【完結】姫さまと宮廷料理人。ちょくちょく騎士副団長。あとから暗殺者 (おかぴ1129)
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1. ショートケーキとガトーショコラ

登場人物紹介

  アサクラ:オルレアン王国宮廷料理人
  デイジー:オルレアン王国の姫
バルタザール:王国騎士団副団長
 ジョージア:オルレアン王国宮廷料理人補佐

     王:そのまんま


 ここはオルレアン王国の厨房。宮廷料理人のアサクラは、今日も国王オルレアン三世のため、料理の腕をふるっている。アサクラは部屋の中央に位置する調理台の前で、ケーキの最後のデコレーションを仕上げていた。

 

 真剣な眼差し……それこそ、熟練の剣士同士が命を削り合うときのような顔つきで、料理人アサクラが作り上げている料理は、国王が三時のおやつにと所望したスイーツ、ショートケーキだ。白の割烹着を身にまとい、頭には白の三角巾という、自身の故郷のコック姿に身を包んだアサクラ。彼は、その牧歌的な姿には似つかわしくない戦士の眼差しで、自分が持つ生クリーム絞り機から、純白の生クリームを絞り出している。

 

 アサクラの目の前にあるのは、同じく純白の生クリームで包まれたケーキの土台。ふっくらと焼き上がり、たくさんのいちごを内に秘め純白の生クリームをまとったその土台は、今、アサクラの手によって生クリームによる装飾を施されている真っ最中である。

 

 殺気を感じるほどの鋭い眼差しで最後のデコレーションをやり終えたアサクラは、次に緑のヘタを切り落とした大振りないちごを、そのケーキの上に飾り始めた。緊張のためか、はたまた戦士としての矜持のためか、いちごを持つアサクラの手は、少しだけぷるぷると震えている。

 

 6つのいちごを飾り終え、アサクラの表情にやっと安堵が訪れた、その時だ。

 

「アサクラっ!!!」

 

 厨房のドアが、ドバンと音を立てて勢いよく開いた。特に慌てる様子もなくドアの方を向いたアサクラの表情は、次の瞬間、苦虫を噛み潰したかのように苦々しく歪んだ。

 

「何だ姫か」

「毎度ながら何だとは何ですかアサクラっ! それが姫に対する態度ですかっ!!」

「何の用だ。俺は今、王のおやつを作るのに忙しい」

 

 ドアを開いた人物……それは、この国の姫デイジーである。プラチナの小さなクラウンを頭に乗せ、薄いピンク色のシルクのドレスに身を包んだデイジー姫は、額から汗を垂らし、ハァハァと息を乱していた。

 

 本来なら、来訪した吟遊詩人が思わず歌を作ってしまうほどの美貌を兼ね備えたデイジー姫。美しく輝く、金よりもクリーム色に近いストレートの髪……意志の強そうなキッとした目には、澄んだ湖のように深いブルーの瞳……その美貌は見る者を例外なく魅了する……はずなのだが、今のデイジー姫は、その美しい表情を、まるで地獄の底に巣食うデーモンのそれのように歪ませている。彼女は厨房をキョロキョロと見渡し、ドレスのスカートの裾を持ち上げ……

 

「アサクラ! ちょっとそこに隠れさせなさい!!」

「?」

 

 アサクラの元まで走ってくるとその場でガバッとしゃがみ込み、アサクラの足にしがみついた。厨房のドアからは今、デイジー姫の姿は死角になって見えなくなった。

 

「? どうした?」

「シッ! ここに私がいることは秘密です……!!」

 

 怪訝な顔でデイジー姫を見るアサクラ。デイジー姫は不信丸出しのアサクラを見上げると、人差し指を自分の口に当てて『シーッ』と言った。

 

「姫ッ!!!」

 

 その直後である。厨房のドアが再びドバンと開いた。アサクラが再びドアを見ると、そこにいたのは鎧を着た騎士副団長、バルタザールである。彼もデイジー姫と同じく眉間にシワを寄せ、額からは汗が垂れていた。騎士団の副団長という重要なポストにいながら、歳はデイジー姫より若干上な程度で、若くして出世街道をひた走るエリートだ。

 

 丹精で整った顔つきをしてはいるが、デイジー姫からは『蓼食う虫すら食わないレベルの苦味を感じる顔』とのこと。少なくともデイジー姫には、彼の顔は好みではないらしい。

 

 ちなみに彼の愛称は『バル太』。命名者は他ならぬデイジー姫姫であり、バル太本人はこの呼び名を嫌がっている。しかし命名者が姫であり思いの外皆に浸透してしまったため、『やめてくれ』と訴えても誰もやめてくれない状況である。

 

「ぉお、アサクラ様」

「どうしたバル太」

「いい加減その呼び名、やめていただけませんか……それよりも! 今、姫がここに来られませんでしたか!?」

「姫がどうかしたのか」

「どうしたもこうしたもありません……実は、今日は姫のお婿様を決めるお見合いがあったのですが……」

「初耳だ。通りで王の機嫌がよかったのか」

「ええ……お相手もこの国随一の資産家のご子息……家柄も人柄も申し分ないお話だったのですが……」

「うむ」

「あろうことか、姫は途中で席をお立ちになり、お相手のご子息に向かって全力であっかんべーってやったあと、行方知れずになりまして……」

「なるほど」

 

 ここから忌々しい思い出を語るかのような渋い表情のバル太の恨み節が始まった。アサクラは、バル太の視線が自分から外れたその瞬間、ちらと自分の足元を伺う。自分の足元には、悪魔のような女デイジー姫が、ニシシと笑いながらアサクラを見上げている。そんなデイジー姫の美しくかつ邪悪な笑みを見て、アサクラは、自身のこめかみあたりにひどい頭痛の兆候を感じた。

 

「というわけでお見合いは台無し……ご子息も待ちくたびれておりまして……」

「……」

「アサクラ様、もし姫を見かけたら、私に教えていただきたいのです」

 

 バル太のこの言葉を聞いた瞬間、アサクラの左足のくるぶしに痛みが走った。

 

「いッ……!?」

「アサクラ様?」

「……いや、なんでもない」

「?」

 

 バル太にさとられぬよう、アサクラが自身の足元を伺うと……デイジー姫がアサクラのくるぶしを、その無駄に長い人差し指の爪でグリグリとえぐっている。

 

 デイジー姫の顔が告げる。『バラしたら殺す』

 

「よろしくおねがいします! 俺はもう少し城内を探りますので!!」

「お、おう」

「では失礼っ!!」

 

 バル太はそこまでいうとアサクラに敬礼をして、また鎧をガシャガシャと鳴らしながら厨房をあとにした。その足音に焦りと苛立ちを感じたのは、おそらく自分だけではないだろうとアサクラは思ったのだが……

 

「いやー助かりました!! ありがとうございます!!!」

 

 ここに一人、例外がいたことをアサクラは思い知った。デイジー姫はバル太が厨房から出て行ったことを確認した後、とても爽快で清々しい笑顔で立ち上がる。その表情に、自身の行いの後悔は微塵もない。むしろひと仕事終えたあとの爽快感すら感じる。その様は、アサクラの頭の質量を1.5倍ほど増加させた。

 

「姫……お見合いをぶち壊してきたのか」

「いけませんか?」

 

 ひどく痛む頭から、やっとアサクラが絞り出した言葉に、さも当然のように笑顔で切り返すデイジー姫。改めて言うが、その表情に後悔や悔恨はない。

 

「だってお前……もう19だぞ」

「もうすぐハタチだぜヤッフォーイ!」

「将来はこの国を預かる身だろう?」

「将来は王女様よりも女王様と呼ばれたいっ。いや呼ばせたいっ!!」

「ならそろそろ婿を迎えることも考えなくてはならんだろうに」

 

 アサクラのその台詞を聞いた途端、デイジー姫はアサクラの隣に並び、アサクラと肩を組んだ。その後、苦虫を噛み潰した顔をしているアサクラの耳元で、こそこそと内緒話を始める。通常、デイジー姫ほどの美人に耳元で囁かれると、男性の場合は例外なくその女性のとりことなるはずなのだが……

 

「それがですねアサクラ。聞いてくださいよ」

「耳元でしゃべるな……息がくすぐったい」

「今から話すことは……私とあなただけの秘密ですよ……?」

「がんばってウィスパーな声を出しても、お前に妖艶な雰囲気は似合わん」

「ふーっ……」

「邪悪な息を私に吹きかけるのはやめろ」

 

 デイジー姫が言葉をささやくたび、アサクラの表情に不快感が溜まっていく。常日頃、デイジー姫の傍若無人っぷりに悩まされるアサクラにとって、デイジー姫の耳打ちというのは不快以外の何者でもない。

 

「相手の男性なんですけど、私の好みではないんですよ」

「どうして。お前ごときにはもったいない相手だそうじゃないか」

「いや私もね。いい物件だと思いますよ? 女王の伴侶としては申し分ない相手だとは思うんです」

「物件て言うな。……でもまぁそれならいいじゃないか。どこに断る理由があるんだ」

「いやぁ、その人、金色のりっぱなカイゼル髭を蓄えてらっしゃったんですけどね?」

「貴族だからなぁ」

「今どきカイゼル髭はないでしょうよ」

「どうして。立派なカイゼル髭ってことは、手入れも行き届いているだろう。それだけおしゃれに気を使う素敵な殿方ではないか」

「いやカイゼルはないでしょうカイゼルは。アサクラだって、カイゼル髭の女の子なんか嫁にほしいと思いますか?」

「その前にカイゼル髭を普通に蓄えてる女に出会う確率が限りなくゼロだけどな」

「ちょび髭なら考えたんですけどねー……」

「なんだお前、ちょび髭フェチか」

「いや、いいおもちゃになってくれそうで」

「そんな理由で婿を決めるつもりなのか……」

「そんな理由でもない限り、許嫁なんて作る気になれませんわーッハッハ」

 

 頭を抱えるアサクラのその横で、デイジー姫は高らかに笑う。余談だが、デイジー姫の特技は高笑いであり、彼女の高笑いが聞こえた場合、それは後に災厄が訪れるサインであると、アサクラは思っている。

 

 頭を抱えるアサクラを尻目に、デイジー姫は調理台の上を眺めた。そこには、今しがたアサクラが丹念に仕上げていた、ワンホールのショートケーキが置かれてある。

 

「おっ。アサクラ謹製のショートケーキですか」

「……あ、ああ。国王がご所望でな。ワンホールまるごとをスプーンで食べたいそうだ」

「そろそろ生活習慣病を心配しなきゃいけない年齢だろうに……」

 

 そんな言葉をアサクラと交わしつつ、デイジー姫はとことことショートケーキの前に移動した。そして、右手を高々と掲げ……

 

「おりゃっ!!」

「……」

 

 そのままケーキに向かって勢いよく振り下ろし、そしてケーキに中指をぶすりと突き刺した。ただただ虚無感に包まれた眼差しでその様を見守るアサクラの前で、ケーキをそのまま中指でえぐり取ると……

 

「んー……おいしい。さすが我が国の宮廷料理人ですね。国王たる父が生活習慣病の危険を犯してでも食べたくなる気持ちがわかります」

「……」

「甘々な生クリームにいちごの酸っぱさが絶妙にマッチして……て、アサクラ?」

「……」

「どうしました?」

 

 虚無に陥ったアサクラの様子に気がついたのか、デイジー姫はアサクラを振り返った。その時、瞳孔が開いたアサクラの目に飛び込んだのは、口元に生クリームをつけたままの、デイジー姫の忌々しい満面の笑顔。

 

「お前なぁ……」

「なんです?」

「それ、国王のケーキだぞ」

「知ってますよ?」

「つまみ食いはやめろとあれほど……」

「だってこうすれば、父はこのケーキを食べられない。イコール、生活習慣病にかからない」

「……」

「つまり! 私は父の命を救ったということですよ!!!」

 

 デイジー姫は悪びれる風もなくそこまで言い切ったあと、再びアッハッハと高笑いした。

 

 実は、このような悲劇は何も昨日今日始まったわけではない。デイジー姫は折りに触れこの厨房に遊びにやってくるのだが、そのたびにアサクラが作る料理をつまみ食いしていく。

 

 一度国王にせがまれ、アサクラは謁見の間で皆が見守る中、故郷の料理である『タコ・ヤーキ』を作ったことがある。水で溶いた小麦粉を専用の鉄板で一口サイズの球形状に焼き、内部にクラーケンの肉を入れた、アサクラ渾身のお昼ごはんだったのだが……

 

 一口サイズというのがいけなかったのか、アサクラが焼き上げた『タコ・ヤーキ』を、その隣でデイジー姫が片っ端から食べ続けるという悪夢が繰り広げられることになった。その日の昼食は、国王以下デイジー姫以外の全員が食べることが出来なかった。

 

 後にアサクラは語る。『皆が沈む中、一人満足げに爪楊枝で歯の掃除を行うデイジー姫の笑顔は、今まで見た何よりも狂気を感じた』と。

 

 そんな経験を何度もしているアサクラだから、今回、デイジー姫がつまみ食いでケーキを台無しにすることも、実は読めていた。ひとしきり虚無を堪能したあと、アサクラは高笑いするデイジー姫をその場に残し、木で出来た古い食料貯蔵庫の前へと向かう。

 

「ほ? アサクラ?」

 

 高笑いをしていたデイジー姫がアサクラの様子に気付くが、アサクラは気にしない。そのまま食料貯蔵庫を開き、中にしまってある、一皿を取り出した。

 

「あ! ガトーショコラ!!」

「……」

 

 こんなこともあろうかと、このショートケーキを作る前にアサクラが作っておいた、ガトーショコラが姿を見せた。貯蔵庫から取り出したガトーショコラに先程のショートケーキのデコレーションに使った生クリームの残りを絞り出し、アサクラは呆気にとられるデイジー姫の目の前で、ガトーショコラを完璧に仕上げた。

 

「ズルいですよアサクラ!! ガトーショコラを隠しているだなんて!!」

「何がズルいだ!! 私が作ったショートケーキに中指突っ込んで台無しにしやがって!!」

「だって美味しそうなんだもん!! 私は悪くないです!! むしろ悪いのはあんなショートケーキを作ったアサクラだ!! 私は被害者だ!!!」

「誰が被害者だ誰が!! たとえこの国の国民全員を敵に回してでも私は有罪の木槌を叩き続けてやる!! そらぁもうせわしなくカンカンとな!!!」

「しかもなんでガトーショコラなんですか!! 私が苦いのが苦手なのを知っていて!! 嫌がらせですか!!」

「しかもビターな味わいがうれしい大人向けの逸品だ」

「クッ……これも私につまみ食いをさせないのが狙いか……小賢しい……ッ!!!」

「カッカッカッ」

「この国の姫として命じます!! 2秒でそのガトーショコラを激甘ショートケーキに変えなさい!!!」

「それが無理なことはお前自身がよく分かってることだろうが。カッカッカッ」

「……チイッ!」

 

 ひとしきり言い合いをしたあと、デイジー姫は腕を組んでアサクラに背中を向ける。その背中からは憤怒の炎が立ち上がっているのがアサクラからは見て取れた。だが、その原因が、アサクラが腹立たしいからなのか、はたまたケーキがビターなガトーショコラだからなのかはさっぱり分からない。しかしどうせ後者だろうこの女ならとアサクラは思いながら、ガトーショコラを国王に運ぶ準備を整えた。

 

 国王専用、黄金の先割れスプーンとガトーショコラの準備が整った。さぁこれから国王の元へと持っていくかと、アサクラがワゴンにそれらを乗せたときだった。

 

「……ぁあ、そういえばアサクラ」

「お?」

 

 いつの間にか憤怒の炎が消えていたデイジー姫が、アサクラを呼び止めた。さっきまでの憤りは一体どこへ消えたのだと呆れながら、アサクラはデイジー姫を振り返る。

 

「私は今日、お見合いでした」

「それがどうした」

「まぁ確実に振りますけど。いやすでに振りましたけど」

「カイゼル髭さえ我慢すればいい相手だったろうに……」

「そういうあなたはどうなんですか?」

「何がだ」

「あなたは意中の女性とかいるんですか? 将来を誓い合ったお相手みたいなのは」

 

 ほくそ笑むデイジー姫に対し、アサクラは不快感を募らせた。アサクラはこの国に来てまだ数年ほどしか経過しておらず、しかもその間、この厨房にずっと籠もりきりだった。そのため城内にしか知り合いがおらず、年若い娘と知り合いになるイベントなぞ、そうそう起きるはずもない。

 

「……そんなのは、いないっ」

 

 故に、今のアサクラにはそう言い返すしか出来なかった。ここで適当にごまかすこともできるだろうが、元来、アサクラは正直な男である。わざわざ意味のない嘘をつく気には、どうしてもなれなかったのだ。ただ、それをこのデイジー姫に知られるというのが、どうにも腹立たしいだけで。

 

 ある意味ではアサクラの敗北宣言ともとれるこの返答は、デイジー姫の顔を醜く歪んだ笑顔にするには充分だったようだ。デイジー姫は広角を持ち上げ、口が上下に引き裂かれたかと思えるほどにニタリと笑った。

 

「ほう。いないのですか」

「……ああ、いない」

「私にはお見合いの相手がいるというのに、あなたにはいないのですか」

「いない……ッ!」

 

 これ以上、この女に付き合っていても不快感が募るだけだ……そう判断したアサクラは、自分に向かって不愉快この上ない微笑みを向けるデイジー姫に背を向けた。三時のおやつの時間はもうかなり近い。そろそろこのガトーショコラを持っていかなくては、国王がぐずりだしてしまう……その思い、アサクラはガトーショコラと先割れスプーンが乗ったワゴンを押し、厨房を出ていこうとした。

 

 その時だ。

 

「仕方ないですねぇ。もしアサクラが三十路になっても独身だったら、私があなたを嫁にもらってやりますよ」

 

 こんなおぞましい台詞が、デイジー姫の声で、アサクラの耳に届いた。後ろを振り返りたい衝動にかられたアサクラだったが、意識を強く持ち、そのままワゴンを押し進める。振り返ってはならない。振り返れば、おそらくそこでは、デイジー姫がこちらの逆鱗をざらざらと乱暴にさすってくるような満面の笑みをしていることだろう。アサクラは鉄の意志で、振り返りたくなる気持ちをグッと抑えた。

 

 しかし、口だけは我慢出来なかったようだった。

 

「……ないわー」

「は!?」

「お前と私が夫婦……ないわー」

「姫ですよ!? ゆくゆくはこの国の元首ですよ!? 国のすべてを意のままに操る女の嫁なんですよ!?」

「お前との仲睦まじい結婚生活……ないわー……」

 

 つぶやくようにそう言うと、アサクラはデイジー姫をその場に残し、厨房を後にした。国王へとガトーショコラを運ぶその道すがら、アサクラが思ったことは、ただ一つ。

 

――30になる前に、あいつに自慢出るような女性と出会うぞ……

  そして結婚せねば……でなければ、地獄が訪れる……

 

 戦争が頻発する極東の国で生まれ育ち、いくつもの戦場を駆け抜け、傭兵としてこの地に渡ってくるという経緯を持つアサクラだが……この日ほど、自身の身の危険と将来の不安を感じたことはなかった。

 



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2. ぜんざい

「デイジー姫。ちょっとこっちに来てくれる?」

「はいお父様」

 

 王城、謁見の間。宮廷料理人として王城に雇われることとなったアサクラは、この日、後に宿敵といっても差し支えない関係となる女デイジー姫と、初めて顔を合わせた。

 

 玉座に座る王様に促され、デイジー姫はひざまずくアサクラの前に進み出た。歳は16歳だとアサクラは聞いているが、その年齢の割に目つきはキッとして意志が強い。澄んだ湖のように青い瞳と、キラキラと輝くクリーム色の長い髪が、とても目を引く。

 

「デイジー姫。紹介しよう。彼がこの城の料理人となった、アサクラ・ヒョウゴだよ」

「まぁ。この国始まって以来の宮廷料理人なのですね?」

「ハッ。以後、よろしくお願い申し上げます」

「なんでも極東からはるばる我が国まで旅をしてきたそうだよ」

「なるほど。それでこの国では珍しい黒髪と茶色の瞳なのですね?」

「左様でございます」

「でも、あなたの黒髪はとても美しいですよアサクラ?」

「恐悦至極に存じます……姫も、美しい髪と、瞳で……」

「ありがとうアサクラ」

 

 国王の説明を受け、デイジー姫は年相応に興味津々な表情でアサクラに話しかける。その様に、後の横暴さや傍若無人っぷりは感じることはなかった。

 

 国王の説明によると、アサクラが宮廷料理人となるまでは、この国には王様お付きの料理人というのは存在しなかったらしい。なんでも、食事の際には適当にテイクアウトや店屋物を食べていたのだとか。一国一城の主がそれでいいのかとアサクラは疑問に思った。お抱えの料理番の者に食事を作らせ、しかも毒味を何度も行ってはじめて口にしていたかつてのアサクラの主君とは、まったく異なる警戒心の無さだ。

 

「ではアサクラ、この国で存分に料理に励んでちょうだい」

「かたじけのうございます。料理など嗜む程度しかしたことはございませぬが、王のため、この腕存分にふるいましょう」

「そんなに肩肘張らなくてもいいのに……そんな扱いされたら、予は泣いちゃうよ……? 予とアサクラの仲じゃないの。もっとフランクに話してよぅ」

「いえ、やはり新しい主である以上、先日のように無礼を働くわけには……」

「えー……頼むよアサクラぁー……王である予がお願いしてるのにダメなの……? 頭が低いよぅアサクラぁ……」

「は、ハハァッ……」

「まぁまぁ父上。しかしアサクラもよい心がけですね。あなたのその心がけ、プロ意識を感じて私は好きですよ?」

「ハハァッ……」

 

 思いもかけぬ称賛を初対面の姫(しかも美少女)から受け、アサクラは恐縮しながら、うつむいていた顔を上げた。

 

 その時だ。

 

「……」

「……」

「……ニチャア」

「!?」

 

 隣で佇む国王からは見えない角度で、デイジー姫がほくそ笑んでいた。しかも、恐ろしく凶悪な笑みだ。広角を引き裂かれたかと思えるほど釣り上げ、ニチャアというオノマトペが聞こえてきそうなその笑顔は、今までアサクラが見てきたどんなものよりも凶暴で、恐ろしい。

 

「んん? アサクラ? どうかしたの?」

 

 国王がアサクラの様子に気がついた。異国の、しかも元傭兵といういやしい身分のアサクラに対しても、優しく、そして心配そうに声をかける。それが演技ではないことは、アサクラの顔を覗き込む彼の表情からも分かる。冷や汗を垂らしながら困り果てたような顔で覗き込んでくるその様は、彼が嘘や演技ではなく、本気でアサクラを心配していることをよく表している。後に『楽園の管理者』『史上最も称賛されるべき無能』と褒め称えられた人柄をよく表した表情だ。

 

「……な、なんでもございませぬ」

「そぉ? その割には、なんか顔真っ青だけど……」

「まぁまぁお父様。よいではないですか。彼自身がなんでもないと言っているのですから。ニチャァ」

「そうかなぁデイジー?」

「ええ。極東の者は、礼儀正しく主に対し忠実と伺ったことがあります。きっとその矜持が、アサクラをそうさせているのでしょう。ニチャァ……」

「……」

「そっかー。まぁ調子悪かったりしたら、ちゃんと予に言ってね? アサクラに何かあったら、予は泣いちゃうからね?」

「は、ハハァッ」

「クックックッ……」

 

 オロオロと本気でアサクラを心配する国王のその横で佇むデイジー姫は、最後まで、その凶悪な含み笑いをアサクラに向け続けていた。その様子を見て、アサクラの生存本能が『この女はマズい』と警鐘を鳴らしていたのは、言うまでもなかった。

 

……

 

…………

 

………………

 

「……忌まわしい過去を思い出した」

 

 土鍋で火にかけた小豆にザラメ砂糖を入れたアサクラは、しゃもじでそれをかき混ぜながら、苦虫を噛み潰した表情で冷や汗を垂らした。そのままひとつまみの塩を投入し、止まらない冷や汗を手ぬぐいでぬぐい、鍋の中の小豆をかき混ぜた。

 

 今は冬。アサクラは現在、午後三時のおやつとして国王から『アサクラぁ……予はぜんざいが食べたいよぉ』とおねだりされ、こうして小豆を煮ているさなかだ。

 

 おかげでお昼辺りからずっと火の前にいるため、冬だというのに熱くて仕方がない。額に汗が溜まる。アサクラはその都度、故郷から持ってきた手ぬぐいで汗を拭うのだが……デイジー姫との初対面の日を思い出したその瞬間から、額の汗が冷や汗に変わってしまったことを、アサクラは自覚していた。

 

 煮ている小豆の水分がだいぶ無くなり、いい塩梅に仕上がってきた。アサクラは土鍋からお玉で小豆を一人分すくうと、それをお椀につぐ。あとは準備している白くて小さな、シラタマと呼ばれる玉を2つほど投入すれば完成だ。前もって準備していたシラタマが入ったボウルに、アサクラが手を伸ばした、その時だ。

 

「アサクラっ!!!」

 

 厨房のドアが勢いよくドバンと開いた。悪寒を感じたアサクラがドアを振り返ると、そこにいたのは……

 

「ハァッ……ハァッ……」

「またお前か……姫……」

 

 デイジー姫である。毎度のことながら、美しいブルーの瞳をたたえたその顔を迫りくるプレッシャーで歪ませ、ハァハァと息を切らせている。

 

 これはまたろくでもないいたずらをやってきた……アサクラはそう思い、ため息をついて肩をすくめた。

 

「ハァッ……ハァッ……」

「今度はどこで何をやってきた?」

「そんなことよりもアサクラっ!!」

「ん?」

「か、隠れさせなさいッ!!!」

 

 アサクラが呆れて問いただすよりも、デイジー姫は早く動く。周囲をキョロキョロと見回し、古い木製の食料貯蔵庫のドアがデイジー姫の視界に入った。

 

 これは、かつて古の大魔法使いが『かき氷食べたい……』と言っておのが魔法を駆使して作り上げたマジックアイテムの一つ。扉を開いて中に入ると、食料の貯蔵に適切な低温が保たれており、まだ調理をしていない食料でも、長期間保存しておくことができるすぐれものだ。

 

 また、貯蔵庫の中は人が数人入り込めるほどの広さであり、一画には氷や氷結したものも保存できる、氷点下の温度に保たれた区画もある。

 

「……ッ!!!」

 

 貯蔵庫の存在を確認したデイジー姫は、自身が履いているロングスカートの裾を両手で持ち上げ、そのまま貯蔵庫まで一目散にバヒューンとかけていく。ドアを開き、ひょいっと中に入ってボフッとドアを閉じるその一連の動作を、デイジー姫は約0.2秒で完遂させた。

 

「……」

 

 あとに残ったアサクラは、怒りとも悲しみとも憤りとも困惑とも形容出来ない複雑な表情で、貯蔵庫のドアを見つめた。

 

「姫ッ!!!」

 

 再び厨房の扉が開き、今度はバル太が入ってきた。大急ぎでデイジー姫を追いかけてきたのであろう。デイジー姫と同じく息切れし、額が汗まみれだ。

 

 妙なのは、額だけでなく上着のシャツも汗まみれかのようにボドボドに濡れていることだ。その割には、バル太の周囲には汗の匂いはあまり漂ってこない。むしろミントの心地よい香りが、アサクラの鼻をスッと駆け抜けていく。

 

「おお、アサクラ様! ハァハァ……」

「ああ、バル太」

「いい加減、その呼び名はやめていただきたいと何度も申し上げておりますが……」

 

 アサクラが『バル太』と彼を呼ぶなり、不快そうにバル太は顔を歪ませた。それを見るたび、アサクラは胸のある一部分が申し訳無さでズキンと痛む。だがだからといって、バル太という呼び名を変えようという気は起こらなかった。

 

「それはそうとなにか用か」

「ええ。それが……ゼハァ……」

「……ヤツか」

「ええ。ゼハァ……そのとおりですアサクラ様。姫ですよ。また姫が俺に酷いいたずらをしたのです!」

「……」

 

 そうしてバル太は、頭のてっぺんの活火山からマグマを噴き出さんばかりの怒りを顔に浮かべながら、アサクラに事の次第を説明した。

 

 今日は、騎士団にとっては週イチの朝礼の日だ。この日は騎士団に所属する騎士全員が、中央広場に集まらなければならない。

 

 無論それは副団長のバル太も例外ではなく、バル太は今朝早起きをし、朝礼のために身だしなみを整え、朝礼に臨んだ。

 

 しかし、悲劇はバル太が儀礼用の鎧を身に着けたときに発覚した。

 

「ハッカ油?」

「はい……俺の儀礼用の鎧の内側に、たっぷりとハッカ油が塗ってあったのです」

「それはまた……大変だな……」

「えぐしっ……」

 

 そうである。バル太の鎧の内側には、何者かの手によって、純度の高いハッカ油が大量に塗られていたのである。その鎧を着てしまったバル太は、濡れた鎧を着込む不快感に耐えながらも朝礼に出たわけだが……

 

……

 

…………

 

………………

 

『ではこれより、朝礼を始める!!!』

 

 中央広場にバル太が出向いたとき、朝礼が今まさに始まろうとしているところだった。間に合ったことに安堵したバル太は、そのまま広場前方にいる団長の隣に佇んだのだが……その時、朝礼の進行をする御年50過ぎの団長の口から、信じられない言葉が飛び出した。

 

『今日の朝礼は、デイジー姫直々に我々を励ましてくださる!!』

『!?』

『では姫。こちらに……』

 

 突然のことでうろたえるバル太を尻目に、団長が中央広場上のバルコニーに視線を移した。そのバルコニーには、いつものピンクのドレスを着た青い目が美しいデイジー姫の姿がある。穏やかに微笑むその姿は、まさしく女神と言っても差し支えない美しさだ。

 

『騎士団の皆。おはようございます』

『おはようございます!!!』

 

 デイジー姫の朝の挨拶に元気よく返事をする騎士団の皆。あっけにとられ、胸に押し寄せる不安感と戦うバル太が改めてバルコニーを見上げると、微笑みとともにデイジー姫がこちらをジッと見つめている事に気づいた。

 

『……』

『……』

『……ニチャア』

『!?』

 

 その次の瞬間、凶暴な笑みを浮かべるデイジー姫。他の団員は決して分からないであろう。あの、可憐で女神のように美しいデイジー姫が、あんなモンスターの如き笑顔を見せるとは、誰も思わないであろう……しかし、バル太だけは見てしまった。バル太にだけは、見えてしまった。この国始まって以来の災厄と読んでも差し支えない女デイジー姫の、あの凶暴な微笑みを。

 

『……さて、騎士団の皆様』

『ひ、姫……』

『そのような鎧を着ているのでは、他の民や私たち王族とあなた達の間に、心の距離が生まれるというもの』

『ま、まさか……』

『この場だけで結構。皆、鎧を脱いで、くつろいで下さい。私は、あなたたちとより親密に語り合いたいと思っています』

『!?』

『さぁ皆! その鎧を脱ぎなさい! これは、この国の姫としての命令です!!』

 

 デイジー姫がこの台詞を言ったその直後、約一名を除き、騎士団の者たちは『さすが姫だ……私達のことを認めてくださっている』『あの優しいお心こそ、父上より受け継いだ王の資格なのだ……』と思い思いの称賛を口にしながら鎧を脱ぎ始めた。

 

 困ったのはバル太である。バル太の鎧の内側にはハッカ油が入念に塗られてしまっている。

 

 ハッカ油には、体感温度を劇的に下げる効果がある。そんなハッカ油まみれの今、もしこの寒空の下で鎧を脱ごうものなら……バル太は冷や汗を垂らしながら、再びバルコニーを見上げた。

 

『? 副団長バルタザール?』

『!? ハッ! ひ、姫!?』

『あなたは鎧を脱がないのですか?』

『い、いえ……』

『私はあなたにも鎧を脱ぎ、腹を割って触れ合ってほしいのですが……』

『し、しかし……ッ!』

『あなたは、私と心のふれあいなどしたくないと……くすん……そう、申されるのですか……?』

『い、いえ! 決して、そのようなことは……!』

『安心しました……あなたたち騎士団に自分が受け入れられていないと思うと、私……』

『……』

『……ニチャア』

『!?』

 

 そうして、姫の泣き落としと凶悪な微笑みのプレッシャーに負けたバル太は、鎧を脱ぎ、ハッカ油まみれの上半身をさらした。その瞬間、今まで吹いてなかった、極低温の冷たい北風が吹いた。

 

………………

 

…………

 

……

 

「ということがあったのです……」

「なるほど……ホントに災難だったなバル太……」

「だからバル太って呼ぶのやめて下さい……まじで……」

 

 そこまで言うと、バル太はがっくりと肩を落として意気消沈していた。彼の周囲に漂う、鼻を突き抜けるミントの香り。その香りの強さは次第に強くなり、バル太の鎧の内側に塗りたくられていたハッカ油がいかに大量に、しかも丹念に塗り込まれていたのかを物語っていた。

 

「……ちなみに着替えたのか」

「着替えましたよ!! 油まみれなんて気持ち悪いじゃないですか!!」

「着替えてなお、それだけの匂いがしてるのか」

「はい……」

 

 お料理を作る上で、アサクラもミントの葉そのものやミントリキュールを使うことがある。故にアサクラにとっては、ミントの香りは至極慣れ親しんだもののはずなのだが……

 

「……」

「……」

「……くっさ」

「アサクラ様ぁぁぁああアア!!?」

 

 慣れ親しんでいるはずのアサクラですら、顔をしかめるほどに強く香り立つミントの香り。その状態で寒空の下鎧を脱がなければならなかったバル太のことを思うと……アサクラの心に、バル太への同情心が芽生えた。

 

 アサクラの視線が、自然と食料貯蔵庫入り口へと向かう。

 

「……」

「……?」

 

 それにつられて、バル太の視線も食料貯蔵庫へと向かう。

 

「……」

「……」

『……』

 

 気のせいか、入り口ドアの向こう側から、沈黙を表す吹き出しが飛び出ているように、二人の目には映った。

 

「……」

「……」

 

 二人の目線が交差し、互いに目だけで会話を繰り広げる。言葉は発さない。なぜなら、その言葉が相手の耳に入った瞬間、すべてを察した標的が脱兎のごとく逃げ出すからだ。

 

 アサクラが止まっていた手を動かし始めた。バル太はわざとらしく咳払いをした後、これまたわざとらしく大きく背伸びをした。

 

「……あー、ここには姫はいらっしゃらないようですねぇ!」

「そうだなぁ! ここには姫は来てないぞ!?」

『……』

「いや失礼いたしましたアサクラ様!! 引き続き王のおやつ作りを続行してください!!」

「かたじけない! お前も姫の探索がんばってくれぇー!」

『……』

 

 アサクラはぜんざい作りを続行しつつ、バル太は抜き足差し足で食料貯蔵庫入り口に近づきながら、二人で寸劇を繰り広げる。そのどうでも良い日常会話に反して、二人の眼差しは、獲物を狙う猛禽類のようにするどい。

 

 アサクラがぜんざいの上にシラタマを2つ乗せ、バル太が音を立てずにこっそりと、しかししっかりとドアの取っ手を握った。

 

――行け バル太

――はいっ アサクラ様

 

 二人は視線だけで息を合わせ、そして……

 

「見つけましたよ姫ぇぇええええ!!!」

 

 バル太が鬼の形相で入り口ドアを勢いよく開いた。

 

「へ!?」

 

 そして開いたドアの向こう側には、二人の狙い通り、デイジー姫がいた。ドアの前で耳をそばだてていたらしく、姫にあるまじき間抜けな顔でびっくりしたデイジー姫は次の瞬間、顔を醜く歪ませた。

 

「くっさ!! バル太ミントくさッ!?」

「誰のせいだと思っているのですか!!」

「いやだって臭いし! バル太めっちゃミント臭いです!!!」

「全部あなたが蒔いた種でしょうが!!!」

「ちょっとまって! バル太くさい!! もはや黙示録レベルでくさいですよあなた!!?」

「ムハハハハ!!! ハルマゲドンレベルのミント臭はいかがですか姫!!!」

「痛い! くさすぎてもはや目が痛いですバル太ッ!!!」

 

 涙目で悶え苦しむデイジー姫の左手首を掴んだバル太は、そのまま貯蔵庫からズルズルとデイジー姫を引きずり出した。そんな自分が後にどういう目に遭うのか理解したのだろうか。強烈なミント臭で開かない涙目を必死に開き、デイジー姫は自由な右手をアサクラに必死に伸ばす。

 

「あ、アサクラッ!!」

 

