恋人はマリアさん (とりなんこつ)
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1話

卸したてのズボンに、バイト代をはたいて買ったジャケット。

今日の僕は、我ながら完璧だったと思う。

予定やするべき行動も頭に叩き込んできたので、夏休み終了一週間前に宿題を全部済ませたみたいな気分。

や、生まれてこの方、夏休みの最終日まで宿題を終えたことはないけどさ。

 

とにかく、今日の僕は絶好調だった。

ぐっすり眠って目覚ましのセットした時刻前に目が覚めて、身体に調子が悪いところもない。

あんまり調子が良くて、楽しみ過ぎて、一時間以上前に待ち合わせの駅ビル前についたくらいだ。

遅刻はダメだけど、早く来るぶんにはいいよね。

早くみんなも来ないかな~っと。

 

手持無沙汰でスマホを弄ってると、目の前をコートを着た若い女の人が歩いて行く。

続いてカツンと何かが落ちたような音。

足もとを見ると…なんだこりゃ? ペンダント? 麻雀の点棒みたいな感じのやつ。

材質は紫水晶っぽいかも。

あのお姉さんが落としたのかな?

お~い、お姉さん、ちょっと待って!

 

「なに?」

 

落としましたよ? はい、これ。

 

「見たの…?」

 

そりゃ見ましたよ。って、あれ? サングラスを外したこのお姉さん、どこかで見た記憶が…。

もしかして、マリア・カデンなんちゃら・イヴさん!?

 

やべ、マジで本物?

だったら凄いや、握手して貰えませんか?

って、何、この黒服のお兄さんたちは?

もしかしてマリアさんのボディーガード?

はいはい、避けますよ、避けますから。

え? ちょっとなにすんだよッ! 警察呼ぶよ…むぐッ!?

 

 

 

 

 

 

…はい。なんか歩道に横づけにされたワゴンに乗せられました。

拉致でしょうか。誘拐でしょうか。

真ん中の座席にすわらされ、左右を黒服のお兄さんにガッチリ腕を掴まれて、なんか目隠しされてます。

はっきりいって怖いです。生きた心地がしません。

 

あの~? 僕はどこに連れていかれるんですかね?

 

返事がありません。沈黙が嫌すぎます。

 

もしかして、マリアさんに触っちゃったからですかね? だったら謝りますから勘弁してもらえませんか?

僕、これからとっても大切な約束が…。

 

はい、無視ですか。そうですか。

ドラマなんかだと、ポケットに入れたスマホを指先だけで操作して誰かに助けを求めたりするんだろうけど、車に乗せられてまっさきにボッシュ―トです。

なので、怖いけど、暇です。

若者のスマホ依存ってマジでヤバいよね。

 

どれくらい車が走ったんだろう?

なんかどこかに停まったらしく、腕をひっぱられて外に出ました。

なんか湿っぽい感じがするから、地下みたい?

 

鼻をひくひくさせていると、ぐいぐい背中を押されました。

歩くと床がコツコツと音を立てます。

ガチャン、バタンとドアの開く音。

肩を掴まれて、椅子に座らされて、いきなり目隠しを取られて、視界が真っ白。

ようやく目が慣れてくると…なんだこりゃ?

まるで刑事ドラマの取り調べ室みたいじゃないか。

 

「やあ、こんにちは」

 

対面の、中年のおじさんがにっこり。

 

あの~、僕はなんでここに?

ひょっとしてここは警察署ですか? 僕は警察のお世話になるようなことをした記憶はないですよ? マリアさんに握手すらしてもらってないし。

 

「うん、ここは警察と違うかな。もっと上の組織」

 

え?

 

「ぶっちゃけるとさ、君は国家機密に触れちゃってるんだよね」

 

じょ、冗談でしょ!? 生まれてこの方、そんなもんに触った記憶が……あ。

 

「そう。彼女の持ち物なんだけどね」

 

ま、まさか、あのペンダントがこっかきみつ…?

あんなものに触ったくらいで?

 

「一年くらい前は違ったんだけどね、最近は厳しくてねー」

 

そんなラーメン価格の値上げみたいな軽いノリで言われても。

 

「そういうわけで、一つ、君には色々と誓約書とか書いてもらわにゃならんわけさ」

 

一つって割には、なんですかその分厚い書類の束は?

…いやいや、僕は今日、これから大事な用があるんですよ! こんなことしてる暇はないんですって!

ってゆーか、いま何時なんですか!?

 

「うん、まずは一枚目の誓約書の内容を要約するとね」

 

無視しないでください! 教えてくださいよ! 

あ、なんなら後日ってことで勘弁してもらえませんか!?

 

「ごめんね、こっちも仕事なんだ。じゃあ、なるべく早く片付けようね、お互いに」

 

 

 

 

 

 

…それから僕は、誓約書の内容をいちいち読み上げられ、一生分かと思うくらいサインをさせられた。

自分の名前を書いていてゲシュタルト崩壊したくらいだ。

やっと書き終えたかと思ったら、今度はなんか色々と質問が始まった。

 

「えーと、君の名前は阿部ハルトくんだよね?」

 

はい、そうですよ。

 

「都立高校の二年生で、現在17歳ね」

 

…つか、さっきまで何度も同じことを書類にサインしてるじゃないですか!

 

「はいはい、少し落ち着いて。あ、お腹へってない? なんか食べる? 官弁しかないけどさ」

 

結構です。早く続けて下さい。僕は今日用事があるっていってるでしょ!?

 

「んー、君の保護者と連絡が取れなくてさー。こっちもちょっと困ってるんだよ」

 

うちの両親はサイケデリックだから、メールでしか連絡取れないんですよ! それも下手すると一週間返信放置とかザラだし!

 

「それじゃ、ご両親はいまどこに?」

 

親父が沖縄に出張…って、あれ? 起業だっけ? とにかく単身赴任みたいな感じで、お袋も一度様子を見るって遊びに行ってから、戻ってこないんだよ!

…まあ、家賃とか生活費はきちんと振り込まれてるからいいけどさ。

 

「ふーん、そっか。で、都内のマンションで一人暮らし、っと」

 

あれ? そんなことまで話しましたっけ? …もしかして、僕の情報は全部知っているんじゃないですか?

 

中年男はにっこりしたまま答えない。

それから、もううんざりするほど同じことを繰り返し聞かれて、さすがにぐったりしてしまう。

ああ、スラックスもジャケットも皺だらけだ。

 

「うん。とりえあえず、ご苦労さま」

 

トントン、と書類を纏めて中年男が席を立つ。部屋を出ると入れ違いに黒服のお兄さんたち。

はい、予想通りの目隠しですね。

また歩かされて、車に乗せられて。

 

「そこ、足もとに気をつけて」

 

停まった車の外に出され、目隠しを取られる。

拉致された駅ビルの前だ。もうあたりは薄暗い。

 

「ご協力、感謝します」

 

黒服のお兄さんが僕のスマホを渡してきた。

ワゴンに乗り込んだと思ったら、あっという間に見えなくなった。

 

…人を拉致っておいて、それだけかよ!?

 

理不尽だと思ったけれど、そんなことより重要なことがある。

急いでスマホの電源を入れれば、やっぱり夕方の17時過ぎ。

次々と表示される電話の着信履歴と通信アプリの履歴を必死で追う。

待ち合わせに僕が来ないと心配するメッセージの履歴に少しだけ希望を抱いたけれど、くそ、やっぱり僕一人が欠席したところで、今日のグループデートは中止にするわきゃないか。

 

心配するメッセージも、段々不満やおふざけの内容に変わっていく。

結局は、デートを楽しむ内容の実況中継になって、色々な写メも混じってくる。

そしてとうとう最後のメッセージまでスワイプさせ―――僕の手からスマホが転げ落ちた。

その写真は、クラスメートで今回の発起人である斉藤涼馬と、僕の焦がれていた小金井すみれのツーショット。こちらにむけてピースする斉藤の頬に、すみれがキスしている写真だった。

 

 

 

 

 

 

それから、どうやって家に帰ったのかよく覚えていない。

気づいたらリビングのソファーに座っていた。

脱ぎ捨てたらしいジャケットは、まるで10年くらい使ったみたいにくたびれていた。

かくいう僕もくたびれていた。

謎の組織に拉致られたことに対する憤りはもちろんある。

けれど、斉藤から送られてきた写メがショック過ぎてトドメだ。

 

…そうだ。カレーを食べよう。

 

昨日作ったカレーは、今朝も食べてまだ残っている。

残ったカレーを温めなおして食べよう。

カレーは強い。何にでも合うし、なんでもカレー味にして食べられるようにする。

強いカレーを食べるとき、僕も少し強くなれる気がする。

カレーの入った鍋をコンロの火にかけたとき。

 

ピンポーン

 

チャイムの音。

誰だろう、今時分? 新聞の勧誘だろうか。

玄関へ行き、何気なくスコープを覗いて―――。

 

「こんばんは」

 

ドアの向こうには、マリア・カデンなんちゃら・イヴさんがいた。

 

…何か、用ですか?

 

我ながらドライな声が出たと思う。

 

「とりあえず、開けてもらえないかしら?」

 

……。

まさか、開けたとたん、また黒服のお兄さんたちがいたりしないよな?

でも、開けてあげた。しかも全開。

 

…で? なんでしょうか?

 

マリアさんはいきなり頭を下げてきた。

長い綺麗な髪にドキリとする。

 

「今日は、わたしがうっかりペンダントを落としたばかりに迷惑をかけてしまったみたいで…」

 

…は? うっかり?

 

僕があっ気にとられていると、マリアさんはすんすんと鼻を鳴らす。

 

「…なにか、焦げ臭くない?」

 

…!!

 

キッチンへ走る。

焦げ臭い匂いが益々強くなり、慌ててコンロの火を止めたけど時は既に遅し。

カレーは完全無欠の炭化物に成り果てていた。

 

………。

 

「大丈夫…?」

 

マリアさんが勝手に上り込んできたけれど、もうどうでも良かった。

僕の中で、何かがプツンと音を立て切れた。

 

 

…ざッけんな! ふざけんなよッ!

今日は、せっかくのデートだったんだぞ!?

去年の年末、地面から沸いて出てきたクソでかい棒のおかげで、半年の避難所生活!

それからどうにか学校にも通えるようになって!

三か月くらい経って、街も直って、ようやく元の生活が戻ってきて!

そんなこんなの、ほぼ一年越しで約束したデートが、今日だったんだぞ!?

 

それがいきなり国家機密を見たとかって拉致されてッ!

ようやく解放されたと思ったらデートは終わってて!

好きだったあの子はクラスメートの野郎にとられて!

 

おまけにカレーも台無しになった挙句、今日一日の原因はうっかりだぁ!?

うっかりで、僕の一日が全部パアなのかよ!

僕の一年越しの想いも何もかもぶっ飛んだのかよ!

 

きっと僕は泣き叫んでいたと思う。

床を踏み鳴らし、地団駄を踏んで、子供みたいに暴れていたと思う。

 

でも、どうしようもなかった。

空腹で、悔しくて、やるせなくて、頭の中がぐちゃぐちゃで自分でもどうしようもなかった。

どうしようもないから、もっと涙が止まらない。止められない。

 

突然、ふわっと温かいものに包まれる。

 

「落ち着きなさい。あなたの言い分は分かったから…ッ!」

 

…ッ!

 

「ごめんなさい。謝って済む話じゃないけれど、ごめんなさい…ッ」

 

僕は更に泣いた。

今日、僕を不幸のどん底に落としたのがマリアさんだったとすれば、今日、僕に初めて同情して謝罪してくれたのも彼女だったのかも知れない。

 

ふわんと良い匂いに、ようやくマリアさんに抱きしめられていたことに気づく。

恥ずかしくなって身体を離す。顔を拭えば、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

ティッシュで鼻をかみながらマリアさんの様子を伺う。

真剣すぎる目がじっとこちらを見ていた。

 

「…どうすれば償えるかしら?」

 

……。

 

簡単に、もういいです、とは言えなかった。

でもまあ、マリアさんに抱きしめてもらっただけでチャラかなとも思っている。

 

さっきは思わず泣き叫んだけど、内容は盛り過ぎも良いとこ。

小金井すみれに僕が想いを寄せていたのは本当だけど、向こうが僕に気を持ってくれていたのかは全く自信がない。

今日のグループデートでその気持ちを確認しようと思っていたけれど、斉藤との写メを見る限り、そういうことになったのだろう。

だからといって、僕がデートに参加出来ていれば、僕と小金井が付き合うことになった未来も否定できないと思う。少なくとも微粒子レベル程度の可能性はあったはずだ。なんかシュレディンガーの猫も泣きそうな結論だけどさ。

 

…さらば僕の青春の1ページってヤツですよ。

 

マリアさんに向かって、僕は照れ隠しのように告げた。

小金井と付き合うことになったと仮定して、この先の文化祭やクリスマスといった青春イベントを勝手に夢想していた。

夢想は夢想で終わったということだろう。

もしかしたら、という可能性は、告白することすらなく潰えたのだけど。

もう全てが遅い。

時間を戻せない以上、いくら泣き叫んだって結局は諦めるしかないのだから。

 

僕の台詞は、そんな小ッ恥ずかしい想いと、今日の出来事の諸々を、まとめて笑い飛ばしたつもりだ。

だから、マリアさんの発言に、全力で耳を疑ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…わかったわ。わたしがあなたの彼女になってあげる」

 

…え?

 

「わたしが恋人では不満かしら?」

 

……はいぃいいいいいいいッ!?

 

 

 

 

 

 



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2話

「よう、ハルト。なんで昨日は来なかったんだよ?」

 

…うん、ちょっと色々とあってね。

 

翌日の教室で。斉藤から声をかけられても、僕は言葉を濁すしかない。

 

―――実は昨日、家に世界一の歌姫が来たんだぜ? 

 

仮にそういったところで、誰が信じてくれるだろう?

かくいう僕もあまり記憶に自信がない。

でも、夢ではないんだ。

スマホを弄れば、しっかりと電話番号が登録してある。

 

『マリア・カデンツァヴナ・イヴ』

…何度見返しても、見間違えじゃないよな? って思ってしまう。

 

だったら掛けてみればいい。

けど、掛けた途端、昨日の黒服のお兄さんたちがやってきて、「国家機密に触れたな」ってまたどっかに連れていかれるんじゃないかって不安もあった。

 

なので、僕は手の中のそれを、まるでパンドラの箱のように弄ぶ。

もしかしたら希望はあるかも知れないけれど、開けたらとんでもない災厄に見舞われるかも知れない。

自分で言っておいて、言い得て妙だと思う。

 

「阿部くん、おはよ」

 

挨拶してくる小金井は可愛い。振る舞いも普段通りで屈託もなさそうだ。

…すると、昨日、斉藤が送ってきた写メは、彼女に無断で送ってきた可能性が高いな。

我ながら、他人事のように冷静にそう分析していた。

つい先日までは、本当に恋焦がれていた小金井のはずなのに。

授業中でもその一挙手一投足を眺めていた僕なのだが、彼女に対してひどく興味を削がれていることに気づく。

 

原因は分かりきっている。

昨晩から耳の奥で何度もリフレインするクリスタルボイス。

 

『わたしがあなたの彼女になってあげる』

 

思い出すたびに甘くてフワフワした気持ちに包まれ―――いやいや現実にありえないだろ、そんなこと。

感情の落差は、そのまま僕の態度に出ていたようだ。

放課後、校舎を出て校門まで歩いていると、わざわざ走って追いかけてきた斉藤が言う。

 

「おまえ、授業中ずっとニヤニヤしたり、急に真面目な顔になったり、なんか気持ち悪いぞ?」

 

嫌味くさい斉藤の台詞と態度は、昨日の写メに対して僕が具体的なリアクションをしなくて不満なんだろう。

 

ああ、そうだっけ?

 

それでも僕が興味なさげな反応をすると、とうとう斉藤の方からぶっちゃけてきた。

 

「オレな、小金井と付き合うことになったんだ。おまえも狙ってたんだろ? 悪いな」

 

ふーん、良かったじゃん。

 

「これからデートに行くんだぜ? 良かったらお前も来るか?」

 

仮に行くと答えれば「冗談だよ、邪魔すんなよな」

行かないと答えれば「なんだよ、嫉妬してんのか?」

どっちを選択してもバカらしいので僕は沈黙を選ぶ。

 

「おいコラ、無視すんなよ」

 

斉藤に肩を小突かれるのと、僕のスマホに着信が来たのはほぼ同時。

ディスプレイを見て、僕は震える。

そんな、まさか。

怪訝そうな斉藤の視線を横に、受話ボタンを押す。

 

もしもし?

 

『あ、ハルト? いま、あなたは学校に居るのかしら?』

 

はい。もうすぐ校門を出るところです。

 

『そう。ちょうど良かった』

 

え? と問い返すまもなく通話は切れた。

そしてその半瞬後に、校門を出た僕の前に停まる一台の赤いスポーツカー。

 

「はろはろ」

 

そういって手を振るのはサングラスをかけたマリアさんだ。

 

…どうしたんですか、いきなり?

 

生徒の往来する前で名前を呼ぶわけにもいかず、僕はそう声をかけるしかない。

 

「なにって、デートのお誘いよ、もちろん?」

 

マリアさんがそういうと、横顔に口をぽかんと開けた斉藤の視線が突き刺さってくる。

他に下校しようとしていた生徒たちの視線も背中に痛いほど感じた。

 

そんな、いきなり…。

 

さすがに僕は躊躇してしまう。全然心の準備が出来ていない。

するとマリアさんは少しだけサングラスを下げ、青い瞳で僕を覗き込んで来た。

 

「で? 行くの? 行かないの?」

 

ここで断ったら、きっと一生後悔する。

根拠もなくそう思った。

頷いて僕は助手席へと回り込む。

こういう時、左ハンドルの車だと、いちいち道路側に回らなきゃいけないので、とっても乗り込むテンポが悪い。

高級そうなシートに包まれ、安全ベルトを締めたと思ったら車は急発進。

臆病な僕は、背後を振り返って級友たちの反応を見ることは出来ず、ただ前を見つめ続けた。

 

「ところで、お腹は空いてない?」

 

マリアさんの声に、そっと彼女の横顔を伺う。

本当に整った顔立ちの人だ。

そんなさんざんテレビで見知っている人が、すぐ目前にいるこの現実。

 

…やばい、信じられないくらい胸がドキドキする。

 

「聞いている、ハルト?」

 

あ、は、はいッ! お腹なら大分空いてます!

 

「なら、少し早いけど、夕飯に行きましょうか」

 

そういってマリアさんはステアリングを切る。

先月復旧したばかりの東名高速にのって、凄いアクセルワークで見る見る車を加速させていく。

僕はただそのハンドルさばきと横顔に見惚れていた。気づけば、あっという間に横浜近くまで来てしまっていた。

 

あの、どこまで行くんですか?

 

「今日は、そうね。鎌倉パスタが食べたい気分かしら?」

 

いいながら、マリアさんは高速道路を朝比奈インターチェンジで降りた。

『この先鎌倉市内』との看板の矢印に従い、市内中心まで進むと、いかにもイタリアンレストランっぽい感じの外観の店が見えてくる。

マリアさんは実に手慣れた感じで駐車場へ車を滑り込ませた。

エンジンを止め、車を降りると、指先でキーをクルクルと回しながら笑顔。

 

「この店は、以前に翼と来たことがあるんだけど、結構美味しいわよ?」

 

翼って…あの風鳴翼ですか!?

 

他に誰がいるのよ?って目で見返された。

まあ、一緒にデュエットもしてたから、そりゃそうだよな。

それよか、あの風鳴翼も食事をした店で、今からマリアさんと一緒に食事を摂る。

…エモい。エモ過ぎて死にそうだ。

開店直後らしい店内は閑散としていた。

マリアさんと二人、窓際の席へと案内される。

差し向かいで椅子に座って、なんだかデートみたいだ。

って、間違いなくデートだよな、これ?

 

「わたしは、このミニコースにするけど、あなたは?」

 

僕は、カレーがあれば…。

 

「一応、ここはパスタ屋なんだけどね?」

 

あ、マリアさんと同じものでお願いします。

 

頷いて、マリアさんは店員に僕の分も一緒にオーダーしてくれた。

あとは手持無沙汰て僕が俯いていると、怪訝そうなマリアさんの視線を感じる。

 

「あなた、昨日もカレーを食べようとしていたみたいだけど、そんなにカレーが好きなわけ?」

 

はいッ! 大好きですッ!

 

躊躇なく答えたつもりが、まるで片思いのあの子へ告白するみたいなヘンテコに裏がった声になってしまう。

 

やべえ、何やってんだ、僕。

マリアさんも目を丸くしているじゃないか。

すると、マリアさんはクスクスと笑い出した。

 

「ひょっとして、緊張してる?」

 

あったり前じゃないですか!

 

自分でも素っ頓狂な声が出たのが分かる。

 

―――マリア・カデンツァヴナ・イヴ。

わずか三か月でヒットチャートを席巻した世界の歌姫。

武装組織フィーネを呼称し、全世界へ宣戦布告するもそれは擬態で、その正体は国連直属のスペシャルエージェント。

実態はアンダーカバーとしてフィーネへと潜入し、その野望を挫いて世界を救った。

~僕的wiki調べより。

 

ノイズを侍らせたライブ中継は、当時の僕も見ていたけど、すごい衝撃的でした。

あと、なんか世界中継で歌いながら戦ってましたけど、あれも凄かったです。

 

僕がそういうと、マリアさんは何だか微妙すぎる表情。

 

「ま、まあ、アレはね。色々と昔のことでね…」

 

御冷の氷を手に持ったカップの中でくるくる回して言葉を濁す姿に、僕はピンとくる。

 

…ああ、そうか。いわゆるそれも国家機密ってやつですね。

 

そんな彼女の胸元には、昨日僕が拾って上げたペンダントがぶら下がっていた。

なんとなく因縁めいたものを感じて、僕は話題を変えることにする。

 

そういえば、翼さんは元気なんですか?

 

かくいう僕はツヴァイウイングのファンだった。

マリアさんと風鳴翼のユニットもいいけれど、聞き味はやっぱり全然違う。

 

「あの子なら元気よ。そのうち、またライブでもするんじゃない?」

 

へえ…。良かったです。

 

去年の年末のライブ会場の大惨劇は、天羽奏の時の規模を超えていた。

抽選漏れで僕はあの場へ行けなかったのは、運が悪くて運が良かったのか。

風鳴翼もショックだったようで、あれから何の活動情報も下りてきてない。

けど、このまま引退とかじゃないのはファンの僕にとっては朗報だ。

 

マリアさんも、またデュエットしたり?

 

「うーん…」

 

長い人差し指をアゴにつけて、マリアさんは考えこんでいる。

 

「わたし的にも色々と唄ったりはしたいんだけどね…」

 

なにやら込み入った事情がおありの様子。

 

「とりあえず、今はまだ充電中かな」

 

そういってふっと笑う様子に、僕も一つ納得する。

マリアさんの来歴を見る限り、それこそ分刻みでスケジュールが詰まってそうなものだ。

それがこんなのんびり僕なんかとデートできるってことは、つまりはそういうことなのだろう。

 

「お待たせしました」

 

丁度料理が運ばれてきた。

前菜のサラダ、スープから、メインは鎌倉パスタのボロネーゼ。オプションでフォカッチャもついてきていた。

男である僕でも結構なボリュームだと思うけれど、マリアさんは平然とした顔で平らげていく。

食べながらの話題は主に音楽のこと。あの曲が良かったとか他愛もないことだけどね。

デザートのシャーベットも食べ終えて席を立つ。

慌てて僕が財布を取りだそうとすると、マリアさんは颯爽とカードで支払った。

 

「ここはお姉さんに任せておきなさい」

 

にっこりとされ、素直にありがとうございますと礼を言う。

車に乗り込むと、エンジンキーを回しながらマリアさんが上機嫌で言った。

 

「やっぱり、本場の鎌倉パスタは美味しいわね」

 

…え?

 

「? どうかした?」

 

あの…鎌倉パスタって、別に鎌倉発祥ってわけじゃないんですよ? 箸でも食べられるパスタってことで、店の内装を和風にしたコンセプトとして、鎌倉って単語がついただけで…。

 

「し、知ってるわよ、もちろん!? い、今のはね、この店がその鎌倉パスタの分店って意味でいったの!」

 

思いきり内装はイタリアンだったような気がするんですけど…。

すみません、マリアさんがそういうならそうなんでしょうね。失礼しました。

マリアさんがそんなこと知らないワケないですもんね。

 

「う、うん。分かればよろしい」

 

そういって、車は猛烈なホイルスピン。 

都内へ戻るのかと思ったら、市内を少し走らせて車は停まった。

停まった先は、良く見るチェーンのカラオケ店だった。

 

「さっき色々と話したから、唄いたい気分なんだけど、どう?」

 

そんなの断れるわけないじゃないですか!

 

さすがに会員証は僕が作り、部屋を借りて、たっぷり3時間。

いやもう本当、夢のような時間でしたよ。

 

「ほら、ハルト、聞いてばかりいないで一緒にデュエットしましょう!」

 

カラオケの個室で、世界一の歌を独占して聞ける幸福。

耳が冗談抜きでトロケそうだ。

おまけに僕のリクエストにも次々と応えてくるマリアさんに、贅沢すぎて死にそうになる。

…この映像をライブ配信したら、どれだけバズるだろう? なんて考えたのは、一瞬だけだぞ? 本当だぞ?

 

そんな至福の時間も過ぎ去り、帰りの車の中。

 

いや~凄かったです。そして喉が痛い…。

 

「あれくらいで? だらしないわねえ」

 

あれだけ唄ったのにマリアさんは平然としている。さすがトップアーティスト。鍛え方が違うのだろう。

 

…今日は、本当に楽しかったです。

 

都内へ入ったところで、僕は礼を言った。

 

こんな高校生に付き合ってくれて、ありがとうございました…。

 

―――マリアさんと一緒に美味しいもの食べて、かぶりつきで唄まで聞かせてもらったドライブデート。

こんなの一生の思い出ですよ。友達にも自慢できますよ。いや、コッカキミツとかでしていいのか分からないけど。

だから、ありがとうございました。

昨日の埋め合わせだったら、もう十分過ぎます。

これこそが、僕の青春の1ページとして永遠に輝き続けるでしょう―――。

 

そんな風に言葉に出来ない感慨もたっぷりと詰めて、僕は礼を言った。

そのつもりだった。

 

「ええ。わたしも楽しかったわ」

 

マリアさんもそう返してくれた。社交辞令でも嬉しい。

 

「それで―――」

 

はい?

 

「次のデートは、ハルトが企画してちょうだいね」

 

………はい? え、その、あの。

 

「どうしたの?」

 

次って、あるんですか?

 

「次も何も、わたしとあなたは恋人同士よね?」

 

実に不思議そうにマリアさんは僕を見返してくる。

悪戯っぽい表情なのに、その眼差しはとっても色っぽくて。

 

頭の中が熱くなる。胸はまたドキドキとしてきた。

でも―――背中に冷たい汗が滲んできたのは何故なんだぜ?

 

 

 

 

 

 



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3話

『恋愛すると、世界が変わって見えるという。それは真実だ。

 そして、相手次第によっては、周囲の世界まで変わってくる』

 

阿部ハルト 2029年4月3日 - 

 

…などとアホな格言っぽいものを打ち立てつつ、僕は教室の自席で頬杖をつく。

しかし、現在の状況を見る限り、あながちアホとは言えないんだよな、これが。

 

先日の夕方、僕がマリアさんの運転する車に掻っ攫われた現場は、結構な生徒たちに目撃されていたようだ。

その中には斉藤を始め、クラスメートの連中もいたわけでして。

したらスマホに来るわ来るわのメッセージの嵐。

そりゃ今は学校も緊急連絡網代わりに通信アプリを使ってますからね? クラス全員、それぞれにメッセージのやりとりは出来るわけですよ。

だからって、普段ろくろく会話もしたこともない連中からまで好奇心剥き出しの質問メッセ―ジが来ていたのには、閉口するしかありませんて。

ほんと、マリアさんと一緒にいる間はスマホの電源を切っておいて正解だったぜ。

 

結果として、僕はその質問に対し一切返信していなかった。

一斉返信機能もあるから簡単だけど、したらしたで、どうせ更に突っ込んだ質問をされるに決まっている。

放っておいたって明日の学校でも訊かれるんだろうから、その時みんなまとめてでいいや。

そう覚悟して登校したんですよ、実際。

だけど、クラスへ入って席についても、みんなしてこっちを見ながらヒソヒソ話をしているだけで誰も話しかけて来やしねえ。

あ、これはあれか。誰が改めて質問するのかって牽制しあっているのかな? おまえが行けよ、いいやお前が聞いてこい、ってな感じ?

しっかしまあ、こんな遠巻きにされて眺められてると、動物園の動物の気持ちが分かる気がする。…僕は珍獣か何かか?

そんな中、ようやく一人が檻の前に、もとい僕の前に出てきた。おそるおそる近づいてくるのはなんと小金井すみれ。

 

「あの、阿部くん。昨日の一緒に車に乗っていた女の人って…?」

 

…ん。僕の彼女だよ?

 

―――前後に、多分、おそらく、って形容詞がつくだろうけどさ。

 

おおおぅ、とどよめきがする。

小金井も驚いた顔をして第二問。

 

「あの、なんかマリア・カデンツァヴナ・イヴに似ていたって噂もあるんだけど…」

 

あー、そりゃ見られているよなー。

これは素直に肯定していいもんなんだろうか?

でも、そうなると、彼女との馴れ初めというか、コッカキミツの件まで話がいっちゃうかも知れない。

あのペンダントとかに関しては、決して口外しないとの誓約書を、僕はしこたま書かされている。

 

あはは、他人の空似じゃないかなあ?

 

「そ、そうなんだ」

 

小金井は、ほっとしたようなそうでもないような、微妙な表情を浮かべている。

これ以上質問を重ねられるのはコッカキミツ的にもまずい気がした。

そういう意味も込めて、僕は小金井に逆質問。

 

あのさ。女の人って、デートでどんなことをしてもらうと嬉しいもんなのかな?

 

「えええッ!? そ、そんなの知らないよッ!」

 

頼むよ。参考までにでいいから。

 

結構必死な僕は、実は先日かなりの寝不足。

マリアさんの生歌が耳に反響してってだけなら幸福だったんだけどね。

問題は別れ際にマリアさんから出された宿題です。

今度のデートは僕のプランニングって、かなりプレッシャーですよ?

 

「だ、だったら、やっぱりプレゼントとか…?」

 

プレセント、ねぇ。

 

お金が全くないワケじゃあない。

でも、僕の財力というか金銭感覚からして、マリアさんとは次元が異なると思う。

 

「気持ちが籠っていれば、大丈夫じゃないかな?」

 

小金井はそういってくれたけど、しょせん僕らが高校生だから通用するロジックだ。

社会人のマリアさんを満足させるには、それなりに高級なものとかじゃないと難しいんじゃないかなー。

 

他には?

 

「う~ん…。美味しいお店とか、楽しい遊び場とか、綺麗な夜景、とか?」

 

ベタだけど、アリな気がする。

問題は、そこに行くまでの移動手段が僕には乏しいこと。

マリアさんは車を持っているみたいだけど、そこが彼女頼みになるのはさすがに色々と違うだろう。

 

…ん、分かった。ありがとう。参考になったよ。

 

「う、うん」

 

小金井が引き下がって、あとは質問してくる連中は誰もいなかった。

昼休み、一人自席で自作の弁当を食べる。

な、慣れてるもん、ぼっち飯なんて。いつものことだもん。

 

そういや、一番うるさく質問してきそうな斉藤はどうしたんだろう? と思っていたら、なんだか寝込んだとかで今日は欠席だそう。珍しいこともあるもんだ。

 

そんなこんなで放課後。

自宅のマンションへ帰ると、入口付近にも珍しい光景。

 

黒髪金髪の可愛らしい女の子の二人組。

着ている制服は、私立リディアン音楽院だ。

スカート丈は短く、夏服はノースリーブという攻めているビジュアルは、その筋の人間には非常に人気があるとか。

 

誰かマンションの友達でも訪ねてきたのかな?

二人を横目に、エントランスの電気ロックを解除して中へと入る。

例の二人組も一緒に入ってきたけど、特に気にしない。

エレベーターで14階(僕の家のあるフロアだ)で降りると、彼女たちも降りてくる。

家の前で足を止め、ドアを開けようとしたら、いきなり名前を呼ばれた。

 

「…阿部ハルト、デスか?」

 

はい? ま、まあ、そうだけど?

 

「アンタがマリアの『苦いワカメ』ってやつなんデスね!?」

 

は? 何いってんの君?

 

「うん、切ちゃん。それをいうなら『若いツバメ』だと思うんだ」

 

なんか黒髪の子が金髪の子を宥めている。

 

「細かいことはどうでもいいデスよ、調ぇ! 今は目の前のコイツを…ッ!」

 

ってゆーか、君たち、誰? 

 

「問われて名乗るもおこがましいデスが! 私立リディアン音楽院二回生、暁切歌たあ、アタシのことデス!」

 

ああ、自己紹介どーもどーも。

で、そっちの君は?

 

「…同じく、リディアン二回生の月読調です…」

 

その月読調ちゃんとやらは、なんかコメカミを押さえていた。

 

で? 二人はマリアさんの知り合いなの?

 

「知り合いも何も! マリアはアタシたちの大切な家族デスッ!」

 

へえ、そうなんだ。

 

マジマジと二人を見つめてしまう。悪いけど、あまりマリアさんに似てない。

もし妹だとしたら、ずいぶんと毛色が違いすぎない? ま、僕はマリアさんの家族構成なんて知らないけどさ。

 

「阿部ハルト! アンタがマリアを油かして! じゃなくて、タワシかして! でもなくて、ダウルダブラ!?」

 

「うん、『たぶらかして』って言いたいんだよね、切ちゃんは」

 

「そうそれデース!」

 

…なんだろね、このミニコント?

 

あのさあ、廊下だと迷惑だから、詳しい話は家に入ってにしてくんない?

お茶くらいなら出すよ?

 

 

 

 

 

 

意外と素直に暁切歌と月読調の両名は僕の家へと上がってくれた。

玄関先できちんと靴を揃えているあたり好感度アップです。

リビングのテーブル前に座ってキョロキョロしている二人にコーヒーを淹れてあげた。インスタントだけど。

 

砂糖、シロップ、ミルクはお好みでどーぞ。

 

「あ、ありがとうございます」

 

ペコリと頭を下げる月読調―――もう調ちゃんと呼んじゃえ―――は可愛い。礼儀正しくて可愛い。

一方、暁切歌は―――ああ、こっちは暁でいいや―――は、あくまで挑発的な目で僕を見てくる。

 

「お茶菓子も出せないんデスかね、この家は?」

 

「切ちゃん、さすがに失礼だよ」

 

調ちゃんが宥めていた。

僕は首を捻る。

お茶菓子ねえ。あんまりお菓子系統は備蓄しない主義なんだよなあ。

だったら、他に茶請けになりそうなものなんて…あ、アレならあるか。

 

ねえ? なんなら君たち、カレー、食べない?

 

そういうと、二人とも目を丸くしている。

 

「お客にインスタントのカレーを食べさせるつもりデスかッ!?」

 

喰ってかかってくる暁。いや、それ以前に客だったらそんなクレームつけてこないだろーよ。

 

「…もしかして、今から作るんですか?」

 

と調ちゃん。

 

大丈夫、作ってある。っていうか、多分、いい感じに仕上がっているはずだよ。

 

「?」

 

首を捻る二人に、僕は置いてあった鍋をテーブルの上に引っ張り出す。

蓋を開ければ、中ではいい具合にカレーが出来上がっている。

 

これぞ、我が家の秘密兵器、真空保温調理器。

朝に材料を切ってひと煮立ちさせ、あとはルウと一緒に放り込んでおくだけで、余熱でじわじわと仕上げてしまう逸品よ! 煮込まなくてもいいので手間いらずだぜ!

 

今日の夕食にしようと思っていたので、実にちょうどいい感じで美味そうだ。

きゅう、と鳴ったのは、きっと暁の腹の音。

 

どう? 美味そうでしょ?

 

「で、デース! でも、そんなお茶うけにカレーだなんて…」

 

食べないの? 別にいいけど。僕はお腹へったから食べちゃお。

 

炊飯ジャーは朝にたっぷり5合炊き。昼の弁当に使ってもまだまだあるので、存分にカレーを楽しめるぞー。

 

「私はいただきます」

 

お、調ちゃん、食べる? 食べちゃう? ご飯の上にカレーをかける派? それとも半分このハーフスタイル? はい、どーぞ。

 

「ア、アタシも食べるデスよ! こんなカレーを前に我慢なんて出来ないデス!」

 

そうだろうそうだろう。

カレーは素敵で無敵だからね?

 

「カレーを食べたいって想いは、力づくで押し通すしかないじゃないデスか…ッ!」

 

うん、何いっているかわかんないけど、はい、どーぞ。

 

「頂きますデース!」

 

「お肉がすごいトロトロで美味しい…」

 

でしょ? この調理器を使うと、じっくりと火が通るから、角煮とかも最高よ?

僕は角煮作るくらいならポークカレー作るけどね!!

 

それにしても、カレーは美味しい。そして凄い。

調ちゃんに暁のやつも、すごい笑顔で食べているじゃあないか。

 

「…お代わり、いいデスか?」

 

はい、いいよ。食べて食べて。

 

三人で食べまくった結果、鍋いっぱいのカレーとご飯は綺麗さっぱり無くなりましたとさ。

 

「ぷはー、美味しかったデス! 満腹デース!」

 

満足気に床にひっくり返る暁。

 

「御馳走さまでした」

 

上品そうにコーヒーを啜る調ちゃんとは好対照だ。

 

そんで? 僕がマリアさんをたぶらかしているとかって話は?

 

食べ終えた皿を重ねながら尋ねる。

 

「あ、それはもういいデース」

 

「いいの、切ちゃん?」

 

「こんな美味しいカレーをご馳走してくれる人が悪い人なわけがないデスよ」

 

「まるでGlorious Breakみたいな手首の回転ぶりだね、切ちゃん」

 

訳の分からないこといっている調ちゃんの横で、僕は暁とがっちりと握手を交わす。

 

そうか、分かってくれたか。カレーの前には言葉はいらないよな。ビバ、カレー!

 

「デース!」

 

それはともかく、君たちに訊きたいことがあるんだけど、いいかな?

 

 

 

 

 

 

 

お代わりのコーヒーを淹れ直し、改めて質問すると、二人は揃って首を傾げてくれた。

 

「マリアの好きなもの、デスか?」

 

いや、ものじゃなくていいんだよ? 好きなコトとかでも。

 

「っていわれると、なんだろ…」

 

調ちゃんは考え込んでいる。

 

「マリアは、特に食べ物の好き嫌いもないデスしね?」

 

「それに、大概のことは全部一人で出来ちゃうし…」

 

うーん、情報なしか、困ったな。

次のデートは、僕が企画しなきゃなんないんだよ。

 

正直に打ち明けると、思いのほかきっちり頭を捻ってくる二人がいる。

あれ? この子たちは基本良い子なんじゃ?

 

「ハルトさんは、どんなことを考えているんですか?」

 

いや、調ちゃん、僕とタメでしょ? ハルトでいいよ。

 

「じゃあ、私も調でいいです」

 

「あ、アタシも切歌って呼んでいいデスよ!」

 

はいはい、じゃあ、調に切歌って呼ぶね。

話を戻すけど、そうだなあ、やっぱり高級レストランかなあって考えているよ。

 

第一に、マリアさんは有名人だ。

先日は鎌倉まで遠出したから知り合いには見られなかったけど、近場の手頃なレストランとかじゃあ見つかる可能性が高い。

近場でも、高校生風情に不釣り合いなほどの高級レストランであれば、目撃される可能性も下げられるんじゃないかな?

 

「でも、お金はあるんデスか?」

 

「高級レストランだと、ドレスコードとかもあると思うんだけど」

 

お金は、無理すれば都合できなくもない。

でも、ドレスコードってのは盲点だ。礼服なんか持ってない。まさか学生服で行くわけにはいかないだろうし。

 

「それに、マリアも結構高級なお店は行き慣れていると思うの」

 

調の言葉に、僕は考え込まざるを得ない。

マリアさんは世界の歌姫だ。

本来なら僕と住む世界からして違うはず。

それこそセレブ御用達の店なんかで食事する機会は星の数ほどあるはずだ。

どだい高校生が背伸びしても、そんな経験に勝る感動を提供できるだろうか?

