え?蟲師の世界じゃないの? (ガオーさん)
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転生したらシシガミの森だった件…え、違う?


およそ遠しとされしもの.

下等で奇怪. 見慣れた動植物とはまるで違うと思しきもの達.

それら異形の一群を、人は古くから畏れを含み. いつしか総じて「蟲」と呼んだ。


 今日から日記を書くことにする。

 

 一体どうしてこうなったのか、気が付いたら森の中で倒れていた。

 地面は緑のコケが生い茂り、木々は「大木」という言葉では言い表せないほどの太く高い大樹が何本も何本も生えている。

 少し進んでいくと川が流れており、その川の水がとんでもなく澄んでいる。

 人の手が加えられていない、神秘の森。

 その神秘的な風景を見た俺は、こう思った。

 

 

「えっ。ここシシガミの森?」

 

 

 ここで俺のことについて紹介しよう。

 

 俺は、どうやら異世界転生とやらをしてしまったらしい。

 前世は確か大学生だったはずだ。前世の死因は分からぬ。けれど、いつの間にか身体が縮んでしまっていた。現在の体格は推定で7,8歳。

 ひょっとして見た目は子供頭脳は大人な名探偵がいて1週間に一回は殺人事件が起きる世界に転生してしまったかと思ったが、コナンの世界にこんな森はない。

 それに、この森の風景はなんとなく覚えている。

 前世で大好きだったジブリのアニメの世界。

 よりにもよって人がバッタバッタ死ぬ「もののけ姫」の世界に。

 

 …………ノォォォォォォォオオオ!!

 

 その時の俺は、思わず頭を抱えて叫んだね。よりにもよってもののけ姫かよ。人よりでかい猪の群れとかちょっと触っただけで命を吸い取っちゃう神様がいる森に入っちゃったのかよ!こんな物騒な森は早い所燃やすべき。

 

 でもすげえ綺麗な森だしなぁ……。

 ていうかすごい空気が美味い。

 マイナスイオンがすごいありそう。

 

 こんなに美しい森を燃やすのはさすがに…ね?

 

 それは最終手段にしておいて、とりあえず現状をなんとかせねば。

 戦争に巻き込まれるなんて冗談じゃない。俺はのんびり平和に暮らすんだ!

 とりあえず、水を呑もう。喉乾いたし、腹も減った。御飯探して、今日の寝床を確保して、それから考え…………。

 

 

 

 あれ?

 

 

 

 なんで俺の髪の毛、こんなに白いの?

 

 しかも右目、なくね? なんか黒いどんよりした何かに覆われているような……なんというか、目ん玉の中にとにかく『闇』としか言いようがない黒い影を詰め込んだような。

 

 それに、なんで俺の左目、こんな綺麗な翠色で――

 

 

 

 

 バチリ

 

 

 

 

 

 脳裏に浮かぶのは、闇。

 

 

 上も下も右も左も、全てが闇。常闇だ。

 

 

 闇の地面を泳ぐ、大きな魚のような何か―――

 

 山椒魚(さんしょううお)(なまず)? いや、それとも違う。

 

 銀色に光るそれは、地上にはない妖の光―――

 

 この世ならざる者の光。

 

 確か、この《蟲》の名は―――

 

 

 

 

 

 

 

「銀蟲……」

 

 

 

 

 

 え? この宙に浮かんでいる、半透明なのは蟲?

 

 

 えぇ……。

 

 

 

 

 

 

 

「俺、蟲師の世界に転生しちゃったの?」

 

 

 

 

 

 ジブリかと思いきや蟲師の世界だった件について。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞼を閉じると、瞼の裏が見える。

 目はまだ閉じられていない。

 瞼を通って、陽の光がちかちかと見えた。

 

 私はそっと、「二つ目の瞼」を閉じた。

 

 そうすると、上の方から本当の闇が降りてくる。

 

 どんな光も遮る瞼。

 

 鬼舞辻の呪いに冒されたこの身体は、いずれ私から視力を奪い、地面に立つ力さえも奪うだろう。

 

 けれど、いずれ何もかもが見えなくなっても、この光景だけはずっと目に焼き付けたい。

 

 闇の中に浮かぶ、光る河。

 

 それはまるで蛍のような淡く、優しく、神秘的な光を持った河。

 

 幼い頃から、私はこの河をよく眺めていた。

 

 生まれつき身体が弱く、刀もまともに振ることができない私に許された、唯一の遊び場。

 私以外、誰もここには来られない。静かで、何時間でもこの河を見ていられる――

 

 ああ、もっと近くで観たい――

 

「おい、アンタ」

 

「――――!」

 

 

 河の向こう岸に、誰かがいる。

 

 少年だ。髪の毛は白く、片目がない。西洋の服を着た、どこか虚ろげな雰囲気を持った少年だ。

 

 歳は私と同じぐらいだろうか。どうして、私以外にここに来られるはずはないのに――。

 

「その河にそれ以上近付いちゃいけない。目を喰われるぞ」

「――ご忠告、ありがとう。君はこの河について何か知っているのかな?」

 

 そう尋ねると、少年は呆れながら答えた。

 

「この河は命そのものだ。地底奥底に流れる、全ての命の源。森も、動物も、蟲も、そしてあんたも、ここから生まれるんだ」

 

 命そのもの。

 

 そう言われて、私はああ、なるほどと納得した。

 

「そうなのか。どうりでこんなに美しいんだね……」

 

 私はほっと息を吐いた。

 

「ところで、君の名前は?」

 

 

「俺か? 俺はギン」

 

「そうか、ギンというのかい。私は産屋敷。産屋敷耀哉と言う。君の話を、もっと聞かせてもらってもいいかな?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれからもうすぐ1年が経つ。

 この森で暮らし始めてから、もう大分経ったなぁ、時間の流れはえぇー。

 

 この1年間で俺のDIYやアウトドア技術は格段に飛躍したと言っても過言ではない。今では全人類の男の子の夢である自作のツリーハウスで暮らしているほどだ。

 

 いやまあ最初はめちゃくちゃ大変だったけどね!倒れた樹を運んだりだとか植物でロープを作ったりだとか!

 最初は野宿は当たり前、毒キノコを食べてしまって一日中腹を下したりだとか、慣れない木登りで落っこちてしまったりだとか。

 試行錯誤しながらの生活だったので、いつ死んでもおかしくはなかった。けれど、そんな時に助けてくれたのが、この森のヌシだ。

 

 どうやらこの森は光脈筋に当たる場所のようだった。そりゃこんな馬鹿でかい森、光脈筋じゃなきゃなんだって言うのか。

 

 しかもこの森の光脈筋はおそらく通常の物より馬鹿でかい。

 瞼の裏を閉じて見てみた所、自分の足元に流れていたのはアマゾン川なんじゃないかって思えるぐらい太くでかい河だったのだ。

 

 

 光脈筋。命が生まれた瞬間から、あるいはそれより前から地中深くに流れる命の水脈。

 目に見ることはできないが、蟲に近い存在や蟲を見ることができる者、あるいは瞼の裏に行ける者のみが、この河を見ることができる。

 その光脈が流れている土地を、光脈筋と呼び、その土地は緑が溢れ、人々の生活が豊かになる。

 樹や植物は通常の土地よりよく育ち、動物達はあれよあれよと増え続ける。そういう強い影響力を持つのが光脈だ。

 

 そしてその光脈筋を管理するのが、ヌシである。

 

 光脈筋は生気が溢れ続ける為、それを調節、管理するのがヌシの仕事。主、とは言っても人間が管理しているのではなく、管理しているのは身体に草を生やした動物だ。いや比喩ではなく。本当に身体に植物を生やしている。

 

 この森のヌシはシシガミの森と同じく鹿でした。

 僕は捕えました、角を。

 そうだよね。シシガミの森なんだからヌシも鹿じゃないとね。

 シカでした。

 

 いやでっけええええええええええ!

 ツノでっけええええええええええ!

 

 まじでかいんだって。ひょっとしたらシシガミ様よりデカイよこのヌシのツノ。そしてツノは全体を覆うように草が生えてるんだって。もうめっちゃ怖い。

 唯一の救いは顔がアルカイックスマイルな人間面ではなく普通のシカなところでしょうか。

 最初は「食べられるかなぁ?」と思ったけど、よくよく考えたら動物の捌き方なんて知らないし、食べようとしたら逆に命を吸い取られそうなのでやめてます。

 

 それを理解してくれたのか、最初は俺のことを警戒していたらしいこのシカも最近は自分になついてくれている。よくほっぺたをぺろぺろしてくれます。

 

 なので、このヌシ様には「シシガミ様」と呼ぶことにしています、かしこ。

 

 しかもこのシシガミ様、俺の言葉を理解しているらしく、いろいろなことを教えてくれたのだ。

 

 食べられる植物、木の実。雨風をしのげる寝床のこととか、火の起こし方とかいろいろなことをだ。

 なんで動物の言葉が分かるかって?

 

 それは、ある蟲のおかげである。

 

 

――ムグラ、と呼ばれる蟲がいる。

 

 

 その蟲の見た目はただの黒い紐だが、山や森の地面全体に根を張る、人間の身体で言う神経のような存在だ。その蟲と感覚を同調させれば、ムグラが根を張ったその土地一帯のすべての様子を知ることができる。原作の蟲師のギンコさんは、この蟲に意識を潜らせるムグラノリという技術を使っていたが、これはその応用のような物だ。

 

 いや、応用というか、一種の事故というか……

 なんとこの蟲、俺が寝ている間に口の中に入ってしまったのである。

 

 いやぁ、あの時はまいったね。夢見心地で眠っていたら、途端に森中の情報が頭の中に流れ込んできたんだもの。植物や蟲、大樹や動物達や昆虫達の視界や感覚が一気に頭の中に入ってきて……いやぁ頭が爆発するかと思ったし目が覚めた瞬間その情報量に耐え切れずすぐに気絶しちゃったしね。

 

 そして目が覚めた時には森の中に住む動物や植物達の心が分かるようになっていた。

 

 ヌシであるシシガミ様の言葉が分かるのも、そのムグラのおかげ、というわけだ。とは言っても、まだまだ情報処理に頭が追いついておらず、シシガミ様の言葉を全て理解することはできていない。

 先も言ったが、この森はおそらく通常の光脈筋より馬鹿でかい。

 その大きさに比例して、森の樹は樹齢千年は超えてるんじゃないかってぐらいでかいし、蟲も数えきれないぐらい多い、動植物たちも尋常じゃない数が繁殖している。

 それに合わせて、この森にいるムグラの数も尋常じゃないぐらいいるのだ。

 

 そのムグラたちの情報を、1人の人間の頭にぶち込めば……まあ、オーバーヒートするよね。

 

 けれどこの森で暮らしながら、この森の植物や木の実を食べているうちに徐々に分かることも増えてきている。多分、動植物たちにも僅かながらムグラが宿っており、それらを食べることでどんどん体内にムグラを蓄積しているのだろう。現に、ここの物を食べれば食べるほど、たくさんのことが理解できるようになっている。

 もっとここにいればそのうちもののけ姫のサン並に動物語がぺらぺらになれるかもしれない。おいでよ、シシガミの森。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――ところで、シシガミ様に教わったこの「呼吸法」、滅茶苦茶辛いんですけど。走り込みとか、木登りとか、これ毎日やらないとだめなの?死んじゃうよ?

 

 ―――鬼がいるから?

 

 HAHAHA、シシガミ様もご冗談がお上手で。ここにいるのは蟲でしょ?いくら筋肉を鍛えても蟲にはあまり意味が――え?本当に鬼がいる?

 

 

 ……まあその鬼も多分蟲でしょ(適当

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この森に流れ着いてから3年目。

 

 

 「全集中の呼吸・常中」をしながら瞼の裏を覗いていたら、河の対岸に綺麗な羽織を着た男の人が立っていた。

 

 名前を産屋敷耀哉というらしい。

 自分の名前も聞かれたが、咄嗟に「ギン」と答えてしまった。

 

 ギンコ、にするべきだっただろうか。でも蟲師のギンコ先輩に俺がなぁー名乗るのはなぁーってことで、ギンと名乗ることにする。

 

 産屋敷の歳は俺と同じぐらい。なんでもお偉い貴族の当主らしい。

 

 若いのに大変だねぇー偉いねぇー。でもなんでこんな常闇の河の所に来てるの?って聞いたら、

 

「ある事情でね。身体が動かないんだ」

 

 と答えた。どうやら病持ちらしい。

 自分達の一族は身体が生まれつき弱く、まともに身体を動かすこともできない。ちょっと運動しただけで息切れし、一族の者全員が短命なのだと言う。

 

 一族が皆短命……

 

 俺はそれ以上何も聞くことはできず、気まずい空気に耐え切れなくなった俺は話を切り上げようと瞼を開こうとしたら、「ギン、せっかくだからまた話し相手になってくれるかい」と産屋敷は俺にそう頼んできた。

 

 

 ――まあ、いいか。せっかくここに転生してきてから初めて会えた人間だし。

 

 

「ああ。友達になろうか、耀哉」

 

 そう言うと、耀哉は嬉しそうに微笑んだ。

 

 

「嬉しいよ、ギン。友が出来たのは生まれて初めてだ」

 

 

 

 

 前略、シシガミ様。生まれて初めて友達ができました。

 

 

 

 

 




蟲師用語図鑑


"光脈筋"



 地下深くに流れる、生命の源である"光酒"の川のことを光脈と呼ぶ。
 普通の人間に視認することはできないが、血管のように大地の下を巡りまわっている。この川の真上にある土地を光脈筋と呼び、その土地は生気に溢れ、多くの蟲が集まる。また、光脈筋の山や森は豊かになり、動植物が多く繁殖する。



"瞼の裏"

 原典『原作蟲師第一巻』瞼の光(まぶたのひかり)より

 瞼の裏に、もう一つの瞼があり、それを閉じれば本物の闇と、光酒が流れる光脈を視認することができる。瞼の裏は現世とは隔絶した空間で、瞼の裏を閉じ、そこに入ることができる人間は限られる。
 大昔、人間は光を手に入れた頃から二つ目の瞼を閉じる方法を忘れてしまったと言う。しかし、瞼の裏で光脈を見続けると目を潰される。
 かつてはその光に魅入られ、多くの者が瞼の裏に行き、目を潰してしまったと言う。


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転生したら実は大正時代だった件

 〇月×日

 

 

 今日も今日とてトレーニング。

 

 シシガミ様に教わった「呼吸法」とやらを鍛えるべく、毎日走って走って走り込み。

 100メートルはありそうな大樹を登り。枝と枝を飛び足腰と肺を鍛える。

 確かこれ、フリーランって言うんだっけ。偶に足を滑らせて落ちて死にそうになることはあるが、この森の植物を食べていたおかげか、前世の時よりかなり身体が頑丈になっている。

 だって高さ100メートルから落っこちても打撲で済んだんだもの。最初地面に落ちて「いったぁぁぁぁぁぁぁい死ぬぅぅぅぅぅこれ絶対全身複雑骨折……あれ、痛くない」ってなった時はドン引きでした。自分に自分でドン引きだった。

 これも全部蟲の仕業なんだ。きっと全部蟲のせいなんだ(責任転嫁)

 

 

 この森で暮らし始めて早4年。もうすぐ自分も10歳になる。

 けれど俺は、まだこの森から出たことがない。

 

 最近気付いたのだがどうやらこの森、蟲のせいなのかそれとも異常な大きさを誇る光脈筋のせいなのか。現世とは隔絶された結界に覆われているようだったのだ。

 そりゃそうだよね。もしこの森に人が入り込めていたら、シシガミ様や森の動物たちは狩られるか、それか森の木々は資源にするために伐られていたに違いない。

 

 この森は閉じられている。

 

 多分、ヌシであるシシガミ様の手によって。

 

 この森に人は入ってこない。

 

 それと同時に、この森から出られない。緑の牢獄なのだ。

 

 

 

 

 何故、俺はこの森に入ることができたんだろう。

 

 常闇から抜け出した場所がたまたまここだったから?

 

 でも、それならシシガミ様は何故俺を鍛え、育てようとしているのだろうか。

 

 

 分からない。俺がここに生まれた意味はなんだ?

 

 俺は蟲師として、人を助けるべく手を貸す存在になるためにここにいるんじゃないのか?

 

 分からなかった。

 

 シシガミ様にいくら問うても、「いずれわかる時がくる」としか、答えてくれない。

 

 

 俺は必死に、頭の中に湧き出る不安を塗りつぶすように、トレーニングに励む。

 

 

 

 

 

 

 △月■日

 

 

 夜はもっぱら、呼吸と瞑想に励んでいた。

 シシガミ様に教わった全集中の呼吸・常中は、身体に空気を取り込み、身体中の細胞を活性化させる技術「全集中の呼吸」を常に行う技だ。俺はそれを鍛える為、「2つ目の瞼」を閉じながら行っている。

 

 

「やあ、ギン。二日ぶりだね。今日も会えてうれしいよ」

「よっ、耀哉」

 

 二つ目の瞼を閉じると、いつも耀哉がいた。

 

「今日も鍛錬かい?」

「一応ね」

 

 耀哉は仏のような優しい笑みを浮かべる。まったく、同い年には見えない。自分も転生しているから精神年齢は通常の子供より上なのだが、耀哉はそれ以上に見える。

 

「今日はどんな話をしてくれるのかな」

 

 彼はそう言って真っ暗な地面に座った。俺は対岸にいる耀哉に聞こえる声量で語りかける。

 

「今日は、海の中に棲む蟲の話だよ。そっちは何を教えてくれるんだ?」

「そうだね……昨日は歴史について語ったから、今日は数学や物の尺度について教えよう」

 

 耀哉には、俺が記憶喪失だと言うことを伝えた。

 目を覚ました時には森にいたこと、その森から出ることができないこと。

 

 そんな俺に、耀哉は座学を教えようと申し出てくれた。森の外が大正時代だと知ったのもその時だ。

 

 俺はその提案を一も二もなく受け入れた。その代わりに、耀哉には蟲について語って欲しいと願われた。

 

「なるほど。その蟲は生物を生まれる前の状態に戻してしまうんだね?」

「そう。生物が生きた時間を喰う蟲……とでもいうべきなのか。人を喰えば、生まれる前の状態に戻してしまう。その戻した状態が粒になるんだけど、その粒を人が呑みこむと、蟲に食われた人を孕むんだ」

「それが、生みなおしかい」

「そう。人が死んでも、蟲に食わせればまたこの世に戻ってこれる。そういう島があるらしいんだ」

 

 俺は原作の蟲師の話を思い出しながら、それを耀哉に語った。時々、シシガミ様に教えてもらった蟲や、森で見つけた蟲についても語った。

 

 耀哉はそれを戯言と笑うことはせず、真剣にそして楽しげに聴いてくれた。

 どうやら耀哉も含め、現世の人達は蟲に対しての知識は深くないらしい。耀哉は俺の話をいつも興味深そうに、時々いくつか質問を挟みながら俺の語りを聞いた。

 

「もしかしたら、耀哉が言っていた『鬼』も、鬼になる前の状態に戻すことができるかもしれないね」

「そうだといい。今の所、鬼を人に戻すことはできていないからね。蟲の力で、そういうこともできればいいのだが」

 

 ある時耀哉は、「鬼と言うのは知っているかい」と俺に問いかけた。シシガミ様が何回か語っていたものだ。

 

 耀哉は座学以外にも、鬼について語った。

 

 曰く、夜の間に闊歩せし人を食料として襲う怪物。

 曰く、怪しげな妖術を使い、陽の光に当てるか、特殊な刀で頸を斬らないと殺せない。

 曰く、鬼舞辻無惨という鬼の始祖が、人間に血液を与えて人を化け物に変えている。

 

 そして俺の唯一の友人である産屋敷耀哉は、その鬼を討伐する「鬼殺隊」の当主であると。

 

「君は信じるかい、この話を」

「もちろん」

 

 だって蟲がいる世界だもの。鬼くらいいたって不思議じゃない。

 ひょっとしたらその鬼舞辻無惨っていうのも、鬼と言う名の蟲かもしれんし。

 それに―――

 

「それに、耀哉は俺の友達だろ。信じるよ」

 

 俺がそう言うと、耀哉は一瞬驚いたように目を見開いて、やがていつもより優しげに微笑んだ。

 

「嬉しいよ、ギン。君が私の友であることを誇りに思うよ」

 

 耀哉はそう言ってほわほわ笑った。

 

 それにしても、人を鬼にする蟲かぁ。そんなのいたっけかなぁ。

 狩房文庫とかあれば、今すぐにでも行くんだけど……どうすればいいのやら。

 

 

 

 

 

×月×日

 

 倒れていた大木を切り取り、木刀をこしらえてみた。

 石斧で無理やり折った太い樹を、これまた石のナイフで何時間かかけて無理やり木刀の形にした棒っきれだ。うん、初めて作った割りには上手くできたほうじゃないかな(自画自賛)

 

 なんで木刀を作ったのかと言うと、それは件の鬼とやらに対抗するためだ。

 

 耀哉が言うには、「日輪刀」と言う刀で頸を斬らない限り、鬼は死なないのだとか。それまでにどんな武器で怪我を負わせようともたちどころに治ってしまうらしい。

 

 まさしく不死身。

 

 ……ちょっと待って?

 耀哉達鬼殺隊はそいつらを退治してるんだよね?どうやってるの。明らかに人間業じゃないよね。

 え?ギンも修練を積めばできるようになる?はは、まっさかー。だって俺は鬼殺隊じゃなく蟲師だもの。そんな体張るような真似はできないよHAHAHA。

 

 …え、なにその呆れた様な顔。

 

 とは言ったものの、剣術は出来て損をすることはない。実際、蟲の中には人間を遥かに凌駕する力を持った蟲もいる。人の肉の形に擬態する蟲もいる。いざと言う時の為、身体を鍛えておいても良いだろう。

 

 それに、蟲師として活動している最中に鬼と遭遇することもあるかもしれない。

 

 いざと言う時の自己防衛の為に剣の技術を磨くのは悪くないと思ったのだ。

 

 もちろん、ここで4年近くも過ごしていたおかげで腕っぷしはそこらの大人以上なのだが。

 

 だって毎朝プライドが高い猪達に追いかけ回されるし、昼になればシシガミ様ブートキャンプでひーこら言わされるし、夕方になれば犬神達に食われそうになるし。

 逆にあいつらを食べてやれればいいのだが、連中の皮膚は尋常じゃなく固い。俺が手作りしたナイフや石斧で全力で殴っても傷一つつかないのだ!俺がタンパク質を摂取できるのは一体いつになるのやら。このままじゃベジタリアンになっちゃうよ(白目

 そんなわけで、魑魅魍魎ともいえる怪物(比喩ではない)達と追いかけっこしたり、戦ったり、隠れたりしている内に、自分も人外へと片足を突っ込みつつあるのである。

 

 くっそうあいつらめ。猟銃をゲットできたら真っ先に狩って鍋にして食ってやるからなコンチクショウ。いつか覚えてろ。

 

 そんなことを考えながら、俺は手作りの木刀で素振りを始めるのだった。

 

 我流だけど、まあなんとかなるでしょ。前世でバガボンドを読破した俺に隙はない!

 

 

 

 

 

×月☆日

 

 

 剣の修行つらたん。

 

 

 ねえシシガミ様。蟲師に腕力とか剣術とかは必要ないと思うんだ。必要なのは知識だよ知識。

 せっかく転生したんだからさ、身体を極限まで鍛えて俺TUEEEEしたいわけじゃないのさ。

 

 ただ単純に根無し草でもいいから当てのない旅をしたいなぁって。ギンコさんみたいに豊かなこの国を旅して回りたいの。ハーレムとか作りたいわけじゃないの!

 

 だからまじやめて、え?この樹を運べ?

 

 いやいや無理無理これどうみても100kg以上あるってぎゃあああああああ!!

 

 

 

 

△月×日

 

 

 地獄の鍛錬から数日後。

 

 命からがらシシガミの森ブートキャンプから逃げてきた俺は、薬の調合をしていた。

 調合と言っても、そこまで複雑な物じゃない。泥で作った器で蟲下しを作っているだけだ。

 

 蟲は、目に見えない不思議な存在だ。あるかないか、生物とそうでない物の中間に位置する、不確定な存在。

 だが、見えないだけで確かにそこに存在し、周囲に影響を与えるのが蟲。

 

 その蟲は稀に、人に対して悪い影響を与えることがある。

 

 場合によっては人を死に至らしめる蟲もいる。

 

 けれど、蟲が悪意を持って人を殺そうとしているわけじゃない。ただそこにいるだけだ。ただそれぞれが在るように在るだけ。

 善も悪もない。ただそこで、生きているだけで、悪と断ずることはできないし、仮にできてもそれは人間の都合によるものだ。

 だから俺達人間は、そいつらと上手に付き合っていく術を身に着けるしかないのだ。

 

 この蟲下しもその術のひとつ。

 

 一説によると、人間を含めた動物達の体内には何千億もの蟲が暮らしているらしい。それは細菌と呼ばれる物かもしれない、もしくは細胞と呼ぶべき存在なのかもしれない。

 人間が思考し、考え、行動できるのは蟲が人間の体内で生きているからだと言う説もある。

 

 そんな体の中に棲む蟲達の調子を整え、そして余計な蟲を外に追い出すのが『蟲下し』。

 

 めちゃくちゃ苦い薬だが、これを飲むだけで摩訶不思議な蟲による体調不良をなんとかできると考えれば十分だろう。

 実際、原作の蟲師だって、蟲による現象を根本的に解決できたことはほとんどないのだ。実際は手も足も出せず、できることと言えば被害を最小限にする応急処置で対応することがほとんどだった。

 

 光の河に入って目を喪った少女も、両方の目玉を取り戻すことはできなかった。

 夢を現実に出してしまう刀鍛冶も最後は自分に刃を突き立てた。

 

 蟲は曖昧な存在だ。故に、人間はそれを完全に絶つことはできない。微弱で儚い存在でも、大きな山や森の一部。

 

 それが、蟲という存在だ。

 

 幸いなことに、ムグラを身体に宿しているおかげで、この森に棲む蟲の特性や、蟲達が苦手とする植物などの位置も分かっている。ひょっとすれば、鬼とかいう連中にも効く薬も作ることができるかもしれない。

 あとは採取して、粉末状になるまですり潰して、乾燥させればOKだ。できれば丸薬タイプのも作ってみたいが、今日の材料だとこれぐらいがげんか―――

 

 

 

 あ、シ、シシガミ様?ど、どうしてここにっ、あ、そうかヌシだからムグラで俺の場所を突き止めたんですねさすがシシガミ様、え?今日の鍛錬はどうしたんだってHAHAHA今日はちょっとお腹があれなんでぎゃああああああああああああ!!

 

 

 

 

 このあと無茶苦茶トレーニングした^q^

 

 

 

 

 

 

 ☆月☆日

 

 

 今度こそ、今日こそ死ぬかと思った。

 

 今日のトレーニングは実践形式だった。木刀の素振りにようやく慣れてきたのを見計らってのタイミングだった。

 

 シシガミ様が「今日は森の住人と戦ってもらう」と言ってきたのだ。

 

 それを聞いた俺は、密かに安堵した。そして安堵と同時に、「これは勝てる」と言う高揚と確信を得ることができたのだ。

 木刀でのトレーニングを始めて数週間。呼吸法と組み合わせることで人間の限界を超えた戦い方ができることを知った俺は、呼吸による型をいくつか編み出した。

 なんでも、耀哉が当主を務める鬼殺隊はこの呼吸法と剣術を組み合わせた型で鬼達と戦っているらしい。耀哉の教えにあやかって、この呼吸法を「森の呼吸」と名付けた。

 

 

 この森の呼吸で、今日こそあの猪共や犬共を叩き潰してやろうと密かに決心していた。

 

 毎日毎日殺す勢いで襲い掛かってきやがって、あの肉食獣ども。許さんぞ。今日こそリベンジの時だ!

 

 

 ―――そう思っていた時期が、僕にもありました。

 

 

 何故ならその対戦相手が、30尺もある熊だったからだ。*1

 

 うそやん。立ち上がったらちょっとした家より大きいやん。

 

 こんなのと戦えって言うの?ていうかこの森の住人は人並みに知能があるから、正直勝てる気がしないんですけど――――ぎゃああああ爪!今爪掠った!!血が出てるんですけど!これ鍛錬だよね!?実戦形式のトレーニングですよね!?え?痛みを得ないと強くなれない?呼吸で止血しろ?

 なんだこのスパルタ形式!シカの癖に厳しすぎるんだよもっと草食動物らしい発想をしろよシシガミ様ぁぁぁぁあああああああ今頸動脈狙ったよねクマさん!!もっと手加減してくれてもいいんだよ!?

「手加減したら鍛錬にならない」だって?なんでこの森にいる奴らは脳筋ばっかなんだちくしょおおおおおお!!

 

 くっそが野郎ぶっころしてやらああああああ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 無事負けました、かしこ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「槇寿郎」

 

「はっ、お館様」

 

「ギンと呼ばれる白髪で緑色の眼をした片目の少年は、見つかったかな」

 

「恐れながらお館様、その様な少年の手掛かりは未だ掴めず……」

 

「それでは、300尺*2はある大樹の森については……」

 

「いえ……そのような森の情報もまったく」

 

「そうかい。すまなかったね。瑠火さんのことで大変だろうに、変な頼み事をしてしまって……」

 

「いえ、お館様の頼みであれば……ところで、その少年や森は、一体なんなのでございましょうか?」

 

「……うん。私の唯一の友だ。まだ直接会ったことはないけどね」

 

「……は?失礼ですが、それは一体……」

 

「すまない。私でも彼について言葉にするのは難しい。ひょっとしたらあれは私の夢なのかもしれない。けれど、彼はどこかにいる。いつかきっと会いに来てくれる」

 

 そして彼は、きっと鬼殺隊に大きな力を与えてくれる。そんな気がしてならないんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■月▼日

 

 

 森の熊さんに負け続けて早半年。当初はクマさんにぶっ飛ばされてばかりで生傷が絶えない毎日だったけど、呼吸のおかげでなんとか大事には至らずに済んだ。我ながら生命力がゴキブリ並で草生える。

 

 最初は音速で振るわれていたクマさんの爪も最近ようやく避けることができるようになっている。どうしてか、最近クマさんの動きが分かるようになってきたのだ。

 クマさんと戦っている最中、時折、身体中が燃えるように熱くなり、それと反比例するように頭の中が急速に冷えていくことがある。身体の温度が最高潮に達した時、どうしてか、クマさんの身体が透けて見えるのだ。血管の動き、筋肉の動き、内臓の動きが手に取るように分かり、相手の動きを先読みして動けるようになったのだ。

 

 

 今日までの戦績は、0勝113敗。

 

 そして、114戦目。

 

 

 

 

 

"森の呼吸 壱ノ型 森羅万象"

 

 

 

 呼吸で貯めた酸素を、両腕に回し、一気に振り下ろす袈裟斬りの型。

 

 今まで自分が編み出した型をクマさんには全て避けられた。

 

 けど、この時の俺の木刀は、クマさんが避けるより先に、クマさんの顔面を捉えた。

 

 

 

 クマさんはぐらりと揺れたかと思うと、ずずんと後ろに倒れてしまった。

 

 

 

 俺はついに、クマさんを倒すことができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なんか頬っぺたに緑色の痣が浮き出ているんですけど。何これ?

 

 

 これも蟲の仕業なの?わけがわからないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◎月○日

 

 

 なんか、シシガミ様に「もう教えることはない」って言われた。

 

 

 

 シシガミ様はそう言うと、俺に付いて来い、と言わんばかりに森の奥へ進んでいった。

 

 

 

 

 シシガミ様に付いていくと、辺りを敷き詰めるように大樹が生い茂っているこの森にしては珍しい、開けた場所に出た。

 

 そこは辺り一面が緑色の苔で生い茂っており、広場の真ん中に大きな刀が地面に突き刺さっていた。

 

 なにこれ。

 

 蟲師の次はゼルダの伝説? 鞘に納まったまま地面に突き刺さった刀は、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 

 

 

「シシガミ様、ここは」

 

 

 ――刀を取れ、ギン

 

 

 有無を言わせないシシガミ様の言葉に、俺は素直に刀を手に取った。

 

 刀を鞘ごと掴んで地面から抜き取る。

 

 

 ずっしりとした重み。金属でできているからか、刀は木刀より断然重かった。

 

 

 

「シシガミ様、これは―――」

 

 

 ――ここまでの鍛錬、よくぞ耐え抜いた。ギン

 

 

「―――――――――――――――」

 

 頭の中に響く、優しげな言葉。

 

 父が子を愛でるような、愛に溢れた言葉だった。

 

 その言葉を聞いた瞬間、どうしてか涙が突如溢れだした。

 

 そりゃもうぼろぼろと。止めようとしても涙は滝のようにあふれ出てくる。

 

 なんでこんな――ああ、そっか。そういえば、シシガミ様に褒められたの、初めてなんだ。

 

 

 ――5年前、常闇から抜け出してきたお前は、小さな子供だった。だが、今は立派な男だ。

 

 

「……何故、シシガミ様は俺を育てたのですか」

 

 

 ――何十年も昔、理が私の前にやってきた。『蟲の宴』については、教えたな。

 

 

『蟲の宴』

 

 

 時折蟲が―――もしくは『理』と言うべき存在が開く宴。

 

 

 ――それが私に語って来たのだ。

 

 

『今から32年後に、常闇から抜け出した少年がこの森にやってくる。その者は人間界に跋扈する『鬼』を滅殺することができる存在になる。彼は人間の世界のある少年と共に、鬼舞辻無惨という鬼を滅する力を秘めているのだ。お主には、この森でその少年を鍛えてもらいたい』

 

 

「理が――俺を?」

 

 

 ――左様。それが人間にとっても、森に生きる全ての者達にとっても正しい選択なのだと。

 

 

 ――お主の言う蟲師とやらになるのもよかろう。けれど私は、お主を鬼狩りにするために鍛え上げてきた。だが、お主は私にとって、いや、この森に住む全ての住人たちにとって家族同然の存在だ。

 

 

 ふと周りを見渡すと、そこには今まで共に過ごしてきた動物達がいた。

 

 毎朝追いかけてきた猪達が。俺を餌にしようとした狼達が。俺が仕掛けた罠を全て破壊する兎達が。寝心地のいい場所を教えてくれた鳥達が。毎日俺と戦った熊が、俺を見つめていた。

 

 

 ――鬼狩りとして戦うなら、その刀を抜くがよい。それ以外の道を選ぶなら、その刀をその場に捨てよ。私達はどちらの選択も尊重する。

 

 

 

 

 ………………しばらく俺は迷った。

 

 けれど、選択するのにそう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

「鬼を滅すのが、森の為になるのですね」

 

 

 

 

 

 そう訊くと、シシガミ様はそっと頷いた。

 

 

 

 

「なら、戦います。それが俺がここに来た意味であるなら。それが、俺がここで鍛錬した日々の意味であるなら。もしここで鬼狩りにならないと言えば――この森で過ごしたすべての時間を、否定することになる。なら俺は戦います。シシガミ様や、この森に棲む者達、そしてこの世に生きる命の為に」

 

 

 

 

 ――さすが、私の息子だ。

 

 

 

 

 シシガミ様がそう言った瞬間、俺の足元から大量のムグラが一気に俺の身体に纏わり付く。

 

 

 

「なっ、これっ」

 

 

 

 

 ――忘れるな、ギン。私達は、いつでもお前の傍にいる。

 

 

 

 

「ま、待ってっ」

 

 

 待ってくれ。こんな別れの仕方はないだろう。あまりにも急ぎ過ぎだ!

 

 俺はまだ、ヌシ様に何もできてない。この森に何も返せてない!いつも与えてもらうばかりで、何も返せてない!

 

 待って、待ってよ―――

 

 

 

「父さ――――」

 

 

 

 

 

 

 

 ムグラが俺の顔を包み、辺りは闇に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのか、分からなかった。

 

 ああ、懐かしい。二度と来たくはなかったのに、常闇め。

 

 

 

 真っ暗な場所をひたすら進む。足を動かす。

 

 

 一体どれだけ歩けば抜けられるのだろう。

 

 

 ふと、足元が光っていることに気付く。

 

 視線を下に向けると、そこには見慣れた光が見えた。

 

 

 光酒の河―――ああ、そうか。ここは知っている

 

 

 

 ここは二つ目の瞼の裏だ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞼を開くと、そこはどこかの家屋だった。清潔に掃除された畳。視線を前に向けると縁側と庭が見え―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして縁側には、綺麗な着物を着た、どこか見覚えがある長髪の男の後ろ姿が見えた。

 

 

 

 思わず息を呑む。河の対岸越しにでしか会えなかったたった一人の友が、今目の前にいる。

 

 男は俺のことに気付いたのか、後ろを振り返り、俺と目があった。

 

 そして一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

「初めまして――と言うべきだね。君に会えるのを楽しみにしていたよ。私が産屋敷耀哉。改めて、君の名前を教えてくれないかな。たった一人の友よ」

 

 

 

 

 

「ああ、耀哉―――初めまして。俺はギン。鹿神(シシガミ)ギンだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
およそ9m。ちなみに炭治郎の父が倒したクマのサイズは9尺(約2.7メートル)なので約3倍ほど大きい

*2
100メートル




蟲師用語図鑑




"ヌシ"


 原典『蟲師原作第二巻』やまねむる より


 ヌシとは光脈筋を管理する役目を持ったモノのこと。ヌシは人間ではなく、その土地に生息する動物がヌシとなる。身体に植物を生やし、体内に多くのムグラを飼う。
 ムグラを体内に寄生させることでその土地の山や森と常に一体化し、山と光脈の均衡を保ち続ける。
 稀に人間がヌシの役目を持たされることがあるが、その記録はほとんど残っていない。



"ムグラ"


 原典『蟲師原作第二巻』やまねむる より


 山や森の地面全体に根を張る蟲。光脈筋のヌシと、山そのものを接続する神経のような役割を持った蟲。
 一時的にその蟲を使えば、山の状態をすぐに感知することができる。山のどこに何の植物が生えているか、森のどこに何の生物が歩いているか、細かく感知することができる。
 ギンは体内に数十体のムグラを寄生させており、森や山と神経を接続させる"ムグラノリ"という技術を使うことができる。




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"炎柱"煉獄槇寿郎から見た『妖の少年』

 突如お館様が柱合会議に連れてきたのは、浮世離れした少年だった。背はお館様より少し高く、線は細い。歳は同い年ぐらいだろうか。

 いや、「浮世離れ」どころではない。人の形をした妖の類だと、私を含めた鬼殺隊の柱全員がそう思った。

 

 私は彼を見てすぐに気付いた。

 

 彼が――産屋敷耀哉様が探していた、300尺はある巨大樹の森に住む片目の少年なのだと。

 

 

「皆にも紹介しよう。私の友である、鹿神ギンだ」

 

 

 異国の服を身にまとった少年は、仮面をつけたような無表情で頭を下げた。

 

 色という色が全て抜け落ちたかのような白髪。

 頬に浮かぶ、木の葉のような、入墨のような変わった痣。

 鮮やかな深緑を想わせる緑色の左目。

 そして――闇を掬い取ったかのような右目。

 

 そこに眼球はない。今日の天気は雲一つない快晴だ。彼の顔も太陽の光に照らされているのに、その右目だけは暗く、昏く。

 

 はっきり言って異様だった。

 人の形をしているが、人ではない。人だとしても、良くない何かだと、頭ではなく本能で理解する。これでも長年鬼殺隊として鬼を討伐してきた我々だ。

 彼が普通の人間ではないということは嫌でも分かる。

 妖や鬼なのではないかと、柱の何人かが苦言の言葉を上げた。

 

 しかしお館様は――

 

 

「私の友を、悪く言わないでほしい」

 

 

 普段優しく、温和なお館様から想像できない強い口調だった。

 

 ――お館様が、怒っている?

 

 齢10を越え、鬼殺隊の当主となってから更に風格を身に着けたお館様が、怒ったことに、我々は驚いた。我々鬼殺隊をいつも導いてくださるお館様からは想像すらもできない。

 

 すると、件の少年が声を上げた。

 

「あー、耀哉。別に俺は気にしてねえから」

 

 ――無遠慮な言葉。

 子供が、同い年の兄弟を宥めるかのような口調。

 

「すまない、ギン。予め私が彼らに君のことを話しておくべきだった」

「大丈夫だって。それに俺、この見た目結構気に入ってるんだぜ?」

 

 ギンと呼ばれた少年はからからと笑い、それを見たお館様は、嬉しそうに微笑んだ。

 

 私はこの時初めて、お館様はまだ成人もしていない子供だということを思い出した。

 もしお館様が産屋敷家に生まれず、普通の家庭に生まれていたのなら、きっと今のように笑うのだろう。

 

 ――なるほど。お館様にとって、この少年はそこまで心を許せる存在なのか。

 

 私は立ち上がり、鹿神に問いかけた。

 

 

「鹿神ギンとやら、聞きたいことがある」

 

 

「ん」

 

 

「お前にとって、お館様はなんだ?」

 

 

 答えによっては切り捨てるつもりだった。先代が亡くなり、耀哉様はこれからも鬼殺隊を率いていく運命にある。

 お館様は我々にとって太陽と同じだ。我々の希望そのものだ。

 

 もしよからぬことを企てているのなら――

 

 

「俺の友だ」

 

 

 緑の眼はまっすぐ私を見つめている。

 

 暗闇に包まれた右目ではなく、私はこの国の森を想わせる彼の眼を、信じてみようと考えた。

 

 

 

「俺は煉獄槇寿郎だ!よろしく頼む!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鹿神ギンは、炎屋敷で預かることとなった。

 どうやらギンは既に呼吸法を会得しているらしく、鬼殺隊に入隊するつもりのようだ。

 

 しかし、彼はまだ10歳。最終選別に行くにはまだ早い。最終選別までは私の継子として鍛えるのがいいだろう。

 

 息子の杏寿郎とは一つ違い。きっとよい修行相手になる。

 それに、私としてもこの少年が一体何者なのか、しっかりとこの目で確かめたかった。

 あのお館様と友好な関係を結べるこの少年が一体何者なのか……。

 

 ギンを屋敷に連れてきた私は、さっそく妻の瑠火に紹介した。

 

「と言うわけだ。当分ここで預かることになった鹿神ギンだ」

「なるほど、そういうことでございましたか。初めまして、鹿神ギン殿。煉獄槇寿郎の妻の瑠火と申します」

 

「…………」

 

 ギンはぺこりと不愛想に頭を下げるだけだった。私はその態度に少しカチンとした。

 

「なんだ、失礼だぞ、ギン」

 

「……いや」

 

 ギンは頭を下げたまま震えた声で言う。どうしたと言うのだ?

 

「……すいません。瑠火さんがあまりにも綺麗で、びっくりしてしまって」

 

 その言葉を聞いた瑠火と私は一瞬ぽかんとしてしまった。よく見ると、ギンの頬は若干だが赤くなっている。

 瑠火もそのことに気付いたようで、嬉しそうに微笑んでいる。

 後に訊いて分かったのだが、ギンは山暮らしで人と会うことがなく、女性と会ったのが瑠火が初めてだったそうだ。

 

「…………ギン。お前は見どころがある奴だ」

 

 何より、私の妻を『美人』と言えた所。見どころがある。自分の妻を褒められ、嬉しくない亭主などいない。

 なるほど。この少年はいい少年だ。

 

 何故、私はこの少年を疑ってしまったのか。どこが『妖』なのか。お館様と同じ、そして私の息子たちと同じ、年相応の少年だと言うことを私は確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……やっべー超美人じゃん煉獄さんの嫁さん。マジパネェ。常闇から出て生まれて初めて会った女性があんな綺麗な人とか、やばい。俺の好みの女の基準ガチ上がり。面食いになっちゃうじゃんこれ。ていうか槇寿郎さん結婚してたのかよ。こんなパツキンなのに。くっそう……男としての格の違いを見せつけられた気がする。これが柱か……柱になれば嫁とか来るのかなぁー)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンは「森の呼吸」という独自で編み出した呼吸法を使うようだった。

 その実力は、幼少期から鍛えていた杏寿郎と同等、いやそれ以上だ。しかし型がどこかぎこちない。おそらく人と打ち合ったことが少ないのだろう。

 その動きはほとんど我流で野生の獣のようだったが、身体能力が元々高いのか、私が教えた技術をどんどん吸収していく。

 

 だが、本人は修行嫌いなのか、私の鍛練から逃げようとすることが多かった。

 

「やだやだブートキャンプは嫌だぁぁぁせっかくシシガミの森ブートキャンプを卒業したのになんで現世に来てまでトレーニングしなきゃいけないのぉぉぉぉ外で遊びたいぃぃぃ街にいかせてくれぇぇぇぇぇ!!」

 

 お館様からは彼が森育ちと言うことは何度か聞いていた。

 生まれてからほとんどを森で過ごしてきた為、俗世の娯楽にかなり飢えているらしい。半分ぐらい何を言っているのか分からなかったが、とりあえず軟弱なので引っ叩いて黙らせた。

 

 だが時々、彼は不思議な言動をする。大人も分からないような生き物の名前を呟いたり。

 たまに何もない場所を見続けていては、「蟲か……新種」と呟く。

 筆と紙を持っては、不思議な生き物の絵を描く。それは何か、と訊くと。

 

「蟲だよ。ほら、今槇寿郎さんの肩の上にもいる」

 

 自分の肩を見てみたが、そこには何もいない。

 だが、ギンは『蟲』と呼ぶ、透明な何かが見えているようだった。

 私はその時、彼は疲れているのかそれとも夢でも見ているのかと思ったが、あのぽっかり空いた右目の暗闇を見るたびに、そう断じることができずにいた。

 

「何を吸っているんだ、ギン」

「蟲タバコ。俺、蟲を呼び寄せる体質だからさ。ここの近くに光脈筋があるし、こうして藤の香と一緒に焚かないと、この辺りは蟲の巣窟になっちまう」

「またその話か。蟲だのなんだの、もっと分かるように説明してくれ」

 

 ギンは時折、ぱいぷ、と呼ばれる煙を吸う道具を使っていた。普通なら大人が吸って楽しむ物を、何故かギンは吸った。

 煙は肺を痛める。呼吸の命である肺を傷つけてはいけないと、ギンにそう言ったが。

 

「この蟲タバコは特別性なんだよ。肺を傷つけたりしない」

「ならせめて香にはできんのか。たばこなぞ、子供が吸うものじゃない」

「んー、できないことはないけど、こっちの方がかっこいいからやだね」

 

 ここでの暮らしに慣れてきたのか、最初の不愛想な子供はどこに行ったのか。笑うばかりで私の言うことをちっとも聞かなかった。聞けばあのぱいぷはお館様からの贈り物だそうで、取り上げることもできなかった。

 もちろん、生意気な口をきいた罰として拳骨をくれてやったが、ここ半年で随分感情表現が豊かになったと思う。

 

「あの子は嘘を吐きませんよ、槇寿郎様」

「しかしなぁ、蟲だのなんだの、よく分からないことを言う。この間なんか、俺の鼻に鼻水を創る蟲がいる、などと言ってきたんだぞ」

「きっと、あの子は何か特別なのです。私達とは違う視点を持つ子なのですよ。それに、杏寿郎や千寿郎もあんなに懐いているではありませんか」

「…………むぅ」

 

 瑠火に叱られ、思わず肩を落とす。瑠火の言葉はいつも正しい。私はよく、迷った時は瑠火を頼った。瑠火に話すと、頭の中にいつも答えをくれるからだ。

 

「あの子は見えない物が見える。それだけですよ。それとも、鬼をも恐れさせる炎柱様はあの子が恐ろしいですか?この世ならざるものが見える妖怪の子だと」

「そんなわけなかろう!あの子は私の大事な継子だ!」

 

 ここ数か月、あれと暮らしていればどれだけ優秀で、賢い子かよく分かる。

 

「ならそれでよいではありませんか。あなた様がしっかりせずにどうするのです」

 

「…………そうだな」 

 

 1月前、瑠火が倒れた。あれから調子を崩し、布団から出ることができていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……この土地の光脈、ズレ始めている……? ヌシが、何かに殺されたのか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「槇寿郎さん。このままだと、瑠火さんが死にます」

 

 私はその言葉を聞いた時、初めてギンを殴った。本気で殴った。鍛練や罰で拳骨をしたことはあっても、本気で殴り飛ばしたことはなかった。

 ギンは口の中を切ったのか、血を吐きだしながら床に倒れた。

 

「瑠火が死ぬわけないだろう!薬師から一番いい薬をもらっているっ、町一番の医者を診てもらっている!すぐにっ」

 

「あれは医者には治せない。原因が蟲だからだ」

 

 蟲。またそれか。目に見えないそれがなんだと言うんだ。

 

「あんたも気付いているだろう、槇寿郎さん。いくら酒を飲んでその不安を塗りつぶそうとしたって、頭のどっかで分かってるんじゃないのか?このままだと瑠火さんが助からないって」

 

「やめろ」

 

「医者の言う薬を飲み始めてから一体何日経つ?医者に何回来てもらってる?瑠火さんは一向によくならないじゃないか。このままあの意味のない薬を飲み続けても金の無駄だ」

 

「だったら!!」

 

 

 

 私は"炎柱" 煉獄槇寿郎だ。

 

 鬼を滅殺し、人々を助ける。今までも、そしてこれからも。

 

 

 なのに私は。

 

 

 

 

「大切な妻一人も助けることができない……!」

 

 

 

 

「助ける」

 

 

 

 

 

 涙で滲む私の視界に、凛とした声が響いた。

 普段ちゃらんぽらんとした自分の継子の言葉とは思えない、しっかりとした声が。

 

 

 助けると言う意志が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「1月半前から、光脈筋が大きく乱れている」

 

「……命の水が流れる、光る河がある土地のことだったか」

 

「ああ。そしてその土地を管理するモノを、ヌシと呼ぶ。そのヌシが殺されると、その土地が乱れる」

 

「乱れるとどうなるのだ?」

 

「草木は熟れて腐っていき、河はやがて汚染され、辺りによくない蟲が集まり出す。もう影響が出始めている。その結果、瑠火さんは、蟲患いを起こしてしまったみたいなんだ。光脈筋が乱れたことで身体が弱り、様々な病気を誘発している。アンタには見えてないだろうが、今この部屋は蟲がうじゃうじゃだ。俺の蟲タバコもほとんど意味を為さない」

 

 

 ギンはそう言って口の中に含んだパイプ煙草の煙を天井に吹きかけた。私には見えない蟲が、そこにいるのだろうか?

 

 

「なら、俺や杏寿郎と千寿郎は何ともないのは何故だ?」

「身体の作りが違うからだよ。呼吸法を会得している人間は、どうやら蟲患いの影響を受け難いみたいなんだ」

 

 全集中の呼吸は、厳しい鍛練をした者がようやく獲得できる秘技だ。病床に臥せっている瑠火は、今更呼吸法を会得しようとしても間に合わない。

 

「ならどうすれば……」

 

「方法は、一つだ。この光脈を、正しい状態に戻すんだ」

 

「正しい状態に……?」

 

「ヌシ様に取って代わったクソ野郎を殺すんだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この近くにある山に、蛇のヌシがいたらしい。

 美しい白い鱗を持ち、蔦を身体に生やした美しい大蛇がこの山のヌシであり、光脈筋を管理する役目を持っていたそうだ。

 

「二月前、3つほど山を越えた所で鬼が目撃されている。その鬼がヌシを殺した。ヌシが鬼を山から追い出そうとして返り討ちにあったんだ」

「何故分かる?」

「ムグラに聞いたから」

 

 通常、光脈筋に鬼は近づかない。光る河から漏れ出る生気を、藤の花ほどではないが鬼は得意としないからだ。

 だが、そのヌシを殺した鬼は、極度の飢餓状態に陥っており、山中の獣を食い散らかしていたそうだ。「おそらく、鬼狩りに痕跡を辿られないように獣の肉で食い繋いでいたんだろう」とギンは言った。 

 

「普通、ヌシを殺しても殺した奴がヌシになることはありえない。人間が仮にヌシを殺しても、特別な術を使わないとヌシにはなれない。けれどそれが鬼なら、異能の存在である鬼なら、ヌシに取って代わることも不可能じゃない。そもそも、ヌシが死んだだけでここまで山が荒れることは有り得ないんだ。だが、理から外れた存在である鬼がヌシになってしまったことで、光脈筋が滅茶苦茶に乱されているんだ」

 

 相変わらず、ギンの話は分からない。見えない存在の物を理解しようとしても、上手くいかない。私はお世辞にも、頭を使うのは得意ではなかったようだ。

 だが、分かったことがひとつ。

 

「つまり、瑠火が苦しんでいるのは……その鬼のせいか!」

 

 私の言葉に、ギンは頷いた。

 

「槇寿郎さん、アンタ、自分は鬼は斬れるが妻は救えないと言ったが、そんなことはない。あのヌシ面した鬼を斬れば、瑠火さんは助かる。アンタの大切な家族を助けることができるんだ」

 

「ああ。相手が鬼なら、俺に斬れぬ道理はない」

 

 

 待っててくれ、瑠火。

 

 私は鬼殺隊 "炎柱" 煉獄 槇寿郎。

 

 だが、今日だけは、人の為ではなく。

 

 お前を救う為だけに、刀を振るう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アア、気分ガいイ、気分ガイい。アノ蛇ヲ喰ッてカら体ノ調子ガイイゾォ。コノまマ人里に下りテ、人を喰イにイコウ。グヒひヒ。ソレガいイ、ソレガイい。あノ方ニ認めラれ、いズれ上弦の鬼に――」

 

 

「おお、すごいなギン。お前の言う通りに走ったら、本当に鬼がいたぞ」

 

「ムグラに聞いたから、この山のことならある程度は分かる。まったく、新しいヌシがこんな醜悪な奴とは、先代が浮かばれない」

 

「アァ?ナン―――だ?」

 

 

 

 

 

 

 

「よくも俺の家族を苦しめたな。地獄で悔い改めろ、鬼」

 

 

 

 

 

 

 

 ――――決着は一瞬で付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぇー……あれが鬼。本当に首斬ると死ぬんだな……」

 

「そういえば、お前は鬼を見るのは初めてか。よく覚えておけ。あれは血鬼術すら使えぬ雑魚鬼だったが、人を喰えば喰うほど、鬼は強くなる。次の最終選抜は、アレを相手取るんだぞ」

「……はい」

「これで、山は元に戻るのか。ここに来るまでひどかったが。草は枯れ始め、小川からはひどい匂いがした」

「完全には戻りません。けれど、いずれ新しいヌシがここに現れる。元凶の鬼も退治した。これで瑠火さんの蟲患いもよくなるはずです」

「……そうか」

 

 私はその言葉を聞いた瞬間、思わず肩の力が抜けて膝を突いてしまった。

 

「よかった……!本当によかった!私は大事な妻を、かけがえのない家族を守れないのかと!自分のことが大嫌いになる所だった……!」

「安心するのはまだ早いですよ。身体が弱っているのは事実なんですから、当分はしっかり看病しないと……そうだ」

 

「ん?」

 

 涙を拭っていると、ギンは懐からごそごそと何か取り出した。

 それは、私が酒を飲むために使っていた瓢箪(ひょうたん)だった。いつの間に盗ったんだ。

 

「何をする気だ!」

「いいから」

 

 ギンは地面に瓢箪を立てるように置くと、今度は何かもう一つ取り出した。竹でできた水筒だ。

 

「それは?」

 

 ギンは答えず、きゅぽん、と水筒の蓋を開いた。

 

 

 

 すると、水筒の口から黄金色の光が漏れ出していた。その光と一緒に、辺りに香ばしい匂いが漂ってくる。

 それは果実の匂いのような。米の匂いのような。この世のありとあらゆる美味い食べ物を混ぜたような匂いだった。

 

 

 

 

「光酒」

 

 

 

 私はおそらく、その光景を一生忘れることがないだろう。

 ギンが水筒から垂らした一滴の黄金色の液体が、瓢箪の口に吸いこまれた瞬間。

 

 底から湧き出るように、あの黄金色の液体が湧き始めたのだ。

 

 

 

 

 

 

 美しく、神秘的な幻想に目を奪われた私は、お館様と瑠火の言葉を思い出した。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――彼は、きっと鬼殺隊に大きな力を与えてくれる。そんな気がしてならないんだよ

 

 

 ――――きっと、あの子は何か特別なのです。私達とは違う視点を持つ子なのですよ

 

 

 

 

 ああ、お館様。あなたの言葉のとおりだった。

 瑠火。お前の言う通りだった。ギンは凄い子だ。特別な子だ。

 

 

 私は彼の姿を見て確信した。

 

 ギンは、きっと鬼殺隊の今を変えてくれる。

 

 千年もの間変わらなかった鬼達との戦いを変えてくれる。

 

 力があるとか、才能があるとかではない。

 

 彼の姿勢、その在り方が、きっと今よりもより良い未来に導いてくれる――今ならそう信じられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空の瓢箪に光る酒が一杯になった後、私とギンは山を下りた。

 屋敷に着くと、ギンは瑠火にあの光る酒を一口与えた。

 すると、すぐに瑠火の顔に生気が戻り始めた。

 身体がものすごく軽くなったと、瑠火は喜んでいた。

 私はその姿を見て、思わず泣いた。

 無事でよかったと。本当によかったと。

 

 ギン。お前は凄い子だ。ああ、一体この借りはどうやって返せばいいのか。

 

「……槇寿郎さん。俺には家族がいません。5歳より以前の記憶がありません。思い出せるのは、真っ暗な闇の中を歩いていたことと、蟲達のことだけ。けれど、煉獄一家は、こんな怪しい俺を家族同様に接してくださり……家族とはこういうものかと、幸せだった。俺の方がもらってばかりだった。俺はいつだって助けてもらって、育ててもらってばかりだった。あんた達を助けられて、本当によかった」

 

 

 私と瑠火、そして杏寿郎はその言葉に感極まり、ギンを抱き締めた。

 

 ああ、姿形がなんだと言うのだ。

 

 他の誰かが認めずとも、私達は認めよう。

 

 ギンは私達の家族であり――やがて、鬼殺隊の柱となると。

 

 

 

 

 

 




蟲師用語図鑑


"光酒"

 
 黄金色に光り輝く液体。「命の水」とも呼ばれ、地底深くを流れる「光脈」から抽出することで取り出すことができる。
 あらゆる生命の原点。蟲、植物、山、動物……ありとあらゆる生命は光酒が流れる光脈から生まれ、光脈に還ると言われている。
 意思は持たないが、命そのものでもある為、ありとあらゆる影響を及ぼす。
 蟲師にとっては蟲患いの薬になったり、身体が弱った人間に呑ませれば活力剤としても使うことができる万能薬。

 ただしいつでも取れる液体ではない為、かなり希少性は高い。

 この世の何よりも美味い液体だと言う噂。
 産屋敷耀哉も自身の身体を蝕む呪いの進行を止める為にギンに呑まされた所、あまりの美味さに涙を流したと言う。


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いつの間にか蟲師は滅んでいた件

 

 

 

 

 シシガミの森から卒業し、現世で耀哉と出会い、"炎柱"煉獄槇寿郎さんの家に引き取られて一ヶ月。

 俺は耀哉に呼び出され、久しぶりに産屋敷邸に訪れていた。

 

 人の気配がほとんどしない屋敷の広間で、俺と耀哉は正座をして向かい合っていた。

 

「青い彼岸花?」

 

「ああ、そうだよ。鬼舞辻無惨と私は、同じ血筋だ。とは言っても、千年以上前のことだから、もう血は近くはないけれど……。我々産屋敷一家は鬼舞辻無惨を追い続け、その過程で鬼舞辻の目的を突き止めた。その一つが、青い彼岸花だ」

 

 耀哉は何故か俺を信頼してくれていた。それも、鬼殺隊の一部の人しか知らない、鬼舞辻の目的や、鬼の体質、産屋敷耀哉の秘密など。おそらく機密情報という物を、俺に何一つ隠さず話してくれた。

 俺が森にいた頃、『二つ目の瞼の裏』で蟲の話をしていたのが理由だった。

 

「鬼舞辻は、千年もかけて青い彼岸花を探している。だが、千年もかけて一向に見つからない。何故か分かるかい」

 

 俺はすぐに察した。

 

「その青い彼岸花を、人間は見ることができないから」

「うん。おそらくその青い彼岸花は、ギンが言う所の蟲なんだと思う」

 

 鬼の始祖、鬼舞辻無惨は生まれた時から鬼だったわけではない。後天的に鬼に変質したのだと、耀哉は言った。

 

「千年前の祖先の言葉によると、鬼舞辻は当時病気がちだった。その時に、青い彼岸花を原料にした薬を処方されたと。鬼舞辻が鬼になったのは、それからだ」

「……蟲師だ。目に見えない蟲を薬にする。きっとその薬を作った奴は、蟲師だったんだ」

 

 耀哉を含めた産屋敷の一族も、青い彼岸花を探していたと言う。だが、鬼舞辻同様、探せど探せど見つからない。

 そして耀哉は、俺と出会い、蟲について話を聞いた時に確信を得たらしい。

 

 青い彼岸花は枯れてどこにも生えなくなったわけではなく、ただ単に()()()()()()だっただけなんだと。

 

 その後、独自の伝手を使って耀哉は蟲を生業としている者、「蟲師」を探そうとしたが、一向に見つからなかったそうだ。

 

「現世の蟲師は……もう、滅んだのか?」

「分からない。産屋敷の情報網では、時代の節目や各地域に、蟲師がいたという記録は確かにあった。けれど蟲を生業としている者を見つけることができなかった。恐らく、君が最後の蟲師だと思う」

 

 蟲の知識は、遥か昔から多くの人達が試してきた対処法だ。森や山と言った自然と、人間が生きていくための術だ。それが失われていた。

 思わず愕然としてしまった。

 ここは、蟲師の世界じゃない?歴史が変わっている?

 確かに、原作でも蟲師は世間に認知された職業ではなかった。けれど、滅んでいるだなんて考えたこともなかった。

 

「ギンに頼みたいことは二つ。一つは、青い彼岸花の捜索。これは、蟲をしっかり視認できる君にしか頼めない。二つ目は、蟲の研究だ。失われた蟲の知識を、再興すること」

「蟲の研究……」

 

「瞼の裏で話したことは覚えているかな。『鬼を人に戻す蟲もいるかもしれない』という話を」

 

 俺は頷いた。

 

「鬼は哀しい生物だ。鬼舞辻の身勝手で鬼に変えられ、人を喰らわなければ生きていけないようにしてしまう。この鬼殺隊が何百年も続けてこられた一番の理由は、鬼によって家族や友人を殺された人達の強い怒りと憎しみだ。彼らは鬼を許すまいと、身体を鍛え、刀を手に取り、鬼を退治する。強い負の感情を火種にしてね。――そして、それは私達、産屋敷一族の当主も」

 

 その時、ふっと、耀哉の笑みが消えた。

 哂ってもいない。悲しんでもいない。そんな表情なのに、何故か俺には、怒りに染まった般若の顔を幻視した。

 思わず息を呑んでしまうほど、重苦しい殺気だった。仏のような微笑みを浮かべる耀哉からは、想像もできない黒い感情だった。

 

「私の一族から鬼舞辻無惨という鬼を出してしまったせいで、私達の一族は皆呪われた。三十年も生きられない短命の一族だ……。代々神職の一族から妻をもらって死に難くなったけれど……私の父も、祖父も、曾祖父も、歳を取れば身体のあちこちが腐り始め、視力を失い、痛みに悶えながら息絶える。そういう、宿命だった」

「……」

 

 短命の一族。話は聞いていたが、そこまでひどい物だとは想像もできなかった。

 

「私は、鬼舞辻無惨を倒したい。けれど、私の代で倒せる可能性はとてつもなく低い。けれど、鬼舞辻を倒さなければ多くの人々や隊士達が命を落としてしまう。人を救う術はいくつあっても足りない」

 

 耀哉はそう言うと、手を床に着け、頭を下げた。

 

「鹿神ギン。()のたった一人の友。よければ、この願いを聞いて欲しい。"鬼殺隊当主"産屋敷耀哉ではなく、たった一人の友からの願いとして、力を貸してほしい。多くの人々を守る為に。鬼舞辻無惨を倒す為に」

 

「…………」 

 

 シシガミ様が、常闇から脱けだした俺を鬼殺の剣士として育てたのは"理"の頼みだと言っていた。

 蟲師ではなく、剣士。

 どうして俺が選ばれたのだろう。シシガミの森から現世に出て来てから、時々そう思うことがあった。

 本当に"理"の命のまま鬼殺の剣士になるべきなのか悩んだこともあった。

 

 けれど同い年の耀哉は、俺と比べたらなんて重たい物を背負って生きていたのだろう。

 

 十歳で父を亡くし、鬼殺隊の当主となり、責任と立場を与えられた。

 

 ……正直、俺は鬼が憎いわけじゃない。

 

 シシガミの森の住民達に報いるために鬼殺隊に入ると決めたが、鬼を滅ぼしたいと言う動機がなかった。

 

 でも、耀哉の姿を見て、腹に決めた。

 

 シシガミの森から出るためにムグラに引きずり込まれ、瞼の裏から出た時、一番最初に会ったのが産屋敷だった。

 

 

 これも"理"が定めたことなのだろうか。

 

「顔を上げてくれ、耀哉」

 

 ああ、でも。例え定めだったとしても、俺はそれに呑まれてもいいと考えてしまっている。

 

「ごめんな耀哉。お前の苦しみに、ようやく少し触れたような気がしたよ。友だって言って、まだお前のことを何にも理解してやれなかった。俺は瞼の裏で会えたお前を親友だと思っていた。けれど、まだ全然なれていなかった。きっとお前が背負う覚悟や苦しみを、俺は全て理解することはできない」

 

 感覚を分かち合うことは難しい。自分が見える蟲の世界を、耀哉に全て伝えることができないのと同じように、耀哉の気持ちは耀哉にしか分からない。

 

「けど、俺はお前の友でありたい。瞼の裏で会えたお前は、本当に特別だったんだ。愚痴でもなんでもいい。もっと話をしよう。瞼の裏はあんなに暗い場所だったんだ。今度は陽が当たる暖かい場所で語ろう。お互いのこと。これからのこと。いろんなことを。だから、聞くよ。お前の頼み」

 

 

 

「鹿神ギンは、最後の蟲師として、産屋敷耀哉の友として、お前を全力で支えるよ」

 

 

 

 

 その時の耀哉の泣き顔を、俺は多分、忘れることはないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 〇月■日

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………死にたい。

 んああああああああああ恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいっ!

 馬鹿じゃねーのばかじゃねーのバカじゃねーの!?

 なーにが「鹿神ギンは、最後の蟲師として、産屋敷耀哉の友として、お前を全力で支えるよ」(キリッ)だよバーカ!お前今精神年齢いくつだよ!前世思い出せねーけどもう二十歳越えてるだろ!?

 いやあわかってるよ蟲師が滅んでいたとか鬼舞辻の呪いとかいろんな情報で頭がパンクしかけて思わずその場のノリで言葉を出しちゃったこと!

 恥ずかしいっ、頭悪いわー、この子頭悪いわー、中学生にしか許されないようなこと言っちゃってるわー。ジャンプっぽいノリ出しちゃってるわー。ジャンプの主人公にしか許されないような台詞吐いちゃって本当に痛いわー。

 あーもうクソダサオジサン過ぎてあれだしていうか耀哉泣かせちゃったし鬼殺隊当主を泣かせてこれ実は首切り案件なんじゃねーかってアタシってばほんとばか。

 

 

 

 …………ふぅ。

 

 

 

 すいません、取り乱しました。これも蟲の仕業ですな(思考放棄)

 

 

 とりあえず、耀哉が住む産屋敷邸は引っ越すことを勧めた。

 

 いや、別に産屋敷の家が事故物件だったとかそういう話じゃなく、単純に耀哉の体調の為だ。

 少し調べてみた所、耀哉の身体は普通の人と比べて"妖質"が圧倒的に少ないということが分かった。

 

 妖質とは、人間なら誰もが持つ力。霊力、気力と言い換えてもいいかもしれない。

 生きる為のエネルギー源であり、蟲を見る為の素質でもある。妖質が多い人間は、蟲を見る才覚を持つらしい。

 

 耀哉はそれが少ない。妖質は大人から抜いても多少なら問題はないが、子供の内は必要な要素だと言われている。

 いや、少ないと言うより現在進行形で減り続けている――とでもいうべきなのかもしれない。

 

「とりあえず、妖質を増やす方法は調べておく。対処法が分かれば鬼舞辻の呪いを断ち切ることができるかもしれない。とりあえずは、光脈筋に移り住むべきだ」

「どうしてだい?ここにも光脈筋はあるはずだが……」

「ここの光脈筋は少し細い。今なら大丈夫かもしれんが、やがてここの光脈筋は枯れる。それまでに、別の拠点を作っておくんだ。後で光脈筋の場所を伝えておく」

「ありがとう、ギン。すまないね、何から何まで」

 

 

 そんなわけで、産屋敷は近々別の山へと拠点を移すことになった。

 光脈筋の位置は外に漏れないよう、耀哉だけに手紙で伝えることとなったのだ。

 

 

「ギン。ありがとう。君が友で本当によかった。次の最終選別で、必ず生き残って欲しい。幸い、あと二年近くの時間がある。それまで力を付けて欲しい」

「………………」

「ギン?どうしたんだい」

「いや、なんでもない。俺に任せろっ」

「そうかい。また一緒にお茶を飲もう。また会えるのを楽しみにしているよ」

 

 

 ほわほわと笑う耀哉に、俺は言えなかった。

 

 ここで素直にゲロっちまって、言い訳を並べればよかったと後で後悔する。

 

 

 ……とは言っても、言えるわけがない。

 

 

 

 

 ――――森の呼吸を、使えなくなってしまっているだなんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▽月■日

 

 

 

 

 "森の呼吸 壱ノ型 森羅万象"

 

 "炎の呼吸 弐ノ型 昇り炎天"

 

 

 俺の袈裟切りに合わせるように、俺の兄弟子である杏寿郎は下から木刀を振り上げる。

 

 

 

 ―――ガコン!

 

 

 木刀と木刀がぶつかり合う音が響いたかと思うと、俺の後ろの方からコトン、と木刀が落ちる音がした。

 杏寿郎によって自分の木刀が弾かれたのだと分かった。

 

 

「それまで」

 

 

 師範である槇寿郎さんの言葉で、俺達は構えを解き――

 

 

「かひゅー……かひゅー……!」

 

 

 俺は酸欠になって地面に大の字で倒れた。

 息が苦しい。肺の酸素が足りてない。やばい。死ぬ。

 

 

「弱い!弱いぞギン!本当に全集中の呼吸を会得したのか?」

「したよ杏寿郎……」

「俺は兄弟子だぞ!きっちり敬語をつけるべきだ!」

 

 

 ぱっちりとした鋭い眼光が特徴の煉獄杏寿郎。父であり、そして鬼殺隊の実力者"炎柱"煉獄槇寿郎の息子。

 代々鬼狩りをする一族の血を引く男。

 

 その兄弟子は、呆れたように俺を叱咤した。

 

 

【悲報】森の呼吸がクソザコナメクジだった件について。

 誰か教えて!えろい人!

 

 

……いや、理由には心当たりがある。

それは俺がトレーニングを続けてきたシシガミの森のせいである。

 

 

 

「空気が薄いんだよここ」

「薄くはない!山の麓だぞ、山頂でもないのに空気が薄いわけなかろう!」

 

 

 シシガミの森から出て約二か月。おそらく、まだ自分の身体が現世の環境に馴染めていない。

煉獄家の屋敷は普通に山の麓にある。けれど、極太の光脈筋があり100mはある大樹の森とでは、酸素の密度が違いすぎるのだ。あとは、蟲が大量にいたのも影響に含まれていると思う。蟲が大量に湧き出ている空間は、自然の法則を捻じ曲げることもあるし。

 ちなみに、現世でちょっと全集中の呼吸・常中をしようとしただけで肺が爆発しそうになる。頭の中の血管がぐるんぐるん回って、内臓が穴と言う穴から全部飛び出るような気さえする。

 え?全集中の呼吸ってこんなにきつかったの?って初めて分かったね。

 あの森ではらくらく出来た呼吸が、ここではまったく出来ないのは致命的すぎる。

 全集中の呼吸ならまだまともだが、これを連発しようとすると一気に身体の体力を持って行かれる。

 それに最近、頬に浮かんでいたあの痣も消えてしまった。これもきっと蟲のしわ(以下省略

 

 

「ふぅむ……とりあえず、まともに使える壱ノ型以外は忘れろ。それ以外の型は全くもって使えん」

 

 

 師範である槇寿郎さんは、困り顔でそう言った。

 がーんだな……心を挫かれた。

 寝ずに毎晩考えた森の呼吸は禁止となった。悲しい。牙突とか色々な必殺技をワクワクしながら考えたのに。またやり直しかぁ。

 

「身体能力だけなら杏寿郎より上なのは、鍛練した環境がいいからだろう。だが、呼吸はまだ未熟なのだ。技の最中に呼吸が止まってしまうのがいい証拠だ。通常ならば、全集中の呼吸ができるなら空気が薄くても効率よく身体に酸素を行き渡らせることができるはずだが――よほど深い森で鍛練したのだな」

 

 ええ。魔境です。魔界の森です。

 人があそこに入ってはいけない。入ったら最後、馬鹿でかい鹿に死ぬまで鍛えられるから。

 

 

「くぅ……どうすればいいんでしょうか」

「とりあえずはな、走れ」

「えっ」

 

 なんかこれ、前にも見たパターンな気がする。

 

「とりあえず、あの山まで走れ。一刻*1で帰ってこなければ飯抜きだ」

「ふぁっ」

「ちなみに、今日の晩飯は牛肉だ」

「行ってきます!」

 

 

 肉肉肉ぅ!溜火さんの焼肉は絶品なんだちくしょぉぉぉぉぉぉ絶対飯抜きになんかさせるかぁぁぁぁぁぁ!!

 

 

 

「父上、弟弟子が他愛ないです」

「そう言うな。森でずっと木の実か植物しか食べていなかったらしいから、反動で肉が恋しいのだ」

 

 

 

 ちなみに、2時間では山を往復することはできず、本当に飯抜きにされました。

 

 自分はひょっとしたら肉を食べれない呪いにかけられているのかもしれない。

 でも見かねた杏寿郎と瑠火さんが一切れずつくれました。優しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 □月☆日

 

 

 

 煉獄家に預けられてから、約1年。

 この間何をしていたかと言えば、ほとんどが走り込みだった。

 ……いや本当に走り込みばっかだった。

 どれだけ走ったかって?聞かないでくれ。思い出すと俺が死ぬ。

 

 シシガミの森ブートキャンプもなかなかにきつかったが、煉獄ブートキャンプもきつかったよ……(白目

 

 もちろん、例にもれず何度かブートキャンプを脱走しようとした。

 

「やだやだブートキャンプは嫌だぁぁぁせっかくシシガミの森ブートキャンプを卒業したのになんで現世に来てまでトレーニングしなきゃいけないのぉぉぉぉ外で遊びたいぃぃぃ街にいかせてくれぇぇぇぇぇ!!」

 

 こんな感じで駄々をこねたりした。

 

 だが、煉獄家の大黒柱は厳しい。それも超絶に。

 拳骨されていつも通りトレーニングさせられました。たまーに任務で槇寿郎さんが出かけている時にサボろうとしても、槇寿郎さんは鎹烏とか言う鴉を見張りに付けて監視してくるのだ。サボってるとその鴉から報告されて、拳骨される。

 

「父上の鍛練に耐えられず、継子は何人も辞めたがギンのように何度拳骨されても懲りずにサボろうとする弟子は初めてだ!」というのが杏寿郎談。

 

 サボってるんじゃないですぅー。休んでるだけですぅー。ちょっと町まで行ってお団子食べようとしてただけですぅー。あ、やめて。この間サボったのをチクらないで杏寿郎様。せっかく鴉に見つからない抜け道を見つけたんだからさぁ。え?報告する?くっそこの頭でっかち!あれ?瑠火さん?なにか御用で……え?今からお説教する?くっそ本当に厳しいよこの一家ァ!

 

 とまあ、本当に厳しい煉獄家だが、おかげで現世の空気の薄さにも大分慣れることができた。煉獄家ブートキャンプもしっかり効果があったようで、今もまだ完全という訳ではないが、大分森の呼吸を扱えるようにはなったのだ。

 一時期光脈筋が鬼によって乱されたせいで、瑠火さんが危篤になりかけたが幸運にもなんとか助けることができた。

 その次の日から「お前を柱にするためだ!」とか言ってトレーニングが倍以上にきつくなったが。死ぬ。

 

 

 そしてこの日、俺は久しぶりに師範に木刀を持つことを許された。

 

 師範は俺が刀をしっかり構えたのを見ると、「俺に全力で打ってみろ」と言ってきた。

 

 その言葉を聞いた時、多分、すごく悪い笑顔をしたと思う。俺は「ようやく仕返しができる」と思っていたからだ。

 ようやくだ。ようやく師範の顔面に木刀を叩きこむことができる。

 今まで拳骨をされた回数317回。気絶させられた回数184回。これまでの恨み、晴らさずにおくべきか。

 

 

 

 

 "森の呼吸 弐ノ型 剣戟森森(けんげきしんしん)"

 

 

 

 柔軟性に優れた森の呼吸と、足を止めて一撃に力を乗せる炎の呼吸を合わせた新しい型。

 一気に懐に潜り込み、足を止めた状態で思いっきり相手の身体に突きを叩きこむ。

 

 ちなみにだが、ただの突きではない。

 

 十連の止まらぬ突きだ。

 

 

 炎の呼吸は、俺の身体には適性を示さなかった。だが、炎の呼吸の利点は足を止めての接近戦。ガチガチのインファイトに向いた技術。

 

 俺はこの技術を取り込んだ。全ては師範に仕返しをするために。

 

 知っているんだぞ。俺が山を往復できずに飯抜きの罰を与えた時のことを。

 

 俺の分の牛肉を、夜の酒のつまみにしたということを―――――!

 

 

 食い物の恨みを思い知れぇぇぇぇぇぇええええええ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 倒せなかった。

 

 

 うそやん。渾身の弐の型を全部捌いたの?

 まったく手ごたえがなかった。全部木刀で受け流された。

 

 俺は驚きで目を見開き、縁側で稽古を見ていた瑠火さんと杏寿郎も、驚いたように目を見開いていた。

 

 

「―――見事」

 

 

 え?何が、と訊き返そうとした瞬間。

 槇寿郎さんの木刀が、粉々に割れた。

 

 え。何。なんで割れてんの木刀。ていうか木刀って割れる物だったの?

 

 

「ギン。お前は炎の呼吸に向いていない。本来なら水の呼吸か、風の呼吸の適性があるのだろう。だが、私の教えを吸収し、見事に自分の技に昇華させた。お前はやっぱりすごい子だ」

「師匠……」

「だが、これ以上ここで教わることはない。お前は炎柱にはなれない。私の跡目は兄弟子である杏寿郎になるだろう。だからこれからお前には、ある山に向かってもらう」

 

 

 

 ある山?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「狭霧山という山に住む、鱗滝という育手を訪ねろ。元水柱の育手だ。きっと、お前の使えなくなった森の呼吸を鍛えてくれる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆月×日

 

 

 

 

 拝啓、煉獄槇寿郎様。

 

 いかがお過ごしでしょうか。私は元気です。

 

 

 ところで。

 

 

 

 

 

「お前が鹿神ギンか」

 

 

 

 

 天狗のこの人は一体なんなんでしょうか。

 

 ここで一体何ブートキャンプをさせられるのでしょうか。今から辛いです。

 

 

 

 

 

*1
2時間



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鬼畜な修行をさせられた件について

ギンを見送った後のこと。

 

「行ってしまわれましたね、父上……」

 

杏寿郎が寂しそうにぽつりと呟いた。その言葉には同感だった。手間がかかる上にサボり癖のある少年だったが、この1年は新鮮なことばかりで、いつも驚かされてばかりだった。瑠火もこの日だけは目を赤く腫れさせて見送っていたのは印象的だった。さっきまでここにいたが瑠火はひと足早く家に戻ってしまった。今頃涙を拭いている頃だろう。

 

「ああ、どこまでも果てしない子供だった。苗のような少年だったのに、今では立派な大樹へと伸びつつある」

 

「……父上、腕は大丈夫なのですか?」

 

「なんだ、気付いていたのか?」

 

「はい。ギンは気付いていないようでしたが、右腕を庇うように動かれていましたから」

 

「そうか……見えたか?」

 

杏寿郎は首を振った。無理もない。あれだけの高速の剣戟はなかなかお目にかかれない。一般の隊士では最初の一撃目で倒れていただろう。

 

「八本目と九本目の突きは捌ききれなかった。骨は折れていないが、おそらくヒビは入っているだろう。あれでまだ11歳とは、末恐ろしい」

 

 これからどんどん身体も成長していく。それと共に更に技に磨きがかかるだろう。数年後、彼が一体どんな剣士になっているのか。

 

「母上も気付いておりました。後で医者をお呼びするそうです」

 

「敵わないな……。まだまだ炎柱としてやっていくつもりだったが、俺も歳を取ったか」

 

「…………」

 

「悔しいのか、杏寿郎」

 

「いえ……」

 

「嘘はよくない。その握り締めた拳が、そう言っている」

 

「……はい。悔しいです、父上。ギンの技を見た時、不甲斐ないことに『今の俺では勝てない』と気付いてしまいました」

 

「そうか。()は、か」

 

「はい。今は、です」

 

「――明日からまた鍛錬だ。気を引き締めろ。お前は俺の息子なのだから」

 

「はい!父上!」

 

 

 ギン。元気にやってこい。

 

 必ず生きろ。死ぬな。最終選別が終わったら、また顔を出しに来い。剣士となったお前と会えるのを、楽しみにしているぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆月▼日

 

 

 

 拝啓、煉獄槇寿郎様。いかがお過ごしでしょうか。手紙、嬉しかったです。

 狭霧山に来てから三ヵ月が経過しました。最終選別まであと少し。杏寿郎が合格したと聞き、胸のつかえがとれた気分です。

 私は現在、"目隠し修行"と言う常軌を逸したブートキャンプが敢行されており、正直真っ暗です。なーんにも見えません。

 

 槇寿郎様の紹介で狭霧山で鱗滝左近次殿に稽古を付けて頂いておりますが、はっきり言ってこれほどあなた様を恨んだことはありません。

 

 初日に「判断が遅い」といきなりビンタされたこと、山頂にいきなり連れて行かれたかと思えば「夜明けまでに帰ってこなければ飯抜き」とされたこと、山頂でいきなり布で目を隠されたかと思えば「目隠しを外したら破門」とまで言われました。

 

 煉獄一家での修業がお遊びだったんじゃないかと思えるぐらいの厳しく理不尽な修行が始まりました。この手紙も目を隠しながら書いてます。鍛練以外の時も目隠しを外したら破門だからだそうです。辛い。

 兄弟子の二人に手紙を見てもらいながら書いていますが、書き直すのはこれが十五回目です。

 ちなみに兄弟子二人に「二人は目隠し修行をしてるの」と訊いたら「いや、そんなのしたら危ないだろ?」と恐らく真顔で言われました。視界を隠しているためどんな表情をしているかは分かりませんが、多分哀れまれていると思います。

 

 さて、山に置いて行かれた私はすぐに山を下りはじめましたが、目を隠されているため軽く走っただけですぐに躓いて転がります。崖からも落ちかけました。

 しかもこの山、通常の山より空気がとても薄く、ただでさえ現世の空気に慣れていないこの身体では少し走っただけで酸欠を起こしてしまいます。

 更に更に、この山には左近次様によって大量の罠が設置されており、視界を隠された状態でそんな罠を避けきれるわけもなく、罠に面白いほどかかってしまいます。

 落とし穴、竹槍、ククリ罠、丸太罠、その他もろもろ。

 森で鍛えられた為、怪我自体はあまりしませんでしたが罠と目隠しのせいで下山したのは昼頃。その日の食事は抜きにされました。とほほ。

 

 何故こんなに難易度高いの、と左近次様にお尋ねした所、槇寿郎様から手紙で「殺す気でやっていい」と聞いたからだそうで。

 

「鹿神ギンは俺の継子だが、炎の呼吸に適性がない。だが、才能と伸び代は一般の隊士を遥かにしのぐ。殺す気でやっていいので彼を鍛えてやってくれ」

 

 確かに、森の呼吸を使えなくなった私にとっては、この狭霧山での鍛練は絶好の場所でしょう。

 実際、鍛練をひとつ終えるたびに、酸素が薄い現世の空気で、効率よく身体に酸素を行き渡らせることができるようになっています。森の呼吸も以前より格段にキレが増すようになり、このまま行けば最終選別までに森の呼吸を参ノ型まで使うことができるようになると思います。

 

 さすが元水柱と言うべきか、変幻自在な歩法を得意とする水の呼吸は大変刺激になり、参ノ型を改良することもできました。まだ実戦で使うには程遠いですが、兄弟子二人にもこの技でなんとか一本を取れたので、会得するのは時間の問題だと思います。

 また、この目隠し修行も最初は頭おかしいんじゃねえかと思いましたが、言われてみれば私は隻眼。普通の人間より死角が生じやすく、辺りの気配に敏感にならなければ敵の攻撃を避けれない為、五感を鍛える修行だったそうです。おかげで最近は左近次さんほどではないですが耳や鼻もよくなり、最初は目隠し山下りで半日かけなければできませんでしたが、最近は一刻もかけずにできるようになりました。どんどん私も人間を卒業している気がしてなりません。ひょっとしたら鬼殺隊は人外が跋扈する隊なのでしょうか。今さらながら命が惜しくなった気がしなくもありません。

 

 ですが、自分でやりだしたこと。

 杏寿郎が最終選別を突破したのなら、私も槇寿郎様の継子として後に続いて見せます。

 

 自分が今こうして修行に励むことができているのは、これも一重に槇寿郎様が左近次様を紹介してくださったおかげです。これからもより一層精進いたします。

 瑠火さん、杏寿郎、千寿郎によろしく言っておいてください。

 それでは、お元気で。

 

 

               修業が辛い 鹿神ギンより

 

 

 

 

 

 

 

 

 追伸

 瑠火さんに「槇寿郎さんが以前、自分が保管していた光酒をちょろまかし、酔った勢いで俺を色街に連れて行こうとした」という手紙を送らせていただきました。

 これからも夫婦仲良く、一層のご活躍を祈念しております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ギン、本当にこの手紙を送るのか?」

「……やめておいた方がいい」

 

「いや、俺はやられたらやり返す派だから。倍返しする派だから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ×月☆日

 

 

 鱗滝さんの修行は朝が早い。

 陽が昇る少し前から一日が始まる。

 

 朝の日課は山下り。

 

 朝食までに山頂と麓をダッシュで往復すると言う物だ。狭霧山は空気が薄く、少し走っただけで呼吸が乱れる。更に鱗滝さんが設置した大量の罠が、行く手を阻む。

 

「どうした義勇!もうへばったのか!男なら、もっと早く進め!」

「……もちろん!」

 

 鱗滝さんに弟子入りしてから、兄弟子が二人増えた。錆兎と、冨岡義勇だ。

 口数が少なく、物静かで黒髪なのが冨岡義勇。

「男なら」が口癖で、宍色の髪と口元の傷が特徴的な錆兎。

 歳は俺と同じで、今十二歳だ。

 

 今はそれなりに仲はいいが、最初はかなりやっかまれた。特に錆兎に。嫌われまくった。

 

 まあ、それは多分当然だと思う。俺の見た目は人外のアレだし、炎柱の紹介ということもあって鱗滝さんから結構優遇されている。

 優遇っていうかシゴキなんですけど。なんですか目隠し鍛練って。 

 

「ギン!遅れてるぞ!」

「無茶言うな」

 

 こちとら目隠ししてるんだぞオラァ。

 鼻と耳がよくなったおかげで大分周囲の環境が分かるようになったとはいえ、鱗滝さんのように人の感情が分かるほど俺の鼻は良くはない。

 だから必然的に手探りと耳に頼らなければならず、錆兎や義勇と比べると走る速さは遅くなる。それでも最近は飯抜きにされる前に戻ってこれるようにはなっている。

 錆兎は「男ならこれぐらい躱してみせろ」とか言うけど無茶言うな。だって最近は山の罠がパワーアップしているから、無暗やたらに走れないのだ。落とし穴の中に落ちた者を串刺しにする竹槍が仕込んであったり、引っ掛かると鋭いナイフが飛んで来たりするのだ。

 先日、目隠しをしていても問題なく山を下れるようになった俺を見て、鱗滝さんが「この調子なら、錆兎達と同じ罠にしてもよさそうだな」とか言ってたけど、全然よくないです。せめて目隠し外させてください。

 

 

 

 昼間は木刀による打ち合いだ。身体は俺を含め三人とも出来上がっているので、今は木刀による実戦形式の鍛練をするようになっている。

 

 これも当然、俺は目隠し。錆兎と義勇は目隠しをしていない。人間は不平等だと言うことをはっきり思い知った。

 しかもこの二人、本当に強い。次の最終選別を受ける為、水の呼吸をほとんど完璧に会得している。

 

 

"水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き"

 

"森の呼吸 弐ノ型 剣戟森々"

 

 

 錆兎の突きと、俺の突きが交差する。だが、俺の攻撃を捌ききれないと悟ったのか、義勇が錆兎のフォローに入る。

 

"水の呼吸 肆ノ型 打ち潮"

 

 義勇と錆兎は二人掛かりで俺の十連撃を見事に捌き切る。

 

「ちょっ……二人掛かりは卑怯だろ!」

「お前の方が強いのだから仕方ない」

 

 何が仕方ないだ義勇テメェ!

 

"森の呼吸 壱ノ型 森羅万象"

 

 袈裟切りで飛び出してきた義勇に刀を振り下ろす。義勇も俺の動きを読んでいたのか、すぐに迎撃態勢に入った。

 

"水の呼吸 参ノ型 流流舞い"

 

 木刀と木刀がぶつかり合う。何度も何度も。

 

「こっちは目隠ししてるんだぞコラァ! もっと手加減しろぉ!」

「甘えるな!男なら!」

 

 二人のコンビネーションは完璧だ。聞いてみると長い間鱗滝さんの所で過ごしていたらしく、そのせいかお互いの長所と短所をしっかりと把握している。

 錆兎が攻撃を捌ききれない時は、素早い義勇が牽制を。

 義勇が力で押し切れない時は、力が強い錆兎がフォローをする。

 目隠しをしていた当初は二人の木刀を避けきれず何度気絶させられたか分からないが、最近は俺の方が勝ち越している。伊達に炎柱の稽古を受けていない。

 だからか、本来は総当たりでやるこの打ち合いの稽古も、最近は俺 VS 錆兎&義勇 という図が恒例となりつつある。

 

「だったらお前らも目隠ししろよ!」

「「………………」」

 

 何か言えやゴラァァァァァァァ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鱗滝さんが、なんか変な奴を連れてきた。

 

「今日から、最終選別までここでお前達と鍛練をすることとなった鹿神ギンだ」

 

 そいつは、緑色の眼と、白い髪をしていた。「変わった風貌だな」と義勇がぽつりと言っていたが、俺はそれどころではなかった。

 右目が長い前髪で隠れていたせいで義勇は気付かなかったみたいだが、俺は横からそれをはっきり見てしまった。

 まるで闇を掬い取ったかのような、真っ黒な眼をしていたこと。いや、あれは眼と言えるのだろうか?

 眼球を抉り取って、その中に真っ黒な墨を注ぎ込んだような……。

 

 とにかく、俺は奴が恐ろしくてたまらなかった。義勇には「近づかない方がいい」と言ったが、「何故だ?」と首を傾げるだけだった。

 

 鱗滝さんも、なんであんな奴を弟子にしたのか分からない。あんな得体の知れない目を持つ男を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 鱗滝さんは、ギンに「目隠し修行」を課した。

 訊けば、あの右目は何も見ることができず、隻眼のような物らしい。その為、常人よりも死角が多い。それを補う為、五感を鍛える修行が目隠し修行だそうだ。

 

 義勇はその修行内容に震えていた。この罠だらけの狭霧山を、目隠しで下るなど自殺行為だ。

 

 ギンは黒い布で眼を隠し、その布を取ることを禁じられた。

 

 俺はそれを聞いて、少しほっとしてしまった。

 もう二度と、あの眼を見なくて済む。闇をそのまま写し取ったようなあの黒を、布が覆ってくれて見なくて済むと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンも俺達と同じく、鬼殺隊に入隊するために鍛練に加わった。

 目隠しをしているからか、山を下るのに半日近くかかる。罠にも相当かかっているそうだ。

 

 この調子なら、いずれ音を上げて逃げ出すかもしれない。

 

 そう期待すらしてしまった。そして、自分がギンを恐れていたこと、あわよくばいなくなってしまえばいいと、そう考えてしまった自分を嫌悪した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンは逃げ出さなかった。

 いや、口では「トレーニングは嫌だ」とか、時々よく分からない言葉を言っていたが狭霧山から逃げようとは一度もしなかった。

 それどころか、最近では山を下る速度が俺達に追いつきつつある。

 目隠しをしているくせに、平然と走ることができている。

 

 なんでだ?俺だったら、あんな目隠しをしていたらこの山から無事に下りて来れる気がしない。なのにギンは傷一つ負わずに帰ってくることが多くなった。

 打ち合い稽古も、あいつは目隠しをしているくせに、まるで俺の攻撃が見えているかのように躱し、攻撃してくる。最近は義勇と二人掛かりでないと倒せないほどに。もし、目隠しを外していたら、多分俺達はまったく勝てない。

 義勇はそんなギンに懐いている。

 

「義勇は足運びが上手いから、その長所をもっと伸ばせばいいんじゃないか?素早く、どんな体勢からも剣を繰り出せるのが水の呼吸の特徴だから、それを活かしていけばいいと思う。力より速さと手数の多さで勝負しよう」

「力は必要ないのか?」

「あった方がいいに越したことはないけど、これからどんどん身体も大きくなるし、今はそこまで気を遣わなくていいんじゃないか?今は体をもっと柔らかく使うことを意識した方がいいと思う」

「なるほど。分かった」

 

 ギンの助言は的確で、義勇はみるみる内に実力を付けて行く。

 

 器が違う。素直にそう思わされてしまう。

 

 あいつを見ていると、まるで森の樹を思い出す。分厚く太い、大樹のような大きさを。

 

 何が違う。俺とあいつと、何が違う?

 

 ずっと鱗滝さんの修行を受けてきた俺と、一体何が違う?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「錆兎、何を悩んでいる」

 

 ある日、皆が寝静まった晩。軒先で俺は鱗滝さんに呼び出された。

 

「悩んでなど」

 

「剣は口以上に物を語る。お前の心は、氾濫した川のように乱れているな」

 

「…………はい」

 

「原因はギンか」

 

 俺は頷いた。

 

 

 先日、俺達は最終選別の条件を言い渡された。

 

 

 身の丈以上の大きな岩を斬れと、鱗滝さんに伝えられた。

 

 山の中に置かれた、巨大な岩を斬れと。

 

 さすがの俺も、義勇も目を見開いた。

 

 

 こんな物、斬れるわけがない。そう思った矢先だった。

 

 

 

 

 

 

 "森の呼吸 参ノ型"

 

 

 

 

 ギンが、居合の構えを取った。

 森の中に吹く風のような呼吸音が響き、そして――――

 

 

 

 

 

 "青時雨(あおしぐれ)"

 

 

 

 

 ギンは見事に岩を斬ってみせた。あんなに固そうで巨大な岩を、まるで豆腐を斬るかのように。

 

 

「ギン。最終選別に行くことを許可する」

 

 

 義勇は「さすがだな」と感心している。その眼には自分もやるぞというやる気に満ちている。

 

 

 けれど――俺の前には、巨大な大樹が生えている。それはまるで、俺を通せんぼするかのような。これ以上先に進めないと、俺に突きつけているようだった。

 

 

「鱗滝さん、俺はどうしたら……」

 

 

 人を守ると、誓ったはずだった。それに伴った実力も、あったはずだった。

 けれど、所詮井の中の蛙だった。

 

 親を鬼に殺され、鱗滝さんに引き取られ、強くなれたはずだった。男として、強く、そして多くの人を守ると。

 

 けれど、今の俺は「自分が強い」と言うことができなかった。

 

 最終選別まであと十ヶ月もない。それまでに、あの岩を斬れる自信が――

 

 

「ギンと話してみろ」

 

 

 鱗滝さんはそう言った。

 

 

「しっかりと話してみろ。そうすれば答えが出る」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何をしているんだ、こんなところで」

 

 次の日の夜。

 ギンが家にいなかったので探してみると、この山で一番高い杉の樹の根本に寄りかかって一人でぱいぷ煙草というものを吸っていた。

 

「蟲タバコ。この山、光脈筋じゃないから蟲が少なくて過ごしやすかったんだけど、最近俺が来たせいか蟲が増えて来たんだ。そのための対策」

 

 ギンは、時々不思議なことを言う。蟲とか、光脈筋とか、目に見えない何かについて話している。

 

「それにしても、鱗滝さんってあんなに弟子がいたんだな。11人も」

「は?」

「皆鱗滝さんを慕っている。お前もそうなんだろ?」

「……鱗滝さんは、俺達の親代わりだからな。皆鱗滝さんのことが好きなんだ」

「羨ましい。俺は森の呼吸だから、鱗滝さんと同じ呼吸は使えない」

 

 羨ましいだと?俺より強い癖に、何言ってるんだ。

 

「鱗滝さんの弟子は、もう11人も最終選別で死んだらしい。知ってたか?」

「……いや」

 

 そんなこと、俺は鱗滝さんから聞かされていない。なんで、お前ばかり特別なんだ。

 

 胸の中からそんな感情が湧き出てくる。だが俺はそれに無理やり蓋をして、以前から聞きたかったことを訪ねた。

 

「目隠しをしていて、怖くないのか?」

「怖いよ。でも大したことじゃない」

「何故?」

 

 俺がそう訊くと、ギンは少しの間悩むように俯き、やがて顔を上げて言った。

 

 

「俺の記憶は、五歳より以前の記憶がない。一番古い記憶は、真っ暗な闇を歩いている光景だ」

 

 

 その場所を、ギンは常闇と言った。

 

「闇には二種類ある。月明かりが無い夜。目を閉じたり、陽を遮ってできる場所。もうひとつが、常闇。普段は物陰の中に潜んでいるけど、時々生きている物を取り込む」

 

 そこは永久に陽が差さない。灯りも何もない。真の暗闇だ。

 

「気付いたら俺はそこにいて、当てもなく彷徨って、なんとか抜けだした頃には片目がなくなっていた。あの闇は本当に恐ろしかった。今でも時々夢に見る。暗い暗い場所から出られずに、閉じ込められる夢」

 

 嘘のようなおとぎ話だった。そんな場所、聞いたこともなかった。けれどギンの語りを聴いていると、本当にそんな場所があるのではないかと思わされた。

 ――いや、きっと嘘なんかじゃない。ギンは本当にそこにいたんだ。

 きっとあの右目のような闇しかない場所に、ギンはいたんだ。

 

「…………それに比べたら、大したことないなって気付いただけだ」

 

 ギンはそう言って笑った。

 

「最初はなんだこのクソ修行って思ったけど、今は感謝してる。それに、暗闇の中でしか見えないこともある」

 

 何故そんな風に言える。何故そんなに強くいられる?

 

 

「どうやったら、お前みたいに強くなれる?」

 

 

 ぽろりと、口からそんな言葉が漏れ出してしまう。言うつもりがなかった言葉。

 でも、口からこぼれた瞬間俺は気付く。

 ああ、そうか。俺はギンに憧れていたのか。

 

「……それ、義勇にも言われたな」

 

 ギンはそう言って安心したように笑った。

 

 

「恐れや怒りに眼を眩まされないこと」

 

 

 人も、鬼も、森も、空気も、山も、闇も、光も、ただそれぞれが在るように在るだけだ。

 

 

「俺達は呼吸法を身に着けている。知恵もある。理不尽な障害から、逃れる力を持っている。そして、立ち向かう力も。それを忘れなければいいだけだよ」

 

 

 ギンはそう言った。不思議と、俺の心にその言葉はすとんと入ってきて、「なんだ、それだけでいいのか」と納得して、俺の頭の中の迷いは晴れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え。何してるの」

 

「目隠しだ。俺もお前と同じ修行をする。男だからな。負けてられない」

 

 

 まだまだ俺は未熟だ。けれど、もっと強くなることはできる。

 

 進み続ければいいんだ。それが俺の在り方だ。

 

 

 

 

 ――――でも、目隠し修行はやめよう。

 

 

 

「おーい、大丈夫か?やっべぇモロに当っちゃったよ」

「俺はやめておけって言った」

「義勇、お前経験者なんだからしっかり止めろよ。前に錆兎と同じことして伸されたくせに」

「……俺は気絶してなどいない」

「嘘つけ。特別な訓練を受けてないと目隠し修行はできないんだぞ。おーい、錆兎ー。しっかりしろー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目隠し修行を始めてから、約一年。

 狭霧山の空気の薄さにも大分慣れてきた。今では全集中の呼吸・常中も問題なくできるようになりつつある。

 

「準備はいいか、義勇。錆兎」

 

「ああ」

「もちろん」

 

 二人の兄弟子達は、刀を抜きながら大きな岩の前に立ち――

 

 

 

 岩を斬った。

 

 

 

 

「よくやった。義勇。錆兎」

 

 

 

 見守っていた鱗滝さんが珍しく嬉しそうに、感慨深そうに頷いている。

 

 

「ギン。お前も一年間よく目隠し修行を耐え抜いた。もう取っていいぞ」

「ようやく―――うわ、目まぶしっ。めっちゃ痛い……ん?」

 

 なんだよ、義勇。錆兎。そんなに俺の顔を見つめて。

 すると二人はそっと微笑んで、錆兎はこう言った。

 

 

「いや――お前の左目は、森のように綺麗だなと思っただけだ」

「俺もだ」

「なんだよそれ。口説いてるのか?気色悪い」

 

 

 俺がそう言うと、せっかく人が褒めたのになんだその態度は!と二人に追いかけられた。

 

 

 

 次はいよいよ、最終選別。

 

 

 

 

 

 




大正こそこそ話


 ギンがシシガミの森で編み出した"森の呼吸"は、現世ではほとんど使えなくなった。壱ノ型は独自で生み出した物だが、弐ノ型は煉獄槇寿郎の炎の呼吸で、参ノ型は鱗滝左近次の水の呼吸で改良した特別な技。






森の呼吸 壱ノ型

"森羅万象"


森羅万象とは、この世に存在する全てのものや現象。
「森羅」は生い茂った木々がどこまでも並び続いている様子のことから、無数に連なるという意味。
「万象」は形あるもの全てという意味。

 袈裟切りの型。呼吸で貯めた酸素を両腕に回し、一気に振り下ろす。
 斬味は大岩をも真っ二つにするほど。



森の呼吸 弐ノ型

"剣戟森々"


恐ろしくなるような厳しく激しい性格のこと。
「剣戟」は剣と矛ということから、武器のこと。
「森森」は数多く立ち並んでいる様子。
多くの武器が立ち並んでいる様子を性格にたとえた言葉。

 連続の突きの型。本来、森の呼吸では威力はそこまで出ないが、パワー型の炎の呼吸でアレンジした技。相手の懐に一気に潜り、10連続の突きを放つ。




森の呼吸 参ノ型

"青時雨"

木々の青葉にたまった雨水が、不意に落ちてくる現象。
青葉の木立から落ちる水滴を、時雨に見立てた語。主に俳句に使われる季語。

 居合斬りの型。目にも捕えられないほどの速さで斬り払う、森の呼吸の技の中で最速の技。音が一切ない無音の技で、相手は斬られたことすら気づかずに絶命する。水の呼吸を混ぜ合わせたことにより、どんな体勢でも居合を放てるようになった。


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最終選別

 

 

 

 

 〇月▽日

 

 

 

 ついに、最終選別へ向かう時が来た。

 俺と錆兎と義勇は、鱗滝さんと同じ模様の羽織をもらい、厄除の面をもらった。

 悪いことから守ってくれる呪いのお面らしい。

 

「最終選別、必ず生きて帰って来い。儂はここでお前達の帰りを待っている」

 

「「「はいっ」」」

 

 鱗滝さんの激励に、俺達は力強く頷いた。

 

 腰に刀を携える。

 義勇と錆兎は、鱗滝さんが用意していた水色の真剣を。

 俺は森でシシガミ様からもらった、深緑色の真剣を。

 

 『日輪刀』

 

 一年中陽が差していると言われる陽光山で採れる鉱石から創られた特別な刀。

 どんな武器で傷を負わせてもたちまち回復してしまう、不死身の鬼を唯一殺せる武器。この刀なら、鬼の頸を落とせば如何に不死身と言えど殺すことができる。鬼殺隊の武器。

 そういえば、シシガミ様はこの刀を一体どこで手に入れたのだろう。あの人が入らぬ森で、誰があそこに刀を置いたのだろう。まさかシシガミの森の住民の誰かが―――ありえそうで怖いな。

 

「お前の日輪刀は深緑か。お前らしい」

「そうか?」

「そうだよ」

 

 錆兎は笑った。柔らかな笑みだった。数か月前、何かに思い詰めていた男の顔は、もうどこにもない。

 

「義勇、準備はいいか?」

「もちろん。ギンこそ、大丈夫か」

「ああ。さくっと行って、さくっと終わらせて来よう。そんなめんどくさい試験、俺達なら楽勝だ」

 

 俺達は自信に満ち溢れていた。

 

 俺達ならやれる。俺達ならできる。

 

 鱗滝さんの厳しい修行を突破してきた俺達なら、鬼なんて目じゃないと。

 

 

「…………」

「どうした、ギン」

「いや、なんでもないです鱗滝さん。それじゃあ、行ってきます」

 

 

 唯一の懸念材料と言えば……鱗滝さんの弟子だけを狙って殺している、異形の鬼のことだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ●月▼日

 

 

 鹿神ギンが、狭霧山に入ってから一週間。

 

 

「――――ん?」

 

 

 目隠しをして、真っ暗で何も見えない中、何かが視界の中で動いた気がした。

 

「――蟲の気配だ」

 

 ここは光脈筋ではない。普通の山だ。ヌシもいない、静かな山。

 獣も少なく、蟲もほとんどいない。蟲が常に見える俺からすれば、かなり新鮮な場所だった。

 今までは行く先々に蟲が視界の端にちらついていたから、『蟲がほとんどいない』場所は俺にとって珍しかった。

 多分、またこの常闇の眼が蟲を呼び寄せているんだろうが……。

 

「……蟲タバコ作んなきゃなぁ」

 

 この山はムグラが少ないから、蟲タバコの材料や薬草は自分で探して作らなきゃいけない……。

 今から憂鬱だ。

 

 はぁ、と溜息を吐いていると。

 

「ねえ、君は鱗滝さんのお弟子さんかな?」

 

 聞き覚えのない声をかけられた。少し悩んだが、ばれなきゃいいだろと俺は目隠しを取った。顔を上げるとそこには、俺と同い年ぐらいの子供が立っていた。月明かりに照らされた少年は、狐の面を着けていて顔は見えない。

 こんな夜に、誰だ?この山には俺と義勇と錆兎、そして鱗滝さんしかいないのに。

 

「まあ、そうだけど。あんたは……」

 

 よく見てみると、ほのかに蟲の気配がする。いや、蟲の気配と言うより……蟲に近い気配?

 この独特な、冷たい屍の気配。生命と死の境界線を飛び越えたモノ達の気配だ。

 

「幽霊?」

「へぇ、分かるんだ」

 

 どうやら当たっていたみたいで、狐の面の子供は驚いたように声を上げる。

 

「あいにく、こちとらあんたみたいなのを毎日見てるんでね。で、俺に何の用?」

 

 悪意の気配はしない。こちらに何かしようという気配がない。

 

「僕らは、鱗滝さんの弟子。いや、元弟子と言えばいいのかな……」

「……死んだのか?」

「うん。最終選別で鬼に殺された。魂だけは、この山に帰ってこれた。僕達のことが見えたのは、君が初めてだ」

「……気の毒に」

 

 なんと声をかければいいか分からなかったけれど、俺は絞り出すようにそう言った。

 

「気にしないで。僕達は気にしてないから」

「そうかい。それで?」

 

 

「僕達を殺した鬼について。それを君達に伝えたいんだ。君と、錆兎と、義勇に」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ★月×日

 

 

 藤襲山(ふじかさねやま)

 最終選別――鬼狩を生業とする鬼殺隊に入隊するための特別な場所。

 

 山には数えきれないほどの藤の花が咲いていた。今は季節でもないのに。

 

「すごいな」

「あぁ……」

 

 俺達はその幻想的で神秘的な風景に驚きを隠せずにいた。おそらく、木々の一本一本に何かしらの蟲が棲んでいるのだろう。

 木霊……ではないか。あれには木々を狂い咲かせる力はなかったはずだし。

 ここは光脈筋というわけでもなさそうだが……。

 

「行くぞ、ギン」

「あ、ああ」

 

 錆兎に背中を叩かれ、意識を戻す。考え込むのは悪い癖だ。今夜は考えている暇はない。今から、鬼がうようよしている所に自分から行こうって言うんだから。

 石の階段を登り、鳥居をくぐると開けた場所に出た。そこには、おそらく各地の育手達から送られてきた、鬼殺隊の見習い達が集まっていた。

 ざっと見て30人はいるだろうか。

 

「……こんなにいるのか」

「皆、それぞれ理由を持ってここに来た鬼殺隊の見習いだ」

 

 代々鬼狩りをしてきた家系の者。あるいは柱の継子。あるいは身内を鬼に殺され、憎しみを燃やしてここまでやってきた鬼殺隊の卵達。

 

「皆様、今宵は最終選別に集まって頂き感謝いたします」

 

 

 俺達が最後だったのだろう。広場の中央から響くような、聞いていて落ち着くような声が響く。

 その声は俺にとって、聞き覚えのある声だった。

 

(耀哉……)

 

 具合はあまり良くなっていないだろうに、わざわざ案内役として出て来てくれたのだろうか。

 おそらく周りの子供達は彼が鬼殺隊のトップだとは知らないだろう。

 まさか自分と同い年ぐらいの子供が鬼殺隊の当主だとは夢にも思うまい。

 落ち着いていて、普段は大人っぽいがどこか茶目っ気がある耀哉らしい、と俺は思った。

 

 

「この藤襲山には鬼殺の剣士が生け捕りにした鬼を閉じ込めていて、外に出ることはできない。山の麓から中腹にかけて、鬼共が嫌う藤の花が一年中狂い咲いているからです」

 

 

「しかしここから先には藤の花は咲いておらず、鬼共がおります」

 

 

 この中で七日間生き抜く

 

 

「――それが最終選別の合格条件です」

 

 余所行きの言葉で語る耀哉を見て、ようやく鬼と戦うんだなと、自分は今更ながら自覚した。

 錆兎と義勇も、いよいよ始まることを感じ取ったのか、静かに、藤の花の向こうの山を睨みつけた。 

 

「それでは、皆様の武運長久をお祈りします。行ってらっしゃい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終選別一日目。

 

 山に入ってまず最初に俺がやったのは、現在位置の把握だ。

 この日の為に保管しておいた光酒を少量、辺りの地面にばら撒き、地面に触れる。

 

「ムグラノリ」

 

 光酒に誘われたムグラ達と意識を同調し、山の情報を得る技術。

 

「東に……鬼が……17匹。西にも鬼が10匹以上。東に向かう隊士達を追っている。北の方にも鬼が数匹。大雑把だけどこれぐらいか。恐らくもっといるだろうけど」

 

 多分、傍から見れば俺はただ目を閉じて地面に手を付けている風にしか見えないだろう。錆兎と義勇は俺が蟲を見えることは話していない。話しても信じてくれることの方が少ないからだ。特に、異形の現象を見たことがない者には。実際は今、俺の身体に何匹ものムグラが纏わりついている。だが、いちいち伝える必要もない。

 

「よし、それじゃあ俺達も東に向かおう。襲われている人を助けず、鬼殺隊は名乗れない」

「ああ」

 

 義勇と錆兎はやる気満々だ。この二人はまあ、正直言って普通の見習い達とは一線を画すだろう。炎柱の息子であり、継子であった杏寿郎と同じぐらいの実力を持っているのだ。二人は心配する必要はない。めいびー。

 

「ギンはどうする?」

「俺はやることがあるから、別行動だ」

「何故だ?3人でいれば、生存率が上がる」

 

 義勇が首を傾げる。

 

「俺は仲良しになるためにここに来たわけじゃない。いくら同門とはいえおんぶにだっこでは、この最終選別を生き残れても、いずれ死ぬ。それに、森の呼吸で自分がどれだけやれるか、試してみたいんだ」

 

 俺はそう()()()()()()()()()()()()()()()を二人に伝えた。

 

「そうか……お前がそこまで言うなら、俺も止めはしない」

「ああ。俺達は二人で行動する」

 

 そう聞いて俺は安心した。よかった。もしこれからやることを二人に伝えれば、絶対に俺に付いてくる。

 それだけはしたくなかった。真実を知れば、どうなるか分からない。あの鬼を前にすれば、あの二人はきっと怒る。親代わりであった鱗滝さんの為に。

 

 これは第三者である俺だからこそできること。

 それに、これは蟲師の依頼として頼まれたことだから。俺が独りでやらなければいけないことだから。

 

「死ぬなよ、錆兎、義勇」

「そっちもな」

「死ぬな、ギン」

 

 

「では、七日後に」

 

 義勇が静かに、そして力強く。

 

「ここに生きて戻る」

 

 俺が、そう確認する。

 

「絶対だ。約束だ」

 

 男なら、約束は必ず守るものだと、錆兎は口に出して言わなかったが俺の心に伝わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて。やるかぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「藤襲山の異形の鬼?」

 

「うん。それを、倒してほしい。義勇と錆兎の代わりに。二人じゃあの鬼は倒せないかもしれないから、もうこれ以上、鱗滝さんを悲しませたくないから」

 

「だから、部外者の俺に頼んだってことか」

 

 狐の面の少年は、そう頷いた。

 

 11人―――11人もの鱗滝さんの弟子が、その異形の鬼に殺された。

 どうやらその鬼は、鱗滝さんの手によって捕獲され、藤襲山に閉じ込められた。

 鱗滝さんに深い憎しみを抱いており、その復讐の為に鱗滝さんの弟子を全て殺しているとのこと。鱗滝さんが最終選別に向かう弟子に渡す、『災いから身を守れるように』と祈りを込めて創った、厄除の面を目印にされて。

 

「鱗滝さんにこの話は――」

「しないで欲しい。厄除の面を目印に殺されたと聞けば、きっと鱗滝さんは自分を責める。今でも充分、僕達の為に苦しんだのに」

 

 ―――これ以上、苦しませても意味がない。

 

「…………」

 

 少し悩む。鱗滝さんの弟子を11人も殺せる鬼。現在の俺の兄弟弟子である錆兎と義勇を見るに、その殺された11人もかなりの実力者だったはずだ。その弟子達を11人も殺せるのは――

 

「頼む、お願いだ」

 

 こうして頭を下げられるのは、2度目だ。

 

「まあ、しょうがない」

 

「!」

 

 

「鱗滝さんには一週間だけだけど世話になってるし。俺の眼や見た目も恐れずに剣を教えてくれる。その恩返しっていうことでよければ、俺が討ってやる。その鬼を」

 

 

 俺は二つ目の依頼を受けた。

 蟲師として、鬼狩りの剣士として。

 

 鱗滝左近次の弟子達の願いを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やっと見つけた」

 

「来たなぁ。俺の可愛い狐がぁ」

 

 異形の鬼。肉が腐ったような匂いを漂わせながら、俺の方に芋虫のように進んでくる巨体。

 体中を何本もの巨大で太い腕で巻き付けている。狭霧山で聞いた通りの見た目だった。

 鬼の位置は、ムグラに聞いたおかげですぐに分かった。北の山頂近くで眠っていた。

 俺が近づくと、鬼はまるで俺が来ることが分かっていたかのように起き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煉獄槇寿郎の継子、鱗滝左近次の弟子。そして、シシガミ様。

 俺には二人と一匹の師がいる。

 でも、俺は二人の師の呼吸を使うことができなかった。

 

 だから少し、羨ましかった。

 

 いつでも師と会える、錆兎と義勇が。いつでも父と会える、杏寿郎が。

 

 俺はもう、あの森に行けることは二度とないだろう。

 

 あの森は異界。この世にはない場所。蟲と光脈筋で隔絶された、現代に残された最後の秘境。

 錆兎。俺はお前と義勇が羨ましかった。家族のような師弟。見ていて気持ちがよかった。

 だから、あんたらを守るために、俺は今日刀を振ろう。

 

 

「狐のガキ。今年は明治何年だ?」

「答える義理はない」

 

 

 最初に狩る鬼が、異形の鬼とは笑えるなぁ。ハードル高くない?

 

 

「鱗滝の弟子にしては教育がなってないなァ!」

 

 

 異形の鬼は身体中から何本もの腕を生やし、俺に向かって伸ばしてくる。掴めば一瞬で握り潰すであろう巨人の手だ。

 

 

 だが、温い。

 

 

 

"森の呼吸 弐ノ型 剣戟森々"

 

 

 

 伸ばされた腕は、一瞬でずたずたになり、腕の形を保てなくなって地面に落ちた。

 

「なにぃ!?」

 

 鬼が驚いたように声を上げるが、俺は少々、拍子抜けだった。

 

「やるなぁ……狐のガキ。俺の腕をここまでやるだなんてなァ。鱗滝もさぞかし鼻が高いだろう」

 

 執拗に、さっきから鱗滝さんの名前を出す。多分、俺に訊かせたいのだろう。

 

「どうして鱗滝さんの名前を知っている?」

 

「そりゃ知ってるさ。俺を閉じ込めたのは鱗滝だからなぁ。もう四十年も前になる」

 

「へぇ。そりゃ随分長生きで……」

 

 話では、この藤襲山の鬼は一人か二人ぐらいしか人を食べたことがない弱い鬼しかいないと言うが―――ここは、藤襲山は蟲毒だ。

 鬼を閉じ込めておくことで、共食いをし、生き残り続けた鬼は凄まじい力を付ける。人を喰い、鬼を喰い、結果、戦闘の経験も他の鬼と桁違いになる。

 正直、こんな鬼は選別試験も突破していない見習いの剣士に相手をさせていい奴じゃない。

 

「アアアア!鱗滝め鱗滝め鱗滝め!許さん、許さんぞォ!俺をこんなところに閉じ込めやがって、絶対に許さぁん!」

 

 体中から血管を浮き出して鬼は癇癪を起した子供のように地面を拳で殴っている。

 

「で、わざわざ鱗滝さんの弟子を狙っているって訳か」

 

 俺がそう言うと、何が楽しいのか鬼は「くひひひひ」と手で口を押えて笑い始めた。

 

「ああ、そうだとも。鱗滝に聞いたのか?」

 

 死んだ本人から聞いたよ、と言っても鬼は信じないだろう。

 

「七……八……九……十……十一……そしてお前で十二人目だ♥くひひひひひっ、あいつ、自分の弟子が帰ってこなくてどんな顔をするのかなぁ?厄除の面だったか?自分が送った面を目印に殺されていると知ったらどんな顔をするかなぁ!」

 

「で、その話を聞いた弟子達は怒りで我を忘れて、その隙を突いて殺す……か。なんともまあ、くだらない」

「なぁにぃ?」

「殺された弟子達は、決して物言わぬ(むくろ)になったわけじゃない。お前は復讐して楽しかったかもしれんが、殺された奴らは決してお前を許していない」

 

 義勇達がここにいなくてよかった。いたらきっと、我を忘れて突っ込んでいっただろう。良くも悪くも、優しい奴らだから。

 

「確認したかったことも確認できた。俺に挑発は通用しない。とっとと倒させてもらう」

 

「倒す?俺をぉ?いくらなんでも調子に乗りすぎじゃないかガキぃ。俺はお前の兄弟弟子を全員殺したんだぞ?お前が俺を殺せるのか?」

 

 けらけらと笑う鬼。

 不思議と、怒りは沸かなかった。

 今夜、初めて俺は鬼を殺す。俺は何を以って殺すかと疑問に思っていたが、ただただ、鬼が哀れだった。

 

 人は鬼であり、鬼は人でもある。

 あんなナリになってしまったが、元は人だった。理から外れてしまった人間だ。

 ただただ虚しい。

 優しさと慈悲は心から消え失せ、人を喰らうだけの存在となった者は、それは人間として生きていると言えるのか?

 

「もう楽になれ」

「アぁ?」

 

 刀を鞘に納め、居合の構えを取る。

 

「楽になれ。お前はもう、鬼として生きなくていい」

 

 

 

 

 

 

 

"森の呼吸 参ノ型 青時雨"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ありがとう、ギン

 

 

 これで俺達は狭霧山へ帰れる

 

 

 鱗滝さんの許に―――

 

 

 ありがとう ありがとう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 藤襲山に入山してから、6日目。

 

 鬼の数は飛ぶ鳥を落とす勢いで減り続けている。

 

 水の呼吸一門が、鬼をひたすら狩り続けているからだ。

 

 

 

 一人は、黒髪をした少年。

 

 力強く、まるで激流のような勢いで鬼の頸を斬り続けた。

 傷を負いながら、窮地に陥った隊士を助けて行った。

 

 

 

 もう一人は、白髪の少年。

 

 静かで、森を思わせる剣術で鬼の頸を斬り。

 傷ついた隊士を、その場で調合した薬で癒して行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、宍色の髪をした少年。

 

 彼は、昼夜問わず鬼を狩り続け、傷ついた隊士を庇いながら戦った。

 

 

 そして―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「義勇……」

「ギン……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「錆兎が……死んだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冨岡義勇―――

 

 

 鹿神ギン―――

 

 

 

 

 最終選別、合格。

 

 

 

 

 

 

 






 錆兎は、傷ついて動けなくなった隊士を10人、庇いながら戦った。鬼達に囲まれ、腹を貫かれて死んだ。
 すぐに駆け付けた富岡義勇によって鬼は駆逐されたが、錆兎の傷は血が止まらず、その場で息絶えた。


 錆兎の遺言で、遺体は狭霧山へと埋められた。



 最終選別後、生き残った二人の隊士は、一晩中、彼の墓の前で泣き続けたそうだ。




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雷の音


 

 

 異形の鬼を狩る鬼殺隊の隊士の間で、真しやかに囁かれている噂がある。

 

 その者は、白髪に緑の眼を持ち、人には見えない異形のモノを退治し、人々を守っている。

 

 鬼を狩りながら、各地を旅し、異形のモノを研究する男が、一人いる。

 

 

 

 

 

「……あれから7年か。義勇も妹弟子も、元気にやってるようで」

 

 

 

 

 

 

 

 その者が背負う薬箱には、様々な薬や異形のモノが棲む。

 

 

「ふぅ。蟲タバコ、すっかり癖になっちまった」

 

 

 ある者は、黄金色の酒を呑ませてもらい、不治の病から回復したと言った。

 

 

「ああ、そうだ。今度は耀哉の定期検診か。光酒も随分減った。また調達せにゃ」

 

 

 ある者は、家に黒い穴を開ける何かを追い払ったと言った。

 ある者は、不思議な術で鬼を闇に封じ込めたと言った。

 

 

 摩訶不思議な異形を祓うその噂が嘘か真か、知る者は少なく。

 

 

 隊士達はその男を―――『蟲師』もしくは『蟲柱』と呼んだ。

 

 

 

 

「――よいしょっ。さてと、行くかね」

 

 

 

 

 薬箱を背負い、鬼狩りをしながら各地を回る男が、一人いる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 町から離れた小さな村。辺りは山と、田んぼと、畑、そして原っぱに囲まれている。

 自然に包まれたこの里には、鬼殺隊の元柱である"鳴柱"桑島慈悟郎と言う老人が住んでいると耀哉から聞いた。

 その老人は頬に大きな傷跡があり、片足が義足だとか。それぐらいの特徴があれば、すぐに見つかる。

 

 

「この辺りに、桑島慈悟郎(くわじまじごろう)という老人はいませんか」

 

 

 村の住人に訊いてみると、すぐにその老人が住んでいる場所は分かった。近くの一本松の傍に居を構えているそうだ。

 

 

 

「――――ん?」

 

 

 

 あの一本松……真っ黒だ。焼けたのか?

