アドルフ、入ってる? (王子の犬)
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0日目
1.eins. ――覚醒――把握――復活――剣道――


 目が覚めた時、何かが、決定的におかしかった――。

 

 頭上に広がる空。雲一つない快晴だ。四月にしては、汗が肌にまとわりつくほどの暑さ。遠くで流れる、ピアノの楽曲の調べ。女たちの合唱(コーラス)

 しかし、砲声が聞こえない。砲弾の落着音、防空サイレンもなかった。

 頭を動かして、あたりの様子を観察する。空き地だ。ペンキを塗り立ての真新しい建物。壁のそばに自転車が立てかけてある。

 総統官邸ではない。ならば、どこだ。

 あまりにも情報が欠落している。そしてひどい空腹だ。

 

 デーニッツはどこだ。カール・デーニッツ、海軍元帥。

 

 近くにいるはず。探してみるが、彼の気配がない。それどころか、人がいる様子もない。

 時間が経つにつれ、徐々に頭の中の霞が消えかかっていった。

 ――昨日は総統地下壕の一室にいたはずだ。赤軍どもが押し入って、拉致したというのか。であるならば、拘束されているはずだ。

 総統を野営先に転がしておくなどありえない。

 エヴァはどこだろうか。遠くから女の声がするのだから、彼女もまたいるのではないか。

 じっと様子を観察していても、何も起こらなかった。

 昨晩は何をしていただろうか。エヴァとの談笑。覚えている。古いピストルを見せた。しかし、細かいところは覚えていない。靄がかかっていてはっきりとしていない。

 事態を把握せねばならなかった。今の状況。詳細に検証すること。

 観察し、熟視し、認識する。 

 感覚を研ぎ澄ますのだ。得た情報を順番に積み上げていく。

 ――地面に寝ている――立てかけられ放置された自転車――雑草――手入れされた低木。――スギナ――オオバコ――蒲公英(タンポポ)の花。まだ合唱が聞こえる。叫び声――断続的に打ち下ろすような、木を叩きつける音。

 視線を向ける。三角屋根の建物。壁を一面開放して男? 女? ――が向かい合ってぶつかり合っている。三八年に派遣した、ユーゲントが持ち帰った写真に無かったか。ケン・ドー。大日本帝国の国技だ。

 体を起こした。

 空腹以外は問題ない。持病の頭痛もなく調子がよかった。

 足、手、指。震えはなかった。肉体的な問題はないはずだったのに、激しい違和感に襲われた。

 ――このように小さかったか?

 記憶にある、見慣れた手とはほど遠く、銃も握ったことがないような、華奢な手だ。指、手のひら、手首、腕……と視線をあげていく。

 もっと色が濃かったはずだ。このような……このような、アーリア人的な、いや、病的な色白ではなかったはずだ。

 自分の姿を見下ろしてみる。服を着ていた。

 制服――軍服のはずが、よく似た服装を身につけていた。生地は上質で、まるで卸し立てだった。

 ガソリンのような強いにおい。焼き菓子やケーキのくずのようなものも付着してる。

 しかし、どうしてなのだ。なぜ、()()()()を着ているのだ?

 もしや、無意識にエヴァの衣服を身につけるような性癖を持っていたのだろうか? 否、総統にはそのような性癖はなかったはずだ。ないはずだ!

 強烈な不安に見舞われた。小さな手で、自分の肌と服を触る。

 すべてが小さい。柔らかいが、肥満によるものではなかった。

 立ち上がると、体の、あまりの軽さに感激する。小さくなった恩恵か?

 服についたゴミを払っていると、誰かの声が聞こえてきた。

 

「おおい。君だ」

「あなた、大丈夫?」

 

 先ほどから剣戟を交わしていた者たちがヘルメットを取って、駆け寄ってきた。

 まだ、少女ではないか。ふたりとも黒髪。

 彼女たちの瞳には敬意がある。外国人ではあったが、教育が行き届いてる。

 後を追いかけてきた数人の少女も加わり、取り囲んで見下ろしてきた。

 グループのリーダーだろうか。直垂に『篠ノ之』(読めない)――と描かれた、長い髪を後ろで結わえた少女が一歩前に出て、口を開く。

 

「君、大丈夫か? どこか痛めてないか?」

 

 優しく話しかけられた。しかし、むしろ、この問いに当惑を覚えた。

 ――なぜ。

 なぜ、彼女たちは、だれひとり、ドイツ式敬礼を行わない?

 ドイツ帝国の総統が手の届くほど近くに現れたのだ。正しい行動をとるべきだ。

 

「ボルマンを呼べ」

 

 マルティン・ボルマン。秘書にして個人副官。あるいは、全国指導者。

 

「知ってるか?」

「知らない。誰それ」

 

 リーダーの少女が他の者たちを見やる。視線を交わした者たちはいずれも首を左右に振るだけだ。

 

「マルティン・ボルマンを知らないだと!?」

 

 ここはベルリンではないのか? 早急に、早急に総統地下壕に戻らなければ!

 

「こ、ここはどこだ……」

 

 しかし、帰り道を知らない。無知な少女たちにすがるしかなかった。

 正しい情報。正しい帰り道。

 敵の攻撃は中断されている。今のうちに、帰るのだ。

 少女は腕を組んで、言葉を選んでいるように見えた。腰を折って顔を近づける。再び、仲間たちへ向き直った。

 

「服、改造しているが、うちの制服だ」

「でも、見かけない顔よ?」

「リボンはうちらと一緒の色だね」

「ってことは、転校生?」

 

 輪の後ろで誰かが言った。

 

「だったら、ここがどこか分からないのは道理だ。よし、私が職員室まで案内しよう」

「それがいいよ、篠ノ之さん」

 

 篠ノ之、と呼ばれた少女が向き直った。

 

「君。名前は?」

 

 親切な外国人。だが、国の最高指導者の名を知らないのは不勉強だ。

 仕方ない、教えてやらねばならない。教育である。

 

ボーデヴィッヒ(ヒトラー)だ」

 

 ……。

 …………。

 ………………んんん?

 

 おかしい。今、確かに自分のことを言ったはずだ。

 だが、耳に入ってくる音が()()()()()()()()()()

 だから、言い直した。

 

ラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)

 ドイツ連邦共和国の陸軍軍人(大ドイツ帝国の首相)だ。

 明日からIS学園に通うことになるだろう(国家社会主義ドイツ労働者党の指導者である)

 

 またしても言おうとしたことと、言ったことが異なっていた。

 自らを規定する肩書き、そして名前。ラウラ・ボーデヴィッヒ? 誰が? 女の名前だぞ?

 正しいドイツ語を話したはずが、なぜ、外国語に変換されているのか。

 いったい、何が、どうなっている?

 

 

 




割と短時間で書きました。
TSタグが必要か判断がつかなかったので付けていません。
必要だと感じたのであればご連絡ください。



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2.zwei. ――技術――教官――災厄――認識――

 親切な少女の案内で歩き出した。

 空き地の縁にたどり着く。振り返ると、低木の向こうに、もう一つの三角屋根が見えた。

 壁が開いて、中から、少女と同じ胴衣を来た女が姿を現す。

 長弓を構えて放つ。……的中を見届けてから、篠ノ之と呼ばれた少女のあとを追う。

 小径(こみち)の向こうから猫が飛び出した。黒と灰でくすんだ、汚い毛並みの猫。こちらを見て、総毛立てて警戒する。

 一歩近づくと、猫が一歩退く。睨みつけながら前進するうちに、開けた空間に出た。

 光の奔流。見たこともない意匠の建築物。目を見張るような色彩。

 呆然と立ち尽くす。

 ――ベルリン、では、ない?

 記憶にあるベルリンの風景と著しく異なっている。埃、残骸と瓦礫。たくさんの軍服。

 しかし、きめ細かく整備され、まるで砲火を忘れてしまっているかのようだ。

 ゴミは見当たらない。手入れが行き届いた低木。

 開けた空間はグラウンドだった。健康な少女たちが走っている。

 半袖の上着、半ズボン。しなやかな肢体。

 ドイツ女子同盟の一員にふさわしい。ならば、別の場所にユーゲントがいるのではなかろうか。

 

「ここだ」

 

 思索にふけるうちに、先導する篠ノ之が足を止め、振り返った。

 三階建ての建築物の入口。脇には色とりどりの乗用車と、単車があった。

 洗練された姿形。リベットを一切使用していない。溶接痕すら見当たらなかった。一枚の金属板をしなやかに、自在に形を生み出している。技術の進歩。あたかも砂糖細工のような繊細さ。

 軽い目眩。息をするのも、空腹すらも忘れてしまうほど。再び入口へと目線をやる。

 篠ノ之が不思議そうに見つめていた。

 彼女の誘われるまま靴を履き替える。廊下を伝って、『職員室』へとたどり着いた。

 篠ノ之は思案顔で戸に手をかける。把手を覆う加工ですら、見たこともないものだ。高度な、進歩した技術に足下が覚束なくなった。

 視線をさまよわせる。

 ――研究施設、か?

 

「ん? 顔色が悪い。先に保健の先生に診て……」

「いや、いい。頼む」

 

 正しい情報が必要だ。

 篠ノ之が扉を開けた。そこには、少なからず、見慣れた光景があった。

 大量の机。大量の書類。机に据え付けられた電話。

 おびただしい情報と戦う光景。せわしなく、飛び交う怒号。

 長机におかれた、分解された銃。長大なものは対戦車銃だろうか? 別の長机には中世の騎士が使っていたような馬上槍。敵の攻撃を受け、著しく損壊している。

 ――ここもまた、戦時中なのだ。

 後方の、超近代的な軍事研究施設に違いない。

 

「先生、いますか? できれば、織斑先生か、山田先生」

 

 篠ノ之が手近な女性に、胸元が大きく開けた服を身につけた、長い金髪のフロイライン(お嬢さん)に声をかけた。

 

「織斑先生? ああ」

 

 彼女はこちらを一瞥したあと、篠ノ之から視線を外す。後方の職員たちを見やって、頭を何度か揺らした。

 均整の取れた身体を黒いスーツに包みこみ、黒髪黒目の女性が湯飲み片手に現れた。

 こちらに気づいて、珍しげな顔でいる。

 

「ありがとうございます」

 

 篠ノ之は礼を言って、黒髪黒目の女へと近寄る。

 

「織斑先生」

「篠ノ之か」

 

 篠ノ之が織斑と呼んだ女性は、湯飲みを机に置いてから席につく。

 こちらを見つめ、誰であるかわかったような表情になった。

 ――外国人にしては、極めて健康的で魅力的な女性である。親しい間柄にあるように感じ、当然のことながら、ドイツ式敬礼が行われるだろうと期待した。

 が、やはり為されなかった。

 

「この子、道に迷ったみたいなんです。剣道場の近くで寝転がって」

「寝転がって?」

 

 織斑は怪訝な表情を浮かべた。そして、わずかに顔をしかめる。

 ガソリンのようなにおい。

 

「失礼。あなたは、道を知っているのですか。……ここから、総統官邸に」

「ボーデヴィッヒ?」

 

 こちらを見て、やはり、ボーデヴィッヒ、と口にした。

 確認をせねばならない。そう、直接。

 

教官殿(ご婦人)ラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)について、知っていることをお聞きしたい」

 

 自分の名前を口にすると、やはり、別の氏名に変換されてしまう。

 ……しかし、おかしい。ご婦人、と言ったはずが、今度は『教官殿』になった。

 変換には、何か法則があるのでは?

 

「手続きの件か」

 

 織斑は机に置いた、本のような薄い樹脂を開いた。即座に画面が映る。

 ――息を呑んだ。後ずさり、そして、前のめりになって目を輝かせた。

 彼女は携帯式のテレビ端末に書類を収めていた。なぜか、左上に銀髪の小柄な、アーリア人的な少女の顔が写っている。

 ――これは、もしや、ツーゼ、というものではないか。眼鏡をかけた学者先生どもが語った、空想科学のような、性能の良い計算機。

 

「万全だ。すべて完了している。貴様の()()も搬入済みだ。整備も完璧。うちの最高のスタッフが仕上げた。明日から、いや、すぐにでも搭乗できる」

「……ISも?」

 

 ISとは?

 

(Regen)(Schwarz)、あるいは、災厄(Schwarz)の銘を冠した機体(IS)だ。シュヴァルツェア・レーゲン」

 

 多少なまりはあるが、ドイツ語だ。

 うれしさのあまり、口の端をあげる。

 隣にいた篠ノ之が後ずさっていた。よもや怖い顔でもしていたのではあるまいか。

 

「明日から私の生徒だ。一年一組だ。間違えるなよ。……あとは、宿舎について、か」

「失礼。食事も」

 

 腹が鳴った。空腹を思い出した。

 食べなければ戦争遂行はできない。明日を生き延びることすらできないのだ。

 織斑は視線を外し、隣へとずらした。

 

「ついでで悪いが、篠ノ之、寮まで連れていってやってくれ。子細は寮母に話しておく。クリーニングが必要なことも」

「構いませんが……一度、戻って、着替えなければなりません。それでも?」

「悪いな」

「わかりました。先生の頼みなら」

 

 篠ノ之が一礼して、職員室を辞す。

 見届けてから織斑が咳払いをした。心配するように言った。

 

「その、なんだ。ガソリンでもかぶったのか?」

「起きたらこうだったのだ。推測だが、エヴァが、あわててベンジンを(こぼ)してしまったのだと考えている」

「……エヴァ?」

 

 織斑が聞き返したので、どう説明したらよいものか、考える。

 外国人とはいえ、友好的な国民である。よって、話をしても差し支えないと判断した。

 

「エヴァ・()……。いいや、違うな」

 

 言い直そう。

 事実は正確に話すべきである。情報は正しく、確かでなければならない。

 織斑は湯飲みに口をつけながら、耳をこちらへ傾けている。

 

「エヴァ・ボーデヴィッヒ(ヒトラー)

 妻だ。

 長いこと交際をしていたのだが、先日結婚式を挙げた」

 

 ……。

 …………。

 …………ガタン! という音。

 椅子が勢いよく横倒しになった。

 織斑が唖然とした表情でこちらを見ている。衣服に珈琲色の染みができていたが、本人は衝撃のあまり気づいていない。

 

「おま……ボーデヴィッヒ。交際、結婚式……!? そんなの聞いてない! いやいや、待てよ、待てよ、ドイツの婚姻年齢、法律、おまえ、今、いくつだ!!?」

 

 彼女は激しく動揺していた。多少失礼な物言いがあったように思えたが、総統が結婚したのだ。取り乱してしまうのは致し方ない。

 しかも、後方の、戦火が及んでいない研究施設だからか、情報の伝達が多少遅れてしまっているのだろう。

 とにかく、年齢とは自らの認識、状態を規定するものだ。

 

十五歳(五十六歳)

 

 ――――何かが決定的に狂っている。

 

 

 

 




【補足】
ドイツの婚姻可能年齢は男女ともに18歳です。
2017年より以前は日本と同じでした。いずれにしろ、15歳での結婚は法的に認められません。
ちなみに同性婚は2017年より後ならば合法です。

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1日目
3.drei. ――鏡――口髭――戦場――挨拶――


 気がついたとき、板張りの床にうつ伏せに寝ていた。

 どうやら、親切な少女に寝床を世話してもらったあと、彼女が去ると同時に昏倒してしまったようだ。

 額、首の痛み。空腹感は和らいでいる。昨日の記憶を呼び起こす。公園で目が覚めて、超近代的な軍事研修施設の一棟に行った。『職員室』で織斑に会い、制服を来て戻った篠ノ之が、彼女が起居する寄宿舎へと案内したのだ。

 そこで食事。暖かいパンとスープ。急に疲れが出て、足下が覚束なくなり、休める場所を篠ノ之に求めた。

 記憶はそこで途切れている。

 ぼんやりと頭を振った。ひどく喉が乾いており、服は相変わらずガソリンくさい。

 壁に手をつきながら立ち上がる。奥へと向かった。

 五つ星ホテルのような一室。高い天井、暗いベージュの絨毯。完璧なベッドメイク。疲れ切っていたのだ。ありがたい。

 奥のベッドにたたまれた服とゴム製のカゴが置いてあった。

 『カバンを勝手にあさって御免なさい。篠ノ之箒』とある。

 国防軍の制服に近い意匠。至る所にあしらわれた鉄十字には、その中心に描かれていたはずの鉤十字(ハーケン・クロイツ)がどこにもなかった。

 

「鏡は、あるか?」

 

 室内を見渡した。一見したかぎり鏡のようなものはない。

 五つ星ホテルなのだから、もしかしたらシャワー室があるのでは? 探すと、手前のベッドの脇に蛇腹状の引き戸があった。中に入ると、予想通り洗面台と鏡があった。

 身を乗り出すようにしてのぞき込む。小さくなってしまった身体では、そうしなければならなかったのだ。

 ――非の打ち所のない()だ。制服はパリッとしていてアイロンをかけたてのように見える。

 そして、おもむろに上唇に触れる。

 ――どういうわけだろう。あるべきものがない。

 もう一度触れた。

 穴が空くほどしっかりと鏡を見た。後ろを振り返る。もう一度だ。もう一度。

 

「おお……な、なんと言うことだ……」

 

 大事な口ひげがなくなっている。跡形もなく、綺麗さっぱりと!

 あまりの衝撃に顔を覆ってその場へうずくまる。

 憎きチャーチルの念動力が、総統の口髭を奪ってしまったに違いない。女性化により、ホルモンバランスを崩し、髭を失わせたのだ……。

 よく思い出して見れば、あの顔は、今、この身にくっついているのは、いかにもアーリア人的女子の顔であった。

 頭をまさぐる。恐る恐る髪の一部を眼前に持ってくると、それは照明を受けて淡く艶めきたっていた。エヴァの髪の色をより薄くした髪だった。

 さらに、ゆっくりと、昨日は触れなかった場所へと手を降ろしていく。

 かつての肉体が、どこにも、なくなっている。

 それどころか、あるべきものが、己が性別を規定するためになくてはならないものが、ない。……なくなっている!

 洗面器に手をかけ、立ち上がった。上の空で鏡を見つめる。

 痩せた、貧相な、十五歳の少女(フロイライン)。左右の瞳の色が異なる。

 ガソリンくさい服を脱いだ。貧相な身体を見ないよう、目を瞑りながらシャワーを浴びた。

 裸のままベッドに戻る。濡れたまま、ベッド下にしまわれていたカバンから下着を取り出した。いずれも男の子が身につけるような下着だった。

 次に何をすべきか。

 頭を整理しようとした。五十六歳の総統が、子供の下着を身につけ、それも、女子の服装を身につける。なぜ、このような罰を受けねばならないのか。不信を招いた結果、薬を盛られ、呪術を、恐ろしき魔術を受けてしまったか。

 頭を振った。

 ――ともかく、今必要なのは、時間を稼ぐこと。多少の恥を忍び、とるべき道を分析することだ。

 身体を拭き、下着を身につけ、着替えを着用する。男も女もない。

 

 かつて、寄宿舎で得た、暗い思い出。侮辱、無視、不安。物資の欠乏。

 それらに比べれば、暖かい部屋、ふかふかのベッド、暖かい食事。何を戸惑うことがあろうか。

 そして、なかば放心状態で着替えを遂行した。

 準備すべきものがわからず、とりあえず軍服のような制服を身につけたまま、悲痛な表情のまま出入り口に向かった。

 目の前を制服姿の少女たちが通り過ぎていく。一瞬こちらを見たが、だれひとりドイツ式敬礼を行わなかった。彼女らの反応から、学生が一人突っ立っているだけだとしか思っていない。

 そのうちに制服姿の篠ノ之が現れた。心なしか汗ばんでいる。

 

「おはよう。早いな」

「……ああ? おはよう」

 

 篠ノ之は肩に棒のようなものを担いでいる。

 

「その棒はもしや……」

 

 篠ノ之は後ろを振り返るように、自分の肩を見やった。

 

「練習、訓練に使う。そうだな、実戦に限りなく近い訓練だ。生き延びられるかどうかがかかっている」

「やはり、今は、まだ、戦時中なのだな?」

 

 実は不安だった。

 篠ノ之以外の者は、あたかも戦前のように、あるいは戦後のように、ただ漫然と刹那的な楽しみを得ているように見えたからだ。

 偽りの平和。砂の城。あっという間に消えて無くなる。

 篠ノ之は問われて、腰に手をあてながら少しだけ考え込んだ。

 

「戦時? 戦時と言えば戦時だな。本番(大会)はまだだが、私は常在戦場を心がけている」

「もし、敵が、ここに攻めてきたらどんな目にあうか、考えているのだな。

 露助(スターリンの愚連隊)どもが幼き少女たちを性欲の餌食にしようと言う。

 だが、どうだ! 目の前を行く彼女たちは、そんなこと起こりもしないと思っている。

 微塵も起こりえない、と。

 民族の存続、血の純潔性、そして……生存。

 今日このとき、この時間、まさに危険にさらされている!」

「……あ、朝から威勢がいいな」

 

 少し気圧されている。しかし、理解している顔だ。

 

「いかに危険を退けるか。秩序を回復するか、考え、采配を振るうのが私の仕事だ」

「……今日、初日だろう? 一緒に登校しないか?」

「よいのか。連れがいるのでは」

 

 篠ノ之は目を伏せ、薄ら笑みを貼り付ける。

 

「そのつもりだったが、別のやつと一緒に行ってしまったよ」

 

 寂しげに言った。

 察するに篠ノ之と親しい人物なのだろう。彼女との約束を破った人物に対して、おそらく同性だろうが、憤懣やるかたない気持ちがこみあげた。

 

「では、頼む」

 

 実のところ地図が見当たらず困っていたのだ。情報を収集しようにも、最初の一歩を踏み出せていなかった。

 超近代的な軍事研究施設とはいえ、人の営みにさほど変わりはない。砲弾が飛んでいるかそうでないかの違いだ。

 自転車に乗る学生たち。徒歩で向かうもの。

 特に徒歩の者たちは、話に興じている者以外は、みんな、うつむきながら歩いている。

 何やら四角い金属塊に向かってせわしなく指を動かしている。

 喪に服しているようにも見えない。

 あたりを見回しても、どこにも死体が転がっていなかった。

 

「篠ノ之」

「どうした?」

「彼等はずっと下を見ている。この施設では、あのようにすべきだと教育されているのか? ルストの指示か?」

 

 ベルンハルン・ルスト。婦女子たちに奇矯な習慣を身につけさせようとしている。

 

「ルストは知らないが、確かに危ない。そのうち痛い目を見る」

「死んでしまっては反省しようもない」

 

 昨日と同じ建物。かつて学んだ建築学の常識を打ち破る合理性、そして芸術性。靴を履き替え、廊下で篠ノ之と別れる。『職員室』だ。引き戸に手をかけて、中に入った。

 

「失礼。ラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)です。教官殿(昨日のご婦人)はおられますか」

 

 相変わらず自分の氏名を言わせてくれない。

 朝の慌ただしい雰囲気。多忙ゆえ、こちらを気に掛ける様子がない。

 壁の傍で立って待つうちに織斑が来た。昨日とはブラウスの意匠が異なっている。

 

「ボーデヴィッヒ。おはよう」

 

 そう告げて、織斑は湯気が立つ白いカップに口づけた。

 

「少しそこで待て。準備する」

 

 書類の山から黒い冊子を見つける。不足物があるのか左右を見回す。

 隣の席にいた、黄色い衣服を身につけ、大きな丸眼鏡をかけた女性に声をかけた。

 

「山田くん。あれは、どこにいった」

「右の山の一番下にありますよ」織斑の助手、もしくは参謀。

 

 肘が当たったのか隣の山がひとつ崩れた。崩壊を押しとどめようとするが、一度崩れた戦線を再び持ち直すのは至難の業である。

 織斑はくずれた山を、無造作に、思うがまま適当に積み上げて修復してしまった。

 

「織斑先生……」

「構うな。あとで整理する」

 

 織斑は時計を見た。副官の山田参謀を引き連れて職員室を出る。後をついて職員室を辞した。

 廊下に出ると、ひとりの生徒がいた。真新しい、アイロンのパリッと聞いた制服だ。少し癖のついた金髪。ただし、チェックのズボン。

 

「おはようございます」

「君か。待たせてしまったようだ。すまない」

 

 織斑が謝意を表す。チラチラと腕時計を見やっている。金髪の生徒はこちらを見てにっこり笑みを投げかけてきた。

 織斑がみなに進むよう促した。書類を揃えるのに、ひとつ戦線を致命的な崩壊へと至らしめた代償だった。

 

「歩きながら、簡単に段取りを説明する」

 

 織斑が山田参謀へ目配せした。

 

「私たちが先に教室に入ります。転入の挨拶をするよう求めますから、少しの間廊下で待っていてくださいね」

 

 『一年一組』の教室に到着する。山田参謀が言ったとおり、少しの間外で待たねばならなかった。

 外は晴れて汗ばんでいたのに、廊下にも冷房が行き届いている。

 背筋を屹立させたまま、ゆっくりと隣で『休め』の姿勢をとっている学生を観察する。

 中性的な顔つきだ。むしろ、女性的かもしれない。

 微妙な雰囲気が漂っている。視線に気づいても微笑むだけ。好意を仕向けるわけでもなく、ただ、笑ってその場を取り繕っている。

 深く息を吸った。

 山田参謀は『挨拶』と口にした。軍事研究施設の教育課程。すでに約三〇名もの学生が教練を受けているという。彼らに、自分を、印象づけねばならない。指揮官が誰であるか。正しく、知らせねばならなかった。

 

「二人ともお願いしまーす」

 

 山田参謀が入口から半身を出し、明るく手招きした。

 

「じゃあ、ボクが先に」

 

 金髪の学生が教室へ足を踏み入れた瞬間、年頃の少女たちが一斉にわめき立てる。

 

「男子! 二人目の男子!」

「……ほう」

 

 脇に立ちながら目を細め、小さく呟いた。

 男子だったか。筋骨たくましくなかったのでわからなかった。

 しかるべき教育と訓練をほどこせば如何ように変わるのか。華奢だが、聡明そうな顔立ちだ。子細によってはデーニッツに預けるのがよかろう……。

 

「……挨拶をしろ、ラウラ」

 

 言われて佇まいを直す。教室中を睥睨し、じっと眺めた。つかの間の無言。騒がしさが沈黙の前に屈するのだ。しんと、静まる、その瞬間を狙った。

 

「諸君!」

 

 呼びながら向き直る。

 

「私の名はラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)

 諸君らの指揮官(首相)にして、ドイツ連邦共和国軍士官(国家社会主義ドイツ労働者党の党首)である

 

 小さな身体を大きく見せようと、大げさに握りこぶしを振り上げる。 一気にまくし立てる。

 

私ははるばるベルリンより来た。

 戦場だ。

 胸が張り裂けそうなほど辛い光景を見てきた。

 全国民が、無慈悲な困難を強いられている。

 だが、昨日、この場所へ来たとき、こうも言うことができると知った。われら国民の、戦争を、より有利な方向へ導けるに違いないと。長きにわたり、官邸で、状況を分析し続けた。話にもならないほど惨めな戦いが――」

 

 息を整えるまで、しばし沈黙を使う。口を開いた直後だった。

 

「私は……」

「ええっと、ボーデヴィッヒさん。長くなりそう? そうだよね、意気込んでいるのはわかるけど、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 言いかけた、絶妙なタイミング。山田参謀が話の腰をへし折った。

 

「私はひそかに期待していたのだ……」

 

 強引に後へ続けようとした。

 すかさず山田参謀が鋭く斬り込む。

 

「一分以内ですよー」という声。

「……ともかく、よろしく」

 

 少女のひとりが指先を頭にあてた。それからクルクルと回し、グーをパーに変えるのが見えた。

 

 ――意味はわかっている。今、はっきり理解した。

 

 ここにいる少女たちは、誰一人として、総統に対する、敬意を持ち合わせていない。それどころか、外の世界が戦場であることすら、理解しようとしないのだ。

 

 

 




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4.vier. ――授業――西暦――過労――破廉恥――

 のんびりしている暇はなかった。

 外に出なければ。一刻も早く、総統地下壕へ戻らねばならない。

 だが、山田参謀が進路を遮った。

 

「ボーデヴィッヒさんの席はあちらですよ」

 

 にっこりと笑う。その表情は、有無を言わさぬ圧力があった。

 眼鏡の奥で、誰一人傷つけることができないような、幼げな表情を浮かべながらも、計算高く、冷酷な腹の内を巧妙に隠している。

 参謀とはかくあるべきだ。

 名ばかりの未熟な参謀たちは、彼女を見習わねばならない。

 そうでなければ、幼稚な感情という熱に浮かされ、国民の貴重な人命を無造作にすりつぶす。

 まったくの犬死だ。誰も浮かばれることなく、ただ、死という事実が横たわっている。

 ……しかたなく、指し示された先へ進んだ。

 椅子に座り、前を向く。教壇へと戻った山田参謀が朝礼終了を告げ、すぐさま授業開始を告げる。

 授業? 授業とは何か。

 何十年も前に学校を卒業している。社会に出て、国民を教え、よりよい道へと導いてきた。

 

「授業を始めますねー」

 

 山田参謀は襟をいじって、豆粒のような塊へと話しかける。

 先ほどとはうって変わって無機質な呟きだった。

 

「記録。二〇■■年六月×日。一時限目。担当、山田真耶」

 

 少女たちは、山田参謀に驚いている様子はない。いつもの風景だと言わんばかりに、じっとなりゆきを見守っている。

 彼女は壇上に手を置き、冊子と操作盤を交互に見ながら、指を踊らせる。

 突如として机にテレビ映像が出現した。机に内蔵した映写機から着ぐるみを身につけた、小さな人間が姿を現したのだ。

 開眼し、当惑した。

 はじめ、あまりに形状が変わりすぎていてテレビだとは気づかなかった。

 一九三六年に誕生してから、たった、十年に及ばぬうちに立体映像を投影するまでに発展したのだ。山田参謀の説明をそっちのけで、机上でクルクルと踊る人の姿に見入った。

 映像に手をかざした。顔を近づけねばわからないほど、小さなレンズから光が漏れている。

 しかも、レンズは曲面を非の打ち所なく保っている。説明がなくとも、恐ろしく高度な技術が使われている。

 その事実に、恐怖感とも、焦燥感言えぬ気持ちが去来する。この軍事研究施設は、奥の手を秘匿しているのではないか。総統にすら秘匿するほどのとっておきを。

 授業が進む。正直なところ、とてつもなく高度な物理学の話をしている。かのV2ロケットの原理について説明を受けたときよりも、複雑な計算式を扱っているのだ。

 かの学者先生は、一棟まるごと計算機の配線で埋め尽くしたとしても、立体テレビジョンを実現できないと言った。それがどうだ。目の前にある。ただし、話の内容はぼんやりとしか……いいや、ほとんどわからなかった。

 あまりに高度な内容に愕然としたが、決して、諦めたわけではなかった。

 少女たち――――ん?