 

「だったら、ハルトが一番得意なもので勝負するしかないんじゃないかな?」

 

…僕の一番得意なもの? って、いわれても。

勉強も運動神経もそこそこの、絵にかいたような平均スペックの持ち主ですよ、僕は?

 

「男は度胸、女は愛嬌、デスよ!」

 

うん、切歌も、意味が分からないけどありがとう。

 

しかし、考えれば考えるほど、マリアさんと僕の棲息するフィールドは違いすぎる。

先日のデートは、いわば僕のフィールドへマリアさんが降りてきてくれたみたいなもので。

じゃあ、今度は僕がマリアさんのフィールドへ?

でも、調や切歌が指摘してくれたみたいに、ちょっとそれは無理そうだ。

 

結論として、やっぱり僕のフィールドで勝負するしかないと思うんだけど。

周囲にマリアさんがマリアさんとバレたら、色々と面倒ってレベルじゃ済まない気がする…。

 

そんなアンビバレンツすぎる状況に、果たして打開策はあるのか?

使った食器を洗いながら考え続ける。

ああ、明日のご飯とカレーも仕込まないと。

 

…ん?

 

「どうしたの、ハルト?」

 

いや、ありがとう調。おかげで思いつけたよ。

 

「え?」

 

やっぱり、僕は僕の得意分野で勝負するしかないよな。

 

「何いってるんデスか、ハルトぉ?」

 

切歌の声を僕は聞いていなかった。

ただ、自宅のキッチンを見ながら頭をひたすら回していた。

 

…うん、行ける。きっと行けるさ。

 

 



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4話

そんなこんなで週末は土曜日。

僕はマリアさんを自宅へと招待した。

 

「二回目のデートで、まさか家に誘われるとはね…」

 

なんだかマリアさんは苦笑い。

 

「言っておくけど、不埒なこととか考えてないでしょうね?」

 

そんな滅相もない! 取りあえず上がって下さいよ。

 

「では、お邪魔しましょう」

 

マリアさんは真っ白なブーツを脱いで家に入ってきた。

ハンガーを渡すと、それにコートを脱いで掛けている。

…改めてみると、モデル顔負けの凄いプロポーションだ。

薄手のセーター生地は胸の部分が素晴らしく盛り上がっていて―――僕は慌てて視線を逸らして咳払い。

 

ご、ごほん。今日は、マリアさんにご馳走しようと思って準備しました。

 

「あら、そうなの? …ひょっとして、カレーかしら?」

 

あ、お見通しですか。

 

「切歌と調が褒めていたわ。その節は、ご馳走さまね」

 

あの二人、マリアさんと家族だと言っていただけに、色々と情報は共有しているらしい。

そんな氏も素性も違う君たちがどういう経緯で一緒の家族になったの? って尋ねたら、調も切歌も何だか困った顔になって言葉を濁していた。

たぶん国家機密に抵触するんだな。

ピンときた僕は、それ以上追及しなかったけれど。

 

「それで? どんなカレーをご馳走してくれるつもりなのかしら?」

 

マリアさんが望むカレーです。

 

「…わたしの?」

 

はい。なんでも大丈夫ですよ、多分。

 

冷蔵庫には考えうる限りの野菜を取りそろえ、肉だって牛、豚、鳥の三種をそれぞれ部位ごと。

各種スパイスよし。ご飯も普通の炊き立てからサフランライスまで揃えている。パンもナンも買ってきていた。

 

結構細かいところまでオーダーしても大丈夫ですよ。

 

「とは言っても。わたし、それほどカレーは詳しくないのよね」

 

だったら、ふわっとした感じでも大丈夫です。こんなの食べたいかなーって感じの。

 

「そうね…」

 

人差し指を形の良いアゴに添えて考えることしばし。

 

「それじゃあビーフカレーをお願いしようかしら。甘めで、うんとコクのあるヤツ」

 

承りました。

 

恭しく頷き、僕はさっそく調理を開始。

 

あ、牛肉は、バラ肉とブロック肉、どちらがお好みで?

 

「お任せするわ」

 

なら、半分ずつ入れてみましょうか。

 

牛肉を室温に戻しつつ、使わない豚肉は冷凍庫にしまっちゃいましょうね。

入れ違いで冷凍庫から取り出したのは玉ねぎ。

既に細かく切ってありますので、マリアさんの前でボロボロ涙を零すという無様な格好を晒さずにすみます。

これを熱したフライパンで、バターで炒めていきましょう。

冷凍したのを使うと、生より凄い湯気が出るけれど、ほっこりと甘い匂いがもう食欲を刺激してきて、正直たまらんです。

 

「あら、美味しそうな匂いね」

 

マ、マリアさん? 座って待ってて下さいよ。

 

「ただ待っているだけじゃ退屈なんだもの。それに、今日はデートってこと忘れてない?」

 

え?

 

「わたしに手伝えることはないかしら?」

 

え、えーと、それじゃあ、まずはエプロンをどうぞ。

 

予備のエプロンを手渡すと、颯爽と装着するマリアさん。

…なんだろう、素敵なんだけど、似合いすぎてお母さん感が半端ねえ。

 

じゃ、じゃあ、すみません。マッシュルームの石突きを落として、お好みでニンニクとショウガも切っておいてもらっていいですか? 

 

「OK、分かったわ」

 

肉叩きで牛肉を伸ばしている僕の横で、マリアさんの包丁を操る手際は素晴らしい。

ますますオカン臭が…いやいや、そういや調が「マリアは大抵のことは出来る」って言ってたっけ。

 

「これでいいかしら?」

 

は、はい、大丈夫です!

 

―――やっぱり、マリアさんと顔を合わせるのは緊張する。

世界一の歌姫。誰もが知っているスーパースター。

 

そんなテレビの画面越しに拝むしかない人がすぐ傍にいる。

同じ空間の空気を吸える。

僕の声が届き、彼女も僕に向けて言葉を返してくれる。

おまけに一緒に料理を作っているなんて、これはもう奇跡としか言いようがないんじゃないか?

 

「…ハルト?」

 

いけない、ぼーっとしてた。

 

え、えーと、それじゃスパイスを合わせますね。

 

慌てて言うと、マリアさんは目を丸くした。

 

「え? 市販のカレー粉とか使うんじゃないの?」

 

普段はもっぱら市販のルウですよ。それでも十分美味しいですから。けど、今日は特別ってことで。

 

「…そうなんだ」

 

マリアさんが軽く俯いている。どうしたんだろう?

気にはなったけど、僕は小箱から取り出したホールスパイスを鍋へと放り込む。

ぶっちゃけ、この時点で、人によっては薬品臭いとか思うかも知れない。

鍋にはひたひたのサラダ油を入れ、熱くなったらマリアさんの切ってくれたマッシュルームとニンニク、ショウガも入れて炒めていく。

 

今日はカルダモンを少し多めにしてみますね。

 

「え、ええ…」

 

マリアさんの了解を得て多めに入れたカルダモンが、太く膨れていく。

 

すみません、そっちのフライパンの玉ねぎをとってもらえます?

 

受け取ったフライパンから玉ねぎを投入。

一緒になじませるように炒めると、ホールスパイスの青臭い匂いが消えていく。

よし、そこに百%のトマトジュースをドボドボと。ほんとはトマトピューレがいいんだけどね。

水気がなくなるまでしっかり炒めて弱火に戻し、ここでパウダースパイスの投入です。

ターメリック、ガラムマサラ、クミン、コリアンダー。

これを小匙でだいたいの目分量。ゆっくりと炒めていけば、みなさんお馴染みのカレーの匂いがしてくる。

さらにここで牛肉を投入。

じっくりとスパイスと混ぜ合わせていく。

 

あとはもう少し色々と入れて煮込んでいけば完成ですかね?

 

「へえ。意外と簡単なのね」

 

あ、すみません、マリアさん。冷蔵庫にチキンブイヨンがあるんで出しておいてもらえますか?

 

「OK」

 

僕はリビングのサイドボードを漁る。あったあった、赤ワインがあった。

コルク抜きで栓を抜き、鍋へ中身を心持ちどぼどぼっと。

今日はコクのあるカレーってことでしたからね。

 

「ハルト、それ、ラ・キュベ・ミティークじゃないの?」

 

へ? 有名な銘柄なんですか? お袋が結構飲まないで溜めこんでいるから、時々勝手に使っているんですけど。

 

「これ自体は結構出回ってて、そこそこの値段で美味しい銘柄よ」

 

へえ…。

 

「でも、これはその銘柄のスペシャル・エディションね。4000円くらいはするんじゃない?」

 

げ。

 

お袋ったら、適当に瓶を積んで埃かぶせてるんだもん。僕は悪くねえ!

まあ、開けちゃったものは仕方ないよなー。

 

「ところで、この瓶に残ったぶんはどうするつもり?」

 

そうですねー、明日以降のカレー作りで使いましょうかね。

 

「もしよければ、わたしが頂いていいかしら?」

 

それは構わないですけど…。マリアさんはここまで車で来たんじゃ?

 

「電車を使って、最寄駅から歩いてきたわよ」

 

マジっすか? それって周囲にバレて騒がれたりしませんでしか?

 

「気配を殺して小さくなってれば、意外と人目にはつかないものよ?」

 

そういうもんですか。

 

そういえば、駅ビル前の待ち合わせで目の前を通られても、僕は一目でマリアさんで気づかなかったなあ。

そんなことを考えていると、マリアさんの視線が食器棚あたりを彷徨っているのに気づく。

 

あ、はいはい、ワイングラスはこっちです。

 

硝子棚ではなく、引出しに仕舞ってあったワイングラスを渡す。

 

それじゃ、あとは僕が煮込んでいるんで、そちらでワインを飲んでいてください。

 

「うふ、ありがと」

 

灰汁を取りながら鍋を煮る。赤ワインのアルコール臭が消えたところでチキンブイヨンを投入。

あとは更に灰汁を取りながら煮込んでいけば、ほぼほぼ完成だ。

そうだ、チキンと言えば。

 

マリアさん、ちょっと待っていて下さいね。

 

さっそくワインを口に運ぼうとしていたマリアさんにそう告げて、僕は急いで冷蔵庫からタッパーを取りだす。

中身はリクエストがチキンカレーって時に使おうと思っていた鳥もも肉。軽くスパイスも混ぜたヨーグルトに馴染ませておいた。

 

いま、おつまみを作りますから。

 

表面のヨーグルトを拭って、塩コショウと残っていたパウダースパイスを擦り込む。

それからブツ切りにして、オリーブオイルを引いたフライパンで焦げ目がつくまで一気に焼き上げた。

火を止めて、あとは5分くらい余熱で蒸し焼き。

その間に、カレーばかりだとバランスが悪いので、レタスをむしり、トマトをサイコロに切ってサラダも作る。

 

はい、マリアさん。なんちゃってタンドリーチキンとサラダです。ドレッシングはお好みで。

 

ひゅー♪ っとマリアさんは口笛を吹いてくれた。

 

「悪いわね。わたしばかり飲んじゃって」

 

どうせ僕は飲めませんから、ごゆっくり。

 

笑って僕はレンジの前に戻る。

鍋の按配を見ながら、マリアさんの様子も伺う。

チキンを上品そうに齧り、ゆっくりとワイングラスを傾けている。

嬉しそうな表情を浮かべているのにホッとして、同時に、何をしても絵になる人だなと思う。

本当に、綺麗だ。本当に…。

って、やばいやばい、鍋が煮詰まるところだったぜ。

慌ててガス台からおろし、仕上げにバターを入れて混ぜ溶かす。

 

よし、出来ましたよ、マリアさんッ!

 

スプーンと皿を取りだしながら尋ねた。

 

マリアさんは普通のご飯にします? それともサフランライスで?

 

「まずは普通のでお願いするわ」

 

お、お代わりする気満々ですね。

たくさん食べてもらえれば僕も嬉しいです。

 

大皿二つにそれぞれの分をたっぷりよそい、お盆に乗せてリビングのテーブルまで運ぶ。

僕の分のサラダ、それと二つのコップ。冷蔵庫から水の入ったペットボトルを持ってくる。

おっと、追いがけの調味料も準備して、これで夕食は完成だ。

 

「うわあ、美味しそうね」

 

感嘆の声を上げてくれるマリアさん。

 

ご期待に添えるといいんですけど…。

 

一応謙遜して見せたけど、僕的には会心の出来だった。匂いだけで分かる。

 

「それじゃあ、頂きます」

 

頂きます。

 

二人して両手を合わせスプーンで頬張る。

熱く、甘い風味が口の中いっぱいに広がる。噛めばそこに牛肉の肉汁と、ご飯のまろやかな甘さまで加わり、陶然となってしまう。様々なスパイスが織りなす後を引く辛さも、これぞカレーって感じで最高だ。

うわあ、口の中が桃源郷や~。

 

「本当、美味しいわ。今まで食べたことがないくらい…」

 

しみじみとマリアさんが言う。今まで食べたことがないってのは大袈裟だろうけど、笑顔なのが嬉しい。

「ワインにも合うわね」とたちまち平らげてくれたマリアさんに、僕も同じタイミングでお代わりだ。

二杯目はサフランライスで、気持ち小盛りにして。

 

「サフランライスと組みあわせると、また食べ味が違うのね」

 

よければ、追いがけで味の調整もどうぞ。

 

僕はテーブルの上を指し示す。

ソースに醤油、ケチャップ、マヨネーズも準備している。

物足りないと思ったとき、それらを少しずつ混ぜて楽しむのが僕のジャスティスだ。

 

「ふーん…。ハルトのおススメはどれ?」

 

僕のおススメは、これです。

 

それを指さすと、マリアさんは驚きの声を上げる。

 

「なぜここに、胃薬ッ!?」

 

え? 知らないんですか? 胃薬の生薬って、カレーのパウダーと大分かぶっているんですよ?

 

「そ、そうなの? でも、だからって、まさかかけて食べるわけじゃないわよね?」

 

普通にかけて食べますよ、もちろん。

 

「…………」

 

まあ、騙されたと思ってかけてみてください。さすがにかけてルウと少し混ぜないとメンソール臭いから注意です。

 

「…………」

 

…無理しなくてもいいですよ?

 

「ま、招かれた以上、ホストに奨められて断るのはマナー違反よねッ」

 

そういって、胃薬の封を切るマリアさん。

ざざざーっと皿の縁へ顆粒を積み上げ、ぐるぐるとスプーンでルウと一緒にじっくりとかき回している。

それから、意を決したようにスプーンを頬張ると、

 

「……バカなッ!? 確かに味に深みが増しているッ!?」

 

叫ぶような声を出すマリアさん。

 

「しかも美味しいッ!?」

 

はい、名言頂きましたー。

…いや、何が名言なのか僕もよくわかんないけどさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すっかりご馳走になっちゃたわね…」

 

カレーを平らげ、食器は流しへ運び、食後のコーヒーでブレイクタイム。

 

あ、そういえば、カレーにコーヒーを入れてもコクが増して美味しいんですよ。

 

「本当にハルトはカレーが好きなのね」

 

ええ。自分でも信じられないくらい。

 

「どうしてそんなに好きなの?」

 

問われて考え込む。

好きなものは好きじゃあ、駄目なのかな?

常々そう思っている僕だけど、ソファーに座り、コーヒーカップに両手を添えてこちらを見てくるマリアさんに、そんなありきたりな答えを口にしたくなかった。

彼女が失望するようなことは言いたくない。

ようはカッコつけたいんだよな、僕。

だからといって何か気の利いたことなんて…。

 

与えられた短い時間で散々悩んでこねくり返して。

僕はゆっくりと答える。

 

カレーを好きな人に悪い人はいない、なんてことは言えません。

 

「うん」

 

でも、カレーは、どんな悪い人でも笑顔にすることが出来ると思うんですよ。

 

「…ぷっ」

 

ぷ?

 

「ふ、ふふふふっ、うふふっ、ごめんなさい」

 

マリアさんは笑っていた。

 

…そんなおかしなこといったのかな、僕?

 

少し憮然としていると、笑いを治めたらしいマリアさんの優しい声。

 

「いいえ、ハルト、あなたの言ったことは真理よ。確かにあなたのカレーには、悪人だって笑顔にしてしまう素敵な力があるわ」

 

…そうでしょうか?

 

「本当よ。現に、わたしだって笑ってるじゃない」

 

え? で、でも、マリアさんは悪人ってわけじゃあ…。

 

「あら、もう9時近いわね。そろそろお暇させてもらうわ」

 

スクッと立ったマリアさんは掛けてあったコートを掴んでいる。

 

あ、なら僕、駅まで送りますよ。

 

慌てて僕も立ち上がっている。

 

「大丈夫よ。そんな気を使わなくても」

 

いえ、僕もバイトがあるんで。

 

「今から?」

 

ええ、交通整理のですけどね。

 

目を丸くするマリアさんを横目に、僕も自室からジャケットを持ってくる。

 

だから気にしないで、一緒に駅まで行きましょうよ。

 

 

 

 

 

 

肩を並べてマンションを出る。

夜なので人通りも少なく、気を使う必要もない。

こうやって一緒に歩けるだけで、僕は天にも昇る夢心地だった。

なのに、隣を歩くマリアさんはなぜか神妙な表情。

…ひょっとして、今日のデートが上手くいってなかったらバイトを口実に逃げちゃおうなんて思っていたのを見透かされたのかな…?

そんな風に僕がドギマギしていると、出し抜けにマリアさんは言った。

 

「…もしかして、今日は余計なお金を使わせちゃったのかしら?」

 

え? どういう意味です。

 

「さっき、冷蔵庫の中をみたら、色々な食材が準備してあったじゃない? あれって、今日のわたしのリクエストに応えるために用意したんでしょう?」

 

ええ、その通りですけど。…ああ、残ったのもいずれカレーにして食べちゃうんでご心配なく。

 

「そうじゃないわ。今日のバイトは、わたしのためにお金を使っちゃったから…」

 

そこでようやく僕はマリアさんの言わんとしていることに気づく。

 

あ、今から行くバイトは、別にお金が足りないから行くわけじゃないですよ?

 

「…え?」

 

少し混乱気味のマリアさんに、僕はゆっくりと語りかける。

 

 

 

 

 

去年の年末の、世界中にでっかい塔みたいなのが生えた事件。

生えてきたときの衝撃は地震並みで、家や道路は倒壊するわ、ほぼ東京都全域に避難命令が出るわで散々だった。

気がついたらあの塔は全部綺麗さっぱり無くなっていたけど、もちろんそれでめでたしめでたしじゃあない。

インフラはほぼ壊滅状態で、僕たちは避難所でかなり不自由な生活を強いられた。

段階的に復旧がなされ、避難所の待遇も改善されては行ったけど、家に戻っていいという許可が出るまでは長い時間が必要だった。

そんな避難所暮らしも、ただ食って寝ているだけじゃない。

怪我をしていない男性、特に若者は、復旧作業に駆りだされていた。

僕と同年代の連中は、大抵が不平不満を鳴らすだけだったけれど、僕はその作業自体は嫌いじゃなかった。

ゴミを集め、瓦礫を取り除き、少しずつ復旧していく街を眺めるのが好きだった。

鉄とコンクリートの塊が取り除かれ、人の手によって街が生き返っていく過程は、雄々しく、そして誇らしく僕の目には映る。

やがて電気が通り、水が流れるようになったけれど、その影には不眠不休で作業をした人たちがいるはず。

そんな人たちを少しでも助けたいと思った。

誰もが前の暮らしに戻れるための手助けがしたいと思った。

だから、僕は。

 

 

 

 

 

 

一応、首都機能は回復したことになってますけど、一歩裏路地へ入れば、いまだに手付かずの場所があるんですよ。

 

「………」

 

だから僕は、少しでもそういう復興の手助けをしたいんです。まあ、学校も始まっちゃったから週末限定ですけど。でも、お金も貰えるから一石二鳥かなー、なんて…。

 

突然マリアさんが足を止めて、僕にむかって手を伸ばしてきた。

驚いて固まっていると、頬をそっと撫でられる。

 

「…あなたは、本当に」

 

…あの? マリアさん?

 

「ううん、なんでもないわ。なんでもない」

 

頬に柔らかい感触が残っている。

ぼーっとしている僕に、マリアさんが言う。

 

「少し冷えるわ。ハルト、コーヒーを一本奢ってくれない?」

 

は、はい!

 

もう駅前に来ていたので、自販機を探し回る必要はない。

適当に目についた自販機で、ホットコーヒーを一本買ってマリアさんに届ける。

 

お待たせしました。

 

「ありがとう」

 

ぷしっと蓋を開けて、マリアさんはコーヒーを一口。

それから僕を見て笑った。

 

「今日はとっても楽しかったわ。次のデートはわたしから連絡するわね?」

 

は、はいッ!

 

直立不動で返事をしてしまう僕に、マリアさんはコーヒーを手渡してくれた。

 

「それじゃあ、バイト頑張って」

 

いい置いて、キビキビとした足取りで行ってしまう。

その後ろ姿は、たちまち駅の中へと見えなくなった。

 

…次のデートの約束か。

つまりは今日のデートは合格点ってことだよね?

 

嬉しすぎて、心臓がタップダンスを踊っている。

テンションが上がりすぎて、その場で踊りだしたい気分だ。

いやあ、もう、今日のバイトも頑張るぞー!

 

結果として、僕は無意識で手にもったコーヒーを口に運んでいたらしい。

仄かなカレーの味に、熱い液体が喉を流れて行く。

しみじみとコーヒーのラベルを眺めながら、ようやく気付いた。

 

 

 

…これって間接キスじゃん!

 

 

 

 

 

 



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5話

学校から帰った僕は、すぐにシャワーを浴びる。

部屋着に着替えてリビングへ行くと、

 

ふぇっくしょん!

 

あー、さすがに10月も半ばになると夕方は冷えるなー。

そろそろシャワーだけじゃ限界で、お風呂張った方がいいかなー。掃除面倒くさいけど。

エアコンの暖房を入れるかどうかちょっと迷って、厚着して誤魔化すことにする。

さあて、今日の夕食はなんにしようかな~っと。

 

…ありゃ。

 

冷蔵庫の中のタッパーには、一皿分にも及ばない程度のカレー。おまけに具もほとんどなし。

ご飯も今朝は炊いてないから、冷ご飯が残っているだけ。

 

うーん、この組み合わせなら、カレーチャーハンが鉄板なんだろうけど…。

 

朝や昼はともかく、夕食ならもう少しガッツリ行きたい。

だとすると…。

 

よし!

 

フライパンに火を入れバターを溶かす。冷ご飯を投入して炒め、バターライスを作る。

これを耐熱皿に敷き詰めて、冷たいカレーを伸ばして載せる。

それだけじゃ寂しいので、ソーセージとミートボールをちょこちょこ。

最後にトロけるチーズをかけてオーブンで焼けば、簡単チーズカレードリアの出来上がり。

 

うん、焦げてぐつぐついうチーズが香ばしい。

では、頂きま~す…。

 

ピンポーン

 

…誰だろう?

 

インターホンに向かえば、元気いっぱいの声。

 

「ハルトぉ! 開けて下さいデス!」

 

「こんばんは」

 

切歌と調だ。どうしたんだろう?

まあ、いいや。

 

ほいほい、エントランスのロックは外したよ。僕の家まで上がってきてよ。

 

そして数分後、二人は僕の家のドアを叩く。

 

どうしたの、こんな時間に?

 

「えへへ、お裾分けデース!」

 

そういってビニール袋を手渡してくる切歌。

 

なにこれ? …生モツ?

 

「馴染みのお肉屋さんが、サービスだっていっぱいくれたの」

 

調はそういっているけど、牛の生モツって結構お高かったような。

つーか、女子高生が牛モツをどっさり持って歩いている絵面がすげえな…。

 

「これで牛モツカレーでも…ってすっごい良い匂いがするデース!」

 

止める間もなく僕の脇をすり抜けて玄関から上り込む切歌。

 

「あ、こら、切ちゃん!」

 

調と一緒に追いかければ、すでにリビングで切歌がカレードリアを頬張っているところ。

 

「うーん、熱々のチーズが堪らないデース!」

 

それ、僕の夕食なんだけどな…。

 

「ごめんなさい…」

 

いや、調が謝ってくれても。

 

「でも、量が足りないデス! お代わり希望デス!」

 

こっちは少しは遠慮って言葉を覚えようか。

 

調に「ステイ!」って切歌が正座させられている。

一応反省しているらしくシュンとしている切歌を横目に、僕はこの大量のモツの処遇を考えていた。

牛モツカレーも確かに美味しそうだけど、さすがにこの量を一人では持て余しそう。

 

…二人とも、夕食はまだなのかな?

 

「はい。切ちゃんは今食べちゃったけど」

 

それは分かったから。

 

答えつつ、僕は冷蔵庫を漁る。キャベツに、豚ニラカレー用のニラ、カレー炒め用のもやし。

うん、出来るじゃないか、大丈夫。

 

それじゃあ、今からモツ鍋作るから、一緒にどう?

 

「え?」

 

「いいんデスか!?」

 

もちろん。鍋はみんなで食べた方が美味しいからね。

 

 

 

 

 

鍋を用意し、キャベツを刻んでいると、切歌が面白そうにキッチンを見回している。

 

「へえ~。スパイスとかたくさんあるんデスね」

 

「そういえば、マリアが自分のためだけにオーダーしたカレーを作ってもらったって感激していたよ?」

 

調の言葉に、

 

ああ、そう。

 

ってクールに返したけど、内心ではガッツポーズを決めていた。一人だったら、間違いなく丸めた布団にジャーマンスープレックスをかけていただろう。

それは後で実行するとして、マリアさんがそんなこと言ってくれたなんて。

嬉しすぎて、指ごとニラを切り落としそうになった。危ない危ない。

 

「ん~。でも、ハルト。マリアのお好みでスパイスを調合したりして作るの、大変じゃないデスか?」

 

そりゃたしかに大変だよ? スパイスの組み合わせなんてほぼ無限だから市販のルウを使ったほうがハズレないんだ。

でも、独自の組み合わせとかが食材にピッタリハマった時が嬉しくてね。はっきりいって面倒くさいけど、その面倒くささが楽しいっていうか…。

 

「なら、アタシにもお好みでカレーを作ってくれないデスか?」

 

やだよ、面倒くさい。

 

「…………」

 

切歌が不機嫌そうに頬を膨らませている。

調が良く意味の分からないことを言ってなだめていた。

 

「切ちゃん、それはハルトの彼女にならなきゃ無理な相談だよ?」

 

「…アタシがねふぃりむだったら、ハルトを頭からバリバリ食べてるとこデスよ」

 

ところで、僕が作っているのは、もちろんただのモツ鍋じゃあない。

鍋の割り下は、濃いめの麺つゆ。そこに市販のカレールウを1/8ほど投入。

キャベツと牛モツの順で盛り付けて、天辺にはニラ。最後に唐辛子とカレーのスパイスを振って完成だ。

 

はい、特製カレーモツ鍋だよ~。

 

先ほどの不機嫌もどこへやら。ぐつぐつと煮える鍋に、ごくりと唾を飲み込む切歌。

 

「ハルト、どうせならマリアも呼んだら?」

 

調の提案に、僕は考え込む。

…ついこの間、自宅に呼んだばかりなのに?

でも、確かにこんな機会でもなけりゃ、呼べないよな。

つーか僕、マリアさんにこっちから電話したことないじゃん!

 

調の言うとおり、せっかくのチャンスだと思おう。

スマホを取りだした僕はおそるおそるマリアさんの番号を発信する。

掛けてから気づく。

いきなり掛けて大丈夫かな。忙しくないかな。断られたりしないかな…。

 

『…もしもし?』

 

あ、は、ハルトです! こんばんはッ!

 

『どうしたのいきなり? …でも、考えてみれば、あなたから電話もらうのはこれが初めてかしら?』

 

そ、そうですね! それでですが…。

 

テーブル前を見る。

調はじっと僕を見て、切歌は早く食わせろって感じの獣の目をしていた。

 

えーと、ですね。いま、僕の家に、調と切歌が来てまして…。

 

『二人が!? まさか夕ご飯をタカリに来たとか!?』

 

いえ、そうじゃなくて、たくさんの牛モツを差し入れしてくれましてね!

モツ鍋を作ったので、マリアさんも一緒にどうかと

 

そこまで言いかけたとき、切歌にスマホを奪われる。

 

「マリアも早く来ないと、ハルトも一緒に食べちゃうデスよ!?」

 

お、おい、こら! スマホ返せッ!

えーと、マリアさん? 牛モツはたくさんあるんで…。

 

『―――10分で行くわ』

 

ガチャッ

 

あれ? マリアさん? おーい、マリアさん!?

 

「マリアはなんていってました?」

 

…多分来るんじゃないかなあ?

 

それでもさすがに10分では来られないだろう。

分かった分かったよ、切歌。先に食べてようぜ?

 

それぞれの小鉢によそい、割り箸も手渡す。

飲み物の冷たい麦茶も渡して、では頂きますか!

 

「ん~! ぷりぷりのモツがとっても甘くてジューシィデース!」

 

「カレーがモツの臭みを消して、更に旨味を増しているッ!?」

 

大喜びの二人に、僕も一緒に舌鼓を打つ。

うん、塩、みそ、醤油もいいけれど、僕は断然カレー派だぜ。

よし、じゃあ二杯目をよそうよ…?

 

ピーンポーン!

 

…あれ? マジで10分くらいしか経ってないんだけど、まさか!?

インターホンのディスプレイを見れば、

 

『こんばんは。開けてもらえるかしら?』

 

は、早いっすよ、マリアさん!? つーか、エントランスのキーは開けたつもりはないんですけど?

 

「ちょうど宅配ピザの人が来たから便乗させてもらったわ」

 

ドアを開けた玄関で、コートを脱ぎながらマリアさん。

 

…ここまでどうやって?

 

「ちょうど近くにいたから、タクシーを飛ばしてきたわ」

 

その包み紙はなんですか?

 

「焼酎よ。途中で買ってきたの」

 

…焼酎を買いつつ本当に10分で来るなんて、凄い行動力だな…。

 

「あ、マリア! 先に食べてるデスよ!」

 

「おかえりなさい」

 

なんか自宅みたいにくつろいでいるけど、ここは僕んちよ?

 

「ハルト、悪いけど、コップに氷とお水を貰えるかしら?」

 

はいはい。

それじゃあ、マリアさんも来たことですし、改めまして。

 

「いただきますデ~ス!」

 

つーか、切歌、おまえさっき僕の夕飯のドリアも食べてたじゃん!

 

「もつ鍋は別腹デ~ス!」

 

さいですか。

 

「でも、あまり食べすぎると太っちゃいそう…」

 

んー、モツのコラーゲンはお肌にいいみたいだし、唐辛子のカプサイシンとかカレーのスパイスには脂肪燃焼効果があるから、そんなに悩まなくていいんじゃないかな?

 

「そうなんデス!?」

 

「そうなの?」

 

そもそも調はもう少し肉を付けた方がスミマセンなんでもないです。

 

「うーん、モツ鍋には焼酎よね♪」

 

マリアさんもお気に召したようで何よりです。

 

「このカレーの味付けは絶品だわ」

 

ですよね? やっぱりモツ鍋ったらカレーですよね?

 

「それはともかく、なんか切歌と調までそろってお邪魔しちゃって、悪いわね」

 

いえいえ気にしないでください。鍋はみんなで食べたほうが美味しいですし。あ、追加のモツも入れますね。

 

「んー、このカレー味! 白いご飯が欲しくなるデスよ!」

 

あ、ごめん。ご飯ないんだ。それとも炊こうか?

 

「それはさすがに図々しいよ、切ちゃん」

 

まあ、とりあえず〆の一品はあるからさ。

 

「ずばり、うどんじゃないデスか!? カレーうどん!」

 

ふふふん、さあてどうだろ?

 

…よし! あらかた具材も食べ尽くしたね。

それじゃあ、これを投入だッ!

 

「これは!?」

 

「さっきからフライパンで何か焼いていたと思ったら!」

 

「お餅、デスとぉ!?」

 

さらにカレールウもほんの少し足して残ったスープの味と粘度を増す。

そしてトドメは、くらえッ!

 

「…トロトロになったお餅に、さらにトロけるチーズを載せるなんて! こんなの絶対美味しいに決まってるデス!」

 

へっへっへ、そーだろそーだろ! リゾットや麺類も悪くないけど、カレーチーズ餅こそが最強だね!

 

「…熱々のお餅がカレーとチーズに絡んで…!」

 

「とろけたお餅がホルモンの欠片と一緒に…もう最高デース!」

 

ふっふっふ、落ちろ! 落ちたな!

さて、マリアさんもお餅食べるでしょう? 幾つ行きます?

 

「わたしは一つにさせてもらうわ」

 

…賢明な判断かと。

 

ニヤリと笑いを交わし合う、僕とマリアさん。

 

「ハルトぉ! 激しくお代わりを希望デス!」

 

マジか? もう全部くったのか? はいはい、でも太ってもしらねーぞ!

 

「こうやってたっぷり唐辛子を振ってるから大丈夫デース!」

 

「唐辛子の辛味が、カレーとチーズのまろやかさを更に刺激して…!」

 

調も、そんなに食って大丈夫なの?

 

 

 

 

 

 

 

「…うぷッ。もう食べられないデース…」

 

ったりめーだ。1kgの切り餅パックの半分近く食べやがって…。

 

「切ちゃん、寝っころがっちゃはしたないよ」

 

「この家は凄く落ち着くんデスよ…。なんでだろ?」

 

知らんがな。つか、片付け手伝え。

 

「ごめんなさいね。わたしが手伝うから」

 

マ、マリアさんは座ってて下さいよ!

 

「どうして私は座ってちゃダメなの?」

 

調もいっぱい食べただろ? 食ったら働け!

 

マリアさんに調、三人肩を並べて後片付け。

もちろん部屋中にカレーのスパイシーな匂いがしているんだけど、ふわんとマリアさんからは良い匂い。

 

「ハルト、鼻の下が伸びている」

 

え、え?

 

調の指摘に慌てて触れると、手の泡がついちゃったらしい。

遠慮なくマリアさんと調に笑われた。

でも、悪くないな、こんなの。むしろ楽しい。

 

「またご馳走になっちゃったわね」

 

いえ。本当気にしないで下さい。

 

「…今回はデートにカウントしなくていいのかしら?」

 

悪戯っぽいマリアさんの目。

調がしゃがんで切歌の看病をしているのを確認してから、小声で答える。

 

…やっぱり、デートは二人きりがいいです。

 

僕なりに、精一杯の勇気を出した答えだ。頬は赤くなってないだろうか。

 

「おっけ」

 

そういって笑ってくれたマリアさんの笑顔はとっても素敵で―――僕の心臓は変なリズムを刻む。

…あれ? これって緊張している時とは少し違う…?

 

「さて。切歌も動けないみたいだから、タクシーを呼ぶわ」

 

そういってマリアさんが自分のスマホを耳に当てている。

ひっくり返った切歌を調が引っ張り起こそうとしていたので、僕は手伝うことにする。

 

「あ、ハルト。せっかくだから私と連絡先を交換しない?」

 

調からそう提案された。

 

「…アタシもするデース」

 

苦しそうに切歌。

 

分かった。こっちからもお願いするよ。

 

スマホを引っ張り出しながら、僕は否応もない。

マリアさんの家族ということで、有力な情報ソースになってくれる二人だ。

それを差し置いても、この二人とは良い友人関係を作れそうな気がする。

 

「下にタクシーが来たみたい」

 

マリアさんの声。

 

「それじゃあお邪魔しました」

 

「御馳走さまデース…」

 

切歌を支えて、よっちらおっちらと調が玄関から出て行く。

 

「今日はありがとうね」

 

残ったマリアさんが僕に向かって言った。

 

全然。僕も楽しかったですから。

 

そう答えると、マリアさんはじーっと僕を見てくる。

お酒を飲んでいたせいか頬は赤く、もつ鍋を食べたせいかプルンとした唇がすごく色っぽく見えて、その、困る。

 

「ハルト…」

 

マリアさんが僕の名を呼んだ。

 

はい?

 

返事をし、僕は続きを待った。しかし、それだけで、マリアさんは恥ずかしげに眼を伏せてしまう。

 

「おやすみなさい」

 

最後に、僕の顔を見ずにそう言ってマリアさんは帰って行った。

ふわんと良い匂いだけを残して。

 

…なんだろう? 何が言いたかったのかな?

 

リビングに戻れば、誰も居なくて静かだ。でも、さっきまで確かにいたんだ。切歌に調。そして世界の歌姫と呼ばれるマリアさんが。

これってやっぱり、無茶苦茶凄いことなんだぞ!?

 

ようやく実感がわいてきた僕は、喝采を上げながら飛び回る。

それから自室へ行くと、遠慮なく丸めた布団へジャーマンスープレックスを決めまくり、力尽きて寝た。

おかげで翌朝分のカレーの仕込みを忘れ、大変不本意ながらコンビニのカレーパンを齧りながら登校する羽目になった。

 

おまけに翌日に、調と切歌から初メールが来た。

そんで二人とも文面は一緒。

 

『嘘つき嘘つき嘘つきッ!!』

 

いや、あれだけ食べればねえ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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6話

『ねえ、ハルト。今度の土曜日は学校は休みよね。空いている?』

 

はい、大丈夫ですよ。バイトも休みですし。

 

『そう、良かった。じゃあ、ショッピングに行きたいんだけど、付き合ってもらえるかしら?』

 

なるほど。今回はショッピングデートですか。

あ、でも、マリアさんは大丈夫なんですか?

 

『大丈夫って、何が?』

 

その…僕と一緒にいるところを、マスコミに撮られたりとか?

 

『ああ、その件ね』

 

受話器越しのマリアさんは、少し可笑しそう。

 

『そうね、ハルト。わたしたち鎌倉でデートしたわよね? それで、そのことを、何かしらのメディアで見かけた?』

 

その台詞に、背筋がゾクリとする。

考えてみれば、マリアさんがぶら下げているペンダントだけで国家機密。なら、持っているマリアさん本人は?

ペンダントに触っただけで僕は謎の組織の黒服のお兄さんたちに連行されたんだから、迂闊にパパラッチとかがマリアさんに近づこうものなら、うわあ。

 

なるほど。よく分かりました。

 

…こえー! 国家権力、こえー!

 

でも、マリアさん。

 

『なに?』

 

僕の場合、マリアさんと一緒にいるところを、クラスメートに見られるのは拙いと思うんですよ。

 

『あら、わたしが彼女だと知られるのは嫌なの?』

 

そ、そういうわけじゃなくて!

生徒たちの噂でSNSとかに拡散すると拙くないんですかね?

 

そんで、それから週刊誌とかにスッパ抜かれたりしてさ。

ずばりタイトルは《世界の歌姫の恋人は、都立高の未成年!》

 

…自分で言っておいて、ないわー。

最近のラノベだってもうちょっとマシな見出しを付けると思う。

 

『んー…。ハルトが気になるなら、わたしに考えがあるわ』

 

意味深に通話を切ったマリアさん。

もしかして、マリアさんが変装でもしてくれるのかな? なんて思ってたら、デート当日、なにやら一式抱えて僕のマンションへとやって来た。

 

「ほら、これに着替えて」

 

はい。…え? これってスーツですか?

 

「職場にあったから借りてきたの」

 

…あ、何かに似ていると思ったけど、僕を拉致したお兄さんたちの黒服とお揃いじゃないか。

 

「そして、これはわたしのものを貸してあげる」

 

渡されたのは、いつもマリアさんがつけているサングラス。

とっても高級そうなそれを掛けると…我ながら見習いMIBの使いッ走りみたいな感じになった。

一言でいえば胡散臭い。

 

「その格好なら、ハルトはわたしの護衛のSPか、マネージャーにでも見えるんじゃない?」

 

…いや、そんなクスクス笑いながら言われても。

 

でも、これは盲点だった。

マリアさんが変装するのではなく、僕が変装してしまえばいいってのは、まさに逆転の発想じゃないか。

 

「これで安心した? それじゃあお買い物に行きましょう」

 

 

 

 

 

マリアさんに連れられて向かったのは普通に駅前のファッションビル。

てっきり超高級なブランド専門店やセレブ御用達のブティックに行くと思っていた。

 

「別にガチガチのブランドで固めたり、拘りがあるわけじゃないわよ?」

 

ウキウキした足取りでマリアさんが向かったのは、ティーンズファッションのフロアだった。

そりゃあマリアさんはスタイルが良い。

色んな服が似合うと思う。

でも、さすがにティーンズ系のものは無理が…。

 

「こら、ハルト。何か失礼なこと考えてない?」

 

コツンと頭を叩かれた。

 

「誤解のないように言っておきますけどね、ここで買うのは調と切歌のものだから」

 

へ? なんであの二人のものを?