 名前を呼ばれ、アサクラは自分の手元のぜんざいから視線をデイジー姫へと向けた。姫からは、死の恐怖に直面している者だけが見せる、必死の形相が見て取れた。

 

「助けなさいッ!」

 

 姫の必死のヘルプコールを受けたアサクラは、そのままぜんざいの付け合せである塩昆布のデコレーションに取り掛かった。アサクラの目の前の漆塗りのお盆の上には、今、ぜんざいのお椀と塩昆布、そして国王専用の先割れスプーンが、センスよく上品に並べられている。

 

「……よし。準備が出来た」

「バカなアサクラッ!?」

「ぜんざいの完成だ」

「こ、この私が!! この国の姫である私が!! 貞操の危機に晒されているのですよ!?」

 

 涙目で必死に助けを乞うデイジー姫は、今も現在進行系でズルズルと厨房出入り口まで引きずられている最中である。

 

「ムハハハハハ!!! アサクラ様は私の味方なのですよッ!!! さぁー説教の時間ですよ姫ぇぇええエエエエ!!!」

 

 一方、姫を引きずっていく側のバル太の表情は対象的だ。目を爛々と輝かせ、生きる喜びに満ち満ちている。むき出しの白い歯を輝かせて瞳孔を目一杯に開きながら『説教』と口走るバル太のその様子を見て、案外バル太にはどえすの気があるかもしれんと、アサクラは思った。

 

「あ、アサクラッ!!!」

「……」

「助けて下さいアサクラ!! 私は!! あなたの許嫁なのですよ!? 将来の夫なのですよ!!?」

 

 断末魔のようなデイジー姫の声が、厨房に響く。しかし、そんなデイジー姫の必死の助けにも、アサクラの心は反応しない。アサクラはお盆を見つめ満足げにうなずくと、それをキャスター付きワゴンの上へと、そっと移動させた。デイジー姫なぞどこ吹く風で。

 

「アサクラッ!! このままでは私は!! バル太の毒牙にかかってしまう!!?」

「さて。そろそろ王の元へとぜんざいを運ぶか」

「傷物にされてしまうのですよ!? よいのですかアサクラっ!!?」

「……」

「ああっ……騎士副団長に!!! 私の肉体が今まさにっ!!? 汚されようとしているッ!!?」

 

 誤解を招きかねない悲鳴を上げながら、アサクラに助けを乞い続けるデイジー姫。その台詞を聞けば、事情を知らない城内の者は騎士副団長が乱心したと思うかもしれないが……悲しいかな、この場にいるのは姫のいたずらに悩まされ続ける騎士副団長バル太と、そんな姫の将来の許嫁(アサクラにとっては迷惑な話だが)であるアサクラたった二人だけ。姫の悲鳴を聞いて誤解などするはずがない。

 

 アサクラが顔を上げた。

 

「……姫」

「あ、アサクラ……ッ」

 

 バル太が動きを止め、デイジー姫が涙目でアサクラを見つめる。

 

「やっと……やっと私を助けてくれる気に……」

 

 懇願の眼差しで自身を見つめてくるデイジー姫に対し、アサクラは軽くため息をついた。そして、あらゆる無表情よりも感情を感じない、もはや頭髪の生えた大理石とも言える顔を向けた。

 

「構わん」

「は!?」

「なんならそのままバル太に嫁にもらってもらえ。跡継ぎ問題も解決。お前は労せず許嫁を手に入れてバル太の将来も安泰。俺も安全にここで生活することができるし、誰も損をしない」

「アサク……ラ……ッ!?」

 

 アサクラがそこまで言い切ったあと、再びデイジー姫はバル太に力強く引きずられていった。その間もデイジー姫は『アサクラの裏切り者ッ!!』『ザ・人でなし!!!』『この私の純情を弄んだ罪は重いですよアサクラ!!!』などと言った罵声を浴びせ続けていたが……

 

「さぁあ〜姫ぇぇええええ。説教部屋まで俺とランデブーしましょうかぁぁあああ」

「ああッ!! アサクラッ!? アサクラぁぁあああ!!?」

 

 その最後の断末魔とともに厨房の外に連れ出され、ドアが閉じた。『ドバァァアアアン!!!』と鳴り響いたドアの音は、アサクラの耳には、普段よりも大きく響き、そしていつも以上の質量を感じた。

 

 デイジー姫とアサクラが出ていった途端、厨房には静寂が訪れた。しかもアサクラの耳に痛いほどの、一切の音のない、静寂である。

 

『あっ……しまっ……!?』

『むはははは!!! 姫であるこの私がミント臭いあなたに体を許すと思ったか!』

『それはあなたのいたずらが原因でしょうがッ!』

『待っていなさいバル太!! 今日という屈辱は忘れませんよ!!!』

『待て姫ッ!!! 逃しませんよ!!!』

『この恨み!! 必ず晴らします!! 待っていなさい我が許嫁のアサクラァぁあ……』

 

 ドアの向こう側から聞こえるそんな喧騒が、厨房の静寂さをより際立たせている。この静けさに、一種の侘び寂びのようなものを感じたアサクラ。このとき、アサクラの胸には、実に久しぶりに故郷への郷愁が訪れていた。

 

「そういやぁもうヒノモトを離れてだいぶ経つなぁ……」

 

 そんな言葉が口をついて出る。一度故郷に戻り、知り合いに生存報告でもしようか……そう思ったアサクラだったが、もはや知り合いと呼ぶにふさわしい人間など、故郷に残ってないことを思い出していた。

 

 ちなみにぜんざいは、王には好評だった。

 

「はぐっはぐっ……おいしいねぇアサクラ?」

「ハハッ……ありがたき幸せにございまする」

「そんなにかしこまらなくていいのに……頭が低いよアサクラ?」

「は、ハハァッ……」

 

 



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3. お弁当

 春。外気が少しずつ暖かくなり、お日様の光がポカポカと温かく、草原を吹き抜ける風が冷たく心地よい、どこか胸がワクワクと高鳴る季節である。

 

 今日もアサクラは厨房にいた。王も特に執務の予定はなく、アサクラ自身の仕事も少ない。手持ち無沙汰の時間を持て余すアサクラは、今日、保存食のソーセージを作ろうと思い立ち、ひき肉に香味野菜のみじん切りを混ぜ込んでいる最中である。

 

 アサクラは、この『無心になれる作業』というのが、存外嫌いではない。ただ一新に香味野菜を混ぜ込み、まんべんなく合わせていく……その作業はアサクラの頭を空っぽにし、意識を無我の境地へといざなってくれる。

 

 ひき肉は終始低温を維持しなければならないため、手にはとても冷たい。しかしアサクラにとっては、その苦痛を辛いとは感じなかった。それよりも、故郷での寒空の下での剣の修行という、とても懐かしい思い出を思い起こさせた。ゆえに、それは苦痛というよりも郷愁をアサクラの胸に届けた。

 

 ひき肉を混ぜるのも終わり、腸詰めも終わって、さて出来上がった生のソーセージを茹でようかと寸胴鍋に湯を張った、その直後である。

 

「アサクラッ!!!」

 

 いつものごとくドアがバタンと開き、忌まわしいデイジー姫が姿を現した。反射的にアサクラはデイジーを視界に収め、彼女の様子がいつもと異なることに気がついた。

 

「……なんだ姫か」

「ふっふっふっ。暇を持て余しているのではないですかアサクラ?」

「いや、ソーセージ作ってるから意外と暇してないな」

「くっくっくっ……そいつは結構なことですねぇアサクラぁ。労働は尊いですよ?」

 

 そう言ってほくそ笑むデイジー姫を、アサクラは何の感慨もわかない目で見つめる。そのままドボドボとソーセージを寸胴鍋に落としていくと、湯の中でソーセージは静かにゆらゆらぷかぷかと踊り始めた。

 

 改めて、デイジー姫の姿を観察するアサクラ。普段彼女がここに逃げ込んでくるときは、だいたいがシルクのドレスに身を包み姫のクラウンを頭に載せた、ザ・お姫さまといった様相なのだが……

 

「なんだその格好は」

「ああこれですか?」

 

 今日の姫の格好はいつもと違った。上半身は優雅な装飾が施されたレザーメイルを着込み、下半身は丈夫そうでありながらどこかスッキリとしたシルエットの白いパンツにレザーブーツ。背中には大きな弓と矢筒がある。頭には、鳥の真っ赤な羽を一本飾った濃い緑のつば付きハットが、ちょこんと乗っかっていた。

 

「ちょっと暇を持て余しているので、これから狩りにでも行こうかなと思いまして」

 

 そう言ってドヤ顔を向けるデイジー姫だが、対するアサクラの表情には、何の感慨も訪れない。デイジー姫を前にしてアサクラの胸に去来するのは、ただひたすらに虚無である。

 

「それでアサクラ。あなたに私のお弁当を作っていただきたくっ」

 

 デイジー姫はニコリと微笑み、アサクラをピシッと指差した。

 

「……」

「……あれ? アサクラ?」

「……」

「どうしました?」

「いや……」

 

 途端にアサクラの心に『めんどくさい……』という怠慢が芽生え始める。よほどアクティブな性格でない限り、もともとの予定になかった負荷の高い業務を押し付けられたとき、人は『いやだめんどくさい……』という怠慢の心がついつい芽生えてしまうものだ。

 

 しかも相手はデイジー姫である。ここで働き始めてから今日にいたるまで、散々に困惑させられ、煮え湯をのまされてきたデイジー姫である。今、アサクラの心には『こんな者のために何を作らねばならんのだ』という、かつてない怠慢の気持ちが芽生えていた。

 

 しかし、いかに相手の本性が歩く災害とはいえ、デイジー姫はこの国の姫。自分の主ともいえる姫からの命令なら、いくらめんどくさくても遂行しなければならない程度の常識は、アサクラも持ち合わせている。

 

「……いつぐらいに出発なんだ」

「今からちょうど30分後ぐらいですかねぇ?」

「なんでそうギリギリで……もう少し早く言ってくれれば、材料も色々と準備出来たのに……」

「だって今行きたくなったんですもん。しょうがないです」

 

 そう言って、デイジー姫は微笑みを絶やさない。その微笑みは実に可憐だ。まさに『傾国』と言っても差し支えないレベルの美しさ。この微笑みを見れば、10人中10人が間違いなく恋に落ちるレベルと言っても過言ではない。それは、異性だけでなく同性もである。

 

 しかし。

 

「ニッコニコ」

「……」

「? なにか不満でもあるんですか?」

「いや……」

「?」

 

 その傾国の微笑みを見るアサクラは、目の前の女の本性を知っているため、決して恋に落ちることはない。たとえ、勝手に許嫁にされているとしても。

 

 怠慢に襲われている頭をなんとか回転させ、アサクラは必死にお弁当の献立を考える。といっても、デイジー姫のこの申し出はあまりに突然のことのため、これから準備できるものなど、数えるほどしかない。

 

 しかも運悪く、今日は食材の買い出しの日である。おかげで食料貯蔵庫を覗いても、お弁当に使える食材は何もない。野菜や肉などは、今茹でているソーセージにすべて使ってしまった。

 

 幸い卵だけは充分に数はあるが……

 

「クックックッ……さぁ早く作るのですよアサクラっ」

「今献立を考えてるからちょっと待て」

 

 『ひょっとしてこれは姫のいたずらか?』と疑いつつ、アサクラは厨房すみっこのかまどの上、魔法のお釜の蓋を開いて覗く。そこには、昨日のごはんの残りがてんこ盛りに残っている。魔法のお釜の中にあったため、ごはんは炊きたての温度を維持し、実に美味しそうな輝きを放っていた。

 

「ふーん……」

「昨日のご飯の残りですか」

「まぁなぁ」

 

 デイジーもアサクラと顔を並べ、二人一緒に覗き込む。アサクラの鼻にデイジー姫が身にまとっている香りがほんのりと届いたが、それがアサクラの癪に障った。

 

「……クソッ」

「? アサクラ?」

 

 『災害レベルの迷惑を振りまく女のくせに、漂う香りは可憐だと……!?』とアサクラは心の中で毒づきながら、引き続きお弁当のレシピを思案する。

 

「こっち見るなッ」

「? ……さてはアサクラぁ」

「なんだ」

「この私の美貌に見とれて……」

「それはないから安心しろ」

 

 そのまま顔を上げて横を向いたアサクラの視界に、ソーセージをボイル中の寸胴鍋が写った。

 

「姫。あまりに突然のことだから、ぶっちゃけ食材の準備がない」

「でしょうねぇ」

「だから多少シンプルになることは覚悟しろ」

「仕方ないですね。今回だけはそれで手を打ちましょうか」

 

 そう言ってニタリとほほえみながら鼻の穴を広げるデイジー姫を見て、アサクラの胸には、強大な憎悪と純粋な殺意が芽生えた。

 

「私のカ・ターナはどこ行った……ッ!?」

「?」

 

 かくして、アサクラの突貫お弁当作りが幕を開けた。災厄が具現化した女、デイジー姫が横で見守る中という、思いつく限り最悪の状況下で。

 

「お前、ずっと横で見てるのか?」

「当たり前でしょ。将来の妻の仕事っぷりを横で見学せねば」

「だから、誰がいつ許嫁になった?」

「照れなくてもいいですよぉアサクラぁ」

「……」

 

 まずアサクラは魔法のお釜を厨房の調理台へと移動させ、ボウル一杯の水と塩を準備した。

 

「姫、一つ頼まれてくれ」

「将来の夫を足で使うとは何事かッ!」

「なら作らん」

「すみませんでしたアサクラ様ごめんなさい作って下さい」

「貯蔵庫の奥にあるプラムのピクルスのツボを取ってきてくれ」

「ラジャー! ブラジャー!!」

「……」

「……」

「早く行けよ」

「ボケ殺しは身を滅ぼしますよアサクラ……ッ!!」

「?」

 

 デイジー姫がブーブーと文句を垂れながら貯蔵庫の奥から持ってきたのは、アサクラの故郷の郷土料理プラムのピクルスだ。強烈な酸味と塩気を持つそのピクルスを、アサクラは手にとったごはんの上に一つのせ、それを器用に三角形にまとめていく。

 

「へー……上手ですねぇアサクラぁ。きれいな三角になっていきますよ?」

「オニギリだ。私の故郷の料理で、お弁当の定番メニューだな」

「ほぉ〜……」

 

 アサクラの手によって、ポンポンと手際よく仕上げられていくオニギリ。程なくして、20個弱のオニギリが、二人の前に姿を現した。それらのオニギリは、すべてが大きさと形寸分の狂いなくが揃っていて、アサクラの腕が尋常ではないことを物語っている。

 

「……」

 

 まだ湯気が立っているそれらのオニギリを、デイジー姫はジッと見つめた。

 

「……さて、次だ」

 

 アサクラが調理台に背を向け、背後の寸胴鍋の方を向いた、その瞬間。

 

「くぉ……ッ!?」

 

 アサクラの背後から、デイジー姫の苦しそうな……しかしその分アサクラにとっては愉快な悲鳴が聞こえた。振り返ると、デイジー姫が全身をプルプルと痙攣させ、その場に立ち尽くしている。

 

 デイジー姫の顔を見ると、目や鼻といった顔のパーツすべてが顔の中央に集まっている。ほっぺたは冬場のリスのようにパンパンに膨れ上がっており、数を数えずとも、目の前のオニギリを一つ失敬したことを物語っていた。

 

「ひ、ひゅっぱ……なんれひゅかこれ……ッ!?」

 

 口をもごもごと動かし、デイジー姫がアサクラに問いかける。アサクラは今にも吹き出してしまうのをなんとかこらえ、カップに一杯の水を準備してそれをデイジー姫へと渡した。

 

 受け取ったデイジー姫は慌ててそれを飲み干し、口の中のオニギリをきれいさっぱり飲み干した。その後、アサクラを睨みつける湖のように美しい彼女の眼差しには、ほんのりと涙が浮かんでいた。

 

「……アサクラっ!! なんですかこの殺人兵器はッ!!!」

「失礼な。私の故郷の料理だと言ったろう」

「こんなにすっぱくて塩辛い食べ物、食べられるわけがないでしょう!!!」

「今食べたではないか」

「さてはアサクラ……これを使って、無差別殺人を行おうとしていますね!?」

「この酸味と塩気が、運動したあとにはもってこいなんだよ」

「見え透いた嘘を!! そうやって許嫁の私を高血圧に陥れて楽しいのかアサクラは!?」

「だから誰がいつお前の許嫁になった」

「クッ……騙されていた……まさかアサクラがこんなに残虐な男だとは……ッ!!」

 

 いくら止めても妄言が止まらないデイジー姫に対し、諦めの気持ちを抱いたアサクラは、その目の前の女を放っておくことに決めた。再び背後の寸胴鍋に向き合うとそれを火から下ろし、その湯の中でボイルしている最中であったソーセージを引っ張り上げる。数珠つなぎになったそれをすべて引きずり出し、アサクラはそれを調理台のまな板の上へと広げた。

 

「これは? ソーセージですか?」

「そうだな。作っておけば保存が効く。あとで燻製にしておくつもりだったが……」

 

 涙目のデイジー姫に睨まれる中、アサクラはソーセージの境目を包丁でトントンと切断していった。未だ湯気が立ち籠めるソーセージを、デイジーは涙がうっすら浮かんだ興味津々の眼差しで見つめている。

 

 『まさかこの女……』とアサクラの胸に疑念が湧いたその瞬間……デイジー姫の手が、すでに切り離された湯気立つソーセージへと、素早くシュバッと伸ばされた。

 

「あっ……」

 

 デイジー姫が強奪したソーセージにかじりついたその瞬間、『パリッ』という心地よい音が、厨房に鳴り響いていた。

 

「もっきゅもっきゅ……熱っ」

「またそうやってつまみぐいを……」

 

 幸せそうにソーセージを頬張るデイジー姫のその様子を、アサクラは虚無の眼差しでただひたすら見つめるだけであった。手に持つ包丁でソーセージの切断を続けながら。

 

「……おふ。これは中々美味しいですね。皮はパリッとしてますし、中はジューシーに仕上がってます。もっきゅもっきゅ……」

「……」

「喜びなさいアサクラ。このソーセージの出来の良さに、私は機嫌を直しました。先程の殺人未遂は不問にしましょう。もっきゅもっきゅ」

「はいはい……」

 

 心の中に虚しさを抱えながら、アサクラはソーセージの切断を終える。トータルで20個ほどのソーセージの山を早く包装するべく、アサクラはお弁当に使えそうな入れ物がないか、厨房の中を一通り見回した。アサクラが見る限り、5人前ほどのお弁当箱として使えそうな入れ物は、なにもない。

 

 そうしているうちにも、デイジー姫の犠牲となるソーセージは増える一方である。姫は今しがた2本めのソーセージを右手で口に運び、左手には3本目のソーセージがすでに準備された状態だ。このままでは、アサクラが準備したソーセージがすべてつまみ食いされてしまうのも時間の問題である。顔めっちゃ輝いてるし。

 

 急いで入れ物を探す。お弁当箱として使えるお重のようなものはないが、代わりに葦で編んだバスケットがいくつかあったことを思い出した。そのバスケットは厨房の奥の方にあり、アサクラが足りない食材の買い出しに出かける際に持っていくものである。今まさに3本目のソーセージにかじりつこうとしているデイジー姫を尻目に、アサクラは厨房の隅に移動して、そのバスケットを3つ、手にとった。

 

 バスケットの中を覗くと、そこにはアサクラの故郷のハンドタオル、手ぬぐいが何本か入っている。これをうまい具合に組み合わせて使えば、お弁当の代わりになるだろう。

 

「おい姫」

「もっきゅもっきゅ……はい?」

「それ以上はやめろ。お昼の分がなくなるぞ」

「その分そっちの余ったソーセージをまた持ってくればよいのでは?」

「お前は一体いくつソーセージを食べる気だ……」

 

 お弁当箱代わりのバスケットを3つ調理台の上に置き、アサクラはそのまま最後の献立の作成に取り掛かる。唯一充分な数がある卵を使った、アサクラ謹製の玉子焼きだ。ボウルに卵を10個ほど割り入れた後、それをチャカチャカとかき混ぜ、それに魚から抽出した旨味のエキスと砂糖と塩を投入して味を整える……

 

「よっ……」

「じ、邪魔をするなっ」

 

 いつの間にかアサクラの背後に移動していたデイジー姫が、アサクラの背中にもたれかかり、顎をアサクラの左肩に乗せた。背の高さが合わないから、どうやら彼女は踏み台を使っているらしい。肩にかかる重みと痛さ、そして背中に感じるデイジー姫の体温が、アサクラの不快感をかきたてていく……

 

「相変わらず手付きが鮮やかですねー……」

「お前に褒められてもまっっっっっっっっっったくうれしくないな。つーか私により掛かるな邪魔だ。肩はお前の顎置きじゃないぞ。痛いし邪魔だ」

 

 ニッシッシとほくそ笑むデイジー姫。そんなデイジー姫と軽口を叩き合いながら、アサクラは玉子焼き作成を進めていった。

 

 銅で出来た四角いフライパンをコンロで熱し、充分に熱したらそこに準備した卵液を流し込んで、玉子焼きを一つ一つ作っていく。フライパンに卵液を流し込むたびに鳴り響く『ジュワッ』という心地よい音が、アサクラとデイジー姫の耳をくすぐっていった。

 

 それと同時に二人の鼻に漂ってくるのは、焼き立ての玉子焼きの実にうまそうな香り。目を閉じて空気を目一杯吸い込むと、それだけで口の中に美味しい玉子焼きの味がしてくるような、そんな香りだ。

 

 デイジー姫が、その美しいご尊顔にあるまじき間抜け面で、鼻の穴をピクピクと動かしていた。

 

「すんすん……いい匂い……」

「なんだ。お前って玉子焼きが好きだったか?」

「というか、苦いもの以外なら大体何でも好きですよ?」

「そうか」

「……いや、さっきのあの殺人的にしょっぱいピクルスは食べる気がしませんわ」

「オニギリ一個食べきったくせに……」

「嫌いな食べ物が一つ増えましたよアサクラ。責任とって下さい」

「いやだ」

 

 二人が漫談を繰り広げているその間にも、玉子焼きは次々と焼き上がっていく。かくして出来上がった玉子焼きはアサクラの見事な包丁さばきによって一口大に切り分けられ、最後の献立の準備が整った。

 

「あとはこれらが冷めたらバスケットに入れればいい」

「なんだかんだで仕上がりましたねぇ」

 

 アサクラとデイジー姫の二人の前にあるのは、5人分のシンプルなお弁当。主食のオニギリと主菜のソーセージ、そして副菜の玉子焼き。それらが今、目の前で湯気を上げながら、バスケットに入れられるのを待っている。

 

「アサクラ、飲み物は?」

「どうせ川あるだろ川。そこのほとりで食えば飲み水の心配はいらんし、何より川のほとりで食う弁当はうまいぞ?」

「私は紅茶が飲みたいのですが」

「知らん。水で我慢しろ」

「一緒に行って紅茶淹れて下さいよアサクラぁー」

「俺は残りのソーセージを燻製しなければならんから無理だ」

「ちくしょー」

 

 こうして十数分後、アサクラが突貫で作り上げたお弁当を持って、デイジー姫は狩りへとでかけた。

 

 デイジー姫たちの狩りの誠果は散々なもので、姫のへっぽこな弓の腕前ではうさぎ一匹捕まえることが出来ず、途中の木の幹に生えていた変なキノコを数個手に入れただけだった。それらのキノコは毒きのこだったらしく、城に帰ってきたデイジー姫が側近の衛兵たちにそのきのこを振る舞おうとしたが、すんでのところでアサクラに止められた。

 

 あと、これは余談だが、お弁当のオニギリを一番多く食べたのは、それらを『殺人兵器』と揶揄していたデイジー姫その人だった。

 

「もっきゅもっきゅ……あ、美味しい」

「いやー姫様。このオニギリという料理、たまりませんな」

「特に、この中心の酸っぱくて塩気の強いピクルス! 狩りで疲れた身体にぴったりです!」

「なるほどそれで……さすがは我が許嫁ですね……」

 




※プラムのピクルス:俗に言う梅干しってやつです


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4. 肉じゃが

 複数の追撃者からの追撃をなんとか振り切った朝倉は、傷だらけの身体を引きずり、誰かの住居と思われる建物の残骸の壁にもたれかかって腰を下ろした。先程からぽつりぽつりと降っていた雨は次第に本降りとなって、朝倉の身体から体温を奪い始めていた。

 

 腰を下ろすことでやっと身体を休めることが出来た朝倉は、息も絶え絶えで自分の身体の状態を確認する。複数人の手練の追撃者との戦闘を繰り返した朝倉の身体は、今や満身創痍だ。剣による切り傷や打撲傷、擦過傷といったありとあらゆる傷が朝倉の身体に刻み込まれている。出血もひどく、腹部の切り傷からは、血がとめどなく流れ出ていた。

 

 朝倉は、自分の命がここで尽きるということを覚悟した。

 

 故郷を捨てて大陸に渡った朝倉。大切な人を守ることが出来ず、親友からは裏切られ、自身が忠誠を誓った主君は討死し国そのものがなくなったその次の日、朝倉は、故郷を棄てた。

 

 故郷から旅立った朝倉は、その足で大陸に渡った。幼い頃から剣術に明け暮れ戦うことしか知らなかったため、彼は生きるために傭兵となった。故郷から持ってきた刀を駆使し、その日必要な端金のために、何人もの命を奪った。戦場に出て襲い来る敵兵士たちをことごとく斬り捨てた。闇夜に紛れ暗殺もした。方々から命を狙われる要人の警護について、襲いかかる刺客たちをことごとく斬り捨てたこともある。とにかくこの大陸に渡ったあと、朝倉は、金のために何人もの命を奪っていった。

 

 そんな朝倉だが、まさか自分が命を狙われる側になるとは思ってもみなかった。この日、朝倉は正体不明の集団に襲われ、そのうちの半数を、たくさんの傷と引き換えに斬り殺した。その後は脱兎のごとく逃げ回り、今こうして、やっと追跡者たちをふりきったところである。

 

「まさかこの私が、戦ではなくこんなところで果てることになるとはな……」

 

 うずくまり、ポツリとつぶやいた。その時、朝倉の胸に去来していたのは、ある種の虚しさだった。戦に疲れ故郷をあとにした朝倉を待っていたのは、華ともいえる戦場から遠く離れた、日陰で、じめじめと泥臭く、寂しくて寒い、異国の萎びた地。

 

 でも、それもいいかもしれない。本来、戦場での死を誉れとする故郷の国で生まれた朝倉。それなのに、戦に嫌気が差し故郷を棄てた自分には、この名誉も何もない、ある意味では恥辱ともいえる死を迎えることは、必然なのかもしれない。朝倉は次第に遠のいていく意識に抗わず、重くなっていく瞼を、静かに、ゆっくりと閉じていった。

 

 その時だ。

 

「ぁあ〜……おなかすいたなぁ……」

 

 自身の右隣に、得体のしれない人物が座り込んでいることに気付いた。

 

「まいったなぁ〜……みんなとはぐれちゃったし……大丈夫かなぁ……予はちゃんと帰れるかなぁ……おなかすいたなぁ……」

 

 自身の隣に、得体のしれない人物がいるという事実は、朝倉の意識を再び覚醒させるには充分な脅威だった。朝倉は瞬時に目を開き、腰の刀を血だらけの右手で抜き放って、隣に腰掛ける壮年の男性の首元へと、その刃を突き立てた。

 

「貴様!! 何者だッ!!!」

 

 朝倉の刀は、隣の男性の喉元に正確に突き立てられた。男性が少しでも不穏な動きを見せれば、朝倉は即座に彼の喉を掻き斬ることが出来る。この、えらく上等な服装の割に自信無さげな八の字眉毛と、金色のカイゼル髭が目を引く壮年の男性の命は、まさに朝倉に握られている。

 

 だが……

 

「おおっ! 貴公!! 元気だったの!?」

「は?」

「いやぁー、息はしてるから生きてるとは思ったけど、ひどい怪我を負ってるから、予は心配したんだよ?」

「はぁ……」

「それに、予も一人だと心細くてさ……誰かと一緒にいたくてね。だから隣で一緒にいようかと思ったんだけど……」

「……」

「すまんねぇ。もうちょっと一緒にいさせて?」

 

 とこんな具合で、喉元に刃を突き立てられていることも気にせず、涙目で朝倉に話しかけてきた。その表情は嘘をついているようには見えず、この男性は、本当に朝倉のことを心配しており、そしてこの状況で朝倉の元気さに安心しているように見えた。

 

「……勝手にしろッ」

「ありがと。ところで貴公、名前はなんていうの?」

「私は一介の傭兵だ。名前など聞いてどうする」

「ここで一緒にいる以上、貴公と予は友達同士!! ならば、貴公の名を教えてもらわないと、友達とはいえないよ!!」

「……」

「だから教えてよ。ね?」

「……小田家家臣団が一人、朝倉兵庫だ」

「変わった名だねぇ貴公。アサクラ・ヒョウゴかぁ~」

「出身が極東でな。お前の名は何という?」

「予は……」

 

 そう言って、男性が名乗ろうとした、その時である。

 

「ぐぅ〜……」

 

 腹の虫の声が聞こえた。朝倉の腹ではない。朝倉はつい先程まで生きるか死ぬかの戦闘を行っていた。故に空腹は感じない。ということは……

 

「うう……」

「……お前の腹の虫か」

「う、うん……なんせ、お城で朝ごはん食べてから、まだ何も食べてないから……」

「腹が減ったのか?」

「家来たちには秘密にしといてよ? そんなこと知られたら、予は恥ずかしい……」

 

 そう言ってはにかむこの男性を見て、朝倉の警戒心が少しずつ薄くなっていく。この男性は、少なくとも自分にとって脅威ではないようだ。肩をすくませ、両手の人差し指を突き合わせて『腹が減った』と恥ずかしそうに口にするこの男が、自分を殺そうとするとは思えない。仮に襲いかかってきても、この男なら、難なく対処ができる……そう判断した朝倉は、刀を鞘に収め、再び腰を下ろした。

 

 ふと、腰の袋の中に、空腹時に食べようと思って作っておいたおはぎが入っていることを思い出した。

 

 本来、朝倉は料理などしない男である。だが今は亡き故郷の幼馴染がよく作っていたこのおはぎだけは作り方を熟知しており、自分で作ることが出来た。今日は、ふとそのおはぎが食べたくなった。それで宿屋の厨房を借り、代替の材料を仕入れ、出発前に作った……そんな、彼にとって思い出深いお菓子。それが、今、朝倉が持っているおはぎである。

 

「……もし私が作ったもので良いなら、食い物はあるぞ」

「ホント!? 予に食べさせてくれるの!?」

「あ、ああ……ただし、甘いものだ」

「大好き! 予は甘いもの大好きだよ!!!」

「で、では……ちょっと待ってくれるか」

「待つ!! いくらでも待つよアサクラ!!!」

 

 朝倉が『食べるか?』と聞くなり、男性は前のめりになった。目はキラキラと輝き、口からはすでに涎が垂れている。この、本人の情けなさと着込んでいる服の豪華さがアンバランスでおかしな態度のこの男性に、朝倉は次第に安心を感じるようになっていた。体中の緊張が抜け、全身がリラックスしはじめていることを、敏感に感じ取っていた。

 

 身体がリラックスすると、傷が痛み始める。朝倉は全身を襲う痛みに耐えながら、腰の袋から苦労しておはぎを取り出し、それを男性に見せた。

 

「? これは何?」

「これは……ック……おはぎという」

「オハギ?」

「ああ。私の、故郷の……甘味だ」

「てことは、貴公が作ったお菓子!?」

「あ、ああ……」

「てことは貴公、料理人!?」

「いや、そういうわけでは……」

 

 手のひらの上のおはぎの説明を、キラキラと輝く眼差しで熱心に聞く男性。その男性は、朝倉からおはぎを受け取った後、それを実に美味しそうにガツガツと食べていた。

 

 それから数十分後、かけつけた数人の衛兵たちによって、朝倉は、この男性が国王オルレアン三世であることを知らされた。その事実を知ったとき、朝倉は王に対してずいぶんと無礼な態度を取っていたことを王に対して謝罪したが……王はそんな朝倉の必死の陳謝を、ただ一笑に付すだけだった。

 

「いいのいいの。それよりさぁアサクラぁ」

「は、な、なんでごさいましょうか……?」

「お礼したいから、予の城に来てくれる? 治療もしなきゃいけないし」

「き、恐縮です……」

「あとね? もしよかったらー……」

「はい」

「えっとー……もし、よかったらでいいんだけど、予の城で働かない?」

「それは……兵士として、でしょうか……?」

「んーん。違うよ」

「で、では、どのような仕事を……」

「料理人」

「……は?」

「オハギだっけ? あんなに美味しいお菓子を作れるアサクラにはぴったりの仕事でしょ? 予も美味しいお菓子は毎日食べたいし」

「……」

「どうかな?」

「……御意」

「やった! ニシシ……」

 

……

 

…………

 

………………

 

 季節は夏が近づきつつある、ある天気の良い日。この日、アサクラはほとほと困り果てていた。

 

 厨房にはアサクラと、一人の女性の姿があった。二人は部屋の中央の調理台を挟んで、差し向かいに座っている。女性はアサクラをまっすぐに見据え、一方のアサクラは困ったように八の字眉毛を浮かべていた。

 

 この女性、背はそこまで高いわけではなくデイジー姫とどっこいどっこい。髪はデイジー姫よりもやや濃い色をした金髪。緑がかったブルーの眼差しは、デイジー姫のそれよりもさらにするどい印象だ。腰には剣を携えているから、元々は戦士なのかもしれない。

 

 この女性は名前をジョージアと言って、今回、調理師見習いとしてアサクラの厨房に配属された新人である。かねてから王は、一人で働くアサクラに助手をつけたいと言っており、ちょうど仕事を探しにこの城を訪れたジョージアが雇用された。つまり今、アサクラの目の前に佇むこの女性ジョージアは、アサクラの調理の助手となる。いわばアサクラの部下となる女性である。

 

 だが……

 

「では、えーと……ジョージア。いくつか質問をしたい」

「構わん。いくらでも気になることを聞くがいい」

「まず、得意料理があれば聞きたい」

「そんなものはない」

「では何が得意だ」

「これといって得意なものはないな。命令があれば、それを確実に遂行するのが私だ」

「……今までやってきた仕事内容は?」

「戦場での切り込み隊長や撤退戦のしんがり……他にも要人の護衛や公にできないことなどだな」

「……」

 

 こんな具合で、質問すること質問すること、いちいち的外れな返答が返ってくる。その上、受け答えがいちいち血生臭く、物騒な返答しかない。

 

 ジョージアに質問をするたびに、アサクラは自身の頭が頭痛を患い、そしてそれが酷くなっていくことを自覚した。頭の重量が加速度的に増していき、心臓の鼓動を頭の中で感じるほど、深刻化していく……

 

「? どうした貴公」

「いや……では次の質問だ。料理はしないということだが……今まで扱ったことがある道具を教えてくれ。その中でも扱うのが得意なものがあれば、教えて欲しい」

「得意なものは剣とランスだ。他には徒手空拳やハンマーなんかも心得があるが……やはり刃物の方が使い慣れている」

「……」

「……どうかしたか? 私は何か変なことを言っただろうか」

「いや……」

「?」

 

 『不審なことしか言ってないだろ』と叫びたくなる気持ちを、アサクラはグッとこらえた。

 

 しかし、(不審人物ではあるが)それでも彼女は新しい仲間であり、アサクラの調理を手伝ってくれる部下であることに変わりはない。であれば、部下の力量を正確に把握しておくことは、上司であるアサクラの義務である。故郷では部隊長として幾人かの兵士たちを束ねる立場にあったアサクラは、その辺のことの理解はある。

 

 なのでアサクラは、ジョージアの料理の腕前を正確に把握することから始めることに決めた。まず手始めに、今晩の夕食の献立である、肉じゃがの調理を手伝ってもらうことにした。

 

「ではジョージア。早速仕事に取り掛かってもらうぞ」

「承知した。私は何をすればいい? 切り込み隊長か? それとも偵察か? アンブッシュか?」

「……いや、皮むきだ」

「生皮を剥ぐ……そんな残虐な拷問はしたことがないが」

「勘違いのないよう言っておくが、皮をむいてほしいのはじゃがいもだ」

「じゃがいもの生皮をか」

「生皮って言うな血なまぐさい」

「承知した。全力で剥かせていただこう」

「……」

 

 この瞬間、アサクラは、目の前のジョージアを『やはりこの女はおかしい』と思った。

 

