楊家将幻想・独眼の三郎 (楊十郎延々)
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01 逆行の対宋戦

 敵将の首が宙に舞った。

 

 さすがは、と「彼」は笑った。彼の兄が刎ね飛ばしたのだ。やさしく、まじめで、何をやっても優れている兄だ。子にも恵まれ、成長を楽しみにしていた。幸せになるべきだったのに。

 

 そんな兄の身体に、何本もの矢が突き刺さっていく。何竿もの槍が刺し貫いていく。

 

 許しがたく思った。この多勢に無勢という状況は、兄のせいではないからだ。愚かな君主の身代わりなのだ、兄は。囮として駆けさせたのは父だ。立派に死ねという命令だった。

 

 父にとって、軍人とはそういうものなのだろう。しかし、兄にとってはどうなのか。

 

 今、貫かれ持ち上げられて、兄の眼差しはひどく遠い。その諦観が、その悔悟が、兄という男の最期をみじめなものとしている。ああ、目が閉じられた。兄が、あの兄が逝ってしまった。

 

 理不尽だ、これは。

 

 彼は憎む。君主の愚昧を、友軍の惰弱を、父の頑固を……そして何よりも、己の無力を。

 

 後悔が、潰された片目から血涙となって流れ出た。真剣に考えも、必死に鍛えもしてこなかった。本気で生きてこなかったということだ。頼れる兄弟や強大な父に囲まれて、多くのことを誰かに任せてしまって、適当に楽をしてきた。

 

 つまるところが、兄の後ろに安住していたのだ。だからこんな今を迎えた。

 

「おおおおっ!!」

 

 吠えて、突っ込んだ。

 

 兄の首級を獲らんとする数騎を切り捨てたところで、馬上より叩き落された。刃に刺され、蹄に踏まれ、何もかもがわからなくなって……奇妙な音を聞いた。涼やかな鈴の音だった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 鈴が鳴る。

 

 誰にも聞こえない、彼の耳にしか届かない、夢幻のような音色だ。聞けば顔も知らない亡母は風鈴を好んだという。その残響なのかもしれない。それを聞きながら、彼は生まれ育った。

 

 以前はそうではなかった、という気がしていた。

 

 他の誰にも理解されない違和感だ。鈴の音の他にもある。目だ。彼は生まれついての隻眼だが、両目で物を見た覚えがあるのだ。また、既視感もあった。父を、兄を、生まれてくる弟妹たちを、あらかじめ知っていたような気分になるのだ。

 

 戸惑うたびに、強く鈴が鳴る。聞くたびに焦燥に駆られた。

 

 たまらない思いで剣を手に取り、馬に跨った。己をいじめ抜いた。調錬に明け暮れて初めて息がつけた。叱咤するような鈴の音色が、その時ばかりは激励するように響く。

 

 己を鍛え、兵を鍛え、共に鍛えられて……そして彼は今日も戦場へやって来た。

 

 北漢の南東部、沢州である。

 

 来襲した宋軍は六万。堅陣を組み、じりじりと前進しているが。

 

「羊の群れだ、あんなものは」

 

 一笑に付し、馬を駆った。率いるのは軽騎兵のみで五百。敵の兵站を脅かすべく戦場を迂回した部隊だ。そう志願し、認められてここにいるものの。

 

「鋭をもって鈍を衝く。いいか。狙うはあの旗……後軍にあって贅肉のごとき『潘』の字だ」

 

 敵からすれば降って湧いたような五百騎だろう。まだ距離があるというのにすでにして動揺している。指図して旗を掲げさせると、いよいよ混乱が広がった。

 

 五百騎の頭上にはためくのは「三」の字の戦旗。

 

 楊家の独眼鬼、三郎延輝の旗である。

 

 慌てたように動き始めた敵騎兵を待たず、彼は―――三郎は突入した。戸惑う徒歩兵らを、斬るというよりは蹴り退けた。斬るまでもないということだ。敵が分かれるに任せて突進し、声を上げる敵将校だけは斬り捨てた。首級を獲る労も惜しんで、奥へ。先へ。

 

 見える。「潘」の旗の下に百騎ほどが集っている。動きの拙さは哀れなほどだ。

 

 主将はまだしもとして、副将らしき若者が足手まといのようだ。この状況で半狂乱になるなど、およそ軍人に向いていない。何かしらの縁故で立場を得た者だろうと思われる。

 

 このままならば、届くが。

 

