ルシタニアの三弟 (蘭陵)
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1.三弟・セイリオス

「マルヤムに留まりたいだと?何故だ、セイリオス」

 誰何したのは、ルシタニアの王弟にして、事実上の国王と言っていい男、ギスカール公爵であった。故国ルシタニアを発した40万の大軍はわずか一月でマルヤム王国を滅ぼしたものの、ここはまだ通過点に過ぎない。

「パルスに攻め込んだ時、マルヤムは本国とパルスを繋ぐ重要な地となります。誰か、信頼できる者を残すべきでしょう」

 セイリオスと呼ばれた男が答える。言っていることは、一応の道理が通っている。ただ、こいつがそんな程度の男か、と考えれば、答えは否である。

 

「これからパルスに向かう。お前の軍が抜けるのは、正直痛い」

 ギスカールはこのマルヤムの地に、聖堂騎士団(テンペレシオンス)を残すつもりでいた。教会直属の軍団である。はっきり言って、勝った後に残った敵を虐殺するしか能のない軍だ。

 もちろん大司教ボダンを始め、反対の声は大きいだろう。しかし宗教的指導者と軍事力が結びつくのは、はなはだまずい。だから何としてでもこの地に聖堂騎士団を残すつもりでいたのだが…。

 

「私としては、あの聖堂騎士団は何としても連れて行ってほしい」

 何だと、とギスカールが身を乗り出した。あんな連中と一緒では、勝ってパルスの首都エクバターナを占拠しても、その後の占領行政が上手くいくはずがない。

「パルスの占領は、どうせ失敗しますよ、兄上」

 13歳年下の弟にあっさり言われ、ギスカールはしばらく静止したのち、乗り出した身を元に戻した。

 

 現国王イノケンティス七世が当年40歳、ギスカール公が5歳下で35歳、その下のセイリオスは22歳。三人兄弟の次男から見て兄とは両親は同じだが、弟は母親が違う。

 母が亡くなった後、父と継母の間に産まれたのがセイリオスである。とはいえあまり気にしたことはない。末弟として二人の兄を立てるわきまえがあり、何よりイアルダボート教に狂信的でないのがいい。

「兄者よりずっと話が分かる」

 とはギスカールの評である。末永く自分の片腕として活躍してくれるであろうし、弟として長兄を支える苦労を分かち合ってくれる存在となるはずであった。

 問題があるとすれば、長兄にも同じ思いを抱いていることか。長兄が自然死なり事故死したなら次兄の即位に誰よりも強く賛同してくれるだろうが、簒奪したとなれば話は別となるだろう。

 その点だけが厄介で、ギスカールがこれまで力ずくで王位を得ようとすることを躊躇った、大きな理由となっていた。

 

「………」

 その弟に「パルスの占領は失敗する」と断言され、ギスカールは渋い顔で考え込んだ。勝てる見込みはある。あの銀の仮面をかぶった男が提案した策が上手くはまれば、いくらパルス軍相手でも負けるはずがない。

 戦場は国境付近となるであろう。その後、首都エクバターナを陥落させる。そこまではいい。だがその後はどうなるのか。予想できないほど、ギスカールは馬鹿ではない。

「聖堂騎士団が居ようが居まいが、ボダンの奴が騒ぎ立て、兄者はそれに従う。兵士はただ信じるだけ。避けようがない、ということか」

 

 ボダン大司教は宗教家としてはともかく、人としては狂人に分類するしかない男だ。とにかくイアルダボート教のことしか頭にない。イアルダボートの教えこそ正義であり、それ以外はすべて悪だと考えている。

 異教徒、異端者など、彼にしてみればこの世に存在することが罪なのである。殺して殺して殺し尽くすまで、彼が止まることはない。そんなことはできるはずがないと理解しようともせず、ただ突っ走る。

 そして一般の兵士には、ギスカールの苦労などわからない。政治とか軍政などというものは、彼らには何の関係もない話である。教えに従って異教徒を討伐することだけしかないのだ。

「この国では、兄上がいかに善政に心を砕こうと無駄に終わるでしょう」

 気の毒そうにセイリオスが告げる。ギスカールも、苦く笑った。

 

 パルスの占領は失敗する。一時的にはともかくとして、長続きするはずがない。その点はギスカールも認めた。認め、パルスを諦めた。諦められるのがギスカールの優秀さであろう。さて、であればどうするか。

「パルスの富と人と技術とで、ルシタニアからマルヤムまでを開拓するのです」

 弟はあっさり言った。パルスをボダン達狂信者にしゃぶらす飴とし、その間にマルヤムまでの地を我らにとっての金城湯池と変える。そのためには、聖堂騎士団など残されてはたまったものではない。

 同じイアルダボート教を信奉する国であるが、ルシタニアは『西方教会派』、マルヤムは『東方教会派』である。狂信者にしてみれば、むしろ『異教』より『異端』の方が許しがたいという面がある。

 聖堂騎士団を残したりすれば、命令など無視してマルヤムの住民を虐殺して回るのは間違いない。現にボダンは、ギスカールが助命を約束したマルヤムの国王と王妃を焼き殺してしまったのだ。

 

「ふむ、それで、お前が残るか」

 この弟なら、上手くやってのけるに違いない。15歳で戦場に立ち、18歳で軍の指揮権を手にした。そして19歳のときにはルシタニアの東南にあった小国アクターナを征服したのだが、そのやり方は皆を驚愕させた。

「アクターナ領内においては、いかなる教えであろうと、その信仰を認める」

 軍事的に制圧した後の、第一声がそれであった。当然ながらボダンなどは怒り狂ったが、先にアクターナを征服した時はその地を領地として認め、統治は一切を任せると『神の名の下に』誓言させておいたのである。

 同時にマルヤムに侵攻した本隊が援軍として駆け付けたパルス軍に蹴散らされたこともあり、彼の赫赫たる武勲の前には、誰も何も言えなかった。

 

 以後、アクターナ公セイリオスと呼ばれる彼だが、特に異質なのは麾下に持つ2万5千の軍である。騎兵5千の歩兵2万という編成のこの軍は、3倍のルシタニア軍をも打ち破る精強さを持っている。

 そして、それ以上に、この軍は極めて宗教色が薄い。ルシタニア人、アクターナ人を中心に、マルヤムやミスル、果てはパルス出身の兵までいて、しかもイアルダボート教を強制してないのだから、当然と言える。

「とはいえ、2万5千ではマルヤムを治めるに不足ですから、いくらか本隊からも割いていただきたい」

 希望として出してきた将軍の名は、当然ながら彼の息がかかった者だけである。兵力にして、およそ4万。

「理由は何とでも付けられるでしょう。…例えば、『奴らは、異教徒とも妥協しかねない』とか」

 にや、と笑う。本当にやる奴であり、ボダンにしてみれば邪魔者が消えたと思うであろう。

 

「…話は判ったが、一つだけ不満がある」

 ギスカールの不満は、パルスに向かうのが自分だということ。あの兄やボダンなど、狂信者のお守りをさせられること確定の立場だ。胃がいくつあっても、足りそうもない。

「……1年で、マルヤムの安定に目途をつけます。あとはデューレンとハルクを残し、できるだけ早く駆け付けます故」

 デューレンはセイリオスの腹心の一人だ。前線に立つ勇猛さはないが、軍政どちらにも対応できる、視野の広い知将である。彼と4万の軍がいれば、マルヤムも抑え込めるだろう。

 もう一人のハルクは、セイリオスに拾われた、元アクターナの小役人である。文官としての能力は、ギスカールから見ても悪くない。彼が、細かい実務を担当する。

 

「……仕方ない。では、パルスで俺にしてほしいことは、何だ?」

 半ば諦念から、ギスカールは不満を抑え込んだ。ルシタニアの全軍を指揮する立場の自分が、マルヤムに留まるわけにはいかなかった。

「富のいくらかと、我が軍に協力した奴隷(ゴラーム)をこちらに送っていただきたい」

 エクバターナはパルスの首都であり、巨大な要塞である。力攻めで攻め取るのは難しい。城内の奴隷に蜂起を呼びかけ、内応させるべきだ。

 

「恩賞として彼らを自由民(アーザート)とし、土地を与えると言えば、乗ってくるでしょう」

 そこまではギスカールも考えている。反故にするのは簡単だが、マルヤムに集団で入植させてしまえるなら、そうすればいい。そちらの方が名声が高まることは、言うまでもない。

「パルスの奴隷は我らを解放軍として受け止めるだろうな。悪くない」

 同時に自由民も移せるだけ移してしまう。特にパルスの文明度を支える技師たちが欲しい。ついでに書物や工芸品も避難させよう。そうしないと、気狂いどもが跡形もなく破壊してしまうからだ。

 

「そして最も重要なことは、パルスの西方を我らが抑えることです」

 パルスの残党は東に逃げる。西からルシタニア軍が攻め込むのだから、当然のことである。厄介なボダンや聖堂騎士団をそちらに向け、西の要衝には自派の将軍を派遣する。

「そして機を見て、我らはエクバターナの財宝を抱え、マルヤムまで撤退する。……ボダンたちは置き去りにして、な」

 弟の台詞を先読みしたギスカールが哄笑する。事有るごとに神の名を持ち出して統治の邪魔をしてくるボダンたち聖職者がいなくなれば、さぞさっぱりすること疑いない。

 

「……問題というか不確定要素ですが、もう一人」

 ギスカールの非公式な参謀となっている、銀の仮面をかぶった男である。マルヤムを制覇中のルシタニア軍にいきなり現れ、パルス侵攻の作戦を提案してきた。

 以後、ルシタニア軍に留まり、銀仮面卿と呼ばれているが、一体何者で何が目的なのか、知るのは本人だけである。

「お前はどう思っている?」

「さて…。アンドラゴラスを深く憎んでいる、という点からすると、バダフシャーンの公族というあたりとも考えられますが…」

 バダフシャーン公国は、17年前にパルスによって滅ぼされた。その時パルス軍を率いたのは、即位前のアンドラゴラスである。恨みを残した公族の一人や二人、生きていてもおかしくない。

 ただし、言った本人も当たりとは思ってない。銀仮面卿はパルスの将軍を内応させたと言ってきた。バダフシャーンの公族に、そんなことができるだろうか。

 

「銀仮面のことは、尻尾を見せるまで泳がせておく。………それより、俺にとっては銀仮面以上に胡散臭い奴がいるぞ。ずばり、お前は、何を考えている?」

 これまで、面と向かって聞いたことはなかった。この弟の目は、どんな未来を見ているのか。ただ、ルシタニアの王として君臨する、などという小さなものではない。それは感じ取っている。

「……兄上、イアルダボートの教えにおいて、人は禁断の果実を口にしたため楽園を追放された。………おかしいと思いませんか?」

 ギスカールは内心で身構えた。聞いたのは失敗だったかもしれない。これ以上喋らせると、自分は聞いてはいけないことを聞くことになるかもしれない。わけもなく、そう思った。

 

「禁忌を破り、神の怒りを買った。それはまあいいでしょう。ですが、神は何故それほど大事なものを、人の手が届くところに放置したのでしょうか?」

 しかし、ギスカールはその思いを行動には移さなかった。興味の方が勝ったからである。

「……ボダンなら、神の思慮は人の考えが及ぶところではない、とでも言うだろうな」

 考えてみれば、確かにそうだ。本当に禁忌とするなら、口頭で禁止するだけでなく、絶対に人の手が届かぬ所へ隔離してしまえばよい。神にできないはずないだろう。何故、そうしなかったのか。

 放置せざるを得なかったのなら、全能ではない。人がそうする可能性に思い至らなかったのなら、全知ではない。そうなる可能性を知りつつ何もしなかったのなら、それは罪を容認していたということでないか。

「………」

 恐ろしい奴だ、とギスカールは思う。ルシタニア内で、イアルダボート教を信奉する国の中で、こんなことを考える奴など他にいないだろう。

「…私は、ルシタニアをイアルダボートから解放したいのですよ、兄上」

 

 ―パルス歴320年10月16日、パルス王国に攻め込んだルシタニア軍は、アトロパテネの地で大勝を収めた。

 ―パルスの、そしてルシタニアの歴史を一変させる勝利であった。

 




禁断の果実については、本当にキリスト教の信者に質問したことがあります。
確かその時の答えが「神は人の自由な意思を尊重し、人はその意志で神に背いた」というものでした。
………神は何をしたかったのか、いまだ理解できません。


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2.長兄の恋

「一体、何が起きたというのだ?」

 セイリオスが、いぶかりながら兄からの使者に問いかける。書簡には「大事勃発、すぐ来い」とあるだけだった。予想では、そろそろエクバターナの攻囲戦が佳境となるころだが…。

「アトロパテネ以降の情勢を報告いたします。わが軍はエクバターナを包囲、10日余りの攻囲ののち、陥落させることに成功しました。ところが―」

 この時、11月の13日である。10月16日にアトロパテネの地で大勝したルシタニア軍は、なんと10日で100ファルサング(約500キロメートル)の道を走破し、27日に攻囲を開始した。陥落が11月6日。

 いくら整備された大陸公路であっても、異常な速さであった。欲望が疲労を消したとしか思えない。パルスが態勢を整え直すより先に、という戦略上の意義はあったが、人の浅ましさを如実に見た思いである。

 

 さて、ここまでは良かったが、問題はこの先に起きた。

「……その、国王陛下が、パルス王妃のタハミーネを妃にする、と言い出しまして」

 セイリオスが頭を抱えた。成程、予想もしていない事態である。ギスカールの書簡があれだけだったのも納得だ。書く気力もなかったのだろう。

 それにしても、「あの兄が?」である。10歳の時に大病を患い、「異教徒の大国を滅ぼしその都にイアルダボートの神殿を建立するまで結婚しない」と宣誓し、40歳になる今まで独身を貫いてきた。

 確かにパルスという大国を征し、誓いは守ったと言えるのだが…。

 

「……わかった、すぐ出よう」

 その返答に、使者はほっとしたようだった。何としてもセイリオスを連れてこい、とギスカールから厳命されていたのである。

 すぐさま側近を集めた。デューレン、エスターシュ、ベルトラン、アーレンス、クラッド、グリモアルド、シルセス、ルキアの8人。そのうち、シルセスとルキアは女性である。

「デューレン、マルヤムは任せたぞ」

 はっ、と40代半ばの男が恭しく頭を下げた。軍事も政治も判るのは、デューレンとシルセスくらいのものだ。シルセスは参謀としての役割があり、外せない。

 デューレンには苦労を掛けることになるが、ギスカールが窮状を訴えてきている以上、行かざるを得ない。麾下の軍をエスターシュとグリモアルドに任せ、疾走を開始した。

 

 マルヤムからパルス首都エクバターナに向かう道は、大陸公路一本で済む。しかし、この時、国境とエクバターナのほぼ中間にあるザーブル城は、まだ陥落していなかった。

「これは殿下。戦場のことにて、何のもてなしもできませんが…」

 ザーブル城は大陸公路から半ファルサングほどの距離にあり、パルスとマルヤムを繋ぐ重要な拠点である。ギスカールはここを、信頼するモンフェラート将軍に攻略させていた。

 しかし、難しい城である。荒野の只中にある岩山の上に建てられ、攻囲軍の動きは丸見えとなる。城壁に取り付こうにも、断崖を上ることなどできそうもない。攻め口は、長い傾斜路と階段が続く道のみ。

 

「エクバターナの陥落は喧伝しましたが、降伏の意志はまったく見えませんな」

 理由は二つある。一つは、まだその情報が信じられないため。もう一つが、降伏してもルシタニア軍は許さないであろうと思っているためである。

「……まったく、ボダンたちのせいで、大変な目にあってます」

 セイリオスになら、大司教の悪口も言える。讒言であればすぐさま見抜かれるが、これは事実だ。ボダン派の将軍たちは、目をそむけたくなるような非道を繰り返し、大陸公路を進んでいったのだから。

 しかし、犠牲となった異教徒は彼らが思った数には程遠い。ギスカールは極秘裏に、避難を呼びかける使者を発していたのだ。逃げ遅れた、あるいはその情報を信じなかった者だけが犠牲となった。

 

「この城は、気長に攻めるしかない。それは、しっかり伝えておく」

 城の構造も分からない現状、むやみに攻めても犠牲を出すだけであり、包囲戦に持ち込んだモンフェラートの考えは正しいと思えた。

「ありがとうございます。……して、殿下。どうにも腑に落ちぬのでありますが、マルヤムからエクバターナの西にかけての配置を、穏健な者ばかりで固めておりますな」

 そうなると当然、エクバターナ以東は、ボダンの影響力の強い強硬派ばかりとなるだろう。明らかに偏っている。その指摘に、セイリオスはにやと笑った。

「……だから貴公がこの城に必要になる、ということだ」

 モンフェラートも感ずるものがあったのか、その言葉に「御意」と返した。

 

 パルス王国首都・エクバターナ。セイリオス一行はマルヤムからの道を6日で駆け抜けた。騎馬だけの少数行であれば、難しいことはない。

「おお、我が愛する弟よ」

 ギスカールの第一声に苦笑いする。長兄イノケンティスが無理難題を吹っ掛けてくるとき(本人にその自覚はないが)、使われるのがこの一言なのである。勿論、それを踏まえた冗談だ。

「意外と元気そうですな、兄上」

 こちらも、冗談で返す。ボダン達に振り回されて、胃を抱えている姿を想像していたのである。

 

「はっはっは、ボダンなどが、俺たちの真意に気付くはずないからな。そう思っていれば、猿の戯れを見ている気でいられる」

 しかし、問題はいくつかある。まず、パルスのアルスラーン王太子を取り逃がしたこと。アトロパテネの戦い後、北のバシュル山方面に逃げ込んだらしい。包囲網は敷いたが、それ以降情報は入ってない。

 実は11月13日にアルスラーン一行は包囲網を突破して、エクバターナに向かっていた。ちょうどセイリオスがエクバターナへ向けて出立した、その日だ。

 生涯の敵となる二人が、この時、わずかな時間の差で、同じ道を進んでいたのである。

 

 第二が、エクバターナの奴隷たちのことである。ルシタニアの扇動に乗り、主を殺したものも多い。早く彼らに土地と当座の資金を与えねば、今度はこちらが恨まれる。

「すでに、マルヤム内に何か所か、開墾に適した土地を見つけてあります。また王室所有で小作者のいなくなった土地も抑えてあります」

 マルヤム移住を躊躇うようなら、自由民になる事を諦めるんだなと言ってやればいい。選択の機会は与えたのだから、ルシタニアの行為にも正義は立つ。

 

「よし、それはそれでいい。なるべく早く実行に移す。……で、お前を呼んだ理由だ」

 パルス王妃タハミーネの件である。ギスカールも頭を抱えたこの件に、弟はどう答えるのか。

「あれこれ考えてみましたが、兄上の気まぐれとして、放っておけばいいのではないでしょうか」

 周囲に賛成したものなどいないだろう。特にボダンたち聖職者は強硬に反対したはずだ。いずれ諦め、今まで通りになるのではないか。

「…それが、なかなか厄介でな」

 イノケンティスの恋は本物であるらしい。一方通行の片思い、ではあるが。

 

 そもそも、ルシタニア首脳部が国王とタハミーネの結婚に難色を示すのは、まず何といっても異教徒である点である。次いで敵国の王妃であったという点であり、最後にタハミーネの履歴の不吉さだ。

 彼女は元々、パルスの東南方にあるバダフシャーン公国の宰相の婚約者だった。それを、主のバダフシャーン公が奪った。宰相は自殺したらしい。

 その後、バダフシャーン公国がアンドラゴラスによって滅ぼされ、彼はその恩賞としてタハミーネを望んだ。ところが、内諾を得ていたにもかかわらず、今度は兄のオスロエス王が奪ってしまったのだ。

 それで兄弟は決裂し、あわやパルスが二分されるところであったのだが、その事態はオスロエス王の急死によって免れた。晴れてアンドラゴラスはタハミーネを正妃とし、アトロパテネ会戦に至る。

 

「…兄者は、『不幸な男どもとやらは、すべて異教徒ではないか。敬虔なイアルダボート教徒の妻になることこそ、彼女の運命かもしれぬ』と言ってな」

 その上、震えながらも聖堂騎士団相手に「タハミーネを妃にする」と言ったのである。当然反対、というより強迫されたが、最後まで諦めるとは言わなかった。そう聞いて、ふむ、と弟は考え込んだ。

「……そうなると、むしろチャンスと思いましょう。偏執的な教会の牙城を突き崩す、きっかけになるかもしれません」

 我らの理想のためには、ボダンのような輩は切り捨てねばならない。と言ってイアルダボート教までただちに捨てたら、ルシタニア国内で大混乱が起こるだろう。

 防ぐには、代わりが必要だ。ボダンのような狂信的でない、異教徒にも寛容な教えを広める存在が。

 

「お前、ボダンの代わりに兄者を立てる気か!?」

 とんでもないことを考えつく奴だ、と改めて弟を見直した。ボダンの教えを異端とし、新たな教義を制定するというのである。確かにルシタニア国王なら、権力は充分だが…。

「まあ、上手くいったら儲けもの、程度で考えましょう」

 軽く言って、弟は席を立った。長兄にも挨拶せねばならない。去り行く姿を、ギスカールは複雑な表情で見送った。

 

「おお、我が愛する弟よ」

 次兄と同じ第一声に、再び苦笑いする。違うのは、こちらは冗談ではなく本気であるということだ。弟二人に言わせれば、「愛情を注いでいるのはこっちだ」となるであろうが。

「すでに聞き及びましたが、兄上、パルス元王妃のタハミーネを妃にしたいと…」

「うむ。じゃが、皆が反対しおる。………お主も、そうなのか?」

 この末弟なら賛成してくれるのではないかという期待と、反対されたら味方は誰一人としていなくなるという不安の混じった声で、イノケンティスは問いかける。

 

「私個人としましては、反対するものではありません。しかし、問題は多いでしょう。特に、教会の承認を取り付けられるかが…」

 うむうむとイノケンティスが頷く。セイリオスは「反対しない」と言っただけだが、彼の頭の中では「弟が賛成してくれた」と変換されているらしい。

「セイリオスよ、よき思案はないであろうか?」

 問題に直面した場合、思案することもなく弟を頼るのがイノケンティスの悪い癖である。だが、これは何だかんだ言って結局助けてしまい、兄を甘やかしてきたギスカールが作ってしまったものなのだ。

 そしてその関係が成り立っているのは、イノケンティスに邪心がないからである。純粋に弟を頼りにしているだけで、無理難題を吹っ掛けられ憤慨しながらも、心のどこかで憎めない。結果、甘やかしてしまう。

 

「特に大司教が頑固での。『異教徒はすべからく、即刻火刑に処すべきである。改宗するなどとは口先だけの出まかせに決まっておる。信用してはならぬ』と、まあ、こんな調子でな…」

 ため息をつきながら言う。イノケンティスはこれまで教会のために様々尽くしてきた。ルシタニアの国政全てに彼らの意を迎えてきたと言っていい。我が儘の一つくらい、聞いてくれてもいいではないか。

 セイリオスに言わせれば、そんなことは期待するだけ無駄でしかない。奴らは自我の抑制を知らない猿…、と言ったら猿に失礼な程度の存在なのである。狂信者とは、すべからくそんなものだ。

 しかし、言うことは思っていることとは別のことにした。ボダンを斬るなどたやすいが、まだ機ではない。

 

「……まず、『異教徒は殺さず、イアルダボートの教えを説くべきである』と大司教に認めさせましょう」

 あのボダンにそんなことができるのか、とイノケンティスは身を乗り出した。セイリオスの言うことは簡単である。聖典の中にそれを正当化する記述を見つければ、聖職者という立場上、ボダンは納得せざるを得ない。

「そもそも、イアルダボート教は発祥と同時に広く普及したわけではありません。現にルシタニアの国教となったのは、最初の布教から500年も後のことではありませんか」

 古代の司教たちは、『異教徒』に粘り強く教えを説いたのである。聖人とされた者の中には、異教から改宗した者もいる。それらの記録は、聖典の中で讃えられている。

 

「さすがじゃ、我が愛する弟よ。パルスの民はイアルダボートの教えを知らぬから異教の神などを信じておったにすぎぬ。我らが正しき教えを広めることこそ、真に神の御心に適うと言えよう」

 イノケンティスは決して悪人ではない。弟二人に比べれば、はるかに純真な心の持ち主である。純真ゆえに、きっかけ一つでどんな色にもたやすく染まる。

「今にして、目が覚めた思いである。ボダンたちは御心を理解しておらなかったのじゃ。我が使命はイアルダボートの教えを広めること。異教徒を一人正しき道に導けば、一人神の子が増える。ああ、そうであった…」

 きわめて単純なことであるが、彼にとっては神の啓示に匹敵するものであったのだろう。感極まったように天上の神に祈りを捧げ、これまでの自分の行いを懺悔した。

 



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3.エクバターナ占領行政

 呆然、という言葉がこれほど合致する状況を見ることは、生涯でもそうそうないと言い切れる。

「聞こえなんだか、大司教よ。異教徒とて、むやみに殺してはならぬ。真理を人に理解させるには時間がかかるものじゃ。……聞けぬとあらば是非もない。エクバターナの統治は、セイリオスに任す」

 繰り返される国王の言葉にも、ボダンは何の反応も示さない。そのまま十数秒沈黙したのち、憎悪と憤怒の目をまずイノケンティスに、次いでセイリオスに向けた。

「………」

 イノケンティスは手が震え杯の砂糖水をこぼしたが、あのボダンをやり込めたという満足感が表情に現れていた。それを見て、セイリオスはボダンに向けて冷笑を送る。

 

「あの三弟め!!!どこまで神をないがしろにする気なのか!!!!!!!」

 セイリオスに言わせれば、軽蔑しているのは神ではなく神の威を借りてエゴの充足だけを求める聖職者である。ちなみに彼はルシタニア王室の三男なので、よく三弟という呼ばれ方をする。

 私室に戻ったボダンは、手当たり次第に部屋の物を壊しまわった。物にしてみれば、ただの八つ当たりで壊されてはたまったものではない。

「聖堂騎士団長を呼べ!!!!」

 ひとしきり壊し終えたところで、ボダンが叫ぶ。その剣幕に恐れをなした侍従が全速力で走り、聖堂騎士団長のヒルティゴはすぐやってきた。

 

「ヒルティゴ殿よ、不逞の輩に懲罰を加えねばならぬ」

 ボダンの狂気の視線に、ヒルティゴは明らかにひるんだ。彼はボダンほど狂信的な信徒ではなく、権力を、金を、女を愛する、どこにでもいる俗物にすぎない。

「ボダンが冷たい石ならヒルティゴは火に当てたチーズだ。表面は堅いが、中身はだらしなく柔らかい」

 とはギスカールの評である。だが俗物であるが故、ボダンよりは現実を見ている。

 

(あのアクターナ軍と、戦えるものか)

 アクターナ軍は2万5千、聖堂騎士団は2万4千。規模はほぼ同じだが、戦闘力は桁2つほどの差がある。しかもアクターナ軍にだけは、神の威光も通用しない。戦えば、必ず負ける。

 イノケンティス王が強気に出れたのは、その圧倒的な軍事力を持つアクターナ軍が到着したからだ。その程度のこともわからないのか、とヒルティゴは頭を抱える。

 

 軍で勝てないなら、少人数で暗殺するか。ところがセイリオスの武芸は、ルシタニアでも屈指である。パルスに生まれていれば、まず万騎長(マルズバーン)にはなっただろう。

(しかも、あの剣は―)

 セイリオスの佩剣のことである。黒い刀身の、幅広の長剣。一体何でできているのか、鋼鉄をたやすく両断する。襲ったりすれば、あれで頭蓋を断ち割られる光景しか想像できない。

 考えを巡らせると、どうにも乗る船を間違えたように思う。しかし、聖堂騎士団の団長という立場でそれを言えば、敵と戦う前に味方に誅殺されてしまう。

「………」

 まだまだ情勢は変化するはずだ。きっと、自分が助かる目も出てくるだろう。結論を出すには時期尚早。彼はそう考え、大司教の意を迎えるふりをしつつ、問題の先送りに全力を注いだ。

 

 

「……ここまで効くとは思ってませんでしたよ。いや、本当に」

 やりすぎではないかとギスカールから窘められたセイリオスが、いたずらに失敗した少年ぽく言う。彼でも、長兄の純真さを測り損なっていたらしい。

「まあいい。ボダンの顔は見物だった。あの馬鹿をへこませただけでも、痛快極まりない」

 パルスの統治はずいぶんやり易くなったはずだ。ギスカールは早速全軍に布告を出した。「異教徒である」という理由での殺害を禁止する内容である。

 とはいえ、ただ布告を出しただけで万事解決する問題ではない。しばらくは、到着したアクターナ軍を巡回に加えるしかない。

 

「次いではボダン派の東方追放。もしかしたら、エクバターナも保持できるやもしれんな」

 少し夢想に入りつつあるギスカールの願望を、セイリオスは窘めた。エクバターナはパルス王国の象徴である。これを保持できるのは、パルスの完全制圧が成功した場合だけだ。

「おっと、すまぬ、すまぬ。つい欲が出た。やはり、当初の計画通りマルヤムまでを開拓するか」

 それにすぐ気づき、抑制することができるのがギスカールである。さて、そうなると、邪魔なものが一人いる。

 

「裏切り者のカーラーンだ。奴の領地は、アトロパテネの一帯。躓く恐れのある物は、退けておくに限る」

 パルスの万騎長(マルズバーン)であった彼はアトロパテネ会戦の折ルシタニアに内通し、その裏切りが勝利の決め手になった。彼の偽情報に騙されたパルスの騎兵隊は、進んで断崖に身を投げてくれたのだ。

「今は大将軍(エーラーン)を名乗っているが、自称に過ぎない。恩賞を与えるという名目で、東に移す。バダフシャーン公に任命してやる、というのはどうだ?」

 ギスカールの案には、いくつかの思惑が絡んでいる。まず第一が、危険因子の排除。第二がさらなる離反者を誘う餌。第三が、気骨あるパルス人の怨念を集める身代わりの人形である。

 

「……そしてもう一つ、銀仮面の狙いが何か、少しはあぶりだせるだろう」

 アトロパテネ会戦の最大の功労者はあの銀仮面卿と断言できる。彼がカーラーンを寝返らせ、アトロパテネの大平原に濃霧が発生する日を言い当てたから、パルス軍を罠に嵌めることができた。

 なのに、彼が欲した恩賞は「アンドラゴラスの身柄」だけであった。他は一切求めない代わりに、アンドラゴラスの身は好きにさせてほしいと言ってきたのである。

 怨恨の深さがそれほどの物である、と言えばそれまでなのだが、いくら何でも釣り合いが悪すぎる。何か、狙いがあると見るべきだ。

「カーラーンを動かせば、繋がりのある奴もきっと動く。……そういえば、あの銀仮面、実はパルスの王族だなどという噂もあったな」

 仮にそれが事実だとすれば、奴らの狙いはパルスを我が物にすることであろう。だがそれは、こちらの真の目的にはむしろ好都合でしかない。

 

 

「ほう、国一つを治める身となったか」

 銀仮面の男の声は、わずかに皮肉を含んでいた。それを感じ取ったカーラーンが、体を小さくして恐縮する。ギスカールに告げられた時は喜色溢れるように振舞ったが、それは動揺を隠すための演技である。

 一体、何を考えているのか。破格の恩賞を喜ぶより、疑念の方が先立った。

「バダフシャーンにまで、ルシタニアの勢力は及んでいない。それを、おぬしに制圧させたいのだろう」

 現状、パルス最大の残存戦力は東の国境を守る、ペシャワール城にある。カーラーンがバダフシャーンに入ると、これと噛み合うことになるのは疑いない。

 また、失敗してカーラーンが戦死でもすれば、恩賞を与えずに済む。ルシタニアにとってはどちらにしても望ましい展開なのである。

 その程度は、わかる。破格の恩賞を受けた自分が恨まれるであろうことも、わかる。だがその程度なのか。

 

「で、ありますが、東方一帯を『殿下』のものとする、好機でもあります。ペシャワール城のバフマンとキシュワードも殿下の存在を知れば、きっと旗下に馳せ参じましょう」

 カーラーンはあえて『殿下』と言った。バダフシャーン公など、ルシタニアが勝手に押し付けた称号にすぎない。自分はどこまでもあなたに仕える身である、と表明したのである。

 ルシタニアの、誰も知らないことだ。パルスの王位に就くべき人は、目の前にいる。銀仮面卿こと、先王オスロエス5世の遺児ヒルメス。この御方こそ、パルスの『正統な』王なのである。

 

 先々代、ゴタルゼス2世には男子が二人いた。オスロエスと、アンドラゴラスである。ゴタルゼス王が崩御した際、兄弟の仲はいたって良く、つつがなく兄オスロエスが王位を継いだ。

 だが、わずか3年後、オスロエスは熱病で急死し、アンドラゴラスが王位を継いだ。この際には様々な噂が流れた。

「タハミーネの一件を恨んでいたアンドラゴラスが、兄を弑逆した」

「いや、逆に弟を殺そうとしたオスロエス王が、返り討ちに会ったのだ」

 それに拍車をかけたのが、ほどなく起きた火災により、オスロエス王の王子が焼死したという話だ。

 

 11歳だった王子は立太子の儀も済ませていなかったが、正統を訴える資格はある。成人すればなおさらだ。だから、アンドラゴラスが将来の禍根を断とうとして火を放ったのではないかと疑うのも当然のことである。

 しかし、その疑念は声にまではならなかった。アンドラゴラスの剛勇に心寄せる者は多く、11歳の少年に王の責務は重すぎるというのも納得できることだったからだ。

 それから16年。人々の記憶からその頃の記憶も薄れ、アンドラゴラス三世がパルス王であることに疑念を挟む者も消えていった。ただ一人、焼死したと思われていた、27歳に成長した王子を除いて。

 

「わかった。アンドラゴラスの小せがれの捜索は、俺がやる。カーラーンよ、おぬしはバダフシャーンを平定せよ。そこを拠点に、反ルシタニアの旗を揚げる」

 仮面の下で、ヒルメスはわずかに恥じた。カーラーンが自分を棄てて自立するのではないかと疑う心がなかったと言えば嘘になる。その猜疑心を、王として恥じたのである。

「…つきましては、一つ聞き届けていただきたいことがございます」

 カーラーンには息子がいる。ザンデといい、親の目から見てもその剛勇は嘱望に値する。まだ若く少し思慮に欠けるところもあるが、ヒルメスの側近として恥じぬ男と見ている。

 

「王家に対する忠誠心も厚く、きっとお役に立ちましょう。殿下の下で使ってやってはいただけぬでしょうか?」

 ヒルメスは軽く承諾した。ルシタニアの客将である彼には、カーラーン以外に信頼できる腹心などいない。有能な家臣が増えるのは王の喜びとするところであるし、使えなければそれはその時考えればいい。

「………」

 カーラーンが、下げた頭の裏でほっとした表情を見せる。見方を変えれば、これは人質を出したということである。その上でザンデが信頼を得れば、自分も安泰になるはずだ。

 その程度の期待には応えてくれる息子だと、信じていた。

 

 

 その日、エクバターナの街路は、ルシタニアによる包囲が始まって以来の、パルス人による明るい声が響いていた。声の主は、奴隷たちである。

「マルヤムに行くってのは躊躇ったけど、これで俺も自由民(アーザート)だ」

 マルヤムへの入植というのは、前々から説明されていた。それをようやく実現できるようになった。ザーブル城が陥落し、大陸公路の安全が確保されたのだ。

 ただし、不安もある。本当に、ルシタニアは約束を守ってくれるのだろうか。マルヤムまでは遠い。途中で皆殺しにされても、早々には解らない。

 

「パルスはいまだ混迷の中にあり、危険だ。マルヤムであれば、諸君らも安心して農耕に励めるであろう」

 それがルシタニア側の主張である。腑に落ちないが一応は理が通っている。輸送隊には食料、衣類は当然のこと、大量の農具まで積まれているのだから、騙すのなら手が込みすぎているのではないか。

「殺すのなら、ここでやるだろうよ。わざわざどっかに連れて行って俺たちを皆殺しにしたって、何の得にもなりゃしねえ」

 その声が、何とか集団をまとめた。もっともな意見だと納得したわけでなく、やはり奴隷身分からの解放と土地の分配の魅力に抗しきれず不承不承、と言うべきであるが。

 

「………あの、これは何の騒ぎでしょうか」

 その奴隷の行列を眺めていた一人の少女が、近くにいたルシタニアの少年兵に尋ねた。同年代の少年だから話しかけやすいと思ったのだろうが、少女が「あ」と平凡な失敗をした時に出す声を上げた。

 少女はパルス語で話しかけたのである。パルス語は大陸公路の公用語であり、近隣諸国ならパルス語が話せれば意思疎通は何とかなる。だがルシタニアは遠く、パルス語を話せない者も多い。

「ん?……ああ、あれなら、奴隷(ゴラーム)をマルヤムに入植させるらしい。イアルダボート神の慈愛は、奴隷にも及ぶということだな」

 しかし、この少年はパルス語で返してくれた。しかも、なかなか堪能である。

 

「………ふうん」

 少女は探るような目つきをして、路地へと消えていった。少年は日常の一コマとしてそれを片付け、任務の巡回を終えて上官の元に戻った。セイリオスが統治責任者になってからは、もめ事もずいぶん減った。

「戻ったか、エトワールよ。……さて、今日から頑張らなくてはな」

 う、とエトワールが小さな呻きを上げた。上官の名はバルカシオン伯爵といい、60歳に近い老人である。温厚篤実、敬虔なイアルダボート教の信徒で、エトワールの祖父とは身分を越えた友人でもあった。

 エトワールからすれば、もう一人の祖父と思える人だ。もちろん尊敬している。…のだが、その彼が与えられた任務が問題なのである。

 

「異教の書物だろうと、知識と情報は力となる。それが三弟殿下のお考えだ。……まあ、わしとしても、貴重な本が燃やされるのは心が痛むのでな」

 バルカシオン伯はルシタニアで王立図書館長を務めていたことがある。そのため、パルスの王立図書館の管理を命じられたのだ。異教の書とはいえ、本に対する愛着から、この仕事を引き受けた。

 そしてパルス語を知る者は、彼の下でパルス語の書物をルシタニア語に翻訳する作業を命じられたのである。三弟殿下直々の命は名誉なのだが、エトワールにしてみれば「何でこんな事を」である。

(今日からずっと、書物を読み漁るのか)

 パルス語を学んだことを、今日ほど後悔した日はない。盛大なため息をついて、とりあえず割り与えられた書物を手に取った。

 それは、蛇王ザッハークを倒しパルスに平和と安寧をもたらした英雄王、カイ・ホスローの伝記であった。

 




カーラーンの運命が大きく変わりました。


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4.潜入捜査

「成程。……ルシタニアの中にも、知者はいるようだ。エラムよ、ご苦労だった」

 報告を受け、男が唸る。エクバターナが思った以上に安定しており、反故にすると思っていた奴隷の解放までやっているとなると、政略の見直しが必要になりそうだ。

 その報告をしたのは、エトワールと話していた少女であった。しかし外套を脱ぎ、頭に手をやると髪の毛がごっそり取れて短髪になった。少年が、女装していたのである。

 

「もう一つ大きな騒ぎであったのは、カーラーンがバダフシャーン公に冊封されたということです」

 侍童(レータク)のエラムが続ける。それに対しても、男は「む」と唸った。

 カーラーンがバダフシャーンに入ると、パルスは斜めに二分される。カーラーンにはカーラーンの狙いがあるのだろうが、彼が味方になるとは考えられない。

 すなわち、パルス王太子アルスラーンが兵を糾合した際、ルシタニア以外にも気を遣わねばならない勢力が一つ生まれる、ということである。

 

「……カーラーンは、何を考えているのであろうか」

 もう一人の少年が、寂しそうにつぶやく。この少年こそ、パルス王太子のアルスラーンなのである。

 彼の知る限り、カーラーンは高潔な騎士であった。単に、欲にかられただけとは思えない。それは二人の大人も頷いた。彼に従う騎士の、ダリューンとナルサスである。

 アトロパテネの敗戦後、アルスラーンはダリューン一人に護られて戦場を脱した。逃げ込んだ先がすぐ北のバシュル山に隠棲していた、ダリューンの友人のナルサスのところであった。

 その後、バシュル山から王都へ、ルシタニアの侵攻で廃墟となった村を転々としながら向かってきたのだ。おまけに大陸公路はアクターナ軍が進軍中であったから旅路は遅れ、もう11月も暮れになっていた。

 

「………殿下、ここは私とダリューンの二人で、王都に潜入してみましょう」

 街の噂を拾うだけでは、これ以上は判らない。エラムでは、荒事になった時に不安が残る。いや、彼の武芸とて人並み以上ではあるのだが、それは一般兵と一対一なら対応できる、というレベルだ。

 アルスラーンの武芸も似たり寄ったりで、その二人だけを残すというのがナルサスの不安なのだが、今はとにかく情報が欲しい。

 王の行方、王妃の消息、パルスの残存戦力、ルシタニアの動向、カーラーンの真の目的など、知りたいことは数多い。そのためには、危険にも目をつぶるしかない。

「3日で必ず戻ります。戻らぬ時は…、エラム、お前が殿下をお護りして、東方へ逃がせ」

 

 

「こうして直に見ると、負けたことを痛感するな」

 エクバターナを他国民ではなく他国兵が歩いている光景など、想像したこともなかった。しかし、ルシタニア兵がもっと我が物顔で歩いていると思っていたのだが、多くはむしろ戦々恐々と歩いているようだ。

「先日、異教徒を斬ったということで兵が斬首されたらしい。……異教徒の殺害を禁じる布告を出しても、本当に守るとはな」

 その兵は当然「異教徒を殺して何が悪い!!!」と泣き叫んだが、一顧だにしてもらえなかったという。「王家の布告を守らなかったことがお前の罪だ」として、公開処刑された。

 

「……ともあれ、手ごろな獲物を探すとしよう」

 大して苦労することもなく、それは見つかった。裏通りの酒場で飲んだくれていたパルス兵である。今のエクバターナで、兵士の格好をして酒を飲んでいられる奴など、カーラーンの部下以外にありえない。

「…さて、知っていることをすべて話してもらおうか」

 人気のない路地に拉致された挙句ダリューンに剣を突き付けられ、酔いなど一瞬で醒めたらしい。この兵士は自分の命を救うため、ここ一月余りの記憶からあるだけの情報を引き出した。

 

 まず、アンドラゴラス王の行方についてはわからない。ただアトロパテネ会戦でルシタニアが捕虜にしたという話で、その後処刑されたとは聞いていない。死んだのなら、大々的に公表するのではないだろうか。

 王妃タハミーネは、確実に生存。なんでも、ルシタニア国王が一目惚れしたとか。ルシタニア人が「どうにも困ったものだ」と嘆いていたのを知っている。

 それとエクバターナの統治責任者が、少し前にアクターナ公に変更になった。大司教の強硬姿勢から一転し寛容な統治に移行したのは、そのためだろう。

「……では、カーラーンは何を考えている?奴の狙いは、一体何だ?」

「…し、知らねえ。……けど、俺は今後ザンデ様の下で、銀仮面卿という男に附くことになった。何者かはわからねえ。男だろうというくらいしか…」

 二人が顔を見合わせる。『銀仮面卿』。この男が、大きく絡んでいるのは間違いない。

 

「『銀仮面卿』…。ナルサスよ、何者だと思う?」

「さて…。現状では、推測するにも情報が足らぬ」

 しかしザンデが下に附くということは、カーラーンは彼に臣従しているということになってしまう。カーラーンにアンドラゴラス王を棄てさせるほどの何かを、銀仮面卿とやらは持っているということなのか。

「もしかするとカーラーンの裏切りも自発的なものではなく、その銀仮面卿に指示されたからかもしれんな」

 ナルサスの言葉に、ダリューンは思い出していた。アトロパテネ会戦の折である。王太子を探し戦場を駆け回っていたダリューンは、裏切ったカーラーンと出くわした。

「…『事情を知ればおぬしとて、おれの行為をせめはすまい』。奴はそう言った」

 あの時は、頭に血が上っていたこともあるが、単なる苦し紛れの出まかせと思った。だがそれは…。

「何にせよ、まだまだ情報が欲しいところだ。もう少し、探ってみよう」

 

 

「アーレンスよ、そちらの様子はどうだ?」

「巡邏であればいつも通り、喧嘩もめ事が何件か。しかし、重度の傷害、致死に至るものはありません」

 さすがに公開処刑が効いたのであろう。ここ数日、ルシタニア兵による住民殺害の報告はない。警邏を任されたベルトランにとっては、喜ばしいことである。

 ベルトランは34歳。元々、アクターナの下級将校であった。セイリオスの侵攻に降伏し、平伏したその場で将軍に抜擢された。その時の身が震えるような感動は、忘れられるようなものではない。

 アーレンスはその頃からの部下である。誰も考えられぬような強弓を引く彼も、セイリオスはすぐさま抜擢した。それで同格となったが、ベルトランに対しては今でも敬意を忘れていない。

 

「ただ、今日は別の報告があります」

 ベルトランの表情が強張る。この同僚があえて言うとなれば、聞き捨てできない話であるのは間違いない。

「ダリューンとナルサスだと?」

 カーラーンからの情報で、王太子アルスラーンに仕える騎士であることは知っている。その二人によって、ぼこぼこにされた挙句ごみ箱にぶち込まれたというパルス兵がいたのである。

「手配せよ」

 すぐさま副官が立ち去る。二人がエクバターナにいるということは、アルスラーンも一緒に潜入しているか、近郊に潜伏しているかのどちらかだ。アクターナ軍が、動いた。

 

 

 ダリューンは見た。見てしまった。左半分の白い秀麗な顔、右半分の赤黒く焼けただれた無残な顔。それが、一つの顔の輪郭の中に同居していた。

「火傷…?」

 対峙の最中というのに、思わずつぶやいてしまった。銀の仮面の下にあった素顔が、それほど衝撃的だったのだ。

 さらなる情報を得ようと次の獲物を物色していたダリューンは、いきなり銀の仮面をかぶった男に襲われた。『銀仮面卿』。まず間違いなく、その男であろう。

 

 薙ぐ、突く、切り下す。パルス最強の騎士と言われるダリューンを敵にして、ほぼ互角。謎なのは、多分に我流が混じっているものの、底流にあるのは間違いなくパルスの剣術。

「きさまの伯父ヴァフリーズの白髪首を胴から斬り離したのは、このおれだ。きさまも死にざまを伯父にならうか?」

 対峙の中、この言葉がダリューンの怒りを爆発させた。次の一閃は銀仮面卿の予測を超えた速さで、わずかに避けきれなかった。剣先が仮面を切り裂き、弾き飛ばした。

 そして、仮面の下の、見てはならないものを見てしまったのだ。

 

「いたぞ!こっちだ!」

 わずかに訪れた静寂の中、ルシタニア語が響く。言語は判らずとも、状況は理解できる。敵の増援…、と思いきや、銀仮面卿もその声を恐れるように闇に消えた。

「ダリューン!」

 入れ替わりに現れたのはナルサスである。彼もわずかだが、銀仮面卿の素顔を見た。なんとなく、よく知っている誰かの面影があるような気がしたが、火傷の印象が強すぎて、その『誰か』が出てこない。

 間近で見たダリューンも同じように感じたらしい。あの火傷さえなければ、案外たやすく思い出せそうな気もする。

 この時点ではまだ、二人とも銀仮面卿と呼ばれる男の正体に気付けなかった。

「ともあれ、考えるのは後にしよう。脱出するぞ」

 この軍は、やばい。ナルサスは明敏にそれを感じていた。

 

 追撃は、生半可なものではなかった。二人に幸いしたのは、アクターナ軍と言えどいまだエクバターナの路地をすべて把握するなど不可能であったことである。

「それでもしつこい。こいつら、相当の精鋭だぞ」

 アトロパテネの絶望的な戦場でさえ、ダリューンはルシタニア兵を恐れたことはない。パルス兵とルシタニア兵が尋常に立ち会えば、パルス兵が負けるはずない。

 そう信じていた前提が、大きく崩れた。士気、練度、統率度。全てにおいて、この軍はこれまでのルシタニア軍とはまるで違う。

 

「囲まれた。もう、切り抜けるしかないな。ここさえ抜ければ、何とかなるのだが…」

 大路を抑えられた。小路もまもなく制圧される。連携に無駄が一切ない。ナルサスですら、策をめぐらす余裕がなかった。残された手は、自分たちの腕を信じるだけ。

「行くぞ!」

 二人の姿を見るや、盾を並べて道を塞ぐ。敵の得物は槍。こちらは剣のみ。せめて鎧姿ならば、と思う。その包囲網が、不意に崩れた。

 背後から、襲い掛かった男がいた。さらにそちらに気が向いたところを、どこからか飛来した矢が襲う。わずかに生まれた隙に、ダリューンとナルサスが飛び込む。

 

 突破したものの、敵はすぐさま隊伍を整え、追撃に移った。混乱しようとすぐ立ち直る。小隊長クラスの指揮官でさえ、恐るべき練度だということだ。

 だがこちらも二人が加わって、人数は倍。若い男と、若い女。どちらも人並み以上の容姿だが、特に女の美貌は隔絶している。匹敵する者を記憶に探れば、タハミーネ王妃ぐらいしか思い浮かばない。

「私はファランギース、ミスラ神に仕える者。アルスラーン殿下にお力添えしたく参上した。ルシタニア兵の動きから、おぬしたちを名のある騎士と見た。殿下の行方、知ってはおるまいか」

「俺はギーヴ。故あって、ファランギース殿と行動を共にしている」

 しかし、それ以上に、この二人は剣も弓も優れた戦士であった。誕生したばかりの仲間の戦技を確認しあい、どちらも感嘆の声を上げる。

 

 互いの事情を説明し合いながら、ナルサスの先導で走る。後ろから聞いたこともないような矢唸りが聞こえ、全員がとっさに地面を転がった。ダリューンの残像を貫いた矢は、その先にあった樽を軽々と貫いた。

「とんでもない奴までいるな。おいナルサスよ、どうする気だ!?」

 信じられないような弓勢にぞっとした。アーレンスの放った矢であることなど知る由もないが、威力はダリューンの使う強弓をも上回る。

 とにかく、この矢を受けたらひとたまりもない。弓の射線を巧妙に外し、ナルサスが向かったのは、旧ダイラム領主の屋敷である。庭の物置に駆け込み、隅の床板を引っぺがす。

 