 顔をあげると、学生たちの後ろ姿があった。

 山田参謀の背後にある黒板。右手奥に大きな文字で日付が書かれている。

 漢数字の書体を目で追う。一度も日本語を学んでいなかったにも拘わらず、意味するところが理解できた。

 六月、と書かれている。

 そして――――。

 

 二〇■■年。

 

 その数字を信じられない思いで見つめた。立体テレビジョンへと視線を落とす。映像の右下に、古いドイツ文字の書体を見つけた。

 二〇■■年。

 何度も瞬きした。再び顔を上げた。先ほどと変わらない、二〇■■年。

 視界が左回りに転げ回る。踊りながら、こちらを見て、あざ笑った。

 目の前が揺れている。数字が回転している。

 耳の奥で銃声が鳴ったような気分に陥った。小さな身体を丸めて、うつむき、頭を抱え、小刻みに震えながら時が過ぎるのを待つ。

 終了の予鈴が鳴った時、再び顔を上げる。

 二〇■■年…………数字は変わらなかった。

 呆然とするあまり、頭のなかが真っ白になっていった。

 

 何度目かの授業終了を告げる予鈴。

 みなが一斉に席を立ち始める。空腹を感じて、ようやく衝撃以外の感情が湧き出すのを知った。

 後悔という感情も。

 手ぶらで来てしまったばかりに食料を持ち合わせていなかった。

 ポケットをまさぐり、やはり何もない。困惑した。そうかと言って、金を手に入れる以外に食料を得る術がないこともわかっていた。

 途方に暮れて窓の外を眺める。

 

「おい」

 

 はじめ、呼ばれているのだとは気づかなかった。

 

「おい。ボーデヴィッヒ」

 

 他人の名を呼んでいる。

 

「ボーデヴィッヒ」

 

 誰かが視界を遮る。ぼんやりと目線をあげると、篠ノ之の顔があった。

 

「ぼうっとしてるんじゃない。廊下だ。廊下を見ろ」

 

 篠ノ之は後ろを向くよう促した。

 示された先へと失意の眼差しを向ける。織斑が立っていた。

 ――朝礼以来の再会であった。

 空腹故にふらついた足取りで織斑のもとへ向かう。机にぶつかりかけて、篠ノ之が身体を気遣ってくれた。

 織斑は貧相な身体を頭の天辺から指先まで一瞥する。あごをしゃくって「ついてこい」と告げた。

 後を追うと、おびただしい人々が集まる空間に出た。それぞれがおしゃべりに興じており、とにかく賑わっている。

 この、軍事研究施設の大食堂であることは、鼻先をかすめた匂いによって、口中で唾液が大量分泌されるや、すぐ理解した。

 

「好きなものを選んでいい」

「……今は持ち合わせが……」

 

 事実を認めた。

 

「おごりだ。ついでに、食堂の利用方法を教えておく」

 

 織斑が名刺を差し出した。受け取ると、名刺ではなく、『Laura Bodewig』と書かれた樹脂板(カード)だった。

 

「そいつを肌身離さず持っておけ。ここでの身分を証明し、支払いにも使える」

 

 電子証明書、と織斑は言った。

 

教官(フロイライン)も同じものを?」

「もちろんだ。ほら」

 

 『織斑千冬』という名前。年齢。生年月日。

 織斑は樹脂板をしまい、共に列へ並ぶよう促した。

 

「とりあえず、迷ったら定食だ」

 

 織斑が山からお盆を二枚とって、一枚をこちらへ寄越した。

 白服の給仕係へ料理を注文する。すぐさま出来合いの料理が差し出され、続いて、銀色の大きな容器のフタをあけて、黒色の椀にスープを、白色の椀に米をよそった。

 彼女がやったように、見よう見まねで注文し、スープをよそった。米かパンかで迷い、パンを選ぶ。

 支払いの列に並ぶ。

 

教官殿(フロイライン)、店員がいないのだが……」

 

 織斑は先ほど見せた樹脂板を懐から取り出し、淡く光る板の上においた。

 

「やってみろ」織斑が自分の樹脂板を手渡す。

「はい……」

 

 恐る恐る、促されるままに樹脂板を置く。短い笛の音を聞こえた。

 『決済完了』という文字。

 

「お金は……」

「ここでは、あまり出番がないな」

 

 その一言にさえ驚いてしまう。他の者も同じように樹脂板を宛がっていた。

 周囲に目配せしながら、二人がけの席にする。

 向かい合う織斑は箸を、こちらはナイフとフォーク。

 

「調子はどうだ?」

 

 織斑が心配そうに言った。

 ……意を決して訊ねた。

 

「今年は何年なんだ」

「二〇■■年」

 

 織斑は箸を置いて、言葉を続けた。

 

「何年だと思ったんだ」

 

 一九四五年という言葉を口にせぬまま、コップに注いだ水と一緒に飲み下す。

 

「あわてなくていい。ゆっくり食せ。時間はたっぷりある」

 

 織斑も食事を口に運ぶ。

 お互いにしばらく無言のまま食事に集中する。

 スープを飲み干す。フォークを置くのを待ってから織斑が口を開いた。

 

「……クラリッサから聞いた」

「クラリッサ……?」

 

 クラリッサとは誰のことだ?

 

「ずっと塞ぎ込んでいた、と。私が去ってから、無理を続けて、思い詰めていた、とも」

「……確かに、無理は、していた。ずっと」

 

 劣勢に立たされ、安全な場所はどこにもなかった。

 すべての国民が無理をせねばならなかった。一丸となって、国難に立ち向かわねばならなかった。

 そのためには、何もかもを、破壊せねばならなかったのだ。

 

「やはり……」

 

 織斑は何か考え込んでいる。

 

「もし、何かあったら、困ったことがあったら、言ってくれ」

「……ああ」

「それはそうと、次の授業についてなんだが」

「次? 山田教官(山田参謀)が昼休みが終わったら闘技場に来いだとかなんとか」

「そう。IS実習だ」

 

 先ほどまで暗かった織斑の声が明るくなる。

 IS……確か、昨日も同じような言葉を口にしていなかったか。

 

「場所はわかるか? ISスーツが必要なんだが、その、なんだ、見たところ、思いっきり忘れていただろう」

「ISスーツ?」

「パイロットスーツだ。……確か、搬入したISと一緒に予備があったはずなんだ」

 

 航空機の搭乗訓練を行った記憶はない。その必要がなかったからだ。

 ISスーツとは何ぞや。疑問に思いながらも、ISが航空機の一種であるならば、しかるべき服装を身につけねばならない。

 生存率を高めるというのなら、必ず着用するべきだ。

 

「申し訳ないが、案内をしてほしい」

「ああ、もちろんそのつもりだ」

 

 織斑は快諾し、その足で少し離れた闘技場へ向かった。

 太陽の光に明るく照らし出された、その建物を見上げたとき、軽い衝撃を覚えた。

 ローマの闘技場を源流とする、その建物は、知識のなかにある、どのような建物よりも巨大だった。

 

「……すごいな」

 

 平静を保つだけでやっとだった。

 『東京ドーム何個分』と、織斑が基準のよくわからない喩えを口ずさんだ。

 

「こっちだ!」

 

 織斑は元気だった。子供たちを引率する大人のように、明るい表情を浮かべて立ち回っている。

 複雑な迷路のような道を経て、格納庫と思しき場所へ出た。

 巨大な、金属の着ぐるみの周りに何人もの整備員が張り付いてる。

 先ほどの食堂とは雰囲気が異なるものの、この場にいる全員がせわしない。

 安心感を覚えた。作業服を着こなす少女たちは、みんな目的を以て行動しているのだ。強い気持ちが沸き起こる。新しい状況に適応する必要に迫られていた。

 織斑は黒い着ぐるみの前に立つと、そばにいた整備員に事情を話した。二、三分を姿を消したかと思えば、荷物を抱えてひょっこり戻ってきた。

 

「予備のISスーツだ」

 

 受け取り、折りたたんだISスーツをその場で広げてみた。

 

「……教官殿(フロイライン)。これは、……これは、いささか、いや、かなり問題があるのではないか?」

 

 織斑は不思議そうな顔で見つめかえしてきた。

 

「何が?」織斑は言う。

 はっきり聞かれてしまい、言うか言うまいか逡巡した。

 ずっと、迷っていても仕方ないので周囲の騒音に負けまいと腹に力をこめる。

 

「その……制服が、問題が」

「問題はないはずだが?」

 

 話が通じていない。

 軽い怒りで身体が震えた。

 

「せ、制服は、身につけねばならない。だが、しかし、これは……」

「他の生徒も着ているぞ? 別に、変な服装ではないはずだが。言ってみれば、これは軍服なんだぞ。必ず着るものだ」

 

 本当にそうだろうか?

 その、知識として認識している水着よりも、明らかに、股の辺りが扇情的な角度になっている……これが軍服と同義だと……。

 

「せ、戦場、では、着替えなどできない。

 しかし、へ、兵士を、着の身着のまま戦地へ送り出すわけにもいかない。必ず、制服を、所属を表す制服を身につけさせるものだ。

 し、しかるに、わ、私が、先導を切って突撃さえすれば、か、彼らは熱狂するだろう……するだろう……」

「大げさだな。女子更衣室で着替えてこい。外で待ってるぞ」

 

 送り出されてからどうやって歩いてきたのかわからないが、ISスーツなる衣装を抱えながら、恐ろしげに『女子更衣室』という札を見上げていた。

 あまりにも破廉恥な衣装。総統にこんな、こんな、衣装を着ろという。羞恥心で頭が爆発しそうだった。

 ――――そうだ。何もかも。何もかも、チャーチルのやつが悪い!

 とにかく誰かのせいにしなければ、平静を保てないほどだった。

 

 

 




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5.fünf. ――忍耐――密室――視線――大砲――

 最初の一歩から、もうくじけそうになった。

 少なからずチャーチルへの、織斑への怒りがあったとか、そんな問題ではない。

 部屋の奥から仄かに漂う、その香りから、どうしようもなく場違いであると、思い知らされたからだ。

 借り物の衣服を抱えた自分が、部屋へ半身を入れたまま、次の一歩を踏み出せずにいる。塹壕のなかで、地下壕のなかで、飛び交う砲弾に対して勇気を奮い立たせてきた自分が、まるで道化のように思えた。

 制服を着るのは構わない。むしろ、喜んで身につけたい。

 織斑から手渡されたISスーツは、かつて触れたことのない、とてつもなく、上質な肌触りであった。清潔そのもので、薄絹よりも柔らかい。

 だが、てっきり、スーツというからには、上下をすっぽり覆い隠してしまうものとばかり思っていたのだ。今にして思えば、この身が、貧相な十五歳(フロイライン)に過ぎないという事実を前提とすれば、すぐわかることだった。

 

「……ちょっと、後が詰まってますわよ」

 

 ……非難めいた物言いだった。

 後ろを顧みると、金髪碧眼の少女を先頭にして、何人もの学生が待っている。

 不本意ではあったが、言われるがまま二歩目、三歩目を繰り出していく。

 だんだん匂いが強くなった。

 もちろん、香水のような人工的なものではない。

 これは、そう、人が人であることを証明する香りだ。

 生命の香りであった。

 妖精のような未完成の少女たちが、徐々に、女へと、母へと変わりゆく過程に、強く発せられる香りでもある。

 ――この匂いを知っている。

 妻だ。妻であるエヴァの身体から発せられた匂いだ。

 顔を両方の乳房に埋め、腰を抱き寄せたとき、甘酸っぱい香りが鼻腔を満たしたものだ。

 彼女は……彼女はいないのか……エヴァよ……。

 室内を見回す。ロッカーの数よりも明らかに少女たちのほうが多かった。彼女たちから逃げるように、人気のない隅へと歩いて行く。

 奥の、いくつかの扉に手を掛けたが、鍵がかかっていた。

 目線の高さにある扉はすべて埋まっている。しかたなく、一番下の空いてそうな扉を探す。

 ……あった。全開にしようとしたが、すのこに当たって最後まで開かなかった。

 握りこぶしを入れられるだけの隙間を確保してから、再びISスーツを広げてみた。

 

 ……やはり、切れ込みが……。

 

 明らかに肌の面積よりも布地のほうが少ない、扇情的な格好など言語道断である。まだ、タンク(戦車)・スーツのほうがよかった。

 唇を噛みしめ、屈辱を耐え忍んで、制服に手をかけた。上衣を脱いだところで、誰かの足音に気づく。

 息を殺しながら接近に備える。その気配が姿を露わにしたとき、安心感を覚え、同時に目を見張ってしまった。

 

「ボーデヴィッヒ。来ていたか」

 

 明るい声。篠ノ之だった。

 彼女は既に着替えを終え、紺色のタンク(戦車)・スーツのような衣服を着用している。さらに膝の半ばまであるニーソックスも同じく紺色だった。

 だが……眼前の光景をどう表現すればよいものか。

 事実、困惑していた。

 制服の上では分からなかった、()()()()()()()()()()()()()

 

「すまない。前を隠してくれないか……」

 

 俯きがちに言うその言葉は、いつもの鋭さを欠いていた。

 

「ん?」

 

 篠ノ之は僅かに首を傾げ、疑問の意を呈する。

 

「どうした? 早く着替えればいいじゃないか」

「――待て……」

 

 衆人環視のなかで?

 

()()()()()()()()()。早く」

 

 彼女の提案に絶句する。

 ものすごく恥ずかしい。

 ひとりで着替えるのならまだしも、他人に、しかも顔見知りに素肌を見られる。

 しかし、渋りながらも同意しないわけにはいかなかった。

 授業が始まるまでの時間が限られているのだ。

 勇気を振り絞り、軍靴を脱ぎ、ベルトに手をかけた。下を向くと、膨らみのない股間が目に入る。心を無にして、上下の下着を脱ぎ捨てて裸になる。

 ここに鏡があれば、顔から火が噴く様子を確かめられるだろう。

 篠ノ之の視線が、アーリア人少女の肌を貫いた。

 犯されているのだと思うと、自分がひどく矮小な命に他ならないと実感する。

 ――屈辱だった。

 ISスーツを身につけるしかない自分への怒りでいっぱいだ。

 もし、考案者に会う機会があるならば怒鳴りつけてやりたい!

 婦女子の肌は男どもの性欲のためにあるわけではない! と。

 

「……こ、これで、よい、のか」

「ニーソックスを忘れていないか?」

 

 ほら、と荷物の一部を指さす。

 促されるまま銀色の靴下を膝まで伸ばした。肌触りこそ快適だったが、裸同然の格好に落ち着かなかった。

 

「よし。着替え終わったな。集合場所がわかっているか?」

「それは、その」

 

 うつむいてから首を振る。

 

「分からないんだな?」

「何というか、そう、なんだ……」

「わかった。私が案内しよう」

 

 篠ノ之が横の壁を見て時計を確かめる。着替えに手間取ったためか、予鈴まで十分もなかった。

 

「急ぐぞ」

 

 篠ノ之がこちらの手を取った。

 迅速に行動すべきときだ。通路を足早に進みながら、彼女はギュッと手を離さない。

 その温もりと柔らかさを懐かしく感じてしまったがために、頬を赤らめてしまった。

 

 私にはエヴァがいる!

 

 結婚したばかりだ。彼女への愛はいささかも揺らいでいない!

 外に出ると、山田参謀が遠くに立っている。近づくにつれ、彼女が奇矯な暗緑色の金属の着ぐるみを身につけていることがわかった。

 篠ノ之と手を繋いだまま集合場所へたどり着く。

 予鈴まで三分ほど残っており、数十人もの少女たちが、みなあられもない姿で肌をさらけ出していた。

 やはり騒がしく、それぞれ仲良し同士で花を咲かせている。

 彼女たちを観察するうちに、中心に対して、やや距離を置いているのがわかった。

 不意に手が強く握りしめられた。肩越しに篠ノ之の顔を見やると、ひどく思い詰めた様子だった。

 目線の先を追う。中心にいる男女たち。

 

「あれは、さっきの……」

 

 入口で躊躇していたとき、声をかけてきた少女が輪の中にいる。

 青色のISスーツ。いかにも富裕層の雰囲気である。自己紹介のとき一緒だったデュノア少年。それと、知らない男子。中国系の少女。

 あの中の誰かを見て、篠ノ之が動揺していることまでは察した。

 

「そろそろ……」

 

 だんだん手が痛くなってきた。篠ノ之が剣をたしなむことを思い出す。

 握りつぶされるのではないか。

 そう思ったとき、篠ノ之がビックリした様子で手を離した。

 

「すまない」

「私は大丈夫だ。気にするな」

 

 そう言うと、織斑が冗談を口にして騒いでいた少年を注意して黙らせる。

 彼が反省したのを見計らって、山田参謀が笛を鳴らした。

 

「はーい。集合。授業をはじめますねー」

 

 後を追うように予鈴が鳴った。山田参謀は手際よく指示を出していく。

 篠ノ之と同じ列に並ぼうとしたとき、山田参謀の隣で学生を見守っていた織斑が呼び止めた。

 

「ボーデヴィッヒはこっちだ」

「了解した、教官殿(フロイライン)

 

 先ほどの男子たちの列。その最後尾に並んだ。

 『気をつけ』踵を揃えて直立不動の姿勢を取る。

 ――これでも軍隊にいたのだ。姿勢には自信があった。

 視線を一点に保ちながら、織斑が口を開くまで微動だにしなかった。

 

「本日から格闘および射撃を含む実戦訓練を開始する!」

 

 格闘、射撃。そして実戦。

 ――――それでこその軍事研修施設だ。

 一九四五年にこの風景と出会っていたら!

 胸に去来する寂しさ。

 軍事教練において、寂しいばかりに弱気を見せてはいけない。弱気は死に直結する。塹壕においては、弱気のあまりめそめそする者は、バタバタと機関銃に打ち倒されていくものだ。悠々と前線を行く者のみが、たいていは生き残る。

 かといって、驕り高ぶるのもいけない。慢心は注意を散漫にさせ、用心を怠らせる。力が強いからと言って生き残れる保証はないのだ。

 コソコソと無駄口を叩く学生たちの後ろ姿を見ながら、そんなことをつらつら考える。

 そして、直立したまま目玉を左右に動かした。

 実戦訓練というからには、あるべきものがあるはずだ。超近代的な軍事研究施設の秘密兵器というものが。

 

 銃はどこだ? 機関銃は? 大砲は?

 突撃砲は? 戦車は? 戦闘機は? 爆撃機は?

 

 ……どこにも見当たらない!!

 

 織斑は確か、『IS実習』と言っていた。

 ISスーツなる破廉恥な衣装を身につけさせたからには、度肝を抜くような、何かが欲しい。その何かが、屈辱に耐えた理由になるからだ。

 『(ファン)』『オルコット』という声が聞こえた。どうやら演習を行うらしい。

 

「それからボーデヴィッヒ!」

「……(ya)!」

 

 鋭い口調に対して、つい応じてしまった。

 

「演習のあいだボーデヴィッヒには専用機の着用を行ってもらう。細部を調整したのち、問題なければ訓練に参加してくれ」

 

 手招きされ、織斑がある場所を注視するよう促す。

 ほどなくして、黒い金属の着ぐるみを牽引する装甲車が姿を見せた。

 

「あれが……」装甲車の荷台に、巨体が腰を降ろしている。

「IS。ボーデヴィッヒの武器、選ばれた力。(レーゲン)だ」

 

 だが、前もって準備をしていない。電撃戦を準備なしに行うのは不可能だ。

 

「……気がすすまないならいいんだぞ」

 

 織斑が心配そうに言った。

 

「銃を撃つことくらい造作も無い」

「そうか」

「で、銃は」

「好きなのを選ぶといい。気晴らしになる」

 

 おもむろに山田参謀を仰ぎ見た。

 装甲に覆われた手。その手中に収められるのはせいぜい機関銃程度だろう。

 

「十分だ」

「たとえば8ー8(アハト・アハト)、ジークフリート、V3。

 めぼしいものは()()()拡張領域(バス・スロット)に突っ込んでおいた

「え?」

 

 ――聞き捨てならない単語を聞いた。

 

「いや、たいしたことじゃないぞ」

 

 織斑がニヤリと笑った。

 

「昔から好きだったろう? ()()()()()()()()()()()()()

 




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※2019.10.18 予想外の好評につき短編から連載中へ変更いたしました。更新頻度につきましては、短期集中で行います。


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6.sechs. ――騎士――綱領――魔術――哄笑――

 驚きだ。

 馴染み深い兵器たちの名を口ずさんだ彼女は、続けざまに金属の着ぐるみによじ登り、腰を下ろすように促した。

 言われるがままに行動しているが、その実、どのように身につけるか検討もつかなかった。

 少し離れた場所で、富裕層の言葉(クイーンズイングリッシュ)を話すイギリス娘が、鮮やかな王家の青(キングスブルー)を身に纏った。対して勝ち気な中国娘が紫の鎧を顕現させる。

 彼女たちが、いかなる超技術を用いたのか、理解を絶する。

 だが、一九四五年から二〇■■年までの数十年間で、かつて学者たちが唱えた絵空事を現実のものとすべく、労働者たちは競走し、切磋琢磨をしたのは想像に難くない。

 それを証明するように、一市民にすぎなかった彼女たちですら、超技術の恩恵を受け、利用している。

 自分は聡明だと思っている者ほど誤解しがちなのだが、そこにある技術すべてを理解する必要はない。

 大部分を知っている必要もない。

 極端に言えば何も知らなくてよい。記憶がなくても構わない。脚がなくとも、腕がなくともよい。

 必要なのは、迅速な決断力と大いなる責任を引き受ける力だ。

 ……織斑が腕時計を口元に近づけた。

 文字盤を一瞥したあと、小さな、無機質な声で口ずさんだ。

 

「記録開始。二〇■■年六月×日。五限目。一年一組。

 対象ラウラ・ボーデヴィッヒ、搭乗機シュヴァルツェア・レーゲン。立会、織斑千冬」

 

 牽引された荷台。後部に回り込み、簡易階段を登る。

 灰色の作業服を身につけた技師の言うとおり着ぐるみに腰掛ける。

 技師のひとりがクリップボードをその場に置き、大声を掛け合い、二人がかりで太いケーブルを除去した。

 装甲の隙間から赤い光が漏れる。点滅するにつれ、装甲車のパトライトが光り出す。

 

「ボーデヴィッヒ! 既に承知だとは思うが、伝えておく」

「……どうした」

「ISを起動した瞬間から撮影が始まる。ISの使用を停止するまで撮影が続く。ISを使用するたびに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……撮影? 提出? 書類仕事に煩わしさを抱いてはいたが……」

「確かにドイツ連邦軍(Bundeswehr)には、面倒な手続きがあった。しかし、ここでは、そのような煩わしい手作業は一切ない。すべて自動で行われる」

「自動だと? 誰かがそう命じたのか」

 

 織斑が肯定した。

 彼女は強風で髪が乱れないように頭を抑えて言い放った。

 

「協定で決まっている。

 IS運用協定(アラスカ条約)

 私がこれまで、つねづね口にしてきたように、ISと共に飛んでいるのは、人でもなく、武器でもなく、責任だ!

 

 災厄の雨(Schwärzer Regen)が、腰をあげた。

 

 ――()つ騎士を(たた)えよ――

 

 何もないところに文字が浮かびあがる。

 瞬きを忘れて律動に身を任せる。

 猛る戦車の機械的な音響、殺人的な振動は感じられない。

 むしろ、獣たちから身を隠し、息を殺して森を抜けたあと、ほっと一息をつくように、静寂のなかで響き渡る微かな嘆息が、両足を接地する瞬間に生じたにすぎなかった。

 昨日空き地で覚醒したときと同じく、左右も見回し、手や足が無事か確かめる。

 神経と連動した機械は、自らの血肉と同じくして動いている。

 眼前の空間をテレビジョンが映像を投影する。

 無数の文字(ドイツ文字)だ。

 自在に動くこの機械に、もし数多におよぶ頭脳が搭載されているとすれば、搭乗者はすべての頭脳へしかるべき時に、しかるべき成果を挙げられるよう采配しなければならない。

 

「ボーデヴィッヒ」

 

 どこからともなく声が聞こえた。

 確かめるべく自分の耳に手をかざす。

 だが、不思議なことに、織斑の声は宛がったはずの手のひらと、耳の間から生じていた。

 

「問題はないか? 痛いところ、苦しいところ。動きにくい、ひっかかるとか」

「ない。手足のように動く」

「結構だ」

「……撮影はもう始まっているのか?」

「そうだ。いきなり気合いが入ったな」

 

 織斑の声が弾む。

 再び、自分の身体を見下ろした。貧相な、小さな身体。

 ただし、膝から下、肘から先が機械でくるまれて膨れ上がっていた。

 

「まあ、そうだ」

 

 答えながら、今度はゆっくりと周囲の反応を確かめる。

 肉体が行うように、その場で回る。

 軍靴の感触を感じられないのは、いささか現実感に欠けてはいた。

 しかし、この瞬間も、呼吸に応じて胸が上下している。

 夢ではない。まぎれもない現実だ。

 技師たちの瞳に、輝きが見て取れる。一目で高揚感や強い意志、羨望を見抜いた。

 彼等は機械をまとうこの身に、明らかな敬意を抱いている。

 首を回して、空の小さな煌めきを見つける。

 すぐさま、レンズが視線を追いかけ、四角い枠のなかに、風にたなびく艶やかな髪を捉えた。

 イギリス娘と中国娘が空中で絡み合うように激しく斬り結んでいる。舞踏のなか、娘たちが互いに抱く愉悦、高慢と嫉妬のような気持ちまでも、確かに捉えていた。

 とてつもなく新鮮な光景だ。

 一九〇三年に世界初の操縦可能な飛行機が生まれたが、それからたった百数十年で、その身で風を感じるまでになったのだ。機械をまとった人間が、直接空を飛んでいる。

 ある考えが頭をよぎった。

 ――この、ISなる機械を使えば、彼等を、もっと、激しく扇動することは、きっと可能なのではないか?

 

「次は武装の実体化だな。やってみろ」

 

 実体化? 武装?

 織斑に身体を向け、いぶかしむように目を細める。

 しばらくして、彼女は真面目な顔をしたあと、腰に手を突いて、自信たっぷりに片目をつぶって見せた。

 

「……さすがだな」

 

 織斑が熱心にうなずいた。

 

「安全回路の存在を見向くとはな。プログラムを出せるか?」

「当然だ」

 

 答えて、ふと考える。

 織斑は同胞なのではないか? 何らかの理由があって、同胞だと口にしていないだけなのでは……。

 

教官殿(フロイライン)

 あなたも、プログラム(二五箇条綱領)をご存じであったか!」

 

 二五箇条綱領、国家社会主義ドイツ労働者党の党綱領。

 正確な発音で口にしたはずが、またしても、ただのプログラムに変換されてしまった。

 

「プログラムを出してみろ」

 

 織斑は大声を気にせず繰り返した。

 ……二五箇条綱領ではない!? 

 二度三度瞬いたのち、投影文字を探し、すぐさま見つけた。

 

「……これだな」

 

 『武装』

  ・駆逐刀

  ・ワイヤーブレード

  ・レールカノン8-8(アハト・アハト)

  ・ジークフリート

  ・マルチチャンバーガン(多薬室砲)V3

 

「好きなものを選べ。そうすれば具現化する」

「もちろんジークフリートだ」

 

 その答えを予測していたのだろう。織斑が満足げに呟いた。

 

「……だろうと思った」

 

 即答したのは、もちろん一番強そうな名前だったからだ。ゲルマン神話の伝説の竜殺しで、叙事詩に幾度も触れ、慣れ親しんでいる。

 『ジークフリート』を選んだ瞬間、蒼白い発光が生じた。

 驚きのあまり開眼したまま、両腕を空に、できるだけ開けた空間に向けてかざした。

 顕現に大量のエネルギーが消費されているのか、激しい発光が生じている。

 何もない場所から鋼鉄の板が押し出されていく。平たい板の中心に円形の巨大な(テーブル)が組み込まれていた。

 見立てでは全長約二五メートル(一〇〇〇インチ)。合計二枚。

 今度は左側の鋼鉄板の上から凄まじい発光、稲妻がうねり、のたうち回った。

 あたかも、粒子を積み重ねていくように、黒い、長い、巨砲が徐々に姿を形作る。

 

「中身を改修し、給弾機構をIS用に対応させたおかげで、威力はそのままだが、速射性能が大幅に向上した」

 

 織斑が説明する。

 全長約一二〇〇インチ(約三〇メートル)。架台である円板(ターンテーブル)が回った。

 

「つまりは、一五インチ列車砲(ジークフリート)、ビスマルク級主砲――――これは、もはや、魔術の類いだ」

 

 ビスマルク級戦艦の主砲は、確か二本を束ねていたはずだ。デーニッツは連装砲と呼んでいた。

 

「単装ならば……もう一門行けそうだな」

 

 先ほどと同じ要領でジークフリートを顕現させる。

 今度は右側だ。

 激しい発光後、顕現。円板(ターンテーブル)を回転させた後、砲塔自体の仰角をつけてみせた。

 

 ――『もし』が許されるのであれば、スターリングラードに籠もるボリシェヴィキの赤軍戦士どもの頭上に、両翼の巨砲が放つ約一八〇〇ポンド(800KG)砲弾をたたき込めたなら!!

 

 しばしの間、上機嫌になる。

 胸中を悟られまいと、悠然とした表情で周囲の様子をうかがった。

 織斑は腰に手を当てたまま満足げに肯定している。技師たちも同様だ。拍手すらしている。

 対して少女たちは、何というか、口を開け、呆れ顔で巨砲を見つめているにすぎない。

 彼女たちの顔がどことなくおかしくて、大きな声で笑った。

 気持ちが緩んでしまったのだろう。これほど笑ったのは目覚めてから初めてだ。

 

 

 




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7.sieben. ――終礼――図書――伝達――タイプライター――

 

 

 一五インチ列車砲(ジークフリート)、そしてマルチチャンバーガン(多薬室砲)V3を量子空間へ何度か出し入れするうちに実習時間が終わっていた。

 予鈴を聞きながら、織斑と技師たちに災厄の雨(Schwärzer Regen)を預けた。

 またしても女子更衣室へ向かわねばならないことに気づいて、視線をさまよわせながら歩んだ。

 今度は入口で躊躇しなかった。

 終礼開始が近づいていることもあったが、徒に時間を浪費すれば、恥辱の時間が増加すると考えたからだ。

 

「……だから、篠ノ之。前を隠せ、前を」

 

 目のやり場に困り果てた。

 仕方なく、更衣室の隅で少女たちに背を向けながら、うつむきがちに制服への着替えを終えなければならなかった。

 教室の自席に戻ると、先回りしていたのか山田参謀の姿があった。

 

「ボーデヴィッヒさんで最後ですね」

 

 どうやら着替えに時間をかけすぎていたらしい。

 半ば目を瞑りながら、恥辱に耐え忍び、慣れぬ女物の衣服を身につけたのだから、咎められる言われはないだろう。

 実際、山田参謀が気にした様子はなかった。

 少女たちはこちらの姿を見るや、特に囃し立てる様子もなく、じっと見つめてくるだけだ。

 とはいえ、篠ノ之だけは、わずかに表情を緩めてくる。

 自席に腰掛けて、山田参謀の目線を追いかけた。

 織斑の到着を待っていたようだ。

 彼女が黒い冊子を片手に姿を見せると、補助教員用の椅子に座る。

 

「では、終礼を始めますね」

 

 起立。礼。

 少女たちの動きに合わせる。

 全員が腰掛け終えるのを見届けたのち、山田参謀が連絡事項を伝え始めた。

 簡潔かつ明瞭。

 織斑の参謀を務めるだけあって、淡々と進む。

 途中、幼さの残る外見ゆえに少女たちがからかう場面もあるにはあったが、終礼に与えられた一〇分という時間を、一秒も超えることなく解散となった。

 他の少女たちは談笑に興じ、ひとり、またひとりと教室から去って行く。男子学生もデュノア少年を誘って室外へと消えた。

 しばしの間、ぼんやりとしながら彼女たちの後ろ姿を見送る。

 

「ボーデヴィッヒ」

 

 篠ノ之だ。

 肩に木剣を担いでいて、軍人というよりは、戦士のような雰囲気を漂わせている。

 椅子に座ったまま応じた。

 

「これから戦闘訓練か?」

「そんなところだ」

 

 篠ノ之が楽しげに続けた。

 

「ボーデヴィッヒはどうするんだ」

「私は、もう少しこの場にいる」

「わかった。またあとでな」

 

 彼女が教室からいなくなると、騒がしさが消えて、静けさだけが残った。

 頬肘を突いて、愛おしげに上唇を撫でる。

 確かに若い肌は瑞々しかったが、それでもやはり、寂しさが募って嘆息が漏れてしまった。

 そのまま窓の外を眺めながら、思索に(ふけ)る。

 一日のあいだに、あまりに多くの出来事があった。頭のなかを整理したくなったのだ。

 

 消えてしまった大切な口髭。男子が男子たる象徴。二〇■■年。失われたドイツ式敬礼。秘密兵器と、それに付随する魔術。

 

 ――新しい状況である。

 速やかなる適応が求められるが、やはり、情報が不足している。

 ドイツ式敬礼については、歴史観において、致命的な歪みが存在するためだろう。もちろん、労働者や農民たち、一市民に罪はない。学者や政治家を自称する連中が、今の状況を作り上げたに違いなかった。

 情報を得る手段といえば、まず思い浮かぶのは、雑誌や書物だ。

 ここは二〇■■年の軍事研究施設である。

 しかも多数の学生が在籍している。

 かつて在籍していた寄宿舎がそうであったように、書物を一カ所に集約しているはずだ。

 

「図書室だ」

 

 行動しなければならない。

 席を立ち、誰かに図書室の場所を聞き出すべく、廊下に出たとき、見知った顔を目にした。

 

山田教官(山田参謀)ではないか。そのように慌てて、いかがしたのか?」

「良かったぁー。ボーデヴィッヒさん、まだいてよかったぁー」

 

 よほど慌てていたに違いない。しばらく肩で息をしたあと、背筋をピンと伸ばして手を前に組んだ。

 

「実はですね。ボーデヴィッヒさんに、伝えなければいけないことがあって……さっき、言うのをすっかり忘れていました」

 

 山田参謀はにっこり微笑んだ。

 ――つまり、その伝達事項は、皆の前では口にできない、ということか。

 しばし考え込み、言葉を選んだ。

 

「私にはこれから図書室に向かうという目的がある。伝達事項は手短に願う」

「図書室! それは良い考えです!」

 

 山田参謀は笑みを浮かべたまま手を叩いた。

 

「ボーデヴィッヒさんは図書室の場所をご存じですか? わからないのであれば案内しますよ」

「……ありがたい」

「では、ついてきてください」

 

 山田参謀に付き従って歩き出す。

 図書室は別棟にあった。

 山田参謀は入館するなり、閲覧席に向かった。

 

「ここです」

 

 六人掛けの机には、椅子一脚につき一台のタイプライターが置かれている。

 しかし、タイプライターにあるべきローラーやアームがない。紙も用意されていなかった。

 そして、すぐ後ろに、どういうわけかテレビジョンのような板が据え付けてある。

 記憶のなかにあるテレビジョンよりも物足りない気がして、机の横に回り、裏側を確かめた。

 不自然なくらい平べったく、裏に手を差し込んで上下に振った。

 ……ブラウンの大発明はどこへ?