 ……その割には、周りは火が回っていない。燃えたのはあの木だけで、周りに被害はない。

 

 ということは、雷か。だが、あの木に蟲の気配はない。

 

 どうやら話に聞いた通りの様だな―――と思った瞬間。

 

 

「いぃぃぃいいいいいやぁぁああああぁぁああああああああ!!!」

 

 

 一本松の近くの家から、甲高い叫び声が聞こえた。

 

「いやぁぁぁぁもう鍛練は嫌だァァァァァ!死ぬ死ぬ死ぬ!これ以上やったら死んじゃうってぇぇぇぇ!!」

「こりゃ善逸!!しっかりせんか!!また雷に打たれても知らんぞ!!」

「いやだよぉぉぉお雷に打たれるのはもっと嫌だけど鍛練も絶対いやぁああああ!落とし穴だらけの山を走らされたりだとかもう訳分かんねえよあんなの人間がする鍛練じゃないでしょ!?俺はもっと楽に生きたいのぉぉぉお!!」

「軟弱なことを言うなバカモノ!!」

「ぎゃっ!!」

 

「えぇ……」

 

 呼び出された場所、縁側の柱にしがみついて泣きわめいている子供と、それを叱咤する爺さんがいた。ちなみにその子供は爺さんに殴られて気絶した。

 

「まったく……ん?」

 

 すると、爺さんと目があった。

 

「どうも。アンタが、鳴柱の桑島慈悟郎さん?」

「そうじゃが……お主は?」

「産屋敷耀哉から文をもらい、こちらに伺わせて頂いた者です」

 

 

「ほう、お主が。すまぬの。鬼殺の任務で忙しいだろうに、わざわざ出向いてもらって」

 

 さきほどの雷親父は一体どこに行ったのか。老人は丁寧に頭を下げた。

 

「いえ。鳴柱様に頭を下げてもらうほどの者ではありません。それで、そこの黄色の髪の少年が、文に書かれていた我妻善逸君?」

「そうじゃ。儂の弟子じゃ……お主の名は?」

「おっと失礼」

 

 

「蟲師のギンと申します」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「一年程前じゃ。儂の弟子、我妻善逸が『いやもう死ぬと思うので!これ以上したら死ぬと思うので!』と言って、儂の鍛練から逃げ出そうとしたのじゃ。その時に、あの一本松に攀じ登ってダダをこねての」

「声マネが無駄に上手だな爺さん。で、その時に雷が落ちたと」

 

 桑島の爺さんは神妙な面持ちで頷いた。

 居間に案内された俺は、茶を呑みながら桑島の爺さんに事情を聴かせてもらっている。あ、我妻君は居間の布団で眠っている。暢気に鼻ちょうちんを作って、随分気持ちよさそうだ。

 

「この一帯はよく雷雲が出る。運が悪いことに、一本松に攀じ登っておった善逸に雷が当たり、元々黒かった髪の毛はあのザマじゃ。不思議なことに怪我は多少火傷した程度で、後遺症もなかった。儂は偶然じゃろうとタカをくくったんじゃが……雷雲が出た時、善逸はあの松の上に攀じ登るようになった。そして善逸が一本松に登った時に限って、雷が――――」

 

 爺さんはどこか悔しそうに眉を潜めた。おそらく、自分の弟子が雷に何度も打たれているという異常事態なのに、自分では何もできないことが分かっているからなのだろう。

 

「今まで雷には何度?」

「ちょうど、この間の雷で六度じゃ」

 

 六回……。よく生きていたな。

 

「ちょいと失礼」

 

 俺は布団で眠っている善逸君の服を捲る。すると、小さな(へそ)が見えた。

 

 

 ―――いるな。

 

 

 案の定、臍の辺りからかなり強い蟲の気配がする。

 手を近付けると、ぴりっと針が指に刺さったような痛みが走った。静電気だ。2年ほど前にもこの蟲は見たが、ここまで強い気配は初めてだ。

 

「なんじゃ、何か分かったのか?」

 

 心配そうに覗きこむ爺さんに、俺は頷いた。

 

 

「ああ、こいつは蟲の仕業ですな」

 

 

 ―――バチン。

 

 

 ん? 何かが割れたような音がしたかと思って見てみると、目をばっちり見開いた我妻善逸君と目があった。

 

 

「あっ」

 

 

 

『いいぃいぃいぃいいいやああああああああああああああああああああああああ!!!!』

 

 

 

 一際大きな絶叫が、屋敷の外まで轟いた。

 

 

「なにこれなにこれなにこれぇ!なんで俺服をはだけさせられてるのなんで俺いつの間にこんなところに寝てるの!?なんでこの男の人俺の服を捲ってるの!?いやぁぁあああ俺にそっちの気はないんですぅ俺に男色の趣味はないんですああぁぁ!俺の貞操どうなっちゃったの俺が寝ている間に汚されちゃったの!?」

 

「おい、落ち着け」

 

「どうせなら可愛い女の子に夜這いされたかった誰が好きでこんな男に俺の貞操を奪われなきゃなんないのぁぁあああもう死ぬしか!こんな汚れた体の俺は死ぬしか!爺ちゃん助けてぇぇぇえええ!!」

 

「落ち着けっての」

 

 ドシュッ。

 

「げぶっ」

 

 思わず腹パンして悶絶させてしまったが、俺は悪くない。

 来てまだ四半刻*1も経っていないのに、もう帰りたくなってきた。こんなことならしのぶを代わりに来させればよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 腹パンからなんとか起き上がれるようになった善逸君と爺さんに、話を続ける。

 

「蟲?そんなのが、俺の臍の中に?」

「ああ。善逸君の臍には、"招雷子(しょうらいし)"と呼ばれる蟲が寄生している」

「しょう……らいし?」

「なんじゃそれは。儂は七〇年生きておるが、そんな虫は聞いたことも観たこともない」

「そりゃそうです。蟲と言うのは、見ることができる人間は限られている。生命の境界線があやふやで、生命そのものに近いモノ達だ。見ることができる者は見れるし、見れない者には一生見れない。しかも、この蟲は本来、空の上をふわふわと漂っていてね。普通ならまず、お目にかかれない珍しい蟲だ」

「ならどうして、俺の臍に?」

「招雷子は稀に、落雷の拍子に幼生が地上に落ちてくることがある。だが、幼生の招雷子は、自ら上空に戻ることはできず、近くの木のくぼみや、人間がいた場合臍から体内に入り、身を隠す。そして体内から放電して雷雲を呼び宿主に落とし――それを喰って力を蓄える。いつか空の上へ帰る為に」

 

「「―――はぁ」」

 

 善逸君と爺さんは信じられない、とでも言いたげに口を開けている。

 

「雷の呼吸の使い手に"招雷子"が寄生するとはな。ある意味縁起はいい。善逸君」

 

「は、はいっ」

 

 さっきの腹パンで俺にビビってしまったのか、善逸君は緊張したかのように背筋をピンと張った。

 

「雷雲が近くなった時、腹の辺りが熱くならなかったか?」

 

「なっ、なりますっ。こう、お腹の辺りがごろごろーっていうか、びりびりーっていうか……なんというか、近くに雷が来るって分かるんです。本当になんとなくなんだけど、爺ちゃんのこの屋敷に雷が落ちたら危ないから、あの松の木の上に登っていたんだ」

「……そうだったのか、善逸」

「なるほど。賢いお弟子さんのようで」

 

 もし、この少年が"招雷子"の変調に気付かず、屋敷の中、もしくは誰かの傍にいたら―――間違いなく雷は周囲の人間を巻き込んでいただろう。寄生された人間はともかく、それ以外の人間は絶対に死んでいた。

 

「な、ななな」

「ん?」

「俺がそんなこと言われて嬉しいと思ってるのかこの野郎!さっきのことだってまだ許したわけじゃないんだからなっ」

 

(……滅茶苦茶嬉しそうじゃねーか)

 

 ちらりと爺さんの方を見ると、爺さんも何故か「そ、そうじゃぞ。善逸は元々賢いし凄いんじゃっ」と、照れていた。自分の弟子を褒められたからか……師弟はこうも似るもんなのかね。いや、どっちかと言うと、孫を可愛がる爺か。

 

「ま、"招雷子"は雷を喰う。雷に当った人間は、そのおかげで軽傷で済むが……何度も当たっていると、やがて命を落とす」

 

 俺がそう言うと、ビシリ、と二人の師弟は固まった。

 

「いいいい嫌だ嫌だ雷に打たれて死ぬだなんてまっぴらごめんだぁぁぁぁギンさんなんとかしてぇぇぇぇ!」

「そそそ、そうじゃ!お主、早くそのしょうらいしなんていういけ好かない蟲を善逸から取っ払ってくれ!」

「いや落ち着け。死ぬと決まった訳じゃない」

 

 照れたり慌てたり、忙しい奴らだな。

 

「とりあえずは、雷雲が出てきたら大きな(ほら)に潜るといい。とりあえずはそれで雷から逃れられる。あとは善逸君。臍の緒はあるか?」

「臍の緒?」

「臍の緒で煎じ薬を作れる。それを呑めば、招雷子は臍から体外に出ていく。あとは……もう一度雷を喰らって、招雷子が育ちきるのを待つか、だな」

「…………俺、親がいないんだ。元の家も、もう残っていない。だから多分、臍の緒も……」

「となると、蟲下しを作るしかねえか……」

 

 蟲下しの材料、あったかなぁ。今ある量だと、善逸君の臍にいる蟲は引っ張り出せそうにないんだよなぁ……。六回も雷を喰って、それでも臍から出ていないと言うことはよほど善逸君の中が居心地がいいのか、相当でかい蟲なのだろう。この里に薬草が生えているといいんだが。

 そんな風に頭を悩ませていると、爺さんはとんでもないことを言い出した。

 

「それなら、もう一度雷に打たせればよいのではないか?」

「爺ちゃん!?」

 

 何そのスパルタ方式。善逸君、目が飛び出るほど驚いてるよ?

 

「善逸。お主は馬鹿じゃ」

「ひどいっ!」

「善逸。お主は馬鹿じゃ」

「なんで二回も言ったの!?ねぇなんで二回も言ったの!?」

 

 すると、爺さんはぽこぽこ善逸君の頭を叩き始めた。

 

「善逸。刀の打ち方は知っておるか「いや知らんよ」刀はの、叩いて叩いて叩き上げて不純物を飛ばすのじゃ「ねえなんで叩くの?」鋼の純度を上げ、強靭な刀を造るのじゃ」

「だからなんで叩くの!?その話は何度も聞いたよ!それとこれと何の関係があるわけ!?」

 

「じゃからの善逸。雷に打たれて強くなれい」

「何言ってるんだよ!?俺生身の人間だよ!?普通の人間は雷に打たれたら死んじゃうんだって!ていうか刀の打ち方と雷は関係ないでしょ!?」

 

 漫才かよ。仲いいなこの師弟。

 

「大丈夫じゃ。そのしょうらいし?とやらが軽傷で済ませてくれるんじゃろ?」

「いやいくら軽いからって傷は負うし痛いんだってば!!」

「イヤァァァァァァァ」と善逸君が泣き喚く。俺も昔はあんな感じでブートキャンプを嫌がってたなぁ、なんて思い出す。

 それにしても、このまま雷に打たれたらどうなるか……。善逸君の髪の色が突然変異なのか変わったりしてるし、もしかしたら身体が強くなったりするのだろうか。

 ちょっと見てみたいが、あまりお勧めできない方法なので爺さんを止める。

 

「やめておいた方がいいぞ爺さん。いくら"招雷子"に寄生されているからって、六度も雷に打たれて無事だったなんて聞いたこともない。今まで大丈夫だったからって、今後も打たれて平気だと言う保証はない」

「そうなのか……」

 

 なんでちょっとしょんぼりしてるんだ。

 

「とにかく、二日ほど時間をくれ。それまでに蟲下しを作っておく。それを使えば、蟲も体の外に追い出せるはずだ」

「よ、よろしく頼みます」

 

 善逸君はぺこりと頭を下げる。

 さて、とっとと薬作ってきますかね。

 

「そういえばお主、宿はどうするのじゃ?」

 

 すると爺さんがそう尋ねてきた。そうだなぁ……。

 

「とりあえず、近くに村があったからどこかに泊めてもらおうかと」

「なら、ここに泊まればいい」

「いいんですか?」

「ああ、じゃがその代わり」

「?」

 

 

 

 

 

「儂の愛弟子を、ちょっと鍛えてくれんか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 原っぱの草が揺れる音がする。

 がたがたと歯を鳴らし、怯えている少年の音がする。

 

「無理無理無理。死ぬって。爺ちゃん死ぬって」

「師範と呼べバカモノ」

「だってあの人、さっきまで気付かなかったけどすっげー強そうな音がするんだよ?やべーよ、下手したら爺ちゃんより強いよアレ。殺される。俺絶対殺されるわ」

 

 屋敷の裏の修練場で木刀を構えたが、なんでこんなに怯えられているんだろうか。

 

「善逸はの、耳が常人より数倍いい。目をつぶっていても周りの状況が分かる上に、人の考えていることやその人間の強さも分かるのじゃ」

「だからそんなに怯えているのか……」

 

 そんな特殊な能力を持ち、かつ"雷の呼吸"の使い手。

 そういえば鱗滝さんも匂いで人の心を手に取るように理解していた。多分、それと同じ。

 五感の一つの聴覚が異常に鋭いのだ。なるほど、元"鳴柱"が気に掛けるわけだ。

 だがそこまでの力を持ちながら、ここまで自分に自信が持てないのか。普通の人間なら怯えるどころか多少傲慢な性格になりそうなものだが……この卑屈さはなんだろうか?

 だが不思議と嫌いになれない。何故だろう……。

 そう少し疑問に思っていると、少年が答えをくれた。

 

 

「だって俺、()()()()()使()()()()んだよォ!?それなのにあんな人に勝てるわけないじゃないか!」

 

 

 ―――この時俺は、この泣き喚いている少年に、奇妙な親近感を覚えた。

 

「大丈夫だ、善逸」

 

「ぐすっ、ギン、さん?」

 

「確かに、今はお前さんは弱い。けれど、強くなれる。構えてみろ」

 

 雷の呼吸の壱ノ型は、確か居合の技だった。

 

 俺は参ノ型を繰り出すため、木刀を腰だめに構え、前傾姿勢を取った。

 

 

「―――――それともお前さんは、師匠に教わったたった一つの型も満足に出せないのか?元鳴柱も、堕ちた物だな」

 

 嘲笑するように、見下すように、俺は笑って言った。爺さんは眼を見開いていたが、今は無視。

 

 今は、顔つきが変わったこの少年が俺の相手だ。

 

「―――――」

 

 すまないな、善逸。爺さん。アンタらを侮辱するつもりはない。けど、こうでもしないとお前さんは本気になれないだろう?

 

 

「――――爺ちゃんを、悪く言うな」

 

 

 底冷えするような声音で、善逸が唸る。

 すると、雷の呼吸の使い手独特の、静かで力を溜めている呼吸音が響き―――善逸は、居合の構えをした。

 

 

 

「"雷の呼吸 壱ノ型"」

 

「"森の呼吸 参ノ型"」

 

 

 そうだよな。大切な人を侮辱されて、怒らないのは()()()()()

 男なら、進め。

 男なら、進め。

 

 昨日より強い自分になるために。今日より明日の方が強い自分になるために。

 

 善逸。お前は進むことができる男になれる。

 

 

 

「―――"霹靂一閃(へきれきいっせん)"」

 

 

「―――"青時雨(あおしぐれ)"」

 

 

 

 進め。昨日より強くなれ。今日より強くなれ。今の自分より、一刻先に強くなれるよう―――進め。

 

 

 大切な者を守るために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森の中の雨――そんな音がした。

 

 雨粒が跳ねる。土に、木の葉に、樹に。森に。

 

 どこまでも綺麗で、どこまでも悲しい、優しい剣だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「目が覚めたか、善逸―――ってなんだその不満そうな顔」

「アンタ、柱だって?アンタの剣、まったく見えなかった」

「爺さんから聞いたのか?そうだよ。今は"蟲柱"なんて呼ばれている」

「……なあ、アンタなんでそんなに強いんだ?」

「なんでだと思う?」

 

「あの時――気絶する前、悲しい音がした」

 

 ……俺は、俺が嫌いだった。『ちゃんとやらなきゃって』思っても、爺ちゃんが教えてくれた"雷の呼吸"は壱ノ型までしか使えないし。元を言えば女の子に騙されて借金まで負わされるし。唯一の兄弟子には滅茶苦茶嫌われるし。怯えるし、恐いし、泣くし。

 

 

「あんなに悲しい音がした剣は、初めてだった。きっと、辛いことがあったんだなって……でも、俺は知りたい。どうしたらアンタみたいになれるんだ?」

 

 

 一流の剣士は、剣で打ち合っただけで相手と語り合える。理解することができるって、爺ちゃんが言ってたっけ。言葉を交わさずとも、相手のことが分かるって。

 俺は一流じゃないから、全部は分からない。当然だ。剣で打ち合っただけで、人のことが分かるわけがない。

 

 

 俺に分かったのは――ギンさんがとてつもなく強い人だってこと。

 心に強い何か――絶対を持っている人だってこと。

 俺と歳はそんなに離れていないはずなのに、爺ちゃんと同じか、それ以上に強い人の音がする。

 俺はその秘密を知りたかった。

 

 けど、ギンさんは軽く笑っただけだった。

 

「強いって言ってもな、俺も昔はお前さんみたいにぎゃーぎゃー泣き喚いたり、駄々をこねたりしたんだぞ?鍛練がきつくってさ。やりたくなーい死ぬーって」

 

「ええっ!嘘だぁ!」

 

 だってギンさんは、俺みたいに泣き喚いたりしていない!鬼殺隊の柱になった男が、昔は俺みたいだったなんて信じられない! 

 

「嘘なもんか。それに俺が使う森の呼吸は、元々七つの型がある。けれど俺は訳あって一つの型しか使えなかったんだぞ?」

「嘘だぁぁぁぁぁ!」

「今は必死にやって、伍ノ型までできるようになったけどな。けどな善逸。人の強さってのは、呼吸の練度や、型の多さじゃない」

「――――え?」

 

「恐れや怒りに、目を晦まされないこと。鍛練を忘れないこと。そして――覚悟を決めること」

 

「覚悟?」

「そう。俺が鬼狩りをする覚悟を決められたのは、最終選別が終わった後だった」

「終わった後?」

 

「当時の俺と、今の善逸の共通点は――大切な人を喪っていなかったことだよ」

 

 俺は息を呑んだ。そしてまた、あの音がした。抱えきれないほどの、悲しい音が、この人の中からする。

 

「当時の俺はどこか浮かれてた。呼吸法も覚えて、これで大切な人を守れるって。――だが、守れなかった。俺は大切な兄弟子を喪ってしまった。人は不思議なことに――明日もそいつが生きていると、勝手に思いこんでしまう。けれど、人はあっさりと死ぬって、俺はその時思い知った。覚悟が決まったのは、その時かな」

 

 ――鬼殺隊に入隊するのは、肉親を殺された奴ばかりだって、爺ちゃんから聞いたことがあった。

 そう考えると、俺は最初から一人だった。親がいなかった。俺が泣いたりすると、「ああこいつはダメだ」って、みんな俺を見放した。

 俺は見放されてばかりで、気付けば一人だった。大切な人なんていなかった。

 

 爺ちゃん以外は――

 

「もし、勇気が出ないときは、大切な人を思い浮かべろ。それが勇気の原動力だ。……蟲下しの薬は、爺さんに渡しておいた。それを呑めば招雷子は外に出る」

 

 

「――いや、呑まない」

 

 

「おい、まさか薬は嫌だーとか言うんじゃないだろうな」

 

「違うよ。俺も覚悟を決めたいんだ。もしかしたら次に雷に打たれれば死ぬかもしれないけど――でも、俺も変わりたいんだ」

 

 雷に打たれるのは、恐い。痛くて、身体中が痺れて、燃えるみたいに身体が焼けて――

 

 けれど、一度たりとも嫌いにはなれなかった。

 

 あの力強く、真っ直ぐな雷が俺を見放さないでくれるなら。

 爺ちゃんのように、もっと強い雷様になれるかもしれない。

 

 

「命知らずだな」

 

 

 ギンさんは呆れたようにそう言って立ち上がり――こちらを見ずに、ぼそりと言った。

 

 

 

「励めよ」

「うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――その後、ある里の一本松に、特大の雷が落ちたという話を、風の噂で聞いた。

 その落雷は凄まじく、山を越えてその雷が落ちた音が響いたそうだ。その雷は不幸にも一人の少年に当たったそうだが、奇跡的に命を落とすことはなかったらしい。

 

 

 

 

 そして、その少年は陸ノ型しかなかった"雷の呼吸"で、新たに漆ノ型を編み出し、多くの鬼を葬ったと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数年後、"蟲柱"とその少年はある山で再会するが――それはまた、別のお話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
約30分




 蟲師用語図鑑


"招雷子"

 原典『蟲師原作七巻』雷の袂(いかずちのたもと)より

 
 見た目蚯蚓のような蟲。普段は上空で雷を餌にしている。
 落雷の際、幼生が地表に堕ちることが稀にある。

 幼生は上空に戻る力がないため、近くの木の窪みや人間の臍の尾に寄生し、雷を呼ぶ。
 落ちてきた雷を餌にし、上空に戻るための力をつける。

 人間に寄生した場合、その宿主の臍の尾を煎じた薬湯を飲ませれば、体外に出ていく。
 


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蟲と華と蝶と 前

 鬼殺隊は、人食い鬼と戦う者達の組織。

 彼らの大半は、親しい者を鬼に喰われた為に、鬼を滅殺したいと願う、復讐者達。

 

 

 だが、そんな復讐者達の中で、鬼と友になろうとしている少女が、一人いる。

 

 肉親を殺されながらも、鬼を殺す為に技を磨きながらも、鬼に同情し哀れむ少女が、一人いる。

 

 

 

 

 鬼を殺すには、頸を日輪刀で斬らなければならない。

 

 それが鬼殺隊が、鬼を殺すための唯一の方法。

 

 しかし、鬼の頸を斬れない隊士の少女がいる。生まれつき身体が小さく、硬い鬼の頸を斬り落とすことができないと、育手から見放された少女がいる。

 

 だがそれでも、鬼を殺したいと、強い憎しみを持つ少女が一人いる。

 

 

 

 

 鬼を憎む少女と、鬼を哀れむ少女。

 

 

 

 

 そんな姉妹が、鬼殺隊に入隊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その人は、不思議な雰囲気を持つ人だった。

 最初は姉に近付く不埒な男なんじゃないかと疑っていたけど、会ってすぐにその考えは風に吹かれたように消えてしまった。

 

 

「お前さんが、胡蝶しのぶか?"花柱"胡蝶カナエの妹であり、継子でもある」

 

 

 怪我を負った隊士達を手当する病院の役目を持った蝶屋敷にやって来たのは、不思議な男の人だった。

 白い髪。翠の眼。

 パイプ煙草を口に咥え、おそらく薬が入っているであろう木箱を背負う青年。歳は姉と同じぐらいだろうか。

 身長はかなり高い。おそらく六尺*1はあるんじゃないだろうか。腰に刀を差している所から、鬼殺隊の隊士なのだろう。けど、隊服ではなく西洋の一般の服を身に纏っている。

 

 

「えぇ……そうですが、あなたは?」

「俺は、鹿神ギン。"蟲柱"なんて呼ばれている」

 

 

 蟲柱。

 

 

 政府非公式の組織"鬼殺隊"の、最高位の剣士の称号である柱だということはすぐに分かった。

 鬼殺隊の柱は、一般の隊士とは隔絶した強さを誇り、十二鬼月もしくは鬼を五十体倒さなければ獲得できない称号。

 つまり、自分の上司となる。

 

「し、失礼しました。私が花柱の継子、胡蝶しのぶです。蟲柱様とは知らず……」

「あぁ、いいっていいって。堅苦しい挨拶は好きじゃない。蟲柱とか、様付とか、好きじゃねえんだ。もっと気楽に呼んでくれ」

 

 胡蝶カナエや他の隊士から聞いていた"柱"とは、随分違う印象だった。

 鬼殺隊の柱はどれもかなりの変わり者で、苛烈で、一癖も二癖もあると聞いていた。実際、姉もかなりの変わり者だ。

 

 だが、目の前の青年からは、そういった雰囲気を一切感じられない。見た目はかなり変わっているが、その在り方は一般の人と変わりがない。

 

「知り合いからは『ギン』と呼ばれている。お前さんもそう呼んでくれ」

「……では、ギンさんと。それで、一体私に何の用ですか?」

 

 

 

 

「アンタ、目に見えない何かが見えていると聞いてな。もしかしたら、相談に乗れるかもしれん。話を聞かせてくれねぇか」

 

 

 

 

 

 それを聞いた私の顔は、きっと驚きに満ちていたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私が、目に見えない何かを見えるようになったのは、五年前。父と母が鬼に惨殺された後、見えるようになったのです」

 

 

 家に押し入った鬼は、父と母を喰い散らかした。

 鬼殺の剣士に助けられるまで、両親が喰われている所を姉と一緒に見ているしかなかった。

 恐怖で頭がおかしくなりそうだった。両親の血の匂いで叫び出したくてたまらなかった。

 けれど、私と姉は弱かった。それが分かっていたから、鬼も私達に手を出さなかったのだろう。私達は何もできなかった。アレを怒らせれば、殺されるのは自分達だと言うことが分かっていたから。

 

 

 私達の幸福は、一瞬で壊されてしまった。

 

 だから、姉と一緒に誓った。まだ壊されてない誰かの幸福を、守ろうと。

 

 一匹でも多くの鬼を退治して―――

 

 二人で一緒に――――

 

 

 

 その数日後、奇妙なモノが見えるようになった。

 

 空中にふわふわと漂う、半透明な生物。奇妙な光を帯びていた、今まで見たこともない何か。

 

 けれど、それが生きている何かだということはすぐに分かった。

 

「姉さん、あそこに、何か変なのが……」

「……何も見えないわよ?しのぶったら、どうしたのかしら」

 

 他人にはあれらは見えないということは、すぐに分かった。最初は幻だと思い込もうとしたが、あれらがそうだとはどうしても信じられなかった。

 姉に相談したけれど、その生物自体見えなかったから追い払うこともできなかった。姉が私が見えていることを信じてくれたのは、唯一の救いだったかもしれない。

「信じるわよ」と優しく頭を撫でてくれた時は、思わず泣きそうになってしまったぐらいだ

 それに、この生物たちは鬼と違って、何もしてこない。ただそこにいるだけだったので、私は気にしないようにしていた。 

 

「私と同期の人がね。しのぶと同じ物が見えてるかもしれないの。相談したら、ここに来て診てくれるそうよ」

 

 しかし、心配性な姉はその『見えない物』について心配してくれていたらしい。

 目に見えぬ生物を対処する術を持つと言う、"蟲柱"に相談したみたいだった。

 

 ギンさんを居間に迎え入れて話に一区切りがつくと、ちょうど任務を終えてきた"花柱"の胡蝶カナエが帰ってきた。

 

「あらあらギンくん!本当に来てくれたのね、嬉しいわっ」

「姉さん!距離が近い!」

 

 相変わらず、姉さんは男の人との距離が近い。気安いというか、優しい姉は誰とでも分け隔てなく接する。

 今だって嬉しそうにギンさんの手を握って笑いかけている。けれど、そのせいでたくさんの男の人に好かれている。私はそれが気に入らなかった。

 

「俺もそう思う。おいカナエ。ちょっと離れろ」

「もー。ギンくんは相変わらずつれないんだから。そんな所まで義勇君と似なくていいのよ?」

「あの鉄仮面よりはマシだよ」

 

 はぁ、とギンさんは溜息を吐いた。どうやら、姉さんのぐいぐいと押してくる性格が苦手らしい。

 

「悪いなしのぶ。こいつ顔がいいから、近づかれると心臓に悪いんだよ」

「まあ、ギンくんってばお上手」

 

 うふふと笑う姉さんを見て、辟易したようにため息を吐くギンさん。どうやら相当苦手らしい……。

 

「まあいい。それで話の続きだ」

 

 ギンさんはそう言うと、薬箱から何かを取り出した。

 

「中に入っているこいつが見えるか」

 

 取り出したのは小さなガラス瓶だった。そこにはコルクの蓋がしてあり、中に入っている物を逃さないようにしていた。

 

「いいえ……ただの空き瓶じゃないのかしら?」

 

 姉さんはそう言って首を傾げた。確かに、普通の人にはただの空き瓶にしか見えないだろう。

 けれど、私には見えていた。

 

「その、黒い泥の塊みたいなのは……」

 

 ガラス瓶の底には、何かが蠢いている。泥の塊のような、真っ黒な毛の塊のような何かがいた。

 それは意思を持って動いている。まるで瓶の外に出たがっているようだった。

 

「ふむ。やはりお前さんが見ている物は、蟲だったようだな」

 

「蟲……?それって、半透明だったりとかする……」

 

 こくりと、ギンさんは頷いた。

 

「それらは、蟲と言う。意思は持たない、生命そのものに近い生物だ。俺達人間と違って形があるわけではない。生と死の境界が無い場所で生きている。だがあやふやな存在でありながら、周囲に影響を及ぼすことができる異形のモノ。本来は眼に捉えることができないのだが、極稀に見えなかったモノが見える人間がいる。それがしのぶという訳だ。おそらく、両親の死をきっかけに、妖質が覚醒しちまったんだろう」

「妖質……?」

「人間なら誰しも持っている力だ。蟲を見ることができるのも、この妖質が関わっている。人によって持っている量が違うから、しのぶには見え、カナエには見えないのだろう」

「なら、その瓶の中にあるのも……蟲?」

「ああ。ウロさんと言う」

「あら、可愛い名前」

「姉さん、可愛くなんてないわよ、これ」

 

 こんな毛玉みたいな生物、可愛いだなんて到底思えない。

 

「そうだな。見た目は小さな蟲だが、空間に孔をあけることができる。ある地方でよく湧く蟲で、この蟲のせいで何人もの人間が行方知れずになった。とても可愛いなんて代物じゃない」

「……こんな小さなモノに、そんな力があるの?」

「ああ。神隠しの原因は、大抵がこの蟲のせいだ」

 

 そんな異形の力を持つなんて―――まるで、鬼が使う血鬼術じゃない。

 

「ギンくんは、鬼を狩りながら各地を回ってその異形のモノを研究しているそうよ。私は見えないから、何のことか分からないのだけれど……」

「俺が"蟲柱"なんて呼ばれるのも、俺が蟲が見える体質であり、それを相手取る蟲師だからだ。まあ、半分は耀哉が面白がって付けやがった名前だが。俺は"森柱"の方がいいって言ったのに……」

 

 ギンさんが困ったように頬をぽりぽりと掻いた。

 なんでこの人は、そんな恐ろしいモノを持ち歩いているのだろう。

 

「そんな恐ろしいモノ、なんで滅ぼさないの」

 

 普通に聞くつもりだった。けれど、私はかなり低い声で、――まるで怒っているように、言ってしまったらしい。

 

「しのぶ……」

 

 姉さんは、悲しそうに眼をしぼませた。

 けれど、ギンさんは淡々と答えた。

 

「これらは自然そのものだ。完全に滅ぼすことはできんし、それは理から反することだ。山へ狩りに行く猟師だって、必要以上に獣を狩ったりしないだろう?それと同じだ。不用意に蟲を追い払おうとすれば、均衡が崩れるかもしれないからだ。鬼はまあ退治してなんぼだが、蟲の中には人間にいい影響を与えるモノもいる。それと同じだ」

「そうなんですか……」

 

 残念そうに肩を落とすと、ギンさんは言った。

 

 

 

「鬼が憎いのか。いや、異形のモノそれ自体が憎いのか。しのぶ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼します」と言って、しのぶは不機嫌そうに部屋から出て行ってしまった。

 

 

 

「……嫌われちまったかね」

 

 はぁ。年頃の娘ってのは良く分からん。確か3つほど俺より下だったか。まったく最近の若い子と来たら……。

 出されたお茶を一気に呑み乾し、溜息を吐いた。

 

「ごめんなさいね、ギンくん。あの子、修行の成果がなかなか出せていないから、ここ最近ずっと不機嫌なのよ」

「……例の頸を斬れない剣士か」

「ええ。育手からも見放されちゃって、私が継子として面倒を見ているけど……」

 

 確かに、上背もない。身体も大きくない。腕や手も小さかった。例え呼吸法を会得したとしても、鬼の頸を斬れるほどの筋力は得られないだろう。

 

「ついでに愛想もない」

「何か言ったかしら?」

「何も言ってないです」

 

 この妹大好きっ子め。

 

「それで、本当にどうしようもないの?ギンくん。蟲を見えなくする方法は……」

「……そればっかりは、本人の体質だからなんとも。ある日突然見えなくなる人間もいるらしいと記録には残っているが……そもそも、呼吸法を会得した人間は、蟲を見ることができない。呼吸で妖質が別のモノに変質してしまっているからだ。だが、元々蟲が見える人間が呼吸法を会得すると、妖質が完全に固定化されるらしい。妖質がそれ以上増えたり減ったり、変質することもなくなる。俺もそうだった。しのぶも確か全集中の呼吸はできるんだろう?おそらく、一生蟲と付き合っていくしかないだろう」

「そんな……」

 

 カナエは、妹のしのぶのことをずっと気にかけていた。目に見えない何かが見えるしのぶに心労が溜まっていることを見抜いていたからだ。

 茶屋で俺と出くわしたカナエは、隊の中で噂されている"異形のモノ"について尋ねてきた。カナエの話からしのぶが見ているモノはおそらく蟲だろうと答えた所、俺はカナエに頼み込まれ、こうして蝶屋敷へ足を運んだ。

 最初は面倒くさくて適当に断っていたのだが、カナエは執拗に俺に頼み込んできたのだ。そりゃもう粘着質に。本当にしつこかった。しかも頼んできたついでにしのぶがどれだけ可愛いかと語ってくるものだから、ノイローゼになるかと思った。

 一日に一回は鎹烏で手紙を届けてくるわ、任務が終わった後偶然を装って俺を追いかけてくるわ、はっきり言ってストーカーなんじゃないかと言えるぐらいしつこかった。

 最終的に根負けして、ここに来たわけだが。

 

「ウロさんが見えるってことは、かなりはっきり蟲を視認できている。影響力が弱い蟲しか見れないんだったら、特に気にすることもなかったが、さすがに心配だな」

「そうよ。だってうちのしのぶは可愛いんだもの」

「いや、心配してるってそういう意味じゃなくてな……」

 

 確かに年頃の娘はそういうことを気にするだろうが、俺が言いたいのはそうじゃない。

 

「しのぶは、異形のモノに強い憎しみを抱いている。人を害するモノが根本的に気に食わないのだろう。常に怒りと憎しみの対象が視界にいるってのは、辛いはずだ」

「ええ……鬼を退治できないから、苦しんでいる。なんとかしたいんだけど……」

「ふむ……」

 

 よく見ると、この部屋、医学書だらけだな。西洋の医学書や、薬の調合書まで。かなりの量だ。

 

「この部屋にある書物は、全部しのぶが?」

「ええ。最近は何か試しているのか実験とか……」

 

 ……ああ、なるほど。しのぶがやりたいことが分かった気がする。

 

「カナエ」

「何かしら?」

 

 

「あいつを俺の継子にする。ちょうど助手が欲しかったんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう、よく来たな」

「…………私、まだ納得してないんですけど」

 

 

 数日後。胡蝶しのぶは、俺が拠点としている蟲屋敷にやってきた。

 

 

「ひどい人です。お館様の命なら、断れる訳がないじゃないですか」

 

 そう。しのぶは最初、俺の勧誘を断った。見ず知らずの男の継子より、カナエの継子でありたいと願ったからだ。

 だが俺はそんなことなんだと言わんばかりに、無理やりカナエの所から引っこ抜いてきたのだ。

 

「ギンくんは本当にすごい人だから。きっとしのぶの力になってくれるわ」というのが姉の談。

「ギンは私の身体の不調を和らげてくれる。他の医者は皆匙を投げるような難病を診てくれるほどの名医なんだ。薬の知識も相当なものだよ。きっと君の力になってくれる」というのがお館様の談。

 

信頼する二人にそこまで薦められてしのぶが断れるわけがなかった。断ってしまえば、それこそ薦めてきた二人の面子が立たない。

 

「耀哉は俺の友人でな。多少の無茶でも応えてくれる。柱になってよかったことなんてあんま無いが、権力はこういう時に使わないとな」

「本当にひどい人……」

 

しのぶは頬を膨らませて不満を主張する。私怒ってますよと言わんばかりだが、生憎顔立ちが整っているせいでまったく怖くない。

 

「ま、継子にすると言ってもそう何年も拘束するつもりはない。3ヶ月ここで過ごして、それでも嫌だったらここから出ていくといい」

「もちろん。私も3ヶ月だけと聞いてここに来たんですから」

「なら、さっそく案内しよう。時間は有限だ。よろしくな、しのぶ」

 

俺はそう言って手を差し出した。

 

「ええ、よろしくお願いします。先生」

 

応えるようにしのぶはその手を掴んだ。

 

 

 

 

 

 

*1
約175cm




蟲師用語図鑑

"妖質"

 原典『原作蟲師』より

 五識を補うもの。蟲を見ることができる感覚でもある。人によって体内に持つ妖質の量は異なる。
 成長してからそれを抜かれても問題はないが、幼児の時にそれを抜かれると身体が衰弱する。
 本来、妖質は持って生まれた量が変化することはないが、死にかけたり精神的なショックを受けたことで、後天的に妖質が変化することが稀にある。妖質が変化すると結果、それまでは見えなかったはずの蟲を視認することができるようになったりする。
 

 この作品内では、呼吸法を会得すると妖質が変質する。
 蟲の影響を受け難い体質になり、鬼殺隊の隊士で蟲を見ることができるのは非常に稀。
 現時点で蟲を視認できるのは鹿神ギン、そして胡蝶しのぶだけである。



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蟲と華と蝶と 後

「ここがお前の部屋だ。置いてある物はすべて使っていい」

「わぁ……」

 

 ギンさんにまず案内されたのは、私の部屋だった。畳に布団が敷かれ、窓から太陽の光が入ってきてとても明るい。多分、この屋敷で一番日当たりが良い場所だとすぐに分かった。

 そして何より目につくのは、西洋の机と椅子、そして大きな本棚だ。

 机には最新の医療機器や実験道具がぎっしりと並べられており、本棚には最近翻訳されたばかりの真新しい医学書や、薬学の調合書、蟲や鬼の研究結果の記録があった。

 

「わぁ……わぁ……!」

 

 蟲屋敷に来るまでずっと不機嫌だった心が明るくなっていくのを感じた。まるで、菓子屋に連れて行かれた子供の気分だった。こんなに嬉しくてわくわくするのは久しぶりだった。

 

「とりあえず、生活に困らない家具は適当に揃えておいた。それ以外に必要な物があったら、カラスを使って隠に欲しい物を伝えておけ。金は俺が持つ」

「こんなに……いいんですか?私は頸も斬れない剣士なのに、こんな高価な設備を与えてしまって……」

「何、必要経費って奴だ。それに、お前が医学に通じているのはカナエから聞いている。遠慮することはない」

 

 ギンさんはそう言って笑った。

 純粋に嬉しかった。これだけ設備が整っていれば、()()()()も――

 

「もちろん、タダではない。名目上、仮でも俺の継子だからな。仕事はきっちりしてもらう」

 

 いけない。浮かれすぎてしまったが、私は立場上この人の継子。そして胡蝶カナエの妹だ。鬼殺の剣士として、仕事と役目はきっちり果たさなければ。

 

「そうですね。ここまでの環境を与えてもらって何もしなければ、姉さんに叱られてしまいます。それで、私はここで何をすればいいのですか?」

「まずは、蟲の研究。お前さんも蟲が見えるからな。自分の身を守るためにも、蟲についての知識を身に着けてもらう」

「はい」

「それと、鬼の研究だ。具体的な最終目的を言うと、鬼を殺す毒を作りたい」

「えっ」

 

 その時私は、人生で一番間抜けな顔をしていたと思う。だって、今ギンさんが言ったことは、私がやろうとしていたことだからだ。

 

「な、なんで」

「ん?お前も、鬼を殺す毒を作ろうと考えてたんじゃないのか?この間蝶屋敷の部屋に置いてあった薬学書を見れば、大体分かったぞ」

 

 あ、あれだけで私の目的を察したの!?なんて勘が良いのこの人……姉さんにもバレていなかったのに。

 

「先生も鬼を殺す毒を?でも先生は、柱になれるほど鬼を殺せたんですよね。一体なぜ……」

「あー……そうだな。俺が"蟲柱"と呼ばれているのは知っているだろう?」

「は、はい」

「この称号は、ただ蟲が見えるからってだけじゃない。俺が柱の中で唯一、剣士でありながら研究者だから、この称号をもらったんだ。蟲と鬼を研究する柱、それが俺。"蟲柱"鹿神ギンの役目なんだよ」

「そ、そうだったんですか……?」

 

 知らなかった。柱の人達はただただ鬼を殺すことに特化した人達だと聞いていたから。確かに、姉さんやお館様から、蟲柱は医者並の知識を持っているとは教えてもらったけど……。剣士でありながら、研究者だなんて。

 

「ふむ。そうだな、ついでに少し授業をしよう。しのぶ、鬼とはなんだ?」

「人を食う怪物」

「正解だ。少し補足すると、『鬼舞辻無惨の細胞を入れられた人間』だ」

「細胞を……?」

「一般的に隊士達の間では『傷口に鬼の血が入ると鬼になる』と言われている。が、これは少し誤りだ。人間を鬼にできるのは鬼舞辻無惨の血液だけ。ただのそこら辺の鬼の血を人間に入れても、人間は鬼化しない。稀に適合して鬼化できる人間もいるらしいが。とにかく、人間が鬼になるのは単なる鬼の血によってではなく、鬼舞辻無惨の血を入れなければ人は鬼にならない」

「し、知らなかった……。一体どうやって知ったんですか?」

「鬼について滅茶苦茶詳しい美人なお医者さんがいてな。一時期その人と一緒に鬼の研究をしていた。その時に教えてもらったんだ」

 

 鬼に詳しい美人なお医者さん?一体どんな人なのだろうか。

 

「つまり、鬼とは"鬼という病に罹った人間"と言うのが、俺の解釈だ。どんな怪我や病も治療法があるのと同じ、鬼を人に戻す特効薬を作れるかもしれない――と言うのが俺の仮説だった」

「鬼を人に!?」

 

 そんなことができれば――鬼殺隊の在り方が大きく変化する。今まで変わらなかった鬼殺隊と鬼達との戦いを変えることができる。

 

「現時点では仮説に過ぎない。実際、俺は失敗した」

「失敗しちゃったんですか……」

 

 肩を落とした私に、先生は困ったようにぽりぽりと頬を掻いた。

 

「期待させて悪かったけどな。結果だけ言えば、鬼を弱らす薬はできた。だが、鬼を人に戻すことはできなかった。やっぱり、青い彼岸花を見つけなければ現段階で鬼を人に戻す薬は作れないと俺は考えている」

「青い彼岸花……?」

 

 先生はいろいろな話をしてくれた。

 鬼舞辻が青い彼岸花と言う蟲のせいで鬼になったこと。その蟲を見つけることができれば、鬼を完全に人に戻す特効薬を作れるかもしれないということ。

 お館様からの願いで、先生は鬼を人に戻す研究を続けているのだということ。各地を旅していたのは、その蟲を見つける為だったと言うこと。

 

「いろいろな方法を試したが、できたのは鬼を弱らす毒だった。しかも、毒は不完全でちょっと弱らせる程度の物。だが、見方を変えればこれも一つの成果だ。つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言うこと」

「!」

 

 先生が言わんとしていることに、私は気付いた。そして、どうして私を継子として呼んだのかも。

 

「偶然にも、俺の目の前には鬼の頸を斬ることはできないが、薬学と医学に精通している鬼殺の剣士がいる。しかも蟲が見える体質だ。どうだ?やってみる気はあるか?」

 

 

 

 先生は茶化すように、笑いながらそう尋ねてきた。

 

 ――悔しいけど、私の答えをもう見抜いていたのだろう。

 

 

 

「やります。絶対にやります。鬼を殺す毒を、この手で創りだして、一匹でも多くの鬼を殺してみせます!」

 

 

 

 頸が切れない剣士と言う烙印を押され、私は絶望に押し潰されそうだった。

 鬼を殺すこともできずに、何が鬼殺隊か。一体どうすれば、私はあの誓いを果たすことができるのか分からなかった。

 けれど先生は、こんな私に目標を――希望を与えてくれた。

 

 

 ――だったら、応えてみせる。姉さんと肩を並べて戦う為に。先生の期待に、応えるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからは、修行と研究の日々だった。

 蟲は異形のモノ故か、覚えることが凄まじく多かった。

 

「まず、蟲の元となる光酒の取り方を教えようと思う」

「えっと……あの光るお酒のことですか?」

「そうだ。全ての命の原点、光脈筋と言う河に流れている水だ。まず、目を閉じてみろ」

「はい……。閉じました」

「何が見える?」

「何が見えるって……目を瞑っているから、何も見えるわけがないですよ」

「いや。お前は瞼の裏を見ているんだ。その裏にもう一枚瞼がある。それを閉じてみろ」

「――できません!」

「馬鹿野郎!考えるな!感じるんだ!」

 

 瞼の裏だなんて、そんなこと言われても。

 

 

 またある日。先生が蟲患いの患者を治療するための蟲下しの調合を手伝っていた時。

 

「光酒って、どんな味がするんですか?」

「……呑んでみるか?」

「え、いいんですか!わぁ、すごい!ずっといい匂いがしてたから、実は飲んでみたかったんです!」

「一口だけだぞ――っておい!一気に飲むな―――」

 

 その日の記憶はない。けれど、絶対に思い出したくない。分かったのは、私はお酒を呑むと泣き上戸と甘えんぼうになるという先生本当にごめんなさい

 

 また、ある日の夜。鬼を殺す為の毒を投与するために、先生の任務についていった帰り。

 

「うぅ……また失敗でしたか……」

「藤の花の花弁を取り入れたが、再生速度が遅くなるだけだったな……第二十七回目の毒投与の実験、失敗。結果は鬼の再生速度を遅らせるのみ、と。また調合の配分から見直しだな」

「…………」

「焦るなしのぶ。効果は着実に出ている。藤の花と光酒を混ぜるという発想をしたのは良かった。おかげで、次は前より強力な毒が作れそうだ。気張れよ」

「…………はい!」

 

 ギンさんは、先生で、分からないことをなんでも教えてくれた。

 私には姉さんしかいなかったけど、兄がいたらこんな感じなのだろうか、と考えたりもした。

 ――この人といると安心する。視界にいつもいて常日頃目障りだったあの蟲のことも、先生といると気にならなくなる。

 

「……俺の継子に手を出すなよ。"全集中・森の呼吸"」

 

 夜、鬼に襲われかけた時も、この人は何事もなかったように鬼を殺して「大丈夫か?」と私の身を案じてくれた。

 

 

「筋肉を付けたいんだろ?食え」

「……食べれません。朝からちゃんこ鍋だなんて」

「喰わないと筋肉が付かないぞ。"炎柱"の継子なんて関取なんじゃないかってぐらいいつも喰ってるぞ」

「私はお相撲さんになりたいわけではありません!先生のバカッ!」

 

 

 時々、天然なのか頭が悪いことを言ってくるけど……。

 

 それでも先生は、私の中で最高に尊敬ができる人になっていた。もちろん、姉の次にだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――バチン。

 

「馬鹿野郎」

 

 頬を、叩かれた。一瞬、何をされたか分からなかった。頬がびりびりと、焼けたみたいに痛い。

 先生は、怒っていた。

 

 きっかけは、先生が記録していた蟲図鑑だった。

 研究の合間に読んでいた、先生が今まで研究してきた蟲達の記録。その中に、『ウロ』と呼ばれる蟲の記述があった。

 私が先生に初めて会った時に見せてくれた蟲だった。

 

 その蟲は、密閉空間に湧く蟲らしい。閉め切られた部屋、蓋が閉められた瓶に湧くそれは、密閉空間の外で生きることができず、蓋や扉を開けると虚穴と呼ばれる別の空間に逃げ込んでしまう。

 もしその空間に人間がいた場合、ウロは虚穴に逃げ込もうとして、その人間も一緒に取り込んでしまうらしい。取り込まれた者は、永久にその異空間をさまよい続けなければいけなくなる。

 私はそれを知った時、天啓が舞い降りたような気がした。

 

「先生!なんで教えてくれなかったんですか。ウロさんを使えば、鬼を異空間に閉じ込められる!聞けば虚穴に取り込まれた人は、自分のことすら分からずに永遠にそこで彷徨うらしいじゃないですか。これを使えばいいんです。ウロさんや、いろんな蟲を使って鬼を滅すれば―――」

 

 その時、先生が繰り出した手の平を、避けることができなかった。

 

 

「なんで……?」

「蟲は道具にはできない。確かに、蟲を使えば鬼殺を有利に進めることもできるだろう。だが、蟲を安易に利用し続ければその人間は正気を失う。その力に魅了され、やがて破滅する。それは、蟲師として――いや、人間としてもやっちゃいけねぇ禁忌だ」

「でも」

「古くから人は、雷や地震を天災と崇め、畏れてきた。人知の及ばぬ領域のモノを私用に使ってはいけないと分かっていたからだ。俺達ができることは精々、偶に力を借りるか、遠ざけるぐらいだ」

「でもっ!」

 

 私は納得がいかなかった。蟲には強い力がある。先生と一緒に研究して、それが分かった。蟲を使えばもっと鬼殺隊は強くなれる!私はもっと、鬼を殺せる!人を守れる!

 なのにどうしてっ!

 

「蟲を使って、もっと多くの鬼を殺せば!たくさんの人が救われるじゃない!先生は間違ってる!私はっ、もっともっと鬼を殺したいの!例え、蟲の力を使ってでも――」

「その蟲を安易に使い続けた最たる例が、鬼舞辻じゃないか。お前の考えは鬼舞辻と同じだ」

「っ」

 

 普段温和な先生からは想像もできない、強い怒り。私は睨まれ――何も言い返せなくなってしまう。

 

「蟲の力は、お前の力ではない。蟲に意思はないが、命あるモノだ。それを自分勝手に利用するなんて、無辜の民を自分の為に喰らう鬼と同じじゃないか。しのぶ、お前も鬼になりたいのか?」

 

 涙がぽろぽろ出てくる。頭がぐちゃぐちゃで、どうしてか涙が出てくる。

 鬼になんてなりたくない。でも鬼は殺したい。どんな手を使ってでも。

 でも、先生の言葉はどこまでも正しくて――私はただただ、悲しかった。

 

「人の身から離れた力を使い続けた者は、やがて怪物となる。しのぶ。お前はそっちに行くな。憎しみに囚われすぎるな。俺達が人の身でありながら鬼を狩るのは、証明するためだろう。俺達が人間であることを。自分達が強いと言うことを。自分達が不条理に負けないということを」

 

 

 だから、お前は鬼になるんじゃない。

 

 

 お前はどこまでも優しく、美しい剣士なのだから。

 

 

 

 その言葉を聞いた後―――私はただただ泣き叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 後日、先生に謝られてしまった。「殴ってすまん」と。不器用な先生らしい謝り方だった。

「私こそ、すいません。あんなことを言ってしまって」

「いや。鬼殺の剣士であり、蟲が見える者なら誰もが考えるだろう。俺もそうだった」

「先生も?」

「ああ。俺も一時期、蟲を私的に使おうとしたことがあった。それを止めてくれたのは、俺の兄弟弟子だった」

「兄弟弟子……」

「義勇という、俺の兄弟子だ。ぶっきらぼうだけど優しい奴でな。死んだ奴の為にお前は鬼になるつもりか。錆兎がそんなことを望むと思うかってな」

「……いい兄弟子さんですね」

「いや、大ゲンカになった。剣で斬り合ってガチの殺し合いになった」

「えっ」

「今考えると、俺の方が悪いんだけどな……」

 

 若気の至りだなーと先生は笑うが、私は苦笑いしかできなかった。

 

「まあ、昨日の件でお前を叱れる資格なんてないんだけどな」

「そうなんですか?」

「俺の身体にも、いくつか蟲を寄生させている。ムグラと呼ばれる、本来山に棲んでいる蟲だ。こいつがいると、山の精神と身体を接続しやすくなる」

「……それって、山の感覚と同調する、ムグラノリの技術の応用ですよね?辛くないんですか……?」

「辛いよ。けど、もう慣れた。でも、本来この辛さは慣れていいものじゃない。しのぶ。お前は俺みたいになるな」

「…………約束できません」

「おい」

 

 

「だって私、先生の弟子ですもの。もうすぐ三ヵ月ですけど、私はまだまだ先生のお世話になるつもりですから。よろしくお願いしますね」

 

 

 私がそう言うと、先生は呆れたように「ふっ」と笑った。

 

 

「まったく、厄介な弟子を抱えちまったなぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その数日後、ある少女が鬼を殺す毒を完成させる。

 頸を斬れぬ人間でも鬼殺ができる方法。これまで頸を斬ることでしか鬼を殺せなかった鬼殺隊にとって、それは全く新しい革新的な技術だった。

 

 

 新たに鬼を殺せる方法が確立され、体格が恵まれぬ者、呼吸が使えぬ者にとっての大きな希望となった。

 

 

 

 数年後、蝶の髪飾りをつけた美しい少女は、毒に濡れた刃を振るい、鬼を狩り――やがて柱になれる成果を上げた。

 だが少女は柱にはならず、"蟲柱"の継子であり続けたという。

 

 

 

 

 




 蟲師用語図鑑


"虚"


 原典『蟲師原作第四巻』虚繭取り(うろまゆとり)より

 ある地方に湧く蟲。ウロさんとも呼ばれる。
 扉が閉め切られた部屋、蓋を閉められた瓶など密閉空間で生きる蟲。密閉空間の外では生きられない為、戸を開いたりすると驚いて現世に孔をあけて逃げる。
 もし万が一、虚が湧いた部屋の中に人間がいると、逃げようとする虚に巻き込まれ、虚穴に取り込まれると言われている。
 一度虚穴に取り込まれれば、二度と現世に帰ることはできない。

 神隠しを起こす原因はこの蟲だと言われている。



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氷の心、花咲く心

 

 

 

 蝶屋敷、と呼ばれる屋敷がある。

 本来はその屋敷は"花柱"胡蝶カナエの私邸だ。その名の由来は、美しい蝶が飛び回っていたことから名づけられている。

 しかしその屋敷は世間で言う病院のような役割を持っており、怪我を負った隊士が連日、傷を癒しにやってくる。

 医術の知識を持っている女性隊士や隠、そして胡蝶カナエ本人が傷の手当に当たり、それでも手におえない重傷の患者は、"蟲柱"の鹿神ギン、そしてその継子であり、胡蝶カナエの妹である胡蝶しのぶが手術や看病を行うそうだ。

 そして、"花柱"胡蝶カナエの意向により、事情があって行き場を失った少女達が看護師として働きながら暮らしている。鬼に両親や兄弟など身内を殺され、暮らす場所を失った少女や子供の、所謂孤児院のような役目も持っていた。

 また、その屋敷は"蟲柱"鹿神ギンの薦めにより、光脈筋の上に建てられていた。その屋敷は豊かな森に囲まれ、おかげでここで休むと隊士達の傷も不思議と回復が早いと言う評判だ。

 故に、鬼殺隊の隊士の中には蝶屋敷を拠点にし、任務に赴く者も少なくない。

 

 人の命の最前線。任務で鬼を狩り、どんなに辛く苦しい現実と直面して心を腐らせそうになっても、この屋敷に帰ってくると、心と傷を癒してくれる。

 

 胡蝶カナエの優しさで行き渡っているこの屋敷は、鬼殺隊の支えになっている。

 

 そしてまた、蝶屋敷に新しい住人が増えることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………」

「…………………」

 

 人形のような少女だった。

 連れて来た当初はぼろぼろで薄汚れていたが、しのぶが風呂に入れて洗ってあげたらしい。

 顔立ちは美しく、カナエが誂えた着物に髪飾りはよく似合っていたが、どこか虚ろな少女だった。こちらを見ているが、俺を見ていない。この少女の瞳には、俺が映っていない。

 そんな印象を受けさせる少女だった。

 

「また拾ってきたのか」

「すみません……ついかっとなって……」

「なんで薬の材料を買いに行かせたら、子供を買ってくるんだよ」

 

 数日前、蟲下しの在庫が切れそうになっていたから、しのぶに薬代を持たせて街まで買いに行かせたのだ。

 だが、一日で帰ってこれるはずなのに、やってきたのは蝶屋敷から送られてきた鎹烏で、様子を見に来てみれば、土下座するしのぶとあらあらうふふと笑うカナエ、そして人買いに連れられていたという少女がいたのだ。

 なんでも、薬を買う為に街に行ったら偶然カナエとばったり会ってしまい、すれ違った人買いが縄で縛った少女を連れていたため、我慢できずに半ば強引に買って来てしまったとか。

 

「俺が渡した薬代はどうした?」

「すみません……この子を買うのに使ってしまって……」

「全部?」

「はい……あいだっ」

 

 でこぴんしてやった。当面、在庫をしっかり補充しておこうと結構な額を持たせたのに……この弟子はどこか抜けていると言うか、頭に血が上り易い。

 

「あらあら。いいじゃない、ギンくん。カナヲは可愛いんだから」

「名前までもう付けたのか。犬かよ」

「ええ。栗花落カナヲと名付けたわ。可愛いでしょ!」

 

 知らんがな。

 

「まったく……まあ、買っちまったからには追い出す訳にもいかんしなぁ」

 

 ……しのぶは気付いていないか。微かに少女から、蟲の気配がすることに。

 自分の足で立ち上がることができているから、核喰蟲(サネクイムシ)に魂を喰われたという訳ではないだろうが……。あれに喰われるということ自体かなり稀だが、魂を喰われた人間は動くことすらできず廃人になる。

 だが、カナヲはその症状の一歩手前の段階に来ているように見える。よほどひどい環境にいたのだろう、反応がひどく鈍い。周りに興味を示さない。反応しない。

 

「その子、言われないと何もできないんです。食事も、お手洗いも、お風呂も。しなさいと言わないとやらないんです」

「ふむ……恐らく、心の均衡を保つ為に、周りに無反応になっているんだろう。心を閉ざすことで、自分を守るようにしてしまったんだ」

「どうすればいいんですか……?」

「人の心の傷は、怪我や病のように医者には治せない。だが心を傷つけるのが人間なら、癒すのはやっぱり人なんだ。多くの子供と一緒に遊ばせてやれば、いずれ傷は癒える」

 

 俺はカナヲと目線を合わせるようにしゃがみ、頭を撫でてやった。

 カナヲは俺がやっていることの意味が分からないのか、首を傾げている。

 

「…………?」

「今は分からないだろうが、大丈夫だ。ここにお前の敵はいない。飯を食って、笑って、ここにいるこいつらと温もりを分かち合え。そうすれば、すぐにお前の周りは大切な物で溢れる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"カナヲー、御飯よー"

 

 

 

 声が、する。

 

 

 

"カナヲ、そろそろ時間よー"

 

 

 

何も感じないはずなのに、頭の中に声がする。

 

 

 

 

「カナヲ?」

「っ」

 

 目が覚めると、意識がはっきりする。目の前には、女の人が私の顔を心配そうに覗きこんでいた。

 

「どうしたの、ぼーっとして……風邪かしら?」

 

 カナヲは首を横に振った。すると、その人は安心したようにほわほわと笑った。

 

「よかったわぁ。これからご飯なのよ?さっきからカナヲがお腹を空かせているような気がしてね。すぐにご飯を作り始めたんだぁ」

 

 ぐぐぅ。

 

「あらあら。ちょうどカナヲもお腹が空いていたのね。それじゃあ行きましょう?」

「…………」

 

 私は少し悩んで、硬貨を弾いて掌の上に落とした。表が出たから、私は訊いた。

 

「どうして、私のことが分かるの?私、何も感じないのに」

「だって私、お姉ちゃんだもの。なんでも分かるわ!それにね、カナヲの声が聞こえるの。お腹が空いたーとか、眠いなーって。で、その声がする方に歩くとね、カナヲがいるの。いつの間にか私、かくれんぼ名人になっちゃったのね」

 

 私の声。

 何も感じなくなった、私の声が、この人に届いてる。

 

「さあいきましょ!今日はギンくんがいいお魚を持ってきてくれたの。今晩はご馳走よ!」

 

 この人は、いつも私の手を握ってくれる。いつも私を可愛いと言って抱き締めてくれる。

 この人の温度が、掌を通して私の中に流れ込んでくる。

 

 暖かい。

 

 寒くない。

 

 怖くない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生、相談したいことが……」

「ん?どうした?」

「姉さんの所の、カナヲについて。ひょっとしたら、蟲が関わってるんじゃないかと」

「……何かあったのか?」

「はい。私や姉さんが蝶屋敷を離れている時に、声が聞こえるんです。カナヲの声が」

「カナヲの声が聞こえる?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蟲屋敷に、カナエを呼び出した。相変わらず無表情なカナヲを連れて来てもらった。

 

舟少(カイロギ)……?」

「ああ。昔から、人の体内には蟲が棲んでいると言われている」

 

 

 虫の居所が悪い。

 虫が好かない。

 虫酸が走る。

 

 遥か昔から、体の中に蟲がいると人はずっと言っていた。

 

「カイロギはその一種だ」

 

 そして、虫の知らせ。

 

「人と人の間には、見えない通路が通っている。その通路を俺達蟲師は"水脈(みお)"と呼ぶ。そこは水路のような通路で、全ての人間はその水脈で繋がっており、五識を補う妖質が満たされ、流れている。水脈はすべての人間に繋がっており、遠く離れた人間と交わる。時にその水路は人の想いを運び、遠い誰かに伝える。それが虫の知らせとして起きるわけだ。カナヲ」

「……」

「偶に、身体から魂が抜けていく感覚はないか?」

「……」

 

 カナヲは硬貨をぴんと弾いて、掌の上に落とした。そこに出たのは、表。

 

「ある」

「…………」

「姉さん、やっぱり硬貨で決めるのはよくないと……」

「あ、あはは~……」

 

 俺もしのぶに同感だった。まあ、カナヲも気に入ってるようだし、悪くはないのか……?

 

「しのぶの話とカナヲの状態を見るに、カイロギはかなり浸食しているようだな」

「ギンくん、なんなの?そのカイロギって言う蟲」

「カイロギは妖質が豊かな人間に寄生する蟲だ。魂の裏側、意識の底に棲み、宿主と同調して自由に水脈を泳ぎ回る。そして宿主が望む人間に、想いを届けることができると言われている。カナエやしのぶが聞いたカナヲの声ってのは、カナヲの想いだ」

 

 ―――私の、想い?

 

「カナヲ~~~~~!」

 

 すると、感極まったのかカナエが嬉しそうにカナヲを抱き締めた。カナヲはどこか戸惑いの表情を浮かべながら、カナエに撫で続けられた。

 

「嬉しいわカナヲ!私に心を開いてくれてたのね!お姉ちゃん嬉しい!」

「つまり、その声が聞こえたしのぶにも、見方を変えれば心を開いてるってことだな」

「…………」

「嬉しそうだな、しのぶ」

「う、嬉しくなんかありませんっ!ただちょっと、びっくりしただけと言うか……!」

 

 確かに、今まで心を閉ざしていたカナヲが、しのぶとカナエに声を伝えたと言うことは心を許している証拠でもある。蟲の力とはいえ、ここでの生活はカナヲにとっていい影響を与えているのが分かる。

 

「カナヲは心を閉ざしている。本来、口から言葉として発せられるカナヲの本来の声を、カイロギが拾っちまってるのかもしれねえな。だが、声が聞こえるとなると、カナヲに寄生するカイロギはかなりの数になっているだろう。今のうちに薬で数を調整する必要がある」

 

 懐から薬を3人分取り出した。

 

「これを呑んでおけ、カナエ、カナヲ。そしてしのぶも」

「え、カナヲはともかく、私としのぶも呑まなくちゃいけないの?」

「カイロギは水脈を通して相手にも寄生する。お前の中にもカイロギがいるはずだ」

「えー……でもせっかくカナヲと心が通じたのに、呑まなきゃいけないの?」

「ああ。手遅れになる前に、呑んでおいた方がいい」

「でもそんなに重く考えなくていいと思うわ。だって、私としのぶはカナヲと心で繋がってるってことじゃない。ねー、カナヲ」

 

 ナデナデとカナヲを撫でながらやんわりと俺の薬を拒否する。こいつはまったく……。

 

「姉さん!この蟲はそんな単純なことじゃないんだってば!このまま寄生させたら、姉さんとカナヲの魂が流されて一生そのままになっちゃうかもしれないのよ!」

 

 カイロギは、確かに人を直ちに死に至らしめる様な力はない。見方を変えれば、思えば人に考えを伝えることができると言う一種の超能力だ。未来の言い方に変えればテレパシーとでもいうべきだろう。

 だがしのぶが言った通り、カイロギを無暗に使い続けると宿主の意識を乗せたまま、自由に動き回るようになる。

 

「あらら、それは怖いわ……、ギンくん、本当?」

「ああ。カイロギを使い続ければ、いずれ意識をもってかれ廃人になる。水脈に流された魂は、その身体に二度と戻れない」

「そんな……ねえギンくん、なんとかならないの?」

「姉さん、我儘言わないで。これは私達の為なんだから。このまま放っておけば、私も姉さんもカナヲも、魂を蟲に持って行かれちゃうんだから」

「じゃあ、カナヲに聞いてみましょう!」

「姉さん!」

 

 ほわほわと笑うカナエに、しのぶが怒鳴り声を上げる。こっちの心配など、まるで意に介してない。カナエのこういう所が俺は苦手だった。超絶マイペースで自分の気持ちを優先して動く。自分がやりたい、他の人にとっていいと思ったことを優先する。こっちの理屈や正しさなどを無視して。そう言った天然な所がおそらく他の男達を惹きつけてやまないのだろうが、俺は苦手。

 

「ねー、カナヲ。カナヲも、私達とずっと一緒にいた方がいいよねー?」

 

 小さい子供に尋ねるように、にっこにことカナヲの顔を覗きこむでっかい子供(カナエ)

 答えるわけないだろう、と俺は心のどこかで思っていたのかもしれない。心に傷を負って、硬貨でしか物事の良し悪しを決められない少女が――

 

「うん」

 

 ……返事をした?硬貨も使わずに……?

 

「カナヲ――――!!やっぱりカナヲは可愛いわ~~~~~!」

 

 カナエはそう言ってカナヲに飛びついた。その姿はまるで本当の妹を可愛がる姉のようだった。いや、ぺろぺろと主人をなめまわす犬に見えなくもない。

 それにしても―――

 

「今の、カイロギが俺達に伝えたんじゃないよな?カナヲが口で、自分で言ったのか?」

「は、はい……今確かに、自分の言葉で……」

「驚いたな……これも蟲の力か?心を閉ざしたカナヲの傷を癒したのか?」

 

 こんな症例、初めてだ。人間は、人の魂や心を治す術は未だ持っていない。人の心は複雑怪奇で、ガラス細工のように脆いからだ。

 だが、蟲ならあるいは―――人の心を癒すことができるとでも言うのだろうか。

 

「ね、ギンくん。この蟲はギンくんの言う通りきっと危険なモノなんだと思う。けれど、きっと今のカナヲには必要な蟲だわ。ね、その蟲を完全に殺さずに済む方法はないかしら?」

 

 ね、お願い!と上目遣いでカナエは俺の顔を見上げる。

 俺はこれが苦手だった。俺だって男だ。美人にここまでお願いされて断れるほど、俺は枯れてはいない。

 

「姉さん!距離が近いっ」

「あらあら、しのぶったら。怒った顔は可愛くないわ。それにしても、ギンくんの継子になってすっかりギンくんに懐いちゃって。お姉ちゃん、悲しいなぁ。昔はずっと私の後ろにとてとてと付いてくるような子だったのに。最近はいつもいつも、ギンくんのお話ばかり」

「懐いてなんていないってば!ただ先生として尊敬してるだけなんだからっ」

「仕方ねえなぁ」

「先生まで!姉さんに言ってやってください!」 

「ま、落ち着け。俺に懐いてるしのぶ」

「懐いてませんってばー!」

 

 どうどう、としのぶを落ち着かせる。しのぶは納得がいかなそうだが、俺は話を続けた。

 

「確かに、カナヲの心の傷が癒え、しっかりと意思疎通ができるまでカイロギを寄生させておくのは俺もいいと思う。現に、この蟲は今のカナヲにいい影響を与えているようだ」

「それじゃあ……!」

「が、調整は必要だ。この薬を使えば、一時的にカイロギが棲む妖質を枯らすことができる。そうすればカイロギも数が少なくなるだろう。本来はカイロギが全て死ぬまで妖質を枯らし続ける必要があるんだが、今のカナヲにカイロギは必要だ」

「さすがギンくん!嬉しいわぁ!」

「どぉわっ!抱き着くなぁ!」

「姉さんってば!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――冬。

 

 

 

「じゃあカナヲ。私は任務に出かけてくるからね。何かあったら、しのぶかギンくんを頼るといいわ。今日は二人に蝶屋敷でけがの治療をお願いしているからね。雪だから、風邪をひかないように暖かくして寝なさい」

「はい」

「うふふ。もう硬貨がなくても返事ができるようになったね。それじゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい、師範」

 

 寒い日だった。空は灰色の曇り空で、そこから雪が降ってきた。

 

 あれから、一月に一度、ギンさんに頂いたお薬を飲むようにしている。とても苦いけど、私はどこかそれが嬉しい。

 師範としのぶさんと、繋がっていられることを許されたお薬。

 

 まだどうでもいいことの方がたくさん多いけど、どうでもよくない、大切なことがたくさん増えた。 

 もっともっと、たくさん、大切なことを増やしたい。

 ここにずっと、姉さん達と一緒に―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――助けて―――誰か―――鬼が―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 慌ただしい足音と共に、診察室の扉が開かれた。現れたのは息を切らしたカナヲだった。

 

 

「ん?どうしたカナヲ。今診察中だぞ――」

「姉さんがっ、死んじゃう」

「―――落ち着け、どうした」

「姉さんが、隣町で、鬼に襲われてる!このままじゃ、殺されちゃうっ!ギンさん、助けてっ」

「……カナエを追い詰めるほどの鬼か。よし分かった。今すぐ行こう。案内しろ、カナヲ」

 

 

「待て」

 

 

 診察台に寝転がっていた男が起き上がる。

 

 

「俺も行く」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「可哀そうに可哀そうに可哀そうに」

 

 

 ――冷たい

 

 

「頑張ったんだね、よく頑張ったよ」

 

 

 ――冷たい

 

 

「でも大丈夫」

 

 

 ――苦しい

 

 

「これからは俺の一部として、永遠に生きることになるんだから」

 

 

 ――息が白い

 

 

「ずっと一緒だ。君は救われるんだ!」

 

 

 ――指先の感覚がもうない

 

 

「だから安心して眠りなさい」

 

 

 ――助けて

 

 

 

 ――誰か助けて……!

 

 

 

 

 

 

 

 

"森の呼吸 壱ノ型 森羅万象"

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――あ……暖かい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼がカナエを掴もうとした所を、寸前で間に合った。鬼の腕を斬り飛ばし、カナエを抱きかかえ急いで離れた。

 カナエは一目で重傷だとわかるほどボロボロだった。……ひどい。低体温症になりかけている。体のあちこちも凍って、凍傷になりつつある。

 

「ギ……ん、く……」

「話すな、カナエ。肺をやられてる。喋ると辛いぞ」

 

 

「おっと。また新しい鬼狩りかな?しかもその気配、相当強い!多分柱だよね。嬉しいなぁ、二人も柱を殺せるなんて!それにしてもひどいなぁ。腕を斬り飛ばすなんて。でも残念。もう治っちゃったけどね」

「…………」

「無視するなんてひどいなぁ。その娘は俺が救わなきゃいけないんだ。早く返してもらわないと……ねっ!」

 

 

"血鬼術 冬ざれ氷柱"

 

 

 夜の空に巨大なつららが生成され、それはまるで弾丸のように意思を持って俺の方へ飛んでくる。

 しかも速い。普通の隊士だったら串刺しにされて終わりだろう。

 だが――

 

 

"水の呼吸 壱ノ型 水面斬り"

 

 

「あれれ、柱がもう一人?」

 

 

 そのつららは一瞬のうちに両断され、俺とカナエを避けるようにして地面に突き刺さった。

 

 

「遅くなった、ギン」

「遅いぞ、義勇。もっと速く走れよ」

「俺は遅くない」

 

 

 現れたのは、錆兎の羽織を取り入れた半々羽織の男。

 水の呼吸を極めた。俺の兄弟子であり、親友でもある。

 

"水柱"冨岡義勇。

 

 義勇は今日の昼頃、鬼殺の任務の帰りに蝶屋敷に寄ってきたのだ。「話がある」と相変わらずぶっきら棒に言ってきたが、普段の鉄仮面が二割増に見えるほど神妙な顔つきだったのが印象的だった。

 些細な世間話をするためにわざわざ蝶屋敷に立ち寄ったのではなく、俺に相談したいことがあったらしい。立ち話もなんだと思い、診察室に連れて聞いてみると、妹を鬼にされた兄を鱗滝さんの所に送ったとかかなりとんでもなく面倒そうな案件を聞かされた……まあそれはともかく。

 カナエにとっての幸運は、そして鬼にとっての不運は、"水柱"と"蟲柱"二人が、蝶屋敷に留まっていたことだ。義勇とは今まで一緒に修行をし、そして任務をした仲だ。連携なら柱の誰にも負けない。これほど頼りになる相棒はいない。

 

 

「――師範!」

 

 

 そして、遅れてカナヲが到着する。カナエの状態を見て短く悲鳴を上げたが、自分がやることをすぐに理解したのか、すぐに引き締まった表情になる。さすが、カナエに鍛えられているだけのことはある。

 

「カナヲ。カナエを連れて退避しろ。殿は俺達がやる」

「……はいっ」

 

 抱きかかえていたカナエを、弟子であるカナヲに預けて走らせる。カナヲが去った所をしっかりと確認して、俺は改めて鬼と向かい合った。

 

「おいおい、逃がしちゃうのかい?せっかく俺が救ける所だったのに」

「お前相手に、胡蝶カナエはもったいない。俺達で十分だ」

「あっはっは、余裕だねぇ」

 

 ―――余裕なもんか。

 

「相変わらず、気楽で羨ましい。上弦の前だと言うのに」

 

 そう。俺達の前にいる鬼は、十二鬼月だった。

 しかも、上弦だ。目に刻まれたのは上弦、そして弐という数字。鬼舞辻の配下である無数の鬼達の中で、特別に強い十二体の鬼の内の一人。そして、上から二番目の鬼。

 

 

「そう言うな。俺達が揃って、こんな鬼に負けるわけないだろう?」

「――ああ」

「相手は上弦の弐。おそらく氷の血鬼術を使う鬼だ。カナエの肺が凍らされていた。不用意に息を吸うな」

「了解した」

 

 いつでも攻撃を仕掛けられるように、『悪鬼滅殺』の文字が彫られた刀を抜き、構える。

 気を抜くとすぐに殺されそうな、圧倒的な力を持つ鬼だということは分かる。相対しているだけで手に汗が滲む。気を許すと直ぐにでも闘う気力を持って行かれそうだ。

 鼻がそこまで良くない俺や義勇でも、その鬼から圧倒的な死臭が漂っていることが分かる。たった一体の鬼が、今まで何千人という人間を喰ったのか。

 

 

「俺の名は童磨。お察しの通り、十二鬼月をやらせてもらってるよ。それで、君達の名前は何かな?せっかくだから仲良くなりたいなぁ!」

「「答える義理はない」」

「そっかぁ……残念だなぁ。でも俺、男は興味ないんだよねぇ。そうだなぁ、さっさと殺して、さっきの娘を助けにいかなきゃっ」

 

 

"血鬼術 蔓蓮華"

 

 

 氷の蔦が、触れればあっと言う間に凍らされる極寒の氷がこっちに伸びてくる。

 だが、そんな物は水柱には通じない。

 

 

「退け」

 

 

"全集中・水の呼吸 拾壱ノ型 凪"

 

 

「あれれ、俺の血鬼術が……消えた?」

 

 

"森の呼吸 参ノ型 青時雨"

 

 

 義勇が編み出した拾壱ノ型で、敵の血鬼術が消えた瞬間を見計らって、上弦の背後に回った。

 

「わぁ、すっごい速さだ!」

 

 だが、鬼の頸に走らせた刀は奴の扇で阻まれてしまう。完全に死角に入ったのに、なんで今のを防げるんだよ!

 

 

「ちっ。さすがに簡単に獲らせてくれねえか。義勇!」

「ああ」

 

 

"森の呼吸 弐ノ型 剣戟森森"

 

"水の呼吸 捌ノ型 滝壷"

 

 

 居合を防がれた俺はすぐさま、十連続の高速の突きを繰り出す。

 そして義勇は俺の攻撃を捌いている鬼の背後から、頸を獲る。

 

 

「本当にすごい!こんなに息の合った攻撃は初めてだよっ。俺も負けてられないなっ」

 

 

"血鬼術 散り蓮華"

 

 

 童磨と名乗った鬼が扇子を振るった瞬間、細かい氷の破片が爆風のように俺と義勇を襲った。

 視界を覆うほどの氷の波のせいで、呼吸で繰り出した攻撃を無理やり止められてしまう。

 

 氷の破片は俺達の皮膚を薄く切り刻む。

 頸動脈に当たらなければ問題ない。だが、傷口から漏れ出た血が、奴の血鬼術ですぐに凍ってしまう。

 

 俺達はたまらず、鬼から離れた。

 

 

「あれ。もう終わりかな?もう諦めちゃったのかな?」

 

 

 心底楽しそうに嗤う童磨。これが上弦の弐か。強い……さすが、最強の鬼の一角だ。

 

「……さすがに、二人掛かりでも厳しいか」

 

 柱二人掛かりでも頸を斬るのは難しい。今の季節が冬で、辺りに雪が積もっているのも奴の味方をしている。

 戦いが長引くとこっちが死ぬな。

 

 

「ああ、今のままでは」

「そうだな。今のままだと駄目だ。義勇、これを呑め」

 

 義勇に光酒が入った水筒を投げ渡す。念のために用意しておいてよかった。

 義勇が口をつけ、一気にそれを呑み乾したのをみて、自分も用意しておいた光酒を一気に飲み干し、その辺に投げ捨てた。

 

「あれ。その匂い……」

 

 長期戦は圧倒的不利。やるならば、一瞬で決着をつけなければならない。

 ならば、畳みかけるまで。

 俺達にできる最速の技を、全力の技を叩きこむ。

 もう二度と、何も失わない。錆兎のように死なせない。

 俺達は強い。

 絶対に、負けない。

 

 

 ――辺りは雪が積もりつつある。音を吸い取る雪は、街に静寂をもたらしていた。

 

 

 シィィィィィィィィィィィィ

 

 

 静寂の中に響き渡る、二つの呼吸音。もっと吸え。体温を高くしろ。後のことは考えるな。今こいつを殺すことだけを考えろ。

 

 

 

 

「……何、その痣」

 

 

 

 

「行くぞ、義勇」

「ああ」

「俺達は、もう二度と奪われない」

 

 

 

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"水の呼吸 漆ノ型"

 

 

"森の呼吸 伍ノ型"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっ、速っ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"雫波紋突き"

 

 

"陰森凄幽"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上弦の弐と、蟲柱と水柱の戦いは、後に隊士達の間で伝説となって語り継がれていくことになる。

 

 

 

 

「カァー!カァー!上弦ノ弐、討伐!上弦ノ弐、討伐ゥ!冨岡義勇、鹿神ギンノ手ニヨッテ討伐ゥ!冨岡義勇、負傷!鹿神ギン、負傷ォー!付近ノ隊員ハ直チニ、2名ヲ救助セヨォー!カァー!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさいね、ギンくん。おかげで助かったわ」

 

 三ヶ月後。カナエが意識不明の重体から目を覚ましたとの知らせを受け、俺は蝶屋敷へ訪れた。

 氷を扱う童磨の血鬼術は強力で、カナエは肺の4分の1を壊死させられた。しのぶの神業とも呼べる処置がなければ、命を落としていただろう。

 しのぶ曰く、「先生に教わった知識が無ければ姉の命を救うことができませんでした」とのこと。唯一の肉親を救うことができたしのぶは、病室で大泣きしていたそうだ。

 

「しのぶもカナヲも、泣かせちゃったわ」

「ああ。俺と義勇、しのぶとカナヲが蝶屋敷にいなかったら、間違いなくあいつに殺されてた。特に、今回の功労者はカナヲだな。あいつがカイロギでお前と繋がっていなかったら、助けることすらもできなかった。これに懲りたら、鬼に不用意に近付くんじゃないぞ」

「……友達に、なれると思ったの。親しげな笑みを浮かべてきた彼と、今度こそって……でも、すぐに危険だと分かって、その時には私の肺がやられて、手遅れだった。もうこれじゃあ、剣士として戦うのは無理ね」

 

 呼吸法は、鬼殺の基礎であり、要だ。肺をやられてしまったカナエは、今後前線で戦うことは難しい。柱も引退すると、耀哉に報告したそうだ。

 

「無理するな。最近、杏寿郎の継子が柱と同じ戦果を挙げたんだ。花柱の後釜はそいつがやることになるだろう。お前が引退しても、お前の代わりに戦ってくれる奴はすぐに出て来てくれる」

「……それでも……私は悔しいし、申し訳ないわ……あなたと義勇くんに、顔が立たない……」

 

 義勇はあの戦いで脇腹を氷で貫かれた。

 俺は足の指を何本か凍傷で落とさねばならなかった。

 だが、それほどの代価を払わなければ上弦の弐は倒せなかったし、逆に言えばそれだけの被害で上弦の弐を討伐できたのは快挙だ。耀哉も泣いて喜んでいた。

 音柱や炎柱など、他の柱の連中も俺達の戦果を讃えてくれた。普段柱の連中とうまく言葉を交わせない義勇も、褒められて戸惑っていたのが印象的だ。

 

「気にすんな、もう傷も治った……って言っても、お前は気にするだろうがな。ま、今回はお前の抜かりがでかい。今後の教訓と思って、不用意に鬼に近付くな。奴らは確かに意思を持ち、生きている。が、理から外れちまった生物だ。仲良く手を取り合うことは難しい」

 

 俺がそう言うと、カナエは視線を落とした。

 

「やっぱり、夢なのかしら。鬼と人が手を繋いで生きていく未来は――ないのかしら?」

「…………いや」

「え?」

「均衡は変わりつつある。千年続いた鬼との戦いも、終わりに近づいてきてる。お前の言う未来も、そのうちやってくるかもしれない」

「――どういうこと?」

 

 カナエは首を傾げた。

 

「今はまだ話せないが、その内俺の弟弟子が鬼殺隊に入隊する。そいつらは今を変えてくれる力を持っているんだ……」

「?」

「っと、話し過ぎちまったな。なに、すぐに分かる。それより、お前は今後どうするんだ?」

「そうね……せっかくだから、医術を学ぼうかしら。しのぶを見習ってね」

「お、じゃあ俺の弟子になるか?」

「いやでーす。なるならしのぶの弟子になりまーす」

「なんだとこの野郎」

「うふふ。冗談よ。それに、カナヲが私の代わりに花柱になりたいって言ってくれたの。私はあの子を育てながら、ここで看護師をするわ。もう戦えないけれど、私も皆を支えたい。せっかく義勇くんとギンくんに拾われた命、私も一緒に支えさせて」

 

 カナエはそう言ってほほ笑んだ。

 

 

 

「……もうすぐ、春ね」

 

 

 

 カナエが窓の外へ視線を向ける。そこには、つぼみを付けた桜が、春が来るのを今か今かと待ちわびているのが見えた。

 

 

 

 

 




 蟲師用語図鑑


"舟少"

 原典『蟲師原作第八巻』隠り江(こもりえ)より


 カイロギと呼ばれる蟲。
 人と人の間には、見えない通路で繋がっており、それを"水脈"(みお)と呼ぶ。
 水脈は水路のような物で、五識を補う妖質が流れている。
 カイロギはその妖質が流れる水脈を泳ぐ蟲であり、妖質が豊かな人間に寄生する。
 寄生すると、宿主の望む相手に自分の心の声を届けたり、遠い誰かと会話することが可能になる。
 放っておくと宿主の魂を乗せて自由に泳ぎ回る。やがてその魂を連れたまま、カイロギは宿主の肉体へ二度と戻らず、廃人同然になると言われている。

 対処するには妖質を枯らす薬を取ることが必要。


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忘れた言葉

 それは、鹿神ギンが蟲柱に就任してから二年後のこと。

 鹿神ギンが、胡蝶しのぶを弟子として迎える、一年ほど前のこと。

 

 

 

 

 いつものように各地を旅していたギンは、ある漁村を訪れた。

 透き通るような美しい海と、静かな波の音が響く、のどかな村だった。

 村の人達は皆優しく、よそ者のギンを暖かく迎えてくれた。魚や貝を獲っては、近くの街に卸しているらしい。この村では高級魚である鯛がよく獲れるらしく、美味いと評判があり、高級な料亭によく卸しているそうだ。その評判に偽りはなく、ギンもご馳走してもらった。

 

 

「ん?」

 

 

 異変に気付いたのは、ギンがその村から鬼狩りの任務の為に出立する日だった。

 この地を離れる前に、見納めとしてこの綺麗な海を眺めようと思い、砂浜に訪れた時だった。

 

 静かに砂浜を洗う波の音に混じって、微かに鳥の群れが鳴く声がする。

 けれど、どこから――。

 

 ふと足元で何かを爪先で蹴る感触。

 

 見てみると、そこには貝殻が落ちていた。

 

「こいつは……」

 

 拾い上げて見てみると、掌より小さい貝殻の中の空洞に。

 

 小さな小鳥がじっと潜んでいた。

 

 

 

 

 

 

「ちょいといいかな」

「……はい?」

 

 朝と言うこともあり、村民のほとんどは漁に出ていた。あることを伝える為に村中を歩き回っていたギンは、砂浜に小柄な少女がいたのを見つけた。

 身体は小さく、年の頃は七、八頃の少女だった。この村に数日の間滞在していたギンは、その少女と深く言葉を交わさなかったが、見覚えがあった。確かこの村の出身ではなく、孤児だったと誰かが言っていたか。言葉少なく、時折何かを後悔するかのように思い詰める少女の顔が、やけに印象的だったのを覚えている。村長の話によると、孤児として流れてきた少女を、海女の女性が拾ったんだったか。

 その年で一体どんな悲劇に遭ったか、村の子供達のようにはしゃぐわけでもなく、言葉もどこかたどたどしい。何かを話すこと自体に、恐れを抱いているようだった。

 

「この近くの海に凶兆が出てるから、伝えておく。大人達が漁から戻って来たら、伝えておいて欲しい」

「……きょう、ちょう?」

 

 少女は首を傾げる。

 

「ああ。不吉なことが起こるかも知れない、という意味だ。凶兆と言っても何が起こるかは分からないが、確実に何らかの厄災が近いうちにこの海に訪れる。村中に備えを呼びかけて置いて欲しい」

「……どん、なの?」

「赤潮が発生するかもしれん。嵐が来るかもしれん。それは分からないが、用心するように大人達に伝えておいてくれ」

「……鬼が、出るの?」

 

 怯えた様な少女の言葉に、ギンは眼を見開く。

 

「お前さん、鬼を知っているのか」

「うん……私が生まれた、場所にも……鬼が、来て……」

「……気の毒に」

 

 その言葉だけで十分、この少女の身に何が起きたか察した。親兄弟か、それとも友人か。殺されてしまったのだろうと理解する。

 ギンは懐から香り袋を取り出し、少女の手の平にそっと持たせた。

 

「こいつを渡しておく」

「これ、は?」

「藤の花の香り袋だ。それを持っておけば、鬼に襲われない。近いうちに、藤の花の香も調達してここに届けよう」

「いい、の?」

「ああ。美味い飯と宿を用意してくれた礼だ。村長達にも礼を言っておいてくれ。俺は用事があってもう村を離れなきゃならないが、数日以内に戻ってくる。だから安心しろ」

「……」

 

 少女は何かを思い出すように、その香り袋を大切に抱きかかえた。幸せな記憶なのか、それとも辛い記憶なのかは分からない。だが、少女はそれを噛み締めるようにぎゅっと大切に握った。

 

「ありが、とう」

「何、礼を言うのはこちらの方だ。じゃ――ああ、そうそう」

 

 歩き出そうとしたギンだが、何かを思い出したかのように少女の方へ振り返る。

 

「ど、したの?」

「これは個人的な忠告だが、近くの砂浜の貝殻には気を付けろ」

「貝、殻に?」

「ああ。数が増えたら気を付けろ。凶兆が迫っている印だ」

「分か、った」

「また数日後ここに来る。息災でな」

 

 ギンは今度こそ言い残すことはないと言わんばかりに、その場から去って行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンが去った後、少女は大人達にその凶兆を伝えた。『蟲師』と名乗っていたあの人が、この海で凶兆があったから備えて欲しいと。

 上手く言葉を喋れないなりに、少女は必死に言葉を工夫し、大人達に伝えた。

 

「凶兆ねぇ……だが、海は特に異常もないし、近くで誰かが死んだと言う話も聞かない」

「だが、あの先生がでたらめなことを言うかね?」

「そうだなぁ。うちのかみさんの足の痛みも取ってくれるほどの名医だしなぁ」

「ああ。うちの坊主の病気も治してくれたんだ。どれだけ薬を飲ませても治らなかった坊主の喉の病気を、あの人はすぐに治したんだ!俺はあの先生が、嘘を吐くとは思えんね」

「村長、どう思う?」

「あの方は"蟲師"。我らとは違う理を見据える方じゃ」

 

 村長は、この村で一番の年長者だった。ずっと昔からこの漁村で暮らし、海で漁を続けてきた海の男。

 齢七十を超えた現在も、現役の漁師である。

 

「儂の祖先は、蟲師に村を助けられたと曾爺さんから聞かされた。その時も凶兆があると、村人達に忠告して回り、その数日後――大きな地震と津波がこの村を襲ったと訊く」

 

 遥か昔――この土地に一人の蟲師が訪れた。その蟲師はこの土地に現れた凶兆を、村民たちに伝えたと言う。その後、村を飲み込む大津波が起こったが、蟲師の忠告によって多くの者が助かり、今の村と生活がある。

 

「とにかく、十分に備えよ。幸い、鹿神殿は数日後にまた来てくださる。それまで、この村の女子供を守るのは儂ら男衆の仕事じゃ。気を引き締めよ」

 

 津波、高潮、大嵐――

 

 海と共に生きるこの漁村の者達は、海に生かされ、海の気まぐれで命は軽々と吹き飛ばされてしまうことを、身に染みるように良く知っていた。

 海を決して侮らず、尊重し、そして警戒をしてきた。

 食料を蓄え、災害に備えて夜は見張りを立てておくことを決めた村の住民達は、蟲師が再び訪れるまで自分達で守ろうと誓うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だがしかし、理不尽はいつだって、どんなに備えていても嘲笑うかのように命を奪っていく。

 

 

 その理不尽の名は、"自然"と言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四日後。

 

 任務を終えたギンは、再び村に訪れた。

 

 村長に会う前に、浜辺を訪れたギンだが――

 

 

「―――いない」

 

 

 浜辺のどこを探しても、凶兆の印である貝は浜辺のどこにもいなかった。

 もうすでに凶兆は去った後なのか?

 念入りに探してみたが、それでも見つからない。数日前までここに蔓延っていたはずなのに。

 

 

「ん?」

 

 

 ふと視線を向けると、浜辺に座って海を呆然と眺めている少女がいた。

 あの時、この村を出る時に自分を見送った少女だった。

 

「よぉ。大丈夫だったか?」

 

 声をかけると、ようやくギンの存在に気付いたのか少女は顔を上げた。

  

「―――」

「ん?」

 

 少女は口をぱくぱくと動かすが、どうしてか何も喋らない。

 声を出そうと必死に、もがいているようにギンには見えた。

 

「声が出せないのか?」

「!」

 

 ギンが確認するようにそう尋ねると、少女はこくこくと頷いた。

 まるで、今まで伝えたくても伝えられなかったことに、気付いてくれたことを、感謝しているようだった。

 

「お前さん、ひょっとしてここに落ちていた貝殻に耳を当てたのか?」

 

 ―――どうして分かったの?

 

 そう言いたげに少女は首を傾げた。

 それを見たギンは、少女が声を喪った原因をすぐに察した。

 

「―――貝の唄を、聴いちまったのか」

 

 浜辺の貝には気を付けろと言ったのに。ギンはそう静かに呆れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その人は不思議な人だった。

 村長のおじいちゃんの話曰く、"蟲"という不思議なモノを見ることができる人らしい。

 白い髪に、緑の眼をした、不思議な男の人。

 いろんな薬を創る、薬師の先生みたいだった。

 その人は村で病気や身体の痛みに悩まされた人達を次々に治していった。

 

 最初、その人離れした姿は恐ろしかったけど、その人はすぐに優しい人だと気付いた。

 

 その人は私や他の人が多くの言葉を伝えなくても、全てを見通すかのように察してくれて。

 私の言葉の拙さをすぐに察してくれた。

 まるで、見えない糸で心が通じてるような人だった。何もかも受け入れてくれる森を思わせる人だった。

 

 無償の優しさ――困っている人を見捨てない、対価を求めないその人は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの優しくて泣き虫な、お坊さんのことを思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「鱶の大群*1が?」

「ええ。二日前、鱶の大群が沖を泳いでいたのです。その時、偶然漁をしていた村の者が何人か――」

 

 村長は悔しそうに言葉を沈めた。村の住人が何人か、その鱶に喰われてしまったらしい。

 透明で美しかった海は、鱶に喰われた人間の血で、真っ赤に染まったと。

 

「……すまなかった。俺が村に残っていれば、何かできたかもしれんのに」

 

 ギンはそう言って頭を下げた。

 

「いや。あなたに非はない。警戒はしていた。ぬかりはなかった。じゃが、仕方がなかった。海は気まぐれに我らに牙を剥く。儂ら人間がいくら知恵を絞ろうとも、簡単に食い千切られよう。それよりも、鹿神殿のおかげで犠牲が数人で済んだ。"凶兆"のことを伝えてくれなければ、多くの者が鱶に喰われたかもしれん」

 

 ギンの忠告に従い、村長は漁に出る村人達に銛や網などを小舟に常備させていた。おかげですぐに、襲ってきた鱶達に対応できたと言う。

 

「それよりも、この娘のことです」

 

 村長はそう言って、ギンが浜辺で会った少女をちらりと見た。

 少女は村長の隣で静かに膝を着いて座っていた。その表情は、どこか暗い。

 

「鹿神殿が去った後すぐに、声を出せなくなったのです」

 

 ――鱶に襲われて死んだ海女の中に、少女を育てていた老婆がいた。村長と同じく、海女として何年もここで暮らしていた婆さんで、孤児として流れてきた少女を拾い、数年間育ててきた親代わりだった。

 だが少女は声を出せなくなり、その原因が分からぬ時に、鱶が大量に襲ってきた。

 

 鱶の出現によって、村では漁をしばらくすることができず、出稼ぎをするために若者はしばらく村を離れると村長は言った。

 

「凶兆は既に去っている。もう漁をしても大丈夫だが……」

「いえ。大量の鱶が近海の魚を多く喰ってしまったのです。今朝も網漁を行いましたが、ほとんど魚が取れませんでした。蓄えは備えていますが、このままでは冬を越せないのです」

 

 鱶が襲うのは、人間だけではない。沖を泳ぐ魚の群れも、捕食対象になってしまう。この沖に棲む魚達のほとんどが、食い荒らされてしまったのだ。

 

「この娘を育てていた海女も死に、他の者も自分達の生活に手一杯で面倒を見ることが難しい。できれば儂が引き取りたいが、儂も年。いつぽっくり逝くか分からぬ。この娘にひもじい想いをさせてしまうやもしれぬ。その前に、この娘の意志を聞きたいのです。これから先どうしたいか。鹿神殿、この娘の声を取り戻す術はあるのだろうか?」

 

 ――大正時代。

 

 教育の制度が整ってきたとはいえ、こういった辺境の漁村や村ではまだ識字率も高くない。文字を読むことができる者は学校がある街の住民ばかりで、漁が中心のこの村では、文字をまともに書ける者は多くはなかった。

 

 少女が文字を知っているなら、声を出せずとも意思疎通はできたはずだが、少女は生まれた時から孤児で、文字など知らないのが当然ではあった。

 

「――この娘は、"貝の唄"を聴いてしまったんです」

「貝の唄?」

「ええ。唄と言えど、唄っているのは貝殻の中に棲む蟲でしてね。"サエズリガイ"と言います」

 

"サエズリガイ"。

 普段は海上を飛び回り、藻屑なんかを喰う小さな蟲。

 手の平ぐらいの大きさの、小さな小鳥のような姿をした蟲だ。

 

「その蟲は海で異変を察すると浜へ上がり、貝の殻に閉じこもって災いが去るのを待つんです。そして小さな声で鳴き続け、仲間を陸へ呼ぶ。その鳴き声を耳の間近で聴いてしまうと、人は声の出し方を忘れてしまう。それが、この娘が声を出せない原因です」

「海の異変――ということは」

「ええ。蟲師にとってこのサエズリガイが、海の凶兆の印なんです。つい先週まで、この村の近くの浜辺に大量のサエズリガイが棲んだ貝が落ちていた。この娘は、サエズリガイが仲間を呼ぶ声を聞いてしまったんでしょう」

「では、これは蟲の仕業だと言うのならば、声を取り戻すのは――」

「いえ、大丈夫です。この唄を聴いても、人は声を出せなくなるのではなく出し方を忘れてしまうだけだ。人の声を毎日聞いていれば、直に思い出す。それまで何日かかるか分からないが」

 

 ギンがそう言うと、少女はほっとしたように胸を撫で下ろした。ギンが来るまで、ずっと声を出せずに不安だったのだろう。一生自分は声を出せないままなのかと、夜も眠れなかったのだろう。唯一の親代わりも鱶に喰われ、泣き叫ぶこともできなかったその悲しみは、ギンには測ることはできなかった。

 

「この村の住民は数が少ない。声を取り戻すには、人の声を、なるべく大勢の声を毎日聞かせるべきです。人が大勢住んでいる町で暮らすべきだが……近くの町に、頼れる人は?」

 

 ギンがそう尋ねると、少女は静かに首を振った。

 村長も顔をしかめるばかりだった。

 

 この漁村は、ギンが国中を周って見てきた中でも、一等豊かな漁村だった。だが豊かだったとは言っても、それは海の恵みによる恩恵が大きかったからだ。だがそれが鱶の大群のせいで奪われてしまった。人口が元々少ないこの漁村は、昔から軍の徴兵や出稼ぎの為に若者が都会に出たきり、帰ってこない。そのせいで人は減り続ける一方だった。

 少女がこの先、暮らしていける方法や伝手がない。

 まだ十歳にも満たない少女。声もサエズリガイによって忘れてしまった。このままでは人買に売られてしまうかもしれない。最悪、空腹で野たれ死ぬ可能性だってある。

 産屋敷の力や藤の家の家紋を掲げている家に頼るという方法もあるが、原則的に鬼の被害に遭った人や、鬼狩りの親族しかその恩恵は与えられないことになっている。

 

 村長はどうしたものかうんうんと悩み、少女はこれから自分がどうなるのか不安そうに、悲しそうに顔を俯かせていた。

 孤児としてこの村に流れ、そして拾ってくれた唯一の親代わりも、鱶に喰われて死んでしまった。

 重なるように襲ってくる不運。

 この少女にとって最もいい選択は――

 

 

 

 

 

 

 

 

「――なら、俺と来るか。沙代」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は、鬼殺隊であり、お医者さんでもあり、薬師でもあり、蟲師でもあるこのお兄さんに着いていくことを決めた。

 

「俺は方々を旅をする。大きな街を歩くこともあるだろう。この村で暮らすよりは、俺と旅を共にするほうが速く声を取り戻せるはずだ」

 

 村の人達にはたくさんお世話になっていたけど、ずっと迷惑をかけるのも嫌だった。声を出せなければ自分の意志を伝えられない。

 というより、自分がここで暮らしていいのか、不安だったからだ。

 

 ――私を拾ってくれたお婆ちゃんは、本当に優しい人だった。

 

 行き倒れていた私に、たくさんの美味しいご飯をくれた。言葉が拙い私に、いつも優しく頭を撫でてくれた。

 貝の唄を聴いて声を出せなくなった時も、お婆ちゃんは「大丈夫だよ」と言って頭を撫でてくれた。

 だから、これからずっと大丈夫だと思っていたのに。

 

 また、私の大切な人がいなくなる。

 

 あの時みたいに。

 

 私にとって大切な居場所が、大切な人がいつもいなくなる。私だけを遺して。

 自分なんか死んでしまえばいいと、何度も自分を憎んだ。

 

 浜辺で、お婆ちゃんや他の海女の人達の血で真っ赤になってしまった海面を眺めながら、一言も声が出ない口を動かして私は謝った。潮風に混じって流れてくる鉄の匂いが、今でも鮮明に思い出してしまう。

 そして、血の匂いを思い出すたびに、あの寺の出来事を思い出してしまう。

 

「あの人は化け物。みんなあの人がみんなを殺した」

 

 あんなに暖かい場所だったのに。あんなにも大切な場所だったのに。

 私は自分でそれを壊してしまった。

 

 あれ以来、私は上手く言葉を喋れなくなった。私が喋ると、大切な人が傷ついてしまうと恐ろしくて、心が震えて、その震えが伝わったかのように、私の言葉はぼろぼろになって口からこぼれた。

 村の子達はみんな優しかったけど、私のその言葉を上手に聞き取れずに、最初はよく話しかけてくれても、その内私の声が耳障りになったのか、私と話さなくなった。

 

 私は、言葉もろくに喋れず、そして声すらも出せなくなった。

 

 これは、私の罰なのだろうか。

 

 ごめんね、ごめんね。みんな、ごめんね。

 

 浜辺で私はいつも、自己嫌悪に陥った。波の音を聴いてると、波の音が私を慰めてくれるようで、少しだけ心が楽だったから。

 でも、波の音を聞きたくて、ついギンさんの忠告を忘れて、貝殻に耳を押し当ててしまった。

 そのせいで、私は声を出せなくなり――

 

 私は、海にも嫌われたのだと、本気で信じていた。

 

 そんな時に現れたのが、ギンさんだった。

 

「不安か?沙代」

 

 ギンさんはそう私に問いかけた。

 私は胸の奥から湧いてくる不安を抑え込むように首を振った。

 けれどギンさんにはお見通しだったようで、私の頭を優しく撫でた。

 

「大丈夫だ。俺が着いている限りお前を守ってやる。これでも、結構強いんだからな」

 

 ――ギンさんは、鬼殺隊、という鬼を狩る仕事をしていると言っていた。

 

「お前の声が戻るまでは、鬼狩りの任務はない」

 

 なんで?

 

「お前を守る為だよ」

 

 私が足手まといだから?だったらやっぱり、私を無理に連れて行かなくても――

 

「違う違う。鬼に傷つけられた娘を、どうして鬼の前に連れ出さなきゃいけないんだ。大丈夫だ、お前のことを迷惑だなんて思っちゃいない」

 

 ギンさんはそう言って笑った。私は声を出せないのに、ギンさんは私が言いたいことを手に取るように分かったかのように、私の気持ちをくみ取ってくれた。

 

「だが、代わりに蟲師の仕事を手伝ってもらうからな。ばりばり働いてもらうから、覚悟しろよ」

 

 ――どうしてだろう。

 見た目も声もまったく違うのに。

 この人を見ていると、悲鳴嶋さんのことを、思い出す。

 

 ――私は、生きていいのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たくさんの場所を歩き回った

 身体が小さな私は、ギンさんに必死についていった。

 

 ギンさんは私の声を戻す為に、たくさんの場所に連れて行ってくれた。

 浅草や、富士山が見える駿河、京都にも連れて行ってくれた。

 大人たちの話でしか聞いたことがなかった大都会や、人がまったくいない辺境の森や、孤島。

 乗ったこともない汽車や、馬、船に乗って、たくさんの土地を歩き回った。

 

 見たこともない町や人や珍しい乗り物は、私の心をいつも感動させた。

 

 ギンさんは行く先々で、私と同じように蟲で困っている人達や怪我や病で苦しんでいる人達を助けた。ギンさんが調合する薬は効き目がばっちりで、ギンさんが薬を処方して治らなかった人はほとんどいなかった。

 私も薬の調合に手伝った。手伝ったとは言っても、簡単に薬草を摩り下ろしたり、混ぜたりする程度だけど。

 

「沙代は筋がいいなぁ。これで蟲が見えたら俺の弟子にしたんだが、将来は看護師か、薬師になれるかもなぁ」

 

 ギンさんにそう褒められた時、本当に嬉しかった。

 私は嬉しくなって、ギンさんの手伝いをどんどん自分からやった。それからギンさんは、時々私に文字を教えてくれるようになった。

 

「声が出せるようになっても、文字を読めるに越したことはないからな。知識や見聞を広める為にも、文字を少しずつ覚えていこう」

 

 ギンさんはそう言って頭を撫でてくれた。

 悲鳴嶋さんや、おばあちゃんと同じ撫で方だと、最近分かった。

 

「偉いぞ、沙代」

 

 優しい人の撫で方や褒め方は同じなんだと、最近知って、私は心が温かくなるのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おかしい。もうそろそろ声が戻ってきてもいいはずなんだが」

 

 藤の花の家紋を掲げた家で朝ごはんをギンさんと一緒に食べていると、ギンさんは訝しむように私を見ながら言った。

 私が、あの漁村でギンさんに引き取られて、旅を始めてから一カ月。

 

 私の声は、まだ元に戻っていなかった。

 

 

「ひょっとしてお前さん、このまま喋れなくていいとでも思ってないか?」

 

 

 私はぎくりとした。ギンさんの言葉が図星だったからだ。

 旅を始めて一カ月。ギンさんと一緒に旅をするのは本当に心地が良くて、私が喋らなくても、ギンさんは私の気持ちを察してくれるから。このまま喋れず、ずっとギンさんの旅に着いていきたいと思っていた。

 だって、私が言葉を話せるようになったら。私とギンさんの旅は、そこで終わってしまうから。

 

「沙代。お前が声を出す為に必要なのは、あとはお前さんが"声を出したい"という思いだ。このまま言葉を喋らなければ、一生言葉を話せなくなるかもしれないぞ」

 

 私は俯いて、目を逸らした。

 

「なあ、沙代」

 

 嫌だ。私は、声を出したくない。私が喋って、いいことなんて一つもなかったもの。

 私は、大好きなギンさんと一緒にいたい。だから――

 

「……はぁ。どうしたもんかね」

 

 だから私を、捨てないで。置いてかないで。

 独りにしないで。もう、独りになるのは嫌。

 

「…………ギン」

 

 その声を訊いた時、私の心の臓がどくんと大きく高鳴った。

 どうして、その声が聞こえてくるの。

 

 だって、あの人は、処刑されたって――。

 お願い、ギンさん、嘘だと言って。私が会いたくて、謝りたくて、でも、この世界で一番会いたくなかった人だと、言って欲しい――

 

「ん、悲鳴嶋さん」

 

 ギンさんは、そんな私の期待を裏切るようにあっさりとその人の名を口にした。

 

 悲鳴嶋、なんて名字、私が知る限り一人だけ。

 

 震える手で持っていた箸をそっと置き、私は後ろを振り返った。

 

 ――ああ

 

 一目見て、分かった。ずっと昔。もう数年も前なのに、あの時よりもずっと大きな身体になったその人は、大きな数珠を首にかけていて。

 

 悲鳴嶋行冥さん。

 

 私がまだ五つの頃。

 悲鳴嶋さんは身寄りのない子供を寺に集め、育てていた。血の繋がりはなかったけど、皆仲睦まじく互いに助け合って、家族のように暮らしていて。

 私や、他の子供達は悲鳴嶋さんが大好きだった。

 お腹いっぱいにご飯を食べれるわけじゃなかったけれど、親はいないけれど、それでも幸せだった。

 

 けれど、ある日、獪岳が皆で貯めていたお金を盗んで。

 みんなで怒って追いだした日の夜、鬼が襲ってきた。

 

 私以外の他の子供達は、鬼に、皆殺された。

 

 助けを呼びに行こうと、寺から飛び出した所を殺された。

 

 目が見えない悲鳴嶋さんが真っ先に狙われると思った皆が、悲鳴嶋さんを助けようと寺から走り出したけれど、皆死んでしまった。

 

 当時寺で一番小さかった私は、悲鳴嶋さんの背中の後ろで震えるしかなくて。

 

 悲鳴嶋さんが、鬼を殴り続けている恐ろしい光景を見たくなくて。目を塞いで、一晩中震えていた。

 

 鬼を殴る音と、血や骨が砕ける音が永遠と続く中で。

 

 夜が明けて、村の人達が来て。

 

 私は、眼を開くことができなかった。悲鳴嶋さんが殴り続けて潰れたであろう鬼の死体や、家族同然だった子供達の死体を見ることができなくて。

 

 目を手で覆ったまま、言ってしまった。

 

 

 

「あの人は化け物。あの人がみんなを殺した」

 

 

 

 ――私は、その言葉を言ってしまったことを、これからずっと先、ずっとずっと後悔し続けることになる。

 鬼が朝陽の光を浴びて塵となって消えてしまったこと。

 私が言った"あの人"というのが、悲鳴嶋さんのことだと勘違いした村の人達が、連れていってしまったこと。

 

 あの後、必死に「違う」と大人達に言ったけれど、大人は私の言葉を聞いてくれなくて。

 

 悲鳴嶋さんは、命を懸けて私を守ってくれたのに。 

 

 あの後、悲鳴嶋さんは処刑されてしまったと、大人の人に訊かされた時、私の目の前は真っ暗になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「む?誰かいるのか?」

 

 悲鳴嶋さんは、相変わらず目が見えないみたいだけど、私がいることにすぐ気付いたようだった。

 私がいる方を見て、私に問いかけてくる。

 

「ああ。俺が保護している子供だ」

 

 私は声が、言葉が出なくて。ギンさんが代わりに私の事を説明してくれた。

 

「鬼による被害者か?最近、ギンは鬼狩りの任務についていないと聞くが」

「いや。蟲患いの患者だ。声を出すことができなくなっているんだ」

「声を?」

「ああ。蟲師の仕事を手伝ってもらいながら、旅について来てもらってる。で、話ってのは、耀哉からか?」

「お館様と呼べと言っているだろう、ギン」

 

 馴れ馴れしくするなと悲鳴嶋さんはギンさんを窘めた。

 

「お館様からの命令だ。そろそろ鬼殺隊の任務に戻れ。蟲柱としての責務を全うしろ」

 

 ギンさんは「はぁ」と溜息を吐いた。

 

「だから言ったろ。蟲師の仕事があるからしばらくは鬼狩りの任務に入れないって」

「時間は十分に与えた。お前の蟲師としての仕事がどれほど重要かは皆が理解している。だが一カ月は長すぎる。これ以上はいくらなんでも待てない」

「…………」

 

 悲鳴嶋さんは、私の事に気付いていないようだった。悲鳴嶋さんは眼が見えない。声を出せない私のことを、あの寺で悲鳴嶋さんに育てられた沙代だとは気付けないようだった。

 私は、内心びくびくしながら、手に嫌に冷たい汗を握りながら、顔を俯かせて息を殺していた。

 

 お願い、気付かないで。私がここにいることを、気付かないで。

 

「鬼は今この時も、のうのうと生き続けている。だが、柱も含めて鬼殺隊は常に人手不足だ。先々月も、最古参の水柱が逝かれてしまった。今や柱の最古参は私とお前だけになってしまった……」

 

 悲鳴嶋さんは悲しそうに「南無阿弥陀仏」と言いながら数珠をじゃりじゃりと鳴らした。昔からの、悲鳴嶋さんの癖。何も変わってない。

 

「水柱は俺の兄弟子がなる。そう急くことでもないだろう。俺が見つけてきた甘露寺蜜璃も、杏寿郎の話によれば柱になれる器の持ち主だ。花の呼吸を使うとか言う美少女剣士だったか?確か、悲鳴嶋さんが見つけてきた逸材だろ。耀哉は次の柱はそいつにすると言っていた。何も問題ないじゃないか、悲鳴嶋さん」

「ならぬ」

 

 びしり、と悲鳴嶋さんが持っていた数珠にヒビが入った。

 

「鬼の滅殺は、私達柱の義務であり、鬼殺隊の悲願だ。私は、私から全てを奪った鬼共を許さない。私が守れなかった子供達に報いる為にも、鬼を滅殺しなければならない。己の心臓が止まるその時まで。お前もそうだろう、ギン」

 

 悲鳴嶋さんのその言葉に、私は息が止まった。

 

「お前と私は同じだ。鬼も、人も、信じ切れない。疑り深い。猜疑心の塊だ」

「……」

「あの日、共に同じ日に柱に就任した時、守ろうとした人に裏切られた私と同じ傷を持ったお前を見た」

 

 お館様に、柱の襲名を命じられた時、隣には自分より年若い剣士がいた。それがギンだった。

 襲名の儀を終えた後、二言三言、言葉を交えた。

 

 ――俺は、別に柱なんてどうでもいいよ。ただ戦うだけだ。鬼も、鬼に与する者も、等しく俺達の敵だ。

 

 あの人間も鬼も、全てを憎むような、狼のような強い言葉を、私は今でも覚えている。

 人に裏切られた、私と同じ傷を持った者だと直ぐに分かった。

 私と同類。鬼に、そして信じたかった、守りたかった人に、信じると言う気持ちを根こそぎ奪われた男だ。

 

「お前が西の方で指名手配されたのは知っている。人殺しと疑いを掛けられたことも」

「耀哉から聞いたのか?」

「ああ」

 

 行冥はかつて、人殺しの罪で牢に閉じ込められた。鬼から子供達を守るために戦った成れの果てが、狭く暗い牢屋だった。産屋敷耀哉が助けてくれなければ、自分はあのまま処刑されていただろう。

 耀哉から、ギンも同じような目に遭ったと。よければ話を聞いてやって欲しいと言われた時、悲鳴嶋は悲しかったが、同時に少し嬉しかった。自分と同じ境遇の者がいたことに。

 

「私もお前も、これから先ずっと人を疑い続けるだろう」

「……」

 

 怒っている。悲鳴嶋さんは、怒っている。

 やっぱりそうだ。悲鳴嶋さんは、あの時の事を忘れていない。今も恨んでいる。私を許していない。守ってくれた私に裏切られたことを。違う、違うの、悲鳴嶋さん。私は、悲鳴嶋さんを傷つけたくてあんなことを言ったんじゃない。

 私はそう言いたかった。でも、それでも声は出なかった。

 どうして、どうして。

 今こそ謝らなければいけないのに。それなのに、私の喉は、「ごめんなさい」の一言も言えない。

 声を出したくないと、私の心は恐怖で震えていた。

 私が今ここにいると悲鳴嶋さんに気付かれたら、どんな顔をされるのか分からない。どんな言葉を言われるか分からない。恐い、恐い、恐い!

 

「一週間だ。それまで待つ。それまでに、蟲師の仕事を一区切りつけるんだ」

「……はぁ。分かったよ。一週間までには鬼殺隊の仕事に戻るよ」

 

 ギンは悔しそうに眉を潜めた。

 確かに、一カ月も鬼殺の任務から離れるのは、いくらなんでもさぼりすぎだとギン自身考えていた。このままずっと沙代の面倒を見るわけにはいかないし、近いうちに藤の家紋を掲げた家に預けるか、蟲屋敷に引き取るべきか……。まあ、それはいい。

 

「でも悲鳴嶋さん。俺はもう、人を憎んじゃいないよ」

「なんだと?」

 

 ギンの独り言のような独白に、悲鳴嶋も、そして沙代も目を見開いた。

 

「俺を人殺しと、この世の憎しみを全て込めて叫んでいたあの娘は、もう死んでしまった。何を想ってそう言ったか、もう死者の言葉を掘り返す術はない。けど、あの娘にはそう叫ばなきゃやってられない事情があったんだろうと俺は思う」

「…………」

「人の心は目には見えない。過去を見通す目もない。けれど、もしあの娘にもう一度会えたら、俺は恨もうとはもう思わないよ。あの娘が謝れば、俺は許す」

 

 人を憎むのも、憎まれるのも、疲れるんだ。

 謝れるなら、許せるなら、それに越したことはない。

 

「仮に鬼を全部殺しても、肝心の俺達が憎しみに囚われれば、この世は結局、憎しみが増えるだけだ。斬って殺して刺されて恨んでやり返して。そんなことしても意味はないんだ。だから俺は、今度こそ恐れや怒りに眼を眩まされずに、蟲師として、鬼狩りとして生き続ける」

「――そうか」

「来週には鬼狩りの任務に復帰する。心配は無用だ、悲鳴嶋さん」

「そのようだな」

 

 悲鳴嶋はそう言って部屋から出ていこうと襖を開き――

 

「――私と同じでは、なかったのだな」

 

 ギンにも聞こえないほどのか細い声で、悲鳴嶋はそう言って出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悲鳴嶋さんが去った後。

 

「さて、沙代。悪いが、お前の面倒を見れるのは後一週間になっちまった。早い所お前の声を戻さねえと――」

 

 私は、声は出ないけれど、必死に口を動かして、ギンさんに伝えた。

 

 ――ギンさん

 

「ん?」

 

 

 ――もし、その人が謝って来たら、ギンさんは、許す?

 

 

 ごめんなさいと、言いたい。でも、許されないかもしれないと考えると、恐ろしい。私はそれだけ、ひどいことをした。

 言わなきゃいけないのに、結局言えなかった。

 勇気がない、意気地なし。

 でも、もし許してくれるなら――私は、行冥さんに、言いたい。

 

「許すさ」

 

 ――ほんとに?

 

「許されなかったら、何度でも許してもらえるよう謝ればいい。声を出して言うのが無理なら、手紙を書いて伝えればいいさ。誰か、謝りたい人がいるのか?」

 

 こくりと、私は頷いた。

 

「……さっきどうも様子がおかしかったが、ひょっとして悲鳴嶋さんか?」

 

 ……本当に、ギンさんは察しが良すぎて。涙が出るほど優しくて、哀しい。

 

「だったら、俺が一緒に謝ろう」

 

 ――本当?

 

「ああ。何があったかは知らんが、お互い、生きているんだ。だったら、やり直す機会はいくらでもある。お前さんが勇気を出せないなら、俺が手伝うさ。独りで抱え込まなくていい。頼れる誰かに頼ればいいんだ」

 

 だがその前に、声を出せるようにしなきゃな。

 そうギンさんが笑いながら私の頭を撫でてくれた時。私は嬉しくて、泣き出してしまった。

 

 

 もしも、声の出し方を思い出して、自分の声を出せるようになったら。

 

 行冥さんに、謝れる。大好きな行冥さんに、謝れる。

 

 

 

 自分の声で、謝れるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ある日、岩柱の屋敷に、蟲柱と少女が訪れた。

 

 蟲柱と少女は頭を下げ、岩柱は優しげに涙を流しながら頷き、それを見た少女はわんわんと大泣きした。

 

 その夜、岩柱とその少女は、今まで喪っていた時間を取り戻すかのようにたくさんのことを話した。そして何度も何度も、あの時はごめんなさいと謝った。

 

「沙代。お前のその言葉で、私は十分報われた。これからは自分の為に生きなさい。私や、子供達の分まで長生きして、幸せになってくれ。それが私の願いだ。いい人を見つけて、結婚して、家族を創りなさい。沙代が幸せなら、私は力の限り戦うことができる」

 

 そう微笑みながら、悲鳴嶋行冥は言った。

 

「なら、悲鳴嶋さん」

「ん?」

「私ね――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数年後。

 

 

 

 元"花柱"胡蝶カナエが運営する蝶屋敷に、ある一人の少女が訪れる。その少女はどこか年季が入った藤の花の香り袋を首から下げていた。

 

 

「ごめんください!」

「あらあら。可愛いお客様。どなたかしら?」

 

 

 

 

 

 ――私、"蟲柱"鹿神ギン様に嫁ぎに来ました!!

 

 

 

 

 

 

 その後、"蟲柱"の弟子である胡蝶しのぶと、元"花柱"の胡蝶カナエが嵐のように荒れたのは言うまでもない。

 

 

 

 

*1
さめ類の特に大きいものの俗称




投稿遅れました。大変申し訳ない。


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大正こそこそ小噺 其ノ壱

 

 

 

 

 水の音がする。

 水が落ちる音がする。

 

 

「よく来た、ギン。義勇」

「……久しぶりです、鱗滝さん」

「……ただいま、鱗滝さん」

 

 

 狭霧山の滝壺の前には、かつての師匠が待っていた。水飛沫が辺りに飛び散り、辺り一帯は涼しかった。激流が滝壺に注がれる音は激しく、森の声はここには響かない。水の音に閉ざされた神聖な修行の場。確か目隠しされた状態でここに突き落とされたなぁ、なんてことを思い出す。

 水模様の羽織に、赤い天狗の面。久しぶりに見た鱗滝左近次の姿は、やはり威圧感があるとギンは思った。

 ここを卒業してから約7年。

 ついこの間の出来事だったような気がするのに、どうしてこんなに懐かしく感じるのか不思議だった。

 

 

 かつてここで俺と義勇、そして錆兎は己の体を鍛え、呼吸を鍛え、剣を鍛えた。

 苦しい思い出も、辛い思い出も、悲しい思い出も、ずっとここに埋まっている。

 

 

「最終選別を生き残り、ここから卒業したのが七年前。そして、五年前だったな。お前達がここで決闘をしたのは」

「……あれは、俺達が未熟だったからです。俺達は言葉を上手く語れる方じゃない。特に義勇は」

「……俺は喋るのは得意だ」

「嘘つけ」

「ふっふっふ。お前達は相変わらずだ」

 

 鱗滝さんはそう言って笑った。

 あの時。錆兎を喪って自暴自棄になっていた俺は、義勇と決闘した。

 

 

 

 最終選別の後、義勇は自棄になって不眠不休で鬼を狩り続け。

 そして俺は、蟲を鬼狩りに使っていた。時には、その山にいた動物達や自然を傷つけることも厭わずに。

 

 決闘のきっかけは、よく覚えてない。錆兎の墓参りにこの山に立ち寄った時、義勇とばったり出くわした。

 その後、少し会話をして――多分、どっちかの嫌味がきっかけだったんだと思う。

 

 

『なんでお前は俺達と共に行動しなかった!最初から一緒にいれば、錆兎は死なずに済んだかもしれない!それなのに、お前はっ!』

『知るかこのクソ野郎!お前こそ、お前が錆兎に一番近い場所にいたくせになんで死なせた!俺達の親友を!』

 

 

 俺達は未熟だった。錆兎を守れなかった理由を、相手に押し付けることしかできなかった。

 そうしなければ、自分が弱いと言うことを認めてしまう。分かってしまう。

 

 

 錆兎が死んだのは、自分のせいだと。そう思いたくなかったから。

 俺達はその後悔や無念を相手にぶつけるしかなかったのだ。

 

 

『お前の噂もよく聞くぞ、怪我も顧みずに寝ずに鬼を馬鹿みたいに狩ってるみたいじゃないか!死ぬ気か馬鹿野郎!』

『お館様から聞いたぞっ、山や森を荒らしてでも鬼を狩ろうとしているとな!森を一番大切にしていたお前が、どうしてそんなことをしているっ!』

『義勇は昔からそうだったよな!言葉足らずのくせにド天然で、いつも俺や錆兎を困らせた!』

『俺は天然じゃない!ギン、お前はいつも俺の分の飯を勝手に摘み食いをしていたな!錆兎が飯を分けてくれなければ俺が飢え死にしていた!』

 

 

 最初は憎しみをぶつけ合うしかなかった俺達は、いつの間に兄弟喧嘩になっていた。

 気付けばお互い泣いていた。持っていた刀もぼろぼろで、使えなくなったから殴り合いになっていた。

 そして殴り合いをし続け、やがて一歩も動けなくなった俺達は血まみれになりながら仲直りをしたのだ。そして『強くなろう』と誓い合った。

 

 

 錆兎の分も、俺達が頑張ると。錆兎の魂を、俺達が引き継ぐと。

 

 

「あの時、お主達の喧嘩を止めることはできなんだ。錆兎の死は、儂にも原因がある。儂がもっと鍛えてやればよかったと、最終選別などに行かせるべきではなかったと、何度も思った。じゃが――」

 

 

 

 

「お主ら二人は"柱"となり、そして"継子"を育てる立場になるまで成長した。そして――今まで多くの柱が成し得なかった十二鬼月の上弦の弐を討伐した。これを喜ばずにいられるか」

 

 

 

 天狗のお面から、ほろほろと大粒の涙が流れていたのを、俺は確かに見た。

 そして、俺達を鱗滝さんは大きな腕で抱きかかえる。

 

 

 ―――ああ、でも。いつの間にか俺達は、この人の背を追い越していたのか。

 

 

「よくぞ、よくぞ生きて帰ってきた。まずは、儂から祝いの言葉を言わせてくれ。義勇。そしてギン」

 

 

 その姿は、七年前、俺達を厳しく鍛えた強靭な育手ではなく。

 子を思う父親の温もりを、与えられた気がした。

 

 

「お前たちは儂の……いや、儂と錆兎の誇りだ」

 

 

 その後俺は、しばらく静かに涙を流し続けた。普段無表情な義勇も、静かに涙を流し続けていた。

 

 

 

 錆兎。俺達は少しでも前へ進めたか?

 同じ兄弟弟子として誇れる男になれたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蝶屋敷の一室に、鬼殺隊の隊士が二人、ある患者を見舞いに訪れていた。

 隊士、と言ってもただの隊士ではない。鬼殺の剣士の最上位である"炎柱"煉獄杏寿郎、そしてつい先日、引退した花柱と入れ替わる形で柱に就任した"恋柱"甘露寺蜜璃である。

 

 そして見舞った相手は、上弦の弐討伐と言う快挙を成し遂げた、"蟲柱"鹿神ギンだ。

 

「うむ!さすがギン、そして冨岡だ!ここ数百年の間倒せなかった上弦の弐を討伐し、更に二人揃って生還するとは、大変喜ばしい!」

「いや杏寿郎。お見舞いに来てくれたのは嬉しいけどさすがにうるさい」

「さすがだわギンさん、上弦を倒してしまうだなんて、本当に素敵!カッコイイ!」(今日も白い髪に緑の眼が素敵だわ!包帯だらけだけど、本当にたくましい!)

