時をかけた姉妹 (スポポポーイ)
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時をかけた姉妹

※原作と異なり、雪乃は三年次でもマンションで一人暮らし設定です。
※実験的に特殊タグを多用しています。


 三年生となった七月のある日のこと。

 夏休みを迎えた私は、流し読みしていた新聞の地方欄に目が留まった。

 

「何をやっているのよ、姉さん」

 

 【タイムマシンの実現まであと一歩!? 千葉大で美人すぎる天才女子大生が本格的に研究中!】

 

 その記事を読んで、私は即座にスマートフォンを手に取り、電話をかける。

 三コールほど待ったところで、目的の相手が出てくれた。

 

『掛けてくると思ったよ、雪乃ちゃん』

 

 私の実姉である雪ノ下陽乃。

 

「新聞を読んだわ。……何をしているのよ、姉さん?」

『何って、新聞記事の通りだよ。タイムマッスィーンの研究?』

「どうして姉さんがそんなことをしているのかと聞いているの。第一、こんなこと母さんは許さないでしょう?」

『それなら大丈夫。お母さんなら説き伏せたから』

「……は? 説き伏せた? あの母さんを?」

 

 信じられなかった。

 姉さんの研究内容もそうだけれど、姉さんがあの母さんを説き伏せただなんて……。

 

「……姉さん。いったい、何があったの?」

『うーん。雪乃ちゃんになら教えてあげても良いんだけど……いろんな意味で正気を疑われそうだしなー』

「既に疑っているわよ。母さんを説き伏せてまでタイムマシンの研究をするだなんて、それこそ地球滅亡レベルの理由でもないと納得できないのだけれど」

 

 もし仮に……。あまりにも荒唐無稽ではあるけれど、本気で姉さんがタイムマシンを研究していたとする。

 新聞記事によれば、もう基礎理論はできているのだという。既に理論の裏付けと検証。装置の試作と進んでいるらしいのだけれど、いくら姉さんでも大学在学中でそれらが完了するとは思えない。素人の私に詳しいことは分からないけれど、それこそ一生をかけて取り組むような研究なのではないかしら。

 だとしたらそれは、あの姉さんが未来か、あるいは過去に行ってでも成し遂げたいナニかがあるということ。自分の人生を投げ打ってでも、姉さんが固執するナニか……。

 

「姉さんが言いたくないのなら、別に詮索するつもりはないわ」

『……ありがとう、雪乃ちゃん。心配してくれて』

「っ……。別に、私は姉さんの心配なんて」

『ううん。そんなことないの。嬉しかった』

「ねえ…さん……?」

 

 私は思わず息を呑んだ。

 電話越しだけれど分かるのだ。今の姉さんは、純粋に私に感謝を伝えている。

 それこそ、まるで今生の別れのような……。

 

『ねえ、雪乃ちゃん?』

「……なにかしら」

『比企谷くんのこと、好き?』

「なっ!?」

『実際さ、そこんとこどうなのかなって』

「……姉さんには関係のないことよ」

『関係ない……こともないんだな、これが』

「どういうことかしら?」

『雪乃ちゃん、知ってる? 姉妹ってさ、好きな異性のタイプも似るらしいよ?』

「──ッ」

 

 姉さんが言っていることが理解できない。いえ、違うわね。理解したくなかった。

 

「それではまるで、姉さんも比企谷くんが好きだと言っているように聞こえるのだけれど」

『あ、ということはやっぱり雪乃ちゃんも比企谷くんが好きなんだね』

「……」

 

 カァっと顔が熱くなっていくのが分かる。

 あっさり誘導尋問に引っかかってしまったわね。……屈辱だわ。

 

『ゴメンね。別に雪乃ちゃんをからかおうとしてる訳じゃないの』

「なら……」

『──雪乃。一度しか言わないから、よく聞きなさい』

「っ……!?」

『もし、比企谷くんへの恋愛感情が彼への依存からくるものだとしたら、今すぐ彼から離れて二度と会わないで』

「……」

『ただ、あなたが本当に比企谷くんのことが好きなら、愛しているなら、必ず比企谷くんを射止めなさい』

「姉さん……」

『例えそれで、ガハマちゃんやいろはちゃんが傷つくことになろうとも、絶対に比企谷くんを手放してはダメよ』

 

 低く、重く圧し掛かる様な声音。

 普段の姉さんからは想像もできないような真剣さに気圧される。

 

『ガハマちゃんじゃダメ。いろはちゃんでも納得しない。ましてや、それ以外の女なんてありえない」

 

 姉さんの声が震えているのが分かった。

 あの姉さんが、感情を露わにしている。そんな人として当たり前のことに、私は衝撃を受けた。

 

『わたし以外の誰かが比企谷くんの隣にいるなんて虫唾が走る。けど、雪乃ちゃんならまだ許せるから……』

「ね…ねえ……さん…?」

『……ゴメンね。こんなの、ただの押し付けだって分かってる。お姉ちゃんの勝手な我儘だよ。だけど……』

「ねえ、何があったの? 何か困っているならきちんと話してっ!」

『これはわたしにしかできないことだからさ……。そりゃ辛いよ? とんでもなく辛いよ……。でも、大丈夫。比企谷くんはお姉ちゃんが必ず助けるから!』

「待って! 比企谷くんと姉さんに何が起きているの!?」

 

 訳が分からなかった。

 姉さんの口ぶりからすれば、姉さんが直面している問題は比企谷くんに関係している。

 そして、それは多分だけれど、生命に関わるほどの何かだと思う。

 

『わたしの全てを海浜幕張駅のコインロッカーに置いてきたから。鍵は後から郵送で雪乃ちゃん宛に届くようになってる』

「どうして、私に……」

『それを託せるとしたら、雪乃ちゃんだけだから』

 

 断言された言葉。

 どこか誇るような、申し訳なさそうな声で姉さんは語る。

 

『大丈夫! それは一応保険として雪乃ちゃんに託すだけだから。お姉ちゃんの力を信じなさい!!』

「……姉さんの実力を疑ったことなんて、一度たりとも無いわよ」

『そっか……。なら、姉として妹の期待には応えなきゃね!!』

 

 きっと、どんなに問い詰めても姉は答えてはくれないのだろう。

 そういう頑固さは、姉妹でよく似ている。

 だから、私もこれ以上は聞くことはしない。

 

「……ねえ」

『なに、雪乃ちゃん?』

「……頑張ってね、お姉ちゃん」

『──うん!』

 

 

 

『未来の比企谷くんはお姉ちゃんに任せて! だから、雪乃ちゃんは今の比企谷くんをお願い!』

 

 

 

 その日を境に、姉は姿を消した。

 姉さんが大学で研究していたというタイムマシンとともに……。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 姉さんが失踪したと母さんから連絡がきた。

 何か知っているかと聞かれたので、何も知らないと私は虚言を吐いた。

 