 再び山田参謀の隣へ戻って首をひねった。

 

「ここで何を?」

「伝えなければならないのは、連絡先の設定なんです。デュノアくんとは昼休みのうちに済ませちゃいましたが、そのとき、ボーデヴィッヒさんの姿が見当たらなくて」

 

 昼休みといえば、織斑と共に行動していたのを思い出す。

 

「……連絡先」

 

 そう、連絡先。

 二〇■■年となってしまっては、総統地下壕へ連絡する術がない。

 強いて挙げるなら寄宿舎だったが、室内で電話を見た覚えがない。

 一瞬エヴァのことが頭に浮かんだ。エヴァに連絡する術がないことも。

 山田参謀に促されてタイプライターの前に座る。

 じっとキーへと視線を落とし、次にテレビジョンを見やる。

 連絡先……頭の痛い話だ。

 

教官(参謀)。連絡先を設定するとは、どういうことだ?」

「簡単にお話ししますね。生徒ひとりひとりにメールアドレスが与えられています。@の前が実名になっていて、どうしても使いたくない、とか、支障を来すことがあるんですね。そこで、別名を設定してあげる必要があるんです」

「私の場合は?」

「Laura_Bodewigアット……になります」

 

 山田参謀がアルファベット表記を口にしながら、印刷された紙を差し出した。

 

「他人の名前みたいだな」

 

 紙を受け取り、そこに書かれた文字を見つめる。

 Laura Bodewig(ラウラ・ボーデヴィッヒ)。記憶にない名前だ。

 深く息をした。

 椅子の背にもたれて、背後を見上げる。

 主導権を握られて腹立たしいことであったが、山田参謀の言葉を待つしか無かった。

 待つ間、テレビジョンのようなものを使おうとした。点灯装置を探したものの見当たらなかった。

 

「設定作業をやってしまいましょう」

「わかった。タイプライターに紙を」

 

 山田参謀が不思議そうにこちらを見つめ返してきた。

 

「書体はアンティーカ(Antiqua)、四ミリメートル。行間には必ず一センチ空けてくれ」

「……タイプライター?」

 

 彼女は小首をかしげて一瞬だけ考え込む。すぐさま言わんとしていることを察したようだ。

 

「ドイツではパソコンのことをタイプライターって言うんですね。ボーデヴィッヒさん、目の前にあるパソコンを使うんですよー」

 

 ――パソコン?

 パソコンなるものがタイプライターと同義であると、山田参謀は、参謀たる者が考えている。

 彼女は横からのぞき込むようにして、テレビジョンの裏に手を伸ばす。

 指で押しこむ仕草をしてから、タイプライターの横にあった卵形の塊に手を添えた。

 

「まずは設定画面を出しますね。ちょっと待っててください」

 

 

 




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8.acht. ――鼠――矢印――名前――ゾンビ――

 

 

 テレビジョンの向こうから微かな羽音が聞こえてくる。

 すかさず左右に注意を向け、気配に備える。タイプライターの打ち子が控えているのでは……と思ったが、誰もいなかった。

 画面に絵が表示される。山田参謀は机に手をついて体重を預けていた。

 

「では、マウスを操作してみてください」

「……マウス(Maus)!?」

 

 言われて聞き返さずにはいられなかった。

 ――少し前ポルシェ博士に作らせた、超重戦車(Maus)だ。残念なことに、シュペーア、軍需大臣が資材不足だとか理由を付けて中止してしまったが。

 よしんば存在していたとしても、図書室入口の開口部の幅からして、マウスを収納するには無理があった。

 ――山田参謀のことだ。何か考えがあるに違いない……。

 念のため後ろを振り返る。何度も瞬きして、左右を確認してみた。

 前を向いて、不首尾に終わったことを伝える。

 

マウス(VIII号戦車)なんてどこにも見当たらないが……」

「……マウス(mouse)ですよ?」

 

 山田参謀が眼鏡越しに瞳を細める。

 にっこりと笑ったままだが、いつもながら視線が発する圧力に驚かされる。二〇■■年になっても参謀教育が機能しているのだ。

 もちろん、山田参謀以外の者が優秀であるかどうかは未知数だ。

 しかし、昨日今日とこの軍事研究施設の職員たちの働きぶりを見た限りでは、とても勤勉で、高い教育水準に驚かされている。かといって、この施設の敷地から一歩でも外に出てみれば、愚劣で有害な民族で溢れかえっている可能性も零ではない。

 とはいえ、ゲルマン人は比べればどうということはなかった。彼等は最低最悪の民族だ。寒いと何もしない。寒いと暖を取る以外のことは頭からすっぽ抜けてしまうのだ。創造性を発揮するには温暖な気候が必要だ。適切な気候条件が整っていれば、秘められた能力が発揮できるようになるだろう。

 アーリア人は文化の担い手だ。

 エジプトのピラミッド、スペインのアルハンブラ宮殿、アテネのアクロポリス。祖先たちがなしえたように、造れないものはないのだ。

 山田参謀の眼鏡がキラリと光った。うずうずとした表情(かお)つきだ。

 

「ボーデヴィッヒさんはもしかして、トラックボール派ですか?」

「いいや、触ったことがない」

「そうでしたか。…………残念

 

 授業がそうであったように、数十年におよぶ時空の間隙のためか、山田参謀が放つ語句の多くを理解できないでいる。当然パソコンなるものの知識をほとんど持ちあわせていなかった。

 コンラート・ツーゼが、自らの名を冠したツーゼ(Zuze)なる計算機を開発したのは知っていた。彼に助成金を与えている役所があるのを知っていたし、素晴らしい計算機だという説明を受けたことがある。

 しかし、ツーゼは大きすぎたし、重すぎた。戦争遂行のある一場面では、計算が重要だという事実を理解してはいるものの、銃弾が飛び交うような場所に、長大な電線を引っ張り、計算機を設置するため、あえて水平状態を保持するのは甚だ困難を強いる。

 常に状況が変わりうる前線で、少し性能のよい計算機がなにほどの物を言うか?

 ツーゼができることは人間でもできる。

 敵の攻撃に晒され、七十二時間ほど眠っていなかったシャハトですら、朝食片手に計算くらいはできるはずだ。

 山田参謀が手元を動かしてカチカチという音を鳴らす。

 ほどなくして、画面の中央で下線が点滅する光景を目撃した。

 

 

 

Laura_Bodewig_@◆◆◆◆◆.◆◆◆

 

 

 

 この身を、アーリア人少女の外見を規定する文字群なのだが、どうにも他人の名前としか思えずしっくりこなかった。

 

「アドレスの別名は五つまで設定できます。あとからでも変更できますから、まずは一つだけでも設定してしまいましょう」

 

 説明のあと、画面をしばらくじっと見つめた。

 そして、タイプライター、マウスなる白くツルリとした操作装置へと視線を順繰りに移す。

 山田参謀がテレビジョンの画面を手前に引き出す。

 彼女がこちらの肩へそっと手を置いた。振り向くなり視線を合わせてきたので言い返した。

 

「使い方を教わる必要はない」

 

 総統は打ち子ではない。

 

「わからないのであれば、なおのこと、いつでも言ってください。先生はそのためにいるんですよ」

 

 山田参謀の声はとても穏やかだった。

 柔らかな絹で覆いくるむような母性に溢れている。真摯な態度に胸を打たれた。

 

「パソコンを使う度に、此処が分からないから見て欲しい、とか、あそこが分からないから手を貸してくれ……と言われたら、私の仕事になりません。もしかしたら、その場に、私がいないかもしれないんですよ」

 

 彼女は、率直に意見することを恐れていない。会ってから、わずか一日しか経過していないのだが、キャリアだけは長い、低脳な参謀幕僚とは異なっていた。

 マウスから手を離すのを見て、少しだけ素直に、言葉を聞き入れてみようと思った。白いマウスに手のひらを重ねると、山田参謀の温もりが残っていた。

 ゆっくりと、横に、恐る恐るマウスを動かす。画面中央付近にあった矢印『↖』が、手の動きに追従して動く。

 手をマウスにあてがったままグルグル回してみた。画面の矢印『↖』も一緒になってグルグル回った。

 タイプライターやツーゼですら、こんな動きをしたことがなかった。夢中になって、山田参謀の真似をしてカチカチと指を動かす。

 ――なるほど、左右で機能が違う。

 かつてない喜びと楽しみがあった。これまで、著作をすべて口述筆記させたのだが、別にタイプライターの打ち方を知らないわけではなかった。あまりにも官僚的でつまらぬ機械であったため、面白みを感じられなかったのだ。正直毛嫌いしていたほどだ。

 再び画面中央、『Laura_Bodewig』の真下にある空欄へと矢印『↖』を置いた。

 

「そうです。キーボードで好きな名前を入力してくださいね」

 

 ここで、入力すべき名前はひとつしかなかった。

 

 

 

AdolfHitler_

 

 

 

 ――やったぞ! ……我が名の記述に成功した!

 ようやく、いや、初めて、正しい名前を表現することができた。

 

「ボーデヴィッヒさん」

 

 しかし、なぜだか山田参謀の声が震えている。それどころか机に置いた握りこぶしも小刻みに揺れていた。

 

()()()()()()()()()()()

「本気だ」

 

 彼女の顔を見ようと振り返りながら、堂々と胸を張った。

 

「あの……絶対NGだと思います……よりによって、()()()()は……ちょっと……」

 

 何を言う。

 アドルフ・ヒトラーがアドルフ・ヒトラーだと書いたのだ。自らの名を正確に記して、何の問題があるというのだろうか。

 山田参謀は揺るがぬ瞳を前にして、観念したのか、手を伸ばして確定キーを押した。

 

『入力した名前は既に使われています。別の名前を入力してください。』

「やっぱり」

 

 何が起こったのかさっぱりわからなかった。

 画面に出現した赤文字を目で追ううちに、内容を理解した。

 ――アドルフ・ヒトラーが他人に使われているだと!?

 

「別の人が使ってますね。でも、おかしいですね。確かヒトラーは禁止ワードだったはずじゃ……

「……同じ名前を設定できないのか?」

「複数の人が、同じ名前を、使うことは、できません」

「だったら……」

 

 山田参謀が不可能だと強調したのに気圧されて、少しばかり名前を変形してみた。

 しかし、『Adolf.Hitler』『AHitler』『AdolfH』もだめだった。

 名前と、誕生日である一八八九年四月二〇日から、考え得る限りの組み合わせをつなぎ合わせてみたが、やはりすべて使われてしまっていた。

 

「きっと、生徒の誰かが面白半分に確保してしまったのでしょう」

「面白半分? 確保してしまう? 他人の名前を、何だと思っている!」

 

 苛つきのあまり、感情をそのまま口にする。

 

ラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)という名の人間はひとりではない。ミュラー……例えばハンス・ミュラーという人間もひとりではないはずだ。現実に同姓同名の人間はごまんといる。名前を確保するなど、できるわけが、ない!!」

「何もヒトラーに拘らなくとも……」

 

 名前は重要だ。

 いくら名前を口にしようとしても、すべてラウラ・ボーデヴィッヒとして発音されてしまう。とても不本意なことだ。この、アーリア人少女の口から直接、『私はアドルフ・ヒトラーである』と、自ら名前を名乗りを上げない限り、この身は、アドルフ・ヒトラーたり得ないのだ。

 

「私はこれがよい……山田教官(山田参謀)、一つ提案があるのだが?」

 

 山田参謀が聞き返したので、『DEL』キーを押して、名前を消して見せた。

 

「名前を()()()()ことは可能ではないか?」

「それはできません」

 

 即答だ。

 

「だが、ボルマンならできた」

「ボルマン? うちの職員にそんな名前の人、いなかったはずですよ?」 

 

 山田参謀がポケットから四角い金属の板を取り出して、黒いガラス面に目を落とした。再び顔をあげたとき、こちらに向けて首を振った。

 ――ボルマンがいない!?

 ひどく衝撃を受けた。

 総統の器ではなかったが、ボルマンは思考と記憶の達人だった。いつも傍に控え、政策の良き確認相手であった。彼に助けられたことは一度や二度ではない。

 

「……わかった。他の案を試してみよう」

 

 ヴォルフ(Wolf)狼の巣(ヴェルフスシャンツェ)高貴な狼(adal wolf)人狼(Werwolf)狼の棲む峡谷(ヴォルフスシュルフト)高木の鷹巣(アドラーホルスト)鳥や小動物の巣(フェルゼンネスト)

 

「……これもダメか」

 

 オーバーザルツベルク(Obersalzberg)鉤十字(ハーケンクロイツ)国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)総統官邸(Reichskanzlei)ドイツ第三帝国(ミレニアム)最後の大隊(letzte Bataillon)

 

「……だったら」

 

nazis

 

 すかさず山田参謀が静止の声を発した。

 

()()()()()()()()()()() からかってます?」

「まさか」

 

 手を止めて答える。だが、目を離した隙を突いて、『推測候補』なるものが出現し、勝手に文字を補ってしまった。

 

 

 

NazisZombie_

 

 

 

ゾンビ(うすのろ)だと……私はのろまではない!」

 

 前を向くや画面に向かって文句を言ったとき、誤って『OK』ボタンを左クリックしてしまった。

 確認画面が出てきたので、あわてて『いいえ』を選択する。

 何度も瞬きしたあと、深呼吸してから、ゆっくり、冷静にマウスを持ち直す。

 山田参謀は一連のやりとりを見守っていたのだが、こちらが黙考するのを見計らって口を挟んだ。

 

新・首相官邸(NeueReichskanzlei)、とかどうでしょう。

 首相官邸(Reichskanzlei)なら、響きも問題ないと思いますよ……」

新・総統官邸(NeueReichskanzlei)か。

 ……なんとか、許せる。教官(参謀)の提案に従おう」

 

 

 

 




※補足 入力カーソルについて※
細かい話ですが、補足いたします。
日本国内の教育施設ですから、図書館にあるパソコンはおそらくWindowsです。
したがって、本来であれば、入力カーソルとして"|"『縦棒、パイプ』を用いるべきです。
"|"を使うと表示が崩れてしまうため、やむなくDOS様式である"_"『下線、アンダースコア、アンダーバー』を用いました。


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2日目
9.neun. ――子狼――冊子――地球儀――極東――


 

 またしてもうつ伏せになったままベッドで眠ってしまっていた。

 手を突いて上体を起こし、目元をこすりながら体の状態を確かめた。

 ――なぜ、裸に、バスタオルを巻いただけなのか……。

 昨晩の出来事を思い返す。

 図書室で新・首相官邸(NeueReichskanzlei)を設立した。

 山田参謀にパソコンの操作に覚えたい、と告げたところ、地雷撤去ゲーム(マイン・スイーパ)なるものを教えてもらった。参謀が図書室のパソコンを優先的に使えるよう司書へ話をつけ、好意に甘えて、しばらくパソコン上で地雷撤去訓練に勤しんだのだ。

 その後、寮に戻ってからは、机で居眠りをしてしまった。六時頃だろうか。篠ノ之が部屋を訪ねてきた。夕食の誘いだ。もちろん快諾し、篠ノ之以外にも三名の学生――鷹月、夜竹、四十院――と食事を共にした。

 その後、風呂に誘われたが、まさかの集団入浴であった。皆の前で裸をさらけ出すなど敵わぬと思い、風呂だけは、と固辞して部屋に戻った。シャワーを浴び、身体を乾かすうちに力尽きてしまったようだ。

 身だしなみを整えるべく洗面室に向かった。

 コップに溜めた水で顔を洗い、タオルで吸水したあと、鏡に映った自分の顔を凝視する。

 ――非の打ち所のない美少女だ。

 瞳に力を込めてみた。顔立ちが整っているだけあって、鋭い眼差しだ。『(ヴォルフ)』と言えなくもないが、どちらかといえば、子狼だった。

 ――せめて少年であったなら……。

 この器が男であったなら。成長すれば再び口髭を生やすこともできただろう。

 不条理を悔やんでも悔やみきれない。

 だが、この身が、男でないことを受け入れざるを得なかった。

 神の采配でもあるのだ。不本意ではあったが、シンボルが失われてしまったからには事実を認めるしかないのだ。

 若く瑞々しい身体となって良かった点もある。身体が羽のように軽くなったことだ。数日前まで愛用の杖がなければ歩けぬほどだったが、今はどうだ。一昨日、昨日と、精神的な疲れこそあったが、身体のほうはほとんど疲れていない。それどころか活力がみなぎり、杖の必要もなかった。

 さらに老眼が是正されたのはとても素晴らしい。

 元々書物を読むのに喜びを感じていた。戦時であっても、ボルマンが苦労して本を入手してくれていたのだ。彼の尽力に答えるべく、その本はすべて読み通し、己の血肉とした。老眼鏡を用いずとも活字が読める。これほど嬉しいことはない。

 『ラウラ・ボーデヴィッヒ』は学生の身分を持つ。学生が書に耽溺するのは、精神の修養にもなり、とても好ましいと言える。活字が読めるとなれば情報収集も容易となるだろう。

 洗面室を後にし、ベッド下のカバンから衣服を取り出す。

 ベッドの上に並べてから、じっくりと眺める。制服と体育着、下着以外を持ちあわせていなかったのだ。ISスーツは織斑に預け、ISなる機械のなかへと戻してあった。

 腕組みしながら、昨日の山田参謀の衣服を思い浮かべてみた。

 ――――絶望的闘争を行うに等しい。

 じっくり考えるまでもなく、無益な闘争であると言えた。冷徹無比な内心を押し隠し、母性すらまとわせる存在を念頭に置くならば、限りない屈辱、無限のみじめさを受け止めながらも、むしろ、味方につけるのが得策だろう。加えて未婚だと思われ、女子同盟の代表としても申し分のない人材である。

 

「服を着よう」

 

 下着を身に着けながら思索にふけった。

 ――今が『いつ』なのかはわかった

 次は、この施設が『どこ』にあるか知る必要がある。未だ旧・総統官邸への帰路がわかっていないからだ。

 制服のボタンを留め終え、懐中時計を胸ポケットにしまう。

 部屋を後にしようと机の前を通りかかったとき、一枚の紙片を見つけてつまみ上げた。受渡日の隣に、仮名で『クリーニング』と書かれている。

 ――受け渡し日は五日後。

 確かは織斑がクリーニングを手配すると言っていたか。

 少し考えてから紙片を戻して、踵を返した。図書室から本を借りるために入れ物が必要だった。ベッドの下に背嚢(バックパック)を見た覚えがあった。

 軍靴を履いて寄宿舎の食堂に向かい、朝食を摂る。ハムエッグ、パン、スープ。まだ早いのか、学生の姿は少ない。

 

「ご婦人。朝食はとても美味でしたよ」

 

 食膳を返却するとき、奥に見えた調理係の女性に向けて礼を言った。

 もちろん、和やかに振る舞うのも忘れなかった。

 出入り口の手前に寮母の部屋がある。寄宿舎の窓口を兼ねており、早朝から開いていた。

 窓口に近づくと、エプロン姿の寮母の表情がパッと明るくなって手招きしてきた。

 

「ラウラ・ボーデヴィッヒさん。制服のクリーニングの伝票、机に置いておいたけど、気づいた?」

 

 寮母は窓口のカウンターに肘をつき、こちらを見上げていた。

 伝票……先ほどの紙片のことだ。

 

「部屋で確かめました。受け渡しは五日後でしたね。ありがとうございます」

「昨日直接渡せばよかったんだけどね。ごめんねー」

「適切な判断です。私も昨日は初日で忙しかったものですから」

「そお?」

 

 明るい笑顔が特徴的だった。

 微笑みながら、視線を外してあたりを見回した。

 探しものを思い浮かべながら、寮母に向き直った。

 

「すみません。新聞はありませんか?」

 

 新聞はしばしば偏向的になる。虚言妄言を並べた情報媒体だが、大衆が知識欲を満たしたという気分を与える、という点では優れていた。

 少なくとも、この地や敷地の外の情勢を伝えているはずだ。

 寮母は人差し指を顎にあて、考え込むような素振りをしてみせる。

 

「新聞? そうねー、昔取ってたみたいだけど、今は取ってないわねー」

「……なぜです?」

「今どき、新聞なんかより、インターネット見るでしょ? 私の家も昔は取ってたけど、一人暮らし始めたら取らなかったし、なくてもネットがあればねえ。ここでも最初の頃は取ってたけど、誰も読まないからやめちゃった。どうしても読みたいなら図書館ね。入手可能なものは全部そろってるから」

「……そうでしたか。教えてくれてありがとう。……そうだ、チラシのようなものはありませんか?」

「学園のパンフレット……去年のだったらあるけど?」

「それで大丈夫です。荷物の受け取り先をどう書いて良いものかわからなかったのです」

 

 とっさに理由をでっちあげた。

 戦時であれば住所を知らせること自体が命取りになりかねない。

 しかし、寮母は意に介すことなくカウンターの下から『学校案内』なる冊子を取り出した。

 

「日本語版と英語版だけど、いい? ドイツ語版は見当たらなかったから使い切ったみたい」

「助かります」

「いいのよ。また何かあったら言ってねっ」

 

 冊子を受け取り、背嚢(バックパック)にしまいこむ。

 寄宿舎を後にしてから、しばらく歩いた。施設へ向かう途中にあるベンチがちょうど木陰になっていた。背嚢(バックパック)を置き、腰掛けてから二冊とも取り出す。

 両方を裏返して住所を確かめる。住所のそばに、地図があった。

 国外向けに軍事研究施設の場所が描かれていたのだ。島の形に見覚えがあった。

 頭のなかの地球儀が回る。ベルリンからグルリと半周近く回した。

 日本列島、すなわち大日本帝国

 

 ――極東の、あの、同盟国だと!!?

 

 ISなる魔術めいた機械を扱う、軍事研究施設の場所を堂々と冊子に掲載している。丁寧に英語版まで作っているのだから、つまり、戦時ではない、ということだ。

 懐中時計で朝礼開始までに三十分以上の余裕があることを確かめた。

 木陰で涼みつつ、思い出したように冊子をしまった。頭がぼうっとしてしまい、心もとない気持ちになる。

 ――総統地下壕は、地球の裏側、か。

 意識だけが、時空を、海を渡ってしまったのだ。なるほど、ボルマンが存在しないわけだ。

 全身に虚脱感が広がっていく。

 

「ボーデヴィッヒじゃないか」

「……ん、ああ」

 

 彼女をチラリと一瞥した。

 

「篠ノ之か」

 

 呟きを聞くなり、篠ノ之は棒状の包みを持ったまま、正面で中腰になった。

 

「どうした? 一人で黄昏れて」

 

 篠ノ之は答えるだろうか?

 

「ここは、()()、だ?」

「IS学園……日本だが」

「日本? ただの日本か? 大日本帝国では……」

「大日本なんとかは数十年も前の名前だぞ。遠い昔、大きな戦争があって、日本は負けたんだ」

 

 篠ノ之は事もなげに口にした。

 

「……アメリカに?」

 

 声が震えていることを認めざるを得なかった。

 感情的な思考停止に陥ろうとしていた。とにかく事実を確認して、冷静な熟慮が何よりも優先されなければならなかった。

 だが、篠ノ之の言葉は、空隙を埋める歴史的事実として突き立ったのだ。

 

「そうだ。この学校の近くにも、米軍基地があるな。戦艦も来てたし、空母も来てた。原子力潜水艦も来てるって、この前一夏が言ってたな。……大丈夫か? 顔色が悪いぞ?」

 

 ――この軍事研究施設はアメリカ合衆国の影響下にあり、この身は、彼の国に囚われた、罪人と、同類か。

 

「大丈夫だ。立てるから」

 

 脂汗をぬぐって、笑みを浮かべるよう努めた。

 

 ――早急に知らねばならない。一九四五年から二〇■■年までのあいだ、『何が』起こったか、を。

 

 

 

 




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10.zehn. ――繋ぐ――二人一組――クリンゴン――購買――

 本来であれば、早朝から空白の数十年間を埋める作業を始めるつもりでいた。早ければ早いほどよいものだが、この身が演ずる学生という身分が作業遂行を許さなかった。ベンチで過ごした虚脱の時間が思っていたよりも長く、また施設への足取りが重かったばかりに、当初の想定よりも時間を費やしてしまっていたのだ。

 やっとのことで入口にたどり着き、篠ノ之と共に施設へと足を踏み入れた。すぐ図書室へと直行を試みたが、彼女の強い反対にあって、数時間延期せねばならなかった。

 篠ノ之曰く、

 

「転入二日目からサボるのはどうかと思うぞ。専用機持ちがそれをやるのはちょっと……」

 

 伏し目がちに顔を背けられてはどうしようもなかった。

 彼女の態度、継いだ言葉『専用機搭乗者は()()()()エリートなんだ』からして、例の魔術めいた機械が信仰の対象になっていることが窺い知れる。

 おおかた、出自も知れぬ学者や知識人どもが張り子の巨塔から下々に向けて、ISなる機械が「すごいものだ。最高の兵器だ」と宣言し続けてきたのであろう。

 

「……私が軽率だった。授業に出よう」

 

 そう言った途端、正面を向いた篠ノ之の表情が華やいだのだ。娘みたいな年齢の少女が嬉しげに相好を崩している。彼女のほうが背が高かったために、手を繋がれて、教室のすぐ側まで共に歩いてしまった。

 気恥ずかしさで胸がいっぱいになっており、『一年一組』の札を見てようやく我に返った。

 

「手を離してくれ。さすがに、恥ずかしい」

 

 彼女がこちらを妹のように感じているのではあるまいか。疑念が募る。

 しかし、篠ノ之自身も自覚があったらしい。こちらのふくれっ面を見るや、手を離してしどろもどろになって言い訳した。

 

「少し前に住んでた土地の近くに、剣道場があったんだ。児童向けのな。女子小学生の引率とか結構やってたんだ。すまん! ボーデヴィッヒが幼いなどというわけでは、決して、ないぞっ」

「ふむ。私が女子児童に等しいから手を繋いだ。同胞であるあなたはそう見ていると」

ちょっと待て、同胞? ……そんな目で見るな……違うんだ。ボーデヴィッヒは同級生だろう。児童ではないっ」

「児童ならば手を繋ぎ、児童でなくとも手を繋ぐと? なぜ?」

「そ、それは……近所の生徒は可愛かったんだ……待てよ……そんな、私は……そんなつもりでは……」

 

 そのまま思考の迷宮の深みにはまる篠ノ之を眺める。復活の兆しがないのでいじめすぎたと思い、教室へ入るよう口を開きかけた。

 

「立ち話はそろ……」

「何やってんだ。箒と……えぇと」

 

 教卓の真正面の席に座る男子学生だ。篠ノ之と同じく黒髪である。

 面立ちが織斑と似ており、絵に描いたように整った顎を持っている。……とはいえ、東洋での男子の美醜の基準がいまいちよく分かっていなかった。フォン・リッベントロップのように容貌だけの俗物がいたので、この男子学生が彼のようにならないことを願った。

 

ラウラ(アドルフ)ボーデヴィッヒ(ヒトラー)だ」

 

 よろしく、と握手を求める。

 

「あぁ、よろしく。織斑一夏だ」

 

 お互いに手を離す。

 篠ノ之に向き直り、何度も瞬きする彼女を導く。

 

「入口では通行の邪魔になる」

「……そ、そうか」

 

 席に着き、朝礼の時間になる。織斑と山田参謀が一緒に教室へ入ってきた。挨拶が終わり、全員が席へ着くのを見計らって、織斑が声をあげた。

 

「以前から周知していたように、今月下旬に学年別トーナメントがある。

 今年は、実験的に、二人一組でのタッグマッチで執り行う。

 例年、期間後半になると時間が押してしまい、ナイター強行になるなど問題があって、改善を求められてきたからだ。

 具体的な日程は後日発表するが、まず、お前たちにやってほしいのは、(ペア)を決めるというものだ。今月中旬までに申請してくれ。申請先のURLは朝礼のあとメールする予定だ」

 

 メールするということは、つまり、新・総統官邸(NeueReichskanzlei)に届くということだ。

 仕組みが機能し始めたことで、どうしても気持ちが軽やかになる。

 

「何か質問は?」

 

 織斑が学生たちをぐるりと見回す。

 

「では、わたくしが」

 

 セシリア・オルコット嬢が挙手する。

 

「オルコット。発言を許す」

「手を組む相手はこのクラス内の誰か限定でしょうか。他の組……たとえば、二組の誰かとタッグを組むのは許されますの?」

「今回に限り、相手が同学年であれば認められる。隣の凰と組んでも良いし、四組の更識と組んでもよい」

 

 教室中が一時的に騒然となった。

 しかし、少女たちが騒ぎ出したことに驚きこそすれ、思考を停止してしまうということにはならなかった。

 周囲は大混乱の様相を呈している。織斑が手を叩いて静まるように声をあげていた。

 なかなか混乱がおさまらなかった。混乱する要素を見いだせなかったために、その間、昼休みの計画を頭の中で構築することに躍起になった。

 ……手早く昼食を済ませ、図書室へ向かう。司書に手頃な歴史書を用意させる。司書たちが仕事に没頭する間、新・総統官邸に届いたメールを確認する……。

 素晴らしい考えに思えた。実際、空白の数十年間を調べることのほうが気になって、額に手を当て、うつむきがちになっていた。授業に身が入らなかったのだが、ある言葉を耳にして、意識が急に現実へ返り咲いた。

 山田参謀が四限目の終わりにこう言った。

 

「日曜日までにレポートを提出してください。最低でもA4用紙一枚以上。

 題材は今回のタッグマッチについて。IS運用時や整備時にどんな問題が起こりうるか。何でも良いので書いて提出してください。

 提出形式は手書きか印刷。時間が無ければデータでも良いです。くれぐれも他人が書いたレポートをコピペしないよう、早めに書いて出してくださいね」

「やまやせんせー。日本語じゃなきゃダメですかー?」

 

 誰かが声をあげた。

 

「もちろん英語でも大丈夫ですよ。私は英語やフランス語ならわかります。織斑先生はドイツやイタリア語、スペイン語なんかも大丈夫ですから、無理して日本語にこだわる必要はありません」

「わっかりましたー。クリンゴン語で書きまーす!