「もう出てけよお前ら……」

 

 

 上弦の弐、討伐。

 その報せは鬼殺隊全体に直ちに知らされ、隊士達の士気を盛り上げた。それはもちろん、柱も。

 上弦の鬼を倒せたと聞き喜ぶ者。柱なら当然だと言う者。涙を流しながらお経を唱える者。その反応は様々だ。

 そして、蟲柱と深い関わりがあった煉獄杏寿郎と甘露寺蜜璃は、ギンと義勇の成果を一番喜んでいた。

 

 ――ちなみに、花柱を救う蟲柱の一部始終を細かに見ていた鴉が隠に伝えた所、恋話が大好きなその隠が「壮大なラブロマンス」として脚色し、鬼殺隊の間に広めることになるのだが、そのことをギンはまだ知らない。

 

「うむ!母上も父上も、大層お喜びだった!どうだ、ギン!そろそろ炎屋敷に顔を出したらどうだ?」

「嫌だ」

「本当に嫌そうな顔をするな君は!そう言う所は昔と変わらない!」

 

 眉根を曲げて心底嫌そうな顔をするギン。そんなギンの表情を見た甘露寺は、首を傾げる。

 

「どうしてですか?確かギンさんは、槇寿郎様の継子だったんですよね?それなら、炎屋敷に顔を出しても何も不都合はないのでは……」

「それはだな、甘露寺!ギンが昔、母上に送った手紙のせいだ!」

「手紙?」

「ああ!ギンは母上にいたずらの手紙を送ったのだ!厳しい育手の所に送られた意趣返しに!その手紙のせいで、父上がブチ切れたのだ!」

「えぇ!?」

「幸い誤解はすぐに解けたが、父上は大層お怒りでな!うん!あれは俺もあまり思い出したくない!ギンが久しぶりに顔を出した時、ギンは刀で二刻程の間、父上に追いかけ回されたそうだ!そのせいでギンは父上に顔を合わせ辛いのだ!」

「おい、やめろよ杏寿郎。人の黒歴史を後輩に語るんじゃない」

「ぶっ」

「おい甘露寺?今笑ったな?人の過去を笑ったな?おいこっちを見ろ。笑い堪えてるの丸見えなんだぞこっちは」

「ご……ごめんなさい……」

 

 甘露寺蜜璃は笑いで悶えていた。彼女にとって蟲柱の鹿神ギンは恩人だが、ギンは日本各地を旅して蟲を研究し続けているためあまり話せたことがなかったのだ。故に、彼女の中でギンは「ミステリアスでクールな青年」というイメージがこびり付いている。しかし、ギンの黒歴史とも言える幼少期の話を聞くたび、笑いを堪えることができなかった。特に杏寿郎はギンと一年間も一緒に過ごしていたせいで、ギンの弱み(面白話)をよく知っていた。

 

「まったく……ああ、そうそう。"恋柱"就任おめでとう、甘露寺。俺と義勇が寝ている間に就任したんだって?」

「あ、ありがとうございますギンさん。けれど、これもギンさんのおかげです。ギンさんが鬼殺隊という居場所を私に教えてくれたおかげで、私は自分の生きる場所を見つけることができました。これからも多くの人を助けたいと思ってます」

「別に、俺は何もしちゃいねえよ。ただまあ、あの時の怪力猪突猛進娘がいつの間にか立派に俺の同僚になっただなんてなぁ」

「い、言わないでくださいっ、昔のことはっ」

「さっきのお返しだ」

「ハッハッハ!これは一本取られたな、甘露寺!」

 

 甘露寺蜜璃は特殊な体質の持ち主である。

 それは、彼女の異様な怪力だ。

 何かの病気かと疑われたが、どんな医者に見せても見当がつかず。最終的に甘露寺の両親が藁にもすがる思いで頼ったのは、当時甘露寺の地域の蟲を研究していたギンであった。

 

「こいつは、妖質の持ち過ぎですな」

 

 赤ん坊の頃から、甘露寺は怪力と異様な食欲で悩まされていた。子供が本来持てぬ重い物を軽々と持ちあげる、女子らしからぬ筋力。そしてそれに伴う空腹感。彼女の空腹を埋めるには飯がいくらあっても足りはしない。健啖家という言葉すら生温い、大食い怪力娘が甘露寺蜜璃という少女だった。

 それを解決してくれたのがギンである。

 

 ギンが特別な薬を手の平に塗ると、甘露寺は以前のような怪力を発揮することができなくなっていた。関取を思わせるかのような食欲も、鳴りを潜めていた。

 

「妖質ってのは、人間なら誰しもが持っている資質だ。人によって体内にある妖質は様々だが、お嬢さんは偶々多く持って生まれて来ちまったんだろう。この塗り薬を定期的に塗れば、その妖質が抜け、一時的にだが筋力や食欲を鎮めることができる。しばらく使い続ける必要はあるが、ま、薬は安くさせてもらうよ」

 

 ギンの薬は効果抜群だった。

 今まで悩ましてきた甘露寺の悩みである筋力や食欲はなんだったのか、そう思わせるほど徐々に普通の少女へと甘露寺は向かっていった。

 昔から、甘露寺蜜璃は惚れっぽかった。今でも相当惚れっぽいが。

 

「ま、そんなに悲観することもない。お前は変なんじゃなくて、特別なだけだ。その髪も、力も誇るといいさ。それに見てみろ。俺なんか白髪に隻眼だぞ。俺と比べたらそれぐらい普通だ」

 

 そんな惚れっぽい乙女の悩みを解決してくれた青年。長年の間苦しめていた体質を治し、励ましてくれた通りすがりの青年、鹿神ギン。

 髪は白く、目が翠という異様な外見をしているが、その頃には甘露寺蜜璃の髪は桜餅の食べ過ぎで桜色に変わっており、特に気にならなかった。

 つまり、ギンに惚れこまない訳がなかったのだ。

 

「わ、私と夫婦になってください!!」

「は?」

 

 当時、甘露寺は十五歳。鹿神ギンは十七歳。甘露寺は未来で言う逆プロポーズをその場で申し込んだのだった。

 

「いや、無理」

「なんでですかっ!?」

 

 だが残念なことに、甘露寺は渾身の求愛を断られてしまう。生まれて初めてプロポーズをされたギンはたじたじになりながら、自分が祝言を挙げられない事情を語った。

 自分が鬼狩りをしていること。明日も生きて帰れるか分からぬ身だと言うこと。自分より強くてかっこいい奴は鬼殺隊にたくさんいるから、もっといい人を探せと。

 

 だが、後に"恋柱"と言う称号を獲得する乙女は、その程度では止まらない。

 

「じゃあ、私も鬼狩りになります!鬼狩りには、ギンさんのように強い人がたくさんいるんですよね!?だったら私、恋をするために鬼狩りになります!」

「は?」

 

 人生であの時ほど、思考が止まってしまった時はないと、ギンは後に語る。その後、鬼狩りになるため体質を改善する薬を使うのをやめた甘露寺は、粘着質にギンに頼み込んだ。そしてギンは最終的に根負けし、兄弟子である杏寿郎を師として紹介した。つまり、丸投げした。

 その後甘露寺は杏寿郎とその父、煉獄槇寿郎に教授されながら、"恋の呼吸"を完成させ、柱に就任したのである。

 あんな猪突猛進な少女が今や鬼殺隊最強の剣士の称号を持つとは、時間が経つのは早く、感慨深い。

 

 ちなみに、後にこの甘露寺蜜璃に一目惚れをした蛇男が、ギンと甘露寺の出会いの話を聞かされ、嫉妬の炎に燃やされるのだが、それはまた別の話。

 

「とにかく、今は傷をしっかり癒せ!上弦を討伐できたとはいえ、鬼はまだいる!今やお前はただの柱ではない!鬼舞辻達も、より一層ギンと冨岡のことを警戒するだろう!止まっている暇はない!」

 

 上弦の弐を討伐したことにより、"水柱"と"蟲柱"の名はただの柱の称号ではなくなった。

 ここ数百年の間、鬼殺隊が成し遂げなかった偉業を成し遂げた二人は、鬼殺隊最高戦力と言う扱いを受ける。

 

「分かってるよ。戦いはこれからも続く。もう傷は塞がったし、三日後には任務に復帰できるってしのぶにもお墨付きをもらえた。寝ているカナエの分までやらせてもらうさ」

「うむ!その意気だ!」

「そうだよ、ギンさん!あ、そうだ!今日はたくさん桜餅をお見舞いに買って来たから!よかったら食べて!」

「うむ!俺も肉をたくさん注文してきた!たくさん食べて療養するといい!」

「いやそんなに食えねえって。大食漢のお前らと同じ量を喰わされたら腹が破裂する。比喩ではなく」

 

 

 

 その後、蝶屋敷に大量に届けられた牛肉と桜餅は、蝶屋敷で暮らす子供や入院中の隊士達に分けられたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "蟲柱"の鹿神ギンは、光る酒を持っている。

 そんな噂が隊士の間で囁かれていた。

 

 

「おい鹿神。お前、ド派手に美味くド派手に光る酒を持っているらしいじゃねえか。俺にもちょっと飲ませろや」

「は?」

 

 

 ギンは眼を点にしていた。唐突にカツアゲのようなことをしてきたのは、ギンの同僚である"音柱"宇髄天元である。

 大正時代には珍しい、六尺以上*1の身長。筋骨隆々の身体に、宝石をあつらった額当てに、目元を化粧で飾った派手男。こんな男だが元は忍者だと言う。忍びとは一体なんなのか疑問に思わせるぐらい自己主張が激しい、個性的な柱達の中でもかなり個性派な部類に入る男である。

 

 

「いや、これ耀哉の治療の為の光酒なんだけど……」

 

 

 そう言ってギンは手に持っていた瓢箪を見せた。

 

 

 光酒とは、地下深くに流れる光脈と呼ばれる命の川から抽出した液体である。命そのものとも言える液体で、これを使えば滋養強壮にもなり、蟲患いを起こした病人への薬にもなり、蟲達を誘き寄せる餌としても使うことができるまさしく万能薬である。

 ただ、抽出の仕方は蟲師であるギンしか知らず、世に出回る品ではない。

 ギンはこの酒を、鬼舞辻の呪いに冒されている産屋敷耀哉や、蝶屋敷の怪我人たちの治療、そして鬼や蟲の研究に使っていた。当然ながら数に限りがあり、娯楽で呑むために使ったことはほとんどない。

 

 

「ていうかどこから聞いたんだよ」

「そりゃもうド派手に噂になってるぞ。隊士達の間じゃぁ、"光る酒"がどんな味がするかいろんな推測が飛び交う始末だ」

「はぁ、それで?」

「こうなったら、俺がその酒の正体をド派手に掴んでやろうと思ってな!こうしてやって来たわけだ!」

「本音は?」

「ただ呑みてえからだ!」

 

 

 退屈な柱合会議が終わったばかりだと言うのに、面倒な奴に絡まれてしまったとギンは溜息を吐いた。

 

 

「なぁ、いいだろう?鹿神だってその酒を全部お館様に使う訳じゃあるまいし、ちょびっとぐらい飲ませてくれよ。な?な?」

 

 

 宇髄天元は、興味津々だった。

 隊士達の間で噂される光る酒。"光る酒"。そりゃもう、俺好みの派手派手な酒だ。是非とも飲んでみたいと以前から考えていた。

 

 だが、ギンのその酒は治療用とは聞いていたし、お館様もその酒を治療に使っていると聞かされていた。私欲で呑ましてもらうのは気が引けたのだが――

 

 きっかけは、煉獄杏寿郎の父、元"炎柱"の煉獄槇寿郎の言葉である。

 

「あの酒はダメだ。一口でも呑んではダメだ。あれを呑んで以来、他の酒が水みたいになってしまった。決して酔えなくなったわけじゃない。だがどんなに美味い酒も、あの光る酒には勝てない。以前、ギンが保管していた光る酒を興味本位で一口飲んで以来、他の酒を呑めなくなってしまった。他の酒を美味いと感じなくなってしまった。あれほど美味い酒はこの世にはないだろう」

 

 飲んではいけない―――と言われてしまえば飲んでみたくなるのが人の性。

 元々興味があった光る酒。それはとんでもなく美味だと聞かされれば―――

 

「頼む!鹿神!一生のお願いだ!」

 

 もう形振り構っていられないのである。

 

「いや知らねえよ。なんで俺がお前さんの一生のお願いなんて聞かなきゃなんねえんだ」

 

 が、当然ながらギンはその要求を突っぱねる。

 

「そこをなんとか!」

「なんとかじゃねえって」

「頼む!」

 

 実は宇髄天元は酒に目がない。

 元々、温泉めぐりが好きだった宇髄だが、風呂上りの酒とフグ刺しがたまらなく好きなのだ。

 もちろん、鬼狩りである為節度は守っている。だが、それはそれ、これはこれ。どうしても呑みたいのである。

 

 必死に粘着質に頼み込む宇随をどうしたものかと、ギンは頭を抱える。彼は自他共に認めるお人好しだった。というより、押しに弱い。

 

 胡蝶カナエとの会話を見る限り、ぐいぐい押されるとすぐに根負けするのが鹿神ギンという男。それが柱達が持つギンへの印象だったのだ。

 だがこれは親友である産屋敷耀哉の治療のためのもの。この光る酒のおかげで、耀哉を蝕む呪いが少しずつ緩和しており、今では普通に外へ散歩へ行けるほど力も回復しているのだ。定期的に光酒を呑まなければすぐに呪いの浸食が始まってしまうのだが。

 どうやって断るべきか考えるギンだが――

 

「いいんじゃないかな、ギン」

「っ、お館様っ」

「なんだ、耀哉か」

 

 声をかけてきたのは、鬼殺隊当主、産屋敷耀哉だった。中庭で話していたギンと天元に、縁側から声をかけてきたのである。

 

「ああ、天元。大丈夫だよ。今は柱合会議の場ではない。楽にしてほしい」

「どうした、耀哉。なんかあったのか?」

「お前っ、またそんな態度を……!」

 

 気安いギンの態度に、天元は苛立ちの声を上げる。柱合会議中でも昼寝をしたり、耀哉を呼び捨てにする柱。それが鹿神ギンだった。なんでも、昔からの友人らしく、ギンは耀哉に対していつも気安い。耀哉を尊敬する風柱や天元にとって、その態度はあまり許せるものではないが、お館様が容認しているため注意することができないのが現状だった。

 

「ギンがなかなか来ないから心配したんだよ。それより天元。君もその"光酒"を飲んでみたいのかい?」

「恐れながらお館様……」

「ああ。気持ちは分かる。君はそう言った美しい物が好みだったからね。それじゃあ、今晩は君も一緒に呑むかい?」

「よろしいのですか!?」

 

 天元は喜びの声を上げた。

 

「いいのか、耀哉?」

「いいさ。偶には、子供達と一緒に呑むのも悪くないからね」

「感謝しますお館様!そうとなりゃ、街で一番の料亭から料理を頼もう!そりゃもう最高のつまみもな!」

「はぁ。どうなっても知らねえぞ俺は」

 

 

 こうして、公然と光る酒を呑むことができることになった天元だった。

 

 

 

 

 

 

 

 街一番の高級料亭から運ばれてきた料理を楽しみ、次はいよいよ主役の登場となる。

 

 

「さあ、ギン!腹も膨らんだ、月明かりも最高!こりゃもう、最高にド派手な月見酒になるぜ!!」

「うん。いい夜だ。今日はお月様がよく見える。きっと天元も、今日の酒は忘れられないと思うよ」

 

 中庭が見える縁側で、天元と耀哉は月を眺めながらそう言った。

 

「せっかくの光る酒だ、それなら月が出るまで待って最高の月見酒にしようじゃねえか!」と言うのが天元の談。

 

「まあ、雰囲気が酒を美味くするのは認めるけどさ」

 

 この時代では未成年の飲酒は一応法律上は禁止されている。しかし、それほど法律的に厳しかったわけではなく、江戸時代の風習がまだ根強く残っていた大正時代では、15才になると酒を呑む子も多かった。

 

 縁側に置かれた赤い漆が塗られた盃は、見事な一品だった。産屋敷家が用意した最高級の盃である。

 

「じゃあ、注ぐぞ」

 

 ギンはきゅぽんと、瓢箪から蓋を外した。

 

 蓋を外した瞬間、辺りに漂う香ばしい香り。甘く、そしてどこまでも透明感がある。まだ蓋をあけたばかりだと言うのに、鼻はそこまでよくない天元と耀哉の嗅覚をくすぐる濃厚で香しい匂い。

 

 

 ああ、なんてド派手で最高な匂いだ……。

 

 

 さっきまで、最高級の料亭の料理を食べていたはずだった。だが、さっきまでその料理を食べていたことを、天元は忘れた。

 それほど光酒の匂いは――

 

 

 そして、盃の上に少しずつ注がれる、黄金色の酒。

 

 

 蛍のような淡い光。黄金のような光。月のような光。―――美しい光だった。

 

「すげえ、ド派手じゃねえか……」

 

 ごくりと唾を呑みこむ。

 強く淡い光は、夜に包まれた辺りを照らしだすほどだった。だが、不思議とまぶしくはなかった。

 

 

「そういえば宇髄には話していなかったな。光酒ってのは、地下深くに流れる光脈と呼ばれる命の川から抽出された酒だ。これは、生命そのものだ。生命の源泉とも言ってもいい。酒は百薬の長と言うが、これは人間の身体にいい効果を与えてくれる。俺はこれを治療に使っているが、宇髄、お前はこれを、命そのものを頂くんだ」

 

 

 ――"蟲柱"鹿神ギンという男は、不思議な男だった。

 

 

 そいつの言葉は、いつも俺の心にすっと入ってくる。まるでそこにあるのが当たり前かのように。

 

 

 天元はギンの言葉を胸に刻みながら、ゆっくりと酒に口を付けた。

 

 

 

「――――!」

 

 

 

 一口飲むごとに、考える力が失われていく。

 なんて美味い酒なんだ。

 こんな酒、飲んだことがない。

 一口飲むごとに、体の疲れが抜けていく。

 一口飲むごとに、心が軽くなる。

 

 きっと、この酒の味を全ての人間が知れば、争いなんて二度と起きない。

 

 天元はそう確信してしまえるほどに、光る酒に感動する。

 

 

「……うん、美味しいね」

「それだけかよ、耀哉。見ろよ、宇髄なんて涙を滅茶苦茶流してるぞ」

「幼い頃からこれを飲んでいるんだ。私にとっては、もうお茶と同じだね」

「舌が肥えちまったなぁ、耀哉」

「君のせいだよ、ギン」

「それで、体の調子はどうだ?」

「うん。身体のあちこちが楽になっていくのを感じる。今日のもよく効いてくれる……」

「よかった」

 

 

 酒に打ち震えて一言も喋らなくなった天元を余所に、ギンは耀哉に旅の話をしていた。

 こくこくと酒を呑み続けるギンと耀哉を余所に、"音柱"宇髄天元はその酒を大事に大事に、一口ずつ時間をかけて飲んでいったと言う。

 

 

 

 

 

 

 

「あれ以来、他の酒が水みたいに感じる。もう光酒じゃなきゃ酔えねえ。光酒を寄越せぇ!!」

 

 

 

 後日。見事に光酒にドハマリした宇髄天元は、その後度々、ギンから酒を奪おうと襲い掛かる所を隊士達に目撃されたと言う。

 

 更に、宇髄天元が光る酒がどれだけド派手に美味いか柱達に吹聴した結果、光る酒をねだる柱達が増えたと、ギンは耀哉に愚痴を零していた。

*1
約180cm。大正時代の成人男性の平均身長は160cmなので、ギンの身長175cmでもかなり大柄な部類に入る。



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大正こそこそ小噺 其ノ弐

 蝶屋敷には、訓練をするための道場が併設されている。

 胡蝶しのぶと鹿神ギンによって考案された『機能回復訓練』をするための道場だ。怪我で寝たきりになった隊士が鈍った身体を起こす為に行われる訓練である。

 

 地獄の柔軟や筋力や瞬発力を上げる基礎的な鍛錬から、しのぶとカナヲによる鬼ごっこなど。基礎体力を向上させることと、呼吸の練度を上げることを目的とした訓練が施行されている。

 

 だが、今日この訓練所を使っているのは怪我を負った隊士達ではなく―――

 

 

「始めっ」

 

 

"水の呼吸 肆ノ型 打ち潮"

 

 

"花の呼吸 肆ノ型 紅花衣"

 

 

 激しく木刀を打ち鳴らす音と、道場を駆けまわる足音が訓練場に響く。

 打ち合い稽古をしているのは、"花柱"の継子である栗花落カナヲと、"水柱"の継子である鱗滝真菰であった。

 

 女性とは思えない瞬発力でお互いの間合いに入ったかと思えば、木刀で防御、もしくは躱す。両者とも腕力より速さを重視した戦い方を得意としている為、必然的に打って離れてを繰り返す戦いとなる。

 眼にもとまらぬ素早さを乗せた戦いは、女子が木刀で打ち合っているとは思えないような打撃音を響かせている。

 

「うん。カナヲの花の呼吸も大分形になってきたな」

 

 感心したように呟くのは"蟲柱"の鹿神ギン。

 

「ええ。姉さんが引退してからは、より一層鍛練に励むようになりましたからね」

 

 ギンの言葉に同意するように頷いたのは、"花柱代理"胡蝶しのぶだ。

 

 代理、と言うのには訳がある。

 肺の負傷により引退した胡蝶カナエが担当していた区域を、しばらくの間新しく柱に就任していた甘露寺蜜璃が引き継いでいたのだが、つい先月、しのぶは己が開発した毒を振るい、柱になるための条件である『鬼を五十体討伐』を達成したのである。

 鬼殺隊の目下の問題は人手不足だ。異形の鬼達と戦う以上、人の損耗は避けては通れぬ問題である。殉職率が高いこの鬼殺隊では、一般の隊士はもちろん柱も死ぬことが多かった。

 そんな猫の手も借りたい鬼殺隊で、鬼殺隊初の『毒で鬼を頸を斬らずに殺す』胡蝶しのぶ。鹿神ギンの弟子であり、医術や薬学に精通した剣士。知識、経験、そして鬼殺の技量共に柱に匹敵する人材だ。そんな優秀な人材を鬼殺隊当主の産屋敷耀哉が見逃すはずがなく、耀哉はしのぶに「柱になってくれないか」と提案した。

 ギンもこの提案には賛成した。

 だが、しのぶはこの提案を渋った。理由は自分は柱ではなく、蟲柱の継子でありたいと願った為であった。自分の師である鹿神ギンの助手を務めたいと。

 そもそもしのぶは花の呼吸の使い手ではない。花柱は、花の呼吸の使い手である栗花落カナヲがいずれなるだろう。

 

「お館様。確かに、私は姉の花の呼吸を使えるようになりたかった。ですが私は……先生の教えから、自分の呼吸法を"蟲の呼吸"と名付けました。私は先生に比べればまだまだ未熟です。ですが、いずれ柱の名を襲名するのなら……先生の、"蟲柱"の名を、頂戴したいと思います」

 

 顔を真っ赤にして自分の願いを告白するしのぶに、耀哉は純粋な想いを察して微笑んだ。だがギンはなんで断るんだこいつと首を傾げていた。

 しかし胡蝶カナエが引退したことにより、実質的に蝶屋敷の代表は妹であり医療技術を持っているしのぶが代表として引き継ぐことになる。そうなれば蝶屋敷を長期間留守にすることはできず、以前のようにギンの『青い彼岸花』を探す旅に同行するのも難しくなる。

 話し合いの末、しのぶは元"花柱"の胡蝶カナエの代理である"花柱代理"になることとなった。

 カナヲはまだ最終選別を突破していない。まだ正式に隊士になれていないのだ。故に、カナヲが選別を突破し、柱の条件を達成するまで、しのぶが花柱の代理として勤めることになったのだった。

 甘露寺蜜璃が担当していた蝶屋敷周辺の区域はしのぶが引き継ぐことになり、甘露寺は別の区域に移った。こうして、異例となる"柱代理"が新たに生まれたのである。柱と同等の権力を持ちながら、実際は蟲柱の継子と言う異例の扱いになったのだった。

 

 ……ちなみに、柱になる交換条件として、蟲屋敷を拠点にしていたギンは蝶屋敷に移り住むことになった。

 

「なんで俺が蝶屋敷にわざわざ引っ越さなきゃなんねえんだ……研究資料とか薬とかどれだけ運ばなきゃなんねえんだよ。今まで通りでいいじゃねえか別に」

「ギン。女性隊士からの君のあだ名を教えようか」

「?」

「朴念仁」

「は?」

 

 そんなやり取りがあったとかなかったとか。

 

「カナヲ!呼吸が乱れています。集中が途切れないよう、しっかりと呼吸を繋げなさい!」

「はい!」

 

 しのぶがカナヲを叱咤するように指導し、カナヲもすぐに力強く返事をする。

 

「真菰。もっと足を動かせ。体力を温存するのはいいが、疲れたフリを得意にするな」

「はい!」

 

 そして、真菰を指導するのは"水柱"である冨岡義勇だ。

 半年前、ギンと共に上弦の弐を討伐し、胡蝶カナエを救った後、義勇は蝶屋敷を訪れるようになった。自分の継子であり妹弟子でもある真菰も引き連れて。

 カナヲより二つ年上だが、同年代の同性の剣士。お互い学べることが多いだろうと、よくこうして実践稽古に励んでいる。

 

「速いな。カナヲもこれなら、すぐに最終選別を突破できるだろう」

「とても女とは思えんな」

 

 義勇の言葉に、しのぶは「はぁ」と溜息を吐いて咎めようとした。

 

「……義勇さん」

「違うぞしのぶ」

 

 だが、それを止めたのが兄弟弟子であるギンである。

 

「今の義勇は『女と馬鹿にすることは誰にもできんな。今の彼女達は立派な鬼殺の剣士だ。そこに男も女も関係ない。俺達ももっと精進しなければ』っていう意味で言ったんだ」

「先生?義勇さんはそんなこと言ってませんよ」

「……そう言ったが?」

「言葉が足らな過ぎなんですよ、義勇さんは」

 

 よく義勇さんの言葉が分かるなぁと感心し、どうして義勇さんのことが分かっていながら姉さんの気持ちに気付かないんだ、としのぶは呆れた。

 

 

「――それまで」

 

 

 ギンが止めると、それに合わせて二人は動きを止め、お互いに礼をした。

 

「ふぅ。さすがカナヲだね。私が速さで負けちゃうかと思ったよ」

「そんなことない」

「お疲れさん、二人とも」

 

 お互いの健闘を讃え合う二人に、柱3人が歩み寄る。

 

「真菰は以前より更に速くなったな。が、まだまだだ」

「ああ。まだ足さばきが荒い」

「うぅー。頑張ったのに兄弟子二人が厳しいよぉ」

 

 真菰が二人の言葉に涙目になりながら愚痴る。

 上弦の弐を討伐してから、義勇とギンは更に剣の腕が上がった。それに合わせて、周りの評価も。

"水柱"の継子となり、真菰にかかるプレッシャーも大きくなっている。だが真菰はめげることなく、兄弟子二人の姿を追いかけている。

 

「だが真菰も上達した。狭霧山で初めて会った日に比べればずっと成長した。よくやったな。な、義勇」

「ああ。さすが、俺の継子だ」

 

 もっと速く、もっと強く。

 

 目指すは、義勇のような柔軟さ。そしてギンのような強さだ。

 

「もちろん!だって私が次期"水柱"なんだからね!」

「お前にこの名は早い」

「なにをー!」

 

 その三人の様子は、師匠と弟子、と言うより兄達と妹だった。

 三人の様子をじっと見ていたカナヲ。一見するとただ無表情で三人を見つめているように見えたが――

 

"―――いいなぁ"

 

 しのぶはそんなカナヲの心を察した。

 

「カナヲ、お疲れ様。よくやったわ」

 

 しのぶはそっとカナヲの頭を撫でた。

 

「…………」

 

 頭を優しく撫でてくれる温もり。カナヲはその感情をまだよく理解できていなかったが、胸がほわほわする、と感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それにしても、しのぶさんいいなぁー」

「な、何がでしょうか?」

「とぼけちゃって!"蟲柱"のギンさんのことですよ!強くてカッコよくて。頭がいい!医術と薬学で多くの隊士を助けているギンさんに憧れている女性隊士は多いんですよ!」

「そうなんですか…?」

「ギンくんはすごいから。いろんな人達から慕われているのよ」

 

 義勇とギンは「用事がある」と言ってどこかへ行ってしまった。

 残されたのは花の乙女であるしのぶ、カナヲ、真菰、そして後から修行をしている二人の為におにぎりとお茶を持ってきたカナエである。

「みんなご飯よー」とお盆におにぎり載せて持ってきたカナエに、真菰は母親の姿を思い出していた。

 そして、修行ばかりでずっと張りつめらせるのも疲れるから、少し休憩することになった四人。おにぎりを摘まみながらお喋りに興じることとなった。

 俗に言えば女子会である。

 

「隠の人達に疲れているだろうからって滋養強壮の薬を渡したり、怪我をした隊士達を的確に手当するから。最初は皆、あの見た目に怯えるんだけど、すぐにギンくんの人柄が分かって慕うのよ。あの人に助けられた人はたくさんいるから」

「あぁー、分かるなぁ。私も最初、ギンさん怖かったから」

「真菰さんがですか?」

「はい。私がギンさんと初めて会ったのは、狭霧山で修業をしていた時なんですけど……」

 

 当時、両親を鬼に殺され、育手である鱗滝左近次に保護された真菰は、両親が殺されたことで精神が衰弱し、病床に臥せっていたという。その時に師である鱗滝の下へ訪れたのが、鹿神ギンだったのである。

 

「私、"水鏡"と言う蟲に姿を写し盗られていたんです」

「"水鏡"……?」

 カナヲとカナエは首を傾げるが、しのぶは「ああ」と頷いた。

 

「波のない池に棲む蟲ですよ。元は水銀のような姿をした蟲で、池の水面に動物や人間の姿が写ると、その姿を真似るんです。姿を映し盗った者の跡を付け回し、本体の体力を奪っていく。そして、本体は実体を喪い、水鏡は本体に成り代わるんです」

「そ、そんなに怖い蟲がいるの?」

 

 蟲を目に捉えることができるのは、この中ではしのぶだけだ。

 カナエは純粋に恐ろしいと思った。目に見えない何かが自分の姿を奪い取る。想像しただけでも、恐怖を引き起こしてしまう。

 

「対処法は意外と簡単です。水鏡が本体と入れ替わる瞬間、水鏡は力を持つので誰の眼にも映るようになるんです。その時、本体が――この場合、真菰さんですね。真菰さんによって鏡に映されると、水鏡は姿を崩すんです。そうすれば、水鏡も元に戻り、奪われた体力も元に戻るんです」

「はい。でも、最初は私、その蟲に姿を奪われていいと思ったんです」

「えぇ!?どうして!?だって姿を奪われたら……死ぬってことじゃないの?」

 

 カナエの言う通り、水鏡に姿を盗られると言うことは実質的に死を意味する。姿を奪われた本体がどうなるか、知る術はないが、ギンは黄泉の国に行けることはないだろうと語っていた。

 

「両親を殺されて、死んでもいいと思ったんです。こんな私でいいなら、使っていいよって」

 

 もう死んだっていいと思ってた。両親を鬼に殺され、これからどう生きれば分からなかった。

 

「けど、ギンさんが怒ってくれたんです。『意思もない何かにくれてやってもいいのか。お前さんの両親は、水鏡に姿をくれてやるために、お前さんをこの世に産んだわけでも、鬼から守ったわけでもないだろうに。お前さんは、そんな親の気持ちを無下にするのか』って。私、それを聞いてはっとしちゃって」

「……先生らしいです」

 

 その後、生きる気力を取り戻した真菰は鏡で水鏡を捕らえ、祓うことができたと言う。

 

「本当にカッコよくて憧れちゃいます!ギンさん!義勇も同じ兄弟弟子なのになんであんなに似てないんだろう?本当、残念兄弟子でびっくりしちゃうよ」

「あらあら。真菰ちゃんはギンくんのことが大好きなのね」

 

 ほわほわと笑うカナエと真菰。しのぶは知らない所で弟子に馬鹿にされる義勇に少し同情した。カナヲは3人の話を聞きながらもきゅもきゅとおにぎりを頬張った。

 

「だから本当は私、ギンさんの継子になりたかったんですよ~」

「あら、そうなの?」

「はい。でも頼んだら断られちゃって」

「珍しいですね。ギンさんは押しに弱いのに」

 

 理由としては、真菰は水の呼吸、そしてギンが森の呼吸の使い手だったからである。

 鱗滝に師事していたのでギンも水の呼吸はある程度使えるが、新しい型を生み出した義勇ほど極めてはいない。そして何より、真菰には蟲が見えないのが一番の理由であった。

 

「それは残念だったわね……」

「義勇は教えるの得意じゃないから、自分で盗むしかないんだけど……。でも、一緒に過ごして今じゃ義勇の継子になれてよかったなって思うよ。一緒に戦って、本当に義勇が強いんだって分かった。今は水の呼吸を極めるって目標ができたし……それにこうやってしのぶさんやカナエさん、それにカナヲに会えたからよかったかな」

 

 ちょっと照れくさそうに言う真菰にときめいたカナエが真菰に抱き着いた。

 

「真菰ちゃん本当に可愛いわ~~~!カナヲも可愛かったけど、真菰ちゃんも素敵!ね、真菰ちゃんも今から私の継子にならない?」

「姉さん!他所の柱の継子を勧誘しちゃ駄目!」

「あはは、カナエさんくすぐったいですよっ。それに、ギンさんが弟子をとらない理由はもう一つあるんです」

「もう一つ?」

 

 

 

 

「俺にはもう優秀な助手がいるからな。そいつ以外必要ないからこれ以上弟子を取る気はないって言われちゃいました」

 

 

 

 

 

 

「……師範。しのぶさんからほわほわした声が聞こえます」

「あらあら。しのぶったら顔を真っ赤にしちゃって。本当に嬉しかったのね」

「やっぱりしのぶさん、可愛いですね!」

「私もそう思うわ。うふふ」

 

 

 

 

 

 しばらくの間、しのぶはギンの顔をまともに直視できない日が続いたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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柱合裁判


 

 

 

 悪鬼滅殺。

 それが鬼殺隊の絶対不変の掟。

 

 

 鬼は人を喰う。

 人を殺し、血肉を喰らう獣。鬼舞辻の血を入れられた人間は理性を失い、記憶を失い、ただただ人を無差別に殺す。時に人を喰う為に嘘も吐き、残酷に、人を不幸にする。

 

 

 故に、鬼殺隊は鬼を見つければすぐに殺す。

 それ以上鬼が人を殺さない為に。

 

 一匹の鬼を殺せば、何十人もの人間が救われる。

 十二鬼月を殺せば、何百人もの人間が救われる。

 

 故に、鬼殺隊は慈悲なく鬼の頸を斬り落とす。

 

 鬼を庇うなど言語道断。

 

 それが鬼殺隊の掟だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして その絶対の掟を破った隊員が一人。

 

 

「カァー!カァー!緊急柱合裁判!緊急柱合裁判!鬼ヲ庇ッタ隊員ノ処遇ヲ決メルカラァー!産屋敷邸ニ来テチョォォーーダイネェーーーー!」

 

「ついに見つかったか。仕方ない。俺も行くか、柱合会議」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんだぁ?鬼を連れた鬼殺隊員っつーから派手な奴を期待したんだが……地味なヤローだなオイ」

「うむ!これからこの少年の裁判を行うと!なるほど!」

 

「な、なんだ……この人達は……?」

 

 うめき声をあげながら声をあげる炭治郎を、隠の後藤が頭を掴んで押さえつける。

 

「馬鹿野郎!まだ口をはさむな!誰の前にいると思ってんだ!柱の前だぞ!?」

 

 

 産屋敷邸。

 鬼殺隊の本部であり、鬼殺隊の当主である産屋敷耀哉の屋敷である。

 光脈筋の上に建てられたその屋敷は山と森に囲まれた、人里から隔絶された場所だ。この屋敷に来ることは一般の隊員は叶わず、来ることができるのは柱や一部の隠のみ。

 

「ここは鬼殺隊の本部です。ここで、今からあなたの裁判をするんですよ。竈門炭治郎君」

 

 そして、一流の職人達によって整えられた庭園で、裁判が始まろうとしていた。

 

 

「裁判の必要など無いだろう!明らかな隊律違反、我らのみで対処可能!鬼もろとも斬首する!」

「ならば俺が派手に頸を斬ってやろう。誰よりも派手な血飛沫を見せてやるぜ。もう派手派手だ」

 

"炎柱"煉獄杏寿郎の厳しい言葉に、"音柱"宇髄天元が同意する。

 

「ああ……なんというみすぼらしい子供だ、可哀想に。生まれてきたこと自体が可哀想だ。一思いに殺してやろう」

 

"岩柱"悲鳴嶋行冥が涙を流しながら数珠をじゃりじゃりと鳴らしている。

 

「殺してやろう」

「うむ」

「そうだな、派手にな」

 

 目が覚めたばかりの竈門炭次郎は混乱の極みにいた。

 那田蜘蛛山で十二鬼月である下弦の伍と戦い、助太刀に来た水柱によって救い出された炭治郎だが、その後の記憶があいまいだ。確かその後、別の女性の隊員がやってきて、鬼となった妹の禰豆子を殺そうとしたのだ。なんとか禰豆子を抱えて逃げ出したのはいいが―――駄目だ、その後のことが思い出せない。多分、気絶してしまったんだ。

 そしてここに連れてこられた。

"柱"と呼ばれる者達の前に。

 まだ鬼殺隊に入隊してから日が浅く、内情をよく知らないのは無理もない。だが、鼻がよく利く炭次郎は、目の前にいる人達が圧倒的な強さをもった剣士だということはすぐに分かった。

 

―――禰豆子!禰豆子どこだ、禰豆子!善逸、伊之助、村田さん!

 

 那田蜘蛛山で戦った仲間を思い出す。腕を縛られ上から押さえつけられている為、首を回して周りをみることしかできない。けれど、禰豆子も善逸も伊之助もここにはいない。

 

「そんなことより冨岡はどうするのかね。拘束もしていない様に俺は頭痛がしてくる。胡蝶めの話によると隊律違反は冨岡も同じだろう?」

 

"蛇柱"伊黒小芭内はネチネチと厭味ったらしく、松の木の上から非難を飛ばす。その相手は、炭治郎の兄弟子であり、那田蜘蛛山で命を救ってもらった"水柱"冨岡義勇だ。

 

「うむ。上弦の弐を討伐した功績が帳消しになりかねん愚行だ!」

「ああ……煉獄の言う通りだ。"柱"が鬼を庇うなど、なんという……南無阿弥陀仏」

「どう処分する、どう責任を取るつもりだ?冨岡」

「……事情がある。炭次郎は俺の弟弟子だ」

「弟弟子だと?ということは、冨岡の弟弟子ってことは、ギンの弟弟子でもあるのか。はっ、兄弟子も兄弟子なら、弟弟子もなかなか派手なことをしやがるじゃねーか」

 

 聞き覚えのある名前だった。

 ギン?ギンって……善逸や真菰さんが話していた人のことか?

 おそろしく強い人。そして、目に見えぬ何かを対処する薬師……いや違う。確か―――

 

「まあ、いいじゃないですか。大人しくついて来てくれましたし。義勇さんの処罰は後で考えましょう。それよりも私は坊やから話を聞きたいのです。さ、これを飲んでください。鎮痛薬入りのお水です。顎を怪我しているので、これを飲めば話すこともできるでしょう」

 

"花柱代理"胡蝶しのぶは、懐の小さな瓢箪の蓋を取り、炭次郎の口に流し込む。それを呑むと、身体中の痛みが徐々に薄れていくのを感じた。

 

「……ごほっ。俺の妹は鬼になりました。だけど人は喰ったことはないんです!今までも、これからも!人を傷つけることは絶対にしません!」

 

 

 炭治郎は必死に説明する。

 鬼となった妹を人間に戻す為、鬼殺隊に入隊したこと。禰豆子は二年以上も前に鬼になり、その間人を一度も食わなかったことを。

 

 

「くだらない妄言を吐き散らすな。そもそも身内なら庇って当たり前。言うこと全て信用できない俺は信用しない」

「あああ……鬼に取り憑かれているのだ。早くこの哀れな子供を殺して解き放ってあげよう」

「そんな話は地味で説得力もない。人を喰っていないこと、これからも喰わないこと。口先だけでなくド派手に証明してみせろ」

 

 

 駄目だ……聞く耳を持ってくれない。俺がいくら叫ぼうとも、俺の言葉じゃ信用してくれない。このままじゃ、禰豆子が殺されてしまう!

 炭治郎の全身に焦りが回っていく。このまま何もできずに殺されてしまうと、心臓で血管が破れそうになっていた。

 

「あのぉ……でも疑問があるんですけど……お館様がこのことを把握してないとは思えないです。勝手に処分しちゃっていいんでしょうか?いらっしゃるまでとりあえず待った方が……」

 

 控えめに小さく声を上げたのは、"恋柱"甘露寺蜜璃。

 甘露寺の言葉は正論だった。あの産屋敷耀哉が、この少年と鬼のことを知らなかったとは思えない。

 甘露寺のもっともな指摘により、ここで独断で少年を殺すのは良くないと考え、柱達の間で張りつめていた空気が解けた――しかし。

 

 

「オイオイ、なんだか面白いことになってるなァ」

「困ります不死川様!どうか箱を手放してくださいませ!」

 

 

 隠の言葉を無視し、現れたのは"風柱"不死川実弥だった。

 

 ――禰豆子の匂いがする。あの箱の中に!

 

 全身切り傷だらけの男は、軽々と禰豆子が入った箱を片手で持っている。

 

 

「鬼を連れてた馬鹿隊員はそいつかいィ」

 

 ――その左手には、妹が入った背負箱が。

 

「一体全体どういうつもりだァ?」

「不死川さん、勝手なことをしないでください」

 

 しのぶが眉を顰めながら風柱の行動を咎める。

 しかし、不死川は聞く耳を持たない。

 

「鬼が何だって?坊主ゥ。鬼殺隊として人を守るために戦えるゥ?そんなことはなァ、あり得ねえんだよ馬鹿がァ!」

 

 刀を抜いた不死川は、そのまま哂いながら、禰豆子が入った箱に刀を突き刺した。

 

 ――肉に刃が突き刺さる音、そして貫かれた穴からぼたぼたと真っ赤な血が流れ出す。

 

 その瞬間、頭に沸騰した血が流れ込んだ炭治郎は、両腕を縛られたまま不死川に向かって走り出した。

 

 

「俺の妹を傷つける奴は、柱だろうが何だろうが許さない!」

 

「ハハハハ!そうかい良かったなァ」

 

 不死川が躊躇なく日輪刀で炭治郎を殺そうとした時、義勇が叫んだ。

 

「やめろ!もうすぐお館様がいらっしゃるぞ!!」

 

 その声に気を取られたのか、炭治郎は間一髪で不死川の顔面に――頭突きを叩き込んだ。

 

「ぷっ」

「……蜜璃さん」

「ご、ごめんなさい……」

 

 笑いを堪える甘露寺と、それに呆れるしのぶ。

 そして、柱達はその一部始終を見て、呆気にとられた。

 

――冨岡が口をはさんだとはいえ、あの不死川に一撃を入れた。

 

 鬼を殺す達人。それが、ここにいる九人の剣士だ。

 そして不死川は、柱達の中でも上位に君臨する実力者。それをただの隊員が――

 

「善良な鬼と悪い鬼の区別もつかないなら、柱なんてやめてしまえ!」

 

 炭治郎は両腕を縛られながらも、禰豆子が入った箱を庇うように不死川の前で起き上がる。

 もちろん、それを黙っている風柱ではない。

 

「てめェ、ぶっ殺す!」

 

 不死川が刀を炭治郎の首元に沿える。そしてついに炭治郎の頸が斬られる――その瞬間。

 

「お館様のお成りです」

 

 屋敷の方から子供の声が聞こえた。

 開かれた襖の奥から現れたのは、黒く長い髪と白い羽織を着た男の人だった。

 

「よく来たね、私の可愛い剣士(こども)たち」

 

 ――この人がお館様?

 

「お早う皆、今日はとてもいい天気だね。今日も空は青い。顔ぶれが変わらずに半年に一度の柱合会議を迎えられたこと、また君達をこの目で見ることができて、本当に嬉しく思う」

 

 不思議な男の人だった。

 鬼殺隊の当主――炭治郎は、きっと強い人なのだろうと勝手に想像していた。

 しかし、今目の前にいるこの人からは強い人の匂いを感じない。

 

 そう考えていると、突然、頭を地面へ叩きつけられる。

 不死川が頭を地面に押さえつけたのだ。

 自分が全く反応できないほどの速さで。すぐに抵抗しようと試みるが、柱全員が一斉に並んで膝をついている。

 

「お館様におかれましてもご壮健でなによりです。益々のご多幸を切にお祈り申し上げます」

「ありがとう実弥」

「畏れながら、柱合会議の前にこの竈門炭治郎なる鬼を連れた隊士について、ご説明いただきたく存じますがよろしいでしょうか?」

 

 知性も理性も全く無さそうだったのにすごいきちんと喋り出した……あまりの豹変ぶりに驚きを隠せない炭治郎だった。

 

「そうだね。驚かせて済まなかった。だが、私から説明する前に、まだ来ていない柱が一人いるね」

「あー。悪い。遅れた」

 

 庭に、今の状況にそぐわない、抜けた声が響いた。

 

「……あれ。もう全員揃ってたのか」

「遅いよ、ギン」

「悪かったな。ちょっと取りにいくもんがあって、探すのに手間取った」

 

 奥から現れたのは、白髪の、緑の眼をした男の人だった。腰に刀を差してここにいるということは、この人も柱なのだろうか。しかし、隊服を着ておらず、異国の服を身に纏っている。

 

 ――空気が和らいだ。なんだろう、この人の匂い。すごく落ち着く。森の匂いがする。大きな樹の匂いがする。

 

「お、そいつが噂の隊員か。で、その箱に入っているのが鬼か」

 

 俺のことを知っている?一体、誰だろう。

 そう疑問に思っていると、青年は自分の名を名乗った。

 

 

「俺は"蟲柱"鹿神ギン。一応、立場上はお前の兄弟子ってことになる」

 

 

 

 ――恐ろしく強い人で、優しい人だった。俺が一時期雷で死にかけた時も、その人がいろいろ手助けしてくれた。今も時々、文を出すんだ。いろんな相談事に乗ってくれる。悩んだ時はいつも俺が欲しい答えをくれるんだ

 

 ――ギンさんはね、すごい人なんだよ。私が病床に臥せっていた時も、ギンさんが助けてくれたんだ。私が死んでもいいと思っていた時も、私に生きる力をくれた人なんだ。

 

 ――その人は、鬼殺隊なんですか?

 

 ――うん。でもね、鬼狩りだけど、それ以外にも別の名前があるの

 

 

 

 そうだ確か、あの時真菰さんと善逸が呼んでいたのは―――

 

 

 

「竈門炭治郎。一度会ってみたかったんだ」

 

 

 

 ―――蟲師。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ。よっこいしょ」

 

 ギンと名乗った青年は、そのまま薬箱を縁側に降ろすと、柱達のように跪かずによっこいしょとお館様の隣に座り込んだ。

 

「おいコラ鹿神。テメェどこ座ってんだァ。曲りなりにもお館様の前だぞォ?一体何様のつもりだァ?」

「うむ!ギン!さすがに失礼だぞ!」

 

 不死川と煉獄がギンを注意するが、ギンは「あーはいはい」と気が抜けた返事をするだけだった。

 

「痛いんだよ、そこ。砂利がさ」

「関係ねえんだよ。テメエも柱ならこっちに来て跪けやァ」

「なんでわざわざ庭でやるんだよ。会議なら部屋の中でやろうぜ。俺陽の光ダメなんだよ、なあ耀哉?」

「話聞けやァ!」

 

 不死川が声を荒らげるが、ギンはそれをまったく異に介さず、懐から紙を取り出したかと思うと、それを産屋敷耀哉の娘であるひなきに渡した。

 

「久しぶりだな、ひなき。みちか。薬は効いてるか?」

「はい。ギン様。おかげで毎日元気です」

「そいつはよかった。耀哉、"瞼の裏"で話した通り、そいつが義勇が見つけてきた例外だ」

「うん。ありがとうギン」

 

 ギンが淡々とお館様に報告する様を疑問に思った小芭内が問いかける。

 

「おい鹿神。何を言っている。まさか、お前も竈門炭治郎のことを知っていたという訳ではあるまいな」

「ああ。俺と義勇は2年前から竈門兄妹のことを知っていた。鬼殺隊に入隊していたことも」

 

 

「「「「「!?」」」」」

 

 柱達の動揺の匂いが強くなる。その中で一番強い戸惑いの匂いを上げていたのは、胡蝶と呼ばれた女性だった。

 

「先生!?一体どういうおつもりですか。二年前から知っていたのに、何故私達に話さなかったんです?」

 

 怒りと戸惑いの匂いを混ぜた胡蝶しのぶの言葉に、ギンが答える。

 

「今みたいなことになるからだよ。俺が話したら、不死川辺りがすぐに突っ込むだろ?お前には悪いとは思っていたが、この話は耀哉、義勇、そして義勇の継子である真菰にしか話さなかった機密だ」

「鬼を庇うと言うことですか、先生」

「庇う……って言うと、ちょっと語弊があるな。これには深い事情がある」

「どう語弊があると言うんだ、何の事情があると言うんだ鹿神。裏切り以外に言いようがないだろう。"蟲柱"そして"水柱"、二人もの柱が鬼を庇っていたなど、どう責任を取る?どう処罰する?俺は怒りで腸が煮えくり返りそうだ」

「ギン!見損なったぞ!尊敬し、信頼していた友に裏切られるなど!はっきり言って失望した!」

「テメェ、覚悟はできてんだろうなァ?」

「ほら。こいつら聞く耳持たないだろ。だから情報統制してたんだよ」

 

 そうしのぶに言い聞かせるギンだが、しのぶは納得いかないと言わんばかりに頬を膨らませる。

 

(しのぶちゃん!可愛いわ。頬を膨らませちゃって!鬼を庇っていたことより、秘密を教えてくれなくて仲間外れにされたと思ってるのね!拗ねちゃってて可愛いわ!)

 

 それに対して、甘露寺蜜璃はきゅんきゅんしていた。

 

「義勇とギンから、炭治郎と禰豆子のことを既に報告されていたんだ。驚かせてすまなかったね」

「何故ですかお館様!」

 

 煉獄の言葉に、耀哉は頷きながら答えた。

 

「人を喰わぬ鬼。義勇は、禰豆子が鬼になった直後、兄である炭治郎を襲わずに庇う所を目撃し、そしてギンは、禰豆子は治療薬の元になる可能性があるかもしれないと語ったからだ」

 

 治療薬の……元?

 そういえば……珠代さんが言っていた。

 

『私も数年前、鬼を研究している鬼狩りと接触しました。その人は、私が鬼であることを知りながら、様々なことに協力していただいています。鬼舞辻を倒す為に。そして、鬼を人に戻す薬を研究するために』

 

 珠代さんが言っていたのは、この人のことだったんだ……。

 

「ギンと義勇から報告を受け、そして私は炭治郎と禰豆子のことを容認していた。そして皆にも認めて欲しいと思っている」

 

 まさか、鬼殺隊の当主から『認めてもらいたい』と言う言葉が出てくるとは思わなかった柱達。

 

「嗚呼……たとえお館様の願いであっても、私は承知しかねる」

「俺も派手に反対する。鬼を連れた鬼殺隊員など認められない」

「僕はどちらでも……すぐに忘れるので」

「信用しない信用しない。そもそも鬼は大嫌いだ」

「心より尊敬するお館様であるが、理解できないお考えだ!全力で反対する!」

「鬼を滅殺してこその鬼殺隊。竈門、冨岡、そして鹿神、三名の処罰を願います」

 

 しかし案の定と言うべきか、柱のほとんどが反対意見を上げる。当然だろう。長い間鬼狩りの最前線で戦ってきた柱達は、鬼がどれだけ危険で醜悪かよく理解している。それ故に、いくら当主の意向であれど首を縦に振ることはできなかった。

 

 だが。

 

「なら、私は賛成します」

「あ、しのぶちゃんとお館様が言うなら……私も賛成で」

 

「胡蝶!?」

「甘露寺!?何を言っている!」

 

 女性陣が賛成したことにより、空気が一変する。

 

「いいのか、しのぶ」

「先生。これには意味があることなんですよね?」

 

 ギンを睨みつけながら、しのぶは問いかける。

 

「ああ。俺は必要なことだと思っている」

「なら、私は反対する理由はありません」

「何を言っている胡蝶!テメェそれでも柱かァ!」

 

 まさか鬼に強い憎しみを抱いているしのぶが賛成すると思わなかった不死川が、しのぶに向かって怒鳴り散らす。しかし、しのぶはどこ吹く風と言わんばかりに「フン」と鼻を鳴らした。

 

「確かに私は柱ですが、あくまで"花柱代理"。本来なら私は"蟲柱"の継子。師の意思を汲むのが弟子の役目という物です。何か文句がありますか?」

「テメェ……」

「甘露寺。お前はどういうつもりだ」

「わ、私はお館様の望むままに……それに、ギンさんにはいつもお世話になっているから」

「……」

 

 伊黒はどす黒い殺気をギンに向かって飛ばす。その怨念は今すぐ自分を呪い殺しそうな勢いだった。ここが柱合会議の場でなければきっと刀を抜いてきたに違いない。

 

 

「やっぱり、ほとんどの柱に反対されたね。それじゃあ、例の手紙を」

「はい」

 

 耀哉がそう言うと、先ほどギンから手紙を受け取ったひなきが手紙を開きながら言った。

 

 

「こちらの手紙は、元柱である鱗滝左近次様から頂いたものです。一部抜粋して読み上げます」

 

 

 

 

炭治郎が鬼の妹とともにあることをどうか御許しください。

禰豆子は強靭な精神力で人としての理性を保っています。

飢餓状態であっても人を食わず、そのまま二年以上の歳月が経過致しました。

俄かには信じ難い状況ですが紛れもない事実です。

もしも禰豆子が人に襲いかかった場合は

 

 

 

「竈門炭治郎及び、冨岡義勇、鱗滝真菰、鱗滝左近次、鹿神ギン、以上五名が腹を切ってお詫び致します」

 

 

 

「……上弦の鬼を討伐した柱が、その功績を帳消しにしてでもその鬼を庇うの?」

 

 今までほとんど話を聞き流していた"霞柱"時透無一郎が疑問の声をあげる。

 

「義勇さんと先生は、現柱の中で唯一上弦の鬼を討伐した剣士。特記戦力である柱の命を賭けるのは、ただの隊士が命を賭けるのとは意味合いが違います。先生、義勇さん。これの意味がお分かりですか?万が一、竈門君の妹が人を傷つければ、鬼殺隊の柱が欠けることとなるんですよ」

「覚悟の上だ」

「ああ。兄弟子として、男として当然のこと」

「それに、竈門兄妹には見どころがある。カラスから聞いたが那田蜘蛛山で下弦の伍をあと一歩まで追い詰めたんだろ?おまけに不死川に突っ込んで頭突きを食らわす度胸と気合がある」

「なっ、見てたのかテメェ!」

「そんな見どころがある奴を、なんで殺すんだ」

 

 

「―――――!」

 

 

 自分を育ててくれた、鱗滝さん。自分に呼吸を教えて助けてくれた、真菰さん。そして俺をここまで導いてくれた冨岡さん。そして、まだ話したこともない人が、俺を、禰豆子を、認めてくれている。

 純粋に嬉しかった。歯を食い縛らなきゃ、泣き叫んでしまいそうだった。

 

 

「切腹するから何だと言うのか。死にたいなら勝手に死に腐れよ。何の保証にもなりはしない。いくら冨岡と鹿神が上弦の弐を討伐したからとはいえ、特別扱いする理由にはならない!」

「不死川の言う通りです!人を喰い殺せば取り返しがつかない!殺された人は戻らない!ギン!今からでも遅くない!撤回しろ!」

 

 しかしそれでも反対の声を上げる炎柱と風柱。更には、先ほどの手紙の内容を撤回しろと煉獄が言う。

 煉獄にとって、ギンは弟弟子であり、友でもある。幼少期を共に同じ釜の飯を食って過ごした大切な友人だった。そんな友人に、簡単に命を賭けて欲しくはなかったのである。

 

 しかしギンはそんな杏寿郎の心配をよそに、いつの間にか取り出したパイプ煙草で煙を吸いながら足を組んでくつろいでいた。

 

「そもそも、俺は鬼だから皆殺し、って言うのは元から大雑把で好きじゃねぇんだ。撤回したら、すぐに禰豆子を殺すだろ?杏寿郎。なら、俺は撤回はしない」

「甘い。甘いな鹿神。元"花柱"の下らぬ性根が移ったか?鬼と人は仲良く手を取り合っていけるとお前も戯言を宣うつもりか」

「鹿神。テメェも分かってるだろうがァ。今まで俺達鬼殺隊が、どれだけの想いで戦い、どれだけの者が犠牲になったか知っているだろうが!?」

 

 ギンの言葉は、かつての花柱の考えを想起させる。伊黒は舌打ちをしてそれを咎めた。

 

「そんなことは言わねぇよ。鬼は人を喰う。これが絶対の法則だ。だが禰豆子を今ここで殺したとしても、鬼が今すぐ滅ぶわけじゃない。大勢の人間が苦しめられているのは、禰豆子と炭治郎のせいじゃない。事実、禰豆子は人を傷つけていない。それでも殺したいと言うのは、最早ただの八つ当たりだ。こっちは五人の命を禰豆子に賭けてるんだ。その内柱が二人もいる。これと釣り合う何かを差し出せるなら、禰豆子を殺せばいい」

「ギンの言う通り、禰豆子にはこうして五人の命を賭けられている。その内の一人は、私の親友でもある鹿神ギンだ。確かに、実弥と杏寿郎の言う通り、禰豆子が人を襲わないという証明はできないが――人を襲うということもまた証明できない」

「っ!」

 

 耀哉の指摘に、思わず不死川が唸る。

 

「禰豆子が二年以上もの間人を喰わずにいるという事実があり、五人の命がこうして懸けられた。これを否定するには、否定する側もそれ以上の物を差し出さなければならない」

「……むぅ!ならばどうすると言うのだ!ギン」

「無論、働いてもらう。鬼を匿う価値、それを竈門兄妹には示してもらう。具体的には十二鬼月の討伐。それでなんとか帳尻合わせって訳にはいかねぇか、不死川」

 

 先ほどからギンを殺す気で睨みつけているのは不死川実弥だ。

 元々、ギンと不死川は意見が合わないことが多々あった。性格の相性もそうだったが、鬼に対して甘い考えを持つギンと、全て滅ぼさなければ気が済まない不死川とでは、元から価値観が合うはずもなかった。

 それでも今まで何度か同じ任務でやってこれたのは、互いがしっかりと「鬼を殺す」という役割を全うし続けたからだ。

 

「いかねぇなぁ、鹿神」

「竈門が鬼舞辻と遭遇していると言ってもか?」

「何!?」

 

 柱が今まで誰も遭遇したことがない鬼舞辻と遭遇した――それを聞いた柱達は一気に慌て出すが、

 

 耀哉が人差し指を口に当てた瞬間、声が静まる。

 

「鬼舞辻はね、炭治郎に向けて追手を放っているんだよ。単なる口封じかも知れないが、私は初めて鬼舞辻が見せた尻尾を掴んで離したくない。恐らく禰豆子にも、鬼舞辻にとって予想外の何かが起きているのだと思うんだ」

 

「「「………………」」」

 

「それでも納得できない、と言いたげな顔だね。ギン。例の物を」

「……できればこいつは使いたくなかったんだが」

 

 なんだ?何をする気なんだ?

 炭治郎は不安になっていると、ギンは薬箱から小さな小瓶を取り出した。

 

 その小瓶には、赤黒い泥のような……血のような液体が入っていた。

 

 なんだ、あの液体は?

 果実酒のような甘くていい匂いがするけど――鼻の奥が痺れる……

 

 炭治郎はその匂いを嗅いだ瞬間、鼻を塞ぎたくなった。決して不快な匂いじゃない。炭治郎の身体が本能的に拒否したのだ。それを嗅いではいけないと。

 

「おい、ギン。なんだそれは」

「チッ。また蟲か変な薬か?そいつで何をしようって言うんだ」

「こいつは、腐酒という。光酒と対になる酒……いや、成れの果てとでも言うべきか。光酒よりも採取は難しい希少な物だ」

「光酒の対となる物だと?」

 

 普通の光酒は人や生物に対しては良い影響を与えるが、この腐酒は真逆だとギンは言った。 

 光る酒をよくねだる宇髄も思わず顔をしかめる。あの酒は決してあんな赤黒い色ではなかった。あんな地味で飲むことを拒みたくなるような色をしていなかった。

 

「これは光酒が腐った物だ。本来、地下深くの光脈で蟲となれなかったモノ達の集合体。どうしてこれが地下からあふれ出るのかは不明だが、これは人に対しては猛毒だ。だが、鬼に対しては最高の美酒となる液体だ」

「何!?」

「そんな液体、聞いたこともないぞ!」

「つい最近俺が見つけてきた物だから仕方ない。だが、これを侮るなよ。一滴だけで稀血1人と同等の栄養がある」

 

「一滴で稀血一人分だと!?」

 

 稀血。

 それは、特殊な血液の性質を持った人間のことを指す。鬼はこの稀血の人間を喰うと普通の人間50~100人分を食べる事に相当する力を得る。

 

 簡単な話、栄養価が鬼にとって段違いなのだ。一人喰うだけで、厄介な力を身に着けてしまうほど強力な血。

 

 それが、たった一滴で稀血一人分の血肉に相当する。

 もしこれを鬼が飲めば――

 

「その辺の鬼に匂いを嗅がせれば、一瞬で正気を失う劇薬だ」

「……それをどうするつもりなの?」

 

 淡々と訊く時透無一郎に、ギンも淡々と返した。

 それは、炭治郎にとって信じがたい言葉だった。

 

「禰豆子には、これに耐えてもらう」

「なっ!!?やめっ――」

 

 禰豆子にそんな物を嗅がせるな。嗅がせないでくれ。そんな液体で、禰豆子を鬼に堕とさないでくれ!

 

「悪いな、ちょっと借りるぞ」

 

 しかし、炭治郎の願いは無情にも――禰豆子が入っていた箱は取り上げられ、いつの間にか屋敷の日陰へ移動したギンが箱を開いた。

 

 中から現れたのは、先ほど不死川に刺された血で濡れた禰豆子だった。

 箱に入るために小さかった身体が、大きくなっている。身体を自由に作りかえれるのは鬼である証拠でもある。

 

「これの匂いを嗅いでそれでも正気を保てれば、禰豆子にはそれだけの価値があるんだ。悪いな、禰豆子。頼むから耐えてくれ」

 

 やめろ―――そう言いたかった。禰豆子は今怪我をしている。回復するためには寝なきゃならない。その状態で稀血以上の液体を出さないでくれ――しかし、炭治郎は伊黒によってその場に押さえつけられてしまう。

 

「伊黒さん。強く押さえ過ぎです。少し緩めてください」

「動こうとするから押さえているだけだが?」

「竈門君。肺を圧迫されている状態で呼吸を使うと血管が破裂しますよ」

「血管が破裂!いいな響きが派手で!」

 

「ねず……こォ……!」

 

 ギンは、蓋を開けた。

 瞬間、甘い果実酒の匂いが屋敷の庭まで漂い始める。それは甘く、いい匂いだった。だが、どこか血か何か――腐った肉が混じったような、屍の匂いがした。鼻が利かない柱達でも、感じ取れるほどに濃い死の匂い。

 

 禰豆子に変化が訪れたのはすぐだった。

 

「フゥー……!フゥー……!」

 

 目を血走らせ、口枷から大量の涎が溢れだしている。

 飢餓状態――いや、腐酒によって本能を刺激されているのだ。鬼としての、人食いとしての食欲を。

 

 これを飲めば、いや一滴でも舐めればこの苦しみから解放される。この空腹が消えてなくなる。

 

 呑みたい、呑みたい、呑みたい。

 呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい呑みたい

 

 禰豆子の思考を埋め尽くす食欲。

 血が滲むほど拳を握っても、舌を噛み千切るほど歯を食い縛っても、溢れる涎。

 

「がぁぁ……!」

「竈門君?」

 

 禰豆子が苦しんでいる。頑張っている。火事場の馬鹿力か、それとも本能で動いていたのか――炭治郎は自力で腕の縄を引きちぎった。

 

「なっ」

 

 戸惑う伊黒の腕を、冨岡が掴む。拘束が緩んだ瞬間、炭治郎は縁側に駆け寄って叫んでいた。

 

「禰豆子――――――!」

 

 呑みたい。呑みたい。……呑めない。呑みたくない。

 人の肉は、人の血は、喰わない。

 人間は皆、家族。人は、守る―――絶対に、傷つけない。絶対に、負けない。

 

 

「っ!」

 

「……よく堪えた」

 

 ギンはそう言って、腐酒の瓶に蓋をした。

 瞬間、甘い匂いは消え失せた。

 

「―――これで、禰豆子が人を襲わないと証明できたね」

「よかった……!禰豆子……!」

 

 禰豆子は、耐えた。腐酒の誘惑を跳ね除け、そっぽを向いたのだ。

 

「悪かったな、炭治郎。禰豆子を試すような真似をしちまって」

 

 ギンはそう言いながら、精神力を使い果たした禰豆子を箱にそっと戻し、柱達に眼を向けた。

 

 

 

「禰豆子はたった今、こうして証明して見せた。だから俺も義勇も、この命を賭けられる。この兄妹は今から蟲柱と水柱の預かりとなる。それでもまだ文句がある奴は言ってみろ」

 

 

 

 

 反対の声は―――ひとつも上がらなかった。

 

 



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蝶屋敷

 

 柱合裁判は終わった。

 結局、あの後反対意見が出なかったことにより、竈門炭次郎と竈門禰豆子は鬼殺隊で保護されることとなった。

 鬼殺隊始まって以来、前代未聞の「鬼の隊士」が認められたのである。

 もちろん、禰豆子が鬼である限り、二人には今後も厳しい監視が付き纏う。

 他の隊士にもよく思われない。二人はようやくスタート地点に立つことができたのである。

 その炭治郎は、先ほど「あの傷だらけの人に頭突きをさせてくださいっ!」と喚いていたが、時透に石をぶつけられ隠によって蝶屋敷に連れて行かれた。

 どうやらよほど禰豆子を刀で刺されたのが許せなかったらしい。耀哉の話を遮られた時透に止められるまで、縁側の柱にしがみ付いて最後まで必死に不死川に頭突きをさせてほしいと耀哉に懇願していた。

 先の任務で怪我をしていたと言うこと、伊黒に押さえられながら全集中の呼吸を行使したためそれ以上抵抗はせず、箱に入った禰豆子と共に蝶屋敷預かりとなった。しばらくの間は蝶屋敷で療養をすることとなるだろう。

 

「くっ、はははっ。なかなか見所あるな、俺達の弟弟子は。な、義勇」

「ああ」

 

 ギンが義勇にそう言うと、話を聞いていた不死川が舌打ちをした。

 

「何が見所があるだ鹿神テメェ」

「鬼より恐ろしい風柱に喧嘩を売れる奴は早々いない。度胸だけなら一人前だ。お前もそう思わないか、伊黒」

「思わないな思えないな。そもそも俺は鬼が大嫌いだ。鬼を連れた隊士などもっと嫌いだ。度胸があろうがなかろうが、俺は奴を認めはしない」

 

 不死川と伊黒はまだ納得がいかないのか、不満げな表情を隠そうともしない。それと対照的に炭治郎達に好印象を持っていたのは、煉獄と宇髄だ。

 

「うむ!だが鬼舞辻を倒すと大声で言うとは、よい心がけだ!さすがギンと冨岡の兄弟弟子だ。見所がある!」

「ああ。地味なヤローだが派手なことを言いやがる。根性もありそうじゃねーか」

「そうだね。私も炭治郎には強く期待している。他の柱の皆も、彼と禰豆子には気を掛けてやって欲しい」

「「「御意」」」

「それじゃあ、先ずは……ギンの今回の旅の報告をしてもらおうか。さっきの"腐酒"についてもね」

「ん」

 

 ギンは頷くと、先ほど禰豆子の前に出した"腐酒"が入った瓶を取り出した。

 

「まずこの"腐酒"だが、これは稀血の成分と良く似ている。先日、鬼にされたばかりの雑魚鬼にこれを投与してみた結果、急速に力を付けて血鬼術を使えるようになるほどだった」

「なんと。それほどまでに……強力な液体とは……。鬼舞辻や鬼共がこれを知っている可能性は?」

 

 岩柱の悲鳴嶋は眼から涙を零しながらギンに問いかけた。ギンの話が正しければ、腐酒を一滴摂取すれば鬼は稀血の人間を喰った時かそれ以上の力を得ることができる。たった一滴で稀血の人間一人分の栄養価なのだから、それを一口、盃一杯分も飲めば、更に強力な鬼が生まれる危険性がある。

 

「結論から言えば、ある」

「……では対処法は?」

「そこは今の所、研究中だ。鬼が腐酒を摂取するだなんて、今まで見た所がないしな。そもそも、この腐酒自体がかなり希少なんだ。光酒を採るよりも難しく、出現条件も誰にも分からない。俺も偶然山奥で見つけられたが、小瓶一つに入れるのが精いっぱいだった。鬼舞辻が見つけたとしても、鬼共全員がこれを飲んでいる、ということはありえないが……十二鬼月はこれを飲んでいる可能性がある」

「ちっ、塵共が。厄介なモンを持ってきやがって。で、その根拠は?」

「俺が鬼舞辻だったら、栄養価が高く採取するのが困難な腐酒をそこら辺の鬼にはやらない。必ず十二鬼月に呑ませるはずだ」

「うん。私もそう思う」

 

 ギンの言葉に、耀哉も同調する。

 

「では、ギンには()()()()を進めておいてほしい」

「もちろん。……ああ、あとそれと」

「何かな?ギン」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「"青い彼岸花"が生える場所を突き止めた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生」

「しのぶか」

 

 柱合会議が終わり、柱達はそれぞれの仕事に戻る為に解散した後、ギンとしのぶだけが産屋敷の庭に残っていた。

 

「なんで私に教えてくれなかったんですか。禰豆子さんのこと」

 

 裁判、そして会議中、ずっとしのぶは不機嫌だった。

 理由は、ギンが禰豆子のことを隠していたことだ。

 信頼していた師匠が、弟子である自分に隠し事をしていたこと。それも『人を喰わない鬼』を鬼殺隊の隊員が連れていると言う前代未聞の事例。

 確かに、鬼を匿うなど言語道断。大っぴらに人に話せないことだと言うことは分かる。けれど、私はそんなに秘密が守れない弟子に見えていたのだろうか。

 冨岡義勇はまだいい。山で禰豆子を殺そうとした自分を止めようと鬼殺を強引に止められたこともまあ許そう。

 あの人は元々口数が少なく考えていることを表に出さない。根回しをするなんて器用さがあるわけでもなし、私や他の柱に禰豆子さんのことを話したり相談することはないだろう。

 

 でもギンさんは、よりにもよって私や姉さんに隠し事をした。

 

 それが、しのぶにとってショックだったのだ。いくら私が鬼が憎いとは言っても、先に言ってくれれば助けになれることはたくさんあったはずなのに。それに姉さんは、『鬼と仲良くなりたい』と言う夢を持っている。話してくれれば、絶対に手助けできたのに。何も教えてくれなかった。

 

「私のことがそんなに信頼できなかったんですか?」

 

 しのぶにとって、ギンは蟲を見ることができる自分を助け、そして首を斬れなかった自分に"毒"と言う手段を与えてくれた恩師。

 そして、唯一の肉親であるカナエを上弦の弐から助けてくれた命の恩人だ。

 なのに、この信頼は自分にしかない一方通行だったのか。

 そんなのは嫌だった。この関係がそんな冷たく乾いた物とは思いたくない。

 そう思っていると、ギンは首を傾げながら呆れて言った。

 

「何言ってんだ。お前は俺の助手だぞ。一番信頼してるに決まってるだろう」

「……――――!」

 

 素面の状態で何を言ってくれるんだこの人はッ!?

 本当にこの人は……!呆れと、戸惑いと、怒り――そして、胸の中に湧く暖かい感情。この人は、本当に鈍い癖に相手が一番欲しがる言葉をくれる。

 私はそこがたまらなく嫌いだった。

 しのぶは動揺を悟られぬよう、「ごほんっ」と強く咳払いした。顔が真っ赤だったのであまり意味はなかったが。

 

「な、ならなんで私には教えてくれなかったんですか!真菰さんには話してた癖にっ!」

 

 同じ女性でありながら、水柱の継子である真菰は禰豆子のことを知っていた。

 なのに、弟子の私には何も教えてもらえなかった。花柱代理に就任したとはいえ、立場上は私はギンさんの継子なのに。

 そう、しのぶ自身気付いていないが―――早い話、真菰に嫉妬していたからである。

 そして、ギンはその理由をあっさりと答えてくれた。

 

「だってお前、カイロギをまだ寄生させたままだろ?」

「それが何―――あっ」

 

 カイロギ。

 水脈に棲む蟲。元々は姉の継子である栗花落カナヲに寄生していた蟲だが、訳があって自分と、そして姉の胡蝶カナエにも寄生している。

 その蟲は宿主の意思に問わず(宿主の意思で操ることも可能ではあるが)、心の声を心を開いた誰かに届けてしまうと言う力がある。

 つまり、しのぶにもし話せば――カイロギが勝手に情報を他人に運び、簡単に情報が漏れる。

 

「…………すみません」

 

 理由があった。しのぶには話せない理由が。

 そしてしのぶは、今自分がしたことがただの八つ当たりに近い物だったことに気付き――顔を真っ赤にして落ち込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 隠の後藤さんによって蝶屋敷に連れて行かれた俺は、すぐに病室に運ばれた。蝶屋敷は、さっき裁判の時にいた"花柱代理"の胡蝶しのぶさんって言う柱の人が運営している鬼殺隊の病院だと隠の後藤さんが教えてくれた。ここにはいろんな事情で行く先がなくなった子供が看護師として働いていたり、隊士の人達が怪我を治療しに入院していたり。そして今回、那田蜘蛛山で多くの怪我人が出た為、怪我人のほとんどがここに担ぎ込まれたらしい。

 途中に出会った最終選別で見かけた女の子――栗花落カナヲ、って女の子が病室まで案内してくれたんだ。

 

 その病室のベッドには、先にここに連れてこられたらしい善逸と伊之助がいた。

 

「三ヵ月間呑み続けるのこの薬!?これ飲んだら飯食えないよいやぁぁぁぁぁぁ!」

「ゴメンネ、弱クッテ」

 

 二人とも満身創痍だった……。

 

「あらあらまあまあ!あなたが竈門炭治郎君ね!ギンくんとしのぶから聞いたわ、鬼を連れている隊士だって!私本当に嬉しくって!あとで禰豆子ちゃんにも挨拶させてね!もう、ギンくんったらあの時言っていたのは二人のことだったのね!隠さずに教えてくれればよかったのにこうなったら後でお説教しなきゃっ」

 

 病室で少し横になって休んだ後、胡蝶カナエさんと言う凄い綺麗な人が俺達を診察をしてくれた。

 どうやら俺の兄弟子(らしい)鹿神さんと知り合いらしいけど……?

 

「炭治郎君は切創と擦り傷ね。あとは筋肉痛と肉離れ。幸いにも骨に異常はないみたいだから、あとはお薬と一時間の点滴で大丈夫。たくさんご飯を食べて、たくさん眠ればすぐによくなるわ」

「はい!ありがとうございますっ!」

「いい子ね、炭治郎君は。さすが、義勇くんとギンくんの弟弟子だわ」

 

 そう言って俺の頭をぽんぽんと撫でてくれるカナエさんは、本当に優しい匂いがした。人を慈しみ、尊ぶ優しさに溢れた匂いだった。死んだ母を思い出させてくれる優しさだった。

 禰豆子は今寝ているけど、夜になったら会わせてみよう。きっと、禰豆子も喜ぶと思う。

 

「――俺は、守られてばっかりだ」

 

 あの日。家族を鬼に殺され、禰豆子を鬼にされたあの日。俺は泣きながら許しを乞うしかなくて。冨岡さんに叱咤され、鱗滝さんの所を紹介してくれなければきっとここまで来れなかった。

 

『禰豆子はたった今、こうして証明して見せた。だから俺も義勇も、この命を賭けられる。この兄妹は今から蟲柱と水柱の預かりとなる。それでもまだ文句がある奴は言ってみろ』

 

 俺を鍛えてくれた鱗滝さんと真菰さん、そして柱の冨岡さんと鹿神さんが、俺と禰豆子の為に命を賭けてくれてただなんて知らなかった。

 俺の知らない所で、俺はずっとたくさんの人に守ってもらえていたんだ。

 

「痛いし、辛いけど、まだまだ頑張らなきゃな……」

 

 禰豆子を守るために。仲間を守るために。もっと多くの人を守るために。

 もっともっと強くならなきゃならない。

 

「……そうだ」

 

 ヒノカミ神楽のこと、誰か知らないかな。 

 ……あの人なら知っているかな。あの、真菰さんや善逸が言っていた"蟲師"の鹿神さんなら……

 

 今度会えたら、訊いてみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 竈門兄妹が蝶屋敷にやってきてから二日目。

 ギンは蝶屋敷に入院している善逸や炭治郎のお見舞いにやってきた。

 

「ギンさああああああああん!」

「おう、善逸。息災か」

「全然だよぉぉぉ!山でくっさい蜘蛛に噛まれるし、手足が縮むし!もう踏んだり蹴ったりなのにアオイちゃんがこのまっずい薬を一日に五回飲めだなんて言うんだよ!?三ヵ月もこんなの飲めって冗談じゃないよ!!ギンさんなんとかしてえええええええ!」

「なんだ全然元気そうだな。それだけ叫べるんなら上等だ」

 

 相変わらず汚い高音で泣き叫ぶ善逸をギンは笑う。そんなギンに「どこが大丈夫に見えるんだよっ!?」って怒鳴る善逸。

 

「だが善逸。いくらなんでも年下の女子を困らせるのは頂けねえなぁ。なほちゃん、きよちゃん、すみちゃん、あとアオイが俺に滅茶苦茶苦情を寄せて来たぞ。善逸がうるさいって」

「だって仕方ねえじゃん!この薬まっずいんだもの!」

 

 ギンがここにやって来た時、ここで働く看護師たちのまとめ役でもある神崎アオイが、ぷんぷんと怒りながら真っ先にギンに苦情を寄越してきた。

 

「善逸さんは最も重症なのに、薬を嫌がって暴れてなほ達も困ってるんです!やれ薬がまずくて飲めないだの、本当にこれを飲めば治るのだの!ずっと泣き叫ぶんです!先生は善逸さんとお知り合いなんですよね!なんとかしてください!」

 

 しっかり者のアオイがそこまで言うなら相当手こずっているのだろう、と察したギンはひとつの妙案を思いついた。

 以前、蟲に寄生されてしまい、それを治療するためにやってきたギンと顔見知りになった善逸はよくギンに文を出すようにしていた。それ故に、ギンは善逸の性格を熟知していたのだ。

 

 ギンは善逸の耳にこそこそと小さな声で何かを言うと、善逸は顔を真っ赤にして「薬飲みます!今の俺なら百杯ぐらい余裕でいけるぜ!」と言って薬をごくごく飲み始めた。

 

「すごいです先生!あの善逸さんが薬を飲んでくださるなんて!」

「何を耳打ちされたんですか?」

「なほ、きよ。お前達にはまだ早い。大人の内緒話と言う奴だ」

 

 あの胡蝶カナエが調合してくれた薬なのに……それを呑まないなら捨てるしかないが。でも飲んでくれればきっとカナエは喜んでくれるだろうなー。

 

 周知の事実であるが、胡蝶姉妹は美人である。

 特に姉の胡蝶カナエは鬼殺隊の男性隊員から絶大な人気を誇っていた。美人で優しく、おっとりとした柔らかな性格を持つカナエに治療をされたいが為に、わざと怪我をして蝶屋敷にやってくる隊士もいるほどだ。

 

 そんなカナエが調合した薬。善逸からすれば絶対に飲まない訳がなかった。例えどんなにまずかろうと苦かろうと、カナエが調合した薬ならばそれは高級料理に匹敵する―――と、今の善逸は考えている。

 

(ま、調合したのは俺なんだが)

(なんだろう。鹿神さんから嘘の匂いがする……)

 

 善逸も音を聞けば嘘が分かるはずなのに、よほどギンを信頼しているのかまったく疑おうという素振りすらなかった。あわれなり。

 

「さて炭治郎。顔をこうやってしっかりと合わせるのは、柱合会議以来だな。俺が鹿神ギン、よろしく。お前のことは義勇や真菰から聞いている」

 

 善逸が静かになり、ギンは改めて炭治郎に向かい合った。

 

「あ、はい!竈門炭治郎ですっ。今回は助けて頂き、ありがとうございます!」

 

 炭治郎は無理やり身体を起こして頭を下げようとするが、ギンはそれを制した。

 

「起き上がらなくていい。点滴の針が抜けるぞ」

「あ、す、すみません……」

「あの時は悪かったな。お前の妹を試すようなことをしてしまって」

「いえ、大丈夫です。必要なことだったって、分かっていますから」

 

 炭治郎の左腕の血管には細い針が刺さっており、そこから管が伸び、黄色い液体が満たされた容器に繋がっている。その容器は木でできた点滴台に吊るされている。

 

「あの、鹿神さん」

「ギンでいいぞ。兄弟弟子だし。俺もお前のことは炭治郎って呼んでるしな」

「あ、はい。じゃあギンさんと。あの、この黄色い液体はなんですか?すごくいい匂いがするんですけど……」

「匂い?ああ、お前さんは確か、鱗滝さんと同じぐらい鼻が利くんだったな」

 

 看護師のアオイによって用意された点滴は、恐ろしいほどよく効いた。一滴一滴が身体の中に入る度、徐々に体の痛みが取れていく。徐々に疲れが消えていく。更に容器から漂う匂いはこの世の物とは思えない芳しい匂いを漂わせていた。

 

「これは光酒と言うんだ。と言っても、点滴用に100倍に薄めた物なんだがな」

「光酒?」

「地底奥底に流れる命の川"光脈"と呼ばれる川に流れる液体だ。そこから抽出した物は黄金色の酒となる。それが光酒。大地に染み出せば多くの生物を育てる生気になる。俺はそれを大地から抽出することができるんだ」

「光脈……?」

「まあ……そうだな。例えば大地を人間の身体としよう。土の中にある光脈は、人間で言う血管に値する物だ。血管が血を運ぶように、光脈は光る酒を大地のあちこちに巡らせるんだ」

「分かったような……分からなかったような……」

 

 今まで聞いたことがない単語に、炭治郎は首を傾げるばかりだった。

 

「コウミャクスジ……ヌシ……」

 

 すると、ベッドの上でずっと落ち込んでいた猪の被り物をした嘴平伊之助が喉が潰れたがらがら声で言った。

 

「知ってるのか?伊之助」

「ヌシ……山のヌシはスゴイ……俺、弱い……」

「ふむ。どこで覚えたのか知らねえが、よく知ってるな。ま、口で説明するのは難しい代物だ。後で光酒の実物を見せてやるよ」

 

 ギンはそう言って笑った。

 嘘を言っている匂いはしない。ギンさんが言っているのは全て本当のことなんだろう。でも、俺には分からなかった。

 

 

「ギンさん……蟲って、一体なんなんですか?」

 

 

 狭霧山にいた頃。時々不思議なことが起きていた。

 例えば、俺が禰豆子の為に付けていた日記が、虫が湧く季節でもないのに、虫に喰われたみたいに穴が開いていたり。俺が鍛錬用に使っていた刀に錆が出来たかと思えば、一晩も経たずに消えてしまったり。雪が降った日は、狭霧山に積もってできた大きな雪玉が、俺にぶつかるまで転がって追ってきたり。

 

 そう言った不思議なことがあると、鱗滝さんや真菰さんは決まって「蟲の仕業」だと言った。

 

 狭霧山には"蟲"と呼ばれる何かがいた。妖怪や、鬼とはまた違う異形のモノだと。そしてそれを対処するのが、蟲師の仕事なんだと言っていた。

 

 ギンは炭治郎の質問にすぐに答えた。

 

「闇の底から生まれ、闇と光の間を彷徨うモノ達だ。原初の生命に近いモノ達故に、見ることができる者は多くない。だがこの世の果てまでにそれはいる」

「この世の果てまで……」

 

 それは一体どんな世界なんだろうと炭治郎は純粋に疑問に思った。この世の果てだなんて、想像したこともなかった。

 俺の世界は、家族と、炭火焼のあの山と、麓の町だけだったから。

 浅草に行った時でさえ目を回したのに。

 この世の果てだなんて、俺にはとても想像できない。

 

「何十、何百、何千……数えきれないほどの蟲達が、この世にいる。森、山、川、土、雨、雲、空、雪。目に見えないだけで、蟲達はあちこちにいる。蟲っていうのは、自然が生きている証だ。命なき所に蟲は生まれず、また蟲なき所に命は生まれない。在り方は違うが、彼らは俺達の隣人だ」

「……あのっ」

「ん?」

「もっと、話を、聞いてもいいですか?」

「ああ、いいぞ」

 

 ギンは、炭治郎に旅で見つけた蟲や、それに関わる人の話をした。どれも現実味が薄い、夢物語のような話だった。

 炭治郎は、どんどん質問した。

 聞けば聞くほど、蟲というのは不思議なモノで、どんどん知りたくなってしまう。

 鬼とも違う、妖とも違う。確かに生きたソレは、時に人を傷つけたり、時に人を助けたりする。

 ギンは鬼を狩りながら、蟲の影響で困らされた人々を助ける旅をしていたのだ。

 

 哀しい話や、活劇話。蟲によって引き離された婚約者同士が、ギンの活躍によって最後には結ばれる恋話も。

 

 見知らぬ土地に暮らす人々。そしてそこで生きる蟲達の不思議な現象。

 

 空から糸を垂れ落とし、掴んだ人を天高くまで引っ張り上げてしまう蟲。

 多くの土地を渡り歩く、美しい虹の話。

 小鳥のような姿をした、海の吉凶を知らす蟲。

 

 

 ギンの語り方は非常にうまかった。元々話し上手かつ、鬼殺隊当主である耀哉にも旅の話をよくしていたからだろう。

 気が付けば、炭治郎だけでなく、善逸や伊之助もギンの話に夢中になって聴いていた。

 看護師三人娘であるきよ、すみ、なほの三人もギンの話をわくわくしながら聴いていた。

 

「そんなわけで、黄色い頭をした少年は雷を乗り越え、自らを鍛え上げたとさ」

「ギンさん!俺の話を混ぜて話すのはやめてくれよっ」

「はははっ。だから善逸はあんなに強かったんだな!」

 

 ギンが活劇口調で善逸が招雷子に寄生された時の話をすると、意外にもきよ、すみ、なほに大好評だった。善逸は顔を赤くしていたが、ギンのおかげで意外にも三人の善逸に対する評価が上がっていた。

 

「ギンさんは、蟲を見ることが出来るんですよね。俺も見ることができたりしないのかなぁ」

「無理だな。鬼殺隊で蟲を見ることが出来るのは、俺と、俺の助手の胡蝶しのぶだけだ。旅の最中にも何人か蟲が見える奴がいたが、ほとんど朧気に気配を感じ取れる程度で、はっきりと視認出来るやつは片手で数える程度だった」

「そんなに少ないんですか?」

「まぁ、そんなもんだ。アレらはそんなに見えてもいい物じゃないし、見えなくても困らん物だ。それに、いずれ蟲はこの世から姿を消すかもしれない」

「姿を消す?」

「蟲は様々な土地に棲む。最も数が多いのは光脈筋と呼ばれる土地だ。だが、年々その光脈筋が細くなったり、見えなくなるほど地中深くに潜り込んでいる。人々が文明を発展させ、土地を開き、森を伐るせいだ。このまま森が消えて行けば、光脈筋もいずれ消え、蟲達も消える」

「……死ぬんですか?」

「何、死にゃせんよ。地中深く潜り、力を付けるまで眠るだけだ。けど、土地を豊かにするためには光脈筋の力は必要だ。俺は森や山を守るために、蟲師になったんだ」

 

 

 ――そうか。この人から森の匂いがするのは、森や山が本当に大切で、それを守るために戦っているからなんだ。

 

 善逸や真菰さんが、この人を尊敬している理由が良く分かった気がする。

 これが"蟲柱"。

 

「あ、あのギンさん」

「ん?」

「そのっ、俺、ここでしばらく入院するんですけどっ。できれば俺に稽古を付けてくれませんか?」

「稽古?」

「はい!俺ももっと強くなって、多くの人を守りたい。禰豆子を人間に戻したい!その為にもっと強くならなきゃいけないんです。だから、お願いします!」

 

 

 

 俺はまだ弱い。でも、もっともっと強くならなきゃいけない。

 でも焦っちゃいけない。強さは毎日の積み重ねだ。それは狭霧山の鍛錬でよく知っている。一日で強くなれた日なんて一度もなかった。毎日少しずつでもいい。昨日の自分より強くなり続けていくんだ。

 

 

 

「つまり鍛練をしたいと」

「はい!」

「つまりブートキャンプをしたいと」

「はい!……はい?ぶー……なんです?」

 

 

 

 

 

 

「じゃあ機能回復訓練は殺す気でやるから覚悟しとけよ炭治郎」

 

 

 

 

 

 ……翌日、炭治郎は「やめておけばよかったかもしれない」と後悔することになる。

 

 

 

 



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機能回復訓練

 

 

 

 

 鬼殺隊の診療所である蝶屋敷の代表は、"花柱代理"胡蝶しのぶである。が、実質的な管理者は"蟲柱"鹿神ギンだ。

 理由としては、しのぶよりギンの方が医学の知識と技術が高いから。また、胡蝶しのぶの師が鹿神ギンであり、蝶屋敷で処方される薬のほとんどがギンが管理、そして調合をしているからである。

 もちろん、この蝶屋敷の看護師たちのまとめ役である神崎アオイや、元"花柱"胡蝶カナエ、そしてしのぶも薬を調合することができるが、薬の調合レシピはほとんどギンが作った物だ。また、患者に点滴として使われる光酒も、調達できるのは今の所ギンだけ。故に、実質的な蝶屋敷の管理者はギン、ということになっている。立場的にはしのぶの方が蝶屋敷の中では上なのだが、しのぶ自身も医療の技術はギンに及ばないことを知っているし、納得もしている。

 しのぶが蝶屋敷の代表となっているのは、ひとえにギンが屋敷から離れ、各地を旅する蟲師だからだ。

 青い彼岸花、そして各地で蟲患いに苦しむ人達、そして鬼狩り。はっきり言ってしまえば蝶屋敷にずっと籠って患者達を相手する時間がギンにはないのである。もちろん、勉強熱心な胡蝶姉妹の努力により、蝶屋敷はギンがいなくても成り立っている訳なのだが、ギンの方が医者として優れており、さらに鬼狩りの実力は圧倒的に上だ。

 故に、しのぶは確かに蝶屋敷の代表なのだが、ギンを上司として、あるいは師として慕っているため、蝶屋敷で暮らす看護師達や隠からはギンが蝶屋敷の代表だと考える者も少なくない。

 

 

「機能回復訓練ですよね、先生」

「はい」

 

 そんな鹿神ギン(上司)だが、胡蝶しのぶ(部下)に正座させられていた。

 

「機能回復訓練はあくまで、寝たきりで身体を鈍らせてしまった人が再度戦えるようにするための訓練ですよね?じゃあなんで竈門炭治郎君の怪我が増えているんですか?せ、ん、せ、い?」

 

 しのぶは青筋を額に浮かべながら、正座して顔を青くするギンに詰め寄る。

 

 原因は――蝶屋敷の庭で倒れている竈門炭治郎だった。

 

 彼の状態は一言で言えばひどかった。

 汗はだらだら。入院服はぼろぼろで所々が擦り切れている。そして極めつけはボコボコの顔面。

 顔中が腫れ上がり、下手をすればここに来る前よりも重傷だ。

 よほど強い衝撃で殴られたのか、白目を剥いて倒れている。

 

「あの子はまだ一般の隊士なんですよ?いくら光酒を処方して怪我の治りが早かったと言っても、本来だったら一週間は安静だったはずです。炭治郎君がここに入院してからまだ三日目ですよね?それで、機能回復訓練と言って、何をさせたんですか?」

「とりあえずまあ、なんていうか。近くの山の頂上と蝶屋敷を往復させました……。あと木登りとか」

「走らせて?」

「全力で走らせました」

「あそこにある黒い布はなんですか?」

「鍛練中、目隠しをさせてました……」

「あそこに落ちている木刀はなんですか?」

「打ち込み稽古を……俺が相手をしました」

「馬鹿じゃないですか?」

 

 しのぶははぁ、と溜息を吐いた。

 

「た、炭治郎さんっ」

「たいへんっ、白目剥いちゃってる!」

「はやく部屋に運んであげないとっ」

 

 なほ、きよ、すみの看護師3人娘が慌てた様子で炭治郎を病室へ運ぶ。一向に眼を覚ます気配がない炭治郎はそのまま無抵抗に連れて行かれた。

 遠くでは物陰に隠れて我妻善逸と嘴平伊之助が恐怖で身体を震わせているのが見えた。

 

「まったくもう……」

 

 普段はまともで尊敬できる師匠なのだが、さすがあの"水柱"冨岡義勇の兄弟弟子と言うべきなのか。この人は時々頭が悪いことをする。俗に言う天然なのだ。

 怪我が治りかけの、それも全集中の呼吸・常中を習得していない隊士にする鍛錬ではない。いくら弟弟子に稽古を付けて欲しいと請われたからと言って、気絶するまで走らせ殴り飛ばす兄弟子がいるのだろうか。

 自分の時もそうだった。瞼の裏をいきなり閉じろとか無茶なことを言ってきたり、ちゃんこ鍋を朝から食べろと言ってきたり。

 とにかく頭が悪いことをやらせようとしてくるのだ。いや、今思うと自分が女だったからか、ギンが指示する鍛錬で肉体を鍛える鍛錬はそこまでキツくはなかった(もちろん、それ相応に血反吐を吐かされたが今の炭治郎ほどの鍛錬は行われていない)。もし私が男だったら、あそこで寝ているのは炭治郎君ではなく私だったかもしれない……そう思うと少しぞっとする。

 

「だが炭治郎にやらせたのは昔俺がやらされたことだぞ?それも、その時の俺は炭治郎より年も下だった」

「何を言っているんですか先生。いくら育手の訓練が厳しいからって、目隠しをさせながら打ち込み稽古をしたり山中の走り込みをさせようとする訳ないじゃないですか」

「いや、冗談じゃないんだが……」

「とにかくっ。明日からの機能回復訓練はもっと手加減してください!これじゃあ余計に怪我が悪化して、いくら光酒があっても意味がないです!治療をする先生が隊士を怪我させてどうするんですか!稽古をつけるにしても、もっと万全の状態にしてから―――……!」

 

 こうして、しのぶによる説教は姉のカナエが止めるまで続いたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。機能回復訓練をするための道場に、炭治郎と伊之助は向かっていた。善逸はまだ手足が縮んだままの為、病室で安静にして眠っている。

 しかし当然ながら、二人の足取りは重い。

 

「うぅ……昨日は本当に三途の川を渡りかけたかと思った……」

「大丈夫か……?」

 

 珍しく伊之助は炭治郎を心配していた。

 蟲柱の稽古をつけさせられたのは炭治郎だけだった。伊之助はアオイとカナヲが監督する通常の機能回復訓練で、炭治郎だけが地獄の鍛錬を受けさせられたのだった。

 猪突猛進を胸に、身体を鍛え続けていた伊之助も、さすがにアレはヤリスギだとドン引きしていた。目にも留まらぬ速さでギンの木刀に殴り飛ばされた炭治郎を見て「あ、死んだか?」と思ってしまったほどだ。

 

「うん、心配してくれてありがとう伊之助。でも、"光酒"の点滴のおかげで昨日の疲れは……まあまだ残ってるけど大分良くなったし」

「けど権八郎……まだ顔がボコボコだぞ?」

 

 確かに、元々あった身体の傷は大分癒えた。しかし、打ち込み稽古でぼこぼこにされた顔はまだ腫れたままだった。あまりにも顔が変形しすぎて善逸も最初それが炭治郎か分からなかったほどだ。

 

「けど、本当にギンさんの剣は凄いんだ。一発一発が本当に重い。なのに、すごい速くて正確に俺が防御できない場所を狙ってくる。あんなに凄い剣は見たことがない。一切無駄がない、鍛え上げられた剣だった。あれが柱なんだ。だったら、俺もそこを目指さなきゃならない」

「権八郎……」

 

"上弦の弐"を倒した剣士――それが、自分の兄弟子の鹿神ギンと冨岡義勇だと。そう教えてくれたのは胡蝶カナエだった。

 

「ギンくんと、義勇君が助けてくれたの。上弦の弐に襲われて動けなくなった私を。上弦の弐は、氷の血鬼術を使う鬼だった。ひどく冷たくて、空っぽの心を持った鬼だった。そして――とても強かった。私では歯が立たない程に。けれど二人が私を助けてくれて、その鬼を倒した。義勇君はお腹に穴を開けられるほどの大怪我を、ギンくんは足の指を何本か落としながらも、その鬼を退治することができたの。私はその鬼の頸に刃を振るうこともほとんど叶わなかったのに。確か、炭治郎君と禰豆子ちゃんは、下弦の鬼と戦ったのよね?なら、きっと二人の鬼殺の技術がどれほど高いか分かるはず」

 

 ――昨夜、胡蝶カナエに手当をしてもらった後、禰豆子を撫でながらカナエは懐かしむように言った。禰豆子はカナエのことを気に入ったのか、カナエの膝の上で静かに眠っていた。

 結果だけ見れば、下弦の伍に炭治郎は勝てなかった。頸をあと一歩で斬り落とせるところまで来て、最後の最後に動けなくなってしまい、下弦の伍の累にトドメを刺すことができなかった。

 ぎりぎり間に合った冨岡義勇が助けに来てくれたことでなんとか生き残ることができたが、それでも十二鬼月がどれほど強いか文字通り身に染みるほど分かった。

 そして義勇とギンが退治したと言う上弦の弐は、炭治郎を追い詰めたあの累では足元に及ばない程の強さを持っていたと言う。

 

「あの時は本当に嬉しかったし、安心したなぁ……。ねえ、炭治郎君。今日のギンくんの鍛錬はどうだった?」

「……正直、遠いです。ギンさん……柱の人とあれほど差があっただなんて思いもしなかった」

 

 鱗滝さんの下で修業をして、それなりに強くなったはずだった。けれど、それでも累に勝てなかった。そして、その累よりも圧倒的に強い上弦を倒した二人の兄弟子の背中が、あまりにも遠い。

 

「ふふ。でもね、ギンくんは人に稽古をつけることなんてほとんどないのよ?」

「そ、そうなんですか?」

「ええ。私の妹のしのぶと、カナヲぐらいかな。剣を教えたのは。きっと、炭治郎君にも期待しているんだと思う」

「ギンさんがですか?」

「ああ見えて、ギンくんは強くなろうとしない子には見向きもしないから。けれど、必死に頑張っている子には必ず手を差し伸べてくれる。だから、頑張ってみて。そうすれば今よりずっっと強くなれるわ。元"花柱"の胡蝶カナエは、竈門炭治郎君と、妹の竈門禰豆子ちゃんを応援しています!」

「―――はいっ!」

 

 そうだ。これぐらいでくじけちゃ駄目だ。俺には努力することしかできないんだから。

 そして、こんな俺を応援してくれる人がいる。期待してくれる人がいる。なら、俺はそれに報いなきゃいけない。

 

「ギンさん!今日もよろしくお願いしますっ!」

 

 炭治郎はそう言いながら、道場の扉を勢いよく開けた。

 そこには、道場で蟲タバコを吸っていたギンがいたが、炭治郎の顔を見ると一瞬だけ目を見開き――そして笑った。

 

 ギンは、炭治郎は来ないと思っていた。自分が昔こなしていた鍛練を、ひょっとしたら炭治郎は逃げ出すんじゃないかと思っていたが――どうやら杞憂だった。

 

「よく来たな。じゃあ、今日の訓練を始めよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「せっかく外が晴れてんだ。中じゃなくて外でやろう」

「え?今日は走り込みはしないんですか?」

「ああ……なんだその顔」

「い、いえ……今日は一体何をさせられるのかと……怖くなんかないですよ!?」

「膝、笑ってるぞ」

 

 炭治郎は、木刀を持たされてギンと相対している。もちろん、ギンも木刀を持っている。

 ちなみに伊之助は通常通り機能回復訓練の真っ最中。道場の中でなほ、きよ、すみ達3人娘によって地獄の柔軟を受けており、道場からは伊之助の「グォォォォォォォ」と言う涙が出る様な悲鳴が聞こえていた。

 

「今日は普通の打ち合いだ。とは言っても、ちょっとやり方を変える」

「やり方を?」

「さすがに、柱の俺と今のお前とじゃ、実力差がありすぎるからな。それでしのぶに怒られた。だから、これを使う」

 

 そう言ってギンが懐から出したのは、昨日鍛練中にギンに目隠しとして着けさせられた長い布だった。

 

「俺がこれを目隠しとして着ける。ま、これで実力差が埋まるとは思えねえが、(ハンデ)って奴だ。これを着けている俺に、一本でも取れたらお前の勝ちだ」

 

 ギンはそう言いながら、自身の目を隠す。

 

「そ、そんな状態でやれるんですか?」

「大丈夫だ。お前の剣ぐらい楽勝だ」

 

 ギンはそう言いながら、目隠しをした状態で木刀を構えた。

 

 ――本気だ。ギンさんは本気で目隠しをした状態で打ち合う気だ。

 

「先手はくれてやる。ほら、来い」

 

 炭治郎も、あの目隠しをしたからよく分かる。目を隠した状態で木刀を避けるなんて、ほとんど不可能だ。自分は鼻が利くから、目を隠した状態でも多少は周りの状況が分かる。

 けどそれでも目を隠した状態で剣を防ぐことはできない。

 でも、ギンさんならあるいは――?

 

「なら、行きます!」

 

 

"全集中・水の呼吸"

 

 

 木刀を構え、炭治郎は一気にギンに肉薄し、水の呼吸を叩き込む。

 

 

"弐ノ型 水車"

 

 

 ギンの前で跳び上がり、垂直に回転しながら木刀をギンの頭上へと振り下ろした。全身の力を込めた、今できる力を込めた。

 

 ――が。

 

「その技はもう呆れるほど食らったな」

 

 ギンは片手で炭治郎の木刀を防ぐ。

 

「くっ!」

 

 なんで?ギンさんは目隠しをしているはずなのに、まるでそこに俺が木刀を振り下ろすことを知っていたかのように防御した!

 どうやって俺が叩き込む位置を把握したんだ?

 

「くぉぉおおお!」

 

 気を抜くな!一発で終わるほど、ギンさんは、柱は甘くない!もっと畳みかけるんだ!

 炭治郎は自分に活を入れ、木刀を振るう。一見無防備に見えるギンの足元、脇腹、頭、肩、腕。あらゆるところに木刀を叩き込もうと腕に力を入れた。

 

「それがお前の全力か?無駄に力を入れ過ぎだ。足音も無駄にさせている。お前の位置は手に取るように良く分かるぞ」

 

 木刀を必死に振るう。だが、それでもギンには届かない。ギンは身体を逸らし、時にその場で跳ねながら、炭治郎の攻撃を躱していく。

 

 一歩も!一歩も動かせない!俺はこんなに動いているのに!

 

 ギンの後ろに回り込み背中に叩き込もうとしても、ギンは背中に目があるようにそれを防ぐ。不意を突こうと足先を殴ろうとしても、それを簡単に躱す。

 そしてすぐに気付く――剣を打ちこもうとしてから数分。まだ、ギンはその場から一歩も動いていない!

 

「はぁ……はぁ……!」

 

 息が上がってきた。汗が気持ち悪い。けど、ギンさんは汗もまったく掻いていないし、息も切らせていない……!

 

「本当にスゴイ……あぁあああ!」

 

 不意を突こうとしても、手数で攻撃しようとしても防がれてしまう。

 それなら――速さで一点勝負だ!

 

 

"全集中・水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き"

 

 

 全力で放つ木刀の突き。

 間違っても目隠しをした人間に躱せる攻撃ではない。これでダメなら――

 

 半ば祈るような気持ちでギンに突進するが……

 

「なんだ、もう終わりか?」

 

 ギンはやはり一歩も動かず、左手で炭治郎の木刀の先を掴んでいた。

 

 雫波紋突きを……片手で掴んだのか!?あの速さの突きを、目を隠した状態で!

 

 驚きで言葉が出ない炭治郎だったが、まだ稽古は終わっていない。

 ギンに一本を入れるか、炭治郎が気絶するまで――まだ終わっていない。

 

 

「じゃ、そろそろこっちから行くぞ」

 

 

"全集中・森の呼吸"

 

 

 

 ギンさんから独特な呼吸音……来る!

 なんでもいい、目を逸らすな、見逃すな!少しでも相手の動きを見て、ギンさんの攻撃を防ぎ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"肆ノ型 山犬"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一瞬でギンさんの姿が掻き消える。

 

 そして頭部に――多分、二回木刀を叩き込まれたんだと思う。気付けば俺の視界は庭の地面が迫ってきていて、俺は意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ギンさん」

「おう、カナヲか。ちょうどいい。今暇か?」

「…………」

 

 懐から取り出した硬貨を弾き、空中で回転しながら落ちてくる硬貨を取る。

 出てきたのは表だった。

 

「大丈夫」

「なら、こいつが目を覚ますまで看ててやってくれねえか。ちょっと俺は厠に行ってくる」

「分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫?」

 

 目を覚ますと、俺の前には……青い空と雲、そして女の子が、俺の顔を覗きこんでいた。

 

「痛っ……だ、大丈夫……」

 

 確かこの子は……ここに来た時初めて会った女の子だ。確か、栗花落カナヲ。しのぶさんとカナエさんの妹だったっけ。

 

「ね、ねぇ。さっきのギンさんの技見た?」

 

 こくりとカナヲは頷いた。

 

「俺、全然見えなかった!すごい速くて、何も分からなかった!それに俺が全力で打ちこもうとしても全部防がれた!ギンさんは目隠しをしていたのに!本当にすごい!」

 

 俺がそう捲し立てるように話すと、カナヲは一瞬驚き、小さく微笑んだ。

 ……すごい綺麗な子だな。藤襲山で見かけた時も思ったけど……。

 

「あ、ご、ごめん。初めて話すのにこんなに……」

「大丈夫」

「よ、よかった。……それにしても、どうやったらギンさんに一本入れられるかな……」

 

 俺もあんな風になりたい。ギンさんのようにもっと強くなりたい。けれどどうやったらギンさんみたいに強くなれるのかまったく分からなかった。

 目隠しをしたギンさんに、たった一撃もいれることすらできない。目隠しをしたギンさんの攻撃を躱すことすらできなかった。

 俺とあの人では何が違うんだろう。匂いからしてまず違う。

 ……ん?そういえば、カナヲも……。

 

「ね、ねえ。どうしてギンさんはあんなに強いのかな?カナヲは知ってる?」

 

 今気付いたけど、カナヲもどこか匂いが違う。柱のギンさんや、しのぶさんと同じ、強い人に近い匂いがする。

 カナヲは俺より強いのか……?

 こんな華奢な女の子なのに、柱の人達と近い匂いがするのはなんでなんだ?俺もその秘密が知りたい。

 

「頼むカナヲ!俺はもっと強くなりたいっ。図々しいのは分かってるけど、教えて欲しいっ!」

 

 俺は必死に頭を下げて頼み込む。

 

「…………」

 

 すると、カナヲは懐から小さな銅の硬貨を取り出し、それを弾いた。

 

「……?」

 

 カナヲが空中に上げた硬貨を、手の甲でキャッチしたかと思うと――

 

「全集中の呼吸」

 

 カナヲは淡々とそう言った。

 

「え?」

「炭治郎は、全集中の呼吸、四六時中やってる?」

「……え?」

「朝も昼も夜も、眠っている間も、全集中の呼吸。やってる?」

「えっ……やって、ないです。やったことないです。そんなことできるの?」

 

 思わず敬語になってしまった。え。いやそんなことできるの?全集中の呼吸は一度するだけでもかなり辛いのに……?

 

「私は、できる。あとは柱の人……しのぶさんや、ギンさんも、いつもやってる、よ?」

「全集中の呼吸はちょっとやっただけでもかなりキツいんですけど……」

「やれば、体力がつく。もっと強く、なれるよ?」

 

 ――嘘の匂いはしない。カナヲからは、小さかったけど、優しい匂いがした。

 

 思いやりの匂いだった。

 

「わ、分かった!やってみるよ!ありがとうカナヲ!」

「…………どういたしまして」

 

 とてつもなく高い階段が、目の前に在った。登り切れるか分からない、大きな階段が。

 でも、カナヲから教えてもらったことで――その階段の一段目に、足をかけれた気がしたんだ。

 

 あとは、一歩ずつでもいい。登って行こう。そうすれば、禰豆子を守れる力を身に付けられる。仲間や人を助けられる力を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なかなかいい雰囲気じゃないか?」

「ええ、そうね!カナヲが同期の子に話しかけるなんて!お姉ちゃん嬉しいわ!」

 

 

 

 

 

 



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全集中の呼吸・常中

 

 

 

 蝶屋敷に入院してから二週間。

 縮んでいた手足がすっかり戻った我妻善逸も機能回復訓練に加わった。

 

「はぁぁぁぁぁ?!お前ら天国にいたくせに地獄にいたみたいな顔してんじゃねーよ!俺に謝れ謝れよ!女の子と毎日キャッキャウフフしてたくせに何やつれた顔してんだよバカ野郎!女の子に触れれるんだぞ身体揉んでもらえて湯呑で遊んでる時は手を!鬼ごっこの時は身体触れるだろうがぁぁぁ!!」

 

 女の子と鍛練をしているということを知った善逸はそれはもう怒涛と言わんばかりに怒り狂った。炭治郎と伊之助に。反射訓練でカナヲに負け続け、臍を曲げ始めていた伊之助はこの言葉に大激怒。いいのか悪いのか結果的に伊之助のモチベーションも上がり、非常に気合が入った。

 ギンによってボコボコに殴られ続けていた炭治郎だったが「そんな邪な気持ちで訓練するのは良くないと思う……」と思っていた。

 ちなみにそのことをギンに相談すると。

 

「ま、良くも悪くも男のやる気ってのは性欲でできてるからな。放っておけ」

「えぇ……」

「お前ぐらいの年の子は、女のおっぱいやお尻が大好きなんだ。それで鍛練にやる気が出るならいいだろう?」

 

 炭治郎にはよく分からなかった。

 

「それより、全集中の呼吸・常中は上手く行っているか?」

「……全っ然できません」

 

 今、炭治郎が行っている訓練は"全集中の呼吸・常中"という技だった。

 全集中の呼吸と言うのは、鬼殺の剣士が使う特殊な呼吸法で、肺から大量に酸素を取り込み、血液が巡る速度を飛躍的に上げる技術だ。これによって身体能力を上げ、鬼を狩るのだが……一瞬とはいえいきなり血圧を上げるこの呼吸法は血管が破裂するのではないかと思えるぐらいキツイ。

 それを四六時中やるこの常中は、その倍以上にキツイ。

 

「善逸達にも、全集中の呼吸・常中のことを教えて一緒に会得しようとしているんですが……全然できないみたいで」

 

 炭治郎はギンと打ち込み稽古をしながら、善逸と伊之助は機能回復訓練でカナヲやアオイと鬼ごっこや反射訓練をしながら、全集中の呼吸・常中を会得しようとしている。が、まったくできる気配がなかった。

 

「ふむ。おそらく、まだ身体が出来上がっていないんだろう。肺活量を鍛える為に、息止めや走り込みはしているか?」

「はい。狭霧山で行っていた鍛練法をやっています」

「ま、こればっかりは一日で会得できるもんじゃない。毎日続けていればなんとかなる。気張れよ」

「はい!それじゃあ走り込みやってきます!」

 

 炭治郎はそう言いながら、目隠しを着ける。

 

「今日も目隠しをしながら行くのか?」

「はい!俺は鼻が利くんで、これで山の頂上まで走ってきます」

 

 炭治郎は初日にギンにやらされた鍛練を、自分から進んで行っていた。話を聞くと、兄弟子のギンは狭霧山で目隠しをした状態で山下りをしていたらしい。鱗滝さんの罠がわんさか仕掛けられている狭霧山を、目隠しをした状態で、だ。それを聞いた時「え?ギンさんって人間なの……?」と戦いた。ついでに、兄弟子の義勇もそんなことができるのかと勝手に勘違いしていた。ちなみに義勇はできない。

 

「わざわざ俺の真似をしなくていいんだぞ?俺は隻眼だから死角を補う為に目隠しをしていただけなんだからな」

「いえ!俺はもっと強くなりたいので!これぐらい厳しくやらなきゃ意味がないんです!」

「頭カチコチ少年……」

 

 ギンは呆れるように溜息を吐いた。よくも悪くも、この弟弟子は愚直なぐらい素直で頑固だ。故に、努力し続けると言う単純で、とても苦しい道を進み続けることができている。

 それをギンは誇りに思いながら、走り込みをするために外に向かっていく炭治郎を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう、善逸。伊之助。調子はどうだ?」

「ギンさん……無理だよぉぉぉぉキッツいよぉぉぉぉぉ!こんなんのできるわけないよぉぉぉぉぉ!」

「おう……白髪ヤローか」

 

 道場に入ると、薬湯で全身ずぶ濡れになった善逸と伊之助が板張りの床に倒れていた。どうやらまたカナヲに反射訓練で負けたらしい。

二人のすぐ横にギンは胡坐をかいて座る。

 

「炭治郎に全集中の呼吸・常中を教えてもらったんだけどさ……全然できなくて……俺達、本当にダメダメだな」

「いや。あれは爆裂に炭治郎が教えるのが下手なだけだ」

「クッソウ……」

 

 二人は悔しそうに唸る。

 アオイには鬼ごっこと反射訓練は勝てたらしいのだが、カナヲにはまだひとつも白星を勝ち取れていないようだ。

 

「ま、地道に努力するのはしんどいよな。良く分かるよ。俺も鍛練嫌いだしな」

「ギンさんも?」

「なんだよ、白髪ヤローも嫌いなのか?」

「今だからこそやっておいてよかったとは思うがな。力はいくらあっても足りない。そうだなぁ……伊之助。お前肉は好きか?」

「肉?ああ、俺様の大好物だ!」

「なら神戸の高級牛肉を焼いてやろう」

「なんだそりゃ!美味いのか!?」

「美味いぞ。口の中に含めば、噛まなくとも溶けるように旨味があふれ出てくるほどだ。きっと気に入る」

「いいのか!?」

 

 唾をごくりと呑みこむ伊之助に、ギンはにやりと笑いかけた。

 

「ああ。いくらでも食わせてやる。ただし、全集中の呼吸・常中を会得できたらな」

「よっしゃああ―――!俺様に任せろぉ―――!キャッホーーーイ!」

 

 伊之助、大奮起。

 

「善逸はそうだな。お前、美人は好きか?」

「え?あ、うん」

「常中できたらカナエを紹介してやる」

「―――え?」

「そうだな。茶屋に行けるようにしてやるか。ついでにアオイとかしのぶとかも呼んでな」

「やりますぅぅぅぅ!!カナエさん達と逢い引きィィィ!!ギンさんのこと兄貴って呼ばせてぇぇぇぇえ!!」

 

 善逸、大奮起。

 

(まあ、別に善逸だけに紹介するだなんて言ってないがな)

 

 詐欺師ギン。後日、全集中の呼吸・常中を会得した善逸は、確かにカナエやしのぶと一緒に茶屋に行くことができた。が、何故かギンや炭治郎、そして伊之助も付いて来た。

 騙されたことに気付き、ギンに掴みかかろうとして炭治郎に止められる善逸の姿が見られたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日もあの三人組が、庭を駆けまわって鍛練を行っている。

 三人とも、本当によく頑張っている。大人の隊士でも全集中の呼吸・常中の会得は難しいのに、毎日頑張っている所を見るとつい嬉しくなる。

 

 特に、竈門炭治郎君。

 

 鬼にされた妹を連れる、鬼殺隊の中でも異例の隊士。そして、先生が特に目を掛けている新人の隊士だ。

 炭治郎君は、なほ、きよ、すみの三人娘や、カナヲ、そして私の姉のカナエにも、よく助言を乞いにいっている。自分が器用な人間ではないということに気付いているのだろう。だからこそ、たくさんの人の助言を活かそうと、寝る間も惜しんで頑張っている。最近は、寝ている最中に呼吸をやめたらすみ達に布団叩きで文字通りたたき起こしてもらっているようだ。寝ている間も常中を続け、一刻も早く会得しようとしているのだろう。

 そんな努力家の彼に引っ張られるように、我妻善逸君、嘴平伊之助君も寝ている間に呼吸法を行っているようだ。

 

 

 ……あの三人を見ていると、ギンさんに稽古をつけてもらった時のことを思い出す。

 

 

 

「俺が本気で攻撃する。お前はそれを全部避けろ」

「……え?」

 

 ギンさんは木刀を持ち、私は何も持たされていなかった。ただ攻撃を"避けろ"としか言わなかった。

 単純な鍛練だが、それがどれほど難しいか私は分かった。けれど、意味が分からなかった。

 

「お前は頸を斬れない。故に、藤の花と光酒を調合した毒の刀で突いて殺すしか、鬼を殺す術を持たない」

「でしたら、別の鍛練をするべきなんじゃ……」

 

 鬼を殺す術を鍛えるのが、鬼殺隊の基本的な鍛練だ。刀の素振りや走り込み、肺を鍛える為の息止めや打ち合い稽古。

 なのに、先生が私に教えるのは、殺す術ではなく、生きる術だった。

 

「違う。お前は確かに鬼殺の剣士だが、俺の弟子であり、蟲師であり、医者だ」

「蟲師であり……医者?」

「お前の役目は、自分の命と引き換えにしてでも鬼を滅殺することではない。何がなんでも生き延び、怪我を負った者を助けることだ」

 

 生き延びること。鬼を殺すのではなく、自分が死なないことを第一に優先しろ、とギンさんは言った。

 鬼殺隊の役目は、鬼を退治して人を守ること。その為に、命を賭さねばならない。

 それが当たり前の、鬼殺隊の本懐だ。けれどギンさんはそれを無視しろと言った。

 

「お前が死んだら、誰が仲間を助けるんだ。お前は鬼を殺さずとも、仲間や人を助けることができる手を持っている」

「でも先生、私は、嫌です。姉さんの継子は、私とカナヲ以外何人も殺された。私は鬼が憎い!もし先生や姉さんやカナヲが殺されたら、私はっ」

「その時は、俺の分は仕返しをしなくていい。俺の願いは、お前が生きて幸せになることだ」

「先生……」

「無論、これは俺の我儘に違いないが。鬼を憎むなとは言わん。鬼と戦うなとは言わん。だが、鬼を殺すこと以外にも、お前にはできることが山ほどある。俺はその為にお前に医術と薬学を叩き込んだ。そのことを忘れるなよ」

 

 先生は、そう言って私の頭を優しく撫でた。

 死んだ父親を思い起こさせる、優しくて大きな手。

 

 

 

 でも、でもね、先生。

 私の願いは、先生に守られることではなく、先生と共に肩を並べて戦うことなんですよ――

 

 

 

 

「懐かしいなぁ」

 

 姉さんは、禰豆子さんと毎晩遊んでいる。本当の妹ができたみたいに、禰豆子さんの髪の毛を整えてあげている。鬼と仲良くなるという夢が叶った姉さんは、毎日が本当に楽しそうだった。

 

「…………」

 

 けれど私は、やっぱり鬼が憎い。禰豆子さんのことは認めている。あの腐酒の誘惑に耐えることができた、人の子だ。

 

 ―――その酒を、もっと寄越せェェェェ!