 三郎は舌打ちした。やはりか援軍が来た。「高」の字が二旗。あれらはそこそこにやる軍だ。猛々しい兵気でそれとわかるばかりでなく、どうしてか手強いと知っている己がいるのだ。鈴の音が密やかに鳴っている。

 

 馬首を返した。旗本らには殺気だけを吹き付けて、敵の群れから脱した。そこへ敵軍全体を揺るがすような衝撃が来た。味方の本隊がぶつかったのだ。楊家軍二万の攻勢である。

 

 屋台骨にヒビが入ったところを強く押したのだから、あとは崩れるばかりだ。

 

 潰走する敵を、三郎は追いはしなかった。雑兵首を一千二千と転がしたところで、総勢数十万という宋軍には痛痒ともならない。さりとて敵将の護りは硬く、仕留めきれそうもない。宋将の生き意地のしぶとさについては妙な確信があった。

 

 勇将もいる。離脱させじと迫る三百騎は「呼延」の旗を掲げている。前軍であったろうにと、三郎は感心すらした。尻拭いもいいところの猛攻だからだ。

 

 三郎は激突を避けた。そういう事情の敵とは当たりたくないと思う。

 

 やがて戦場は膠着した。むしろ劣勢を嫌って引き返すこととなった。大きく後退した宋軍が、後詰め数万と合流したからである。六万を崩したとはいえこちらの兵数は二万余りのあるきりで、再三の要請にも関わらず太原府からの援兵はやってくる気配もない。

 

 本陣に帰るや、三郎は父・楊業の静かな怒気に晒された。

 

「果敢と無茶をはき違えるな、三郎。お前は必要のない危険を冒した。本隊が押さねば孤立し殲滅されていたのだ。しかも、勝ち過ぎた。その結果として更なる危機を招き寄せた。十万将兵ともなれば、宋軍は一挙に北進を始めかねん」

 

 なるほど、軍略である。しかし盤面上に限る正論だと三郎は思った。

 

 もしも己が仕掛けなければ、楊家軍は三倍の数の宋軍と対峙し続けたろう。援兵がなければ攻めきれない兵力差であり、どだい正攻法には無理があるのだ。兵を退く機会を探るより他にどうしようもなくなる。あるいは廷臣らは軍閥たる楊家軍の消耗を期待しているのかもしれない。

 

 父は清廉な軍人だ。理想的にすぎるほどだ。それゆえに廷臣らの思惑を認めない。後方とはこうあるべきだと決めてかかったものの見方をする。潔癖を押し通す。

 

 不利を招こうとも頑なに美しく在ろうとする―――その生き様が、三郎にはひどく厭わしい。

 

「……血気に逸り、浅墓な戦いをしました」

「良かれ悪しかれだが、誰にでもできることではなかった。そこは誇っていい。要望の出ていた騎馬隊拡充についても進めよう」

 

 肩を叩かれた。熱い血潮が感じられた。それは兄弟にも宿り、それぞれに巡っている。

 

 幕舎から出るなり、呼び止められた。楊兄弟の長男、延平である。父を同じくする九人の中で、延平だけが三郎と同母である。

 

「叱られたろう。わかっているとは思うが、お前に期待すればこそだぞ」

「そんなことを言うために、わざわざ待っていたのですか」

「憎まれ口をたたく割りには嬉しそうじゃないか」

「いや、まあ、騎馬隊の増強が叶うようなので」

「ほう、それは。ますます頼もしくなるな」

 

 三郎は口元を手で覆った。いよいよ頬が緩みきってしまいそうだからだ。

 

 この人を死なせてはならないと、三郎は考えている。物心ついた頃からずっとだ。そのために強くなるのだと、ごく自然と思い定めていた。

 

 鈴が鳴る。風が吹かずとも、鳴り響く。

 

 風雲急を告げるかのように。壮絶な戦いの日々を予告するかのように。



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02 七郎の調練

 その喊声を聞くまでもなく、三郎は察していた。

 

 右手の丘の上に騎影が並んでいる。稜線をなぞるような横列だ。中央に末弟・七郎延嗣の姿を認めるや手信号を発した。率いる百騎を駆けさせる。多少の列の乱れは厭わない。

 

 逆落としが来た。

 

 横列から変化した。中央が突出し両端を退げ、楔の形で突っ込んでくる。速い。避けきれない。後尾の二十騎余りがひと当てに蹴散らされた。騎馬の勢いを一点に集中させてきた証左だろう。

 

 それが七郎の見事さであり、また、拙さでもあった。

 