 

「家族として、姉として、あの子たちにはいい服を着せてあげたいじゃない」

 

その台詞に、僕は少なからずジーンと来る。

しかし、マリアさんは『姉』ってアクセントを強調していたけど、本人も連れてこないで買ってあげるのって、どっちかというとお母さん的な発想じゃね?

 

「あら、あっちの服は切歌に、これは調に似合いそう。ハルトはどう思う?」

 

あ、そうですね。いい色だと思いますよ。

 

愛想よく答えたけど、かなり適当なことを言っている自覚はある。そもそも女の子の服の良しあしなんて分からない。

調と切歌にしたって、考えてみりゃ、知り合って滅茶苦茶日が浅いんだよなあ。

最近は、結構マメにメールの交換なんかしているけど、二人の趣味嗜好までは知らないし。

まあ、調にはあまりタイトな服はおススメせず、逆に切歌はピッチリした服が似合いそう。

 

「…よし。じゃあ、これとこれに、これも買いましょう」

 

結構な時間をかけて吟味し、結構な量の服をマリアさんは買い込んだ。

お値段も相応で、並ぶゼロの数にびっくりしてる僕の前で、例によってカードで支払う。

それから、振り返って微笑む。

 

「それじゃ、ハルト。荷物、お願いね」

 

「は、はい」

 

大きな袋を左右の手にぶら下げて歩く。

先を行くマリアさんは上機嫌で鼻歌まで歌っていた。

良かった、楽しそうだ。

そんな後ろ姿を追いかけながら、僕もなかなかに今この時間を楽しんでいる。

 

そんなマリアさんは、ティーンズコーナーとキッズコーナーの境目的なところで、ふと足を止めた。

やたらと可愛らしいワンピースを弄っているけど、それはどう見ても調にすら小さすぎるように思える。

 

あの~、それも誰かに買うんですか?

 

もしかして、切歌調二人の他にも誰か家族がいるのかな…?

尋ねると、マリアさんは弾かれたように顔を上げる。

 

「ご、ごめんなさい。あの子に似合うかもって思っちゃって…」

 

あの子?

 

疑問に思ったけど、僕はそれ以上尋ねるのは止めた。

マリアさんの大きな瞳がうっすらと潤んでいたから。

 

「さて、それじゃあ次はわたしのものを買いましょうか」

 

はい。お供します。

 

次に向かったのは上のフロアのセレクトショップ。

目についたブランド品を片っ端から抱えたマリアさんは僕に言った。

 

「ハルトも選んで頂戴ね?」

 

え?

 

試着室の前で待機する僕に、くるくるとマリアさんが服を着替えてみせてくれたのは、さながらファッションショー。

繰り返すけど、服の良しあしなんて僕には分からない。

けれど、どの服もとてもマリアさんに似合っていた。

そもそものスタイルが抜群で、あらゆる服を着こなしてしまうのだから、凄い。

 

…いや、ほんと、物凄い眼福な時間でした。

しかも試着室のカーテンの奥から衣擦れの音が聞こえるのなんて、もう。

きっと目は泳ぎまくっていただろうから、サングラスをしてなかったら、間違いなく挙動不審で通報されていた自信があります。

 

「これはどうかしら?」

 

いいですね。今までで一番いいかも…。

 

艶やかな黒のロングスカートに、マリアさんの髪の色が一層映える。丈のあるたっぷりとしたチェックの長袖ネイルシャツも暖かそう。

これからの季節にピッタリのコーディネイトだと思う。

 

「そう。それじゃこれにするわ」

 

マリアさんは笑顔で、このまま着て帰ります、と店員さんに告げる。

着てきた服は袋に入れて―――もちろん持つのは僕だ。

袋の数も、その重みも、ぼちぼち腕に厳しい。

 

あの、マリアさん? そろそろ…。

 

「それじゃあ、次は靴を見に行きましょうか」

 

…マジですか?

 

 

 

 

 

 

カップルでのショッピングはデートの定番。王道中の王道。

しかしてその際の彼氏の実態は、荷物持ちに他ならず。なお、死して屍拾うものなし。死して屍拾うものなし。

 

はて、誰の格言だったろう…?

 

軽く記憶を巡らせつつ、現在の僕は絶賛その苦難を体験中。

 

ってゆーか! なんでこんなに一気に買うの!? 袋は幾つぶら下げりゃいいのよ?

しかも服によっては不必要なくらいでっかい箱に入れたりして、リボンまでついてたりさ!

そんな箱やらなにやらまで両腕いっぱいに幾つも重ね持つなんて、まるでコントだよ!

 

「ハルト? 何か言った?」

 

いえいえ、何も? あんまり楽しくて、つい鼻歌でも漏れちゃったかな~。

 

しれっと嘘八百を口にしつつ、僕の忍耐力と体力のゲージは赤く点滅している。今なら超必殺技も撃てそうだ。

 

…いや、これも経験経験。

だいたい、マリアさんと一緒にいられるだけでも光栄と思わなきゃ。

 

でも、そろそろ辛いよ~。荷物降ろしたいよ~。

 

しかしマリアさんは、僕の心の叫びに全く頓着した様子はない。

むしろ僕の隣に来ると、むぎゅ! と腕に腕をからめてくる。

こ、この得も言われぬ柔らかい感触は…!!

 

って、マリアさん、荷物が落ちますから!

 

両手の上で何段重ねにもなった荷物のバランスを取ろうと僕は慌てるんだけど、それを見てもマリアさんはとにかく嬉しそう。

 

「ハルトと一緒のショッピングって、こんなに楽しいのね」

 

…え? 

 

「も、もちろん、今まで他にもいろんな男の人と買い物にはいったわよ?」

 

まあ、そりゃそうでしょうね。マリアさんは、セレブや芸能人、他のアーティストたちにモテモテでしょうから。

 

しみじみと答えると、すっとマリアさんが僕から離れた。特に何も言ってくれないんだけど、なんとなく不機嫌そう…?

 

ちょっと不安になる僕が、最後よ、と引っ張って行かれたのは、まさかまさかのランジェリー専門店。

 

いや、さすがに一介の高校生には刺激が強すぎますよ!

 

「あら? 今度は選んでくれないの?」

 

…ッ!?

 

「うふ、冗談よ。冗談。…そうね、じゃあ、そこのベンチで待っていて」

 

ホッと胸を撫で下ろし、大量の荷物を横に置いて専門店の前のベンチで一休み。

あー、ようやっと腕が解放されて気持ち良い。

喉が渇いた。カレーソフトクリームでも食いてえ。

 

普通に男が一人でこんなところに座ってたら変態扱いされるかも知れない。

でも今は、大量の荷物のおかげで、荷物持ちと認識されているみたい。

こんないかにもお付きです、みたいな格好をしているせいもあるだろうけどさ。

 

そしてサングラスなのを良いことに、色々と店内を観察させて頂いたのは、健全な男子として非常に自然なことだと断固主張いたします。

ヒラヒラとしたもの、うわすげえ何アレってもの、どうやって履くのってドン引きするようなもの。

それら大量の商品の奥で、マリアさんが店員と何かを話しているのが見えた。

 

…そういえば、買い物中、マリアさんをマリアさんと気づいていそうなお客もいたけど、誰からもサインを求められたり、どころか、声を掛けられたりもしていない。

 

やっぱり、こんな場所にマリア・カデンツァヴナ・イヴがいるわけないっていう先入観があるのかな?

それとも、マリアさんとわかっていて、そのプライベートを尊重してくれているのだろうか。

 

今日は、幸いにもクラスメートや学校の連中にも遭遇していなかった。

自分の着ているスーツを見下ろす。

これって取り越し苦労だったかな。

こんな格好じゃくて、普通の格好をして、普通にマリアさんとデートを楽しめば良かったかな…。

 

 

 

ところで、突然だけど、僕は間が悪い男だ。

大縄跳びに飛び込んだ途端に足を刈り取られる。

ドッヂボールとかでは回避したと思った方向に偶然投げられたボールが飛んできて、道を歩けば高確率で誰かの吐きたてホヤホヤのガムを踏む。

 

要は、悪いタイミングで、悪い結果を引き当ててしまう体質。

マリアさんのペンダントを拾ったことなんかも、その最たるものかも知れない。

 

けれど、マリアさんとこうやってデートを出来る間柄になったものだから、すっかりそのことを失念していた。

そしてそのツケとでもいうべきものは、やはり最高にタイミングが悪い時に来るものらしい。

 

ベンチに座ったままぼーっとしている僕に、声がかけられた。

 

「…阿部くん?」

 

思わず声のする方向を見てしまったことを激しく後悔。

 

小金井すみれだった。

 

なんでここに…!? そりゃ休日だ、プライベートで買い物していたっておかしくなんかないか。

でも、よりによってこのタイミングで…!!

 

「やっぱり阿部くんでしょ? 阿部ハルトくんでしょ? 何やっているのこんな店の前で。それにその格好は?」

 

イイエ、ボクハ、ハルトクンジャナイデスヨ。フユヒコクンデスヨ?

 

必死で顔を逸らしながら他人の振りをする僕。

 

そしてそこにドンピシャで戻ってくるマリアさん。

 

「おまたせ、ハルト。…あら?」

 

 

 

 

 

かくして、僕が彼女にしたかった子と、現在の一応の彼女さんが遭遇したのでした。

 

…僕の明日はどっちだ!?

 

 

 

 



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7話

 

みなさん、こんにちは。ハルトです。

 

さすがに下着専門店の前で揉めるのは色々とヤバいので、テーブルのある喫茶コーナーへ河岸を変えました。

 

 

ハルトです。

 

マリアさんも小金井も、何もしゃべってくれません。

 

 

ハルトです。

 

ホットコーヒーを買ってきたはずなんですが、冷え切ってアイスコーヒーになりそうです。

 

 

ハルトです。

ハルトです。

ハルトです…。

 

とまあ、軽いギャグでも挟まないと僕の胃がキリキリする状況が続いています。

 

僕の前のテーブルの左右それぞれに、マリアさんと小金井。

みんなの前に買ってきたコーヒーが置いてあるんだけど、誰も手をつけようとしません。

 

マリアさんは軽く腕を組んで目を閉じていて、小金井は俯いたまま。

お互いの沈黙が、とにかく辛いです。

僕も本当に居心地が悪くて仕方がないのですよ!

 

…ええい、このままじゃあ埒が開かない。

仕方ない。日常的な会話で水を向けて、この微妙すぎる沈黙を打破しよう。

 

「あのさ、小金井? その私服、可愛いじゃないか」

 

今日、マリアさんの試着に散々付き合った結果、僕は一つ学習していた。

 

女性は着用している衣類を褒めてあげると、こうかはばつぐんだ!

 

小金井が顔を上げた。少しだけ嬉しそうに表情が緩んでいる気がする。

 

しかし次の瞬間。

 

ガンっ!

 

ひっ!?

 

「あら、ごめんなさい。テーブルに足をぶつけちゃったわ」

 

長い脚を組み替えながらマリアさん。

びっくりした小金井は慌ててまた顔を伏せてしまい、マリアさんは僕を睨んでくる。

ちょ、ちょっとなんですか!? 何か悪いことしましたか、僕?

 

「…あの、阿部くん」

 

意を決したような声で上目使いの小金井が尋ねてきた。

 

「その女の人は…」

 

ああ、紹介するよ、この人は、

 

「初めまして。マリア・カデンツァヴナ・イヴよ。よろしく」

 

僕の紹介を待たず、マリアさんは凄い笑顔で手を差し出していた。これって営業スマイルっていうのかな?

 

「は、初めまして、小金井すみれです…」

 

迫力に気圧されたのか、それとも礼儀にもとると思ったのか。

素直に小金井も手を差し出して、マリアさんとがっちり握手。

 

「わたしの名前は聞いたことあるでしょ?」

 

マリアさんは笑顔のまま、堂々と自己PR。

 

「え、ええ、もちろん。有名人ですから。世界一の歌姫、ですよね? CDも何枚か持っています」

 

「あら。ありがとう」

 

さっきまでの沈黙の時間は去り、なんかファンとの交流みたいな温かい雰囲気になっていた。

良くわからないけど、良かった。

小金井も肩の力が抜けてきてるし、こりゃ僕の出る幕はないかな。

すっかり冷めちゃったけど、コーヒーでも飲むか…。

 

「で、今はハルトの彼女をさせてもらっているわ」

 

ぶふぉうッ!?

な、なに言っているんですか、マリアさん!!

 

「あら? 違ったかしら?」

 

そりゃ…違いませんけれど。

 

頬が熱い。

面向かって、しかも他人を前に言われると、想像以上に恥ずかしい。

そして小金井はというと、目を見張っていた。

それから。

 

「…嘘つき」

 

睨まれた。

 

「阿部くんの嘘つき」

 

い、いきなり何をそんな、嘘つきって…。

 

「前、私が、彼女さんがマリア・カデンツァヴナ・イヴに似てない? って訊いたら、他人の空似だっていってたじゃないッ!」

 

ああ、あれは、あの場でバラすわけにはいかなかったというか…。

 

「阿部くんの嘘つき嘘つき嘘つき嘘つきッ!」

 

…小金井?

 

「…本物なんかじゃ、勝ち目なんてないじゃない…ッ!」

 

おいッ、何いってんだよ? 

ちょっと待てって小金井…!

 

僕の制止も聞かず、小金井は立ち上がって走って行く。

 

タンっ!

 

と紙コップがテーブルに叩き付けられる音。

その方向を見れば、コーヒーを飲み干したらしいマリアさんも立ち上がっていた。

 

「クラスメートなんでしょう? わたしは邪魔する気はないから」

 

え? どういう意味です?

 

僕の声を聞き流し、小金井と正反対の方へスタスタと歩いていってしまうマリアさん。

 

…なにがどうなっているかわかんないけど、困ったな。

追いかけて話をしなきゃ。

もちろん、僕が追う相手は―――。

 

 

 

 

マリアさん!

 

追いすがり、声をかけると、マリアさんは目を見開いている。

 

「なんでついてきたのよ?」

 

え? そりゃついてくるに決まっているでしょ? デートの途中なんだし。

 

「あの子は追いかけなくていいの!?」

 

あ、安心してください。今日の件は月曜日にでも学校で、しっかりと小金井に釘をさしておきますから。

 

「…そういうことを言っているんじゃないんだけどね」

 

マリアさんは何故か溜息をついている。

 

あの、マリアさん?

 

「ハルトは、あの子の目を見ていなかったの?」

 

そりゃ見ましたけど…?

 

「あれはね、あなたに恋している目よ」

 

はは、いやいや、そんなまさか。

 

「真面目に聞きなさい。わたしも女だから分かるけどね、あれは正真正銘の恋する乙女のもの。そして―――」

 

マリアさんはジロリと僕を見て、

 

「ずばり、あの子がハルトの好きだった子なんでしょう!?」

 

そ、そりゃそうでしたけど。

 

「やっぱりね。だったら行きなさい。追いかけるべきよ」

 

なんでそんなこというんですか?

 

「本来なら、あなたに相応しいのはあの子の方。年上のわたしなんかより、ずっとお似合いよね」

 

ハッと鼻で笑うマリアさんに、僕は違和感を覚えた。

ここに来て、いきなり低い自己評価を口にしているのはもちろん、その口調。その態度。

唇を尖らせて、頬も少し膨らんで見えるのは、まさか。

 

あの、もしかして、マリアさん。…拗ねてません?

 

「そ、そんなわけないでしょッ!?」

 

乱暴に腕を組んでそっぽを向くマリアさん。

 

いつの間にか、僕たちの周囲に人が集まり始めていた。

そりゃあ、あのマリアさんと黒服の僕が大きな声でやりとりしているんだから、当たり前か。

 

「…ほら。早く行きなさいってば」

 

そっぽを向いたままマリアさん。ちょっとだけ見えたほっぺたは少し赤い。

 

だから行きませんよ。

 

「いい加減、聞き分けなさいな、ハルト」

 

あくまで優しい口調を作ってくるマリアさんに、僕は逆に問い掛ける。

 

…マリアさんは、僕に行ってもらいたいんですか?

 

「…え、ええ。そうよ。さっきも言ったけど、あの子の方があなたにお似合いで…」

 

でも、小金井は、僕の彼女じゃありません。

 

「………」

 

僕の彼女はマリアさんでしょ? 自分でそういっていたじゃないですか。

 

「そ、それは…」

 

違うんですか?

 

ここでマリアさんに、「彼女だなんてのは嘘だから」と言われるのは覚悟していた。

そもそもマリアさんが僕の彼女をしてくれているのは、いわば償いの結果だと思っている。

どだい、平凡な高校生の僕が、世界的なスーパースターの彼女と、彼氏彼女という関係になれるなんて不可能に決まっている。初めてのデートの時だって、きっとお情けであんなにサービスしてくれたのに違いない。

―――そう思っていたんだ。

 

でも、今は。

マリアさんが否定してくれなかったら、僕は―――。

 

僕は、マリアさんが彼女じゃなきゃ、嫌です…。

 

「もしかして、ハルト、泣いている…?」

 

な、泣いてませんよ。だいたいサングラス越しじゃ分からないでしょ?

 

「なら、そういうことにしておくわ」

 

マリアさんはふわっと笑って―――でも、顔を曇らせてしまう。

 

「だけど、あの子のことは…」

 

えーとですね、仮にマリアさんの言うとおり、小金井が僕を好きだったとしても、それはもうどうしようもないんですってば。

 

「どういう意味なの?」

 

素で問い返してくるマリアさんに、僕は天を仰ぎたくなる。

二度と思い返したくない醜態が頭をよぎった。でも、誤解を解くためには仕方ないか。覚悟を決めて記憶を辿る。

 

ペンダントを落としたマリアさんが、初めて僕の家に来て謝ったときのこと、覚えてます?

 

「え、ええ…」

 

マリアさんは気まずそうな表情になったけど、僕はもっと気まずいぞ!

 

…あの時、僕はマリアさんの前で、おかげでデートがぽしゃったと、さんざんっぱら泣き叫んで暴れましたよね?

 

「そ、そうだったかしら? そんなみっともない風じゃなかったと思うけど」

 

うん、フォローのつもりだろうけど、逆に気遣いが辛いです。

 

とにかく、僕はその時に確かに叫んだはずですよ。『好きだった子もクラスメートの野郎にとられた』って。

 

「………」

 

はい、これが証拠です。

 

僕はスマホの写真を表示する。本当に二度と見たくはなかったけれど、斉藤と小金井のツーショット。

 

んで、こっちの男の斉藤ってヤツが、いま小金井とつきあっている彼氏です。

さすがに、彼氏持ちの子からアプローチされても。

 

一気にそう説明して、ぐったりとしてしまう僕。

 

一方、マリアさんは、なぜかぴしゃんと両頬を叩いていた。

 

「そうね、そうだったわね」

 

思い出してもらえたなら良かったです。

 

「もう大丈夫。おかげでピンシャンよ」

 

何が大丈夫なのかもピンシャンの意味もは分かりませんけど。

 

…しかし、マリアさんもヤキモチを焼くんですね…って、あいたッ!?

 

指先で鼻を弾かれる。

 

「誰が何を焼く、ですって?」

 

すみません。気のせいですよね。

 

「ならよろしい」

 

笑うマリアさんは、全くいつものマリアさんだった。

僕も笑いかえしてみた。

 

なんか今日はいつもと違うマリアさんの一面が見られた気がしますよ。

 

ぐいっと頭を掴まれた。顔が近い。

 

「それも気のせいよ。忘れなさい」

 

は、はい。

 

それはともかく。

あの出会いの日の醜態のついでに、思い出したことがある。

 

唇を噛んでマリアさんの表情を伺った。

…今なら、お願い出来るんじゃないかな?

 

あの、マリアさん…。

 

「なに?」

 

い、いえ。

 

一旦僕は口を閉じる。

僕らの周囲にはまだ人が群がったままだ。さすがにこんな雰囲気で、気合を入れた話はしたくない。

 

…あの、すみません。ちょっと10分くらい待ってもらえます?

 

そう言い置いて、メンズコーナーへ猛ダッシュ。

適当にスラックスと上着を見繕い、黒服から着替えた。

会計を済ませれば少々お高めの支払いになってしまったが、なに構うものか。

 

お待たせしました。…あれ? 荷物は? 

 

「邪魔になるから、全部宅配してもらうことにしたわ」

 

だったら最初からそうしてくださいよ…。

 

軽く脱力して、その実すっかり身軽になった僕らは、未だマリアさんに集まってくる視線を振り切るようにビルの外へ出た。すぐ前の交差点を渡り、その先の公園へ誘う。

辺りは日が落ちて薄暗く、ちょっと肌寒い。すっかり夜は秋模様だ。

 

「どうしたの、急に着替えちゃって?」

 

私服姿になった僕に、マリアさんは不思議そう。

歩きながら僕はマリアさんへ借りていたサングラスを返す。

 

お願いごとをする時は、きちんとした格好をしなければと思って…。

 

「お願いごと?」

 

次のデートは、また僕が企画していいんですよね?

 

「ええ、もちろん」

 

来週の土日はちょっとバイトの用事が入っていて、再来週の土日は、僕の学校の文化祭なんですよ。

 

「…そう。なら、次は三週先まで無理ってことかしら?」

 

いいえ、違います。

 

「あら? なら平日にとか?」

 

それも違います。

 

「…?」

 

マリアさんが形の良い眉根を寄せた。

僕は足を止め、まっすぐマリアさんを見つめる。

 

再来週の文化祭。

 

「ええ、それは聞いたけど」

 

マリアさんと一緒に文化祭を回りたいんです。

 

「…え?」

 

僕、高校に入って彼女が出来たら、一緒に文化祭を回るのが夢だったんですよ。

 

よく漫画やドラマなどに見られるシチュエーションで、高校生活の青春イベントとしては定番中の定番だ。

我ながらベタだと思うけれど、だからこそ憧れてきた。

 

「そ、それって同じ高校生の彼女と一緒にするものじゃないの?」

 

今の僕の彼女はマリアさんじゃないですか。

 

「………」

 

駄目ですか?

 

「う、ううん、基本OKよ全然OKよ! でも…」

 

でも?

 

なんだろう。何が引っかかっているのかな?

マリアさんは何故かモジモジとしている。それから、何かを決めたように、小声でそっと耳打ちしてきた。

 

「…あのね、さすがに一緒に制服を着て回るのはちょっと…」

 

いやいやそこまで学生サイドに合わせなくてもいいですからッ! 普段着でいいですからッ!

 

「あら、そうなの?」

 

…セーラー服姿のマリアさんを想像してしまった。

ちょっとだけ見てみたい気がする。ちょっとだけ。

 

「それと…」

 

はい?

 

「学園祭ってことは、クラスメートたちにも見られるはずよね?」

 

ええ。そういうことになりますね。

 

「ハルトはわたしを彼女ってみんなに紹介したいの?」

 

マリアさんが良ければ、もちろん。むしろ自慢しちゃっていいですか?

 

「そうなんだ…」

 

くるりとマリアさんは僕に背を向けた。

表情は窺えない。

 

あれ? もしかしてまた機嫌を損ねちゃった?

 

だけど、振り返ってきた顔は、いつものクールで大人な顔で。

 

「うん。確かに約束したわ」

 

はい。よろしくお願いします。

 

「さて、すっかりお腹が空いちゃったわね。何か夕飯を食べに行きましょうか」

 

なんだかマリアさんの機嫌は良さそう。まあ、でなければ僕の提案なんて受け入れてくれるわけはないか。

 

「今日は荷物を持って疲れたでしょう? ご馳走するから、近くにどこかお奨めのお店はある?」

 

喜んで僕はもう一度提案してみた。

 

はい! ここから少し行った先にレストランがありましてね! そこでは常時20種類のカレーとナンが食べ放題で

 

「却下」

 

…あるぇー?

 

 

 

 

 

 



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8話

パンパン! と散発的な花火が上がる。

 

今日は、僕の通う高校の文化祭の二日目。待ちに待った一般開放の日だ。

さっそくチラホラと人が校門をくぐって入って来ている。近隣の高校の制服姿も結構多いな。

 

さあて、マリアさんはどこかな~っと…。

 

探してて、緊張してきた。

心臓がバクバクいっている。

これから、夢に見た文化祭デートを、あのマリアさんと一緒にするんだよな? 

 

腕時計を見る。待ち合わせの時間の10分前なんだけど、まだマリアさんの姿は見当たらない。

あれほど目立つ人だから、入れ違いになるはずなんてないし…。

 

…まさか、前みたいにスポーツーカーとかで学校の前に横づけしてきたりして?

やりそうだな。やられちゃ困るけど、そういう派手な方がマリアさんには相応しい気がする。

 

「ハルト」

 

ちょいちょいと肩を突かれた。

 

ッ!? …って、マリアさん!?

 

振り向いて、僕は口をあんぐりと開けてしまう。

 

そこにいるのは確かにマリアさんだった。

同時に、僕の知っているいつものマリアさんじゃない。

 

「少しイメチェンってわけでもないけれど、ちょっとお召かしかな?」

 

小首を傾げて笑うマリアさんがいる。

普段はちょこんと左右につのが生えたみたいな独特なロングヘアー。その長い髪が編まれて、背中で大きなポニーテールになっている。

ピンクと白のストライプ柄の眼鏡も、とってもいいアクセントになっていた。

 

「…ハルト?」

 

あ、はい、素敵ですよ。

 

…素で見蕩れてしまった。

 

「うふ、ありがと」

 

マウンテンパーカーに、白のゆったりとしたパンツは先日のデートで買ったもので見覚えがある。

凄く腰が高く見えて、見栄えが良いんだ。

 

本当に、本当に美人だなあ。こんな素敵な人が僕の彼女だなんて。

…うう、頬が熱い。

 

 

それじゃ、行きましょうか。

 

「うん」

 

マリアさんと連れだってデコられた校門をくぐる。

目を見張る生徒たちの視線を感じた。けれど、よくよく観察してみると、別にマリアさんに目を見張っているんじゃなくて、マリアさんを連れて歩いている僕に目を見張っているように思う。

 

ぎゅっと学生服の袖を掴んでくるマリアさんがいる。

 

どうしました?

 

「ええっと、わたし、高校の文化祭とか初めてで…」

 

そうなんですか? 

 

頷くマリアさんにちょっと驚く。まあ、マリアさんは外国人で、向こうには日本風の学祭はないとか。

 

やっぱり、アーティストのレッスンとかで、学校に行く時間もなかったんじゃないですか?

 

「え、ええ。そんな感じかしら。…それよりハルト。あれは何?」

 

マリアさんの視線の先には屋台の数々。

 

ああ、あれは屋台ですね。生徒たちが色々自主的に運営してるんですよ。

 

「屋台なのは分かるけど、あの赤い丸いのは、何?」

 

あれはリンゴ飴ですね。

 

「リンゴ…アップルのことね。それの飴??」

 

食べてみます?

 

僕は財布を取りだす。

 

あ、ここはもちろんカードは使えませんから、僕の奢りで。

 

リンゴ飴の屋台をやっているのは隣のクラスで、ちょうど顔見知りが店員をしていた。

 

リンゴ飴二つね。

 

「お、おう。…って阿部ちゃんよ、隣の美人なお姉さんは…」

 

うん、僕の彼女。

 

「はあい」

 

驚く店員に、マリアさんはヒラヒラと片手を振って見せている。

 

ところで、マリアさんを彼女だって自慢したいとは言ったけれど、何も声高に言いふらして回って注目されたいわけじゃない。

変に目立つだけの調子こいた嫌味野郎にはなりたくないからね。

尋ねられたら紹介する程度のスタンスで丁度良いと思っている。

 

はい、どうぞ。

 

買ったリンゴ飴を手渡してあげた。

 

「ありがと。…へえ、飴で小さなリンゴがコーティングされているってわけね」

 

はい。リンゴは小玉で酸っぱいヤツですけど、飴の甘さと合わさるとちょうど良い按配になるって寸法です。

 

「ふうん。面白いわね」

 

リンゴ飴を齧りながら、他の屋台も冷やかして歩く。

定番の焼きそば、タコ焼き、お好み焼きはソースの匂いも香ばしい。

他にも綿あめ、かき氷、チュロス、クレープなどの屋台も出ていて、どれもなかなか本格的。

 

というのも、うちの学校は、出店とかの企画に、クラス単位、グループ単位で予算を出してくれる。

売上は、予算の金額に満たなければ全て没収。

逆に予算以上の売り上げは、そのクラスやグループの収益と認めてくれる。

だから精々打ち上げを盛大にしようと、皆して発奮しているわけ。

 

「へえ…」

 

僕の説明を聞き終えたマリアさんが感心している。

まあ、どこの学校の文化祭もそうだかは知らないけどさ。

 

「それでハルトのクラスは何をしているわけ?」

 

ふふふ、当ててみてください。

 

「…カレー店じゃないの?」

 

あれ!? なんで分かったんですか!? 凄いですね、マリアさん!

 

「それ、本気で褒めてる…?」

 

え? 当たり前じゃないですか。

 

「………」

 

マリアさんのジト目が気になったけど、僕のクラスがカレー店をしているのは事実だ。

しかもただのカレー店じゃない。メイドカレー店だ!

 

…いや、本当はメイド喫茶をするってクラスで決定してたんだよ? なんか最近一周回って流行っているとかで。

そんで毎日遅くまで教室の内装作業とかしてさ。残って作業している連中に、大変だろうな腹減ったろうなー、って僕が自作のカレーを差し入れてやった。

そしたら、なんだか知らないうちに、メインのカレーをメイドさんが売るという新機軸店へと変化しちゃっていたわけ。

 

翌日には、僕は売り物のカレーの制作監督および総合プロデューサーに任命されてた。

経緯が良く分からないけれど、カレーを任された以上、きっちりこなしてやろうじゃないか。

なので、昨日も夜遅くまで残ってカレーを寸胴鍋三つ分も煮込んでいたので、少し寝不足だったり。

 

「ところで、どんなカレーを工夫しているの?」

 

あまり凝ったものを作れば予算の範囲内を逸脱し、安く済ませようと手抜きをしてしまえば売れなくなる。

マリアさんは、そんな商売の原理原則を指摘しているのだろう。

 

まあ、ちゃんとした牛肉とか豚肉じゃあ高くつきますからね。牛スジ肉を使いました。

 

正肉に比べるとスジ肉は大分安く、そして固い。

けれどじっくりと煮込めば、トロッとした歯触りと極上のコクを産み出す素材になる。

家庭科室のコンロを三つ占拠した寸胴鍋でじっくり煮込んだ牛スジカレーは、僕が調合したスパイスを入れて、しつこくないコクと旨味で満たされた逸品です。

 

「へえ。美味しそうじゃない」

 

あとで食べに行きましょう、と約束して、実はクラスの売り物はこれだけじゃないんだよなー。

僕らのクラスは予算をやりくりし、正門前の通りに屋台をもう一つ展開していたりする。

 

あ、そろそろ準備出来た?

 

向かえば、クラスメートたちがワタワタと準備している。他のクラスの屋台はもう稼働しているのに、わざと遅らせているのにはワケがある。

 

よし、それじゃあ、始めちゃって。

 

僕のOKに、じゅわわーっとフライパンで焼ける音に、香ばしい匂いが立ち昇る。

こちらの屋台での売り物は、男爵イモを細切りにし、パルメザンチーズと小麦粉をまぶしてオリーブオイルで焼き上げるガレットだ。

けど、僕がプロデュースする以上、ただのガレットなわきゃあない。

カレースパイスも混ぜて焼き上げれば、ふふふ、その破壊力たるや。

 

「あら、いい匂い」

 

ざわめく通行人に、僕はほくそ笑む。

屋台の食べ物は濃い味と匂いが鉄則なんですよねー。

ましてやその匂いがカレーとあっては、食欲中枢にとってのテロ行為に等しいと思う。

 

「…すごいわね」

 

たちまち出来た長い行列に、マリアさんが目を丸くしている。

 

こっちのカレーの匂いを嗅いだ人は、校舎内では牛スジカレーの匂いを嗅ぐことになる。

逆に校舎内の牛スジカレーの匂いを嗅いでしまった人は、帰り道でもガレットのカレーの匂いに食欲中枢を刺激されるはず。

この相乗効果を狙いつつ、広域でカレー欲を刺激するこのシステムこそ、まさに隙を生じぬ二段構えというやつよ!

 

「でも、他のクラスとかもカレーを作ってたりしないのかしら?」

 

ははは、予算内で僕の作ったカレーを上回るものを、出来るものなら作ってみろってんですよ!

 

「…ハルトって、もしかしたら凄い商才があるんじゃない?」

 

御冗談を。僕はただの一介のカレー好きですから、そんなそんな。

 

「あなたって、自己評価が高いのか低いのか…」

 

そんな風に話をしていると、ガレット店のクラスメートからも声を掛けられた。

 

「あの、阿部君。その人は…?」

 

うん、僕の彼女さん。

 

「こんにちは」

 

マリアさんも挨拶を返してくれている。

 

「彼女さん…マリア・カデンツァヴナ・イヴに似てるって言われません?」

 

「ばっか、こんなとこに本物が来るかよ」

 

クラスメートたちは勝手に盛り上がって勝手に結論を出してくれるのは助かる。

まあ、本物が『自分は本物です』って口にするのも変な話だよね。

 

それじゃあ、マリアさん。校舎の中へ行ってみましょうか。

 

僕は大元のカレーを作ったということで、店番や店員といった交代業務はナシだ。

存分にマリアさんと文化祭を回れるのは、結果としてラッキーかも。

 

「ええ、行きましょうか」

 

背後で「…いま、マリアさんって呼んでたよね?」という級友たちが話し合う声が聞こえたけど気にしない。

 

校舎内の各教室では、実に色々なイベントが設置されていた。

一応文化祭だから、文系の部活の発表物とかを展示する部屋もあるわけで。

 

「へえ…」

 

美術部の絵が展示している美術教室で、マリアさんは興味深げ。

 

「日本の高校生は、みんなこんなに絵が上手いの?」

 

ははは、それは美術部の生徒たちの作品だからですよ。一般の生徒たちはそこまで上手くありません。

 

「ハルトの描いた絵はないの?」

 

僕は美術部じゃないし、展示されるほど上手くないです。けど、前の美術の選択授業でみんなとデッサンしたヤツ、そこらのへんの壁に貼りっぱなしだったから、どこかにあるかも。

 

「見てみたいんだけど」

 

なら…。

 

受付の美術部員に訊いたら、展示室風に改装するときに壁にあったものは外してまとめてました、ってあっさり渡してもらえた。

何枚かのデッサン画の束から、自分のものを見つける。

 

本当、上手くないですけどね…。

 

謙遜はしてみせたけど、このデッサン画は自分でもなかなか良く描けたと思ってるんだぜ?

 

「…翼の描いたものに似ているわね」

 

翼って、あの風鳴翼だよな?

マリアさんのコメントはそれだけ。

…褒められているんだよね、一応?

 

それから科学部の公開実験を見学し、書道部の実演を眺めた。

一応、お化け屋敷も行きたかったんだけど、なんだかトラブルがあったとかで敬遠する。

ちょっと残念だな。

 

「ハルト、ここは?」

 

行く手を指さしマリアさんの声。

見れば仰々しい看板に薔薇の造花が茎ごと巻きつけてあった。

パンフレットを漁る。この三年生の教室は確か…。

 

ああ、占いの館ってヤツですね。

 

「日本の高校生は占星術も出来るの?」

 

まさか。素人の真似事ですって。そんなプロフェッショナルみたいなこと、出来る高校生なんて早々いるわきゃないですよ。

 

「…わたしのすごく身近に、プロ顔負けの高校生が一人いるけどね?」

 

へえ? 誰ですか? 今度紹介して下さい。

 

そう答えると、なんだかマリアさんから呆れ顔をされてしまった。

誰だろう? マリアさん関係だから、調や切歌の知り合いなのかな…。

 

それはともかく「入ってみましょう」とのマリアさんの提案にドアを開ける。

案の定、薄暗く照明をしぼった部屋になっていて、案内の人から個別ブースみたいなところへ連れて行かれる。

そこには、いわゆる魔法使い風のとんがり帽子を被った女生徒が居た。

口元にフェイスベールをして占い師風の彼女の前には、小さな座布団みたいな上に乗せた水晶玉がある。雰囲気はバツグンだね。

 

「どうぞこちらから選んでください」

 

渡されたメニューは、『相性占い』と『必勝祈願』の二つだけだった。

…なかなか斬新というか潔いというか。

 

「それじゃあ、相性占いでお願いします」

 

マリアさんの透き通った声に、占い師は重々しく頷く。

 

「では、お二人の名前を聞かせて下さい」

 

あ、僕は阿部ハルトです。

 

「わたしは、マリア・カデンツァヴナ・イヴ」

 

「はい、阿部ハルトくんに、マリア・カデン……はい? すみません、もう一度お願いできますか?」

 

「マリア・カデンツァヴナ・イヴよ」

 

占い師は「ま、まさかね…?」と目を見張っている。

マリアさんがにっこりとすると、何やらブツブツいっていたけど、背筋を伸ばして水晶玉に手をかざし始めた。

 

「えーと、二人の相性は、基本良いみたいです。彼氏さんの方は、彼女さんのことをもっとよく知ってあげて、彼女さんの方は、自分の気持ちにもっと素直になると益々仲が深まるかと」

 

…すごい当たり障りのない内容。

僕の感想はこれだけなんだけど。

 

「…なかなか含蓄のある占いだったわね」

 

占いの館を出て、うんうんと頷くマリアさんがいる。

 

そうかなあ、どのカップルにも当て嵌まる、いわばテンプレなアドバイスだと思うんですけど。

つーか、ぶっちゃけ、誰にでも同じこと言っているんじゃないですかね?

 

「ハルトって、夢がないのね」

 

ぷん、とマリアさんに横を向かれてしまった。

 

いや、あんな根拠も何もなさそうな占いに夢とか言われても。

そう思ったけど口には出さず、つかつかと歩いて行ってしまうマリアさんに追いすがる。

 

ちょっと待って下さいよ。マリアさん…?

 

いきなり腕を掴まれて、廊下の横に引っ張り込まれた。

 

な、なにを?

 

「しっ」

 

黙っていると、廊下を曲がっていきなり二つの影が飛び込んできた。

そんで僕らと正面衝突。

 

「うわあぁッとッと、デース!」

 

「きゃッ」

 

待ち構えていた僕らは踏ん張れたので、廊下に尻もちをついてしまった二人を見下ろす。

 

…なにやってんのさ、切歌。それに調も。

 

「くッ、潜入美人捜査官メガネが一瞬で見破られるなんて!」

 

え? その眼鏡、変装のつもりでかけてんの? 

 

「ご、ごほん」

 

あれ? マリアさん? …もしかしてそれも?

 

「こ、この眼鏡はファッションよ?」

 

ア、ハイ。

 

「それより、二人とも、なんでこそこそ尾行するみたいな真似を?」

 

腕を組んだままマリアさんがじーっと二人を見おろしている。

 

「ごめんなさい。マリアがどんなデートしているか、興味があって」

 

「調ぇ!?」

 

ぶっちゃけた調に切歌がワタワタしている。

 

出歯亀は感心しないなあ。

 

僕も苦言を呈すと、調は上目使いで言った。

 

「だって、マリアって、ハルトとの前に、誰も男の人と付き合ったことないでしょ?」

 

「そ、そんなわけないでしょう!? 故郷の村では、わたしに惚れてなかった男の子はいなかったくらいよ? 実際に求婚もされたしッ!」

 

胸を張っていうマリアさんに、

 

「それってマリアが小学生に上がる前くらいの年齢の話デスよね?」

 

ジト目の切歌が追撃。

 

「シ、シンガーとしてデビューする前なんかね、たくさんの男たちに囲まれて、毎晩遅くまで帰らせてもらえなかったものよ!」

 

「それも、歌やダンスのお稽古で毎日が午前さまってだけだよね?」

 

「帰ってきたら、シャワーも浴びずにバタンQだったデス!」

 

「………」

 

マリアさんが固まっちゃっている。

えーと。

 

…今の話、本当なんですか?