 

 禰豆子さんが鬼殺隊本部に連れて来られる数日前。腐酒を見つけたギンさんは、付近の山にいた鬼に、腐酒を使った。

 結果、まだ一人しか人間を喰っていなかった鬼は、血鬼術を使うほどまでに力を付けた。そして理性を失い、人の形を保てないほど醜悪な姿に変わり、腐酒を求め続けた。

 禰豆子さんの前にギンさんが腐酒を出した時は本当にひやひやした。いつ飛び掛かるか分からない禰豆子さんをいつでも仕留められるよう、私の指は刀の柄を握りっぱなしだった。

 

「……駄目ね」

 

 やっぱり、どうしようもない嫌悪感が心の奥底にある。自分でも拭い切れない、どうしようもない感情。

 

「恐れや怒りに、目を晦まされない……」

 

 目を閉じて、呼吸を整える。ギンさんの教えを心の中で反芻する。

 私は姉さんと違う。姉さんのように、優しい心を持てなかった。憎しみに囚われやすい子。でも、こんな私でもできることはある。

 

「さて、私も頑張りますか」

 

 最近、ようやく"瞼の裏"に行けるようになった。"光酒"の採り方も先生から教わることができた。今まで何度お願いしても、教えてくれなかった光酒の採り方。

 これで、もっともっと人を助けることできる。

 

「しのぶ?」

「……なんだ、姉さんか」

 

 声を掛けられ、後ろを振り返るとお盆におにぎりを載せた姉さんが立っていた。上弦の弐との戦いで肺を壊し、ここで働くようになってもう2年以上になるんだっけ。姉さんは戦えなくなっても相変わらず綺麗で、多くの隊士達から求婚されている。

 

「どうしたの?しのぶ。難しい顔をしちゃって。姉さんはぶすっとしたしのぶより笑った顔が見たいなぁ」

「もう。まだ仕事中よ姉さん。それより、先生を見かけなかった?」

「いいえ。ギンくんなら今日は見かけていないわ。多分、炎屋敷か、お館様の屋敷じゃないかしら……」

「まったく。すぐにいなくなるんだから……」

「まあまあ、いいじゃないしのぶ。それより、カナヲのことは聞いたかしら?」

「カナヲがどうしたの?」

「さっき覗いてたんだけど、炭治郎君とすっごく仲がよさそうだったの!カナヲも炭治郎君を意識しちゃっているみたいで……きゃー!お姉ちゃん、すごくドキドキしちゃう!」

「カナヲも女の子ね……」

 

 確かに、ここ最近カナヲの声がかなり極端だ。よく炭治郎君のことばかりを考えているようで、カイロギを通して私や姉さんに伝わってくる。

 本人が自覚しているかは分からないけれど、恐らく炭治郎君に好意を抱いているのだろう。

 そのせいか分からないけれど、最近のカナヲは以前よりずっと口数が多くなり、自分がしたいことをはっきりと言うようになった。慣れていないのか、少し声が小さいけれど、それも時間の問題だろう。

 

「あれだったら、もう蟲に頼らなくてもいいかもしれないわね」

 

 あの蟲のおかげで、カナヲの心の傷はずっと良くなった。けれど、これ以上蟲に依存しても意味がない。機を見て、カイロギを断つべきだろう。

 

「あーあ。カナヲの心の声が聞こえなくなっちゃうの、お姉ちゃん寂しいなぁ」

「我儘言わないの。もうすぐ皆既日蝕が来るんだから、忙しくなるわよ。姉さんも準備を手伝ってもらうからね」

「分かってるわ。確か、蟲が騒いでしまうのよね?」

「そう。先生曰く、日蝕の間は普段蟲が見えない人にも蟲が見えるようになるらしいわ。きっと姉さんも見ることができると思う」

「あらあら。それは楽しみだわ。普段ギンくんやしのぶが見えている物が見える様になるなんて、できないもの」

「ふふ、そうね。でも、そのせいで蟲患いを起こす人がたくさん出るから。蟲下しを多めに調合しておけって先生に言われてるの。だから手伝いよろしくね」

「は~い」

 

 さて。蝶屋敷の回診が終わったら、炭治郎君たちの鍛練を少し見てあげよう。

 炭治郎君は先生から教えを受けている。ということは、炭治郎君はギンさんの弟弟子であると同時に、私の弟弟子でもある。禰豆子さんについてはまだ折り合いはつけきれていないけれど、でもあの子に罪はない。

 

 だから、姉弟子として導いてあげよう。

 姉の夢を叶えてくれたお礼に。

 私が彼らにできることは、それぐらいのことだけだから。

 

 



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青い彼岸花

 死人達への手向けの花。

 

 その花に触れてはならぬ。

 

 その花はこの世ならざる花。

 

 それは、彼岸の国の花。

 

 魅入られ、触れてしまえば、お前も彼岸に行かねばならぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なー健太郎。しのぶ達は何をやっているんだ?」

「伊之助、訊いてなかったのか?しのぶさん達は、皆既日蝕の準備をしているんだよ」

「カイキ……ニッショク?なんだそりゃ。喰えんのか?」

「食べれないよ。お日様が月に隠れちゃうんだ」

「月に!?そんなことがあるのか!?」

「うん。俺も初めて見る。今回の皆既日蝕は、五百年に一度しか見れない現象らしいよ」

「ふーん……」

 

 伊之助はそう言いながら、空に浮かぶ太陽を見上げた。釣られて同じように空を見上げると、一面に青い空が広がっていた。

 

「うん、今日もいい天気だな」

「よし!短八郎!今から走り込むぞ!俺に付いて来い!」

「うん!」

 

 その日の蝶屋敷は大変慌ただしかった。蝶屋敷で働く看護師たちはもちろん、カナエさんやしのぶさんは朝からずっと机の上で何か薬を作っている。

 とても細かい調整が必要な薬らしく、量や配分を間違えないよう、丁寧に計量をしながら調合している。俺たちは薬や薬草の知識はないから、手伝えることがほとんどない。ちょっと寂しい。

 しのぶさんはそれを"蟲下し"と呼んでいた。ギンさんが創った薬だそうだ。

 

「この蝶屋敷が建てられた土地も、光脈筋なの。地中にある光脈が地上に生気を与えてくれるから、怪我の治りも早いのよ」と、カナエさんが言っていた。

 

「なんつーか、この屋敷、懐かしいんだよな」

「懐かしい?」

「俺がいた山と似ている」

「そうなのか?」

「裏にある山とか、獣や虫がすげー多い。ここにいるとすげー元気になれる」

 

 伊之助は故郷の山を思っているのか、珍しく感傷的に、少し懐かしそうに言っていた。

 蝶屋敷の匂いは、少し不思議だ。薬と、消毒液と、そして光酒の匂いが漂っている。

 

 

「アオイ、少し分量を間違えています。作り直してください。薬草の調合の比率は、7:3」

「はいっ」

「姉さんはお館様から鴉を何羽か借りてきて頂戴。蝶屋敷の鎹烏だけじゃ、隊士にお薬を届けるのが難しそうなの」

「分かったわ。炎屋敷の方にも、鴉を借りれるか訊いてみるわね」

「なほ、きよ、すみ。私達は薬を調合しているから、その間入院している隊士の人達のお世話をお願いします。何かあったら言ってください」

「「「はいっ」」」

「ふぅ……」

 

 先週からずっと、蟲下しを調合し続けているしのぶは肩の力を抜きながらため息を吐く。ここしばらく、あまり寝れてない。

 

「大丈夫?しのぶ」

「うん。大丈夫よ、姉さん」

 

心配そうに問いかけるカナエに、しのぶは気丈に振舞った。

 

「まったくもう……弟子のしのぶにこーんなに働かせておいて、ギンくんはどこに行っちゃったのかしら?」

「所用があるって、さっき鴉から文をもらったわ。なんでも、この皆既日蝕中に起きる蟲がいるんですって」

「そうなの……でも不安だわ。お天道様が隠れる間、傍にいないだなんて……」

「大丈夫よ、姉さん。確かに先生はいないけど、ここにも蟲師がいるじゃない」

「……そうね。頼りにしてるわ、しのぶ」

 

 

 ギン曰く。今回起きる日蝕は、五百年に一度起こる非常に珍しい現象らしい。

 太陽の光は月によって遮られ、辺り一帯は薄暗くなる。太陽が隠れる為、その間鬼共が活性化する危険性があり、産屋敷の指令の下、隊士達は厳戒態勢を取っていた。

 また、日蝕の間、蟲も急激に活性化する。日蝕の光は、普段微弱で眼に捉えられない蟲も力を増し、眼に捉えることができるようになる。蟲の数が増える為、蟲患いを起こす人も格段に増えると言う。

 

 

 

 ―――俺はしばらく留守にする。その間ここは任せたぞ。しのぶ。

 

 

 

「――はい。任せてください、先生」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 産屋敷邸にて――

 

 

「うん。子供達への通達は済んだかな、あまね」

「はい。滞りなく」

「お父様……お天道様がいなくなっちゃうのですか?」

「いなくならないよ。少し隠れるだけ。太陽はいつも、私達を守ってくれる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある町の小さな診療所――

 

 

「珠世様。鹿神から文が届きました」

「愈史郎。ありがとう。文にはなんと?」

「青い彼岸花が咲く場所に向かっていると。一緒に、蟲下しの薬も同封されていました。日蝕が終わった後、もし患者に太陽を極端に恐れる者や、夜眠れぬ者がいたら処方してほしいと」

「そうですか。分かりました……あとはギンさんが上手く採取することを願いましょう」

「……これで良かったのでしょうか。俺はあの男に、まだ何も報いることができていない」

「それは私も同じですよ、愈史郎。鬼舞辻無惨を含め、我々鬼は"青い彼岸花"の手掛かりすら探し出すことができなかった。私達がギンさんに協力できたのは、失われた資料の捜索。あとは、彼が青い彼岸花を見つけられるよう祈るばかりです」

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて。行くかね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、おい見てみろ炭治郎」

「どうした、善逸……あっ」

「すげー!太陽が欠けていくぞっ!」

 

 

 誰かが、『何かを見上げる姿は祈る姿に似ている』と言った。

 蝶屋敷の住人達は、皆一様に庭に出て、空を見上げた。他の隊士達も、今頃空を見上げている所だろう。

 少し雲が出ていたおかげで、太陽が徐々に欠けて行く姿ははっきりと見ることができた。

 当たり前にある太陽が月に隠れていくその様は、あんなにも明るく暖かい太陽が消えていく姿は、心に不安の影を落とした。

 

 辺りは薄い暗闇に包まれ、時刻は昼間なのに徐々に冷えていく。昼間なのに夜になってしまったかのように、外気に晒した皮膚は鳥肌を立てた。

 

「師範……寒いです」

「あらあら。カナヲったら、恐いの?」

「……」

 

 こくりと頷くカナヲの表情は、どこか怯えが生まれていた。

 

「大丈夫よ、カナヲ。お天道様は少し隠れているだけだから。でも、忘れないで。私達はいつも、お天道様に守られ、生かされているということを」

「いつも、守ってくれる……?」

 

 太陽が徐々に黒い影に呑みこまれ、やがて半分ほど太陽が月に覆われた頃だろうか。辺りに異変が起き始めたことに真っ先に気付いたのはカナエだった。

 

「……あら?……何かいるわ」

「え?ど、どこですか?」

 

 カナエが宙に浮いている何かを指差した。

 そこには、魚のような、クラゲのような、ひどく弱々しい小さな何かが空中を泳いでいる。

 

「ほら、そこにも……半透明の……光を帯びている……」

「本当だ……」

「綺麗」

「しのぶさん……これは何ですか?」

 

 首を傾げる三人娘に、しのぶが答える。

 

「皆にも見えるようになったのね。そう、その生き物が私とギンさんが蟲と呼ぶモノよ」

「これが……ギンさんやしのぶさんが見えているモノなんですか?」

 

 アオイがふと、導かれるようにその蟲に手を伸ばそうとするが、しのぶはそれを制した。

 

「迂闊に触れちゃダメよ、アオイ。微弱と言えど、蟲は蟲。影響を与えないとも限らない」

「は、はい。でも、本当に綺麗ですね……」

「これが……しのぶとギンくんが見えている世界?」

 

 それはどこか幻想的で、儚い。闇の中を漂うモノ達。

 自分達には見えなかった、本当の世界の姿。

こんなに小さくて、弱々しい。触れるとすぐに死んでしまいそうなのに、確かに息づいているように感じられる。

 

「これが……ギンさんが言っていた蟲……この中に俺に寄生していた招雷子はいるのかな……」

「……匂いも何もない。本当に……確かにここにいるのに、俺達には見えないんだな」

「くっそ!捕まえらんねー!どうなってんだこいつら!」

 

 伊之助は虫取り網を持って捕まえようと振り回している。善逸と炭治郎は、蟲達に畏れを持ちながらも、その光景に目を奪われていた。

 

「日蝕の妖光は、本来蟲が見えぬ者にも見えるようになる……先生が言った通りだった」

 

 日蝕で光を奪われていく太陽を眺めているうちに、月は完全に太陽と重なった。一筋の光も差さない暗闇で、カナエはしのぶの手をそっと握る。

 

「姉さん?」

「……しのぶは、いつもこんな風景を見ていたのね」

 

 感覚を、自分が見た物を相手に伝えることは難しい。自分の価値観を。自分が見てきた物を。そのままに相手に伝えることはできない。

 蟲が見える者の感覚を、見えない者と共有することはできない。

 

「しのぶが見えているモノを見れて、私はとても嬉しいわ」

「……あんまり見えても楽しいモノじゃないわよ」

 

 困り顔で笑うしのぶに、カナエは首を振る。

 

「それでも嬉しいの」

 

 ずっと妹のことが心配だった。

 両親を鬼に殺され、その後すぐに見えないモノを見ることができるようになってしまった妹。

 その見えない何かに苦しめられていたしのぶを、カナエはずっと助けたかった。異形の存在が常に視界にいる――異形の存在である鬼に強い憎しみを持つしのぶに心労が積み重なるのは、当然だった。

 けれど、蟲を見ることができないカナエが、しのぶにできることは、何もなかった。

 

 そんな時だった。

 

「紹介しよう、カナエ。君の教育係である"蟲柱"鹿神ギンだ。柱になった君をしばらくの間手伝ってくれるように頼んでおいた。彼は眼に見えない異形のモノ達を対処する術を持っている。もし何か困ったことがあれば、彼を頼るといい」

「おう。お前さんが新しい柱か。噂に違わず、随分な美人だな」

 

 花柱に就任したカナエにお館様が紹介したのは、鹿神ギンという、異質な見た目の青年だった。

 その風貌には見覚えがあった。鬼殺隊に入隊するための試験、自分が受けた最終選別の時、鬼を怒涛の勢いで狩っていた同期の少年だったのだ。自分より早く、柱になっていたのだ。

 

 その年の最終選別は、たった一人を除いて全ての隊士が合格。藤襲山に閉じ込められていた鬼のほとんどを、ある3人の受験者が狩り尽くした異例の年だったと後に聞いた。

 

 その3人の内の一人が、鹿神ギンだった。

 

「妹が何か見えている?そりゃ、ひょっとしたらミドリモノ……蟲かもしれねえな」

 

 ギンくんには、とてつもない恩がある。

 

 妹の悩みを解決してくれただけでなく、私の命も助けてくれた。

 もしギンくんに会わなかったら……どうなっていたか、想像に難くない。

 少なくとも、私はあの雪の日に鬼に殺されていただろうし、残されたしのぶは復讐に憑りつかれていたかもしれない。

 あの日、両親が殺されてしまった時の恐怖や悲しみ、怒りを、またしのぶに味わわせてしまう所だった。

 それになりより、蟲に苦しむしのぶに、彼らを祓う術を教えてくれた。

 どんなに孤独だったのだろう?

 見えないモノが見えてしまう。他の人には見えず、自分だけにしか見えない世界。

 

「今まで何もできなかったお姉ちゃんでごめんね、しのぶ」

 

 独りにしてごめんね、しのぶ。

 

「……姉さん……いいの、いいの……姉さんが謝ることなんて……」

「あらあら。泣かないのしのぶ。お姉ちゃんはしのぶが笑った顔が好きだなぁ」

 

 きよ達は伊之助たちと庭を楽しそうに駆け回っている。

 空中を漂う本来見えないモノ達を追いかけて。

 蝶と蟲が飛び交う庭はまるでここが蝶屋敷じゃないみたい。

 

 でも、何故かしら。

 しのぶしか、ギンくんにしか見えなかった世界が見えることが、こんなにも嬉しい。

 

 あのおかしな生物を見れることが、姉さんたまらなく嬉しいな。

 

 

 

 

 

 

「あっ、太陽が出てきたっ」

「キャッホー、あったけー!」

「ふぅ。やっぱり太陽が出てないと怖ぇよ……」

 

 しばらくすると、太陽が出始める。月の影からズレるように出ていく。

 

「あ……蟲達が……」

「消えていっちゃう……」

「捕まえることできなかったね……」

 

 日蝕は終わり、やがて元の日常へ戻っていく。

 太陽はあっと言う間に青い空の中心へと戻り、蟲達は闇へと戻っていく。

 

「しのぶ、大丈夫?」

「……うん。大丈夫。ありがとう、姉さん。私もう、一人でも大丈夫だから」

「……さすが、しのぶだわ」

 

 けれど、闇の中でしか、見つけることができない物もある。

 かけがえのない物を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空は本来の青さを取り戻していく。

 月が少しずつズレて行き、地上に光を与えていく。

 

 

 ――最初、鬼殺隊に入隊してやったのは、鬼舞辻無惨に"青い彼岸花"なる蟲を処方した、蟲師の記録を探すことだった。

 

 

 蟲の対処法と言うのは、過去の積み重ね。研究日誌とでも言うべきか。

 先人達が得体の知れない蟲に出会った時、記録を取り、検証し、対処する。それが蟲師の記録だ。

 

 俺は原作の蟲師のおかげで蟲の知識はある程度知っていたし、シシガミの森で多くの蟲と触れ合ったおかげでほとんどの蟲についての情報は知っている――が、"青い彼岸花"なんて蟲はシシガミの森にはいなかった。

 

 千年以上前の蟲師の記録なんて、世に出る物じゃないし残る物じゃない。けれど、残っている可能性は零ではない。産屋敷の全面的な協力もあって、かつてその蟲師が西――鬼舞辻無惨が京の都で暮らしていたこともあり、関西方面で活動していた蟲師だと言うことは突き止めた。

 

 ――その蟲師の活動範囲が分かったら、西日本の蟲の生態を研究すること。

 

 地方ごとの民話や伝承。蟲らしき目撃情報。

 片っ端から根こそぎ、探し回った。それこそ、草の根をかき分けるように。

 小さな里や村を巡って、その土地にある言い伝えを。

 

 調べていくと、分かったのは600年ほど前まで蟲師が何人もいたと言うこと。

 だが、ある時期を境に蟲師が一気に途絶えているということが分かってしまった。

 蟲師達が、先人たちが集めてきた、蟲に対処するための術を全て記録した"狩房文庫"も、蟲師達が各々につけていたはずの研究記録も。ほとんどが焼かれて消されていた。

 

 

 だから俺は、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 過去の蟲師の記録を見つけるのではなく、改めて自分で蟲を発見する。ちまちまあるかないかも分からない蟲師の記録を探すより、そっちの方が効率的だと考えたからだ。

 幸い、千年前の蟲師が関西を中心に活動していたことは分かっている。

 

 日本全国から蟲を探すより、半分に絞って蟲を探す方がまだ見つかる確率はあがる。

 

 けれど、鬼狩りになって約九年。

 

 九州、四国、中国、近畿をくまなく探し回っても青い彼岸花は見つからなかった。

 ムグラを駆使しても、ヌシ達に訊いても、青い彼岸花は生えている場所が見つからなかった。

 

 さすがの俺も悩んだ。青い彼岸花なんてないのでは……別の方法で鬼を人に戻す方法を探すべきなんじゃないかと考えた。

 

 

 

 けれど――見えないモノこそ、惑わされてはいけない。

 

 見つからない時は、視点を変えるべきなんだ。

 

 普通の花のように、季節ごとに生え変わるような花じゃない。規則正しく、春夏秋冬に変わるような大人しい花ではない。かと言って、ただ遺伝子異常で突然変異を起こした花でもない。

 特殊な条件下でしか生えない花。あるいは、特殊な条件を満たさないと現れない蟲。

 

 

 

 千年前。

 西日本で起きた特殊な事象。

 

 地震、雷、異常気象、津波。

 

 

 そして―――月蝕と、日蝕。

 

 

 ここ千年間の災害史や天文史は、珠代さんが見つけて来てくれた。本当に正確な記録で、思わず涙が出てしまったほどだ。

 

 そして、俺が最も欲しかった記録は見つかった。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 そして、千年前と五百年前に、奇妙な記録が残っていた。

 

 

 

 

 ――日蝕が数日間、続く地方がアリ。

 

 

 

 日蝕や月蝕は、何日も続く現象じゃない。何故なら太陽と月は常に動き続けているから。日蝕が続いても長くて五分程度だ。

 

 そして日蝕を起こす蟲には、心当たりがあった。

 

 

 空を見上げると、影のような何かが、煙のように上空に集まっていくのが見えた。

 その煙のような何かは、蟲の群体だ。多種多様の何十種類もの蟲が、陽の光を覆っていく。

 

 

 

「出たな。"日蝕(ひは)み"。ドンピシャだ」

 

 

 

 九年間探し続けたよこのヤロー。

 

 

 

 

 

 

 

 

「さっさと見つけますか。青い彼岸花」

 

 

 

 



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無限列車

 頭の中が微睡んでいる。ここ数日、あまり眠れてない。身体はだるくてあまり動きたいと思わない。けれど意識は何故かはっきりしてる。こういうこと、前にもあった。

 窓を流れる風景が見えていても、今どこを走っているか分からない。

 汽車ってこんなに速かったっけ?

 昔は新幹線に乗っていたはずなのに、それ以上に速く感じる……。

 ……いや、もう前世のことは記憶がない。十六年もこの世界で生きていたせいか、大分記憶も摩耗した。覚えていることと言えば、蟲のことだけ。

 汽笛の音は車内まで響いてくる。線路を踏む音が振動になって伝わってくる。

 普段歩いてばかりなだけに、慣れない汽車の中は自分の睡魔を妨げてくる。

 中途半端な眠りと覚醒のせいで、頭の中が麻痺してしまっていた。

 

「どうした!ギン!疲れているようだな!」

「そりゃぁな……」

 

 寝癖だらけの頭をぼりぼりと掻きながら前を見ると、相変わらず明朗快活な杏寿郎の顔があった。相も変わらず、炎柱という名に負けず劣らず暑苦しいし声がでかい。

 寝起きの時に一番会いたくない男だ……。

 

「だらしないぞ!ギン!それでも蟲柱か!」

「半日以上も汽車を乗り継いでる……眠くもなるさ」

「この汽車には鬼が出るんだぞ!居眠りをしている間に鬼にやられたなど、笑い話にもならない!ちゃんと起きるんだ!」

「眠いもんは眠い……」

「起きろ!」

「イテぇよ杏寿郎!殴るなっての!」

 

 何故、こんなやかましい兄弟子と相席になってしまったんだ。外を見ると、流れる景色の上に陽が赤く光っているのが見えた。そろそろ夕暮れだが、夜になるまでまだ時間はある……。まだ鬼の時間ではない。少しぐらい居眠りをさせてくれてもいいのに。

 そう心の中で愚痴っていると、杏寿郎はさっきの駅で買い占めていた弁当をむしゃむしゃと食べ始めた。

 

「うまいうまい!この焼肉弁当は、なるほど、さすが美味いな!」

「もうちょっと静かに食えよ」

 

 乗客の「何事だ?」と言わんばかりに視線が集まってる。なんでもないです。食いしん坊がご飯食べてるだけです。

 

「ギンは喰わないのか!うまいぞ!」

「いや……俺はいい」

「どうした!肉はギンの大好物だろう!」

「……そーいう気分じゃないんだよ。眠いし」

 

 周りの視線が痛い。同僚だと思われたくない。他人のフリをしたい。

 

「なるほど!それで、この汽車に乗ってどうだ、ギン!俺より先に乗っていたんだろう?お前の意見を聞かせてくれ!」

「……いや。乗っている限り異常はない。異様なほど普通なんだ、この汽車。四十人もいなくなっただなんて嘘なんじゃないか?」

「いや!確かな情報だ。短期間の内にこの汽車で四十人以上の人が行方不明となっている!数名の剣士を送り込んだが全員消息を絶った、確かな情報だ!」

「だから俺とお前に指令が来たのか?」

「そういうことだ!十二鬼月の可能性もあるからな!」

「……降りていい?」

「ダメに決まってるだろう!」 

 

 蝶屋敷に帰って寝たい。仕事したくねぇ……。

 

「どうした、珍しく今日は腑抜けているな!」

「さっきも言っただろ、こっちは仕事を終えてきたばかりなんだ。疲れてるんだよ」

「その様子だと鬼殺ではなく蟲師の仕事か!」

 

 風呂浸かって飯食って寝たい。

 ……蝶屋敷を空けて、もう二週間ぐらいか。しのぶはしっかりと蟲下しを作れただろうか?この間の日蝕で、障りがないといいが。文がこっちに届いていないということは、無事に乗り切れたんだろう。だが、やっぱり心配になる。

 

「弟弟子が頑張って仕事をしてきたんだから、労ってくれよ。杏寿郎」

「うむ!ご苦労!だが仕事は仕事、きっちりするべきだ!」

 

 弟弟子の願いをばっさりと切り捨てる。なんて冷たい男なんだ……。

 煉獄杏寿郎は厳しい。甘さ、という物が一切ない。そう言う所は相変わらず槇寿郎さんそっくりだ。頑固な所とか、融通が利かない所とか。とにかく真っ直ぐだ。

 

「……ところで、あの隊士はどうだ?」

「ん?どの隊士だ?」

「決まっているだろう!鬼を連れた隊士のことだ!」

「炭治郎のことか?」

「うむ!ギンが直々に稽古をつけていると聞いたぞ!お前から見て、あの隊士はどうだ?」

「いい奴だよ。性根も真っ直ぐで地力がある。きっと杏寿郎と気が合うと思うぞ」

「そうか!それはいいな!確か彼が使うのは冨岡と同じ水の呼吸だったか?」

 

 俺は「ああ」と首肯する。

 

「ただ、本人と水の呼吸はあまり合っていないように俺は思える。本人は水の呼吸とは別に"ヒノカミ神楽"と呼ばれる呼吸法を使っているようだが」

「ヒノカミ神楽?」

 

 首を傾げる杏寿郎に簡単に説明する。

 炭治郎の父親が"ヒノカミ神楽"なる呼吸法を使っていたということ。ただの神楽を戦いに応用できたことから、火の呼吸と呼ばれる物ではないかと。だが、威力は凄まじいが使うとすぐに身体が動かなくなってしまうと。

 

「知らんな!ヒノカミ神楽など初耳だ!」

「まったくか?」

 

 炎と火。聞くだけなら関連性がありそうな気がするが。

 

「ああ!だが、一つだけ心当たりがある。ギンは始まりの五剣士は知っているか?」

 

 俺は頷いた。

 呼吸法には大まかに5つの系統がある。

 炎・水・風・岩・雷、合計5つの基本呼吸。そこから枝分かれするように様々な呼吸法がある。しのぶが使う"蟲の呼吸"は水の呼吸から派生した物。甘露寺が使う"恋の呼吸"は炎の呼吸から派生した物だ。

 呼吸法は個人によって千差万別。その本人の体質によって呼吸の系統が合う合わないがある。鬼殺の剣士は育手から呼吸を修得するが、使っている呼吸を変えたり新しい呼吸を派生させることは珍しいことではない。

 故に、多くの派生した呼吸が存在する。

 

「ギンは更に特殊だな!どの呼吸にも属さない、深緑の呼吸法"森の呼吸"!刀の色から無理やり当てはめるなら、風の呼吸の派生ということになるが!風の呼吸を使う不死川よりも更に濃い緑色の刀だ!父上もギンの育て方に随分苦心していた!」

「え、苦心してたのか?」

「既存の物に当てはまらない呼吸法だったからな!」

 

 だからあんまり炎の呼吸の型は教えてくれなかったのか……。唯一、俺が使う弐ノ型は炎の呼吸を参考にした物だが、ほぼ我流で型を編み出したからな……。

 

「だから俺は、ギンが使う森の呼吸は始まりの呼吸だと考えていた時期があった!」

「始まりの呼吸?」

「炎・水・風・岩・雷は全てその呼吸の派生だ!戦国時代、その呼吸法が誕生したからこそ、今の鬼殺隊は呼吸で鬼と戦うことができている!その始まりの呼吸の名は――」

 

 

 

 

 

 日の呼吸と言う!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――日の呼吸、ですか?」

「ああ!ヒノカミ神楽がどういう経緯で生まれたか分からないが、その可能性がある!実際、その日の呼吸を使っていた剣士の刀は、黒刀だったと言う記録を読んだことがある!あまり読み込まなかったから詳しくは分からんが!」

 

 火の呼吸について尋ねた炭治郎に、杏寿郎はそう答えた。

 

 ヒノカミ神楽――火の呼吸について調べていた炭治郎は、しのぶの紹介で"炎柱"煉獄杏寿郎に会うため無限列車に乗り込んでいた。伊之助と善逸も連れて。

 日蝕から二週間、ようやく会得した全集中の呼吸・常中と同時に傷を完治させることができた三人は指令が来た時動きやすいようさっそく行動に出ていた。まだ指令も出ていないのに連れ出された善逸は蝶屋敷から離れたくないと駄々をこねたが、都会に出たことがない伊之助と炭治郎は刀を持っていると憲兵に捕まること、そして汽車の存在自体もまったく知らなかった二人を心配し、呆れながら付いてきたのである。

 

「うぉおおおお!すげぇすげぇ速ぇぇ!さすがヌシ!なんつぅー速さだぁぁ!俺外に出て走るから!どっちが速いか競争する!げっへへへ!」

「危ない馬鹿このっ……馬鹿か!馬鹿にも程があるだろ!」

 

 汽車に乗ったことがない伊之助はその速さにはしゃいで窓から顔を出し、高速で流れる景色を楽しんでいる。今にも飛び降りそうな所を善逸が叱っている。

 

「ところで、ギンさんはどうしたんですか?眠ってますけど……」

 

 そして、善逸達が隣で滅茶苦茶騒いでいる中でも、ギンはいびきをかいて爆睡していた。

 

「うむ!どうやら別の仕事であまり寝れていなかったようでな!さっきからずっとこの調子だ!」

 

 どうやら相当疲れているらしい。善逸があんなに叫んでいるのに起きる素振りすらない。

 

「なんだ、白髪ヤロー。こんな所で寝やがって!」

「こら!伊之助、駄目じゃないか、ギンさんが起き……」

 

 伊之助が無防備になっていたギンの前髪をいじり始める。それだけならよかったが、まるで寝ている兄弟にいたずらする子供のように、ギンの瞼を指で触り始めたのだ。それを止めようとした炭治郎だが、ギンの右目を見て言葉を失った。

 

「……ギンさんの右目、真っ暗だ……」

「本当だ。なんじゃこりゃ、暗闇か?」

「ひ、ひぃ。なんだよギンさんのその眼……!」

 

 ギンが隻眼だということは、鍛練を一緒に行っていたから3人は知っていた。しかし、長く白い前髪に隠れていてはっきりと見たことがなかった。

 

 闇を掬い取ったかのような右目だった。

 

 隻眼だと聞いて、最初は怪我か何かで眼を失った物だと炭治郎は思い込んでいたばかりに、その眼は異様だった。

 なんだ、この異様な眼は?

 元々浮世離れをした風貌だけど、この眼は闇そのものだと、炭治郎達3人は直感で感じた。

 

「ギンのその眼は、蟲のせいだ!」

 

 杏寿郎が腕を組んで神妙そうな顔つきで言った。

 

「蟲?」

銀蟲(ギンコ)と呼ばれる奇妙な妖光を放つ蟲と遭遇し、ギンは今のその姿になったそうだ!俺も詳しくは知らないが」

「銀蟲……」

「ギン曰く、その蟲は"常闇"と呼ばれる暗闇の中で生きる珍しい蟲だそうだ。その蟲が放つ光は強く、直接見てしまうと目がそうなってしまうようだ。俺は蟲が見えるわけではないし、それを見たことがあるわけではないが、昔ギンはそう語っていた」

 

 幼い頃、ギンと共に修行をしていた時に、杏寿郎はギンにその見た目について尋ねたことがあった。

 見えない蟲達の話は、杏寿郎にとっておとぎ話だった。よく、母の煉獄瑠火と共に、ギンの不思議な夢物語を聞いたものだと杏寿郎は懐かしい気分になった。

 

 あの頃は鍛練嫌いで、目に見えない何かばかりを追いかける、手がかかる弟弟子だった。

 けれど今は、俺と同じ鬼殺隊最高の位である柱として、俺とこうして任務に励んでいる。

 

 父親は自分が柱になると同時に引退した。

 

 こうして、同じ釜の飯を食い、鍛練を励み合ったギンと共に戦えることが、杏寿郎は嬉しかった。

 

「そうだな!こうして出会えたのも何かの縁!三人とも、俺の継子として面倒を見てやろう!何、心配はいらん!」

 

 

 

「この汽車に出る鬼を退治したら、さっそく鍛えてやるからな!」

 

 

 

「――……え?鬼?鬼が出るんですか?」

 

 

 

 訊き間違いなのか、思わず聞き返してしまう炭治郎に、杏寿郎は頷いた。

 

「出る!」

「嘘でしょっ!!!鬼の所に移動してるんじゃなくてここに出るのぉ!?聞いてない聞いてないですぅ――――!!」

「今言ったからな!この汽車で40人以上の行方不明者が出ている!隊員を何人か送り込んだが全員が消息を絶った!だから、柱である俺が来た!もちろん、君達にも協力してもらうぞ!」

「はぁーーーーん!なるほどねっ!!降ります!!!」

「ダメだ!」

「ですよね!!」

 

 善逸の必死の懇願もばっさりと切る杏寿郎。この黄色の少年、昔のギンにそっくりだなぁ、と少し懐かしくなった。

 

「ギンさんいるじゃないですか!俺達がいなくても別にいいんじゃないですか!?」

「そういえば、ギンさんはなんでこの汽車に……?」

 

 二週間ほど蝶屋敷を空けていたことは知っていたが、どうしてこの汽車に乗っているのだろうか?

 

「ギンはお館様の屋敷に向かう為に偶々この汽車に乗っていたんだが、物のついでだ!ギンにもこの任務に参加してもらうことになっている!」

「でもギンさん寝てるじゃないですか!起きる気配これっぽっちもないですよ!」

「ああ!だから俺も困っている!だが安心しろ!俺は強いからな!」

 

 杏寿郎が力強く断言すると、騒いでいた善逸も思わず安心してしまったように肩の力が抜けてしまう。杏寿郎の言葉があまりにも力強く、その言葉に裏打ちされた圧倒的な実力を肌で感じ取ったからだ。

 伊之助も炭治郎も、思わずほっと息を吐いた。

 

「……はいっ」

「ふっ、お前なんかに頼らなくても俺様一人で十分だ!」

「おい伊之助!失礼だぞ!俺はこの人に守ってもらうんだから!」

「うるせぇぞ紋逸!この弱味噌がぁー!」

「はっはっはっ!元気があっていいな!」

 

 そう杏寿郎が笑っていると。

 

 

 

「――――切符を、拝見……いたします……」

 

 やつれた様子の車掌が車両の奥から歩いてきた。

 

「? なんですか、この人」

「車掌さんだ!切符を確認して切込みを入れてくれるんだ!」

 

 汽車に乗ったことがない炭治郎に説明する杏寿郎。

 杏寿郎の言葉に気を取られたのか――

 

 

 

 その切符から、血鬼術の匂いがしたことに気付かなかった。

 

 

 

 

 パチン。

 

 

 

 

 ―――長い夜が、始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 下弦の壱である魘夢は、人に夢を見せる血鬼術を使う眠り鬼だ。

 人間を眠らせ、その人物にとって都合がいい夢を見せる。決して自分から戦うことはせず、眠らせた相手の精神の核を破壊し、廃人にした人間を喰う。そうして鬼殺隊の隊士を何人も食い殺し、下弦の壱へと上り詰めた。

 恋人を亡くした者。不治の病にかかってしまった者などに都合のいい幸せな夢を見せ、人間の協力者を何人も持つ鬼でもある。

 この無限列車の車掌も魘夢の協力者の内の1人。

 この無限列車の切符は魘夢の血が混ぜられたインクで書かれており、車掌が切符を切れば術が発動する遠隔術だ。

 こうして眠らせた鬼狩りの夢の中に、刺客である人間の協力者を送り込み、精神の核を破壊させるのである。

 

 

 

 ――魘夢のミスは、二つ。

 

 

 

 ひとつは、術を掛けた鬼狩りの特徴を、『黒い隊服を着た人間』だとしか伝えなかったこと。

 黒い隊服を着た炭治郎や杏寿郎と違い、西洋の服に身を包みいびきをかいて眠っていた男が鬼狩りだと、協力者の人間達は気付かなかった。更に魘夢の術によって眠らされていたのではなく、最初から眠っていたので術の効果が及ばなかった。

 

 

 

 もうひとつは、その男が"柱"であることを、魘夢は知らなかったことである。

 

 

 

 ―――ガリッ

 

 

 

「んあっ……ぐえ。苦い」

 

 眠っているギンは、奥歯に挟んでいた丸薬を噛み砕いてしまい、眠りから目が覚めた。

 気付け薬として口の中に含んだ丸薬はとてつもなく苦い薬で、眠くなったら噛もうと考え奥歯に挟んだまま、眠ってしまったのである。

 

 

「ぺっ、ぺっ。やっぱこれ最悪な味だ。自分で調合しておいてあれだが……あ?」

 

 

 そして眠りから目が覚めたギンは周りが異常事態になっていることに気付く。

 

 

「なんだこれ。なんで炭治郎達がここにいるんだ?」

 

 見てみると、自分以外の人間が全員眠っていた。杏寿郎も、炭治郎も善逸も伊之助も。そして、眠っている四人の手首には何か変わった縄が巻き付けられ、その縄は他の四人の一般客の腕と繋がっている

 

「……杏寿郎は何やってんだ?」

 

 見ると、杏寿郎は眠っている。眠っているのだが、何故か立ちながら少女の首を掴んでいた。

 随分と器用な眠り方をするなぁ……と思う反面、その原因に当たりをつける。

 

「血鬼術か。この縄だな……。おい、杏寿郎!起きろ!」

 

 どうやら自分が眠っている間に、鬼が動き出していたらしい。これはまずい。

 杏寿郎の頬をぺちぺちとはたいてみるが、反応がない。起きる気配なし。すぐに席の下に隠して置いてあった刀を持ち、辺りを見渡す。

 

 自分以外の乗客全員が眠っている。まず間違いなく、鬼は人を眠らせる血鬼術を使う。この縄もその鬼が創った物だろう。鬼独特の気配を帯びている。

 

 どんな効果をもたらす縄か知らないが、今斬るのは多分マズイな。眠っている人間というのは、無防備になる物。それは肉体的な意味でも、精神的な意味でも。血鬼術で作られたこの縄は、多分眠っている人間に干渉するための物だ。今斬ってしまえば、炭治郎や杏寿郎の精神がどうなるか分からない。

 

「と、すれば。先に列車を止めるか、鬼を探し出すか……ん?」

 

 すると、席に置かれていた箱が動き出した。この箱は……。

 

 蓋を開くと、そこには小さくなった禰豆子がいた。

 

「よぉ、禰豆子。息災か?」

「むーっ」

 

 頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める禰豆子。相変わらず鬼とは思えない。

 

「ちょっと俺はやることがあるから炭治郎達を見ててやってくれ」

「むっ!」

 

 力強く頷く禰豆子に炭治郎達は任せ、ギンは刀を抜きながら車両の後ろの方へ向かう。

 

 

 確か、この汽車は八両編成だったな。

 今自分達が乗っている所は、前から三両目。

 

 残り五両は……よし。

 

 ギンは一両目から三両目までの一般客をどんどん四両目に投げ込む。前の方の車両にはあまり客が多くなかったことも幸いして、すぐに一般客の避難は完了する。

 

「こいつも念のため、置いていくか」

 

 鬼が現れた以上、せっかく採れたものをわざわざ奪われる危険にさらす必要はない。いつも背負ってる薬箱から必要最低限の道具を取り出し、四両目の床にそっと置いた。

 そして通路――三両目と四両目の連結部分にギンは立つ。

 

 

 縄を巻き付けた四人以外は特に異常はなさそうだった。眼球がぴくぴくと動いているせいで瞼が動いている、ただ夢を見ているだけで毒を仕込まれたわけでも、何かの病に陥っている気配もない。本当にただ眠らされているだけと判断。

 

 

 ならば、自分達が乗っている車両から後ろは、一般の客は、わざわざこの列車に付き合う必要はあるまい。

 

 

 

"森の呼吸 陸ノ型 乙事主(おっことぬし)"

 

 

 

 陸の型は、横に切り払う型。荒々しく、力に任せた剣。前後左右の障害を一気に切り払う伍ノ型の"陰森凄幽"と似ているが、陸ノ型は前方を切り払う。範囲は狭くなるが、その威力は鉄をも斬り裂く。

 

 ギンは呼吸の力を乗せ、鉄でできた連結部分を力づくで斬り離した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あああああ!!!」

 

 

 炭治郎が叫びながら飛び起きた。夢の中で自害し、無理やり覚醒したのだ。首に刀を刺した嫌な感触がこびりついている。けど、辺りを見渡せば、汽車の車両だった。

 

「よお炭治郎、起きたか」

「ギ、ギンさ……?」

「落ち着け。血鬼術にかかっていたんだ。禰豆子がお前の腕にかかっていた縄を燃やしてくれたんだ」

「むーむー!」

「禰豆子……」

 

 妹が無事だったことに安堵しながら、炭治郎は禰豆子の頭を撫でる。

 

「とりあえずこれを喰え。羊羹だ。元気になる」

「あ……ありがとうございます……」

 

 ギンが懐から出した羊羹を受け取り、一口齧って……炭治郎は現状を思い出した。

 

「いやこんなことしてる場合じゃないですよ!鬼の攻撃が!他の乗客を助けないと――」

「いや、もう大丈夫だぞ?」

「――え?」

 

 ギンが後方車両の方を指差すと、そこには―――後方車両はなかった。巨大な獣が破壊したように、三両目の後ろの扉が粉々に破壊されていた。眠ってしまう前まではあと五両も大きな車体がつながっていたはずなのに、そこにはもう何もなく、ただただ車輪がリズムよく線路を踏む音と、風が流れ出る音がただ響くだけである。

 

「一般の客は全員、三両目より後ろに担ぎ込んで車両を切り離した。鬼は先頭の方にいる。さっき『俺の餌をよくも』とか言って滅茶苦茶怒鳴り込んできたが、前方車両の方へ逃げられた。頸を落とし損ねたが、そんなに大した鬼でもない」

「――えっ、斬り、車両を!?」

 

 車両は硬い鉄や木材でできていたはずなのに。ギンさんはこれを斬った?

 爆薬か何かを使ったと言われたほうがまだ納得できる。

 

「ちなみに下弦の壱だ」

「下弦!?十二鬼月の!?」

 

 起きたばかりだからか、―――いや、ギンがやったことに驚きで眼を回す炭治郎。

 

「炭治郎。やれるか?」

「は、はい!――あっ、ギンさん!」

 

「よくも……よくもぉぉぉぉおおおお!!」

 

 ギンの背後に、飛び掛かる少女がいた。手に錐を持った、さっきまで杏寿郎に首を絞められていた少女だ。縄を禰豆子が焼き切ったことで、眠りから覚めたのだ。

 

「やっぱり、鬼の協力者か」

「ぐぅ……!放しなさいよ!」

 

 だがギンは、前の方を向きながら左手で突き出した手首を掴んで防ぐ。掴まれた少女は必死に振り払おうとあがくが、ギンに掴まれた腕はまったく動く気配を見せない。

 

「協力者……!?」

「ここの鬼の血鬼術は鬼殺隊にばれないよう、人間が手を貸していたんだ。無論、自分の意思でな」

「そんな……」

 

「邪魔しないでよ!あんたたちが来たせいで夢を見せてもらえないじゃない!あんたも起きたのなら加勢しなさいよ!結核だか何だか知らないけどちゃんと働かないならあの人に言って夢を見せてもらえないようにするからね!」

 

 ぬらりと起きる、3人の男女。少女に怒鳴られた痩せた男性以外は、手に錐を持っている事が、明らかな殺意を物語っている。

 

「……人の心に付け込んだんだ」

「その様子を見るに、かなり楽しい夢を見させてくれるようだな。下弦の壱は」

「そうよ!あんた達の精神の核を破壊すれば、夢を見させてもらえるの!だから、死んでよ!」

「同情するが、お前さん達の為にくれてやる命などない。夢は所詮夢でしかない。命の上に成り立っていい妄想なんて、この世にはないんだ。可哀そうだが、辛くても生きていくしかないんだよ。炭治郎」

「くっ――」

 

 ギンの呼び声に応えるように炭治郎が3人の頸に手刀を走らせ、糸が切れたように倒れ込んだ。

 

「……お前さんは、刺さないのか?」

「ギンさん、その人は、多分俺と繋がっていた人です。敵意の匂いはしません」

「ふむ……病持ちか」

「……すまない」

 

 青年はそうぺこりと頭を下げた。

 ギンと炭治郎はそれ以上、彼に何も追及せずに先頭車両の方へ走っていく。

 

 車両を走り抜けながら、炭治郎は怒った。

 人の悲しみに付け込む鬼を。許さない。家族を、自分の心の中に土足で踏み入られたことを。

 

「炭治郎、平気か?」

「はい!あの、煉獄さん達は―――」

「もう禰豆子が縄を焼き切った。直、目が覚めるだろう。それまでに俺達は下弦の壱を討伐しておこう。わざわざ炎柱が出る幕じゃない。確か、十二鬼月の血を集めてるんだろ?その為にも、とっとと斬らなきゃな」

「――はい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 車両から屋根の上に跳び上がると、そこには文字通り、鬼の形相で怒り狂う鬼が立っていた。

 

 

「お前……お前お前お前ェェェェ!よくも……よくも俺の餌を!時間をかけて一度に乗客を大量に喰うはずだったのに!台無しだ!」

「台無しにできた?そりゃ上々。せっかくの汽車の旅を、邪魔するなんて無粋だろ?」

 

 軽い調子で語るギンに、鬼は血管が浮き出るほど叫ぶ。

 汽車の勢いは止まらず、屋根の上は風が吹かれていた。普通の人間ならしがみ付いていないと飛ばされるほど強い風なのに、ギンは静かに刀を構える。

 

「これだけ手間と時間をかけたのに!あの人間ども、せっかく俺がいい夢を見させてやると言ったのに、ひとりも鬼狩りを殺せていないじゃないか!役立たず共め、ああなんて悪夢だ!最悪だ最悪だ!せめてあの柱だけでも殺せば……!」

「悪いが、杏寿郎は殺させない。あれでも俺の兄弟子なんでね。やかましくてうるさいが、お前が獲れる首じゃない」

「……ならいい。お前を先に殺してやる!お前を眠らせて、ここから突き落としてやる!お前の肉なんていらない、ここから突き落として挽肉にしてやる!」

 

 

"血鬼術 強制昏倒催眠の――"

 

 

 下弦の壱"魘夢"は、目から血が出るほど怒り叫びながら、対象の人間を昏倒させる血鬼術をギンにかけようとした―――が。

 

 

 

「俺を殺すのはいいが、後ろがお留守だぞ」

 

 

 

「―――え?」

 

 

 

 一両目の屋根の上に立っていた魘夢。ギンは後ろの方から。そして―――

 

 

 

 彼の弟弟子である竈門炭治郎は、前の方から魘夢を挟み撃ちにした。

 ギンが注意を引いている魘夢の背後は、炭治郎にとってただの案山子同然だった。

 

 

 

 

 

 

 

"水の呼吸 壱ノ型 水面斬り"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――え?」

 

 

 

 下弦の壱魘夢は、呆気ない最期を迎える。

 柱ですらない一般の隊士に首を斬られると言う、なんとも惨めな最期だった。

 

 

 

 

 ―――ああ……なんという、悪夢だ……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 運転士を気絶させ、なんとか無限列車を停めることができた。

 蒸気の音を立てながら、山の中腹辺りに止まったようだ。

 

 ギンは鴉に指示を出し、"隠"の部隊に連絡する。

 

 列車の四両目から八両目の客達を保護すること、今回の鬼騒動の隠蔽処理をすることなど――。

 

「下弦の壱、討伐おめでとう炭治郎。これでお前も柱就任だな」

「いえ……ギンさんに助けてもらったからなんとか頸を斬ることができただけで……俺は乗客を助けてもいないですし、ギンさんのおかげですよ」

「謙遜するな。下弦の壱の血も採れたし、被害もひとつもない。これ以上の戦果はないだろう。もっと自信を持て」

 

 ギンはそう笑いながらぽんぽんと炭治郎の肩を叩く。

 

「それに、肝心の炎柱なんてまだぐーすか寝てるんだぞ。もっと胸を張れ」

「――はい!」

「さて。それじゃあ駅まで歩こう。隠の部隊も到着に時間はかかるだろうが、のんびり――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「!」

「!」

 

 途端。炭治郎の鼻に、吐き気を覚えるほどの血と死肉の匂いが突き刺さった。

 これまで嗅いだどんな匂いよりも醜悪で。

 何百もの人を喰った匂い。

 

 那田蜘蛛山で遭遇した下弦の伍よりも。たった今倒した下弦の壱よりも、ひどい、悪臭。

 

 

 ――なんだ、この匂い!ひどい、なんだ、死そのものの匂い……!

 

 

 ギンもその気配を感じ取ったのか、冷や汗を垂らしながら、その重圧な気配を漂わせるモノの方へ視線をやった。

 

 

 息が詰まる。

 

 心臓を冷たい手で掴まれるような感覚。

 

 空気に鉛が含まれたかのような、重く、鋭い気配。炭治郎は立っているのがやっとだった。

 

 

 

 

 

 

「……お前が……蟲師か……」

 

 

 

 

 

 

「嘘……だろ……?」

 

 

 喉が渇く。汗がひどい、なんだこいつは。

 

 暗闇から現れたのは、六つの赤い目を持った鬼だった。

 

 紫色の和服を纏い、腰に刀を提げている。

 

 

 そして、その眼に刻まれた数字は―――

 

 

「上弦の壱が、なんでこんなところにっ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悪夢はまだ、終わらない。

 

 

 

 

 



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上弦の壱

 鬼舞辻無惨の目的は、太陽を克服することである。

 その為に千年もの間、鬼舞辻無惨は自分を鬼に変えた蟲師の薬の原材料である"青い彼岸花"の探索と、太陽を克服する鬼を探し続けた。

 

 

 1人では探索に時間がかかるため、多くの目を必要とした。その為に多くの人間を鬼に変え、国中をくまなく探させた。

 

 しかし、その青い彼岸花を探せど探せど、見つけることは叶わなかった。故に鬼舞辻無惨は、青い彼岸花はただの花ではなく、"蟲"と呼ばれる姿が見えない異形のモノ達であると、500年以上も前に確信する。

 

 そこからやることは単純だった。蟲師と名乗る異形のモノ達を対処する専門家達に、無理矢理探させた。

 自分が見えぬなら、見える者に探させればいいだけのこと。

 

 しかし、それでも青い彼岸花は見つからない。

 

 ほとんどの蟲師は鬼舞辻無惨に屈さなかったのだ。

 彼らは矜恃を胸に人々を蟲から守っていた。鬼舞辻無惨という人から外れた存在を許すことはせず、対立する道を選んだのだ。

 無惨に屈し、従った僅かな蟲師は殺されない為に必死にその蟲を探したが、手掛かりを掴むことすらできなかった。それもそのはず。その青い彼岸花は500年周期で限られた条件下で出現する蟲。ただの蟲師に見つけられるはずもなかった。

 鬼舞辻は青い彼岸花を見つけることも出来ない無能や、自分の命令に従わない蟲師はすぐに殺すか鬼に変えた。

 言うことを聞かぬなら、鬼にしてしまえばいい。

 鬼舞辻無惨は各地で活動する蟲師を探し出し、自分の血を分け自らの配下に加えたが、ここでも問題が生じる。

 

 鬼になった者は、蟲を視認することが出来なくなることを無惨は知らなかった。

 

 理から反した者は、理に最も近い蟲を見ることが出来なくなるのだ。

 

 

 いくら優秀で腕がいい蟲師と言えど、蟲を視認することが出来なければ何も出来ず。しかし鬼にしなければほとんどの蟲師は自分に従わない。

 

 鬼舞辻無惨の怒りが頂点に達するのはそう時間は掛からなかった。

 

 時代を追うごとに減少する、蟲を見る素質を持つ者。蟲師の家業を継ぐ者は年々減少の一途を辿り、ただでさえ少なくなった蟲師を殺し、鬼に変えてしまう鬼舞辻無惨。

 

 日の本の国から、蟲師の血が途絶えるのは必然だったと言えよう。

 

 

 だが、再び忌々しい蟲師が目の前に現れた。

 

 

「童磨が殺された。上弦の弐が、柱2人に殺された」

 

 

 上弦の弐を殺すという異常な剣の腕を持つ、蟲師でありながら産屋敷に与する剣士、鹿神ギン。

 

 上弦の、それもよりによって弐を殺されたことで鬼舞辻無惨はすぐにでも黒死牟を差し向けて殺そうかと考えた。

 

 だが、青い彼岸花を見つけることができる可能性を持った最後の蟲師である。

 

 上弦を殺したのは腹立たしいが、利用出来る。

 

 こいつが青い彼岸花を見つけるまで、殺すのは待ってやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その鬼から、目を離すことができなかった。瞬きすることすら許されない重圧。濃密な死の匂い。

 一体どれだけの人を殺せばこんな匂いになるのか分からない。一体どれだけの人を喰えばこんな匂いになるか分からない。分かりたくもなかった。

 身体中の細胞が叫んでいる、この鬼は俺よりずっと強い。もし一瞬でも目を離せば、俺の頸は一瞬で断たれる。

 

 なんだ、この匂い?

 

 恐怖の匂い?一体、どこ、から。

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 違う、俺の匂いだ……恐怖してる!あの鬼に!

 

 炭治郎は自らの身体の震えを止めることができずにいた。

 

 手の震えが、汗が止まらない。刀を持てない、今すぐここから逃げ出したい!自覚すると止まらない、動悸が、焦りが、恐怖が、身体の奥底を支配する……!

 

「…………炭治郎。落ち着け、呼吸を忘れるな」

「は、はい……!」

 

 ギンの言葉に落ち着きを少し取り戻した炭治郎は、呼吸を繰り返し、改めて上弦の壱に向き合った。

 上弦の壱は、じっとこちらを見たまま動かない。けれど、いつでもこちらに攻撃できる自然体であると、実戦経験がまだ少ない炭治郎でも分かった。

 鬼殺の剣士?腰に刺しているのは、日輪刀か。だが、今まで会ったどんな剣士よりも、どんな鬼よりも強い。多くの戦場を駆け抜けた兵の匂い。

 

 大丈夫だ、十二鬼月と戦う為に、俺は鍛練をしてきたんだ。落ち着いて、いつでも相手の攻撃を対処できるように――!

 

「その耳飾り……どこで手に入れた」

 

 すると上弦の壱は独特な口調で話し始めた。炭治郎を見ながら、いや、睨みつけながら。

 

 ――なんだ、この匂い。何もかも燃やし尽くすような怒りの匂い……いや、嫉妬の匂い?

 一体俺の耳飾りが何の――

 

 

()ね」

 

 

 その時、炭治郎の視界はすべてがゆっくり動いていくのが見えた。

 上弦の壱の姿が一瞬で消えたかと思った瞬間、次の瞬間には自分の背後からあの鬼の声がしたからだ。

 

 声をあげる間もなく、後ろを振り返れば――鬼の刀が、自分の頸を斬り落とそうと迫ってきている。

 

 炭治郎は自分の死を感じた。刀がこっちに迫ってくるのは見えているのに、身体がまったく動かせなかった。

 

 ――動け、動け動け動け!避けろ!避けろ避けろ――

 

 

"森の呼吸 参ノ型 青時雨"

 

 

 鬼の刀が炭治郎の頸を斬り落とすその瞬間、ギンの刀が首と刀の間に滑り込み、その軌道を逸らした。

 

「む……」

 

 自分の刀を弾かれるとは思ってもみなかった上弦の壱は、炭治郎の頸を落とそうともう一度刀を横に振り払う。

 だが、それを許す"蟲柱"ではない。

 

"森の呼吸 肆ノ型 山犬"

 

 ギンはそれを防ぐために、鬼の刀を高速で二連、叩き付ける。

 

「ほう……頸を落としたと思ったが……今のを躱すか……まるで狼の牙のような剣戟……」

 

 鬼は多少驚きながらも後ろに跳ねて距離を取り、鞘に刀を収めた。刀を収めたと言っても、ギンと炭治郎にはそれが見えていない。見えぬうちに抜刀をし、ギンがそれをぎりぎり止め、そしていつの間にか納刀していたのだ。

 何千、何万と繰り返した動作に淀みはなく、高速で繰り出された技ですらない()()()()()

 

「お前の狙いは俺だろう。俺の弟弟子にちょっかいをかけるのはやめてくれねぇか」

 

 軽い口調でギンは言うが、内心はかなり焦っていた。

 

 ――なんだ、今の剣速は。速すぎて追いつくのがやっとだった……!あの上弦の弐とは比べ物にならないほどの速さと力。刀を叩き付けた腕が、びりびりと痺れやがる……!

 

「蟲師……名は……何と言う……」

「……鹿神ギンだ」

「私の名は……黒死牟(こくしぼう)

「ご丁寧にどうも……それで、なんで炭治郎を狙うんだ?柱でもない一般の隊士を、上弦の壱ともあろうものが」

 

 自分の動揺を悟られぬよう、会話で時間を稼ぐ。得体の知れぬモノと相対した時、やるべきことは無暗に攻撃するのではなく、情報を得ること。

 ギンは強大な鬼や蟲に遭った時は、攻撃ではなく"見"に入る。

 相手が異形のモノである限り、情報が最も重要だと言うことをギンは知っていた。初めて遭う種類の蟲を対処せねばいけない時、まず最初にやるべきことは、観察し、情報を集めること。

 

 相手を知れば、戦いにも蟲祓いにも有利に動ける。九年間、ギンが鬼殺隊で生き延びてこれたのは、戦闘力ではなく、観察能力。そして考察する力が鋭かったからである。

 

「その(わっぱ)が……日の呼吸の使い手だからだ……」

「日の呼吸……?始まりの呼吸の剣士のか」

「実に……忌々しい……まだ日の呼吸の使い手がいるなど……!」

 

 どうやら、日の呼吸の使い手に並々ならぬ恨みがあるらしい。だが、ギンや炭治郎にとっては知ったことではない。

 

「そうかい。で、俺に何の用がある。話だけなら聞いてやる」

 

 黒死牟は炭治郎を目的に襲ってきた訳ではない。ただ目についたから襲い掛かっただけなのだろう。その辺の石ころを蹴る要領で自分の弟弟子を殺されてはたまらないが。

 ギンは炭治郎を庇うように、黒死牟の前に立つ。

 

「ほう……」

 

 ギンさん、俺をかばってる……俺が1番弱いから。俺が足でまといになっているんだ……!

 

 炭治郎が悔しそうに歯噛みしながら、いつでも動けるように刀を抜いて構えている。けれど、もう一度あの黒死牟の攻撃を避けることができるかは分からない。

 けれど、俺にもできることがあるはずだ。

 炭治郎は自分の折れそうな心を叱咤しながら黒死牟を睨みつけた。

 

 そして黒死牟は、鹿神に手を差し伸べながら言う。まるで、同士を歓迎する仲間のような気安さで。

 

「話は早い……鹿神よ、私と共に来い……お前が見つけた……青い彼岸花をあのお方に捧げるのだ」

「っ!?」

 

 何故、青い彼岸花のことをこいつが知っている!?いや、俺が採取したと確信をして、こうして襲いに来たんだ!

 監視されていた……?一体いつから……くそ、情報が筒抜けだったのか。

 

「青い彼岸花?何のことだ?」

 

 自分の甘さに苛立ちながらも、ギンは黒死牟の言葉をすっとぼけた返事を返す。

 

「とぼけなくていい……お前の心は……手に取るように分かる……動揺で焦っているな……鹿神」

 

 鍛え抜かれた黒死牟は、相手の身体を文字通り見透し、心理状態を見極める。筋肉の動きや心臓の動き、呼吸音からギンが嘘を吐いていると看破する。

 嘘は通じないと分かったギンは舌打ちしながら問いかけた。

 

「俺を人の身のまま勧誘するのは、鬼に蟲が見えないからか?」

「……知っていたのか」

「人が持って生まれる妖質の量は、後天的に変質しない。変質するのは、呼吸法を会得した時、あの世を彷徨うほどの強烈な死の体験をした時、そして鬼にされた時だ。鬼にされた人間は、妖質が人から掛け離れ別物になってしまう」

 

 産屋敷耀哉の一族が短命なのも、この妖質が関わっている。

 親族である鬼舞辻が鬼と化してしまったことで、血縁関係である産屋敷一族は、この世に生を受けた瞬間から妖質が変貌し、人の肉を蝕む病を持つ。そういう物に変質してしまっていた。

 血縁関係者は、赤の他人より水脈(みお)が深く繋がってしまっている。産屋敷の水脈に、鬼舞辻と言う名の毒の液体を一滴入れられれば、その水脈全体が毒となる。

 光酒を処方したおかげで妖質の暴走を遅くすることができているが、それでも短命であることに変わりはない。呪いを断つには、その大本である鬼舞辻を殺さなければならない。

 

「知っているのなら……話は早い……童磨を討った剣士……欠けた上弦の穴埋めに……ちょうどいい……青い彼岸花を調合したあと……お前も鬼となるがいい」

 

 上弦の弐は、欠けたままだ。元々、鬼舞辻無惨の血は、必ずしもすべての人間に適合するわけではない。多くの者は細胞の変化に耐えられず、身体が崩れて消えてしまう。いきなり普通の人間に、上弦と同じ血液を与えても、人間は上弦の鬼にはなれないのだ。十二鬼月になれる鬼は、本当に一握りの素質を持った者だけ。

 童磨に匹敵する鬼は、まだ現れていなかった。

 

 上弦の弐を殺す実力を持つ鹿神ギンなら、鬼に、それも十二鬼月に匹敵する力を得られる。かつての自分と同じように。

 

「断る」

 

 だがギンは、間髪入れずに断った。

 

「俺は鬼狩りであると同時に、蟲師だ。自然と人を繋ぐ蟲師だ。人として、生物として、理の一部として死ぬことを望む。長く生きようとは思わない」

「何故だ……私の剣を止めたその技……森の呼吸と言ったか……聞いたこともない呼吸法……我流だろう……鬼となればその技を永久に保存できよう……」

 

 ただただ強さを求めて鬼となることを選んだ黒死牟。剣技を鍛え続けることを至上とするこの鬼は、鬼となればどれだけ素晴らしいか必死にギンに説こうとする。

 

「だが人の身は……脆く、柔い……肉体が朽ちていくと共に……その技も鍛え抜かれた肉体も滅びていくのだ……惜しいとは……思わんのか……?」

「思わない。悪いな、まったく魅力的に感じない。お前さんみたいに目玉が増えるなんてまっぴらごめんだ」

 

 俺は片目がないがな、と自嘲するようにギンは笑う。

 

「ギンさん……」

 

 鬼の勧誘を一蹴するギンの言葉は、炭治郎の心に深く沁み渡る。

 なんて大きい人だろうと、敵が目の前にいるのに、この人の背中がものすごく大きく見える……!

 

「人が行き着く先は、いつも同じだ」

 

 ――道を極めた者が辿り着く場所は、いつも同じだ

 

「――え?」

「……」

 

 ギンの言葉に、炭治郎と黒死牟は眼を見開く。

 

 ――どこかで聞いたことがあるような言葉。

 遠い昔、誰かが言っていた大切な言葉。

 

「この世全ての生物はいつか死に、そして土に還り、次の命に養分を与える。全ての命は廻っている。俺はもう、俺の全てを託せる奴を見つけてきた。いつでも人生の幕を引く覚悟はできている。元々、蟲にいつ喰われるか、鬼に喰われるか分からねぇ身だ。この命が尽き果てるまで、自分で決めたことをやり遂げるまで精々戦うだけだ」

 

 森を守るため。自然を守るため。大切な者を守るために、俺は医術、薬学、剣術を叩き上げてきた。

 苦しいことも辛いこともたくさんあった。だが、俺の学んだ全てを受け継ぐ奴がいる。それだけで俺は安心して人生の幕を引けるんだ。

 

「もう良い」

 

 黒死牟のその声は、どこか苛立ちか、怒りか、それとも懐古の情か――

 

「ならば……力づくで連れていくまで……脚の一本でも斬り落とせば……容易かろう」

 

 黒死牟から殺気が迸る。さっきまでとは比べ物にならないほどの重圧。

 まずい……来る、どうやって戦えば……!

 すると、黒死牟から目線を外さないままギンが言葉をかけた。

 

「炭治郎、走れるか?」

「え?は、はい!」

「これからお前に任務を伝える。それをなんとしてでも成し遂げろ。そうしなきゃ、ここにいる連中皆殺しだ」

 

 普段物腰が柔らかいギンが、緊張の面持ちを崩さないまま炭治郎に声をかける。

 炭治郎は唾を呑みこみながら頷いた。

 

「俺が切り離した車両に、薬箱を置いてある。鬼に奪われる可能性から置いてきちまったが、完全に俺の失敗だった。炭治郎はそれを取りに行ってくれ」

「く、薬箱を!?」

 

 ギンは「ああ」と頷いた。

 

「その薬箱の中に、"鬼を人に戻す薬"が入っている。それを使って、上弦の壱(黒死牟)を殺す」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ」

 

 しのぶは自分の診察室で、休息を取っていた。時計を見ると、すでに針は深夜を回っている。もう少しすれば夜明けだ。

 

「少し根を詰め過ぎましたね……」

 

 机にはたくさんの医学書と薬学書が所狭しと散乱している。

 医学の技術は一日事に進歩する。日本国内だけでなく、西洋の医者達が毎日のように人を救おうと、研究し、実践し、その知識を広めようと戦っている。

 医術の進歩は凄まじく、駆け足で発展していく。それに追いつく為には、いくら時間があっても足りない。医術、薬学、そして蟲。覚える知識は多く、それは日ごとに増えていく。しのぶは物覚えが良い方だったが、覚えることが多い為、こうして寝る間も惜しんで勉学に励んでいた。

 

 自分の力が、覚えた知識が人を救うと信じている。

 

 ギンさんが褒めてくれた手。鬼を殺す為の手ではなく、人を救うための手であれと。

 

 昔は、自分の手が小さかったことがあんなに悔しかったのにな……。

 

 今では自分の手に誇りを持ててしまっているのだから、不思議な物だ。

 

「ふふっ」

 

 思わず笑みが零れてしまう。

 

 炭治郎君は、あの夜、蝶屋敷の屋根の上で、姉の夢を受け継いで欲しいと、妹の禰豆子を守って欲しいと言う願いを聞いてくれた。自分は鬼そのものを憎んでしまうけれど、姉の夢を叶えてくれた禰豆子を見ると、心が軽くなるのだと。

 竈門兄妹が頑張ってくれれば、自分も頑張れる。ギンさんの弟子である君が頑張ってくれるなら、私も頑張れると。

 

「は、はい!姉弟子!」

 

 緊張した炭治郎君が、自分を姉弟子と呼んでくれた時は思わず笑ってしまった。

 自分の想いを託せる人がいる。

 弟子がいると言うのは、自分も成長させてくれることをしのぶは実感した。

 その後、自分が全集中の呼吸・常中のコツを教えると、すぐに炭治郎君は自分の想いに応えてくれるように常中を会得した。炭治郎の努力に引っ張られるように、善逸君や伊之助君も常中を会得してくれた。

 

 ギンさんも、私を継子にした時はこんな気持ちだったのかしら。

 

 私も花柱代理だし、自分の弟子を見つけるのも悪くないかもしれない。

 

「さて。もうすぐ夜明けですし、少し仮眠しますか……」

 

 晴れやかな気持ちで着替えようと思ったその時。

 

 開かれた窓に、鴉が一羽、止まった。その鴉はぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返している。どうやらここまで全力で飛んできたようだ。

 

「あら?ギンさんの鎹烏……こんな時間になんで――」

 

 その鴉はギンの鴉だった。

 少し年を取った老鴉だが、飛ぶ速さが若い鴉に負けないことで有名だった。

 

 そして、その鴉はとんでもないことを口にする。その指令はしのぶにとって信じたくないような内容だった。

 

 

『カァー!カァー!上弦ノ壱、襲来ィィィ!上弦ノ壱、襲来ィィィ!現在、"蟲柱"ガ応戦中ゥゥゥゥゥ!劣勢!劣勢ィィィ!付近ノ隊士ハ応援ニ向カッテチョーダイ!!チョォォォォダイネェェェェ!!』

 

 

 しのぶは鴉の言葉を聞き終える前に刀を握り、診察室から飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は数刻ほど前に戻る。

 

 

「"鬼を人に戻す薬"……!?」

 

 炭治郎は信じられないと言わんばかりに目を見開いた。

 訊き間違い?いや、確かにギンは言った。()()()()()()()と。

 

「本当は禰豆子に使いたかったんだが、こうなれば四の五の言ってられない。炭治郎!線路を逆に辿って、四両目の車両から薬箱をここに持ってこい!六里*1ほど走って行けばすぐに着くはずだ!」

「ギ、ギンさんは!?」

「俺は時間稼ぎだ。頼むぞ炭治郎!」

「は、はい!」

 

 鬼を人に戻す薬――それが何か、問い詰めたかった。炭治郎が鬼殺隊に入隊したのは、禰豆子を人に戻すためだ。その目的である"鬼を人に戻す薬"が何なのか、どうやって手に入れたのか、どうやって作られたのか知りたかった。

 だが、その心からの衝動を炭治郎はぐっと飲み込んだ。

 今は、そんなことを言っている場合じゃない……本当は訊きたい。その薬が欲しい!けれど、それがあの鬼を倒せる唯一の方法なら、我慢しなきゃいけない。

 

 炭治郎は力強く頷き、薬箱を取りに行こうと、線路の上を走り出す。

 

 

 ――だが、それを見逃す黒死牟ではない。

 

 

 

「行かせると……思うか?」

 

 

 

 ――ベン

 

 

 黒死牟の言葉に応えるように、夜闇に響いたのは琵琶の音。

 

「な、なんだこの琵琶の音!?」

 

 辺りを見渡すが、どこにも弦楽器はない。なのにどこからか、琵琶の弦を力強く弾いた音が響いてくる。

 

 ――ベン!ベン!

 

 頭の中にひっかき傷を残すような嫌な音だ。

 

 

「炭治郎気を付けろ!」

 

 

 ――ベベン!ベンベン!

 

 

「はい――……っ!」

 

 

 異常に気付いたのは、炭治郎だった。

 嫌な臭いがする。嗅ぎ慣れた血の匂い。鬼の匂い!

 

 

「ギンさん!全方向から、大量の鬼の匂いが!」

「なにっ!」

「こっちに向かって来てます!もうすぐそこに鬼が―――!」

 

 十……二十……三十……!まだ増えていく!琵琶の音が響くために、鬼がどんどん……!鬼の数が多すぎて、匂いが濃すぎて、数が把握できない……!

 

 森の中を、止められた列車を囲うように現れたのは、鬼だった。肌の色は変色し、目は血走り、牙が口からはみ出しており、こちらを食い殺そうと獣のように唸り声を上げている。

 ギン達は逃げる間もなく包囲されてしまう。炭治郎の目の前にも、六匹もの鬼が行先を止めるように現れた。

 

「ヒ、ッヒヒッヒ、肉ぅ……肉ぅぅ……」

 

 口からぼたぼたと涎を垂らし、明らかに飢餓状態だということが分かる。

 上弦の鬼はいないようだが、それでもこの数は柱からしても脅威だ。

 

「こんなに数が……!まだ増えていくのか……!」

「くそ……呼びやがったな!なんの血鬼術だ!?」

 

「青い彼岸花は……斬り離した四両目にあるのだな……鬼共よ……半分はここに……もう半分は……線路を逆走し……車両を見つけろ」

 

「!」

 

 黒死牟の言葉に反応した鬼共は、突如踵を返し線路を逆走し始める。狙いは――四両目にある薬箱と、乗客。

 

 ギンは焦る。マズイ。四両目より後ろには、一般客が二百人以上乗っているんだぞ!しかも全員が眠ったままだ!

 こんな数の鬼が一斉に押し寄せれば、二百人もの乗客はあっと言う間に食い尽くされてしまう。

 

「炭治郎走れ!乗客を守れぇ!」

「はい!」

 

 最悪の場面を想定したギンが怒鳴り声を上げ、炭治郎は線路を走るために疾走する。

 

「どけぇぇぇぇぇ!」

 

 

"水の呼吸 参ノ型 流流舞い"

 

 

 流れるように一匹、二匹と鬼の頸を落としながら、炭治郎は線路を逆走する。しかし、鬼の身体力は侮れない。

 数も倍以上にいる。炭治郎はすぐに、自分の行く先を塞がれ、取り囲まれてしまう。

 

「どこにいくんだぁ?俺達と遊ぼうぜぇ……!」

「あっちの方に人間の匂いがする!誰が先に着けるか競争だぁ!先に着いた奴が肉を総取りだぁ!」

「くっ!」

 

 こんなに数が多いと……走って向かうことができない!必ず足を止められてしまう!

 だがそれでも止まれない。鬼達に先に四両目に辿り着かしてしまってはダメだ!

 

「くっそ!炭治――」

「お前の相手は……私だ……」

 

 ギンが炭治郎を助太刀に向かおうとするが、黒死牟が刀を構える。柄、鍔、そして刀身の先まで眼球が埋め込まれた気色が悪い刀だ。

 

「くっそが!」

 

 黒死牟は異次元の速さでギンと肉薄する。

 

 

"月の呼吸 壱ノ型 闇月・宵の宮"

 

 

 鬼になっても呼吸は使えるのか……!

 

 

 反応できたのは、ほとんどカンだった。

 この攻撃に触れてはいけない。鬼狩りの生活で培われてきた本能、戦闘経験がギンを生かした。

 

 脚に力を入れ、爆発的に飛ばすことでその場から離れる。

 

 もし攻撃を喰らっていれば、片腕一本は持って行かれるほどの速さ。

 

「フゥ、フゥ、フゥ!」

 

 そして、ギンの頬は今の攻撃で掠ったのか、何重にも切り裂かれたように切り傷が刻まれていた。

 

 こちらが下手に動こうとすれば黒死牟が邪魔をしてくる。炭治郎に集中を割けば、すぐにでも頸が斬られる。

 

 万事休すか……!

 

 

 その時だった。

 

 

 

「ワッハハハハハハ!猪突猛進!猪突猛進!猪突もぉぉぉしぃぃぃん!」

 

 聞き覚えのある笑い声。その声の出所は、さっきまで自分達が乗っていた、無限列車の三両目からだった。

 

「……ようやく目が覚めたのかよ」

 

 ギンの呆れる様な言葉に反応するように、三両目の乗車扉を蹴破るように飛び出してきたのは、猪の被り物を頭から被った、上半身裸の嘴平伊之助。

 そして、黄色い頭の少年、我妻善逸。目を閉じたまま、雷の呼吸を使用し、居合の構えに入っていた。

 

 

「修行の成果を見せる時だ!行くぜぇぇぇ!」

「――仲間は、俺が守る」

 

 

 

"獣の呼吸 伍ノ牙 狂い裂き"

 

"雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃 六連"

 

 

 

 伊之助と善逸は、目にも留まらぬ速さで鬼の頸をすれ違いざまに落としていく。常中の鍛練は嘘を吐かない。以前より圧倒的な速さと力強さで、正確に攻撃していく。

 

「善逸、伊之助ぇ!」

 

 炭治郎はほっとしながら、自分の下に駆け付けてくれた仲間の名を呼ぶ。

 

 そして、忘れてはいけない家族が一人。

 

「むー!」

「禰豆子!」

 

 伊之助達に少し遅れるように現れたのは、竹を噛んだ鬼の少女禰豆子。

 禰豆子もまた、周囲にいる鬼が兄の敵だと認知し、人ならざる蹴りで鬼を攻撃していく。禰豆子の攻撃の後に伊之助達に頸を落とされた鬼は、断末魔を上げながら灰になって崩れていった。

 

「ワッハハハハ!なんじゃこりゃ!すげぇー鬼がいるじゃねえか!待たせたなゲンゴロウ!この俺様が来たからにはもう安心だぜ!」

「遅れてすまない」

「むーむー!」

 

 伊之助と善逸、そして禰豆子が炭治郎の周りにいた鬼を次々に一掃していく。

 

「皆……!」

 

 三人の助太刀によって、炭治郎の周りの鬼が一掃され、線路の道が開く。

 

「――炭治郎、どうすればいい」

 

 鼻提灯を膨らませながら、善逸が炭治郎に尋ねた。……この四人なら、鬼が何匹来ようと怖くない。不思議と、勇気が湧いてくる。

 炭治郎は頷いて、今すべきことを三人に伝えた。

 

「線路を逆走した先に、ギンさんが斬り離した車両がある!そこに乗客が何百人も乗っている!それを守るんだ!三人とも、頼めるか!?」

「むん!」

「分かった」

「任せろ!俺様が一番にそこに辿り着いてやるぜ!爆裂猛進!爆裂猛進!」

 

 

「行かせるな……鬼共よ」 

 

 

 車両に人が残っていることには気づいていた。だが、まさか鬼狩りとは思わなかった黒死牟だが、すぐに他の鬼達に指示を出す。

 

「へ!数が増えたからなんだって言うんだ!こっちにはまだまだいるんだぜぇぇぇ!」

 

 まだ何十匹もの鬼がいる。いくら仲間が増えたからと言って、未だに危機に陥っていることに変わりはない。鬼は躊躇わず、炭治郎達に飛びつくが――

 

 

 

 

 

 

「よもやよもや!うたた寝をしている最中に鬼に取り囲まれるとは!穴があったら、入りたい!」

 

 

 

 

 

 

"炎の呼吸 弐ノ型 昇り炎天"

 

 

 

 

 

 

 この場において最も頼りがいがある男が、現れた。

 

「おっせーんだよ……」

 

 炭治郎達の背後にいた二十匹以上の鬼の頸が、一呼吸で落ちた。

 

「すまない、ギン!遅れた!」

「煉獄さん!起きていたんですね!」

 

 現れたのは、"炎柱"煉獄杏寿郎。

 鬼殺隊の柱の中でも高い実力を持つ、質実剛健、炎のような男。

 

「ほう……炎柱もいたのか」

 

「ふむ!あれが上弦の壱か!なかなかの重圧!うむ!」

「何してたんだよ、杏寿郎テメェ……こちとら死ぬところだったぞ」

「怒るな!ギン!車内に藤の花の香を焚き、窓から様子を伺っていたのだ!」

 

 無限列車の二両目には、ギンが気絶させた運転士、そして下弦の壱に協力していた人達を寝かせている。鬼に襲われないよう、気休めにしかならないかもしれないが、車内に藤の花の煙を充満させるまで時間がかかったのだ。

 

「ひとまずは、下弦の鬼に協力していた人達は安全だ!だが!うむ!それまでずっと寝ぼけてしまったのは申し訳ない!」

「まったくだ……」

 

 ギンは呆れながら笑ってしまう。どこか抜けた兄弟子だが、頼りがいはある。同じ鍛練を積んだ者同士、煉獄杏寿郎の実力は、鹿神ギンが一番よく知っていた。

 そして、上弦の鬼と戦う時、相棒が近くにいるだけでどれだけ心強いか。

 かつて上弦の弐を討伐できたのは、もう一人の兄弟子であり、共に鬼から人を守ると言う誓いを立てた親友がいたからこそ。

 そして自分の前には再び上弦の鬼、そして隣には、兄のような親友が。

 これが勇気にならずに、何になろうか。

 

「相手は上弦の鬼!うむ!眠りこけてしまった失態は、奴の頸で穴埋めしよう!」

「そいつはありがたい」

 

 すぅ、と息を呑み、切り替える。討伐対象は、上弦の壱。相手にとって不足はなし。

 

「竈門炭治郎!我妻善逸!嘴平伊之助!竈門禰豆子!指令を伝える!」

 

「「「「!」」」」

 

 夜の山に響く音量で、ギンが叫ぶ。

 本当の戦いは、ここからであると、ギンは言葉の裏に四人に伝えた。

 

「線路を逆走し、後ろの乗客を守れ!炭治郎は俺の薬箱を発見次第、ここに持ってこい!殿は俺達"蟲柱"と"炎柱"が務める!やれるか!?」

 

「はい!!」

「おうっ!!」

「はい」

「むー!」

 

 四人の後輩達は、鬼の頸を落としながら線路の上を走り出す。

 

「待てごらあああああ!」

「死ねやぁあああああ!」

 

 それを追いかける、大量の鬼達。

 

「この煉獄の赫き炎刀が、お前を骨まで焼き尽くす!行くぞ!ギン!」

「おう」

 

 そして、自分達の目の前には、文字通り最強の鬼。十二鬼月の一番。上弦の壱。

 

 

 

 

「……どうやら……面白くなってきたようだ」

 

 

 

 

 上弦の壱との戦いの火蓋が切られた。

 

 

 

 

 

 

*1
約27キロメートル



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死闘

 

 

 ――走れ、走れ、走れ。

 

 息を止めるな。足を止めるな。ギンさんと煉獄さんが上弦の壱を食い止めてくれる間に。時間を稼いでくれている間に。

 

 あの鬼は異常だ。

 ギンさん達二人が負けるとは思いたくない。信じたくない。けれど――

 

 どうしようもない不安が、心の底に淀んで沈んでいる。

 大丈夫だ、負けるわけがない。そう自分に言い聞かせても、どうしても脳裏によぎる最悪の未来。あの場所に戻った時に、二人が物言わぬ死体になっているかもしれない――そう考えると、恐くてたまらなくなる。足が竦みそうになる。

 あの黒死牟と名乗った鬼は、それほどまでに強い。今の自分では絶対に勝てないと、炭治郎は気付いていた。

 

 ――ベベン!

 

「くそ!さっきからなんだこの音は!気色悪い!」

 

 伊之助が苛立ちを隠さずに叫ぶ。俺達を追いかけるように鳴り続ける琵琶の音は、不気味に暗闇の中に響き、その度に鬼の匂いが、数が増えていく。

 

「血鬼術だ!あの音が鳴ると、鬼が現れるんだ!」

 

「ガアアアアアアアアアアアアアア!」

「人肉ぅぅぅぅうううう!」

「くっ!」

 

 走りながら首だけ後ろに向けると、何十匹もの鬼の大群が俺達を追いかけてきている。驚異的な跳躍力で背中に飛び掛かってくる鬼を避け、すぐに反撃し頸を落とした。呼び出された鬼達はそこまで強くない。だが時間をかけすぎるとすぐに鬼達が車両にたどり着いてしまう。頸を斬れたことを確認し、すぐに線路の上を走り抜ける。

 だが、斬っても斬っても鬼はいなくならない。

 何十匹もの鬼が常に後ろを追いかけてくる。隙を見せれば、数に圧されて殺されてしまうだろう。

 

「くっそ!獣の呼吸――!」

「止まるな!」

 

 あまりの鬼の数に、伊之助が足を止めて技を繰り出そうとしたが、善逸が叫びながら腕を掴み、無理やり止めた。

 

「何すんだ!」

「少しでも足を止めれば鬼達が先に車両についてしまう!鬼を相手にするのは必要最小限にするんだ!」

「でもどーすんだよ!鬼は空間を移動できんだろ!?先に移動されたらどうすんだ!少しでも数を減らすべきだろ!」

 

 琵琶の音。おそらく空間を自在に操る鬼の血鬼術なのだろう。あの音が鳴る度に、闇から鬼が現れる。どこからか鬼をここまで運んでいるのだ。

 もしその血鬼術で、既に四両目の方に移動させていたら――

 

「大丈夫だ、伊之助!」

 

 伊之助の疑問に、善逸が答える。

 

「あの琵琶の音は、俺達から離れていない場所で鳴り続けている!おそらく四両目の車両の位置や線路の向きを正確に把握できていないんだ!もし最初から斬り離した車両の位置を把握しているなら、最初からそこに鬼達を移動させているはず!けどそれができないんだ!」

 

 雷の呼吸の使い手、我妻善逸は聴覚が非常に優れている。

 極度のビビリ症である善逸は、恐怖で精神に限界が来ると気絶し、眠りに落ちてしまう。だが眠った善逸は鋭い聴覚で周りの状況や敵の位置を正確に把握し、冷静に状況を判断、分析し戦うことができるという特殊な戦い方をする隊士だった。

 

 琵琶の音は、常に追いかけてくる鬼達の後ろで鳴り続けている。そこから鬼が出てきている音がしているのだ。おそらくこの周囲一帯の鬼をこの山に集めているのだろう。だが集めているだけで、細かく鬼を出す位置を操ることはできていないようだと善逸は気付いていた。

 

「なるほど、そうか善逸!」

「お前はずっと寝てた方がいいんじゃねえか……」

 

 納得したように表情を綻ばせる炭治郎と、驚き半分、呆れ半分の伊之助が思わず唸る。

 善逸の予想は当たっていた。

 

 琵琶女、鳴女。

 

 琵琶を使用する、鬼舞辻の配下の鬼達の中でも特別な鬼だ。その鬼の力は、空間を自在に把握し、物や人を別空間に送る、もしくは自分の下へ召喚するという特殊な血鬼術だ。

 ただし任意の相手を送るには、対象の人物と位置を正確に把握する必要がある。普段なら、鬼の位置を全て把握する鬼舞辻の指示の下、血鬼術を使用するのだが、今の鳴女は鬼の正確な位置や炭治郎達の位置を把握する術を持たない。

 上弦の壱の黒死牟の指示の下、無限城から鬼をただ送り続けているだけなのである。

 

 もし、鳴女が鬼達や炭治郎の位置を正確に把握できる能力を持っていたのならば、炭治郎達はすぐに先回りされ、鬼に囲まれ殺されていただろう。

 

「とにかく、俺達は四両目の車両に辿り着くことだけを考えよう!」

 

 自分達の内の誰かが先に車両に辿り着いてくれれば、鬼に襲われる前に乗客を守ることができる。鬼に薬箱を奪われる前に車両に辿り着けば、ギンさん達を助けることができる!

 

「なら俺様に任せろ!俺様なら山だろうが線路の上だろうが、全力で走り抜けれるぜ!先に俺様が辿り着いてやる!」

 

 山で暮らし、猪に育てられた伊之助は、仲間達の間で一番脚に自信があった。猪に育てられ、山を走り込んだその健脚は、どんな険しい道でも走り続けることができるほどの持久力を持っていた。そして、蝶屋敷で全集中の呼吸・常中を取得し、ギンに鍛えこまれたことで、以前よりも速く、そして長く走ることができるようになっていた。

 

「よし伊之助、俺達が援護する!善逸、伊之助を守るんだ!」

「分かった!」

「俺様に任せろぉぉぉぉ!」

「禰豆子は伊之助についていってくれ!禰豆子なら伊之助についていける!俺達は鬼の数を減らしながら二人に追いつく!」

「むっ!」

 

 力強く頷く禰豆子は、伊之助の真横に跳ぶ。鬼の禰豆子なら、伊之助の速度についていける!

 

「行かせるかぁぁぁぁぁああああ!」

 

 醜悪な鬼達が叫びながら、先回りするように地面に着地し、複数の咆哮から自分達を殺そうと一斉に飛び掛かるが――

 

 

「邪魔だ邪魔だ邪魔だぁぁぁぁ!」

 

 

 

"獣の呼吸 捌ノ型 爆裂猛進"

 

 

 

「―――退け。禰豆子ちゃんは俺が守る」

 

 

 

"雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃・八連"

 

 

 

「伊之助、禰豆子、頼んだぞ!」

 

 

 

"水の呼吸 参ノ型 流流舞い"

 

 

 

「ぐえ」

「がっ……」

「速っ……」

 

 防御を一切せず直線に突き進む伊之助と、その後ろにくっつくように走る禰豆子の周りの鬼達を、流れるような動作で頸を落としていく炭治郎と善逸。

 

 蝶屋敷で共に鍛錬した時間は、嘘を吐かない。三人とそして禰豆子は見事な連携で線路の上を走り抜ける。

 

「はぁ、はぁ……!」

 

 炭治郎の耳に、しがみ付く様に、こびり付く様に残るギンの言葉。

 

 

――薬箱の中に、"鬼を人に戻す薬"が入っている

 

――本当は禰豆子に使いたかったんだが

 

 

 ギンさんは、俺が欲しくて欲しくてたまらなかった、鬼を人に戻す手段を持っている!

 一体いつ、どうして、どうやって鬼を人に戻す術を手に入れたのかは分からない。

 

 あの鬼が言っていた青い彼岸花ってなんだ?ギンさんが言っていた鬼を人に戻す薬と関係があるのか?

 

 ギンさんが蝶屋敷を留守にしていた二週間の間に、一体何があったのか。

 

 本当はあの時、訊きたかった。その薬の使い方を。作り方を。なんとしてでも。

 頭が混乱する、禰豆子を、妹を、助けることができると考えただけで、今すぐあそこに戻ってギンさんに問い詰めに行きたくなる。

 

 でも、分かっていることがただ一つ。

 

 この戦いを乗り切れば、禰豆子を人に戻すことができる!

 その為にも、絶対にギンさんと煉獄さんを助けなきゃいけない。

 

 今こうしている間にも、あの鬼とギンさん達が戦っているはずだ。

 

「待ってろ禰豆子……兄ちゃんが、絶対守る!絶対に、俺が人間に戻してやる!」

 

 だからギンさん、煉獄さん、死なないでください。

 待っててください。

 必ず、その薬を届けに戻りますから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……今宵は……なんと良い夜だ……」

 

 

 無限列車の先頭車両が停車したその場所は、異様な空気が満ちていた。

 

 一人の鬼と、二人の男が、刀を抜いて向かい合っている。

 

 先ほどまで、そこはどこにでもある静かな山の麓だった。しかし、何も知らぬ一般の人間がこの惨状を見れば、この場所で戦が起きたのか、それとも爆薬を使われたのではないかと誰もが思うに違いない。

 

 地面は抉れ、木々は抉られたように斬り倒されている。地面はひっくり返り、ここが元々どんな地形だったか分からなくなってしまうほどだ。

 更に横を見れば、無限列車の機関車と一両目の列車は横転してしまっている。乗客用の巨大な列車は巨大な刃で斬られたかのように、真ん中から真っ二つに両断されていた。中にいた、下弦の壱に協力していた人間達の姿はない。三人の戦いに巻き込まれまいと既にこの場から逃げ去っていた。それは恐らく正しい判断だ。もし彼らの位置から半径六間*1よりも内側にいたら――命はなかっただろう。

 積まれていた石炭が辺りに散乱し、機関車から漏れた火の粉が、近くに生えていた雑草に火を点け、ぼうぼうと燃え上がる。燃え上がった火は、ここにいる剣士達を紅く照らした。

 煙と熱が充満した世界。戦いの場。戦国の世から約四百年。太平の世となった大正時代では、本来ありえない光景。

 

 剣士と剣士の戦いで、ここまで土地が荒れることはない。

 

 この惨状は、全て一人の鬼と、二人の人間。この剣士達が起こしたことだった。

 

 しかし、どちらが優勢で、どちらが劣勢かは火を見るよりも明らかであった。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 

 肩で息をする"蟲柱"鹿神ギンは血だらけだった。もちろん、相手の返り血ではなく自分の血である。お気に入りの西洋の()()()はボロボロで、もうほとんど上着としての機能を果たしていない。おまけに全身には刀による斬り傷が数え切れないほど刻まれており、服や白い髪は所々血が滲んで汚れてしまっていた。

 

「ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ」

 

 そして"炎柱"煉獄杏寿郎。実力だけならギンと同等かそれ以上の実力を持つ男だが、ギンほどではないにせよ、土と血で汚れていた。そして、ギンは血まみれで派手に怪我をしているが、杏寿郎の方が重傷だった。

 肋骨と、左腕の骨に損傷。服に隠れているので分からないが、体のあちこちを打っている。肌を晒せば、痛々しく紫色に変色しているはずだった。普通の人間であれば痛みで立てないほどの激痛だが、煉獄杏寿郎は持ち前の気概で、表情にはおくびにも出さず、抑え込んでいる。

 

「素晴らしい……我が剣技を前に……これほどまで生き延びた者はそうはいない……」

 

 ギン達の周りに、鳴女が呼んだ鬼達はいない。

 

 自らの剣技を最大限に振るうこと。しのぎを削るような殺し合い。果し合い。その果てにある、剣の極地。

 

 黒死牟が望むのは、己の剣技を神に届かせること。ただそれだけである。

 

 その為に、無粋な鬼達の横やりを黒死牟は嫌った。鬼は全て炭治郎達を追いかけさせた。黒死牟は柱二人と全力で戦うことを選び、その結果がこの惨状だ。

 

「そして……未だ衰えぬ闘志……見事なり」

 

 ボロボロのギン達に対して、黒死牟は未だ傷一つも負っていない。柱二人掛かりでも、傷をつけるどころか相手の間合いに入ることすら困難を極めた。

 

 だがそれで諦める鬼殺隊の"柱"ではなかった。

 

 ギンは腰を低く構え、黒死牟に向かって踏み込んでいく。

 

 

"森の呼吸 弐ノ型 剣戟森森"

 

 

 繰り出される十連の突き。ギンの柔らかい手首と肩を最大限に撓らせた高速の攻撃。一本で仕留められぬなら、数で押せと、柄を握る力を込める。

 

 

"炎の呼吸 伍ノ型 炎虎"

 

 

 そしてギンと同じように黒死牟に肉薄する杏寿郎も、ギンとほぼ同時に技を繰り出す。黒死牟を斬るための技ではなく、ギンの攻撃を避けられぬように技を繰り出した。

 

 

「見事……だが……甘い」

 

 

 

"月の呼吸 伍ノ型 月魄災禍(げっぱくさいか)"

 

 

 避けられぬなら、周りを全て斬り払えばいいだけのこと。

 鬼の膂力と、呼吸法によって底上げした力は、柱を容易にしのぐ。更には、何百年も鍛え続けたであろう黒死牟の剣技は、達人という言葉すら賞賛に値せず、神の極地に手が届く。黒死牟が振るう刀は、一振り一振りが全て()そのものである。

 更に、黒死牟の血鬼術なのか、黒死牟の斬撃は文字通り()()()()()()。振り払われる刀の軌道に沿うように残る月光は、一つ一つが黒死牟の斬撃。

 不規則に揺れるその光を避けることは、人間ではほぼ不可能だ。

 

「ぐっ!」

「ぬぐぅ!」

 

 触れれば即断されるその光を、ギンと杏寿郎はぎりぎりの所で回避する。

 見てから動いては間に合わない。ほとんどが野生のカンのような物だった。長い間、鬼達との戦いで、仲間と励んだ稽古で培った経験に基づいた勘。

 

 全てを回避することはできなかったものの、五体満足のままギン達は跳ねるように後ろへ跳び逃げる。

 

「……行くぞ」

「ギン、後ろだっ!」

「ッ」

 

 目にも留まらぬ速さでギンの後ろに回り込んだ黒死牟は、神――いや、鬼の絶技でギンの頸を断とうと刀を滑らせる。

 

 

"月の呼吸 壱ノ型 闇月(よみづき)(よい)(みや)"

 

 

「なめんな……!」

 

 

"森の呼吸 陸ノ型 乙事主"

 

 だが咄嗟の所で技を繰り出したギンは、自分の刀で黒死牟の刃を逸らすことに成功する。

 当て処を間違えば一瞬で自分の刀を斬られる。折られるのではなく、斬られる。自分の刀より、鬼の細胞で強化された黒死牟の日輪刀の方が切れ味が鋭いからだ。

 そして、逸らされた黒死牟の刃はギンのすぐ横にあった機関車を斜めに切り裂いた。

 

 ――何トンもある鋼鉄の塊を、ケーキか豆腐を斬るみたいに……!

 

 驚愕で息を呑むギンに、瞬間、爆風が襲った。

 

 蒸気機関を積んだ機関車が、斬られたことでボイラーが爆発したのだ。

 人を一瞬で焼き焦がす熱を孕んだ爆風がギンを襲う。

 黒死牟の刀を受けるのに精いっぱいだったからか、それとも不安定な体勢で受けたからか、ギンは紙くずのように吹き飛ばされる。

 

「ギン!」

 

 吹き飛ばされた弟弟子の援護に向かうべきか、いや、そんな暇は――!

 

「心配をしている余裕が……お前にあるのか?」

「なっ!」

 

 

"月の呼吸 弐ノ型 珠華(しゅか)弄月(ろうげつ)"

 

 

 間髪入れずに繰り出される、黒死牟の剣技。

 迎え撃つように、杏寿郎は息を整え刀を振り上げた。

 

 

"炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり"

 

 

 自分を取り囲むように振り下ろされる黒死牟の斬撃を、前方の広範囲を薙ぎ払う肆の型で防ぐ。が――

 杏寿郎が刀を振り終えた瞬間を、黒死牟が刀を降ろした。

 狙うは――杏寿郎の刀。

 

 ――俺の刀を折る気か!

 

 黒死牟の狙いに気付いた杏寿郎は手首を咄嗟に捻り、黒死牟の刀を避けた。黒死牟の刀が地面にめり込んだ瞬間、まるで隕石がその場に墜ちたように地面が揺れ、土がまくれ上がる。

 

「ぐぉお!」

 

 その衝撃に耐えられず、後ろに吹き飛ばされた杏寿郎だが――

 

「杏寿郎!」

 

 爆風から立ち直ったギンが杏寿郎の背中を支えるように回り込み、吹き飛ばされた杏寿郎を掴んで地面に着地した。

 

「済まない、ギン!」

「謝らなくていい……ぐっ、ごほ……」

 

 どこか無理をしたのか、ギンはその場で血を吐いた。爆風を浴びたせいか、腕に酷い火傷を負っている。

 そんなギンを心配しながら、杏寿郎は目の前の鬼を睨みつける。

 

「……」

 

 悠然と立ち、こちらを見るその鬼はまさに最強だった。炎と蟲、二人の柱が連携して戦っているのに、まったく歯が立たない。多少攻撃が入っても、掠り傷をつけた程度だ。その傷も、すぐに回復されてしまう。

 

 

「これが上弦の壱か……!」

 

 

 強い。ただ強さだけを純粋に求め続ければ、きっとあんな姿になるのだろうと杏寿郎は思った。

 ギンから上弦の弐と戦った時の詳細を聞かされたが、想像とまったく違う。数字がひとつ違うだけで、ここまで差が出る物なのか?いや、ギンや冨岡が瀕死の重傷を負うまで戦った上弦の弐と、今目の前にいる上弦の壱を比べれば、上弦の弐は赤子同然だ。次元が違う。

 上弦の弐は、氷の血鬼術を使う鬼だと聞いていた。だが、おそらく鬼の身体能力や血鬼術に頼り切った鬼だったのだろう。この上弦の壱は、鬼として人ならざる力を得ただけでは飽き足らず、鬼になってからも鍛え続けたのだ。己の剣を。力を。ただただひたすらに。

 なるほど、多くの柱が殺されるわけだ。

 

 

「"光酒"……噂には聞いていたが……ここまで戦えるとは……なるほど……童磨はこれでやられたのだな……」

 

 ギンの左頬には、緑色の痣が、杏寿郎の額には、炎に揺らめくような赤い痣が浮き出ていた。ギンが念のために用意しておいた光酒を呑んだ影響で浮き上がった痣だ。

 

"光酒"は、光脈筋から抽出された命の源泉たる液体だ。飲めば蟲患いを起こした者や、病弱な人間の身体を活性化させる効果を持つ万能薬である。

 

 

 ギンはこれを鬼殺に使えるのではないかと研究し、様々なことに応用した。

 

 光酒の原液は最高の美酒として、そして産屋敷の身体を蝕む呪いの進行を止める治療薬として使うことができた。更に胡蝶しのぶの案により、鬼が嫌う藤の花と調合した結果、今まで頸を斬らなければ殺すことができなかった鬼を殺すことができる毒の開発に成功した。下弦程度の鬼であれば即死する猛毒である。

 百倍に薄めた光酒は、点滴用に。光酒は直接血管に打ち込まれると、細胞が安定して活性化し、治癒を促進する。あくまで治癒力を底上げするだけなので、傷がすぐに回復するわけではないが、通常よりも傷の治りが早くなる。

 十倍に薄めた光酒は、注射用に。これは主に重傷、瀕死の患者に使われる。痛み止め、そして傷の回復を図ることができるが、本人にも強い負担がかかるために多用はできない。

 

 そして――ギンと義勇が上弦の弐を討伐する際に、そして今、上弦の壱と戦う為に使用した"光酒"は十倍に濃い濃度で抽出した特別な光酒である。

 

「……命の源泉……私は見たことがないが……さぞ美しい川なのだろう……その酒を……身体能力の底上げに使うとは……」

 

 その光酒を呑むと身体が燃えるように熱くなる。心拍速度を倍以上に上げたおかげで、血の巡りがよくなるからだ。二人の身体能力は普段の倍以上になっており、反応速度や腕力、瞬発力を底上げされている。

 細胞を活性化させた影響か、体のどこかに"痣"が浮き上がる。しかし、光酒は力を得る代償に()()()()()()ため、慎重に使うようにと耀哉に厳重に命令されていた。

 

 そして、上弦の壱との戦いでギンと杏寿郎はその"光酒"を使用したのだが……結果は言わずもがな。光酒を使用し、そして柱が二人掛かりでも上弦の壱に辿り着けない。

 

「……"痣"が出るほどとは思いもしなかったが……その力……相応の代償があろう……鹿神……」

「……くっ」

 

「……触覚が……薄いのであろう……特に……舌か……」

 

 悔しそうに歯噛みするギン。そして杏寿郎は、驚きで眼を見開いた。

 弟弟子の、触覚が、舌が、鈍っている?

 そんな素振り、一度もギンは見せなかった。杏寿郎の眼には、ギンはいつも通りに見えていたからだ。

 

「……もはや、何を喰っても感じぬのではないか……?」

 

 黒死牟の言葉に、杏寿郎が思い出すのは、今日、汽車に乗っていた時のこと。

 

 

 ―――うまいうまい!この焼肉弁当は、なるほど、さすが美味いな!

 ―――もうちょっと静かに食えよ

 ―――ギンは喰わないのか!うまいぞ!

 ―――いや……俺はいい

 ―――どうした!肉はギンの大好物だろう!

 ―――……そーいう気分じゃないんだよ。眠いし

 

 

 もしや……あの時既に……?

 

 

「一度二度飲む程度じゃ副作用は出ねえよ。ちょっと味が分かりにくくなっただけだ」

 

 

 ギンが溜息を吐きながら答えた。兄弟子の前で、知られたくない秘密をばらされたことに、苛立ちを隠さずにぶっきら棒に答えた。

 

 

「まさかギン!自分で人体実験をしていたのか!」

「当たり前だろ。どんな副作用が出るかも分からねえ物を兄弟子に渡せるか」

 

 

 ギンは自分の身体を使って、光酒の実験を行っていた。飲めばどんなことが起こるのか、血管に打ち込めばどんな効果があるのか、細かく何度も試し、そうして完成させたのが十倍の濃度を持った光酒。

 

 

「俺が人体実験をしていたのを知っていたのは耀哉だけだ。かなりきつく止められたがな」

「ギン……!」

 

 なんて……馬鹿なことを……!

 弟弟子の身を挺した行動に、杏寿郎は思わず涙を流してしまう。自分達を思いやってくれたことを嬉しむべきか。それとも自分の身を案じなかったこのバカな弟弟子を叱るべきか、それとも悲しむべきか、分からなかった。

 

「光酒の大本は、光脈だ。地底奥底に流れるそれは、微小な蟲や生物達で構成されている。身体から光酒が抜けきれば問題ないが、間を置かずに多飲すると身体が蟲に寄っちまうらしい。俺は随分、"光酒"を飲み過ぎた」

「そうまでして……戦うのか……」

「覚悟の上だ。蟲を安易に利用すれば身を滅ぼす。俺の身体が蟲になっちまうのも、当然の報いだ」

 

 だが、そうでもしないと鬼達を滅ぼせない。

 

「そういうお前こそ、そこまでの剣技を持ちながら何故鬼舞辻に与した。その技、さぞ名のある剣士だったんだろう。なのに、何故鬼になった。そうまでして求めたい物はなんだ?」

「……お前には……理解できぬことだ……手に届かぬ太陽のような……神々の寵愛を受けた者を……いや」

「?」

 

 黒死牟は迷いを振り払うように首を振り――刀を、構えた。

 

「……話が過ぎた……そろそろ終いにしよう……」

 

 まずい、来る!

 

 身の毛がよだつような感覚を覚え、すぐに臨戦態勢を整える杏寿郎とギン。このまま殺されるのか……そう思った時だった。

 

 

 

 

 

「―――ギンさん!」

 

 

 

 

 ギン達の背後から現れたのは、ギンの薬箱を両手で抱えた炭治郎だった。何匹もの鬼達と戦ったのだろう。擦り傷と血で薄汚れていたが、ギン達が生きていることが分かったのかその顔は笑みが溢れていた。

 

 

 

 

「ッ!」

 

 

 

 

 最初に黒死牟の異変に気付いたのは、ギンだった。

 炭治郎が現れた瞬間――先ほどまで静かな表情だった黒死牟の表情が、憎悪の色に染まったのだ。

 

 

 

 

 

「マズイ、炭治郎逃げ―――!」

 

 

 

 

 

 

「え?」

 

 

 ―――間に合うか!?

 

 

 

 

"月の呼吸 陸ノ型 常夜孤月(とこよこげつ)無間(むけん)"

 

 

 

 

 

 

 

 黒死牟の刀が振り払われた瞬間、数えきれないほどの無数の飛ぶ斬撃が、縦横無尽に飛び交った。無差別に、そして無慈悲に斬撃は炭治郎の方へ向かっていく。まだ経験が浅い炭治郎では、いや柱ですらも避けられない不可視の剣。

 

 

 

 

 

 

 

 鬼の力で放たれた憎しみの斬撃が、辺り一帯を包み込むように斬り刻む。

 

 

 

 

 

 樹も、土も、列車も、この世全てを斬らんと放たれた斬撃は、巨大な爆風を生み出し、山を揺らした。

 

 

 

 

 

*1
約10メートル



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日輪の石

 

 

 杏寿郎、ギン。

 

 よく考えるのです。私が今から聞くことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は少し巻き戻り――

 

 

「あったぞ!列車だぁ!」

「むっ!むっ!」

 

 線路の上を猪突猛進で突き進んでいた伊之助と禰豆子は、ギンが斬り離し、停車していた車両を発見する。

 まだ鬼はこちらに来ていないようで、鬼の気配はしない。

 

「よっしゃぁ!俺様が一番乗りだ!」

 

 伊之助は扉を突き破り中の様子を確認する。乗客たちはまだ眠っているようだ。こんな時に暢気に眠りやがってと少しイラついたが、すぐにそれを収め、車内を一通り確認する。

 

 あのヤロー……俺様が眠っている間に、乗客全員をこっちに移していたのか。

 

 伊之助の脳裏に浮かぶのは、伊之助が「白髪ヤロー」と呼ぶ鹿神ギンだ。

 

 

「なるほど、懐かしい」

 

 伊之助がギンと初めて邂逅したのは、蝶屋敷に入院していた時のこと。那田蜘蛛山で負傷し、冨岡義勇にすんでの所で命を救われた。だが、山で鍛え、弱肉強食の世界で生き延びた伊之助にとって、その戦いは己の自信を簡単に打ち砕く物だった。

 

 圧倒的な強さで己を瀕死に追い込んだ鬼。

 そしてその鬼を簡単に殺した、冨岡義勇。

 

「修行をし直せ、戯け者」

 

 自分は強いはずだった。その為に刀を手に取った。我流で剣を鍛え、身体を鍛え、何匹もの鬼を殺した。

 けれど、届かない強者がいる。遥か高みにいる強者が、今まで最強だと信じていた己が見上げるしかない存在がいた。

 

 自分より強い奴がいるはずがない。自分が最強。自分が一番強い。

 

 そう信じていた己の真理は、粉々に打ち壊された。

 

「……随分とへこんでいるようだな」

 

 そいつからは、懐かしい気配がした。

 山のような、森のような、獣のような。そんな気配。昔生まれ育った山の中を思い出す。

 

「……誰?」

 

 動く意欲は一切湧かなかった。勝てない奴は生きている意味がない。そう思っていた。だから、蝶屋敷の面々にあれよあれよと着慣れぬ入院服を着せられ、注射をされ、手当てをされた。

 喉の痛みはすぐに引いた。けれど、傷は癒えても自身の誇りは傷ついたままだった。

 

「俺は、鹿神ギンと言う。その被り物、どこで手に入れた?」

「…………」

「その被り物を見ていると、森に居た頃を思い出す。さぞ立派な猪だったんだろう」

「…………?」

 

 伊之助が被っている猪の被り物は、彼を育てた母猪の毛皮だった。自分は猪の子。山のヌシの子。

 猪の毛皮を被るようになったのは、自分も猪でありたかったからだ。自分も強くありたかったからだ。

 

 固い毛皮、樹も削る強靭な牙、そして全てを押し退ける突進力。

 

 何年も被り続けている猪の毛皮が壊れないのは、伊之助を育てた母猪が光脈筋を管理するヌシだったからだ。光脈筋で生まれ育った猪のヌシの毛皮は頑丈で、破れない、腐敗もしない特殊な毛皮だったのだ。

 

 そんな自分の被り物を、いや、自分を育ててくれた猪を褒めてくれたからか、伊之助の心にまたほわほわした気持ちが溢れだした。

 

 炭治郎に頼られた時、褒められた時、認められた時に生まれる暖かい気持ちだった。

 

「俺を……育てた猪だ……」

 

 そんな気持ちからか、伊之助はぽつぽつと語り出した。ギンはそれを茶化そうともせず、真剣に話を聞いていた。

 

「奇遇だな。俺も獣に育てられたんだ。と言っても、猪じゃなくて鹿だがな」

「鹿……」

「俺は森で、その鹿のヌシに育てられたんだ。しのぶにも話してないんだぜ?これ。大抵信じてくれないからな。だが、同じ自然の中で生きてきた者同士、親近感が湧くよ、どーも。他人だとは思えない」

 

 白髪ヤローはそう言って笑った。

 今まで俺のように、森や山で生まれ育った奴と出会ったことはなかった。 

 だからこいつから、こんなに懐かしい感じがするのだろうか。

 

「鬼に負けて悔しいんだろう。自分の弱さに打ち負かされるのはきついよな。だがお前はまだ若い。生きていれば勝ちなんだ。今は牙を研げ。力を磨け」

 

 

 そうすりゃ、お前は何にだってなれる。

 

 

「……くっそがぁ!」

 

 気に喰わない。気に喰わない。その言葉を思い出すたびに、胸の奥が燃えるように熱くなる。痛いぐらいに心臓が跳ねる。

 やってやるという気持ちにさせられてしまう。

 俺様が強いのは当たり前だろうが。だがもっと強くなってやる。いつかヌシのように!山の王に!白髪ヤローのように!

 

 蝶屋敷で、ギンに何度も戦いを挑んだ。だが、その度に跳ね返され、力の差を見せつけられた。だが、それでも追い付きたい。自分の方が強いのだと証明したい。

 

 ――突如現れた上弦の壱。それが異次元の強さを持っていることは、すぐに分かった。

 今の自分では間合いに入ればすぐに殺されることはすぐに理解した。

 助太刀に入った所で足手まといにしかならない。

 

「ああチクショウ!」

 

 だが、その悔しさを伊之助は歯を食い縛って耐える。

 

 ――生きていれば勝ちなんだ。牙を研げ。力を磨け。

 

 少し前までの伊之助なら、上弦の壱へ無謀に突進しただろう。だが、その足を止めさせたのはギンの言葉だった。

 

 ――生き残れば勝ちなんだろう!なら、あんな奴に負けるんじゃねえ!

 

 耐え忍ぶ。

 

 自分の弱さを噛み締めながら、力を付ける。それが伊之助がギンから学んだ事だった。

 伊之助は車両の屋根の上へ飛び跳ね、辺りを見渡す。

 

「伊之助ー!」

 

 すると、遠くから声が聞こえた。

 

「おっせーぞ権八朗!善蜜!俺様がここに一番に辿り着いた!崇め奉れ!」

「大丈夫か!?怪我をしてないか!?」

「……してねーよっ!なめんな!」

 

 一瞬ほわほわさせられたが、それを振り払うように伊之助は怒鳴り散らす。線路の向こう側から、ボロボロの善逸と炭治郎が遅れてやってきたのだ。

 

「鬼は!?」

「まだ来てねぇ!そっちはどうしたんだ!鬼はどこから来やがんだ!?」

「追ってきた鬼はあらかた斬った。だが、すぐに第二陣が来る」

 

 荒い息を吐きながら善逸が答える。おそらく相当呼吸を連発したのだろう。体力の消耗が激しいということは伊之助にもすぐに分かった。このまま消耗戦に持ち込まれればどうなるか分からない。

 

「乗っている乗客はどうする、炭治郎」

「まだ眠っているんだろう?起こすのはまずい。この場から逃げようと離れられれば、俺達四人じゃ鬼達から守りきれない」

「じゃあどうすんだよ!」

 

 車両は五両。その中に眠る、二百人近くの乗客。全方位を鬼に取り囲まれれば、四人だけで車両で眠っている乗客を守り切るのは難しい。もし車内に鬼が入り、乗客が目を覚ませば恐怖で混乱を招いてしまう。そうなれば、益々乗客を守ることができなくなる。

 

「なら、今のうちに藤の花の香を焚こう。煉獄さんから使うよう渡された。時間稼ぎにしかならないかもだけど、車内に入れないようにするんだ」

 

 懐から善逸は、鬼が嫌う藤の花のお香を取り出した。先ほど炎柱の杏寿郎に、客達を守るために使うよう渡されたのだ。

 

 善逸の姿がその場から掻き消える。藤の花の香を焚きに車内に向かったのだ。

 

「俺はギンさんの薬箱を届ける!禰豆子、伊之助、見張りを頼む!」

「ふがっ」

「任せろ!」

 

 炭治郎も急いで車内に駆け込む。鬼がいつ攻撃を仕掛けてくるか分からない。追いかけてきていた鬼は善逸の居合いと炭治郎の呼吸で数を減らしたが、途中から琵琶の音が鳴り止み、それ以上鬼が出現しなくなった。波が引いたように静かになり、鬼の猛攻が止んだのだ。

 このまま出て来なければいいが……そんなことは有りえない。恐らく嵐が来る前の静けさだ。

 総攻撃を仕掛けてくる。

 その為に一度鬼達を退かせたのだ。

 

 今度こそ、青い彼岸花を奪う為に。

 

「あった!」

 

 鼻が利く炭治郎は、すぐにギンの薬箱を見つけることできた。薬品や薬草の匂いがする独特な匂いだったので、背負い箱をすぐに見つけることができた。よく見ると、普段自分が禰豆子を運ぶために担いでいる背負い箱とよく似ている。

 

「これだな……!よし!」

 

 禰豆子の箱をいつも背負っていたので、重い物を背負うのは慣れている。これを早くギンさんの所へ―――!

 

 ――ベベン!

 

「!」

 

 琵琶の音。不安を掻き立てるようなあの音だ。

 

 すぐ近くで鳴った。そしてすぐに――周りから、何匹もの鬼の匂いがした。

 

「来た!」

 

 急いで刀を抜き、車両から飛び出すと――

 

「アアアアアアアアアアアア!!」

 

 森の茂みから、何匹もの鬼達が叫びながら飛び出しこちらに向かってくるのが見えた。さっき自分達を追いかけてきた鬼達と比にならないくらいの数の鬼が押し寄せてきたのだ。

 際限なく湧いてくる鬼達はひどい悪臭で、何十匹の鬼がここにいるか分からないほどだ。

 

「くっ、数が多い!」

 

――ベン!ベン!

 

「おぉぉぉおおおお!!どんどん増えてきやがる!」

「むー!」

 

 禰豆子と伊之助が、車両に近付く鬼達を倒していく。しかし、鬼を殺しても殺してもどんどん湧いてくる。

 

 どうする!?どんどん鬼が増えてく!いくらなんでもこの数を相手に守り切るのは……!

 俺がギンさんの所に薬を届けに行ったら、車両を守るのが三人になってしまう……!ここから離れられない……!

 

「やべえ!そっちに鬼が行きやがる!!」

「……!」

 

 どうするべきか悩んでいたからか、炭治郎は一瞬反応が遅れてしまう。

 

 まずい!鬼が窓に……!乗客が喰われ―――!

 

 

"雷の呼吸"

 

 

 その時、目の前に落雷が落ちたかのような轟音が響いた。

 

 

"漆ノ型 火雷神(ほのいかずちのかみ)"

 

 

 その音が鳴り響いた瞬間、辺りにいた鬼達の頸が、一瞬で落ちる。

 地面に立っていた炭治郎は、それが善逸が繰り出した技だとは分からなかった。

 

 唯一状況を把握できたのは、偶々屋根の上で全体を見ていた伊之助だけである。

 

「すげぇ」

 

 普段泣き喚いてばかりの善逸からは想像もできない、絶技。

 列車から善逸が飛び出したかと思えば、一瞬で姿が消え、瞬く間に五両もある車両の周りにいた鬼達の頸を全てすれ違いざまに斬ったのである。

 一秒にも満たない、文字通り一瞬の間に、二十匹の鬼の頸がほぼ同時に落ちた。

 

 斬られた鬼達には、自分がどうやって殺されたかも分からないだろう。雷をその身に体現したような少年の姿も、視界の端に捉えることすらできなかったのだから。

 

「善逸!?」

「炭治郎!早く行け!」

 

 ――雷の呼吸は、六つの型しかなかった。

 七つ目の型は、善逸が壱ノ型を更に強力に昇華させた技。

「いつか兄弟子と共に肩を並べて戦いたい」と、かつて壱ノ型しか使えなかった自分は、壱ノ型以外全て使うことができる兄弟子と対等になるために七つ目の型を編み出した。

 

 だがあまりの強力さ故に、今の善逸では負担が酷く、連発できない。

 

 ――足の骨にヒビが入った。漆ノ型はできてあと一回だけか。

 

「ここは俺達が引き受ける!炭治郎はギンさんの所に!」

「……!分かった!死ぬなよ善逸!伊之助!」

「当たり前だ権次郎!さっさと行けボケェ!」

 

 ――ベベン!

 

 闇に再び響く琵琶の音。すぐにまた、鬼達がここに押し寄せてくる。信じろ、善逸達を。あんな鬼達に負けるわけがない!

 囲まれる前に早くギンさんの所へ!

 

 

「必ず戻ってくる!だから死ぬな!善逸!伊之助!禰豆子!」

 

 

 炭治郎は薬箱を背負い、線路の上を駆け出した。目指すは、上弦の壱と戦っているギンと杏寿郎の許へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 行きと帰り、六里もの距離の往復は容易くなかった。一刻も早くギンさん達の所に行かなきゃいけないのに、息が苦しい。足が棒みたいに、鈍りを着けたみたいに重い。

 

 ……堪えろ!

 

 ギンさん達のいる方から、ずっと爆音が鳴り響いている。赤い炎が、真っ黒の煙が見える。あの鬼と、ずっと戦ってるんだ。

 

 ここで走らずにして、いつ走るんだ!あとで走れなくてもいい!でも今だけは!走り続けろ、竈門炭治郎!

 禰豆子を戻すんだ!人間に戻すんだ!

 その為に鍛えた、その為に戦ってきた!今ここで、止まっている暇なんて、ないんだ!

 

「来たぞ!鬼狩りだ!」

「ここで止めろ!」

 

 鬼達が何匹も、線路の上で俺を待ち伏せしていた。

 俺が来たことに気付くと、一斉に飛び掛かってくる。

 

「退けぇぇぇぇ!」

 

 ギンさんと煉獄さんは、今も戦ってる!善逸も伊之助も禰豆子も、戦ってる!立ち止まって、いられないんだよ!

 

 

"全集中・水の呼吸 肆ノ型 打ち潮"

 

 

すれ違いざまに、二体の鬼の頸を同時に斬る。たった一秒でも、止まるわけにはいかなかった。そして。

 

 

 ――煙と、あの鬼の匂い。近づいてきてる。

 

 

 もうすぐだ、もうすぐでギンさんの所に着く!

 ギンさんの薬箱をすぐに手渡せるように、両手に持ちかえる。

 あと少し、あと少しだ!

 

 

 

 ――――見えた!

 

 

 

 一体、どんな戦いが起こったのだろう。半刻もここから離れていないのに、ひどい有様だった。

 列車は横転し、車両や機関車は両断され、炎と黒煙が空へあがっている。

 土がヒビ割れ、木々が倒れている。

 

 そして、血塗れのギンさんとボロボロの煉獄さんが、刀を構えた黒死牟に向き合っていた。

 

 二人ともひどい怪我だ、でも!

 

 

 

「―――ギンさん!」

 

 

 

 薬箱、持ってきました!これで、あの鬼を―――

 

 

 

 

「!」

 

 

 

 鼻が曲がるような強烈な匂いが漂う。

 泣きたくなるほどの、嫉妬と、怒りと、憎しみの匂い。

 あの鬼――なんで、俺の方に、刀を――?

 

 

 

 

「マズイ、炭治郎逃げ―――!」

 

 

 ギンさんと煉獄さんが、俺の方へ向かってくる。

 慌てた顔で、俺を庇おうと――

 

 

 

 

"月の呼吸 陸ノ型 常夜孤月(とこよこげつ)無間(むけん)"

 

 

 

 

 

 意識が、暗転する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――兄ちゃん!兄ちゃん!

 

 

 

 茂の声がする。

 なんだよ、茂。兄ちゃん今、すごく眠いのに……

 

 

 

 ――起きて!兄ちゃん!

 

 

 

 

「―――ッ!」

 

 ここは、山?俺はさっきまで、薬箱を届けようと走って――気絶してしまったのか!?

 黒死牟の攻撃を避けきれず、それから――ギンさんと煉獄さんは!?

 

「ギンさん、煉獄さ――!」

 

 息を、呑んだ。

 顔を上げると、そこにはギンさんが立っていた。……血塗れの姿で。

 

「ギンさん!傷が……!」

「おう……無事か、炭治郎」

 

 ギンさんはそう言って、顔だけこちらを向いた。

 立っているのが不思議なくらいの、出血量だった。

 全身を切り刻まれ、出血していない部分が分からないほどだった。痛々しく、思わず目を背けたくなってしまうほどに。特にひどいのは、右肩から左の鳩尾に掛けて袈裟切りにされた大きな傷。明らかに致命傷だった。

 

「煉獄さん、ギンさんが……!」

 

 縋るような気持ちで煉獄の方に視線を向けた炭治郎だが、またしても息を呑む。

 

 煉獄杏寿郎の、左腕が、なかった。

 ギンさんより切り傷の数は少ないものの、左腕の切断面からは夥しい量の血液が流れ出てしまっている。 

 更に目をやられてしまったのだろう、右目に浅く切り傷が刻まれ、目が潰されてしまっている。こちらも明らかに致命傷だ。一刻も早く治療をしなければいけないだろう。

 

「……童を仕留めそこなったか……」

「!」

「……心頭滅却……怒りに振り回されるとは……私も……未だ未熟なり……」

 

 土煙の中から現れたのは、傷一つついていない上弦の壱の鬼、黒死牟だった。

 あんなに強いギンさんや煉獄さんと戦っていたのに、傷一つついていないなんて……!

 

「その二人に……感謝しておけ……小僧……鹿神と煉獄は……自らの身を犠牲に……お前を守ったのだ……」

 

 憐れむように、蔑むように、見下すように、黒死牟は炭治郎を指差し、哂った。

 

「先の一撃は……確実にお前の命を絶っていた……鹿神と煉獄なら避けられただろうが……お前のせいで……死に体だ……お前さえいなければ……あるいは私の頸を断てたかもしれぬのに」

 

 俺の、せい。俺が、弱いから。ギンさん達が、死にかけている。

 

「うぁ……あ"ぁあ……!」

 

 ――なんで。

 

「久々に楽しませてもらったが……無粋な邪魔が入った……だが……青い彼岸花を……わざわざ持ってきてくれたことには……感謝しよう……小僧……」

 

 ――俺の、せいで。

 

「しかしお前など……我が刀を振るう価値もなし……いくら日の呼吸の使い手と言えど……縁壱の足元にも及ばぬ……」

 

 ――俺が、こんなにも……弱いから……!

 

 死にたいと、死んでしまいたいと、心の底から湧き出る絶望。無力。俺は、一体、どうして……!

 

 

「……呆気ない幕引きだが……これも全てお前の弱さ故だ……憎むなら……己の弱さを憎め……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この少年は弱くない。侮辱するな」

 

「ああ、俺の弟弟子を、馬鹿にすんなよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢を、見ていた。

 懐かしい、夢を見た。

 

 

「杏寿郎」

「はい、母上!」

 

「なぜ、自分が人よりも強く生まれたのか分かりますか?」

 

「…………わかりません!」

 

「では、ギンは何故人より強く生まれたのか分かりますか?」

 

「……森を守るためです」

 

 縁側で、俺と杏寿郎は瑠火さんの横に正座をさせられていた。俺はシシガミ様と結んだ約束を思い出し、そう答えた。

 シシガミの森に呼ばれ、そして鬼狩りとなるために身体を鍛えさせられたのは、理の意志。だが、最後に森を守るために戦うと決めたのは、間違いなく俺の意志だった。

 

「ギンは、森を守るために鬼狩りになると?」

 

「はい。俺はそう、約束したんです」

「誰と約束したんだ、ギン!」

「父親……いや、獣?鹿?説明するのは難しいんだが」

 

 改めて考えると、シシガミ様を父と呼ぶべきか、師と呼ぶべきか、それとも別の呼び方があるか分からない。うんうん唸っていると、瑠火さんが小さく微笑んだ。

 

「ふふ……杏寿郎、ギン、こっちにいらっしゃい」

 

 瑠火さんは近くに来た俺と杏寿郎の頭を撫でながら静かに、そして厳かに言った。

 

「……あなた達二人が強く生まれたのは、弱き人を助けるためです」

「弱き……人?」

「ええ。生まれついて人より多くの才に恵まれた者は、その力を世の為、人の為に使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されないのです。例えばギン。私を病から救ってくれましたね」

「……あれは、ここで世話になっているし……恩返しみたいな物です。それに俺は、蟲が見えるから……」

「あなたがその"蟲"を見ることができるのは、きっと仏様があなたに授けた力です。それを誇りに思いなさい」

「誇り……ですか?」

「そうです。杏寿郎が人より剣の才があるのも、ギンが"蟲"を見ることができるのも、弱き人を助ける為です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れることのないように」

 

「……はい!」

「……分かった」

 

「杏寿郎、ギン。あなた達二人を息子に持てたことは、私の誇りです。あなた達二人の母になれて、私は幸せ者です。二人で助け合って生きなさい。そうすれば、もっと多くの人を救うことができる。独りにならず、励むのですよ」

 

 血は繋がっていなくとも、兄弟であり、そして、家族なのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この少年は弱くない。侮辱するな」

「ああ、俺の弟弟子を、馬鹿にすんなよ」

 

 ギンと杏寿郎が、低く言った。まさか喋るとは思っていなかった黒死牟と炭治郎が、目を見開く。

 

「ほう……その傷で……まだ喋る余力があるのか……」

 

 体中が痛む。こんな傷、負うなんて初めてだった。力を抜けば傷口から内臓が零れ落ちる。さすがに死にかけるか、目の前が霞む……。血を失い過ぎた……。

 ギンは冷静に、自分の身体の状態を認識していた。多すぎる切り傷。なんとか呼吸で止血しているが、いつ意識が消えても不思議ではない。

 

「ギンさん!煉獄さん!喋らないで!傷が……!」

 

 炭治郎、気にするな……と言っても、お前は気にするだろうな。お前は優しい奴だから。

 今にも泣き出しそうな弟弟子に、ギンは笑みをかける。

 

「大丈夫だ炭治郎。これぐらい楽勝だ。なあ、杏寿郎」

「ああ。後輩の盾となるのは、柱ならば当然だ!」

 

 ――嘘だ。

 見れば誰にでも分かる。二人の言葉が強がりだと。呼吸で無理やり止血しているとはいえ、二人とも瀕死で、少し触れただけで崩れ落ちてしまいそうなほどに弱っていることを。

 

「……見上げた精神力だ……」

 

 感心したように笑う黒死牟。今まで殺してきた柱は、最初は勇んで自分の頸を斬ろうともがいたが、最後は誰もが自分ではかなわぬ敵だと心を折り、膝を屈した。

 黒死牟の眼には、二人は既に瀕死であることが分かった。例え鍛えられた鬼狩りの柱であろうとも、本来なら立っていることすらできないはずだ。

 

「杏寿郎」

「なんだ、ギン」

「俺……今、昔の夢を見たよ」

「それは……奇遇だな。俺も、母上の夢を見た」

「そいつは……ふっ。杏寿郎、時間を稼げるか?」

「どれぐらいだ」

「一瞬でいい」

「……承知した、ギン!」

 

 何故、この二人はそれでも立つ。私の前に立ちはだかる。何故、そのように笑っていられる?

