“ここではきものをぬいでください”
さて、あなたはこの文章をどう解釈しますか?
① ここで、履き物を脱いでください。
② ここでは、着物を脱いでください。
どちらの意味にも取れます。読点が無いと、文章を読みづらくするだけではなく、意味までも違えてしまいます。
――今回の事件は、これに因んでいた。
最近、帰宅時間が遅くなったという夫に不信感を抱き、浮気調査を依頼してきたのは、田野晴明(29)の妻、延子だった。
28歳だという延子は、苦悩の日々を重ねていたせいか、所帯やつれが窺え、実年齢より5つ、6つ上に見えた。
「――いつ頃から帰りが遅くなりました?」
延子を相談室に入れた、【どんとこい探偵社】の社長、寺島が訊いた。
「……ひと月ほど前になります。……それまでは定時に帰ってきて、夕食も一緒に摂っていたのに……」
延子は暗い顔で俯いた。
「結婚して何年になりますか」
寺島はペンを持った手を止めた。
「……まだ、1年足らずです」
「うむ……何か思い当たることはありませんか。……前兆とか」
「いいえ。……分かりません。突然です」
向けたその目は、翠色の深淵を想わせた。――
【どんとこい探偵社】きっての敏腕探偵、辰巳に田野の尾行を頼んだ。
《辰巳の報告書》
[9月×日 1日目 退社後、目黒で乗り換えると、不動前で下車。戸越銀座方面に向かう途中の三階建てのマンション〈並木ハイツ〉に入る。〈村井〉と表札のある101号室。約、一時間後の19:20に出てくる。田野、帰宅。]
[9月○日 2日目 10:00、セールスマンを装って、村井の呼び鈴を押す。
「……だーれ?」
女の子の声。
「お母さんは居る?」
「いない」
「いつ帰ってくるの?」
「……わかんない」
「お父さんは?」
「いない」
「いつ帰ってくるの?」
「わかんない」
埒が明かない。声からして、3、4歳。101号室のドアが見える場所に隠れて、母親の帰りを待つ。10分後、レジ袋を提げた20代半ばの女が鍵を開けて部屋に入る。
当日、田野の退社時間を見計らって、会社の前で見張る。田野、真っ直ぐ帰宅。]
――その翌日の午後7時過ぎ。
“ははおやこころしたのがにげた!”
それが、辰巳からの最後の電話だった。
寺島が、辰巳のケータイに何度電話しても出なかった。
その後、辰巳からの連絡は無かった。自宅にも電話したが、帰宅していないとの妻の返事だった。
つまり、行方不明になったのだ。
――翌日の朝、〈並木ハイツ〉の101号室から、幼女の絞殺死体が、新聞配達員に発見された。
《配達員の証言》
「――ドアの郵便受けに新聞を入れようとしたら、子どもの赤い靴が挟まってて、ドアが少し開いてたんです。変だなと思って覗いたら、布団も掛けないで女の子が仰向けで寝てたんです。なんか不自然だなと思ってよく見たら、薄目を開けてこっちを見てたんで、ギョッとしました。一度も瞬きをしないんで、死んでると思って――」
《テレビの音声》
「――死んでいたのは、このマンションの一階に住む、村井亜子ちやん4歳で、死因は窒息死。行方が分からない母親が事件に関わっていると見て、捜査をしています」
テレビのニュースで事件を知った寺島は、聞き覚えのある住所と名前だったため、辰巳の報告書を確認した。間違いなく、辰巳が尾行していた田野が立ち寄った品川区のマンションの住人、〈村井〉だった。
辰巳と連絡が取れないのは、この事件に関係があるのではないかと考え、寺島は不安を募らせた。
その後、何度も辰巳のケータイに電話をしたが出なかった。自宅にも電話をしてみたが、やはり帰宅していないという、妻の返事だった。
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2話
寺島雅哉(42)を筆頭に、辰巳昇(37)と、事務員兼捜査員の杉本美優紀(23)。この3名で営っている小さな探偵社【どんとこい探偵社】は、主力の辰巳を失って、大きな打撃を受けていた。
急遽、求人を募ることにした。
5人の応募者の中から採ったのは、探偵経験があるという、市川由子(32)だった。
長い髪を後ろに結って、眼鏡を掛けた由子は、いわゆるオバサン系の地味な風貌でパッとしなかった。
が、却ってこういうタイプが探偵に向いていた。