 かくして、新人ジョージアの実務を兼ねた実技テストが幕を開けた。のだが……

 

「よっ。ほっ」

「……」

 

 あろうことかジョージアは、腰に携えた剣を抜き放ち、それでじゃがいもの皮を剥き始めた。剥き終わったじゃがいもは決してキレイとはいえず、剥き残しの皮が至るところに残っている、残念な仕上がりとなっている。

 

「今日は調子がいいな。貴公もそう思わないか?」

「そうか……それで調子がいいのか……」

「ふっふーん……」

「……」

 

 そういって鼻歌を歌うほどに上機嫌なジョージアだが、アサクラから見て、その上機嫌には結果が伴ってはいない。さらにいえば、処置済みのじゃがいもはすべて芽がそのままの状態だ。じゃがいもは調理時には皮を剥く以上に芽をくりぬくことが重要だ。でなければ、残ったじゃがいもの芽によって中毒を起こす危険性がある。

 

「……芽を取れ芽を」

「やはり拷問をお望みとは……任務とあらば行うが、正直、目をえぐるなぞ気乗りがせんぞ」

「さっきも言ったが、取って欲しいのはじゃがいもの芽だ。瞳ではなくて芽だ」

「なるほど。私はてっきり捕虜の拷問でもやれと言ったのかと」

「違う。くぼみがあるだろう。そこが芽だ。そこをえぐれ」

「承知した」

 

 言われるままに剣の切っ先を使ってじゃがいもの芽をえぐり取るジョージア。しかし得物が包丁ではなくサーベルのため、芽を取ろうと切っ先でえぐると、そのままじゃがいもの大半をえぐり取ってしまう。

 

 芽の部分を必要以上にえぐり取ったじゃがいもの残骸を、ジョージアは誇らしげにアサクラに差し出した。

 

「これでいいか」

「……」

 

 そしてそれは、アサクラの頭痛を、より酷く悪化させた。

 

 そうして、ジョージアによるじゃがいもの皮むきが最悪の結果を招いていた、その時である。

 

「アサクラっ!!!」

「!?」

「んー……?」

 

 いつもの絶叫が厨房内にこだまし、ドアがドバンと開いた。アサクラはいつもの何の感情も乗っていない無表情で、まだ慣れていないジョージアは殺気を帯びたするどい眼差しでドアを睨む。そこにいたのは、いつものシルクのドレスに身を包んだデイジー姫だ。

 

「!? 姫ッ!?」

「またおまえか……」

「またとは何ですかアサクラっ!! いい加減丁寧に扱ってくれないと、私は悲しくてむせび泣きますよッ!!!」

「そんな殊勝な性格ではないだろうがお前は……」

「許嫁を乱雑に扱うだなんてっ!!」

「その妄言をそろそろ命がけで止めるべき時なのかもしれん」

 

 そんなふうにいつもの軽口を叩きあう二人。そんなアサクラの隣では、じゃがいもの皮むきを中断したジョージアが、片膝をついて跪いている。なるほどこれが本来の姫への接し方なんだなぁと、アサクラは軽い郷愁を胸にいだいた。

 

 いつものごとく鼻息の荒いデイジー姫いわく……今日も姫は騎士副団長バル太にいたずらを仕掛け、彼の逆鱗に触れてしまったそうだ。バル太は今、鬼の形相で城内を徘徊しており、その目から逃れるため、デイジー姫は自身の許嫁であるアサクラの領域、この厨房まで逃げてきたらしい。

 

「ちなみにどんな悪戯をしでかしたんだ」

「城下町の大広場に、『嫁を募集中!! 騎士副団長バル太!!!』て刺繍した戦旗を掲揚してきました」

「アホ……」

「しかし私にはですね? そろそろバル太にも年齢的に恋人を作ってやらなければならないという、この国の姫としての責務が」

「そんな責務なぞ知らん! 好いた惚れたは本人に任せろ!!」

「バカな!? それではあの蓼食う虫すら食わないレベルのバル太は、永遠に結婚出来ませんよ!?」

「そんなわけあるか!! 自分の好みではないというだけで、アイツのことを貶めるのはやめろッ!!!」

「そもそもこの道40年のベテラン刺繍職人に縫わせた渾身の刺繍ですよ!?」

「そんなところで熟練の技術を無駄遣いさせるのはやめるんだッ!!!」

 

 そんなふうに、いつもの如くやいのやいのと言い合いをはじめる二人。その時、ジョージアの眼差しがほんの少し鋭くなったことに、アサクラはまだ気付いていない。

 

 言い合いの最中、アサクラは自身の袖口がちょいちょいと引っ張られていることに気がついた。気になって見下ろすと、跪いているジョージアが手を伸ばし、アサクラの袖をちょんちょんと引っ張っている。

 

「……ちょっと良いか」

「?」

「その、『バル太』とはどのようなお方だ」

 

 じゃがいもの生皮を剣で剥くという非常識な一面にとらわれていたが、ジョージアは本来、まだこの城で働き始めたばかりの新人である。そんな彼女だから、バル太のことを知らずともおかしくはない……そんな当たり前のことを、アサクラは今しがたやっと思い出した。

 

 ジョージアの眼差しは、先程と同じく、任務に従事する戦士のそれのように鋭い。アサクラはその時はじめて、ジョージアのその眼差しに気がついた。

 

「あ、ああ。騎士団の副団長だ。まだ若いがな」

「なるほど。さぞや名のある方とお見受けする」

「そうではないが、腕は確かだ」

「そういや、前にアサクラとバル太って、剣術の試合でやりあったことがありますよね」

「また古い話を持ち出してきたな」

「まぁ結果は私の許嫁の完勝でしたけどね」

「いい加減に私の将来を勝手に約束するのはやめろッ!!」

「だって30になったら結婚しようねって約束したじゃないですかアサクラッ!!!」

「お前が勝手に口走っただけだろうがッ!!!」

「私の乙女心を弄んだというのですかアサクラッ!!!」

「弄ばれる乙女心なぞお前には存在せぬわッ!!!」

 

 と余計なところでデイジー姫が口をはさみ、軽口の押収が続行されてしまうのだが……その間も、ジョージアの眼差しが相変わらず随分と鋭いことに、気が付かないアサクラではない。

 

「ということは、かなりの規模の騎士団を持っているのだなこの国は」

「そうでもないですよ?」

「千人規模の五つの独立部隊で騎士団は構成されている。それらを統括するのが騎士団長と、副団長のバルタザール……通称バル太だ」

「それぞれの独立部隊の戦力は?」

「ばらつきはあるが、部隊長はいずれも精鋭揃いだな。それらを統括する副団長バル太の腕前も相当だ」

「私の許嫁には叶いませんけどね」

「うるさい黙れ。既成事実にするな」

「なるほど……」

 

 ひざまずくジョージアの眼差しが、一層するどく光り輝いた。その眼差しに、アサクラは覚えがあった。

 

――朝倉……お主は純粋すぎる……その真っ直ぐな心が、時に羨ましい

 

「……アサクラ?」

 

 不思議そうに顔を覗き込んでくるデイジー姫のつぶやきに、アサクラはフと我を取り戻した。どうやら過去の苦い思い出を思い出していたらしい。

 

「……いや、何でもない」

「? 変なアサクラですねぇ」

 

 アサクラが気を持ち直し、得体のしれない女ジョージアを再び見下ろした、その直後だ。

 

「姫ッ!!!」

 

 再びドアがバタンと開いた。その音は、この厨房にいる全員の注意をひいた。開かれたドアの向こう側にいたのは、騎士副団長バル太。今日は実戦用の鎧を着込んでいる。その格好でここまで走ってきたのだろう。激しい息切れと頬を伝う汗が、彼の疲労を伝えていた。

 

 全員の注意が、バル太に注がれた。

 

 デイジー姫もバル太を見た。その途端に顔を歪ませ、おでこに冷や汗がダラダラと浮かび始めた。

 

「ぐえッ!? バル太、もう嗅ぎつけたのですか!?」

 

 アサクラもバル太を見た。

 

「ぉおアサクラ様」

「バル太。早くこいつを連行してくれ」

「わかっております。今回もお騒がせして申し訳ございません」

「構わん。これも平和のためだ」

「アサクラの裏切り者ぉおおッ!!?」

 

 そして。

 

「ん? そちらのご婦人は?」

「ずぎゅぅぅうううん」

 

 もちろんジョージアも、バル太を見た。その瞬間、厨房内に季節外れの春風が吹いたことを、アサクラの直感が感じ取った。

 

「わ、私は!! 本日より! ここではたらたらたらくことになった、じ、ジョージアという者だッ!!!」

「は、はぁ。騎士副団長、バルタザールです」

「き、騎士副団長さま殿においては、ご、ご機嫌、うるわひゅ!!!」

「あ、あの……」

「ハッ!!! な、何だ!!? わ、私の副団長、さま!!?」

「いやあの……新しい料理人の方、ですか」

「はっ!!」

「では、顔をあわせる機会も多いと、思うので……よ、よろしく」

「は、ははぁッ!? よろしくお願い、もうしあげまっし!!!」

「あの、舌めちゃくちゃ噛んでますけど、大丈夫ですか……?」

「も、もったいなきお言葉!!! き、きょーえつ、し、しごく!!!」

 

 呆れるアサクラの目の前で、ジョージアは硬直してしまった身体で立ち上がり、バル太に敬礼を向ける。カチンコチンに固まった身体をカタカタと不自然にゆらし、ほっぺたをほんのりと赤く染めるジョージアは、まるで操り人形のように口をカクカクと開いて、バル太への謝辞を述べていた。

 

 そんな様子を見てドン引きし、後退りしたアサクラの隣に、デイジー姫がこっそりと近づいた。

 

「恋ですね」

 

 ぽそりとそう口ずさみ、デイジー姫がほくそ笑む。その醜く歪んだ笑顔は、アサクラに、幼少の頃に見た『オニ』と呼ばれる化け物の絵巻を思い出させた。

 

「やめろ……お前が食いついたら面倒事になる……」

 

 アサクラの頭痛に拍車がかかる。心臓の鼓動のたびにズキンズキンと痛む頭を抱え、アサクラは、自身の眉間に地割れのような深いシワが刻み込まれていく感触を覚えた。

 

「き、騎士副団長殿さま!!」

「な、なんでしょ?」

「あなたの剣は、獅子のように勇猛かつ鈴蘭のように可憐で、何者にも勝ると聞いた!?」

「誰がそんなこと言った誰が……可憐な剣って何だ……」

「きっと彼女の愛が、そのような幻聴を聞かせたんですよ……クックックッ……」

「い、いつか……いつの日か!!! 私にも、お見せいただきたくッ!!」

「いやしかし……剣術ならアサクラ様の方が一枚も二枚もウワテですが……?」

「いや私は!! あなたの剣が、見たいのだ……ッ!!!」

 

 そんなふうに、バル太に意味不明な迫り方を見せるジョージアを見ながら、アサクラは冷や汗を垂らし、後の混乱を覚悟していた。隣でほくそ笑む悪魔、デイジー姫によってもたらされる災厄は、一体いかほどのものか……考えただけでも恐ろしい……

 

 そして、アサクラの胸には、もう一つの疑念が浮かんでいる。

 

 あの、思い出したくない忌まわしい過去……故郷の裏切り者と同じ眼差しをしたジョージアという女、一体何者なのだろうか……と。

 

「わ、私も、あなたと一試合、やりあってみたい……ッ!!?」

「いやちょっと……ジョージアさん、落ち着いて……」

「これは新しいおもちゃの予感ですよ……クックックッ……」

「いいからお前はおとなしくしてろ……姫なんだから……」

 

 



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5. おはぎ(1)

※過去の回想です


 つい今しがたすべてを失った朝倉は、そのまま、おびただしい数の死体が転がる戦場を力なく歩いていた。

 

 戦場に到着する前から朝倉の鼻に襲いかかっていたのは、むせ返るような血の匂いと死臭。あちこちに無造作に転がる死体の山から、その臭いは漂っているようだ。耳をそばだてなくとも、死体に群がるカラスの鳴き声と蝿の羽音がうるさく鳴り響いており、それが、より、戦のあとの静けさを物語っていた。

 

 朝倉は戦場を力なく歩き続け、自分が配置されていた場所へと歩を進める。やがて転がる死体の中に見覚えのある顔をチラホラと見つけ、そこが、自分が自陣に戻るまで戦働きをしていた場所だということに気付いた。

 

 足元にある、一つの死体を足でひっくり返した。ピクリとも動かないその死体は、敵方の鎧で身を包んでいる。朝倉はその顔に見覚えがあった。この男は、戦の最中に朝倉が斬り捨てた敵兵の一人。震える両手で槍を握りしめ、涙目を朝倉に向けて『おっかちゃん』と叫びながら突撃してきたこの敵兵は、次の瞬間、朝倉の刀によって斬り捨てられた。

 

「ひ、兵庫様……」

 

 蝿の羽音に混じって、かすかに人の声が聞こえた。朝倉が振り返ると、無造作に打ち捨てられた死体の中に一人、もぞもぞと動く人間がいる。朝倉は力なく歩み寄り、刀を支えにしてしゃがみこんだ。味方の鎧に身を包んだその者の名は徳山景能。朝倉家に長年仕えていた、壮年の男だ。

 

「徳山か」

「は、はい……ごふっ……」

 

 そういって、徳山は力なく微笑む。朝倉は『無事だったか』と声をかけようとして、とっさに口をつぐんだ。なぜなら徳山の腹には、おびただしい本数の矢と、3本の槍の穂先が突き刺さっていたからだ。

 

「徳山。戦は終わったぞ」

「さ、左様で……ごふっ……ごふっ……」

「喜べ。我らが小田の勝利だ」

「……なれば、朝倉家も安泰です……な」

「ああ。すべてお前のおかげだ徳山」

「何を……ごふっ……おっしゃる……か……」

 

 口から血を吐きながら、それでも必死に言葉を発する徳山。死にゆく徳山に対し、朝倉は本当のことを伝えることは出来なかった。『お前の死は、最後の一片すら無駄だった』とは、口が裂けても言うべきではない……幼少の頃からの長い付き合いであり、剣術の師であると同時に、父親のように慕っていたこの男、徳永景能は、たとえそれが嘘であろうとも、『お前の死は明日の朝倉家の礎となった』と、ねぎらってやりたかった。

 

 徳山が目を見開いた。最期と思われる力を両手に込め、朝倉の両手を掴む。その力強さとは裏腹に、朝倉の両手に伝わってきたのは、生の躍動ではなく、死への秒読みであった。

 

「ひ、兵庫様……ッ!!」

「……何だ」

「あ、朝倉家の再興こそ、我らが悲願ッ。それをなし得ることが出来るのは、兵庫様……あなたしか、おりませぬ……ッ!!」

 

――もう、それが成就することはないのだ……徳山……

 

「ああ。必ず朝倉家を再興させる。だからお前は、安心して逝け」

「ならば、この徳山景能……安心して、死ぬると……いう……も……」

「徳山……?」

「……」

「徳山。大儀であった……」

 

 朝倉は、徳山の顔を見た。これだけの酷い戦で、自身も酷い様であるにも関わらず、その顔は穏やかで、微笑んですらいる。

 

 それはおそらく、朝倉が『朝倉家を再興させる』と約束したからであろう。その約束を胸に、家臣の徳山景能は今、安心して後を託し、冥土へと旅立ったのだ。

 

 しばしその穏やかな死に顔を見た後、朝倉は、徳山の瞼を優しく閉じた。

 

 朝倉は立ち上がり、改めて周囲を見回す。視界のその向こう側まで、すべてが死体で覆われている。元々は緑が眩しい草原だったこの土地が、今では赤茶色で塗り固められているかのように、地平線のそのさきまで、死体の山だ。

 

 その光景を呆然と見守る朝倉の目に、次第に涙が溢れてきた。

 

「徳山……すまん……すまん……ッ」

 

 漏れ零すように口から出た言葉は、今しがた亡くなった徳山景能への謝罪であった。

 

 この戦、朝倉家の主君である小田家は負けた。家臣の裏切りに遭い、総大将でもある小田家の頭領、小田信義を本陣で殺された。おかげで指揮系統がズタボロに乱れ、その結果、ほぼ全滅に近い、酷い負け戦となってしまった。

 

 その主君を裏切った男は、朝倉とも非常に仲のよい男だった。その男を朝倉は斬った。家臣団でも特に仲の良い、親友とも呼べる男を斬り捨てたのだ。

 

 それに……

 

――すまぬ……そなたにおはぎをつくってやることは……もう、叶わぬ……

 

 幼少の頃に交わした約束を最期まで守ろうとした幼馴染すら、朝倉は失った。

 

 おのが家、仕えるべき主君、守るべき国、仲の良い友、約束を交わした幼馴染……この日、朝倉は、己のすべてを失った。すべてを失い気力も失せた朝倉は、次の日、この地を去り、すべてを棄てた。

 



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6. フルーツパフェ

 アサクラに新しい仕事仲間が出来たその翌日のことである。この日も厨房では、アサクラと新人へっぽこ料理人のジョージアが、中央の調理台を挟んで差し向かいに座っていた。

 

 しかし、今日の二人……いやアサクラは、昨日とは異なる面持ちである。

 

「……」

「……」

 

 静寂の中、二人の鋭い眼差しが互いに牽制し合う。ジョージアの鋭い眼差しは昨日とあまり変わらない。しかし、アサクラの眼差しは、昨日のそれとは根本的に異なっている。

 

「……」

「……」

 

 昨日ジョージアは騎士団の編成を質問したとき、ただの料理人にあるまじき鋭さの眼差しを見せた。その眼差しを見たアサクラは、一晩考えた末に、ジョージアは他国のスパイではないかという疑問を持つに至った。

 

 故にアサクラは、今日改めて、ジョージアを問いただそうと考えた。疑念が外れればそれはそれでよい。だがもしジョージアがスパイだった場合、バル太か誰かに報告を上げ、然るべき処理をしてもらう腹積もりである。

 

 仮にジョージアがこの場で暴れても大丈夫なように、アサクラは自身のすぐそばに、愛用のサーベル『カ・ターナ』を持ってきている。この地の刀剣とは異なる製法で作られたこのサーベルは、通常のサーベルと比べ物にならないほどの切断力を有している。振るう者の腕が確かならば、金属すら容易に切断可能なほど、その刃は鋭い。

 

 そしてそれをふるうアサクラは、この国でも類まれなる剣術の使い手である。一度バル太に挑戦状を叩きつけられたことがあったが……アサクラは、騎士副団長で剣術の腕が確かなバル太を、その卓越した剣技で完膚無きまで叩きのめした。その時以来、バル太はアサクラに敬意を向けている。料理人になったアサクラにとっては、どうでもいいことではあるが。

 

 つまり、アサクラは今、場合によってはこのジョージアを斬り捨てる覚悟で、この場に臨んでいる。

 

 滞在した期間はけっして長くはないが、アサクラにとってこの国は第二の故郷と呼ぶにふさわしい。守るに値するこの素晴らしいこの地を脅威にさらすというのなら、たとえ相手が自分の新しい部下で、腕の立つ女性戦士であったとしても、容赦なく斬り捨てる……アサクラの眼差しは、そんな裂帛の気迫を感じられるほど、鋭く、冷たく光り輝いていた。

 

「……で、ジョージア」

「なんだ」

「そろそろ本当のことを話して欲しい」

 

 意を決し、アサクラが口を開いた。即座にジョージアの眉間がピクリと動く。アサクラの気迫をジョージアも感じ取っているようで、先程からジョージアの眼差しもアサクラのそれと同等に冷たい。

 

「本当のこととは?」

 

 ジョージアの言葉に動揺はない。だがその言葉が真実ではないことを、アサクラの耳は正確に捉えている。

 

「本当のことだ」

「……」

「お前は職を求めてこの城を訪れ、そして王に雇われた。そうだな?」

「そのとおりだ」

「ではこの城に職を求めたのは何のためだ。城下町にも仕事はたくさんある。なぜ城なのだ。なぜ王の元でなくてはならんのだ」

「……」

「納得のいく答えを聞かせてもらえんかぎり、私がお前に調理を許すことはない」

 

 互いに殺気の籠もった視線で相手を刺す二人。チャキッという金属音がアサクラの耳にかすかに届いた。調理台のその陰で、ジョージアが自身の剣に手をかけたらしい。反射的に、アサクラも手元のカ・ターナに手を伸ばした。

 

「ちなみに貴公の納得いく答えが聞けなかった場合、貴公は何をする」

「それだけなら何もしない。ただ報告を上げるだけだ。それだけなら」

「……」

「そしてお前がこの場でそれ以上を望むというのなら……不本意だが、私にも考えがある」

 

 空気が硬質になり、室温が下がったことをアサクラの肌が感じた。鞘を握り、親指で柄を持ち上げる。カ・ターナの刀身が、青白く、冷たく輝く。

 

 アサクラは中腰になった。ジョージアも腰を上げる。彼女の右手は確実に剣を握っている。調理台の死角の部分で、互いに剣を構える二人。

 

 アサクラはジョージアの目を見た。彼女の瞳孔は大きく開いていた。

 

「……貴公、いい気迫をしているなぁ」

「……」

「相当な手練と見た。改めて問おう。貴公、名は?」

「……聞いてどうする」

「良き敵を名も知らぬ内に殺すのは忍びない。名を教えろ」

「オルレアン王国宮廷料理人、朝倉兵庫」

「なるほど。アサクラ・ヒョウゴ……アサクラか。妙な名だ」

「極東出身でな」

「なるほどな。しかしなぜ料理人などしている。貴公ほどの腕前なら、戦士としても充分すぎる働きができるはずだ」

「王からは料理人として雇われている。それだけだ」

「ハンッ」

 

 ジョージアが立ち上がった。やはり彼女は、調理台のその陰で、腰に差した剣に手をかけていた。その柄をゆっくりと握り、剣をズラズラと抜く。極低温の殺気を帯びた刀身が姿を現し、切っ先がアサクラに向けられた。

 

 アサクラは中腰のまま、カ・ターナを鞘ごと自身の腰に持ってきた。カ・ターナは左手で支え、その柄に右手を添える。この構えは、アサクラが得意とする剣技の構え。その疾さゆえ何人も避けることが叶わず、この技を前に斬り捨てられていった人数は計り知れない。アサクラにとって文字通り必殺といえる、恐るべき剣技である。

 

「ちなみに貴公」

「……?」

 

 ジョージアがこの緊張下で口を開いた。アサクラは気を抜かない。気を抜いた瞬間、ジョージアの剣が自分の身体を引き裂き、命を奪われるからだ。もしジョージアが抜いた剣を少しでも動かそうものなら、即座に抜刀して斬り伏せる……その覚悟で、自身の右手をほんの少し、ピクリと動かした。

 

「報告を上げる、と言ったな」

「言った」

「誰に言うのだ。『あの新入りは得体がしれぬ』と、一体誰に言うつもりなのだ」

「お前には関係のない話だ」

「いいではないか。聞かせたまえよ。この私のことを、一体、誰に、報告するつもりなのか……」

 

 ジョージアが微笑む。デイジー姫のような、どこかに無垢が残った微笑みではない。人をこれから殺そうとするものだけが見せる、相手を死の暗さへと引きずり込む黒い微笑み……この女は、自分を殺そうとしている……アサクラの直感が告げた。

 

「報告を上げる相手は……」

 

 ジョージアの目がキラリと光った。アサクラの右手が反射的に動き、カ・ターナの柄を握った。

 

「バル太だッ」

 

 その瞬間、アサクラはカ・ターナを抜いた。厨房に鞘走りと抜刀の音が鳴り響く。アサクラの剣技はまさに風の如き速さで、ジョージアの身体を正確に捉え、そして斬り伏せたはずだった。

 

「ダメだぁあああッ!!!」

 

 そんなジョージアの叫びとともに、アサクラの斬撃は空を切った。と同時に、何かを勢いよく叩いた『ドバン』という音が盛大に鳴り響いた。

 

「!!?」

「バル太さまはダメだァァあああ!!?」

 

 一瞬、虚を突かれたアサクラが視認したもの……それは、アサクラの剣技が切り伏せるよりも早く、調理台に手をついて頭を深々と下げる、ジョージアの情けない姿だった。

 

「すまない!! 本当のことを話す!! だからバル太さまにだけはぁぁあっ!!!」

「は……?」

「私は!! ……私は、あの方に愛想を尽かされることだけはイヤなんだぁぁああ!!?」

 

 さっきまでの緊迫した空気はどこへやら……その空気を演出していたアサクラ自身も呆れるほどの、涙声で懇願する情けないジョージア。そんな彼女の姿を見て、アサクラの心には、昨日のデイジー姫のある一言がぼんやりと浮かび上がっていた。

 

――恋ですね

 

 

 そうして、時刻はそれから十数分後。厨房では、再びアサクラとジョージアが調理台を挟んで相対していた。最初のときと違うのは、ジョージアが涙を浮かべていることと、先程のような殺気が消え失せていることだ。事実、『バル太さまにだけは秘密にしておいてくれぇ』と嗚咽混じりの懇願を繰り返すジョージアを、アサクラはついさきほどまでなだめていたところだ。先程命のやり取りを覚悟し合った二人だとは思えない状況だ。

 

「さて……そろそろ話してくれるか。お前の本当の目的は何だ」

「国王オルレアン三世とその親族、長女デイジー姫の暗殺だ」

「……」

 

 意外なほどすんなりと真相をしゃべったジョージアに、アサクラは全身の力が抜けた。暗殺任務を帯びたスパイ……なのに、スパイがそんなにあっさり喋っていいのか……と余計な心配をせずにはいられない……

 

「……すんなり話しすぎだろ」

「だって貴公がバル太さまにチクるって言うから……」

「いやいやそこは抵抗しろよ。つーかもっと嘘で俺を言い負かせよ」

「だって本当のことを言わなきゃバル太さまにチクられる……」

「……」

 

 『任務よりもバル太が大事なのか……』と、目の前の凄腕ジョージアの、スパイの適正に疑問を抱かざるをえないアサクラ。なんだか本気で目の前の女を不憫に思い始めた。こんなスパイ適正ゼロの人物が、なぜスパイに選ばれたのか……

 

 とはいえ理由には疑問が残るが、話している内容はどうやら本当のようだ。それは、彼女の涙目からも容易に読み取れる。

 

「……本当なんだな?」

「本当だ」

 

 アサクラは改めて確認し、ジョージアも肯定……やはり、ジョージアが国王暗殺の任務を帯びたスパイであるというのは本当のようだ。ただ、肝心の本人がへっぽこなだけで。

 

 アサクラはガタリと椅子から立ち上がる。

 

「こらバル太に報告しなきゃアカンわ」

 

 このような重大な事柄は、騎士副団長バル太には上げておかねばならない……そう思い、アサクラが出入り口に足を向けた、その時だ。

 

「それは困るぅぅううう!!?」

 

 ジョージアが再び調理台にドバンと右手をつき、左手はアサクラの袖をグッと掴んだ。

 

「たーのーむぅぅううう!!? バル太さまにだけは!? バル太さまにだけはぁぁあああ!!?」

「ダメだ。暗殺目的のスパイなぞ捨て置けん。標的が王であるならなおさらだ。バル太に報告を挙げさせてもらう」

「おねがいだぁぁあああ!!? もう任務なんか忘れる! 国王暗殺もしない!! だからバル太さまに報告だけはぁぁぁああああ!!?」

「……」

「たぁぁぁあああのぉぉぉおおむぅぅぅぅうう!!!?」

 

 こうしてしばしの間、アサクラとジョージアの間で『報告する』『やめてくれ』という、傍から見れば意味のよくわからない、とても不毛なやりとりが続いた。

 

 二人のやり取りが、通算13回ほど繰り返された頃だった。

 

「やっほーアサクラー。今日も……て、あれ?」

「頼む! 一生のお願いだぁぁぁああ!! バル太さまにだけは! バル太さまにだけはぁあああ!!!」

「……姫か」

「あなたたち、何遊んでるんですか……」

 

 厨房入り口のドアが開き、タイミングよく……いや悪くなのかはよくわからないが、いつものようにデイジー姫が遊びに来た。厨房に入るなり、デイジー姫は二人の様子に目を丸くし、呆気にとられているようだ。『珍しい光景が見れた』と、アサクラは心の中で冷静に考えた。

 

「いや、別に遊んでるわけではない」

「いやいやどう見ても遊んでるでしょ。何やってるんですかアサクラ。父上のおやつのフルーツパフェはどうしたんですか。泣いてますよ父上が」

「いや私もそろそろ仕事をしたい。したいんだが……」

 

 アサクラがジョージアの様子を横目で伺った。相変わらず目に涙を浮かべ、ひっくひっくと泣き声を上げているジョージアには、さっきまでの恐ろしさは影も形も見当たらない。むしろ母親にイタズラが見つかって叱責されるのを恐れる、五歳の少年のような面持ちだ。

 

 いつもと異なる怪訝な顔で、アサクラの隣にやってくるデイジー姫。アサクラはデイジー姫とともにジョージアを見る。

 

「一体何して遊んでたんですかアサクラっ」

「遊んでなどいない。至極真面目な話をしてたんだよ私たちは……」

「真面目な話?」

「ああ」

「ひょっとしてさっきの『バル太さまには秘密にぃぃいいい!!?』てやつですか?」

「……」

 

 不必要かつ大げさなモノマネでデイジー姫が先程のジョージアの嗚咽のマネをする。本人は似せているつもりなのかもしれないが、クオリティはアサクラから見て散々だ。そんな残念なモノマネで得意げに鼻の穴を広げるデイジー姫の姿をみたアサクラの心が、純粋な殺意に染まっていく……カ・ターナの柄を掴みに動く自身の右手を、アサクラは必死に抑えた。

 

「クソッ……沈まれ……わが右手よ……ッ」

「遅れて来た中二病ですかアサクラ」

「斬り殺されたいか」

 

 しかしそんな周囲の状況も、ジョージアの耳と目には届いてないようだ。ジョージアは今、『バル太さまにバレるかもしれない』というたった一つの懸案事項に心が囚われてしまっている。それが証拠に……

 

「バル太さまには……ひぐっ……ひ、秘密に……」

 

 とこんな具合で、喉の奥からやっと絞り出したかのような声で、ジョージアがアサクラたち二人に懇願をするばかりだ。

 

 アサクラの殺意の波動が、少しずつ抑えられてきた。と同時に、そこはかとない虚無感がアサクラを襲う。隣の姫には殺意を抱き、目の前のぽんこつスパイには同情と哀れみを覚え……自分がここにいるのは王の食事を作るためであって、けっしてこいつらとこんな不毛なやりとりをするためではない……

 

「……」

「アサクラ? どうしました?」

「……」

「ううっ……き、貴公……元気か……? ひぐっ……」

「人の元気を心配する暇があったら自分の身の振りを案じろよ」

 

 ここでアサクラは、ジョージアの様子を眺めながら、あることを思い出していた。

 

 最悪のアクシデントというものは、往々にして連鎖していくものである。

 

 『本来の任務がバれ、アサクラに素性が知られてしまった』という事実がジョージアにとって最悪のアクシデントであるとすれば、その最悪が別の形で連鎖をしても、おかしくはない……

 

「うう……元気ならいいんだ。だから、どうかバル太さまにはこのことは秘密に……」

「ああ。それは無理でしょ」

「へ?」

 

 デイジー姫の他愛のない一言は、ジョージアの注意を引くには充分な一言だった。

 

 そしてこのときアサクラは、『今回のアクシデントは連鎖する』と確信した。被害を被るのはデイジー姫でも、自分でもなく……

 

「だってバル太、ドアの向こうにいますよ?」

「なんですと!?」

「さっきのあなたの悲鳴を聞いてましたよ? それでバル太、入りづらくて……」

 

 ハッと顔を上げたジョージアが、産声を上げる生まれたばかりの赤ちゃんのような顔でドアを見た。つられてアサクラも見る。二人の視線の先には……

 

「……あの、おふたりとも」

「ば、バル太……さまッ!?」

「何が……秘密なんですか……?」

 

 ジョージアにとって、今の会話が最も聞かれてはならない人物……バル太がいた。額には冷や汗を垂らし、困惑した面持ちで、出入り口から顔をひょこっと出している。

 

「……」

「……ジョージアよ。もう全部吐いたほうがいいぞ。遅かれ早かれ分かることだし、自分の口で全部吐いてしまえ」

「……」

「ジョージア?」

 

 ジョージアに自白を促すが、彼女の返事はない。アサクラはジョージアを見た。

 

「……」

 

 ……ジョージアは、真っ白に燃え尽きていた。そしてよく見たら、耳の穴から魂がはみ出ていた。

 

 その様子を見たアサクラの耳には、聞こえるはずのない仏前の鐘の音『ちーん』が届いていた。

 

「南無阿弥陀仏……」

「やっぱり遅れてきた中二病ですか」

 

 

 その後アサクラのすすめで、ジョージアはバル太とデイジー姫に、包み隠さずすべてを話した。自分は料理人ではなく暗殺任務を請け負ったスパイであるということ。自身の目的は国王とデイジー姫の暗殺であること。そして……

 

「……で、お前の雇い主は誰だ」

「言えん……さすがに私にもスパイとしての矜持がある。つーん」

「ここまで言ったら今更隠しても意味がないだろう。いいから全部話せって」

「ダメだっ。ぷーい」

「いちいち口でつーんとかぷいーとか言うんですねぇ。面白い……クックックッ」

「仕方ない……バル太」

「……ジョージアさん? 隠さず話してくれませんか?」

「私の雇い主は左翼過激派政治団体『あなたをひっくり返したくて旅団』だ。キリッ」

「ありがとうジョージアさん」

「……」

「ぉお〜。さすがはバル太ですね。ニチャァア……」

 

 おのが雇い主のことも、包み隠さずすべてを話した。

 

「『あなたをひっくり返したくて旅団』てなんだ……」

 

 至極真剣な表情で話を聞くバル太の後ろでは、アサクラが頭を抱えて沈み込む。その隣では、デイジー姫がキリリと顔を引き締めているのだが……姫の頭からは、小さな太陽がピョコンと顔を覗かせているのが、アサクラには見えていた。

 

「アサクラ様はご存知ありませんか?」

「知らんな。なんだその人をなめくさった名前の旅団は」

「『あなたをひっくり返したくて旅団』は、比較的最近に出来た私設武装集団ですね」

「バル太が知っているということは、それなりに名の通った旅団なのか」

「いえ。ですが最近は騎士団でもミーティングでほんのり話題になります」

「マジか……」

「マジです」

 

 『あなたをひっくり返したくて旅団』。左翼過激派武装集団である。王家の根絶と一般民間人による政治体制の確立を是としており、このオルレアン王国の王家の失脚と根絶を目指して活動中とのこと。

 

 しかし、このオルレアン王国は、王の支持率がとても高く、王家に対しても不満を持つ人間は極めて少ない。そのため、彼らの思想はあまり一般には浸透していないようだ。

 

 そのためなのか、旅団も以前はビラ配りや街頭演説などで活動をしていたが……最近では迷惑行為も積極的に行っているらしい。

 

「そんな迷惑な奴らが城下にのさばっていたのか……」

「ええ」

「ちなみに迷惑行為とは何だ」

「商店街で買い物をする際に、不当に値下げさせたりとかですね」

「以外とやることがセコいな……しかしバル太」

「はい」

「私はよく商店街に顔を出すが、そんな光景に出くわしたこともなければ、そんな噂を聞いたこともないぞ」

「旅団の連中よりも商店街の店主たちの方が強いんですよ」

「な……」

「だから迷惑行為を働いても、基本的にコテンパンにのされてしまうんです。この話も、城下にいるお抱えの情報屋からタダで教えてもらった情報ですし」

「その情報にすら価値がないのか……」

 

 情けない事実に頭を抱えたアサクラだが、その時、ある一つの事実を思い出した。そんな情けないいたずらしか出来ない弱小政治団体よりも、もっと凶暴ではた迷惑な存在が、今、自身のすぐ隣に息づいているということを。

 

 ちらと隣を伺った。相変わらずキリリとした顔でデイジー姫は話を聞いていたが、ほどなくして、アサクラの視線に気が付き、チラとアサクラを伺った。

 

「どうしました?」

「いや……」

「?」

 

 まさか『たった一人なのに私設武装集団よりも厄介な存在だよお前は』とは、口が裂けても言えないアサクラだった。

 

 話は脱線したが、本来の問題は、その私設武装集団から雇われ、この城に潜入してきたジョージアの処遇である。アサクラは再びジョージアを見る。彼女は今、肩をすくませてうつむき、不憫に感じるほど落ち込んでいる。

 

