッ――――!?」

 

 宙を飛んでいた棘が突如膨れ上がり、爆発。内包されていた細かい棘が四方八方に飛散した。

 

 予想外の事態に対応が遅れ、俺はとにかく急所への攻撃だけは避けるために身をよじりながらも手足で身体の重要な部分を庇った。その甲斐あって細かい棘は俺の手足に幾つか突き刺さる程度で済む。

 

 だが、俺は安心などできなかった。長年生き続けた鬼の血鬼術がこんなチャチなもので済むはずがない。必ず何かが仕込んである。きっとそれは……。

 

「クキキキキ! 当たったねぇ! 冥土の土産に教えてやる。棘に付いていたのは毒さ! 獲物をジワジワと弱らせる毒。小一時間もすればお前は手足も動かせない程に弱る! そうしたらお前を生きたまま手足の端から少しずつ食い殺してやるよ、小僧!」

「くそっ……!」

 

 やはり毒の類だった。きっと、島から脱出したという男性にも打ち込まれた毒の正体がこれなのだろう。

 

 そして当然だが、俺も錆兎も鬼の扱う毒を解毒できる術など知らない。即ち約一時間以内にあの鬼を仕留めなければもれなく俺はただの餌となる。

 

 唯一の救いは毒の効果はあくまでも衰弱に限るようなので症状がいくら進んでも死にはしなさそうなところだが、追い詰められている今の俺にとっては一抹の救いにすらなりはしない情報だ。

 

 たださえ余裕がないのに時間的な猶予さえも消えてしまった。冷静沈着を心がけてきた俺も流石に焦りを隠せなくなり始める。

 

「いいねぇ、その表情が見たかったのさぁ。どうする? みっともなく命乞いでもしてみるかい? もしかしたら見逃すかもしれないよ?」

「ふざけろ、蛇畜生が……!!」

「その余裕が何時まで続くか、見物だねェ!!」

「くぅっ……!」

 

 奴の言う通り、この攻防がどれだけ続けられるのかわからない。正直、毒の事を考慮していなくてもいずれ体力の限界が訪れるだろう。

 

 更に言えば毒以外にも媚薬と睡眠薬を盛られたせいで身体も頭も滅茶苦茶だ。こうして独白を走らせている余裕があるだけ奇跡といえる。

 

「――――たっ、助けてぇぇぇ……!! いやぁぁ!」

「!?」

 

 障子を倒しながら部屋から女性が倒れ込むように現れた。そして部屋の中には白い大蛇と、既に食われてしまったであろう下半身だけになった女性の死体。

 

「どっ、どうしてですか蛇神様ぁ! いっ、生贄の赤ん坊なら毎月言われた通り捧げて来た筈! どうして我々を襲うのですか! これでは、これでは約束が違う!!」

 

 女性が俺と対面している蛇鬼に気付いて狂乱したかの様に喚き散らした。その内容は聞くに堪えない保身塗れの言であり、それを聞いた蛇鬼は呆れと嘲笑混じりに女へ返す。

 

「あァン? もとはといえばアンタ達が閉じ込めていた男を逃したからこうなっているんだろうが。おかげであたしはせっかくここまで育て上げてきた餌場を捨てる羽目になったんだよ! だからせめて最後には腹ぁ一杯食ってもいいだろう? 特に、女は肉が柔らかくて美味いのさ。美味しいものばかり食ってきた、お前たちの様な女はねェ……?」

「ひぃっ」

「それに……なぁぁんであたしが自分よりも弱い奴らとの約束を守らなきゃならないのさァ! アンタらの命は、最初からあたしが握っているというのにねェェェ!! ヒャッハッハッハッハ!!」

「い、いやっ――――」

 

 蛇鬼の叫びに呼応するように大蛇が女性へと襲い掛かった。

 

 それを見た俺は反射的に身体を動かして、高速で動く大蛇の顔を横から蹴り飛ばした。……してしまった。

 

 いくら救いようのない者たちだからといって、彼女らは鬼という絶対者に支配されていた。つまり、生きるためには従う以外の選択肢などなかったのだ。それを良いことに贅沢三昧していたという事実があったとしても……俺にとっては見殺しにしていい理由にはならなかったようだ。

 

 大蛇の頭は狙いが逸れてそのまま畳へと突っ込んで床を突き抜けた。抜けなくなったのがじたばたと暴れ出している。その光景だけなら手放しで喜べただろうが――――残念ながら、此処には大蛇以外の敵がいた。

 

 そう、蛇鬼が隙を作ってしまった俺へと向かって来ている。大きく跳躍し、両足で大蛇を蹴り飛ばしたことで大きく硬直してしまった俺へと。

 

「はははっ! 馬鹿だねェ!」

「ッ――――!!!」

 

 可能な限り最速で復帰して跳び引こうとするも、間に合わない。蛇鬼が腕を振り、その爪が俺の腹に深々と突き刺さった。

 

 そしてそのまま腕が振り払われると、爪で肉を大きく抉られながら俺の体は遥か彼方へと吹き飛ばされてしまう。

 

「ご、っはぁっ……!!」

 

 背中が壁にめり込むと同時に腹部から溢れんばかりの出血。内臓には届いていないが、血管と肉が大きく損傷した。決して無視できる怪我では無い。

 

 痛みに悶えながらもどうにか脱出しようと足掻く、が、それよりも蛇鬼が追いつく方が早かった。鬼は壁からずり落ちそうな俺の首根っこを左手で掴んで再度壁へと叩きつけると、見せつけるように右手の爪をこちらの眼前へと突きつけた。

 

 視界の端で今さっき助けた女性が尻尾を巻いて逃げ出す光景が見える。助ける素振りを少しでも見せてくれても良いだろうに、清々しいまでの逃げっぷりだ。……つくづく救いようがない。

 

「これで終わりだねぇ。キッヒッヒッヒ……これで悲鳴の一つでも上げてくれたらやりがいもあるんだけどねェ」

「がっ、ぁ、ぐ、ぅ」

「ま、いいさ。――――死ね、小僧ォ!!」

 

 蛇鬼の右手がそのまま振り上げられ、降ろされる。そして俺の体は見るも無残な死骸へと成り果てる――――

 

 

 ――――寸前に、青い閃きが走った。

 

 

 ガンッ!! という音が頭上で起こる。瞑りかけていた目を開けば、頭上に上げていた両腕の手錠を貫く様に、青色の刃が突き立っていた。

 

 これは間違いなく俺の日輪刀。そして今の俺の両腕は自由になった。どうしてそうなったかはわからない。

 

 だが、今やるべきことなど考えずともわかった。

 

「おぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおお――――ッ!!」

「なっ、一体どういう――――」

 

 自由になった両手で日輪刀の柄を握って壁から引き抜き、全力で振り下ろすことで俺を拘束していた蛇鬼の腕を真っ二つに叩き斬った。

 

「あぎ、ギャァァァァァアァァアァァアアアアッ!?!?」

「っらぁぁぁぁあぁああああああッ!!!」

 

 そして繋ぐように振り上げて、今度は左腕を付け根から斬り飛ばす。

 

 舞い散る鮮血と蛇鬼の悲鳴。反撃など想像もしていなかったのだろう、混乱のあまり蛇鬼は身悶えしながら近くにあった部屋の障子を破壊して文字通り尻尾を巻きながら何処かへと逃げて行ってしまった。

 

「はっ……はぁっ……!」

「――――義勇! 無事か! 怪我は!?」

「錆、兎」

 

 壁からずり落ちて尻もちを付く俺へと駆け寄ってきたのは、自分の刀を取り戻し己の隊服と羽織を身につけた錆兎と伊黒だった。俺が信じた通りに、彼らは自力で脱出して刀まで取り戻したらしい。先程こちらへと刀を寄越したのも錆兎なのだろう。

 

 流石は錆兎、最後まで翻弄されっぱなしだった俺とは大違いだ。

 

「すまない、錆兎。鬼から毒を、もらった。一時間で、俺は行動不能になる」

「何だと!? いや、それより腹の傷も……!」

「大丈夫だ……呼吸で、何とかする」

 

 乱れそうな呼吸を整え、俺は全集中の呼吸を用いて止血を試みる。腹部の傷はかなり大きいが、そこまで深くは無い。これくらいなら、呼吸で血管を収縮させればいい。

 

 呼吸し、意識を集中。焦らず、ゆっくりと――――出血を止める。念のために襦袢を千切って作った即席の包帯も撒いておくのを忘れない。

 

「ほ、本当に止まった……」

「鍛えれば、これくらい誰にでもできる」

「義勇、服だ」

「ああ、ありがとう錆兎……」

 

 もし明雪さんと稽古を付けて常中を物にしていなければ出血を止められたかはかなり怪しい所だっただろう。やはり鍛錬はいくら積み重ねても損は無い。 

 

 その後、俺は残っていた枷を刀で斬り落とし、服を手早く隊服と羽織に着替えて足早にこの屋敷を立ち去ろうと試みた。

 

 きっとこの屋敷中で大蛇に女性たちが食い殺されるという惨状が繰り広げられているだろう。余裕があれば助けに行くだろうが、今の俺たちにその余裕は無い。

 

 万全の状態ならばこのまま鬼を追撃するだろうが、今は俺と伊黒という足手まといが二つもある。どう考えても、安易な人助けなど許される状況ではなかった。

 

 助けられるなら助けたい。だが今の俺たちの手は、あまりにもちっぽけ過ぎた。

 

「……行こう、義勇」

「……ああ」

 

 俺たちは適当な部屋を通り抜けて外へ出ると、予想通り屋敷を囲っていた土塀を乗り越えることで脱出を図った。正門や裏門は恐らく待ち伏せされている可能性が高いと考えたが故の選択だ。

 

 呼吸で身体能力を増加させられる俺と錆兎は悠々と塀の上まで登れたが、今まで碌な運動もしてこなかっただろう伊黒は当然越えられるはずもないので、俺たち二人で引っ張り上げることで三人とも無事に塀を乗り越えることができた。

 

 さて、これで屋敷からの脱出は成功だ。問題はこれからどこへ逃げるかだが――――。

 

「――――カァァァァァ!! 発見! 発見! 義勇ヲ発見!」

「カァァァァッ! 無事ダッタカ錆兎! カァァァァ――――!!」

「黒衣!?」

「門左衛門か!」

 

 森の中を走っていると空の上から聞きなれた烏の声が降ってきた。見上げればそこには間違いなく俺たちの鎹烏である黒衣と門左衛門が元気に空を飛んでいる。

 

「無事だったのか!」

「何度モ死ヌカト思ッタゾ! 蛇ドモノ居ナイ方角ハコッチダ! 急ゲ!!」

 

 肝心な時に大変頼りになる道案内役が帰って来てくれた。

 

 俺たちは相方が無事だった喜びを噛みしめながら、後を追うようにその場を出発した。無論、俺たちより足の遅い伊黒はこの中で一番健常な状態の錆兎が背負うことで足並みを揃える。

 

「義勇! 山を降りたらこのまま港に向かえばいいのか!?」

「いやダメだ! 海にはあの大蛇どもがいる! 島の外に出るにはあの鬼を倒すしかない!」

 

 脱出における一番の問題がそこだった。俺たちが海で大蛇たちに襲われ難破したことを鑑みれば海に出るのは悪手でしかない。無理に海から脱出しようとすればまた大蛇たちに襲われて今度こそ海の藻屑になるだろう。

 

 そうすると今考えられる最善手は――――

 

「鬼を倒すか、朝まで隠れられる場所を見つけるしかない!」

「無茶を言ってくれる……!」

 

 錆兎の言う通りどちらも無茶だ。鬼の追跡から朝まで逃れられる場所などそうそう簡単に見つかるとは思えない。かといって鬼を倒すにも相手の物量が圧倒的すぎる。

 

 せめて相手を土壇場から引きずり降ろせればこの上ないが、それにはあの蛇鬼を島どころか海域から引き離さなければならない。即ち不可能だ。

 

 どうすればいい。どうすれば全員生き残れる。どうすれば――――

 

 

「待ぁぁぁぁあああああてえぇぇぇええええええええぇええぇぇええええええええええッッ!!!!」

 

「「「ッ――――!?」」」

 

 

 背後から迫る倒壊音と大量の蛇の鳴き声。流し目で背後を一瞥すれば、怒涛の勢いで迫る蛇鬼と大蛇の群れ。しかも大蛇は屋敷の中に居たものとは違い大人でも丸呑みにできそうなほどに巨大だった。それが、木々の間を縫うようにして大波の如く押し寄せてくる。

 

 生物としての本能的恐怖と生理的嫌悪が全身を駆け巡る。同時に悟った。このままでは逃げ切ることは絶対にできないと。

 

 まずい、まずい、まずい、何とか手を考え――――

 

「義勇!」

「錆兎!?」

 

 錆兎が走りながら突如背負っていた伊黒をこちらへと投げ寄越した。驚愕する伊黒を背で受け止めながら俺は何をするつもりだと声を上げるが……浮かべていた顔を見てすぐに理解出来てしまう。彼が何をするつもりなのかを。

 

「足止めをする! 此処は俺に任せて先に行け!」

「ふざけるな! 死ぬ気か!?」

 

 あの数相手に時間稼ぎなど自殺行為だ。だがこのままでは全員仲良く蛇の餌だ。だから、二人を生き残らせるために一人が全ての負担を請け負う。

 

 だったら自分がする、そう言えたらどんなにいいか。わかっている。わかっているのだ。この役目を請け負って一番生存率が高いのが錆兎なのは。

 

 今の俺は絶不調だ。正直、痣を出すことすらままならないだろう。それに毒を受けたせいで戦闘不能になるのが確定している。

 

 錆兎の事は信じている。だがもしものことがあれば、俺は……!!

 

「死なないさ。――――お前の兄弟子を信じろ、義勇」

「…………!!」

 

 それだけを言い残して、錆兎は俺が何かを言う前に足を止めた。

 

 俺も同じく足を止めて共に立ち向かいたかった。だが伊黒の存在がそれを許さない。彼を庇いながらあの群れを相手にすることは出来ない。俺が、俺が肝心な時に力を出せ無いせいで。

 

(くそっ、くそっ、くそっ……!!!)

 

 走る。ただひたすらに走る。頭の中で何度も己を罵倒しながら走り続ける。

 

 何故大事な時に限って俺は役立たずなんだ。何故万全に動けるのが俺じゃないんだ。あんな役目は俺にこそさせるべきだろうに……!!

 

「はぁっ……! はぁっ……! げほっ、ごほっ……!」

「と、冨岡……? 大丈夫か?」

「あ、あぁ……まだ、動ける……!!」

 

 身体に鞭打ちながら駆ける事たったの数分。未だに視界は木々塗れだ。本調子ならまだまだ走れるだろうに、俺は情けなくも体力の限界を迎えていた。

 

(激しく動いたせいで、毒の巡りが早くなっている……!)

 

 運動をすればそれだけ心拍数が上がり、血流が早まる。それに伴って毒が身体に広がる速度も上がってしまう。毒蛇に噛まれた際には絶対安静にする理由がそれだ。だが今の俺たちは逃げねばならない。しかし毒はひとかけらの慈悲も無く俺の体を蝕み続ける。

 

「と、冨岡……もう、もういい。僕の事は見捨ててくれ」

「……なに?」

 

 泣きそうな、嗚咽混じりの声で伊黒が突飛なことを言い始めた。

 

「今まで、死にたくないという思いだけで生きてきた。だけど……それはお前たちのような、優しい誰かを犠牲にしたかった訳じゃない……! 僕は元々生贄にされるために生まれてきたんだ! 僕は、きっと死んでいい人間なんだ。だから、此処で死んだって問題は無い!」

「………」

「だから僕が、僕が囮になる! だから――――」

 

 

「――――ふざけるな!!!」

 

 

 余りの物言いに、俺は叫び出しそうな衝動を抑えきれなかった。

 

「生贄になるために生まれて、微かな幸福さえ知らずに死ぬ人生なんて許されるものか!! お前が死んでいい人間であるものか!! 問題無い? 大有りだこの大馬鹿がっ!!」

「と、冨岡……?」

「お前はっ、お前はまだ何も見てないだろうが! 何も残せてないだろうが! なのにこんなにも早く生きる事を諦めるんじゃない! 惨めでも、みっともなくても、最後まで足掻き続けろ!!」

 

 お前は俺の様な罪人とは違うんだ。

 

 まだ世界の美しさの一つも知らないんだ。

 

 それを知らないうちに全てを諦めるなどあってはならない。例え血族がどんなに救いようのない奴らだとしても、どうしようもない奴らだったとしても――――お前には、生きる権利があるんだ。

 

「生きろ、伊黒。生きて、生きて……死ぬときに悔いがほんの少しでも無くなるように、生きるんだ」

「……………僕、は」

 

 足と指の先から感覚が消えた。この調子では動けなくなるまであと十分も無い。

 

 それでも、それでも少しでも進む。錆兎が稼いでくれている時間を一秒でも無駄にしない様に――――。

 

「シャァァァァアア!!」

「鏑丸!?」

 

 伊黒の懐で大人しくしていた鏑丸が突如興奮し出す。それを見た俺はすぐさま腰の刀に手をかけた。

 

 

「いいや、お前たちは今宵此処で死ぬ! あたしに殺されるからねェェェェェ!!」

 

 

 抜刀。反射に任せて振り向き様に刀を振るい、此方へと振り下ろされた爪と花火を散らす。

 

「ひっ……!?」

「逃げろ伊黒ッ! 可能な限り遠くへ!!」

「ははははっ!! 動きが鈍くなってるねェ、小僧ォ!!」

 

 馬鹿な。なぜもう追いついた。どういう事だ。

 

 背中から伊黒を放しながら俺は最悪の想像を脳裏に走らせた。いやそんな筈はない。ああそうだ、人の血の匂いはしない。ならば考えられる可能性は。

 

「あたしが馬鹿正直にあの餓鬼の相手をする訳ないじゃないのさ! 今頃あの馬鹿はあたしの子供たちを何十匹と相手にしているだろうねぇ!!」

「ぐ、ぅっ……!」

 

 考えが甘かった。相手がこちらの思惑に都合よく乗ってくれる筈がなかった。

 

 失敗した。失敗した。畜生、どうすればよかった。今から何をすればいい。考えろ、考え続けろ。最後まで諦めるな。足掻き続けろ。勝利への道筋を探せ――――!!

 

「ヒヒッ、アンタの相手も後さ。後で弱ったところをじっくり食い殺してやる……!」

「がッ――――」

 

 攻撃を受け止めているため無防備になった腹部へと蛇鬼の尻尾による薙ぎ払いが叩き込まれた。身体の反応が鈍くなっているせいで防御すらままならず、俺はそのまま吹き飛ばされて木の幹へ身体を打ち付けてしまう。

 

「カァァァァ!? 誰カ! 誰カ義勇ト子供ヲ助ケロ!! 誰デモイイカラ助ケロォォォォ!!」

「く、そ……っ!!」

 

 黒衣の叫び声が夜空に空しく散る。聞こえるはずがない、聞こえていたとしても、一般人一人が増えた所で鬼の餌が一つ増えただけに過ぎない。

 

 俺が呻く間にも蛇鬼が逃げる伊黒の背へ迫っていく。鬼殺隊でない彼に逃げ切れるはずがなかった。あっという間に距離が縮まってしまった。

 

「う、あぁっ!?」

「キャヒャハハハハ!! 無様だねぇ。惨めだねぇ。もう終わりだよ、あたしの大切な生贄」

 

 恐怖に負けた伊黒の体がその場で躓いて倒れ込んでしまった。これもう、彼が逃げ切れる可能性は潰えた。

 

 駄目だ、殺させない。殺させるものか。

 

 お前にだけは――――

 

 

「殺させるかぁぁぁぁあああああああ――――ッッ!!!!」

 

 

 日輪刀を逆手に持ち、振りかぶる。まるで槍投げでもするように俺は限界まで刀を引き絞り――――投げた。

 

 渾身の力で投げた刀は初めてとは思えない正確さで蛇鬼の頭へと突き刺さった。人間ならば致命傷だっただろうが……鬼にとって、それはかすり傷と変わらなかった。

 

「そいつを喰いたければまず俺を倒せぇッ!!!」

「嫌だねぇぇぇえええええええええええ!!!」

 

 みっともない挑発に鬼が応じるはずもなく、嘲笑と共に蛇鬼の腕が振り降ろされる。

 

「逃げろっ、伊黒ぉぉぉぉぉッ!!」

「っ、ぁ――――」

 

 俺の決死のあがきは結局、伊黒の寿命を数秒伸ばしただけだったのだ。現実は、最後まで無情だった。

 

 

 

 

 がこの場に現れるまでは。

 

 

 

 

 

 

「ご、ふっ、ごぼっ……!!」

「モウヤメロ錆兎! 早ク逃ゲロ!」

 

 錆兎は膝を突いて倒れそうな身体を刀を杖代わりにすることでどうにか保つ。しかしその体はもう限界であり、相方の門左衛門の声ももう掠れてまともに聞こえなくなっていた。

 

 目の前だけでなく四方八方に大蛇の顔がある。十や二十では済まない数だ。戦闘からまだ数分しか経っていないと言うのに、右足の骨と肋骨が折れてしまっている。頭も強く打ち、平衡感覚も狂っている真っ最中。

 

(格好つけて、この様か……!!)

 

 死力を尽くしてどうにか大蛇を十匹ほど屠ってみせたが、相手の数があまりに多過ぎた。それだけでなく、肝心の鬼は逃がす始末。あれだけ大見得を切っておきながら情けない姿をさらしている己を、錆兎は憤死するのではないかというほどに恥じた。

 

「シュー」「シャァァァァ……!」「フシュルルルル……」

 

 状況は絶望的。逆転の手は見つからない。まず間違いなく、自分は此処で死ぬ。

 

 それでも錆兎は諦めなかった。

 

 己の弟弟子が死ぬまで諦めずに戦い続けたのだ。ならば自分もそれに見習おう。死ぬ寸前までこの手に握る刀を振るい続けよう。

 

 せめて、逃がした二人が少しでも生き残れる確率を上げるために。

 

「来いよ、蛇畜生ども……!! 俺はまだ、生きているぞぉぉぉおおおおお!!!」

「カァァァァァ!! ヤメロ! 錆兎! 逃ゲロ! 錆兎!!」

「シャァァァアアアアアアアッッ!!」

 

 錆兎の叫び声に応えるように一匹の大蛇が正面から向かってきた。それに対し錆兎は倒れ込むように大蛇の突進を回避しながら口へと刀を突っ込み、相手の勢いを利用して大蛇の身体を大きく切り裂いた。

 

 だがそれだけだ。直後に横から飛びかかってきた別の大蛇に撥ね飛ばされ、宙に浮いた身体を更に別の大蛇が巻き付いたことで錆兎は完全に拘束された。

 

「シュゥゥゥゥゥ……」

「ぎ、ッ……あ、がぁぁぁぁあぁぁああああああッ!!」

「カァァァァァ――――ッ!! ヤメロ蛇野郎! 錆兎ヲ放セェェェェ!!」

 

 ミシミシと大蛇が徐々に錆兎の体を強く締め付け始める。まるでジワジワ嬲り殺しにするように。門左衛門が怒りのあまりなりふり構わず大蛇を嘴で攻撃するが、そんなものが効くわけが無かった。

 

 そして、数秒も経たずに錆兎の両腕が折れた。

 

「ッ、が」

 

 次に肋骨が追加で数本折れ、口から胃酸が絞り出される。

 

「ぃっ、ご、ぶっ」

 

 もはや声すら上げられない。そして、あと一秒経てば明確な致命傷が――――

 

 

「炎の呼吸、【肆ノ型】――――」

 

 

 訪れることは、無かった。

 

 

「【盛炎(せいえん)のうねり】」

 

 

 この場一面を包み込むような猛火が巻き起こった。

 

 瞬きする間に数十匹の大蛇が残らず真っ二つにされ、錆兎を絞め付けていた蛇も頭と胴体をバラバラされたことでその力は一瞬で失われた。

 

 支えを失った錆兎の体が落下し、それを誰かが優しく受け止める。

 

「師、匠」

「すまない、遅くなった。手漕ぎ船ではやはり時間がかかり過ぎたみたいだ」

「カァァァ! 生キテルカ錆兎!?」

「あ、あ……なんとか、な」

 

 この絶体絶命の状況を根底からひっくり返したのは、煉獄惣寿郎その人。序盤の序盤から消えてしまった最強の切り札の存在に、錆兎は安堵の息しか吐けない。

 

 余りにも遅い登場だ。だが、手遅れでは無かった。

 

「義勇を……早く……鬼が……!」

「! 了解した。此処に来る途中で周辺の大蛇は全て殲滅しておいたから、君はここで楽にしていてくれ」

「は、い……」

「――――惣寿郎、コチラデス。早ク!」

 

 閉じていく視界の中で錆兎は己が師とその相方(鎹烏)の背を見送る。

 

 自分が半死半生になってようやく十匹仕留めたというのに、惣寿郎は傷一つ負うこと無くそれらを殲滅したと言う。その言葉にあまりにも隔絶した柱との実力差を痛感しながらも、錆兎は今だけはその心強さを甘受した。

 

 ――――きっと全て上手く行く。

 

 その確信を胸に、錆兎は己の烏の声を聴きながらそのまま沈み込むように眠った。

 

 

 

 

 

 鬼の爪が伊黒を切り裂かんと迫る。伊黒はそれに対して動くことが出来ない。出来たとしても、速さが圧倒的に足りていない。

 

 故に彼の死は確定した。――――外部から、それを退ける力さえ無ければの話だが。

 

 

「……………あ?」

 

 

 きっと一秒にも満たない、ほんの少しの時間の間に現実は塗り潰された。

 

 気が付けば蛇鬼の頭は胴と離れ、胴もまた両腕ごと真っ二つに叩き斬られていた。空を駆け巡る炎の煌めきによって。

 

 どじゃぁ、と肉が地べたに落ちた音が木霊する。

 

「なんとか、間に合ったようだね」

「な、んで……あたし、斬られ……お前、まさ……か……は、し…………ら………………」

 

 蛇鬼は頸を斬られたことでそのまま灰となって消えた。まるで覚めた悪夢の様に、そこには何も残っていない。

 

 百年近く島を支配してきた鬼の最期は、あまりのもあっけない物だった。

 

 

 

 鬼のいる夜が終わる。

 

 多くの罪人の命を、対価として。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「冨岡、平気か……?」

「………ああ。大丈夫、だ」

 

 身体にはもう碌に力が入らない。こうして伊黒に肩を貸されなければ歩くことすら儘ならないほどに、鬼の毒は俺の体に巡り切っていた。

 

 鬼の扱う毒は鬼本人が消えても効力は消えない。適切な処置をするか日光を長時間浴びるなりしなければ、俺の体は永遠にこの調子のままだ。これだから毒というものは厄介極まりない。

 

「冨岡君、本当にすまなかった。こんなにも来るのが遅れてしまって……」

「謝らないでください、惣寿郎さん。謝らないといけないのは、俺の方なんですから」

 

 死の淵から救われた立場で相手を責めることなどできるものか。

 

 俺たちが海に落ちた後、惣寿郎さんは船員たちを守りながら一旦三宅島へと帰還し、二次被害を防ぐために手漕ぎ船を借りて一人で島を発ったらしい。そして道中立ちはだかった無数の大蛇を斬り捨てながら八丈島までたどり着き、先行した惣寿郎さんの鎹烏が俺たちの鎹烏の声を聞きつけ迅速な対応を行った事で、崖っぷちの窮地にいた俺たちは何とか助け出されたわけだ。

 

 そういう意味では烏たちは実に大活躍だった。彼らがいなければ俺たちは鬼に殺されていた可能性が高かったのだから。因みにその功労者三羽はこの大冒険にすっかり疲れ果ててどこかの木の上で眠っている。後でちゃんと労わねば。

 

 と、話が逸れてしまった。

 

 結論を言えば、惣寿郎さんはほぼ全速力で俺たちの救出に駆けつけてくれたという事だ。その上で遅いだのなんだの責められるわけないし、そもそもこんな状況に陥った原因は油断して海へと落っこちた俺に他ならない。

 

 惣寿郎さんに感謝することはあっても罵倒するなど、恥の上塗りにも程がある。

 

「その、それより錆兎の容体は……」

「応急処置は施したけど、かなりの重体だ。準備が済んだら、すぐに本土の方に帰還しよう」

「わかりました」

 

 惣寿郎さんに背負われながら眠っている錆兎は虫の息というほどではないが、外から見ても重傷である事がわかるほど重体だった。両腕と片足が折れており、胸のところも赤黒い痣だらけだ。肋骨も一本や二本折れた程度では済んでいないだろう。

 

 今すぐにでも医者に診せねばならないが、こんな島に腕の立つ医者など居るわけもない。一刻も早く帰還しなければ。

 

 だがまずは、最低限の仕事を済まそう。念のためにあの屋敷に生存者が残っているかを確認するのだ。生き残っている者がいるかどうかで今後どう後処理をするかを決めるのだから。

 

「……これは、酷いな」

「あ……」

 

 俺たちが脱出してきた屋敷は、原型こそ留めていたがそこかしこが血と破壊跡だらけとなっていた。消滅した大蛇の腹にあっただろう食いかけの死体が散乱し、血と腐臭が場を満たしている。

 

「――――あんた、達は……」

「! 生存者か……!」

 

 庭の隅から声がした。死にかけの小動物の様なか細い声、しかしその声にはありったけの憎悪が込められている。

 

 視線を移せば、そこには生き残ったであろう女性たちが返り血塗れの着物を握って互いに寄り添い合いながら、此方を射殺さんばかりに睨みつけていた。

 

「あんた達の、せいだ……」

 

 その中で俺より少し年上くらいの娘が立ち上がりながら、此方へと歩み寄る。

 

「あんた達が逃げたせいでみんな殺された! 三十人以上死んだわ! あんた達が殺したのよ! 生贄のくせに! 家畜の癖に! 大人しく飼い殺されてればよかったのよ!! このっ――――!!」

「っ、やめなさい!」

 

 パシン、と娘が伊黒の頬を張り飛ばした。そのあまりの物言いに、俺たちは茫然とするしかできない。

 

 逆恨みも甚だしい罵倒だ。他人を食い物にして生きてきた癖に、いざ自分たちが餌に変わればこの態度。身勝手極まりない言い分に、俺は無言で伊黒の肩から離れる。

 

 ずしりと圧し掛かる体への重み。しかし今だけはそれを無視しながら、俺は娘の方へと一歩踏み出す。

 

「なによ……! あんただって同罪よ! あんたたちが大人しくしてればお母さんや叔母さんは――――」

「ふざけるのも大概にしろ!!!」

 

 相手が言葉を言いきる前に力いっぱいにその頬を張り飛ばした。弱っていても、呼吸を修めた鬼殺隊の肉体。頬を張り飛ばされた娘は容易くよろけて尻もちをついた。

 

「生殺与奪の権を相手に握らせたからこうなった!! 惨めに道理も通らないことを喚くのをやめろ!! そんな言い分が通用するならお前たちはこんな事になっていない!! お前たちは主導権を握っているようで全く握れていなかった! 全てあの鬼の掌の上だった! いつ殺されても文句など言えなかった!! にも拘らずその責を全て他人へと転嫁する? 笑止千万!!」

 

 抑えていた激情が口から出てくる。この惨状はお前たちの咎なのだと吐き出し続ける。

 

 自分たちの罪を見ろ。

 

 それが今、お前たちが一番すべきことだ。

 

「弱者には何の権利も無い! 選ぶことが出来るのは強者だけだ! お前たちが強くなろうともせず現状に甘え続けた結果、あの鬼に全てを蹂躙されることになった! 惰弱、傲慢、堕落しきったお前たちの意思など誰も尊重しない! それが現実だ!! いい加減目を逸らし続けるのをやめろ! 自ら行ってきた事を自覚しろ、この愚か者どもが!!!」

「ひっ……」

 

 こちらに向かっていた殺意の視線が恐怖へと変わった。あまりにも脆い意志。立ち上がることを放棄して強者のお零れを貪ろうとするだけの者達。

 

 これから彼女らが変われるのかはわからない。ただ此処で朽ち果てるか、それとも再起して今度こそ正しい道を歩めるのか。――――だがそれを見届けるのは、俺たちの役目では無い。

 

 体力を振り絞り終えた俺は再度伊黒に肩を貸されながら、ゆっくりと踵を返す。

 

「……行きましょう、惣寿郎さん。もう此処に用は無い」

「……わかった。行こう」

 

 目的は達した。この場に長居する理由など無く、俺たちは足早にこの屋敷を後にした。

 

 血族たる伊黒はこの場に留まる権利があるが、躊躇い無く俺の肩を背負ってここから出ようとしているのを見るとやはり残る気は無いらしい。

 

 ……残ったところで、碌な事にはならないだろうが。

 

 

「――――どうすればよかったのよっ……!!」

 

 

 背後から縋るような声が聞こえる。

 

 

「――――何をすればよかったのよ!!」

 

 

 その問いに対する答えなど、持っていない。

 

 

「――――答えてよ! 逃げるな! 逃げるなっ! 卑怯者ぉっ! うぁっ、ぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあああ……っ!!!」

 

 

 抗おうとすれば命が危うい境遇。俺の様な第三者が、「死ぬことを恐れず反抗すればよかった」とは口が裂けても言えない。誰だって自分の命は大切だ。それを擲てなんて他者に説くなど言語道断。

 

 それでもほんの少しだけ勇気を出していれば。誰か一人一人が自分にできる限りの事を少しずつ積み重ねていれば、こんな事にはならなかったのではないか。

 

 ……よそう。もう全て終わったんだ。これ以上考えるのは、不毛な行いだろう。

 

「……冨岡」

「どうした、伊黒」

「僕は……僕はわかっていたんだ。僕が逃げれば、僕の親戚たちが何かしらの罰を受けることなんて」

 

 大粒の涙をポロポロと地面へと落としながら伊黒は懺悔するように呟き続ける。

 

「僕は生きたかった。その為に僕は、自分以外の誰かに危害が及ぶ可能性を見て見ぬふりしていた」

「だがそれは……」

「仕方ないなんて言葉で片づけたくない。僕のせいで、多くの人が死んだ。それは紛れもない事実なんだ……」

 

 それは因果応報というものだ。悪しき行いが彼らに帰ってきただけだ。しかし伊黒はそれを承知の上で、今回生まれた犠牲の罪を背負う気だった。

 

 何と不器用な奴だろうか。

 

「僕は、屑だ。他人を犠牲にして生き延びようとした最低な奴だ」

「伊黒。それなら、俺たちも同罪だ」

「違う! お前たちはただ僕たち一族の汚い所業に巻き込まれただけだ!」

「関係無い。死んだ三十人がお前の咎だというなら、俺が、俺たちが一緒に背負ってやる」

「っ……!!」

 

 伊黒が屑なら俺も同じく屑だ。俺も多くの命を見捨てた。自分たちを優先して、助けられたかもしれない三十人分の命を見殺しにした。

 

 だったら、共に罪を背負おう。この身が果てるその日まで。

 

「…………ありがとう」

「……どういたしまして」

 

 顔を上げる。

 

 水平線の彼方で太陽の光が煌めいた。一人の少年の出立を祝うように。

 

 少年の顔を見る。

 

 泣いていた。それは悲しみでも、怒りでもない――――

 

 

「…………綺麗」

 

 

 ――――初めて見る太陽の美しさに、涙したのだ。

 

 

 

 

 




《血鬼術》

蝕毒(しょくどく)散牙(さんが)
 体内で特殊な体液を分泌し、それを硬化させることで巨大な棘を形成。それを口から吐き出し筋肉の収縮によって撃ち出すことで攻撃する。
 速度はそこまで早くないため攻撃力は低いが、その真価は遠隔爆破によって内包された百以上の毒塗りの針が四方八方に飛び散らせ、広範囲に回避困難な毒をまき散らす。
 毒は衰弱効果を持っており、柱や特殊な訓練を受けた物で無ければ一時間で手足が動かなくなる(ただし日光を浴びれば効力は弱まる)。効果が非常に強力な反面、致死効果は皆無なので(餓死させるならともかく)これで敵を仕留めることはできない。

百生母胎(ひゃくせいぼたい)数多大蛇(あまたのおろち)
 生命力を消費することで胎内から己が眷属である大蛇を生み出す。上限は三百体。
 生まれたての大蛇はそこまで強くは無いが、限界まで成長すれば並みの隊士程度では数人がかりでも敵わないほどに強くなる。また、鬼と違い成長するために人を食う必要が無く(食べれない訳では無い)動物や魚の肉などでも成長・生存出来るため維持するための手間が殆ど無い。
 ただ一匹生み出すだけで最低でも子供一人を食した分のエネルギーを要するため、無暗に生み出すことが出来ない(逆に大きくエネルギーを費やせば最初から強い個体を生み出すことも可能)。また遠隔での思考・情報の共有が不可能(口頭の会話でしか情報交換ができない)。燃費のせいで気軽に増やせない上に生むために必要な時間も無視できない程には長いため、一度に大量の損失を受ければ迅速な回復が困難。日光を浴びれば勿論灰になるなど、強力な血鬼術ではあることは確かだが多数の弱点も多く抱えてしまっている。

《裏設定》
 蛇鬼は元々はただの村娘で、成人するまで健やかに過ごし、裕福な青年と結婚するほどの幸せな人生を送っていたが、ある日青年の両親が売り物として保管していた珍しい蛇が偶然逃げ出してしまい、不運にもその蛇に噛みつかれたせいで三日三晩生死の境を彷徨う羽目に。
 医者の奮闘によって九死に一生を得たが、後遺症として顔の筋肉が歪み、子が産めない身体となってしまう。その挙句「きっとこの娘が気の迷いで蛇を逃がした」という青年の両親の言いがかりによって逃げ出した蛇の代金(明らかにぼったくり)の損失や高い治療代を娘に請求。更には子が産めない身体になってしまったため夫にも見捨てられ、両親からも飛び火を恐れて離縁されてついに発狂。
 絶望のまま入水自殺を図るも偶然それを見かけた無惨によって鬼に変えられ、元夫や自身と夫の両親を皆殺しにした――――という設定を作ったはいいものの、そのための描写を入れるのが途中でクソめんどくさくなり、敢え無く裏設定として片づけられた。大蛇を生みまくる血鬼術はその名残だったりする。




実は蛇女繋がりからメデューサやラミアから着想を得て石化の魔眼や精神汚染の口笛とかも考えていたけど、弱体化した冨岡パーティではどう考えてもお手上げだしあんまり盛り過ぎるのも後処理が面倒なのでやめました。どうせ炎柱に瞬殺されるのは確定してたし盛っても見せ所がね……

今回の更新はこれで終了。次の投稿もまた間が空きそうですが、出来るだけ早く出せるように頑張ります。ああ……次の更新までに本誌絶対に終わってるよこれ……


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第弐拾弐話 月を見る者達

本誌が終わってしまっていっぱい悲しい……スピンオフで他の柱を掘り下げた外伝とか戦国時代を舞台にした鬼滅の刃ゼロとかやらないかなぁ……

まあこの小説は今のところ完結まで一、二割程度の進行度しか無いわけなんだが(絶望)八ヶ月かけてこの鈍亀ペースはどう考えてもマズイですよ!



「っ…………!」

「…………」

 

 四日後、花屋敷にて。

 

 俺は鬼から毒を受けたことで数日間程治療を受けていた。鬼の毒は普通の自然毒と違い性質が特殊であり、専門の施設でなければ完全な治癒ができないからだ。

 

 それで、こうして応接室に赴いて薬を注射するために腕を出したまではいいのだが……経験を積ませるという名目で、俺に注射を行おうとしているのは誰であろう胡蝶しのぶその人だった。彼女は現在俺の腕を抑えてそこに注射を行おうとしているのだが、どう見ても注射を握る手が震えている。見てるこっちが不安になるほどに。

 

 さて、俺は一体何分間待たされればいいのやら。

 

「馬鹿弟子、早く打ちな。そんな調子じゃ日が暮れちまうよ」

「わっ、わかってますよ! い、いきますよ冨岡さん……!」

「ああ」

 

 鬼由来の毒の治療のためにまず必要とされるのが、藤の成分を抽出した特殊な薬品だ。

 

 この薬品は静脈から注射することで体内の鬼由来の毒の作用を限界まで抑える効果がある。まずはこの薬を打ち込むことで毒の進行を一時的に抑制し、その隙に他の薬を投与する事で毒を完全に解毒する。これが無ければいくら薬を投与しようが毒の進行が止まらず、毒と薬の効果が鼬ごっこを始めてしまうため、これが無くては鬼の毒の治療は始まらない。

 

 これだけ聞けばとても便利な薬だ。いや実際そうなのだが、やっぱりというか幾つか欠点が存在する。

 

 まず先程述べた通り、この藤の薬は毒の進行を抑える"だけ"であり、解毒ができない。この薬だけでは時間稼ぎが精一杯であり、根本的な問題は解決できないのだ。単体では真価を発揮できないと言えば良いか。

 

 そして次に、毒の効力によっていくらかの微調整が必要だという事。これをしなかった場合、薬の効果は半分以下にまで落ち込む。

 

 更に、この薬はかなり貴重品であり大量生産が不可能な事。その製法はこの花屋敷にしか存在しない最新鋭の抽出機で大量の藤の花から凝縮したエキスを長時間かけて濾し取るというもの。そのため一日に作れる数は決まっている。

 

 今使われようとしているのもその原液を希釈しているものであるため、その希少性を察することはそう難しくないだろう。

 

 最後に、これは技術的な問題であるため仕方がないのだが、抽出された薬にはまだ藤由来の毒性が残ってしまっているという問題があった。その為一日に投与できる限界量が決まっており、過剰に摂取すれば逆に藤の毒で体調が悪化しかねない本末転倒な事態に陥ってしまう。

 

 ――――だが、それらの欠点を鑑みても鬼の毒を一時的にでも無力化できるのは非常に大きい利点だ。この薬が開発される前は毒を受けた隊士は大抵の場合治療が間に合わないか手の施しようが無くなり、そのまま命を落としていたというのだからその価値は計り知れない。

 

「……えいっ!」

「っ……!」

 

 そう独白している間に、俺が差し出していた腕に太い注射針が突き刺さり、体内へと液体が少しずつ流し込まれていく感覚が腕から伝わってくる。

 

 既に数度ほど体験しているが、凄く痛い。何せ今は明治時代。今の日本は西洋から技術を取り入れることで目覚ましい医療技術の発展をしているが、俺はその百年以上先に存在する知識を有している。

 

 当然というか、俺が予想しているより注射針は幾分か太かった。

 

 だがこれでも花屋敷は鬼という人外と戦うために全国でも有数の病院にか存在しない最新鋭の医療設備をこれでもかというほど導入している。つまりこの注射の痛みは世界の最新鋭技術が生み出した最小の痛み。文句を言うのはいささか贅沢というもの。

 

 というか、足やら腕やら腹やらを切り裂かれた経験をしておいて今更こんな痛みでギャーギャー騒ぐなんて今更過ぎる。

 

「……どうです?」

「どうと言われても」

「漫才やってないでさっさと注射針抜いて薬飲ませないかい、このアホンダラ」

「せ、急かさないでくださいよ! 注射なんてまだ片手で数えるくらいしかやった事ないんですから!」

 

 薫さんから呆れ混じりに指摘を受けたしのぶは素早く注射針を抜き、慣れない手つきながらもできるだけ丁寧に腕に出来た注射痕を消毒して包帯を巻いていく。

 

 そして治療を終えるや否や、青色の粉末が入った薬包紙に凄く鼻がねじ曲がりそうな臭いのする薬膳茶を俺へと差し出した。

 

 これこそ俺のために調合された専用の解毒剤と疲労回復のための薬膳茶。これらを飲み、後は日光を浴びていれば体調は快復へと向かうだろう。が、この臭いはいささかどうかと思う。良薬は口に苦しというが、程度というものがあるだろうに。

 

「あの、冨岡さん? どうかしましたか?」

「いや……凄く、臭いなと……」

「文句言うんじゃないよガキ。治りたきゃさっさと飲めってんだ」

「あっはい」

 

 蛇の如き鋭い睨みに気圧されるまま俺は喉奥へと粉薬を流し込んだ。

 

 とっても、苦かった。

 

「う、っぷ」

「吐くんじゃないよ。もし吐き出そうものなら、次はこのあたし手ずから管でも使って胃の中に直接ブチ込むよ。小僧」

 

 余りの苦さに反射的に吐き出しそうになるが、菫さんに特大の釘を刺されたので口を押えて何とか逆流は抑え、隙を見計らって薬膳茶で一気に食道の奥へと押し込んだ。

 

 その茶も凄く苦くて、凄く臭かったが、我慢だ。我慢しろ冨岡義勇。お前になら出来るはずだ。

 

「けほっ、げっほげっほ! おぇっ……」

「師匠、あのお茶本当に身体に害はないんですよね? とてもそうは見えないのですが?」

「アホかい。これはあたしも毎朝飲んでる、うちの家に代々伝わる由緒正しき薬膳茶だよ。これを飲むだけで疲労回復、代謝向上、腹と腰の不調も治してくれる上に肌にも良い。風呂に混ぜても効く優れものさ。出来が悪いのは味と匂いだけさね」

「味が悪いのは承知の上なんですね……」

「長年の健康を得られるなら一時の苦味なんて些細な事だよ」

 

 なるほど、菫さんが今日まで健康な体で居られたのはこの薬膳茶のおかげらしい。だが俺はこんな凄まじく苦いものを毎朝飲むなど出来なさそうだ。きっと良くて三日くらいしか続かない。

 

「さて、これで大体毒は抜けきったはずさ。寝込んでいたのも数日くらいだし、機能回復訓練も必要ないだろう。明日から退院しても問題無いよ」

「はい。ありがとうございました」

「礼ならこっちの弟子にも言ってやりな。あたしに教えられながらではあるけど、あんた用の薬を一から考えて調合したのはこの娘だからね」

「そうなのか? しのぶ」

「はい。でも師匠の力を借りたから、私一人の力という訳ではありませんけど……」

 

 それでも凄い事だ。熟練者の指示と監視の上とはいえ、あの厳格そうな人が他人に与えても大丈夫だと判断したくらいの薬をその齢で作って見せたのならば十分褒められるべき事だろう。

 

 本人は謙遜している様だが、これは紛れもなくしのぶが師の元で学び、成長して作り上げた一つの成果。自身の夢をかなえるために着実に前へと進んでいるしのぶの姿に、俺は喜びを感じずにはいられなかった。

 

「ありがとう、しのぶ」

「いえ、その、だから私だけの力じゃ……」

「卑下しなくていい。今はまだ未熟でも、少しずつ積み重ねて行けばいつかは大きな力となる。たとえ小さな成果であっても、それはお前の功績だし、決して無駄にはならない。違うか?」

「……ありがとうございます、義勇さん」

 

 しのぶが抱いている自身への不安を解く様に、俺は彼女の両手を軽く握りしめた。

 

 とても小さな手だ。俺の両手で丸々すっぽり覆い隠せてしまうほど細く、白く、暖かい手。何より、とても柔らかい。思わず当初の目的を忘れてその感触を確かめてしまう。

 

「あっ、あの、義勇さん? くすぐったいです……」

「あ……すまない。しのぶの手の触り心地がよくて、つい。気を悪くしたか?」

「いえっ、別にそんな……義勇さんが触りたいなら、いくらでも……」

「乳繰り合うなら外でやりなガキ共! 歳食った婆の前で見せびらかすんじゃないよ! ったく……蝶々娘、経過観察だ。今日一日看病してやりな」

「んなっ……別に乳繰り合ってなんかいませんよっ! もうっ、行きますよ義勇さん!」

「? ああ……?」

 

 何故か菫さんが突然キレ出した。理由は全くわからないが、俺はこれ以上彼女を怒らせる前にしのぶに引っ張られるように部屋から退散する。

 

 にしても、乳繰り合う? 確か、男女がこっそりと会い、肌を合わせることを意味する言葉だったような。……別にそんなことをした覚えは全くないのだが。まさか薫さんの中では手を握る事もそう判断されるのか? そんな初心な人には全く見えないのだが、意外だ。

 

「――――と、多少掻い摘んだが、今回の任務の顛末はこんな感じだな」

「うへぇ……大変だったねぇ。錆兎も義勇も」

「……すまない、錆兎君。君たちを守るはずの柱の立場である俺が不甲斐ないばかりに」

「いいや、お前さんは柱としての務めを果たしたのだ。むしろ弟子二人を助けてくれたことに、儂も礼を言わねばなるまい」

 

 数分ほど歩いて病室に戻ると、随分と大所帯になっている部屋の光景が目に飛び込んできた。

 

 カナヲと真菰に鱗滝さん、惣寿郎さんに――――包帯で口元を隠した伊黒が一室に集まっていた。俺が席を外している間に、随分と沢山の来客が訪れたようだ。

 

「あ、義勇にしのぶちゃん。おかえり~」

「……真菰に鱗滝さん、来ていたのか。それに惣寿郎さんと伊黒まで」

「あはは、俺はお見舞いと挨拶にね。一応、伊黒君の事も報告すべきだと思って」

「…………」

「……? なんですか、私の顔に何かついてます?」

「……なんでも、ない」

 

 当人である伊黒は今、惣寿郎さんの背に隠れてこちらを伺うような様子であった。その視線は真菰やカナヲ、そして今しがた部屋に入ってきたばかりのしのぶへと頻繁に切り替わり続けている。それは決して思春期特有の初々しい感情からくるものではなく……どちらかといえば、恐怖に近い。

 

 あの隔絶かつ極限的な環境下に居続けた伊黒の精神が正常な形を保っているわけがなく、彼は今現在かなり重度の女性恐怖症へと陥っていた。それも女性を前にするだけで言葉すら覚束なくなるほどに。

 

 あんな精神が歪な女性たちに十年以上囲まれ続けていたのだから、そうなるのも当然と言えば当然か。

 

「伊黒君については、煉獄家で一時的に預かることになった。あそこなら今は男所帯だし、歳の近い子もいるからね。決して悪い所では無いはずだよ」

「そうですか。それよりその、惣寿郎さん……その頬の腫れは?」

「ああ……君は気にしなくていい。ただ、自分の我が儘を通した対価を支払っただけさ」

「…………はい」

 

 確かに今の煉獄家ならば伊黒を置いても何ら問題無い、むしろ理想に近い環境と言えよう。

 

 数ヶ月前に当主の妻である瑠火さんが無くなってしまったため、あそこには家長である槇寿郎さんと長男次男である杏寿郎と千寿郎しかいないのだ。それに伊黒は杏寿郎とそう歳も離れていないため、彼と親身に付き合うのもそう難しくはないはずだ。

 

 何よりあの杏寿郎の性格だ。伊黒を決して悪い方向へは進ませまい。

 

 ただ一点心配すべきは、家長たる槇寿郎さんが素直に見ず知らずの子供を家へと置いてくれるかどうかだったが……惣寿郎さんの頬にできた大きな腫れ痕をみるに、やはり一悶着起こったようだ。

 

 それでも目立った外傷が惣寿郎さんの頬にしか無いあたり、それほど酷いものではなかったようだが。

 

「でも錆兎ったら、退院した義勇と入れ替わるようにこんな大怪我してきちゃって。それくらい大変な任務だったんだろうけどさ」

「……面目ない」

 

 ――――今回の任務で負傷した錆兎は菫さんによって敢え無く二ヶ月の絶対安静を言い渡された。何せ左足以外の四肢を骨折し、肋骨も全体の三分の一が砕けたのだ。何処からどう見ても重傷である。

 

 俺の方は毒を除けば負傷は腹部の裂傷程度だったため、こうして三日間飯を食って注射を打たれて日光を浴びて寝るだけで迅速な復帰が出来た。だからこそ、俺のために大怪我をした錆兎には申し訳ない気持ちになる。

 

「錆兎、すまない。俺が足を引っ張らなければ……」

「いや義勇、お前だけの責任じゃないさ。結局俺もお前も、惣寿郎さんが駆けつけてくれなければ死んでいた。どちらもまだまだ未熟だと言う事だ。ならば、今後も共に精進しよう。今度は助けられる側じゃ無く、助ける側になるために」

「……ああ、そうだな。錆兎の言う通りだ」

 

 いつまでも女々しくくよくよしている訳にはいかない。確かに今回は大きな辛酸を舐める事となったが、今こうして生きているならば次に備える機会を得たということ。

 

 次こそあんな無様を晒したりするものか。次こそは……。

 

「うーん、二人は一緒に任務できていいなぁ。私も早く隊員になって二人と一緒に戦いたいなぁ」

 

 真菰の言葉に俺たちは苦笑しか返せない。彼女の今の実力は恐らく今すぐ最終選別に行っても問題無く通り抜けられるだろう程に高まっている。岩についても、もう半分まで斬れるらしい。

 

 この調子なら後数ヶ月あれば実戦でも十分通用する実力を持てるだろう。

 

「まだ駄目だ。選別へは来年まで行かせんと言っただろう」

「ちぇっ、鱗滝さんのケチ~!」

 

 が、鱗滝さんは真菰が十三になるまでは選別に行かせないらしい。

 

 身体がまだ出来上がっていないというのも理由の一つだろうが、やはり女子だけあって心配なのだろう。恐らく自分が納得できる域までみっちりと鍛え上げるはず。

 

 たださえ吸収の速い真菰だ。来年には、一体どれほどの剣士に育つのか。恐ろしくもあり、楽しみでもある。

 

「さて、用は済んだから、俺たちはそろそろ屋敷に戻ろう。伊黒君、挨拶はしなくていいのかい?」

「! あ、ぇぇ、と……冨岡、鱗滝……また、会えるか?」

「もちろんだ、伊黒。暇を見て会いに行くよ」

「お前も達者でな。ちゃんと食べて肉を付けるんだぞ!」

「……ああ!」

 

 去り際に浮かべた伊黒の満面の笑顔。それだけで彼の数日前までは擦り切れる寸前だった心が、今では比べ物にならない程に回復しているのが察せた。きっと、初めてのものばかり溢れている外の世界から程良く刺激を受けているのだろう。良い兆候だ。

 

 されどまだまだ数日。時間はまだたっぷりあるのだから、彼には美味しいものを食べたり、新しい友人を作ったり、のめり込める趣味を見つけるなどして、今までの不幸を上塗り出来るくらい楽しい人生を送ってもらいたい。

 

 間違いなく、彼にはその権利があるのだから。

 

「義勇さん、あの少年は一体……?」

「すまないが、そこは詮索しないでくれると助かる。少なくとも、俺の口から言うべきことではない」

「……はい、わかりました」

 

 伊黒のただならぬ様子について気になる気持ちはわかるが、流石にしのぶ相手といえど彼の事情について軽々しく口にするような気にはなれない。

 

 それほどに彼の過去は暗く、重く、軽い気持ちで触れてはならないものであるからだ。もし知りたいのならば、伊黒からの信頼を積み重ねて本人の口から聞くべきだ。

 

「そう言えば錆兎も任務の内容については所々ぼかしてたよね? ……それくらい酷かったの?」

「俺としては正直忘れてしまいたいくらいだ。義勇もかなり大変な目に遭ったしな……」

「ああ、まさか任務先で睡眠薬と媚薬を盛られた挙句襲われるなんて想像も――――――――あ」

 

 思えば、過酷な状況を切り抜けた後に多くの知人に囲まれたことで気が抜けていたのだろう。俺はつい、錆兎と共に胸の内に秘めておこうと決めていた秘密を口にしてしまっていた。

 

 口が滑ったとは正しくこういう事か。

 

「……すまん、今のは無しだ。聞かなかったことにしてくれ」

「え? 義勇今……え? 襲われたの? 本当に?」

「ぎぎぎぎぎぎ義勇さんちょっとそれどういう事ですか!? ちゃんと説明してください!! まっ、まさか既に貞操を……!?」

 

 真菰が絶句し、しのぶは俺の襟首を掴んで身体をがくんがくんと揺らしてきた。こういう事になるから秘密にしたかったのに、俺の馬鹿野郎。

 

 助けを求めるべく錆兎や鱗滝さんに視線を巡らせるが、錆兎は顔を覆って空を仰ぎ、鱗滝さんは固まったまま動かずにいる。錆兎は呆れてものも言えない様子、鱗滝さんは衝撃の事実に頭を抱えているという所か。念のためカナヲの方にも視線を送ってみるが、求めていた反応が返ってくるはずもなく。

 

「待て、落ち着け。安心しろ、未遂だ。……たぶん」

「たぶん!? たぶんって何です!? したかもしれないって事ですか!?」

「いや、してない、筈。……そう信じたい」

「はっきりしてくださいよこの鈍感馬鹿――――っ!!!」

 

 起きた時に何か濡れていた感触はなかったので、可能性は低い。だが低いだけで無い訳ではないのが答えに困ってしまう。個人的にもそんなことはなかったと信じたいのだが……うん、そうだ。俺が無かったと言えばきっと無かった事になるのだ。

 

 万が一憶が一、ヤったとしても記憶なんて無いからノーカウントだ。

 

「やってない。たぶんやってないから、一度落ち着けしのぶ。……大体、どうしてお前が俺の貞操の安否を気にするんだ?」

「えっ!? い、いや、それは、ええっと……あ、貴方の事が」

「俺の事が……?」

 

 何故こんなにも騒ぐのかを訪ねてみれば、しのぶは突然顔を赤くしてしおれたように勢いを収めてしまう。そして錆兎や真菰はなにやら「行け! そのまま行くんだ!」と小声で叫ぶという器用な真似をしていた。一体何処に行けというのか。

 

「あっ、貴方の事が、すっ」

「す?」

「好「義勇く――――――――ん!!」から…………」

 

 しのぶの言葉に割り込むようにバァン!! という音と共に病室の扉が爆ぜるように開かれた。そこから現れたのは蝶を模った髪飾りと羽織が特徴の美少女、胡蝶カナエ。

 

 突然現れた彼女は何やら今まで見たことも無いくらい真剣な顔つきで俺をじっと見ている。俺に何か用なのだろうか? いや、それよりしのぶの言葉が馬鹿デカい声と音のせいで全く聞こえなかったのだが……。

 

「あら? しのぶもいたのね! もしかして皆とお話中だったかしら?」

「………………姉さん」

「え? しのぶ? どうしたの、そんな怖い目と声を出して……? ね、姉さんもしかして大事なお話の邪魔しちゃった……?」

「もういいっ! 知らない! 姉さんの馬鹿! 頭お花畑! あんぽんたん! おたんこなすっ!!」

「ま、待ってしのぶ――――! 急にどうしてぇぇ――――!?」

 

 何かが癪に障ったのかしのぶは顔を真っ赤に涙目になりながら、カナエの制止など知らぬ存ぜぬと脱兎の如く病室から走り去ってしまった。

 

 今さっき薫さんから俺の看病を任されていただろうに、いいのか放り出して行ってしまって。後で怒られても知らないぞ俺は。

 

 ……しかし、しのぶは一体俺に何を言おうとしたのだろうか?

 

「うわぁ……間が悪すぎでしょカナエちゃん。乙女の一世一代の告白をさぁ……」

「胡蝶、流石に今のは無いと思うぞ」

「告白!? ウソっ、あーもう私の馬鹿ーっ! それならそうと言ってくれればいいのに~!」

「? 一体なんの告白だ? しのぶは何か隠し事でもしていたのか?」

「義勇、お前さんはまだ知らんでいい。男なら何も言わずに待っておれ」

「はあ………?」

 

 彼らが話している内容がよくわからないが、鱗滝さんがそう言うならこれ以上の詮索はやめておこう。

 

 何だか俺だけ仲間外れにされているような気がしなくもないけど、まあ彼らに悪意があるようには見えないから別に構わないか。きっといつか彼ら自身から話してくれると信じよう。

 

「ところでカナエ、入ってくるとき俺の名を呼んでいたが、俺に何か用事でもあるのか?」

「あ、そうだ。実は義勇君にお願いがあって」

「お願い?」

 

 親しい友人であるカナエからの願いだ、俺にできることなら可能な限り叶えよう。無論、あんまり無茶な願いは流石に苦い顔を浮かべるだろうが、彼女に限ってそんなことはしないだろう。

 

 さて、一体何が出てくるのか。

 

「実は――――私を水柱様に紹介してほしいの!」

「紹介?」

 

 てっきり任務の同行とか買い物での荷物持ちとか、そういう力仕事の類を頼んでくるかと思いきや、カナエの頼みは俺の予想だにもしなかった内容であった。

 

 水柱への紹介。雫さんと会って話がしたいという事か。だが、いきなりどうしてそんな事を?

 

「それは別に構わないが、その理由は一体なんだ?」

「実は……任務中に、自分の力不足を実感して」

 

 そこからカナエはぽつぽつと言葉を零し始めた。どうやら彼女の任務で起こった出来事が関係しているらしい。

 

 確かに彼女は実力だけならまだ下から数えた方が早いが、それは彼女がまだ剣を握って鬼と戦う日数をそれ程重ねていないからだ。力不足というのは少々的外れだろう。が、それを言って納得するカナエでないことがわからない程俺は察しが悪い人間では無かった。

 

「任務中に、子供の姿をした鬼と出会ったの。まだしのぶくらいの女の子で、とっても小さかったわ。でも……」

「予想よりも、手強かったか」

「ええ。異能を使うほどの手練れだったわ。見た目のせいで油断していたのもあるけど、私はあっという間に追い詰められて……それで戦ってる最中に運悪く一般人が近くを通りかかって、鬼の攻撃の巻き込まれて怪我をしてしまったの」

「その後はどうなったんだ!?」

「応援が間に合って高位の隊士の方が仕留めてくれたわ。……でも怪我をした人の苦しそうな顔を見てこう思ったの。”もし私がもっと強ければ、この人はこんな痛い思いをしないで済んだんじゃないか”って」

 

 その気持ちは痛いほどよくわかる。今も昔も、俺はその後悔と無力感に胸の内が張り裂けそうなほど埋め尽くされているのだから、わからない訳がなかった。

 

 自分が強ければもっと上手くやれたのでは。誰もが無事に済んだのでは。全てが終わった後でも、そんな仮定の話を考える事を自分でも止めることができない。周りの痛みを自分の責任と考えざるを得ない。

 

 故に求めるのだ。弱い自分と決別するための更なる力を。多くの人を救うための剣を。

 

「カナエちゃん、それはちょっと気負いすぎじゃないかな?」

「胡蝶よ、お前さんはまだ子供だ。責任を感じるなとは言わん。だが何もかも背負い続ければ、いつかその重みで潰れることになるぞ」

「でも、それでも私は……」

 

 後悔をしないために力が欲しい。自身が望む結末に至れる力が欲しい。

 

 されど、時間はそれを待ってはくれない。一寸先さえ闇に包まれている未来からは、想像もつかないような災難が降りかかる事もある。そしてそれを綺麗に退けられるかは、誰も保証できない。

 

 俺も、彼女も、不安なのだ。掬い上げた両手の隙間から、いつか本当に大事なものが零れ落ちるのではないかと。だから手を大きくして、隙間を埋めようと努力する。

 

 その為に伸ばされたカナエの手を振り払う選択肢など、あるはずもない。

 

「わかった。返事が何時になるかはわからないが、一応烏を飛ばしてみる」

「! ありがとう義勇君!」

「いい。困った時はお互いさまだからな」

 

 胡蝶姉妹には何度も助けられた恩がある。この程度の助力など惜しくもなんともない。俺が彼女たちの悩みに力添えできるならば、人の道から外れていない限りどんな事でもしてみせよう。

 

 そう決意する最中――――ふと、小さな音が不意に聞こえてきた。ぐぅぅぅ、という腹の音が鳴る音だ。

 

 その音の持ち主を見つけるのはそう難しいことでは無く、先程から何の言葉も発しないカナヲはその沈黙に反するように身体から空腹の音を出し続けていた。そう言えばもう昼過ぎだ、昼食を摂っても良い頃合いだろう。

 

「……………」

「あらあらカナヲったら、お腹が空いたのね? じゃあせっかくだし、私が厨房を借りて皆の分の食事を作ってくるわ! あ、その前にしのぶにちゃんと謝らないと……」

「いいのか? 任務から帰ったばかりで疲れているだろうに」

「いいの! これくらいへっちゃらよ!」

「あ、じゃあ私も一緒にやるー。いいよね、鱗滝さん?」

「構わん。だが迷惑はかけるなよ」

「はーい」

 

 何時、未来という暗闇の中から今の平穏を奪おうとする魔の手が迫るのかは、俺にもわからない。

 

 だからこそ俺は抗い続けよう。今の様な平穏な一時を少しでも長く味わうために、守り通すために。

 

 それこそが、俺に課せられた義務であり、役目なのだから。

 

 

「所で錆兎、義勇。此処に来る途中ただならぬ威風を纏う鉄穴森の倅を目にしたのだが、何かしたのか?」

「「……………」」

 

 

 ただ、まぁ、前途は多難そうだ。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 ――――月を見る。

 

 誰もが寝静まった屋敷の縁側にて、まるで枯れ木の様に鎮座する一人の老婆。屋敷の主である灸花 菫はただただ無言で月を眺めながら、猪口に注がれた酒を呷る。

 

「――――体を冷やすのは、老体に響きますよ。菫さん」

「何だい、覗き見かい? 滝坊。あんたにしちゃ悪趣味だね」

「揶揄わんでください。儂はもう坊という歳ではないでしょうに」

「あたしからすりゃアンタも桑島の阿呆も全員坊やさ」

 

 そんな彼女に音も無く近づいたのは天狗の面を付けた翁、鱗滝 左近次。彼はため息を零しながら彼女に近付いてその近くへと同じように腰を掛ける。どうやら菫を部屋へと押し込みに来たわけでは無いらしい。

 

 菫は彼から送られてくる悲しみの視線を感じ取り、彼が言おうとすることを何となく察した。恐らく、あの件だろうと。

 

「……つい先日、お孫さんの事を聞きました。挨拶が遅れてしまって申し訳ありません」

「構わんよ。あたしゃとっくの前に心の整理が付いてんだ。大体、アンタはあたしの孫とはガキの頃に一度顔を合わせたっきりで碌な関わりも無いだろうに、態々それを言いに来たのかい? 相っ変わらずクソ真面目な男だねぇ」

「性分ですので。……気休め程度かもしれませんが、お孫さんのご冥福をお祈りいたします」

「はいはい。ありがとよ」

 

 一合徳利に入った酒を全て飲み終えた菫は、今度は懐から煙管を取り出して火を付け、ゆっくりと吸い始めた。

 

 ――――月を見る。

 

 真っ暗な星と闇の帳の中で燦然と輝く月。菫はそんな月がとても、嫌いだった。

 

「鱗滝、あんたは夜が来るたびに何を思う」

「……夜が来るたび、ですか。儂は……いつも不安になります。今夜どこかで、見知らぬ誰かが何人も何十人も鬼に食い殺されているのではないかと。夜になる度にそう思わざるを得ない」

「だろうね。あたしもそう。……あたしたち鬼狩りにとっちゃ、夜は鬼たちの時間。誰かが刃を振るう時であり、誰かが死ぬ時でもある。こうして夜を迎えるたびに、あたしは反吐が出そうな気分になる」

 

 朝日を浴びれない鬼に取って、太陽が消えた夜は天下の時だ。きっと今日もどこかで鬼はその鋭利な爪を振るい、無辜の人を惨殺してその死骸を貪り食うのだろう。だからこそ、菫も鱗滝も、夜は嫌いだった。

 

 あまりにも長い間、鬼の居る夜を過ごしてきたから。夜は鬼の時間であるという認識が、どうしても頭から離れない。

 

 忌むべき存在が現れる、忌むべき時間。されど、それをせき止めることなど人の手で出来るはずもなく。

 

「あたしはね、鬼狩りになった時は、きっといつかこんな夜も無くなると思っていたさ。皆の力を合わせられれば、鬼舞辻なんて下種野郎は必ず打倒できると信じていた。だけど……現実は、そう甘くなかった」

「……ええ。我々では、何十年かけても彼の存在の尻尾すら掴めずじまいだった」

「四十になって、身体が限界を迎えていたあたしは引退した。自分自身で戦えなくなって深く絶望しても、それでもあたしは信じていたさ。きっと娘や後の世代の奴らが、少しずつでも前に進んでくれると。鬼の居ぬ夜に近付いてくれると。……なのに、この様だ。あたしたちは、鬼殺隊は、百年以上前から進めていない。鬼舞辻の足取りの手掛かりさえ掴めていない」

 

 鬼殺隊が発足されて約千年。打倒鬼舞辻のために数え切れないほどの犠牲が積み重ねられてきた。

 

 過去、一度は彼の首魁を追いこんだ事もあった。だが結局逃した。千載一遇の機会を逃した鬼殺隊はそれから四百年以上の時を重ねて尚、鬼舞辻の影を再び踏む事すら叶えていない。更に言えば、ここ百年の間は鬼側の最高戦力である上弦すら削れない始末。

 

 年々と状況が悪化の一途を辿っている。しかしそれを打破するための新風はまだ現れない。

 

 先の見えぬ真っ暗闇を、我々は何時まで進み続ければいいのか。その薫の言葉は、鬼の存在を知って長い者達の代弁でもあった。

 

「一体何時まで、あたしたちは戦い続ければいい? 一体何代先まで過去の負債を押し付ければ、この連鎖は終わる? これから先、何人死ねば鬼は消えるんだい? ……もし神様や仏様とやらが居るんなら、罵倒の一つでも吐きたいね。このクソッタレ共が、ってな」

「……菫さん。儂らは老い過ぎた。もう、若い者達を見守ることしかできやしない」

 

 彼らはただただ心苦しかった。自分たちの代で全ての決着を付けられなかったことが。後の世代の若者たちに全てを託すことしかできないことが。

 

 数多の研鑽を繰り返してきた強者なれど、老いは全てを押し流していく。もはやこの老体に、かつての志を受け止められるだけの力は残されていない。

 

 だから、想いと願いを後世へと託す。

 

 どんなに辛くても、どんなに悲しくても。

 

 それが自分たちのできる最後の行いであるならば。

 

「信じましょう。あの子達を」

「……………嫌な世の中だよ、全く」

 

 

 ――――月を見る。

 

 

 ――――我らを嘲笑うように浮かぶ月を見る。

 

 

 ――――その身を陽光で焼かれ続ける、月を見る。

 

 

 

 

 



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第弐拾参話 更け往く夜

この小説はとても健全な小説。卑猥は一切無い。イイネ?