 

 クリンゴン語? 知らない言葉だった。

 予鈴が鳴り、昼休みになった。退室した山田参謀の後を追う。

 彼女に質問せねばならなかったからだ。

 

教官(参謀)!」

 

 階段を降る前に呼び止める。

 食堂で移動する者で騒がしくなっていたが、山田参謀はこちらの声に気づいて足を止める。

 眼鏡の位置を指の腹で直している彼女に向かって、たたみかけるように伝えた。

 

「レポートを提出するにあたって、用紙をどこで入手すればよいか」

 

 なぜなら、『ラウラ・ボーデヴィッヒ』なる少女の持ち物のなかに、筆記具の類いが存在しなかったからだ。ベッド下のカバンのなかに、織斑の机にあったような計算機と黒い画面の四角い機械もあったが、暗証番号がわからなかったために起動すらできなかった。

 加えて、現在の物価を掴めておらず、店の場所も把握していない。食堂と同様の方法で支払いができればよいのだが、そうではなく現金払いとなると支払いが困難になる。

 総統官邸にいた頃はボルマンを使いとして差し向ければ事足りたが、数十年後でかつ地球の裏側では頼ることもできない。

 

「レポート用紙でしたら購買に売ってますよ。購買は食堂の手前の階段を降りた場所にあります」

「筆記具は……」

「書くものも購買に何種類かあります。図書室の閉館時間までは開いてますよ」

「ありがとう、教官(参謀)!」

 

 礼を言って、山田参謀と別れる。早足で食堂に向かい、考える手間を惜しみ、昨日と同じ定食を頼んだ。

 ひとりで食事を摂った。だが、ひとりでかえってよかった。目的がはっきりしているからだ。目下の問題を解決するには、自分一人で行動しなけければならない。この問題は極めて個人的且つ不条理な理由によって発生していた。

 運命の道の第一歩は――図書室へ行くことだった。

 支払いを済ませ、持参してきた袋を片手に決然した面持ちで、昨日世話になった図書室へと足を踏み入れた。

 パソコンではなくカウンターへ直行する。静謐とした佇まいの司書に声を掛けた。

 

お嬢さん(フロイライン)

 

 司書の女性は何度も目を瞬かせた。左右に見やったあと、口をつぐんだまま首だけこちらへ向ける。自分を指さしたので頷いてみせると、照れ交じりにはにかんだ。

 近づきながら司書の手元に目を落とす。十冊まで二週間貸出可能だ。

 

「一九四五年以降のヨーロッパについて八冊、ISに関する入門書を二冊ほど揃えてもらいたい」

「かしこまりました。あの、ヨーロッパの本はドイツ語版を?」

「可能なら。なければ英語版で頼む」

「ジャンルは? 著者の希望は?」

「戦争と政治、外交に関する本。著者は指定しない。おすすめのものがあれば集めてもらいたい」

「希望は戦争・政治・外交。ISはどうします? 課題用ですよね」

 

 司書がカタカタ、と軽快に打鍵していく。

 

「イラストや写真が多いのが良い。一冊はできるかぎり平易な初学者向け書籍だ。もう一冊は歴史を俯瞰できるような本がいい」

「ISのほうは、日本語版か英語版になってしまいますが……」

「問題ない。今の知識では、とにかく絵があることが最も重要だ」

「なるほど。了解しました。集めるまでに少々お時間を頂きます。よろしいでしょうか?」

「いつまでに揃えられる?」

 

 司書が真剣な面持ちで考え込む。手元の画面を一瞥し、すぐにこちらを向いて言った。

 

「最低でも三十分ほどいただくことになるかと」

「素晴らしい。……が、終礼のあと、用事がある。閉館時間直前に伺うことになるだろう」

「取り置きますから大丈夫ですよ。本人確認のため学生証(カード)をお願いします」

 

 懐から写真入り樹脂板(カード)を取り出して、女性に差し出した。

 樹脂板(カード)を機械にかざすと、端末に名前や所属クラス、連絡先と思しき文字列などがひとりでに入力された。

 

「ラウラ・ボーデヴィッヒさん、ですね。かしこまりました。受け取りの際、もう一度本人確認をします。忘れずにカードを持参してください」

「ありがとう」

「それでは、お待ちしております」

 

 二、三歩進んでから立ち止まった。

 時計を見やる。メールの確認とレポート用紙の入手にかかる時間を天秤にかけた。

 ――購買なる場所を把握するのが先決だ。

 踵を返して図書館をあとにした。山田参謀に教えてもらった場所へ早足で向かい、総ガラス張りの一室の前で立ち尽くした。

 ガラスの向こうには、多色刷りの冊子の背表紙が並んでいる。

 ナチスの機関紙である『民族の観察者』紙や『突撃兵』紙を探したが、国が違うためか、やはり無かった。

 入口を探したが、取っ手が見当たらない。出入りする者がいれば分かるのだが、人気がないこともあり、冊子を手に取っている学生もその場から動く気配がなかった。

 

「すまない」

 

 ガラス板を拳の裏で軽く小突いた。

 冊子を見ていたその学生は驚いて、目を見張った。こちらに気づいて眼鏡の奥から不審げな視線を送る。

 

「そう君だ。水色の髪のお嬢さん」

 

 リボンが篠ノ之の制服と同じ色だから一年生に相違ないはずだ。

 

「どうやって、中に、入れば?」

 

 口を大きく、ゆっくり開けて、大きく身振り手振りで示す。

 眼鏡をかけた水色の髪の少女は、半ば、顔を引きつらせながら、手を震わせ、人差指を控えめに伸ばして、ガラスの切れ目へと差し向ける。

 

「あ・り・が・と・う」

 

 切れ目の前で立つ。ガラス板がひとりでに開いた。

 驚いて左右にドアマンが控えているのではないかと思ったが、待てども待てども姿を現そうとしない。

 そのうちに勝手に閉じようとする。手を伸ばして止めようとしたら、また、開いた。

 一歩下がると閉じた。

 近づく、開く、退く、閉じる。繰り返すうちに、いつの間にか先ほどの少女が正面に立っていた。

 胡乱な瞳でこちらを凝視している。

 

「あの……何を」

「今の一部始終を誰かが監視しているのではないかと、確かめていたのだ」

 

 事実をありのまま口にした。油圧式の自動ドアは一部の艦船に用いられていたのだが、近づくだけで反応することはなく、誰かが開閉スイッチを押さねば反応しなかった。

 その誰かがどこにいるか。よもや人の出入りを監視するほどの重要拠点ではないかと考えたからだ。

 

「そんなの、いるわけ……」

「いないと言うのか」

 

 わずかに厳しげな雰囲気を漂わせて質問した。

 

「無人……センサーで……」

 

 水色の髪の少女は何度も目を瞬かせ、呆れながらも教えてくれた。

 

「いいことを聞いた」

 

 そう言って中に足を踏み入れると、少女が後ずさった。 

 ガラスの外から見たときと同じく、店舗のなかは、ほとんど賑わっていないようだった。

 店員すらいないのだ。しかたなく顔を戻し、少女に向けて言った。

 

「ついでで申し訳ないが、レポート用紙と筆記具がどこに置いてあるかわかるかね?」

「えっ……」

 

 少女は一瞬怯えたような瞳を映し出したが、唯一の出口を塞がれていて、背を丸めて両肩をすくめた。こちらの顔色を窺うような、自信の無い仕草で、ついてきてほしいと言わんばかりに背を向けた。

 

 

 




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11.elf. ――弱気――支払い――歴史――嘲笑――

 

 

 ありがたいことに、店内の商品の配置に詳しい学生がいた。水色の髪をした少女のあとについて進みながら、物珍しさからか陳列棚に並ぶ色とりどりの袋に目を奪われた。

 艶々とした薄い袋。銀白色の薄膜へ精細なイラストを多色刷りする技術。樹脂の光沢などは宝石の断面のように煌めいている。

 少女は足を止め、怯えた様子で一番奥の棚を指さした。

 

「あの辺……」

 

 そう言うと、少女は横へ一歩ずれた。

 

「こっちが書くもの……」

 

 今度は目線の高さにある棚を示した。

 

「ふむ」

 

 一番手前にある細身のペンを指でつまみ、もう片方の指でつつく。硬い樹脂製だ。キャップを外し、先端を穴が空くほど見た。ボールペン。試し書き用の上質紙に向けて線を引く。筆記体で『F』を何度か書き、その後フラクトゥーア(ドイツ文字)を書こうと試み、強弱がつけられなくてペンを置いた。次に簡易万年筆。鉛筆のように硬質で均一な線だった。

 元の棚に戻してからしゃがんで、A4版のレポート用紙をいくつか手に取った。すべて上質紙でできている。手書きのつもりでいたから、罫線の幅がもっとも広い横書きものを選んだ。

 レポート用紙のうえにボールペン、簡易万年筆を置いて持ち上げる。

 さらに一歩退いて、様子を見守っていた少女が口を開いた。

 

「て、……手で書くの……?」

「もちろん」

「……今時……そんな人、……いないんじゃ……」

 

 妙なことを言う、と思った。

 いつの時代でも、こちらの行動を理解しがたい、不可思議なものだとして見る者がいる。

 水色の髪の少女は手書きで課題を作るような者は存在しないという。今、この場で驚いてしまえば、少女がこの場の主導権を握ってしまうだろう。

 真の総統たる者、そのような徴候はほんの小さなものであっても絶対に見逃さない。焦るように誘導され、落とし穴にはまらないよう、用心しながらゆっくりと行動するものだ。

 感情に支配されて軽率な行動をとってしまう、普通の人間とは異なるのだ。

 

「買う者がいなければ、商人は店先に品物を並べたりはしないものだ」

 

 動じず、落ちついた態度で臨む。

 少女は期待した答えが返ってこなかったためか、それとも病的な弱気から絶えずあれこれ迷っているためか、こちらを直視できず、さらに一歩退いて柱に背中をぶつけていた。

 カウンターを顧みた。『STAFF ONLY』と書かれた扉の向こうに、店員が控えている気配すらない。

 顔を戻して、少女に聞いた。

 

「品物を購入したい。私は、この地に、……この施設に来たばかりで買い方がわからない」

 

 実際、店内は閑散としていて他に客がいない。次の授業のこともある。彼女に聞く以外に術がなかった。

 

「教えてもらえないだろうか、お嬢さん?」

「……う、……あ……」

 

 少女は視線が定まらぬ様子だった。誰かに代わってもらおうと、首を右へ左へと曲げたが、無駄に終わる。

 怯えながら早足で脇を通り過ぎる。後をつけると、カウンターの前で止まって振り返り、白色光が点滅する台座を震えた指先で示した。

 

「か、カード(学生証)……」

 

 少女が、異常なほどうわずった様子で繰り返した。

 

「食堂と同じ要領、というわけだな」

 

 樹脂板(カード)を取り出して光にかざした。

 『ピ!』と電子音が鳴り、文字盤に『ご利用ありがとうございました』と表示された。微かに唸るような音がして、印字されたロール紙が送り出され、ひとりでに切断されてトレーに落下した。

 紙片をつまんで眺める。頭に『一律15%オフ』と書かれている。

 少女が台座の横のフタを開け、茶色の紙袋を取り出した。

 

「これに……」

 

 受け取り、購入した文具を袋に入れた。

 小脇に挟んで歩き出し、購買を出てすぐに改めて礼を言った。

 

「あなたがいなければ、私はこれを手に入れることができなかった。ありがとう。とても感謝している」

「……ひ、……べ、別に……」

 

 少女は怯えた眼差しのまま口ごもり、背を丸めて逃げ出してしまった。

 走り去る姿にどう反応すべきか躊躇した。何かしらの失礼があったのではなかろうか。

 やりとりを振り返っているうちに予鈴が鳴った。自分も足早に教室へと戻った。

 午後の授業はすべて一般教養である。日本国籍の生徒向けの英語の授業だ。文法的な講義と会話、そして言語技術(ランゲージアーツ)

 篠ノ之などは難しい顔をしている。対して、留学生たちは物足りない様子でいた。

 授業終了を知らせる本鈴が鳴った。教師が去ると、教室中が弛緩した雰囲気に包まれる。

 頬杖を突いて外を眺めていると、女子学生が視界を遮った。

 身を起こして背筋を伸ばし、顔を上げる。

 

「篠ノ之か」

 

 彼女にしては珍しく、にんまりとした表情だった。考えを言いたくてうずうずしている様子だ。

 

「……授業後、時間はあるか?」

 

 予定を即答せず、一度視線を外して、男子学生たちを見やった。

 もう一度篠ノ之の顔を見た。

 

「部活は決めたか?」

「……いいや、決めていない」

 

 言って、首を振った。

 実を言えば、部活動という発想がなかった。

 若者であった頃、学校の勉強は滑稽なほど退屈だった。暇を持てあまして、たびたび戸外へ出た。戦場――当時は近所の野原と森がそういう場であった――へ出向き、自然発生する口論を解決させてきた。実科学校でもそうだった。

 

「篠ノ之の申し出は大変ありがたい。しかし、今日は予定を立ててしまってな。また誘ってくれ」

「そうか。急かしてもよくないからな。先約を優先してくれ」

「助かる」

 

 篠ノ之は席へ戻ろうと一歩を踏み出した状態で固まった。

 視線を追った先には男子学生たちの姿があった。織斑一夏とシャルル・デュノアだ。

 寄宿舎や食堂、アリーナを見て回ったかぎりだと、この施設は著しく女性の比率が高い。一組から四組まであって男子学生はたったの二人だ。二人の若者が揉め事を起こすことなくうまくやっているとすれば、若者たちは互いに親睦を深め、同盟を組むのは当然だ。真の友情とはそれ自体が気高いものだ……。

 

「篠ノ之? どうした?」

「いや……」

 

 男子学生たちを見まいと、再びこちらへ向き直った。

 机に手を突いて前のめりになって、言った。

 

「授業後の予定とはどんな予定なんだ」

「アリーナでISに乗る。その後、図書館に向かう」

「アリーナ、はわかる。しかし……図書館? 図書館で何を?」

 

 篠ノ之は首をひねり、要領を得ない様子だ。

 立ち上がり、篠ノ之と向かい合うように立った。

 手を前に組んで両方の瞳を閉じ、意識を虚空にゆだねる。沈黙し、息を整えてから、目蓋を開けて黒真珠のような瞳を捉えた。

 

()()()

「……は?」

 

 篠ノ之が二の句を継ごうとしたとき、軍靴の踵を打ち鳴らした。独特の調べが教室内に轟き、次の瞬間、篠ノ之だけでなく、他の学生たちも一斉にこちらへと注意を向けた。

 

「歴史を学ぶということは、知性を獲得するための最良の手段である。

 ――われわれは自国の歴史をたくさん学んでいる。

 しかし、今日の歴史教育は、九割九分までが嘆かわしいものである。

 年号、日付の洪水。人名、人物の生年月日。たくさんの事件、出来事を暗記する。歴史をただ、漫然と文字列を暗記することとして捉えている人々がなんと多いことか!

 それはなぜか? 試験で良い点を取るためだ!

 だが、このような教育では、本質的なものを、すべて学び取ることができない。事件が起こり、そこに携わった人々の内面的な動因を見つけ出すことは甚だ難しいと言えよう。

 そのような教育を受けた彼等は全く歴史を学ばず、健全な歴史を捉えることなく、生涯を終えるのだ。文明において、これほど大きな損失はない。

 最も重要なことは、我ら人類の大きな発展の流れを認識することにある!

 歴史を集約して学ぶことは、各人の行動において、先人の失敗と同じ轍を踏むことなく、自らの知識を活用して賢明な判断を下して利益を享受する。国民全体において、役に立つことが期待できるのだ。

 であるからこそ、私は親愛なる祖国、ドイツの政治! 外交! 戦争! の三点を危急速やかに知らねばならない。ドイツ国民として、軍人(指導者)として、私には義務がある!

 

 教室のなかには重苦しい静寂の気韻が伝播していた。

 ――皆の心に私の思いが伝わったに違いない……。

 篠ノ之は衝撃のあまり唖然としていたが、すぐに我に返って、戸惑いながら口を開いた。

 

「……その、なんだ。インパクトが」

「忌憚のない意見を聞かせてほしい」

 

 篠ノ之が一歩下がりながら咳払いをした。

 

「……そういうの、いつも考えているのか?」

「考えている。

 準備なくして電撃戦など不可能だからな。いつでも戦場へ馳せ参じられるよう練習することもあるが、今みたいに即興でもよくやる」

 

 大真面目に答えると、篠ノ之以外の者がクスクスと忍び笑いを漏らした。そのうちに、小さな波がいくつも重なって伝染し(うつり)、大声を立てて笑い出した。

 指で自分の頭を小突くものが何名かいた。『芸風が……』『頭が……』『まともに話してる、篠ノ之さんがすごいわ……』などと呟きながら口を手で蓋をして震えている者さえいた。

 ――笑われるような話をしたつもりはない!

 篠ノ之は頬をかいてから、こう言った。

 

「……授業後、私もアリーナに行こう。せっかくだから練習に付き合わせてくれ」

「うむ。そうしてくれるか。ありがたい」

 

 真面目な会話をする最中であっても笑い声に包まれている。

 嘲笑的な響きが多分に含まれていたが、少なくとも篠ノ之には届いたはずだ。

 騒がしさは途切れることなく、山田参謀が終礼をすべく教室に姿を現すまで続いた。

 

 

 

 




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12.zwölf. ――候補生――リスト――再見――手の甲――

 

 

 格納庫に足を踏み入れた瞬間、仄かに流れるオイルの香りと、労働に勤しむ人々の熱気で、自分が未だ戦場にいることを痛感した。

 整備兵たちは、あたかも、甲斐甲斐しく出撃を待つ戦車群を世話するかのように、主無き機械の周囲を取り囲む。彼等は敬意をもって、色とりどりの機械たちと接している。

 よく見れば、機械のうちいくつかは同一の形状、兵装を持つ量産品だ。残りのいくつかは、唯一無二の形をもっていた。

 後から入ってきた篠ノ之が足を止めて、高い天井を見上げた。

 

「いつ来てもこの空気は慣れん……」

 

 そう呟き、彼女は身震いした。

 ISなる魔術めいた機械に圧倒されているのは、身体の動きをみるだけで明らかだ。

 整備兵だけでなく、ISスーツや学生服を身に着けた少女たちが、こちらをじっと見ている。傲岸さ、敵意、警戒、侮蔑といった、異物に対する防衛反応が見え隠れしている。

 押しつぶされるような息苦しさは、はじめ、自分に向けられているのかと思っていた。しかし、彼女たちの視線は、実のところ篠ノ之に注がれていたのだ。

 自分だけは何事もないような顔をして声をかける。

 

「大丈夫か?」

「……あぁ」

 

 篠ノ之は頭を振って先を歩き出す。後を追って、もう一歩を踏み出そうとしたとき、背後からやってきた少女たちが脇を通り過ぎようとした。

 何気なく視線を上げると、首輪を模したチョーカーを巻き、ISスーツに身をやつした金髪の少女と目が合う。

 

「へぇ……お前さん、右と左で瞳の色が違うのな」

 

 聞き取りにくい英語だ。おそらくアメリカ人。

 

「入口で立ち止まると邪魔になるぜ」

「……ご忠告痛み入る」

 

 一歩退き、道を譲る。

 アメリカ人の取り巻きと思しき女子学生が続いた。

 皆一様に肩で風を切って歩いており、威風堂々としている。あたかも私こそが優勢民族だと象徴しているかのようだ。神そのものだと言わんばかりの自信すら感じた。

 取り巻きの一人が、こちらへ流し目を送り、隣の者に誰それがいたと口にする。

 だが、彼女たちが興味を失ってもなお、目をそらすことなく、じっと見返す。

 借り物のオーラでは、帝国総統を、真なる優勢民族であるドイツ国民を統べる指導者を、炎と剣で攻撃することはできないと知らせねばならない。

 彼女たちが篠ノ之の姿を認めたのは一目瞭然だった。気持ちが後ろ向きになりつつある同胞に、総統の勇気を分け与えようと手を握りしめる。

 汗で湿っていた。しかし、こちらの手は乾いている。

 落ち着き払っているとわかったはずだ。剣士は他人に弱気を見せてはいけない。怖くてたまらなくなっていても恐怖心を表に出してはならないのだ。内心の臆病に苛まれたとしても、大いなる勇気をもって奮い立つ者こそが、真の勇者なのである。

 真の勇者は何事もなかったかのように振る舞うものだ。とはいえ、結局はどれだけ場数を踏んだか……慣れの問題でもあった。

 前を向き、自らの専用機のもとへ向かう。篠ノ之も合わせて動いたが、唇を引き結んで強ばった顔をしていた。

 災厄の雨(Schwärzer Regen)の傍へたどり着く 。ジャケットの代わりに作業服を身に着けた技師と思しき女性が、こちらに気づいて近づきながらにっこり微笑んだ。

 

「いらっしゃったんですね!」

「手続きをしたい。私と、できれば彼女の分も」

 

 女性は歩みを止めて、クリップボードの紙を一枚めくる。

 

「彼女は……量産機、ですね? 何でも良いのであれば一機ありますよ」

「本当ですか!?」

 

 篠ノ之がびっくりして声をあげた。

 

「代表候補生用の打鉄高機動型を組み立てるために、推進器や装甲といった諸々を外してしまった機体があるんですよ。

 しばらくリストから除外していたのですが、リバーウエストの担当者から部品に互換性があるって話を聞いたんで、強風用の推進器を試しに取り付けてみたのです。

 足回りの挙動が通常の打鉄と異なるとは思います。まあ、基本や近接戦闘の動作確認くらいには使えるでしょう」

「ありがとうございます。十分です!」

「では、すぐに機体を確保します。この端末に学生証をかざしてください」

 

 篠ノ之は言われた通り、女性が差し出した四角い端末に学生証をかざした。

 『ピピ!』と音が鳴り、端末の画面に『篠ノ之箒 乗機:無鐵(むくろがね)』と表示された。

 

「これで確保完了です」

 

 そう言って、端末を作業用のベルトバッグに引っかけた。

 

「少佐はどうされますか? 電撃戦でも?」

「今すぐにでもそうしたいが、まずはISスーツ(軍服)を取りに来たのだ」

「そうでしたか」

 

 女性は辺りを見回して、近くにいた若い整備兵に声を掛ける。災厄の雨(Schwärzer Regen)の中からISスーツを取ってくるように命じた。

 

「届くまでのあいだ注意事項を説明します」

「頼む」

「今日はアリーナの利用者が多いのです。外に出た際は戦闘訓練に巻き込まれないように注意してください。事前に空中戦闘訓練の届け出を出している生徒が何名かいまして、これが広範囲に、高速で飛び回るんですね。

 今日のところは申し訳ないのですが、基本動作と近接武装のみ使用可に限る、とさせてください。

 もちろん、万が一巻き込まれて動けなくなった時は回収機を出します。ですが、そういった事態はできるかぎり避けたいのです。安全第一でお願いいたします」

「……そんなに混雑しているのか?」

「こちらのリストで確認願います。付箋のところです」

 

 差し出されたクリップボードを受けとる。黄色の付箋が貼られた紙を見ると、様々な機体の名前が書き連ねてあった。

 ――――ヘル・ハウンドVer2・5、コールド・ブラッド、ラファール・リヴァイヴ、打鉄、打鉄高機動型、殲二〇(Jiān-20)(駆逐型)、試製襲撃機五一号、強風、改強風(ストリート6・タイフーン)、フォルゴーレ(稲妻)――――

 そこに、災厄の雨(Schwärzer Regen)無鐵(むくろがね)が加わるのだ。

 

「雑多だな」

「学年別トーナメントが近いですから、この時期はいつもこんなものですよ」

 

 クリップボードを女性技師に返す。

 

「ありがとう。助かった」

 

 ちょうど若い整備兵が灰色の布を抱えながら戻ってきた。受け取って確かめ、礼を言った。二つ折りにして腕にかけながら呟く。

 

「……もっと、こう、下半身が別の意匠のものはないのかね?」

 

 若い整備兵が首を振った。

 

「そうか……」

 

 深く息をした。今の状況で言えるのは、またしても羞恥に打ち震えねばならないということだ。心臓の鼓動が速くなる。落胆しながらも、弱気を押し退ける。自信ありげに振る舞うことも、総統の仕事なのだった。

 篠ノ之に声をかけ、足早に更衣室へむかった。

 彼女の着替えを見ないように、また自分の身体も見ないように目をつぶって着替え終える。

 ロッカーの扉を一度閉め、再び少しだけ開けた。視線をさまよわせ、制服に手をかける。

 ISスーツの上から制服を羽織ろうとしたが、背後から声がかかった。

 

「今からISに乗るんだぞ?」

 

 篠ノ之の確かめるような口調。とっさに嘘偽りなく理由を口にした。

 

「……もちろん。乗る前に脱ぐつもりだ」

「そんなことを言うやつがあるか」

 

 何度か同じやりとりをして、仕方なくこちらが折れた。同胞の貴重な時間をすり減らすわけにはいかなかったのだ。

 

「しかしな、これは、その……」

 

 羞恥心で胸がはりさけそうだ。

 とはいえ、下手に恥ずかしがっていては余計に目立ってしまう。篠ノ之の言うことは確かに道理でもあった。それでもやはり、衆人環視のなか、水着以上に激しい切れ込みの服を着るのはとても辛いものだ。

 今の自分にできることは、見かけだけでも堂々と乗機のもとへ向かうぐらいだ。

 更衣室をあとにして、格納庫を突っ切る形で歩き出した。

 気分転換を兼ねて視線を巡らせる。

 機械の展覧会である。甲斐甲斐しく世話して回っている整備兵は皆若年であり、この身と大して年の変わらぬ少女だった。

 男たちの姿はない。先ほどのアメリカ人が取り巻きと談笑する姿を見つける。

 

「ヘル・ハウンドVer2・5。隣がコールド・ブラッド」

 

 篠ノ之が機体を指さして名前を口にしていく。

 整備兵や見知らぬ女子学生とすれ違った。だが、総統のISスーツ姿に目を見張る者はいなかった。水着のような服装の少女ふたりが連れだって歩いているだけなのだ。とかく恥ずかしい格好なのだが、格納庫内では特別な姿ではなかった。

 先日の授業で目にしたラファール・リヴァイヴ。打鉄と呼ばれる東洋の戦士を模した機械が続く。進むうちに先ほどの技師の立ち姿が見えた。クリップボードを持ったまま手を振っている。

 彼女の背後に、骸骨のような機械が腰掛けた状態で鎮座している。足回りや腰の推進器周辺にだけ申し訳程度の装甲が施されているにすぎない。一見しただけで『無鐵』なる機体だとわかった。

 篠ノ之が女性技師に質問をなげかける。

 

「あの、この機体は打鉄なんですよね」

「そうですよ。先ほど申し上げたとおり、打鉄から装甲を除去していますね」

「だったら武装は……」

 

 他の打鉄のところに設置してあるような、剣の類いはなかった。

 機体の裏には、金属の棒に持ち手をつけただけの鈍器が置いてあるだけだ。ちょうど中国の明朝時代に使われていた斬馬刀ほどの大きさだった。

 篠ノ之が指さすと、技師が頷いた。

 

「正式な武装で使えるものはすべて他に回してしまっています。元々馬上槍(ランス)を宛がっていましたが、先日の突撃(チャージ)で壊れてしまいました……アハハ」

「もし……隣の赤いのは何だ」

 

 技師の乾いた笑い声を聞き流しながら、すぐ隣を見やった。

 機械の足回りと背面が推進器と装甲で膨らんでいる。こちらが目を引いたのはその色だ。全身が赤く塗装されて、とにかく目立つ。

 

「高機動型です。打鉄だったときの推進器と装甲の移植先ですね」

 

 三倍速いんです! とつけ加えた。

 観察するつもりで赤い機体の後ろへ回り込んだ。背面にいた整備兵が一瞬こちらに視線を向けたが、総統の姿でなかったために構わず作業を続けた。ミュンヘン時代、狂ったようにまとわりついてきた大衆だったが、一介の少女に対しては興味を示していないようだ。

 今は素っ気ない対応がうれしかった。飾り立てせず、ありのままの姿を映し出してくれるからだ。

 職頭らしい女性が十代半ばほどの年若い整備兵に指示を与えている。手のひらに乗るような四角い機械とを見比べながら、片手で文字盤を叩いていた。

 もう一度正面を見ようと移動した。

 搭乗者と思しきISスーツ姿の女子学生がいて、ぶつからぬように横へ動く。見覚えのある水色の髪だ。

 

「あの、どうして真っ赤に……」

 

 女子学生は困惑の言葉を技師へ放った。

 三倍速いからです! と豪語する技師に狼狽えながら、不安げな表情を隠そうともしない。よろめくのを見て、そっと彼女の肩を抱きとめる。

 こちらに気づいて首を振り向けた。

 

「……ぁ」

 

 彼女が吐息を漏らす。目を見開いて飛び上がらんばかりに驚いているかに見えた。

 同じように、こちらも驚いていた。身体を離して、とっさに頭を巡らせる。

 昼休みの礼をせねばと思った。

 

「先ほどは……」

 

 言いかけて、口をつぐむ。

 ――昼休みのときは、礼を失したがために逃げ出されてしまったではないか!