 百騎の馬列は、緩んだ。いとも容易く突き抜けてしまったがために勢いを殺せず、さりとて活かす先もなく、余裕とも逡巡ともとれる数十歩を丘陵に刻んだのだ。

 

 衝くべき隙である。三郎は残る七十数騎を率いて左方へ駆けていた。反転しようとする七郎隊へ縦列でぶつかる。抵抗は初めだけで、十騎も落とすとすぐに分け入れた。兵の向こうで七郎が声を上げている。先ほどの逆落としと比べると見るも哀れな統率だ。

 

 割ってしまえばあとは一方的な展開となった。分けては囲い、叩き落し、また分け囲う。残すところ七郎を含む十数騎となったところで鉦が鳴った。

 

「おい、延平兄上が呼んでいるぞ」

 

 七郎は馬上で泣いていた。声をかけても、歯を食いしばっていて返事もない。

 

「気持ちはわかるが後にしろ。兄上もおっしゃると思うが、お前は強くなっているよ」

 

 真っ直ぐに涙を流せるこの末弟を、三郎は特に可愛がっていた。今年で十七歳になるが、幼いころから何かと三郎の後についてまわってきて、遊びにしろ兵法にしろ一緒にやらせろとねだる。他の弟たちが一癖も二癖もある分、その素直さがまぶしく映るのだ。

 

「強くなれますか、俺は」

「ああ。やはり騎馬隊を率いるのにむいている……」

 

 才を見極めるよりも早く、そう知っていたように三郎は思う。精強な騎馬隊を率いる姿を容易に想像できもする。うっすらと鈴の音が聞こえている。

 

 

 長兄・延平は丘の上で待っていた。その微笑みを面映ゆく感じるも、三郎は表情に出さない。

 

「両軍ともよくやった。負けたとはいえ七郎の逆落としには目を見張ったな。三郎も驚いたろう」

「はい。兵を殺す判断を強いられました」

「聞いたか、七郎。お前の強さが、独眼鬼に損失を呑ませたのだ」

「二十騎を討ったことが、俺の敗因という気もするのですが」

「討たされたからな。実戦では時に味方を殺させることでもって敵を殺すことがある。非情な判断だが、それができてはじめて楊家の将だ」

「実戦かあ……次こそは俺も出してもらえるかな」

 

 延平は笑ってごまかしたが、三郎はしっかりと頷いておいた。七郎に非凡なものがあることは明白である。

 

 そんな七郎に、父はまだ初陣を許していない。

 

 先年の宋との戦に七郎率いる騎馬隊がいたならと三郎は思う。後方の攪乱にと二部隊で出張り、機会を謀って、宗将の一人二人でも首を獲れたかもしれない。

 

 結局、宋軍十万は北漢の領を踏めるだけ踏んだ後、退いた。

 

 国境の村々が荒らされることはなかったが、その振る舞いはむしろ脅威だった。必ず併呑するという意志の表れだからだ。太原府も察したものか、随分と怯えたようだ。父が謁見した際、なぜ追撃しないのかとなじった廷臣がいたという。父は睨みつけるだけで宮廷を凍りつかせたそうだ。

 

 そういう態度だから捨て駒にされるのだと、三郎は苦々しく思う。

 

 楊家は北漢随一の武門だが、その総兵力は三万に満たず、単独で宋と闘えるわけもない。かといって挙国一致の必死をもってしても勝てるとは思えなかった。北漢はわずかに河東路を領土とするだけの小国であり、呉越をも下した中原の大国からすれば統一の残余でしかあるまい。

 

 北の遼と結ぶことも、危うい。異民族にして武断の国である遼にとっては、すでに北漢など宋との係争地でしかないだろう。

 

「野営地に戻るぞ、二人とも」

 

 この調練の日々もそろそろ終いかもしれない。決戦は間もなくで、いざその時が来れば楊家は潰えるかもしれない……父の頑迷さに殉ずるようにして。

 

 夕餉の火を囲む頃には、三郎はすっかり気が塞いでしまった。こうなると七郎も寄ってこない。

 

「また難しい顔をしているな」

 

 延平だ。この微笑みにばかりは、三郎も敵わない。木皿に豚肉を乗せて持ってきたようだ。

 

「楊家の行く末を考えあぐねたのです」

「宋と遼の狭間にあることは、どうしたって苦しい。父上も色々と苦心しておられよう」

「……北漢の行く末についてでしょう、それは」

「もちろん、そうだ。我らは北漢の軍人だからな。兵権も、兵を養うための塩の権益も、国によって認められたればこそだぞ」

「国とは、あの帝のことですか。戦のなんたるかを理解できない廷臣を信じ、援兵を寄越さず、それでいて全軍をあげる時には我らを呼ばない。愚劣を侍らせて蒙昧を晒すばかりの、あの」