 もし本当に、姉さんがタイムマシンなんてものを完成させていたのだとしたら、きっとそれは世紀の大発明なのだろう。

 けれど、姉はそれを世間へ公表することなく私へと託した。

 だから、相手が母さんだったとしても、たとえ私の信念を曲げることになったとしても、私はそれを守り抜く。そう決めた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 後日、私宛に一通の郵便が届いた。

 差出人が『比企谷陽乃』となっているのを見て、少し呆れる。

 封筒の中に入っていたのは、あの日に姉から聞いていた通り、コインロッカーの鍵だった。

 

「……ここね」

 

 海浜幕張駅へとやってきた私は、鍵に付いていたプレートから対となるロッカーを探し出した。

 見つけたコインロッカーは、スーツケースが入るような旅行者向けの大きなサイズ。

 僅かに震える腕で、何とか鍵穴へと鍵を差し込み、開錠する。

 

「キャリーバッグ?」

 

 入っていたのは、小旅行用と思しきキャリーバッグ。

 一先ず、ここで中を検めるのもと思い、キャリーバッグを転がしてマンションへと帰ることにした

 まさか死体など出てこないとは思うのだけれど、念のためよ。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 マンションの自室に辿り着いた私は、早速キャリーバッグを開けて中身を確かめた。

 

「これは研究ノート? それと、こっちは……日記?」

 

 入っていたものは、膨大な量の大学ノートや論文、研究レポートなど。

 適当に何冊か手に取り、パラリと捲ってすぐに読むのを止めた。流し読みで理解できるような内容ではなさそうだもの。

 

「……姉さん、日記なんてつけていたのね」

 

 知らなかった。……いえ、知ろうともしなかった。

 思えば、私は姉さんのことを何も知らない。いったい、あの姉は何を考えて、どんな理由があって姿を消したのか。

 まさか本当に、過去か未来へと旅立ってしまったというのだろうか……。

 

「この日記を読めば、何か分かるのかもしれないけれど……」

 

 結局、私は日記を読まずにキャリーバッグへと戻すことにした。

 不思議と、これを読むのは今ではない気がしたから。

 

「でも、これは何なのかしら?」

 

 だけど、気になるものが一つ。日記の裏表紙にテープ止めされた三枚の短冊。

 最初は日記の栞かとも思ったのだけれど、ご丁寧に付箋でメモ書きまでしてあった。

 

「毎年、駅前の七夕イベントで飾ってほしい……ね」

 

 それぞれの短冊には使用する年まで記入されている。三枚あるということは三年分だ。

 肝心の願い事については何も指定がないことを考えると、おそらく駅前の七夕イベントで短冊を飾りつけることが重要なのだろう。

 短冊が破けないように丁寧に日記から剥がして、日記だけをそっとキャリーバッグへ戻す。そして、剥がした短冊は丁重に机の引き出しに仕舞っておく。

 

「さて……」

 

 正直、比企谷くんと姉さんの間に何があるのか気にはなる。

 けれど、姉さんは未来の比企谷くんは任せろと言った。なら、任せるしかない。

 

「まずは、自分自身と向き合うことから始めましょう」

 

 最後に姉さんから言われた忠告。

 あの時の言葉を姉のからかいだと流すことはできない。なら、真摯に受け止めて、きちんと省みるべきだ。

 だから、私は自分と向き合う。

 

 私のこの気持ちが、本物なのかどうかを──。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 姉さんが失踪してから三年が経った。

 私は大学三年生となり、そして比企谷くんとは恋人同士になっている。

 

 あのとき、姉さんの助言に従って自分の中で答えを出した私は、まず由比ヶ浜さんに比企谷くんへの想いを打ち明けた。

 僅かに驚いたような表情を浮かべた由比ヶ浜さんだったけれど、すぐに頷いて『なら、これからは親友でライバルだね』と笑ってくれた。

 

 私達から想いを告げられた比企谷くんはと言えば、ひどく苦悶していたのをよく覚えている。

 特に私に対しては、遠慮というか、どこか後ろめたいような気持ちを抱いていると感じて、私は比企谷くんを問い詰めた。それはもう問い詰めた。時間にして小一時間くらい問い詰めたわ。

 

 結果、やはりというか何というか……。

 比企谷くんは、姉さんが失踪したのは自分の所為かもしれないと語った。

 高校最後の七夕の日。彼は姉さんからある依頼を受けて、その解決に尽力した。依頼内容や結果については頑として口を割らなかったけれど……。

 

 だから、思い悩む彼に私は言った。

 姉さんを見縊るなと、私の姉はそんな弱い女ではないと。

 あの日、姉さんは自分の意思で姿を消したのだ。逃げたわけでも、誰かに連れ攫われたわけでもない。

 きっと、大切なナニかを成し遂げるために……。

 

 それからは比企谷くんに近づく女を私と由比ヶ浜さんで、ちぎっては投げちぎっては投げ……。

 そして、卒業式を終えた後の最後の部室。そこで、私と比企谷くんは恋人同士となった。

 

「このイベントも今年で三回目か」

「……そうね」

 

 横から聴こえた彼の声に、私は思考を切り替える。

 今日は、七月七日の七夕。そして、どこにいるとも知れない姉の誕生日。

 あれから、私と比企谷くんは毎年駅前の七夕イベントへと足を運んでいる。

 

「なあ、毎年駅前の巨大笹に短冊飾ってるけど、なに願ってんだ?」

「……秘密よ」

 

 比企谷くんには姉さんから頼まれた短冊のことは話していない。

 短冊に書いた願い事も見られたくないから、暗くなる夕方を狙ってイベントへと参加して、笹に飾り付けるときは少し離れてもらって何処に飾ったか分からないようにしている。

 

「では、私は短冊を飾ってくるわ」

「おう。俺は適当にその辺をブラブラしてるから、終わったら電話してくれ」

 

 そう言って、彼は人混みの中へと消えてゆく。

 彼の背中が見えなくなったところで、私は笹へと近付き、今年も短冊を飾りつける。

 

「……願い事の指定はなかったのだから、私の自由にして良いのよね?」

 

 まるで言い訳でもするように、私はポツリと呟いた。

 小さく吹いた風で、私が飾り付けた短冊がゆらゆらと揺れる。右へ左へと踊るように、私が書いた願い事も併せて揺れた。

 

 

  ──またお姉ちゃんと会えますように。

 

 

 暫くその場で佇んでから、じわりと滲んだ目元を拭う。

 鞄からスマートフォンを取り出して、時間を確認した。表示された時刻は十八時五十分。

 周囲を軽く見渡して彼の姿を探してみる。目に入るのは、私達のようなカップルか、子供連れの家族客ばかり。

 一部だけ、誰かが諍いでも起こしたのか、騒然と人だかりができている場所もあったけれど、面倒事に巻き込まれるつもりもないのですぐに視線を外す。

 小さな子供たちがイベントで配られた星形の風船を嬉しそうに握ってはしゃいでいる姿を横目に、私は彼へと電話して合流を果たした。

 