 水色の髪の少女が硬直から脱するまで待った。心の中で口にすべき言葉を幾度も反芻する。失礼を繰り返してはいけないのだ……。

 互いに何度も瞬きを交わすうちに、周囲がにわかに騒がしくなっていった。

 『日独そろい踏みー!!』『対日宣戦布告来ちゃう!?』『日独同盟でしょ! こんなこともあろうかとってね!!』と先ほどすれ違った少女たちが隠す気持ちを忘れて口々に囃し立てあう。どういう意図か分からないが、四角い機械を目線の高さに掲げている者もいた。

 こちらは雑音を気にしてはいられなかった。

 

「先日はあいさつをせず非礼をいたしました……。私はラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)。友邦ドイツの陸軍少佐(真なる国家指導者)です。どうぞ、お見知りおきください……」

 

 水色の髪の少女が微かに手を差し出す。合図だと思い、彼女の手を取って軽く身をかがめ、甲へと軽く口づけをした。

 沈黙のあと、気を引き締めながら顔を上げた。真摯な気持ちを、少女純粋な瞳へ差し向ける。

 

「私に、どうか、あなたの名前をお教えくださいませんか」

 

 問われて、少女は次なる言葉を黙考した。上下の唇を開閉させながらも、もごもごとした、情けない口調をしまいと努めている。やがて、拙いながらも、聞き取れる言葉を発した。

 

「……更識(さらしき)(かんざし)……」

 

 堅さの抜けない、心許なげな表情だ。

 本来の、総統の姿ならば目の前に現れたとたんに、魂が抜けたように何も知覚できなくなってしまうだろう。

 この身は一介のアーリア人少女に過ぎない。だが、精神は未だ総統の形をはっきりと保っている。心を尽くせば、少女に届くのだ。

 

「親愛なるお嬢さん(フロイライン)。お知り合いになれたことを光栄に思います。これから共に、競い合おう(祖国を変革していこう)ではありませんか……」

 

 礼を尽くすと同時に、ISなる機械を扱う者として宣戦布告でもあった。

 周囲が再び騒がしさを取り戻していく。どことなく色めき立っているようにも感じたが、当然のことであった。覚悟はしていたのだ。いずれ、総統としての重みが、この小さな身体からも感じられる日が来ると。

 彼女の顔がみるみるうちに赤くなっていった。赤さと比例して、なぜかフラッシュを炊く音が増えていっている。いたずらに戸惑わせても良くないと思い、彼女から視線をそらす。

 手を上げて技師を呼ぶ。

 そのとき、何かを蹴飛ばしたような音がして振り向くと、脱兎のごとく駆けていく更識簪の後ろ姿があった。

 

「またしても、逃げ出されてしまったか……」

 

 しかし、名前を聞き出せたことを大いなる一歩だと思い直す。

 織斑の姿を見つけ、技師に目配せした。白いブラウスの胸のあたりが珈琲色に染まっていたからだ。

 技師が取り出したタオルハンカチを受け取り、織斑に近づいて差し出す。

 しかし、織斑は受け取ろうとはせず、呆けたように開いた唇のすきまから、うめきにも似た音を絞り出すだけだった。

 

「ボーデヴィッヒ……お前……」

 

 どうやら織斑はまたしても何かに驚いているらしく、衣服の染みに気づいていないようだった。

 

 

 




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3日目
13.dreizehn. ――禁忌――URL――屋上――才能――


 

 

 目覚めると、ベッド脇に積み上げた書物の山が崩れていた。

 丸めていた身体を伸ばし、仰向けになって天井をぼんやりと眺める。

 昨日アリーナで基本動作を確かめたあと、図書室で書籍を入手した。ペーパーバックにハードカバー、合計十冊。篠ノ之に手伝ってもらいながら自室に運び込んだ。食事を摂り、入浴を済ませ、ベッドに書物を載せて眠くなるまで空白の数十年間を埋める作業に没頭した。

 新しく知ることは大変有益だ。

 時空転移したあげく、少女の身体で目覚めるなどという非現実的な状況を嘆くことなく、事実を受けいれ前向きに知の探求に勤しむ。思索を継続していけば、いずれ順応し、この世界が置かれている状況を理解するだろう。

 書物の概要を紐解いていき、まず理解した事実があった。

 アドルフ・ヒトラーは事実上死んだことになっている。

 自殺だという。

 しかし、書物に書かれていた、自殺の時間までの数時間の記憶がすっぽり抜け落ちている。確かに信頼がおける人間を相手にそういった可能性を討議した気もする。

 手のひらを天井に向けた。小さな手だ。

 我が手はこのように小さくはなかった。この少女の身体こそが自分自身が死亡した事実を如実に証明している。だが、なぜ自分は、ラウラ・ボーデヴィッヒなる少女ではなく、アドルフ・ヒトラーだと認識しているのだろうか?

 運命の歯車が噛み合っている限り、絶対にあり得ない出来事だ。

 もしや自分は、自分をヒトラーだと思い込んでいる、頭のおかしな少女なのか。あるいは、何らかの手段で保存した脳を、この少女の身体へと移植したのではないか。

 

「私は」

 

 二つの仮定を検証するのに、最も最適な方法がある。

 アドルフ・ヒトラーになりきっているのであれば、音として言葉を発するはずなのだ。『私はヒトラーだ』と繰り返し音にすることで、自らを洗脳するのだ。また、脳を移植したとしても、正しく発音するはずだった。

 

ラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)だ」

 

 どういうわけか、ヒトラーという言葉を発することができない。

 少女の潜在意識が、頑なにアドルフ・ヒトラーと口にするのを阻止しているようだ。ナチスやハーケンクロイツといった言葉も発せられない。これらの言葉を発することは、おそらく、少女の自我における最大の禁忌なのだろう。

 同時に、禁忌ほど美味なものはない。若いラウラ・ボーデヴィッヒは何らかの理由で、禁忌を犯していたのではないか? 自らを依代とし、ドイツ帝国の総統の意識を時空転移させたと考えられまいか。

 

「――」

 

 腹が鳴った。身体を起こし、顔を洗い、服を着た。空腹感を和らげるべく食堂へ向かった。

 皿に朝食を盛りつけ、手近なテーブルへと着席する。

 

「うむ。うまい」

 

 美味い食事。砲弾の弾着を気にせず、天井が崩落するのではないかと考えなくとも良い。ぜいたくな時間だった。

 ひとつ気になるのは、周囲の少女たちがしきりにこちらを気にしている点だ。チラチラとこちらを見ては、俯いては何かを弄っている。

 誰も話しかけてこなかったため、怪訝に思いながらも特にこちらから何かすべきとも思わなかった。

 部屋へ引き返して背嚢に入るだけの書物を押しこむ。早めに教室へ向かい、読書に勤しむためだ。

 道行く人々がこちらを見ては、コソコソと噂しあっている。笑っている者もいた。それ以外は相変わらず、四角い機械に目を落として歩いている。

 ――もしもルストが教育相ならば即座に罷免だ。

 一年一組の自席に座った。先に到着している生徒がいて、四角い機械とこちらとを見比べ、口を押さえながら顔を背け、肩をふるわせて笑い転げそうになるのをこらえていた。

 背嚢から書物を取り出す。第三帝国の終焉と占領統治からの脱却、という内容だ。ページをめくるうちに、登校してきた学生の数も増えていく。

 男の声がした。視線だけを出入り口へ向け、織斑一夏とシャルル・デュノアが連れだって現れ、すぐ後ろに篠ノ之やセシリア・オルコット、隣のクラスの中国娘も教室内に入ってきた。

 彼等を取り囲むように他の生徒が集まってくる。彼女たちも他の者と同様に四角い画面を見て笑っている。

 セシリア・オルコットと篠ノ之だけは笑っていなかった。前者は首を傾げて、笑いどころを理解しようと試みているが、うまくいっていない様子だ。後者は……こちらの視線に気づいて、メモを書き付けていた。

 輪から抜け出して席の前に立つや先ほどのメモを差し出した。

 開くと、『https://』から始まる英数字が書かれている。見たこともない単語を奇異に思いつつ、篠ノ之を見上げた。

 

「これは?」

「今すぐこのURLを開いてみるんだ」

「……どうやって?」

 

 暗号か? 暗号ならば解読するための鍵が必要だ。

 篠ノ之はポケットから四角い機械を取り出して掲げて見せた。

 

「持ってるだろ」

 

 同じような四角い機械は自室にあった。

 昨晩、突然電話と思しき鈴の音が鳴った。音源を発見し、機械の画面に『着信:Clarissa(クラリッサ) Harfouch(ハルフォーフ)』という文字が出現したのだ。続いて出現したメッセージには『連絡を』とドイツ語で記されていた。

 しかし、自分にはどうしようもなかった。

 機械の扱い方がわからなかったのも一つだが、それ以上に大きな問題がある。

 

「暗証番号がわからない」

「……なんだって?」

 

 求めにしたがって、自分の生年月日を試しに押してみたが、ダメだった。少女の記憶を引き出すことができないのだ。きれいさっぱりと!

 

「今見せる」

 

 篠ノ之が四角い機械を片手で弄ってみせた。

 機械を差し出し、画面を見るよう促した。

 見慣れぬ表示が映し出された。白い背景の上段にタイトルと思しき文字列が記されていた。

 

『衝撃映像!!例のあの人がwww』

 

 顔を上げて目が合うと、篠ノ之が言った。

 

「学内専用SNSの動画投稿ページだ」

 

 画面の中央で円形の矢印が回っている。じっと見つめて待っていたが、いつまで経ってもクルクル回り続けている。

 

「なんだか回線が混んでるな。……少し待ってくれ」

 

 もたついているうちに山田参謀が姿を見せた。時計を一瞥する。予鈴まで一、二分ほどあった。

 山田参謀がわざと音を立てて、教卓の上で書類を整えてみせる。

 中国娘が振り返るのを確かめ、微笑みを浮かべた。

 

「凰さん。そろそろ予鈴が鳴りますよ」

 

 凰と呼ばれた中国娘が振り返った。横顔からでも目を丸くしたのがわかる。扉まで駆けていき、思い出したように足を止めた。

 

「一夏! あとで付き合いなさいよ!!」

 

 捨て台詞の最中に予鈴が鳴り、中国娘を追い立てていく。

 鳴り終えるまでの数秒のうちに篠ノ之へ伝える。

 

「篠ノ之。後でも良いか?」

「……あぁ。急ぎはしないが……」

「では昼休み。昼食をとりながら見ようではないか」

 

 一限目の休憩時間としなかったのは、二限目と三限目に教室移動があるからだ。施設のなかは広い。知らない場所が多く、遊びにかまけて遅れるわけにはいかないのだ。民間の学校ならばどうにでもなろうが、ここは軍事研究施設である。時間に厳しいはずだ。

 篠ノ之は煮え切らない様子でいた。山田参謀の微笑みで覆い隠された鋭い視線に耐えきれず、自席へと戻っていった。

 一年一組の教室で四限目を終えた。昼休みを知らせる鈴の音を耳にして、すぐさま篠ノ之が席を立つ。

 

「昼だ。一緒にどう……」

 

 すべてを覆い隠すように、教室内が黄色い声で沸き立つ。

 篠ノ之に呼応して席を立ったものの、気になって音が集中している場所を探した。

 すばやく問題を捉え選別するためだ。加えて長時間の頭脳労働のあとである。英気を保つには休息が必要だった。

 騒ぎ立てている連中の中心に彼女はいた。

 更識簪は昨日と同じく顔を真っ赤にして肩を震わせている。囃し立てる声を聞いているのか、いないのか。意を決して一組の教室へと立ち入り、こちらへ向けて真っ直ぐ歩いてくる。

 

「こんにちは。お嬢さん(フロイライン)

 

 和やかな微笑みとともに挨拶を口にした途端、なぜだかわからないが、笑い声が混じりだした。『フロイラインっ……!!』『ガチじゃんっ!!』などだ。

 

「……こんにちは」

 

 更識簪が小声で挨拶を返し、不機嫌な眼差しを向ける。今日は落ち度はなかったはず……と心の中で呟いた。

 

「……来て」

 

 彼女は突然こちらの手首をつかみとり、背を向けて早足で歩き出した。娯楽に飢えた少女たちの黄色い声が沿道から沸き起こる。

 

「目的地はどこなのか」

「……屋上」

 

 なるほど、今ここで振りほどくのは簡単だ。二度までも背を向けて遠ざかった彼女が、今日は立ち向かい、自らの意思にしたがって前進している。無知や悪意から生じた誤った認識のまま、虚言妄言を並べる連中は無視するにかぎる。

 若者の熱意ある行動。

 屋上に行ってみれば、何かわかるだろう。

 屋上へと連なる鉄扉。把手を握り、体重をかけて押し開ける。自分と同じくらい小さな彼女に、一方的に労役を負わせるのは忍びないと思い、手伝うことにした。

 

「……ありがとう」

 

 屋上へ立つと、溢れんばかりの光に驚いた。目が慣れたとき、更識簪の水色の髪が色めき立って艶々と輝きを放つ。彼女は風に弄ばれまいと髪を抑えた。

 金網越しには、ずっと向こうの岬を抜けようとする船がいた。じっと目を凝らすうちに、小さな軍艦……駆逐艦の群れのようにも思えてくる。大日本帝国海軍らしき軍旗(旭日旗)をたなびかせていた。

 悲壮さとは無縁な、おだやかな時の流れに触れている。自覚した途端、自分自身の悲劇的運命、数日前まで総統地下壕で過ごしてきた苦難の夜を思いだし、自然とうめき声が漏れた。かつての自分は悪意の世界と格闘し続けたあまり、やつれて、落ちくぼんだ目をしていた。膨大な犠牲者の数。骸の山を重ねてもなお、戦い続けなければならなかった。悲しみで胸が痛み、目尻から一筋の涙がこぼれ落ちていた。

 更識簪が振り返ったのを見て、気づかれまいと目蓋をこする。大衆の無分別な好奇の視線を阻止すべく、扉を閉じようと把手へ手をかけた。

 

「待て! ボーデヴィッヒ、待て!」

 

 忍者もかくやという体捌き。勢いを殺すことなく、半ば閉じかけた扉の隙間へと滑りこむ。一陣の風が身を切るように吹き過ぎていった。

 ……ガタン、という音。

 扉が閉じた。

 再び金網の方角へと向き直る。制服が汚れていないか気にする篠ノ之と更識簪が対峙している。後者の視線は闖入者への警戒だった。

  

「あなたは……篠ノ之箒。……篠ノ之博士の妹」

「更識簪……? 国家代表・更識楯無の妹」

 

 お互いに誰と目を合わせているのか認識しているようだった。

 

「篠ノ之。なぜ?」後を追いかけてきた理由。

「昼食の約束を忘れられては困るからな。……それに、二人の名誉のためにも、第三者はいたほうがよいと思ったからだ」

 

 『な』と更識簪に向けて念押ししていた。

 ――屋上へ連れてこられたからには、聞かれたくない話のはずだ。

 篠ノ之の申し出を断ろうかと口にしかけたとき、水色の髪の少女が首を縦に振った。

 そして日陰へ移動してから四角い機械を取り出して操作して見せた。

 先ほどの『衝撃映像!!例のあの人がwww』の画面を表示させた。

 黒い長方形の中心に触れる。動画とともに音声が聞こえてきて、驚いてしまった。

 

「こんなものが!」

 

 携帯ツーゼではないか!

 

「この映像はどうやって再生している?」

「……インターネットだが」と篠ノ之。

「学内専用のクローズドネットワークだけど……」

「インターネッツ。とても素晴らしい発明だ!」

 

 図書室のパソコンだけでなく、手のひら程度の機械でも閲覧できる。世界中のありとあらゆる情報が昼夜問わず手中におさめることができる。

 再び画面に目を落とす。映像は縦長の画面で、中心には更識簪と自分が映っている。赤いIS。篠ノ之が見切れていた。

 

「……手の甲にキス」

 

 更識簪と篠ノ之が互いに目を見合わせた。互いに頷きあって意識を共有している。

 特に笑いを誘うような場面は映っていなかった。『wwwwwww』『ガチレズwww』『留学目的はガールハントですか??』などとコメント欄に不可解な記載が並んでいたくらいだ。

 

「みんなこの映像を見て楽しんでいた、と」

 

 セシリア・オルコットの困惑する顔を思いだした。教室のなかで意図を理解していたのは彼女だけだったろう。

 

「……ここを見て」

「うん?」

 

 数字が書かれている。この映像の再生回数だ。

 五■■■回。

 

「この施設には五千人も働いているのか?」更識簪に聞いた。

「……そこまではいない。学生とか全部ひっくるめても千人と少し」

 

 昨日、あの場にいた何者かが四角い機械を使って、更識簪に挨拶をした映像を『インターネッツ』に取り込んだ。学内専用SNSなる場所に展示すると、学生ならびに従業員はだれでも好きに映像を見ることができるという。

 人々は見たい映像を見たいときに見る。

 つまり、挨拶の場面を何度も繰り返し見ていたのだ。

 

「……この映像のせいで私まで噂されて困ってる。どうして、あんなところで、こんなこと……」

「昨日、つまりこの映像で口にしたことがすべてだ」

 

 再び彼女の手を取り、甲へ口づけしてみせた。なぜか篠ノ之までもが顔を赤くする。言いにくそうに口を開いた。

 

「あのな、ボーデヴィッヒ……。更識さん、この映像が学園内に広まって困ってるんだ。悪い意味で有名になってしまって」

「あの映像を見たくらいで?」

「更識さんが悪目立ちしたくない気持ちはすごくわかる」

「私にどうしてほしいのだ? 訂正したところで、大衆は自分たちに都合良く面白おかしくねじ曲げるだけだ!」

 

 否定すれば火に油を注ぐことになる。

 

「投稿した者をゲシュタポに捕まえさせるか? この施設に彼ら構成員がいればの話だが」

「それは……したくない……」

 

 更識簪が青い顔で俯きがちに答えた。

 彼女の真剣味を帯びた反応から、軍事研究施設内にゲシュタポに準じた組織の構成員がいるのは明らかだった。

 

「大衆は熱しやすく冷めやすい。飽きて次の話題まで静観しているのがよかろう。もしくは、こちらから次の話題を提供するのはどうか」

「次の話題? 例えば学年別トーナメントとか」

 

 篠ノ之の答えに応じた。

 

「そうトーナメント。スポーツでもある。大衆を取り込む最強の手段だ。刺激的な話題を提供すれば興味がうつるだろう。篠ノ之、何か思いつくか」

「たとえば……更識さんは代表候補生だ。スポーツで言うところのオリンピック強化選手。近い将来、日の丸を背負うかもしれない」

「ふむ。つまりはエリートだと。ならば、大衆に私はエリートだと見せつけてやれば良いではないか。牙を研いだ純血の獣は、無節制な交配によって生じた雑種とは格が異なるのだと」

 

 事もなげに言い放った。高潔な獣は、卑屈な性質の雑種に媚びたりしない。

 更識簪は小さな身体をさらに小さくみせようと、背を丸めて呟いた。

 

「……純血……専用機がない」

「専用機?」

 

 問いかけてみたが更識簪は彫像のように固まって反応を見せない。

 仕方なく、篠ノ之に視線を向ける。

 

「代表候補生ならば必ず専用機なる機械が支給されるのかね? あの赤いのは?」

「ISコアは四六七個しかないんだ。コア無しでも動く、機動ジャケットならいくらでもあるが、ISは貴重なんだ。もちろん、それが量産機であっても。赤いの……高機動型は上級者向けのカスタマイズ機だが、所詮は量産機なんだ」

 

 専用機は崇拝、憧れの対象であり、量産機は格が数段劣る。それでも機動ジャケットなる装備と比べたら遙かに高位にあるという認識を得た。

 

「私は……ガンダムが良かった! ……赤ザクじゃなくて……」

 

 更識簪は震えるほど強く握りしめた拳を振り下ろす。

 彼女が用いた比喩表現に目を瞬かせたが、言わんとするところは同じだった。

 気位の高い少女は品格を汚されたと怒りを感じていたからだ。

 だが、さらなる怒りを発露するのではなく、さらに背を丸めて下を向いてしまった。

 

「でも、ガンダムは……本当は……専用機はある」

「そちらを使えばよいのでは?」

「……その専用機は動かない。いつまで経っても、ずっと作業が遅延している。……だから……ひとりで……いちから自分でやろうと思った」

 

 あの複雑な機械をひとりで扱いきれるものだろうか。赤い機械を組み上げた技師ですら、巧緻を極めた芸術品を、さらなる慎重を期しながら配下に指示を与えていた。

 しばし考えを巡らせたあと、沈黙を破るように、彼女へ確かめる。

 

ご自分で? あなたは天才なのか? 無から有を創る天才であると?」

 

 更識簪は一歩退いて弱々しく首を振る。

 機械は大きくなればなるほど、一人では動かせなくなる。数十年間の技術的進歩によって、いくらかの無人化ができていたとしても、動作にたる条件を満たしているか、監視する人員が必要だ。まして、兵器開発となれば叡智と洞察に優れた者が、実現までの労役を監督し、構成員ひとりひとりの作業量を細かく分割しなければ成立しない。

 一人で何もかも、というのは傲慢である。

 だが、若者の野心的な試みを否定してはならなかった。膠着した状況を打破すべく、闇雲に手を打っているにすぎないのだ。

 青年期の苦悩が後の人生に多大な影響を及ぼす。ひとりで閉じこもって学問に打ち込み、書物を唯一の友とするのもよいだろう。

 とはいえ、挫折のまま打ちひしがれ、卑屈になって、他人の顔色をうかがい、他人を罠に陥れるような人間にはなってはならないのだ。

 

「先人を模倣してみるのも一つの手段だ。斬新な手法を編み出すには、まず基本を知らねばならない」

「……マネ?」

「昔話をしよう」

 

 そう告げて目蓋を閉じて、深く息を吸って半ばで止める。背筋を正してから、再びを目を開け、歩き出す。

 

「私は子供のころ、画家になりたかったのだ。父は断固反対だった。母も初めは反対していたが、ついに承知した。自分の溢れんばかりの才能に確信を抱きながら美術学校を受験したのだ。そして、……いろいろ不首尾があって不合格になった。

 美術……すなわち、芸術において重要なことは何か、あなたにはわかるかね?」

「……才能」

「確かに才能は必要だ。天才は往々にして才能を発揮する。

 才能を発揮するためにはおびただしい模倣が必要なのだ。あなたに限らず、皆が好きなこと、好きなものには繰り返し接している。接する時間が増えれば増えるほど、ひるがえって長じる。

 つまりは、研鑽に次ぐ研鑽。

 それらを重ね続け、死して尚、他人に響くことが無ければ、その人は本当に才能がなかったといえるだろう。

 しかし、大衆は、好きなものに繰り返し接することなく、根拠なく自分に才能があると思い込む。絵を描くために手を動かすことなく、見てきたからといって、自分には才能があるに違いないと。そのような者に限ってただ一度の失敗で才能がないと嘆く。

 研鑽……すなわち、努力を一切積み重ねることなく、また現実を直視したくないという稚拙な心情を守りたいがために、安易な手段をもてはやし、努力を軽んずる連中が、才能がない! と声高に嘆くことほど愚かなことは無い。

 あなたはどうだ。研鑽し、評価を受けている。

 ならば、誇りなさい! 愚かな群衆の言うがままになる謂われはないのである!!

 

 更識簪の背後に回り込み、両肩に手を置いた。ビクリと身体がはねる。そっと親指に力をこめて、肩を広げる。骨格の動きにつられて肺が広がり、数多の空気をとりこむ。背筋が伸びた。

 囁きかけるべく、彼女の耳許へ顔を寄せる。

 

「フロイライン」

 

 身体が再び硬さを取り戻そうとする。背中が丸まっていくのを押しとどめようと指の力をこめた。

 

「大衆を驚かせようではないか。

 前代未聞の実績があればよいのだ。あなたには、それができる」

「……驚かせる……?」

「手始めに、トーナメントを征服するのだ。戦力を集中し、単騎でもって優勝を成し遂げる。さすれば、誰もがあなたに一目置かざるを得ない。誰も過去のことを気にせず、目先の刺激を追い求め、欲するようになるだろう」

「単騎……ひとりで? 必ず二人一組に……」

「お忘れか。一組のみ人数が奇数である。三〇名の女子学生、一人の男子学生。新たに男女ひとりずつ。他の組は偶数。よって必ず単独の組が生じる。

 あなたは、率先してその一人になる。

 しかし、他の者は必ず戦線を組む。防御すべき線が伸びたとき、柔軟に、弾力に富んだ対応が容易であるか? 否である。急造の戦線。一見硬いが脆い。

 ならば電撃戦だ! 戦力を一点に集中し、縦深へ浸透し、敵の脆弱点を痛打するのだ。それができるのは……」

 

 問題は闇雲に突撃しても包囲殲滅されてしまうという点だ。

 国家を背負って立つと期待されるほどの人材ならば、攻撃目標の選定も容易いだろう。物量という軍事的劣勢を速さで補うのだ。

 

「赤い機体で得たドクトリンを、あなたの専用機に反映させる。あなたの専用機は、あなたの思想で満たされるだろう」

 

 身体を離してから、自分の制服のポケットをまさぐった。

 紙片を取り出した。携帯していたペンを走らせる。新・総統官邸。部屋番号も。

 更識簪の手を取ってにぎらせる。

 

「連絡先はここにある。

 私は逃げも隠れもしない。

 直接話がしたければいつでも聞こう」

 

 言い終えて、篠ノ之へと向き直る。

 

「食事に行くぞ。英気を保つには、まずは腹を満たさねばならない。

 更識も来い。食事をしながら討議しよう。篠ノ之も一緒だぞ」

「えぇ……私も、か。約束はしたが……えぇ……」

 

 なぜか篠ノ之はばつが悪そうにして、虚空を見上げながら頬をかいていた。

 

 

 




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14.vierzehn. ――誘い――おんな――おもちゃ箱――依頼――

 一日の授業が終わった。終礼のあと、潮が引くように学生たちは教室から消えていく。

 持参した書物を背嚢に押しこむ。今日もアリーナへ向かうべく席を立ち、背嚢を背負ったところで足を教卓へ向け、止めた。

 彼女たちはこちらを見てはいなかった。

 二人の男子学生を中心に据え、周りを囲む女子学生たちが騒いでいる。

 左からセシリア・オルコット、中国娘――凰鈴音――、篠ノ之。その外周には鷹月静寐、四十院神楽、岸原理子、相川清香。

 背嚢を背負い直して聞き耳を立てる。

 黒髪の男子学生――織斑一夏――に対する篠ノ之の言葉遣いが、総統に話しかけるときの調子よりもうわずっているようだ。

 表情もどことなく緊張している。織斑一夏の目線が凰鈴音やセシリア・オルコット、シャルル・デュノアに向けられたとき、焦るあまり強ばってしまっていた。剣士といえど、男女の駆け引きは苦手と見える。

 ――なるほど、篠ノ之が崇拝するのは彼か。

 見つめるうちに、デュノア少年がこちらに気づいた。織斑一夏の肩を突いた。

 織斑一夏は振り返るなりにっこりと微笑んだ。

 

「ボーデヴィッヒさん。これからみんなで食堂に行くんだけど、一緒に来ないか?」

 

 彼の誘いは、周りの女子学生にとって意外だった。『例のあの人』という声が口々に聞こえる。

 『一緒に行く』と答えれば、織斑一夏はおそらく快く受け入れるだろう。彼は女子学生たちが抱く感情を一切気取っていないように振る舞っている。

 教室の出入り口から足音が聞こえた。視界の端に水色の髪を捉えた。

 小柄な身体にしては不釣り合いなほど大きな背嚢を背負っている。決意を秘めた表情に、口の端を緩めざるを得なかった。

 外周の女子学生も気づいた。岸原が四十院と相川を小突き、相川が鷹月の肩に触れ、廊下へと注意を向けさせる。篠ノ之が鷹月の動きに気づいて、視線を向けて姿を認めるや、織斑一夏の脇腹へ肘を突き入れた。

 

「あいたっ」脇腹を押さえる少年の耳許へ、篠ノ之が顔を寄せる。

「一夏。二人きりにさせてやれ。いいな」

 

 セシリア・オルコット、中国娘も気づいた。デュノア少年がなぜか下を向いて頬を染める。初心(うぶ)な表情に岸原が目を輝かせて声をあげた。

 息を深く吸い込み、可能な限り失礼に当たらないように言った。

 

「申し出はありがたい。しかし、先約がある」

「残念。また誘うからさ」

「その時はよろしく頼む」

 

 視線とともに身体を廊下へ向けた。

 教室を出て更識簪と横並びに歩き出そうとした。だが、水色の髪をした少女は上衣の裾をつまんだまま動かなかった。足を止め、顧みるや意図を掴むべく正面から見据えた。

 

「行くのではないのか?」

「……ホラ吹きの責任……」

 

 胸を張って付け足した。

 

「逃げも隠れもしない。そう言った」

「確かに言った」

 

 更識簪の表情の動きからは、半信半疑と言った雰囲気を拭いきれない。少なくとも、彼女は丸めていた背中を伸ばすように努めている。大衆の揶揄する声に耳を貸さない程度ではあったが、誇りのような気持ちがにじみ出ていた。

 

「一分一秒が惜しいと。こうでなくてはいけない。ましてや君は、いずれ国家を背負う人材だ」

 

 言葉を切って手を差し伸べる。少女が裾から指を離し、たどたどしく、緊張で震えていながらも、それでいて視線だけはまっすぐだ。

 うら若き乙女の小さな手が重なる。

 しかと感触を確かめる。互いに手を取り合ったまま階段を降りた。

 出入り口を視界におさめたとき、不意に聞き覚えのない楽曲が響き出した。

 ――勇壮な行進曲(マーチ)のようだが、これは、ただの信号音の重なりなのでは……。

 今、通過しようとしている部屋のなかに、トーキー映画の効果音係が働いているのではないか?

 だが、音源はすぐ隣にいた。

 

「私……」

 

 更識簪が四角い機械を取り出す。その機械こそ、昼間、インターネッツの世界を縦横に旅した夢の機械だった。まさに、アーリア人の創造性の結晶である。

 彼女は片手で器用に操り、画面に浮かび上がった文字を一瞥してから耳に宛がった。

 

『――――カンチャーン。どこぉ~~~~??』

 

 小さな機械からは想像できないほどの大音量だった。

 

「ッ……今向かってる……」

 

 思わず肩を震わせてしまったが、彼女は通話に集中していて気づいた様子はない。

 

『一緒に帰るってぇ~~~~昨日、約束したのにぃ~~~~』

「……もうすぐ着く。それから今日は」

 

 彼女は大音量に負けまいと少しだけ声を張っている。

 かすかに顔をしかめつつ、出入り口のガラス扉と相対した。外は晴れていてやや蒸し暑い。締め切った扉は外気を遮断しつつ、日光がさんさんと降り注いでいる。施設内は冷房完備とはいえ、出入り口の気温は高い。

 少女は長すぎる袖をまくりもせず、全身から大量の汗を流していた。四角い機械を耳に宛がっていた。

 

『ずっと待ってたんだよ~~』

 

 言い終えるやいなや更識簪に向けて突進する。回避は難しいと思い、繋いでいた手を離す。されるがままに抱きつかれ、更識簪はあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。

 

「……暑い……離して……」

「えへへ~~。もう少しこーさせてよ――。じゃないと、カンチャンすぐ邪険にするんだもんっ」

「……だから……暑い……」

 

 ……。

 …………。

 ………………チラ

 

 少女がこちらを一瞥する。

 何と戦っているのか知らないが、勝ち誇った笑みだ。更識簪を上目遣いを向けながらも、しきりに流し目を送ってきた。

 

「一緒に帰ろーよー。楽しみにしてたんだよー」

「……今日は……この人とアリーナに行く……」

「え――……」

 

 少女は黙った。更識簪の腰に回していた手を緩め、こちらを見やって信じられないという顔つきになる。

 

「昼休みに更識と約束をした。すまないが、君の大切なご友人をしばしの間借りさせてもらう」

「……例のあの人と……? 何で?」

 

 こちらの声が耳に入っていないのか。少女――布仏本音――は、呆けた視線で友人を捉えた。

 更識簪はゆっくりとした仕草でうなずき返す。

 

……彼女とアリーナに行く

 

 布仏本音が立ち上がり、ふらついた足取りで外に出た。

 目尻に涙を浮かべている。子供が癇癪を起こすように頬を膨らませ、両足をドタドタと踏み鳴らす。

 

「いーもんっ。いーもんっ! ひとりで帰るっ!!

 私って情人(おんな)がいるのに……カンチャンのバカーッ!!!

 浮気もの――――ッ!!!