 快晴。青く晴れた空の元で、二人の男女が激しい運動をしている。動く度に汗水が散り、呻くように小さな声が響き渡る。

 

「ふっ……はぁっ……はぁっ……!」

「ん……あ、ぅうっ……! ダメ、もう私っ……!」

「頑張れカナエ……! あともうちょっとで終わる……!」

「っ、もう耐えられない……! ごめんなさい義勇君、私っ――――」

 

 ――――説明は不要だと思われるが、別に二人の間で淫らな行為が行われているとかそういう事はない。

 

 声だけを聞くならそんな勘違いが起こるかもしれないが、彼らの様子を直に見ればそんな考えなど微塵も残らないだろう。

 

 何せ行われているのは素振りという極々単純な鍛錬であり……しかし普通の素振りとは少し違う点があった。

 

 具体的に言うならば、全身に鉛色の錘を括りつけ、重々しい金属の棒を振るっているという所が。

 

「カナエさん? 時限まではあと五分も残っています。手を止めることを許した覚えはありませんよ?」

「すっ、すみません師匠!」

「冨岡君も剣筋がズレてきてます。正しい振り方をしないのならば私手ずから矯正して差し上げましょうか?」

「はいっ! 大丈夫です! 頑張りますっ……!!」

 

 竹林に囲まれた大きな屋敷の縁側にて茶を飲みながら俺たちの鍛錬光景を眺める麗しい美女、漣 雫はニコリと穏やかな笑みを浮かべ湯呑みに注いだ茶を啜りながら容赦のない指摘と発破の言葉を飛ばして俺たちに鞭打つ。

 

 傍から見れば中々に酷い光景ではあるのだが、実態を知れば誰も文句など言うまい。何せこうしてくれることを頼んだのは他でもない俺たちだ。

 

 無論、俺たちが被虐趣味だとかそう言う話では無い。これはただ単に雫さんに鍛えられているだけだ。何せ俺たちは彼女に師事してもらっている者――――水柱の継子であるのだから。

 

 少し前にカナエが俺に助力を求めた後、運が良かったのか割と直ぐに彼女は雫さんに会うことができた。そしてカナエは難しい話は抜きにしてすぐさま雫さんに師事をお願いした結果、雫さんは二つ返事でそれを受け入れた。きっとその慧眼によってカナエに眠る剣士としての資質を見抜いたのだろう。

 

 そして俺が退院してから一週間後、下弦の壱についての情報が途絶えてしまったことで雫さんの調査が手詰まりになってしまう。

 

 そのため更なる有力な情報が得られるまでの間、雫さんは下弦の壱捜索のため今まで返上していた休日を俺たち二人を鍛える時間に充てることにしたのだった。自分の休日を俺たちのために使ってくれるとは、感謝の言葉も無いとはこの事だろう。

 

 肝心の鍛練の内容はそう小難しいものではなかった。何せやることといったら走り込みや素振りといった基礎的な運動くらい。それだけ俺たちの基礎的な能力がまだまだ未熟という事なのだろう。それについては自覚はあるし文句はない。

 

 問題は――――

 

「はい。では鍛練の日は休憩と風呂と就寝の時以外”これ”を付けて過ごしてくださいね?」

「「えっ」」

 

 初日に雫さんが俺たちに渡してきた、一本数キロはありそうな重厚な鉛の延べ棒が幾つも括りつけられた伸縮性の素材でできた帯状の装飾具だった。そして雫さんはそれを休憩と風呂と寝るとき以外、つまり鍛錬中は常につけて過ごせと言う。

 

 いや、やりたいことは勿論わかる。全身にかかる負荷を増やして運動をさせることで鍛錬の効果を上昇させるのだろう。それはわかるのだが――――少し、数が多過ぎやしないか。

 

「お、重いっ……!!」

「あの師匠? これ、歩くのも難しそうなのですけれど……!?」

「大丈夫。慣れますよ」

 

 全身に括りつけられた鉛の延べ棒は合計三十本。体感的に一本四キロ弱ほどだったので、単純計算で今の俺たちの体には百二十キロもの重さがのしかかっていることになる。そして十三歳の子供の平均体重はおおよそ五十キロほど。

 

 つまり俺たちの体には今、平時と比べて三倍以上もの負荷が常に掛かっている訳だ。

 

 これを付けたまま動きまわるのは、まだいい。大変ではあるが頑張ればなんとかなる。だがこの状態での長時間の鍛錬は控えめに言って……地獄だった。

 

「ふぅぅぅぅっ……ふぅぅぅぅぅぅっ……!!」

「ひぃっ、ひぃっ……!」

「はい、二人ともその調子ですよ」

 

 とはいえ、最初から長時間だった訳ではない。最初こそ三十分置きに休憩を挟んでいた。いや、正確には当時の俺たちがそれ以上耐えることが出来なかっただけなのだが。

 

 しかし何度も繰り返している内に身体は少しずつ負荷に慣れていき、段々と動ける時間は増えていった。その度に雫さんは鍛練の時間を延長し……最初の鍛錬から二ヶ月――――雫さんの休日が週に一日であるため合計十日間もの間に行われた濃密な鍛錬の結果、今では一回につき四、五時間もの鍛錬をぶっ通しで行うほどになってしまった。

 

「はい、きっちり素振り分の二時間が経過しましたね。では少し休憩にしましょうか」

「はっ、はぁっ、おえっ……」

「ぶへぇぇぇぇぇ……やっと終わったぁあぁぁあぁ……」

 

 朝から行われた長い長い鍛錬地獄は昼になってようやく一区切りがついた。

 

 だが動きを止めたことで今まで意識してきた身体の疲労がドッと湧き上がり、さながら内臓が裏返ったかの様な不快感が全身を巡ったことで俺は思わず膝から崩れ落ちて地面に四つん這いになる。

 

 カナエもまた、鍛錬用の鉄棒を手落としながらその場で潰れた蛙のようにべっちゃりと倒れ込んだ。無理もない。

 

「二人とも素晴らしい上達です。まさか二人ともたった二ヶ月で此処まで仕上がるとは……。カナエさんについても正直途中で脱落するか半年はかかるものと思っていましたが……冨岡君といい、今年の私は随分と弟子に恵まれたようです」

「あ、ありがとうございます……」

 

 雫さん曰く、自分の継子になった者の九割は鍛錬が厳しすぎて途中で逃げ出すらしい。それに対しては俺は「そりゃそうだ」としか思えなかった。

 

 余程堅い覚悟を持つ者でもなければこんな死に際の綱渡り染みた鍛錬を長々と続けるのはいささか酷過ぎる。むしろ残る者が一割も居たことが驚きだった。

 

 ……その一割も、明雪さん以外は全員他界してしまったようだが。

 

「……カナエ、大丈夫か?」

「ええ、平気……ではないけど大丈夫。人間、頑張れば何とかなるものね……」

「そうだな……」

 

 前のめりに倒れた身体を裏返してその場を大の字で寝転がるカナエは肩で息をするほど疲労してはいたが、それでももう立ち上がる事すらままならないというほどではない。かくいう俺の方も自分の予想を遥かに下回るくらいには身体に元気が余っていた。

 

 最初の頃は鍛錬後には全身が倦怠感と筋肉痛に襲われ、もう一歩も動けないような有様だったのに。

 

「人間と言うのは極度の疲労状態においてこそ、残った気力を効率的に使うため無意識的に無駄を全て削ぎ落した最適な動きを模索するものです。その為、全身に過度な負荷を長時間かけて人為的に身体を極限状態に追い込む必要があるのですよ」

 

 そう、雫さんの言う通りこれは基礎体力や筋力を上げるだけでなく、俺たちの動きにある”無駄”を消すという意味も込められていた。曰く、俺たちの動きは無駄が多過ぎるらしい。

 

 しかしその”無駄”を口頭で説明したところで意識して直すのは困難を極める。だからこそ自分自身の体にその”無駄”を探させ、矯正するための超過負荷鍛錬。

 

 その成果は劇的であり、今の俺たちは二ヶ月前とは比べ物にならないほどに強くなっていた。今の俺ならば痣無しであっても下弦の陸に食い付けそうだと思えそうなほどまでに。

 

 事実、この二ヶ月で斬った鬼は――――大半が取るに足らない雑魚ではあったが――――既に二十を越えている。基礎的な能力が大きく上昇した事でこれまで以上の速度と効率で鬼を狩ることができるようになったのだ。

 

 また、階級も下弦の陸を倒した功績で(かのえ)まで上がっていたのがもう(つちのえ)にまで達している。この調子なら年内に(きのえ)になることも夢ではないかもしれない。

 

「鬼との戦闘ではそれが判断であろうが行動であろうがたった一秒の遅れが死に直結します。だからこそ、私たちは勝利へと繋がる理想的な動きを常に考え続け、実行しなければなりません。その為に必要なものこそ、己の心技体全てを俯瞰し、理解し、完全に律する事。……私の言っている事、お分かりいただけましたか?」

「「はい!」」

「よろしい。……やはり私の目に狂いは無かったようです。素晴らしい剣士の卵ですよ、貴方たちは」

 

 自身の存在を俯瞰せよ。第三者という誰でもない視点から己の全てを把握せよ。

 

 己に足りぬ物を理解せよ。今の自身に必要なものがわからなければ次に進む資格は無し。

 

 心、技、身体を律せよ。己一つ制することが出来ないならば敗北は必ず訪れる。

 

 それらを全て克服したときにこそ俺たちは”剣士”として完成する。その為の道程は気が遠くなるほど長いが、大事なのは速さではない。一歩一歩、道を間違えること無く進んでいくこと。焦って邪道へと踏み外せば、先に待つのは破滅の二文字。

 

 これが、この二ヶ月の間に雫さんから学んだ事の一つだった。

 

「さてと。二人とも、錘を外してお風呂に入ってきなさい。もうそろそろ()()()()がやってくる頃合いですから」

「む、もうそんな時間か……」

「うぇぇ……汗臭ーい……」

 

 太陽の位置からしてもうすぐ真昼か。来客の前にこんな汗臭い姿をさらすわけにもいかないので、俺たちは風呂に入るために全身の錘を脱ぎ去った。そしてやってくる絶大な重力からの解放感。実に清々しい。

 

 しかし積み重なった疲労が無くなる訳ではないため、その足取りは生まれたての小鹿の様にガクガクと震えている。それでも俺たちは気合で何とか前へと進み、フラフラと幽鬼の如き足取りで風呂場へと入っていく。

 

 因みに風呂は室内風呂と露天風呂の二つが用意されている。流石柱に与えられる屋敷。つぎ込まれた金が半端な量では無い、とても個人が使う事を想定しているとは思えない豪華仕様だ。

 

 そして今回俺は露天風呂に入ることとなった。理由は単純、交代制によって今日の順番が俺になっただけである。

 

「――――っぷへぇぇぇぇぇぇええええええ……疲れたぁぁぁぁぁぁああぁぁあぁぁああ……」

 

 湯で身体を軽く流した後、足先からゆっくりと風呂に入れていく。そして頭以外の全身が熱い湯で包まれた瞬間、俺の口から空気が抜けるように光悦の声が漏れていく。

 

 疲れた。ホント、疲れた。

 

 柱が直々に課す鍛錬が凄まじく厳しいものだというのは想定の範囲内だった。だから事前に覚悟は決めていたし、おかげでこうして二ヶ月もの間耐え抜くことができた。

 

 その効果は目覚ましく、日々の鬼殺によって自身が着実かつ順調に強くなっていくのがわかる。師であり柱である雫さんと比べればまだまだ月と鼈ではあるが、流石に剣を握って一年半も経っていない俺と十年以上鬼と戦い続けた歴戦の強者である彼女を比べるのはいささか不公平というものだろう。

 

 とにもかくにも、俺は今一歩ずつ自身の目標へと近づいていっている。これだけは自身を持って断言できる。

 

「鬼舞辻、無惨………」

 

 ――――打倒、鬼舞辻無惨。千年に渡る鬼の夜の終焉。全ての元凶の征伐。

 

 それこそが俺の存在意義にして唯一の目標。命を賭して成し遂げるべき使命であり義務。

 

 それを実現するためにも時間をかけて力を付けることは必須だ。奴がどんな能力を持っていてどんな戦い方をするのかは不明な所が多いが、少なくとも上弦の壱……痣を発現させた柱が複数で掛かってようやく辛勝できる最強の十二鬼月たる奴をも越える強さを持っているのはまず間違いない。

 

 何せ奴は千年前から存在し続けている始祖の鬼。食ってきた人の数も十二鬼月と比較しても桁違いだろう。性格からして戦闘技能はあまり高くなさそうだが……もし奴が上弦以上の身体能力を持っているのならば、それだけで十分に脅威となる。その上奴は食らった鬼の血鬼術を自分の物にできるという。

 

 つまり推定されるだけでも上弦以上の身体能力と、詳細不明の血鬼術の数々。

 

(…………頑張らなきゃ、な)

 

 敵の強大さとそこまで立ちはだかる数々の難題に思わず弱音を吐きそうになるが、手で掬った湯を顔に叩き付けて一度思考を真っ新にする。

 

 深く考えすぎるな。先はまだまだ長いし、そのために準備できる時間も十分ある。

 

 出来る事を一つずつやるんだ。今の俺が出来ることは、それだけだ。

 

 …………そろそろ湯に浸かって三十分。もう上がっても良い頃合いだろう。足早に風呂を出た俺は駆け湯でサッと体と頭を洗い流し、更衣室に備え付けられている綿タオルで髪や体に付着している水分を適度にぬぐい取った。

 

 着替えの方は――――あ、疲れのあまり持ってくるのを忘れてしまった。しかし汗がべっとりと染みついた衣服をもう一度着るわけにはいかず、仕方ないので部屋にある着替えまでの繋ぎとして備え付けの浴衣を着ることにする。

 

(急いで取りに行かないとな……)

 

 流石に(下着)まで忘れるのは我ながらどうかと思う。これでは万が一帯が解けたらその下にあるものが人前でさらけ出されてしまう。それはマズい、実にマズい。

 

 まあ、さっさと着替えれば問題ないか。

 

 俺は風呂上がりのさっぱりした余韻を堪能しつつ廊下を進み、自分の荷物を置いている広間に繋がる襖を開ける。するとどうだろうか、俺の鼻を擽る甘美な香りがしてくるではないか。

 

 この匂い。間違いない、これは――――

 

「鮭大根!」

「あ、義勇さん。もうお風呂上がったんですね」

「…………」

 

 部屋の真ん中にてよく見知った顔の二人の少女……しのぶとカナヲが吊り下げられた鍋で食材を煮込んでいる。その料理は他でもない、鮭大根。俺の大好物だ。

 

 あ、いや、それよりまず二人に挨拶せねば。流石にここで真っ先に料理に飛びつくのは俺が食い意地の張った失礼な男だと思われてしまう。

 

「……しのぶ、カナヲ。今日は来るのが早かったな」

「今日は菫さんから出された課題を早く終わらせられましたから、その分早く出たんですよ。きっと二人がお腹を空かせていると思いましたし」

「そうなのか」

「むふふっ、来るときに運よく生きのいい鮭と取れたてほやほやの大根を買えたんですから。期待してもいいですよ」

「ああ。楽しみだ」

 

 確かに朝からほぼぶっ通しで鍛錬を続けていたので空腹は今最高潮に達しようとしている。漂う鮭大根の香りが更に空腹を刺激してもうたまらない。が、流石に下着を付けずに食事をするのはマズい。食べている最中に間違って下のモノが見えたらもう目も当てられない惨状になるのは誰だってわかる。

 

 なので俺は食事のためにも早く服を着替えようと隣室に行こうとして――――

 

「…………!!」

「え、ちょ待―――」

 

 何故かカナヲが俺を引きとめようと服を固定している帯をその両手で引っ掴んだ。そして帯は後ですぐに脱ぐつもりで軽めに結んでいたため、強く引っ張られれば解けてしまうのは想像に難くなく。

 

 はらりと帯が床に落ち、浴衣で隠れていた俺の下半身が外気に晒された。

 

 よりにもよってしのぶの眼前で。

 

「「「…………………」」」

 

 気まずいなんてレベルじゃない静寂。俺としのぶは予想外の事態に何の動きも取れず、カナヲは何で俺たちが固まっているのかわからないのか茫然と俺たちの顔を交互に見ている。

 

 さて……どうしようか。

 

「しのぶ、とりあえず目を閉じ」

「ふんッッッ!!!」

 

 精一杯の説得空しく、しのぶの拳は俺のモノへとめしょっと叩き込まれた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「お茶漬け美味ーい! 鮭大根も絶品ね! 流石しのぶ、お姉ちゃんも鼻が高いわ~」

「ええ、これは中々の出来です。カナエさんの妹さんはとっても料理上手なのですね。……所で冨岡君? 何故先程から内股で座っているのです? 男の方にその座り方は負担でしょうに」

「いえ、お気になさらず……いやほんと、何でもないですから」

「……フンだ!」

「…………」

 

 今日の献立は鮭大根と、魚の炊き込みご飯を握り飯にしたものを椀に入れて温めた茶をかけたお茶漬け。疲れた体に塩分が染みてとても美味い。それについては文句はない。

 

 あるとすれば、そうだな。今現在俺の股間を蝕んでいる染みるような激痛についてだろうか。

 

 恐ろしく速い一撃。咄嗟に身を引いたためダメージ軽減には成功したものの、それでも痛みは未だに退いていない。もしそのまま受けていたらどうなっていたことか、想像するだけで男として血の気が引く思いだ。

 

 いやまあアレについては下着を忘れた俺が原因ではあるけど。

 

「カナヲ、頼むから次は服じゃなくて手を引っ張ってくれ。できるか?」

「…………(コクリ)」

 

 二度あることは三度あるとも言う。俺は必要ならばどんな苦痛にも耐える自信はあるが、流石にこの男性特有の痛みを二度味わいたいとは思わない。なのでとりあえず、その二度目が起こらぬよう、俺は引きとめる時は服ではなく手を引っ張ってくれとカナヲに言い聞かせた。

 

「………………急、に

「――――――――へ?」

 

 カナヲが小さく頷いたのを見て一息つき、食事を再開しようとした瞬間――――小さな声が、耳を震わせる。

 

 それはしのぶやカナエにも届いたのか、彼女たちはピタリと動きを止めて動揺のあまり手にしていたお椀を取り落とす。俺もまた同様だった。

 

「…………何も言わずに、離れる、から………私が、何か………悪い事、したのかなって………」

「…………その、すまなかった。次からは、ちゃんと言う」

「……………うん

 

 想定外の事態に頭が追いつかず、それでも何とか返事は搾り出せたが頭の中は変わらず混乱の真っただ中。

 

 え、いや、いずれ自発的に喋るとは思っていたが、速くないか。最低でも二、三年は掛かると思っていたんだが。一体何が切っ掛けになったんだ……!?

 

「かっ、カカカカカカカナヲちゃぁ~~~ん!! やっと喋れるようになったのね! すっごく可愛い声っ! ああもう声も顔も可愛いとか卑怯よ卑怯!」

「姉さん、はしゃぎ過ぎよ……」

 

 衝撃から回復したカナエが弾けるようにカナヲに飛びついて全身をホールドしながら頭を撫でまわし始めた。何と言うか、前から思っていたが彼女は可愛いものを前にすると暴走しやすくなるようだ。とはいえまだ十三だし、年相応ではあるか。

 

 それにしのぶの方も姉の様子に呆れてはいるが、いつもより表情が緩んでいることからやはりカナヲが言葉を出せるようになったことの嬉しさが隠しきれていない。かくいう俺も、予想外ではあったが記念すべき第一歩に歓喜を隠せない。

 

「ふふっ……嗚呼、懐かしや」

「あ、すいません師匠。勝手に盛り上がったようで……」

「お構いなく。喜ばしき事は素直に喜ぶ。そこに水を差すほど私は冷淡な人間ではありませんよ。……冨岡君、人との縁を大切になさい。それを失う悲しみを知りたくないのならば」

「…………雫さん」

 

 彼女が浮かべるのは変わらず慈母の如き微笑み。十人が見たら十人とも振り返るような美しく慈しみに満ちたものではあったが、俺は同時にその内側に抑え込まれた何かを感じずにはいられなかった。

 

 それは果たして悲哀か、絶望か、痛哭か。それとも――――憎悪か。

 

 痛みを知らない俺はそれ以上踏み込むことはできず、ただそっと食事を再開する彼女を眺めることしかできなかった。

 

 そうして十分ほど経過した頃か。俺たちが食事を終えた丁度その時、ふと空から黒い影が竹林を越えて部屋の中へと飛び込んできた。

 

「――――雫様、至急オ耳ニ入レタイ事ガ」

心水(しんすい)。その様子だと……見つけたようですね?」

 

 その首に巻き付いた雫さんと同じ青い波模様の襟巻に右目に刻まれた深い傷跡、なにより歴戦の貫録を感じさせる低く渋い声は間違いなく雫さんの鎹烏。その名は心水。

 

 今の今まで偶にしか姿を見せてこなかった彼がなにやら急いだ様子で姿を現したということは、恐らく……。

 

「下弦ノ壱ニツイテノ情報ガ入リマシタ。町人ノ様子カラシテ例ノ薬ガ出回ッテイルノハホボ間違イナイカト」

「はぁ……全く、潰しても潰しても虫のように湧いて出る……。あの鬼のしぶとさも乍ら、彼奴に踊らされ、ただひたすらに悦楽を求める馬鹿共の愚かさには呆れてものも言えませんね」

 

 ため息を吐きながら雫さんは名残惜しそうな顔で俺たちを一瞥し、翻すように畳まれていた羽織の袖に腕を通し、立て掛けていた刀を腰へと佩いて出撃の準備を即座に整える。

 

 そこにはもう慈母の貌は無く、一人の鬼狩りだけが存在していた。

 

「二人とも、この二ヶ月間よく頑張りました。次に面倒を見られるのが何時になるかはわかりませんが、私の目が無くなったからといって決して怠けることのないようお願いしますね?」

「無論です」

「師匠、お気を付けて!」

「ええ。――――行きますよ、心水」

「御意」

 

 その一言の後には、雫さんと心水の姿は霧の様に掻き消えた。それでも二ヶ月前と比べて微かな輪郭だけでも捉えることが出来たのは、確かな成長だと受け入れてよいものか。

 

「さて、と。俺たちもそろそろ此処を出よう。何時までも長居しては悪いだろう」

「あ、待ってくださいよ義勇さん。今荷づくり始めますから!」

 

 家の主である雫さんが去った以上、俺たちが何時までも此処に居続ける理由はない。彼女は俺たちがこの家を使った所で気にはしないだろうが、流石にそんな事を素面で行える程俺は図太くない。

 

「うーん……連れて行って貰えなかったって事は、私たちはまだまだ頼りないのかな。義勇君」

「……そうだな」

 

 雫さんが請け負っている下弦の壱の追跡任務。それについての詳細は知らないが、きっと生半可な難易度では無いことは察せる。なにせ十年も柱を務めている彼女が年単位の時間をかけて追い続けても尚有力な手掛かりが殆ど掴めていないのだ。

 

 動かせる人員やその質に限りがあるとはいえ、最上位の隊士でさえ手こずる任務。鬼殺隊の中でも良くて精々中堅止まりの俺たち如きがどうこうできることでは無い。

 

 だから納得も理解もしている。それでも……やはり、置いて行かれるのは、寂しい事だ。

 

 恩人であり師である彼女の助けになりたくても、己の力不足がそれを許さない。

 

 だからこそ思う。早く、力を付けねばと。

 

「だが……今は駄目でも、欠かさず努力を重ねて行けばいつかきっと共に往けるさ」

「うん、そうね! よーし、明日からも頑張るぞー! おー!」

「おー」

「…………おー

「頑張るのは良いけど、身体を壊さないくらいにしてよね。はぁ……私も早く選別に行けないかなぁ……」

 

 流れていく長い時の中で、俺たちは懸命に血と汗を流しながら小さなものを積み重ねていく。

 

 いずれそれが望みを果たすための力になると、必ず報われると信じて。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 

 月明かりが地上を照らす真夜中に、艶麗な琵琶の音が一つ鳴る。

 

 瞬間、一人の男が忽然と姿を現した。

 

「――――――――あ?」

 

 その左眼に”下弦の伍”の数字が刻まれた男――――現下弦の伍である鬼は何故自分が此処に居るかわからないような様子で周囲を見渡す。

 

 上下左右がわからない、まるで空間が歪んでいるような作りの建物。見ているだけで頭や平衡感覚がおかしくなりそうな不可思議な造りに鬼は思わず悪酔いしそうな気分に見舞われた。

 

 

    べ

    べ

    ん

 

        べ

        ん

 

 

 

 

 男が困惑の渦中であっても構わず鳴り響く琵琶の音。音源を探れば、一等空間の歪さが激しい中心部にて座す、琵琶を携えた長髪の美女がいる。男は直感的にその女がこの場を司る鬼であると理解した。

 

 そして琵琶が鳴り響く度に何処からか現れる男女が四人。彼らの眼には各自下弦と刻まれた眼を持っている。

 

 下弦の壱――――今の時代としては目新しい、白衣というものに身を包んだ、まるで研究者のような出で立ちをした白髪が目立つ眉目秀麗な男の鬼。

 

 下弦の弐―――—身体の一部を覆う真っ赤な鎧、露出の多い深紅の衣服、頭の後ろにまとめられた長い朱色の髪と全身赤色尽くしな般若の面を被った女鬼。

 

 下弦の参――――美しい振袖を身につけた、流れ落ちる滝の様な美しい空色の髪を地面まで垂らしている、手足が水で出来た見た目麗しい美女の鬼。

 

 下弦の肆――――まるで御伽に出てくるような、土や岩でできたような厳つい牛の頭と局部の無い屈強かつ巨大な男の体を持つ鬼。

 

 下弦の伍――――何処にでもいる何の変哲もない好青年の如き外見。ただしその手と足だけは骨肉が異様に歪んでおり、獣の様に鋭利な形となっている鬼。

 

 この光景から鑑みるに、即ち此処に集められたのは下弦の鬼のみ。

 

 どうして自分たちを一か所に集めるのか。いや、下弦の鬼を集めているのならば何故一人分だけ人数が欠けているのか。その疑問を浮かべた瞬間、最後に強く琵琶の音が木霊した。

 

 

 

べ ん

 

 

 

 知覚すらできない合間にこの場に呼ばれた鬼たちが一所に集められる。

 

 そして目の前には洋服に身を包んだ妖艶な雰囲気を纏う一人の男性がこちらを見下ろしている。その存在が”誰”なのか理解した瞬間、鬼たちは一斉に無心かつ最速でその場で膝を着いて平伏した。

 

「――――良い反応だ。やはり今期の下弦たちには期待が持てそうだ」

 

 かつて聞いた声。懐かしきかの御方の声。細部こそ出会った時と異なるが間違いなくあの御方は我々を統べる鬼の頂点。即ち鬼舞辻無惨その人。

 

 どう足掻いても手も足も出せない絶対存在を前に、鬼たちはただただ何も言わず考えず、目の前の存在からの問いを応える機械であることに全力を注ぐ。生殺与奪の権を握られた自分たちが余計なことを考えて彼の機嫌を損ねればどうなるのかは想像に容易いからこそ。

 

「蒐麗、下弦の陸が下された。――――が、これは本題では無い。所詮穴埋めのために置いていただけの存在。彼奴如きのために貴様らを態々集める程、私は暇では無い」

 

 下弦の陸が落ちた。成程確かに事件ではあるが、態々他の下弦たちを集めて討論するようなことでもないだろう。不謹慎かもしれないが十二鬼月の顔ぶれが入れ替わることなどよくある事だ。ただ、上弦と元上弦である下弦の壱だけは例外的に百年以上その座を動いていないのだが。

 

「痣の者が現れた。人の身のまま鬼の如き怪力を手にした者の事だ」

 

 その言葉と同時に鬼舞辻からの圧力が一層強まる。ミシリ、と彼らが膝を突く床が微かな悲鳴を上げた。

 

「幸いなことにその者は柱でなくただの取るに足らない小僧ではあるが、忌々しいことに、黒死牟(こくしぼう)曰く痣者は他者へ同じく覚醒を促す効果があるらしい。もし奴から他の者達、特に柱へ痣が伝播すれば私にとって厄介な事態になるのは間違いないだろう。故に、私は貴様らに命ずる。――――奴と出会った場合、その命を捨ててでも痣者の小僧を殺せ。もし殺して生還できたのならば、褒美として私の血を多分に与えてやろう」

 

 血の授与。それを聞いた一部の鬼の方がピクリと震えた。

 

 鬼舞辻の、鬼の始祖の血。人にとっては鬼に変えられてしまう秘薬にして劇毒であるが、鬼にとっては大きな力の源に他ならない。無論、過剰に与えられれば適応できずに死ぬ可能性もあるのだが、それでも人間を一人二人チマチマ食すよりもよほど簡単かつ飛躍的に強くなれる方法だ。

 

 余程の事が無い限り他の鬼へと血を与えようとはしない無惨は直々にそれを褒美として授けると言う。それはつまり、彼からの期待に応えれば鬼として大きな力を得ることが出来るという事。

 

 今の地位で満足していない一部の下弦にとってそれはこの上ない機会であった。

 

「――――畏れながら鬼舞辻様、一言申し上げてよろしいでしょうか」

「……何だ? 言ってみろ。もし下らぬ物言いであればその半身を削り取るぞ、魔識(ましき)

 

 皆が一言も口を出さずに跪く中、一番前に居た白衣の男、下弦の壱である魔識が恐れ多くも――――いやこの場合は命知らずと言った方が良いか――――鬼舞辻に意見を述べようとした。それに対して鬼舞辻も不快そうに眉間に皺を寄せながらも発言の許可を出す。

 

「貴方様のおっしゃりたいことは理解しましたが、我々はその小僧の顔を知りません。故に貴方様の記憶を血を介して我々に授ける方がより正確に貴方様の望みを叶える道なのではないでしょうか?」

「この私の血を、まだ何の成果も出せていない貴様らに与えろというのか?」

「記憶や情報のみでございます。我々はそれ以上何も望みません」

「…………………チッ」

 

 その言葉に一先ずの納得がいったのだろう。鬼舞辻は盛大に舌打ちしながらその五指を目の前の下弦たちへと突き出し――――彼らが反応できないほどの速度で指先から管を撃ち出した。

 

 撃ち出された管は寸分違わぬ正確さで下弦たちの眉間へと突き刺さり、そこから鬼舞辻の記憶の籠った血がほんの一滴だけ送られる。記憶の共有を行うだけならばそれで十分。下弦たちの脳裏には確かに顔に痣を浮かべた少年――――冨岡義勇の姿が映し出された。

 

「これで満足か?」

「勿論でございます。我が言葉に答えていただき誠に感謝いたします、鬼舞辻様」

「フン……ならばもう貴様らに用は無い。――――鳴女(なきめ)

「はい」

 

 鬼舞辻の声に応えるよう鳴女と呼ばれた鬼が琵琶を鳴らした。

 

 それだけでその場に居た下弦たちは鬼舞辻の本拠である”無限城(むげんじょう)”から姿を消し、各々呼ばれる前に居た場所へと抵抗する間もなく放り出される。

 

 その内の、下弦の伍の数字を刻まれた青年は何も言わずにその場に佇む。ただただ歪んだ笑みを浮かべながら。

 

「あぁ……あの御方の血を頂けるのか。クヒッ、ヒハハハハッ……! ()()()が消えれば俺の力を抑える者は居なくなる……そこにあの御方の血を授かれば……上弦も夢じゃないぞ……! ヒヒッ、イヒヒヒャヒャ……!!」

 

 狂ったように路地裏に響く不気味な驚喜の籠った笑い声。放って置いたら何時までも続きそうな調子であったが……不意に人の気配を察知した彼は先程とは打って変わった様に笑みを真顔へと変貌させた。

 

 まるで、人が変わった様に。

 

「――――お兄ちゃん?」

 

 大通りへ続く道から顔を出したのは、黒みがかった紺碧色の髪を左右で小さく留めた、青い瞳の女の子。とても不安そうにこちらへと駆け寄る姿は実に愛らしい。

 

 それに対して男は、まるでただの人間の様な何の変哲もない手を振って少女を迎える。

 

「ああ、()()()。どうしたんだ?」

「どうしたんだ、じゃないでしょ! 急に店から出たかと思ったらこんな所に来て! お父さんもお母さんも心配してるんだから!」

「え? ……あ、す、すまない。なんだか意識が朦朧として……最近どうも調子がおかしいな」

 

 男の演技はそれこそ真に迫った、鬼など何も知らない青年の如き振舞いだ。それこそ、()()()()()()()()()()()()。演技とはとても思えないその行動に疑いをかけられる者など誰一人いなかった。

 

「本当に大丈夫? 一度医者に診せた方がいいのかな……」

「うーん、まあきっと大丈夫さ。今後気を付けていけば問題ないよ」

「お兄ちゃんの『大丈夫』は全く信用できないんだけど……」

「ひ、酷い言われようだ……。んん! とりあえず、早く帰ろうか。これから父さんと母さんの店の掃除を手伝わないといけないからな」

「うん!」

 

 青年と少女は何処にでもいそうな兄妹のように手を繋ぎながら路地裏から去っていった。

 

 

 

 ――――その奥に隠れていた人間の臓器と骨に気付かなかったのは、果たして幸か、不幸か。

 

 

 

 

 




正直いつまでも無言のままだとクッソ書きにくいのでカナヲちゃんには早めに心を開いてもらった。(クソザコ執筆者で)ごめんね

なんかこの無惨様甘くない?と思うそこの読者。私もそう思う(便乗)
でも無惨様的には将来性の無いそこそこの強さの手駒が一つ無くなっただけだからそこまで苛立ちはしないだろうし、残った部下は全員従順かつそれなりに期待できる素質ある人材だから対応がマイルドになった……んだと思いたい。


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第弐拾肆話 知る者の重責

 

 

 

 

 

 背反する二つの要素、世界の原理的な在り方。即ち二元論。

 

 人の意識には必ず善と悪両方が存在している。どれだけ優れた人間であっても悪しき感情が一切無いなどと言うことは無く、どれだけ薄汚れた人間であっても善性が完全に消えたとは断言できない。

 

 隈なく探せば心が善悪一色か無色などという奇特な人間がいるのかもしれないが……それはこの話の本題ではない。ともかく、この世の人間の大部分はそう言った清濁を大小なりとも併せ持った者が殆どだろう。

 

 しかしとある人間は考えた。「人間の善悪を完全に分離し、悪の要素を完全に封じ込めることが出来ればこの世から争いや悲劇は無くなるのではないか」と。成程確かにその通りに事が進めば、善の心だけを持った清く素晴らしい人間が生まれるのかもしれない。

 

 だがそれは逆の事も言える。善の心が封じられてしまえば、きっとそこで生まれるのは最悪の怪物だ。

 

 善き心と悪しき心は、互いを止めることのできる安全装置だ。それがもし無くなればどうなるのか。それが善き心ならばいいだろう。きっとその人は明るく太陽の様な人間になって周りを照らしてくれるかもしれないのだから。しかし悪しき心なら――――

 

 

 

 ――――制御装置を失った暴走機関車が齎すものなど、態々考えるべきだろうか?

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「カァァァァー! カァァァァァー! 合同任務ゥ! 合同任務ゥゥゥ! 義勇! 胡蝶カナエト共ニ京橋區(きょうばしく)ヘ向カエ! カァァァァァッ!!」

 

 休日が空けての翌日の朝。

 

 いつものように花屋敷で皆と共に朝食を終え、そろそろ任務が来る頃合いだと思い割り当てられた個室で出立の支度をしていると、予想通り窓から入り込んだ俺の鎹烏である黒衣が耳を劈くような大声で次の指令を下した。

 

 ただ少し、俺の予想と違ったのは――――

 

「……合同任務? カナエとか?」

「ソウダ! 早く支度ヲシテ共ニ往ケ! 鬼ノ被害ガ広ガル前ニ早ク往ケェェェ! カァァァ――――ッ!」

「わかった。わかったからそう叫ぶな」

 

 言うだけ言って黒衣はそのまま入ってきた戸から出て行ってしまう。

 

 合同任務……つまり複数の隊員を纏めて向かわせる必要がある任務ということか。ならば相手は異能持ちか、最悪十二鬼月も考えられる訳だ。これは気を引き締めねばなるまい。

 

「隊服よし、羽織よし、小道具よし……刀、よし」

 

 鬼狩りに欠かせない装備を細部まで不備が無いかを確認しながら装着していく。

 

 特に刀は最も大事だ。これが無ければ鬼を殺せないので当然と言えば当然だが……何より大きな傷があったり、肉眼でわかるほど刃が欠けているのに放置して振るうなんて事をしたら今度こそ鉄穴森さんの怒りが小言を言うだけでは済まなくなるかもしれないからだ。

 

 俺はたださえ刀を一度折っている上に、大事に扱えと言われた数日後に刀を海水に漬けて帰ってきたという前科がある。粗雑に扱っているつもりはないが、流石に短期間で何度も彼の世話になる訳にはいかない。

 

 というか、あんまり頻繁に世話になるといつかはどこかの某三十七歳児の如く包丁片手に追いかけられそうだ。仏の顔も三度までと言うし。……いや流石にないか。……ないよな?

 

「……とりあえず、錆兎の様子を見に行くか」

 

 そう言えば錆兎が丁度今日から機能回復訓練を始める予定の筈。任務に行く前に挨拶しても罰は当たらないだろう。

 

 装備が万全である事を確認した俺は部屋の扉を空けて廊下に出た。――――そして丁度よく準備を終えたのか、後で合流するつもりだったカナエとすぐさま鉢合わせする。そう言えば彼女とは部屋がそう離れていなかったな。

 

「あら義勇君、もう準備が終わったの?」

「お前と同じように、前もって準備していたからな。カナエの方は烏からの連絡はもう受けたのか?」

「ええ。まあ、扉越しに貴方の烏の大声が聞こえたというのもあるけれど……」

「……すまん」

 

 黒衣の年齢はまだ一歳。その若さ故に元気があり余っているのだろう。無駄に張り切っているとでも言うべきか。どうやら後で少しは落ち着きを持つよう言っておこう。

 

「あ、任務に向かう前に錆兎の様子を見ていきたいんだが、構わないか」

「勿論よ! じゃあ早く行きましょう」

 

 同意が得られたのなれば善は急げ。俺たちは錆兎の居るであろう訓練場へと足早に歩を進めた。

 

 距離はそう遠くないため五分とかからず訓練場にたどり着く。そして錆兎の姿は多数の訓練中の隊士の中に居たとしてもすぐに見つけることができた。何故ならば……

 

 

「あががががががががっ!! まっ、真菰っ! 加減しろっ! おっ、折れるぅぅぅぅぅぅっ!?」

「錆兎~、男の子なんだから泣き言言わないの~」

「あばばばばばばばば」

 

 

 どうしてか此処に居る真菰に凝り固まった身体を無理矢理海老反りにされて悲鳴を上げているのだから、見つけられないわけがなかった。

 

 全身からミシリミシリと変な音が聞こえてくるのはきっと筋肉が解れている音だ。決して治った骨がまたもや折れようとしている訳ではないと信じたい。周りの隊士が真菰を見てドン引きしているのも、たぶん気のせいだ。

 

「あれ、義勇、カナエちゃん。どうしたのこんな所に?」

「いや、それは俺の台詞なんだが」

「お二人とも仲がいいのね~」

 

 真菰は本来ならばまだ鱗滝さんの元で修行をしているはず。まさかほっぽり出して来たのか? いや、あの真菰が鱗滝さんに迷惑がかかる行為をするはずがない。だとすれば……。

 

「実はもう岩を斬っちゃって。やること無くなっちゃったから錆兎のお見舞いに来たんだー。で、丁度機能回復訓練っていうのに居合わせたからそのお手伝いをね」

「…………マジでか」

「え? 岩? 岩って斬るものなの……?」

「岩斬らないと合格できないとか水一門怖ぇ……」

 

 その言葉に俺は思わず顔を覆った。隣のカナエや周りにいる他の隊員が修行内容についてドン引きしているような気がするが、まあ素っ頓狂な内容であることに反論できる余地が無いので素直に受け入れておこう。

 

 俺の記憶が確かならば真菰は弟子入りしてからまだ一年と経っていない。なのにもう岩を斬ったとは。いや、つい二ヶ月前まではもう半分ほど斬れると言っていたから、近いうちにできるとは思っていたのだが。

 

 まさか鱗滝さんが真菰を甘やかして岩を小さめのに……するわけも無いか。あの鱗滝さんがこと修行に関して加減なんてものをするとはとても思えない。むしろ生き残る可能性を高めるためにこれでもかというほど扱き倒すはずだ。

 

 ならば真菰は純粋にその才覚と実力で彼の予想を大きく上回ったという事になる。長期的な修行を受けていた錆兎はともかく、死に物狂いで鍛えていた俺でさえ一年かかったのに真菰はたったの八ヶ月少し。やはり天才か……。

 

「くそっ、一体その小さな体の何処にこんな怪力が隠れているんだっ……!」

「うーん、でもすぐにへばっちゃうのがなぁ。力があるのはいいんだけど、長続きしないんだよね~」

(……ふむ)

 

 つまり真菰の筋肉は瞬発力こそ高いが持久力があまりない、所謂白筋、速筋が多いタイプなのだろう。

 

 速筋は体内の糖質を燃焼させることで強い力を発揮することが出来る。しかしそれを維持できるのは短期間にのみに限り、持久力が極めて低い。筋力は高いが体力が無いと言えばわかりやすいだろうか。

 

 これは……少し問題だな。単純に鬼と戦うだけならば体力が無かろうがその前に速攻で決着を付ければいい話だが、水の呼吸にその戦法が合っているかと言われれば勿論「NO」だ。水の呼吸は防戦向きであるが故にその戦いのほとんどは長期戦・持久戦になりやすい。

 

 もし真菰がその体質を十全に活かしたいのならば、一番適しているのは雷なのだが……いや、まだ結論を出すのは早い。時間があるときに鱗滝さんや錆兎と真菰の皆で話し合おう。

 

「義勇っ、助けてくれ! お前だけが頼りだ!」

「すまない錆兎。俺には無理だ」

「少しは助ける素振りを見せろぉぉぉぉぉぉっ!!」

「錆兎ぉ~、大人しく受け入れれば楽になれるよ~?」

「あはは……頑張って錆兎君! 応援してるわ!」

 

 錆兎の助けになれないことは少し悲しいが、これは必要な事だ。何より真菰が笑顔で立ちはだかりそうだし、俺ではお手上げだ。真菰はふわっとしているように見えて凄まじく強情なのだ。彼女を動かしたいのならば鱗滝さんを連れてくるしかない。

 

 そんなわけで俺たちは錆兎の元気な悲鳴と真菰の笑い声を背に訓練場から立ち去った。きっと数日後には元気な彼の姿が見れるだろうと信じて。

 

「――――あ、姉さんと義勇さん! やっと見つけた!」

「…………ん!」

 

 さて錆兎の安否も確認したし、そろそろ出かけようかと思った丁度その頃、ドタバタと廊下の奥から此方へと向かう大きな足音が聞こえてきた。

 

 振り向けば、そこには何やら大きな包みを持ったしのぶとカナヲの姿が。

 

「もう、挨拶も無しで行こうとするなんて酷いじゃない二人とも!」

「ああ……すまない。邪魔しちゃ悪いと思って」

 

 しのぶは今も尚菫さんから様々な知識を教わっている身だ。それを邪魔したり余計な心配をさせまいと敢えて何も言わずに出発しようとしたのだが、彼女はそれが不満な様だ。

 

「全く、せっかく時間を貰ってカナヲと一緒に作ったお弁当が無駄になる所だったわ」

「お弁当?」

 

 呆れ混じりの表情でしのぶはぶっきらぼうに手に持っていた包みを俺へと押し付ける。ちらりと隙間から中身を覗いてみれば、竹皮で包まれたものから何やら芳ばしい香りが。

 

「うわぁぁぁ~! しのぶとカナヲったら態々ありがとう~! 大切に食べるわね!」

「……ありがとう、二人とも」

「別にお礼を言う程の事じゃないでしょう。……今の私には、こんな事しかできないし

 

 照れくさそうに俯くしのぶだったが、何か違う言葉を呟いたような気がした。しかしそれを問う前にカナヲが俺とカナエの羽織をぎゅっと握りながら俺たちを見上げてきたため考えを中断させる。

 

 カナヲは深く逡巡するように視線を右往左往させつつも、やがて覚悟を決めたように口を引き締めて――――

 

「……いって、らっしゃい」

 

 小さく、確かに、俺たちを贈る言葉を紡いだ。

 

 それを聞いて俺は微笑みが零れ……カナエに至ってはぷるぷると喜びのあまり光悦の表情を見せた。気をしっかり持てカナエ、今お前凄いだらしのない表情になっているぞ。

 

「よーしお姉ちゃん元気百倍! 二人とも、行ってくるわね~~~~!」

「二人とも、俺たちの居ない間も体に気を付け――――ちょっ、カナエ! 引っ張るな!」

「もう、姉さんったら……」

「…………くすっ

 

 二人に別れを言う前に暴走気味のカナエに襟首を掴まれた俺は抵抗空しくそのまま引きずられながら屋敷を後にすることとなった。つい昨日雫さんに「自分を制しろ」と言われたばかりだろうがお前。

 

 全く、鬼殺隊に入ってからは小さな気苦労が増え続けるばかりだ。

 

 

 だが――――

 

 

(……悪くは、ないな)

 

 

 それでも、その小さな苦労に仄かな喜びを見出す俺もまた、難儀なものだ。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 京橋区。東京府の中央に存在する地名であり、京橋川へと駆けられた大橋が象徴的な場所だ。

 

 この地域は東海道が南北に通っており、江戸時代からその周辺に職人たちが集まって町を作りこれ以上無い賑わいを見せている。特に多いのは材木などの木を扱う職人か。大凡木工に関することなら此処で大抵解決できるといっても過言ではない。

 

 何より今の時代となると日本橋と銀座を結ぶ商店街としての側面も見せ始めている。総じて豊かな地域と言えよう。

 

 ただ――――

 

「義勇君、どうかしたの?」

「……いや、なんでもない」

 

 目的地である京橋区に到着した俺たちは一先ずの休憩として小さな茶屋の中で場所を借りて羽を休めていた。

 

 口に頬張るのはしのぶとカナヲが丹精込めて作ってくれた握り飯。具は鮭や昆布、味噌などシンプルなものであったが、それでも二人が作ってくれたものであると知れば数段美味い気がしてくる。

 

 しかし握り飯を食べる最中、この町を見てふと思い浮かぶことがあった。それは他でもない――――大自然の、怒り。

 

 一九二三年、大正十二年に起こる関東大震災。大地震という地球の暴威によって東京府を中心として強大な地域を襲った災い。死者と行方不明の人間が十万人を超すという当時としては前代未聞の大災害によって、この京橋區もまた大きな被害を受けてしまう。

 

 眼先にある鬼の問題も実に頭が痛くなるが……これに関しては、本当にどうすればいいのか。

 

 単にいつか大地震が起きます、なんて言っただけでは頭の可笑しな奴だと思われておしまいだ。ただ、産屋敷家という資産家を通して日本政府に注意を呼びかけることもできるかもしれないが――――科学的根拠が何もない。

 

 鬼だの何だの非科学的な超常存在と戦っている身だからこそ麻痺しているが、人間は本来未知の存在など信じないし認めない。俺が未来を知っていたところで「どうしてそんな事がお前に分かるんだ?」と言われれば何も言い返せない。

 

 未来の出来事がわかるなど一般人からすれば妄言以下だ。たとえそれが本物だとしても証明の手立てがない以上どうしようもない。前にも言った通り、俺が未来を”知って”はいるが、”予測”できるわけでは無いのだ。

 

 本当に、考えれば考える程頭が痛くなりそうだ。

 

「義勇君……悩み事があるなら私が聞いてあげるわよ?」

「ああ、いや、本当に大丈夫だ。……心配してくれてありがとう、カナエ」

 

 これについては本当に立場ある人間以外に話したところでどうしようもないし、俺と同じように未来視じみた先見の明を持つ産屋敷一族以外に話しても簡単に信じては貰えないだろう。

 

 心配そうにこちらを見てくるカナエには心底申し訳ないが、この問題についてはいずれ必要な時まで俺の胸の内に秘めておこう。まずは、目の前にある問題を解決する方が先だ。

 

「もう、折角一緒に居るんだから頼りにしてくれないと寂しいわ! 私たち、お友達でしょう?」

「その気遣いだけでも十分だよ。……さて、まずは任務について考えないと」

「……うん、そうね」

 

 カナエは少しだけ納得のいかなさそうな表情であったが、鬼殺隊として優先すべきことはわかっているのか気持ちを切り替えてくれた。では、任務についての詳細を再三確認しよう。

 

 任務の内容は京橋區に来る最中、改めて黒衣やカナエの鎹烏から大まかにではあるが説明を受けた。

 

 掻い摘んで言えば此度の任務は、いわば穴埋め。ここ京橋區は本来ならば炎柱が担当する区域の一つなのだが、その炎柱が諸事情で特定の区域を厳重に警戒せざるを得なくなったらしい。

 

 彼ほどの存在が特定の場所に拘束される事態ともなれば、恐らく十二鬼月関係。推測するに十二鬼月が活発に活動し出してその対応に追われている、といった所か。

 

 ともかくそんな事情のために急遽彼が抜けた穴を埋めなければならなくなった。多少ならば他の柱が補完してくれるだろうがそれでも完全とは言えない。その為に俺たちが此処に派遣された、と言う事らしい。

 

 これだけ聞けば、ただ炎柱の代わりに一つの地区を警戒するだけの簡単な任務だろう。が、ここ京橋區に関してだけは注意すべき点が一つあった。それは、

 

「散発的に発生している神隠し、か……」

 

 ここ京橋區では数年前から断続的にではあるが神隠しが何度も発生していた。頻度は一、二ヶ月に一回程。おおよそ、鬼が食を断たれ飢餓状態になるまでの最短期間と一致しており、鬼殺隊はこれを鬼による仕業だと判断している。

 

 しかしここで問題が発生した。どうやらこの鬼は高度な擬態か潜伏能力を持った鬼のようで、中々その尻尾が掴めずじまいでいるのだ。鬼殺隊が本格調査を始めてまだ二ヶ月程度であるが、隠を十五名も投入しておきながら有力な情報が何一つ出てこないところからかなり厄介な類と推測できる。

 

「カナエ、お前ならこれについてどう判断する?」

「う~ん……そうねぇ。もしかしてこの街の地下に大きな基地を持ってて、そこら中に抜け道があるとか?」

 

 確かに、あり得る話だ。鬼の力なら地下の掘削は容易であるし、その抜け道が肉体を変形させねば通れないようなものならば俺たちでは見つけようがない。可能性としては高い部類だろう。

 

 ただ、それが当たりだとしても結局相手が出てくるまで待たなければいけない事には変わりがないのが悩ましい所だ。後手に回るのはできれば避けたいのだが……。

 

「何にせよ、昼の内に周囲の地形を把握して……夜はとにかく駆け回って鬼を探すしか無さそうだな。幸い、烏からの協力は十分に得られるという話だし」

「ええ。皆で力を合わせて、ぱぱっと解決しちゃいましょう!」

 

 討論をするにも情報があまりにも少なすぎる。いつも通りの事ではあるが、前情報無しのぶっつけ本番で行くしかないか。

 

 最後の問題としては件の鬼をどうやって見つけるかだが、問題は既に解決済みと言っていいだろう。なにせ今回の任務では相方が消えてしまったことで暇を貰っていた鎹烏を拾羽以上使って広域の探索を行うという。長期間の調査でも何一つ掴めなかったことを危惧したのか、気合の入れ方が一段と違うように思えた。

 

 これならば鬼がどこに出現しようとすぐに場所が特定できる筈。実に頼もしい。

 

「……ごちそうさまでした。それじゃあカナエ、そろそろ出発しよう」

「はーい」

 

 握り飯をすべて平らげ、茶を飲み干せばこの場にいる理由もなくなった。日没までそう時間的余裕があるわけでもないため、俺たちはとにかく鬼に関しての情報をほんの少しでも集めるため、茶の勘定を払い、荷物を背負って俺たちは茶屋を後にした。

 

 しかし期待はあまりしていない。何せ鬼殺隊が裏方担当の隠を複数動員してもろくな情報が集まらなかったのだ。今更俺やカナエの二人が同行したところで有力な情報が転がり込むとは思えない。

 

 だが、だからといって最初から何もしないで待つだけというのも、違う気がする。

 

 どれだけ有利な条件下にいようが、状況を改善する努力は怠らないべきだ。少なくとも時間を無為に浪費するよりずっと有意義であろうし、そうして拾ったほんの小さな一欠片の要素が、明日の己の命を救うかもしれないのだ。

 

 要するに、時間があるならば出来ることは全てやっておけ、だ。

 

「――――カァァァ! 義勇! 助ケテ! カァァァァー!?」

「ん?」

「あら? この声は……」

 

 さてどこから聞き込みを始めようかとあたりをうろついていると、遠くからバッサバッサと大きな羽ばたき音が近づいてくる。振り返ればこちらへと黒い影――――俺の鎹烏である黒衣が飛んでくるではないか。

 

 かなり焦った様子だが一体何があったのか。まだ真昼なのだから鬼に追いかけられているわけでもないだろうに……?

 

「ちょっと! そこの烏! 待ちなさぁぁ――――い!!」

「ギャァァァァ! 義勇! 俺ヲ隠セ! 早ク!」

「断る。一体何をしたお前」

 

 俺は黒衣を追いかけてきたであろう綺麗な青い瞳が特徴の、肩ほどまで伸びた短い黒髪を頭の両隣で結び留めた少女がぷんすこと怒っている様子を見て、きっとこいつが何かやらかしたのだろうと俺の服に潜り込もうとする黒衣の体を逃げられないようがっしりと鷲掴みにした。

 

「カァァ-ッ! コノ裏切リ者ォ!」

 

 俺が助けてくれないことを悟って黒衣が俺の手の中でジタバタと暴れ出すがもう遅い。

 

 かなり長い距離を走ってきたのかこちらにやってきた少女は肩で息をしながら俺が捕まえている黒衣をキッと睨みつける。本当に何やったんだこいつ。

 

「すまない、俺はこいつの相方……飼い主みたいなものなんだが、何か迷惑をかけてしまったのだろうか」

「貴方が飼い主さんですか!? 一体どういう躾けしているんですかこの烏! せっかくお小遣いを貯めて買った私の羊羹を食べるなんて!」

「……お前」

「黒衣ちゃん……」

「……俺ハ甘イ物ガ大好物デ、目ノ前ニ美味シソウナ羊羹ガアッタカラツイ……大好物ナノニ偶ニシカ食ベラレナイノ、ツライ……」

 

 完全にこちらにしか非が無かった。黒衣が甘党なのは初めて知ったが、だからって人様の物を勝手に盗み食いするのはどうなんだお前。

 

「はぁぁ……食べたい時は俺に言え。それくらい奢ってやるから」

「本当カ! ヤハリオ前ハ俺ノ”マブタチ”ダナ!」

「ちょっと、私の事はほったらかしですか!?」

「あ、すまない。ええと……これで足りるだろうか」

 

 俺はとりあえず弁償のために黒衣に「もうするんじゃないぞ」と釘を刺しつつ放してあげ、次に財布から一円札(現代換算でおおよそ一万円)を取り出し、少女へと渡した。そして少女はそれを受け取って数秒程眺めると、ぎょっと驚きの表情を見せる。

 

 渡したお金に何かおかしなところでもあったのか?

 

「あっ、あのっ! 貰えませんこんなに!」

「どうしてだ?」

「どうしてもなにも多過ぎますよ!? 私の買った羊羹そんなに高くありません!」

「義勇君、迷惑料込みにしても流石に多過ぎよ……。これじゃ貰った方も困っちゃうわよ?」

「そうなのか……?」

 

 金など俺にとっては食事と睡眠以外に使い所がないためあり余っており、別にこれくらい渡しても何ともないのだが。いや、よく考えれば確かに迷惑をかけたとはいえ会ったばかりの子供に一万円札を渡すのは不審者の行為な気がする。

 

 だがお金はもう少女にあげてしまった後だ。今更返してもらって減らした後また渡すというのも……それはそれで、自分が金に細かいケチな人間なような気がしてきて嫌だ。少女には悪いがお金はそのまま受け取ってもらおう。

 

「だが、それはもう君のお金だ。返してもらう気は無い。貯金でもなんなりして役に立てるといい」

「え、えぇ……? あの、お連れのお姉さん、この人大丈夫なんですか? 熱とか出していたりしてません?」

「うーん、残念だけれどこれで割といつも通りなのよねぇ」

「おい待てカナエ、残念ってどういう事だ」

 

 一体俺のどこにおかしな点があった。確かに花丸満点の対応とはいえないが大きな問題は特に無かっただろうに。

 

「義勇君ってなんかこう、変な所で鈍感というか、常識とズレてるというか……そこも魅力の一つなのでしょうけど」

「……? すまない、カナエが何を言いたいのか全くわからない」

「わからなくても大丈夫! 義勇君はそのまま持ち味を生かしてしのぶをメロメロにすればいいと思うわ!」

「??????」

 

 会話をしているようでまったく会話が出来ていないのは俺の気のせいだろうか。

 

 ううん……これは、俺のコミュ力不足が原因なのか? おかしいな、最近は色んな人と接しているからそれなりに会話力は身につけてきたと思っていたのだが、どうやらまだまだ未熟だったらしい。精進せねば。

 

「そういえば、あなたたちはこの町では見かけない顔ですね。旅行者なんですか?」

 

 考え込んでいると少女がやっと俺たちが外からやってきた人間だと気づいた。その口ぶりからしてこの子はこの町で暮らしているらしい。彼女かその両親ならばこの町の事情についてもある程度詳しい、かもしれない。

 

 いや、まずは彼女の問いに返事をしよう。こちらの質問はそれからでも遅くはない。

 

「ん……ああ、まあ、そんなところだ」

「私たちは旅をしながら『薬売り』をしているのよ~。ほら、私たちの背負っているこの箱に薬がたくさん入ってるの」

 

 そう、カナエの言う通り今の俺たちは『旅の薬売り』として扮しており、その印象付けのために大きな木箱を背負っていた。そして中身は紛れもなく多種多様な薬だが……当然ながら、それだけであるはずもない。

 

 実はこの背負い箱、外側だけでなく背負う側も開く仕組みとなっており、さらに言えば中は仕切りによって空間が二つ備わっている。外側の扉を開けば薬が入っているだけだが、背負う側を開けば刀――――つまり日輪刀が収納されているのだ。

 

 知っているとは思うが、明治九年に発行された廃刀令によって許可のない者以外の帯刀は違法となっている。それは公的にはその存在を明らかにしていない政府非公認にして私立の秘密組織である鬼殺隊とて例外ではなく、帯刀していればまず間違いなく通報されてしまう。

 

 とはいえ政府も俺たちの存在を認知しているため、捕まったとしても裏で色々してすぐに釈放してくれるらしいが、貴重な時間は確実に浪費されてしまう。だからこうして様々な手段を用いて人目に付かぬように持ち運ぶ必要があるのだ。

 

 どうしても目立ってしまう市街での任務なため、この特注の背負い箱や偽装のための薬を貸してくれた菫さんには全く感謝しかない。

 

「薬……あの! 売ってる薬には腰痛に効くものとかもありますか?」

「? ええ、あるわよ。売ってほしいの?」

「はい。実は昨日、お父さんが重いものを持ち上げているときに腰を痛めてしまって……」

 

 渡された薬は好きに使っていいとの事なので少女に提供することに問題は無いはずだ。

 

 扱いを間違えると取り返しのつかない劇薬の類は無いが、確か腰痛に効く飲み薬や湿布も入っていたはず。これなら少女の要望には十分応えられるだろう。それに少女の家を訪ねて彼女の父から話もゆっくり伺える。

 

 一石二鳥。この話を逃す手はない。

 

「わかった。だが念のため、薬を処方する前に詳しい症状を見る必要があるから、父のところに案内してくれるか?」

「はい! ありがとうございます、お二人とも!」

「うふふっ、元気な子ねぇ」

 

 ぱぁっと少女の満面の笑みに釣られる様に微笑みながら、俺たちは少女の家へと歩み始めた。

 

 

 

 後になって思えば、この出会いはまさしく運命の悪戯だとしか評せなかっただろう。

 

 神か悪魔が仕込んだような、残酷でどうしようもない……そんな道筋を歩んでいると俺が気づくのは、もう少し後の出来事だ。

 

 

 



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第弐拾伍話 観えぬ悪鬼

「……はい、これで終わりです。痛みが引いても数日はじっとしていてくださいね? でないと再発する恐れがありますから」

「いてて……ありがとよ、嬢ちゃん。くーっ、薬が染みるぜ……!」

 

 京橋區にある大通りに位置した二階建ての小さな定食屋【かんざき】。その店は一階を店として、二階を居住としている利用しているようで、今俺たちはその二階にある寝室でうつ伏せに寝ている中年の男性――――先程出会った少女の父親の手当てをしていた。

 

 どうやら仕入れた米俵を運んでいるときにふとした拍子で腰を痛めた、つまりぎっくり腰になったらしく、おかげで仕事もできないまま半日以上この腰痛と戦っていたらしい。

 

「これでお父さんはもう大丈夫なんですか?」

「ええ。でも無理をするとまた痛むかもしれないから、日ごろから軽い運動をして体を解したほうがいいわね」

「うーん、俺ももう歳って事かねぇ」

「もう、お父さんったらまだ三十過ぎたばっかりでしょ! 泣き言言わない!」

()()()、お前さん日に日に母さんに似ていくな……昔はあんなに父さんの背中を追いかけてくれたと言うに……」

 

 ぷんぷんと頬を膨らませながらアオイと呼ばれた少女は小さな手で父の頬をペチペチ叩き、父は苦笑しながら悲しいような嬉しいような言葉を漏らす。実に微笑ましい光景だ。

 

 ただ、まあ、俺の心境的には複雑極まりないのだが。

 

「ん……義勇君、どうしたの? さっきから何も言わないで」

「……いや、家族の団欒を邪魔しちゃ悪いなと」

 

 定食屋の看板に書かれた文字を見た時はまだ気にもしていなかった。しかし彼らの苗字が『神崎』だとしてまさかと思い……少女の名が”アオイ”であると知って俺は何とも言えない気持ちになってしまっている。

 

 神崎アオイ。その名は間違いなく、将来蝶屋敷に在籍する鬼殺隊員の名である。そして鬼殺隊に入る者は余程の例外を除けば大抵肉親を失った者が多く……これ以上は、言わなくてもわかるだろう。

 

 ただ、名前が偶然似ているだけの別人と言う可能性も決して無い訳ではない。とりあえず、この街に滞在している間は彼らの身の周りを注意しておこうと心に刻んだ。

 

「ああ、お前さん方。わざわざこんな所まで来てくれて、世話をかけるなぁ。薬も相場よりもずっと安く売ってくれたし、その上こんなべっぴんさんに診てもらうなんて男冥利に尽きるぜ」

「お父さん!」

「おっと、口が滑った。すまんすまん」

「ふふっ、二人はとっても仲良しなんですね」

 

 ちょっとだらしなくて抜けている父親としっかり者の娘。見事なまでの凹凸だ。

 

 しかし何時までも長話している訳にはいかない。俺は一度本題に戻すために小さく咳き込みし、改めてアオイの父である清蔵(せいぞう)さんと話をする。

 

「それで清蔵さん、やはり先程のお話に心当たりはありませんでしたでしょうか」

「あん? あー、何年も前から神隠しが起こってるって話か。つっても俺もあんまり詳しいことは知らないんだが……」

「些細な事でも構いません。お願いします」

 

 清蔵さんはこの町で十年以上暮らしているとの事。ならば何か切っ掛けのようなものを知っている可能性はあるかもしれない。そんな思いで俺は彼に頼み込み、清蔵さんは頭をガリガリと掻きながら少しずつ事を語り始めた。

 

「そうだな……最初に神隠しがあったのは、確か七年か、八年くらい前だな。なんでも若い大工の一人が飲みに行ったっきり行方を眩ましたんだ。探しても死体すら全く見つかんねぇから、酔ったまま川に落ちてどこかに流されちまったんじゃねぇかって皆思ってたな。でもその一か月後にまた似たような事が起きて、その一か月後もまた……って感じが今の今まで続いちまってる。おかげで深夜に一人で出歩く奴はすっかり少なくなっちまったな」

 

 事の起こりは七、八年前。一ヶ月に付き一人だとすると、犠牲者はもう八十人以上に上ることになる。掛かった時間や町の規模からすれば小さな人数かもしれないが、住んでいる者からしても決して無視できる人数では無いはずだ。

 

 だからこそ疑問が一つ浮かび上がる。不可解な事件とは言え、此処まで被害が増えれば国家機関も動く筈なのでは、と。

 

「その、失礼ですが警察の方々は? まさか何もしていない訳はないでしょう」

「ああ、三年前に一度大規模な捜索が行われたんだがな、これが全然駄目だったんだ。半年間百人以上が調べても手掛かりが一切無し。むしろ警察まで被害が及ぶ始末でな。今も細々と調べちゃいるようだが、あんまり積極的とは言えないね。ったく、情けねぇ……」

「……………」

 

 警察が百人動員されて尚手掛かりが一切無し。となると、隠密系の血鬼術を保有して居る可能性が極めて高い。

 

 であるならば、鎹烏による広域の捜索はあまり効果的でないかもしれない。どれだけ烏の目がよかろうが、そもそも姿が見えなかったり、認識できなければ骨折り損に他ならないのだから。

 

 鬼殺隊が大きく助力すると聞いて一晩か、最悪二日三日で片づけられると思っていたが……もしかするとこの案件、かなり厄介かもしれない。

 

「その……神隠しに遭った人達に何か共通点などはあったりしますか?」

「いんや、全然。男だったり女だったり、大人も子供もお構いなしだ。……ああ、ただ、老人が居なくなったってのは聞いたことねぇな。あと、最近は女子供が被害に遭いやすいような……」

(……………!!)

 

 鬼にも多様な趣味趣向があるが、多大な鬼殺経験を持つ雫さん曰く鬼は女や子供の肉を本能的に美味と認識し好むらしい。男は肉が固いだとか、女子供の方が力が弱くて抵抗されにくいとか、単純に女子供が泣き叫ぶさまを見ながら肉を食いたいと言う下種な理由もあるかもしれないが、とにかく女子供は鬼に狙われやすいわけだ。

 

 そして此処には少女かつ、一定以上の力量を持つ鬼殺隊員が存在している。即ち、()()()として利用できる人材(胡蝶カナエ)が。

 

「――――義勇君」

「待て、カナエ。少し、待て」

 

 恐らく俺と同じ考えに至ったのだろうカナエを手を上げて止めながら、俺は思考を走らせる。

 

 確かに、巧みに潜んでいる鬼を釣り上げられる可能性が一番高いのは俺かカナエかどちらかと問われれば無論カナエの方だ。彼女の見た目は全国水準でも間違いなく上から数えた方が早いだろうし、そんな彼女は男を好んで食する奇っ怪な鬼でもなければ極上の糧に他ならないだろう。

 

 合理性を取るならば、彼女を使った作戦を組めば鬼殺の成功率は確実に上がる。だが残念ながら、俺はそんな事を認められるほど冷酷な人間にはなれなかった。

 

 何か他の方法は無いか。何か、他人を危険に晒さず鬼を誘き寄せられる策は。

 

 クソッ、俺が稀血であれば進んで餌役に志願するものを……!!

 

「もう、意地張らなくてもいいのよ? 私だって自分の身くらい、自分で守れるんだから!」

「カナエ……」

「義勇君、私を信じて」

 

 カナエは確かに強い。柱にはまだまだ及ばずとも、入隊してからまだ半年もたっていない隊士としては驚きの速度で成長していっている。雫さんにも下弦程度ならば防御に徹すれば即座に殺されることはまずないとお墨付きも貰っている。

 

 信じることは大切だ。だがそうした結果最悪の末路にたどり着いたら? そう想像するだけで身体の芯から凍えそうな悪寒に苛まれる。

 

(………落ち着け、冨岡義勇。冷静に考えるんだ。感情的に、なり過ぎるな)

 

 一旦深呼吸して心を落ち着かせる。

 

 失う事を恐れるあまり視野を狭めてはいけない。自分の意見を押し付けるのも駄目だ。怖いのは嫌だが、相手を意思を蔑ろにするのはもっと嫌だ。

 

 そう、信じるんだ。相手を。そして俺は、自分にできる事を全力で成す。それで十分だ。

 

「……油断はするなよ」

「義勇君! ありがとう!」

 

 嬉しさのあまり俺の両手を握ってブンブンと上下に振りまわすカナエ。そして神崎父子はとても微笑ましいものを見る様な目線を送ってきている。やめてくれ、そんな恥ずかしい視線で俺たちを見ないでくれ。

 

「いやぁ、何が何だかわからんが話がまとまったようで何よりだ! やはり仲のいい恋人ってのは見てて飽きんな!」

 

 恋人ちゃいます。ただの仲の良い友人です。

 

「きっと何年も共に過ごした仲なんですね! 羨ましいなぁ……」

 

 知り合ってまだ五ヶ月少しです。

 

「こっ、こここ恋人!? ちっ、違いますよ! 私と彼はただの友人で……それに義勇君にはしのぶが……」

 

 お前は真に受けるんじゃない。それにしのぶまで巻き込んでいるのは何故だ。

 

「「あ~、三角関係……」」

 

 一体何に納得したんだこの親子共。

 

 口を出す暇も無く話が明後日の方向に転がり落ちそうになり、俺は顔を覆いながらとりあえず訂正しようと口を開いた――――が、その直前に襖が開いたため俺の言葉は詰まり、全員の意識が襖を開いた存在へと向いていく。

 

「親父! 仕事にひと段落ついたから様子を見に来たぞ!」

善継(よしつぐ)、俺の事はいいから母さんを手伝ってこいって言ってんだろうが! ったく話を聞かねぇ息子だなぁ」

「親父に似たんだよ。それに、お客さんは全員帰ったし食器も全部洗い終わったんだ。なら怪我した親の顔くらい見ても罰は当たらないさ」

 

 軽快そうに笑いながらドスンと畳の上に座する、二十歳前後ほどだろうと見えるいかにも好青年といった感じの男。名は神崎 善継。どうやらこの家の長男らしい。

 

 今日は身体を悪くして倒れた店長()の代わりとして働いており、二階に上がる前も少しであるが彼の姿を見かけた。とても力強く真っすぐで、情熱に溢れた男といった印象だ。

 

「お、アンタらがうちの親父の面倒を見てくれた薬師さんだな? 俺は神崎善継。いやぁ、助かったぜ。俺は昼間外に出れねぇからさ。かと言ってアオイを一人で遠くに行かせるのも心配だったからな!」

「は、はぁ……あ、俺は冨岡義勇です」

「私は胡蝶カナエといいます。よろしくお願いしますね、善継さん!」

 

 今まで出会ったことがないようなパワフルなコミュニケーションに俺は気圧されるばかり。

 

 似ている人物を上げるとするならば錆兎であるが、彼は厳しさの裏に優しさを秘めた男。こうして気持ちを隠さず直球で相手へぶつかる人種は初めてで、どう対応すればいいのかわからない。

 

 ――――いや、待てよ。昼間外に出れない? どういうことだ?

 

「あの、善継さん? 昼間外に出れないと言うのは、どういう事でしょうか?」

「うん? ああ、別にそう難しい理由は無いさ。ただな……」

 

 カナエも鬼殺隊として同じことが気になったのだろう。日光を浴びられない、という事は俺たちにとって無視できる事案でない。

 

 その追及に対し善継は頬を掻きながら袖を軽くまくると、近くの窓から差す光に軽くかざして――――光に当たった皮膚がすぐに赤く変色すると、蕁麻疹のようにボツボツとしたものが浮かび上がってくるではないか。

 

「いっつつ……えーと、こんな感じで、俺は日光を浴びると出来物が浮かぶみたいでな。おかげでまともに日の下を歩くこともできねぇんだ」

「なるほど……すみません。わざわざ見せていただいて」

「いいってことよ、このくらい!」

 

 どうやら俺たちの心配は杞憂に終わった様だ。恐らく彼は生来の体質で日光を受け付けられないのだろう。何はともあれ、彼が鬼であるなんて最悪の予想が外れたようで一安心だ。

 

「あっ、あのっ! お二人とも、お兄ちゃんのこの体質、何とかできませんか? 何か便利な薬とかで……」

「おいアオイ、無茶を言うなって。俺の体は町一番の医者でも治せなかったんだぞ?」

「でも……」

 

 ふむ、と俺は顎に手を当てて頭の中を探ってみる。

 

 恐らく彼は光線過敏症……要するに日光アレルギーだ。紫外線を浴びると体内で過剰な免疫反応が誘発され、皮膚に皮疹ができてしまう。通常ならば日光を浴びてすぐになんてことは無く数分ほどは平気なはずだが、きっと通常のアレルギーよりも更に過敏な体質なのだろう。

 

 これの根本的な治療はまず無理だ。先天的なものなのだから流石にどうしようもない。かといって紫外線を遮断する日焼け止めは今の時代には存在しない。初めて日本で販売されるのがおおよそ大正末期。まだ大正元年も迎えていない今そんな物が出回っているはずもない。

 

 一応、一部の植物油脂や精油が同じ効果を持つと聞いたことがある気もするが……流石にこれ以上は専門家の領分だ。俺の一般人程度の知識に過度な期待などしてはいけない。

 

 遺憾ではあるが、この問題は俺たちでは手に余るものだった。

 

「すまない。残念だが、俺たちではあなた方の力になれそうもない」

「そんな、気にしなくていいって! 俺は俺なりに楽しくやってるんだから、そう落ち込まないでくれ。これから生きて行きゃいつか何とかなるさ!」

「ええ、その通りです! 今は駄目でもこれから先どうなるかわからないんだから! だから義勇君もアオイちゃんもそう暗い顔しないで、笑顔笑顔♪」

「あ、ああ……」

「お、お兄ちゃんが二人に増えた……」

 

 期待を空振りさせてしまっても全く気にしていないのか善継さんはバンバンと俺の背中を叩きながら励ましてきた。カナエも馬が合ったのがいつも以上の元気さを発揮している。何だこの謎の相乗効果は。

 

「こらこら三人とも。客人の前であまり大きな声を出してはいけませんよ?」

「あ、お母さん!」

 

 俺が明るさ百倍元気千倍といった様子の二人に顔を引きつされていると、空いた襖から割烹着を着た泣き黒子が特徴の、美しい妙齢の女性が急須と湯呑を乗せたお盆を持って入ってきた。

 

「どうぞ。粗茶だけど、お口に合うと何よりだわ」

「ど、どうも……」

 

 恐らくこの一家の母親だろう彼女は音も立てない綺麗な正座をしながら、急須から湯呑に茶を注いで俺たちに手渡してくる。年上特有の、言葉にし難い艶美さに思わず声を震わしながら俺は湯呑を受け取り、唇が乾かないうちに啜る。

 

 ……あ、本当においしい。

 

「おーい小僧。いくら俺の嫁の菖蒲(あやめ)が別嬪だからって一目惚れしちゃあいかんぞ?」

「えっ、あ、い、いえ、別にそんなことは……」

「ぎっ、義勇君! あなたもしかして年上好きだったの!? そんなぁ……あの手この手を駆使してしのぶとくっつけさせる私の完璧な計画が……!?」

「おい待て。ちょっと待て」

 

 些細な仕草で動揺したことを見抜かれたのか見事に清蔵さんに揶揄われてしまう。だがこれは別に邪な感情があるわけではないと俺は弁解したい。

 

 俺は単純に落ち着いた雰囲気の年上の女性……つまり蔦子姉さんによく似た人に対しては何と言うか、酷く緊張してしまうのだ。家族に似た人に弱るというだけなので、別に惚れた腫れたとかそういうのはない……筈だ。たぶん。

 

 いや、それよりもカナエがなにか無視できないことを口走ったのは気のせいか? 俺の事はどうこうしても構わないが、しのぶに迷惑をかけるのはいくら姉だからと言っても駄目だろうお前。

 

「とても賑やかね。まるで家族が二人増えたみたい」

「あ、す、すみません。押しかけた身なのに騒いでしまって……」

「いいのよ。自分のお家だと思って寛いで行きなさいな。誰も迷惑だなんて思っていないんだから」

 

 鼻腔を擽る母性。駄目だ、これ以上この人の傍にいると気を抜いた瞬間に心がとろけそうだ。す、速やかに脱出しなければ……!!

 

「お、俺たちはこの後用事があるのでこれで……!」

「あら、そうなの。じゃあもしまた此処に来ることがあったら、遠慮せずにいらっしゃい。今度はちゃんとしたおもてなしをしてあげるから」

「うーんもう、義勇君ったら恥ずかしがり屋なんだから~」

 

 あまりの居たたまれなさに俺は逃げる様に荷物を背負いながらカナエを引っ張るようにしてこの場を後にした。

 

 当初の目的は果たした上での迅速な撤退なのだから、これは決して羞恥による逃走ではない。そこを勘違いしてはいけない。……本当だぞ?

 

「ふっはは! また来いよ少年! 今度は俺お手製の天ぷら定食を御馳走してやるからな!」

「お二人とも! 元気で!」

「お仕事頑張れよ~! 怪我するんじゃないぞ~!」

「またいらっしゃい。何時でも待っているわ」

 

 ……理想の良き家族とは、きっとああいうのを言うのだろう。俺たちは去り際に神崎一家に見送られながら(清蔵さんは身動きが取れなかったので窓から)彼らと跡を濁さずに別れることができた。

 

 暖かさに満ちた人達だった。だからこそ、俺は憂えざるを得ない。

 

 何もしなければ恐らく彼らは死ぬ可能性が高い。もしあの神崎アオイがただ名前が似ているだけの別人ならば、俺は心の底から安心できる。だが同一人物だとするなら……きっと、娘だけを残して彼らは消えてしまう。

 

 鬼による悲劇が何時訪れるかわからない以上、そんな事態を防ぐためには事が起きるまでずっと彼らを見守り続けなければならない。だがそれは不可能だ。俺が鬼殺隊に属さない自由人ならばそんな選択肢もあったかもしれないが、今の俺は一つの組織に属する人間だ。

 

 規律違反は余程の事態でなければ許されるべき事ではない。俺は鬼殺隊の一員として、各地に蔓延る鬼たちを斬りに行かねばならない。何時までも此処に居続けるなどできないのだ。

 

 ましてや柱でもない俺が自分以外の誰かを彼らの警護に就けることなどもできやしない。理由が説明できないし、何より鬼殺隊は常に人材不足。平隊員の一人に過ぎない俺の頼みなど一蹴されて終わりだろう。 

 

 それでもこの無理を通したいのならば、俺は今まで築き上げてきたものを崩す覚悟をしなければならないだろう。当然、そんな事をすれば打倒鬼舞辻への道が少しばかり遠ざかってしまうだろう。

 

 いつか将来相対する巨悪のために彼らの犠牲を容認するか。

 

 それとも目の前にある小さな幸せを守るために背を向けるか。

 

 ――――どちらが、正解なんだ?

 

「んふふ、優しい人達だったわね~。いつかまた会えるかしら?」

「……ああ。生きていれば、いずれ、きっと」

 

 彼らを守りながら、どこかで助けを求めている人達も同じく救い上げる。

 

 そんな都合のいい選択肢を選べないのは、どうしてだろう。

 

 

 

 誰もが皆、幸せに笑い合う未来は、一体何処にあるのか。

 

 

 

 一体、何処に。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 誰もが寝静まった深夜。太陽はすっかり姿を隠し、その身を欠けさせた白い月が町を照らす中、俺たちは路地裏のほとりで人目から隠れる様に潜んでいた。

 

 当り前だが別に如何わしい行為をするためでは断じてない。何処に鬼が潜んでいるかわからない上に相手が高度な潜伏能力を持っていると仮定した場合、安易に姿を晒していれば奇襲される可能性が極めて高い。故に、本格的に活動を行う前までは身を隠してその危険を避けるという訳だ。

 

「カナエ、身体に異常はないか。ふらつきがあるならすぐに言え」

「ううん。大丈夫、このくらいで倒れる程やわな鍛え方はしてないわ」

 

 俺たちが独自に立てた、カナエを囮とした鬼の誘引作戦。今もなお空を飛び回っている鎹烏たちが鬼を見つけられない可能性を想定し、独断ではあるがこれを実行することにした。その内容は実に単純。

 

 作戦内容は至って単純。夕方の内に注射器で抜いておいた彼女の血液をたっぷりと滲ませた包帯をカナエの手首に巻きつけ、人気の無い場所を動き回らせる。たったそれだけである。

 

 あんまりに単純すぎて本当に効果があるのかと疑問に思うかもしれないが、恐らく成功する可能性はかなり高いと俺は踏んでいる。

 

 もし相手が智慧の回る悪辣な鬼であれば裏をかかれるかもしれないだろうが、今回相手にする鬼は飢餓状態、もしくは空腹に近い状態だろうと推察しているからだ。そんな状態で濃密な血の匂い、それも生娘かつ健康な少女のものを嗅げばどうなるか想像に容易い。

 

「俺は可能な限り身を隠しながらお前の周囲を探り続ける。だがもし鬼に直接襲われた場合、すぐに大声を出して俺を呼ぶんだ。いいな?」

「ええ、わかっているわ。カナエさんにドーンと任せておきなさい!」

「……本当に頼むぞ」

 

 何故俺がこれほど心配しているかというと、単純に親友かつしのぶの姉という事もあるが、今の彼女の恰好が一番の懸念材料と化しているからだ。

 

 今のカナエは昼間と同じ普段着、綺麗な花柄の振り袖姿だった。これはカナエの発案であり、「相手が長く生き残っている鬼ならば、鬼殺隊の恰好をしていれば警戒される可能性が高いから」という事らしい。確かに理に適ってはいるのだが……こんな格好でまともに戦えるとはとても思えない。

 

 実際、腕はともかく足の動きはかなり制限されるだろう。やりようによっては上手く立ち回れるかもしれないが、それでも鬼との戦いで足回りのハンデを負うのはやはり致命的な問題だ。戦いに於ける動きはもちろん、いざという時逃げることすら難しくなるのだから。

 

 だが間違ったことを言っているわけでは無いため、考えなしに止めるわけにもいかず……結果的に更に慎重な心構えで作戦に挑まなければいけなくなった訳である。まあ、元々細心の注意を払う予定ではあったので、そう変わらないかもしれないが。

 

「それじゃあ行ってくるわね。義勇君も頑張って!」

「ああ」

 

 そうこう話している内にそろそろ始めなければならない時が来た。何時までも引き摺ってもう被害者が出た後でした、なんて笑い話にもならない。

 

 カナエは小さく手を振りながら路地裏の奥へと入っていった。俺も一分ほど間を置いて、屋根の上から彼女を追跡する準備をしなければ。

 

 ……それにしても。

 

「やけに、風が吹いてるな……」

 

 空を見れば雲はそこまで早く動いていないのに、地上では随分と強く風が吹いている。

 

 ただまあ、そういう日もあるか。と、俺は何てことも無いそんな違和感をもみ消しながら、屋根の上に登るため壁の出っ張りに手をかけた。

 

 

 

 

 

 

「はぁ……義勇君ったら本当に心配性なんだから」

 

 呆れたような呟きを口にしながらカナエは路地裏を少しずつ歩いて行く。道中で脳裏に浮かべるのは、いつも何を考えているのかわからない少年の顔。

 

 胡蝶カナエにとって冨岡義勇という存在は、恩人にして無二の親友に他ならない。選別時には錆兎と共に己の命を救い、更にその後は最愛にして唯一の肉親であるしのぶの命も救ってもらった。これを大恩人と言わず何と言う。

 

 かと言って彼に対して何も不満が無いのかと言えば当然違う。その不満の筆頭は妹の甘い恋心に全く気付く素振りの無い超が三つ付くくらいの朴念仁っぷりではあるが――――

 

(義勇君……私って、そんなに頼りないかしら……?)