「地下の脱出口か。お前、こんなものまで作っていたのか」

「いくら俺でも、たった2年でそこまでできるか。これは先祖が極秘に作ったもので、代々のダイラム領主しか知らん」

 ナルサスは5年前にダイラム領を継承した大貴族であったが、3年前に領地も返上して出奔してしまった。神官や貴族の不正が目に余り、改革案を提出したが容れられなかったのである。

 ダリューンが呆れたように言ったのは、それで逆恨みされたナルサスが命の危険を感じて、自分で掘ったのだと思ったからである。しかしナルサスの言い方からすると、時間があればやったのであろうか。

 

 ともあれ、目くらましには充分すぎる。いずれ発見されるだろうが、今回はありがたく使わせてもらうとしよう。通路の壁は石でしっかり固められており、崩れることはない。

「急げ、こっちだ」

 迷路を抜け、森に出た。しかし、まだ安心できない。捜索の手は、すぐさま近郊まで伸びるだろう。

「殿下が危ない。一刻も早く、合流せねば」

 




ダリューンとナルサス危機一髪。

ちなみに弓の腕は
精度:ファランギース>ギーヴ>メルレイン>アーレンス、ダリューン
威力:アーレンス>ダリューン>他3名
という設定。


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5.王子と王弟

「……そろそろ帰りましょうか」

 暗い顔で、エトワールが頷く。あの少年が嘘をついている可能性は低い。目的の一つは、永遠に果たすことができなくなった。

 3年前、11歳だったエトワールは少年兵としてマルヤム侵攻戦に参加した。その時のルシタニア軍は、援軍として駆け付けたパルス軍によって見事に粉砕され、捕虜となった。

 パルス軍の捕虜となった場合、金があれば身代金を払って釈放、なければ奴隷として売られる、というのが基本である。だがエトワールは、貴族の少年を人質をして、何とか自分だけ脱出に成功した。

(この3年、皆を何とかして助けてやりたいと、そればかり思ってたのに―)

 今朝、偶然その時の貴族の少年と再会した。この少年なら、仲間の行方を知っているのではないか。そう思ったエトワールの勘は当たったが、返ってきた答えは最悪の物であった。

「………あの日、暴れてどうにもならないからと、奴隷商が殺してしまった」

 

 書庫にこもりきりでは息が詰まる。一駆け、外に出ないかと誘われた。まだ朝霧が残る中を、エトワールは女性と馬を駆けさせた。

 連れではない。今はこの人が「主」でエトワールが「従」である。アクターナ公セイリオスの腹心、シルセス卿。翻訳作業の監督者なのだが、普通なら見習いにすぎないエトワールが親しくなれる人ではない。

 では何故一緒かと言うと、『同性』だからである。親しい人以外には隠していたことを、シルセスにはあっさり見抜かれた。

 

 ルシタニアの騎士見習いエトワール、本名はエステル・デ・ラ・ファーノという。騎士の家の生まれであるが、その家には彼女一人しか子がいなかったため、女子でありながら騎士となる道を選んだ。

 その際に、女であることを棄てた。そうしなければならないと、固く信じていたからだ。ところが隣の人は、どこからどう見ても『女性』なのである。エステルが、同性としてまぶしく思うほどの。

 金色の、少し癖のあるミディアムヘア。ルシタニア人としては非常に童顔である。絶世の美女とは程遠いが、整った顔立ちに穏やかな笑顔を絶やさない。柔らかく、温かみのある可愛さという感じは、自分には無い。

「シルセス様?」

 シルセスの顔を盗み見ていると、ぐい、と体を引き寄せられて抱きしめられた。人の温かさを感じる。不意に涙がこぼれてきた。エステルの慟哭が止むまで、抱きしめていてくれた。

 シルセスは22歳。姉がいたとしたら、こういう存在なのであろうか。一人っ子のエステルには、わからない感覚である。ただ、嫌ではない。

 

 帰りの道中、人狩りを行っていたルシタニア軍を見かけた。昨晩、ベルトランとアーレンスが取り逃がした四人と、その主君であるアルスラーン王太子を追っているのだ。

「……まあ、アクターナ軍でないなら、放っておきましょう」

 シルセスは感づいていた。今朝会ったあの少年。エステルの話によれば、少し剣を突き付けただけで追手がたじろいだという。もしかしたら、本物の王太子ではないか、と。

 そしてベルトランとアーレンスの二人は、功を焦ったと言うべきだ。セイリオスはむしろアルスラーンの健在を願っている。ボダン以下、邪魔者の処刑役として。

 

 

「…まずはルトルド侯爵。それにペドラウス伯爵、ゼリコ子爵、クレマンス将軍…。邪魔者は順次東に出陣させる。奴らも羽を伸ばしたがってるだろうし、カーラーンの出陣に触発もされたしな」

 カーラーンは2万足らずの軍勢を率いて、バダフシャーン方面に出撃した。騎兵が5千弱、歩兵が1万数千というところだ。

 彼にしてみれば信念に則ってアンドラゴラスに背いたわけだが、人はそう見ない。しかもそれを大々的に言えないのが辛いところである。

 万騎長として指揮していた1万の騎兵で、彼に従った兵は3千程度。全員が全員、裏切りを了承していたわけではない。アトロパテネで最後まで戦い散った者もいれば、裏切り者には従えないと去った者もいる。

 それに領地の私兵を総動員して、何とか2万の軍を編成した。バダフシャーンを制圧するには寡少な戦力でありながら、成功させねば彼の未来はない。

 

 一方で、ルシタニア内にもカーラーンのバダフシャーン公冊封は大きな波紋を起こした。

「恩賞が不公平ではないか。異教徒の裏切り者にこうも厚く、我らには薄い」

 そういう声を上げる者が多く出た。ただしギスカールに言わせれば、カーラーンのおかげで勝てたのだ。口うるさいだけの貴様らより、厚く恩賞を与えるのは当然ではないか。

「では、侯爵はパルスの北東を好きなだけ切り取られるがよい」

 その中でも最もうるさいルトルド侯爵を、ギスカールはそう言って放り捨てた。示した土地はダイラムといい、かつてナルサスが領していた地である。彼が返上してから後は、王室の直轄地になっている。

 あとはもう、成功しようと失敗しようと知ったことではない。反旗を翻すなら、この弟に命じて叩き潰すだけだ。

 

「それは結構。しかし、手勢だけで喜び勇んで出陣するのは、自信過剰なのか、アトロパテネの大勝で敵を侮っているのか、はたまた単純に馬鹿なのか…」

「おそらく全部だな」

 ギスカールにあっさり返され、セイリオスは小さく笑う。アトロパテネでは完璧な罠に陥れながら、ルシタニア軍も5万を超える兵を失った。まともに戦っていれば、とても勝てる相手ではなかった。

「ルシタニア軍にも改革が必要です。…せめて、アクターナ軍と協調できるくらいには」

 ルシタニアという国は王制であるが、実際は諸侯の寄り合い所帯でしかない。諸侯が勝手に編成した軍がばらばらに戦っている、と言うのが実態なのだ。

 

「王室直轄の中央軍を整備するべきでしょう。それを核に、諸侯の軍が連動する。ひとまず、軍の再編を行いましょうか」

 ルシタニアを出発した時40万だった軍は、今では30万余に減った。戦死した諸侯も多い。指揮官を失った兵は、ひとまとめにされただけで戦力として機能してない。

「しばらくはアクターナ軍と一緒に訓練します。そのうち、指揮官も見つかるでしょう」

 兵士たちにとっては災難だな、とギスカールは思う。アクターナ軍の訓練は、生半可なものではない。ただし、育ち切れば精鋭が出来上がる。これからの統治にも、それは喉から手が出るほど欲しい。

 ただ、ギスカールが本当に欲しいのは『王室直轄』ではなく『自分直轄』の精鋭である。しかし、それを口に出せば、弟を敵に回しかねない。

 ギスカールは気付いている。ルシタニアという国にいまだ愛情を残す弟と、愛想が尽きたという諦念の中にいる自分。差は、そこなのだと。

 

「……話は変わるが、アルスラーンの追討には消極的なようだな」

 セイリオスは、改めてアクターナ軍にエクバターナ城内の警備を命じ、城外の捜索には出さなかった。ボダン派の諸将と噛み合わせるつもりなのは判るが、少々楽観的すぎないだろうか。

「パルスの残存戦力を集めれば、10万にはなる。諸侯の兵まで動員すれば、もう10万や15万を動員するのも難しくないだろう。アルスラーンがそれだけの力を持った場合、どうするのか」

「聞くところによれば、アルスラーンとアンドラゴラスの仲は極めて冷淡とのこと。アンドラゴラスを釈放し送り返せば、指揮権を巡って争いが起きます」

 聞いていてギスカールは不審に思う。争いが起きたとして、アンドラゴラスが勝ったらどうするのか。アトロパテネまでは、『不敗の王』として大陸公路に君臨していた猛将である。

「……私としては、アンドラゴラスより未知数のアルスラーンの方を恐れます。同程度の兵力で、私が整備した軍を率い、敵の指揮官がアンドラゴラスなら、まず勝てます」

 事もなく言う弟に、ギスカールはアンドラゴラスが軍を率いて向かってくる想像以上の恐怖を覚えた。

 

 

「ダリューン、ナルサス!!!」

「殿下、ご無事でしたか」

 どちらも、ほっとした声を上げる。次の合流地点として決めていた村で、アルスラーン一行は無事落ち合ったのである。

「エラム、よくやった」

 シルセス、エステルの二人に出会った後、エラムは即座に移動を決めた。その判断は正しく、ダリューンたちが戻る前にルシタニアの捜索隊がやってきた。

 一方、ダリューンたち4人は抜け道から脱出した後、遠回りを余儀なくされ、予定より遅れてしまった。元の隠れ家は捜索の手が入った後で、しかし争った形跡はないことから、無事を信じてここまで来たのだ。

 

「我が名はファランギース。フゼスターンのミスラ神の神殿に仕えていた者でございます。先代の女神官(カーヒーナ)長の遺言により、参上いたしました」

「我が名はギーヴ。王都エクバターナより殿下にお仕えするために脱出し、行方を捜しておりました」

 ファランギースの言葉は真実であるが、ギーヴのそれは嘘である。彼はたまたまエクバターナに居たところ、包囲戦に巻き込まれたというだけだ。

(少しばかり弓の腕を披露した結果、こんなことになるとはな)

 自分自身に毒づく。自由気ままに生きてきたのが、こんな子供に仕えることになってしまった。

 まあ愛しのファランギース殿のそばにいる代価と考えよう。それにルシタニア人を剣先にかける大義名分も手に入る。エクバターナ陥落のどさくさに紛れて財宝はたっぷりせしめたから、嫌になれば逃げだすだけだ。

 

「………」

 内心でそう結論付けたギーヴを、ダリューンは疑うように見ていた。確かに腕は立つ。だが、果たして信用していい者なのか。

「そう構えずともいいだろう。少なくとも、ルシタニアに内通しているという可能性は低い」

 ギーヴが内通者なら、今頃この家も踏み込まれているはずだ。神官であるファランギースが精霊(ジン)の声を聴き、「ルシタニアを憎む心に限っては偽りはない」と断言もした。

 であれば、とりあえずは心配しなくていい。悪意を持って殿下に近づいてきたわけでないのなら、人は一人でも多い方がいい。

 

「……さて、これからどうするかだが」

 内偵の結果から、王妃タハミーネの生存は明らかになった。おそらくエクバターナの宮中に軟禁されているのだろう。アルスラーンとしては母の救出を第一に考えたいのであるが、残る全員の反対にあった。

 王妃救出を第一とするとなると、戦術上の幅は大きく狭まる。今回のことで、エクバターナの警戒もさらに増したことであろう。その上、警戒に当たっているのはあの精鋭部隊だ。

 

「諸国を巡っているときに、噂で聞いた。ルシタニアのアクターナ公の軍は、精強無比だと」

 ギーヴと同じ噂を、ナルサスも聞いたことがある。しかし、想像をはるかに超えていた。パルス軍を結集させればルシタニアなどたやすく叩き返せると思っていたのは、少々傲慢であったか。

 とにかく、今エクバターナに乗り込んでタハミーネ王妃を救い出そうというのは、勇敢ではなく無謀と評するべきである。

「ルシタニア国王が御母上と結婚を望んだところで、おいそれと周囲が認めるはずもございません。近々にどうという事態は起こらぬと存じます」

 ファランギースの言葉に、ナルサスとダリューンも同意する。むしろ、ひとまず王妃の安全は確保されていると考えよう。助け出す機会は、この先にきっとある。

 

「……うん、そうだな。…うん」

 内心の葛藤を沈めるように、大きく息を吐いてアルスラーンは言った。一国の王としての度量と責任が、個人の義務より優先する。14歳の少年に酷なことであるが、それができなければ王たる資格はない。

 さて、いずれにしろ喫緊の問題は、アルスラーン一行がたった6人しかいないことである。これでは作戦など立てようもない。とにかく、味方を増やすことだ。

「完全な正義というものを、地上に布くのは無理でしょう。ですが、条理にあわぬことを無くすことはできなくとも、減らすことはできるはずです」

 今までのパルスや、今のルシタニアによる政治より良い政治。それを示すことが王者の役割である。味方を増やすには、まず、アルスラーンが将来そうすることを、パルスの人民に知らしめることだ。

 しかし、ナルサスの意見は本質を突いたものであったが、アルスラーンの期待したものではなかった。彼はもっと直接的にどうするべきか、という策を聞きたかったのだ。

「王者たる者は、策略や武勇を誇るべきではありません。それは臣下たる者の役目です。まず殿下の目指されるものを明らかになさいませ。それが叶うよう、我らは協力させていただきますから」

 アルスラーンは自らを恥じた。答えをナルサスに求めるだけでは、自分の存在など必要ない。自分はまだまだ未熟だ。それはいい。だが、「未熟である」という言い訳に安住してしまうのは、許されない。

 

 では、自分はどうすればいいのか。アルスラーンは考える。解っていることは、このまま放っておけば、いずれパルスは他国に分け取りにされるしかない、ということである。

 西からルシタニア、東からはトゥラーン、チュルク、シンドゥラの各国が版図を広げ、残されたパルス勢は各個撃破される。パルスの民は、征服された第二級の市民として生きることを余儀なくされるだろう。

 そうなる前に、パルスの残存戦力を結集させ、国土を回復する。その旗印になれるのは、国王が行方不明、王妃が捕虜となっている現状、王太子である自分しかいない。

「であれば、必要となるのは拠点となる城と核となる戦力でしょう。近隣の諸侯の助力を仰ぎ、そこを拠点に各地に檄文を発するのです」

 この近くで有力な諸侯というと、まずニームルーズ山中にあるカシャーン城塞の、ホディール卿である。彼の人となりを熟知している者はいなかった。悪い噂は聞かず、領地はそれなりに治まっているらしいが…。

 しかし、ここにいる6人の誰も知らないことだった。この時、そのカシャーン城に向けて、アクターナ軍が進発していたのである。

 




ルシタニアの変革を進めるセイリオスと、パルスの回復を志すアルスラーン。
そしてその陰でギスカールがだいぶ丸くなってます。

なお、アルスラーンとエステルの関係は漫画版より。


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6.マンジケルト盆地の戦い

「………」

 相も変わらず、とんでもない奴だと思う。ボダンにわずかながら同情してしまった自分を、ギスカールは楽しんでいた。

「今後のことを考えると、軍資金に不安があります。パルス軍の強さも測っておきたいので、出陣の許可をいただきたい」

 セイリオスが、いきなりそう言ってきた。軍資金については、ギスカールも気にしていた。端的に言って金がかかりすぎている。奴隷のマルヤム入植、軍の整備に恩賞、街道の修復、各地城塞の補修etc.etc.……。

 それでも、パルスの宝物庫にあった財すべてを使えるのなら、大した問題ではなかった。しかし、エクバターナの陥落時に、兄が大半を教会の管轄として認めてしまったのである。

 

 宗教に金が集まるというのは、どこの国、いつの時代でも変わらない。パルスでさえ、高位の神官は庶民からかけ離れた贅沢な日々を送っていたのだ。

 ルシタニアになると、もっと酷い。これは多神教と一神教の差もあるが、いい事があればイアルダボート神の恩寵と考えるような国である。多大な返礼が集まる一方で、税金は免除。貯まる一方なのは明白だ。

「ボダンに唯一褒めるところがあるとすれば、その金を私しないことだ」

 ボダン大司教にとって、教会の金はあくまでも教会の物なのである。例えば、教会の新設に使うのは当然。内装を豪華にするのもかまわない。聖職者が絢爛な衣装を身に纏うのも、それは神の威光を示すため。

 だが、人の快楽のために使うのは許さない。賄賂などもってのほかである。一見ただの吝嗇に見えるが、底流にあるのは神に対する純粋な信仰なのだ。その点は、立派だと思う。

 そのボダンから、セイリオスはあっさりと財宝全てをかっぱらってしまったのである。

 

「異教徒の討伐のため、軍資金が必要である。イアルダボート神も了承したことであり、であれば大司教は率先して差し出すべきであろう」

 教会管轄としていた財宝をいきなり運び出そうとしたセイリオスに、ボダン大司教が怒り狂ったのは言うまでもない。その大司教に対し、しれっと言い切った。

「先ほど、『我が行いが御心にかなわぬ時は、今すぐこの身を雷にて焼き払いたまえ』と祈りを捧げたが、何事もなかった」

 この日、空は快晴。万に一つも雷など落ちるはずもない。しかしそれさえも「そうでなければ天罰か偶然か判らぬではないか」と論理の補強に使われる始末である。

 

 神の名によって行為を正当化するのはボダンの十八番(本人は「正当化してる」という自覚はないが)だが、それを見事にセイリオスに取られてしまった。話を聞いて、ギスカールは思わず噴き出した。

(なるほど、そういうやり方があるのか)

 ありえないことを罰として願う。当然、何も起きない。イアルダボート神は全知全能なのだから、どんなありえない事だろうができないはずがない。何もないとなれば、すなわち了承してくれたということになる。

 ボダンにできたことは、歯ぎしりして悔しがることだけだった。セイリオスの言葉が詭弁に過ぎないことは、ボダンとて理解できる。だが、彼にもう一度試すことは許されない。神を疑うことになるからだ。

 運び出した財宝の大半をギスカールに預けたセイリオスは、南の方に出撃していった。狙いはギランの港街。エクバターナに次いで財貨の集まる、パルス最大の貿易港である。

 その道中に、カシャーンの城塞はある。

 

 

「殿下!アルスラーン殿下!!!よくぞご無事で……」

 やや肥満気味の男が、恭しくアルスラーンの手を取る。カシャーン城塞の主、ホディール卿である。

「アトロパテネの敗北を知りましてより、国王(シャーオ)陛下と王太子殿下の安否を気遣っておりました。ですが、私一人の力を以ってしては、ルシタニアの大軍に復讐戦を挑む術もなく、ただ心を痛めるだけでございました」

 パルスの貴族で、領地と私兵を持つ者を「諸侯(シャフルダーラーン)」と呼ぶ。パルス全土でも100人程度しか存在しない、身分としては王族に次ぐ大貴族である。

 

「…自らの無力を歯がゆく思っておりましたところ、今日、ダリューン殿が我が居城に見えられ、私めに、殿下への忠誠を示す機会をくれたのでござる」

 その中でも、ホディールは有力な貴族であろう。彼の抱える私兵は、騎兵3千と歩兵3万5千。これだけの兵力を動員できる諸侯は、そうそういない。

 なお、パルスの全人口はおよそ2000万、そのうち奴隷が500万ほどである。王室直轄の国軍は騎兵12万5千、歩兵30万と言われていた。それに諸侯の兵力を総動員すれば、優に100万を超える兵を集められた。

 もちろん、現在の混乱の中では、それは絵空事だ。それにアルスラーンは、歩兵を構成する奴隷の解放を考えている。檄文を飛ばして集まる現実的な数字は、多くても15万程度とナルサスは見ている。

 

「よく喋る男じゃ。舌に油でも塗っているのであろう。それも、あまり質の良い油とも思えぬな」

 ホディールに対する、ファランギースの論評は辛辣である。それに、ギーヴが頷く。二人とも、ホディールに対してあまり良い印象を抱かなかったようだ。

「まあ、しかし、善人だろうと悪人だろうと、それで葡萄酒(ナビード)の味が変わるものでもない」

 こう厚かましいことを平然と言えるのは、ギーヴという男ならではである。王太子をもてなすとなれば、当然ながら酒も最上の物が用意される。それを楽しまぬのは、酒に対して失礼だ。

 過剰なまでの料理と酒が振舞われた歓迎の祝宴を、ギーヴは大いに楽しんだ。

 

「さて、これからだが…」

 祝宴が終わり、用意された部屋に入るなり、ナルサスが切り出した。ホディールの魂胆はあからさますぎた。彼は祝宴の最中、自分の娘を王太子に売り込んだのだ。

「どうやらアンドラゴラス王がご生存、とは知らないようだ。ホディールの狙いは、娘を新王の妃とし、外戚として権勢をふるうことらしいな」

 アルスラーンはまだ14歳。即位しても、後見役が必要な歳である。舅という立場は、それに就く第一候補となるであろう。立ち回り次第では、影の王として君臨することができる。

 

「もう一つが、王太子と我らを纏めてルシタニアに売り飛ばし、恩賞を得るという道だ」

 どちらが得か、心の中で秤が揺れ動いている、というのがホディールの現状だ。一応、今のところは王太子擁立に傾いているようだが、どちらにしても邪魔なのは、王太子の腹心である自分たちになる。

「おそらく、今晩にも動くだろう。油断はできないな」

 しかし、ナルサスの予見は、珍しく外れた。いや、ホディールにその気はあったのである。それどころではない事態が勃発したので、やむなく延期したところ、機を失っただけであった。

 

「ルシタニア軍がこちらに向かっているだと?」

 驚愕したホディールであったが、兵力3万足らず、別の部隊は見当たらないと聞いて落ち着きを取り戻した。彼の私兵は3万8千。勝負になるどころか、それなら勝てると踏んだ。

「全軍で出撃し、そのルシタニア軍を叩き潰して見せよう」

 敵の兵力はこちらより寡少なのだから、籠城など必要ない。それに援軍を頼んで敵を打ち破ったら、自分の功績が小さくなってしまう。

 ここで華々しく功を立てれば、アルスラーンの心は大きく傾く。そうなればダリューンやナルサスといった邪魔者を排除するのは、易々たることになる。

(まるで、私のためにやってきてくれたようなものだ)

 ほくそ笑んだホディールは、知らない。敵がルシタニア軍最強の、アクターナ軍である、ということなど。

 

 

 ルシタニアの旗は、赤地の中央に二本の短い横線と一本の長い縦線を組み合わせた紋章があるという、極めてシンプルな意匠である。イアルダボートの神旗は、地の色が黒になる。

 しかし、ホディールが見た軍は、深緑に紋章という旗だった。その軍と、ニームルーズ山脈の只中にあるマンジケルト盆地で向かい合った。

「敵は兵法を知らぬようですな。ニームルーズの山中で大軍の展開に適した、このマンジケルト盆地にのこのことやってくるなど。戦力で勝る我が軍の勝利、疑いなしです」

 傍らのアルスラーンに語り掛ける。ダリューンやナルサスも、後方のこの本陣にいる。彼らに功を立てられては困るからだ。殿下の護衛を名目として置いているだけで、あとは無視している。

 敵勢は騎兵5千の歩兵2万という報告が入った。騎兵5千は少々厄介かもしれないが、所詮ルシタニア兵だ。パルスの騎馬隊の敵ではない。

「殿下、我が軍の強さ、とくとご覧あれ」

 敵が一歩動いた。ホディールは負けるなど、微塵も思ってない。しかし、その一歩で、ダリューンやナルサスは表情を変えた。

 

「敵軍、中央先鋒に騎兵3千、続き歩兵3万5千」

 セイリオスの元に報告が入る。敵軍の狙いは見え透いている。騎兵隊の突撃による、中央突破。パルスの基本戦法であり、アトロパテネ会戦までパルス騎兵は、無敵の名を欲しいままにしていた。

「中央、ルキア前進」

 騎兵2千5百のルキア隊が、一歩前進。釣られて敵騎兵3千が駆け始めた。200ガズ(200メートル)ほど前進したところで、斜めに方向を変える。ホディールの騎兵3千とぶつかると見せかけて、正面を開けた。

 

「…?」

 3千騎を率いる隊長は、明らかに迷った。このまま歩兵に突っ込むべきか。だが背後から襲われる。敵の騎馬隊を追うか。だが役目は敵歩兵を切り崩すことだ。

 次の瞬間、ルキアの騎兵隊が急激に方向を変え、側面から突っ込んできた。楔のような陣形で、鋭利な刃物で断ち切られるように騎馬隊が分断された。

 何が起きたか、把握する暇もない。馬の脚が完全に止まった。正面からは敵歩兵が槍衾を並べて押し込んでくる。こうなってしまえば、騎兵は騎兵としての役を果たさない。馬に乗った歩兵でしかない。

 

「歩兵を進ませろ!何をやっている!!!」

 騎馬隊、苦戦。その報告にホディールの怒号が飛ぶ。その様子を見て、ナルサスはダリューンに囁いた。

「……殿下から離れるなよ」

 わかっている、とダリューンも頷く。この戦は負ける。敵が一歩進んだ時点で、そう予感した。放つ気とでもいうべきか、それがまるで違う。

「アクターナ軍か?」

 だろうな、と今度はナルサスが頷く。というより、こんな精鋭がごろごろいてたまるものか。案の定、歩兵の押し合いも劣勢だ。そして敵はまだ切り札を残している…。

「騎兵の残り半数が、本陣目指して突撃してくるぞ」

 

「突撃!!!」

 セイリオスが佩剣を抜く。天に向かって突き立て、正面に振り下ろす。先頭のクラッドが、待ってましたと言わんばかりに駆け始める。

 敵の左翼。斜め前方から、陣が緩んだところにクラッドが躍り込む。彼の武器は、大剣。それを、軽々と振り回す。切断できずとも、その打撃力だけで相手を戦闘不能に追い込む。

「アクターナ軍、急先鋒のクラッドだ!死にたくなければ道を開けろ!!!」

 その剛勇が作った亀裂に、2千5百の騎兵が雪崩れ込む。あっという間に亀裂が伸びる。引くなと声を嗄らす敵武将を、クラッドは駆け抜け様に切り落とした。

 

「わっ!!」

 司令官の死で、左翼が浮足立つ。そこに歩兵隊が一気呵成と攻めかかり、あっという間に崩壊した。クラッドは勢いを緩めず、本陣へと駆ける。その姿が遠目に見え、ホディールは脂汗を流した。

「……な、なぜ?」

 左翼の崩壊が、中央に波及した。後退が潰走になるのは時間の問題だ。負ける。それは理解できた。だが何故なのか。相手はたかがルシタニア軍ではなかったのか。

 とにかくここは逃げるべきだ。恐怖にかられたホディールは本陣を守る兵に後退を命じた。それが引き金となり、全軍が潰走に移った。

 もはやこうなると、立て直すすべはない。誰もが城に逃げ帰る事しか考えなくなってしまう。

 一足先に逃げたホディールだが、彼を守るはずの本陣は騎馬隊の一撃で砕け散った。乱戦となったところで馬を捨てて歩兵の中に紛れ込んだが、ルキアの騎馬隊に蹂躙され、その剣で首を刎ね飛ばされた。

 パルスの影の支配者を目指した男の野心は、好機を掴めずに終焉を迎えた。絢爛豪華な鎧が目印となり、逃げ延びることはかなわなかったのである。

 

 

 『マンジケルト盆地の戦い』は、規模としてはパルスの一領主とルシタニアの一部隊の戦いに過ぎない。アトロパテネからすれば格段に小さな戦いである。

 だが意義は大きかった。パルス軍が、正面衝突、しかも数で劣る敵に完敗したのだ。

「…あれが、アクターナ軍か」

 アルスラーンが、青い顔で荒い息をつく。手の震えが止まらない。ダリューンが有無を言わさず馬の手綱を取り、全力で駆けさせた。その判断がなければ、皆討たれていただろう。

 

 カシャーン城から外れた岩場に逃げ込んで、ようやく自分を取り戻した。ダリューン、ナルサス、エラム、ファランギースの姿が見える。ギーヴは偵察に出ていった。彼の部下たちは、皆無事だったようである。

「……強すぎる」

 ナルサスが、ぼそりと呟く。ホディールの軍は精鋭を集めたパルス国軍には及ばないにしろ、決して弱兵ではなかった。パルス軍の名を辱めぬ実力はあった。アクターナ軍は、それを容易く叩き潰した。

「奴ら、カシャーン城に向かったようだな」

 ギーヴが戻ってきた。ということは、アルスラーンがここにいたと知らなかったということになる。一安心とは言えるが、ゆっくりしている暇はない。

 

「……殿下を追ってきたのではないなら、狙いはギランの港町だろう」

 南に逃げることは危険になった。ギランには、わずか1万足らずの守兵がいるだけだ。海上商人たちが多くの私兵を抱えているものの、その協力を取り付けて編成し直す暇はない。

 アクターナ軍に対抗するためには、こちらも充分な訓練を積んだ精強な軍が必要だ。それがあるのは、一か所しかない。

「……ここはやはり、現時点で最大の兵力があり、信頼できる人物のいるところ―。万騎長キシュワードのいるペシャワール城を目指す」

 




その強さ、比べるもの無し。


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7.第一次オクサス攻防戦

 総司令官を失ったカシャーン城は、組織的な抵抗などできず陥落した。逃げ込む敗兵とアクターナ軍が纏めて駆け込んできたのだ。

 仲間を見捨てて城門を閉じる、という冷酷な決断は、誰もできなかった。最終決定者がいないのだから、誰かがそう主張しても別の誰かの反対で立ち消えになる。迷っているうちに、制圧されていた。

『秋毫も犯す無し』

 アクターナ軍の軍紀は絶対である。武器を捨て抵抗しなければ、死ぬことはない。一晩明けるとカシャーンの住人たちの中には戸を開けて、疑いながらも日常を再開する者も現れた。

 

 小さな事件が起きた。

「ホディール様の仇!!!」

 奴隷の少年が、馬上のセイリオスに向かって石を投げつけたのである。ホディールは身の程知らずの強欲な野心家ではあったが、奴隷に対しては公正で、意外に慕われていたのである。

 無論、子供の投石などを受けるセイリオスではない。ぱしっと受け止め、じろりとその子を睨んだ。慌てて駆け寄ってきたのは姉であろう、少し年上の少女が、涙ながらに詫びと命乞いをする。

 

「名を名乗れ」

「……ルクールだ!ご主人様を奪いやがって!」

 精一杯の虚勢を張り、少年が答える。姉が口を押えようとするが、もう遅い。しかし、その少年に対しセイリオスは奇妙なことを言った。

「ならば、ホディールに替わり、今から私が貴様の主人となろう」

 ルクールは呆然として、セイリオスの馬が進むのを見送った。馬が3歩ほど進んだところで、「付いて来ないのか」と聞かれ、慌てて駆けだす。

 のちに彼は語る。どうして付いていこうと思ったのか、まったくわからない、と。ただ、ホディールの敵を討とうという気は、きれいさっぱり無くなっていた。

 

自由民(アーザート)に対しては、改宗を強制するな。奴隷は以前と変わらぬように扱え。そして希望者を募り、マルヤムへ連れて行く」

 イアルダボート教など、信じたい者だけが信じればいい。セイリオスの考え方はそうなのである。パルスは初代カイ・ホスロー王より300年もイアルダボート教なしで、あれだけの繁栄を謳歌してきたではないか。

 宗教は国民に精神的なつながりをもたらし、それが繁栄に結び付くことはあるかもしれないが、決して必須のものではない。

 ましてや、その宗教がイアルダボート教でなければならないなどということは、絶対にない。死後のことなど、死んでからでなければわからないことなのだから、知ったことか。

 

 城に残されたホディールの妻と娘は、捕虜になった。セイリオスは一室に軟禁しただけで、特にどうしようともしなかった。

 普通であれば、征服者の好色の対象となることも多いが、セイリオスはその手の欲望が薄い。もっとも、13歳の少女とその母親だ。単に、歳が合わないということもある。

 3日後、予定通り後発のルシタニア軍が到着した。率いる将軍はパテルヌスと言い、先日の再編でセイリオスが抜擢した将軍である。

 持たせた兵力は1万。調練を行いながらこのカシャーン城一帯を守備せよというのが、彼の指揮官としての初任務となる。

 

「卿にはこの城を治めてもらうが、何事もこの者たちと図るように」

 パテルヌスの立場は城主でなく、城代に過ぎない。それゆえセイリオスから「こうしろ」と言われれば従わざるを得ないのだが、今度の命令ばかりは内心の不満から即答を躊躇った。

 なにしろ、引き合わされたのはホディールの臣下だった文官たちである。降伏した敵国人を使うという発想は、普通のルシタニア人にはない。

「パルスの統治の方法を最もよく知っているのは、パルス人である。……不満というのであれば、この城には我が麾下を残し、卿には次の戦いで先陣を務めてもらおうか」

 パテルヌスが慌てて承諾する。先陣を務めるのはともかく、この王弟の不興を買うのは得策ではなかった。せっかく抜擢された将軍の位を、棒に振ることになってしまう。

 当然ながら、略奪などすれば帰り道で斬首されることであろう。今はとにかく、この王弟の意に沿うようにこの城を治めるべきだ。パテルヌスは、そう計算できないほど愚かな男ではなかった。

 

 パテルヌスをカシャーン城に残したセイリオスは、すぐさま次の目標に向かった。ギランの港町はオクサス河の河口にある。上流のオクサス地方を制圧するのは、当然のことだ。

 オクサスの領主の名はムンズィルというが、老齢で多病であった。よって、息子ザラーヴァントが代わって全軍の指揮を執っている。

「野戦は、捨てたか」

 ホディールの敗死は聞いたのだろう。迷うことなく籠城を選んだザラーヴァントを、セイリオスは褒めた。水と食料さえあれば、少なくとも半年は耐えられる。

 籠城戦というのは、敵に長期包囲できない理由があるか、強力な援軍がある場合に有効な選択肢である。セイリオスにはここで何か月も包囲戦に費やす時間はなく、東のペシャワール城という援軍の当てもある。

 

「さて、さて…」

 攻囲は半月になろうとしている。城兵の士気は高く、力攻めでは犠牲を出すだけだ。思わぬ足止めを食らった形だが、セイリオスは楽しそうだった。

 ザラーヴァントは20代の前半と聞いた。同年代と言っていい。それが、強敵として立ち塞がるという状況は、心躍るものがある。

 ただ、ザラーヴァントは強敵ではあるが、自分の全てを賭けて戦うような存在としては力不足だ。セイリオスは心のどこかで、そういう存在の出現を望んでいた。

 

 さて、何はともあれ、このままずるずると城を包囲していることはできない。シルセスを呼んだ。そろそろ、彼女の仕掛けが実を結ぶころだ。

「領主の甥に、ナーマルドという男がいます」

 ムンズィルには兄がいた。事故死したため、次男が跡を継いだ。その事故がなければ父が領主となったはずで、であれば当然、この地の正統な後継者は俺である。そう思い、不満を溜めている。

「……評判は、いたって悪いとのことですが」

 領主の甥というだけで何の取柄もないくせに自意識だけが肥大した、救いようのない馬鹿である。良くないことだとは判っているが、ムンズィルの兄が事故で亡くなってくれたことが喜ばれるほどだ。

 

「オクサスの領主として認めてくれるなら、内応する、と」

 セイリオスはため息をついた。そんな馬鹿を認めるなど、まったくもって気が進まない。むしろザラーヴァントが降伏してくれれば、と思う。彼なら、アクターナ軍に迎え入れてもいい。

 とはいえ、オクサスがそう簡単に落ちるとも思えない。ザラーヴァントが降伏するなどもっとあり得ない。内応もナーマルド以外は切り崩せなかった。

「………仕方ない。認めるだけは認めてやろう」

 どうせ、すぐぼろを出すに決まっていた。その時誅殺すればいい。城に籠って反旗を翻したとしても、オクサスの領民がナーマルドの元で一丸となって戦うなどありえない。次は、すぐ落とせる。

 

 その夜、時ならぬ騒ぎに、ザラーヴァントは跳ね起きた。外ではない。音は城内から聞こえてくる。

「敵だ!城内に潜入しているぞ!!!」

 その叫びで、状況を理解した。内通。城外に通じる秘密の抜け道の存在を、誰かが漏らしたのだ。そして、抜け道のことを知り、かつ裏切る人物など、一人しかいなかった。

「ナーマルド…」

 愚かな奴と、怒るより失望した。父はナーマルドに、息子と同じ愛情を与えていたと思う。叱ったことは数知れず、時には牢に放り込んだりもしたが、父は決して縁を切ろうとはしなかった。

 むしろ陰では、彼のしでかした不始末の尻拭いばかりしていた。いつか自分の過ちに気付き、正道に戻ってくれる日が来る。父はずっと、そう願っていた。

 その父の愛情は、ついに従弟に通じなかった。

 

「ザラーヴァントよ」

 病身を無理におして、父のムンズィルが現れた。逃げろと言う。オクサスの陥落は必至である。ここは恥を忍んで逃げ延び、王太子の元に行き、雪辱を果たせ、と。

「アルスラーン殿下はきっとペシャワール城へ向かったに違いない。急ぐのだ」

 それが、この場で最上の判断であることは理解できる。しかし、父はどうするのか。病躯でペシャワールまでたどり着くなど、できそうもない。

「わしのことなら気にするな。なに、ひと時ルシタニアに膝を屈してでも、生き延びて見せる。……わしの心はお前が知っている。それだけでいい」

 嘘だ、というのはすぐ分かった。この父が、ルシタニアに降伏するなどできるはずがない。だがそれを言ってもどうにもならない。

「父上、ご健勝で」

 これが、今生の別れだ。そう確信したザラーヴァントは、振り向かず地下通路に姿を消した。

 

 城内に入り込んだ敵の手により、城門が開けられた。制圧までは、もう時間の問題に過ぎない。

「ナーマルドよ…」

 そう言いながら思い浮かべるのは、兄のケルマインであった。兄が自分の婚約者を奪いさえしなければ、運命はどうなっていたか。

 ムンズィルはかつての婚約者を愛していた。兄に奪われても愛していた。彼女が死んでも愛していた。だからナーマルドを、自分の手で立派に育てようと思ったのだ。あの兄ではなく、自分の手で。

「………火を放て。地下にも油を流し、全てを焼き払うのだ」

 ムンズィルは火の中で自害した。のちにアクターナ軍の調査で判明したが、地下に幽閉されていた男がいた。死体は焼け焦げ、身元は分からなかったが…。

 

 

 オクサスの陥落を最も喜んだのが、ナーマルドであったことは言うまでもない。彼が真っ先にやったことは宝物庫を押さえることで、次が以前から目をつけていた侍女を寝室に連れ込むことだった。

「………………ここまで馬鹿だとは、さすがに予想外でした」

 皆の前で、シルセスが頭を下げた。今は欲望を自制し、住民を慰撫する時である。ルシタニアに内通した裏切り者ということで、彼の名声はどん底にある。このままでは、領民に殺されるかもしれないのだ。

 ナーマルドは、その程度のことすら理解していない。シルセス以外の幹部たちも、自分たちの『当然』からかけ離れた馬鹿っぷりに呆れ果てたというところだ。

 

「殿下、あんな者、さっさと斬ってしまいましょう」

 グリモアルドの意見に皆が頷く。軍紀の厳しさで並ぶ物のないアクターナ軍の中でも、彼は輪をかけて厳しい。ナーマルドなど、許すことのできぬ愚物であろう。

「行け」

 セイリオスは短く命じた。グリモアルドはすぐさま手勢を率いて宮殿に乗り込み、そこを制圧した。誰もナーマルドを助けようとなどしなかった。グリモアルドに積極的に協力しようとする者がいたほどだ。

 

 しかし、ナーマルドの身柄を捕らえることはできなかった。遠くの騒ぎを聞きつけただけで、地下の隠し通路から逃走したらしい。臆病で姑息なのだろうが、今回に限ってはまともな判断をしたと言える。

「逃がしたか」

 あのような馬鹿を取り逃がしたことに、グリモアルドが悔しがる。代わりではないが、ナーマルドの部下であった男たちが続々と引き据えられてきた。躊躇うことなく、全員の首を刎ねる。

 そこまで終わって、布告を出した。ナーマルドの悪行とそれに対する誅罰と発表され、騒ぎはひとまず収まった。

 

 余計な手間は生じたもののオクサスを制圧した以上、ギランの港へはオクサス河沿いに南下していけばいい。河はのちに水上の輸送路にもなる。

 しかし、その号令を出そうとしたところで、エクバターナから急使が来た。

「……撤退せざるをえないか」

 エクバターナにて、大事勃発。ギスカールの急報に、しかしセイリオスは楽しそうである。大事ではあるが、彼の待ち望んでいたことが来たのだ。

 




猛威を振るうアクターナ軍。

現状での軍の質は
アクターナ軍>パルス国軍 …歩兵の差
パルス国軍≧トゥラーン軍 …組織力のため
トゥラーン軍>パルス諸侯軍 …諸侯軍は国軍より質で劣る
パルス諸侯軍>ルシタニア、チュルク軍 …それでもパルス軍は他国軍より強い
ルシタニア軍>シンドゥラ、ミスル軍 …シンドゥラは大軍であるが質が悪い、ミスルは指揮官がいまいちというイメージ
シンドゥラ、ミスル軍>マルヤム軍 …マルヤムはパルスとの同盟に胡坐をかいて最弱というイメージしかない

という想定。ミスルがちょっと酷いかな?


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8.エクバターナ宗教戦争

 セイリオスが、オクサスを囲んでいた頃のことである。エクバターナで、奇怪としか言いようのない事件が起きた。

「地面から、剣を持った腕が生えていた?」

 酔っぱらいの見間違いではないか。報告を受けてまず、ギスカールはそう思った。しかし証言者は複数、酔っていたとはいえ内容は一致、何より2名の犠牲者は巌とした現実である。

 2名の犠牲者のうち、一人は下腹部を斬られ、もう一人は両足切断。どちらも死亡が確認された。医師にはパルスの医療技術を学ばせているが、手の施しようなどない裂傷だった。

 切り口から、得物は短剣だと解った。しかし、地面すれすれから斬りつけたような太刀筋なのだ。地面から突き出た腕という証言と、確かに一致はする。

 

 さて、問題となったのは、下腹部を斬られた男の方である。

(ペデラウス伯か)

 ギスカールが舌打ちする。別に彼の才覚が惜しいわけではない。邪魔者の一人で、むしろ喜ばしい事と言っていい。問題は、彼が教会の司教でもあったということである。

(ボダンの奴め、もう来ておる。素早いことだ)

 兄に余計なことを吹き込まぬうちに、と思っていたギスカールの目論見は、政略も何も無視した速攻によって脆くも崩れた。

 

「ペデラウス伯は宮廷の重臣であるが、教会の司教でもあった。神の御名において、まずは異教徒一万人の命を持って、その死を償わせねばならん」

 ボダンは、パルス人を一万人火刑に処すべきと主張した。しかも構成に偏りがあってはならない、男女を半々、年齢は赤ん坊、子供、青年、中年、老人と分類し、それぞれ2千人ずつとする、と言う。

「………もはや、狂信者というより狂人だな」

 陶酔したように語るボダンには、ギスカールの呟きは聞こえなかったようだ。隣のモンフェラートは青ざめている。そんなことをすれば、憎しみが10倍となって跳ね返ってくるだけではないか。

 まず、伯爵殺しの犯人を捕らえるべきだ。その犯人の処罰については是非もない、ボダンに一任してもいい。とにかく、一万人の火刑などという愚行だけは止めねばならない。

 

「いいや火刑じゃ!三弟のような生ぬるいやり方では、邪教徒がはびこるのみ!!!天上の栄光のためにも、断固たる処置を取らねばならん!!!!!!」

 三弟、つまりセイリオスの名前が出て、ギスカールに名案が浮かんだ。何故セイリオスが寛容に徹しているのか、ボダンには全く理解できていない。それなら、確実に罠にはまる。

「大司教には我が国の状況を、もう少し理解していただきたいものですな。パルスの全人口は2000万。そのうち一割が蜂起したとしても、200万の大勢になる。対して我らは30万」

「異教徒が何百万集まろうと、何を恐れることがあろう!!!神のご加護を受けた聖なる戦士ならば、一人で百人の異教徒を打倒すことができよう!!!!」

「……………では、大司教に実例を見せてもらいましょうか」

 狙い通り。ギスカールの冷えた声に、ボダンの体が固まった。

 

「なんと………、申されたか?」

 先ほどまで灼熱のようだったボダンの声も、一気に冷めた。ギスカールの言うことは単純である。パルス人一万人を集める。それを、聖職者百人で打倒して見せてくれ、というのだ。

「兵にできる事であれば、より信心深き聖職者なら容易いことでござろう。……ああ、刃物を持つのは禁忌でしたな。それが大司教のご懸念か。武器は棒で充分でしょう」

 打倒した後で火刑に処した方が、より神の威光を示すことになろう。そこまで言われ、ボダンの顔が急激に青くなった。他人にやらせるのなら何とでも言える。だが、自分でやればどうなるか。

 

「………」

 返答に詰まったボダンに、ギスカールがにやりと笑う。いい様だ。いつもいつも、好き勝手言って他人に迷惑を押し付けるだけなのだ。たまには自分で苦労しやがれ。

「……まあ準備する時間も必要でしょうな。5日もあればパルス人も集められるでしょう」

 揶揄するように言うギスカールに対し、ボダンの目が鋭く光った。自分自身は気付かなかったようだ。魂胆など見え透いている。この場を切り抜けるには、5日以内にギスカールを打倒するしかない。

 すなわち、軍事力によるクーデター。聖堂騎士団を中心に教会の権力を使い軍勢を集め、エクバターナを制圧する。

「……モンフェラート、ボードワン、すぐさま戦備を固めろ。それとセイリオスに急使を出せ」

 ボダンが足音荒く立ち去った後、ギスカールは最も信頼する二人の将軍に指示を出した。

 ちなみにモンフェラートは、セイリオスがいなくなるのでザーブル城から呼び寄せたのである。いきなりこれで、彼にとっては災難であろう。

 

「ギスカールよ、大丈夫であろうかの?」

 諸事に鈍いイノケンティス王ではあるが、ギスカールとボダンの仲が一触即発であるということは、さすがに理解したらしい。

 そしてタハミーネの件以来、イノケンティスはボダンと距離を置くようになった。その分ギスカールとセイリオスの二人の弟に近くなって、色々やり易くなったが、面倒が増えたのも事実だ。

「………なに、心配いりませんよ。あのような神の名を騙るだけの男に、負けるはずありませぬ」

 そうだ、この俺がボダンごときに負けるはずない。そう、ギスカールは自分に言い聞かせた。

 

「ヒルティゴ殿よ、今度ばかりは見過ごすわけにはいかぬ。神を敬わぬ不逞の輩、いや背教者には、神罰を下さねばならぬのじゃ」

 神罰なら人の手を煩わせることなく、神がすでに示しているはずだ。セイリオスならそう言ったはずの言葉である。ボダンはそれに気付く理性がなく、ヒルティゴには余裕がなかった。

 ボダンは退室するやヒルティゴを呼び、聖堂騎士団を率いて宮殿を制圧するよう命じた。政略も何もない、ただの怒りの暴発に過ぎない。

 

「………」

 ヒルティゴは明らかにひるんだ。セイリオスのアクターナ軍が不在の現状が、蜂起するなら絶好の機会であろう。

 しかし、イノケンティスとギスカールを倒したとしても、その後はどうなるか。反ボダンの勢力を結集してセイリオスが攻め込んでくる。ボダンがそれに勝てるかと考えると、はなはだ心許ない。

「大司教猊下、まずは与党を固めることが喫緊でござろう。私は聖堂騎士団を纏めてきましょう」

 エクバターナを制圧するだけなら、ここは即座に蜂起するのが正しい。ヒルティゴはボダンを見限ったのである。ボダンの前を辞すると、その足でギスカールの元に駆け込んだ。

 

「国王を廃し、幼少の王族を傀儡に立てようとする…。兄者、ボダンの反逆は明らかですぞ」

 大司教から解任し、反逆者として追討すべきである。ギスカールの上奏にイノケンティスは困惑した。司教の任命権は教会にあり、王室にはない。

 前例がないことをする勇気が持てなかったが、次にギスカールが耳元でささやいた言葉が、彼を突き動かした。

「……ボダンがいなくなれば、タハミーネとの結婚に反対する声はぐっと小さくなりましょう」

 

「教会を私物化し、王家を意のままにし、己一人が権勢を握らんとする大司教の叛意は明らかになった。ルシタニア国王として、断固これを討つ!」

 即答であった。すぐさま軍に布告が飛ぶ。ボダンと聖堂騎士団は逆に先手を取られた。しかし、ルシタニア軍の方も万全ではない。いきなり教会と戦えと言われて、困惑の中で武器を持たされたのだ。

 結果として、聖堂騎士団はほぼ無傷で城外へ遁走した。ボダンもその中に入っている。彼は城外の安全なところまで逃げ延びた後で、城壁に向かって呪詛と罵声を投げつけた。

 

「おのれおのれおのれおのれ…。神と聖職者をないがしろにする背教者どもめ、必ずや地獄の業火に焼き尽くしてくれるぞ」

 怒りのあまり、頭の血管が四、五本は切れたであろう。ヒルティゴが裏切ったというのが、その怒りに油を注いだ。

 しかし、しばらくすると彼の機嫌は一変した。ギスカールに冷遇されていた貴族や、やはり教会とは戦えないと考える兵が逃げてきたのだ。

 ギスカールは不穏分子を、抱え込むより解き放つ道を選んだ。寛容ではなく、内通の危険を除くためだ。もちろんボダンに付け込まれないよう、反対側の城門から追い出したのである。

 だがボダンがそんなことに気付くはずもない。彼は単純に、イアルダボート神の威光と考えた。10万近くに膨れ上がった軍勢を見た彼は、迷うことなくエクバターナの攻囲を開始した。

 神の軍勢が負けるはずないという自信と、イアルダボートの神旗だけは何としても取り返さなければならなかったからである。

 

 ……のちのことを考えれば、ここは10万の軍事力を擁したまま逃げるべきであった。エクバターナの守兵は20万。本当に戦意があるのは一握りであるが、それでも攻囲戦に持ち込むのは無謀極まる。