 

 理解不能な捨て台詞に呆気にとられ、後ろ姿を見送る。

 小さくなった背中が消えた。ようやく更識簪がため息をつく。

 

「良いのか?」

 

 布仏本音は大好きな友人を取られ、拗ねていたように見て取れた。

 女同士といえば、冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じで行動を決めるものだ。更識簪と布仏本音の間に感情的な対立が出現してしまった。友情はかけがえのないものだ。即座に修復するのが望ましい。

 布仏本音が抱いた感情は単純だ。繊細さは存在せず、ただ、肯定か否定かがあるにすぎない。

 

「……別に……明日になったら忘れてるから……」

 

 予想に反して反応は素っ気なかった。

 深く息を吸い、眼鏡の奥の瞳を見つめた。これ以上詮索するなという。

 少女の望み通り、こう言った。

 

「アリーナへ向かおう。今、優先すべきは行動だ」

 

 眼前の少女は力強く首肯した。運動場脇にあるバス停にたどり着くと、シャトルバスが待機していた。後から乗った更識簪の顔を見るや、初老の女性運転手は行き先を理解したようだ。

 ほどなくして目的地へたどり着く。降車し、格納庫へ直行する。

 他の者なら右へ向かうところを左へ曲がったためか、ずっと無言だった更識簪が口を開いた。

 

「……着替えないの……?」

 

 ふたつ理由があった。

 ひとつはISスーツを持参していないことだ。災厄の雨(Schwärzer Regen)付きの整備員に洗濯もろもろを任せていた。ブラウナウではすべてが手作業だった。とはいえ、最先端の軍事研究施設ならば自動洗濯機があるはずだ。探して使おうとしないのは、総統にとって歴史の空隙を埋める作業のほうが有意義だからだ。

 二つ目は。

 

「技師に用がある」

「岩戸技師に?」

 

 災厄の雨(Schwärzer Regen)の整備をしていた技師のことだ。

 更識簪の顔が曇った。岩戸は打鉄を赤く塗らせた人物でもあった。

 格納庫へ続く扉を開けた。仄かに薬剤の匂いが漂っている。災厄の雨(Schwärzer Regen)へ向かう途中、白く泡立つ駆逐型の横から同じ匂いがした。

 ISスーツを身に着けた学生とすれ違うたびに奇異と賞賛の目が向けられる。「やだ、本当に……?」「あれが例の……」「……一周回ってすごい」という呟きも聞こえた。

 足を止め、後に続く彼女を見た。

 

「更識」

 

 彼女も足を止めていた。視線を左右にさまよわせている。

 横へ立ち、背中を優しくたたいた。

 

「……っ!?」

 

 表情の動きからは、驚きの気持ちがあきらかに見て取れた。

 

「背筋を伸ばしなさい」

 

 何度も目を瞬かせ、凝視してくるのがわかって続けた。

 

「あなたは王様だ。ここにいる誰よりも強い、最強の存在だ」

「……でも……」

 

 彼女はそう口にして俯こうとする。

 すぐさま彼女のあごに指先を添えて動きを封じる。わずかに力を込め、顔を瞳へと向けさせる。

 

「好奇の視線は私に向けられている。あなたではない」

 

 時として、総統は国民の好奇の視線に晒される。

 もちろん、自分のほかにドイツ国民がいなくとも、総統は総統である。

 国民がいなくては総統だと知る術はないにも拘わらず、学生たちは総統の名を口にすることを憚っている。例のあの人としなければ精神の均衡を保っていられないほどに。

 

「良いか。

 良い演説を成功に導くのは姿勢だ。内容如何ではなく、民衆は断固たる姿勢、強い言葉に安心する。民衆はあなたの一挙一動に敏感だ。だからこそ、あなたは簡単に弱気を見せてはならない」

「……弱気……」

 

 不安げな瞳だ。安心させるべく、対処方法を告げる。

 

「弱気を隠すのは難しいことだ。しかし、民衆は得てして、見たものを信じる。

 信じさせるのはとても簡単だ」

「……どうやって?」

「あなたは背筋を正し、ゆっくりと、穏やかに笑みをたたえる。言葉を発することを求められたら、明解な言葉を発する。

 そうすれば、民衆はひとりでに、信じたいものを信じるようになる。

 だが、あなたがどうしようもなく、弱気に支配されそうになったときは、私は、あなたの背中を押し、共に手を携えて歩むでしょう」

 

 顎から手を離し、彼女の手を取る。彼女の温もりを感じながら歩みを再開する。

 災厄の雨(Schwärzer Regen)までの距離はわずかだった。範となるべく柔和な表情を向ける。彼女の面食らったような顔つきも一瞬のこと。すぐさま真似をした。

 五十歩ほど歩く間、整備兵たちがドイツ式敬礼を行う姿を夢想した。

 彼女たちの多くは日本人だ。日本国と名を変えた大日本帝国の、国家統制を免れた扇動新聞が、梅毒に冒され、白痴化した言動に煽られたまま、軍国主義への忌避感と偏見を募らせている。その割に、マルクス主義者や国民の財産に寄食する政党もまた野放しになっていた。日本国において、国家社会主義を標榜することは、法を犯さない限りは自由であった。

 しかし、敗戦後のドイツ帝国――連邦共和国はナチスの活動を著しく制限している。国家社会主義は悪だという先入観さえ植えつけているのだ。

 見覚えのある整備兵がこちらに気づいた。振り返って何事か口にしている。進むうちに岩戸技師の姿があった。

 

「少佐! 簪嬢!」

 

 彼女は大きく手を振っている。相変わらず上衣だけ作業服だった。

 脇に控えた整備兵から無地の紙袋を受け取る。ISスーツが折りたたまれて入っていた。

 用件を手短に伝えた。

 

「本番までに機体の改修は可能か」

「もちろんです」

 

 即答だ。横へ向き、先ほど紙袋を差し出した整備兵に指示を出す。

 簡単な仕切りのついた部屋に招き入れ、座った。程なくして先ほどの整備兵が大きな紙箱を両手で抱えて現れた。

 

「……これ……」

「ご希望は?」

 

 岩戸技師が机に置かれた箱を傾けた。整備兵が支えるなか、無造作に手を突っ込む。ガサゴソ、という音が部屋を満たす。

 樹脂製の安っぽい子どもの玩具がいくつも現れた。

 

「銃? 刀剣? おっしゃってください。できる限り再現します」

 

 玩具ひとつずつに目を移していく。途中で、更識簪が耳打ちしてきた。

 

「……この人……すぐ曲解する……気をつけて……」

「……そうか」

 

 真っ赤に塗られた件を根に持っていた。

 立ち上がっておもちゃの銃を手に取る。

 

「依頼とは」

 

 おもちゃの銃は前装式だ。先端が赤い吸盤になった弾を押しこむ。手元でカチリと鳴ったのを確かめ、壁に向けて片手で銃を構えた。

 

「ブレードを別の装備へ換装したい」

 

 引き金を引く。

 …………仕切りに当たって吸盤が吸いつく。

 

「おおー。さすが現役軍人。撃ち方が様になっていますね」

 

 岩戸技師と整備兵が一緒になって拍手する。

 更識簪のほうを見る。なぜ? と言わんばかりの視線が返ってきた。

 説明に使えそうな玩具がないか、箱を漁る。底のほうに何冊か本や薄い箱があった。引き出すと、誰が見ても主題とわかるよう、表紙に大きな文字が記されていた。

 『HELLSING』『にょたいか!! 世界の独裁者列伝』『Mein Waifu is the Fuhrer(総統は俺の嫁)

 ……確かに、文字の大きさは重要だ。

 もう一度玩具をかき回し、引き出したものを覆い隠す。

 

「――――先ほどのように、武器ならぬものを打ち出すことは可能か」

「どのような」

 

 岩戸技師の横へ立ち、彼女にだけ聞こえるように耳打ちする。

 

「希望に沿うのだろう? いつまでに使えるようにできる」

 

 肯定を前提に告げる。

 彼女から怯んだ様子は微塵も感じられない。

 

「すべてお任せくださるのであれば、一週間以内に動作試験までは」

「……自信があるのだな」

「ここには、篠ノ之博士が寄贈した、大陸に一台あるかないかの工作機械があるのです。篠ノ之インスティチュート謹製。外部に委託するよりも……遙かに速い。見学希望なら織斑先生に申し込んでください」

「……早速手配してほしい」

 

 申し出にほっとした。現場の支援を取り付けなければ、上手く回らないとわかっていたからだ。

 

 

 




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15.fünfzehn. ――フロック――テンペスタ――三倍――ぼっち――

 手近なロッカーを見繕い、手提げ袋を置いた。更識簪もこちらに習って背中の荷物を下ろした。

 着替えながら一挙一動を観察する。彼女はフロックコートのようなボタンのついたタオルを首に巻き、ほとんど肌を晒すことなくISスーツへと着替えてしまった。

 あまりの衝撃に動きを止めた。口を開閉するうちに、不審げな視線が突き刺さる。

 

「……ドイツには……」

 

 目の動きから察したのか、言葉を切った。

 総統は婦女子のこのような着替え方を知らない。もし知っていたとすれば、その者は総統ではない。

 驚愕と羞恥で呆けたままロッカーが閉まる音を聞いた。

 はっとして手を動かす。着替え終え、もう一度格納庫へ向かった。

 途中で織斑とすれ違った。確かめたいことが思い浮かび、声を発した。

 

教官殿(フロイライン)

 

 織斑は足を止め、背後を顧みる。

 

「ボーデヴィッヒと……」

 

 さも意外そうな顔つきだ。短い沈黙のあいだ、話したいことを整理する。

 

「どうした」

「……先ほど、岩戸技師から工作機械の視察……いえ、見学を受け付けていると聞きました。早速手配願いたい」

「見学……?」

 

 織斑は何度か瞬きしたあと、明るく答えた。

 

「わかった。手配する。……ちなみに希望日やだいたいの人数はわかるか?」

「そちらの都合のよい日で。人数は決まったら伝える」

 

 織斑はうなずき返しつつ、懐から取り出した四角い機械を操作する。

 

「今、詳細をメールで送った。後で良いから確認してくれ。……それと更識」

「………………はい」

 

 織斑は彼女に近寄って、話しかけた。

 

「確認しておきたい。トーナメントにはどの機体で出場するつもりだ」

「弐式は……まだ使える状態じゃ……ない……です」

「打鉄高機動型で出場する、ということだな?」

「………………はい」

「ちなみに、テンペスタに乗ってみたことはあるか」

 

 更識簪が首を振った。

 

「…………ありません」

「高機動型のテストパイロットが誰か知っているか」

「…………いえ」

「私だ」

「そう……ですか……」

「先任としてこの場で申し送っておく」

 

 織斑が両肩をつかんで顔を近づける。真剣なまなざしだった。

 

「高機動型は操縦系がめちゃくちゃだ!! 重要だから繰り返す! めっちゃくちゃだぞッ?

 

 伝え終えて満足したのだろう。織斑は教官の顔に戻った。

 織斑が去り、格納庫に戻ってきたところで、二手に分かれた。専用機と量産機で分けて配置されているためだ。

 整備員に導かれて災厄の雨(Schwärzer Regen)に腰掛ける。両腕と両脚にヒンヤリとした感覚が生じた。右手の親指と人差し指を擦り合わせると、何人かの整備員が笑顔を浮かべながら手を掲げる。

 小さなドイツ式敬礼――のようなもの――をした。返礼し、腰を上げる。点滅する棒を持った誘導係に誘われて外へ出た。

 ステップを踏みながらアリーナの中心部へ向かう。PICなる装置と圧縮空気を用い、複雑怪奇な数式を組み合わせ、正しく一〇〇〇インチの歩幅だ。最後の一歩だけは調整した。

 目的の場所にたたずみ、空を見上げる。曇天だ。その場で一周して観覧席を確かめる。

 目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。灼けるようなライトの光が顔に降り注ぐ。すべての席が国民で埋まり、皆の視線が中心にいる総統へと向けられている。

 薄らと目を開ける。人の姿はまばらだった。約一月後、会場には人が満ちあふれるだろう。その瞬間に向けてあらゆる準備を進めなくてはならなかった。

 ラウラ・ボーデヴィッヒの身分証からいくつかの事実がわかっている。この貧相な体つきの少女は特例措置で操縦士の資格を取得し、航空機だけでなく、ありとあらゆる車輌の運転免許証を持っていた。他にも無線や電気、応急救命の認定証、あげくに空挺降下訓練の修了証すらあった。

 だが、総統の意思を宿した結果、彼女の技能のいくつか――ほとんど――を使えなくなっている。

 もう一度アリーナ全体へぐるりと視線をはわせた。

 空を飛び交う少女たちは数十年の民主主義の成果だ。

 不意に、聞き覚えのある、とても懐かしい音がした。

 不安を増長させる悪魔の共鳴(サイレン)だ。Ju 87とよく似たサイレン音。ボリシェヴィキどもの深い絶望を思い浮かべ、笑みを隠しきれなくなった。

 音は一カ所から生じていた。観覧席の一角に黒い射出口があり、その周辺で赤い回転灯が点滅している。

 射出口から白線が延びる。何もない空間に突如として出現した模様に驚き、雑音のない鮮明な音声が広がった。

 

『指定空域から速やかに退去してください。繰り返します。指定空域から速やかに退去してください……』

 

 電光掲示板が一〇(ツェーン)(ノイン)(アハト)……と数を減らしていく。

 

ゼロ(ヌル)

 

 黒い穴から何かが飛び出した。肉眼で砲弾が射出された瞬間を捉えるのは困難が伴う。発射炎と煙でようやく弾が撃ち出されたと認識するものだ。

 それゆえ、ISの助けを借りながら高速で飛び交う何かを見極めようと、必死に目を凝らした。空中で飛翔体とすれ違った濃緑色のISは、直後に襲いかかった衝撃波で明後日の方向へと弾き飛ばされた。

 飛翔体の正体を明らかにすべく、事前に登録してあった回線をつなげる。予想に反して笑い声が飛び込んできた。耳をふさいで雷鳴が鳴りやむのをじっと待っているアリーナとは対照的だ。搭乗者たちに困惑が広がっている。技師が細工したのか無線電信を傍受できるようになっていて、視界の右上に様々な言語が流れ去っていく。

 大体の内容はこうだ。

 

『テンペスタ!?』『テンペスタじゃん!?』『え゛テンペスタじゃない!? Ⅱ!? 違うの!?』

「…………テンペスタ? テンペスタとは何だ?」

 

 思わず呟く。

 首を傾げていると、小さな窓に織斑と技師の顔がひとつずつ映った。

 困惑の次に浮かんだ不安に、息もできないようになっていたのだ。自分がどんな表情を浮かべているのか。織斑の指摘によって判明した。

 

「物好きな……」

 

 呆れ交じりの声音だ。そう、眼前の光景はまさに電撃である。インターネッツによって、全世界の人々と知識を共有できるようになったにも拘わらず、人々は雷光に畏怖する。畏怖は信仰であり、雷鳴が轟くのは芸術的創造性を持たないトルコ人ですら知っている、一般的な真実だ。説明の必要すらない。

 独り言に対する答えは無線通信の向こうからもたらされた。

 

「説明しましょう! テンペスタは近接最速のISです! とにかく速い! 速すぎる! 第二回世界大会(モンド・グロッソ)戦乙女(ブリュンヒルデ)・アリーシャ・ジョセスターフの乗機でもありました」

「アリョーシャ? ボリシェヴィキの名に聞こえるが?」

「残念ながらアリーシャ・ジョセスターフはユーゴスラビア人です。一九九〇年代に勃発したユーゴスラビア紛争が元で、両親とともにイタリアへ移住しました。IS搭乗者としては、ここにいる織斑先生の次に有名な選手です。我々のようなISマイトは、戦乙女(ブリュンヒルデ)の乗機を設計し、名声を得ることを至上命題としています。…………織斑先生、その節はありがとうございました」

 

 技師が窓の中で頭を下げた。

 不思議がっていると、織斑がまんざらでもない様子で頬をかく。

 

「ピーキーな機体だったぞ」

「……あらゆる点において要求通りの性能だったでしょう? ()()()

 

 話している間、ずっと雷鳴が轟いていた。急に静寂が訪れ、視線を外すと更識簪が土まみれになって横たわっていた。

 

「遅かったな」

「………………遅れた」

 

 言い終え、ゼエゼエ、と息を吐く。ひどく疲れた様子だ。立ち上がるのをゆっくりと待つ。赤い機体が身を起こしたと同時に、気遣いと好奇心に満ちた問いかけが二人の女性から発せられた。

 

「無事か?」「どうでした? 乗り心地は!?」

「…………最悪」「だろうと思った」「えぇ…………」

 

 真っ赤な機体に目をはわせた。鮮やかな朱色に目を奪われがちだが、推進装置の膨らみを除けば、贅肉を削ぎ落とした美しい姿だった。更識簪の幼げを残す、整った佇まいがよく映えた。

 

「…………改善」

「できません!」

「……え?」

「なぜなら改善する余地がないからです。打鉄の原設計からの能力向上値はせいぜい三〇%が限度です。完成している機体はそれ以上完成しません。

 たとえ話をしましょう。

 第二次世界大戦において名声を轟かせた、大日本帝国海軍の零式艦上戦闘機一一型は生まれた時点では最高の戦闘機でした。しかし、完成し尽くした美しい機体は、それ以上の美しさを得られませんでした。零戦の美しさは『とてもすごい』の領域でしたが、残念なことに『これ以上ないってくらいすごい』には至らなかったのです。

 なぜでしょうか?

 答えは簡単です。『速さ』が足りなかったからです。

 よろしいですか?

 他を圧倒する速さは他を圧倒する美しさと直結します。篠ノ之博士が設計した機体を差し置いて、テンペスタが史上最高のISとされるのは、『速い』からです。

 カスタムマリーン打鉄(打鉄改・海自仕様)チームの一員として言わせてください。一つのことに特化するのは最高にかっこいいです。……ということで、設計の限界を超え、あらゆる点において、三倍速くなった打鉄は最高にかっこいいのです。ものすごく速い打鉄を操縦する簪嬢は最高にかっこいいのです。……ご理解いただけけましたでしょうか」

「……当然、打鉄弐式もドクトリンを適用するのだな……?」

「名案ですね。打鉄高機動型の二乗だなんて……

 

 三の二乗、すなわち九倍である。

 少女の顔色が悪くなった。

 織斑が口元に手を当てながら問題点を挙げた。

 

「あらゆる点において……というのが問題だ。その……なんだ、ボーデヴィッヒは当然……更識と組むだろうから機体の欠点を伝えておく……」

 

 最高速度が三倍になっただけではなかった。打鉄に搭載されたISコアなるツーゼの計算速度を三倍に引き上げ、武器弾薬は従来の三倍もの搭載量を誇る。すべての可動部が三倍速く動き、すべての部品が三倍速く寿命を迎える。

 操縦者にも三倍速く判断を強いるようになった。

 

「私か、アリーシャか、あるいは()()にしか扱えない……」

()()ならば扱えるのだな?」

 

 織斑は確認の意図を掴みきれずに何度も瞬きした。目をそらし、口を手で覆って押し黙った。

 質問を変えよう。

 

「これ以上速いISは存在するのか? 技術者としての見解を聞かせて欲しい」

「原子力推進機を搭載した史上最速のISなら過去にいましたね。もちろんロシア製で」

「……おい」

「いたとは?」

「建設中のキャノンボール・ファスト・シベリア会場をうっかり汚してしまいまして、情報統制を敷いたんですね。『なんかおかしくね?』と隣国の研究機関経由でメディアにばれまして、ロシアは世界中の大会出場権を剥奪され、お漏らししたISはすぐに解体されました。ですから、現時点ではテンペスタ、あるいはテンペスタⅡが最速です」

「そのテンペスタはこの大会に出場するのか?」

「一年生にはいませんね。操縦がピーキーすぎて、初学者に扱わせるのは酷です。整備も技能認定証を取ってないと触らせられません。学園に常駐しているメーカーの技術者ですら苦労しています。何よりマニュアルがイタリア語またはラテン語というのも厄介でした。織斑先生(読めて話せる人)が赴任されて本当に助かりました」

「……つまり、最強ではないか!」

 

 更識簪に聞かせるべく大げさに言った。

 

「更識! さきほど教官殿(フロイライン)が、更識なら必ず乗りこなせる! と太鼓判を押したのだ。あとは鍛錬し、実績を見せつけてやればよい!」

 

 無線通信で打鉄高機動型とも繋がっている。歓声が聞こえたのか、彼女は一瞬だけ振り返った。

 織斑と技師に礼を言い、無線通信を切る。

 アリーナは水を打ったように静まりかえっていた。赤い打鉄は学年別トーナメント出場機において事実上、最速にして最強のISであると見せつけたのだ。

 彼女の勝利と名声を確信すると同時に、新しい世界における自らの使命を模索していかなければならないと痛感したのだ。

 現在の自分を競技者としてみたとき、篠ノ之たち初学者とほぼ変わらない。専用機の唯一無二の優位点を、どうやっても、まったく、発動の仕方すらわからないのだ。

 この状況は、変わらなくてはならない。今この時も、変えねばならない。

 トーナメントで勝利を重ねていけば、いずれ眼前で、大いなる力を苦闘する少女と剣を交えなければならない。少女の背中を押した。彼女は才能を開花させてゆくだろう。それゆえ、自分も力を尽くすのだ。

 災厄の雨(Schwärzer Regen)の持ち味は大火力にある。大火力を集中運用することによって最大の戦果を得るのだ。

 ――加減速するたびに音の壁を突き破るような敵を相手取ったとしよう。火力を展開する前に浸透を許し、混乱し、なんだかよく分からないまま敗北を喫するだろう。敵が速すぎる。

 

 ……。

 …………。

 ………………戦術が必要だ。

 

 赤い残像を捕捉できるか試してみた。

 手段に窮して、口をパクパクさせるしかない。無能そのものではないか。親衛隊の誰かがいれば、と強く思った。

 彼らの戦闘技能と信念を以てすれば、運動場のトラック一周程度の領域を超音速で複雑かつ立体的に動き回る飛翔体を撃墜できる……かも知れない。

 有効な戦術や装備がないかと思い、格納庫へとって返した。一旦整備員に機体を預け、差し出されたタオルで汗を吸い取った。あまり座り心地の良くない椅子に腰掛けながら水分を補給する。

 水が底をつくと、カメラらしき黒い塊を首にかけた女がこちらを指さしてきた。うさんくさそうにじろじろと眺めてくる。視線に気づいたのか、背を向け、誰かを手招きした。

 

「篠ノ之ではないか」

 

 現れた彼女は制服姿のままだった。

 

「お茶会に参加していたのではなかったか?」

「解散したんだ」

「そうか。友人と一緒だったんだ。さぞかし楽しかったのだろう」

 

 そう言った途端、篠ノ之はうつむいて肩をふるわせる。

 

「……余った」

 

いまいちよく聞き取れなかった。

 

「余ったんだ。私だけ……」

「何があった?」

 

 篠ノ之は凜とした佇まいが魅力的な少女だった。今は、見る影も無くしょぼくれている。

 

「……わいわいやって一息ついたあと、組み合わせの話になった。じゃんけんで決めようって提案したら、一夏がこう言った。

『俺、今回はシャルと組むからさ』

 ……男同士が良いってのはまだわかる。……ただなあ。いくら男友達に餓えていたからといって、見つめ合って指を絡めるのはちょっと……

 

 雷鳴のような音で最後のところはよく聞こえなかった。

 

「確かに。その後は」

「すぐ凰とオルコットが手を組んだ。凰なんか、『デュノアぶっ殺ッ、じゃなくって、ぶっ倒す!!!』などと気勢を吐いたんだ。まあ、織斑先生も代表候補生同士で組んでいいって言っていたからな。合理的な判断だ。

 ……で、残りは誰だと思う?」

「記憶が確かならば、岸原、四十院、相川、鷹月、そして篠ノ之」

「五人だったんだ。……気がついたら余ってた。余ってたんだ……。

 どうすればいいんだ。これじゃ、私がぼっちじゃないか……」

 

 壁際で足を抱え、うずくまる姿が見ていられなかった。そっと肩に触れ、元気づけるべく頭を巡らせた。

 

 

 

 

 

 

 




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4日目
16.sechzehn. ――挨拶――中間――押しつけ――確認――


 翌朝、食堂の前で富裕層のイギリス娘――セシリア・オルコット――とすれ違った。

 

「おはようございます。ボーデヴィッヒさん」

「おはよう」

 

 声を掛けられて立ち止まり、ゆっくりと振り返る。早い時間のせいか、美しい金髪を後ろで縛って、ひとつにまとめていた。

 

「いつもこんな時間に?」

「そうだ」

 

 和やかに笑みを浮かべながら立ち姿を観察した。薄手の部屋着なのだが、お姫様のような可憐さだ。

 思い返せば、目を覚まして以来、彼女とは初めて言葉を交わしたような気がする。

 

「まさか、貴女から声をかけて来るとは」

 

 素直な気持ちを口にする。つい先日までイギリスと戦争をしていたのだ。驚かないはずがなかった。

 

「クラスメイトでしょう? それに、私としたことが、挨拶をするのを忘れていたのです」

 

 確かに、篠ノ之や更識、織斑、山田参謀とばかり話していた気がする。時空を超えてしまったがために混乱し、狼狽え、知己を求めることなど思いつきもしなかったのだ。

 

「先日の……災難でしたわね」

「……彼女たちはすぐに興味を失うだろう」

 

 昨日アリーナから帰るまでの道のりで篠ノ之に聞いたのだ。大日本帝国には手の甲に口づけする風習はないのだという。それどころか抱擁すらしない。しかも、多くの人々は大っぴらに口にするのを恥だと捉えるようだ。

 

「あら、どうしてそう思うのかしら?」

「どこへ行こうとも面白おかしく囃し立てる連中がいる。

 しかし、彼あるいは彼女たちは常に移り気だ。より熱中できる話題を前にすれば、炎のそばに燃料を投ずるように、おのずとそちらへ燃え移る。

 移り気な者たちが、深く考えず、感情に流されるまま、ただ、目先の快楽のみを追求しようとするのはわかりきったことである」

「同意見ですわね」

「……あなたもか」

「ええ。私、部屋に戻ります。ごきげんよう」

「ああ」

 

 セシリア・オルコットと別れ、食堂に進み入った。席は十分に空いている。

 パンとスープ、野菜を乗せたトレイを食卓へ置き、椅子の背に寄りかかった。勉学に熱中する生徒を除けば、皆、総統に注目して(ゴシップ)に勤しんでいる。

 朝食を咀嚼しながら、今日の計画を立てる。

 授業を受けるのは当然だが、山田参謀の課題のために調べ物をせねばならない。岩戸技師への依頼についても、仕様のすり合わせが必要だった。もちろん、ドイツの現状についても調べる。結局のところ、昼食後に図書室へ行かねばならないだろう。

 朝食を食べ終え、部屋に戻った。ベッド下から荷物を引きずりだし、背負って宿舎の出入り口へ向かう。珍しく人影があった。

 あいにく誰かと示し合わせたわけではなかった。

 篠ノ之の登校時間よりも少し早い。彼女が織斑との登校を選べば、より遅くなるだろう。実のところ、起床時間をもっと遅く、十一時くらいにしたいのだが、今のところラウラ・ボーデヴィッヒの生活習慣を崩せずにいる。夜遅くなるとあまりの眠さで堪えきれず眠ってしまい、早朝に覚醒してしまうのだ。総統は八時間労働制信奉者ではない。起きたい時間に起き、人並み以上に働き、成果を残せば良い。

 近づくにつれ、制服をだらしなく着崩した少女だとわかった。普段授業で見せるような眠そうな眼差しではなく、思い詰めるあまり、青ざめながらも敵軍への怒りを糧に生きているかのような表情だった。

 自分と少女のあいだに会話はなかった。徒歩で通り過ぎるまでの時間がとても長く感じ、ずっと睨まれ続けていた。

 変化が生じたのは、外に出ようと扉に手をかけたときだった。

 

「…………いた」

 

 聞き漏らしてしまいそうなか細い声音。振り返って、二、三歩引き返した。

 水色の髪。身体の幅よりも大きな背嚢(バックパック)を背負っている。眼鏡の奥から垣間見える瞳は、朝らしく細まっていた。

 

「おはよう。更識にしては早いのだな」

「…………おはよう」

 

 そして軽く会釈した。次に、こちらを親の敵のような目でみていた少女へ身体を向け、同じように挨拶をした。

 

「…………おはよう」

「おはよ~~……」

 

 二人の少女のやりとりを眺める。

 だらしなく着崩した少女、つまりは布仏本音はすかさず更識簪に抱擁をした。大日本帝国国民は頻繁に抱擁などしない、と言っていた篠ノ之の言葉とは矛盾した行動だ。

 更識簪は昨日見たとおり嫌そうな顔をして、布仏を引き剥がそうとしている。

 

「仲が良いな」

「……そうでもない。暑苦しいだけ」

「そうやってすぐ邪険にする~~」

 

 更識の答えに満足しつつ、何度もうなずいた。昨日、布仏は気分を害していたように見えたが、杞憂のようだ。これならば、友人関係に亀裂を生じさせてしまったと気に病む必要はないだろう。

 踵を返して宿舎を出た。施設の入口へ続く小径(こみち)を進む。街路樹の剪定が隅々まで行き渡っている。だが、車を回すには、少々道が狭い気もした。考え事をしていると、更識簪と布仏本音が追いつき、横に並んだ。

 左側に自分、中央に布仏、右側に更識簪という配置だ。更識簪は自分と話がしたいらしく、声が小さいこともあって、幅寄せしようと試みる。

 だが、どうやっても布仏が間に割って入ってきた。

 

「乗機を乗りこなせそうか?」

 

 主な話題はこれだ。想定通りに事が運べば、彼女は華々しい実績を得る。前人未踏の単独勝利。総統ですら勝利の踏み台にすぎない。第二級か第三級の人種にできる程度の成果ではなかった。

 

「…………やってみせる」

「その意気だ」

 

 和やかに微笑みかけ、勇気づける。こちらの表情につられたのか、更識簪の表情が和やかになった。明るい未来を思い浮かんだ証拠でもあった。

 

「………………ぅ~~」

 

 歩きながら横を向き、互いに視線を交わし合っていたのもつかの間、布仏は仲間外れにされていると思ったらしい。更識簪の腕に自分の腕を絡める。胸部が変形するほど、強く身体を腕に押しつけている。押しつけられた方は少し戸惑った様子だった。

 布仏が勝ち誇った笑みを、こちらにだけわかるように向けてきた。

 

 ……。

 …………。

 ………………自分や更識簪にもできない芸当である。

 

 親友だと思っていた友人が、別の誰かに夢中になっている。語り合えないことに寂しさを感じ、彼、あるいは彼女が笑みを向ける先にいるのは自分ではないのだと。妬ましさを感じるのは、人間として当然のことだ。

 もちろん、嫉妬に狂って他者を害するのはもってのほかであるが……。

 布仏は更識簪との仲睦まじさを主張するだけで、害意を抱いてはいないように見える。

 一組の教室まで来た。別れ際、布仏が友人に向かって訊ねた。

 

「カンちゃん。あのね~~今度の対抗戦なんだけど~~」

 

 一拍おいて言葉を継ぐ。

 

「もちろん私と一緒だよね?」

「………………」

 

 更識簪が沈黙した。一瞬うつむいて、総統に不安げな視線を送ってきた。

 運命が計画を生み出す。こちらの表情を一切崩すこと無く頷いてみせた。更識簪は具体的な目標を定めていて、努力の最中にある。同様に努力している者がいるがために、できるかぎり近道をし、最後の瞬間まで緊張を解くことなく、より早く高みに達しようとしている。

 彼女の行動は目標とは何か、意識を共有していると確かめたに過ぎない。既に腹は決まっている。

 

「………………一緒じゃない」

 

 この間、布仏はずっと視線の動きを観察していた。答えを予測していたにも拘わらず、信じたくないのか肩を震わせた。

 

「…………()()()()()

「そのうちわかる…………」

 

 頬を膨らませ、目で抗議してきたが、更識簪は頑なに口を割ろうとはしなかった。

 授業後の約束をして教室へ入った。

 自席に腰を下ろし、背嚢から書物を取り出す。

 しおりを挟んだ場所を開きながら、ヴィーン(Wien)にいたあの頃を思い出した。貧困と悲惨のときを過ごし、日常の空腹に悩まされた。日々のパンを得るためには、肉体労働をこなし、ちゃちな画工に甘んじなければならなかったのだ。

 だが、重要な時代だった。むやみと多く、徹底的に本を読んだ。仕事の合間の暇な時間を、休み無く知識の吸収に努めた。

 建築物において、基礎こそ大きな役割を果たす。総統が持つ知識の基礎は、この時代の勉学によって固められたのである。

 騒がしくなってきたので、しおりを挟んで本を閉じた。顔を上げると、布仏と目が合った。何度か瞬きするうちに、布仏のほうが先に視線を外した。

 セシリア・オルコットと目礼を交わしたあと、登校したばかりの篠ノ之が、自席へと向かう前にわざと遠回りして話しかけてきた。

 

「ボーデヴィッヒ。布仏と何かあったのか?」

「いいや。そもそも彼女と話したことがない」

「でも、じっとボーデヴィッヒのことを見てたぞ」

 

 布仏は他の生徒と談笑している。眠そうに目蓋を擦り、欠伸をしてみせている。

 

「大丈夫だ」

「……ならいい。だが、もし、トラブルになりそうな気配があれば相談するんだぞ」

「私とて面倒ごとは望んでいない。もしそうなったときは、相談しよう」

 

 その後、雑談を交わしていたが、山田参謀の立ち姿を見つけるにいたって、篠ノ之に席へ着くように助言した。

 いくつかの授業を経て昼休みになった。昼食をとったあと、計画通りに図書室へ向かう。

 道中、妙な心持ちになった。昼休みに()()()()()()()に触れてしまうのだ。ツーゼの箱の意匠こそ箱形で面白みに欠けるのだが、実現する独創性と言ったら!