 

 冨岡義勇は、決して悪い人ではない。むしろ極めて善良な精神を持っていると言っていいだろう。

 

 助けを求める見ず知らずの誰かのためにその刃を振るい、悲しみに明け暮れる者のために涙を流し、常にその全霊を以て悲劇を打ち消そうともがき続ける。鬼殺隊に属する隊員として模範的かつ理想的と言える。

 

 反面、その異常とも言える自己評価の低さとそれに伴う自己犠牲の精神、何より行き過ぎた責任感のせいで重大かつ過酷な役目は例え適性があろうがなかろうが真っ先に自分で引き受けようとする悪癖があった。

 

 それが相手を心配しての行動であることはカナエも重々理解しているが、やはり悲しくなってしまう。

 

 何故ならば、それは相手の力を信じていないことに他ならないのだから。かつて自分がしのぶを心から信じきれていなかったように。

 

「うーん……どうすればいいのかしら……?」

 

 とはいえそれは仕方のないことだとカナエはわかっている。何せ彼との付き合いはそこまで長いわけでもないし、自分は十分強いと義勇に示せるだけの実績を打ち立ててきたわけでもないのだから。

 

 精々が同じくらい厳しい修行を共に潜り抜けた程度で、やはりそれは相手を信じる根拠としては少々弱い。

 

「……うん、そうね。やっぱりちゃんと今回の任務で活躍して、私が頼れる仲間だって認識してもらうのが一番だわ!」

 

 であるならば、信じられるに足る実績を作るまで。任務で文句なしの活躍をしてみせれば、きっと義勇も自分の事を確かな戦力として信頼してくれるはずだ――――そう意気込んだカナエは腰に下げた刀の鞘をぎゅっと強く握りしめながら進み続けた。

 

(…………それにしても、嫌な風ね)

 

 先程から妙に纏わりつくような粘つく風の不快さに、カナエは少しだけ顔を歪めた。まるで生き物の吐息のように生暖かいそれは、この路地裏に入った時から止めどなく吹き荒れている。

 

 もしや鬼の仕業か? と思い周囲を見渡してもそれらしき人影は見当たらない。ずっと後ろで周りを警戒しているだろう義勇からも何の反応も無く、言い知れぬ不安と空気の不気味さにカナエの歩みは徐々に重さを増していく。

 

 歩く。歩く。歩く。その度に風と刀を握る手の力が強くなっていく。

 

 ――――そしてついにカナエの足が止まった。

 

「え……?」

 

 ほんの一瞬だけ視界が捉えた人型の”何か”。それが自分の真正面にあった()()()()。なぜこんな不明瞭な表現しかできないのか。それはその”何か”が……消えたからだ。

 

「今のは、一体」

 

 疲れによる目の錯覚か――――? そう思った。()()()()()()()

 

 その瞬きする間しかないだろう油断の隙間を突く様に――――カナエの前方から何かが弾ける音がした。突然起こったそれに反応してカナエは抜刀を試みるも、次の瞬間彼女の鳩尾が何かに押し込まれたように凹んだ。

 

「っ――――――――ぎ、ぁっ………!?」

 

 さながら無防備な状態で一流ボクサーのボディーブローを叩き込まれたようにカナエは肺の中にあった空気の大半を吐き出させられながら背後へと吹き飛ぶ。カナエは何度も転がる最中に全集中の呼吸を試みるも、圧迫された肺が酸素を求めて蠢くため正しい呼吸が出来ない。

 

 そしてそれは一秒や二秒で立ち直れるようなものではない。その上呼吸を封じられることは鬼殺隊にとってはその戦法の根本そのものを崩されたようなもの。この状況は、非常に危険だ。

 

「が、はっ、ごふっ、う、ぅっ……!?」

 

 肺の苦しみに胸を抑えつけて悶えながらもカナエは瞼を開いて先程攻撃が飛んできたであろう、正面方向を睨めつける。

 

 何かが、いる。透明で、輪郭がぼんやりとしか見えないが確かに人型をした何かがそこに立っていた。

 

(透明になる血鬼術……!)

 

 道理で姿が見つからない訳だとカナエは歯噛みする。想定はしていたが、まさかこれ程至近距離に居てもなお気づけない程高度な透明化だとは想像もしていなかった。あるいはただ自分が未熟なだけか。

 

 ともかくカナエは頭の中で即座に撤退という選択肢を取る。先程不意を突かれた際に刀を取り落としてしまった。呼吸も痛みからか上手くできない。である以上、逃げる以外の選択肢の結末には死あるのみ。

 

 だが、逃げようとしても逃げきれるかどうかは別問題であり――――残念ながら、この状態で獲物の逃亡を許すほど相手の鬼は優しくはなかった様だ。

 

「ぁ、ぐっ!?」

 

 逃げるために背後へと跳ぼうとした直後、カナエは透明な何かに口を押えられながら壁へと身体を押し付けられてしまう。普段の隊服姿ならば早く動けて逃げ切れていたのかもしれないが、今の彼女は極めて動きを制限された和装。作戦の成功率を上げるための行為だった筈が、ここに来て仇となってしまった。

 

 ともかく、これでもうカナエが逃げ切れる可能性は無くなった。そして口を押えられているため、力を出すために全集中の呼吸をすることも誰かに助けを求める事もできない。

 

 即ち――――詰み。

 

(う、そ)

 

 あんなに頑張ったのに。努力してきたのに。その全てが無意味だとでも言うような一方的な蹂躙。

 

 不意打ちだから? 姿が見えなかったから? だからどうした。鬼との戦いでは卑怯なんて言葉は存在しない。負ければ死んで餌になる。言い訳など何の役にも立ちやしない。

 

「……ハァァァァァァ……こんなに旨そうな血の匂いで誘いやがってよぉ……クハッ、ハハハハハハハッ!! こうして態々お誘いに乗ってやったんだ! お望み通り食ってやるよぉ、小娘ぇ!」

(ひっ)

 

 微かに耳に届く、鬼の物と思しき吐息と嘲り。口の中は透明化されていないのか、血管の這った鋭い牙と真っ赤な口内がカナエの視界に入る。

 

 身体が固まって震える。抵抗したくても恐怖のせいか指先すらビクとも動かない。まるで小さな子供の様に、恐怖に震えてただただ涙を流し続ける。

 

 鋭い牙の先がカナエの頸筋にぷすりと刺さり、血の雫が滲み出る。そんな小さな傷の筈なのに、カナエにとっては頸を噛み千切られたのではないかというほど痛く感じた。そして牙が彼女の頸動脈を食い破るまで後数秒も無い。

 

(義勇、君――――助けて……!!)

 

 唯一残った蜘蛛の糸にすがるよう、カナエは目を閉じながらそう強く願った。間に合うわけがないと諦観しながらも、そう願わずにはいられなかったのだ。

 

 

 

 そして天は彼女を見捨てなかった。

 

 

 

 

【水の呼吸 捌ノ型】

 

 

 

 

「【滝壷】ォォォォ――――――――ッ!!!」

 

 

 

 

 空から降る滝の如き激流。断頭台の刃の如き重厚な一撃で、俺はカナエを抑える鬼の右腕を抵抗も無く撥ね飛ばした。

 

「ぃ、ぎ――――ぎぃゃぁぁあぁぁぁあああぁぁあああああああああッ!!?」

 

 透明な鬼が噴水の様に血が噴き出している腕の断面を押さえながら悲鳴を上げる。その隙に俺は脱力しているカナエの体を抱き寄せて、足で彼女の落としたであろう刀を引き寄せながら鬼からなるべく距離を取る。

 

「カナエ! 無事か!?」

「義、勇……君?」

「遅れてすまない。本当に……無事でよかった」

 

 突如爆音が鳴ったにも関わらず、先行したカナエが何の反応も示さない。俺は即座にそれを異常事態だと判断して彼女の元に駆けつけた。おかげで間一髪で間に合う事ができた。判断があと数秒遅れていたらと思うとゾッとする。

 

「ぐぅぅぅぅぅぅっ……!! てんめぇぇぇッ……鬼殺隊の小僧ぉぉぉぉぉっ!! よくもっ、よくも俺の腕をぉぉぉぉ!!!」

「知るか、この糞野郎……!!」

 

 カナエの状態は、あまりよくはない。外傷は殆ど無いが、身体が異様に震えていた。あの鬼は彼女を随分と甚振ってくれたようで、怒りのあまり俺は刀の柄からミシミシと音がするほど手に力を入れてしまう。

 

 だが我慢する必要はない。この鬼は殺す。大切な友人を嬲ってくれた礼は倍にして返してやる。

 

「ふーっ、ふーっ……! ……あ? お前、その顔……まさか、お前があの方の言っていた痣者の小僧か!!」

「何…………!?」

 

 情報が既に共有されているとは、あの臆病者にしては手が早い。いや、だからこそか? ――――まあ、どうでもいい。俺の存在を相手が認知していようがいまいが、今するべきことに変わりはない。

 

「お前を倒せばあの方から血を頂ける……! 俺のために死ねやァッ! 糞餓鬼ィィィィィイイイイイ!!!」

「餓鬼はお前だろうがァァァァァアア――――ッ!!!」

 

 再生された鬼の右腕が振るわれる。すると透明な三日月状の何かが四つ、此方へと飛んできた。すぐさまそれを刀で斬り払う――――が、切り裂かれたものが一部俺の頬を掠り、肌に赤い線が浮かび上がった。これは、まさか……

 

「鎌鼬……! カナエ! 頭を抑えて伏せていろ!」

「っ、う、うん……!」

 

 この攻撃方法からして相手の血鬼術は恐らく風の操作。そして攻撃する際に一瞬、鬼の腕の形状や色がはっきり見えた。

 

 推測だが、恐らくあの透明化の仕組みは空気の層を幾重にも重ねることで光を屈折させるというものである可能性が高い。故に風を使った攻撃をする際には自動的に解かれるのだろう。であるならば、進みながら相手の位置を割り出すのはそう難しい事ではない。

 

 そして幸い今放たれている鎌鼬は刀で十分切り裂ける程度の攻撃力。ならば攻撃を凌ぎながら相手の首の高さを図りつつ一気に懐に飛び込んで頸を断つ。これで行ける――――!!

 

「オォォォォオオォォォオオ――――ッ!!」

「なっ、何ぃ――――っ!?」

 

【拾ノ型 生生流転】

 

 正面から迫りくる攻撃を真正面から叩き斬りながら俺は鬼との距離を詰めていく。それに応じて鬼が後ろへ退く速度と鎌鼬の威力がどんどん上がっていくがそれはこちらも同じこと。これならば、俺が奴に追いつく方が早い――――!!

 

「クソッ、透明化のせいで技の威力がっ――――ぁぁぁぁあクソがぁぁぁあああああッ!!!」

「貰ったァァァァァ――――!!」

 

 間合いに入った。そう確信した瞬時に俺は刀をやつの頸があるだろう場所へと横薙ぎに振るう。そして肉を裂く確かな手ごたえが刀から伝わってきた。

 

 

 だが――――外した、と俺は直感的に理解した。

 

 

 刃が頸に当たった瞬間、鬼は透明化に使っていたであろう全身に纏っていた風を全て前へと放出することで後ろに飛びつつ、風で俺の腕を押しのけることで狙いを頸から顔へと逸らしたのだ。

 

 更に俺はその風を間近に当てられたことにより腕だけでなく全身を吹き飛ばされてしまう。追撃するように目に砂が入ったせいで視界まで潰されてしまった。

 

 それでもどうにか勘頼りで受け身を取り、急いで目に入った砂を擦り取りながら瞼を開けた瞬間――――

 

 

 

血鬼術(けっきじゅつ) 空砲(くうほう)螺旋息吹(らせんのいぶき)

 

 

 

 巨大な竜巻が地面を削りながらこちらへ迫る光景が目に飛び込んできた。

 

 

「まずっ――――――――」

 

 

 

 

 

 

 その日、京橋區の一角でけたたましい破壊の音が木霊した。

 

 

 日が昇った後に、住民たちは目撃することになる。

 

 

 まるで嵐でも過ぎ去ったかの様に、荒々しく円状に刳り貫かれた路地裏の惨状を。

 

 

 

 

 




何度も自分で書いた設定を見直してるんだけどオリジナル下弦どもの能力が盛りに盛られてて我ながら苦笑いしか出てこない。特に参から上の奴らが非常に酷い

こういうのってどこまで許されるのかわからんから加減が難しいのよねぇ。下弦だけに(渾身のギャグ)


今回の更新はここまでです。本当はもう少し書いてから投稿したかったけどそうしたらリアルの都合上一ヶ月以上先延ばしになる可能性が非常に高かったのでキリの良い所で切り上げて投稿させていただきました

次の投稿は一ヶ月先、遅くとも二ヶ月に内には投稿したい(出来るとは言ってない)


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第弐拾陸話 敗走の後に

二ヶ月もかけて書いたくせにまだ下弦の伍編終わらせられないのかこの猿ゥ!

というわけで出来た分の投稿はしますが話の区切り的にまだこの章は終わりません。ウッソだろお前……(Vガンダム)



「……………いっつ」

 

 窓の外から見える夕暮れ。未だ鳴りやまぬ賑やかな町の喧騒を借りた宿の一室で聞きながら、俺は上半身に巻き付けている包帯を慎重に解いていく。

 

 解いた包帯にはこれでもかというほど乾いた血がこびり付いていた。当り前だ、背中の皮膚を大きく抉られていたのだから。だがむしろこの程度で済んだことを幸運と思わなければなるまい。――――下手すれば、原形を留めない程の惨状になっていたのかもしれないのだから。

 

「……くそっ」

 

 路地裏での交戦から二日が経過した。

 

 俺はあの時迫る暴風竜巻を避ける一心で痣を発現させ、後ろで伏せていたカナエを抱えながら全力で建物の屋根へと跳び上がることで九死に一生を得た。ただ、無傷という訳にはいかなかったが。

 

 跳び上がる瞬間、竜巻が俺の背中を掠めた。するとどうだろうか、鬼の生み出した竜巻がまるで削岩機のように俺の背中の皮膚を服ごとごっそりと抉っていったではないか。とてもではないが俺は戦闘を継続できる状態では無くなったため、撤退せざるを得なかった。

 

 しかし不幸中の幸いと言うべきか、その晩とその翌日においても鬼による犠牲者らしき存在は確認されなかった。理由はわからないがあの鬼は俺たちと交戦後そのまま撤退し、人を食うこと無く行方を眩ませて身を潜めたようだ。

 

 鬼を仕留められなかったのは心残りだが、その事を聞いて俺は一先ずは胸を撫で下ろせた。だが、問題はまだまだ残っている。

 

「すぅ………すぅ………」

「…………カナエ」

 

 俺は隣で寝息を立てながら深い眠りについているカナエの顔を見る。

 

 あの時数秒遅ければ死んでいただろうカナエについては、身体的外傷はほぼ無かった。一応首筋に微かな傷があったが、薬を塗って一晩寝かせれば痕も残らない程度のもの。……しかし、彼女は一晩越しても未だ目覚める気配がない。

 

 一応町医者を呼んで診てもらったりもしたが、身体に異常は無いらしい。ならば原因はやはり、心因性のものだろう。

 

 彼女とて今の今まで死の間際に立たなかった訳ではないだろうが、今回は訳が違う。微かな情報を頼りに推測すれば、恐らくカナエは抵抗することすら許されずに組み伏せられた。それはきっと、彼女が今の今まで築いてきた自負を打ち砕くには十分な出来事だったはずだ。

 

 鬼を倒すために、鬼に脅かされる人を助けるために努力してきたのに、それらを無意味と言わんばかりに一方的にやられたのだ。精神的ショックは、大きいに違いない。

 

(応援要請は……いや、気が早すぎる)

 

 ともあれ、俺は傷こそ負ったが戦線復帰まではそう遠くないはずだ。痣者になった恩恵か、傷の治りが尋常でなく早まっている。昨晩までは痛みにうなされていたと言うのに、薬を塗って一晩寝るともう身動きが取れるほどになっていた。この調子ならあと一日あれば戦うには十分な程度には回復出来ているだろう。

 

 だがカナエが何時目覚めるかわからない以上、前と同じように十全な状態で任務に望むのは難しいとしか言えない。なら増援を要請するか……? と一瞬逡巡するが、要請したところで確かな戦力が送られてくる保証など無い。

 

 もし相手の鬼が十二鬼月であればこの上なく信頼できる戦力である柱を呼ぶこともできた。しかし生憎、数字どころか奴の外見は終始確かめることはできなかった。無論、あの術の威力・規模からして十二鬼月、もしくは数字落ちの可能性は極めて高いだろうが……。

 

(……風にでも、当たってくるか)

 

 任務当初は楽観していた結果がこの様。全く以て不甲斐ない。

 

 慢心していたつもりは無いが、俺もやはり人だ。柱によって鍛えられたことで、何処か舞い上がっていたことは否めない。この状況はそのツケだとでもいうのだろうか……。

 

 だがどれだけ喚こうが過去が変わることなどない。今考えるべきは明日の事。その為にも俺は一度頭を冷やすため、脱いでいた普段着を着直して宿を出た。勿論、部屋にはちゃんと南京錠で鍵をかけて。

 

(……これからどうすればいい)

 

 鎹烏を使って交戦した鬼についての情報は既に共有した。相手は高度なステルス能力を持つ鬼。その為目視による発見は困難を極める。鬼殺隊が当初行おうとした鎹烏の群れを使った作戦は烏たちの目を使うという大前提がそもそも頓挫した以上、次に鬼を燻り出すには何か別の手立てを考えなければならない。

 

 現状、一番確実で効果的と思われる案はやはり血液の匂い等で鬼を誘いこむ事だが……カナエすら遅れを取った以上半端な人員で行えば最悪の事態を招きかねない。今は事前情報を持っているため同じようなことにはならないだろうが、それは鬼側とて同じ事。馬鹿正直に同じことをやるなど論外だ。

 

 それでももし稀血を使えば飢餓状態に近いであろう鬼を無理矢理引き摺り出すことも不可能ではないだろうが、残念ながら今この場にそんな都合のいいものは無い。さて、どうしたものか……。

 

(考えれば考える程、厄介な相手だ)

 

 やはり視覚情報を完璧に近い形で欺けるというアドバンテージの差は大きすぎる。相手が近場にいてかつ注意すれば見抜けるとは思うが、それが簡単に出来るならこんな苦労はしていない。そもそも何処にいるのかわからないのにどう近づけというのか。

 

 攻撃時に一部ではあるが隠蔽能力が解けるようではあるが、攻撃が放たれた後ではもう手遅れになっている可能性が極めて高いだろう。

 

 更に言えば、例えこの隠蔽能力を無力化できたとしてその後に発揮される桁違いとも言える血鬼術の出力と規模……。

 

(……俺たちの手に負えるのか?)

 

 一向に解決の目途が立たない問題が山積みになっている光景に、俺は空を仰ぐことしかできなかった。何かしらの手段を用いて状況を打破しようとするにしろ、戦力も、人手も、切れる手札も、何もかもが足りていない。

 

 やはり、ここは一刻も早く応援を要請すべきだろうか……? だがせめて相手が数字持ちであるという確証を得てからにした方が確実に柱を――――

 

「――――冨岡君、困っているの?」

「ええ、はい。もう猫の手も借りたい気分――――ん???」

 

 突然背後から聞き覚えのある声がした。

 

 反射的に振り向けばそこには――――白装束に身を包み、頭巾の中から白い髪を垂らし、果てには真っ白な無地の仮面を付けた白ずくめな女人がいた。

 

 …………え、誰?

 

「……えっと、どなたです?」

「ああ、ごめん。仮面つけてるからわからなかったよね。――――ほら、私だよ。私」

 

 女人はつけている仮面を少しだけずらしてその素顔を微かに晒す。しかしそれだけで俺が彼女が何者かを判断するには十分だった。

 

 何せ、赤い目に真っ白なまつ毛と前髪を持つ女性など、俺の知人には一人しかいなかったのだから。

 

「明雪さん!」

「うん、大体一週間ぶりだね。元気そうでよかった」

 

 そう、彼女は他ならぬ柱の一人、雪柱の明雪真白。彼女はずらした仮面を元の位置に戻すと、「場所を移そうか」と一言申して丁度近くにあった茶屋へと入った。

 

 幸い今は夕方。もうすぐ夕飯前だというのに茶や団子を食べようという酔狂な者などそうそういるはずもなく、入った茶屋の中には店員以外殆ど人がいなかった。此処ならば人目をはばかる話題を切り出しても問題は無さそうだ。

 

 日光が入らない席に腰掛けた明雪さんはやはり煩わしかったのか恐らく日光避けだろう仮面と頭巾をすぐさま脱ぐ。想像通り、難儀な体質なようだ。

 

「いらっしゃい。ご注文は?」

「緑茶と団子を二つずつお願いします。……それで明雪さん、一体どうしてこの街に?」

 

 駆け寄る店員に適当な注文を出した後、俺は早速一番気になっている疑問を切り出した。

 

 何故彼女が此処に居るのか。理由に全く心当たりがない。少なくとも俺はまだ応援を呼んだ覚えはないし、かといって鬼殺隊側から人を送るという通達を受けた記憶も無い。

 

 にもかかわらず柱の一人が此処に居る。一体どういうことだ……?

 

「うん、もし期待させてしまったなら、先に謝るね。実を言うとこの町には偶々通りかかっただけなんだ。君を見つけたのも、ただの偶然。ごめんね?」

「そう……ですか」

 

 確かに少しだけ期待していた。もしかしたら――――と、ほんの少しだけそんな甘い考えを抱いていたが……やはり、そう都合のいいことは簡単に起こるはずもなく。

 

 俺はなるべくその感情を表に出さないように努力したが、微かに顔に出てしまったのか明雪さんは申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。本当に、気を遣わせたようで申し訳ない。

 

「それで冨岡君、何か困っていた様だけれど。良ければ話してもらえないかな?」

「あ、はい。実は――――」

 

とにかく俺は藁にも縋る思いで明雪さんに事の顛末を可能な限り正確に伝えた。直接力を貸してもらえる望みは薄いだろうが、彼女とて柱の一人。その発言力と人脈は俺などよりも遥かに盤石で大きいはずだ。

 

 運良く目の前に転がり落ちてきた状況を打開できるかもしれない一手。これを最大限活かさない手は無い。

 

「……そう。透明化の能力を持つ鬼……」

「はい。……できるのであれば、柱である明雪さんの意見を聞けると助かるのですが」

「んー……」

「お待たせしました。緑茶と団子が二つずつ、どうぞお召し上がりください」

 

 明雪さんは小さく声を漏らしながら顎に指をあてて考え込むような仕草をする。……もしかしたら、無茶を言ってしまったのだろうか。

 

 そして三十秒ほど経つと、明雪さんは注文した緑茶を一口啜ってからようやく口を開いた。

 

「相手がかなり高い精度で姿を隠せて居場所の特定が困難な以上、こちらから仕掛けるのはほぼ不可能に近いね。私も、前に肌の色や模様が触れたものと同じになる血鬼術を持つ鬼と戦ったことがあるけど、やっぱり何かしらの手段で特定個所におびき寄せなければいけなかった記憶がある」

「その手段、とは?」

「もちろん、稀血だよ」

 

 やはり、稀血か。

 

 稀血は常人と比べて数十倍もの栄養を持つ血。鬼にとって極上の餌であるそれは、確かに誘引作戦においては不可欠といっても過言ではない。何せ満腹状態の鬼ならともかく、ある程度腹を空かせている鬼であればほぼ無条件で表の場に引きずり出せてしまうのだから。

 

 しかしそれを得るための手段や伝手が俺にはない。……いや、現状鬼殺隊で最も医療について造詣の深い菫さんならば、もしかしたら研究用にいくつか保管しているかもしれない。駄目元で頼んでみるか? いや、たとえ持っていたとしても俺のような平隊員に無条件で譲ってくれる訳など、

 

「ほら、あげる」

「………ん? え??」

 

 俺が頭を抱えて唸っていると、不意に目の前に赤い液体……血が入った試験管が三本ほど差されているベルトポーチが置かれた。差出人はもちろん、明雪さんである。

 

 会話の流れからしてこの試験管に入っているのは稀血だろう。だが、こんな貴重なものをあっさりと俺に譲るなんて……何故?

 

「あの、これ……貴重なものなのでは?」

「ううん。別にそうでもないよ」

「え? いえしかし」

「だってそれ、()()()なんだから」

「!」

 

 稀血を持つ柱。……ありえない話では、ない。というか、実例(不死川 実弥)を一人知っている。

 

 それに合点が行った、確かに生きている間ならほぼ無尽蔵に生み出せる自分の血液を貴重なものだと感じるはずがない。俺に何の抵抗もなく無償で渡せる訳だ。

 

「明雪さんは稀血だったんですか」

「うん。それもただの稀血じゃない。稀血の中でも更に希少で栄養価の高い、極上の稀血」

「……?」

「私の稀血は()()()()()()()()()の栄養価を持っている。もし成り立ての雑魚鬼であっても、私を丸ごと食べれば即座に十二鬼月になれるだろうね」

「数十っ…………!?」

 

 通常、稀血一人を食えば常人を食うのと比べておおよそ五十倍から百倍以上の力を得られるという。もし明雪さんの言葉が正しいのならば、最低でも彼女一人で――――常人の、数千人分。

 

 それは……大丈夫なのか?

 

「おかしいと思ったでしょう? どうしてそんな私が鬼殺隊に属していて、柱にもなれているのか」

「……ええ、まあ」

 

 ただの稀血の隊員ならば、まあリスクこそ高いが本人がそれなりの実力を持っているのならば相応のリターンは見込めるだろう。だが明雪さんの場合はリスクが高すぎる。鬼相手での戦いは例え柱であっても常勝不敗はあり得ないからだ。

 

 生まれたての雑魚に食われるのならばまだいい方。だが万が一、彼女が十二鬼月、更に言えば上弦相手に捕食されでもしたら、確実に悪夢のような事態になる。

 

 その危険性がわからない訳でもあるまいに、一体何故……?

 

「そうだね。うん、昔雫さんにも『貴方は大人しく保護されていた方がいい』って言われたことがある。きっとそれは正しい意見だろうね。私も、自分の危険性を理解出来ない程馬鹿ではないつもりだから」

「では一体何故」

「その上で私が自分の手で鬼を倒すという道を歩みたかったのと………………こうする事以外の生き方が、よくわからなかったから。かな」

「…………」

 

 頬杖をつきながら、悲壮と哀愁が混じり合った微笑みと震える声音で、彼女は静かにそう零した。

 

 俺は彼女がどんな過去を過ごして、どうしてこの鬼殺隊にたどり着いたのかは知らない。だが様子からして、とても複雑な経緯があったのは確実だろう。でなければ、こんな表情を作れるわけがない。

 

「私はね、生きたかったんだ。誰かに言われるがままの人形のような生き方や……翼の折れた小鳥の様に、一生を籠の中で過ごす人生。それだけは絶対に嫌だった。……何より、先立たれたお母さんとの約束だから」

「約束……」

「うん。……流されるような生き方なんてしちゃいけない。どんなに苦しくとも生きて、生き続けて、自分だけの幸せを見つけなさいって。そう約束したんだ」

「……いいお母さんだったんですね」

「……ありがとう。そう言ってくれると、とっても嬉しいよ」

 

 俺の言葉に僅かではあるが、明雪さんの表情が和らいだような気がした。きっと彼女は母親を愛していて、彼女もまた母親から深く愛されていたのだろう。

 

 それがとても嬉しくて――――少しだけ、羨ましかった。

 

「だから私は、自分が納得できる生き方を選んだの。家に閉じこめられて、小鳥や犬のように飼われるような人生じゃない。自分の意思で、自分が正しいと思う生き方を。……勿論、実現するまでは色々大変だったけどね。例えばほら、これとか」

「ん……?」

 

 そう言いながら明雪さんは懐から小さい、しかし頑丈そうな金属製のケースを取り出す。そして封を外して開けると……また試験管が出てきた。

 

 だが中身が違う。試験管の中に入っている液体の色は赤でなく、黒ずんだ紫色。何とも毒々しい色に俺は思わず固唾を飲んだ。

 

 いや、毒々しいというか、これは……。

 

「……毒ですか?」

「よくわかったね。そう、私のために特注された壊死毒だよ。これ一つ飲めば、私は全身の細胞を残らず破壊されて、栄養なんて何一つ無いどろどろの肉になって死ぬだろうね。……あ、勘違いしないで。こうすることは、私からお願いしたんだから」

 

 ……つまり、もし食われそうになったらそうなる前に猛毒を飲んで自害しろ、という訳か。

 

 本人からの希望とはいえこれは……いやよそう。第三者でしかない俺なんかが彼女の覚悟に水を差すわけにはいかない。非常に業腹ではあるが、受け入れるしかない。これが彼女が選んだ選択であるならば。

 

「まあそういう訳で、他にも色々な制約付きで私は柱を務めさせていただいているって事。さて、これで君の疑問や悩みは解消できたかな?」

「あ……」

 

 話に夢中になっていたせいで忘れていたが、そういえば俺は問題を解決するために明雪さんに相談を持ちかけたんだった。

 

 結果的に言えばそれらは全て解消された。無論彼女自身の力を借りられれば最高だったが、それは高望みしすぎというものだ。今こうして必要なものを何の対価も無く得られたという最良の結果を得たのだから、これで満足しないのはいささか強欲が過ぎるというもの。

 

 俺は出来る限り敬意の籠った眼差しを明雪さんに送りながら深々と頭を下げる。それが今俺が彼女に返せる精一杯の誠意だ。

 

「明雪さん、何度も至らない身である俺を助けてくれて、本当にありがとうございます。この恩は何時か必ず」

「そう大きな事をした覚えはないんだけどね。……あ、そうだ。じゃあ一つ頼み事があるんだけど、聞いてくれる?」

「はい。俺が出来ることならどんなことでも」

 

 此処でいいえを言える程俺は厚顔ではない。彼女の口から発せられる一言一句を聞き逃さまいと、俺は全神経を耳に研ぎ澄ませた。

 

 そして出される、彼女の頼みとは――――?

 

 

「私を呼ぶときは苗字じゃなくて、名前で呼んでほしいんだ」

「はい、もちろ――――ん?」

 

 

 …………何故俺の身近に居る女性は苗字じゃなくて名前で呼ばれたがるのだろうか?

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「はぁ……疲れた……」

 

 夕日が沈んですっかり空が夜に変わって、俺は改めて宿への帰路に就いていた。

 

 あの後明雪さ……いや、真白さんとは軽い近況報告と世間話だけ行い、彼女が何の制限も無く活動できる夜になって俺たちはようやく別れることとなった。やはり、自分より強くて経験も豊富な人との話は自分の為になると改めて理解できる。

 

 何より大きな収穫なのはこの稀血。鬼に奪われた場合の危険性はとても高いが、今の状況に置いて不可欠な代物だ。これがあればもうカナエを危険に晒さずに済むのだから。

 

 それに、この会話で彼女が俺に対してある程度親密な感情を持っているというのも理解出来た。好意に付け込む形になってしまうため心底気が引けるが、もし今後の鬼との戦いにおいてまた稀血が必要となれば彼女から融通してもらえるかもしれない。やはり人脈(コネ)の力は偉大……。

 

 無論、闇雲に”コレ”に頼り続けてしまったら碌な事になる予感はしないので、使うのは必要最低限に抑えるつもりではあるが。

 

(さて、と……カナエは起きているだろうか)

 

 目先の問題が解決した所で次の問題が立ちはだかってくる。正直ため息を吐きたくなるが我慢しよう。文句を言った所で事態が好転するわけないのだから、泣き言を言うより行動した方が何倍も有意義だ。

 

 だが俺は医者でもなんでもない。原因が不明瞭なのに行動をしろといっても、一体何をすればよいのやら。

 

 俺にできる事など精々、安眠できる環境を可能な限り整えるくらいが関の山だが……。

 

「……カナエ、起きているか?」

 

 数分ほどして宿に付き、部屋を前にした俺は念のために戸を叩いてみる。無遠慮に開けたら、カナエは既に起きていて着替え中、などと言う洒落にならない事態を回避するためだ。

 

 正直そんなどこぞのラブコメ主人公的な展開がそうそう起きるとは思わないが、ここは念には念を入れよという先人の偉大な言葉に従おう。

 

 ……三十秒ほど待ってみたが、返事は無い。どうやらまだ起きてはいない様だ。俺は錠を開けて扉を開け、部屋へ入る。中は俺が出かけた時と何も変わっておらず、カナエもまた布団の上ですやすやと小さな寝息を立てて眠り続けている。

 

 期待はしていなかったが、いざこうも厳しい現実を突きつけられると眩暈がしてくる思いだ。

 

「ん、ぅ………」

「カナエ?」

 

 いや、少しだけ違う点が見られた。カナエの顔からは滝のような汗や鼻水が流れており、息遣いもどこか苦しそうに見える。

 

 急いで駆け寄って額に手を当ててみると、かなりの高熱が手の平から伝わってきた。発熱や鼻づまりの症状……もしかしたら風邪を引いてしまったのかもしれない。

 

「げほっ、ごほっ! げほげほっ!」

「っ……えっと、風邪を引いた時は確か……!」

 

 休む間もなく訪れるトラブルに頭痛がしてくるがとにもかくにも手を動かそう。

 

 確か風邪を引いた時は真っ先に安静にさせることと、十分な水分と食事の摂取が一番だったはず。それに過度な脱水症状を防ぐために冷やした布で身体を拭……いや、待て。冷静になれ。流石にそれはマズいぞ俺よ。

 

 ……仕方ない。まずはそれ以外から取りかからねば。貰った薬品類に解熱剤があるかどうかも確かめよう。

 

「気が抜けないな、全く……」

 

 果ての見えない道程に足を止めそうになるけれど、「それでも」と俺は頬を叩いて自らを振るい立たせる。

 

 今は頑張るときだ。休むのは全て終わった後で気の済むまで取ればいい。

 

 目の前で大事な友人が苦しんでいるんだ。――――力を振り絞る理由としては、十分過ぎるだろう?

 

 

 

 

 

 昔の夢を見る。とても懐かしい、鬼などという存在をまだ知らなかった幼い頃の夢を。

 

 私の父は薬師だった。幼い頃から医学や薬学についての勉学に励み、その生涯で培った膨大な知識を己の利益など考えず、惜しむことなく他者のために使おうとする立派な人だった。

 

 病に苦しむ人がいれば薬を与え、腹を空かせていれば飯を出す。見返りなど求めない、強いて言えば誰もが笑顔でいてほしいと願う心優しき男。その優しい人柄もあってか、父は町の中でも大層頼りにされた。

 

 私の母は少し厳しいところがあったが、父と同じくとても綺麗で心優しい人だった。少し抜けてる所があって騙されやすい父を常に後ろから支え続ける良妻賢母という言葉が誰よりもふさわしい女性。

 

 父の優しさがおかしな方向に行こうとすればそれを母が鶴の一声で正す。母の肩に力が入り過ぎていれば、父がその優しさで解してあげる。まさしく鴛鴦夫婦。凹凸の如く見事にかみ合った夫婦の間で、私たち胡蝶姉妹はこの世に生を授かった。

 

「お母さん! 私今日はお母さんと寝る!」

「こらしのぶ。夜中なんですから大声出さない。周りの人の迷惑になるでしょう」

「はーい」

「お、それじゃあカナエは今日はお父さんと一緒に寝ようか」

「ううん、今日は一人で寝るから大丈夫だよお父さん」

「えっ」

 

 幸せな日々だった。毎朝仕事に行く父を見送り、母の家事を姉妹で手伝い、昼になれば母から文字や勉学、そして立派な一人の女性になるための知識を教えられ、夜に帰ってくる父を家族総出で出迎える。

 

 何の変哲もない、しかし誰もが理想と羨む日々の光景。それを私たち姉妹は何の苦も無く甘受していたのだ。

 

 裕福な家で生まれ、優しい両親に溢れんばかりの愛を注がれて育ち、高い水準の教養によって恵まれた将来も確約された人生。それはとても幸運な事だ。

 

 私たちもそれを理解していて、だからこそ大人になったら、父や母の様に困っている誰かを見捨てないような生き方をしたいと望んだ。それが生まれながらに恵まれた環境に居る私たちの義務だと思って。

 

「――――おめでとうございます奥様。ご懐妊です」

「ホント!? やったー! 私もついにお姉ちゃんになるのね!」

「しのぶ、前から下の子が欲しいって言ってたもんね~。むふふっ、ねえねえお母さん。生まれるのは弟なのかな、妹なのかな?」

「二人とも、お医者さんの前なのですから騒がない。……ふふっ、本当に、元気な子達」

「――――ぬぉぉぉぉぉ! 皆おまたせぇっ! お父さんが帰ったよぉ!!」

「「「お父さん(あなた)うるさい!! お腹の赤ちゃんに響くでしょう!!」」」

「ぐへぇ」

 

 本当に、幸せだった。

 

 幸せだったんだ。

 

 あの日までは。

 

 

「――――ここに来ればよ、腹減ってる奴には飯を食わせてくれるんだろぉ? だったらよぉぅ……テメェ等の肉をたらふく食わせろよぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!!!」

 

「カナエ! しのぶ! 下がるんだ! ――――ぐぁっ!!」

「あなたっ!? ――――きゃあああああああ――――っ!?」

 

 鬼が来た。

 

 鋭く尖った異形の爪と酷く歪んだ顎を持つ鬼は、瞬く間に私たち姉妹の目の前で父と母……そしてこれから生まれてくるはずだった命を呆気なく奪い去った。

 

 私たちは何もすることが出来なかった。ただただ互いに庇い合うよう身体を抱き寄せて、部屋の隅で震えることしかできなかった。

 

 それから鬼は嘲るように笑いながら父と母の手足の何本かを千切り取って、私たちに見せつけるように何分もかけて咀嚼した。それが終わると、待ちわびたかの様に鬼は下卑た笑みを浮かべながら私たち姉妹を手にかけようとして――――

 

 

 

「南無阿弥陀仏」

 

 

 

 

 何処からか飛来した鉄球の一撃によって、その頭部を跡形も無く粉砕されたことで鬼は手にかけた父母と同じように何が起こったのか理解出来ないままその生を終えた。

 

 全てが終わった後、私たちはその場で泣き崩れるしかできなかった。何時までも続くと思っていた日々はたった一晩で全てが崩れ去り、やっと現実を受け入れられたのは父と母、そして顔すら見ることが出来なかった末の子の墓を前にした頃だった。

 

 人生で初めて味わう絶望感。最初に体験するにはそれはあまりにも大きすぎて、数日は食物が碌に喉を通らなかった記憶がある。

 

 それでも私は残った妹と互いの心を支え合い、何とか立ち上がることができた。そして決めたのだ、過去に夢見たように、己の人生を他者の幸福を守護するために、これ以上鬼によって大切なものを奪われる人を一人でも減らすために戦おうと。

 

 その為に私たちは両親に代わり自分たちの面倒を見ようとしてくれた親戚の好意を断って、最早誰も待ってはいない、二人で暮らすにはあまりにも大きすぎる家を過去の日常と決別するかの様に売り払い、姉妹共々このいつ死んでもおかしくない鬼殺の世界へと飛び込んだのだ。

 

 

 

 

 鬼に脅かされている誰かの幸せのために。

 

 

本当にそんな事を望んだの?

 

 

 例え顔も名前も知らない誰かであろうと悲しませないために。

 

 

嘘つき。本当はそんな事思っていない癖に。

 

 

 嘘じゃない。誓ったのよ。あの夜。しのぶと共に――――

 

 

――――体の良い言葉で自分を誤魔化しているだけ。本当はただ

 

 

 違う。違う、違う、違う! 嘘なんかじゃない! 私は、私はただ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

鬼を殺したいだけのくせに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああ――――っ!?!?」

 

 

「ぅおえっ!?!?!?!?」

 

 

 水桶に浸して絞った冷たい布を額に当てようとした瞬間、カナエは両目を限界まで見開いて被せられた布団を跳ね除けながら上半身を跳ね起こした。

 

 あまりに突然な出来事に俺も思わず悲鳴を上げそうになった。が、そこは男である以上我慢すべきだと残っている理性を使って全力で這い上がってきた声を押し殺す。知り合いの女の子の前で情けない声を上げたいと思うほど、俺も矜持は捨てていないのだ。

 

 ただ悲鳴の代わりに変な声を出してしまったような気もするが、気のせいということにしておこう……。

 

「カ、カナエ。大丈夫か……?」

「…………え?」

 

 ……よっぽど嫌な夢を見たのだろう。さっきまで顔や手などの触れても問題無さそうな個所は念入りに汗を拭き取っていたというのに、もうカナエの全身からは拭き取る前以上の滝のような汗が流れ出ている。

 

 しかしきっかけがどうあれ、起きてくれたのは非常に助かった。気を失ったままでは脱水症状まっしぐらだったのだ。最悪、口移しでもなんでも使って水だけでも飲ませようという覚悟はしていたが、杞憂に終わって何よりだ。いや本当に。

 

「義勇、君……? わ、私……」

「鬼との戦いの後そのまま気を失って、丸二日も眠っていたんだ。全然起きる素振りが無かったから、心配したぞ」

「そう、なの。……ごめんなさい、心配、かけちゃったみたいで」

 

 予想通り、元気はあまり無い。ほぼ二日も飲まず食わずだったのだ、気力が湧いてくるはずもない。

 

『お客様、どうかなされましたか?』

「あ……大丈夫です! それより少し頼みたいことがあるのでそこで待っていてください! ――――カナエ、今はとにかく休むんだ。体の具合がよくなるまでな」

「…………うん」

 

 カナエの悲鳴を聞いて何事かと駆けつけただろう従業員の人を呼び留めた俺は、とりあえず今のカナエに何か食べさせるために重湯とお粥を頼んだ。一日以上何も口にしなかった状態で急に固形物を口にすれば胃がびっくりして逆に嘔吐しかねないのだ。

 

「じゃあカナエ。俺は一度外に出ているから、その間に身体を拭いて、汗も大量に吸っているだろうから服も着替えてくれ。できるか?」

「……ええ」

「よし。じゃあできたら呼んでくれ」

 

 看病する上での最大の難関をどうにかやり過ごせそうだと心の底から安堵しながら、俺は腰を上げて一度部屋を出ようとする。女子の着替えに交際しているわけでもない男子が同意するのはどう考えてもアウトだ。

 

 さて、待っている間に今後の行動予定でも――――

 

「待ってっ!」

「――――えっ?」

 

 部屋を出るための一歩目を踏み出した瞬間、カナエは俺の腕を両手で掴んで引き留めた。

 

 ……え、いや、なんで?

 

「……カナエ、俺の話を聞いていなかったのか? 流石に着替え中に同席するわけには」

「……一人に……しないで…………」

「………………………すぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁ……」

 

 俺は直感的に、今のカナエの精神状態がとても危うい均衡状態だと感づいた。対応を間違ったら、取り返しがつかなくなる。そう確信した俺は深く、本当に深く考え込み……………同じくらい深いため息を吐いて、渋々彼女の隣へと座り込む。

 

「……後ろを向いて、目も耳も塞ぐ。決して覗かないから安心してくれ」

「っ、うん! ありがとう、義勇君」

 

 非常に、非っっっっ常に不本意だが、俺は茨の道を突き進むことを選択した。というか、カナエの心の状態を鑑みればこれ以外選択の余地がないではないか。

 

 もし間違ってもこの件はしのぶに聞かせられないな、と思いながら俺はカナエから少し離れて背を向け、目も耳も塞いだ。その後俺に出来ることは頼むから早く終わってくれと全力で祈る事のみ。

 

(……どうしてこうなった)

 

 特に間違ったことをした覚えはないのに、何故こうもおかしな展開に転がっていくのか。

 

 もしこの世界に神と呼べる存在が本当にいるのならば、そいつはきっと人の人生を面白おかしく引っ掻き回して愉快に笑い転げる悪趣味な奴だろうと、俺は恨めしい感情をどこぞの神様へと全力で投げつけた。

 

 …………目を耳を塞いでからおよそ十分後、俺の肩がちょんちょんと突かれる感触がする。

 

 恐らくカナエの着替えが終わったのだろう、と俺は強張っていた肩肘の力を抜きながら恐る恐る振り返った。

 

「あ、あの……背中には、手が届かなくて……」

「……………勘弁してくれ」

 

 もう一度言わせてもらおう。

 

 

 どうしてこうなった。

 

 

 

 




作者のノリで唐突に捏造されたかと思いきや顔見せすらできずに数分足らずで散った胡蝶家の末っ子ェ……

ちなみに真白さんの稀血もノリで盛りました。事前に作った設定じゃ精々数倍くらいだったのになんで十倍に膨らんでるんですかね……。常人の数千倍の栄養価ってなんだよ。対魔忍の感度かなにか?(辛辣)



(それと散々イチャつかせてますがカナエちゃんのヒロイン化の予定は)ないです。


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第弐拾漆話 束の間のお出かけ

「ふー、ふー……ほら、口開けて」

「あーん」

 

 色々あって大体三十分後。男としての社会的危機にあらゆる理性と感情を総動員して耐え凌ぐことに成功した俺は今、カナエの口に粥を運ぶ作業をする真っ最中だった。

 

 当初カナエは食事くらいは自分でできると言っていたが、今はかなり衰弱している状態だ。万が一この熱々の食事をひっくり返しでもしたら目も当てられない大惨事になる。

 

 なのでこうして一番確実な安全策として俺がカナエに食べさせると言う選択をしたわけだが……。

 

(……まるで小鳥への餌付けだな)

 

 彼女の小さな口に食事を放り込むたびに何とも言えない感情が胸から滲み出ている。邪な類ではないとは思うが……こう、子犬がおやつ欲しがりさに必死にじゃれついているのを見ているような、そんな気がしてくる。

 

 もしやこれが父性というものか? いや、考えすぎか。

 

 そうこうしている内に粥はすっかり空になった。決して多くは無いが、それでも食事をしたおかげか彼女の肌には色が少しずつ戻り始めているのが見える。……これでやっと、一息つけそうだ。

 

「……もう落ち着いたか?」

「ええ、なんとか。あの、義勇君、本当にごめんなさい。色々迷惑かけちゃったみたいで……」

「構わない。困った時はなんとやらだろう」

 

 きっと立場が逆だったとしても、カナエは俺を甲斐甲斐しく看病してくれるはずだ(たぶん)。だったら俺も同様に彼女を精一杯看るだけだ。

 

 だからもし今後この立場が逆になるようなことがあったら、その時同じようにして助けてくれればそれでいい、と俺は卑屈になっていきそうなカナエの心をやんわりと窘めた。

 

「それで義勇君、鬼については……」

「ああ。それがかなり不可解な状態になっていてな」

 

 平常心を取り戻した頃合いだ。そろそろ現状について詳しく語ってもいいだろう。

 

 まず、鬼は自分たちに攻撃した後すぐに撤退し、俺は負傷のため追撃ができなかった事。その後烏を飛ばして広範囲を探らせてみたが、鬼による被害らしきものはまだ発生していないこと。

 

 そして何より、術の規模からして今の俺たちが相手にしているのは元、もしくは現十二鬼月の下弦である可能性が極めて高いことを自分なりになるべくわかりやすく説明した。

 

 それを聞いたカナエの反応は……良くはない。せっかくおびき寄せた鬼を取り逃がしたという点だけで大問題なのに、その相手が並みの鬼とは一線を画す強敵だと聞いてどうしていい気分になれるだろうか。

 

「ともかく、今後俺たちは相手の鬼が数字持ちだという確証を得るのに注力していこうと思う。もし本当に奴が十二鬼月ならば、とてもじゃないが俺たち二人の手に負える相手じゃないからな。ただ、奴は今空腹に近い状態な筈なのにどうして未だに被害が発生していないのかが気掛かりで……カナエ?」

「へ? あ、うん。大丈夫よ。聞いていたわ。ただちょっと頭がぼーっとして……」

 

 ふむ……やはり今のカナエにはもう少し休息を取らせる必要がありそうだ。それにこのような状態では万全の状態であっても尚死の危険が隣にある鬼狩りに参加させるなど論外。

 

 体調が完全に回復するまで実動に関しては俺一人で何とかするしかないか……。

 

「今日はもう休め。続きはまた明日話し合おう」

「うん……。――――って、義勇君? どこに行くの?」

 

 カナエがそんな事を聞いてくるが、まさか俺がここで寝るとでも思っていたのだろうか。確かにカナエとは付き合いは長いし親しい仲だとも思っているが、何処からどう考えても同衾するほどでないことくらいは理解している。常識的に考えて寝るときは別室にするに決まっているだろう。

 

 だから態々二部屋分のお金を払ったし、それはカナエ自身も勘定を払う時に同席していたはずなので知っているはずなのだが。

 

「流石に一緒の部屋に寝るわけにはいかないだろう。お前がそんな事を気にするような性格でないことは理解しているが、少し不用心過ぎだぞカナエ」

「あはは……あの、本当に……駄目かしら?」

「………………は?」

 

 ――――待て、少し様子がおかしい。

 

 カナエが他人に対して警戒心が薄いのは知ってはいるが、例え知人相手であったとしてここまで無防備になるだろうか。なったとしても精々が肉親であるしのぶ相手くらいが関の山の筈。

 

 何だ、この違和感は。何が彼女をそうさせている。考えろ、何かあるはずだ。何か切っ掛けが――――

 

 ……まさか。

 

「……………………夢で何を見た?」

「ぇ……」

「――――いい。何も言うな。その顔で理解した」

 

 悪い予感が的中したようで、俺はため息を吐きながら顔を覆う。

 

 例えるならば不意に崖から突き落とされたような表情をしたカナエの顔を見ただけでどうして彼女がこんな状態になっているかは大まかにではあるが理解することができた。似たような前例(しのぶ)を一度間近で見たことがあるのだから、この結論に思い至るのはそう難しくはないことだ。

 

 盲点だった。確かに彼女の心はしのぶよりは強靭かもしれない。だが、彼女はまだ少女だ。齢十三の女の子が、目の前で両親が殺されたにも関わらず心に何の影響も受けない訳がなかった。

 

 なまじ普段の態度に出ていないだけ気づくのがこんなにも遅れてしまった。己の盲目さに対する呆れと怒りで思わずため息が出てくる。

 

「ごめんなさい」

「謝るな。お前は悪くない」

「本当にごめんなさい」

「カナエ」

「……お願い。今だけは、傍にいて……」

「………ああ。俺が傍にいるから、安心してゆっくり寝てくれ」

 

 こんな事なら菫さんあたりにカウンセリングの基本でも教わって来ればよかった。おかげでこうしていつ爆発するかもわからない爆弾を手探りで解除する羽目になっているのだから。

 

 だが一体どうすればいいと言うんだ。ただの友人でしかない俺にできることなど……。

 

 ……落ち着け。泣き言は後だ。今はゆっくり、いつもの通り自分が出来ることをしよう。

 

 今はただ、この傷ついた少女の傍にいるだけでいい。

 

 いずれ時間が、彼女の傷を癒してくれると信じて。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 多くの人間は利己的だ。

 

 他人のためと口では言っても、その本質は自己満足に過ぎない。真に他者のために行動できる者など、本当の本当に一握りの存在だ。それでこそ、世界において「聖人」と呼ばれる者達の様に。

 

 誰にどんなことを言われても、誰かのために、満足なども覚えず、何も感じず、ただただ奉仕し続ける。そうして初めて人は「利己」という言葉から乖離することが出来るだろう。

 

 だが果たしてそれは「人間」と呼べるものなのだろうか? 否、それはきっと「機械」という言葉が一番ふさわしい。

 

 真に他者のために生きられる人間など居ない。大なり小なり人は己のために生きている。

 

 されどそれは罪にあらず。何故ならばそれこそが人が人である所以であるし――――己一人満たせない人間が、どうして他者を救うことが出来るだろうか。

 

 自己を愛する事は悪ではない。誰もが兼ね備えている人の本質の一つに過ぎない。

 

 そのような自身の心と向き合い、気に入らない、理解したくないからといって、見たものを拒んだり否定してはならない。自分を誤魔化し続ければ、もし進んでいる道が誤ってしまっても気づくのが遅れてしまう。

 

 大切なのは自らを理解し、受け入れ、噛みしめ、考えてから、ゆっくり前を向く事。

 

 

 そうすればきっと、弱い自分自身を乗り越えられる筈なのだから。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 現状を一言で表そう。最悪でこそないが決して良いとも言えない。

 

 鬼が逃げ、足取りはつかめず、その上たださえ二人しかいなかった戦力の片方が機能不全に陥っている。死人が出ていない事だけは手放しで喜べるだけ最悪より数段マシではあるが。

 

 幸い、真白さんの協力によって事態解決の光明は差したが、実動戦力が決定的に不足していると言う状況を根本的に解決出来たとは言い難いだろう。かと言って援軍を呼び込もうにも半端な戦力が送られては何も解決しないし、人員を無駄に浪費するだけだ。

 

 何とかして確実に事態を打破できる手札を引く。それが今の俺がすべき最優先事項である。

 

「……………はぁ」

 

 俺は現在、宿近くのうどん屋台で暗い表情を顔に張り付けながら、もう何度目か数えるのも億劫になってきたため息を吐いていた。

 

 切迫した状況に? いや違う。この程度の状況に一々凹んでいては鬼狩りなど務まらない。

 

 じゃあ体の疲れに? いいや。疲労など数時間寝れば大抵吹き飛ぶし、その程度でため息を吐くほど軟ではないつもりだ。

 

 答えを言おう。――――ここにきてカナエが致命的な不調(スランプ)に陥った。

 

 事の始まりは数時間前の早朝。俺たちが無事起床し、念のための情報収集のために外出しようとした際の事である。

 

 食事を摂って静養したことで朝方にはカナエの体調は大分良くなっており、熱や倦怠感は大分引いていた。しかし全快とは言い難いため俺はもう少し休ませようとした。

 

 が、カナエはそれを断り、多少の無理を承知で俺に付いて来ようとした。そして、ついに問題が発覚する。

 

「え? ……あ、あれ?」

「どうした」

「刀が、抜けないの……」

 

 あの場面を思い出すだけでまたため息が出てくる。

 

 俺の個人的な推測になるが、恐らくカナエは精神が不安定になった影響で一時的に刀が振れない状態となってしまったのだと思う。何度か確認した結果、刀を握った際に両手に力が入らなくなってしまった様だ。

 

 ……どうやら彼女の状態は、俺の思っているより数段酷かったらしい。

 

 ともあれ今の彼女の状態は鬼狩りとして致命的だ。呼吸が出来ても刀が振れなければどうしようもない。今のところカナエはなんとか落ち着かせた上で宿に待機させているが、このままの状態が続くのならば無理にでも花屋敷の方に送り返すことも視野に入れておくべきかもしれない。

 

 正直言って、荷が重すぎる。俺にできることは精々が先延ばしだけ。問題を根っこから解決したいならば、ここからは専門家に任せるべきだ。

 

 しかしこれに対してカナエがどう反応するか……喜ぶようなことが無いことだけは、確実だな。

 

「――――おお、冨岡!」

「うん?」

 

 声がした隣に視線を移すと、そこには俺とそう変わらなさそうな年に見える地味顔の少年が屋台の暖簾を除けながら顔を出していた。

 

 俺の名前を知っているということはどうやら知り合いのようだが………………えーと、誰?

 

「……すまない。どこかで会ったことがあるだろうか」

「ああ、心配すんな。一方的に俺が知ってるだけだからな。ほら、選別の時に異形の鬼と戦ってた錆兎って奴を助けるために人を呼びに行って」

「――――ああ!」

 

 その言葉でようやく思い出した。確か錆兎とあの手鬼が戦ってる時に、助けを呼んでいた少年がいたのを思い出した。俺はその少年と運良く会うことが出来て間一髪で錆兎の救出に間に合うことができたのだった。

 

 切羽詰まっていたからか、あの場面は今でも鮮明に思い返すことが出来る。確かにあの時の少年の顔だ、間違いない。

 

「改めて自己紹介するよ。俺は後藤(ごとう)ってんだ。好きに呼んでくれ」

「冨岡義勇だ。それで後藤、どうして此処に?」

 

 後藤は「よっこらせ」と俺の隣に腰掛けると店主にかけうどんを一杯注文した。そう言えばそろそろ昼飯時だったか。帰ったら落ち込んでいるだろうカナエを連れて、気晴らしにどこか美味い定食屋にでも行くのもいいかもしれない。

 

 しかし、彼はどうして此処にいるのだろう。俺たち以外で別の隊員が派遣されたという連絡は受けていないのだが、まさか黒衣が連絡を怠ったか? だとするなら後で少し叱っておかなければ……。

 

「うん? いやお前が烏を使って呼んだんだろ? 『些細な情報でも共有したいから隠と会いたい』って」

「確かにその通りだが……」

 

 と言う事は、彼が情報共有のために送られた隠か? そこらの通行人とさして変わらない恰好なのは、流石に日中であの不審者感全開の恰好をするわけにはいけないだろうから理解は出来るが……どうして彼が隠などに。

 

「お前は五日目まで剣を握って戦っていた筈だ。何故隠になっている?」

 

 そう、彼は殆どの参加者が避難所に逃げていた五日目においても剣を握って鬼と戦いを繰り広げていた内の一人だった筈だ。実力の方も、今こうして大まかな体つきを見る限り隊士になるには問題はなさそうに見える。

 

 なのに隊士にはならず裏方担当の隠になるとは、一体彼に何があったのだろうか。

 

「あー……その、実を言うとだな。あの異形の鬼に対面したときに……怖くなっちまって」

「鬼と戦う事にか?」

「弱い奴相手ならそんな事は無かったんだ。だけどアイツと向き合って、途端に俺がとんでもなく小さい存在に感じちまって……結局、逃げることしかできなかった。その後思ったんだ。いざという時に逃げる事を選んじまう俺なんかが、本当に隊士に相応しいのかって」

「……そうか」

 

 死ぬのは誰だって怖い。しかし鬼殺隊に属する者がそれでも鬼へと立ち向かえるのはその恐怖を上回る怒りと覚悟を持っているからだ。逆に言えば、その恐怖を乗り越えられない限り隊士への道は無い。その為の最終選別。恐怖を克服できない者達を篩にかける試験がある。

 

 どれだけ強くても、大事な時に逃げてしまう人材など鬼殺隊は求めていない。稀にそんな性根であっても運良く生き残るか天性の才覚で試験を強引に突破できてしまう困り者もいるが……これは今語ることではないか。

 

 前回の最終選別は死亡者無しという異例の記録を残したが、かといって生き残った全員が全員隊士になった訳でない。むしろ大半が鬼殺隊への道を諦めるか、隊士と比べればまだ生存率の高い隠や裁縫係などになった。

 

 俺は彼らのその選択について責める気など全くない。無論、後藤が隠への道を選んだことも。むしろそのまま去らずに隊士よりはマシとはいえ同じく命の危険があるだろう隠になったことは褒められるべきだろう。少なくとも俺はそう思う。

 

 それに……人に対して命懸けで戦えなんて上から目線で言う資格など、誰にもあるものか。

 

「その点、俺はお前がすげぇ羨ましいよ。誰かのために命張って戦えるなんてさ」

「……そんな大層なものじゃない」

 

 誰かのために、なんて言ってもそれが自己満足に過ぎないことは俺自身が理解している。誰かが悲しむ姿を見たくないから、俺が勝手に命を懸けているだけ。

 

 だが、それでいい。こんな俺の自己満足で救えるものが確かにあるのならば、それで十分だ。

 

「――――本題に入ろう。鬼について何か新しい、手掛かりになりそうな情報は見つかったか?」

「あー……実を言うと、さっぱりっていうか。鬼の被害がいつから発生したか大まかにわかるくらいなのと、お前たちが報告してくれた血鬼術以外は未だに全くわからずじまいなんだ。すまねぇ」

「……………ふぅむ」

 

 最初からあまり期待はしていなかったが、だからといって本当に何もわからなかったと言われると正直堪えるものはある。だが今考えるべきはそんな事ではない。もう一度、一から思い出せ。何か見落としがないかを。

 

 ――――いや待て。そもそも初めからおかしい点があった。そうだ、何故今まで気が付けなかった。どうして、どうしてあの鬼は――――

 

「……何故、一、二ヶ月に一度なんだ……?」

「は?」

「おかしいだろう。鬼は貪欲に人を食らう怪物だ。生け贄を差し出されている訳でもないだろうに、定期的に一人ずつしか食わないなど明らかに変だ」

 

 もし件の鬼が成長限界に行き詰っており、一度に大量の食事が出来ない身だとしよう。それなら確かに被害が一人ずつなのはわかるが、一回の食事ごとに一定期間の綺麗な間隔を空けているのはどう考えてもおかしい。それも一年や二年ではなく、八年間も。

 

 一ヶ月、もしくは二ヶ月に一度しか行われない神隠し。これには何か意味があるはずだ。ただ単純に別の場所で食事が行われている可能性もあるが、そうでないなら――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、という事か?

 

「……後藤、この町にある廃墟や鬼の隠れていそうな場所は全て調べたのか?」

「え? あ、ああ。一週間もかけて虱潰しにしたけど、結局痕跡も見つからなかったみたいだぜ」

「なら、この町の周辺に鬼の被害らしきものはあったか? 鬼の潜伏している、この一、二ヶ月の間で起こった被害だ」

「えーっと、それは他の隠たちと一緒に調べてみないとわからないが……」

「戻ったら急いで調べてみてくれ。今回の鬼、何かがおかしい。……代金、ここに置いておく。ちゃんと調べてくれよ」

「えっ、ちょ……おい冨岡!?」

 

 一方的に呼んでおいて勝手に去る非礼を詫びる代わりに俺は後藤の注文したうどんの代金を彼の前に置いて、足早にその場を去った。

 

 普通の鬼とは明らかに異なる習性。もしこれを些事だと思い見逃したら後で大変なことになるかもしれないという予感が胸を突き刺してくる。所謂、虫の知らせというやつか。

 

(杞憂で終れば一番良いんだがな……)

 

 言い表しがたい不安を胸に、俺は宿へと歩を進めた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 自分は一体何のために戦っているのか。

 

 その問いがカナエの胸の中で張り裂けそうなほどにグルグルと暴れまわっている。その問いへの答えなどずっと前に決めていたはずなのに、今更それが本当に正しいものなのか――――いいや、自分が心の底から望んでいたものなのかがわからなくなってしまった。

 

 人と鬼、両方を救うために戦う。鬼の脅威から人を守り、鬼舞辻の呪縛から鬼を解き放つ。その信念の下に私は刀を握ったはずだ。

 

 その、はずだった。

 

「私、は」

 

 固めていた筈の信念が根元から揺れ出す。

 

 果たして自分の誓いは真に本物であったのだろうか。もしかしたらそれは、ただ自分にとって都合のいい言い訳を捻出しただけの物なのではないのか。

 

 鬼を殺したいという醜い欲望のための、大義名分として。

 

「違う」

 

 口ではそういっても心はその言葉を信じることが出来ない。本当に鬼を救いたいと思っているのならば、あの夢はなんだ。あの夢を思い出して自分の抱いた感情は何と言う。

 

 憎悪。

 

 嫌悪。

 

 怨嗟。

 

 殺意。

 

 厭忌。

 

 思ったはずだ。抱いたはずだ。両親を殺した憎き仇への憎しみを。報復として鬼を殺したいという欲求を。

 

 そうだ、お前の誓いは全て真っ赤な嘘だった。

 

 お前は結局殺したいだけだ。ちっぽけな復讐心を満たしたいだけだ。鬼を殺すという行為で。相手を救おうなんて心は最初から無――――

 

「違うっ!」

 

 力強く否定した所でカナエは黒い感情が次々と己が心を蝕むことを止めることが出来ない。

 

 次第に息が荒くなり、眩暈がするほどの動悸が頭に響いてくる。喉から発せられる呼吸音が掠れていき、やがて目の前の景色が歪み始めて――――

 

 

「カナエ。俺を見ろ」

 

「…………え?」

 

 

 パチン、と両頬が誰かに軽く叩かれ、同時に俯いていた顔が上を向かされる。

 

 すると目の前にはカナエのよく知る少年、義勇の顔が映っていた。彼は悲しげな表情でカナエを数秒程見つめると、こちらの心が少しずつ平常へと戻ったのを見計らってから顔を離す。

 

「義勇君、いつの間に……?」

「戸は叩いたし声もかけた。お前が気づかなかっただけだ」

「そう、なの」

 

 どうやら周りの音すら耳に入らないくらい考え込んでいたらしい。返事を返せなかった事を詫びようとカナエが口を開きかけるが、義勇はそれに先んじてカナエのおでこに手を当てたり、彼女の手を軽く握ったりして彼女の体調の具合を手早く確かめていく。

 

 医者ではないとはいえ隊士たるもの己の体調管理くらいでは未熟。という事で雫さんから鍛錬の片手間に叩き込まれた技術の一つであった。

 

「熱は引いた。身体ももう動いて問題無さそうだ」

「うん……でも――――」

「それじゃあ、少し風に当たってこようか。もう正午だ、食事に行くのもいいだろう」

「ぎ、義勇君?」

 

 いつもとはまた違い少し強引な面を見せる義勇にカナエは思わずたじろいだ。普段の彼は自分からあまり意思表示をしないような、微かな陰気のある少年だったと言うのに。

 

「……腹が減っていないのか? なら散歩だけで済ませても、」

「あ、ううん。大丈夫。朝は何も食べていなかったからもうお腹ペコペコなの!」

「そうか。じゃあ美味しい店に行っていっぱい食べないとな」

 

 カナエがそのまま硬直していると義勇は途端にシュン……と捨てられた子犬のような表情をするのだから、カナエは急いで彼に肯定の意思を示した。するとどうだろうか、義勇は心の底からホッとしたような表情を見せた。

 

 これは……もしかすると……。

 

(……本人なりに精一杯励まそうとしている、のかな?)

 

 勝手がわからないのでとにかく手探りで自身の元気を取り戻そうとしてくれている。そう考えるとカナエは目の前にいる少年がとても可愛いものに見えてきた。いや、無論そうさせているのが自分だと言う自覚と罪悪感は有るのだが……。

 

(…………甘えても、いいのよね?)

 

 悪魔的な囁きがカナエの心を擽った。

 

 誰かに甘える。最後にそんなことが出来たのは、一体いつだったか。

 

 剣の教えを乞うた育手の方は、決して親身とは言えなかった。その者は生きるか死ぬかもわからない者に情を抱きたくなかったのだろう。決して距離を必要以上に詰めたりせず、ただ鬼殺隊の剣士として必要なものだけを淡々と教え教えられる関係。甘えていいような存在でなかった。

 

 では隊士になってからは、どうだろう。……むしろ、他人から甘えられるようなことが多かった気がする。数少ない女性隊員であることと、なまじ新人にしては実力があるのが原因だったかもしれない。

 

 そのためカナエの心は友人や肉親であるしのぶと共に居て安らぐことはあっても、休まることはそう多くなかった。だからだろうか、こうして魔性的な誘惑に駆られているのは。

 

 心が飢えている。無償の愛を、求めている。

 

「……カナエ?」

「はっ! ―――なっ、なんでもないわ義勇君! 着替えるからちょっと外で待ってて! すぐに済ませるからっ!」

「あ、ああ……」

 

 そんな馬鹿な考えを振り払うようにカナエはブンブンと頭を横に振りながらすぐに寝間着を着かえて出かける支度をする。髪や肌については先程出ようとした時に既に整えていたため、後は着替えるだけで済む。

 

 そして五分後。お気に入りの蝶の羽模様の柄が入った着物を着終えたカナエは早速戸の前で待っていた義勇の目の前に出ると、見せびらかすように一回転した。

 

「どう? 似合うかしら?」

「凄く似合ってる。とても綺麗だ」

「うふふっ、ありがとう。じゃあ早速行きましょう!」

 

 カナエはそう言いながら義勇の手を取った。当り前だが当の義勇はギョッとした顔になるも、カナエは逆にそれを面白がって握る手の力をほんの少し強める始末。

 

 しかし義勇が今までにないニコニコ笑顔のカナエの手を振り払えるはずもなく、彼は小さくため息を吐いて諦めたように彼女の手を握ったまま目的の場所へと移動を始めた。

 

 

 

 

 

 さて、こうして改めて眺める京橋區。京橋區は材木や竹などを加工する職人が多いことで有名だが、明治に入るにつれてその様は少しずつ変わっていった。時代が進むにつれて職人たちの町から商店街へと姿を変えて行ったのである。人の通りが増えれば自然と金の行き来も増えて商売も発展していくという訳だ。

 

 こうして軽く眺めるだけでもかなり色々なものを売っている。例えば木工職人が片手間に作った彫刻とか、竹の箸やら更やらと、実に色とりどりの品ぞろえ。

 

 鬼狩りを目的に来訪したのでなければ、穏やかに観光するのも悪くなかっただろうに。

 

「ねえねえ義勇君。折角だし、しのぶたちへのお土産とか買ってみるのはどうかしら?」

「土産?」

「ええ! きっと喜んでくれるわ! ……あ、でも今は任務中だったわよね……」

「……………いや、大丈夫だろう。派遣された場所で土産を買ってはいけない規則などなかったし、何より鬼の出ない昼にまで気を張っていてどうする」

「そ、そう? ならよかった」

 

 実際隊律違反でもなんでもないのだ。もっとも、鬼殺隊の隊士としては褒められた行動ではないだろうが……そこは若気の至りとして目を瞑ってもらおう、と俺は最終的にそう結論付ける。

 

 では少し近くの土産屋を見物してみよう。どうやらこの店は女性向けの、身体の手入れをする小道具や小さな木彫りの置物等を扱っているようだ。……ふむ、木製の櫛や竹の簪、髪の手入れのための椿油まで揃えてある。しかも明らかに他所から仕入れただろう椿油以外は意外と安価だ。

 

 やっぱり職人や見習いが片手間に作った小遣い稼ぎのようなものなのだろうか。何にせよ財布に優しいなら文句はない。色々買っていこう。

 

「すいません。これとこれ、あとこれを贈り物用に包んでください」

「まいどあり~! おや、小さいのにとっても色男ねぇ。女の子に贈り物かい?」

「はい。知り合いの女の子や、友人たちに」

「いい子ね~。それじゃちょっとおまけしてお安くしておくわね」

「ありがとうございます」

 

 店番と思しきふくよかなおばあさんが俺を見てにっこりとしながら丁寧に商品を包んでいく。それを眺めていると後ろから商品を選び終えたカナエが「これもお願いします!」とおばあさんに商品を差し出した。

 

 するとおばあさんは俺とカナエを交互にみて元々優し気な笑みを更に深めた。……なんで??

 

「あらあら。随分とお若い恋人さんね~。観光には二人だけで来たのかしら?」

「ぶぅぅぅぅ――――――――っ!?!?」

「え……えぇっ!? ち、違っ、義勇君とはそういうのじゃありませんから! 違いますから!?」

「大丈夫大丈夫。あたしはわかっているよ~」

((何を!?))

 

 おばあさんはとんでもない勘違いをしていた。いや、確かに傍から見ればきょうだいとは思えない男女二人が仲睦まし気に出歩いていればそう思われるのも仕方ないかも知れないが。

 

 カナエは顔を真っ赤にして必死に弁明している様だがおばあさんは一人で何かを勝手に納得しているのか「うんうん」と頷きながら微笑みと共に商品を詰め込んだ風呂敷を俺たちへ差し出す。一体何をわかったんですかおばあさん。きっと絶対にわかってませんよ。

 

「元気に見回るんだよ。あとそっちの男の子、ちゃんとかわいい彼女を守ってやりなよ!」

「「だから違いますって!」」

 

 結局誤解を解けないまま、俺たちは店を後にすることになった。おかげで俺とカナエの間に流れる空気が言葉にし難い微妙なものになってしまったではないか。

 

「……カナエ。さっきのおばあさんの言葉は気にしなくていいからな」

「あ、あはは……そうした方がいいかも」

 

 あくまで俺とカナエは友人でしかないというのに恋人扱いされるのは色々と困る。今こうして変な空気にモヤモヤすることもそうだが、万が一烏や隠が早とちりしてこんな事実無根の噂を鬼殺隊に流されたりでもしたら後の弁明が非常に大変そうだからだ。……主に身内であるしのぶへの弁明が。

 

 もしカナエに手を出したなどというあらぬ噂を聞けば、間違いなくしのぶは殺りに来る。というか過去一度殺られかけた。あれは正直下弦の陸に相対した時の次くらいに危機感を感じた覚えがある。

 

 と、それはともかくとして……こうして一人の女子としてお出かけしているというのは、カナエによく似合っていると思う。

 

(……もし、鬼がいなければ)

 

 彼女はきっと、何処かで良い男性と巡り合い、こうして共に町へと遊びに出かけていたのだろうか。今の様に屈託のない花の様な笑顔を浮かべて、楽しそうに、一人の女性としてのなんの変哲もない安らかな人生を送れたのだろうか。

 

 鬼さえ、いなければ。

 

「義勇君、急に止まってどうしたの? 忘れものかしら?」

「……いや、何でもないさ。カナエ」

 

 既にあるものの存在を否定すること程不毛な行いはない。

 

 一瞬でもそんな不毛な事を考えてしまった自分に自嘲しながら、俺は止まっていた歩みを再び進め出した。

 

 

 

 

 

 




Q.前話でヒロインの予定は無いとか言ってたくせになんでデートみたいなことしてるんですか?

A.私にもわからん

た、ただのメンタルケアと食事目的のお出かけだからセーフ……


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第弐拾捌話 裏返る魂

 宿から少し離れた大通りにある建物にて、食事をする人々の喧騒や調理をする音が聞こえてくる。

 

 戸を引いて目の前を隠す暖簾を退ければ鼻腔に入ってくる芳ばしい香り。質の良い油で揚げただろう海老の天ぷらや塩で焼いた魚の匂いが食欲をこれでもかというほど擽ってくる。これに空腹感が合わさってもう堪らない。

 

「いらっしゃいませー! ……あ、お二人とも!」

「久しいな、神崎……」

「アオイです!」

「アオイちゃん、久しぶりね~」

 

 真っ先に元気な声で俺たちを出迎えてくれたのは黒髪碧眼の小さな少女、神崎アオイ。お盆の上にお冷を乗せて運んでいる最中のようだ。

 

 アオイの声を聞きながら俺たちは適当に空いている場所の座布団に腰掛ける。すかさず出される冷えた水。まずこれを一口ほど口に含んで乾いたのどを潤す。

 

「ご注文はお決まりでしょうか?」

「鮭大根を」

「ありませんけど」

「えっ」

 

 とりあえず好物の鮭大根を注文した俺だったがその後返された言葉に思わず店内の壁に貼られた品書きを二度見する。確かに端から端まで見ても焼き鮭定食はあっても鮭大根は無かった。そんな馬鹿な。

 

「もう、義勇君ったら。お品書きくらいちゃんと見て注文しないと」

「……すまん」

 

 まさか鮭大根が無いとは完全に想定外だ。くっ、仕方がない。ここは同じ鮭を使った焼き鮭定食で我慢するか……。

 

「じゃあ、焼き鮭定食を一つ」

「あ、私は天ぷら定食をお願いするわね」

「はい。焼き鮭定食と天ぷら定食一つずつでーす!」

『あいよ~』

 

 アオイの声に応える声は先日会った善継――――ではなく、その父の清蔵さんの方だった。それが少し気になって厨房の方に視線を移してみるが、何故か彼の姿が見当たらない。どこかに出かけ……られるわけないか。彼の体質でこんな日差しの強い真昼間を出歩いたら大惨事だ。

 

 なら上の方で休んでいるのだろうか? ……できるのならば、彼の様子を見たいのだが。

 

「神崎」

「アオイでいいですよ」

「……アオイ、兄はどうした? 姿が見えない様だが」

「あ、その、それが……」

 

 どうも歯切れが悪い。もしや何か問題でも起こったのか? そう思った丁度その時、一階と二階を繋ぐ階段からゆっくりと誰かが降りてきた。そちらに顔を向ければ善継の姿が。どうやら二階で休んでいた様だ。

 

 しかし彼の顔をよく見れば、何故だか全体的に少々やつれているような……。

 

「冨岡君、胡蝶ちゃん。三日ぶりだな! ようやく来てくれたのか」

「ええ、お邪魔しています善継さん」

「……あの、善継さん。もしや体調が崩れておいでで?」

「あぁ、それが――――「あーっ! お兄ちゃん! 部屋で休んでてって言ったでしょ! 何勝手に降りてきてるのよ!」

 

 兄の存在に気づいたのかアオイがぷんすこと頬を膨らませながら善継の腹をポカポカと軽く叩いた。なるほど、どうやら体調不良らしい。

 

(…………ん?)

 

 しかし彼の存在を認識した途端、俺の頭から妙な違和感を訴え出した。何だこれは。一体目の前の、何の変哲もない光景の何処におかしい点がある?

 

 いくら考えど答えは出ず、仕方がないので俺は言葉にできないモヤモヤをとりあえず胸の奥にしまいこむ。

 

 何かがおかしいのは確かだ。後で余裕があるときにじっくりと考えてみよう。

 

「すまないな二人とも。実は昨晩から全然食い物が喉を通らなくてな」

「まあ、何かの病の兆候なのかしら……?」

「それが医者を呼んでも原因がてんでわからないんだなこれが。二人は何か心当たりとかあったりするか?」

「うーん」

 

 今出ている症状がただ食欲が無いだけでは、該当する病が多過ぎて逆に絞り込めない。それに俺たちの様な素人ではなく医者が直々に見てわからないのでは俺たちが安易な判断を出すわけにもいかないだろう。

 

 だがこうして外から見る限り、善継さんの体には何の異常も出ていない。もし原因が病でなく精神的なものならば、しっかりとした休息をするだけでいいと思うが……。

 

「とりあえずゆっくり休まれては? ただ気分が悪くて食欲が出ないだけかもしれませんから」

「まあ、今はそうするしかないよなぁ……。ああ、隣いいか?」

「どうぞ」

 

 特に同席を拒否する理由も無い。善継さんは小さく会釈しながら俺の隣に座り込んだ。

 

 こうして間近で見るとやはり何処か元気が無さそうに見える。三日前に元気な姿を見ているからこそ、その差は顕著に感じられた。……同時に、言い知れぬ違和感もまたひしひしと肌を刺すように増していく。

 

 一体何なんだろうか、この感覚は。

 

「しかし二人は立派だな。まだ成人してないだろうに旅をしながら働いているなんて」

「私たちから見れば善継さんも十分立派ですよ。親御さんの元でこうしてしっかりと働くなんて、皆が皆できることじゃないんですから」

「はははっ、そう言われると嬉しい限りだ! ……だけどやっぱ、羨ましいなぁ。何の苦も無くあちこち旅に出られるなんて、俺も一度はしてみたいよ」

 

 日光をまともに浴びることのできない身である以上、善継さんが遠くの地へと赴く事はかなり難しいだろう。真白さんのように夜だけ行動するか日光を浴びない様に全身を包むような厚着をすればできなくもないだろうが……それで果たして目の前にいる彼が満足できるのかどうか。

 

 かといって俺たちでは何か力になることもできやしない。それが非常に申し訳なくて、俺とカナエは無言で小さく俯いた。

 

「あっ、待て待て! 別に責めちゃいないって! そう気落ちしないでくれよ、な?」

「……すみません」

「それに今の暮らしに満足していないわけじゃないんだ。こうして親父やお袋、アオイと一緒にこの店を切り盛りしていく毎日。俺としては十分充実しているよ。それに、俺を拾ってくれた恩返しとしてこの店を継いでいくと決心したからな!」

「そうですか。それは良かっ――――……ん? 拾った?」

 

 落ち込む俺たちに対して善継さんは笑顔でそう語り聞かせて励ましてくれる。なぜこういう人こそが正常で健康な体で生まれてくることが出来ないのだろうかと、そう思いふけながら彼に感謝の言葉を伝えようとした俺だったが、彼の話に引っかかる点があることに気付く。

 

 拾った? それはどういう事だ? もしや彼は孤児の類なのか?