「この後どうする? どっか寄ってくか?」

「いい加減、デートプランを考えるくらいの甲斐性をみせなさい」

「……ほら、あれだ。レディファースト。俺は紳士だから女性の希望を優先させてんだよ」

「少なくとも、女性に丸投げすることをレディファーストとは呼ばないわよ」

 

 軽口を叩き合いながら、駅から離れるように歩いていた私と比企谷くんの足がピタリと止まった。

 駅前の大通りへと繋がる交差点。丁度、歩行者信号が目の前で赤に変わったのだ。

 

 目の前を横切るように、数台の車が勢いよく通り過ぎてゆく。

 イベントで交通規制でもしていたのだろうか、いつもなら渋滞しているはずの大通りが、今日はやけに閑散としていた。

 

「そういえば、今日って陽乃さんの誕生日なんだっけか」

「そうね。私達の三つ上だから、今日で二十四歳かしら」

「……会えるといいな、また」

「私は別に会えなくても……」

 

 思わず俯いて口籠った私に、比企谷くんが苦笑しながらそっと手を握ってくれる。

 まるで励ますように、元気づけるように、彼は優しく言葉を投げてくれた。

 

「あの人のことだ。きっと、またひょっこり現れてくるだろ」

「……そう、ね。そうよね」

 

 比企谷くんの手を強く握り返しながら、私は頷いた。

 ふと顔を上げれば、ちょうど車道側の信号が黄色へと変わるところだった。

 間に合わないと思ったのかもしれない。少し遠く、右手から走ってきていた乗用車がその速度を上げる。

 

「あっ……」

 

 そのとき、一陣の風の中で、呟くような小さな子供の声を聞いた。

 

「──ッ!?」

 

 私の視界に次々と飛び込んでくる光景。

 七夕イベントで子供たちに配られていた風船が、風に流されて宙を舞っている。

 それを追いかけるように、小さな子供が車道へと飛び出した。

 耳を劈くようなクラクションとブレーキ音を響かせて、交差点へと迫ってくる車。

 鳴らされたクラクションの音に、飛び出した子供が驚いて立ち竦む。

 

「危ないッ!!」

 

 比企谷くんが、子供を助けるために、車道へと飛び出した。

 

 そこからは、まるでスローモーションだった。

 走り込んだ勢いで、立ち竦む子供を中央分離帯の芝生へと突き飛ばす比企谷くん。

 その反動で動きを止めた彼へと吸い込まれるように、近づいてくる車。

 

「比企谷くんっ!?」

 

 彼を助けなければ──。

 それだけを考えて、私が一歩を踏み出した時だった。

 

 

 

 

「言ったでしょう? お姉ちゃんに任せなさいって!!」

 

 

 

 

 後ろから、誰かが私の肩を掴んで後方へと投げ飛ばした。

 私と入れ替わるように車道へと駆け寄った人物。

 

 その後ろ姿を、私は知っている。

 なぜならその背中は、私がずっと追いかけた背中だったから。

 

 こちらを向いた彼が、驚愕に目を見開いたのがここからでも分かる。

 迫りくる車に一瞥をくれることもなく、比企谷くんの下まで辿り着いた”姉さん”が叫んだ。

 

「後は頼んだよ、雪乃ちゃん!」

 

 姉さんが比企谷くんの腕を取って、弧を描くように反動をつけて私の方へと投げ飛ばす。

 

「お姉ちゃん──ッ!!」

 

 姉さんと車が衝突する寸前。投げ飛ばす際に反転したことで、姉さんがこちらを振り返った。

 三年ぶりに再開した実姉。あれから三年が経過しているはずなのに、その容姿はあの頃と何一つ変わっていない。

 けれど、あの頃とは決定的に違うことが一つだけあった。

 

 あの仮面のような作り笑いではなく、何かをやり遂げたように、満足そうに微笑む姉さん。

 まだ私が幼かった頃に見た、薄っすらと記憶に残っているものと同じ、屈託なく笑う大好きな『雪ノ下 陽乃』の笑顔。

 

 

 ──バイバイ、雪乃ちゃん。

 

 

 声は聞こえなかったけれど、その時の私には、姉さんがそう言っているように思えた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 姉さんとの突然の再開は、唐突に終わりを告げた。

 別に死別したわけではない。不思議なことに、忽然とまた姿を消してしまったのだ。

 

 事故現場周辺をどれだけ探しても、姉さんは見つからない。

 それどころか、血痕も無ければ、衝突したはずの車にはその痕跡すら無かったという。

 

「どういうことなのかしら……」

 

 あの後、警察からの事情聴取が済んで、比企谷くんにはマンションまで送ってもらった。

 彼は一緒に居ようかと気遣ってくれたのだけれど、私は一人で考えたいことがあるからと言って丁重にお断りした。

 

「あれはきっと、幽霊なんかじゃないわ」

 

 私の肩には、あのとき姉さんに掴まれたときの感触がまだ残っている。

 それは、姉さんに腕を取られて投げ飛ばされた比企谷くんも同様だという。なら、姉さんは確かに生きてあの場に駆け付けたのだ。

 

 そのとき、ふと脳裏にあの時の言葉が甦る。

 

 

  ──でも、大丈夫。比企谷くんはお姉ちゃんが必ず助けるから!

  ──未来の比企谷くんはお姉ちゃんに任せて!

 

 

 もしかして、姉は今日この日のために、タイムマシンを発明したのではないだろうか。

 今日、命を落とすはずだった比企谷くんを救うために……。

 

 そこまで考えて、私はその仮説を証明するための証拠があったことを思い出す。

 慌てて寝室の収納をひっくり返し、念のためにと最奥に仕舞っておいたキャリーバッグを取り出した。

 

 私の考えた仮説が正しかったとして、それでも疑問は尽きない。

 なぜ、姉さんは比企谷くんが事故に遭うことを知っていたのか。

 どうして、比企谷くんが事故に遭うと知っていながら、そのことを彼や私に伝えなかったのか。

 そもそも、二十歳そこそこの学生だった姉さんが、どうしてタイムマシンなんて荒唐無稽なものを作り上げられたのか。

 

 まるで湯水のように湧いてくる疑問を押しとどめて、私はキャリーバッグの中から姉さんが残した日記を手に取った。

 なにか、確信めいたのものが私の中で渦を巻いてゆくのが分かる。興奮を抑えるように、冷静さを取り戻すために、私は大きく二度深呼吸を繰り返して、その日記に目を落とす。

 

 日記の表紙には『vol.4』とあるので、おそらくこれは四冊目のなのでしょう。

 思い切って表紙を捲ると、最初の十数ページは破り取られていた。姉さんが何を思ってそのページを破ったのかは知らないけれど、きっと私には見せたくないものだったのではないかしら。