「――探偵経験ありということですが、どのような類いのものを?」
「主に浮気調査です」
冷静沈着に寺島の目を真っ直ぐ見た。
「じゃ、尾行のほうも?」
期待を込めた。
「はい。何度となく」
由子のその即答は自信に満ち溢れていた。――
“ははおやこころしたのがにげた”
寺島は、辰巳が最後に寄越した電話の内容が未だに把握できずにいた。
① 母親、子殺したのが逃げた。
② 母親、子殺し田野が逃げた。
さて、どっちなのだろう……。
この電話が、村井喬子を見張っていた時のものなら、状況的にはどちらも当てはまる。
①は、母親と子。つまり、喬子と子どもを殺した誰かが逃げた。となる。
②だと、親子と田野。つまり、喬子と子どもを殺した田野が逃げた。となる。
由子が田野の張り込みから帰ってきた。
「お疲れさまで~す」
美優紀が天然の明るさで出迎え、小型冷蔵庫から缶コーヒーを出した。
「あ、ただいま」
ハンカチで額の汗を押さえた由子が横顔を向けた。
「どうだった?」
煙草をくゆらしながら寺島が訊いた。
「ええ、今日も真っ直ぐ帰宅しました」
年季が入ったショルダーバッグからメモ用紙を出した。
「はい、どうぞ」
美優紀が、缶コーヒーを注いだグラスを置いた。
「あ、どうもありがとう」
報告書に写しながら、笑顔の美優紀をチラッと視た。
「うむ……子どもを殺しといて、平然と日常生活を送れるものかな……」
寺島が独り言のように呟いた。
「は?」
由子が慌てて顔を上げた。
「ん?いや、辰巳が最後の電話で言ったことを書き留めてみたんだが、どうもハッキリしない。親子を誰か別の人間が殺したのか、田野が殺したのか。だが、殺されていたのは子どもだけだから、親子を殺した、にすると辻褄が合わない。仮に田野が殺したなら、何食わぬ顔で普通に過ごせるものかなと思ってさ」
「ええ。……でも、特に変わった様子は」
「うむ……じゃ、やっぱり母親が殺したのかな……」
「社長、お先に」
美優紀がカバンを肩に掛けた。
「あ、お疲れさん」
「お疲れさま。気を付けてね」
由子も声を掛けた。
「ハーイ、お疲れさまでしたぁ」
笑顔でドアを閉めた。
「社長、その書き留めたのを見せてください」
「ん?あああ」
ソファーに深く座っていた寺島は、重そうに腰を上げると、自分のデスクの引き出しを開けた。――
“ははおやこころしたのがにげた”
それを読んだ由子が、もう一つの解釈を述べた。
③ 母、おやっ、子殺し、田野が逃げた。
「つまり、母親が子どもを殺した。そして、それを目撃した田野が逃げた」
「うむ……なるほど、そういう捉え方もできるな。さすが、ベテラン探偵だ。……だが、そうなると、田野は殺人現場を見たわけだから、いずれにせよ、動揺なりがあって然るべきだろ?」
鼻炎の寺島は、鼻の穴の片方から煙を出すと、納得いかない顔で煙草を消した。
「ですよね。……でも、挙動不審の類いは窺えません。平静です」
「うむ……」
寺島は腕を組んだ。
だが、この時、由子は全く違う人間に焦点を置いていた。
辰巳の履歴書で知った、趣味の《絵画鑑賞(特に印象派)》に由子は着目した。
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3話
翌日、田野の張り込みを口実にして、今日から開催される、『ゴッホとゴーギャン展』の会場に向かった。
ゴッホやゴーギャンは印象派の画家だ。印象派が好きなら、必ず現れると確信していた。
履歴書で視たその顔は、午前中には現れなかった。
10月とは言え、少し歩いただけでもまだまだ汗ばむ。夏帽は被っているものの、紫外線や白いシャツの汗じみを、由子は気にしていた。
正午過ぎ、駅から美術館に続く道なりのベンチで見張りながら、来る前に買ったパンを食べた。
土曜日とあって、公園には人込みがあったが、家族連れやアベック、子どもが多く、一人で来るであろう辰巳を見付けるのはさほど難しくなかった。
――子どもを殺したのは、辰巳か喬子だ。つまり、二人は顔見知りだった。そして、その犯人を田野にするために、まるで自分が事件に巻き込まれたように装った電話をして、行方をくらました。
それが、由子の推測だった。
温くなったペットボトルのコーヒーを飲み終えても、辰巳らしき男は現れなかった。
半分諦めた瞬間だった。
……ん?