「それはそれとして……バル太」

「はい」

「国王暗殺を企てたジョージアはどうなる?」

 

 ジョージアが顔を上げ、懇願するようにバル太の顔を見た。バル太はその視線に気付いたのか何なのか、困ったように頭をポリポリとかき、少々迷った後、恐る恐る口を開く。

 

「自白はしてくれましたが、追放は免れないでしょう」

 

 その瞬間、ジョージアの両目に涙がじんわりと浮かぶ。やがてアサクラ以下ここにいる三人の鼓膜にダメージを与えんばかりの声量で、バル太に恩赦を懇願しはじめた。

 

「それは困るぅぅううううう!!?」

「いやしかし……死刑にならなかっただけでも幸運だと思わないと……」

「いぃぃぃいいいやぁぁぁあああだぁぁぁああああ!!!?」

「いやだと言われても……」

「バル太さまと会えなくなるのはぁぁぁあああああ!!!? いーやーだぁぁぁぁあああ!!!?」

「……」

 

 バル太の右手を握り、両目から滝のように涙を流して懇願するジョージアに、もはや先程までの恐ろしさはない。自分に威厳たっぷりで命のやり取りを迫ってきたあの面影はどこに行った……とアサクラはジョージアを凝視して必死にそれを探すが、2秒後には諦めた。疲れるし。

 

「ねぇバル太。恩赦を与える条件はありますか?」

 

 デイジー姫が、ポツリとつぶやいた。その言葉は、ジョージアの泣き声をピタリと止めた。

 

「!? 恩赦の可能性があるのか!?」

「姫……我が国では犯罪者に恩赦を与えた前例はありません」

「前例がなければ作ればよいのです。もし彼女がバル太も認めるような素晴らしいことを行った場合は、私が特例として恩赦を許可します」

「しかし……」

「この国の姫として命じます。彼女に任務を与えなさい。そしてその任務を無事に成し遂げた場合は、この私が、デイジー・ローズ・フォン・オルレアンの名のもとに、彼女に恩赦を与えます」

「おお……」

 

 この時の、ジョージアとバル太のデイジー姫への眼差しは、まるで神を初めて見た迷える子羊のごとく、キラキラと純粋に輝いていた。きっとジョージアは希望を与えられたことに対する感謝と尊敬……バル太は『やはりこの人は王の器を持っている』という、改めての尊敬と敬愛の念を抱いたのであろう。故に今、ジョージアとバル太は、頭を下げ、デイジー姫に敬愛を表しているのだ。

 

 しかし、アサクラは知っている。

 

「……ニチャア」

 

 頭を下げた二人を見下ろすデイジー姫が、二人のことを凶悪な笑みを浮かべながら、見つめていることを……。

 

「しかし……」

 

 バル太とジョージアが顔を上げた。と同時に、デイジー姫の凶悪な微笑みもスッと消え失せた。このときアサクラの背筋が凍ったのは、言うまでもない。

 

「恩赦に値するほどの任務……一体何をしてもらえればよいのか……」

「何でもいいんじゃないですか?」

「だからそれをバル太は迷ってるんだろう?」

「だから、例えば城の掃除を一人でやるとか……」

「この広い城をどうやって一人でやるのか教えてもらいたいものだ」

「うるさいですねーアサクラはー。あとはほら、噂の旅団を潰してくるとか……」

 

 ジョージアの目が、一瞬ギラリと光った。と同時に机をドバンと叩いて勢いよく立ち上がり、その涙目でキッとアサクラを見た。

 

「潰せばいいのか!? 旅団を潰せば、ここにいてもいいのだな!!?」

「お、おお?」

「どうなんだ!? 旅団を潰せば、私はここにいても良いのかと聞いている!!!」

 

 こう言ってアサクラに迫るジョージアの圧は、先程の命のやり取り以上の緊迫感が漂っている。プレッシャーに負けたアサクラは、チラとデイジー姫に視線を向けた。つられてジョージアもデイジー姫に視線を向け、アサクラに向けて発せられていたプレッシャーが、デイジー姫に向けられた。

 

「姫!! 今の話は真か!!」

「はい」

「旅団を潰せば、私はここにいても良いのだな!!?」

「この国の姫として約束します。その代わり、暗殺任務は忘れてくださいよ?」

「無論だ……ここにいられるのなら……バル太さまのおそばにいることが出来るのなら……ッ!!!」

 

 ジョージアの目つきが変わった。つい今しがたまでの、涙を浮かべた情けないへっぽこな眼差しではない。その少し前の、相手を死の暗闇に引きずり込む眼差しでもない。『何があろうとも、与えられた任務を完遂する』そんな、戦士の矜持を宿した決意の眼差しだ。

 

「では行ってくる!!!」

「今から行くのか!?」

「当たり前だアサクラ! すべては恩赦のため……バル太さまのおそばにいるため……ッ!!!」

「えっと……ジョージア、さん?」

「バル太さま! しばしお待ちいただきたい!! 必ずや、旅団を潰してご覧に入れるッ!!!」

 

 ジョージアはバル太に力強くそう言い放った後、力強く立ち上がり、そして厨房を走って出て行った。『ドバン』と鳴り響いたドアの音とともに、『うおぉぉおおおおッ!!! バル太さまぁぁぁぁああッ!!!』という、女性のものとは思えない、勇ましい咆哮が轟いていた。

 

 ジョージアの咆哮が遠く、聞こえなくなった頃だった。

 

「クックックッ……」

 

 デイジー姫の冷たい笑みが、厨房の中にかすかに響いた。

 

「姫……無謀です。旅団を一人で潰させるなど」

 

 立ち上がったバル太がデイジー姫をそう諌めるが、姫の凶悪な笑みは崩れない。

 

「大丈夫ですよ……ねぇアサクラ? クックックッ……」

 

 アサクラは頭痛が酷くなった頭を抱えた。

 

 悔しいが、ここはデイジー姫の言葉に賛成せざるを得ない……たった数分のみであったが、アサクラは本気のジョージアと対峙している。アサクラの戦士の本能は、その時に彼女の力量を正確に見抜いた。自分には及ばないものの、騎士団では部隊長を張れるレベル……ともすれば、バル太にも匹敵する強さ……それがジョージアの実力だ。

 

 バル太の実力は、アサクラも高く評価している。そのバル太と同程度の実力……であれば、いくら相手が武装集団とはいえ、そう安々と返り討ちに遭うこともないだろう。

 

 加えて、ジョージアは実戦経験が豊富だ。それらのことから考えて、ジョージアであれば、ある程度の組織を潰すことは容易い……それが、アサクラの判断だ。

 

 故に、自分と同じ評価をデイジー姫が下したことに、アサクラは怒りを感じていた。

 

「……クソッ」

「クックックッ……」

「お二人とも、どうされました?」

「クックックッ……将来の夫婦ゆえ、互いに心で会話が出来るのですよ私とアサクラは……クックックッ……」

「斬り殺す……この女、私が斬り殺す……ッ」

「はぁ……?」

 

 『まさかこの女が、私と同じ結論にたどり着くとは……』そう思い、胸の内に燃え上がる怒りと、それに突き動かされる右手を、アサクラは必死に抑えることしか出来なかった。

 



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7. チョコレートのテリーヌ(ビター)

 ジョージアが『あなたをひっくり返したくて旅団』を壊滅させて、一ヶ月が経とうとしていた。あの日、ジョージアは旅団のメンバー全員を生け捕りにするという人間離れの偉業を成し遂げ、無事にデイジー姫より、恩赦と、ここで料理人として働く許可を得た。そのため、ジョージアは今もアサクラの助手として働いている。

 

 とはいえ、人間にあるまじきぶきっちょのため、未だに料理はおろか包丁すら握らせてもらえない日々が続いているが。

 

「……なぁアサクラ」

「んー?」

「貴公は一体何を作っているのだ」

「テリーヌだ」

「テリーヌ……」

 

 見学中のジョージアの目の前でアサクラが真剣に作っているのは、チョコレートのテリーヌ。長方形の金属の型をひっくり返して中から皿にポトリと落ちたそれは、ビターチョコの苦味が効いた、大人向けのデザートだ。

 

 型から外れたテリーヌに、アサクラはココアパウダーをパラパラと振りかける。王専用の先割れスプーンを準備して、無事にテリーヌは完成した。

 

「しかしアサクラよ」

「ん?」

「こんな美味そうなもの……また姫につまみ食いをされるのではないか?」

「心配はいらん。今回あいつはつまみ食いは出来ん」

「なぜだ」

「見ていれば分かる」

 

 そんな会話が終わるやいなや、待ってましたとばかりにドカンとドアが開いた。

 

「アサクラっ!!!」

「!?」

「……」

 

 ドアの向こう側にいたのはデイジー姫だ。相変わらずのシルクのドレスに身を包み、湖のように美しく澄んだ眼差しを凶悪に歪ませ、二チャリと笑みを浮かべながら厨房へと足を踏み入れる。

 

「クックックッ……」

「ひ、姫ッ」

「頭を下げずともよいのですよジョージア。クックックッ……」

「また何かイタズラして逃げてきたのか?」

「正解ですアサクラ。さすが我が許嫁ですねぇ……」

「……否定するのも煩わしい……で? 今回はどんなイタズラだ?」

 

 別に興味もクソも湧いてないアサクラの質問に、デイジー姫は得意げに顎をクイッと上げながら答えた。なんでも今日は、バル太の儀礼用の鎧を純金製のそれにすり替えておいたのだとか……

 

「純金製なんて戦では何の役も立たんだろう……重いわ柔らかいわで、身に付けないほうが良い戦働きが出来るレベルで無用の長物だ」

「しかしアサクラ、あれだけの純金を集めるのには苦労したんですよ?」

「そんな苦労などわざわざ喜んでしょいこむものではない」

「純金加工この道50年のベテラン職人に作らせたのに……」

「だから熟練の技術の無駄遣いはやめろといったはずだぞ!!!」

「だって思いついたらチャレンジしなければ、人間としての成長は見込めませんよ!?」

「順調に成長してるのはお前の心の中に巣食う邪悪な部分だけだろうがッ!!!」

 

 おかげでバル太は着るのも一苦労、動くのも一苦労と、なにをするにしても通常時の10倍ぐらいのエネルギーが必要になってしまった。疲労困憊になったバル太は、先程疲れ切った様子で自室に戻っていったそうな。

 

「そうかー……バル太さまは今日は来られないのか……」

「ほらそこー。意気消沈せずにちゃんと私の調理を見学しろ」

「……」

 

 デイジー姫ががっくりと肩を落とすジョージアの隣にやってきて、優しくポンポンと肩を叩いていた。

 

「仕方ありません……今日は来ずとも、明日はきっとバル太もここにやってきます」

「ああ……姫、慰めていただけるのか……」

「ええ。なんせあなたも、大切なおも……げふん。仲間ですからね」

 

 そう言ってジョージアを優しく励ますデイジー姫だが、その間も凶悪な笑みは止まらない。

 

「ニチャア……」

「……」

 

 その様子を見て、アサクラのこめかみ辺りがズキンと響いた。この国に来てもう数年になるが、偏頭痛の持病など自分は患ってなかったはずだ……とアサクラは、自分の記憶を必死にたどっていった。

 

「どうしましたアサクラ? ニチャア……」

「いや……」

 

 ジョージアもジョージアだ。そもそもバル太がここに来ない原因は、他ならぬデイジー姫本人だ。それなのに、ちょっと優しい言葉で慰められただけで、もうデイジーへの警戒を解いてしまっている。

 

「姫……あなたは優しいな……」

「いえ。あなたがそんな言葉をかけるに値する、素晴らしい仲間だからですよ」

「姫……ッ!」

「ニチャア……」

「……」

 

 そんな二人の不毛なやりとりを見ながら、アサクラは思う。

 

「そろそろ薬師に頭痛薬を調合してもらう頃合いかもしれん……」

「どうした? 大丈夫か貴公?」

「頭は怖いですから気をつけてくださいよ?」

「十中八九お前らのせいだけどな」

「「?」」

 

 ひとしきりジョージアの肩をポンポンと叩き終わったデイジー姫が、調理台の上を見た。視線の先には、つい先程までアサクラが仕上げていたチョコテリーヌが置いてある。デイジー姫は右手を伸ばし、中指を突き刺そうとして……顔をしかめて止めた。

 

「?」

「う……っ」

「姫? どうされた?」

 

 肩のポンポンが終わったことに気付いたジョージアが、デイジー姫の変化に気付いた。

 

「今日はつまみ食いはなさらないのか?」

「だってこれ、チョコ……ですよね?」

 

 デイジー姫の額には、冷や汗がダラダラと垂れている。悔しそうに歯ぎしりをするその姿は、ジョージアの前では今まで見せたことがない。

 

「チョコが何か問題あるのか」

「私チョコ苦手なんですよねー。ちょっと苦いでしょ」

「ほら見ろ。今日のこいつはつまみ食いが出来ん」

「!? さてはアサクラ!! こうなることを見越してチョコのテリーヌを作ったんですか!?」

「いや王のご命令だ。『今日はビターチョコのおやつが食べたいよぅアサクラぁ』とおっしゃってな」

「もはや人とは思えないぐらいに似てませんよアサクラ」

「だな。嫌悪感を抱くレベルで似てないな。貴公、恥を知れ」

「いや別にモノマネをしたわけではないんだが」

「まったく……やるからには本人になったつもりでやりなさいよ。アサクラには幻滅しましたわ……」

「料理人が聞いて呆れる。そんなことでよく生きてこられたな貴公は」

「お前ら本気で斬り捨てるぞ」

「王族を亡き者にする罪は重いですよアサクラ?」

「……ッ!!」

 

 思いの外キツいダメ出しを受けたアサクラの頭が、心臓の鼓動に合わせてズキンズキンと痛む。このとき、アサクラは本気で今日の仕事のあとで薬師の元に頭痛薬を貰いに行こうと決めた。

 

 そうこうしているうちに、再び入り口ドアがガチャリと開く。この時間に厨房に訪れるのは、ただ一人。

 

「姫っ……! またしてもここに、いらっしゃったんですかッ!?」

「ぶぉ!? バル太ッ!?」「バル太さま!?」

 

 バル太が顔を見せるなり、二人の女性の対照的な声が厨房に響き、アサクラの鼓膜と頭痛に、致命的なダメージを与えた。純金製の鎧のせいで大層疲れが溜まっていたはずだが、今は顔色もよく、疲労の後は見えない。自分から無くなってしまった若さの威力を、アサクラは垣間見た。

 

「バル太さまっ!!」

「おおジョージアさん。どうです? 見習い調理師は順調ですか?」

「順調だ! アサクラにも大変よくしていただいている!!」

「そ、そうですか……なら、なにより……です」

「ああ! これも貴公らのおかげだ!!!」

 

 バル太に駆け寄り彼を見つめるジョージアの眼差しは、うるうるとうるおい、キラキラと輝いている。それは、確実に恋する乙女の眼差しだ。

 

「キラキラ……」

 

 バル太とジョージアの様子を見守るアサクラの瞳が呆れて白く濁っていくほどに、恋する乙女の眼差しである。

 

「……? おや?」

 

 バル太がテリーヌに気がついたようだ。まとわりついてくるジョージアを適当にあしらい、テリーヌを指差しながらアサクラに問いかけた。

 

「これ、今日の王のおやつですか?」

「……あ、ああ。今日はビターなチョコのテリーヌをご所望でな」

「姫は今日はつまみぐいはしてないのですか」

「そうなんですよ〜。ただでさえ苦いチョコのテリーヌなのに、ビターチョコなんかで作るものだから、私もつまみ食いが出来ないんです」

「仕方ないだろ王からのご命令なんだから」

「そこで『こんな苦いものなど作れませぬッ!!』て断ればいいでしょ」

「断る理由がない」

「あなたそれでも私の許嫁ですかッ!!?」

「違うぞ。断じて違う」

「まぁそれはそれとして……誰しも苦手なものはありますからね。俺も青臭くて苦いピーマンが食べられませんし……」

「なんだバル太はピーマンが苦手なのか」

「はい」

 

 バル太の『ピーマン苦くて食べられない』発言を受けて、ジョージアの瞳がキランと輝いた。

 

「私も苦手だ!!! ピーマンって、あの、さわやかで夏っぽいスッキリとした苦味がクセになって嫌だよな!?」

「は、はぁ……」

 

 そういいながらバル太に食らいついていくジョージア。その、どう聞いてもピーマン大好きのセリフにしか聞き取れない言葉は、傍で見ているアサクラの精神をさらに深みへといざなっていった。

 

「ところで、アサクラには苦手な食べ物はあるんですか?」

 

 デイジーも苦手な食べ物談義へと参戦してきた。いつも『苦いものが苦手だ』とアサクラにからかわれ、煮え湯を飲まされているからだろうか。

 

 今でこそ料理人として活躍しているアサクラなのだが、実は、そんな彼にも苦手で食べられない食べ物というものがある。

 

 アサクラは、味覚が完全に構築された大人になって、この国へと来た。この国には、アサクラの故郷であるヒノモトにはない食物もたくさんある。そういった、アサクラにとって慣れ親しんでいない食べ物は、実はアサクラはあまり得意ではない。

 

 そんなアサクラが苦手なものはセロリである。その香りの強さを『鼻がツイストする臭い』『あれは香りではない。警告だ』といい切るほど苦手である。

 

「言ったことなかったか? 私はセロリが食べられん」

「そういえば、アサクラが作る食事ってセロリが使われることは無いですね」

「だろう?」

「父もセロリが苦手ですから、その辺は父にとっては朗報ですね」

「その辺はありがたいな。おかげで王からのクレームもなく、毎日のびのびと仕事をさせていただいている」

「しかし……ぶふっ……」

「?」

 

 アサクラは自身の苦手なものを、至極真面目に話しているつもりだった。そのため、目の前にいる魔の災害生命体デイジー姫が、なぜ卑猥な眼差しでこちらを見つめながら、口を押さえて必死に笑いを押し殺しているのか、さっぱり理解が出来ない。

 

「ぶひゅぅっ……おふっ……」

「どうした?」

「いえ……いつもいつも私のことをお子様とかいって揶揄しているくせに、自分はセロリが食べられないんですか」

「ああ。他のものはたいてい大丈夫だが、セロリだけはな」

「いやーないわー。料理人ともあろう者が、他のものならまだしもセロリが苦手で食べられないとは……ないですわーアサクラぁ〜。あなたホントに料理人なんですか?」

「そういうふうに私をバカにするならお前の今晩の晩飯はビターチョコのフルコースだ」

「なっ!? 卑怯ですよアサクラっ!!! 食べ物を人質にとるとはッ!!!」

「それもこれもお前の食事の献立を握っている私に楯突くのが悪い。前菜はビターチョコで作った八寸とビターチョコのマリネ、メインディッシュはローストビターチョコのビターチョコソースがけ、飲み物はホットビターチョコ、極めつけのデザートにはビターチョコのソルベにビターチョコソフトクリームにしてやろう」

「……ひ、ひっ!?」

「喜べ。今日一日の食事で一生分のカカオを摂取出来るぞ」

「……大変申し訳ございませんでしたアサクラ。ですからビターチョコオンリーのディナーは勘弁してください許して下さいおねがいします」

「カッカッカッ」

 

 かくして、厨房はいつもどおりの喧騒がやいのやいのと鳴り響くこととなった。おかげで、アサクラ渾身のビターチョコのテリーヌが王の元に届けられたのは、おやつの時間を一時間ほど過ぎた時間帯になってしまっていた。アサクラが謁見の間に急いでテリーヌを運んだその時、王は、涙で玉座のアームレストをぐっしょりと濡らして嗚咽していた。

 

「アサクラ……予はね? ……ぐすっ……ずっと、待ってたんだよ……?」

「た、大変申し訳ございません……」

 

 そしてこれは余談だが、王が食べ残したテリーヌをデイジー姫が食べてみたところ、彼女はそれはそれは苦しそうな表情を浮かべ、悶えながら食べた……という情報を、アサクラはその日の夜、バル太から聞いた。

 

「ぐあッ……や、やはりこれは……食べられませんッ!?」

「ひ、姫ッ!? 大丈夫ですか!?」

 

 それでも自分が『食べる』とせしめた分は、デイジー姫はキチンと完食したそうな。普段の彼女なら『まずい! 食べられません!!!』といいそうなものだが、不思議と彼女は、自分が食べると言ったものに関しては、キチンと全部食べる。その点だけは、アサクラも評価していた。

 

「ヒー……ヒー……にがっ……もう、無理……ッ!?」

「姫もそんなに苦痛なら、食べずに残せばいいのに……」

「バカを言ってはいけませんよバル太……それでは、この国の姫としての威厳が……ガフッ!?」

「姫ぇえ!?」

 

 そんなふうに涙目で苦悶の表情を浮かべながらテリーヌを食べていたのなら、自分も見に行けば行けばよかった……そうすれば、あの災害レベルの問題女がむせび泣きながらテリーヌを食べるという前代未聞の光景を眺めることが出来たのに……アサクラはそう思った。

 

 



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8. いかそうめん

 季節は残暑が厳しい夏の終り。アサクラとジョージアが買い出しのために外を歩けば、セミたちが一行に向かって飛翔してきて、そのたびにジョージアが悲鳴を上げて逃げ惑う、地獄のような季節である。

 

 今日もアサクラとジョージアは、王とその家族……つまりデイジー姫のために、せこせこと食事を作っている。現在作っているのは夕食だ。

 

 この日アサクラは、ジョージアからひんしゅくを買うのもいとわず、この地方ではゲテモノと言っても差し支えない扱いを受けている、ある食材を仕入れていた。その大量に仕入れた魚介類を、今、アサクラはさばいているところである。

 

「……貴公」

「ん?」

「本気か……?」

「私はいつも本気だ」

「いやしかし……これ、化け物だろう……?」

「何を言うか。これはうまい食い物だ」

 

 横でドン引きするジョージアの目は気にせず、次々にその魚介類をさばいていくアサクラ。その包丁の刃には一切の迷いがない。

 

 アサクラがジョージアのひんしゅくも気にせず仕入れた化け物……それは、この地で『クラーケンの子供』と揶揄される海産物、スルメイカである。ちょうど夏が旬のスルメイカを、アサクラはわざわざ生きたまま大量に仕入れた。それらを使って、今日の夕食のメインはスルメイカのイカそうめんにしようというのが、アサクラの算段だ。

 

 ジョージアが顔をしかめる中、アサクラは実に鮮やかな手付きでイカをさばいていく。ゲソと胴体を分け、ゲソから墨袋を取り、胴体から耳を外して、皮を剥がしていく。その手付きは実に鮮やかだ。

 

「しかし貴公……これ、ホントにうまいのか?」

 

 そんなアサクラの鮮やかな手付きを、ジョージアは眉間にシワを寄せて眺めている。口を押さえて怪訝な顔を向ける。きっと心の中で、アサクラに対する不信が渦巻いていることだろう。

 

 そんなことはアサクラも分かっている。この土地ではイカは食べない。未知の食材には誰しもが及び足になるものだ。ましてや『怪物の子』などと揶揄されているものならば。だからアサクラも、ジョージアのこの態度を責めるつもりはない。

 

 だが、いくら腕がへっぽこといえど、ジョージアもいち料理人である。いずれは一人前に育ってほしい……そのためには、あらゆる食材を知り尽くす必要がある。そう考えたアサクラは、皮を剥がしたイカの耳を一枚、ジョージアに差し出した。

 

「……ん」

「……なんだ?」

「食ってみろ」

「いやだ」

「だめだ食え」

「なぜだ!? 私に化け物を食わせるとは一体どういうつもりだ貴公!?」

「いいから食ってみろって」

「……ハッ!? まさか貴公が三十路近くになっても結婚出来ない理由は、相方に化け物を食わせるというこの上なくハードコアな変態特殊性癖が原因だったのか……!?」

「お前のその変な方向に物事を妄想していく性癖は直したほうがいいぞ。いいから食ってみろ」

 

 アサクラから差し出されたイカの耳を、まるでばっちいものでもつまむかのように受け取るジョージア。イカの耳はキレイに皮が剥がれているため、透明に近い白色をしていてとてもキレイだ。

 

「……では……ふんうっ……ッ!!!」

 

 覚悟を決めたのか、グッと目を閉じて一気に口に含む。いやいやながらイカの耳を2、3回噛み締めたところあたりから、ジョージアの雰囲気が変わってきたことを、アサクラの眼差しは見逃さなかった。

 

「んー……?」

 

 しばらくの間、くにくにと口の中のイカの耳を堪能し、ジョージアはそれをごきゅっと飲み込んだ。その顔に浮かんでいたのは、戸惑いだった。

 

「……なぁ貴公」

「ん?」

「私の味覚はおかしくなったのだろうか?」

「どうしてだ?」

「クラーケンの子供がうまい」

「失礼なヤツだなお前は」

 

 どうやらジョージアもイカの美味しさに気がついたようだ。ホッとため息をついたアサクラは、引き続き目の前のイカをさばく作業に集中することにした。

 

 アサクラが、白に近い透明のイカの胴体を広げ、すいすいと細く切っていた、その時である。

 

「アサクラッ!!!」

 

 今日もデイジー姫が、毎度のごとくドアをドバンと開き、仁王立ちしていた。いつもなら鬼のような形相でアサクラの耳に怒声を刺してくるはずなのだが……今日は顔も穏やかだし、張り上げる声に緊張感も籠もっていない。

 

「お前か」

「ハッハッハーッ。今はお昼すぎ。勤勉なアサクラであれば、そろそろ夕食の準備でもしているだろう……ならば嫌がらせのチャンスと思い、厨房まで足を運びましたっ!」

「……今日の晩飯はお前だけ白米オンリーにするぞ」

「すみませんアサクラ様ごめんなさいもうしません許して下さい」

 

 といつもの通りの憎まれ口の叩きあいを行った後、デイジー姫はアサクラの手元をチラと見た。白く透き通ったイカの身が、アサクラの手によって極細のイカそうめんへと変わっていく様が見て取れる。

 

「おや。今日の晩ごはんはクラーケンですか」

「クラーケンて言うな。これはイカだと言ったろう?」

「イカだろうがタコだろうが、クラーケンであることに変わりはありませんよ?」

「なぜこんなうまいものを化け物というのか……お前らの文化は相変わらずわからん」

「とはいえ楽しみですねー」

「姫はクラーケンに拒否反応は示されないのか」

「はじめて見たときはドン引きしましたけどね。食べてみると意外と美味しいので、私は好きですよ。透き通っててキレイですし」

 

 そう言って、デイジー姫は舌なめずりをする。思い出の中のイカそうめんの味を反芻しているのだろうか。彼女の口は半開きにだらしなく開いていて、今にもよだれがたれそうになっていた。

 

 ここで、アサクラはフとあることに気付いた。

 

 いつもなら、デイジー姫がここに来るときは、いつもバル太にイタズラをやらかし、それが本人に見つかって逃亡を図っているときだった。

 

 それが今日は、どうやらまだイタズラを行っていないらしい。いつものように追い詰められて切羽詰まった様子もなければ、いつもならそろそろやってくるはずのバル太も今日はやってこない。

 

 アサクラの胸に、少しだけ不快な風が吹いた。アサクラが感じなくなって久しいこの不快感……これは、ヒノモトにいたときによく感じていたものだ。

 

「……姫」

「はい?」

「今日はバル太へのイタズラはどうした?」

「それが今日は忙しいらしいんですよねー。イタズラをしかけようにも、どこにいるかわからなかったんですよ」

「ほう……」

「それで騎士団の連中に白状させたら、どうも軍議が長引いているらしくて。今日はずっと姿を見せてないそうです」

「なるほど」

 

 アサクラの胸を抜ける風の勢いが、少し強くなった。バル太が出席している軍議が長引いている……その事実が何を意味するか、アサクラには心当たりがあった。

 

 そして、『バル太不在』の事実を聞いて、胸の内に気持ち悪い風が吹き抜ける人物が、ここにはもうひとりいる。

 

「そうか……バル太さまは今日はいらっしゃらないのか……」

 

 ジョージアである。がっくりと肩を落とし、うつむいて落ち込む今のジョージアからは、数分前にアサクラに楯突いていた勢いが微塵も感じられない。

 

「なんですかなんですか? バル太に会えなくて寂しいんですか? ニチャア……」

 

 そんなジョージアの様子を見て、デイジー姫の顔が醜く歪む。

 

「ああ……私は毎日バル太さまにお会いすることを楽しみにここに来ているからな……」

「あらー。完全に恋する乙女ではないですかジョージアぁー」

「ここにいれば、騎士団に入るよりもバル太さまのおそばにいられる……そう思って料理人になったのに……」

「おい。今なんか聞き捨てならない言葉を聞いた気がするぞ」

 

 そうである。実はジョージアは、あの『あなたをひっくり返したくて旅団』を一人で壊滅まで追い込んだ腕前を買われ、実は騎士団にスカウトされていたのだ。

 

 だがジョージアは……

 

――いや、私は料理人として雇われた以上、その職を全うするつもりだ

 

 と言い放ち、騎士団への加入を辞退して、料理人見習いとしてアサクラの下についた。

 

 ジョージアの言葉を聞いたとき、アサクラはジョージアのそのプロ意識の高さに関心したものなのだが……

 

「確かに、騎士団の下っ端にいるよりはアサクラの下で料理人としてここにいたほうが、バル太との接点は増えますからねぇ。世間話もしやすいし」

「ジョージアにとってこの厨房はその程度の存在でしかないのか……」

「まぁまぁ。愛する者ともっと仲良くなりたい……そばにいたいと思うのは、女の子の自然な気持ちですよアサクラ」

「姫……」

 

 と女心に理解を示すデイジー姫だが、そもそもこの女に女心というものがあったのかということ自体に、アサクラは驚いていた。

 

「そんなネタとしか思えな……げふんっ。純粋な理由でアサクラの下についた気持ち……私は理解していますよジョージア?」

「姫……恐れ多いッ!」

「これからも、その純粋な気持ちのまま、私のおも……げふんっ……このアサクラの元で料理人として頑張ってくださいね?」

「は、ははぁーッ」

 

 とこんな具合で、(表面上だけだが)デイジー姫はジョージアを励まし、ジョージアもそんなデイジー姫に尊敬の眼差しを向けていた。その様子を間近で見ているアサクラの頭に、偏頭痛というダメージを継続的に与えながら。

 

「……ッ」

「? どうしましたアサクラ?」

「貴公は頭痛持ちか」

「お前らのせいだと何度言えば分かる」

「「?」」

「……」

「それはそれとして……バル太さまが来られないのは寂しいものだ……」

「軍議が長引いてるから仕方ないですよねぇ」

「今日のところは我慢するしかないな」

「バル太さまぁ……しょぼーん」

 

 改めてがっくりと肩を落とし、うつむいて落ち込むジョージア。その八の字眉毛を見て、アサクラは笑いがふきだそうになるのを必死にこらえた。その隣では、同じくデイジー姫が口を押さえて笑いをこらえている。アサクラとデイジー姫……二人はまったく同じ動きで、ジョージアの不憫をあざ笑ってしまっていた。

 

「「ぶふっ……」」

「こらえきれてないぞ貴公ら」

「すまん……つい……」

「いや……あなたのことを思うと不憫で……ぶぶっ……」

「とても不憫に思っている者の反応ではないぞ姫……」

 

 ひとしきりジョージアの不幸をあざ笑った後、デイジー姫が急にキリリと顔を引き締めた。……その顔はアサクラから見ると、なにか良からぬことを企んでいるようにしか見えないが。

 

「ところでジョージア。あなたはバル太を待つだけなのですか?」

「待つだけ……とは?」

「言葉のままの意味です。あなたはただ、ここでバル太が偶然やってくるのを待つだけの女なのですか?」

「!?」

 

 ジョージアがハッとした。そしてその様子を見守るデイジー姫の口の端がほんの少しだけつり上がったことを、アサクラの目は見逃さなかった。

 

「つまり姫は……自分からバル太さまの元へ向かえと、そうおっしゃるのか!?」

「そのとおりですジョージア。たとえどのような障壁があろうとも、愛する男の元へ向かい、そして隣で見守る……それが女というものではないでしょうか」

「確かに……!!」

 

 確かに! ではない。まるで悟りを開いたかのように晴れ晴れとし始めるジョージアの顔に反比例して、アサクラの顔に虚無が広がっていく……。

 

「さぁ行くのですジョージア! 軍議がどこで行われているか分かりますか?」

「わからん! だがどうとでも調べられる!!」

「わかりました。ではあなたの気持ちを組み、あえて場所は教えません。……行きなさいジョージア!!! 愛するバル太の元へとッ!!!」

「ああ! 礼を言わせていただくぞ姫!!! あなたに言葉をかけられなければ、私はここでバル太さまを待ち続ける弱い女のままだった!!!」

 

 そう言うやいなや、深々とデイジー姫に一礼したジョージアは慌ただしく厨房から出て行った。あとに残ったのは、ニチャリといやらしい笑みを浮かべるデイジー姫と、ただひたすら虚無を浮かべるアサクラの二人のみだ。

 

「……姫」

「何ですか? ニチャア……」

「たとえ腕がたつといえどもジョージアは料理人だ」

「ですねぇ。ニチャア……」

「そんなあいつが、軍議に参加出来るのか?」

「出来るわけがないでしょうねぇ。ニチャア……」

「……」

 

 十数分後。意気消沈して肩をがっくりと落としたジョージアが力なく厨房に戻ってきた。そのさまを見て、デイジー姫が再度吹いたのは言うまでもない。

 

「姫……ダメだった……」

「ぶふっ……!!」

「軍議に参加出来るのは騎士団の部隊長クラスと大臣、そして議員だけだそうだ……」

「……一般人のお前が軍議に参加できると、お前は本気で思ったのか」

「まさか……だがその障壁を乗り越えてこそ、バル太さまのおそばにいられると思ったのだ……」

「……」

「アカン……おふっ……!!?」

 

 ジョージアから聞くところによると、軍議が開かれている会議室はすぐに分かったそうだ。その会議室前には見張りは特になかったらしく、安々と会議室に入ることが出来たとのことだ。

 

『バル太さま!!!』

『『『『『『!!?』』』』』』

『!? ジョージアさん!!?』

『このジョージア、もはや厨房でただあなたを待つことなど出来ぬ!!! あなたのおそばに、一秒でも長くッ!!!』

 

 そう言ってバル太の隣に行こうとしたところ、衛兵に捕らえられ、会議室から追い出されたとのことだ。

 

「お前、正々堂々としすぎだろ……?」

「私の覚悟をバル太さまに知っていただきたかったのだ。キリッ」

「やっばい……この子おもしろ……ぶふっ……ッ!?」

 

 キリリと顔を引き締めるジョージアの顔は、アサクラの心に塞ぎ難い空虚な穴を開けた。

 

「……」

「……貴公どうした?」

「いや……あとで上長の私の元に苦情が来そうでな……」

「?」

「ブフッ……ふぅ……ジョージア? キリッ」

 

 デイジー姫が落ち着いたようだ。再びキリリと顔をさせ……口の端っこが少しだけつり上がっているが……ジョージアの顔を見る。その眼差しはまっすぐにジョージアを射抜いており、見るものが見れば、その美しい眼差しに心奪われるであろう。その眼差しの真意に、アサクラは気付いているが……

 

「ジョージア。まさかこれで終わりではありませんよね?」

「もちろんだ」

「では今度は追い出されないような作戦を考えましょう。そうですね……差し入れとかどうですか?」

「差し入れ?」

「ええ。軍議も長くなってきました。ここらで厨房からの差し入れと称してなにか食べ物を持っていくということにすれば、バル太のそばにいられるのではないですか?」

「確かに……!!」

 

 酷いデジャブがアサクラを襲う。先程の悲劇がふたたび繰り返されるのかと、アサクラは質量が増加した自分の頭を抱えた。

 

「アサクラ!」

「なんだジョージア……今日も頭痛がひどい……」

「バル太さまのために何か作ってくれ!!」

「お前らの無謀な作戦に私を巻き込もうとするな」

「では私は一体何を持っていけばよいのだ!!?」

「知らん! 自分で作れよお前だって料理人だろうが!」

「貴公だって私の料理の腕は知っているだろうが!!!」

「……ジョージア。一つだけすべてを解決出来るすべがあります」

「!? ホントか姫!? 教えてくれ!!」

「……あなた自身が差し入れになることです!!!」

「!?」

 

 あまりに訳のわからないデイジー姫の提案に、アサクラは言葉の真意を問いただそうとしたのだが……

 

「それだ……!!」

 

 ジョージアのこの言葉を聞いて、アサクラは考えることをやめた。二人の中で共通認識があればそれでいい……自分が巻き込まれなければそれでいい……今、アサクラの心はすべてへの諦めが包み込んでしまっていた。