 仕方なく、残っているなかで先頭のページから読み進めることにした。

 

 そして、そのページの冒頭に書き綴られた文章を目で追って、私は思わず瞠目する。

 それほどまでに、そこに書かれていた内容は私にとって衝撃的だった。

 

 

 

 ──今日、比企谷くんが死んだ。

 

 

 

 書かれた日にちは、今年の七月七日。

 この日記は、今日この日から始まっていた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 震えるような文字で、所々が涙で滲んだように、それは記されていた。

 

 


【201×年7月7日】

 今日、比企谷くんが死んだ。

 訳が分からない。実感がわかい。どうして──


 

 

 この日の日記は、それ以上読むことができなかった。

 姉さんの心情を表すかの如く、ページの一面すべてがグチャグチャに塗り潰されていたから。

 

 


【201×年7月10日】

 比企谷くんの件について、警察から詳しい話を聞いた。

 時刻は19時ちょうど。彼は駅前の交差点で車道に飛び出した子供を助けるために、車道へ駆け出したらしい。子供を車の進路上から突き飛ばしたところで、比企谷くんは車にねられて、死んだ。

 わたの所──


 

 

 このページもまた、グチャグチャに塗り潰されていて、それ以上読むことはできそうもなかった。

 

 


【201×年7月16日】

 あの日はわたしの誕生日だった。

 だから、二人で駅前の七夕イベントに行く約束をしていた。

 なのに、そんなときに限って仕事のトラブルでわたしは待ち合わせに遅れた。

 その所為で、比企谷くんが死んだ。

 

 わたしが、比企谷くんを殺した。


 

 

 飛び飛びになっている日記の日付。

 何ページか書こうとして、書けなかったと思しきページがあるから、きっと姉さんなりに心の整理をつけようとしていたのかもしれない。

 

 


【201×年7月7日】

 今日はわたしの誕生日。

 そして、比企谷くの一周忌。

 あの日から一年が過ぎたけど、何も変わない。何も変われない。

 なんでわたしはいきるんだろう──


 

 

 いきなり大きく日付が飛んだ。

 その間の日付は、何も書く出来事が無かったのか、それとも何も書けなかったのか……。

 

 


【202×年7月7日】

 久しぶりに日記を書こうと思う。

 あれから何年経ったのか、もうよく分からない。でも、ひとつ閃いたことがある。

 もしかしたら、また比企谷くんに会えるかもしれない。


【202×年10月6日】

 なんでみんなわたしの邪魔ばかりするの。雪乃ちゃんならわかってくれるって……

 上手くいかない。

 イライラする。考えがまとまらない。


【203×年6月24日】

 何年かぶりに鏡を見た。

 知らない女が映ってる。ダレだオマエは──


【203×年3月6日】

 骨組みはできた。

 いける! 会える! また比企谷くんに会えるあえるアエルアエルアエルアエル──


【204×年5月13日】

 ダメだ。また矛盾がでてきた。

 計算が合わない。この式は使えない。手が震えてうまく字がかけない。


【205×年1月3日】

 最近、気が付くと何度も同じことを繰り返していることがある。いまわたしが計算している式は、前回の検算で破棄したものだった。

 もう一度、研究ノートを読み返そう。


【205×年8月7日】

 なにもかもがイヤになる。

 何度同じミスを繰り返すのか、わたしはこんなにも愚かだっただろうか。


【207×年7月8日】

イケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケルイケル──


【207×年2月14日】

 間に合わな──


【207×年11月30日】

 この研究は、わたしでは間に合わないと判断した。

 だから、過去のわたしへ託すことにする。

 幸い、試作品の完成は間に合いそうだ。


【208×年7月7日】

 この日記を読んだわたしへ

 詳しくは口頭で伝えるつもりだけど、ここにも記すことにする。

 

 お願い、比企谷くんを助けて。

 今のあなたにとって、彼がそこまでの存在でないことは理解している。でも、一年後、きっとあなたはわたしと同じ想いを彼へと抱くはず。だから、あなたにとって四年後の今日、必ず比企谷くんを救ってほしい。

 わたしと同じ後悔をしないためにも……。

 

 追伸

 念のため、わたしの研究結果もこの日記とともに渡す。

 未完成な状態で引き継ぐのは心苦しいけど、どうかこの研究を比企谷くんの命を救うために役立ててほしい。


 

 

 数年に一度、長いときでは十年以上の間を空けて記された姉さんの日記。

 まるで性質の悪いSF小説でも読んでいるような気分ね。けれど、この日記が悪戯や偽物とも思えないのもまた事実。

 

 僅かな逡巡のあと、私は再びページを捲る作業へと戻ることにした。

 だって、まだこの日記は続いているのだから。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 そのページからは、先ほどまでの崩れて読み辛い文字とは違い、いっそ流麗と評したくなるような美しい文字で書き綴られていた。

 

 


【201×年7月7日】

 今日、面白い老女に会った。

 この日記も、その老女にもらったもの。大量の研究資料と一緒にね。

 その老女が言うには、彼女は未来のわたしらしい。なななーんと、自らタイムマシンを開発して過去へとやってきのだー! すごいね、未来のわたし!!

 

 し・か・も! なんと来年の今日、わたしは比企谷くんにある依頼をして、そして救われるというのだ!!

 

 比企谷くんって、先月ららぽで雪乃ちゃんと一緒にいた子だよね? 確かにちょっと変わった子だとは思ったけど……。うーん、正直微妙だよねぇ……。

 まあ、せっかく貰ったことだし、ノリと勢いで日記を書いてみましたー!!

 

 

 

 バッカみたい。イカれてる。


 

 

 もし、この日記に書いてあることが本当なのだとしたら、姉さんは四年前……私達が高校二年生の頃から、既にこのことを知っていたことになる。

 けれど、少なくとも姉さんが姿を消したあの日まで、姉さんがそんな素振りを見せたことはなかったはず……。

 

 


【201×年7月7日】

 この日記を開くのも書くのも一年ぶり。

 悔しい……でも書いちゃう! ビックンビックン!!

 

 わたしは今日、比企谷くんにとある依頼をした。そして、救われてしまった。何がどうしてどうなったかはここには書かない。書きたくない。……書けるかぁっ!!

 

 ダメだ……。まだ胸がドキドキ鳴ってる。とてもじゃないけど、耐えられそうにない。いまも自然と顔がニヤけてきて、感情の制御が上手くできない。

 いや、違うね。もう自分でもよく分かってる。

 

 

 わたしは、比企谷八幡に恋をした。

 

 

 うわっなにこれ、めっちゃハズい……。

 本当にこれどうしよう。こんなことになるなんて想定してなかった。問題よ! 大問題よ!?

 ……雪乃ちゃんに何て言えば良いのかしら。

 

 問題と言えば、あの老女が語った未来について。

 このままだと、三年後に彼は交通事故で命を落とすことになる。

 

 そんなことは絶対にさせない。必ず、阻止してみせる。そのためにも、まずは常に彼の隣へ居られるようにしなければ!