 ましてや、ボダンたちは着の身着のままで逃げてきたようなものである。兵糧も不足だし攻城兵器など全くない。肉弾特攻で落とせるような城ではないのにも関わらず、ボダンはそれを理解しない。

「信心が足りぬからじゃ!!!神のご加護があれば、矢など当たるはずもない!!!何としても城壁を乗り越え、背教者どもを地獄へ叩き落とすのじゃ!!!!!」

 いくら苦戦を訴えようが、言われることはそれだけである。兵も指揮官である貴族も、ボダンに味方したことを後悔した。だがもう遅い。

 

 一方、城内ではギスカールが着々と手を打っていた。

「ルシタニア国王の名において教会に対し、ボダン大司教の解任を勧告し、新たな大司教を推薦する」

 勧告とか推薦とか言っているが、実質的には命令である。今までなら突っぱねられること確実であったが、教会側はそれを呑んだ。反対すればボダンの一味として処刑されることが明白だったからだ。

 ギスカールが推薦したのは、エンゲルベルトという、モンフェラートの叔父にあたる男であった。神学への造詣の深さはルシタニアでも随一で、それだけなら大司教たるにふさわしい。

 だが、学問で人格を練り上げた知識人らしく穏健な性格で、当然ボダンとは水と油の関係であった。モンフェラートがルシタニア一の高潔な騎士と言われるようになったのは、彼の影響が大きい。

 ちなみにモンフェラートには弟がいて、彼は叔父を見習ってほしいと弟を聖職者としたのだが、ボダンに心酔して聖堂騎士団に入ってしまった。引きずってでも連れ戻さねば、と内心誓っている。

 

 エンゲルベルトの就任を教会が呑んだことで、ボダンの正統性はなくなった。名目上では、背教者と弾劾されるのは彼の方である。ボダンにとってはこれ以上ない侮辱であろう。

 次いで、ボダンに味方した貴族の爵位と領地の没収。その上で、ギスカールはそれを自分の息のかかった者たちに分配してしまった。

「これでいい。五日や十日でこの城が落ちるはずはない」

 怖いのは内通だけだが、大方は排除してある。戦局はこちらが有利なのだから、日和見の連中がボダンに傾くという可能性も低い。十日は、間違いなく耐えきれる。

 そして五日も耐えれば、勝ちが決定する。ボダンには、目の前のことしか見えないのだろうか。

 

 五日が過ぎた。ボダンは籠城するギスカールを誘い出そうと、彼なりに知恵を尽くしてあれこれ手を打ってみたが、全く乗ってくる気配がない。

「あんな見え透いた誘いに、引っかかる俺だとでも思ってるのか」

 ギスカールにしてみればボダンの考える策など、子供の戦遊びに等しい。足掻く姿を見て笑っていればいいのである。

 だが、その子供の浅はかさが、大きな事態を引き起こした。ボダンは軍に命じて、北方の用水路を破壊してしまったのだ。

 この用水路はエクバターナに水を供給する大動脈で、流れ出た水は北の農耕地を泥濘と変えてしまった。さらに春先から夏にかけて水の使用量が増える季節になれば、深刻な水不足が発生する。

 水が不足する、となれば、さすがにギスカールも慌てると考えたのだろう。戦術的な意図だけであれば、着眼点は悪いものではなかったが…。

 

「ふん」

 ギスカールは動じない。エクバターナは仮寝の宿だ。真に確保すべきは、パルスの富と知識である。水不足とて今日明日の問題ではない。平然と、今日の夕食にした。

 基本的に、調理技術においてもパルスはルシタニアより数段洗練されている。ルシタニア料理は量はともかく味は散々だ。料理人にはパルスの料理を学ばせ、ルシタニア風にアレンジせよと命じた。

 その甲斐あってか、最近は食事が大きな楽しみになっている。兵たちの評判も上々だ。逆にボダン軍は、相も変わらず散々な食事のことであろう。量も満足できるものではないはずだ。

「まあ、明日か明後日にはもっと悲惨になるだろう。今日のうちに食えるだけ食っておくことだな」

 

 翌黎明、空腹に耐え眠り込んでいたボダン軍の夢を破ったのは、馬蹄の音であった。騎馬隊が日の出と同時に突っ込んできたのである。先頭を駆けるのは、大剣を振り回す勇将。アクターナ軍のクラッドだ。

「ボダンの野郎は、どこだー!!!」

 ボダンは聖堂騎士団を自分の親衛隊として、後方に置いていた。それがまた士気を下げる一因であったのだが、とにかく後方にいた聖堂騎士団が、真っ先にアクターナ軍に蹂躙されることになった。

 

「セイリオス殿下だ!!!」

 後方にいたくせに、聖堂騎士団は後背の備えを全くしていなかった。実は騎馬隊の5千だけが駆けてきたのだが、まだ夜が明けきらぬ暗さと混乱の中、気付く者は誰もいない。

「よし、今だ!!!全軍で撃って出る!!!」

 ギスカールは、弟なら必ずそうすると確信していた。襲撃が今日か明日になるのも予想していた。念のため昨日からまだ暗いうちに兵を起こし、朝食も済ませるようにしておいたのだ。

 

「ギスカールよ、我が愛する弟よ。ここは、予も出るぞ」

 予定外だったのは、なんとイノケンティス王が完全武装で陣頭に立とうというのだ。だが、どうにも役者不足は否めない。でっぷり肥えたイノケンティスに、鎧姿は全く似合わないのである。

「………。では、号令を」

 ギスカールは城門の上から「突撃!」の合図だけ叫ばせることにした。まあ多少士気を上げる効果はあったであろう。

 後方からアクターナ軍の襲撃、前方からギスカール軍の出撃。浮足立ったボダン軍はろくに抵抗もできず潰走した。ギスカールの圧勝である。

 

 エクバターナの城壁下は、武器を捨て降伏する兵で満ちた。だがその中にも、討ち取った首の中にもボダンの物はない。

「逃げ足の速い坊主だ」

 ちっと舌打ちしたギスカールだが、まあいい。ボダンが復権することは、もはやない。目の上の瘤だった教会の頭を押さえることにも成功した。

 ルシタニアは、これで生まれ変わるだろう。冷え切ったはずの自分の心が騒いでいることに、ギスカールは気付いた。

 




ギスカール大活躍の今回。原作でも、このくらいはやって欲しかったところです。


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9.埋もれた男

 ルシタニア軍内に内部抗争が勃発、国王・王弟と大司教が武力衝突に至る、という情報は、まだ南方の諸侯までは届いていない。

 その前に届いたのは、マンジケルト大敗の情報である。パルス南方の諸侯はルシタニア軍の強さに震え上がった。実際のところはアクターナ軍だけが突き抜けて精強なのだが、そんな内情など知る由もない。

 国王は生死不明、王太子は行方不明、将軍たちも多くは戦死。ペシャワール城の軍は健在であるが、南方まで援軍を寄越すとなると、最低でも一月、遠い所なら二月はかかるだろう。

 それまでルシタニア軍の攻撃を凌げるかと考えれば、とても自信がない。しかも、王太子を擁しているというのならともかく、ただの一城主のために援軍を発するかという問題もある。

 

「…それでも、ルシタニアに降伏するなど、できるものか」

 私室で、ハサの城主であるパルハームは呟いた。ハサは大きな諸侯ではない。領内の兵は2千弱。総動員しても、6千程度というところだ。

 そのハサに、2万ほどの軍が近づいてくるという。敵の将軍が誰かは、まだ不明。斥候を出してよく確認させてみると、ルシタニアの軍旗こそ掲げているが、兵はどうやらパルス人であるらしい。

 何であれ、籠城の準備だけは整えた。望み薄だが、援軍を求める使者も出した。しかし敵軍はハサの近くに布陣しただけで攻撃する意思は見せず、まず軍使を寄越したのである。

 

「……カーラーンの軍か」

 疑問は氷解した。何をトチ狂ったのか、アトロパテネで裏切ったことは噂で知っている。

「まあ、軍使に会うだけは会ってやろう」

 旧友、と呼べるほど深い仲ではないだろう。しかし、旧知の相手であるのは事実。どうせ降伏の勧告であろうが、せめてもの情けで話だけは聞いてやろうではないか。

 しかし、軍使の持ってきた親書に書かれた話は、彼を驚愕させた。

 

「なんと、ヒルメス殿下とは……」

 再び私室に戻り、考え込む。カーラーンの裏切りの裏にあった物を知り、彼の心は揺らいだ。

 カーラーンもパルハームも、先王オスロエスに抜擢された者である。丁度、タハミーネ王妃の件で兄弟仲が一触即発だった時のことだ。

 その後すぐ、オスロエス王は急死した。アンドラゴラスは妥当と考えたのか、あるいは軍部に余計な波風を立てたくなかったのか、先王の人事はそのまま継承された。

 しかし、軍才という点でパルハームはカーラーンに敵わなかった。同じ万騎長となったがカーラーンは赫々たる武勲を挙げ名を高めていったが、自分はまあ及第点と言う程度であったと思う。

 それが不満だという訳ではない。無念とは思うが、身の程は知っている。「ハサ領を継ぐ」という名目で万騎長の職を辞し、後進に道を譲った。それも納得の上での行動だ。

 

「カーラーンめ…」

 親書はパルハームの痛いところを突いてきていた。カーラーンも同じだったのだろう。抜擢してくれたオスロエス王に、何の忠誠も示せなかった。その思いが、自分の中で消化しきれてない。

『ヒルメス殿下に従うことこそ、オスロエス王に忠義を尽くすことであろう。アンドラゴラスを裏切ったのは事実だが、パルスに正統を回復させるためである。それ以外の異心はない』

 親書にはそう書かれていた。

 

「………」

 実を言ってしまうと、パルハームにはもう一つの思いがある。アンドラゴラスはこの上なく優れた『武人』ではあったが、『王』としてはどうだったであろうか。オスロエス王の方が、器量は上だったのではないか。

 アンドラゴラス時代に登用された者を見ればわかる。軍人ばかりで、文官として名をはせた者は一人もいない。宰相のフスラブからして、小物だ。

 パルハームは政治家としてもなかなかの力量の持ち主であった。万能型と言える人材であったが、アンドラゴラスには評価されにくい才能でもあったのである。

「……ヒルメス殿下に会ってみたい。殿下がパルスの王にふさわしき御方であれば、従うであろう」

 その返答を聞いたカーラーンは、すぐさまヒルメスに急使を出した。居場所は常にザンデが連絡を寄越している。この時はアルスラーンを追って、東部の山岳地帯を移動中であった。

 

 

「………会ってみたい、か」

 報告を受けたヒルメスは憮然とした。彼にしてみれば、パルスの諸侯はアンドラゴラスを奉戴した16年の非を悔い、進んで自分の足元に跪き許しを請うべきなのである。

(だが、それは少々高慢が過ぎるか…)

 客観的に考えてみれば、パルハームの態度は納得できるものである。先王オスロエスの嫡子。いきなりそう言われて、混乱しない者はいないだろう。

 それと、カーラーンにも余裕がない。小諸侯のハサだろうが、とにかく味方を増やさねばバダフシャーンの平定など覚束ないのだ。

 

「よし、ハサへ向かう。ザンデよ、兵の指揮はお前が執り、このままアルスラーンを追え」

 エクバターナからアルスラーンの足取りを追跡して、東方までやってきた。奴らがペシャワール城を目指しているのは明らかだ。

 馬を飛ばせば、数日で往復できる。考えた末、ヒルメスは領地を優先させることにした。アルスラーンがこの辺りに潜んでいるのは確実でも、まだ情報収集の段階だ。その間、自分の出番はない。

「カシャーン城で討ち取っていれば、苦労せずに済んだのだが…」

 痛恨のミスだった、と今にして思う。ヒルメスはザンデ以下数名だけを連れて、マンジケルトを観戦していたのである。アクターナ軍の強さを実際に見てみたかったからだ。

 ホディール軍にアルスラーンがいたと知ったのは、たまたまこちらに逃亡してきたパルス兵を捕らえて尋問した時だ。手勢もなく、混乱の中行方知れずでは、ひとまず追跡は諦めるしかなかった。

 

 ヒルメスが現在掌握する戦力は、カーラーン麾下の騎兵5百、行き場を失ったパルス軍の敗兵を編成した部隊が1千、それにギスカールが好意で貸してくれたルシタニア軍が5千というところだ。

 正直に言って、弱兵である。アクターナ軍を見た後では、特にそう思う。カーラーン麾下の5百だけは統率も取れた精鋭だが、他は寄せ集めの混成部隊とルシタニア軍。連携など取れるはずもない。

 その中で、やはりザンデは見所ある若者だった。個人の武勇を誇るだけでなく、指揮官としての素質もなかなかのものを見せる。特に諜報に関しては正確であり緻密である。

 今ヒルメスがアルスラーンを追っているのは、彼が斥候隊を組織化し、素早くその足取りを掴んだからに他ならない。

 しかし同時に、ザンデはまだまだだ。若年ということもあるが、思慮の面で父親には遠く及ばない。騎兵を率いて敵陣に突っ込むという場面には最適でも、大部隊の指揮をとらせるにはもう少し経験が必要だろう。

 

(サームはそろそろ、決心がついたであろうか…)

 アルスラーンにはダリューンとナルサスという両の翼がある。自分にもカーラーンと、もう一人信頼できる将軍格の存在が欲しい。

 サームはパルスの万騎長だった。12人の万騎長の中で、最も城の攻防に長けた男という定評があった。そのためエクバターナの防衛を任されていたのだが、陥落時に重傷を負って捕虜となった。

 捕らえたのは、ヒルメスとカーラーンである。彼を殺したくなかった二人は、ルシタニアに極秘で隠れ家に運び込んだ。死んでも全くおかしくない傷だったが、彼はそこから生還した。

 

「俺はパルスの万騎長だ。パルスの万騎長が跪く相手は、天上の神々のほか、地上にはただ一人、パルスの国王(シャーオ)あるのみ」

 拝跪せよと命じたヒルメスに、サームはそう返した。あえて望むなら、殺せ。殺して死体の膝を曲げてみせるがいい。そうとまで言い切ったサームの剛直を、むしろヒルメスは気に入った。

「……俺には、お前に拝跪を命じる資格がある」

 そう言って、素顔を曝した。カーラーン以外には、進んで行ったことがない行為だ。火傷の跡に一瞬驚いたようであったが、彼はその中に16年前の少年の面影を見た。

 自分に従うか、どうか。返事は聞く前に立ち去った。逃げ出したという知らせはない。ハサに行き、アルスラーンを捕らえたら、一度エクバターナに戻るとしよう。

 サームが従ってくれれば、陣営の厚みはぐんと増す。パルハームについてはあまり覚えがない。だが、カーラーンが推挙する人物だ。愚物ということはないだろう。

 

 

「………ヒルメス殿下、でございますな」

 覇気の塊のような人だ。そうパルハームは思った。少なくとも、怠惰で臆病ではない。時と運に恵まれていれば、あるいは良き国王(シャーオ)としてパルスの歴史に名を刻んだのではないか。

 カーラーンからの二度目の軍使。そう名乗って、ヒルメスはハサ城内に入り込んだ。軍使を斬るのは礼に悖るが、いざ取り囲まれたら終わりである。それでも、平然と乗り込んできた。

「貴様がパルハームか。名前だけなら、父オスロエスに抜擢された男だという覚えはある。カーラーンと違い、あまり俺には昵懇しなかったな」

 わずかな時間であったが、ヒルメスはカーラーンに馴染んだ。年の離れた兄か、叔父に対するに似た思いを抱いた。いきなり現れたヒルメスが信用されたのは、その時の、他の誰も知らない記憶を示したからだ。

 

「さて、俺に従うか否か、聞かせてもらおうか」

 ヒルメスはヒルメスで、パルハームという男を測っている。こうして自分を眼前にしても、動揺する所はない。鈍感ではなく、胆が据わっていると言うべきだ。

(成程)

 パルハームの才覚は、はっきり言って地味だ。ダリューンの武勇もナルサスの智謀もない。カーラーンが推挙しなければ見逃していたことであろう。

 しかし、何であろうがパルスの万騎長になった男だ。ハサの城は良く治められている。よくよく見てみると、軍政どちらにも対応できる、使い出のある人材なのだった。

 

「私はパルスの諸侯(シャフルダーラーン)でございます」

「俺はオスロエス王の嫡子、パルスの正統なる血を引く者である。であれば、卿が従うのは当然のことであろう」

 パルハームは、アルスラーンについてはよく知らない。外見からは線の細い、柔弱そうな少年としか見えなかった。果たして、あの王太子で今の未曾有の危機を乗り越えられるだろうか。

「……正統の国王(シャーオ)に忠誠を」

 パルハームはヒルメスに膝を屈した。この決断が、未来にどんな影響を与えるかはわからない。ともあれハサは城門を開き、カーラーンの軍を迎え入れた。

 

 ハサの降伏を、カーラーンは無駄にしなかった。すぐさま隣の諸侯であるバルドゥに向かう。

 ハサがまだ抵抗していると思っていた彼らは、「合流してハサを救援したい」という偽伝令に引っかかり城を出た。カーラーンが軍の半分をそれらしく偽装していたのである。

 残りの半分で、手薄になった城を制圧するのは難しいことではなかった。腹背から挟撃される形になったバルドゥの軍は呆然とした後、逃げ去るなり降伏するなり、思い思いの道を選ぶことになった。

 

 バルドゥの城に入り、カーラーンは大きく息をつく。バルドゥを落としたことで、とりあえずの拠点ができた。ハサは2万の軍を養うには狭すぎた。バルドゥと合わせれば、なんとか維持できる。

「………ヘルマンドス城までは、まだまだ遠いな」

 距離の問題ではない。バダフシャーン公国の首都であったヘルマンドス城は、国が滅亡してもこの地方の中心である。城壁は厚く、守兵は多い。カーラーンの手勢だけでは、陥落させるのは難しい。

 しかもヘルマンドス城の危機ともなれば、ペシャワールの軍勢が動く可能性はハサやバルドゥとは比較にならない。ペシャワールの総軍は騎兵2万の歩兵6万。半数が出撃したとしても、勝算は立たない。

 

「……切り崩すならバフマンからだが、どうやって人を送り込むかだ」

 ペシャワール城を守っているのはキシュワードとバフマンの、二人の万騎長である。キシュワードは29歳、ヒルメスあるいはオスロエス王との関係はほぼない。せいぜい、名前を知っている程度だろう。

 対しバフマンは62歳で、万騎長中最年長の男である。もちろんオスロエス王の御代も知っているし、ヒルメスに剣を教えた、師の一人でもあった。

 この状況であればまずバフマンを説得し、共にキシュワードを言い包めるという順序になるのが当然だろう。しかし、ペシャワール城の警備は厳重で、今のところ接触は失敗していた。

 さらに、彼らがアルスラーンを擁立してしまうと話はより厄介になる。キシュワードは飼い鷹を通じてアルスラーンと昵懇の中だ。一度擁したら、節を曲げるような男でもない。

 

「……難しいな」

 ヒルメスの、血の正統に対する妄執。それだけが16年に渡って彼を生かし続けてきた。だが今では、それが彼の器量を狭めている面がある。

 一度王座に就けば、それも治るとカーラーンは思っている。国王(シャーオ)として、間違いなく名君となれる資質を持っているのだ。少なくともアルスラーンより、軍人としては上回る。

(とりあえず自分がやるべきことはバフマンへの接触、ヘルマンドス城の攻略の二つ。ザンデがアルスラーンを討ち取ってくれれば、楽になるのだが―)

 見上げた空は、雲一つなく晴れ渡っていた。

 




戦略ゲーム風に言えば、パルハームは能力全て80台の武将、となります。
ナルサスでも気付かなかった、カーラーンだけが知っていた逸材。そういう男がいてもいいと思いました。

あとカーラーンが何故ヒルメスに鞍替えしたのか考えていった結果、こんな感じになりました。
ちなみにカーラーン、パルハームの年齢は45歳、サーム37歳と仮定しています。


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10.軍制改革

 ボダン軍は、東に逃走した。西は王弟派で固められている。南はセイリオスの勢力圏だ。北は泥濘にしてしまった。東しか逃げ道がなかったのである。

「望み通りの展開だ」

 ギスカールは弟と祝杯を挙げた。ボダン軍は討ち減らされ、多数の降伏者を出したものの、それでも5万程度の規模は持っている。戦力としては、ほぼ無力だろうが。

 

「しばらくは、エクバターナに留まりましょう」

 セイリオスがそう言ってくれたので、軍事を弟に任せ、ギスカールは政治に専念することにした。兄の無理解は相変わらずだが、教会からの口出しが無くなっただけでものびのびできる。

「しかし、ルシタニアの国中を掘り起こさねばならなくなるとはな。……情けない話だが、パルスを知ると、奴らがルシタニア人を蛮族と呼ぶ気持ちも解るようになってくるわ」

 下水道が整備されていないルシタニアでは、糞尿などは垂れ流しである。公衆衛生として、まことによろしくない。疫病の原因となることもパルスで知った。まずこれを改善しようと思う。

 同時に、上水道の整備も忘れてはならない。井戸すらなく川の水を汲んで賄わざるを得ない村も多い。新鮮で安全な水の安定した供給はこれまた衛生上大事であり、入浴の習慣を広めるためにも必要だった。

 農業においても、パルスの灌漑技術には学ぶことが多い。ルシタニアに導入すれば、これまで開墾できなかった荒れ地を沃野に変えることができるかもしれない。

 

 こういう思いは、久しぶりである。ルシタニアの国政に関わるようになってから20年。大陸西端の貧乏国だったルシタニアをここまで持ってきたのは、ほぼギスカールの力によると言っていい。

 だが、苦労というより徒労の連続だった。教会と兄の無理解をなだめすかしあるいは脅し、何とか自分の望む方に持っていく。半生を振り返ると、それだけしかしていなかったと思う。

 そして、自分は燃え尽きた。王弟でなかったら、誰がこんな国に留まっているものか。そう思いながら国政を執り続け、ついには周囲が唆すまま自暴自棄的にパルス侵攻を考えた。

 

 はっきり言って、銀仮面卿が現れねば、万に一つも勝ち目はなかったであろう。負けてもよかった。負けてルシタニアが粉微塵に砕け散っても、もういい。

 もちろんパルスを征服し、あの裕福な国の主となりたいという野心もあったが、そんな諦念も同時に持っていたのである。

 それでは、勝ったところで何の展望も見えなかったであろう。そこに指針を与えてくれたのが、弟だ。セイリオスがいなければ、弟があいつでなかったら、今頃どうなっていたことか。

 ギスカールはそれを考え、途中で打ち切った。考えても無意味なことだ。

 

 セイリオスに任せた軍は再編が必要だった。ボダンに味方して降伏した兵に対しては、寛容に接した。そのため部下に恩賞をばら撒かねばならなかったが、その程度の出費は許容内だ。

 しかし、貴族に対しては容赦しなかった。彼らの運命は二者択一。爵位も領地も諦め一兵卒となるか、それが嫌なら追放である。

「ドライゼンとグロッセート?知らん名だな」

 ルシタニア軍の総帥は今でもギスカールである。セイリオスはあくまでギスカールから『委任』されただけだ。その下にボードワンとモンフェラートの二人が並び立ち、他の将官を纏めている。

 その将官として、セイリオスはカラドック、パテルヌス、セドリウス、ドライゼン、グロッセートの5人を推挙してきた。

 カラドックとパテルヌスは、この前の再編でセイリオスが抜擢した二人だ。自分の下で経験を積ませる予定だったのが、今回の将官不足で余裕がなくなったのである。

 セドリウスは名前だけなら知っている。確か男爵で、百程度の兵を率いて参陣していたはずだ。

 残るドライゼンとグロッセートは騎士ではあるものの、ギスカールの視界に入るような存在ではなかった。

 

「……まあいい、セイリオスが名前を出したのなら、見込みはあるのだろう」

 ボードワンとモンフェラートに様子を見させ、使えるかどうか判断させればいい。彼らも含め、7人がそれぞれ1万ずつ。それが、王室直轄の中央軍となる。

「しかしまあ、各部隊には十二星座の名を冠させるとか。『十二宮騎士団(ゾディアク)』とは、あいつにしては珍しい格好付けだな」

 格好付けも、場合によっては必要だ。セイリオスはそれを充分わきまえていたから、こんな名をつけたのだろう。将来的には、名前通り12部隊まで増やす予定である。

 

 ひとまず、何もかも上手くいっている。残った課題というと、まず兄とタハミーネのことだが…。

「……………は?」

 ふと中庭に目をやって、信じられないものを見た。その兄が、中庭の回廊を歩いていたのである。それだけならともかく、息を弾ませながらぐるぐる回っている。

「おお、弟よ。運動じゃ」

 何をしているのか、つい聞きに行ってしまった。それに対し、イノケンティスは汗だくで答える。これまで、体を鍛えるなど全くしてこなかった兄である。一体、どんな風の吹き回しなのか。

「セイリオスに言われたのじゃ。『タハミーネが靡かぬのは、アンドラゴラスに対し兄上が軟弱に見えるからではないですか?』と」

 おそらくだが、セイリオスも苦し紛れに言ってしまったのではないか。ボダンがいなくなり、教会はタハミーネの件でも強権的に出られなくなった。内心では反対する者は多いだろうが、今なら押し切れる。

 

 問題はタハミーネの方で、どうにも靡いてくれない。何と言おうとはぐらかし、するりと逃げてしまう。まあギスカールにとってはいい事ではあるのだが…。

(あの女が何を考えているかだけは、さっぱりわからん)

 アンドラゴラスを愛していたのか、いなかったのか。聞いた話では、アンドラゴラスもちょうど今の兄のように執着していたが、タハミーネは冷淡だったという。息子のアルスラーンに対しても、そうだ。

 

「……そういえば、兄者はタハミーネと結婚した後、アルスラーンをどう扱うつもりですか?」

 ふと、思い至った。冷淡ではあってもタハミーネの子であることは違いない。結婚すれば当然継子という関係になる。まさかルシタニアの王太子に立てようなどとは考えておるまいが…。

「む?……そうじゃのう。……ギスカールよ、どうするべきであろうか?」

 自分で考えてないのか、と突っ込みたくなった。とはいえアルスラーンがルシタニアに降伏するという状況がいざ現実となったら、どうするべきか。それはギスカールも考えていなかった。

(……マルヤムよりさらに西の方で、一諸侯として取り立てやるくらいが妥当か。それともいっそ俺たちが去った後のパルスをくれてやる、というのも手だな)

 まあ、そうなった時に本気で考えればいいだけで、今は案の一つとして持っておくくらいでいい。兄の態度を見ると、タハミーネが夫と息子の助命を懇願しているということはなさそうだ。

 どうやら、パルス王家にも色々あるらしい。歴史の記録に載せられないほどのことが、色々と。

 

 

「気になさらぬようお願いします。運命の導きというものでしょう。エトワールに、イアルダボートの加護があるよう祈りましょう」

 心にも無いことを言う、とシルセスは思った。自分が居たら何が何でも止めていた。混乱が一段落し、余暇を得て王立図書館を訪れたシルセスを迎えた人の中に、エステルはいなかった。

「敬虔な信者であるバルカシオン伯には、教会に矛を向けるなど考えられることではなかったのでしょう。……神の名を騙るボダンといえど、疑うことはできなかった」

 もう一人の祖父とも仰ぐ人と行動を共にする。エステルにとっては当然の選択であろう。それはだれの責任でもない。

 

 ともあれ、自分の力ではどうにもできない。せいぜいがエステルの家が領有している土地をねだることぐらいである。自分が管理し、彼女が降伏してきたら返してやる。それなら何とかなる。

 バルカシオン領は無理だ。シルセスの立場では広大すぎる。セイリオスならどうとでもなるが、下手に口利きなど頼めばアクターナ軍の参謀という立場さえ失う。セイリオスは、そんな甘い主君ではない。

「シルセス、図書館の方はしかるべき人を手配する。お前はこちらに戻ってくれ」

 それに、セイリオスはルシタニア全軍の改良で、そんな些事に構っていられない状態にある。シルセスもそれに付き合って忙殺されていたのである。

 再編した軍の指揮官も決まり、ようやく細かいところに目を向ける余裕が出てきたというところだ。逆に図書館の方はボダンがいなくなり安全となったため、シルセスを置いておくのはもったいなさすぎる。

 

「やはり、まず馬だ。次いで弓。それに鍛冶の技術も向上させねば…」

 一諸侯でしかないホディール軍の騎兵でも、少なくともルシタニア騎兵よりは精強だった。理由は簡単だ。パルスは元々騎馬民族である。遊牧の生活は捨てたものの、その伝統は今だ息づいている。

 必然として、馬の改良が進んだ。弓も同様で、騎射のためより強い弓が求められた。その精強な騎馬軍団により国家を発展させ、文明が発達した。結果としてさらに国富が増し、より軍は精強となる。

 まともな手段では、30年かかろうとルシタニアが追いつくことなどできはしない。

 

「騎馬隊の調練には時間がかかります。今は、敵の騎兵をどう防ぐかを考えるべきでしょう」

 ルシタニア騎兵にもパルス産の良馬を配しているが、当然ながら全軍に配備するとなれば数が足らない。それに馬が良くなったというだけでは、まだまだパルス騎兵には及ばない。

 ここはむしろ歩兵を重視し、騎兵を封じる策を考えるべきだ。それがシルセスの意見である。騎兵さえ封じればパルス軍にも勝てるというのは、アトロパテネで証明された。

 

「弓についてはすでに弓師に命じてますが、製作を急がせましょう。手袋の補強も同様に」

 歩兵は長弓(ロングボウ)に、騎兵は複合弓(コンポジット・ボウ)に換装させる。これは急がねばならない。騎兵を殲滅するには、やはり動きを止めたところに矢の雨を降らせるのが最も効果的だ。

 それはいいが、弓を強くするということは、引く力がより必要になるということである。結果として、指にかかる負担が激増する。手袋に厚く革を貼り指を保護するよう、工夫してみた。

「鍛冶については、今でも敵を斬れないわけではありません。現状は、これで満足なさるべきです」

 教会勢力を一掃したからとて、少し気が急きすぎているのではないか。アクターナ軍と同じ軍が、一朝一夕でできるはずない。むしろ、できたら「これまでの苦労は何だったのか」という話になる。

 

「む…」

 セイリオスが唸り、シルセスが微笑む。同年のシルセスを誰よりも信頼しながら、対抗心を持ち合わせるセイリオスである。そういう時の態度は、実に子供っぽい。

 セイリオスの右の指が、左手の指輪に触れる。これは、シルセスの意見の方が正論だと認めた時の癖だ。この指輪は、愛剣と並んでセイリオスは肌身離さずにしている。

 この剣と指輪については、シルセスも知らない。古代の神殿に隠されていた物を拾っただけなので、セイリオスですら詳細は知らない。

 銘は『アステリア』。その神殿で信仰されていた、星の女神の名だ。当然ながら、ボダンなどは「邪教の剣である、即刻打ち砕くべき」と主張した。ボダンとセイリオスの仲が悪かったのは、これも一因だった。

 

「……わかった、確かに急ぎすぎていたらしい」

 シルセスと二人だけの時は、セイリオスは礼儀を崩す。人生の3分の2を超える付き合いなのだ。これまで二人で駆けてきた時の長さは、アクターナ軍の誰よりも長い。

 6歳のときの話である。ルシタニアの宮廷に出仕したシルセスは、セイリオスに付けられた。彼の側近第一号とされたのだ。とはいえ、当初は裏のある話だった。

 当時から、セイリオスは英邁に過ぎた。表面上、教会の言うことを聞いてはいたが、敬ってはいなかった。教義に疑問を抱く、ルシタニアでは『問題児』とされる王子だった。

 それを見抜いた先王が考えた対策は、同年代で、信仰に厚く、セイリオスの才気に負けない優秀な者を側近として、彼を教導させようというものであった。白羽の矢が立ったのが、シルセスである。

 ……結果から言うと、その狙いは完全に裏目に出た。あるいはシルセスも英明すぎたのだろうか。彼女の方が信仰に疑問を抱き、セイリオスに昵懇することになってしまったというわけだ。

 

「茶を淹れてくれ」

 気が抜けたので休憩、というところであろう。入ってきたのは、カシャーン城でセイリオスが拾った奴隷の姉の方であった。カミナという。弟のルクールは、アクターナ軍で騎士見習いとして特訓していた。

 この姉弟は拾い物であったとシルセスも思う。カミナの淹れる茶は、アクターナ軍の軍議における名物となっていた。

 残念ながら、ルシタニアの気候は茶ノ木を育てるのには難しいとされている。それでも寒さに強いと言われる品種の苗木を送ってみるなど、セイリオスも喫茶の楽しみを棄てられないようである。

 

 茶の香りを楽しみ、しばらくは何気ないひと時を過ごす。尽きると、二人とも真面目な顔に戻った。

「それで、改めて伺いますが、エクバターナはやはり保持できない、と」

 当初は、ボダンたちがもっと暴れると思っていた。わずか二月であっさり彼らの排除が済み、エクバターナの占領行政は完全にセイリオスの手中にある。善政を布けば、保持も可能ではないか。

「可能、と言いたいところだが、そろそろ味方の方が崩れてくる」

 ルシタニアを出発した当初、軍の総数は40万を数えた。だが、職業軍人はその内の10万程度に過ぎない。あとは、志願あるいは徴兵された民衆だ。

 

「マルヤムに続き、パルスを滅ぼして名を上げた。恩賞として幾分の分け前も得た。いい加減、望郷の念が募るころだろう。教会と激突したのも、兵たちにとっては士気を下げる一因だったしな」

 それに、ボダンが用水路を破壊してしまった件がある。なにより、エクバターナを保持するつもりで占領行政をしてこなかった。民心は落ち着いてきたが、ルシタニアに靡くほどではない。

「パルスの軍旗を前にした時、民衆がどちらを支持するかは明白だ。住民が協力、最低でも黙認してくれねば、城を守り抜くなどできるものか」

 パルスが様々な問題を抱えていたのは事実でも、その施政の中で大方の民衆は満足していた。内部から腐って崩壊したわけではないのだ。

 仮にアルスラーンを倒しても、パルスの民衆は王家の血を引く誰かを奉戴して反乱の烽火を上げるだろう。本国からマルヤム、さらにはパルスまでを抑え込む力は、今のルシタニアにはない。

「………」

 その答えに、シルセスは安堵する。ボダンを倒しても、この人に驕りはない。

 




ルシタニア軍の大改革。ですが、さすがに全軍をアクターナ軍と同レベルにする、などということはしませんので安心してください。

ギスカールの内心は、「何故パルスに挑んだのか」と考えていった結果こうなりました。


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11.アズザルカの戦い・前編

「……アルスラーンが、ついにペシャワールに入ったか」

 普通なら、凶報のはずである。それをこの王弟二人は吉報として受け取った。ペシャワール城からエクバターナには、大陸公路を西に向かうだけである。

 その途中には、ボダン派の残党がいる。彼らは東に流れ、廃墟となっていた砦を改築して使っている。名前だけは(サン)マヌエル城と立派だが、内情は散々たる状況にある。

 それらの情報は、逃亡してきた兵から知った。モンフェラートの弟もさすがに現実に目覚めたのか、先日逃げ出してきて兄と叔父に叱られていた。そんな中で、ボダンは今だ神への信仰を保っているという。

「ルシタニア貴族として、初めてイアルダボート教に帰依した男の名を冠するとはな。ボダンの奴め、その信仰心だけは見上げたものだ」

 ギスカールが呆れたように言う。何が彼をここまで突き動かすのか。ギスカールにもセイリオスにも、ついにそれが解らなかった。

 

 ともあれ、アルスラーンが挙兵すればボダンと噛み合うという、当初の狙い通りの展開である。十中十までアルスラーンが勝つだろう。ボダンが勝てるとしたら、それこそ神の奇跡でも起きた場合だけだ。

「……そしてアルスラーンはお前が叩き潰す。エクバターナの財貨は、ある程度はマルヤムの方へ移しているが、残りも急がせよう」

 アルスラーンの生死にかかわらず、エクバターナは保持しない。ギスカールもさすがと言えた。エクバターナはパルスの象徴である。パルス軍が必死になって奪還しようと考えるのは当然のことだ。

 

 セイリオス率いるルシタニア軍とアルスラーンのパルス軍が激突する。ルシタニア軍はこの一月で、見違えるほど精強な軍へと変貌した。セイリオスはまだ不満そうだが、兵力の差を活かせば今でも充分勝てる。

 アルスラーンが戦死すれば、代わりに誰か王家の血を引く者が立つ。何にせよ、エクバターナが戦場になることは変わらない。ルシタニアはエクバターナを保持する限り、延々と戦わねばならなくなる。

 では、この状況でエクバターナを放棄してしまえばどうなるだろうか。当然、ルシタニアに代わってパルス軍が入る。太陽が東の空から昇るに等しい、当たり前のことである。

「だが、奴らにマルヤムまで追ってくる余裕はない。東方にはシンドゥラ、チュルク、トゥラーンの脅威があり、南ではカーラーンが勢力を扶植している。何より金がなければ軍も政治も動かん」

 エクバターナの奪還で、ひとまず満足せざるを得なくなる。その間にこちらはザーブル城の防御を固め、国境線を確固たるものにしてしまう。

 その後は、和を結ぶか戦うか。こちらは臨機応変に行けばいい。戦うなら、次は本当にエクバターナを占領することも考えられる。

 

 東方には、大量の間者を放っている。ギスカールは居ながらにしてかなり正確な情報を掴んでいた。どうやら、トゥラーン、チュルク、シンドゥラの3か国とも、王位継承の争いで揉めているらしい。

 その内、トゥラーンの覇権はトクトミシュという男の手に落ちることが決定的、と情報が入った。チュルクは今だ混迷している。とりあえず現王のカルハナが優勢らしいが、詳細は不明である。

 シンドゥラはラジェンドラとガーデーヴィという二人の王子が争っているが、どちらも直接の武力衝突は避けていた。ガーデーヴィが優勢だが、ラジェンドラにも逆転の見込みがないわけではない。

 

「そのシンドゥラですが、唆してみたら、おかしなことになったようです」

 セイリオスはガーデーヴィ、ラジェンドラ、どちらの陣営にも『パルスは混乱の極みにある。ペシャワール奪取の好機だ。その功は、王位の継承に決定的な意味を持つだろう』と吹き込んだのである。

 セイリオスが吹き込んだことは嘘ではない。ペシャワール城は東方諸国にとって鋼の壁だった。この城ある限り、パルスの東方を蚕食することはできない。

 仮にペシャワールを無視して別の道からパルスに入っても、ペシャワールとエクバターナから発した軍に挟撃される。故にペシャワール奪取は、どの国にとっても歴史に名前を刻むほどの功なのである。

 

 先に動いたのはガーデーヴィであった。彼はラジェンドラより一月とはいえ早く生まれ、母親の格も上であることもあり、貴族の大方は彼を支持している。

 素直に行けば、王位は彼のものとなるに違いないのだが、名分上の弱点は正式に立太子されてないことである。現王カリカーラ二世が病に倒れ意識不明というのも、複雑さに拍車をかけていた。

 だから彼が動いたのは、ラジェンドラに先を越されないかという不安からである。しかし先鋒の5千が『双刀将軍(ターヒール)』キシュワードに一撃で叩き返されると、怖気づいたのか軍を引いた。

 

 それを見て、今度はラジェンドラが動いた。彼は貴族然とした異母兄とは違い、気前が良く、気さくに庶民や兵士と交わり、その人気を得ていた。策謀家ではあるが、民衆を騙したことはない。

 結果として、シンドゥラの下層部と反ガーデーヴィ派の力を結集し、5万ほどの軍を動かす力を持っていた。その軍でペシャワール城に攻めかかり、あっさり失敗したのである。

 ここまでなら、それほどおかしな話ではない。ペシャワール攻略を失敗したラジェンドラが、どうやらアルスラーンと同盟を組んだらしいのだ。

 

「……まあ、ラジェンドラを助けた方が、パルスの利にはなるだろう」

 セイリオスも同感である。ガーデーヴィは放っておいても勝つ。ラジェンドラに力を貸す方が、大きな恩を売ることになる。

 だが、後方の憂いを断つためとはいえ、他国の厄介事に首を突っ込んだわけだ。少なくとも半年やそこらは、そちらにかかりきりとなる。その間にルシタニア軍は、さらに精強になっていく。

 

「こちらの問題としては、ミスル国が軍を動かしたと」

 ヒルティゴからの報告である。彼には恩賞として、主の居なくなったオクサス領を与えた。オクサス川一円を支配し、パルス南西部の王として君臨しようと考えているらしい。まあ、これは好きにさせておく。

 一方、ミスル国である。国王ホサイン三世は即位してから宮廷内の反国王派を粛清し、以後は内政に専念してきた。パルスとルシタニアの争いにも中立を保ち、軍を出そうとはしなかった。

 それが、ここにきて方針を転換したのは、ルシタニア側の優勢を見たからであろう。これなら、パルスの反撃にも簡単に潰れない。であればパルス南西部に勢力を広げるチャンスである、と。

 

「行くか?」

 セイリオスが頷く。再編したルシタニア軍に、実戦を体験させたいのである。パルス軍との激突の前にミスル軍と戦うというのは、練習相手として悪くない。

「条件がある。指揮はボードワンに執らせろ」

 お前は軍監だ、とギスカールは告げた。ルシタニア軍の重大な欠陥で、大軍の指揮を執れるのはギスカールとセイリオスだけなのだ。軍と爵位を切り離すことは、これまでできなかった。

 だからギスカールとしては、まずボードワンとモンフェラートの二人を育てたい。それに弟以外の人間が指揮を執った時の力を見たいという思いもある。パルス戦役の後のことまで考えれば、必要な措置である。

 ミスル軍は10万弱と見込まれる。ボードワンにも同数の兵力を与えた。セイリオスのアクターナ軍も参加するが、これは本当に危なくなった時に参戦するだけだ。

「…さて、ボードワンはどうするかな」

 モンフェラートが残りの軍を纏めている以上、エクバターナに不安はない。シンドゥラの内紛が片付くまで、パルス軍の出撃もない。ここは、ボードワンのお手並み拝見、と行こうと思う。

 

 

 新生されたルシタニア軍の速さは、ミスル軍を驚愕させるに充分だった。こちらがパルスに攻め込むどころか、相手の方が国境であるディジレ川を越えてきそうな勢いである。

「ルシタニアは、何を考えている」

 ホサインが喚いた。パルスの南西部は、まだルシタニアが支配している土地ではない。競合する地であるのは事実だが、自分が攻めようと思ったのはパルスの残党なのである。

 ルシタニアがここまで迅速に動くというのは、ホサインの予想にはない。

 

「陛下、迷っている時間はありませぬ。ここは全力で迎撃致すべきでしょう」

 勇ましく言ってきたのは、マシニッサという若い将軍であった。ミスル一の勇者と謳われる、ホサイン期待の若獅子である。

 宿将のカラマンデスも、若き同僚の言に頷いた。理由が何であれ、ルシタニアが戦おうとしてくるのであれば、戦うしかないではないか。

 ミスル軍はマシニッサを先鋒にカラマンデス将軍が総指揮を執り、進発した。対するルシタニア軍は、3つの丘に陣を構えた形で待ち受けていた。

 

「本当に何を考えているのだ、ルシタニアは」

 マシニッサが嘲るように言った。ミスル軍から見ると、ルシタニア軍は3つに分裂しているようにしか見えない。正面に突っ込めば三方から敵に包囲される形になるが、そんな愚劣な戦をする馬鹿はいない。

 後ろに3万ほどの軍がいるが、連動するには遠すぎる。気にしなくていいだろう。左右のどちらかから潰していけば、勝利は疑いない。

「よし、攻撃開始」

 左の敵から叩くと決めた。後方のカラマンデス将軍に伝令を出す。残る2軍の連携を断ち切ってしまえば、自分の先鋒だけで叩き潰してやる。マシニッサは迷うことなく、自軍に丘を駆け上がらせた。

 

「………」

 セドリウスは腕を組んだまま動かない。ミスル軍に臆したわけではない。セイリオス殿下のアクターナ軍と対峙した恐怖を思えば、あれは数が多いだけの軍だ。

 第10山羊座騎士団(カプリコルニオ)1万と2万の軍。それがセドリウスの掌握する戦力である。ミスル軍の先鋒も3万程度の軍である。それが丘の中腹まで差し掛かった時、セドリウスは叫んだ。

「射よ!!!」

 号令一下、矢が敵軍に降り注ぐ。ロングボウに換装された弓兵の放つ矢は、ミスル兵の盾や鎧をたやすく貫通した。一月ばかり、この弓の使い方だけを徹底的に教え込んだ甲斐が今発揮されている。

 坂下から駆けあがってくる敵を、坂上から射る。どちらが有利かは言うまでもない。しかも弓の威力は圧倒的にこちらが上だ。ミスル兵が放つ矢は、大型の盾で防げる。一方的な矢戦となった。

 

「騎馬隊と駱駝隊を押し出せ!!!突撃だ!近接戦に持ち込めば、弓は使えぬ!」

 ミスルは砂漠の国である。砂上での移動となると、馬より駱駝の方が強い。それゆえミスルの騎乗兵は馬だけでなく駱駝にも乗る。砂場の戦いであれば、ミスルの駱駝隊はパルス騎兵をも上回る。

 だが、遠距離戦で不利なら近接戦に持ち込もうというマシニッサの判断は短絡的すぎた。彼の頭にあったのは、ここで引いたら自分の面目が丸つぶれになるということだけだったのである。

 駱駝隊は、鎖帷子で駱駝まで武装させている。だがそれを、ルシタニアの弓は穿ち抜く。交代で射かけてくる矢は途切れることなく、ミスルの駱駝隊を傷つける。軽装の騎馬隊は、もっと酷い。

 

 大きな損害を出し、それでも速さで混戦に持ち込んだ。陣頭を駆けたマシニッサが臆病者でなかったことだけは確かである。

 しかし、ルシタニア軍もかつてのルシタニア軍ではない。弓兵が下がると、今度は歩兵が槍衾を並べて待ち構える。

「怯むな!押し切るぞ!俺に続け!!!」

 それは自分自身に対する叱咤でもあった。流れるような敵軍の動きに、一瞬どきりとしたのだ。それを押し隠すように、腹の底から雄叫びを上げる。

「防げ!密集隊形を崩すな!!!」

 セドリウスも声を嗄らす。彼は端くれとはいえルシタニアの貴族であった。爵位も無かった他の奴らに負けてなるものかという矜持がある。

 

 マシニッサの剛勇は、確かにミスル一を名乗るにふさわしいものであった。敵の槍を弾き返し、斬り込む。その一角は、明らかにミスル軍が押している。

「進め!進め!進め!」

 マシニッサとセドリウスでは、単純な力比べとなればマシニッサに分があるようである。現状、損害はミスル軍の方が大きい。だがマシニッサは押し切れると見た。

 ただ、彼に欠けていたのは全体を見る目であった。マシニッサと戦っていたのは、通常軍の2万でしかない。精鋭である山羊座騎士団1万は無傷のまま、機を待っていた。

 

「将軍!」

 副官の、悲鳴に近い声を無視する。今山羊座騎士団1万を投入すれば、劣勢も盛り返せるに違いない。だが、まだ機ではない。

(あの男だ)

 セドリウスはマシニッサだけを見ていた。あの男さえいなければ、ミスル軍を崩壊させるなど容易い。

「俺の弓を持ってこい!」

 叫んだ。慌てて差し出された弓を、一杯にまで引き絞る。アーレンスの強弓には遠く及ばないが、この長弓(ロングボウ)にかけては名手と名乗るに足ると自負している。

 ぶうんと弦が鳴り、放たれた矢はマシニッサの体に吸い込まれるように飛んで行った。

 

 不意に矢唸りが聞こえ、マシニッサはとっさに腕で顔をかばった。小手を貫き、右の臂に矢が深々と突き刺さる。右手が力を失い、剣を落とす。駱駝から落ちそうになるのだけは、必死でこらえた。

「しまった!」

 左手は駱駝の手綱を握らねばならない。右手負傷となれば、戦闘はできないということである。マシニッサの剛勇に引きずられていたミスル軍の勢いが止まった。

「全軍、総反撃!!!」

 セドリウスの号令に、ルシタニア軍の前衛と後衛が入れ替わった。山羊座騎士団1万が前に出てきたということである。その勢いに押されたミスル軍が坂を転げ落ちるように後退を始め、程なく潰走に移った。

 




強化されたルシタニア軍vsミスル軍。
本隊同士の激突は、次回にて。長くなりすぎてここで切るしかなかったもので…。


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12.アズザルカの戦い・後編

 後方ではボードワンがカラドックとグロッセートを両翼として、カラマンデス将軍と激突していた。だが、ミスル国の誇る歴戦の宿将の顔に、余裕の色はない。

(ルシタニアとは、これほど強かったのか)

 アトロパテネの戦いは、ルシタニアの大勝利に終わった。だがあれは、罠に嵌めた上での虐殺だ。にもかかわらず大損害を受けたルシタニア軍である。正直、弱兵の集まりと思っていた。

 それでもカラマンデスは、ボードワンの攻撃を充分凌ぎ切れるだけの力量を持っていた。彼の失策は、後方にいた軍を気にしてしまったことである。

 

 カラマンデスは、マシニッサよりはるかに視野が広く、慎重である。それゆえ、後方の軍について無視することはできなかった。しかもその軍旗が深緑にルシタニアの紋章となれば、なおさらである。

「アクターナ軍とは…」

 ルシタニア最強の軍団という噂は知っている。パルス軍を鎧袖一触に蹴散らしたという話も聞いた。その軍が後方で静まり返っているのは不気味だった。いつ、どのように介入してくるか、予想できない。

 カラマンデスは2万ほどの軍をどのような状況にも対応できるよう、遊軍とした。アクターナ軍が動いた時には、時間稼ぎとしてぶつけるつもりである。

 だが、神の視点から見れば、カラマンデスはその2万をマシニッサの援護に使うべきだった。あるいはさっさと同僚を見捨てるべきだった。勝手に戦端を開いたのは彼だ。総大将として、糾弾の資格はある。

 

 一方のボードワンにも焦りがある。アクターナ軍の存在が敵軍を掣肘してくれるという期待はあり、その通りになった。

 それが、押し切れない。ルシタニアの名将とか言われても、カラマンデスに劣る程度なのか。たかが、パルス軍との決戦の前哨戦。そんな戦いで軍人としての自分は終わってしまうのか。