 素晴らしい。

 久方ぶりに産毛が逆立つのを感じる。ここまでの強者に出会うのは、幾年ぶりか。

 技術、精神力、そして身体力。そのどれもが、今まで会ったどの柱よりも――。

 

「……鹿神ギン……そして、煉獄杏寿郎だったな……これ以上戦えば……お前達は死ぬ……だが……青い彼岸花を差し出すと言うのなら……見逃して――」

 

「「断る」」

 

 黒死牟の最後の誘いに、ギンと杏寿郎は一蹴する。

 

「俺は俺の責務を全うする!例えこの身が滅びようとも、黒死牟、お前の頸を斬ろう!」

 

 煉獄杏寿郎はそう叫びながら、片手で日輪刀を構えた。左腕を失ってもなお、途切れぬ闘気。

 炭治郎は、そんな杏寿郎の背中に炎を見た。

 決して消えない炎。強い意志の匂い。

 "柱"は、決して折れない。鬼殺隊の柱は、決して鬼に屈しない。

 

「まだ戦う気か……勝負はついた……その出血……じきに死ぬ……私はお前が死んだ後……その小僧から青い彼岸花を奪えばよいだけのこと」

 

 もう十分戦いは楽しめた。久方ぶりに血沸き肉躍る闘争を、味わえた。もうこれ以上必要はない。

 

「……む?」

 

 そう思っていた時だった。

 

「シィィィィィ……」

 

 なんだ、この呼吸音は。燃える炎のような……。

 

「行くぞ!」

 

 

"全集中 炎の呼吸"

 

 

「!」

 

 

"壱ノ型 不知火"

 

 

 強烈な踏込。踏み込んだ地面に亀裂が入るほどの一歩。

 杏寿郎は瞬きの間に黒死牟との距離を詰め、刀を振り下ろした。

 

 一拍置いて黒死牟の頸から噴き出す、鮮血。

 見ると、黒死牟の頸に浅く、傷が入っていた。

 

「く……!」

 

 黒死牟の全身を襲う、焦燥。浅かったとはいえ、頸に一太刀を入れられたのは、これが二度目だった。

 蘇るのは四百年前の記憶。

 老骨となった弟と相対し、私の頸を落としかけ――

 

「おのれ!!」

 

 忌々しい記憶を。人の身でありながら、それほどの怪我を追いながらこの私の頸に、一太刀を入れたのは褒めてやる。

 だが何故!どうやって私の()を掻い潜り抜けこの身に傷をつけた!?

 "光酒"で痣を出せたとしても、この男に"透き通る世界"は見えぬはずだ。

 

 憤怒。

 

 自分の頸に一太刀を入れられる。それは、最強を目指す黒死牟にとってあってはならぬこと。

 瀕死の身でありながら、よくも。人間の分際でよくも。

 

 そう睨みつけた時、異変に気付く。

 

 ――この男……額の痣が……先ほどより大きく……濃く……!?

 

 

"炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり"

 

 

「オオオオオオオオオ!!」

 

 

 渦巻く炎の剣戟。杏寿郎の動きは、これまでとは比べ物にならないほど速くなっていた。

 反応速度も、瞬発力も、腕力も、全て。

 とても片腕を斬り落とされた瀕死の男の動きではない。常軌を逸した動き。

 

"月の呼吸 参ノ型 厭忌月(えんきづき)(つが)り"

 

 黒死牟もトドメを刺そうと杏寿郎に向けて呼吸法の技を振るう。しかし、杏寿郎はその全てを紙一重で回避する。

 先刻まで避けるので精一杯だったはずなのに。

 

 ……いや。

 

 この男、死を覚悟して動いている。一矢報いようと、最後に抵抗しているのだ。

 灯滅せんとして光を増す。

 直にこの男の命の灯は尽きる。こいつの命の灯は、まさしく風前の灯だ。いつ消えるかも分からぬ。消えゆく炎が最後に燃え盛らんと足掻いているだけに過ぎない。

 

 ならば、私がわざわざトドメを刺す必要などない。

 こやつの命が尽きるまで待てば――

 

「……否」

 

 黒死牟は再び刀を構える。

 

 今、私はこの男を恐れたのか?否、否、否!そのようなことはあってはならぬ。

 

 この男を殺してやらねば気が済まぬ。私が負けることなど、あってはならぬ。少しでも怖気づいたなど、あってはならぬ。

 そうだ、勝ち続けることを選んだのだ、私は。

 このような、醜い姿になってまで。

 

 

"炎の呼吸 奥義"

 

 

「行くぞ!黒死牟!」

 

 

"月の呼吸 漆ノ型"

 

 

「……来い」

 

 

 

 

"玖ノ型 煉獄"

 

 

"厄鏡(やっきょう)月映(つきば)え"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――炭治郎。悪いな」

「ギンさん……傷が……!これ以上動いたら開いてしまう!」

 

 炭治郎は、必死に止める。

 今、煉獄さんが黒死牟と戦っている。目に留まらぬ速さで。左腕を斬り落とされているのに、出血に厭わず、戦い続けている。

 あんな動きをしていたら、すぐに死んでしまう。医学に詳しくない炭治郎でもそれは分かる。

 そして、ギンもそこに向かおうとしている。

 

「大丈夫だ、炭治郎。あいつは必ず、俺達で倒す」

「無理ですよ!その傷でどうやって……!」

 

 炭治郎には分かった。分かってしまった。二人が死にに行くと言うことを。相打ちを覚悟して、あの鬼を殺そうとしているのだ。

 だが、想像したくなかった。炭治郎にはどうすればあの鬼を殺せるか分からなかった。あんな化け物を、どうやって!

 煉獄さんが死に、そして兄弟子のギンさんまで死んでしまったら……!

 

「どうやってあの鬼を倒すんですか!()()()()()()()()()()じゃないですか!鬼を人に戻す薬なんて!ないじゃないですか!それなのに、どうやって!」

 

 薬箱には、青い彼岸花なんてなかった。鬼を人に戻す薬なんてなかった。最初からあの鬼を殺す手段なんてなかったのだ。それなのにどうやってあの鬼を殺すと言うのだ。

 無駄死にだ。あの鬼に向かって行っても、殺されてしまう。

 

 もう嫌だ。自分の目の前で人が死ぬ所を見るなんて。

 

 

 

「大丈夫だ、炭治郎。俺を信じてくれ」

 

 

 

「ギンさん……?」

「大丈夫だ。必ず勝ってみせる」

 

 

 この命に代えてでも、必ず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――パキン

 

 

 乾いた金属の音が響く。その音の発生源は、杏寿郎の刀だった。

 黒死牟との死闘。杏寿郎の攻撃に耐えきれず、刀が先に悲鳴を上げた。

 

 一歩届かず。

 

 黒死牟の刃は、杏寿郎の腹を切り裂いた。 

 

「ごぶっ……」

 

 大量の出血が切り裂かれた腹から、そして口から噴き出した。

 ようやくこの男は死ぬ。先に私の刃が届いた。明らかに命と意識を絶つ一撃。これでもう――

 

 ギリッ

 

「!」

 

 耳障りな、刀の柄を握り締める音が聞こえた。まさか――!

 

「オオオオオオオオ!」

「かっ……!」

 

 杏寿郎はまだ死んでいなかった。渾身の力で杏寿郎は黒死牟の頸に刀を振り下ろす。

 

 ――この男、まだ刀を振るのか!

 

 先の一撃は明らかに命を絶つ一撃だった!この男の命を絶ったはずだ!なのにまだ、刀を振るう力があるのか!折れた刀で、私の頸を……!

 

「俺は死なない!!お前の頸を斬るまでは!!!」

 

 杏寿郎の折れた刀の先が、黒死牟の頸にめり込む。これも光酒とやらの力なのか?まさか、このままでは……!

 

 

「さすがだ、兄弟子」

 

 

 瞬間、横から鹿神ギンが現れる。

 

「蟲師……!」

 

 黒死牟に肉薄したギンは、間髪入れずに技を繰り出す。

 

 

"森の呼吸 弐ノ型 剣戟森森"

 

 

 連続で放たれる突き。普段であれば簡単に躱すことができるはずの技。だが、杏寿郎に気を取られていたせいか、既に間合いに入っているギンの技を避けることはできなかった。

 突き刺さる刀。

 今夜の戦いで、初めてまともに喰らうギンの十連撃。黒死牟の胴体にはこぶし大の孔がいくつも穿たれる。

 

 

 ――大丈夫だ、この程度の傷は一瞬で回復する!

 

 

 ギンは選択を誤った。突きではなく、袈裟切りか横薙ぎで頸を斬り落とすべきだったのだ。

 なのに、突きを選んだ。これでは鬼は死なぬ。鬼を殺したいのならば、頸を落とさねばならぬ。

 

 黒死牟は勝ちを確信した。まずは己の頸に刀を喰い込ませるこの男の頭蓋を叩き割らねばならぬ。その後に蟲師を殺す。

 

 そうすれば全て終わりだ。

 

 そう勝ちを確信したのが、黒死牟の誤りだった。

 

 ギンが突き技を放ったのは、黒死牟の身体に孔をあけるため。

 孔を穿ち、そこに、自らの拳を叩き込むためだった。

 

 

 ギンは左手に握り込んだそれを、黒死牟の身体の孔に叩き込む。

 

 

「!?」

 

 

 ギンは握り込んだ何かを黒死牟の孔に叩き込み、それを黒死牟の体内に置いてくる。拳を引き抜くと、黒死牟のその傷は蓋をするようにすぐに塞がるように再生する。黒死牟の体内に吸収された事を確認したギンはまるで確信したかのように破顔した。

 

 

「獲った!」

 

 

 なんだ。何を入れられた。

 

 蟲師め、一体何を―――ッ!?

 

 

 

 

 

「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 

 何だ……これは……!

 鹿神に拳を突き刺された場所が……燃えるように熱く……!

 身体が強張る……!内臓を灼かれるような激痛が……!

 

 

「蟲師貴様……!何を……!」

 

 忌々しい。今すぐに殺してやる。身体から刃を生やして、トドメを……!

 

「……!」

 

 技が……出ぬ!

 なんだこれは……血鬼術が……出ない……!

 何をされたのだ私は!あまりの痛みに身体を動かすことすらできぬ!

 まるで()()()()()()()()()()()()()()は……!

 

 

「お前さんに叩き込んだのは、鬼を人に戻す薬だよ」

 

 飄々と答えるギン。

 嘘は言っていない。黒死牟の眼は相手の心を見通す。

 

「そんな物できるはずは……!」

 

 信じられなかった。いくら青い彼岸花を手に入れたからと言って、そんな薬を開発することなど……!

 

 

「まあ、正確にはちょっと違うがな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前さんに叩き込んだのは、日蝕(ひは)みと呼ばれる()()()だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"日蝕み"と呼ばれる蟲がいる。

 普段は地の底に身を潜める蟲だが、日蝕の時だけ現れる非常に珍しい蟲。

"日蝕み"は普段は地底の奥底に隠れている。陽の光を浴びると消滅してしまうからだ。しかし、日蝕の時のみに"核"と"根"に分かれ、"核"は上空へと昇る。すると核を中心に大量の蟲達を集め、太陽の陽を遮ってしまう。さながら、太陽を喰らう日蝕のように。

 故に、"日"を"(むしば)む"と書いて、日蝕みと呼ばれている。

 この蟲を祓うには"根"の部分を本物の太陽の光に晒す必要がある。そうすれば日蝕みは消滅するのだが、肝心の根は地中に隠れる為、探すのに非常に難儀する。

 "核"の部分が蟲を集め影を作り出すのは、"根"を守りながら日の光を浴びる為だ。本来は自分を消滅させる光だが、生きるために陽の光を浴びなければいけないのだ。

 この日蝕みを放っておくと、影に覆われた大地には良くない蟲達が集まり、その土地は動植物が生まれない、蟲だけしかいない不毛の土地へと廃れていく。日蝕みの作り出す妖光は、蟲を集めるからだ。

 

 ――その日蝕みを祓う時、日蝕みは"核"の欠片を落とすことがあった。

 

 それ自体は生命を活性化させるとても強い力を持つモノ。

 そして何よりも、その"核"は()()()()()()()()()()()()()だ。鬼を殺す日輪刀の原石である、一年中陽の光を浴びていると言われている陽光山の鉱石のように。

 

 

 

 青い彼岸花を探す過程で、ギンは日蝕みを探し出し、それを祓った。

 

 その時に偶然、日蝕みの"核"を手に入れたのだ。

 

 見た目はただの銀色の小さな鉱石だが、日の光をたっぷり浴びた、蟲の核。

 

 ギンはこれを、鬼を人に戻す……もしくは、鬼を殺す猛毒になりうるのではないかと、推測を立てた。

 

 

 

 

 そして――その推測は当たっていた。

 

 

 

「本当は禰豆子を人に戻す為に使いたかったんだが、仕方あるまい」

 

 

 ギンは刀を構える。

 黒死牟は逃げようともがいているようだが、身体に埋め込まれた日蝕みの核のせいか、痛みでまったく動けないようだった。

 

 

「往生しろ、黒死牟」

 

 

 

 

 

 

 

―――負けるのか、私は。

 

 

 

 

 この二人の人間に―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"全集中・森の呼吸 漆ノ型"

 

 

 

 

 

 

 ―――浮き立つような気持ちになりませぬか、兄上

 

 

 

 ―――いつか、これから生まれてくる子供達が

 

 

 

 ―――私達を超えて更なる高みへと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――登りつめていくんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"大太法師(だいだらぼっち)"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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決着

 

「だああああああああ!!いい加減しつこいぞ鬼共ぉぉぉぉ!!」

 

 怒声を吐きながら鬼の頸を落とす伊之助。

 

 我妻善逸。三十七匹。

 嘴平伊之助。三十二匹。

 

 たった一晩で二人が討伐した鬼の数である。そしてその記録は、現在も順調に更新していく最中だ。

 

 

"獣の呼吸 伍ノ牙 狂い裂き"

 

"雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃 六連"

 

 

 その戦いは、まさしく地獄だった。

 五両の列車に絶えず押し寄せる鬼達。

 伊之助は東側を、そして善逸は西側を守備。そして禰豆子が遊撃だ。

 

 血鬼術を使う鬼がほとんどいなかったのは、幸いだった。もちろん、血鬼術を使う鬼も何匹かいたが、全集中の呼吸・常中を会得した二人にとってはそこまで手古摺る相手ではない。

 

 ―――だが、人間の体力は無限ではない。必ず限りがある。

 

 

 

「くっ……もう……」

 

 

 最初に限界を迎えたのは、善逸だった。

 

 霹靂一閃八連。神速。そして、漆ノ型。

 ただでさえ高速で大地を駆ける雷の呼吸の技は、善逸の足に多大な負担を掛けた。今夜だけで一体、何度"霹靂一閃"を繰り出したか分からない。十を超えた辺りで数えるのをやめた。

 そして善逸の足は潰れてしまっていた。左足は骨折し、右足だけで立っているような状態だ。その右足も、技の連発でヒビが入ってしまっている。使えなくなってしまうのは時間の問題だった。

 

「紋逸!」

 

 伊之助はその鋭い触覚で、善逸が危機に陥っていることを察知した。もう歩けないほど弱くなってしまっている。

 普段なら「弱味噌野郎」と罵倒するところだが、それどころではない。体力自慢の伊之助も、足が動かなくなりつつある。助けに行きたくても、助けに行けない。鬼達が善逸を助けに行かせぬよう、伊之助を取り囲んだからだ。

 

「くっそが、どけぇ雑魚共ぉ!」

 

 やべぇ。やられる。善逸がやられれば、乗客を守りきれねえ。やべえやべえやべえ!

 

 禰豆子も善逸の危機に気付いたのか、襲ってくる眠気を堪え、宙を飛ぶ。だが、間に合わない。

 

 

「ひっひっ、ようやく動けなくなったようだなぁ鬼狩りぃ」

「今すぐトドメを刺してやる!」

 

 

 鬼が動けなくなった善逸に一斉に飛び掛かる。

 

「くっ……」

 

 万事休す。

 鬼達の足が、拳が、善逸に向けて放たれる。避ける術はなく、善逸はあっさりと己の死を受け入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――ここまでか。ごめん、炭治郎。禰豆子ちゃん。伊之助。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう覚悟を決めた時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

"花の呼吸 弐ノ型 御影梅"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつまで経っても攻撃がこない。

 おそるおそる目を開けると、そこには蝶屋敷で自分達の稽古をつけてくれた、あの栗花落カナヲが立っていた。

 

 蝶のように舞う身軽な少女が、自分の周りにいた鬼達の頸を一瞬で斬り落としたのだと気付くのに時間はかからなかった。

 

 

 

「だい……じょうぶ?」

「え……カナヲ、ちゃん?」

「ごめんね……遅れた……もう、大丈夫」

 

 倒れ込む善逸にカナヲがそう静かに微笑みかけた。

 

 

 

 

 

「俺達が来るまで、よく堪えた」

「ごめんね!援軍、来たよ!」

 

 

 

 

 

 ああ……この人は。

 

 

 

 

 

 最後に、善逸の目に映ったのは。

『悪鬼滅殺』の文字が彫られた、水色の刀を持った青年と

 狐の面をつけた、花柄模様の着物を着た少女の後ろ姿。

 

 

 

 

 それを見て安心した善逸は、糸を切らしたように意識を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 森の呼吸の漆ノ型は、最終奥義だった。

 

 大太法師――またの名をデイダラボッチ。

 

 天に届くほどの巨人。

 国一番の高い山、富士山を創りだす為に土を運び、その時に零した土が国中の山々となった。

 その巨大な足跡には雨水が溜まり、やがて沼や湖を生み出した――この日ノ本の国を、大地を築き上げた神話の巨人。

 

 

 その名を冠した漆ノ型は、伊達ではなく、まさしく究極の奥義だった。

 

 

 

 "日蝕みの核"の痛みで頭を下げていた黒死牟の後ろ頸に、ギンの刀が振り下ろされる。

 刃が黒死牟の後ろ頸にめり込んだ瞬間、大地が揺れた。

 

 

 ―――ズズン!

 

 

 あまりの揺れに、戦いを少し離れた場所から見守っていた炭治郎はよろけて尻餅を着いてしまう。

 

「あああああああああ!!!」 

 

 ギンが吠える。

 千載一遇の好機。どうやっても倒せなかったこの鬼を、とうとう、ようやく、倒せる。

 化け物、人外。いろんな言葉が頭を過る。ここまで自分と杏寿郎を追い詰めた鬼はいなかった。

 杏寿郎が決死の覚悟で時間を稼ぎ、そして炭治郎が必死の思いで届けてくれた"日蝕みの核"で、掠り傷を付けるので精いっぱいだった黒死牟の頸に、ついに俺達の刃が届いた。

 

 だが、刀を振り下ろした瞬間、いつものように鬼の頸を斬り落とせた感触ではなく。あるのはまるで、金剛石に刀を振り下ろしたような感触。

 なんて硬い頸だ!日蝕みの核を叩き込み弱体化させたのに、半分しか斬り込みを入れられない!ここまでやってまだ頸を落としきれないのか!

 

 焦り、恐怖。ここで黒死牟を逃がせば、ここまでの戦いは無駄になる。杏寿郎があんなにも命を懸けてくれたのに、全てが無駄になる。

 なんて強さ……ギンの心に湧き出てきたのは、尊敬の念だった。

 

 ここまで来ると呆れと同時に感歎する。ここまで強い鬼は見たことがなかった。

 本当に強いよお前は。思わず尊敬しちまうほどに。

 究極になるまで鍛え上げられた剣技の数々。人間を遥かに凌駕する鬼の身体。傲慢なほどの、余裕と風格。

 強さをただひたすら求め、鍛え続けた結果が今のアンタなんだろう。男として憧れる。男として尊敬する。できることならアンタと酒でも飲んでダチになりたいくらいだった。

 

 だが、黒死牟が鬼であり、そして俺や杏寿郎が人である限り、それは絶対にありえない未来。

 

 だから剣士として、刀を振り戦い続けた者として、アンタを殺す。

 これで決めなければ、この鬼は殺せない。

 漆ノ型は両腕と肺に強い負担を強いる。ここまでの戦いで、俺の体力はもう残されていない。杏寿郎も恐らく、あと数分で死ぬ。これが最後の技だ。これを使った後、俺は当分動けなくなる。

 

「ぐぅアアアア!!」

 

 頸を斬られまいと、黒死牟は雄叫びを上げる。激痛の中、頸に力を入れ刃を無理やり受け止めた。

 

「この……大人しく斬られやがれぇ!!」

「おおおおおおお!!」

 

 ギンは上から、そして杏寿郎は下から。

 黒死牟の頸に刀をめり込ませていく。

 

「ぬァアアアアアア!!」

 

 私は、負けぬ。

 誰にも、負けぬ。

 

 私は何の為に鬼になったのだ。

 

 己が負けると、想像しただけで吐き気がする。腸が煮え返る。

 あの時に誓ったのだ。俺はもう二度と敗北しないと。縁壱に頸を斬られかけたあの時から。

 

 俺は―――

 

 

 

 あと少し。あと一瞬。

 

 ギンと杏寿郎の刃が、黒死牟の頸を斬り落とす。その時だった。

 

 

 

――ベベン!

 

 

「!?」

 

 

 不愉快な琵琶の音が響いたかと思うと、突如黒死牟の足元に、障子が現れた。

 

 ――まさか……!

 

 ギンの脳裏に嫌な予感がよぎる。聞き覚えのある琵琶の音、そして突如黒死牟の足元に生まれた障子!まさか!

 

 

――ベン!

 

 

 琵琶の音が再び響くと、障子が開かれ――まるで黒死牟だけがそこに招かれるように、そこに落ちていく。

 まずい、斬れ、斬れろ、斬り抜け、殺せ!ここまでして逃げられるなんて洒落にならない!ここまで戦って……!ここまで血を流して逃げられるなど……!

 

 ギンは急いで刀を黒死牟の頸から引き抜き、血管が切れ血が噴き出る両腕をもう一度振り上げ、振り下ろす。

 

 

 

 

"森の呼吸 漆ノ型 大太法師"

 

 

 

 

 ギンが二度目の漆ノ型を繰り出し――

 

 

 

 

 

――ベベン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 琵琶の音が鳴り響き、障子が閉じられたのは、ほぼ同時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――斬れたのか、俺達は。あいつの頸を。勝てたのか?負けたのか?分からねえ。とにかく……眠くてしょうがねえ……。

 

 

 

 何かを斬った手ごたえはあった。漆ノ型を無理やり使った反動か、視界がぼやけ意識が落ちていくのをギンは感じた。

 狭まっていく視界でなんとか目線を上に向けると、何かが地面に落下していくのが見えた。

 

 

 

 ―――ああ、駄目だったのか。

 

 

 見えたのは、黒死牟の左腕だった。根本から斬り落としたのは、頸ではなく、黒死牟の左腕だったのだ。

 もうどこにも黒死牟の気配はない。影も形も。逃がしてしまった。上弦の壱を。十二鬼月を倒す千載一遇の機会を逃してしまったのだ。

 

 

「くそっ……」

 

 

 意識が暗転し、地面に倒れ込む。

 炭治郎が泣きそうな顔をしながらこっちに走ってくる。杏寿郎は……地面に倒れている。

 ……悪いな、杏寿郎。お前が命を賭して戦ってくれたのに、あの鬼の頸を獲り損ねちまって。

 俺がもっと速く、もっと強ければ、あの鬼の頸を断てたのかもしれないのに……。

 

 

「ギンさぁん!」

 

 

 聞き覚えのある声がした。

 いつも口うるさく、厳しい。だが誰よりも努力家で、激情家で、身内に優しい俺の弟子の声だ。

 

 

 ―――しのぶ

 

 

 そんな今にも泣きそうな顔をしないでくれ。お前を泣かせると、カナエがうるさいんだ。

 しのぶはギンが地面に倒れ込む寸前、ギンの身体を抱き抱える。綺麗な隊服がギンの血で汚れることを厭わず。

 

 

「ごめんなさいギンさん!間に合わなくて、遅くなって、ごめんなさい!こんなにボロボロに……!ごめんなさいごめんなさい!」

 

 

 謝らないでくれ、しのぶ。お前に泣かれると、俺はどうしたらいいか分からなくなるんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地面に倒れた杏寿郎は、仰向けになって夜の空を眺めていた。黒煙が昇る夜の空を。

 杏寿郎の傷は、ひどかった。

 

 斬り落とされた左腕。体中に刻まれた切傷。そして、腹部の傷。

 黒死牟によって最後に斬られた腹は、内臓まで届く一撃だった。皮膚の隙間からは斬られた内臓が零れ、断面を外気に晒していた。夥しい出血は地面に血溜りを作り、杏寿郎の皮膚は死人のように真っ白になってしまっている。

 

「竈門……少年……」

 

 だが、杏寿郎は生きていた。

 即死していてもおかしくない傷、出血。だが、煉獄杏寿郎はそれでも浅く息を繰り返している。

 

「煉獄さん!」

 

 そんな杏寿郎に、炭治郎は涙を零しながら駆け寄った。

 

 ――なんてひどい傷だ。

 

 惨い傷だった。鬼との戦いで死人を見るのはこれが初めてではない。

 だが、杏寿郎ほどの重傷を負った人を、炭治郎は見たことがなかった。いまだに生きていることが不思議なくらい、目を逸らしてしまいたくなるほどの怪我だった。

 満身創痍などという言葉では言い表せないほどの深い傷。それが今の煉獄の状態だった。

 

「しのぶさん、煉獄さんが……」

 

 縋るような思いでギンの手当をしているしのぶに、炭治郎は問いかける。

 助かる術はないのか。あれほど頑張った人が、死んでいくのをただ指を咥えて見ていることしかできないのか。

 

 だが、しのぶは涙を零しながら小さく首を横に振った。

 

「……おそらく、"光酒"が煉獄さんを無理やり生かしているんでしょう。けれど、これではもう……」

「そんな……!」

 

 鬼には逃げられ、ギンさんは重傷、そして煉獄さんが死ぬなんて……!

 

「すいません、すいません!煉獄さん!俺が弱かったから!俺、何もできなかった!あの戦いに一歩も、助太刀することすらできなかった!俺が弱いせいで、弱いせいで……」

 

 目の前が見えなくなるほど涙がぼろぼろと零れ落ちてくる。血が滲むほど拳を握る。悔しい。悲しい。

 なんで、俺は生き残ってしまったんだ。

 

 ――弱かったからだ。傍観者でしかいられなかったからだ。戦いに参加する権利すら、俺にはなかった。

 

「ひぐっ、うぐっ、あぐっ」

 

 何が日の呼吸の使い手だ。

 俺は特別でもなんでもない。大切な仲間一人も助けられない、弱い奴だ……。

 もしあの時、黒死牟の攻撃を避けることができたら。煉獄さん達はかばう必要なんてなかったのに。

 俺のせいで深手を負った。そのせいで上弦の壱に追い込まれた。俺の、せいだ!

 

「……気にするな……」

 

 すると、呻くように煉獄が炭治郎に声をかけた。首を動かして、炭治郎の方を向く杏寿郎は、僅かに微笑んでいた。

 

「……煉獄さん」

「柱なら後輩は守る……当然だ」

「煉獄さん、喋らないで!傷が……!」

 

 俺はうろたえてしまう。それ以上喋らないで。少しでも静かに、生きていて欲しい。例えもうすぐ終わる命だとしても……。

 

「炭治郎君……」

「!」

 

 しのぶさんが、そんな俺の心を見抜いたかのように、俺の名を呼んだ。俺はびくりと身体を強張らせてしまう。

 

「助かる、胡蝶」

「……すみません、煉獄さん。あなたの傷は、私では……」

「大丈夫だ。……悔いはない。胡蝶は……ギンを頼む。不肖の弟弟子だが……俺の家族なんだ……」

「はい。……炭治郎君」

「……」

「炎柱の、最期の言葉です。しっかり聞きなさい……」

 

 涙交じりのしのぶさんの言葉。

 

 ――煉獄さんの、遺言。

 

「……!」

 

 炭治郎は嗚咽をかみ殺しながら、杏寿郎の言葉に耳を傾ける。

 尊敬する"柱"の最期の言葉を、聞き逃さない為に。

 

「俺の生家、煉獄家に行ってみるといい。日の呼吸について何か分かるはずだ……父や弟がよく手記を調べていたから。父と母には……いつまでも仲良く……身体を大切にして欲しいと。弟の千寿朗には自分の心のまま……正しいと思う道を進むよう伝えて欲しい」

「はい……!俺が必ず、伝えます……!」

「それから」

 

 煉獄杏寿郎はそう言って、炭治郎の目を見た。

 

 赤い眼。炎の眼。

 

 ――きっと、この少年は俺の意志を受け継いでくれる。その眼に、火が灯っているのを、俺は知っている。

 

「竈門少年。俺は君の妹を信じる。鬼殺隊の一員として認める」

 

 炭治郎は息を呑む。

 煉獄さんが、禰豆子のことを認める?

 あの時、禰豆子を殺すべきだと主張していたこの人が。柱として、そして人として、炭治郎が知る中で最も強い人が、禰豆子を、鬼殺隊として認めた?

 なんで、こんな時に――こんな時だからこそ……嬉しい、悲しい、悔しい。

 止まりかけた涙が、またこぼれ出す。尊敬する人に認められて、けれどその人が死にかけていて、どうすればいいか分からなかった。

 でも、泣いちゃ駄目だ。今すぐ泣き叫びたいけど、煉獄さんの言葉を忘れないように、心に刻みつける。

 

「あの時。黄色い頭の少年や猪頭の少年と共に……乗客を守ろうと鬼と戦いながら走り出した少女を見た……。命を懸けて鬼と戦い人を守る者は……誰が何と言おうと鬼殺隊の一員だ」

 

 ――この少年は優しくて真っ直ぐだ。きっと、俺の死を悲しむ。だが、それではだめだ。鬼達と戦うには、それだけでは。

 

「胸を張って生きろ。己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと……心を燃やせ……歯を食い縛って前を……ゴホッ」

 

 ああ、これはもう死ぬな。まだまだ言いたいことは山ほどあると言うのに。

 だが、そうだなぁ。

 唯一手のかかる弟弟子が生きているなら……悪く、ないな……。

 

 

 

 

 

 

「もっともっと……強くなれ……俺はここで死ぬが……今度は君達が鬼殺隊を支える柱に……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……煉、煉獄さん?」

 

 

 

 

 炭治郎がそっと、煉獄の身体を静かに揺らした。だが、煉獄杏寿郎はそれ以上、言葉を返すことはなかった。

 

 

 

 

「煉獄さん…………!」

 

 

 

 

 悔しい……。

 下弦の鬼と戦って、自分の無力さを痛感して。

 ギンさんに鍛えてもらって、全集中の呼吸・常中を使えるようになったのに。

 何か一つできるようになっても、またすぐに目の前に分厚い壁があるんだ……煉獄さんやギンさんは、もっとずっと先の所で戦っているのに、どうして俺はまだそこに行けないんだ……こんなところでつまずいて……俺は……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ギンさん!!」

 

 

「!?」

 

 

 

 

 しのぶの叫び声に叩き起こされたかのように、炭治郎は後ろを振り返る。

 そこには、しのぶさんと手当されているはずのギンが――

 

 

 

 

 

「ギン、さん?」

 

 

 炭治郎は眼を見開いた。

 

 そこには涙を流しながら慌てたようにギンさんの名前を呼び続けるしのぶさんしかいなかった。

 

 

「し、しのぶさん!?どうしたんですか!ギンさんは!?」

 

「炭治郎君!ギンさんが……ギンさんが……!消えてしまったの……!確かにここにいたのに!動けないはずなのに!ここからどこにも行けないはずなのに!消えてしまったの!」

 

 急いで辺りを見渡す。だが、そこには黒死牟との戦いの跡しかなく。自慢の鼻を使っても、ギンさんの匂いが掻き消えてしまっていた。

 

 ギンさんの姿は、どこにもなかった。

 煙のように、消えてしまっていた。まるで最初からどこにもいなかったように。

 

 けれど、しのぶさんの手のひらにべっとり付いた血が、ここにギンさんがいたことを確かに証明していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助、竈門禰豆子、保護。

 

 戦死者、一名。"炎柱"煉獄杏寿郎。上弦の壱との戦闘後、死亡を確認。

 

 行方不明者、一名。"蟲柱"鹿神ギン。血鬼術による物か不明。捜索を続行。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上弦の壱との戦いから二か月。

 

 ギンさんは、未だに見つかっていない。

 

 

 



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常の闇

 ここは……無限城か。私は、鳴女と……無惨様によって、ここに連れ戻されたのか。

 首を斬られかけ、死に瀕し、逃げ帰ってきた。

 

「無様だな、黒死牟よ。たかだか柱二人相手に、その有様か」

 

 腕が、再生せぬ。

 あの蟲師に斬られた左腕が、再生しない。血が流れ続ける。止血の呼吸をするなど、一体何百年ぶりだろうか。

 少しずつ傷口が塞がりつつあるが、完全に私の腕が再生することはもうないだろうと分かった。私の身体に入れられた、"日蝕みの核"とやらが、私の鬼としての力を弱め続けている。

 剣士の命である腕を、奪われた。あの蟲師に。あの炎柱に。

 

「鳴女を使って大量の鬼を送り込んだにも関わらず、青い彼岸花も回収できず、おめおめと生き残った貴様は一体なんだ?」

 

 蟲師……鹿神ギン、そして煉獄杏寿郎……。

 恐らく炎柱は死んでいるはずだが……。

 

「私はお前を買い被りすぎていたようだ。あの忌々しい蟲師から"青い彼岸花"を奪ってくるという簡単なことすらできぬ。ようやく、ようやく青い彼岸花を手に入れられると期待したのに、貴様が失敗したせいで私は今不快の絶頂にいる」

 

 あの時、鬼にされた後、興味本位で指先だけを陽の光に当てたことがある。

 

「童磨が殺され、上弦の月は欠けたままだ。これ以上の戦力の低下は好ましくない……が、貴様はどうやらあの蟲師によって私の力を封じられたようだな」

 

 あの時の痛みが……今もなお私の身体の中で暴れている。臓腑をじりじりと焼かれるような痛みが、治まらぬ。

 

「片腕を失い、鬼の力を失った貴様を生かす価値など、最早私にはないように思える」

 

 ――ああ、この感覚には覚えがある。

 

「最期に言い残すことはあるのか?」

 

 全身を焼き尽くす音。身体の奥から湧き出る憎悪。

 

 鹿神、鹿神、鹿神、鹿神、鹿神!

 

「最早……興味はない……」

「何?」

()()……あの男を……必ず……殺す……」

 

 片腕を失おうとも。再生能力を失おうとも。

 俺はまだ戦える。戦う。

 日の呼吸の使い手も。蟲師も。鬼狩り共も。今度こそ皆殺しにしてやる。

 憎い。憎い。憎い!!

 

 ――人が行き着く先は、いつも同じだ

 

 あの男の言葉は、在り方は、縁壱を想起させる。

 俺の双子の弟。日の呼吸の使い手。俺の半身。

 

 ――道を極めた者が辿り着く場所は、いつも同じだ

 

 吐き気がする。

 何故そのような眼ができる?姿形は弟と似ても似つかないのに、何故一番忘れたい弟の顔を、声を、言葉を思い出させる?

 何故縁壱と同じ眼ができるんだ。忌々しい、忌々しい、忌々しい!

 

 己の身を斬り付けたあの男を許さぬ。断じて許さぬ。

 あの男を殺したい。あの男に勝ちたい。完膚なきまでに徹底的に殺したい。

 

 剣の腕は俺の方が圧倒的に上だった。俺の方が強い、それは事実だ。

 だが鹿神と煉獄は人の身でありながら、己より圧倒的に剣の腕は劣るのに、己の頸を落としかけた。あれほど痛めつけ、立てないほど切り刻んだはずなのに、かつての縁壱のように己の頸を斬りかけた。何百年もの間、どんなに強い柱もなし得なかったことを。

 

 あの男に勝てば――縁壱。お前と同じ世界が、俺にも見えるのか?

 

「……気に入った。その憤怒、その憎しみ」

 

 子供の姿をした無惨様が、懐から小さな瓶を取り出した。

 瓶の底には赤黒い泥状の液体が入っているのが見える。確かあれは――

 

「これは、"腐酒"と言う。昔、私の配下の蟲師に採ってこさせた極上の美酒だ。千年以上生きていると食い物を旨いと言う感覚は薄れていくが……これだけは美味だ。私はこれを飲み、()()()()()()()()()()()()を手に入れた」

 

 からんころん。

 

 倒れ伏している俺の前に、その瓶が転がされる。ガラス瓶に嵌められたコルクの蓋からかすかに匂う、甘い果実酒のような匂い。

 

「だが、お前達ではその"腐酒"の力に耐え切れず、精神を溶かしてしまうかもしれぬ。だがそれに順応すれば――更なる強さを手に入れよう。黒死牟。そして私の役に立て。今度こそ青い彼岸花を奪うのだ。その蟲師を殺して」

 

 

 

 ―――ああ、ありがたい

 

 

 

 俺は飛びつくように瓶を手に取った。

 

 

 

 ――更なる強さを。圧倒的な強さを。

 

 

 何かを掴めそうだったんだ。あの男と戦っている最中に。

 

 森を体現したかのようなあの男を殺せば、何か答えを得ることができる。

 己が欲してやまなかったモノを、手に入れることができる。

 

 身体の内を焼き付ける太陽の痛みが、己を復讐に突き動かす。

 

 俺はその酒を、口の中に流し込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ギンさん!ギンさん!」

 

 血がどんどん零れ落ちていく。全身の切り傷がヒドイ。あんなに強かった先生が、ここまでやられてしまうだなんて想像もしていなかった。

 上弦の弐と戦って姉さんを助けたときだって、ここまでひどくなかった。

 だから、これからもギンさんはどんな鬼が来たってきっと勝ってしまうんだろうと信じていた。信じてしまっていた。

 ああ、どうして忘れてしまっていたんだろう。好きな人や大切な人は明日も生きていると、漠然とそう信じてしまう。そんな保証、この世のどこにもないと言うのに。

 

「しのぶ……」

 

 持ってきた止血薬や包帯で必死に手当をしていると、ギンさんは痛みに喘ぐように私の名前を呼んだ。

 

「ギンさん、喋らないで!止血の呼吸を続けて!今、"光酒"を投与しますっ、だからもう少し堪えて……!」

「手を動かしながらでいい……聞いてくれ」

 

 なんで、そんな眼をするの。まるで最期を覚悟したようなことを言わないで。

 ふざけないで、ふざけないで。私はあなたを見殺しにするために、医術を学んだんじゃない。あなたの力になりたいから今まで頑張ってきたの。

 私はギンさんの傷を手早く縫合していく。

 絶対助ける。絶対死なせない。

 煉獄さんに頼まれたんだ。『ギンを頼む』って。分かってる。私も絶対に死なせない。

 

「"青い彼岸花"を見つけた……上弦の壱の襲撃は……それが目的だった」

 

 その言葉を聞いた時、私の手が一瞬、時を停められたようにぴたりと止まってしまう。

 

「"青い彼岸花"の正体は……"日蝕み"という蟲の妖光を浴びて突然変異した花だ……俺はそれを見つけ……隠した……ガホッ、ゲホッ」

「ギンさん、喋らないでっ……!」

 

 "青い彼岸花"。鬼舞辻を鬼にした元凶。鬼殺隊の悲願は『鬼舞辻の抹殺』。その為に青い彼岸花を探し求めた。

 それを、見つけた?千年間、誰も見つけられなかったその花を。確かに前回の柱合会議で生える場所を見つけたと言っていたけど、まさか本当に?

 

 

 あまりにも衝撃的な事実に思わず手を止めてしまいそうになる。けれど、今はそれどころではない。すぐに頭を切り替え、ギンさんの手当を続ける。

 

「その花は蟲の気を帯びているが常人にも見える……だが、陽の光に当てると枯れてしまう……だから俺は……"あの場所"に隠した。あとは、お前に、託す」

「あの場所?託す?何を言っているんですかギンさん!縁起でもない!まるで最期の別れみたいに……!そんなこと言わないで!私が絶対助けるから!先生から習った医術で!私が!」

 

 

 

 

「"花柱代理"胡蝶しのぶ」

 

 

 

 

「―――――ッ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前が、次の"蟲柱"だ」

 

 

 

 

 

 

 ギンさんはそう、嬉しそうに微笑みながら言った。

 途端、脳裏に過るのは、数年前の、私とギンさんの会話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ―――いずれ柱の名を襲名するのなら……先生の、"蟲柱"の名を、頂戴したいと思います。

 

 ―――こんな名、お前に合わねえよ。"蟲"だなんて。"花"でいいじゃねえか。そう思わねえか?耀哉。

 

 ―――なんでですか!私は確かに未熟ですが、蟲師なんですよ!先生の"蟲柱"の方がいいと思うのは当然じゃないですか!それとも私に"蟲柱"は荷が重いとでも言うんですか!

 

 ―――そうじゃない。蟲より花の方がお前に合うと思っているからだよ。美人だからな。それなのに"蟲"なんて名前、似合わねえよ。

 

 ―――なっ、なっ!もう!先生はいつもいつも私を馬鹿にして!

 

 ―――ま、こんな名で良ければくれてやるよ。お前が一人前になったらな。

 

 

 

 

 ぽたりと、涙が落ちた。

 あの時の約束を、覚えてくれていたの?

 私は忘れていた。私はずっとギンさんの継子で居続けるつもりだったから。

 だって、確かに"蟲柱"の名前がいいと言ったけど、先生よりその名前が相応しい人を、私は知らなかったから。

 口数が少なくて、天然で、時々頭が悪いことを言って、誰よりも森や生物を大切にする人。

 国中を回り、多くの人を助けてきた人。

 私が一番尊敬する――

 

 

 

「あそこに……上弦の壱の鬼の腕」

 

 ギンさんは震える手で指を差すと、そこには見慣れぬ誰かの腕が落ちていた。おそらく、ギンさんが斬り落とした鬼の腕なのだろう。

 

「禰豆子の血……そして青い彼岸花……これだけあれば、鬼を人に戻す薬も創れるはずだ。例え創れなくても……お前の毒を強くすることもできるだろう……何かあったら、珠世と言う医者を訪ねろ……場所は、炭治郎が教えてくれるはずだ……」

「私に……それを、創れと?」

 

 無理、無理ですよ先生。私、先生にまだまだ習いたいことがたくさんあるんです。独りじゃできないです。先生に助けてもらわないと、私は。

 

 

「自信を持て……しのぶ……お前は、俺のたった一人の弟子なのだから」

 

 

 ギンさんがそう言った瞬間、突如ギンさんの右目から、"闇"としか形容できない何かが溢れだした。

 その闇はギンさんの全身を覆うように広がっていき、呑みこんでいく。

 

 

「先生!!」

 

 

 ――取り込まれる。

 

 

 私は咄嗟に、ギンさんの手を掴もうとした。連れて行かないで。私の大切な人を、連れて行かないで!

 

 だが、私が手を掴むより早く、"闇"がギンさんの身体を包み込んだ。

 

 

 

 ―――え?

 

 

 

 次の瞬間には、ギンさんはもう、どこにもいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――以上が、"蟲柱"鹿神ギンが行方不明になった経緯です」

 

 産屋敷邸は、重苦しい空気に包まれていた。

 

 下弦の壱を討伐、無限列車に乗り込んでいた乗客二百人は一人も死ななかった。

 

 しかし、下弦の壱を討伐後、間髪入れずに上弦の壱が来襲。更に百体近い鬼が出現し、総攻撃を仕掛けられたのだ。上弦の壱――"黒死牟"と呼ばれる、恐らく始まりの呼吸の剣士の一人であろう鬼に、"蟲柱"鹿神ギンと"炎柱"煉獄杏寿郎が応戦。

 そして残りの鬼を、竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助、竈門禰豆子以上四名が乗客を守護。"水柱"冨岡義勇、"水柱継子"鱗滝真菰、"花柱継子"栗花落カナヲが到着するまで、何十体もの鬼をたった四人で奮戦し、乗客を二百人も守り切ると言う快挙を成し遂げた。

 

 我妻善逸は両足の骨折、嘴平伊之助は切傷が多数負わされた程度の怪我で、命に係わる怪我を負うことはなかった。

 

 しかし、上弦の壱と応戦した"炎柱"煉獄杏寿郎は死に、そして"蟲柱"鹿神ギンは行方不明となった。更にあと一歩まで追い詰めた上弦の壱は、敵の血鬼術で逃亡するという最悪の事態に。結果的に、二人の柱を喪うという痛手を負ってしまう。

 戦いから一夜明けたが、駆け付けた"隠"の部隊の懸命な捜索に関わらず、鹿神ギンの手掛かりは見つけることすらできなかった。彼が持っていた刀も、どこかに消えてしまった。

 

「ご苦労だったね、しのぶ。大丈夫かい」

「いえ……」

 

 しのぶの表情は暗い。眠れていないのか、目の下の隈がくっきりと残っているのが耀哉の目にも見えた。

 "炎柱"の訃報、そして"蟲柱"の消失は、直ちにカラス達によって柱達へ伝えられた。

 死を嘆く者、動揺を隠しきれない者、己の使命をただ淡々とこなす者、上弦の鬼への警戒を強める者、二人の死を信じぬ者、その反応は三者三様であった。

 

「――死んでない。絶対に生きている」

 

 "水柱"の冨岡義勇は、今もいなくなった弟弟子を探して回っている。継子の真菰や炭治郎と一緒に。

 

 

 

 

「――しのぶは、ギンが姿を消したことについてどう見る?」

「……分かりません。ですが、こうではないかと推測が」

「聞かせてくれるかい」

「おそらく……先生は"常闇"に囚われてしまったのではないかと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――先生は、どうして片目がないんですか?」

 

 先生の継子として本格的に修行を始めたしのぶは、ある日、ずっと気になっていたことをギンに尋ねた。

 ギンは隻眼だ。鬼と戦って怪我を負ったとかではなく、気付いた時にはそうなっていたとギンはしのぶに語った。

 

「銀蟲と言う蟲がいる。俺は昔、そいつに遭ったらしい。そいつが放つ光を浴びると、目を失うんだ」

「――らしい?」

 

 珍しくはっきりとしない口調に、しのぶが首を傾げる。

 

「はっきり言うとな、覚えてないんだ。その蟲に遭った時のことを。その蟲は"常闇"と呼ばれる空間に棲んでいる。陽の光もない、真の暗闇。お前に教えた"瞼の裏"と同じような空間だ。そこに長い間いると、記憶を失ってしまうと言われている。自分がどうして常闇の中にいるのか、自分の名前や過去の記憶、全てを」

 

 記憶を失う……それは、どんな感覚なのだろう。思い出を、親のことや、家族のこと、友人のこと、全てを忘れてしまうと言うのは、どんな気持ちなのだろう。

 

「しのぶは、夜の山を歩いたことはあるか?」

「はい。任務で何度か。山の中に潜む鬼を狩る為に」

「……暗い山の中を歩いていると、さっきまで道を照らしていた月が急に見えなくなったり、星が消えたりして方向が分からなくなる時がある。それは普通にもあることだが、さらに自分の名前や過去の事も思い出せなくなってるようなら、それは常闇が傍に来ているからだと言われている」

 

 常闇は、暗闇の奥底にじっと潜む、闇の姿をした蟲らしい。陽が差さない夜の中や物陰を蠢き、小さな蟲を喰らう。

 その蟲はどんな大きさをしているか分からない。闇はどこにでもある身近なモノだからだ。光に当てれば小さくもなるし、山一つを覆うほどに大きく膨らむこともあると言う。

 

「時折、自分の記憶を失った人間が山から下りてくることがある。そういう輩は、常闇に記憶を奪われてしまっている場合がほとんどだ。記憶を失うのは辛いことだが、大抵の場合は常闇から永遠に抜け出すことができず、常闇と同化しちまう。記憶を失っても、あちら側にいかない分だけ、まだ幸せかもしれん」

 

 常闇の中は無の世界。そこは人間や生物が暮らす現世とは、また別の法則が流れている異空間だと、ギンさんは言った。確かめたことはないが、生と死の狭間、黄泉の国に近い場所なのかもしれないと。

 

「俺は何故かその常闇の中にいて銀蟲に遭っちまったらしい。で、こうなった。おかげで生まれも何も覚えていない。覚えていたのは蟲のことだけだった」

 

 ひょっとしたら、銀蟲に遭う前は蟲師だったのかもな、と先生は笑った。

 つまり先生の今の姿は、銀蟲と言う蟲に出会ったせいであり、その銀蟲が暮らす常闇の中を彷徨った結果、過去の記憶を失ったそうだ。

 

「太古の人々は神々の威光を直接目にすると、目を潰されると信じていた。おそらく、銀蟲はそういう類の蟲だったんだろう。俺の眼は片方なくなり、残った眼や髪はこんな色に変わっちまった」

「先生は、辛くないんですか?」

「まさか。記憶があろうとなかろうと、今の俺は充実している。昔の鍛練は地獄だったからな……片目だからって目隠し修行ってなんだ……」

 

 ギンさんはぶつくさと文句ありげにそう言って、蟲煙草を吸い出した。

 

「この眼についてもいろいろと折り合いはついた。右目の"闇"は蟲を呼び寄せる厄介なモンだが、付き合い方を間違えなければ悪くはない」

「先生……煙草臭いです」

「蟲の対処法だから。だから大目に見てくれ」

「もう……」

 

 呆れながら私は笑ってしまう。昔は煙草を吸っている男の人には、近寄りたくもなかったなぁ。煙の臭いを漂わせた人を見ると嫌で仕方なかったのに。先生の蟲煙草に慣れてしまっていた。

 その時、私はふと気になったことを尋ねた。

 

「そうだ、先生」

「ん?」

「"常闇"から出るには、どうすればいいんですか?」

 

 自分の名前や過去の記憶を思い出せなくなってしまってしまったら、どうすればいいのだろう。

 目的地も分からない暗闇の中を、永遠に歩かなければいけないのだろうか。

 姉さんや、死んだ両親のことを忘れて、ただ歩かなければいけないのだろうか。

 

「……どうにか、自分のことを思い出せば抜けられると言う話だ」

「どうしても思い出せない時は?」

「なんでもいい。すぐ思いつく名を自分につければいいそうだ」

「そんな簡単な方法でいいんですか?」

「言うだけなら簡単だが、それが一番難しいんだ。それに、新しい名を付けると、前の名だった頃の事は思い出せなくなるそうだ」

 

 ギンさんは――昔、どんな人だったのだろう。その常闇に囚われる前の姿や、どんな所で暮らしていたのか。常闇に出会わなければ、ギンさんは鬼狩りとして、蟲師として、今私の目の前にいなかったのかもしれない。

 

「……なんだよ、嬉しそうにしやがって」

「いーえ、なんでもないですよ先生。そうだ、せっかくですし新しい義眼を作りませんか?翠もいいですけど、違う色の眼にして。髪の色も染めて、オシャレをしてみましょうよ。カナエ姉さんもきっと協力してくれるはずです」

「楽しそうだなお前。やんねーよバカ」

 

 過去のたらればを考えても、意味はない。けれど、先生が今、自分の前にいることが嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「"銀蟲"と"常闇"については、先生からそう聞かされていました。あの日、先生が消えた時、右目の常闇があふれ出たように私には見えました」

「――ギンを見つける手立ては、ないと?」

「……今の私では……」

「そうかい」

 

 しのぶは普段通り変わらない様子のお館様の言葉に疑問を覚えた。ギンはお館様のことを親友だと、一番古い友人だと自慢げに話していた。お館様も柱合会議のあと、ギンの旅の話を聞くのをいつも楽しみにしていた。

 二人は仲が良かった。けれど、お館様はギンが消えても何も変わらない。私は自分の師が消えてこんなにも胸が痛いのに、この人は何も感じていないのだろうか。

 

「お館様は、どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるのですか?」

 

 少し、嫌味の感情が滲み出ていたかもしれない。親友が消えたのに、なんでそんなに落ち着いていられるんだと。八つ当たりに近い感情だったかもしれない。

 

「……本当は、辛いんだ。とても」

 

 すると、耀哉はいつもの微笑みを崩し、影のある表情を浮かべた。しのぶには、その表情は今にも泣き出しそうな子供の顔に見えた。涙を必死にこらえている少年の顔だった。いつも大人びた荘厳なお館様からは想像ができない。この人はこんな顔もするんだと、しのぶは驚き、すぐに自分がしたことを恥じた。

 

「失礼しました、お館様」

「……しのぶの言いたいことも分かるよ。本当は私もギンを探しに行きたい。もう二度と彼と会って話すことができないと考えると、自分の心を半分に斬られたような痛みが湧き出てくる。けれど、当主として、子供達を導く者として、耐え忍ばなきゃいけないんだ」

「……はい」

「私はここから動けない。だからしのぶ。ギンと、"青い彼岸花"を探して欲しい。ギンの一番弟子の君なら、きっとギンを見つけることができると信じている」

「――御意」

「頼んだよ、しのぶ」

 

 しのぶは頭を下げ、耀哉の言葉を胸に産屋敷邸を後にしようとした。

 中庭から去ろうとした時、耀哉はしのぶの背中に問いかける。

 

「しのぶ。ギンはこう言っていた。『もし自分の身に何かあれば、しのぶに"蟲柱"の名をあげてやれ』と。君は、この名を受け取るかい?」

「――必要ありません、お館様。まだ先生が死んだと、私は信じていないので」

「よかったよ。私もまったく、同じことを考えていたからね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――しのぶ!」

「カナエ姉さん」

 

 蝶屋敷に戻ると、姉のカナエがすぐにしのぶを出迎えた。

 

「お館様は、なんておっしゃってたの?」

「しばらく、私はギンさんの捜索に専念させていただくことになったわ。炭治郎君達は?」

「……やっぱり、相当堪えてるみたい。さっき煉獄さんの最期の言葉を伝えるために、炭治郎君が炎柱邸に行ったらしいけど……病室でまだ泣いてるみたい」

「そう……」

「でも、昨日よりずっとすっきりした顔になってたわ。きっとあの子なら、立ち直ってくれると私は信じてる」

 

 煉獄の最期の言葉は、しのぶはあまりはっきりと聞いていない。ギンの話と手当に集中し、炎柱は炭治郎に言葉を遺していた。自分が聞き出すのも憚られていた。

 

「ギンくん、どこに行っちゃったのかしら」

 

 ギンが消えたと言う報せが届いてから、蝶屋敷の雰囲気はどことなく重く、暗い。

 いつもはきはきとしている神崎アオイもミスが多かった。なほ、きよ、すみの三人も、どことなくしょんぼりしている。

 蝶屋敷は珍しく、蟲避けの為の蟲煙草の匂いがしない。

 あの人がここにいないことなんてよくあることだったのに。もう二度と帰ってこないかもしれないと考えるだけで、こうまで変わるのかと胸の中に孔が空いたような気分になってしまう。

 

「……分からない。"常闇"なんて、簡単に見つけられるような蟲じゃないし、もし見つけたとしてもどうなるか分からないから……」

 

 常闇の発生場所は、夜の山の中ということしか分からない。ギンもこの蟲について深く研究していたそうだが、この蟲の目撃情報を掴むことがほとんどできなかったらしい。というのも、この蟲に遭遇したほとんどの者が記憶を失ってしまうからだ。この蟲については分からないことの方が多い。どんな危険を孕んでいるのか分からないこの蟲には、ギンは近付かないようにしろとしのぶに厳重に注意をするほどだった。

 

「でも、絶対に見つける。絶対に探し出してみせる」

「しのぶ……」

 

 心配そうな表情をするカナエだったが、その瞼は赤く腫れあがっている。柱として鬼殺隊で働いていた時、ギン、そして杏寿郎と何度も合同で任務に向かった。引退した後も、蝶屋敷に時折帰ってくるギン、そしてギンの顔を見に来る杏寿郎と何度も言葉を交わした。時には杏寿郎の継子であった甘露寺蜜璃と共に茶店に何度も足を運んでいた。

 

 旧友である杏寿郎の死、そして想い人であるギンが姿をくらませた。

 その心労は計り知れない。

 大切な姉さんの為にも、ギンさんを早く見つけないといけない。

 

「大丈夫、安心して姉さん。私が絶対連れ戻すから。だから、いつもみたいに姉さんは笑って待ってて。いつでもギンさんが帰ってきてもいいように」

「……そうね」

 

 頼むわね、しのぶ。

 

 カナエはそう言って、しのぶの頭をそっと撫でた。蟲を見ることができないカナエには、できることは何もない。ただ待つことしかできない。

 なら彼が帰って来るまで、信じなければ。妹を。あの人の弟子を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上弦の壱との戦闘から二か月。

 "隠"の懸命な捜索にも関わらず、鹿神ギンは見つからなかった。

 水の呼吸一門も心当たりがある場所や、山の中を必死に走り回ったが、ついに見つけることはできず、産屋敷当主である産屋敷耀哉から、正式にギンの捜索を打ち切られた。

 

 例え柱が消えようとも、鬼達はのうのうと人を喰い、力をつけ、生き永らえている。

 

 時間は有限。鬼は人を喰うのを待ってくれることはない。死んでしまった煉獄杏寿郎の為にも、戦い続けなければいけない。

 "水柱"冨岡義勇はそれでもギンはまだ生きている、探すべきだと必死に主張していたが、他の柱や耀哉の反対により、ギンの捜索を打ち切られることとなった。

 鹿神ギンの捜索は弟子の胡蝶しのぶに一任し、他の柱は任務に集中するべきだと。

 

「……俺に蟲は見えない。だから胡蝶、頼む」

 

 柱合会議の時、無口で無表情な義勇からは想像もできないほど悔しそうな言葉で、義勇はしのぶに頼み込んだ。

 

 お前にしかギンは見つけられない。俺の兄弟を頼むと。

 

「……普段からそれぐらい喋ればいいのに。だから嫌われるんですよ、義勇さん」

「俺は嫌われてないっ……」

「はいはい……任せてください、義勇さん」

 

 歯を食い縛りながら懇願する義勇の言葉を、了承する。

 頼まれずとも探し出すつもりだが、ますます見つけなければいけない理由が増えてしまった。

 

 

 竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の三人は、あれから元"炎柱"の煉獄槇寿郎の下で稽古をつけてもらっている。

 あの夜、無限列車の中で「三人を継子にする」と杏寿郎が宣言していたことを知った槇寿郎は、息子の代わりに三人を鍛えている。

 引退した身とはいえ、元"炎柱"。

 息子が一度でも口にしたことは、父親である自分が責任を果たす。そして杏寿郎とギンが命を懸けて守った竈門炭治郎を、一人前の剣士にすると。

 

 鴉から送られてくる任務をこなしながら、三人は蝶屋敷、そして炎屋敷で鍛練をし、めきめきと実力をつけていった。

 あの夜、三十体以上の鬼を斬った三人は、もうすぐ柱の条件である"討伐数五十体"を達成する。実力が柱に匹敵するようになれば、すぐさま柱に就任することになるだろう。

 

 ちなみに、三人の中で一番柱に近いのは意外なことに我妻善逸だ。

 

 伝統と由緒ある雷の呼吸で、新しく漆ノ型を生み出したその実力は、十二鬼月とも前線で戦える。前回の最終選別戦を合格した新人の隊士の中で最も柱に近いと、槇寿郎はそう見立てていた。当の本人は「柱なんてムリムリィィィィ!柱になったら毎日鬼と戦わなきゃなんないじゃん!俺はすっごく弱いんだぜ!!十二鬼月なんて戦った日にはイチコロだぞ!」などと自信満々に泣き喚きながら言っているが、そこは厳しい元"炎柱"。拳骨ですぐに黙らせたと言う。

 そんな善逸に負けないと言わんばかりに、伊之助と炭治郎も毎日任務と修行に励んでいる。

 時折怪我を負って蝶屋敷にやってくるが、それでも徐々に顔つきが、覚悟ある剣士の目をするようになってきたと、カナエが嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

 

 けれど、あれから二カ月。

 

 

 ギンが隠したと言う"青い彼岸花"を見つけることは、未だできていなかった。

 

「どこにあるの……どこに行っちゃったの、ギンさん……」

 

 蝶屋敷の縁側で、しのぶは溜息を吐いていた。

 空には綺麗な月が浮かんでいる。物思いに耽っている間に、いつの間にか日が沈んでしまったらしい。

 あれから、心当たりがある場所をくまなく探した。

 日蝕みが出現したと思われる場所から、ギンが向かったと思われる場所をくまなく探したが、それでも見つからなかった。先生は"青い彼岸花"は陽の光に弱いと言っていた。だから暗い場所に隠しているはずなのに……。

 青い彼岸花は、強力な鬼と対峙した時の切り札になる。炭治郎君の話だと、ギンさんは上弦の壱と戦った時に、鬼を弱体化させる何かを使ったらしい。それは青い彼岸花を使った薬かは分からないけど……。

 

 鬼を人に戻すことができるようになれば、多くの人の希望になる。家族を鬼にされてしまって苦しんでいる人を助けることができる。そして鬼舞辻無惨を人に戻せずとも弱らせ、殺すことだって……。

 

「……可能性がある場所は全て探した。それでも見つからないと言うことは、見落としがあったということ……目に見えない物に、惑わされちゃいけない……先生が言ったことを思い出して……」

 

 呼吸をして、心を落ち着かせる。焦ってはいけない。

 先生は私なら見つけられると言っていた。なら、今まで教わったことから、青い彼岸花の隠し場所が分かるはず……。

 上弦の壱……煉獄さんを殺し、先生を傷つけた鬼。柱二人掛かりでも敵わなかった鬼。考えるだけで憎しみが湧き出てくる。よくも先生を、煉獄さんを。

 ……ダメ。ふとするとすぐに憎しみが湧き出てくる。心を落ち着かせて。

 

 ――俺の分は、仕返ししなくていい。

 

 その鬼の事は、絶対に許さない。けど、私の役目は、先生に託された役目はその鬼を殺すことではなく、青い彼岸花で鬼を人に戻す薬を創ること。炭治郎君の妹の禰豆子さんの為にも、絶対に……。

 

「しのぶ」

「わっ……なんだ、姉さんか……びっくりしたじゃない、もう」

 

 後ろを振り向くと、カナエがくすくすといたずらを成功させた子供みたいに笑っていた。

 さすが元"花柱"と言うべきか。呼吸は使えなくても、その足運びは物音ひとつしていなかった。

 

「ごめんね、しのぶ。最近随分肩が張っているように見えたから、心配しちゃって」

「だからって驚かせないでよ……それで、どうしたの?」

「さっき産屋敷家から連絡があったの。いつもの薬をお願いしたいそうよ」

「あぁ、そうね。そういえば、御息女様の薬を処方しなければいけない時期ね」

 

ギンがいなくなってから、産屋敷家の薬を処方するのはしのぶの役目になっていた。産屋敷一族は御内儀である産屋敷あまね以外の御子息、御息女は、鬼舞辻無惨の呪いによって妖質が変質してしまっているため、定期的に光酒と薬を飲まないと動けなくなるほど体調を崩してしまうのだ。

 

「そろそろ光酒も調達しないと……」

「大丈夫?しのぶ。あんまり眠れていないんじゃ……」

 

 蟲柱の仕事は、想像以上にキツかった。薬の調合、薬草の調達、蝶屋敷の入院患者の治療、鍛練、医術の勉強、アオイ達看護師に手当の指導、蟲患いを起こした人の出張治療、蟲の研究、そして鬼狩りの任務。

 

 ギンさんは、私に修行をつけながらこんな激務を……。

 

 加えて、ギンはこの激務の中、青い彼岸花を探すために各地を旅していた。他の柱と違い担当地区を持たない蟲柱だが、それでも激務には違いない。

 改めて、自分の師の背中の遠さを実感する。医者としても、鬼狩りとしても、蟲師としても、自分ではまだまだ追いつけない。

 

「焦っちゃ駄目よ、しのぶ。それで身体を壊したら、元も子もないんだから」

「……ありがとう、姉さん」

 

 カナエの優しい言葉に、しのぶは暖かい気持ちが湧き出ることを感じながら、縁側を立った。

 

「ここ最近、ずっと働き詰めだったもの。明日は久しぶりに気分転換しに行きましょう!」

「そうね、たまには息抜きでも……どこに行くの?」

 

「近くの山にね、綺麗な風景が見える茶屋ができたの。()()()()()()()()()()だって、蜜璃ちゃんが――」

 

 しのぶの足が止まる。

 

「―――待って、姉さん。今なんて言ったの?」

「え?綺麗な風景が見えるって――」

「その後!」

「……川が見える綺麗な場所。それがどうしたの?」

 

 

「"青い彼岸花"の場所、分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「瞼の裏に行く?」

「ああ。光脈を探す為に必要なんだ。俺は光酒を採取する時、"光脈の臍"を探す。光脈筋は意思を持たないが、常に動いている。その時、地表から比較的浅い場所に移動することがある。それが"光脈の臍"だ。他の場所でも光酒は採れんこともないが、そこが一番効率がいい」

 

 深い山の、森の奥。少し開けた場所で、ギンはしのぶに光酒の採り方を説明した。"光酒"は蟲師の仕事をする際になくてはならない必要不可欠な液体だ。耀哉の治療のためにも定期的に採取する必要があり、その為に瞼の裏に行けるようにしなければいけないとギンは言う。

 

「光脈筋は常に移動しているから、同じ場所で光酒を採取するのは難しいんだ」

「……光脈を探すのは分かるんですけど、どうして瞼の裏を閉じる必要があるんですか?」

 

 二つ目の瞼を閉じることができないしのぶにとって、ギンの話はもどかしい物だった。「考えるな、感じるんだ」と言われても閉じることができないものはできない。

 

「地下深くに流れる光脈筋は、ただ穴を掘って見つける……ということはできない。太陽の光に慣れている俺達は、光脈筋が放つ光を目で捉えることができないんだ。遥か昔、太古の人々は生まれた時から二つ目の瞼の閉じ方を知っていたと聞く。元々人間に備わった力なんだ。ただ閉じ方を忘れてしまっただけで」

 

 お館様――産屋敷耀哉、そしてギンは生まれながら二つ目の瞼の閉じ方を知っていたと言う。

 

「お前は元々、蟲を見ることができる体質だ。コツさえ掴めば、すぐに見ることができるようになる」

 

 ギンはそう言うと、懐から小さな盃を取り出し、そこに瓢箪を傾けて光酒を注いだ。

 

「さ、これを飲め」 

「……あの、光酒は、ちょっと」

 

 思い出すのは、先日、試しに光酒を呑ませてもらった時の事。光酒を一気に飲んでしまったせいで思考が溶けてしまい、ギンに絡み酒をしてしまった時の事。

 

「にゃんでギィンさんはねぇさんにでれでれしないんですかふつうのおとこのひとはいつもねえさんとはなすとでれでれするのにもしかしてぎんさんはねぇしゃんがきらいなんですかそれともねぇさんはかわいくないとでもいうんですかゆるしぇませんわたしがぴっちりねえさんのみりょくをつたえて」

 

 顔が熱く、真っ赤になる。しのぶは酒を呑んでも記憶を失わないタイプだった。

 

「……あまり思い出したくないんですけど」

「あれはお前が酒弱い癖に一気に飲んだからだ。一口ぐらいだったら大丈夫だから」

 

 しのぶはしぶしぶと恥ずかしそうに盃を受け取る。

 

「目を閉じながら、一口だけ飲んでみろ。目は開くなよ」

 

 ギンに言われるがままに、しのぶは光酒を一口だけ喉に通す。

 

 ……本当に、美味しい。ほぅ、と思わず息が熱くなる。

 

「光酒は人間の身体の細胞を活性化させる活力剤だが、濃い濃度の光酒を呑むと、身体が少し蟲に寄る」

 

 ……本当だ。手足の先が軽い。感覚が鋭くなっていく。血管の一本一本、隅々に至るまで、熱が回っていく感覚……。

 

「その状態のまま、目をそっと、開いてみろ。そっとだぞ」

 

 目をそっと……開いて……。

 

「あ……」

 

 辺りを見渡すと、暗闇に包まれていた。さっきまで明るい森の中にいたのに。

 

「よう。お前も閉じれたな、二つ目の瞼」

 

 前には、ギンさんがいる。でも辺りは暗闇だった。樹も蟲も土もない、陽の光が照らさない空間に、自分達は立っていた。

 

「ここが、瞼の裏?」

「今、お前は光酒のおかげで感覚が蟲寄りになっている。普段使ってる光酒より、ずっと濃度が濃い光酒だからな。今のお前なら、よく見えるだろう」

 

 ギンが地面を指差した。釣られるようにそちらに視線を向けると、そこには自分の足と、足の下を抜けてずっと下に、光る川が流れているのが見えた。

 さっき飲んだ光酒と同じ輝きを持った川が――

 

「なんて……美しい……」

 

 生命の原生体の群れ。ずっと見ていたくなるような、綺麗な川。

 

「俺は、この場所が好きだ」

「え?」

「暗闇に浮かぶ命の川。長く見すぎると目に毒だが、あれが多くの人や動物、森に命を分け与えているんだと思うと、まだまだやっていけるような気にさせてくれる。鬼狩りの仕事は心を摩耗させる。だから俺は偶にこうやって、光る川を眺めてる」

「先生……」

「復讐心や怒りは、行動する原動力になる。誰かを守るための力になる。だが呑まれないようにしろよ、しのぶ」

「……はい」

 

 ギンはそう言って、しばらく川を眺め続けた。

 しのぶはなんとなく、その時の川の光と、自分の師匠の言葉を、覚えておくことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 しのぶは息を整え、目を閉じた。

 

 ――二つ目の瞼は、闇への通路

 

 瞼を閉じても、月の光が瞼を透してまだ見えてくる。

 

 もうひとつ、もうひとつ。

 

 もう一つの瞼を閉じるんだ――

 

 

 そっと目を開くと、そこには見慣れた光脈の姿があった。

 蝶屋敷の下を泳ぐ無数の蟲の群体。光る川。

 

 しのぶは光の川をずっと見ていたい感覚に囚われかけたが、すぐに意識を切り替え、辺りを見渡した。

 

 

 ――そして、それはすぐに見つかった。光る川のすぐ傍に、そっと置かれていた。

 

 

 彼岸花。

 それも普通の赤い彼岸花ではなく、花弁は空や海よりも濃い青色に染まった彼岸花だった。

  

 異質だった。

 

 蟲が見えるしのぶにとって、それがただの花ではないということは一目で分かった。

 

 彼岸の国に生えると言われている赤い花。ならば、青い彼岸花は一体どこに生えるのか。黄泉の国か、地獄か――ああ、でもやはり、この暗闇の中で生えると言われた方がしっくりくる。

 

「強い力がある……」

 

 通常の彼岸花にも、少量の毒性がある。だが、蟲の力を帯びているせいか、この花には普通と違う毒性が含まれていることが分かる。

 藤の花の毒で、毎日のように鬼を狩る毒使いだからこそ分かること。

 これが、鬼舞辻無惨と言う一人の人間を、異形の鬼へと変えたモノ。

 

 ――ギンに、託されたモノ……

 

「―――ギンさん、聞こえてる?」

 

 暗闇の中に、問いかける。青い彼岸花からは、この世のモノとは思えないような香りが漂ってくる。

 それは悪くない匂いだった。現世に生えていれば、多くの蟲を引き寄せる花になっていただろう。

 だが、しのぶは気に入らなかった。この二か月間、ギンを探し、この花を探し続け、ようやく見つけた青い彼岸花。

 

 こんな花のせいで――私の両親は――

 

 鬼舞辻無惨を鬼に変えた花。

 分かっている。この花に罪はない。けれど、それでも、怒らずにはいられなかった。

 

 こんな花のせいで、最愛の師が消えてしまった。多くの人が、こんな花のせいで不幸になった。

 考えただけで悲しくなる、怒りが湧いてくる。私の両親はこんな花のせいで死んで、姉さんは肺を潰されるほどの大怪我を負わされた。なんで、どうして。

 

「あなたは本当は気づいていたんでしょう?私やカナエ姉さんが、あなたのことを想っていることを……なのに、あなたを傷つけた鬼や蟲を……憎むなと言うの?」

 

 できればこんな花、すぐに踏み躙りたかった。ぐしゃぐしゃに潰してやりたかった。こんな花なんてなければ、私や蝶屋敷で暮らすあの子達は、今も幸せに暮らしていたはずなのに。

 

「早く帰ってきてくださいよ!勝手に託して、勝手に消えて!私とカナエ姉さんの気持ちはどうなるのよ!何が全てを託せるよ!」

 

 暗闇の中に叫ぶ。

 常闇に囚われ、行方知れずとなった師。

 泣かないように我慢してた。

 

 

 

 ――お前が、次の"蟲柱"だ

 

 

 あんなことを言われたら、背負わないわけにはいかない。託された物を。

 でも、嫌だった。

 あなたがいなくなるなら、そんな名前いらない。あなたさえいてくれればいい。

 

「一人で勝手に、こんな別れ方!決めないでよ!」

 

 帰ってきてよ。またいろいろなことを教えてよ。

 

 また鍛練をつけてよ。蝶屋敷に帰ってきてよ。

 

 一緒にいてよ。

 

 

 

 

 

 

 

「――――ギンさんっ……」

 

 

 

 

 

 

 こらえようとしてもこらえられない涙の声。

 暗闇の中に、しのぶの泣き声が響く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――もう、何日暗闇の中を歩いたのだろうか。

 

 

 歩いても歩いても、土の匂いがしない。自分はまだ、暗闇の中にいる……。

 

 

 ……また分からなくなった……俺の名前……

 なんだっけ……こういう時……どうすれば……

 

 

 ――早く帰ってきてくださいよ!

 

 

 声?

 

 

 ――勝手に託して、勝手に消えて!私とカナエ姉さんの気持ちはどうなるのよ!

 

 

 聞いたことがあるような……懐かしい、大切な人の声……

 

 

 ――何が全てを託せるよ!

 

 

 どうしてそんなに怒っているんだろう。どうしてそんなに悲しそうな声を出すんだろう。

 どうして、自分の心が、こんなに締め付けられる?

 誰かも分からない人の声で――

 

 

 

 

 

「――――ギンさんっ……」

 

 

 

 

 あ……

 

 

 そうだ……

 

 

 俺の名前……

 

 

 

「しのぶ……」

 

 

 

 目の前にいる少女は、ああ、そうだ。俺の愛弟子だ。

 どうして忘れてしまっていたんだろう。あんなに大切だったのに。

 

 

「ギン……さん……?」

「よぉ……」

 

 

 なんでそんなに泣いてるんだ……ああ、懐かしい。ここは……蝶屋敷……か……

 

 

 意識が途切れる。身体が重い。

 

 

 

 

 

「ギンさん!!」

 

 

 

 

 

 



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約束

 

 

 

 

「よぉ」

「……やぁ、ギン。お帰り」

 

 産屋敷邸の中庭に向かうと、耀哉が縁側でのどかに空を眺めていた。

 ギンが来たことを認めると、心底嬉しそうに笑みを浮かべた。

 

「随分、心配を掛けちまったらしいな」

 

 薬箱を縁側に降ろしながら、耀哉の隣にギンは腰を掛け、ちっとも申し訳なさそうに耀哉に言った。

 

「もちろん。()の大切な友人だ。心配するのは当たり前じゃないか。あまねや娘達も、君がいなくなって随分心を痛めてた。もちろん、僕も」

「悪かったよ」

 

 微笑みを崩さず、けどその口調はどこか刺々しい。さすがのギンも困ったように謝った。

 

「もう怪我は大丈夫なのかい?」

「一応、三日ぐらいで歩けるようになったんだが……しのぶ達が病室から出させてくれなかったんだよ。すぐにこっちに顔出そうとしてたんだが」

 

 ギンが蝶屋敷に現れた時、鬼殺隊のほとんどはギンの生存を諦めていた。ギンの生存を諦めずに探し続けていたのは胡蝶姉妹を筆頭にした蝶屋敷の女性陣、そして"水柱"冨岡義勇とその兄弟弟子である水の呼吸一門だけだった。

 

 蝶屋敷の中庭にギンが現れた時、蝶屋敷は大騒ぎだった。

 

 中庭で眼を閉じていたしのぶが抱きかかえるように、ギンが突如現れたのだ。傍で見ていたカナエにも、何が起きたか分からなかった。

 

「姉さん!ギンさんが!ギンさんが帰ってきたぁ……!」

 

 大粒の涙を零しながら、喜びを溢れ出しながらギンをしのぶは強く抱き締めた。上弦の壱との戦いでの傷のまま、常闇の中を歩いてきたのだろう。体中は傷だらけで、しのぶが処置した包帯は血が滲んでいた。

 しかし、確かにしのぶの腕の中で生きていた。疲労が溜まっていたのか、すぐに気を失ってしまったが。

 

 

「どこに行ってたのよぉ……!ずっとどこに……探してたんだからぁ!このバカ師匠!もう、どこにも行かないで……!」

 

 ―――暖かい、生きている。

 

 確かに心臓の鼓動が聞こえる。血だらけで、ぼろぼろだけど、確かに生きている。生きていてくれている。

 

「ギンくん……!」

 

 感極まったようにカナエも涙を流しながら、しのぶと一緒にギンを抱き締める。

 ずっとずっと不安だった。もしかしたら死んでしまったのかと、心のどこかで思ってしまっていたからだ。あの鹿神ギンが死ぬわけがない、そう心に言い聞かせても、死んでしまっているかもしれないと考えてしまうと、夜も眠れなかった。

 

「生きてる……ギンくん、ギンくん……う"あ"ぁ……」

 

 ギンの手の平の温もりが、自分の手の平から伝わってくる。

 カナエとしのぶが涙を流していると、騒ぎを聞き付けたアオイや、隠の部隊達が駆けつけ、ボロボロのギンを手術室に運んで行った。

 

 

「蝶屋敷の子達は、ずっとギンを気に掛けていたからね。特にしのぶとカナエは君が生きているとずっと気を張っていたからね。戻ってきてくれて、嬉しいんだろう」

「そりゃ気にかけてくれて嬉しいんだがな……」

 

 限度がある、とギンは溜息を吐いた。

 

「ギンくん、あーん」

「……いやあの」

「あーん」

 

 手術後、ギンはすぐに意識を取り戻した。だが、目を覚ましたギンを迎えたのは看病地獄だった。

 

「私、ギンくんがいなくなるかもしれないって考えて、すごく不安になったから」

「ああ……悪い」

「だからこれからは、しのぶにも遠慮せずにがんがん行こうと思うの」

「は?」

「はい、私の手作りのおかゆ!食べさせてあげるから、口を開けて!」

「……勘弁してほしいんだが。拒否権は?」

「ダメ!」

 

 ずっとこんな調子である。鬼殺隊の男性隊士の多くが憧れるカナエが、有無を言わさずに世話を焼いてくれる。善逸が見れば目を血走らせて飛び掛かってくるような光景だろうと、かゆを食べながらぼんやりとギンは思った。

 

「なほ、きよ、すみ……」

 

 こうなったら頼れるのは蝶屋敷三人娘である。助けを求める様な目でさっきからずっと部屋の外から覗き込んでいる娘達を見てみるが……。

 

「カナエさん、頑張ってる!」

「しのぶさんも負けていられないね」

「どっちを応援したらいいのかな?迷っちゃうなぁ。でもどっちも応援したい!」

「「うん!」」

 

 一体何があったんだ。俺が眠っている間に。

 

 ギンは常闇の中にいた間の記憶がほとんどない。覚えているのは自分の名前を呼んでいたしのぶの声が聞こえていた、ということだけである。目が覚めて辺りを見渡せばそこは常闇ではなく蝶屋敷で、おそらくずっと付きっ切りで看病していたであろうしのぶが、ベッドの傍の椅子で居眠りをしていたのである。

 

 そして目を覚ましたしのぶは――

 

「せ、先生。常闇の中で、私の言葉、聞こえていたんですか?」

「ああ。俺の名前を呼んでくれたんだろ?おかげで自分の名前を思い出せたんだ。ありがとな、しのぶ」

「そうですけど!」

「なんでキレてんだ」

「その……他にも私の言葉、聞こえてました?」

「…………悪い。覚えてない」

「……!ならいいです!なんでもないです!忘れているなら絶対に思い出さないでください!」

「え?」

 

 なんでトマトみたいに顔真っ赤にさせてるんだ。

 

「なんでもないんです!いいですね!これからしばらくの間絶対安静ですから!」

 

 しのぶは怒ったように言うが、その口調はどこか嬉しそうで、ギンはますます困惑するばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、蝶屋敷から抜け出してきたのかい」

 

 耀哉は楽しそうにくつくつと笑った。

 

「あのままずっと看護されてたら、俺の身が持たないんだよ。察しろ」

 

 積極的に看病をしてくれるしのぶとカナエ。本人はあまり自覚はないが、ギンは文字通り命に係わる重傷を負っていた。失血死一歩手前まで血を失い、全身を何十針も縫合する大怪我だ。普通の隊士なら今頃動けずに痛みでベッドで喘いでいる頃だが、光酒を人体実験で体内によく入れていたギンは回復が常人より数倍早かった。鬼ほどの回復力ではないにせよ、歩く分には支障はない。

 

 だが、二カ月もの間行方不明で心配をかけた反動か、特にしのぶはギンが怪我を負ったまま消える姿を目撃している。

 二人の献身的な看病はギンの胃をキリキリと痛めた。蝶屋敷の男性隊員からの嫉妬の目が尋常じゃなく痛いからである。

 胡蝶姉妹は美人である。器量が良く朗らかで優しい胡蝶カナエ。気は強いが傷ついた患者を優しく手当する胡蝶しのぶ。一部からは女神と崇められており、高嶺の花として男達の心を掴んでいる彼女達の好意を受け続ける男。

 

 女の子大好き美人大好き我妻善逸が見れば、激昂するのは当たり前であった。

 

「ギンさん、目が覚めたって!見舞いに来た……はぁぁぁぁぁぁあ!?てめぇコラギン!なんでしのぶさんやカナエさんにそんなに丁寧に看病されてんだよ!ふざけんな!こっちはずっと煉獄さんの地獄の鍛練で死ぬような目に遭ってたのに、心配して見に来ればなんだその幸せ天国はぁぁぁ!しのぶさん達に身体拭かれたり!ご飯あーんしてもらったりしたんだろこの野郎!俺は地獄にいたのになんでそんな幸せそうなんだ貴様ァァァァァ!」

「善逸やめろ!!しのぶさんとカナエさんからはずっと幸せそうな匂いがしてるんだ、邪魔するのはよくないだろ!!」

「ふざけるな堅物デコ真面目!鬼殺隊はきゃっきゃウフフする場所じゃねーってことをこの男に叩き込まなきゃいけねーんだよぉぉぉ!!」

「相手は"蟲柱"だ!いくら仲がいいからってギンさんに失礼だろ!」

「いーもんねもうすぐ俺"鳴柱"になれるからね!立場的には同じになるんだから今叩き斬っても問題ないだろ!」

「あるに決まってるだろ!いいから落ち着け!」

 

 嫉妬に狂う弟分のタンポポ頭。それを必死に羽交い絞めにして止める炭治郎。はっきり言ってカオスであった。

 

「べ、別に身体を拭いてもあそこを見た訳じゃないから……!」

「そ、そうです!あくまで看病なんですから!先生にそんな邪な考え……!」

 

 カナエとしのぶが顔を真っ赤にさせてそんなことを言うため、善逸は嫉妬のあまりその場で気絶した。

 

 こんな風に、ギンが戻ってきたと聞いて見舞いに何人もの友人達が病室に訪れてきたのだが、カナエやしのぶの様子を見て嫉妬に狂う者、胡蝶姉妹との関係を邪推する者、茶化して笑う音柱や南無阿弥陀仏いつ祝言をあげるのだと喜びの涙を流す岩柱、ギンはどっちが好きなんだと空気が読めないド天然な兄弟子の言葉に、ギンは「ここにいたら俺の心が死ぬ」と確信し、蝶屋敷から脱走した。要は(チキン)である。

 

「それで、一体何があったんだい?二カ月もの間消えたかと思えば、蝶屋敷に突然現れたと聞いて驚いたよ」

 

 改めて、耀哉はギンに問いかけた。あの時一体何があったのか。

 

「右目の常闇が出てきちまったんだ。おそらく、光酒を呑み過ぎた副作用かは分からないが……。暗闇の中で……何かと会ったような気がする」

「何かと?」

「……何か言われたような気がするが、思い出せないんだ。悪い」

 

 "常闇"は、取り込んだ者の記憶を喰う蟲である。瞼の裏と繋がる空間でもあり、しのぶの叫びでギリギリ自分のことを思い出せた。

 

「常闇の中は、どうやら蟲の時間が流れていたようなんだ。俺は常闇の中をひたすら歩いていたが……体感的には二刻程度だったはずなのに、目を覚ませば現世では二カ月が経っていた」

 

 あの闇の中にずっと彷徨っていれば、銀蟲に喰われるか、記憶を無くして常闇に喰われていたか。いずれにせよ、二カ月で現世に出ることができたのは幸運としか言いようがなかった。

 

「生物の寿命は種によってそれぞれ違うが、その生涯で脈打つ回数はほぼ同じだと言われている。体内に流れる時間の密度は、皆違うってことだ。あの暗闇の中の一刻の時間は現世では一カ月だった、ってことだろう」

「……蟲は、どこまでも摩訶不思議だね」

「ああ」

「杏寿郎の事は、聞いたかい」

「炭治郎から最後の言葉を聞いて、昨日炎屋敷に顔を出してきた。槇寿郎さんと瑠火さん、千寿朗と一緒に墓参りに行ってきたよ。俺が常闇の中を歩いている間に、葬儀も終わっちまってた」

 

 ギンはどこか寂しげに空を眺めながらそう言った。

 

 鬼殺隊は、殉職者が多い。どんなに鍛練を積んでも、鬼と戦う以上必ず生きて帰れる保証はない。そういう仕事だった。だから同僚が必ずしも明日生きているとは限らない。頭では分かっていた。

 

「さすがに、堪える」

 

 鬼は人を喰う。故に、死体が必ず家族の許に帰れるとは限らない。そう考えれば、錆兎や杏寿郎はまだ運がよかった方なのかもしれない。

 だが、杏寿郎が眠っているという墓を見た時、申し訳なさと自分が生き残ってしまった罪悪感でいっぱいになってしまう。

 

 杏寿郎の両親である槇寿郎と瑠火は、ギンを責めようとはしなかった。

 

「上弦の壱と戦い、よく生き延びた。杏寿郎と共に、よく戦った。俺はそれを誇りに思う」

「杏寿郎は使命を果たしました。ギン、あなたも死の際まで戦ったと聞いています。よく頑張りましたね」

 

 二人は決して、ギンを責めなかった。本音を言うと、ギンは少しでも恨み言を自分にぶつけて欲しいと思っていた。

 

 杏寿郎が死んだのは、俺が弱かったせいなのに。杏寿郎が命を落としたのに、あの鬼を殺しきることができなかったのは俺の責任だったのに。

 

 そんな泣きそうな、それでも本当に自分が生き残ってくれたことを二人が喜んでいると分かってしまえば――自分の弱さを憎むしかない。

 

 兄弟を失うのは初めてではない。

 だが、この痛みは慣れないなと、改めて胸の中の痛みを感じた。

 

 ――錆兎、杏寿郎。

 

 目を閉じれば、すぐに二人の顔が思い浮かぶ。同じ釜の飯を喰らい、同じ師の下で学んだ。戦い方は違えど、互いを誇りに思っていた。

 

「――ギン」

 

 心配そうに自分の名を呼ぶ耀哉に、ギンは首を振った。恐らく、数年前の荒れていた自分に戻るのではないかと危惧していたのだろう。最終選別戦で錆兎を喪い、自暴自棄になっていた頃の自分に。

 

「大丈夫だ耀哉。己の弱さを憎めど、立ち止まることはしないさ。そういうことをしても意味はないって、数年前義勇と戦って教えられたからな。それに、杏寿郎や錆兎は死んだわけじゃない。還っただけだ。会えなくなっただけだ」

「会えなくなっただけ?」

「命は回帰しない。けれど、還るんだ。"理"との"約束"の中に」

「"約束"……」

「……だが、きっちりケジメはつけにゃ。黒死牟は、上弦の壱は俺が殺す」

「……復讐かい?」

「違う。あの時トドメを刺し損なったのは俺の責任だ。俺に復讐だなんだは合わない」

 

 あの時。

 黒死牟に逃げられる瞬間、もっと早ければ頸を斬り落とせた。

 日蝕みの核を使ってまで逃げられてしまい、杏寿郎は命を落とした。

 

「割に合わないんだよ。杏寿郎が死んで、あいつが生きているってのは」

 

 杏寿郎の死を無駄にしないために、あの夜の戦いを決して無駄にしないために。

 

「青い彼岸花は見つけた。次に見つけるのが上弦の壱になっただけだ」

「……気を付けるんだよ、ギン。鬼舞辻はどうやったか分からないが、君が青い彼岸花を手に入れたことを知っている。今後、君を狙い続けるだろう」

「分かってる。俺ももっと強くならなきゃな」

 

 そうしないと、大事な物をもっと取りこぼしてしまう。

 

「強くなって、幸せに生きよう、ギン。そして未来の子供達が幸せに生きていけるように戦おう。僕は君達みたいに戦えないが、それでも知恵の限りを尽くすよ」

「助かるよ、耀哉」

 

 耀哉がそっと伸ばしてきた右手を、ギンはしっかり握って握手をする。

 

「もう行くのかい?ギン」

 

 名残惜しそうに手を放しながら、耀哉は静かに問いかけた。

 

「ああ。青い彼岸花をなんとかするために、珠世さんの所に行かなきゃいけないからな。またなんかあったら、連絡してくれ」

「分かった、そうするよ。でも、今度ここに来る時は蝶屋敷から抜け出さないように。今頃しのぶ達が、カンカンになって君を探しているだろうから」

「うわ……憂鬱だ」

 

 はぁ、と溜息を吐きながら、ギンはよっこらしょと縁側を立ちあがる。

 

「ま、精々気張るさ。じゃあな、耀哉」

「またね、ギン。……そうそう」

「ん?」

 

 まだ何か言うことがあるのか?疑問符を浮かべながら後ろを振り返ると、耀哉はそっと微笑みながら言った。

 

 

「また君に会えてよかった」

 

 

「――ああ。親友」

 

 

 



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IF「その道の果て」

 

 ギンさんが行方不明になって半年が経った。

 

 上弦の壱との戦いで、"炎柱"煉獄杏寿郎さんは死に、そして敵の血鬼術で、ギンさんは上弦の壱に巻き込まれる形でどこかに連れ去られてしまった。

 

 隠や他の柱達の懸命な捜索に関わらず、ギンさんが見つかることはなかった。

 死体も、ギンさんの刀も、どこにも見つからなかった。

 

「しのぶ。君をギンの後任の"蟲柱"に任命する。―――受けてくれるかな」

 

 そして、半年が経ってついにギンさんの捜索は完全に打ち切られ――

 

「御意」

 

 私こと、胡蝶しのぶは、正式に"蟲柱"になった。

 

 

 

 

 ―――ま、こんな名で良ければくれてやるよ。お前が一人前になったらな。

 

 

 こんな名前、欲しくない。貴方が傍にいる、それだけで私は十分だったのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しのぶ……」

「カナエ姉さん」

「大丈夫?」

「うん……」

 

 瞼の裏で、ギンさんが見つけたと思われる"青い彼岸花"と、上弦の壱の鬼の腕から採取した血液で、『鬼を人に戻す薬』を開発している。

 

 ギンさんが様々な薬や道具を保管していた蔵には、ギンさんの遺書が置いてあった。自分がいつでも死んでもいいようにと、私に手紙を遺していた。

 そこには、この蔵を自由に使っていいということ。

 青い彼岸花の発生条件。

 薬を開発する時は、珠世と言う鬼を頼れと書かれていた。

 

「姉さんこそ、平気?」

「……そうね。時々辛いけど、落ち込んでいたらギン君に笑われちゃうから」

「姉さんを泣かせるなんて、ほんととんでもないバカ師匠よね」

「ええ。私の妹を泣かせるなんて、とんでもないギンくんよ」

 

 私達はそう言ってくすくすと笑った。

 

「しのぶの髪の毛も、随分伸びたわね」

「うん」

「そうだ!久しぶりにお姉ちゃんが結ってあげるわ」

「いいの?じゃあ、お願いしようかしら。短いのに慣れていたから、手入れが大変だったから」

「ふふ、お姉ちゃんに任せなさい。……懐かしいわね。昔はこうして、しのぶの髪を手入れしてあげたわ」

「そうね」

 

 でも、昔のままじゃ、いられないから。

 

 私達は鬼狩りになって、戦ってきた。ギンさんがいなくなっても、私達の役目は変わらない。

 

「……ギンくんにも見せてあげたかったなぁ」

「何を?」

「髪が長くなったしのぶ。きっと惚れ直すわ」

「……どうかしら。あの人がそんなこと言うなんて、想像できないなぁ」

 

 あれから、随分髪が伸びた。ギンさんが消えてから、私は髪を伸ばすようにした。

 

 願掛けだ。

 

 この髪を切る時は――ギンさんを見つけた時か、この戦いを終わらせた時だけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間は経っても、私達姉妹の心の傷は癒えなかった。

 蝶屋敷で働いてる時。薬を調合している時。御飯を食べる時。

 

 私達の心の隅には、いつもギンさんの影があった。どこからか、蟲煙草の匂いがした。

 

 何気ない会話をしている時も「ここにギンさんがいたらな」って、何度も口に出してしまう。

 

 信じたかった。ギンさんが死ぬわけないって。

 

 好きな人や大切な人は漠然と、明日も明後日も生きている気がする。

 ずっと傍にいてくれると思っている。

 

 でも、それはただの願望でしかなくて。

 

「絶対だよ」と約束されたものではないのに。

 

 どうしてそんなことを忘れてしまったのだろう。

 

 鬼狩りとして働いている以上、誰かが死ぬのは日常茶飯事なのに。

 

 大切な人は、私達の傍から消えていってしまう。

 

 でも、そう思いたくなくて。死んでしまったと、信じたくなくて。いつかまた、「ただいま」と言って帰ってくるんだと、そう思い込みたくて。

 

 

 

 夜寝ようと布団の上に横になると、いつもいつも、ギンさんのことを思い出して、私は泣いた。

 私は、いつの間にこんなに弱くなってしまったんだろう。

 

 私は蟲柱。鹿神ギンの最期の弟子。

 

 私がしっかりしなくて、どうするのだと、私は仕事に励んだ。

 

 ギンさんのことを、忘れてしまいたくて。動いていないと、すぐにギンさんのことを思い出して、何もできなくなってしまいそうで。

 哀しくて悲しくて、足が動かなくなってしまいそうで。

 

 私はただひたすら、走り続けることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 禰豆子さんが刀鍛冶の里で太陽を克服したという報せが届いたのは、ギンさんが死んで約半年と少し。

 

 

 私は、鬼を人に戻す薬を完成させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁー……!はぁー……!」

「……しのぶ」

「まだです!悲鳴嶋さん、もう一度!」

 

 柱稽古。

 

 柱より下の階級の者が柱を順番に巡り稽古をつけてもらえるという。基本的に柱は忙しく、"継子"以外に稽古をつけなかった。

 だが、禰豆子が太陽を克服して以来、鬼の出没がぴたりと止まった。

 

 禰豆子を巡って、これまで以上に苛烈で大きな戦いが始まる。

 嵐の前の静けさをこれ幸いと、鬼殺隊は大規模な合同訓練を開始したのだ。

 

「しのぶ、そろそろ休め……」

 

 悲鳴嶋の下へ訪れた胡蝶しのぶが、心身ともに疲弊しきっているのは、盲目の悲鳴嶋でもすぐに分かった。

 カラスからの話によれば、既に他の柱の下で訓練を終え、そして今はカナエとそして悲鳴嶋の下で毎日のように稽古をしていると。

 

「まだです、悲鳴嶋さん。私はまだ、痣が出せていない……!」 

 

 ―――痣。

 

 柱や、ある一定以上の実力者が"光酒"を摂取すると、体温や心拍数が飛躍的に上がり、体のどこかに痣が浮き出る。

 だが、産屋敷一族によって保管されていた書物を確認すると、戦国時代に生まれた"始まりの呼吸の剣士達"は、光酒を使わずとも痣を出していたことが発覚。

 

 事実、刀鍛冶の里で上弦の鬼と戦闘した竈門炭治郎、甘露寺蜜璃、時透無一郎の三名は光酒を摂取していないにも関わらず、光酒を呑んだ時と同等か、それ以上の身体能力を発揮し上弦の鬼を討伐することに成功した。

 

 今回の柱稽古の目的は、その痣を出せるようにすることが目的でもある。

 

「――しのぶ」

「ッ」

「寝ていないのだろう。少し休め」

 

 ギンが死に、しのぶは変わった。それは、鬼殺隊で最も強い悲鳴嶋から見ても明らかだった。

 以前よりずっと強くなった。

 だが、同時に危うかった。

 柱として、他の隊士の手本となるべく、以前までのギンの仕事をそれ以上にこなしている。

 

 だが、しのぶの奥底に良くない何かが蓄積されていることを、悲鳴嶋は見抜いていた。

 

 悲鳴嶋は未だに分からなくなる。あの日、カナエ、そしてしのぶ。この姉妹を育手に紹介し、鬼殺の剣士の道を進ませてしまったのは。

 

 

 ――鬼も人も蟲も、それぞれがただ、あるようにあるだけだ。

 

 

 しのぶの心の捌け口が、どこにもない。

 鬼への怒りも、愛した男が消えてしまった悲しみも。しのぶは溜め込んでしまっている。あの日、悲鳴嶋に燃えるような怒りや憎しみをぶつけてきた少女はもういない。

 柱としての立場や責任感、ギンの教えがその心に蓋をしてしまっている。

 

 このままでは、いつ暴発するか分からない。

 

 産屋敷耀哉やカナエもしのぶの危うさに気付いていたようだが、どうすることもできなかった。

 

「大丈夫です」

 

 そう言って気丈に笑う少女は、どこまでも痛々しかった。

 

 

「悲鳴嶋さん……アンタに感謝していいのか、分からなくなる時がある」

 

 ギンがしのぶを継子として迎えた後――柱合会議の後、ギンは悲鳴嶋にそう言った。

 

 悲鳴嶋行冥にとってギンは、鬼殺隊で産屋敷耀哉の次にもっとも付き合いが長い男だった。

 悲鳴嶋が十九の時、そして鹿神ギンは十四の時、同じ日に柱に就任した。

 

 強く、そして優しい男だった。

 

「しのぶとカナエを鬼殺隊の道に入れたのはアンタだって聞いてな」

「ああ……私は今でも思う。あの姉妹を鬼殺隊に入れるべきだったのかどうか……だが、仇を討つことを願う少女と、鬼を哀れむ少女の道を止める権利は、私にはなかったのだ」

「だとしても、報われないな」

「ああ……可哀想だ……普通の娘として、幸せを見つける道もあっただろうに」

「なまじ実力が伴っている分、下手に止める理由がないのがな……」

 

 ギンは、しのぶの育て方に心を悩ませていた。

 

「なあ悲鳴嶋さん、あいつに幸せに生きて欲しいと願うのはやっぱり俺の我儘だと思うか?」

「思わない。私もあの娘達が戦いの場に赴かずに済めばと何度思ったか分からぬ。だから、私からも頼もう、ギン……しのぶを、どうか導いてやってくれ……」

「……分かったよ」

 

 ギンはそう言って頷いた。

 

「幸い、医学と薬学の才能はあるんだよアイツ。だから俺は、娘がいつか刀を置いて、普通の世界で生きていけるようになった時の為に、食って生きていけるだけの力と技術を教え込む。そうすれば、姉妹と共に小さな病院を開くことぐらいできるだろうし。けれど、悲鳴嶋さん」

「どうした……?」

 

「もし俺が道半ばに倒れたら、あいつを頼むよ」

 

 

「しのぶ……生き急ぐな……」

「……無理です」

 

 視線を地面に落としながら、しのぶは呻くように拒絶した。

 

「ギンさんがいなくなって、私が蟲柱になったの。でも、蟲柱になってやっと分かった。あの人の背中がどれだけ遠いか。私はあの人ほど強くない。だから、少しでも……」

 

 

「しのぶ。ギンの願いは、お前に幸せになってもらいたいだけだ」

 

「……私の幸せは、もうどこにもありません」

「何故だ」

 

「……私は、ギンさんを慕っていました。大切な人でした!でも、ギンさんが死んで、世界は何事もなかったように回っていく!私は、ギンさんの代わりに、たくさんの鬼を殺さなきゃいけない!それが私が、あの人の弟子としてできる最後のことだから!」

「本当にそれが最後のことなのか?」

「そうですよ!だから私はもっと強く――」

「カナエがいるだろう」

「!」

 

 感情に任せて叫んでいたしのぶの言葉が詰まったように止まる。

 

「ギンはお前を苦しめる為に、"蟲柱"の名を託したのではない。ギンの願いを、履き違えてはならない。お前の役目は、死ぬことではないはずだ。お前にはまだ役目がある。それとも、カナエとした"約束"とやらは嘘だったのか?」

 

 ――私達と同じ想いを、他の人にはさせない。

 

「カナエに、お前を喪った悲しみを味あわせるのか?」

 

 悲鳴嶋がそう言うと、しのぶはまるで憑き物が落ちたように目を見開いて、そこからぽろぽろと大粒の涙を零した。

 

 

「しのぶ、生き急ぐな。死に急ぐな。幸い、ここには私達以外誰もいない。涙はここで全て流して置いていけ。お前の孤独や苦しみを、私にも分けろ。私が半分、それを担いで持っていこう」

 

 

「う”ぅああ”ぁぁ……」

 

 

 昔、悲鳴嶋がしのぶと出会った時は、自分の背丈の半分ほどしかなかった。

 今は大きく、美しく、強く成長した。

 

 かつてのようにしのぶの頭に、悲鳴嶋が大きな手を置いて幼子のように撫でると、しのぶはまるで今まで堪えていた物が決壊したかのように大泣きした。

 

「よく頑張ったな……」

 

 

 行冥は、今までしのぶに言いたかったことを、やっと言えた気がした。

 

 

 

 

 

 その日の夜、しのぶは泣き疲れたかのようにすぐに眠りに落ちた。

 今までは、眠りが浅く夜中に何度も目が覚めてしまったけれど。

 

 その日は朝まで、しのぶは眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして戦いは、突如始まった。

 

 

 無限城。上下左右が狂った、血鬼術で創られた異空間に鬼殺隊は放り込まれた。

 待ち構えていたように湧き出る鬼達。そして、上弦の鬼。

 

 異空間のあちこちに飛ばされた鬼殺隊の面々は、ある者は戦い、ある者は命を落としていく。

 

 

 しのぶは、その異空間を静かに歩いていた。

 

 ―――誘われている。

 

 ここに落とされてから、まだ一匹の鬼とも遭遇していない。鬼の根城だと言うのに、鬼が出てくる気配がまったくと言っていいほどしなかった。

 

「ここは――」

 

 罠だということは分かっている。それでも進まなきゃいけない。

 

 しのぶはそのまま、近くの扉に手を掛け、開く。

 

 

「―――森?」

 

 

 ここまで歩いてきた空間は薄暗い部屋が連なるような場所だった。

 だが、この部屋は陽の下にいるかのような暖かさがあった。鬼にとって太陽の光は弱点のはずなのに。

 そして、屋内だったはずのこの場所は、地面は苔に覆われ、天に届くような大樹が幾重にも生えた場所だった。

 

 

「この匂い――煙草?」

 

 草木の臭いに混じって、煙草のような煙が漂っている。

 しのぶはいつでも刀を抜けるよう、柄を握りながらゆっくりと大樹の間を進んでいく。

 神秘的な森だ。土と木々の匂いがする。本物だ。けれど、動物や鳥の気配は一切しない。

 もしかしたら私だけ別の空間に出てしまったかと思ったけれど、やはりここは鬼が創りだした血鬼術の中だ。

 いつ、鬼が飛び出してくるか分からない。

 警戒しながらしのぶが進んでいくと―――そいつはいた。

 

「!」

 

 いつでも動けるように、腰を低くして刀を構える。鬼の気配。

 それも、とても強い。

 

 後ろ姿しか見えない。髪は黒く、灰色の着物を身に纏っている。

 

 

 そして――敵が攻め込んできているのに余裕なのか、煙草を吸っていた。

 

 

「―――え?」

 

 

 その煙草の臭いは―――蟲煙草だった。

 

 あの人がいつも吸っていた、蟲除けの煙草。間違うはずがない。私もその匂いを、ずっと嗅いでいたから。

 

 

「ん?ああ、ようやく来たのか。まったく、いつまで待たせるんだよ」

 

 

 その男が振り返った時、しのぶは息を呑んだ。

 なんで、あの人と同じ顔で、同じ眼差しで――私の前に立っているの。

 

 髪は黒く、身体中に黒い痣が浮かび、腰に刀を吊り下げている。その刀も、見覚えがあった。

 大切な、あの人の日輪刀。

 

 

 

 

「ギン……さん?」

 

 

 

 見間違えるわけがない。あの人だ。私と姉さんにとって、この世で一番大切で、一番好きだった人。

 

 一瞬、自分がどこにいるかも忘れて、しのぶの心に歓喜の心があふれ出る。

 

 よかった、よかった!ギンさんが生きていた!

 

 だが、その男が目を開くと――しのぶの心は絶望に塗り替えられた。

 

 

 

 

 

「ギン?悪いが人違いだ。俺の名は"(たたり)"だ」

 

 

 

 常闇に覆われていたはずの右目は真っ赤な眼球が埋め込まれ―――

 

 

 左目は、「上弦」

 

 

 

 右目は、「弐」

 

 

 

 そう刻み込まれていた。

 

 

 

 

 

 

「ん?お前……誰だっけ?」

 

 

 

 

 

 

 しのぶの胸の奥底から、ぱきりと何かが割れた様な音が響いた。

 

 

 

 




お気に入り数が一万越えたので、IFのエンディングを書いてみました。書き終えてから「お気に入り1万で書く話じゃねえな」と思いましたが、ギンさん鬼化ルートはずっと書いてみたかったので後悔はしていません。


 改めまして、この小説を読んでくれて評価していただいた方々、お気に入り登録をしていただいた方々、そしてイラストをくれた方。本当にありがとうございます。

 息抜きに書いた小説がこんなに伸びるとは思いもしませんでした。これも皆さんのおかげです。
 感想や誤字報告、いつもありがとうございます。


 これからも頑張って書いていくのでよろしくお願いします。

 


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IF「羽化」

 ねえ、ギンさん。

 ギンさんは私の事、姉さんの事、どんなふうに思ってたの?

 

 ただの弟子?仕事の同僚?それとも、家族?

 

 私があなたの弟子になって、ずっとずっと、あなたの背中を追いかけてきた。

 

 けれどあなたの歩幅はとても大きくて。

 私がようやく一歩を歩けても、あなたは三歩先に走ってしまう。

 

 私の願いは、姉さんの願いは、あなたの隣に立つことだけなのに。

 

 

 

 

 神様、私達はどれだけ奪われ続ければいいのですか?

 

 

 

 

 

 

 

"森の呼吸 壱ノ型 森羅万象"

 

 

 ギンは、鬼になりながらも生前の"森の呼吸"を使うことができていた。その切れ味は、まともに喰らえば一瞬で胴体と首が泣き別れする一撃だった。

 蟲師、そして医者として活動していたギンだが、その剣術の腕前は柱の中でも上位に君臨する。本来なら、しのぶの実力では互角に戦うことすらできない。

 

 しかし、しのぶは蟲柱である鹿神ギンの弟子。例え鬼となり、どれほど人間から掛け離れた身体能力を得て威力が上がったとしても、しのぶはその剣筋を1日たりとも忘れたことはなかった。

 

"蟲の呼吸 飛蝗(ひこう)ノ舞 孤独相(こどくそう)"

 

 呼吸によって脚に力を溜めこみ、しのぶはギン――いや、"上弦の弐"祟の斬撃を回避した。

 

「ふむ。凄まじい脚力だな」

 

 

 感心するように言う祟に、しのぶはまた心がずきりと痛む。

 

 ――この技は、あなたが教えてくれたんですよ、先生。

 

 

 無限城。

 

 しのぶが上弦の弐と遭遇したその場所は、異空間と言えど屋内。だが、その場所は深い森のようだった。

 土の臭いはしない。けれど床は雑草や苔で覆われ、今まで見たことがないほどの大樹が所狭しと立ち並んでいた。

 

 

 大樹の間を縫うように走り抜け、剣を交える。

 

 

"蟲の呼吸 蝶ノ舞 戯れ"

 

 

"森の呼吸 弐ノ型 剣戟森々"

 

 

 空中を飛び交い、高速の突きを互いに交える。お互いの剣先が触れ合うたびに激しい音が響き、火花が飛び交った。

 

 この少女……俺の技を知っている?

 

 祟は首を傾げながら、少女に向けて刀を振るう。しかし、どの攻撃も紙一重で回避される。自分の剣筋を熟知しているかのような動きだった。

 少女はまるで天狗のように、大樹の枝から枝へと飛び渡り、自分の死角へ回り込もうと動いている。

 鬼舞辻の情報によると、この"蟲柱"は毒を使うんだったか。

 頭の中にある情報を整理する。上弦の鬼には鬼舞辻から血を通して、鬼殺隊の柱の情報を一通り渡されていた。

 それによるとこの少女は、刀を使って藤の花の毒を鬼に叩き込む。突きを主体にした戦い方を特徴だったが、聞いていたよりずっと早く鋭い。自分の攻撃も尽く避けられる。

 

 

 

 ――もっと速度を上げるか。

 

 

 祟は樹の幹に足をかけ、大樹が揺れるほど蹴りつけてしのぶに肉薄する。

 

 

「――速っ」

 

 

"森の呼吸 肆ノ型 山犬"

 

 

 一撃さえ当たればいい。この少女は小柄だ。少しでも出血させれば、すぐにそれが決定打になる。この足場が不安定になる深い森を駆け回れる身軽さ、俊敏さは賞賛に値するが、少しでも傷を負った状態で走り回ればやがてすぐに失血で動けなくなる。

 

 祟は鬼の脚力を最大限に活かし、少女に弐連続の斬撃を叩き込む。

 

「くっ、蟲の呼吸――」

 

 想像以上の速さにしのぶは咄嗟に技を繰り出そうとするが――

 

「遅い」

 

 祟の方が、速い。

 

 しのぶの長い髪をまとめていた、蝶の髪飾りが、粉々に砕けて散った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「がほっ、げほっ」

 

 しのぶは祟の攻撃を避けきることができず、左腕に大きな切創が刻まれた。ギンの"森の呼吸"肆ノ型は高速の弐連撃。威力よりも速度を重視した攻撃は、容易くしのぶの左腕の腱を切り裂いた。

 そしてそのまましのぶは空中に身を投げ出され、受け身も取れずに地面に叩き付けられる。

 

 ―――あ、髪が……

 

 落下していく最中、しのぶが願掛けで伸ばしていた長い黒髪がばっさりと斬られたのが見えた。姉とおそろいの蝶の羽を模した髪飾りが、粉々に砕け散った。

 

 

「――ギンさ……」

 

 

 私は不運なだけなのだろうか。それともギンさんが不運なのだろうか?それとも、単に私達二人とも運がなかっただけなのだろうか。

 わからない。

 わからない。

 わからない。

 地面が苔で覆われていたせいか、かなり高い位置から落ちたというのに、骨は折れていなかったようだ。

 仰向けに墜落したしのぶは、大樹の木の葉で覆われた天井を、ぼんやりと眺めた。

 

 左腕――腱を斬られた。もう、左腕は使えない。

 

 でも、まだ足は動く。なのに……動きたくなかった。

 

「……なんだ、これでもう終わりか?」

 

 祟は地面に降り立ち、地に倒れた少女の傍にそっと歩み寄る。

 自分の目には、少女の戦意が完全に消失しているように見えた。戦うことを諦めた目。絶望に染まった目。諦観で動かなくなった人形のような目。

 これでもう決着なのだろうか。鬼狩りと戦うのは初めてだが、こんなに楽に終わるとは思わなかった。

 

「思ったより呆気なかったな。鬼狩りの柱がこの程度なら、後の連中も大分楽に――」

 

 祟の足が止まる。

 

 倒れ伏した少女は、自分を観ていた。まるで愛しい男を見つけたかのような、慈愛の色が見て取れた。

 

「……どうしてそんな眼で俺を見る?鬼狩り」

「……」

 

 祟の問い掛けに、しのぶは答えない。

 

「……お前はなんだ?」

 

 先ほど、自分が少女の髪を斬った。絹のように整った美しく長い髪を、斬った。だがどうしてか、髪が先ほどより短くなった少女は――どこか既視感があった。 

 

 ギン―――祟の目には、自分と戦っているこの鬼狩りが、どうも実力を発揮できていないように思えた。

 祟は、自分が鬼になる前の記憶がない。

 別にそれ自体問題ない。忘れてしまっているのなら、大した記憶でもないのだろうと祟は考えていた。

 

 だが、目の前にいるこの少女を見ていると、無性に心がざわつく。

 

 最初に相対した時はこの少女に何の感情も抱かなかったのに。髪が短くなった途端、胸が痛い。年端もいかないこの少女を見ていると、何故だろうか。今まで鬼になってから、凪いでいた水面に重く大きな石を投げいれられたように、心が波立つ。

 鬼舞辻無惨からは、鬼狩りは自分をずっと追いかけ続ける異常者の集まりだと聞かされていた。

 

 だが、この少女は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――先生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ」

 

 

 

 今何か、大切なことを思い出しそうな……俺の、かけがえのない、大切なことだったような。

 どうも記憶があやふやではっきりしない。

 少女の目尻は、涙が溜まっている。それを見ていると、なぜか心のどこかがざわめく。心のどこかが揺れ動く。

 曖昧な記憶の海で、何かが波立つ気がした。

 

 

「俺を哀れんでいるのか、お前」

 

 

 心の中に生まれた迷い。どうしてそんな物が生まれてしまったのか、分からなくて、どうしてか目の前の少女がその答えを持っているような気がした俺は、しのぶに問いかけた。

 

 ……しのぶ?一体誰の事だ?この少女の名前か?

 ――初めて会ったはずなのに。俺はこの少女を知っている?

 

「何を同情しているのか知らんが、そのままだと死ぬぞ」

 

 少女は何も答えない。ただ小さく浅い呼吸を繰り返して、刀を握ったまま動こうとしなかった。

 ……まさか?

 

「……お前、死ぬ気か?」

 

 

 沈黙。

 けれど、少女は静かに笑った。

 

 

 それが何よりの答えだった。

 

 

「―――え?」

 

 

 目が熱い。

 何かが俺の頬を濡らしている。

 

 祟はそっと、自分の頬に手を当てて、それが自分の涙だと初めて気が付いた。

 

 感じたこともない感情に、祟は戸惑った。どうしてこんなに胸が苦しい。どうしてこんなに不愉快な気分になる?

 

 俺は上弦の弐、祟。

 

 人間は敵だ。森を拓き、土地を荒らし、獣を殺す。

 

 鬼になってからずっと聞こえる。

 

 人間どもに食い荒らされる森の悲鳴が。生物の声が。

 そうだ、俺がここに生まれたのは森を守る為だ。それが俺の根幹だった。原初の記憶。自分の使命。

 その為に人間を殺す。その内鬼舞辻も殺す。その為に人を喰って力を着けた。

 

 なのにこの女は――俺より圧倒的に弱い、猗窩座の言い方を借りるなら弱者だ。その弱者を見ていると――こんなにも胸が、痛くなる。

 

 

 

「もういい。俺の前から消えてくれ」

 

 

 

 この女を殺せば、この不愉快な感情も消える。涙も止まる。

 祟は刀の先を地面に向け、突き刺すようにしのぶに振り下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンさん、ごめんなさい。

 

 あなたは私に生きろと言ったけど。私は、あなたがいない世界で生きたいと思えなかった。ギンさんが消えてから、何度その後を追おうと考えたか分からない。

 

「俺の願いは、お前が生きて幸せになることだ」

 

 けれど、死のうか生きようか悩むたびに、ギンさんの言葉が私の脳裏にチラつかせて、決意を鈍らせた。呪いのように私の手足を縛りつけて、自分に「生きるんだ」と言い聞かせた。

 

 でも、もう疲れた。

 

 どうせ死ぬなら――ギンさん、あなたに殺されたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――立て

 

 

 

 

 

 ギンさん――いや、違う。これは、幻影。私が勝手に見ている幻。

 だってギンさんは鬼になってしまって、今私の目の前にいる。今聞こえている声も、きっと幻聴だ。

 

 

 

 

 ――立て、しのぶ

 

 

 

 

 

 無理です、先生。私、先生が大好きだった。愛していた。ずっと一緒にいたかった。

 私にあなたは殺せない。私はあなたを殺したくない。

 あなたを殺す為に、私はあなたの弟子として、毒を創ったんじゃない。

 

 あなたを殺さなきゃいけない。頭では分かっている。師とはいえ、鬼に堕ちた物は鬼殺隊の敵、人類の敵。

 

 でも、頭で分かっていても心が嫌だと叫ぶの。

 今だって、手が震えて涙が溢れてしまいそうになる。

 

 あなたを殺したくない。

 

 もう、たくさんだ。

 

 どうしてこんなに辛いことをさせるの。

 

 どうしてこんなに苦しいの。

 

 

 世界はどこまでも残酷で――もし地獄があるのなら、この世はきっと地獄そのものなのだろう。

 

 

 だったらもう、私は――

 

 

「それでも立つんだ、しのぶ。お前の役目は、死ぬことじゃない」

 

 

 

 ――ドクン

 

 

 

「例え鬼の頸を斬れなくとも、鬼を滅すると誓ったんだろう。勝つと決めたんだろう」

 

 

 

 ――ドクン

 

 

 

 

「立て、"蟲柱"胡蝶しのぶ」

 

 

 

 

 ――ドクン

 

 

 

「お前ならやれる。生きろ、しのぶ。諦めるな。俺はお前に軟な鍛え方をしていない。大丈夫。お前なら勝てる。俺の分まで前を見て、生きろ」

 

 

 

 お前は、俺のたった一人の弟子なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、そうだった。ギンさんはいつもそう言って笑って、私に生きろって無責任に言う人だったね。

 私はそんなあなたのことが大嫌い(大好き)だったよ。

 

 

 

 

 

 少女の頬に、紫色の痣が浮き上がる。

 

 それはまるで、蝶の羽のような、美しい模様だった。



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IF「胡蝶の夢」


ギンくん。今、あなたの弟子が、最後のお別れを言いに行くわ。


 

 

 

 

 

 

 

 祟が刀をしのぶに突き刺そうとした瞬間、突如、しのぶは跳ね上がるように持っていた刀を、祟の刀に乱暴にぶつけた。

 自分が相対していた敵はとっくに心が折れていたと、そう思い込んでいた祟は目を見開く。

 力任せに弾かれた刀を離すことはなかったが、その隙を"蟲柱"胡蝶しのぶは見逃さない。すぐに体をはね起こし、祟から距離をとった。

 

「……」

 

 手がびりびりと痺れる。

 なんだ、あの少女に何があった?

 いくら呼吸法を使えるといっても、あの体格で、ここまで力を出せるはずは――

 

 刀を構えなおして、改めて少女に目を向ける。

 

 

「――なんだ、その痣は」

 

 

 祟は驚きで目を見開く。

 少女の頬に、痣が浮き上がっていた。

 紫色の、花に舞う蝶を象ったような痣だった。

 

 さらに、少女が持つ刀も変化していた。

 

 日輪刀――別名、色変わりの刀。

 

 毒を鬼に注入するための、特別な形をした日輪刀。その少女の刀が、紫色に変色した。それはまるで、自分たちが苦手とする、藤の花のような色彩。

 

 

「―――スゥゥゥゥ」

 

 

 呼吸音が変わった。

 

 

 祟は警戒して刀を構える。雰囲気も、少女の射貫くような強い意志が灯った目も、何もかもが違う。

 先ほどまで戦っていた、今にも死にそうな、羽を折られた蝶はここにはいない。

 

 

 今目の前にいるのはひょっとすれば――自分を殺しうる、敵。

 

 祟の目が、体中の細胞が叫んでいる。この少女が危険だと。

 

 

「――……行きます、先生」

 

 

 少女がそう言った瞬間、その姿が掻き消えた。

 

 

「!」

 

 

 右、いや真後ろ!

 

 

"蝶の呼吸"

 

 

 刀を振る、いや間に合わない。

 祟は咄嗟に、身体を捩る。その瞬間、自身の脇腹に何かが刺さるような痛みが走った。

 

「ガッ……!」

 

 自分の腹に目を落とすと、そこには自分の体を貫通した少女の切っ先が飛び出ている。

 刺されたのか、あの一瞬で!

 自身の目ですら追い切れぬほどの速度。一体、あの少女に何が――

 

 ――ドクン

 

「ガハッ……!」

 

 刺された個所から、言葉に表せないような激痛が全身に走る。藤の花の毒、聞いてはいたがこれほどか……!

 祟は自身の背後から刀を突きたてる少女の胴を斬ろうと、痛みをこらえて右腕を振るう。

 

 だが、少女はそれを見越していたのか、すぐに祟から刀を引き抜き、祟にさらに毒を叩き込もうと技を繰り出す。

 

 

 

"蝶の呼吸 壱ノ型 黒死蝶"

 

 

 

 額、脇腹、喉。

 

 連続で放たれる、急所への三連撃。

 それ自体は、ただの刀の突き。上弦の鬼である祟が、本来避けられない技ではない。

 

 ――だが、斬撃が、見えなければ。避けられる刀がなければ。反応することがなければ。

 

 いくら上弦の鬼と言えど、その毒に濡れた刃を避けられる術はなし。

 

 

 ―――なんだ。何をされた。刀で刺された? 

 

 

 痣が浮き出た者は、例外なくその身体能力を向上させる。それ自体は知っている。

 だが、刀が見えないとはどういうことだ!?一体どれほどの速さで……!

 

「その速さは、お前さんが手にしていい力じゃないぞ……!」

 

 一撃ずつ刀を自身の肉に刺し込まれる度に、藤の花の毒が体を蝕む。一滴一滴が、上弦の鬼の身体を腐らせる猛毒。

 いくら回復力が高い鬼の身体と言えど、このままでは――!