 

 待っててねー! 比企谷くーん!! お姉さんは本気だぞーっ!!!


 

 

 私は思わず日記を床に叩きつけそうになって、すんでのところで思い留まった。

 しっかりしなさい、雪ノ下雪乃。これは過去の話。それに、比企谷くんはきちんと私のことを選んでくれた。だから何の問題もないのよ、雪乃!!

 鋼の自制心で自分にそう言い聞かせて、私は次のページを捲る作業に戻る。

 

 


 

【201×年8月8日】

 今日は比企谷くんの十八歳の誕生日。

 わたしは今日、生まれて初めて異性への告白を経験した。

 

 これまで、異性から告白されたことは星の数ほどあった。

 けど、自分から告白したことは一度たりともなかった。

 

 笑えるくらいに、膝が震えた。全然、笑えなかった。

 好きな人へ告白することが、こんなにも怖いことだとは思いもしなかった。

 

 返事を聞くのが恐ろしくて、思わず泣いてしまった。

 自信がなかった。嫌われていると思ってたから。

 こんなことなら、あんな比企谷くんが嫌がるようなことするんじゃなかったって後悔した。今すぐ過去へ戻って、去年のわたしをぶん殴ってやりたい気分。

 

 でも、彼は苦笑しながら私のことを抱き締めてくれた。

 比企谷くんに包まれて、彼の匂いを嗅いで安心したら、また止め処なく涙が溢れてきてしまった。

 

 たぶん、わたしはもうダメだ。

 彼が愛おしくて堪らない。もう幸せすぎて辛い。

 

 今日は八幡の誕生日で、二人がカップルになった記念すべき日。

 将来、国政に関与する機会があったら、今日この日を何がなんでも祝日にしよう、そうしよう!


 

 

「……は? 姉さんと比企谷くんが付き合っていた?」

 

 今、私はひどく間抜け面を晒している自覚がある。それ程までに、ここに書かれていた内容は信じられないものだった。

 これはきっと何かの間違い。その証拠を見つけるために、私は飛び飛びで書かれた惚気一〇〇パーセントな日記を読み飛ばし、この謎を解くヒントを探した。

 

 


【201×年7月6日】

 比企谷くんと恋人同士になって三年目。

 そして、明日はわたしの誕生日であり、運命の日でもある。

 

 未来の自分からの忠告を無駄にしないため、明日は休暇をとって、二人揃って自宅で過ごすことにした。これで、比企谷くんが交通事故に遭うなんて未来は回避されるはず。

 

 安心してね、比企谷くん!

 君のことは、わたしが必ず守ってみせるから!!


 

 

 どういうことなのかしら、これは……。

 この日記が本物だとしたら、今日、姉さんと比企谷くんは一緒にいたことになる。

 実は比企谷くんは姉さんと私を二股にかけていたのかしら? 姉さんは失踪したように見せかけて、比企谷くんと一緒にいたと?

 そして、私は解けない問題の答えを覗きみるように、日記のページを捲った。

 

 


【201×年7月8日】

 昨日、わたしは失敗した。

 比企谷くんを守れなかった。

 意味が分からない。どうして? なんで? 外には出なかった。

 家に居たのに、どうして比企谷くんは──


 

 

 これは、なんなのかしら……。

 乾燥して赤黒く変色したナニかで塗り潰されて、それ以上このページを読むことはできなかった。

 

 


【201×年7月9日】

 一昨日の夜は、二人で比企谷くんのアパートで過ごしていた。

 二人で夕飯を作って、二人で食べ合って、のんびりテレビを観たりゲームをやったりしながら、わたしは暗い未来を回避できたと思って油断した。

 

 来客があった。彼が対応するからと玄関に向かって、少しすると言い争うような声が聞こえた。

 気になって、わたしも玄関に顔を出した。

 それが良くなかった。

 

 ソイツは、わたしの顔を見るなり、何かを喚いた。

 懐からナイフを取り出しながら、怒りに顔を染めて怒鳴っていた。

 

 ソイツがわたしに向かって迫ってきたとき、比企谷くんが割って入った。割って入られてしまった。

 わたしが守るべき比企谷くんに、わたしが守られたのだ。

 

 気が付いたら血溜まりの中で、そこにソイツはもういなくて、目の前には冷たく横たわる彼だったモノだけがそこにあった。

 

 そして今日、犯人が警察に捕まった。

 犯人はわたしのストーカー。犯行の原因は彼と一緒にいるわたしを見て逆上したからだという。

 

 

 わたしは、また比企谷くんを殺してしまった。


 

 

 理解が追いつかない。

 また比企谷くんが死んだ? 彼はいま確かに生きているはずよ? だって、つい一時間ほど前まで私と一緒にいたのだから……。

 それに、仮にこの日記の通りだとしても、前回の死因は排除したはず。なぜ、今回はストーカーに殺されているの?

 

 


【201×年7月12日】

 今ならよく理解できる。

 どうして未来のわたしが壊れてしまったのか。狂ってしまったのか。

 

 こんなもの、耐えられるわけがない。

 こんなもの、許せるはずがない。

 

 比企谷くんがいない世界に意味なんてない。

 来世? 天国? そんな在るかどうかも分からない不確かなものに、わたしは身を委ねるつもりはない。

 

 これが運命だと言うのなら、わたしはその運命を捻じ曲げる。

 これが神が定めた宿命だと言うのなら、わたしは神さえ殺してみせる。

 

 今度こそ、わたしは絶対に彼を救う。そのためなら、あとは全部どうなってもいい。


 

 

 知らず、私は手が震えていた。

 正直、もうこれ以上は読みたくなかった。けれど、読まない訳にはいかない。

 私は知らなければいけない。あの日、姉さんは何を思って私に全てを託したのかを……。

 

 


【201×年1月18日】

 前回のわたしの研究資料をすべて読んだ。

 確かにこの研究は不完全だった。このタイムマシンには、まだいくつかの課題がある。

 

  1.正確な日時の指定ができないこと

  2.時間跳躍に成功しても、短時間しかその場に滞在できないこと

  3.時間跳躍した存在は、跳躍した時間に比例した代償を負うこと

 

 主にこの三つだろう。

 まずはこれらの課題をどうにかする方法を考えようと思う。


【202×年7月1日】

 詳細は研究ノートの方に記入するけど、備忘としてこちらにも書き写しておくことにした。

 

 課題の一つ目、正確な日時の指定ができないことについて。

 前回までのわたしの研究でも、五秒程度の時間跳躍であれば指定することが可能だったらしい。

 これはいくつかの実験から証明されている。例えば、ビデオカメラと時計を利用した実験。まず、カメラの前に日時が表示されたデジタル時計を置いて、動画を撮影した状態のまま装置を起動させる。そして、一定時間が経過したら跳躍先から弾き出されてきたであろうカメラを回収して、録画した動画を再生するってだけ。再生した動画に映る時計は、見事に跳躍開始の五秒前だったとある。

 けれど、跳躍先を過去に遡れば遡るほど、その誤差が大きくなっていくとあった。ちなみに、未来への跳躍は試していないらしい。きっと興味がなかったのだろう。

 だって、わたしもそうだから。

 

 最終的に、今の自分の寿命では解決できないと判断して、前回のわたしはこの課題を放棄した。

 なら、どうやって未来のわたしは四年前にやってこれたのか?