 あと一手。もう少しなのだ。山羊座騎士団は、と気になって丘を見上げた。これが、勝敗を決した。マシニッサ軍の動きが、大きく乱れた。

「続け!!!」

 それを見たボードワンは、旗下である第2牡牛座騎士団(トウロ)を従え突撃を開始した。さすがにルシタニア軍の精鋭である。互角だった形勢が、優勢に変わる。

 同時に、カラドックの第7天秤座騎士団(リブラ)とグロッセートの第12魚座騎士団(ペイシェス)も大攻勢に出た。

 

 カラマンデスは迷った。2万の遊軍。これを使うべきなのか。だがアクターナ軍に対する備えはどうする。備えが無くなったところに攻撃を受けたら、全軍崩壊は確実である。

「全軍、防戦に徹しつつ後退だ!マシニッサも合流させろ!」

 アクターナ軍が後方から姿を消していた、というのがカラマンデスの迷いを生んでいた。応戦しつつ後退、一度距離を取り軍を再編する。敵優勢と言っても、一時的に力を振り絞っているだけだ。

(今は守勢を保ち、その後一気に反撃に出る)

 だが、カラマンデスはわずかに気付くのが遅れた。押していたはずのマシニッサ軍が、なんと坂上から崩れ落ちてくるではないか。味方の濁流をまともに受ける形となり、カラマンデスも崩れた。

 

 この状況で、それでもカラマンデスは名将と評するに足る男であることを証明して見せた。潰走を始めた軍の中で近習を叱咤し、踏みとどまらせる。

 核となる部隊があれば、兵も踏みとどまる。ついにはルシタニアの攻勢を、局地的にだが跳ね返した。全軍潰走の危機から、ここまで盛り返したのだ。

(時間さえ稼げば―)

 ルシタニア軍の大攻勢も、いつまでも続かない。敵の攻勢が限界に達したところで、残った力を全てぶつけてやる。死んでもいい。誇りにかけて、最後に一矢報いて見せる。

 

 ルシタニア軍の攻勢が弱まった。カラマンデスが号令をかけようとしたその時―。

「何だと?」

 恐ろしい力がカラマンデスを襲った。それはこれまでのルシタニア軍とは比較にならぬ圧力で、一撃でカラマンデス隊を粉砕した。軍旗は深緑に紋章。アクターナ軍である。

 もう、どうしようもなかった。立ち止まる者のいなくなったミスル兵は、ディジレ川を越えるまでひたすら逃げた。カラマンデスも逃げに逃げた。川を渡って、ようやく軍を再編する。マシニッサの姿も見えた。

 最後のあれは、何だったのだ。カラマンデスは後悔や屈辱より、まずそう思った。

 

 新生ルシタニアとしては幸先のいい門出となった『アズザルカの戦い』であるが、指揮を執ったボードワンに喜色はない。

「………」

 視線の先にあるのは、アクターナ軍だ。最後の介入が不満という訳ではない。最後の最後、敵軍を崩しきれなかったのは自分の力不足だ。あのままでは、勝ったにせよ決死の反撃を受けていた。

 だからボードワンの屈託は、アクターナ軍の圧倒的すぎる強さに対する自軍のふがいなさである。羨望と言ってもいい。司令官の能力、指揮官の資質、兵の練度。全てにおいて、果てしなく遠い。

「……どうすれば、あれに届くのだろうな」

 副将のバラカードに呟いた。答えはない。答えられることではないだろう。他の三将が集まったとのことである。主将としての任を果たさねばならない。

 

「皆、ご苦労だった」

 内心を押し殺し、皆をねぎらう。そうするだけの理由はある。カラドック、セドリウス、グロッセート。この3人は、少なくとも以前のルシタニア軍では考えられない優秀な指揮官であろう。

「勲功第一は、セドリウス将軍だ。敵はミスル軍の猛将マシニッサであったという。その攻撃を跳ね返し、潰走させた」

 セドリウスが誇らしげに胸を張る。マシニッサを逃し画竜点睛を欠いたが、他の連中とてカラマンデスを取り逃がしたのだ。自讃を差し引く必要はない。

「今回の戦いは、パルスと戦う際ミスルが介入せぬよう、大きく叩くためだ。その目的は果たされた。よって、帰還する」

 反対する者は誰もいない。以前なら、このままミスル首都のアクミームまで攻め込もうと言い出す馬鹿が必ずいたはずである。粛々と、帰路に就いた。

 

 だが、無理矢理威厳ありそうな態度を取るのも、また疲れるものだ。ボードワンはそう思った。ギスカールに認められて今の地位に就くほどになったが、どうにもこうにも窮屈この上ない。

 威厳とか礼儀より、粗暴と言われるほどざっくばらんな付き合いの方が、自分には似合っている。

(モンフェラートの奴は、似合っているが)

 自然にそういうことのできる同僚を、うらやましく思った。

 

 エクバターナに帰還したボードワンは、イノケンティス王直々の褒詞を賜った。群臣居並ぶ中で、今度の戦勝を激賞されたのである。

 軍事に疎いイノケンティス王に褒められても、嬉しいのか嬉しくないのか微妙な気分になる。とはいえ名誉には変わりない。ボードワンの屈託も、ようやく晴れた。

 恩賞も満足いく程度には出ている。これまでは戦勝に対する恩賞など、無いも同然だった。聖職者が食い散らかした残り物を投げ与えられていたようなものだったのだ。

「聖職者が戦場で何をしたと言うのだ。我々は命懸けで戦ったのだぞ」

 そう思って不満を溜めていたのは、ボードワンだけではない。大なり小なり、誰もが持つ不平不満であったと言っていい。

 軍人にとっては、いい方向に変わっているようだ。ボードワンは下げた頭の裏で、満足そうに笑った。

 

「ミスルの名将と名高いカラマンデスと、互角か」

 ボードワンは良くやったと思う。他の3将も、ギスカールを充分満足させる働きを見せた。ルシタニア軍が強くなっていることは、間違いない。

 ミスル軍の損害は、討ち取った者およそ7千、捕虜となった者もほぼ同数。失った兵力は優に2万を超えるはずだ。

 一方のルシタニア軍は、主にセドリウスの部隊に損害が出たが、死者重傷者合わせて1千。最後にセイリオスが介入したから、この程度の損害で済んだ。

 

「ホサインにとっては、想定外の大敗だろうな」

 元々、ミスル国王ホサイン三世は戦を好まない王である。平和主義という訳でなく、戦の機を見る目がないのだ。だから充分に準備を整え、利害を見極めた上でしか戦わない。

 その計算が崩れると、こういう男は脆い。次はさらに慎重に慎重を重ね、結果として機を逃してしまう。

 おかげで、ルシタニアはしばらくの安寧を得たわけだ。シンドゥラ遠征が終わり、アルスラーンのパルス軍が攻め込んでくるその時まで。

 

「ついでだ。さらにホサインを惑わすために、捕虜の交換を申し入れるか」

 交換と言ってもルシタニア兵とでは数が釣り合わないので、金銭でだ。別にギスカールががめついわけでなく、身代金を取って捕虜を解放するのはごく普通のことである。

 だが、国交を閉ざしたくはない、全面戦争はこちらも避けたいという意思表示となる。さて、それに対し、ホサインはどう出るか。

(おそらく、中立を保つ)

 ギスカールはそう見た。事実、その通りであった。ルシタニアと全力で衝突すれば、喜ぶのはパルスの残党だけである。機はまたあるだろう。ホサインはそう考え、捕虜交換を受け入れた。

 

 

「……カラマンデス、マシニッサ、敗軍の責を問おう。………捕虜交換に必要な代価の一部を、そなた達の私財から賄うこととする」

 つまりは罰金刑を、少し洒落た言い回しとしたわけだ。そのくらいで済んで、二人ともほっとしたようである。遠い異国のことなど知る由もないが、これがチュルクのカルハナ王なら死刑確定であった。

 それはホサインがカルハナより寛容である、というだけではない。二人を失ったら、ミスル軍は骨の抜けた体のようなものになる。今はまだ、処罰の時ではない。

 それに客観的に見て、この二人は良くやった。マシニッサの武勇、カラマンデスの統率、どちらもミスル一の名を辱めないものであったのは事実だ。

 問題は、この二人が「ミスル一である」ということなのである。このありさまでは、パルスやルシタニアと渡り合うなど、とても覚束ない。

 

(軍を強化せねばならぬ)

 ルシタニアの噂は聞いた。国王派と教会派で分裂し、大きく空いた穴を埋めるため若手や下級貴族だろうがどんどん抜擢したという話だ。そのごたごたで弱体化したと思っていたら、まったくの逆だった。

 何をどうすればそうなるのか、ホサインには全く解らない。埋もれていた人材を掘り出した、と口にするのは簡単だ。では、どうやってその人材を探し当てればいいのか。

(とりあえず、この男は使えぬな)

 ちらりと群臣の端にいる男を見た。ナーマルドであった。オクサス陥落後、パルスを裏切り、ルシタニアに愛想を尽かされた彼は、這う這うの体でミスルに逃げてきたのである。

 

「……パルスの大貴族だからと言うので客分として認めてやったが、とんだ穀潰しであったわ」

 個人的な武勇も軍を統率する力もない。持ってきた情報も大したことがない上、個人的な感情が入りすぎて正確さに欠ける。調べてみれば、オクサスでの人望もない。

(殺して、首だけルシタニアに送ってやるか)

 ほとほと、ホサインも扱いに困っていたのである。今回の侵攻を唆した男、ということで弁明の役に立つかもしれない。少なくとも、無駄な食費を一人分減らせることは断言できる。

 

「………」

 しかし、と思いとどまった。ミスルにいるパルス人はナーマルドだけではない。パルスとはたびたび争った仲ではあるが、交易まで拒絶してきたわけではなく、むしろ奨励していた。

 結果として、国都アクミームを始め、主要な都市となればパルス人のコミュニティが形成されているのである。ルシタニアを恐れてパルスの貴族を殺したなどという噂が立つのは避けたいところだ。

 何より、ルシタニアはナーマルドなどと言う小物を相手にしていない。そんな男の首を送ったところで、感謝されるか、どうか。いくら何でも、もう少し意義のある使い方をしたいところだ。

(……やめておこう)

 結局、ホサインは現状を追認しただけであった。彼の政治は、いつも生温い。

 




書いているうちにカラマンデス将軍がこの戦いのMVPになってしまいました。
まあ、原作では何の活躍できなかった彼なので、ここで多少報われてもいいでしょう。


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13.アクターナ軍の訓練

「引くな!引くな!」

 カラドックが、声を嗄らして叫ぶ。が、敵軍の勢いを止めることはできない。モンフェラートはそれを見て、ぎりと奥歯をかみしめた。

「強すぎる…」

 以前は、3倍の兵力でも打ち破ると言われていた。そのころから見れば見違えるように強くなったはずのルシタニア軍だが、依然としてアクターナ軍には遠く及ばない。

 

 第7天秤座騎士団(リブラ)の潰走を何とか食い止めようと、パテルヌスの第4蟹座騎士団(カンセル)が横合いから突きかかろうとした。

 アクターナ軍は二つに分かれ、一隊を蟹座騎士団に向ける。わずかだろうと自分に対する圧力が弱まるはずだ。そう考えたカラドックは後退しながら軍を再編しようとした。

 しかし、それが陥穽だった。アクターナ軍は敵の後退に合わせて加速し、カラドックを粉砕した。及び腰で、アクターナ軍の突撃を防げるはずがない。カラドックは唖然とする他になかったであろう。

 カラドックが討ち取られ、天秤座騎士団が崩壊した。副将が素早く敗兵を纏め軍を再編しようとする。蟹座騎士団の奮戦で何とか危機を脱し、それは成功するかに見えた。

 

 その瞬間―。

「敵襲だ!」

 誰かが絶望の悲鳴を上げる。騎馬隊が、後方から突っ込んできた。およそ2千。だが腰の据わってない天秤座騎士団の敗兵に、この突撃を受け止めることはできない。今度こそ、完全に四散五裂する。

「………」

 モンフェラートには手の打ちようがない。天秤座騎士団を崩壊させた敵軍は、蟹座騎士団を包囲殲滅する。パテルヌスは仲間を救おうと突出しすぎていた。

 パテルヌスも、そんなことは承知の上である。天秤座騎士団が壊滅したのを見るや、即座に後退を命じている。だが問題は2千の騎馬隊。あれに背後を扼されれば、それで終わりだ。

 モンフェラートの第1牡羊座騎士団(アーリス)とグロッセートの第12魚座騎士団(ペイシェス)は、対峙している相手の対応をするだけだ。とても、他を救う余裕などない。

 

 モンフェラートの部隊から、騎馬隊が奔った。およそ五百。命令など出していない。先頭を駆けるのは、銀の仮面で顔を隠した男である。従う者は、パルスの騎兵。

 五百とはいえ、カーラーン麾下の精鋭である。銀仮面卿の武勇も並外れていた。アクターナ軍の騎馬隊に、横合いから突っ掛ける。

 だがアクターナ軍はすぐさま騎馬隊を二つに分け、銀仮面卿とすぐ後ろにいる男を避けてパルス騎兵に突っ込んだ。銀仮面卿はすぐさま方向転換、アクターナ軍を突き破り、部隊を纏めて脱出する。

 その間にパテルヌスは、多大な損害を出しながらも後退に成功した。銀仮面卿の援護がなければ、包囲されていたであろう。

 

「部隊を再編しろ、急ぐのだ!」

 モンフェラート軍の残存兵力は、およそ3万。アクターナ軍は今だ3万8千はあるだろう。4万同士の激突で、こうも差がつくのか。挽回の策など無い。できる事はただ一つ、ひたすら粘るだけだ。

 損害が少ない分、再編はアクターナ軍の方が早いはずだ。だが急ぐ中で鐘の音が響き、モンフェラートは肩を落とした。

 どうやら、イノケンティス王が空腹を覚えたらしい。アクターナ軍も気が抜けたのか、張りつめていた緊張を解いた。模擬戦は終わりである。

 

「いやはや、セイリオスは強いのう」

 イノケンティスに王として美点があるとすれば、弟たちを全く疑わないことであろう。普通なら、嫉妬や簒奪の不安からろくでもない手に出るものだ。それが、全く無い。

 今も、アクターナ軍の強さを無邪気に喜んでいた。珍しく、軍を見たいと言い出したのである。どんな風の吹き回しかは不明だが、最近は運動を始めたり、砂糖水の量も減らしているらしい。

 もっとも、ルシタニア料理の質が向上したため、食べる量が以前より増えている。そのため、腹回りの方はほとんど変わってないとのことだ。

 

 十二宮騎士団(ゾディアク)の四騎士団4万と、アクターナ軍4万の模擬戦。ただ一人、完膚なきまでに打ち砕かれたカラドックは俯いていた。

 ただしこれは、最初に狙われた不運というだけであろう。終了の鐘が鳴らなければ、次はだれがやられていたことか。同数の激突だったにもかかわらず、モンフェラートは常に圧倒されていた。

 一応、理由はある。4万の内、アクターナ軍の騎兵は1万。対し十二宮騎士団はそれぞれが1千強、全体で5千程度と、半分しかいない。機動力で劣るのは当然だ。

 だが、パルス軍を相手と考えれば、騎兵戦力の劣勢は必然である。それをどうするか考えねばならぬ立場であるモンフェラートには、言い訳にすることはできない。

 唯一、互角と言える働きを見せたのは、銀仮面卿の五百騎だけだろう。さすがはパルスの騎馬隊、と言うべきか。その彼は仮面のせいで表情が解らないが、ただアクターナ軍を睨みつけていた。

 

 アトロパテネの会戦が、10月16日。エクバターナ陥落が11月6日。ボダンたちを追放したのが、12月の半ばだった。1月の下旬にミスルとの戦いとなり、今は2月に入ったところである。

 いまだ、4か月に満たない。その間にルシタニア軍は大きく変わった。もはや別物と言っていい。そしてアクターナ軍も、2万5千を4万に拡大したのである。

 ただ、対峙して感じたことであるが、急速に4万に規模を拡大した結果、古参兵と新兵の間に壁が生まれた。新兵の動きが、1段劣る。2万5千と1万5千の二軍団、という感じである。

 もっとも、その新規の1万5千でも十二宮騎士団より強いのだ。セイリオスはこの1万5千に、2か月に亘ってモンフェラートが内心引くほどの苛烈な訓練を施した。

 

 今日は、その最後の訓練だということだ。朝から始まった実戦さながらの模擬戦が終わり、少し早いが昼食となった。

「………」

 新兵は、無言で食事を胃に押し込んていた。最後なのだから、午後はより苛烈な訓練になるのだろうと皆が思う。少しでも体力を回復させ、温存しておきたい。

 確かに強いが、暗い軍である。負けた自分が言える立場ではないが、これでいいのだろうかとモンフェラートは思う。

 昼食の間に、午後の訓練が伝達された。それを聞いて、新兵は耳を疑った。

 

「まず、川で躰を洗え。馬もだ。次いで馬を休ませ、武器や鎧の手入れだ。終わったら昼寝するなり好きにせよ。ただ、宿営地から出てはならない」

 古参の2万5千はにやりと笑い、新参の1万5千は呆然とした。昼寝どころか夜の睡眠すらとれるかわからない生活だったのだ。本当に、それが訓練なのだろうか。

 モンフェラートたちは解散である。十二宮騎士団の兵士たちは、胡散臭そうな目をして帰って行った。モンフェラートも、何が始まるのか全く理解できない。

「貴公らも一度やってみろ。これが、最も大事な調練だ」

 セイリオスはそう言っただけだ。そのまま、夕暮れが近づいた。

 

 漂う匂いに昼寝から目覚めた新参兵たちは、目を見張った。宴会の準備が整えられていた。古参兵が、「よう、寝過ごさなくて良かったな」と軽口をたたく。彼らが用意してくれたのは明白だった。

「諸君らは、よく耐えた。私の麾下に諸君らを迎えられたことを、誇りに思う。これは、歓迎の宴だ」

 今日ばかりは、肉も酒も惜しみない。各所で牛が丸焼きにされており、削いだ肉を好みの野菜と一緒にパンに挟んで齧り付く。米もあった。大鍋で、羊肉と一緒に炊いたものだ。

 酒の方は葡萄酒、麦酒の壺が数えきれないほど並んでいる。やめろと言われたのに蒸留酒に手を出した痴れ者がいて、一口飲んでむせ返り、皆の笑いものになった。

 アクターナ軍は決して質素倹約に努めているわけではない。戦中や訓練中はともかく、宿営地での食事は兵たちの憩いであることを充分わかっていたからだ。が、ここまでの大盤振る舞いは、例がない。

 

「おい、そこの小僧、うちの名物も食っていけや」

 新兵の歓迎のために、古参兵は部隊ごとに何か作るのがこの宴の恒例となっている。この部隊は魚介類と芋や野菜の煮込みである。奴隷だったルクールからすれば、贅沢極まりない。

「お前さん、殿下が拾ったってガキだろ。まったく、災難だったな。…今、いくつだ?」

「15です」

 短く答えた。災難、だったのだろうか。姉弟そろってセイリオスに拾われた。旧主の仇だったはずの男に、痺れるような思いを受けた。そして、今やアクターナ軍最年少の兵士である。

 

「ほらよ、たっぷり食っていきな。……実を言うとな、新兵の評判の良かった部隊には褒美が出るんだよ」

 先輩に手ずからよそってもらった煮込みを口にする。パルスの味とは違う、素朴だが豊かな味が口中に広がった。美味いと言い、夢中で匙を口に運ぶ。

「おいおい、食うの速すぎだろ。…たく、まだまだガキだなあ」

 奴隷であったこの前までと、今。どちらがいいかと問われれば、今と答えるしかない。少なくとも、こういう心の触れ合いを感じたことはなかった。

 だから、嬉しかった。奴隷でしかなかった自分が、こうして認めてもらえる。確かにこの2か月は辛かったが、それに耐えきった自分は殿下も認めるアクターナ軍の兵士なのだ。それは誇りとしていいと思う。

 似たような光景はあちらこちらで散見され、夜は更けていった。

 

「……これが、彼の軍の強さの秘訣なのでしょうな」

 宴会が始まったと聞いてアクターナ軍を見に来たヒルメスに、サームが言う。ただ厳しい調練を積んだというだけではない。士卒の心を掴んでいる。軍の真の強さは、そこにある。

 サームの言葉は、アクターナ軍を誉めているだけでなく、ヒルメスに対する諫言でもあった。ヒルメスは確かに勇敢だ。指揮官としての能力も十二分に持っている。だが、士卒の心を掴んでいない。

 何故か。ヒルメスの血に対する執着が悪いのである。自分がパルスの王であるのは当然である、と思っているのは、まあいい。だが王に民も兵も従うのは当然、と思っているのは、教導しなくてはならない。

 

(殿下の視野が広まれば、王や王太子とも和解できるやもしれぬ―)

 それがサームの理想であり、ヒルメスに降った理由でもある。このままでは、この人はパルスという国に厄災をもたらしただけの存在になってしまう。王家に対する忠誠心が、それだけは許さない。

「パルス人による部隊を設立したい、だと?」

 翌日、サームは早々にギスカールに謁見を申し込んだ。エクバターナにはかつて―と言ってもわずか4か月にしか過ぎないのだが―自分に従った部下たちがいる。ガルシャースフの部下もいるはずだ。

 

「その者たちは、エクバターナの闇に潜み、パルス軍の旗幟が迫れば内から呼応することを考えているでしょう。…ですが、私なら説得する自信があります」

 まるきりの嘘、というわけではない。将校が生き残れば、そのくらいは当然に考える。そしてサームは部下から慕われていた。いくつかの部隊とはすでに接触しており、感触は悪くない。

「銀仮面卿を将軍と仰ぎ、ルシタニアのために戦いたいと思います」

 銀仮面卿の強さに惚れた。降伏した理由を、サームはそう説明している。下手な演技がどこまで通用するか不安なところではあったが、ギスカールもセイリオスもあまり頓着しなかった。

 

「よかろう、ボダンのような輩ならともかく、俺もセイリオスもその必要性は感じていたのだ。貴公がやってくれるのであれば、3万の軍を編成するための費用を出そう」

 そしてまた、今回もあっさりと認められた。こうなると逆に不安になってくる。イノケンティス王はともかく、王弟二人は間違いなく傑物だ。この甘さが、ただの油断や好意であるはずがない。

「ただし、急いでもらう。アルスラーンと戦う時はそう遠くない。その際は、先鋒となってもらわねばな」

 そのくらいのことは、覚悟の上である。もっとも、従う気などサームにもヒルメスにもない。3万の軍を編成したらバダフシャーンに奔り、カーラーンと合流する。ヘルマンドス城を攻略できるかが山だ。

 

 ギスカールの元を辞すとすぐさま布告を出し、軍の編成を始めた。数千の兵が集まった。サームの人望と根回しのおかげであろう。

(数だけなら、3万は難しいことではない―)

 数千もの人が集まると、時流が生まれる。様子見をしていた者も心が揺れ動いて、参加しようという気になるだろう。それを、限られた時間でどこまで精強にできるか。

 そして3万の軍を持つことで、ヒルメスが成長してくれればよい。部下の命を預かることの重みを、彼には理解してもらわねばならない。

 

 そのヒルメスは、3万の手勢を持てることを単純に喜んだ。もちろん彼とてギスカールに何かしらの狙いがあることぐらい気付いている。

「だが、カーラーンの軍と合わせて7、8万。ヘルマンドス城を落とせば10万を優に超える。ギスカールの狙いが何であれ、ルシタニア軍がいくら精強になろうとも、充分対抗できる力だ」

 問題はただ一つ、上手くエクバターナを脱出できるか、だ。だが、カーラーンと共にヘルマンドス城を攻略せよという命令が下り、ヒルメスもサームも耳を疑った。

 

「何を考えているのだ、ギスカールもセイリオスも」

 まるで、虎を野に放つようなものではないか。あまりにも出来すぎている状況に、ヒルメスも疑心の方が先に立った。

「アルスラーンの反攻が予想より早くなりそうな一方、カーラーンのバダフシャーン攻略が一向にはかどらない。このままでは、ペシャワールから出た軍を西と南から挟み討つという戦略が成り立たないのだ」

 ルシタニア軍を送ろうにも、カーラーンの指揮下に入るのを肯ずる将軍はいない。カーラーンとしても、パルス人の方が連携しやすいであろう。

 ギスカールの主張はざっとそのような事であり、一応全く道理が通ってないわけではないのだが…。

 

「乗るしかないことを見越して言ってきた、としか思えませんな」

 そう、確かに乗るしかない。ギスカールの狙いが何であれ、拠って立つ地を得ない限り、先の展望は開けないのだ。

 そして、ヒルメスがバダフシャーンの地で独立するのは、決してルシタニアにとって不利なことではない。上手く使えばアルスラーンとヒルメスが噛み合うことになろうし、最悪でも牽制にはなる。

「だが、奴らは俺の正体を知らん。そこに付け目がある」

 ヘルマンドス城を落としたら、すぐさまパルス全土に檄文を送る。それで集まる兵力は、ルシタニア側の計算にはないはずだ。

 

「……そうだ。サームもザンデも、アルスラーンについて、噂でも何でもいい、何か変な話を聞いたことがないか?」

「…は?」

 いきなり脈絡のないことを聞かれ、サームがつい間抜けな声を漏らしてしまった。だがヒルメスにしてみればちゃんと繋がっていることなのである。檄文の文面を考えているうちに、ふと引っかかったのだ。

「バフマンが奇妙なことを口走った。俺の窮地に『その方を殺せば、パルス王家の正統の血は絶えてしまうぞ』と」

 アルスラーンを追い、ペシャワール城に単身潜入した時のことである。天の情けかアルスラーンと一対一で向かい合ったが、辛くもアルスラーンは生き延びた。

 そして逆にヒルメスがダリューン、ナルサス、キシュワードらパルスでも屈指の勇者に囲まれ、さすがに覚悟せざるを得ない状況となった。バフマンの声に動揺した皆の隙を突き、城壁から水堀に飛び込んで逃げた。

 

 今までさほど気にしなかったのは、「アンドラゴラスとその息子のアルスラーンは傍流に過ぎない」と思っていたからである。

 正統とはすなわち嫡流であるとヒルメスは考える。故にヒルメスが死ねば正統の血が絶えるのは当然至極。傍流の血は残るが、それは『正統』と認めることはできない…。

 だが、バフマンもそう考えていたのだろうか。あの言葉は、もっと単純に考えるべきではないのか。すなわちアルスラーンにはパルス王家の、英雄王カイ・ホスローの血が流れてないから……。

 そういえば、アルスラーンの追跡中にナルサスも変なことを口走った。「たとえパルス王家の血をひかぬ者であっても、善政をおこなって民の支持をうければ、りっぱな国王だ」と。

(もしかしたら、ナルサスは知っていたからこそ、そう言ったのかもしれん)

 これは邪推のし過ぎであったが、ヒルメスにとっては魅力的な仮説であった。アルスラーンはパルス王家の血を引いてなく、ナルサスはそれを承知で王として擁立しようとしている…。

「調べる必要があるな」

 向かった先は、地下牢ではない。アンドラゴラスに聞いたところで口を割ることはないであろう。だから、出生の秘密を知るに違いない、もう一人の存在のところへ。

 




バフマンの失言について、漫画版ではヒルメスはすぐおかしいと気付いてますが、小説では王都奪還の時まで気付きません。
そこに理由付けをしてみたらこんな結果になりました。

ちなみに十二宮騎士団の名前はスペイン・ポルトガル語の発音を参考にしています。


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14.内政改革

※※※※※※※※注意※※※※※※※※
この回にはアルスラーンの出生に関する記述があります。
漫画版で追っている方で、二次創作でネタバレされるのが嫌な場合はブラウザバックを推奨します
※※※※※※※※注意※※※※※※※※


「これで、銀仮面も本性を見せるだろう。……さて、宮中のことでも考えるか」

 そう思い、ギスカールは宮廷書記官のオルガスを呼んだ。ギスカールの下で行政の実務を担当している男である。有能ではあるが、セイリオスには遠く及ばない。

「……まず宰相と副宰相を置き、その下に吏部(人事)、民部(民政)、倉部(財政)、礼部(外交)、文部(教育)、兵部(軍事)、刑部(司法)、工部(土木)の大臣を置く」

 これまでのルシタニアは、ギスカールが全権を握り、あらゆる分野を統括することで動かしてきた。だが、広大になった国土を統治するには、官僚組織の整備が不可欠である。

 

「副宰相はセイリオス殿下でございますか?」

 オルガスは内心、にんまりと笑った。言うまでもなく、宰相はギスカール以外にあり得ない。その片腕という自負のある自分は、副宰相は難しくとも、民部か吏部の大臣には任じられるはずだ。

「まあ、当面はそれしかないだろう。できれば、副宰相は複数。その下にも人を置きたいところだ」

 人材不足はルシタニアも抱える悩みである。ホサインがそれを聞けば「あんな弟がいるくせに、なんて贅沢な」と言いたくなるかもしれないが、ギスカールにしたら深刻な問題なのである。

「兵部を預ける者は、デューレンがいいが…」

 兵部は軍政の長である。軍事にも行政にも熟達した者でなければ、到底務まらない。だがセイリオスに対し、やってはならないことがある。アクターナの統治と軍に手を出すことだ。

 ルシタニアのため、という大義がなければ、ギスカールですら火傷では済まない結果となる。それでもデューレンを譲ってもらうとなると、ぎりぎりのところであろう。

 

 そのデューレンは、マルヤムを見事に治めていた。ルシタニアの主力軍にアクターナ軍まで去れば、マルヤムの地に不穏な動きが見えるのは当然のことである。

 彼は、それをことごとく叩き潰した。先日、ついに旧マルヤム王朝最後の反抗拠点であったアクレイアの城を陥落させたのである。これで、マルヤムの反抗はひとまず潰えたと考えていいだろう。

「とはいえ、ボダンの馬鹿はどこまでも祟る」

 城にはマルヤムの内親王二人が籠っていた。降伏勧告には一切応じなかった。当然である。降伏条件を破り両親を焼き殺すなどという真似をした相手を、誰が信じるものか。

 結局、地下を掘り抜き工兵を送り込んで陥落させた。長女は塔から身を投げ、次女はダルバンド内海に逃げたという。ボダンさえいなければ、しなくていい戦だった。

 

 強いて収穫を探すとすれば、改めてデューレンの優秀さが証明されたくらいか。彼はマルヤム兵を率いてマルヤムの内親王を討ったのだ。彼の治政が、民心を得ている証拠である。

 マルヤムも、イアルダボート教を信じる国である。つまり、神が強く人が弱いという、今までのルシタニアと同じ問題を抱えていたのだ。デューレン、すなわちセイリオスの治政は、それをぶち壊した。

「マルヤムの地は、着々とルシタニアのものとなりつつある。そう思わないか、オルガスよ」

 ギスカールが楽しげに笑う。オルガスとて、そう頭のめぐりが悪いわけではない。いい加減、不自然さに気付いていた。ギスカールもセイリオスも、パルスよりマルヤムの統治を重視しているのだ。

「そうだ。我らの真の目的は、パルスの征服ではない。ボダンのような害毒にしかならぬ輩を棄て、ルシタニアを一新させること。そのための廃棄場が、パルスという地よ」

 オルガスは寒気がした。この王弟二人は、やはり自分など及ぶ存在ではない。教会との対決も、全てこの二人の手の内のことであったのだ。

 

「官学もどんどん立てねばならぬな。形だけ作っても、ふさわしい人材がいなければ何にもならん。政治、経済、法学などは当然として、建築や造船など工学系、それに天文学や芸術、料理の学部も作ろう」

 ルシタニアでは、学問とはすなわち神学であり、教育は教会の独占であった。例外中の例外がアクターナであり、この地だけはイアルダボート教から離れた純粋な学問が奨励されていた。

「……となれば、教鞭を執る学者はアクターナから集めるのでございますか?」

「別にアクターナにこだわる必要はない。パルスでも、マルヤムでも、ミスルでも…。シンドゥラ人が自国の建築や料理を教えたとしても、構いはせん。そういった者が喜んで集まってくる。その環境を作るのだ」

 ちなみに、シンドゥラ料理は香辛料をたっぷりと使う、食べ慣れない者にはかなり強烈で刺激的な味である。それが遠征中のアルスラーンらパルス兵を辟易させていることなど、ギスカールが知るはずもなかった。

 

「それに、民に与える爵位の創設を行う」

 全ての人民を貴族にしようというのではない。ギスカールが考えているのは、階級に流動性を持たせたいということである。

「実力さえ発揮すれば、大貴族にもなれる。今後のルシタニアは、そうあるべきだ」

 仮に、最下級は第十五等としよう。ルシタニアに生まれた自由民は、全てこの第十五等の爵位を得る。そこからは実力次第だ。例えば兵役を務め切れば、二等上がる。軍で抜群の功績を立てるごとに、一等上がる。

 もちろん文官にも評価基準を設けるし、国家の慶事の際に与える場合もある。あとは親の爵位によって最初に与えられる爵位に差を設けるなどといった制度も考えねばならないだろう。

 

「これは明確な基準を設け、権力者の恣意で行えないようにしなくてはならぬ。有能はどんどん上に、無能はどんどん下に行く」

 そして爵位の上昇は官職に連動する。例えば大臣になるには第五等以上の爵位が必要、という具合だ。また任官は、爵位が上の方が優先される。もちろん、上級の爵位になれば領地を授けることは、今と変わらない。

 ここで大事なのは、降格も当たり前である、ということだ。今までのルシタニアは生まれですべてが決まった。よほどのことがない限り、貴族に生まれれば貴族として終わる。

「実力もない、堕落した、血胤だけを誇るしかないような奴がのうのうと生きていける時代は終わったのだ。これからは真に実力のある者が評価され、国を動かすことになるだろう」

「はあ………」

 オルガスの理解力が及ばなくなってきた。実務家として優秀ではあるのだが、やはり国家百年の計を図る相手としては物足りない。

 

「並行して、農奴や奴隷解放の制度も考えるぞ。まず地代(小作料)に制限を設け、彼らの生活を安定させる。そして一定額の金銭を国家に収めれば、その身分から解放するのだ」

 イアルダボート教において、奴隷制度は禁止されている。それは事実だが、イアルダボート教の教えが有効なのは信者に対してだけだ。つまり、異教徒なら奴隷にしてもいいのである。

 そしてイアルダボート教にしても、その土地の所有者に使役される小作人、すなわち農奴は禁止していない。後世の道徳観で比較すれば、奴隷と農奴の差は言い方が違うだけである。

 現状では、一度奴隷なり農奴まで落ちたらまず這い上がることはできない。パルスでさえ、奴隷から解放されるにはよほどの能力と運に恵まれねば難しかった。簡単に言えば、主人に目を掛けられることである。

「奴隷制度を廃止するのは政治ではない。それはただの憐憫だ。自分は情け深い存在だと陶酔しているに過ぎん」

 アルスラーンがまさにそれを考えていると知ったら、ギスカールもセイリオスも大笑いするだろう。奴隷を廃止する。人道的に、全く正しい行いであるのは疑いようがない。

 だが、それによって損をするのは誰なのか。アルスラーンは単純に奴隷を所有する裕福層だと思っている。それが間違いなのである。本当に損をするのは、自由民(アーザート)の、それも下層に位置する人たちだ。

 

 奴隷という身分を廃しても、奴隷が行っていた仕事がなくなるわけではない。当然、誰かがそれをやらねばならない。しかし強制されることのなくなった奴隷たちは、より良い職場を求めるだろう。

 結果として、元奴隷と下層自由民の間で、仕事の取り合いになる。それに負けてあぶれた者が、貧困層を形成して奴隷がいなくなった穴を埋めることになる。元奴隷の仕事だ。待遇がいいはずがない。

 一方で、勝った解放奴隷たちも決していい思いをするばかりではない。まず間違いなく、それまでの自由民より安い賃金で雇用される。労働力が一気に溢れるのだから、嫌なら他の奴を雇うと言われるだけだ。

 

 荒れ地に入植させるにしても、農業に携わる自由民はどう思うだろうか。自分たちが独力で苦労して行ってきたことを、国家の保護の元でやっているのである。不満に思わないはずがない。

 それに農作物が過剰になれば、値崩れを起こすのは当然のこと。そして奴隷がいなくなった都市部では、労働力が不足する……。

 なお、すでにエクバターナには、その弊害が現れていた。入植先のマルヤムで値崩れを起こすほどではないが、エクバターナの労働力は不足していた。これもまた、エクバターナを保持できない理由であった。

「故に、奴隷なり農奴身分に落ちても、そこから抜け出す道を作る。それが政治の役割である。解放され自由民になった者には、一定条件をクリアすれば爵位を与える。あとの出世はその者次第だ」

 奴隷でさえ、才覚次第では貴族にもなれる国。あくまで理論上であり、現実には難しいだろう。だが、夢見ることはできる。子孫に夢を託すこともできる。ギスカールの語る未来像を、オルガスは無言で聞いていた。

 

 ただ、一つだけ大きな問題があった。国王の立場だ。実力で評価される時代となれば、イノケンティス王は統治者として失格とする以外にない。だが、廃位という手段は悪手だ。

(臣下が王を廃位できる、としてしまうと、必ずや禍根となる)

 いつか必ず、簒奪を目論む輩が現れる。未来の野心家に道を開いてやっただけの馬鹿な政治家として名を残すのは、真っ平だった。王家の権威は不可侵であると確立しなければならない。

「………」

 ふと、苦笑いした。つい先日まで、その簒奪者になろうとしていた自分であったはずだ。セイリオスが賛同していたら、躊躇なく立ったであろう。

 変わったな、と実感する。ルシタニアも、自分もである。

 

「そろそろ時間か。……兄者ではどうにもならんから、俺が行かなくてはならん」

 この程度のことで面倒くさい、と思いながら、ギスカールは腰を上げた。この時、ミスル国のさらに南方、ナバタイ国から使者が来ていたのである。

 ヒルティゴがシャガードという商人と結託し、ギランの港を制圧した。それによって海の道で繋がることとなったナバタイとしては、ひとまず様子伺いでもしておこうというところであろう。

「ヒルティゴは俺たちに金貨を貢いでいれば、それでいい。…ナバタイか。海の向こうまでわざわざ出向くことはないだろうが、来た者は追い返すまでもない。適当に礼の品でも与えてやればいい」

 ギスカールはこれまでと変わらぬ通商を約束し、使者には礼を持って遇した。双方が贈り物を交換し、友好的に終わったことを喜んで帰すだけのはずだった。

 献上品の中に、一人の少女がいた。その少女は見事な細工が施された銀の腕輪を身に着けていたが、ギスカールは気にも留めなかった。

 

 

「アルスラーンは、誰の種だ」

 蝋のような横顔に、ヒルメスは言葉を叩きつけた。魔性の美というものであろう。16年前の、ヒルメスの記憶にある横顔と、何も変わっていない。

「………」

 タハミーネは無言のまま。もっとも、ヒルメスとてあっさり答えてくれるとは思っていない。アンドラゴラスよりかは与しやすい、と思っているだけだ。

 

「…答えぬか。…では、貴様の子について、何も知りたくないということでよいな」

 確証など全くない、山勘である。だが見事に当たった。タハミーネは慌ててヒルメスの方を振り向き、すぐ罠だと気付いて逆を向いた。図星だと白状したのと同義である。

「やはりそうか。アルスラーンは、貴様の子の代品ということか」

 タハミーネは何も答えないが、肩が震えている。アルスラーンがパルス王家の血を引かない可能性。両親から愛されていなかったという噂。似ていない容姿。様々なことから、導き出された仮説の一つである。

 何らかの理由で、アルスラーンとタハミーネの本当の子が取り換えられた。バフマンはそれを知っており、動揺の中でつい口走ってしまったということだ。

 

「勘違いするな。俺はアンドラゴラスが憎いだけで、その妃個人には何の思いもない。……むしろ、そういう事情なら味方にもなる存在だ」

 タハミーネの本当の子を探し出す。アルスラーンの正統性を否定する、この上ない政略の道具だ。ルシタニアも喜んで協力してくれるだろう。

「………わたくしの子は、女の子でした。わたくしにとって、たった一人の子でした」

 アンドラゴラスとタハミーネの間には、確かに子が産まれた。だがその子は女子だった。パルス王家では、女子は継承権を認められない。

 その出産でタハミーネは身体を害い、二度と子を望めぬ身になった。アンドラゴラスは彼女の立場を守るため、どうしても男子を必要としたのである。

 聞きたいことを聞き終えたヒルメスは、すぐさま次へ向かった。視界から消えた先でにやりと笑った表情の邪悪さを、タハミーネが知ることはない。

 

 

「……銀の腕輪、のう。ここしばらく顔を見せなんだと思っておったら、手土産はパルスの宮中で拾った噂話とな」

 嘲るように、老人らしい口調を使う男が言う。外見から歳を判断すれば、ヒルメスとさほど変わるところはない。だがそれが、まさに上面だけのものであることを、ヒルメスは知っている。

 エクバターナの王宮の、地下である。『尊師』と呼ばれる魔導士と、7人の弟子のねぐらであった。ヒルメスにとっては知己であり、間柄は同盟関係にある相手というのが近い。

「アルスラーンはタハミーネの子ではない。本当の子は女子で、生まれてすぐ神殿に捨てられた。その際、銀の腕輪が添えられたそうだ」

 ヒルメスは、タハミーネから聞き出した話を隠さず伝えた。それを探してほしい、というのが、この男に対する依頼である。

 

「自慢の魔導の中に、そのくらい容易く片付ける力はないのか?」

「……やれやれ、勘違いしているのではないかと思うが、わしは何でも屋ではないぞ。アトロパテネは、それができるから引き受けたのじゃ」

 アトロパテネ会戦にて、カーラーンの裏切りと並ぶルシタニアの勝因が濃霧であった。前線どころか目の前ですら何が起きているか判らないほど濃い霧がなければ、パルス軍が罠にかかることはなかったであろう。

 だが、パルスの気候からすると、あれほどの濃霧は滅多にない。数年に一度もあるかどうかである。それが、あの日は図ったように起きた。その理由は、ここにあった。

 

「まあ良い。なかなか面白い話であるが故に、助言ぐらいはしてやろう。アルスラーンと取り換えられたということは、その子は現在15歳程度、ということじゃな」

 笑いを堪えているように言う。真面目な話をしているのだが、とヒルメスは不快を覚えたが、事情を聞いたらその態度も納得である。

「つい先ほど、ナバタイからの使者が献上していった贈り物の中に、そのような少女がいたという話じゃ」

 なるほど、そういうことであれば笑い出したくもなるだろう。自分も失笑したくなるのを堪えながら、ヒルメスは急いで階段を駆け上がった。

 

「…ふむ、アルスラーンの秘密を知ったか。自分の事は知らぬくせに、いい気なものじゃて」

 ヒルメスが置いていった金貨を無造作に引き出しに投げ込み、今度は隠す様子もなく嘲った。まだ、金目的だと思わせておいていい。利用価値はまだある。

「尊師…」

 闇の中から、控えめな声がした。不満と言えるほどではないが、弟子たちが疑念を抱いているのは判っていた。このところ、自分たちは情勢を傍観しているだけである。何故、動かないのか。

「…正直に言おう。ルシタニアが、ここまでやるとは夢にも思わなんだ。まあ、悪いことではない。パルスをさらなる混沌に陥れてくれるのだからな」

 ルシタニアが勝って、パルスを完全に制圧してしまうのは少々困る。やることは変わりないのだが、どうにも気分が乗らない。相手にしたいのはパルスであってルシタニアではないのだ。

 

 そんな思惑と、さらなる混沌を求め、弟子の一人にルシタニアの大物を一人殺させてみた。その犠牲となったのがペデラウス伯だったが、狙いは大きく外れ、ルシタニアはまるで別の国へと生まれ変わってしまった。

 だが、そのルシタニア首脳部に「エクバターナ放棄の意思がある」と知ってから、『尊師』と呼ばれる男は傍観を決め込むようになった。

「望ましい方に向かっているのであれば、手を出すまでもなかろう。『蛇王』様の復活までは、もう少し時間が必要。奴らは、我らのためにその時間を作ってくれるのじゃからな」

 すべては、パルスをあるべき姿に返すために。『尊師』は小さく笑った。

 




先に釈明しておきますが、アクレイアの籠城戦について原作は「2年」としていますが、これは明らかに不自然なのでこの話では「半年ぐらい」になってます。

以下理由。
1.原作でも「ルシタニア軍はマルヤム大半を1か月で制圧」とある(光文社文庫4巻「汗血公路」の69P)
2.イリーナ王女がアクレイアから逃れてダイラムに逃れ着いたのが321年の4月末
3.となると「2年籠城」の記述に従うと、ルシタニア=マルヤム開戦は319年の春あたりとなり、アトロパテネの1年半ほど前
4.つまり
 ・マルヤムは1年半も籠城しながらパルスに援軍を求めなかった
 ・パルスは友邦が滅亡したのに1年半も無為無策でいた
 となります。
 一応考えてみましたが
 ・大軍の編成に手間取った→いくら何でも1年も手間取るわけがない
 ・他に戦争中で余裕がない→年表を見てみると5年前の3国侵攻以来記述無し
 ・アンドラゴラスが余裕ぶっかまして放置→パルスに侵攻してきたときは国境で迎え撃っている(=マルヤムからパルスに向かった敵軍の動きを掴んでいる)
 ・カーラーンの情報封鎖→商人なり何なり、他の情報源まで防ぐのは無理
 と理由になりそうなことは思いつかず、設定ミスとしか思えませんでした。


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15.銀の腕輪

 フィトナという少女は、冷酷に自分の存在を計算していた。彼女の目的はただ一つ、 自分の幸福を自分の力で手にしたい、というだけである。

 彼女は実の両親を知らない。養父母はそれなりに裕福な商人で、彼女を慈しんでくれたから、別に気にすることもなく幸福に生きてきた。それが崩れたのは、商船が難破して、家が破産してしまってからである。

 別に、養父母がフィトナに辛く当たるようになったわけではない。借金に追われているということもなく、三人でつましい生活を送るだけなら何とかなったであろう。

 しかし、養父母はかつての栄華を忘れらなかったようだ。残された唯一の財産と言っていい、美貌の養女を有力者に嫁入りさせ、それで自分たちも復活しようと考えたのである。

 

「女の幸福は男次第だよ」

 養母はそう口にした。彼女は少し違う考えを持った。男次第だと言うのなら、男を視る自分の眼次第ではないか、と。

 その眼から見て、ナバタイにはそれにふさわしい男はいなかった。あのパルスを崩壊させたと、ルシタニアの名を知り、そこに潜り込んでみることにした。気に入らなければ、逃げ出す機もあるだろう。

 なお、その時の身代は、全て養父母に渡した。商いの元手としては充分な額のはずである。

「三人…」

 前々から拾い集めた噂で、ルシタニア内での力関係は大まかに理解していた。その中で考えると、彼女が合格点を与えていいと思えるのは三人に絞られる。

 

 一人目はギスカールである。影の国王と言ってもいいこの男の持つ権力は、三人の誰よりも上になる。問題はさすがに年齢が上過ぎる事と、冷酷な狡猾さを持つ男であるということだ。

 政略のためとあらば、即座に捨てられる。あるいは一時の寵愛を得ても、利用価値がないと判断されれば途端に放り出される。そんな危険と隣り合わせというリスクの大きい相手であった。

 

 二人目は銀仮面卿ことヒルメスだ。動きを見るに、どうやらルシタニアの手先で終わる気はさらさらないらしい。虎視眈々と、独立の機を窺っている。人間性から見た場合、最も理想的な相手である。

 しかし、いかんせん彼の持つ力は小さすぎる。軍事に疎いフィトナでも、ルシタニアの力が圧倒的であることくらい理解できた。賭けのリスクは、非常に高い。

 

 そうなると、やはり三人目かと考える。セイリオスである。権力では兄のギスカールに少々劣るが、誠実さは比較にならない。小国でありルシタニアの属国に過ぎないとはいえ一国の主であり、その点も望ましい。

 セイリオスの問題は、その野心がフィトナの望むものとは少々違うということだ。実は三人の中で、彼の野望は最も大きい。それをしっかりフィトナは見抜いていた。

 だが、それが高潔すぎるのである。セイリオスの野心はルシタニアの国王になるなどという低俗なものではない。理想的、模範的な王弟として、清名を千載に残すことである。

 それに寄り添って自分の名も残る、というのは悪くないが、さぞ息苦しい思いをすることだろう。

 

 理想を言うと、ギスカールより誠実で、ヒルメスより実力があり、セイリオスより低俗な男であればいいのだが、そんな男がそう都合よく存在するわけがない。

 さて、どうしようか、と考えていた彼女は、いきなり後宮から呼び出されたのである。正確にはかつてパルスの後宮があった場所で、ルシタニアの物となった今でも主は変わっていない建物から、であるが。

 …彼女の計算に抜け落ちていた要素が一つあった。彼女の理想に合致する『男』はいなかったが、『女』ならいたのである。

 

「そなたについて話を聞きたいのじゃ。歳は?生まれは?両親は何をしているのか?その腕輪は、どうした物じゃ?」

 矢継ぎ早に質問が浴びせかけられる。フィトナは内心唖然としながらも、全ての質問に恭しく答えた。

「歳は15くらいでありましょう。生まれはパルスらしいですが、詳しくは解りません。というのも、私は本当の両親を知らないのです。この腕輪と共に、赤子だった私は捨てられたと聞いております」

 フィトナの一言一言に、タハミーネがいちいち頷く。その姿に、フィトナも事情を察した。

「……お母様、………なのですか?」

 震える声で尋ねる。タハミーネは感極まったのか、フィトナを抱きしめた。

「…で、あって欲しいと思う。フィトナよ、これからは、ずっと傍におるのじゃ。その中で、見極めたいと思う」

 はい、と殊勝げにフィトナは頷く。胸に埋もれた口端がわずかにめくれ上がったことなど、タハミーネが気付くはずもなかった。

「……陛下、ありがとうございます」

 タハミーネが、初めてイノケンティスを真正面に見て言った。その様子を見て、ヒルメスは内心でにやりと笑った。

 

「銀仮面卿よ、此度の事は、エクバターナ陥落に劣らぬ大手柄であるぞ。なんぞ、褒美に欲しいものはないか?」

 ヒルメスはイノケンティスに全てを伝え、フィトナをタハミーネに引き合わせる役を譲ったのである。それでタハミーネは、イノケンティスが探し出してくれたのだと信じ込んだ。