 

「離れろぉ!!」

 

 祟が刀を振るう。それを胡蝶しのぶは、余裕を見せながら軽々と回避する。ひらりと宙を舞うその姿は、儚い蝶を思わせる。小柄な体格は、少女にとっては決して弱点などではなく。

 しなやかで柔らかい身体と、小柄な身体、そして呼吸によって練り上げられた歩法は、上弦の鬼を追い詰める立派な武器へと昇華しつつある。

 

「ふぅー……!ふぅー……ごぶっ」

 

 胃の奥底から溢れる、大量の血。身体中の細胞が、今叩き込まれた毒を解毒しようともがいている。

 その拒絶反応のせいか、身体の内臓がぼろぼろに腐り、再生し、腐って、再生してを繰り返している。上弦の鬼でなければ、おそらくすぐにでも命を落としていたであろう猛毒と激痛をこらえながら、祟は今しがた自分を殺そうとしてきた少女を睨みつけた。

 

「……」

 

 そして、毒でもがいている祟を、胡蝶しのぶは冷ややかな目で見ていた。

 一切迷いがない。先ほどまで、刀を振るうことに、敵を倒すことに躊躇していた女はもうどこにもなく。

 そこにいたのは、鬼殺に命をささげた柱の剣士だ。

 

「人間がぁ……!」

 

 祟は、必要以上に人間や生き物を殺すことをよしとはしない。

 いつも食うのは、森を不必要に荒らす人間ばかり。土地を拓き、工場を建てようとする欲張りや、不必要に狩りに興じる異常者共。

 猗窩座や黒死牟のように、自らの剣技や力を誇示しようと戦うことが嫌いだった。

 

 だが、もうこの少女を殺さない理由は、もうどこにもない。

 

 俺は死ねない。

 この世の人間すべてを。森を壊す、自然を殺す醜い人間どもをすべて滅するまで。

 

 

 俺は、死ねない。

 

 

()()()―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンさんに刀を突き立てる度に、手の平に生々しく残酷な感触が残る。

 気持ち悪くて、痛くて、一刺しする度に自分の胸に冷たい刀が切り刻んでくる。吐き気がするほどの、不愉快な感触。

 

 それでも、やらなくちゃ。

 

 私は柱だから。鬼殺隊だから。自分の師匠が鬼に堕ちてしまったのなら。弟子である私が、ギンさんを殺さなければいけない。

 それが、私がギンさんにできるたったひとつの手向け。

 

 鬼を人に戻す薬は、二人分しか創ることができなかった。時間があればもっと創れたはずだけれど、時間があまりにも足りなかった。

 

 

 ――ごめんなさい、ギンさん。

 

 

 もっと時間があれば、あなたを人に戻す薬も作れたのかもしれないのに。

 

 こんな風にしかあなたを助けられない私を、許してください。

 

 

 罪悪感で胸を締め付けられるような感覚を覚えながら、自分で編み出した蝶の呼吸でギンさんの身体に毒の刀を突き刺していく。

 ギンさんが消えてしまって、蟲柱になった私は、新しい呼吸の型を編み出した。

 

 上弦の鬼――炭治郎君が教えてくれた、黒死牟と呼ばれる上弦の壱を倒すために編み出した新しい剣技。

 

 私は、鬼の頸を断つ腕力はない。けれど、突き刺す力と、足の速さだけは、誰にも負けなかった。

 

 

 

 

 

 ――なんだよ、蟲の呼吸って。もっといい名前なかったのか?蟲師の名にあやかるのはいいが、もっといい名があっただろうに。

 

 ――いいじゃない、ギンくん。私は好きだなぁ、しのぶの蟲の呼吸。

 

 ――だって、森の中には蟲が生きている。花の傍には蝶がいつもいる。私とギンくんの呼吸が、しのぶを強く、守ってくれるんだもの。

 

 ――……そう考えりゃ、悪くないか。姉の花と、俺の森が、しのぶを強くしてくれるなら。

 

 

 "森"と"蟲"と"花"は、互いを支え合い、共に生きている。

 森羅万象の、たくさんある山や森の中で。

 

 

 

 森が無き場所に花は咲かず、花が咲かない場所に蟲は生まれず、蟲がいない森に豊穣はあり得ない。

 

 

 

 

 森と花は蟲を育て。

 

 蛹はやがて、羽化を迎える。

 

 姉さん、ギンさん。

 

 

 二人の呼吸を混ぜて、編み出したこの"蝶の呼吸"で。

 

 

 ギンさん、あなたを倒します。

 

 

「血鬼術――」

 

 

 祟がこちらを睨みつけながら、血を吐きながら怨嗟を込めて叫ぶ。

 

 

 ―――来る。

 

 

 

 

 

"血鬼術 鎮守の森"

 

 

 

 

 祟が自身の刀を地面に突き刺した途端、部屋が、空気が、地面が、癇癪を起したように揺れる。

 そして、二人を取り囲んでいた大樹が、揺れだし、まるで意思を持っているかのように動き出す。半分は、祟の周りを守るように。そしてもう半分はしのぶに向かって鋭い木々の枝を生やしてくる。

 

「木々を操る血鬼術――!」

 

 しのぶの胴体を貫こうと、数えきれないほどの鋭い枝木が蠢き、向かってくる。

 それを紙一重で避けながら、しのぶは再び祟に毒を叩き込もうと肉薄する。

 

 

「迫ってくる枝、舞い落ちる木の葉一枚一枚が、すべてが鋭い刃だ!これを避け切れるか!?」

 

 

 祟の周りを分厚く太い大樹が盾のように取り囲む。しのぶの推察通り、祟の血鬼術は植物を意のままに操る能力。木々も、雑草も、全てが祟の手足と等しく操ることを可能とする。

 この異空間"無限城"に生えた大樹の森も、全て祟が生み出した植物たちだ。

 枝や木の幹は鋼鉄よりも硬く鋭く。

 木の葉はすべて鬼の身体さえバラバラに切り刻む刃。

 命を容易く奪う森の木々と、祟が生前ーー鬼狩りとして鍛え上げた剣術で、十二鬼月の、上弦の弐へと上り詰めた。

 

 森の中なら、祟は無敵だ。

 

 体術を極限にまで鍛え上げた猗窩座でさえ、この血鬼術には敵わなかった。

 

 もしこの血鬼術の中に生身の人間が飛び込めば、全身は木々に貫かれ、無数の木の葉が肉片になるまで敵を切り刻む。

 

 この茂みの中に飛び込めば、出血は免れない。

 

 人間は痛みに弱い。

 

 自分から死ぬこと、自分から痛みに飛び込むことはできない。できたとしても、必ず躊躇う。その躊躇いの時間が数秒あれば、俺の森の盾は完成する。

 仮に飛び込んでこようとも、木の葉や木々が、少女の体を刻んでいく。先ほど傷つけた出血、もしここに飛び込めば、すぐに動けなくなる

 この大樹が俺の身体を纏えば、例え鬼舞辻無惨でも、この盾を剥がして、俺を殺すことはできない。それほどに強固なのだ。その硬さは、上弦の壱の黒死牟のお墨付きだ。半分ほど切られかけたが。

 

 祟は確信していた。自分が勝つことを。

 

 仮に彼が、鹿神ギンとしての観察能力が、推察能力があれば。

 

 絶対に慢心などしなかっただろうに。人間を侮ることなど、しなかっただろうに。

 

 かつて人だった時、人間の醜さと、恐ろしさを知り、それを憎んだ。

 

 だがそれと同時に、人には優しさも、愛情も、願いも、執念も。そこから生まれる強さがあると、知っていたはずなのに。

 

 

 

"蝶の呼吸 弐ノ舞 飛蝗(ひこう)孤独相(こどくそう)"

 

 

 

 

「――――な!?」

 

 

 しのぶは呼吸で足に力を入れて、茂みの中に飛び込んだ。命を刈り取る森の中に。

 

 

 馬鹿かこいつは、死ぬ気か!?

 

 この少女は体格が小さい。それに、さっき自分が斬った左腕の傷だってある。出血だって少なくはない。

 刃の海に飛び込むようなものだ、あっという間に失血で死ぬ!

 

 

 

 

 

 

 

 ―――死なない。ギンさんの修業を思い出して。

 

 

 動く動作は最小に。身体を操れ。身体の中心から、指先まで。すべてを細心に。

 

 自分の身体がどう動くのか。どこまでが限界で、どこまでなら無茶ができるか。

 

 みっともなくてもいい。生きていれば勝ちなんだ。

 

 

 

 しのぶが茂みの中に飛び込む。

 瞬間、あたりに大量の血がばらまかれた。

 

 しかし、しのぶは生きていた。

 

「何!?」

 

 身体中を刻まれながら、痛みをものともせず祟の方へ飛び込んでくる。ものすごい勢いで。

 わずかに体を捩って、致命傷を回避している。静脈や動脈、太い血管や目を斬られないように避け続けている!

 祟は驚きで目を見開く。蝶のように軽やかに、しかし力強くこちらに走ってくる少女は、恐怖を飲み込みこちらを殺そうとしている。必要最低限、身体が斬られることを厭わず、致命傷以外の傷を負うことを覚悟してこちらを殺そうと走ってくる。

 

 ――なんでだ、どうしてそこまで――

 

 いや、今の自分には関係ない。

 迎撃だ。大樹の守りは間に合わない。

 

 なら、こちらの最大の攻撃で相手を迎え撃つ。

 

 

 

 

"森の呼吸 漆ノ型 大太法師"

 

 

 

 

 少女が自分の眼前に迫る。紫色に光る、毒に濡れた刀を自分に突こうと自分の方に飛び掛かってくる。

 

 飛蝗・孤独相の速さは分かっている。痣が浮き上がり、速度が上がろうとも、一度見た技に攻撃を合わせるのは簡単だ。

 

 これで終わりだ。多少驚かされたが、これが最後だ。

 この少女に何があったかは知らないが、このままでは俺が死ぬ。

 体に叩き込まれた毒が、まだ解毒しきれない。もう一撃攻撃を受ければ、毒を分解できずに死ぬ。

 だが、その前にこの少女を殺す。そしてじっくり回復する時間をかければいい。

 

 祟はそう思いながら、自身が使える最高の攻撃を、しのぶに向けて放った。

 

 

 

 

 

「しのぶ、お前は身体が小さい」

「なんですか、いきなり。知ってますよ、そんなこと」

「身体が小さいということは、軽いということだ。その身軽さを消すのではなく、生かすことを考えろ」

「身軽さを――生かす?」

「そうさ。力に拘るな。お前のその体格は、必ずしも欠点にはならない。使い方次第では武器になりうる」

 

 

 躱すことに特化した舞。

 相手の動きを読み切り、躱す。防御する、受けるのではなく、回り込む。

 

 

"蝶の呼吸 参ノ舞 月星浮蝶"

 

 

 祟が振り下ろした刀は、空を切った。

 

 

 なっ、また消え――!?

 

 

 しのぶの眼前に、祟の刀が振り下ろされる瞬間。

 祟の目からは、またしても目の前の少女が消えたように感じた。

 

 無論、物理的に人間が消えるわけではない。

 極限までに無駄を削った、効率的な体捌き。

 

 何百、何千と打ち合ってきた、鹿神ギンの"森の呼吸"。太刀筋はすべて知っている。

 

 祟には、まるで、宙を舞う蝶が、自分の身体をすり抜けて消えたように感じていた。

 

 気づいた時には、しのぶは祟の懐に潜り込んでいた。

 

 

 

 肋骨の隙間。骨と骨の間を通して、心臓に毒を叩き込むんだ。

 刺すんじゃない、刃を滑らせろ。

 心臓は身体中に血液を巡らせる。それは鬼も同じこと。

 

 一度に大量の毒を心臓に叩き込めば、全身に毒が回る。

 

 

「ギンさん――」

 

 

 

 あなたが教えてくれた。

 

 いろんな悲しいこと。

 

 苦しみを。

 

 優しさを。

 

 強さを。

 

 愛情を。

 

 友愛を。

 

 自然を尊ぶ心を。

 

 鬼に対して憎しみの心しか持てない私に、人を癒す手と知恵を、与えてくれた。

 

 

 

 

「先生――私は、あなたの弟子で……」

 

 

 

 

 

 

 本当に、幸せでした。

 

 

 

 

 

 

 

"蝶の呼吸 肆ノ型 蟲毒"

 

 

 

 

 

 決着は静かについた。

 

 

 

 

 しのぶが調合した毒の中でも特別に強力な毒。

 青い彼岸花。上弦の壱から採取した血液。光酒。太陽を克服した禰豆子の血。そして今まで創り上げた、藤の花の毒。

 鬼殺隊で戦ってきた、学んできたすべての集大成とも言える猛毒。

 気づいた時には、祟の背中からはしのぶの切っ先が飛び出していた。

 

 祟はそれ以上動かなくなり、刀が地面に落ちる。周りの木々は、生きるための活力が失われたように朽ち果てていく。血鬼術で生まれた森は、術者である祟が死ぬことを示していた。

 

「はぁ……!はぁ……!」

 

 荒い息を吐きながら、しのぶは息を整える。

 殺した、ついに。ギンさんに、勝って、殺してしまった。

 

「ぐっ……!」

 

 ダメ。泣いちゃダメ。私が殺したんだから。

 

 そう自分の涙をこらえていると、支えを失ったように、体中の力が抜けてしまったかのように祟がしのぶの身体にもたれかかる。

 

「……ごぶっ」

 

 まずい、まだ息がある!

 祟の皮膚は藤の花の毒の効果でただれ始めている。すぐに命を落とす。だが、鬼の腕力があれば、一瞬でしのぶの頸をへし折ることだってできてしまう。

 しのぶはすぐさま、祟から距離を取ろうとした。その瞬間だった。

 

 

 

 ―――ポン

 

 

「――――え?」

 

 

 

 頭の上に、柔らかい感触。

 

 懐かしい感覚。

 

 撫でられている?私が、祟に――

 

 

 しのぶが恐る恐る顔を上げると、口から血を吐きながら――今しがた自分を殺そうとしていた鬼が、静かに、優し気に微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――よく、頑張った、な」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さすが、俺の弟子だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ギンさん……?」

 

 

 

 

 

 

 

 しのぶが、かつての師の名を。鬼に堕とされた、自分が好いていた男の名を呼ぶが、返事が返ってくることはなかった。

 

 

 やがて、しのぶの頭の上に置かれた優しい手は、糸が切れたようにだらりと落ちた。

 

 

 

 

 

「―――ギンさん」

 

 

 しのぶが名を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 

「ギンさん」

 

 しのぶが名を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 

「ギンさ、ん、ギンさ、ギンさ」

 

 

 しのぶが名を呼ぶ。

 

 涙と嗚咽が混じり、言葉の形が徐々に崩れ、最後は涙の声になった。

 

 

「……あぁ」

 

 

 しのぶが今しがた自分が殺した男の身体を抱きしめる。

 

 

「あぁあ……」

 

 

 強く強く、抱きしめる。

 どんどん冷たくなっていく身体を、持っていかれないように。もう二度と離したくないと心が叫んでいる。

 

 

「うわぁぁぁぁ!!ギンさん、ギンさん、ギンさぁん!!」

 

 

 あなたを殺したくなかった。

 あなたに憧れていた。いつかあなたみたいに強くなれたらって、願っていたのに。

 こんな形で別れるなんて嫌だ。こんな風にあなたと戦いたくなかった。

 

 どうして、どうして、どうして。

 

 胸に際限なく湧き上がる痛み、悲しみ、罪悪感。

 いつか鬼がいなくなった世界で、一緒に旅をしようって。姉さんと一緒に病院を開こうって。

 私達の前にはたくさんの未来があったはずだったのに。

 こんな終わり方なんてあんまりよ。

 

 胸の中にある大事な何かが、切り刻まれたかのような痛みに、しのぶは泣きじゃくる。

 

 

 

「うわぁぁぁぁぁぁ……!!」

 

 

 

 ほんの数分。

 

 しのぶは、枯果てた森の中で、ギンを抱きしめて泣いていた。

 

 涙が枯れるほど、喉が痛くなるほど泣き叫んだ。

 涙が出なくなった後、しばらく茫然と、動かなくなったギンから自身の刀を抜き取り、しばし茫然とその死体を眺めた。

 

 

 

 ここは、終わりじゃない。まだ鬼舞辻無惨が残っている。

 

 ほかの隊士達も、上弦の鬼共と戦っている。

 

 

 ―――そうだ、鬼。

 

 

 ギンさんを鬼に堕とした奴らを、殺さなきゃ。

 

 私の命に代えても。絶対に、奴らを滅ぼしてやる。

 

 この世に生まれたことを死ぬほど後悔させてやる。私から大切な人を奪った痛みを、必ず味合わせてやる。

 

 

「――行ってきます、ギンさん」

 

 

 躯は持っていけない。しのぶは、ギンが愛用していたパイプ煙草をお守り代わりに拝借し。

 

 横たわるギンに振り返ることなく、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「カァ――!!上弦ノ弐、撃破!鬼ト化シタ鹿神ぎんヲ、胡蝶シノブガ撃破ァ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




IF「ギンさん鬼化ルート」はこれにて終了です。もう少し丁寧に書きたかったんだけど本編進まなくなっちゃうから。

こういうIFエンドや小話は、またお気に入り数や評価の数が一定数超えたら記念してやりたいと思います。書き始めると本編そっちのけで書きたくなっちゃうので。

皆さん、良い年末を。


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大正こそこそ小噺 其ノ参

 鬼殺隊の隊士には一人一羽、鎹烏と呼ばれる鴉をつけられる。

 特別に訓練したカラス達は人の言葉を解し、喋ることができ、本部から隊士達に指令を伝える役割を持つ。他にも、伝書鳩のように手紙を誰かに届ける、隠や近場の隊士に応援を呼ぶ、と言ったこともできるほど頭がいい。意思疎通ができる為、隊士の性格如何によっては良い仕事仲間として使うこともできると言う。更に普通のカラスより寿命が何故か長い。

 餌なども自分で勝手に獲ってくるため、世話をする必要もないかなり便利な鴉である。

 

 しかし、頭がいいカラス達は人間と同じように個性を持つ。性格を持つ。

 傲慢なカラスもいれば、真面目で優しいカラス、臆病なカラス、ファッションにやたらこだわるカラスなど多種多様である。

 

 

 そして、中にはいたずら好きなカラスも―――

 

 

「ぎぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 蝶屋敷に青ざめた善逸の絶叫が轟いた。

 

「どうした善逸、うるさいぞ」

「やかましいぞ馬鹿野郎!一体なんだってんだ!」

 

 那田蜘蛛山で怪我を負い、蝶屋敷で治療をしながら全集中の呼吸・常中の鍛練を行っていた炭治郎達。突如奇声を上げた善逸に炭治郎と伊之助が駆け寄った。

 

「ガタガタガタガタガタガタガタガタガタ」

 

 善逸はガタガタと身体と喉を震わせながら地面に腰を抜かしていた。よほど怖いことに遭ったのか、目じりに涙を溜めて顔は恐怖の色に染まっている。

 

「どうしたんだ善逸、そんなにガタガタ言わせて」

「かかっ、カラス、カラスがががが……」

「カラス?」

 

 震えながら善逸が指を差した場所を見てみると、屋敷の縁側にカラスが一羽いた。

 見たことないカラスだった。自分達の鎹烏ではない。野性のカラスだろうか?

 

「俺の鎹烏じゃないな……誰のカラスだ?」

「なんだこのカラス。喰っていいのか?」

「食べちゃダメだぞ、伊之助。うーん、しのぶさんか、カナエさんのカラスなのかなぁ?」

 

 どことなく蝶屋敷の匂いがする。この辺を縄張りにしているカラスか、それともこの蝶屋敷の誰かの鎹烏なのだろうか?

 よく見ると、少し年老いたカラスだ。羽根は自分の鎹烏に比べるとどこか艶がない。だが、どこか歴戦の兵士を思わせる渋さを持ち合わせた、強そうな雰囲気を持ったカラスだと思った。

 そう思っていると、突如その鴉が口を開いた。

 

 

 

 

「血鬼術デからすニサレタガ、コノ身体ニモ、大分慣レテキタゾォォォォ。カァー!」

 

 

 

 

 

「「「ぎゃあああああああああああああああ!!!」」」

 

 

 

 

 

 

「よぉ。集まってるかお前ら。鍛練始め……どうしたんだお前ら」

 

 蟲煙草を吸いながらのんびりと中庭に訪れたギンは眼を丸くした。中庭には自分がここしばらくの間鍛練を付けているいつもの三人組が腰を抜かして涙目になっていたのだ。

 

「ギギギギ、ギンさん!カラスが!カラスが喋った!」

「落ち着け炭治郎。カラスは普通に喋るだろ?」

 

 ギンは何言ってるんだこいつみたいな顔をしているが、普通はカラスは喋らない。が、異形の鬼を相手にする鬼殺隊ではこう言ったことは日常茶飯事だ。カラスが喋ったぐらいで驚いていては身が持たない。

 

「ギンさぁぁぁぁぁぁん!このカラス、元は人間だったみたいなんだよぉぉぉぉ!」

「は?」

「さっき『血鬼術でカラスにされた』ってこのカラスが喋ったんだよぉぉぉぉ!」

 

 善逸がギンの腰にしがみ付きながら泣き叫ぶ。見てみると、普段怖いもの知らずな伊之助も珍しく腰を抜かしていた。

 

「ままま、まさか、鬼殺隊の鎹烏ってまさか……!」

 

 炭治郎の脳裏に嫌な想像が駆け巡る。

 ずっと不思議に思っていた。頭が良く、喋るカラス達。今まで任務に集中してばかりで特に気にしなかったが、よく考えれば謎すぎる存在だ。

 

 だが、血鬼術で変えられたとするなら。異能の術を使う鬼が人間をカラスに変えてしまったと言うなら、意思疎通ができるほど喋ることができるのも納得である。

 

 もし自分達に普段伝令を伝えるカラス達もそのような存在なら――

 

「なわけないだろう。そいつは俺の鎹烏だ」

「「へ?」」

「ヨキ、お前またからかって遊んでたのか?」

 

 ギンが呆れたようにカラスに問いかけると、『ヨキ』と呼ばれたカラスは楽しそうに「カッカッカー!」と笑い始めた。

 

「カァァ!コイツラ、楽シイ!カラカウノハ楽シイ!許シテチョォォォダイネェェェ!」

 

「…………」

 

 カァーカァーと、腰を抜かした三人を小馬鹿にするように鳴くカラス。

 それを見た伊之助は少しの間ぽかんとカラスの言葉を脳内に反芻させたが、やがて馬鹿にされていたと意味を理解したのか、ゆらりと立ち上がり――

 

「ぶっ殺して喰ってやる!!!」

 

「カァーーー!ノロマ!ノロマ!バァァァカァァァ!」

「がぁぁーーーーーー!!」

 

 楽しそうに笑いながら中庭を飛び回るカラスを追いかけ回す伊之助。全集中の呼吸を使いながら飛び回るカラスを捕まえようとする伊之助だが、カラスは今まで見たどんな鳥よりも速く、そして伊之助の動きを予測するように躱しながら飛び回っていく。

 

「なんだ……驚いた……血鬼術でカラスに変えられた訳じゃないのか」

「なんて性格の悪いカラスなんだ……」

 

 ほっと落ち着いたようにぺたりと縁側に座る炭治郎と善逸。

 

「それにしてもすごい速いカラスですね……」

 

 猪突猛進を胸にいつも野山を駆け回る伊之助の脚力は隊士達の中でも群を抜いている。その伊之助の足でも追いつけないとなると、あのカラスがとんでもなく速いということが分かる。

 

「あのカラスとは、九年ぐらいの付き合いになるからな。その辺のカラスには負けやしない」

「ええ!?九年!?そんなに長生きするんですかカラスって!」

「カラスは意外と長生きだぞ。種類によっては二十年以上生きるカラスだっている」

「へぇ……そうなんですね」

「長い間生きている分、変な知識ばっかり身に着けちまってな。ま、大目に見てくれ」

「俺のチュン太郎も、あんな風になるのか……?」

 

 ギンさん、物知りですごいなぁと尊敬する炭治郎。そして自分の雀もあんな風になるのかと考えると今から憂鬱になる善逸だった。

 

「鎹烏は本部からの伝令を隊士に伝える役割を持っているが、意思疎通を重ねていけば頼もしい味方になってくる。例えば……」

 

 ギンは指で輪っかを作り、口に咥えて音を吹いた。

 すると伊之助と追いかけっこをしていたヨキは突如上空へ飛び上がり、姿を消した。

 

「あ!逃げんなこのヤロー!」

 

 伊之助が刀を振り回しながら空に向かって怒鳴り散らす。そして――

 

 

 ―――ペシャ

 

 

 伊之助の頭に、空から降ってきた白い何かがべっとり付いた。

 

 鳥のフンである。

 

「…………」

「カァー!カァー!()()ガツイタ!エェェーンガチョォォー!イノスケェ、エェェーンガチョォォー!」

 

「ブチコロス」

 

 もはや人の言語を失った伊之助が怒り心頭でヨキに飛び掛かる。

 

 ピィィィ――――

 

 ギンが高く指笛を吹くと、ヨキは再び空へ上がり――

 

 

 ―――ベシャシャシャ!!

 

 

「ブチコロォォォォーーーーース!!!」

 

 

「と、まあこんな風に指示を出すことも可能だ」

「あの伊之助が翻弄されている……」

「恐ろしい……何が恐ろしいって、あの伊之助からずっと逃げ続けながらウンコ落としてくるあのカラスだよぉ……笑いながらまだ飛んでるよぉ……」

 

 あんなモノに追い回されてそれでも小馬鹿にすることをやめないあのカラスの図太さに善逸は背筋を震わせた。

 

「カァー!カァー!楽シイネェェェ!」

「マテやこのクソガラス!おらぁぁぁぁーーー!」

 

 完全に頭に血が上った伊之助がついにカラスに追いつき、自分の射程圏内に入ったカラスを今度こそ八つ裂きにしようと飛び掛かった。

 

「獲ったぁぁぁ――――!!」

 

 その瞬間。

 

 ピピィーーー

 

 再びギンが指笛を吹く。

 

 するとそのタイミングを待っていたかのように、ヨキが円を描くように空中で宙返り。

 伊之助の飛び掛かりをいとも簡単に避け――

 

 

「あっ」

 

 

 空中に身を放り出された伊之助の着地先は、中庭の池だった。

 

 

 バシャァン!と池の水が跳ね上がる音が響き、水飛沫が収まると中庭の池でぷかぷかと水面に浮かぶ伊之助が。全集中の呼吸をずっと続けながら走っていたからか、カラスの予測不可能な動きに体力を消費したのか、それともカラスにまんまとやられてしまい凹んでしまっているのか、水面に浮かんだまま動かなくなってしまった。

 

 

「「うわぁ……」」

 

 

 哀れだ。あれはあまりにも哀れすぎる。またこの間みたいに凹んだりしないだろうか、炭治郎と善逸は心配になった。

 

「ふむ。まだまだ常中の維持は難しいみたいだな」

「カァー!カァー!」

 

 ヨキが一仕事終えたように満足げに鳴きながら、ギンの肩に着地する。

 

「お疲れさん、ヨキ。あとで"光酒"と俺が作った飯をやるからな」

「カァー!楽シミ!楽シミ!タップリチョォォォーーーダイネェェェ!」

「はいはい」

 

 大好物の光酒とギンの作った飯を食べられると分かったからか、ご機嫌なカラスの鳴き声が蝶屋敷に響いた。

 

「と、こういう風に曲芸みたいなことも覚えてくれる。弱い鬼だったら囮になってくれるし、空から偵察もしてくれる頼りになる相棒だ。鍛え方によっては刀を持って飛ぶこともできるしな」

「刀を!?」

「ああ。炭治郎、音柱を覚えてるか?筋肉モリモリで、輝石をあつらえた額当てを着けた大男だ」

「は、はい」

 

 思い出すのは「派手に」が口癖な大男。六尺はあるだろう巨体で、大きな刀を二振り背負っていた。

 

「あいつはカラスとは別に鼠を飼っていてな。その鼠も特別に訓練させて、刀を持ち運ぶことができるように仕込んでいるんだ」

「鼠に!?」

「一体どんな鼠なんだよそれ!」

「ムキムキマッチョだ」

「ムキムキマッチョ!?そんなことある!?」

「ま、まさか冗談ですよね……?」

「……ま、それは置いといて」

「答えてよギンさぁん!そんな気になることを聞かされてどうすればいいのさぁ!!」

 

 ギンはこほんと咳払いをして切り替える。

 

「鬼殺隊で働いている間、付き合いが一番長くなるのはカラスだ。俺達が心を開けば、カラス達も答えてくれる。だから偶にはしっかりと接してやれ」

「「は、はい」」

「じゃ、俺はちょっと伊之助を風呂場に叩き込んでくるから。先に鍛練始めてろよ。おい、伊之助起きろ」

 

 ギンは池に沈んでいた伊之助を肩に担ぎ、風呂場へ向かう。

 担がれた伊之助は抵抗する様子すら見せず、だらんと手足を宙にぶら下げた。

 

 

 

「ゴメンネ……弱クッテ……」

 

 

 呻くように、今にも泣きそうなぐらいかすれた声で伊之助が呻いた。

 

 

「「へ、凹んでる……」」

 

 

 そしてカラスに完膚なきまでに小馬鹿にされた伊之助は、その日は一日中ベッドの上でふさぎ込み、鍛練を終えた炭治郎と善逸に励まされていたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんなところに呼び出しやがって。何のつもりだ鹿神ィ」

 

 ――ギンが蝶屋敷に帰ってきてから一カ月。

 

 "風柱"不死川実弥は、苛立ちを隠さず目の前にいるギンにぶつけた。

 ギンの私邸である"蟲屋敷"に突然呼び出されたのである。

 蝶屋敷を抜け出したギンは、普段はあまり寄らない、少し埃が溜まった縁側で不死川を待っていた。 

 

 縁側には、二人分の盃。そして光酒が入った瓢箪が用意されていた。

 

「悪いな、こんな時間に。ちょっとお前さんと話したかったから、呼び出させてもらった」

「チッ」

 

 舌打ちをしながら不死川は縁側に乱暴に腰掛ける。

 空は既に陽が落ちている。満月が夜空に浮かび、冷たい風が庭の中に吹いている。

 

「ま、とりあえず一杯」

 

 光酒を注いだ盃を不死川に差し出すと、不死川は静かにそれを受け取った。

 それを見て満足げに微笑んだギンも、自分の盃に光酒を注ぎ、上に掲げた。

 

「献杯」

「献杯」

 

 鬼殺隊では、葬式は大々的に行われない。隊士が毎夜のように死んでいく鬼殺隊で、全員の葬式を行えばキリがないからだ。故に、葬式を行う際は親しい身内だけでやるのがほとんどである。

 三ヵ月前に命を落とした"炎柱"煉獄杏寿郎の葬式も、身内である煉獄一家、そして耀哉と継子だった甘露寺蜜璃だけで、静かな葬式を終えたらしい。

 

 ――死者を弔う時間はなく、鬼を狩る為に使う。

 

 だから大勢で葬式を行うことはほとんどない。鬼狩の任務に常に追われている柱なら尚更だった。だが、小さく死者を想いながら酒を呑むことは許される。

 

 煉獄杏寿郎は強い男だった。その男が上弦の壱に殺された。普段あまり他人と関わろうとしない不死川も思う所があったのだろう。ギンの月見酒に付き合ってくれたのだ。

 

 献杯を終え、盃の光酒を不死川は一気に呑み乾す。

 

 普段攻撃的な性格ゆえに、短気で荒々しい不死川も、光酒で喉を潤すと余韻を味わうように静かに目を閉じた。

 

「何度飲んでも、この味は……」

「光酒はかなり使っているようだが、調子はどうだ?」

「最高だ。これほど力が出る酒はねェ」

 

 鬼殺を行う際、光酒を呑むと身体能力が向上する。

 上弦の弐を討伐した水柱と蟲柱の実績から光酒の運用が認められ、その後、柱の何人かが鬼殺の為に光酒を求めた。中にはただ単純に光酒を呑みたいが故に我儘を言う柱もいたが、戦闘に用いる場合のみ、この光酒を申請することが許される。

 

 "風柱"不死川実弥は、柱の中で最も光酒の消費量が多かった。

 

 自身の稀血と、光酒による身体能力の向上。徹底的に鬼を滅殺することを心に決めている不死川は副作用が出ることも厭わず、光酒を使い続けている。

 使用量はギンが調整している為、まだ味覚などは失っていないようだが、体の感覚が落ちるのは時間の問題だろう。

 

 自身が傷つくこと、死ぬことを厭わず戦う。文字通り悪鬼滅殺を体現したのが、不死川実弥と言う男だった。

 

「でぇ?話ってのはなんだ鹿神ィ」

「お前の弟のことだ、不死川」

 

 空気がぴしりと、重くなる。

 不死川は殺気だけで人を殺すような鋭い目つきでギンを睨みつけた。

 

「お前の弟、不死川玄弥が蝶屋敷に来たんだ。悲鳴嶋さんの紹介でな。それでお前とのことを聞いた。そのことについて、ちょっと話があってな。煩わしいかもしれんが、少し聞いてくれ」

 

 不死川実弥の弟、不死川玄弥という新人の隊士がいる。入隊してからもうすぐ一年になる男と会ったのは、先週だった。

 

「鹿神よ……そなたの医者としての腕前、そして蟲師としての腕を見込んで頼みがある……私が今面倒を見ている不死川玄弥を看てやって欲しい……」

 

 唐突に蝶屋敷に訪れた岩柱は、その巨体を屈めるように頭を下げてそう頼み込んできた。

 悲鳴嶋ほどではないがかなり大柄な少年の身体を看て欲しいと。

 

「どうも……不死川玄弥です」

「不死川?」

「……"風柱"の弟です」

 

 言い難そうに顔を背けながら答える玄弥に、複雑な事情があるということを察したギンはそこまで深く関わらなくていいかと考え、玄弥に向き直った。

 どことなく不死川実弥を思わせる鋭い目つきと、右頬から鼻の上を通るように横に刻まれた大きな傷。体格は音柱の宇髄天元より少し低い程度だろうか。とても十六歳の体格には思えない。

 

「……見た所健康体そのものだが……どこか悪いのか?」

「玄弥は"鬼喰い"をしている」

「!」

 

 悲鳴嶋の言葉に目を見開くギン。

 

「……そいつは驚いた。"鬼喰い"ができる剣士がいたのか」

「はい。俺に呼吸法は使えません。けれど鬼と戦う為に苦肉の策で……」

 

 "鬼喰い"。それは、文字通り鬼を喰らう技術の事だ。

 鬼の一部を喰らうことで、一時的に鬼の怪力や再生力を得ることができ、それを使って鬼を狩る。そういう戦い方をしていたという剣士がいたと言うことは過去の文献でいくつか見られた。

 だが、鬼の身体はそもそも猛毒だ。普通の人間が喰らえば鬼舞辻無惨の細胞が適合せず死に至り、そもそも硬い鬼の皮膚をただの人間が食い千切ること自体、かなり難しい。

 鬼喰いをするには人離れした咬筋力と消化器官を必要とする。

 限られた人間にしか使えない技。

 

 

「……とりあえず、血液検査をさせてもらおうか」

 

 兎にも角にも、まずは調べねば。

 

 ギンは玄弥から血液を採取し、血液検査をすることとなった。

 見た目は特に変わりはないが、鬼――鬼舞辻無惨の細胞をその身に取り込んでいるのだ。場合によっては鬼そのものに変貌する可能性すらある。

 鬼喰いは、その喰らった鬼が強ければ強いほど、その力を増すと言う。

 玄弥は既に何体も鬼喰いをしており、通常時でも多少の傷ならばすぐに回復するという特異体質に変質していると言う。場合によっては耀哉のように妖質を変化させかねない。

 

「医者として意見を言わせてもらうなら、人体に害がある鬼を喰うなと言いたいんだが……やめる気はないんだろう?」

「はい」

 

 拳を握りしめながら、固く決意を証明するように頷く玄弥に、ギンは呆れたように溜息を吐いた。しのぶがいれば一刻は説教をされていただろう。だが、ギンにそれを止める権利はない。

 

「呼吸法が使えないからこそ、鬼を喰って戦う……鬼を喰わねば戦うことはできない……難儀だなぁ。何故そこまでして戦う?」

 

 ギンは呆れながらそう聞いた。答えないなら答えずともいい。ただ、どうして憎むべき鬼を喰ってまで戦うのか。蛇の道は蛇と言うが、それはあまりにも過酷な道だ。呼吸法を使えずとも、鬼殺隊として働く術はいくつでもある。剣士として戦うことを拘る理由は一体なんなのか、気になってしまったのだ。

 

「……柱になって、兄貴に、会うためです」

「兄……不死川のことか?」

 

 ―――どうしても、謝りたいことがあるんです。

 

「玄弥はそれ以上何も言わなかったが、そう言っていた」

 

 月を眺めながら、独り言のように不死川に語るギン。

 複雑な事情があるのだろう。恐らく、ギンが介入するべきことじゃない。他人の心に土足で踏み込む行為を、この兄弟にしていいものだろうか。

 だが、あまりにも見ていられなかった。

 玄弥の、後悔に滲んだような顔を見てしまえば。罪悪感でいっぱいになりながら、苦しんでいる様子を見てしまえば。

 

「……俺に弟なんていねぇんだよ鹿神」

 

 だが、返ってきたのは拒絶だった。

 

「テメェは首を突っ込むんじゃねェ」

「…………それでいいのか?不死川」

「しつけえなァ。いい加減にしねェとぶち殺すぞォ」

 

 これ以上話すことはない、そう言わんばかりに不死川は縁側から立ち上がる。

 

「この間"光酒"切れちまったからなァ。隠に俺の屋敷に届けさせておけ。じゃあなァ」

 

 不死川はそう言って不機嫌そうに出ていこうとする――。

 

「不死川。兄弟を大切にしろ」

「あァ?」

 

 ギンがそう言うと、不死川は面倒臭そうにギンに振り向く。

 

「俺には、兄が二人いた。二人とは血も繋がっていないが、本当の兄弟のように思っていた。兄貴分からすれば、弟は守るものだろうが、弟からすれば、兄を守りたいと思うものなんだ。だから不死川。兄を喪った俺の言葉を心の片隅にでもいいからおいてくれ。弟ってのは、守られたい存在じゃなく、兄と戦いたいと思うモンなんだってことを」

 

「―――――チッ」

 

 不死川はそれ以上、何も答えずに、蟲屋敷から去った。

 

「……俺にできることはここまでか。気張れよ、玄弥」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これを渡しておく、玄弥」

「……これは?」

「上弦の壱の血と、腐酒と言う液体だ。お前に預けておく」

「え!?でも、これって貴重な物なんじゃ……!」

「心配するな。貴重って言っても、お前さんに渡したのはほんの少しだ。まだ予備はある。それに、鬼喰いをするお前ならこれをもっと活かせるだろう。いつか上弦の鬼と戦う時に、きっと力になってくれる」

「……なんで、俺にここまで……」

「さぁ。なんでかね。あえて言うなら……同じ弟として、放っておけなかったんだよ」

「……ありがとうございます!」

「気張れよ、玄弥」

 

 

 

 



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大正こそこそ小噺 其ノ肆

 

 

「それで……例の物はどうだ、鹿神」

 

 蝶屋敷の蔵。窓が一つもない暗い倉庫の中で、二人の男が向かい合っていた。

 その倉庫は、鹿神ギンがこれまで採取してきた遺物、実験道具、医学書、薬草、蟲の調査結果をまとめた巻物、鬼や人体の研究日誌、そして光酒などが厳重に保管して置いてある。蝶屋敷の心臓部であり、そしてこれまで蟲師として活動してきた九年間の集大成でもある。

 中にはギンが捕獲した蟲や、蟲の気を帯びた骨董品など、危険なモノも収蔵している。この蔵の中に入ることを許されるのは、ギンの一番弟子であるしのぶだけである。ギンと特別に仲がいい胡蝶カナエや、彼を慕うアオイもこの中に入ることだけは禁じられている。

 

 しかし、ギンの許しがあれば、特別にこの蔵の中に入ることが許される。窓がひとつも付いていないのは、陽の光に当たると薬効を失う薬が多く保管されているからだ。

 

 そんな陽の光が一遍も差さない暗闇の中、弱々しい蝋燭の灯りが、怪しくこの蔵の主である鹿神ギンの横顔を照らした。

 

「……ああ、ばっちりだ」

 

 にやりと悪い笑みを浮かべるギン。その答えに満足したのか、相手の男も静かにほくそ笑む。

 

「ほう……詳しく聞かせてもらおうか」

 

 ギンと話している男は、"蛇柱"伊黒小芭内であった。鏃丸と名付けられた白蛇を首に這わせ、ギンと比べるとやや小柄な男だ。

 

「くく……まあ慌てなさんな」

 

 伊黒の眼が怪しく光る。

 

「慌てるなだと?俺がこの日をどれだけ待ち望んだと思っている。お前が上弦の壱に負け"常闇"とやらに囚われたせいで、俺は三ヵ月も待たされることになったんだ。時間は有限。この責任、どうやって取るつもりだ」

「カリカリしなさんな。なんだかんだ、俺の事心配して見舞いに来てくれたじゃねーか。お前は相変わらず、ひねくれているというかなんというか」

「俺はひねくれてない。というよりお前のことなど心配してなどいない。俺は甘露寺に付き添って来ただけだ。勘違いするな。そもそも先日の事、俺は忘れてないからな」

「相変わらずネチネチした奴……」

 

 ギンが常闇から抜け出し、蝶屋敷に保護されたと言う報せは、鬼殺隊全体にすぐに知らされた。

 そのすぐ翌日に、真っ先に見舞いに駆け付けたのは意外なことに伊黒と、そして大泣きした甘露寺蜜璃だった。

 

「うわああああギンさんギンさん!!よかった生きてた!生きてたよぉぉぉ!煉獄さん!ギンさん生きてたよ!よかったよぉぉぉ!びぇぇぇぇぇ!!」

 

 自分の師であった煉獄杏寿郎が死に、そして自分を鬼殺隊に導いたギンが行方知れずと聞いた甘露寺は、悲しみに心をいっぱいにさせていた。その様子をずっと見ていた伊黒もまた、ギンの事を人知れず案じていた。本人は決して認めないだろうが、なんだかんだで伊黒もまた、煉獄の死に心を痛めていたのだ。

 情に篤い甘露寺はギンの報せを聞き、すぐに伊黒を連れて蝶屋敷に訪れた。

 ギンの顔を見た瞬間、感極まって大泣きしながら抱き着いてしまうほどである。

 

「鹿神……」

「先生……?」

「ギンくん……?」

「甘露寺、止めろ。死ぬから」

「えぇ!?やめてよギンさん!せっかく生きて帰って来れたんだからぁ~~~~~!!」

 

 やべぇ、俺殺されるかも。

 

 甘露寺を一途に想う"蛇柱"は、殺気を迸らせながら見舞い品の果実を素手で握り潰し。

 同じくギンを想う胡蝶姉妹も、額に青筋を浮かべながらギンを睨みつけ。

 ちょうど点滴を刺していた為、甘露寺の抱擁から逃れることができず、冷や汗を掻きながら死を覚悟したギンだった。

 その後、ご機嫌になった甘露寺はギンの快復祝いに、柱を全員集めて蝶屋敷で宴会をすることを提案。それに便乗したしのぶとカナエは、ギンに宴の費用を全て払わせることを無理やり了承させた。

 何故、快復を祝われる本人が会計を持たなければいけないのかギンは不服だったが、有無を言わさない胡蝶姉妹に首を振ることはできず、その条件を無理やり呑まされたのだった。

 

「ま、例のブツは安くさせてもらうよ」

「フン。それでいい。とっとと寄越せ」

 

 伊黒は懐から銭が入った小袋を投げ渡し、ギンはそれを掴んで中身を確認する。

 

「代金は確かに。それじゃ、こいつをどうぞ」

 

 ギンはにやりと笑いながら、伊黒にそれを渡した。

 それは小さな瓢箪だった。少し揺らすと、水が跳ねる音が響く。中に入っているのは、ギンが調合した薬湯だ。

 

「おお……これが。本物なんだろうな?」

「ああ。効果は実証済みだ」

 

 普段あまり笑わない伊黒が悪い笑みを浮かべる。昔からの念願を叶えるための、計画の要とも言える物を手に入れた、悪役の表情だった。

 まるで悪代官と越後屋のようにぐふふふと笑う二人。

 

「人魚のツメを煎じた()()()――上手く使えよ、伊黒」

「当たり前だ、鹿神」

 

 "蛇柱"伊黒小芭内は、"恋柱"甘露寺蜜璃に惚れている。そりゃもう、べた惚れである。

 甘露寺本人は伊黒の好意にちっとも気付いていないが、周りから見ればそれはもうバレバレだった。

 

「……売っといてアレなんだが、普通に告白すりゃいいんじゃねえの?どう見ても甘露寺、お前のこと気に入ってるし、絶対成功するだろ」

 

 甘露寺蜜璃が鬼殺隊に入隊したのは、自分の伴侶を見つける為である。「鬼殺隊には強い男がたくさんいる」と言うギンの言葉をそのまま受け取った甘露寺は勢いのまま鬼殺隊に入隊したのである。

 

「やかましい、鹿神。もし告白して振られたらどうする。お前のその言葉をそのまま受け取って勢いで告白した結果、振られてしまったらどう責任取ると言うんだ。末代まで呪うぞ」

「呪うな」

 

 目を血走らせながらギンを睨みつけネチネチと文句を言う伊黒。彼は恋に関しては臆病だった。

 

「それを言うならお前はどうなんだ鹿神。胡蝶カナエと胡蝶しのぶ。あれは両方ともお前を慕っている。お前の方こそ男として責任を持って選ぶべきなんじゃないか?自分から動かず傍観者のフリをする臆病者じゃないか?」

「……悪かった伊黒」

「分かればいい、鹿神」

 

「「はぁ」」と重い溜息を吐く二人。これが鬼が相手ならばどれだけ楽だろうか。刀を振るって殺せばいいだけの鬼と違い、鬼殺隊の柱である女性たちはある意味鬼達より強敵だ。

 

 鬼相手なら怖い物知らずの鬼殺隊の柱だが、色恋にはめっぽう弱い。

 嫁を三人も持つ"音柱"の宇髄天元が二人を見れば笑いながらこう言うだろう。

 

『同じ穴の狢』と。

 

「……頑張ろうか、伊黒」

「ああ。お前もな、鹿神」

 

 "蛇柱"と"蟲柱"。一見、接点が無さそうな二人だが、実は意外と仲が良かったりする。

 同じ悩みを持つ(異性関係に苦しむ)男同士として。

 

 

 ちなみに、伊黒はその惚れ薬を使うことは結局なかったと言う。いざ使おうと甘露寺を定食屋に呼び出したはいいものの、甘露寺が幸せそうに大量の飯を食べている姿を見ている内に、惚れ薬を使う気はすっかり失せてしまったとか。

 

 

 

 ―――その後、惚れ薬についてどこから聞き出したのか。

 

「言い値を払うって、言ってるだろうが!!!」

 

 土下座でギンに頼み込む我妻善逸の姿が見られたと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――(胡蝶カナエ)には、想い人がいる。

 

「はぁ……」

 

 きっかけは二年ほど前。いや、おそらくはそれよりずっと前から、私はその人のことが気になっていたのかもしれない。

 はっきりとその人への好意を自覚したのは、上弦の鬼――童磨と名乗る、十二鬼月の鬼との戦いの後だった。

 

 雪が降る寒い冬の夜だった。

 

 その鬼は、頭から血を被ったような鬼だった。

 にこにこと屈託なく笑い、穏やかに喋る。まるで自分は善人だと言わんばかりの、冷たい笑みを浮かべる鬼だった。

 鬼殺隊に入隊してたくさんの鬼を見てきたけど、あれほどまで冷たい仮面のような笑みを浮かべる鬼に出会ったのは初めてだった。

 

 私はその鬼と戦い、そして敗けた。

 

 氷の血鬼術を使うその鬼の術を吸いこんでしまい、肺に傷を負ってしまったのだ。

 

 呼吸法を使えなくなった私はすぐに追い詰められ、冬の夜ということもあって身体も動かなくなり、そして鬼に喰われる一歩手前まで追い込められた。

 

 そして、その窮地を救ってくれた命の恩人こそ、妹の師であり、私の同期でもある"蟲柱"鹿神ギンだった。

 

 ギンくんは、昔から強かった。

 

 初めて会ったのは、最終選別の時。

 白い髪に翠の片目。そして森と同じ色をした深緑の刀を振るい、鬼を斬る。

 遠くから見かけただけだったけど、その目立つ風貌は、その力強い剣技は、私の脳裏に焼き付けるには十分だった。

 

 再会は、私が"花柱"に就任した時。あの時は息を呑むほど驚いたっけ。まさか自分より先に柱に就任していたとは思わなかった。

 けれど、ギンくんは私の事を知らなかった。

 

「おう。お前さんが新しい柱か。噂に違わず、随分な美人だな」

 

 一方的に私だけがギンくんを知っていて、ギンくんは私が同期ということすら知らなかった。

 少しむかっとした私は、「初めまして」と返した。だって、何故か悔しかったんですもの。

 

 その後ギンくんは私の教育係として、柱の仕事を教えてもらった。

 頸を斬れず、他人には見えない蟲が見えてしまうしのぶを継子として引き受け、柱として戦えるまで鍛え上げた。

 

 そして――上弦の弐を、兄弟子である義勇君と一緒に倒してしまった男の子。

 

 ギンくんと義勇君が、どうやってあの鬼を退治したのかは分からない。

 朦朧とした意識の中で覚えているのは、ギンくんに抱きかかえられた時の腕の温もりだけ。

 

 病室で目を覚ました時、一番最初に視界に映ったのは、ギンくんの顔だった。

 

「ん。起きたか。あんまり寝てるなよ、カナエ」

 

 そんな風に笑った顔を見た時――ああ、この人と一緒にいたいなぁって。思ってしまったんだ。

 

「姉さん?」

「っ、あ、な、何かしらしのぶ?」

 

 妹のしのぶに声をかけられ、意識は現実に引き戻される。

 

「姉さんこそどうしたのよ。ずっとぼぉっとして」

 

 いけない、治療に使うための薬を調合していたのに、いつの間にか物思いに耽ってしまった。

 

「ちょ、ちょっと考え事しちゃってね」

 

 好きな人のことを思い浮かべていた――なんて風には言えなかった。

 

「大丈夫?疲れているんじゃ……」

「大丈夫よ!しのぶ、何でもないから!」

「それって何かある人の常套句じゃない」

 

 ぎくり、と図星を突かれ、胸にしのぶの言葉が突き刺さる。

 

「だ、大丈夫だから!ほら!薬調合し終わったから!はやくギンくんの所へ持ってって!」

 

 しのぶは勘が鋭い。私はお世辞にも嘘を吐くのが得意ではなく、ごまかすように調合した薬をしのぶに持たせ、調合部屋から追い出した。

 

「ど、どうしたのよ姉さん!もう」

 

 納得いかなそうにしのぶは困惑の表情を浮かべたが、「何かあったら言ってね」と私に言い残し、気を取り直したようにギンくんの方へ向かって行く。

 その足取りは、どこか軽いように見えたのは、多分見間違いじゃない。

 

「……しのぶ、やっぱりあなたは……」

 

 私には、想い人がいる。そして、恋敵がいる。

 

 そしてその恋敵は、私の妹だった。

 

「……どうしたらいいのかしら」

 

 私にとってギンくんが命の恩人と言うべきなら、しのぶにとってギンくんは自らを導いてくれた人。人生の師だ。

 異形の蟲を見ることができてしまい、苦しんでいたしのぶにそれと付き合う道を教え、生まれつきの体格のせいで鬼を殺せず、戦えなかったしのぶに『毒』と言う手段と、戦う術を教えた師。

 

 そんな彼にただの師としてではなく、恋という感情が芽生えてしまうのは、当たり前だったのかもしれない。

 

 上弦の壱と戦い、常闇に囚われ、ギンくんが姿を消してしまった時。

 

 正直、ギンくんを必死に探しているしのぶの姿は、見ていられなかった。

 

 ギンくんの書庫で常闇について調べ上げ、ギンくんの仕事を引き継ぎながら、寝る間も惜しんで山々を探し回るしのぶはどんどん憔悴して行って――

 

 でも、絶対諦めないという眼をしていた。

 その時、しのぶのその想いの強さに、私は気おくれしてしまったのかもしれない。

 

 

 ――負けたくない。

 

 

 分かりやすい話、私は嫉妬してしまったのだ。実の妹に。

 「先生」とギンくんに慕うしのぶに。蟲が見える二人の世界は、あまりにも遠く。私だけ、二人とは違う世界で生きてしまっている。

 もし私にも、蟲が見えたら、ギンくんは私を助けてくれたのかな。ギンくんは、私を弟子にしてくれたのかな?

 

 

 ――なんで、私には蟲が見えないんだろう。

 

 ギンくんにいろいろと蟲のことや薬のことを訊くしのぶが羨ましい。

 ギンくんと一緒に、蟲師として働くしのぶが羨ましい。

 

 ――なんで、私だけ、違うのだろう。

 

 柱として、剣士として肩を並べて戦うことも、私にはもうできない。

 

 私は蝶屋敷で、二人が任務で戦って、帰ってくることを待つことしかできない。

 

 もし肺が壊されてなければ、私もギンくんと一緒に戦うことができたのに。

 

 蟲も見えない。剣を握ることもできない。

 

 けれどしのぶは、蟲が見えて、ギンくんと一緒に戦える。

 

 

 

 ―――羨ましい。

 

 

 

「カナエ様?どうしたんですか?」

「え?」

 

 ふと気付くと、アオイが心配そうに私の顔を覗きこんでいた。いけない、また考え込んで意識が消えかけてしまっていた。もう私の中にカイロギはいない。先日、カナヲは薬を飲み、自身に寄生するカイロギを全て絶った。もう私の意識を運ぶ蟲は中にいないのに、いつまでもぼぉっとしてしまっていてはダメだと自戒する。

 

「ご、ごめんなさい。少しぼおっとしちゃって……」

「ギンさんのこと、考えていたんですか?」

 

 はっきりと言うアオイの言葉が、私の胸に突き刺さった。

 

「な、なんでっ」

「だってカナエ様、最近ずっと心ここにあらずじゃないですか。私も蝶屋敷でずっと務めさせていただいてるんですから、それぐらいのこと、すぐに分かりますよ」

 

 まったくもう、と少し呆れた風にアオイは言った。

 ……自分より年下の子に見透かされるなんて。

 思わず羞恥で顔が熱くなってしまう。

 

「しのぶ様もカナエ様も、カナヲも拗らせすぎです!少女ですか乙女ですか!見ててこっちはもうずっとヤキモキするんですよ!いい大人なんですから、しっかりしてください!」

「うぐっ」

 

 両親を殺されてすぐに鬼殺隊に入り、青春時代を鍛練と、鬼狩りに精を出していた私達は、恋をまともにしたことがない。

 アオイの言葉はどこまでも正論で、ぐぅの音も出なかった。

 私もしのぶも、鬼狩りとして生涯を賭けると決めていたから、誰かと夫婦になるだなんて考えたこともなかったし。正直に言うとお手上げ状態だった。

 しかも、私達姉妹の想い人は同じ人。初恋がこんな修羅場だなんて、自分達には難易度が高すぎる。

 

「まあ、私も恋なんてしたことないので、カナエ様のことは何も言えないですが。私の意見を率直に言わせてもらうなら、"お似合いだから早くくっついて"と言った所でしょうか」

「そ、そんなお似合いだなんて……」

「……皮肉のつもりだったんですが」

 

 ギンくんとお似合い。そう言われてしまうと、皮肉だと分かっていても頬が緩んでしまう。

 

「私が見る限り、ギンさんもしのぶ様とカナエ様を、憎からず想っていると思うんですが。何故想いを打ち明けないのですか?」

「…………」

 

 アオイの質問に、私はすぐに答えることができなかった。

 

「今は、ギンさんもしのぶ様も出かけているので、誰かが聞いている心配はありません。この話は誰にも話さないので、正直におっしゃってみてください」

「……どうして?」

「私は、最終選別で合格しましたが、鬼に立ち向かえなかった腰抜けです。ですが、こんな私をカナエ様は『必要だ』と言ってここで働かせてくださいました。私個人としての意見ですが、しのぶ様にも感謝していますが、どちらかと言えば私はカナエ様に幸せになって欲しいと思っているのです」

 

 それは、いけないことでしょうか?

 

 アオイは、真っ直ぐ私の目を見て、そう語った。

 

「……私は、蟲が見えない」

 

 私はぽつりぽつりと、アオイに語った。

 しのぶに嫉妬してしまっていること。

 蟲を見ることができない上に、剣を握れなくなってしまった。

 けれどしのぶはその両方があって、私よりずっとギンくんの近くにいることを、嫉妬してしまっていると。

 

 少し言葉に出してしまうと、心の中に溜まっていたそれがぼろぼろと口から出て来てしまう。

 

「それに何より、ギンくんと一緒にいるしのぶはあまりにも幸せそうで――私は何も見なかった振りをして、身を引くべきなんじゃないかと思ってしまうの」

「……はぁ」

 

 真剣に話したのに、アオイは呆れたような、何言ってるんだこいつと言わんばかりにじとっとこちらを見ていた。

 

「もう!私は真剣に話しているんだからっ!」

 

 思わず涙目になってしまう。まったくもう!

 

「すいません、思ったより重病だったみたいで。呆れてしまいました」

「ひどい!これでも本当に悩んでいるんだから!私はしのぶみたいにギンくんの傍に立てない、一緒に戦えないのに――」

「なら、ギンさんは蟲が見える見えないで、人を区別する方ですか?」

「ッ」

「私はしない方だと思います。絶対に」

 

 アオイの断言するような口調に、思わず私の言葉は喉につっかえてしまう。

 

「確かに、ギンさんにとってしのぶ様はたった一人の弟子です。蟲が見えると言う同じ世界を共有できる人かもしれません。けれど、私もずっとここで働かせてもらって、ギンさんにいろいろとお世話になっていますから、少しはギンさんのことを知っています。ギンさんは、剣を握れないから、戦えないから、蟲が見えないから。そんな理由で誰かを差別する人ではありません。絶対に」

 

 ――アオイは、家族を鬼に殺され、鬼殺隊に入隊した少女だった。

 鬼への復讐。よくある動機だ。

 しかし藤襲山での最終選別で鬼と対峙し――心を折られてしまった。

 

 運よく生き残って合格したものの――恐怖に負け、鬼と戦うことはできなかった。

 

 腰抜け。

 

 情けなさと後悔と罪悪感でいっぱいだった時に、アオイはカナエと出会い、そしてギンと出会った。

 

「ギンさんは私にこう言いました。『剣が握れないからって、何もできない訳じゃないだろう。逃げたんじゃなく、戦う場所が変わるだけだ。この蝶屋敷は病院。病院は命の最前線だ。お前の手は、もっと別の使い道がある。それを探せ』と」

 

 ギンくんらしい激励だと、私は思った。

 心が折れて戦えなくなったアオイにとって、鬼殺隊の"柱"のその言葉はどれほど救いになったか分からない。

 

「自信を持ってください、カナエ様。カナエ様も、しのぶ様に負けていません。勝負はこれからです!私はカナエ様を応援していますからね!」

 

 アオイはそう言ってにっこり笑った。

 ――ここに最初に来た頃は、自分の弱さに打ちのめされ、悲しみに顔を曇らせた子だったのに。

 いつの間に、こんなに立派になっていたのね。

 

「ありがとう、アオイ。私も頑張るわ」

 

 私は、そうお礼を言った。

 

「はい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いたた……」

 

 目を覚ますと、私は山の中に倒れていた。

 空はもう陽が暮れて真っ暗だった。どうして私はここに……。

 

「そっか……私、薬草を取りに山に……」

 

 ここは蝶屋敷が所有する裏山だ。自然が豊かで、薬草や山菜が自生している山だった。

 昨日雨が降っていた影響か、地面が濡れていて、思わず足を滑らせてしまい、頭を打って気絶していたらしい。

 

 花柱として戦っていた頃にはなかった失敗。

 前線から退いて二年以上経つが、どうやら私も随分鈍ってしまっていたらしい。

 

「……っ」

 

 立ち上がろうと足を動かそうとすると、右の足首の辺りに激痛が走る。どうやら挫いてしまったようだ。

 無理をすれば動けなくもないが、この状態で山を下りれば怪我は悪化する。呼吸法を使えば痛みを消して歩けたかもしれないけど、昔のように走ることは今の私にはできない。しかも今は陽が落ちて辺りは暗い。灯りも持ってきていない今の状態では、また足を滑らせて今度は崖から落ちてしまうかもしれない。

 

 ここは大人しく、待つのが得策だろうか。

 カラスも置いて来てしまったし、見つかるのは明日になるかもしれない。

 

「……はぁ」

 

 戦えない分、少しでもギンくんの力になろうと、薬草を採りに来たのは失敗だったかもしれない。こんなドジを踏んでしまうだなんて、情けなかった。

 

「やっぱり私はダメだなぁ……」

 

 辺りが暗いせいか、気分がどんどん沈んでいく。今の時間だと、そろそろしのぶとギンくんは帰ってきた頃だろうか。

 それとも、まだ一緒に任務に出かけているのだろうか?

 

 ―――イヤだなぁ。

 

 胸の奥がずきりと痛む。嫌な考えが頭を過る。

 もししのぶとギンくんが恋仲になってしまったらと考えると、胸が張り裂けそうになる。

 

 もちろん、しのぶのことは大事だ。

 普通の女の子のように、誰かと結婚して、おばあちゃんになるまで幸せに生きて欲しいと願っていた。

 

 その願いは多分、叶えられようとしている。

 

 けれど、そこに私の居場所はない。

 

「……」

 

 涙がじわりと滲んでくる。心細い。寂しい。

 夜の森に恐怖は湧かないけど、梟の声が、私を独りなんだと言っているようで。

 

 こんなに辛くて、身が焦がれるように苦しいのに、それでも好きな人を想ってしまう。

 

「……ギンくん」

 

 思わず、静かにその人の名を呼んでしまう。返事が返ってくるわけでもないのに―――

 

「呼んだか?」

「きゃああああああああああ!?」

 

 心臓が飛び跳ねそうになる。口から心臓が出たかと思った。

 後ろを振り返ると、自分が一番会いたかったギンくんが、不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。

 

「ぎ、ぎぎぎ、ギンくん!?どうしてここに!?」

「どうしてって、アオイに頼まれたからだよ。お前が薬草採りに行ってまだ帰ってこないから、探しに行ってくれって」

「じゃ、じゃあなんでここにいるって……」

「ムグラに聞いたんだよ。足挫いてて戻ってくるのが難しそうだったから、迎えに来た」

 

 ムグラ。

 そうだ、確かギンくんは自分の身体に蟲を寄生させていると言っていた。確か、山の神経のような蟲なんだっけ。上手く使えば、山のどこに何が生えているか、どこにどんな動物が過ごしているか、正確に把握できると言う羅針盤のような蟲。

 

「立てそうか?」

「……ゴメン、ギンくん。ちょっと歩けそうになくて……骨は折れてなさそうなんだけど」

「ふむ。なら、方法は一つしかなさそうだな」

「え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ごめんね、ギンくん。私、すっかり鈍っちゃったみたい」

「気にすんな」

 

 ギンくんは、私をおんぶしてくれた。動けない私を運ぶにはこれが効率的なんだろうけど、いい年して異性に、しかも好きな人におんぶをされるのは、恥ずかしかった。

 

 ……ギンくんの背中、暖かい。

 白い髪の毛が、私の目の前にある。……こんなに広い背中で、あの時私を守ってくれたんだ。

 

「悪いな。煙草臭いだろうが、我慢してくれ」

「……ううん、平気」

 

 蟲煙草の匂いが、少し鼻を突く。でも、どうしてか嫌いじゃない匂いだった。

 

「それより、私重くない?」

「余裕だ。お前、しっかり飯食ってるのか?」

 

 軽すぎるぞ、と言いながら、ギンくんは軽快に山の道を下って行く。

 

「暗いのに平気なの?」

「俺の眼は夜目が利くからな。それに、この山は俺の庭みたいなもんだ。楽勝だよ」

「……すごいなぁ」

 

 また、私は助けられている。私はいつも、助けられてばっかりだ。

 ……悔しいなぁ。

 

「私、いつもギンくんに助けられてばっかりで……ごめんね」

「こういう時はお互い様だろ」

「ううん、助けられてばっかりだよ」

「?」

 

「あの冬の夜の時も、しのぶの事も、そして今日も。私はいつも、助けられてばっかり」

 

 鬼を倒そう。一体でも多く。二人で。私達と同じ想いを、他の人にはさせない。

 あの時の誓いは、もう果たせない。

 

 私はもう助ける人ではなく、助けられる人になってしまったのだと、思い知らされてしまう。自分の無力さを。

 

 せめて、剣士としてもう一度戦えるなら。今度は私があなたを助けに行くのに。

 

 上弦の壱と戦い、傷つき、そして姿を消した。あなたはきっと私がどれだけ心配したか、分からないでしょう?

 あの時ほど、もう一度戦いたいと思ったことはなかった。

 あの時ほど、私にも蟲が見えたらと思ったことはなかった。

 

 もしできたら――私は真っ先に、あなたを助けに行くのに。

 

「ごめんね、ギンくん」

「…………カナエ」

 

 罪悪感でいっぱいになっている私の名前を、ギンくんは小さく呼んだ。

 

「なに?ギンくん」

「鬼舞辻無惨を倒したら、どうしたい?」

「え?」

 

 鬼舞辻無惨を、倒したら?

 

「青い彼岸花を見つけて、"鬼を人に戻す薬"を創っている。完成すれば、ずっと続いてきたこの長い戦いも終わる。そうしたらお前は、どうしたい?」

 

 ―――戦いが、終わったら?

 

 考えたこともなかった。だって、そんな夢みたいな話――

 

「夢を持てカナエ。炭治郎と禰豆子のおかげで、鬼と仲良くなるって言う夢は叶ったんだ。次の夢を考えておけ。すぐに叶うようにしてやるから」

「――――」

 

 この戦いを終わらせるって――言ってくれてるの?ギンくん。

 

「剣を持たなくていい。戦わなくていい時がきっと来る。俺達(鬼殺隊)の役目が終わる時が、必ず来る。何年かかるか分からないが、俺がそこに連れてってやる。だから今のうちに、考えておけよ」

 

 ――戦いが終わった後も、ずっと俺達の人生は続いていくんだから。

 

 ……この人は、本当にずるい。

 どうして私の心をそっと撫でるような優しい言葉をくれるんだろう。

 

 期待、してもいいのかな。

 戦わなくてもいい場所に、連れてってくれるのかな。

 私がいてもいい場所に、連れてってくれるのかな?

 

 私はそっと額をギンくんの肩に押し付け、願うように言った。

 

「私……ギンくんと旅がしたい」

「旅?」

「うん」

 

 鬼殺隊に入隊して、いろいろな場所を回った。たくさんの人に出会った。でも、どこに行っても鬼ばかりで、戦ってばかりだった。たくさんの人の死ばかり、見つめていた。

 もう、人が鬼を殺す所を見るのも、鬼が人を殺す所を見るのも、たくさんだった。

 

 鬼も、人も、争わない道はないだろうか。もう決して、分かり合う道は、手を取り合う道はないのだろうか。

 

 肺を壊され、剣士として戦うことはできなくなって、蝶屋敷で看護師として働くようになってからも、その考えは変わらなかった。

 

 けど、もし鬼殺隊が二度と戦わなくてもいい未来があるなら、私は――

 

「ギンくんが蟲師として、たくさんの人を助ける所を見たいなぁ。ギンくんが、いろんな場所に旅をして、その場所の話を聞くのが、私好きだったの。だから……」

「……」

「……なんてね。私に蟲は見えない。冗談―――」

「いいぞ」

 

 私は言葉を失った。

 

「それまで、俺が生きていたらな。連れてってやるよ。国のあちこちを。それか、海を越えた場所にでも。柱として戦ったおかげで、旅費はたんまりあるからな。船に乗って、いろんな場所を見に行こう」

 

 生きてたらだけどな、とギンくんは笑った。

 私は、思わず泣きそうになった。軽く答えるギンくんは、やっぱりいつもの口調で――でも、どうしてか、絶対に叶えてくれると言う安心感があった。

 

「大丈夫、ギンくんは死なないよ……」

 

 泣いちゃ駄目。ギンくんに今の顔を見られたくない。顔が真っ赤になってしまっている自分の顔を。

 歩けなくてよかった。おんぶしてもらえてよかった。泣きそうで、でも嬉しくて笑ってしまっている滅茶苦茶な顔を、見られずに済んだから。

 

「さて、どうなるかね。また上弦の壱にやられるかもしれんし」

「もうっ。そういうこと言わないのっ。それに大丈夫!ギンくんは死なないから」

「無茶苦茶言ってるな」

「大丈夫だよ」

 

 

 ――ずっと一緒にいたい。

 

 

 そう言うことはできなかった。これは私の我儘だから。

 

 

 

 

 でも、心の中でそう願うことは――いいよね、ギンくん。

 

 

 

 



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中高一貫!!キメツ学園!! 『私と先生と姉さんと』

 放課後。

 私はいつもの足取りで化学準備室に向かう。アオイや炭治郎君曰く『足取りが普段の1.5倍は軽い』『おもちゃ屋に連れてこられてわくわくの子供のスキップ』とか、散々な評価をされてはいるらしいが、私はそれを否定しない。

 準備室の扉の前で、私は息を整える。

 心臓の鼓動を少し落ち着かせて、私は扉に手を掛けた。

 

「先生」

「ん?なんだ、しのぶか。もうHRは終わったのか?」

 

 準備室の扉を開けると、喫煙禁止のはずの校舎内で煙草独特のヤニの匂いが鼻を突いた。慣れ親しんだ準備室には、たくさんの化学薬品が並んでいて薬品の匂いが少しする。けれど、この部屋の主がいつも煙草をここで吸うせいで、どこか煙臭い。窓際の机に向かって煙草を吸いながら作業をする、白衣の先生が気だるげにこちらを振り向いた。

 

 白い髪、緑の眼。 

 黒髪黒目が普通な日本人では、かなり特殊な見た目だろう。

 化学教諭、鹿神ギン。

 このキメツ学園のOBであり、薬学研究部の顧問でもある。

 元々生物教諭になりたがっていたその先生は、ヘビースモーカーで大の酒好き。学校が終わると必ずビールや日本酒を買う為に、近場の酒屋に必ず寄っているというのは学校の生徒には周知の事実である。

 

「また煙草吸ってますね。冨岡先生にまた怒られても知りませんよ?」

「ガキの相手をするのは疲れるんだ。煙草の息抜きは、先生の特権だ」

「ふふ、なんですかそれ」

 

 ギンさんはそう言いながら灰皿に煙草を押し付けて火を消した。

 私や姉さんがこの準備室に来ると、いつもこの人は気遣って煙草の火を消してくれた。宇髄先生や富岡先生が来ても、煙草の火は消したりしないけど、私達がいるといつもこの人は煙草の火を消してくれる。優しい人だった。

 

「お前も受験生だろう。フェンシング部の練習もあるしわざわざ俺の研究に、毎日放課後に手伝いに来なくていいんだぞ?」

「いいんですよ。私が好きでやっていることですから。それに、フェンシング部の練習が始まるまで、少し時間がありますので」

「物好きな奴だ。こんなヤニ臭い部屋にわざわざ来るのは、お前かカナエぐらいだよ」

 

 鹿神先生はそう苦笑しながら、椅子から立ち上がった。

 

「なら、今日も手伝ってもらおうかね」

「はい」

 

 これが私の日常。学校の授業が終わったら、放課後に30分だけ、鹿神先生の研究を手伝う。

 受験勉強よりも、フェンシング部の練習よりも、一番大切な、私と先生との時間。

 

 そう!私こと胡蝶しのぶは、化学教諭の鹿神先生に恋している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そもそも私が薬学研究部に入った目的は、化学教師の鹿神ギン先生にある。理系の大学に進みたいからとか、薬学や化学は昔から得意だからとか、いろいろな建前はあるけれど、実際はかなり不純な動機だ。

 

 私は、鹿神ギンのことを慕っている。

 

 しかし、困ったことに私こと胡蝶しのぶはキメツ学園の生徒で、鹿神ギンはキメツ学園の教諭。一昔前の少女漫画や安っぽいドラマで使い古された、教師と生徒の禁断の恋、という物だ。昔は姉さんや姉さんの友人である蜜璃さんから押し付けられるように読まされた時は、『教師と生徒の恋愛なんて実際にあるわけないじゃない』と笑っていたけど、今考えるともっとよく読んでおけばよかったと後悔している。まさかそのフィクションが、自分に起こるとは想像もしていなかった。あの漫画のヒロインが叶わない恋に苦悩する様は、まさに今の私のようだった。

 この気持ちが許されない、声には出せない恋慕だということは、誰にだって分かることだろう。

 頭がいい大人は、一時の気の迷いだというかもしれないけれど、この想いは本物だ。というより、自分でも引くレベルで先生を慕ってしまっているのだから、手に負えない。できることなら先生を自分の物にしたい、いっそのこと監禁して誰の眼にも触れられないようにすればいいのかしら、なんて本気で思案してしまうのだから、重病である。

 恋は盲目とは、よく言った物だ。

 

 私だけを見てほしい。私だけの物であって欲しい。

 

 この先生を、私だけの物にしたい。

 

 そんなほの暗い感情を隠しながら、私はこの人の下へ通い詰めている。

 いずれは、告白する為に。

 お淑やかな、優等生。先生の手伝いをする模範的な生徒。先生の目を引こうと、テストは常に上位。フェンシングの大会で優勝するほど運動神経も抜群。

 自分でも言うのもなんだけれども、学園三大美女だなんて呼ばれるぐらいには身嗜みには気を付けている。

 文武両道、才色兼備。昔からなんでもやるなら誰にも負けたくないから頑張っていたから、女の子としての魅力は誰にも負けるつもりはない。あの頃の負けず嫌いな私、本当にグッジョブ。

 本音を言うなら私から告白するより、先生から告白されたいのだ。私だって乙女だし、そういうシチュエーションは女の子として憧れる。……とは言っても、先生は私のことをたくさんいる生徒の内の一人としてしか見ていない。悔しいことに。

 私に魅力がないからとかではなく、単純に鹿神先生は人をあまり好いていないのだ。人間嫌いと言い換えてもいいかもしれない。社交的で、学年や性別問わず様々な生徒からは『授業が面白い』とか『話しかけやすい』って言われて親しまれている先生だけど、それは表向きの姿でこの人の本性はもっと繊細で臆病なのである。

 

「先生はいつもこんな所に引きこもってばかりでいいんですか?もっと他の人とコミュニケーションを取らないと、冨岡先生みたいなコミュ障になってしまいますよ~」

「ならねえよ。あの暴力鉄仮面と一緒にするな。非常に不本意だ」

 

 じとっとした眼で睨まれた。どうやら本当にあの先生と一緒にされるのは嫌らしい。ちらりと窓の外を見ると、校門の前でタンポポ頭の男子生徒を右ストレートでど突く冨岡先生が見えた。あの光景も慣れたものだが、どうしてあの人が教師になれたのか今も不思議だ。

 

「別に、人間と関わるのは嫌いじゃねえよ。独りの方が気楽だからこうして引きこもって研究に没頭しているだけだ」

「『独りの方が気楽だから』って、コミュ障の人の言い訳の定型文ですよ」

「やかましい。元々ここの教師になるつもりじゃなかったのに、学園長が無理を言うからここで非常勤として働かせてもらってるだけなんだ」

「生物の教科は、姉さんに取られちゃいましたしね」

「教職なんて残業だらけの仕事、やってられん。早いとこ研究を完成させて転職してやる」

 

 くっくっくっと悪い笑顔を浮かべるが、果たしてあの学園長がこの人をそう簡単に手放すだろうか。外堀を埋められ、結局はこの学園で骨を埋める気がする。

 

「ふふ。できるといいですね」

 

 この人は、身内とそうじゃない人をしっかりと区別する。

 先生は否定するけど、"人"じゃなくて"人間"と言うのだから、言葉の裏から人に対する嫌悪感が漏れ出ているのは確かだ。先生自身、それを自覚しているのかは分からないけれど。

 人間嫌いと言っても富岡先生や煉獄先生とはよく一緒に飲みに行っているらしいから、人は嫌いでも友人を排するような人ではないのだろう。

 

「っと、しのぶ。そこの棚から試験管とビーカーを持ってきてくれ」

「はい」

 

 でも、親しい生徒にはしっかりと名前で呼んでくれる。

 だからこうやって地道にこつこつ会話を重ねて、先生を手伝いして。少しずつ距離を縮めてきた。

 そして卒業式の日になったら、先生に告白する!

 

 もう卒業したから、先生に恋をしてもいいんですよって、言いきってやるんだ。

 

 我ながら完璧な計画。

 あと一年しかないけれど、まだ一年もある。それまでに先生を私に惚れさせれば万事問題なし。この二年間で先生の好みはばっちり把握している。―――年上黒髪美人とか、どうしようもない問題もあるけれど、先生の好物とか、趣味とかは既に完璧に予習済みだ。これを活かして、先生を卒業の日までに私に――。

 ……そう、強く決心しているのだけれど。

 

 私にはとんでもない邪魔者――もとい恋敵がいる。それもとんでもなく強敵だ。

 

 ――ガララ 

 

「しのぶ~!」

 

 ほら来た。

 

「姉さん」

「ギン君もこんな所にいた!やっぱり、しのぶがいる所にギンくんありね」

 

 この人が、私の今の最大のライバル。私の唯一の姉にして、恋敵。

 キメツ学園で最も男子生徒から人気がある、生物教科担当の胡蝶カナエ。身内である妹の私から見ても、控えめに言って美人で、お淑やかで、可愛くて。えげつない人気を誇る人である。

 

「何言ってるんだお前。ていうかノックしろよ。こっちは実験中だぞ」

「あ、また煙草吸ったでしょ!身体に悪いって、前にも言ったじゃない」

「お前は俺のオカンか……。いいだろ別に。誰に迷惑をかけてるわけでもないんだから」

「まったくもう。あなたはいつもそうなんだから。悲鳴嶋さんに言いつけちゃうわよ?」

「やめてくれ。殺される」

 

 姉さんはぷんぷんと頬を膨らませ―――いや違う。あれは怒ってると見せかけて、鹿神先生と話せて実はすごい嬉しい顔!

 

「姉さん、私に用があったんでしょ?」

 

 私は口早に、姉さんの肩を掴んで鹿神先生との会話を止めさせた。

 

「ああ、そうだったわ。しのぶ、カナヲがあなたのことを探していたわ」

「カナヲが?」

「ええ」

 

 だから早くどこかに行ってくれないかしら、しのぶ。

 あらあら姉さん、姉さんこそ早く仕事に戻ったらどうかしら。

 

「……なんでギスっとしてるんだお前ら」

 

「………………」

「………………」

 

 呆れる鹿神先生の言葉に、私と姉さんは思わず顔を見合わせる。

 

 

「「先生(ギンくん)のせいです(よ)」」

 

「なんでさ」





評価投票者数500人越え、感想700件越え記念。

この小説をたくさんの人に読んでくださり、本当に感謝しています。UAが100万突破間近でうれしいです。

前回がSANを削るギンさん鬼化ルートだったので、今回は現代パロのキメツ学園編を書いてみました。また伸びたら続き書くかも。

感想評価、たくさんお待ちしています。


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薬師


 花の町。

 

 その女が咲かす花は真の花か。

 

 嘘と欲が渦巻く場所で

 

 確かめたければ銭を出せ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ちょっと吉原の花町行ってくる。なほ、きよ、すみ、留守番よろし――」

 

 ギンがそう言いながら蝶屋敷から出かけようとした瞬間、ばきり、と言うガラスが割れた嫌な音が響いた。

 

「!?」

 

 音の発生源は自分の真後ろ。振り返って見てみると、額に青筋を浮かべながら、にっこりと笑っているカナエとしのぶが立っていた。おそらく薬が入っていたであろう試験管が粉々に割られて残骸が床に落ちている。

 

 おかしいな。二人とも綺麗な笑顔なのに、後ろに般若が見えるぞ。

 

「あらあら、ねえしのぶ。聞き間違いかしらぁ。ギンくん、今、花町に行くって言ったの?」

「ええ、私もそう聞こえたわ姉さん。一体どういうことでしょうか先生。まさか、遊郭に遊びに行くつもりなのでしょうか?」

 

 朗らかに問いかける二人だが、明らかに殺意が迸り目が笑っていない。ギンを見送ろうとしていた三人娘は恐怖のあまり涙目になりながらお互いを抱き寄せている。

 

「いや、これはだな、しのぶ、カナエ。違うんだ」

 

 まるで浮気を嫁に見つけられた亭主のように慌てふためくギン。

 

「あらあら。ギンくんってば、慌てちゃってどうしたの?まるで後ろめたいことがあるみたいじゃない」

「そういえば姉さん、昨日十二鬼月にも効きそうな激痛の猛毒を創ることに成功したの。試しに使ってみたくない?姉さん」

「さすがね、しのぶ。そうね、ちょうどお仕置きが必要な人がいるから、そこにいる人に使ってみるのがいいんじゃないかしら」

「マテ、止めろ。師匠の身体で人体実験なんてするんじゃない」

 

 ――胡蝶姉妹は、鹿神ギンを慕っている。

 

 別に、鬼殺隊の隊士が遊郭に行ってはいけないという規則はない。常に命を懸ける仕事であるが故に、ある程度のそう言った息抜きも必要だろう。

 鹿神ギンは誰かと結婚している訳でもなし、遊女やそこらの女に()()()()()()()()()()()を求めることだってあるかもしれない。

 ギンはかなり大人びて見えるがまだ若き青年だ。そういう欲だってある。医術を学んでいるため、その辺りの知識はしのぶとカナエにだって理解はある。

 

 だが、だからと言って納得ができるかと言えばそれはまた別の話である。

 

 自分達が慕う男が、遊郭へ遊びに行き、そこにいるどこの馬の骨とも分からぬ女と逢瀬する――

 

 考えただけで腸が煮えくり返る。

 

「破廉恥」

「変態」

「女の敵」

「地獄に落ちろ」

 

 笑顔のままギンを静かに罵倒していく胡蝶姉妹。淡々とした女性陣の口撃はギンの精神をがりがりと削っていく。普段は心優しいしのぶとカナエの口撃は、刃物のように鋭く効果は抜群だった。

 

「違うっての!遊びに行くんじゃねーよ、薬師(くすし)の仕事に行くんだよ!」

 

 なんで俺が悪いことしに行くみたいになってるんだ、と冷静になって気付いたギンは叫ぶ。

 

「薬師の仕事、ですか?花町で?」

 

 しのぶが首を傾げる。

 

「そうだよ。お前を継子にする前までは、薬師もやっていたんだ。俺の腕前を知っていた遊女屋の旦那さんに文で呼ばれたんだよ」

 

 "蟲柱"鹿神ギン。今でこそ、蟲の知識、そして卓越した医術と薬学の知識を活用し、鬼殺隊を支える"柱"であるが、最初から医学に精通していた訳ではない。

 彼は鬼狩りとして、そして蟲師として各地を旅する傍ら、多くの医者や薬師の下へ訪れては師事を仰ぎ、知識を身に付けていったのだ。

 その頃のギンの年齢はまだ十二歳。

 最終選別に合格したばかりのギンは、もがくように、がむしゃらに、様々な医学や薬学を学んだ。漢方や地方の民間療法、西洋の医術まで。時には異国の医学書を読むために、ドイツ語を学ぶほどだった。

 もちろん、旅の身であるギンに快く医術を教えようとする医者は多くはなかった。が、鬼を狩るギンの姿を見て、力を貸した薬師や医者もまた少なくはなかった。

 

 シシガミの森で蓄えた薬草の知識、異人の医者や薬師の下で最先端の医術や薬学を学び、鬼に傷つけられた人を治療し、重い病気に犯された人を癒し、多くの経験を積んで今の"蟲柱"鹿神ギンがいる。

 多くの知識を学んだ後は、各地を回りながら多くの人に薬を処方、怪我人の手術、そして蟲患いに悩まされる人を助けていった。

 

「西の方の"飛田遊郭"で、下積みを積んでた時期があったんだよ。その時の俺の顔を覚えていた"ときと屋"の旦那さんが、薬を処方してほしいと文を寄越してきたんだ」

 

 飛田遊郭とは、大正時代に築かれた日本最大級の遊廓である。大正七年の頃には百軒、昭和の初めの頃には二百件もの妓楼が並んでいたと言われている。

 

「でも遊郭で薬って……何を処方するんですか?」

「避妊薬とか滋養強壮の薬だ。効き目が良いってんで、当時引っ張りだこだったんだぞ俺は」

「へぇ……そうだったんですか。全然、知りませんでした」

 

 しのぶがギンの継子になって、蝶屋敷で共に働くことが多くなってからもう五年以上経つ。今ではただの師弟関係ではなく、家族のような大切な相手だった。けれど、ギンが医術を学んでいた頃の話を、二人は聞いたことがなかった。

 蝶屋敷の面々はギンが各地の旅の話をするのを聞くのが好きだった。摩訶不思議な蟲達の話、その土地で暮らす多くの人達の話。どれも明るく、いつかそこに行ってみたいと誰もが思ってしまうほど、ギンの旅の話が好きだった。しかしよくよく思い出してみると、ギンが柱になる前、どのようなことをしていたのか二人はあまり知らなかった。唯一しのぶは、当時のギンが"水柱"の冨岡義勇と殺し合いの決闘をしたことは知っているが。

 

「私も知らなかったわ。どうして教えてくれなかったのギンくん」

「いろいろあったんだよ。察しろ」

「えー、ギンくんが冷たいなぁ。私悲しいなぁ」

「餓鬼だった頃のことを誰が話したがるんだよ」

「私は聞いてみたいなぁ、ギンくんの昔話。最終選別の後、"花柱"になるまでギンくんと一回も会ったことがなかったから、何してたか気になるわ」

「やめろ。上目遣いになっても話さないからな俺は」

「もー。ギンくんのいじわる」

 

 ギンはその頃、確かに遊郭で漢方や薬を処方し避妊薬などを売っていた。

 他にも、遊郭に潜む鬼を狩り、梅毒に苦しむ遊女の痛み止めの処方をし。……他にも、口に出すことも憚られるようなことも、やっていた。

 

 

 ――この、化け物!!

 

 

 脳裏に響く、誰かの怒鳴り声。涙に濡れた怨嗟の言葉は、今でも昨日の事のように思い出せてしまう。

 あんな話、しのぶやカナエ、蝶屋敷の連中に聞かせられるか。

 

「とにかく、そういうわけだから。遊びに行くとかじゃねーから。女遊びするとかじゃねえから。気になるなら付いてくるか?大人の遊び場」

「そそ、そうね!仕事なら仕方ないわね!ごめんなさいギンくん!」

 

 勘違いだったことに気付いたせいか、それとも何か別のことを想像してしまったのか、カナエは手を団扇のようにぱたぱたとしながら頬に上がった熱を冷まさせようとしている。恋愛初心者の胡蝶カナエ。二十歳を超えてもまだまだ乙女な思考が抜け切れていなかった。

 

「…………」

「なんだよ」

「……別に、なんでもないです」

 

 だがギンに対して未だに訝しげな眼をするのはしのぶだった。

 ずっと弟子として傍にいたからか、それとも女の勘か、ギンが何かを隠していることに気付いたのだ。

 

「…………なんだ、しのぶ。言いたいことが何かあるのか?」

 

 そんなしのぶの視線に、ギンの目が鋭くなる。その言葉には「訊くな」と言外に伝えようとしているようにも聞こえた。

 しのぶはその時、師との間に絶対的な溝があることを感じた。今までの優しく暖かいギンからは想像できない、冷たい言葉だった。

 

「え、え、どうしたのしのぶ、ギンくん?」

 

 鋭く、重くなる空気を敏感に感じ取ったカナエは、慌てたように二人の顔を見比べる。

しのぶは体格に恵まれない。大柄なギンと比べると大人と子供のような背丈の差がでる。

 だが、最近はなりを潜めていたがしのぶは元来、頑固で、男にも鬼にも負けないほど強固な意志があった。どれだけ「鬼の頸を断てない」「剣士になるのを諦めろ」と言われても、持ち前の根性でそれを跳ね除けた。

 

 師に、好きな人に、近づくなと睨みつけられようとも――いや、あるいは師であり、慕っている男だからこそ、はいそうですかと退く女ではなかった。

 

 だが、ギンはその視線の問い掛けに応える気はさらさらなかった。

 

 平行線。ずっと睨み合いが続くかと思っていたカナエだが――

 

「……分かりました」

 

 しのぶはすっと、諦めたように溜息を吐いた。

 

「いつか話してもらいますよ」

「考えとく」

「話すとは言ってない、とは言わせませんからね」

「……」

 

 ぎょっとしたギンは居心地が悪そうに、しのぶをちらりと見ると、しのぶはしてやったりと言わんばかりに笑みを浮かべていた。

 

「私、先生の弟子ですので。先生の手は丸わかりですよ。お仕事、気を付けて行って下さい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煉獄さんの死から、四カ月が過ぎようとしていた。

 

 俺達は毎日、煉獄さんのお父さんであり、先代の"炎柱"だった煉獄槇寿郎さんの下で鍛練をしながら、合間に入る鴉からの指令に従い、それぞれを鬼を倒しに行った。

 

 基本的に三人で行動していた俺達だけど、最近は一人で任務に当たることも多くなった。

 

 前までは一人で任務に行くときは泣き喚いていた善逸も、煉獄さんの死から何かを感じたのか、一人で行く任務の時も駄々をこねなくなった。

 

「槇寿郎さんの拳骨怖い」

 

 ……俺達を鍛えてくれている槇寿郎さんの事が怖いだけかもしれない。

 

 けれど意外なことに、俺達の中で善逸が一番柱に近い。

 先日、四十五体目の鬼を退治した善逸は、なんと「甲」の階級に昇進したのだ!無限列車の任務の時、襲い続けてきた鬼を四十体近く狩ったからか、気付かない間に一番上の甲に。

 槇寿郎さん曰く、五十体目の鬼を退治ししばらく戦闘の経験を積んでいくか、十二鬼月を倒すことができれば、すぐに柱になれるだろうと言っていた。

 

「柱になったら禰豆子ちゃん俺の所に嫁いでくれないかなぁ。柱に成ったらギンさんみたいに美人な嫁さん二人ももらえたりするのかなぁ?」

「いや、そもそもしのぶさん達はまだギンさんのお嫁さんじゃないし、そもそも禰豆子は絶対にやらないぞ善逸。諦めろ」

「なんでよお義兄様!!」

「俺はお前の兄じゃないぞ善逸」

「そんな冷たいことを言うな……何なんだよその顔!!何か言えよ!!」

 

 伊之助は以前より尚更猪突猛進に。

 

「牙を研ぐぞ、力を磨け!上弦の鬼を殺すのは俺だ!ついてこいお前ら!」

 

 前よりもっともっと強くなろうと、伊之助は槇寿郎さんの下でずっと励んでいる。

 伊之助の階級も、俺より高い乙だ。

 柱に近付いている善逸に勝とうと、鬼狩りの任務に励んでいる。

 

「あの夜、己の弱さを知り、己の強さを知り、そして俺の息子の強さを思い知っただろう。だがそれでも、諦めるな。強くなれ。あの時俺の息子が、お前を命懸けで守った意味を、俺に示せ」

 

 槇寿郎さんは、俺を睨みつけながらそう言った。

 強くならなければ許さないと、そう言っているように俺には聞こえた。

 

「炭治郎さん。杏寿郎は自分の使命を果たしました。ギンも、己の使命と約束を守るために今もなお戦っています。あなたも自分に決めた使命が、役目があるのでしょう」

 

 煉獄さんのお母さん、瑠火さんが、俺にそう語ってくれた。

 

 俺の使命、役目。

 

 ―――禰豆子を、人間に戻すこと。鬼舞辻無惨を倒して、悲しみの連鎖を断ち切ること。

 

 瑠火さんは静かに微笑んで言った。

 

「忘れてはなりません。己に課した使命を、約束を。杏寿郎が託した物を、しっかりと受け継いで」

「―――はい!」

 

 あの夜、上弦の壱との戦いで、俺は自分の弱さを思い知った。

 ギンさんと煉獄さんを追い詰めたあの戦いを、俺はずっと見ているだけしかできなかった。助けることもできなかった。

 

 自分の弱さに打ち負かされていたけれど、それでも足掻くしかない。今の自分ができる精一杯で前に進む。

 

 そしていつか、煉獄さんのような強い柱になると、俺は覚悟を決めた。

 

「骨が砕けるまで走り込みだ!付いて来いお前ら!」

「ね、ね、ねずこちゃぁ……」

「もうちょっとだ、頑張れ善逸!」

 

 多分、俺一人だったら、挫けていたと思う。けれど、一人じゃないというのは、幸せなことだ。

 

「炭治郎、大丈夫?」

 

 時々怪我をして蝶屋敷に行くと、カナヲがよく俺の手当をしてくれたり、一緒に稽古をしてくれた。

 ギンさんや、元"花柱"のカナエさんに鍛えてもらっているからか、カナヲはものすごく強い。俺によく助言をしてくれた。

 

「炭治郎が、その、あの時……『心のままに』って言ってくれたから……」

 

 カナヲはあの日以来、銅貨を使うことがほとんどなくなったらしい。

 恥ずかしそうに、でも嬉しい感情の匂いをさせるカナヲを見て、俺はとても嬉しくなった。

 

「ヒノカミ神楽?」

「そうなんだ。でも、無理に連発しようとすると、身体がすぐに動かなくなるんだ……」

 

 俺は、水の呼吸に適した身体ではないと槇寿郎さんにすぐに指摘された。

 始まりの呼吸は最強の呼吸。それ以外の呼吸は全てそこから派生した物でしかなく、悪い言い方をすれば劣化した物なのだと。

 

 身体がまだ日の呼吸に追いついていないか、炎の呼吸を身に着けるべきなのではないかと槇寿郎さんに言われたが、すぐに答えを出すことはできなかった。

 

「なら、混ぜたらいいと思う」

「混ぜる?」

「しのぶ様も、ギンさんの"森の呼吸"と、師範の"花の呼吸"を混ぜた呼吸法を使ってる、よ?」

「ヒノカミ神楽と……水の呼吸を……混ぜる……なるほど、そうか!ありがとうカナヲ!なんとか頑張ってみるよ!」

 

 俺はがっしりとカナヲの手を掴んでお礼を言う。なんでそんな簡単なことに気付かなかったんだろう。全集中の呼吸・常中の時もそうだった。

 カナヲにはいつも助けられている。俺がどうしたらいいか分からない時に、とてつもなく高い階段で足が進まない時に、一歩、進む力をくれた。

 

「だ、だい……じょうぶ……どういたしまして……」

「?」

 

 顔を真っ赤にしたカナヲから、どうしてか緊張している匂いがした。

 ギンさんと一緒にいる時のしのぶさんやカナエさんと似た様な匂いだけど……でも、嬉しそうだからいいかな!

 

 俺はこうして、槇寿郎さんと鍛練をして、時々蝶屋敷でカナヲと会って、任務で鬼を退治して日々を過ごしていた。

 

 

 そんなある日のことだった。

 

 

「放してください!私っ、この子はっ」

「うるせえな、黙っとけ」

 

 炭治郎はいつものように単独任務を終え、普段お世話になっているお礼にと、町のお菓子を買って蝶屋敷に向かっている最中だった。見慣れた蝶屋敷の玄関が見えてくると、入り口の辺りが騒がしい。急いで駆け付けて見ると、筋骨隆々の大男が、アオイさんとなほちゃんを米俵のように担いで連れ去ろうとしていた。

 

「やめてくださぁい」

「はなしてください~」

 

 きよとすみが泣いていて、カナヲが必死に止めようとその人の隊服を掴んでいる。

 

「音柱様、放して、ください」

「カナヲ!」

「カナヲさまーっ!」

 

「なんだ、地味娘。地味に引っ張るんじゃねえよ。お前は先刻(さっき)指令が来てるだろうが」

「……その二人は、蝶屋敷の、大切な、看護師です」

「この二人はギンや胡蝶姉妹の継子じゃない。許可を取る必要はない。さっさと放しな」

「…………!」

 

 見てもいられず、炭治郎はその大男に声を張り上げた。

 

「女の子に何をしているんだ!!手を放せ!!」

 

 確かこの人、柱合会議にいた人だ。ギンさんが言っていた、確か――"音柱"。

 

「ん?なんだ、ギンが面倒を見ている鬼を連れたガキか」

 

 すると、宇髄はアオイを担いだまま、不機嫌そうに炭治郎に向き直る。

 

「なんで煉獄とギンの奴は、こんな餓鬼に命を懸けたんだ」

「―――ッ」

「お前が弱いせいで、煉獄は死んだ。お前ではなく、あの場にもう一人"柱"がいれば、煉獄は死ぬことはなかったし、ギンは上弦の壱を殺すことができたはずだ。足手まといのお前がいなければな」

「ッ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、炭治郎は頭にカッと血が昇るのを感じ、気付けば駆け出して宇髄の頭に頭突きを繰り出そうとしていた。

 

 だが、宇髄は頭突きを躱し、門の上に音もなく飛び乗った。

 

「愚か者。俺は"元忍"の宇髄天元様だぞ。その界隈では派手に名を馳せた男。てめェの鼻くそみたいな頭突きを喰らうと思うか」

 

「アオイさん達を放せこの人さらいめ!」

「そーよそーよ!」

「放して」

「変態変態!」

「一体どういうつもりだ!」

 

 三人娘と炭治郎の一斉抗議が屋敷中に響く。普段物静かであまり喋らないカナヲも、宇髄の傍若無人ぶりに我慢できず声を出すほどだ。

 

「てめーらコラ!誰に口利いてんだコラ!俺は上官!柱だぞこの野郎!」

「お前を柱とは認めない!むん!」

「むんじゃねーよ!お前が認めないから何なんだよ!?」

 

 一触即発の空気。その時だった。

 

「何事ですか」

 

 すると、中庭の方から天の声が響く。全員が声の方を振り返ると、そこには厳しく宇髄を睨みつける胡蝶カナエが立っていた。

 

「胡蝶か」

「カナエ様……」

 

「ここは診療所ですよ、音柱様。ここの看護師を連れていくことがどういう意味か、お分かりですか?」

 

 肺を壊され、前線を引いたとはいえ元"花柱"。自分より圧倒的に体格が恵まれている、普通の女性なら相対しただけで萎縮するであろう宇髄に一歩も引かず、カナエは宇髄に問いかける。蝶屋敷を敵に回す気かと。

 

「俺は任務で女の隊員が要るんだ。こいつらはギンの継子でもなんでもねぇんだろ?お前の許可を取る必要はない」

「この娘達は私の、蝶屋敷で働く大切な娘達です。"蟲柱"が面倒を見る部下でもあります。彼女達を連れていくなら、まず私かしのぶに話を通すのが筋なのでは?」

「必要ない。前線を退いた元柱になんでわざわざ許可を取る必要がある」

「そもそも、なほは隊員ではありませんよ」

「なら、こいつはいらね」

 

 するとあっさりと、宇髄はなほを解放し、門の上から放り出した。

 慌てて炭治郎は落ちてきたなほを受け止める。

 

「なんてことするんだ人でなし!」

「わーん落とされましたぁぁぁ!」

 

「だが、こいつは連れて行く。許可がいるってんなら、ここで願おうか元"花柱"」

 

 その言葉に、神崎アオイは恐怖で凍りついた。

 鬼の恐怖に負け、戦うことができなくなった。

 

 戦いの場へ連れて行かれる。憎くて、そして恐ろしい鬼の下へ連れて行かれる。

 

 そう考えてしまうだけで、アオイの思考が恐怖で止まってしまう。

 

「許可できません」

「なら、無理やり連れていくしかねえか。そもそも、今のお前より俺の方が階級は上だ。前線から離れてるくせにしゃしゃり出てくるんじゃねえ」

 

 元"柱"。宇髄の言う通り、引退し既に身を引いたカナエは、鬼殺隊の隊員ですらない。

 以前ほどの権力はもうない。

 

 だが。

 

「はいそうですか、と引くとでも思いますか?」

 

 カナエの背後から怒気が溢れ出す。

 大切な蝶屋敷の住民を、ここで幸せに働いている娘達を戦場に連れて行くことは許さない。

 

「ハッ、派手に言うじゃねえか。ギンにはもったいない、いい女だ」

「…………」

「何ちょっと嬉しそうにしてやがんだテメェ」

「……こほん。とにかく、アオイを連れていくことは許せません」

「なら、ギンをここに連れてこい。俺が直接話をつける」

「ギンくんがここに来ても話は同じです。出直してきてください」

 

 カナエがばっさりと宇髄の言葉を切り捨てる。一歩も引かないその姿勢に賛同するように、炭治郎が声を上げた。

 

「そうです!人には人の事情があるんだから無神経にいろいろつつき回さないでいただきたい!アオイさんを返せ!」

 

 アオイが鬼を恐れてしまい、戦えなくなってしまったというのは周知の事実だ。そして、本人が戦えなくなってしまったことにひどく自己嫌悪感を覚えていることも。

 だがそれでも、鬼殺隊を支えたいと蝶屋敷で看護師を務めている。

 その想いを踏み躙ることは、誰であろうと許さない。

 

「そうよそうよ!アオイさんは早く放して!」

「アオイさんは大切な人なんだから!」

「ここにいてくれないとすごく困っちゃうの!必要な人なの!だから連れてかないで!」

「皆……」

 

 なほ達の言葉に、思わず涙ぐむアオイ。

 役立たずの腰抜け。戦えなくなった自分を、認めてくれる人がいる。

 そう想うと、涙が溢れて止まらない。

 

「ぬるい。ぬるいねぇ。このようなザマで地味にぐだぐだしているから、鬼殺隊は弱くなっていくんだろうな」

 

 宇髄は呆れたように溜息を吐いた。

 個々の感情や事情を優先していては、鬼を狩れない。鬼を殺せない。

 

 無限列車の戦いの時も、ギンや煉獄はあと一歩まで上弦の壱を追い込んだ。だが炭治郎を庇い、重傷を負ったせいで窮地に追い込まれた。

 俺より強いあの二人が、鬼を倒すこともできず、そして煉獄は命を落とした。

 宇髄天元にとって、それが耐えられなかった。

 犬死をしたのだ、煉獄は。何も残せずに、鬼に敗けた。

 唯一、ギンが生き残ったのは不幸中の幸いだが――

 

「なら、俺がアオイさんの代わりに行く!」

 

 炭治郎が叫ぶ。

 

「…………何言ってやがる」

「俺は本気だ!だからアオイさんを放せ!」

 

 こいつは、何の価値がある。

 ギンや杏寿郎は、こいつに一体何を見出した?

 確かに、鬼を連れ、妹を人間に戻す為に戦う覚悟は感じられる。柱合会議であれだけ啖呵を切っていたんだ。それなりに見所はあるだろう。

 

 だが、それだけであの煉獄やギンが命を懸けるのか?

 

 そう考え込んでいると――炭治郎の横に、二人の人影が現れた。蝶屋敷の柵を飛び越えて現れたのは――

 

「俺様は今帰った所だが、力が有り余っている。何があったか知らねえが、俺様も行ってやっていいぜ!」

「アアアアアアオイちゃんを放してもらおう!たとえアンタが筋肉の化け物でも俺は一歩もひひひ引かないぜ」

 

「善逸!伊之助!」

 

 確かこいつらは――無限列車で竈門炭治郎と共に戦っていた隊士か。

 黄色の頭。確かこいつはもうすぐ討伐数が五十体を超える、柱に近い甲の隊士。

 そして猪の被り物をしていたこいつもそこそこ鬼を斬っていたはずだ。

 

 ……こいつら三人は、ギンと、そして元炎柱が面倒を見ているんだよな…… 

 

 ギンはこいつらに、一体何を見出した?

 

 ならちょうどいい、確かめてみようじゃねえか。

 

 宇髄はにやりと笑う。

 

 

「あっそォ。そこまで言うなら一緒に来ていただこうかね」

 

 

 鬼の棲む、遊郭に。



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吉原

 この世にあの世があるのなら、吉原はこの世に産み落とされた数多ある地獄の内の一つだと、ギンは思っていた。

 煌びやかな灯り、美しき遊女、彼女達を更に美しく見立てる着物と、化粧、琵琶の音と酒。

 美しき遊女達を物にしようと多くの男の金が動く。

 商人、貴族……金にものを言わせて美女を手に入れようとここに足を踏み入れる者。

 美しい花魁を一目見ようとやってくる冷やかしの客。

 

 真っ暗な夜闇の中、灯りに照らされたこの華やかな吉原を、"竜宮城のようだ"と言う人も少なくない。

 

 けれどギンはこの吉原の、遊郭の雰囲気が苦手だった。

 最初は今回の仕事も断ろうと考えていた。しかし、ときと屋の楼主(ろうしゅ)*1からの強い願いにより出向くことにしたのだ。

 しかも、今回の報酬金はかなり割がいい。"柱"として鬼殺隊からかなりの額の給金や予算をもらってはいるが、蝶屋敷を運営する以上、医療器具、消毒薬、新しい医学書など、金はいくらあっても足りないし、あるに越したことはない。

 今後のことも踏まえある程度蓄えをしておくべきだと考え、今回の仕事を受けることにしたのだ。

 

「吉原に来たのは初めてですけど、想像と全く違いました。綺麗な人がたくさんいて、男の人達は花魁という人たちにたかる蛾のような物なんですね」

「……なんでいるんだ?」

 

 げんなりしながら横に視線を向けると、そこには堂々と大門切手*2を持つ胡蝶しのぶの姿があった。

 吉原の華やかさに目を奪われながら、それに群がる男達に軽蔑するような視線を送っている。

 鬼殺隊の証明である隊服は着ておらず、町娘のような着物に身を包んだどこにでもいるような風体で、そしてさも当たり前のようにギンの横を歩いていた。

 二人とも日輪刀を帯刀していない。廃刀令が出ている現在、刀を持って大手を振って歩くことはできず、さらに吉原に武器の持ち込みは禁じられているからである。

 もしも刀を持って歩いていれば、すぐにでも警察に追われるハメになるだろう。

 

「私は先生の助手ですよ?薬師の仕事なら、私がいるべきじゃないかと」

「いや……ていうかお前の担当地区はどうした?」

 

 鬼殺隊の柱には担当地区がそれぞれ割り振られている。決められた土地を巡回し、鬼がいないか定期的に回らなければいけないのだ。

 "蟲柱"の鹿神ギンのみ、特例で担当する地区はないが、"花柱代理"のしのぶはギンと違って担当地区が割り振られているはずである。

 

「しばらくの間は非番です。後はカナヲに任せていますから、心配せずとも大丈夫ですよ、先生」

「……ていうかなぁ。ここは遊郭だぞ?女と同伴してくるような場所じゃないだろう」

 

 胡蝶しのぶは美人である。それはもう、その辺の花魁には負けないぐらいには顔立ちが整っているのだ。

 そんな少女が白髪隻眼の男に同伴して吉原に来れば、周りの客達から注目されるのは当たり前だった。

 

「まあまあ、先生。今の私達は薬師と、その助手です。確かに女の薬師は珍しいでしょうが、こちらに後ろめたいことは一切ありません。しっかりと切手もありますし」

「ていうかどうやって手に入れたんだそれ。普通は女に発行されるようなもんじゃないのに」

「もちろん、お館様にお願いしました。すぐにカラスを通して渡してくれましたよ?」

「耀哉ァ……」

 

 今度会ったら一回殴ってやろうか。

 

「ですから、堂々としていればいいんですよ。多少奇異の目で見られようと――」

 

「お、なんだあのべっぴんさん。男と一緒に吉原に登楼とはいい度胸してんなぁ」

 

「堂々と……」

 

「馬鹿、男の方は女衒(ぜげん)*3だろ。あんなべっぴんさんを売るとはあの男もなかなか鬼畜だなぁ」

「だが随分仲睦まじそうだぞ」

「なら夫婦で観光か?」

「きっと毎晩毎晩やってるに違いねぇ!羨ましいったらありゃしねぇなぁ!」

「とんだすけこましだな夫婦そろって」

 

「堂々と、なんだ?顔を真っ赤にしてるしのぶ。言ってみろ」

「……すみません」

 

 まあ、来ちまったものはしょうがない。

 できればこんなところにしのぶを連れてきたくはなかったんだが、ここで追い返すのも悪いしな。

 

「俺の傍を離れるなよ、しのぶ」

 

 早い所、ときと屋に行かねえと。ていうかこれ以上目立ちたくない。

 そんな焦りの気持ちが生まれたからか、ギンは咄嗟にしのぶの手を握り、早歩きで向かい出す。

 

「あ……はい」

 

 手……暖かい。

 

 その様は、どこにでもいる青年と、町娘のようだったと、誰かが言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しのぶ。もし、ギンが遊郭に行くことがあったら、気を付けてあげて欲しい」

「……はい?」

 

 しのぶは呆気にとられたように、産屋敷耀哉に問い返す。

 いつものように"花柱代理"の仕事の報告をし終わり、蝶屋敷に戻ろうとした時だった。突然、お館様がそんなことを言ったのだ。

 

 ギンさんが、遊郭に行く?

 

 聡明なお館様からまさか『遊郭』という言葉が飛び出してきたことにも驚いたし、何より自分の師であるギンが、遊郭に?

 混乱していると、お館様は「ああ」と気付いたように言い直す。

 

「遊郭に行くと言ってもね、登楼することじゃないよ。ギンが鬼狩りの任務か、別の用件で遊郭に行った時は、君に付いていってもらいたいんだ」

「何故……私が?」

 

 遊郭は、男が身体を売る女性を買いに行く場所だ。女性であるしのぶからすればまったく行く理由がないし、そもそもそういった不埒なことをする場所だと言う風に教わっていた故に、生きている間は絶対に行かない場所だろうとしのぶは信じていた。

 そもそも、遊郭で働く多くの遊女は奉公という形で売られてきた女達である。

 人身売買は禁止されているが、裏では多くの娘が攫われ売られ、逃げることが出来ないよう堀に囲まれた街に閉じ込められている。

 また売られた娘達は莫大な利子付きの借金を付けられ、逃げることも許されない。

 今は蝶屋敷で暮らしているカナヲも、もしかすればここで働いていた可能性だってある。

 カナヲや、罪のない女たちが男達によって買われていく。

 考えただけでふつふつと怒りが湧き出てくるのを感じてしまう。

 

「ギンはね、昔、任務の為に西の遊郭に一月ほど潜入していたんだ。その時に、十二鬼月の下弦の弐と戦い、討伐し――今の"蟲柱"の名を襲名した。けれど、その時に深い心の傷を負ってしまった。ひどく荒れていたんだ」

「荒れていた?」

「鬼を殺すことに執着し、強い憎しみや恨みを抱くようになった。義勇が止めるまで、森を荒らしてでも、一般の人々を傷つけてでも鬼を殺そうと無茶な鬼殺を繰り返していた」

「あのギンさんが?」

 

 ギンがそんな遊郭に潜入していたと言うことも驚きだったが、森や山を守り、命を大切にすることを信条とするギンさんが、森を荒らす?

 

 想像もできなかった。

 一体、何があったんだろう。あの強い人が憎しみに怒り狂っている姿なんて、想像もできなかった。私の師は、その時何があったんだろう。その戦いの中で、何を見てしまったんだろう。

 

「一体何があったんですか?」

「……それは私にも分からない。ギンはあの時のことを語ろうとはしなくてね。私も知らないんだ。ただ――あの西の遊郭で、ギンは傷ついてしまったんだ。その傷は今もまだ、塞がり切れていない。だからしのぶ。もしもギンがまた遊郭に訪れることがあったら、手助けしてやってくれないかい」

 

 これは、君にしかできないことだから。

 

 お館様は、そう言って小さく、頭をぺこりと下げた。

 しのぶはすぐに膝を突き、頭を下げて願いを聞き届けた。

 

「御意」

 

 私に何ができるかは分からない。けれど、自分の師が何かに苦しんでいるなら、助けてあげたい。傍にいてあげたい。

 

 胡蝶しのぶが"花柱代理"に就任して二カ月の時のことだった。

 その時、しのぶは自分の心の中に芽生えていた暖かい物を自覚していた。

 

 ギンさんへのこの気持ちは、家族への心配?同情?それとも違う思いやり?

 

 ううん、きっと、この気持ちの事を"恋"と言うんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうも、鹿神先生!わざわざ足を運んでいただき、感謝いたします!」

「ときと屋さん。お久しぶりです」

 

 吉原のある店に訪れると、老人がギンを朗らかな笑顔で出迎えた。

 遊郭の知識に疎いしのぶも、この老人が"ときと屋"の楼主であることは容易に想像がついた。

 二人は楼主の案内で店の奥の客室に案内される。

 廊下を進んでいく最中、自分より幼い少女たちがこちらをもの珍しそうに見ていた。

 多分、禿(かむろ)か新造*4の娘達なのだろう。

 あんな幼い子も、ここで働いている。

 同じ女性として、少し複雑な気分を持ちながら、しのぶはギンの後を付いていく。

 

「いやぁ、懐かしい。もう八年近く前になりましょうか。西の方で命を助けて頂いたあの若者が、ここまで立派に成長しているとは思ってもみませんでした。ところで、そちらのお嬢さんは……」

「こいつは自分の助手です」

「胡蝶しのぶと申します。先生の助手を務めさせていただいています」

 

 しのぶが丁寧に頭を下げると、老人はほぉと感心したように唸った。

 

「今時の若い娘にしては礼儀正しく美しい。鹿神さんの許嫁でしょうか?」

「いやちがっ」

「いやー!それはめでたい!あの若者にも春が来ていたとは、なんとめでたいことか!」

「…………」

 

 年頃の男女が二人。

 確かに、そういう風に見られても不思議ではない。実際、これまでしのぶと共に何度も蟲師の仕事や鬼狩りの任務に赴いた。現地の人々にそう勘ぐられることも少なくはなかった。

 

「よければ、一晩ここに泊まっていきますか?最高級の部屋ともてなしをご用意させていただきますよ!鹿神先生でしたら、お代は一切頂きませんとも!」

 

「「結構です!!」」

 

 まだ嫁入り前の自分の弟子を傷物にするわけにはいかない、と顔を赤くするギン。

 ギンさんと一緒に……と想像してしまう、意外とむっつりなしのぶ。

 

「いやぁ、息がぴったりですなぁ」

 

 そう感心するときと屋の楼主だった。

 

 気を取り直したギンはさっそく仕事に取り掛かる。

 まず、ギンが薬箱から出したのは避妊薬。そして滋養強壮の薬だった。

 

「とりあえず、注文された分は持ってきました。避妊薬は一月に一度、暖かい湯と一緒に飲めば十分効果はあります。滋養強壮の薬は即効性があるので、水なしで飲んでもすぐに効きますよ」

「こりゃありがたい!大陸の薬は眉唾物の薬がほとんどで、あまり効果がなくてですね。ですが鹿神先生の薬はよく効くと有名なんですよ」

「もっと数が必要なら、また文を頂ければ調合して届けさせてもらいます」

「感謝いたします。では、代金はこれで……」

 

 ときと屋との商談は淡々と手慣れたように進んでいく。

 

「他に何か困ったこととか、必要な薬はありますか、ときと屋さん」

「ふむ……」

「もうじき寒くなりますし、風邪にも効く薬もお安くさせてもらいますよ」

「なら、それも貰いましょう。普通の医者の薬は効かん癖に金ばかり高い……だが、鹿神先生の薬だったら安心だ」

「あとは美容に効く薬もありますがいかがでしょうか?うちのしのぶも使っている効き目抜群の塗り薬」

「ちょっと、ギンさん……!」

「ほぉ、そのお嬢さんも使っているのかい。その肌のきめ細かさ、効果は立証済みときた」

「ま、元の素材がいいってのもありますが。ときと屋さんの花魁達に使ってあげれば、もっと客がつくはずです」

「口がうまいなぁ鹿神先生は!ならそれももらっておこう!」

「毎度~。しのぶ、調合頼めるか?」

「はい!」

 

 自分の師が薬を処方したり、誰かに卸す所を見るのは何度かあったが、いつ見てもその手腕に思わず感嘆する。

 蟲師として多くの人と接してきていたからか、それとも元々人と関わるのが得意なのか、ギンはこう言った商談が得意であった。もし、鬼殺隊に所属していなければ商人としても財を築けたかもしれない。

 しのぶもギンの助手として、時折その場で薬を調合しながら、ギンの商談のやり方を学んでいた。

 患者や客に適切な薬を売ること、客が何を求めているか考えるのも医者の仕事の一つだからだ。

 ギンは薬の調合の仕方は教えても商談のやり方までは教えてくれない。

 そこからは独学か、ギンから見て学ぶしかないだろう。

 

 ……もしギンさんと夫婦になったら、医者になるのかな。大きな診療所で、けが人や病人を看て、生活する。

 それか蟲師として旅をするのかな。

 それとも商人?

 どれでもいい。きっと、ギンさんと一緒ならなんだってやれるだろう。

 

 私はそれに付いていきたい。でも、付いていくためにも、力と知識をつけていかなきゃ。

 

 そして一通り商談が終わったのか、ギンと桜主は雑談を始めていた。ときと屋さんは懐かしそうに、感慨深そうに語り始める。

 

「鹿神先生。改めて、あの時は本当に助けて頂き感謝していますよ。今こうして楼主として稼げているのも、先生のおかげです」

「いえ……大したことは」

 

 二人の話を聞いていたしのぶは、思わず口を挟む。

 

「ときと屋さんは、先生と昔から顔なじみなんですか?」

「ええ。そうですよ。最初に出会ったのは飛田遊郭でしたなぁ」

 

 飛田遊郭。確か、西の方にある遊郭だ。

 お館様が言っていた、十二鬼月と戦った場所。

 

「鹿神先生は幼い子供でしたが、漢方屋顔負けの薬を調合していましてね。多くの楼主がその薬の効き目に舌を巻いたものです。私もその薬を使わせてもらいましたが効き目は段違いで!調合の仕方を聞こうとしましたが先生はちっとも教えてくれない。ある遊郭の桜主はその薬の調合書を強引に先生に迫ったんですが、大の大人が三人、あっと言う間に伸されてしまって!あの時は本当に驚きました」

 

 懐かしむように頷くときと屋の言葉に、しのぶは嬉しい気持ちになった。

 自分の尊敬する師が褒められ、心が温かくなっていくのを感じた。

 

「ですが、ある晩に火事が起きましてね。花街の半分が焼け落ちる酷い大火事でした。その時、私も火事に巻き込まれたんですが、その時に助けられたんですよ」

「火事?」

「信じられないことに、人ならざる鬼が、大暴れしていたのです。とても醜悪な鬼でした。鹿神先生は、大やけどを負いながら刀一本で勇敢にその鬼に挑んでいき!その鬼を討ち取ったんです!千軍万馬に匹敵する立ち振る舞いでした。今でも昨日の事のように思い出せます」

「…………ときと屋さん、その辺で」

 

 しのぶはそれが十二鬼月とギンさんの戦いだとすぐに察した。

 もう少し詳しく聞きたかった。ギンさんがその戦いで何を得たのか、知りたかったのだ。

 だが、ギンはあまり思い出したく無さそうにときと屋の話を止めた。

 

「おっと、申し訳ない。つい昔の話に……歳を取るとどうしてか昔話に花を咲かせたくなるんですよ」

 

 はっはっはっと愉快そうに笑う旦那さんに愛想笑いを浮かべるしのぶ。

 ……やっぱり、私に聞かれたくないのか。

 

「失礼します」

 

 すると、客室の襖が突如開かれた。

 そこに現れたのは、黒髪を結い上げ、高価な着物を来た花魁だった。優雅な雰囲気を纏ったその人は、しのぶも思わず息を呑んで見惚れてしまうほど美人だった。

 

「おお、鯉夏。よく来たね。紹介しよう、鹿神先生。この娘はときと屋の呼び出し*5"鯉夏"です」

「お初にお目にかかります、鹿神様、胡蝶様。私、このときと屋で花魁を務めさせていただいております鯉夏と申します」

 

 膝を突いて丁寧にお辞儀する鯉夏。教養と礼儀を学んだ、品格がある言葉と仕草だった。

 

「どうも。鹿神ギンと申します。こっちが、助手のしのぶです」

「初めまして」

「まあ!とても可愛らしい助手さんですね」

 

 屈託のない笑み。これが、花街にやってくる男達を魅了する花魁……。

 鬼狩りばかりに精を出してきたしのぶにとって、まるで異世界の人間と話している気分になってしまう。

 

「鹿神先生は、薬学だけでなく医術も修めておられる。鯉夏、何か悩み事があれば言ってみなさい」

「いえ……旦那様のおかげで不自由は何一つしておりません」

「そう遠慮するな。もうすぐ身請けされるのだから、憂いを残さぬようにしておくのも仕事の内だぞ」

「ありがとうございます」

 

「身請け?」

 

 訊きなれない言葉にしのぶが首を傾げる。

 

「嫁に行くってことだ。この人を嫁さんに迎えたい人がいるってことだよ」

「本当ですか!おめでとうございます!」

 

 しのぶは手を叩いて喜んだ。

 鬼殺隊に入ってからは、人が死ぬことが日常茶飯事だった。無辜の民や、仲間が、毎日のように鬼に殺されていく。だから、こうした喜ばしいことを聞くと、心が軽くなるのだ。

 

「ありがとうございます、胡蝶様」

「心から祝福させていただきます、鯉夏さん。よろしければ、何か相談事はありませんか?私はまだ浅学菲才の身ですが、私の師である先生でしたら、どんな難病も解決できますよ」

「おい」

「ふふ。ありがとうございます。そうですね……」

 

 鯉夏はそう言ってしばらく考え込むと、思い出したようにこう訊いた。

 

 

「そういえば、京極屋のある花魁が、()()()()()()()()()()()()()()にかかっているという噂を聞きました。陽の差さない部屋にいて、夜の時にしか外に出てこないという花魁がいると噂がありますので。私よりよければそちらの花魁を看てあげてくださいませ」

 

 鯉夏は、親切心から言ったつもりだった。

 自分は特に困っていることはないから、自分よりも奇病にかかった同業者を治療してほしいと。

 

 

 だが、その言葉を聞いた時――ギンとしのぶは鋭い目つきで顔を見合わせ、頷いた。

 

 

 

 その患者は、おそらく蟲患いに犯された患者か――――

 

 

 

 ――――遊郭に潜む、鬼だ。

 

 

 

 

 

*1
遊郭の経営者のこと

*2
吉原の通行証

*3
人身売買の仲介業。主に遊郭の楼主を相手にする

*4
遊女見習いの少女達。住み込みで花魁達のおつきとして働いている。

*5
最高級の花魁








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 あの日以来、鹿神ギンは日記を書かなくなった。

 

 小さい頃、それこそシシガミの森に転生し、修行を始めた頃からずっと続けていた習慣。その頃の日記はシシガミの森に置いてきてしまったものの、あの森から出た後も地味に続けていた。

 蟲の観察日記も兼ねていたついでに、何を食べたとか、誰とどんな話をしたかとか書いていた。

 鬼狩りという任務をしているため、歯抜けになることも多々あったが、八年ぐらい続けていたからかなりの量の日記になった。

 

 自分が転生者だと忘れない為の、一つの儀式だった。今思えば好き勝手書いていたため、他人に見られでもしたら切腹不可避なのだが。

 

 でも、あの日の任務を終えた後、柱を襲名してまず最初にやったことは、自分で書いた日記を焼くことだった。

 

 その時の俺は、鬼とか蟲とか、考える余裕すらなかった。ただ鬼を殺さねばという復讐心に心を潰させていた。

 

 どんな手を使ってでも。

 

 虚を使って鬼を虚穴に閉じ込めた。何度も何度も。密室に誘い込み、虚を部屋に放っただけだから、大した手間はかからない。時には四肢をもぎとり、虚を放った密室に監禁したこともあった。逃げようとした瞬間、虚穴に取り込まれるように。人を食らった鬼をあの空間に閉じ込めれば、精神を壊して永遠に彷徨う。

 

 少しでも苦しめ。簡単に殺しはしない。

 

 あの世でもこの世でもない場所で、お前さんは永遠に彷徨うんだ。

 

「許してくれ!許してくれ!」

 

 それ、お前さんが殺した連中も同じことを言っただろう。

 お前さんはそいつらの言葉を聞いたのか?

 聞かなかっただろう。お前はその願いを嘲り、哂いながら、そいつの命を喰ったんだ。

 だから当然、俺もお前の願いを聞きはしない。

 永遠に闇の中を彷徨い、苦しくなったら自害すればいい。

 何、簡単だろう?お前さん達の頭領の名前を言えば済む話なのだから。

 

 

 

 ―――人とは、鬼とは、蟲とは、なんだ。

 

 生物とは、なんだ?