 

 彼女はアプローチを変えた。

 どうすれば正確な時間へ渡れるかではなく、どの時間なら正確に渡ることができるのかと……。

 

 そして、未来のわたしは遂に導き出した。

 彼女が過去へと渡ったあの日なら、四年前の七月七日だったら誤差なく跳躍できると。

 

 結果、彼女はわたしの前へと現れてくれた。


【202×年12月24日】

 課題の一つ目について、わたしはある仮説を立てた。

 未来のわたしと今のわたしが出会った四年前のあの日。

 その日を境に、未来が分岐したのではないか。俗にいうパラレルワールドというやつだ。なら、その時点をクサビとすることはできないだろうか?

 その線で研究を進めていこうと思う。


【202×年4月16日】

 課題二つ目、時間跳躍に成功しても、短時間しかその場に滞在できないことについて。

 未来のわたしの実験結果によれば、跳躍する存在はその質量に応じて、滞在時間が著しく制限されるとあった。人間と同等の大きさ、重量の人形を使った実験では、僅か十分程度。そして、制限時間に達すると、跳躍先の時代から強制的に弾き出されてしまうらしい。

 

 だから、四年前に現れた未来のわたしは、自分で比企谷くんを救うことをしなかった。いえ、できなかった。

 

 これについては、良い案が浮かばない。後回し。


【202×年9月5日】

 三つ目の課題である、時間跳躍した存在は、跳躍した時間に比例した代償を負うことについて。

 これはちょっと厄介だわ。正直、どうにもならない。

 

 跳躍先の時間から弾き出された存在は、単純に元の時間帯へ戻ってくる訳ではなかった。

 一日前に跳躍すると、往還に十日かかるの。つまり、約十倍の時間を要するということ。跳躍した存在自身の体感時間は一瞬なんだろうけど、まさに浦島太郎状態ね。

 だから、六十年近く前へと跳躍した未来のわたしは、跳躍した日から約六百年後の遥か未来へと帰って行ったことになる。

 ……これ、タイムパラドックスとかどうなってるのかしら?

 

 それともう一つ。往還にかかった時間は、しっかりと跳躍した存在に降りかかるということ。

 これは、実験に使用したマウスの老化具合から推測できたらしい。……高々六十年程度の進歩で人類の寿命が急激に伸びるとは思えない。つまり、未来のわたしが時間跳躍を実行した時点で、彼女は命を落とすことが確定していた。

 それを覚悟で未来のわたしは過去へとやってきた、ということになる。

 

 他人事ではないわね。何れ、わたしも過去へと時間跳躍するのだから。


【206×年8月8日】

 久しぶりにこの日記を手に取った。

 あれからずっと研究漬けの毎日だったから。でも、それも今日で終わる。

 

 わたしは今日を過去へと旅立つ日に決めた。

 この日は特別な日だから。きっと上手くいくと思う。

 わたしが生きて過去から戻ることはないだろうから、最後にこれを記しておく。

 

 次のわたしへ

 無様に彼を死なせてしまったわたしからのアドバイス。

 

 どんな手段を使ってでも、比企谷くんを守りなさい。

 

 お願いだから、わたしたちのようにはならないで──


 

 

 そこまで読み終えて、私は大きく息を吐いた。

 吐いた息の分だけ、部屋の空気が重くなったように感じる。私は陰鬱とした雰囲気を紛らわせようと、紅茶の準備をするために席を立った。

 

 ふわりと部屋に漂うの茶葉の香り。心を落ち着かせようと選んだアールグレイを一口啜って、私はここまで読んだ姉さんの日記について瞑目する。

 

 一人目の姉さんが味わった、絶望と狂気。

 二人目の姉さんに降りかかった、理不尽と無念。

 

 三人目の姉さんがどうなったのか、比企谷くんを救うことができたのか、それは何となくだけれど予想することができた。

 なぜなら、私が読んだのはこの日記のまだ序章部分。厚さで言えば、まだ日記の半分にも到達していない。

 恐らくだけれど、この後を引き継いだ姉さんもまた、何らかの要因によって失敗したのだ。

 

 いったい、今日に至るまで私の姉は、何度この地獄を繰り返してきたのだろうか。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 


【201×年7月7日】

 比企谷くんの命を守るために、わたしは彼を監禁することにした。

 彼には申し訳ないと思いつつ、前日から睡眠薬を飲ませて、眠っている間に雪ノ下家の別荘へと運び込んだ。

 別荘の地下にある秘密の地下壕。ここは、冷戦時代に先代の雪ノ下家当主だった祖母が作らせた核シェルターらしい。ここなら、たとえ某国がトチ狂って核ミサイルを撃ち込んできても耐えることができる。

 

 けれど、比企谷くんはあっさり死んでしまった。

 死因は急性心不全。

 

 何の冗談なのかな? 比企谷くんは死神のノートにでも名前を書かれちゃってるの?

 笑えない。まったくもって笑えない。

 

 ダレなの わたしから比企谷くんを奪おうとしているのは

 許せない……。絶対に許せない。許せない許せないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせないゆるせない許せないユるせナいゆルせないゆるせナイ許セなイユるセナイ許せナいユるセないユルせナい許せナイゆルセなイユるセナいユルセナイ許──


 

 

 

 *   *   *

 

 

 


【201×年7月8日】

 きっと、わたしに比企谷くんを幸せにすることはできないのかもしれない。

 だから、わたしは三年前の依頼を最後に、彼との接触を断った。

 代わりに、比企谷くんとガハマちゃんが恋人同士になってしまったけど。

 

 できれば、相手は雪乃ちゃんが良かったけど、比企谷くんが選んだのなら仕方ないと思えた。

 多分だけど、雪乃ちゃんは一歩踏み出せないまま、二人に遠慮してしまったんじゃないかな。そう思う。

 

 今回、わたしというファクターを排除するために、比企谷くん達には一切近寄らなかった。

 これで無事に比企谷くんが生き延びれば、原因はわたしということになる。

 

 さて、結論を書こう。

 比企谷くんは死んだ。

 昨日、二人でショッピングをしているところを襲われたらしい。

 ガハマちゃんの彼氏を自称するストーカー野郎の手によって……。

 

 二回目のわたしと同じようなパターン。

 ふざけてるよね。ふざけてる。ふざけきっている。

 

 こんな世界はもういらない。


 

 

 

 *   *   *

 

 

 


【201×年6月28日】

 最近、自分の中で自分じゃないもう一人の自分がいるような感覚がある。

 比企谷くんと一緒にいて幸せなはずなのに、彼が憎くて仕方がない。

 

 どうして、比企谷くんはわたしと手を繋いでいるの?