 

「あぁ、実は俺記憶喪失なんだ。八年前からの記憶が名前以外一切思い出せなくてな、あてもなく彷徨っていたら親父に拾われて弟子にされたんだ。で、なし崩し的に養子縁組を組まされて、今に至る」

「記憶、喪失……」

「は、波乱万丈な人生ですね」

「だろ? ま、今こうして優しい両親と可愛い妹に囲まれて暮らせてる辺り、俺は悪運だけは強かったらしい!」

 

 記憶喪失なんて普通なら他人にあまり言い聞かせられるようなことではないだろうに、まるで何でもないことの様に一切躊躇なく暴露していく善継さんに俺もカナエも苦笑いしか返せなかった。

 

 しかし、記憶喪失、か。……八年前からの記憶が無い、と言う事はその頃にこの街にたどり着いた、と言う事だろうか。

 

 八年……八年前と言えば鬼による被害が発生し始めた時期だが……まさか。

 

「……善継さん、貴方以外にこの街で貴方と同じような体質を持っている人はいたりしますか?」

「うん? いや、俺以外にこんな難儀な体な奴がいるなんてことは聞いたことないが?」

「……………そう、ですか」

「義勇君? 善継さんの体質がどうかしたの?」

「いや、少し考え事をな」

 

 八年前、記憶喪失、鬼の出現時期と一致、日光を浴びられない体質、年単位で足取りすらまともに掴めないという姿を消すだけでは明らかに説明が付かない高度な隠蔽能力、鬼としては不自然な定期的な出現の理由…………本当に、関係が無いのだろうか。

 

「……善継さん、鬼と言う言葉に心当たりは?」

「鬼? 御伽に出てくる鬼の事か?」

「……………ええ。最近人気の無い森などに鬼が出る、なんて噂が立ってますから。もしかしたら何か知っていないかと。まあ熊かなにかの見間違いだと思いますが」

「うーん、知らないな。だが確かに鬼なんて存在が居たのなら一目くらいは見てみたいものだな!」

 

 口ぶりや表情、声音から判断して……嘘は、無い。彼は本当に俺たちの知る鬼の存在を知らないようだ。

 

 だが、知らないことと関係が無い事は必ずしも結びつくわけではない。少なくとも俺の考える最悪の可能性が当たっているとなれば……彼は、もしかすると――――

 

「――――お二人とも、お待たせしました! ご注文の品です!」

 

 ――――話し込んでいたらいつの間にかかなり時間が経っていたらしい。アオイが注文した品々をお盆に乗せてやってきた。……鬼について考えるのは後にしよう。今は食事に集中だ。

 

 俺の目の前に出されたのはこんがりと焼けた赤身の鮭と味噌汁、ほうれん草の漬物にたくあん。そして勿論白米――――などという高級品をそれほど大きい規模でもない定食屋が軽々しく提供できるわけも無く、麦を始めとしたあわやひえなどの雑穀を混ぜ込んで炊かれた黒米の飯が出されていた。

 

 日本人は米をこよなく愛す故に今も昔も白米ばかり食っているような印象があるが、戦前の時代に限っては別にそんなことはない。少なくともこの明治時代で白米を食える奴は一部の高給取りくらいに限られた。一般人はこうして雑穀を多く混ぜた米か、酷い時は汁物だけで済ませる場合もある。

 

 長々と語ったが、結論だけ言うなら白米は贅沢品だという事だ。……さて、いただくとしよう。

 

 手を合わせて「いただきます」と挨拶してから、まずは鮭を箸で小さく切り分けて早速一口。うん、美味い。しょっぱ過ぎず薄すぎずの程よい塩加減。そして口に飯を追加して咀嚼すると、実に堪らない。やはり塩焼きには飯が一番合うな。

 

「ん、この天ぷら美味しいわ! 油っぽくなくて、からっとしててサクサクしてる! あ、義勇君も一口食べる?」

「いいのか? なら俺も鮭を少し分けよう。こちらも美味しいぞ」

 

 という訳で俺たちはおかずを半分ずつ交換しあって食べてみた。……確かに美味い。衣はサクサクしてて中の海老はふわっと柔らかな食感。そこらの高級料理店にも負けていなさそうな出来栄えだ。

 

「ねぇお兄ちゃん、本人たちは否定してるけどやっぱりあの二人付き合ってるんじゃ……」

「そうか? 俺から見れば仲の良いきょうだいにも見えるぞ?」

(どっちも違うんだが……?)

 

 俺たちは恋人でもなければきょうだいでもないって何度言えばいいのやら。まあ前者はともかく後者くらいならば別に思われても構わないが。

 

 二人がひそひそと妙な方向に話を広げているが、出来る限り耳に入れぬよう努力しながら俺は米やおかずをゆっくりと時間をかけて味わい、無事に平らげる事ができた。

 

 そして締めに「ご馳走様でした」と手を合わせて一礼。やはり食事はいい。食べている間は、難しい事を忘れられる。

 

「…………あ、すまないカナエ。少しの間此処で待っていてくれないか」

「え? それはいいけど、何かあったの?」

「買いたい物があったのを今思い出した。食事代は此処に置いておくぞ」

「うん、いってらっしゃい」

 

 今までいろいろ考え事をしていたからか、カナエが目を覚ましたらやろうとしていたことの一つをすっかり忘れていたことを今更思い出す。けれど、そんなに時間がかかることでもないし、ここならばカナエを一人寂しくすることもないだろうと判断して俺は彼女を此処に待たせることにし、早速行動を始めた。

 

 だが態々ゆっくりとする理由も無い。俺はなるべき早く用事を済ますために早足気味に店を出たのであった。

 

 

 

 

 

「行っちゃった……」

 

 遠ざかる義勇の背中を名残惜し気に見送りながら、カナエは寂しそうに呟く。胸の内から芽を出すのは初めて……否、久しく感じていなかった孤独感。さながら父親が自分を置いて仕事に行ってしまったような寂しさを感じて、カナエは暗い感情と同時に懐かしさを感じた。

 

「ありゃ、冨岡君は何処かに行ってしまったのか? 急にどうしたんだ?」

「えっと、何か買わないといけないものを思い出したみたいで。すぐに戻ってくるはずです」

「うーむ、こんな可愛い女子を一人置いて行ってしまうとは。あの少年も中々に図太い性格をしているな」

「いえ、そんなことは……あるかも?」

 

 少なくとも彼が知り合い以外からの外聞を気にするような性格とは思えないカナエであった。実際その通りだろうが、確かに女性を一人置いてどこかに行くのは男としてどうなのだろう。らしいといえば、らしいのだが。

 

「あれ? カナエさん、冨岡さんは何処へ?」

「お買い物に行ったわ。でもすぐに戻るから、心配しなくていいわ」

「えーっ!? 信じられない! 恋人を一人置いてどこかに行くなんて男の風上にも置けません!」

「いえ、恋人ではないのだけれど」

「だとしてもこれは非常識です! 一人の女の子として許せません!」

 

 異変に気付いたのだろうアオイは事情を聞いた途端、それはもうカンカンに怒り出した。そのあまりの噴火っぷりに「もしかして怒らない自分がおかしいのか?」とカナエが思ったくらいだ。

 

 そんな妹の様子に苦笑しながら善継は「よっこらせ」と声を出しながら座布団から腰を上げる。

 

「アオイ、丁度いいしお兄ちゃんと交代するぞ」

「は? 何馬鹿な事言ってんのお兄ちゃん。体調を崩してるなら寝床で休む! これ常識よ常識!」

「大丈夫大丈夫。人と会話してたら調子が大分良くなったんだ。手伝いくらいは訳ないさ! ほら、お前は胡蝶ちゃんの話し相手にでもなってやれ」

「むー……わかった」

 

 未だに納得のいってない顔ではあったがアオイは渋々と兄と入れ替わる様にカナエの隣に座った。暫くすると厨房の方でいくらかの怒鳴り声が聞こえてくるがすぐに収まり、いつも通りと言った感じに掛け声が飛び交い始める。

 

「いい人達ね」

「ふふん、自慢の家族です! あ、そう言えばカナエさんはかなり若そうに見えるのに、両親は旅を許してくれたんですか?」

「………………お父さんとお母さんは、もういないの」

「あ……ご、ごめんなさい。無神経にこんなこと聞いちゃって……」

「大丈夫。気にしなくていいわ」

 

 カナエは力の抜けた瞳で神崎一家の様子を眺める。自分の所とは景色こそ異なれど、和気藹々とした和やかな空気には懐かしさを覚えざるを得ない。かつで自らの手にもあったはずの、家族との平穏な日々。あの時は当然の様に甘受していたけれど……無くした今だからこそ、その暖かさと重さがよくわかる。

 

 ああ、本当に……羨ましい。

 

「……カナエさん、何処か具合でも悪いんですか? 前会った時より元気が無いですよ?」

「え? いえ、その……。少し、心が迷走しているというか……」

 

 図星を突かれたカナエは目の前の少女に気を遣わせまいと咄嗟に取り繕おうとするも、今まで無理をしていた反動だろうか。まるで底に穴の開いた湯呑の様に、力と共に胸に秘めていた言葉が少しずつ漏れ始めてしまう。

 

「……私はね、少し前からとある信念のために努力してきたの。困っている人を助けたいって思いで、それが正しいんだって信じて」

「それは、とってもいい事だと思います」

「でもね……今の自分の心と向き合ったら、実はそれは、自分の我欲に塗れたものなんじゃないかって。醜い本心を、綺麗な言葉で飾っているだけなんじゃないかって思えてきて……今の自分が本当に正しいのか、胸を張って言えなくなっちゃった」

 

 人も鬼も救いたい。その信念の元に剣を振るってきた。それが己の願いだと信じて、綺麗で心優しい思いこそが己の原動力だと思って。

 

 だが、今一度自分の心に問いかけると、それが本当に自分がそんな事を願っているものなのかわからなくなった。

 

 本当は自分は鬼を憎んでいるのではないか? 他の人の幸せなんてどうでもいいと思っているのでは? 鬼などに救いなんて必要ない。無慈悲に、惨たらしく、惨めな死を齎したいのでは?

 

 その考えが膨らむたびに、己がとても嫌なモノのように感じ……だからカナエは剣を抜くのを無意識に留まった。

 

 今の状態でソレを引き抜いてしまえば、その考えを肯定してしまったように思えて。

 

「酷いわよね、私。誰かのために、なんて言ってきた癖に……結局は私も、自分の欲のために戦ってたなんて。本当に、馬鹿みたい……」

「別にいいじゃないですか、自分のためでも」

「――――え?」

 

 卑屈さのあまりアオイの顔すらまともに見れなくなったカナエは、予想だにもしていなかった声に思わず顔を上げた。すると見えたのは、何だかちょっとだけ怒っているようなアオイの顔。

 

「どんな人も自分の事を考えてます。疲れたから楽をしたい~とか、お腹いっぱい食べたい~とか、好きな人と一緒にお出かけしたい~とか。カナエさんはそれが悪いモノだって言うんですか?」

「そんな事は……無いけれど」

「じゃあいいじゃないですか。人なんて大なり小なり自分が満足するために生きてるもの! 私だって普段からお父さんやお母さん、お兄ちゃんに笑顔で過ごしてもらいたいって思ってますけど、本音を言えば大好きな皆に悲しい顔をされたら私まで悲しくなるからって理由ですよ? ほら、これも自分のためでしょう?」

「それは」

 

 その言葉に、カナエは返事の言葉を詰まらせた。

 

 人はどう言い繕おうが自分のために生きている。確かに自分は、自分のために誰かを助けたいと思ったのかもしれない。目の前で悲しい顔をして欲しくないから、笑顔で幸せに笑ってほしいから。そうすれば自分の心が満たされるような気がして。

 

 そう、結局は自己満足だ。だが――――それは果たして、悪いものなのだろうか?

 

「カナエさん、そう難しく考えなくていいんです。自分の人生なんです、自分のしたい事をして悪い事なんてありません。あ、勿論他人に迷惑をかけない範囲でですけど」

「…………私が、したい事を」

 

 アオイの言葉で、何か懐かしい記憶が脳裏を過ぎ去ったような気がする。

 

 それがどんなものなのかは思い出すことは出来なかったが、とても大事な何かだったような気がするのは確かだ。

 

 そう、大切な、誰かとの”約束”だったような――――

 

「――――戻ったぞ。……む、邪魔だったか?」

「あ……義勇君。おかえりなさい」

 

 それからカナエはのほほんとした様子でほんのちょっぴり困り顔のアオイを抱きしめながら世間話を交わして暇を潰し、およそ十数分過ぎた頃にガラガラと引き戸を開けながら聞き覚えのある声と共に義勇が店へと戻ってきた。

 

 その手には何やら巻物状に束ねられた黒と小豆色の布生地が抱えられており、どうやらそれを買うために店を離れたのだと察することが出来る。

 

「ちょっとあなた! 女性を一人置いて行くなんて何を考えてるんですか! 信じられません!」

「えっ、あ、いや……時間はそうかからなかった、筈だが」

「時間とかそういう問題じゃないです! 貴方は女子心を全くわかってません!」

「……その、すまない」

 

 しかし帰還した彼を早速出迎えたのはアオイによる説教。突然脈絡もなく言葉責めを受ける義勇はアオイのあまりの気迫に困惑し、視線が右往左往し始めた。しかしすぐに諦めたのか肩を落として大人しくその責めに甘んじることにした様だ。

 

 その落ち込む様が少しだけ可哀相で、カナエは苦笑いしながらアオイを止めようと手を伸ばそうとして――――先にゴン!!とアオイの脳天にげんこつが落ちたので義勇共々ビクッと硬直した。

 

「むぎゅっ」

「アオイ? お店の中であまり大きな声を出してはいけないと、母は申したはずですよ?」

「で、でもお母さん」

「は ず で す よ ?」

「「「ぴぇっ」」」

 

 そのげんこつの主はアオイの母である神崎菖蒲のもの。彼女は店の中で周囲を気にせず怒鳴っていたアオイに対して静かな怒気を発しており、そしてそのただならぬ気迫はアオイのみならずカナエや義勇すら怯みを覚える程であった。

 

 先日合った際の穏やかさは何処へやら。いや、穏やかさの中にとてつもない激流を秘めていると表現する方が正しいか。

 

「だいたい、察しの良い男性などそうそういません。アオイのお父さんだって若い頃は私の気持ちに五年以上気付かず何時まで経っても仲の良い幼馴染程度のつもりで……思い出したら何だか腹が立ってきましたね」

「おい菖蒲!? その話は夫婦内密って言っただろうが!?」

「お黙りなさい。毎朝食事を作りに通い詰めただけに飽き足らず、風呂で背中を流して差し上げても尚全く気づいてくれなかったことは忘れていませんからね?」

「……お父さん、それは流石に無いと思う」

 

 殆ど流れ弾のような形でさらけ出される夫婦の秘話に、店に来ていた馴染の客はもれなく「うわぁ」という呆れの表情を店主の清蔵さんへと向けた。誰だってそうする。新顔の二人もそうした。

 

「まあ最終的に寝込みを襲う事で勝利をもぎ取りましたが、今この話は重要ではありません」

「えっ」

「ともかくアオイ、察しの悪い男性に文句を言うなとは言いませんが時と場所を選びなさい。母は貴方をそんな子に育てた覚えはありませんよ」

「はい……」

 

 なんだか菖蒲さんがとんでもない事を口走ったような気がしたが、賢母のような姿の彼女を見ればそれはきっと気のせいだ。

 

「まあまあお袋、そう怒る事はないだろう? それだけアオイが胡蝶さんの事を気に入ってるって事なんだから」

「はぁ、善継。貴方はアオイの事となると少し甘すぎですよ」

「親父とお袋も似たようなものだろ?」

「当り前だろう。大切な一人娘を甘やかさんでどうする!」

「もうっ、お父さん!」

『あはははははは!』

 

 神崎一家たちのやり取りを見て笑い声を上げる各々。楽しくも賑やかなその様に、義勇たちもくすりと微笑んだ。

 

 ――――ただ義勇だけは微かに、その笑みに影を落としていたが。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 昼が過ぎて日が傾き、その色が白から赤へと変わる頃。俺は宿にて血が滲んだ包帯を巻き直していた。

 

 あれだけの怪我をしていたと言うのに出血はすっかり収まり、明日にはほとんど塞がっていそうな様子に俺は全集中の呼吸と痣による恩恵の大きさをつくづく思い知る。痣に関してはデメリットが致命的だが、それでも明日生きるか死ぬかわからない鬼殺隊に取ってはこの利点は無視できるものではないだろう。

 

 そうして俺が自分の体に関心と呆れを零しつつ包帯を変え終えた丁度その時、後ろから「できたー!」という元気な声が聞こえた。背後を見れば、カナエが先日の戦いでズタボロになったはずの俺の隊服や羽織を持っている。

 

 いや、正確にはズタボロ”だった”か。そう、今カナエの持つ俺の隊服と羽織は完全に元通りとは行かないものの、ある程度原形を取り戻している。

 

 ……とはいえ、元に戻ったのは見てくれのみだが。

 

「もう終わったのか。早かったな」

「うふふ。これでもお母さんから将来立派なお嫁さんになるべく色々教え込まれたんだから。裁縫くらいお茶の子さいさいよ?」

「そうだったのか」

 

 実は、昼食時に俺がカナエを置いて買ってきたのは黒と小豆色の布地。……そう、隊服と羽織を直すためのものだった。

 

 羽織に関してははっきり言って気持ちの問題だが、隊服は違う。かなり大きく損傷したといっても鬼殺隊の隊服は特殊な素材を用いており、普通の服よりかはよっぽど防御力がある。修繕個所に関してはその性能は激減しているだろうが、それでも普段着を着て戦うよりかはずっと心強い。

 

 なのでとりあえず付け焼刃でもいいから外見を取り繕うべく布を買って直そうとした訳だが……実を言うと俺は生まれてこの方裁縫なんてものをしたことが――――身体の傷なら縫ったことはあるが――――なかった。なので当然順調に修繕が行えるはずもなく、何度も指に針を刺す俺を見かねたカナエが交代してくれて今に至る。

 

 カナエから直された隊服と羽織を受け取って状態を確かめてみるが、その腕前は素晴らしいとしか言えない。その手の職人と比べれば当然劣るだろうが、それでも遠目から見れば全然わからない程度には綺麗に修復されていた。

 

「……それにしても、カナエ。朝と比べて大分顔色がよくなった様に見える。何かいいことでもあったのか?」

「うん。アオイちゃんと色々お話してね、何か大切なことを思い出せそうな気がしたの。今悩んでいることの答えが見つかりそうな……」

「そうか」

 

 今の彼女は朝と比べれば万全とまでは行かないがかなり調子を取り戻していた。

 

 どうやら俺が席を空けていた間にアオイと何やら言葉を交わした様だが、細かいことまで詮索する必要はないだろう。踏み込み過ぎるのは無遠慮だし、何より彼女が元気になってくれそうな可能性が出てきたのならば、それで十分だ。このまま順調に行けば近々復帰できるだろう。

 

 ……だが、今はいつ鬼による被害が発生するかわからない。これ以上後手に回ると最悪一ヶ月は問題が先送りになってしまう可能性があるため、万全でないカナエを動かすわけにはいかない以上今夜行う”奇襲”は俺一人で行うしかない、か。

 

「ところでカナエ、何かして欲しいことはあるか。羽織や隊服の礼も兼ねて何かお返しがしたい。俺にできることなら、何でも言ってみてくれ」

「ふぇ? えーっと……」

 

 このまま順調に事が終わればこの看病生活もそろそろ一区切り。折角だし、いつも世話になっている身として何か労ってやろうと俺は一肌脱ぐことにする。

 

 そんな俺の言葉に対してうんうんと腕を組みながら唸るカナエ。……なんだ? まさか変な無茶振りでもさせようとしている……いや、カナエに限ってそんな事はない、はず。

 

「……何でもいいの?」

「ああ。余程変なものでもなければ」

「じゃあ……膝枕してくれる?」

「構わない」

 

 何が来るかと少しだけ身構えたが、俺はすぐに胸を撫で下ろした。膝枕程度なら全然問題無い。

 

 しかし男の硬い膝肉など枕にして気持ちいいのだろうか? と思ったが、まあ不便だったらカナエが言ってくるだろうと判断してささっと膝を出してその上に彼女の頭をゆっくりと寝かせた。

 

 しばらくはベストポジションを探すためにモゾモゾと動き回るカナエだったが、やがて丁度良い場所を見つけたのか気持ちよさそうに頭をそこにゆだねる。……具体的には俺の股間に。

 

 ……あのこれ膝枕じゃなくてキン〇マクラ……。

 

「んふふ……昔よくお父さんにしてもらったなぁ……しのぶと一緒に膝枕してもらって、起きたらお父さんの足がすっかり痺れてて……懐かしいなぁ……」

「優しい人だったんだな」

「ええ。すごーく優しくて、騙されやすくて、でもみんなから愛される人だった。自慢のお父さんだったわ。……うん、思い出してみると、義勇君にそっくり」

「俺に?」

「勿論顔付きとかは全然違うけど、雰囲気とかは本当に似てるわ。……道理で貴方を見るたび、懐かしいって思っちゃう訳ね」

「……カナエ?」

 

 一体何のことを言っているのか。訳が分からず俺が首を傾げているとカナエは無言で俺の腰に手を回し、おなかに顔を埋めてきた。なんだ、まさか今度は腹筋枕でもしようというのか。

 

「……ねぇ義勇君、今だけでもいいから、貴方のこと……お父さんって、呼んでみていい?」

「は?」

 

 お前は何を言ってるんだ。いや、本当に何を言っているんだお前は?

 

 ……待て、冨岡義勇。無条件にドン引きするな。一見素っ頓狂で意味不明な言動であっても必ず何かしらの理由がきっとあるはずだ。たぶん今のカナエが父性愛というか、家族愛に飢えているからと思われるが……いや、にしても普通友人に求めるかそれを。

 

 うーん……まあ、いいか。このくらい。別に減るものでもないし。偶には他人に無性に甘えたくなる気持ちは、わからなくもないから。

 

「……お前がそうしたいなら、好きにすればいい」

「ありがと。……んにゅ、えへへ。おとーさん……頭撫でて~」

「あ、ああ」

 

 いつものほんわかした雰囲気などかなぐり捨てた、全力の甘えん坊姿に俺は狼狽するしかなかった。まさかカナエがこんな事を求めてくるとは……これ後で思い出して凄まじい羞恥に悶えるやつではなかろうか。

 

「カナエね、がんばったんだよ。みんなのためにいっぱい努力して……だからといって全部思い通りにいった訳じゃないけど……」

「そうだな。カナエは頑張り屋さんで、とても偉い子だ」

 

 さながら子猫の様に甘えてくるカナエの頭を、すっかり胼胝が出来上がってしまった固い手で優しく撫でてやる。くすぐったいのが心地いいのか、カナエはすっかりだらしのない笑顔を浮かべながらうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。

 

「……ん……おとーさん……」

「お前が一生懸命頑張ってるのは、皆わかっている」

「……また、いっしょに……」

「だから偶には肩の力を抜いて、気を楽にしろ。その程度で罰など当たらない」

「……みんな、で……」

「誰かを助けたいと思うのも良い。だけど、お前自身が幸せになることも、ちゃんと考えるんだぞ」

「……………うん……」

 

 夢見心地の幸せそうな表情でカナエは瞳を閉じ、小さく寝息を立て始める。どうやら眠ってしまった様だ。

 

 その眠りを途中で起こさぬよう俺は数分ほど彼女の頭を撫で続けて深い眠りに落とし、頃合いを見て近くにあった枕と膝を入れ替える。……全く、気持ちよさそうに寝てくれる。こっちまで顔が緩みそうだ。

 

 そんなカナエを一瞥して、俺は早速修繕された隊服に着替える。布の肌触りに少しだけ違和感を感じたが、動きに関しては問題ない。このくらいなら十分戦いにも耐えられるはず。

 

 細部の確認をしながら小道具や刀を装着して――――不意に窓からバッサバッサと羽音が聞こえたので、そちらに視線を向ける。予想通り俺の鎹烏である黒衣が何やら折りたたまれた文らしきものを咥えた状態で飛んできていた。

 

 窓の淵に降り立った彼から早速文を受け取り、中身を確認する。そこには今朝後藤に頼んだ調査の結果が簡潔にではあるが記されていた。流石は鬼殺隊の誇る後方担当、仕事が早い。

 

 して、その内容とは――――

 

「……京橋區周辺の鬼の被害らしきものあり。そしてこの期間は……間違いない、これは……」

 

 今回の鬼の出す被害には一ヶ月か二ヶ月に一度と一定の間隔が開けられていた。そして主な被害地区である京橋區の周囲でも同じように神隠しらしきものが発生している。――――二ヶ月に一度の時期に合わせて。

 

 そう、この鬼は一ヶ月に一度必ず現れるのだ。これは間違いなく鬼が飢餓状態になるまでの最短期間。であるならば、この現象には絶対に意味があるはず。

 

 例えば……何かに抑えつけられているせいで、飢餓状態にならねば現れることが出来ない、とか。

 

(一ヶ月に一度、必ず現れる鬼。人気の無い場所に隠れているような痕跡は無く、姿を隠しているだけにしては明らかに不自然な潜伏。突発的な発生? 何処からともなく現れた? ……いや、そうじゃない。そもそも俺たち鬼殺隊に疑われないような立場にいるのならば。もしくはそんな立場の者の()()()()()()()のならば。そのせいで一定時期にしか現れることが出来ないのならば……!!)

 

 根拠は薄い。前例も無い。だが今最も可能性のある説。

 

 鬼がいる。人の中に潜んでいる。何食わぬ顔で人々と共に暮らし、決まった時期にその仮面を脱ぎ捨ててはその牙で無惨の限りを尽くしている。そして今この町で最も鬼である可能性が高い者は――――

 

 

(……これ以上被害が広がる前に、直ぐにでもその存在を斬らねばならない)

 

 

 だが、それは、つまり。

 

 

「…………誰かが、やらないといけないんだ」

 

 

 ――――悪しき鬼はどんな事情があれ滅殺するべし。

 

 

 それが例え、他の誰かにとってかけがえのない家族のような存在であったとしても。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 気持ちが悪い。視界が歪んで考えが覚束ない。

 

 自分は何をしていたのか、何処へ向かっているのか。そういったものが全く考えられない。今はただただ、己が本能のまま前へ前へと足を進めるだけ。

 

「……な、か……」

 

 少しずつ頭が冷えて考えが鮮明になっていく。そして思考が明確なものになればなるほど、その欲求は際限なく肥大化していった。

 

「お腹、空いた……」

 

 底なしの空腹感。まるで何日もまともに食物を口にできなかった状態で、目の前に極上の御馳走を置かれたが如き飢餓感と暴力的なまでの食欲が俺の全身を苛んでいる。

 

 だがおかしいではないか。昼はいくら時間が経っても食い物一つまともに食えない程食欲が無かったというのに、今更。

 

 何が原因だ。食い物が身体に合わなかったのか? ――――ああそうだ、()()()()()は俺にとっては糧になるはずもない塵屑同然の代物だ。今の俺に必要なのは、新鮮な■■の血と肉。肉だ。肉を食べたい。

 

「はぁっ、ぁ、が、ふっ、ぅ……ッ!!」

 

 歩を一歩ずつ進めるたびに身体が軋むような感覚がする。口からは鋭い歯を剥き出しにしながら下品に涎を垂らし続けている。だって仕方ないだろう、この鼻腔を擽る今まで嗅いだことも無いような香り。間違いなく過去感じた中で最上の代物だ。

 

 

 ああ、食べたい。早く食べたい。よこせ、俺に血を、肉を、臓物を、早く早く早くはやくはやくはヤくハやく――――!!!

 

「――――はっ……な、なんで……?」

 

 一心不乱に匂いの元を辿って進み続けた果てにあったのは、中身をぶちまけながら地に転がる一本の試験管。

 

 間違いなくそこから自分を引きつけてやまない匂いがしている。だがこれでは――――

 

 

「―――――――やはり、お前だったか」

「え……?」

 

 

 自分のものでは無い声がして、俺はハッと顔を上げる。すると視線の先には、屋根の上で静かに佇んでいる一人の少年の姿があった。

 

 その少年は何処か悲し気な目をしながら俺を見下ろしている。いや、それよりも一体何故彼がここに……? ――――違う、そもそも俺は何故、こんな所に居るんだ? 確かに俺は、自分の部屋で寝ていた筈……。

 

「信じたくはなかった。お前が”鬼”であるなど」

「何、を」

「盲点だった。まさかそんな特異な体質を持つ鬼がいたなど」

「言ってるん、だい……冨岡、君」

「……すまない、善継さん。恨むのならば、俺を恨んでくれ」

 

 少年――――冨岡は顔を泣きそうなほど歪め、しかしすぐに憤怒に包まれた形相を見せながら腰に佩かれた”それ”を……青い刀身という異彩な特徴を持つ刀を抜き放ち、切っ先をこちらへ突きつけた。

 

 ……どうして?

 

「今の彼の様子と、先日交戦した貴様の様子は明らかに異なる。故に俺は二種類の推察を立てた。一つ目は、お前が善継さんに取りついた、憑依型の血鬼術を使う鬼であること。だがお前は風の血鬼術を主に扱っていた。憑依と風、この二つに関連性が殆どない以上、お前が何等かの手段で別系統の術を二種類操れる訳でもない限り、この可能性は低いだろう。そしてもう一つは……」

「何を言っているんだ冨岡君! 俺は、俺は鬼なんかでは……!!?」

「……多重人格というものがある。元々一つだった人格が何らかの精神的なショックを受け、心の無意識的な防衛機能が働いて複数に切り離してしまう事象の事だ。そして人格によって扱える能力や言語が変わることもあり、極稀な事例だが肉体の性質すら変化することがあるそうだ」

「俺は、俺、は――――ぃ、が、あ、ぁぁぎ、が……!!」

 

 全身が痛い。まるで指先から誰かに無理矢理身体を捻じ曲げられていくかの如き嫌悪感と痛み。あまりの気持ち悪さに俺は立っていることすらできずその場で膝を突いて蹲った。だが痛みは止まらない。そして空腹感もまた、増していくばかり。

 

 耐えられない、こんな苦しみはもう味わいたくない。

 

 

 ――――じゃあ教えてやるよ。この苦痛から解放される方法を。

 

 

「だとすれば、だ。もし、もし人間としての人格が表に出ているときは、ある程度人間としての性質を保持できていたとしたら? 不完全ながらも日光に耐性を得て、普通の人と何ら変わりなく生活できる程に溶け込めるとしたら? ……鬼殺隊に見つけられるわけがない。こんな鬼、前例が無いんだから」

「お、ぉれ、は――――」

 

 

「人としての肉体と、鬼としての肉体の二つの体を持つ鬼」

 

 

「表と裏、人と鬼、二重の人格」

 

 

「決して両立できないはずの二律背反を成立させた前代未聞の特異例」

 

 

 食え。

 

 喰らえ。

 

 目の前にいる肉を。

 

 お前()を殺そうとする敵を。

 

 

「今こそ改めて問おう。――――お前は、誰だ?」

 

 

 腹が、減った。

 

 

 

 

「イヒッ、ヒヒヒヒッ、ヒィィィィィヒャヒャヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!」

 

 

 

 夜の街に怪物の狂笑が反響する。まるで産声の様に、聞く物すべてに怖気が立つような悍ましい声音で彼は咆えた。

 

 青年の体が変貌する。黒かったはずの頭髪が毒々しい濃厚な緑へと染まっていき、手足は骨と肉が捩じり、歪み、血に飢えた獣の如き鋭く禍々しいものへと変形していく。

 

「俺が、誰かって……? 見りゃあわかるだろォがァ!!」

「くっ………!!」

 

 俯いた顔が勢いよく跳ね上がり、同時にその双眸が月明りに照らされながら赤く輝いた。そうして露わになる、今までは風の壁に阻まれ見ることのできなかった真実。

 

 

 

――――下弦の伍――――

 

 

 

 確かにその数字は鬼の眼に刻まれていた。それ即ち、十二鬼月の証。

 

 

「俺は下弦の伍、あの御方に授かった名は凶裏(きょうり)! ……褒めてやるよ小僧。今日まで俺の正体を見抜けた鬼殺隊の隊士はお前が初めてだ! だからよォ――――」

 

 

 風が吹き荒れる。暴君の君臨に大気が悲鳴を上げている。

 

 

「お前も大人しく、俺の血肉になりやがれェェェェエエエエ――――!!!!」

「できるものならやってみろぉぉぉッ――――!!!」

 

 

 悲しくも血にまみれた、誰も救われない戦いが、始まった。

 

 

 

 

 




何でカナエさんがこんなキャラになったのか自分でもわかんねぇ。どうしてこうなった(白目)

あと、ここまでやっといて今更なんだけど、こんな異例も異例な鬼ありなんじゃろうか……ぶっちゃけどこぞの永遠に死に続けるボスを参考にして設定を作ってみたんだけど、我ながらかなり突拍子の無い設定で不安だ……

とにもかくにも、今回の更新は此処までです。次の更新は……何時になるのやら……(´・ω・`)



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第弐拾玖話 凶風戦乱

仕事が忙しいわ疲れるわPCの調子も悪いわで執筆が遅れるンゴ……。

ところで煉獄さん外伝が公開されて煉獄さんが柱になるまではパッパが炎柱を勤めていた(末期は完全にボイコットしてたみたいだけど)という新情報が明かされたせいでこの小説で捏造した設定が「あーもう滅茶苦茶だよ」な状態になってしまったのだが……?


……………何だかわからんがとにかくヨシ!(現場猫)偉い人も言っていた、ゴーイングマイウェイと。


今回の更新は二話分だけです。ご了承ください。


 人と鬼、二つの要素を両立した存在。これまで存在していた鬼という生態の前提そのものを覆すような存在の予想は非常に難しいものであった。何せそんな鬼が現れたことなど、今までの千年間一度としてなかったからだ。

 

 それでも、今置かれている状況を説明するにはそういう鬼が存在していると仮定しなければ説明が付かない。よく言うではないか、絶対にありえない可能性を排除して最後に残ったものこそが、どんなに信じがたいことであっても真実であると。

 

 そして、その可能性に最も当てはまる人物は誰でもない――――神崎家長男、神崎善継であった。

 

 彼は鬼と同じように陽の光を過度に受け付けない体質。更に丁度京橋區で鬼による被害が発生したと同時期にこの町に現れていたという経歴を持っている。

 

 俺はそれを偶然として片づけることはできず、それでも俺は彼が偶々条件に合致しただけの存在だと信じたかった。彼は知り合って二日三日程度の俺ですら心の真っすぐな好青年だと理解できたし、その言葉や瞳に嘘は見当たらなかった。その大半が下劣で残虐な鬼とは似ても似つかない性格だ。

 

 されど……俺は違和感を感じた。前にも言ったと思うが、俺は生き物の気配を探るのが少しばかり得意だ。柱のような手練れが意図的に気配を殺している場合は流石に感知しづらいが、鍛錬や修練などという言葉とは程遠い鬼の気配を感じ取ることは野生の獣を見つけるよりも簡単だ。そして、鬼と普通の生物の違いを判別することも、また同様に。

 

 昼に会った彼はその前日出会った時と気配が異様に違っていた。正確に言うならば、()()()()()()と形容できるだろう。それをすぐに理解出来なかったのは、ひとえに初めて体感したことだったからだ。

 

 だから俺は彼が鬼で無いことを祈ると同時に、確信してしまっていた。彼は……鬼か、それに近しい存在であると。

 

 この判断が合っているにせよ間違っているにせよ、鬼を狩らねばならないことに変わりはない。俺は稀血の匂いを風下に流すことで町全体に拡散させ、鬼を無理矢理表に引き摺り出す作戦を敢行した。此度の出現時期において犠牲者は未だに出ておらず、恐らく鬼は飢餓状態寸前。間違いなく香りに誘われて出てくる。

 

 その目論見通りに鬼はものの見事に誘き寄せることに成功し……結果としては――――最悪の予想は当たった。

 

 神崎善継は鬼だった。しかも前例のない、人格によって人間と鬼のどちらかに肉体を変質させることのできるという特異中の特異例。

 

 ……即ち、善継は何も知らないただの人間であり、あの凶裏と名乗った鬼こそがこの神隠しの真犯人だった訳だ。

 

 その事実を知って俺は葛藤した。もし彼が本性を隠しているだけの鬼であれば、躊躇いは多少あれど問題無く斬首できる心構えができていただろう。だが、人としての人格が別に存在していて、彼はただの心優しき兄で――――

 

「――――しゃぁぁぁらぁぁぁあああああああああッッ!!!」

「くぅっ……!!」

 

 俺の心の迷いを丸ごと粉砕するかの如く、竜巻を纏う筋肉と骨が剥き出しになった獣のような腕が振るわれて地面が砕かれる。背後へと跳ぶことで紙一重で回避するものの、腕に纏われている暴風が鎌鼬の余波を吐き出すことで回避したにも関わらず俺の肌に浅い切り傷を作っていく。

 

「オラオラどうしたよォ! 動きが鈍いぞ鬼狩り! さっきまでの威勢はどうしたァ!!」

「ほざけ……!」

 

 距離が開いても安心なんてできない。凶裏はその場で腕を幾度も空振りさせ――――その振るわれた爪の軌道に沿って無数の鎌鼬の斬撃が飛んできた。地面を易々と切り裂きながら迫るその威力と規模は前回交戦した時と比べて明らかに倍以上に跳ね上がっている。

 

 やはり、あの時纏っていた風の迷彩が相当足を引っ張っていたのか。これは前に戦った時の経験は全く参考にならないと判断していいだろう。それ程の差があるという事を俺の肌がピリピリと訴えてきた。

 

「前までの俺と比べるんじゃねぇぞ……あの透明化は俺の力を大分使っちまうからなァ。だが! そんな縛りさえ無くなっちまえば! こうして掛け値なく全力を出せればッ! テメェなんて敵じゃねぇんだよぉぉぉぉおおおッ!!」

(近づけ、ないっ……!!)

 

 怒涛の如く襲い来る鎌鼬を横に駆けることで避けながら俺は歯噛みする。先程からこうして攻撃を避けてばかりでまともに近づくことすらままならない状況が続いているからだ。

 

 単純に、攻撃の射程距離が違い過ぎる。こちらは刀一本で立ち向かわなければならないのに対して、奴は風を飛ばす事で遠距離攻撃を可能としている。これで攻撃までの間隔が長いとか、一発の威力が低いなどの弱点があればそこを突けるだろうが、生憎そんな都合のいい話は無い。

 

 高威力、長射程の攻撃が雨あられの如く押し寄せる。だが不幸中の幸いか、その精度はあまり高くはない。密度こそ高いが一つ一つを見極めれば避けることはそう難しくはなかった。

 

 だがその密度こそ問題だ。避けることが出来ても近づくことが出来なければこのまま鼬ごっこを何時までも続けなければいけなくなる。そして当然、体力が尽きるのは俺が先だろう。それにたとえ無理に体力を保たせたとしても、逃げられてしまえば意味がない。

 

 この場に於ける俺の明確な勝利条件は奴を倒す事。だが奴にとっての勝利は生き延びることだ。最悪、正体を知っている俺を仕留めそこなったとしても逃げて生き延びさえすれば問題はないのだから。

 

 故に俺は奴を逃がしてはならない。此処で逃してしまえばまた隠れられてしまい、再度足取りを掴むことは非常に難しくなる。それにこれ以上犠牲者を出すわけにもいかない。

 

 覚悟を決めろ、冨岡義勇。ここで彼を斬らねばならないのだ。でなければ、何も知らぬ彼にまた罪を増やしてしまうことになる――――!!

 

(見極めろ、僅かな隙を。見つけろ、前へ進むための道を。――――見えた!!)

「クヒャハハハハハハ!! ――――あァ!?」

 

 雪崩の如く押し寄せる鎌鼬の僅かな隙間を見抜いた俺はすかさずその隙間を縫うように前方へと駆けた。

 

 一歩進むたびに身体を掠めては斬りつけてくる風の刃。手足に細い赤い線が次々と作られていくたびに背筋をひやりと冷やしながらも、俺は命を取り落とすことなく凶裏へと肉薄した。

 

「【壱ノ型】――――!!」

「ッこのクソァ!!」

 

 攻撃可能な圏内に入ったと同時に俺はその頸目がけて【水面斬り】を繰り出した。当然凶裏がそのまま受けるはずもなく、その右手で刀を直接受け止めることで防御する。

 

 瞬間、辺り一面へと撒き散らされる火花と金属音。腕に纏っている風が刀の刃とぶつかり合って生み出されたソレは、その凄まじい風速と鋭利さをこれでもかというほど見せつけてきた。

 

 そして理解する。奴の纏っている竜巻は純粋な風のみで構成されているのではない。巻き上げられた砂や目を凝らさねばよく見えないほど小さな小石を巻き込んでさらに威力を増している。もし巻き込まれたらもれなくその竜巻に含まれている小さな異物が俺の体を容易に破壊してくるだろう。万が一にでも生身で触れてはいけない。

 

「懐に入れば勝機があるとでも思ってんのかよォ……懐がガラ空きなのはテメェの方だぜこの間抜けがァ!!」

「ちぃっ!!」

 

 こうして鍔ぜり合っている間に凶裏は空いた左腕で俺へと攻撃を仕掛けようとしていた。受ければ確実に致命傷になると判断した俺は即座に背後へと跳躍。間もなく俺の居た場所へと暴風が振るわれ、鎌鼬が空中にいる俺へと飛来する。

 

 空中にいる以上回避行動は不可能。故に俺は自身に当たりそうな鎌鼬にのみ狙いを絞り、力を込めた一撃を叩きつけることで相殺した。それでも完全には軽減できず頬や手に斬り傷を作ってしまったが、直撃するよりはよっぽどいい。

 

「しぶてェなァ、この餓鬼がァ!!」

「!!」

 

 攻撃を防がれてイラついた凶裏はここで一気に勝負を決めるつもりか、両手を開いた状態で胸の前に合わせた。すると両手に纏っていた風がその間の空間へと吸い込まれていき、球状の風が完成する。それを一言で表すのならば、荒れ狂う高圧縮の嵐。

 

 

 【血鬼術 風来(ふうらい)砂巻(すなま)き】

 

 

 両手が付き出されることで前方へ撃ち出される嵐の玉。間髪入れずにその玉は破裂し、やがて巨大な旋風を形成しながらこちらへと迫ってきた。

 

 砂や石、瓦礫を吸いこみながら襲い掛かる再現された自然災害。これは――――無理だ。大きすぎる。防御できない。だったら一度逃げるしかない。

 

 見た所あの竜巻は俺を追尾してくる仕組みのようだ。下手な所に逃げれば一般人を大量に巻き込みかねない以上、なるべく人のいない場所へと出て何とか被害を軽減するしかない。

 

 だが、まさかこれ程の規模の血鬼術を行使してくるのは予想外だった。精々が前日この身で味わったあの竜巻の息吹が限界だと思っていた、思いこんでしまっていたがまさかそれ以上の規模を放つことが出来るなんて。こいつ、本当に下弦なのか……!?

 

「くっ……黒衣――――ッ! 隠達に連絡して今すぐ周辺の民間人を退避させろ! 柱の要請もだ! 急げ!!」

「了解カァー!」

 

 直ぐに上空で待機しているであろう黒衣に声をかけるが、風音が強すぎて返事は聞こえず、無事に声が届いたのかどうかわからない。それにこの竜巻で気流が乱れている状態で果たして迅速に連絡を届かせることが出来るのか。

 

 ……クソッ、完全に見積もりが甘かった。下弦だからと心のどこかで油断してしまっていた。相手を肩書きだけで過小評価するなどとんだ恥さらしだ。

 

 だが泣き言を吐く暇も余裕も無い。どうにかして自力で討伐するか、柱が来るまで奴をこの場に繋ぎ止めておかねば……!!

 

「ヒィィィィィィィヒャヒャハハハハァァァアアアアアアアアアアアア――――ッ!!」

「!?」

 

 狂気的な笑い声と共に宙へと躍り出る凶裏。一体何をするつもりだと思った瞬間、奴は思いもよらない行動にでる。

 

 奴は空中で身体を大きく仰け反らせたかと思いきや――――自らが起こした竜巻を、()()()()()

 

 大量の空気を吸い込んだことで、まるで限界まで空気を詰め込んだ風船のように膨らむ凶裏の胸部。文字通りの人間風船となった奴の姿を見て一瞬だけ乾いた笑いがこみ上げてきたが、次の瞬間やつの肉体が元通りになったことで俺の表情が固まる。

 

 何だ、奴は一体何をしている?

 

「――――ぉ」

 

 あの状態から元の姿になって何が起こった。肺にあった大量の空気は何処に。吐き出された様子は見えなかった。なら、圧縮? 膨大な空気を圧縮するとどうなる。高圧による高温化。気体からの相転移――――

 

 

 プラズマ。

 

 

 

 【血鬼術 天響吹刃(てんきょうふうじん)滅光(めっこう)

 

 

 

 推定数万度にも昇るであろう光線が凶裏の口から撃ち放たれた。

 

 

「――――うぉぉぉぉあああああああああああああああああああああッ!!!」

 

 

 防御は不可能。直撃すれば確実に死ぬ。あの攻撃の正体に思い至った瞬間俺は死にもの狂いで横へと飛んで回避行動を起こす。その一秒後に俺の居た場所を巻き込むように下から上へと光の線が過ぎ去り――――真っ赤に赤熱した地面が連鎖的に大爆発を起こした。

 

 爆風に吹き飛ばされた俺の身体は近くにあった民家の壁に叩き付けられて勢いが止まる。しかし俺は全く安心などできなかった。

 

 奴が齎した被害を見る。……大通りは大きく抉れ、その惨状は三町(約三百三十m)先まで続いている。これがもし住宅地に放たれたかもしれないと思うと……。

 

(駄目だ。奴に大技を使う隙を与えてはいけない……!!)

 

 あれほどの技、放つためには相当の隙を晒さなければならないだろう。事実、奴の膨らんだ身体が元の姿に戻るまで十秒以上の時間があった。一つの隙が致命傷足りうる白兵戦か、乱戦状態ではまず使えないし使おうとは思わない筈。

 

 これで俺は逃げるという選択肢を潰された。たとえどんな攻撃が来ようが俺は奴に近付くことを諦めてはいけない。例え取り返しのつかない大怪我を負ったとしても。でなければ、何人、いや何十人死ぬかわからない――――!!

 

「ハァァァァァァァ……今のを避けるたぁ運がいい奴だ……」

 

 地面を砕きながら凶裏が着地する。体内でプラズマを発生させた代償かその上半身は赤熱しており、肌はドロドロに溶けていた。しかしそれも束の間。たった数秒でその惨たらしい姿は元通りに修復されてしまう。

 

 だがおかげで数秒、体勢を崩した俺にも時間が与えられることとなった。その数秒を使って俺は口の中に溜まった固唾を吐き捨てながら、呼吸を整えて刀を構え、凶裏と相対する。

 

 ここからはもう引けない。……覚悟を決めろ、冨岡義勇。

 

「「…………………」」

 

 爆発によって乱れ狂う熱気が夜風に巻かれて吹きすさぶ。爆音によって眠りから覚めた住民が外に出てその惨状を目にして騒ぎ始めるが、ほぼ同時期に避難を促す掛け声も聞こえ始めた。

 

 どうやらもう隠たちが駆けつけてくれたらしい。流石、仕事が早くて助かる。

 

 その間にも続く膠着状態。指を一本でも動かせば始まりかねない連鎖反応。――――その始まりは、あっけなく。

 

 

 どこかの屋根から瓦が落ちた音が聞こえた瞬間、両者の足裏が爆ぜた。

 

 

「オオオオォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

「たぁぁぁぁぁぁああああああああああああああッッ!!!」

 

 

 こちらへの距離を爆速で詰めながら両腕を振り回して鎌鼬の嵐を撃ち込んでくる凶裏。一つ一つの威力は先ほどより落ちているが代わりに精度が上がっている。どれもが明後日の方向ではなく俺へと向かって直進していた。

 

 だが威力を落としたのは悪手だ。この程度なら、斬り裂ける……!!

 

 

 【拾ノ型 生々流転】

 

 

 体を回転させながらこちらに飛んでくる風を斬り裂き前へと進む。この調子ならば無事たどり着ける――――などと思えるはずがない。なぜならこれはすでに一度使った手法。二度目が通じると思うほど、俺も愚昧ではない。

 

 その予想通り、奴は鎌鼬を放つのを片手だけに変えながらその逆の手に風を収束させ始めていた。それを見た瞬間、俺は回転の勢いを殺さないよう体を強引に捻って進行方向を変更する。

 

「死ねぇぇぇぇぇぇえええッ!!!」

 

 【血鬼術 壓颯(えんそう)(つるぎ)

 

 風を収束させた凶裏の手が突き出された同時に、風が解放。一点に凝縮された風がさながら光線の如く前方へと伸びていく。しかしその攻撃は寸前で回避に移った俺に当たることはなく、髪を数本千切りながら彼方へと消えていって――――

 

「コイツはこれで終わりじゃねぇぇぇぇぇぇんだよぉぉぉぉぉぉおおおおお!!!」

「ッ…………!?」

 

 両足で地面を踏みしめながら凶裏は消えることなく存在し続ける風の光線――――否、風の剣を生じさせた腕に力を籠め、横方向へと大きく薙ぎ払った。推定でも二間(約三百五十m)以上はあるだろうその巨大で透明な凶器は容赦も慈悲もなく周囲の建物を軽々と両断しながら俺を斬り裂かんと追ってきた。

 

「まっ、だまだぁぁぁああああ!!!」

 

 風の剣から逃れんと速度を上げて斜め方向へと走り続けるももう建物の壁が迫ってきた。走る方向を変えるにも少しでも減速すれば間違いなく背後から迫る刃の餌食になるのは目に見えている。

 

 ――――故に、そのまま壁へと走る。

 

 だが障害を突き破るのではない。俺は壁にぶつかる寸前に跳躍し、()()()()()()()()()()減速することなく走り続けた。更に真横ではなく斜め上へと駆けることで位置の高さも変えることで、横一文字に薙ぎ払われた風の剣の回避にも成功する。

 

「な……んだとォ!?」

 

 壁走りという予想外の方法で窮地を切り抜けた俺を見た凶裏は一瞬ではあるが動揺を見せた。その上大技を放ったことによる硬直。

 

 好機。

 

 

「ふっ――――ッ!!!」

 

 

 滑るように地面に着地した俺はその反発力を利用して両足に力を凝縮。更に呼吸の効力を下半身に集中させると同時に――――激発。地面を砕きながら未だ体勢が崩れたままの凶裏へと跳躍した。

 

「カァァァアアアアアアアアアッッ!!!」

 

 【血鬼術 空砲(くうほう)玉風息吹(たまかぜのいぶき)

 

 悪あがきとして凶裏の口から放たれた空気弾。咄嗟の小技だろうとはいえ当たればただでは済まないと察した俺は可能な限り最小限の動きでその空気弾を回避。背後で風の小爆発が起き、それによって俺の身体は更に前方へと加速する。

 

「【壱ノ型・改】――――!!!」

 

 

 ――――【水面一閃】

 

 

 爆発による加速によって予想を超える速度で凶裏の懐に到達し、その瞬間に放つ渾身の抜刀撃。確実に頸を捉えた正確無比な一撃が凶裏の命を狩らんと空気を裂きながら迸る。

 

 だが下から二番目とはいえ流石は十二鬼月。寸前に反応が間に合い、両腕を盾にし犠牲にすることで刀の勢いを殺し、頸を半分斬った所で刃を止めてしまった。これでは動きが止まった瞬間に反撃を受けてしまうと判断した俺は――――敢えて減速せず、突撃時の勢いをそのまま乗せたタックルを繰り出して凶裏を地面へと引き倒す。

 

「ご、ぼぁがッ!」

 

 反撃の手を即時に潰されたことで凶裏は顔を驚愕に染め、喉から血を拭き出しながら俺の下敷きになりながら無様に転がる。だがまだだ、まだ終わっていない。両腕がなくなった程度の損傷、十二鬼月クラスの鬼ならば数秒で修復できる。

 

 反撃する暇を与えるな。一秒でも早く頸を断て。確実に仕留めろ。

 

「斬れ、ろォォォォォォォ……!!」

「のッ……ガギィィィッッ……!!!」

 

 地に転がった凶裏の身体に馬乗りになった俺は刀の峰に手を当てて一気に押し込むことで斬首を試みる。その間にもう両腕が再生を始めた。残り時間は後三秒も無い。だが間に合う。後少しだ、後三分の一で、こいつを――――!!!

 

 

「ぉ…………ォォォォォォォォァァァァアアアアアアアアアアアアアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!!」

 

 

 咆哮。

 

 命の危機に瀕した生き物が絞り出す怨嗟の如き叫びが凶裏の口と、切り裂かれた喉から血の泡と共に這い出る。そして――――凶裏の胸部が突如、爆発でもしたかのように膨らんだ。

 

「な、」

 

 こいつ、まだこれ程の量の空気を肺に溜め込んで……!! 駄目だ、使わせる前に早く仕留め、

 

 

 

「死゛ね゛……!!」

 

 

 

 ここからの動きは殆ど本能的なものだった。

 

 俺は刀から手を放して両耳を塞ぎ、口を開けながら全速力で背後へと跳んだ。そうしなければ確実に死ぬと頭の中の警鐘が叫んでいたから。

 

 

 そしてその直後、俺の全身に強烈な衝撃と音の爆発が、肉と骨の破片と共に叩きつけられた。

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「うぅ……ん…………」

 

 もぞりと小山の様に膨らんでいる布団が揺れ動く。それから数秒程経つと、むくりとゆっくりとした動作で横になって熟睡していた少女――――カナエが眠たそうな目で起床した。

 

「あれ……? まだ、夜……」

 

 しかし窓の外がまだ真っ暗だと気づいた彼女はがっくりと肩を落とした。どうやらここ数日ほどぐっすりと寝たにも関わらず殆ど運動していなかったせいで、身体がどうにも暇を持て余してしまったらしい。

 

 かと言って身体を動かすにも深夜過ぎる。もし身体を動かしているときの音で誰かが起きたらとても申し訳ない。なのでカナエはため息を付きながら二度寝のために再び布団に潜り込むことにした。

 

「……あれ?」

 

 そこでふと、カナエは義勇の姿がないことに気付いた。……いや、親しい仲と言っても同い年かつ異性なのだから別室で寝るのは当り前のことなのだが、カナエは何故だが凄く残念で寂しい気持ちで胸が一杯になってしまう。

 

(………………………………うっ、うぅっ、うにゃああぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁああああっ!?!?)

 

 同時に、彼女は寝る前の自分の所業をやっと思い出した。

 

 いくら仲が良いといってもアレは、アレは一体なんだ。何故自分は同い年の異性に「自分の父親になって欲しい」なんて思って……いや思っただけなら百歩譲ってまだいい。それを口にして本当にやってしまう馬鹿が一体どこにいる。

 

(此処に居るじゃないのぉぉぉぉ~~~~っ!!!)

 

 ぼすぼすと羞恥のあまり顔を枕に埋めながら布団を拳で叩き、踊り食いにされそうな芋虫の如く身体をうねうねと蠢かせながら悶えるカナエ。もしこの事案を妹に知られたら彼女は恥ずかしさのあまり明日を生きられない自信があった。

 

「どうして……どうして私はあんなことをぉぉぉ……」

 

 顔を真っ赤にしながらカナエは自己分析を試みた。どう考えてもおかしい。いくら自分が仲が良ければ性別などあまり気にせず近づいてしまう能天気のほほんガールだとしても先の事はどう考えてもやり過ぎた。

 

 一体自分はどうしてしまったのだろうか。原因がわからずうんうんと唸りながら、カナエはとりあえず義勇の顔を思い浮かべてみることにした。

 

 うむ。いつも通りの義勇の顔だ。そして頭の中の彼の顔が少しずつ優しさに満ちた笑みに代わってゆき――――

 

『カナエは頑張り屋さんだな』

「はうぁあっ!」

 

 まるで胸を討ち抜かれたかの如くカナエは胸を押さえながら倒れ込んだ。第三者から見たら完全に奇人の行動だが、彼女にその自覚はあるのだろうか。

 

「そ、そんな……まさか……」

 

 薄々自身の心に感づいてきたのか震え出すカナエの身体。いやそんな筈がないと理性は言うが、本能はそうだと肯定の言葉を吐き出し続けている。

 

 顔を思い浮かべるだけで増す心臓の鼓動。声を思い出すだけで光悦で緩み出す頬。思い返すだけでトロトロに融けそうな頭を撫でられる感触。そう、これは、間違いなく。

 

(私……義勇君に――――恋、してるの……!?)

 

 胡蝶カナエ十三歳。人生で初めて恋の病を患った瞬間であった。

 

「だっ、駄目よ! だめだめだめ! だ、だって義勇君にはしのぶが……! 私だってしのぶの事を応援してる筈なのに……!?」

 

 しかしここで理性の抵抗、相手が妹の想い人という最大にして最後の壁が立ちはだかった。

 

 彼に先に恋をしたのは妹であり、その想いの深さも理解している。そしてそれを姉として心の底から応援するつもりであったことも確かだ。だが、だとしても、己のこの想いはどうすればいいのか。このまま心の奥底にしまいこんでしまえばいいのか……?

 

「う、うぅぅぅ……わ、私、どうすれば……」

 

 姉としての自分は此処で止まれ、まだ引き返せると叫ぶ。だが女としての自分はこう囁くのだ。――――略奪愛も、また愛であると。

 

 いや義勇は別にまだ誰の物でもないのだから略奪も何もないのだが、カナエの気持ち的には妹の想い人を奪うような引け目を感じてしまうのだろう。ともかくとても難しい問題だ。

 

 この気持ちを封じてしまうか、それとも素直になって自分もこの果てしなく長い険しい競争に参加してしまうか。

 

「か、帰ったら、菫さんに相談してみましょう……」

 

 とりあえずカナエはこの場で答えを出すことを避け、年長者に意見を仰ぐことに決めた。もしかすると、この気持ちは恋では無く憧憬や親愛の類なのかもしれないと思って。

 

 やもしれない感情に悶々としながらカナエは改めて布団の中に潜り込む。今はとにかく気持ちを落ち着かせるのが先決だと思い――――

 

 

「カァー! カァー! 緊急事態! 緊急事態デス! 起キナサイ! 胡蝶カナエ!」

「っ!?」

 

 

 バシバシと窓が鳥の翼で叩かれるような音がする。その声の迫真さから事態の重さを察したカナエはすぐさま飛び起き、叩かれている窓を開け放った。そこにいたのは綺麗な花を模った髪飾りを首に付けた雌の鎹烏。己の相棒たる”椿(つばき)”だった。

 

「椿!? どうしたのこんな夜中に……?」

「緊急事態デス! 町に下弦ノ伍ガ出現! 冨岡隊員ガ交戦シマシタガ重傷ヲ負イ、鬼ハ逃亡シマシタ!」

「な、っ……ぁ!?」

 

 想像を遥かに上回る最悪の事態に、カナエは咄嗟の言葉も出すことが出来なかった。

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 つい数分前の爆発や剣戟音が嘘のように掻き消えた夜の大通り。地面が大きく抉れ、一部の建物が崩壊するなどの凄惨な有様となっているが、それを生み出した張本人たちは今や地面の上で死人の如く横たわっている。

 

 片や、全身の至る所に穴を開けて濃い血の匂いを漂わせる少年、冨岡義勇。

 

 片や、肺の中にある高圧空気を暴走させることで自爆を強行し、代償として上半身が丸ごと吹き飛んだ凶裏。

 

 二人はそのままの状態でピクリとも動かず、何分もの時間が静かに過ぎてゆく。――――しかし、状況は決して停滞などしていなかった。

 

 健在であった凶裏の下半身が電流を流された蛙の如く大きく跳ねた。それに合わせて四方八方に飛び散った凶裏の肉片たちが蠢き始め、ある一点……凶裏の上半身があったはずの場所へと移動していく。極めて遅々とした動きではあったが邪魔する者はここにおらず、ものの三分ほどで凶裏の肉体は元の状態へと復元されてしまった。

 

 黒へと変わってしまった髪色だけを除いて。

 

「……ら……なきゃ……」

 

 生気と正気を失った虚ろ気な目をした凶裏……否、善継は覚束ない動きで立ち上がり、己を害そうとした義勇の居る方向とは逆方向へと歩を進め出す。

 

「帰ら……なきゃ……皆が、待って……」

 

 無意識の帰巣本能か。彼は無心に己の居るべき場所へと帰ろうとしている様だ。

 

 だが気づいているのだろうか、彼は。

 

 

 己の髪の一部が緑に染まり、瞳も真っ赤に変貌していることに。

 

 

 

 

 




カナエさんのヒロイン化の予定は無いと言ったな。



アレは嘘だ。




《血鬼術》

狂飆(きょうひょう)(かいな)
 肺に取り込んだ空気を両腕から噴出し、竜巻のように纏わせる攻防一体の技。ただ風だけを纏わせているのではなく周囲の砂や小石などを巻き込むことで破壊力を向上させており、生身で触れれば文字通り”削られる”。

風来(ふうらい)砂巻(すなま)き】
 肺に取り込んだ空気を両腕を介して排出し、それを乱回転させながら高圧縮。正面へと撃ち出して破裂させ、巨大な竜巻を形成し攻撃する。
 指定した対象をある程度追尾してくれるが竜巻自体の移動速度が遅いため足の速い者に対して効果は薄い(ただし副次的に周囲へと発生する被害は壊滅的の一言)。

天響吹刃(てんきょうふうじん)滅光(めっこう)
 莫大な空気を吸いこんで肺の中で超圧縮。体内で摂氏数万度にも昇る高電離気体(プラズマ)を瞬間的に生成し口から吐き出すことで攻撃する。見た目は完全に某巨〇兵のプロトンビーム。
 現時点で凶裏が保有する技で一番強力な反面リスクも特級。燃費が悪いのは当然だが、空気を吸いこむための要求時間が五~十秒以上と白兵戦ではまず使用できない程隙が大きく、また使えたとしても使用後は肺を中心とした体内が焼けついて再生まで身動きがとれなくなる。
 そのため基本的に相手がどう頑張っても十秒で辿り着けない程遠くにいる時にしか使えないハイリスクハイリターンな必殺技。

壓颯(えんそう)(つるぎ)
 肺に取り込んだ空気を片腕だけに排出しつつ腕の周りに収束。開放することで長大な風の剣を形成する。攻撃範囲・攻撃力が非常に高い反面使用には二、三秒ほどの”溜め”が必要であり、また維持できる時間も長くて十秒程度。

空砲(くうほう)玉風息吹(たまかぜのいぶき)
 肺に取り込んだ空気を圧縮して吐き出す技。所謂強力な空気砲であり、見た目は他の技と比べて地味に見えるが、撃ち出された圧縮空気弾は着弾時に破裂して強烈な衝撃を全方位にまき散らすため対人用としては威力は十二分。威力調整も楽なため牽制目的によく用いられる。
 カナエの鳩尾に叩き込まれたのもこの技を(後で甚振るために)それなりに加減して放ったものである。


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第参拾話 幻の崩れる時

 誰もが寝静まった真夜中に、蝶の模様が描かれた羽織と真っ黒な装束を着た華奢な少女が風のように駆ける。

 

 息が荒くなり、口から熱気が感じ取れるほどに走り続ける一人の少女。汗を垂らしながら少女――――胡蝶カナエは空を飛ぶ鎹烏の後を追い続け、ついに目的地らしき建物にたどり着いた。

 

 そこは一人の町医者が営む小さな診療所。恐らく最寄りの医療機関に運び込んだ結果だろうと推察したカナエは固唾を飲んでその建物の中へと駆けこんだ。

 

「はぁっ、はぁっ――――義勇君!!」

 

 倒れ込みそうになるのを堪えながら崩れるように戸を開け放ち、カナエは目当ての人物の顔を探し始める。そんな彼女の慌てようを見てこの建物の持ち主であるだろう医者が駆け寄った。

 

「ちょ、ちょっと君! 一体どうしたんだい!? どうやら尋常じゃない様子だけど……」

「あ、あのっ、こ、此処にっ、私と同い年くらいの男の子が運び込まれませんでしたか!? ツンツンした髪の……!」

「君は、あの子の知り合いなのかい? しかしその刀は……いや。わかった、付いて来てくれたまえ」

 

 医者は突然入ってきたカナエと腰に佩いた刀を見て気難しそうな表情を浮かべるも、彼女の顔を見て覚悟を決めたのかすぐに先導を始めた。

 

 そう大きくない建物故に探し人の元まではそう時間は掛からず――――故に、まだ心の準備も定まってないまま、カナエは少年の惨状を目にすることとなる。

 

「ひゅー……っ…………か、ひゅ……ぅっ……」

「――――あ、あぁ……っ!」

 

 顔以外の全身を血の滲んだ包帯で包まれながら死人のように横たわる、冨岡義勇の惨たらしい姿がそこにはあった。

 

 息は掠れてまるで乾いた風のようで、命の危険を現す信号か止めどなく汗が流れ続けている。包帯に滲んだ血も斑模様などというレベルをとうに通り越して、まるで血の池だ。辛うじて手足の骨は無事なようだが、この様子では気休め程度にもならない事だった。

 

「ど、どうして、こんな……」

「突然、黒ずくめの子達がこの少年を運び込んできてね……。全身がまるで至近距離で何かの爆発に直撃したような、酷い有様だった。増血剤や止血剤を打って応急処置は済ませたが、安心はできない」

「な、何とかならないんですか!? お願いしますっ! お金なら幾らでも差し上げますからっ……!」

「……そうしたいのは山々だけどね、無理なんだ。私の診療所では、彼を安全な状態まで治癒できる設備が存在しないんだよ」

 

 そう、義勇の受けた傷は小規模な町で営業しているような医療機関で対応できるようなものではなかった。

 

 爆風によって圧迫されたことで肋骨は五本以上が折れ、衝撃によって肺も多少ながらダメージを受けている。

 

 しかしそれ以上に彼を苦しめているのは、その体内にまで食いこんだ異物……即ち、鬼の肉や骨の欠片たち。

 

 意図したものかただの偶然か、それらが内臓を傷つけることは無かった。が、手足や胴へと打ち込まれたそれは義勇の筋肉や血管を大きく引き裂いてしまっており、再起不能という程ではないにしろ大きな傷を与えた。もし今彼に意識があったのならば、その痛みと体内に異物があるという嫌悪感によってこれ以上無いほど苦しんでいただろう。

 

 何にせよこれ程の傷。何らかの無茶でもしない限り、彼が即時に戦いへ復帰できる可能性は潰えたと言える。

 

「だけど安心してほしい。先程この少年を運び込んだ子達が馬車を借りてくると言っていたんだ。ここから大きい病院のある場所まではそう遠くない。きっと間に合うはずだよ」

「…………はい」

 

 そう言って医者はカナエを慰めてくれるが、それでもカナエは胸の中を満たす不安に顔をくしゃくしゃに歪ませながら涙を浮かべるのを止められなかった。

 

 何故ならば、理解しているからだ。彼がどうしてこんな目に遭ってしまったのか。どうして一人で鬼を倒しに行こうとしたのか。

 

「ごめんなさい……義勇君、ごめんなさい……! 私がっ、私が不甲斐ないせいで……貴方が、こんなっ……!」

 

 苦しそうな表情で眠り続ける義勇の手を握り、膝を着きながら彼女は許しを請うように何度も謝罪の言を呟き続ける。

 

 自分の心が弱ったせいで、彼は一人で戦わざるを得なくなった。刀を握れなくなった剣士などいう役立たず以外の何物でもなくなった自分のせいで、そうする選択肢を選ぶ他なくなったのだ。――――その結果、こんな身体になってしまった。

 

 ――――こんなつもりではなかった。

 

 きっと何れ良くなると、少し時間が経てばまた共に戦えると思っていた。

 

 ――――こんな事になるなんて思っていなかった。

 

 わかっていた筈なのに目を逸らし続けていた。彼の優しさに甘えてばかりいて、何をすべきか考えようともしなかった。

 

 ――――…………胡蝶カナエ、貴方は一体なんのために、此処に居るの?

 

「……私、私は……」

 

 階段で足を滑らせてしまったかのような、取り返しのつかない事になるという不安感がカナエの全身を包み込む。

 

 絶え間なく溢れ出る罪悪感と自己嫌悪。カナエはもう自分が何のためにこの場所にいるかもすらわからなくなり始め、赤子の様にすすり泣き続けるしかできなかった。

 

 こうなってはもう下手な言葉は逆効果だろうと悟ったのか、医師は沈鬱な顔で部屋を去ろうと踵を返した。しかしその瞬間を狙いすましたかのように、診療所の入り口の方からドタバタと大きな足音が聞こえ始めて、この部屋に近付き始めるではないか。

 

 まさかもう隠達が帰ってきたのかとカナエは顔を上げて扉の方へ視線を移すが……部屋に入ってきたのは予想だにもしなかった者であった。

 

「――――お医者様! お医者様はここですか!?」

「えっ……?」

 

 少し前までのカナエのように息を荒げながら戸を蹴破らん勢いで入ってきたのは小柄な少女……そしてカナエはその顔を知っていた。忘れるわけがない、何せつい最近知り合い、今日も顔を合わせたのだから。

 

 その少女は他でもない――――神崎家長女、神崎アオイだった。

 

「ア、アオイちゃん!?」

「君は神崎さんの所の……? こんな夜更けに一体どうしたんだい!?」

「はっ、はぁっ……! カ、カナエさん? あ、いえ、それよりも! 大変なんです! あ、兄が突然苦しみ出して! 身体の肉がボコボコって、変な風に蠢いててっ! お願いします、お兄ちゃんを助けてくださいっ……!!」

 

 これ以上無いほどの切羽詰まった様子と覚束ない言葉。誰にでもわかるほどのアオイの焦り具合に、医者は一度だけ義勇の様子を一瞥すると近くにあった救急箱と聴診器を手に取って外へ出る支度を始めた。

 

「すまない! この子の兄の様子を見てくる!」

「し、失礼しますっ!」

 

 そう言い残して医者とアオイはこの場を去ってしまった。一見無責任な行動に見えるかもしれないが、先程言ったようにこの診療所では今の義勇はこれ以上手の施しようがないのだ。である以上、医者が他の患者を優先するのも仕方のない行動だ。

 

 彼らが去ってしまったことで義勇と二人きりになってしまったカナエは、もう一度寝た切りになってしまった義勇の顔を見る。

 

「ひゅー……こほっ、こほっ……」

(……しっかりしなさい、私! 今一番苦しんでいるのは義勇君なのよ!)

 

 汗が絶え間なく流れ続けている。身体の代謝機能が最大限にまで働いているのか体温もとても高い。このままでは燃え尽きてしまうのではないかと思えてしまうほど。

 

 それを理解したカナエの行動は早かった。彼女は自身の両頬を叩いて気合を入れ、急いで部屋を出ると隅にあった水桶と棚にしまわれていた布を拝借し、建物の裏手にあった井戸から冷たい水を汲み上げた。そうして汲み上げた水を桶に注ぎ、カナエは早足で義勇の居る部屋へと戻る。

 

 そして桶の冷水に布を浸して軽く搾り、汗まみれの義勇の顔や包帯に包まれていない身体の一部を賢明に吹き始めた。

 

(どんな些細な事でもいい。私にできることを、しなくっちゃ……!)

 

 何かをしても何も変わらないのかもしれない。

 

 だけど、それでも。

 

(何もしないより、ずっといい……!)

 

 無意味だったとしても、偽善だったとしても構わない。……結果がわかり切っているからって何もしないだなんて、そんなの悲しすぎるではないか。

 

(義勇君…………)

 

 その調子でしばらく義勇の身体を拭き続けている内にそれなりに時間が経ったのか、またもや外から足音が聞こえ始めた。しかし今回は一人では無く、数人分。これは間違いなく――――。

 

「うぉぉぉぉぉぉ! 冨岡ァ! 生きてるかぁ!?」

「馬車を借りてきたぞ! クッソ、あのオヤジ深夜に訪ねたからってぼったくりやがって! 後で覚えてろよチクショウっ!」

「隠さん達!」

 

 頼みの綱の隠たちがやってきた。これでようやく義勇を治療が可能な病院まで運べるというもの。

 

「うおっ、カカカカカ、カナエさん!? どうしてここに――――ってそれは後! カナエさんもこいつを担架に乗せるの手伝って!」

「え、ええ」

 

 隠に知り合いなんていたかしら……? と頭を傾げるカナエだが、今は細かいことを気にしている場合では無い。なるべく大きく揺れないよう、身体の端と端を持って床に置かれた担架に義勇の身体を移そうとカナエは肩を掴んだ。

 

 瞬間。

 

 

「うあああああああああああああああああッッ!!!!」

 

「「ぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああっ!?!?」」

 

 

 

 尋常ならざる雄叫びを上げながら義勇はその双眸を開いて覚醒し、あまりの突然すぎる復活に隠たちは悲鳴を上げて後ずさった。

 

 しかしこれを責めることはできない。どう見ても死に体の怪我人が突如叫びながら起き上がってきたのだ。悲鳴を上げるなという方が難しいというもの。カナエですら叫び出しそうなのを両手で口を塞ぐことでギリギリ持ち堪えられたほどだったのだから。

 

 ともあれ意識不明だった義勇は目覚めた。……が、それが幸運だったとはとても言えない。本人にとっては間違いなく幸運だっただろうが……。

 

「ぐ、ぅぅっぁッ……!!」

「ぎ、義勇君! 駄目よ、まだ身体を動かしちゃ駄目! 身体の中にまだ異物が沢山あるってお医者様が……」

「鬼はっ、鬼は何処だ! 奴を逃しちゃいけない! ここで、仕留めないとっ……!!」

「鬼は、鬼はもう……」

 

 義勇は身体中に住みついた激痛と嫌悪感に苦しみもがきながらも傍にいたカナエにしがみ付いて鬼の所在を問うが、カナエの顔は暗い。何せ事前に烏から鬼を逃してしまったことを聞いていたから。

 

 その顔を見た義勇は泣きそうな顔を浮かべて項垂れる。後悔と悲しみに歪んでしまっている顔は、咄嗟に直視できない程だ。

 

「くそっ、くそっ……くそぉっ……!!」

「義勇君……」

「俺がっ、俺が楽にしてやらないといけなかったのに……! 善継に、これ以上罪を重ねさせる前に……!!」

「―――――――え?」

 

 カナエは一瞬、自分の耳がおかしくなってしまったのかと疑った。

 

 何故、今善継の、アオイの兄の名が出てくる――――?

 

「ぎ、義勇君。どうしてそこで善継さんの名前が出てくるの……?」

「……神崎善継が、鬼だった。異なる二つの人格を持っていて、表に出た人格ごとに体質が変化する特異な鬼だ。人の人格の時は不完全ながらも日光に耐性を得て、外見も人と何も変わらないものになるが、鬼の人格が表出すると完全に鬼化して――――……カナエ?」

 

 震える手で口元を抑えるカナエ。その顔は青ざめ、瞳が小刻みに震え始めている。

 

 あの少女の、アオイの兄が鬼……? だとすれば、先程あの二人は何と言っていた。何のために向かった。もし義勇の言葉が真実だとすれば、それは――――

 

「神崎さんたちが危ないっ!!」

「カナエっ!? ――――うぐっ、がぁぁぁああああッッ……!!!」

「おっ、おい冨岡! 大人しくしろ! お前今重傷なんだぞ!?」

「後藤! 急いで運ぶぞ!」

 

 最悪の事態を予見したカナエは爆ぜるようにして部屋を飛び出した。咄嗟にその背を負おうとする義勇だったが、体中に食いこんだ肉と骨の破片がそれを許さない。

 

 カナエは無我夢中で走った。頭の中で思い浮かべた光景を防ぐために。

 

 これ以上、自分の様な人を増やさないために。

 

 

(お願い……みんな、無事でいてっ……!!)