 ヒルメス自身も、そう思うよう差し向けたところがある。タハミーネの好感を得たイノケンティスが舞い上がったのは当然であろう。これまで、何を言おうが素っ気なくされていたのだから。

 

「……だからといって、エクバターナ陥落に劣らぬは言い過ぎだろう」

 ギスカールがそっと弟に囁く。まあ、大手柄なのは間違いない。兄の私的な思いとは別に、アルスラーンの正統性を否定するネタとして、政略的な価値は大きい。何しろ、王妃がそう言うのだから。

 故に、褒賞を与えるのは構わない。しかし、あまり大きすぎるものであっては困る。まったく、そのくらいの配慮はしてほしいものだとギスカールは苦々しく思った。

 

「では、セイリオス殿下にお願いがございます。ヘルマンドス城を攻略するまで、アクターナ軍にペシャワールの軍勢を牽制してもらいたいのです」

「……なんと、そのような事で良いのか?セイリオスよ、頼むぞ」

 何も考えず決めてしまった兄に困ったものだとは思うが、そのような事なのはギスカールも同感である。もはやボダンはおらず、教会の頭は完全に抑えた。軍もモンフェラートとボードワンの二人が纏めている。

 セイリオスがしばらく留守にしたところで、ギスカールの覇権は揺るがない。

「………」

 弟もこちらを見て、わずかに頷いた。軍事上において、心配することなど何もないであろう。たとえ銀仮面とアルスラーンが手を組んだとしても、セイリオスなら何とでもするはずだ。

 

(となると、問題は…)

 あのフィトナという少女を、どう扱うべきか。アルスラーンの正統性を否定する手札としては使える。その後、どうするべきかに名案がない。

 今度の一件で、ギスカールは思わぬ副産物を得た。タハミーネがもう子供を産めない体である、ということだ。

「……諦めぬ。余は決して諦めぬぞ。真のイアルダボートの神ならば、きっと我が望みも叶えてくださろう」

 イノケンティスはまだタハミーネと結婚し、二人の間に生まれる子に王位を継がせたいと考えている。が、もう神頼みしかない、ということは彼も解っているらしい。

 

「……フィトナは、ルシタニア王家の血を一滴たりとも引いておりませぬぞ。それどころか、タハミーネの本当の娘かも定かではないのです。腕輪など、どうとでもなりますからな」

 やんわりと、釘を刺しておいた。タハミーネを喜ばせるために、フィトナを養女にするなどと言い出されたらたまった物ではない。

「ううむ…、やはり、セイリオスと結婚させ、ルシタニアを継がせるというのは難しいかのう?」

 それこそ冗談ではない。まったく、そのくらいの常識は持ち合わせてくれ。そう怒鳴りつけたい思いを堪えながら、ギスカールは断固として大反対した。

 

(セイリオスを養嗣子とするなど、俺の立場を何と考えてやがる)

 国としてはいい。おそらく、ルシタニア史上最も英邁な王を頂くことになるだろう。だが、これまで散々苦労してきた自分を差し置いて弟が王位に就くなど、簡単に納得できるはずないだろうが。

「…………セイリオスもセイリオスだ。シルセスでも誰でも、さっさとくっ付いていればこんなことに思い煩うこともなかったのだ」

 つい、愚痴が声に出た。6歳の時からの付き合いだというのに、二人に男女の関係はない。そのくせ、シルセスに近寄る男がいると激怒するのである。

 

 とある大貴族のドラ息子が彼女に言い寄った時など、最後にはギスカールが出張り調停しなければならなくなった。抜き身の『アステリア』を持った弟は、完全に目が据わっていた。

 兄でなければ、ギスカールでも斬られていたかもしれない。その一件で、理性の箍が外れた時のセイリオスの怖さを知った。その男を諦めさせて何とか収めたが、あと少しで内戦勃発の危機だった。

 ちなみに、そう言うギスカール本人とて正妻を持たず、ルシタニア、マルヤム、パルスと三国の美女をそれぞれ侍らせている。あまり兄弟のことを批難できる立場ではないのだが…。

 

 しかし、何でそんなことを言い出したのかと思ったら、吹き込んだのはタハミーネらしい。どうやら養女として引き取りたいという意向で、パルス王女にふさわしい婿をとねだったとか。

「……まあ、セイリオスは駄目ですが、それなりの貴族をあてがい、嫁入りの世話をしてやるくらいはよいでしょう」

 しょぼくれたイノケンティスを慰めるように、妥協案を出す。養女にしたいと言ったのはタハミーネでも、セイリオスの嫁にと言い出したのはフィトナ本人だろう。そのくらい、ギスカールにはすぐわかる。

(ろくでもない女だ)

 タハミーネの事だけでも頭が痛かったというのに、また厄介者が増えた。どちらも殺すか、と思わないでもないが、発覚した時が怖い。

 タハミーネを殺せば、兄は怒り狂うだろう。その時、セイリオスがどう出るか。弟が自分に付くという確証がない限り、良策とは言えない。早い所誰かに押し付けるのが、一番いい。

 

「………そういえば、本国からの使者も来ていたな」

 これも頭が痛いことである。王族、貴族、重臣たちに40万の軍が遠征に出たルシタニアは、一応10人の貴族と聖職者に摂政会議で国を運営させていたが、1年もせずに底が抜けた。

 些細な意見の対立から派閥抗争に至り、今や何も決められない状況にある。武力衝突の一歩手前に、最後の自制心で「次弟殿下か三弟殿下のお帰りを願おう」と使者を寄越したのである。

「………まったく、ルシタニアに人はいないのか」

 ギスカールがいなければどうにもならない。それがルシタニアの現状なのである。セイリオスの登場で持ち直したが、そうでなければギスカールの心は修復不能なまでに折れていたであろう。

 

「放っておくわけにもいかんが、俺もセイリオスもルシタニアに帰っている暇はさすがに無い。誰かを派遣するしかないのだが…」

 ギスカールが使者として選んだのは、姻戚であるボノリオ公爵であった。権威ある名門の貴族で、王家に対する忠誠心も篤い男である。ただし、才覚の方はこの混乱を裁けるかと考えると疑問符が付く。

「とりあえず王家と教会から正規の代人とする証明書を持たせ、あとは補佐の人材に優秀な奴を入れるしかないだろう」

 その補佐の中に、ギスカールはトゥリヌスという若者を入れることにした。ギスカールにとって母系の縁戚となる。オルガスの後を継ぐ人材として、期待をかけている男だ。

 いずれ、セイリオスが武官を、トゥリヌスが文官を纏める日が来るに違いない。さて、その時のルシタニア王は誰なのか。

「………」

 長生きする程度の努力はしようか。そう、ギスカールは思った。

 

 

「………」

 さすがにギスカールもセイリオスも、単にねだっただけで許してくれることなど無かった。タハミーネは先走り過ぎたと言える。

「……思いもかけない事態ですね」

 パルスの王女。仮ではあるが、フィトナとしてはいい立場を手に入れたと思う。タハミーネはフィトナのことを娘だと『信じたい』のである。大した苦労もなく、彼女の理想の『娘』を演じ続けることができた。

 あとは、自分の立ち回り次第だ。タハミーネを通してイノケンティスを動かせば、ルシタニアの国政に口出しできる。展開によっては、このエクバターナの主になれるかもしれない。

(そうなると―)

 邪魔なのは、アンドラゴラスとアルスラーン。まずはルシタニアの力を使い、この二名を滅ぼす。幸い、タハミーネの愛情は二人より自分に向いている。二人を殺したところで、『娘』の立場は失わない。

 パルスの主になってやろうか。そう思っている自分を、自分らしくないと彼女は思った。




フィトナが早々に登場。パルスのカオス化がさらに進行しました。

なお、この話でのルシタニア、西欧方面の設定。
・地理はほぼ現実と同じ
・ルシタニアの領土はイベリア~フランス南部で西欧一の大国
 首都はフランス南部にある。リヨン辺り?
・アクターナの領土はナポリ~シチリア辺り
・フランス北部~ドイツは群雄割拠で統一政権はない。
 神聖ローマ皇帝ほどの力を持った盟主はなく、いくつかの有力諸侯が小諸侯を従え、争っている状態。
・マルヤムの領土はアナトリア半島。ギリシア方面は別の国。
 そのためコンスタンティノープルは史実ほど発展していない。
・アフリカ方面は小国乱立。西欧の人が知っているのはモロッコ近辺まで
・もちろん新大陸(アメリカ)は未発見


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16.カハラノークの戦い

 アクターナ軍、銀仮面卿軍の増援部隊が出陣。それを聞いたカーラーンは方針を一転させた。

 近隣の諸侯を攻略、誘降し、彼の掌握する軍は5万近くにまで膨れ上がっている。その占領地をパルハームに任せ、主力を率いて一路ヘルマンドス城へ向かったのである。

「しかし、ヘルマンドス城の守兵は3万はありましょう。わが軍3万8千に、3万の増援としても、攻略は難しいでしょう」

 参謀の意見にカーラーンも頷く。ヘルマンドス城は旧バダフシャーン防衛の要である。常にシンドゥラと対峙する位置にあったこの地は、ペシャワールに次ぐ東方の重要拠点と言っていい。

 おまけに、ヒルメス軍の練度は低く、3万という数を額面通りに考えることはできない。サームやガルシャースフの元部下、アトロパテネの敗兵も多く加わっているから、全くの新兵という訳ではないが…。

 

「問題は、総督のベフラードだ」

 先代の万騎長の一人である。60を過ぎた老人のはずだが、活力は30代と言ってもいいだろう。アンドラゴラスにも直言を憚らない硬骨漢であるが、誰よりも忠誠心に厚いのもこの男だ。

 彼は先王オスロエス王の急死の際、腹心のヴァフリーズに続いてアンドラゴラス即位に賛同したのだ。それで大勢が決まった。ヒルメスにとってはどれほど憎んでも余りある男の一人である。

 万騎長から外されたのは実力のせいではなく、単にバダフシャーンの軍政を任せる総督として彼以上の人物がいなかったためである。それだけに、カーラーンにすれば厄介だ。

 

 彼も勿論カーラーンを迎撃しようと軍を整えていたのだが、ハサの降伏という夢にも思わなかった事態のため機を失った。そのためバルドゥが陥落し、カーラーンは拠点を得てしまった。

 諸侯の誰が味方で誰が敵かもわからない。それでもベフラードは5万を超える兵力を動員しバルドゥを囲んだが、カーラーンは良く守り、流言をばら撒き、敵を疑心暗鬼に陥れ撤退せざるを得ない状況に持ち込んだ。

 なんとか凌いだというだけの戦であったが、カーラーンの武名は大いに高まった。ベフラードは何もかも気に入らないことであろう。

 

(さて、ベフラードはどこまで読んでいるか)

 3万8千対3万なら、ベフラードが出撃することは充分にあり得る。アンドラゴラスに気に入られた男だけあり、積極攻勢型の猛将なのだ。必ず、敵援軍が到着する前にカーラーン軍を蹴散らそうと考える。

 急がねばならないのは、カーラーンも同じだった。シンドゥラの内戦に介入したアルスラーンのパルス軍は、向かう所敵無しという勢いで進んでいた。その先頭を駆けるのは、黒衣黒馬の騎士である。

(ダリューンめ…)

 かつての同僚は、憎悪の対象になっていた。あの男さえいなければ、アトロパテネの野でアルスラーンも屍を晒していたことだろう。そうなれば、パルスの民はヒルメスを仰ぐ他なかったのだ。

 

「………」

 一歩一歩、荒野の中をヘルマンドス城に向かって進みながら、地形を思い浮かべる。ベフラードが出撃するとしたら、どこに陣を布くか。

(2ファルサング先。カハラノークの丘を越えた地点)

 ヘルマンドス城からはかなり遠い。だが合流される前にカーラーンを叩き、その勢いでヒルメスまで屠ろうと考えるなら、そこが最も有力な選択肢となる。

 小高い丘を越えた先に、続けてもう一つ丘がある。その間は谷間というほどではないが、狭い平地だ。カーラーン軍がその平地に差し掛かったところで、逆落としで一気に攻め寄せる。自分なら、そうする。

「偵騎を出せ」

 三騎一組の小隊を、正面と斜め前の三方向に出す。ベフラード軍の影はつかめない。問題の丘の先にも、ベフラード軍の姿はないという。そうなると、ベフラードにしては珍しく自重したのだろうか。

 

「愚将ではない奴の事ゆえ、考えられないことはないが…」

 彼にしたら、いかにも似つかわしくない行動だ。カーラーンも歴戦の万騎長である。その可能性は考えても、そう決めつけて気を抜くべきではない。全身の感覚が、そう告げている。

 カーラーンは前軍を指揮し進んでいた。その前軍が、一つ目の丘を越す。はっとした。後方。今ベフラードが後方から襲い掛かったら、どうなるか。

 

「後軍に伝令!後方に注意せよ!」

 カーラーンの旧部下、すなわちこの軍の精鋭は前軍を形成している。後軍は諸侯の兵だ。カーラーン軍も、内実はヒルメス軍を嗤えない貧弱さなのである。勢いに乗っているうちはいいが、一度崩れたら立て直せない。

 軍を止めた。カーラーンが伝令を発してしばらくして、後軍から敵軍を発見したという報告が入る。舌打ちした。伝令が間に合ったとしても、しっかりした陣を布けたか、どうか。

 

「前軍、反転!」

 前軍が旋回し、下ってきた丘を駆け上がる。後軍が、耐えてさえくれれば。ベフラード軍はおよそ3万。カーラーンの前軍2万弱が駆け付ければ、充分盛り返せる。

 だが、ベフラードの猛攻はカーラーンの予想を超えていた。先の戦の屈辱を晴らそうと、騎兵の先頭を駆け突っ込んできたのである。この気迫に、後軍はあっという間に崩れた。

「駆け下れ!!!」

 丘の上からの、逆落とし。単純だが勢いに乗れば破壊力がある。それに対しベフラードは、なんと臆することなく丘を駆け上がってきた。

 

 激戦となった。逆落としの勢いに乗ったはずのカーラーン軍の方が、劣勢である。ベフラードの狙いは極端な短期決戦。後軍を叩き潰した勢いをそのまま、カーラーンにぶつけてきた。

 不意に、正面の圧力が弱まった。潰走したはずの後軍の一部が、ベフラード軍の側面を突いたのである。およそ3千。これが、挽回の最後の機だ。

「突撃せよ!」

 自ら槍を振るい、敵陣に切り込んだ。ベフラード。憎悪に燃えた目と向かい合う。主将同士が馳せ違った。槍にわずかな手ごたえ。浅い。二度目はなかった。敵と味方の波に、遮られる。

 ベフラード軍はまだ崩れない。あと一息。どちらも、余裕などない。この突撃を凌がれれば、体力の尽きたカーラーン軍の方が崩壊する。

 

 砂塵が見えた。

「新手だ!」

 誰かが叫んだ。先頭に騎馬隊、後方に歩兵隊。パルス旗。だが銀の仮面が、遠目にはっきり見えた。対しベフラード軍はこの新手が敵か味方か、まだ判別付かないでいる。

「援軍だ!勝ったぞ!!!!」

 思わず叫んだ。総大将の言葉に励まされた兵たちが、最後の力を振り絞る。そして後方から、ヒルメスの騎馬隊の突撃。判別に迷った時間が、勝敗を分けた。

 ベフラード軍が、ついに潰走を始めた。

 

「追い撃て!一人たりともヘルマンドス城まで帰すな!!!」

 カーラーンも自軍が限界に近いということは判っている。が、敵にヘルマンドス城にたどり着かれたら、この勝利は何の価値もないものとなる。疲労を感じさせる暇もないほど、兵を追い立てた。

 だが、潰走してもベフラードの勇猛さが消えたわけではない。主将自らが殿軍となり、ヒルメス・カーラーン軍に痛打を与え続けていた。

「……どこまでも、この俺の邪魔をするか」

 ぎりと奥歯を鳴らしたヒルメスが、馬腹を蹴った。近習の数十騎が慌ててそれに続く。それにいち早く気付いたザンデが、数百騎で追い駆けた。

 

「殿下を討たすな!!!!」

 勇猛無比、陣頭に立ち敵に臆することなく戦場を駆ける勇姿は、確かにヒルメスの美点である。が、同時に欠点でもある。ザンデからしたら、毎度毎度背筋が凍る思いをさせられる。

 ヒルメスはたちまち二人の敵兵を槍先に掛け、三人目の体を貫いた。その凄まじさにわずかにたじろいだ敵兵に向かい、槍を棄て剣を抜いて斬り込んだ。

 そこに近習が突っ込み、さらにザンデの騎馬隊が続く。ヒルメスはまだ馬腹を緩めない。後方を振り返ることもせず、ひたすらベフラードに向かい直進する。

 

「どけぃ!パルス国王(シャーオ)の道を塞ぐな!!!」

 この声に一瞬、敵兵の槍の動きが止まった。我に返ったように突き出された槍の柄を、ヒルメスは剣で両断した。次の兵士は、兜ごと頭蓋をたたき割った。

 ザンデが追いついた。ヒルメスの前に出ようと必死で馬を駆る。それを見たヒルメスが、さらに前に出ようと馬を急がせる。

 ベフラードもこの猛火のような小部隊に気付いた。旗下の騎馬隊を駆り、ヒルメスと正対する。およそ五百騎。

 

「邪魔をするなぁ!!!」

 腹の底から叫んだ。16年前、アンドラゴラスの即位に真っ先に賛同した男。何故、俺を認めなかった。何故、今も俺の邪魔をする。

 雄叫び。叫びながら、馳せ違う。馬の手綱も手放し、両手で剣を握った。戦場の喧騒が消えた。ベフラードの剣先だけが、意識の中にある。

 剣に手ごたえを感じた時、馬蹄の音が戻ってきた。背後で、どさりと何かが地面に落下する音。剣を握ったままの、ベフラードの右腕だ。

 ヒルメスの剣は彼の右腕から体まで深々と切り裂いた。致命傷であることは疑いない。ヒルメスの体に、傷はない。

 

「見事」

 静まり返った戦場に、ベフラードの声が響いた。残された左手で、短剣を抜く。それを首筋に当て、一気に引いた。鮮血が飛び散り、ベフラードの体が馬上から崩れ落ちた。

 アンドラゴラスの忠臣だった男は、忠臣として死ぬことを選んだ。だがその死体に馬を寄せたヒルメスは、一瞥して言い捨てた。

「…貴様は国王(シャーオ)にではなく、パルスという国に忠誠を尽くすべきだった」

 この言葉は、意図せずに彼の部下たちを救った。国王に対する背信を、国家への忠誠と置き換えたのだ。

 

 総大将の死で、ベフラード軍の戦意は完全に潰えた。3万弱のベフラード軍の内、戦死3千、降伏8千。残りは逃げ散り、ヘルマンドス城まで落ち延びたのはせいぜい1万だろう。

 だがカーラーン軍も2千近い死者を出した。ヒルメスの援軍が間に合わなかったら、確実に負けていたところである。仕方ないと言えば仕方ないのだが、練度の不足を再認識させられる戦いとなった。

「休息ののち、ヘルマンドス城へ向かう」

 ヒルメス軍の接近はベフラードも掴んでいたはずだ。その予想を超えた速さで駆けてきたからこそ、彼は迷ったのだ。通常なら、ヒルメス軍はまだ1日ほど後方にいたはずである。

 勿論、その差を詰めるには強行軍を行うしかない。昨晩、ほとんど寝ずに駆けてきたのである。ヒルメス軍ももはや限界だった。勝った安堵で、脱力して座り込んだ兵が多い。休息は事後追認でしかなかった。

 

「すべては、ヘルマンドス城を落としてからにいたしましょう」

 サームが言う。パルスの正統な王の軍が、この体たらく。指示の前に座り込んだ兵をどう罰しようかと考えていたのである。その内心を読まれて言われると、ヒルメスも我を押し通すのは憚られた。

「わかっている。ヘルマンドス城を落としたら、一から訓練のやり直しだ。……ただ、注意はしておけ」

 サームが膝を付いて礼を示す。ヒルメスは決して暗愚ではない。自分の正義を疑わない偏屈なところはあるが、理を説いてわからない人ではなかった。

 

「よく来てくれた、サームよ」

 カーラーンが、いかにもほっとしたという表情と声音で話しかけてきた。今回の事だけではない。サームがヒルメスに従ってくれたおかげで、彼の苦労は半減するはずだ。

「うむ」

 おぬしと共に、また轡を並べて戦える。そう喜ぶカーラーンに、サームは内心曖昧に頷く。もちろん、表情には一切表さない。

 

「……カーラーンよ、殿下の事、どう思う?」

 どう、というのは、パルスの王としてどう、という意味である。軍人、あるいは武人としてはアンドラゴラス王を凌駕するやもしれず、王の器量は明らかに上。それがカーラーンの答えである。

「11歳だったから、周囲が理解していなかったのも仕方ないことではあるが…。殿下があと10歳年長であったならば、アンドラゴラスが王位に就く必要などなかった」

 16年前、万騎長になったばかりのカーラーンに、軍部を主導する力など無かった。ヴァフリーズ、ベフラードらアンドラゴラス奉戴派が主流となり、それに流されてしまった。苦い悔恨として、今も胸の中にある。

 

「………アンドラゴラス王より上、か」

 サームには、そこまで明確な思いはない。16年前と言えば、一騎士として戦場を駆け、ようやく勇名が知られるようになったころである。

 それから彼は実力を認められ、騎兵長を始めとし、ついには万騎長にまで昇進した。アンドラゴラスに認められてのことである。アンドラゴラス王は、軍人を見抜く目は持っていたのだ。

 だからサームは、アンドラゴラス王への忠誠を棄ててない。ヒルメスに対する思いも、カーラーンやザンデとは温度差がある。ヒルメスは、それに気付いているのだろうか。

 

 休息と再編ののち、ヘルマンドス城に向かう。ようやくここまで来たが、これはまだ始まりの第一歩に過ぎない。ヘルマンドス城を落としたら、次はパルス再統一の戦となる。

 




カーラーン大活躍の今回。敵のベフラードは「いくらペシャワールがあるからとて、バダフシャーンが無防備のはずがない」という思いで作りました。

一応、原作との辻褄を考えるとこんな感じ。
①東方防衛としてアトロパテネには不参加
②アルスラーンには諸手を上げて従う気になれなかったのでルシタニア討伐の檄文には一部の部下を送る
③アンドラゴラス復帰後は参戦したかったがバダフシャーン防衛に残される
 (アルスラーンがいなくなってラジェンドラとの関係が切れたため)
④アルスラーン即位で隠居してしまった偏屈な爺さんが出来上がる

ちなみに、彼もアルスラーンの器量を「知らなかった」一人で、知っていれば国家の元老として活躍したかもしれない…、という存在です。


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17.ヘルマンドス城の攻防

「ヘルマンドス城は轍鮒の急にある、という状況ですな」

 守兵はカハラノークの敗兵を集めて、およそ1万。敗戦後の事であり、戦意は乏しい。敵軍は6万余。オアシス、というより湖の畔に立つ城は、堅牢ではあっても難攻不落という訳ではない。陥落は必至である。

「イスファーン将軍は半年でも耐えて見せる、と申してましたが、至急の救援をお願いいたします」

 使者も必死だった。ベフラードがいなくなったヘルマンドス城の守兵をまとめたのは、イスファーンという若い将軍である。万騎長シャプールの弟として、ダリューンやナルサスも知らぬ名ではない。

 

「お前でも、救援の目途は立たないのか?」

 ダリューンの問いに、ナルサスは無言で地図に置かれた駒の一つを叩いた。ペシャワールとヘルマンドス城の連携を断つ位置に、その駒はある。

「………恐ろしく邪魔じゃな」

 全員が黙り込む中、ファランギースが呟いた。この駒のおかげで、ペシャワールの守兵は動かせない。下手に動かせば、アクターナ軍がペシャワールを陥落させる。

 アルスラーンの手元にいるのは、シンドゥラ遠征に従った騎兵主体の1万余の兵だけである。これだけで6万余の敵に向かい合うのは、危険が過ぎた。

 

「……寡兵が大兵に勝つのは、天の時、地の利、人の和を全て整え、相手にそれが欠けている場合だけでございます」

 ナルサスが説く。天の時は敵にある。大兵であり、ベフラード軍を大破した勢いに乗っている。地の利も敵にあるだろう。ヘルマンドス城を救援しなくてはならない以上、有利な地に誘い込むことはできない。

 唯一、人の和だけはこちらのものか。将官級なら互角以上、兵の質なら圧倒的に優位だ。だが、それもアクターナ軍が出てくれば、儚く潰える。

 

「この際、ヘルマンドス城は諦めましょう」

 ベフラードが籠城して援軍を待てば、様々な手を打てた。ヒルメスが言った通り、ベフラードはアンドラゴラスに従う男でしかなかった。アルスラーンの真価を知ることなく、彼は旧時代に殉じた。

「友軍を見捨てるというのか?」

 アルスラーンが咎めるように言う。確かに、最も安全な策ではあろう。しかし、ナルサスの言い分は、ベフラードの自業自得なので放っておけ、と言わんばかりではないか。

「殿下、私は『ヘルマンドス城は諦める』と申し上げましたぞ」

 ナルサスが微笑して言う。アルスラーンを始め一同は少し首を傾げ、真意に思い至ると手を叩いた。

 

 

「軍馬を借りられるだけ、だと?」

 まだ即位式も挙げていないシンドゥラ新王・ラジェンドラ二世は、パルス軍からの今ひとつわからない申し出に首を傾げた。

 馬は10日ほど借りるだけで、すぐ返すと言う。もっとも、全頭無事かはわからないので、多少の損失はご容赦願いたいとのことだ。

 パルス軍が軍事行動を起こすとなれば、ヘルマンドス城の救援しかないだろう。しかし、それなら何故「騎兵」と言わないのか。騎兵を貸そうという申し出は、丁重に断られた。

 

「………まあいい。馬なら分捕ったものがあるだろう」

 およそ5千頭。チャンディガルの会戦で騎手を失ったガーデーヴィ軍の馬を鹵獲したものである。調練も装備も一通り整っているから、要望に応えるには充分だ。

 パルス軍が何をする気なのか疑問だが、彼曰く「俺の即位に少しばかり協力してもらった」礼がこの程度で済めば万々歳である。新国王として、国民にあまり弱腰なところを見せるわけにはいかない。

 

 

「ペシャワールの軍勢は一兵たりとも動かしません。下手に出撃させたりすれば、こちらの意図を読まれてしまいます」

 アクターナ軍が介入する前。機はそれしかない。そのためには、ペシャワールが普段と変わらないことが必要である。出撃などさせれば、何かやろうとしていると教えるようなものだ。

「ヘルマンドス城の攻囲軍は6万。包囲網には必ず穴があります」

 単純計算で、四方を封鎖したとすれば各1万5千。広大なヘルマンドス城を囲むには、充分と言える数ではない。城を囲むような防塁を建造するには、時間が足りないはずだ。

 

 残念ながら、アルスラーン軍にペシャワール城とヘルマンドス城の両方を保持する戦力はない。よしんば今回の敵を退けたとしても、次は耐えきれるか、どうか。

『ヘルマンドス城の放棄』

 ナルサスが考えた策はそれだった。イスファーン将軍と賛同する兵をペシャワールに引き取る。そのために馬が必要だったのだ。

「……意地を見せるというだけだ。策と言えるようなものではない」

 ダリューンにはそう語った。アルスラーン王太子は陥落必至の状況でも味方を見捨ず最善を尽くそうとした、その評判を得るだけの戦に過ぎない。

 

 問題は、ヘルマンドス城に残される民であろう。だが、ナルサスは初期のエクバターナのように悲惨な占領下に置かれないかという懸念を、きっぱりと否定した。

「敵軍がヘルマンドス城の民を虐殺する、ということは考えられません」

「何故そう思う?」

 間髪入れず、ダリューンが詰問する。確かに銀仮面の元にはカーラーンに加えて、サームまでが加わっている。従う兵もパルス人だ。同胞をむやみに殺したりはしないだろう。

 だが、ナルサスの断言にはそれ以上の自信がある。

 

「………申し訳ございません。昨年の暮れから、ずっと隠しておりました。あの銀仮面の男の名はヒルメス。父は先王オスロエス。すなわちアルスラーン殿下の従兄に当たるお方です」

 場がざわめいた。アルスラーンも、全く知らない名ではない。確か父アンドラゴラスの即位の前後、事故によって亡くなったとか……。

「オスロエス王、そしてヒルメス王子。二人とも、その死には不審なところが多く、アンドラゴラス王の関与が疑われました」

 王妃タハミーネを巡る一触即発の兄弟仲、まだ若きオスロエス王の急死、そしてヒルメスの命を奪ったとされた火事。多少なりとも宮廷にかかわりがあれば、誰もが知っている話である。

 

「…………何も、知らなかった。………その話は、本当なのか!?」

「真実を知る者は、アンドラゴラス王だけでしょう。…ですが、問題はそこではありません。ヒルメス王子はそれを真実と思い、パルスの王座を奪還するために動いているということ」

 そのためにルシタニアと手を組んだ。パルスの民衆にとって、最も迷惑の掛かる方法が選ばれた。だがそれ以上に問題なのが…。

「ヒルメス殿下はバダフシャーンの地を制圧して自分の旗を掲げ、殿下もルシタニアも倒す気なのでしょう。……ですが、ルシタニアはそうなるように狙って動いているとしか思えません」

 利用しているようで利用されている。ヒルメスも充分感づいてはいるだろう。だが他に道がない状況に追い込まれているのだ。

 

「……………」

 アクターナ公セイリオス。ルシタニアの三弟の名が、全員の頭に浮かんだ。陰で糸を操っている存在は、この男しかいない。

「ルシタニアの狙いは、おそらくパルスに大打撃を与えた後の撤退」

 ナルサスは看破した。ヒルメスを利用しているのは、パルスに追撃の余裕を与えないため。パルスを分裂させ、混乱の坩堝と化させるため。ヒルメスが王子であろうとなかろうと、どうでもいいのである。

「……他に道がないのは、我らも同じじゃな。パルス復興を掲げる以上、エクバターナはどうしても取り返さねばならん」

 ファランギースの言う通り、戦略上の幅はないと言っていい。空のエクバターナを掴まされるところまで、わかっていながら進むしかない。

 

「そしてエクバターナを取りかえしたところで、次はパルスを割っての内戦だ」

 続けたのはギーヴである。アルスラーン、ヒルメス、そして助け出されたアンドラゴラス王。たとえルシタニアに大勝しても、三者の対立は回避できない。パルスは浮かび上がれない混迷の渦に叩きこまれるだろう。

 ヒルメスを先に倒すというのも難しい。必ずや、ルシタニアが介入してくる。それに、そう簡単につぶされない大きさになるよう、ルシタニアはヒルメスの勢力を育てているのである。

 最後に、ヒルメスと協調してルシタニアと戦うというのは論外だ。可能性があるとしたら彼をパルス王と認める事だけだろうが、これまでアルスラーンに従ってきた者たちが、ヒルメスを主と仰げるはずがない。

「……だからと言って、諦めて何もしなければより悪くなるだけであろう」

 アルスラーンが宣言した。現状で最善の手を探り、ルシタニアの、セイリオスの策略をわずかでも崩す。それを続け、活路を見出すしかない。そのために、今はヘルマンドス城に籠る将兵の救援に向かう。

「従兄殿とは、ルシタニアを駆逐した後で、きちんと話をつけるとしよう」

 

 アルスラーン軍の救援は、ヒルメスたちも予想していた。およそ1万。ペシャワールの軍勢は、アクターナ軍に抑えられて手も足も出せないでいる。

「敵が、まともにぶつかってくるとは思えません。各部隊には土塁を造らせ、防御を固めるべきでしょう」

 サームが提案する。アルスラーン軍の狙いは後方撹乱であろう。土塁と柵で騎馬隊の突撃を封じれば、ただ動き回るしかない。こちらの兵糧はパルハームが送ってくれたものが、二月分はある。

 カーラーンもその意見に賛同した。アクターナ軍の脅威がある以上、アルスラーンが長滞陣することはできない。まずは、ヘルマンドス城を確実に落とすべきである。

 また、仮にアルスラーンが城内に入ることがあれば、その時は塁を繋げてしまえばよい。それで包囲網は完璧なものとなり、兵糧が尽きれば降伏するしかなくなる。

 ザンデはアルスラーン軍との決戦を提案したが、父親にぎろりと睨みつけられて黙り込んだ。

 

「………」

 ヒルメスは即答を躊躇った。この策ではアルスラーンを取り逃がす可能性が高い。形勢不利と見れば、すぐ逃げ去るはずだ。騎兵隊の事ゆえ、逃げ足は速い。

 ヒルメス軍の騎兵隊も、かき集めれば1万以上はいる。だが質という点では、とてもパルス正規軍には敵わない。個々人としてはともかく、部隊としての練度が足らないのである。

 それに、この軍には大きな欠陥がある。カーラーンとサームがそれぞれ兵を集めた結果、両者がそれぞれに軍を持つ、という感じになってしまった。

 解決には一から編成を考え直し、訓練をやり直さなくてはならないだろう。そのためには、ヘルマンドス城という拠点がどうしても必要なのである。

「…ザンデの意気や良し。だが今は損害を抑え、バダフシャーンの平定を急ぐべきであろう」

 敵はアルスラーンだけではない。アルスラーンを討ち果たしたものの大損害を出し、ヘルマンドス城を落とせず終わるのが最悪のパターンである。ルシタニアが喜ぶだけだ。

 

 ヒルメスはザンデを伴い、城の東に陣取った。アルスラーンが攻めてくるとしたら、まず東からである。ここに陣取ったのは、彼がアルスラーンの首に幾分か後ろ髪を引かれていたという証明であろう。

 カーラーンは北、サームは西である。東西のどちらかが攻められれば、すぐさまカーラーンが動く。攻められてない方は城を牽制する。北のカーラーンが攻められた場合は、ヒルメスが救援する。

 だがアルスラーン軍が接近するや、ヘルマンドス城内のイスファーンは城門を開き、大兵力で討って出た。カーラーンとヒルメスの、陣の間に向けて。

 

「何だと!?」

 イスファーンが、全軍出撃。ヒルメスの下に入った一報はそれであった。1万ほどの集団。だがよく見れば、その中に女子供まで混じっている。しかも、進んでいる先は包囲網の切れ目だ。

 イスファーンの集団は、アルスラーン軍にたどり着いたものから馬に乗って駆け去る。ここまでくれば、狙いが何かは明白だ。

「騎兵出撃!追撃するぞ!!!」

 慌ただしく、ヒルメスは麾下の騎兵を出撃させようとした。およそ3千騎。歩兵を伴っては追いつけない。が…。

 

「お待ちください、敵は1万騎です。我が方3千騎のみでは、勝ち目はありません」

 止めたのは千騎兵のナセリという男である。そのナセリに、ヒルメスは燃え上がるような憤怒の眼差しを向けた。半ば無意識に、剣の柄に手を掛ける。さすがに抜きはしなかったが…。

「………」

 ナセリはサーム麾下の千騎長だった男である。ヒルメスの眼差しにも臆さず、黙って頭を下げた。

「カーラーンにも騎兵を出撃させるよう、伝令を出せ!至急だ!!!」

 最後は八つ当たりに近い怒号であった。その声に弾かれたように、慌てて伝令が飛んでいく。カーラーンの騎兵は5千近い。合わせれば充分戦える、と読んだ。

 




ようやくアルスラーンに原作と違う動きをさせることができました。


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18.騎兵戦

「シンドゥラまで、駆け通すぞ!」

 ここは、馬を潰すのも覚悟である。カーヴェリー河を越えさえすれば、追撃も止まる。ヒルメスもセイリオスも、シンドゥラと火種を抱えるのは避けたいはずだ。

 とはいえ、馬を潰し過ぎれば結果的に歩みは遅くなる。その呼吸は、イスファーンも心得ているはずだ。アルスラーン軍の役割は、追撃してくるヒルメス軍を叩くことである。

突撃(ヤシャスィーン)!!!」

 アルスラーンの号令に応え、ギーヴが先頭を駆けた。1万騎が、一頭の獣のように駆ける。ヒルメスの3千騎は、それだけで気を呑まれた。

 そこに、カーラーンの5千騎が横合いから突っ掛ける。アルスラーン軍は自ら2つに分かれ、カーラーンを挟撃する態勢を作り上げた。流れるような動きである。

 挟撃から、カーラーンが脱出。損害はほぼ出していない。ヒルメスと合わさり8千騎の部隊となる。アルスラーンは5千騎ずつの2部隊という構えを、維持したままだ。

 

「おのれ…」

 小手調べの段階であったが、やはり質の差は大きい、とヒルメスは痛感した。騎馬隊同士の激突は分が悪いと判断するしかない。

 イスファーンの部隊はアルスラーンを顧みることなく、大きく先を進んでいる。ただひたすらに、シンドゥラに逃げ込む気だ。アルスラーン軍にとっては、足手まといを切り離した形となっている。

「ヘルマンドス城を、捨ててくるとは」

 激情に駆られて出撃してしまったが、その時点でヒルメスの負けであった。敵に翻弄された姿を晒しただけである。それなら出撃させず、悠々かつ堂々とヘルマンドス城を奪取すればよかったのだ。

 

 北に砂塵が見えた。

 アルスラーン軍はそれを認めると、素早く軍を纏めた。次の行動は攻撃でなく、撤退。ヒルメス軍も無視して、全力で逃げ去ろうとする。その行動の異様さは、すぐヒルメスも気付いた。

「アクターナ軍か…!」

 騎兵5千。ヒルメスは援軍の要請など出してない。アルスラーンがシンドゥラで馬を手にしたという報告だけで、セイリオスは騎馬隊の半数を出撃させた。

 

 5千の騎兵が、2隊に分かれた。アルスラーン軍の撤退を妨害するよう動いている。勝手な救援は不本意ながら、ヒルメスも軍を動かした。サーム隊からも騎馬隊が到着し、彼の騎兵は1万を超えている。

突撃(ヤシャスィーン)!!!」

 ヒルメスが叫ぶ。1万騎が砂塵と共に駆ける。騎馬隊としての動きで敵わない以上、狙うは一点突破である。アルスラーンの首を目掛けて、一直線に奔る。

 それに対しアルスラーンは再び部隊を二つに分け、ヒルメスの両側を駆け抜けてやり過ごした。ヒルメスは左に大きく旋回し、右の敵を追う。そちらにアルスラーンがいる。

 

 アクターナ軍の2隊はすぐさま合流し、左の敵を追った。こちらの指揮はダリューンである。

「ちっ!」

 振り切れない。そう見たダリューンは、ぶつかるしかないと腹をくくった。アクターナ軍と部隊を率いて戦うのはこれが初めてである。

 基本は一小隊が100騎、それが必要に応じて集散を繰り返す。押せば流し、油断すればすぐさま固まって突っ込んでくる。誘いの隙は、的確に見抜いていた。

 

(強い)

 トゥラーン騎馬隊以来の難敵と言えた。だが、アクターナ軍の騎兵はトゥラーンの騎兵とは違う。トゥラーン騎兵の強さは個々の武技と馬術によるのに対し、アクターナ軍は騎兵隊としての組織の強さである。

 アクターナ軍の指揮官は二人。大剣を振り回す若者と、片手剣を操る少年。二人とも、パルスの万騎長としても恥ずかしくない武技の持ち主、そして、少年の方が主体とダリューンは見た。

 再び、アクターナ軍が二つに分かれた。周囲から削るように動き回る。ダリューンは部隊を分割せず、耐える。こちらの隊列に、緩みができた。アクターナ軍の一隊が、突っ込んでくる。

 

「突っ込め!」

 その瞬間、ダリューンは愛馬の馬腹を蹴った。黒影号(シャブラング)がたちまち先頭に躍り出る。5千騎がそれに続いた。敵と真正面からぶつかる形である。

 敵の騎兵が、方向を変えた。ダリューンの突撃を受け流す気だ。だが遅い。狙いは片手剣の少年ただ一人。セイリオスの名が頭をよぎった。ここで討ち取れば、パルスとルシタニアの形勢は一気にひっくり返る。

 ダリューンの渾身の一撃を、相手は受け流した。だが不十分で、剣は兜を吹き飛ばした。そこで初めてダリューンは気付く。ショートヘアの金髪。少年のようにも見えるが、明らかに女だった。

 きっと睨みつける目を一瞥し、ダリューンはルキアの騎馬隊を突破して駆け去った。

 

「ルキア!」

 動きを止めた同僚の状況を確認するため、クラッドが駆け寄る。ルキアが戦死したわけではないというのが遠目でもわかり、ほっとしたようだった。

「………大丈夫。ちょっときついのを貰って、頭ががんがん鳴ってるだけ」

 この間に、ダリューンの騎馬隊は全力で駆けて戦場を脱している。終わったと感じた二人は軍を纏めた。すぐさま犠牲の報告が入る。

 ルキア隊の死傷者は141騎に達した。クラッド隊も合わせて、194騎。与えた損害は、せいぜい100騎という所か。本気でぶつかった戦いではなかったが、明らかに負けである。

 

「……黒衣黒馬の騎士。あれが、噂のダリューンという奴ね」

 アトロパテネの戦場を単騎で駆け抜け、アルスラーンを救った騎士。何人もの同胞が彼の剣にかかって果てた。パルス最強の勇士と言われるのも、誇張ではない。

「……それにしても、私たちが負けるなんて」

 ホディールの騎兵とはまるで違った。兵の質が一段上だし、何よりダリューンという指揮官を得て持てる力を十全に発揮している。アクターナ軍であっても、騎兵戦に持ち込むのは賭けとなる。

「どうやら向こうも負けたみたいだが、大した損害は出してないみたいだな」

 クラッドの視線の先では、ヒルメスの騎馬隊が後退して軍を纏めていた。山間の地に逃げ込んだアルスラーンを追ったヒルメスは伏兵に遭い、矢と岩の雨を浴びて後退せざるを得なかった。

 その間に、アルスラーンも駆け去った。ヒルメスは軍を纏め直し再び追ったが、もう追いつけないだろう。敵は目的を果たしたということである。

 

 

「ナ~ル~サ~ス~~!!!」

 カーヴェリー河を越えたところで、アルスラーン軍に追いつく一団があった。先頭の少女はぶんぶん手を振り、間延びした声で婚約者とした男の名を叫ぶ。

「………」

 目を閉じて無言でいたナルサスを、ギーヴが肘で小突く。それでも動こうとしない彼に、今度はアルスラーンが声をかける。

「アルフリードが無事戻ってきたようだ。ナルサス、出迎えてやろう」

 主君にこういわれては黙り込んでいるわけにもいかず、仕方なく馬を返した。ゾット族を動かし伏兵とする策は見事に当たったが、その代償は大きなものであった。ナルサス個人にとって、だが。

 

「新族長、ご命令通り致しましたぜ」

 ゾット族はパルス東部から東南部を縄張りとする遊牧の民であるが、時には傭兵となり、時には盗賊ともなる。定住しない彼らを根絶するのは難しく、アンドラゴラスも国軍を使っての討伐には不熱心だった。

 そんな法律も軍隊も恐れない彼らを動かすのは、金か族長の命令だけである。幸いなことにアルフリードは族長の娘で、彼女の言うことならまず通る。もちろん、報酬とてしっかり出したが。

 ………という訳でゾット族を動かすことに問題はなかったのだが、策を授けたナルサスのことを彼女がどう伝えたかは、察するまでもない。「新たな族長の命に従えないのかい!」とでも怒鳴りつけたのだろう。

 あいまいな表情で頷くナルサスであったが、救いの手は砂塵とともにやってきた。ダリューンが合流してきたのである。それを認めたナルサスは、慌ててそちらに駆け寄った。

 

「遅かったな、ダリューン。やはり…」

「ああ、アクターナ軍の強さは、やはりずば抜けている」

 パルス国軍の騎馬隊と互角に戦える騎馬隊など、存在するはずがない。多くのパルス国民はそう答えるだろう。トゥラーン騎兵と言えど、組織戦ではパルスに劣る。その常識は、アクターナ軍によって覆された。

 今回は勝ったことは勝ったが、わずかな差であった。一つ指揮を誤れば、結果は容易く覆っていたに違いない。

「同数なら、アクターナ軍はパルス国軍でも圧倒する」

 ダリューンは断言した。その意味はナルサスもすぐ理解した。歩兵の差である。パルス軍は騎兵が主戦力で、歩兵は奴隷が主体の二次戦力と考えられていた。騎兵は互角でも、歩兵の質は比べ物にならない。

「……それ以上に、これからはアクターナ軍も本気でぶつかってくる。……俺は、そっちの方が怖い」

 ナルサスが重々しく言う。今回の衝突は、まだ小手調べの段階でしかない。だがそれにダリューンが勝ったことで、セイリオスはアルスラーンの力を認め、叩き潰すべき敵と認識したはずだ。

 もう一つナルサスが恐れるのは、敵軍の諜報力である。こちらがシンドゥラで何をしたかを素早くつかみ、即応してみせた。その早さは、軍師として脅威とする他ない。

 

「ま、まあ今はナルサスの策が上手くいったことを喜ぼうよ。とりあえず、勝ったんだし」

「……うむ。アルフリードの言う通り、今は喜ぼう。アクターナ軍も鬼神ではない。人知を尽くせば、勝てない相手ではないとダリューンが証明してくれた」

 アルフリードの下手な話題逸らしに、真っ先に賛同したのはアルスラーンであった。とにかく今はアクターナ軍を気にするより、イスファーン隊と合流し、彼らをペシャワールに落ち着かせてやらねばならない。

 カーヴェリー河からしばらく進むと、そこに3万ほどの軍を見つけた。イスファーン隊だけではない。シンドゥラの旗に、国王旗まで見えた。ラジェンドラ王が、布陣していたのだ。

 ヒルメスがカーヴェリー河に着いたのは、アルスラーンがすでに対岸に逃れ去った後であった。

 

「ちっ!!!」

 川岸で軍を止めたヒルメスの下に、使者と思しき数騎がカーヴェリー河を渡ってきた。シンドゥラ旗を掲げている。

「『カーヴェリー河より東はシンドゥラ領である。境を侵すのであれば、シンドゥラ国王・ラジェンドラがお相手いたそう』。…以上が、我が王の言にございます」

 自軍は騎兵だけの1万強、敵は3万から4万はいる。アクターナ軍は撤退してしまった。踏み込むのは自滅以外の何でもないだろう。

「……シンドゥラと事を構えるのは、こちらも望まぬこと。むしろ『正統なる』パルスの王として、ラジェンドラ王とは末永い好誼を願いたいものだ」

 沸騰する内心を押し隠して言う。ラジェンドラが出張ってきたのは予想外である。アルスラーンとラジェンドラは、そこまで強い結びつきを得ていたのか。そうだとすると、まずそれを切り崩さねばならない。

 仔細は後で書状にしたため届けようと言うと、使者は事情は呑み込めないが満足して帰って行った。

 

「アルスラーン殿、難儀であっただろう」

 ラジェンドラがここにいるというのは、アルスラーンにとっても意外だった。ただし他の者に言わせると、「屍肉を漁りに来た禿鷹」という評になる。それでもアルスラーンは、丁重に礼を述べた。

「まったく、水臭いではないか。盟友たるおぬしのためなら、俺は何でもしてやったというのに。勝手なことだが、俺はおぬしを弟のように思っている。困ったことがあれば、何でも言ってくれ」

 勝手に思ってろ、そして口にするな、と眉間にしわを寄せて思ったのはダリューンである。アルスラーンは苦笑いを押し隠したような笑みで答えた。ラジェンドラの腹の内は彼も読めているが、どうにも憎めない。

 

 ……もっとも、パルスの群臣に悪く思われるのはラジェンドラの自業自得だ。ここまででやめておけば、ラジェンドラも「厚かましいが悪い奴ではない、まあ同盟者として信を置いていい相手だ」と思われただろう。

 その夜、パルス軍の宿営地をシンドゥラ軍が襲った。いくらパルス軍と言えど、ヘルマンドス城からの逃避行で疲労困憊のはずであり、今晩はぐっすり眠りこけているに違いないと判断しての急襲である。

 といっても、ラジェンドラにアルスラーンを討ち果たすつもりなど無い。今後、パルスの君臣に侮られないためにも、ここで一泡吹かせてやろう。彼にしてみれば、少々辛辣な悪戯のつもりだった。

 しかしそれを予測していたナルサスは逆包囲の態勢を整え、準備万端で待ち構えていた。そこに飛び込んだのだからひとたまりもない。

 ラジェンドラ王は捕虜となり、散々脅された挙句、3年の停戦を結ばされ金貨5万枚と良馬2千頭を謝礼として支払うことになった。

 

 そしてアルスラーン軍が去ったヘルマンドス城は、城門を開いてヒルメス軍を迎え入れた。住民に対し略奪、虐殺を行わぬこと。それが条件であった。アルスラーンが言い含めていたのだろう。

 勿論、ヒルメスはそれを受け入れた。これから本拠となる地で略奪などするのは、馬鹿か蛮族のやることである。部下たちにも遵守するよう、徹底させた。

 城内に入ったヒルメスは即刻布告を出した。パルス第18代国王(シャーオ)ヒルメスの即位である。アンドラゴラスを簒奪者とし、自身の正統性を主張するため、あえて「第18代」と名乗ったのだ。

 ―パルス史上において、ヒルメスの存在をどう位置付けるかは、後世の歴史家にとって悩みの種となる。だがこの時、彼の部下たちと一人の女性にとって希望の光であったことは、疑いようがない。

 




やはりダリューンは強かった。

そして相変わらずのラジェンドラ王…。
キャラとしては非常に好きな奴なんですけど、ルシタニアと絡ませるのが非常に難しいのが残念なところです。


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19.亡国の王女

「………そうか、大義だった。席に戻れ」

 クラッドとルキアが頭を垂れながら報告した内容を聞き終え、セイリオスは厳しい表情を崩さずにいた。席に戻れと言われた二人も、悄然として場に戻る。

「殿下、二人の処罰はいかがするつもりですか」

 小競り合いに過ぎなくとも、常勝不敗のアクターナ軍にとって、初めての敗北と言えた。それで平静を失ってないかと、シルセスが試すように口を開く。

 

「何を言っている。今回の敗因は、パルス軍を侮りすぎたことである。敗戦の責は、ここにいる全ての者が負うべきだ。第一に私、その次に参謀たるお前、そして諸将」

 失礼しました、とシルセスが引き下がる。彼女が何でそんな的外れなことを言ってきたのかは、セイリオスにも充分伝わっている。自分に言わせることで、皆が聞きにくいことを言わせたのだ。