 

そう訊ねたのと、僕のスマホの通信アプリが着信のメロディを奏でたのは同時だった。

少しだけ迷って、スマホの受話ボタンを押す。

 

はい、もしもし?

 

「…阿部くん? 助けてッ!」

 

それは思いもよらぬ、小金井すみれからのエマージェンシーコール。

 

お、おい! どうしたんだ? 何があったんだ!?

 

震える小金井の声に、背後の物音もざわついていた。

受話器越しにも伝わってくるただならぬ気配に耳を澄ます。

 

「阿部くんの…」

 

うん。

 

「阿部くんの作ったカレーが、もう半分も残ってないのッ!」

 

…はい?

 

 

 

 

 

 

 



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9話

ちょ、ちょっと待って。OKOK、落ち着こう。

あのさ、カレーがそれだけ売れたってことだろ? 売れりゃなくなるわけで、何が問題なのさ?

 

そういうと、受話器の向こうの小金井の声はほとんど泣きそう。

 

「それが…出ちゃったの」

 

出ちゃったって…まさか!

 

カレーがメインといえ、もともとの母体はメイド喫茶だ。

メイドさんとの遊びというかサービスというかそんな感じで、メイドさんとじゃんけんして勝てばクジが一枚引けるというイベントを行っている。

およそ千枚のクジの中にある数十枚の当たり券は、お代半額、コーヒー1杯サービス、スマイルプレゼントといった他愛のないものばかりだ。

ただ、そんな千枚の中にたった一枚だけ入ったプラチナチケット。

 

「そう、お代わり無料無制限が出ちゃったの…」

 

い、いやいやいや。それが出たとしても、せいぜい食べて3杯程度だろ?

そんな半分近く無くなるまでって、プロレスラーか相撲取りでも来たのか?

 

「ううん、リディアンの制服を着た、とっても仲の良さそうな二人組。その片方の子が、美味しい美味しいって本当に物凄い勢いで…」

 

そのあまりの食べっぷりのよさに、店員らクラスメートたちは、ただただ呆気にとられるしかなかったという。

 

しっかし、リディアンの制服で仲良さそうな二人組ね…。

 

目前の切歌と調を見る。さすがにいま僕たちといるんだから、彼女らはシロだろう。だいたい切歌だってそんなに食えないだろうし。

 

「どうしたの、ハルト?」

 

心配そうなマリアさんに、掻い摘んで説明する。

 

リディアンの女生徒に、無料お代わりでしこまたカレーを食べられてしまったと説明したくだりで、

 

「あ」

 

と三人そろって口を開けてくれた。

続けて気まずそうな顔つきになる三人に、何か知っているな? と思ったけど詮索は後だ。

 

とにかく、売れてカレーが無くなるのは基本的に当たり前で結構なことだ。

しかし、お代わり無料券でたらふく食べられてしまえば、当然その分は売り上げには直結しない。

ここで仕方ないと諦めるには、僕らは綿密な売り上げの計画を建てすぎている。

このまま売上が不足すれば、打ち上げの駅前の焼肉食べ放題の予約がフイになってしまうだろう。

 

…実際のところ、十分すぎるほどカレーを準備した僕に責任はないと思う。

だからといって何もしないわけにはいかないだろ?

 

…すみません。僕はこれから教室へ戻らなきゃいけないんです。

 

―――だから今日のデートはここまでに。

そう続けようとした僕を遮るようにマリアさんの声。

 

「わかったわ。わたしに何か手伝えることはある?」

 

いいんですか?

 

「彼氏が困っているんだもの。彼女が協力しないでどうするの?」

 

…ッ! …ありがとうございます。

 

「それじゃあ、アタシたちはそろそろ」

 

いや、おまえらも手伝え。

 

「え?」

 

原因は同じリディアンだからな。連帯責任だ。

 

「そんな理不尽デースッ!」

 

 

 

 

 

 

 

僕らのクラスの教室は2/3を区切って食堂にし、残りの1/3が厨房というかスタッフルームになっている。

スタッフオンリーと張り紙のしてあるドアを開けると、一瞬だけ僕らに視線が集中。

驚いた小金井はメイドさん姿で、結構可愛いと思う。

そんな僕の個人的な感想なんぞ押し流して、またぞろ溢れ出す喧騒とカオス。

 

「じゃあ、どうすんだよ? このカレー売り切っても、赤字かトントンだろ?」

 

「その分、メイド喫茶で補填できないか?」

 

「ガレットの売り上げを増やせれば…」

 

「いや、もう色々と無理だろー」

 

「あたし、焼き肉店に予約のキャンセルしてこようか!?」

 

あの、現状はどれくらいカレーは残って、客の入りはどんな感じなんだッ!?

 

僕が声を張り上げるも、皆の悲観的な声の波に飲み込まれて消える。

 

その時だ。

 

「うろたえるなッ!」

 

ピンと芯の通ったマリアさんの声。

視線がマリアさんへと集中する。

 

「ご、ごめんなさい」

 

すかさずぺこりと頭を下げるマリアさんだったけど、せっかく束ねてもらった視線を僕は逃さない。

 

誰か! 現状の報告と確認を頼む!

 

弾かれたように顔を上げたのは小金井。

 

「え、えーと。今残っているカレーは、鍋一杯ぶんくらい? お客の入りと捌け具合からして、あと一時間はもたないと思う…」

 

時計を見る。12時過ぎの掻き入れ時だ。小金井の推察は正しいと思う。

なら、そのおよそ一時間で、何をするべきだ?

決まっている。新たなカレーを作って売り抜けるしかない。

 

材料は、何がどれくらい残っているっけ?

 

「ご飯は多めに準備しているけど、ルウも材料も、あまり残ってないはずだよ…」

 

悲観的な声を出すメイドさん2号。

 

なら、材料の買い出しを!

 

「それはダメなんだよ」

 

斉藤の声。

 

「以前、文化祭実施中にバックれた連中がいてな。文化祭中は生徒が学校の敷地内から出るのは御法度になったんだ」

 

そんな…ッ! さすがにこの材料だけじゃ追加のカレーは作れないぞ!?

 

「だったら…諦めるしかないのか…?」

 

項垂れる斉藤に、僕は顔を上げる。ここでグジグジ悩んでいても仕方ない。

 

取り敢えず、今のカレーは捌けるだけ捌いてくれ。

僕は家庭科室に行っているから、手隙の人は一緒に来て!

 

僕が教室を出ると、四、五人の生徒がついてきてくれた。もちろんマリアさんたちも一緒だ。

無人の家庭科室は、先日まで煮込んでいたカレーの匂いがまだ残っている。

匂いはともかく、まずは材料がどれだけ残っているかを把握しなくちゃ。

…玉ねぎは結構残っている。他の野菜はほんの少しずづで、スパイスは風味づけ程度。肝心要のルウは…くそ、やっぱり少ししか残っていないのか。

 

「これだけでも一応作れないデスか?」

 

そりゃ作れるよ? でもある程度の量を作らなきゃ駄目なんだ。

 

「じゃあ、薄めたらどうかな?」

 

ジャバジャバのカレーじゃ、ご飯にかけても。

 

切歌と調の提言に耳を傾けながら、僕は必死で頭を回し続ける。

やっぱり限られた材料で少しの量でも追加のカレーを作るしかないのか? せめてもっと材料があれば…。

 

「いっそ、他のクラスから買ってくるか? E組は確かハヤシライスだったろ?」

 

「ばっか、そんなの買ってきて売ったとしても赤字になるだろうが」

 

「そこは、ほら、メイドさんの付加価値を付ければなんとかなるんじゃない?」

 

ついて来たクラスメートたちの会話に、僕はハッと顔を上げる。

 

…斉藤。

 

「ど、どうした?」

 

よそのクラスから、足りない材料を購入するのは違反にならないのかな?

 

「そりゃ違反にならないだろうけどよ、買ってきたものを右から左へ流すのは色々とヤバいだろ?」

 

ああ、もちろん分かっているさ。

 

テーブルの上に文化祭のパンフレットを広げる。探すのは、食べ物系の店舗を運営しているクラスだ。

 

…よし! 誰か、表のバスケ部の屋台から焼き鳥を買ってきてくれ! 正肉を出来るだけ!

 

他に、B組のうどん屋から出汁をわけてもらってきて。インスタントでもなんでもいい!

 

それと、茶道部が甘味処をやっているな? 確か葛餅を出すっていっていたから、葛が余ってないか訊いて、余っていたら譲ってもらってきて欲しい!

 

あとは、料理研が天然酵母のパンを売りに出している。バケットっぽいのがあったら買ってきてくれ!

 

「わ、わかった。任せとけ」

 

僕の矢継ぎ早の命令に、斉藤を筆頭に次々とクラスメートたちが家庭科室を出て行く。

残ったのはマリアさんと切歌に調だけ。

 

じゃあマリアさんはお湯を沸かしておいて貰っていいですか?

そんで、切歌と調には、この玉ねぎを…。

 

「わかったデス! 細かく切っておくデスね!?」

 

いや、卸金で摩り下ろしておいて。

 

「なんデスと!?」

 

叫ぶ切歌に詳しい説明をしている暇はない。

 

「とりあえず、買えるだけ買ってきたぞ!」

 

さっそく焼き鳥を抱えた斉藤が到着。

 

OK、塩味で上等だ。

 

マリアさんと協力して串から鶏肉を外していく。

 

「出汁を貰ってきたよ。顆粒だけど」

 

よしよし。

 

「とりあえず使わなかった葛、余ってたの全部貰ってきたけど…」

 

…よしッ! これでなんとかなりそうだッ!

 

「ハルト、あなた何を作ろうとしてるわけ?」

 

マリアさんの台詞に、まあ見てて下さいよ、と僕は煮え立つお湯に出汁を注ぐ。それからルウを溶き、心持ち胡椒を強めに利かせた。

そこに焼き鳥串から外した鶏肉を放り込んで少々煮込めば、即席の和風出汁のチキンカレーになる。

 

「でも、こんなシャバシャバじゃ…」

 

調が心配する通り、これをこのままご飯にかけちゃ、お茶漬けみたいな感じになるだろう。

圧倒的にルウが足りない上に、一緒に野菜などを入れて煮込んでないので、トロミがないからだ。

もちろん今はそんな時間も材料も不足してるので、僕が次善の策で用意したのが、この葛だ。

これを溶かしこむことによって、トロミを即席で付加してやるってわけ。

なんか半透明で天津飯にかける中華餡みたいな感じになるけれど、これでライスの中に浸透してシャバシャバになることはない。

 

ほら、マリアさん。試食してみてくださいな。

 

「…あっさりしているけど確かにチキンカレー風で美味しいわ」

 

よしッ、取りあえず代替えがこれで一つ。

コクは足りないだろうけど、そこはマリアさんも言った通りあっさり風味で売りに出そう。

 

切歌、調! そっちの方はどうだ?

 

「玉ねぎを摩り下ろすと、滅茶苦茶目に染みるデス! 涙が止まらないデスよ~!」

 

「あ、切ちゃん、摩り下ろした手で目を拭っちゃあ…」

 

「ぴぎゃあああああああああああああ!?」

 

悶絶している切歌を横に、たっぷりとタッパに摩り下ろされた玉ねぎを見る。

くわ、すげえ目に来る。

急いで蓋をしながら礼を言う。

 

ありがとう。これをニンニクと炒めて、あとは…。

 

「パン買ってきたけど、これでいいの?」

 

食パンタイプだね。それじゃあこれを薄切りにして、そこから更に四等分にしよう。

 

指示を出しつつ、でかい鍋の底にオリーブオイルを引き、摩り下ろした玉ねぎを炒めて行く。

 

あ、残った野菜も全部入れちまうか。…マリアさん、みじん切りでお願いできますか?

 

「了解。任せて」

 

凄い手際をマリアさんが発揮し、野菜は見事なまでに細かく切断されていた。

その野菜も加えて、さらに炒めて行く。

炒まったところにお湯を注ぎ、固形スープも溶かす。残していた焼き鳥と一緒にありったけのローリエをぶち込んだ。

そうしておいて、これまた残ったルウを一欠けらも残さず投入。

これでスープカレーは殆ど完成。

塩コショウで味を調え、深みを出すために、残っていたケチャップやソース、醤油もありったけ入れちゃえ。

 

じゃあ、今度は調、味をみて。

 

「うん。…あ、玉ねぎの甘味があって、これだけでも美味しく飲めそう」

 

…よし! 和風チキンカレーから教室へ運んでくれ!

スープカレーの方は、レモンティー用のレモンの薄切りがあるだろ? それを三枚くらいと、パンとセットで別皿で提供するんだ!

スープカレーには、お好みでレモンを絞ってもらえば、よりさっぱり食べられるように仕上げてあるからッ!

 

僕の指示に従い、家庭科室から鍋が教室まで運搬されていく。

とりあえず、出来ることはやりきった。細工は流々とはいえないけど、あとは天命を待つしかない。

 

 

 

 

 

 

結果から言ってしまおう。

僕らのクラスのカレーとガレッドは、ランチタイムも終わる14時少し前に無事完売。

即興で作った割には、和風チキンカレーもスープカレーもソコソコ好評だった。

僕的には不本意な出来だったから、牛スジカレーに比べて少し値段を下げたのも功を奏したのかな?

売上的にもどうにか目標を達成して、打ち上げもキャンセルせずに済みそうだった。

 

ホッと肩の荷が下りた僕はマリアさんと再び文化祭を堪能。

切歌と調は、後片付けをしている教室で、クラスの女子からメイド服を着せられたりして遊ばれていたから、二人きりでゆっくりと回る。

13時からの軽音部のライブも聞きたかったけど、残念ながら終わっていた。

 

いや、五人組の女の子がやってるんですけどね。左利きでギターを弾きながらツインヴォーカルやっている子がいるんだけど、マリアさんに声がそっくりなんですよ? まあ、歌唱力を比較するのは烏滸がましいですけど。

 

「へえ~」

 

マリアさんも興味深げな声を出してくれたけど、これはまたの機会に譲るしかない。

替わりに体育館のステージではベストカップルコンテストとかってのが催されていた。

飛び入り上等とかであやうく僕とマリアさんもステージ上にあげられそうになったけどこれは割愛。

そんで、ベストカップル最優秀賞に選ばれたのは、なんとリディアンの制服を着た女の子の二人組。

仲良く手を繋いでいる姿は、同性同士なんだけど不思議と違和感がなくしっくりくる。

 

まあ、いまや時代はジェンダーフリーですからねー。

 

僕がそういうと、マリアさんの顔つきが微妙そのものって感じになっていた。

ふと、リディアンの制服を着た仲の良さそうな二人組の片割れがカレーをしこたま食べていった、と伝えたときのマリアさんらの反応を思い出す。

 

…もしかして、あの子たちって、マリアさんの知っている人だったり?

 

「…ええ。よーく知っている子たちよ」

 

溜息をついて肯定したあと、マリアさんに手を引かれて体育館を出た。

こっちが見つかると面倒臭いことになるんだって。

 

「ごめんなさいね、色々と」

 

気づけば、すっかり日が暮れつつある校庭の片隅で。

一緒にベンチに座りながらマリアさんに謝られてしまった。

 

別に謝られることはないですよ? むしろこっちこそ手伝ってもらって助かったし…。

 

不思議に思ってそう問い返す。

 

「いいえ。大元はあの子がカレーを食べすぎちゃったことが原因だと思うし」

 

どうやら、知り合いが迷惑をかけたと責任を感じている模様。

 

まあ、あれも文化祭につきもののハプニングってことで。結果良ければ全て良しじゃないですか?

 

慰めるというより、笑い飛ばす風に言ってみた。

 

「…そうかもね。結果として、わたしもハルトたちのクラスメートの一員として文化祭に参加出来たみたいに思えたし。それに」

 

それに?

 

「あなたの格好良いとこも見られたしね」

 

へ? 僕の格好良いところ?

 

「あの土壇場を、凄い機転で乗り切ったじゃない」

 

い、いやいやいや! あれは単に行き当たりばったりが上手くいったというか!

 

つんと鼻を指で突かれた。突いたマリアさんが笑っている。

 

「このわたしが褒めているんだから、素直に受け取りなさいな」

 

…はい。光栄至極です。

 

トップアーティストとして頂点を極めたマリアさんからお墨付きを貰ってしまった。

これはこの上ない名誉で自慢だね。

 

夜の風が吹く。

運んできたのは冷たい空気ばかりでない。木の焼ける熱と匂いも運んでくる。

校庭の中心では、いまや赤々とキャンプファイヤーが燃えていた。

今日の文化祭のクライマックスにして最後の締めくくり。

薄暗い中、その周囲を、たくさんの生徒たちが輪になって踊っている。

見ればクラスメートたちもいて、小金井や斉藤の姿もあった。

 

…そういえば、あの二人。

文化祭の準備をしている放課後に、人目につかない廊下の奥で、斉藤が泣いている小金井を宥めている姿を見た。

痴話喧嘩かな? と僕は急いでその場を離れたけれど、今はああやって一緒に踊っているんだ。きっと仲直り出来たんだろうね。

 

「ねえ、ハルト。わたしたちも踊らない?」

 

マリアさんが言ってくる。

 

いえ。

 

断っておいてベンチから立つ。

それから座ったままきょとんとしているマリアさんに向かって、恭しく手を差し出す。

 

僕からお願いさせて下さい。踊っていただけますか、マリアさん?

 

「…ええ、喜んで」

 

そういうわけで、僕たちもキャンプファイアーの輪へと加わった。

もちろん僕にダンスの心得はなく、終始マリアさんにリードされっぱなしだったけどね。

でも、格好悪くたって構うものか。

オレンジの炎に照らしだされたマリアさんはずっと笑顔で、そしてとても綺麗だったんだから。

 

かくして、僕の念願だった目的は果たされ、青春の1ページは永遠となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でもって今回の話のオチ。

 

翌日の月曜日は振替休日なわけで、その夕方。

学校帰りの切歌と調に、僕はスイーツバイキングへと連行されていた。

 

「労働に対する当然の対価デース!」

 

いや、まあ、奢るのは構わないけどね…。

 

僕も実は甘いものは苦手じゃない。

けれど、男一人ではなかなか入りづらいので、二人の提案は渡りに船だったりする。

 

「って、なんでここでもカレー食べているの?」

 

調に驚かれる。

 

最近のこの手の店は、サイドメニューでピザやパスタ、カレーの食べ放題付きは鉄板だし。

味もなかなか侮れないしね。

 

「はあ。もうハルトの好きにするデース」

 

諦めたように切歌はケーキにパクついている。

 

それよか、二人に訊きたいことがあるんだけど。

 

実は先日のクラスの打ち上げを、僕はバックれていた。あの後、マリアさんと電車に乗って横浜に中華を食べに行っている。

バックれた件を咎める連絡や、不思議とマリアさんに関する質問的なメールもなかったんだけど、代わりにクラスの男どもから幾つもメールを貰っている。しかも内容は全部同じ。

 

あのさ。リディアンの知り合いがいるなら誰か女の子を紹介してくれって言われてんだけど…。

 

誰か心当たりない? って尋ねたけど、切歌も調も首を振るだけ。

まあ、考えてみりゃ、僕とこの二人の付き合いも短い。

はっきりいってそんな浅い伝手を期待されても困るってこった。

 

クラスメートへの義理は忘れ、僕もケーキを頬張る。

ケーキ。カレー。ケーキ。カレー。

 

うん、甘いものばかり食べ続けるのはさすがにキツいけど、合間合間のカレーが良い口直しになるわー。

 

「…そうなんデス?」

 

興味を示す切歌に、

 

「駄目だよ、切ちゃん。カレーまで食べちゃさすがにカロリーが危険で危ないことに…!」

 

と調。

 

あ、カロリーが気になるなら、二人ともミルクティーとか甘いの飲まないでウーロン茶飲もうよ。口の中もさっぱりするし、脂肪をつけない効果もあるらしいぜ?

 

「なら、ウーロン茶に切り替えればもっと食べられるってことデスね?」

 

目を輝かせる切歌に、ちょっとからかってみたくなる。

 

えーとね、もう30年以上前に流行ったんだけど、カロリーゼロ理論って知っている?

 

「なにそれ?」

 

調が興味を向けてきた。

 

白いモノはカロリーゼロ。丸いものはゼロだからカロリーゼロってヤツさ。

 

「本当デスか!?」

 

他にも、ほら、いま切歌が食べているシフォンケーキなんかふわふわしてるじゃない? ぎゅっと潰せば、全然厚さもなくなって薄っぺらになるでしょ? そんなものにはカロリーは存在しないって考え方なんだよ。

 

「うおおおッ!? ホントデス! こんなに小さくなっているデス!」

 

「こんなに薄くなるってことは、それだけ栄養がないってことだよね!」

 

調こそ栄養がないから部分的にそんなに薄いんじゃなスミマセンなんでもないです。

 

「そもそもホールケーキが丸いからカロリーゼロデスねッ!」

 

「パンナコッタなんて真っ白だからカロリーゼロなのッ!」

 

おーい、二人ともー。それって冗談だよ、ジョークだよー。おーいってば。

 

皿の上のものを猛スピードで平らげて、切歌と調はケーキコーナーへと走って行ってしまった。

 

…ま、いいか。バイキングだもん。好きなだけ食べればいいよ。

 

 

 

 

そんでもって翌日、二人からまた文面が一緒のメールが来た。

 

『嘘つき嘘つき嘘つきッ!』

 

 

 

いや、もうほんと学習しないねキミたちは?

 

 



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10話

師走も目前にせまり、日に日に寒さが身に染みる。

さすがにエアコンだけでは辛くなってきた我が家では、とうとう押入れからコタツを引っ張り出していた。

 

でも、このコタツ、長方形で6人くらい一気に入れるデカいタイプ。

両親も不在の今、僕一人では持て余す。

掃除も面倒くさいし、そのうちもっと小さい円卓タイプでも買おうかな…。

 

それでも、当座はこれを使うしかないか。

そう思って設置したわけだけど。

 

「ハルト。リビングのドアの隙間が開いてて寒いから閉めて」

 

「もう蜜柑がないデスよぉ?」

 

いつの間にか、不埒な女子高生二人組に占拠されてましたとさ。

 

…あのさあ。ここは僕ん()よ? トイレいって戻って来たらドアはちゃんと閉めろ。ついでに蜜柑は玄関脇の箱ん中だ。取ってこい!

 

「寒いから()(デス)!」

 

調と切歌の声が見事にハモる。

あ、これはもう梃子でも動ないタイプだ。

 

…仕方ないなあ。

冷え切った玄関の段ボール箱から蜜柑を回収する。きっちりとリビングのドアを閉めて、コタツの上の籠に蜜柑を補充すれば、先を争うように不精者たちが手を出してくる。

 

「いやあ、日本のコタツは最高デスなあ♪」

 

蜜柑を頬張りながら上機嫌な切歌。

 

「コタツには魔物が棲んでいるって噂は本当だね、切ちゃん」

 

蜜柑の白いスジを一本一本丁寧に外しながら調も暢気なもんだ。

 

ったく、ここしばらく毎日のように僕ん家に入り浸りやがって。

 

「ハルトの家にはコタツがあるから仕方ないんデスよ!」

 

そんなの、自分たちの家でも買えばいいだろ?

 

「でも、私たちの家じゃあ、蜜柑やご飯は出てこないし…」

 

おい、コラ。

 

声を荒げると、キャーッと二人してコタツの中へすっぽりと頭ごと引っ込んでしまう。

子供かよ。

そして、やっぱりでかいコタツってのは考えもんだ。

 

「で、今日の晩御飯はなんなんデス?」

 

切歌がコタツから亀みたいに顔を出している。

 

知らねーよ。むしろ、おまえたちに食わせる飯はねえ!

 

すると、切歌の隣に調も揃って顔を出す。

 

「今日のご飯はともかく、私たちは、昨日のデートがどうなったか訊きたいんだけど…」

 

ああん? どうもこうもないよ。だいたい昨日は君たちも一緒にいたでしょ?

 

 

 

 

 

 

先日の日曜日。

マリアさんからのデートのお誘いで指定されたのは、とある都心の高級ホテル。

クリーニング仕立ての一張羅のジャケットを着て行ったけど、入口にベルボーイが立っていたりして入るのを躊躇してしまう。

それでもベルボーイはにこやかにドアを開けてくれて、一歩中に踏み込むなり、場違い感が凄い。

 

いや、ああいうホテルって、中に入ると空気まで違うんだよね。

アホみたいに高い天井に、シャンデリアとかキラキラしててさ。

なんかゆったりとしたクラシックのBGMが流れていて、とにかく静かで綺麗。

 

あまりの別世界っぷりに、ガチガチに緊張して、ホールの真ん中でおのぼりさんみたいに周囲を見回すしかない。

そんな僕を見つけてくれたマリアさんは、ゆったりとしたチェックとパンツスーツ姿で、本当に優雅だった。さすがにこんなホテルを常宿にしているだけのことはあるなあ、と感心してしまう。

 

「待ってたわ」

 

マリアさんに手を引かれて、ホテル内のブティックへ。

ってゆーか、なんでホテルの中に普通にお店があるの?

お店があるのは普通商業ビルでしょ?

セレブリティの世界観に戦慄する僕に、マリアさんが買ってくれたのは、海パン。

 

…へ? 今は11月も終わりですよね?

 

「今日は、ここのプールを貸し切ってあるから、泳ぎましょ」

 

さらっと飛んでもないことを言うマリアさん。

 

そ、そんな、丸々貸切なんて!

 

「それでも、4時間くらいしか借りられないから、急いで着替えて頂戴?」

 

いや、4時間でも十分凄いです…。

 

で、プールの入口らしき前でマリアさんと別れ、係りの人に男性用の脱衣所に案内されたけど、とても脱衣所に見えない。

うん、併設されているサウナは分かるよ? じゃあ何この乾燥室ってのは?

あ、入る前の塩素プールはどこですか? え? ない? そうですか。

 

しっかし、ここにあるものは全てご自由にお使い下さいって言われても。

アメニティとして使い捨てらしい歯ブラシや髭剃りもあるけれど、僕の普段使いより高級そう。

こっちのタオルに至っては、ふわふわ感と手触りが半端ない。

…家に一枚くらい持って帰っちゃダメかなあ。

 

日常とのあまりのギャップにクラクラする。

それでもどうにか着替えて、プールへ続く扉を開けたとたん、全力で回れ右したくなった。

 

うん、僕の知っているプールと違う。

 

室内なので空調は完璧に利いている。

そこに来て吹き抜けのように高い天井に、周囲は全てガラス張りってなんなの?

楕円形を組み合わせたお洒落な形のプールはとにかく広くて、なんか飛び込み台まであるし。

デッキチェアの周りには南国風の植物がワサワサで非常にトロピカルです。

いやあもう、学校の25メートルプールしか知らない人間にはギャップが強すぎですよ。

 

「おまたせ、ハルト」

 

マリアさんが来た。

着ている水着は純白のビキニに、腰には同色のパレオ。

とても清楚な印象を受ける反面―――それに包まれたボリュームは凶悪すぎる。

 

「…? どうかした?」

 

い、いえ。とっても似合ってますよ。

 

「そう、ありがとう」

 

マリアさんはニッコリ笑ってくれているけど、僕はその笑顔すら直視できない。

世界的なスーパースターなこともあるけど、マリアさんは過去にも水着写真とか出しているわけですよ。僕もネットとかで見たことあるし。

 

でも、写真と実物じゃあ全然違う。生々しさって表現は好きじゃないけれど、いま、目の前でその水着姿で動かれると、その…。

 

軽い眩暈を覚え、僕はふらふらとデッキチェアへ腰を降ろしてしまった。

 

「どうしたの? 具合でも悪かった?」

 

だ、大丈夫です。少し慣れない雰囲気に酔ってしまったみたいです、たぶん。

 

「なら、何か冷たいものでも飲む?」

 

マリアさんは係りの人へと注文している。

お冷でも持ってきてくれるのかな…って思ったけれど、そんなわけはなかった。

お盆に載って運ばれてきたでっかい金魚鉢みたいなグラスの中には、氷とブルーハワイ色の液体がたっぷり。

グラスの縁には皮つきでカットされたパイナップルが刺さっていて、ジェットコースターみたいにループしたストローが差し込んである。

うわー、映画とかでしか見たことない正真正銘のトロピカルドリンクやー。

 

とりあえず口をつけてみた。

甘くて美味しいと思う反面、これでいくらするんだろう? って考えてしまった貧乏性の僕を笑いたきゃ笑え。

 

…あの~、マリアさん。僕は大丈夫ですから、先に泳いでて下さいよ。

 

「そお?」

 

僕も落ち着いたらすぐに行きますから。

 

「…ん。分かったわ」

 

そういうとマリアさんはパレオを投げ捨てるように外し、プールへと飛び込んだ。

見事な飛び込みに綺麗な飛沫が上がる。

そのまま力強いクロールでプールの半ばで泳ぐと、顔を上げて振り返ってきた。

濡れた髪が額に張り付いている姿に、背筋がゾクゾクする。

 

手を振りかえし、僕はまたトロピカルドリンクを啜る。

クールダウンしろクールダウン。

 

そのまま対岸まで泳ぎ切ったマリアさんは、ひょこひょこと飛び込み台の上へと登って行く。

 

「ハルト~!」

 

僕の名を呼んだあと、踏切台の上で軽くジャンプ。

見事な後方二回転を披露し、スッと着水。

本当に何でも出来る人なんだな。…ってゆーか、あれってプロ選手並みじゃないの?

 

そんなマリアさんは、す~っと平泳ぎでこちらへ戻ってくる。

 

「ほら、そろそろ一緒に泳ぎましょう?」

 

プールの縁に両腕を載せながらマリアさん。ポタポタと後れ毛から水が滴っている姿も色っぽい。そんな格好をされると、どうしてもむっちりとした胸の谷間に視線が引き寄せられて…いかんいかん!

 

いえ、僕はもう少し…。

 

「せっかくのデートなのよ? 一人で泳いでいてもつまらないわ」

 

―――ごもっともな意見です。しかし、男には、いえ、男だからこそ、動けない時があるんですよ!

 

心の中で絶叫しても、マリアさんに伝わるはずもなく。

ああ、もう、頬をぷくーっと膨らませる子供じみた真似すら素敵で困るよ、マリアさん。

 

…ん?

 

たったったと何かが駆けてくる音。

続いて、僕らの視界を横切る二つの影。

どぼーんと盛大に上がる水飛沫に、マリアさんは顔を歪め、僕はモロに浴びてしまう。

 

そして、沈んだものが顔を出す。

 

「ズルいデスよ、二人だけでプールで泳ぐなんて!」

 

き、切歌ぁ!?

 

「私も最近乙女の秘密の数字が増加中だから、泳ぎたいの」

 

調まで?

 

ど、どうやってここを嗅ぎつけたんだよ? マリアさん、心当たりは?

 

マリアさんは渋い顔で首を振っている。僕も心当たりなんてないから、二人して尾行でもしてきたのか?

 

「ハルトも一緒に乗らないデスか?」

 

切歌が自前らしいワニさんボートにのって後ろを指さした。

調に至っては、ビーチボールを抱えてウキウキ感を隠そうともしない。

 

…どうやら、さっきまでのドキドキな空気さんは完全に息の根を止められちゃったみたいですね。

一気に雰囲気はレジャーに来た家族連れだよ。

 

「あなたたちね…」

 

マリアさんが眉毛を逆立てている。

さすがに怒るかな? と思ったけど、やっぱり力が抜けた。

そもそもマリアさんは二人に甘いから、絶対にこのまま帰れなんて言わないだろうし。

 

それでもマリアさんは僕に目くばせをしてくれた。謝っているようにも見えるし、どうする? って問いかけているようにも見える。

僕は苦笑して頷く。マリアさんの好きにして下さいって意味でね。

 

「…もう。仕方ないわね」

 

それから僕らは四人で信じられないほど健全にプールで遊んだ。

一応、切歌と調の水着姿もなかなか可愛かったと言及しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

「プールで遊んだとこまではさすがに覚えているデスよ!」

 

「あのあと、ハルトはマリアと二人っきりでディナーだったんでしょ?」

 

ああ、訊きたいのはそっちの件ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

プール遊びを堪能したあと。

僕はまたぞろマリアさんにブティックへ連行されて、ピリッとしたスーツを着せられた。

同じブティックでマリアさんも真っ赤なドレスに着替えている。

本当にゴージャスで素敵だった。

ただ、背中の部分がぱっかりと開いてたのには赤面してしまった。

さっきまでもっと露出の高い水着姿を見ていたのに、何でだろうね?

 

文字通りのドレスコード姿で向かったのは地上35階にあるというレストラン。

眺めは本当に素晴らしかったよ。

ディナーのフレンチのフルコースなんて初めてだったけど、マリアさんがテーブルマナーを手取り足取り教えてくれたからどうにか食べれたさ。

それから、ワインを飲んで少し酔っちゃったらしいマリアさんをホテルの部屋まで送って…。

 

 

 

 

 

 

 

 

「部屋まで送って…どうしたデス?」

 

「…どきどき」

 

え? 夜も遅いから、そのまま帰ったよ? あ、でも帰り道に牛丼屋でカレー食べたなあ。

いや、フルコースなんて喰ったことないから、正直何を食べたかも覚えてなくて…。

 

「………つっまんないデース!」

 

「………ハルトって、おバカさんなの?」

 

なんだよ、ひどい言い分だな?

まあ、いいよ、なんとでも言え! どうせ僕はフルコースの味なんか分からないよ! カレーの味しか分からないつまらない男さ!

 

「…そういうこといってるんじゃないんデスけどね」

 

切歌と調が揃って溜息をついている。

 

へ? じゃあどういうことなんだ?

 

「ハルトはマリアに幻想を抱きすぎだと思うの」

 

だって、マリアさんって世界一の歌姫で、そんで世界を救った英雄でもあるんでしょ?

しかも美人なんだから、僕にとっちゃ存在自体がファンタジーってもんだよ。

まあ、それをいっちゃあ平凡を絵にかいたような僕が、マリアさんを彼女にしていること自体ファンタジーか。ははは。

 

ジト目で切歌は僕を見ている。

 

「ハルトは平凡っていうけど、カレーに対しては異常な能力を発揮するデスよね?」

 

否定はしないけど、異常っての言い過ぎじゃね?

 

「マリアだって同じデスよ」

 

つんと澄まし顔で言う切歌に、

 

「うん、切ちゃん。今の台詞、オトナの女って感じでカッコいいよ」

 

なぜかパチパチと拍手をする調。

 

…僕があのマリアさんと一緒だって? そんなの比べること自体おかしくない?

  

「アタシたちは家族だからわかるんデスけど、ハルトとマリアは似ている気がするデスよ」

 

「そうだねー」

 

だから、似ているわきゃないでしょ?

本当に意味が分からないこというね、二人とも。

 

「ところで、さっきから何を作っているの?」

 

あん? おでんだけど? …なんだよ、二人ともそんな驚いた顔して。

僕だってたまにはカレー以外のものも作るよ? 

 

「コタツに入って熱々のおでんを食べるなんて、最高に決まっているデス!」

 

「楽しみだね、切ちゃん」

 

なにその食べて行くことが既定路線になっている会話は?

 

…まあ、いいや。どうせ多めに作っているし。

つっても、やっと大根の下茹でが終わったところだから、今から土鍋で煮込んで出来上がるまでは40分くらいかかるかな?

 

「えー、待っているのは退屈デスよ、ハルト~」

 

「なにかゲームとかないの?」

 

…なんなんでしょう、この好き勝手絶頂な二人組は?

いや、キレてないですよ? 僕をキレさせたら大したもんですよ。

 

えーと、そこのサイドボードの引き出しを開けてみ。

 

「これデスか?」

 

意地でもコタツに下半身を入れたまま、切歌がサイドボードを漁っている。

 

「うわあ、ボードゲームがこんなにいっぱい」

 

同じく、コタツから上半身を生やして調は感嘆の声。

 

それは親父の趣味でね。二人から出来るやつもあるから、適当に遊んでたら?

 

「なら、さっそくするデス、調ぇ!」

 

「たくさんあって迷っちゃうけど…。よし、これにしよう、切ちゃん」

 

お、Splendorか。比較的初心者もとっつきやすいヤツだね、確か。

でも調、ちょっと待って。それ海外版だから、説明書はドイツ語だかスペイン語だったかと思うんだけど。

 

「ドイツ語もスペイン語も読めるよ?」

 

…何気にスペック高いのね、キミ。

 

二人して、コタツのテーブルの上にゲームを広げ始めた。

一番最初のゲームはルール説明をしながら30分。二試合目は15分ほどで決着がついたようで、ちょうどおでんも仕上がった頃だ。

 

ほら、鍋を運ぶから、ゲーム片付けて。

 

広いテーブルの真ん中に鍋を置き、小鉢にそれぞれよそっていく。

定番の大根、こんにゃく、卵。

練り物系はさすがにお店で出来あいを買ってきた。

ウインナーと牛スジは当然として、湯剥きしたミディアムトマトを入れてあるのが我が家流かな?

 

「おでんにトマトなんデスか!?」

 

ああ。結構イケるよ?

 

「あ、本当だ。美味しい…」

 

辛子と七味、柚子胡椒はお好みで使ってくれ。

 

熱々のおでんを、三人してほふほふ言いながら楽しむ。

 

「なんだか、身体がポカポカしてきた」

 

調が額の汗を拭っている。

 

そりゃあさっきからずっとコタツにも入っているしね。いい加減、身体も芯から温まってきたんでしょ。

 

「…ちょっとレギンス脱いじゃお」

 

コタツの中に手を入れてごそごそすることしばし、調は黒いレギンスを引っ張りだした。

畳んでいるのを横目で眺めたけど、裏起毛で暖かそう。

 

「アタシも暑くなってきたから脱いじゃうデスよ」

 

え? 切歌はこの寒いのに生足だったろ?

 

「だから毛糸のぱんつを脱いでるデス」

 

聞けば、冬でも生足の女子高生はその殆どが履いている必須アイテムで、結構暖かいそうな。

うーん、長年の謎が解けたというべきか、無駄な知識を得たというべきか。

 

「…そろそろお腹いっぱいデスよ」

 

「私も…」

 

これから〆を作るんだけど、二人とも食べない?

 

まだまだ具が残っている鍋をキッチンへ運ぶ。

火にかけて、少し出汁を足し、更にそこに投入するのは。

 

「…まさか!?」

 

鼻をヒクつかせる二人に、僕はニヤリと笑う。

 

当然〆はおでんカレーでえす。

 

さっそくご飯にかけて頬張る。

うん、染み染みの大根にさらにカレーが染みて最高。齧って出てくる出汁とカレーのアンサンブルが素晴らしい。

ちくわぶもカレー味でモチモチになって、牛スジなんか言わずもがなだね。

煮玉子を崩しながらカレーと混ぜて食べるのがまた…。

 

ぐびり、と僕以外の誰かの喉の鳴る音がした。

 

「ア、アタシも食べるデスよ!」

 

はいはい、いまよそってやるから待ってな。

 

「…おに、あくま、ハルト!」

 

えーと、涙目でそんなこと言いながら皿を差し出されても。

結局調も食べたいんでしょ?

 

まあ、そんなこんなでカレーもたらふく食べた二人は、コタツの中にひっくり返っている。

 

こら、せめて片付けくらい手伝えや。

 

「ん~、もう少し後で手伝うデスから~」

 

「いま、すごく気持ちいいの…」

 

まあ、気持ちは分からんでもない。けど、人ん家で少しは遠慮しようぜ?

それにそろそろいい時間だろ? 帰らなくていいのか? 明日も学校でしょ? つか帰れよ!

 

「う~ん、アタシはハルトの家の子になるデス~」

 

そんな手伝いもしない大きな子はいりません!

調も早く起きて帰る支度しなって。

 

「切ちゃんが帰るって言ったらするから」

 

おいおい、こっちも帰る気がないのかよ?