 

 

 彼女の願いは、果たして聞き届けられるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 まだだ。まだ終わっていない。

 

「ふぅぅぅぅうううううっ!! ふぅぅぅぅうううううううううううううううッッ……!!!」

「とっ、冨岡! 大人しくしてろって! 今病院まで運んで――――」

「やめろッ! まだ駄目だ! まだやるべきことが残ってるっ……!」

 

 仔細はわからなくとも、俺の身体に凶裏の自爆による傷しかない事とカナエの言葉と様子から大体の状況は察した。恐らく凶裏、いや善継は何らかのきっかけによって人格の主導権を不完全ながら取り戻し、無意識的に神崎家の所に戻っていったのだろう。

 

 そしてそこで何か異常な反応があり、神崎家の誰かがここを訪れて医者を連れて行った。概ねそんなところだと推察した俺は、この状況を最悪からまだ回避できると確信した。

 

 故に、こんな所で呑気に寝ている場合では無い。急いでこの身体を動かしても問題無いように処置しなければならない。俺は後藤とその先輩の隠らしき者の手を振り払いながら何とか方法を考え始める。

 

 だが、今できることなんて最初から決まっていた。

 

(体中に食いこんだ鬼の骨や肉片のせいで身体の反応が狂っている……なら、()()()()しかない!)

 

 本来ならば外科手術で慎重に摘出しなければならないだろう代物を無理矢理引っこ抜く。想像するだけで悪寒がするが……不可能では無い。なら、やるだけだ。

 

「後藤、急いで救急箱からピンセットと消毒液……それと薬品棚に痛み止め(モルヒネ)があったら注射器と一緒に持ってきてくれ……」

「はぁっ!? お、お前何をするつもりで……いやまさか、無茶だろ!?」

「やらなきゃこれから何十人何百人の命が消えるぞ! お前もさっきの爆発音を聞いただろう! 奴の血鬼術の規模は桁外れだ……!! 今この場で対応できるのは俺しかない! だから、早く……! 頼む……!」

「う、ううっ……わ、わかったよ! 後で恨むんじゃねぇぞ!?」

 

 俺の懇願を聞き届けた後藤らは診療所内を探り、俺の頼んだ通りピンセットと消毒液、そして痛み止め(モルヒネ)と注射器を持ってきてくれた。

 

 それを受け取った俺は痛み止め(モルヒネ)の入った薬瓶に注射器の針を入れて溶液を吸い出し、患部へと打ち込む。感覚が消える違和感で頭と手が震え出すが、呼吸を整えて震えを抑える。我慢しろ、まだ始まってすらいないんだ。

 

 全身全霊で堪えろ、冨岡義勇。

 

「はぁっ、はぁっ……ぅ、ぬっぅぅうううぅぅぅうううううううッッ……!!!」

 

 ピンセットを持つ。これからやろうとすることを考えると身体中から汗が吐き出されていく。

 

 やるしかない。

 

 やるんだ。

 

 

 

 

やれ。

 

 

 

 

 

「っぃぎ、ぁぁがぁああぁあああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 目を開ける。まるで波の上を揺蕩うような不思議な感覚が身体を包み込んでいる。

 

 一言で言い例えるなら、冬のように寒い時に目を覚ましたような倦怠感。布団の暖かみが恋しくて、そのまま二度寝したい欲求に駆られる。

 

「――――ちゃん」

 

 声が聞こえる。

 

「――――いちゃん」

 

 懐かしい声だ。とてもとても、聞かなくなって久しい、記憶の奥底へと沈めてしまったものが、俺の意識を深い海の底から引き上げようとしてくる。

 

「――――兄ちゃん! どうしたんだよいきなりボーっとして?」

「…………え?」

 

 意識が覚める。

 

 左右を見渡せば、辺り一面は白が敷き詰められた雪景色。よく冷えた冬風が肌を撫でればぶるりと背筋から鳥肌が駆けあがってくる。

 

「ここは、一体」

「何言ってんだよ。昨日川に仕掛けた罠に魚が掛かってないか俺と見に行くんだろ? ほら、早く早く!」

「あ、ああ……」

 

 そうだ、思い出してきた。俺は今から川に仕掛けた罠の確認に行くんだった。食い物が限られる冬でも母や弟、妹たちに美味いものを食わせたくて、獣肉は無理でも新鮮な魚なら出来るだろうと思って。

 

 そして俺の隣にいるこの子は家族の次男坊、正司(しょうじ)。生まれつき体がそこまで健康でない俺を手伝う形で一家を支えてくれている頼れる弟だ。

 

「うーっ、さむさむっ……兄ちゃん、別に家にいてもよかったんだぞ? 風邪でも引いたらどうするんだよ?」

「大丈夫さ。今日はなんだか調子がいいからな」

「兄ちゃんの『大丈夫』が信用できねぇから言ってんだよ……」

「は、ははは……」

 

 正司の言う通り、俺は大丈夫だと何だといいながら結局無茶をしてしまう性質で何度も家族に心配をかけてきた身。反論のしようがなかった。だがそうでもしなければこの家を支えきれなかったのもまた事実だ。

 

 俺の父親はろくでなしだった。いつも母に暴力を振るっては酒浸りの生活を過ごし、周囲の住民ともめ事を起こしては暴力沙汰に発展する。何処からどう考えても碌な人間で無かったのは確かであり、今思っても俺があんな男の種から生まれたという事実に腹が立つ。

 

 いや、何よりも腹が立つのは母を孕ませるだけ孕ませて、何も言わずに金目の物を根こそぎ持ち逃げしたことだ。おかげでまだ十歳だった俺は弟と妹をそれぞれ二人ずつ、母と共に養わなければならなかったのだから。

 

 こうして皆無事に生き残っているのはまさに天が許してくれた奇跡としか言いようがない。あんなに小さかった弟妹たちが元気に駆け回って遊ぶ姿を見れば、弱かった身を死ぬほどこき使った甲斐もしみじみと感じるいうものだ。

 

「――――兄ちゃん! 見ろよ!」

「おお、これは……」

 

 罠を仕掛けた川に着いた俺たちは早速小枝で作った罠を水から引き上げてみた。するとどうだろう、小枝の網の中にはでっぷりと太った小魚が何匹も元気良く跳ねているではないか。

 

「よかった……これなら皆腹いっぱい食べられるぞ」

 

 冬越しのために日々食べる量には限りがあったが、久々に新鮮な魚肉を家族に振舞える嬉しさで俺は舞い上がるような気持ちになった。これ程の自然の恵み、きっと食い物に困っていた俺たちを助けるために神様が送ってくれたに違いない。

 

 俺は手を合わせて山の守り神に深くお辞儀をする。贈り物を貰ったのならば感謝を返す。それが今の俺たちにできる神様への精一杯の誠意なのだから。

 

「ただいまー。兄ちゃんたちが帰ったぞ~」

「「兄ちゃん!」」

「お兄ちゃん! お帰り~!」

 

 袴に着いた雪を払い落しながら俺たちは我が家の中へと入る。真っ先に出迎えてくれるのは冬でも気力のあり余っている三男の敦三(としぞう)と長女の明美(あけみ)、次女の愛菜(まな)。皆可愛い俺の弟妹たちだ。

 

 元気よく駆け寄ってくるその子達を俺はしゃがんで真正面から胸に受け止め、抱きしめてやる。この子達はこれが一番好きらしい。

 

「うへへ、お兄ちゃん冷たーい」

「ひゃー! さむーい!」

「こらこら……貴方たち、お兄ちゃんたちを休ませてあげなさい。善継、正司。こんな寒い中外に出て……寒かったでしょう?」

「ううん、大丈夫だよ母さん」

「俺も平気だよ」

 

 俺が少々病弱気味なのは母譲りだ。しかし生まれつき体の弱い母だったが、本来はそこまで酷い物では無かった。……それを、父の暴力と身勝手な奔放が悪化させた。常日頃から暴力に晒され、挙句の果てに俺の手伝いがあったとはいえ女手一人で子供を五人も育てなければならなくなったのだ。

 

 無理に無理に重ねたのが祟り、母はもう一人では満足に出歩けない程虚弱になっている。……医者の話では、あの一年持つかも……。

 

「ごほっ! ごほっ!」

「母さん!」

「っ……大丈夫よ。ええ、少し埃を吸っただけ……母さんは元気だから、心配しないで」

「…………母さん」

 

 大きく咳き込む母。俺はすぐさま駆け寄ってその様子を確かめるが、母は「何でもない」とひたすら俺たちに言い聞かせる。

 

 その体はまるで枯れ木だ。手足はやせ細り、顔も三十路を越えたばかりだというのにまるで老婆のようにシワクチャだ。そんな状態の身体を回復させるにも、母の身体はもう多量の食事を受け付けられなくなっている。

 

 今は食べやすい粥などで凌いでいるが、それが一体どれだけ時間を稼ぐことができるのか。

 

「すまない、母さん……俺が、俺がもっとお金を稼げていたら……」

 

 入院させるにも、この家にはお金がない。冬というのもあるが、春になっても俺たちの様な貧民がやれる仕事などほとんどなかった。暖かい時期に獣を狩って肉や皮を売ったり、小さな畑で作った野菜を売ったりして金を稼いではいるが、それもこの冬が終わる頃までには殆ど使い果たしてしまう。

 

 故に母の様な重体を治癒できる病院に長い期間入院させられる大金など用意出来るはずもなく、俺はこうして日に日に弱っていく母を見て歯噛みするしかなかった。

 

「善継、きっと何とかなるわ。貴方は悪い事なんて何もしていない。ならきっと、神様が助けてくれるわ」

「……ああ、そうだよな。母さん」

 

 良い事をすれば良い結果が帰ってくる。昔から母がよく言っていた言葉だ。その言葉を信じて俺は今まで頑張って生きてきた。

 

 困った人がいれば助け、飢えている人がいれば食べ物を恵む。例え自分が苦しむことになろうとも、決して見捨てるなんてことをしてはいけない。そんなことをすれば、いずれその報いが自分に帰ってくるのだと教わったのだから。

 

「お兄ちゃん! お腹空いたー!」

「空いたー!」

「ああ、ちょっと待ってくれ。今日はお魚がいっぱい取れたんだ、鍋にして皆で食べよう!」

「「「やったー!」」」

 

 腹の音を空かせた弟妹たちが飯をねだるのを見て、俺は暗い顔を明るく作り変えながら精一杯の元気を出す。

 

 きっと何とかなる。悪く見えるのは今だけだ、いずれいい結果が訪れると信じて。苦労して作った魚や山菜がたっぷり入った鍋をお腹いっぱい食べた家族の笑顔を見て、俺はより強くその言葉を信じることができた。

 

 ……………だけど、そんな都合のいい事があるのならば、俺たちはこうして汚れた家屋で暮らしていない。

 

 奇跡は何時だって起こってほしい時に起こらない。

 

 善行は報われるなんて言葉が幻想であることを、あの時俺は学んだ。

 

 

 

 

「ごほっ、げほっ、けほごほっ!」

「母さん……? ――――母さん!?」

 

 その日の真夜中、弟妹たちがすっかり眠りに落ちた頃に母は突如大きく苦しみ出した。その苦しさはいつも以上で、今まで無かった喀血まで起きる様を見て俺は跳び上がる様に眠りから覚めた。

 

「どっ、どうすれば! 温かい湯を持って――――!」

「善、継………」

「ああ、母さん! 何をして欲しい! 何でも言ってくれ!」

 

 母が縋る様に俺の肩を掴んできた。手から伝わる身体の冷たさと非力さに思わず震えるが、それでも俺は諦めない。絶対に、絶対に助けてみせる。

 

 でなければ、俺は、俺たちは今まで、何のために――――ッ!!!

 

 

 

「どう、か……あの子、達と……幸せに……生き……………」

 

 

 

 それだけを言い残して、母の身体からは一切の音が聞こえなくなった。

 

 力なく俺によりかかる母を、俺は何も言わずに布団に横たわらせ、開いたままの瞼を閉ざす。

 

「………………………」

 

 何も言えなくなった俺は、堪らず家から飛び出した。風が吹く度肌を刺すような痛みが走る。息を吸う度肺が凍りそうになる。それでも俺は今だけは家にいたくなかった。でなければ、今頃幸せな夢を見ている弟妹達を現実という名の悪夢に引きずり込みそうだったから。

 

「……んで、だよ」

 

 腹の奥から湧き出る。憤怒が、憎悪が、悲痛が。理不尽に対する感情は、到底抑えつけられない程の瀑布となって俺の口から飛び出した。

 

 

「何でだよっ!! 何でっ、何で母さんが死ななきゃならねぇんだ!! 俺たちが一体何をしたっていうんだ!! 何もっ、何もしなかった! 誰にも迷惑なんてかけなかったのに、なんでッッ…………あぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!」

 

 

 叫んだ。ただひたすらに雪の振り積もった地面を殴りつけて、手足が真っ赤になって皮膚が裂けても俺は叫ぶのを止めなかった。

 

 ようやく、わかった。

 

 良い事をしたって意味なんて無い。

 

 他人を気遣ったって何の価値もない。

 

 無意味だった。俺の心がけてきたこと、信じてきたもの、全部、全部全部全部っ――――!!

 

 

「――――騒々しい。こんなに静かな夜に情けない喚き声を散らすな、小僧」

「っ!!!」

 

 

 聞き覚えの無い声にハッとなった俺は顔を上げる。

 

 そこには、如何にも羽振りが良さそうな高価な着物を着た美顔の男性が佇んでいた。

 

 一見して人間味の無いほどの美貌と、見たことも無いほど赤く染まった眼。それを綺麗だとは俺は欠片たりとも思わなかった。ただただ、現実離れしたその存在そのものが不気味で、本能が「絶対に近付くな」と何度も叫び出す恐怖を呼び起こす。

 

 だが、俺は彼の顔に釘付けになってしまう。その赤い目、その薄ら笑い。

 

 見下している。まるで人を人とも思わない、道端の小石を眺めてもこうは形作られないだろう侮蔑の眼差し。それを見た俺は――――生まれて初めて、殺意を抱いた。

 

 見せつけているのか、俺のような貧乏人に。優越感でも感じているのか、その下卑た笑みは。

 

「態々こんな辺鄙な所まで出向いてようやく見つけたのが、このような貧民とはな。はぁ……」

「……ろ、す」

「まあいい。丁度、ここらには鬼を配置していなかったのだ」

「……ろして、やる」

「これ以上人を探すのも面倒だ。お前でいいだろう」

「ああああああああああああッ!!! 殺してやるッ!!! この糞野郎がぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!!!」

 

 目の前が真っ赤に染まるほど血眼になって俺は目の前の男を八つ裂きにしてやる気で飛びかかり――――

 

 

 

 

 

 

「やめてっ! 兄ちゃん! いやぁぁぁああああ!!」

 

 

「痛いようぅっ! 痛いよぉ……! たすけ、たすけて、お母さん……!」

 

 

「許して、許して、許して。もう迷惑かけたりしないから。もう遊んだりしないから。お兄ちゃん許しっ――――」

 

 

「人殺しっ! 兄ちゃんの人殺しぃぃぃっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は、何をした?

 

 

 守ってやるべき弟妹達を、一体どうした?

 

 

 弔うべき母の亡骸を、どう扱った?

 

 

 

 

「ようやく思い出したか、■■善継」

 

 俺の声、だけど俺じゃない声が何処かから聞こえてくる。

 

「お前がやったんだよ、全部。俺じゃなく、お前がな。まあ、そん時は俺が生まれる前だからなぁ? 流石の俺でもどーしようもねーよ?」

 

 誰だお前は。何を言っている。

 

「いい加減目を逸らすなよ~。何時まで俺に責任を押し付けるつもりだ? 悪い悪い人格の俺にさぁ? いや、その後の殺しは俺の所業だよ? でもこればかりは庇いようがねぇだろうよォ?」

 

 違う。

 

 俺じゃない。

 

 俺のせいじゃない。

 

 俺は、俺は、俺は!!

 

 

 

「なあ善継、大好きな母親と下の子達の肉の味はどうだったよ?」

 

 

 

 

 

 

 顔に温かいものが掛かるのを感じて、目が覚める。

 

「……善……継……どう、し……て………………」

「……………ぇ」

 

 目を開けると、真っ赤な景色が見えた。鮮血。一体誰の? その答えは視線をほんの少し上に動かせば、直ぐに明らかとなった。その人物の顔を見て、俺は足場が崩れ去るような絶望を感じた。

 

 

 俺の恩人であり、義母である菖蒲さんの顔が、目に入ってきた。

 

 

 ずるりと滑るように、義母の身体が倒れる。同時に俺の両腕から生々しい感触が伝わる。見てみれば、俺の両手はよくわからない物体を握っていた。

 

 赤く染まった、肉の様な物体。握ってみれば柔らかい感触で、同時に中に入っていた赤い液体が勢いよく吹き出す。俺は、これをよく知っている。狩りの時に、獲物を解体するときに何度も見ていたからだ。

 

 これは、心臓だ。

 

 人にとって欠かせない臓器。

 

 命を司るモノ。

 

 何でそれが二つも、俺の手の中にある?

 

「ぁ、あぁ、あ」

「……アオイ?」

「ひっ」

 

 部屋の隅によく見知った顔を見つけた。義妹であるアオイだ。一体何がどうなっているのかわからず、俺は今まで見たことも無いほどに怯えた顔でこちらを見つめてくるアオイに声をかけて説明を求めようとする。

 

 が、足に何かがぶつかってその歩は止まった。そして反射的に下を見てみれば――――そこには義母と同じく胸に大穴を開けた、義父である清蔵さんの身体と、誰のものかもわからない首なしの死体が当り前のように転がっていた。

 

(……何が、あった)

 

 ――――わかっているはずだ。

 

(……誰が、やった)

 

 ――――わかっているはずだ。

 

(俺じゃない。俺じゃない俺じゃない俺じゃない違う違うちがうちがう俺はこんな――――ッ!!)

 

 

 

 

 

お前(善継)がやったんだ。

 

 

 

 

 

「あ」

 

 

 

 

 

 どこかで、何かが壊れるような音がした。

 

 

 




こいつはひでぇや(他人事)。

母親が死んで自暴自棄になって飛び出したら頭無惨と遭遇して鬼にされた挙句一番守りたかった存在であろう残った弟妹皆殺しとか、我ながら中々に酷過ぎるお話を書いてしまったと思う。

なお後に追加で身寄りの無い自分を拾ってくれた恩人兼義理の両親も手にかけることになった模様。


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第参拾壱話 花蝶舞う

仕事に悩殺されながらも何とか年越し前には間に合ったよ……(瀕死)



 時間はほんの数分前まで遡る。

 

 兄の異常を知ったアオイは父や母が懇意にしている町医者を自宅まで連れてきた。そしてきっと全てが上手く行くと、明日にはまた元気な兄の顔が見れると思っていた。だが現実はそう上手くは行かない。

 

「な、なんだこれは……こんな症状見たことも無いぞ……!?」

「えぇっ!?」

 

 医者の男は目の前でもがき苦しんている青年、神崎善継の有様に絶句するしかなかった。

 

 全身から不定期かつ不規則に音を立てて盛り上がる肉腫、異常なまでに鋭く伸びた両手の爪、瞼の微かな隙間から覗く異様に赤く染まった虹彩。ありとあらゆるものが己が知識と噛み合わないのだ、対処するにも何が原因でこんな状態になっているのかがわからなければどうしようもない。

 

「そ、そんな……どうすれば、どうすればお兄ちゃんを助けられるんですか!?」

「お願いします先生、血が繋がっていないとはいえこいつは俺の息子なんだ! みすみす死なせないでくれ! 頼むっ……!」

「……最善は尽くします。ですが私では時間稼ぎで精一杯だ。この子も大きな病院に移すべきか……!」

 

 苦々しい言葉を零しながら医者は救急箱を開き、善継の身体にある一番大きな肉腫に痛み止めを注射してからメスで切れ込みを入れる。どんな病気なのかはわからないが、とにかく肉腫の中にある膿だけでも搾り出そうとしたのだ。

 

 が、

 

「何!?」

 

 切れ込みを入れた瞬間、切開した個所から傷と呼べるものは消えた。そう、再生したのだ。人間とは考えられない程の速度で刀傷は塞がり、その光景を見た医者は今度こそ何も言えなくなる。

 

(訳が分からない。一体彼の身体に何が起きているというのだ……!?)

 

 あまりにも常識外れの現象。既存のどんな病気にも当てはまらない症状の数々。いや、そもそもこれは病気の類なのか。こんなもの、一体どう対処すればいい。

 

 そんな考えが医者の頭に巡り始めた頃……不意に、善継の閉じていた瞼が開かれる。

 

「! お、起きたか! 君、私の声が聞こえるか!? 身体の異常に心当たりは――――」

「…………すいた」

「……なんだって?」

 

 先程までは苦しそうにもがき苦しんでいたというのに、意識を取り戻した瞬間善継はまるで海から釣り上げられた鮪の如くピタリと動きを止めた。その上浮かべている表情は極めて無に近く、医者は思わず恐怖を覚えた。だが職務を放棄する訳にはいかず、何とか善継に呼び掛けを行う。

 

 医者の言葉に反応したのか、善継もとても小さな声で何かを呟いたが……。

 

 

「お腹、空いた」

 

 

 静止していた善継の右腕が一瞬()()()。その拍子か室内の空気が大きく吹き荒れ、反射的に神崎一家は一斉に目を閉じてしまう。

 

 数秒程してほとぼりが冷めた頃に目を開くと――――真っ先に赤色が、目に入った。

 

「…………お兄、ちゃん?」

「……善、継?」

 

 ドサリ、と……首から上が消えた医者の体が地を噴水の様に吹き出しながら崩れ落ちる。

 

 その後善継は畳の上に零れ落ちた医者の首を拾うと、無言でそれに齧りついた。顎の力で頭蓋を割り、その奥に隠されていた脳髄を獣の様に貪り食う。あまりにも突然すぎる常識外の光景に、神崎一家は何も言うことができず青ざめながら唇を震わせるしかできなかった。

 

「よっ、善継っ!? お前ッ、なんてことを――――」

「――――五月蠅い」

 

 真っ先に復帰したのは清蔵だった。彼は善継の度が過ぎる、いやそんな言葉では表せられない程の蛮行を今すぐ止めるために僅か一歩を踏み出した。

 

 だがその瞬間善継は食事の邪魔をされたと判断したのか、常人では視認できない程の速度で跳ね起き、有無を言わさず――――

 

 

 ――――己が義父である清蔵の胸を一撃で貫いた。

 

 

「……………っ、ぁが、お………し……つ………」

 

 完全な予想外すぎる不意打ちに清蔵は状況を理解することもできないまま、その命を絶たれた。邪魔者が死んだことを認識したのか善継は清蔵の胸に深々と刺さっていた自身の腕を力づくで引き抜き、何を思ったのか辺りに視線を彷徨わせた。

 

 程なくしてその目線は自分の一番近い場所にいた義妹であるアオイに止まる。同時に母親としてこの上ない悪寒を感じた菖蒲は全霊で駆ける。

 

「アオイ、危ない!!」

「え――――きゃっ!?」

 

 菖蒲はアオイを勢いよく突き飛ばした。そのせいでアオイは畳みの上を転がり壁に背中を強く打ったが、今まさに彼女へと襲い掛かろうとした事象と比べれば、そんなものはかすり傷にもなりはしないだろう。

 

 アオイは目を開き……息を、止める。

 

「……善……継……どう、し……て………………」

「……………ぇ」

 

 彼女は見た。母が父と同じように胸を貫かれ、心臓を抉り抜かれている光景を。そしてその姿を茫然と、何が起こったかわからないような顔で見つめる義兄の顔を。

 

 幼すぎる彼女は何もかもが理解ができなかった。まだ十にも満たないアオイがこんな事実を受け入れられるはずがなかった。

 

 だが本能的に理解する。この惨状は、あの兄の姿をした人でなしに、化物によって齎された物であると。

 

 母の身体が善継の腕から抜け落ちる。善継は無言で自身の両手にある両親の心臓を見つめ、やがてアオイの存在に気付いたのか口を開けながらこちらへと近づこうとしてきた。

 

「ぁ、あぁ、あ」

「……アオイ?」

「ひっ」

 

 反射的に後ろに下がろうとするが背中にはもう壁がある。これ以上後ろには行けないという事実にアオイは一瞬絶望したが、善継の歩が父の亡骸に引っかかったことで一度止まったことでほんの少しだけ安堵した。……状況的には、何も改善されていなかったが。

 

 ここでようやく善継は現状を理解したのだろう。顔は真っ青を通り越して死人のように白くなり、奈落へと落とされたようにその顔は絶望と苦痛に染まっていく。

 

「あ」

 

 善継は手に持った両親の心臓を取り落とし、愛する家族の血がベットリと着いた両手で顔を覆った。

 

 そしてその爪は次第に彼の皮膚に食いこみ――――

 

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!」

 

 

 

 魂が引き裂かれたような悲鳴と共に善継は自分の顔面を握り潰した。

 

 飛び散る血と骨の破片。更に潰れた眼球が宙を舞い、アオイの目の前へと音を立てながら転がった。

 

「いやぁぁぁぁあああああああああああああああああああっ!!!!」

 

 それをきっかけに心の均衡が破砕されたのだろうアオイは絶叫した。もう目の前で起こる事が全部夢であってくれと必死で願いながら蹲り、赤子の様に泣き叫ぶ。

 

 ……されど、運命は彼女が立ち止まることは許されていない。

 

 まだ悪鬼は死んでなどいないのだから。

 

「…………ヒ、ヒッヒ、ヒヒヒッ…………ヒヒヒャヒャッハッハハハハハハハハハハハハハッ!! アッヒャッハハハハハヒャハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 嘲り。純粋な悪意しか感じられない嗤い声にアオイは思わず叫ぶのをやめ、顔を上げた。そしてアオイは瞠目する。

 

 大きな匙で抉り出したような悲惨な状態になっていた筈の善継の顔面が、徐々にではあるが元の状態に戻ろうとしていた。筋肉の繊維が蠢きながら編まれてゆき、骨は早送りするように奥底から生えてくる。粉々に潰れていた筈の眼球も盛り上がるように元の形に形成され始めていた。

 

 それと同時にアオイは気づく。義兄の髪が毒々しい緑色に染まり始め、更に手足から異音が発せられながら変形し始めたことに。

 

「最ッ高ォだぜ最高ォ!! アヒヒヒヒャヒャハハハハハハ! アイツ、勝手に思い出して、勝手に暴れて、勝手にぶっ壊れやがったッ! 信じらんねェ! あの御方の血を貰って無理矢理消す手間が省けた上にこんな腹がよじれるくらい笑える茶番まで用意してもらえてよォ……今まで我慢した甲斐もあったってもんだぜェ! クハッ、ヒャッヒャッヒャッハハハハハ!!!」

 

 怪物が産声を上げている。

 

 皮が剥がれて筋肉がむき出しになったような獣の手足。

 

 額から生えた空へと反り立つ赤黒い血管模様が張った二対の角。

 

 人のものとは思えないほど鋭く発達した犬歯と、『下弦の伍』という文字が刻まれた真っ赤な左目。

 

「ずっとこの時を待っていたんだよォ……八年前のあの時からずっと! 一ヶ月に一度、飢餓衝動が近づいて善継の抑制力が弱まる瞬間にしか表に出れなかった俺が! 一体どんな気持ちでいたかッ!! 下らん家族ごっこを何年も何年も見続けなきゃならねェ俺の鬱憤がッ!!! ようやく晴らせる! ようやく気兼ねなく鱈腹食えるッ!!」

 

 善継――――否、凶裏は満面の笑顔を浮かべたまま、足元に転がっていた清蔵の腕を掴み、無造作に引き千切った。身体に付着する血など気にもせず、凶裏はそのまま清蔵の腕に食らいつく。

 

「ぁぁぁぁぁぁあああああ……この味、たまんねェ……! 柔らかい肉ゥ、蕩ける脳髄ィ、噛み応えのある臓物ゥ!! ウヒッ、ウヒヒヒヒヒヒッ」

 

 腕を一本食べ終えると、彼はそのまま手近にあった医者の腹を裂いて中身を引き摺り出しながら咀嚼していく。その度にグチャリグチャリと嫌な音が部屋中に反響し、それをはっきりと目視してしまったアオイは喉奥から何かが出てくるのを止められなかった。

 

「うっ……ぉ、ええぇえぇぇぇぇぇぇえええええええっ!!」

 

 水音を立てながらアオイは胃の中にあるものを絞り出す。それに反応した凶裏はピタリと食事の手を止め、ゆったりとした動作でアオイのいる方へと振り返る。

 

 自身に向けられた粘着質な視線に気づいたアオイ。口元を抑えながら顔を上げれば、ねっとりとした不快で不気味な笑みを浮かべる怪物の姿。

 

「そういやァ、お前は生きてたなァ。いや、浮かれ過ぎて忘れてしまっていたよ。失敬失敬。――――んじゃァ、騒がれても面倒だ。ちょっと死んでくれや」

「っ――――!!!」

 

 凶裏は一歩、また一歩とゆっくりとした動作でアオイの目の前まで近づく。それを邪魔する者などいない。アオイもまた、既に逃げるという選択をする気力を失っていた。

 

 震える眼。それを見て一層深みを増す嗜虐の笑み。遠慮や慈悲は無く、少女へと鉤爪は振り上げられる。

 

「いただきまァす」

 

 そのまま腕は振り下ろされる。

 

 

 

 寸前。

 

 

「――――アオイちゃんっ!!!」

 

 閉ざされていた部屋の戸を蹴破りながら、黒い隊服と蝶の羽模様の羽織を身に纏う少女、胡蝶カナエは飛び込んできた。

 

 彼女の優れた動体視力は一瞬で地獄の如き惨状となった部屋内の状態を認識して脳を震わせる。しかし、今まさに鬼の凶手にかかろうとしているアオイの姿を見た瞬間にその硬直は解け、全力で駆け出していた。

 

(――――間に合わないッ!!)

 

 遅すぎた。後一秒分、後腕一本分の距離が少女の救済を妨げる。いいや方法ならある。刀を抜けば紙一重で間に合う。

 

 だが、

 

(――――今の私に、抜けるの?)

 

 彼女の中に渦巻く迷い。それが刀を抜く障害となっていた。

 

 それでも、とカナエは刀の柄に手をかける。自分の迷いなど、人の命に比べればちっぽけなものだとわかっている。……けれど、刀の刃が煌めくことは無かった。

 

(どうして……!?)

 

 ここで戦わずして、刀を引き抜かずしてどうするというのだ。ふざけるな、抜けろ、抵抗するな。

 

 誓った筈だ、約束した筈だ。自身のような者をこれ以上増やさないために戦うと。誰かのために剣を握りたいと。

 

 確かに神崎夫妻への助けは間に合わなかった。誓いを守れなかった。だがあの子は、その少女はまだ生きている。助けることが出来る。

 

 諦めるな。

 

 手を伸ばし続けろ。

 

 どんな否定の言葉を投げ掛けられようとも、それが今の自分が成すべきだと思った事だと確信したのならば――――!

 

 

鬼を殺したいだけのくせに

 

 

(………………れ、でも)

 

 

恨みを晴らしたいだけのくせに

 

 

(………それ、でも)

 

 

自分の事しか考えていないくせに

 

 

 

 

 

 

 今一度、自分に問いかけよう。胡蝶カナエ。

 

 

 お前()は今、何をしたい?

 

 何の為に刃を振るいたい?

 

 誰が為に戦う?

 

 

 

 ――――鬼を憎む心が少なからずあるのは事実。……けれど、その為に剣を取った訳じゃない。

 

 

 ――――皆が悲しくなると、私も心が痛いから。

 

 

 ――――だから剣を握ったの。厳しい修行を乗り越えたの。

 

 

 ――――今苦しんでいる人を一人でも多く笑顔にしたくて。

 

 

 ――――少しでも悲しみに明け暮れる人を減らしたくて。

 

 

 ―――――そうすればきっと、私も心から笑顔になれるだろうから。だから、だから私は――――!!

 

 

 

『カナエ』

 

 

 背景が白くぼやけた、かつて住んでいた屋敷の縁側で座っていた父が、隣に座っている私の頭を撫でながら優し気に呟く。

 

 

『いつか将来、カナエが本当に心の底からやりたいことができたなら、お父さんたちの事なんて気にしなくていい』

 

 

 昔はその言葉の真意を理解出来なかったけど、今ならばわかる。父は、母は……今も昔も、願っていた。

 

 

『なりたい自分になりなさい。それが、生きるって事なんだから』

 

 

 私が私らしく、生きる事を。

 

 

 

 

「それでもぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」

 

 

 一歩踏み込む。鞘から刃が走り抜け、銀色の閃光となった一撃が鬼の腕を打ち抜いた。

 

「な、鬼狩り――――!?」

「アオイちゃんからっ……離れなさい!」

 

 腕に食いこんだ刃をそのまま上へと跳ね上げて、カナエはアオイへと振り下ろされようとしていた鬼の腕を両断した。突然の乱入者に遅れて気づいた凶裏も舌打ちしながら距離を取り、カナエを警戒心に満ちた目で睨みつける。

 

 しかし凶裏は彼女の顔を見て思い出したのだろう。すぐに嘲笑に満ちた嫌らしい笑みを浮かべ始める。

 

「あァ……んだよ、お前あの時碌な抵抗もできずに俺にやられていた小娘か! なんだまた俺に甚振られに来たのかァ? キヒャヒャハハハハハハハ!! 頼みの綱のお連れの小僧はどうしたよ? ――――ああ! 俺に倒されてるんだったなァ!」

「……アオイちゃん、今すぐここから逃げなさい。もうすぐ黒ずくめの人達がやってくるから、その人達に保護を――――」

「あ、あのっ」

 

 カナエは冷静に分析する。恐らく自分では逆立ちしても目の前の鬼、下弦の伍には敵わない。多大な努力を積み重ねていようとも、今相対している存在に手を届かせるにはまだ足りない。それに自分より遥かに強いだろう義勇すら後れを取ったのだ、倒せるなどと端から思っていない。

 

 故に、今行うべきは一秒でも長く時間稼ぎをすること。鎹烏によって京橋區における十二鬼月出現は伝達済み。何が別の問題が発生していなければ柱がこちらに向かって来ているはず。しかし彼らが到着する前に鬼が身を隠してしまえばその試みは無意味となてしまう。

 

 だから時間を稼ぐ。柱が来るまで何としてでもこの場に足止めする。

 

 しかしそれを行うにもまず民間人かつ子供であるアオイの存在は邪魔となる。今すぐ安全な場所に行くようカナエは背後にいるアオイに促すが、彼女から返された言葉は思わず歯噛みするしかないものであった。

 

「あ、足が、動かなくて。こっ、腰が抜けて……!」

「……………伏せて、頭を守っていなさい! 大丈夫、貴方は私が守るわ!」

「っ、はい……!」

 

 当り前だ。幾度か修羅場を抜けてある程度”慣れてしまった”自分でも思わず胃の中のものが込み上げそうになるほどの凄惨な光景と濃密な血の匂い。耐性などあるはずもない、ただの少女にとても耐えられるようなものではない。

 

 であるならば仕方ないと割り切ったカナエは、人を一人守りながらという負担を背負いながら十二鬼月を相手取る選択をする。見捨てるなど論外だ。そんなものは、「なりたい自分」ではない。

 

(そうよ、私は”私がなりたいと思う自分”になる)

 

 静かに息を吸い、吐く。

 

 窮地だというのに、カナエの頭は不思議と冴えていた。ここ数日間頭の中を漂っていた靄が晴れたことで、精神的にはこの上なく好調だ。

 

(誰にどう思われようとも構わない。独りよがりだって罵られても構わない)

 

 刀を正眼に構える。

 

 今まで嘲り笑っていた凶裏の顔が驚愕のものへと変わっていく。それも当然だ、カナエの纏う雰囲気は数日前のものとは比較にならないほど鋭い物へと洗練されているのを感じ取ったのだから。

 

 過ぎた油断を抱けるような相手では無いことを察し、凶裏は再生の完了した右腕の調子を確かめながら身構えた。

 

(自分が悲しまないために、誰かが悲しむ様を少しでも見ない(減らす)ために、誰かが幸せに笑っている光景を見る(増やす)ために――――私は私のために、”誰かのために戦える理想の自分”になる……! )

 

 迷いはもう無い。此処にいる少女は暗い道程を抜け、一人の剣士として蛹より羽化する。

 

「全集中・花の呼吸――――【伍ノ型】!!」

「【血鬼術】――――」

 

 凶裏が術の行使のために息を吸うのに合わせ、カナエは動いた。繰り出すは花の呼吸の中でも最多の手数を誇る技。

 

 

「【徒の芍薬】――――!!」

「【空砲・玉風息吹 多連弾(たれんだん)】」

 

 

 舞うように放たれる九連撃。相手の防御を容赦なく削り斬るだろう怒涛の連撃は術を持たない雑魚鬼ならば容易くその頸を斬れただろう。

 

 だが奴は違う。相対するは十二鬼月の下弦の伍。序列だけならば下から数えた方が早い部類だろうが、その実力は柱以外にとっては隔絶して余りある代物。凶裏の放った血鬼術は前回カナエに放ったものとほぼ同一。

 

 差異は、その”数”と”威力”。さながら短機関銃の如き弾幕で放たれる空気砲は、一発の威力こそカナエでも容易く弾けるほどに低い。問題はその弾幕だ。あまりの濃密な攻撃密度に、カナエの放った九連撃は一発も凶裏に届くことは無く押しのけられてしまう。

 

「う、くぅぅぅぅぅぅぅっ……!!」

 

 まずい、即座にそう判断したカナエは技を中断して防御の態勢へ切り替えた。迫り来る空気弾の嵐、その中にある致命打になりうるものだけを可能な限り選別して刀で弾いて行く。

 

 だがそんな曲芸染みたことを完璧に熟すことはカナエには不可能だった。後一年か二年、十分な戦闘経験を積み成長した彼女ならば可能だっただろうが、今この場に居る彼女は水柱の継子とはいえ鬼殺隊に入隊してまだ四か月半程度。

 

 故に、彼女は自身の急所に当たりそうな空気弾と背後で伏せているアオイに当たりそうな空気弾を弾くので精一杯だった。防ぐことのできない空気弾は彼女の体を掠め、時には直撃しながらカナエの身体には傷が増えていく。

 

 空気弾の連射は約五秒間続いた。しかしその五秒間でカナエはボロボロの体になってしまった。幸いなのは、アオイを守り切れた事と致命傷だけは避けることができた事か。

 

(――――動きが止まった。今しかない!)

 

 空気弾を発射するための空気がそこを尽いたのか凶裏の動きが止まった。好機と判断したカナエはすぐさま疾駆。凶裏の頸を狩らんと、それが無理なら手傷の一つでも負わせようと渾身の力で刀を振るう。

 

【肆ノ型 紅花衣(べにはなごろも)

 

 翻るような衣の如き横薙ぎの斬撃、それは吸い込まれるように凶裏の頸へと放たれる。が、相手がそう簡単に己の頸を獲らせるはずもない。凶裏は素早く体勢を立て直し、即座に振るわれた刀を鷲掴みにして食い止めた。手に刃が食いこみ血が流れるが――――それだけだ。

 

 両者の動きが止まる。

 

「っ――――!?」

「捕まえたぞォ?」

 

 凶裏は空いた方の手に風を集める。このままでは致命傷を受けてしまうと察したカナエは即断で日輪刀という鬼狩りに必要不可欠な武装を一度手放す選択を取った。最優先目的が足止めである以上、無理に刀にこだわる必要性は無いと結論付けたからだ。

 

 それは間違いなく英断であり最善の選択だった。凶裏の手が振るわれると同時にカナエは後方へと跳び引き攻撃を回避。空振りした凶裏の手が床へと叩き込まれ、風と衝撃で畳は捲れ上がる。

 

 暴れ狂う風に揉まれながらもなんとか無事に着地したカナエが見たのは”巨大な穴”。予備動作は一秒も無かった筈なのにこれほどの高威力を叩き出せたという事実に、流石のカナエも顔から血の気が引いてしまう。

 

(これが……十二鬼月の、下弦の伍? これより強い鬼が後十体もいるというの……!?)

 

 敵勢力を甘く見ていたつもりは無かった。だが自身の予想を遥かに超える凶裏の強さ、そしてこれ以上の存在が何体も潜んでいるという現実にカナエは息を呑む。

 

「刀を離すとはなァ……中々機転の利く小娘だ。だがお前の大事な刀は俺に奪われちまったなァ? これからどうするよ?」

「…………」

 

 命を繋ぐためとはいえ確かにこの状況はマズい。攻撃をするにも防御をするにも刀は必須だった。それを失ったというのは鬼殺隊員にとっては最大の危機である。

 

 当然ながら、予備の武器なんてものも無い。ならば諦めるか?

 

「――――いいえ、武器ならあるわ」

「あァ?」

 

 静かに呼吸を整えながら、カナエは両手を正面に構えた。

 

 そう、彼女が呼ぶ”武器”とは即ち――――己の肉体そのもの。

 

(雫さんが教えてくれた。私たちにとっての武器はなにも刀だけじゃない。日々鍛え上げた肉体は時に刃となり、時に盾になると。その時は物の例えなのだろうと思っていたけれど……今なら、あの人の言う言葉がわかる気がする)

 

 日輪刀で無ければ鬼は殺せない。だがだからと言って日輪刀のみに依存してはいけない。

 

 刀は物だ。紛失するかもしれないし、壊れるかもしれない。絶対に失われないという保証が無い以上、日輪刀というという存在に頼りきりになってはいけない。これはカナエの師である雫の言葉だった。

 

 故に、雫は手ずから行った鍛錬において刀の修練だけでなく自身の肉体を使った戦闘術、素手での戦い方も略式ではあるものの継子の二人に叩き込んでいたのだ。

 

 普通の隊員ならば「鬼相手に素手で挑むなど」と雫の正気を疑っただろうが――――結果的に言えば、その行いは見事な先見の明だったと言えよう。

 

「馬鹿が、窮地に追い込まれて気でも狂ったのかァ? 人間風情がッ! 素手でッ! ()に勝てる訳ねェだろうがよォォォォォォォォ!!!」

「――――全集中・花の呼吸 【参ノ型】」

 

 下卑た笑い声を口に凶裏は大きく踏み込んだ。相手は手負いで武器も無い。対して自分は軽度ではあるが食事をしたことで好調。勝利を確信した彼の脳裏には目の前の娘をどう甚振って食らってやろうかという下種な思考に塗れている。

 

 対してカナエは動かない。いや動けない。背後にはアオイがいる。自分が攻撃を避けようものなら鬼の魔手は少女の命を奪うだろう。しかしそんな危険な状況だというのに、不思議と彼女の顔には焦りはなかった。

 

 カナエは腰を落とし、地面を踏みしめながら、己の手を刀に見立て――――

 

 

 ――――技を、放つ。

 

 

「【皐月舞花(さつきまいばな)】」

 

 

 カナエは左の手の甲を凶裏の突き出された腕へと当てる。横向きの力で自身へと向かっていた貫手の軌道をそらしつつ、その勢いで身体全体に回転の力を加えたカナエは渾身の力を右手に集め、

 

 凶裏の鳩尾へと、拳を打ち込んだ。

 

 

「――――は、っが?」

 

 

 まさか反撃を受けるとは思っていなかったのだろう。予想外の一撃を受けた凶裏は間抜けな顔を作りながら後ろへと大きく吹っ飛び、壁へと叩きつけられた。

 

「うっ、ぐ……!」

「カナエさん!?」

 

 当り前だが、カナエも無傷では済まなかった。凶裏の腕へと当てた左手の甲は皮膚が剥けて血が滲んでおり、殴りつけた右手は骨に罅が入ったのか激痛が迸っている。岩より硬い鬼の肌相手だ、無理もない。

 

(【参ノ型 皐月舞花】……本来は刀で敵の攻撃を逸らしながら舞うように懐に斬り込む防御寄りの移動法。何とか攻撃に転用してみたけど……やっぱり、素手でやるものではないわね……)

 

 腰のポーチから取り出した包帯で左手の応急処置をしながら、カナエは思考を続ける。

 

 敵は健在だ。恐らく碌なダメージも与えられていないだろう。しかしもう自分の肉体は限界を訴え始めている。

 

 窓の外をチラリと見てみるが柱が到着したような様子は当然無い。だがこれ以上ここに留まるのは――――

 

「カナエさん! 危ない!」

「ふっ――――!」

 

 カナエが熟考していると、凶裏の沈んでいるだろう煙の中から何かが飛んできた。すぐさま思考を切り替えたカナエはその物体を腕で弾き飛ばし、その正体を知る。

 

 それは木製の板の破片だった。恐らく床の一部を千切り取ったのだろう。しかし彼は何故こんな物を投げて――――?

 

「【血鬼術】」

「なっ、しま――――!!」

 

 その答えは単純明快。破片を投げつけたのはただの陽動、カナエの気を逸らすため投じた一石に過ぎなかった。本命はこれから放たれる一撃の方。

 

 

「【空波壁掌(くうはへきしょう)】」

 

 

 撃ち込まれたのは風の弾丸でも、竜巻でもない。

 

 それは壁だった。空気を押し固められて作られた平たい、そして一つ部屋を埋め尽くすほどの巨大な……回避不可能の攻撃であったのだ。

 

 回避も防御も許されないままカナエはアオイ共々空気の壁に叩き付けられ、背後の壁に挟み込まれるように押しやられた。

 

「っ、ぶ――――!?」

「き、っ……!?」

 

 強烈な圧力によって一瞬にして二人の肺から空気が残らず逃げてしまう。そのせいで悲鳴の一つも上げられないまま少女たちは圧死する――――と思われた瞬間、彼女たちを挟むもう片方の壁、部屋の壁が先に限界を迎えたのか音を発しながら倒壊。これによってギリギリでカナエとアオイは全身を圧し潰す力から解き放たれることができた。

 

「がっ、は……かほっ、げほっ!」

「っ、ぁ――――は、ぅぁ――――」 

 

 全身に駆け巡る痛みに悶えながら二人が何とか肺に空気を取り入れようともがいていると、部屋の方から爆発的な風が吹き始めた。

 

 まずい、その一心でカナエは何とか近くにいるアオイの身体を庇うように抱き寄せる。

 

「……くも、よくも、よくもよくもよくもォォォォォォォォォオオオオッ!!!! この俺をォォォォォォォォッ!!! 虚仮にしてくれやがったな糞女がァァァァァアアアアアアアアアアアッ!!!」

「う、っぐ……………!!」

 

 爆発的な怒りと殺気を感じてカナエは思わず竦め上がった。

 

(ああ、失敗した。引き際を見誤った――――!!)

 

 溢れんばかりの後悔を胸に、それでも彼女はどうにかアオイだけでも逃がそうと模索する。だがそんなことができる方法が簡単に見つかるはずがない。いや、そもそもそんなものは……

 

「【血鬼術】ゥッ……!!」

 

 凶裏の口に大量の空気が吸いこまれ出した。胸が大きく膨れ上がり、それだけでこれから起こる絶大な破壊を想像するのは難しくないことであった。何せつい最近体験したばかりなのだから。

 

(守らなきゃ。せめてこの子だけでも、私の身体で……っ!!)

 

 カナエはアオイの全身を守るように覆いかぶさる。それだどれだけ効果を発揮するのかはわからないが、それが今の彼女にできる精一杯だった。

 

 

 

 

 涙が零れる。これから訪れる死への恐怖、一人残してしまう妹への罪悪感。それらが走馬灯のように一気に流れてゆき――――

 

 

 最後に思ったのは、一人の少年の存在。

 

 

 生まれて初めて私に恋を教えてくれた人。

 

 

(あぁ……もっと、早く気づいていたら……もっと早く、出会えていたら……)

 

 

 目を閉じ、祈る。せめてあの少年だけは、ここから無事に帰れるように、と。

 

 

 だが、しかし、もしも、彼が無事ならば。ここに居たのならば、私は――――

 

 

 

 

「義勇君……助けて……」

 

 

 

 

 小さな声だった。消え入るような、風音に流されて霧散するほどの小さな声。

 

 

 それに応える存在は、

 

 

 

 

 

 此処に現れた。

 

 

 

「凶ォ裏ィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!!!」

 

 

 

 壁を力任せに打ち壊しながら、左頬に斑模様の痣がある上半身を血だらけの包帯で覆った少年がこの場に飛び込んできた。

 

 その少年は飛び込んできた勢いのまま手に持つ刀を突き出して凶裏の胸部を串刺しにしつつ激突。それでも尚勢いは止まらず、少年はそのまま反対側の壁を破壊しながら凶裏共々外へと飛び出して行ってしまった。

 

「…………………へ?」

 

 いきなり出てくるや否やそんな滅茶苦茶をしてくれた者の顔に、カナエは見覚えがある。

 

 

 見間違えるはずがない。

 

 

 その少年は、間違いなく――――

 

 

「義勇君っ!?」

 

 

 傷ついた龍は哭き狂いながら、再び顎を開けた。

 

 

 悪しき鬼を、悲しき人を討つために。

 

 

 

 




《独自技解説》

花の呼吸 【参ノ型 皐月舞花(さつきまいはな)
 敵の攻撃を刀で逸らしながら舞うように相手の懐に飛び込む移動技。
 今回は素手による応用で敵の攻撃を手の甲で逸らしながらカウンターを打ち込む技に昇華させた。

《血鬼術》

【空砲・玉風息吹 多連弾(たれんだん)
 文字通り【空砲・玉風息吹】の連射版。威力は著しく低下しており、一発一発は拳銃弾程度の威力しか持たないが、出が早く弾幕も簡単に張れるため牽制や迎撃に使いやすい技。
 ただし凶裏はこの技を主に弱い相手を甚振ることにしか使わない。

空波壁掌(くうはへきしょう)
 掌に空気の壁を形作り、それを高速で押し出すことで相手を吹き飛ばす技。障害物に対する破壊力は高いが生物に対する殺傷力は低く、基本的に相手と距離を取るために使われる。しかし殺傷力がない訳ではなく、別の壁に挟み込むように放つことで相手を圧殺することも可能。



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第参拾弐話 嵐の暴君

 定食屋【かんざき】、その二階にある寝室にてカナエは深い深い安堵の息を吐く。

 

 辺り一面を染め上げる赤黒いこびり付いた血液と散らばった臓物に囲まれながら「安心」するなんて彼女自身も少々おかしいとは思ったが、それでも絶体絶命の窮地から一命を取り留めたのだから無理もない。

 

(……いえ、安心している場合じゃない。早く私も援護に向かわないと……!)

 

 しかしカナエは己の頬を叩いて気を引き締める選択をする。

 

 鬼はまだ仕留めていないし、何より今の義勇は怪我人だ。先程この部屋に飛び込んできた際にほんの少しの間しかその姿は見えなかったが、少なくとも上半身を覆うように巻かれた包帯には大量の血が滲んで赤く変色しているのが見えた。恐らく傷は塞がっていないのだろう。

 

 万が一怪我が原因で戦闘中に倒れる可能性がある。である以上、自分も早く復帰して彼を補助せねば――――そう思いながらカナエは凶裏に放られ畳の上を転がっていた刀を回収する。

 

「…………う、ぅあ」

「っ、アオイちゃん!? 見ては駄目!」

 

 背後から聞こえる小さな声にハッとするカナエ。しかし気づいた時にはもう遅かった。

 

 既に目覚めてしまったのだろうアオイは、力なく横たわる両親の亡骸の前で震える手を右往左往させていた。目は焦点が定まらないまま乱雑に泳ぎ、滝のように涙が溢れている。

 

「おか、さ……とう、さ……どう、して…………どうして、こんな……あ、あぁ……」

「アオイちゃん……」

 

 涙を流しながら嗚咽を漏らし続ける少女の姿に、カナエは過去の自分と妹の面影を重ねる。

 

 アオイの気持ちは痛いほど理解できる。何せ自分もまた、訳もわからないまま目の前で両親を奪われた身であったのだから。……いつまでも変わらないと思っていた幸せの器が突然理不尽な暴力で割れてしまう絶望。それはとても、苦しく辛いものだ。

 

 カナエはアオイの痛ましい姿に目を伏せながらも、棚にしまわれていた布団をこの場で死した者たちの亡骸に被せた。布団が血で汚れてしまうが、それでも少女の心をこれ以上傷つける訳にはいかないから。

 

「っ、カナエさん! おっ、お兄ちゃんはどうして、一体どうしていきなりあんなっ……! まっ、まるで別人みたいになって……!?」

「アオイちゃん……アレはもう、貴方の兄ではないわ。……アレは人を食う、鬼なの」

「え…………?」

 

 あまり長々と時間をかけるわけにもいかないため、カナエは掻い摘みながらも鬼について説明をする。

 

 この世には鬼という人を食糧とする存在がいること。鬼は鬼舞辻無惨という存在によって生み出されていること。そしてその鬼を狩る鬼殺隊という組織が存在しており、自分や義勇はそこに在籍していること。

 

 そして何より――――神崎善継は人に擬態していた鬼であり、それを今から狩らねばならない、という事を。

 

「お兄ちゃんが、鬼……? で、でもっ、お兄ちゃんは私とずっと一緒に暮らしてきて! なのに鬼、だなんて……」

「貴方に兄として接してきたのは、人としての人格の方よ。でも今は鬼としての人格が表に出ていて……こうして、私だけでなく妹である貴方も平気で殺めようとする。……貴方の両親のように」

「元にっ、元に戻す方法はないんですか!?」

「……………ごめんなさい」

 

 鬼は人から変じた存在だ。だがその逆、鬼から人へと戻す方法は、今のところ発見されていない。例え発見されたとしても、それを鬼殺隊が有効活用できるかは怪しい所だが。

 

 なにせ鬼殺隊が捕捉する鬼は余程特殊な場合を除けば人を食ってしまった後の個体が殆どだ。そんな存在を人へと戻すなど、これほど残酷な所業も無いだろう。そんな事をするならば、いっそ楽にしてしまった方が余程人道的だ。

 

 だとしてもアオイにとっては凶裏……いや、善継は兄だ。血が繋がっていなくても、自分が産まれてからずっと兄として共に過ごしてきた存在なのだ。人に戻す方法がないのかと縋りつくのも仕方ないことだ。

 

 だとしてもカナエは「無いものは無いのだ」としか告げることができない。

 

「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だっ! お父さんとお母さんが死んだのも、お兄ちゃんが鬼だっているのも全部嘘! だってこんなのありえない! こんなのっ、こんなのっ!」

「……本当にごめんなさい。私がもっと早く駆けつけていれば……」

「私たち何も悪い事なんかしてないのに! こんな目に遭うなんておかしいよっ! どうして私たちが! どうして、どうして…………なんで、お父さんと、お母さんが……! こんなのおかしいよぉ……!」

「……………」

 

 ポロポロと大粒の涙を零し続けるアオイに、カナエはただただ自責の念を噛みしめた。

 

 後数分早ければ神崎夫妻は助かったかもしれないのに、この少女がこんな思いをしなくて済んだかもしれないのに。だがいくら後悔しようが時間が巻き戻るなんてことはないし、死人が生き返るなんてことも無い。もう全部、終わってしまった。

 

「う、ぅうあ、うわぁぁあああぁあぁぁぁぁぁあああああああああん!! あぁぁぁぁああぁぁぁぁぁあああぁあああああああああああああああああ……!!」

「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」

 

 辛うじて保たれていたモノが崩れたのか、ついにアオイは大声で泣き始めてしまった。むしろ、よく今まで泣き出さなかったと驚嘆してしまう。……いいや、ただ単に、両親が死んだという事実をすぐに受け止めることができなかっただけなのか。

 

 カナエはただ謝罪の言葉を口にしながら泣き続けるアオイを抱きしめながら背中を摩った。鬼殺隊としては彼女を放って早く鬼との戦いに向かうのが正解なのだろう。しかし胡蝶カナエという少女はそんなことができるほど冷徹な人間では無かった。

 

 少女が失った温もりを少しでも埋めるために、カナエは精一杯宥め続ける。そうしなければ、きっと少女の心が壊れてしまうと感じた故に。

 

『皆さん! 急いで避難してください! 凶悪な爆弾魔が現れています!』

『出来る限り遠くへお逃げください! どうかこちらの指示に従って!』

 

 窓の外から隠達が民間人の避難を促す声が聞こえる。同時に少し離れた場所から爆発と何かが砕ける音が連続して聞こえてきた。

 

 つまり戦いは未だ終わらず、尚且つあまり良い戦況では無いと肌で感じたカナエは表情を苦し気に歪めながらもアオイから離れる。

 

 自分や義勇だけでなく、この京橋區に住む多くの人々の命のためにも、カナエは泣いている少女を見捨てて行かねばならなかった。

 

「っ! ……ごめんなさいアオイちゃん、もう行かないと!」

「ぇ、あ、や――――」

「ここでジッとしているのよ。決して外へ出ては駄目。お姉さんの言うこと、ちゃんと聞けるわよね? ……大丈夫、すぐに戻ってくるわ!」

「ま、待って! 行かないで――――!!」

 

 アオイの悲痛な願いが叶えられることはなく、カナエは窓から外へと飛び出して姿を消してしまった。

 

 一人取り残された少女は項垂れながらも、何とか力の入り始めた足で震えながらも立ち上がった。そして壁に手を付きながら、部屋の外へと一歩を進め始める。

 

「お兄、ちゃん……! 今っ、私が…………!」

 

 少女は諦めていなかった。

 

 

 

 諦めることが、できなかった。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

「この死にぞこないがァァァァァアアアアアアアア!!!!」

「ぬぅぅぅぅぅぅううううううううう……!!!」

 

 壁をぶち破りながら凶裏共々俺は外へと飛び出す。そしてその最中俺は一瞬だけ見ることができたあの部屋の中の光景を瞬間的に反芻する。

 

 カナエと神崎アオイの無事は確認できた。どうやら間一髪で救出に成功したようだが……それ以外に死体を三人分確認した。恐らく神崎夫妻と、俺を診てくれたであろう医者のもの。

 

(畜生!! 間に合わなかった……!!)

 

 俺は胸の中で肥大化し続ける無力感に歯噛みするしかない。だが今はそれよりも優先するべきことがある。

 

 下弦の伍、凶裏。こいつを完全に逃す前に再び捉えることができたのだ。であるならば、すべきことは一つだけ。――――ここで仕留める。絶対に逃がしてはならない。奴の隠密能力と特異体質を鑑みて、一度逃してしまえば再発見は困難を極める。

 

 人間社会のためにも、何より神崎善継という人間のためにも、必ずここで滅殺する。しなければならない――――!!

 

「死ねェェェェェエエエエエエエエエエ!!!!」

「!!」

 

 凶裏が膨らんだ胸部を引き絞って口から高密度の風を吐き出そうとする。それを見た俺は即座に奴に刺している刀を捩じり横向きにし、横一文字に一閃しながら凶裏の身体を蹴って地面へ退避した。

 

 大量の空気が圧縮された(ボンベ)に傷がついたことで強力な圧力は一気に脆くなった個所へと集中。するとどうなっただろうか。

 

「なっ、テメ――――」

 

 強烈な炸裂音と共に凶裏の胸部が吹き飛んだ。衝撃により吹き飛んだ凶裏は地面へと高速で叩きつけられ二転三転と地面を跳ねる。

 

 ほぼ同時に俺も地面へと着地。そしてそのまま凶裏を仕留めるべく真っすぐに駆けた。

 

「――――!? ―――――――――――――!!!!!」

 

 肺を含む呼吸器官が完全に吹き飛んだことで声すら発せられなくなった凶裏は呻きながらも立ち上がり、俺の斬り込みを両腕を使って防ぐ。しかし前回とは異なり、風との摩擦による火花は発せられなかった。

 

(やはりそうか……!)

 

 診療所から此処に来るまで凶裏との戦いに備えて前回の戦いを振り返っている最中、俺はどうにも引っかかりを感じていた。その違和感を頼りに記憶を掘り返していると、凶裏の攻撃に”ある共通点”を見つけたのだ。

 

 それ即ち、吸気と排気。

 

 凶裏は技を放つ前は必ず空気を大きく吸いこんでいた。そして吸い込んだ空気を使って技を繰り出していたのだ。何が言いたいのかと言えば――――奴は「周囲の空気を直接操る」なんてことは決してしてこなかった、という点だ。

 

 風の血鬼術という事が判明した時点では、俺はてっきり周りの空気や自分の体内に取り込んだ空気を扱えるものだと思っていた。奴が旋風なんていう物も作ってくれたのだからその勘違いは中々払拭することはできなかった。だがよくよく思い出してみれば、それは腕の管から出した空気で作り出したものであったのだ。

 

 それを鑑みて、俺はこう結論を出した。

 

(奴の血鬼術は『体内に取り込んだ空気”のみ”を扱う血鬼術』! それはつまり――――!!)

 

 凶裏の血鬼術はとても強力だ。最大火力は上弦にも勝るとも劣らないと評することができるだろう。しかしそれを実現するために致命的な弱点を抱えてしまっている。

 

 それは扱える空気は体内に吸いこんだ空気に限定されているという事。そして体内に空気を取り込むためには肺という器官が必要不可欠であること。

 

 故に――――

 

(肺を破壊してしまえば、奴は殆どの術が使用不可能となって大きく弱体化する……!!)

 

 証拠に今、奴の腕には風が無い。恐らく鎌鼬も撃てなくなっている。そうなれば凶裏に残った武器はそれなりに高い身体能力のみ。

 

 そしてその身体能力というアドバンテージも、今の痣を出した俺にとっては殆ど無いに等しい。

 

 この戦い、勝てる――――!!

 

「ぉ、ああああああ!!」

「! くっ……!?」

 

 しかしそんな甘い考えはすぐに塗り替えられることとなる。

 

 爆発によって木っ端みじんに吹き飛んだ筈の肺がもう再生したのか、凶裏は苦悶の声を上げながら腕に食いこんでいた刀を俺の身体ごと押しのけてしまう。その驚異的な回復力に俺は目を見開いた。

 

 何故だ、再生速度が先程戦ったときと比べて倍以上の差がある。一体どんな仕掛けをしたというのだ。

 

(いや、そうか! 前に戦った奴は飢餓寸前の状態。今は少量ではあるが食事を済ませている。そして何より……片方の肺に力を集中して再生を速めたのか!)

 

 凶裏の吹き飛んだ胸部からその中をよく覗いて見れば、肺らしき器官が片方だけ健常な状態で露出していた。もう片方は予想通り欠損してぽっかりと空間を空かせている。

 

 前言撤回だ。弱点が判明したが、それでも一筋縄ではいかせてくれないらしい。

 

「テ、メェ……一体どういう事だ……? 前に戦ったときより強くなって……そうか! それが痣の力かッ! あの御方が危惧するわけだ……! だが――――倒せない程じゃあねェなァアアアアアアアア!!!!」

(来る――――!)

 

 凶裏が腕を大きく横に払う。それに伴い特大の鎌鼬が三つ並列して飛翔し、周辺の建物の壁に爪痕を刻みながら俺へと襲い掛かってきた。同時にもう片方の手で何かを放り投げるような仕草を行ったことに俺は気がつく。

 

 鎌鼬に対する回避行動をしつつ素早く視線だけを空の方へと移すと、小さな半透明の球体が大きく弧を描きながら俺の頭上へと落ちていき――――

 

 

「【血鬼術 風神雷撃(ふうじんらいげき)】」

 

 

 凶裏の声が聞こえた瞬間俺は即座にその場から大きく跳び引いた。直後に球体が一斉に弾け――――俺の居た場所を含む球体の真下にあった空間が巨大な鉄球でも落とされたかのように球状に大きく凹んだ。

 

「なん……!?」

 

 何だこの技は。どういう仕組みだ……!?

 

 球体が弾けた瞬間地面が凹んだ。考えられる可能性としては、あの球体は高密度の空気玉で、一部を破裂させることで真下に撃ち出し、着弾した瞬間に爆発させる技……か? だとするなら今から正面からの攻撃でなく頭上からの攻撃にも注意しなければならないといけなくなる。

 

 クソッ、鎌鼬だけでもかなり厳しいというのに次から次へと面倒な技を引き出して……!

 

「オラオラオラオラァッ! 避けねェと死んじまうぞォ!!」

「ッ…………!!」

 

 業腹だが奴の言う通り放たれる一撃一撃が回避しなければ即死級の攻撃。おかげで俺は回避に専念せざるを得なかった。

 

 痣による身体能力の恩恵で回避自体はそう難しくはなかったが、奴は先程の戦いで反省をしたのか俺を徹底的に近づけないようにしている。つまり時間稼ぎによるスタミナ勝負。疲れ知らずの鬼相手では圧倒的に人間(こちら側)の不利な戦いであった。

 

 しかも俺はまだ傷が塞がっていない。出血も徐々に悪化してきており、このままだと競り負けるのは確実に俺の方になる。そうなる前に何とか打開策を捻り出さねば。

 

(鎌鼬と頭上からの攻撃で正面から近づくのは困難。回り込んだところで結果は同じ。障害物もあの攻撃力相手じゃ大して意味がない。どうする、どうやったら距離を詰められる。――――いや、待てよ)

 

 相手に決定打を与えるためには日輪刀による攻撃が可能な距離まで近づく必要がある。だが今の状況ではそれはできない。だから何かしらの切っ掛けが必要になる。

 

 あの攻撃力相手じゃ脆すぎる障害物を盾にはできない。鎌鼬を切り裂いて進んだところで身動きが制限される以上、上空からの攻撃に対処はできない。つまり自分から近づく方法では駄目だということ。

 

 では、近づかずとも行える方法なら?

 

 ――――逆に考えるんだ。相手が遠距離攻撃をしてくるなら、此方もすればいい、と。

 

「ヒュゥゥゥゥゥゥゥウウウウウ……!!」

 

 そう思い至った俺はすぐさま頭上からの攻撃が来る範囲外へと離脱。微かに確保できた時間を全てつぎ込み、俺は刀を逆手に持って肩に構え、限界まで腕を引き絞る。

 

 更に呼吸の効力を刀を持つ右腕と地面を踏みしめる両脚に集中。柄がミシリと音を上げるほどに手を力を込めながら大きく振りかぶり――――

 

 

「オォォォォォオオオォォォオォォォオオオオオオ!!!!!」

 

 

 投げた。

 

 投擲された俺の刀は真っすぐ風を裂きながら弓矢の如く突き進む。凶裏が自身に向かって何かが飛んでくるのに気付いたがもう遅い。迎撃する前に刀は凶裏の胸へと深々と突き刺さり肺を貫通。もれなく破裂音とともにその胸部は吹き飛んだ。

 

 俺は攻撃が停止した隙に凶裏へ強襲をかけるべく、飛び掛かりながら爆発によって弾き飛ばされた刀を宙で回収。そのまま凶裏の頸を断つべく幾多もの反復練習によって体に染みつかせた技を繰り出す。

 

「【一ノ型 水面切り】――――!!」

 

 鋭い横薙ぎの一閃が凶裏の頸へと振るわれた。威力は十分、決まれば終わりだ。

 

「ッッ―――――――――!!!!」

 

 しかし凶裏は諦めない。奴は両腕を横に並べて盾にすることでほんの僅かだが俺の攻撃が頸へ届くまでの時間を遅くした。そしてその僅かな時間を使って後退を試みることで、俺の刀は凶裏の頸を皮一枚残して切り裂くにとどまる。

 

 即ち、仕留め損ねたということだ。手ごたえはあったが直感的にそれを理解した俺は素早く距離を取ろうと後ろへと跳躍し……そのすぐ後に目に入った光景に絶句した。

 

「が、ぉっぁああああぁあぁあああッッ!!!」

「なっ――――」

 

 俺の予想ではこの次に起こるのは凶裏が激昂して俺への攻撃を再開するか、そうでなくとも幾分かの落ち着きを取り戻してまたもや互いに様子見の膠着状態になるかの二通りだった。だが奴はそのどちらの予想も裏切ってくれた。

 

 凶裏は踵を返すや否や――――俺に背中を向けて遁走した。

 

「待っ――――貴様ァァァァ! 逃げるなァァァァァッ!!!」

「ご、れ以、上――――テメェに付き合う義理もねェ! 俺はもうお暇させて貰ァ!! 刀を振りたきゃ一人でブンブンやってろ餓鬼が!!」

 

 こいつ、俺に勝てない、もしくは勝てるかもしれないが時間も手間もかかり過ぎて割に合わないとでも思ったのか、恥も外聞も知ったことかと逃げることを選択したのか。

 

 ふざけるな、此処まで来て逃がして堪るものか。俺はすぐに追いかけようと足に力を入れた。

 

 

 ――――瞬間、身体から激痛が湧き上がる。

 

 

「っ、が――――」

 

 最悪だ。よりにもよってこんな時に打ち込んだ麻酔の効果が切れた。何故こんな時に、せめて後数分持たなかったのか。

 

 クソッ、動け。動けよ俺の身体。ここで逃したら神崎夫妻や医者たちの犠牲は何だったんだ。犬死か? ふざけるな動け動け動け動け――――ッ!!!!

 

「ハハハハッ! やっとだ! やっと俺は自由にィィィッ――――!!!」

 

 

 

「全集中・花の呼吸」

 

 

 

 善継という枷から解き放たれた開放感、抑圧された反動で高ぶっていたのだろう。凶裏は大いに喜びながら駆けた。最早自分を止められる者などいない、これからは人間を好き放題貪り食うことができる。そんな未来への期待に満ちていたせいか、彼の視野は非常に狭まっていた。

 

 それこそ自分のすぐ背後に飛び降りてきた少女の存在に気付くのが遅れるほどに。

 

「【陸ノ型 渦桃】」

「は、ぎょ――――っ!?」

 

 凶裏の前に取り降りた少女――――カナエは宙で身を捩りながら渦を巻くような軌道の斬撃を放った。残念ながら凶裏が寸前で回避行動を行ったせいでそれが頸に当たることは無かったが、代わりに彼女の刃は凶裏の背を深く抉った。

 

 それは今まさに逃げようとしていた凶裏の激情を再燃させるには十分な燃料であり、

 

「こ、の……(あま)ァァァァアアアアアアアアアアアアアッッ――――!!!!」

 

 女子に斬りつけられたのが余程癪に障ったのか、逃げようとしていた事など嘘のように激怒しながら反撃するために息を吸いながら振り返る凶裏。そしてカナエは今、技を放った後であるが故に硬直してしまっている。このままでは彼女は確実に凶裏の餌食になってしまうだろう。

 

 だがカナエは絶望などしていない。むしろ笑みさえ浮かべている。きっと信じているのだろう、自身の相方が駆けつけてくれることを。

 

 忘れていないだろうか。――――ここにはもう一人鬼狩りがいることに。

 

 

「がぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああッ!!!!」

 

 

 身体の痛みなど知ったことか。身体の傷など後で休めば治る。今は戦う時だ、そう身体に鼓舞して無理矢理立ち直らせた俺は今出せる全速力で疾駆する。

 

 これで、終わらせる。

 

 

「【血鬼術】ゥッ――――!!!!」

 

「【捌ノ型】ァッ――――!!!!」

 

 

 周囲の空気が凶裏の口へと吸いこまれていき、

 

 柄を両手で握りしめられた刀が大上段に構えられ、

 

 

「【天響吹刃(てんきょうふうじ)】ィィィィィィィイイイイン!!!!」

 

「【滝壷】ォォォォオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 

 衝突。

 

 高圧縮された風の光線が全てを貫かんと撃ち放たれ、藍の刃が鬼の頸を断たんと振り下ろされた。

 

 ぶつかり合う最大最強の一撃。大気が暴れ狂い、逸れた風が建物を切り裂き、両者の踏みしめた地面が砕けて沈む。一歩でも引いたらその瞬間その者は敗者となる鬩ぎ合い。不利なのはやはり――――俺の方か。

 

「くっ、ぉぉぉぉおおぉぉぉおぉおぉおおおおおッ!!!」

 

 風に押されて体が仰け反ってゆく。全身がズタボロで瘡蓋で辛うじて塞がっていた傷も力んだことで出血を再開させている。痣のおかげで肉体の疲労をある程度無視できると言っても、それは知らない振りをしているだけだ。実際にはダメージは着実に重なり続けている。

 

 そしてそれは無制限では無い。必ずある一線で弾け飛ぶ。そうなればもう立ち上がることはできなくなる。

 

 あとどれくらいでその一線を踏み越えるのかはわからないが、そう遠くないのは確実。その前に決着を付けねばならない。

 

 だが足りない。万全の状態なら押しきれただろうが、今の俺では拮抗するのが精一杯。

 

 せめて、あと一押し――――!

 

 

「―――――【肆ノ型 紅花衣】!!」

 

 

 求めていたソレは、直ぐ近くにあった。

 

 カナエの渾身の一振りが俺の刀の峰に打ち込まれた。それは今この場に足りない一欠片を埋めるように、綺麗に収まっていく。

 

 その光景に思わず、俺は不敵な笑みを浮かべた。

 

「このまま押すぞっ、カナエ!!」

「ええ!!」

 

 一人では足りない。なら二人ならどうなるか。

 

 答えは、今から見せよう。

 

 

「「はぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああっ――――!!!」」

 

 

 風の光線と交差された二振りの刀がせめぎ合う。すると――――何故か俺たちの刀が赤色に変色し始めた。

 

 俺はこの現象に見覚え、いや前知識があった。だがどうして今変化したのかまではわからない。わからないが……敵を倒すことに役立つのならばなんだっていい。今はただ、刃を届かせる。

 

 

 赤く染まった刃が風を切り裂きながら進む。一歩大きく踏み出して、刀を大きく引き絞り――――ついに、突破した。

 

 

 邪魔な風を押しのけるようにバツの字に振るわれた刀は凶裏の両肩に食いこみ、それぞれ左右の脇腹から抜けた。その結果凶裏の胴体は四分割の状態となる。

 

 数秒間を置いてずるりと、重力に逆らえず落ちる三つの肉塊。残った下半身の部分もその後に続く様に前のめりに倒れた。

 

「……………………は?」

 

 状況が理解できないのだろう。凶裏は茫然とした顔で、仰向けの状態のまま分割されたそれぞれの肉体を見つめる。更に不思議な事に、凶裏の傷からは再生の兆しが見えない。いや、遅々とした動きではあったものの再生はしている。

 

 ただその速度は下弦どころか雑魚鬼にすら劣るほど、遅々たるものであったが。

 

「な、んで……なんでっ、傷が治らねェ!? ふざけんなッ、まだ余力は残ってる筈だろうがッ!! クソッ、クソクソクソク――――お、ごぁッ!!?」

 

 俺はゆっくりと息を整えてから、無様に喚く凶裏の顔を全力で踏みつけて黙らせた。奴の言葉を、これ以上聞きたくはないし、義理も価値もない。

 

「終わりだ、凶裏」

「ご、ォ、が――――」

「地獄で善継と、お前が殺してきた人達に詫びるといい」

 

 色が元に戻ってしまった刀、しかし今足蹴にしている鬼の頸を断つには十分なそれを振り上げる。刃を降ろす先は当然頸。

 

 善継のためにも、今まで犠牲になった人達のためにも……何よりこいつは、推定ではあるが他の十二鬼月よりも遥かに小食を強いられていただろうにも関わらず下弦の伍にまで上り詰めるほど高い素養を持つ鬼。

 

 確実に此処で断たねばならない。これ以上、こいつが力を付ける前に。

 

 息を吸って、吐く。――――そして、振り下ろした。

 

 

「――――やめてぇぇぇぇぇぇぇええええっ!!」

 

 

「!?」

「ア……アオイちゃん!?」

 

 予想外の声に思わず刀が凶裏の頸の皮を一枚切り裂いた瞬間にピタリと止まった。顔を上げて声がした方を向けば、息を荒げて俺たちを見つめる幼い少女、神崎アオイの姿があった。

 

 彼女はふらふらとした足取りで俺たちの傍に来るや否や、倒れ込むように伏す。……これはまさか……土下座?

 

「おねがいっ、しますっ! おにいちゃんをころさないでくださいっ……!」

 

 よっぽど苦しいのか、アオイが発した言葉は舌足らずなものだった。しかしその声に籠められた悲痛は嫌というほど伝わってくる。

 

 気持ちは、理解できる。両親が亡くなった今、彼女にとっては今俺が踏みつけている鬼だけが唯一残された家族だからだ。それすら失ったら、自分はこれから一体何を拠り所にすればいい。そう、思っているはずだ。

 

 例えその両親を殺したのが、その()だったとしても。

 

「おねがいしますっ! なんでもしますから! なんだってやりますから! だからっ、だからっ……!」

「――――駄目だ」

「っ……!!」

 

 それでも俺は彼女の願いをばっさりと切り捨てた。

 

 唯一残った家族を守りたい気持ちは痛いほど理解できる。だが駄目なのだ。彼女の兄は人格こそ違うが、その正体は鬼。人を食う事でしか生きられない存在。見逃せばまた罪のない人々が人食いの恐怖に包まれる。

 

「どうして!? 元に戻す方法があるかもしれないのにっ!!」

「あったとしても、使()()()()()使()()()()。……お前は何十人も人を食い殺した化物を、人に戻したいと言うのか?」

「そ、それ……は……」

 

 それに助けられる、人に戻す方法があったとしてももう遅い。凶裏は……善継は恐らく三桁前後の人間を捕食している。その時の記憶が残っているかどうかはわからないが、どっちだろうと一線を越えた以上、今更人間に戻ることなど許されるはずがない。

 

 人を食ってしまったのならば、報いは受けねばならないのだ。

 

「アオイちゃん……もう、お兄さんを楽にしてあげましょう? 彼も、人を食べ続けながら生き長らえることは望んでいないわ。それは貴方が一番理解出来るはずよ……?」

「う、ぐっ、えぐっ……ふえっ、うぇぇえぇえぇぇぇぇえぇえぇぇぇえええん!」

「………………すまな――――」

 

 心の底ではわかっていたのだろう。兄を苦しみから解き放つ方法はこれしかないのだと。だとしても、生きていてもらいたいと思ってしまう。家族が家族に生きてもらいたいと思うことの何処かおかしいだろうか。

 

 ……何もおかしくなんてない。悪いのは全ての元凶である、鬼舞辻無惨で――――

 

 

 

 

「――――下らん茶番だな」

 

 

 

 

 通りの向こうから鋭い足音がする。同時に肌から感じる、今までで遭ってきた鬼どころか、下弦の伍である凶裏とすら比較することが烏滸がましい程の禍々しき重圧。

 

 その様な尋常では無い気配に思わず俺は冷や汗を滲ませながらその存在がいるだろう方角へと振り向いた。

 

 耳を擽る甘美で、しかして吐き気を催すほど不気味な声音。異様で不自然なまでに整えられた美顔。夜空の月の輝きに照らされ赫々とした輝きを放つ眼。独特な柄が刻まれた黒色の着物。

 

「なん、で――――」

 

 何故……お前がここに居る。何故、何故何故何故今――――ッ!?