 

「ジョージア……あなた自身が差し入れになれば、軍議の出席者も認めざるを得ないでしょう。頭にかわいいリボンでも巻いて、『私が差し入れです!!!』とでもいえば、バル太も喜ぶに違いありません!」

「なるほど! 姫は冴えている!! さすが姫だ!!」

「……今日はいい天気だなぁ」

「では行きなさいジョージア!! 愛する男、バル太の隣で幸せを手に入れるために!!」

「分かった行ってくる!!!」

 

 そうして、再び気力を取り戻したジョージアは、力強い足取りで厨房から出て行った。

 

 そんなジョージアの背中を見送るアサクラとデイジー姫。姫は相変わらず凶悪な笑みを浮かべ、アサクラは先程以上の虚無を身にまといながら。

 

「……なぁ姫よ」

「なんですか。ニチャア……」

「あいつで遊ぶのもほどほどにしてくれないか」

「自分で考えることもせず、私の言うことを鵜呑みにする方が悪いのです。ニチャア……」

「……」

 

 十数分後、頭に真っ赤でポップで大きなリボンを巻いたジョージアが、意気消沈して戻ってきた。

 

「ダメだった……」

「ダメ……ぶっ……でしたか……んっく……」

「……」

 

 アサクラはもはや言葉をかける気力すら無くなってしまった。ただひたすら、無表情でジョージアを見守ることしか出来なかった。その、どう贔屓目に見ても似合っているとは言い難いポップでキュートなリボンが、アサクラの心を沈痛へといざなう。

 

 一方のデイジー姫の方はと言うと、もはや吹き出すのを隠してすらいない。がっくりと肩を落とし、八の字眉毛で泣きそうな表情を浮かべるジョージアを見ながら、ぶふぶふと吹き出してしまっている。その様子は、アサクラの脳裏に、厩舎で飼っている可愛らしい子豚を彷彿とさせた。本人は可愛らしくなどないが。

 

 意気消沈しているジョージア曰く……一度自分の部屋に戻り真っ赤なリボンを頭につけた彼女は、再び会議室に向かいドアを勢いよく開いたそうだ。

 

『バル太さま!!!』

『『『『『『『!!?』』』』』』』

『ジョージアさん!? また来たんですか!!?』

『バル太さま!! 長い軍議でそろそろお疲れのはずだ!! そこで、あなたに差し入れを持ってきた!!!』

『さしいれ……? でも、そんなのどこにもないですが……?』

『いや、ある!』

『?』

『私だ!! 私自身が差し入れだ!!!』

『は!?』

『さあ食べろ!!! 私を貪り食え!!!』

 

 そんなやりとりのあと、ふたたび駆けつけた衛兵たちによって軍議から叩き出されたと、ジョージアは泣きそうな顔を答えていた。

 

「ちょっと……おもしろすぎでしょ……ぶふっ……!!」

「……ちなみに、バル太自身はどんな顔をしてた?」

「ドン引きしていた……」

「当たり前だろうか! もっとちゃんと考えろ!!! なぜ常識的に考えないのだ!!!」

「だって……こうすればバル太さまも喜ぶと思ったからやったのに……」

 

 アサクラの叱責が少し効いたのか、ジョージアは八の字眉毛のまま、口をとがらせこう答える。

 

「ぶふっ……ジョージアさん……オフッ」

「姫……申し訳ない……せっかくあなたは色々考えてくださっているのに、私が不甲斐ないばかりに、そのチャンスをことごとくフイにしている……」

「いえ……んっく……あなたのそのくじけない心は、私もおもしろ……げふんっ……尊敬していますよ?」

「姫……!!」

「んっく……」

「……」

 

 アサクラは二人を理解することをやめた。先程から強い虚無感を胸に秘めるアサクラの耳には、そろそろ二人の言葉が届かなくなってきたらしい。二人が何かを話していることは分かるが、それが何を意味しているのかさっぱりわからないからだ。

 

 今、アサクラから見たデイジー姫とジョージアは、ちょうど猫のコロニーで何かを話し合っている猫たちに似ていた。何かを話し合っていることは分かるが、猫語がわからないゆえに、猫たちが何を話しているのかわからない……

 

「もう一度よく考えましょう。何をすればバル太が喜ぶのか。ニチャア……」

「そうだな。……おいアサクラ。殿方がうれしいことって何だ」

「……」

「? 何を呆けているのだ?」

 

 そんな状況に陥っているため、ジョージアが自分に語りかけていることに気づくのに、若干のタイムラグが必要だった。ジョージアから声をかけられたアサクラは、数秒ポカンと口を開けたままジョージアを見つめたあと、ハッとして口を開いた。

 

「……私を巻き込むなと言ったはずだぞ」

「お前は困り果てる部下を助けようとは思わんのか」

「酷い上司ですねアサクラ。そんなことではジョージアを安心して預けることは出来ませんよ?」

「そんな心づもりで部下を導くなど聞いて呆れる。恥を知れ貴公」

 

 だが、やっと会話の意味がわかったと思えば、自身に降りかかる火の粉を払っただけでこの言われよう……アサクラの心に、かつて無いほどの怒りがこみ上げてくるが、そこはグッとこらえる。

 

 物理的に無理なことを提案すれば、二人は諦めるかもしれない……アサクラはそう思い立った。

 

「そうだなぁ……膝枕して耳掃除とかしてやれば、バル太も喜んでくれるかもしれんぞ?」

 

 そう言えば、『それは無理だな』『仕方がない諦めよう』となるかもしれない……そんな淡い期待を込めたアサクラだったのだが……

 

「はぁー……軍議の最中に膝枕なんか出来るわけがないではないですかアサクラぁ」

「そうだぞ常識で考えてみろ。軍議の最中に女から膝枕だなんて、お前はバル太さまに恥をかかせる気か」

「!?」

「そもそも耳の中を掃除するなど聞いたことがありません。人に自分の耳の中を触らせるだなんて恐ろしくてできませんよ」

「一体どんなどえむプレイだ。これは貴公の趣味なのか。貴公はとんだ変態だな。まぁクラーケンのような化け物を人に無理矢理食べさせる時点で、常識はずれの凄まじいハードコアな変態であることは分かっていたが……ハァ……」

「耳掃除を提案しただけでまさかそこまで罵倒されるとは思わなかった……」

「まったく……百歩譲って変態なことには目をつむりますから、アサクラももっと真剣に考えてくださいよ」

「そのとおりだ。恥を知れ貴公」

 

 まさかここまで罵倒されるとは思ってなかった。これ以上は何を言っても無駄だと、アサクラは心を閉ざした。

 

「……そういえば、聞いたことがあります」

「何をだ、姫?」

「男の人は、出世をして成り上がっていくと、そこはかとない喜びを感じるものだと……!!」

 

 しかしいくら心を閉ざしたアサクラではあっても、ふたりの不毛なやりとりは嫌でも耳に入ってくる。このやり取りを聞いたとき、アサクラの心に、薄ら寒い木枯らしが吹き始めた。自身の膝枕から耳掃除のコンボはあれだけ否定されたのに、それ以上に不可解で意味のわからない提案がなされるとは……

 

「確かに……!!」

 

 そしてそれに同調するジョージアの一言も、アサクラの心のささくれをさらに逆撫でした。その痛みは、アサクラの胸にズキズキと鋭く刺さっていく……。

 

「確かに殿方は出世がうれしいと聞くな!!」

「そうでしょう? ここでバル太を出世させれば……」

「バル太さまは喜んで私を軍議に招き入れてくれる……そういうことだな姫よ!?」

「そのとおりです! そのとおりですジョージア!!」

 

 二人のそんな威勢のよい会話が聞こえてくる。もはや心を閉ざしたアサクラには、それらがどこか遠い世界から聞こえる、別世界からのノイズのように聞こえた。

 

「では行ってくる!! バル太さまをすぐに出世させればよいのだな!!」

「そうです!! がんばりなさいジョージア!!!」

 

 そして、三度繰り返されたそんな不毛なやり取りの後、ジョージアはまたもや力強い足取りで厨房を後にした。その様を見守るデイジー姫がニチャリと凶悪な笑みを浮かべる。そしてアサクラの心にはもはや秋風ではなく冬のごとき不毛で冷たい風が吹きすさんでいた。

 

「クックックッ……ニチャア……」

「ジョージア、何をするつもりなんだろうなぁ……」

「わかりませんねぇ……クックックッ……」

「……」

 

 その数十分後、意気消沈して肩をがっくりと落としたジョージアが、トボトボと厨房に戻ってきたのは言うまでもない。その姿を見たデイジー姫は、三度吹き出す笑いをこらえ、アサクラはこの世の悪意に蝕まれていく自身の心の悲鳴を感じずにはいられなかった。

 

 ジョージアが何をしたのか……それをアサクラが知るのは、深夜になってからのことだった。

 



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9. 手作りパン

 夕食も終わり、デイジー姫が眠りについたその日の深夜のことである。

 

 『明日は焼きたてのパンが食べたい』そう思ったアサクラは、夜中のうちにパン種を仕込んでおくべく、厨房にいた。

 

 強力粉や牛乳、バターや卵などによって出来たパン種をこねる。元々が兵士だったアサクラの屈強かつしなやかな手によって、ボソボソだったパン種がまとまっていき、やがてひとかたまりの大きな種になった。アサクラは昼間の不毛な出来事を忘れるため、一心にパン種をこねた。

 

 不意に、厨房にノックの音が鳴り響いた。

 

「誰だ」

 

 アサクラが静かに問いかける。その問いに答えることなく、キイと静かにドアが開いた。

 

「……アサクラ様」

「バル太か」

 

 ドアの向こう側にいたのはバル太だった。鎧は着ておらず、騎士団の平服を着込んでいる。バル太は何も言わず厨房に入り、腰掛けに腰を下ろした。

 

「今日は疲れました……」

「ずっと軍議だったらしいな。変な来客があったからだろう。すまなかった」

「あなたのせいではないでしょう。確かにジョージアさんには驚かされましたけど」

「まぁ、なぁ……」

 

 ひとしきり笑い合う二人。バル太の笑顔が、心持ち影を落としているように、アサクラには見えた。軍議で疲れたのだろう……準備したお茶をバル太に差し出しながら、アサクラはそう思った。

 

「しかし驚きました。まさか3回もジョージアさんが乱入してくるとは」

「バル太に迷惑はかからなかったか?」

「大丈夫です。皆、気のいい連中です。笑ってくれました。ただ、3回目だけはその笑いも引きつってましたけど」

「……やつはなにをやらかした?」

「『貴公を出世させてやる! 手始めに騎士団長だ!!』といいながら剣を抜きました。団長を亡き者にすれば、繰り上がりで俺が団長になると踏んだのでしょう」

「あのアホ……」

「気持ちはうれしいのですが……彼女には、もうちょっと常識的に振る舞って欲しいものです」

「素直に“迷惑だ”と言ってもいいんだぞ」

「それはさすがにいいすぎですよアサクラ様」

 

 アサクラから受け取ったお茶を、バル太は静かにすする。ホッと一息ついているところを見ると、軍議は相当に長く、そして負担が大きかったようだ。故郷のヒノモトでは領主の家臣団の一員として軍議に出る立場だったアサクラには、それが手にとるように理解できた。

 

 アサクラはそのまま、パン種の仕込みを続けた。アサクラから見て、バル太が何か言い辛いことを言おうとしていることは分かっている。なら、自分はパン種を仕込み続けたほうが良い。その方が、バル太も口を開きやすかろう……そう判断したのだ。

 

 そしてアサクラのその判断は、間違ってなかった。

 

「……アサクラ様」

 

 ポツリと口ずさんだあと、バル太は疲れた笑みを向けながら、言いづらそうに口をもごもごと動かした。

 

「どうした?」

 

 パン種をこねながら、アサクラは静かに問いかける。言うか言うまいか……そんな二択を選びそこねているように、バル太は口をもごもごと動かすだけだったが……やがて心を決めたように、バル太は静かに、しかしハッキリと、こう口にした。

 

「戦争になるかもしれません」

 

 その言葉を聞いた瞬間、アサクラの手は、パン種をこねるのを止めた。

 

「……本当か」

「ええ。ジョージアさんがここに来た元凶の旅団、覚えてますか?」

「ああ。確か『あなたをひっくり返したくて旅団』だったか」

「はい。商店街へのイタズラすら困難を極めるあの旅団が、なぜジョージアさんを城に派遣出来たのか、やっと理由が分かりました」

「ほう。……しかし、それを一介の料理人の私に話してもいいのか?」

「ご冗談を。その気になれば、俺はおろか騎士団長すら安々と斬り伏せることが出来るあなたが……」

「買いかぶりすぎだ」

「そうしておきましょうか。大丈夫です。俺も副団長です。それぐらいの権限は持っています」

 

 『あなたをひっくり返したくて旅団』は、バル太が先日説明を行ったとおり、商店街への嫌がらせすら困難を極めるほどの超弱小組織だ。人員も規模も、そしてその運営資金も微々たるものだ。

 

 一方で、ジョージアは凄腕の傭兵である。どのような契約で旅団と手を組んだのかは知らないが、彼女を雇うのは、旅団のような超弱小組織の資金力では難しいだろう。無論、ジョージアにも事情聴取は行ったが、資金源までは彼女も把握していなかった。

 

 旅団には、必ず後ろ盾がある……ジョージアの騒動からこっち、バル太率いる騎士団はずっと調査を行っていた。そして……

 

「アサクラ様。あなたは極東の方ですが、この国周辺の地勢はご存知ですか?」

「あまり知らんな。この国に流れ着いてからはずっとここで料理をしていたし」

「我が国の東に、マナハルという国があるのは?」

「商店街で話題に上がる程度だな。あそこのナツメヤシが美味しいと噂だ」

「大きな国です。ですが我が国との交流は無いに等しい。人的交流も少なければ、経済的なつながりもない。本当に、タダの隣国……我が国から見たマナハルとは、そんな国です」

「……」

「旅団の後ろ盾を探っていたところ、マナハルの王家が旅団に多額の資金援助をしていたことを突き止めました。マナハルは、我が国の内政を突き崩そうとしたのです」

「……」

「マナハルは、我が国にとって敵性勢力です」

 

 お茶を見つめながら、微笑みを浮かべるバル太。その笑顔は、疲れが隠しきれていない。

 

 そもそも、この国の行政の中枢が軍議を行っているという事実が、アサクラにはどうしても気になっていた。何か国家の重大な問題が起こったのではないだろうか……アサクラが昼間感じていた不安感の正体は、実はこれであった。

 

「……王はご存知なのか」

「ご存知です。先程報告を上げました」

「何と言っていた」

「『民の生活を守ることを第一に』とおっしゃっていました」

「言っている姿が目に浮かぶ」

「ええ。アサクラ様が想像している通りのお姿だと思いますよ」

「だろうな」

 

 二人で声を揃え、クククと笑う。二人は王が好きだ。いやこの国の人間が皆、あの、情けなくて何も出来ない、でもそれでいてとても優しく人懐っこい王のことが好きなのだ。

 

「バル太」

「はい」

「私は、極東ですべてを棄ててこの地に来た。理由は分かるか」

「分かりません」

「戦ですべてを失ったからだ。守るべき主君も、愛すべき民も……家も、家族も、仲間も……何もかもを失った」

「そうだったんですか……」

「だから私は、ここに来た」

「……」

「言ってみれば、これは売られた喧嘩だ。我々自身の生活を守るため、避けられぬのなら刃を交えるだけだが……」

「……」

「戦は、嫌だな」

 

 そこまで言うと、アサクラは再びパン種をこね始めた。先程までと同じ手付きでこねるアサクラの頭の中には、かつてのあの苦い思い出が何度も再生されていた。

 

――すまぬ……そなたにおはぎをつくってやることは……もう、叶わぬ……

 

 そんな彼女の声が、何度も何度も繰り返される。故郷のヒノモトを離れてから何度も繰り返された幻聴。

 

 その声はアサクラの心に焦燥感を植え付けた。あの日……アサクラ自身がすべてを失ったあの大きな戦の日と同じことが、ひょっとすると、新しい故郷とも言うべきこの地でも起きるかもしれない。あの日の悲劇が、この地でも繰り返されるのかもしれない。

 

 繰り返すわけにいかない。すべてを失いすべてを棄てたあの苦い思いを、もう一度味わいたくない。

 

 なにより、愛すべき王に気のいい仲間……この地には故郷と同じく、失いたくないものがたくさんある。それらを再び失いたくない……

 

 だが、かつて守りたいものを守ることが出来なかった自分に一体何が出来るというのか……おのが主君も家も親友も、そして守りたかった幼馴染も……何一つ守ることが出来なかった自分に、一体何が出来るのか……この、アサクラの胸に渦巻く悔恨にも似た疑問は、その後しばらくの間、アサクラの心を蝕み続けた。



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10. おはぎ(2)

※過去の回想です


 朝倉には、『亜矢』という名前の幼馴染の女性がいた。歳は朝倉よりひとつ年下。意思の強そうな相手をキッと刺す眼差しが印象的な、つやつやと美しい黒髪の女性だ。

 

 頭領である小田信義の娘であった亜矢は、幼少の頃より朝倉とともに徳山景能から武芸を習い、幼少の頃から朝倉と共に兄妹のように育てられた。

 

『のうあさくら?』

『なんだ』

『お主、思いを寄せるおなごはおるのか?』

『おらんな』

『ではお主に言い寄ってくるおなごなぞは?』

『それもおらん』

『武芸一辺倒で汗臭いお主なぞ、もらってくれるおなごはおらんだろうなぁああ!! ザマミロあさくらぁぁぁああ!!!』

『お前だって私と同じだろうが! 汗臭いおなごなぞ、貰い手がおらぬぞ!!』

『私は小田家の跡取りぞ? お主が心配せずとも、ちゃんと将来は良き夫と夫婦になるわ!』

 

 稽古のあとのそんな軽口からの口喧嘩が、まだ幼かった二人の、毎日の日課だった。

 

 そんなある日のことだった。その日亜矢は稽古に顔を出さなかったため、朝倉は一人で稽古を行った。

 

 その稽古も終わり、井戸でその汗を流した後。

 

『あさくら、あさくらっ』

『ん? 亜矢か。どうかしたか』

 

 これから自身の屋敷に戻ろうとしていた朝倉を、亜矢が呼び止めた。台所から朝倉をちょいちょいと呼び止める亜矢は、たすきがけをしていて、額にはうっすら汗をかいている。

 

『ちょっとこっちくるのじゃ。あさくらっ』

『おわっ!? なにをするッ!?』

『いいからっ!』

 

 そんな亜矢に突然に手を引っ張られ、朝倉は小田家の屋敷の台所に引きずり込まれた。台所には湯気が立ち込めていて、つい今しがたまで、誰かが調理をしていた様が見て取れる。

 

 朝倉は引きずられ、台所のかまどの前に立たされた。一方の亜矢は、朝倉をその場に残すと、そばの調理台にある何かが乗った皿を手に取っている。何事かと朝倉が戸惑っていると、亜矢はその手の皿を後ろ手に隠し、朝倉の元まで戻ってきてニシシと白い歯を見せて笑った。

 

『のうあさくら? お前は、いつも稽古をがんばっておるのう?』

『おあ? ああ。将来は信義様にお仕えせねばならんし、なにより、朝倉家を再興せねばならんしな』

『立派な心がけじゃ。この私、小田信義の娘である亜矢が、直々に褒めてつかわす』

『お、おう……』

『ほれほうびじゃ! よう味わって食え!!』

 

 そういって、亜矢はニシシとほほえみながら、隠していた皿を朝倉に見せた。その皿に乗っていたのは、2つのおはぎ。2つとも形はいびつで妙に大きく、とても無骨で拙い出来だ。

 

『これ、亜矢が作ったのか?』

『そうじゃ! 日頃がんばっておるあさくらをねぎらうためにな!』

『……』

『がんばる家臣にはほうびを取らす……これも主君の務めよ! 遠慮はいらぬぞあさくらよ。よう味わって食え!!』

 

 そう言って、亜矢は得意げに笑っている。お世辞にもキレイな出来とは言えないおはぎを、朝倉の前に差し出しながら。

 

 そのおはぎを一つ、朝倉はうやうやしく手に取り、口に運んだ。ばくっと口に入れ、丁寧に咀嚼する。

 

『どうじゃあさくらっ? どうじゃどうじゃ?』

 

 もっきゅもっきゅとおはぎを咀嚼するその朝倉の目の前では、亜矢がウキウキしながら具合を聞いてくる。グイグイと朝倉に迫り、おはぎを味わう朝倉に強大なプレッシャーをかけつづけながら。

 

 ほどなくして、おはぎを味わった朝倉は……

 

『……ぶっさいくなおはぎだ』

 

 と吐き捨てるように言った。

 

『なんじゃと!?』

『ぶっさいくだと言った』

『せっかく……私が作ったおはぎなのに……ッ!!!』

『だがうまかった』

『へ……?』

『こんなうまいおはぎを食ったのは初めてだ。大きくて食いごたえもある。また食いたいな』

『そっか』

『また作ってくれないか? この、ぶっさいくだが旨くて亜矢らしい、とてもうまいおはぎ』

『……』

 

 朝倉自身は、特に他意もなく、素直に感想を述べたつもりだった。稽古のあとで腹が減っていたというのもあったのかもしれないし、疲れたときは、甘いものが食べたくなる。

 

 しかしそれを差し引いても、朝倉にとって、亜矢が作ってくれたこのおはぎはうまかった。みかけは無骨でぶっさいくだが、あんこの甘さはちょうどよく、ごはんとのバランスも抜群に良かった。だから、また食べたい……朝倉は、そう思ったのだ。

 

 そんな素直な感想を聞いた亜矢はほっぺたを赤く染め、顔中をほころばせた。

 

『なぁ亜矢よ』

『!? な、なんじゃ!?』

『顔真っ赤だぞ』

『……ッ!?』

 

 朝倉に指摘され、亜矢は慌てて後ろを振り向く。そのため、朝倉からは彼女がどんな顔をしているのかがさっぱりわからない。

 

『う、うるさいたわけめっ!!』

『?』

『し、しかし……しかたないのう……そんなにうまいと申すのなら、また作ってやるわい!!』

『ホントか! ありがとう!!』

『し、しかしあさくらよ! 一つだけ約束じゃ!!』

『ほ?』

『もし、私のおはぎを食べたいのなら、ずっと私のそばにおれ! 私の父に仕え、常に私をとなりで支えよ!!』

『……まぁ、かまわんが』

『ほ、ホントか……?』

『どちらにせよ今も似たようなものだし、多分ずっとこうだ。だから、たとえお前が嫌だと言っても、私はお前のそばにずっといることになると思うぞ』

『そっか……そっか……!! では、またお前におはぎを作ってやらねばな!!』

『ああ。うまいおはぎを頼む』

『ふふ……そっかぁ〜……あさくらは、私の隣にいてくれるか……』

『亜矢?』

『ニシシ……』

『?? ???』

 

 こうして二人は、終生の主従を誓い合った。これは、2人が大人になり、朝倉が小田家家臣団の一員となった後も、ずっと続いていた。

 

 それは、ある日の長い軍議が終わった後のことだった。頭領の小田信義の粋な計らいで、その日、小田家の屋敷にて、家臣団全員に最高級の落雁が2つ振る舞われた。

 

 だが、朝倉に振る舞われたものだけは、皆と違っていた。

 

「……朝倉よ」

「なんだ」

「なぜ、お主の菓子は落雁ではないのだ」

「……」

 

 家臣団になった朝倉の親友、今河正澄が朝倉に問いただす。13人いる家臣団の中でただ一人、朝倉だけは落雁ではないからだ。

 

 朝倉の目の前の膳に並べられている菓子……それは、一つが手のひら大ほどの大きさのある、えらく形が不格好なおはぎが2つだった。

 

「……これが、私への褒美のようだ」

 

 目の前のおはぎを、朝倉はじっと見つめる。食べなくても朝倉には分かる。このおはぎは、亜矢が作ったものに違いない。この、えらく大きくてぶっさいくだが……見ているだけで、亜矢の笑顔が目に浮かぶおはぎは。

 

「ほう……朝倉」

「ん?」

「顔をあげよ。障子のところだ」

 

 朝倉は顔を上げ、閉じられた障子を見た。正澄も障子を見た。障子はほんのりと隙間が開いていて、その向こうでは……

 

「じー……」

 

 亜矢がこちらを覗いて、じっと息を潜めていた。朝倉を見つめ、いつおはぎを食べるのかが、気になって仕方がないのだろうか。

 

「「……」」

「じー……」

「……なぁ朝倉」

「なんだ正澄」

「はよう食ってやれ。姫のあの様子、見ておれん……」

 

 半ば呆れ気味に正澄がそう促す。朝倉が仕方無しにおはぎを口に入れたところで、障子の向こうの亜矢が『ふぁ……』と声を上げていた。

 

「もっきゅもっきゅ……」

 

 朝倉は丁寧に咀嚼する。そして充分に味わった後、

 

「……うまい」

 

 朝倉はそう口ずさみ、満足そうにうなずいた。表情も自然とほころんでいる。

 

「満足げだなぁ朝倉よ」

「実際にうまいからな。見てくれはぶっさいくだが」

「羨ましい限りだ」

「正澄も一つ、食ってみるか?」

「……いらん。俺が食っては、姫に申し訳が立たんでな」

「遠慮せず食えばいいだろう。あいつに義理立てしてもどうにもならんぞ」

「お前はそう言うがなぁ……見てみろ朝倉」

 

 正澄は顎を動かし、障子の向こうを見るように促す。朝倉も素直に障子の向こう……亜矢の様子を伺うと……

 

「むふー」

「……」

「……」

「あさくらっ。今日も私のおはぎを食って、笑うてくれたっ。むふー」

 

 こんな感じで、満足げにうなずく亜矢の笑顔があった。おそらく、亜矢本人は、自分の姿が2人に丸見えなのは気付いていないのだろう。鼻の穴を広げてそこから水蒸気をぷすーと吹き出さん勢いの亜矢は、これ以上ないほどの間抜け面に、朝倉には見えた。

 

「間抜け面だなぁ……」

「姫があのような顔をしている以上、そのおはぎは朝倉が全部食うべきだ」

「気にせんでもいいだろうに……」

「時に朝倉。お主と姫は、幼馴染と聞くが」

「腐れ縁でな。あの頃から私にはよくおはぎを作ってくれる」

「……喜べ朝倉」

「何をだ」

「小田はもちろん、朝倉も安泰だ。朝倉家の再興が悲願であるお主には、朗報であろう」

「言ってる意味がさっぱりわからん……」

「だとしたらお前は、朴念仁というやつだな」

「うーん……」

 

 二人の視線が、自然に障子の向こう側へと向かう。

 

 障子の向こう側からは……

 

『姫! 小袖でそのように小走りされるとは、はしたないですぞっ!!』

『んふふ~ あさくらがっ! 今日も笑顔でうまいと言うてくれたのじゃ~』

 

 そんな、亜矢の楽しげな声とドスドスという足音、そして小姓だろうか……亜矢を窘める者の声が聞こえている。

 

 朝倉がフと隣を見ると、正澄が意味深にほくそ笑んでいた。

 

「なんだ正澄……」

「いや、姫お手製のおはぎは、さぞうまかろうと思ってな。ニヤニヤ」

「……」

 

 意味のわからない正澄のニヤニヤ顔に、朝倉は、ただ不快な気持ちを大きくさせるだけだった。そんな、幼馴染と親友に恵まれた充実した毎日を、朝倉はヒノモトで過ごしていた。

 

 これは故郷ヒノモトでの、朝倉にとって懐かしく、少し苦い思い出である。朝倉がこの地を捨てるのは、それからしばらく経って勃発した、西の有力大名の泉澤との戦の後の話となる。

 

 



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11. 生チョコ

 バル太とアサクラが夜の会話を行った翌日。この日もバル太は軍議で忙しく、厨房に顔を出すことはなかった。おかげで、ジョージアに元気がない。

 

 アサクラは、夕食に使用する鶏肉の下処理を行っていた。筋を切り、厚さを半分にしていくその流れは美しささえ感じるほど手慣れたものだが……一方のジョージアはと言うと……

 

「ずーん……」

「おいジョージア」

「なんだ……ずーん……」

「元気だせ。仕事をしろ」

「やっている……」

 

 そんなジョージアの言い訳が、ため息とともにこぼれ落ちた。アサクラがジョージアの手元を見ると、彼女は愛用の剣でかぼちゃを切っているのだが……心ここにあらずといった感じで、かぼちゃはうすーくうすーく輪切りにされている。しかも種を取らずに切っているものだから、薄切りにされたかぼちゃの輪切りの中心には、その種がみすぼらしく残った状態だ。

 

「ずーん……」

「……そんな薄切りのかぼちゃを量産してどうするつもりだ。煮付けを作ろうと思っていたのに……」

「……ハッ!? す、すまない……」

 

 これは明らかに失敗だ……そう思ったアサクラは、今日の献立を変える決心をした。今日はヒノモトの郷土料理で攻めようと思っていたのだが……厨房の棚を見ると、異国の香辛料の残りは、まだ充分にある……

 

「仕方ない。今日は献立を変更する。その輪切りにしたかぼちゃ、種をとって半分に切れ」

「どうするつもりだ」

「輪切りにしたら油で素揚げする。夕食のメニューはヒノモトの料理からカレーに変更だ」

「申し訳ない……」

 

 言われたとおり、薄切りにされたかぼちゃの種を取り始めるジョージア。顔は自身の不甲斐なさを反省しているようにも見えるが、相変わらず覇気は感じられなかった。

 

 そんな様子を横で見ていたアサクラは、小さくため息をもらした。

 

 本来ならここで『もうちょっとしっかりしろ』とでも言うべきなのかもしれないが、どうにもアサクラにはそんな気が起きない。いや、それどころか『むしろこの状況でよく頑張っている』とすら思っている。

 

 アサクラは、ジョージアがバル太をどれだけ慕っているのか知っている。毎日バル太の来訪を胸をときめかせながら待ち続け、バル太がやってくると子犬のようにはしゃぎながら彼によりそう……それだけ、ジョージアはバル太のことを好きなのだ。

 

 そんなジョージアだから、バル太が来ないとわかっただけで仕事が手に付かないレベルで落ち込んでしまうのも、仕方がない……たとえば今日のかぼちゃだって、普段の彼女なら……

 

――かぼちゃなら任せろ ところで面取りって何だ 顔を削ぐのか

 

 とか血なまぐさい言葉を並べながら、それでも律儀にかぼちゃをキチンと切り分けるはずだ。出来栄えの是非はおいておいて。

 

 ところが、今日は切り方の確認もせず、ぼんやりとかぼちゃをただ輪切りにしていく。頭の中はバル太に会えない悲しみで一杯で、他のことを考えるリソースがないのだ。

 

 しょんぼりと背中を丸めるジョージアの姿を眺め、アサクラはため息を一つついた。

 

「ふーっ……」

「……どうした貴公」

「ん?」

「貴公、元気ないな……ずーん……」

 

 『お前に言われたくないわ』という言葉を、アサクラは必死に飲み込んだ。

 

「んっく……ッ!」

「……?」

 

 アサクラが鶏肉の下処理を終了し、カレー用に切り分け始めた、その時である。

 

「やっほー! アサクラぁぁぁああああ!!」

 

 厨房のドアがドバンと開き、いつもの叫びとともにデイジー姫がニシシと笑いながら厨房に入ってきた。ドスドスと擬音が聞こえてきそうなほど、その両足は力強い。ハイヒール履いてるはずなのに。

 

「……あれ」

「ん? どうした?」

「いや、厨房にいつもの覇気がないなぁと」

「ああ……」

 

 デイジー姫はアサクラに促され、ジョージアを見た。視線の先には、しょぼくれながらかぼちゃの種を取っていくジョージアが一人。

 

「ずーん……」

「こいつが原因だ」

「ああなるほど。もはやメランコリックを通り越して死臭が漂っているではないですか」

「死臭はいいすぎだが、おかげで仕事が手につかん。だから今晩の献立は鶏肉のつけ焼きとかぼちゃの煮物から、夏野菜のチキンカレーに変更する」

「おっ。私には朗報ですね」

 

 そういって舌なめずりするデイジー姫。卑猥な眼差しでみっともない半開きの口からよだれを垂らすその姿は、一国の姫とは思えない体たらくであった。

 

 ところで、今日もアサクラはデイジー姫の来訪に違和感を持った。少し考えた後、それがバル太不在のためだということに、すぐに思い当たる。

 

「……」

「……アサクラ?」

「いや。ところで今日はイタズラはしでかしたのか?」

「よくぞ聞いてくれましたっ!! 今日はですね?」

 

 と目を輝かせ、前のめりになって話しはじめたデイジー姫だったが、やはりイタズラ相手が軍議につぐ軍議で顔を見せず、張り合いがないようだ。いつもに比べ、元気が無いように見えた。

 

 きけば今日、デイジー姫はバル太の昼食であった牛ステーキを、そっくりそのままマジパンペーストで作ったフェイクのステーキにすり替えておいたそうな。

 

「大変だったんですよ? この道45年の街のケーキ職人を口説き落として作ったんですから……」

「だから熟練の技術の無駄遣いをするなと何度も……」

「でもバル太自身は軍議が終わらないらしくて、まだ感想聞いてないんですよねー」

 

 と眉を八の字型にして口を尖らせるジョージア姫。その表情から見て、少々悔しそうだ。

 

 ここで、フとアサクラの心に疑問がよぎった。

 

「……ちなみにそのマジパンペーストはどこで調達した」

「無論、ここからですが。キリッ」

「……」

 

 アサクラの頭痛がぶり返す……あとでまたマジパンを仕入れておかねば……余計な仕事が増えたアサクラの胸に、言いようのない不快感が押し寄せてきた。

 

 

 さて、この日の夕食作りはつつがなく終了。献立が変わったこと以外のアクシデントも特に無く、王族の夕食には、アサクラどジョージアの手による絶品の夏野菜カレーが振る舞われた。

 

 そして、夜……。

 

「……なぁアサクラ」

「んー?」

「今日は夜まで仕事するのか」

「んー」

 

 今は午後の8時頃。そろそろ仕事も終わり、厨房を出る時間のはずなのだが……今日に限って、アサクラはジョージアと一緒に、まだ厨房にいた。

 

「明日の献立で何か大変な仕込みがいるものでもあるのか」

「いや、そういうわけではないがな」

「では何だ」

「いや、お前に作ってもらいたいものがある」

「ほう」

 

 今日、夜遅くまで厨房に残っている理由。それは、ジョージアにある料理を作らせるためだ。そしてそれは、ジョージアに料理の経験を積ませることだけが目的ではない。

 

「……とりあえず食料貯蔵庫から、チョコレートと生クリーム、あとココアパウダーと粉砂糖、それからバターをもってこい」

「……? 今からお菓子をつくるつもりか?」

「いいから」

 

 頭にはてなマークを浮かべながら、ジョージアは食料貯蔵庫へと消えていく。ほどなくして、アサクラから指示された品々を持って、ジョージアは戻ってきた。

 

「バターはむえんでよかったか?」

「その辺の分別はつくようになったか」

「しかし無縁とは……このバターは孤独なのだな……」

「縁がないという意味ではなく、塩が入ってないという意味だ」

「まるで今の私のようだ……フッ……」

「人の話を聞け」

 

 多少の軽口を叩きあったあと、アサクラはジョージアにチョコレートを刻ませた。ザクザクと心地いい音が厨房に響き渡る中、アサクラは生クリームを火にかけ、それが沸騰する寸前まで待つ。

 

「刻んだぞ」

「ではそれをボウルに入れろ」

 

 アサクラに言われるままに、刻んだチョコレートをボウルに入れたジョージア。生クリームもいい具合に温まってきた。アサクラは生クリームを火から下ろし、そのままボウルの中のチョコへと流しかける。

 

「んじゃ、これをとろとろになるまでかき混ぜろ」

「剣にチョコがついてしまうが……」

「まず料理に剣を使うという発想を無くせ。ヘラを使えヘラを」

 

 ジョージアは言われたとおり、素直に木べらでチョコをかき混ぜ始めた。二人の軽口とは裏腹に、部屋の中はしんと静まり返っている。ジョージアが木べらでチョコをかき混ぜるたぱたぱという音だけが鳴り響いていて、昼間の喧騒が嘘のように静かだ。

 

「色が均一にチョコ色になったら、バターを入れろ」

「了解だ。量は?」

「切り分けておいた」

 