 

ぼやく僕の前で、ますますコタツの奥深くへ潜り込む二人。

 

…仕方ない。

不承不承、それでいて少し期待に胸を躍らせながら、僕は最近頻繁に連絡を取っている人へ電話をした。

 

 

 

 

「…ごめんなさい、二人が迷惑をかけているたみたいで」

 

玄関先で出迎えると、いきなりマリアさんに謝られる。

 

いえいえ。僕こそ急に呼び出してしまってすみません。

 

いわゆるコタツの魔性に捕まった二人を引っ張り出すために、僕が召還したのはもちろんお母さ…いやいや、マリアさん。

 

「コラ、切歌! 調! ハルトに迷惑かけちゃダメでしょう!」

 

リビングに入るなり開口一番そういったマリアさんだけど、なんか目を見張っている。

 

…どうしました?

 

「い、いえ、これってコタツよね? 噂には聞いていたけど、見るのは初めてで…」

 

そうなんですか? まあ、ホテルとかには置いてないでしょうからね。

 

「マリアも入ってみるデスよ」

 

「うん。とっても暖かくて気持ちいいよ?」

 

コタツから首だけ出して調と切歌。

少し迷っているらしいマリアさんがスンと鼻を鳴らす。

 

「あら? この匂いは…?」

 

あ、夕飯におでん作ったんですよ。もう〆でカレーおでんにしちゃいましたけどね。

…もしかして、マリアさん、夕食、まだだったり?

 

「…実はそうなの。食べようと思ってお店に入ったらハルトから電話が来たから…」

 

そ、それは失礼しました! まだ残ってますけど、良かったら食べませんか?

 

マリアさんはコタツと、そこから顔だけ出した切歌と調を見て、難しい顔をしている。

切歌と調はニヤニヤした表情でマリアさんを見上げている。

 

「…そうね。せっかくだからご相伴にあずかろうかしら?」

 

はい。それじゃあ今温めなおすんで、コタツにでも入って待っていてください。

 

キッチンで鍋を火にかけていると、ストッキングに包まれた長いおみ足をおそるおそるコタツへと差し込むマリアさんが見えた。

 

「…へえ。コタツの中ってこんな風に温かいのね」

 

「そんで、コタツには蜜柑なんデスよ!」

 

「眠かったら、そのまま眠っちゃっても大丈夫なの」

 

切歌と調が熱心にコタツの素晴らしさをアピールしている。

 

 

ところで、家族ってのは、一緒に暮らしていると、趣味嗜好、考え方が似てくるものだ。

そして調と切歌はマリアさんと家族だと言っていた。

血の繋がりとかなくたって家族として互いに感化しあい、一緒の価値観を共有してしまうことだって往々にある。

 

…そんなの両親にさんざん感化された僕が、真っ先に気づいて然るべきだろ?

なので、僕は、半ば絶望的な表情で目前の光景を眺めるしかなかった。

 

「ハルト、悪いけど、お燗をもう一本付けてもらえないかしら?」

 

カレーおでんに舌鼓を打ち、おちょこ片手に上機嫌のマリアさんが居る。

なんとマリアさんもコタツの魔性に捕まってしまっていた。

 

…まあ、調と切歌が陥落しているんだから、そりゃマリアさんも落ちるよな…。

 

今や我が家のリビングルームは、まさにミイラ取りがミイラになる、という諺を絶賛体現中。

コタツに足を突っ込んだまま切歌と調はカードゲームに興じ、マリアさんはそれを眺めながらお酒と食事を楽しんでいる。

 

そんな団欒の光景に、僕は憮然として―――その実、内心はちょっぴり懐かしい。

 

ああ、昔、親父もこんな風に酒を飲みながら、お袋と僕がゲームで対戦しているのを嬉しそうに眺めていたっけ。

 

「…このカレー味の大根、たっぷりと七味をかけていただくとたまらないわね」

 

マリアさんがほふほふと口に大根を運び、きゅっと日本酒で流し込んでいる。

おでんの出汁を作るとき、みりん替わりに使った日本酒の残りだ。

マリアさんから、なんで吟醸酒なんてを使っているの! って怒られてしまったけど、ちょうどみりんを切らしていたから仕方なかったんですよ。

 

「ふう…。なんだかわたしも暑くなってきちゃたわ」

 

そういってマリアさんは上着の胸元のボタンを外している。

続いてコタツの中に手を入れてなにやらゴソゴソしていたけど、ひっぱり出されたストッキングを見て、さすがに僕もドギマギしてしまう。

 

ちょ、ちょっとマリアさん! コタツの中でいきなりストッキングを脱ぐなんて…!

 

「え? 誰も見てないから構わないでしょ?」

 

「そうデス! コタツの中は温かいまま着替えられて凄いんデスよ!」

 

小学生並みの感想を漏らす切歌に、僕の動揺を理解させるのは難しい。むしろ数秒で諦めた。

しっかし、コタツ周辺のカオスは増すばかりだ。

冗談抜きで、三人ともこのままコタツで雑魚寝しそうな勢いだぞ。

なにか根本的な解決策は…あ。

 

僕はリビングの壁際へと歩く。

そして、そこに刺さっているコタツのコンセントをブッコ抜いた。

 

さあ、あとはドンドン冷えてくるぞ。

温かくないコタツなんて冷蔵庫と同じだぞ?

早くでないと身体まで冷えてくるぞー。

 

そう脅しても、なおコタツに身を沈める切歌と調だったが、さすがに温度が下がっているのは体感出来たらしい。

悔しそうにこちらを睨んできたけど、もうコンセントは刺させませーん。

ああもう、最初からこうしてりゃ良かったよ。

 

「仕方ないから帰るデスよ、調!」

 

「ハルトはやっぱり意地悪だね」

 

名残惜しそうにコタツから出て、この言い草である。

 

あのね、もともとここは僕んち。

所有権も領有権も僕にあるの。ユーアンダスタン?

 

そう嫌味くさく言ってみたが、まるで反応なし。

それどころか、

 

「これで勝ったと思うなデス!」

 

「コタツ好きは何度でも戻って来るんだから」

 

捨て台詞を吐いて、二人は玄関から出ていった。

…いっそ塩撒いてやろうか?

僕が軽く逡巡していると、きっちりと身形を整えたマリアさんが隣に立っている。

 

「今日もご馳走様。それと、本当に二人のことはごめんなさい」

 

少しだけ頬が赤く見えたけど、ついさっきまでコタツの前でだらけきっていた姿の欠片も見られないのはさすがです。

 

いえいえ、それじゃあお休みなさい。

 

マリアさんを見送り、僕はリビングへ取って返す。

コタツの布団を全部テーブルの前に捲り上げたのは、マリアさんの残り香を嗅いで…なんてことは絶対にないからな! あくまで掃除のための換気だからな!

それでも、マリアさんを始め、あの三人がコタツの中でゴソゴソしていたと思うと…うん、ちょっとそそられるものがないこともない。

 

そんな煩悩を振り切りつつ、掃除機をかけようとしたら、見慣れないものを発見。

なんだこれ? 

真っ赤な毛糸の…なんだ?

手に持って広げると、なんか形は短パンみたい。

おしりのところにウサギのアップリケがあるこれは…ああ、切歌が言っていた毛糸のパンツってやつか。

しかしパンツっていっても、子供くさい上に色気は皆無だな。

 

ったく、勝手に脱いで忘れて行きやがって。

どうしよう? まだマンションを出たくらいだから、走れば追い付けないこともない。

仕方ない。届けてやるか。

 

さすがに剥き身で持ってこられるのは嫌だろう。適当な紙袋に放り込み、僕は自宅を出る。

丁度きたエレベータに乗り込み、エントランスへ下りれば、三人の背中は玄関の外に見えた。

 

おーい、待ってくれよ、切歌!

 

マンションを出て、少しいった歩道で三人に追いつく。

 

「どうしたデスか?」

 

どうしたもこうしたも、ほら、忘れ物だよ。

 

「忘れ物?」

 

毛糸のパンツだよ。さっきコタツの中で脱いで忘れてったろ?

 

紙袋を差し出すと、切歌は不思議そうに首を捻る。

 

「アタシはコタツから出るときしっかり履いたデスよ?」

 

へ? じゃあ、これは…?

 

顔を真っ赤にしたマリアさんに、袋ごと掻っ攫われた。

 

…リアリィ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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11話

 

思い返せば、朝起きて、すでに身体が重かった気がする。

朝のHRで軽い頭痛がして、一時限目の授業中にはもう喉がいがらっぽく、飲み込む唾が痛い。

 

あ、こりゃまずいな。

 

そう思って休み時間に保健室へ行った。熱を測れば37.8度。

 

「うん、これは風邪ね。早退してお医者さんへ行きなさい」

 

保健室の先生の勧めで早退することに決めた。

一旦教室へ戻るも、階段の上り下りで息が乱れる。

 

どうして熱があるって自覚すると、急に具合が悪くなってくるんだろうね?

 

荷物を持ち、クラス委員に早退する旨を告げ、僕は学校を出た。

日中は陽が差して結構暖かい―――と思ったとたん、背筋にぶるると悪寒。

 

こりゃ本格的にまずいな。

ふら付く足取りで、自宅の近くの病院へ。

受付で症状を告げ、検温すれば38.3度。久方ぶりの38度越えだ。

おかげで、待合室で待っている間も、ぼーっとするだけでスマホを弄る気力も沸いてこない。

 

「喉も赤いし風邪でしょう。お薬を出すので、温かくして安静にしていて下さい」

 

ぼーっとしたまま診察を終え、ぼーっとしたまま併設の調剤薬局で薬を受け取る。

それから帰り道のスーパーでスポーツドリンクのペットボトルとかを買い込み、どうにか自宅へと帰還したのはまだ午前中だったと思う。

当たり前だけど、誰もいない部屋は冷え切っていた。

こういう時、一人暮らしは辛いと痛感する。

 

制服を脱ぎ散らかし、パジャマへと着換える。

薬は食後に、と言われたけど、全く食欲がなかったので、とっととスポーツドリンクで流し込んだ。

 

…やべ、本格的に頭が痛くなってきたわ。

 

冷凍庫から、しばらく使ってなくてカチコチのアイスノンを引っ張り出してタオルにくるむ。

ぜいぜい言いながら自室のベッドへ転がり込んで、それでもスマホをしっかり持つのを忘れない。

一人暮らしで病気のとき、万が一の生命線はこれだ。

 

もうその頃には、喉が痛くてコンコンと咳は出るし、頭痛がひどくて目を開けているのも辛い。

それでも最後の気力を振り絞って、メールを送った相手は切歌と調。

 

『風邪ひいてるから来るな』

 

でないと、平気で遊びにくるんだもん、アイツら。

それを最後に、とうとう僕は力尽きたらしい。

後頭部は冷たいのに、頭の中が痛みでぐるぐるする。

眠りたいのに痛みで眠れない。

それでもひたすら目をつむっていると、眠ってしまったようだ。

 

喉の渇きで目を覚ます。

全身にびっしょりと汗。

 

のろのろと身体を動かして腹ばいになって、ペットボトルから直接スポーツドリンクを飲む。

口の中に熱っぽい膜が張った感じで、味は良くわからない。熱い喉を、生ぬるい感触が流れていくだけ。

 

ゴホゴホと咳き込む。

今、何時だ? 着換えなきゃ。

 

上半身を起こした途端、くらっと来た。

そのままベッドへ倒れ込む。くちゃっと溶けて温いアイスノン。

すごい悪寒がする。熱を測らにゃ、と思ったけれど、しまった、体温計はリビングの棚の中だ。

ガクガクと身体が震える。

取りに行こうと思うけど、寒くて寒くて動けない。

身体を丸めて必死で温まろうとするんだけど、震えが治まってくれいない。くそ、なんだか涙まで滲んできた。

 

…これってマジでやばいんじゃないか?

 

そんな不安が頭の中で滲んで、僕は何も分からなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

―――歌が聞こえる。

 

何の歌かは分からない。知らない歌だ。

でも懐かしく、そして温かい歌。

 

不思議と気持ちが安らぐ。

まるで温かい水底を揺蕩っているような。

 

額に柔らかい感触。

 

目の前の光が、ゆっくりと形を作る。

それは。

 

見たことがない姿。

見たことがあるはずの記憶。

 

もどかしさのあまり、僕は思わず口走る。

 

お母さん―――。

 

 

 

 

 

「…ハルト?」

 

涙で滲む視界が輪郭を取り戻す。

 

…マリア、さん? 

 

「うん、少し熱は下がったみたいだけど」

 

額に覚えのある感触。

ああ、夢で感じたのは、マリアさんの手だったのか。

 

それよりマリアさん。どうしてここに…?

 

「切歌と調にメールしたでしょう? それで、ハルトは一人暮らしだって聞いていたからね。お見舞いに来てみたの」

 

でも、玄関に鍵がかかっていたと思うんですが。

 

「…そ、そこはちょっとね」

 

口ごもるマリアさんだけど、そんなのどうでもいい。

今は、こうやってマリアさんが来てくれただけで嬉しい。

 

「それより、相当具合悪いみたいね」

 

ええ。僕もこんな熱出たの久しぶりです…。

 

「喉は乾いてない?」

 

カラカラです。

 

頷いて、マリアさんはストローでスポーツドリンクを飲ませてくれる。

 

「落ち着いた? だったら着替えましょうか」

 

普段だったら自分でするって突っぱねただろう。でも、今日の僕は本当に限界だった。

 

すみません、お願いします。

 

マリアさんに支えてもらって上体を起こす。

まだ頭はクラクラとする中、これまたマリアさんに手伝ってもらってパジャマとシャツを脱いだ。

汗で両方ともビショビショだった。

マリアさんが熱いタオルで背中を拭いてくれた。

 

「結構ハルトの背中って逞しいのね」

 

正直、恥らう余裕もなかった。

別の熱いタオルを渡してもらって、顔を拭う。

髪の毛も汗をかいていて気持ち悪かったけど、こっちは我慢するしかないか。

 

「着換えた服は、洗濯機に入れておくといいかしら?」

 

すみません、色々と…。

 

マリアさんが部屋を出ていき、僕はまたベッドへと倒れ込む。

すごくさっぱりして気持ちが良くなる。アイスノンも冷たいものに交換してあることに初めて気づいた。

 

「お腹、空いてない?」

 

小さな鍋をもって戻ってくるマリアさん。

中身は…よく分からないけど甘い匂いがする。

 

…それは?

 

「パン粥よ。牛乳があったから借りてつくってみたの」

 

そういってマリアさんはベッド脇に座ると、

 

「ほら、食べさせてあげる」

 

そ、それはさすがに恥ずかしいですよ!

 

「何が恥ずかしいの? 誰が見ているわけでもないのに」

 

そりゃそうですけど…。

 

「それとも、なあに? わたしの手作りのお粥は食べられないっての?」

 

…頂きます。

 

そんな拗ねたような口調で言われたら断れないですよ。

 

「ん。それじゃあ」

 

ふーふーとスプーンへ息を吹きかけて冷ますマリアさん。

 

「はい、あーん」

 

…あーん。

 

甘く、柔らかく、懐かしい味。優しい味がする。

 

うん、美味しいです。

 

「そう。良かった。はい、あーん」

 

………あーん。

 

それでも三口で限界だった。

 

「じゃあ、ちゃんと薬飲んでおくのよ?」

 

鍋を持ってキッチンへ片付けにいくマリアさん。

見送って、僕の頬は熱かった。もちろん風邪のせいだけじゃない。

わざわざお粥を作ってくれるだけでも嬉しいのに、まさか食べさせてもらえるなんて。

しかも、ふーふーって。ふーふーって!

 

「あ、ハルト?」

 

ひゃ、ひゃい!?

 

「体温計はどこにあるのかしら?」

 

あ、リビングの棚の引き出しの一番上に…。

 

「わかったわ」

 

間もなく戻ってきたマリアさんの手には体温計。それとボウルにリンゴと果物ナイフ。

 

「ほら、熱を測ってみなさい」

 

渡された体温計で測れば、37.7度だった。微妙に下がってきているのかな?

 

「それと、りんごも食べるでしょう?」

 

そういってマリアさんはリンゴを剥きはじめる。

その姿に、見惚れてしまった。

こういう光景って、なんかいいなあ。安心するよなあ。

 

「…? どうしたの?」

 

視線に気づかれてしまい、慌てて目を伏せる。

心臓がドキドキしてうるさい。おまけにそのせいで頭痛までしてくるんだから始末が悪い。

 

なんか、本当に申し訳ないです。明後日のデートまでには必ず治しますから…。

 

「なにいってるの? その身体じゃあ無理に決まってるじゃない。中止にしましょう」

 

そ、そんなあ…。

 

せっかく映画のチケットもとって、どこで食事を食べるかも入念にリサーチしたのに。

マリアさんはあんまり粉ものを食べたことなさそうだから月島のもんじゃ焼きにしようとか思ったけど、比較的近場に『ふらわー』とかってお好み焼きが美味しい店があるそうだから、そこにするかな、なんて。

 

「わたしも残念よ? でも、今回は、ゲームじゃないけどハルトは一回休みね」

 

うう…。

 

嘆いても仕方ないか。もともと風邪を引いてしまった責任は僕にある。

 

「リンゴは摩り下ろした方がいいかしら?」

 

しゃりしゃりとリンゴを剥き終えたマリアさんが聞いてくる。

 

え、と。薄く切ってもらえれば大丈夫そうです。

 

ニッコリ笑い、マリアさんはうすーくリンゴを切ってくれた。

渡してくれたものを食べる。シャリとした歯ごたえに、甘酸っぱい汁が口の中で美味しいというより気持ち良かった。

 

「…こんな風に看病するのは、あの子以来だわ」

 

ポツリとマリアさんが言う。

 

あの子って誰です?

 

「わたしの妹よ。もう死んじゃったけどね」

 

ご、ごめんなさい。

 

「いいのよ。…セレナって言ってね。とても優しい子だった」

 

そういって、優しくも遠い目をするマリアさんに、思う。

 

僕は、マリアさんのことを知っている。

世界的なスーパースター。トップアーティスト。そして英雄。

誰もが知っていることの他に、誰もが知らないだろうマリアさんの別の一面も知っている。

 

でも、マリアさんの過去は知らない。

世界的な歌姫として注目を集めるまで、彼女がどんな風に生きてきたのだろう?

誰と出会い、何をしてきたのだろう?

 

…あの、マリアさん。

 

「ん? なあに?」

 

マリアさんは、歌手としてデビューする前までは、一体どんな風に…。

 

訊ねた直後に激しく後悔。

自分から語ってくれるまで、その人の過去を詮索するのはマナー違反だろうが。

そう常々自分でも戒めていたはずだけど、熱のせいでタガが外れてしまったのか。

…もうそんなの言い訳だ。一度口に出してしまった言葉は取り消すことは出来ない。

 

「―――ハルトは、わたしの昔のことが知りたいの?」

 

マリアさんの頬は笑っている。でも、目は真剣だった。

まるで、僕の覚悟を問おうとするかのように。

 

その眼差しに、僕は目を逸らせない。同時に謝るしかないと思った。

すみません、失礼しました不躾でした、と。

 

だけど、口から飛び出た台詞は、全然違っていて自分でも驚く。

 

彼氏さんは、彼女さんのことをもっとよく知ってあげれば、益々仲が深まるって言われたじゃないですか…。

 

マリアさんは目を見張った。

それから花のように唇がほころぶ。

 

「そうね。彼女さんも、もっと自分の気持ちに素直になれば、とも言われたわね」

 

文化祭で一緒に占ってもらった時の結果だ。

あの時は益体もないものと思ったけれど、少なくともマリアさんの心の鍵穴を回してくれたように思う。

 

「でも、聞いたらまた国家機密に抵触しちゃうと思うけど、聞く?」

 

え? もしかしてまた誓約書を何枚も書かなきゃいけなかったり?

さ、さすがに、それは…。

 

「うふ。冗談よ。でも、わたしたち自身でも話せない部分もあるけれど、構わない?」

 

ええ、もちろん。構いません。

 

「…わたしとセレナはウクライナの寒村の出身でね。そこもとある事情で住んでいられなくなって、両親や祖父母とも別れ、アメリカの施設に拾われたの」

 

―――なるほど。ウクライナか。

スラブ系には美人が多いって聞いていたけど、だからマリアさんも美人なのか。

 

「そのアメリカの施設で、調と切歌とも出会ったわ」

 

すると、二人とも孤児なんですか?

 

「詳細は分からないけど、多分そう。あ、でもわたしから教えられたのは二人には内緒でお願い」

 

はい、もちろんです。

 

「その施設での事故でセレナは死んだわ。それも含めて、施設自体にはあまりいい思い出はないかもね」

 

………。

 

「でも、そこには、わたしたちのお母さんと呼べる人もいたの。厳しく、強く、なによりとても優しい人だった」

 

…きっと、良い人だったんでしょうね。

 

「本来なら、世界を救ったのはあの人なの。英雄と呼ばれるのはあの人こそが相応しいのに…」

 

マリアさんの声が急に湿り気を帯びた。

 

…大丈夫ですか?

 

「うん。大丈夫」

 

目尻を拭ったマリアさんの顔は、いつも通りの笑顔。

 

「それから、紆余曲折があって歌手になってデビューして。あとはハルトも知っているとおりかな」

 

そうだったんですか…。

 

マリアさんが、僕に過去を語ってくれた。

それは何よりうれしく、胸が熱くなる。

 

同時に頭に浮かんできたのは、先日切歌たちに「ハルトとマリアは似ている」といわれたことだった。

その時はそんなバカな、と否定したけれど、今なら納得できる台詞だ。

何の接点もない僕たちの間に共通項があるなら、それは喜ぶべきことなのかも知れないな。

 

だからといって、そのことを面と向かって本人に告げるのは恥ずかしいし、僕もそんな度胸はない。

なので、少し角度を変えた言葉をマリアさんへ言ってみた。

 

切歌たちが僕に親近感を持ってくれている理由がわかりましたよ。

 

すると、マリアさんはきょとんとした顔付きになる。

 

「どうして? あなたのご両親は健在でしょう? 今は沖縄にいらっしゃるんだっけ?」

 

以前、黒服に拉致されて誓約書を書かされた時、中年男に散々説明した内容だ。

そのことを、マリアさんが知っているのは何も不思議な話じゃあない。

むしろ、それ以上のことを知らないことを、僕は激しく訝しむ。

 

あれ? もしかしてマリアさん、知らないんですか?

 

「え? 知らないって、何を」

 

僕は両親と血は繋がってないんですよ。

 

「…え?」

 

僕も孤児で、この家の養子なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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12話

ノイズ。

人類の有史以来その存在は確認されており、2032年、国際連合により特異災害と認定される。

様々な形状を持つ。群体で突如出現し、触れられた人間は確実に炭素分解されてしまう。

 

社会の教科書に載っている説明だ。

読み上げた教師は、一般人がノイズに遭遇する確率は、人生で通り魔に襲われる確率よりも低いから安心しろとも言っていた。

 

でも、逆説的に、現実に遭遇した人間がいたからこそ、教科書にはこのような記述が存在するんだ。

 

 

 

17年前のS県を縦断する高速道路の惨劇。

出現したノイズの数は十体にも満たず、ノイズの直接の被害者もちょうど十人だった。

ただ、道路の真ん中に突如ノイズが出現した結果、車同士の接触・追突事故や、ノイズに気づいて車から飛び出した人間を後続車が跳ねるなど、犠牲者や被害者の総数はその数倍にも及ぶ。

かのツヴァイウイングのライブ会場の惨劇が起こるまでは、国内ではもっとも悲惨かつ大規模な事故であると、ニュースなどでも繰り返し報道されてきた。

反面、その惨場から直線距離でおよそ200メートルほどの高台の公園で、ノイズに襲われた被害者が存在したことはあまり知られていない。

はぐれノイズというか、おそらく出現したのはたった一匹で、被害者もただ一人。

被害者の炭化した小山の中で、泣き声を上げる乳幼児が発見された。

それが僕。

 

乳幼児の産着には、小さなメモと走り書き。

辛うじて『ハルト』と読めたらしいそれが、僕の名前となった。

もしかしたら平仮名だったかも知れない。

漢字で『春人』だったかも知れないし、本当は別の名前だったかも知れないけれど、もはや確かめる術はない。

当時の警察が熱心でなかったのかどうかは分からないけれど、僕の出生元も身寄りもはっきりせず、施設へと預けられることになる。おかげで誕生日も発見されたその日という適当さだ。

 

ただ、預けられた先の施設では、僕は老経営者からそこそこの愛情を持って育てられたらしい。

らしいというのは、物心がついたときにその施設はつぶれ、別の施設へと移送されたからだ。

ちょうどその頃、ノイズが世界的に認定災害とされたのと何か関係があったのだろうか?

ともあれ、新しい施設の環境は劣悪の一言に過ぎた。

四畳間に8人くらいの未就学児童が放り込まれ、風呂は週に二回程度で毎回シャワーだ。

着替えもろくになく、掃除洗濯は当たり前にせよ、炊事にさえ子供が駆り出される。

もっとも、それが劣悪な環境であると認識したのも、当時を振り返った今だから言えること。

なにせその時は比較対象すらなかったから、辛いとも何とも思えず、現実をありのまま受け入れるしかなかった。

 

 

 

 

「…あなたも施設暮らしだったの?」

 

マリアさんが目を見開いている。

 

ええ、そうですよ。

まあ、その施設に収容されていた子は、全員が全員ノイズの被害者ってことじゃなかったですけどね。

そんで面白いのは、そんな環境でもヒエラルキーってのが発生するんですよ。

 

 

 

 

 

子供なりに身体の大小や力の強さは存在する。

それに自分の生い立ちを絡めて優劣を意識したとき。

つまりは、自分に比べて、おまえはマシだ、という劣等感。

逆に、おまえに比べりゃオレの方がマシだ、という優越感。

そんな生い立ちを持たない僕が、施設内の序列の最下位と認識されるのは、いわば当然だった。

大してない私物を隠される。意味もなく小突かれる。

親なしと陰口を叩かれ、食事すら奪われた。

施設の大人たちはそんな光景を見ても、なんら反応を示さなかった。

肝心の僕も、痛いのは嫌だな、とは思ったくらいで、積極的にどうこうしようとはしなかった。

正確には、どうこうする、もしくはしていいという選択肢すら知らなかったのだけれど。

ただ、ありのままを受け入れ続けるだけだった。

 

そんな無味乾燥な生活の中での唯一の楽しみは食事しかない。

どんな環境でも食べることは生きるために必要で、最大の娯楽だ。

ただ、繰り返すけれど、その施設はロクなもんじゃなく、食事も粗末なものばかりだった。

それでも、偶に出てくるカレーだけは美味しかった。

具も野菜ばかりで、肉なんてろくろく入っていないしゃばしゃばのカレー。

なのに、みんな目を輝かせて頬張っている。

誰も彼も笑顔だった。僕をいじめているヤツらでさえ。

 

炊事の手伝いをしながら、僕がもっと美味しいカレーを食べたいと思ったのは、いじめてくる連中を見返してやりたいって理由があったことも否定しない。

子供なりの工夫で、切った野菜を炒めてからカレーに入れてみた。

そしたら確かに旨味が増した。食べたみんなはいつにもまして笑顔になっていた。

僕にとっての大発見は子供たちにとっても朗報で、いじめっ子たちも僕に一目置くようになる。

それから僕が厨房に入り浸るようになったのは、ほとんどサボってばかりいた中年の調理人にとっても願ったり叶ったりだったんだろう。

もちろんまだ小学生にもなっていない齢だから大したことは出来なかったけれど、少なくともその時の僕は、僕にしか出来ないなにかを見つけていた。

 

 

 

 

 

「…なるほど。それがハルトの原風景なのね」

 

はい。

 

「あなたのカレーに対する拘りも、分かった気がするわ」

 

…続きも、聞いてもらえますか?

 

マリアさんの目を真っ直ぐ見つめて言った。

僕は、僕の過去を、級友たちにも語ったことはない。

でも、マリアさんには、この人には知ってもらいたいと思った。

むしろ、もっと知って欲しいとさえ思う。

 

でも、断られたら? 

胸がざわつく。

息苦しくなって胸を押さえてしまう。

 

「…ええ。ぜひ聞かせて頂戴」

 

マリアさんは頷いてくれた。

ホッとして僕は続きを話し始める。

 

 

 

 

 

 

 

その施設も、ちょうど僕が小学校に上がろうとする頃に県の監査だかが入った挙句に潰れましてね。

あとで調べたら、児童に支給される手当の大部分をピンハネしていたらしいです。

それであの環境なら、ってことで納得ですわ。

 

そんで着の身着のまま、今度はどこに連れて行かれるのかな? カレーを作れるとこがいいなあ、なんて考えていたら、現れたのが今の両親です。

初めてあって、これからうちの子になるんだよ、っていわれても当時の僕にとっては意味不明ですよ。

でもね、そのあと親父が言ってくれた台詞は、ずっと忘れられません。

 

見ず知らずの大人を前に、緊張する僕。

今日からオレたちがおまえの父さん母さんだ、って言われても益々身体を強張らせている。

まだ若かった親父が、しゃがんで僕と目線を合わせてくれた。

それから、神妙そうな表情で、重々しく言った台詞。

 

「オレがおまえに教えられないことは二つだけだ。一つは『素手でのケンカの仕方』。もう一つは『女の子の落とし方』だ」

 

直後、きょとんとする僕の前で、おふくろに盛大にはたかれていたっけなー。

 

ともかく、その言葉通り、親父はありとあらゆることを教えてくれたんです。

本人は何を生業にしていたのか今でもよく分かりませんけど、非常に多趣味な人でね。

書斎なんかゲーム、漫画、小説といったサブカルの巣窟みたいになっているし。

惜しみなく僕にそれを貸し与え、同時に楽しみ方まで教えてくれましたよ。

 

お袋ですか? お袋も親父と同じ趣味だったんじゃないかなー。

よく一緒にゲームに興じたり、一緒に意味不明な映画やコメディ映画ばっかり見てましたから。

まあ、親父と同じで特筆することがあるならば、無類の酒好きってことですかね。

毎晩毎晩、それこそ極上のスイーツを食べるみたいに、喜色満面で酒を飲んでました。

だからといって酔っぱらって寝ちゃうことはあっても、暴れることはありませんでしたよ?

朝も決まった時間に起きて、掃除洗濯もちゃんとしていたし。

 

そんな強烈すぎる個性を持つ両親の中で、僕が自己主張できるのはカレーしかないじゃないですか。

なので、もう小学生の頃から調理を一手に引き受けて、現在に至るわけですよ。

 

 

 

 

 

 

「え、えーと、良いご両親、なのよね?」

 

ええ。そして中学三年生の時、面と向かって言われました。

『おまえを引き取って育てたのは手当目当てだから』って。

 

「……ッ!」

 

そしてその後に、『オレたちは残りの人生を自分で楽しむことにする。おまえもおまえの人生を楽しめ』って。

 

「なんて人たちなのッ!?」

 

ととっ、待ってください、怒らないでくださいよ、マリアさん!

 

「どうして!? ハルトは怒ってないとでもいうの!?」

 

その…確かにノイズ被害者に対する手当は出るんですけどね、そんな高い金額でもないんですよ。

それに、家のキッチンを見てなにか気づきませんでしたか?

 

「…?」

 

キッチンに色々な調理器具や各種スパイス、パウダー。それに本もたくさんあったでしょう?

 

「ああ…。確かにあったわね」

 

あれは、全て両親が買ってくれたんですよ。当時は小学生の僕のリクエストに惜しみなく。

あれでほとんど毎日カレーを作って出してたんですけどね、両親たちから文句ひとつ聞いたことありません。いつも美味しい美味しいって食べてくれました。

 

 

―――思うに、手当目当ての発言も、僕に対して負い目を作らせたくなかったからではないのか。

むしろ本心は、おまえもおまえの人生を楽しめという言葉に集約されているのではないか―――。

 

 

まあ、親父は有言実行ってことで、前々から試したいことがあるって、僕が高校に合格するのを見届けて沖縄に行っちゃったんですけど。しばらくしてお袋が遊びに行くっていって戻ってこないのも、今更ながらようやく息子がカレーばかり作るのに辟易しちゃった結果かも知れませんね。ははは。

 

「すると、ハルトは御両親を恨んでないってこと?」

 

それはもちろん。

むしろ尊敬してますよ。

 

本当の肉親ではない。おまけに二人とも言動はエキセントリックを通り越してサイケデリックだ。

可愛がられ方や付き合い方に関しては、そこらの一般家庭との間に乖離があったかも知れない。

それでも、学校行事なども、おろそかにしない両親だった。

 

そしてなにより、あの人たちは自分の人生を謳歌していた。

僕を育てるということすら、人生として楽しんでいた。

そして僕に新しい人生を与えてくれ、その楽しみ方を教え込んでくれた。

これは生半な人に出来ることではなく、僕が両親を尊敬する所以だ。

 

今更宣言するのもおかしな話だけど、あの人たちは僕の親父でお袋だ。

もし万が一、僕が必要とされ、僕に出来ることがあれば、何を差し置いてもその助けになるつもりでいる。

 

 

更にもう一つ。

 

赤ん坊の僕を抱いていた母に対しての感情も明確にしておかねばならない。

 

ノイズは対人間生物災害とされ、一体につき人間の犠牲者は一人。

この原則に従えば、襲われた時の母は、僕を差し出して自分の身を護るという選択肢があったはず。

しかし、それを選択せず、もしかしたらその選択すら頭になく、身を呈して僕を庇ってくれた。

その結果、僕は生き残った。

記憶にもなく、直接言葉すら交わしたことのない母だけれど、このことを知って以来、僕は誕生日に必ず瞑目して感謝の言葉を捧げることを忘れていない。

ありがとう。あなたのおかげで、僕は今生きています。

 

 

話し終えて、僕は改めてマリアさんを見る。

 

…マリアさん?

 

マリアさんの大きな瞳は、今にも涙が零れそうなほど潤んでいた。

慌てて拭い、マリアさんは無理に笑おうとする。

 

「なら、ハルト。あなたは今幸せ? 幸せなのね?」

 

はい。信じられないほど幸せで、今はもっと幸せですよ。

 

僕は頷く。それからゆっくりと付け足す。

 

こうしてマリアさんが僕の前にいてくれるんですから。

 

「………」

 

マリアさんは恥ずかしげに顔を伏せてしまった。

そこでようやく僕は、ベッドの上に置かれたマリアさんの手に、自分の手を重ねてしまっていたことに気づく。

我ながらいつの間に!?

 

…ッ! すみませ…

 

慌ててどかそうとした手が、マリアさんに掴まれた。そのまま指に指を絡められる。

 

「ハルト…」

 

…はい。

 

「話してくれて、ありがとう」

 

いえ。僕こそ聞いてくれてありがとうございます。

 

「…わたしは、まだあなたに話していないことはたくさんある。もちろん話せないこともあるけれど。でも」

 

はい。

 

マリアさんが顔を近づけてくる。瞳がますます大きく見える。

 

「もし、全てを話せるときが来たら。その時は…」

 

………。

 

言葉もなく、ただ見つめ合う。

顔が更に近づいてくる。

心臓がドキドキと脈打って口から飛び出そうだ。

それでも接近は止まらず、マリアさんの甘い吐息が僕の鼻腔をくすぐったその時―――。

 

 

 

 

 

「ハルトぉ! 生きているデスかぁ!?」

 

「ラブリーエンジェル隊が現着なの!」

 

ッ!?

 

一瞬で僕はベッドに仰向けに倒れ、マリアさんは全力で身体ごと回れ右。

ドアが勢いよく開けられたのは、本当にそのコンマ何秒後だ。

 

どどどどどうしたんだ、切歌に調も? 風邪引いたから来るなってメールしただろ?

 

「どうもこうもないデスよ! それで心配してこっちからも何度かメールしたのに、茄子のプティングじゃないデスか!」

 

茄子の…なに?

 

「うん、切ちゃん。それは梨のつぶてって言いたいんだよね?」

 

「そんなのどうでもいいデース! そもそもハルトは一人暮らしデスよね? それで調とも相談して心配して」

 

「緊急物資を持って、お見舞いにきたんだよ」

 

そういって調は持っている大きな袋を掲げて見せてくる。

 

そ、そうか、ありがとう。

 

「…って、マリアが先に来ていたデスか?」

 

「え、ええ。わたしもハルトのことが心配でね」

 

マリアさんに看病してもらって、大分具合も良くなったよ。

 

援護射撃のつもりでそう言うと、なぜか切歌と調二人して頬を膨らませる。

 

「マリアばっかりズルいデース! アタシもハルトの看病をしてみたかったデス!」

 

うん、気持ちは嬉しい。でも、その持っている注射器はなにでどこから持ってきたのかな?

 

「ここでハルトを看病して恩を売る…じゃなくて、恩返しをしたかったのに」

 

調も本音ダダ漏れだけど、一応礼は言っておくよ。一応。

 

「さあさ、病人は寝るのが仕事よ。わたしたちが帰らなきゃ、ハルトもゆっくり休めないわ」

 

切歌と調はなおブーブーと言っていたけれど、マリアさんが二人の背中を押して部屋の外へと連れ出してくれる。

 

「それじゃ、わたしたちは帰るけれど、何かあったら遠慮なく連絡してね?」

 

はい、ありがとうございます。

 

「うん、よろしい。いい返事ね」

 

おやすみなさい。

 

ニッコリ笑ってマリアさんはドアを閉じる。

と思ったら、ドアから顔だけを出して言った。

 

「次のデートはわたしから誘うから。約束ね?」

 

はい。

 

耳を澄ませば玄関が開いて、それから閉じる音。

ようやく静けさが戻ってきたけれど、もうぜんぜん寂しくはなかった。

この部屋に、そしてこの手に、まだマリアさんの温もりが残っているから。

 

気づけば、だいぶ気分の悪さも落ち着いているし、悪寒もなくなっていた。

こりゃあ明後日のデートの中止は早まったかな? と思ったけれど、マリアさんが決定しちゃった以上、覆すのは難しいか。

 

ふと思い出し、スマホを見る。なんだ時間はまだ21時にもなってないのか。

うげ。切歌が言った通り、すごい数のメールやらなにやらの通信が入っていた。

ありがたいけど、アイツら加減ってものを知らないというか。

まあ、返信はしなくていいよね?

 

僕は安らかな気持ちで仰向けで目を閉じる。

眠れるかな? と思ったけど間もなく眠ってしまったらしい。

夢は見なかったけど、不思議と満ち足りた眠りだったように思う。

 

だから、この時の僕は、想像すらしていなかったんだ。

 

『次のデートの約束』が、永遠に果たされることがないことを―――。

 

 

 

 



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13話

 

週明けの月曜日。

どうにか復調して、僕は学校へと登校した。

 

その日の放課後、快気祝いだと調と切歌がケーキを持ってやってきた。

僕がまだ本調子じゃないからと作っていたカレー雑炊と、持参したケーキを食べ散らかして帰っていった。

なんなんだアイツら。

 

けれど、そのあと、マリアさんも尋ねてきてくれた。

 

「切歌たちから快気祝いだと聞いたんだけど…」

 

ついさっき帰っちゃいましたよ。丁度入れ違いですね。

 

「そう。とにかくハルトが元気になってなによりだわ」

 

そういうマリアさんは、なんか元気がないように見える。

思わず僕は呼び止めていた。

 

良かったら、ご飯食べて行きませんか?

 

「でも…」

 

といっても、カレーしかないですけど。

 

そういうとマリアさんは笑ってくれた。

 

「そうね。それじゃご馳走になろうかしら」

 

マリアさんが応じてくれたので、大急ぎで明日用に仕込んでいたカレーの仕上げにかかる。

豚バラとニラを炒めたのを入れてひと煮立ちさせれば、豚ニラカレーの出来上がりだ。

 

どうぞ。

 

「ありがとう…」

 

返事をしてくれるけど、やっぱりマリアさんは元気がない。

どうやらお疲れのよう。

豚ニラでスタミナをつけてくれればいいんだけど。

 

「御馳走様。美味しかったわ」

 

良かったです。

 

後片付けをしながら、食後のチャイを啜るマリアさんを見る。

やっぱり疲れているらしく、珍しくぼーっとしているようだ。

取りあえず、そっとしておこう。

そう思った矢先、ポツリとマリアさんが言った。

 

「ねえ、次のデートなんだけど」

 

は、はいッ! もちろんクリスマス・イヴは空いてますですッ!

 

「………」

 

マリアさんが目を丸くしていた。

 

…やっちまったッ! 

頭を抱えたけど、もう遅い。

でも、仕方ないだろッ? 再来週はいよいよクリスマスなんだぜ?