 

 

「退け、小僧」

 

 

 奇跡だった。

 

 生存本能がただ生きるために肉体を突き動かした。限界を越えた速度で俺の身体は刀を盾のように構えながら後ろへと跳び、視認することすらできない超速の攻撃を凌ぐことができた。

 

 致死の攻撃が重傷程度に抑えられたのだ。大金星といって差し支えないだろう。

 

 代償として俺の身体は爆ぜる様にして吹き飛び、放物線を描きながら近くにあった建物の屋根へと落下した。

 

 そこから俺の意識は、ほんの少しの間途切れることとなる。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 その男の姿を見た瞬間、凶裏は頭が真っ白になった。

 

 数秒後に頭を埋め尽くしたのは「何故”彼”がここにいる」という疑問と焦燥。思わずその場で泣き叫びたくなる衝動に駆られたが、凶裏は一瞬でこの場に置ける今の自分ができる最適解を実行する。

 

 彼は上半身だけの状態で芋虫の様に蠢き、何とか”彼”の目の前で地面に頭を擦りつける態勢を取った。だが安心など全くできやしない。この程度で”彼”が機嫌を直すわけがないことを凶裏は理解しているからだ。

 

(まずい、まずいまずいまずい――――! 十二鬼月である俺がこんな醜態を、よりにもよって”この御方”の前で晒すなど――――ッ!!)

「何がまずい? 言ってみろ」

「ッ――――違うのです! こっ、これは何かの間違いで……ぶぎゃっ!!」

 

 地面に擦りつけていた頭が凄まじい力で地面に抑えつけられた。抵抗はしない。そんな事をすれば自分は一秒後には細胞一つ残されずにあの世行きだ。故に抵抗せずただただ成すがまま、凶裏は心の中で謝罪と忠誠心を精一杯ひり出し続ける。

 

「何が違う? 柱でもない小僧と小娘二人に、よもやこんな無様を晒しているとは。……どうやら貴様は、私が考えていたよりもはるかに矮小な存在だったらしい。期待していた太陽への耐性も未だ何ら変化はなく、その場で足踏みするだけ……私が血を与え鬼にしてからこの八年間、貴様は一体何をしていたのだ?」

「ご、びゅっ、ぎ」

「……だが私は寛大だ。一度だけ、貴様の言い分を聞いてやろう。貴様の処遇はそれから決める」

 

 もし彼の本質をよく知る者であれば驚愕の眼差しを向けていただろう。まさか”彼”が相手の言い分を聞こうとするなどと、と。

 

 だが裏返せば、”彼”はそれほどまでに期待しているのだ。凶裏の……不完全ながらも太陽を克服できる可能性を持った鬼に。上手く行けば、自身が千年間抱いてきた悲願を叶えることが出来るかもしれないのだから。

 

 故に”彼”は今すぐ目の前の取るに足らない不快な塵を殺してやりたいという衝動を抑えながら、刃物のような鋭利な目線で睨み続けつつも頭を抑えつけていた足を離した。凶裏もゴクリと血の混じった唾を飲み込みながら、嘘偽りなく今の自分が思っている事を口にする。

 

「ヤツがッ、善継とかいうクソみたいな人格さえ無ければッ!! 俺はもっと上の座に居られたはずです! 俺は貴方様に血を投与されてから八年間人間を食い続けましたが、その数は百にも満たない! にも拘わらず俺は下弦の伍にまで上り詰められたッ!! あの人格が俺を抑え込んでいなければ、俺はこの十倍は食えたはず! 今頃上弦になっていてもおかしくはない!!」

「――――ほう?」

 

 上弦。百年以上顔ぶれの変わらぬ、鬼舞辻の保有する最高戦力の六人……否、七人か。凶裏は善継の存在さえ無ければ自分はその上弦になれていたと豪語した。

 

 当然、普段の”彼”なら下らない言い訳だと、妄言の類だと切り捨てていただろう。だが知っている。凶裏は本当に百人以下の人数しか人間を食べていないし(その中に稀血が数人ほど混じっているとはいえ)、その程度の量でここまで上り詰めている実績が確かにある。

 

 その言い分は筋が通ると、珍しくも”彼”は納得した。

 

「俺には才能がある! 最強の十二鬼月になれる才能がッ!! 日光への耐性だって、善継を抑え込めた今の俺ならば大量の人間を食う事で変化を起こせる筈! だからお願いします……!! 今一度機会を……ッ!! 私に一度だけ機会を御与えください!!」

「……………………」

 

 その懇願に”彼”は無言で凶裏を数秒間見つめた。その数秒間だけでも凶裏にとっては何時間にも感じるほどに引き伸ばされて感じ、身体中から嫌な汗が濁流の様に流れ出す。

 

 そして一瞬だけ風が止んで無音となり――――凶裏は後頭部に何かが突き刺さるような衝撃を感じた。

 

「がッ――――」

「いいだろう。私を前にしても尚『上弦にもなれる』という貴様の大言壮語、気に入った。事実、貴様の才覚は私も知っている。――――であれば、私も一度だけお前に慈悲を示そう」

「ご、ぉ、ひぎっ、ひ」

「機会を与えるついでに餞別も送ってやろう。私の血をふんだんに分けてやる。精々、上手く適応するといい」

 

 頭の中に直接送り込まれた劇薬に、凶裏は全身の血管を表皮に浮かせながら悶え始めた。そんな凶裏を尻目に、黒衣の男は踵を返して自身の来た道をなぞる様に帰路につく。

 

 その一部始終を、義勇が吹き飛ばされてしまった際の衝撃でアオイ共々道の隅に追いやられてしまったカナエは声を押し殺しながら見ていることしかできなかった。だが仕方がないことなのだ。相手は下弦や上弦なんてものではない。

 

 ”彼”は言っていた、自分が血を与え善継を鬼に変えたと。

 

 凶裏は言っていた、「貴方様」という鬼に似合わぬ、しかし一人だけそう呼ぶに相応しい言葉を。

 

 即ち、彼こそ鬼の始祖。

 

 鬼によるあらゆる凶事の元凶にして権化。

 

 

(鬼舞辻、無惨、なの)

 

 

 鬼殺隊が血眼になって探し求める鬼の首魁。その姿を直視してしまったカナエは絶句するしかない。

 

 あれを、倒せというのか? あんな化け物を、柱ですら可愛く見えるほどの禍々しい生命力に満ち溢れた怪物を。そう考えてしまう自分の不甲斐なさに唇を噛みながら、カナエは腕の中で口を両手で抑えながら震えて涙するアオイをギュッと抱きしめる。

 

 このまま夜が明ければどれだけ幸せだったことか。――――残念ながら、鬼の夜は未だ終わりを告げてはいなかった。

 

「お、お、お」

 

 全身が痙攣し、両目がグルグルと滅茶苦茶に動かして、血を吐きながらのたうち回る凶裏。数秒しないうちに彼の肉体には異変が起きた。

 

 再生の鈍かった部位が一瞬で修復されたかと思いきや、続いて爆発するように凶裏の背中の肉が盛り上がった。尋常では無い速度で背中から生えた肉塊が増殖を始め、たった数回瞬きする間にそれは人間どころか小さな小屋ほどの大きさまで膨れ上がってしまう。

 

 更に肉塊の中から白く長い、昆虫の脚のような形の骨が六本ほど体内を食い破るように現出。それらが地面を踏みしめると巨大肉腫は軽々と地面から浮いてしまう。

 

 変化は止まらない。今度は肉塊の中から全方位に向かって幾つもの管と先端に鋭い槍状の骨が付いた背骨のような見た目の触手が八本ずつ突き出た。

 

 最後は肉塊の下部表面に骨でできた風車の様な器官が浮き出て、変化は終わる。――――肉塊の変化は。

 

「ぁ、お、ぇ、へぎっ、ぃ、ひゅぃぃぃいいぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいッ!!!!!」

 

 突如奇声を上げる肉塊の横部に下半身を丸々埋めてしまった凶裏。何度も電流を流されたように跳ねた彼は、やがてぐったりと脱力して肉塊にぶら下がりそのまま動かなくなってしまった。

 

 同時に、肉塊の上部中央に割れ目が出現。間もなくその割れ目から生皮を剥がされた、筋線維剥き出しの人の腕のようなものが二本付き出された。

 

『――――クヒッ』

 

 嘲笑。それが、ヤツの産声だ。

 

 突き出された腕が割れ目を広げる。そうして中から現れたのは、皮の無い、縦に割れた三つ目を持つ人型。

 

 新生した怪物は高らかに叫ぶ。今、自身は真の意味でこの世界に産まれたと。

 

 

 

 

『ギヒヒヒヒャヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!! ギャハハハハハゲヒャヒャヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!』

 

 

 

 

 荒ぶる嵐の暴君が、産み落とされた。

 

 

 

 




《血鬼術》

 【風神雷撃(ふうじんらいげき)
 高圧縮した空気の小玉を上空に投擲。宙に浮いた空気玉は指定した対象をゆっくりと追尾し、直上に達した瞬間に空気の一部を炸裂。地面へと落下し圧縮した空気を解放・爆発する。
 威力に対して燃費が非常に良く、これを使うだけで相手は上空にも注意を向けなければならないため非常に優秀な技。ただし、誘導精度はそこまで高くはないため動き続けていれば回避は容易。

 【天響吹刃(てんきょうふうじん)
 【滅光】の前身バージョン。高圧縮した空気をウォーターカッターの如く細い線状に放出する技。貫通力・切断力に特化しているため面制圧には向かないものの、一点に対する破壊力は絶大。


 Q.冨岡(憑)「中ボスにトドメを刺そうとしたらなんかラスボスに邪魔された上に中ボスを全回復・強化されて第二形態戦に突入したんですけど調整ミスですかね?」
 A.仕様です。
 冨岡(憑)「クソが」

 もしかしてアオイちゃんやらかした? と思っている方もいらっしゃるかもしれません。が、もし手を止めていなかったら出るタイミングを図るために後方でスタンバっていた無惨様が現状太陽克服のための唯一の手掛かりを手の前で踏み潰されたことにブチギレて激おこ触手ブンブンしながら義勇さんたちを絶殺しに来ることになったので、むしろ渾身のファインプレーだったりする。

 どのみち京橋區の被害が拡大することは確定していた模様。


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第参拾参話 二柱の支え

 深夜の京橋區に現れた異形。それを簡単に言い表すのならば、六本の骨の脚を持つ巨大な肉の大蜘蛛であった。

 

 その肉塊下部に埋め込まれるように存在する四つの風車……現代風に言い換えるならば吸気ファンのような器官が突如一斉に駆動を始める。すると周囲の空気が一斉に凶裏の元へと揺らめき始めた。そう、空気が肉塊内部へと吸い込まれ始めたのだ。

 

 つまりそれは、この巨大な肉塊は空気タンクであることの証拠。凶裏は鬼舞辻より与えられし血から供給された制御できなかった分の力を最大限まで転用して己の肉体の改造・増設を行い、肺に代わる新たな空気の貯蔵庫を作り上げたのだ。これで彼は、己の致命的な弱点を一つ克服したことになる。

 

 そして当の凶裏本人は、肉塊の頂点部で片手で顔を覆いながら肩を小さく上下させていた。今まで彼の事を見てきた者達にとっては、これがどんな反応なのかは態々説明する必要などないだろう。

 

『――――ク、クハッ、クヒャハハハハハハハハハ……! 馴染む! 実にッ、馴染むぞォッ!! ヒハハハハッ!! 今までの生の中でこれ程絶好調だったことがあっただろうかッ!?』

 

 皮の無い全身を震わせながら凶裏は歓喜に嗤う。善継という束縛から完全に解放され、更に鬼舞辻から大量の血液を授与され空腹とは無縁の完全完璧なコンディションを得たことで凶裏の喜びは留まる所を知らないまま昇りに昇ってゆく。

 

 文字通り今までとは桁の違う力を瞬間的に手に入れたことによる高揚感と全能感。今の彼は例え柱であろうが負ける気がしなかった。

 

『最高に『ハイ!』ってやつだァアアアアアアアア!! フヒャヒャヒャヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!』

 

 突き出した人差し指で側頭部を突き刺し、グリグリと抉る様は狂気以外の言葉は似合わない。

 

 十二鬼月? 上弦? そんな物はもう知ったことではない。自分の敵になどなるものか。己が力の源泉である鬼舞辻無惨以外の全てを上回ったという確信を以て、彼は高らかに叫び続ける。自分を止められる者はただ一人を除いて存在しない。であるのならば、自分が今から行うのは何だ?

 

 決まっている。

 

『血ィ! 臓物ゥ! 死体ィィィィイイイイッ!!! 括目するがいい鬼狩り共! 愚昧なる人間共!! 之より行うは殺戮ッ!! 明日、この町に生き物など残らないと知れェ!! フフハハハハハハハハハハッ!!』

 

 鬼の細胞深くに刻まれた殺戮と暴食の衝動。凶裏はそれを縛ることも抑えることもせず、ただ剥き出しにして暴虐の限りを尽くそうと心に決めた。その言に嘘は無く、彼を今すぐ止めなければ本当に夜が明けるころには京橋區からは人が――――いいや、街と呼べるものは消え去っているだろう。

 

 それができるほどの力が、今の凶裏には備わっているのだから。

 

 

「――――待ちなさい!!」

「かっ、カナエさん……!?」

 

 

 しかしそれに待ったをかける者が、ここに一人居た。

 

『……あァ?』

 

 凶裏が視線を下へと降ろせば、自身の真正面で道を阻むが如く立っている女子がいる。

 

 ――――女子は、胡蝶カナエは震えながらも凶裏の前へと立っていた。

 

 先程の血を与えられていない状態でも尚手に余るほどの存在だったというのに、最早つい数分前までとは比較にならないほど強大になった今の凶裏を相手にすることなど、カナエは「無理だ」とわかっている。わかってしまう。ただの子供であるアオイにすら無茶無謀だとわかるのだから、カナエにわからないはずがない。

 

(それでも、立たなきゃ……! 誰かが戦わなきゃっ……!!)

 

 だとしても彼女は刀を手に取り戦う選択をした。そうしなければきっと何千何万の人の命が今宵散る。例え自分がこの選択を選んでも結末が変わることが何一つ無かったとしても。

 

『馬鹿だ馬鹿だとは思っていたがなァ、此処まで極まった奴たァなァ…………今までの俺に叩きのめされてたテメェ如きがァ!! あの御方の血を授かった今の俺にィ!! 勝てるわきゃねェェェェエエエエだろォォォォォオオオオオオオオオッ!!!!』

 

 凶裏の嘲笑と共に肉塊の前面に取りつけられた四本の骨の触手が駆動を開始する。今まで無作為に蠢いているだけだった触手たちが一斉にその末端に取りつけられている骨の槍の穂先をカナエへと向け、さながら獲物に飛びかかる蛇の様な俊敏な動作で襲い掛かった。

 

 四方向から多角的に迫りくる致死の攻撃群。カナエは当然回避を試みるがそうは問屋が卸さない。骨の触手たちの動きは直線では無く曲線。流石に直角を描くほど常識外れな動きでこそ無いが、カナエの軌道予測を狂わせるには十分すぎた。

 

「い、ッ――――!?」

 

 一本はどうにか刀で弾くことができた。だが残りの三本はカナエの肩、脇腹、左腿の肉を僅かずつ抉っていった。どれも致命傷でこそ無いが、決して無視できるものでもない。

 

 そして悲しいかな。――――攻撃はこんなもので終わってはいなかった。

 

『ハーッハハハハハハハハハハハハッ!!!』

 

 同じく肉塊前面に取りつけられた管の様な器官の口がカナエのいる方へと向きを変え、それと連動するように肉塊に内蔵された吸気扇が激しく唸る。そして始まる――――()()

 

 四つの管から肉塊内で圧縮された空気が砲弾として撃ち出された。前にカナエに放った連射型の威力とは訳が違う。連射型の空気弾の威力が拳銃弾程度だとすれば、こちらは大砲の砲弾。それが四発、一斉にカナエへと打ち込まれたのだ。

 

(まずっ――――!!)

 

 カナエは思考を脳内から抽出し終える前に身体を先に動かす。切り裂かれた腿から血が噴き出るのも構わず後方へと跳躍し、直撃していたのならば手足など簡単に千切れ飛んでいただろう攻撃を何とか回避することに成功した。

 

 そして彼女が立っていた地面へ空気弾が着弾し爆発。決して柔らかくないはずの地面が深々と抉られながら吹き飛び、発生した風圧で宙に居たカナエは全身を殴られたような錯覚と共に態勢を崩し、受け身も取れないまま地面を転がってしまう。

 

「か、は……ぅ、ぁ」

 

 傷から血が溢れて彼女の衣服が赤く染まっていく。恐らくは初めて体感するであろう肉を抉られる感覚と痛み。燃え盛るような激痛と三半規管の揺れる感覚にカナエは耐えきることができず、幾度が呻き声を零した末に気を保つための手綱を手放してしまった。

 

 気絶し、完全な無防備となったカナエを見下しながら嗜虐的な笑みを浮かべる凶裏。彼にとっては今まで散々自分を邪魔してくれた小蟲を捕まえ、さあ指で圧し潰そうという瞬間だ。実に、心躍る瞬間だろう。

 

「――――お兄ちゃん!!」

 

 下卑た笑みを漏らす凶裏の心に、不意にかけられる冷水。その声の主であるアオイは両手を広げながら泣きそうな表情でカナエの前に立っていた。手も足も震えている。まるで生まれたての小鹿のような有様で、少女は凶裏へ言葉を投げる。

 

「お、お願い、お兄ちゃん! もうっ、もうやめて! こんな事しちゃ駄目だよ!」

『………………………は?』

「お兄ちゃんはっ、お兄ちゃんは鬼なんかじゃない! 私のお兄ちゃんは優しくて、でもどこか抜けていて、いつも人の不幸に心を痛めて、料理がとても上手くてっ……! お願いだからっ、お兄ちゃんを返してよぉ!!」

 

 アオイの叫ぶ悲痛な訴え。第三者が聞けば心を振るわせられるくらい、その叫びには感情が乗せられていた。感動的とさえ言えるだろう。

 

 だが無意味だ。

 

『クハッ、クハハハッ、クハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!! こいつァ傑作だァ! 喜べよ善継、お前の妹はお前の事をこんなにも想ってくれているぜェ? ――――ま、聞こえちゃいねェだろうがなァ。だが、そろそろ、お前の声も耳障りだと思ってきた頃だ』

 

 あれだけの惨状を見ながら、未だに兄が帰ってくることを諦めきれていないアオイの姿に凶裏は愉快そうに腹を抱えて笑い飛ばした。ひとしきり笑った後は素面に戻ったのか、極めて冷徹で、無関心そうな声で凶裏は肉塊を支える六本の骨脚の内一本だけを振り上げる。

 

「あ…………」

『んじゃあ――――二人仲良く地面の染みにでもなってろやァァァアア!!!』

 

 情けも容赦もなく、二人の女子目がけて巨大な脚は振り下ろされた。

 

 轟く爆音。巻き上がる砂煙。どれだけ鍛えた人間だろうが、まともに喰らえば原形は留めないだろう質量攻撃。何もなければ女子二人は無情にも何者かもわからなくなった凄惨な屍をこの世に残すことになるのだろう。

 

 そう、何もなければ。

 

『…………ん?』

 

 真っ先に様子がおかしいことに気付いたのは攻撃を行った張本人である凶裏だった。

 

 何がおかしいのか? ……見えないのだ、『赤』が。血の色が。人間二人を一斉に潰し殺したにしては飛び散った血液の量が少ない――――いや、違う。無い。赤い血は全く飛び散っていない。

 

 あり得ない。圧殺されたのならば中身は四方八方へと飛び散る筈なのに――――!!

 

 それがないという事は、つまり。

 

 

 

「――――俺が気絶している間に……随分、好き勝手、してくれたな」

 

 

 

 

 

 

 未だに頭の中から鈍痛が絶え間なく湧いて出てくる。視界も朦朧としていて、自分でもどうやって立ち上がって、前にあるものを認識しているのかわからない。

 

 全身が惨いとしか言いようのないほどに傷だらけだ。骨は折れていないが肋骨数本と左腕、右足の骨に罅が入り、辛うじて血が止まっていた全身の銃創からは出血が再開されている。その上屋根を貫通して屋内に叩き付けられた際に頭を打ったのか、頭部から血が流れだしている。

 

 重傷だ。死に体だ。いつ死んでもおかしくはない。いやいっそ死んだ方が楽だろう。

 

 

 だとしても。

 

 

『な、ん……!?』

「はぁっ……はぁっ……!!」

 

 

 カナエとアオイ目がけて振り下ろされた巨大な骨脚を、俺は身体の隅々から力をかき集めて受け止めた。

 

 その際の全身にかかる負荷で出血が更に酷くなっている。この状態があと一分続けば、俺の身体からは生命維持に必要な最低限の血液さえ残るまい。

 

 それでも、そうしなければならなかった。二人の命を守るためならば。

 

「んんんんぬうぅぅぅうううああああああああああああああああッ!!!」

 

 俺の姿を見て一瞬動揺した凶裏の隙を突いて、俺はこちらを圧し潰そうとしている骨脚を全力で弾き飛ばした。それで体勢を崩したのか、あるいは俺の気迫に押されたのかわからないが、凶裏は酷く狼狽した様子でたじろぐ。

 

 これで少しばかり時間が出来た。早く、カナエたちの様子を確認しなければ。

 

 振り向くと傷から血を流して気絶しているカナエと、恐怖の限界に達したのか同じく気絶して倒れ伏したアオイが居るのが見える。

 

(無事ではなかったが、生きている。……よかった)

 

 だが状況的には全く喜べない。今すぐ二人をどこか安全な場所に避難させないといけないというのに、動ける人手は俺一人のみ。だが、今から俺は凶裏を足止めしなければならない。例え撤退するとしても、ヤツがそれをみすみす見逃してくれるとは思えない。きっと執念深く追いかけてくるに違いない。

 

 しかも俺の身体は今すぐ応急処置をしなければ助からないほど酷い有様だ。だが奴を目の前にしてそんな余裕なぞない。そんな俺が稼げる時間など何分、いや何十秒だ? いや、時間が稼げたとしても二人を運べなければ意味がない。最悪よりもマシ程度な最悪の状況に俺は内心で毒づく。

 

 更に、凶裏の最早原形すら残さない禍々しき変貌。経緯はわからないが、確実に鬼舞辻から血を与えられたせいだろう。それに伴うように、奴の纏う気配とも呼ぶべきものが劇的な変化をしたのを俺は感覚的に理解した。

 

 先程までの状態と比較して、今の凶裏は四倍……いや五倍以上の力を感じる。間違いなく上弦級の脅威。変化前ですら俺とカナエの二人掛りで辛勝だったというのに、消耗し切った俺では――――例え万全の状態であっても無理だろうが――――もうこんな物は手に負えない。

 

 そして、こいつを放って置けば最悪京橋區は壊滅する。確実に。それができる力が、今の凶裏にはある。

 

『…………ェんだよ』

 

 ズン、と巨大な骨脚が地面を大きく踏む。息を呑んで視線を凶裏の本体らしき皮無しの人型に向ければ、余程の怒りを抱いているのか全身の表面に血管を浮かばせ、血走った三つの眼をぎょろぎょろと気持ち悪く四方八方に蠢かせている。

 

 

『しつけェんだよこの肥溜に吐き出された痰滓如きがよォォオオオオオオオオオオオッ!!! いい加減死に晒せやァァァァァアアアアアアアアアッ!!!』

 

 

 その怒りの理由に大体察しがついた。大方俺のあまりのしぶとさ、しつこさに嫌気が差しているのだろう。確かに、我ながらゴキブリ並みのしぶとさだとは思う。

 

 だがそれもこれで最後だ。俺が死ぬまで、奴には根気よく付き合って貰おう。

 

 目の前で広がっていた威圧感がさらに強まる。奴の中にある鬼舞辻の血が高ぶっているのを本能的に感じる。

 

 凶裏が下半身を埋まらせた肉塊から管の様なものが二本が出現した。ゴムやプラスチックなどでは無く肉と骨で形作られた有機的な管は一瞬だけ悍ましくうねるとたちまち凶裏の両肘に突き刺さり一体化。更に凶裏の腕から肉が増殖していき、グチャグチャと気持ち悪い音が立てられながら変形していく。

 

 完成した凶裏の両腕は”砲”だった。骨の砲身と肉の内部機構を持つ異形の武装。それが出来上がった瞬間腕と繋がっている管が肉塊の方から急激に膨らみ始めた。

 

 まるで何かを凶裏の腕へと送り込むように。

 

(――――まさか、あの肉塊は……!!)

 

 瞬時に俺は理解した。奴の巨体の大部分を占めるその部位が、外付けされた空気タンクだという事に。そして内部に貯蔵できる空気の量は恐らく、肺などという小さな内臓などとは比べ物にもならない。

 

 ならばそこから放たれる術の威力は――――!!

 

 

【血鬼術 空砲・玉風息吹 多連弾】

 

 

 肉塊に取りつけられた骨の砲八門の内前面に取りつけられた四門と凶裏の両腕に形成された計六門の骨の砲から撃ち出される無数の空気弾。一発一発が、恐らく重機関銃の弾丸に比肩するだろうそれを、俺は避けようとしなかった。

 

 俺の背後にはカナエらがいる。避ければ二人が粉微塵に消え果てるのはわかり切った事実だ。

 

 ならば俺がするべきことはただ一つ。

 

 

 

 ()()

 

 

 

 

 全集中・水の呼吸 【拾壱ノ型 凪】

 

 

 

 刀を振るう。迫りくる莫大な数の風の弾丸を切り裂き、弾き、逸らし続ける。こちらに当たらないものや致命傷にならないものは取捨選択し、俺はただただ無心に怒涛の弾幕を処理し続けた。

 

「ッぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!」

 

 吹き荒れる風が全身を撫で切りにしていく。痛みが増える度に足が挫けそうになる。駄目だ、折れるな。俺が負ければ死ぬのは俺だけじゃない……!!

 

『キィイィィィイイェェエッ!!』

「っ!!」

 

 骨の砲と同じく肉塊の前面に生えた骨の触手四本が動き始める。それは獰猛な蛇の様に不規則な動きを見せるや否や、風の弾幕を泳ぐように掻い潜りながら俺へと襲い掛かってくる。 

 

 縦横無尽に曲線的な動きは今の俺では先の予測は不可能。だが()()()()()()()()()()()()。凶裏の視線で狙う個所を大まかに予想した俺は骨の触手に付いた槍が肌に触れる手前で【凪】によって紙一重で弾く。

 

 ここで突如握っている刀から異音が響いた。目を凝らせば、刀身の半ばから深々と罅が入っているではないか。

 

 【凪】の連続使用と、無数の攻撃を防ぎ続けていた弊害か。俺の技が未熟なばかりに、こんな姿にさせてしまって心の底から申し訳なくなる。

 

(……すまないな、鉄穴森さん。貴方に謝ることもできなさそうだ)

 

 弾いた触手たちが再度軌道を変えて迫る。同じ手順で攻撃してくる個所を予測し、もう一度弾き飛ばす。

 

 そしてついに、右手に握る刀の重さが軽くなった。砕け折れた刀身が何回転もしながら遠くの地面に突き刺さる。これで終わりか? ――――まだだ、まだ刃が全部無くなった訳じゃない。

 

 例え柄だけになろうが、俺は戦う。それが今俺ができる精一杯なのだから。

 

『くたばりやがれェェェェェエエエエエエエエエエッ!!!』

 

 三度目になる触手たちの猛攻。迫る触手四本の内二本を弾いた瞬間、手元から刀が甲高い音を立てながら弾き飛ばされた。もう、刀を握り続ける力も残っていなかったのか。

 

 最早防御の手段は何一つ残っていない。自身へ迫る骨の槍を見て、脳裏を流れる走馬灯。今までの出会いや経験が激流の様に早く、しかし清流のように静かに流れていく。はっきりと見えてくるのはやはり、今まで出会い親しくなってきた人達の顔。

 

 錆兎、真菰、鱗滝さん、しのぶ、カナエ、カナヲ、雫さん、真白さん……蔦子姉さんと、向日葵。

 

 ……姉さん、悲しむだろうな。

 

 

 約束、守れなかったよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鮮血が舞う。大きな塊が”四つ”夜空を舞い、数回転した後に地面へと()()()()()()

 

 

『――――――――は?』

 

 今しがた刎ねられたのは、義勇の頸ではなかった。ソレは骨の穂先……そう、凶裏の操る触手のモノだったのだ。

 

 その光景に茫然する義勇と凶裏を尻目に、忽然と佇む人影が動く。”彼女”は被っていた白い頭巾を勢いよく脱ぎ捨て、その中に秘められていた白く美しい髪を夜風に棚引かせた。

 

「……心配だったから、帰り道に様子見に寄るだけのつもりだったんだけど、ね。まさか十二鬼月が出て……こんなことになっていたなんて、思わなかったよ」

「な、んで」

『何を……しやがったァ!! (あま)ァ!!』

 

 瞼を開けば、奥から赤い宝石のように煌びやかに輝く眼。静寂と冷徹さに満ちた殺意の視線が今、凶裏へと向けられる。

 

『女風情がァッ……! 俺をォ!! そんな舐めた目でェ!! 見てんじゃねェェェエエエエエエ!!!』

 

 再生を終えてその先に凶器を携えた四本の触手が白髪の女性へと飛翔する。曲線的かつ不規則、そして速度も十分すぎるほど早い。並の剣士では影を捉えることすら不可能だろう。

 

 ――――ただ、”彼女”は並の剣士では無かった。

 

 

「全集中・雪の呼吸――――【壱ノ型 雪花】」

 

 

 迫る触手の穂先を眺めながら”彼女”はゆっくりと腰に佩いだ刀の柄を撫で――――手元が揺らぐ。それと同時に”彼女”を貫かんとした触手四本が一斉に斬り飛ばされた。

 

『ばっ、馬鹿な――――!?』

 

 目の前の光景が受け入れられず硬直していた凶裏だったが、その隙を見逃すほど()()は甘くない。

 

 何か巨大なものが振り回されるような風音がした。凶裏がそれに気づいたのは既に対処が困難になってきた頃。風音に気付いた彼は反射的に振り返り、その光景を目にする。

 

 自身の目と鼻の先まで迫っていた巨大な棘付き鉄球の姿を。

 

 

「南無阿弥陀仏」

 

 

 その言葉と共に、凶裏の右半身が粉々に砕け散った。更に追撃として放たれる手斧の投擲。石突から繋がっている長い鎖によって大きく振るわれたために、鉞に籠められた力は凶裏の頸どころか上半身を丸ごと吹き飛ばすには十分な破壊力が込められている。

 

『がぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁああああああッ!!?!』

 

 それに対して凶裏は咄嗟に迫ってくる手斧の横っ腹を殴りつけることで軌道を強引に逸らし回避した。代償として左腕が吹き飛んだが、鬼にとっては軽過ぎる傷だろう。

 

「……仕留め損ねたか」

 

 瓦が幾枚も割れる音と共に、その影は鎖を引き寄せて鉄球と手斧を回収しながら近くにあった家屋の屋根に降り立つ。

 

 同じ日本人とは思えないほどの巨体と筋骨隆々の肉体。人の顔より一回り以上大きい、常人では持つ事すら困難だろう鎖付きの棘付き鉄球と鉞。真っ黒の隊服の上に被せられた、『南無阿弥陀仏』という文字の刻まれた緑色の羽織。

 

 間違いなくその姿は、鬼殺隊が柱が一柱――――岩柱・悲鳴嶼 行冥……!

 

 そして俺の目の前に立つ、鬼殺隊の純黒の隊服の上に真っ白な着物を羽織った白髪の女性の姿も知っている。彼女もまた柱の一人……雪柱・明雪 真白。

 

 鬼殺隊の保有する最高戦力九名の内二名がこの場に現れた。この上ない、最高の援軍が。

 

「い、岩柱様に、真白さん……!? な、何故……?」

「うん。私は任務の帰り道に、貴方の様子を見に来ようとしてね。するとびっくり、まさか十二鬼月が現れて、貴方と交戦しているって烏が叫んでいるものだから、急いで駆けつけたの」

「すぐ近くが私の担当区域故、鎹烏の要請を聞き全速で参戦しに来た次第だ。……よく、持ち堪えた。後は我々に任せるといい」

 

 思わず涙が込み上げてきた。

 

 無駄では無かった。文字通り肉を削り骨を砕きながら耐え続けたのは、彼らが駆けつけるまでの時間を稼ぐことができた。これでカナエやアオイも助けることができる。

 

 本当に、本当に……助かった……!!

 

『クソッ!! クソクソクソクソクソがァァッ!!! 舐めた真似してくれやがってェッ……!! 今更柱が出てきたからって何だってんだァ! そこの小僧共々、纏めて縊り殺してやらァァァァァアアア!!!』

「できるものなら。――――往くぞ、明雪!!」

「はい!」

 

 凶裏は欠けた肉体を再生し終えるや否や、触手や風の砲撃で地面や周囲の建物を無差別に破壊しながら獰猛さを剥き出しにしていく。

 

 相手は柱二人。もう俺の様な格下を相手にした時の様な油断は見せない。

 

 その威風を受けた悲鳴嶼さんと真白さんは自らの得物を握る力を一際強めながら、一歩を踏み出した。

 

 恐らくもう俺に攻撃は飛んでこない。余波が来たとしても柱たちが守ってくれると信じ、俺は悲鳴を上げ続ける肉体から力を絞り出して気絶した二人を引き摺って少し離れた場所の路地裏に隠れる。

 

「はっ、はぁっ……ぐ、ぅっ……!」

 

 一先ずの安全を確保できたと確信で着た瞬間、身体から全ての力が抜ける。足腰を立たせるための力すら靄の様に掻き消え、身体が痛むのも構わず俺はその場で倒れるように尻もちをついて壁に背を預ける。

 

 痛い、痛い。とにかく全身が痛い。身体は傷の無い個所が無いほど無惨な有様だ。

 

 俺は泥の中にいるような抵抗感に抗い、酷く鈍くなった手つきでカナエの懐から応急処置のための包帯やら薬やらを拝借し、彼女の傷の手当てをしていく。といっても、出来るのは血を拭いて塗り薬を塗り、包帯を巻くだけだが。

 

 措置が済んだら余ったもので自分の傷の手当てもしていく。止血剤と増血剤を身体に打ち込んでいき、更に針と糸も使って大きな傷も縫っておく。薬の副作用や激痛のせいで手当ての最中に不快感に襲われ何度か吐きそうになったが、我慢してやり遂げた。

 

「……はっ! わっ、私、気絶して――――アオイちゃんはっ!」

「無事だ。此処にいる」

「――――っ、義勇君!!」

 

 丁度手当てが終わった頃にカナエが目を覚ました。戦いの最中に気を失ったせいで起きた瞬間は酷く焦り気味であったが、眠っているアオイや俺の姿を見て落ちつきを取り戻し――――ちょっと待て。何で抱き付いて、

 

「いだだだだだだだだだだだだだだっ!!」

「あ、ごっ、ごめんなさいっ! 喜びのあまり、つい……」

「勘弁してくれ……」

 

 不安から解放されて喜ぶ気持ちはわかるが、今の俺が重体だという事は忘れないでほしい。やっと閉じてくれた傷がまた開いたかと思ったではないか。

 

「あの、それで、鬼は一体どうなったの……?」

「岩柱と雪柱が駆けつけてくれた。もう、大丈夫だ」

「悲鳴嶼さんが!? はぁぁぁ……よかったぁ……」

 

 やはり柱、しかも自身の恩人が駆けつけてくれたという事もあってカナエは心の底から安堵の表情を浮かべた。かくいう俺も似たようなものだろう。

 

 一般の隊員の中では柱を神聖視する者たちも少なくないというが、確かに絶体絶命の状況から華麗に救い出されてはその気持ちが深く理解出来てしまう。

 

 あれが、柱。鬼殺隊を支える九柱。

 

(…………戦況は、どうなっているのだろうか)

 

 未だに鳴り続ける戦闘音。流石に数分で決着がつくとは思わないが、一応彼らの様子を確認しておくことにする。確かに柱は強い。だが不死身で無敵のヒーローという訳ではないのだ。

 

 万が一の場合もある。注意しておくに越したことはないし……何より彼らの戦いから学べることも多いはず。

 

 そう思いながら俺は路地裏から顔だけ出して彼らの戦いを観る。

 

 それは――――正しく異次元の戦いであった。

 

 

『クソがァァァッ!! なんでだッ! なんで当たらねェッ!!』

「ふっ――――!!」

「はぁぁっ!」

 

 

 凶裏は形振り構わず全方位を滅茶苦茶に攻撃している。空気弾による砲撃、空からの圧縮空気の爆撃、凶裏本体の両腕を変形させた巨大な剣から放たれる特大鎌鼬に肉塊から生えた八本の触手による乱雑で複雑な連続攻撃。

 

 悲鳴嶼さんと真白さんは、その全てを掻い潜り、凌ぎながら凶裏と渡り合っていた。地面を、壁を、屋根の上を駆けまわりながら鉄球と手斧を振りまわし、抜刀術で斬り落とし、俺であれば三十秒持つかどうかも怪しい猛攻に二人は汗一つ流さず涼しい顔で耐えきっている。当然、無傷で。

 

 何と言う実力か。己と隔絶しているその差に、震えるしかできない。一体どれほどの時間を費やして、その腕と技を磨き上げたのか、俺では想像もつかない。

 

 

 全集中・岩の呼吸 【壱ノ型 蛇紋岩(じゃもんがん)双極(そうきょく)

 

 全集中・雪の呼吸 【伍ノ型 天花(てんげ)雲雀殺(ひばりごろし)

 

 

 悲鳴嶼さんが手斧と鉄球をきりもみ回転させながら同時に投擲。肉塊を支える六本脚の内三本を破壊して態勢を大きく崩し、その瞬間真白さんが凶裏の真上へと跳躍。鞘に秘められた刃を一瞬で解放し、真下へ向かって広範囲かつ複数の斬撃を浴びせる。

 

『ぎぃぃやぁぁぁぁああぁぁぁああああああああッ!!?!?』

 

 頸は断たれなかった。が、真白さんの攻撃に寄って八本の触手全てと風の砲の半数、そして凶裏本人の両腕が根元から両断されたことで、凶裏は苦悶の表情で悲鳴を上げる。

 

「今です、悲鳴嶼さん!」

「承知――――!!」

 

 真白さんの合図で悲鳴嶼さんが鉄球を投擲。しかしそれは凶裏の頭上というあらぬ方向を通り過ぎてしまう。手元が狂ったのか? と思ったのも束の間、彼が投擲した鉄球に繋がった鎖を力いっぱいに踏みつけ、鉄球を真下へと落下させたことでそれが大きな勘違いだったことを思い知る。

 

 

 全集中・岩の呼吸 【弐ノ型 天面砕(てんめんくだ)き】

 

 

 空から降る鉄球の一撃で、凶裏は苦悶の声すら発せられずに全身を粉微塵に砕かれた。頸なんて最早欠片すら残っておるまい。

 

 それに合わせて肉塊から力が抜け、辛うじてその巨体を保たせていた骨脚が脱力。巨大な肉塊が轟音を立てながら墜落し、地面を大きく揺らした。

 

(…………やった、のか)

 

 何と言う迅速さ。戦闘を始めてからまだ四、五分程しか経っていなかったというのに。

 

「――――悲鳴嶼さん!」

 

 いつの間にか俺と同じように彼らの戦いぶりを見ていたカナエが戦闘が終わったことを覚ってか路地裏から飛び出した。そしてその大きな胸に全力で飛び込みギュッと抱きつく。

 

 その様は……まるで親子だな。

 

「……来るのが遅くなってすまなかった、カナエ」

「ううん、そんな事ありません! むしろまた危ない所を助けてくれて、何と言ったらいいのか……」

「礼は不要。成すべきことを成したまでだ」

 

 俺も肩に溜まり切っていた力を抜きながら、倒れているアオイの身体を背負って三人の元へと歩む。傍まで寄ると不意に「ぽん」と優しく悲鳴嶼さんの手が乗せられる。

 

「冨岡、と言ったな。……奮闘、見事だった。そして感謝する、彼女を守り通してくれたことに」

「いえ、俺は……」

 

 守り切れてなどいない。結局、俺が出来たのは時間稼ぎだけだった。そして不始末の尻拭いは柱の二人に任せじまい。善継の事も、この手で楽にしてやると宣った癖に、結局できずに終わった。

 

 全くもって酷い体たらくとしか言いようがない。

 

「そう落ち込まないで」

「真白さん……」

「確かに貴方は私たちより弱い。けれど、貴方は自分ができることを全力でした。そしてちゃんと結果も残した。十分満足できる結果だと、私は思うよ?」

「……はい」

 

 犠牲者は多数出たが、一般人へ本格的に戦火が及ぶ前に決着はつけられた。自分も死なず、カナエやアオイも守り切れた。結果だけ見れば、決して悪くはない。それは俺も認めるし、心の底から喜んでいる。

 

 だが、心にこびり付いた無力感というのは、中々拭えないものだった。

 

「では、我々は早々に退散するほうが良いだろう。後始末は隠達に任せ、冨岡とカナエはこのまま病院まで――――」

 

 悲鳴嶼さんがこれからの事を語り始める。最初は俺もそれに耳を傾けていたが…………ふと、強烈な違和感を感じる。

 

 おかしい。何かが、()()()()()()ような。

 

 違和感に衝動を付き動かせられるまま、俺は視線を右往左往させる。なんだ、一体何が――――

 

 

 

 ちょっと、待て。

 

「なんで……」

「冨岡?」

「冨岡君? どうか、したの?」

 

 巨体ゆえか? 体積が大きいからそう錯覚しているだけか? 違う、違う違う違う。全くない。()()()()()()()()()!! コイツ、やはり――――!!

 

「悲鳴嶼さん真白さん構えろッ! ()()()()()()()()()()()!!!

「え――――?」

「冨岡よ、一体何を言って――――」

 

 ――――完璧に対処するには、気づくのが一秒遅かった。

 

 肉塊に取りつけられた風の砲門が瞬時に照準をこちらに向き、轟音を吹かせた。ギリギリでその不意打ちを察知できた俺は咄嗟に一番近くにいた真白さんを押しのけながら彼女目掛けてアオイを投げつけ、予想される被害範囲内から強引に弾き出す。

 

 そして両腕を顔と胸を守るように構えた直後――――爆発。

 

 圧縮された大量の空気が一気に膨張する衝撃と、それによって生じた石の礫に全身を打たれながら吹き飛ぶ。

 

(畜生。何で気づかなかった。それだけ浮かれていたというのか……!? よりにもよって基本中の基本――――鬼が死した際に発生するはずの()()()()()()()()()()()()事を見逃してしまうなんて……!!

 

 吹き飛んだ身体が地面をのたうち回る。だが傷は深くない。俺は痺れる肢体に強引に力を込めて、震えながらもどうにか立ち上がった。

 

 そして見たものは、頭を鈍器で殴られた方がまだマシな光景であった。

 

「ひ、悲鳴嶼、さん……ああ、そんなっ……!!」

「っ……油断、したか……」

 

 退避が間に合わなかったのだろう、爆心地に近い場所にカナエと悲鳴嶼さんが蹲っていた。ただカナエは咄嗟に庇われたためか傷はなく、代わりに悲鳴嶼さんは羽織と隊服を大きく引き裂かれ、露になった背部から夥しい量の血を流している。

 

 それだけなら、まだ良かった。軽くはないが柱かつ体格にも恵まれている彼がこの程度で戦闘不能になってしまうなんて思うほど俺も馬鹿ではない。……だが一つだけ、決して無視できない傷があった。

 

 ()()()()()()、血が出ていた。

 

 ……最悪だ。

 

 

『フッフッフッフフフフフフフッ……フハハハハハッ!! アーッヒャヒャッヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャハハハハハハハッ!!!』

 

 

 勝利に湧いていた先程から一転して愕然とする俺たちを他所に、聞きたくも無い嘲笑が高らかに木霊する。

 

 全身が潰され砕かれたはずの凶裏が、再び肉塊の頂点から生えてきた。何を馬鹿な、と叫びたくなる。頸どころか全身を砕かれたんだぞ。それともなんだ、まさかあの人型は、本体じゃないとでもいうのか? それともこの土壇場で頸という弱点を克服したとでも?

 

『そうか、そうか、ようやくわかったよォ!! 自分の体の作りすら把握できていなかったなんて、俺は何て間抜けだったんだァ!!』

「―――――【参ノ型】」

 

 狂喜に顔を歪める凶裏の背後から、いつの間にかアオイを地面に寝かせて裏に回り込んだ真白さんが現れる。凶裏も遅れて気づき背後を振り返るが、笑みは消えない。

 

「【細雪(ささめゆき)六辺香(ろくへんこう)】――――!!」

 

 超速の六連撃が頸ごと凶裏の全身をバラバラにする。しかし今度は凶裏の動きは止まらず、骨の触手八本全てが真白さん目がけて襲い掛かった。それらを跳躍、刀による迎撃で華麗に回避しながら、真白さんは俺たちの元に着地する。

 

 その視線の先には凶裏の肉体。……やはり灰とならず、逆再生するようにその体は生え代わった。

 

『効かねェェんだよこの間抜け共がァァァァアアアア!! ヒャァァァッハハハハハハハハハハハハハハハ!!!』

「嘘……」

 

 彼女の言葉が、この場にいる者全ての代弁だった。

 

 

 

 

 

 

 




《独自技解説》

 全集中・雪の呼吸 【伍ノ型 天花(てんげ)雲雀殺(ひばりごろし)
 極限まで刀に力を溜め、上空に跳躍してから下方広範囲を滅多斬りにする範囲攻撃技。



この男は止血剤と増血剤をポーションか何かとでも思っているのだろうか。なんで応急手当しただけで瀕死の状態から当然のように再起動してんの……?

補足しておくと、柱二人が凶裏が死んでいないことに気づけなかった理由は、真白さんは単純に後ろを向いていて灰化していないことが見えていない上に頸ごと全身粉々とかどう考えても死んでるだろうと思っていたから。悲鳴嶼さんは自分の手で確実に叩き潰した確信と手ごたえがあったせいで態々確認する必要がないと思ってしまったからです。

二人とも柱になってまだ一年足らずの新米なため、単に頸を切っても死なないような鬼がいることを想定できなかったんですね。


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第参拾肆話 あの空で吹く風のように

今回の更新は此処までです。次話はエピローグとなるので溜めずにでき次第投稿する予定です。



 生暖かい、泥の底に沈んでいるような感覚だった。

 

 口を開けても掠れ声すら出せず、手足に至っては指一本すらピクリとも動かない。けれど不思議な事は、その事実を認識していながら俺自身が何の抵抗もしようとしてないことだった。

 

 もう何もかもが、暗い光のように感じる。

 

 頑張って生きてきたつもりだった。いつか報われることを信じて、そうでなくとも、自分では無く親兄弟が少しでも幸せになってくれることを願いながら、日々善き人であることを心がけながら生きてきた筈だったのだ。

 

 しかしそれは、たった一歩道を外れた瞬間に全てが瓦解した。

 

 一度だけ、俺は自分の中に眠っていた感情を全て爆発させた。抑え込んでいたソレは瞬く間に燃え広がり、自分でも制御不可能なほど肥大化していった。その結果、生まれて初めて殺意というものを抱き、あの得体のしれない男へと襲い掛かってしまった。

 

 男は鬼だった。それも、同族を増やせる能力を持つ鬼。もしここで出会ったのがただの手駒であれば、俺は真冬の中で苦し身悶えながら食い殺されて終わっていただろう。

 

 むしろ、そちらの方が、余程幸せだったのかもしれない。鬼の始祖と不運にも邂逅してしまった結果、俺は親の死骸を貪り、弟妹達を生きたまま食らい、虚ろに彷徨い果てた末に見つけたもう一つの家族を、自分の手で壊してしまう羽目になったのだから。

 

 全部、俺の不手際が招いた結果だ。踏み間違えた最初の一歩も、何より――――凶裏という、自身の悪性を集め固めた二つ目の人格を形成してしまったのだから。

 

 俺は逃げてしまったのだ。弟妹達を食い殺した事実に耐え切れず、逃避した。目を逸らした。「自分のせいでは無い」「きっと自分の中で悪いものが巣食っている」と、荒唐無稽な妄想に囚われ、哀れにもその妄想を現実の者としてしまった。全くもって、救いようのない阿呆だとしか言いようがない。

 

(――――ははっ)

 

 心の中で俺は自嘲する。

 

 結局俺は、何の役にも立てなかった。母親を死なせ、弟妹達を殺し、己を拾ってくれた恩人たちを手にかけた。何なのだ、これは? 俺は、俺は、

 

(……俺は一体、何のために生まれてきたんだよ……!!!)

 

 ただ、周りに人に笑顔になって欲しかっただけなのに、全てが裏目に出る。これが運命というものならば、俺はそれを定めた神仏を憎む。

 

 ……いや、違う。そんな超常的な存在に責任を押し付けるなんてそれこそ”逃げ”だ。いい加減認めろ、■■善継。全てはお前()のせいなのだと。お前が間違えたせいで、これらの悲劇が起こったのだと。

 

(…………俺は、これから何をすべきだ?)

 

 表出する意識の主導権は既に凶裏に握られている。彼の許可がなければ永劫表に出ることは出来ないだろうし、奴が許可することは永遠にないだろう。

 

 だからと言って諦めるのか? いいや、まだだ。探し続けろ。今の自分でもできることが何かあるはずだ。何か――――

 

「――――あ」

 

 ふっ、と突然身体に纏わりついた感覚が軽くなったような気がした。同時に、頭の中にかなり色褪せてはいるものの――――未だに残存している自身の肉体が見聞きしている光景が映り込む。

 

 急に一体どうして。……まさか、凶裏の力が弱まった? いや、そんな事より気にすべきことがある。

 

 戦っている。黒い服を着た者達が必死の形相で、凶裏の猛攻を耐えながら攻撃を続けていた。だがその攻撃が届いても、凶裏の命を断つことができていない。当然だ、奴の命を繋いでいるものは”一つ”ではないのだから。

 

 そしてその向こうに、気絶して眠ってしまっている”あの子”が見えた。

 

 神崎アオイ。生まれてからずっと、兄として世話を焼いてきた愛おしい妹。……例え血が繋がっていなかろうと、俺に取って唯一生き残ってくれた、大切な家族。

 

 その父母を手に掛けてしまった俺が今更そんなことを宣える身だとは思わない。それでも、だとしても――――せめて、兄として最期にできることをしなくては。あの子を助けなくては――――!!

 

 彼らは気づいていない。ならば、一刻も早く自分が伝えるしかない。彼らの体力が尽きる前に――――!!

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 地面と家屋が絶え間なく破壊されていく。空から落とされる空気の爆弾が、砲より放たれる風の砲弾が、休むことなく動き続ける骨の触手の斬撃が辺りを滅茶苦茶に破壊していく。

 

『フヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャッ!!』

「くぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ……!!」

 

 刃の長さが三分の一しか残っていない刀を振り、辛うじて攻撃の群れを防御しながら俺は状況の精細な分析を試みる。

 

 凶裏は頸を二度断たれたが死ななかった。それ即ち斬首への耐性を獲得したという事に他ならない。馬鹿な、あり得ない、そんな言葉で否定できるのならばどれほど良いか。最悪の事態だが、それでも何とかして事態を打破する選択肢しか俺たちには残されていなかった。

 

 鬼の斬首耐性には複数の種類がある。一つ目は鬼自身が頸を斬っても死なない領域にまで達した。二つ目は特殊な条件を満たさない限り”頸を斬られた”という判定が下されなくなった。三つ目は、単純に斬った存在が本体ではなく(ダミー)の類だった。大まかにはこの三種類に分類できるだろう。

 

 最も厄介なのは一番目だ。純粋に耐性を獲得されたのならば、もう朝日が出るまで粘るしかできない。そしてそんなことができるほど俺たちの体力は持たないだろうし、何より凶裏の性格上朝日が出る前までに決着がつかなければ速攻で逃げだすに違いない。

 

 その次に厄介なのが条件を満たさなければ死なないというものだが、此方はそもそもどんな条件なのかを探らなければならないため非常に面倒だ。完全に一から手探りになる以上どうしても時間がかかる。

 

 一番マシなのが最後の、あの人型がそもそも囮の類だったというものだが、正直望みは薄い。凶裏の反応から分析するに、アイツは悲鳴嶼さんの鉄球に潰された際に本当に死んだと思ったのだろう。その証拠に、身体が粉砕された際に肉塊から力が抜けている。恐らく死んだと錯覚したためだ。

 

 だが生きているとわかった瞬間、奴は状況を利用して死んだふりをして俺たちを欺き、ギリギリまで潜伏してから俺たちが一番油断した瞬間を突いて攻撃を叩き込んできた。悔しいがその効果は絶大だった。おかげで俺たちは貴重かつ最大戦力である柱二人の内片方が大幅に弱体化してしまったのだから。

 

 ……話を戻そう。ともかく奴は自分が死んだと勘違いした。つまりその瞬間まで自分に耐性があることを知らなかったのだ。あの人型が囮ならばそもそもそんな反応を見せないはず。

 

 そこまで計算づくだったとしたならば、もうお手上げだが。

 

 

「――――オオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」

 

 

 俺を熟考から覚ますように轟く咆哮。屋根を駆ける悲鳴嶼さんは鉄球を大きくぶん回しながら遠心力を込めて投擲。豪速の質量弾が凶裏へ飛翔し、その右半身を粉々に打ち砕く。

 

『無駄無駄無駄無駄無駄ァ!!』

 

 しかしその攻撃は凶裏の動きを数秒止めた程度の効果しか発揮せず、反撃として肉塊の砲門から放たれる空気弾の連射が悲鳴嶼さんを襲う。

 

「ぐうっ―――――!!」

 

 先程まではあっさりと回避できていた筈の悲鳴嶼さんの動きが酷く鈍い。当り前だ、今の彼は右耳の鼓膜が破裂し、聴覚が半減しているのだから。

 

 普通の人間ならば、多少影響は受けてもここまで酷くはならなかっただろう。しかし忘れていないだろうか。彼は生来の『盲目』だ。視覚が無くなったことで異常発達した聴覚によるエコーローケーションで周囲の構造を把握している彼にとって、聴覚の異常は耳だけでなく目も同時に奪われたに等しい。

 

 辛うじて残った左耳で食いついてはいるが、それでも完全回避・迎撃できていた空気弾の連射を凌ぎ切ることができず、何発かが体に撃ち込まれてしまう。

 

 そして動きが止まった瞬間――――頭上から空気の塊が落ちてきた。悲鳴嶼さんはそれを反射的に回避するが、余波の衝撃で屋根の上から地表へと叩き落とされてしまう。

 

「悲鳴嶼さん!!」

「ぐ、っ……! カナエ! 今すぐ少女を連れて逃げろ!! 我々が引きつけている間に!!」

「っ…………はい!」

 

 戦いに参加するには余りにも力不足なカナエ自身もそうだが、無力な普通の少女であるアオイがここに居ては俺たちが戦いに専念できない。驚愕のあまり硬直していた彼女に発破をかけて急いで退避するように言うが……遅すぎた。

 

『逃がすかよォォォォオオオオオオッ!!』

 

 肉塊に取りつけられた吸気機構が更に高速で回転し出す。莫大な量の空気が凶裏の肉塊へと吸い込まれていき、やがて肉塊の隙間から仄かな燐光が見え始める。

 

 その現象に俺は見覚えがあった。まずい、アレは駄目だ――――!!

 

「真白さん!! あの肉塊をぶち抜けぇぇえええええッ!!」

「はぁぁぁぁぁあああああっ――――!!」

 

 攻撃が行われる前に対処せんと俺は必至の思いで触手の乱打に対抗している真っ最中の真白さんに叫んだ。

 

 俺の声を聞き届けた彼女は一度刀を鞘に納めた直後、神速の抜刀を以て襲い掛かってくる触手を軒並み両断。畳みかけるように地面を踏み込んで一直線に駆け、肉塊に向かって最速の突きを繰り出した。

 

 よし、これで……!!

 

『オォォォォオォォォオオォォオォォオオオオオオオオオ――――!!』

(しまっ――――)

 

 なぜだ。あの肉塊は空気タンクなのではないのか……!?

 

 真白さんの刀は半ばまで深々と刺さっている。なのに何も変化がない、ということは、それだけ装甲が厚いということなのか。だとすれば変化前に通用した空気を溜める器官を破壊することでの弱体化はもう不可能。

 

 まずい、このままだとあの光が発射される。――――だが、カナエにだけは当たらせるものか……!!

 

「っらぁぁあぁああぁあああああああああああああ!!!」

 

 俺は地面に突き刺さっていた折れた刀の腹を指で摘み取り、折れた個所である底面を思いっきり蹴りつけた。殆ど反射的に行った行為だがその狙いは驚くほど正確であり、風を裂きながら飛ぶ刀身が凶裏の顎から脳天まで突き抜けて口を縫い付けてしまう。

 

『ぉ、ぶ、お―――――』

 

 口が開けなくなったせいで小さく呻いてしまう凶裏。これで口から光を放つ事はできなくなった。ならばこのまま爆ぜるしかなくなる筈。

 

 ――――だが、奴はそれでも止まらなかった。

 

 凶裏は口を塞がれるや否や、健在であった左腕を骨と肉の砲に素早く変化させた。その狙いは当然背中を向けて逃亡中のカナエ。肘からつながった管により莫大なエネルギーを供給された砲門が今、光の剣を吐き出さんとする。

 

「させん――――ッ!!」

 

 それを寸前で妨害したのはギリギリのところで復帰してきた悲鳴嶼さんだった。彼は凶裏の腕目がけて手斧をブン投げ、半ばから粉砕することで照準を大きく狂わせることに成功する。だが、発射そのものを防ぐことは叶わなかった。

 

 

【血鬼術 天響吹刃・滅光 針鼠(はりねずみ)

 

 

 折れた砲身の口からだけでなく、肉塊の全方位に取り付けられた八門の砲からも一斉に青白い光の線が放たれる。摂氏数万度にも上る超高温の光は四方八方へと撃ち出される。だが照準が甘かったのか、その全ては俺たちではなく付近の建物を貫いていくだけだった。

 

 しかし凶裏は光線を吐き出している腕を振るい、自分に攻撃を仕掛けてきた悲鳴嶼さんを仕留めるべく動いた。その行動によって灼熱の熱光線は街を横断するよう一閃。

 

 光が無数の建物に赤い線を深々と刻み、爆発させながら彼を両断せんと迫る。

 

「悲鳴嶼さん! 避けろォォォォォ!!」

「ぬぅぅぅっ……!!!」

 

 身体に光線が触れるスレスレで、悲鳴嶼さんは身を限界まで捩ることで紙一重で回避することに成功した。だが、代償として投げつけた手斧と鉄球を繋ぐ鎖が半ばから溶断されてしまった。

 

 繋がりを失った手斧は何回転もしながら俺のすぐ真横へと突き刺さる。……あの一歩横にいたら危うく真っ二つになる所だった。

 

「――――きゃあっ!?」

「カナエ!!」

 

 振り返れば――――そこには思わず唇を噛み潰したい壮絶な攻撃が広がっていた。

 

 凶裏の放った光線によって焼き切られ、貫かれた建物たちが次々に爆発を起こし、大通りへと倒れ込んだりして道を塞いでしまっていた。更に近隣の建物にも炎が燃え移っていくせいで、最悪な事に炎は俺たちを閉じ込める結界のようになってしまっている。

 

 幸いなのは倒れる建物にカナエらが巻き込まれなかったことと、ここら一帯の民間人は隠たちによって避難済みなため犠牲者は最小限だろうということだ。もし避難が遅れていたら、今ので何百人が死ぬことになったのか。

 

「カナエ! そこで伏せていろ! お前に向かう攻撃は俺が対処する!」

「っ……わかったわ!!」

 

 隠れる場所も逃げ道もない以上、正面から凌ぎ切る他ない。奴の頸を獲ることは柱二人に任せて、俺はカナエとアオイの防衛に専念する。

 

 だが、今の俺の状態でそれがどれだけ維持できるのか。いや、弱腰になるな。皆で生き残るにはやるしかないんだ。

 

『アハハハハハハハハハハハハハッ!! 愉快愉快ッ、最ッ高の光景だぜェ! これで住民共の悲鳴がありゃあ完璧だったんだけどなァ!! ……さァて、しぶとい虫潰しにもう一踏ん張りし――――し、て――――が、ぃ……ご、ぉおおおぉ?』

「「「「!?」」」」

 

 再生が完了した右腕で顎に突き刺さっていた刀身を抜いて放り捨て、耳障りな嗤い声を喚き散らす凶裏。こちらを何の遠慮も無く見下すその態度に歯噛みするほどの悔しさが溢れていくが……突如、その様子に異変が生じた。

 

 突然ヤツの身体全体が痙攣し始め、三つの眼も明後日の方向へとグルグル回り出す。今度は一体何だというのか。その様は隙だらけではあったが、あまりの異様さに柱たちは手を出すことができず、代わりに何があっても俺たちを守れるように再びこちらの近辺に集る。

 

 よくわからないが攻撃のチャンスか――――? 俺がそう思い始めた瞬間、今まで全く動く様子のなかった部位……凶裏と同じく、しかし奴と違って肉塊の正面に向かって垂直に身体を埋めて垂れ下がっていただけだった善継の肉体の指がピクリと動く。

 

 そして電流を流されたようにその体を跳ね起こすと、必死の形相を張りつけた彼は口を開いた。

 

「こ、いつを、仕留めるっ、にはぁっ……!! 頸を、”二つ”……断つ必要が、ある!!!」

「な……まさか、貴方は……!?」

「ヤツだけでは、死なないっ……!! ()()()()()()()()()ェッ!! それが凶裏のっ――――俺を殺す方法だっ……!!」

『善、継ッ……てんめェェェェエエエエ!!!!!』

 

 可笑しな挙動を繰り返していた凶裏はなんとか調子を取り戻したようだが、もう遅かった。奴は最も秘匿すべき情報を暴露され、その怒りのままに触手を操って善継の肉体を二度三度深々と貫いて当り散らした。

 

「ぐああぁぁぁああぁああぁぁぁぁあああああッ!!!」

『引っ込んでろ家族殺しの糞野郎がァッ!! テメェの居場所なんてこの体の何処にもねェんだからよォ!!!』

 

 肉体を傷つけられて弱っていく彼の全身を血管の様な模様が這いずっていく。その不気味な模様が頭まで到達した瞬間、善継の肉体は再度糸が切れたように肉塊に力なく垂れ下がった。

 

 あまりの突然かつ予想外の出来事に皆が揃ってあんぐりと口を開けながら固まってしまったが、凶裏の顔から先程の余裕が無くなったことで俺は直感的に察する。

 

 彼の……善継の言葉は事実であり、そして彼もまた戦っていたという事を。

 

「真白さん悲鳴嶼さん! 彼の言葉は本当だ! 信じる価値がある!!」

「……確かに筋は通ってる。だけど……」

「冨岡……ヤツの罠だという可能性は? 我々の時間と体力を浪費させようとしているだけかもしれんだろう」

 

 事情を知らないため柱たちは怪訝な顔をしている。無理もない。二人にとって目の前に居るのは少々特殊なだけのただの鬼。そんな鬼から情報を提供された所でそのまま鵜呑みにできるはずもない。

 

「だったら彼の言葉じゃなく……俺の言葉を信じてください」

「「……………」」

 

 詭弁だとも屁理屈だとも思う。しかしこれが俺が今ひねり出せる唯一の説得だった。

 

 二人がその心の中で何を考えたのかはその表情から読み取ることはできなかった。――――だが二人は無言で己の得物を握り直し、俺たちに背を向けて再び凶裏の巨体と対峙する。

 

「下の人型と上の人型、両方の頸を断てばいいんだよね? うん、信じてみるよ。弟弟子の言葉だもの」

「冨岡よ、お前の言う通り、お前の言葉を信じてみよう。……鬼は我々が何とかする。君はカナエと少女を守れ」

 

 ……本当の本当に頼もしい背中だ。心の底から憧れてしまうほどに。

 

『クソッ、まだしぶとく人格が残っていたなんて……!! 肉体の方も何故か消すことができねェしよォ……今も昔も俺に取って一番邪魔な存在だよテメェはァァァ!!』

 

 喉を掻きむしるような凶裏の絶叫と共に善継の周囲の肉から内側を突き破る様に薄く平べったい骨の様なものが現れた。それは幾重にも重なり合って、まるで繭の様に善継の身体を包んで隠してしまう。

 

 肉体そのものを消さないということは何らかの制約が存在するのか、はたまた奴はまだ完全に肉体を掌握しきれていないのか。――――どちらにせよ、殺す方法がわからないという凶裏の優位点は瓦解した。

 

 大丈夫だ。このままいけば勝てる。だから踏ん張り続けろ、最後の一押しまで。

 

「悲鳴嶼さん! 下を頼みます、私は上の方を!!」

「承知した……!!」

 

 真白さんが先んじて疾駆する。ほんの一瞬でトップスピードにまで躍り出た彼女は迫りくる無差別攻撃の隙間を縫いながら雷のような速度で走り抜け、周りの障害物を足場に肉塊上部の凶裏に肉薄。

 

 間合いに入った瞬間、鞘から刃を走らせる。

 

 

 全集中・雪の呼吸 【弐ノ型 霙吹雪(みぞれふぶき)

 

 

 擦れ違い様に抜刀。猛吹雪の如き翳むような斬撃が凶裏へと迫る。

 

『うぉああああぁぁあぁぁぁぁああああああ!!!!』

 

 命の危機を寸前で本能的に察知した凶裏。このままでは殺されると判断したのか、奴は剥き出しの筋肉しかなかった全身に骨の装甲を纏い始めた。それがギリギリに間に合ったのか真白さんの放った一撃は火花を散らしながら骨の装甲に深い傷跡を残すだけに留まってしまう。

 

 だが、彼女はそれで終わらない。彼女は凶裏の骨脚に片手片足を添え、そこを軸に身体を半回転。進行方向が真逆になった瞬間骨脚を蹴りつけて再度凶裏の方へと跳んだ。そしてすかさず刀の柄を撫で――――刃を放つ。

 

 

 全集中・雪の呼吸 【肆ノ型 銀世界(ぎんせかい)雪崩(なだれ)

 

 

 超高速の十一撃の乱舞が舞い散る。目にも留まらぬ速さで凶裏の全身が刻まれていき、かなりの強度を持っていただろう装甲は徐々に削られていく。

 

『こッ、この女ッ――――俺の……俺の傍に近寄るなァァァァァァ――――ッ!!!』

「!」

 

 自身に向かって触手八本が一斉に飛びかかってきたことに気付いた真白さんは骨の槍が肌に触れる前に跳び引いて回避。最寄りの瓦礫の頂上に音もなく足を乗せ、刀を鞘に収めながらトドメの一撃の準備をした。

 

 一方、悲鳴嶼さんは――――

 

「ゴォォォォォォオオオオオオオオ――――!!!」

 

 

 全集中・岩の呼吸 【伍ノ型 瓦輪刑部(がりんぎょうぶ)

 

 

 回収した手斧と巨大な鉄球による広範囲の連続攻撃。圧倒的な破壊力を乗せた質量の塊が暴れ狂う度に破壊の乱舞が巻き起こる。

 

 迫りくる悲鳴嶼さんを押しつぶさんと振るわれていた二本の骨脚は彼の振りまわす鎖斧の前に成す術なく粉々にされ、ならばと撃ち放たれた空気弾も二つの得物を振りまわせばあっけなく霧散する。

 

 その動きにはいつもの彼と違って正確さの欠片も無かった。だが片耳がやられた以上そんな物に拘っていては逆に動きが鈍りかねない。ならば、

 

(呼吸で増幅された身体能力で押し切る――――!!!)

 

 生まれ持って備わった天性の肉体と弛まぬ鍛錬によって形作られた悲鳴嶼行冥の肉体。そこから発揮される怪力は間違いなく人類の中でも最高峰。技術面こそ柱となったばかりの今でこそ古参の柱と比べれば劣るかもしれないが、ことフィジカルにおいては彼は歴代の柱の中でも上から数えた方が早いほどの健体なのだ。

 

 動きに精密さを付加できないのならば、圧倒的な力によって強引に上から叩き潰す。身体面で大きな格差のある鬼相手では愚の骨頂としか言えない愚策だが、一部の例外にとってはこの上ない最適解と化す。

 

 そして、彼はその例外であった。

 

「ゴォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 ある程度の距離にまで迫れた悲鳴嶼さんは鎖を振りまわして鉄球を回転。強力な遠心力を乗せた棘付き鉄球が豪速で前方へと突き進み、肉塊に衝突。善継の肉体を防護していた骨の繭が丸ごと粉砕され、中にあったであろう善継の肉体は全身が粉々になったのか指やら歯やらが宙に飛び散る。

 

「今だ明雪! やれ!!」

「――――【弐ノ型】」

 

 これで善継の頸は断て……いや破壊された。後は凶裏の頸を断てば終わる。これで、やっと――――!!

 

 

『………ざけるなよ』

 

 

 脳裏に、何か靄の様なものが過る。……なんだ?

 

 

『まだ俺はッ、十分に生きちゃいないんだ……!! 生まれてからずっと閉じ込められていたんだ……!! やっと自由になれたのに! こんな塵みたいな連中に殺されて終わるだと!? ――――ざけんじゃねェッ!!!』

 

 

 凶裏の肉塊内部から莫大な空気が吐き出され始めた。マズい、何かやる気だ。その前に仕留めなければマズいと、俺の勘が訴えている――――!!

 

「真白さん! 早く頸を斬れ!!」

「っ、【霙吹――――」

 

 真白さんが跳ぶ。刀が抜かれ、風を裂きながら鬼の頸を断たんとする。

 

 

 だが、ほんの僅か遅かった。

 

 

『こんな所でェェェ……死んで堪るかァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!!』

 

 

 排出された空気が渦を巻き、回転しながら凶裏の周りを取り囲み、壁を作る。それに真白さんの刀がぶつかると、まるで透明な壁にでも阻まれたように刀がピタリと停止した。

 

「これは一体――――!?」

「往生際の悪い……!!」

「二人とも今すぐ離れろぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおお!!!」

 

 俺は理解した。それが高速回転する高密度の空気の壁である事を。今まで奴の技を散々見てきたのだから、俺はすぐに気づくことができた。

 

 しかし今回は使っている空気量の桁が違う。何より様子がおかしい。どんどん縮んでいるのだ。まるで――――パンパンに膨らんだ風船を、無理矢理押し込むように。

 

 そしてその予想は最悪な事に的中した。

 

 

 

【血鬼術 風殻弾(かぜがらはじ)き・大嵐玉(おおあらしだま)

 

 

 

 限界まで圧縮された嵐の半球が爆発的な速度で広がっていく。凶裏の近くにいた柱二人は一瞬で嵐に呑み込まれ、少し離れていた俺は背後にいたカナエとアオイを庇うように抱きしめた一瞬後に呑み込まれた。

 

 信じ難い激痛が背中に叩き付けられる。そして休む間もなく訪れる浮遊感と、上下左右前後不規則にシェイクされるような理解しがたい嘔吐感。

 

 更に空中で十回以上の回転をして三半規管を滅茶苦茶に揺らされた俺は最後まで何が起こったのか理解することはなく、頭に感じた強烈な衝撃と共に意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――きて――――い、起きて――――お願い! 起きて義勇君!!」

「っ…………!?」

 

 肩が揺すぶられる僅かな衝撃を頼りに俺は意識を取り戻した。目を開けてまず入る光景は、こちらをひどく焦った顔で覗き込んでいる少女……カナエの顔だ。

 

 彼女の体を軽く押しのけながら己の痛む体に力を入れ上体を起こせば――――そこにはまさしく地獄のような光景が広がっている。

 

 深々と球状に抉られた地面。もはや原形など残さずただの燃える瓦礫の山となってしまった周辺の住宅群。そしてそのど真ん中で堂々と佇んでいる、巨大な肉塊に骨の節足を生やした異形の大蜘蛛。

 

 仕留めきれなかった。あと一歩のところで……!!

 

「……カナエ、真白さんと、悲鳴嶼さんは……?」

「わからないの。どこも瓦礫の山で姿が見えなくて……」

 

 痛む頭を押さえながら姿の見えない柱二人を探してみるがカナエの言う通り回りは瓦礫だらけで人の姿らしきものは全く見当たらない。生きてはいる、と信じたいが。

 

「アオイはどこだ!?」

「大丈夫。駆けつけてくれた隠さんたちに預けたわ。きっと安全な場所に運んでくれるはず」

「じゃあなんでお前もついていかなかったんだ!?」

「姿が見えなくなった貴方を探すために決まってるじゃない!」

 

 周りを見渡しても保護対象であるアオイの姿が見えなくて俺は思わず焦りだすが、カナエの言葉によって冷静になることができた。だが彼女が避難していないことに思わず声を荒げるが、どうやらはぐれてしまった俺を探すために残ってくれたようだ。

 

 ……結局全部、俺の未熟が招いた結果か。

 

「……すまなかった。とりあえず、早くここから離れてくれ。下弦の伍はまだ生きている。ここは危険だ」

 

 横目で見れば、ヤツは忽然とそこに存在している。なぜか全く動く素振りがないが、死んでいるような気配はない。おそらく大技を放った反動か何かで硬直しているだけのはず。必ずいずれ動き出すに違いない。

 

 だが今動けないのならばカナエを逃がせる絶好の機会に他ならない。俺はとにかく彼女だけでも一刻も早くここから離そうと促す。

 

「待って。義勇君はどうするの」

「この隙に柱たちを探す。俺が生きているんだ、彼らもきっと生きているはず」

「駄目よそんなの! 危ないわ!」

「じゃあどうしろっていうんだ!! あの鬼をこのまま放置するのか!? 俺一人じゃ奴に勝てない、お前と力を合わせても無理だ! 奴を倒せるのは柱たちしかないし、もし俺たちが何もしなければ柱たちが被害にあう可能性も高い! カナエ、誰かがやるしかないんだ……!」

 

 柱たちが生きているとして、姿が見当たらないということは瓦礫の下に埋まっている可能性は否定できない。何年もかけて肉体を鍛え上げた柱とて、あの質量に押しつぶされれば骨の一つや二つ折れていても何らおかしくはない。

 

 それが折れても運動に大きな支障がない骨ならばいいが、腕か脚の骨が折れていたのならば、そしてがれきに挟まれて身動きが取れない状態になってしまっているのならば、何もしなければろくな抵抗もできずに鬼に食われる末路をたどるのみ。

 

 柱が欠ける。鬼殺隊最高戦力の損失。考えるうる限り最悪の結果だ。上弦ではなく下弦相手に柱が二柱も損失するなど許してはならない。それが例え血を投与されて上弦並みの力を得た下弦だったとしても。

 

 そして今動けるのは俺とカナエの二名のみ。鬼は今でこそ動きを止めているが、あと何分、いや何秒後に動き始めるかわからない状態。これ以上の事態の悪化を防ぐためにも、一秒でも早く動き始めなければならない。

 

「じゃあ! 私も残って手伝うわ! 一人二人のほうが早く探し出せるもの!」

「駄目だ! お前に死なれたら、俺は屋敷にいるしのぶにどの面下げて会えと言うんだ!」

「それをいうなら、貴方に何かあったら私も蔦子さんに顔向けできないじゃない! 義勇君、お願いだから一人で何もかも背負うのはやめて……。二人で、力を合わせるの!」

「っ………………」

 

 確かに今は猫の手でも借りたい状況だ。カナエのいう通り、一人より二人で探したほうがより確実に、より早く柱たちを見つけることができるだろう。

 

 だが、万が一彼女の命が危うくなったら、俺は……。

 

「………………?」

 

 顔を俯かせたまま視線を右往左往させていると、ふと瓦礫の隙間に何かが埋まっていることに気付く。

 

 直観のままに俺は瓦礫を退かして、その”何か”の正体を探り始めた。

 

「義勇君……? 一体何をして……」

 

 瓦礫のそこから引っ張り上げたそれは――――ドロリとした透明の黄色い液体が入った小さな瓶。蓋を開けて軽く匂いを嗅いでみると、予想通りの香ばしい匂いが鼻を撫でる。

 

 これは………………使える。ヤツを確実に仕留めるための最後の一手として。

 

 だが俺一人では無理だ。協力者が要る。俺は口元をさすりながら苦しい表情で考え込み、しかし時間がないゆえに即断した。

 

「――――カナエ、槍を扱ったことはあるか?」

「へ?」

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「ぐ……うぅっ……」

 

 全身から伝わってくる痛みの信号に刺激され、真白は少しずつ目を開ける。視界が霞み、目に血も入ったのか右側の視界だけが妙に赤く染まっている。

 

 しかしそんなことは彼女にとって重要では無い。一番気にすべきは鬼はどうなったのか、そして今の自分がどんな状態なのかの二つだけだ。

 

 真白は両手足の感覚を順番に確かめていき、そして即座に己の現状を把握した。

 

(右足が……折れてる……)

 

 どうやら凶裏の反撃を受けた際に遥か彼方へと吹き飛び、更に同じように吹き飛んだ瓦礫に右足の大腿部が運悪く下敷きになってしまったようだ。あの攻撃を受けて全身打撲と右大腿部の骨折だけで済んだのは幸運と言えるだろうか。――――いや、決して幸運とは言えなかった。

 

(刀は、無い。瓦礫を退かすにも、姿勢が悪い……!!)