 

 俺達は何の為に、命を張って鬼の頸を獲り続ける。

 人の中には鬼のような冷たい心を持った悪人がいると言うのに。

 錆兎や他の仲間が死んだのは、そんなバカみたいな連中を鬼から守るためだったと言うのだろうか。

 

「生まれついて人より多くの才に恵まれた者は、その力を世の為、人の為に使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されないのです」

 

 瑠火さん、アンタの言葉を信じていいのか、分からなくなることが時々あった。

 自分がやっていることは果たして意味があるのかどうか、そう考えてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「足抜けって言うのは、遊女が遊郭から脱走しようとすることだ。遊女って言うのは商品だからな。人として扱われない。故に、女が廓からは簡単に逃げられないように塀で囲い、万が一抜け出そうとすれば追手がかかる。監視の目も厳しい。借金抱えた女が自殺や心中したり、脱走されると大損こくのは楼主だからだ。だが、逆に言えば鬼にとっては好都合でもある。遊女が消えても"足抜け"や"病で里に帰った"ってことにすりゃ、遊郭からただ逃げ出しただけ、と言う風にしか思われない。飛田新地にいた鬼も、似た様な手口を使っていた」

 

 藤の花の香を焚いた、ときと屋の客室でギンはしのぶに説明する。

 鬼がどこから聞いているか分からない。警戒したギンとしのぶは、ときと屋の主人に藤の花の香を渡し、屋敷中に香を焚かせておいた。

 とりあえず、これで鬼が中に侵入してくることはなくなる。

 お香の香り自体も、そこまで悪くはない物だ。遊女屋の香ということにすれば、そこまで違和感はない。

 

「どうしたもんかね」

「その人が蟲患いによる患者だという可能性は?」

 

 しのぶが覚えている知識によれば、陽に当たることができなくする蟲も何種類かいたはずだった。

 

「ある。そもそも、遊女はあまり医者にかからないからな。今まで見過ごされていた……と言う風にも考えられる」

「それは……困りましたね。直接会わない限りはっきりと判別できない」

 

 遊女は楼主から借金をつけさせられた身だ。

 食費や着替え、化粧などの生活費は全て遊女の自己経費になる。楼主が負担してくれることもあるようだが、そのような気前のいい楼主は多くない。

 当然、病にかかった時にかかる治療費や薬代も、全て遊女の自己負担となる。払えない場合は楼主へのツケとなり、借金が膨らむ。それを危惧し、病にかかりながらそれをひた隠しにして働く遊女もいるし、無理がたたって命を落とす遊女も何人もいる。

 要は、人が定期的に死のうがいなくなろうが、不思議ではないのが、この吉原という場所なのだ。

 

「だが、万が一のことを考えて俺達はその遊女を鬼と仮定して動くべきだろう。鬼も俺達の存在に気付いていると想定して動く」

「珍しく強めに警戒するんですね」

「吉原は狭い。誰がどう死んだとか、どんな奴がここに訪れたかすぐに情報は周るんだ。向こうが俺達のことに気付いていると考えて動いた方がいい」

 

 建前上は薬師として動いている二人は、かなり見た目が目立つ。方や白髪の大男に、もう一人は花魁にも引けを取らない美しい少女。

 ときと屋に来るまでの間に、かなりの注目を集めてしまった。

 この日は鬼を殺す任務で来るつもりがなかったから、二人とも刀もない。

 急いで刀だけでも持ってこさせようと隠に文を持たせたが、ここからすぐには動けない。

 

 幸い、ときと屋の楼主は鬼に理解がある。藤の家紋を掲げてはいないが、協力は惜しまないと約束してくれた。

 聞けば、ときと屋でも数年前から遊女が消えることが多々あったそうだ。それも、一等美しい娘ばかりが狙われたかのように姿を消す。つい最近も、須磨と呼ばれる花魁が姿を消したらしい。「足抜けする」と言う日記だけを遺して。 何故か派手柱の嫁と同じ名前だが、偶然の一致だろうと考えておく。もし須磨が消えたのなら、あの筋肉男がここにいないわけがないのだから。

 花魁達が消える原因がなくなれば、楼主としても願ったりかなったりだ。しばらくここで寝泊まりしてもいいということで、ギンはありがたくその厚意を受けることにしたのだ。

 

「とりあえず俺達は情報収集だ。幸い日が暮れるまでまだ時間はある。この時間帯なら鬼も出てこない。だが、万が一も考えても二人で行動する。まずは須磨花魁の行方と、京極屋の奇病にかかった遊女の調査だ。薬師として各店を回りながら情報を集める。何か質問はあるか?」

「大丈夫です。刀も夜には隠の方が届けてくれるはずですから、万が一こちらの動きに気付かれても、すぐに戦闘に入れます」

「……あまり気を張るな、しのぶ」

「いえ……」

 

 しのぶとしては、気が気ではなかった。

 まさか、遊郭で鬼が出るなんて。よりにもよって、ギンさんが来ている時に限って。

 

 しのぶの目から見たギンは、普段通りの冷静な師匠に見えた。

 

 けれど、長い間弟子として師事を受けていたしのぶから見ると、少しぴりぴりしているように見えた。苦虫を口の中で噛みつぶしているような。警戒心がいつもより高いのがその証拠だ。

 どうしてそんな顔をしているのか、しのぶには分からない。

 ……理由が分かれば、少しは力になれるかもしれないのに。

 

 

「よし行こう。まずは荻本屋からだ」

「はい」

 

 

 今は、考えている暇はない。私は、"蟲柱"のたった一人の弟子なのだから。

 いつまでも、守ってもらってばかりじゃいられない。

 

 姉さんを、私を助けてもらった恩を返すんだ。

 

 強い決意を胸に、しのぶはギンの跡をついていく。

 

 もう弱い自分じゃない。ギンさんと共に戦うと決めたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ギンとしのぶは、それぞれの店で様々な薬を売りながら情報を集めた。

 避妊薬、風邪薬、解熱剤、喉の薬。手や足の荒れや、冷え症に効く塗り薬などを格安で売りまわりながら、楼主や遊女に消えた遊女たちの情報を聞いて回った。

 ギンが説明した通り、吉原内でギンやしのぶについての情報は驚くほど早く回っていた。ときと屋に、腕利きの薬師夫婦が訪れていると。

 その事を聞いてまた顔を赤くしていたしのぶだったが、すぐにその余裕もなくなった。

 

 病に伏せていた遊女を診察していく中で、梅毒*1で苦しんでいる遊女がいたからだ。

 

 

「苦しむことに飽きんした……先生……どうか、どうか楽にしておくんなんし……」

 

 

 痛みのあまり涙を流しながら懇願する患者に、しのぶはどうしたらいいか分からなかった。

 鼻が欠け、身体中に浮かび上がる発疹。元々は大層美しかったであろう遊女をここまで醜く、灯りの下では見られないような醜悪な姿にさせてしまう病に、手が震えた。知識として梅毒について知っていたが、想像以上に悲惨な有様だったからだ

 ギンとしのぶは薬師として、医者としてこの時代では高い技術を持っている。しかし、この時代には性病を治す特効薬はまだない。

 皮膚が腐り、骨や内臓、脳にまで毒が回るその病は、苦しみのあまりギンに「楽にして欲しい」と懇願するほどだった。

 

「先生……どうにか、できないのですか……?」

「……痛み止めを用意しろ」

「先生!」

「ああ……ありがとう……」

 

 "木霊"と呼ばれる蟲がいる。薄紅色の、泡状の液体をした蟲がいる。

 その蟲は樹に宿り、木霊が住み着いた樹は群を抜いて長生きをし、美しい花を咲かせる。樹に長寿を与える、まさしく木の精霊とも言うべき蟲だ。

 時折、木霊が宿った樹は泡状の樹液を出すことがある。

 その樹液は生きた木霊で、それを動物や人間が呑むと長寿を与え、代わりに五識のいずれかを奪う毒となる。

 

「注射器の用意ができました……」

 

 悔しそうに歯噛みしながら、しのぶは注射器を用意する。

 木霊の薬を入れた液体を入れた注射器だ。

 

 ギンは木霊を研究し、五識の内、痛覚だけを麻痺させる特別な薬を創りだした。

 木霊の液と、様々な薬草を混ぜ合わせて作った特別な麻酔薬だ。

 とても強力な薬で、量を間違えれば永遠に意識が目覚めないこともある。

 だが、少量であるならば効果的な痛み止めとして使うことができる為、怪我人の手当や手術を頻繁に行う蝶屋敷では、"光酒"の次に重宝する薬だ。

 そして、重症、重病人の患者……もう助からないと判断された者の痛みを取り除く薬でもあった。

 

「しのぶ、お前は出ていろ」

「……はい」

 

 しのぶは部屋の外へ追い出される。

 

 木霊の痛み止めは、患者を安らかに眠らせる。つまり、不治の病や重傷の者を苦痛なく殺す行為でもあった。

 

 ギンの弟子に入ってから五年。

 しのぶは、安らかに眠らせる目的で、木霊を患者に打つことは、許されていなかった。

 

「ありがとうございます先生……」

「いえ。自分は何もしてません。ただ痛みを取り除き、眠らせただけです」

「ですが先生、見てください。あんなに痛みで苦しんでいたのに……今はもう、眠るように穏やかな笑みを……」

 

 違う。眠っているだけだ。痛みを取り除いただけで、この遊女は根本的に救われていない。

 鼻が欠け、遊女としての価値はなく。

 そしてその身に巣食う病魔を治療したわけでもない。ゆるりと死に向かっている。

 何も助かっては、いないのだ。

 

「平気か?しのぶ」

「はい。先生こそ……大丈夫ですか?」

「俺はもう慣れたもんだよ」

 

 今にも泣きだしそうなしのぶの頭を、ぽんぽんと撫でるギン。

 同じ女として、遊郭で苦しむ遊女にいろいろ想うことがあったのだろう。その表情は息が詰まったように重く苦しい。

 蝶屋敷や、鬼との戦いで死にゆく人を看取ったことは何度もあった。

 けれど、何度やっても慣れないし、慣れたくもなかった。何もできず、ただ無力さに打ちひしがれるのは、何度も味わいたくはない。

 

「行くぞ」

「はい」

 

 けれど、自分達の仕事は鬼殺隊。

 今は治療ではなく、情報収集が仕事だ。

 自分に万人を救う力はないことは、ずっと前から知っている。

 けれど、鬼を倒せばもっと多くの人を助けられる。

 

 そう信じて動くしかない。

 救えない命もあったが、おかげで多くの情報を得ることはできた。

 

「荻本屋も一見ただの遊女屋だな。だが……」

「ええ。嫌な気配がします。鬼か、血鬼術か……」

 

 一通り荻本屋での治療を終えた二人は、楼主の願いである遊女の部屋へ向かっていた。

 その遊女は昨夜から体調不良を訴えて部屋に閉じこもっているらしい。他の禿(かぶろ)の看病も受けたがらず、誰とも会わないようにしているとか。

 そしてその花魁の名は、ギンとしのぶは聞き覚えがあった。

 

「"まきを"って、宇髄さんの奥さんですよね?」

「ああ。ときと屋から姿を消したらしい須磨ってのも、おそらく宇髄の嫁さんだ。ここに潜入していたんだ……」

 

 宇髄天元は愛妻家だ。しかも嫁が三人いる。

 まきを、雛鶴、須磨の三人のくのいちだ。

 

 鬼殺隊としても優秀で、音柱として戦う宇髄をサポートする形で鬼殺の任務を行っている。

 宇髄と酒を呑むときは必ずと言っていいほどのろけ話を聞かされていたし、しのぶが開発した藤の花の毒を求めて蝶屋敷に訪れたことも何度もあった。鬼殺隊に女性隊士は少ない為、しのぶにとって良き友人であったし、柱と結婚している三人に恋愛の秘訣などをカナエと一緒に聴いたりしていた。

 しのぶにとって気のいい姉のような友人だった。

 

「ここ最近ずっと顔を合わせていませんでしたが、ここに潜入していたんですね」

「となると、宇髄の奴はどこに行ってんだ……」

 

 ギンはそう言いながら、手元にメスを用意した。刀に比べるとどうしても見劣りするが、日輪刀と同じ材料で作った特別なメスだ。やろうと思えば鬼の頸も斬れるが……。

 

 鬼が出るか、蛇が出るか。

 

 そう思いながら、そっと「まきを」が閉じこもっている部屋の襖を開いた。

 

「!」

 

 中はひどい有様だった。

 着物は辺りに散乱し、化粧台や壺などの調度品が壊されてしまっている。

 そして壁や天井には、獣……いや、刀で切り裂いたような傷跡が幾重にも刻まれていた。

 

「ギンさん!」

「ああ、ドンピシャだ!」

 

 どこに逃げた?

 襖は閉め切られていた。窓も開いていた様子はない。この部屋にはついさっきまで人がいたように感じる。微かにだが血の匂いがする。

 

 でも鬼の姿も、ここにおそらくいたであろうまきをの姿もない。

 

 なら――

 

「天井裏!」

 

 ギンは呼吸を使ってメスを天井に向かって投擲した。

 日輪刀と同じ材質でできているメスは切れ味も鋭く、刀に引けを取らない。

 真っ直ぐに向かって飛んでいくメスは、天井を貫通した。

 

「ギャアアアアアア!!!」

 

 すると、野太い女のような声が響き、天井裏から何かがのた打ち回るような、何かが暴れ回るような音が響く。

 

「しのぶ!」

 

 ギンが声をかけるより早く、しのぶは天井の板を外し、天井裏に潜り込む。

 小柄なしのぶは足が速く、身軽だ。軽々と天井裏に身体を忍び込ませたしのぶは薄暗い天井の中で辺りを見渡す。

 

 鬼の気配はない。

 外はまだ陽が昇っているから、外に出ることはできない。おそらく壁や天井裏を通ることができる鬼なんだ。

 天井裏は狭く、身体を低くしないと通ることもできない。

 

「はぁ……!はぁ……!」

 

 暗闇の中、いつ、どの瞬間に鬼が現れるか分からない。相手は暗闇を自由に動き、こんな狭い場所を自在に動ける鬼だ。ここで戦うのは圧倒的に不利。

 今この瞬間にだって、鬼が飛び出してきてもおかしくない。

 鬼と戦った回数は何回もある。けれど、いやに自分の心音と、荒い息遣いが耳に残る。

 しのぶは屈みながら素早く、天井裏を索敵する。

 

「くそっ……!しのぶ!深追いするな!」

 

 体格が大きいギンでは天井裏に入ることもできない。無茶をすれば天井を破壊することもできなくはないが、仮に鬼が出てきた場合、今の装備では戦うことができない。

 

 この遊郭にはかなりの数の人がいる。その中で戦えば、どれだけ被害が出るか分からない。

 

 ――――ドタン、バタン!

 

 天井裏から、更に大きな音が響く。天井裏をしのぶが走り回っている音だ。

 

「!」

 

 そして――

 

 天井に亀裂が入り、木でできた板が抜けた。

 大きな音を立てて廊下の天井に穴が開いたのだ。

 

「しのぶ!」

「ギンさん!まきをさんを保護しました!」

 

 天井裏の埃と、木材の破片だらけになったしのぶが抱えていたのは、気を失ったまきをの姿だった。

 体中に浅く切り傷があり、出血しているが致命傷ではない。

 

「鬼の姿は?」

「見当たりませんでした!おそらく、さっきのメスが当たって逃げたみたいです!」

 

 

「きゃー!」

「何、今の音?」

「なんでぇ!うるせえぞ!」

 

 建物中に響いた騒音を聞き付けた人達が階段を上がってくる音がする。

 

「ちっ、面倒だな」

 

 天井をぶっ壊し、そして傷ついた花魁。肝心の鬼も、姿を消している。疑われるのは明白だ。

 ここで足止めを喰らっている間に、鬼がまた戻ってこないとも限らない。一刻も早くここから出なければ。

 

「しのぶ、逃げるぞ。先導する!」

「はい!」

 

 しのぶがまきをを負ぶさるのと同時に、ギンは木戸を蹴破り、そこから飛び出した。

 となりの建物の屋根に上ったギンとしのぶは、そのままときと屋まで走っていく。

 

 

 ―――これではっきりした。この吉原のどこかに、鬼がいる。

 

 それもかなり巧妙で、賢い鬼だ。

 

 鬼がいる。この吉原に。

 

 水子の命を。女の命を。人の命をゴミ屑のように喰らう悪鬼が、どこかにいる。

 

 

「ギンさ―――」

 

 

 まきをを背負いながら走るしのぶは、自分の前を走るギンの顔を見た。

 

 

 その表情は、憤怒だった。

 

 

 哀しくて辛そうで――怒りに染まった顔だった。

 恐ろしいほどに。

 

 本当にこの人は、私が知る鹿神ギンだったのだろうか。

 

 どうして、そんな顔をしているんですか。

 

 しのぶはそう訊くことができなかった。

 

 もし聞いてしまえば、今度こそこの人はどこか遠くへ行ってしまいそうな――あの時、常闇の中に姿を消した時のように、二度と会えなくなってしまうような気がして、しのぶはそれ以上何も言わず、ときと屋に向かった。

 

 

 

*1
性病のこと



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 三年ほど前、無限城に百十三年ぶりに上弦の鬼が集められた。

 

 無惨様の側近である琵琶女によって、上弦の鬼が全員、集められた。そこに呼ばれる時は、十二鬼月の、上弦の鬼の内の誰かが鬼狩りにやられた時だけだ。

 

 "上弦の壱"黒死牟。

 "上弦の弐"童磨。

 "上弦の参"猗窩座。

 "上弦の肆"半天狗。

 "上弦の伍"玉壺。

 

 そして、アタシ"上弦の陸"の堕姫。

 

 集められたアタシ達に無惨様が告げたのは、十二鬼月の一人である"上弦の弐"童磨が鬼狩りに殺されたという報せだった。その言葉の節々には、無惨様の苛立ちが滲み出ているように感じた。

 白い髪に翠の目をした隻眼の男と、黒髪の無表情の男が殺したらしい。

 

 蟲師、と呼ばれる、怪しげな薬を使う薬師の鬼狩りだと、無惨様は仰った。

 

 無惨様は大変お怒りだった。上弦の、しかも上から弐番目の童磨を殺されたのだから、不愉快なのは当然だ。無惨様はアタシ達に強くあれ、人間を喰い続けろと望んでいる。鬼狩りを滅ぼせと。青い彼岸花を探せと。

 それなのに童磨は、無惨様から弐番目の数字を頂いていたのに、情けない奴。

 アタシは内心、童磨を心の中で哂っていた。

 

 童磨は、アタシ達が死にかけていた時に無惨様の血を分けてくれた鬼。云わば命の恩人でもある。

 

 でもアタシはあの空っぽの表情が気に喰わなかった。へらへらとアタシ達に「助かってよかったね」と、善人のように笑う薄っぺらさが大嫌いだった。

 お兄ちゃんも童磨のことは気に喰わなかったみたい。というより無惨様含めて全員が童磨の事を疎ましく思っていた。元々、鬼同士馴れ合うこともほとんどないと言うのもあるのだけれど。それでも強かったから、上弦の弐の立場を手に入れた。

 感謝はしても好きにはならない。

 だから、死んでしまって正直清々した。食い物でしかない人間を、救わなきゃいけないだとか微塵も想ってもない癖に、教祖の使命だとか言って女を貪り喰らっていた。心底吐き気がする奴で、死んでざまあみろとしか思わなかった。

 

 唯一、猗窩座と黒死牟だけはその童磨を殺した鬼狩りに興味があったみたい。武芸者の矜持だとか血がうずくとか言ってたけど、馬鹿みたい。

 

 アタシ達に仲間意識なんて必要ない。無惨様のお役に立つという役目だけ、全うできればいい。童磨は強い鬼だった。けれど、油断していた。慢心していた。

 アタシはそんなヘマはしない。アタシは、お兄ちゃんは、そいつを絶対殺す。

 

 無惨様を不愉快にさせた。それだけで万死に値する。

 

 吉原で人を喰っていれば、いずれ噂を聞きつけた鬼狩りがやってくる。 

 柱が来るなら更に都合がいい。アタシとお兄ちゃんは無敵なんだから。いずれその蟲師とやらも殺してやろう。

 

 もっともっと人を喰って、美しく、強く、残酷になる。

 

 いずれ上弦の、もっともっと上になって無惨様のお役に立つ。 

 

 童磨が死んでしまったのならちょうどいい。

 

 アタシ達がその後釜になってやる。

 

 永遠にアタシは美しく強くあり続けるのだ。

 

 

 

 そして―――思ったより、その機会は早く訪れた。

 

 

 

 "上弦の壱"黒死牟が、その鬼狩りと戦い、深手を負った。

 

 上弦の壱、黒死牟の強さはアタシ達の中で別格だった。三百年も昔に鬼になり、上弦の壱に上り詰めてからは一度たりとも敗北しなかった鬼。十二鬼月の中の古株。そして最強だった。

 その鬼の強さは、あの無惨様でさえ一目置いておくほどで、アタシやお兄ちゃんでも太刀打ちできないほどに強かった。

 

 けれど、再び無限城に呼び出された時、あの黒死牟の姿は見るも惨めに成り果てていた。

 鳴女に呼び出され、最初にその姿を見てしまった時は、アタシも思わず息を呑んでしまった程だ。

 左腕を喪い、顔の左半分は火傷をしてしまったように黒く爛れている。着物に隠れて見えないが、おそらく左半身も似た様な状態だろう。肉が焼けたような匂いが漂っているから。

 六つあった鋭い眼は、左の眼三つが火傷で覆いかぶさるように潰れている。恐らく、左の眼はもう機能していない。

 鬼の回復力はどうしたの?どうしてその傷、治ってないのよ、治さないのよ?

 

 黒死牟と向かい合うように――上弦の伍の玉壺が、汚らしく醜い笑みを浮かべながら、黒死牟を見ていた。

 まるで今から決闘をするかのように、空間の中央で睨み合っている。

 

 私はそれを見て察した。

 

 ―――入れ替わりの血戦だ。

 

 玉壺の奴が、黒死牟が弱まったと言う情報をどこからか掴んだのか、入れ替わりの血戦を申し込んだのだ。

 その立会人の一人として、アタシや他の上弦の鬼が呼ばれた。

 二人を囲むように、戦いを見届ける役目を負わされたのだ。

 

「見ての通り、上弦の壱である黒死牟は鬼狩り――蟲師に深手を負わされた。私が分けた血を封じる何かを仕込まれたのだ」

 

 十二鬼月にどよめきが走る。

 鬼の力を封じる?鬼狩りは、その蟲師は、そんな手段を持ち合わせているのか?

 

 半天狗の(ジジイ)は怯えを隠さず地面に蹲って震えているし、猗窩座は口惜しそうに黒死牟を見つめていた。

 

「そして、玉壺が入れ替わりの血戦を申し込んだのだ。黒死牟に」

 

 無惨様が簡単に今の状況を説明してくださった。どちらが勝つのか分かりきっているのか、無惨様は心底愉快そうに向かい合う二人を見つめている。

 

 ……確かに、上弦の壱は今まで見たことがないほど疲弊している。

 不死身とも言える回復力を失った鬼など、上弦の鬼(アタシ達)からすれば脅威でもなんでもない。

 基本的に鬼同士の戦いは不毛だ。互いが不死身であるが故に、戦い続けても決着がつかないことがほとんど。だから共食いをするか、陽の光に焼くまで弱らせるのが、鬼同士の戦い方。けれどその肝心の再生能力を失われれば、あっさりと決着が着く。

 

 けれど、何故だろうか。

 隻腕の剣士。鬼本来の回復力が封じられてしまって、恐れるに足りぬ、弱々しい存在に見える。

 けどどうしてだろうか。

 

 今の黒死牟の立ち振る舞いは、以前より鋭く、美しい刀を連想させる。地獄のような炎で鍛え上げられたような、真っ黒な刀を思い浮かばせた。

 

「ヒョッ!いやはや、あの黒死牟殿も地に堕ちましたなぁ。貴方が鬼狩りにそこまで深手を負わされるなど!ヒョヒョッ」

「……」

 

 壺から半身を出し、挑発するように笑う玉壺の言葉に、黒死牟は何も言い返さない。

 

「私、心が躍りましたとも!ついに私が十二鬼月の頂点に立てると!剣士の命である片腕を失い、そして傷を再生することもできない上弦の壱など、恐れるに足らず。貴方はもはや上弦の壱の器ではない。上弦の壱にふさわしくない。ついに私が、この玉壺が貴方の席を奪う時が来たのです!」

 

 ご機嫌そうに語る玉壺は、自分の勝利を確信しているようだった。

 もうすぐ自分が上弦の壱になる。そう信じて疑わない笑み。

 

 あんな奴がアタシより上だなんて、本当に吐き気がする。いつかアタシ達が殺してやろうと思っていたのに。

 本当に不愉快。醜い見た目も、その汚い声も。

 

 だが、黒死牟の反応は冷ややかだった。

 

「御託は……いい……」

「ヒョ?」

 

 黒死牟は、器用に片手だけで刀を抜いた。

 ……以前まで、その刀は鬼の細胞で強化された刃だったはずだった。

 しかし、今あの男が握っているのは、どこからどう見ても、普通の刀で。

 

 この世の闇を写した様な()()()()だった。

 

「……傷が疼くのだ……」

 

 黒死牟は語りかける。

 だが、アタシには玉壺に語りかけているように聞こえなかった。

 まるで別の誰かを、ここにいない誰かと話しているように見えた。

 

「お前を殺せと、傷が疼くのだ」

 

 

 

「……舐めるなよ、老害」

 

 

 

 

 そして上弦の壱と上弦の伍の"入れ替わりの血戦"が始まり―――

 

 

 

 

 

 

 その決着は、一瞬で着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「月の呼吸改め」

 

 

 

 

 

 

 

 

"月蝕(つきはみ)の呼吸 壱ノ型 悪月(あくづき)"

 

 

 

 

 

 一応言って置くけど、アタシはその瞬間、決して瞬きなどはしていなかった。

 

 

 

「ヒョ?」

 

 

 

 気付いた時には、玉壺の身体は四分五裂の肉塊と化した。ぶつ切りにされた肉が辺りに散乱し、それと同時に玉壺の後ろにあった無限城の空間の一部は、玉壺の身体と同じようにバラバラにされて崩壊した。

 

 玉壺の血液が破裂したように床を濡らし――私達はそれを見て驚き、そして無惨様は恍惚と言わんばかりの笑みを浮かべた。

 

 そしてそれを見た黒死牟は――

 

 

「まだだ……。まだ足りぬ……」

 

 

 今の自分が繰り出した技が、まるで不出来で不完全だったかのように不機嫌そうに顔をしかめ、刀を鞘に納めた。

 自分の技に納得していない。上弦の鬼のアタシ達の目にすら映らなかった、仮にも上弦の伍である実力者の玉壺を一瞬で仕留めたと言うのに。

 

 嘘でしょ。あの領域に至っても、まだ満足しないの?

 

 

 それより何よ、今の技。血鬼術でもなんでもない。

 それは、()()()()()()()()じゃない。

 剣に詳しくないアタシでも、黒死牟の腕前が凄まじいことだけは分かった。

 今までアタシは七人の柱を、お兄ちゃんは十五人の柱と戦って、喰った。

 けれど今の技は、そのどれよりも迅く、どんな技よりも鋭かった。

 

 鬼の回復力は封じられ―――けれど、どうしてか以前より力が増している。鬼の怪力が、速さが、アタシ達の比にならないほどに。

 

 その瞬間、アタシは、アタシ達は分かった。理解してしまった。

 

 例え腕を失おうとも、鬼の回復力を失おうとも、上弦の壱は、最強の名は健在であると。

 

「何故だ!どうして私の身体がぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 痛みにもだえ苦しむように、納得がいかないように玉壺が耳障りな声で叫ぶ。

 

「何をしたのだ黒死牟!お前は弱くなったはずだ!片腕を使えなくなった貴様がどうして!!血鬼術も使えなくなった貴様が何故!!鬼の私を遥かに凌駕する!?私は以前より更に強くなった!いずれは上弦の壱になろうと人を喰らい続けた!それなのに何故貴様は―――!」

「黙れ」

「ケプッ」

 

 肉塊となりながら喚いていた玉壺は、無惨様によって口の部分を潰された。

 

「…………」

 

 身体を切り刻まれ、無惨様によって力を押さえつけられたのか――玉壺はそれ以上動かなくなった。

 死んではいないが、おそらくあれはもうダメだ。

 入れ替わりの血戦を挑み、敗北した者に待つのは死よりも惨めな最期だ。今まで何度も見てきた。もう、玉壺は、上弦の伍の存在価値は失われた。

 

「さすがだ、黒死牟。腐酒に適合しただけはある。その力があれば、鬼狩り共の命、全て斬り伏せよう」

「……」

 

 無惨様の賞賛に、黒死牟はただ静かに頷いた。

 

「玉壺。お前にはほとほと失望した。自分の身も弁えず入れ替わりの血戦を挑み、その有様か」

「わ"だ……じは……」

 

 地面に転がる口の部分を震わせるように、玉壺は何かを懇願する。

 

「上弦の鬼に、弱い者はいらぬ」

 

 無惨様はそう言って、玉壺の肉を踏みつけた。

 

 ぐちゃりと肉が潰れる音がし、上弦の伍は、この世から姿を消した。

 

「十二鬼月は再編する。猗窩座、半天狗、そして堕姫と妓夫太郎よ。お前達に私の血をふんだんに分けてやる。そして殺すのだ、花札のような耳飾りをつけた剣士を。白髪に翠の眼をした蟲師を。そして忌わしい産屋敷が率いる鬼狩り共を。そうすれば、更に私の血を分けてやろう。青い彼岸花を、奪い返すのだ」

 

 あれは、私が完璧な存在になるための花なのだから。

 

 

 

 

 

 

"上弦の壱" 黒死牟

 

「我が剣技……未だ劣らず、いずれ空に浮かぶ太陽さえ斬り伏せるのみ。猗窩座よ……お前も俺に挑んでみるか?」

 

 

"上弦の弐" 猗窩座

 

「……いつか貴様は俺が殺す。それまで頸を洗って待っておけ」

 

 

"上弦の参" 半天狗

 

「恐ろしい恐ろしい……黒死牟殿の強さが以前より増しておる……それもあの恐ろしい酒の力……ああ、恐ろしや……」

 

 

"上弦の肆" 堕姫

 

「感謝いたします無惨様……!もっと強く……もっと美しくなりますわ……!」

 

 

"上弦の伍" 鳴女

 

「…………」

 

 

 

 

 

 

 

 玉壺は死に、欠けた十二鬼月の座は、繰り上がる形で埋められた。

 そして、アタシ達は無惨様から多くの血を分けて頂いた。

 

「頃合いだ。そろそろ私も、あの産屋敷一族……鬼狩り共との因縁に決着を着けねばならぬと考えていた。お前達に更なる血を与えよう。もっと大勢の人間を喰い、更に力をつけ、そして産屋敷一族諸共、忌々しい鬼狩り共を滅ぼすのだ」

 

 ああ、力を感じる。今なら誰にも負ける気がしない。

 

 これで、鬼狩りを殺す。

 

 無惨様の血と共に、頭の中に流れ込んでくる映像。

 

 緑の眼をした白髪の男。黒死牟に傷を負わせた、油断できない鬼狩の柱。

 

 確か名前は、鹿神ギン。

 

 鹿の神だなんて弱そうで笑っちゃう。でも、なかなかの男前。アタシ好みだ。綺麗な翠の眼をしている。眼だけほじくり出して食べてあげよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、とうとうその鹿神ギンと言う鬼狩りが吉原にやってきた。

 

 美しい少女を連れていた。どうやらその蟲柱の弟子らしい。可愛らしい少女で、その男を随分と慕っているようだった。

 アタシの存在に気付いているみたいだけど、関係ない。柱が何人来ようとも、アタシ達に敵う訳がない。

 

 

「ふふっ」

 

 

 あの女、本当に綺麗。しっかり喰ってやろう。アタシの更なる美貌の為に。

 

 あの男は、もし弟子が目の前で喰われたら、一体どんな顔をするのかしら。どんな顔で泣き喚くかしら?

 それとも――あの女の前で蟲師を殺せば、どんな叫び声をあげてくれるのかしら?

 

 自分が慕う師が、目の前で食い殺される。想像しただけでワクワクしちゃう。

 

 ああ―――今から本当に楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ときと屋に到着したのは、夕暮れ頃だった。

 遊郭は夜、眠りから目が覚めたかのように店から灯りが漏れ始める。

 

 仕事を終えた男達が、今宵も女を買おうと通りは人で溢れ返る。

 

 この廓に鬼が潜み、それと戦う剣士がいることも知らずに、女達は男を誘惑し続ける。白粉を肌に塗り、唇に紅を塗り、男共の心を蠱惑する。

 灯りに集められた蟲達は、陽に集められた蛾のように、銭をばら撒く。

 

 一日に何百万と金貨が動くこの吉原で目覚めるのは、そんな人を呑みこむような欲だけではない。

 

 

 夜は、月が空に浮かぶ時間は、鬼達が起きる時間だ。

 

 

 ギンとしのぶは客達に気付かれないよう、声を潜め、足音を立てないように静かに薄暗い屋根の上を駆け抜ける。

 

 気を失ったまきをを背負ったまま、屋根伝いにときと屋の二階に窓から侵入すると――

 

「……炭治郎?何してんだ?」

 

 女装した弟弟子が鯉夏の世話をしていた。

 

「ギンさん!?しのぶさん!?どうしてここに!?」

「控えめに言って、ひどすぎる化粧ですね……」

 

 しのぶが呆れたように眉をしかめた。炭治郎は顔中を白粉で無理やり塗りたくられ、紅で唇を塗られ、ぽつんと眉を描かれている。俗に言う麻呂眉だった。

 どぎつい化粧の上になんでこんなところにいるかは謎だが、顔見知りがいるのはちょうどいい。一瞬「女装癖に目覚めて遊郭に働きに来たのか」と頭が混乱してしまったが、この弟弟子に限ってそんなことはない。と、思いたい。

 洞察力に優れているギンも、さすがに困惑するばかりだ。少し自信は持てない。だが今は弟弟子の女装についてあれやこれや突っ込んでいる暇はない。

 

「し、鹿神様、胡蝶様!?その背負っている方は……!?」

 

 驚いたのか、口元を抑えながら鯉夏は慌てふためく。楼主の客人が突然窓から、しかも傷を負い気を失った花魁を背負って現れたのだから、驚くのは無理もない。

 

「説明はあとでする。鯉夏さん、清潔な布と暖かい湯を持ってきてくれ。この人を今から手当する」

「は、はい!」

 

 さすがときと屋一の花魁か、ギンの言葉を聞くとすぐに気を持ち直し慌てて下の階へ向かっていった。

 

「炭治郎は俺に着いて来い。いろいろ話さなきゃいけねえからな」

「はい!」

 

 

 

 

 

 まきをの手当は滞ることなく完了した。

 

「打撲に浅い切創、出血も少なく、脈も正常です」

「とりあえず、目が覚めるのを待つべきか」

 

 薄暗い部屋。外はもう日が暮れ、室内を照らすのは蝋燭の揺れる火だけだ。まきをは包帯や布でしっかりと止血を施され、静かに寝息を立てている。もうしばらくすればすぐに目を覚ますだろう。

 

「あの……ギンさんとしのぶさんは何故ここに?」

 

 普段の格好に着替えた炭治郎は、困惑が解けないような表情で手当てを終えた二人に問うた。同じ鬼殺隊に所属し、自分の上司でもある二人に対していつまでも女装する必要はないと考えたからだ。

 というより、「その格好は眼に毒だからはやく着替えろ」とギンにジト目で言われたからと言うのが一番の理由だった。ちょっと自信あったのに。

 

「俺達は薬師の仕事でここに来ただけだ。このときと屋の楼主は俺が昔、鬼殺の任務で助けた一般人でな、その縁でここを拠点にさせてもらっていた」

 

 藤の花の香は、今この部屋では焚かれていない。箱の中に眠っている禰豆子にも毒だからだ。

 

「薬を売っている最中に、ここに鬼がいると言う情報を掴んだんだ。まきをを見つけられたのはほとんど偶然だな」

「そうだったんですか……」

「で、炭治郎。お前を女装させてここに潜入させたのは宇髄の指示か?」

「はい。俺は宇髄さんに、店に潜入した須磨という花魁を探せと言われて……」

 

 炭治郎はここに潜入した顛末を簡単に話した。

 宇髄さんの嫁達が吉原に潜入し、姿を消したため蝶屋敷のアオイさんを連れてここに来ようとしていたこと。

 自分と善逸、そして伊之助の三人がアオイさんの代わりに宇髄さんに着いてきたこと。

 いなくなってしまった宇髄さんに命じられ、女装してときと屋、荻本屋、京極屋に潜入していたこと。

 

「宇髄さんには後でキツイお仕置きが必要みたいですね」

 

 話を聞いたしのぶは額に青筋を浮かべながらしゅっしゅっと拳を振るっていた。

 蝶屋敷の看護師、つまりしのぶとギンの部下であるアオイを、鬼によって心に傷を負ってしまっているアオイを、無理やり吉原の任務に連れて来させようとした宇髄に激怒するのは当然だった。

 普段はしかめっ面で眉に皺を寄せているしのぶが笑うことは多くはない。今のしのぶは表面上は笑顔だが、ギンと炭治郎は、しのぶがピキピキ状態だということをすぐに理解した。

 

「ギンさん達はもう鬼が何処にいるのか突き止めているんですか?」

「あぁ。すぐに目星は付けられた。京極屋の蕨姫という花魁だ。数年前から陽の下に出られない奇病を患っているらしい」

「善逸が潜入した店……」

「本当ならすぐに俺達もその蕨姫の所に行きたかったんだがな。生憎、俺もしのぶも刀を持ってきていない。届くまでもう少しかかる。だからとっとと伊之助と善逸をここに呼び寄せて―――」

 

 

「善逸は来ない」

 

 

 客間に聞き覚えのある男の声が響く。窓の方へ振り向くと、月を背に笑う"音柱"宇髄天元が窓枠に音もなく座っていた。

 さすが、元忍か。足音や気配を一切させず現れたことに多少驚きつつも、ギンは「ようやく来たか」と笑う。

 

「おう、ギン、まきをを助けてくれて派手に感謝するぜ」

「宇髄さん!善逸が来ないって――」

 

 炭治郎がそう訊き返そうとした瞬間だった。

 

「宇髄さん」

 

 ――周知の事実だが、胡蝶しのぶは頸を斬ることができない剣士だ。生まれつき小さな体格、細い腕のしのぶは、鬼の頸を斬る為に必要な筋力を得ることができない。故に、毒と突き技を組み合わせた独特の剣術で鬼を屠る。

 

 だが、だからと言って弱いかと訊かれると――答えは否である。

 

 確かに筋力は他の隊士に比べると見劣るが、敏捷性や身体の柔軟さは人一倍。更に自分の師である鹿神ギンによって鍛えられ、身体のしなやかさを最大限に生かし、全集中の呼吸で底上げした瞬発力は他の柱にも劣らない。

 

「歯、食い縛ってくださいね」

 

 アオイを無理やり連れて行こうとした音柱に対して大変ご立腹だったしのぶのビンタは、物の見事に宇髄天元の左頬を直撃した。

 

 女の怒りをありったけ注ぎ込んだしのぶの平手打ちは、『パァン』とまるで火薬が炸裂したかのような大きな音を響かせ、宇髄はそのまま勢いよく壁にぶっ飛ばされた。回避すらさせてもらえず、宇髄は自分がどうして吹っ飛ばされたか気付いていないだろう。

 

「うわぁ……」

 

 柱の中でも一等体格が良い宇髄を軽々と派手に吹っ飛ばしたしのぶに、思わずドン引きするギンと炭治郎。

 

「おい、しのぶ。手加減しろよ。白目剥いてるじゃねーか。これから作戦会議しなきゃいけねぇのに」

「ふんっ、アオイを無理やり連れて行こうとしたんですから、これぐらい当然の報いです!」

 

 やんわりとギンは注意するが、しのぶはそんなこと知るかと言わんばかりに満足げに鼻を鳴らす。

 怒りを文字通り宇髄に叩き付けたおかげか、その表情はどこか晴々としているように見えた。

 よほどいい場所に当たったのか、肝心の"音柱"宇髄天元は自分より二回りは小柄のしのぶの平手打ちで失神していた。彼の左頬にはくっきりと真っ赤な紅葉が刻まれてしまっている。あれはしばらくの間引かないだろう。

 

「見事に伸びてるな……。修行の成果が出てるようで俺は涙と冷や汗が止まらんよ」

「俺、これからしのぶさんの言うことには逆らわないようにします……ヤバイから」

 

 仮にも相手は男で、柱で、そしてしのぶが見上げるほどの大男だ。それに臆さず、あまつさえぶっ飛ばしてしまうとは。自らの弟子の成長っぷりに思わず震えが止まらないギンと、これから蝶屋敷でお世話になる時はしっかりしのぶさんの言うことを聞こうと心に誓う炭治郎だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、善逸が来ないってのはどういうことだ?」

 

 改めて、眼を覚ました天元を加えて話し合いを再開する。頬に刻まれた紅葉の跡は依然引かないまま、どこか格好がつかない状態だが気にせず話を進めることにした。

 

「俺が善逸に付かせた"忍獣(にんじゅう)"から連絡が入った。京極屋に潜入してから二刻で姿を消した。おそらく、京極屋にいる花魁が、この吉原に潜む鬼だ」

 

 忍獣――元忍びの宇随が特別な訓練をさせたムキムキねずみ達のことだろう。刀を持ち運べるほどの力を持ち、知能が高く、偵察の任務などでも重宝していると宇髄から聞いていた。

 

「その根拠は?」

「善逸には刀を持たせていない。だが、手練れの鬼はその人間が鬼狩りかどうか簡単に判別する。善逸や俺の嫁達も見破られてしまったんだ」

 

 宇髄の嫁達は、柱の宇随ほどでないにせよ、腕利きの忍びだ。援護や潜入の技術はもちろん、戦闘力もそこらの鬼に引けをとらない。なのに、姿を消してしまった。

 

「俺の方も当たりをつけておいた。どうやら、京極屋には"蕨姫"という陽の下に出られない奇病を患っている花魁がいるらしい」

「流石だな。最初からお前に頼めばよかったぜ」

「ですが宇髄さん。これからどうするのですか。善逸君も行方不明になってしまった以上、早く行動に移すべきなのでは……」

 

鬼に食われたか、それとも捕らわれたのか。いずれにせよ、鬼にとって鬼殺隊の隊士を生かしておく理由などひとつもない。行動に移さねば間に合わなくなる可能性がある。

 

「俺はまず雛鶴を助けに行く。話によると切見屋に移されたらしい」

「その後は?」

「今晩中にその蕨姫にド派手に奇襲をかける。運が良ければ善逸達も助けることが出来るだろ」

「おいおい、随分性急じゃないか?」

「先生の言う通りですよ、宇髄さん。確かに行動に移すべきと言いましたが、まだまきをさんも目を覚ましていません。相手は十二鬼月の可能性が高いんです。奇襲を掛けるのは早計ですよ。もっと慎重になるべきじゃないですか?」

 

 炭治郎の鼻は、宇髄天元から焦りと後悔の匂いが漂っているのを正確に嗅ぎとった。

 ギンの言う通り、まだ炭治郎達が潜入してから一晩も経っていない。鬼の居所は分かったがまだどんな能力を持っているのかも分からない。相手が異形の鬼である限り、もっと慎重になるべきだ。

 

「時間は十分かけた。これ以上地味に待っても被害を増やすだけだ。もっと早く仕掛けるべきだったんだ。俺は嫁を助けたいが為に、いくつもの判断を間違えた。蝶屋敷の地味娘を無理やりここに連れてこようとしたのも、俺が焦っていたからだ。済まない、胡蝶」

 

 静かに寝息を立てているまきをの頬を、愛おしげに撫でながら宇髄はしのぶに謝った。

 

「いえ……気持ちは分かります」

 

 宇髄には、三人の嫁がいる。その三人がどれほどお互いを大切に想い合っているか、しのぶは知っていた。

 その身内の誰かが消えてしまった。鬼の調査の為に潜入している最中に。

 

「……大切な人が消えてしまうのは、恐いですよね」

 

 ギンが常闇に囚われる瞬間を、しのぶは直に見ていた。

 そして二か月間、音沙汰もないギンをずっと捜していた。

 

 宇髄天元の苦しみや痛みは、よく知っていた。

 

「……」

 

 しのぶのその感情を知ってか、ギンは何も言わなかった。ただ静かに蟲煙草を吸って、目を逸らした。

 

「炭治郎。お前は伊之助と共に街を出ろ」

「な、なんで!?」

 

 戸惑う炭治郎に、宇髄は事もなげな顔で返した。

 

「お前が一番階級が低いからだ」

「ッ!」

 

 炭治郎の階級は、(ひのと)だ。柱を抜いた鬼殺隊の十段階の階級の内、上から四番目に当たる。

 入隊してから一年未満でそこまで階級を上げられたのは眼を瞠る快挙だが、炭治郎より上の階級である善逸が姿を消した。

 

「善逸は馬鹿だが実力はある。あの列車事件で三十体近くの鬼を斬り捨てた実績がある。だが、その善逸が姿を消した。ここにいる鬼は、上弦の鬼である可能性が高い」

「上弦の鬼……!」

 

 思い返すのは、四か月前。無限列車に襲撃した、黒死牟と名乗る"上弦の壱"。

 その圧倒的な強さで、ギンさんと煉獄さんを追い詰め――そして煉獄さんは命を落とした。

 異次元とも言えるその強さは、まだ記憶に新しい。あの時感じた無力感も、恐怖も、まだ胸に残ったままだった。

 

「消息を絶った者は死んだと見做す。後は俺とギン、そして胡蝶とで派手に動く」

「……そうですね。上弦の鬼が相手となれば、今回は私達の担当でしょう」

「ま、そういうことになるな。上弦の鬼に柱が三人。過剰戦力とも言える数だ。炭治郎達が出る幕でもねぇだろう」

「しのぶさん、ギンさんまで……!」

 

 炭治郎の中で焦りに似た感情が湧き出てくる。

 この中で、一番弱いのが自分だと言うことをはっきりと理解しているからだ。遠まわしに炭治郎は足手まといだ、戦力外だと言われているようで辛かった。

 違う、俺は戦える。その為にずっと鍛練を続けてきた。俺だって戦える!

 

「恥じるな。生きてる奴が勝ちなんだ。機会を見誤るんじゃない。今晩中にここを出ろ。伊之助も後でここに向かわせる」

 

「宇髄さ―――」

 

 

 炭治郎がその名前を呼び終える前に、宇髄天元は姿を消した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宇髄天元が出ていった後、入れ替わるような形で隠がときと屋に到着する。ギンとしのぶの日輪刀を届けに来たのだ。

 

「ご苦労さん。俺達はこれから鬼との戦闘に入る。隠は念の為にこの事をお館様に報告し、何時でも事後処理に動けるように待機していてくれ」

「御意」

 

 刀を届けた隠はそう言って出ていった。これで吉原で何が起きても、隠の部隊が上手くやってくれる。

 

「では、私はときと屋のご主人と鯉夏さんに話をしてきます。まきをさんの事も説明しなければいけませんし……」

 

 しのぶは腰に刀を佩いて、客室から出て行った。ときと屋の主人に部屋を貸してくれた礼や、これから戦いが始まることを伝えるのだろう。十二鬼月との戦いとなれば、戦いに巻き込まれる可能性は十分ある。

 

「さて、炭治郎はどうする?」

 

 ギンは改めて炭治郎に向き直る。宇髄に「足手まといだから帰れ」と言われて、果たしてくそ真面目な炭治郎はそう素直に従うのか。

 

「俺は……善逸も宇髄さんの奥さんたちも皆生きてると思います。だから、そのつもりで行動します。必ず助け出す」

「命令違反するってことか?」

「はい」

 

 迷いのない眼。ここでギンが炭治郎にいくら強く命令したとしても頷くとは思えない。そう思わされる力強い眼だった。

 

「言って置きますけどギンさんが止めようとも俺は絶対に――」

「ま、いんじゃねえの」

「帰らな――え?」

 

 絶対に止められる、もしくは怒られると思っていた炭治郎の目が点になる。

 

「お前、宇髄の命令でここに連れてこられたんだろ」

「は、はい」

「で、今宇髄から帰れと言われた。実質、お前は宇髄の指揮下から離れたってことだ」

「そ、そういうことになるんですかね……?」

「じゃ、今からお前は俺の指揮下に入れ」

「えっ」

「命令だ炭治郎。お前は単独で行動して、鬼に捕えられたと思われる一般人や善逸の救助に向かえ。俺達が十二鬼月の相手をしている間に、全員を救い出せ」

 

 ギンはずっと考えていた。宇髄の嫁達や、消えた遊女達はどこへ姿を消したのか?

 ここ、吉原は狭い。人が消えても不自然ではないが、鬼が遊女として人間に紛れて生活する以上、むやみやたらに人を殺すことは難しいのだ。死体が出れば疑いがかかるし、血の痕はすぐには消せない。

 先のまきをの件も、鬼はあの部屋でまきをを殺さずに天井裏からどこかに運ぼうとしたのが何よりの証拠だ。

 おそらくその鬼は、狩りの対象に選んだ人間を別の場所に連れて行っているのだとギンは推測していた。

 

「おそらく、鬼の食糧庫がこの吉原のどこかにある。簡単に人じゃ寄りつけないような場所だ。鼻が利く炭治郎が捜索するべきだろう」

 

 もしここが山の中ならギンがムグラノリで捜索するのだが、街の中にムグラは住まない為細かく探知することができない。

 

「え、あの、いいんですか?」

「俺も柱だ。ある程度命令権がある。どうせお前は俺が言っても聞かねえだろうし、それならある程度制限を掛けた方がこっちも動きやすい」

 

 炭治郎の頑固さは、ここ数か月でよく知っていた。さすが、あの義勇が見つけてきた逸材と言うべきか、それとも鱗滝が鍛えたからか……いや、元来持つ気質だろう。

 なにせ、柱合会議で自分より立場が上の"風柱"に頭突きを喰らわす型破りだ。上司に頭突きなんて時代が時代ならその場で首を斬られても文句は言えない。

 

「……よくよく考えるとお前今までよく生きて来れたな?」

「なんですかいきなり!」

 

 我が弟弟子ながら心配になる。

 

「ま、そんなわけでお前に暴走されるよりは目が届く範囲で働いてくれた方がずっといい。で、どうする?蝶屋敷に尻尾巻いて逃げ帰ってもいいが」

「やります」

 

 炭治郎は間を置かずに即答した。

 あの時、上弦の壱との戦いで自分は何もできなかった。

 その時の後ろめたさ、罪悪感、無力感は今も自分の心の奥底で沈んでいる。鉛のような重さで、今も時々思い出してしまう。

 

「俺はこの日の為に鍛えてきたんですから」

「よく言った」

 

 杏寿郎。お前が命を賭けて守った男は、もう一人前だぞ。

 俺も身を挺して守った甲斐があるってもんだ。

 

「――あの」

 

 話が一息ついた所で、炭治郎はずっと思っていた疑問を口にする。

 

「ギンさん、あの……」

「ん?なんだ」

 

 

 

「怒ってますか?」

 

 

 その言葉に、ギンは言葉を失った。

 

 ギンと合流してから、ずっと匂いがしていた。

 それは、怒りと、後悔と、憎しみの匂い。

 最初は、しのぶさんの匂いかと思っていた。しのぶさんは蝶屋敷で「鬼が憎い」と言っていたから。実際、それと似た匂いがしていたから、最初はしのぶさんが怒っているのかと思っていた。

 

 けれど、ギンさんがまきをさんを手当している間も、宇髄さんと作戦会議をしている間も、そしてしのぶさんがここから出て行った後も、匂いがずっとしていた。

 

 しのぶさんの時よりもずっと濃くて、重い匂い。

 

 普段優しく、『怒り』や『憎しみ』から無縁な、飄々としたギンさんから、そんな匂いがするだなんて信じられなかった。

 

 でも、どうしても訊きたかった。自分に何ができるかは分からないが、何かできることはあるんじゃないかと。

 

「―――そう言えば、お前は鱗滝さん並に鼻が利くんだよな」

「はい。それで、ずっと……」

「分かってる。心配してくれてるんだろ」

 

 ギンは困ったように笑う。

 どうしてこう、自分の周りの人間はここまでお節介焼きばかりなのだろうか。

 

「どんな匂いがする?」

「……恨みと、憎しみと、怒りの匂いがします」

「そうか……そんなに臭うのか?」

「……はい」

 

 言い難そうに、炭治郎は頷いた。

 

「まいったな」

 

 ボリボリと頭を掻く。自分の根っこを嗅ぎ分けられると言うのは、やはり居た堪れない。

 

 ――あんま話したくない。だが、いつまでも隠しておくべきことでもない。

 自分のケジメの為にも、いつか話すべきことなのだろう。

 ちょうど、今この部屋にはしのぶもいない。

 

 ――いつか話してもらいますよ

 

 しのぶにも、いつか話すべきことだ。けれどあの時のことを話して、軽蔑され、今の関係が崩れてしまうと考えると、声が震えそうになる。

 心優しいカナエやしのぶに、人として見限られてしまうかと考えると、あの居心地がいい蝶屋敷で積み上げた時間がなくなるかもしれないと考えると、恐ろしくてたまらない。

 

「……大丈夫ですか?」

「ああ。昔のことを思い出してな」

 

 だが、気がかりなことが一つあった。

 ちょうど、鼻が利く炭治郎がいる。戦いに赴く前に、確認しておきたい。

 

「炭治郎、俺は普段どんな匂いがする?」

「え?」

 

 突然の質問に、炭治郎は面を喰らうが、ギンは「頼む」と頭を下げる。

 特に断る理由もないので、炭治郎は素直に答えた。

 

「えっと……優しくて、いい匂いです。森や山……木の匂いがします。あと、煙草の匂いがします」

(かばね)の匂いはしないか?」

「屍?」

「頼む、炭治郎。教えてくれ。俺の身体から死臭はするか?腐った肉の臭いや、死人の臭いはするか?」

 

 祈るような気持ちで炭治郎に尋ねる。

 

 

 

 

「いえ、しませんけど……」

 

 

 

 

 

「――――よかった」 

 

 

 胸のつかえが取れたように、ギンはほっと息を吐いた。

 よかった。俺はもう、屍の臭いなんてしない。なら俺は、蟲師で居続けられる。

 

 

「あの、それがどうしたんですか?」

 

 

 心底ほっとしたように、目じりを抑えるギンに炭治郎は心配する。何か気に障ることを言ってしまったのか、不安になる炭治郎だが。

 

 

「いや、大丈夫だ。話すよ。だが、他言無用な」

「は、はい」

 

 

 この弟弟子ならいいだろう。

 心が真っ直ぐで、口も堅い。俺が犯した罪を、言い散らすような真似はしないだろう。

 

 俺の心残りを一つ消してくれた礼だ。

 

 

「俺は柱に就任する前、こことは別の遊郭に潜入していた時期があった。あれはたしか、俺が最終選別を突破してから、一年ぐらい後だったな。ちょうどお前と同じ年の頃だよ」

 

 そういえば、現"岩柱"と同じ日に"蟲柱"に就任したんだっけな。

 鬼殺隊に入って一年で柱に、そして八年間柱として戦ってきた。柱の面子の中で、悲鳴嶋さんと同じ最古参になっちまった。今思えば、ずいぶん遠くまで来たもんだ。

 当時は"最速で柱になった"だのなんだの言われたが、結局その記録は時透の奴に追い越されちまったし。

 

 

「西の方の遊郭に潜む下弦の弐を討伐するために、俺は医者の助手として潜入した。珠世さんと知り合ったのも、その頃だ」

「珠世さんと?」

「ああ。遊郭にいると、どうしてもその時のことを思い出す。あまり思い出したくない記憶だ。思い出すと、腹の底が煮えくり返るような気分になる」

「……それで、そこで何があったんですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこで俺は、蟲と、鬼と、人を殺した」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、客室の襖の前で聞き耳を立てていた人間がいたことに、二人は気付かなかった。

 

 

 

「―――ギンさん……」

 

 

 

 

 

 

 



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珠世

 しのぶ。お前は知っているか?

 

 人の心には鬼が住んでいる。お前の中にもかつていた。

 

 そして、俺の心の中にも。

 

 俺がお前を継子に、弟子にしたのはお前がただ蟲が見えるからという理由だけじゃない。

 

 

 あの時、お前の眼の中に"鬼"を見たからだ。

 

 

 誰といても、何をしていても鬼への怒りを収められない。心の奥底をずっと蠢いている憎しみの炎。

 

 その怒りはお前自身を焼き尽くす。灰になるまで、命が尽きるまで。放っておけばそうなってしまうと俺にはなぜか確信に近い予感があった。

 憎しみは人の心を苗床に成長する。際限なく、どこまでも伸び辺りを呑みこむと言うことを俺は知っていたから。

 

 お前を放っておけば、お前はやがて自らの命すら顧みず、鬼を殺す為だけに使うだろう。どんな手を使ってでも、鬼を滅殺するべく動いただろう。

 

 それこそ、鬼のように。

 

 頸を斬れない、戦えないはずのお前は、日常へ帰る選択もあったはずだった。だが諦めず、鬼を殺そうと言う執念をお前の眼の中に俺は見た。

 

 鬼殺隊としてはそれは正しいことなのかもしれない。

 悪鬼滅殺。

 例え自身の命や魂を犠牲にしようとも、鬼を、鬼舞辻無惨を殺し、民を守る。

 

 それは恐らく、正しい行いだ。

 

 だが、唯一の肉親のカナエと過ごしているお前は、幸せそうだった。

 

 

 ――この娘を、かつての俺と同じ道に歩ませてはいけない。

 

 しのぶが頭がよく、賢い娘だということはすぐに分かった。

 

 あの日、初めてしのぶに会った時。しのぶが集めていた医学書や薬学書を見て、すぐにしのぶが鬼を弱らす薬か毒を創り出そうとしていることが分かった。

 医学を学ぶのは鬼の身体の構造をよく理解し、薬学を学ぶのは猛毒を持つ植物や藤の花から鬼に効く毒を調合するためだ。

 

 常人は毒なんて発想に至らない。不死身で再生能力がある鬼に毒は意味が無いと考えるのが普通だからだ。俺も毒や鬼を弱らす薬は創ったことはあるが、しのぶは鬼を完全に死に至らしめる猛毒を創ろうとしている。想像はしても、それを創るために行動に移すことができる人間は少ない。想像はしても「夢物語だ」「空想だ」と言い訳をつけて諦めてしまうのが人間だからだ。

 俺も「鬼を人に戻す薬」を創ろうと青い彼岸花を探していたが、それまで他の隊士にどれだけ嘲笑わられていたか。

 

 この娘は俺と同類だ。蟲が見え、鬼を憎み、戦うことに命を懸けられてしまう少女だ。

 憎しみと怒りに囚われ、簡単に鬼になってしまう。

 

 俺は一度道を踏み外してしまった。

 

 お前には俺と同じような目に遭わせたくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最終選別から、一年。

 鬼を狩りながら、蟲を調べながら、青い彼岸花を探しながら、俺は各地を旅していた。

 耀哉から「鬼を狩ることよりも蟲や青い彼岸花を探すことに注力してほしい」と頼まれていた俺は、週に2,3匹程度の鬼を退治しながら、各地をゆっくりと旅をしていた。

 

 親友が死んでも、世界はいつも通り平常運転だ。

 

 義勇はあれから随分無茶をしながら狩りをしているそうだ。錆兎を死なせた罪悪感からだろう。錆兎は義勇にとって唯一無二の親友だった。俺はたった一年しか共に過ごしていなかったが、一日たりとも忘れたことはない。義勇は俺よりずっと長く錆兎と共に鱗滝さんの下で修業をしていた。俺よりずっとずっと、錆兎を喪った悲しみは深いのだろう。あいつの言葉や真っ直ぐな心は、俺や義勇を惹きつけていたから。

 心から尊敬できる友だった。

 きっと、カリスマと呼ばれる力を持った、多くの人間から尊敬される資質を持っていたのだろう。死なずに大人になれば、きっとずっと強い剣士になれていたはずだ。毎日のように任務に赴いていると、鱗滝さんの手紙や耀哉から聞いていた。

 

「どうしたもんかね」

 

 俺もまだ、錆兎の死を乗り越えられた訳じゃなかった。

 時々、ふと兄弟子のことを思い出す。それほど、俺達の中で錆兎は大切な存在だった。

 

 でも、進まなきゃいけない。

 

 それが俺達の仕事で、自分自身で選んだ道なのだから。

 立ち止まっていたら、錆兎の死や、他の仲間の死が無意味と言うことになってしまう。志半ばで死んでしまった者の為にも、自分自身の為にも、歩みを止めてはいけないのだ。

 

「カァー!カァー!」

 

 すると、俺の鎹烏がどこからか飛んできた。

 

「指令か?ヨキ」

「カァー!ソウダヨォォーーー!」

 

 ちょうど蟲師としての仕事も一区切りが着いた頃だ。ちょうどいい、久しぶりに鬼退治と行くか。

 

「了解。それで、どこに向うんだ?」

 

 

「西ィーー!西ニ向カッテチョォォォダイ!飛田新地ニテェェェェ、遊女ガ消エテイルゥゥゥゥ!遊女ガ消エテイルゥゥゥゥ!ソコニ潜ム鬼ヲ見ツケルンダァァァ!」

 

 

 え、マジで遊郭?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カラスからの情報によれば、飛田遊郭で何人もの遊女や客が姿を消している。人が消えること自体は遊郭ではそこまで珍しくない話だが、念のため調査しようと潜入した鬼殺の剣士二名が消息を絶った為、一連の失踪事件を鬼の仕業と断定し、指令が下ったそうだ。

 

 俺の仕事は、その鬼の正体を掴み、場合によってはその鬼を討伐すること。

 

 俺は怪しまれないよう、わざわざ髪の毛を黒く染めて医者の見習いとして飛田遊郭に医者の助手として潜入した。

 通常、遊郭にはそれぞれお抱えの医者がいる。江戸時代じゃ「御典医」なんて呼ばれ方をされていた医者がお抱えとして駐留していたらしい。女を商品として売る以上、生理や梅毒、妊娠の関係でいつでも遊女たちの体調を管理することができる医者は必須だった。

 

 医学を学んでおり、かつ前世の記憶がまだ残っていた俺は梅毒や性病の恐ろしさを知っていたため、客として潜入する気は起きなかった。だが、医者として潜入するにも、俺はまだ十五にも満たないガキだった為、門前払いされるのは目に見えていた。

 遊女屋のお抱えの医者や薬師の助手として雇ってもらうことも難しかった。身元が分からないガキを助手として雇うと言う酔狂な医者はいなかったのだ。

 

 だが、遊郭に唯一、頻繁に出入りする医者がいた。

 

 中条流と呼ばれる、堕胎専門の医者だ。大正時代に入ってから医学はもちろん、産婦人科の技術も発達していたが、江戸時代から存在する堕胎専門の医者が、まだ残っていたのだ。

 

 江戸時代からは合法的に胎児を堕ろすことは許されておらず、明治時代からは『堕胎罪』として禁止されていたのだが、やむを得ない事情で子供を産むことができない女は多く、堕胎専門の医者はいつの時代も繁盛していた。そして、闇が蠢く遊郭ではもっと盛んだった。遊女が子供を妊娠してしまえば商品として売ることができなくなる。赤ん坊を産んだとしても、その赤ん坊を育てる金は無駄とされていた。赤ん坊を一から育てるよりも、余所の貧村から子供を買った方が圧倒的に効率が良いからだ。

 だから、犯罪とされても堕胎専門の医者は数多くいた。

 

 俺はその医者に土下座をし、助手として遊郭に潜入。

 

 妊娠してしまった遊女の堕胎を手伝う傍ら、鬼を探していた。

 

 

 ……だが、想像以上にやり方が汚かった。

 

 

 薬を嫌がる遊女に無理やり投与し、時には身重の女の腹に強い衝撃を与え無理やり流すといった荒々しいやり方。母体である母親も、その身に宿った命も無視した非人道的なやり方。

 本来、生まれてくるはずだった命を殺すことを生業として堕胎専門の医者は暮らしている。それも、かなりの額を楼主からもらって。水子の命を啜り、仕事を終えた帰りに得た金で酒を呑み、女を買いに行くクソ野郎みたいな医者が、俺は気に喰わなかった。

 

 多分、この頃から俺は遊郭の存在自体に嫌気が差したのだと思う。

 

 この世に地獄があるのなら、ここは地獄そのものだ。

 

 男は何も知らず女を買う。遊女の血肉を喰らってのうのうと暮らす楼主や医者、そして快楽を貪る男共。自分の命を軽視し、男を誘う女ども。

 

 まるで、俺達が仇としている鬼そのものじゃないか。

 

 一体、こいつらは俺が殺している鬼とどう違うのか、俺は分からなかった。

 

 錆兎や俺の仲間は、こんな連中を守るために命を懸けて戦っているのかと思うと吐き気がした。

 

 

 

 

 

 だから俺は、ここを変えてやろうとした。

 

 

 漢方で学んだ避妊薬を、タダ同然で遊女たちに配りまわった。

 蟲師としてシシガミの森で学んできた俺の薬師の腕前は、そんじょそこらの馬鹿医者が創る薬より利きが違う。耀哉の援助のおかげで薬草や道具も最高級の物を揃えることができたことにより、ずっと質がいい薬を創ることができた。

 また、遊女屋のお抱えの医者には自分が調合している薬のレシピを渡しておいた。もちろん、これもタダ同然で。

 

 鬼の捜索をする傍ら、俺は遊女達に避妊薬を始めとした様々な薬を流通させた。風邪薬や解熱剤。さすがに梅毒を治す薬は創ることはできないが、つい最近開発することに成功した痛みを和らげる木霊の薬を投与した。

 

 

「こんなことしかできないが、俺は医者だ。まだまだガキだが、命を救う為にこうして医学を学んでるんだ。アンタの痛みを和らげることしかできないが、力を尽くさせてくれ」

「ああ……ありがとう……」

 

 

 自己満足だと言うことは分かっていた。

 ここで遊女達に薬を渡しても、根本的な解決にはならない。一時的に病や妊娠のリスクを減らしても、この遊郭で働く限りいずれ同じことが起きる。俺も鬼狩りとして仕事をしている以上、ずっとここで働くこともできない。

 

 

「それでも……仏様のようなあなたの優しさに、救われることもあるのですよ」

 

 

 梅毒にかかったある遊女を治療した後、そんなことを太夫の遊女に言われた。

 それがほんの少しだけ、慰めになった。

 

 

 だが、そんなことをして黙っていない連中がいた。

 

 中条流、そして遊女屋のお抱えの医者達だ。

 

「テメェが避妊薬なんてモンを出したおかげで、こっちの商売に影響が出たらどう責任を取りやがる!」

 

 ――堕胎専門の医者は、妊婦がいなければ仕事ができない。俺がしていることは、野菜の種を撒いた畑に害虫を撒く行為と同じだった。

 

「赤子の命を啜って手に入れた金に、何の価値がある。アンタらがやっていることは、ただの人殺しだ」

「なんだとぉ……!?助手として路頭に迷っていた所を拾ってやったのに、恩を仇で返す気か!」

 

 中条流の医者は怒髪天を突く勢いでそんなことを言ったが、関係ない。

 

「お前らは鬼畜だ。女達の血肉を、赤子の命を喰う鬼畜。自分の利益の為に命を踏み潰す。俺は遊女全員を救おうだなんて傲慢な考えは持ち合わせちゃいない。だが、俺は自分が正しいと思うことをやっただけだ。文句があるなら、もっと医学を勉強してこいバーカ」

 

 ――そこからは、ひどいもんだった。自分より年下のガキに煽られて怒りを堪え切れなかった医者達は荒くれ者達をどこからか雇い、俺を襲わせた。

 もちろん、炎柱、そして鱗滝さんの下で修業していた俺の敵ではなかったが。ていうか人間よりずっと強い鬼と戦っている俺が負ける道理はないのだけれど。

 俺は鬼を探す任務のことも忘れて、往来のど真ん中で大ゲンカを立ちまわった。野次馬が大勢集まり、大歓声の中俺は次々と男達を殴り、投げ飛ばし、結果的に十人以上もの男共を気絶させた。

 向こうから見れば俺は十五の子供。

 だが、自分よりずっと大柄な大人達を殴り飛ばした俺を見て、医者達は腰を抜かして逃げ帰った。

 

「ば、バケモノォ!!」

 

 その言葉を聞いて、俺はハッとする。

 

 

 やべ。鬼を探す任務もまだ終わっていないのに、すっかり忘れていた。

 ここの鬼は巧妙に姿を隠している。人間に擬態しているのか、それとも別の方法で隠れているのか。まだ手掛かりがまったく掴めていないのに……!

 

「やっちまった……」

 

 最近、無駄に頭に血が昇り易くなってしまっている。怒りに振り回されすぎている。昔はこんなに感情に振り回されることはなかったんだが……。

 この騒動じゃ、俺を助手として雇ってくれる医者はもういないだろう。最悪の場合、出入り禁止と言うこともあり得る。

 どうしようか頭を抱えていると――。

 

「もし」

 

 声を掛けられ、後ろを振り返ると、そこには美女が立っていた。

 見た目だけならそこらの遊女に敗けていない。知的で、物静かで憂いを帯びた顔。

 恐らく高級な布でできているであろう、清潔で綺麗な着物を見事に着こなし、思わず見惚れてしまうほどの色香を漂わせた女性だった。

 だが――この気配は?

 

 

「あなたの薬学の腕前に、興味があります。よろしければ、少しお話はできないでしょうか?」

「……アンタは?」

「私は、珠世と申します。そして――」

 

 

 鬼舞辻無惨を、抹殺したいと考えております。鬼狩りの隊士様。

 

 

 

 

 

 

 それが、鬼でありながら医者であり、長く付き合うことになる珠世との出会いだった。

 

 



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協定

 

 

「あなたが調合した薬を拝見させて頂きました。私も鬼となり、二百年近く医者として様々な薬を調合していましたが、その若さで、あれほど完成された薬を私は見たことがありません。感服しました」

 

 珠世はそう言って敬意を表するように、頭を静かに下げた。

 

 ……褒められた。

 ギンは驚きに満ちていた。鬼は狂気を纏い、ただ人を貪り喰らうと言う印象しかなかったから。

 自分の目の前にいるこの女性は、理性と知性を兼ね備えた人だ。とても鬼とは思えない。

 改めて珠世を見てみると、確かにぱっと見では鬼には見えない。珠世を観察していると、ふと、憂いを帯びた珠世と目があって、ぱっと目を逸らした。

 

「ふふ、照れていらっしゃるのですか?」

 

 珠世はくすくすと微笑んだ。

 

 ……バレてる。

 どうも、瑠火さんとの出会いは、俺にとってよっぽど衝撃的だったらしい。シシガミの森に迷い込んで、耀哉以外の人間と接さず、今世で初めて会った異性が瑠火さんだなんて、自分の中の女性の基準が上書きされるのは当たり前だ。

 

 ギンは年上の知的な女性に弱い。黒髪の美人なんてもってのほかだ。目の前にいるだけで心拍数が上がってしまうのだから。おかげで同年代の異性は子供に見えてしまうのだから筋金入りである。

 

 別に人妻が好みって訳じゃねえんだが……。

 

 この年上趣味のおかげで、ギンは胡蝶カナエやしのぶと会ってもあまり動じず、『硬派な男』と一部の隊員から噂されるのだが、それはまた別の話。

 

「それで、俺に一体何の用なんだ?」

 

 こほんと咳払いをし、気を取り直して話を続けた。

 

「聞かれては困る話もありましょう。私が宿にしている屋敷があります。そこに来ていただけませんか?」

 

 ギンは驚きから立ち直れないでいた。言葉を聞く限りでは鬼ではなく、人間の美しい女性と変わらなかったからだ。

 

 

 だが、目の前にいる相手は鬼だと言うことを忘れてはいけない。罠の可能性ということもある。鬼は人を喰うためならあらゆる策を使ってくることを、ギンはこの一年間鬼狩りとして戦い続け、学んでいた。

 

「俺を喰う為に人がいない場所に誘い込もう……って訳じゃねえよな」

「どうしてそう思われるのですか?」

「あの大喧嘩の最中に背後に回って俺を殺すこともできただろう。血鬼術も使わず、今刀を持っていない俺に馬鹿正直に話しかけてくる鬼がいるものか。殺すならとっくに殺してるだろ?」

 

 遊郭に武器の持ち込みは禁止されている。大通りを通る時に腰に刀をぶら下げていればどんな騒ぎになるかは目に見えている。

 

 つまり、ギンは今丸腰だ。いくら鍛えているとは言っても、不死身かつ人間離れした身体能力を誇る鬼に素手で挑むのは自殺行為に近い。

 刀を持たない状態の自分が鬼に勝てないのは自明の理。

 

「だが、アンタはそれをしなかった。とりあえず話を聞く価値はあるだろう」

「……ありがとうございます。あなたはとても聡明なのですね」

「いや、マジヤメテ。感謝されると反応に困る」

「そうですね。では、私に着いて来てください」 

 

 そう言って歩き出そうとする珠世だが、「ああ、そうでした」と思い出したかのように振り返る。

 

「まだお名前をお伺いしていませんでしたね。一応あなたのことは聞いていますが、改めてお名前をお伺いしても?」

「……ギン。鬼殺隊の鹿神ギンだ」

 

 珠世と言う鬼に連れられ、ギンは飛田遊郭から離れたある屋敷に招かれた。

 その屋敷に向いながら、珠世はギンに様々なことを話した。

 自分が二百年以上も前に鬼舞辻無惨によって鬼にされたこと。表向きは医者として暮らしていること。鬼を人に戻す薬を研究していること。

 

 表の顔として、医者として暮らしながら人に紛れて生活しているらしい。鬼の身体を研究し、時には自分の身体で実験をしながら、少量の血を呑む程度で生きていけるように身体を弄ったらしい。

 

「鬼舞辻の名前を口に出しても死なないのは、それが理由か。アンタはいつもこうやって鬼狩りと接触しているのか?」

「いいえ。鬼狩りの方々からすれば、私達"鬼"は仇そのもの。こうして鬼殺隊に所属する方と接触するのはあなたが初めてです」

 

 大抵は、私を見るとすぐに襲い掛かってきますからね、と珠世は笑った。

 その笑みは諦観の念が滲んでいて、相当苦労してきたのだろうとギンは勝手に想像した。

 

「こちらです」

 

 珠世が案内した場所は、大きな塀に囲まれた場所だった。町からから離れた郊外の場所で、周囲から人の気配はしない。

 

「入口は……」

 

 ギンがそう尋ねようとすると、珠世は壁の中に入っていく。まるでそこに何もないかのように、壁に吸い込まれるようにすり抜けて入って行く。

 

「血鬼術か」

 

 おそらく、他の鬼狩りから目を晦ます血鬼術なのだろう。

 珠世が通り抜けた所に手を当てると、ギンの想像通り何の抵抗もなく腕が沈み込む。

 

 そのまま足を踏み入れて石の塀を通り抜けると、そこには小さな屋敷が鎮座していた。

 

「ここが……ん?」

 

 血鬼術の便利さに舌を巻いていると、屋敷の玄関先でこちらを睨みつけている少年がいた。年の頃は自分と同じか、少し上だろうか?

 だが目つきが異常に鋭く、自分に対して敵意を向けてきているのが分かる。

 

「鹿神さん。彼は愈史郎です。愈史郎、挨拶なさい」

 

 ここに鬼がいるということは、珠世の協力者だろう。鬼舞辻と敵対している以上、その配下である鬼と敵対しているのは想像に難くない。

 珠世は鬼である自分の身体をある程度弄ることができると話していたので、この少年も珠世に弄られた鬼なのだろう。

 ひょっとすれば他にもっと協力者の鬼がいるかもしれない。

 だが、いくら自分が鬼殺隊に所属している人間だとは言っても、この少年の目つきは敵意と言うより……嫉妬に近い?

 

 ああ、と分かったようにギンは手をぽんと叩いて言う。

 

「珠世さんの旦那か?」

「まぁ」

「!?」

 

 ギンの言葉に驚いたように珠世は口元に手をやり、鬼の少年は眼を見開いて顔を真っ赤にさせて硬直させた。

 

「どうしてその子が私の夫だと?」

 

 珠世は疑問に思ったのか、困り顔でギンに尋ねた。

 

「違うのか?」

「ええ。姉弟か、息子だと間違われることはあるのですが……」

「そうなのか。てっきりそうだとばかり……」

 

 慕ってる女性が、見知らぬ男を連れてくる――。男からすれば、気が気じゃない。嫉妬、と言うより「その男は何者だ」と言わんばかりの目つきが気になったのだ。

 

「珠世さんは美人だからな。既婚者だと思ってたんだ」

 

 ギンは人間観察に自信があった。その人の身なりや表情、言葉を聞けばその人物がどんな人間かある程度分かる。

 実際、珠世の話し方や雰囲気から既婚者なのだろうと想像し、そして拠点と思われる屋敷には少年がいた。この少年も鬼なら、ギンが想像するよりずっと年は上なのだろう。

 なので既婚者なのかと思ったのだが。

 

「――()()当たりです」

「半分?」

「はい。夫とは既に死別しています」

 

 珠世は悲しそうに、顔を伏せながら言った。今にも泣きだしそうな眼をしていた。

 そう、ギンのプロファイリングは半分当たっていた。確かに、珠世は結婚していたが――

 

 珠世の"傷"に触れてしまったことに気付いたギンは頭を下げて謝罪した。それが何の傷かは分からないが、会ったばかりのギンが触れていいことではない。

 

「……申し訳ない」

「いいえ。愈史郎、鹿神さんを客間に案内してあげてください。……愈史郎?愈史郎!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 清潔にされた客間に通されたギンは、静かに革張りのソファに腰掛けた。

 中は西洋風の家具が揃えられており、無駄な調度品などはない。窓から光が入らないよう板張りされている程度で、別段怪しい所はなかった。

 

「お前、本当に鬼狩りなのか?」

 

 少年――愈史郎はギンにぶっきら棒にそう尋ねた。

 

「ああ。一応な。まだ"柱"じゃないが、もうすぐ甲に昇格する」

「何故俺達に協力する?鬼狩りのくせに」

 

 愈史郎は敵意を隠さずに、答えろとソファに座るギンを睨みつけた。

 

 今まで過去数度、鬼舞辻無惨を倒す為に珠世は鬼狩りの隊士と接触しようとした。

 しかし、隊士と交渉することも、ましてや言葉を交わすこともほとんどできなかった。

 

 尊敬する珠世がどれほど真摯に言葉を重ねようとも、鬼狩り共は「鬼が何を言う」「どうせ罠だ」「鬼畜生が」と罵り、攻撃してきた。

 

 珠世は諦めずに何度も鬼狩りと接触しようと試みたが、愈史郎はほとんど諦めていた。

 

 俺達は鬼で、奴らは人間。決して交えることはない。

 

 そう信じていた自分の中の真理が、今目の前の男によって崩された。

 

 

 ――珠世さんの旦那か?

 

 

 その言葉を聞いて思わず羞恥に思考が固まってしまったが、まだ珠世が連れてきたこの男の事を信じ切ることができなかった。愈史郎は珠世と二人で過ごす時を邪魔する者が嫌いだった。憎いと言ってもいい。

 自分の命を救ってくれた珠世様の言葉を無視し、あまつさえ攻撃してくる鬼狩りが大嫌いだった。

 

 ギンは愈史郎の言葉に少し考え込むように俯き、やがて考えがまとまったのか静かに口を開いた。どこか照れくさそうに、それをごまかすようにぽりぽりと頬を掻いて。

 

「美人だったから」

「――は?」

 

 思わぬ返答に、愈史郎の目が点になる。想像していた答えと全く違う返答のせいで、頭が固まってしまう。

 

 ――美人だったから?

 

 もちろん、珠世様は美しい。この世で一番美しいと愈史郎は信じ切っていた。

 だが、鬼を憎み、その為に身体を鍛え、鬼を狩り続ける人間が、それで鬼を簡単に信用するのか?

 

「ああいう年上の美人に弱いんだよ、俺。昔世話になった瑠火さんって人のことを思い出しちまって」

「瑠火?」

「ああ。黒髪の美人でな。珠世さんを見ていると、あの人のことが頭にちらついて、戦う気すら起きなかった」

 

 そう、思い返すと、珠世と瑠火が良く似ていた。

 もちろん、見た目だけが美人な鬼ならこれまで何度か見かけた。だが、どいつも顔だけの薄っぺらだったし、何よりいくら美人だろうと中身が鬼なら敵である。そこに慈悲や容赦は一切ない。例え子供の見た目をしようとも、弱そうな老人であろうとも、ギンは必ず鬼滅の刃を振るった。

 

 だが珠世は、雰囲気はまるで違うが心の中に芯がある。瑠火さんと同じ、"絶対"がある。

 

 

 ――鬼舞辻無惨を、抹殺したいと考えております。鬼狩りの隊士様。

 

 

 あの言葉を聞いた時、その言葉に嘘ははないとギンは感じた。

 静かな力があった。絶対に成し遂げるという強い意志を聞いた。

 

 

「それだけじゃダメか?」

 

 

 愈史郎は、そう訊き返すギンの目を見た。

 

 ――緑色の目。深緑の目。

 

 まるで森のような目だ。夏の木々を思わせる、森の色。

 

「……いや、ない」

 

 気に喰わない。珠世様に近付く人間、特に男は誰であろうが気に喰わない。

 だが、これまでの鬼狩りと、この男はどこか違う。

 そう思わせる、何かがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すいません、お待たせしました、今お茶を――」

 

 

 

 

「だから、本当に珠世様は素敵な方なんだ!あの方は紅茶が好きでな、この前も俺が海外の商人から買った陶器のティーカップを贈ったら、本当に嬉しそうに頬を赤く染めて笑っていただいて――!」

「そりゃ見てみたい!あんな美人が笑っている所なんて、俺もティーカップを贈るべきか?」

「な、駄目だ!珠世様の笑顔は俺だけの物だ!お前なんぞに分けられない!」

「そんなことを言うなよ愈史郎。頼むぜ、ほら。俺が調合した薬液。女性の髪に艶を出すシャンプーだ。これを使えば珠世さんの髪がもっと綺麗になるぞ。瑠火さんからも大好評だった。市場で出回っている物よりずっと質が良いぞ」

「な!なんてものを!よし、あるだけ全部俺が買う!」

「いや、お代はいらん。代わりに珠世さんの笑顔を、な?あんな憂いを帯びた人が笑う所、男なら見てみたいじゃないか」

「ぐぬぬ……分かった……!」

「血の涙流すほどかよ」

 

 

 

 性癖を暴露すると友情が深まる。

 どの時代でも男の友情の深め方は変わらない。すっかり意気投合した二人はテーブルを挟んで「どうやって珠世さんを喜ばせるか」相談しあっていた。

 

 

 

「お二人とも……?」

 

 

 

「「ッ」」

 

 

 羞恥で声を震わせた珠世の声に、ギンと愈史郎は飛び跳ねるように扉を振り返った。

 そこには、顔を真っ赤にさせた珠世がにっこりとこっちを見ていた。

 

 自分の容姿を褒められることは嬉しい。だが、限度という物がある。

 

「二人が打ち解けたことは嬉しいですが……もう少し、年相応に落ち着きましょう?」

 

「「はい」」

 

(珠世様……怒った顔も美しい……!)

(なるほど……これがこの時代の"萌え"か)

 

 

 首から耳まで真っ赤にさせた珠世を見て、愈史郎とギンは凝りもせず親指を立てた。

 珠世はプンプンと怒った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、鬼を人に戻す薬を創っているんだったか」

「はい。鬼舞辻無惨を倒すには、それが必要不可欠だと私は思っています。それ以前に、今この時も鬼になって苦しんでいる人がいる。その人達を助ける為にも、薬の開発に力を入れるべきです」

「なるほど。確かに鬼を人に戻せるならそれに越したことはない。鬼も言ってしまえば被害者だからな……」

 

 愈史郎との友情確認もそこそこに、珠世が持ってきた紅茶を呑みながら、本題に入る。

 

 珠世の目的は、鬼舞辻無惨の抹殺。そして鬼狩りの目的も、鬼舞辻無惨を抹殺すること。

 互いの利害は一致していた。

 

「珠世さんは、鬼の身体を研究――いや、正確には鬼舞辻無惨の細胞を研究し、鬼を人に戻す血清を開発しようとしているのか」

「はい。ギンさんは、薬の薬草と――光酒、でしたか?それを利用して鬼を人に戻す薬を創ろうとしているんですね?」

「ああ。その認識で間違いない」

 

 ギンは、珠世に自分の出生や役割を話した。

 

「蟲――でしたか。私は二百年は生きていますが、蟲など聞いたことがありませんでした。愈史郎は聞き覚えはありますか?」

「いいえ。俺も蟲という不可思議な存在など、訊いたことがありません。おいギン、お前、作り話をしているんじゃないだろうな?」

「いや、嘘じゃない。蟲と言うのは、生物としてはかなり不完全で、力も微弱だ。この部屋にもいるが、二人には見えんだろう。蟲を視認することができる人間は、限られているからな」

「そうなのですか……」

「俺が鬼狩りでありながら蟲師として各地を旅しているのも、鬼を人に戻せる力を持った蟲がいないか探す為なんだ。薬や医学の知識が身に着いたのは、蟲を祓う為に薬草や人体について深く知る必要がある。そうしてたら自然とできるようになった。俺が薬師のようなことができるのも、それが理由だ」

 

 珠世も鬼となった自分の身体を研究するために、多くの医学書を読み、医学の知識を身に着けた。己の目的を達成するために、必要であったからその知識を身に着けた。

 そういう意味では、珠世とギンは道は違えど、辿った方法は似ているかもしれない。

 

「だが、鬼を人に戻す蟲はおろか、薬も未だ見つかっていない。そっちも似た様な感じなのか?」

「ええ。私もいろいろ手を尽くしましたが、鬼を人に戻す薬は――」

 

 改めて考えると、途方もない道だと二人揃って溜息を吐いた。

 珠世とギンは、同じ医学、薬学を身に着けた者ゆえか、鬼を人に戻す薬を創ろうと力を注いでいた。

 互いのアプローチの仕方は違うが、『鬼は人を蝕む病』という考え方をしていたのだ。病であれば、治せぬ道理はない。

 だが、珠世は二百年研究し続けたと言うのにまだ成果が出ていない。それほど鬼舞辻と言う病は手強い存在だと改めて認識させられる。

 

「はぁ、やっぱり」

「ええ、そうですね」

 

 

「十二鬼月の血を研究しなければ……」「青い彼岸花を見つけなければ……」

 

 

「「え?」」

 

 

「青い彼岸花?」

「十二鬼月の血?」

 

 

 二人の声が被り、そして同じタイミングで二人は驚いた顔を見合わせる。

 

 

「青い彼岸花を見つけることなど……できるのですか?千年以上、鬼舞辻やその配下の鬼達が国中を探し回っても見つけられない花を――私はてっきり、その花はもうすでに絶滅している物だと思ったのですが」

「俺は青い彼岸花を探す為に鬼狩りに入ったと言っても過言ではない。俺と耀哉――鬼殺隊の当主の予想だが、その花は常人には見えない蟲に近い存在なんだと考えている。だから唯一蟲をしっかり視認できる俺は、こうやって鬼を狩りながら方々を旅しているんだ。それで、十二鬼月の血とは?」

「はい。強ければ強い鬼ほど、その鬼の身体には鬼舞辻の血が濃いのです。人が鬼になる時、あの男は人間に自らの血を投与するのですが、鬼の強さは人を食べた数と、鬼舞辻の血の濃さです」

「濃さ?」

「はい。ですが、血が濃い鬼ということは、鬼舞辻無惨に限りなく近い強さを持っているということです。その鬼の血を採ることは容易ではありません。けれどもしその十二鬼月――特に上弦の鬼の血を研究できれば、血清を創れる可能性は高くなる」

 

 上弦の鬼――それは、三百年以上も生きている特別な鬼のことだ。

 鬼の中でも特に強い十二体の鬼。上から六体は上弦の鬼、そして残りの六体を下弦の鬼と呼び、鬼殺隊の柱や隊士を多く葬ったと聞く。

 

「十二鬼月か……俺はまだ会ったことがないが、相当強いんだろ?」

「はい。少なくとも私達では……」

 

 申し訳なさそうに珠世は顔を伏せる。その言葉を聞いて、ギンはようやく、珠世が自分をここに招いた理由を察する。

 

「なるほど。俺をここに呼んで協力を取り付けたのは……」

「はい。私がギンさんに頼みたいことは、その鬼の血を採ることです」

「ふむ」

「私もできれば、その"青い彼岸花"を探す手伝いをしたいのですが……」

「ああ、そっちはいい」

 

 青い彼岸花は、蟲の知識を持たない鬼や人が探すのは難しい。鬼側の協力者は嬉しいが、蟲を見えない者に頼むつもりはなかった。

 

「俺が頼みたいのは、資料だ」

「資料?」

「ああ。災害史や天文史とか。古ければ古いほどいい。帝国図書館にも行ったが、あまり欲しい資料が見つからなくて。珠世さんには、それらの資料の蒐集を頼みたい。代わりに俺は、十二鬼月の血を採ってくる」

「いいのですか?相手は十二鬼月。鬼殺隊の柱や隊士を何人も葬った鬼達なのに……」

「鬼狩りとして旅してりゃ、いずれはぶつかる相手だ。覚悟はできている」

「死ぬかもしれない、危険な頼みですよ?」

「自分が死ぬなんて、一年前から覚悟はしている」

 

 錆兎が死んだあの日。どれだけ強い剣士でも、死ぬ時は死ぬ。

 鬼狩りとして戦う以上、それはずっと付き纏ってくる問題だ。

 だが、死ぬつもりは毛頭ない。だが、いざと言う時は自分の命を懸ける覚悟はできている。

 

 

「そうやって今日まで戦ってきたんだ。約束する。十二鬼月の血を、必ずアンタに届けてやるよ」

「ギンさん……」

 

 ――この数年後、ギンは上弦の弐の血を。更にその二年後には上弦の壱の鬼の腕と血を送り、珠世は腰を抜かしてしまうのだが、この時この場にいた三人はまだ知らない。

 

 

「……やっぱり、私はあなたを協力者に選んで正解でした」

「珠世様、でしたらギンをあの男の下へ?」

「はい」

 

 珠世と愈史郎は、顔を見合わせて腹を据えるように頷きあう。

 

「どうしたんだ?」

「ギンさん。あなたに一つ、謝らなければならないことがあります」

 

 謝らなければいけないこと?

 珠世の申し訳なさそうな言葉に、ギンは首を傾げる。

 

「私と愈史郎は、あなたに協力することを惜しみません。ですが、できないのです」

「できない?」

 

「実は、私達は……ある男に従わされてしまっている。血鬼術で、あの遊郭から遠く離れ、逃げることができないのです。あなたに協力するには、その鬼を倒さなければいけない。おそらく、ギンさんが遊郭で探していた鬼は、そいつのことです」

 

 珠世の言葉に、ギンは眼を見開く。

 罪悪感を滲ませた表情で謝る珠世と、忌々しそうに、歯痒そうに唇を噛む愈史郎を見て、ただ事ではないと言うことを察する。

 

「飛田新地の鬼……知っているのか、そいつの居場所」

「はい。そしてその鬼は、私達が追い求めている鬼でもある」

「……ということは」

 

 察したギンに、珠世は神妙な顔つきで頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

「はい。その鬼は十二鬼月、"下弦の弐"。忘八と呼ばれる鬼です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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蓮華

「そ、そんなことで愈史郎さんと仲良くなれたんですか?」

「あいつは意外といい奴だぞ。炭治郎、いいことを教えてやろう」

「え?」

「男ってのは、性的な趣味を暴露すると、友情が深まるんだ」

「えぇ……」

 

 年上黒髪美人はいいぞ、とどこか満足げに語るギン。

 どう返せばいいのか目を点にする炭治郎。

 

「……年齢だなんてどうすればいいのよっ……!これじゃあカナエ姉さんに負けちゃうじゃない……!」

 

 部屋の外の廊下で膝を着いて悔しそうにシュッシュと拳を宙に繰り出すしのぶ。

 

「…………」

 

 さっきからしのぶの匂いが襖の隙間から入ってくることに炭治郎は気付いていた。悔しそうな匂いが混じっているが、先ほど音柱の宇髄天元がしのぶのビンタで吹っ飛ばされた場面が脳裏に過り、触れればどんな火の粉が飛んでくるか分からない炭治郎は気付かないふりをした。

 

「とにかくそう言うわけで、下弦の弐が飛田新地に潜んでいると言うことを珠世さんから教えてもらったんだ。その時、愈史郎は下弦の弐の血鬼術で捕まっていた。鬼舞辻の呪いを外していた珠世さんが、"逃れ者"として鬼達に追われているのは知っているな?」

「はい。俺が最初に珠世さんと愈史郎さんに会った時、二人を逃れ者と呼ぶ鬼達が現れて……」

 

 思い出すのは、毬を使って攻撃してくる女の鬼と、矢印の血鬼術で物を自由自在に動かす力を持った鬼だった。

 

「珠世さんは十二鬼月から常に命を狙われる立場だった。愈史郎は血鬼術で人質として囚われ、珠世さんは下弦の弐から逃げることができなかった」

「人質?」

「ああ。もし逃げれば、愈史郎を殺す血鬼術を使うと脅されていたらしい。珠世さん本人じゃなく愈史郎に血鬼術を仕込むのは……まあ、あの鬼がゲスだった、というのが一番の理由だが」

 

 下弦の弐は、珠世が苦しむ所を観たいが故に、珠世本人ではなく愈史郎に血鬼術を仕込んだ。

 珠世は、良識と理性を兼ね備えた鬼だった。自分が鬼にし、長年共に鬼舞辻を倒す為に珠世に尽力していた愈史郎を、見殺しにすることができなかった。

 

「でも一体、何のために……」

 

 鬼は基本、群れないし互いに殺し合ったりはしない。互いが不死身なので、いくら殺し合おうとも死なない。戦うこと自体が不毛で無意味なのだ。中には共食いをする鬼も少数いるらしいが、珠世さんをその場で殺さずに、人質を取って捕まえる理由が炭治郎には皆目見当がつかなかった。

 

「下弦の弐は鬼舞辻に差し出そうとしていたんだ。こっちは俺の推測だが、おそらく下弦の弐は、鬼舞辻に珠世さんの身柄を差し出すことで、鬼舞辻から血を分けてもらおうと画策していたんじゃねえかな。どうも鬼達は、十二鬼月になることに躍起になっていたようだし、褒美をもらおうとか考えていたんだろ。だが下弦の弐から報告を受けた鬼舞辻が飛田新地に来る前に、俺が先に飛田新地で薬師の真似事をしていたのを珠世さんが気付いた。渡りに船という奴だ。珠世さんは鬼狩りである俺に下弦の弐を倒してもらおうと画策したんだ」

 

 今考えると、珠世と言う女は強かな鬼だとギンは思う。

 だが、鬼狩りであるギンが飛田新地で戦えば、状況は変わる。

 下弦の弐を討伐できれば、愈史郎にかかった血鬼術は消え、自分達は晴れて自由の身になる。仮にギンが下弦の弐に殺されても、鬼狩りが死ねば補充されるように他の隊士や柱が送られる。そうなれば下弦の弐は遠からず鬼殺隊によって殺されるか別の場所へ逃げ、鬼舞辻は鬼狩りを警戒して飛田新地に来ることはないだろうと踏んでいたのだ。

 下弦の弐が殺されればよし、仮にギンが殺されようとも、騒ぎを聞きつけた鬼殺隊によって下弦の弐は死ぬ。どっちに転んでもいいように動いていた。

 

「画策していたと言っても、珠世さんは正直に話してくれたが」

 

 ――あなたが下弦の弐を倒せず、殺されたとしても、私達の方に利があります。それでも、この願いを聞いてくれますか?

 

 申し訳なさそうに言う珠世の顔が印象的だった。敵であるはずの鬼狩りに真摯に頭を下げる珠世と、不甲斐なさ故かしかめっ面をする愈史郎の顔に、この二人なら信頼してもいいと思えたのだ。

 

「それでも、下弦の弐と戦おうと?」

「……この世界にいるとな、炭治郎。本当に信頼できる奴を見つけることは難しいんだ」

 

 そういえば、炭治郎とこうしてしっかり向かい合って話すのは初めてかもしれない、とギンは思い出す。 四、五カ月ほど前、炭治郎達に全集中の呼吸・常中の稽古をつけてはいたが、それでも面と向かって自分の胸を吐露するようなことはしなかった。

 思えば、杏寿郎を死なせてしまったから、なんとなく気まずくて炭治郎を避けていた気もする。杏寿郎を看取ったのは、炭治郎だったとしのぶから聞かされていたから。敵地であるこの吉原でのんびりと話すべきじゃないが、これが最後かもしれない。自分達はいつ死んでも不思議ではない身だから。

 後悔のないよう話せる時に話しておかないと、死んでも死にきれない。

 

「人の心の中にこそ、鬼がいる。鬼舞辻無惨の血などなくとも、人は鬼になれる」

 

 俺はあの飛田新地で、人が鬼になるのを見たんだ。

 

 ギンがそう言った時、炭治郎の鼻はギンの心を正確に嗅ぎ取った。

 

 泣きたくなるほどの、悲しみと怒りと、涙の匂い。

 

「珠世さんや愈史郎のように、人間のような鬼がいる。人間のくせに鬼のような心を持った悪人だっている。俺の心の中にもかつていたし、今もいる。そして炭治郎、お前の中にも鬼がいる」

「俺の中に?」

 

 炭治郎は無意識に、自分の心臓……左胸の上に手をやる。手の平には小さく、自分の鼓動を伝える心臓の脈動があった。己が生きている証。けれどこの中に、鬼がいる?炭治郎は自分が聖人君子のつもりはない。それでも、できるだけ人に優しくあろうとこれまで生きてきたし、善人であろうと努力し続けた。

 

「そいつらは、己の憎しみや欲望、恐れや怒りを餌に膨れ上がる」

 

 

――恐れや怒りに、眼を眩まされない――

 

 

 ギンが口癖のように唱える言葉。蝶屋敷で鍛錬をつけてもらった時から、口が酸っぱくなるほど言い聞かせられた言葉。

 炭治郎は思わず、その言葉を口にする。廊下でギンの言葉を聞いていた少女も。

 

 

「人は鬼にもなれるし、そして仏にもなれる。知恵や心を持つ故に。だから脆い。誰だって鬼になりうる。一歩間違えば、俺が鬼舞辻によって鬼にされたかもしれない」

 

 

 その境遇はいつだって、ひとつ違えばいつか自分自身がそうなっていたかもしれない状況。

 

 

 あの時。鬼にされた禰豆子を巡って柱合裁判に連れてこられたお前は、悲しみの連鎖を断ち切る刃を振るうと耀哉や他の柱達に堂々と謳った。

 

 

「俺は鬼となった人間を、"森"と"命"と"理"との境目に流れる、"約束"に還す為に鬼を斬る」

 

「約束……」

 

 炭治郎は、蟲や光酒、ましてや理が何を表すのか知らない。けれどそれが、とても大切な物だということは朧だが分かる。

 

「理との約束……」

 

 廊下で壁に寄りかかるように膝を抱えるしのぶは、静かにギンの言葉を繰り返した。

 

 上弦の壱と戦い、杏寿郎を殺され、己の無力さを思い知らされただろう。

 

 だが、俺はそれじゃ止まらないぞ。

 

 俺はお前ほど鼻は利かないが、眼には自信がある。お前が何かに悩んでいることは分かる。

 

 

「炭治郎。お前は何の為に鬼を斬る?」

 

 

 

「―――……俺は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "忘八"とは、遊女屋の経営者である楼主の蔑称である。

 仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の八徳を失った者。女を人買から買い付け、男共に商品として売る故に、いくら金持ちになろうとも人でありながら、人の道にはずれた行いをする人非人(にんぴにん)と蔑まれた。

 人非ざる人という意味だ。

 楼主にとって女は商品。人として見ない。金を儲ける為の商売道具でしかなかった。だからこそ、道徳心を失った者と非難したのだろう。

 

 ある意味、人間も鬼だと言わんばかりのこの醜悪な名を、人間に当て付けるようにその鬼は自らそう名乗っているようだとギンは感じた。

 

「元々、私もギンさんと同じく、この遊郭の環境をなんとかするために雇われた町医者に過ぎませんでした。月水早流(げっすいはやながし)中条丸(ちゅうじょうがん)*1による強引な水流し、梅毒などの性病……同じ女として思う所がなかったわけでもありません。少しでもここで働く女性達の環境を良くしようと苦心してきました。ですが、この遊郭に十二鬼月がいるとは私は知りませんでした。ある時、とある遊女屋に奇病を患った遊女がいると。私はその報せを受け、その遊女屋に伺いました。そこに、忘八がいたのです。忘八は、私が鬼舞辻無惨の呪いを外した鬼だと知っていました」

 

 珠世はそうとは知らず、その女性を看る為に、愈史郎と共に屋敷に上がり込んだそうだ。どうもその忘八は擬態が上手く、鬼独特の臭いや気配を惑わせる血鬼術を使うらしい。

 

「その遊女は、私が見たことがない病気にかかっており、手に負えないと判断しました」

「……見たことがない病気?」

「はい。私では治療ができない、そう楼主に伝えようとした所、愈史郎は血鬼術を掛けられてしまったのです」

 

 あのお方が来るまで、大人しくここにいろ、逃げようとすればすぐにその鬼を殺す。

 

「そう伝えて、私達を追い出しました。途方に暮れ、鬼舞辻がこちらに来るのを待つ時に……あなたが薬を売っている所を見ました。同じ医者として、あなたの薬にはただ驚かされるばかりでした。欲や不純な動機は感じず、そこにあるのはただただ人を救いたいと言う純粋な想い。その想いが結晶になったかのような完璧な薬。それを、タダ同然で売り回るあなたに、私は心を打たれました。だからこそ、私はあなたにお願いしたいと考えたのです」

 

 飛田遊郭の大通りを歩く。

 黒く染めた髪染めは落とし、白髪と翠の目は人の気を引く。だが、この夜の花街はあらゆる者を受け入れる。

 浮浪者、家族に売られた娘、ならず者や借金から逃げてきた者、醜女と言われ店から追い出された者。そして、鬼と人。

 多種多様の人種が訪れるこの場所で、たかが白髪の男が混じろうと誰も気にはしない。つい先刻、中条流の医者や用心棒たちと大立ち回りをしてしまったが、そんなことまるでなかったかのように遊郭には夜が回り続ける。

 

「それで、その忘八の場所は?」

「『蓮華』と言う料亭です」

「料亭?」

「はい。表向きは料亭ですが、その店は引手茶屋*2を介さない娼館です。貴族の方や官僚、国外からやってきた大商人など、特権階級の方々の遊び場なのです。中には、その店から女達が選ばれ、外の国に売られていくこともあると黒い噂が後を絶ちません」

 

 ――なるほど、忘八と呼ばれる鬼が潜む場所にはふさわしい。

 

 その料亭の存在自体は、一月近くここで過ごしたギンも知っていた。絶世の美女達が給仕をする高級料亭だと。

 なるほど、表向きは料亭か。てっきり、遊女屋の看板を出した店のどこかに潜んでいるかと思いきや、あんな馬鹿でかい建物に潜んでいたとはな。灯台下暗しとはまさにこのことを言うのだろう。

 

 達筆の文字が彫られた看板を掲げたその建物は、山育ちのギンでも分かるほど風情と高級感を漂わせていた。

 

「シシガミの森の次は千と千尋かよ」

 

 おぼろげになりつつある前世の記憶――神隠しに遭った少女が迷い込んだ湯屋の建物のようだった。

 何階建てかも分からない、ぱっと見た感じだと五、六階建てかそれ以上に高い和風の建物――いや、ここまで来ると城と言うべきなのだろうか?

 窓から漏れ出すのは灯りと笑い声。そして微かに交じる情事の声。

 

 ここに――鬼がいる。

 

「忘八は、擬態がうまくとても用心深い鬼です。私が遭った時は老婆の姿ですが、今はどんな姿をしているかも分かりません。あなたが鬼狩りだと忘八が悟れば、すぐにでもあなたを殺そうと動くでしょう。すぐに悟られないよう、あなたの刀を愈史郎の血鬼術で他人には見えないように細工をしておきました。あなたは奇病を患った遊女を看に来た医者を装い、忘八を探し、倒してください。戦闘が始まったら、私達もすぐに援護に回れるよう近くに潜んでおります」

「頼んだぞ、ギン。珠世様と俺の期待を裏切るなよ」

 

 ――簡単に言ってくれる。

 

 鬼の巣に飛び込めって、結構無茶苦茶なことを言うもんだ。

 だが、潜入しないと何も始まらない。

 

 意を決して、ギンは入口に足を踏み入れる。

 中に入ると、まず目に入ったのは豪華な調度品。陶器や絵画、そしてシャンデリアだった。

 まだ蝋燭が主流のこの時代ではあまりお目にかかれない、電球を使用した明かりだった。さらにはどこからか音楽も聞こえる。まさか蓄音機の音だろうか。

 

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 

 大正時代には珍しい品々の数々に目を奪われていると、豪華な着物を着こなした女性がギンを出迎え、気品良く頭を下げた。

 

「私、若女将の明里と申します」

「女将……?いや失礼、随分若い女将さんだな」

 

 頭を下げていた女性が顔を上げると、そこにはまだどこか幼さが抜けてない少女がいた。

 顔立ちが整った大層美しい少女だった。

 

 歳はギンと同じ頃だろう。だが、顔立ちこそはまだ幼いが、その立ち振る舞いは熟練の女将と遜色ない。遊女屋に中条流の医者の助手として働いていた時、何人もの楼主の奥さんや遣手(やりて)*3達と会ってきた。どの女性も遊郭で何十年も生き抜き、経験を積んできた女性故に、一癖も二癖もあり、非常に強かで油断できない相手だった。

 だが、この年端もいかぬ若女将からは、その遣手達と同じか、それ以上の何かを感じさせる。

 ……珠世さん曰く、忘八は擬態が得意な鬼で人と鬼の区別がほとんど着かないと言っていたが。もしや?

 

「いえ、よく言われますのでお気になさらず。私とてまだまだ浅学菲才の身。これからも精進していく所存であります。それでお客様、本日はどのようなご用件ですか?お食事ですか?それとも……」

「ああ、いや。俺は医者でしてね。ギンと申します」

「まあ、お医者様?」

 

 ――だが、ちょうどいい。若女将と言うことは、この『蓮華』でそれなりの地位を持っているはず。ここの主である忘八と、何かしら関わりがあるはずだ。

 

「ええ。この店で奇病を患った女性がいると訊きまして。何かお役にたてればと」

 

 あくまで、自分はここをただの料亭だと思い込んでやって来た医者。

 自分が鬼狩りであることを向こうに悟らせてはいけない。少なくとも、忘八がどこにいるか正体を突き止めるまでは。

 

「……大変ありがたく思いますが、おそらく徒労に終わるかと。西の名医達を大勢呼びましたが、どのお医者様も匙を投げてしまうほどの難病でして……」

「でしたら尚更。代金は頂かないので」

「ですが、それではお医者様の利益にはならないのでは?」

「俺は金の為に医者になったわけじゃないんですよ」

 

 というより、蟲師だし鬼狩りだし。医者はついでの副業だからな。

 

「まあ」

 

 だが、自分の言葉は若女将を納得させたらしい。ぺこりと深く頭を下げ、「では、ご案内いたします」と言ってくれた。

 

「どうも」

 

 明里の後ろを着いていくように、館の中へと入っていく。

 部屋のあちこちからは男共の笑い声と女性の歓声が響いてくる。随分風紀が乱れた料亭だ。

 

 俺は内心鼻で笑いながら明里の後ろを着いていくと、小さな女の子とすれ違った。この遊女屋で働く禿(かむろ)*4だろうか。幼いが、随分美しい少女だ。きっと花魁としてこの街でのし上がれそうな見た目だなと、ギンはなんとなく思った。

 

「こちらです」

 

 階段を昇っていき、また長い廊下を歩いていくと――

 

「ん?」

 

 また一人、遊女らしき女性とすれ違った。

 

 それもまた花魁と言えるほど美しい女性だったが――どうしてだろうか。さっき見た禿とどこか顔立ちが似ていたような。

 姉妹か?それにしちゃ、偉く似てたな。

 

 そう考えていると。

 

「この部屋です」

 

 若女将の足が、ある部屋の前で止まった。

 どうやらこの扉の先に、件の遊女が眠っているらしい。

 

 

恋綿(こわた)。お医者様がお見えになりましたよ」

 

 

 明里はそう言いながら扉をそっと開いた。

 中は薄暗く、窓は閉め切られ薄暗い。

 

 布団の上で静かに横になっている恋綿と呼ばれた女性は、身じろぎひとつしなかった。

 

 仮にも自分の上の立場の明里の言葉を無視するほど、意識が混濁しているのか?一体どんな奇病なのだろう。

 そう考えながら、ギンもそっとその女性の顔を覗きこんでいる。

 

「!」

 

 その顔は、さっき廊下ですれ違った女性と瓜二つだった。

 

 いや、瓜二つじゃない。まったく同じだ。同一の存在だ。

 

 日本人形のように美しく整えられた眼、鼻、唇、髪型、頬の骨格――何から何まで、すべてがあの遊女――そしてあの禿と、同じだ。

 

「姉妹?」

 

 いや、この眠っている遊女の方が少し歳を喰っているのか。年齢は二十五か六か。

 

 だがそれよりも――

 

「驚かれましたでしょう。お医者様。数日前から、身体に濃い緑色の発疹が浮かび上がり、増え続け、一日の大半を眠ってしまう。どの医者もこんな病は見たことも聞いたこともないと、匙を投げられてしまいました」

 

 若女将がそう言った。

 恋綿の顔――布団の隙間から出ている白く細い腕には、いくつもの緑の発疹があった。

 まるで、苔のような、カビのような色をした発疹。

 

 その時、ギンの頭の中で、本来何も関係ないはずの要素が結びつく。

 

 よく似た禿と遊女。そして、その二人とまたよく似たこの遊女。

 

「――お医者様、この病が何かお分かりですか?」

 

 不安そうに尋ねる明里に、ギンは顔を向けずに答えた。

 

「ええ。これは普通の医者には治せません。そしてもう、この娘を治す術は、ありません」

「……何故でしょうか?」

 

 

 

 

 

 

「これは――"綿吐"と呼ばれる蟲だからです」

 

 

 

 

 

*1
堕胎薬

*2
遊郭での紹介所。通常はここで花魁を呼び、逢瀬に励む

*3
楼主の代理として遊女に芸や言葉を指導する立場の女性。厳しく折檻をする役割を持つ

*4
遊女見習いの幼女



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心の鬼

 何十、何百万とこの世に蔓延る蟲。

 人間や動物とは違った法則の中で生きる蟲達の生態は多種多様だ。生命に最も近い存在だからこそ、その存在は不安定であり、不定形の、曖昧な存在。

 目に見えぬ場所に住むモノ。大地の奥底に潜むモノ。空より高い場所で流れるモノ。

 その在り方は様々だ。

 自然の中には、動物の中には、時に人に害を与える生物がいる。

 一番分かりやすい例を言えば、熊だろうか。

 元来臆病な性格な熊だが、時には自らの空腹を満たす為、時には外敵を追い払う為に人間を襲うことがある。

 それらと同じように、蟲の中には害を与えるモノも存在する。

 数えきれないほど存在する蟲達の中で、人間の命を直接奪うような蟲は多くはない。

 蟲師としての知識を集め続け、鬼狩りとして戦いながら、各地を旅し続けたギンは様々な蟲を調べながら、蟲患いにかかった患者を治療し続けた。

 

 だが、幼少の頃から森で蟲の知識を蓄え続け、様々な対処法を学んだギンが、もっとも遭いたくない蟲がいた。

 

 その内の一匹が"綿吐"と呼ばれる蟲である。

 

「えっと……綿吐?という病名なのですか?」

 

 明里は首を傾げながら心配そうに言った。

 

「……」

「鹿神様?」

 

 何かを考え込むように俯くギンに、心配そうに明里は問いかける。

 

「ああ、いや」

 

 ……どうしたものか。

 

「明里さん、楼主さんか、女将さんはいますか?」

「ええ。女将はいらっしゃいますよ。旦那様は、今夜いるかは分かりませんが……」

「なら、呼んで来てもらえますか。その間、少々この女性を看させていただきますので」

「かしこまりました」

 

 明里はそう言ってお辞儀をすると、女将を呼ぶために部屋から出て行った。

 

「さて……」

 

 足音が遠ざかったことを確認し、ギンは頭を抱えながら立ち上がる。

 この蟲の対処法自体は簡単だ。だが、簡単だが、そのやり方は他人から見れば問題とも捉えられかねない。

 

「…………」

 

 恋綿の顔を覗きこみ、顔を触ったり、脈を測ってみるが、恋綿本人は何の反応も示さない。声も発しない。身じろぎひとつしない。まるで眠っているようだが、眼は開いている。

 皮膚を触れば体温がある。脈がある。

 形だけは人間だが、この恋綿と呼ばれる女性は、蟲だ。

 

 人間の肉の皮を被った、蟲なのだ。

 

 この遊女が"人茸"なら……

 

 ギンは静かに天井の方に目を向ける。部屋の隅の天井が一部、蓋が外せるようになっていた。

 置いてあった椅子を踏み台にして蓋を開け、中を覗き込む。

 

「―――いるな」

 

 銀蟲の光で変えられた緑の眼は、蝋燭の灯がなくとも、夜闇を見通す。

 首だけを入れるような形で仲を覗き込むと、天井の裏は苔のような何かがびっしりとこびり付いていた。綿吐の本体だ。

 

 普通、綿吐は土に根を張るモンだが、今回の蟲は天井裏に根を張ったようだ。建物の壁も、元を辿れば原材料が土なのだから、綿吐にとっては格好の隠れ場所なのだろう。古ぼけたこの天井裏すべての空間を埋め尽くすように張られた苔のような綿吐の本体は、この階層だけでなく、建物全体に根を伸ばしているように見える。

 

 一体何年、綿吐が繁殖し続けたか分からない。

 

 この建物全体に根を張っているとしたら、相当でかく育っている。根が少ないのなら、一部を燃やせば済む話なのだが――。

 

「大変お待たせしました」

 

 天井裏を一通り見終えたギンが部屋の床に降り立つと同時、扉が開かれた。

 中に入ってきたのは少し年老いた女将と、先ほどの若女将の明里だった。仕事で忙しかっただろうに、明里はすぐに呼んで来てくれたようである。

 

「私がこの"蓮華"の女将でございます。恋綿の病を看てくれるお医者様と訊きまして……挨拶が遅れてしまい、大変申し訳ありません」

 

 女将は丁寧にギンに頭を下げた。さすが、表向きは料亭、裏では人身売買に手を付けている遊女屋の女将だ。VIP達を相手するからだろう、その礼儀の良さは恐ろしいほど綺麗で整っている。

 

「いえ、おかまいなく。俺は鹿神ギン。医者をしている者です。突然押しかけてしまい、申し訳ない」

「いえいえ、とんでもない……恋綿は、この店で一番の売れっ娘。言葉は喋れませんが、その美しさはこの飛田遊郭で一番の遊女です。ですが、先月から寝たきりになり、身体中にこのように発疹が浮かぶという奇病にかかってしまった。医者には匙を投げられ、どうするべきか頭を悩ませていた所です。鹿神様、この病を治す術はあるのでしょうか?」

「…………残念ながら、この娘を救う手だてはありません」

「……そうですか」

 

 ギンの厳しい言葉に、女将と明里はショックを隠し切れないように動揺する。

 

「そんなっ……ダメなんですか?鹿神様」

「ああ」

 

 だが、恋綿が手遅れだと言うことを薄々感じ取っていたのだろう。明里はともかく、女将はほとんど狼狽えず、眉を歪める程度だった。

 さすが、忘八と呼ばれる人非人の嫁を務めるだけはある。この程度は慣れっこか。

 

「それより、女将さん。一つお聞きしたいことがあります」

 

 ギンはさっそくと言わんばかりに本題に入る。

 

「……なんでございましょう」

「見当違いだったら申し訳ない。ですが、失礼を承知でお尋ねします」

 

 

 

 ―――この娘、生まれた時、人の姿をしていましたか?

 

 

 

「―――――ッ」

 

 

 その時、初めて女将は眼を見開き、顔を青ざめさせた。

 先ほど恋綿は助からないと伝えた時よりも、動揺したように。それどころか、口元を抑えて気持ち悪そうに呻いている。

 

 

「女将?」

 

 

 明里はどうしたのだろうと言わんばかりに首を傾げた。

 

 

「どうなんですか、女将さん」

「…………」

 

 

 しばらく、ギンの問いに答えにくそうに身体を震わせる女将だが、やがて静かに口を開く。

 

 

「―――いいえ、ケモノの姿ですら、ありませんでした」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五年程前。

 

 恋歌(れんか)と言う女が、飛田遊郭に売られてきた。

 二つの山の中、かなり深い森の中を通って歩いてきた、田舎の出身とは思えないほど大層美しい女だった。二十歳程の女で、酒におぼれた旦那の借金のカタに売られてきたと。遊郭ではよくある悲劇のひとつだった。

 

 その女はすぐに"蓮華"が買い取り、多くの客を取った。飛田遊郭ではすぐに有名になり、多くの男達を魅了し、当時もっとも稼いだ遊女だったと言われるほどだ。

 

 しかし、三カ月ほど経った頃、恋歌は妊娠していたと発覚した。

 

 前の旦那の子供を妊娠していたのである。

 

 妊娠が発覚した後、女将と楼主は彼女に堕ろすよう命じた。しかし、前の旦那への義理立てか、それとも子供へ何かしら愛情を持っていたのか、恋歌はナイフを喉に突き立て、自殺した。

 

「その後でございます。恋歌の股から、緑色の泥状の何かが現れたのは……」

 

 恋歌の死体から、緑色の泥が這うように出てきたかと思えば、目にも留まらぬような素早さで天井裏へと逃げ込んでしまったと。

 

「その恋歌が過ごしていた部屋が、この部屋でございます」

「自殺もここで?」

「はい……その緑色の物の怪も、ちょうどあそこから天井裏へ……」

 

 女将が指を差した方向に顔を向けると、そこはギンが先ほど天井裏を覗いていた場所だった。

 天井裏に逃げ込んだその奇妙な生物は、姿をばったり消したと言う。しばらくの間、気味が悪いと言われ、誰もこの部屋に近寄らなかった。

 

「ですが、その数ヶ月後、この部屋の天井から何かをひっかくような音が聞こえたのです」

 

 不審に思った男衆が天井裏を覗くと、そこには赤子がいたそうだ。どこか恋歌の面影を残す、女の赤子が。

 

「私は内心恐ろしかった。その赤子は恋歌とあまりにも良く似た顔をしていたのです。私はすぐに気付きました。あの緑色のモノが、この赤子になったのだと。恋歌の生まれ変わりのようなその赤子を、私達は殺すことも余所に売ることもできませんでした。殺してしまえば何か祟りがあるのではないかと畏れた私達は、それを育てました。その赤子が、今あなた様の前にいる恋綿です」

「天井裏にいたのは、1人だけ?」

「…………いいえ。半年後、また同じように赤子が」

 

 その娘……恋綿の成長は早かった。新鮮な小魚や木の実を好んで食べ、半年で五歳児ほどに、一年で十歳ほどに成長したと。

 そして恋綿が発見された半年後、すぐにまた赤子が同じように天井裏に現れた。まるでどこからか湧くように、天井裏で増えていく恋綿。

 一度天井裏をくまなく探してみたが、変わった所はひとつもなかった。

 今では十人ほどの恋綿が、この蓮華で生活しているようだ。

 

「最初は赤子程の知識しかなかったのですが、簡単な知識は覚えていきました。見た目は恋歌と同じく大層美しかったので」

「遊女に仕立てたのか」

「はい」

「物言わぬ娘に客が着くのか?」

「その手の娘を好むお客様もいらっしゃいます」

「……恋綿に良く似た禿や遊女がいたが」

「はい。お察しの通りでございます」

「……」

「……そして、今月に入って、恋綿は寝込むようになったのです」

 

 ギンは頭を抱えた。

 なんてことだ。この店は、異形の蟲を遊女として売っていたのだ。遊女屋で生活すれば上等な馳走を食べることができる。そうやって、急激に栄養を蓄えていったのだろう。そう考えれば、異常な成長速度も納得できる。

 十人。十人もの人茸がここに紛れている。想像していたよりも数が多すぎる。

 身請けされて他所の土地や店に移されていないのが不幸中の幸いか。

 

「鹿神様。この娘の病は一体なんなのですか?」

「……身重の妊婦に寄生し、子を殺す、病でもあり、"蟲"と呼ばれる生命体です」

「蟲?」

「寄生虫、と言えば分かりやすいでしょうか」

 

"綿吐"と言う蟲は、簡単に言えば寄生虫である。

 

 緑色の綿のような姿で空中を漂い、身重のヒトの胎内に入り、卵に寄生する。

 産まれてくる時はヘドロ状だが、床下や天井裏に逃げ込み、そこに根を張る。

 半年か一年が経った頃、赤子の姿の"人茸"を親元へ送り込む。

 先ほど天井裏を見た時に張っていたあの緑色の苔のような物が根であり、綿吐の本体だ。

 送り込まれた人茸は、人のように振る舞うが意志を持たない。だが、この蟲の本体と見えない糸のようなもので繋がっており、人茸が摂取した食物や養分を、糸を通して本体に養分を送る。

 

 要は、胎児を寄生して殺す。水子の命を糧に現世に生まれ出る。

 蟲は本来、人の目に見えない。何故なら、人間や動植物のように命としての力をあまり持たないからだ。

 だが、幼子一人を喰ったこの蟲は、人と同じ……水子の身体を持つ。

 

「この娘や、他の恋綿は蟲そのものです」

「蟲そのもの?」

「はい。これは人であって人ではない。心を持たない、"人のようなモノ"です」

 

 人茸が二人か三人程度だったら、ギンが身請けして殺すという手段もあった。だが、十人ともなれば事情を話さない訳にはいかない。

 故に、ギンは女将に蟲のことを分かりやすく、病原菌に例えて話した。

 女将達はまだ得心がいかないようだったが、伝染病の一種だと伝えると顔を青ざめた。

 

「この病気は"綿吐"と呼ばれる病気です。この娘は、本来恋歌が生むはずだった子供を殺したモノ。この娘はやがて壊死し、その際、周囲に大量の種を撒きます。菌のような物で、これがばら撒かれる前に殺さなければいけません」

「なっ……」

「殺さなきゃいけないって!?」

 

 案の定、"殺す"という物騒な言葉に反応した女将が立ち上がる。

 

「この病気は、身重の人に寄生する。寄生されると、生まれてくるのは女将さん。あなたが見てきた緑のヘドロのような物の怪になるのです」

「……ッ」

「種を大量にばら撒かれれば、近くの街にも蔓延してしまいます。この娘や他の恋綿が身請けされ、もし別の街で種を撒かれれば手遅れになってしまう。そうなれば、もう手がつけられない」

「ば、ばかなこと言わないで!」

 

 そこで女将は、今までの丁寧な口調はどこにいったのか、忌々しげに怒鳴り散らす。

 

「あの娘達には、一等なお客様たちが着いているのよ!それを殺すなんてしたら、大損するのは私達じゃない!」

「……」

 

 ここでも金か。そんなことを言っている段階ではないと言うのに。本当なら根が張り巡らされているこの建物ごと焼き払うべきなのだ。

 さすが、忘八と呼ばれる遊女屋の楼主を支える女将。こちらも負けず劣らずの欲塗れの女狐だ。金にがめつい。そりゃ、店一番の遊女を殺される、と言われれば黙ってはいられない。

 この女将からすれば、恋綿を殺そうとする俺は医者ではなく、さしずめ強盗だ。

 

「もちろん、こちらからもある程度金銭は負担させていただきます。なので――」

「そういう問題じゃないのよ!ここで恋綿を殺されてしまったら、今までの蓮華の信用が落ちてしまう!」

「いい加減にしろ」

 

 女将を少し睨みつけながらドス声で言う。

 

「ひっ」

 

 すると、女将と若女将は怯えたように顔をゆがませた。こちらは毎日鬼と対峙しているのだ。殺気を出せば、一般の女性はすぐに黙ってくれる。

 

「言ったでしょう。この病気は、水子を――生まれてくるはずの命を殺すんです。このまま放置しておけば、取り返しがつかないことになる。これから生まれてくる子供が全て人の肉を被った綿吐など、多くの人が不幸になるだけだ」

「…………ッ」

「あなたは人殺しになりたいのですか。どうか、懸命なご判断を」

 

 女将は悔しそうに顔を伏せる。確かに、この美貌なら例え物言わぬ異形の蟲だとしても、多くの客が着くだろう。だが、目先の利益に手を伸ばし続ければどうなるか。この女将も分からなくはないはずだ。

 

「明日の朝までに答えを出してください。楼主の方と相談して、答えが出るまで待ちます」

 

 でなければ、俺はここにいる恋綿を全て殺さなければいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 女将は楼主と相談するために部屋から出て行った。

 若女将の明里も仕事があると言って部屋から出ていき、残されたのはギンと恋綿だった。

 

「……ふぅ」

 

 苛立ちを紛らわす為に蟲煙草を吸うが、気分は一向に晴れない。

 

 鬼狩りとして働いている以上、頻繁にここに訪れることはできない。「他の娘は寿命が来るまで待ってほしい」と言われても俺は了承することは絶対にできない。

 一度許してしまえば、その後は何度もなあなあで許されてしまう。遊郭一の美女と言う大金が回る宝石なのだから、尚更。ここで全ての人茸を始末しなければ、今後何度も繰り返される。

 

「あとは根か……」

 

 燃やすのが一番なのだが、古い木造に火を点ければ全焼は免れない。更にここは料亭だ。建物を丸ごと燃やしてしまえば、どれだけの被害総額を請求されるか分かった物ではない。なんとか、根だけを枯らす薬を創るべきか……。

 

「失礼します」

「ん?」

 

 扉が再び開かれる。中に入ってきたのは、明里だった。

 

「鹿神様。お食事をお持ちしました……私が簡単に作った夜食ですが、よければ」

 時計を見ると、もうすぐ日付が変わる時刻だった。

 

「ああ、ありがとう。頂くよ」

 

 明里が運んできてくれたのは簡単な塩結びだった。

 口に含むと、ほのかにしょっぱい。今日は昼から何も食べていなかったから、ありがたかった。

 

「女将は何か言っていたか?」

「いえ、特には。今、楼主と相談している最中です」

「そうか」

 

 綿吐の一部である人茸は、思考はしないがその身体は人間そのものだ。ひょっとすれば、鬼の餌としても機能するかもしれない。普通、いくら自殺した遊女と瓜二つと言えど、天井裏に現れた赤子を引き取り育てるなど、まともな感性を持った人間はしない。

 だが、綿吐を生かしておいても百害あって一利はない。

 家畜のように扱える、都合がいい人間。抵抗せず、物言わぬ人の身体を持った蟲。何かしら有効的に……それこそ薬学の実験などに使えるかもしれない。人間と同じ肉体、定期的に補充される蟲。

 少し考えるだけでいくつもこの蟲の利用法が思いつく。

 だが、蟲を人の利の為に使ってはいけない。

 仮にもし、人間と同じ肉体を持つ人茸に鬼の血を入れればどうなるのか……人茸がもし鬼と同じく人間を喰う性質を持ってしまえば、それこそ取り返しがつかない。

 

「明里さん、アンタは俺を人殺しと思うか?」

「……少し」

 

 綿吐がもし、鬼のように人を襲う性質を持つならばすぐに殺すことができるだろう。

 だが、この綿吐は、この恋綿は、ただ生きているだけで、罪はない。

 

「アンタは正直者だな」

「申し訳ありません」

「謝らないでくれ。俺も自分がこれからすることは決して褒められたことじゃないことは自覚している」

 

 もし、この蟲を殺さずに済む方法があるなら、とっくにそれをやっている。

 だが放置しておけば、綿吐は国中に繁殖し、多くの子供を喰らう。

 

「……恨んでくれてもいいのにな」

 

 恋綿は何も言わない。ただ静かに宙を見つめているだけだ。

 ……例え異形の者と言えど、生きた命。それを家畜や実験動物、物のように扱う権利は、俺にはない。

 

「すまないな、明里さん。だが、できる限りのことはさせてもらう。苦しませて死なせるようなことはしな――」

 

 

 

 

 ―――――そう言いながら振り返ると、顔を伏せた明里が、自分の方へ向かって倒れ掛かる姿が見えた。

 

 

 なんだ?明里さんが、いきなり、俺の方に倒れ掛かってきて――

 

 

 

 

 その時、何かが刺さる音が聞こえた。聞き覚えがある音。自分が鬼狩りをする時、鬼の身体に刀を突き立てた時の音。

 何十、何百回も聞いた音だ。

 

 最初、刺されたことに自分は気付かなかった。

 

 何か違和感がある。そう思って下に視線を向けると、自分の血で濡れた包丁が突き刺さっていた。

 

 腹が、熱い。なんだ、これ。なんで、包丁、が。

 

 突然のことで頭が動かない。だが、鬼狩りとして訓練された身体は反射的に動いた。

 自分の右拳が明里さんの頬を殴り飛ばす。咄嗟の事で加減はできず、明里はまるで風に吹かれた綿のように恋綿の方へ飛ばされた。

 

 

「ぐっ……なん、で……!」

 

 

 まずい。急所(鳩尾)に刺さった。包丁を抜けば血が大量に出る。

 止血の呼吸で出血量を最低限に抑えながら、痛みを抑えながら明里の方へ目を向ける。

 

 

 明里は恋綿を守るように覆いかぶさりながら、こっちを見ていた。右頬はさきほど殴り飛ばしたからだろう、赤紫色の痣を創っていた。彼女はまるで怪物を見るかのような、殺意に満ち溢れた目でこちらを睨みつけている。

 

 

「ふぅー……!ふぅー……!」

 

 

 人を刺した高揚感か、荒い息を吐きながら自分の手についた血を拭う明里。

 

 狂気を孕んだその眼は、どこか見覚えがあった。

 

 

 

 

「チッ……」

 

 

 

 なんだよ、その眼。殺意と憎しみに満ちた目。我欲に満ちた目。

 

 人間の癖に、それじゃ鬼と変わらねえじゃねえか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 明里は、二つ山を越えた村に生まれた少女だった。

 貧しいが心優しい両親と、美人で器用な姉の下で生まれた少女。畑を耕しながら、生活は貧しいけれど、幸せで満ち足りた場所だった。

 

 そんな幸せが崩されたのは、六年前。

 両親は物言わぬ骸に成り果てていた。近くの盗賊が、村を襲い、両親を殺したのだ。

 幸いなことに姉と明里は、近くの下町に物を買いに向かっていた為、夜盗に襲われることはなかった。

 母を含め、村の娘は犯された後に殺され、父や他の男衆はまるで()()()()()()()()()()惨い殺され方をされていた。

 

 生き残ったのは、明里と恋歌だけ。

 

 幼かったこともあり、明里は親戚に保護されたが、姉はひどい男の所へ無理やり嫁がされた。

 

 二年後、姉の下へ訪れると、姉は人買に売られた後だった。

 

 明里は、酒の金の為に売ったとげらげらと哂った姉の元夫を殺した。

 

 最愛の姉を、たった一人の肉親を殺された明里はあらん限りの憎しみを持って、包丁で何度も突き刺した。

 

 その後、僅かな手掛かりを求めて姉が売られた場所を探し、そしてこの飛田遊郭を見つけた。

 

 だが、姉は既に自殺をし帰らぬ人になり、ここにいたのは姉の忘れ形見である恋綿だけだった。

 

 恋綿が異形の何かであることは、すぐに分かった。

 

 けれど、たった一人の姉が残した肉親。忘れ形見。姉の娘と言うことは、私の姪にあたる。

 

 

「お姉ちゃんの分まで、幸せになれるよう、今度は私が守るからね」

 

 

 そう誓っていたのに。

 

「殺さなければいけません」

 

 白い髪に翠の眼をした死神が、やってきた。

 何の躊躇もなく男は自分の姪を"物の怪"と呼び、たった一つの宝物を殺そうとする。

 これ以上事態が悪くならないようにするために、恋綿を殺すって?どうして恋綿が殺されなきゃいけないのよ。

 

 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな!