駅方面からやって来たその男の雰囲気には、犯罪者特有の暗影があった。野球帽を目深に被り、俯き加減の男は足早に美術館に向かっていた。
辰巳だ!
由子は直感すると、ベージュのダウンジャケットと黒いスニーカーを目標にその男の後に付いた。
顔は定かではなかったが、ベテラン探偵としての根拠を基にした直感が、由子の嗅覚をムズムズさせていた。
男は目的地を目掛けて、一定のリズムを踏みながら真っ直ぐに進んでいた。――
案の定、男は美術館に入って行った。
――由子は公園のベンチで読書を装うと、帽子の鍔の先にある美術館の入り口に目を据えた。
やがて、黒い野球帽にベージュのダウンジャケットの男が出てきた。
いよいよ、本格的な尾行を始める。
由子は自分の直感を信じて、慎重に男を追った。
山手線に乗った男は高田馬場で降りると、目白方面に向かっていた。次の信号を渡った路地を曲がると、4階建てのビジネスホテルに入った。
……喬子はこのホテルに居るのだろうか。どうせ偽名を使っているだろうが、念のため電話をしてみた。
ホテルの看板にある電話番号にかけると、やはり、辰巳でも村井でも記載が無いという返答だった。ホテルからはこれ以上何の情報も得られないとなると、他にどんな手がある?外に出てくるであろう夕食時まで張り込むのは、時間の無駄だ。それに、喬子が既に弁当を買っていて、外出しないで部屋で食べる可能性もある。
……何かいい方法は無いものか。由子はあれこれと考え、そして閃いた。
アッ!そうだ!
由子はチェックインすると、エレベーターに乗って、渡されたキーの部屋番号の405の4階で降りた。
次に、辰巳のケータイ番号を押すと、401号室から順に進んだ。マナーモードにしていれば、この手法は無意味だ。
→402→403→404→405
どの客室からも着信音はしなかった。次に階段で3階に下りた。――同じく着信音は聞こえなかった。マナーモードにしているのか、と半分諦めながら2階に下りた。
201→202→203→204
プルルル…
ん?着信音が鳴っている。電話を切った。着信音が止まった。リダイヤルした。
プルルル……
また鳴った。間違いない、この部屋に辰巳が居る。ドアに耳を当ててみた。
「何よ、さっきから」
女の声だ。喬子か?
「間違い電話だろ?知らない番号だから」
辰巳か?
「マナーモードにしときなさいよ」
「駄目だよ。今更ケータイは
やっぱりだ!辰巳に間違いない。
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4話
由子は急用を理由にしてホテルをチェックアウトすると、近くの公衆電話から、口にハンカチを当てて通報した。
「不動前の〈並木ハイツ〉で死んでいた村井亜子ちゃんの母親が、高田馬場の〈ホリデー〉というビジネスホテルの204号室に居ます。急いでください!ホテルを出るかも知れません」
ガチャン!