 アサクラはジョージアに切り分けておいた無塩バターを渡し、ジョージアもそれを受け取ってボウルに入れる。再びたぱたぱと優しい音を立て、ボウルの中のとろけたチョコが撹拌されはじめた。ジョージアはいつの間にか目の前のチョコに集中しているようだ。

 

「……」

 

 その表情を満足げに眺めた後、アサクラは金属で出来た四角い枠を準備した。それに特殊な紙を敷き詰め、ジョージアにわたす。

 

「これは?」

「バターも溶けて充分に混ざったら、その中に静かに流し入れろ。そして貯蔵庫で冷やせ」

「分かった」

「流し入れたら空気を抜くのを忘れるなよ」

「ストローでも刺して吸えというのか。貴公は無茶なことを言う」

「型を静かにとんとん落とせば空気は抜けるッ!」

「なるほど。その発想はなかった」

 

 言われたとおり、ジョージアは型にチョコを静かに流し入れた。その後型を作業台に静かにとんとんと落とし、空気を抜く。そのまま貯蔵庫までそれを運び、そして厨房に戻ってきた。

 

「持っていったぞ」

「あとは冷やせば完成だ。それまで待とうか」

「了解だ」

 

 帰ってきたジョージアとともに、椅子に座って温かいお茶を飲む……昼間の厨房でいつも繰り広げられる喧騒とは程遠い静けさが、二人の間に流れた。

 

「……ずずっ」

「ん……」

 

 部屋に響くのは、湯を沸かしているやかんの音のみ。時々鳴る『シュッシュ』という静かな音が、二人の耳に優しく届く。

 

 そうして、特に会話もなく静かに待つこと、数十分……。そろそろチョコも冷え、充分に固まった頃合いになった頃だった。

 

「……やっほーアサク……てあれ」

「ん……姫?」

「遅かったな」

 

 厨房のドアを開き、デイジー姫も姿を見せた。頭にはいつもの小さなクラウンではなく、頭をすっぽりと覆う、薄いピンクのもこもこしたとんがり帽子のナイトキャップ。着ている服も普段のシルクのドレスではなく、ゆったりしたパステルピンクのパジャマだ。

 

「ジョージアもまだいたんですか?」

「それはこちらのセリフだ。姫こそまだ自室には戻ってないのか」

「私はちょっとアサクラに頼まれたことがありまして」

 

 とこんな具合で、普段とは打って変わった落ち着いたやりとりが厨房内に響く。ひとしきりジョージアと話したデイジー姫は、いつもに比べ少しだけ真面目な顔で、アサクラを見た。

 

「ねぇアサクラ。見てきましたよ」

「ん……どうだった?」

「まだ続いてますね」

「そうか……」

 

 デイジー姫の言葉を聞いたアサクラは、少し残念そうに眉をひそめ、そしてお茶をすすった。デイジー姫がその様子に、気付かないはずがない。

 

「アサクラ?」

「……ん?」

「どうかしました?」

 

 アサクラがデイジー姫に頼んでおいたこと……それは、バル太が出席している軍議が、今日もこの時間まで続いているかどうか確認をとってほしい……ということだった。

 

 今朝方、アサクラは朝一番で軍議の様子を伺いに行ったところ、早朝だというのに、すでに軍議は開かれていた。

 

 しかも、会議室の入り口にはしっかりと見張りがつけられ、部外者の接近が一切出来ない状況になっていた。ここに来て、軍議の深刻度がましている……それが意味するところを、アサクラは理解している。

 

 会議室の入り口を守っている衛兵に、この軍議が終わる時間を聞いてみたアサクラだったが、衛兵たちからはついぞハッキリした返事を聞くことは出来なかった。まさかと思い、デイジー姫に『夜になっても軍議が終わらなければ、厨房に知らせてほしい』と頼んでおいたのだが……まさか本当にこの時間まで軍議が終わらないとは思わなかった。

 

 少なくとも、この国の行政機関の緊張は高まっている。東の大国マナハルに対し、どう出るか……場合によっては戦争も辞さない心構えをバル太は見せていたが……本当に戦争になるのだろうか……

 

 どちらにせよアサクラは、この状況は不本意だが読めていた。

 

「……ジョージア。貯蔵庫からチョコを出せ」

「わかった」

「ちょっとアサクラ?」

 

 アサクラを問いただすデイジー姫を無視し、ジョージアは再度貯蔵庫に向かう。一方のアサクラは、仕掛けておいたやかんを火から下ろし、中の湯をボウルに移し替えた。

 

「持ってきたぞ」

「ああ」

 

 ジョージアが固まったチョコを持って戻ってきた。アサクラは大きなバットを準備し、そこにココアパウダーと粉砂糖を混ぜたものを敷き詰める。

 

「ジョージア。チョコを型から外して、一口大に切れ」

「分かった」

「剣は使うな。切る前に湯で包丁をよく温めろ」

「こんな小さな刃物……せめてダガーを使わせてくれ」

「ダガーでは刃が分厚い。いい加減包丁に慣れろ」

 

 いつになく厳しい口調で命令されたせいか、ジョージアの頭の上にもじゃもじゃせんが浮かんだ。そのままアサクラの包丁を手に取り、それをボウルの湯であたため、ジョージアはチョコを一口大に切り分けていく。

 

 一方、その横でアサクラは、切り分けたチョコをすぐにココアパウダーをしきつめたバットの中へと移していた。

 

「アサクラ?」

「……」

 

 不思議そうに問いかけるデイジー姫を無視し、チョコにココアパウダーをまぶしていくアサクラ。やがて、そのうちの一つを取ると……

 

「姫、口を開けろ」

「はぁ。んがー……」

 

 姫に口を開けるよう促し、その間抜けに開いた口の中へと、チョコの一つをひょいと入れた。

 

「ぶわっ!? ちょっとアヒャクリャ!? わたひはチョコはたべりゃれにゃ……」

「食えるか?」

「へ?」

「どうなんだ? その生チョコはお前でも食えるのか?」

 

 はじめこそ、嫌いなチョコを入れられた動揺で顔をしかめるデイジー姫だったが、いつになく真剣なアサクラに飲まれ、口の中のチョコを真剣に味わい始めた。最初は顔をしかめていたが、次第にその苦悶の表情は和らぎ……

 

「……あれ」

「どうだ?」

「甘みが強くて食べやすいです。これなら食べられる」

 

 と不思議そうな顔で答えた。苦手なチョコであるにも関わらず、自分が抵抗なく食べられたことが不思議だったようだ。

 

 これは、アサクラがココアパウダーに粉砂糖を混ぜたのが理由だった。本来、このチョコレートには苦味の強いココアパウダーをまぶすのが通例だ。内側のチョコの甘さと外側のココアパウダーの苦味の対比が、この料理のキモになる。

 

 だが、今回アサクラは、ある理由でココアパウダーに甘みを足した。そのため、出来上がったチョコはとても甘みが強いものとなり、結果、デイジー姫でも問題なく口にできる程度の強い甘みを持ったのだ。

 

 かくして、ジョージア謹製のスイーツ、甘み強めの生チョコレートが完成した。

 

「よし。私がやったように、切り分けたものにまんべんなくこのパウダーをまぶして皿に盛れ。少しだけこっちの小皿にも載せろ」

「分かった」

「盛り終わったら、その生チョコを軍議の差し入れに持っていけ」

「私がか……?」

「ああ。差し入れを口実にすれば中に入れてくれるのだろう? どうしてもダメなら、私の名前を出してバル太を呼んでもらえ。そうすれば、少なくともバル太には会える」

「アサクラ……」

「貴公、それで私にこれを作らせたのか……」

 

 少しだけ目に輝きを取り戻し、ジョージアが完成した生チョコを皿に乗せていく。小皿にも5個ほど取り分けたところで、ジョージアは包丁を置き、ふーっとため息を付いた。

 

「アサクラ、貴公の気遣いに感謝するぞ」

「感謝なぞいらん。早く持っていけ」

「分かったっ!」

 

 今日一番の元気な挨拶を見せたジョージアは、そのまま生チョコがてんこ盛りに乗った皿を持って、厨房を出て行った。ドアが閉じた途端……

 

『待っていてくれバル太さま! 今私が推参するぞぉぉおおおお!!!』

 

 というジョージアの魂の叫びが聞こえ、デイジー姫の失笑とアサクラの偏頭痛の悪化を招いた。

 

 厨房に残された二人……アサクラとデイジー姫が二人並ぶ。アサクラはそばの椅子に腰を下ろし、デイジー姫はそんなアサクラを優しい笑顔で見下ろしていた。

 

「ふぅ……」

「なるほど。今のはバル太への差し入れ兼ジョージアへの気遣いでしたか。いつも許嫁には鬼のように厳しいアサクラも、自分の弟子はカワイイのですねぇ」

「……」

 

 アサクラは答えない。ただうつむき、デイジーと顔を合わせないようそっぽを向く。作業台の上に残っていた自分のお茶を飲み干し、再びため息をついたあと、デイジー姫の顔を見上げてチョコが乗った小皿を指差した。

 

「お前も帰っていいぞ。それを持っていけ。さっきの礼だ」

「嫌です」

「なんでだ……もう遅いんだから早く帰って寝ろよ」

「私は王族です。誰の指図も受けません。起きたい時に起きて、寝たい時に寝ます」

「こんな夜更けにこんなとこに私と二人でいたと知れたら、スキャンダルだぞ?」

「それこそ言いたい者には勝手に言わせておけばよい。私は何者にも縛られない」

 

 そういってデイジー姫は、作業台を挟んでアサクラの向かいに椅子を持ってきて座った。

 

「ニシシ」

 

 そして笑う。まるで五歳の男児のように、真っ白い歯をキラリと輝かせながら。

 

 ただ、不思議と今のデイジーには、普段のような凶悪さを感じないアサクラだった。ニシシと笑う彼女の笑顔を見て、ただ困ったように頭をボリボリとかくしかせず、それ以上、彼女を無理に厨房から追い出そうとはしなかった。

 

 作業台の上には、先程ジョージアが盛り付けた生チョコの小皿がちょこんとおいてある。デイジー姫はその生チョコを一つつまみ、そして口に放り込んだ。

 

「……ん。甘い。アサクラ、褒めて差し上げましょう」

「なにがだ」

「私でも食べられるチョコを作ったことです。よくやってくれましたアサクラ」

「お前のためではない。疲れたときには甘いものが食べたくなる。だからだ」

「またまたぁ〜。許嫁の私のことも頭にあったんでしょ?」

「お前のことなど一ミリも考えてなかったな」

「それはそれで悲しくて泣きますよアサクラ」

「勝手に泣いてろぉ」

 

 そんな軽口を叩きあいながら、デイジー姫は2つ目の生チョコを口に運ぶ。あまりチョコを食べないデイジー姫が自ら進んで食べるあたり、姫はこの生チョコを気に入ったようだ。口に運んだ時の笑顔が、それを物語っている

 

「んーおいし。好物の一つになりそうですわ。これからちょくちょく作ってくださいよ」

「……機会があればな」

「そういえば、アサクラの好物って聞いたことないですね」

「……」

「アサクラって何が好物なんですか?」

 

 デイジー姫のこの唐突な質問は、アサクラの心には、ずしりと重い質問だった。

 

 アサクラには、その質問にきっぱりと答えられる好物がある。

 

 ただ……

 

――しかたないのう……そんなにうまいと申すのなら、また作ってやるわい!!

 

――すまぬ……そなたにおはぎをつくってやることは……もう、叶わぬ……

 

 それをすんなりと答えるには、アサクラの心に負ってしまった傷が、少々大きすぎた。

 

「……」

「あれ。答えられませんか? 実は好きなものがない寂しい人間だったとか?」

「……」

「まぁ、一つに絞りきれないってのはあるでしょ。明日にでもまた教えて下さい」

 

 そんなアサクラの沈黙を勘違いしたようで、デイジー姫はさして気にする様子も見せず、次の生チョコを口に運んでとろけるような笑顔をアサクラに見せていた。その笑顔は、アサクラがデイジー姫と出会い不毛な争いをはじめてから今日まで、ただの一度も見たことがないほど、自然で美味しそうな、嬉しそうな笑顔であった。

 

 アサクラがこの国に来て……いやこの女、デイジーに出会って、初めて訪れる穏やかな時間だった。アサクラ本人がいささか不自然に感じるほど、穏やかで騒動が起こらないとても静かな時間が、しばらくの間、二人の間に流れていた。

 

 だが、そんな時間がいつまでも続くわけでもなく。

 

「アサクラッ!!!」

 

 二人の間に初めて流れた静かな時間は、ジョージアの大声で破られた。

 

「お?」

「ジョージア? どうしました?」

 

 アサクラとデイジー姫は、二人で揃ってドアを見る。先程軍議に生チョコを差し入れに行ったジョージアが、息を切らせて立っていた。会議室からここまで走ってきたのだろうか。額にはうっすらと汗をかいている。

 

「なんだ。会議室には持っていったのか」

「ああ……ッ」

「ではなぜそんなに慌てている? バル太には会えたのか?」

 

 立ち上がり、ジョージアの元に向かうアサクラ。しかし、自分に向かって伸ばされたアサクラの手をジョージアはパシリと弾き、そして……

 

「そんなことよりも……ッ!」

「お?」

「貴公は知っていたのか!?」

 

 アサクラの胸に、ドクンと一拍だけ嫌な衝撃が走る。自身の顔から一瞬血の気が引いたことを、アサクラは感じ取った。

 

「へ? 何をですか?」

 

 デイジー姫がキョトンと二人を見るが、その視線は二人には届かない。

 

「……何をだ」

「マナハルと一触即発状態らしいではないか」

「へ? マナハルって、東の国の?」

「……」

「私が壊滅させた旅団の件で、マナハル王家と魔法で交渉を行ったそうだ。結果、交渉は決裂したとバル太さまから聞いた。おまけに相手からは『戦争も辞さない』と言われたと」

「それはバル太がお前に話したのか」

「貴公にも伝えてほしいと言われた。この国は戦争に入るだろうと」

「……」

「どうなんだ貴公? 知っていたから、こんなことを私にさせたのか!?」

「……」

「戦争が始まるから、せめてもの餞とかつまらんことを考えたのか!? どうなんだ!?」

 

 その時、開かれたドアの向こうから、夏というにはあまりにも冷たく涼しい風が、厨房に入り込んでいた。その冷たい風は、厨房にいるアサクラとデイジー姫、そしてジョージアの身体を冷たく冷やしていった。

 

 季節は、秋になろうとしていた。

 



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12. おはぎ(3)

※過去の回想です


 大陸に渡る数日前のその時、朝倉は自陣にいた。

 

 目の前には、朝倉と同じく小田家家臣団の一人にして友である男、今河正澄が立っている。その手に持っているのは血まみれの太刀。そして着込む鎧とその顔には、返り血がべっとりとついていた。

 

 そして今河正澄の足元には、小田信義の死体が転がっている。この戦の総大将にしてこの領土の君主、そして朝倉と正澄の主である。背中から一太刀で斬られており、本人は何もわからないまま絶命したのであろう。ただ、表情だけは『なぜ?』と問うていた。

 

「なぜだ正澄!!! なぜ信義様を斬った!? 裏切ったのかッ!!!」

 

 朝倉は今河正澄に叫んだ。左手は自身の太刀に添えられている。

 

 正澄は朝倉の目の前で、小田信義……自身の主を背後から斬った。他の家臣は全員戦場に出払っており、ここにいるのは小田信義と正澄、そしてたまたまその時本陣に戻っていた朝倉の三人だけだった。正澄は小田信義が自分に背中を見せたその瞬間、朝倉に勝るとも劣らない疾さの抜刀で、一刀のもと斬り伏せた。

 

 朝倉の問いに正澄は答えない。無表情で、ただ己の太刀についた血を拭う。

 

「なぁ朝倉。俺とともに来ぬか」

「……?」

「お主は殺すには惜しい。お主なら、きっとお館様のよき力となるだろう。共に泉澤に行かぬか」

「正澄キサマ……やはり敵方と……ッ」

「この戦。もとより勝敗は決している。この弱小の小田が、今勢いに乗って諸国を統一しつつある泉澤を退けられると、お主は本気で思っていたのか」

「それでも我らは戦わねばならん! 信義様が戦うと決めたのなら、我らはそれに従い、泉澤を退けねばならんのではないのかッ!!」

「……」

「違うか正澄! 友であるお前が、それを分からぬはずがないッ!!」

 

 朝倉の怒声を、正澄は涼しい顔で聞いていた。己が顔についた血を手で拭い、鎧についた血を乱暴にゴシゴシと拭い去るその様は、まるで朝倉の言葉に興味がないようにも見えた。

 

「答えろ正澄!! お前は信義様に忠義を誓ったのではないのか!?」

「忠義か……」

「一度主に仕えれば、死を賭して主に従う……それが忠義というものではないのか!?」

「ブッ……」

「……?」

「ブァハハハハハハハハハハハ!!!」

 

 突如、正澄は顔を醜く歪ませ、大笑いした。それを聞く朝倉の背筋に怖気が走るほどの冷たい笑い声が、二人だけの自陣に響く。戦場から聞こえる怒号や悲鳴すらかき消すほどの正澄の笑い声は、朝倉の耳に強大な重圧を与えた。

 

 ひとしきり大声で笑った後、正澄は血まみれの指で自身の目尻を拭いた。あまりに笑いすぎたせいなのか、その目はうっすらと涙で滲んでいた。

 

「ハッハッハッ……フッフ……はぁー……笑わせてくれるなぁ朝倉よ」

「何がだ!? 何がおかしい正澄!!」

「お主のそういうところよ」

「……?」

「お主も気付いておろう。この世は乱世。強き者が上にのし上がり、立ち塞がるものは主君であれ親兄弟であれ、容赦なく斬り伏せる……それが今の世よ」

「……ッ」

「分かるか朝倉。今の世は、強くなければ生き残れぬ。強くなければ……強い者に付き従わねば、生きて行けぬのだ」

「それは分かっている……だからこそ! 我らが主に忠義を尽すことに、意味があるのではないのかッ!!」

 

 正澄の言葉には、朝倉自身も納得せざるを得ない部分はあった。今の世は実力だけが物を言う下剋上の時代。強い者がのし上がり覇権を握る時代だ。自身が生き残るためなら、たとえ親兄弟や己が主でさえ、容赦なく潰し、のし上がる……朝倉家が没落したのも、そんな非情な戦乱の世に巻き込まれたからに他ならない。

 

 しかし、だからこそ朝倉は己の義を通したかった。いくら再興が朝倉家の悲願といえど、その人柄に触れ生涯をかけて仕えると心に決めた主を裏切ってまで、朝倉家を再興させる気など毛頭なかった。己が定めた道を外れてまで……主を裏切り、友を裏切り、過去の自分を裏切ってまで、汚く生き、そして悲願を成就しようという気持ちには、まったくならなかったのだ。

 

 故に朝倉は、正澄の誘いを拒絶した。己が仕える主は、小田信義様ただ一人。この方のために生き、命を賭して仕える……それが、この混迷した力だけの世界で、朝倉が定めた生きる道だった。

 

「ふっ……フハハ……」

 

 正澄は力なくほほえみ、そしてため息にも似た笑い声をこぼした。不思議とその笑みは、朝倉の心に、一抹の侘しさを印象づけた。

 

「ハッハッ……なぁ朝倉……」

「何だ!!」

「お主は純粋すぎる……その真っ直ぐな心が、時に羨ましい」

「……」

「聞け朝倉よ。俺には、今河家を存続させるという使命があるのだ」

「……」

「幼き頃より、父上に何度も説かれた。『何としても今河家を守れ。それがお前が生まれた理由だ』とな。俺が泉澤に付いたのは家を守るためよ。父上の教えに従い、家を守るために、小田を裏切り泉澤に付いたのだ」

「使命なら私にもある! 朝倉家を再興させるという悲願が……だが主を裏切ってまで……」

「それはお前に、まだそこまでの覚悟がないということだ。違うか?」

「違う!! ただ、己の道を踏み外してまで成就させる気にはなれんだけだ!!」

「それを覚悟がないと言っているのだ!!! それを成し遂げるためならば、己の主を斬り捨て、友であるお前から『裏切り者』と蔑まれ、新しい主とその家臣から『信用が置けぬ』と捨て石のように扱われようが一向にかまわぬ……怨敵に尻尾を振り己が額を地にこすりつけて頭を下げ、嘲笑の的となり泥水をすすってでも成就させる……それが!  俺にとって今河の存続でありお主にとっての朝倉の再興ではないのか!!? それこそが真の悲願というものではないのか!!」

 

 ハッとした朝倉は、正澄の顔を見た。目の周囲の返り血は、いつの間にか流れていた彼の涙の跡に沿ってテラテラと輝いている。その様が、まるで正澄が血の涙を流しているように、朝倉には見えた。

 

 不意に巨大な爆発音が鳴り、朝倉と正澄の身体を大きく揺さぶった。

 

「な……!?」

「始まったか……」

 

 正澄の背後に見える、小田の居城を見る。天守閣の一角から黒い煙が上がり、城が敵襲に晒されていることを朝倉に伝えていた。

 

「馬鹿な……この大戦の最中に、城にまで攻め入る兵力があるのか……ッ」

「今の泉澤の全力を持ってすれば、戦と城攻めを同時に展開することなど容易い。ましてや相手が小田なら、なおさらだ」

 

 その時、朝倉の頭をよぎった光景があった。

 

 それは、まだ自分が幼い頃……徳山に剣術を学び、そして朝倉家の再興と小田信義の側近として仕えることを夢見ていた、まだ年端も行かない少年だった頃の、自身の記憶。

 

――ふふ……そっかぁ〜……あさくらは、私の隣にいてくれるか……

 

「亜矢ッ!!!」

 

 そうである。あの城には、朝倉の幼馴染にして腐れ縁の姫、亜矢がいる。戦に出た自身の父親と朝倉を出迎えるために、今も城の中で待ち続けているのだ。

 

 朝倉は逸る気持ちのままに、その場から城に向けて駆けようとしたが、その前に正澄が立ちふさがる。

 

「行かせんぞ朝倉」

「退け正澄!! あの城には亜矢がいる!! 助けねばならん!!! 約束したのだッ!!!」

「将来に禍根を残さず泉澤の基盤をより盤石とするため、小田の血は残らず断て……そういうご命令だ」

「……!?」

「無論、亜矢姫も殺す。今頃は城内に泉澤の乱破衆が侵入し、亜矢姫の喉笛を搔き切らんと徘徊していることだろう」

「正澄……ッ!!!」

「姫を助けたくば、この俺を斬れ。……今ならまだ間に合うかもしれんぞ」

「……ッ」

 

 朝倉の意識が次第に熱を失い、周囲を冷静に認識しはじめた。周囲に味方はおらず、敵もいない。右手を腰にある己の太刀に持ってきて、必殺の抜刀術の構えを取った。戦場から聞こえる怒号と悲鳴も、城から聞こえる爆発音も何もかもが、朝倉の耳に届かなくなった。

 

 正澄もまた、己の太刀を上段に構えた。静かにゆっくりと持ち上げられた刀は、血まみれの刀身に陽の光を反射させ、赤黒く輝いている。

 

 朝倉の意識が、自身の認識の、その先へと走る。向かってくる正澄の足が、朝倉の剣の結界を侵食する……抜く……振り下ろされる……意識が再び朝倉の認識の元に戻ってきた。

 

「お主の覚悟……己の道を進み朝倉家を再興させ亜矢姫を守る……」

「……」

「その覚悟をここで見せよ。見事、俺を斬り伏せて見せよ」

「……」

「朝倉ぁぁああアアアアアッ!!!」

 

 上段の構えのまま、正澄が駆けてきた。朝倉の右手に力はまだ入らない。

 

 正澄の足が、朝倉の認識の結界線に踏み込んだ。その瞬間、朝倉の目に冷たく硬質な輝きが灯る。

 

 朝倉が太刀を抜き放ったその瞬間と、正澄がその太刀を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 親友の正澄を斬り捨てた後、朝倉は必死に城まで駆けた。正澄が撤退をする際に騎乗するつもりでいたと思われる早馬で駆ける。一秒でも早く城に駆けつけ、そして亜矢を助けるため……朝倉は息をするのも忘れ、ただひたすらに駆けた。

 

「ハッ……ハッ……クソッ……亜矢……ッ」

 

 朝倉の眼前に広がる小田の居城は、すでに瓦解寸前だった。度重なる砲撃によって、もはや天守閣はその体を成さないまでに崩れ落ちている。誰かが火を放ったのだろう。崩れた城のいたるところから、黒い煙が上がっている。その様は朝倉にとって、形として見える『小田家の最期』そのものであった。

 

 城内に侵入した朝倉を待っていたのは、城内に潜伏する泉澤方の忍び『乱破衆』と呼ばれる連中だった。彼らは崩れ落ちた天井や壁の裏側、瓦礫の向こう側に潜伏し、死角から次々と朝倉に襲いかかってくる。

 

 しかし、朝倉もまた歴戦の武士である。襲いくる乱破衆どもを、朝倉はことごとく斬り捨てた。距離をつめられれば抜刀で斬り伏せ、距離を取られれば刺突で胸を貫いた。背後を取られれば甲冑術で投げ捨てた後に刀を突き立て、あるいは逆に背後を取った後、頚椎を折るか喉を掻き切った。

 

 そうして亜矢を探しながら城内をさまよい、もはや崩れ落ちそうな天守閣に足を踏み入れたときだった。

 

「亜矢!」

「……?」

「亜矢ッ!!」

 

 たくさんの乱破衆どもと小姓たちの死体の中、朝倉は亜矢を見つけた。比較的損傷の少ない柱に、力なくぐったりともたれかかっていた。室内着の着物は血で赤黒く染まっている。右手には脇差を持ち、その脇差の刃にも乾いた血がまんべんなくこびりついていた。

 

 顔と髪も血で汚れており、その見事なまでにつやつやと輝いていた黒髪も、今はもう見る影もない。口からも血が垂れている。その理由は、遠目から眺める朝倉には分からない。息も絶え絶えで、浅い呼吸に合わせ、亜矢の胸は上下していた。

 

「亜矢!!」

 

 朝倉は亜矢の元に駆けつけ、彼女の肩を抱きかかえようとした。だが、朝倉が亜矢の体に触れた途端……

 

「……ッ!!!」

 

 亜矢の顔が、憤怒に歪んだ。

 

「この、下郎がッ……まだ来るかッ!」

「!?」

 

 そしてそのまま勢いをつけて立ち上がった。右手に持った脇差を振りかざし、喉の奥から絞り出した声を上げながら、亜矢は朝倉に襲いかかる。

 

「!?」

「おのれ下郎ッ!!!」

「ま、待て!」

 

 朝倉は思わず後ろに飛び、亜矢と距離を取った。亜矢の顔を見る。憤怒に歪んだ亜矢は目を閉じていて、そこからは血がダラダラと流れ出ていた。口からも血が垂れている。荒い息遣いをする度にまだ乾いてない血が唾液と混ざり、亜矢の口から飛沫となって飛んでいた。

 

 全身を見る。着物は誰のものかもわからない血で汚れきっている。左手は着物の袖から不自然にダランと垂れ下がっていて、まったく力が入っていない。

 

「もしやお前……目が見えておらんのか……?」

「フーッ……フーッ……!!」

「あ、亜矢……」

「寄るな下郎ッ!! 私は、身も心も朝倉兵庫の女じゃ!!!」

「!?」

「故に他の者が私に触れることは絶対に許さぬ!!! 性懲りもなく再び私の体に触れでもしてみよ! この脇差で、お主の喉を掻き切ってくれる!! それとも先程のように、肉を噛み千切られたいか!!!」

 

 口から血と唾液を吐き飛ばしながら、亜矢は必死に朝倉を牽制していた。それが誰であれ、朝倉以外が自分の身体に触れることは許さないという、とても強く、そして今にも消え入りそうな儚い気迫が、亜矢の身体からは発せられていた。

 

 血まみれの脇差を必死に振り回す亜矢の様子を目の前に突きつけられた朝倉。その目には、次第に涙が溜まってきた。こんな状態になっても襲いかかるすべてに抵抗し、自身の帰りを待ち続けた亜矢の姿が、朝倉の心に、強烈に焼き付けられた。

 

「亜矢!! 私だ!!! 朝倉だ!! 朝倉兵庫だ!!!」

 

 たまらず叫んだ。もう気を張らなくていい。脇差を振り回さなくとも、知らない男の肌に噛みつかなくてもいい。その思いを込め、自身の名前を、一心に叫び届けた。

 

 朝倉が叫んだ声は、怒りにまみれた亜矢の顔から、その歪みを取り去った。

 

「あさ……くら……?」

「そうだ私だ! 朝倉だ!」

 

 亜矢の右手から、脇差がボトリと落ちた。まるで憑き物でも落ちたかのように気が抜け、膝からぐしゃりと崩れ落ちる。朝倉はサッと亜矢のそばにかけより、倒れる亜矢の肩を抱きかかえた。

 

「あさくら、あさくら……」

「亜矢……ッ」

 

 亜矢の右手が、まるで探るように朝倉の顔を撫で回した。

 

「あさくら……ハハ……あさくらじゃ……この鼻、このほっぺ……あさくらじゃ……私の、あさくらじゃ……」

「亜矢……目はどうした……?」

「下郎どもに潰された……お前の顔はおろか何も見えぬ……真っ赤じゃ……」

 

 己の顔を撫で回す亜矢の手を取り、朝倉は改めて彼女の身体を見た。袖に隠れた亜矢の左手の状況がやっと掴めた。亜矢の左手は皮一枚でつながっており、今にもちぎれ落ちそうだった。

 

「亜矢……こんなになるまで……」

「ハハッ……私はあさくらの女ぞ。他の者には、絶対に許さぬ」

「初耳だぞ。いつの間に我らは結ばれた……?」

「ずっと昔じゃ……幼少の頃、私が初めてあさくらにおはぎを作ってやったあの日……あさくらは、覚えておらぬか?」

 

――もし、私のおはぎを食べたいのなら、ずっと私のそばにおれ!

 

「覚えている。あの日から亜矢は折りに触れ、私におはぎを作ってくれたな」

「あの日、私はお前のものになると決めた……お前が喜んでくれるのなら、お前の隣で、お前のために、おはぎを作り続けてやろうと思うたのじゃ」

「……」

「でも……」

 

 亜矢の左手がもぞもぞと動いた。二の腕からバッサリと切断されたその腕には、紐がキツく巻かれている。そのおかげなのか血はしっかりと止まっていた。

 

 亜矢の顔が歪んでいく。悔しそうに歯ぎしりをし、閉じているはずの目からは、血に滲んだ涙がとめどなく流れていた。

 

「許しておくれあさくら……すまぬ……あさくらぁ……」

「……なにがだ」

「この腕では……この目では……すまぬ……そなたにおはぎをつくってやることは……もう、叶わぬ……」

「……」

「くやしいよぉ……あさくらぁ……あさくらが好きじゃと言うてくれるのに……うまいと言うてくれるのに……もう、作れぬ。作ってやれぬ。くやしいよぉ……あさくらぁ……」

「……ッ」

「また……あさくらにうまいと言って欲しいよぉ……なぁあさくら……また、笑ってるあさくらが見たいよぉ……あさくら……あさくらぁ……!」

 

 たまらず、朝倉は亜矢の身体を抱きしめた。そして亜矢の額に自分の額を重ね、目を閉じる。もはや体の感覚が鈍っているのか、亜矢はそれには反応しない。ただ、無事な右手は、朝倉に呼応するように、彼の首に回された。

 

「何を言うか亜矢……ッ!」

「……?」

「お前と私の仲ではないか! 左手が無ければ、私がお前の左手になる! 私がお前の手になって、お前のおはぎを作ってやるわ!」

「……本当か? あさくらが、私の手になってくれるのか?」

「もちろんだ……ッ!」

「でも、私の目はもう、あさくらの顔を見ることは出来ぬぞ……?」

「目が見えぬというのなら、私がお前の目になる! お前の代わりに美しい景色を見て、それをお前に伝える!! 笑顔が見たいというなら、隣で大声で笑ってやる!!」

「そうか……ぷっ……まるで、本当の夫婦のようじゃ……」

「今更何を言う。お前が私の女だったのなら、私はずっとお前の男だったはずだ。違うか?」

「そっか……そう言ってくれるか……お前は、ずっと私の男だったのか……」

「我らはずっと、夫婦だったのだ亜矢」

「そっか……私とあさくらは、ずっと……夫婦だったのか……なら……」

 

 亜矢が、その潰された目を静かに、ゆっくりと開いた。少しだけ開かれた瞼のその向こう側は、血と涙で様子がわからない。ただ、朝倉の目には、亜矢の美しい茶色の瞳が、しっかりと映っていた。

 

「私の方から、三行半……じゃ」

「亜矢……?」

「あさくらには、もう……会いとう、ないっ。離縁じゃ。私に、付いて来なくて済むよう……離縁、してやる。私から、出ていけ……」

「意味が……わからんぞ……?」

「わからん……か……?」

 

 朝倉の目からいつの間にか流れていた涙を、亜矢の右手が優しく拭った。力のないその右手と亜矢の顔からは、普段の彼女から感じられる温かさは、もう失せている。

 

 亜矢は目を閉じ、そしてにっこりと微笑んだ。

 

「さらばじゃ朝倉兵庫。大義で、あった」

「あ、や……?」

「次に会うとき、我らは元の主従ぞ。その時は、お主の自慢の妻の話を……聞かせて、おくれ……」

 

 亜矢の手がぽとりと落ちた。着物も顔も血まみれ。口から血を流し、左腕も二の腕からバッサリとない。

 

 なのに。

 

「……」

 

 亜矢の顔は穏やかだ。微笑んですらいる。朝倉の胸の内で、『さらば』と己から三行半を突きつけた男の胸に頬を寄せて、穏やかに微笑んでいる。

 

「ん……っく……」

 

 もはや冷たくなった亜矢の頬に、朝倉は自分の顔をこすりつけた。驚くほど冷たい亜矢の顔は、微笑んだまま、ピクリとも動かない。

 

「っく……亜矢……私はまだ、お前のおはぎに、飽きておらんぞ……」

 

 朝倉の涙で、亜矢の顔の血が落ちた。そこから見える亜矢の肌は、すでに血色を失って青白い。

 

「なぁ……返事をしろ……腹が減った。あのおはぎを……いつものあの、ぶっさいくでうまいおはぎを、作ってくれ……亜矢……」

 

 亜矢は答えない。ただ、微笑んでいる。

 

「答えろォォオオオ!!! 亜矢ぁぁああああ!!!」

 

 亜矢は答えない。ただ、微笑んでいる。

 

「答えないかァァァアアア!!!」

 

 亜矢は答えない。

 

 ただ静かに、穏やかに微笑んでいるだけだった。

 

 

 それから、何時間かたった夕方ごろ。

 

 打ちひしがれた朝倉は、壊れた壁から夕日を見た。そこには、亜矢の身体から流れた血のように、真っ赤な陽の光があった。

 

「……」

 

 微笑んだまま動かない亜矢をその場に寝かせ、朝倉は天守閣を降り、城を出た。乗ってきた馬にまたがり、戦場に向かう。

 

 戦場に近づくにつれ、朝倉の鼻に届く臭いがあった。それは血の臭いと屍臭。これから自身が向かう戦場がかつてないほど凄惨で、そしてすでに勝敗が決していることを、その臭いが物語っている。

 

 だが朝倉の心は今、あらゆることに反応しなくなっていた。心の中の、もっとも敏感で、もっとも尊い部分を、朝倉はごっそりと失ったからだ。

 

 今はただ、戦の次第を見届けその目に焼き付けるために、朝倉は馬を走らせていた。

 



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13. おはぎ(4)

 ジョージアが軍議に生チョコを持っていった日から1週間ほど経った頃だった。外を吹く風は次第に冷たくなり、すっかり季節が秋に移ったことを伝えている。夕方になると鈴虫やコオロギたち秋の虫たちが静かに鳴いて、夏のにぎやかさとは違った装いを見せ始めていた。

 

 ちょうど5日ほど前、ついに騎士団と国軍が戦争に向けて出発した。まだ本格的な戦闘には発展してないようだが、はるか東にある広大な平野で、オルレアン王国軍とマナハル王国軍のにらみ合いの状況が続いている……とのことだ。

 

 互いに刺激があれば、即座に開戦してもおかしくない、まさに一触即発の状態……現場はすでにそれほど逼迫した状況であると、王のもとに届いた知らせには綴られていたそうだ。

 

「だから今日もバル太は来ませんよ」

「分かっている」

 