 クラッドとルキアの二人。従わせた騎兵は古参の5千騎である。それが1万騎全てを相手にしたのならともかく、同数の5千騎相手に敗北。

 この辺りで、少しばかり叩いておこう。シンドゥラ遠征を予想以上に見事に果たしたアルスラーンに対し、セイリオスはそう思ったのだ。

 

「……アルスラーンは、良い臣下を持っているようだ」

 本気で叩く気があるなら、全軍で向かうべきだった。少なくとも騎兵は全て出すべきだった。それをしなかったのは、騎兵5千で充分と侮っていたからとしか言いようがない。

 改めて、アルスラーンの存在を考える必要がある。ボダンたちの処刑役として残しておいたのは、失敗だったかもしれない。

 ボダンたちはもう放っておいても消滅する。アルスラーンは全力で討ち滅ぼし、傀儡として誰かを擁立するか。それでもパルスの分断はできる。あのフィトナなど、使えそうではあるが…。

(無理だな)

 セイリオスはあっさり諦めた。それをすると、極めて弱体な政権となる。つまりルシタニアが護ってやらねば立ち行かない。それでは何の意味もない。手を引けば、パルスをヒルメスにくれてやるようなものだ。

 となればやはり、アルスラーンの力を弱める方向で行くべきだろう。軍事も謀略も含めた、あらゆる手で。

 

「任務は果たした。撤退する」

 多少のアクシデントはあったとはいえ、ヘルマンドス城はヒルメスの手に落ちた。彼がパルス先王オスロエスの嫡子で、第18代王を僭称したという報告も、続けて入った。

 ヒルメスの正体は、まあ予想の中の一つにあった。王立図書館の中にヒルメスについての記録はあり、生きていたとすれば年齢は合致するしアンドラゴラスに対する憎悪も理解できる。

 彼がアルスラーンと結ぶ可能性は皆無に等しいとはいえ、アクターナ軍の存在は邪魔だろう。アルスラーンにとっては言うまでもない。自分たちは、敵地に孤立していると考えるべきである。

 アクターナ軍はすぐさま北西へ向かい、大陸公路に出ると疾風のごとき速さでエクバターナへ向かって駆けた。その姿を見ていた一行がいたが、彼らは上手く隠れていたため、気付かれることはなかった。

 

 

「行ったぞ」

 二人を除いて、一行の皆がほっと息を突く。マルヤムの内親王と女官、それを護衛する騎士たち、さらにはパルスの元万騎長にゾット族の男という、奇妙な面々であった。

「異様な精鋭だな。あれだけの速さで行軍していたのに、全く乱れない。ダイラムで戦った連中とは、まるで違う」

 ゾット族の青年が言う。軍旗は深緑にルシタニアの紋章。そう聞くと、騎士たちの顔が青ざめた。王家自慢の精鋭が一戦で蹴散らされ、難攻不落と信じていた城がたちまち落ちる。現実で悪夢を見せられた相手だ。

「噂のアクターナ軍という奴だな」

 水代わりに麦酒を飲みながら、動じなかった一人が言う。だがその表情は酒に馴染んだ酔っ払いのものではなく、歴戦の武人のものであった。アトロパテネ会戦以降放浪を続けている、元万騎長のクバードである。

 

「…アクレイアの城も、奴らに落とされた」

 一人の騎士が、ぼそりと呟く。いくら何でも、アクレイアの城を落とせるはずがない。王と王妃のことは痛恨の極みであったが、ここで耐えているうちにパルスの援軍が来れば、マルヤム復興だけは易々と出来よう。

 その楽観はアトロパテネ会戦で崩れ、アクレイア陥落で叩き潰された。アクターナ軍のデューレン相手に半年ほど粘ったというのが、戦果と言えば戦果か。

 かろうじてイリーナ内親王だけ連れてダルバンド内海に逃げ出したものの、櫂の漕ぎ手すらいなかった。何とか帆を張り、風に恵まれてダイラムにたどり着けたのは、幸運だったと言うほかない。

 

 クバードの方は放浪中、奇妙な噂を拾い、ペシャワール城へ向かおうとしていたところだった。アルスラーン王太子の元に、ダリューンとナルサスが仕えているのだと言う。

「………ほほう」

 ダリューンはともかくとして、ナルサスである。自分以上に宮廷勤めなんぞ嫌っていたはずなのが、どういう風の吹き回しであろう。そうしたアルスラーンには、自分が気付かなかった器量があるということなのか。

 クバードも、アルスラーンについては深く知らない。ヴァフリーズから剣の稽古を嫌々受けていた姿を知っているくらいである。パルスの次代は大丈夫なのか、まあ自分の責任ではないが、と思っていたものだ。

 見込み違いなら、また放浪すればいい。とりあえずペシャワールに行ってみようと思ったが、気分と馬の足の向くまま進んでいったところ、ダイラム地方に出てしまったのである。

 

 最後の一人が、メルレインという、いつも不機嫌そうな表情をした若者だ。ゾット族の族長の息子で、妹を探して旅をしている途中であった。妹の名は、アルフリードという。

「昨年の秋、略奪に出た親父が殺された。遺言では妹が婿を迎えて族長になれとあった。妹を探し当てるか、死んだことを確認するまで、新たな族長を決められん」

 人相と違って義理堅い奴だ、とクバードは思った。少し気を悪くすると、ぐいっと唇を引き結ぶのがメルレインの癖である。それがいかにも、不平不満を抱えて謀反でも企んでいるように見えてしまう。

 だが、彼が本当に野心家なら、馬鹿正直に妹を探すことなどせず、自分が新族長を名乗るはずだ。非常時の措置と考えれば、納得する者は多い。妹が生きていたとしても、それまでに一族を掌握すればいい。

 それはともかくとして、妹を探しにダイラム地方を訪れた。それだけだったのにこんな一行の仲間になるとは、夢にも思ってなかったに違いない。

 

 三様の理由が偶然重なったが、すれ違うだけのはずだった三者を繋げたのは、ルシタニア軍の襲撃だった。かつてギスカールからダイラム地方の切り取り勝手を約束された、ルトルド侯爵の手勢である。

 ルトルド侯爵は喜び勇んでエクバターナから出陣したものの、その後すぐギスカールとボダンの衝突の噂を聞いて軍を止めた。ひとまず敗走してきたボダン軍に合流したが、蜜月は非常に短かった。

 当初は、ルトルド侯爵の合流をボダンも心から喜んだ。「神の尖兵」などと持ち上げられていい気分でいたが、すぐに何に対しても神の名を持ち出して命令してくるボダンに愛想が尽きた。

「……ギスカールはよくあんな輩と一緒で、ここまでルシタニアを興隆させられたものだ」

 聖マヌエル城を出奔した時、彼は心底からギスカールを称賛した。といって、降人として頭を下げる気にはなれない。考えた末、当初の予定通りダイラム地方を制圧することにしたのである。

 

「ダイラムで自立しよう。豊かな地方であると聞くし、ギスカールも認めたことだ。その後、俺の地位を認めさせてやる」

 ヒルティゴがパルス南西部の王となりつつあるなら、俺は北東部の王となってやろう。幸い、ボダンと違ってギスカールとの関係は完全に断たれたわけではないから、交渉の余地はある。

 ルシタニア屈指の大貴族であった彼の手勢は、与党も含めておよそ1万。ダイラム地方にパルス軍はいないと言われているが、念のため先遣隊を派遣した。その間、彼は軍を止めた。それが運の尽きとなる。

 聖マヌエル城からダイラムへ向かうのに、彼は山越えの道を選んだ。パルス人なら赤子でもない限りだれもが名を知る、デマヴァント山の近くを通ったのである。

 3月28日、パルス国の東部一帯を、20年ぶりと言われる大地震が襲った。震源地であったデマヴァント山では特に被害が大きく、落石や崖崩れで山容が変わるほどであった。

 しかし、いくら大きな地震とはいえ、生存者が一人もいないというのはありえない。それなのにルトルド侯爵の軍勢は、忽然と姿を消した。先遣隊の300騎を除き、誰一人としてダイラムにたどり着けなかった。

 

 一方、そのルトルド侯爵の先遣隊を全滅させたクバードたちは、山岳地帯を大きく迂回してペシャワール城を目指すことにした。偵察に出ても本隊の姿が全く見えず、ひとまず安全だと判断したのである。

「目の見えないお姫様が、あんな大地震があった後の山道を歩けるはずないだろ」

 そう言って真っ先に山越えの道に反対したのは、メルレインであった。イリーナ内親王は生まれつき目が見えない。足手まといになるのは目に見えている。遠回りでも、平野を行った方がいい。

 イリーナ内親王個人としては、アルスラーンではなくヒルメスを頼りたかった。ヒルメスは亡命中、マルヤムに滞在してイリーナの知己を得た。それだけでなく、どうやら二人とも思うものがあったらしい。

 しかし、ヒルメスの行方を知る者は誰もいない。当てもなく流浪を続けるのは危険すぎる。マルヤム復興のためには力が必要だ。次善の策として、やむなくアルスラーンに協力を求めることにしたのだ。

 

「この先にルシタニアの城がある。内紛で負けた連中が流れ着いたという噂だ。南に下がり、バダフシャーンを抜けていった方がいいだろう。それなら、ゾット族の援助も受けられる」

 目的地が一緒では捨てていくわけにもいかず、渋々行動を共にしているクバードとは違い、メルレインは無愛想ながら案内役としての任を果たす。現状、旅路を裁量しているのは彼であった。

「………」

 クバードもマルヤムの騎士たちも何も言わないが、すぐ気付いた。どうやらメルレインは繊細でおしとやかな女性が好みらしい。ゾット族なら女も荒くれぞろいだろうから、その反動だろうかと同情しないでもない。

 

「確か、ルシタニアの王と大司教が争い、大司教が負けたという話だったな。大陸公路の真ん中に居座り、通りかかる者や近くの村を見境なく襲うという話だから、見下げ果てた奴らだ」

 ゾット族も同じようなものだろう、と言われたら、メルレインは激怒していただろう。ゾット族は剽窃するし、必要があれば殺人も行うが、決して好んで人を殺すわけではない。

「………」

 急に黙り込んだメルレインに、どうしたとクバードが声をかけた。何でもないとだけ、メルレインは答えた。もう一つ、吐き気のする噂があるが、それはわざわざ言わずともいい。

 とにかくアクターナ軍をやり過ごした一行は、さらに南に向かった。安全を考えれば、遠回りをするのも仕方ない。

 だがその途中で、ヒルメスの名を聞いたのである。第18代パルス国王(シャーオ)としてルシタニアを討伐し、パルスに正統を回復する。その檄文が、パルス東南部一円にばら撒かれていたのだ。

 

「ヒルメス様は、ヘルマンドス城というところにいらっしゃるのですね」

 イリーナの声が弾む。マルヤムにいた頃でも、こんな明るい声を出したことはあっただろうか。少なくともルシタニアの侵攻が始まってからは、絶えて無かった。

「………あー、俺はペシャワールに向かうから、行き先を変えるならここで別れさせてもらうぞ」

 厄介事が片付きそうだという内心の期待を隠し、クバードは告げた。マルヤム王女一行の境遇には同情するが、自分の都合を捨ててまで協力しなければならない義理はどこにもない。

(俺はまず、ナルサスがどうしてアルスラーン殿下に従うことにしたのか、それを確かめたいのだ)

 ヒルメスの補佐をしているのはカーラーンとサームだと言う。二人を従えているヒルメスと名乗る男にも興味がないわけではないが、それを確かめるのは後でいい。

 一人、クバードは馬の向きを変え、ゆっくりと歩み去った。

 

「ヘルマンドス城までは、どれほど距離があるのでしょうか」

 イリーナもマルヤムの一行も、パルス東部の地理など全く分からない。ヘルマンドス城の名なら、かつてバダフシャーン公国の首都であったということで聞いたことがあると言う程度だ。

「さほどでもないが、いつになるかはあんたたちの足しだいだ」

 自分一人、馬を駆けさせれば一両日で着く、と思いながらメルレインは答えた。目の見えないイリーナを荷車に載せ、敵を避けながら進んでいるのである。

 当初、イリーナのために輿を使おうと考えていたらしい。馬鹿かとメルレインは一喝した。輿など担いで歩いていたら時間がかかって仕方ないし、いかにも貴人の一行に見えてしまう。

 そのせいもあってか、イリーナがたびたび体調を崩した。マルヤムの滅亡からここまで、極度の緊張と不安の中を綱渡りしてきたと考えれば仕方ないかもしれないが、ゆっくり休ませてやる暇はなかった。

 

「で、お姫さんはそのヒルメス殿下にお会いして、どうするつもりなんだ」

「まずは、皆の安全を。それからマルヤムの復興に、力を貸していただきたいと思ってます」

 そううまくいくものかな、とメルレインは思う。まず第一に、ヒルメスとイリーナが知己であると言っても、10年以上前にわずかな期間会っただけだ。相手は忘れているかもしれない。

 次いで、仮にヒルメスがイリーナへの好意を忘れずにいて、快く皆を受け入れてくれたとしても、果たして彼にマルヤムを奪還するような力はあるだろうか。

 宮廷内の事情なんざ知らないが、メルレインとてパルスの現王がアンドラゴラス三世であることは常識として知っている。となればヒルメスとやらは、ただ王を自称しているだけの存在に過ぎない。

「……まあいいさ。行くだけは、行ってやる」

 どうなるかは、このお姫様の運次第だろう。それは自分の力が及ぶ物でもない。

 




ヒルメスが原作より強大化したためイリーナ王女の運命も変わりました。
アクレイアの籠城戦については、以前後書きで書いた通り。
その他原作では輿を使うとか阿呆な真似をしていたので細かい所も変わってます。


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20.後方の謀略戦

「…こちらがアルスラーンの檄文、こっちはヒルメスの檄文。間に合ったな」

 にや、と二人して笑う。二通の檄文を手にした諸侯は戸惑っているであろう。ルシタニアにとってなお都合がいいことに、アルスラーンの檄文にはルシタニア追討令の他、もう一通付随していた。

「奴隷解放宣言…。アルスラーンも、夢見る小僧に過ぎなかったということか」

 ギスカールもセイリオスも、全奴隷の解放など現実を無視した理想の暴走でしかないと思っている。ルシタニアに味方した奴隷を解放し、マルヤムに入植させていることへの対抗と見ることもできるが…。

「明らかにやりすぎですね。これで、果たして奴隷たちが戦う気になるでしょうか」

 この奴隷解放宣言には「アルスラーンが王として即位したら」という前提が付いている。しかし、それ以外に条件はない。つまりアルスラーン即位まで生き延びれば、ここで戦わずとも、何もせずとも自由民になれる。

 

「………まあ、所詮他国のやることだ。どうしようが、俺たちには関係ない。マルヤムに入植させた奴隷たちが故郷に帰りたがるのではないかというのが懸念だが…」

 それに対し、弟はあっさり答えを出した。彼らに奴隷を持たせてやればいい、と言うのである。

「奴隷制度の旨味を知れば、無くなった国に帰ろうとする気も薄れるでしょう。……その奴隷が、パルスの自由民なら、なおいい」

 こんなことを言い出すということは、絶対に何かを企んでいるということである。さて、それは何か。ギスカールもたまには、この弟の鼻を明かしてやりたい。

「パルスの西部で反乱を起こさせるのだな」

 さすが兄上、とセイリオスが微笑した。アルスラーンとヒルメスの名を騙った偽の檄文で、パルス西部の不穏分子を扇動しようと言うのである。

 

「ザーブル城他、絶対に渡せない拠点は避けます。各城塞の調査は終わり、弱点も判明していますから、片手間で落とせるような城に烽火を上げさせ、それを叩き潰せばいい」

 パルス西部から反ルシタニアの火種を一掃する。協力した住民は奴隷として売り払う。ルシタニアに逆らえばどうなるかという見せしめにもなる。空いた地には、ルシタニア人を入植させてもいい。

 さて、それに対し敵軍はどう動くか。諸侯がどちらに付くか帰趨を決め、軍を率いてペシャワールなりヘルマンドスに向かう。4月中は軍の編成で忙殺されるはずだ。出陣は、早くて5月初め。

 

「ペシャワールにせよヘルマンドスにせよ、通常の行軍で一月余りというところか」

 歩兵を伴うとなれば、どうしてもそのくらいは必要になる。対し、ルシタニア側の備えはどうなっているかと言うと、主力をエクバターナに集結させただけで、東には防塁の一つも新設していない。

「敵軍の規模を分析すると、どちらも十数万の兵は集まるはずです。1万や2万を派遣して要塞に籠らせたところで、各個撃破の的になるだけでしょう」

 セイリオスはそう言い、エクバターナ以東の防御には全く無関心であった。

 

 ルシタニア軍の内訳は、アクターナ軍4万、十二宮騎士団(ゾディアク)7万、その他諸侯軍15万というところである。15万の諸侯軍もセイリオスが課した調練のおかげで、かつての精鋭に勝る練度になっている。

 その内、20万は対パルス軍に動員できる。西方の守りに2万余、エクバターナには1万も置いておけば問題ないだろう。捨てるエクバターナは、「守っている」ふりができればいい。

 他に数えられるものとして、ボダン軍が一層減って2万ほど、オクサスからギランを切り取ったヒルティゴが掌握する軍が4万。ただし、ギスカールもセイリオスも、これらは味方とすら考えていない。

 真にルシタニア軍26万に連動する戦力となるのは、マルヤムでデューレンが鍛えた軍である。およそ10万。デューレンが、前線に出られない鬱憤をぶつける様に訓練したらしい。

 

「檄文は、このような文面で」

 パルス軍10万を率いて西に向かう、諸君は各地で敵の後方を乱すことに専念せよ、という内容である。後方撹乱は当然の戦略であり、不自然な命令ではない。

 にや、とギスカールが笑う。反乱を起こす連中は、せいぜい数万の討伐軍を送られる程度と予想しているだろう。そう思い込ませる文章になっている。

 デューレン軍10万は、すでに旧マルヤム―パルスの国境付近に展開している。烽火が上がり次第、急襲して叩き潰す。そのことまで考慮できる奴がいるなら、そもそも反乱など起こさない。

「よし、やれ」

 ギスカールは短く命じ、セイリオスも小さく頷いた。

 

 

 パルス西部だけで、連鎖的に蜂起が起きた。ナルサスが放っていた間諜はその情報と、セイリオスが偽造した檄文を持ってペシャワールまで駆けつけてきた。

「どういうことなのだ、ナルサス?」

 アルスラーンが戸惑った声で問う。怒気は含まれていない。ナルサスが無断で、『住民まで巻き込んだ』蜂起を画策したのではないかと疑わないところは、この王子の美点であろう。

「………やられた」

 ナルサスとて、パルス西部での後方撹乱を考えなかったわけではない。だがルシタニアの力を考えれば無謀と言う他なく、むしろ抑制していたのである。

 とはいえ、全ての反抗組織に接触できたわけではない。それにルシタニアはエクバターナの公文書館を握っている。それらしい命令書を偽造してばら撒けば、信じる者も出るだろう。

 

「……ルシタニアが、意図的に蜂起させたのでしょう」

 それだけ言うのが精一杯だった。助けに行く余裕などない。ペシャワールのパルス軍がエクバターナを奪還するまで自力で粘れればいいが、そんな可能性は皆無に等しい。

 最初に蜂起したのは、サーダートという国境付近の町である。もちろん城壁をめぐらした城塞都市だ。それを手始めに3つの町で蜂起が起きた。ルシタニア軍がエクバターナに集結した隙を突いた、という形である。

 王都からサーダートまで、強行軍でも10日以上。10日は絶対に安全だと思っていたサーダートの町は6日後にルシタニア軍に包囲され、防備の整わぬうちに1日で殲滅された。

 いくら扇動した張本人だとしても、早すぎる。そのからくりはもちろん、襲ったのが王都から出た軍ではないということである。

 

「動いたのは、マルヤム軍…」

 サーダートを叩き潰され浮足立った蜂起軍は次々とデューレンによって鎮圧され、協力した民衆は容赦なく奴隷として売り払われた。その後、徹底的な反乱狩りが行われているという。

 幸いと言えるのかわからないが、デューレンもセイリオスの腹心の一人だ。民衆を見境なしに殺して巡るという話は、伝わっていない。だが密告は奨励した。

 奴隷として売られたくない民衆は、これまで少なくとも黙認はしてきた反抗組織を次々と見捨て、ルシタニアに売り渡しているという。

 一方、王都を発したルシタニア軍2万はザーブル城を中心に展開した。混乱した西部に睨みを利かせる態勢と見えるが、実際は退路を万全とするための配置だ。

 

「ナルサス、今すぐ出陣する。パルスの民が奴隷とされるのを、放ってはおけぬ」

「………もはや、手遅れでありましょう」

 東の端のペシャワールから西のザーブル城まででも、およそ250ファルサング(1250キロメートル)あり、通常の行軍なら2か月近くはかかる。しかもエクバターナを突破せねばならない。翼でもない限り、無理だ。

「……くっ!」

 アルスラーンが、地面に拳を叩きつけた。何もできないことを言い訳にせず、力が足らぬことを悔やむ。やはり、この王子には良き王となる素質がある。

 

 アルスラーン軍の戦力は、まず騎兵2万。これはキシュワードとシンドゥラ遠征で戦死したバフマンの軍をダリューンが引き継いだもので、精強を誇ったパルス国軍の騎馬隊である。

 それに、歩兵が2万。かつてペシャワールには6万の歩兵がいたが、アルスラーンはその歩兵隊を構成する奴隷たちを自由民にして、入植させた。その彼らの一部が、仲間に開拓地を任せて戻ってきたのである。

 加えて、ヘルマンドス城の残兵が4千。この軍はイスファーン将軍がそのまま率いていた。

 最後に、集まった諸侯の軍と義勇軍が7万ほどいる。奴隷解放宣言が受け入れられないのではないかと思っていたアルスラーンにしてみれば、意外とも思える数だった。

 

 ペシャワールに充分な守兵を残したとしても、10万の軍を編成できる。アトロパテネの頃と同じ情勢であれば、これはルシタニアを叩き返すのに充分な戦力と言えた。

「……だが今では、10万では辛い」

 ルシタニア軍20万余。西部からマルヤムに展開している軍も含めれば35万以上。セイリオスによって精鋭と化した軍である。国軍が壊滅したパルス軍と同等の力は持っていると考えておいた方がいい。

「と言って、これから急激に兵が増える見込みはあるのか?」

「無い」

 ナルサスが真顔であっさり言いきり、問うたダリューンの表情の方が苦くなる。パルスの西半分はルシタニアの占領下、東南部のバダフシャーンでヒルメスが勢力を扶植している現状、事実ではあるのだが…。

 

 しばらく無言でいたところ、ナルサスの元に一人の初老の男が駆け寄ってきた。集まった諸侯の一人で、レイの城主ルーシャンという男である。

「ナルサス殿、ここにおられたか。諸侯の中から、訓練が厳しすぎるという声が上がっている。いや、私は必要な事なのだとわかっているのだが…」

 ルーシャンは中書令という役職についている。王太子の補佐役で、国王に代わって王太子が政務を執る、つまり今のような状況では、実質上の宰相と言っていい地位にある。

 最初はナルサスがその地位に就いていたのだが、年長者であり、思慮分別に富み、諸侯からの人望も厚いルーシャン卿が適任だと譲ってしまった。守旧派から忌まれていることを、ナルサスは自覚していたのだ。

 

「ザラーヴァント将軍の隊から、特にそういう声が多い。故郷と亡父を思う気持ちは充分理解できるが、焦りすぎではないだろうか。ナルサス殿からも、少し言い聞かせてやってもらえぬだろうか」

 アクターナ軍にオクサスを落とされた後、ザラーヴァントはわずかな人数を連れてペシャワールにたどり着いた。丁度、アルスラーンのシンドゥラ遠征軍が出発したばかりであった。

 戦功をを立てる機会を逃したザラーヴァントは悔しがったが、キシュワードはすぐさま実力を認め、一隊を任せたのである。それからの訓練は、鬼気迫るものだった。

「……アクターナ軍と実際戦ってみれば、理解できましょう」

 本当の意味でアクターナ軍と戦ったのは、ザラーヴァントだけと言っていい。城に籠り粘る事しかできなかった。オクサスの敗戦を、彼はそう総括した。

 

「しかし、我が軍にはダリューン卿、キシュワード卿、クバード卿の武勇に、ナルサス卿の智謀がある。それにイスファーン、ザラーヴァント、トゥースらの将軍もいて、正直、これで負けるなど思えないのだが…」

 ルーシャンもアクターナ軍のことは話に聞いていた。だが、どうにも実感が湧かない。常勝無敵のパルス軍が負けるはずない。その常識を捨てるのは、なかなかに難しい。

「半分の兵力で勝てるなどと己惚れれば、アトロパテネの二の舞ですぞ。ルシタニアごときに負けるはずない。自信が過信となり、慢心に至った結果、アトロパテネであれほどの惨敗を喫したのです」

 むう、とルーシャンが唸った。つくづく、あの戦いさえなければと思う。アトロパテネの負債を必死で取り返そうとしているのが自分たちであり、それを元手にさらなる利を積み重ねているのがルシタニアなのだ。

 

「わかり申した。諸侯の不満は、何としてもこのルーシャンが抑えましょう。ところで、クバード卿に対しては、いかんせんダリューン卿以外意見できる者はいないと思うのですが…」

「あれはああいう男だ。放っておくしかない。…一度、戦場での姿を見せれば不満も消えるだろう」

 クバードはマルヤムの王女一行と別れた後、特に何もなくペシャワールにたどり着いた。アルスラーンがただの傀儡なのか、それとも本当にナルサスほどの曲者を心服させたのか、それを見極めるつもりである。

 …それはいいのだが、毎日毎日酒を呷っているばかりでは、威厳も何もないではないか。もう少し万騎長らしい振る舞いと言うものを心がけてもらわねば、下の者に示しがつかない。

 常々そう思っていたルーシャンだが、どうしようもないと言われて渋々引き下がって行った。

 

「……さて、私たちの戦略ですが、これはシンドゥラで話した通り、基本的に余地はありません」

 大陸公路を西に向かい、ルシタニアとの決戦に臨む。セイリオスは、一戦して勝った後の撤退を望んでいる。パルスの力を削り、また戦略的な撤退であって敗北ではないと示すためだ。

「機会があるとすればここだけでしょう。ルシタニアに大勝し、奴らが態勢を立て直す前にパルスを殿下の元に再統一する。それでようやく、アトロパテネ以前の情勢を取り戻せるというところです」

 言うのは簡単だが、敵にあのアクターナ軍がある限り、実現は極めて難しい。ダリューンの肩を「期待しているぞ」と叩き、嫌な顔で頷かれた。

 

 ただ一つ、これが上手くいけば、という策がないこともない。暗殺だ。セイリオスが消えれば、ルシタニアの力は半分以下に落ちる。その上ギスカールもいなくなれば、ルシタニアは戦う前に崩壊するだろう。

 ただし、アルスラーンは絶対に喜ばない。暗殺という手段の有効性は理解しても、そういう陰湿な手段を取ったナルサスに対して、むしろ悲しむに違いない。

(アンドラゴラス王に対してなら、無感情に進言したかもしれんな)

 大分毒されたな、とナルサスは思う。勝利を得るために極めて有効な選択肢を、アルスラーンが嫌う手段だと思えば捨ててしまう。自分自身がまず、この王太子に正道を歩んでほしいと思っているということだ。

「…ナルサス、5月になったらすぐ出陣する。パティアスと共に、そう準備してくれ」

 はっ、とナルサスは一礼した。しかし、ルシタニアは次にどんな手を打ってくるのか。

 




つくづく思うこととして、原作のルシタニアもこのくらいのことはやれ、と。
チャスーム城なんてエクバターナから900キロも先に急造の城を拵えて何の戦略的意義があったのやら。
(アルスラーン軍の見せ場という物語上の意義はありましたけど)

それはともかくこの話、評価は高いし結構読まれているようですけど感想が少ないのが気になるところです。


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21.対立王の恋

 騎馬隊が、一直線に向かってくる。60騎ほど。300騎がそれを取り囲む。もはや敵総大将との相打ちを狙うしかないと思い定めた突撃は鋭かったが、カーラーンはそれをいなし、最後に先頭の男を落馬させた。

「まだまだだな、ザンデよ」

 訓練用の棒を突き付けられ、ザンデがうなだれる。カーラーンが途中で隊を二つに分けた。それに対抗するため、ザンデも二つに分けた。父の部隊を追ったが僅かに振り切られ、分けた部隊が殲滅された。

「先まで読んで部隊を動かせ。それができぬうちは、万騎長などと口にするな」

 

 ヘルマンドス城の、郊外である。ヒルメス軍は集まった諸侯の軍も合わせ、10万を超えた。バダフシャーンの防衛に3万を割くとしても、7万の外征軍を編成できる。

「アルスラーンはパルス王家の血を引いていない。タハミーネ王妃の子は女児で、アルスラーンと取り換えられたのだ。カイ・ホスローの正統は、このヒルメスにある」

 この布告はなかなか効いた。諸侯もアンドラゴラスとアルスラーンの不仲は知っていたから、動揺は大きいものであった。とはいえ、皆がこぞってヒルメスを認める様になったわけではない。

「ヒルメスというのは銀仮面卿と名乗り、ルシタニア軍をパルスに引き込んだ張本人だ。ルシタニアの支援を受けてバダフシャーンを制圧したのが、何よりの証拠である」

 アルスラーン側も、負けじと言い返している。ナルサスにとっては謀略とすらいえないレベルの罵り合いであろうが、こういうものは一方的に言われ続ければ、それで負けたとみなされる。

 

「数はそれなりとはいえ、練度と士気はルシタニアにも、アルスラーン軍にも劣るだろう」

 ヒルメス、カーラーン、サームの間で、その認識は共有していた。この地がパルスのものとなってから、20年も経っていない。パルスの民という意識は、まだ希薄だ。

 集まった諸侯の軍も、近隣の諸侯を力で従わせたか、アンドラゴラスに冷遇されていた者ばかりだ。アンドラゴラスは軍人としては有能だったから、冷遇はすなわち戦下手と考えても、大体あっている。

 先の噂で、ペシャワールのパルス軍がこぞってヒルメスを奉戴するということもなかった。アルスラーンは、想像以上に軍を掌握しているようだ。ヒルメスとしては、憤懣やる方ない。

 とにかく、今はまだ人材を掘り出し、国家としての態勢を整える段階であった。

 

「後方は、パルハームに任せれば問題ない」

 ヒルメスは軍務卿の地位をパルハームに与えた。軍の編制、維持、管理の最高責任者である。要するに軍を支える裏方の仕事を任せたわけだ。パルハームの辣腕ぶりは水を得た魚の様であり、ヒルメスも驚いた。

 アンドラゴラスは、やはり実戦での働きを評価の第一に置いていたのだろう。軍需物資の管理など、適当な文官に任せておけばいいと思っていたに違いない。実を言うと、ヒルメスも似たようなものだった。

(内情を把握し、敵の情勢を偵察し、その上で戦略を決定する―)

 当然、ヒルメスは部隊を率いて戦った経験はある。だがそれは与えられた軍を指揮したというだけで、局地戦で戦術を試されるものであった。後方の苦労など、考える必要がなかったのだ。

 

 軍を率いる最高司令官は、当然ながら王となったヒルメスである。それを大将軍(エーラーン)となったカーラーンが補佐する。ルシタニアから与えられたバダフシャーン公の座は、惜し気もなく捨てた。

 その下に、唯一の万騎長であるサームが立つ。名目上はカーラーンの下だが、ヒルメスは同格の存在として扱っている。カーラーンはむしろそれを歓迎し、サーム自身は一歩引くように振舞っていた。

 カーラーン、サーム、パルハームの3人が、変わらずヒルメス軍の幹部を形成している。ダリューン、ナルサス、キシュワードを擁するアルスラーン軍と比較しても、そう遜色するものではないだろう。

 問題は、その3人に続く存在である。

 

「カーラーン、ザンデは新しく入った2千騎の指揮に回す。報告はその部隊が戦えるようになってからでよい」

 有無を言わさず、ヒルメスが言葉を叩きつける。この2千騎はつい先日ラヴァンという商人から馬を購入したばかりで、ようやく部隊としての調練に入ったところだ。単純に考えれば、降格に見える。

 しかも、報告をしなくていいというのは、側近からも外すということである。ザンデは沈んだ声で拝命した。その姿を見てもカーラーンは、何も口に出さなかった。

(ザンデが部隊をどう育てるか、だな)

 ザンデは一から部隊を育てた経験がない。ヒルメスの命は失望ではなく、期待を込めた試練なのだ。ザンデがこの2千騎を一流の部隊として育て上げれば、彼も大きく育つ。その時こそ、万騎長の座も見えてくるだろう。

 

 ヘルマンドス城はエクバターナとギランの港町に次いで富が集まる場所として知られていた。軍事要塞であるペシャワールとは、そもそもの成り立ちから違う。

 その潤沢な軍資金を使い、騎馬隊を2万5千まで拡張した。馬の値が高騰していたが、構わずに買い集めた。どうせこの混乱が収まるまでは、値が下がることはない。

 もっとも、精鋭と言えるのはかつてカーラーンとサームの軍に所属していた数千騎だけだ。ようやく、ヘルマンドス城攻略前からの部隊が、それに追いついてきたという所である。

 

「ナセリ、シャハール、ルスタムも、万騎長と言うには力不足か」

 ナセリがサーム麾下の千騎長だったことは前に述べた。35歳になり、経験も豊富な指揮官である。だが、全体的に物足りない。千騎長として一隊を任せれば優秀だが、一軍を任せるとなるとどうだろうか。

 シャハールは騎兵の小隊長だったのを、抜擢してみた。24歳の若者だが、馬術に見るべきものがあったからだ。しかし、いきなり千騎を与えられては、戸惑うのも無理はない。一応、今後の成長に期待はできる。

 ルスタムはバダフシャーン人で、ヘルマンドス城攻略の時に降伏した一人だ。30歳。父親がバダフシャーン滅亡時に戦死し、内心アンドラゴラスを恨んでいた。それを買ってみたが、逸材とは言い難い。

 やはり、最も期待できる将校となると、ザンデという答えになってしまう。

 

「王よ、大変でございます!」

 郊外の原野で閲兵していたヒルメスの下に、小柄な男が駆け付けてきた。アンドラゴラス王の下で宰相を務めていた、フスラブである。エクバターナ陥落の際にヒルメスに降伏し、以後付き従っている。

 フスラブについて、ヒルメスは特に期待していたわけではない。曲がりになりも宰相を務めていたということで、とりあえず宰相の座に置いてみた。駄目ならすぐ辞めさせるだけのことだ。

 ところが、意外に働く。このまま民政を任せてもいいと思えてきた。元々ヒルメスは政治に関しては保守的で、フスラブのような旧例に則って物事を処理するだけの事務屋が合っていたのかもしれない。

 それはいいのだが、フスラブが自ら来たというのは大事である。彼の場合政治的に重要な判断を仰ぐというより、「これは王様に伝えた方がいいぞ」と嗅ぎ分ける能力が、異常に高いのである。

 

「マルヤムの内親王と名乗る一行が、謁見を求めてまいりました。どうやら嘘はないようで、ひとまず宮殿の一室に御通ししました」

 マルヤムの内親王、と聞いて、ヒルメスの表情が固まった。名はイリーナ、生まれつき目が見えないという。全てが過去の記憶と、一致する。

「あ……」

 口が動かない。会おうとも、会わないとも言えなくなった。王位は確かに得た。が、自称にすぎない。エクバターナを落とした後なら、胸を張って会えたのだが。

「あの、それで、イリーナ内親王でございますが、高熱を発し、医師に診せているところでございます」

 何かが、切れた。容体は、と勢い込んで聞く。フスラブはそこまで知らなかった。診察中に、まず知らせるべきだと抜け出してきたらしい。

 馬腹を蹴った。馬が疾走する。カーラーンが慌てて近習に「追え」と命ずるが、待つことなど頭の片隅にもなかった。

 

 ヘルマンドス城の城門を越え、街路を駆け抜ける。人が慌てて避ける。放置された荷駄は飛び越えた。怪我人が出なかったのは幸いだっただろう。宮殿まで、矢のように駆け抜けた。

 エクバターナには遠く及ばないものの、ヘルマンドス城は一国の都であっただけあり、王の住まいとして恥ずかしくないと思える宮殿が整っている。仮の首都ということなら、ヒルメスも満足できた。

「イリーナ殿の容体は、どうだ?」

 殺気を込めた視線で、医師に問う。何としてでも治せ、という絶対者の恫喝に、医師は自分に責任がないことをまくしたてる。

 内臓がかなり弱っている。病というより疲労で、特効薬はないが、ゆっくり休養して滋養のある食べ物を食べていれば、やがて回復するはずである。とにかく、今は安静にさせ、眠らせることが一番の薬になる。

 

「………」

 命に別状はない、と聞いて、ヒルメスの表情から気が抜ける。イリーナ王女の容体には、ヒルメスにも責任の一端がある。マルヤム滅亡を傍目にルシタニア軍に加わり、パルス侵攻を助けたのは自分なのだ。

 もはやマルヤムは滅亡寸前であり、ヒルメス一人の力ではどうしようもなかった状況であったのは事実だが、ルシタニア軍ではなくアクレイアの城に駆け込んでいれば、少なくともイリーナ王女への義は貫き通せた。

「……イリーナ殿、および連れの皆の安全は、このヒルメスが保証しよう」

 今からでも、果たして見せる。その第一歩として、王女の代理として一行を宰領する女官長のジョヴァンナにそう告げる。いつかはマルヤムまで征し、イリーナ殿を故国に返してみせる。

 ちなみにメルレインは、ヘルマンドス城の城門前で去った。ここまでで充分、王様なんて自称する奴に会っても面倒が増えるだけだ、と彼は言った。

 とりあえず、彼はゾット族の集落に帰ることにした。ヘルマンドス城からなら遠くなく、妹探しの旅も一族の様子を見た後仕切り直しとしようとしたのだ。そこで彼は妹の行方と、父の死の真相を知ることになる。

 

「失礼します。イリーナ様が、ヒルメス王と話をしたいと」

 眠っていたイリーナ王女が、目を覚ましたという。彼女はヘルマンドス城の客室に入ったところで倒れたのである。安心したことで、押し隠していたものが一気に出たのだろう。

 二人きりで、と言われ、ヒルメスは部屋に入った。

「………」

 遠い昔の記憶だ。パルスに居場所を無くしたヒルメスは、まずマルヤムに亡命した。ひとまず滞在を許された離宮では、盲目の王女が花を摘んでいた。泡沫の夢のように、消え去った安息だった。

 

「……イリーナ殿」

「……ヒルメス様、ですね」

 話をしたかったはずなのに、しばらく言葉が出なかった。何を言えばいいのだろう。体調の事か、故国の事か、それともあの時の離宮の事か。

 王になっても、ヒルメスの傍に女の影はなかった。縁談がなかったわけではないが、パルスを再統一するまではと断ってきたのである。だがその裏で、頭の中にちらつく姿があったことは否定できない。

「………王位を回復なさったそうですね。おめでとうございます」

「………いまだ正式な王とは程遠い。自称の王に過ぎない立場だ」

 アルスラーンを討ち、ルシタニアを叩き返し、アンドラゴラスを謀反人としてエクバターナの城頭で処刑する。そこまで行って、初めて自分が認めることの出来る『王』なのである。

 

「パルスの再統一は夢ではなくなった。その次は、マルヤムを解放する。……イリーナ殿は安心して、この城で養生するがいい」

 俺は何を言っているのだと思いながら、そういう言葉が次々と出てくる。違う。言いたいことは、他にあるだろう。

「…………生きていてくれて、………また会えて、………良かった」

 搾り出すような声で、唐突に言った。イリーナ王女が驚いたように顔を上げる。その見えない視線に居た堪れなくなり、ヒルメスは逃げ出すように部屋を後にした。

 

 

 数日間、ヒルメスは郊外で過ごした。もちろん軍の調練であり、兵たちと野営したのだ。

「玉座に踏ん反り返っているだけでは兵は付いて来ないし、体も鈍るからな」

 アクターナ軍を見ていて、学んだことである。共に笑い、共に泣き、共に耐え、共に喜ぶ。兵士が心を預ける指揮官は、ただ富をばら撒いたりや王の権威を振りかざすだけでなれるものではない。

 とはいえ、内心は別だ。なんとなくイリーナ王女と顔を合わせるのが気恥ずかしかったのである。そのくせ、何もしていないとつい彼女のことを考えてしまう。

 

「……イリーナ殿は、また花でも愛でているのだろうか」

 ひとまず熱は下がったし、ベッドから起き出して庭園にいることもあるという。いまだ食欲がないらしいが、これもその内回復するだろう。

 眼下ではザンデの2千騎が、目まぐるしく動く。しかしそれと相対した歩兵隊はどっしりと構え、槍を突き出した。突っ込んだザンデが一角を蹴散らすが、その穴はすぐ埋められる。

「………」

 ヒルメスが、馬腹を蹴った。3百騎がそれに続く。パルス王の親衛隊である「不死隊(アタナトイ)」の一部である。ヒルメス軍の中でも、精鋭中の精鋭だ。

 

 歩兵は5千。調練不足のザンデの2千騎では崩しきれないのは明らかである。ヒルメスが参戦するということは、どちらの部隊にも言っていない。

 歩兵は素早く、ヒルメスに対しても迎撃の槍衾を並べた。しかし、わずかに緩い。ヒルメスはそこに向かい、3百騎で強引に前線を突破した。

「反転」

 すぐさま、前線の後ろから攻めかかる。正面から受けることしか考えていなかった歩兵隊は、内側からの攻撃までは支えきれなかった。歩兵が崩れたところで、演習を終える。

「クラテス将軍、見事であった」

 演習の終了後、ヒルメスが褒めたのは歩兵の指揮官であった。クラテスはつい先日ヒルメス軍に加わったばかりの男だ。というのも、イリーナ王女を護衛してきたマルヤムの騎士なのである。

 

「奇襲を受けた時の判断力を視たかったのだ。即応は見事であったが、我が3百騎を侮ったのは失敗だった」

 クラテスはヒルメスの部隊をザンデ隊の一部と見た。ザンデ隊の練度を基準に、3百程度の相手なら充分と思える防備を布いた。パルス騎兵の力を、本当には理解していなかったということだ。

「卿は歩兵を指揮する将軍とする。ホルミズド、イドリースらと、連携についてはよく話し合っておいてもらいたい」

 ヒルメスも歩兵隊の充実には気を配っていた。しかし、今まで軽視されてきた歩兵を指揮できる将校の数は少ない。カーラーンやサームでさえ、どこかで補助戦力という考えが抜け切れていない。

 だから、パルス西部で反乱が起き、ルシタニアが後方を気にして遠征に出てこない状況は、時間が必要なヒルメス軍にとってはありがたかった。

 ほどなくして、アルスラーン軍がエクバターナへ向けて進軍を開始したと報告が入る。ヒルメスは動くべきではないと判断した。先を越されたという思いはあるが、今のルシタニア軍なら容易く負けはしない。

「…アルスラーンとルシタニアがぶつかる。どちらが勝っても、相当な被害は出るだろう。その時こそ、我が軍が立つ時だ」

 




ヒルメス陣営の説明回。

現状では
軍事力 アルスラーン>ヒルメス
経済力 ヒルメス>アルスラーン
となります。

またヒルメス自身もザーブル城ではなく領民の多いバダフシャーン一円を手に入れたことにより、王として成長しました。


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22.シャフリスターンの戦い

「………」

 深緑にイアルダボートの紋章を描いた旗を、見ることはできなかった。アクターナ軍が大陸公路を東に向かうと聞いたが、途中で道を外れ南東に向かい、やがて去ったらしい。

 名前だけは聖マヌエル城と立派だが、内実は廃墟と化していた砦に応急処置を施しただけである。人手だけはあるが、資金も資材もないのだから当然だ。アクターナ軍が攻めてくれば、1日で陥落した。

「………」

 それがエステルにとっての希望だった。アクターナ軍なら、捕虜を見境なしに殺すことはないだろう。シルセスの名前を出せば、可能性はさらに上がる。

 

 逃げ出すことは、さほど難しいことではない。自分一人ならば、だ。だがバルカシオン伯爵の夫人をはじめとする女子供の一団を助けなくてはならない。そう考えると、機を待つしかなかった。

「伯爵様…」

 バルカシオン伯は、先日亡くなった。高齢に加えて、逃避行の最中に負傷したのだ。加えて薬も医療品もなく、食糧すら不足する状況である。エステルには、看取る事しかできなかった。

「すまない、エステル。お前まで巻き込んでしまって……」

 伯爵は、最後までエステルに謝っていた。伯がボダンに味方したのは、彼の妻が特に敬虔なイアルダボート教の信者だったからだ。大司教の言葉は、彼女にとって絶対だった。

 夫の死も今の苦難も「神が与えたもうた試練」という言葉を信じ、ただひたすらに耐えている。その姿は、美しいと言えるかもしれない。

 

 だがエステルにとっては、そんなことはどうでもいい。考えているのは、何とかして皆生き延びることだけだ。シルセスの元にさえたどり着ければ、きっと力になってくれる。

 しかし、見張りは厳しい。その上、自分一人が抜け出したら、ボダンはすぐさまバルカシオン伯の縁者を殺すだろう。そんな話は、もう聞き飽きるほど聞いた。

「何が背教者だ……」

 絶望的な状況と疲労と空腹の連携の前に、エステルは小さく呟く。逃げ出した者をボダンはそう罵るが、こんな状況になっては逃げだしたくなるのも当然だ。そして、こうなったのは貴様の無能無策のせいではないか。

 

「……エステル殿か。今日の配給だ」

 幸いなことなのか、食糧は生きていく程度には何とかなっている。外に出た部隊が狩猟や略奪をしてくるのだろう。外に出れるのはボダンが信頼する聖堂騎士団の者だけで、エステルは参加したことがなかった。

 そんな中、一人の知己を得た。ドン・リカルドという。勇猛で高潔な騎士で、エステルが他の騎士と言い争いになっていた時、力になってくれた。今では、女であることを明かすほど信頼する相手だ。

 

「…ついにパルス軍が攻めてくる、との噂だ」

 ドン・リカルドが囁く。彼にももちろん魂胆はある。エステルがアクターナ軍の幹部と親しいのなら、その伝手に自分も入りたいのだ。ただ降伏するだけでは、騎士の身分を失ってしまう。

「……その混乱は、むしろ好機だ」

 肉の塊にかじりつきながら、エステルが言う。最近は穀物などほぼ出ない。略奪できる物は奪いつくしてしまったのだろう。肉だけは、よく出た。何の肉かは、考えたことがない。

 

 パルス軍と戦闘になれば、皆を引き連れて逃げだす隙もできるかもしれない。問題は食料だ。エクバターナまでたどり着けなければ、脱出できても意味がない。

(そういえば…)

 あの貴族の少年は、どうしたのだろうか。戦ができるとは思えなかったから、前線には出てこないだろう。それでいいと思った。あんな子供が、セイリオス殿下に勝てるはずがない。

 そう思ってから、よくよく考えて違和感を覚える。自分は何故、異教徒の少年を心配しているのだろう。

 

 

「まず、第一の目標として、ルシタニア内の政争に敗れ、この地にあった廃城に拠った大司教ボダンの軍勢を排除します」

 セイリオスに利用されているだけ、というのは判っている。ナルサスは聖マヌエル城の内情も把握している。この状況でボダンに従っている者の多くは、狂信者と考えておいたほうがいい。

「……殲滅戦になるか」

 キシュワードが暗い表情で確認する。最も気が重くなる戦だ。セイリオスはそれをやりたくないから、ここまで無視を続けてパルスに押し付けたのだ。

 

「やらないわけにはいきません」

 ナルサスは意思の籠った眼で断言する。生産力のないボダン軍を支えているのは略奪である。それを放置することは、パルスの統治者としてできない。

 また、戦略上の問題もある。ボダンとギスカールが急転直下で和解する可能性は極めて低いが、飢えた彼らが独自にパルス軍の輜重隊を狙う可能性は充分あった。

「…助けられるだけは、助けたい。降伏する者は殺してはならぬ。むしろ全員ルシタニアに送り返してやるのが、最上の策ではないか?」

 ほう、とナルサスが小さく感嘆の息を吐いた。敵に対して甘すぎるというのは事実としても、その甘さを政略として活かそうというのである。

 アルスラーンの成長は、ナルサスにしても予想外だった。バシュル山で初めて会った時は未熟で軟弱な凡々たる少年としか見えなかったものが、この半年ほどで若き王者としての風格を備えつつあった。

 

 

「いかなる城、いかなる人数であろうと、神の御加護ある限り、決して敗れぬ!」

 陶酔するように、ボダンが叫ぶ。エステルは表情を変えないよう努力しつつ、瞑目しながら聞き流していた。ちらりと横目で見た限りでは、ドン・リカルドも同じようにしていた。

 この男の頭の中は、一体どうなっているのだろう。いつしかエステルはそう考えるようになった。この半年ばかりボダンに従ってきたが、聖職者に対する敬意は薄れる一方である。

 ペシャワールを進発したパルス軍、およそ10万。勝てるはずがない戦だ。ボダン軍2万が万全の状態で、聖マヌエル城が堅牢無比な要害であれば、あるいは耐えられるかもしれないが…。

 

「………」

 エステルが解ることなのだから、ドン・リカルドも解っているに違いない。もうボダンは放っておいて、逃げ出せる準備だけはしておく。

 残念ながら、食糧の貯えはない。贖うしかないのだが、私財は聖職者によって没収された。今の苦難を皆で助け合う、という名目であったが、拒否すれば背教者として断罪されて結局没収される。強奪と変わらない。

 私物の箱の奥から、隠しておいた革袋を取り出した。中身は銀貨が数枚と、1枚だけパルスの金貨がある。金貨はシルセスがくれたものだ。大事に取っておくつもりだったが、今はこれを命綱とするしかない。

 パルス軍の旗を見たのは、5月10日の事だった。

 

 パルス軍は遠巻きに聖マヌエル城を包囲した。さすがにボダンも野戦で勝てるとは思えなかったらしく、城門を閉ざし、ひたすら籠城する気に見えた。

「…パルス軍に降伏するのも、手かもしれんな」

 ドン・リカルドが呟く。パルス軍がこのまま遠巻きに城を囲み、兵糧攻めにしてきたら、城内は半月で餓死者の山ができるだろう。困るのは、逃げ出す隙が無くなることだ。そうなったら、降伏するしかない。