恋人同士がクリスマスにデートしなくて何をするってんだ!

 

笑われるかな…?

そう思いながらそっとマリアさんの様子を伺う。

 

…あれ? 

なんだか渋い顔をしている…?

 

「その…ごめんなさい、ハルト。イヴは予定が…」

 

は、ははは。そうですか。予定があるなら仕方ないですよね!

 

答えつつ、僕の心は浴室の鏡くらいに一気に曇っている。

 

そりゃあマリアさんは有名人だ。イヴの予定くらいあるだろう。

それでなくても年末だ。色々と忙しいに決まっている。

 

そんな風に考えても、どうしても別の疑念が捨てきれない。

まさかまさか。

僕とは別の誰かと二人きりで…!?

 

「こら! 変なこと考えてないでしょうね?」

 

い、いいえ? 別に何も…。

 

「どうだか。何か半分泣きそうな顔になってたし」

 

そ、そんな、まさか。ははは。

 

自分でも分かるくらい狼狽えていると、どういうわけかマリアさん嬉しそう。

 

「…ふう。これはナイショよ? 約束できる?」

 

なんだかわかりませんけど、マリアさんとならいくらでも約束しちゃいますよ。

 

「クリスマス・イヴの夜に、ツヴァイウイングの特番が放送されるのは知っているわよね?」

 

もちろん。もう録画予約もしてますよ!

 

ツヴァイウイング結成から風鳴翼のソロ活動までの軌跡を描く、庫出し映像も含めた三時間特番だ。

先月からもう番宣もしまくっていたし、凄い楽しみだ。

 

「それでね、その中で、翼のステージライブを放送する予定になっているの」

 

ええッ!? そんなの番宣でも全然…。

 

「そう。まるっきりのサプライズ。まあ、オーディエンスを入れないでやるステージで、あの子のリハビリって意味もあるんだけどね」

 

…考えてみりゃ、あの大惨劇から、まだ一年も経ってないんだよな。

それでも活動を再開する風鳴翼には、畏敬の念を禁じ得ない。

同時に、ファンである僕にとってはこの上ない朗報だ。

 

なるほど、わかりました。これは絶対口外できない情報ですね…。

 

「それでね。わたしも一曲デュエットすることになっちゃって」

 

…マジですか!?

 

「だから、先日からダンスのレッスンとか始めたんだけど、だいぶ鈍っちゃってるみたいで…」

 

なるほど。マリアさんがお疲れな様子の理由が分かりましたよ。

 

「まったく、あの子のワガママにも困ったものね。わたしと一緒じゃなきゃステージに出るのは嫌だ! とか言っちゃって」

 

ブツブツ言いながらも、マリアさんの表情は満更でもない。

風鳴翼の復帰はもとより、マリアさんとのデュオのことも考えると、凄く興奮してきた。

うん、そういう理由なら、イヴの夜が塞がっているのも仕方ないよね?

 

「だからね、ハルト」

 

はい?

 

「25日の夜。クリスマスは空いている?」

 

も、もちろんです、はい!

 

「それじゃあ、次のデートはその日の夜で。どう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日後の週末。完全に体調を回復した僕は、バイトにも復帰していた。

冬の夜風は冷たいけれど、誘導棒を振りながら心はウキウキポカポカの常夏気分。

っと、ここで油断して風邪をぶり返しちゃ洒落にならん。

襟元のマフラーをきっちりと詰めて、今日の僕は両手両足胴体にホッカイロ6枚貼り。

ついでに出かけるときに、生姜湯と葛根湯を飲んできたので風邪対策は万全よ!

 

「おーい、坊主! 休憩にしようやー」

 

はーい。

 

別のペアと交代で、風のこないビルの陰に入って休憩を取る。

いつもコーヒーを奢ってくれるのは、僕とペアを組んでいるシゲさんだ。

40代くらいで、本名は知らない。みんなシゲさんって呼んでいるので、僕もそう呼んでいた。

 

「ここんとこ随分と張り切ってるじゃねえか?」

 

はい。来週のクリスマスも近いので、色々と要り用で…。

 

「ん? 女か?」

 

…ええ。実は初めてのクリスマスデートなんです。

 

自分で言っておいて頬が熱くなるのが分かる。

しかも前日のイヴは、クラスメートたちとのクリスマス会にも誘われていた。

こんなにスケジュールが詰まったクリスマスは記憶にない。

いつの間の僕はリア充になっちゃったんだろう?

 

「そりゃ良かったな。まあ、若い時はいろんな子と付き合ってフられるのもいい経験さね」

 

不吉なこと言わないで下さいよ!

 

言い返しつつ、自分でも気持ち悪いくらいニヤけていたと思う。

 

…バイト代が入ったらプレゼントを買わなきゃ。

マリアさんに何がいいかな? やっぱりアクセサリーとかかな。

今度、切歌と調に訊いてみるか。

でも、気をつけないと、あの二人して、自分に買ってもらえると勘違いしそう…。

 

そんな風に思いを巡らせて悩むのが、こんなに楽しいなんて思わなかった。

おかげで、バイトの時間が過ぎるのも早い早い。

 

「よし、そろそろ上がるべ」

 

工事も予定より早く済んだらしい。

さっそく帰り支度を始めたシゲさんに倣って、僕も反射材のついた制服を脱いだ時だった。

 

耳をつんざく爆音が響く。

噴きつける焦げ臭い熱風に思わず腰を抜かしてしまえば、見上げた先のビルと道路が燃えていた。

 

「坊主! 大丈夫か!」

 

キーンと耳鳴りがする中で、シゲさんの声がとぎれとぎれに聞こえる。

 

大丈夫です! 

 

と怒鳴り返した自分の声すら良く聞こえない。

途端に舞い散る粉塵をモロに吸ってしまい、身体を折って咳き込んだ。

ちくしょう、なにがどうなっているんだ!?

 

不意に炎の燃える光が翳る。

 

? 

 

顔を上げ、涙で滲む視界に見えたのは、まるで宇宙人のようなフォルムをした生き物。

その表面が、液晶ディスプレイみたいに明滅している。

 

そん、な。

 

「坊主!」

 

ノイズが、なんでここに…?

 

「坊主、逃げろッ! 早くッ!」

 

シゲさんの呼ぶ声が聞こえる。

もちろん逃げなきゃいけないということは分かっている。

でも足が動かない。動いてくれない。

 

強烈なデジャヴに目の前の光景が何重にも歪む。

なんだこれ。僕はノイズを見るなんて初めてじゃないか。

…違う! 赤ん坊の僕はノイズを目の当たりにしている…!?

 

「坊主ーッ!」

 

シゲさんの絶叫が遠くなる。

 

触れられれば全てが終わる。

もう、僕を護ってくれる母もいない。

 

なのに声がでない。

動けない。

ただ記憶がひた巡る。

 

覚えていない赤子の頃。

ひたすら辛い施設の暮らし。

幸福な僕と両親。

失ったと思った恋の代わりに訪れたもの。

 

目を見開いたまま、僕は叫んでいた。

 

―――マリアさんッ!!

 

 

 

 

歌が、聞こえた。

透き通った水晶のような歌は、まるで呪文のように。

 

直後、視界に銀線が走った。

遅れて届く、空気を切り裂く澄んだ音。

 

 

目の前のノイズがほろほろと崩れていく様を、僕は茫然と見つめる。

 

崩れ去った特異災害生物の向こうに立つシルエット。

 

寒空に、白を基調としたレオタードにも似た衣装。

銀の籠手に、同じく銀の短剣を携えたその人物は。

 

…マリア、さん?

 

返事はない。

でも、間違いない。

 

マリアさん! マリアさんですよね!? どうしたんですか、そんな格好をして…ッ。

 

刹那、マリアさんの腕が翻る。

こちらに迫ってきていたノイズの一体が切り裂かれ消し飛んだ。

 

「マリア! まだ残っているデスよ!」

 

「急いでッ!」

 

切歌!? それに、調も!? 二人ともその格好は…!

 

僕の声に応えず、二人は人間技とは思えない跳躍で燃えるビルの方向へと消えた。

残ったマリアさんが僕を見ていた。

悲しげな瞳で何かを言いかけ―――結局何も言わずに身を翻す。

マリアさんの姿も、炎と煙の中に紛れて見えなくなった。

 

いつの間にか周囲を黒服のお兄さんたちに囲まれていたけれど、僕はひたすらマリアさんの消えた方向を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕と工事現場関係者の全員が、窓も真っ黒に塗られたバスへと乗せられた。

そのままどこかも分からない場所まで運ばれ、一人ずつ降ろされる。

目隠しをされて歩かされ、連れていかれた場所は、僕にとって来るのは二度目だった。

よくよく見れば、相手もあの時の中年男だったような気がする。

けれど、相手は僕を見て、少し眉を動かしただけ。

その後は、例によって淡々と説明が始まる。

 

今夜見たことを口外しないとの誓約書。

もし口外してしまった場合の罰則について。

 

そのほとんどを聞き流し、僕の脳裏では先ほどのマリアさんの姿がリフレインしている。

 

「それじゃあ、とりあえずはこれで終了です」

 

トントン、と書類をまとめる音。

どれくらい経ったのだろう? 時間の感覚はまるでない。

黒服のお兄さんたちに囲まれ、目隠しをして廊下へ連れ出される。

これも前回と同じ流れだった。

 

「ちょっと待ってもらえる?」

 

聴き慣れた声。そして一番に聞きたかった声。

 

「目隠しをとってあげて」

 

しかし、と渋るお兄さんたちに、

 

「司令の許可はとってあるわ」

 

すとんと目隠しを取られた。

長い廊下の真ん中に、腕組みをしたマリアさんがいる。

 

マリアさん!

 

なんだかボーイスカウトみたいな服装をしていた。

でも、よくよく見れば、制服っぽいのかな…?

そんなことより。

 

良かった無事だったんですね!! 

 

「さあ、こっちの部屋よ」

 

…マリアさん?

 

促されて入ったのは狭い部屋で、マリアさんと二人きり。

目線だけで椅子に座るように指示された。

…なんだかマリアさんの声も態度も、冷たくない?

 

「…これで分かったでしょう?」

 

対面に腰を降ろし、溜息をつくマリアさん。

 

何がですか?

 

「これが本当のわたしの仕事。ノイズを打ち倒し、世界を特異災害から守るのがわたしの使命…」

 

前に、世界中継で似たような格好をして戦ってましたけど、特殊映像でもプロパガンダでもなかったんですね…。

 

昔、月が落ちてくるとか大騒ぎになったけれど、よく分からないうちに終息し、よく分からないうちに有耶無耶になった印象だ。

ただ、あの時のマリアさんの優しい歌声は世界中に響き渡り、彼女を永遠の歌姫にしたことだけは憶えている。

 

「同時にわたしにとっての償いでもあるわ。…これがあなたにも話せなかったこと」

 

そうでしたか…。で、でも! こうやって知っちゃったわけだし!

 

まあ、アホみたいにまた誓約書も書かされたけど、マリアさんの秘密と引き換えなら安いものッ!

 

「そう。あなたは知らなくてもいいことを知ってしまった…」

 

…マリアさん?

 

「だから、もう終わりにしましょう」

 

!?

 

「お別れよ、ハルト。今日かぎり。これっきりでね」

 

なななにを言っているんですか! 終わりって! お別れって!

 

「あなたには本当に悪いことをしてしまったと思っている。けれど」

 

―――やめてください!! それ以上言わないでください!

お願いです。お願いしますから…!

 

「あなたに対する償いも、サービスも、もうお終い。十分に楽しめたでしょう?」

 

…ッ! そんな言い方をッ! なんでいきなりッ! だいたいマリアさんだって楽しんでいたじゃないですかッ!

 

「ええ、楽しませてもらったわ。色々と」

 

だったら…ッ!

 

「のぼせ上がらないでッ!」

 

ッ!?

 

「さっきも言ったけれど、そもそもはあなたに申し訳ないと思ったわたしの償いから始めたこと。現実に考えてごらんなさい。このわたしと、ただの高校生の男の子が対等に付き合えると思って?」

 

そ、それは…。

 

「だから、その茶番もお終い。むしろこっちが御釣りをもらいたいくらい、色々と優越感に浸れたんじゃない? まあ、良い経験に…そうね、青春の一ページとやらにでも成れていればいいのだけれど」

 

…なんでそんなこと言うんですか?

 

「ほら、拗ねない拗ねない。きれいさっぱりと行きましょうよ。ね? いい男はそこでグズグズ未練がましくしちゃダメよ」

 

で、でも、マリアさん! 25日のクリスマスデートの約束ッ! 約束は…!

 

「生憎と、わたしは24日の夜には日本を発つから」

 

え?

 

「英国で新しい任務に就くの。だから、もう二度と会うこともないでしょう」

 

驚く僕の前で、最後とばかりにマリアさんは笑った。

 

「それじゃあ、さよならね、ハルト」

 

 

 

 

 

 



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14話

バイト姿のまま駅前で解放されときには、既に太陽が高く昇っていた。

その格好のまま、どうやって家に帰ってきたのかすら良く覚えていない。

頭の中では、ただマリアさんから告げられた言葉だけが渦を巻いている。

 

僕は…フラれたのだろうか?

 

多分、そうなのだろう。

マリアさんの台詞が、思い返すたびにいちいち心に刺さってくる。

全てがもっともだ。現実に照らし合わせれば、僕とマリアさんが付き合うなんてあり得ないこと。

 

…はは。

そう、夢だ。

全ては夢だったんだ。

マリアさんが言った通り、ただお互いに楽しい夢を見たと思えれば、それで―――。

 

夢なわけ、ないだろうッ!?

 

僕は叫ぶ。

 

きっと意味もないことを叫び散らしたのだろう。

物に当たり、暴れたのだろう。

でも、今度は、止めてくれるマリアさんはいない。

それが悲しくて、なおさら僕は暴れて―――力尽きて眠った。

 

 

目が覚めて、顔が涙でバリバリで、胸がぽっかりと抜け落ちたようで、少しだけ落ち着いていた。

今さらながら、黒服さんから没収されていたスマホの電源を入れる。

まずは時刻が表示され、もう夕方だった。

それからホーム画面にスワイプさせ―――もしかしたら、メールか何かでマリアさんから連絡が入っているんじゃ? という淡い期待は打ち砕かれた。

 

…それでも、マリアさんの声が聴きたい。

 

そう思って、電話番号を展開し、僕は固まってしまう。

そこには、マリアさんの番号はおろか、過去に通話した履歴も何も残っちゃいなかった。

 

 

 

 

 

 

なあ、斉藤。僕の付き合っていた人のこと、覚えている?

 

翌日の学校で、僕はクラスメートに尋ねてみた。

 

「ああ。あの偉く美人なお姉さんだろ? なんかマリア・カデンツァヴナ・イヴに似ているっていう」

 

…そうか。覚えているのか。

 

「もしかして、おまえ、フラれちゃったり?」

 

まあ、そんなもんかな…。

 

答えつつ、マリアさんと一緒にいたことは夢じゃなかったと再認識。

例のスマホのデータ削除は徹底しすぎていて、本当に夢でも見ていたのではないかと錯覚してしまいそうになるほど。

やっぱり、データは弄れても、他の人間の目撃した記憶までは弄れるはずはないんだなとホッとする。

 

それにしても、切歌と調とのデータまで削除されていたのには参った。

おかげで、僕はマリアさんと連絡する術を全て失っている。

 

マリアさんの言葉に、反論したかった。

秘密を知ったから別れなきゃいけないなんて納得できなかった。

あんなに楽しんでいた姿がフリだなんて思いたくなかった。

 

けれど、ここまで徹底されると、心が揺らぐ。

マリアさんは本気で僕と別れたがっているのか、と。

 

…いや、その考え自体ものぼせあがりか。

 

これらの処遇は、マリアさんにとって今までの関係をリセットする程度の意味しか持たないんじゃないのか?

ただ、何もなかったことにするだけ。そこには感傷も何も存在せず、淡々とした手続きがあるだけで。

 

ああ。しょせん、僕なんかが、あのマリアさんとの関係を全うすることなんて出来るはずなんてなかったんだ。

だから、あの日々は、僕の人生における最高のボーナスステージってことで…。

 

―――納得できるわけないだろうッ!

 

僕は勢いよく席を立っている。

 

斉藤がヒッ!? と声を出していたけど気にしない。

カバンをひっつかんで教室を出ようとすれば、入れ違いで担任教師が入ってくる。

 

「おい、阿部。今から朝のHRだぞ?」

 

すみません、体調が悪いんで早退します。

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一度、マリアさんと話をしたい。

切実にそう思う。

 

なので、マリアさんに至るであろう方法を考えんだけれど、手持ちの札は少ない。

例えば、先日見た光景とか口外しないとの誓約書に書かされた内容を、駅前でベラベラと演説する。

警察に通報されるか、もしかしたらその前に黒服のお兄さんたちも来るかもしれない。

また施設に連れていかれるかも知れないけれど、そこでマリアさんに再会できるかは分の悪い賭けだ。

 

となれば、残る伝手は一つだけ。

 

そういうわけで、僕は私立リディアン音楽院の前にいた。

もちろん家で着替えて仕込みも済ませ、時間は放課後に合わせている。

 

目立たないように隠れて、出てくる女生徒たちを数える。

目的は、もちろんあのお調子者コンビだ。

もし、あの二人も学校を休んでいたり、まさか退学していたりするとは思えないんだけれど………いた!

 

仲良く手を繋いで出てくるのは、間違いなく切歌に調。

二人きりで歩いているところを見計らい、声をかける。

 

おい、そこの二人。

 

「はい? どなた様デスか?」

 

「知らない人ですね…」

 

なに言ってんだよ、ハルトだよ。

 

「んー、聞いたことあるデスか、調ぇ?」

 

「聞いたことないね。知らない人にはついていっちゃダメだっていわれてるし、帰ろ、切ちゃん」

 

ったく、ふざけてんのか?

おい、待て、待ってくれッ!

 

「…しつこいデスねえ。なんなんデスか?」

 

「あんまりしつこいと変質者って叫んじゃうよ?」

 

くっ、変質者呼ばわりはマジ勘弁だ。

だかといってここで諦められるか?

 

しかし、二人の剣幕に、周囲を歩く人の視線も集まってきている。

一旦引く? いや、他に手段は…あ。

 

いやいや、僕は、二人があまりにも可愛いので、おもわず声を掛けてしまったただのナンパ人ですよ?

 

「ふん、そんなお世辞じゃ誤魔化されないよ。ね、切ちゃ…」

 

「聞いたデスか、調ぇ!? 可愛いデスって!」

 

「あー……」

 

可愛い可愛いお二人に、ちょいとそこのお店でお茶でもご馳走させて頂けませんかね?

 

「切ちゃんはチョロイけれど、私はそんなことじゃあ動かないよ?」

 

あ、ウルトラDXパフェ、ご馳走するよ?

 

「いくうッ!」

 

ふん、チョロイぜ。

 

 

 

 

 

 

 

 

喫茶店で、パフェに目を輝かせてパクつく二人を眺める。

 

でさ。改めて聞きたいんだけど。

 

「何も答える気はないデスよ」

 

「こうやってご馳走にはなっているけどね」

 

機先を制するようにそう言われた。

 

…やっぱり、マリアさんに強く口止めされていたり?

 

「………」

 

「………」

 

二人とも無言でパフェを爆食中。本当に分かり易くて助かる。

 

まあ、二人してマリアさんを裏切るのは辛いか。家族を裏切るようなもんだからね。

 

「こうやってパフェを奢ってもらっても、もともとは赤の他人なんデスからね!?」

 

それも、マリアさんからそう言えっていわれたんじゃない?

 

「………」

 

あーもう、分かり易すぎて逆に可愛く思えてくるわッ!

気まずそうに、それでもパフェを食べ終え、きちんと頭を下げてくる切歌と調。

 

「御馳走様デス!」

 

「さあ、行こう、切ちゃん」

 

ああ、待った待った。ところでキミたち、最近、体調に異常はない?

 

「………?」

 

不思議そうな目をする二人の前で、僕はナップザックから取り出したタッパーを一つずつ並べていく。

 

例えば、不意にカレーを食べたくなってどうしようもなくなったりとか。

 

「ギクッ!」

 

なので、急いで自宅でカレーを作ってみたけど、なんか物足りなさを覚えたりとか。

 

「…なんで分かるの?」

 

ふふ、それはね、僕の作ったカレーに対する禁断症状さ!

 

「な、なんデスとぉ!?」

 

インドの秘伝のスパイスの組み合わせで作っているんだよ、僕のカレーは! 定期的に食べたくなるのはもちろん、それでも無視し続けると、他のあらゆるカレーが食べられなくなる逸品なんだ、禁断のね!!

 

もちろんこんなの嘘八百。いくら僕でもそんなブラックカレーみたいなもんまでは作れない。

というか、この二人、根が素直すぎるんだよなー。

『キミ、可愛いからクレオパトラの生まれかわりじゃない?』なんていわれて、あっさり信じるタイプと見た。

 

「ど、どうりで真夜中に急にカレーが食べたくなったりしたはずデース…」

 

うん、それは単なる食欲旺盛だね。

 

「玉ねぎをたっぷり炒めたはずなのに、いまいちコクが足りなくて…」

 

玉ねぎは重要だけど、玉ねぎだけでもダメなんだよなあ。要はバランスよ?

 

まあ、そこでだ。

 

僕はテーブルの上のタッパーを差し示す。

 

右からビーフカレー、ポークカレー、チキンカレー、ベジタブルカレー、シーフードカレーでぇす。

 

「…くッ! そんなものを出されても、私たちは絶対に屈しないんだから!」

 

「もういいデスよ、調。もともとアタシもマリアの言っていることに乗り気じゃないデスし」

 

「一瞬で屈しちゃったッ!?」

 

「そもそも、ハルトと別れたから一切連絡取るな、これで赤の他人よ、ってだけの説明で納得できるデスか?」

 

「それは…私もそう思うけど…」

 

マリアさん、そんなことを二人に言っていたのか…。

 

「けれど、ハルト」

 

そこでようやく切歌は僕を真っ直ぐに見てくれた。

 

「アタシたちも詳しく知りたいケド、マリアとは連絡が取れないんデスよ」

 

調も溜息をつき、会話へと混ざってくる。

 

「切ちゃんの言っていることは本当だよ。極秘任務ってこともあって、マリアが何をしているかは私たちも詳しくは知らされてないの」

 

…そうか。じゃあ、それを見越して二人に頼みがある。

 

「なんデスか?」

 

極秘任務とかの詳細を出来るだけ調べて欲しい。そして、もう一つは…。

 

「…うーんデス」

 

「極秘任務のことは難しいけれど、もう一つの方は」

 

そうか、頼むよ。

 

「でも、バレたらマリアに滅茶苦茶怒られるだろうから、割に合わないデスね」

 

なら、これでどう?

 

「なにこれ? チケット…?」

 

このチケットと引き替えに、僕が注文通りのオリジナルカレーを作ってやるよ。どうだろう?

 

「…調。アタシは乗ったデスよ」

 

「もう、切ちゃん、仕方ないなあ」

 

二人とも、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日付は飛んで、クリスマス・イヴの当日の夜。

僕は、電気もついてないリビングで、テレビの画面を眺めている。

クラスメートたちとのクリスマス会はすっぽかした。

画面の中のツヴァイウイング特番は、ちょうど風鳴翼のサプライズライブが中継されているところ。

そこに―――マリアさんの姿はなかった。

 

…よしッ。

 

僕は立ち上がる。

途端に足もとがふら付いた。

ははは、しっかりしろよ。もう覚悟は決めたはずだろ?

 

でも、万が一。

マリアさんが本気だったら、空回りのピエロだよな、僕。

 

それでも行くと決めたんだろ?

なのになんでいまさら足を震わせてるんだよッ!

気合を入れろッ!

 

自身を叱咤したその時だった。

 

ピンポーン、とチャイムの音。

 

誰だろうと思ってエントランスから流れてくる声に耳を澄ます。

 

『あの…小金井です』

 

小金井? なんでここに?

 

『阿部くん、クリスマス会、来なかったでしょう? そのお金、余ったから返金しようと思って…』

 

少し迷い、エントランスを開けた。間もなく小金井は僕の自宅前へ。

ドアを開け、玄関へと招き入れる。

パーティ帰りらしい小金井は、お召かししていて可愛かった。

 

…わざわざ持ってきてくれなくても良かったのに。どうせ、明後日は終業式で学校で会えるだろ?

 

「ううん。今日が良かったの。でないと、阿部くんがどこか遠くへ行っちゃいそうで…」

 

え?

 

胸に柔らかい感触。ふわんと甘い香りが鼻先を撫でる。

僕、小金井に抱きつかれている?

震える足のまま受けて止めてしまい、困惑するしかない。

 

あ、あの、小金井…?

 

「…好き」

 

はい?

 

「好きなの。わたし、阿部くんのことずっと好きだったの…」

 

なあッ!? このタイミングで、僕、告白されてる…?

 

え、えーとえーと。好きだったっていつから…。

 

「一年の林間学校。あの時、みんなに凄く美味しいカレーを作ってくれて…」

 

ああ、あれか。確か、あんまり女子の手際が悪くて、つい出しゃばっちゃっただけで。

 

「避難所での炊き出しのときだって、大なべ何杯分のカレーを一人で黙々と作っていて」

 

そりゃあ…出来るだけ美味しいカレーを食べてもらいたくてしたことだけどさ。

 

「この間の文化祭でも凄かった。あんなにたくさんのカレーをあっという間に」

 

更にぎゅうっと抱きつかれる。

 

「阿部くんのカレーは、みんなを笑顔にしてくれるんだよ? そんなカレーを作る阿部くんのことが、わたしは大好きで…」

 

僕の腕の中で、涙を浮かべて見上げてくる小金井。

 

この予想だにしないシチュエーション。

嬉しくないとは言えば嘘になる。でも僕の内心は複雑だ。

 

OK、それは分かったよ。でも、小金井は斉藤と付き合っているんじゃ…。

 

「あれは違うの! ちょっと斉藤くんに相談したら、阿部くんの気を引くために色々と考えてくれたみたいなんだけど…」

 

じゃあ、あの写真は?

 

「あれも斉藤くんの提案で、誤解なの! よく写真を見れば、ちゃんと唇を隠して実際にキスなんてしてないんだよッ!? 本当だよッ!」

 

………。

 

なんてこった。

もしかしなくても、僕と小金井は両想いだったってことか?

しかも一年以上前からって…。

 

「写真のことは本当にごめんなさい! 阿部くんを傷つけちゃったらごめんなさい! 自分でも浅はかだって死にたくなるくらい反省してる! でも」

 

必死の表情の小金井の顔がすぐ近くにある。

 

「わたしは、本当に阿部くんのことが好きなの…」

 

小金井は、たぶん嘘をついていない。

 

そう思ったとき、僕の心もグラリと揺れた。

こんな真っ直ぐに異性から告白されたのは、生まれて初めてのことだから。

 

…小金井。

 

肩に手を伸ばす。

僕の手が触れる寸前、小金井は顔を上げた。

目にはいっぱい涙をためて、唇を噛みしめて、

 

「…揺らがないでよ、バカァッ!!」

 

アイタぁッ!?

 

思いきり頬を叩かれた。

え? 何が起きているの? 何で叩かれたの?

 

「阿部くん。あなた、あの人のことが好きなんでしょう?」

 

は、はいッ!

 

小金井の剣幕に、素で答えてしまう僕がいる。

すると、小金井がふっと悲しそうに笑って俯いた。

 

「どこで調べたのか分からないけれど、そのマリアさんから、わたしに電話が来たわ」

 

頬を押さえたままたじろぐ僕に、小金井は顔を伏せたまま押し殺した声で言う。

 

「『あなたが彼と一緒にいてやって頂戴。ハルトのことをよろしく』だって。信じられる?」

 

えッ!? マリアさん、なんでそんなことを!?

 

「分からないの? あなたはマリアさんにフラれたんでしょう? そうでしょう?」

 

…あ、ああ、多分。

 

「…フッたなら、泣きそうな声で電話なんかしてこないでよ! なによ、それ! なによそれッ! わたしをバカにするにも程があるわよッ!」

 

顔を押さえ、小金井はその場に泣き崩れる。

 

「世界の歌姫さまだか知らないけれどッ! わたしはあなたの代わりなんかじゃないのにッ…!!」

 

………。

 

キリキリと胸が痛む。

黙っていれば分からないことを、言わなくても良いことを、いま小金井はぶちまけている。

それは彼女のプライドか、けじめなのか、僕には推測する資格すらない。

けれど彼女の告白は、僕の中の足りなかった覚悟へ向けて、そっと最後の一押しくれた。

 

ありがとう、小金井。こんな僕を好きになってくれて。

 

だから僕は礼を言った。言うことしか出来なかった。

ふと、小金井と彼氏彼女になった姿を夢想してたことを思い出す。でも、それも過去のことだ。もう、僕の覚悟は揺らぐことはない。

 

「…そこ、阿部くんの悪いところだよ。すぐに自分を卑下しちゃうの」

 

手の隙間から赤い目を覗かせて小金井。

 

…そうかな?

 

「ええ、そうよ。だって、あのマリア・カデンツヴァナ・イヴを惚れさせたんでしょう? そんなの誰にでも出来ることじゃないよ」

 

…ありがとう、小金井。本当にありがとう。

 

再び礼を言い、僕は玄関脇のキャリーバックを手に掴む。

それから、床に蹲ったままの小金井の声に、一度だけ振り向いた。

 

「…さようなら、ハルトくん」

 

 

 

 

 



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15話

 

マンションを飛び出すと、すぐ目前に急停車する一台のタクシー。

 

「ハルト、おそいよッ!」

 

ごめんごめん。

 

トランクへ荷物を詰め込み、調の開けてくれた後部座席へと飛び乗る。

 

「それじゃあ、運転手さん! 空港まで、最速で、最短で、真っ直ぐに、一直線にお願いするデース!」

 

「…極力急いで安全運転でお願いします」

 

調の言に、それでも結構なスピードでタクシーは走り出す。

 

「出てくるのが遅いんで、てっきり怖気づいたかと思ったデスよ?」

 

助手席から振り返って切歌は、初めて会った時のように挑発的。

 

二人が骨を折ってくれたことを無駄にはしないさ。

 

僕は笑う。ついさっき、小金井に抱きつかれたことを思いだす。

 

…勇気を貰って来たんだ。だから、もう大丈夫。

 

タクシーは空港までひた走る。

到着するなり、ドアも開くのももどかしく僕らは車から転げ出た。

 

「お代は私が払っておくから、先に行ってハルト!」

 

ありがとう、調!

 

切歌と一緒に荷物を持って走る。

 

エントランスを見回し―――拍子抜けするほどあっさりと見つけることが出来た。

黒いコートを着て、夜なのにサングラスをしたその姿は。

 

マリアさん!

 

「…ハルト?」

 

口だけが、どうしてここに? と動く。

 

やっと会えました…。

 

息を弾ませながら安堵する僕。

サングラスを外し、驚いた視線が僕と背後の切歌を往復する。

 

「…何をしにきたの?」

 

固い声が僕へと向けられてくる。

 

「あなたとの関係はお終い。もう二度と会わないって言ったはずでしょう?」

 

ええ。言われました。でも、そんなの僕は納得してません。

 

「納得しなさいな。そもそもわたしとあなたが釣り合うはずが…」

 

逃げないでください、マリアさん!

 

後ずさりするマリアさんの手を捕まえる。

細い手首は思いがけないほど震えていた。

 

「離しなさい。……離しなさいよ、ハルトッ!」

 

嫌です。絶対に離しません。

 

首を振り、僕は必死で訴える。

 

マリアさんと一緒にいた時間は、とても楽しかったんです。

ドライブデートもして、うちに遊びに来てくれて、一緒に文化祭を回って。

その日々は、本当に楽しく、夢のようで。

 

本来は、あり得ない関係。僕のような高校生とマリアさんが対等に付き合えるわけがない。

それは現実的な刃として、マリアさん自身からも僕へと突き立てられた。

 

でも、実際に、一緒に過ごしたでしょう?

一緒の時間を、共に笑い、楽しみ、過ごしたでしょう?

あれは、本当に現実にあったことで―――あの時の僕とマリアさんは、間違いなく彼氏彼女の関係じゃなかったんですか?

 

「………」

 

マリアさんは、僕のことが嫌いなんですか? 嫌いな僕と一緒にいて、それでもあんなに笑ってくれていたんですか? あの楽しそうな姿も、笑い声も、何もかも嘘だったんですか?

 

これは、卑怯な言い方かも知れない。

それでも形振りを構うつもりはなかった。

 

憧れの人を引き留めるためならば。

もう一度振り向いてもらえるならば。

…そうか。小金井もこんな気持ちだったのかも知れないな。

 

「…その言い方は、狡いわ」

 

すみません。

 

「それに、考えてもみなさいな。たった三か月よ? あなたとあってまだ、三か月も経ってないのよ?」

 

分かってますよ、そんなの。デートだって、両手で数えれるくらいしかしてませんし。

でも。

だから何なんですか?

 

互いのことを知るのに、三か月じゃあ足りないんですか?

足りないのなら、それって誰が決めたんですか?

 

想いを育てるのも、三か月じゃ不足なんですか!?

それじゃあ、どれだけ想えば伝えることを許されるんですか!?

 

そんなことに基準なんてないはずだ。

よしんば、それに十年が必要だと言われても、僕は納得しない。納得なんてしてやるもんか。

僕のこの三か月で育んだ想いが、十年の積み重ねに劣るものだなんて、誰にも決めさせやしない!

 

確かに切っ掛けは、アクシデントでした。

マリアさんが言うとおり、単なる償いや勢いで始まった関係だったかも知れません。

なので気持ちの変化に気づいても、ずっと大それたことだと自分に言い聞かせてきました。

けれど、僕はもう迷いません。

 

マリアさんを真っ直ぐに見つめる。

 

僕は、マリアさんが好きです。そのことを伝えたくて、来ました。

 

「そんなの…ッ! 単にあなたは、わたしに憧れているだけよ! 世界的な歌姫の肩書を持つわたしに…ッ」

 

往生際が悪いですよ、マリアさん。

 

僕は微笑む。

 

世界の歌姫は意外と呑兵衛で、隙だらけで、心配性で、お人好しなことを僕は知っていますから。   

僕が憧れているとするならば、そんなマリアさんにこそ、です。

 

同時に、内心では可笑しくて仕方なかった。

なんだ、マリアさんも自己評価が低いのか高いのか、よく分からないよ。

ああ、切歌が僕とマリアさんが似ているって言ってたのはこういうことなのかな?

 

それはともかく、目前の動揺しまくりのマリアさんに、もう一度告白する。

 

好きです、マリアさん。

 

「…………」

 

マリアさんが顔を上に向け、深呼吸。

 

「とりあえず、手を離してもらえないかしら?」

 

す、すみません、ごめんなさい。

 

慌てて手を離し、改めてマリアさんと対峙する。

今度のマリアさんは腰が引けていなかった。

それから、恥ずかしそうに言ってくる。

 

「…わたしも、あなたのことが好きみたい」

 

はひ? …なんですか、この期に及んでその微妙な言い方。

 

「先週、あなたが事故に巻き込まれかけたでしょう?」

 

ノイズを前に腰を抜かして動けなかった僕を、マリアさんが護ってくれた。

 

ええ。あの時は、助けてもらってありがとうございました。

 

ずっと言いたかった礼を言う。

 

「あの時、わたしはあなたを助けられたことにホッとして…」

 

ええ。

 

「同時に、とても怖くなったの。あなたを助けるのがもし、少しでも遅れていたら―――」

 

たぶん、僕は死んでいただろう。こうやって会話をかわすことも、もうなかったはずだ。

 

「そんなことを想像していたら、もうどうしようもなく気持ちが落ち着かなくなったの」

 

マリアさんが俯く。

 

「はっきりいうけど、最初、泣きわめくあなたを抱きしめたとき、弟くらいにしか思っていなかったわ。でも、一緒にいるうちに、色々とわたしの想像もつかない面が見えてきて。年下のはずなのに、とっても男らしいところまで見せられて…」

 

早口でそういった直後、マリアさんは勢いよく顔を上げて僕を見た。

 

「ねえ、これって好きってことなのよね?」

 

…えーと。目前の対象である僕に、そんなことを聞かれましても。

 

「だって仕方ないでしょう? こんな気持ちになったのなんて初めてなんだからッ!」

 

…え?

 

「あ…」

 

うわ、マリアさん、凄い顔が真っ赤だ。

 

「と、とにかく! わたしは戦士で守護者なのッ! 人類はみんな護らなきゃいけないのよ! なのに…」

 

口ごもるマリアさんに、僕は胸が熱くなるのを感じる。

なぜなら、マリアさんにとって、人類は皆平等に守らねばならない存在だ。

そんな中で僕だけに心が動く不平等。それって僕はマリアさんにとって特別ってことなんだから。

 

僕がマリアさんの弱点になるのは、まずいんですか?

 

「………」

 

だから、僕とお別れを…?

 

「………それだけではないわ」

 

マリアさんは再び天を仰いだ。

それから、僕を見ると、存外さっぱりとした顔つきになって言う。

 

「今回の任務は、期間が未定なの。つまり、いつ戻れるか分からないわ。そんなに長い間離れていれば、どうせお互いの気持ちも冷めちゃうわよ」

 

知ってます。なので、僕も一緒に行きますので。

 

「ハルトのことだからすぐに同年代の素敵な彼女が出来るでしょう。ほら、あの小金井さんだったっけ? あの子なんか年上のわたしより余程ぴったりで……って、ちょ、ちょっとハルト!? 今なんて言ったの!?」

 

僕もお供して渡英するって言ったんです。あ、小金井のことはフッたというかフラれたというか。とにかくお気遣いは無用です。

 

「………」

 

これで、別れなきゃいけない理由なんてないですよね?

 

切歌と調に極秘任務について色々と調べてくれと依頼していた。

さすがに微細な内容まではとても無理だったけれど、それでもざっくりとした概要は理解できた。

 

そもそもの発端は、この間のビル火災。

あれはテロリストの仕業で、ノイズはそのテロリストたちが使役したものだという。

そのテロリストがイギリスとなんらかの繋がりがあって、急遽マリアさんが派遣されることになったらしい。

その派遣期間は未定ということが、マリアさんが僕に対して別れを切りだした大元の理由なんじゃないの?と推測したけど、どうやら正解のようだ。

 

でも、万が一本当にマリアさんから嫌われていたら? 正真正銘別れたがっていたら?

そんな可能性に怖気づいていたけれど、小金井の告白のおかげで完全に覚悟を固めることが出来た。

僕はもう迷わない。マリアさんと一緒に行く。

 

あ、ちなみに切歌と調にお願いしていたもう一つの案件は、マリアさんが本当に24日の夜に日本を発つかの裏付けと、当日の足の準備です。

 

「ハルト、あなた…」

 

退学届も置いてきました。パスポートも家族旅行した時に取得済みです。

両親にもメールで報告を済ませてます。まだ返信はないですけど、まあ、あの二人のことですから、決して反対はしませんよ。

 

思い返せば、24日の夜に発つというマリアさんの発言からしておかしい。

本気で僕と別れたいのなら、そんなことを告げる必要はないのだから。

もしそれがマリアさんの未練による失言だとすれば?

その可能性に気づいたとき、僕の思考は前を向いた。

悩み、焦り、怯え、眠れぬ夜を過ごし、それでも気持ちが変わらなかった自分が少し誇らしい。

 

そんな散々に思い悩んだ果てに、ありったけの手札と覚悟を晒して、僕は彼女の目の前にいる。

 

マリアさん…!

 

強く呼びかけると、マリアさんの表情から力が抜けた。

 

「…全く、あなたには敵わないわね…」

 

じゃ、じゃあ!

 

それから、とても魅力的な顔でマリアさんは笑った。

 

 

 

 

 

「でも、駄目よ。あなたは一緒に連れていけない」

 

 

 

 

 

一気に血の気が引いた。

今まで積み上げてきたものがガラガラと音を立てて崩れていく。

 

な、なんでそんなこというんですか!?

そりゃ僕も英語は得意じゃないけれど、勉強してちゃんと覚えますし!

 

「ハルト」

 

困ったような表情でマリアさんが僕の両頬に手を添えてくる。

見つめられ、言い聞かせるような声音に、僕はますます焦るしかない。

 

運動だって得意じゃないけれど、絶対にマリアさんの足手まといになりませんよ!