 厨房では、今日もアサクラが調理に励んでいる。今日の王のおやつは、めずらしくスイーツではなくサンドイッチ。それも、アサクラの故郷の料理である『タマゴヤキ』を挟んだ、タマゴヤキサンドだ。塩味だけのタマゴヤキをマヨネーズをたっぷり塗った焼き立てのパンに挟む……シンプルだが飽きのこない、国王お気に入りの逸品である。

 

 同じく厨房にいるのは、椅子に座り調理台に膝をついてアサクラの調理を眺める、デイジー姫ただ一人だ。いつものように笑ってはいるが、その笑みは、ほんの少しだけくすんでいるようにアサクラには見える。

 

「ジョージアは今日も無断欠勤ですか」

「だな。3日もどこに行っているのやら……」

 

 バル太はこの厨房に顔を出さなくなって久しい。そして3日ほど前から、ジョージアも姿を見せなくなった。バル太が顔を出さないことで意気消沈し続けていたジョージアは、ある日突然ハッとして厨房を出て行ったきり、顔を出さなくなったのだ。

 

 つまり今、厨房に顔を見せるのは、ここが職場のアサクラと、イタズラしたあとのシェルターとしてここを活用していた、デイジー姫の二人だけだ。

 

「ねぇアサクラ?」

「んー?」

「ここって、こんなに広かったですか?」

「……」

 

 厨房内を見回した後、デイジー姫がポツリと口にする事実。実は、アサクラもここ数日同じことを考えていた。バル太とジョージア……2人が顔を出さないだけで、こんなに厨房を広く感じるとは思ってもいなかった。鳴り響く音も、心持ち小さく、寂しい。

 

「……前からこの広さだった」

「……ですよね。この広さですよね」

「ああ。おかしなことを言う」

「いい加減に許嫁に優しくしてくださいよ」

「どこから突っ込めばいいんだその妄言の」

 

 こんな感じで、2人の軽口にも、どこか勢いがない。

 

 アサクラが焼き上がった2枚の食パンにマヨネーズをたっぷりと塗った、その時だった。

 

「アサクラ」

 

 厨房のドアがドバンと開き、2人の注目を集めた。開いたドアの向こう側にいたのは、この3日間無断欠勤をし続けていたジョージアだった。鎧を身にまとい、腰には愛用の剣、背中には短めの槍と巨大なハンマー、そして盾がくくりつけられている。

 

「ジョージア?」

「ああ。しばらくぶりだな姫よ」

「そんなことより、それ……」

「ああこれか」

 

 デイジー姫が呆気にとられた様子で、ジョージアの背中の武具を指摘する。ジョージアはそれに少しも動揺しない。そればかりか、鋭い眼差しになっている。

 

「私も、今度こそバル太さまのおそばに行こうと思ってな」

 

 戦士の面持ちを見せているジョージアは、淀みなくすっぱりとこう言った。その口ぶりに迷いはない。

 

「バル太のそばに行くって……バル太が今どういう状況か、分かっているんですか?」

「分かっている。故に私も、バル太さまのお側で力になろうと思っている」

「……バル太はこのことは知っているのか。許可は得たのか」

「いや、バル太さまの許可はない。推参だ」

「騎士団に参加するというのか」

「違う。私はあくまで料理人だ」

 

 デイジー姫にもアサクラにも、ジョージアは臆すること無く、すっぱりと答えている。これは、もう何を言っても止まらない……アサクラの過去の経験が、ジョージアはすでに覚悟してこの場にいるということを感じ取った。

 

 そしてジョージアの次の言葉は、アサクラの心に、一本の太いナイフを突き刺した。

 

「……だが私には、料理をする以外に出来ることがある。ここで料理を作り上げること以外に、あのお方の力になれることが、私にはある」

「……」

「それって……」

 

 ハッとするデイジー姫を尻目に、ジョージアは、アサクラの目をジッと見ていた。いつか見た、スパイや暗殺者のような、底の見えない冷たい眼差しではない。『愛する人の力になる』という覚悟を決めた、戦士の鋭い眼差しだ。

 

「アサクラ」

「……なんだ」

「それは、お前にも言えることではないのか」

「……」

「え……?」

 

 『何がなんだかわからない』といった様相のデイジー姫とは対象的に、アサクラは落ち着いている。ただ静かに、サンドイッチを作る手を止め、ジョージアを見据えている。

 

「……」

「王から話を聞いた。明日、王も戦場にご出立されるとのことだ。現場に立ち、皆を鼓舞して士気の低下を防ぐつもりらしい」

「……」

「貴公にもあるはずだ。ここで料理を作る以外に、出来ることが」

「……」

「違うか」

 

 ジョージアは、すっぱりとこう言い切った。アサクラは目をそらさず、鋭い眼差しでまっすぐにジョージアを見つめている。

 

「……」

「……」

 

 互いに、相手を凝視する。ジョージアの眼差しは、アサクラに『お前も共に来て戦え』と言っているように、アサクラには見えた。

 

 ジョージアの言っていることは、アサクラにもよく分かっている。だからこそ、ジョージアの言葉が耳に痛く、そしてナイフのように胸に刺さったのだ。

 

 しかし、アサクラには、ある懸念があった。

 

 それは、かつて自分が故郷を棄てた時の、苦い思い出。

 

――さらばじゃ朝倉兵庫。大義で、あった

 

 あの、城から離れた地での戦の最中、敵の大群に同時に城攻めまで許し、あげく壊滅まで追い込まれたという苦い敗北……マナハルは、この国と比べ強大と聞く。どれぐらいの国力差があるのかはわからない。だがもし、あの時と同じことを、この国が許してしまえば……

 

「……この国の防衛はどうなる」

「騎士団はすべてが出払ったわけではない。それに、戦場はここからかなり離れている。仮に退却しても、すぐにここに大群が押し寄せてくるようなことにはならん」

「いま展開されてる戦場とここ……同時に兵を動かしていたら?」

「であればすでに騎士団に察知されている。確かに相手は強大だが、そんな大それた展開が出来るほど戦力に差はない。それに、ここに貴公が一人いたとしても、攻め込まれた時の結果はそう変わらん」

「……」

 

 押し黙るアサクラ。ジョージアの目は鋭いものの、アサクラを非難している意識はなさそうだ。ただ、その目は迷うアサクラに決断を迫っているようで……。

 

「……私は、ここで王の食事を作る料理人だ」

 

 言葉に詰まるアサクラがやっと絞り出したのが、このセリフだった。

 

 それを聞いたジョージアは、少しだけうつむき軽くため息をついたあと、再びアサクラをまっすぐに見た。相変わらず、その目は鋭いものの、アサクラを非難してはいなかった。

 

「……まぁ、決めるのは貴公だ。私はこれ以上は何も言わない」

「……」

「では失礼する」

「? もう出立ですか?」

「いや、明日の王のご出陣に私もついていくつもりだ。まだ準備が残っている」

「……」

「無事に戻れたら、またここで料理を作りたいな」

「……その腕では足手まといだ」

「そう言うな。無事に戻れたその時からは、貴公の足を引っ張らんよう、修行に励むさ」

 

 それだけ言うとジョージアは、アサクラとデイジー姫それぞれに軽く頭を下げ、厨房から出て行った。ドアが閉じる時の『ドバン』という音が、まるでジョージアが死出の旅に出る合図のように、アサクラの耳には聞こえた。

 

「……」

 

 デイジー姫も何か感じるものがあったようだ。ジョージアが醸し出す普段とは明らかに異なる空気が、デイジー姫から言葉を奪ったかのように、出ていくジョージアをただ見守るだけだった。ドアが閉じたとき、ビクッと肩をすくませ、不安そうにただドアを見つめていた。

 

 厨房に残されたアサクラとデイジー姫の間に、静かな……耳に痛い静寂が訪れた。

 

「……アサクラ」

「……ん?」

「私は、まだ戦争を経験したことはありません」

「あんなもん、経験しないで済むなら、その方がいい」

「こんなふうに、一人、また一人、身近な人がいなくなっていくのが、戦争なんですか?」

「……」

「ねぇアサクラ」

「何だ」

「あなたは、故郷で戦争を経験しましたか?」

「……何度も経験した。何度も何度も、何度も……」

「そのたびに、こうやって身近な人が、少しずつ少しずつ、いなくなっていったんですか?」

「……」

 

 デイジー姫が顔に浮かべる感情は、おそらく不安というものだろう。生まれてはじめて体験する『戦争』というものの実感を、今、身近で親しい人間が消えていくことで感じているようだ。

 

 アサクラはデイジー姫を見た。いつもの凶悪な笑顔は鳴りを潜め、真っ青な顔中に不安を彩る彼女の様子は、今、気の毒に感じるほど元気がない。

 

 だが、アサクラは今、そんなデイジー姫に気を配る余裕はなかった。

 

「……」

「……アサクラ?」

 

 寂しく、不安ゆえに誰かに寄り添いたいデイジー姫の声すら、今のアサクラには届かなかった。

 

 今のアサクラは、ただ、タマゴヤキサンドを作ることにしか、意識を割く余裕がなかった。

 

 

 翌日の朝。

 

 早い時間に出立する国王とその親衛隊のため、アサクラは早朝からお弁当を忙しく作っていた。唯一、雪平鍋で火にかけられているものは、お弁当とは関係ない食材だ。

 

 その、湯が張られ中で何かを茹でている雪平鍋の横で、アサクラは大量の唐揚げを揚げていた。それらを油から上げ、特殊な紙が張られたバットの上に無造作にバラバラに並べる。揚げたてのからあげから、油の音がジュージューとアサクラの耳に届いた。

 

 雪平鍋の様子を伺いながら、たくさんの卵を溶いてタマゴヤキを作る。この国の職人に特注で作られた四角いフライパンに卵液を流すたびにジュワッと心地よい音が、朝日が差し込む厨房内に響き渡る。アサクラはしばらくの間、ただひたすらにタマゴヤキを焼き続け、やがて大量のタマゴヤキが厨房に姿を見せた。

 

 雪平鍋の中から小豆を一粒取り出し、それを潰した。軽くうなずいて、今度はそこに砂糖を入れる。少し入れてはかき混ぜ、時間を少し置く。そうして、小豆を理想の甘さに持っていく。

 

 その合間に、別の料理を作り上げる。大量のアスパラガスの穂先をハムでくるみ、つまようじで停める。大量に作ったそれらを、フライパンで焼いていく。ジュージューと焼けるハムのよい香りが厨房に漂い、アサクラの食欲を刺激した。

 

 再び雪平鍋に砂糖を投入したあと、かまどから、2つあるうちの大きな方のお釜を作業台に運ぶ。つい先程まで火にかけていたため、お釜は未だに熱い。ふきんを使ってそのお釜を注意深く持ち上げ、運ぶ。蓋を開ければ、お釜の中から朝日に照らされた湯気が立ち、その奥から一粒一粒が見事に立ったごはんが姿を見せた。

 

 ごはんをかき混ぜ、出来を確認する。水を張ったボウルと塩、そしていつかデイジー姫が悲鳴を上げていたプラムのピクルスのツボを作業台に持ってくる。

 

 戻ってくるなりアサクラは顔を上げた。朝日の様子を確認し、ある程度時刻を把握するためだ。

 

「……もう少しか」

 

 アサクラはオニギリを作る。手をボウルの中の水で洗い、その手に塩をつけ、炊きたてのごはんを手のひらに乗せる。手のひらに載せたご飯から立つ湯気が、朝日に照らされてキラキラと輝く。その湯気に包まれたアサクラは、ただひたすら、一心にオニギリを作っていく。

 

 大量のオニギリが出来た。そのまま洗った手を割烹着で拭き、再び雪平鍋の様子を伺う。甘さを確認するため、スプーンで少しだけ中の小豆を取り出し、それを口に運んだ。

 

――そんなにうまいと申すのなら、また作ってやるわい!!

 

 はるか過去から耳に届いた、懐かしい声。その声が、アサクラに味の仕上がりを伝えた。

 

「また作るぞ。亜矢」

 

 完成したあんこを火から下ろし、自然に冷めるのを待つ。しばらく置いた後姿を見せたのは、あの日から幼馴染が作り続けてくれた……だけどあの日を境に自分で作るしか食べるすべがなくなった、思い出のあんこ。

 

 そのまま、小さなお釜の蓋を取り、中を覗く。炊きあがり具合を確認したあと、それをすりこぎ棒で突き崩していった。窯の中のもち米を混ぜたご飯が、次第に餅のようにまとまり始める。ある程度米の形を残した状態で、アサクラは突き崩すのを止める。

 

 アサクラが冷めた料理の数々を、たくさんのお重に並べ始めたときだった。厨房にコンコンとノックの音が響いた。アサクラは返事をしない。ほどなくしてドアが開き、その向こう側から、デイジー姫が姿を見せた。

 

「アサクラ、おはよ」

「ああ、おはよう」

 

 2人に、いつもの軽口はない。ただ、アサクラが返事をしたとき、デイジー姫の顔に、少しだけ安堵が浮かんだ。その顔のままデイジー姫は厨房に入ってきて、椅子に腰掛けアサクラの向かいに陣取る。

 

「……それ、父上たちのお弁当ですか?」

「そうだな。王より直々に頼まれた」

「私の狩りのときは大したものを作ってくれなかったくせに」

「あのときは食材がなかった」

「わかってます。でも、少しぐらい文句言ってもいいでしょ」

「なんでだ」

「だって、許嫁へのお弁当は貧相なのに、父上のお弁当はこんなに豪華なんですよ?」

 

 ニッと笑うデイジー姫。その笑顔が強がりであることは、もう数年来の強敵であるアサクラにだけは、よく伝わっていた。

 

 実際、王のお弁当がこんなに豪華なのは、王からの指示だけではない。これには、貯蔵庫にある食材をすべて使い切るという、現実的な理由があった。

 

 デイジー姫が、厨房の隅にあるアサクラのカ・ターナをチラと見た。

 

 このカ・ターナは、アサクラの故郷で作られた一振りだ。故郷を離れたその日からアサクラとともにあり、何度もアサクラの窮地を救った。刃が欠ければアサクラ自身が研ぎ、常に傍らに置いていた。

 

 しかしこの国に来て料理人となってからは、特別な事情がない限り部屋から持ち出すことのなかったものだ。たとえば、ジョージアの嘘を看過したときや、身の危険を感じているとき……あるいは……。

 

「ねぇアサクラ。聞きましたよ。父上に同行を申し出たそうですね」

「……」

 

 アサクラは答えない。ただ静かに、しかし手際よく、お重に料理を詰めていくだけだった。

 

 昨晩、アサクラは謁見の間に赴き、王にこう進言した。

 

――私も同行させていただきたく存じます 許可を

 

 国王はその申し出を了承した。出立する自分と配下たちのために、最高のお弁当を作る条件で。

 

「どうしてですか」

「……」

「あなたも私の元からいなくなるのですか」

「……」

「私の最後のおもちゃがいなくなっちゃうじゃないですか」

「……昨日のジョージアの言葉は覚えているか」

 

――貴公にもあるはずだ。ここで料理を作る以外に、出来ることが

 

「覚えてますよ」

「あれがすべてだ。私にも、ここで料理を作る以外に、出来ることがある」

「……」

「だから出立する」

 

 その後は、アサクラもデイジー姫も、しばらくの間口を開こうとしなかった。

 

 やがて、アサクラがすべての料理をお弁当に詰め終わり蓋を閉めて、お重の準備が整った。仕上がったお重を調理台の隅に退けて、冷めたあんこが入った雪平鍋と、小さなお釜を調理台に乗せた。

 

「それは? 何を作るのですか?」

 

 静かにデイジー姫が口を開いた。アサクラはあんこを手に取り、じっとそれを見つめる。

 

「おはぎという。私の故郷の甘味だ」

「カンミって?」

「甘いもの……こっちで言うデザートとかスイーツとか、そんなものだ」

「へぇ〜」

「……前に、私の好物を聞いてきたことがあったな」

「ありましたね。結局答えてくれませんでしたけど」

「これがそうだ。これが、私の好物だ」

「父上みたいですね。男の人なのに甘いものが好きだなんて。何かきっかけでもあったんですか?」

 

――ほれほうびじゃ! よう味わって食え!!

 

「幼馴染が、私のためによく作ってくれた」

「……」

「そいつは当時の私の主の娘で、女のくせに気が強くて女っ気のない女だった」

「もう結構です。やめてください」

「そいつが作るおはぎはでかくてごっつくてぶっさいくなおはぎだったが、食いごたえがあって不思議と美味かった」

「やめてくださいと言っています」

「そのせいか、気がついたら自分で作れるぐらいに好きになっていた。私がここで料理人なんてやってられるのも、元をたどれば、このおはぎのおかげかもしれん」

「こんな時に! 昔話はやめてください!!」

 

 突如、バンと音が鳴り響いた。デイジー姫が調理台に自分の手のひらを叩きつけた音だ。

 

「今そんな話をされたら、まるであなた達が、そのまま帰って来ないようで……」

「……」

 

 アサクラは動じない。自身の手のひらの中にあるあんこを、ただ、ジッと見つめるだけだ。

 

 しばらくして、アサクラはおはぎの仕上げにかかった。自身の手のひら大ぐらいにまとめたご飯を楕円に整形し、その上にあんこをひとつかみ乗せて、形を丸く整えていく。

 

「……」

 

 アサクラの顔はおだやかだ。普段のアサクラは料理中は気が張り詰めていることが多い。だが、今日だけは違った。ほんの少し微笑んですらいる。薄い微笑みを浮かべたまま、アサクラは静かに、丁寧におはぎを作っている。

 

「……ねぇアサクラ」

「んー」

「約束してくれますか」

「内容による」

「必ず、バル太やジョージアと共に戻ってください。あなたたちは、私の大切なおもちゃですから」

「おもちゃと言われて戻る気になる方がどうかしている」

「では言い直します。あなたたちは、私の大切な友人ですから」

「……」

「約束出来ませんか? ならこの国の姫デイジー・ローズ・フォン・オルレアンの名のもとに、あなたに命じます。アサクラ・ヒョウゴ。騎士副団長バルタザールと調理補助ジョージアと共に、必ず私の元に生きて帰りなさい」

「……」

 

 アサクラはデイジー姫を見た。いつもの彼女ではない、この国の姫がそこにいた。堂々と佇み、威厳を持ってアサクラに向かい合う彼女の姿は、凛としてどこか美しい。

 

 その姿は、思い出の中の幼馴染の立ち居振る舞いに、どこかかぶるものがあった。

 

「……それが約束出来んのが、戦争だ」

「一介の料理人風情が、この国の姫である私の命に背くつもりですか」

「誰に何をどう言われようが、約束は出来ん」

「……ッ」

 

 アサクラがその手を止めた。今、アサクラとデイジー姫の目の前には、おはぎが3つ並んでいる。それらは一つ一つが朝倉の手のひらほどの大きさがあり、デイジー姫でも、一口ですべてを口に入れるのは無理なほど、大きい。

 

「ほら、これがおはぎだ。お前の父上と私をつないで私をここに連れてきてくれた、私の好物だ」

「……」

「これはお前のために作った。よく味わって食え」

 

 そう言うとアサクラは割烹着を脱ぎ、三角巾を頭から外した。割烹着の下は、アサクラの故郷の服。戦の際に鎧の下に着込むキモノと呼ばれる装束だ。

 

 そのままお重を風呂敷ですばやく包み、それを手に持つ。厨房の隅に移動し、カ・ターナに手を伸ばした。

 

――朝倉

 

 厨房は湯気が立ち込め、まるで霧がかかったようにぼやけている。アサクラには、その湯気に混じって、カ・ターナの横で佇む、一人の懐かしい男の姿が見えた。

 

――今度こそ友として、お主と共に

 

 故郷の鎧に身を包み、アサクラと同じくカ・ターナを腰に携えた、かつての親友の姿。その男はアサクラに対し、頼もしい微笑みを見せていた。

 

 懐かしい友に見守られ、アサクラはカ・ターナとお重を手に取り、ドアに向かって歩き出した。

 

「こんな……こんなものッ……」

 

 アサクラがドアを開き出ていくその時、背後から、絞り出されたデイジー姫の声が聞こえた。振り返るアサクラの眼差しは、普段デイジー姫に向けるそれより、もう少しだけ優しい。

 

「こんなものとは何だ。せっかく姫のために丹精込めて作ったのに」

「だって……食べたら終わりですよ……?」

「……」

「食べられませんよ……あなたの残り香なんて……ッ」

 

 振り返ったアサクラが見たものは、うつむいておはぎを見つめて歯を食いしばるデイジー姫だった。目に涙を浮かべ悔しそうなデイジー姫の目には、きっと今、目の前のおはぎは写っていない。

 

 デイジー姫の涙が一粒、おはぎに落ちた。その時厨房の湯気が、アサクラとデイジー姫を包んだ。それらは日に照らされる朝霧のように、キラキラと輝いている。

 

 そのモヤの中、アサクラの目に写った姿があった。

 

――あさくら、安心せい

 

 アサクラはデイジー姫の背後に、懐かしい幼馴染の笑顔を見た。幼い頃の汗と泥に塗れた姿でも、三行半を突きつけられる前の、血に塗れた痛々しい姿でもない、本来の元気で美しい姿の彼女が、デイジー姫の背後にいた。

 

――お前の大切なものを、私も守ってやるでのう

 

 こいつが守ってくれるのなら……自分の新しい居場所を、かつての自分の居場所だった亜矢が守ってくれるのなら……アサクラの気持ちが今、吹っ切れた。

 

「心配するな。戻ってきたら、また作ってやる」

「……へ」

「仕方ない……約束してやろう。全員で戻ってみせる」

「アサクラ……」

「だから安心して食え。これが最期ではない。また食えるから」

「……わかりました。私のおも……」

「なんだと?」

「……ゲフン。我が友、アサクラ」

「では行ってくる」

 

 再びデイジー姫に背を向け、アサクラはドアを開く。

 

「アサクラ、ご武運を」

 

 背中越しに聞く姫の激励も、存外に悪くない……そんな風に思う自身の気持ちの変化に少し驚きながら、アサクラは開いたドアから足を踏み出し、厨房をあとにした。

 

 

 アサクラを始めとする四人がやいのやいのと騒がしく毎日がにぎやかだった厨房は、それから数週間の間、物音すらしない、寂しい無人の部屋となった。

 

 ただ一人……デイジー姫だけは、時折寂しそうに厨房を訪れ、そして泣きそうな顔で厨房をあとにしていた。

 

 



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14. 秋鍋(前)

 アサクラとジョージアが王と共に戦場に出立して数週間経過した、ある日のことだった。

 

「アサクラっ!!!」

 

 厨房のドアが乱暴に開き、爆発音に似た『ドバン』という音が、静かな厨房に響き渡った。ドアの向こう側にいたのは、いつもより、もう少し逼迫した様子のデイジー姫。肩で息をして、走って厨房までやってきたことがよく分かる。

 

「……ああ、姫か」

 

 そんなデイジー姫に返事をしたのは、調理補助にして凄腕の戦士ジョージアだ。鎧を着込み、背中には短い槍とハンマーをくくりつけ、戦場から今しがたここに帰ってきたばかりであることが見て取れる。

 

 そしてそんなジョージアの影に隠れて、調理台に伏せている男が一人いた。

 

「我々が帰ってきたことを知らされたのか?」

「事前に知らされていました。それよりも」

「?」

「アサクラは? 私のアサクラはどこに?」

「ああ、アサクラなら……」

 

 ジョージアは、自身の影に隠れて調理台に伏せている男をチラと見た。服は極東の様式の戦装束。腰には見慣れた極東のサーベル『カ・ターナ』を携えたその男は、調理台に伏せ、ピクリとも動かない。

 

 デイジー姫は急いでその男のそばに駆け寄り、そして……

 

「アサクラッ!!!」

 

 アサクラの名を叫びながら、伏せている男の肩を掴んで無理矢理に振り向かせた。

 

「おかえり!! 私のアサ……ク……ラ……?」

 

 そしてその男の顔を見た途端、デイジー姫は絶句した。

 

「あ、ああ……約束、どおり……戻った……ぞ……」

 

 調理台に伏せていた男……それはデイジー姫の言う通りの男、アサクラである。

 

 ただ、デイジー姫の知るアサクラの姿とは似ても似つかない、げっそりとやせ細って疲れ切り、くたびれきった姿になってはいるが。

 

「……ねぇジョージア。これ、何ですか?」

「これって……言う、な……」

「アサクラだ」

「いやいやアサクラ違いますやん。どう見てもこれ、生きた人間ではないですやん」

「ひどいぞ……死ぬ思いで帰ってきた……のに……」

「だって……今のアサクラ、なんか砂漠の国の化け物のミイラみたいですよ?」

「斬り……殺、す……グハッ」

 

 デイジーの目の前にいるミイラは苦悶の表情を浮かべながらそう恨み節を吐くと、今度はそのままあおむけに調理台の上にバタリと倒れた。

 

「……ねぇジョージア、ホントにこれ、何ですかこれ」

「アサクラだ。こんなミイラに変わり果ててしまったが、アサクラだ」

「これがアサクラ……ありえないでしょ。確かにアサクラは三十路手前ですけど、もうちょっとみずみずしい肉体でしたよ? 少なくとも、こんな乾いたカツオブシみたいな男ではなかったですよ」

「信じてほしい。これが、アサクラの成れの果てだ」

 

 そういってしわしわなアサクラを2人で評するその声を聞きながら、『私の苦労を知らないで……殺す……コイツら確実に斬り殺す……』とぶつぶつと呪文のように繰り返す、アサクラ似のミイラだった。

 

……

 

…………

 

………………

 

 話は、王とアサクラたちが戦場に到着して、数日後のある日にまで遡る。

 

 その日、アサクラは王の夕食として、秋鮭ときのこ、そして秋野菜をふんだんに使った鍋を準備した。大豆で作った故郷の保存調味料、『ミソ』で味付けされたその秋鍋は、周囲に実に美味そうな香りを振りまきながら、王のテントに運ばれたのだが……

 

「ねぇアサクラ? いつもありがと。予は嬉しいよ?」

「ハッ。恐悦至極に存じます」

「ところでさ。今日は星空もキレイだし、ちょっと外で食べたくなったんだけど……いいかな?」

「し、しかし王……外で食べれば、敵陣から丸見え……長弓兵たちからの狙撃の危険もあるのでは……?」

「えー……こんなに予がお願いしてるのに……ダメなの……?」

「……」

 

 押しは弱いが強情な王にそのまま押し切られたアサクラは、渋々王のテントから少し離れた屋外にテーブルと椅子、そして明かりの燭台を準備させ、そこに王を着席させて、絶品の秋鍋を食べさせることにした。

 

「んー……アサクラ、ありがと」

「は、ハハァッ」

「満天の星空の下で食べるアサクラの鍋は、美味しいねぇ……」

「き、恐悦至極っ」

 

 とご満悦の様子の王だが、アサクラの胸中はそれどころではない。この、何の遮蔽物もないだだっ広い土地で、王が食事をとる……もし周辺に敵の弓兵が潜伏でもしていたら……周囲に気を配るアサクラは、気が抜けない。

 

 そうこうしている間も、王は美味しそうに鍋をつついているわけだが……やがて王はその箸を止め、自身の背後に広がる、自陣の兵士たちの姿を見た。

 

「ねぇアサクラ?」

「ハッ」

「今は、兵士のみんなも食事の時間なのかな?」

「ですね」

 

 自陣の兵士たちの食事中なのだろうか。各々が木製の皿に注がれたスープとパンを持ち、こちらを恨めしそうな眼差しで見つめていた。アサクラの耳に、周辺の兵士たちが音源であるらしい『ぐぎょぉ〜』という音が届いていた。

 

「アサクラ、みんなこの鍋、食べたいのかなぁ?」

「……かも、知れませぬ」

 

 王の無邪気な問いに、アサクラも返事を返す。実際、この秋鍋がふりまく香りの破壊力は凄まじく、その香りを嗅いだもの全員の腹を刺激し、空腹へと促す絶大な効果があった。その香りが自陣内に立ち込めており……王とアサクラが気がついたとき、2人の周囲は、よだれを垂らして恨めしそうに王の食事を眺めるたくさんの兵士たちによって、埋め尽くされていた。

 

「……ねぇ、アサクラ?」

「ハッ」

 

 このときアサクラは、この国王が、人懐っこく心優しい男であることを、久々に思い出した。

 

「こんな美味しいお鍋さ。予一人で食べるのもったいないと思わない?」

「御意」

「せっかくだからさ。みんなの分も作ってあげて?」

「は……? 全員分、ですか?」

 

 まさか数千にもなる自軍の兵士全員の食事を、たった一人で作れと言っているのではあるまいな!? と半信半疑のアサクラは王に確認したのだが……

 

「うん。全員」

「お、王……ッ!?」

「お願いアサクラぁん。みんなで美味しいものを食べて、幸せになろ? ね?」

 

 王の返答は、この上なく優しく、それでいて狂気としか思えないものだった。その答えを聞いたアサクラの意識は、しばらくの間、肉体から500メートルほど離れた位置まで飛んでいくほど、破壊力があった。

 

 

 そうして1時間後、王の財力とアサクラの行動力、そしてバル太たち騎士団の団結力と統率力により、複数の超巨大鍋を使用し全兵士を巻き込んだ、大なべパーティーが幕を開けた。

 

「はーいみんな、慌てないでたくさん食べるんだよー」

「「「「はいッ!!! ありがとうございます国王!!!」」」」

「もぉ〜……お礼なんていいよぉ〜……それにがんばったのはアサクラなんだから、お礼はみんなアサクラに言ってね? モジモジ」

「「「「はいッ!!! ありがとうございますアサクラ様!!!」」」」

 

 王と全兵士に礼儀正しく労われるアサクラはその時、全員分の鍋を作る調理の陣頭指揮で疲れ果て、バル太とジョージアに肩を借りて、かろうじて立っている状況だった。

 

「ゼハー……ゼハー……も、もったいなき、お、お言葉……」

「貴公、大丈夫か……」

「これが大丈夫に見えるのかお前は……ゼハー……」

 

 そうしてアサクラの陣頭指揮の元、騎士団によって仕込まれた秋鍋は絶品の一言。兵士たちは王の元、秩序だって礼儀正しく鍋に舌鼓を打っていた。美しく輝く星空のもと、オルレアン王国の陣は、戦争中で敵軍と睨み合っているその最中だというのに、飲めや歌えの大宴会となっていった。

 

 そんな光景を疲弊した身体でアサクラは見守っていたのだが……ここでアサクラは、『最悪のアクシデントというものは、連鎖していく』という言葉を思い出していた。

 

 『数千人規模の食事を作らされる』ということが、もし最悪のアクシデントであるとするならば……これは、さらに最悪の形で連鎖する……胸に不安を抱えたアサクラが周囲を見回した、その時だった。

 

 自陣と食事中の兵士たちを取り囲むように、人だかりが出来ていた。

 

「……!?」

 

 アサクラが見渡す限り、自軍は人だかりに囲まれた状態である。

 

「て、敵襲ーッ!!!」

 

 アサクラがそう叫び、自軍に危機を知らせるが……

 

「ダッハハハハハハハ!!!」

「冗談っすか!!? アサクラ様!!! そんなクソ真面目なキリッとした顔で冗談っすか!!?」

「いやー!!! アサクラ様も人が悪い!! こんな時間に敵襲なんてあるはずないでしょ!!!」

「ネギ!!! ネギ持ってきてアサクラ様!!! ネギ!!!」

「ああ……世界は今、クアッドコーク1800ばりの縦回転を見せている……」

 

 とこんな具合で、すでに長時間の宴会で仕上がってしまっている兵士たちは、アサクラの警告を、ただのイタズラだと思ったようだ。アサクラの警告に、誰も耳を貸そうとしない。

 

 アサクラは、自分のそばですでに酔いつぶれて眠っているバル太とジョージアを起こそうとするのだが……

 

「バル太起きろ! 敵襲だ!!!」

「姫ぇ……そのようなところに、マンドラゴラは入りませ……ン゛ッ……!?」

「だ、だめだこりゃ……ジョージア起きろ! 敵襲だ!!!」

「バル太さまぁ……たとえそんなとこからマンドラゴラが生えていても……私は、あなたのおそばに……ンフフフフ……」

「二人して一体どんな夢を見ているというのだ……ッ!?」

 

 とこんな具合で、ふたりとも起きる気配がまったくない。

 

 そうこうしているうちに、自陣の包囲網が少しずつ狭まってきていることに気付いた。すぐさまカ・ターナを抜き放ち、アサクラは臨戦態勢に入る。

 

「……ッ」

 

 しかし敵は大人数……対してこちらは一人だ。アサクラの胸に、久しく感じてなかった戦場の緊張が走る。カ・ターナを持つ右手が震え、額から汗が滴り落ちる。

 

「クッ……しかし、ここで退くわけには……ッ!!」

 

 決死の覚悟を決め、アサクラが臨戦態勢に入ろうとした、その時だ。

 

「……あのー」

「!?」

 

 包囲している敵軍の中から、一組の男女がとことことアサクラの前に進み出てきた。壮年の男性の服装は、東から絹を運んでくる行商人の服装によく似た意匠が散りばめられた、異国感あふれる様相。豪奢な服装と見事に装飾された腰の剣が、とても身分が高い者であることを物語っている。

 

 一方の若い女性の方は、髪と瞳の色はアサクラに似ているが、着ている服はなんだか違う。アサクラの祖国の服に雰囲気は似ているが、クリーム色の着物に薄水色の帯は、アサクラの故郷の服にはない組み合わせ。長い黒髪は後ろでふんわりとまとめられている。顔つきはデイジー姫やジョージアに比べて優しく目がぱっちりとしているが、その顔は今、元気なくがっくりとうなだれている。ほどなくして、その服は海を挟んだヒノモトの隣国『カン』と呼ばれる国の民族衣装であることをアサクラは思い出した。

 

「ち、近づくな!! 寄らば斬るッ!!!」

「あ、大丈夫です。別に怪しいものではないので」

 

 アサクラが威嚇すると、男の方が口を開いた。声の調子から判断するに、相手に戦闘する意思はなさそうだが……

 

「こんな時間に我が軍を包囲している段階ですでに怪しいッ!!! 私に無用な殺生をさせるな!!! これ以上近づくんじゃあないッ!!!」

「いやすみませんすみません……」

 

 必死に二人組を牽制するアサクラ。その迫力が効いたのか、男女二人はアサクラから姿が見える程度に離れた場所で立ち止まった。二人の表情を見ると、敵意はなさそうだ。アサクラは警戒を解き、カ・ターナから左手を離した。

 

「何者だ!」

「いやあの私たち、みなさんと現在戦闘中のものです」

「!? やはりお前たち、マナハルの者か!!?」

「はぁ、そうなんですけど、別に今は戦いに来たわけではなくてですね……」

「では何だ!! 目的を言え!!!」

「いや、あの……」

「すみません……ホントにすみません……」

 

 男の方は恥ずかしそうに顔を赤く染め、はにかみながら鼻の頭をポリポリとかく。そのさまは、どう見ても戦闘をするために接近してきた者のそれではない。女の方はがっくりと力なくうつむいて、なんだか疲れ切ってるし。

 

「えっとー……」

「……?」

 

 男は、恥ずかしそうにうつむきながら、アサクラのはるか後ろを指差した。その先には、オルレアンの兵士たちが大笑いしながら囲む大鍋が、これみよがしに鎮座している。

 

「……あれ、みなさんの晩ごはんでしょうか?」

「あ、ああ」

「一体どんな料理でしょう?」

「いいですって……もう帰りましょって司令官……?」

「秋鍋だ。秋鮭と季節の野菜、それとたくさんのきのこを、特性のミソスープで煮込んだものだ」

「秋鍋……これはまた美味しそうな……」

「いやもうホントやめましょ司令官?」

「?」

「いや私、実は今回のオルレアン遠征の最高司令官なんですけどね?」

「!? ではお前は!?」

「し、司令官の……護衛兼側近……ホン・シャオリンといいます……」

 

 その後、この人の良さそうな敵軍の司令官は、事の事情を恥ずかしそうに説明しはじめた。その間、隣の女性シャオリンはずっとうなだれており、アサクラに対して非情に申し訳無さそうな顔を浮かべていた。

 

 




※続きます


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15. 秋鍋(後)

 アサクラたちオルレアンの陣をマナハルの大軍が包囲する、その30分ほど前の話だ。マナハル西方軍最高司令官は、側近の女騎士シャオリンに外の警備を任せ、自分はテントの中で休息を取っていた。

 

 全軍の食事も終わり今日も戦闘は発生せず、無事に一日が終わったことに安堵した司令官が、寝床について明日のことを考え始めたときだった。

 

『おい、この香りはなんだ……』

『良い香りだ……なんだか腹が減ってきたぞ……』

『なんてこったい……あいつら戦闘中に鍋囲んで酒盛りしてやがる……』

 

 こんなセリフが外から聞こえてきた。気になった司令官は、ベッドから起きてローブを羽織り、テントの外に出てみた。

 

 鼻をすんすんと鳴らしてみると、なるほど確かに自陣になんとも言えない良い香りが立ち込めている。その香りは司令官が今まで嗅いだことのないような素晴らしい芳香で、嗅いでいるだけで次第に腹が減ってきた。

 

 この香りの正体を突き止めたくて、シャオリンと共に見張りの兵たちの元へと向かい、事情聴取を行ってみた。

 

『ねぇねぇ』

『……は!? し、司令官!?  シャオリン様も!!?』

『なんかめっちゃいい匂いするんだけど』

『確かに……先程から良い香りが立ち込めてますなぁ』

『原因は分かる?』

『はい。オルレアン王国軍が、現在酒盛りをやってるようで……』

『ぇえ!? 敵軍の私たちの真ん前で!?』

『ええ……そうなんですシャオリン様……』

 

 まさかと思った司令官は、見張りから遠眼鏡を借り受け、それで敵陣の様子を確認してみた。なるほど確かに敵軍の兵士たちが、大鍋を囲って飲めや歌えの大宴会中だ。

 

『アイツら一体何なんだ……』

『分かりません……ですが、こんなに良い匂いをぷんぷんさせながら、あんなに楽しそうに酒盛りされてると、なんだか真剣に見張りをしてるのも馬鹿らしくなってきますわ』

『たしかにねぇ……』

『し、司令官、私にも、ちょっと遠眼鏡をッ』

『ちょっとぉ乱暴に取り上げないでよぅ……』

『で、では失礼……おお……』

 

 さすがに自分の目で見なければ信じられないのだろう。シャオリンも司令官から遠眼鏡を取り上げて覗いてみたが……

 

『確かに大宴会中ですね……』

『でしょ……何なのアイツら……』

 

 司令官と遠眼鏡を覗くのをやめたシャオリンは、互いの顔をジッと見つめた。ほどなくして、二人の腹が『ぐぎゅるぅ~……』と悲鳴を上げた。

 

『……』

『そういえば司令官……私たちの晩ごはん、ヒエヒエでしたよね……』

『国から持ってきた保存食をそのまま食べただけだからね……』

『しかも、少なかったですよね……』

『昨日届くはずだった追加の食料、予定がのびのびになってるからね……』

『『……』』

『『おなかすいたなぁ……』』

 

 互いに声をそろえてそうぼやいた後、がっくりとうなだれる二人。その間にも、二人の腹は止まることなく『ぐぎゅるぅ~……』となり続けている。

 

『……食べに行ってみようか』

 

 司令官がポツリとつぶやいたその一言は、鞭打ちを起こす勢いでシャオリンの首をグリンと司令官の顔に向けさせた。

 

『なんですと!?』

『いや、行けば食べさせてもらえるかなーって』

『いやいやありえないでしょ司令官。相手は敵ですよ? 場合によっては殺し合う相手ですよ?』

『いやでもさー。あの人達見てみなよ。あんなに楽しそうだよ?』

『だからと言って敵に『すみません。ちょっと晩ごはんおすそ分けしてもらっていいですか』とか言うんですか? 私は嫌ですよ?』

『そこは司令官の私が言うって。部下にそこまでやらせるほど我が軍はブラックじゃないよ? 少なくとも私の部隊は』

『それならまぁ……いやいやいやあぶないあぶない丸め込まれるところだった……とにかくダメですよダメ! 敵軍に晩ごはんのおすそ分けをしてもらいに行くなんて!!』

『えー……行こうよー……司令官さんおなかすいたよー……ぺこぺこだよー……』

『ダメです!』

『おなかとせなかがくっつきそうだよぉ……シャオリンだってきっとそうでしょ……最高責任者の私が行こうって言ってるのにダメなの……?』

『確かにおなかめちゃくちゃすいてますけど!! ダメなものはダメなんですーっ!!!』

 

 そうして、『司令官が晩ごはんのおすそ分けをしてもらいに行こうとしている』という噂は、その会話を横で聞いていた見張り兵によって全軍に広がり、『だったら俺も』『俺だってうまいもの食いたい』『酒が飲めると聞いて』『よくわからんけど面白そうだから』と司令官に賛成する兵士たちが一人また一人と増えていき……

 

 

「こうして、全軍で晩ごはんをおすそ分けしてもらいに来た次第です」

「……」

「先程もお話した通り、我が軍は現在補給が滞っておりまして、食事も満足な量を摂れておりません。しかもヒエヒエで美味しくないのです」

「……」

「なので、そちらの鍋の香りが……て、どうかしました?」

「いや……」

 

 この戦場に来てこっち、めでたくナリを潜めていたはずのアサクラの偏頭痛が、ズキッと再発した。

 

 改めて、マナハルの司令官を見つめる。隣のシャオリンと『もう帰りましょって。敵軍ですし、なにより不躾で迷惑ですよ?』『ぇー……でもあの鍋、美味しそうだよ? 司令官さん、ここまで来て何も食べられないのは嫌だよぅ……』と、敵である自分たちを前にして、酷い漫談を繰り広げている。この会話を聞いて、一体誰が一触即発の敵同士だと思うだろう?