 

 愛用の刀は吹き飛ばされた際にどこかに行ってしまったのか手元にはなく、そして瓦礫を退かそうにも今の真白はうつ伏せであり尚且つ瓦礫は伏せたままでは手が届かない場所にある。かと言って体勢を変えられるような状態でもない。

 

 つまり、他者の助けが入らない限り彼女が此処から抜け出すのは不可能という事だ。幸い、炎が彼女の居る場所まで燃え移るには多少時間的余裕はあるようだが、彼女にとってそんな事は何の気休めにもならなかった。

 

 何故なら彼女は、自分の血の性質をよく理解していたのだから。

 

『――――稀血のォォ……匂いィィィィィイイイイイ……!!』

「っ……!!」

 

 近くから大きな地響きが聞こえる。間違いなく凶裏の巨大な骨脚による足音だと判断した真白は、懐からあるものを取り出した。

 

 彼女が手に取ったのは金属製の小さなケース。封を外して蓋を開けば、中からは黒ずんだ紫色の液体がたっぷり入った試験管が緩衝材に包まれている。その試験管を取り出して栓を外した真白はゆっくりと、その縁を口につけ傾けていく。

 

(特注の、毒。私の細胞を一片残らず破壊する、超高濃度の猛毒……)

 

 彼女のためだけに作られた自害用の猛毒。呑み干してしまえば、真白は全身を内側から焼かれるような痛みの末、この世で最も無惨な死骸となって果てるだろう。だがそれは必要な事だ。彼女は稀血の中でも特級の稀血。鬼に食われてしまえば最悪の化け物をこの世に生まれさせることになる。

 

 それも今相手にしているのは明らかに上弦級の脅威。そんな存在が常人の数千人分の栄養価を持つ自分を丸ごと喰らえば、最早鬼舞辻無惨に次ぐ最恐最悪の鬼が誕生してしまうだろう。

 

 だから、死ななければならない。例えどのような理由があろうと、自分が鬼に食われることだけは絶対に避けねばならないのだ。その一心で彼女は毒を口にしようとして――――

 

 

 

『どうか生きて……幸せに、なるのよ……』

 

 

 

「っ――――――――!!!」

 

 寸前で、手が止まる。

 

 頭に反芻し続ける最愛の人の声。懇願するような、願うようなその声が頭からどうしても離れていかない。

 

 駄目だ、迷うな。私は早く死ななければならない身なのだ。死ななきゃ、取り返しのつかない事態に――――

 

 

『見つけたァ』

 

「ぁ……」

 

 

 頸だけ振り向く。するとこちらを血走った眼で涎を垂らしながら見下ろす、異形の大蜘蛛の姿があった。

 

 八本の触手の先がこちらを向く。ああ駄目だ、間に合わない。今から毒を飲んだとしても、全身に回る前に食われてしまう。

 

『稀血ィ……俺の稀血ィィィィィィイイイイイイイ!!!』

 

 結局、こうなるのか。

 

 無心に鍛え続けた。母の遺言を叶えるために。

 

 他者を助けるため奔走し続けた。母の遺言を叶えるために。

 

 頑張って、努力して、戦い続けて。……その末にあったのは、己が幸せと感じない無関係なものばかり。小さな喜びはあっても、今が幸福だと思えるものは無く。

 

 私は死ぬ。母の願いを叶えられず、己の不始末の尻拭いもできず、意味も意義も何もない死を。

 

 

 

「お前は血じゃなく油でも舐めているのがお似合いだ」

『――――あ?』

 

 

 

 触手が動き始める――――寸前に、凶裏に向かって何かが飛んできた。触手が素早い動きでそれを叩くと「パリン」とガラスが割れるような音と共に中身が飛散。黄色の粘性のある液体が凶裏の顔に掛かる。

 

『なんだこ……ぬあぁああぁぁぁあああ!! なんだこの水はッ……!! 目がッ、クソッ、取れねぇじゃあねェかぁぁぁああぁああああああ!!!』

「質のいい菜種油だ。たっぷり味わえ。――――真白さん、今助けます!」

「ぁ、う……ん」

 

 目と鼻を同時に潰された凶裏が辺りを滅茶苦茶に破壊し始める。それを易々と潜り抜けながら颯爽と助けに来た少年、義勇は折れた刀を振るって真白の脚を挟んでいる瓦礫を両断。彼女の体を抱え上げ、素早くその場から離脱する。

 

 ついでに義勇は真白の持っていた猛毒の試験管を取り上げ、凶裏の方に投げつけた。鬼は毒を受けてもすぐ解毒してしまうため意味は無いが、これ程の劇毒だ。直ぐに治るとしても多少なりとも痛みはあるだろうし、嫌がらせとしては十分だろう。

 

 凶裏の悲鳴を背に、義勇は迅速な情報交換と共有を始める。後ろで情けない声で喚いている鬼を倒すために。

 

「真白さん、身体に異常は」

「あ、右足の腿……骨が折れて……」

「! ……わずかな間だけでもいいから、奴に攻撃を仕掛けることはできますか?」

「……うん。あと一度くらいなら、たぶん」

「これから俺が大きな隙を作ります。その時に全戦力で一斉に総攻撃を仕掛け、奴の頸を獲ります。悲鳴嶼さんのほうはカナエに探させていますから、凶裏がまだ手札を隠していようと、疲弊している今なら全員で複数方向から同時攻撃をすれば……いける、はずです」

「――――わかった。任せて」

 

 伝えられたのは簡潔な情報のみで、出来るのかどうかも疑わしい信憑性の薄いもの。だが真白は信じた。この少年の目に炎を見たから。

 

 諦めていない。出来ると信じている。――――否、やらなければならないと自分自身に固く誓っている。

 

 そんな彼に手を貸すことをどうして躊躇できようか。

 

 情報を伝え終えた義勇は抱き上げていた真白の身体をゆっくりと降ろし、背後の凶裏へと向き直る。武器は折れた刀と身一つのみ。

 

 勝算は無い。

 

 されど、諦観する気も無い。

 

 この身砕け散るまで、成すべきことを成す。

 

『またかァッ!! またお前なのかよォォォォオオオオ!!! いい加減死んでくれよこの塵虫がァァァァァアアアアアア!!!』

「悪い……とは思わないな。だが、俺が死ぬまで付き合って貰うぞ、凶裏」

『だったらさっさと死ねェェェェエエエエエエエエエエエエ!!!!』

 

 八本の触手を唸らせ、骨の砲から空気弾を吐き出して義勇を攻撃する凶裏。後ろを見て真白が姿を隠したことを確認した義勇は、今度は防御ではなく回避に専念して行動を始めた。

 

 周囲の住宅を破壊したおかげで足場は悪くとも回避するための場には困らない。かつ、いざという時には瓦礫を盾にして義勇は凶裏からの攻撃を凌ぎ続けた。こちらから攻撃することは決してせず、時間稼ぎだけを念願に置いた戦い方。

 

 冷静な状態であれば凶裏は彼が付かず離れずの足止めに過ぎない事を気付けただろうが、今の彼は『空腹』であるためそこまで気が回らなくなっていた。……そう、『空腹』なのだ。

 

(柱どもの戦いで力を使い過ぎた……! 無惨様から貰った血の力がもう底を尽き始めている、まずい……!!)

 

 二人の柱の奮闘は決して無駄ではなく、凶裏の内包していた力のほとんどを引き摺り出すことに成功していた。

 

 元々凶裏は今の今まで鬼殺隊に出会わず、潜伏して一般人を襲うことで腹を満たし成長し続けた類だ。故に戦闘センスに光るものはあっても、実戦経験は豊富とは言えない。彼以外の十二鬼月と比較した場合、彼は間違いなく最下位に位置している。

 

 そのため凶裏は力の運用を全く最適化できておらず、牽制技ならともかく大技を使った際には余分な力まで使ってしまう。にも拘らず慢心か余裕か、燃費が良いからといって大技を後先構わず連発し続け、特に最後に放った血鬼術による消耗は甚大なもの。結果、無惨から血を投与された際に感じた力の漲りは最早感じなくなっていた。

 

 証拠に、その動きも酷く鈍っている。消耗する前ならば義勇を捉えるのにそう時間は掛かっていなかっただろうに、疲労困憊にも等しい状態の凶裏は瓦礫に身を隠しながら素早く動き回る彼を捉えきれずにいた。

 

「ふぅっ……ふぅっ……!」

 

 しかしそれは義勇とて同じこと。限界の限界を越えて動き続けた彼はもう正しい呼吸など出来ない有様で、絶え絶えの呼吸を気力でどうにか繋げながら手足を駆動させていた。彼自身、もう自分の身体がどうやって動いているのかわかっていない。

 

 時間だけが過ぎていく泥仕合。自分より遥かに矮小な小僧に翻弄されるのが屈辱的で、尽きること無く湧き出てくる怒りが凶裏の頭を染め上げていく。

 

 その激情が功を成したのか、空前触手の一本が義勇の隠れていた瓦礫を吹き飛ばし、義勇の身体はあっけなく宙を舞って地を転がる。

 

「ぐあっ……!!」

『捕まえたァァァァ……!!!』

 

 転がった義勇の身体を素早く触手を使って締め上げる凶裏。そして空高く彼の身体を持ち上げると、残った触手の穂先を彼の目の前に付きつけた。まるで脅すかの如く。

 

『ようやく……ようやくテメェの命を終わらせられる……!! 今までよくもこの俺の手を煩わせてくれたなァ……!! 精々女のような悲鳴を上げて逝けやァ!!』

「……………ふっ」

『なに笑ってんだ糞餓鬼が!! 恐怖で頭でもおかしくなったか!?』

「いや……追い詰められてるのは果たしてどっちなのかな、と思ってな」

『はァ?』

 

 義勇の台詞の意図を凶裏は全く理解出来なかった。追い詰められているのがどちらか? どうやら本当に頭がおかしくなったようだ。この状況を第三者が見れば、百人中百人が義勇が殺される寸前である事を否応なく理解するだろう。にもかかわらず、義勇は余裕の笑みを浮かべるのみ。

 

 心に引っかかるものはある。だが知ったことではない。目の前の小僧を殺せば無惨より更なる血を授かることができる。その欲に従い、凶裏は義勇の命を断たんと手を振り上げ――――

 

「俺がさっきお前に投げつけたのは油だ。そしてその油は、お前が外気を肉塊に取り込む際に霧状となって共に取り込まれた。……その中に火種を放り込めば、どうなると思う?」

『黙って死ね糞餓鬼ィィィィィイイイ!!!』

「少しは考えろ、間抜けが」

 

 義勇がそう言い終えた瞬間――――瓦礫の影から誰かが飛び出した。それは紛れもなく、彼の相方である胡蝶カナエ。

 

 そしてその手には先端に油が塗られて轟々と()()()()()()()()()棒状の木材が。

 

『なにィ――――!?』

「はぁぁぁぁぁぁああああああああああああ――――っ!!!!」

 

 雄叫びと共に、カナエの持つ燃える棒が凶裏の肉塊、その吸気扇へと突っ込まれる。

 

 ガリガリと回転する羽によって木が高速で削られていく。当然、油が塗られたことによって火が消え辛くなった部分も巻き込まれ、肉塊内部へと空気とともに吸い込まれていく。

 

 不意打ちによる動揺のあまり凶裏は義勇を捕えていた触手を放してしまい、地面に着地した義勇は全力でカナエの方へと跳躍。彼女を守るように抱きしめてから再度地面を踏み込み、そして振り返りながら凶裏へと不敵な笑みを見せた。

 

『テメェ一体何を――――ぴぎょっ!?!?』

 

 霧状になった油と高圧の空気。そこに火が点けられればどうなるだろうか?

 

 馬鹿でも少し考えればわかることだ。

 

 

「弾け飛べ」

 

 内部に潜り込んだ火種は凶裏の台詞が終わることを待たず、霧状の油が程よく混じった空気に火を点けた。莫大な圧縮空気と混じり合った火と油が連鎖反応を起こし、加速度的に燃焼を始めていく。それによって肉塊の内圧が数十倍にまで跳ね上がり、たださえ巨大であった肉塊は一瞬で数倍の大きさに膨らんだ。

 

 中心部にある空気貯蔵器官を傷つけられまいと備わっていた極厚の骨肉装甲。外部からのあらゆる攻撃から中心部を隔離できるだろうそれも、内側からの攻撃は想定していない。故に、この文字通り爆発的な膨張に耐えきることのできる理由は存在せず。

 

 

『お、ぎょっ、ご――――あぎゃぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!』

 

 

 甲高い悲鳴と共に、肉塊は巨大な爆炎を上げながら粉々に弾け飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 爆風に押されながら義勇とカナエは共に地面を転がっていく。勢いが収まり、状況を確認すべく素早く顔を上げれば、その視線の先には壮絶な勢いで燃え盛っている炎と、そこから少し離れた場所で沈んでいる辛うじて生き残った凶裏の残骸があった。

 

 肉塊は吹き飛んだ。凶裏と善継の肉体が埋まっている約三割の部分を残して完全に砕け散った。最早再生する力すら残っていないのか肉塊が復元されるような兆候もなく、凶裏も殺気立った目で二人を睨みつつも呻き声しか上げられない始末。

 

 ――――今だ。

 

 

「一斉攻撃だ!! 全員かかれぇぇぇぇえええええええええええ!!!!」

 

 

 義勇の叫びと共に潜伏していた真白と行冥、そして義勇とカナエが一斉に凶裏へと駆ける。

 

 対して凶裏は力の大半を喪失している。抵抗は殆どできないはず――――そう思っていた義勇だったが、その予想はまたもや裏切られることとなる。

 

 

『オォォォォオオオオオオオオオオォォォォォォォオオォォォォォォオォォォォオオオオオオオオオ!!!!!!』

 

 

 空を引き裂くような絶叫。それに合わせて凶裏の余った肉体部分が全て先の尖った肉の触手に変換され、爆ぜるように背面――――柱二人のいる方へと撃ち出された。

 

 無数の肉槍が濃密な弾幕となって二人を襲う。真白さんは寸前で回避に成功したが、行冥はその巨体と周囲を把握するための聴覚に不具合が出ている故に避け切ることができず、触手の一本に左腕を貫かれながら彼方へと吹き飛んでしまう。

 

「悲鳴嶼さん!!」

「くぅッ……!――――私に構うな! そのまま行けぇっ!!」

 

 次に回避された数十もの触手が鞭のように撓り、真白ただ一人に向けて襲い掛かる。刀は結局見つけることができなかったのかその手には手頃な角材しか持っておらず、それは想定より遥かに多い鬼の攻撃を防ぎ切るには力不足にも程があった。

 

「っ……! 長くは持たない!! 急いで!!」

「真白さん!!」

 

 その身で培った技術によって薄氷の上で踊るかの如く無数の触手を迎撃・破壊することでギリギリ耐えてはいるようだが、やはり刀どころか角材じゃ無理がありすぎる。

 

 真白が触手群を引き付けられる推定限界は十秒ほど。最早一刻の猶予も無いと判断した義勇は更に足を速めて駆けていく。

 

『死ねるかァァァァァァァアアアアアア!!』

 

 怨嗟の声を上げながら大きく息を吸いこむ凶裏。その動作からこれから放つ技を予測した義勇は空いた手で素早く近くにあった大きめの木の板を拾い上げる。

 

 

【血鬼術 空砲・螺旋息吹】

 

 

 大の大人を数人は軽く呑み込めそうなほど巨大な竜巻が吐き出された。地面と瓦礫を削り、二人を飲み込まんと迫る風の大蛇に対し義勇は――――渾身の一撃で、その尖端を()()()()()

 

『!?』

「カナエ、掴まれ!!」

「うん!」

 

 切り開いた孔に小さく跳躍して飛び込むことで二人は無傷で竜巻の中、即ち台風の目とも呼ぶべき無風空間に入った。そこから義勇はカナエを自身の身体にしがみ付かせ、木の板を足元の竜巻部分に乗せることで()()()()()()()()()

 

 想像すらできない方法で己の技を切り抜けるその姿に凶裏は目を白黒とさせることしかできず、戦いの最中だというのに血鬼術を放ち終えても唖然と硬直してしまった。

 

 その硬直が、凶裏の命運を分けることとなる。

 

 

「――――南無……ッ!!」

 

 

 彼方に吹き飛ばされ、片腕を貫通されながらも速攻で復帰した悲鳴嶼行冥の鉄球。初めて邂逅したその時のように黒金の質量弾は凶裏の眼前に迫り、

 

『こっ、このクソカスど――――』

 

 無慈悲に凶裏の頸を上半身ごと粉砕した。だが凶裏もただでは転ばず、真白へ振るっていた触手を十数本ほど行冥へと向かわせた。行冥は回避するそぶりは見せずにどっしりと構え、あろうことか手元に残った鎖付き手斧を投げつけることで十数本の触手を鎖でまとめた挙句、それにしがみ付くことで触手の再使用をできなくさせた。

 

 だが鎖の拘束から運悪く数本の触手が逃れてしまい、それらは彼の両脚と脇腹を貫いてしまう。

 

「ぐぅぅぅぅううううううっ……!!!」

 

 それでも行冥は触手の束を掴む腕の力を抜かず、さらに触手が刺さった個所の筋肉を強張らせて残った触手も抜けなくさせてしまった。

 

 そして、触手が減ったことで余裕ができた真白は右足の激痛を耐えながら手を鞘に、角材を刀に見立てて高速の連続抜刀。一気に残りの触手を破壊した。――――だがここで無理に動かしていた足に限界が訪れてしまい、彼女は悔し気な顔でその場で倒れ伏す。

 

「どうか……後はっ…………!!」

 

 これでもう義勇らに攻撃が行くことはない。後は善継の頸を断つだけ。竜巻を切り抜けた義勇は着地後、善継の肉体に向かって跳躍。全てを終わらせる一心で刀を振り上げ――――

 

「――――ホォォォォォォオオオオオオオオオオ……!!」

「!?」

 

 真っ赤に染まった双眸を見開きながら顔を上げる善継に義勇は絶句する。

 

 間に合わない、頸を断つ前にこちらがカナエ諸共やられる――――!! そう判断した義勇は振り上げた手から刀を放り捨て、そのまま背後のカナエの襟首を掴み上方へとぶん投げた。

 

「っ……!? 義勇君!?」

「カナエ! お前が断て! 善継の頸を――――がッ」

 

 善継の口から放たれた空気弾が義勇の左腕を直撃。更に圧縮された空気が解放されたことによる衝撃で、義勇は巻き上げられた土煙の中に姿を消した。

 

 それを見てカナエは泣き叫びそうになるも、震える手で刀をより強く握りしめながら五点着地。あと一歩の距離まで迫った善継の頸目がけて、全身全霊の一撃を叩き込んだ。

 

 ……………が。

 

(そん、な)

 

 カナエの刀は丁度刀の幅分だけ肉を裂き――――止まった。何かの仕掛けがあるわけでもない。ただ単に善継の肉体が並みの鬼より遥かに頑強で、そしてカナエの筋力はそれを断ち切るには力不足だった、というだけの話。

 

 だからこその絶望。最後に付きつけられた「己の未熟」という現実を直視して、もう二度とこないだろう機会をふいにしてしまったと確信したカナエは目の前が真っ暗になるのを感じた。

 

「コァァァァァァアアアアアアアア……!!」

 

 善継の口から空気が吸いこまれていく。その狙いは当然、目の前に居るカナエ。この距離だ。今更回避行動を取ったところで外しはしないし、カナエももう心が折れて動けない。

 

 詰みだ。

 

 

 

 

 

 

「っ、ここは……?」

 

 身体が小刻みに揺らされるのを頼りに、神崎アオイは目を覚ます。――――目を開けば、そこには見たことも無い黒装束の顔を隠した男性らしき顔があった。

 

 気絶する前の記憶が曖昧なせいで今の自身の状況がわからないアオイだったが、目の前の光景を見た下した結論はただ一つ。自分が知らない不審者に抱きかかえられてどこかに連れていかれている、というものであった。

 

「きゃ―――――――――――っ!!!」

「え、ちょ、ぬぼぉあ!?」

 

 アオイは悲鳴を上げ乍ら自分を抱きかかえている男性の顔に思いっきり張り手を食らわせた。完全な不意打ちゆえに男性は避けることもできずに直撃を受け、アオイの身体を取り落としながらすっ転んでいった。

 

「いたっ!?」

「ご、後藤――――!?」

 

 宙から落下して少し強烈な尻もちをついたアオイは痛みを堪えながらその場から逃走しようと試みる。が、その前に別の黒装束の男がアオイの身体を持ち上げるのが先だった。

 

「いやっ! 放してよこの人攫い!」

「待って待って待って! 誤解だ! 俺たちは胡蝶さんから君を安全な場所まで連れて行ってくれと頼まれたんだ!」

「え……? カナエさんから……!」

 

 手足を振る回して暴れることでアオイは男の手をどうにか振りほどこうとするも、男の口から知り合いの名前が出たことで一旦落ち着きを取り戻す。そしてそれをきっかけに、今まで忘れていた気絶する前の状況を少しずつ思い出し始めた。

 

「えっと、まずは俺たちは隠っていう存在で「早く降ろして! お兄ちゃんの所にいかなきゃ!!」……それは駄目だ」

 

 隠は少し前、カナエと合流しアオイを預かった際に大まかな事情を説明されていた。つまりアオイの兄が今現在暴れている最中である下弦の伍の事であることも、当然知っている。

 

「なんで!」

「君が行った所で、どうにもならないよ……。むしろ君が危険に晒されるだけだ」

「それでもっ!」

「駄目といったら駄目だ! 俺たちは君を預かった! 安全な場所まで運ぶ責任があるんだ!」

「っ~~~~~~~~~!! ……………わかった」

 

 わかってくれたか、と隠はほっと胸を撫で下ろした。――――その油断が仇となる。

 

「――――ふんッ!!」

「え――――ごへっ!?」

 

 隠の男が油断した瞬間、アオイは右足を大きく後ろに振り上げ、全力で男の顎を蹴り上げた。子供の力ゆえに骨が砕けるほどではなかったが、顎に強打を貰ったのだ。脳を揺さぶられるのには十分なほどの威力であった。

 

 脳が揺れたことでアオイを持ち上げていた隠はそのまま気絶し、拘束から放たれたアオイは着地後そのまま戦闘音の方向を頼りに走り出す。

 

(私が行っても何もできないなんてわかってる)

 

 アオイの頭の中で、両親が殺された瞬間が幾度もフラッシュバックする。その度に胃の中から何かがこみ上げてきそうになるが、アオイは口を押えて飲み込む。

 

(それでも、それでもっ……このまま逃げたら、私は一生逃げ続けることになる! それだけは、絶対に嫌だ!!)

 

 走る。ひたむきに走る。狭い路地を潜り抜け、崩れた建物を乗り越え。そうしてたどり着いた先で、アオイは刮目する。

 

 カナエの刀を頸に食いこませたまま、逆転の一撃を放とうとしている兄の姿を。そして彼の家族として理解する。今動いているアレは兄ではなく、ただ操られているだけの人形であると。

 

 それを見たアオイは頭の中にある全ての考えを吹き飛ばし、自らの魂が促すままに――――叫んだ。

 

 ()()()()()、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い。

 

 

『兄ちゃん起きて! このままじゃみんな死んじゃう!!』

 

 

 重たい。

 

 

『お兄ちゃんしっかり! 気を失っちゃ駄目!』

 

 

 冷たい。

 

 

『兄ちゃんが負けたらまたアイツが人を殺し始める! そんなの絶対駄目だよ!』

 

 

 痛い。

 

 

『お兄ちゃんはいいの? このままお兄ちゃんの体をアイツの好き勝手にされて我慢できるの!?』

 

 

 …………………弟妹、たち。

 

 

 

『――――善継、頑張って。私の息子……!!』

 

 

 

 ……………母さん。

 

 

 

『善継、足を踏ん張れ! 腰を入れろ! 目を覚ませ!!』

 

『善継……どうかアオイを守って……お願い……!!』

 

 

 

 ………義父さん、義母さん。

 

 

 

「お兄ちゃああああああああん!!! 悪い鬼なんかに負けるなぁぁぁ――――――っ!! お兄ちゃぁぁぁぁぁあああああああああああああああんっ!!!!」

 

 

 

 アオイ。

 

 

 

 

 ――――立て。

 

 

 

 

 ――――目を開けろ。

 

 

 

 

 ――――両足で踏ん張って! 腰を入れろ!! 神崎(■■)善継!!! 

 

 

 

 

 ――――家族みんなから背中を押して貰った(長男)が!! あんな下種な欲望しか頭に無いような奴なんかに!! 負けたりするものかぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああッ!!!!

 

 

 

 

 

 善継の右手が握り込まれる。岩のように硬くなったその拳の向く先は――――彼自身の、右頬だった。

 

「ごッ――――」

「え――――!?」

 

 頬に一撃を叩き込んだことでカナエに向いていた照準は大きく逸れ、誰もいない明後日の方向へと空気弾が吐き出される。当然、カナエは何が起こったのかわからず困惑した。

 

 だがカナエの命が助かったからといって状況が好転したわけではない。未だに刃は進まず滞るのみ。残る一押しを行える存在がこの場には必要で――――それが行える存在が今、土煙を振り払いながら現れた。

 

 左腕を複雑骨折させ痛々しくぶら下げながらも、この戦いを終わらせるべく立ち上がった冨岡義勇が。

 

「カナエェェェェェッ!!! 全ての力を振り絞れぇぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええッ!!!!」

「っ――――うあああぁぁあぁぁあぁぁあぁあああああああああああああああああああ!!!!」

 

 義勇がカナエの後ろから彼女の刀の柄を掴み、決死の力を片手に籠める。カナエもそれに応え、身体に残っていた全ての力を最後の一滴まで絞り出しながら地面を踏みしめた。

 

 

 二人分の力で止まっていた刀が進み出す。筋肉の繊維を断ち、骨を断ち、命を断つ――――!!

 

 

「「いっけぇぇぇぇぇぇえええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」」

 

 

 一筋の閃光が、燃え盛る地獄を迸る。

 

 

 

 

 

 

「ねえ兄ちゃん、もし母ちゃんの病気が治って、俺たちきょうだい全員独り立ちできたらさ。そんとき兄ちゃんはなんかしたいって思えるものはあるの?」

 

 

「うん? んー……そうだなぁ。そんな事、考えたことも無かったな……」

 

 

「じゃあなんか考えようよ! もしそうなった時、何も考えて無いんじゃ困るでしょ?」

 

 

「…………俺のしたいこと、か。そうだな、俺は…………風に」

 

 

「うん?」

 

 

「風のように、今まで行ったこともないような場所に行ってみたい。そう、旅をしたいな。あの空で吹いている、風のように」

 

 

 

 

 

 夜の風に、鮮血の粒が飛散した。

 

 

 

 

 




《血鬼術》

 【天響吹刃・滅光 針鼠(はりねずみ)
 【天響風刃・滅光】を凶裏本体のみならず肉塊に取りつけられた骨砲からも発射する技。全方位にレーザーを放つため外見上のインパクトは凄まじいが、時間をかけて照準を行わない限り精度は最悪なため、実は凶裏本体からの光線にさえ気を付けていればそこまで脅威では無い。
 しかし周囲の建物はこれに直撃するだけで爆発してしまうため、無差別の広域破壊には打ってつけ。

 【風殻弾(かぜがらはじ)き・大嵐玉(おおあらしだま)
 凶裏が土壇場で編み出した即興の防御・反撃用血鬼術。
 肉塊から大量の空気を排出し半球状に押し固めて高速回転させることで外からくるあらゆる攻撃を防御。その後半球を高圧縮させて押し縮め、一気に解放することで全方位を吹き飛ばす。わかりやすく例えるならアサルトアーマー。
 一見強力に見えるし、実際近辺の住宅地を一瞬で瓦礫の山に変えられるほどの威力を持つが、即興故か技自体の練度が低く、被弾面積が小さい人間などには殺傷力をあまり発揮できない、尚且つ力の消耗が【天響風刃・滅光】数発分以上である極悪燃費の欠陥を持っている。
 もしこの技を鍛え続ければ常時風シールド展開や解放時により効果的に殺傷力を持たせる応用が可能になったかもしれないが、それらを実現する前に凶裏は討伐されてしまったため泡沫の夢となった。

《解説》

 【凶裏・第二形態】
 無惨の血を大量に投与されたことで発現した強化形態――――なのだが、実は巨大化してしまったのは凶裏にとっては完全に想定外。本来であれば外見は人型を保ったまま背中に骨の触手が生える程度の変化だったのだが、微かに残っていた善継の人格が無意識に無惨の血を拒んだことで拒絶反応が起き、あり余る力が体外に追い出され暴走したためあの巨大な肉塊が形成されることとなった(そして力を受け入れた凶裏は肉塊の方に人格が移った)。しかしこの不具合が怪我の功名となってか凶裏と善継、双方の頸を斬らねば死なない仕組みを持つこととなる。ただこのギミックは副次的に発生したものに過ぎず、暗に「善継と凶裏は表裏一体。どれだけ互いが邪魔な存在だと思っていようが彼らは根っこで繋がっている同一の存在である」という真実を現しているのかもしれない。
 武装を常に最大威力で運用するための空気貯蔵タンクである巨大な肉塊にそれを支えるための六本の骨の脚、近づく敵を迎撃するための骨の触手、遠距離から敵を一方的に甚振るための大量の骨の砲。と、正しく要塞の如き有様なのだが、巨体ゆえに機動性は壊滅的。風を下に噴射すればホバー移動くらいはできるが機敏な動きはほぼ不可能。
 しかし機動性が死んでいる反面攻撃力と防御力は凄まじく、凶裏の頸斬りギミックに気付かなければこの超火力機動要塞を相手に延々と消耗戦をすることになる。もし善継が情報を伝えていなかったら、四人は間違いなく全滅するかそうでなくとも犠牲者が確実に出ていた。

 因みに余談ではあるが、上記の通りこの形態は強化形態というより暴走形態と評するのが正しい状態であり、にも拘わらず本人は自信満々に「俺は十二鬼月最強になったんだぁぁぁぁ!!」とかほざいていたが、この通り与えられた力を殆ど使いこなせていない上に実戦経験も乏しいため、実際のところは玉壺以下妓夫太郎(単体)以上程度の実力に落ち着いている(血鬼術の威力”だけ”なら童磨や黒死牟とタメを張れるが)。



いやぁ……下弦の伍は強敵でしたね……いやマジで四話もぶっ通しで戦い続けるとは思わなんだ。

実は二話前の義勇とカナエのラブラブクロススラッシュで締めの予定だったんですけどね。このままだと柱の出番があんまりねぇな~という事で出番を用意するためにあれこれ弄ってたらこんなとんでもないことになっていたという。その為に義勇さんにはさらにボロボロになって頂いたゾ(鬼畜)。


令和早々大変な一年となってしまいましたが、来年こそ穏やかな一年が訪れると信じたい。読者の皆さま方もどうか健康な身で年を越せることを祈っております。



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第参拾伍話 遺す者、残された者

モチベが上がらなくて気晴らしに別の小説を執筆してみたけど、完成した途端に「違う、自分が書きたかったのはこれじゃない」という感じがして結局丸ごと没にする執筆者によくある現象。それをこの一ヶ月間で三度繰り返したゾ(絶望)

追記:諸事情で投稿が遅れます


 くるり、くるりと噴き出る血が幾重もの輪を描く。

 

 まるで嵐の喧騒の如き騒音が反響していた場が、少しずつ暗き夜に相応しい静寂を取り戻していく。

 

 一つの大きな塊が地に落ち転がると同時に、醜悪な大蜘蛛の躯体もまた同じように地に伏した。今度こそその体からは生気は徐々に抜け落ちていき、死という現象を示すように灰と化していく。

 

 そしてそれを見た鬼狩りたちはようやく胸を撫で下ろすのだ。――――ようやく、終わったのだと。

 

「はぁっ、はぁっ、はあっ……」

「…………やっ、た、の?」

「終わった、か……」

「もう……限界……」

 

 刀を振り切った姿勢で固まっていた義勇とカナエ、腹と両脚を肉の触手によって貫かれていた行冥は息も絶え絶えの様子でその場で崩れ落ちる。既に倒れ伏していた真白も、事の終わりを見届けるや否や気が抜けたのか、そのまま深い眠りに落ちてしまった。

 

 無理もない。彼らはこの戦いで身体の底に残っていたわずかばかりの気力すら投じて死闘を繰り広げたのだ。これで彼らの倒れ込む姿を情けないと一蹴するのは余程の阿呆か間抜けだけだろう。

 

 ……しかし、彼らの顔に喜びは無い。柱である行冥と真白は鬼を仕留めたのはいいが、柱を二人も投入しておきながら街の被害が尋常でない規模に拡大していることを嘆いた。とはいえ、相手の能力を鑑みればここまでの大量破壊が齎され、それを防ぐことができなかったのは仕方のないことであるのだが。

 

 そして義勇とカナエが喜ばない理由は――――彼らのすぐ後ろから駆けてきている少女の存在に起因していた。

 

 

「――――お兄ちゃあん!!」

 

 

 今にも泣きそうなほど震え切った声を上げながら、おぼつかない足取りで神崎アオイは地面を空しく転がっているモノ……神崎善継の、生首へと走り寄った。

 

 普通ならばもう生きていない、もう無駄だと彼女を引きとめるだろう。だが、神崎善継は鬼としての姿を取り戻した。であるならば、あの状態になっても、恐らくは。

 

「……………………ア、オイ」

「! お、お兄ちゃん! し、しっかりして! 大丈夫、私がっ、私がなんとかするからっ! だからっ、だからぁ……!!」

「…………すま、ない。アオイ……」

 

 首だけになった善継は鬼の生命力の恩恵のおかげか、未だ存命であった。だが、それもそろそろ過去形になりつつある。

 

 彼の心が抵抗しているのか、それとも彼の不完全な日光への耐性が作用したのか。善継は切断された頸の断面から非常にゆっくりとした速度で灰化していた。

 

 それが苦痛を伴うものなのかは彼自身にしかわからない。だが確実に言えることは、彼が妹であるアオイと会話できる時間は、恐らく長くても三分程度だろうということ。

 

 故に義勇らは何も言わずに二人を見届けることにした。兄妹の最後の別れ、赤の他人が水を差していいはずもないのだから。

 

「本当に……お前には、迷惑ばかり……かけて、しまった。いつも……こす狡い輩に、騙されては……お前や、義父さん義母さんに助け、られて……兄として……心底、不甲斐ない……」

「そんなことないもん!! お兄ちゃんはっ、お兄ちゃんは私が世界で一番大好きなお兄ちゃんだもん!! 他の皆がお兄ちゃんの事をバカにしてもっ……私はっ、私たちはっ、お兄ちゃんの味方だもん!!」

「…………お前には、本当に、すまないことを……した……お前から、父と母を……目の前で、奪って……そんな俺は……お前の兄だなんて、どうして胸を張って……言える……?」

 

 善継の瞳から絶えず涙があふれ出てくる。そこから伝わる感情は、己に対する底なしの絶望と憤怒、そしてこれから一人残されてしまったアオイへの罪悪感と悲哀。

 

 そんな彼を見ても尚、アオイは欠片も拒絶したりしない。ただただ無心に、己の兄の頸を力いっぱいに抱きしめる。

 

「お兄ちゃあん……! 行かないでっ、行かないでよぉ……! お兄ちゃんまでいなくなったらっ……私一人になっちゃうっ……! お願いだからっ……お願い……!!」

「…………………お二、方」

「「!」」

 

 ふと、善継の視線が自分たちの方に向いたことを義勇とカナエは感じた。そして善継は心の底から申し訳なさそうに、しかし確かな心を以て、二人に言葉を投げかける。

 

「どうか……どうか、アオイの事を……頼め、ますか……? この子が、独り立ちできるまでで、いい……差し上げられるものは、無いけれど……どうか、俺の、最期の頼みを……」

 

 それは空から垂れた一本の蜘蛛の糸に縋るような、兄としての願いだった。

 

 一人残った妹だけはどうか健やかに育ってほしいと、その為に自分や父母の代わりに妹を守ってほしいと、彼は精一杯の誠意を以て今この場で一番信頼できる者達に己の一番大切なものを任せようとする。

 

 図々しいだろう。恥知らずだろう。恩知らずだろう。その身を削りながら長きに渡って自分を蝕み続けていた呪縛から解放してくれた者の手を更に煩わせるなど。だけれど、そうとわかっていても尚、善継は縋らずにはいられなかったのだ。

 

 生き恥を晒してしまうことになったとしても、(アオイ)だけは、どうか元気な姿で生きて欲しいと思って。

 

 その言葉を聞いた二人は……ゆっくりと、微笑んだ。

 

「この命に賭けて」

「善継さん。貴方の願い、聞き届けました。……必ずあの子を守ってみせます」

「……………最期に、君たちのような優しい子に、出会えて……良かった……」

 

 真っすぐな目で、嘘偽りなど少しもない二人の言葉を聞き届けた善継は感嘆の息と感謝の念を零し、安心したような顔を浮かべた。

 

「……アオイ、俺に、こんなことを言う資格なんて、ない。……けれど」

「お兄ちゃん……!」

 

 灰化が口のすぐ下まで迫る。

 

「どうか……生きて、ほしい」

「お兄ちゃあん……!」

 

 下唇が塵となって消える。

 

「心の底から……幸せだって……思えるまで。天寿を全うして、孫に、囲まれながら……義父さんと、義母さんのいる……天…………国……………へ…………」

「お兄ちゃん! お兄ちゃあああああん!! やだよぉ! 行かないでぇっ!!」

 

 顔が半分になって、言葉を発することすらままならなくなる。

 

 されど彼は、最期に全ての気力を絞り出し……妹へ送る最後の言葉を、告げた。

 

 

「……………がんば、れ……………おれ、の………じ………まん、の……………い……もう…………と………………」

 

 

 強い風が吹く。辛うじて形らしきものを留めていた善継はその風に煽られて、細かな灰となって霧散した。

 

 アオイは思わず空へと散っていく灰の粒を掴まんと手を伸ばすが、最早影も形も残らなくなったものを掴み取ることなど出来るはずもなく、彼女は行き場を失った手を地面に落とした。

 

 肩が震える。寒くて、怖くて、独りで居るのが寂しくて。だけれど、その肩を温めてくれる存在はもう居ない。もう全員、いなくなってしまった。

 

「うぁっ、あ……お兄ちゃん……! お兄ちゃあああああん!! うわぁああぁぁあぁあぁあああああああぁああああああああああん!!! ふぇああぁああぁぁあああああぁああぁああぁああああぁあああああああああああああああああああんっ!!!!」

 

 叫んだ、理不尽への怒りを。

 

 涙した、全てを失った悲しみを。

 

 たった九歳の幼子が受け止め切るにはあまりのも酷で大きすぎる悲劇。挫けるななどと口が裂けても言えようものか。

 

 このまま何もしなければ、アオイの心は折れて消えない傷がついてしまう。だから、周りにいる者が支えなくてはならなかった。――――そう悟ったカナエはふらふらと、今にも倒れそうな動きでアオイの傍に座り込む。

 

 そして何も言わずにその顔を己が胸に埋めさせ、優しく、母の様な手つきで背中を撫で続ける。

 

 この子が泣き止んで、眠るまで、ずっと。

 

 

「………………神仏様の、クソッタレ共が……!!」

 

 

 最早指一本すら動かせる力の無い義勇は瓦礫の海の上で大の字に倒れ込みながら、空へと向かって恨み節を吐きつける。

 

 鬼は死んだ。犠牲者も、相手の強さからすれば少ない方だろう。だがこれは何だ、一体誰がこんな結末を望んだ。

 

 神崎善継の正体が鬼である以上こんな終わり方が避けられないことだというのはわかっている。わかってはいるが……だからと言ってこんな結末が認められるわけがない。

 

 誰にも悲しんでほしくないからこの手に剣を取った。

 

 誰にも死んでほしくないから強くなろうと志した。

 

 なのにこの様だ。何も、叶えられなかった。アオイの家族を守れなかった、その少女も結局悲しみのまま終わることになってしまった。

 

(どうすれば上手く行った……! 一体、どうすれば……!)

 

 義勇の奥底から湧き上がるのは底の無い後悔のみ。それが既に過ぎ去ったありえざる未来を想う、不毛な妄想だっだとしても、彼は思わずにはいられないのだ。

 

 誰も傷つかない、誰もが幸せになれる終わり方を。

 

 絶対にあり得るはずの無い、幻を。

 

 

「……俺、はっ……………!!」

 

 

 心身共に限界に達した義勇はようやく、少しずつ眠りへと誘われていく。

 

 身体全体を包まれるような優しい抱擁に抵抗できる力は残されておらず、彼は歯噛みしながら、無意識の底へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 真っ暗な場所に、いつの間にか俺は立っていた。足元はまるで水面の様に、動けば小さく波紋が立つ。しかし水面らしきものは決して浅いようには見えず、まるで底なしの闇の様に黒色の光が鈍く発せられている。

 

「――――兄ちゃん!!」

 

 声が聞こえて、振り返る。

 

 俺の背後は、俺の立っている闇とはかけ離れた、真っ白で暖かな光に包まれた場所であった。そしてその場所で見覚えのある子供たちと、その目に涙を浮かべた三人の大人が佇んでいる。

 

 ……間違いない。俺の弟妹たちと、両親たちだ。

 

 彼らの存在に気付き反射的に手を伸ばして駆け寄ろうとするも――――我に帰った俺は、何も言わずに手を下げる。

 

 白と黒の境界面。悪しき者と善き者を隔てる絶対的な境目。……それを越えることは、恐らく俺にはできない。いいや、たとえ出来たとしても、俺は”あちら側”に行く気など毛頭なかった。

 

「兄ちゃん行かないで! こっちに来てよぉ!」

「悪い事をしたのはお兄ちゃんのせいなんかじゃない! だから私たちと一緒に――――!」

「……それはできない」

 

 弟妹たちの必死な叫びと手を伸ばす仕草に、俺はゆっくりと頭を振って拒絶の意を示した。

 

 確かに俺の罪の根元を辿れば、あの鬼舞辻無惨という諸悪の根元にたどり着く。彼が俺を鬼になどしなければ、俺の食した百人の犠牲は出なかっただろう。――――だからと言って、その実行犯である俺に罪が無いなどと言えるだろうか? 否、そんな訳が無い。

 

 俺の中に存在する二人目(凶裏)は多くの犠牲を出した。そして奴の出した犠牲の数に及ばないとはいえ、俺もまた自らの意思で人を殺した。少なくとも、弟妹たちと義父義母を殺したのは間違いなく俺なのだ。

 

 そして、凶裏は俺だ。あいつは俺が生み出した、罪悪感の押し付け先。だけどもう、俺は逃げないと決めた。目を逸らさないと決めたんだ。

 

 奴の罪は、俺の罪だ。俺が皆を殺した。であるならば、俺はその罪を償わなければならない。

 

「善継……ごめんねぇ……! 私が……私がもっと強い体に生まれていれば……!」

「すまない、母さん。言いつけを守れなくて」

 

 母は涙を流した。己が死した後の、息子の行きついた先を見て。本当なら抱きしめて、慰めてあげたいけど……こうして家族にもう一度顔を合わせられたのは、きっと神様が許してくれた奇跡だ。これ以上を求めるなど、贅沢過ぎるというものだ。

 

「……最後の最後に、意地を見せたな。息子よ」

「頑張ったわね、善継……」

「…………義父さん、義母さん。俺は……ただの人として、貴方たちと出会いたかった。本当に……すまない」

 

 この手にかけてしまった義父と義母。本来なら目一杯罵倒されても謝罪の言葉以外何も言えない。だけど二人はそんな言葉は一言も口にせず、ただただ労うように、優しい笑みで俺を宥めてくれる。

 

 本当に、本当に……普通の人間として、彼らと出会えていれば、どれだけ幸せだったことだろう。

 

 それはもう、叶わぬ願いだけれど。

 

「…………そろそろ、行かないと。な」

 

 これ以上ここに留まっては、折角振り払った未練がまた自分を縛りつけてしまう。だから俺は喉の奥から出てきそうな言葉を必死に飲み込み、家族たちに背を向けて、()()()()()()()()()を引っ張りながら暗闇の奥へと歩み出す。

 

 その鎖の先に繋がっていたのは、まるでヘドロを人型に固めたような存在。これぞ、俺という存在の負の感情から生み出されたもう一つの自分。都合のいい感情の逃避先として生まれ、そして鬼の細胞から悪意を学び続け、ついに最悪の存在へと開花しかけた暴風の君主。

 

『放セェェェエエエエエエエッ!! ヤメロォォォォォオオ! 俺ハッ! 俺ハマダ死ニタクナイィィィイイイイイイイイ!!!』

「……ごめんな。俺のせいで、お前は歪な形で生まれてしまった」

 

 凶裏は加害者だが、同時に俺という存在の被害者でもある。

 

 俺の勝手な都合で作り出されて、生まれながらに”悪”という存在に定められて、八年間も俺の身体に閉じ込められた挙句、自由など味わえないままこうして死んだ。

 

 行った所業を思えば決して同情していい存在では無いけれど、憐憫すべき存在であることは間違いない。

 

「だが、だからと言って俺はお前を許すことはできない。――――共に往こう。それが俺がお前にできる、せめてもの償いだ」

『嫌ダ! 嫌ダァ! 嫌ダァアァアァアアアアア!! 俺ハァ! 俺ハマダッ、ナニモ、残セテ――――イナ――――イ――――――――』

 

 水面から炎が湧き上がり出す。悪人を裁く地獄の業火が、俺たちの身体を余さず焦がしていく。

 

 

 …………振り返る。

 

 

 もう、家族の姿は無い。……良かった。こんな俺の姿を、見せる訳にはいかないのだから。

 

 

「……………これ、で…………やっと………………」

 

 

 地獄で犯した罪を償い終えたのならば、俺はどうなるのだろう。

 

 

 お坊さんは、死んだ者の魂は輪廻に還り、いつか再び現世へ生まれいずるものだと言っていたが、それは罪人である自分にも当てはまることなのだろうか。

 

 

 だが、もし再び転生して、人として生まれることができたのならば。

 

 

 

 

 

 今度こそ、俺は――――

 

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 

 寝室にて、一人の青年の持っていた書物が絨毯の敷かれた床へと力無く手落とされる。

 

 次第にその肩は震え始め、ミシミシと音を立てながら何の変哲もなかった爪は猫の様な鋭利なものへと変形していき、麗しい青年の顔の表皮には溢れんばかりの憤怒の証明として幾つもの血管が浮かび上がった。

 

「……? 雅貴(まさたか)さん、どうしたの? 何処か具合が悪いのかしら……?」

「おとーさん? おなかいたいの?」

 

 そんな青年の異常を感じ取って妻と息子が目を摩りながら起床するも、青年が妻と息子の声に返答することは無かった。

 

 だが、反応はした。

 

 

 ――――声をかけられた一瞬後に、両者の上半身を消し飛ばすという形で。

 

 

 青年の腕から伸ばされた無数の目玉と口のついた異形の巨腕は妻と息子の身体を飲み込んだだけでなく、勢い余って部屋の壁を突き抜けて、その際に起こった衝撃波によって壁が天井の一部ごと崩落。

 

 一秒もかからず、洋風に作られた一軒家の二階にあった家族の寝室は酷く開放的な造りとなってしまった。

 

 

「――――鬼狩り風情がぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!」

 

 

 当り散らすように寝台と室内のインテリアを滅茶苦茶に破壊しながら青年は――――鬼殺隊に見つからないため人間に擬態し一般家庭に潜り込んでいた鬼舞辻無惨は、千年間の生涯の中でも五指に入るだろうほどに激怒する。しない訳がない。

 

 約千年も待ち続けてようやく現れた太陽克服への手掛かり。それがどれだけ小さな可能性であろうが、唯一己の悲願を確かに叶えられる可能性のあった存在を、たった今鬼殺隊によって斃されたのを感じた。

 

 完全に油断していた。自身の血をあれだけ多量に与え、凶裏が上弦並みの力を得たことを確信したのだ。故に、例え柱が一人二人来たところで返り討ちにはできなくとも殺されることはないだろうと踏んでいた。

 

 だが凶裏は殺された。何故だ、何が起こった。

 

「何故だ……! 何故記憶が途中で途切れている!!?」

 

 凶裏と共有……いや一方的に覗いていた視界と思考。それは戦いの最中突如途切れることとなった。だが当然ではある。死の直前まで凶裏の肉体がある程度残っていたのならば辛うじて思考機能は残っていたかもしれないが、悲鳴嶼行冥の放った鉄球の一撃は凶裏の頭部どころか上半身を丸ごと粉微塵にした。これでは見ることも聞くことも考えることもできる訳が無い。

 

 更に想定外な事に、無惨からの支配を拒絶し続けた善継が僅かとはいえ”呪い”から脱却し、無惨に思考と視界の共有をできなくさせた。これによって無惨は事の顛末を見ることが出来なくなってしまう。

 

 つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。柱二人がとどめを刺したのかもしれないし、義勇やカナエが行った可能性もある。ともすれば別に駆けつけたかもしれない援軍の仕業かもしれない。

 

 手を下した者が誰かわからない以上、特定個人へ恨み怒りをぶつける事など出来やしない。だが完全に不可能という訳ではなかった。鬼舞辻は心底面倒ではあったが、上弦を派遣して凶裏を仕留めた下手人ごと京橋區に居る鬼狩り共を一掃しようと決意する。

 

 そんな事をしたところで返ってくるものなど何もないが、それでも多少は溜飲が下がる筈だ――――そう思っていたが。

 

「……クソッ! 時間が……!!」

 

 無惨は時計を見てすぐにそれが下策だと理解してしまう。懐中時計を見れば既に七時に差し掛かる頃。……そう、夜明けの時間だ。

 

 忌々しい日光が照りつける時間が来た以上、上弦を派遣した所で灰になるだけだ。そして怒りに塗れて視野狭窄になった無惨といえど、得られるものも無い戦いに貴重で替えの効かない手駒を使い潰してはならないと判断できる理性は残っていた。

 

 無惨は怒りを僅かでも晴らすように手にした懐中時計を握り潰して破壊し、グツグツと溶岩の様に沸騰する激情のままに指を鳴らす。それだけで何もなかった筈の真横の空間に障子らしきものが現れ、ゆっくりと異空間への扉が開かれた。

 

「覚えておけ、鬼狩り共。この屈辱忘れんぞ……!!」

 

 立ち去る前に餞別とばかりに無惨が腕を振るえば、家屋を支える支柱と壁が全て破壊された。それによって家全体が地面へと大きく傾き始める。

 

 しかし無惨は一時とはいえ己が住んでいた家の最期を見届けることもせずに、己が本当の根城へと立ち去ってしまった。直後に起こる倒壊音。上半身を食われた女性と子供の遺骸も崩れた瓦礫に潰され埋もれゆく。

 

 二人が何も知らないまま逝けたのは、果たして幸か不幸か。

 

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「―――――じゃあ、問題だ。とある三人が三十銭分の米、二十銭分の酒、一銭の魚や肉をそれぞれ四つずつ買い、帰りに十五銭分の食事をした。その合計代金を、三人はそれぞれ等しく分けて受け持とうとしている。この場合、一人当たりの費用はいくらになる? 割り切れない場合は小数点第二位の数を四捨五入してくれ」

「え、ええと、えーと……」

「ゆっくり考えろ。ただし、二分経ったら時間切れだぞ」

 

 京橋區にある小さな私立の病院。綺麗に掃除された一室にて、俺は本を片手に傍でちょこんと座っているアオイに対して簡単な算数問題を出す。

 

 それなりの教養があればすぐに解けそうなものではあるが、それは二十一世紀基準のお話。ましてや相手は十にも満たない子供である。しかしそこは両親が営む飲食店の手伝いをしていた経験か、うんうんと唸りながらもアオイは寝台の横にある机で洋紙に鉛筆を走らせながらじっくり計算を行っていた。

 

 カチリ、カチリと壁に立てかけられた時計が時間を刻んでいく。やがて一分半ほど過ぎた頃だろうか、アオイの手がようやく止まり、少女は「できたー!」と喜びの表情で紙に書かれた数字を見せつけてくる。

 

「答えは二十五銭七厘! どう?」

「正解だ」

「やったぁ!」

 

 さて、そろそろ俺たちが何をしているか説明しよう。と言っても、そんな小難しいことはしていない。単純に、俺がアオイに教鞭を取っているだけだ。……どうしてそんな事をしているかって? それを説明するには、まず二週間程前の出来事を知る必要がある。

 

 ――――二週間前、十二鬼月・下弦の伍”凶裏”討伐後、行うべき後処理は甚大かつ膨大であった。

 

 奴によって破壊された建物は十や二十では利かず、あの一晩で住むべき場所を失った人は大量に生じた。住処だけなら産屋敷マネーパワーによって仮住居を設置するなりして何とか対応は出来たが、家だけでなく財産や備蓄、更に職を失った者も少なくなく、死者こそ片手で数えられる程であるがこの戦いで今後の人生に多大な影響を受けた者は、恐らく千人は下らないだろう。

 

 そう言った者達のフォローは可能な限りするつもりではあるようだが、何にせよ京橋區は今後数年間は荒れる。一般世間には「爆弾魔による犯行であり、犯人は確保を試みるも自爆した」という体で処理されたが、それで被害にあった者達の鬱憤が晴れるかは怪しい所だ。

 

 この二週間、窓から外の様子を伺っていただけの俺でもわかるほどの張り詰めた空気。治安の悪化は免れまい。が、ここから先は警吏たちの仕事だ。無責任かもしれないが、適材適所という言葉に従い割り切る方が得策と言えよう。大体俺一人が喚いた所でどうしようもない。

 

 それで、だ。俺に関しては当初こそ花屋敷に移送する手筈であった。あそこならば下手な病院よりも遥かに高度で効果の高い治療が受けられるからだ。……が、それは無理だった。

 

 何故無理だったかと言えば――――戦いが終わった当時の俺の肉体の状態があまりにも酷過ぎたから、だ。

 

 全身の至る所に銃傷と深い裂傷、四肢の筋肉は例外なく内側からボロクズと化しており、血液もほぼ失血死寸前の有様。肋骨も半分以上に罅が入っていて、左腕は複雑骨折で適切な治療を受けねば二度とまともに動かせないだろうと勧告を受けた程凄惨な状態であった。

 

 そのため、俺の身体は長時間の移動に耐えられないと判断され、隠達により京橋區の中で一番大きな病院に搬送されることとなった。高度な施術こそ行えないが、まずは傷を塞いで花屋敷に移送可能な状態にするために。

 

 ……と、以上が凡そ一週間前に目を覚ました俺が受けた説明である。

 

 あれだけ大怪我しておきながらたったの一週間で目を覚ますとは。いや、これより酷い怪我を負った時は三日程で目を覚ませていたのだから、むしろ長いくらいか?

 

「義勇さん! 次は文字の練習ですよね?」

「ああ。今から俺が紙に漢字を書くから、その漢字と読みを暗記してくれ。ちゃんと一文字ずつ覚えるんだぞ」

「うん!」

 

 それで、だ。一週間前に目覚めたはいいが、俺は殆ど身動きがとれない状態であったため非常に暇を持て余すこととなった。怪我人なんだから黙って過ごせと言われれば何も言い返せないが、俺は目的が無いとジッとして居られない性分なのだ。

 

 なので、俺は空いた時間を使ってアオイに勉強を教えることにした。とりあえず四則計算と漢字の読み書きさえ覚えれば、これからアオイが取れる選択肢も増えるだろうと思って。

 

 幸い、この子は地頭がとてもいいのか飲み込みが早かった。ちゃんとした教育機関にさえ通えば、商人として一旗揚げるのも夢ではないかもしれない。

 

『――――義勇君、起きてる? 食事を持ってきたのだけれど』

「起きている。入ってくれ」

 

 コンコンと部屋の戸を小さく叩く音。板を一枚隔てて聞こえた声の主はすぐにわかったため、俺は特に迷うこともなく来客を病室に招き入れた。

 

 戸を開けて入ってきたのは勿論カナエ。どうやら彼女は俺とアオイの分の食事を盆に乗せて持ってきてくれたらしい。なんでも態々病院の厨房を借りて手ずから作っているんだとか。全く、面倒見が良すぎるというか。

 

「義勇君はお粥をどうぞ。アオイちゃんはこっちの味噌煮込みね」

「ああ、ありがとう」

「うわぁ! 美味しそう!」

「誰も盗らないから、焦らずゆっくり食べるのよ~」

 

 俺はカナエからお粥の乗った盆を受け取る――――ことは片手が不自由な以上無理だった上、未だに右手の方も痺れが抜けきっていないため、今回も大人しく彼女に食べさせてもらうことにする。目を覚まし、栄養点滴ではなくしっかりとした食事を再開してからもう四日目。最初は引け目があったがもう慣れた。

 

「はい、あーん」

「……あー」

「んふふ、まるで小鳥に餌を与えてるみたいで可愛いわ」

「揶揄わないでくれ……」

 

 敵わないな、彼女には。

 

 ……食べている間に得た情報のおさらいの続きだ。

 

 負傷した俺と、俺を一人置いて戻ることに抵抗を示したカナエ以外の隊士。つまり柱二人に関しては至急花屋敷へと送られ集中治療が行われているらしい。悲鳴嶼さんは右耳の鼓膜破損、軽度の脳震盪、左腕と両腿貫通、背部表皮の大部分が剥離。真白さんは全身打撲と右大腿部骨折、そして骨折している足に無理をさせたことでかなり重い筋断裂を患ったらしい。

 

 どちらも一朝一夕で治せる様な傷ではないため、最低でも二週間は鬼殺隊は柱が二名動かせないという困難に見舞われることになる。ただ、その代償としてあの怪物染みた才覚を持つ鬼を狩れたのは幸いと言えるが。

 

 そして最後だ。……アオイの両親と、善継さんの葬式が済んだ。怪我のため俺は出席できなかったが、彼らは随分多くの人に好かれていたようで、かなりの人数が訪れたらしい。その上、この爆発騒ぎで犠牲となった四人の内三人という事(にされた)のもあって、一人残されたアオイにはかなり同情的な視線が集まったようだ。

 

 その中にはそんなアオイに養子になるよう声をかけた善良な者もいたようだが、当の彼女は――――

 

「……アオイ、本当にいいのか。俺たちに付いてくる選択をして。お前が望むなら、もっと別の道を用意する事だってできるんだぞ」

「またですか。……自分で決めたんです。二人に付いて行くって。私も……私も鬼狩りになりたい」

「アオイちゃん……」

「………………」

 

 それらの声を全て蹴り、アオイは俺たちに付いて来て鬼狩りとなるのを望んでいた。きっと、兄の様な人をこれ以上生まないため、何より兄をあのように変貌させた鬼舞辻への復讐心からくる衝動に突き動かされていたのだろう。

 

 身近に鬼への怒りを抱いた実例がいるのだ。察しはすぐについた。だが、果たしてそれが彼女のためになるのだろうか。

 

 俺の知る限り、神崎アオイは力が付いても鬼は狩れない。実力があっても、心が弱いのだ。死と隣り合わせになっても立ち上がれる勇気が、彼女にはない。

 

 だが勘違いしないでほしい。俺はその事を責める気も蔑む気も一切ない。そもそも死地に自分から飛び込んで人外どもと渡り合う鬼殺隊(俺たち)が異常なのだ。生への欲求を鬼への怒りで揉み消して剣を振るう。それの何処が正常と言えようか。

 

 ともかく、このまま行けば彼女は無用な苦労をすることになってしまう。しかし、だからと言って強く否定することもできやしない。彼女には怒りを抱く権利も、それに従い自分の道を選ぶ権利もある。俺たちができるのはあくまでも助言だけだ。その上でアオイがその道を選んだのならば、もう俺たちのような外様がとやかく言うわけにもいかない。

 

 ……いいや、単に俺が優柔不断なだけか。長々と御託を並べたが、結局はアオイの怒りをどう収めればいいかわからないから「仕方ない」と諦めているだけ。

 

 全く、考えれば考える程、自分が嫌になる。

 

「――――あら、そろそろ健診の時間だわ。アオイちゃんも、そろそろ行きましょう?」

「はい。では冨岡さん、また明日!」

「また明日」

 

 定期健診の時間が近づいてきているのに気づいたカナエがアオイの手を取り、食器を片づけて部屋から立ち去った。

 

 そうして訪れるのは、静寂。静かな空間の中で、俺の心臓の鼓動だけが耳へと静かに伝わってくる。

 

(…………虚しい)

 

 十二鬼月の討伐。鬼殺隊では間違いなく称えられるべき業績である。

 

 誇るべきだろう。

 

 胸を張るべきだろう。

 

 俺は強い悪鬼を討ち倒したのだと。

 

 だけど、そんなことをしようとする気が全く湧いてこない。胸の中に在るのは、ただただ虚しいと感じる空虚感と無力感。

 

 結局一人では何もできなかった。

 

 結局誰も笑顔に出来なかった。

 

 何も、変えられなかった。

 

(………………どうして、俺は、ここに居るんだ)

 

 俺がここに居ることには意味があるのだと思っていた。思いたかった。だが結局望む結末は得られず、できたことは最悪の事態を回避することだけ。

 

 最悪でなかったことを誇るべきか? 犠牲者が経った四人しか出なかったことを誇るべきか? ――――誇れるか。そんな事を。

 

 何で俺はここに居る。何で俺はこの身体に居る。

 

 何の、ために。

 

 

 

 

 

 

 

 

「カァァァァッ! 緊急! 緊急! 子供ガ鬼ニ襲ワレテイルゥゥゥゥ!」

「ッ―――――――!!!」

 

 真夜中、グッスリと熟睡して傷を癒していた俺は鎹烏の声に反応して目を覚ます。窓の方を見れば相方である黒衣がパタパタと翼を羽ばたかせながら叫び散らしていた。

 

 その声の内容を寝起きの頭でどうにか理解した俺は寝具の下に隠していた折れた刀を手に取り、患者服のまま窓から近くの建物の屋根へと跳んで病院を出奔する。身体はまだまだ本調子には程遠いが、そんな事を言っている場合ではない。

 

「黒衣! 鬼の場所は!」

「東ノ住宅区ダ! 急ゲ! カァァァァア!!」

「了解……!」

 

 黒衣を追う形で屋根から屋根を伝って最短距離で移動する。どうか間に合ってくれと心の中で切に願いながら、痛む身体に鞭打って俺は夜空の下で何度も跳ねた。

 

 目的地にはおよそ三分で到着した。僅かだが遠目で鬼らしき影が何かともみ合っているのが見える。襲われているという子供は――――生きている! どういう術を使ったのかはわからないが五体満足で鬼相手に健闘している!

 

 そして鬼は様子からして飢餓状態。しかも子供にすら対抗できる程弱いという事は、()()()()か。鬼舞辻め……!!

 

 何はともあれ、まだ誰も食べてないのなら……せめて痛みを与えず葬ろう。

 

「――――水の呼吸、【伍ノ型】」

 

 屋根の端から力を込めて跳躍。一瞬で鬼との距離を詰め、穏やかで真っすぐな剣筋で、俺は折れた刀を静かに振るった。

 

 

「【干天(かんてん)慈雨(じう)】」

 

 

 本来ならば鬼が自ら首を差し出した時にのみ使う技だが、今回は例外だ。俺の気配を読む感覚だけが頼りの推定ではあるが、気配からして恐らくこの鬼は本当になり立て。誰も食べていない。

 

 ならばせめて、苦しまないように死なせてやるべきだろう。それが鬼へと変貌した者へ示せる、人として葬るという唯一の慈悲であるならば……。

 

「おい君、大丈夫――――」

 

 残心を終えた俺は首を斬られ力を無くした鬼の身体に下敷きとなった子供に声をかける。見た所血だらけだ。早く医者に見せ

 

 

 

 

 

 

 

 

「おね、がい……こども、たち……を……どう……か……………」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………母、ちゃん?」

 

 夜が明けた。日が出て、暗がりだった景色がはっきりと見え始める。

 

 その子供の顔は、少しだけ見覚えがあった。かすれ始めた前世の記憶に、確かに存在している顔だ。

 

 白い髪、鋭い目つきを持つ少年が鉈を片手に、茫然と血に転がる生首を見ている。

 

「――――母ちゃん!!」

 

 後ろから、頭の真ん中以外の髪を刈り上げた独特な髪形の少年が声を張り上げながら姿を現した。少年は折れた刀を持った俺を見て一瞬硬直し、そしてすぐに生首だけになった己が母の姿を発見して涙を流しながら首を抱きかかえる。

 

「うわああああ! 母ちゃん! 母ちゃん!!」

「……………お前たち、は」

 

 何を言えばいいのかわからなかった。いや、最初から、俺に何かを言う資格は、無かったのか。

 

 

 

「何でだよ! 何でっ、何で俺たちの母ちゃんを殺したんだよ! この人殺し! 人殺し――――――――っ!!」

 

 

 

 俺は、その時自分がどんな顔を浮かべたのかを覚えていない。

 

 

 ただ、確かなことを言えるのは。

 

 

 あの場で俺は、どうしようもなく、自分という存在に絶望したという事だ。

 

 

 

 

 

 




無惨様「こんだけ血を与えてやったんだしまあ死なないでしょ(慢心)」

《下弦の伍がグループから離脱しました》

無惨様「????????」

この件を経て無惨様は二度と報酬の前払いをしないことを決意した。そしてこの後滅茶苦茶八つ当たりした(適当に通りかかった女に血を投与)。冨岡さん(憑)のメンタルにこうかはばつぐんだ。

冨岡さん(憑)の自己評価が底知らずに下がっていく件について。今回の件でこの人メンタルにダメージしか負ってねぇな……。

Q.こんな時になんでカナエさんは来てないの?
A.連絡は入ったけど単純に間に合わなかった。ただ途中で合流できたとしても一人余計に精神ダメージ負うだけだから結果オーライ。なお冨岡さん(憑)の心


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第参拾陸話 兄として

遅れてメンゴ(震え声)

キヴォトスで先生始めたりトレセン学園でトレーナーしてたらつい執筆意欲がね……?



 真っ黒な場所で、不死川実弥は微睡んでいた。

 

 まるで水の上に浮かんでいるような感覚。一寸先すら黒しかない真っ暗闇の中で、彼はうっすらと意識を目覚めさせ始める。ただ実弥は、完全に目覚めてしまえばきっとこの場所に自分はいないだろうとどこかで確信じみたものを抱いていた。

 

「実弥」

 

 誰かの手の感触が実弥の頬に触れる。そして彼はそれが誰の手かをすぐに判別できた。間違えるものか。自分が産まれてからずっと触れあってきた少し硬い、しかし暖かく優しい感触。母の手を。

 

「就也も、弘も、ことも、貞子と寿美も……私が、手にかけてしまった」

 

 実弥の母である志津は、自分自身を呪い殺しそうなほどの声音で告げる。そして実弥は何も言わず涙した。どうしてこんなことに、と何度も心の中で悔やみながら。

 

「ごめんなさい。貴方たちを立派に育て上げるつもりが……結局最後まで、足手まといにしかなれなかったお母さんを許して……」

「……母、ちゃん」

「実弥。どうか、どうか私のことは忘れて、幸せに生きなさい。……玄弥のことも、ちゃんと守ってあげてね……」

「……母ちゃん……!」

「ずっと、ずっと……貴方たちのことを、見守っているわ……」

 

 頬に触れた手がするりと離れていく。実弥はすぐさまその手を掴もうと手を伸ばそうとするが、身体は一向に動かない。動けと命じても、彼の身体は指一本たりとも動きやしない。

 

 歯を食いしばりながら実弥は目を力いっぱい開ける。そしてようやく動けるようになった手を暗闇の中へと伸ばし――――

 

 

 

「母ちゃん!!!」

 

 

 

 手が空を切る。

 

「……………………夢、か?」

 

 顔に滲む汗が頬を伝うのを感じながら、実弥はズキズキと痛む顔を押さえ、体を起こしながら辺りを見回す。

 

 見慣れない部屋だ。少なくとも自分の家ではなかった。そして微かに漂う薬品のような刺激臭から此処が病院の類であると彼は察する。

 

(いや、そんなことはどうでもいい。早く母ちゃんが無事かどうかを確かめ――――て……)

 

 正常な思考を取り戻した途端、彼の脳裏に気絶する前の光景がフラッシュバックする。

 

 目を血走らせ、飢えた獣のように狂った母親。それを知らずに何度も鉈で叩き斬り続けた己。生死の行方も分からない激闘。突然の閃光と、戦いの終わり。夜明け。獣の正体。

 

 

 母親の、生首。

 

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!!!!」

 

 

 全てを思い出した瞬間、彼は狂乱のままに壁に頭を何度も叩きつけた。その騒ぎに気付いたのだろう、扉を開けて見知らぬ少年が部屋に入り、目を血走らせた彼を羽交い締めにして制止する。

 

「お、おい! やめろ! 落ち着けって! 死ぬ気か!?」

「うるせぇええええええええええッ!! アイツはッ、アイツは何処だ!! 俺のお袋を殺したあの糞野郎は何処に行ったッ!! 殺してやるッ!! アイツも同じように首を刎ね飛ばしてやるッ!!」

「落ち着けつってんだろこのボケッ!!」

「ぐえっ」

 

 少年にキツイ一発を頬に叩き込まれたことで実弥の頭は一応冷え始めた。そして無我夢中だったせいで忘れていたのだろう頭への痛みも今やっと思い出したのか、グワングワンと痛む頭を押さえて千鳥足になり始めた。

 

 謎の少年はそんな彼に肩を貸して元から寝ていた寝台へと寝かせた。そして五分ほど経って平常心になった頃合いに、ようやく自分が何者かを語り始める。

 

「俺の名は後藤。その、鬼殺隊の隠っていう役職に就いている」

「きさつたい? かくし? ……んだそりゃ」

「ああ、鬼殺隊っていうのは――――」

 

 少年……後藤はできる限り事細やかに鬼殺隊や鬼について語り始める。

 

 千年前に鬼の始祖と呼ばれる存在が生まれたこと。その鬼の始祖は何らかの目的で度々人を鬼に変え続けていること。鬼に変じた人間は人とは思えぬ怪力と異能を引き換えに人を食べたいという衝動に駆られること。そんな怪物を狩るために鬼殺隊は組織されていること。また隠とは後方任務を担当する役であること。

 

 そして最後に……実弥の母は鬼に変えられたことを。

 

「これが俺からお前に言える全てだ。……何か、質問はあるか?」

「何か……何か方法はなかったのかよ! 戻せる方法は!? 何でもいい、人が鬼に変えられたんなら逆に人に戻せる方法が何かあるはずだろうがァ!!」

「無い。少なくとも鬼殺隊では、そんなことが出来る方法は何一つ、確認していない……」

「……じゃあ、弟は……俺の弟妹たちはどうなった! 玄弥は! 就也は! みんなどこにいる!!」

「……………玄弥っていう子以外は、皆手遅れだった。……すまん」

「っっっ…………ぁぁぁあああああああああああ!!!!」

 

 絞り出すように、爪が手の内に食いこむほど握りしめて実弥は呻いた。せめて一人生き残ってくれたのは喜ぼう。だがそれ以上の悲しみと絶望が彼の胸に食い潰していく。

 

「なんでだよ! なんでっ、なんで俺たちが、こんな目に遭わなきゃならねェんだ!!」

「……………鬼の被害に遭って身寄りを失った子供は、近くの藤の花の家紋が付けられた家に預けられることになっている。衣食住に不自由はしないと思うから、安心してくれ」

「クソッ、クソッ! クソッタレがァッ……!!」

(聞いちゃいねぇ……まあ、無理もないか)

 

 家族に暴力を振るってばかりのロクデナシな父が死んで、ようやく改めて地に足を付けた生活ができると思っていたのに。いつも苦労しているお袋を兄弟姉妹皆で支え合って生きていけるはずだったのに、その矢先にこんな事が起こるだなんてどう予測する。

 

 この理不尽に対する怒りだけは底なしに出てくる。だが、それをぶつける先がわからない実弥は拳を握りしめ、悔しさのままに涙を流し続けた。

 

 だが、彼はやがて今まで得た情報の中で己が母の仇を把握する。そして涙を服の袖で拭いながら、ただならぬ眼光で今この場で唯一敵討ちへと繋がる伝手である後藤を見る。

 

「……なァ、後藤つったか……」

「? あ、ああ、なんだ?」

「俺の母ちゃんは……鬼に変えられたんだよな。一体、誰にだ?」

「鬼舞辻。鬼舞辻無惨だ」

「鬼殺隊は、そいつを追っかけてるんだったよな?」

「そうだ」

「だったら……俺を鬼殺隊に入れやがれ」

「!」

 

 興奮が冷めぬまま実弥は血だらけの手で後藤の胸倉を掴み上げてそう要求する。しかし後藤の方はあまり乗り気でないのか渋い表情を崩さずにいた。

 

「待て、落ちつけ! 玄弥君は、弟はどうするつもりだ!?」

「テメェがさっき衣食住に困らない藤の花のなんたらに預けられるつってたろうが!」

「聞いてたのかよ!?」

「それに鬼なんつゥ存在がいるんだったら、尚更俺が力を付けなきゃなんねェ……! また鬼に襲われて、俺も玄弥もその時また五体満足で生き残れる保証なんてねェ!」

「だが……」

「それに、よォ」

 

 実弥は胸倉を掴む手を震わせ、歯を食いしばり、抑え込んでいた筈の涙を漏らしながらも、万感の思いが籠った言葉を、後藤へとぶつける。己の決意を。

 

「お袋を化物に変えられて、殺されることになって、息子の俺が何もなかったように黙って生きるなんてなァ! そこらで無様に野垂れ死ぬことと何が変わらねェんだ!? 俺は誰に何を言われようが俺一人になろうがやってやる! お袋を鬼に変えやがった無惨っていう糞野郎をこの手で絶対にぶっ殺してやる!! 鬼なんてふざけた存在も一匹残らずぶっ殺して、玄弥がちゃんと安心して生きていける世の中にするんだよ!! だから黙って俺に協力しやがれェ!!!」

「…………………わかった。わかったよ。協力してやるから、少し落ち着け」

「フゥッ、フゥッ、フゥゥゥゥゥゥゥッ……ごほっ、ゲホッ……!」

 

 溜まりに溜まった鬱憤を怒号と共に全て吐き出し終えると、実弥はむせ返りながら寝台へと倒れ込む。

 

 そのあまりの剣幕をぶつけられた後藤も少し引き気味であったが、彼も彼なりの事情で鬼殺隊に身を投じた存在。実弥の気持ちを痛いほど理解出来た。故に後藤は素直に彼の手助けをしようと小さく決意を固めるのであった。

 

「この紙に書いた場所に俺の師匠がいる。教えてくれる呼吸がお前に合うものかはわからないけど、基礎は間違いなく修められるはずだ」

「……ありがとよ」

「いいってことよ。とりあえず今は療養しろよ? そこにいる弟と積もる話もあるだろうしな」

「っ……!」

 

 ハッと言われて実弥が顔を上げると、部屋の戸の後ろに隠れるように怯えた顔を浮かべる弟の玄弥がこちらを覗いていることに気付いた。後藤も気を利かせたのかそそくさと立ち去り、見知らぬ人が消えたことによって玄弥も恐る恐ると部屋の中に足を踏み入れた。

 

「に、兄ちゃん……お、俺……」

「玄弥、聞いてたのか?」

「うん……」

「……そうか」

 

 何処から聞いていたのかは言わなかったが、実弥はその様子から半分以上は聞いたと察せられた。少なくとも鬼殺隊が鬼という危険な存在と戦うための組織であり、自分がそこに入ろうとしていることは聞いてしまったのだろう。おかげで玄弥はとても不安そうな表情を浮かべている。

 

「兄ちゃん、本当に行くの……?」

「ああ」

「だ、だったら俺も行く! 俺も兄ちゃんと一緒に行って役に立ちたい!」

「駄目だ。お前は普通に生きやがれ。幸い衣食住に困ることはねェんだ」

「でも!」

「頼む」

 

 玄弥にそう言う実弥の憔悴し弱り切った顔を見て、玄弥は何も言えなくなる。

 

 一晩で弟を、妹を、母を失った。一家の長男として、唯一残った肉親である玄弥まで失うのは実弥にとって耐え難い苦痛に他ならない。故に争い事からなるべく離そうとするのも、無理はなかった。

 

 それから一息ついた実弥は無言で隣に座る玄弥の身体をギュッと抱きしめた。玄弥もやがて震える手を動かし、兄の身体を抱きしめ返す。

 

「玄弥。お前は、お前だけは必ず、兄ちゃんが守ってやる……兄ちゃんが、絶対に……!」

「兄ちゃん……」

 

 悲壮な決意が、彼にとっての新たな一歩の始まりであった。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 戦うのがこれほど辛いことだと知っていれば、俺はこの手に刀など取らなかったのだろうか。

 

 後悔しているのか? ……していないといえば、まあ、嘘になるのだろう。だが、だからと言って今更すべてを手放して無責任に生きれるほど俺は図太くないし、そんなことをするならそもそも戦おうとすら思っていない。

 

 だけど、やはり。

 

 ……辛い。

 

「……………すぅー……ふー……」

 

 柔らかな寝台の上。窓から差し込む木漏れ日。程よく換気されたさわやかな空気をほんの少し吸い込み、深く吐く。

 

 下弦の伍との戦いを終え、当地の病院から無事花屋敷へと移った俺は精密な検査と治療の末、全治二ヵ月を言い渡された。体はともかく、左腕の骨折に関しては慎重かつ確実な治療が必要となるらしいので、俺も素直にそれを受け入れた。無理をして腕一本が使い物にならなくなるのは俺とて不本意なのだから。

 

 しかし二か月もの間安静にしていなければならないということは、その間俺は鍛錬の様な激しい運動等はできなくなるということ。だが果たしてじっとしていられない性分の俺が、何事もなくその期間を過ごせるのだろうか。

 

(…………その間に、心の整理をつけておかないとな)

 

 正直、このまま復帰したとして前のように戦えるのかどうか俺は非常に不安だった。今の精神状態では、おそらく少し前のカナエのように、まともに戦えるかは非常に怪しいところだ。

 

 ある意味で、ずっと後回しにしていた問題にようやく向き合う時が来た、ということなのだろう。――――これから首を切る相手が、誰かの親しい肉親であるかもしれない、という事実に。

 

 鬼と化した者がどいつもこいつも同情ができない屑共ならいい。それなら俺も何の気兼ねもなく叩き斬れる。だがそんな甘い話はない。このまま鬼殺隊に身を置き続けるならば、きっとこれから何度もああいう場面に出くわすことになる。

 

(……不死川たちは……今頃どうしているのだろうか……)

 

 三日ほど前、花屋敷へと移る前に倒した鬼は間違いなく不死川兄弟の母だった。子供が襲われているという非常事態を目の当たりにしてしまったため、確認もせずに即座に切り殺した。

 

 鬼殺隊の立場からすればそれは決して間違った判断ではない。むしろ最適とすら言える。だが……個人的には、思わず自虐したくなるほど早まった行為だとしか評せない。

 

 現時点で鬼を人に戻せる方法は存在しない。だが、時が経てばその方法は生まれてくる。戻せる可能性はあったのだ。なのに、俺は……。

 

(悲しみを少しでも減らすために戦っていた……つもり、だったんだ……)

 

 正しいことをしたいのに、できない。足りない。何故だ? 何がいけなかった? 何が不足だった?