 だがパルス軍から、一騎だけ駆けてきた。何だと思って見ていたら、ほどの良い距離で弓を構えた。慌ててエステルも弓を引く。だが、この距離では射程外だ。

 ぶん、と弦が鳴り、放たれた矢は城壁を越えて城内に落ちた。それを見届けてパルスの騎兵は去って行った。地面に刺さった矢には、紙が結びつけられている。矢文であった。

 

『降伏せよ。さすればパルスの地から無事退去させる。それは契約の神ミスラ神と、貴公らの神イアルダボートに誓おう』

 文意を要約すると大体そのようなものであった。それを読み、ボダンは大激怒した。アルスラーンたち、パルス人には全く理解できない理由によって。

「異教徒がイアルダボート神の名を語り、あまつさえ邪神と同列に扱うとは、何たる神への冒涜であるか!!!八つ裂きにして、地獄に叩き込むべし!!!」

 その場にいたら、パルス人は呆然としたであろう。ナルサスですらも、ボダンの信仰心を見誤った。というより、根っから理知的な彼にとって、理性の箍がない相手は理解の範疇を斜め下に越えていたのだ。

 

「これは…、なんとも…」

 さすがのセイリオスも、ここまでは想定していなかっただろう。現実逃避であると理解しながら、ナルサスはそう思った。

 ボダン軍、全軍出撃。隊伍も何もない、ただの人の集まりに過ぎない。パルス軍なら、それこそ鎧袖一触で蹴散らせる。それはもはや戦闘ではなく、虐殺だ。

「地獄に叩き込むべし!!!」

 ボダン軍の先鋒は聖堂騎士団の残党である。およそ6千。それが、策もなしに突っ込んできた。まさか、と思っていたパルス軍は、全くの無策に逆に虚を突かれた形になった。

 

 聖堂騎士団はボダンの親衛隊となっていた。装備も(ボダン軍の中では)充実している。対するパルス軍の先鋒はトゥース将軍の4千騎と、シャガード将軍の歩兵1万5千。

「落ち着け!敵の主力は歩兵だ。一気に蹴散らすぞ!」

 普段無口なトゥースが声を上げる。すぐさま秩序を取り戻したパルス軍は4千騎を2つに分け、正面を避けて両斜めから突っ込んだ。ボダン軍に馬がほとんどいないのは、死ぬか、食ってしまったからだ。

 ボダン軍の足が止まる。さらにイスファーンとザラーヴァントの騎兵が横から揉み上げる。聖堂騎士団の後方にいた部隊が、あっという間に崩れた。正面からは、シャガード将軍の歩兵隊が押し込む。

 

「エステル殿、乗れ!」

 ドン・リカルドが騎兵の一人を引きずり落とし、馬を奪った。すぐさま隣の一騎を切り捨てる。エステルは、空になった鞍に渾身の力で這い上がった。

「いくら何でも、馬鹿すぎるぞ」

 ドン・リカルドが吐き捨てるように言う。戦っているのは聖堂騎士団と一部の狂信者だけだ。そもそも10万に2万で戦を挑むなど、狂気の沙汰である。これでは、自分たちが逃げることすら難しい。

 ドン・リカルドの希望が潰えたのは、前方に黒衣黒馬の騎士が立ち塞がった時だった。ダリューンの騎馬隊が、後方に回り込んでいたのである。

 

「……これは駄目だ。エステル殿、大人しく降伏しよう」

 ダリューンを見て、ドン・リカルドは諦めた。自分が逆立ちしようと勝てない相手。一目で、それがはっきり分かった。

「なっ!」

 それは、エステルには理解できなかったようだ。彼の提案に驚き、睨みつけた後、ダリューンに向かって駆けた。

 

「ダリューン、殺すな!!!」

 少年の声が響く。ダリューンも、相手が年端のいかない子供であることに気付いている。彼は勇者であって、殺戮を好むものではない。軽く、落馬させるだけに止めた。

 落馬の衝撃で、兜が落ちた。シルセスに会ってから伸ばし始めた髪が零れ落ちた。それを見て、誰よりも驚いたのは殺すなと命じたアルスラーンであった。

「女!?」

 ナルサスの絵を見た時に次ぐ衝撃だった、と後にアルスラーンは語る。ダリューンに向かってきたのが、何度か会ったあの少年兵であるとはすぐに気付いた。だが、少女であったとは、全く気付いてなかったのだ。

 一時の動揺から覚めたダリューンは、槍でエステルの鎧の襟を貫き、持ち上げた。エステルは放せと喚き宙でもがいたが、どうなるものでもない。

 ドン・リカルドは剣を捨て、両手を上げた。

 

「逃げたわけではないぞ。私たちは、恩義ある伯爵様の奥方と女子供の一団を助けるため、こんな馬鹿げた戦にさっさと見切りをつけただけだ」

 鞍に縛り付けられながら、エステルが言う。パルス兵の誰かが真っ先に逃げ出したくせに威勢だけはいいと言ったことに、腹を立てたのである。

「それなら、君はその人たちを始め、皆が降伏するよう説得してほしい。降伏した者は皆、ルシタニアに送り届けよう」

 すぐ隣には黄金の兜をかぶった少年がいた。エステルの視線は、ずっとその少年に注がれている。

 

「…………お前が、アルスラーンだったのか」

 エステルも気付いた。アルスラーンは、正面からその視線を受け止めた。その中にあるのは敵に対する憎悪ではなく、どうしたらいいかわからないという困惑だ。

「その人たちが、大人しく降伏してくれればいいのだが…」

 アルスラーンが沈んだ声で言う。シャフリスターンの野を血に染めた戦いは、激しくはあったが短く終わった。だが勝ったパルス人も、暗く沈み込むような凄惨な戦いだった。

 聖堂騎士団6千は、この戦いで全滅した。どんな絶望的な状況になろうと、戦うことを止めようとしない。斬ろうが突こうが、息のある限り立ち上がってくる。気味の悪さに、パルス兵の方が怖気づくほどであった。

 

 ボダン軍の死者は1万を超えた。パルス軍は1千にも満たない。だが兵たちの心には、大きな傷ができたであろう。

 そしてアルスラーンを王太子ではなく一人の少年として見た場合、この戦いの意義は非常に大きなものとなる。

 




今回の話を読んで「ん?」と思った方へ。

エステルとドン・リカルドをパルスに関わらせるにはどうするか

セイリオスの活躍のせいで聖マヌエル城しか思いつかん

なら現実的に考えてこうなるだろうな…、と。

なお、第一次十字軍はこれをやったという記録があります。


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23.パルスの正義、ルシタニアの正義

「奥方様、エステルです!」

 聖マヌエル城は、ほとんど抵抗なくパルス軍の手に落ちた。シャフリスターンの敗北を聞いたボダンは、わずかな側近だけを従えて逃げだしたのである。

 残された者は、尖塔や倉庫などに籠り、最後の時を迎える覚悟を固めていた。その時である。見知った声が、扉の向こうから響いた。

「おお、エステルよ。もはやこれまでと思っていたところじゃ。最後に、そなたの顔を見れてよかった。共に、神の御許に行くとしよう」

 いけません、とエステルは奥方に抱き着いた。自害などされては、これまでの苦労は何だったのか。とにかく生きることを、この人に納得してもらわねばならない。

 

 エステルが必死で奥方を説得している頃、ナルサスはわずかな部下を連れて離れの一棟を占拠していた。

「こ、これは…」

 ナルサスは無言であったが、声を漏らした部下は表情がひきつった。一人はこらえきれず、外に飛び出して胃の中の物を全て吐いた。

 中は血で汚れている。得物を解体して肉にする場として、この建物を使っていたのは明白である。おそらく、城内の主食はこれだったのだろう。残された骨は、鹿や猪ではない、それでいてよく知っているものだ。

「………すべて燃やせ。お前たちも、ここで見たことは忘れるんだ。いいな」

 ナルサスの迫力に、青ざめながら皆が頷く。これは誰にも知らせるべきでないだろう。アルスラーンは当然、エステルにもだ。自分が何を食べていたか。知らない方がいいことなど、世の中には山ほどある。

 

「あ、ナルサスー。どうしたの、そんな怖い顔して?」

「いや、兵糧はほとんどないから、どうしようと思ってな。……シャフリスターンの動物も、だいぶ狩られているし」

 元貴族のくせに、食べ物の事ばかり気にする。それはナルサスには誉め言葉である。食わねば生きていけぬのは、奴隷も貴族も同じではないか。

「でも、ここの人たち、馬も矢もろくにないのに、よく草原で獲物を狩ってたねえ」

 アルフリードは無邪気に言う。ナルサスは、それに適当に合わせた。自分も早く忘れよう、と思う。……忘れられることでは、ないだろうが。

 

「ドン・リカルド卿、貴方はこれからどうするつもりだ」

 さて、どうしようかとドン・リカルドは考え込んだ。降伏して捕虜となった場合、身代金を払って解放されるのが普通である。その金がなければ、奴隷として売られる。

 しかしアルスラーンはどちらもせず、無条件でルシタニアに返そうと言うのである。異教徒と言えど、恩には何かで返さねば、騎士の名が廃る。

「何か、今日の恩義に報いるだけの功を立て、その上でルシタニアに帰りたいと思いますが……」

 そうは思っているが、歯切れが悪い。自分は戦う以外に能はない。だが、この先パルス軍が戦う相手はルシタニアだ。同胞たちを討ち取る以外に、功を立てる場がないのである。

 

「無理をしなくていい。私たちは、見返りが欲しくてそなたたちを助けたわけではないのだから」

 アルスラーンは笑顔で告げる。その表情を見て、ふっと心が和んだ。ここ半年ばかり、忘れていたような感情である。

「ダリューン卿、良い主君だな」

 通訳を通さず、エステルに習ったパルス語で言った。まだ片言のパルス語でも何とか通じたらしく、アルスラーンとダリューンが顔を見合わせて笑い合った。

 

「ドン・リカルド卿、まずはエステル卿と共に、一団の警護に当たって欲しい」

 降伏した者は七十名。逃げ遅れた女子供と老人に、わずかな傷病者。エステルやドン・リカルドの説得を受け入れず、死を選んだものが多い。それどころか、説得する者が襲われる始末であった。

 幸いと言えるのか、エステルの必死の訴えで、バルカシオン伯の奥方は生きることを承諾した。彼女もまたエステルを孫のように思ってきたのだ。孫への愛情が、殉教の喜びをわずかに上回った。

 捕虜とした一団を乗せた荷車を牛に牽かせ、パルス軍はさらに西に向かう。

 

 

 聖マヌエル城陥落―。その知らせは、ただちにエクバターナに届いた。ボダン軍の敗北は予想通りであり、動揺する者は誰もいない。

「神の名を騙るボダンである。敗北は、当然のことだ」

 教会は、もはや完全に彼を見放していた。そしてそう教会から言われると、兵士たちはある程度納得してしまうのである。不審を持つ者はいても、それが声として燃え広がるということはない。

 問題は、ついにパルス軍がエクバターナ奪還に向けて動いたということである。さて、それに対しルシタニアの首脳部はどう考えていたのだろうか。

 

「ギスカールとセイリオスに全ての軍権を与える。予は、勝利を神に祈らねばならぬのでな」

 イノケンティス王は(彼の中で限り)あっさりと答えを出した。ギスカールも予想済みのことである。だが、まったく、兄者は、と内心で毒づいた。

(まあいい。下手に口出しされるより、はるかにましだ)

 ついにこの時が来たのである。ボダンを排除したのも、ルシタニア軍を作り替えたのも、全てはこの戦いに勝つためだ。兄の無定見に振り回されるのだけは、勘弁願いたい。

 

「アルスラーン軍、公称8万。これをどう見るか、諸将の意見を聞かせてもらおう」

 ギスカールはまず諸侯に問いかけた。セイリオスも、十二宮騎士団(ゾディアク)の将軍たちも何も言わない。意見を出させて、能力を測る。ギスカールがそうしていることくらい、誰もが解る。

「公称8万ということは、実数は4万から5万程度ではないでしょうか」

 さすがに1万程度の軍を出して様子見しよう、などという馬鹿な意見を出す者はいなかった。しかし、まだまだ甘い。

「いや、8万は8万として見るべきであろう。そう思わせることが、敵の狙いと考える」

 ほう、とギスカールが頷いた。ゴドフロワという貴族であったな、と記憶を探る。ギスカールやセイリオスは敵の内情も把握しているが、彼は噂程度にしか知らないはずだ。

 

「ゴドフロワ卿、その根拠は?」

 ギスカールの問いに、ゴドフロワは明確に答えた。まずペシャワールの兵力である。カーラーンから聞き出した情報はあるが、彼が真実を言ったかは不明である。だが二人の万騎長がいたのは事実だ。

 パルスの軍制から、騎兵2万は確実となる。それに付随する歩兵が数万はいるだろう。そこに諸侯の軍が集まれば、10万を超えてもおかしくない。そこからペシャワールの守兵を差し引けば、答えは出る。

「正鵠を射ていると思う。敵の戦力は8万以上、むしろ10万と俺は見た。敵軍を過大に見積もるのは悪いことではない。10万と思って、こちらは全力で当たるべきだ」

 しかし、これはなかなか使えそうだ、とギスカールは思った。ゴドフロワは、ボードワンとモンフェラートに並ぶ存在となるかもしれない。

 

 ギスカールも軍部に無関心でいたわけではない。スフォルツァ、ブラマンテ、モンテセッコの3騎士に、騎兵隊を創設させた。それぞれ2千騎。それなりの軍には育ってきている。

 ただ、やはり3人とも目の前の戦闘しか見えない連中だ。広い視野を持つ、大軍の指揮を執れる逸材が欲しいというのは、ギスカールをずっと悩ませていることである。

「出撃する軍は22万。そのうち18万を前衛とする。前衛の総指揮権は、セイリオスに託す」

 とはいえ、今回はセイリオスに任せるしかない。ギスカールは後方で軍政を担当することにした。それをセイリオスが拝命したことで、ギスカールはほっとした。一つ、提言を却下していたからだ。

 

 以前、セイリオスはアンドラゴラスを釈放するべきだと言った。アルスラーンよりアンドラゴラスの方が与しやすい、というのがその理由である。ギスカールはここまで、ついにそれを実行しなかった。

「いや、お前の能力を疑うわけではないが、やはり若年のアルスラーンの方が与しやすいと思える。それにアンドラゴラスは大切な人質だ。それをただ解き放つというのは、難しい」

 ギスカールが弟の提言を退けるのは珍しい。やはり彼はアンドラゴラスが怖かったのだ。不敗の王として大陸公路に君臨した男である。アトロパテネでは勝てたが、次も勝てるかと言われると自信がない。

 それが果たして正しかったのか。出陣前の弟は何も言わない。こちらから聞こうかと迷ったが、結局やめにした。

 

 ルシタニア軍18万、パルス軍10万。この規模の戦闘となるのはアトロパテネ以来である。アトロパテネからマンジケルト、オクサス、ヘルマンドス城とパルス軍は負け続けている。今度こそ、と思う者は多い。

 両軍はエクバターナの東方20ファルサングの地、「ジュイマンドの野」で対峙した。先に着いたのはルシタニア軍である。セイリオスは運んできた木材を結い、柵を作らせた。

「騎馬隊の突撃を阻害できれば良い」

 適当な間隔を空けて立てた材木を横木で繋ぎ、後ろに支えを入れる。それを互い違いに3重にし、射手を配する。それを弧を描くように並べ、ルシタニア軍の前面を覆うようにした。

 

 遅れて到着したパルス軍もこの防御陣地の構成を見て、軍を止めた。その中から、二人だけが進んできた。ルシタニアの国旗を掲げている。

「私たちはボダンに従って聖マヌエル城にいた者たちだ。降伏を認められたい」

 叫んだのはドン・リカルドであった。エステルがそのすぐ後ろに控えている。ルシタニア軍が、どう動くか。降伏する者には寛大だったが、この土壇場ではわからない。

 ドン・リカルドも、生唾を飲み込んで行方を見守っていた。ルシタニア陣は静まり返ったままだ。が、柵の裏で弓兵が臨戦態勢なのは見て取れた。セイリオスの指示一つで、自分たちは針鼠になりかねない。

 騎兵が5騎、駆けてきた。先頭に立つ人を見て、エステルは助かったと思った。鎧姿だが明らかに女性、兜を外した顔は、ずっと希望として胸に抱いてきたものだ。

 

「シルセス様!」

 思わず叫んだ。相手もこちらに視線を向け、一つ頷いた。だが、その後ドン・リカルドに向けた視線は冷たいものだった。

「今までボダンに従い、パルス軍に降伏した上、ここにきてルシタニアに戻りたいなど、虫が良すぎるのではありませんか」

「私たちがボダンに従い、パルス軍に降伏したのは事実です。しかし、それは全て、ボダンに騙された人々を助けるためでありました」

 逃げ出そうにも逃げられなかったのだ、と事情を説明する。ふっとシルセスが微笑んだ。エステルがほっとする。いつものシルセスの表情に戻ったからだ。

「ボダンから同胞を助けた、ということであれば、その功を認めましょう」

 捕虜の一団がルシタニア軍に迎え入れられる。柵を越えるとき、エステルはパルス軍の陣を振り返った。

 

「エステル、よく戻ってきましたね」

 シルセスから優しく声を掛けられ、エステルは感涙に咽んだ。エステルとドン・リカルドの所有する土地は、何とか返還の手続きをしようと言う。騎士の立場を保証された、ということだ。

「………」

 報告を聞き終えたセイリオスは、何を思ったのかパルス軍に軍使を送った。直接アルスラーンと会談したいという内容である。

「ルシタニア軍から、軍使が?」

 条件は参謀が一人と、従者が一人のみ。両軍の中央で会おうというものである。少し考えた上で、アルスラーンは了承した。

 

 セイリオスが選んだ供はシルセスと、カシャーン城で拾ったルクールであった。対しアルスラーンはナルサスとエラムを連れて、両軍の真っただ中で向かい合った。

「……まず、礼を言おう。あのエステルという少女は、シルセスと個人的な好誼があった者だ」

 アルスラーンとセイリオス。二人が直接向かい合ったのは、これが最初となる。セイリオスの眼光に、アルスラーンは負けじと睨みかえした。

「さて、会談を求めた理由は、和議を求めたいということである」

 ルシタニア側が出した条件は、ザーブル城以西の正式な割譲と賠償の放棄。エクバターナやオクサス、ギランなどからは撤退する。ヒルティゴが反対した場合は、ルシタニアの手で討ち取ってもいい。

「そしてルシタニアは貴公を正当なパルス王として認め、ヒルメスとは手を切る。アンドラゴラスは貴公の意思次第だが、こちらで処刑してもかまわない」

 

「………やはりそれが、あなたの狙いか」

 ほう、とセイリオスが感嘆した。ザーブル城以西の割譲はあくまで副次的。真の狙いは賠償の放棄で、奪った財宝と人を正式にルシタニアの物とすることである。

「あなたの目的は、ただの略奪だ。そんなことのために、パルスに攻め込み、人々に塗炭の苦しみを味わわせたのか!!!」

 アルスラーンは本気で怒っていた。エステルは純粋に教えを信じていただけだ。だが、この男はイアルダボート教すら利用する。何もかもを利用して、自分の欲望を果たそうとする。

 その憤怒の表情を見て、セイリオスは表情を変えた。そこにいたのは柔和さなど欠片もない、敵を見据えた冷厳な支配者だ。

 

「……なるほど。では、お優しいアルスラーン殿下は、我らルシタニアの民にパルスの民が繁栄を謳歌する様を、指をくわえて見ていろ、と仰るのだな」

「…何だと?」

 ルシタニアは貧しい。ルシタニアの貧農よりパルスの奴隷の方がいい暮らしをしている、というのは笑えない冗談である。ギスカールの富国強兵策で大分ましになったとはいえ、依然パルスとは比較にならない。

「結果として、そういうことだ。ルシタニアに生まれたというだけで、何故貧困に喘がねばならぬ。パルスと同じ裕福な暮らしをしたいと思って、何が悪い」

「そうではない!パルスに攻め込まずとも、ルシタニアを繁栄させることはできたはずだ」

「パルスとて、周辺諸国を切り従え、富栄えてきたではないか。我らはそれと同じことをしているだけだ。パルスが行うのは良く、我らには許さぬと言うのか」

 アルスラーンが言葉に詰まった。詩では蛇王を倒した後、列王が英雄王カイ・ホスローに心服したと謳うが、実際はそんなことはない。パルスの歴史は、血と鉄の歴史でもある。

 

「それに何もしなければ、パルスはこれまでに得た富で、ますます豊かになっていったであろう。広がる一方の差を縮めるには、こうする他ない。……それなら、パルス以外の国を攻め取ってくれ、と言うのか?」

 揶揄するように言うセイリオスに、アルスラーンは怒りの眼差しを向けた。だが反論できない。セイリオスの言う事は、間違いではないのだ。アルスラーンには決して納得できないことであっても。

「………」

 ナルサスとエラムも何も言えず、沈黙が場を支配した。最後に、セイリオスが宣言する。それは二人の道が、交わることはあっても重なることはないと宣言するものだった。

「……貴公の言はパルスの王太子として誠に立派なものだ。だが私には何の感銘も与えない。何故なら、私はルシタニアの王弟だからだ」

 




サブタイを言いかえると、先進国のエゴ vs 途上国のエゴ。

それと前回の後書きの意味は解りましたでしょうか?
(もろに書くとらいとすたっふルールやR-15に引っかからないかな、と思ってぼかしましたが…)

真実を知りたい人は、Wikipediaで「マアッラ攻囲戦」を検索してみてください。


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24.ジュイマンドの対峙

 交渉は決裂した。どちらも妥協の余地はないのだから、当然ではある。アルスラーンがパルスの民を思うように、セイリオスはルシタニアの民を思っている。それだけは、認めざるを得ない。

 逆に言えば、セイリオスもアルスラーンを認めたのだろう。民のために自分を棄てることの出来る為政者だと。それゆえ、利で釣るような和平は無駄である、と。

 セイリオスとしては、もしアルスラーンが和議に応じていたら、そちらの方が失望したかもしれない。どういう男なのか測ってみた。和議など口実程度のものだったのだろう。

 

 パルスもルシタニアも陣を敷き、打って出ようとはしない。にらみ合いは7日にわたって続いた。何故攻撃しないのかといぶかった諸将に、ナルサスは断言する。

「騎兵の突撃は柵に阻まれ、足が止まったところに矢の雨を受け多大な損害を出すだろう。諸将はアトロパテネの二の舞になりたいか」

 そう言われると、諸将も反対できない。アトロパテネの戦場にいた者は少ないが、どんな戦だったのかは皆知っている。

 だが、ダリューンが異議を唱えた。柵など歩兵を進ませ、綱を掛けて引き倒させればいい。そうすれば、騎馬隊を遮るものはなくなる。重装備の歩兵なら、矢も効果が薄い。

 

「……それが狙いとしか思えん。明らかに騎馬隊の突撃を誘っている。あの柵の裏に、もう一段罠があるに違いない」

 そう言われると、ダリューンも黙り込んだ。だが、その罠が何か。それを探らせているが、荷は全て後方の4万が運び入れる。間諜が寄り付く隙が無い。

 こうなると、どちらが先に動くか、つまり、主将が諸将の声を抑えきれなくなるのはどちらが先か、の勝負になっているとナルサスは思っている。そうなると、パルス軍の方が不利だ。

「正面突破が無理なら、後方の4万を攻めましょう。騎馬隊なら、敵が気付かぬうちに回り込めます」

 進言してきたのはザラーヴァントとイスファーンである。危険だ、とナルサスは判断した。深入りしすぎ、連絡を絶たれれば全滅しかねない。だが、そろそろ諸将を抑えるのも危険になってきた。

 

 ルシタニア軍18万。エクバターナ奪還の、最後の壁である。それを目の前にして滞陣しているだけでは、不満が貯まるのも当然だろう。まして、ナルサスは彼らの主君ではない。

「罠だ危険だというが、実はただの怯懦ではないのか。寵愛をいいことに自分の意見ばかり押し付けて、これでは王太子は軍師殿の傀儡ではないか」

 口には出さないが、胸の奥でそういう不満が芽生えてないとは言い切れない。ナルサスの智謀は皆も認めるところであるから、まだ諸将も抑えているというところだろう。

 

「エラムよ、動かない物を動かす知恵はないか」

 ナルサスでも、動かない敵はどうしようもない。策に嵌めようにも、策を廻らす余地がないのだ。

「……いっそ、全軍でエクバターナまで駆けてみるか」

 自嘲を込めた冗談を呟いた。ルシタニア軍の主力はこのジュイマンドに集結している。エクバターナには、わずかな守兵がいるだけだ。落とせないはずはない。……のだが、その先どうなるか。

 すでにイノケンティス王は避難している。おそらく、財宝どころか兵糧すらろくにないはずだ。エクバターナの住民を抱えた上でルシタニア軍20万に囲まれたら、短期決戦に訴えるしかなくなる。

 より不利な状況で罠に嵌るくらいなら、今のままの方がまだいい。

 

「……アルスラーンも、なかなかやります」

 ルシタニアの陣中でも、出撃を求める声は大きくなっていた。パルス軍はルシタニア軍の半分程度であり、鍛え直された我らなら、罠に嵌めずとも充分勝てる、と言うのだ。

「……で、どうする気だ」

 後方の4万から、ギスカールが来ていた。この弟はパルス軍と正面衝突して、多大な犠牲を出すような馬鹿ではない。必ず、何か策を考えているはずだ。そのセイリオスが、いきなり頭を下げた。

「ん?」

「申し訳ありません、兄上は反対の事でしたが、無断で行いました」

 その答えに、ギスカールは口を付けた葡萄酒を噴き出した。

 

 

 翌日、パルスの陣地に、騎馬の一団が駆けてきた。ルシタニアの陣地からではない。エクバターナの方向から駆けてくるが、パルスの軍装をしている。

国王(シャーオ)だ!アンドラゴラス王だ!!!」

 先頭の男を視て、誰かが叫んだ。その叫び声を聞いて、ナルサスの血が凍った。ルシタニアは、セイリオスは、これ以上ないほど悪辣な手を使ってきた。

 

「見慣れぬ顔が多い。名を名乗れ」

 本営に入ったアンドラゴラス王は、アルスラーンには一言も告げず諸将を集めた。もちろんパルスの軍令上、国王は軍の最高司令官であるから、当然の行為である。問題は、何もない。

「………」

 しかし、諸将の胸の内は複雑である。規則としては正しい。だが、囚われていたはずの王がいきなり現れ、これまで苦労してきた王太子の頭ごなしに命令を投げつけるとなると、どうにも納得できない。

 

「何をしておる!国王(シャーオ)の命が聞けぬのか!!!」

 雷に打たれたように諸将が拝礼し、名を名乗る。それに倣い片膝を付けながら、ナルサスは暗澹としていた。アンドラゴラス王が総司令官となる。それは全く正しい。法としても、理としてもだ。

(……だが、それでパルスは負ける)

 王と共に駆けてきた一団が、牢獄から助け出してきたという。最新の情報など何も聞いてないだろう。アンドラゴラス王の頭の中では、ルシタニアはいまだ遠方の蛮族に過ぎないはずだ。

 

「パルスにおいて、兵権は一人国王(シャーオ)に帰す。余人が国王の兵権を侵すは、すなわち大逆である」

 冷厳な声が、拝跪する諸将の頭上からのしかかる。全員の背筋が冷えた。まさか、王は王太子を、この場で処刑するつもりではないか…。

「おそれながら…」

 敢然と声を上げたダリューンを、アンドラゴラス王は手で制した。

「ダリューンよ、それ以上口を開くには及ばぬ。王が不在となれば、王太子が王権を代理するは当然の理。なにもアルスラーンを咎めようとするのではない」

 諸将の間で、安堵の息が漏れた。さすがにルシタニアとの決戦を控えている今、アルスラーンを処罰するのは愚行である。その程度のことは、アンドラゴラスも理解している。

「しかし、以後、我が命に背く者は許さぬ。明日、決戦に及ぶ。これは王の決定である」

 

「……ダリューン、明日は殿下のお傍を、絶対に離れるな」

 アトロパテネにも劣らぬ、凄惨な戦となる。ナルサスの眼にはすでに、惨敗するパルス軍の姿が見えていた。そして、それを止める力は、自分には無い。

「アンドラゴラス王を諫め、考えを変えさせることができたのは、ヴァフリーズ老だけだった。……俺の言葉は、届かぬ」

 アンドラゴラス王は、自分に自信を持ち過ぎた。敗北や挫折といった言葉とは無縁であったが故、自分以外を必要としなかった。結果、他人の意見を入れることのない、狭量な王となってしまった。

 大将軍ヴァフリーズが巧みにそこを補い、パルスが勝ち続けている間は、その欠点は目につくものとならなかった。だが今は、そのどちらもない。

「……せめて殿下だけは、何としても生かさねばならぬ」

 ダリューンも暗澹とした声で答えた。パルス一の勇者も、手の打ちようがないのは同じである。

 ナルサスは空を仰いだ。もはや、パルスを救うのは天祐だけではないだろうか。そして、その天祐と思えなくもないことが、この時起きたのである。

 

「トゥラーンが、だと?」

 アンドラゴラス王が、眉をしかめた。明日は決戦と眠りに就こうとしたその時、ペシャワールからの使者が駆けこんできたのだ。

 トゥラーン軍、ペシャワールへ向かい進軍中。規模は10万。早馬でも4、5日かかる道だから、今はもう包囲下にあると見て間違いない。アンドラゴラスは、すぐさま諸将を集めた。

「………」

 夜中にたたき起こされた諸将は、固唾を呑んで次の王の言葉を待った。トゥラーンはパルス北東に接する、遊牧民の国である。その馬術と勇猛さは、パルスにとっても脅威であり続けた。

 

「すぐさま軍を返し、トゥラーンを叩く」

 ルシタニア軍を打ち破ったとしても、エクバターナの城壁に拠られたのでは、攻略に時間がかかる。その間、ペシャワールが落城しない保証はどこにもない。王の判断は、諸将も納得できるものである。

 ナルサスは内心、安堵の息を吐いた。ひとまず明日の破滅は回避された。だが、まだ油断はできない。必ず、この撤退には何かの意図がある。

 何故なら、アンドラゴラス王が目の前の敵を放っておいて退却するなど、ありえないからだ。

「ルシタニアの蛮族など、1日あれば蹴散らして見せる。ペシャワールの救援は、それからでいい」

 ナルサスの頭の中のアンドラゴラス王なら、こう言ったはずである。

 

「騎兵隊を先行させる」

 ペシャワールまで、歩兵と進軍していたのでは1月はかかる。トゥラーン軍は騎兵主体で城攻めは苦手とするが、10万の人数である。救援は急いだほうがいい。

 であるから、この判断も妥当だ。だがそれに続く言葉で、また諸将が凍りついた。

「ダリューン、クバードの両将は、騎兵2万を率いて先行せよ。ナルサスはすぐさま帷幕で策を立てよ。……アルスラーン、兵1万を率いて、後拒を成せ」

 後拒、すなわち本隊が安全圏まで撤退するための、時間稼ぎのための軍である。ルシタニア軍18万に1万で立ち向かえと言うのだから、死ねと言うのと同義だ。それを王太子にやらせるというのだ。

 しかも、勇猛無比のダリューンは騎兵隊の指揮で傍から遠ざける。ナルサスも参謀として自分の傍に置くと言う。両腕をもぎ取って、それで戦えと言う。

 

「…勅命、つつしんでお受けいたします」

 機械的に言葉を紡ぎながら、アルスラーンは心の奥に氷塊を感じた。父と思ってきた男から、訣別の言葉を告げられたのだ。もう、この人にとって、自分は邪魔以外の何物でもないのだろうか…。

「………」

 いや、そうではない、と思い直した。父は自分の力を認めたのだ。1万の軍を指揮するに充分で、後拒も見事に務め切れる能力があると判断したから任せたのではないか…。

 それが現実逃避に過ぎないと自覚しながら、自分自身に言い聞かせた。幸いと言えることは、ダリューンとナルサス以外の彼の私臣、ギーヴやファランギースなどは取り上げられなかったことである。

 

「エラムは私と共に、アルフリードはやって欲しいことがある」

 騎兵2万の先行隊の指揮をアルスラーンに任せる。ナルサスは何とかしてそう持っていきたかったのだが、王の決定に口出しすれば処刑されたであろう。王太子も自分も、憎まれていると考える方が妥当である。

「何という父親だ」

 ギーヴなどは、悪態を隠さない。ファランギースも、表情は変わらなかったが言葉の端々で不快をあらわにしていた。

「ナルサス卿、ここは、殿下に亡命をお考えいただくべきではないでしょうか。サリーマ様からラジェンドラ王への口利きをお願いすれば、亡命は許されると思いますが…」

 言い出したのはシンドゥラ人のジャスワントである。ラジェンドラ王は信用できない相手ではあるが、この際贅沢は言っていられない。

 

「………」

 それも選択肢の一つとして考えぬでもなかったが、馬を駆ってシンドゥラまで逃げるのは難しい。大陸公路はアンドラゴラス王の軍が殺到するし、南のバダフシャーンはヒルメスの勢力下にある。

 そして、シンドゥラにたどり着き、上手くラジェンドラ王に庇護されたとしても、パルスに帰り着くのはアンドラゴラス王が崩御し、内戦を勝ち抜いた末になるだろう。

 第一、アルスラーンが、パルスの民を見捨てて自分だけ逃げることに賛同するかと考えれば、答えは否である。

 ちなみに、誰にも言えることではないが、亡命して命を長らえるだけならシンドゥラ以上に楽で安全なところがある、とナルサスは考えている。ルシタニアの、セイリオスの元だ。

「まだ、策はある。とにかく、ここはひたすら防備を固め、危うくなったら早々に逃げ出してくれ。アルスラーン殿下さえ生存してくだされば、我々の道は続く」

 




容赦のないセイリオス殿下…。

なお、書いていくうちに「アンドラゴラスの器量を小さく書きすぎたかな?」と思わないでもなかったのですが、アルスラーンの扱いを見るにどうにも彼が名君とは思えませんでした。
要するに、パルスという超大国に生まれたため武勇だけで何とかなっていただけではないか、と。


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25.脱出

 残されたパルス軍は、たった1万。しかも、騎兵はわずかしかいない。これでルシタニア軍18万を防ぐなど、どう考えても無理に決まっている。

「陣営地を縮小し、防御陣を形成せよ」

 ダリューンもナルサスもいない現状、指揮を執っているのはファランギースであった。唯一アルスラーンにとって幸いと言える状況は、歩兵1万がペシャワールの兵であったことだろう。

「殿下が死んじまったら、俺たちゃまた奴隷に逆戻りかもしれませんからな」

 誰かが冗談交じりにそう言った。アンドラゴラス王の復帰は、奴隷たちに反アンドラゴラスとアルスラーン支持の風を吹かしていた。

 アンドラゴラス王にとって奴隷解放など、絶対に認められない事だろう。王太子が勝手にやったことだと、いつ反故にされるかわからない。であれば、王だろうが支持することはない。

 そんなペシャワールの歩兵隊を指揮下に置けたのはキシュワードのせめてもの好意であり、アンドラゴラスも諸侯の兵を捨て石にするのは躊躇われたからである。おかげで、1万の軍の士気は高い。

 

「……とはいえ、明日、俺たちはみんな骸と化しているかもしれん。ファランギース殿、今生の名残に、どうか俺の想いに応えてくださらぬか」

「今、私は『生き延びたい』という皆の想いに応えねばならぬので忙しく、お主一人の想いに応えている暇はないのじゃ。第一、お主が死ぬとはとても思えん。皆が死のうと、一人ちゃっかり生き残っておろう」

「これは無体な。俺は、少なくとも王太子殿下とファランギース殿は命懸けで助けますぞ」

 こんな極限状態でも、ギーヴとファランギースはいつもと変わらぬ掛け合いを繰り広げていた。それを見て、アルスラーンも自然と頬が緩む。

「それにしても、パルス王太子の旗を敵軍からよく見える様に掲げておけとは…。うちの軍師殿は、何を考えておるのやら、さっぱりわからん」

 表情を一変させたギーヴの言葉に、今度はファランギースも真面目に頷く。敵軍の攻撃を誘うだけではないか。そう思えるのだが、皆ナルサスを信じてその通りにしている。

精霊(ジン)がざわついておるな…。戦場であるというだけでは、なさそうじゃ」

 ファランギースが、不意に呟いた。その視線の先には、ルシタニアの陣があった。

 

 

 闇の中である。セイリオスはすでに天幕の中で、眠りについていた。それが、瞬時に跳ね起きた。手にはすでに抜き身の『アステリア』が握られている。

「………ご安心くださいませ。私はプーラードと名乗る魔導士で、パルスの現体制を憎む者でございます」

 影が、囁いた。セイリオスは警戒を崩さない。「安心しろ」と言われたところで、勝手に天幕に忍び込んでくる輩相手に、安心できるはずがない。

「パルス軍は撤退いたします。ペシャワールに、トゥラーン軍が襲来したとのことであります。殿軍はアルスラーン。……それだけ、お伝えに参りました」

 気配が消え、初めてセイリオスが剣を下した。外に出る。前線まで駆けた。歩哨が王弟と気付き、慌てて敬礼した。それに会釈を一つ返し、闇に沈むパルス軍に向かい合う。

 

「………」

 パルスの陣営地で、火が動いている。人がせわしなく動いているということだ。パルス軍が動くのは明白である。さて、あのうさん臭い魔導士の言ったことは真実であろうか。

 セイリオスが前線まで出てきたという知らせを受けたエスターシュとベルトランが駆けてきた。偵察なら、常から夜目の効く者を選りすぐって出している。が、報告はまだ入らない。

「夜襲にしては騒がしすぎますな。逆に、それが目くらましとも考えられますが…」

 本陣でわざと騒ぎを見せ、注意を引く。その隙に別動隊を動かすのは充分考えられる。だが…。

 

「撤退だ、これは」

 エスターシュとベルトランが頷く。これから戦おうという気が感じられない。パルス軍の動きは、明らかに困惑している。

「追撃いたしますか、殿下」

 撤退する敵を叩くのは、兵法の常道である。パルス軍は夜中もかまわず撤退する気でいるから、こちらも全軍を叩き起こし、すぐさま追撃に移るべきであろう。

「いや、こちらが動くのは、朝になってからでよい」

 

 

「………監視役も、ご苦労なことだ」

 アンドラゴラス王は復帰するや、自分を助け出した者を中心に新たな側近団を編成した。王の身近ですぐ動く近臣は必要不可欠だから、それはまあ妥当であろう。

 だがその基準を、どうやら自分自身の好みだけに置いたらしい。勇猛ではあっても思慮に欠ける者、王の決定に頷くだけの者。そんな連中が王の周りを囲ってしまい、ナルサスもキシュワードも近付けない。

 そしてナルサスの周囲には、その中から数人が付けられていた。王との連絡役という名目だが、それなら自身の近くに置けばいいだけだ。

 

 腰の水筒に手をやり、中身をのんびり味わう。先の休憩の際、エラムが淹れてくれた茶が入っている。その動作すら何かの策謀ではないかと、彼らは目を光らせる。

 アルスラーン、ナルサス、ダリューンの三者を引き離し、誅殺する。どうやらそれがアンドラゴラス王の狙いらしい。

 ルシタニアの追撃で、アルスラーンが戦死すれば良し、しなければ敗戦の責で処刑する。ナルサスは何らかの理由でそれに連座させられる。ダリューンも失態の一つや二つ、考えれば何か出てくるだろう。

「……ナルサス様、茶など飲んでいる時ではありませぬ。何とかしてこの陣を脱し、ダリューン様と連絡を取らなくては……」

 エラムが小声で言う。それに対しナルサスは、「眠気覚ましだ」と言って取り合わない。

 

 夜が明けて、昼が近づいた。まだ後方からの報告は入らない。夜を徹して駆けた結果、本隊は6から7ファルサングほど後退した。もうすぐ、近くの町のアルマドが見えるはずだ。

「………そろそろ来る」

 賭けだったが、どうやら勝ったとナルサスは思った。アンドラゴラス王は、根本的な計算違いをした。ルシタニアの総司令官は、今、アルスラーン王太子が死ぬことを望まない。

 ナルサスは、それに賭けた。博打という、策士にあるまじき行いだった。その上勝っても喜んでいられることばかりではないのだが、とりあえず、今回の難局は乗り切ったということだ。

 

 陣が騒然となった。後方から使者が駆けこんできた。遠くで喚声が聞こえる。最後尾にいるのは、ルッハーム将軍の歩兵隊。そこで騒ぎが起きている。

「何事だ!」

 アンドラゴラス王の復帰で軍内の地位も一度白紙に戻ったようなものだが、ナルサスは王から「参謀を務めよ」と言われている。騒ぎが起きれば、それを誰何する権限はある。

「俺は後方の様子を確認してくる。エラム、ダリューンに知らせよ」

 何を、とは言わなかった。状況が解らず狼狽する王の近臣を横目に、ナルサスは早々と馬を駆けさせた。彼らが我に返った時には、もう前方と後方の人に紛れて見えなくなっていた。

 

 ナルサスには当然、何が起きたのか読めている。パルス軍の撤退速度、殿軍の位置、間道のつながりなど計算すれば、ルシタニアの騎馬隊が迂回して駆けてきたという答えしかない。

 問題は、ルッハーム将軍がどこまで耐えられるかである。

(忠告だけはしておいたが―)

 ルッハームも、ナルサスの言葉を聞き捨てにはしなかっただろう。だが行軍中のことで、防御はどうしても弱くなる。セイリオスは、決してそれを見落とさない。

 しかしナルサスは、それを助けに行くことはできない。何より、自分の身が優先した。アルスラーンの元まで駆ける機は、この混乱の中しかない。

 

「王の命で、後方の確認に向かう。道を開けよ」

 ナルサスは大声で叫ぶ。その声と駆けてくる馬を見て、兵たちは大慌てで道を開けた。陣を抜ける。ルッハームの後軍まで行くことなく、途中で大陸公路から外れ、森の中に逃げ込んだ。

「ナルサスー!!!」

 森の中から、自分を呼ぶ声がする。アルフリードがそこにいた。ゾット族の一団も一緒である。その中には、目つきの悪い青年もいた。アルフリードの兄の、メルレインだ。

 ナルサスもルシタニア軍との対峙中、無為無策でいたわけではない。どうにかして敵の後方を撹乱できないかと、ゾット族を呼び寄せていたのだ。それを、急遽この森に潜ませた。

「…やれやれ、何事も、できることはしておくべきであるということか」

 山や森の移動となれば、ゾット族の得意とするところだ。たとえパルス兵が追ってきても、たやすく撒ける。これで後は、ダリューンとエラムを拾ってアルスラーン殿下の元に帰ればいい。

 

 一方、エラムの急報を受けたダリューンも、すぐさま軍を飛び出そうとした。…が、ちょうどクバードがそこに居合わせた。

「………後方から、ルシタニア軍の襲撃だと?」

 クバードの隻眼が、じっとエラムを睨みつける。歴戦の万騎長の眼光に、彼もわずかに体を引いた。

「…よし、ここは俺が纏めておこう。ダリューン卿、自慢の黒影号(シャブラング)で、一駆け確認してきてくれぬか。後方が危ういのでは、進むに進めんからな」

 勿論、ダリューンにも王の近臣が付けられている。エラムが駆けこんできたときなど、明らかに敵を見る目つきをされた。その彼らは当然反対したが、これもクバードが睨みつけて黙らせた。

 ダリューンはじっとクバードを見た後、一礼して駆け去った。エラムが後に続く。

 

「クバード卿!ダリューン卿が戻るとお思いか!?」

「戻らんだろうな。だがな、ああ言わなかったらどうなっていたと思う?」

 クバードは馬鹿ではない。ダリューンが何を考えているかくらい、百も承知だ。覚悟を決めれば、ここにいる全員を斬り殺してでも、ダリューンはアルスラーン殿下の元に向かおうとするだろう。

「俺とて、ダリューンと斬り合うなど御免だ。止めたいなら、そうしたい奴がやってくれ」

 クバードにそう言われると、近臣たちも黙り込んだ。あのダリューンと斬り合うなど、まったくもって御免被りたい。彼らは王に対してどのように言い訳するか、それに頭を悩ませることになった。

 そんな近臣たちを見て、クバードは呟く。

「やれやれ、面白くなってきたところだったのだがな。……まあいい、キシュワード一人残すのはさすがに気の毒だから、俺は残ってやるとするか」

 

 

 トゥラーンが出張ってきたのは、セイリオスにとっても想定外だった。いや、予想の中になかったわけではないが、このタイミングはない。

(あと1日遅ければ、パルス軍を壊滅させてやったものを)

 せっかくパルスの残党を使嗾してアンドラゴラス王を解放してやったのに、トゥラーンの横やりで台無しになった。まあ次の機会はあるだろう。アンドラゴラス王が急死、あるいは弑逆でもされない限り。

 トゥラーンにしても、ジュイマンドに展開していたパルス軍が潰えれば、ペシャワール攻略も易々たるものだったであろうに。何とも間の悪い連中である。

 

 アクターナ軍の騎兵隊1万が一丸となって突っ込むかと見せた瞬間、4つに分かれた。セイリオス、クラッド、ルキア、アーレンスの4人がそれぞれの指揮を執る。

 1万の攻撃に対する防御を敷いたルッハームは、この急激な変化に対応しきれなかった。どの部隊にも備えようとした結果、全てに間に合わなくなったのだ。その混乱の中に、4隊が突っ込む。

 前線が乱れ、中央までの道が空いた。そこに、さらなる騎馬隊6千が突撃をかけてきた。スフォルツァ、ブラマンテ、モンテセッコの3隊だ。

 ルシタニアの旗が、パルスの陣を駆け抜ける。慌てて遮ろうとした歩兵を蹴散らし、本陣に達した。

 

「敵将の首を取ったぞ!!!」

 叫んだのはブラマンテであった。その声はセイリオスにまでは届かない。だがそれに応えた歓声が、野に響き渡る。

「撤収!!!」

 合図の角笛が鳴らされる。さらに前に出ようとしたブラマンテもその音を聞き、慌てて部隊を纏めて離脱する。司令官を失ったパルス軍の抵抗はまばらで、障害になるほどのものはない。

 パルスに与えた損害は、せいぜい千ほどか。ルシタニアは百も失っていない。さらに追えば、もっと多くの敵を葬れる。そう思ったブラマンテは不満を口にしたが、セイリオスの指示には従った。

「三弟殿下の御指示では、何があろうと逆らえん」

 追撃の意図はパルス軍を討ち取ることではなく、アンドラゴラスの挑発だという。それから外れた行為をすれば、どんな功績を立てようが断罪される。不満があろうと、これで満足するしかない。

 

 アクターナ軍の騎馬隊が駆け、ルシタニアの騎馬隊が続く。パルスの騎兵1万がそれを追う。王の命令で駆け付けたキシュワードは明らかに追いつける敵を前に、馬の脚を止めた。

「何故止まるのですか。王は、撃滅せよと仰せですぞ」

 キシュワードを咎めたのは、王命を伝えに来た近臣である。この時キシュワードが、背負う双剣を意識しなかったと言えば嘘になる。

(王の威を借るだけの戦も判らぬ馬鹿が、この『双刀将軍(ターヒール)』キシュワードに意見するなど、烏滸がましいにもほどがあろう)

 その思いを内心に止めるには、多少の苦労を必要とした。ダリューンやナルサスとは違い、キシュワードには監視役が付けられていない。それでも、アルスラーンとの関係から、警戒されていると見るべきだ。

 

 キシュワード自身、以前のように王に進んで近づくことはなくなった。遠ざけられたのをむしろ幸いと感じているところがある。それでも王に従うのは、パルス歴代の武門という家柄のせいだろう。

「奴らの駆け方には余裕がある。罠に誘い込もうとしているのが解らぬのか」

 讒言でも何でも、したいならしろ。それを王が信じるようなら、こっちもそれ相応の挙に出てやる。そう開き直ったキシュワードは侮蔑を隠さず言い捨て、案の定相手の眉のあたりがひきつった。

 それを無視したキシュワードは、西方を見た。ナルサスが脱走したという。間違いなくダリューンも続くであろう。彼らの行き先は、王太子の元しかない。

 ……その彼らを、内心でうらやましく思っている自分がいた。

 




アンドラゴラスがさらに小さくなってしまいました。
剛毅とか言われていても、「アルスラーンに関して」は狭量、小心にしか見えないんですよねぇ…。

ちなみに、ギーヴとファランギースの二人は作中随一の名コンビ(漫才役として)と思っています。


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26.解放王の即位

 陣地に漂う空気を表現するなら、「拍子抜けした」としか言いようがない。

「アルスラーン王太子に告げる。『同胞を救ってくれた礼として、今回は貴公に対して攻撃しない』と、セイリオス殿下からの通達である」

 伝えてきた軍使がドン・リカルドとエステルの二人というのも、それを助長した。朝を迎えても一向に攻撃が来ず、いぶかしんでいたところに、これだ。気構えを、すっかり外された。

 

 ルシタニア軍は撤収を開始していた。本当に、追撃する気はないのだろう。あくまで、「アルスラーンに対して」だが。

 迂回して駆ける騎馬隊の存在は、偵騎が捉えている。それは歩兵ばかりのこの軍では、どうしようもないことだった。伝令は出したものの、間に合ったかはわからない。

「……しかし、ここにいる皆が生き残れるなら、良い事と考えよう」

 セイリオスの言葉を、額面通りに受け取ることはできない。自分を生かしたのは、その方がルシタニアの利にしてみせる自信があるからだ。

 それでもこの王太子は、皆の無事を喜んだ。

 

 さて、差し当たってアルスラーンが決めねばならないのは、これからどうするかである。こういう時は、いつもナルサスが指針を与えてくれた。しかし今、彼はいない。

「道は大きく分けて2つでしょう。王命を待つか、自立するかですな。…俺としては、ぜひとも後者の道を選んでいただきたい」

 言い出したのはギーヴだ。彼がここに留まっているのはただ一つ、アルスラーンとその周囲に集まる人間が面白いからである。他人の都合で無駄死にさせられるなんてつまらない結末を迎えるのは、真っ平御免だ。