 

「アサクラぁ?」

「!? 王!?」

 

 不意にアサクラの背後から王の声が聞こえた。アサクラは片膝を付き、頭を下げる。お酒を飲んでほっぺたがほんのり赤くなった王が、頭からおひさまをぴろっと出した状態でよたよた歩いていた。

 

「もうアサクラぁ……どこにも姿が見えなかったから、探したよぉ」

「は、ハハァッ……」

「頭が低いよぅ。予とアサクラの仲なんだから、そんなに控えなくていいんだよ? ……ところで、こちらのお二方は?」

「は。ハハァッ。こちら、マナハル軍の最高司令官とその側近とのことで……」

「ふーん……」

 

 この状況に飲まれていたのか、はたまた嘘を考える余裕がなかったのか……アサクラはつい本当をことを口走ってしまった。アサクラが戸惑うも時既に遅し。王はひょこひょこと司令官とその側近の方へと、歩いていく。

 

 一方のマナハル司令官も王に歩み寄った。互いの総大将が、剣を降れば相手を切り殺せる位置にいる。アサクラを緊張が包む……シャオリンも同じく、剣の柄に手をおいている。アサクラと同様、緊張しているのか……

 

 2人の総大将……王と司令官は……

 

「ども。はじめまして。オルレアンの王です」

「はじめまして。マナハル西方軍最高司令官です」

 

 と、アサクラとシャオリンの2人の心配をよそに、至極普通の初対面同士の挨拶を交わした。

 

「ところでオルレアンの王」

「はいはい?」

「この大宴会は……」

「いやぁ、予の配下に腕の立つ料理人がいてね? 彼が秋鍋を作ってくれたんですよ」

「ほぅ」

「で、こんなに美味しい秋鍋なら、予の友達みんなで食べたほうが美味しいだろうなー……こんなに美味しい秋鍋だから、むしろみんなと食べたいなーって思って」

「なるほど」

「お宅は? 我が軍に何かご用?」

「なんでもないです!! なんでもないんですほんとに! すぐ帰りますからっ!!」

「いや、お宅の陣から、その秋鍋のものすごーくいい香りが漂ってきましてね?」

「ねぇ聞いて司令官!? お願いだから私の話に、ほんの少しだけでいいから耳を傾けて!?」

「うんうん。アサクラの作った鍋は美味しいからね」

「いやもう、ホントやめましょって司令官?」

「それで、我々現在補給が滞ってまして、おなかすいてるんです」

「なるほど」

「以上です! どうもありがとうございましたマナハルの指揮官とその側近シャオリンでしたー! ありがとう、ありがとう!! ほら司令官! 迷惑だから帰りますよー!!」

「で、よかったらおすそ分けしてもらえないかなーって」

「しれいかぁぁぁああああんッ!!?」

 

 マナハルの司令官が血迷った言葉を吐くたびに、その隣のシャオリンは悲鳴を上げる。その様子を見て、アサクラは、なんだか他人とは思えないシンパシーを感じざるを得なかった。

 

「ふむ……」

 

 司令官の言葉とシャオリンの慟哭を聞いた王は、顎に手を当て、しばらく考え込む。

 

 そして……

 

「ねぇアサクラ?」

「は、ハッ」

「こんなに美味しい秋鍋だからさ」

 

 この時アサクラは、最悪が連鎖したのは包囲されたことに気付いた時ではなく、今この瞬間だということを、実感した。

 

「みんなで、食べたいよねぇ?」

「……は?」

「マナハルの皆さんにも、食べてもらお?」

「おゔッ!!?」

「おお、おすそわけしていただけるんですか?」

「おすそわけどころか、みんなで一緒に食べようよぉ」

「なりませんっ! ねぇ司令官? そ、そろそろ戻りましょ? このことが知れたら我が王に示しが……」

「いいんですかヤッター!!! 来た甲斐があった!!」

「しれいかぁぁぁああああん!!?」

「というわけでさぁ……アサクラぁ……」

「は、ハハァッ……!?」

「マナハルのみなさんたちの分も、作ろ?」

 

 アサクラの心に戦慄が走る。少なくとも、パッと見でオルレアン軍の全兵力よりも多い人数分、また秋鍋を作らなければならないという事実が、アサクラの心を震え上がらせる。

 

 力が抜けて震える喉から、アサクラはなんとか声を絞り出し……

 

「ち、ちなみに、司令官殿?」

「お、あなたがアサクラなのかな? よろしくお願いしますー」

「マナハルの兵力は、いかほど……?」

「前線だけで、1万ぐらいだっけ?」

「いぢま゛んッ!!?」

「後方支援やスカウト、整備兵なんかも合わせてトータル2万ぐらいかなぁシャオリン?」

「はい……その通りです……」

「さらにばい゛ッ!!!?」

「じゃあアサクラ! よろしくー!」

「バカな!? 王!! 私に万単位の人数分の秋鍋を作ることなど……ッ!?」

「ではアサクラとやら!! ワクワクしながら待ってまーす!!」

「司令官殿もついさっきまでの敵に慣れすぎだろうッ!?」

 

 慟哭を上げるアサクラを尻目に、王と司令官の2人は、並んで談笑をしながら、巨大鍋がそびえ立つ暗闇へと姿を消していった。あとに残されたのは、呆気にとられる女シャオリンと、魂が1キロほど遠くへと吹き飛んでいってしまった、アサクラの2人だけだ。

 

「アハハ……悪夢だ……万単位の秋鍋など、悪夢だ……」

「……あ、あのー……」

 

 ぶつぶつとうわ言のようにつぶやくアサクラの隣に、がっくりとうなだれたシャオリンがとことこと近づいてくる。

 

「す、すみませんほんとに……」

「か、かまわん……キミのせいでは、ない、から……ハハハ……」

「お手伝い出来ることがあれば、なんでも言ってください……」

「ありがとう……なんだかキミは、日々苦労してそうだ……」

「私も、あなたはなんだか苦労してそうな、そんな気がします……」

「「ハハハハハハ……」」

「「……」」

「「はぁ〜……」」

 

 そうして、オルレアン全軍が行った飲めや歌えの大宴会は、マナハル全軍をも巻き込み、敵同士が戦場でうまい秋鍋に舌鼓を打ちながら互いに酒を飲み交わし乱痴気騒ぎをし続けるという、前代未聞の全面衝突へと変貌を遂げてしまった。

 

 この乱痴気騒ぎは三日三晩続き、その間、アサクラは休みなく働いた。朝も昼も夜も、ひたすら調理の陣頭指揮を取り、包丁を握り鍋を振って、寝る間もなく料理を作り続けた……。

 

………………

 

…………

 

……

 

「……それで、限界まで疲れ切って帰ってきた……ということですか」

「ああ。もう……限界だ……」

「アホでしょアサクラ」

「アホとは……なんだ……」

「それで、戦いの方はどうなったんですか?」

「そのまま停戦となった」

「ほーん……あの人たらし父上、また新しい人をたらしこみましたか……」

「今頃は先方も自国へ帰り、無事に停戦したことを伝えていることだろう」

 

 フラフラでミイラとなってしまったアサクラに代わり、ジョージアがその後の次第を説明。それによると、マナハルの最高司令官と国王は固い握手と熱い抱擁を交わし、互いを『最高の友人の一人』と称して、涙ながらに別れていったとのことだ。それ以外にも兵士同士で仲良くなってしまった者も多く、最後の日には別れを惜しむ泣き声が戦場のそこかしこから聞こえてきたらしい。

 

『ありがとう。みんなに出会えてよかったよ。今度は戦場ではなくて、互いの家で会いたいね』

 

 マナハルの司令官は、最後にそう言ってアサクラたちと別れた。なんでも、マナハルとオルレアンが国交を結び、今後は交流を深めていく事ができるよう、マナハルの国王に直訴してくれるとのことらしい。『あなたをひっくり返したくて旅団』とマナハル王家の関わりを知ったときも、『我が王はそのような回りくどいことはしません。ですが犯人の目星はつくから、それもこっちで潰しますよ。王家と喧嘩なんて面白そうだ』と言ってのけた。王家に口出しできるあたり、相当な実力者のようだ。

 

『アサクラ様。今度は、もうちょっと和やかな場でお会いしたいですね』

 

 大宴会の最中、終始酔っ払い続けていたバル太やジョージアと異なり、ずっとアサクラを手伝い続けていたマナハルの女騎士シャオリンも、最後にそう言ってアサクラと握手を交わし、司令官とともに帰っていった。

 

「ちょっとその辺詳しく聞かせていただけますかアサクラ」

「姫、目が怖いぞ」

「当たり前でしょ! 私の許嫁のアサクラが!!!」

「いやそれ以前に私は許嫁になった覚えがない」

「私のアサクラが!! 名も知らぬどこぞのホースボーンに!!!」

「シャオリン殿のことを馬の骨って言うのやめろ」

「だってアサクラ!? あなたそれ! どう考えても狙われてますよ!?」

「狙われてるって何がだ」

「ッカァ〜!? これだから三十路で女っ気無しのムサい野郎はあきませんわ……」

「なんだ貴公、あの女戦士に狙われてたのか」

「さっぱりわからん」

「貴公、あの女騎士とともにずっと一緒におったではないか。それで気付かないとはどういうことだ。そんなことでは命がいくつあっても足りんぞ。恥を知れ」

「なんですと!? その馬の骨とずっと一緒にいたとな!?」

「お前こそ私の心配をするよりもうちょっと料理の腕を磨けよジョージア。ぶっちゃけシャオリン殿の方がお前の何万倍も役に立ったぞ」

「ッカァ〜!? 自分が標的にされているとも知らずに……まったくウチの嫁候補は……」

「だな。危機に鈍感ではこの先命がいくつあっても足りんぞ。恥を知れ貴公」

「ここまで罵倒される意味がわからん」

 

 とこんな具合で、いつもの軽口合戦が厨房内にこだまし始める。数週間ぶりに厨房に騒がしさが戻り、オルレアン城にいつもの日常が戻り始めた。アサクラを執拗に責め続けるデイジー姫の目も、どこか嬉しそうだ。

 

 そんな、やいのやいのと騒がしい声に混じって、アサクラの耳に届く声があった。

 

――ふはははっ 朝倉よ

 

 それは、自身が斬り捨てた、今は亡き親友の声。己が守らねばならないもののためにすべてを捨て、しかし友を裏切る自分を許せず、友であるアサクラの刃に斬り捨てられることを選んだ、悲しき男の声だ。

 

――お主の覚悟と戦働き、しかと見させてもらったぞ

 

 だが、その声は今、清々しい。アサクラに斬り捨てられるときのような、嗚咽を込めた怒号ではない。アサクラと夢を語り、笑い合っている時のような、とても清々しく、楽しげな声だ。

 

 そんな正澄の声に『これのどこが戦働きだ』と心の中で悪態をつきつつ、しかし誰も傷つかず、誰も傷つけない幕引きが出来たことに、アサクラの心はどこか満足を感じていた。

 

 ……だがこの時、アサクラはもちろん、デイジー姫とジョージア、そしてバル太は知る由もなかった。

 

 今はまだ平和に軽口を叩きあうこのメンツに、新たな台風が訪れることになることを……

 



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16. 豚の角煮(トンポウロウ)

 マナハルとの戦いが史上まれに見る平和的かつアホらしい終焉を向かえて、数週間経過したある日の厨房。この日も厨房では、アサクラとジョージアが料理に勤しんでいた。

 

 今日は、晴れて国交を結ぶことになったマナハルから、外交官の一行が到着するらしい。城をあげて歓迎の晩餐会が行われる手はずとなっている。アサクラたちは、その料理の準備のため、朝からとても忙しい。

 

「貴公」

「んー」

「今は何の準備をしているのだ」

「豚の角煮だ」

「カクニとは」

「豚肉の塊とゆで卵を煮付けて味をつけたものだ。それに茹でた青菜をつけて盛り付ける」

「なるほど。豚のアバラを釜茹でするか」

「アバラって言うな。バラ肉と言え。釜茹では拷問だろうが」

「どっちでも意味は変わらんだろう」

「お前が言うと血なまぐさい」

 

 普段どおりそんな軽口を叩きながら、2人は豚の角煮の準備を行っていく。ジョージアはゆで卵の殻を熱さでヒーヒー悲鳴を上げながら剥き、アサクラはその間、豚のバラ肉の塊を下茹でしていた。下茹でしている鍋の中には、何か白くてふわふわしたものが大量に浮かんでいる。

 

「その白いものは何だ」

「オカラだ」

「オカラってあれか。潰した豆の液を搾り取ったあとに出来るカスか」

「……これで脂身の脂を吸着して、脂身もさっぱり食べられるようにしている」

「豚の脂をそれで削ぎ落とすか」

「お前が言うとなぜか残酷に聞こえる……」

「失礼なッ」

 

 やがて下茹でが終わり、アサクラは鍋から肉の塊を取り出して適度な大きさに切り分け始めた。ジョージアの卵の殻向きも終わり、そろそろ本格的な煮付けに入ろうというとき……

 

「アサクラっ!!!」

「……」

「おお、姫」

 

 厨房のドアがドバンと開き、厨房にドアの轟音が響き渡る。ドアを開いたのは、いつもの通りのデイジー姫だ。肩で息をし、額には冷や汗を垂らして鬼気迫る表情。いつもと変わらないデイジー姫が、そこにはいる。

 

「また来たのか……今日は何だ?」

「ハァッ……ハァッ……ちょっとアサクラ! 隠れさせなさいッ!!!」

「いつもどおりか……今日は何をやらかした?」

 

 息切れ激しいデイジー姫いわく……今日は城内にある歴代国王の肖像画……といっても初代と二代目の2人分しかいないが……すべてに落書きをしてきたのだと言う。

 

「お前なぁ……もっと他にすべきことがあるだろう……」

「だって! お祖父様の肖像画にちょび髭描いて、頭をハゲにして髪の毛を一本だけにしたらめちゃくちゃ似合ってるんですよ!?」

「似合っていたら何をしてもいいというわけではないだろうがッ!!」

「それで気になってヒイお祖父様の肖像画にも同じ落書きしてみたら、これまた信じられないレベルで似合っていてですね!?」

「ギラギラと目を輝かせて言うセリフではない!!!」

「これは王家の血族として、すべての肖像画にちょび髭とハゲを描かねばならないという使命が芽生えたわけですよアサクラっ!!!」

「もっと他に姫としての大切な使命がお前にはあるはずだぞ!!! なぜそうお前は無駄かつ迷惑なイタズラに心血を注ぎ続ける!?」

「ハァー……ハァー……クックックッ……ァァアアーッハッハッハッ!!!」

「悪の総大将みたいな高笑いと変態極まりない息遣いをなんとかしろッ!!!」

 

 とこんな具合で、デイジー姫とアサクラの軽口の叩きあいも、以前と変わらない。そんな変わらない軽口を叩きながらも、アサクラはテキパキと豚の角煮の煮汁を作っていく。水と酒、ミリンと醤油を合わせて出来た煮汁に、豚肉とゆで卵を入れ、火にかけた。

 

 さて、デイジー姫がイタズラを働いてここに逃げ込んできたということは、そろそろ彼が訪れる頃である。

 

「姫ッ!!!」

 

 再びドアがドバンと開き、その音でデイジー姫は肩をすくめ、ジョージアは目をハート型に変形させた。アサクラはいつものようにプラスマイナスゼロの表情のまま微動だにせず、ただ顔だけをドアに向ける。

 

「げえッ!? バル太!?」

「やはりここにいらっしゃったのですかッ!!!」

 

 ドアの前にいたのは、この国の騎士団の副団長バル太。あのアホらしい秋鍋パーティーの最中、デイジー姫の手によって身体のどこかにマンドラゴラを植え込まれるという悪夢に苛まれ続けていた、悲劇の副団長バル太である。

 

「バル太さまっ!!!」

「おおジョージアさん。それにアサクラ様もお疲れ様です」

「ああおつかれ。姫のイタズラの後始末か」

「はい……おかげで大変です……城内の肖像画すべてにイタズラをされたものですから……」

「しかも狙いすましたかのようにこのタイミングだからな……」

「ええ……しかも運が悪いことに、イタズラを最初に見つけたのがマナハルの外交官ご一行だというのが……」

「……マジか」

「マジです……おかげでオルレアン王家の権威も失墜ですよ……」

 

 と、肩をがっくりと落として説明をするバル太。一方のデイジー姫は、そんなアサクラとバル太の視界からこっそりと外れ、そろーりそろーりと食料貯蔵庫に歩を進めている……が、アサクラの目を盗むことなぞ出来るはずもなく……

 

「逃げるな姫」

「ッ!?」

 

 と釘を刺され、姫はふてくされたように口を尖らせてチューチュー言わせながら、アサクラの隣に戻ってきた。

 

「ちなみにマナハルの外交官からは何か言われなかったか」

「ええ。今回赴任された外交官は、先の鍋パーティーでご一緒したあの司令官さんでして」

「あの大物のくせに言動が子供じみててどこかうちの王に似ている司令官殿が外交官か」

「はい。とても気さくな方ですので、見た瞬間に大笑いしたあと……」

 

『やはりオルレアン王国は楽しいですね。次にマナハルに帰ったときは、私も王家の肖像画に同じイタズラをしてみんなをびっくりさせてやりますよ。ニヤリ』

 

「と口走ってましたね」

「この国の王族といい司令官殿といい……なぜ、こう……子供じみた変人が多いのか……」

「ええ。まったくです」

 

 ここでアサクラとバル太の視線が、デイジー姫へと移る。デイジー姫はいつの間にか豚の角煮の鍋へと移動していて、獲物を狙う鷹のような眼差しで、鍋の中でコトコト煮付けられている角煮を見つめていた。

 

「おい姫」

「ひゃいッ!? な、なんですかアサクラッ!!! 私はつまみ食いしようだなんて企んでないですよ!!?」

「まだその角煮には味はついてないぞ」

 

 さて……ここでアサクラは、バル太が気になることを口走っていたことを思い出した。

 

「あの司令官が外交官としてここに来たということは、シャオリン殿もおいでなのか」

「そうですね。シャオリン様もおいでです。先程の話の続きですが、イタズラ宣言をしてた司令官さんを素手で張り倒してましたね」

 

――もう容赦しません!!! やめなさい司令官ッ!!! ズベシッ!!!

 

――げふぅッ!?

 

 シャオリンも来訪しているという事実が、アサクラの胸を熱くさせる。互いに認め合い、似た者同士の苦労人気質であるシャオリンに対し、シンパシーを感じていたアサクラ。互いに似た文化のバックボーンを持ち、なぜか他人とは思えない気持ちを抱いていたアサクラは、またシャオリンと会いたいと思っていた。

 

 出来るなら、晩餐会前に一度会いたい……そう思い、いつの間にか隣に移動していたデイジー姫の顰蹙を買っていたら……

 

「こんにちはー……?」

 

 三度、厨房のドアが開いた。それも、今回は先程までのように『ドバン』と勢いよくではない。静かに上品とキィと開き、そのドアの隙間から、とても上品な……この厨房では今まで聞いたこともないような、とても柔らかく上品な声が響いた。

 

 その声は、厨房内にいる全員の耳に優しく届いた。ジョージアとバル太を優しく振り向かせ、アサクラの胸を高鳴らせて、デイジー姫の眉間に深いシワを刻み込んだ。

 

「厨房に行けば、アサクラ様がいらっしゃると聞いたのですがー……」

 

 静かに開いたドアの向こう側に上品に佇んでいたのは、クリーム色のキモノに薄水色の帯を合わせ、その上から薄く透けた羽衣を纏った黒髪の女性、シャオリンだった。

 

「久しいな。シャオリン殿」

「ああアサクラ様! ご無沙汰してます」

「いや、同じ苦労人同士、あなたにはまたお会いしたいと思っていた」

「上司に苦労させられる者同士、私もあなたとまたお会いしたいと思っていました」

 

 とこんな調子で、時間が空いた後の再開というのに、アサクラとシャオリンは会った途端に打ち解ける。これも、『上の者に苦労させられる者同士』という、似た境遇がそうさせるのかもしれない。

 

「ジョージア様とバル太様もご無沙汰してます。おかわり無いようで、なによりです」

「貴公も元気なようで何よりだ」

「あなたもお元気で何よりですが……あなたも俺をバル太と呼びますか……」

「アサクラ様からそう教えられましたからね。ダメですか?」

「もうそろそろ観念したらどうだバル太」

「嫌ですよっ!」

 

 とこんな具合で、シャオリンはアサクラだけでなくバル太とジョージアの2人ともすぐに打ち解けた。やはり、あの困惑しかない鍋パーティーを体験した者同士、何か仲間意識のようなものが芽生えたようだ。笑顔が絶えない四人の間で、和やかな空気が流れていた。

 

 ただ、この場にいる人間の中でただ一人、この和やかな空気に入れない者がいるが……

 

「アサクラ様。私の主が外交官としてこの国に赴任したのはご存知ですか?」

「バル太より伺っている。ではあなたも、この国に滞在なさるのか」

「ええ。私は司令官の側近ですから。これから司令官ともども、この城内で過ごさせていただくことになります。今後はアサクラ様のお世話になることも多いかと」

「そうか。では私の料理を食べることになることもあるだろう」

「ええ。私も楽しみにしています。それに、私にも料理の嗜みはあります。その方面でも、あなたのお力になれると思いますよ?」

「心強い。では今後はあなたのお力を借りる場面も出てくるかも知れないな」

「その時は喜んで。……ときにアサクラ様、この香りは……?」

「ああ。今は晩餐会の料理を作っている。これは豚の角煮だな」

「トンポウロウですか。よい香りですね」

「シャオリン殿の祖国にも、角煮はあるのか」

「はい。もっとも私の祖国のトンポウロウは、もっとスパイスを効かせた香りがしますけど」

「角煮にスパイスをか……どんなものなのか気になるな。いつかそのレシピを教えていただこうか」

「喜んで。その代わり私にも、このトンポウロウのレシピ、教えて下さいね」

「もちろんだ」

 

 こんな具合で、まるで数年来の親友のように打ち解け合うアサクラとシャオリンの2人は、他の3人を蚊帳の外にして盛り上がっている。

 

 そして、この二人の様子に、危機感を持った人物が一人いた。

 

「くっそ……私のおもちゃが……ッ!!」

「なんだか俺たちを無視して盛り上がってますね……コソコソ……」

「私はァ……ハァー……バル太さまと盛り上がれれば……ハァー……ハァー……」

「呼吸が危険域ですジョージアさん」

「バル太さまぁ……バル……ウッ……ァー……」

「その『ウッ』てところで何が起こったのか教えてもらえますかジョージアさん」

「クッ……こんなどこぞのホースボーンに……私のおもちゃを取り上げられるわけには……ッ!!」

 

 デイジー姫である。互いに意気投合して和やかに盛り上がる2人の様子が、デイジー姫の目にはこのように写ったらしいということを、後日アサクラはバル太から聞かされた。

 

――シャオリン……私はこれから、あなたのものに……

 

――アサクラ様……私も同じく、あなたのもの……

 

「ちょっとあなた!!!」

 

 そんなデイジー姫だから、シャオリン様に怒りを顕にしたのも、後から考えてみれば必然だったんでしょうねぇ……などと意味不明なことを話すバル太は、終始にやついていて非常に不快だったと、後日アサクラは語っている。

 

「はい? あなたは?」

「私はこのオルレアン王国の姫、デイジー・ローズ・フォン・オルレアンですっ!」

「ああ、あなたが。私はマナハル西方軍所属、ホン・シャオリンといいます。この度、こちらの王国でお世話になることになりました」

「うッ……!?」

「姫。どうかよろしくお願いいたしますね? ニコッ」

 

 そう言って、デイジー姫に優しく微笑むシャオリン。途端にデイジー姫は顔をそむけてシャオリンに背を向けた。アサクラが顔を覗き込んでみると、なぜか顔が青白い。

 

「姫? どうした?」

「て、手強い……ッ!」

「何がだ?」

「私の挑発に乗らないどころか、あんなにも好感度の高い笑みで私を籠絡しようとしてくるとは……危うく私の気持ちが彼女に心を開きそうに……ッ!?」

「お前が何と戦っているのかさっぱりわからん……」

「ダメなんですよ彼女に負けては!!」

「シャオリン殿は素敵な方だぞ? 勝ち負けなんて……」

「素敵な方だからこそ! 負けられない戦いがあるんですよアサクラッ!!」

「?」

 

 デイジー姫は再び振り返る。そして苦笑いを浮かべて困惑しているシャオリンをギンと睨み、ビシッと彼女を指差して、いつもの大声でこう吠えた。

 

「アサクラは!!! 私のおも……ゲフンっ」

「?」

「今何を言おうとした姫。ことと次第によっちゃ私が斬るぞ」

「アサクラは、私の嫁です!!!」

「あら。そうなんですかアサクラ様?」

「私は姫との結婚を約束したことなどないッ!」

「あぁなるほど……ぴーん」

「シャオリンとやら!  聞けばあなた、出身はマナハルではないそうですが!?」

「はい。私は極東よりもちょい西より……アサクラ様の故郷と海を隔てて隣同士の国の出身です」

「なん……だと……!?」

「私とアサクラ様、とても良く似た文化圏の出身同士なんですよね〜」

「バカなぁあッ!?」

「その証拠にほら。私とアサクラ様、髪の色と瞳の色がそっくりなんですよ〜」

「わ! わ! 私だって!? アサクラに!? 『キレイな髪と目ですね』て褒められましたし!?」

「……そんなことあったか?」

「ありましたよッ!! 私の許嫁なのになんでこんな大事なこと覚えてないんですかッ!!」

「それに私達、食事の好みも割と近いんですよ? アサクラ様、嫌いな食べ物はセロリでしたっけ?」

「ああ、よくご存知で。しかしセロリの件をシャオリン殿に話した記憶はないが……」

「セロリの味見をして変な顔されてましたから。私もセロリが苦手なんです。奇遇ですね〜」

「バカなぁあッ……!?」

 

 シャオリンの返答一つひとつに慟哭し、白目を向いて口から泡を吹くデイジー姫。そんなデイジー姫を見て、シャオリンはくすくす笑いが止まらない。口を押さえ、実に楽しそうにプププと笑っている。

 

 そんな楽しそうなシャオリンだが……その後のことを考えると、アサクラはとても愉快な気持ちにはなれない。あとからデイジー姫に何を言われるか、わかったものではない……シャオリンを制止するため、アサクラはシャオリンの隣に移動して彼女に小声で話しかけるのだが……

 

「シャオリン殿……」

「? どうかされましたか?」

「その辺でやめていただけないか」

「どうして?」

 

 とこんな具合で、シャオリンはアサクラの制止を聞かない。ただ、大きな瞳をパチクリとさせ、不思議そうにアサクラを見つめ返すだけだ。

 

「いや、これ以上姫を煽ると、あとあと面倒なことになる……」

「ぁあー。姫が子供っぽいので、つい楽しくてからかっちゃいました」

「それを止めてほしいんだが……」

 

 それどころか……

 

「それに、アサクラ様すみません。先に謝っておきますね?」

「……?」

「私、相手が誰であれ喧嘩を売られてヘラヘラ笑っていられるような、情けない女ではありませんから」

 

 アサクラに対してニッと笑みを向けてそう話すシャオリンの瞳は、それはもう、美しくキラキラと輝いている。

 

 その光景を見たアサクラの直感が、『この女はマズイ』とアサクラに告げていた。

 

「し、しかしィイイ!!? アサクラは、私の許嫁ッ!!! 譲りませんよッ!!!」

「許嫁も何も、アサクラ様自身は否定されてますよーぷぷー」

「!? 決闘です!! こうなったら、オルレアン王家の威信をかけて決闘ですよシャオリンとやらッ!!!」

「いいですよ? 何で雌雄を決するんですか? 剣ですか? 私、強いですよ?」

「クッ……剣など、私には扱えない……ッ!?」

「では2人で料理でも作って、どちらがアサクラ様の舌を納得させられるかの味勝負でもしますか?」

「クッ……私は、料理など……出来んッ!?」

「では一体何で雌雄を決するのですか?」

「し、しりとりとか……ッ!!」

「しりとり……乗った!!」

「では私から行きますよシャオリンとやらッ!! しり!!!」

「リスザル!!!」

 

 とこんな具合で、最後はしりとりで雌雄を決するという、よくわからない状況に陥っていた。互いに一歩も譲らないしょぼい争いは、それを眺めるアサクラの心に影を落とし、徐々にアサクラの気持ちを暗闇へと沈み込ませていった。

 

 アサクラが見るに、このシャオリンという女、物腰は柔らかくとても魅力的な女性だが、どうやら度を越した負けず嫌いのようだ。たとえ相手が王族であれ何であれ……とにかく相手が誰であれ、勝負を挑まれれば決して勝ちを譲らない……そんな、規格外の負けず嫌いの性格なようだ。

 

「むむむ……やりますねシャオリン……ケツアゴ!!!」

「姫、あなたこそ! ……ごっつぁんです!!!」

 

 その勝負はアサクラたち3人が悲しい眼差しで見守る中、未だに終わる気配がない。

 

「あの……アサクラ様」

「なんだ……」

 

 そうしてしりとりが未だ終わる気配を見せず、デイジー姫が165個目のワード『かんぴょう』を口走ったときだった。聞いているのももはやくたびれたアサクラの隣で、バル太が申し訳無さそうに口を開いた。

 

「そろそろ、晩餐会の準備をせねば……」

「だなぁ……しかし、あいつらを止められんだろ……」

「アサクラ様でも、無理でしょうか……?」

「無理だな」

「そんなノータイムで答えられても……」

 

 そんな、くだらない喧騒が厨房内でいつまでも響き続ける中、デイジー姫とシャオリンの叫びに混じって、アサクラの耳に届く声があった。

 

――ふふ……あさくらっ

 

 それは、懐かしい幼馴染の声。

 

 アサクラの耳に届く彼女の声は、遠い思い出の中の最期の姿ような、血と苦痛に塗れた叫びでは、決してない。

 

――そなたの話を聞けるのを、私は楽しみにしておるでのう?

  特に、自慢の妻の話をじゃ

 

 その声を気のせいだと思いつつ、でも懐かしく感じたアサクラは胸の内で『少なくともコイツラではないわ』と答えた後、ため息をついて苦笑いを浮かべた。

 

 厨房内には、豚の角煮の良い香りが少しずつ少しずつ漂いはじめ、アサクラたち五人のハラヘリを刺激し始めていた。

 

 

 ちなみに余談だが、デイジー姫とシャオリンのしりとり対決は実に語句数17863を超え、姫が自国名『オルレアン』を答えたところで、その幕を閉じた。

 

「バカなぁぁぁああああ!!? このままではアサクラが寝取られてしまうぅぅううう!!?」

「アッハッハッハ!!! アサクラ様はいただきますよデイジー姫ェェエエ!!!」

 

 そしてこれはさらに余談だが、こんなしりとりの激戦が行われている中で晩餐会の準備など行えるはずもなく、晩餐会はかなり時間が遅れて開催された。アサクラは謁見の間にて、その責任を王に厳しく追求される羽目になった。

 

「うう……ひぐっ……アサクラぁ……」

「も、申し訳、ございませぬ……」

「予はね? アサクラを信じて……ずっと、待ってたんだよ? ひぐっ……」

「か、返す言葉も、ご、ございませぬ……ッ」

「お腹が空いても大臣から怒られても、外交官殿に笑われても……ずっとずっと我慢して、待ってたんだよ……?」

「ひ、平にご容赦をぉぉおッ!!?」

 

おわり。

 



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