 

(――――全部だ)

 

 心も、体も、技も。全部が未熟だ。足りない。足らな過ぎる。

 

 望む結果を手繰り寄せるためには、相応の努力が必要だ。ということは、俺はもっと貪欲にならなければならないのだろう。

 

 もっと、もっと力を。

 

「――――冨岡さん!」

「?」

 

 大きな音を立てて扉を開けて部屋に入ってきたのは二人の少女、アオイとカナヲだ。しかしなぜかアオイは頬を小さく膨らませながら小さく怒った様子であり、そんなアオイに手をつかまれているカナヲはいつもの無表情などどこかに行ったかのようにオロオロと戸惑いの様子だ。

 

 一体何が起こったというのだろう。まさか知り合いが大怪我でも――――

 

「カナヲの名字を! つけましょう!!」

「は?」

 

 …………………あ、忘れてた。

 

 

 

 

 

 今更ながらカナヲと出会ったからもう三ヶ月以上もの時が過ぎた。しかし今までいろいろと忙しかったり入院してたりで後回しにしていたが、そろそろ苗字を与えてもいい頃だろう。

 

「そういう訳で皆集まったのだけれど……どうしようかしらね?」

「うぅむ……」

 

 丁度休日を取っていた錆兎、暇していた真菰としのぶ、俺と同じく傷を癒すため療養中のカナエ、最後に花屋敷年少組であるアオイとカナヲたちが揃って俺の病室に集合し、カナヲにつけるべき苗字に対して頭を悩ませていた。

 

 下手すれば一生ものになるのだ、迷うのも当然ではある。

 

「姉さん、此処はやっぱりそれぞれ考えたものを出してカナヲ本人に選ばせるべきなんじゃない? この子、ヘンテコな苗字付けられても拒否とかしそうにないし」

「私もそう思います!」

 

 しのぶの一声によって苗字を決める方法は決まった。これで後は各々が考えた苗字を紙に書いて、それをカナヲに選ばせるだけである。

 

 という訳で俺は「栗花落」という苗字を書いて提出した。原作のままじゃないかって? 変える理由もないのに変える奴はいないだろう。それに個人的に綺麗な苗字だと思うし。

 

「そろそろ皆出し終えたかな? じゃあじゃあカナヲちゃん、この中から好きなのを選んでね~。あ、全部気に入らないならその時に言ってね?」

「真菰、親切のふりしてさりげなく真ん中に自分の紙を置くんじゃない」

「えー、けちー」

「……………」

 

 じっと正座のまま微動だにしないカナヲが目の前に並べられた六枚の紙へと順番に視線を移していく。途中真横に座っているアオイのキラキラとした顔を見て少しだけ困った表情を見せたりしたが、やがて一度目を伏せて……何故か俺の方を見た。

 

「……? カナヲ、どうかしたのか?」

「…………がいい」

「え?」

 

 とてとてとカナヲは寝台にいる俺の傍に寄ると、患者服の裾をぎゅっと握って、何かを決心したようにはっきりと声を出した。

 

 あまりに予想外な一声を。

 

「冨岡が、いい」

「………………んんんん?????????????」

 

 その言葉で場の空気が一瞬で凍り付いた。

 

 えーと、その、うーん……なんで……?

 

「ちょっ、ちょっと義勇さんどういうことですか!? 説明を! 説明を要求します!」

「苗字を同じものにすることで距離を一気に詰めるだなんて……カナヲ、恐ろしい子……!」

「カ、カナヲ? ほ、ほら、私の苗字とか凄くカッコいいから! 冨岡もいいけど神崎もいいと思う!」

「そういう問題ではないと思うんだが……」

「あははー、義勇もやり手だね~」

 

 予想通り全員大混乱だ。そして俺も混乱している。なんだこれ、なんなんだ。どうしてこうなる。

 

「カナヲ、何で俺の苗字が欲しいんだ? 理由はあるのか?」

 

 とりあえず落ち着きを保つことを努力しつつ、本人に理由の方を聞いてみることにする。どんな理由であろうとも本人が本心から俺の苗字がいいというなら別に苗字が同じになるくらい構いやしないが……。

 

「………お兄ちゃんの、妹になりたい」

「………………そうか」

 

 カナヲは俺だけに聞こえるくらいの小さな声でそう言った。

 

 彼女の言う“お兄ちゃん”が誰を指すものかわからないほど、俺も鈍感ではない。その言葉の裏に隠された感情を何となく察した俺は、俺の服を握るカナヲの頭を小さく撫でる。

 

 この子は愛情を求めている。無くしたモノの代わりを欲しがっている。そしてそれを間接的に奪ってしまったのは、俺だ。

 

 ならば、責任を取らねばならない。

 

「俺の両親は既に死んでいる以上、形式上は義理の家族ではなく、苗字が同じだけの他人ということになる。が、お前が俺を兄と呼びたいのならば、俺もお前を妹として愛せるように努力してみる」

「……うん」

 

 まさか今更俺が義理とはいえ妹を持つことになるとは。本当に人生何が起こるかわかったものではない。

 

 お兄ちゃん。お兄ちゃん、か。

 

 ……頑張らないとな。

 

「ちょっと義勇さん! 聞いてますか!?」

「聞いている。聞いているから体を揺らさないでくれ、結構痛い」

「あ、ごめんなさい。ってそうじゃなくて!」

「まあまあ、いいじゃないしのぶ。カナヲちゃんも義勇君もなんだか納得しているみたいだし、私たちがとやかく言っても仕方ないわ。それくらいにしておきなさいな」

「うぅ~……折角カナヲを妹にできると思ったのに……」

「私のカナヲ神崎化計画が……」

 

 カナヲを身内にしようとしていた二人が揃って膝を突いて蹲りシクシクと涙目になる。どんだけショックだったんだお前たち。

 

「うーん」

「? どうしたの真菰ちゃん?」

 

 蹲るしのぶとアオイを見て苦笑いを浮かべていると、ふと真菰が珍妙な表情で唸りながらカナエのことをジッと凝視する。見られていることに気付いたカナエは心当たりがないのだろう、首を傾げて真菰に問いかけた。

 

 問われたのならば返すのが礼儀。真菰は発言の許しを得たのだと思い、遠慮なく言葉の爆弾を投下する。

 

「なんかさ、義勇とカナエちゃんの距離近くない?」

「「へ?」」

「いや、なんていうか、カナエちゃんから義勇に向かう視線になーんか変化というか……あ、そういうことね。あちゃ~」

「おい真菰、何を一人で納得している。ちゃんと説明しろ」

「だーめ。乙女の秘密は神聖不可侵なんだよ?」

 

 俺も錆兎の言葉に同意であった。一人で疑問を提示したかと思いきや突然一転して自己完結されても反応に困るというもの。せめて少しくらい説明をしてほしいものだ。

 

 しかし真菰はニッコリ爽やかな笑顔で拒否した。なんで?

 

「きっ、ききき気のせいじゃないかしら真菰ちゃん……? べ、別に何も変わりないと思うのだけれど……?」

「ほんとぉ? ほら、聞けば前の任務は一緒に取り組んだらしいじゃん? だったらそこでちょめちょめしたんじゃないの~?」

「なっ、そんなことで姉さんがする訳ないでしょう!? そうよね、姉さん!」

「あー、えっとぉ、そのぉ……」

「……………え? ね、姉さん?」

「真菰、変な邪推はやめろ。精々添い寝と膝枕しかしてないぞ」

 

 年頃の娘は色恋沙汰に飢えているのか、話が変な方向に向かおうとしたので俺はすぐさまフォローを入れた。全く、創作の登場人物ならともかく現実の知人に対してそのような夢想を抱かれても困る。俺は別にどうとも思わないが、カナエは繊細な乙女。俺なんかとそういう関係だと思われては失礼だろう。

 

 そう思って我ながらナイスな援護射撃ができたとちょっとだけ鼻が高くなるが――――なんで皆無言で黙っているのだろうか。当時のカナエの精神状態を鑑みてメンタルケアのために添い寝と膝枕を(俺が)してあげたというだけなのに。

 

「し、しのぶ、ち、違うのよ? これは、その、あの」

「………………姉さん。ちょっと、外でお話しましょうか」

「あ、私も行く行く! いやぁ、面白ゲフンゲフン、修羅場になってきましたなぁ~」

「義勇君! 助けてぇ!?」

「…………???」

 

 なんだかよくわからないうちにしのぶがカナエを引き摺って出て行ってしまった。真菰は何が面白いのか新しいおもちゃを見つけたような小悪魔の様な悪い笑みを浮かべて二人の後を追って行ってしまう。

 

 はて、何が起こっているんだろうか……?

 

「……え!? カナエさんと義勇さんって恋人同士じゃなかったんですか!?」

「違うと前々から言っていた筈なのだが。そもそも、俺ではカナエに吊り合わないだろう。彼女にはいつか俺などとは比べ物にならない、彼女を幸せにするに相応しい素晴らしい殿方が現れるはずだ」

「……あの、錆兎さん、これ素ですか?」

「残念ながらな……恐ろしいぞ、天性のタラシというやつは」

「?」

 

 いつもの事ながら、周りが何を話しているのかさっぱりわからない。俺が自覚している欠点の一つであることは理解しているのだが、如何せんどうやって改善すればいいのやら。なるべく理解できるように努力はしているつもりなのだが……。

 

「……お兄ちゃん」

「ん、どうかしたか、カナヲ」

「……呼んでみた、だけ」

「そうか」

 

 そうだ。欠点の改善も大事なことだが、それよりまず今日から妹になったカナヲに対して何をしてやれるか考える方が大事だ。

 

 しかし兄、俺が兄か。俺は末っ子だから、下の子に対して何をしてやるべきかさっぱり……。

 

(……そういえば)

 

 思えば、この子の周りには私物があまりないような気がする。更にこの子はまだまだ幼く、将来のためにもどんどん知識を吸収していくべき時期だ。

 

 そうとなれば、やるべきことは――――

 

 

 

 

 

「姉さん。説明してください。今、私は冷静さを欠こうとしています」

「し、しのぶ? 顔が、顔が女の子がしちゃいけない感じになってるわよ……? お、落ち着いて? ね?」

 

 無事壁際へと追い込まれた胡蝶カナエ。般若の如き怒りの形相を浮かべた妹は容赦なく、しかし淡々とした口調で顔の横に手をつかせて姉の逃げ場をなくし、徹底的に問い詰めていた。

 

 そんなかつてないほど恐ろく慈悲という感情の抜け落ちた顔になってしまっている妹に対しカナエはなんと言えばいいかわからず涙目で縮こまるだけ。しかしそんな彼女にようやく救いの手が差し伸べられた。

 

「まあまあしのぶちゃん、ここは一つ寛大な心で言い訳の一つくらい聞いてあげようよ。ほら、義勇が言葉足らずなせいで私たちが誤解しているだけかもしれないじゃん?」

「それは……あり得ますね」

 

 義勇の言葉足らずや空気の読めなさは彼の知人の間では周知の事実である。真菰の言い分にも一理あると納得したしのぶはため息をつきながらも顔を一度整え、改めて姉に説明を要求した。

 

「で? 実際の所どうなの姉さん?」

「ええと……膝枕と添い寝は、嘘じゃないのよ。でっ、でも正確に言えば、義勇君が私に対して膝枕をしてくれたって意味だし、添い寝も私から願ったというかなんというか……」

「もっと訳が分からないんだけど!? なんで姉さんがそんなことするのよ!?」

 

 ごもっともである。カナエとて年頃の娘としての最低限の倫理観や常識は備えているはず。にもかかわらずただの友人である男子相手にそんな行動を実行したのだから、しのぶは余計に訳が分からなかった。もう既に色々と察している真菰は別であったが。

 

「なるほど、なるほどねぇ。しのぶちゃん、これはもう認めるしかないよ」

「え? 何を?」

「つまり――――カナエちゃんはしのぶちゃんと同じように義勇君に恋慕しているんだよっ!」

「な、え……うぇえっ!?」

 

 自慢げにそう断言する真菰。しかししのぶはそれを何かの冗談だとしか受けなかったのか、苦笑いを浮かべつつ姉の否定の声を心待ちにする。が、何秒経ってもうんともすんとも言わないカナエ。

 

 そんなまさか、と嫌な予感を抱きつつしのぶは壊れた絡繰りのようにぎこちない動作で首を回し、姉の表情を覗き見ると……。

 

「…………えっ、と、困るわ……そんな、はっきりと言われちゃったら……私……」

「」

 

 両手の人差し指をツンツンと合わせながらカナエが見せる、生まれて初めて見る姉の女としての顔を直視してしのぶは頭が真っ白になった。

 

「義勇も罪な男だねぇ。それできっかけは?」

「その……私が弱ってる時にずっと傍にいてくれて……戦う時も、何度も私を守ろうとしてくれたし、何よりも私を信じてくれたから……しのぶには悪いと思っているのよ? でも……あの人を、好きになっちゃったの……」

「ドウシテ……ドウシテ……」

「おーいしのぶちゃーん、戻ってこーい」

 

 心も体も真っ白に燃え尽きた様子のしのぶは真菰に肩を揺らされ、頭を叩かれても譫言を繰り返すばかり。それほど信頼している姉の初めて見る顔がショックだったのだろう。何より自身の思い人に横恋慕された怒りと、それ以上に納得の心を抱いて衝突させているばかりに。

 

 姉妹なのだ。男の好みが似ることもあるだろうし、何より惚れた理由も理解ができる。というかほぼ同じである。もしこれがどこの馬の骨とも知らない女であれば対抗心もむき出しにできようが……。

 

「わ、私の恋を応援してくれるって言ったのは何だったのよ!? 姉さんの嘘つき! 泥棒猫!」

「し、仕方ないじゃない! 好きになっちゃったんだからっ!」

(うわぁ、現実で姉妹で一人の男を奪い合う場面を見ることになるとは思わなかったなぁ……)

 

 暇になったときに読みふける愛憎劇ものの書物を思い出しつつ状況を面白がる真菰であったが、だからと言ってこのまま仲の良い友人同士がドロドロのキャットファイトを始めることを望んでいるわけではない。彼女は込み上げる愉悦が最大限顔に出ないよう努力しつつ「まあまあ」と二人の間に入り仲介を試みた。

 

「二人とも、ここは冷静になろうよ。深呼吸深呼吸」

「フシャーッ!」

「あうあうあう」

「駄目だこりゃ……。仕方ない、そんな二人に私が一つ名案を出そうか」

「「……名案?」」

 

 あまり期待はせずに胡蝶姉妹はなんだか黒い笑みを浮かべている真菰の言葉に耳を傾けた。同時に病室にいる義勇は何か寒気のようなものを感じたとか感じていないとか。

 

 

「逆に考えるんだ。姉妹丼すればいいじゃない、と」

((何言ってるのこの人……))

 

 

 返ってきた反応はドン引きであった。法律的にもアウトであるため当たり前の反応である。

 

「え? 駄目だった?」

「駄目に決まってるでしょう!? 法律で重婚は禁じられてるし、そもそも一人の男性が何人も女性を侍らすなんて不潔よ!」

「内縁の妻とか愛人枠とかならギリ行けるって、大丈夫大丈夫。それにそうでもしないとしのぶちゃんとカナエちゃん、どっちかが諦めることになるよ。それでもいいの?」

「それは……」

「そうかもしれないけど……」

 

 まさしく悪魔の誘惑であった。確かに女として惚れた異性を盗られたくないという思いはあるが、それ以外にも家族には幸せになってほしいという思いもある。しかし片方を成就させるためにはどちらかがこの初恋を手放さなければならないというのが非情な現実。

 

 だからと言って二人一緒というのも戸惑われる。もしそれが社会的に許される行いであるのならば、喜んでそうするだろうが。

 

「二人とも」

 

 そんな揺れる両者の方に手を乗せて、真菰は最後のひと押しを慣行した。

 

「義勇としのぶ、結ばれる。義勇とカナエ、結ばれる。三人幸せ。みんな幸せ。子供もたくさん。孫もいっぱい。大団円。違う?」

「「ちがわないです……」」

「よし」

 

 惑う二人の心の隙間にするりと手を伸ばして、なんだか進んではいけないような道に叩き落したことに確かな手ごたえを感じた真菰は渾身のガッツポーズを決めた。俗にいう洗脳である。

 

「つまり私と姉さんで義勇さんの一番と二番になればいいってことなのよね!?」

「しのぶー、言っておくけどお姉ちゃんは一番を譲る気はないからね?」

「こっちの台詞よ! 私が義勇さんの一番になるんだから! 相手が姉さんでも絶対負けない!」

「うんうん、姉妹仲がいいのはよきかなよきかな」

 

 恋の熱に浮かされて自分でも何を言っているのかよくわかってない胡蝶姉妹は後に自身の台詞を振り返ることになるが、それはもう少し先の話である。

 

 なお、そんな混沌とした事態を作り上げた張本人(真菰)はいかにも一仕事を終えたような充実した表情をしていた。

 

 

 

 





栗花落?奴さん死んだよ


俺が殺した(動機:ただのノリ)


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第参拾漆話 頂の八柱

おかしい、丸々一話使って交流だけで話が殆ど進んでない……!!



 服が消え、外気に曝け出された上半身に枯れ枝の様な皺だらけの手が探る様に触れていく。その手はじっくりと時間をかけて肌に刻まれている傷跡に触れていき、粗方触り終えるとやがて離れていった。

 

「……どうです?」

「おめでとう、と言えばいいのかねぇ。左腕以外の外傷はほぼ完治。あんだけの大怪我を二週間で治しちまうなんざ、化物かいアンタ」

 

 呆れたように物を言う老婆、花屋敷の主人であり主治医の菫は煙管を吹かしながら俺へと診療結果を告げた。

 

 常人ならば半死半生になっているだろう重傷。それらをたったの二週間で(痕が残ったとはいえ)治しきってしまうとは、呼吸と痣の力というのはとんでもない恩恵であるとしみじみ思う。

 

 ただ、当然と言えば当然か骨折までは容易く治せないようだ。流石の痣といえども限度というものはあるという事だろう。

 

「流石は”痣者”と言えばいいのかね」

「知っていたんですか?」

「当り前だ。少なくとも現柱と元柱、それと刀鍛冶の里の長には知らせが届いてる。……代償の方も含めてね」

「そうですか」

 

 あれから痣についての情報がどうなったかは把握していなかったが、どうやらちゃんと重要人物へと通達されていたようだ。

 

 痣を出す条件についてはあまりに詳しく説明すると疑念を抱かれかねないため、体温と心拍数の上昇と非常にあやふやなものしか渡せなかったが、才能ある柱たちであれば恐らく最低限の情報でも出せると思うし問題はないだろう。

 

「で、どうするんだい」

「……………」

 

 菫さんが言いたいことは察せる。痣の寿命問題について家族や友人に知らせなくていいのか、と。

 

 どうするんだと言われても正直、どうも決めていない。問題の先送りと言われればぐうの音も出ないが、だからと言って「実は俺は痣を出してしまって寿命が二十五歳に固定されてしまった。だからあと十二年しか生きられない」なんて素面で言える程俺の肝は据わっていないし、それを聞いた友人たちの反応も想像に難くない。

 

 少なくとも蔦子姉さんはその場で泣き崩れるか卒倒しそうだ。だからあまり言いたい気分にはなれない。

 

 だが、いずれ目を逸らせなくなる問題であることも事実。可能ならば、早めに片づけてしまった方がいいのだろうが……。

 

「難しいです」

「だろうね」

「……でも、いつかちゃんと俺から告げます。ただ、寿命が二十五になったからといって、俺が無事に二十五を迎えられるかは別ですが」

「目の前の婆が七十越えてまだまだ五体満足でピンピンしてるんだ。半分も生きていない若者が甘ったれたこと抜かしてるんじゃないよ、小僧」

「……ありがとうございます」

「ふん」

 

 ちょっとひねくれた物言いではあるが、菫さんなりに励ましてくれているのだろう。俺は小さく笑って礼を言いながら脱いでいた患者服を羽織る。

 

 しかし情報か。鬼殺隊にとって有益な情報など幾らでも持っているが、問題はそれを事実と証明する手段が皆無だということ。”先見の明”という超能力染みた第六感を持つ産屋敷一族に直接告げられるのならば嘘だと思われずに秘密裏に重要な情報を浸透させることも夢では無いのだが――――

 

(……いや、待てよ。そういえば大事なことを伝え忘れて居たような……………ッ――――!!!!)

 

 瞬間、俺の脳裏に電流の様な物が走った。そうだ、今なら提供できる情報がある。それも産屋敷一族と直接対面することも許される代物が……!!

 

「菫さん」

「なんだい? 蝶々娘なら少し前に食材の買い出しに――――」

「先日の戦いの最中、鬼舞辻無惨と遭遇しました」

「……………………………は?」

 

 カラン、と手から滑り落ちた煙管が床を叩いた。

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

「――――まさかこの様なことになるとは。ええ、全く以て貴方は私の予想の上を行ってくれる」

 

 太陽が頂点を過ぎ去り、午後を指し示すように傾いていく頃合い。俺とカナエは森に囲まれてポツンと建てられた豪奢な屋敷の砂利が敷かれた庭の上で正座の姿勢で固まっていた。

 

 目の前には師である漣雫が怒りとも喜びとも言えない、しかし確かに和やかでは無い雰囲気を纏って正座をしている俺たちを見下ろしている。

 

 ……どうしてこうなった。

 

「……あの、雫さん。怒ってます?」

「いいえ? 気のせいでは?」

「師匠、纏っている雰囲気のせいで全然説得力が無いです」

「胡蝶さん、私は”気のせい”と言いました。聞こえませんでしたか?」

「あっはい」

 

 今現在、俺とカナエは産屋敷邸――――鬼殺隊にとっては最重要にして最高機密とも言える場所にいた。

 

 隠の案内無しではまず辿り着けないだろう樹海の最奥。幾つもの偽装と攪乱が施された天然の要塞を俺たちの様な平隊士が潜り抜けられた理由はただ一つ。俺たち二人が鬼殺隊にとって絶対に無視できない情報を得られたからに他ならない。

 

 即ち、鬼舞辻無惨についての情報。この数百年間掴めなかった存在の尾を掴める可能性である。

 

 それゆえに現役の柱全員がこの屋敷へと緊急招集され、本人の口から得た方が情報も正確だろうという理由から療養中の俺とカナエがこの場に引っ張り出されて現在に至るわけだ。

 

 此処までは俺の狙い通り。ただ一つだけ言うなら……どうして雫さんが怒っているのかわからない。怒られるようなことは…………まあ、したかしてないかといえば、したような気もするが。

 

「全く、二人ともとんだ無茶をして……状況的に仕方ないと言える部分もあるようですが」

「……すみません」

「ふぅ……二人とも傷が治り次第鍛え直しです。前以上に徹底的に扱いて、二度と下弦の鬼如きに後れを取らないくらいに仕立て上げますから、御覚悟を」

「「ひぇ」」

 

 事実上の死刑宣告に俺たちは小さく悲鳴を上げた。

 

この前の鍛錬でもかなりの疲弊を強いられたというのにそれ以上のものを? 雫さんは治ったばかりの身体をもう一度複雑骨折させるつもりなのだろうか? ともかく地獄の責め苦の如き鍛錬が確定したのは確かだろう。

 

「雫さん。そこまでにしておきましょう。元はと言えば、俺が担当区域から離れてしまったのが原因ですし……」

 

 そんな笑顔でお怒りの雫さんに声をかけたのは炎柱である惣寿郎さんだった。彼は申し訳なさそうな顔をしながら何とか雫さんを宥めようとするも――――意外にも雫さんは冷たい視線で惣寿郎さんを睨みつけ、惣寿郎さんを黙らせてしまった。

 

 怒っている。それも俺たちに向けたような指導者の立場から来るものではない、純粋な怒りだ。

 

「黙りなさい惣寿郎。此度で二度も下弦の肆を取り逃がした間抜けにとやかく言われる筋合いはありません。……一度ならず二度までも、随分と詰めを怠ったようで」

「……申し訳ありません」

「仏の顔も三度まで。また同じ失態を繰り返したのならば、お館様が何と言おうが私が貴方を柱の座から降ろします。少なくとも”今の貴方”は柱の器ではない」

「………………わかっています。俺は、ただの穴埋めのようなものですから」

「貴方がこれからも自分自身をそう認識し続けるなら、三度目が訪れるのはそう遠くはないでしょう。……では二人とも、また後程」

 

 怒りの形相を崩さないまま雫さんは足早に離れていってしまった。

 

 驚いた。まさか苛烈な所がありながら誰に対しても温和な性格を崩さなかった雫さんがあれほどはっきりと怒りに顔を歪ませ、それだけでなく厳しい言葉を正面から他人にぶつけるなんて。いや、人としては喜怒哀楽があるほうが正常なのだからおかしい所は何もないのだが。

 

「ははは……相変わらず、かな」

「惣寿郎さん。雫さんと何かあったんですか? 失態を戒めるにしても少し、言い過ぎだと思うのですが……」

「いいんだ。彼女にはその権利がある。少なくともこの場で刺されても、俺は雫さんに文句が言えない」

 

 黄昏の空を眺めるような憂いのある表情。後悔の念に歪んだ顔。……やはりただならない関係なのか?

 

「もしかして……元恋人だったりするんですか?」

 

 カナエも俺と似たような考えに至ったのだろう。しかし年頃の乙女の好奇心故か何の憚りもなく口に出してしまったではないか。こう言うのはデリケートな問題だから不用意に触れてはならないというのに。

 

 事実、惣寿郎さんはカナエの問いに対して答えに困ったのか苦笑だけを返した。

 

「答えは沈黙とさせてもらうよ。それと、雫さんに同じ質問はしない方がいい」

「どうしてです?」

「鍛錬の量を倍に増やされては嫌だろう?」

「ばっ……!?」

 

 どうやら藪蛇を突きかねない質問だったらしい。危うく地獄の鍛錬が更に酷いことになる所であった。

 

「――――息災か、惣寿郎」

「拳斉さん」

 

 雫さんが離れたことで視線的な縛りを解かれた俺たちが正座を解いて立ち上がった直後、背後に何か巨大なものが現れたのか全身に影が差した。

 

 反射的に振り返ると――――巨人がいた。

 

 身長は軽く見積もって一間一尺(約二m十cm)弱。そんな日本人らしからぬ高身長なだけでなく、全身を覆う筋肉もまるで金属の如く極限まで洗練されている。腕や足などまるで丸太だ。素人目で見ても、彼は間違いなく強者。

 

「下弦の肆の情報と顛末は概ね把握している。私見ではあるが、アレは一人ではどうにもならん類だろう。だからそう気を落とすな」

「どのような理由であっても、俺が奴を二度も逃したのは事実です。言い訳なんてできません」

「……生真面目すぎるのも考え物だな。まあ、次こそしっかりと前準備をして――――む、お前たちは?」

 

自分を見上げて唖然としている俺たちの存在にようやく気付いたのか、男はギロリと鋭い視線で俺たちを凝視する。俺は思わず気圧され、カナエも「ひっ」と小さく悲鳴を上げて涙目になった。それ程の気迫をぶつけられたのだ。

 

「拳斉さん、少し離れてください。この子達が怖がってます」

「? 別に怖がらせたつもりはないんだが」

「無意識に威圧してるんです。この前横切っただけで子供に泣かれた挙句市民から警吏を呼ばれたのをもう忘れたんですか?」

「……嫌なことを思い出させないでくれ」

 

 惣寿郎さんによると、俺たちが威圧だと思っていたのはただの無意識的なものであったらしい。意識せずしてこの気迫ならば、意識して殺気をぶつけられたら一体どうなることやら。

 

 男は申し訳なさそうな表情を作りながらスッと俺たちの前に手を差し伸べる。少し間を置いて握手だと気づいた俺たちは少しだけ固い動作ながらも順番にその手を握り返した。

 

鋼柱(こうばしら)、金剛寺拳斉だ。よろしく頼む」

「冨岡義勇です。よろしくお願いします」

「胡蝶カナエです! よっ、よろしくお願いします!」

「お前たちの事は聞き及んでいる。現水柱の継子にして期待の新人隊士とな。特にそちらの……冨岡と言ったか。先日のを含めれば、入隊から半年足らずで下弦とはいえ十二鬼月を二体も討伐しているとか。惣寿郎の継子も中々筋が良さそうだったし、今期の新人たちはかなり期待が持てそうだな」

「恐縮です。でも、あれは運が良かっただけです」

 

 褒めてくれたことは素直に感謝できるが、下弦の陸も伍も正直自分の手柄として誇りたいという気持ちはあまり無かった。俺一人ではまず死んでいただろうし、その場にいた人が誰か一人でも欠けていれば最悪全滅もありえた。

 

 つまりほとんど運だけで勝ったようなものなのだ。他人に対して胸を張って自慢できるようなものではない。

 

「運も実力の内だ。それと……あまり自惚れるな」

「え?」

「一人で何もかも解決できるなどと思い上がるなと言っているんだ。……一人でできることなど、そう多くはないんだからな」

「……………」

「義勇君……?」

 

 わかっている。下弦との戦いは結局俺は他人に手助けしてもらうことでやっと討ち取ることができた身。自分ができることの高など知っている。

 

 だが、だからと言って他人を進んで危険に巻き込むことはしたくない。自分一人で全て片づけられるなら、それが一番だと……そう思っては、いけないのだろうか。

 

「おっ、良さそうな尻発見!」

「ひゃあん!?」

「!?!?!?」

 

 答えの出そうにない自問自答を繰り返していると、何の前兆も無く聞き覚えの無い男の声と共にカナエの可愛らしい悲鳴が木霊した。思わずそちらを向けば…………カナエの背後で屈みながら尻を揉みしだいている、如何にもチンピラという風体な変質者がいた。

 

 何だこいつは。気配を感じ取ることにはそれなりに自身のある俺が気配を全く感じ取れなかった……!?

 

「あっ、貴方何して……!?」

「ほう、このデカさは安産型だな。それに引き締まりの中にしっかりとした柔らかさ……こいつは逸材だぜ……!」

「――――人の弟子に手を出すとは、死にたいようですね雷小僧」

「やべっ」

 

 誰もが唖然として動けないでいる中、結構な距離を取っていた筈の雫さんが一瞬にしてこちらに詰め寄り、カナエの尻を揉んでいた変質者を蹴りつけた。……が、変質者は難なく雫さんの蹴りを回避し軽やかな動きでこちらから離れて行ってしまった。

 

 今放った雫さんの蹴りは常人や並みの隊士では回避は困難だとわかるくらいには早かった。だとするならそれを軽く避けられるあの男はやはり……。

 

「惣寿郎さん、彼は?」

「あ、ああ。彼は”桑島”霆慈郎。元鳴柱のお孫さんで、現鳴柱を務めている男だよ」

「桑島……」

 

 確かその名は元鳴柱にして、未来の主人公組の一人である我妻善逸の師の苗字。まさか孫がいたとは……かの老人に子供や親戚がいる可能性はない訳ではなかったが、実際目の当たりにするとやはり驚いてしまう。

 

「ちっ、婆め。ちょっと女子の尻揉んだだけで噛みつきやがって。別にテメーの尻揉んだわけでもねぇだろうが」

「鬼殺隊に居る女性に例外なく狼藉を働いている男が言える台詞とは思えませんね」

「いいだろ減るもんじゃねーし。それにほら、俺ほどの男に胸や尻を揉まれるのは逆に運が良いと思えば――――」

「思える訳ないでしょう!? 何を言っているんです貴方は?」

「おう、お前さんの尻は揉み心地よかったぜ! これまで触ってきた中で十指に入るくらいにはよかった! また揉ませてくれよ!」

「くたばりなさいこのマセガキが」

「けっ、誰がくたばるかよ鬼婆!」

「――――ほう、ほう……………本当に死にたいようですね、この糞餓鬼……!!」

 

 なんだか話が良くない方向にどんどん転がっていっているような気がする。というか今まさに目の前で水柱と鳴柱の殴り合いが始まらんとしていた。

 

 念のため惣寿郎さんと拳斉さんに視線を飛ばしてみるが、二人とも無言で目を逸らした。なんで?

 

「あの、隊士同士の争い事はご法度では……?」

「あれはその……稽古だから。だから止めなくていいんだ。うん」

「冨岡よ、一つだけ良いことを教えておこう。この世には言って止まる奴と止まらない奴の二種類が存在する。雫さんがどちらに属するかは敢えて言わないが……無駄だとわかっていることを態々進んでやろうとする奴はいない、とだけ言って置こう」

「えぇ……?」

「そこで雫さん! その助平な男をとっちめてー!」

 

 視線を雫さんたちの方に戻してみれば、雫さんが桑島さんを投げ飛ばして地面に張っ倒し、動きが止まった隙にその腹に跨って顔面に幾度も拳を叩き込んでいた。その残虐ファイトスタイルに思わず俺も顔を背けて目を覆うが、カナエはセクハラされた腹いせか遠慮なく声援を送っていた。

 

 ……まあ、いきなり尻を触ってくるような男がボコボコにされているのならばこの反応も仕方ないか。

 

「あのー、この状況は一体なんです? またあの雷クソ男が雫さんの胸を揉みしだいたり?」

「うはぁ、漣のあんな切れ顔を見るのは五年ぶりじゃのう。その時は霆坊が漣の隊服だけを細切れにして上半身裸にひん剥いたんじゃからむしろ殺されなかっただけ有情であったが。で、今回はなんじゃ? 下着でも剥いだか?」

 

 死んだ目で柱二人の稽古(という名の蹂躙)を眺めているとまた人の近づく足音が。振り返るとそこにはそれなりに年を取ってそうな灰色の髪を持つ男と、そんな男とは対照的なまだ十五にも届きそうにない、というかしのぶくらい身長の低い女の子が立っていた。

 

 男の方はともかく……あの女の子は一体。もしや柱? いやあり得ない。だってあの低身長や筋肉の付き方では鬼の頸を斬る筋力はどうやっても練られない。だとするなら男の方の連れ? だが重要参考人でもない限り柱や選ばれた隠以外の者がお館様の屋敷に入る許可が得られるとはとても思えないのだが……。

 

「あ。貴方が冨岡なんたらって子だよね? 君の活躍いっぱい聞いてるよ。同い年として私も鼻が高いよ!」

「は、はぁ。ええと……君は?」

「ん? あー、そう言えば自己紹介していなかったね。私の名前は神子星廻。操柱(そうばしら)を務めているよ。今後ともよろしくね?」

「は?」

「へ?」

 

 ――――予想もしていなかった言葉が出てきたことで俺は塊、雫さんの応援をしていたカナエもバッと振り返って俺の目の前にいる少女を見た。

 

 ……柱? この子が? ……何の冗談だ?

 

「う、嘘よね……?」

「あははっ、言っておくけど本当だよ? これでもちゃんと鬼を五十匹仕留めて昇格したから」

「いや、でも……どうやって?」

「ん~……まあそれを説明するのはまた今度ということで。ほら、お爺さんの方も彼に自己紹介しないと。機会を逃して何時までも名前を知らないままになっても知りませんからね私」

「カッカッカ、そう焦るな星坊」

 

 訳が分からず目を白黒させている俺たちが面白かったのか神子星は小さく笑うが、どんな手段を用いて鬼を仕留めたのかまでは説明してくれなかった。隠している……というより、証拠もなしに説明をしても信じてくれないと判断したのか。

 

 とにかくそれについて考えるのは後にしよう。今はとりあえず柱たちに失礼が無いように挨拶を交わさねば。

 

「冨岡義勇です」

「胡蝶カナエです!」

「儂は嶺颪豊薫。見ての通り四十を越えた老骨だが今も風柱に就いておる。ところでものは相談なんじゃが、よければ儂の継子にならんか? どうも儂は後継に恵まれなくてのう……」

 

 彼曰く、柱に届きうる風の呼吸の才能を持つ者が不在なせいで何時までも後進に席を譲れず、四十を越えて尚柱を続けることになっているらしい。しかし年を取ってなお五体満足で生きているのだから、恐らくその強さは折り紙付きの筈。

 

 しかし、前に雫さんも柱になれそうな人材が中々見つからずに難儀していたと言っていたし、やっぱり鬼殺隊は万年人材不足なのか。……あの蠱毒じみた試験内容では人材が得られ辛いのも当然の帰結ではあるが。

 

「豊薫さん? 私の継子を断りもなく引き抜こうとしないでいただけますか?」

「別にええじゃろう、二人もいるんだし」

「いい訳ないでしょう。貴方もいい後進が欲しければちゃんと自分で探してください」

「ぐぬぬ……ケチ臭いのう……」

 

 向こうで鳴柱を気絶するほどしこたま殴り終えた雫さんが額に青筋を浮かべながら俺たちを自身の継子に勧誘しようとしていた豊薫さんの肩を掴んだ。雫さんは思わず後ずさりしそうな何かのオーラが見え隠れするほどの威圧感を放っているが、当の豊薫さんは肩をすくめて両手を上げるだけ。これが老兵の貫録というものか。

 

「ま、気が向いたら儂に手紙の一つでも飛ばしてくれ。お前さん等ならいつでも歓迎するからのう」

「はい。一応覚えておきます」

「お気遣い、ありがとうございます風柱様」

 

 俺の刀は藍色。正直風の呼吸の適性があるとは思えないが、炭治郎とて黒刀だったにも関わらず水の呼吸にそれなりの適性を発揮していた。単純に水の呼吸が他の呼吸と比べ習得難度が低いからかもしれないが、それでも『刀の色に合った呼吸以外を覚えられない』訳ではないことを証明するには十分な根拠だろう。

 

 もし呼吸の修行で行き詰まったりすることがあるのならば、他の呼吸に触れて刺激を得てみるのも選択肢の一つとして用意しておくのもいいかも知れない。ここで得た繋がり、大切にしなければ。

 

「――――おや、話している内に最後の二人が到着したようですね」

「……!」

「あ……悲鳴嶼さん!」

 

 雫さんの台詞を聞いて俺は反射的に彼女の向いている方を見た。視線の先には全身の至る個所に包帯を巻いていながらもどうにか自力で歩けている悲鳴嶼さんと、その悲鳴嶼さんに肩を貸されながらも杖を突いて歩いている、日光に当たらないよう全身を白無垢のような衣装で包んでいる真白さんが居た。

 

 二人の姿に気付いたカナエはパァと顔を明るくしながら悲鳴嶼さんの傍に駆け寄った。悲鳴嶼さんの方も少しだけ困り顔になりながらも傍に駆け寄った彼女の頭を優しく撫でる。

 

「カナエ、変わらず元気なようで何よりだ」

「うん! 悲鳴嶼さんと明雪さんは……えーっと」

「なに、あと数日安静にしていれば治る程度の怪我だ。案ずることは無い」

「私はまだまだ休んでなきゃ駄目みたいだけどね~。……あ、悲鳴嶼さん、もう大丈夫ですよ。肩を貸してくれてありがとうございました」

 

 肩を貸してくれている悲鳴嶼さんから離れた真白さんは真っすぐ元師匠であった雫さんの方へと向かった。そして申し訳なさそうな顔で深々と頭を下げる。

 

「すみません、雫さん。私がいながら冨岡君にまで大怪我をさせてしまって。姉弟子として不甲斐ありません」

「な――――真白さん、それは!」

「冨岡君、貴方は少し静かにしていなさい。それで真白ちゃん、今回の件で何か反省点はありましたか?」

 

 余りにも聞き捨てならないことを真白さんが口走ったので俺は思わず否定しようとしたが、その前に雫さんによって遮られてしまった。何故だ。そんな意見は納得がいかない。

 

 俺が無茶をしたのも大怪我したのも全て自分の責任だ。それを誰かのせいにする気は俺にはないのに。いや、むしろ鬼舞辻が来る前に俺は凶裏を仕留めきることができなかったのだから、むしろ悲鳴嶼さんや真白さんが重傷を負ったのは、俺の……。

 

「強いて言うなら……首を斬った時点で、気を抜いてしまった点でしょうか。お恥ずかしながら、あの瞬間は咄嗟に不意打ちに反応できない程完全に油断していました。すんでの所で冨岡君が私を突き飛ばしていなかったら、きっと私の怪我は脚の骨一本では済まされなかったでしょう。深く、反省しなければなりません」

「そこまでわかっているなら私が口を出すことは無いでしょう。ではこの先二度と同じようなことにならないよう、絶え間なく研磨しなさい。それと……貴方が無事でよかった」

「……はい」

 

 真白さんは雫さんにもう一度深々と頭を下げて礼をし、今度は俺の方を向いた。顔がほとんど見得ない程に深々と被った頭巾の隙間から見えた表情は……あまり良いものではなかった。

 

 というか、少し、怒っている……?

 

「冨岡君」

「っ、はい」

「私は柱なの。私は、貴方より強い。そこは、わかってるよね?」

「え、あ、はい。勿論」

 

 そんな事は当然理解している。痣を出して高い身体能力を得たとしても、心技体共に俺は柱にはまだまだ及ばない。もし真白さんと全力で模擬戦を行ったとして、十階やって一回勝てれば幸運であるとわかるくらいには彼我の実力差は理解しているつもりだ。

 

 なのにそんな事を聞いてきたのは、どうしてだろう。

 

「貴方は自分が足を引っ張ったせいで、もしくは自分がもっと早く鬼を倒せなかったせいで私たちが怪我をしたことを自分の責任だと思っている。けどそれは違う。私は……ううん、私たち柱は下の子に責任を被せるような存在じゃない」

「……………それは」

「私たち柱は、文字通り鬼殺隊を守り、支える”柱”。その鬼殺隊には勿論、貴方のような才が芽吹く前の隊士も含まれている。身体を張って下の隊士たちを守るのは、柱の義務でもあるの。だから、貴方が気負う必要はない」

「…………………」

「それでも納得ができないなら――――強くなって。誰よりも。周りにある存在全てを守り通せるほどに。その時初めて、貴方はあらゆる責任と責務を背負う義務と権利が生まれるから」

「――――はい」

 

 悔しかった。無力感に苛まれる中「お前は悪くない」と慰めの言葉を送られるのは。力が欲しいのに、まだまだ目標に及ばないという現実を目の前に突きつけられているような気がして。

 

 それでも、真白さんは俺の背中を押してくれようとしている。「誰よりも強くなれ」と。

 

 そうだ。その通りだ。強くならねば何も始まらないし、何もできない。守ることすら始められない。ならば――――飢えろ。貪欲にかき集めろ。知識を、技を、心意気を。誰よりも強くなるために。

 

「あ、それと、お礼を言いそびれていたね」

「お礼? 何の事ですか……?」

「ほら、あの夜に、貴方は私を二度も窮地から助けてくれたでしょう? 一回目はさっきも言った、不意打ちに対して突き飛ばして避けさせてくれたこと。二回目は、私の脚が潰された時に、鬼に食われかけた時に助けてくれたこと」

「ああ、その事ですか。俺だって助けられた身ですし、別にお礼をされるために助けたわけでも――――」

 

 俺は別にそんな事を恩に感じる必要はないと真白さんに伝えようとした。

 

 が、彼女の行動の方が早かった。

 

「――――ん」

「――――な、い……ので……?」

 

 真白さんはよどみない動作で俺の前髪をかき上げると、露わになった額に優しく唇を触れさせた。

 

 

 

 

 

 …………………????????????

 

「まあ」

「おや」

「む?」

「ほう」

「……南無」

「えーっ!?」

「ぎ、義勇君!?」

 

 当然ながらそれはこの場にいる全員が目撃している訳で、全員が真白さんが行った突然の行動に各々困惑の反応を見せた。そして俺はその比じゃないくらい混乱していた。

 

 待て。おかしい。何で? 何でこうなったの? わからない。さっぱりこの状況が理解出来ない……!!

 

「これは私なりのお礼、かな。――――うん、やっぱり君は、ちょっと違うね」

「え? は、え?? え???」

「君の近くにいるとなんだか……胸の中がぽかぽかしてくるの。どうしてかな」

「さ、さあ……?」

 

 そ、そんなことふわっとしたことを俺に聞かれても困るのだが。

 

「義勇君! わ、私やしのぶちゃんに飽き足らず、雪柱様にまで手を出したの?」

(出したって何だ!? 俺は誰にも手出しした覚えはないんだが……!?)

「これはこれは、真白ちゃんがこんなに積極的になったのを見たのは初めてです。十八にしてようやく色を知りましたか。善きかな善きかな」

「冨岡君……錆兎君の友人である君は、女性に対してもっと誠実な子だと思っていたんだが……」

(惣寿郎さんまで一体何を言っているんだ……!?)

 

 ――――ハッ、そう言えば俺の周りには妙に歳の近い異性が多い。ということはまさか、真白さんの大胆な行動によって俺は周りに大勢の女を侍らせている屑野郎だと思われている可能性が? ……あり得るな。

 

 だが俺はそんな女にだらしのない奴だと思われるような行動をした覚えはないし、これからするつもりもない。何とか言い訳せねば。

 

「(俺に恋愛などするつもりはないしそもそもこんな俺なんかに恋をするような女性は居るはずもない。だが真白さんの事は人として)好きではある。だが(周りが勝手に邪推してきたとしても真白さんに失礼だから)認知はしない」

「えっ」

「うん。別にそれでもいいよ。でも、子供は何人がいいかな」

「(子供(剣士)……? 継子の事か?)沢山いればそれだけいいのではないでしょうか」

「そうだね。できるかわからないけど、沢山生まれると私も嬉しい」

「待って! お願い待って! 話に置いて行かないで!? 二人ともいきなりなんの話をしているの!?」

「(引退した)後の話だよ?」

「将来的な(剣士の育成)計画じゃないのか?」

「ん~、どうやら真白ちゃんと冨岡君の間でとてつもない勘違いが起こっているようですね。とりあえず真白ちゃん、そこまでにしておきなさい。貴方がいい方向に変わってくれたのは師匠冥利に尽きますが、これ以上話が拗れると後で面倒になります」

「むぅ……雫さんがそう言うなら」

「??????」

 

 真白さんが突然後進の育成計画の話を持ちかけてきたと思ったら何故か雫さんが話を無理矢理打ち切ってしまった。何か問題でもあったのだろうか? カナエも何故か俺を見て頬を膨らませているし……うぅむ、訳がわからない。

 

 

「――――皆さま、お待たせいたしました。お館様のお成りです」

『!』

 

 

 襖の奥から姿を見せた女性――――お館様の奥方である産屋敷あまね様がその両手に赤子を抱きながら姿を現した。そして彼女の声を聞き、内容を理解した瞬間(気絶していた筈の鳴柱も含めて)全員が一列に並び膝を突いて頭を下げた。俺たちもそれに習うように隅っこで膝を突き、首を垂れる。

 

「――――おはよう、皆。今日もいい天気だね。空も青く晴れ渡っていて、雲も真っ白で綺麗な形をしている」

 

 静かな歩みと共に聞こえる、こちらの心の奥を優しく撫でるような穏やかな声。顔は上げない。まだ許しは得ていないのだから。

 

「お館様もご壮健で何よりです。お身体の調子は如何でしょうか? 何処か具合を悪くされたりは……」

「大丈夫。少し、左の視界が悪くなったけど、”まだ”大丈夫だよ」

「…………微力ながら、どうかお館様がこの先もご健康な体であり続ける事を柱一同を代表してお祈りいたします」

「ありがとう、雫」

 

 どうやら最初にお館様への挨拶を述べたのは雫さんのようだ。お館様は雫さんに挨拶を交わし終えると、一拍置いてこちらへと視線を向けてきた。

 

「二人とも、顔をお上げ」

「はっ」

「は、はい!」

 

 言われるがままに俺たちは顔を上げ、初めてこの鬼殺隊の頭領であるお館様……産屋敷輝哉様と対面した。

 

 雪の様な白い肌に美しく整えられた顔。微かに鬼舞辻無惨を思わせる顔立ちであったが、受ける印象は全くの真逆だ。奴が暴力的なまでの生命力の塊ならば、此方は幾星霜もの時を使い研磨され続けた薄氷の如く脆くも美しく鋭利な刃。

 

 極限まで凝縮された殺意と憎悪の隣に、人としての優麗な心を極限的なバランスで両立させている――――生来の精神的怪物。

 

 最初に感じたのは恐怖か、それとも羨望か。

 

「療養している身なのに、態々ここまで来てくれたことに感謝を。……ごめんね。けど、君たち二人が持つ情報には私たちが決して無視できない価値があるんだ」

「はい。深く、存じております」

「では、話してくれるかい? 君たちの知った、”奴”の全てを――――」

 

 分水嶺へと一歩を、踏み出す。

 

 

 

 

 



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第参拾捌話 歩み続ける覚悟

今回の更新はここまでです。


 俺が鬼殺隊に表だって提示できる鬼舞辻無惨についての情報はカナエの知りえるものも含めてもかなり限られている。しかしそのわずかな情報だけでも鬼殺隊にとっては千金の価値があった。

 

 一つ、奴は並大抵の柱ならば歯牙にもかけない程の超絶的な身体能力の持ち主である事。

 

 二つ、奴が攻撃した際変形した腕に生えた刃から血の様なものが滴っていた事。

 

 三つ、奴が無作為に鬼を作り出している動機は太陽を克服するためである事。

 

 四つ――――奴が去る際、ある程度距離が離れた瞬間気配が突如消失した事。

 

 正直に言えばもっと多くの情報を提供したかったが、残念ながら情報の信憑性が証明できない以上、俺の言葉は妄言にしかならない。悔しいが、これらは後で秘密裏にお館様へと直々に渡そうと判断し、俺は此処で情報の提供に歯止めをかけた。

 

「――――鬼舞辻無惨に関する情報は以上となります。何か疑問に思うことがあるのならば、俺も可能な限りお答えいたしますが……柱の皆さま方からは、何かありますでしょうか」

「あ、はいはい!」

 

 最初に手を上げたのは操柱と名乗った少女。俺はコクリと頷いて発言を促した。

 

「ちょっと気になったんだけど、無惨は並の柱なら軽く蹴散らせるほどの身体能力を見せた、って言ってたよね? でもそれを受けた君はどうして生きているのかな?」

「俺がこうして生き長らえることができた要因は二つ。無惨が俺に放ったものが正確には攻撃ではなくただ目障りな羽虫を払いのける動作に過ぎなかった事と、俺の修めている剣術が防御寄りであり、かつ直前まで下弦の鬼を相手にしていたため相手が上弦かそれ以上の相手だと直感し、間一髪で全身全霊の防御が間に合ったからです。つまり()()()()()()だけ。それに尽きます。……もし追撃があれば確実に死んでいました」

 

 業腹ではあるが事実である。本当の本当にあの瞬間、俺は絶対の死を前にして天運を拾い上げることができた。俺が生きているのも、奴が下弦の伍に血を与えてそのまま帰ってしまった気まぐれも、全てがいい方向に噛みあったおかげでこうして五体満足で生きることが出来ている。

 

 恐らく鬼舞辻無惨は俺たちを放置したとしても己の血を与えた下弦の伍が勝手に始末してくれるだろうと思っていたのだろう。見事に当てが外れたわけだが、今回の件を受けて奴も反省したはず……はずだよな? ……ともかく、二度目はもうないと思った方がいい。次もう一度奴と出会えば、死あるのみだ。

 

 質問に答え終えると神子星は「そっかー」と何度も頷き何かを考え込む仕草に入る。そして次に手を上げたのは惣寿郎さんだ。

 

「では私から。無惨の攻撃時に、変形した腕に生えた刃から血が滴っていたというが、それはつまり……」

「攻撃が生身に当たったのならば、血を注入される可能性が高いでしょう。そして我々鬼殺隊は無惨の血を注入された場合対処する手段が存在しない。一度でも攻撃が当たれば鬼となるか、そうでなくとも身体に何かしらの悪影響が出た隙を付かれて殺されるでしょう」

「……という事は、無惨と戦う際には奴の血そのものに対処する手段が必要という事か」

 

 無惨の血が引き起こす現象は鬼化と細胞の崩壊の二種類。しかし鬼を無闇矢鱈に増やそうとしない奴がわざわざ攻撃に鬼化能力を付与するとは思えない。という事は恐らく主目的は後者。大量の自分の血を投与することで細胞を壊死させるためだろう。

 

 だがこれは俺の推測に過ぎないし、無惨の血が許容範囲を越えて投与された場合どうなるかの情報は鬼殺隊にはない。これは黙っている方が吉か。それに言った所で無惨の血に何かしらの対処をするための方法を開発しなければならないのは変わらないだろう。

 

「では今度は私からの質問だ。カナエ、無惨は確かに言っていたのか? 太陽を克服すると」

 

 次に手を上げたのは、悲鳴嶼さん。

 

「はい、間違いありません。特に今回の下弦の伍は特殊な鬼で、人格によって微弱ながら太陽光への耐性を得ていた様でした。その彼に大変期待していた様子でしたし、無惨が太陽を克服するために活動しているのはほぼ確実かと」

「つまり――――裏を返せば、奴は太陽以外の弱点は克服している、という事か」

『!!』

 

 悲鳴嶼さんの核心を突いた言葉に古参らしき雫さんと拳斉さん、豊薫さん以外の柱全員が息を呑む。

 

 太陽の光以外は克服済み。それ即ち、無惨の頸を何度断とうが無意味であるという事。奴と戦う手段は自動的に鬼殺隊の総力を以て朝まで地上に縛りつける超長期戦に固定された訳だ。しかし物量も質も非常に乏しい鬼殺隊は消耗戦に不向き。早期にこの問題に対処しなければならない。

 

 場の空気が一段と重くなった中、恐らく最後だろう質問が雫さんから告げられる。

 

「では最後に私が。冨岡君、気配が突如途切れたというのは、一体どういう事ですか?」

「そのままの意味です。少しの間だけ気絶していた俺は意識を覚醒させてすぐに奴の気配の在りかを追いましたが、凡そ三町(約三百m)離れた瞬間突如消失しました。恐らく奴自身か、配下に空間転移系の血鬼術の持ち主がいるのでしょう。鬼殺隊が何百年間も探していてなお奴の本拠らしきものが見つけられないという事は最悪、異空間を生成しそこを根城としている可能性もあります。その為奴と戦うにはまず奴をこちらの土俵に引っ張り出すための餌を用意――――」

「ああ、いえ、その意見はとても参考になりますがそこではありません。――――冨岡君、気配を感じ取ったとは一体どういう事です?」

「は?」

 

 予想通りの質問に対しあらかじめ用意していた最適解を返そうとするが、どうやら雫さんの質問はそういう意図では無かったらしい。しかし訂正されてもそれがどういう意図なのか今一掴めない。

 

「気配は気配でしょう。何か問題でも?」

「……冨岡君。確かに付近に存在する生物の気配を感じ取ることは我々でも可能ではありますが、それはあくまでも”付近”に限ります。普通何町も離れた存在の気配を感じ取ることなど出来ません」

「……?」

 

 ……………??? どういう事だ。いや、確かに少し難しくはあるが、やろうと思えばそれなりに鍛えた達人ならばできる事だろう? 別に鱗滝さんや炭治郎のような特別な五感を必要とする技でも何でもないんだぞ?

 

「ちょっと周囲に対する知覚範囲を広げて離れた生き物の気配を認識した後方角と距離を大まかに計算して把握するだけですよ? 難しくはありますが頑張れば誰でもできる技能でしょう。雫さんや柱の方々もできますよね?」

「え、そんな事できるの!? 柱って凄いのねー……」

(((((((何言ってんだこいつ……)))))))

「冨岡君、それは貴方の才能です。普通の人にはそんな超常的な事はできません」

「なん……だと……!?」

「あ、やっぱりできないのね」

 

 いやいやいや、そんな馬鹿な。バトル系の漫画でもよくあるだろう。気配を感じて相手が何処にいるか把握するなんてドラゴン〇ールとか〇ンター×ハン〇ーとかBLE〇CHでは必須技能だぞ……!? 同じジャ〇プ出身のバトル漫画の世界なのにできない訳ないだろう……!?

 

 あ、いや、でもこう言う「離れた場所からでも相手が何処にいるか把握する」事やってたのって特殊な五感を持っていた奴だけだったような……え、本当に、俺がおかしいのか?

 

「冨岡君、その気配を感じ取る技の限界距離と精度は如何ほどで?」

「ええと……集中すれば半径一町(約百m)まで。精度は普通の生物か鬼かを見分けられる程度です。あと、虫のような小さすぎるものは流石に把握できません。それと何らかの方法で気配を消していたり、副次的であっても攪乱効果を持つ血鬼術を常時使用しているような存在に対しては判別がかなり困難になります。でも」

「でも?」

「鬼舞辻に関しては常に広範囲に吐き気を催すほどの邪悪な気配をまき散らしているため、擬態していようが多少知覚範囲外であろうが、付近まで接近してきたら即座に感知できると思います。奴の悍ましい気配はもう頭に刻みつけましたし……あんなに遠慮なく気配を垂れ流している以上、奴はそう言った戦闘技術とは縁が無さそうなので」

「……これ程とは」

 

 今思えばあそこまで近づかれて尚俺が気づけなかったのは俺が下弦の伍との決着間近であったことも大きいだろうが、間違いなく鳴女による空間転移で現れたからだろう。しかしあの僅かな間で俺は奴の吐き気を催すほど悍ましく強大な気配を脳内に焼きつけることができた。

 

 奴は鬼殺隊に見つからない様に動くことを心がけているにもかかわらず気配を隠すような仕草は見られなかった。あれほど濃密な気配が遠慮なく垂れ流されているのだから、俺は奴が擬態していようがちょっとやそっと離れていようともほぼ確実に捕捉できる自信があった。

 

 言われて初めて気づいたが、これは……とても大きなアドバンテージではなかろうか?

 

「――――漣さん、悪いことは言わん。冨岡を”保護”しろ。万が一死なれたりでもすれば我々はまた何十年何百年も手掛かりなく彷徨い続ける羽目になるぞ」

「それは………………そうかも、しれませんが」

 

 ……待て。ちょっとマズい流れになってきていないか。一度情報を整理しよう。

 

 現状鬼舞辻無惨は鬼殺隊の総力を結集して尚勝てるかどうかもわからない存在。だがそもそもの前提としてその居場所が把握できないし、その手段もない。ただ俺は奴が擬態していても探し出せる能力があり、奴の気配もしっかりと覚えている。

 

 ………………このままだと飼い殺し待ったなしでは?

 

「私は反対です。彼の人生を我々の意見で封じ込める等、言語道断です」

「明雪よ、これはもうそういう問題では無いじゃろう。あの小僧の存在が我々にとっては目の前に垂らされた蜘蛛の糸。どんな手を使ってでも失う訳にはいかんじゃろ」

「うーん、私としてもその考えはわからなくはないですけど、流石に本人の意思を無視してまで拘束しようとは思いませんね。私も流石に人の心まで捨てた覚えはありませんし」

「俺としても後方……いや、有事以外は絶対の安全か保障された場所に軟禁しておくことを進言する。彼を失う可能性を少しでも減らすべきだ。代償として彼の自由が犠牲になるとしても」

「なっ、拳斉! いくら無惨討伐のためとはいえ年端もいかない少年の人生を潰すつもりか!? 俺は反対だ! 我々鬼殺隊は鬼を殺すための組織ではあるが、進んで人の道から外れた手段を取るような組織になった覚えはないぞ!」

「俺は別にどっちでもいいぜ。ふぁあ~……腹減った……」

「私は……冨岡少年の意思を尊重したい……目的のためとは言え、過程を蔑ろにすべきではない……悪しき手段を取れば、必ず我々の身に返ってくるのだから……」

 

 重かった筈の空気が一瞬にして熱くなり始めた。もう柱の一部が反射的に立ち上がって言い争いを始めている。マズい、本格的に熱が入る前に止めねば鬼殺隊の内側に亀裂が入りかねない。

 

「は、柱の皆さま方、少し落ち着いて――――」

「もしそんなことを実行するのならば、私は鬼殺隊を抜けます。大多数の意見によって選択と行動の自由を奪われる苦しみは誰よりも理解しているつもりです。そして、そんなことをするような組織に座し続けるほど、私の堪忍袋は固くない……!」

「明雪、貴様! 十八にもなって子供のような駄々をこねおって! 柱の責務を何だと思っておる!」

「ちょっ、明雪さんも嶺颪さんも落ち着いてくださいよ! 喧嘩は駄目ですって!?」

「惣寿郎。一時の情に流されて千載一遇の機会を見送る気か。あの一件を経てお前が腑抜けたのは知っているが、此処までとはな」

「――――黙れ。例え友であろうと、俺はその傷に触れることを許した覚えはないぞ、鋼柱」

(はぁ~……今帰ったら怒られるかねぇ)

「皆、落ち着け……結論を出せるのは、我々ではないだろう……」

 

 一部が剣呑とした雰囲気を漏らし始めた。だが一度会話を止めようにも聞き入れてくれる様子ではない。

 

 だがこの場で彼らの暴走を止められる人は二人いる。一人はお館様こと産屋敷輝哉様と、もう一人は推定柱筆頭の――――

 

 

 

「総員、黙りなさい」

 

 

 

 その一言と共にまき散らされる絶大なまでの殺気と威圧によって、一秒もかからずこの場で発せられていた音が全て静寂へと塗り潰された。

 

 全員、動かない。否、動けない。動けば死ぬ。生存本能がそう警鐘を鳴らしているが故――――。

 

「鬼殺隊の要たる柱が、よくもまあお館様や下の隊士たちの前でこれ程醜態を晒せるものですね。いつ私が、そうでなくともお館様が、この場で聞くに堪えない雑言を一言でも口にしていいと許しましたか? ――――笑止千万。これ以上戯言を喚くのならば階級を癸からやり直してもらいます」

 

 キレていた。この上なく。彼女からすれば上司の前で同僚ないし下の者たちが場を弁えず言い争おうとしていたので当然ではあるが。

 

 この言葉には誰も反論できず、爆発間近だった者達は気まずそうな顔を浮かべてお館様の前で一礼し元の場所へと座り直す。それに対してお館様は一言も咎めはせず、いつも通り微笑むだけ。

 

「お館様、お見苦しい物をお見せしました。皆に代わってお詫び申し上げます」

「構わないとも。皆同じ人なんだ、喧嘩の一つや二つはするものさ。さて……色々と意見が出たようだけれど、義勇、君はどうしたいのかな? 私は君の意見を聞いてみたい」

「…………………俺は」

 

 柱たちは黙して地面を見るだけ。だが微かな揺らぎはある。俺の意思を尊重したい者と、そうでない者。

 

 気持ちはわかる。次いつ現れるかわからない、鬼舞辻の後を追える者。どんな手を使ってでも安全圏に保護したいと思うのは鬼殺隊に属する一人として理解できる。だが――――それを許容することは出来ない。

 

 これから俺がどうしたいか。何をすべきか。そんなのは考えるまでもない。既に、決まっていることだ。

 

「俺は戦います。これからも」

「そうか。では私も、君の意見を尊重することにするよ。そして産屋敷の名に誓って、君の選択に干渉することは誰であろうと許しはしない。……例えこの私であろうとも、ね」

「感謝します。お館様。……………ん?」

 

 その寛大な措置に俺は深く頭を下げた。

 

 ……いや待て、少し対応が重すぎやしないか?

 

「あ、あの、お館様? 突然何をおっしゃって――――」

「ああ、今回の柱合会議だけど、無理を言って突然集まってもらったからね。近況報告だけして解散してもらって構わないよ。それと……義勇、君は柱たちが帰るまで残ってもらっていいかい? 少しだけ君と話がしたいんだ」

「え? ……えっ?」

「ええええええええええええええええ!?」

「お館様っ!?」

 

 予想すらしていなかった急展開に俺やカナエだけでなく、今まで冷静だった雫さんですら困惑の表情と声を上げた。柱たちも口には出していないが全員例外なく驚愕の表情を浮かべている。

 

 しかし当のお館様本人は皆を見て楽しそうにニッコリと微笑むだけ。そして、俺がその笑顔を見て抱いた感情は喜びでも、安心でもない。紛れもない、未知への”恐怖”。

 

 産屋敷輝哉。俺は、彼の事を過小評価していたのかもしれない――――

 

 

 

 

 

◆    ◆    ◆

 

 

 

 

 

 それから少しだけ時は過ぎ、空が夕暮れ模様に染まる頃。俺は産屋敷邸の広間にて座布団の上で正座し、目の前で抹茶を点てるお館様の姿を冷汗を流しながら眺めていた。

 

 淡々と、そよ風が窓を叩く音と茶筅が茶碗を小さく擦る音だけが聞こえてくる。別にお館様はただ自然体でそこにいるだけだというのに、出所のわからない重圧で肺が潰れそうな思いだ。

 

 確かにこうして余人なく一対一で対面するこの状況こそ俺の望んだ理想の状況。ただ、俺としては手紙を忍ばせることでそれとなく伝える予定だった。その為に色々と情報を書いた手紙を窘めてきたというのに。

 

「ごめんね、いきなり呼び出すような事をして。びっくりしたかい?」

「ええ……それは、もう……」

「ふふっ。我ながら少し意地悪だったかな?」

 

 この状況を一言説明するなら、下の立場の者が突然会社の社長に直接(それも好意的な)呼出しを貰ったようなもの。何処からどう見ても怪しさ満点であるし、例え裏が無かろうが見ていて面白いものではない。

 

 少なくとも知己の柱以外からの不信感が高まった音が聞こえたのは気のせいではないだろう。

 

「心配しないでほしい。皆には後でちゃんと私から言い聞かせておくよ。……それで、私に何か伝えたい事があるのかい?」

「……念のため聞いておきますが、周囲に人は」

「人払いは済ませておいたよ。もし居たとして、元々この屋敷に長く滞在することを許されているのは私の身内だけだ。それでも不安かい?」

「いいえ。十分です」

 

 大人数に余計な情報が知られるのは全力で避けたいが、そも現在この屋敷内に居るのは産屋敷一族のみと俺。柱たちも全員帰還したのは確認済みであるし、万が一のために待機している隠達も全員屋敷の外だ。これ以上の人払いは余計に不信を抱かせるだけだと判断し、俺は懐から紙の封筒を取り出しお館様の前に置いた。

 

 お館様も茶を点てる手を止め、封筒の中身を確認する。そこには余分なものは全て削ぎ落した俺が伝えられることのできる全てが詰まっている。

 

 

 鬼舞辻無惨の目的とその根城。

 

 上弦や一部有力な鬼の名と能力。

 

 痣、黒刀、日の呼吸、ヒノカミ神楽。

 

 始まりの呼吸の剣士(継国縁壱)逃れ者の鬼(珠世)

 

 青い彼岸花(全ての元凶)

 

 

 お館様はそれらの精細な情報が書き込まれた紙を一枚一枚、丁寧に読み込んでいく。数はそこまで多くはないが、お館様はそれらを何度も何度も読み返し、やがて三十分は経過した頃にようやく紙の束を床に置き、改めて俺の顔を見る。

 

「――――どうしてこんな事を知っているのか……とは、聞かないよ。きっと聞いた所で意味がない質問だろうからね」

「……何処の馬の骨ともわからぬ輩の妄言を、容易く信じるのですか?」

()()()。私はそうする価値があると確信したよ」

 

 ……やはり俺の判断は間違っていなかった。多少強引ではあるが、鬼殺隊に取って掛け替えのない情報をその頭目に伝えることができた。これで……俺の役目の半分は終わったと言っていいだろう。

 

 だからだろうか。少しだけ、気が楽になった。

 

「ありがとう、義勇。君の知恵を私に届けてくれた。君の齎してくれたものは、きっとこれから多くの人の命を救うことになる」

「……そうですか」

「浮かない様子だね。悩み事があるのならば、私でよければ相談に乗るよ」

「いえ、お館様にそんな事をしていただくのは……」

「じゃあ、言い方を変えよう。――――これ以上戦うのは、辛いかい?」

「………………………」

 

 戦う覚悟は、ある。

 

 もし俺が死なねばならない事態が来たのならばこの命を捧げる覚悟も、ある。

 

 ただ、ただ一つだけ許容できないことがあるとすれば。

 

 

「…………………………………………俺は、生まれてきて、よかったのでしょうか」

 

 

 俺の存在そのものだ。

 

 俺はこの世界にとって特異点に他ならない。定められた道筋に逆らい続け、全くなる未知の結果を引きずり出す。それは希望にもなるし、絶望にもなりうる。

 

 きっと俺がいなければ、鬼殺隊は多大なる犠牲を払いながらも無惨の討伐を果たすだろう。俺はその結末を最後まで見届けたわけではないが、きっとそうなるのだと信じたい。だがそんなあやふやな願望さえも、俺の存在によって既に狂ってしまっている。

 

 何度か思ったことがある。死ぬはずだった人を救った。しかし、その揺り戻しのように生きるはずだった人が何度も危機に陥った。起きるはずの無いことが立て続けに起こっているのだ。何らかの因果関係が生じているかのように。……ただの偶然だと、可能性に過ぎないと、俺がそう簡単に片づけられるような頭であればどれほど幸せだっただろうか。

 

 知人が死ぬことを許容したくない。認めたくもない。見捨てたくもない。生きて幸せになってほしい。だがそう願い実行に移すたびに、他の誰かが死の危険に陥るかもしれない。

 

 やめるべきか? だが見捨てられるか? なら守り通すのか? ――――お前にできるのか?

 

 

「ただ……ただ、皆に、笑って、生きてほしい、だけなのに……それが、とても難しい」

 

 

 どうするべきだろう。何もかも諦めて、あるべき道筋に沿うように行動すべきだろうか。姉や親友を見殺しにして、これから死ぬはずの友人の死も見逃して――――無惨を倒したという結果だけを、得るべきなのだろうか。

 

 …………………嫌だ。そんなことはしたくない。

 

 

「……………つらい、です。己の、非力さが。常に何かを取りこぼしてしまう、小さな手が。とても……憎たらしい」

 

 

 悔しさからか、両目から大粒の涙が頬を伝って零れ落ちていく。

 

 失いたくない。守りたい。だけど力も時間も足りない。このままではきっと、取り返しのつかないことになるかもしれない可能性だって、ある。

 

 

「俺は……間違っているのでしょうか……?」

 

 

 分不相応な望みを抱いたのが間違っていたのか? ただ己の知る未来通りに道筋をなぞるのが正解であったのか?

 

 俺は、

 

 俺が、

 

 俺が生まれた事が、全て間違って――――

 

 

「間違っていないよ」

 

 

 垂れ堕ちる涙で濡れた俺の手を、いつの間にか傍にまで来ていたお館様がそっと手に取った。

 

 ゆっくりと顔を上げると、何時までも変わらない穏やかな顔がある。だがそこに不気味なまでの静寂は存在せず、ただ底なしの慈愛だけが感じ取れた。

 

「私は君の全てを知っている訳ではない。だから、ただの慰めの言葉にしか聞こえないかもしれない。それでも私は言おう。……君は間違っていないよ、義勇。君は沢山の命を助けようとしている。隣人の幸せを守りたいと思っている。幸せであってほしいと願っている。その願いは決して間違っていない」

 

 お館様の手はやがて徐々に上がっていき、その病的なまでに細く冷たい手が俺の頭を小さく摩った。それを引き金にしたかのように、今まで抑え込んでいた涙が抑えを失ったかのように滝を作る。

 

「私は君を肯定する。他の誰もが君を否定しても、私だけは君の願いが正しいものだと言い続ける」

「どうして……そんなに……俺はっ……!」

「……義勇。既に知っているのかもしれないけど、私はね……できることなら、他の剣士(子供)達のようにこの手に剣を取って共に戦いたかったんだ。だけどこの身を蝕む病は、それを許してくれなかった」

 

 知っている。およそ千年前から歴代の産屋敷一族は常にその身を生まれながらの病魔に侵され、いずれもが短命の内に伏してしまう。まるで鬼舞辻という鬼子を排出し、世にのさばらせていることへの罰のように。

 

「それは私の父も例外ではなかった。父は常に剣士(子供)達の死に心を痛めていた。ついには自死を選んでしまうほどに」

「っ……!」

「無論、私も悲しい。こうして上から指示をすることしかできないことに、誰よりも無力感を感じている。だから君の気持ちはよくわかるつもりだ。肝心な時に何もできないのは、とても辛くて苦しいよ。だけどね――――私はこの歩みを止めたいと思ったことは、一度もないんだ」

 

 互いの瞳を見る。

 

 色素が薄くなりぼやけ始めた藤色の瞳。奥に見えるは怨嗟の如くとぐろを巻く見舞辻への憎悪と憤怒。だがそれだけではない。

 

 炎が見えた。決して絶やしてはならないという決意が見えた。

 

 これが……彼の、産屋敷輝哉の、強さの源。

 

「受け継いだんだ。祖父の、父の、今まで無念の内に散っていった一族と、剣士(子供)達の遺志を。燃やし続けるんだ。薪を焼べ続けて、この身が焼き焦げたとしても次へと繋ぐ。例えこれから先何十年、何百年、何千年かかろうとも、鬼舞辻を追い続けるために」

何故(なにゆえ)

「信じているから。多くの人の思いが、何時の日か必ず成就するのだと。――――希望を持つんだ、義勇。どれだけ辛くとも、どれだけ悲しくとも、希望は何処かに必ず存在している。けれど、それを掴もうとしなければ、何も始まらない。だから義勇、自分の歩んでいる道が間違いだと決めつけるのはまだ早い。諦めないで前を見て、空を見上げて進むんだ。きっとその果てに、君の求める答えがある筈だから」

「……………………」

 

 …………………諦めない、か。

 

 ……そうだ。最初から諦めては、どうにもならない。やれることはきっとある筈だ。まだだ、まだ諦めるには早い。

 

 本当に絶望するのは、できることを全てやってからだろう! しっかりしろ冨岡義勇! 何時までも下を向いていじけるな!! 漢なら……!!

 

「……希望は見えたかい?」

「わかりません。ですが……俺は、まだ諦めたくない。まだやらなければいけないことや、出来ることは残っている。だから、進み続けます。その先に何が待っていようとも」

 

 目の前を覆っていた靄が綺麗に晴れたような気持ちだ。俺は深い感謝を胸に目前にいるお館様へと頭を垂れた。今日が初対面だというのに、多大なお世話をかけてしまった。本当に感謝の言葉もない。

 

「お館様、今此処に忠誠を。俺はこの先どのような事があっても、貴方様への忠義が揺らぐことは無いと、亡き両親や我が命より尊く思う我が姉と友等の名にかけて誓います」

「ならば私からは、この上ない親愛と友愛を。義勇。私の剣士(子供)。異邦の彼方より来たれし御使いよ。どうか君の刃が彼の悪鬼に届いてくれることを、心から願っている」

「御心のままに」

 

 覚悟だ。

 

 どんな艱難辛苦を味わっても尚、未来へと進み続ける覚悟。俺に足りなかったものはそれだった。

 

 ならば今もう一度決心しよう。

 

 腕が捥げても、足が潰されても、この五体砕け散ろうとも、俺は進み続ける。全身全霊を以て友を守り通しながら、一寸先も見えぬ未来に足を踏み入れよう。

 

 その過程で誰かの親や子を切り捨てることになるとしても――――俺は歩みを止めない。止めては、ならない。

 

 きっと俺が諦め、足を止めることを許されるのは、地獄に落ちた後なのだから。

 

 

 

 




お館様「諦めんなよ……諦めんなお前!! どうしてそこでやめるんだ! そこで! もう少し頑張ってみろよ! ダメダメダメダメ諦めたら!! 周りのこと思えよ! 応援してる人たちのこと思ってみろって! あともうちょっとのところなんだから! 俺だって全身が病漬けになってるところ、無惨の命がトゥルルって頑張ってんだよ!! 絶対やってみろ! 必ず希望を見つけることができる! だからこそ! Never Give Up!!」
冨岡(憑)「あーそーゆことね完全に理解した(決意ガンギマリ)」

後半を要約すると大体こんな感じです(適当)


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