「やめろ。実際に宮廷へ上がっている父上が口にされないことを、お前が言っていい道理はない」

「……父上は、どうするつもりなのです。先の戦のようなことを繰り返していては」

 

 一度開いた延平の口が、何を言うこともなく閉じ、椀の水をすすった。三郎もまた椀をとった。どちらともなく焚火に見入る。薪が、戻しようもなく灰と滅んでいく様を。

 

「この国には、楊家軍が必要だ」

 

 固くつぶやかれた言葉を、三郎はただ受け止めた。 

 

「それはつまり、帝には父上が必要だということだが……帝はそう思っていないのかもしれない。恐れている節すらある。この戦乱だからな。幾つもの道理が入り乱れてしまって、もう―――」

 

 ―――どうしようもない。

 

 そう苦く笑った横顔を、三郎は食い入るように見た。ひどい悪寒に襲われていた。

 

「畢竟、誰しもが生滅を求められているようにも思う。国も家も、帝も父上も、我ら一人一人も、それぞれの器量を試されているのかもしれない。どう生き、どう死ぬのかをな」

 

 この人は、こんな風な顔をして、死んでいく……三郎には確信があるものだから、震えた。あってはならないと思った。そうさせないために自分がいるのだと叫びたかった。

 

「呼延賛をどう思う、三郎」

「勇将です。味方であれば頼もしかったろうにと思いますが、敵として当たってみると、存外場所を得ていないようにも感じました」

「そうだな……いや、あの男もお前のように思いあぐねたのかもしれないと思ってな」

「……なるほど。どう生きようとも、ということですか」

 

 延平が物足りなそうに首を傾げたが、三郎は韜晦を決め込んだ。どう死ぬかについて言葉を交わしたくなかった。死なないために、死なせないために、兵法軍略を磨いてきたからだ。

 

 方々で火が燃やされ、笑い声が上がっている。七郎の声も聞こえた。無邪気な賑やかさだ。

 

 どうあれ、強くなければならない。兵を、育て上げなければならない。

 

 三郎は豚肉にかぶりついた。耳にはいつもの鈴の音が、励ますように心震わせるように鳴り響いていた。



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03 北漢楊家軍、最後の出陣

 国が亡びる時というのは、かくも、一切合財の愚かさを晒すものなのか。

 

 夏の名残りを甲冑下の汗とにじませて、三郎はしみじみと考えていた。宋軍十一万が怒涛の北上を続けている。使者や報告の者が駆け込んでくるたびに、北漢という国の断末魔が聞こえてくるかのようだ。

 

 沢州からの侵攻へと当てられた北漢軍は、ただの二万ばかり。急作りの関に詰めたところで何を防げるというのか。禁軍六万を太原府に展開させて、何と戦うというのか。要害という要害をたやすく突破されてなお、楊家軍へは何も知らせてこない。

 

 あまつさえ遼に救援を求めたという。猛将・耶律沙の率いる二万が我が物顔で北漢の地を駆け、宋軍とぶつかった。そして一敗地に塗れたというのだから、もはや忌々しいというよりも―――。

 

「馬鹿々々しい、という顔だ。兄上は」

「……お前もな」

 

 気づけばそばにいた四郎延朗へ、三郎は顔も向けず答えた。

 

 代州城郭外の兵営である。演習の打ち合わせに用いるこの部屋は、連日、最新の情報を求める諸将により騒がしい。誰も彼もが憤懣やるかたなしといった中にあって、三郎と四郎だけが空気を異にしていた。

 

「父上はどうすると思いますか」

「居直るよりあるまい。手前勝手に戦おうにも、その時機すら失っていては」

「北漢は北漢らしく亡び、楊家も楊家らしく滅ぶと」

「おい」

「兄上もそう思っているから、皆のように怒らない」

 

 皮肉な物言いはいかにも四郎らしいが、そこに暗い情念のようなものまで感じられて、三郎は眉根を押さえた。

 

「……呆れているのは確かだが、むざむざ楊家を滅ぼさせてなるものかよ」

「戦う機会があろうとなかろうと、もはやこれまででしょう」

 

 四郎は他の兄弟と違い、楊家に染まりきらない。鬱屈としたものを抱えていて、それがために三郎とだけ話が合うものと思われた。

 