それに知ってますか? イギリスカレーは日本のカレーの源流でC&B社が…むぐッ!?

 

唇に柔らかい感触。

それがゆっくりと離れていく。マリアさんの顔がすぐ目の前で焦点を結ぶ。

 

「…あなたの気持ちは受け取ったわ。ありがとう」

 

…ッ。 今のは……。 

 

「でもね、だからこそ、あなたは連れていかない」

 

な、なんでですか…!?

 

「ちゃんと高校くらい出なきゃ駄目よ。わたしが言うのもなんだけど、きちんとした立派な大人になって欲しいから」

 

そんなこと言わないでください! 僕はマリアさんと一緒に行ってもちゃんとした大人になりますからッ! お願いですッ! なんでもしますからッ!

 

「こら、早とちりしないの。気持ちは受け取ったっていったでしょ?」

 

マリアさんが微笑んでいる。目尻に浮かぶ涙に、僕は言葉を飲み込む。

 

「だから―――待っていてくれる?」

 

…え?

 

「必ずわたしは帰ってくるから。だから」

 

コツン、と額に額を当てられる。

マリアさんの声は震えていた。けれど、紡がれる言葉はいたずらっぽく囁くように。

 

「だから、その時まで、せいぜいいい男になっていて、わたしを驚かせて頂戴。ね?」

 

…はい。

 

そう返事する以外、僕に何が出来ただろう?

 

「ん。いい返事よ」

 

マリアさんはグシグシと僕の髪の毛を掻きまわして、

 

「頑張れ、男の子。このわたしの初めてをあげたんだからね? 絶対にいい男になってなきゃ、承知しないんだから…」

 

震える声に涙が交じる。

 

…はい。約束します…。

 

頷いたとたん、抱きしめられた。

抱きしめ返した僕は完全に泣いていた。

想像以上に柔らかく華奢な感触と温もりを両腕いっぱいに抱いて、ああ、僕は本当にこの人が好きなんだなあ、と思う。

 

「大丈夫。きっとすぐに会えるわ」

 

身体を離し、マリアさんは笑った。

それから清々しいほどに綺麗な動作で身を翻すと、振り向きながら何事もなかったかのように手を振ってくれた。

 

「それじゃ、行ってきます」

 

…行ってらっしゃい。

 

僕も手を振り返す。

その後ろ姿が出国ゲートの向こうに見えなくなるまで、僕はずっと手を振り続けた。

涙を拭うのも忘れて、振り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…これで良かったんデスか、ハルト?」

 

切歌が声をかけてくる。

 

うん。これでいい。これで良かったんだ。

 

僕の気持ちはマリアさんに伝えた。マリアさんは僕の気持ちを受け取ってくれた。

なら、どんな距離だって問題ないさ。

 

それに、しっかりと約束もしたからね。

 

「ハルトが良いなら、それで良いんだけど…」

 

僕のキャリーバックにちょこんと座ったままの調。

少し元気がない風に見えるのは、やはり二人も大切な家族が遠くへ行ってしまったことが寂しいんだろう。

そんな二人に、今回は色々とありがとう、と礼を言う。

それから、目尻の涙を拭って笑ってみせた。

 

さあ、帰ろう。まだイヴだし、せっかくだからケーキくらい食べようぜ。

 

「うん。ハルト、なんかさっぱりした良い顔になっている」

 

「じゃ、さっそくこのチケットでオリジナルカレーをデスね」

 

「そこはさすがに空気を読もうよ、切ちゃん…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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エピローグ

そして、再会の日は、思いがけないほど早くやってきた。

 

 

3日後―――つまりは12月28日。

 

 

…なんで買い物から帰ってきたら、マリアさんがコタツにあたっているんですかねえ。

 

「あら、お帰りなさい、ハルト」

 

どういうことか説明して貰えますか、マリアさん?

 

荷物を片付けるのもそこそこに、僕はマリアさんに詰め寄る。

 

「えーと、そのね…?」

 

苦笑いしながら目を泳がせるマリアさんに僕は溜息一つ。

 

英国におけるテロ組織の調査とその対処がマリアさんへ与えられた密命。

ところが、英国政府の現職大臣が、そのテロ組織と深いかかわりを持っていたことが発覚。

これはマリアさんの属する組織とは別の、英国内部組織の調査によって判明したもの。

そこから芋づる式にテロ組織への一斉捜査と摘発に繋がり、マリアさんが到着する頃に組織はほぼほぼ壊滅状態の電撃決着。

加えて英国内のスキャンダルということで、身内の恥を晒したくない英政府の意向もあり、マリアさんはほとんど蜻蛉帰りで帰国することになったそうな。

 

「…なんでハルトはそんなことを知っているの?」

 

マリアさんが目を丸くしている。

 

切歌と調を責めないでやって下さいね。僕が無理いってゴリ押しで情報を集めさせたんですから。

 

そう答えつつ、僕がこの情報を得たのはつい先日だったり。

 

 

 

 

 

 

 

昨日の夕方、赤シャツを着た大男が、文字通り切歌と調の襟首を掴んでぶら下げたまま訊ねてきた。

 

「ハルト、ごめんなさい…」

 

「色々と調べていたのバレちゃったデスよ…」

 

うん、そりゃ見れば分かるよ。

 

二人をそれぞれ片手にぶら下げて持ってきたゴリマッチョな人が、マリアさんたちが属する組織の一番えらい司令さんだとか。

切歌と調がコソコソ調べていたのがバレた結果、依頼元は僕であることが判明。

 

―――本来なら部外者に情報を流すのは厳罰にしなければならないが、君もあながち無関係でないからな。

 

そこから三人並んで正座させられて、こんこんと説教ですよ。

でもそのあと、まあ、惚れた女の動向は気になるよなあと司令さんは豪快に笑った。

思わず赤面する僕を前に、勝手に動き回って詮索されるくらいなら、とその司令さんが直々に教えてくれた概要が以上です。

 

帰り際、僕の全身をマジマジと眺め、ぶっとい二の腕を披露しながら「なんなら鍛錬してやろうか?」と言われたけど、丁重にお断りしました。

男の鍛錬は、カレー作って飯食って寝るッ! それだけで十分ですよ、ってね。

 

なんか妙に納得した風に頷いて帰っていった司令さんの名前は、確か風鳴弦十郎さんだったかな?

…風鳴翼と同姓だけど、なんか関係あるのなあ?

 

っと、それはともかく。

 

 

 

 

「あの、ハルト、ひょっとして怒ってるのかしら?」

 

ではマリアさん。逆にお尋ねしますが、なんで僕が怒っているのかわかります?

 

強くそう返すと、マリアさんはコタツ布団に半分顔を埋めてしまった。

 

ふう。あのですね、僕だってバカじゃないですよ? 英国まで直通で飛行機が12時間。そんでとんぼ返りで24時間。

時差や諸々があって丸二日かかったとしてもですよ? 今日、ここに来るまで、丸一日くらい余裕がありましたよね?

職場に報告とかあるにしても、帰ってきたならすぐに連絡くらい…!

 

「だって…」

 

そういうマリアさんの頬は真っ赤っか。

顔を半分埋めたまま、泣きそうな声を出す。

 

「あんな派手な愁嘆場で別れたのよ? それがもう帰ってきたなんて、さすがにわたしもちょっと恥ずかしいし…」

 

………。

 

その意見には同意だったけれど、僕は全く別のことを考えていた。

あーもう、年上なのに可愛くて困るよマリアさん!!

 

「…ごめんなさい」

 

僕の内心とは裏腹に、謝られてしまった。

 

「それと、あの子。小金井さんにも謝らなくちゃ…」

 

終業式で顔を合わせた小金井は、普段と変わらない彼女だった。

そんな小金井と斉藤の間になにがあったか知らないが、終業式後に斉藤に呼び出され、土下座する勢いで謝られた。

内容は、先日の小金井の言ったこととほぼ一緒。

悪気はなかった。小金井に頼まれて僕の気を引くために色々と画策したと言われて、小金井の時と違い一瞬殺意が沸いた。

斉藤が余計なことをしなければ、小金井と相思相愛でつきあっていたかも知れない。

一方でコイツの悪手がなければマリアさんとは付き合えなかったわけで。

小金井に謝り倒して、もし許してもらえるなら、今度こそ本当に交際を申し込むつもりだと言われても、別に僕の許可がいる話じゃないでしょ?

ってな感じで、どうにも僕はモニョるしかできなかったわけだけど。

 

 

 

無言でコタツの対面に腰を降ろす。

 

まだ怒っている? って感じでマリアさんが不安げな眼差しを向けてきたので、恭しく言った。

 

では、どんなカレーをお作りしましょうか?

 

マリアさんは一瞬きょとんとして―――それから顔を上げて、うん、うんと頷きながら笑ってくれた。

 

「それじゃ、ビーフカレーをお願い。甘めで、うんとコクのあるヤツ」

 

承りました。少々お待ちください。

 

僕は冷蔵庫の前に立つ。

材料は既に準備してあった。マリアさんがいつ帰ってきてもいいようにね。

 

材料とスパイスを炒め、抜栓した赤ワインを注ぐ。

残ったワインは、タンドリーチキンと一緒にマリアさんの前へ。

 

煮込んでいるうちにご飯も炊けた。

炊き立てのご飯に、出来立てのルウをかけて、ゆっくりと運ぶ。

静かにマリアさんの前に置いて、僕は言った。

 

…おかえりなさい、マリアさん。

 

「ありがとう、ハルト」

 

にっこり笑い、マリアさんはスプーンでカレーを頬張る。

 

「うん、美味しいわ」

 

ありがとうございます。

 

「…ねえ、ハルト」

 

食べ終えたマリアさんが、ふんわりと僕を見てきた。

 

はい?

 

「また、わたしのためにカレーを作ってくれる?」

 

僕はにっこりとする。

その答えに対する返事なんて、もうとっくに決めていた。

 

作りますよ、いつでも。…いつまでも。

 

マリアさんが大きく目を見張った。

その瞳が見る見る潤んで、溢れてくる。

ぽろぽろと頬に涙を伝わせながら、それでもマリアさんはとびきり魅力的な笑顔で答えてくれた。

 

「ありがとう。これからもお願いね、ハルト」

 

そして。

 

「ふふっ、わたしにとって、ハルトはカレーの王子さまね」

 

マリアさん、それ、凄く嬉しいけどちょっとイヤです…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恋人はマリアさん 完 

 

 

 

 

 

 

 




読んでくださった皆さんのおかげをもちまして、無事完結することが出来ました。
ありがとうございました。

活動報告の方でも挨拶をさせて頂いてますので、そちらも読んで頂ければ幸いです。


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恋人だったマリアさん

本編の後日談になります。


「お、ハルト、久しぶりだなッ!」

 

「阿部くん、おひさ~」

 

駅裏の居酒屋に到着すると、既に和気藹々と盛り上がっていた。

 

こんばんは。みんなも久しぶりだね。

 

今日は高校の同窓会。成人式を終えたあとってことで、スーツやワンピースを着ている面子が多い。

僕が遅刻してしまったのは家で着替えを済ませてきたから。まあ、初見の店を探せない方向音痴なことも否定しないけどさ。

 

「ハルト、こっちこっち!」

 

盛大に手招きしてくるのは斎藤だ。紫色のスーツというキワモノなんだけど、完璧に着こなしているのは羨ましいというかなんというか。

 

どーもどーも。

 

手刀を切りながら、僕は座敷を横断。斎藤の隣の空いたスペースに腰を下ろす。

 

「ほらよ。かけつけ一杯!」

 

誰かが注文してくれたらしい生ビールのジョッキがやってくる。

 

ありがとう。

 

礼を言って、一気に半分くらい空けた。咽喉が渇いていたので美味しい。

おお~! と意味不明の歓声と拍手があがる。続いて斎藤が肩をバンバン叩いてくる。

 

「いやあ、阿部先生の活躍は素晴らしいなッ」

 

苦笑する僕に向けて、女子の一人がペンと一緒に本を差し出してきた。

 

「ハルトくん、サインしてくれない?」

 

結果、僕はますます苦笑を深めるしかない。

 

買ってくれてありがとう。でも、僕のサインなんて書いたら、古本屋へも売れなくなるぜ?

 

お礼のあとに、そう本心から付け足す。

それでもサラサラと表紙にサインをした本は、僕の著作ということになっている。

 

タイトルは『365日美味しく食べられるカレーレシピ』。

 

まあ、このIT時代ということもありまして、何気なくSNSに毎日の食事情報なんぞをアップしてみたわけですよ。

そしたら思いのほかアクセスがあって、ああみんなカレー好きなんだなあ、と嬉しく思っていたら、ある日出版社からメール。

「ブログの内容をまとめて書籍にしてみませんか」とのお誘いを受けて、エッセイ風の所感など書下ろして刊行してもらった。

これも思いのほか反響があって、三刷ほど重版しているらしい。

 

でも、こういう風に本を出版してもらったブロガーは結構いるもんだよ? 僕なんか大したもんじゃないって。

 

「結構いるかも知れないけれど、オレたちのクラスメートだってことに価値があるのさ」

 

ジョッキ片手に斎藤が嬉しいことを言ってくれる。

 

「実際にレシピ通りに作ったらとても美味しかったよ!」

 

僕のサインを所望してくれた女子もそんなコメントをくれた。こっちもお世辞でも嬉しいもんだ。

 

「おまけに動画配信までしてるだろ? いまやハルトは有名人だって!」

 

そんなの大袈裟だよ。

 

そう返してジョッキを一気に空ける。すかさず誰かがお替りを注文してくれた。

すきっ腹に酒ばかりじゃ体に悪い。突き出しらしいサーモンのマリネを食べながら僕は自嘲する。

 

あんなのカレー作っているだけの動画だぜ?

 

ブログと同じで、僕にとっての日常的な光景をアップしているだけのつもりだ。

それでも結構な数の視聴者がいることは否定しないけれど、調や切歌が遊びに来て「謎の美少女アシスタントデ~ス!」とかへんてこな眼鏡をかけて映っているときの再生数はダンチなのだ。

つまるところ、僕のチャンネルの人気の大半はあの二人のもんだろう。

 

「でも、他の有名配信者とのコラボとかもしてるでしょ? あれも見たよ!」

 

きゃいきゃいと言ってくれる女子が複数。

見てくれてありがとう、と礼を言いつつ、僕の内心はちょっと複雑。

配信者同士がコラボして、お互いの視聴者の掘り起こしを行うのは、業界的にも良くある話だ。

でも、カレーしかメインになるものがない僕に対し、コラボ相手の目当ては切歌と調だったりするんだよなー。

『謎の美少女アシスタントは来てないの?』なんて面と向かって言われたこともあるし。

 

「どうよ!? これでもおまえは有名人じゃないって言い張るつもりか!?」

 

間近に迫る斎藤は、もうだいぶ酒臭い。

 

…おまえ、酔っているだろ?

 

新しく来たジョッキを片手にどうにか牽制していると、反対側から肩をちょいちょいと叩かれる。

 

「阿部くん、久しぶりだね」

 

―――小金井か。う、うん、久しぶりだね。

 

正直に言おう。僕は激しく動揺してしまった。

なぜなら、久しぶりに顔を見た小金井は、うんと綺麗になっていた。

垢ぬけたというか洗練されたというか。

同時に思い出すのは、三年前のクリスマスイヴの告白。

 

『わたしは、本当に阿部くんのことが好きなの…』

 

僕の人生において初めて受けた告白で、僕の人生において初めて振った女の子。

それが小金井すみれ。

 

そんな彼女の頬はほんのり上気していた。

着ているのはパンツスーツだったけれど、胸元のボタンが二つも外されていて、目のやり場に困ってしまう。

 

「…ふふ。相変わらず元気にカレー作っているみたいだね、阿部くんは」

 

そ、そういう小金井も元気だった?

 

「元気も元気だよー。毎日、嫌味くさい上司とクレーマーみたいなお客の相手ばっかしてさ!」

 

小金井は就職組で、確か携帯端末の販売店に勤務しているとか小耳にはさんだ覚えがあった。

 

そうか、大変だなー。

 

「大変なんですよー。だから飲まなきゃやってられないんですぅー」

 

拗ねたように唇を尖らせ、小金井はジョッキを空にする。すかさずテーブルの上にあった手付かずのジョッキもグビリ。

 

…ずいぶんと飲みなれているみたいだけど?

 

「そりゃあね。忙しくて遊びに行く暇もないし、おまけに恋人もいないしねッ!」

 

睨んでくる小金井の目が座っている。ヤバイ、藪蛇だった?

そのまま、ひっく! と言いながら睨んでくる小金井に、文字通り蛇に睨まれたカエルのように冷や汗を流す僕。

そんな僕らの斜め前方で、救いの手というか一際大きな歓声が上がった。

 

「というわけで、オレたち婚約しましたッ!」

 

並んで立ち上がっている二人は、高校時代からのクラス公認カップルだ。

ずいぶんと仲良さげに見えていたけれど、そっかー、成人式を迎えたから婚約かー。

 

「二人とも愛が早いなー。オレなんてまだまだ遊びたいけどなー」

 

斎藤が僕の肩に寄りかかりながらそんなことを言う。

 

「そういえばハルト、おまえの彼女はどうしたんだ? ほら、あのマリア・カデンツァヴナ・イヴにそっくりだっていう…」

 

続けて斎藤が訊いてきたことに、ギクリとする。

動揺を悟られないよう、僕は小金井に全く関係のない話題を振っていた。

 

ああ、小金井、そのスーツ凄く似合っているじゃないか。

 

口にしつつ、これも三年前に得た大いなる経験則。

女の子は着ている服を褒めてあげると、こうかはばつぐんだ!

 

「うふ、ありがとう」

 

小金井は色っぽい表情で笑って、

 

「阿部くんも、()()()が選んでくれたらしいその服、似合っているよー」

 

ギクギクギク! と、きっと僕の心臓グラフは数十年前の世界景気指数ぐらい、盛大に乱高下していたことだろう。

 

あ、あの小金井さん…?

 

思わず敬語で語り掛けてしまう僕に、

 

「あ、なんだハルト、おまえ、別れちゃったのか?」

 

い、いや、その…。

 

「…そうか、悪いこと訊いちまったな。まあ飲め。飲んで忘れようぜ!」

 

斎藤に変な食いつき方をされた挙句、ジョッキにビールを注がれた。

どうにも答えづらいまま口にしたそれは、ウイスキーのビール割りだった。や、美味しく飲んだけどさ。

 

もう一度小金井に話しかけようと思ったんだけれど、席を立った彼女は別の女子グループの元へ。

僕は僕で斎藤のほかに男子一同より慰めの言葉と手酌を頂戴する羽目に。

 

気づけばだいぶ場も煮詰まって、なかなかカオスな状況だ。

そんな中で、スーツの上を脱いだ斎藤が、どこからか花束を持ち出すと小金井に突撃。

 

「すみれさん! 僕と付き合ってください!」

 

このサプライズに、場は大いに盛り上がる。

ジョッキ片手にぽかんと告白を受けた小金井だったけれど、艶然とした笑みを浮かべてジョッキの中身を一口。

 

「スーツの趣味が悪い。やりなおし!」

 

崩れ落ちる斎藤に、盛大に巻き起こる失笑と冷やかしと笑い声。

そんなこんなで僕たちの同窓会は、ひたすら楽しいままに過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

居酒屋の貸し切りの時間は19時まで。

まだ宵の口だし二次会に行こうという誘いを丁重に断り、僕は帰宅することを選ぶ。

一応、全員と連絡先を交換したあと。

 

つーか、15時から飲み始めたくせに、みんなしてタフだよなあ。

 

しみじみと呟いた僕の隣には、なぜか小金井もいる。

なんでも小金井は明日は仕事なんだってさ。

まあ、僕としてはちょっと彼女と話をしたかったから渡り舟だったり。

というわけで、近くの駅まで歩く道すがら。

 

あのさあ、小金井…。

 

「…うぷ、気持ち悪い」

 

だ、大丈夫か!?

 

口元を押さえて蹲る小金井を、とりあえず近くの公園へ。

女子トイレに入っていくのを見送ってから、公園の入り口にあった自販機でお茶を二本買う。

ベンチに腰を下ろしていると、よろよろとした足取りで小金井が戻ってくる。

そのままストンと隣に腰を下ろす彼女に、もっていたお茶を渡してやった。

 

ほら、これで口でも濯げよ。

 

「…ありがと」

 

グビグビとペットボトルの半分ほど一気飲みし、中身の残ったボトルを額に当てる小金井。

 

どう? 落ち着いたか?

 

「うん。少し飲みすぎちゃったみたい…」

 

あんまり無理すんなよ。酒と上手に付き合うのが大人の嗜みっていうし。

 

そういうと、なぜか僕を睨んでくる小金井。

 

「阿部くんもかなり飲んでなかった?」

 

そりゃあ飲んだよ? でもあいにく、僕はあんまり酔っ払わないタチらしくてね…。

 

「そうなの?」

 

たぶんさ、カレーにはウコンとか入っているでしょ? 普段からいっぱい摂取してるから、耐性がついてるのかもなあ。ははは。

 

「ふーん…」

 

それよか小金井。さっき訊こうとしたんだけど…。

 

「ところで阿部くん、大学生活はどんな感じ?」

 

僕の質問を遮るように小金井。

 

ま、まあ、それなりに忙しいよ。授業を選択して単位を取るのはなんかパズルっぽいしさ。

 

就職組の彼女と違い、僕は都内のそこそこの大学へと進学。いちおう経営学部に在籍している。将来的にはカレーショップの経営とまでは行かなくても、スパイスとかの流通関係の仕事もしたい。

 

あと、面白いことにさ、たいていの大学にはカレー研究部ってのが存在しているんだよ。

 

「ふーん、楽しそうだね。阿部くんも所属していたり?」

 

もちろん! いやあ、みんなして知見が凄いんだよ。カレーのレシピの研究はもとより、関東一帯のカレー店のリサーチとか…。

 

そこまで喋って、僕は興奮のあまり立ち上がっていたことに気づく。

気恥ずかしくなって口を閉ざせば、見下ろした小金井は笑っていた。

 

「本当、阿部くんは変わらないよね。高校時代から全然」

 

そ、そうかな…。

 

「わたしが好きだったころと、まるで変わってない…」

 

…ッ!!

 

何と言っていいのか。何を言えばいいのか。

沈黙する僕に、小金井はすくっとベンチを立つ。

そのままピタッと寄り添ってくる彼女に、僕は激しく狼狽するしかない。

 

こ、小金井さん…?

 

すぐ目前の胸元に、小金井の艶やかな旋毛がある。

アルコール臭の中でも胸が温かくなるような甘い匂いは、きっと彼女の香りで。

 

「本当に、阿部くんは変わってなくて、安心したよ」

 

小金井が顔を上げる。

 

………。

 

すぐ近くで見下ろす僕。顔が近い。

 

「ごめん、じっくり見ないで。さっきトイレで顔洗っちゃったから…」

 

あ、わ、悪い…。

 

僕が顔を背けたその時だった。チュッと頬に暖かい感触。

半瞬遅れてパシャっとスマホのシャッターが切られる音。

い、いま、キスされた? それに写真も? なんで!?

 

「ふふーん、ミッションコンプリート!」

 

動揺する僕からスッと身体を離し、小金井は笑っている。

 

い、いったい何のつもりなんだ…?

 

「御守りだよ。これからのわたしの人生の、ね」

 

はい? 意味が分からない上に、ずいぶんと大仰な…。

 

なお動揺しまくる僕に取り合わず、颯爽と小金井は身を翻している。

まるで酔いを感じさせない足取りのまま、背中越しの声。

 

「それじゃ、元カノさんと仲良くね~」

 

お、おい…!

 

僕の声を振り切り、小金井は公園を出ていく。「さらば~青春~♪」と少し調子っぱずれの歌と一緒に。

 

…まいったな。こっちから訊ねることも出来ずに、一方的に小金井は行ってしまった。

でも、彼女の言から察するに、こちらの事情は全て把握しているんだろうな、たぶん。

 

なんとなく釈然としないまま電車に乗り、駅からマンションまでの帰り道。

いつまでも動揺したままじゃいられないな。

そう覚悟を決めて念じれば、たちまち楽しく心臓がスキップを踏み始めるのだから、我ながら単純なもんだ。

 

 

自宅であるマンションの表札には、僕のフルネームが記してある。

防犯上は避けた方がいいんだろうけど、これは彼女たっての希望だ。

そんな彼女の名前は、『阿部ハルト』に続いてこう記してある。

『阿部マリア』と。

 

吾ながらキモイとは思うけれど、なんど眺めてもニンマリしてしまう。

それから、おっと危ない、玄関のチャイムを押す前に胸のチェーンネックレスから指輪を外して薬指に嵌めた。

さすがに同窓会でしたままは憚られたそれは、彼女―――マリアさんとの結婚指輪。

 

だけに、小金井が元カノと表現したのは間違いではない。

なぜなら、マリアさんは僕の彼女でも恋人でもない。奥さんになったのだから。

 

 

ピンポーン! と改めてチャイムを押せば、パタパタとスリッパの音。

間もなくドアが開くと、エプロン姿のマリアさんが出迎えてくれた。

 

「おかえりなさい、ハルト」

 

うん、ただいま、マリアさん。

 

透き通るような声に、溢れんばかりの笑顔。

それが僕だけに向けられていることを、とても幸福に思う。

おまけに、エプロンの胸元が今日も素晴らしく盛り上がっている。それでも着痩せして見えるって、どういうことなんだぜ?

 

そんなことを考えている僕の前で、マリアさんは柳眉を顰めた。

そのまま僕の首筋でスンスンと鼻を動かすことしばし、

 

「…女ものの香水の匂いがするんだけど?」

 

そりゃあ居酒屋貸し切りの同窓会ですもん。クラスの半分は女子ですからね。

 

シレっと僕は答える。

 

「そお? …まあ、わたしはクラスの同窓会なんてしたことないから判らないけれど…」

 

疑わし気な表情も一転、どこか拗ねたような口調になるマリアさん。

本当なら、今日の僕の同窓会に参加は無理にしても、迎えに来る気は満々だったらしい。

でも、さすがに大騒ぎになるからって自重してもらっている。

というか、むしろ僕たちが入籍したことは、世間的には公にされていなかったり。

 

 

 

 

去年の四月、僕は誕生日を迎えると同時にマリアさんにプロポーズをした。

 

もう成人して大人になりました。だから、これからもずっと一緒にいてください。

 

…本当は、もっと情熱的かつセンシティブな台詞を口にしたんだけど、これは僕ら以外の誰にも言う必要はないだろう。

きょとんとしたマリアさんだったけれど、涙ながらに快諾してくれた。

 

華燭の典は六月末のジューンブライドを選択。

身内だけのこじんまりとした式で、僕の方の参加者は、親父とおふくろの両親だけ。

マリアさんの方は、切歌と調は当然として、あの風鳴翼も参加してくれた。

 

“どうかマリアのことを幸せにしてやってくれ”

 

は、はい! 全力全開で幸せにしますッ!

 

あのツヴァイウイングの片翼を前に、緊張のあまり裏返った声を出してしまったのは返す返すも恥ずかしい。

 

“正直、ハルトが早くマリアと結婚を決めてくれて嬉しいよ”

 

と調。

 

“翼さんなんて四十歳までに結婚すればいいとか言ってるデスからね。マリアも少し焦ればよかったんデス!”

 

切歌のさらっとしたメタい発言はともかく、焦っていたのは僕もだよ?

なんせマリアさんは凄い美人な上に世紀の歌姫。

外国とかでコンサートをすれば、現地の俳優やセレブに声をかけられまくるって言うし。

 

だから、二十歳の誕生日の当日のプロポーズ。

本当は大学を出て就職して安定してから、と思っていたけど、どうしても我慢できなかった。

いつ僕なんかよりもっと凄い男が現れて、マリアさんの心を奪っていくか不安で仕方なかったから。

 

婚姻届けが受理されたあとに、思わず感無量でそうこぼしたら、マリアさんに笑われてしまった。

“ハルト、あなた、本当に自己評価が低いのね”って。

 

それと、これもあとから聞いたんだけど、マリアさんは僕より年上のことに少々コンプレックスがあったらしい。

 

“…ハルトより、わたしの方が先におばあちゃんになっちゃうのよ?”

 

僕は答える。

 

いいですね。僕もおじいちゃんになっているんで、一緒に手を繋いでゆっくり散歩しましょう。

 

思えば、この台詞がマリアさんに対する殺し文句になったのかも。

結婚式の二次会でこの話をこそっと披露したら、司令さんから“君は若いのに枯れているなあ”なんて苦笑されたけどさ。

 

 

それはともかく。

 

マリアさんは僕と結婚して阿部マリアになってくれた。

本人はラテン語の『アヴェ・マリア』みたいだわ、って恥ずかしがっていたけれど、こうなったのには僕の意向も反映されている。

そりゃあハルト・カデンツァヴナ・イヴもカッコいいけどさ。

こんな名前が保険証や会員証に記載されるのは、純日本人顔の僕にとっては名前負けもいいところでしょ?

 

ちなみに親父とおふくろはマリアさんのプロフィールにさして驚くでもなく祝福してくれた。

翌日には引っ越し屋がマンションに来て、親父たちの荷物を根こそぎにしていっている。

自分たちは本格的に沖縄に移住するから、このマンションはおまえの好きにしろ、だって。

有難く申し出を受け入れた僕らは、マンションで一緒に暮らし始めた。

それからまだ半年ほどの、新婚ホヤホヤだったりする。

 

 

 

玄関で靴を脱ぎながら、リビングから漂ってくる食欲をそそる匂いに、僕は鼻をひくつかせた。

 

うーん、美味しそうなカレーの匂いがするなあ。居酒屋では飲んでばかりでほとんど何も食べてなくて…。

 

「そう。ならちょうどよかったわ」

 

嬉しそうに笑いながら、マリアさんは僕の脱いだジャケットを受け取ってくれた。

と思ったら、いきなりこっちに返してきて、もう一度着せようとしてくる。

 

ど、どうしたんですか?

 

「旦那さまの出迎えの仕方を間違えたわ。だからTAKE2よ。いい?」

 

は、はい。

 

訳も分からぬまま玄関から追い出され、僕は言われた通りにTAKE2とやらを開始すべくチャイムを押す。

 

「は~い」

 

パタパタとスリッパの音。

扉が開けば、マリアさんの満面の笑み。

 

「おかえりなさい、ハルト」

 

ただいま、マリアさん。

 

微笑み返す僕に、マリアさんはそれはそれは甘い声で囁くように言ってくれた。

 

 

 

 

「それじゃあ、アナタ。お風呂にする? ご飯にする? それとも……わ・た・し?」

 

 

 

 

あ、じゃあカレーを。

 

 

 

 

「…実家(くに)に帰らせていただきますッ!!」

 

 

 

 

えぇ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『…ハルト、こうやってマリアがアタシたちのところに来るのは何度目デスか?』

 

『私たちの(うち)を、そういうプレイのダシにしないで欲しいんだけど…』

 

 

 

 

 



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新妻なマリアさん


本編で全く触れられてなかったクリスちゃんによる裏語りとなります。
それと、マリアさんのポンコツ度が八割増し(当社比)になるので、かっこよくて凛々しいマリアさんが好きな方は、全力全開でバックボタンを押してください。


 

 

 

雪音クリスはかく語りき

 

 

 

 

マリアに対する人物評?

まあ頼りになる同僚だわな。

装者ん中では一番年上だし、経験からくる判断力はピカイチだと思う。

正義感も強くて、無駄に責任感も強くて、余計なしがらみまで色々と囲いこんで悩みまくって―――。

ありゃあ、てめえでやらかしたことを延々と後悔するタイプだ。

 

…なんで断言できるのかって?

あたしもそうだからだよ! 

犯した罪を自覚して、償わなきゃって必死になって、自分は幸せになっちゃいけないって頭から思い込んじまうんだ。

 

もちろんそれは昔の話で、今のあたしは違うぜ? マリアだって変わっているだろうよ。

けれど、そんな風に、妙なシンパシーを感じているんだ、あたしは。

結構プライベートな相談とかされることもあるしな。

これって、マリアもあたしに似たものを感じている証拠だろ?

 

 

 

だとしても、正直あれは参った。

大切な相談があるって急に夜遅く訪ねてきたと思ったら、すげえアワアワした顔してさ。

 

『高校生の男の子に、彼女になるって宣言しちゃったんだけど、どうしよう?』

 

急にンなこと言われても、全然話が見えねーっての!!

 

それでも詳しく聞き出してみりゃ、開いた口が塞がらねえ。

よりにもよってギアペンダントを落っことして、それを一般人に拾われた、だあ?

完全にマリアの大ポカが原因で、その親切な高校生はとんだトバッチリだろうよ。

 

…そりゃあ、償うしかねえよなあ。

 

あたしとしてはそう答えるしかない。とにかくその男の子は気の毒すぎる。

 

『じゃ、じゃあ! 具体的に彼女として何をすればいいのかしらッ!?』

 

ああッ!? そんなのアンタの好きにすりゃいいじゃねえか!

 

…そもそもあたしだって男と付き合ったことなんてないっつーの。

 

『お願いだから一緒に考えてちょうだい! あなたしか相談できる人はいなくて…ッ!」

 

ちょっと考えこんで、マリアの泣きそうな顔にも納得が行く。

まず先輩はこの手の恋愛話を振ったって、まともな返事すら期待できない。

あのバカはあの子と(ねんご)ろだから、訊くだけ無駄だ。

切歌と調だってそうだろう。

だったら、消去法であたししかいないわな。

 

分かった分かった。だからそんな情けないツラするなよ…。

 

『ありがとう。感謝するわッ!』

 

そんで色々と相談に乗ってやったわけだけど、マリアって意外と自己評価が低いのな。

普通にドライブデートにでも誘って、一緒に飯食って、カラオケで歌でも披露してやれば? って提案しても、なんか不安そうなツラのまま。

だからあたしは言ってやったさ。

 

しけた顔してんじゃねーって。アンタは世界の歌姫さまなんだろ?

パンピーのガキなんざ、一緒に歩いただけで感激で昇天しちまうこと請け合いだぜ?

 

『…そうかしら』

 

そんでも表情が晴れないマリアだったけれど、結局あたしのアドバイスに従ったらしい。

翌々日には、凄い嬉しそうな顔で報告に来た。

 

『おかげさまで大成功よ。あなたのアドバイスに従って正解だったわ』

 

そうか。そりゃ良かったな。

 

『次にデートに誘ってもらう約束も出来たしね!』

 

うん……うん? って、アンタその男子とガチで付き合うつもりなのか!?

 

『え? 彼氏彼女って、そういうものじゃないの…?』

 

いや、まあ…アンタがそこまでして償いたいってんなら、構わねえけどよ。

 

『??』

 

不思議そうな顔をするマリアに、あたしは心の底から叫びたい。

 

―――こりゃ恋愛初心者ってレベルじゃねーぞッ!?

 

もちろん面向かってそう言わない程度の分別はある。

だいたいあたしだって偉そうに言えるほどの経験もねえしな。

 

まあ、頑張りな。色々と応援はしてやっからよ。

 

替わりにそう言ってやると、マリアはニッコリとする。

 

『ありがとう。頼りにさせてもらうわ』

 

その笑顔に、ちいとばっか妬ましい気持ちになったことは否定できねえ。

同時に、どうせ上手くいかないだろうな、って高も括っていた。

 

だって、年下の現役高校生に、かたや世界が認めた世紀の歌姫サマ。

どう考えてもまとまる取り合わせじゃねえだろ?

 

でも、失敗するのもひっくるめて恋愛ってもんじゃないのかな、たぶん。

 

そんな風に、ちょいと高見の見物を決め込んでいたあたしの予想は、大きく覆されて行く。

色々とすったもんだしたあげく、『相思相愛になったみたい』ってマリアが報告してきたのは、付き合い始めてから僅か三か月だぜ?

それからも順調に時間を重ねてたみたいで、あっという間に三年が経過。

今年の六月にはよもやよもやの―――。

 

 

 

 

 

 

 

本部の廊下を曲がると、マリアの姿が見えた。

人気のないエントランスの片隅。携帯端末を耳に当てて話し込んでいる声が、こっちにまで聞こえてくる。

 

「うん、そう。今戻っているところだけど、日本への到着は早くても真夜中を過ぎるみたい。

 だから、ご飯は片づけちゃって――って、ええ? 起きて待っている? いやいや、いいわよ。本当に遅くなっちゃうし。

 それにね、アナタは明日は一コマ目から受けなきゃならない講義があるんでしょ? うん、気持ちは嬉しいから。ね? 

 うん、はい、明日中には必ず戻れるようにするから。だから、今日はちゃんと戸締りと火の元には注意してね? うん。うん…。それじゃあ、おやすみなさい。

 ―――愛してるわ」

 

チュッと端末にキスをしているマリアに、あたしはげんなりする。

 

「…あら、クリス、どうしたの?」

 

こちらに気づいたらしいマリアが、慌てて携帯を仕舞い込む。

通話を聞かなかったふりをして、あたしは探していた理由を説明。

 

ちょいとおっさんが装者全員に召集かけてんだよ。

 

「あら、そうなの?」

 

あとは来てないのはアンタだけだぜ?

 

「なら早く向かいましょう」

 

長い足を動かして、颯爽と先に行っちまう。

後ろ姿を追っかけりゃ、さっきまで蜂蜜を砂糖で煮込んだような甘ったるい声を出していたのと同一人物には思えないぜ、まったく。

 

足と一緒に動く左手に、チカチカと廊下のライトが反射している。

薬指のエンゲージリング。既婚者しか付けられない代物だ。

これ見よがしな感じはするけど、少しばっか羨ましい。

 

発令所には、みんなが顔を揃えていた。

 

「おう、マリアくん、来たかッ」

 

そういうおっさんは、何だか言いづらそうな表情をしている。

 

「その、みな、今日の任務はご苦労だった」

 

その物言いにも、あたしは違和感を覚える。

確かに今日は国外での大規模な作戦行動はあったけれど、終了直後に労われたばかりだぜ?

 

「現在、本部は小笠原諸島周辺まで達しているわけだが、少々予定外の事態が生じてな…」

 

「ッ! 何か超常存在が出現したのですか!?」

 

真っ先に先輩が気色ばむ。

 

「いやいや、そういう類ではない! …実は、本艦の近くで、二つの潜水艦が作戦行動を取っているのが発見されたのだ」

 

「それは、わたしたちに対する敵対勢力ってこと?」

 

マリアが訊ねる。

 

「そうではない。所属国の違う潜水艦が、偶然にもかち合う形になったらしい。…ここだけの話だが、どちらも極秘行動だったらしく、事態は一触即発の体に至っている」

 

そんなの、うちらは関係ねえんじゃねえの? 国家間の調停は国連(おかみ)の仕事だろ?

 

「一応、我々も国連の組織だぞ、クリスくん」

 

渋面のおっさんの説明を要約すると、そもそも潜水艦は機密の塊で、作戦行動も極秘だ。各国に撤収するよう呼び掛けているが、これがなかなか現場へと通達されないらしい。

なので、あたしたちS.O.N.G.はその場に待機して、双方が暴発しないように睨みを効かせておいて欲しいって、国連からの要請だそうな。

 

「俺たちは国連直属特殊部隊だ。いくらなんでもいきなり弓を引かれることはないだろうよ」

 

おっさんはそう結んだ。

まあ、いざとなれば、通常兵器なんぞ通じないあたしらシンフォギア装者たちもいるわけだ。抑止力としては申し分ねえだろう。

海の中では歌は唄えないので、水中内戦闘がシンフォギア唯一の弱点って言われていたのも、あのバカが南極で引っ繰り返したからなあ。あたしはイマイチ出来る自信はねえけどさ。

しっかし、あれも、もう四年近く前の話か…。

 

「というわけで、諸君たちには申し訳ないが、日本への帰投予定日は先延ばしになる」

 

「師匠! それってどれくらい先になるんですか?」

 

バカが元気よく挙手して質問。

 

「そうだな。早ければ即日だろうが、二日以上伸びる可能性も…」

 

「えええッッ!?」

 

悲鳴を上げたのはバカじゃない。マリアだった。

直後、皆の視線を集めていたことに気づいたマリアは、「すみません」と赤面して表情を改める。

色々と察したらしいおっさんは、苦し気な眼差しをマリアに向けていった。

 

「本当に重ねて申し訳なく思う。出来る限り事態が早く収束するよう、俺からも働きかけるつもりだ」

 

 

 

 

 

警戒態勢ではない待機状態なもんだから、潜水艦内もどこかのんびりとしたもんだ。

おっさんの権限で各種設備も解放され、飲食も自由になっているからな。

バカと切歌調の後輩コンビは、三人連れ立って飯に。

先輩はこんな時間だからこそ修練だ! ってトレーニングルームへ。これはワーカホリックじゃなくて、バトルジャンキーじゃね?