 どうして、比企谷くんはわたしに微笑むの?

 どうして、比企谷くんはわたしを抱きしめてるの?

 

 それはわたしじゃないのに、わたしだけど、わたしじゃない。

 わたしはこんなにも頑張っているのに、比企谷くんがわたしばかりを見て、わたしのことを見てくれない。


【201×年7月7日】

 比企谷くんが死んでしまった。

 

 わたしが殺した。

 わたしに殺されてしまった。

 

 守りたかったはずなのに、守っていたはずなのに……

 もう、よくワカらナい

 

 タすけテ、ヒキがやくン──


 

 

 

 *   *   *

 

 

 


【201×年7月7日】

 比企谷くんが死ん──


【201×年7月7日】

 比企谷くんが殺さ──


【201×年7月7日】

 比企谷くんが事故で──


【201×年7月7日】

 比企谷くんが──


【201×年7月7日】

 比企谷くん──


【201×年7月7日】

 ひきが──


【201×年7月7日】

 ひ──


【201×年7月7日】

 ──


【201×年7月7日】

 ──


【201×年7月7日】

 ──


【201×年7月7日】

 ──


 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 *   *   *

 

 

 


【201×年7月7日】

 今日、未来の自分だと名乗る人物と出会った。

 そして、この日記を読んで確信したことが一つ。

 恐らくだけど、わたしはこれまでの自分たちの想いや記憶を薄っすらとだけど引き継いでいる。

 

 心当たりがあるとすれば、二回目のわたしが利用したというクサビ。

 そこを起点として、わたしの中に様々なモノが流れ込んでくるのを感じる。

 

 ……これで本当に上手くいくのだろうか?


【201×年7月7日】

 ダメだった。

 また失敗した。

 結局、比企谷くんを失ってしまった。

 

 何がいけないの。何でダメなの。どうすれば、比企谷くんを救えるの──


【202×年10月20日】

 過去を変えようとするからダメなのかもしれない。

 未来なら何かが変わる気がするわ。未来なら嫌というほど知っている。

 なら特定の未来へと誘導できれば──


【207×年10月20日】

 過去への時間跳躍は確立できているのだから、未来へも同じ要領でいけると思ったのが甘かった。おかげで新しく理論を構築するのに五十年近くを費やしてしまった。

 でも、これで希望はみえた。

 

 次のわたしへ

 あなたには酷なお願いをすることになる。

 わたしを恨んでくれてかまわない。呪ってくれてもいい。

 

 でも、わたしはここに活路を見出したの。

 比企谷くんを救うために、あなたには未来へいってほしい。

 詳しいことは研究ノートの方を読んで。

 

 追伸

 短い時間を無駄にしないで。悔いのない人生を。


 

 

 

 *   *   *

 

 

 


【201×年7月7日】

  ふ ざ け る な

 これは、わたしの人生だ


 


【201×年9月30日】

 ……先日の文化祭はなかなか楽しめた。

 雪乃ちゃんは勿論だけど、例の彼もそれなりに楽しませてくれた。

 確かに、これを失うのは少し惜しいかもしれない。

 

 一応、準備だけはしておこうと思う。


 


【201×年12月31日】

 ここ最近の彼の在り方は面白かった。

 でも、気がついているのかな? あのままだと、何れあの子たちは破綻する。

 まあ、念のためお母さんへは雪乃ちゃんのフォローをしておいてあげよう。万が一を考えたら、雪乃ちゃんに実家へ帰られちゃうのは、わたしとしても都合が悪いし。


 


【201×年2月14日】

 結局、彼らはどうするのかな。

 ……また暫く、何も書く気にはなれない。


 


【201×年7月7日】

 そういうことかと、得心が行った。

 確かにこれは、これまでの誰もこの日記には書かなかったはずだわ。当然、わたしも書こうとは思わない。

 そう、結局わたしもこれまでのわたしと同じ道を歩んでしまった。

 

 その先に、わたしの幸せはないと分かっているのに、比企谷くんを好きになってしまった。

 前回のわたしの忠告を聞かず、悔いの多い人生を送ってしまったことは申し訳ないと思う。

 

 だから、わたしの分の幸せを妹の雪乃へ託したい。


 


【201×年7月20日】

 雪乃ちゃんへ

 雪乃ちゃんがこの日記を読んでいるということは、わたしは無事に未来へと辿り着けたということかな? まさか、受け取った初日にこの日記を読んでないよね? 雪乃ちゃんのことだから、「今はまだ読むべき時ではないわ」キリッ とか言って読まないと信じてるよ!

 

 ねえ、雪乃ちゃん

 お姉ちゃんは、雪乃ちゃんとの約束を守れたかな?

 わたしは、大好きな比企谷くんを助けることができたのかな?

 

 どっちにしても、過去ではなく未来へと向かう時点で、わたしにはもうやり直す術がない。

 だから、必ず成功させる。絶対に救ってみせる。

 

 そこで、一つだけお姉ちゃんから雪乃ちゃんへお願いがあるの。

 

 

 わたしのことを忘れないでほしいんだ。

 

 

 未来から弾き出された反動が何処に向かうのか、わたしにも分からない。

 過去に戻されるのか、あるいは未来か、それとも”雪ノ下 陽乃”という存在そのものが消えてなくなってしまうのか。

 

 別に死ぬのが怖い訳じゃないの。知らないドコかへ飛ばされるのが恐ろしい訳でもない。

 でも、わたしが愛した男の子から、大好きな妹から、わたしという存在が忘れ去られるのは、どうしようもなく怖くて、とんでもなく恐ろしくて、泣きたくなるほどツラい……。

 

 だから、お願い。

 どうか、わたしのことを忘れないで──


 

 

 そこで、この日記は途切れていた。

 

「っ……!」

 

 私は無意識のうちに、奥歯を噛みしめていた。そうしないと、泣き叫んでしまいそうだったから。

 やり場のない怒りを堪えるために、震える手をぎゅっと握りしめた。掌に食い込んだ爪の痛みで、必死に理性を保とうとしたから。

 

「……姉さん」

 

 愛した人を理不尽に奪われて、死に物狂いで希望を手繰り寄せて、それでも自分ではその人を救えないから、別の自分に全てを託す……。

 

「そんなのっ…あんまりじゃない……」

 

 せっかく過去に戻れたのに、最愛の人に触れることも、顔を見ることもできずに、彼を助けられなかった絶望と、次こそは救ってみせるという執念だけを抱いて死んでいく。

 

「なんで…どうして……私にっ…」

 

 ──相談してくれなかったのか。

 