 休みになったとたん、クラスの皆が携帯ツーゼをもてあそび、インターネッツに熱中する。自分ですら、図書室の扉をくぐった瞬間も楽しみでしかたなかった。

 司書に一言断っておくのを忘れない。

 

「今日もお借りします」

「ええ、どうぞ」

 

 図書室の中央へと向かう。目的地にたどり着いたとき、愕然としてしまった。

 いつもの席には先客がいて、機敏なしぐさでマウスを操っていたのである。

 

「あなたは……」

 

 その少女は首をこちらへ向け、目を細めてから立ち上がった。

 

 

 




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17.siebzehn. ――箇条書き――スケッチ――勝利――スペル――

 眼鏡を掛け、理知的な雰囲気を漂わせた少女だった。

 年齢は一つか二つ上だろうか。後ろで結った赤みがかった髪は、生来の色ではなく染めたにちがいない。制服のリボンは黄色。左腕に『新聞部』と書かれた腕章を留めている。

 少女は席を立った。椅子を引き、こちらに身体を向けた。

 

「あなたが噂のボーデヴィッヒ少佐ですね?」差し出された手を握り返す。

ラウラ(アドルフ)ボーデヴィッヒ(ヒトラー)ドイツ共和国(大ドイツ帝国)軍人(元首相)です」

「IS学園整備科二年の黛薫子です。新聞部に所属しています」

 

 新聞……と心の中で身構える。総統の名が広まるにつれて、いつかは来ると思っていた。

 この新聞部から来たという少女は、表現の自由を謳いながら、大衆のためと、もっともらしい主張を振りかざし、あらゆる中傷をものともせず、巧みな嘘を操る。いやみったらしい大言壮語を、あたかも苦心さんたんたるものとして表現するに違いない。

 

「どうぞ」

 

 黛が席を譲る。

 こちらがいつもの席に着くと、黛は隣の席へ移った。

 マウスを器用に操り、何度かクリック音を響かせた。

 

「さて」

 

 毎日扱っているおかげでマウスの扱いは手慣れたものだ。

 ツーゼを起動したまま、新・総統官邸(NeueReichskanzlei )に入り、新たな配達物がないか確かめる。

 一通り目を通したあと、制服のポケットから反故(ほご)を束ねた手製のメモ帳、そしてボールペンを机に置いた。

 

「新聞記者のお嬢さん。私に何の御用かな? よもや挨拶をしに来ただけではあるまい」

「まずはこちらをご覧ください。学校新聞の今週号とインタビューの質問用紙です」

 

 黛がすかさず透明の封筒を取り出し、こちらの机に置いた。

 中には大小二枚の紙が入っていた。二つ折りになった新聞、そして白紙だ。

 樹脂でできた封筒の表面を何度か撫でたあと、肌触りと薄さ、強度に驚きつつ、新聞を広げる。見出しや白黒写真、イラストへと目を通す。両面印刷になっていて、裏返すと、四つ枠から成る風刺画があった。

 ――大衆紙か。毎週水曜日発行。地域限定の小新聞だが、何かが足りない。そう……プロパガンダだ。

 新聞を置き、白紙を引き出して裏返すと、次のような項目が箇条書きで記されていた。

 

 ・名前

 ・生年月日

 ・年齢

 ・性別

 ・出身国(出身地)

 ・職業

 ・趣味

 ・特技

 ・どうしてIS学園に?

 ・今いちばんやりたいことは?

 ・在校生にひと言

 ・その他 (何かあれば自由に記入)

 

「インタビュー? つまり、取材を申し込みたい、と」

 

 黛はにっこりと笑った。

 

「毎週、新入生の紹介記事を載せていて、一年かけて一年生全員を紹介しているんです。今年は織斑一夏くんから始まって、今週号は一年一組のシャルル・デュノアくんです」

 

 新聞に目を落とす。デュノア少年の略歴があり、続いて対談形式となっていた。制服姿とISに搭乗したときの写真が収められていた。

 

「……急で申し訳ないのですが、明日の授業後にインタビューさせて頂けませんか」

「つまり来週号に載せたい、と」

 

 黛がうなずく。

 

「時間はいつを考えている?」

「新聞部の部室にて、十五分から三〇分を予定しています」

 

 同封されていた質問用紙をたぐり寄せながら考える。

 ――確かに急な話だ。しかし、総統の存在を、考えを、学生たちに知らしめるには良い機会ではないか。総統としての重みを、その一端を、彼女たちに見せつけられるのではなかろうか。

 とはいえ、彼女たちは無関心な民衆だ。多数の幸運に恵まれ、最先端たる軍事教育に触れながらも、彼女たちの理解力は勉学に向けられるものとは、おおよそ比べものにならないほど貧弱である。

 黛が続ける。

 

「インタビューは質問用紙に沿って行い、対談形式で掲載します。当日は録音と録画をし、私ともう一名が質問と記録を行います。

 少佐は質問用紙を持参してください。インタビュー後に回収させていただきます」

 

 メモ帳に明日の日付と時間、場所を書き留めた。

 ――幸い、三〇分程度ならば調整が可能だ。

 続けて署名するべくボールペンを動かそうとして、ふと思いとどまった。

 ――重要なことを確認せねばなるまい。

 

「……()()()、書いても?」

「ぜひぜひ。心の奥底に秘めた熱い思いの丈を披露してください。紙面の都合ですべては掲載できませんが、最大限伝わるよう善処します」

「結構。明日は、あなたたちにとっても、有意義な時間となるだろう」

 

 再び握手を交わす。

 

「おや~~?」

 

 手を離した直後、黛が何かに気づいた。席を立ち、周りを見回し、手招きするような仕草をしてみせる。

 こちらも気になって振り向くと、見知った顔がばつの悪そうな顔つきで立っていた。どうやら本を選ぶ振りをしつつ、会話に聞き耳を立てていたようだ。

 黛が年相応に悪戯っぽい雰囲気を漂わせる。

 

「本音じゃん。図書館に来るなんて、珍しい」

「う~~」

「さては小テストの成績が悪かったんだね? お姉ちゃんに怒られちゃったのかにゃー。へへへっ、だったら勉強、こっそり教えたげよっか。何なら過去問、そろえたげるよ~~」

「ち、ちがっ~~」

 

 対する布仏はこの上級生が苦手らしく、口を開閉しては、何事かを言いかけた。

 にわかに騒がしくなった。司書がこちらを一瞥するのが見えた。黛はしれっとした顔つきでこちらを顧みる。

 

「少佐。失礼いたします」

「む、無視しないでよ~~」

 

 黛は頭を下げ、布仏の肩をなれなれしい仕草で抱くと、二人して出口へと消えていった。

 再びツーゼの前に座ろうとしたとき、隣の画面が目に入った。

 一枚の写真が映っている。先ほど見た学校新聞とまったく同じ内容だ。何度見比べても一緒だった。

 インターネッツで過去の情報にあたったとき、新聞記事の写真がいくつも残されていた。ほとんどが何らかの方法で写真をツーゼの中にいれたのだ。

 

お嬢さん(フロイライン)これ(新聞)を取り込みたいのだが……」

「でしたら、スキャナーを使います。やり方を教えますので、ついてきてください」

 

 司書はガラス扉を引いて、裁断機が置かれた一室へと誘う。扉のすぐ脇に巨大な裁断機があり、その向かいに胸の高さほどの機械が鎮座している。司書が首にかけた樹脂板を手掛けの前にかざす。小さな画面に光が灯り、眠っていた機械が息を吹き返した。手掛けに指を差し入れ、軽く力を入れて持ち上げて見せた。

 

学生証(カード)をかざしてください」

 

 言われるが司書の言葉に従った。

 

 『ピ!』 

 

 電子音が鳴り響き、思わず身構えながらもガラス面に新聞を置く。蓋を閉じる。ボタンを押すと、ガラス面と蓋の隙間から白く眩い光が通り過ぎていった。モーターの駆動音がおさまるのを見計らってから新聞を取り出す。

 

「以上です。読み取った情報はメールアドレスに送信されました」

「ありがとう」

 

 にこやかに返礼をした。退室する司書について部屋から出たあと、平静を保ったままツーゼの前に戻り、立ったままマウスを操る。司書の言ったとおり、新・総統官邸(NeueReichskanzlei )に一通の配達物があったのだ。

 簡単なメッセージとともに写真が添付され、開くと、ガラス面に置いた新聞に相違なかったのである。

 ――現像や暗室が不要である、と。

 画面をしばし見つめたあと、マウスの側に置いたメモ帳とボールペンを持ち上げる。

 握りしめたボールペンを基準にして視線を固定した。司書とカウンター。扉の置くには他の司書、作業机。目の前の光景を脳に焼き付け、簡単なスケッチを描く。

 再びスキャナーの前に立ち、先ほどの手順を繰り返した。

 新・総統官邸(NeueReichskanzlei )に戻って配達物を確かめ、スケッチがツーゼのなかに出現したことに満足する。

 メモ帳に描いた絵をくずかごに捨て、新・総統官邸(NeueReichskanzlei )から退出し、教室へ戻った。

 

 昼食後、ひとつ目の授業を終えた。教師の背中が見えなくなってから肩の力を抜き、机から質問用紙を取り出す。隣席の生徒から借りた鉛筆を握りしめ、最初の一文字を書き出した。

 

「そこ、綴り(スペル)が間違っているぞ」

 

 手を止め、顔を上げた。

 指先を天井に、手のひらをこちらに向けている。

 ささやかな、しかし輝かしい勝利に目を丸くしてしまった。

 

「篠ノ之か」

 

 

 彼女は隠れるような、小さく控えめなドイツ式敬礼をしてくれたのだ。

 返礼しようと手を上げたが、鉛筆をにぎったままである。机に置こうとしたとき、もう篠ノ之は手を下げていた。

 ――わかっている。今は厳しい時代だ。

 篠ノ之が妙だと言わんばかりの表情を浮かべたので、声を潜めて言った。

 

「これで良いのだ。ありのまま、自由に書けば学校新聞の原稿になる」

「……私も四月に書いたぞ。剣道部新入部員として、神楽たちとひとまとめだったな」

「今回は私ひとりだそうだ」

「ひとり? 扱いが違う」

「それは、もちろん、名が通っているから、珍しいからだろう」

「まあ、いろいろ目立ってるというのは分かるが……」

 

 今の状況は、本当に、すべてをふりだしから始めなければならなかった。外見はおろか、性別までもが困難に直面していると言って良い。ミュンヘン一揆での逮捕後、勾留を解かれた時よりも状況としては悪い。

 一九四五年以前よりもブルジョワの女々しい影響や習慣がプロレタリアートに浸透している。ブルジョワ的な羊の皮をかぶることが必要だ。

 そして、羊の皮という意味では、この貧弱な少女の外見はうってつけと言えよう。しかるべき服装をまとい、しかるべき場所に立って演説すれば、人間的情熱と精神的感受性は火山の爆発となるだろう。

 情熱こそが、大衆の心の扉を開きうるのだ。情熱を伝える手段は『ことば』である。

 だからこそ、大衆との関係性を失わないよう、几帳面すぎるほど努力しなければならない。

 

「紙面を多く割くという。ならば、真摯に臨むほかあるまい」

「だからな、綴りが……

 

 不安げな篠ノ之の表情をよそに、質問用紙に心の内を記していった。

 

 




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5日目
18.achtzehn. ――枯渇――洗濯機――外出届――警告――


 

 翌朝、硬筆を握りしめた状態でうつ伏せになっていた。

 どうやら気を失っていたようだ。

 昨晩は確か、黛からもらった質問票を記入し終えたあと、総統本来の姿である夜型生活に戻るべく、夜更かしを存分に楽しみながら課題に取り組んだ。

 とはいえ、この様子では、夜更かしの試みは頓挫してしまったのだろう。

 顔だけ持ち上げ、レポート用紙の在処を探す。思索を書き留めたメモ帳があたりに四散している。白湯を淹れた飲みかけのマグカップは、ベッド脇のダッシュボードに置かれたままだった。

 気だるげに太ももを引き寄せ、両腕に力を込める。上体を起こして周囲に視線を巡らせた。

 レポート用紙、そして質問に対する答えを書き留めた紙に目を留めた。いずれも折り目がついていたが、中身は無事だ。

 まとめて茶封筒に入れ、おぼつかない動きでベッドから下りる。壁際に立てかけておいた背嚢のなかへ差し込んだ。

 ベッドのそばに引き返し、頭を絨毯へ押しあてるようにしゃがんで手を伸ばす。

 何度か空振りをしたのち、ようやくカバンに手が届いた。

 

「まだあったはずだ……」

 

 ここ数日におよぶ生活で実感したことがある。

 ラウラ・ボーデヴィッヒなる少女は必要最小限の物資しか所持していなかった。

 彼女は軍人であった。軍務を遂行するにあたり、必要な物資は常に供給されねばならない。しかし、兵站能力には限りがあり、もっとも必要とすべきところに物資は回るものだ。戦況が悪化するにつれ、必要な場所へ必要な物資を送ることさえままならなくなる。軍人は劣勢下におかれ、物資が欠乏していたとしても、職務を遂行するよう教育される。

 戦場の、特に前線に立ったとき、兵士は性別に依らず、軍事的な目的を達成しようと躍起になる。もちろん、たった一発の銃弾によって命を失うとなれば、おのずと必死になるであろう。

 ラウラ・ボーデヴィッヒは、真面目な性分であったらしく、平時にあっても職務を全うしようとしていたようだ。――空挺降下訓練修了証を有すほどの、ドイツ少女団の鑑である――。

 だが、そんな華美さから無縁の生活をしていた少女であっても、性別はついて回った。

 この軍事研究施設では、年端のゆかぬ少女たちに対して、男どもの性欲を掻き立てるような姿があたかも一般的であるかのように扱っている。

 特に、ISスーツなる装束は、同性である女性に対して競争意識をかきたてるものだ。女性が自らの美しさを誇るのは自然なことである。しかし、(いたづら)に競争意識を煽り、女性らしさを誇示しなければならないとすれば、仮に誇り高くあった者でも、徐々に目的を見失っていくだろう。

 他者の優位に立つことにのみ注力し、今の立場、あるいは美しさ、権威への執着を生む。美しさとは実におそろしく、(はかな)くもある執着が、もしも彼女自身だけでなく、その家族が欲するのであれば、いかなる信念を捨ててでもしがみつき続けるに違いない。

 その点、この貧相な少女は、職務を全うすることを最優先としている。着用する衣服は質素である。

 総統が母から生まれ落ちたとき、まぎれもない男子であった。

 女性の衣服を身に着けるといった、倒錯した性的嗜好の持ち主ではないと断言する

 この少女の衣服は、先週まで健全なる男子であった総統が身につけても、ほぼ、比較的……いや、百歩……千歩譲ればどうにか違和感がないものであった。

 

 ――中を引っかき回すだけでは(らち)があかない。

 

 カバンをひっくり返す。

 絨毯の上とはいえ、硬質な音であった。

 膝頭の側に、篠ノ之が持っている携帯ツーゼと似た金属板が転がっている。

 黒い画面に気をとられたことが結果的には良かった。

 探していた物資を見つけたのである。

 

 ……おお……。

 

 …………なんということだ。

 

 ………………()()()()()()()()!!

 

 総統地下壕ですら物資不足と無縁ではいられなかった。

 平時においても、戦略物資の欠乏は大問題である。総統は慣れぬ――決して慣れることのない――少女の身体を清潔に保つことがままならなくなる。

 環境を変え、考えを整理すべく、シャワーを浴びた。

 シャワー室で垢を落とす間、思索を続けた。残り一枚は消耗品である。使いきる前に洗濯が必要だ。もちろん、総統とて前近代的な方法で自身の下着や衣服を洗濯したことくらいはある。

 問題は、この身が少女であることだ。客観的に見て、外見上は典型的なアーリア人なのだ。

 

 ――ボルマンがいれば……

 

 この場に善良なボルマンがいれば、総統が何を欲するか、察知したに違いない。しかるべき能力を有した人材を手配したはずだ。

 だが、ボルマンが時空を飛び越えたという話を聞かない。アドルフ・ヒトラーが時空を飛び越えた事実を認識しているのは、少なくとも私個人しか知らなかった。

 湯を止め、身体を拭く。

 タオルは毎朝新品のように肌触りが良かった。

 この軍事研究施設は、学生を国賓であるかのように扱っている。脱衣かごに放置したタオルは、校舎で授業を受ける間に回収され、クリーニング済のものに交換される。

 

 ――ついでにこちらも新しいものに交換してくれたらよかったのだ!

 

 最後の一枚を穿き、制服を身に着ける。

 朝食を摂るべく部屋の外に出る。食堂までの道のりを注意深く観察したが、洗濯機の類いを見つけられなかった。

 登校の準備をすべく部屋へ戻る途中、すれちがった少女たちの誰もが清潔さを保っていた。水好きの民族であることは間違いなく、年齢のことを踏まえても驚くほど肌艶が良かった。朝から風呂――しかも集団浴場!――に入る輩すらいる。

 部屋で荷物をまとめる。室内に散らばった筆記用具と書物を拾い集める。ついでに金属板も背嚢に入れた。

 部屋を後にし、寄宿舎の出入り口の手前まで来て、思うところがあって窓口へ向かう。エプロン姿の寮母がいて、こちらの姿に気づくや不思議そうな表情を浮かべた。

 

「おはようございます、ボーデヴィッヒさん。制服が戻ってくるのは明日ですよ?」

「おはよう。そのことは承知しているのだが、一つ聞きたいことがあったのだ。笑わないで聞いてほしい」

「どんなことです?」

「下着をクリーニングに出せないか」

 

 こちらが予想したとおり、寮母が何度も目を瞬かせた。思案顔になり、手のひらを合わせた。

 

「下着のクリーニングは断られるのではないかと。

 ……もしかして、洗濯機の場所をご存じでない?」

 

 もちろんこのとき、総統の無知を咎めるような雰囲気ではなかった。

 

「……まあ、そうだ」

「ごめんなさい。てっきり知っているものと思って説明しそびれていました。

 ……ちなみに、ボーデヴィッヒさんは、一度でも大浴場へ行かれたことはおありですか?」

「ない」

 

 即答する。

 少女のあられもない姿を覗く趣味を持ちあわせていない。

 だいたい、日本国における風呂は、たとえ集団浴場であっても、等しく肌を晒す。

 文化の違いを認めざるを得ないが、国家社会主義の顔たる総統が、()()になって()()()()()()()()()()()()()()()、大きな湯船に浸かる姿を誰が想像できようか。

 

「やっぱり……。

 洗濯室は大浴場の隣にあります。脱衣室から行けますが、使いたいときに私を呼ぶか、誰かに聞いてください」

「わかった。近々世話になると思う」

「私から一点質問してもいいですか?」

 

 寮母が口の端をつり上げて笑みを作った。時間に余裕があったこともあり、断りはしなかった。

 

「明日から転入して初めての土日ですよね。ボーデヴィッヒさんは、誰かと街へ行ったりはしないのですか?」

「街……」

 

 正直に言えば、この軍事研究施設にも外の世界が存在することを失念していた。ここに告白しよう。一九四五年の、ありとあらゆる地獄の真っ最中から遙か未来へと跳躍してしまったがために、混乱して頭からすっかり零れ落ちていたのだ。

 

「はるばるドイツから日本に来たのですから、美味しいものを食べて、買い物をしたり、たくさん見聞を広めたりするといいと思いますよ」

「確かに。仰ることは正しい……」

 

 ではあるが、今まで歴史を知ることと現状把握に注力していたばかりに、外界の生活様式がいかなるものか、まったく知らなかった。

 考えを巡らせるうちに、寮母がこちらから視線を外して廊下を見やった。

 

「ボーデヴィッヒ?」

 

 寮母とこちらの背中に気づいたらしく、生徒が近づいてきた。

 

「篠ノ之か。おはよう」

「おはよう」

 

 彼女も制服姿だ。

 

「篠ノ之さん、聞いて。この子、大浴場に入ったことないんだって」

「は?」

 

 篠ノ之は唐突に寮母との会話に巻き込まれて、反応できずにいた。

 じろじろとこちらを見、鼻をスンスン鳴らす。

 

「え?」

「毎朝、シャワーを浴びている」

 

 不潔というだけで、人々を惹きつけることは甚だ困難となる。

 

「大浴場とやらは……身に着けるのものをすべて取り払わねばならないのだろう。私には、まず、そこがいただけない」

「……ですって」と寮母。

「はあ……」

 

 篠ノ之は返答に困っているようだ。

 

「篠ノ之さん。無理にとは言わないけど、私からのお願いを聞いてくれない? 三つくらいあるんだけど」

「……? 無茶なものでなければ」

「ひとつは洗濯機の使い方を教えること」

「でしたら簡単だ。ひとつ目は引き受けましょう」

「ふたつ目は、大浴場の利用方法を教えること」

「……それぐらいなら」

「三つ目は、外出のついでにこの子も連れていってあげて」

 

 寮母が外出届のとりまとめを行う。当然、休日における生徒の予定をある程度把握していた。

 寮母は篠ノ之に向かって、顔を近づけるよう手招きした。

 篠ノ之が中腰になって耳を寄せる。

 

「でね……。三つ目のついでに……ショップへ連れていってあげて欲しいの」

 

 篠ノ之が無言で振り向いた。こちらを凝視して頭の天辺からつま先へと視線を動かす。

 

「…………でしょう?」

 

 寮母の問いかけに篠ノ之がうなずく。

 

「まあ……構いませんが」

「よかった。じゃあ、これ、渡しておくからボーデヴィッヒさんに書いてもらって。担任の先生か、私にちょうだい」

 

 「外出届」と書かれた用紙を受け取る。

 氏名と主な行き先、帰宅時間が夜の八時を超える場合は、理由を書くようにとあった。

 

「ひとつ、言っておかないとならないことがあります」寮母が咳払いをした。

「篠ノ之さんやボーデヴィッヒさんは未成年なので、条例で夜の十一時から朝四時までは外出させてはいけないことになっています。夜八時までなら特に何も言われないけど、そこを超えると色々面倒になるから心に留めておいてください」

 

 寮母の元を辞し、寄宿舎を後にした。

 軍事研究施設までの道すがら、前を行く少女たちを見つけた。ひとりは巨大な背嚢を背負っているので、すぐに更識とわかった。

 基本的に、総統と篠ノ之は早足である。対して、明らかに重量過多な荷物を背負った少女が素早く動くとは考えにくい。

 軍事研究施設まであとわずかというところで追いついた。

 

「おはよう」

「……おはよう」「おはよう!!」

 

 更識の隣にいた布仏が放った大声に一瞬、どう反応すべきか躊躇した。更識に挨拶するついでに、伝えたいことがあったのだが……。

 布仏は警戒心を露わにしつつ更識と腕を絡めてみせる。

 

「本音、暑い……」

 

 更識が腕を振ったが、布仏は離すまいと必死だ。

 篠ノ之を一瞥する。だが、彼女はべつに驚いた様子ではなかった。

 布仏の反応は一般的によく見られるものなのだろう。おそらくふたりには、塹壕でともにたたかった兵士が抱くのに似た、強い絆で結ばれているのだ。篠ノ之もそう感じているに違いない。

 

「更識。今日の訓練だが……」

 

 更識が、話に割って入ろうとした布仏の口をふさぐ。

 

「ングー! ンガググッー! ンガッンガッンガァ――!!」「おいおい……」

 

 篠ノ之が止めさせようと近づくが、更識は気にしない。

 こちらの目を正面からのぞき込んでくる。互いに見つめ合ったまま口を開いた。

 

「……続けて」

「授業後、新聞のインタビューを受けることになった。よって、アリーナへの到着が遅れる」

「取材者は?」

「黛記者。二年の先輩だ。もうひとり助手が立ち会うようだ」

 

 更識が目を細める。

 

「気をつけて」

 

 大衆新聞の編集局にはとんでもない大馬鹿がよくいる。記者という人種が昔も今も変わらないことを知っているつもりだ。

 更識はそのことを気にしているのだろうか。

 

「どんな取材になるかはわからないが、新聞が何を言おうと興味などない」

「あなたはそうかもしれないけど……」

 

 奥歯に物が挟まったような口ぶりだった。

 

 

 




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19.neunzehn. ――ほろり――外出届――大切――片名――

 

 

 二限目のあとの休憩時間。茶封筒を机の上に置いて、頬杖をつきながら教室内を観察する。篠ノ之は同じ剣道部の女学生たちとおしゃべりをしている。他愛のない話題。年相応に相好を崩して笑っている。

 いささか居心地の悪い思いがした。久しく忘れていた温かい気持ちがこみ上げてきた。ずっと、こんな時間が訪れるのをずっと望んでいて、ほろりとしかけていたのだ。

 平和で、いつもと変わらない日。

 ほかの生徒に目を移してみよう。セシリア・オルコットは長い髪を編み込んで少しだけ雰囲気を変えている。同級生に求められて、山田参謀の講義をかみ砕いて教えていた。感謝の言葉に少しだけ頬を赤らめつつ、はにかむのを我慢して「当然ですわ」と言った。

 その横には男子生徒がデュノア少年相手に元気よく話しかけている。少年漫画の話題だ。彼は寮母に頼み込み、廃品として回収された週刊誌を持ち帰っている。ベッド下に隠して、部屋でひとりきりになったとき、部屋でこっそり読み耽っていたのだ。本人は隠しているつもりだが、篠ノ之やその友人、彼と親しい者はみんな知っている。

 隣のクラスの中国娘。自分のクラスに居辛いのか、授業が終わるたびに一組の教室へ遊びに来る。男子生徒に絡もうとするが、彼はデュノア少年の夢中だ。中国娘はなかなか関係が進展しないのに歯がみしている。どこからどう見ても彼のことが好きで好きでたまらない様子。予鈴が近づくと、お菓子の袋を持ったヤンキー娘が迎えに来る。帰り際はいつもこうだ。

 

「彼と話できたの?」「察しなさいよ!」

 

 一般教科の担当教諭が姿を現す。茶封筒を机の中にしまって、白紙のレポート用紙を広げ、一介の聴講生として、ひとときばかりの時間を楽しんだ。

 昼休みになった。ほとんどだれもこちらに注意を払わない。食事の前に用事を済ませてしまおうと思って、気楽な気持ちで職員棟へ向かう。

 食堂へ向かう学生たちとすれ違った。

 渡り廊下で立ち止まって中庭を見下ろすと、騒々しい楽曲に合わせて踊り狂う少女がいる。劇場で耳にするような曲調ではなく、音と音を機械的に繋ぎ合わせたような楽曲だった。騒音のあまり怒鳴り込む輩がいるのではないかと疑ったが、拍手喝采こそあれ、苦情を申し立てる者はいないようだ。

 踊っていた女が動きを止める。肩で息をしながら髪留め代わりの帽子を取って頭を振る。汗の雫が舞い散った。

 どこかで見たような水色の髪だった。こちらを見上げると、歯を見せながら手を振ってきた。

 こちらも手を振り返す。民衆が笑顔を浮かべているのであれば、友好的に振る舞うものだ。

 

「ありがとー!」

 

 少女が言った。

 目礼をして去り、職員棟の扉をくぐって職員室へと歩みを進めた。

 

「失礼する」

 

 昼休みの職員室内は、みな仕事の手を止めて食事をとっていた。記憶にしたがって視線を巡らせる。織斑の作業机は両脇に書類と書籍の山ができていて、彼女はその中央で弁当を食している。

 

教官(フロイライン)

 

 織斑の動きが止まる。一呼吸置いて、箸をにぎったまま振り返った。

 

「外出届です。こちらは山田参……山田先生に提出する課題です」

 

 二つ折りにした外出届と茶封筒を手渡す。

 織斑は箸をおいて受け取り、書かれた文字(フラクトゥーア)に目を走らせる。

 

「明日の土曜日に社会見学のため……と」

「その通り」

「外出の件について寮母から聞いている。篠ノ之たちと買い物に行くのだろう? 楽しんでこい」

 

 買い物と聞いて、決まりの悪さを払うように咳払いをして見せた。

 

「どうした?」

 

 織斑が不思議そうにこちらを見た。

 

教官(フロイライン)。実は……私には……とても大きな問題がひとつあるのです」

 

 織斑の表情が曇る。何を想像したのか、とても深刻な顔つきだった。

 

「ボーデヴィッヒ。まさか……」

「恥ずかしい話ですが、私には、私が自由に使えるお金がないのです」

 

 深刻な問題だった。この教育施設内であれば学生証(カード)をかざせば少額の買い物はできた。だが、施設を一歩外に出れば、学生証(カード)は効力を発揮できなくなるだろう。

 

「軍隊での給金があっただろう。ほとんど手を付けず貯金している、と自分で言っていたじゃないか」

 

 残念ながら、その言葉を口にしたのは、私自身(ヒトラー)ではなく、彼女自身(ボーデヴィッヒ)なのだ。軍隊の俸給を貯金していたことを今初めて知った。

 

「私も二年くらい欧州に住んでいたが、大体クレジットカードでどうにかなったぞ?」

「確かに、そうなのですが、……大変、申し上げにくい話なのですが……暗証番号を何をどうやっても思い出せないのです……」

 

 記憶力には自信があったが、無から有を引き出すことはできなかった。一週間前のアドルフ・ヒトラーの記憶は容易く引き出せるというのに、一週間前のラウラ・ボーデヴィッヒの記憶すら引き出せないのだ。

 

「まさか、忘れた、だと? 頭を打ったとかそういうのじゃあ、ないんだよな?」

 

 織斑の顔から笑顔が消えて、心配だけが色濃く残った。

 

「はい……記憶がところどころ抜け落ちていて……」

 

 こちらは恥ずかしさを押し隠し、もしかしたら少しは思い出せるかも知れない、という体で答える。

 織斑は引き出しを開け、バッグを取り出す。バッグの口を開け、長財布に目を落とし、唇を噛んで難しい顔をした。

 

「マズいぞ。給料日前なんだよな……」

 

 二、三秒固まっていたが、急に良い考えを思いついたらしく、課題の入った茶封筒を持ち上げる。ほかの教員と食事をとっていた真耶がキョトンとしている。

 山田参謀は織斑の窮状を助ける気がないらしく、再び同僚との会話に戻った。

 

「すまないが、少し待っていてくれ……」

 