由子はメモ帳に書き留めた喬子のマンション名と、子どもの名前を確認しながら早口で喋ると、電話を切った。
辰巳の顔を確認するためにも、警官が来るのを待つ必要があった。由子は、ホテルの入り口が見える物陰に隠れた。
やがて、パトカーがホテルの前に到着した。警官がホテルに入ると、間も無くして、黒い野球帽にベージュのダウンジャケットの男と、黒いジャケットを着た茶髪の若い女が出てきた。
男の顔を確認すると、間違いなく、履歴書の写真で見た辰巳だった。由子は、自分の直感力に惚れ惚れした。
パトカーに乗る二人を見届けると、その足で、寺島への報告書作りのために、田野の会社前に向かった。
田野はいつも通り、定時のご帰還だった。
辰巳と喬子の繋がりは一体何だったのだろう……。単なる浮気相手か?由子は釈然としなかった。
「あの日、買い物から帰ってきた女を見て驚きました。まさか、依頼者の夫の浮気相手が喬子だったなんて……。
喬子とはキャバクラで知り合って付き合うようになりました。ところが、子どもができて。産みたいと言う喬子に
『どなた?』
『……俺』
『……!』
カチャッ!(ドアの鍵を開ける音)
『久し振り……』
『……昇さん』
「直ぐにドアを開けた喬子は俺を見て目を丸くしていましたが、俺の腕を引っ張って中に入れると、抱き付いてきました。喬子に愛情が無かったわけじゃありません。堕せと言ったのも、単に家庭があったからです。俺によく似た我が子を目の当たりにして、可愛さもありました。しかし、妻と別れる気はありませんでした。そのことを告げて部屋を出ました」
辰巳は後悔するように俯いた。
「彼の子どもが欲しかった。堕せと言われた時、一人で育てようと思いました。私が勝手に産むのですから、辰巳さんに生活費の請求をすることはできません。親からの仕送りと貯金、母子手当で子どもを育てました。
そして、あの日。偶然に再会した辰巳さんともう一度、よりを戻したいと思いました。しかし、離婚の意思が無いことを聞かされ、この先、子どもを抱えての人生に、急に虚しさを感じてしまいました。
思い悩んでいるうちに、生きる意味を無くした私は、発作的に子どもの首を絞めていました。……気が付くと死んでいました。
我に返った私は、事の重大さに
ところが、気になって引き返してきた辰巳さんに止められました。死んでいる子どもに驚いている辰巳さんに
その時、チャイムが鳴って、ドアスコープから覗くと、田野さんでした。田野さんとはひと月ほど前に、学習教材の訪問販売で来た時に知り合い、子どものことで色々と相談に乗ってもらっていました。出ないでいると、田野さんは帰りました。――」
「――その時です。子ども殺しの犯人を田野にしようと思った俺は、
『ははぁ、おやっ、子殺し、田野が逃げた』
と、犯行現場の目撃者を装った電話を社長にすると、喬子と行方をくらましたんです。――」
由子が帰社すると、いつも能天気の美優紀が泣いていた。
「あ、お帰り」
「ただいま」
「ズルズル……お帰りなさい」
鼻水を啜りながら美優紀が顔を上げた。
「……どうしたんですか?」
寺島に尋ねた。
「辰巳が殺人
「えー?」
由子は目を丸くすると、驚いた振りをした。
「それも、よりによって田野の浮気相手だ。辰巳とその女は昔、付き合ってたらしい」
片方の鼻の穴から煙草の煙を出しながら、寺島が深刻な顔をした。
「そんな偶然があるんですね」
由子はカップに入れたインスタントコーヒーにポットの湯を注いだ。
「……辰巳さんにそんな人が居たなんて……グジュ」
美優紀はそう呟きながら、鼻をかんだ。
「ほの字だったんだよ」
カップをテーブルに置いた由子に、寺島が小声で言った。
「へぇー、そうだったんですか……」
随分、オヤジ好みだな、と由子は思った。
《[調査結果]
ご主人に女性の影はありませんでした。担当が営業に異動して、帰宅が遅くなっただけです。心配ありません。ご主人とお幸せに》
寺島は、虚偽の報告書を田野の妻、延子に送った。敢えて波風を立てる必要は無い。それには、寺島の私情が介在していた。延子の哀しげな目が忘れられなかった。
そんなある休日だった。野暮用で新宿に行った帰り、靖国通りで寺島が信号待ちをしていると、
「社長……」
気安く声を掛ける女が居た。その声に振り向いたものの、目の前で笑っているソフトウェーブの美人が誰なのか分からなかった。
「イヤだ、分からないんですか?」
その喋り方で分かった寺島は、丸くした目を笑わせると、
「えっ!……市川……さん?」
と、半信半疑の決断を下した。
「ハーイ。当たり」
由子は含み笑いをした。
「クェッ!驚き、桃の木だ」
新鮮な刺激を受けて、血の循環を良くした寺島から軽口が飛び出た。
「変われば変わるもんだな。同一人物とは思えないよ」
「この美貌で何度、探偵の面接で合否の否になったことか。『この仕事は目立っちゃまずいのよ』なんて言われて。だから、だて眼鏡で地味にしてるってわけ」
「ね、その辺でお茶しない?」
寺島は、馴れ馴れしく由子の肩に腕を回した。
「ええ。いいですわよ」
由子という、有望な人材を得た、【どんとこい探偵社】は、どうやら安泰のようだ。
終
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