 

「忘八様……どうすればよいですか?」

「簡単だ、殺せばいい」

「殺す?」

 

 大切な物を守るためには、自らの手を汚さなければいけないのだよ。

 

 ああ、そうか。それだけでいいんだ。なんて簡単なことなんだ!

 明里はあまりにも単純な解答に辿り着いて、思わず小躍りしてしまいそうになった。

 

「そうか、包丁で刺せば恋綿を守れるんだ」

 

 今夜はなんて冴えているんだ。死体は()()()()()()()()()()し、死体について誰かに咎められることはない!

 

 さっそく包丁を取りに行こう。あの男を殺せば誰も悲しまない。それで問題がないじゃないか。

 

 あの男を殺せば、恋綿は助かる。

 

 死なせはしない。絶対に守る。大丈夫だからね、恋綿。

 

 

 

 

 

 

 ――ギンの致命的なミスは、明里の内に潜む狂気を見抜くことができなかったこと。

 十五と言う若さで、特権階級の男達が訪れるこの遊女屋で。鬼が楼主をするこの遊女屋で若女将を務める少女が、普通な訳がなかった。

 

 姉を探す為に自らこの遊女屋に奉公しに売られに来たこと。

 生きる為に、"恋綿の為に"と言い聞かせ男に身体を売り続けたこと。

 そして――姉の元夫を殺した時か、それとも見知らぬ男に純潔を捧げた時か。本人も気づかないうちに、その心が壊れてしまったこと。

 

 一月の間、遊女屋を薬師として歩き回っている間に、ギンの観察眼は鈍っていた。

 ここに努める遊女のほとんどが訳有りで、何かしらの闇を抱えているのが当たり前。

 

 木を隠すには、森の中。

 

 闇を隠すには、闇の中。

 

 ギンは、明里の中に潜む鬼を見抜くことができなかった。

 

 

「かっ……はっ……!」

 

 

 息が、できない。喉の奥が蓋をされたように。手足の先が、痙攣する。

 

 毒を、盛られた?くそ、一体いつ……いや、あの時しかない。

 

「そろそろ効いてきた?先生」

「……お陰様でな……」

 

 呼吸ができなくなる。何の毒か……ある程度想定はつく。おそらくフグ毒か何かだ。金持ち御用達の料亭なら、フグ料理ぐらい扱うだろう。この場所で最も手に入り易い毒。そして、最も殺傷力がある毒だ。

 手足が痺れる……呼吸がしにくい……。

 

「毒が効くまで……話で時間を稼いでいたのか……」

 

 俺がそう訊くと、明里は楽しそうに口元を歪ませた。

 部屋に入ってすぐに殺さなかったのは、握り飯に染みこませた毒が効くまで時間を稼ぐため……。

 

「忘八の……入れ知恵か……」

 

 解毒薬は、ない。

 残された時間は、少ない。いずれ呼吸が止まり、俺は動けなくなる。それまでに、忘八を殺し、恋綿を殺し、珠世さんの所へ行かねえと……!

 

 刀を握り、立ち上がる。

 

「嘘……!?」

 

 明里は信じられないように目を見開く。フグ毒を食らわせ、脇腹を刺した。

 大の大人でも痛みと苦しさで立っていられないはずなのに。

 ギンは顔をしかめながら包丁を抜き取り、明里の方へ近寄った。

 

「悪いな、軟な鍛え方はしていないんだよ」

「やめっ」

「……許せ」

 

 ギンは手刀を明里の頸に当て、一瞬で意識を奪う。

 そしてそのまま、呼吸を使って刀を振り下ろす。

 

 

 ―――ざしゅりと、果実が弾けたような音とともに、寝たきりだった恋綿の頸が落ちる。

 

「くそったれ」

 

 包丁をその辺に放ると、からんからんと乾いた音が響いた。

 

 部屋中に恋綿の血が飛び散り、ギンもその返り血を浴びたが、構っている暇はない。

 薬箱を背負い直したギンは止血の呼吸を続けながら部屋を飛び出した。

 

 

「きゃあぁぁぁぁぁ!!」

「だ、誰か!刀を持った男が暴れてるぞぉぉぉぉぉ!」

 

 

 廊下に飛び出ると、ギンを見た客が悲鳴を上げながら店から飛び出す。

 今のギンは、刀を持ち、返り血を浴びた状態だ。白い髪は血に濡れ、事情を知らぬ人間が見れば殺人鬼が客に紛れたと思うのは必然だった。

 

 パニックは恐怖を呼び、恐怖は伝染する。店はあっという間に悲鳴や怒号、大勢の人間の足音が雪崩のように響き始める。

 

 人がいなくなるなら都合がいい。こっちはこっちの仕事をさせてもらうだけだ。

 穏便に済ませるはずだったが、残された時間は少ない以上、単独で突っ込むしかない。

 

 ギンは呼吸で毒が巡るのを遅らせながら、忘八を探す為に気配を探りながら走り回る。

 

 どこだ、どこにいる。

 

 客間、いない。

 二階、いない。

 三階、四階と走り回り、時折飛び掛かってくる恋綿を殺した。

 

 恋綿はどうやら自分を敵と認識したようだ。心を持たぬ蟲でも、自らの命を奪おうと、大切な種を殺そうとする男だと言うことは理解できたようだった。

 

 だが、例え異形のモノと言えど、相手は女の肉を被った蟲。

 

 鬼を殺す為に鍛錬を重ねてきたギンの敵ではなく。

 

 そしてその光景は、女子供を無慈悲に殺す虐殺者だった。

 

 

「はぁ――……!はぁ――……!」

 

 息が、苦しい。何人、殺した。四人か、五人か?あと何人残っている。鬼は、どこにいる。

 分からない。毒が回ってきた。視界がぼやける。

 

 ―――熱い。

 

 火の手が回っている。鬼がつけたのか、人がつけたのか?

 ちょうどいい。死体となった恋綿の身体も、この建物全体に根を張った綿吐の本体も燃やしてくれるはずだ。

 

 意識が朦朧としながらも、ギンは正確に恋綿の頸を落とした。

 

 鬼狩りとして戦い続けてきた習性。頭がまともに機能していなくても、身体が、細胞が覚えている。

 

 人の形をしたモノの、頸の落とし方。

 

 いや、覚えているだけじゃない。段々と研ぎ澄まされていく。

 

 

「よ……う、やく……見つ…け、た……」

 

「お前……化け物か……!?」

 

 

 最上階の奥の部屋にいたのは、若い鬼だった。

 18,19ほどの年の鬼だった。その右目には、"下弐"と言う文字が浮かび上がっている。

 鬼と言うよりは、人間に近い体型だった。肌がやけに青白いだけの美丈夫だ。

 

 なるほど。パッと見、人間そのものだ。

 

 だが、その眼は――その眼は、鬼だ。

 

 

 ―――なんだ、人間も鬼も、大差ねえじゃねえか。

 

 

「――何を笑っていやがる……!俺の城を荒らしやがって!楽に死ねると思うなよ!」

 

 

 ――鬼が飛び掛かってくる。

 

 下弦の鬼――けれど、何故だろう。すごく遅い。

 

 槇寿郎さんや鱗滝さんの動きに比べれば、天と地ほどの差がある。これが十二鬼月か。

 

 

 

 大したことねぇなぁ。

 

 

 

 

 火に囲まれたこの場所で。毒に身を犯され、包丁によって傷つけられた急所。

 

 死の淵に片足を入れた命の極限。生命の危機。

 

 命の液体とも言える血液が、腹からこぼれ、体温が徐々に落ちていく。

 

 あと一歩で死ぬと言う場所に、追い詰められている。

 

 だからこそ、感覚が鋭く磨かれていく。

 

 

 ぬたぁん

 

 ぬたぁん

 

 ぬたぁん

 

 

 流れるように、逆らわず、刀を振るう。

 

 

 もっと早く、もっと速く。

 

 

「貴様……!死に体のくせにどうしてそこまで動け……!」

 

 

 もっと迅く。迅く。迅く。

 

 相手の頸を、食い千切れ。

 

 

 

 

 "森の呼吸"

 

 

 

「死にたくな―――」

 

 

 

 "肆ノ型 山犬"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燃える炎の中から、人影が現れる。

 現れたのは、腹に包丁を突き刺し、動かぬ手足を無理やり動かし、肩に逃げ遅れた大人を背負った、白髪の男。

 

「ギンさん!」

「ギン!」

 

 館を包む大火事から現れたのがギンだと気付いた珠世と愈史郎は、慌てて駆け寄った。

 

 ―――ひどい。

 

 ギンの状態は、半死半生だった。身体中の火傷、切傷、そして腹部に空いた傷口。

 更に、鬼の血鬼術か、何かしらの毒を盛られたのか――ギンの顔色は死人のように青く、呼吸が荒い。

 

「よぉ……きっちり、殺してきたぜ……下弦の弐……」

「ギンさん、喋らないで!愈史郎、すぐに手術の準備を!」

「はいっ!」

 

 ギンは愈史郎の肩を借りて横にされる。

 

「忘八から受けた傷じゃない……人間にやられたのですか?」

「……」

 

 珠世は長年の経験から、切創と毒を盛られたのだとすぐに理解した。ギンは何も答えなかったが、黙秘がなによりの証拠だった。

 

「恋綿!恋綿ぁ!」

 

 すると、ごうごうと燃える館に向かって涙を流しながら叫ぶ遊女がいた。

 明里だ。

 どうやら、一足先に脱出していたらしい。

 

 明里はギンが生きていたことに気付くと、憎悪を隠さず睨みつけて叫ぶ。

 

 

 

「人殺し!人殺し!アンタが火をつけたんだ!アンタが殺したんだ!こいつが犯人だ!」

 

 

 火事の煤で真っ黒になった手を拭おうともせず、ギンを指差し、叫んだ。

 

「化物!化物!私の大切な物を奪った!呪われてしまえ、死んでしまえ!私は絶対に、アンタを許さない!この外道!化物―――――!」

 

「なっ――」

 

 

 珠世は眼を見開く。違う、ギンさんがそんなことをするわけない。

 だが、ただならぬ様子で叫ぶ明里の言葉に、火事で集まっていた野次馬達がギンに疑いの目を向ける。

 

「やだ、あの子が下手人?」 

「刀を持ってやがるぞ!」

「警察は何している!」

「あの女も仲間か?」

 

 そして、疑いの眼は珠世達にも降りかかる。

 

「珠世様!ここで治療するのは危険です、一刻も早くここから離れなければ!」

 

 愈史郎が慌てる。このままここにいれば、ギンは捕まり、自分達もどうなるか分からない。あの醜女め、一体何のつもりで……!

 

 忌々しげに明里の方へ視線を向けると、愈史郎はとんでもない物を目にしてしまう。

 

 明里は、おぼつかない足取りで、火事で燃え盛る"蓮華"の中へ向かって行くのだ。

 周囲の人は濡れ衣の罪を着せられたギンに注目が集まり、誰も彼女の異常な行動に気付かない。

 

「まずい、止め――」

 

 愈史郎が声を出す前に、女は燃え盛る炎に身を投げ、その姿は見えなくなった。

 

「愈史郎、血鬼術で眼を眩ませます、その間に――愈史郎?」

「……何でもありません、珠世様。行きましょう」

 

 愈史郎はそっとギンと珠世を肩で抱えた。

 

「珠世様!お願いします!」

 

 

"血鬼術 惑血 視覚夢幻の香"

 

 

 珠世が鋭い爪で自身の腕を引っ掻くと、甘い匂いが漂い始める。

 

「な、なんだこれは!?」

 

 騒ぎを聞きつけた警察官達がギンを捕えようと野次馬を掻き分け走ってくるが、珠世の血の臭いを嗅いだ警官や野次馬達は、目の前が突如花の文様によって遮断される。

 

 野次馬達の視覚を封じたことを認めた瞬間、二人を抱えた愈史郎は宙高くに跳び上がり、飛田遊郭から人知れず離れた。

 

 

 花の文様が消える頃、そこに下手人と思われる白髪の男の姿はなく。

 

 遠くから火事を聞きつけた火消しの者達の怒声が、こちらに近付いてくるばかりだった。

 

 

 

 

 その夜。飛田遊郭で起きた火事は一晩中、火消しの懸命な消火活動にも関わらず、朝になるまで燃え続けたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……感謝します、ギンさん。愈史郎に掛けられた血鬼術は、消えていました」

「……そうかい」

「どうしたギン。珠世様がこうしてお前に感謝しているんだ。感涙にむせべ!」

「愈史郎」 

「ハイ!」

 

 一月後。ギンは珠世達の拠点で目を覚ました。

 珠世の手術と、道具を使用した人工呼吸でギンの命をぎりぎり繋ぎ止めることができたと言う。珠世様がいなければお前は死んでいたんだぞと愈史郎は憤慨していた。どうやら、丁寧に看病されていたギンに嫉妬していたらしい。その愈史郎は「ギンさんがいなければあなたと私は死んでいたのですよ」と珠世が言うと、しょんぼりしたように肩を落とした。

 

「しばらくは、ここで姿を隠すのが良いでしょう。ギンさんが今回の火事の犯人だと警察が血眼になって探している。ほとぼりが冷めるまで、ここで怪我を癒してください」

「……鬼舞辻は……」

「こちらに来てはいません。あの臆病者は、大火事で騒ぎになった飛田遊郭で人目がつくことを嫌ったんでしょう」

「……」

「大丈夫ですか?」

 

 ベッドの上に横たわるギンは、どこか覇気がなかった。何かを思い悩むように、黙り込んでいる。珠世と愈史郎が声を掛けなければ、反応を返さない。食欲もないようだった。

 

「あの娘は」

「?」

「あの火事の場に、少女がいたはずだ。"蓮華"の遊女だ。その娘は、どうなった?耳に残っているんだ。俺を化物と罵る悲鳴が」

「死んだよ」

 

 珠世がどう答えるべきか悩んでいると、愈史郎が間髪入れずに答えた。

 

「自殺だ。独りで勝手に炎に飛び込んだ」

「…………そうか」

 

 ギンはそう言って、顔を伏せた。その姿は、罪悪感に押し潰されそうな小さな少年に見えた。

 

「ギンさん……」

 

 そのあまりの痛々しさに、珠世は何も言えなかった。何と声を掛ければいいか分からなかった。

 ギンがあの遊郭で何をしていたかは、大体知っていた。

 生き残った女将と、ギンが助けた吉原の遊郭の楼主が、証言したのだ。

 

 ――あの男は化物よ、私達の店の遊女を、何人も斬り殺し、私の夫を殺したの

 

 ――彼は私を助けてくれた命の恩人だ。あの建物に巣食っていた悪鬼から、私を守ってくれた

 

 警察がどちらを信用するかは、火を見るよりも明らかだった。

 助けられた男の証言は消され、女将の証言を元にギンは指名手配されることになったのだ。

 

「……大丈夫だ、珠世さん。その辺りは耀哉がなんとかしてくれる」

 

 ギンはそう言って笑った。だがその笑いは無理やり創られた笑顔だということはすぐに分かった。

 

「なあ、珠世さん」

「なんでしょうか」

「鬼とは、人とは、なんだろうなぁ」

 

 どれだけ医学を身につけようとも、どれだけ剣術を磨こうとも、どれだけ命を賭けて助けようとも。

 結局は無意味なのか?

 

「生命ってのは、なんだろうなぁ」

 

 義勇や杏寿郎が血反吐を吐くような修行を乗り越えてきたのは。

 錆兎や仲間達が鬼と戦い命を落としたのは。

 

 こんな誰も彼も報われない結末の為だったのか?

 

「……それは、私には答えられないでしょう」

「……そうだな」

 

 

 ―――人とは、鬼とは、蟲とは、なんだ。

 

 

 

 生物とは、なんだ?

 

 

 

 俺達は何の為に、命を張って鬼の頸を獲り続ける。

 

 人の中には鬼のような冷たい心を持った悪人がいると言うのに。

 

 錆兎や他の仲間が死んだのは、そんなバカみたいな連中を鬼から守るためだったと言うのだろうか。

 

 

 

「生まれついて人より多くの才に恵まれた者は、その力を世の為、人の為に使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されないのです」

 

 

 

 瑠火さん、アンタの言葉を信じていいのか、今の俺にはもう分からない。

 今まで信じていた、これは誰かの為になることだと頑張ってきたこれまでを、否定したくてたまらない。

 

 

 

 

 



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開戦

 身体からは屍の匂いがする。 

 

 ほかの誰からは分からなくても、俺自身には見えなくても、蟲達は俺が血塗れに見えたのだろう。

 

 

 

 俺の身体からは、"骸草"が生えていた。

 

 憎しみと死の臭いを苗床にする蟲。 

 

 俺は、蟲達から、理から、こう言われているようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お前は"屍"と同じだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな……」

 

 炭治郎は言葉を失った。ギンが語った過去が、自分が想像していたよりも凄惨だったからだ。

 ギンは何も悪くない。少なくとも炭治郎にはそう思える。

 赤子を殺してしまう蟲から、人を喰らう鬼から助けようと戦ったギンを嘲笑うような裏切りと仕打ち。

 ギンからは後悔の臭いが強く滲み出ていた。ギンに言葉をかけるべきだったが、炭治郎は何も言えなかった。どんなに言葉を尽くしても、ギンの悲しみを癒すことができないと分かっていたからだ。

 

「あの娘がどうして俺を刺したのか。今となっては誰にも分からん事だ」

 

 恋綿も、若女将の少女も、悪くは無い。

 ただそれぞれが、生きようとして、戦って、結果ああなってしまっただけだと、ギンはそう思う。いや、そう思おうとしている。

 

 そう思わなければやりきれない。

 

「割り切ったつもりではあったが、花街に来るとどうもな……あの時のことを思い出してしまう。もっと自分にできることがあったんじゃないかとか、どうすればよかっただとか、どうしようもない問題が、頭の中でぐるぐる回った。考えて考えて、それでも考えて、結局独りじゃ答えは出せなかった」

 

 息ができない暗い水中でもがいているような気分になる。どこに進めばいいか、わからない時がある。

 あの時、意識が朦朧とする中で振るった刃の感触。意識が途切れる中で叫ばれた、化け物と呼ぶ声。

 

 

 鬼も人も憎まない。そう決めたはずだった。

 だが、こうして花街に来て、炭治郎に自分の心の闇を看破されてしまった。

 まだ自分の心のどこかに、根っことして巣食っていたのだろう。鼻の利く炭治郎に嗅ぎ取られてしまったのがいい証拠だ。

 

 錆兎が殺された時、自分と鬼を憎んだ。

 だが、あの時花街で人間を憎んでしまった時。

 

 自分は何を信じればいいのか分からなくなってしまっていた。

 

「俺は――カナエのようにはなれない」

 

 

 鬼を憎まないカナエが、少し羨ましかった。自分がカナエのように心が優しければ、人も鬼も憎まずに済んだのだろうか?

 

「答えの出ない問いは、いつだって足かせになる。俺も随分間違えてきた。炭治郎」

「はい」

「―――しのぶ」

 

 襖の向こうにいた誰かが、肩を震わせたような気がした。

 

「お前がこれを聞いてどう思うかは分からん。だが、生きている限り答えの出ない問はこの世界にいくらでもある」

 

 ギンは蝶屋敷の娘達に、この手の話はしないようにしていた。

 悲劇の話など、子供に聞かせるべきものではなかったから。

 何より、自身の黒い部分を見せることを恐れていた。

 しのぶや他の隊士達に親しまれていることは理解している。それ故に、自身の憎しみを打ち明けたくはなかった。

 

 心のどこかでは、「鬼も人も救うべき存在じゃない」と、そう思ってしまっている。

 そうではないと信じたくても、心の中の自分が鬼も人も憎いと、叫んでいるのを感じてしまっている。

 

 それを、誰にも悟られたくなかった。

 

 今もあの時の言葉に嘘はない。再びあの娘が現れたら、許そうと誓ったのは嘘じゃない。

 けれど、俺はどうしてあの娘を許していいと思えたんだろうか。

 

「俺も随分」

 

 疲れた。

 

「――随分?」

「いや」

 

 ギンは言葉を区切り、深くため息を吐いた。

 

 ――そういえば俺の身体に生えていた骸草は、どうして消えたんだったか?

 

 ……大切なことだったはずなのに、どうしてか、靄がかかったみたいに思い出せない。

 

「ギンさん?」

「……ああ、いや」

 

 頭をがりがりと爪で掻き毟る。

 光酒を飲んでいる影響か。最近、昔の記憶を思い出せなくなっているような気がする……。前世の記憶はともかく、鬼狩りになってからの記憶が最近曖昧だ。虫食いされた紙のように、記憶の所々が穴が開いていく感覚。

 副作用がまたひどくなってきている。酒で記憶が飛ぶなんて、まんまアルコール中毒だなとギンは鼻で笑う。

 

 味覚の次は、記憶。

 

 光酒は頻繁に飲むモノじゃない。一種のドーピング薬のような物だ。

 

 本来、すべての生き物の心臓が生涯で打つ脈の数は決まっている。

 鬼殺隊の隊士は、呼吸法で無理やり脈を加速させる。それだけならまだ人間の理の範疇だが、ギンの場合は更に光酒を使用して脈を倍以上に加速させる。

 寿命を削るような行為だ。さらには命の源泉であり、蟲達の集合体である光酒を飲めば、人間の身体が先に悲鳴を上げるのは当然だった。

 残された時間も、そう長くはない。ギンはそう感じていた。

 記憶が削れていくと最初に感じたのは、4か月前。無限列車に乗っていた時。

 列車に乗っている時、ふと前世の……なんだったかを思い出そうとして、上手く思い出せなかった時のこと。

 

(光酒を飲めば簡単に鬼を狩れる。そう都合がいい話ばかりじゃないってことだな……)

 

 記憶が削れて削れて、残っていくのは憎しみばかり。

 

 もっともっと大切で幸せな記憶がたくさんあったはずなのに、今一番はっきりと思い出せるのがあの飛田遊郭でのことだなんて、笑えもしない。

 

 俺は、こいつらに何を残せる。俺が生きている間に、しのぶ達に何を残せる?

 

 いずれしのぶやカナエのこともまともに思い出せなくなるかもしれない。

 

 そうなる前に、あの約束を――

 

 

 

 

 

 

 ギンくんが■■として、たくさんの人を■■■■■■■いなぁ。ギ■くんが、いろんな■■■■をして、その■■■■を聞くのが、私好きだったの。だから――

 

 

 

「ギンさん?」

「……大丈夫だ」

「本当、ですか?顔色、悪いですよ……」

 

 まったく、この弟弟子には嘘が吐けない。

 

 ギンは深く呼吸をして、頭の奥底をやすりで削るかのような頭痛を落ち着かせる。

 

「誰かのために戦ったとして、必ずしもそれが報われるとは限らない。命を懸けて戦った結果が、誰のためにもならない無意味なことかもしれない。俺は鬼も人も言葉で言い表せないほど憎んだ。憎しみっていうのは一度火が付くとキリがない。実際、花街に来ただけの俺がこのザマなんだから」

 

 鬼滅の刃を振るうたびに、自分が自分じゃなくなっていく感覚があった。

 自分の身体の先が、徐々に鉛になって重くなり、自分の心が錆びて削れていく。 

 

「炭治郎、しのぶ。何のために鬼滅の刃を振るうのか、忘れないようにしろ。人は心の中に夜叉を飼う。誰にも制御できない怪物だ。だからこそ、忘れちゃいけねえんだ。自分の両手が何のためにあるか」

 

 戦う意味。戦う理由。

 人が、人であった鬼を斬る為に必要なこと。

 その理由を忘れた時、人は鬼になる。

 

 炭治郎は力強い目で頷いた。

 部屋の外にいる自分の弟子が、どんな表情をしているかは分からない。

 

「―――もう日が暮れる。行こう」

 

 ギンはそう言って、立ち上がろうとした時だった。

 

 

「――――!?」

 

 

 炭治郎は一瞬、何が起こったか分からなかった。

 視界が突如高速で回転する寸前、鬼独特の甘い匂いが微かに漂ったと思った瞬間、ギンに腹を蹴り飛ばされたからである。

 

 呼吸を使った柱の蹴りは凄まじく、炭治郎は窓をぶち破り外に蹴り出された。

 視界が高速でぐるぐると回転し、炭治郎は道を挟んだ向かいの建物の屋根に叩きつけられる。

 

「かはっ、いったい、なにがっ」

 

 腹を蹴られた衝撃で咳き込みながら顔を上げると、そこには

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瓦礫の山と化したときと屋があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いや、ときと屋だけじゃない。ときと屋を挟むように建っていた二つの建物も、ぺしゃんこに潰されてしまっていた。鋭利な刃物で斬り刻まれてしまったような切口が、その異常さを際立たしている。

 

 そして炭治郎の鼻を突く、粉々になった木材の山と、血の匂い。

 見ると、瓦礫の山の中に血溜まりが出来ていることに気づく。

 

 

「……っ!」

 

 

 広範囲の攻撃、3軒もの建物が一瞬で潰された!

 鯉夏さん、ギンさん、しのぶさん、禰豆子!まさか、あの建物の下敷きに――!

 

 

「あら、鬼狩りの子?」

 

 

「!」

 

 

 顔を上げると、夜空に浮かぶ満月を背に、空中に浮かぶ女がいた。

 

 鬼だ。

 

「今ので建物の中にいたのは全員殺したつもりなんだけど、そう。今のを躱したのね」

 

 炭治郎はすぐに、その鬼の匂いが上弦の鬼の匂いだと気づく。

 空中に浮かぶ、いや、背中から生やしているように動かす何本もの帯が鬼を空中で支えている。

 

 そして、その鬼の眼は――

 

 左目には、"上弦"。

 

 右目には、"肆"。

 

「上弦の……肆!」

 

 炭治郎が十二鬼月と遭遇するのは、これが四度目になる。

 だが、その鬼からはあの黒死牟に負けないほどの、残虐で冷徹な匂いがする。

 

 何人もの人を喰った匂いだ。

 

「柱は何人いるの?一人は白髪の男、もう一人は美しい女でしょう?あの二人は絶対にアタシが食べるって決めてるの。他に柱はいる?一人は黄色い頭の醜いガキがいたけど、あれは柱じゃなかったしね」

 

(善逸……!)

 

「柱じゃないやつは要らないのよ、分かる?不細工と年寄りは食べないようにしてるし」

 

 扇情的な格好をした美しい遊女の鬼だった。外の国の下着をつけた、多くの男を虜にするような美しい女だった。これがギンが話していた蕨姫と呼ばれる花魁なのだろう。

 頬に花模様の入れ墨が入っており、見た目だけなら胡蝶カナエやしのぶにも負けない。だが、炭治郎の鼻には言葉で言い表せないほどの暴虐で、我儘で、性悪を通り越した極悪の醜い匂いが漂っていることに気づいた。

 悪女、という言葉があるのなら、目の前にいるこの鬼が、炭治郎が今まで出くわした鬼の中でもっとも性悪だと気づいた。

 

 

「善逸をどこにやった!善逸を返せ!」

 

 

 仲間思いの炭治郎は、すぐにその鬼に向かって怒鳴る。

 

 しかし。

 

 

「……誰に口を利いてんだお前は」

 

 

 瞬間、堕姫の殺意が一気に噴き出した。

 息が止まるような重苦しい空気が、炭治郎の両肩を重くする。

 

 堕姫の殺意に呼応するかのように十二本の帯が炭治郎を切り刻もうと動き出す。

 

 

(速い!)

 

 

 炭治郎は反射的に刀を抜き、すぐに技を繰り出した。

 

 

"水の呼吸 肆ノ型 打ち潮 乱"

 

 

 繰り出される帯の乱撃を、炭治郎は流れる水の動きで斬り伏せていく。斬られた帯は力を失ったように、地面にひらひらと落ちていった。

 

 

「ふぅん」

 

 

 堕姫は感心した。

 今のを躱した。並みの隊士なら、一秒とも経たずになます切りにされていた。

 上弦の肆である堕姫は、以前よりも身体の調子が格段に良くなっていることを実感していた。敬愛する鬼舞辻無惨から、大量の血を分けてもらったからだろう。以前よりも身体が強く、五感が鋭くなっているのを感じる。血鬼術である帯の数も、以前より強靭に、そして多く操れるようになった。

 

 だがその攻撃を一撃ももらわずに躱しきるこの隊士は、見た目よりずっと実力者だということ。 

 堕姫は柱を何人も殺した経験がある。よもすれば、この子供は今まで殺した隊士よりも――

 

 

「思ったより骨がある」

 

 

 気に入った。傷がある不細工なガキは趣味じゃない、けれど目玉の色は悪くない。あの蟲師の緑の眼も悪くないけど、このガキの朱い眼もいい。

 

 

「決めた、アンタは目玉だけ穿り出して食べてあげる。前菜にちょうどいいわ。アンタを殺して喰ったら、次はあの白髪の男と黒髪の女。腸からゆっくりと食べてやる」

 

 

 堕姫は笑う。

 柱を殺せば、もっと鬼舞辻様に認めてもらえる。もっと強くなれる、もっと美しくなれる!

 考えただけで笑いが止まらない。

 

 いずれやってくる幸福な未来に、堕姫は笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 だが、鬼狩りはそれを許さない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やれるものならやってみなさい、この阿婆擦れ」

 

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 

 

 

 

"蟲の呼吸 蜂牙(ほうが)の舞い"

 

 

 

 

 

 瓦礫の山から飛び出したのは毒に濡れた刃を構える、"花柱代理"胡蝶しのぶ。

 

 

 

(この女……!)

 

 

 

 堕姫は歯軋りしながらこちらに向かって刀を突き立てようと飛んでくるしのぶを睨みつける。

 自分の真後ろ。炭治郎に集中していた堕姫の背中ががら空きになるのを待っていた。

 

 堕姫の背後から襲ったしのぶの気配に、いや、匂いに気づかなかったのは炭治郎も同じだった。

 しのぶの隊服と頬には、血に濡れている。

 

 けれど、その血の匂いはしのぶの血じゃない。

 そしてすぐに気づく。

 

 

(他の人の血……!)

 

 

 しのぶさんは恐らく、ときと屋の花魁の死体を被って自身の匂いを消していたんだ。

 

 

"真靡(まなび)"

 

 

 帯でしのぶの刀を止めようとしたものの、しのぶの突きはそれだけでは止められない。

 鋭い切っ先はいとも容易く帯の盾を貫通し、堕姫の胸元に吸い込まれる。

 

 

「こんばんは、上弦の鬼さん。悪いですけど、死んでくださいね」

 

 

 しのぶはそう侮蔑と殺意を込めて微笑みながら、刃を根元まで沈み込める。

 堕姫の身体に猛毒を注入するために。

 

 

「何をっ、がっ、あがあああああああああああああ!!!」

 

 瞬間、突き刺された個所から突如、堕姫の身体が腐り爛れ落ち始める。

 口から大量の血を吐き散らす。

 

(藤の花の毒……!聞いていたよりずっと強力……!)

 

 柱についての情報を、十二鬼月は鬼舞辻無惨の血を介して共有している。鬼に合わせて調合を変えているらしいが、解毒できないほどじゃない。上弦の鬼の回復力を使えば、藤の花の毒などすぐに解毒できるというのが堕姫を含めた十二鬼月の見解だった。

 すぐに堕姫は身体を回る毒を分解しようと試みる。

 しかし。

 

 

(分解……できない……!)

 

 

 堕姫達は知らない。

 彼女の毒が、藤の花の毒――だけではない。

 

 

 ()()()()()()使()()()()()()でもあると。

 

 

(ギンさんが斬り落とした上弦の壱の鬼の腕、そして青い彼岸花の成分を分析して改良した、私の毒……!まだ治療薬としては完成には程遠い試作品)

 

 ここ数か月の間、青い彼岸花を研究することに寝る間も惜しんで力を尽くした。ギンさん曰く、限りなく完成品に近づいているとお墨付きをもらえた。

 

 だが、しのぶは感じていた。

 

 この治療薬には()()()()()()()()()()()()。何かが欠けている。決定的な何かが。鬼を人に戻すために、何かが足りない。

 

 けれど、これで決まる!

 自分が、十二鬼月の上弦と戦えるかどうか。

 

 

「あ、が、が、が……!」

 

 

 堕姫が息苦しそうに身体を強張らせる。

 口から酸素を取り込もうと必死に息を吸い込む。だが、穴が開いてしまった袋のように、堕姫はひゅーひゅーと呼吸を繰り返し、毒の痛みに喘いでいる。

 

 

(息が……できっ、おにっ、おにいちゃ……)

 

 

 動く気配はない。血鬼術である帯も、弱まったように動きが鈍い!決めるなら今しかない。

 

 

「炭治郎君!!」

 

「!」

 

 毒を分解する様子はない。だが、時間を与えれば毒を分解してしまう可能性がある。

 その前に、勝負を決める!

 しのぶは刀の柄を握り締め、さらに力と足を踏み込み、刀を堕姫の身体に突き入れる。

 

 私は鬼の頸を斬り落とすことはできない。

 なら、私以外に刀を振れる人に頼めばいい。自分が刀を突き刺して、釘付けている間に。

 

 

 

 

"ヒノカミ神楽 円舞"

 

 

 

 

 ギンさんの弟弟子である、あなたなら、託せる。

 

 

 

 

 

 

 

(水の呼吸と、ヒノカミ神楽を、合わせて混ぜる……!)

 

 

 

 

 

 

 

 カナヲの教えを、忘れるな。

 何のために鬼滅の刃を振るうのか、忘れるな。

 善逸や伊之助と乗り越えてきた修業を、忘れるな。

 

 

 

 

 

 

 堕姫の頸が、飛び。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「許せねぇ許せねぇなああ。可愛い妹をいじめるような奴らは皆殺しだ」

 

 

 

 

 

 

 

 再び長い夜が始まる。

 

 

 

 

 

 

 




おそろしく投稿が開きました。大変申し訳ない。

本誌の方でいろいろ知らなかった設定が飛び込んできたりだとかのせいでいろいろ書き直さなきゃいけなくなったりだとか、いろんな要因が重なって上手く書けませんでした。

超絶難産です。

遊郭編はもうしばらくかかったりします。投稿頻度も超絶おちますが、気長に待っていただけると幸い。


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妓夫太郎と堕姫

 最終選別から、二年が経った。

 狭霧山を卒業してから、二年が経った。

 鬼殺隊に入隊してから、二年が経った。

 

 

 

 

 

 錆兎が死んでから、二年が経った。

 

 

 

 

 

 最終選別のあの日。

 他の入隊希望者を庇い、深手を負ってそのまま帰らぬ人となった。

 俺と義勇はもう十四歳になる。

 

 

 

 だが、錆兎は十二のまま、この狭霧山の土に還った。

 あの時ほど後悔したことはなかった。

 腹に孔を開けられた錆兎から、夥しいほどの量の血が流れ続けて、止められなくて。

 今思えば、あの時かもしれない。蟲師としての知識だけじゃない、医術を身に着けようと思ったのは。

 孔から流れ出る血を塞ごうと、両手で抑えても指の隙間から錆兎の命が流れ出る感覚は、最悪だったのを今でも覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつものように鬼狩りの任務を終えた俺は、久方ぶりに狭霧山に訪れた。

 

 

 

 

 

 その日は、錆兎の命日だった。

 

 

 

 

 

 相も変わらず空気が薄く霧に包まれているこの山は静寂だった。少し蟲の数が増えたか。もう二年以上ここから離れていたのに、俺がここで修業をし続けていた影響は残っていたらしい。幸いにも、人に悪さをする蟲がいないのが唯一の救いか。

 錆兎は、狭霧山の滝をよく眺めていた。鱗滝さんによる地獄の鍛錬の最中、ぽっかりと空いた時間をよくその場所で滝を眺めていたり、木刀を素振りしていた。

 

 

 

 

 

「久しぶりだな、錆兎」

 

 

 

 

 

 錆兎の骸は、この滝のすぐ傍に佇む大樹の根本に埋められた。錆兎はこの山の一部として眠ることを望んだ。育ててくれた師匠が暮らす山で眠りたいと。

 錆兎にとってここが故郷なのだろう。

 死の間際、錆兎が願ったのだ。

 

 狭霧山の滝の近くで眠りたいと。

 

 最終選別後、俺達は無言で錆兎の骸を抱えて狭霧山へ帰った。

 

 

 

 錆兎を救うことができなかった俺と義勇ができることは、それぐらいだったから。

 

 

 

「あまり来れなくて悪かったな。こんな俺でも"蟲柱"になっちまってさ、忙しくて来れなかった」

 

 

 

 こんな滝の水音がうるさい場所で眠れるのか。ひょっとしたら滝の音で眠れずに、ひょっこり起き上がったりしないものかと、馬鹿な妄想をしたものだ。

 

 

 

 ――俺達に血のつながりはない。けれど、共に過ごした時間は本物だった。

 

 

 

 友を亡くすのがこんなに辛いことだなんて、俺は知らなかった。

 俺は、義勇と錆兎と一緒に、これからもずっと戦い続けるもんだとばかり考えていた。だが、人の死はあっけなく訪れる。

 

 

「……鱗滝さん、毎日ここに来ているのか」

 

 

 錆兎が眠っている木々の根本に、供えるように並べられた線香の燃えカスが落ちていた。

 きっとあの人のことだ。死んだ錆兎のことを本当の息子のように大切にしていたから、俺よりその悲しみは深いはずだ。

 毎日ここに来るのは贖罪なのか、ケジメをつける為なのか、そこまでは分からないけれど。

 

 

 

 俺達のように、自分のことを責めているんだろうな。

 

 

 

 育手なのに優しい人だから、最終選別で死んでしまった弟子のことで自分を責め続ける。

 

 ……本当だったら、鱗滝さんに会って挨拶をするべきだった。

 

 時々、鱗滝さんや義勇から手紙はもらっていた。

 けれど、文を返すのが煩わしくて、「忙しいから」と理由をつけて返さなかった。

 

 いや、それはただの言い訳だ。

 

 ただ、今の自分を鱗滝さんに見られたくなかった。後ろめたくて。

 

 

 

 かつての自分が求めた物は、どこにもいない。

 

 

 

 "蟲柱"になって、鬼を随分と殺した。けれど、それと同時にたくさんの人も死なせてしまった。仲間も一般人も。きっと鱗滝さんに会えば、今の自分から血の匂いが染み込んでしまっていることぐらい、すぐにばれてしまうだろう。

 

 

 

 鼻が利かない自分でも、それぐらいはすぐ分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 呪われてしまえ、死んでしまえ!私は絶対に、アンタを許さない!この外道!化物―――――!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……許さないってか、俺のことを」

 

 

 自分の手のひらを広げてみると、そこに血がべっとりついているように見えた。

 いくら洗っても落ちない、血と肉の匂い。服で隠されて見えないが、俺の身体は骸草がびっしりと生えてしまっている。

 

 あの日、遊郭で珠世さんの治療を受け終えた後、俺は鬼狩りを辞めようとした。あの時に言われた言葉が、俺の心の奥底に、鉛のように沈んでいる。鬼を狩る気が、どうしても起きなかった。

 

 いや、遊郭での事件はきっかけに過ぎない。元々、鬼狩りに俺は向いていなかった。

 

 鬼に強い憎しみを持っているわけではない。耀哉やシシガミ様との約束が、俺を鬼狩りへと駆り立てた。

 

 鬼狩りは人に感謝される。だが、それと同時に恨まれることも多い。

 

 曲がりなりにも元々人だったモノを殺しているのだから、その親族や誰かに恨まれる事のほうが多かった。別に、誰かに褒められるために戦ってきたわけじゃないが……。

 

 

 それでも、しんどい。

 

 

 耀哉に協力するのは別に鬼狩りじゃなくてもやっていける。珠世さんと協力して、蟲を研究しながら鬼を研究する。前線には立たない。そういう風にこれからは生きていこうと考えていたが、それを止めたのが耀哉だった。

 

 

 

 耀哉との約束。

 

 耀哉を支え、鬼に苦しめられている人々を守ると。

 

 その約束が自分自身を縛っていた。その約束を裏切ることをしてしまえば、自分の中にある大切な物を手放してしまうようで、それだけはできなかった。

 ある種の義務感か、友情に似た何か。

 死んでしまう仲間に、人々に、託される。

 自分の分も鬼を殺してくれと。

 自分の代わりに鬼を殺してくれと。

 

 

 代わりに。代わりに。代わりに。

 

 

「重てぇ……」

 

 

 襷のように託されていくそれが、自分を鬼狩りに駆り立てる。

 

 下弦の弐を討伐した功績から、俺はすぐに蟲柱に任命された。

 

 死んでいく仲間から託され、鬼殺隊を支えるのが柱。

 心の中に淀んだ何かが溜まりながら、けれどそれが溢れ出さないように、見て見ぬふりをしながら鬼を殺し続けた。最近では、蟲師の仕事より鬼狩りの任務に精が出る始末だった。

 

 けれど、鬼の醜さを、人の醜さを目の当たりにする度に、俺はあの遊郭の夜のことを思い出してしまい、眠れぬ夜が続いた。

 

 

 

 

 

「ギン」

 

「……義勇か」

 

 

 

 錆兎の墓を眺めていると、後ろから声がした。

 

 振り返るとそこには、久しぶりに会った兄弟子の姿があった。

 

 錆兎の羽織の半分を編み込んだ半々羽織を纏っている。会うのは二年振りだ。

 

 あの時に比べると、随分背が伸びている。

 

 

 

「久しぶりだな」

 

「ああ」

 

 

 義勇はそれ以上何も語ることなく、錆兎の墓の前に進み、しゃがんで手を合わせ始めた。

 相変わらず口数が少なく、表情筋が死んでいる。

 この狭霧山で修業を共にしていた時から口数が多い奴ではなかったけど、最終選別が終わった後から特にそれが顕著だった。

 

「元気にやってるか?」

「……お前こそどうなんだ」

「俺か?…………まあ、器用にやってるさ」

 

 会話はそこで途切れた。

 

 ……気まずい。

 

 錆兎が死んで以来、ずっと義勇を避けていた。任務が同じにならないよう、自分はできるたけ遠い地方の、九州あたりをうろついていたから。

 もちろん、応援に呼ばれればその地域にも足を運んだが、青い彼岸花を見つけるために西の国の方の探索が優先されていたため、これまで義勇や杏寿郎といった旧知の人間と共に任務に赴くことがほとんどなかった。

 

 

 気まずすぎていたたまれない。というかさっきからじっと自分の方を見てきてるけど、なんだ。何を考えている顔なんだそれは。

 

 

「チッ」

 

 

 相も変わらずな兄弟子の様子に、無性にイラついた俺は小さく舌打ちをした。

 もういい。早くこの山から出よう。ずっとここにいれば鱗滝さんに見つかる。

 

 そう思い、錆兎の墓から立ち去ろうとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 

 

 

 

 水色の刀が、自分の頭上を通り抜けた。

 自分の髪の毛が数本、はらはらとその場に落ちる。

 後ろを振り返ると、そこには日輪刀を構えた義勇がこちらを睨みつけるように立っていた。

 

 

 

 

「何のつもりだ義勇」

 

 

 

 後ろから斬りかかられて、それを笑って許せるほど自分はお人よしではない。それが兄弟子ならなおさら。

 

「刀を抜け」

「何言ってるんだ、隊員同士での斬り合いはご法度だろ」

 

 鬼殺隊は、あくまで鬼を狩る部隊であるため、私的に刀を振り回すことは禁じられている。

 

 鍛えたのは人を傷つけるためではなく、人を守るためだからだと。

 

 故に、真剣で鍛錬を行うことは禁じられている。隊員同士で斬り合ったり、私闘のために日輪刀を用いた隊員は厳しい処罰をされる。そんなこと、義勇だって知っているはずなのに。

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 だが、義勇は問答は無用と言わんばかりに刀を振りかぶる。

 

 問答無用。

 

 そう言わんばかりに。

 

 

「ちょっ」

 

 

 

 本気で斬ろうとする動きだった。

 俺は咄嗟に自分の刀を抜き、義勇の刀を弾く。

 だがそれでも、義勇は刀を振るうのを止めず、二撃、三撃と追撃を仕掛けてくる。

 

 

"水の呼吸 捌ノ型"

 

 

義勇は宙に跳びながら、水の呼吸の型を取った。数年前まで、稽古であきれるほど見た水の呼吸の型!

 

 

"森の呼吸 壱ノ型"

 

 

 

 

 

"滝壺"

 

"森羅万象"

 

 

 

 甲高い金属の音と、弾ける火花。呼吸ではね上げた身体能力による、本気の攻撃は空気を震わせた。

 

「テメェ……!」

 

 ギンは殺意を込めながら義勇を睨みつける。こいつ、本気だった。本気で殺す気だった。

 手加減はどこにもない。

 

「…………」

 

 義勇はそれでも、何も語らずただ自分に剣を振るうだけだ。

 

 どうして義勇が自分を攻撃してきたかは分からない。

 

 ギンはイライラしていた。虫の居所が悪かった。

 度重なる鬼殺の任務。それによって積もる、どす黒い感情。

 

 心中は火薬庫のようだった。

 

 それを、義勇は火をつけた。どういう意図があるかは知らない。知るものか。

 

 

「上等だ……死んでも文句言うなよ、義勇!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「避難してください!」

「慌てないで、落ち着いて!」

「怪我をした人やお年寄りは、手助けします!」

「いてぇ……いてぇよぉ……」

「医者を呼んでください!誰か……誰かぁ!!」

 

 夜の花街は喧噪と悲鳴に包まれていた。

 逢瀬を楽しんでいた客と花魁達の耳に劈く、建物が崩れる音と地鳴り。誰かの悲鳴。

 悲鳴は恐怖を生み、恐怖は伝染する。

 

 そして恐怖は、混乱を生む。

 

 大通りは慌てふためく人々でごった返す。訳も分からず逃げ道を探す人々を、隠の部隊は必死に避難を呼びかけていた。

 ギンがあらかじめ呼びかけていた隠の隊員達だ。

 事前の情報から、遊郭に潜んでいるのは十二鬼月の可能性が高いということ。

 建物の倒壊音と、遠目から見えた女の鬼を見て一般人の避難の誘導を開始したのだ。

 

 柱達が心置きなく戦えるよう。

 一般の人々が戦いに巻き込まれないよう。

 

「こっちの方です、こっちなら安全です!」

 

 そうやって避難誘導をしている隊員の一人の前に、空から誰かが降ってくる。

 

「ッ!?だ、誰だ……」

 

 隠は思わず警戒して身を強張らせるが、降り立った人物の姿を見て警戒を解く。

 

「む、蟲柱様!」

「ぜぇ……ぜぇ……悪い、手を貸してくれ」

 

 目の前に現れたのは、自身の上司でもあり、遊郭に隠の部隊を配置させた"蟲柱"鹿神ギンだった。

 背中には花魁の女性を二人も背負って荒い息を吐いている。

 隠は急いで駆け寄り、ギンが背負っていた二人の女性を受け取った。

 

「この方は……まきを様?」

 

 一人は知らないが、一人の女性は隠も知っていた。"音柱"宇髄天元は愛妻家で有名で、音柱の任務の後始末の際、よく見かけた。宇髄をサポートしているくのいちの"まきを"だ。

 いや、それよりも。

 

「それよりも蟲柱様!その傷!」

 

 蟲柱は、重傷だった。

 腹から大量の血が出ている。鋭く尖った木材の破片が、深々と突き刺さり背中から腹へと貫通していたのだ。

 夥しい血が、腹の穴から流れ出ている。

 ギンは荒い息を吐きながら隠に言う。

 

「大丈夫だ……幸い刺さった破片は細い。内臓や血管は避けている。それよりも糸と針を貸してくれ」

「糸と針……?」

「俺の治療箱はさっきの倒壊で潰されちまった。光酒も麻酔もないが、ここで塞ぐ……」

「わ、分かりました!」

 

 隠の役目は、鬼殺隊の任務の補助。任務で傷ついた一般人を治療するため、簡単な応急手当をするための器具を持ち合わせている。

 隠は急いで懐から針と糸、そして包帯を取り出した。

 

「背中は……悪いが、アンタに任せていいか。さすがに背中には手が届かん。血が零れないように簡単に縫ってくれ」

「は、はい。ですが、その前にこれを抜かなければ……」

 

 おそらく柱の破片だろう。"蟲柱"は細いと言ったが、隠から見れば十分太く大きく、そして鋭く見える。鬼が暴れて倒壊したと思われるときと屋からは随分離れている。どうしてこんなものが刺さった状態で、女性二人を背中で抱えてここまで走ってこれたのか。

 尋常じゃない鍛錬故なのか?だからと言って、あの出血でどうやって動いているんだ。

 今この瞬間も、激痛が走っているはずなのに。

 

「ど、どうやって抜けば……」

 

 隠の男は震えながら、恐る恐るギンに尋ねる。自分も応急手当はできるが、鹿神ギンや胡蝶しのぶのように外科手術をすることはできない。一体どうやって、この木片を抜くのか。

 

「……」

 

 しかし、ギンは答える代わりにただにやりと笑った。

 

「ま、まさか!」

 

 隠の男の声が震える。もし、自分の想像通りだったら。()()()()()()()()()()()が、蟲柱を襲うことになる。

 

「む、蟲柱様!おやめください!出血で死んでしまう!」

「しのぶ達が……戦ってるんだ……」

 

 こんなところで、止まってはいられない。

 

 鬼を、殺すんだ。

 しのぶと炭治郎を、助ける。

 

 

 

 俺は鬼殺隊の、"蟲柱"だ。

 

 

 

 ギンは腹から飛び出ている木片を握り、歯を食いしばりながら力づくで抜き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぐぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 奥歯で痛みを噛み締め、いや、噛み潰す。

 内臓を引き抜くような行為だ。傷口に手を突っ込み、引っ掻き回すような痛みがギンを襲う。

 

「ひぃぃぃぃ!」

 

 隠は、ギンを襲う激痛を想像し、恐怖で身が竦んだ。

 

(と、止めない……!)

 

 だがそれでも、鹿神ギンは木片を抜き続けた。気絶してもおかしくないような激痛が、今ギンを襲っている。なのに、止まらない。

 見ていられない。目をつむってしまいたい。

 だが、隠の男は恐ろしいと同時に、憧れてしまい、目をつむることができなかった。

 

(これが……柱……!)

 

 痛みを恐れない。戦うことを恐れない。死ぬことを恐れない。

 これが、鬼殺隊を支える"柱"。

 

 鬼気迫るその表情は、正しく鬼。

 

 なんて強いのだろう。

 自分には到底真似できない。

 

「おらぁぁぁ!!」

 

 そして、ギンは木片を抜き切り、その場に放り投げた。血に濡れた木材が乾いた地面に転がり、ギンは口から血を唾と一緒に吐き捨てながら悪態を吐いた。

 

「なんで遊郭に来る度に腹に穴開けられなきゃなんねぇんだ……くそったれ…!」

 

 もう二度と、絶対に遊郭には来ねえと心の中で固く誓うギンだった。

 

 大量の血液が、ギンの足元に血だまりを創った。だがそれでも、ギンは気を失わず、倒れず、立ち続けた。

 そしてあろうことか、自分で自分の腹を塞いでしまったのだ。

 背中の傷はさすがに隠の男が縫合した。が、それでも傷口からまだ少しずつ血が流れ続けている。さっきよりマシだが、どうやって立っていられるのか不思議だった。

 

「ほ、縫合……終わりました!」

「よし……」

 

 呼吸を整えながら、痛みや疲労感、失血による気怠さを無視して状況を整理する。

 

(……光酒のおかげか。まだ身体が動く)

 

 上弦の壱と戦った時、煉獄杏寿郎は大怪我を負いながら炭治郎に看取られるまで意識を失わなかった。それと同じだろう。

 光酒が身体を動かし続ける。鬼を殺せと、動かし続ける。

 

「フゥ―――……」

 

 調子がいい。

 身体が熱い。

 瓦礫が覆い被さったおかげで自身の腹に大きな穴を開けられてしまったが、しのぶと、たまたま部屋の傍を歩いていた鯉夏を救うことはできた。あの倒壊で、炭治郎は建物の外に蹴りだし、鯉夏としのぶは覆い被さることで守ることができた。

 

『ギンさん!血が……!』

『俺のことはいい。俺の血を被らせて悪いが……お前は炭治郎を援護しろ』

 

 瓦礫の下で、しのぶはギンの血を浴びた。そのおかげで、上弦の肆の探知能力から逃れることができた。

 

(あの鬼、俺としのぶの気配にまったく気づいていなかった。おかげで容易くあの場所から脱出することができたが……)

 

 上弦の肆。自分達の予想通り、この吉原に潜んでいたのは十二鬼月だった。

 だが、違和感がある。しのぶと炭治郎は気づいていないが、あれは上弦の鬼じゃない。今まで下弦の弐、上弦の壱と弐に遭遇したからこそ分かる。

 よくて下弦の鬼の壱か弐程度、それか上弦の下位。とても"上弦の肆"を張れる力を持っているとは思えない。建物を3つ、一瞬で潰せる帯を使った血鬼術使い。確かに強力だが、あれは弱い。いや、弱いというより強くない。おそらく、炭治郎やしのぶだけでも十分対処できる。

 だがそれだけであの鬼舞辻無惨が十二鬼月の、"上弦の肆"にするか?

 

(光酒はない。さっきの倒壊で薬箱を潰されたのは痛い……)

 

 倒壊の際、炭治郎達を助けるので手一杯で薬箱まで気が回らなかった。濃度が高い戦闘用の光酒も、すべて瓦礫の下だ。

 禰豆子が入っていた箱は、どこかに行ってしまった。とは言っても、禰豆子は鬼であんな倒壊で死ぬことはないから心配は無用だろう。

 問題は、これからの上弦の肆との闘いだ。

 この騒ぎ。宇髄もすぐに騒ぎを聞きつけ駆け付ける。深手を負ってしまったが、俺もまだ再起不能という訳ではない。まだ戦える。

 

 だが、上弦の鬼との闘いは、不測の事態がつきものだ。

 またあの琵琶を使った血鬼術を持つ鬼が、介入してこないとも限らない。人手はいくらあっても足りない。

 

「蟲柱様、これからどうするのですか?」

「俺はしのぶ達の援護に向かう。隠は引き続き一般人の避難の誘導を」

「はっ!」

「それと他の隊士の援護を求める。鴉を使って伝達を」

「承知しました!」

 

 隠は力強く頷く。

 よし。俺は一刻も早くしのぶ達と合流を……。

 

 

「!」

 

 

 その時、強い鬼の気配を感じたギンは、しのぶ達がいる方へ顔を向ける。

 

 

(なんだ?急に、しのぶ達がいる方向から強い鬼の気配が……!)

 

 

 どす黒い殺気。さっきの女の鬼ではない。あの鬼とは比較にならないほどの強い気配。

 

「まさか!」

 

 瞬間、大地が叫ぶように地響きが鳴り響き。

 

 先ほどまで自分がいた――しのぶや炭治郎達がいる地点の方から、真っ赤な血の渦巻のような竜巻が、建物を瓦礫の山へと変えていくのが見えた。

 

 

「――――しのぶ!炭治郎!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しのぶは混乱していた。

 自分の刀が、上弦の肆を貫いた。改良した猛毒は上弦の肆を絶命とまではいかなくても、身体の動きを封じることができた。血鬼術である帯も、まるで雷に打たれたように動きを止め、その隙を見逃さなかった炭治郎が、あの女の鬼の頸を見事に斬り落とした。

 

 自分達が、勝った。あの上弦の鬼を、倒した。

 

 しのぶは喜びと達成感で心を震わせた。

 

「はぁ……」

 

 そう安心して肩から息を吐き、炭治郎の様子を見に行こうと鬼から刀を引き抜いた。

 

 その時だった。

 

 

「わああああああああああああん!!」

 

 

 ぎょっとして後ろを振り返ると、そこには恥も外聞もなく大泣きをする鬼がいた。

 斬られた頸の断面からはどくどくと血を流し、落ちた頸がこちらを睨みつけながら泣きわめいている。

 

 

「よくも!よくもアタシの頸を斬ったわね!よくもアタシに毒なんか打ち込んだわね!ただじゃおかない!ただじゃおかないんだからぁぁぁぁ!!」

 

「しのぶさん!」

 

 炭治郎が鬼を倒した喜びを隠さず、笑顔でこちらに向かって走ってくるのを、しのぶは手を向けて制した。

 

 

「炭治郎君、下がりなさい!」

「え!?」

 

 しのぶは背中に何か嫌な寒気が走ったことを感じ、鬼から距離を取るように一歩離れる。

 

「まだ、終わってない」

 

 ――猛毒を叩き込まれ、炭治郎君に頸を斬られたのに、どうしてまだ喋れるの。

 

 しのぶの毒は強力だ。いくら上弦の鬼とは言えど、一滴でも体の中に入れられたのなら、絶命とまではいかなくても身体が麻痺して数分は動けないはずなのに。なぜ喋ることができるのか、意味が分からない。

 

「しのぶさん!あの鬼、まだ身体が崩れない……!」

 

 炭治郎も異常に気付いたのか、刀を構えながら警戒する。

 

 日輪刀で頸を斬れば、鬼は死ぬ。それが絶対のルール。

 

 

「死ねっ!死ねっ!死ねっ!くそ野郎共、みんな死ね!うわあああああ!!アタシは十二鬼月なのよ!!上弦の肆よ!!前まで陸だったけど!!アタシはもっともっと強いんだからぁぁぁ!こんな毒さえなければぁぁぁぁ!!アタシの皮膚が、美しい顔が爛れちゃったじゃんかあああああああ!!」

 

 

 呪詛を吐き散らしながら泣き喚く鬼。

 頸を斬り落としたはずなのに。普通の鬼なら今頃身体が崩れて死んでいるはずなのに。毒は間違いなく効いている。鬼の顔が泥のように崩れているのがその証拠だ。

 

 なのに、どうして生きている?

 

 

 

「頸斬られたぁ、頸切られちゃったよぉぉぉぉ!お兄ちゃああああん!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うぅううん」

 

 

 

 

 

 

 

「「!!」」

 

 

 

 

 女の鬼の胴体――背中の肉が盛り上がったかと思うと、そこから腕が。頭が。肉体が。()()()

 

 

"ヒノカミ神楽"

 

"蟲の呼吸"

 

 

 まずい。あの鬼から生えた何かは不味い。

 炭治郎としのぶは咄嗟に構えなおし、帯鬼から生えた何かを斬ろうと日輪刀を振るった。

 

 しかし、刃は宙を斬る。いつもの鬼を斬った手ごたえはどこにもなく、後ろを振り返ると泣きじゃくる帯鬼を、癇癪を起している子供をあやすように頭を撫でる男がいた。

 

 

(速い……!ほとんど目で追えなかった……!)

 

 

「ひぐっ、ひぐっ、おにぃちゃぁぁん」

「泣いてたってしょうがねぇからなああ。頸くらい自分でくっつけろよなぁ。お前は本当に頭が足りねえなあ」

 

 

「しのぶさん……あの鬼が、本体ですか?」

「分からない……でも」

 

 あの男。言葉から察するに帯鬼の兄なのだろうか?

 

 鬼が二人。

 

「こいつはぁ毒かぁ。俺でもすぐには解毒しきれねえなぁ。ちょっと我慢しろよなぁぁ。そうすればすぐに楽になれるからなぁぁ」

「ぐすっ、う"ん」

「いい子だなぁぁ」

 

 どっちも上弦の肆?分裂?

 

 ――だとしたら、間違いなくあの男が本体だ。

 匂いが違う。匂いの重み。血の匂いの濃さが。比べ物にならないほど喉の奥が麻痺する。

 あの時、無限列車で遭遇した黒死牟ほどではないにせよ、それでもたくさんの死体と血の匂いがする。 

 

「……しのぶさん?」

 

 ふと、しのぶの方を炭治郎が見ると、そこには緊張した顔で鬼を睨みつける胡蝶しのぶがいた。

 今まで見たことがない、緊張と――

 

(恐怖の匂い……!)

 

 

「はぁ……!はぁ……!」

 

 

 しのぶの手は、震えていた。

 噂に聞く、鬼達の中でも特別に強い上弦の鬼。姉を引退に追い込み、煉獄と鹿神を死の淵に追いやった。

 もちろん、下弦の鬼を倒したことは数度ある。

 けれど、相手は何百年も鬼殺隊の柱を退け続けた、十二鬼月の上弦。

 

 その者が持つ圧倒的な威圧感は、しのぶの手を震わせる。

 

(ギンさんや富岡さん、そして煉獄さんは、これよりも強い壱と弐と戦った……!)

 

 肆。上から四番目。

 だというのに、立っているだけで相対しているだけで足が震えてしまう。

 

 これが、上弦。

 

「……妹を泣かせたのは、お前らだなぁぁ」

 

 体格は、ギンより少し高いくらいだろうか。大きな体格に対して不自然なほどに痩せ細り、肋骨が浮き出て肉という肉をすべて削ぎ落してしまったような見た目だった。

 身体中に鬼の斑紋を浮かび上がらせ、そして両腕に握られた、骨で創られたような鎌。刃は血のような液体に濡れ、異様な雰囲気をもたらしている。

 いや、両腕というのは少し不適切だ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 

 背中から飛び出るように生えた二本の腕。そこにも血に濡れた鎌を構えており、四本の腕と鎌を構えている。

 

 

(―――まるで、蟷螂)

 

 

 しのぶは息を呑みながら、日輪刀を構える。

 

「お前、いい女だなぁぁ。その顔もいいなぁぁ。肌もきれいでシミも痣も傷もねぇんだなぁ。男にもさぞかし持て囃されるんだろうなぁ。堕姫の方が美人だが、それでもいいなぁぁ」

「お兄ちゃん!そいつは毒を使うの、アタシに毒を入れたのもその女なの!その女は絶対殺して、アタシが絶対に喰ってやるんだからぁ!」

「ああいいぜいいぜぇ。カワイイ妹の頼みだからなああ」

 

 あの鎌と腕。攻撃範囲、そして手数は多そう。それに、あの血に濡れた鎌は、何か嫌な予感がする。

 接近戦を主体にした鬼だろうか。

 あの帯女より強いのは確かだが、自分の毒で少しでも動けなくさせれば勝機はある。

 

 さっきの戦いで、私の毒は上弦の鬼にも通用することはすぐに分かった。なら、さっきと同じように動きを封じて、炭治郎君に頸を斬らせる。

 

 あの帯女はまだ毒から回復するために動けないようだ。まだ涙を流しながらぐずっている。

 

 なら、畳みかける!

 

 

 

"蟲の呼――

 

 

 

 しのぶが再び鎌鬼に毒を叩き込もうと、飛び出したその時だった。

 

 

 

「遅いんだよなぁぁ」

 

 

 

 

 

 

 

"血鬼術 円斬旋回・渦血潮"

 

 

 

 

 

 鎌鬼が四本の腕を振るった瞬間、その鎌に呼応するかのように血で濡れた真っ赤な竜巻が現れる。

 

 

 

「ッ!」

 

 

 すべてを薙ぎ払う、災害だった。

 砂塵は渦巻くように舞い上がり、巻き上げられる風はすべてが斬撃。

 この街にある物を全て呑み込もうと進み続けるそれをまともにくらえば、身体がバラバラに切り刻まれる。一瞬、自分の手足が引き千切られることを連想したしのぶだが、それを避け切れず竜巻の中に飲み込まれる。

 

 

「しのぶさんッ!」

「お前だなぁ?妹の頸を斬りやがった奴は」

「なっ!」

 

 いつの間に後ろに……!

 

 炭治郎の頸に、挟むように二本の鎌が迫ってくる。

 

「……!」

 

 速い。けれど。

 

 あの鬼(黒死牟)に比べれば、まだ遅い。

 

 

"ヒノカミ神楽 幻日虹"

 

 

「あぁ?」

 

 

 炭治郎の身体が、一瞬ブれたかと思うと姿が消えた。

 高速の捻りと回転による、回避に特化した舞。視覚の優れた者ほど、よりくっきりとその残像を捉える。

 

(見えた!隙の糸!)

 

 ピンと張られた、炭治郎だけに見える糸。その糸は、自分の刀から鎌鬼の後ろ頸まで、真っ直ぐに伸びている。

 炭治郎は鎌鬼の後ろに回り込み、背後から鬼の頸を斬ろうと構えた。

 

 

 

 

 ――だが、"上弦の肆"妓夫太郎は、伊達に鬼殺隊の柱を15人も殺していない。

 

 

 

「見えてるんだよなぁ」

 

 

 

 後ろに回り込んだ炭治郎の首元に、背中の腕の鎌が振るわれる。その瞬間、隙の糸もぷっつりと音を立てて切れてしまった!

 もう一度"幻日虹"を!

 そう繰り出そうとした時。

 

 

「のんびりしてると俺の血鬼術に飲み込まれるぞぉぉ」

「っ!」

 

 背後を見ると、先ほど鎌鬼が繰り出した血鬼術の竜巻が、こちらに迫ってきているのが見えた。竜巻はしのぶを飲み込んだだけでは飽き足らず、さっきよりもどんどんと大きくなっていく。周囲の有象無象の建物を飲み込み、瓦礫の山に変えながら炭治郎の方へ向かって進んできていた。

 まさか、誘導したのか!俺がさっきの鎌の攻撃を回避することを予測して!竜巻と俺を挟み撃ちにするために……!

 

 

(まずい!避け切れな――)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その時、炭治郎の首元がぐいっと何かに引っ張られ、視界が高速で回転し。

 

 

 

 

 

 

 

 竜巻が破裂するように周囲の建物を巻き込みながら、爆散した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吉原の花街。鬼との戦場になったその一帯は、数刻も経たないうちに更地になった。

 建物のほとんどが倒壊し、よくて半壊。血の色をした竜巻が発生したかと思えば、建物を全て呑み込むように巻き込み、なぎ倒し、消滅した。

 巻き上げられた砂塵と、瓦礫の破片がぱらぱらと宙から雨となって落ちていく。

 

 

「………………」

 

 

 がりがりとつまらなそうに頭を掻きながら、妓夫太郎は更地となった瓦礫の山の間に立っていた。

 美しいと言われた花街も、こうなってしまえばただのガラクタの山だ。

 

(……血の匂いがしない。死体がどこにもねえなああ)

 

 あの女の柱の死体も、あのガキの死体もない。殺した手応えがまるでない。

 

「……お前らだなぁ?もう一人の柱と、逃れ者の鬼の女ってのは」

 

 妓夫太郎がそう言いながら、まだ壊れていない建物の屋根に視線を向けた。

 そこにはしのぶを肩に抱きかかえる着物の少女――いや、鬼。

 竈門禰豆子がしのぶを横抱きにして立っていた。

 

「た、助かりました……禰豆子さん」

「むー♪」

 

 しのぶを助けることができて上機嫌なのか、禰豆子はにこにこと嬉しそうに笑う。

 人を喰わない鬼――禰豆子が苦手であったしのぶも、その表情に毒気を抜かれ、困ったように笑いながら禰豆子の腕からゆっくりと降りる。

 そして左手に猫掴みで炭治郎をぶら下げる、"音柱"宇髄天元が月を背後に立っていた。

 

「う、宇髄さん……!」

「間一髪だったな、胡蝶、炭治郎」

 

 あの時。竜巻に巻き込まれそうになった炭治郎を救ったのは、"音柱"宇髄天元だった。禰豆子は竜巻に吸い込まれたしのぶを救う為に、持ち前の回復力を利用して飛び込んだのだ。

 

「い、今まで一体どこに?」

「須磨と善逸を助けていた。伊之助と一緒にもうすぐここに来るだろう。胡蝶と炭治郎は地味に休んでな」

 

 炭治郎と胡蝶はそっと屋根の上に座らされる。

 速かった……炭治郎は自分が救われる瞬間が全く分からなかった。首根っこを物凄い力で引っ張られたかと思った時には、自分は屋根の上にいたのだ。

 

「"上弦の肆"……当たりだな。相手に取って不足はなしだ」

 

 宇髄天元はにやりと好戦的に笑った。探していた獲物を見つけた、獣のような笑みだと炭治郎は感じた。

 誰よりも大きなその背中。

 

「…………!」

 

 何故だろうか。見た目も、性格も、言葉も、戦い方も全く違うのに。

 その言葉と雰囲気は、かつて自分を救ってくれた"炎柱"煉獄杏寿郎の姿と、重なる。

 

「ムカツクなぁムカツクなぁムカツクなぁ。なんで今ので死んでねえんだぁぁ?くそったれがぁ。生きたまま生皮捌かれたり腹を掻っ捌かれたりしねえかなぁぁぁ。堕姫、お前も来い。俺が使ってやる」

「ええ!お兄ちゃん!私達が二人で戦えば誰にも負けたりしないんだから!」

 

 

「おいおい、柱が俺だけだと思ってるのか?」

「なんだとぉ?」

 

 ――ジャリ

 

 妓夫太郎の背後から、土を踏む足音が響く。

 その方を見ると、白い髪をした男が立っていた。少し遠いが、容姿を視認するには十分な距離に、彼はいた。

 

「ギンさん!」

 

 しのぶが嬉しそうに声を上げる。まだ傷は完全に塞がっていないようだが、腹部の傷は大丈夫なようだった。

 

(こいつが……蟲師)

 

 無残様が敵視する、要注意人物。あの黒死牟を追い詰めた"柱"。

 妓夫太郎は腰を低く構え、いつでも攻撃に移れるように体勢を整える。あの柱だけは、油断できない。

 

「遅いぞ、鹿神」

「お前にだけは言われたくない。宇髄」

「ああ。こっからは、ド派手に俺らが相手するぜ!」

 

 

「柱が三人。油断はできねぇが絶対に取り立ててやる。なぜなら、俺は妓夫太郎だからなああ」

 

 

 

 

 

 この場にいる全員が、悟る。

 

 戦いはここからが本番なのだと。

 

 



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腐酒

 かつての栄光はなかったかのように、まるで災害が見舞われた荒れ地のように、花街は瓦礫の山と化した。

 そんな荒れ地の一角で、向かい合うは、四人の剣士と、三体の鬼。

 

 鬼には、個体差がある。人間は十人十色、人によって様々な異なる性質があるのと同じように、鬼も個体によって千差万別の力を持っている。飛び道具を使う鬼もいれば、身体を巨大化させる鬼、脚力だけを強化する鬼など。どれも強力で、人を狩ることに適した能力と言えよう。

 

 しかし個体差はあれど、鬼には絶対不変の法則、弱点がある。

 日輪刀で頸を斬られると、鬼は死ぬ。

 陽の光を浴びると、身体が灰に還ってしまう。

 鬼舞辻無惨の名前を言うと、呪いによって殺される。

 

 だが、竈門炭治郎によって斬り落とされたはずの帯鬼は、身体を崩壊させずに自分で頸を付け直し、しのぶの猛毒によって爛れた皮膚を回復させてしまっている。頸を斬られたことに怒っているのか、青筋を浮かべながらこちらを睨みつけている女の鬼と、にやにやと嗤う男の鬼。

 

(頸を斬られても死なない……。なるほど、多くの柱がこの鬼に殺された理由が見えてくる)

 

 ギンは腹の傷からこれ以上血が出ないよう、止血の呼吸を続けながら考察を続ける。

 頸を斬っても死なない鬼。さらに、上弦の鬼が二体。同一個体?分身?それとも別の何か?

 基本単独で鬼を索敵する柱では、殺されてしまうのも当然だろう。

 かつて上弦の弐を討伐した時も、柱が二人掛かりで戦ったにも関わらず、ギンと義勇は瀕死の重傷に追い込まれた。ただでさえ厄介な上弦の鬼が二体も柱に襲い掛かれば、ひとたまりもない。

 となれば上弦の鬼との戦い方は、原則多対一。複数の柱が一体の鬼を攻撃するべきだ。

 

「宇髄」

「ああ。あの蟷螂の相手は俺達だ」

 

 ギンの横に降り立った宇髄天元は、背負っていた巨大な日輪刀を二刀構える。

 相対するのは妓夫太郎。背中から生えた二本の腕と、元からの二本の腕が持つ血に濡れた不気味な鎌。接近戦では手数で押されることは容易に想像できる。ならば二刀流である"音柱"宇髄天元と、上弦の壱と弐との戦闘経験を持つギンが相手をするのが最適なはずだ。

 

「でしたら、私達の相手はあの帯鬼ですね。炭治郎君」

「はい!禰豆子もこっちに!」

「むっ!」

 

 妓夫太郎の後ろ――ちょうど堕姫と妓夫太郎を挟むように、ギン達の反対側に降り立って帯鬼と相対するのは"花柱代理"の胡蝶しのぶと、竈門炭治郎と竈門禰豆子。

 既に炭治郎達は、帯を操る血鬼術を使う堕姫の頸を一度斬り落としている。

 ならば堕姫は二人が相手をするのが妥当だろう。現状、帯を操る堕姫よりも鎌を持った妓夫太郎の方が危険度が圧倒的に高い。何十、何百もの鬼を殺してきた柱三人から見ても、まだ鬼殺隊に入隊してから一年も満たない炭治郎でも、妓夫太郎の方が強く、そして危険だということはすぐに分かった。

 

(あの血の竜巻……建物を一瞬で更地にできるあの破壊力、そしてあの四本の鎌。懐に潜り込むには胡蝶じゃどうしたって相性が悪い。二刀の俺と、上弦の壱と弐との戦闘経験があるギンが適任だ)

 

 呼吸で体の温度を上げながら、宇髄はそう冷静に分析する。

 必然的に、最も戦闘力が高いギンと宇髄が妓夫太郎の相手をし、消去法で炭治郎としのぶが堕姫の相手をすることとなる。

 

「別々に俺達の相手をするつもりかぁ?鬼狩りが何人も来た所で、俺達に勝てる訳ねえんだよなぁ」

「そうよ!兄さんが起きたからね、もうアンタ達に勝ち目なんてのはないわ!一度頸を斬り落としたからって調子に乗るんじゃないわよ!」

 

 笑いながら、嗤いながら、哂いながら、妓夫太郎と堕姫は互いの感覚を同調する。妓夫太郎が片目を瞑ると、堕姫の額にもうひとつの眼球が現れた。

 相手は"柱"が三人。それに伴う、一般の隊士が一人。

 堕姫の帯は、多対一を最も得意とする。複数の敵を相手取る、12本の帯は攻撃にも防御にも適している。さらに兄の戦闘力が加われば、まさに鬼に金棒だ。

 

「俺達は二人なら最強だ。なぁ、堕姫」

「……うん!お兄ちゃん!」

 

「…………あれが妓夫太郎か」

「知っているのか、ギン?」

 

 宇髄の言葉に、ギンは静かに頷いた。

 かつて青い彼岸花を探していた頃、ギンは怪談話や噂話などを蒐集していた。蟲や青い彼岸花等の情報の精度を高めるためだ。

 眉唾物の噂話から、怪しげな怪異譚。中には剣術道場の門下生67人を素手で惨殺した事件なんていう作り話のような物まであったが、ギンが集めた怪異譚の中に天下の吉原遊郭で()()()()()()()()()()()()がいるという噂を聞いたことがあった。

 その者に名はなく、取り立て屋の代名詞である役職名で呼ばれた怪物。身体に痣を持ち、鎌を使って金を返さない下郎を殺してでも金を取り立てたという。その後その取り立て屋は侍に殺されたが、死んだはずの取り立て屋が日本各地の遊郭で目撃され、妓夫太郎の亡霊が遊郭を祟っていると噂されていたのだ。その噂話は怪談話として各遊郭で根強く語られており、西の国の飛田遊郭にも轟くほどだった。

 鬼かそれに近い異形だとは思っていたが、まさかその吉原にいた取り立て屋が十二鬼月だとは思いもしなかった。

 

 観察しろ。相手の一挙手一投足を。全てを詳らかにするんだ。

 頸を斬っても死なない理由。相手は鬼。確かに殺すのは難しいが――不死身じゃない。

 

 あの上弦の壱にだって、その命まであと一歩のところまで追いつめた。

 

 必ず殺す手立てはある。

 

「…………ッ」

「大丈夫ですか、炭治郎君」

「は、はい……」

 

 鼻で息をするのが辛い……。

 できることならこの場から離れたかった。あの二体の鬼は、血の匂いが濃すぎる。喉の奥がびりびり、腫れたように痺れる感覚がある。

 でも、なんだこの臭いは。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――

 

「それよりギン。お前、その地味な傷で大丈夫なんだろうな?」

「小さな穴が開いた程度だ。伊達に足の指無くしたまま上弦の弐を殺しちゃいねえぞ」

「はっはっ。ド派手な啖呵じゃねえか」

「次はもっと強力な毒を使います。炭治郎君、禰豆子さん、援護をするので隙を見てあの帯鬼を」

「はい!」

「むっ!」

 

 やる気、否、殺る気は十分。

 戦いの火蓋は、合図もなくすぐに切られた。

 

「死ぬときグルグル巡らせろ。俺の名は妓夫太郎だからなああ」

 

 ―――最初に動き出したのは、妓夫太郎だった。

 

 

"血鬼術 乱嵐・飛び血鎌"

 

 

 妓夫太郎が血に濡れた鎌を振るうと、ギンと天元の方へ向かって真っ赤な、薄い刃のような血の斬撃が十、二十、三十と向かう。四本の腕がそれぞれしなるように振るわれる度に、水中カッターのように高圧力で血が飛ばされる。触れれば鉄をも両断するような切れ味を誇る無数の斬撃が、ギン達に襲い掛かる。

 

「ギンさん!」

「お前らの相手はアタシよ!」

 

 相手の動きを見て動揺した炭治郎が声を上げるが、それを堕姫が許すはずはない。鞭のようにしならせた無数の帯が、炭治郎達の行く手を塞ぐように襲い掛かる。

 

「炭治郎君!」

 

 宙を泳ぐように飛び交う帯を避けながら、しのぶは炭治郎のフォローへ向かう。さっきより帯の数が増えており、スピードが上がっている。妓夫太郎が起き上がった影響だろうか。しのぶは舌打ちをしながら回避をする。

 

「先生!!」

「しのぶと炭治郎はそっちに集中しろ!俺達のことは気にするな!!」

 

 

"音の呼吸 肆ノ型 響斬無間(きょうざんむけん)"

 

 

 天元は鎖で繋がった二刀の刀を振り回し、前方に大きな爆風の盾を創り攻撃を防ぐ。爆風の盾は妓夫太郎の血鬼術を叩き落すように爆風で霧散していくが――

 

「曲がれ、飛び血鎌」

 

 宇髄の爆風の盾を躱すように飛んで行った血の鎌が、突如意思を持ったかのようにUターンを始め宇髄の後ろから襲い掛かる。

 

「ッ!」

 

 天元が前方の攻撃を捌くことで手がいっぱいだと気づいたギンは、すぐさまカバーする。

 

(斬撃自体を操れるのか……!あの鎌から見て接近戦を主体とした鬼かと思いきや、遠距離も攻撃できるとか無茶苦茶だ!)

 

 ギンは天元の背中を守るように型を繰り出した。

 

 

"森の呼吸 伍ノ型 陰森凄幽"

 

 

 宇髄の背中を守るように、ギンもまた森の呼吸で攻撃を防ぐ。自身の前方、180度から迫りくる攻撃を塞ぐ防御の型。かつて、"上弦の弐"童磨の凍てつくような氷の粒手も防ぐことができた技だ。

 

「へええ、やるなああ。だがいつまで耐えきれるかなああ?」

 

 自身の攻撃を防ぎ切るギンと天元に感心しながら、妓夫太郎はニマニマと笑い、更に攻撃を波状に仕掛ける。四本の腕をさらに回し、飛び血鎌の数を更に増やしていく。

 妓夫太郎の思い通りに操られる、敵にあたって弾けるまで動き続ける飛び血鎌は、ギンと天元の命を絶とうと速く、そして正確に死角を狙ってくる。瞬きする間も、息つく暇すらも与えない。ただただ、命を刈り取ろうと鎌を振るう。少しでも動きを鈍らせば、こちらの命を絶つであろう血の刃。

 

「くそっ、数が多すぎる!」

 

 攻撃を捌き続けながら苛立ち混じりに天元が舌打ちをする。天元の言う通り、攻撃の数があまりにも多すぎた。前、後ろ、横、上から斜め下、360度から縦横無尽に襲ってくる血鎌は、厄介極まりない。今は二人でカ攻撃を防ぎきっているが、これ以上数が増えればやがて処理し切れずに攻撃を喰らうのは目に見えている。

 

 

(このままじゃジリ貧!なら、多少強引にでも突破口を!)

 

 

"森の呼吸 陸ノ型 乙事主"

 

 

「!!」

 

 ギンが刀を振り下ろすと、瞬間、天元の爆破にも負けない闇を吹き飛ばすような強風が吹き荒れる。

 背後にいた宇髄も思わず風に押されてよろついてしまいそうになるほどの強い風は、妓夫太郎の斬撃の波を掻き消した。 

 

「んん?」

 

 自分が繰り出した飛び血鎌を消滅させられたのを見て、妓夫太郎は思わず首を傾げた。

 

 ―――今!

 

 陸の型で手薄になった斬撃の隙間を、潜り抜けるようにギンは駆け抜ける。その背中にくっつくように、天元も合わせて走り出した。

 

「逃がさねえぞぉぉ」

 

 しかし、妓夫太郎はその動きを先読みしていたかのように、持っていた鎌を投げつける。

 血の斬撃の中に隠すように飛ぶ、不気味な骨の鎌は的確にギンと天元の首の頸動脈を断とうと飛んでくる。しかも、何本も。

 投げつけた妓夫太郎の鎌は、おそらく血鬼術で創られる物なのだろう。妓夫太郎の掌から生えるように現れ、何本も何本も投げつけてくる。

 

「あぶねぇ!」

 

 

"森の呼吸 弐ノ型 剣戟森森"

 

 

 飛び込んでくる鎌の霰を、ギンはお得意の弐の型で叩き落していく。

 

「ッ」

 

 その時、いくつかの攻撃がギンの身体を掠めた。腕、足、胴体。致命傷には到らない掠り傷に、一瞬だけギンの顔が歪むが、怯んでいる暇はない。

 

 

「やるなぁぁ」

 

 

 妓夫太郎は心底楽しそうに笑みを浮かべ、構えた。

 あれだけ離れていた距離は詰められた。ここからは接近戦となる。

 鹿神ギンの緑色の刀が、宇髄天元の大剣が、妓夫太郎の血に染まった鎌が、相手の命を切り裂こうと振るわれる。

 

 

"森の呼吸 壱ノ型 森羅万象"

 

 

"音の呼吸 壱ノ型 轟"

 

 

"血鬼術 跋扈跳梁(ばっこちょうりょう)"

 

 

 

 手加減も様子見もない。妓夫太郎を左右から挟むようにギンと天元は妓夫太郎に接近し、呼吸による型を繰り出した。

 そして、妓夫太郎がそれを何の苦も無く防いだ。

 

 三人の剣戟の余波で大地が割れる。

 

 打ち合いは続く。

 

(こいつらすげぇ連携できてるなぁぁ。いや違うなぁぁ。蟲師が息を合わせてるんだなぁぁ)

 

 四本の腕を器用に操りギンと天元の攻撃を流しながら、妓夫太郎は考察する。

 まるで今までずっと共闘してきたかのような、何十年も訓練されたかのような二人の動き。

 天元が攻撃をすれば、ギンは死角を縫うようにして妓夫太郎の頸を狙った。

 だが、どちらかと言うと比較的音柱の方が自由に動き、その動きに合わせて白髪頭が攻撃を重ねてきているようだと妓夫太郎は感じた。

 

 そしてその直感は正しい。

 

 鬼殺隊の"柱"は多忙だ。故に、合同で訓練を行うことはほとんどない。

 訓練と称して打ち合うことはあっても共同で鬼と対峙することを前提とした訓練は行わない。

 

 何故なら柱が鬼と遭遇する時、柱は単独で行動することがほとんどだからだ。それは、"柱"級の実力者が少人数故に。二人一組にして任務に当たらせるわけにはいかなかったから。

 効率的に考えて、一体の鬼に複数人でかからせるのではなく、広い地域にそれぞれ担当する柱を配置させた方が、鬼による被害を食い止めやすい。

 

 実際、妓夫太郎と堕姫が今まで殺してきた柱達は単独で行動していたのがほとんどだった。

 いくら卓越した技術と力があろうとも、一人の柱に堕姫と妓夫太郎が二人掛かりで襲えば負ける訳がなかった。

 妓夫太郎にとって、同時に柱を二人相手にするのは初めての経験だった。なるほど、童磨が苦戦してやられた訳が少しわかった。

 それにしても随分と統制が取れてるなぁぁ。この息の合った攻撃は、百戦錬磨の妓夫太郎も思わず舌を巻くほどで――

 

「天元もっと合わせろ!!一人突っ走りやがって合わせるこっちの身にもなれ!!」

「ハッハー!派手も派手派手!ド派手な祭りだ!!"譜面"の完成まであと少しだ、ついてこいギン!」

「話聞けや!!」

 

 いや、そうでもないかもしれない。

 

「チッ。()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ギンが防ぎ、天元が攻撃する。だが天元の二対の刀に気を取られると、ギンが首を獲ろうと刀を振るってくる。

 それに反撃しようとしても、ギンがそれを全て叩き落としてしまう。

 

(こっちは鎌が四本で、あの蟲師は刀一本だぞぉ?ありえねえだろうが)

 

 上弦の弐、そして上弦の壱との死闘は、鹿神ギンの技術を格段に上げた。

 命のやり取りでしか、究極の殺し合いでしか、戦いの技術は洗練されない。すべての攻撃を防がれて徐々に妓夫太郎に苛立ちが募っていく。まだこちらの攻撃は一つも天元に当たっていない。

 ギンの身体には所々に切り傷が生まれていた。

 

 

"音の呼吸 肆ノ型 響斬無間"

 

 

 ザシュッ

 

 

「な、しまっ―――」

 

 だが、そんな苛立ちで集中が削がれたのか。懐に潜り込んで宇髄天元が放った斬撃は、妓夫太郎の両腕を斬り落とした。

 上弦の肆の回復は、通常の鬼たちとは比べ物にもならない。例え腕を斬り落とされようとも。壱秒もあれば、再生できる。

 

 

 だが、たった壱秒もあれば、それは妓夫太郎にとっては致命的であり、鹿神ギンにとっては格好の隙だった。

 

 

「決めろ!!ギン!!」

 

 

 天元の呼びかけに答えるように、ギンは血で濡れた刀の柄を握り締める。

 妓夫太郎の頸を斬りおと―――――ー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドクン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え?」

 

 

 

 

 

 

 

 刀、どこ行った。あれ、なんで落として、あれ。なんで、地面が近くなってる。倒れてるのか?

 

 

 息が、できない、なんで。だ、この、痛みは、

 

 

 クル、ししい。

 

 

 視界が回る。眼球がぐるぐると回って吐き気がした。立っていられないほどだった。倒れたまま胃液を吐き出した。

 こんな感覚、前にもあった。そうだ確か、あの時、飛田遊郭で毒を盛られた時と似ている。

 

 

 

 

 

 ――ギン!どうした、なんで倒れてやがんだ!

 

 

 

 

 

 こ、ここきゅうを、少しでも毒の巡りをおクらせろ……!

 

 

 思考が麻痺していく。頭がきりきりと、糸で締め付けられていくように痛みを増していく。

 

 ダメだ、この毒、回るのが止められな、イ。

 

 

「ようやく腐酒が回ったかぁぁ」

 

 

 上から声がした。ギンは首だけを動かして視界を上に向けた。

 

 そこにはにたにたと笑う妓夫太郎と――

 

 

 

「ソ、れは―――」

 

 

 

 まるで()()()()()()()が、妓夫太郎の右手に浮かび上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒヒヒ!!光酒、って言ってたかぁぁ?俺の毒はなぁ、光酒を殺す毒なんだよなぁぁぁ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「胡蝶!!ギンが倒れた!!手当しろぉぉ!!!」

 

 

 そう聞いた時、胡蝶しのぶの行動は早かった。

 後から合流してきた嘴平伊之助、そして(ひどい女装だった)我妻善逸の奮闘により、先より格段に攻撃がしやすくなった。

 さて、これでどうやってあの阿婆擦れに毒を叩き込むべきか。

 

 そう考えながら立ちまわっていた時に、宇髄の叫び声が聞こえた。

 

 視界をそちらに向けると、血を吐き出しながら倒れ込む鹿神ギンの姿があった。

 

 その姿を見た瞬間、胡蝶しのぶは呼吸を惜しみなく使ってギンの下へ駆け寄ってギンを肩で抱えた。

 倒れ込んだギンを攻撃されないよう、宇髄天元は妓夫太郎の攻撃を逸らし続けていた。

 

(呼吸が荒い!皮膚が変色し始めて……毒!?)

 

「宇髄さん!おそらく毒です!その鬼の攻撃に当たらないようにして!!」

「もうド派手にやってる!!」

 

 戦場から離れながらそう言うと、怒鳴り声が返ってきた。おそらくこちらの言葉に返答するのすら惜しいのだろう。四本の鎌が存分に振るわれる妓夫太郎の攻撃に押されているのは、目に見えて明らかだった。

 

「早く解毒しないと……!」

 

 しのぶは建物の陰に隠れ、床に下したギンの手当てを開始する。

 ギンは痙攣し、苦しそうに荒い呼吸を続けている。しかし、酸素が肺を通っていないのか、空回りするようにギンの呼吸が流れていく。

 

「どうして……!ギンさんに毒はほとんど効かないのに!」

 

 日常的に光酒を摂取しているギンの身体は、常人とは造りが違う。

 怪我をしてもすぐに治るし、多少の毒を喰らってもけろりとしている。

 

 それは光酒のせいだと、ギンさんは言っていた。

 

「光酒ってのは、生きている。普通の酒や水のように、飲んだらすぐに汗や尿になって出てくるわけじゃない。体内に留まり続け、多飲すれば細胞に定着する。間を開ければ問題はないが、俺の場合は結構飲んじまったから普通の人より新陳代謝が数倍よくなっているんだ」

「じゃあ、他の隊士の人にも光酒をもっと飲ませればいいんじゃないですか?治癒が早く、毒が効かないなんて剣士としてはいい能力なんじゃ」

「……副作用があるからダメだ」

 

 話はそれで終わった。ギンのばつが悪そうな顔が印象的だったが、ギンさんの身体を守ってくれるならいいか、と深く考えなかった。そうだ。故にギンさんは、毒はほとんど効かない。

 そのはずだった。なのに、今ギンの身体は猛毒に身体を犯されている。

 身体の中にある光酒が、守ってくれているはずなのに。

 

 

 

「俺の毒はなぁぁ。()()()()()()なんだよなぁぁぁ」

 

 

 

 声がした。

 咄嗟に刀を構えなおして後ろを振り返ると、そこにはにたにたと嘲笑う妓夫太郎がいた。

 

 

「……どういう、ことです?」

 

 

 震える声でしのぶが問い返す。

 

「言葉通りの意味なんだよなぁぁぁ。ちゃんと耳ついてんのかぁぁぁ?俺の毒はなぁぁ、腐酒そのものなんだよなぁぁぁ」

「!」

 

 腐酒?

 まさか、光酒と対になる、鬼にとっては最高の美酒となる液体のこと?

 なんで鬼が、それを持っている。なんでそれを毒として扱える?

 

 いや、でもまさか――

 

 しのぶの中にある予測が生まれる。

 予測はすぐに、確信に近い物へと変貌していく。

 

 でも、ああ、ダメだ。もしそうなら――ギンさんは助からない。

 

 

 

 

 

「腐酒ってのは、人間にとっては猛毒だ。だが極稀に適合し、身体に腐酒が定着する者がいる。動物の体内に入り血を与えられると、腐酒は生命力を得て、宿主に特別な力を与えることがある」

「その治療法は?」

「光酒を定期的に飲ませることだ」

「光酒を?」

「ああ。()()()()()()()()()()()()だ。体内にある腐酒を中和――いや、殺菌すると言ったほうが正しいか?以前、光酒と腐酒を一対一で混ぜたら、ゆっくりと消えてしまったんだ。命無き腐酒と、命持つ光酒は、性質が真逆の存在なんだ。故に二つが混じると、()()()()()()()()()()()()()()()()

「じゃあ、光酒を投与したら、患者の身体も危ないんじゃ……」

「だから、定期的に一定量を飲ませる必要があるんだ。一気に投与すると、患者の身体の組織を破壊しかねない。とは言っても腐酒自体ほとんど見つけることができない希少な物だし、それを呑んで毒に耐える人間も更に少ない。あんまり事例としてはないが、一応覚えておけ」

 

 

 

 なんでもない、蟲師としての修業の内の一つだった。

 こんな時にも正確に情報を思い出す自分の記憶力が、今のしのぶにとっては恨みたかった。

 

 もし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ギンさんの身体にある細胞の一つ一つに、光酒が定着している。それに腐酒が、細胞一つ一つを殺してしまったなら。ギンの身体に刻まれたいくつもの切り傷。おそらくそこから毒を入れられたのだろう。短時間の間に何度も腐酒を投入――

 今しのぶの手元に光酒はない。先の倒壊で潰れてしまった。

 

 つまり――今、ギンを救う方法が、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そいつはもう助からねえなぁぁぁ。いいざまだなぁぁぁ!その毒は身体を少しずつ腐らせ息を止めるんだなぁぁ!簡単には死なない、苦しんで死んでいくのが楽しみだなぁぁぁ!」

 

 

 

 

 

 

 

 げらげらと嗤う妓夫太郎の笑い声を聞いた瞬間、しのぶの頭の奥で、ぷちりと何かがキレる音がした。

 

 

 

 




お待たせしました。
少しずつ書いていきます。



たくさんの感想などいつもありがとうございます。
返信は、できれば最新話を投稿した後、と言う風に決めているので遅れちゃってますが全部見てにやにやしてます。
また感想をいただけると嬉しいです。


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"■"と"■■"

 

 

 

 

 

 

 

 

―――なんだ、お前……その、身体中に生えた草は

 

 

 

 怒り。

 

 憎しみ。

 

 鹿神ギンは蟲柱に就任することとなったあの飛田遊郭の事件の後、我を顧みず鬼を殺すことに精を尽くすようになった。

 

 親友であった錆兎の死は、大切な人が殺される悲しみは、身を裂くような痛みを与えた。

 遊郭で出会った明里の言葉は、呪いのように縛り付け、心を曇らせた。

 

 何を憎んでいいのか分からない。何を許すべきなのかもワカラナイ。

 

 ただひたすら答えを追い求めるように、刃を振るう。

 

 鬼を殺し続ければ、この胸の孔は埋まるのかは分からない。

 

 だが今まで鬼狩りとして戦い続けてきた、鍛え続けてきた時間を否定したくなくて、戦うしか方法がなかった。鬼を殺し続けるしか、自分の価値を証明することができないから。

 

 

 

 

 

 

 ―――骸草と言う、蟲がいる。動物の死骸に寄生し、骨や肉まで分解して泥状にする蟲だ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――俺は鬼も、獣も、植物も、蟲も、踏み躙りすぎた。時には人の死体も鬼狩りの為に利用した。その結果がこのザマだ。俺の死臭は、もうこびり付いて取れなくなった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼の、獣の、人の死臭がこびり付いた俺は、骸草にとって絶好の養分なのだ。

 

 

 

 けれど、呼吸法を会得し、常に蟲煙草を吸っている俺を分解することはできない。本当に、ただ纏わりついているだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――笑えるだろ、なぁ。必死に鬼を殺して殺して殺し続けて、こう言われんだよ。お前は屍だってな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 憎しみ。怒り。それは人間ならば誰もが備えている感情のひとつ。

 

 昔のことわざに、こんな言葉がある。

 

 

「虫の居所が悪い」

 

 

 ――この腸が煮えくり返るような熱は、血管の中を駆け巡る血液が灼熱のように燃え上がるような熱は、私の中に棲む蟲が見せている感情なのだろうか。

 

 ああ、でもそんなことはどうでもいい。

 

 今すぐこの鬼を殺さなければ気が済まない。この気持ち悪くて頭がガンガンする痛みは、この鬼を殺さなければ収まらない。

 

 よくも私の先生を。

 

 よくもギンさんを。

 

 よくもよくもよくも―――!

 

 

 胡蝶しのぶは、元来、憎しみを持ちやすい。

 彼女の鬼殺の本質は、煉獄杏寿郎のような"人を救う"と言う責務感でも。

 胡蝶カナエの"自分達と同じ思いをさせない"という正義感でもなく。

 

 

 彼女の根源にあるのは、鬼を滅ぼしたいという怒りに突き動かされた衝動。

 

 

 

「あああああああああ!!」

「胡蝶落ち着け!一人で飛び出すな!」

「ひっひひっ」

 

 胡蝶しのぶが毒の刃を妓夫太郎に突き刺そうと地を駆ける。文字通り目に留まらぬ速さ。小柄な体を活かし、大地に足の力を乗せ、鬼の命を腐らせ絶命に追い込もうと毒の刃を振るう。

 叫びながら刀を振るう彼女の表情は、怒りに満ち満ちており――

 

 

 そしてどこか、泣いているようだった。悲しくて哀しくて、けれどどうしようもなく、癇癪を起こしている子供のようだった。

 

 

(まずい。完全に冷静さを失っている)

 

 

 宇髄は額に嫌な汗を掻きながら、しのぶの援護に回る。速さがあるとはいえ、相手は上弦の肆。しのぶの突き出す刃を紙一重で躱し、受け流し、しのぶを殺す血の鎌を振り続けている。いくらしのぶが速さに特化した剣士とはいえ、相手は何百年も柱を退け続けた文字通りの怪物だ。しのぶの動きに慣れ始めたのか、妓夫太郎の攻撃は洗練されていくばかりだ。このまま戦い続ければどうなるかは目に見えている。

 

 

(あの蟷螂野郎も最初より反応が早くなってやがる!それにやべぇ。胡蝶と譜面が合わせられねぇ!普段の胡蝶ならともかく、今の胡蝶は周りが見えてなさすぎる!)

 

 胡蝶しのぶの蟲の呼吸は、速さを活かした突きが主体の攻撃。今はまだ攻撃を躱しきれているがいつまでそう言っていられるかは分からない。早い所状況を立て直したいのに、上弦の鬼はそれを許してくれない。畳みかけるようにこちらを押してきている。

 

(光酒を殺す毒だと?んなもん、ギンを殺す為だけの毒じゃねぇか!)

 

 宇髄は悔しさに歯噛みをしながら刀を振るう。

 自分が今無傷で、刀を振るうことができているのはギンがいたからだ。ギンが自分の代わりに盾になり、そして毒を受けた。

 

(分かっている。俺は煉獄やギンのようにはなれねぇ)

 

 光酒を飲むと、異常な身体能力を手に入れる。その副作用か、身体のどこかに痣が浮き出る。

 それが鹿神ギンが長年光酒を研究し、手に入れた研究結果だ。その研究結果があったからこそ、上弦の弐を討伐し、上弦の壱を退けることに成功した。

 だが、宇髄天元はいくら光酒を飲んでも痣は発現しなかった。

 もちろんある程度の身体能力の上昇は観られたがそれだけ。ギンや"水柱"冨岡義勇のような爆発的な身体能力も、体のどこにも痣は浮き出てこなかった。

 幼少の頃から長年、忍びとして血のにじむような訓練を受けており、その訓練の中には毒物の訓練も入っていたから、その影響もあるのかもしれない。

 ただ、分かったのはただひとつ。宇髄天元はどうやってもギンや煉獄達のように強くはなれないということ。

 

 

 

(だが、それがなんだってんだ)

 

 

 

 才能がないのは百も承知。もし自分に才能があったのなら、見捨てなければいけない命を見捨てずに済んだのだろう。父親や里のことであんなに悩むこともなかっただろうし、もし自分に忍びとしての才能があったのなら、親兄弟を捨ててここに立ってはいない。

 忍びにもなり切れず、剣士にもなり切れない。それが、宇髄天元と言う男の、才能の上限値。

 

 だが、才能がない者にも矜持がある。

 取るに足らないと笑われるかもしれないが、それでも自分の中で曲げれない矜持が。

 

 

(胸張ってド派手にお天道様の下を歩くにゃ、上弦の鬼の頸を持って帰らにゃなんねぇ)

 

 

 才能がないなら、より鍛えるだけだ。

 例え手足が千切れようとも、鬼と戦い抜く。

 

 

 ――では、それでも自分に成し遂げられないのなら。

 

 

 その時は他の誰かに託す……。

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、そうか。

 

 

(ああ、煉獄。今ならお前が地味に後輩をかばった理由が分かる気がするぜ)

 

 

 胡蝶しのぶ。元花柱胡蝶カナエの妹。そして鹿神ギンの弟子。

 

 音柱は結局、継子を一人も取らなかった。戦い方を教えたのは自分の妻たちだけ。

 

 だが仮に自分が死んでも後を託せる者がいるというのは、戦いへの迷いを拭ってくれるのだろう。あのド派手な煉獄のことだ。迷いなんか一切せずに、上弦の壱へと立ち向かい、そして後輩である竈門炭治郎を守り切ったんだ。

 

 ああ、そう気づいてしまったのなら、やるしかない。

 

 今までさんざんあんな美味くてド派手な酒を飲ませてもらったからなぁ。

 

 こんぐらいしなきゃ、音柱の名が地味に廃るってもんだ。

 

 この手のかかるじゃじゃ馬を、なんとか蝶屋敷に帰してやんねえとな。

 

 それが、俺の同僚である鹿神ギンへの唯一の手向けだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しのぶの様子がおかしくなった原因は、分かり切っている。彼の師匠である鹿神ギンが倒れたからだ。

 気持ちは分かる。もし自分の愛しい妻が倒れたら、自分だって冷静さを保っていられるか分からない。

 普段冷静な胡蝶しのぶがあそこまで取り乱すのは、初めて見る。

 だが胡蝶しのぶは、本来憎しみに染まり易い性質の持ち主だ。

 姉の胡蝶カナエの影響や、花柱代理としての責務からその性質はここしばらくの間、鳴りを潜めていた。そもそも、戦えなくなった姉の「笑っている顔の方が好き」という何気ない言葉や、師である鹿神ギンの「憎しみに囚われてはいけない」という教えを健気に守ろうとしていたからこそ、胡蝶しのぶは怒りを出さないようにあり続けている。

 胡蝶しのぶが入隊当初、憎しみや怒りに振り回されていたと知っている者は今では少ない。怒りぽかったと知っているのは、しのぶを昔から知る者や鼻や耳がいい者だけ。

 

(心の鬼――!)

 

 帯鬼の攻撃を躱しながら、炭治郎はギンの言葉を思い出していた。

 

 

 ――人は心の中に夜叉を飼う。誰にも制御できない怪物だ。

 

 

 思い出し、そして理解した。心の鬼という存在が何か。ギンが言っていた、囚われてはいけないという意味。

 今のしのぶは、まさに鬼だった。鬼気迫るとはまさにこのことか。屋根の上から横目に見えるしのぶの表情は、ここから随分距離があるのに、恐ろしく、そして冷たい。

 憎しみと怒りに染まった今のしのぶの剣筋は、乱れている。あのままだとすぐに――!

 

 

「しのぶさん!それ以上はダメだ!」

「よそ見なんて余裕じゃない!」

「ぐっ!」

 

 しのぶを止めに行こうとする炭治郎だが、それを止めるのはやはり帯鬼。堕姫だ。

 

「あっはははは!どうしたのよ、あの蟲師が倒れてから動きが鈍いわよ!!」

「一番厄介だった蟲師が死んだからなぁぁ。あとは楽勝だなぁぁ!」

 

 

「くそがああ!」

 

 

"獣の呼吸 肆ノ牙 切細裂き"

 

 

 伊之助がたまらずと言ったように呼吸の型を繰り出す。だが、帯は切っても切ってもすぐに再生してしまう。イタチごっこのような状況に、伊之助は苛立ちを隠せずにいた。

 

 

「おいやべえぞ紋逸!白髪ヤローがやられてやべえ!しのぶが死ぬ!」

 

 

 鹿神ギンの離脱、そして毒による瀕死。拮抗していた戦況が、一気に覆された。

 伊之助もそれは肌で感じているようだ。ただでさえ帯鬼に手古摺らされているのに、このまましのぶや宇髄が倒れればこちらの敗北は必至だ。

 善逸も頷きながら、戦況を確認する。

 だが胡蝶しのぶと宇髄天元の援護へ向かえる余裕はない。4人がかりでようやく抑え込めている堕姫を、誰かが一人でも援護に向かわせればこちらが負ける。

 自慢の雷の呼吸も、見切られるようになってきてしまっている。

 七ノ型を繰り出せば戦況をひっくり返せるかもしれないが、まだあの技は自分の足にひどい負担をかけてしまう。技を繰り出せば動けなくなるかもしれない。

 だが、こうなってしまえば四の五の言っている余裕もない。こうなれば七の型を!

 

「分かってる!でもやるしかない!早くこの帯鬼を倒して、しのぶさん達を援護するんだッ――!?」

「どうした、ぜんい――!?」

 

 

 堕姫の前に、飛び出す影がひとつ。

 

 

「は?」

 

 

 ドゴッ

 

 

 ――お前は特別な子だ、禰豆子。

 

 

 ――いつか俺が、炭治郎が、お前を絶対に人間に戻してやる。それまで苦しいだろうが、頑張ろう

 

 

 

 よくも。よくも。わたしの、私達の大切な人を傷つけたな。

 

 

 

 堕姫が吹き飛ば、否、蹴り飛ばされた。強靭な足から繰り出された蹴りに耐え切れず、堕姫の頸は蹴鞠のように宙を舞い、廃屋へ落ちる。

 

 

「は、何、あたしの頸が」

「ね、禰豆子?」

 

 頸を千切るように蹴り飛ばされた堕姫も、そしてそれを見ていた伊之助や炭治郎も、何が起こったのか分からないように口を惚けさせていた。

 

 

 ――人間はいつも心の中に夜叉を飼っている。誰にも制御できない鬼を心の奥に棲まわせている。

 

 

 記憶が揺さぶられる。かつて鬼舞辻無惨が、自分の家にやってきた夜のことを。自分の家族を殺された時のことを。

 

 あの時倒れていった家族の姿と、鹿神ギンの姿が、重なる。

 

「ううう"っ」

 

 ――では、鬼は。

 

 鬼の中に棲む夜叉が、激しい怒りによって顔を出した時。

 

 

「フゥ"ーッ!」 

 

 

 その憎しみと怒りは抑えられることを知らず。

 自らの敵を破滅させるまで、突き動かす。

 

 例えそれは鬼だろうと人間だろうと、例外はない。

 

 

「絶対に……殺してやる!!」

「グルルル……」

 

 

 憎しみと怒りに染まった者は。血管を沸騰させ歯を食いしばり。

 

 やがて人の形をした獣へと化す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しっかりしてくださいませ蟲柱様!!」

 

 一方、鹿神ギンは隠達の手によって懸命に手当てを受けていた。

 皆、鹿神ギンに助けられたことがある者達だ。

 ある者は怪我の治療で、またある者は蟲患いで。

 皆、蟲柱に助けられた者達だ。

 

 遠くから破壊音が聞こえている。鬼達が暴れまわっている。

 自分達は戦うことができない。こういう時、柱や隊士達に頼るしかない自分達の無力さには呆れてしまう。

 だが、自分の弱さを憎んで足を止めている暇はない。

 自分達に今できることを。

 

 幸い、辺りはもう瓦礫の山が多くあったから、材料には困らない。怪我人を運ぶ為の簡易的に作った担架で蟲柱を安全な場所に運んだ隠達はゆっくりと地面に下し、急いで手当を開始する。

 

 ピクッピクッ

 

「瞼が動いている……夢を見始めてる」

「夢なんかどうでもいいでしょ!はやくアンタの光酒出しなさいよ!!少しでも蟲柱様を延命させるの!!」

「分かってるっつーの!そんな大声出すんじゃねえ!」

 

 ギンが意識を失ってから、呼吸と脈が徐々に弱くなる一方だった。普通の医者が見ればもう手の施しようがないと匙を投げてしまうだろう。

 だがそれでも出来ることをしよう。この人は死なせちゃいけない。死なせたくない人だから。

 隠達は懐から少量の光酒を取り出し、ギンの口に流し込む。隠達は蟲柱から、いざと言う時の為に光酒を渡されていた。量は隠達の光酒全てを合わせても瓶1本分にも満たない少量だが、無いよりはマシだ。

 

「ん?おい、見ろよこれ」

 

 すると、手当をしていた隠の一人が首を傾げながらギンの懐から何かを取り出した。

 

 

 

 

「何……それ?盃?」

 

 

 

 ギンの懐から現れたのは、小さな盃だった。深緑の色をした、雅な盃だった。

 見たこともない代物。匠の芸術品。

 蟲柱が危篤と言う緊急事態のはずなのに、隠達は少しの間、その美しさに目を奪われた。

 まるでこの世の物ではないかのようなその盃に、芸術の知識がない隠達は、思わず息を呑む。

 

(あの戦闘の中でずっとこれを持っていた?吉原のどこかの店の骨董品……いや、蟲柱様がそんなもの、懐に隠し持つ理由がない。でも、この盃――)

 

 ちょうど、心臓を守る位置にあった。

 

(蟲柱様の傷は、全部心臓を避けるようにつけられている……この盃が守ってくれていた?)

 

 ありえない。理性はそう断言している。けれど――この盃と、目に見えない異形を相手取ると言われている蟲柱なら、あるいは。

 

「おい!手を止めんな!脈は弱いがまだ動いてる!」

「ッ!は、はい!」

 

 いや、今は考えている時間はない。隠達はすぐに思考を切り替えて手を動かし始める。

 

 

「蟲柱様!聞こえておりますか!?あなたはまだ死んではいけません!他の柱が戦っております!――花柱代理様も!だから、起きてください!あなたが必要なんです!」

 

 懸命に心臓を動かそうと肋骨の上から必死に力を送る。

 

 戻ってこい。戻ってこい。

 

 

 あなたにはまだ死んでほしくない

 

 あんたはまだ死んじゃいけない存在だ

 

 あなた様の力を貸してください 

 

 

 そう念じながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――誰かの夢を見た。

 

 

 

 

 自分のような、他人のような。

 

 

 

 

 そんな誰かの、夢を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鬼舞辻無惨によって蟲師の血筋が途絶えた後。

 蟲を見ることができる者はほとんど現れなかった。

 

 とはいえ、後世にも蟲を視界にとらえることができる者はちらほらといた。

 

 

 

 しかし、蟲師と言う職がいなくなった今、異形のモノを見ることができる者は、異常者として扱われるのが常になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒトは、異常を恐れる生き物だと僕は教えられた。

 

 知識としてではなく、言葉と実感によって。

 

 僕が生まれた所は、山と田んぼしかない小さな農村だ。

 辺りは森で囲まれた、小さな世界だった。豊かな土地。いつも緑に溢れていて、生命力が溢れていた。春は桜が山のあたりにちらほら見えて、夏は田んぼがぜーんぶ緑色で、秋は美味しそうな作物がいっぱいで、冬は白い雪が積もって静かになる。

 

 

「嘘じゃないよ!本当に見えるんだってば!」

「嘘つくんじゃねーよバーカ!うそつきはなぁ、鬼に喰われちまうんだぞぉ!」

「いいえ、違うわ。その何かが見えるのはあなたが鬼だからよ」

 

 そんな僕は、村の子供達からいつもいじめられていた。

 きっかけは些細なことだったと思う。宙に浮かぶ半透明な何かのことを近所の子供に教えたら、いつの間にかこうなっていた。

 

 村の人達は、僕のことを鬼の子とか妖の子と呼ぶ。

 

 僕が住んでいた村には、根強く『鬼』の伝承が伝わっていた。人を喰らう鬼、怪しげな妖術を使う鬼がおり、悪い子供は鬼がどこからかやってきて食べられてしまうぞと、大人達は子供に半ば脅すように言って聞かせていた。

 

 そのせいかどうかは分からないけど、この村の人達は異様な物を極端に恐れる性質があった。

 

 そう、例えば僕のように宙に浮かぶ生き物を見ることができるような人間を。

 

「今日も信じてもらえなかったなぁ」

 

 僕は人の気配がない森の樹の上で、麓の村を見下ろしながら残念そうにため息を吐いた。

 あんな綺麗なモノ達を、どうしてみんな見ることができないんだろう。

 

 僕は宙に浮かぶ生き物を眺めながらほうとため息を吐く。

 

 あらかじめ言っておくけど、僕は人間だ。髪の毛も黒いし、ご飯は大好きだし。ただ変な生き物が見えるだけで、彼らは僕のことを鬼だとか(あやかし)の子だとか呼ぶ。近所の子供も、村の大人達も。

 彼らは別に何かをするわけでもなく、死んでいるわけでもなく、ただ宙を漂って僕らの上を回っている。

 細いモノ、大きいモノ、小さいモノ、丸いモノ、そうじゃないモノ。

 いろんな種類がいて、僕はそれを眺めては捕まえようとしてみたり触ってみようとしてみたりする。

 けれどそうしようとすると彼らは風に吹かれたように消えてしまう。

 でもそんな彼らのことを、幻だとは思えなかった。

 何か強い力を感じられた。触れてしまえば消えてしまいそうな彼らのことを、どうしても嫌いにはなれなかった。

 

 

 ――――おいで

 

 

 ……声が聞こえる。

 何かの声が聞こえる。

 

 何かに呼ばれる声。

 

 森の、山の、草樹の奥から。誰かの声が聞こえる。老人のようで、若い男の人のようで、子供のような声。

 

 

 僕は立ち上がって、木の枝から飛び降りた。

 

 

 ――それに近づいちゃいけない。

 

 

 生き物としての直感か、幼い僕の芯にある何かが言う。

 けれど、僕はとにかく寂しかった。誰かと一緒になりたかった。

 両親は僕が死んでから、僕はずっと独りだった。周囲の大人や子供は僕を気味悪がって近づかない。最近はもう慣れたけど、いじめられてすぐは辛くて、毎日よくここで泣いていたのを覚えている。

 

 だからだろうか。僕は導かれるように森の奥へ、声がしたほうへと走っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僕の住む村の直ぐ傍にある山は、豊かな森だった。

 鹿や猪とかの獣はたくさんいるし、山を登れば山菜や木の実には困らなかった。

 親のいない僕がここまで生きてこれたのも、この山のおかげと言っても過言ではないと思う。

 僕にとってこの山は遊び場だ。

 樹から樹へと飛び移り、森の中を駆け回るのだって朝飯前だ。

 

 

 

「こっちから声がする……」

 

 

 ――こっちだよ

 

 夢中になって森を進んでいる内に、随分と深い場所に来てしまった。

 普段は自分もあまり来ない、深い森の奥。

 この辺りは一層緑が深くて、自分より何十尺も高い樹が生えている。村の人達もこの辺りは『八百万の神の通り道』と言って近寄らない場所だ。

 大樹の分厚い樹皮や土には緑の苔が生え揃い、視界の一面がすべて緑で覆われている。

 

 苔の上を歩いていくと、珍しい物を見つけた。

 

 

「足跡?」

 

 

 裸足。小さな人間の足跡。僕と足の大きさは同じぐらいだろうか。でも、どうしてこんなところに。

 不審に思いながら、僕は足跡を辿っていく。

 何かに導かれるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして僕が見つけたのは、女の子だった。

 

 

 右の脇腹に大きなひっかき傷のようなものをつけられた少女だった。

 

 

 痛みで気絶しているのか、小さく呻くだけで目を開こうともしない。

 

 獣にやられたのだろうか。熱があるのだろう。苦しそうに呻いている。

 

 

 

 だが、僕はそんな少女にある部分に目を奪われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「キミは、ヌシ様?」

 

 

 

 

 

 

 その少女は、頭に植物が生えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 

 

 がばりと起き上がると、自分がどこか知らない建物の中で眠っていることに気づいた。

 そこは古い書物に埋もれた空間だった。

 壁も、床も。足の踏み場がないほどのその部屋は、自分が寝転がっていた布団以外はまさしく書物の海だった。

 

 

 

 

「あ、起きたんだ」

 

 

 

 

 

 声がしたほうを向くと、ヒトの子(少年)がいた。

 

 

「ごめんね、散らかってて。僕、片付けが苦手でさ。古臭い書物しかないけど、怪我が治るまでゆっくりしてって」

 

 よく見てみると、自分の身体に布が巻いてある。

 

 ()()()()()()()()()()、このヒトの子が手当したのか。

 

「いやぁ焦ったよ。ヌシ様に、しかも人間のヌシ様に遭うなんて初めてだったからさ。こんな時だけど、自分の家が本だらけでよかったって心底思ったよ。()()()()()()()()()調()()()()()()()()()んだから」

 

 

 

「!」

 

 

 

 ――いあぁ、キミが蟲師の生き残り?でも聞いていたのと違うね。身体から植物が生えてるだなんて。でも君から美味しそうな匂いがするなぁ。よし!こんな森の奥で一人寂しく生きているなんて、辛くて悲しかったでしょう!だから安心して。俺が救ってあげるからさ――

 

 

 

 

 

 そうだ。思い出した。あの鬼の目的。あの鬼は自分を狙ったんじゃない。本当の狙いは―――

 

 

 

 

 

 

「ヌシ様?」

 

 

 

 

 

 

 ―――関わるな

 

 

 

 

 

 

「え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ジン――あれ。どうしたの、ジン。ヌシ様は?」

「あ、久しぶり!それが、消えちゃったんだ。多分、山に帰ったんだと思う」

「あら、そうなの。山のヌシ――しかも人の娘がヌシ様だなんて聞いたこともなかったから、一目会ってみたかったのだけど。文をもらってすっ飛んできたのに、もう行ってしまったのね。何か言っていた?」

「ううん、何も。でも――関わるな、って」

「――そうなの」

「でも多分大丈夫。薬も効いてたはずだし!初めて調合したけど上手くいったと思う。多分」

「多分が多いわね……」

「大丈夫だよ。ねえ、今日も聞かせてよ。村の外のお話!蟲の話!」

 

 

 

 

 

(あまね)さん」

 

 

 

 

 

「―――いいとも。また琵琶で弾き語ろう。しばらくここに厄介になるよ。またあんたの子守歌代わりになるといいねぇ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その少年は、幼いながらも大人に近い精神を持っていた。

 彼の一族は、時折、賢い子供が生まれることがあった。その子供は誰に教わるまでもなく、文字を読み書き、知識を飲み込み、頭の中で理解する。

 そういう力を持っていた。人よりも何倍も何十倍も、頭が回った。彼らは子供の頃からおもちゃの代わりに屋敷にある書物を読み解き、そして大人顔負けの知識を身に着けていくのだ。

 今となっては、彼の一族にそのような子供が生まれる理由は分からない。その子供が大きくなっても、彼らは名声や富にはとんと興味を示さず、ただ時折どこかを放浪しては、書物を書いて、また旅に出てを繰り返し、そして一生を終える。その気になれば蘭方医*1になることも難しくないであろう知識を持っていた。もし彼らの一族が書き記した書物が世に出れば、世界中の学者達が飛びついていただろう。

 とは言っても、村の人間達は彼らがそのような知識の宝を持っているとは知らない。ただ医術をかじった気味が悪い一族だという認識だった。

 だが彼ら一族が、旅には出ても"藤重山"と呼ばれる山の麓にある村の外へと移住することはなかったと言う。

 

 ただ、彼の一族に共通するのは。

 

 彼ら狩房家の人間は――"蟲"と呼ばれる何かを見ていたということ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、3日がたった。

 

 

「ありゃりゃ。見事な藤の花だねぇ」

「ええ、まったく、山一面が藤の花だ。見事に狂い咲いてらぁ」

「でもおかしいねぇ。この時期に咲くなんてねぇ?」

「これも妖の仕業かねぇ……くわばらくわばら」

 

 いつからか、この村を大きく丸で囲うように藤の花が咲き乱れるようになった。

 季節でもないのに藤は絶えず咲き続けた。枯れる気配は一向にない。まるで時を止められたように、藤の花は咲き続けた。

 

 村から見ると、山の中腹一面が紫色に染まった美しい光景だ。実際、僕も藤が咲いているところへ走って調べに行ってみた(村の人達はやっぱり気味悪がって藤の花を見に行こうとはしていなかったようだ。不気味だから伐るべきだーとか言う人もいるみたいだけど)確かにこの山にはちらほらと藤の花の樹が生えていた。でもちらほらと言うだけであんなにたくさん生えてはいなかった。けれど現実的に、元々生えていた大樹はなく、いつの間に藤の花の樹に生え変わっていた。

 どう考えてもおかしい。たった3日で藤の花が生え変わるなんて。

 

 

「ヌシ様が何かしているのかな」

 

 

 そうとしか考えられない。この山を支配しているのは、村の人達ではなくヌシ様だ。

 山のヌシ様なら森の木々を藤の花に生え変えさせることぐらい朝飯前……なのだろうか。

 光脈筋にある豊かな森や山を管理する。それがヌシの役割だ。

 ヌシのことについて、僕はすべてのことを知っている訳じゃない。家にある文献に、ヌシのことが書かれていたのを読んだだけだ。だが、僕のご先祖様もヌシのことについて全てを調べることはできなかったんだろう。山の生態系をいじるほどの力があることも、ましてやそんなことをすることがあるなんて記されていなかった。

 もちろん、その気になればヌシは山の生態系を生まれ変わらせることぐらいできるのだろう。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 果たして山の木々を生え変わらせるなんて、例えヌシであろうとやってもいいことなのだろうか?

 

 

「大丈夫かな、ヌシ様」

 

 

 確かに治療をしたけど、応急手当しかできなかった。ヌシの力があるとはいえ、元の身体は人間だ。まだ完璧に傷が癒えたわけがない。

 

 

「森の外には出れないけど、中を探すなら――」

 

 

 うん、そうしよう。なんだか心配だし。それに、ヌシ様と話がしたい。

 

 

 ヌシ様なら知っているかもしれない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 ―――ひとつ、訂正をしておくと。

 

 彼らの一族は放浪を旅していたと記していたが、少し誤りがある。

 実は例外がいた。それは彼らの一族の末裔たちだった。

 少年とその父は森の外へ出たことがない。藤重山より外の領域へ出たことがない。

 村の住民たちは当然のように森の外にある町に行商へ、あるいは移住する為に出る。だが、彼らは森の外へ出たことがない。

 少年は幾度も外へ出ようと森の外へ歩むが、歩けど歩けど外へ出ることは叶わず、することもないからと森の中に棲んでいた蟲達を観察していただけだ。

 父だけは何か知っていたようだが、いくら問いただしても「今はここにいるのが俺達の約束なんだ」と

 

 しかし、少年の父は死に、母も死に、真実を知る者はいなくなった。

 

 

 少年だけが――この緑の牢獄に閉じ込められている。

 

 

 

 

 

 

 

*1
西洋から入ってきた医学。その医学を修めた医者を当時は蘭方医と呼んだ



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