 けれど、その言葉の先を口にすることはできなかった。

 どうして姉さんが私に相談してくれなかったかなんて、当時の自分を振り返ればすぐに理解できる。たとえ姉さんが真摯に助けを乞うても、私はきっと拒絶したでしょうから。そして、後になって悔恨の情に苛まれて、押し潰されて自滅する。

 だから、どの世界の姉さんも、誰一人として私を頼ることをしなかった。

 

「おねぇ…ちゃん……」

 

 ふと、比企谷くんを救った直後、やり遂げたように満面の笑みを浮かべた姉さんの言葉が甦る。

 

 

  『後は頼んだよ、雪乃ちゃん!』

 

 

 たった一度だけ、最初で最後の、姉さんから私への依頼。

 

「そんなの…ズルいじゃない……ッ」

 

 その夜、私は色々なモノを吐き出すように、声を枯らして泣いた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 あの日から既に五年の月日が流れた。

 今、私と比企谷く……八幡は結婚して、今年で三歳になる一人娘がいる。

 

 娘の名前は『陽乃』。

 

「ほーら、陽乃。こっちにおいで! パパが肩車してやるぞー!!」

「わーい、やったぁー!」

 

 命名のとき、私がこの名前を提案したら、彼は何も言わず、ただ優しく頷いてくれた。

 

「……あなた。本当に娘が出来たら親バカになったわね。家でも外でもデレデレじゃない」

「いやいや、これが比企谷家のデフォだから。ついでに社会に出ると社畜になるのも伝統芸」

「あら、八幡はもう雪ノ下姓なのだから、その伝統からは抜け出したのではないの?」

 

 私と彼が結婚する条件。それが、八幡の雪ノ下家への婿入りだった。

 私が嫁いでしまうと雪ノ下家を継ぐ者がいなくなってしまう。そういう理由もあって、彼はいま『雪ノ下八幡』と名乗っている。

 

「パパ! ママ! あれ、おっきいねー! あれなに? あれなに!?」

「お、おう。興奮してるのは分かったから肩の上で激しく動くのは止めてくれ。あと、パパのアホ毛は操縦レバーじゃないぞー?」

「あれは笹よ。あれに願い事を書いた短冊が飾ると、お星さまが願いを叶えてくれるのよ」

「おおおー! スゴーイ!!」

 

 駅前に飾られている巨大な笹に興奮する娘。

 そう、今日は毎年恒例の七夕イベントの日。

 

「パパ! ハルノもたんざくかざる! おホシさまにおねがいするの!!」

「はいはい。先にイベント用の短冊と風船を貰おうなー」

「それじゃ、私は一旦離れるわね?」

「あいよ。例年の如く、終わったら電話してくれ」

「ええ。分かったわ」

 

 彼と娘の背中を見送って、私は笹へと近付き、今年も短冊を飾りつける。

 

「……私の願いは、いつになったら叶うのかしらね」

 

 まるで苦笑するように、私はポツリと呟いた。

 小さく吹いた風で、私が飾り付けた短冊がゆらゆらと揺れる。右へ左へと踊るように、私が書いた願い事も併せて揺れた。

 

 

  ──またお姉ちゃんと会えますように。

 

 

 暫くその場で佇んでから、じわりと滲んだ目元を拭う。

 鞄からスマートフォンを取り出して、時間を確認した。表示された時刻は十八時五十分。

 周囲を軽く見渡して彼の姿を探してみる。目に入るのは、私達のような子供連れの家族客か、カップルばかり。

 小さな子供たちがイベントで配られた星形の風船を嬉しそうに握ってはしゃいでいる姿を横目に、私は彼へと電話して合流を果たした。

 

「さて、じゃあこのままイタリアンでディナーと洒落込むか」

「……物は言いようよね」

「いいだろ、別に。美味い早い安いの三拍子が揃った千葉が誇るファミレスだぜ?」

「ハルノ、ハンバーグね! チーズのってるやつがいいー!!」

「……ふふ。分かったわよ」

 

 和やかに会話しながら、駅から離れるように三人で並び歩いていた私達家族の足がピタリと止まった。

 駅前の大通りへと繋がる交差点。丁度、歩行者信号が目の前で赤に変わったのだ。

 

 目の前を横切るように、数台の車が勢いよく通り過ぎてゆく。

 イベントで交通規制でもしていたのだろうか、いつもなら渋滞しているはずの大通りが、今日はやけに閑散としていた。

 

「今日は陽乃の誕生日だからなー。家に帰ったらケーキもあるぞ!」

「ホントッ!?」

「ええ。だから、夕飯を食べ過ぎないようにね?」

「はーい!」

 

 元気よくお返事する陽乃に、比企谷くんが微笑みながら頭に手を置く。

 愛おしそうに、慈しむように、彼は優しく娘の頭を撫でた。

 

「パパ! ママ! だーいすきっ!!」

「ああ、俺もだ」

「そうね、私もよ」

 

 娘の言葉に、私と八幡は笑顔で返す。

 ふと顔を上げれば、ちょうど車道側の信号が黄色へと変わるところだった。

 間に合わないと思ったのかもしれない。少し遠く、右手から走ってきていた乗用車がその速度を上げる。

 

「あっ……」

 

 そのとき、一陣の風の中で、呟くような娘の声を聞いた。

 

「──ッ!?」

 

 私の視界に次々と飛び込んでくる光景。

 七夕イベントで子供たちに配られていた風船が、風に流されて宙を舞っている。

 それを追いかけるように、自分の娘が車道へと飛び出した。

 耳を劈くようなクラクションとブレーキ音を響かせて、交差点へと迫ってくる車。

 鳴らされたクラクションの音に、飛び出した娘が驚いて立ち竦む。

 

「危ないッ!!」

 

 八幡が、娘を助けるために、車道へと飛び出した。

 

 そこからは、まるでスローモーションだった。

 ギリギリで車と娘の間に割って入って、立ち竦む娘を庇うように抱きすくめた八幡。

 ひしっと抱き合い、目を瞑る夫と娘に近づいてくる車。

 

「八幡っ! 陽乃ッ!?」

 

 彼と娘を助けなければ──。

 それだけを考えて、私が一歩を踏み出す前に、目の前を通過した車が赤い血飛沫を飛び散らせた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 


【202×年7月7日】

 あの日、運命が私から大好きな姉を奪っていった。

 この日、運命が私から愛する夫と娘を奪っていった。

 

 今日、私は本当の意味で姉さんのことを理解できた。

 自分を別な何かが黒く染め上げていくのが分かる。

 

 こんなもの、耐えられるわけがない。

 こんなもの、許せるはずがない。

 

 姉さんは、私にすべてを託してくれた。

 なら、やるべきことは決まっている。

 

 

 

 

 

 今度は、私がすべてを取り戻す──

 




※時間跳躍の設定は梶尾真治氏の『クロノス・ジョウンターの伝説』を参考にしています。


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