 織斑はそう言い含め、茶封筒を隣の机に置く。再び室内を見渡し、ある一点で視線を止めた。席を立ち、三十代半ばの女性教諭の元へ向かう。彼女のほうが階級が上らしく、織斑は丁寧な口調でことわりを入れた。

 

「お話中のところ申し訳ありません。少しの間、篠ノ之さんを借りてもよいでしょうか」

「織斑先生。いいですよ、こちらの用は済みました」

「ありがとうございます」

 

 篠ノ之が首を傾げている。

 

「顧問と話していたところに、すまんな」

「先生、何か問題でも……」

 

 不安を見え隠れさせつつ、まったく理解できないといった様子だ。

 

「大人として、まったく、情けない話なんだが……」

 

 織斑は言いにくいのか、なかなか本題に入ろうとしない。

 

「はあ」

 

 こちらの隣に連れてこられてもまだ首を傾げている。

 

「生活必需品調達にあたって一時払いをだな……」

「いいですよ」

 

 篠ノ之は深く聞くまでもなく即答した。学生の身とはいえ、少なくない金額を使うことになるだろう。何度も目を瞬かせて、彼女を見つめたが、何のことはない。篠ノ之はすぐに言葉を継いだ。

 

「姉さんの支払いになるわけですし、領収書には、なんと書けばいいですか。織斑先生……………………ではないのですね」

「ああ、当てがある」

 

 織斑は四角い板のガラス面に親指を滑らせる。

 

「今、電話する。今日は休みだから、家でだらだらアニメを見ているはずだ」

 

 板を耳に当ててドイツ語で話し始めた。親しい間柄なのか、緊張する素振りは見られず、挨拶をした後で軽く近況を伝えあった。そして、通話先との共通の話題になった。織斑は、ラウラ・ボーデヴィッヒという名前を口にしたのだ。

 

「今代わる」織斑がドイツ語で言った。

 

 織斑が板を差し出してきた。ガラス面には「Clarissa Harfouch(クラリッサ・ハルフォーフ)」とある。

 

「電話に出てくれ。クラリッサが話したいと言っている」

「……クラリッサ?」

 

 四角い板が携帯ツーゼであり、電話機能を包含していることは、よく理解していた。恐る恐る受け取り、織斑がとった仕草を真似してゆっくりと耳にあてる。

 

 ――クラリッサ・ハルフォーフとは誰なのか。

 

 織斑の知己。彼女(ボーデヴィッヒ)にとっての何か。これまで、わが国民同胞の大衆に熱弁を奮い、無数の論者と舌戦を交わしてきたのだが、まったく知らない別人の振りをして話す機会はなかったと言ってよい。

 

「……君か」

「お久しぶりです。少佐。何度も電話したのに、どうして返事をしてくれなかったのですか」

「その件はすまない」

「もしかして、私に、飽きてしまわれたのですか。あの夜は、熱い、素晴らしい夜でした。あなたを送り出したあの日、あなたは、私を強く抱いてくださいました」

 

 ――抱いた? どのような意味で? この女性は大きな勘違いをしているのではあるまいか。

 

「……人違いであろう」

「ばれましたか」クラリッサはあっけらかんと答えた。

「用件を手短に願いたい」

「少佐の声が聞きたかったのです。祖国を発つ直前、少佐は傷心のなかにあったと記憶しています。私はずっと心配していました。電話をかけても、まったく、応じてくれません。部下に愛想を尽かしてしまったのでしょうか……と。ネーナたちに聞いても連絡をした様子はなかったので、チフユに様子を伝えるよう頼んでいたのです」

「……その件はすまない。理由があって……」

「どのような」

「暗証番号を、ツーゼとか諸々の暗証番号を失念してしまったのだ」

 

 通話口の向こうで沈黙が舞い降りた。

 

「ツーゼって、コンラート・ツーゼでしょうか? 博物館にある骨董品の? ……わかりました、少佐なりの冗談ですね? ……当てて見せましょう! スマートフォンのことですねッ!!」

 

 クラリッサなる女性が自信満々に言うので、おそらく正解なのだろうと、なんとなく話を続けるように促す。

 

「そ、その通りだ」 

「……残念ながら暗証番号はさすがに存じ上げません。金庫番ではありませんから。

 その代わり、少佐に思い出すための助言を差し上げます」

「助言?」

「少佐が設定した暗証番号は、おそらく、少佐の大切な人の誕生日です。

 こうするとわかりやすく、なおかつ、ピンときません。本人の個人情報と繋がらないのでセキュリティ対策にもなります」

「なぜそう思うのだ」

「そうすると良い、と私が進言しました」

「ちなみに、君は…………」

「いつもクラリッサ、と呼んでくださるのに、今日はよそよそしいのですね」

「…………クラリッサは私の大切な人を知っているのだろうな」

「もちろんです」

 

 クラリッサが上品に笑った。

 

「目の前にいるではありませんか」

「目の前…………」

「そうです。目の前です」

「わかった」

「では、チフユに代わって頂けませんか。話したいことがまだあるのです」

 

 言われるがまま、スマートフォンなる携帯ツーゼを返す。

 クラリッサとの会話によって混乱の海へと突き落とされたと自覚する。

 大切、とはいったいどのような意味であったか。

 クラリッサ・ハルフォーフは言った。ラウラ・ボーデヴィッヒにとって、かけがえのない人物は目の前にいる、と。

 あまりの衝撃に周囲の喧噪がまるで耳に入らなくなった。

 織斑が通話を再開する。

 

「チフユ。条件があるわけですが、当然呑むのですよね?」

「もちろん」

「ひとつ、領収書には私こと、クラリッサ・ハルフォーフの名前を書くこと。ふたつ、レシートの写真を添付して送ること。みっつ、試着したら必ず写真撮影を行うこと」

「……無断での写真撮影はマナー違反だぞ」

「その点抜かりありませんよ、チフユ。最初の一着目は店員に選ばせるのです。清楚な淡い色合いのワンピースあたりがよいでしょう」

「は?」

「スポンサーの要望もあって写真撮影する必要がありまして、ミュンヘンのショップで同じ方法を試しました。店員は快諾してくれましたよ」

「……何を撮った」

「広報活動の一環です。一応軍機ですよ?」

「…………」

「男物は禁止です。少佐はすぐ男物を選ぶので、絶対に選ばせないでください。動きやすい方がよいとか言い出したら、マナー違反の一点張りで押し通してください。少佐はなんでもかんでも規則を遵守する傾向があります。軍人の定義よりも、話をより大きな、社会を包括する定義にすりかえるのですよ」

「……やけに具体的なんだが」

「経験談ですからね。こちらの要望としては、フリフリの清楚な感じの服装がいいです」

「フリル付き、と。ボーデヴィッヒの趣味に合わないんじゃ」

「見た目と合ってていいじゃないですか」

「…………」

「ネコミミなんかもいいですね」

「いきなり方向性が飛んだぞ」

ニャン♪ 付けしたときの動画なんかあったらなお良いです。あと、できればセーラー服も所望します。日本の伝統的な紺色のがいいですね。まあ、IS学園の制服も無改造だったら良かったのですが、部下に報告する前に、即改造業者に依頼してくれましたからね」

「ぜ、善処する……」

「夏も近いので水着なんかあれば最高です」

「セパレートなんかどうだ? ボーデヴィッヒの好みにも合致するぞ」

「せぱれぇとぉ……?? ここは、スクール水着だと言うのが教師じゃないんですか!!?」

「うちの指定はセパレートだが。水着の上ならレギンスもいいし、ラッシュガードも使える」

「胸には手書きのワッペンありなんかいいですね。ひらがなで()()()って書いてください。()じゃなくて()小さいほうですよ?」

「……そ、そうだな……」

「舌っ足らずな口調でこう言わせてください」

「…………ど、どんな」

「お姉ちゃん♪ ……は少し違いますね」

「…………」

「あぅぅおねえたまぁ、見ないでくださぁいぃ……ぁぅぅ恥ずかしいよぉ……」

「…………」

「と言わせてください。課金します」

 

 通話が終わったようだ。ところどころ単語が漏れていたが、ラウラ・ボーデヴィッヒの思い人についての思索にかまけていて、どんな内容を話していたかわからなかった。

 篠ノ之には一連の会話が聞こえていたらしく、顔を若干引きつらせながら織斑に耳打ちする。

 

「先生。相手は女性ですよね?」

「そうだ。条件をとりまとめて後で連絡する。ボーデヴィッヒ、話はついたぞ」

「ありがとうございます」

 

 踵を返そうとしたところ、織斑が呼び止める。

 パンのような、やけに柔らかいものが入った透明の袋を二つ投げよこした。袋には「メンチカツ」と描かれている。

 

「時間をとらせた。やる」

 

 職員室を辞したあと、篠ノ之と食堂に向かった。

 だが、食堂は完食により昼食の提供を終えており、無料のお茶を飲みながら織斑にもらった「メンチカツ」を食した。

 教室に戻り、その日の授業を終えた。席を立ち、記入済み質問用紙を入れた茶封筒を小脇に挟んで教室をあとにする。

 メモに記された、新聞部部室へ向かうまでのあいだ、歩く姿勢を正し、肺の中の空気を何度も出し入れした。

 新聞部部室は職員棟にあった。職員室の上の階にあって、緑色の掲示板にいくつもの張り紙がしてある。それらを目の端に捉えながら目的の部屋まで進む。

 

 ――多目的教室1。

 

 引き戸には縦書きで『新聞部部室』と打刻した透明板が貼られていた。

 国家社会主義運動の総統が一介の学生の取材に応じるのか? そういった心配をするセリフが浮かび上がる。国家の未来を担う若者が一つの道に邁進する先人と交流を持つことに疑いを抱いてはならない。大衆の愚かな声に左右されやすくもある、多感な年頃の少女たちが広い視野を持つ機会を得るのだ。とても素晴らしいことである。

 

「失礼」

「ボーデヴィッヒ少佐。ようこそいらっしゃいました!」

 

 引き戸を開け、新聞部部室に入ると、黛が立ち上がった。こちらにやってきて、小さな机をいくつも繋ぎ合わせて長くした場所へといざなった。

 座席の背には、室内の壁を覆い隠すように白い布が張られていた。大きな三脚の上に照明が乗っている。正面より少しずれた場所には二つのレンズが並んでいて、微かに緑色の光を放っていた。

 黛が背を向けて機材の準備をする少女を呼んだ。

 その少女は腰まである長い黒髪で、この教育施設指定の制服に身を包み、女性らしい体つきを隠すような長いスカートだった。背筋をピンと立たせ、胸を張り、顎を軽く引く。黛の隣に立つまでの短い間、たおやかな様子に目を奪われた。

 

「助手を務める()()です。よろしくお願いします」

ラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)だ。今日はよろしく頼む」

 

 握手をすると、片名という少女の顔の造形がよくわかる。目元が昼間、中庭で見た少女と似ているような気がした。しかし、髪の色が違うし、歩き方が別人である。

 気のせいだと思い、席についた。黛がお茶の入ったボトルを机に置く。片名が撮影と録音用機材を稼働状態にする。

 黛と片名が席に着き、筆記用のノートを開くのを待って、茶封筒を差し出した。

 

「質問用紙に記入した」

 

 そこではたと気付いた。予め伝えておかねば困ることがあった。

 

「ドイツ語で書いてしまったが、良かったのだろうか」

「大丈夫です。そのために片名がいるんです。彼女、すごいんですよ。英語やロシア語、フランス語、もちろん、ドイツ語も含めて何十カ国語を自由自在に扱えるんです。ね!」

 

 片名が少しだけ目元を緩めてうなずいた。

 彼女は茶封筒に目を移し、ゆっくりとした仕草で玉紐を解いていく。微かに音をたて、質問用紙が姿を現す。内容に目を走らせた瞬間、ふたつの瞳が驚愕によって見開かれるのを目撃した。

 

「片名。どしたの?」

 

 片名は顔を伏せ、身体を小刻みに揺らしている。

 記入済み質問用紙を机に置き、質問事項の一問目を、トントン、と指で叩いてみせた。

 

「え?」

 

 黛が示された一点を凝視して動かない。

 そして、顔を上げてこちらを見た。見慣れていないドイツ文字(フラクトゥーア)であっても、記された単語の意味を読み取ったのだということは、瞳に浮かぶ感情の揺れを一瞥するだけで理解できた。

 気を引き締めながら、二人の少女に総統としての微笑みを投げかける。 

 

「親愛なるお嬢様方(フロイライン)よ。お知り合いになれたことを光栄に思う。では、取材を始めようではないか」

 

 

 

 

 

 




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20.zwanzig. ――回答――秘密――休養――重要――

 

 

 黛がぎこちなく微笑んでいる。

 総統を前にして驚きと緊張を隠しきれないのだろうか? 今でこそ、この身は一介の学生に過ぎない。だが、常々人生の先達としてふさわしい言動をするよう心がけている。

 彼女の警戒心を解くべく、朗らかな顔をつくった。

 

「さて、何から始める?」

 

 黛が肩をふるわせる。その隣から言葉をノートに淡々と書き留める音が響いた。

 

「では、ボーデヴィッヒ少佐。お名前をお願いします」

 

 黛が指さしたのは、質問用紙の一番上に記された回答だった。確かめるまでもないが、軽く一瞥してみせる。

 『Adolf(アドルフ) Hitler(ヒトラー)』とあった。

 

「のっけから違うじゃないですか」黛が言った。

「用紙に書いたほうが真の名前だ。私の口は諸事情があって、何をどうやっても本当の名を言葉にすることができないのだ」

「すみません。もう一度、書いてあるように言ってもらえますか?」

 

 すかさず自分の名前を読み上げる。

 

ラウラ(アドルフ)ボーデヴィッヒ(ヒトラー)だ」

 

 覚悟はしていたのだ。本当の名前はあまりに畏れ多く、口にするのも危険だとされている。路上でドイツ式敬礼をしようものなら警察官に職務質問されるだろう。

 片名がじっとこちらを見つめてきた。

 黛が続ける。

 

「じゃあ、次の質問。生年月日……」

 

 彼女は手の甲で目元をこする。

 

「生年月日を仰っていただけますか」

「一八八九年四月二〇日だ」

 

 質問用紙にも同じ数字を記載している。

 

「少佐は今、一五歳のはずでは?」

「時空を跳躍してきたからだ」

 

 黛は絶句のあまり口をだらしなく開けている。

 隣の片名は額に手を当てながら顔をしかめている。何かをこらえているようだ。

 

「………………で、では、年齢を」

「今年で五六になる」自信満々に答えた。

 

 これも質問用紙に書いたとおりだ。『歳』をつけなければ言葉として口にできることは寝る前に確認済だ。

 

「計算を間違えてますよ」

 

 片名が我慢しきれないといった面持ちで告げた。

 

「もし仮に一八八九年生まれだとしたら一三〇歳を超えています。生物の限界を超えているのですが……」

時空を跳躍したのだ! 時系列としてはこうだ」

 

質問用紙の余白に簡単な図を書き入れた。

 

1945 ----(魂)----> 現在

 

「つ、つまり、精神だけが一九四五年から現在へとワープしたのですね」

「その通り」

 

 片名に目を移すと、持参していた扇子で口を隠して震えていた。

 

「次、性別! この質問くらいは真面目に答えてくださいね!」

 

 黛は自分に言い聞かせるように声を張ったが、どうやらドイツ文字を読み取れていないようだ。

 すかさず、涙目になっている片名を小突いた。

 

「これ。なんて書いてあんの」

「こっちに振らないでよ……」

「読めないから呼んだんじゃないっ」

「………………(mann)

「え!?」

 

 一分ほど沈黙が流れた。

 ふたりの視線が徐々に下がっていき、ちょうど股間のあたりで止まる。

 黛が驚くべき仮定をつぶやいた。

 

「ハッ………………まさか、()()()

「残念ながらこの身体には男性のシンボルたる器官がついていない。

 今の私は、確かに、見た目こそ女性であるが、しかし、私の心は男性のままだ。男性だったからこそ、伴侶もいた。

 そう、昨日のことのように覚えている。一九四五年のあの日、私は結婚した。

 男は女と結婚する。しかし、男と男、あるいは、女と女は結婚できない。つまり、女性と結婚した私は男なのだ」

「お相手は三次元ですか?」

 

 先ほどから頭が追いつかない様子の黛を差し置いて、片名が口をはさむ。

 幾何学的質問を受け、意図するところを確かめる。

 

「三次元とはどういう意味だ?」

「あなたがご結婚された女性は二次元の嫁ですか。それとも三次元の嫁ですか?」

 

 首をかしげると、黛が言い換えた。

 

「ええと。少佐の頭の中にだけ存在するお嫁さんか、現実のお嫁さんか、そういう話ですよ」

「まったく理解しかねるが、エヴァは現実の女性だ。諸事情により彼女を紹介できないのが残念だ」

 

 心底残念に思い、肩をすくめてみせた。

 黛と片名は互いに見つめ合って、奇妙な目配せをした。

 

「か・の・じょ??? 彼氏ではなく?」

 

 片名だ。興味津々といった風情を醸し出している。

 

「私はレームとは違う。恋愛対象は女性だ」

 

 エルンスト・レーム。同性愛趣味の突撃隊長であり、わが党に汚名を残し、そのために粛正された。

 

「ちなみに、私たちは恋愛対象になりますか?」

 

 黛の質問に困惑した。

 結婚して間もないにも拘わらず、他の女性に……それも、将来のある少女にたいして懸想するなどと言った趣味はない。しかし、彼女たちにとっては重要なことなのかも知れない。少し考えてから口を開いた。

 

「かつての私は奔放な少女に恋慕し、執着した。そして苦い思い出だけが残った。ひとりの人間として、熱に浮かされ、何もかもが溶け堕ちてしまうような、そういった恋愛への興味がないかと言えば嘘になる。

 しかし、愛情は、ひとりの伴侶に捧げ、捧げられるものだ。

 君たちはいずれ、素敵な女性として巣立つだろう。そして伴侶となるべき男性を見つけるだろう。

 私は一途なのだ。君たちはとても素敵だ。しかし、恋愛対象としては見てはいないし、見てはならないのだ」

 

 片名が扇子をパチリと閉じ、身を乗り出す。

 

「簪ちゃん……更識簪嬢に対してはどのように見ているのですか? よもや遊びではないでしょうね」

「まさか。将来有望な学生と打ち解けて懇意になることは、私の望むところであるが、それを恋愛感情と繋げるのは、いささか無理があるまいか」

「ありがとうございます。次の質問に移ります」

 

 次の質問事項は出身地に関するものだ。

 同じ民族が暮らすドイツとオーストリアの統一は自分の使命だった。両国の国境にあるイン河畔のブラウナウが、まさしく誕生の地である。この小さな町で生を受けたのは、その後の人生において天啓であった。

 

「出身地ですね。もう、何が来ても驚きませんよ!」

 

 気合を入れなおす黛を一瞥してから質問用紙に目を走らせる。

 『ブラウナウ』と記してあった。

 地名ならば大丈夫だろうと思い、深く息を吸ってから書いてあるとおりに言葉を発した。

 

 

 

ひみちゅ(ブラウナウ)

 

 

 

「はい?」「ひみつ?」ふたりが互いに顔を見合わせる。

 

……。

…………おかしい。

 

 ふたりの反応はもっともだ。自分でさえ今しがた発した言葉を理解できないでいたのだ。

 

「すまない。もう一度言い直そう」

 

………………今度こそ!

 

 

「ひみちゅ!!!」

 

 

 わが生誕の地は――――と言っても、ブラウナウの記憶はほとんどないのだが――――またしてもラウラ・ボーデヴィッヒの言ってはいけない言葉に含まれていたのだ。

 ブラウナウ・ブラウナウ・ブラウナウ・ブラウナウ・ブラウナウ…………と口ずさんでみたのだが、実際は……。

 

「ひみちゅ・ひみちゅ・ひみちゅ・ひみちゅ・ひみちゅ…………ドイツ」

 

 わが生誕の地が、どういうわけか、口にするのも恥ずかしい言葉になってしまう。恥辱をこらえながらも感情を抑えきれずに赤面し、涙目になっていく。

 次の質問を――――と思い、顔をあげたとき、片名の扇子が目に入った。どのような仕組みなのか想像もつかなかったが、扇子に描かれた模様が変化する。

 

お可愛いでちゅね

「……ッ!!」

 

 総統が赤ちゃん言葉を発するなどと誰が想像できようか。おそらく頑迷に国家社会主義への抵抗を試みているラウラ・ボーデヴィッヒですら、そうは思わなかったに違いない。

 怒りで両肩を震わせ、机に置いた両拳を固く握りしめていると、黛が見かねてポケットをまさぐった。

 

「どうぞ」

 

 黛から小さな包みを受け取った。

 

「これは……」

 

 アメ玉の袋だった。端部の山谷に沿って袋を破る。

 

「アメでも舐めてもう一度、出身地をおっしゃってみてください。力むと予想もしない失敗をしちゃいますから」

 

 言われたとおりにアメ玉を口へ放り込み、カラコロと音を立てる。小さくなったアメ玉を頬の裏へと転がし、最後の抵抗を試みた。

 

「…………ひみちゅ(ブラウナウ)

 

 扇子の言葉が目に入ったが、無視して黛たちをにらみつける。口の中のアメ玉をかみ砕いて飲み込んだ。

 沈黙したまま次の質問に移った。

 用紙に記入した内容は本来あるべき姿を示している。

 身体をぴんとまっすぐ伸ばした。

 黛が隣に向けて肘で小突く。

 

「これ。なんて書いてあんの」

「だからさ。こっちに振らないで……」

「ドイツ語は読めないんだって。どうせ、少佐の公開プロフィールと全然違うことが書いてあるんでしょ」

「仕方ないなぁ……」

 

 黛がわからないところを指さし、片名が困惑顔で読み取っていく。

 

「驚くのは無理もない。私はただ、真実を口にしたいのだ。そして、人々から、この人間は真実を言っているのだと思ってもらいたい」

 

 その証拠に片名が口を何度も開閉させている。彼女はようやく気づいたのだ。今、誰を前にしているか、を。

 片名は不安げな面持ちを隠さなかった。

 

「あのぉ……国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)指導者、兼、大ドイツ帝国首相……ってありますよ? つまり総統(Führer)……って書いてあるのですが……いいんですか? ドイツ軍的に言うと、軍事裁判にかけられて良くて懲戒免職処分じゃ」

「国家社会主義ドイツ労働者党? そんな政党あったっけ?」

「記者志望なら覚えときなさいよ……」

 

 彼女は黛のためにメモ用紙を一枚はぎとってからペンを走らせた。

 

「こういうの。言っておくけど、お寺のマークじゃないんだからねっ」

 

 鉤十字を描いてみせる。

 

「ナチス……? 今どき?

 

 片名が背筋を真っ直ぐ伸ばし、まるで油断のならぬ雌オオカミのような雰囲気を漂わせる。ラウラ・ボーデヴィッヒとは一学年しか違わないはずだが、恐れ入ったものだ。

 

「ご存じですか? あなたの祖国、ドイツでは国家社会主義という極右思想、つまりナチズムは禁止されています。アドルフ・ヒトラーは、当時の国民を扇動し、最も忌むべき思想で汚染し、第二次世界大戦という、凄まじい破壊と殺戮を生み出した原因のひとつでもあるのですよ。

 失礼ながら、あなたの行為は、自身をテロリストだと標榜しているようにしか見えません」

「私は――」

 

 言いかけて口をつぐむ。片名のなかでは、アドルフ・ヒトラーは歴史上の人物である。不本意ではあったが、言い直した。

 

「――――彼は、合法的に、民主的に、ヒンデンブルク大統領に任命されて首相となった。

 民衆もまた熱狂をもって迎えいれた。勝者によって形成された論理で、彼をテロリストと断ずるのは早計と言わざるを得ない。

 国家が国民と一体になって目標へ向かい、目標達成の手段として戦争を選び、様々な要因が重なり、結果として敗北したのだ。

 国家が国民の集合体であるならば、国民の意思を汲み、国民の望みを叶えることこそが指導者のあるべき姿である。

 もちろん、指導者とて人間だ。目指すべき方向が間違っていることもあるだろう。

 よろしいかね?

 この国もまた、つまり、かつての大日本帝国もまた、国民が、熱狂的に、戦争を支持したのではなかったか? 誰もが勝利に熱狂し、心を躍らせたのではなかったか?」

 

 戦争責任を誰かが負うべきとすれば、その可能性は、国家の頂点にある指導者か、あるいは、その指導者を選び、罷免しなかった人々にあるだろう。特定の悪者を仕立て、後者に矛先を向けぬため、ニュルンベルク国際軍事裁判という茶番劇をこしらえたのだ。

 

「くっ……」

 

 片名は押し黙った。大日本帝国の責任が、市井の人々あるいは国家の頂点に向くのを恐れたのだ。真理から目を背けるほど自己矛盾に陥る。歴史書によれば、この国もまた極東国際軍事裁判(東京裁判)という茶番劇を経験している。

 にらみ合いを続け、険悪な雰囲気が漂うなか、先ほどから黙っていた黛が口を開いた。

 

「じゃ、じゃあ、趣味にいきましょう。色々書いてありますよねー」

「絵画や映画、散歩など色々ある」

「へー。絵を描くんですね」

 

 失礼と、黛が席を立つ。彼女はスチール棚から一冊の本を選んだ。

 席に戻ってきて、中央に本を置いた。

 

「この表紙の絵。ささっと模写したりとか?」

 

 表紙は大浴場の隣の休憩室で見かけた、漫画雑誌のものと似ていた。風刺画など書こうとも思わなかったが、一度は画家を志した身である。まして、取材の場だ。うっとうしくは思わなかった。

 

「スケッチでよいか?」

「どうぞどうぞ。これ、鉛筆です」

 

 受け取り、メモ用紙に描き入れる。緻密に描きこむほうが性にあっているのだが、時間が限られている。構造的に重要な線だけを選んだ。

 一分ほど集中し、鉛筆を置く。

 できあがったスケッチを彼女たちに見えるように置いた。片名が手に取って眺めている。

 

「普通に上手いですね」「本当だ。普通に上手」

 

 なにげない感想だ。

 残念ながら美術学校の入試結果は「才能、貧弱。入試絵画、不可」という惨憺たるものであった。それでも一応は、ちっぽけな図工兼水彩画家として活躍した時代もあったのだ。

 

「ありがとうございます。次の質問は特技ですね」

「強いてあげるなら演説だ。両手では数えきれぬほどやった」

「そうなんですね。なりきってますねー」

 

 黛だ。ラウラ・ボーデヴィッヒ=アドルフ・ヒトラーだとは信じていないようだった。

 

「どうしてIS学園に入学したのですか?」

「……む。次の質問だな?」

「そうです」 

 

 なぜこの軍事研究施設に来たのか。

 この問いについて明確な答えを持ちあわせていない。昨晩、質問用紙を前にして散々悩み抜いたのだ。事象を説明するだけなら意識だけ時空を飛び越えてきた、で済むのだが、ふたりの微妙な顔つきを目にするにいたって、再三繰り返すのはよくないと察していた。

 

Wer bist du(Who are you)?」

 

 自分自身に対してそう問いかけるしかない。科学的説明は不可能。宗教的説明も、西欧とは全く異なる背景で生きてきた人々を理解させられるとは到底思えない。輪廻転生なる概念は存在するこそすれ、実際に転生した者など見たことも聞いたこともない。私は転生した! などという者は、信仰にすり寄って銭を稼ごうとするペテン師である。

 ふたりの少女を納得させられない。あいまいな言葉を濁しては、彼女たちの信頼を得ることはできないだろう。

 無から有を生み出すのは並大抵の努力ではない。

 純粋に誠意をもって『わからない』と言ってしまうのが良いか。しかし、ひとたび体に割れ目を作ったとき、特別大きな出来事によって重圧が生じたとき、この小さな問題が、決定的に重大な意味をもって、不幸にも崩壊を招くのではないだろうか。

 

Wer bist du(Who are you)?」

 

 もはや祈りであった。正直に答えてしまおう、そう思ったとき、奇跡のような、とても不可解な現象が生じた。

 自分の口が、自分の意思に反して、まったく知らないはずの単語を並べ立てていたのである。

 

「なぜIS学園に来たのか。理由はこうだ。

 試験配備されたIS、すなわちシュヴァルツェア・レーゲンの稼働データ収集、ならびに、IS運用協定、通称アラスカ条約に則り、各国と情報共有するためだ。

 もちろん、これは表向きの理由だ。

 実際のところ、上官や、そのもっと上から、たまりにたまった休暇を取って欲しいと、威厳もへったくれもない形相で懇願されたのだ。

 曰く、法律を遵守してくれ、と。

 働きすぎで顔色や肌艶が悪い。銃とナイフを携帯したまま、夜間に武装して徘徊する姿が危なっかしい。両隣の隣人からは、毎晩奇妙な呪文が聞こえてくるので眠れない、言いたくないが悪魔召喚しているに違いないといった苦情があったのだ。……まったく失敬な苦情だ! 織斑教官から教えていただいた、ありがたい般若波羅蜜多心経だぞ!!

 ほかにも、()()()を殺す! と夜な夜な叫んでいたらしいのだが、まったく記憶にない。調べても記録になかったから、妄言の類いなのだろう。

 三月から四月中旬にかけての、私に関する生活記録が消えていたのだが、お前たち、織斑教官から何か聞いていないか?」

 

 恐ろしかった。自分の声とは到底思えなかったからだ。自分に舌を噛みそうな呪文を朗読する習慣などなかった。

 すがるように二人を見た。顔面の筋肉が思うように動かず、不可思議な表情になっていたのだが、黛たちも一緒だった。

 

「…………こころの御病気のおそれがあるかと」失礼なことを口にしながらも、黛の声は優しかった。

「祖国で十分すぎるほど激務に就かれたのです。今度は遊びを覚えましょう」

 

 片名の扇子の模様が変わった。

 

大人の遊びはダメだぞっ!!

 

「私は酒もタバコもやらん。娼婦と寝るなんてまっぴらごめんだ。賭け事もやらないぞ」

 

 今のは自分の意思だ。

 

「……ご学友とわいわい騒ぐといいですよ」

 

 黛の声はやはり優しい。

 

「……そうです。高校生らしく羽目を外すくらいがちょうどいいですよ。それと、今いちばんやるべきことは、休養です。休養をとってください」

 

 片名も続いた。

 不意を突いて発生したラウラ・ボーデヴィッヒの独白は、致命的に誤った認識を与えてしまったようだ。内面的な混濁を、優しさをもって理解されてしまったのは、不本意な結果である。

 やはり中途半端は、ぞっとするような破滅的な害悪をもたらす。真剣に、断固たる手段をとらなければ、不要な刺激のみを与えてしまう。

 

「在校生にひと言ってありますか?」

 

 黛が促す。

 質問用紙に色々記入したが、同じ事を言うつもりはなかった。

 

「では、ひとつだけ」

「どうぞ」

 

 呼吸を整える。

 

「私は思う。

 ここにいる人々もみな、心の中ではきっと、この世界が何を必要としているのか、わかっているはずだ」

 

 言い終えて、質問用紙の余白に文字を書き入れた。

 

『ところで、織斑先生の誕生日をご存じか?』

 

 すかさず片名が応じた。

 そこに描かれた四桁の数字を見て、満足げに笑みを浮かべる。

 

「ありがとう」

「これにてインタビューは終了です。少し時間が押してしまいましたが、こちらこそありがとうございました」

 

 照明が消え、壁掛け時計の針が目に入った。

 確かに、予定時間を過ぎている。黛と片名がせわしない様子で設備を片付けていく。

 黛が部屋を出ようとしたこちらを追いかける。

 

「質問用紙とメモは回収します。来週の水曜日には発行する予定です。新聞部部室前と職員室前、学生寮にも貼り出します」

「了解した。こちらこそ、有意義な時間だった。私はこれで失礼する」

 

 新聞部の部室を後にした。

 

 

 




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