「臆病風に吹かれたようなことを言う」

「まさか。しかし軍人の純情を貫くのならば、それは滅び方が変わるだけではないですか」

 

 純情という言葉をあざけるように口にする、その陰気が吐息を誘った。

 

「その思い、延平兄上には申し上げたのか」

「……いいえ。難しい立場でしょうから」

「俺はいいのか」

「三郎兄上は、まあ」

「馬鹿にしているな、お前」

 

 肩を叩いて誤魔化したもの―――父への隔意とでもいうべきものには、三郎はあえて触れないことにした。四郎のそれと己のそれとでは内実が違うとわかっているからだ。

 

 次の日、ついに詔書が届くにいたり、諸将は激発した。

 

「人を馬鹿にするにもほどがある! この事態を招いた廷臣の首を並べて晒すべきだ!」

 

 二郎延定が吠えている。

 

「すでに二州も獲られた今更に、宋を撃退せよだと!? 事の初めに届くべき詔書ではないか! 我らをさしおき遼に援兵を請うたことにも触れていない! なかったことにするつもりか!!」

 

 荒武者を地で行く二郎だ。剣すら抜きそうな勢いだったが、それを止めたのは父である。

 

「黙れ。詔書である。楊家軍は粛々として進発する。我らのある限り北漢は安泰であることを、太原府に示すのだ」

 

 やはり、こうなった。

 

 誰もが思い詰めたような顔をする中で、三郎はちらりと四郎の様子をうかがった。うつむいて目立たないようにしている、その様が却って目についた。

 

 さても、出陣である。楊家軍のほぼ全軍および七兄弟全員で戦いに行く。三郎は歩兵三千と騎兵五百を率いる。騎兵については増強のためにと集めた良馬をそのまま七郎へ譲っていた。初陣へのはなむけとしてではなく、あの弟ならば精強な騎馬隊を作ると確信してのことだ。

 

「ようやくの出番ですな、兄者」

 

 城郭外で兵の集結を眺めていると、五郎延徳が寄ってきた。危急存亡の秋に臨んでも飄々とした態である。いっそ嬉しげだ。この武人然とした弟には、事態が動き出したというだけで十分なのかもしれない。

 

「おもしろい戦になればいいのですが」

「兵力差が大きい。この期に及んでも援兵があるとは思えない。難しいだろうよ」

「それはそうでしょうが、一度もぶつからないということもないでしょう」

「どうだかな」

「父上が執る戦です。俺は期待していますよ」

「……そうだな。無様な戦いにならないことだけは確信が持てる」

 

 父・楊業が戦争の天才であることは疑いようもなかった。一人の兵法者としても、一部隊の隊長としても、一軍の指揮者としても、父以上の強者というものを三郎は想像すらできない。

 

 英雄なのだ、楊業という人間は。

 

 戦乱の世にあっては最も尊敬される者であり、それがために帝との間に隙間風が吹く。遣る瀬無い話ではあった。苦悩のほども察せられた。主君が英邁であればどれだけの戦功を積めたものか知れない。

 

 しかし、と三郎は思う。もとより多くの人間は英雄の基準で生きられやしない。それをわからないでいては、どんなに己が美しく在ろうとも、結局は無残な最期を迎えるに違いないのだ。

 

「六郎は、また兵のところか」

「ええ。自信がないのでしょう。あいつはまだ前面に出せませんな」

「……優れた将になりそうなのだが。それこそ、俺よりもよっぽどに」

「兄者はいつもそう言いますがね。あいつは根本的に軍人に向いていない気がしますよ、俺は」

「そうかなあ」

「兵に慕われてはいるようです。それはつまり、やさしい男というわけで」

「まあ、軍人以外の道にも通じそうではある。楊家の男としては虚しい話だが」

「その点、七郎は天性の騎兵ですな。あいつの百騎は三郎兄上でも手こずるでしょう」

「うむ。だが、あいつもやさしくないわけではないぞ」

「そりゃあ、俺や兄上に比べればそうでしょうよ。しかしやさしい男というよりは、気のいい馬という気がしますな」

「上手いことを言うなあ、お前」

 

 笑って、それぞれの持ち場へと別れた。ほどなく父の直率する旗本たちが城郭外へ出てきた。

 

 そして楊家軍二万五千が征く。

 

 楊業の旗印である「令」の字を堂々と掲げ、さりとて帝の閲兵を受けることもなく、後方支援はおろか補給すら怪しいままに、南へ。岳陽へ。

 

 これが北漢の命運を決する最後の戦いになることを、誰もが心密かに理解しながら。



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