そんでマリアは携帯端末を抱えて発令所を飛び出してどっか行っちまった。

 

連中を横目に、あたしは宛がわれた個室へと戻る。

仕上げなきゃいけないレポートもあるし、それが終わったらひと眠りでもしよ。

目が覚めても事態が解決してなきゃ、それはそん時考えるさ…。

 

潜水艦の個室ってことで、防音は完璧だ。

予想以上にすいすいとレポートを片付けていると、携帯端末に通知が。

これがバカからの遊びの誘いだったら無視するところだが、発信人は先輩だった。

嫌な予感を覚えつつ受話ボタンを押す。

響いてくる先輩の悲鳴にも似た声に、あたしは最悪の予感が的中したことを知った。

 

『…雪音! すまんが至急ガンルームまで来てくれッ! マリアが呑み始めたのだ…ッ!』

 

 

 

 

 

本部内の士官専用室(ガンルーム)は二十畳ほどの個室だ。

文字通りの高級士官のための部屋で、座り心地のよさそうなソファーにビリヤード台、壁際にはバーカウンターまで設えてある。

あたしたち装者も、成人年齢を迎えてから使用許可が下りたわけで、おそるおそる重厚な扉を開けば、既に他の連中が全員集合していた。

入るなり、うおおおんうおおおんと泣き声が聞こえると思ったら、予想通りマリアがデカい黒檀のテーブルの前でグラス片手に涙を流している。テーブルの上にはウイスキーのボトルが並んでいて、もう二本近く空になっていた。

 

「…なんでッ! どうして帰れないのよぉおお…!!」

 

「だ、だから大丈夫ですってマリアさん! 早ければ今日明日中にはなんとかなるって師匠が言ってたじゃないですか!」

 

「もう日本は目の前なのよ!? 三日もあの人の顔を見てないのに、更に伸びるなんて耐えられないッッ…!」

 

バカが必死に宥めるも、マリアはグラスを煽りながら泣き止まない。

 

「ならば、司令に頼んで、本部の画像通信を使わせてもらってはどうだ? それなら双方の姿を認めることが出来るだろう?」

 

あ、先輩、それはやべえ!

 

「無理よそんなのッ! 実際に触れて熱を感じて! 匂いを嗅いで! そうしなきゃ、何も満たされないのよッ!」

 

マリアは首をぶんぶんと振って、独り身の翼にはわかんないでしょうけどね! なんて盛大に口を滑らせている。酒のせいだとわかっていても、さすがに腹が立つ物言いだ。

 

はい、先輩、お静まりお静まり。

 

いきり立つ先輩の肩をあたしは押さえるように叩く。

 

「む、雪音、来てくれたか。…御覧の通り、我々の手にも余るのだ」

 

いつものコトとはいえ、今日は一段と盛大っすね。

 

あたしは苦笑で応じた。

シンフォギア装者である以上、様々な任務へと派遣される。

世界的にも希少な資質持ちである以上、それは仕方のないことだとあたしは納得している。

もちろんマリアだって納得しているだろう。

けれど、ひとたび酒でも飲んで理性にヒビが入れば、たちまち不満が溢れ出す。

なぜならマリアは―――。

 

「わたしたちはまだ新婚ホヤホヤなのにぃいいいッッッ…!!」

 

理屈は分かる。

分かるんだけど、あたしたちが揃って微妙な表情を浮かべたのは、この中で既婚者はマリアだけだからだ。

強いて言えば、あのバカは似た環境にいるかも知れないが、あの子の場合は状況に理解が在りすぎるからなあ。比較対象にはならねえか。

 

まあ、それはともかく。

 

だったらよ。装者を引退しちまってもいいんだぜ…?

 

「そうデスよ、マリア!」

 

「主婦になるのも一つの選択だと思うの」

 

あたしの提案に乗っかってくる後輩二人。

すると、グラスを握ったまま、やおら真剣な表情に戻るマリアがいる。

 

「駄目よッ! それは許されないわ! 一度は世界に仇なしたこの身は、この先の人類平和のために捧げなければならないのよッ!」

 

素面の時と全く変わらない台詞を言う。

つまりは、これがマリアの行動原理の一つなんだろう。そこは大いに共感し納得できる話だ。

けれど、こんな泥酔状態の時には、ただひたすら面倒くせえ。

 

わかったわかった。だったら仕方ないことだって、アンタも納得してるんだろう?

 

「…納得と心の動きは別よッ!」

 

ほら面倒くさい。

切歌と調を見れば、揃って処置なしとばかりに首を振っている。

あー、面倒くさいけど、あたしが斬りこまなきゃダメか。

 

アンタの気持ちは分かるとは言わねえ。でも、許されるならすぐにでも飛んでいきたいってことだろ?

 

トロンとした眼差しに戻ったマリアが、コクンと頷く。

それを確認し、あたしはゴホンと咳払い。

 

なら、その距離も、会えない時間も、アンタら二人にとっての障害じゃなくて、その…愛を燃え立たせる要因になるんじゃねえのか?

 

…クソ、喋っていて歯が浮く。切歌も調も後ろで笑ってんじゃねえ!

 

「…あなたの言いたいことは、いわゆる焦らしプレイってことかしら?」

 

プレイとかどうかはわかんねーけど、その程度の障害でどーこーなっちまう関係じゃないだろ? アンタらは夫婦なんだからさ。

 

「なるほど。そう考えれば…アリかもね。久方ぶりに会えた二人は、より情熱的に…」

 

赤い顔でそのままブツブツ言い始めたマリアに、あたしはそっと胸を撫でおろす。

やれやれ、どうにか収まってくれたかな? おまえらも拍手なんかしなくていーから。

とりあえず、これで落ち着いてくれれば…と皆が見守る中で、マリアはタン! と空のグラスをテーブルに叩きつけるように置く。

それから両拳を握ると、全力で身体をくねらせ始めた。

 

「イヤだ~! 我慢できない~!」

 

…二十を半ばも過ぎてのイヤイヤダンスかよ!

あまりの醜態に、一瞬スマホに録画してやろうかと思ったが止めた。

素面の時に見せたら自殺もんだぜ、これは。

 

「だからといって、どうしようもないことは仕方あるまい」

 

もはや半ギレに近い状態で先輩が咎める。

すかさずマリアは睨み返していたが、不意にすくっと席から立ちあがった。

そんでいきなりギアペンダントを引っ張りだしたのには、さすがに目を疑ったぜ?

 

「おい、マリア、どこへ行くつもりだ!?」

 

先輩の声に、振り返ったマリアの目は完全に座っていた。

 

「その潜水艦が進行を邪魔しているわけでしょ? ちょっと外に出てぶっ飛ばしてくるわ」

 

人類平和はどこにいったんだ、おいッ!?

 

 

 

 

 

聖詠を始めようとするマリアをあたしたち全員で拘束し、どうにか椅子に落ち着かせる。

なお暴れようとするマリアを押さえながら、あたしはバカにそっと目配せ。

出来れば使いたくない最終手段の投下を命じる。

 

「あの~、マリアさん?」

 

「なによッ!?」

 

「えーとですね、マリアさんの旦那さんのハルトくんでしたっけ? どんな馴れ初めだったのかな~なんて…」

 

すると途端にマリアの全身から力が抜けた。

背筋もピンと伸び、さっきまでの泥酔状態が嘘のような真顔になる。

 

「馴れ初めなんて威張れるものじゃないわ。本当、わたしの些細なミスから始まったことで…」

 

ぽつぽつとマリアは語り始めた。

これには、他の面々もテーブルを囲むように椅子へと腰を落ち着ける。

 

自身の些細なミスから始まった、代償行為とでもいうべき関係。

それが逢瀬を重ねるたびに、互いの全く気付かない側面が見えてきて、いつの間にか―――。

 

100%実体験に基づいたマリアの独白。

年下の少年と思っていた相手に揺れ動く心の描写は、繊細で共感を覚えるほどだ。

 

 

ただし。

 

 

みんなしてこの話を聞くのは既に数十回目で、話しながらのマリアの表情が指数関数的にニヤけていくのを除けばなッ!!

 

 

 

あたしがイヤーオクトパスなのは言うまでもないが、バカは遠慮なくスマホを引っ張りだしてメッセージアプリを弄っている。相手は間違いなくあの子だろう。

その隣の先輩は半目を開けてずーっと『常在戦場』って繰り返している。

さすがに身内と呼べる切歌と調は背筋を伸ばして聞いているな、と思ったら、なにやら軽いいびきが聞こえてきた。

…こいつら二人とも、目ぇかっ開いたまま眠ってやがるッ!?

 

「聞いてる、みんな?」

 

お、おう!

 

クソ、結局あたししか拝聴するやつはいねえのか?

とことん要領の悪い自分を呪いつつ、適当に相槌を打つ。

 

 

 

「初めてデートに誘われたのは彼の家でね! そこでスパイスからわたしのためだけのオリジナルカレーを作ってもらって…」

 

おう。あんときは自慢しまくった挙句、本部の食堂のカレーが食べられなくなったって言われてウザかったわー。

 

 

 

「…それでね! 文化祭デートに誘われてね! 彼女と一緒に回るのが夢だったって…!」

 

そういや、あん時は、どこから調達してきたのか、リディアンの制服とセーラー服を試着してたよな? どう見てもコスプレにしかなんなくて着ていくのやめたみたいだけど。

 

 

 

なおも酒を呑みながら、マリアはひたすら上機嫌。

話のテンションも上がる一方で、対照的にあたしはげっそりとしてしまう。

そりゃあ仲間が幸せそうで何よりだとは思うさ。

けれど、こんな風にゴリ押しの御裾分けされると、消化不良を起こしちまいそうだ。

あ、先輩の口からこんどは般若心経が流れ始めた。

あたしも心を癒すために写経でもすっかな、コンチクショウ。

 

 

 

ようやく語り終えたマリアの表情は聖母のように穏やかなものになる。

その顔つきを見て、あたしは自分が一仕事を終えたことを知った。

出来るなら時間外手当を支給してもらいたいくらいだぜ。

 

そんなすっかり疲れ果てたあたしに、マリアは慈母の眼差しを向けてきた。

 

「ところでクリス。あなたは誰か付き合っている人はいないの?」

 

あ、ああ? あたしのことはどうでもいいだろ!?

 

「良くないわよ。あなたも大学三年生で、来年には卒業じゃない。なのに浮いた話一つもないなんておかしくない?」

 

その台詞、三年前のアンタにそっくりそのまま返してやるわ!

 

「なんなら、ねえ? ハルトの知り合いの学生を誰か紹介してあげましょうか?」

 

いや、だから別にどうでもいいって…!!

 

「あ、でも、ハルトだけは駄目よ? いくら仲間でもこれだけは絶対に譲れないわ!」

 

ふざけたこと言ってるんじゃねえ! 披露宴で一回会っただけのアンタの旦那に興味もクソもねえよ!

 

「なによ! わたしの旦那に魅力がないっていうの!?」

 

頼むから人の話を聞け……ッ!!

 

ぎゃいぎゃい言い合いしていると、他の面子もようやく正気に戻ったらしい。

 

「どうした、雪音。何を騒いでいるのだ?」

 

…別に。なんでもねえよ。

 

あたしとしては、酒に呑まれているマリアを気遣ってやったつもりだ。

ところがマリアは憤然と鼻を鳴らすと、

 

「クリスに、誰か男の子を紹介してあげようと思ったら、趣味じゃないって断られたわ」

 

色々と端折りすぎだろ、それはッ!?

 

「クリスちゃんも男性に興味なかったり?」

 

バカも変な乗っかりかたするんじゃねえ! それに、なにが「も」なんだ、おい!

 

「あれ? クリス先輩は、前回の誕生日に、司令さんと一緒にディナーに行ったデスよね?」

 

おい、それを何で知っている!?

 

「私たち相手にテーブルマナーの練習をしたじゃないですか」

 

あ…。

 

「なんと! 雪音と叔父上はそういう関係だったのか!」

 

そういう関係もクソもねえよ! ただ、誕生祝いってことで飯をご馳走になって映画館で映画を見ただけだ!

…そりゃ、続きの次回作も一緒に見るって約束はしたけどよ…。

 

そういうと、皆して生暖かい視線でこっちを見てきやがる。

代表するように、呆れ顔のマリアが口を開く。

 

「クリス。そういう惚気話は犬も食べないわよ?」

 

瞬間、あたしは頭の中の血管が盛大にブチ切れる音を聞いた。

 

「お、おい! 雪音、何をするつもりだッ!」

 

「クリスちゃん、ここで聖詠は駄目だって!」

 

いいから離せ! 離してくれ! この脳みそお花畑のド頭に風穴を……ッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真相は闇の中

 

 

 

 

 

 

「どうしました、叔父上。内密で話があるとか」

 

「おう、翼。…実は、親父の忘備録を調べていたら、少しばかり気になる記述があってな」

 

「…お祖父、いえ訃堂の?」

 

「もはや身内はおまえだけだから話しておくが、仮におまえの性別が男だった場合、考えていた名前があったらしい」

 

「それは…?」

 

()るという一字に加え、俺の名に続く十一番目の息子。これを組み合わせて『張土』。…ハルトと読めるのではないか?」

 

「…まさかッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 



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マム&マリアさん

 

 

五月某日。

 

僕らは都内のとある河川敷へとやってきていた。

土手を降りると結構開けた広場になっていて、バックネット付きのホームベースが設置されている。

晴れ渡った青空に日差しも暖かく、ちょっと運動したら汗ばみそうな感じの陽気だ。

 

「ごめんなさいね、せっかくの休日なのに」

 

隣を歩くマリアさんは申し訳なさそう。

今日はマリアさんの職場の親睦会。これからこの河川敷でソフトボールをするんだとか。

 

いえいえ、僕も誘って貰えて嬉しいですよ?

 

会社のレクリエーションってのは、社員が家族ぐるみで参加するそうだ。

なら夫婦で参加しても何も不思議じゃあない。

まあ、マリアさんの職場に一般企業の定義が当て嵌まるのかは謎だけどさ。

 

「そういって貰えるとわたしも助かるわ」

 

にっこりしてマリアさんは僕の腕に自分の腕を絡めてくる。

とても嬉しい反面、今の僕は荷物を抱えているので少々歩きづらい。

ソフトボールのあとはバーベキューで飲み会をするそうで、荷物はその材料の一部である。

 

「あ、マリアたちが来たデス!」

 

切歌の声。

見れば、バックネット裏には既に人が集まっていた。どうやら僕たちが最後のよう。

土手の階段を降りて荷物を置き、まずは皆に挨拶。

 

おはようございます。今日は誘って頂いてありがとうございます。

 

「うむ。よくきてくれたな」

 

ジャージ下にタンクトップから剥き出しの二の腕も逞しい大男は、風鳴弦十郎さん。

マリアさんの所属する組織の一番偉い人だけど、気さくな人だ。

実は僕たちが結婚するにあたり、仲人役をしてもらっていたり。

 

友里さん、藤尭さん、緒川さんもおはようございます。

 

この三人も、日頃からマリアさんが大変お世話になっているということで、披露宴に参加してもらっていた。

 

「二人とも、新婚生活はどう?」

 

友里さんが訊ねてくる。マリアさんと違ったタイプの美人さんで、彼女の淹れるコーヒーは絶品だとか。

 

ええ、毎日が楽しいですよ?

 

正直に僕は答える。

式を挙げたのは去年の六月末だから、結婚してまだ一年経っていない。

けれど。

 

一緒に暮らしていると、色々と可愛いところが見えてくるんです。

だから益々マリアさんのことを好きになってしまうというか…。

 

「ちょ、ちょっと、ハルトッ!」

 

ドン! とマリアさんに肩を叩かれる。

おっと、危ない危ない、うっかり口が滑るところだった。

顔を赤くして睨んでくるマリアさんに、謝罪の意味を込めて笑いかける。

大切なぬいぐるみコレクションのことは絶対に口外しないから安心して下さい、ってね。

 

「…相変わらず暑ッ苦しいデスね」

 

切歌がパタパタと手で自分を扇いでいる。その隣の調からもジト目で見られてしまった。

もっとも僕としては、二人の反応はいつも通りの想定内でノーダメージである。

 

「マリアさんたちは夫婦揃って仲良さそうで羨ましいです! ね、翼さんッ!」

 

陽気な声を張り上げたのは立花響さん。

マリアさんと同じシンフォギアとかいうものを纏える選ばれた人間で、古い付き合いの仲間だそうだ。

もちろん彼女も披露宴に参加してもらったけれど、凄い食べっぷりだった。あとで、例の文化祭のカレー事件の主犯だと教えてもらったときは、さもありなんって思ったもん。

 

「…立花、なぜそこで私に振る?」

 

渋い顔で腕組みをしているのは、あの風鳴翼だ。ツヴァイウイングの大ファンの僕にとって、こうやってお近づきになれたのはもちろん、彼女もシンフォギアを纏って戦っていたことにビックリである。

 

「え? だって、『最近マリアが綺麗になって羨ましい』って言っていたじゃないですかッ」

 

「たたた立花ッ! それはここだけの話だとッ…!」

 

うーん、悲鳴を上げて狼狽しまくる風鳴翼ってのはレアだなあ。

クイズ番組で素っ頓狂な回答をしても、ここまで顔を赤くしたことはないはず。

 

「ったく、先輩もバカのたわごとに付き合って漫才してんじゃねーよ」

 

そういった小柄な女の人は雪音クリスさん。ハーフという端麗な容姿に反し、独特かつワイルドな口調の持主だ。

彼女もシンフォギアを纏えるそうで、マリアさん曰く『わたしの親友』だそう。

ちなみに翼さんは親友じゃないんですか? と尋ねたら、『あの子も親友ではあるけれど、どっちかというと妹? もしくはわたしが保護者?』ってな感じらしいです。

 

そんなクリスさんと立花さんの間で「あはは」と控えめに笑っているのは小日向さん。

大人しく清楚な印象を受ける人で、実はあまり話したことはないんだよなー。

けれど、マリアさん曰く、『…あの子が一番色々と過激かもよ?』だって。

 

ともあれ、以上、僕も含めて12人が今日の会の参加者の全員らしい。

単純にチーム分けして6対6でゲームが成立するのか疑問に思ったけれど、きっとそこいらへんは適当なルールで緩い試合をすることになるんだろうね。

 

「さて、さっそく試合を始めるとするか!」

 

弦十郎さんがそう宣言して、各人にミットが配られる。

次いで発表されたチーム分けは、完全に僕の予想外。

 

弦十郎さん、緒川さん、友里さん、藤尭さんが司令部チームで、他のみんなはまとめて装者チームだって。

装者ってなんじゃらほい? って思ったけれど、僕も含めれば4対8だぜ?

ソフトボールって、そんな人数で成立するスポーツだっけ?

 

首を捻る僕の前で、手の中のボールを転がしながら弦十郎さんは驚くほど茶目っ気のある笑顔を浮かべる。

 

「どうだ? ここは一つ、ご褒美を賭けて試合をしてみないか?」

 

「ご褒美ってなんですか、師匠ー!」

 

「うむ、そうだな…。おまえたちが勝ったら、うちの管理する保養所へお小遣い付きで招待というのはどうだろう?」

 

「お小遣い付き、デスとぉ!?」

 

真っ先に目を輝かせる切歌がいる。

 

「…でも、私たちが負けたら…?」

 

と、こちらの質問は調だ。

 

「そうさなあ。おまえら全員、俺と三時間耐久組手というのはどうだ?」

 

僕としては、ふーん、という程度の感想しか出てこない。

けれど、それを聞いた僕以外のみんなは、全員が顔色を変えていた。

 

「…おい? どうする?」

 

「さすがに、司令さんとの特訓は遠慮したいところデスけどぉ…」

 

「でも、勝ち目がゼロとは言えないわ」

 

「ならば! 奇跡を手繰って見せます!」

 

「勝機を零すな! 掴みとれッ!」

 

…なんか良く分からない勢いで、全員一致で承諾する流れに。

 

 

「司令。オレたちが勝った場合のメリットは?」

 

藤尭さんの声。

 

「そうだな。寿司でも奢ってやるか?」

 

この台詞に、藤尭さんと友里さんは俄然やる気を掻き立てられたみたい。

 

というわけで、僕の心情をよそに、妙に真剣味を増した試合が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

先攻は装者チーム。

そして司令部チームの先発は友里さん。

キャッチャー役の藤尭さん相手に投球練習しているんだけど、フォームも球威も中々様になっている。

と思ったら、学生時代はソフトボール部に所属していたんだって。

守備は、ショートとセカンドの位置に、弦十郎さんと緒川さんがいるだけ。

相手は四人しかいないから仕方ないんだろうけど、これで試合は成立するのかな?

おまけに、ハンデとして、司令部チームはツーアウト交代でいいって何さ。

 

「それじゃ、行ってきます! アウトになっても生きて帰ってきます!」

 

トップバッターは立花さん。

結構しっかりとした構えから、友里さんの第一球を打ち返す。

カキン! と鋭い音が響き、叩きつけられた白球が三塁線上で大きく弾む。

 

「むッ!」

 

弦十郎さんがキャッチするも、立花さんは一塁へと走りこんでいる。絵に描いたような内野安打だ。

 

「やった、響ッ!」

 

小日向さんを先頭に、やんややんやと喝采が上がる。

 

「よし! 続くデスよぉッ!」

 

二番目にバッターボックスに入ったのは切歌。

なんか異様にバットを振り回す様子が堂に入っていたように見えたのは、僕の錯覚だろうか?

フルカウントまで粘った切歌は、甘めに浮いた球をジャストミート。

白球は、弦十郎さんの頭上を越えてレフトオーバーで転がっていく。

 

「ほう、切歌くんもやるなッ」

 

白球を掴んだ弦十郎さんが戻ってくる間に、ランナーは二、三塁へとそれぞれ進塁。

そして三番打者の雪音さんは、ストレートの三振だった。

 

「…あたしゃ弾は撃っても打ち返すのは苦手なんだよッ!」

 

顔を真っ赤にして意味の分からない言い訳をしていたけど、言動も仕草も可愛い人だと思う。

ともあれ、ワンアウトにしてランナーは二、三塁という絶好のチャンスで、次の打者はというと。

 

…なんで僕が四番打者なんですかねぇ…。

 

「ハルトがチーム唯一の男子なんだからね? カッコいいとこ見せてちょうだい」

 

マリアさんはそういって送り出してくれたけど、自慢じゃないが僕は運動神経はからっきしですよ?

ソフトボールなんて、高校の体育の授業でやったのが精々ですよ?

 

でも、マリアさんの前でかっこつけたいって気持ちがないわけじゃあない。

硬球の野球に比べ、ソフトボールは多少は打ちやすいはず。

せめて三振だけはしないようにしよう。

 

僕がそんな後ろ向きな覚悟を固めた時だった。

 

「友里。ピッチャー交代だ」

 

え?

 

見れば、マウンドの上に立っているのは弦十郎さん。ついで、キャッチャーも藤尭さんから緒川さんに替わっている。

 

え? え?

 

混乱する僕へ向かい、弦十郎さんは白球を構えている。

 

「よし、行くぞ、ハルトくんッ!」

 

ぶっとい腕が振りかぶられ、振り下ろされる。

 

ズドンッ! 

 

まるでバズーカ砲の発射音のような音。

半瞬遅れてやってきた衝撃波みたいなものに、思わず腰を抜かしそうになる僕。

よろめきながら緒川さんを見れば、足元に地面を抉るような長い痕がついて、ミットの中のボールもなんかシューシューいって煙が上がっているんですけど!?

 

「司令ッ!」

 

友里さんの鋭い声。

 

「ソフトボールは振りかぶって投げては駄目ですッ!」

 

突っ込むところ、そこッ!?

いやいやいやいや! 無理無理無理! こんなの打ち返すどころか…。

 

「ふむ。そいつは済まなかった。今のはボール扱いでいいぞ?」

 

だから、そういう話では…ッ!?

 

助けを求めるようにベンチを振り返れば、マリアさんたちの朗らかな声援が。

 

「ハルト、頑張って~!」

 

え? これってデフォなの? 普通なの?

よ、よーし頑張るぞー。

 

と構え直したバットの前を、弦十郎さんのウィンドミル投法の豪速球が通過。

…うん、これ、手を出したら確実に骨折するわ。

球筋は、ストライクゾーンど真ん中の絶好球。

けれど、それを打ち返せるかどうかは次元の違う話だ。

成す術なく見送った僕は、言い訳のように遅れてフルスイングをして三振。

 

すみません、マリアさん…。

 

申し訳ないというより、どうすりゃいいんだ? って気持ちいっぱいでベンチに戻れば、マリアさんは優しく労ってくれる。

 

「仕方ないわ。司令が本気を出せば、わたしたちでも太刀打ちできないんだし」

 

マリアさん…。

 

「だから、安心して見てなさい。ハルトの仇はわたしが取るから」

 

で、でも、無理しないで下さいよ!

 

「夫の汚名を(そそ)ぐのは妻の務めよ」

 

微妙に時代がかった物言いでマリアさんはバッターボックスに行ってしまったけれど、本当に大丈夫かな?

あ、さすがに弦十郎さんも女性相手には手加減を…。

 

ズバンッ! と豪速球が炸裂。

 

「ストライク、です」

 

呻くような声で宣言した緒川さんだけど、明らかに構えた位置から大きく後退していた。

…ガチじゃん! あの人、マリアさん相手にもガチじゃん!

 

だ、駄目ですよ、マリアさん、怪我しちゃいますよ…!

 

慌てる僕をちょっとだけ振り返って、マリアさんは笑った。

マウンド上の弦十郎さんの腕から解き放たれる剛球。

そして僕は、まるで水晶のような透き通った歌声を聴く。

 

え? なんかマリアさんの腕が銀色の光に包まれて…!?

 

カキーン! 

 

こちらも澄み渡るような打撃音に続き、打ち返された白球は友里さんの横をすり抜け大きくホップ。

まるで漸近線のようなあり得ない軌跡を描き、青空へと吸い込まれていく。

 

「ハルトー! ぶい!」

 

声の方を見れば、マリアさんが得意げにVサイン。

 

…これってホームラン、なの?

立花さんと切歌がホームインし、マリアさんもベースを一周してきたから、きっとホームランなのだろう。

っていうか。僕の知っているソフトボールと違う、違い過ぎない…?

なんてことを考えていたら、友里さんからクレームが上がっていた。

 

「司令の全力投球も! マリアさんのアガートラームも!! 使っては駄目でしょうッ!?」

 

「い、いや、別に俺は本気は…」

 

「本気でなくても、私たちが死んでしまいますッ!」

 

この意見に藤尭さんも賛同を示し、ピッチャーは再度友里さんへと交代。

 

ああ、良かった、僕の感覚は間違いじゃなかったんだ。

そう思っている僕の前で、六番バッターの調は三振。

 

攻守交替となって、今度は司令部チームの攻めてくる番だ。

こちらのバッテリーは、小日向さんと立花さんが組む。

 

「いい、みんな。藤尭さんと友里さんには悪いけれど、この二人からアウトカウントを稼ぐのよ?」

 

マリアさんの指示した通り、この二人は常識外の力は持ち合わせていないとか。

となると、弦十郎さんと緒川さんって何者…?

 

「師匠は師匠で緒川さんはNINJAなんだよ!」

 

立花さんがそう教えてくれたけど、今一つ以上にピンとこない僕。

なので、その後の試合経過は、僕の中の常識を保つためにばっさりと割愛して結果だけ。

 

作戦が功を奏し、僕たち装者チームは初回の三点差を守り切って勝利することが出来た。

なので、弦十郎さんの打った球が地面にめり込んで取り出せなくてランニングホームランになったのは単なる事故だろうし、翼さんがバットを振ったらボールが真っ二つになったのは不良品で。緒川さんが八人くらいいるように見えたのだって、きっと気のせいだろう。

 

 

 

 

 

 

じゅーじゅーとバーべキューコンロの上で肉と野菜が焼けている。

それを横目に、僕は巨大な鍋へと向かい合っていた。

 

まずは、切ってほぐした牛のバラ肉を鍋へと投入。ざっと赤い部分がなくなるまで炒めていく。

続いて剥いた大量の里芋を投入。

味が染みやすいようにこんにゃくを千切って入れて、舞茸としめじも手でほぐしながら入れる。

良く洗ったゴボウを笹切りで入れてひと煮立ち。

ある程度煮えてきたら大量に出るアクを取り、砂糖と醤油、みりんで味付けだ。

蓋をして更に煮込めば、実に甘じょっぱい良い匂いが漂い出す。

 

「ハルト、まだデスか?」

 

発砲スチロール製の丼を持ってソワソワする切歌。

 

はいはい、待ってな。もう少しで完成だから。

 

里芋に竹串を刺せば、柔らかく埋まっていく。よし、完全に煮えたな。

仕上げに長ネギを斜め切りしたものを鍋の上に大きく散らせば、これで芋煮鍋の完成だ。

 

お好みで七味をかけて食べてみてください。

 

次々と器によそいながら僕。

 

「お、お芋があふゅい! でも美味しい~!」

 

さっそく頬張った立花さんから歓声が上がる。

 

「おつゆも甘くて美味しい…」

 

調も上品そうに器から汁を啜っている。

 

「お疲れ、ハルト」

 

頬っぺたにピタッと冷たい感触。

缶ビールを持ったマリアさんが笑っていた。

 

ありがとうございます。

 

缶ビールを受け取り、遠慮なくプルトップを開けながら僕。

 

でも、なんか僕が出しゃばったみたいで…。

 

なんとなく流れもあったけれど、ほとんど一人で芋煮汁を作ってしまったことは否めない。

 

「いいのよ。アナタの料理の腕は、わたしの自慢なんだから」

 

マリアさんはそう言ってくれるけど、僕自身、大したことはないと思っているんだけどなあ。

 

「いやはや、これは大したものだな」

 

弦十郎さんが芋煮の入った器を片手にそういってくれる。もう一つの手には平皿があって、ちょうどいい感じに焼けこげのついた肉と野菜がたくさん載っていた。

 

「どんどん焼いているから遠慮せず食べてくれ」

 

はい、ありがとうございます。

 

有難く皿を受け取った僕を、なぜかじーっと弦十郎さんは見下ろしてくる。

 

…? どうかしましたか?

 

「うむ。今日のソフトボールだったが、俺の投球はどうだった?」

 

出し抜けの質問に、僕は言い淀んでしまう。

あんなの人間技じゃねえ! なんて言えれば簡単なんだろうけど、弦十郎さんの眼差しはあくまで真摯だ。だから、僕もせいぜい言葉を選ばなければならない。

 

…いや、本当、凄い剛球でしたね。僕なんか、とても打ち返せませんよ。ほとんど見えなかったし。

 

「そうか。時に、ハルトくん。君は喧嘩とか得意な方かな?」

 

これまた随分と話が飛ぶなあ。

少しだけ不審感を抱きつつ、こっちの質問には正直に答えるのにためらいはない。

 

いえ。そもそも喧嘩とかしたことないですし。

 

施設暮らしの時は専ら苛められてましたけどね。

それと、親父も、本当に喧嘩の仕方だけは教えてくれなかったんだよなあ。

 

ついでに言えば、格闘系のスポーツとかも一切したことないですよ、僕は。

 

言っておいてちょっとだけ情けない。マリアさんを護るためにも、ジムに通って身体を鍛えようかなと思っている今日この頃。

 

「なるほど。不躾なことを訊いて済まない。あとは目いっぱい楽しんでくれ」

 

はあ。

 

気の抜けた返事をする僕の前で、弦十郎さんは広い背中をこちらへと向けた。

男として岩のような筋肉を羨ましく見送っていると、マリアさんに頬を突かれる。

 

「ほら、ハルト。冷めないうちに食べて」

 

肉を箸で掴んで差し出してくれた。

 

あ、はい。

 

かぶりついて頬張って、ビールで流し込む。

 

「はい、どうぞ」

 

またぞろ差し出される箸を前に、僕は少しだけ狼狽してしまう。

 

い、いいですよ、マリアさん! 自分で食べられますから…!

 

「いいのよ、ハルトは芋煮作りで疲れたでしょう?」

 

それから唇を尖らせると、

 

「それとも、わたしから食べさせられるのは嫌なの?」

 

い、嫌なわけないじゃないですかッ。

 

「じゃ、はい。あーん」

 

あ、あーん。

 

パクリと食べて、僕は周囲が静かなことに気づく。

グツグツと鍋が煮える音がやけに耳を突く中、見回せばほとんどの人が僕らを見ていた。

 

 

「…本当、二人はラブラブですね!」

 

と、立花さん。

 

「そーゆーことは家でやれよな」

 

ビールを飲みながら、雪音さんはそっぽを向いている。

 

「くッ、なんのつもりの当てこすり…ッ」

 

そして翼さんは訳の分からないことを言っていた。

 

 

「家ではもっと凄いデスよぉ?」

 

「き、切歌ッ!」

 

これにはさすがのマリアさんも赤面して、切歌に詰め寄っている。

一人残された僕は、調のジーっといった眼差しと、友里さんたちの微笑ましいものを見るような視線に背中がむず痒くなる。

だから、ビール缶片手にちょっと退避。

土手を上って階段に腰を下ろせば、逃げる切歌を追いかけるマリアさんの姿が。

それを眺めるみんなも和気藹々としてとても微笑ましい光景。

 

僕の胸の中が温かくなって―――同時に曇ることを自覚せざるを得ない。

詳しくは聞いてないけれど、マリアさんとその仲間は、ともにとんでもない戦いを乗り越えてきたらしい。かつて、日本中にでっかい塔みたいなのが出現した事件にも関わっているとか。

 

そんな確かな絆で結ばれているマリアさんたちに対し、僕は明らかに余所者だ。

マリアさんと二人きりならともかく、あの人たちの輪に入ることは気後れしてしまう。

 

こうやって土手に退避してきたのも、きっと無意識でそう行動を選択してしまったんだろうな。

そんな風に寂しくは思っても、変にイジケているわけじゃあない。

ちょっとばかりビールを呑み過ぎた僕は、ふわふわとした気持ちのままぼんやりとする。

お酒美味しい。お酒最高。

ああ、日差しは暖かくて、川風も気持ち良い。なんだか眠く…。

 

 

 

 

 

 

ふと目を開けると、すぐ隣に見知らぬおばさんが座っていた。

まるで修道服のような格好をしている。

あれ? ここいらに教会とかあったっけ?

首を捻りつつ、僕は挨拶。

 

あの、こんにちは。

 

おばさんが、ゆっくりとこちらを見る。

彼女の片目が眼帯で覆われていることに僕は気づく。

 

「はい、ごきげんよう」

 

穏やかな優しい声だった。

 

あの、もしかして騒がしかったりしましたかね?

 

僕がそう訊ねたのは、おばさんがじっと河川敷で騒いでいるみんなを見下ろしていたから。

 

「いいえ。とても楽しそうで、安心しています」

 

台詞の少し微妙なニュアンスが気にはなったけれど、どうやら怒っている風ではないみたい。

 

あ、もしよかったら、芋煮汁とか食べません? たくさん作ったんで…。

 

そういうと、おばさんは軽く目を見張った。

 

「…いいのですか?」

 

ええ。どうぞ遠慮せずに。いま、取ってきますね。

 

そういって腰を浮かしかけた僕だけど、おばさんにじっと見つめられた。

不思議と浮かしかけた腰を下ろす僕に、おばさんは思いがけないことを言ってくる。

 

「貴方がマリアの夫なのですね」

 

へ? あ、あの、あなたはもしかしてマリアさんの知り合いなんですかッ?

 

頷かれる。

 

あ、えーと、初めまして、阿部ハルトと言います。

 

「知っていますよ、ええ」

 

微笑むおばさん。どうやら先ほどの台詞は、僕が彼女の夫であるという確認の意味で口にしたのだろう。

 

「あんなに楽しそうにはしゃぐマリアは見たことはありません」

 

そうなんですか?

 

「切歌も調も楽しそうです」

 

あの二人は年中お気楽極楽ですけどね。

 

そう答えるとおばさんはクスリとして、

 

「それもこれも、ハルトさん、貴方のおかげなんでしょうか?」

 

え…。

 

僕は言葉に詰まってしまう。

僕自身、あの三人に何か特別なことをしているつもりはない。

むしろ、僕の方が人生をより楽しくしてもらっていると思っているんだけれど…。

 

―――いや、あんまりここで自分を卑下することはないか。

マリアさんからも、自分を低く見繕うのがアナタの悪癖だって常々言われてるし。

 

だから、僕はこう答える。

 

 

マリアさんも含めてあの三人が楽しそうに見えるとしたら、いくらか僕の力が及んだ結果でしょう。

けれど、それに驕らず、もっとマリアさんを幸せにしたいと思っています。

 

 

言っておいて、なんか結婚相手の実家へ行って両親相手に了承を貰うときの台詞みたいだ、って思う。

すると、おばさんはニッコリと笑って、

 

「その言葉が聞けて安心しました。これからもマリアのことを、三人のことをよろしくお願いします」

 

僕に向かって深々と頭を下げると、立ち上がっている。

そのままゆっくりと身を翻していく姿に、僕は慌てて声をかけていた。

 

あ、すみません! あなたの名前は…?

 

どういうわけか、視界に光があふれた。

どんどん白く染まっていく世界で、修道服のおばさんはゆるゆるその中へと溶けて―――。

 

 

 

 

 

 

 

ま、待ってください!

 

「…どうしたの、ハルト?」

 

ぼんやりとしていた視界が焦点を結ぶと、目前にマリアさんの逆さまの顔のアップ。

 

あれ? えーと…。

 

後頭部の柔らかい感触はマリアさんの膝枕。

それらから推察するに、どうやら僕は眠ってしまった挙句、自分の叫び声で目を覚ましたようだ。

 

「急にビクっ! となって叫んだから驚いちゃったわ」

 

す、すみません…。

 

「いいのよ。慣れないことをして疲れたんでしょ?」

 

微笑むマリアさんに、膝枕に頭をぎゅっと押しつけられる。

その体勢のまま、左右に目だけを動かしたけれど、眼帯をしたおばさんの姿は見つけられなかった。

 

まあ、夢だから当たり前か。

しかし、妙な夢を見たもんだな。

マリアさんたちの知り合いって割りに、僕はあのおばさんなんて知らないし。

…あれ? でも、どこかで見たことがあったような気もしてきたぞ?

 

ねえ、マリアさん…。

 

夢の内容を打ち明けて、相談しようとしたときだった。

 

「ハルト! 鍋の〆はどうするのー!?」

 

「二人してイチャついてないでこっちに来るデス!」

 

調と切歌の声に、反射的に僕はガバっと身体を起こす。

河川敷とはいえ、そこは天下の往来だ。屋外で白昼堂々のバカップルムーヴはさすがに恥ずかしいぞ。

 

「…もう! あの子たちったら!」

 

恥ずかしそうに頬を膨らませるマリアさんの手を取って、土手を降りる。

ちょっと冷たい柔らかい感触が、きゅっと僕の指を握り返してきた。

目と目が合う。

笑っている彼女の青い瞳に、もっと幸せな色を浮かべてやるんだと誓う。

そう、夢の中で口にしたことは、決して嘘でも見栄でもないんだ。

だから―――。

 

「早く〆を作るデス! アタシも響さんもお腹がへりんこファイヤーなんデス!」

 

「嘘でしょ、切ちゃん。あれだけお肉も食べたのに…?」

 

「〆は別腹なんデース!」

 

どれ。取り合えずこっちの二人から幸せにしますか。

苦笑しながら僕はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに芋煮汁の〆は、持参したカレールウとうどん玉を入れてカレーうどんにした。

本場の山形県でも行われている〆で、もともとの汁の味を甘めにするのがコツかな。

屋外で、汚れてもいい服を着て豪快にすすると美味しいのです。お試しあれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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