 ギーヴほど露骨ではないが、それは皆に共通する思いである。このまま王に従っても、次々と過酷な命令を与えられるだけであろう。

 

「………」

 そのギーヴが、「そら来たぞ」という顔をした。パルス王の軍使であることを告げる旗をはためかせながら、一騎が駆けてきたのである。

「王太子殿下に、王よりの勅命にございます。『パルス王を僭称する逆徒ヒルメスを殲滅すべし。与える兵は1千とする。残余の兵は一将に率いさせ、本隊に合流させよ』。………以上となります」

 ギーヴはふうと大きく息を吐き、ジャスワントは思わず剣の柄に手を掛けた。ふざけるなと言うほかない。ヒルメスはもはや10万を超える軍を擁している。たった1千で、何ができると言うのか。

「また、ナルサスとダリューンの両名が脱走しました。王太子殿下の元に現れた場合、どのような理由であろうが誅殺せよ、一切の弁明は聞かぬ、との仰せです」

 

「………」

 場を沈黙が支配した。その一瞬に、ギーヴは音もなく剣を抜いていた。抜き打ちの一閃が、使者の首を刎ね飛ばす。

「………。ギーヴ?」

 アルスラーンも、何が起きたのか理解できないようだった。顔に着いた血に手をやり、ようやく何が起きたのか理解する。

「殿下、申し訳ありませんが、つい手が滑りました。いやはや、そこにちょうど使者殿がおられるとは、何とも不幸な事故で」

 道化めかして言っているが、王の使者を斬ったのである。言い逃れできるようなことではない。しかしギーヴは、そんなことを意に介していなかった。

 

「……もういい。国王(シャーオ)だから何だって言うんだ。あんな王様のために、指一本だろうと貸してやるものか」

 そう言い捨て、ギーヴは天幕の外に飛び出していった。あまりの急展開にしばらく呆然としていたが、我に返ったアルスラーン達が慌てて追うと、彼は今のいきさつを全て、兵士たちに暴露していた。

「俺はもう、アンドラゴラスをこの国の王と認めない。俺たちにふさわしい王は、今ここにいる」

 反乱の扇動ではないか、と皆が理解した時には遅かった。兵たちも、ギーヴの行動に困惑する声はあっても、批難する者はいない。

「アルスラーンを我らが国王(シャーオ)に!」

 誰かが叫んだ。それが呼び水となり、1万の軍に木霊した。仰天したアルスラーンは天幕に逃げ込んだが、兵たちはその天幕を囲んで座り込んだ。

 その状況で日が落ち、夜を越えて朝を迎えた。ナルサス、ダリューン、エラムに、アルフリードとメルレインも含めたゾット族の一団が合流したのは、そんな時だったのである。

 

「…ダリューン、ナルサス、よく来てくれた」

 一晩、一睡もせず、飲まず食わずで考え続けたのだろう。ナルサスとダリューンの眼には、少しやつれて見えた。

「すでに聞いたであろうが、兵たちが私をパルス王に擁立した。………私はこれを受け、パルスの(シャーオ)として即位する」

 これで、パルスには三人の王が並び立つことになる。セイリオスにとっては望ましい展開だろう。だが、アルスラーンが生き残り、かつ自分の理想を実現させるための道は、もはやこれしかない。

「殿下、…いえ、陛下。このダリューンは、どこまでも陛下の剣となりましょう。陛下が、パルスの民を護るための」

「ダリューンの申した通りです。民を護る者、それが王なのです。陛下がそれにふさわしき方であるなら、このナルサスは、全力で陛下を支えましょう」

 

 さて、ナルサスは王位を自称するのは時期尚早かと考えていたものの、アンドラゴラス王から独立することは考えていた。まずは、1万の兵を養うことが急務である。

「我らは拠って立つ地を無くしました。第一に、これを得なくてはなりません」

 パルスは三分されていた。西部はルシタニア、南東部バダフシャーンはヒルメス、ペシャワールを起点に北東部がアルスラーンだったのだが、アンドラゴラスに塗り替えられた。

 行く当てのなくなったアルスラーンだが、たった一つだけ空白に近い地方がある。南西部、オクサスからギランの港町にかけての、ヒルティゴが支配する地域だ。

 

「エクバターナを放棄すれば、オクサスやギランを保てない。それを理解しているルシタニアは、財貨だけ頂き、あとは捨て駒程度の存在と考えたヒルティゴに任せたのでしょう」

 セイリオスが講和条件を出した時に、オクサスやギランも放棄すると言ったことがそれを証明している。ヒルティゴは数万の軍を擁しているが、隙は充分あるはずだ。

「セイリオスが我らを生かしたのであれば、我らがある程度の力を持つことを許容しているということです。この間に、できる限りの力を得なくては」

 敵はもはやルシタニアだけではない。王位僭称を知ったアンドラゴラス王は怒り狂うだろう。その侵攻に対しても、防ぎえるだけの力が必要になる。

 

 ここで、一つ大きな問題がある。

「パルスの民全てが納得するような大義名分がありません。現王アンドラゴラス、カイ・ホスローの正嫡を唱えるヒルメスと比較して、陛下はわずか1万の兵に擁立されただけですからな」

 現状では、アルスラーンの行動はどこまでも反乱である。ここにいる者ならともかく、何も事情を知らない者からしたら、そうとしか見えない。

「しかも、扇動者は陛下の腹心だった男じゃ。このまま潰れたら、我らはルシタニア侵攻の混乱に乗じて王位を僭称した、悪逆の野心家として語られような」

 ファランギースの視線が、ギーヴを射抜く。しかしその視線は、言葉ほど冷たくはない。むしろ、「よくやった」と称賛しているようである。

 

「………宝剣ルクナバード」

 アルスラーンが、思いだしたようにぼそっと呟いた。ペシャワール城にいた頃、夢を見たという。ヒルメスの流した噂のことで、諸侯が味方してくれるか不安になっていた時だった。

「だれかに言われたような気がしたのだ。『ルクナバードを手に入れ、我が天命を継げ』と」

 跳ね起きたが、誰もいなかった。扉の前で見張り番をしていたジャスワントも何も気づかなかったし、夢だったと思い誰にも言わずにいた。それに思いのほか諸侯が集まってくれたので、忘れてしまったのだ。

 

「成程、カイ・ホスロー王の遺志を継ぐ、パルスの守護者、ですか」

 宝剣ルクナバードはカイ・ホスロー王と共に、デマヴァント山の山中に埋められたという。死しても蛇王ザッハークから、パルスを護る盾となる。その遺志の象徴が、ルクナバードと言っていい。

 ただし、である。ルクナバードは確かに象徴であるが、それに頼ってアルスラーンが堕落してしまっては困る。ここは一つ釘を刺しておかねば、とナルサスが口を開きかけた瞬間―。

「わかっている。剣は道具にすぎない。それによって象徴されるものこそが大事なのだ」

 アルスラーンがナルサスの表情を読み、先に言った。言われた方は内心で唸り、恥じた。釘など、まったく必要なかったではないか。

 

 そうなると残る問題は、カイ・ホスロー王の御霊が、アルスラーンを認めるかということだが…。

「問題ないさ。今ここで、誰がパルスを護る存在か判らぬ英雄王ではない。もし判らぬとすれば、カイ・ホスローはその程度の王に過ぎなかったというだけだ」

 そうなったら、もはやパルスも捨ててやる。アルスラーン王を頂く、別の国を建てるまでだ。以前ダリューンと二人、冗談半分で適当な国を征服してみせる言ったが、その国がパルスであっても何ら悪いことはない。

「よし、行こう」

 デマヴァント山まで、数日で往復できるだろう。駆けだした一行をはるか遠くから見つめる黒い影のことなど、気付くはずもなかった。

 

 

「………申し訳ありませんが、ここまで情勢が動くのは計算外でした」

 弟が頭を下げる。それに対しギスカールは、「………ふうむ」と一つ息を吐いただけで、何も喋らない。この状況はルシタニアにとって良いと悪いのどちらに転がったのか、容易く判断できないでいた。

「アルスラーンはおそらく、ヒルティゴの支配下にある南西部を奪取しようとするでしょう」

 ナルサスがかつて領していたダイラムという可能性もあるが、こちらはアンドラゴラスと直接境を接することになる。いきなり現王との対決というのは、避けるはずだ。

 それはギスカールも同感である。というより、起つならこの地方しかない。さて、ルシタニアとしては、どう出るべきか。

 

「…問題は、ヒルティゴを救援すべきか、どうするかだ」

 ギスカールがようやく口を開いた。正直に言って、今のアルスラーンに大した利用価値はない。他と噛み合わせるには弱すぎるし、それならここで叩き潰しておくのも手だ。

 しかしセイリオスは、それにはあまり乗り気でないようである。

「ここはヒルティゴに任せましょう。奴が勝てばよし、負けてもまたよし、ということで」

 エクバターナの主力はいつやってくるかわからないアンドラゴラス、ヒルメスに対する備えである。それにアルスラーン軍は1万に過ぎない。そのくらい自分で何とかしろと言っても、そこまで理不尽ではない。

 

「……お前、ヒルティゴが負けると見てるな」

 アルスラーンが南西部に入っても、エクバターナを放棄する当初の戦略に大した影響はない。だから問題ないと言えばそれまでなのだが、セイリオスはやけにアルスラーンに甘い。

 かつてはボダンたちの処刑役という役割があったが、それはもう終わったことだ。そういえば結局ボダンの生死は判らずじまいである。どこかで野垂れ死んだのだろう。

「………」

 ボダンのことはともかくとして、ギスカールの指摘は図星を突いたようで、セイリオスが杯を持つ手を止めた。そう、セイリオスは、アルスラーンがある程度の勢力となることを望んでいる。

 

「正直に言いましょう。アルスラーン王太子を、私は気に入ってしまいました。あの小僧がこの窮地をどう乗り切るか、楽しんでいる。…そしてオクサスを得れば、数万の軍は集まる。アクターナ軍と、同規模です」

 10万規模では、こちらもルシタニア軍を使い、国家の命運をかけた戦いとならざるを得ない。数万なら、アクターナ軍だけでぶつかれる。自分が育て上げた軍で、思うままに。

 ギスカールは思わずぞっとした。これは、理性の箍が外れかかっているときの眼だ。同等の戦力でぶつかってみたいなどと言い出すのは軍人、あるいは武人の発想であって、政治家の発想ではない。

「………」

 それにしても、自分はアルスラーンを軽視し過ぎていたのだろうか。この弟を燃え上がらせる敵が、まだ14歳の少年になるとは思いもしなかった。

 

 

「……ビードから連絡があった。アルスラーンがルクナバードを求め、デマヴァント山に旅立ったそうじゃ。ガズダハムに連絡せよ。アルスラーンがザッハーク様の眷属に襲われて、命を落としては敵わぬからの」

 黒いローブの中で、『尊師』は満足そうな笑みを浮かべた。小細工もしておくものだと口の中で呟いた。

「思いのほか、封印が強かった。カイ・ホスローの死体とルクナバードを切り離さなくては、ザッハーク様の再臨はかなわぬ」

 英雄王カイ・ホスローによって彼らが仕える蛇王ザッハークが封印されて、はや320年。封印を施した20枚の岩盤は崩され、ザッハークの復活は目前に迫っている。

 ところが、計算違いは最後の壁というべきカイ・ホスローの霊と宝剣ルクナバードの存在である。この2つが結びついている限り、その霊力が蛇王を縛る。何とかして、剣を取り出さねばならない。

 

 困ったことに、何としても取り除かねばならない存在であるのにもかかわらず、彼らはルクナバードを取り除くことができないのだ。カイ・ホスローの霊力は、彼らの力も縛る。

「そこで『ルクナバードを手に入れ、パルスの王となれ』とアルスラーンめを唆したのだが、夢枕ではやはり押しが弱かった。次の一手をどうすべきかと考えていたところ、思いがけず良い方に転がってくれたわ」

 エクバターナの地下に、哄笑が響き渡った。

 




ある意味ザッハーク以上の最強にして最凶の敵に、完全にロックオンされてしまったアルスラーン。即位はしたものの、前途多難です。

なお、アルスラーンの言葉と『尊師』の言葉が違うことに注目。笑っていられるのも今の内だけ…。


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27.宝剣ルクナバード

 魔の山、デマヴァント。パルス人であれば、その名を聞くと本能的に震え上がる。蛇王ザッハークが封印された土地。常に瘴気が立ち込める、呪われた不毛の山。

「………イアルダボート教の地獄とやらも、こんな風景らしいな」

「存外、蛇王の噂が向こうに伝わり、彼らが忌み嫌う存在の原典となったのかもしれぬぞ」

 パルス一の勇者とパルス一の智者の声も硬い。この荒涼とした世界に身を置くと、言い表せぬ重圧に全身が強張るのである。

 

 歩を進めるごとに暗雲が立ち込め、大粒の雨となった。英雄王の陵墓には、半年に一度、代々の国王が勅使を派遣して祭礼を行う。アルスラーンやナルサスも参加したことがあり、場所を知らないわけではない。

「……ここでよい。皆はここで待機してくれ」

 陵墓は大理石の墓碑を中心に神々の像が立つ聖域である。アルスラーンはその外に部下を止め、ただ一人その中に入った。

 

「……英雄王カイ・ホスロー」

 そこに人がいるかのように、アルスラーンは語り掛ける。

「今のパルスが、蛇王ザッハーク以来の危機にあることは承知であろう。……私は、パルスという国を、民を護りたい。一人のパルス人としてだ」

 はっきり断言されたわけではない。だが、自分はパルス王家の血を引いていないのだろう。父からは拒絶され、母はアルスラーンのことなど気にしているかさえ不明だ。

「私は兵たちに擁立された、父母が誰ともわからぬ者だ。だが、パルスの民を思う心なら、だれにも負けぬ。大事なのは政治がどう行われるかだ。それを理解してくれるなら、力を貸してほしい」

 

 このままアンドラゴラスとヒルメスにパルスを任せればどうなるか。二人の間に、和解の余地はないだろう。早期に決着がつけばいいが、ずるずると内戦が続き、人心が荒廃する最悪の展開になる可能性が高い。

 セイリオスがエクバターナを放棄するのは、まだ人心がパルスを見放していないからだ。逆に言えば、民がパルス王家を見限れば、セイリオスはパルスを滅亡させるために動いてくる。

「あえて、貴方に宣言する。英雄王の血。もはや、そんなものはどうでもいい。英雄王、貴方が自分の血統にしか王位を認めないのであれば、その時は是非もない。私は貴方を倒してでも、パルスの民を護る!」

 雨音が、突然止んだ。墓石のあたりにだけ、日が差し込んできた。雲を刃物で貫いたように、そこだけを照らす切れ目ができたのだ。

 

「………」

 空を仰いだ。眩しい、とアルスラーンは思った。わけもなく、その光をつかみ取ろうと手を伸ばした。空の彼方の光を掴めるはずもない。が、彼の手はずしりと重みを感じた。

「ルクナバード…」

 アルスラーンが剣を掴むと、急に光が消えた。再び、雨を頬に感じる。墓石に一礼し、アルスラーンは去ろうとした。

 

「陛下!」

 ダリューンが駆け寄ってくる。声も表情も、祝賀するものではない。危機を呼びかけるものだ。

 アルスラーンが振り向いた。地上には何もない。空から、黒い影が自分を襲おうとしている。冷静にそれを見て取ったアルスラーンは、ルクナバードの柄に手を掛けた。

「ふっ!」

 閃光が、影を切り裂いた。『太陽の欠片を鍛えた』と詩に謳われた宝剣は、何の苦も無く怪物の体を断ち切ったのである。一つの刃こぼれも、血の曇りすらない。

 

「こいつは…、伝説の『有翼猿鬼(アフラ・ヴィラーダ)』か?」

 アルスラーンを襲った影を見分していた、ギーヴが呟いた。翼をもつが、鳥ではない。四肢を持ち、顔は猿に似ている。それは蛇王ザッハークの眷属として、パルスの暗黒時代の一部として語られた存在である。

「ナルサス様、有翼猿鬼(アフラ・ヴィラーダ)が復活したということは、蛇王も復活したということではありませんか?」

 エラムが血の気が引いた顔で問う。蛇王の名は、パルス人なら誰であろうと恐怖の象徴である。飄々としているギーヴも、いつも冷静なファランギースも、ダリューンやナルサスも例外ではない。

「……いや、それは『まだ』なのだろう。蛇王が復活しているのであれば、もっと大きな騒ぎとなっているはずだ」

 ナルサスが硬い声で答える。動じなかったのはシンドゥラ人のジャスワントと、アルスラーンの二人だけであった。

 

「……カイ・ホスロー、パルスの英雄王よ。私は力の限りを尽くし、ルシタニアからも、蛇王からもパルスを護る。私がその役目にふさわしくないと思えば、いつでもルクナバードを取り上げられよ」

 アルスラーンの夢枕に立ったものが何だったのか、真相を知る者はいない。魔術師の小細工だったのか、単に夢を見ただけだったのか、それとも本当にカイ・ホスローの英霊だったのか。

 しかし、アルスラーン王はデマヴァント山でルクナバードを手に入れ、生涯それを佩剣とした。それは史実として記録される。

 『解放王』の御代の始まりである。

 

 

 兵たちによるアルスラーンの国王(シャーオ)奉戴を聞いて、アンドラゴラスとヒルメスが激怒したことは言うまでもない。さらにルクナバードを手にしたと聞いて、両者の怒りは爆発した。

「軍を編成しろ!王位を僭称し、あまつさえ英雄王の墓を暴くなどという賊徒を、一日たりとも生かしては置けぬ!!!」

 ヒルメスはそう喚き散らした。パルス王位も、宝剣ルクナバードも、どちらもこの手しか持つことが許されない存在なのだ。そう確信しているヒルメスにとって、アルスラーンの行動は反逆以上である。

 

 実を言うと、ヒルメスのアルスラーンに対する思いはだいぶ軟化していた。アンドラゴラスの実の息子ではないと知って、奴もまたアンドラゴラスの犠牲者だったという思いが芽生えていたのである。

 もっとも、こちらから和解の手を差し伸べるような真似は決してしなかったであろうが、もし彼が窮地に陥って頼ってきたとなれば、命ぐらいなら助けてやろうという気にはなったかもしれない。

 そういった思いは、全て吹き飛んだ。今よりは、不倶戴天の敵以外にありえない。

 

 ルクナバードを手に入れ、軍と合流したアルスラーンは南下している。当初の予定通り、オクサスからギランを手に入れるつもりである。もちろんヒルメスも、その行動は読めている。

 ヒルメスはヘルマンドス城を中心に、旧バダフシャーンの全域を制圧している。1万でしかないアルスラーン軍を叩き潰すのは容易いが、正直言って無駄なことはしたくないというのが幹部たちの本音である。

「何といっても、敵はアンドラゴラスでございましょう。アルスラーンごとき小物、しばらくは放っておくのが上策かと」

 発言したのはパルハームである。アンドラゴラス王の復活は、ヒルメスの計算も狂わせた。地下牢から脱獄を許すなど、ルシタニアの大間抜けめと罵ったが、まさかルシタニアが意図的にそうしたとは思っていない。

 

 アンドラゴラスは復帰するや、パルス北部一円に総動員令を下した。王太子の檄文にもあれこれ理由をつけて動かなかった諸侯も、王の勅命となれば動かざるを得ない。無視すれば、諸侯の座どころか命を失う。

「今後、アンドラゴラスの元に集まる兵力は20万を越えましょう。これへの対応が、喫緊の課題です」

 ヒルメス軍は12万というところである。こちらも総動員をかければ20万以上の動員は可能だろうが、諸侯は反感を持つだろう。それを無視できるほど、ヒルメスの王権は強固ではない。

 

「………むぅ」

 沸騰した怒りを鎮めるには、相当の努力を必要とした。だが、今やヒルメスは一国の行く末を考えねばならぬ身である。そう思えば、確かに対アルスラーンより対アンドラゴラスを優先させるべきだ。

 アンドラゴラスをより大きな脅威と考えたヒルメスの判断は、決して間違っているとは言えなかった。それが、この時点での常識だったからである。

「カーラーンよ、アンドラゴラスと戦って、勝てると思うか」

「……勝てないとは申しませぬが、勝ったところで利の薄い戦となりましょう」

 アンドラゴラスとヒルメスが激突する。当然、双方に損害が出る。喜ぶのはルシタニアとアルスラーンである。やはりここは防備を固め、ルシタニアと誰かが激突するのを待つべきだ。

 

「………」

 わかってはいるが、情けないことだ。国王(シャーオ)の座は、夢見ていた頃はどんな願いも叶える魔法の道具のように思えていたが、いざ現実に手にしてみると、思っていたほど万能なものではないと嫌でも解る。

 自分が50万の精兵を持っていれば、と空想してみる。アンドラゴラスもルシタニアもアルスラーンも纏めて叩き潰して見せる自信はある。それは決して大言壮語ではないだろう。

 では50万の精兵を持つにはどうすればいいかとなると、地道に政務に励んで国を富ませ、着実に国土を広げていくしかない。今の国力で50万の軍を動員したら、国は間違いなく破綻する。

 そこに王の威光を振りかざしたとしても、何がどうなると言うわけではない。信望を失うだけだ。その程度の現実は、ヒルメスも充分わきまえていた。

 

「エクバターナだけは何としても奪還せねばならぬ。防衛ばかりを考えるのではなく、北西に勢力を広めるべきだ」

 バダフシャーンで王様ごっこをして満足しているようでは、ヒルメスの矜持が許さない。何としてもエクバターナ奪還を成すのは、自分の軍であらねばならない。

 現状を分析すると、トゥラーンを退けたアンドラゴラスが再びルシタニアと激突する、という可能性が最も高い。20万対20万なら、アンドラゴラスが勝つとヒルメスは見た。

 そしてアンドラゴラスがエクバターナを回復すれば、自分は地方反乱の首魁でしかなくなる。ルシタニアの脅威からパルスを解放した。そうでなくては、人がヒルメスを自分たちの王として認めることはないだろう。

 

 

「アルスラーンめ、血迷ったか!」

 そこまで追い込んだのはあなただろう、と言う言葉を、キシュワードは喉元で押しとどめた。そもそも、アンドラゴラスは何故アルスラーンを愛さなかったのか。あまりにも身勝手すぎる。

 アルスラーンが本当に養子で、王家の血を引いていないというのが問題なら、傍流から王家の血を引く男児を見つけてくればよかったのだ。その子をタハミーネ王妃の婿養子とすれば、王妃の立場も守られた。

 それとも、奇跡的にタハミーネ王妃との間に男児が生まれれば、すぐさまアルスラーンを廃嫡するつもりだったのか。気兼ねせず捨てられると思って縁のない児を利用したなら、批難する資格はない。

 

「………」

 パルス軍の士気は、一気に落ちた。キシュワードからして義務感で従っているようなものだから、それが兵士に伝わらないはずがない。セイリオスの策略は、意図から外れたが絶大な効果を上げている。

「陛下、アルスラーン一党の反逆は明らかでございます。ここは親子の情を捨て、断固たる処分を下すべきです」

 発言した男の名は、誰だったか。諸侯の一人だったはずだ。王太子に付いて甘い汁を啜ろうとして、ナルサスに邪魔された顔の中に覚えがある。彼らにしてみれば、アンドラゴラスの治世が続いた方が都合がいい。

 

「アルスラーンがルシタニアと手を組んだという噂もあります。事実であれば、由々しき事態へと発展しましょう。王よ、ご決断を」

 別の男が言う。ルシタニアがアルスラーンの殿軍にまったく攻撃しなかった、というのがその証拠として語られている。キシュワードが直ちにルシタニアの謀略と判断した噂だ。

「………まずはペシャワールだ。トゥラーンを駆逐せねば、安心して西に向かえぬわ」

 流石に怒りにかまけて戦略上の判断を誤るほど、アンドラゴラスは愚かではない。しかしキシュワードは、大きな舌打ちの音を聞いた。

「シンドゥラだけでなく、何故トゥラーンも片付けておかなかったのか。アルスラーンの阿呆め」

 その舌打ちを、キシュワードはそう解した。

 




ルクナバードの謎が、「ヒルメスは抜くことができたこと」です。
カイ・ホスローも「見込みはある」と思って抜くのは許可したけど駄目だった、ということでしょうか?

とにかくアルスラーンが手にした場合、地震は起きませんでした。


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28.ギラン奪還作戦

 アルスラーン軍はギランの港町に向かっていた。だが、その中にアルスラーンやダリューン、ナルサスらの姿はない。彼らはわずかな兵を連れ、一気にパルスを南下していたのだ。

 たどり着いたのはコラーフという港町である。ギランを中心とした航路の中で、補給のための基地として機能していた、小さな港である。

「まずはここから、ギランの港町を狙います」

 ナルサスはコラーフに着くと、すぐさま港に向かった。そこに停泊していた商人を見つけ、長く話し込んだ末に、その商人をアルスラーンの元に連れてきた。

 

「商人のグラーゼだ。いつものように絹の国(セリカ)から帰ってきたら、ギランの港町が占拠されていると聞いて、ここに留まっていた」

 別に、ギランの港町が他国に占拠されていようが、どうでもいい事だった。グラーゼは母親が絹の国(セリカ)人で、パルスと絹の国(セリカ)の間の海と各国を渡り歩いてきた男だ。彼の人生に、国境など無い。

「ではなぜこんなところに停泊していたかと言えば、シャガードの野郎が、港に入る船に法外な税を吹っ掛けていると聞いてな。金はあるが、奴に払う金は鐚銭一枚もない。どうするか、ここ数日考えていた」

 まったく困ってなさそうに、「困った困った」と連呼する。アルスラーンはふっと笑った。どうやら悪人ではなさそうで、見識もあり、信用してもいいのではないかと思わせる。

 

「そのシャガードという男について、聞かせてくれぬか」

 真顔で、ナルサスがどんどん問い詰める。年齢、容貌、家族についてなど細かいことまで聞き、得心が行くと「まさか、あいつが…」と呟いた。

「知り合いなのか?」

 ダリューンに問われ、言いにくそうにナルサスが肯定した。遠い親戚で、王立学院で共に学んだ仲だ。奴隷制度を廃止しようと語り合ったこともある。その親友が、何故ルシタニアに寝返ったのか。

 

「……そうか。そういう事情だと言いにくいんだが、俺たちギランの商人の間では、シャガードの評判はすこぶる悪いぞ。裏で海賊を動かしているのは奴だ、と噂されていた」

 その噂は、真実だったようである。ヒルティゴが攻めてきたとき、その手引きをして街に混乱を起こしたのは海賊だった。その海賊たちは今、シャガードの下でギランを支配している。

「………わかっております。かつての親友とはいえ、国を売るような真似をした罪は決して許されるべきではない」

 シャガードは親友であった。何が彼を変えてしまったのかは、今はどうでもいい。もはや過去形で語るしかない相手となったということだ。

 

 グラーゼの商船『勝利(ピールズィー)』は荷を全て降ろし、軍船に一変した。詰め込めるだけ詰め込んで、150人ほどを乗り込ませる。喫水線の深さから、見た目は大量の荷を積んでいるように見える。

「王族になんざ関わり合いになりたくない、というのが信条でしたが、今回は特別です。ギランの港がこのままでは、俺たちはみんな干上がってしまう」

 ギランが使えないなら他の港を、と簡単に済む話ではない。港湾設備、造船所、市場。ありとあらゆる面で、ギランは南海貿易の基点なのである。グラーゼにとっては、死活問題なのであった。

「グラーゼは今まで海の上で様々な体験をしてきたのであろう。良ければ、その話を聞かせてくれないか」

 『勝利(ピールズィー)』号を見ながら、アルスラーンはグラーゼと話し込んでいた。アルスラーンは海を知らない。果てしない海の先にある異国の話を聞く姿は、好奇心旺盛な少年そのままである。

 

「どうです?いっそのこと王族なんて身分を捨てて、海に乗り出すというのは」

「それは駄目だ。私は、パルスの民に対して負わねばならぬ責務がある」

 お固いことで、とグラーゼは苦笑いした。冗談に対する返しとしては、ウィットが不足している。第一、アルスラーンが海に出てしまったら、ここで協力するグラーゼの見返りはひどく小さいものになってしまう。

 さて、アルスラーン軍の作戦は単純だ。陸路からギランに1万の軍を進ませる。敵がそちらに気を取られた隙に、海から奇襲しようというのである。

 

「とはいえ、シャガードの軍は5千、ヒルティゴとやらは3万から4万はいるというぞ。たった1万で、本当に勝てるのか?」

 ナルサスは頷いた。シャガードの軍もヒルティゴの軍も、賊紛いの劣悪な兵である。1万でも、戦いようはある。

「……よし、それに賭けてやる。いい風も吹いて来たから、出航するぞ。まさか王様自ら指揮を執るわけではないよな?」

 勿論、そんなはずはない。奇襲部隊を指揮するのはギーヴとファランギースだ。他の者は馬を飛ばし、自軍に追いつくことになる。

 

 

「敵軍が、ギランを狙っているだと?」

 オクサスの宮殿で、ヒルティゴはどろりと濁った眼を側近に向けた。ふん、と鼻を鳴らし、手直にあった葡萄酒の壺を取ってがぶ飲みした。もはや、聖堂騎士団の団長であった頃の面影はない。

「たかだか1万ではないか。こちらから2万も出せば、屠るのには充分だろう」

 客観的に指揮能力を見れば、ヒルティゴは『平凡より少々上』くらいであろう。彼が聖堂騎士団の団長になったのは、軍事的な能力より政治的な能力のためである。

 

「ギランは俺のものだ。あの港があれば、金に困ることはない」

 ヒルティゴがギランを制圧した際、押収した金貨は50万枚に及ぶ。その内20万枚ほどをエクバターナに送ったが、残る30万枚はオクサスの倉庫に隠した。

 20万枚も送らねばならなかったのは断腸の思いであったが、エクバターナの機嫌を損ねれば10日後にはアクターナ軍に囲まれてしまう。安全を買うための必要経費と考えるしかなかった。

 

 その後はシャガードから四半期ごとに税収として献納されている。ただし、彼はその倍額は着服しているだろう。全体では、どれほどため込んでいることか。

「………」

 好機かもしれない、とヒルティゴは考えた。いい加減シャガードと手を切りたいが、ギランの商人たちを押さえつけているのは彼の海賊部隊だ。この海賊たちは敵に回さず、シャガードだけ排除できないものか。

「……いや、1万とはいえパルス軍は難敵だな。充分な準備と、策がいる」

 そう言い、彼は軍の進発を遅らせた。致命的なミスを犯したことに、彼はまだ気づいていない。

 

 

 間者から報告が入った。いまだ、ヒルティゴの軍はオクサスから出ない。それを聞いて、ナルサスはにやりと笑った。

「やはり、ヒルティゴとシャガードの間に、信頼関係など無かったな」

 ギランを巡って利害が一致していただけの関係に過ぎないのは明らかだった。なお、当然ながらナルサスは他の事態も想定している。アルスラーンは興味本位で、それを聞いてみた。

「ナルサスの考える最悪の状況とは、どんなものだったのだ?」

「いろいろな状況は考えられますが、一例として、ヒルティゴとシャガードが強い絆で結ばれ、アクターナ軍が援軍としてやってくる、というのはどうでしょう」

 そうなったらどうしていたのか。続けて聞くアルスラーンに、ナルサスはあっさり答えた。逃げるしかない、と。

「そもそも、アクターナ軍が出てきたら、勝ち目のない我らは逃げるしかありません。ギランやオクサスを手に入れても、すぐ落とされます」

 逃げるしかない状況まで想定しておけば、事前の準備として充分だろう。そう言うナルサスに、アルスラーンは苦笑いと共に感心する。

 

「…そういえば、一つ聞いてみたいことがありました。陛下が考えるセイリオスの最大の能力とは、何でしょうか?」

 セイリオスの最大の力、と言われて、アルスラーンは馬上で考え込んだ。戦場での能力は圧倒的だ。政治面でも極めて優秀である。個人的な武勇にも優れていそうであった。その中で、最も脅威となるものは…。

「アクターナ軍を創り上げた、その統率力ではないだろうか。……ナルサスはどう考えるのだ?」

「……人に対する洞察力、とでも言いましょうか。アクターナ軍だけでない。彼が抜擢した人材は、皆優秀で、しかも人格的にも高潔です」

 成程、とアルスラーンも頷いた。どれほど優秀であっても、一人ですべてを取り仕切ることはできない。人の上に立つということは、いかに上手く人を使うかということである。

 

「では、ヒルティゴやシャガードはどうでしょうか?」

 セイリオスの話題で沈み込んだ空気を吹き飛ばすように、あえて明るくナルサスが言う。アルスラーンとしては、さて、何と答えればいいものか。

「……油断するのは良くないと解っている。しかし、どうしても怖いと思えない。アクターナ軍と向かい合ったときは、いつ敵が動くかとびくびくしていたのだが」

 その感想を聞き、ダリューンやエラムもふっと笑う。彼らも同じ気持ちだったのであろう。

 

 ギランは商業の町である。建設当初、城壁はあったのだが、今はない。街が発展し、人が増えると郊外にまで家が建てられるようになった。それで、交通の邪魔にしかならないので取り壊してしまったのだ。

 シャガードはそのギランを護るように、砦を築いた。ギラン街道がオクサス川を渡った点である。橋と船を抑えれば、大河オクサスを越えるのは容易ではない。

「問題ありません。さあ、行きましょうか」

 ナルサスが集めさせたのは、日常で使われる甕である。それを縄で繋ぎ、板を乗せて、即席の筏を作ってしまった。それで一部の兵を上流の、敵が予想していない点で渡したのだ。

 

 正面の大軍に備えていた砦のシャガード軍は、いきなり後方に現れた敵に動転してあっさり崩れた。そもそも、それを敵だと思っていなかった。シャガードが派遣した援軍と勘違いしたのだ。

「もう終わりか。手ごたえのない」

 解き放たれた門からダリューンが砦内に乗り込んだ時は、もうほとんど終わっていた。逃げ惑う敵兵を刃にかける趣味はない。珍しく、彼の得物は敵の血に染まることがなかったのである。

 

 敗兵から始終を聞き、愕然としたのはシャガードだ。力攻めで陥落するにしても、計略で落とされるにしても、数日は砦で足止めできると思っていた。それが、半日で落ちたのだ。

「…ヒ、ヒルティゴの軍はどうなっている!?」

 彼はエクバターナから派遣された総督を追い出し、その総督邸をそのまま使っている。ギランの支配者はこの俺だ。そこから、ヒルティゴという邪魔者をどう取り除くか。それが目下の課題のはずだった。

 その彼を、今は当てにしている。その倒錯に気付かないほど、シャガードは動転していた。

 

 先にも言ったが、ギランの港街には城壁がない。総督邸は壁を廻らし、多少の要塞化は成されているが、とても籠城できるほどではない。つまり、敵の侵攻を防ぐ手段は何もない。

「ぜ、全軍で敵に当たるのだ。ヒルティゴの援軍があれば、情勢は逆転する。俺も準備が終われば、直ちに向かう」

 そこまで言って、ようやく現状が見えてきた。ヒルティゴの軍が来るわけがない。来たとしても、それは彼を助けるためではなく、陥れるためのものだ。

 彼の配下の軍は5千程度、質は悪い。主戦力の騎兵がいないとはいえ、正規軍1万に勝てるはずがない。騎兵がいないのはこちらも似たようなものなのだ。

 

(それでも、時間稼ぎはできる―)

 彼は総督邸の地下に隠していた財産の元に向かった。奴隷たちを鞭打ち、それを運び出させる。積み込み先は港で停泊している自分の船だ。行き先はミスル、ナバタイ、いやいや東国のどこにするべきか。

 前の総督は中央の混乱をいいことに、今年の税を着服していた。それに、彼に敵対した商人たちを取り潰して財産を没収したので、ルシタニアに支払った分を差し引いても、隠し財産は金貨200万枚分を優に超える。

「急げ!急がねばこの鞭をくらわすぞ!逆に働き次第では、お前らに金貨をくれてやる!」

 飴と鞭を両方使い、奴隷を急き立てる。しかしその港に、一隻の船が入港しようとしていた。グラーゼの『勝利(ピールズィー)』号である。

 

「おっ、あいつ、シャガードじゃないか?」

 グラーゼの部下の一人が気付いた。シャガードの方は、誰も気に留める者はいなかった。それどころではなかったからだ。

「………なあるほど」

 その姿を見ただけで、ギーヴは状況を理解した。まあ奴隷を急き立てて船に大量の荷物を運びこんでいるのだから、理解するのは簡単である。

「ろくでもない男じゃな。あれが軍師殿の親友であったとは、とても思えぬ。ほんの些細な事でも、人は変わるものじゃが…」

 軽蔑を隠す気はないようだが、ファランギースの声はどこか物悲しい。彼女の過去に似たようなことがあったのかとギーヴは思ったが、さすがにそれをこの場で聞こうとするほどデリカシーのない男ではない。

 

 とりあえず言えることは、シャガードにとっては最悪のタイミングだったということだ。『勝利(ピールズィー)』号からパルス兵が降り立ち、迫ってくる。

 身の危険を感じて逃げ出したのは、奴隷たちが一番早かった。次いでシャガードの部下たちも逃げ出した。何人かは、中身がこぼれた箱から金貨を拝借していくのを忘れてない。

「も、戻れ!戻れ!!!俺を守るんだ!」

 自分自身もいち早く逃げ出すべきだ。それを理解しながら、彼は財貨に後ろ髪を引かれた。結局その場から動かず、ギーヴに剣を突き付けられた時になって、ようやく彼は自分が最悪の決断をしたことを理解した。

 ギランの港街は、およそ半年ぶりにパルス王国の手に戻ったのである。

 




セイリオスの最大のチート能力は「部下の育成力」で、実はこの設定の元になった存在は銀英伝のフリードリヒ皇帝です。

感想で言ってますが、この話は「フリードリヒ皇帝の息子にラインハルト級の存在がいたら」というネタをアルスラーン戦記に移植してまして
フリードリヒ→元ネタの息子に遺伝→それをモデルにしたセイリオスに継承という流れになります。

フリードリヒ皇帝の人物眼は実は銀英伝中最高で、そのため自分の限界を見てしまい、諦めて遊興に逃げたのではないかと思ってます。


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29.第二次オクサス攻防戦

「総督、ねぇ…」

 普通であれば、栄誉であり実利も大きい。だが今は非常時である。グラーゼは、アルスラーンから示された『ギラン総督』という役職を、諸手を挙げて歓迎することはしなかった。

「ギランの解放までは利害が一致しましたし、言い逃れる自信もありましたがね」

 3人の王が並び立ち、しかもその中で一番小さい勢力。そこで重職に取り立てられても、いい事とは言えない。アルスラーンが潰れれば、自分まで誅殺されてしまう。

 アルスラーン陣営の誰もが、その危惧は理解できる。これまでアルスラーンに従ってきた者ならともかく、グラーゼはつい先日知り合ったばかりだ。忠誠心を期待する方が間違っている。

 とはいえ、ギランの港街を任せられる人材となると、グラーゼ以外にはナルサスくらいしかいないだろう。

 

「では、こうしよう。我らはこのままオクサスへ向かう。グラーゼは、ギランの復興を司って欲しい。その後どうするかは、これまで通り商人の会合で決めればよい」

「………そうすると、ギランはアンドラゴラス王に付く可能性が大ですぜ」

 利に敏い商人たちである。最も力のあるアンドラゴラス王に従うのが安全だと判断すれば、アルスラーンなどすぐさま捨てる。ギランを解放してくれた恩など、彼らの方針に与える影響は銀貨一枚にもならない。

「それでも構わない。ギランの港街は、これからもパルスに必要となるはずだ。誰が王であろうとも」

 腹を据えて、アルスラーンはグラーゼを見つめた。負けじとグラーゼも睨みかえす。根負けしたのは、グラーゼの方であった。

 

「参りました。これは降参だ。そこまで言われて、引き受けないわけにはいきませんや。……それと、できる限り国王陛下に従うよう、皆を説得してみましょう」

 アルスラーンがぱっと笑顔になる。ここで彼は、グラーゼという心強い味方を得たのだ。だが、しかし、とグラーゼは語る。

「商人たちの支持を取り付けたいなら、何といっても金次第でしてね」

 それについては、シャガードが残した金貨200万枚分の財貨がある。アルスラーンはこれを、今年の税収分として20万枚を取り、残りをそのままグラーゼに預けたのである。

「元々はシャガードが強奪したものだ。ギランに返すのが筋であろう」

 180万枚の金貨と言えば、小国の年間予算をも凌駕する額である。それに一切手を付けない、というのだ。商人たちも、これには驚いた。

 

 さて、そのシャガードである。

「お、俺はルシタニアの侵略から、ギランを守ろうとしただけだ。俺がいなかったら、ギランは灰になっていただろう。……な、なあ、ナルサス、お前なら信じてくれるよな?」

 いくつか商家を取り潰したりもしたが、それは自分のやることを理解してくれなかったからで、やむなくそうしたのだ。海賊を使ったのも、いつでも切り捨てられるようにと考えてのことだ。

 攻め込んできたのがアルスラーン軍でナルサスがそこに仕えているなんて知らなかったし、ナルサスが認めたのならきっと立派な王となるだろう。俺も、一臂の力をそこに添えようではないか。

「……もう止めろ。今のお前が何を言っても、恥の上塗りでしかない」

 必死で弁解にもならない弁解を行う旧友を、ナルサスは突き放した。刑吏に命じて、外へ連れ出させる。ルシタニアに内通した反逆者として斬首されるその時まで、彼は旧友を罵っていた。

 

「……ナルサス」

「…陛下が気にされる必要はありません。あのような者と交誼を結んだ、自分の不明を恥じるばかりです」

 一体、何がどうしてこうなってしまったのか。ナルサスにも、答えが解らない。運命という言葉は、こういう時のためにあるのかもしれなかった。人の身ではどうしようもないと、諦めるために。

「さて、それよりヒルティゴの軍が向かってくるでしょう。これを撃退せねばなりません」

 ギランが落ちるのは、ヒルティゴにとっても計算内であろう。この状況でアルスラーンを叩き潰せば、シャガードという邪魔者を排除してくれただけで、彼にとっては万々歳で終わる。

「撃退し、一気にオクサスまで取りましょう。……何分、我らは今だ金欠ですので」

 ナルサスが冗談めかして言う。20万枚の金貨は庶民からすれば一生かかっても使いきれない金だが、国家の財源としては不足である。ヒルティゴの財産も当てにしたいところだ。

 ちなみに、平和時のパルスなら、ギランだけで不景気でも20万枚近い税収を得ていた。多い年なら100万枚を超えたという。パルスがどれほど豊かだったのかを示す一例である。

「おう、今度は俺の出番も、ちゃんと作ってくれよ」

 ダリューンが軽く言った。負けるなどとは、微塵も思っていない。

 

 

 ギラン陥落の報は、翌々日にはヒルティゴの元に届いた。それはむしろ予期していたと言える。ここまであっさり落ちるとは思っていなかったが、驚愕することではない。

「何であれ、アルスラーンを叩き潰せばいいのだ」

 それでシャガードという邪魔者がいなくなったギランを支配できる。それは、何一つ変わってない。

「しかし、パルス軍はやはり精強です。……エクバターナに援軍を求めるべきでは?」

 側近が、控えめに意見を出す。ヒルティゴも考えぬでもないが、そうするとギランの支配権はエクバターナに渡さねばならないだろう。自分のものにしなくては、意味がない。

 

「パルス軍は1万だ。ギランを落として多少増えても、今ならまだ1万数千にしかならないだろう。俺の軍は4万。負けるはずあろうか」

 ヒルティゴは麾下のほぼ全軍を率い、オクサス河沿いにオクサスに向かった。道程の半ばを消化したところで、パルス軍とどこでぶつかるかを考える。

(ギランには籠れるような城壁はない。つまり、どこかで野戦を挑んでくる)

 その程度のことは、ヒルティゴにも分かる。しかし、遅かったとしか言いようがない。

 

「………あれだけのんびり行軍されていると、なにやら悪い気がしてくるな」

 ダリューンの独白に、周囲の騎兵が笑う。アルスラーン軍1万は、すでにヒルティゴ軍の進軍路を捕捉し、埋伏していたのである。

 ギランを奪還したことで、アルスラーン軍はささやかであるが騎馬隊を得た。四百騎に過ぎないが、かつてギランの守兵として配備されていたパルス騎兵、その先頭に立つのは戦士の中の戦士(マルダーンフ・マルダーン)、ダリューンだ。

 

 その一撃の凄まじさは、ヒルティゴの想像を絶していた。パルス軍の襲撃はまだ先のことと思っていた彼は、水を得やすい川沿いを縦列で進んでいた。その横腹を、一撃で切断されたのだ。

「ぜ、前後に伝令を出せ!挟撃すれば、勝利は疑いないぞ!」

 それだけ言って、ヒルティゴは逃げ出した。後方に向かって駆けたが、後軍と合流するつもりではない。混乱に乗じてオクサスまで逃げようとしたのだ。

「急げ、急げ!オクサスの財宝を持って、エクバターナまで駆けるのだ」

 結局のところ、ヒルティゴもシャガードも同類に過ぎなかったと言うべきか。それとも不利な状況を見る目だけは卓越していたと言うべきか。とにかく彼らは同じ選択をし、同じ末路を歩むことになるのである。

 

 オクサスが見えた。城門を駆け抜け、門を下ろせと命じる。轟音とともに城門が落ち、ヒルティゴと側近はほっと息を吐いた。あとは、持てるだけの財宝を抱え、エクバターナまで逃げる。

「ふうん、エクバターナに行きたいのか。それならここには立ち寄らず、まっすぐ向かうべきだったねえ」

 女の、揶揄するような声がした。周囲を見回すと、取り囲まれて弓で狙われている。中央にいるのは目つきの悪い青年と、水色の布を頭に巻いた少女だった。

 自分たちの部下ではない。パルスの正規兵とも違う。何が何やらわからず、恐怖に顔を引きつらせて辺りを見るヒルティゴに、少女が現実を突きつけた。

「あたしはアルフリード、こっちは兄貴のメルレイン。この城は、アルスラーン王と軍師ナルサス卿の命により、あたしたちゾット族が頂いたよ」

 

「オクサスが落ちたぞ」

 隣家の住人が転んだ、という程度の気安さでギスカールは言った。セイリオスも「そうですか」と素っ気なく返す。

「ヒルティゴの奴も、もう少しはできるかと思っていたのだがな」

 あまりにあっけない滅亡であった。オクサスに逃げ戻って城門で捕らえられ、呆然自失のまま斬られたらしい。まあ、ヒルティゴごときがどうなろうが、微々たる影響にすぎない。

 

「さて、これからどうするかだな。アルスラーンにはミスルを動かして、牽制するという手もあるが…」

 アンドラゴラスとトゥラーンが激戦を繰り広げる隙に、ヒルメスはエクバターナに向かって勢力を広げていた。かつてセイリオスが陥落させたカシャーン城を制圧し、エクバターナ攻略の最前線としたところだ。

 その兵力はおよそ8万。アルスラーンにオクサスを取られたことも考えると、ルシタニアの伸張は止まり、分裂はしているもののパルスが反転攻勢に出たように見える。

 しかし、ギスカールもセイリオスも焦らない。ヒルメス、アルスラーンとも、独力でルシタニア軍を駆逐するほどの力はない。エクバターナの前で足踏みするしかないはずだ。

 

「結局は、お前とアンドラゴラスの決戦待ちとなるわけか」

 昼は茶、夜は葡萄酒でも飲みながら、ゆっくり待てばいい。最悪、アンドラゴラスに敗北してルシタニア軍が潰えたとしても、マルヤムまで撤退すれば再起できる。…あくまで最悪の場合だが。

「気になるのは、あのフィトナが変な動きをしているようでして」

「愚かな女だ。今更他の三者に勝てるわけがなかろう」

 どうやらエクバターナで自立するつもりでいるらしく、タハミーネ王妃の名を使い陰でレジスタンスに接触しているようだ。もう少し泳がせた後で、叩き潰せばいい。

 

「お前だって大して気にしていないくせに。拾ってきた小僧や聖マヌエル城の小娘をずいぶん気に入っているようで、そっちの教育の方に熱心ではないか」

 ルクールとエステルのことである。セイリオスも暇を持て余している、というところだろう。元奴隷の少年と騎士見習いの少女相手に、シルセスと二人で軍学まで教えていた。

「少々素直すぎますが、二人ともひたむきでいい子です。10年も鍛えれば、一軍を率いさせてもいいかもしれません」

 その表情と声音から、ギスカールは何となく子供の自慢をする父親の姿を連想した。シルセスもまんざらではないのかもしれない。それならさっさとくっ付け、とは、言わないことにした。

 

 

「ケルボガ、そなたが集められる人数は、どのくらいか?」

 2千という返事に、フィトナは眉をしかめた。全く足らない。エクバターナに籠城するなら、最低でもその10倍の軍は必要になる。どれほど軍事に疎かろうが、その程度は理解できる。

「全く足らぬ。ルシタニアはエクバターナを捨てる。パルスの王妃と王女が異国に連れていかれるのじゃ。そなたにはそれを防いでもらわねばならぬ」

 平伏するケルボガに、自分の欲求だけを投げつける。いつの間にか、彼女の物言いは権力者のものとなっていた。パルスの女王となる夢が、現実を侵食してしまったのだろう。

 だがエクバターナ放棄が、その夢を前提から崩壊させた。エクバターナを死守するに違いないと思うのが常識であり、その先に自分がパルスの女王となる画を描いていたのだ。

 

 ジュイマンドでルシタニアの意図を知った彼女は、大いに焦った。このままでは自分はルシタニアに連れていかれてしまう。それでは良くてルシタニアの一諸侯の妻だ。そんな未来など、認められるものか。

「何とかしなくては…、何とか…」

 気ばかり急くが、彼女の味方はタハミーネを除けばケルボガただ一人に過ぎない。彼はガルシャースフ麾下の千騎長だったという。決して無能ではないが、所詮は千騎長だとフィトナは思っている。

 なお、ケルボガを弁護するなら、ルシタニアが多くの奴隷を連れ去り、サームが軍を募ったエクバターナで、千騎長にすぎなかった彼が大軍を集めるのは不可能と言っていい。フィトナの認識は、その辺りが薄い。

 

 ルシタニアの方針を変えたくとも、政治も軍事もギスカールとセイリオスの二人ががっちり握っている。イノケンティスはタハミーネにぞっこんだが、だからと言って弟二人との仲を裂くのは難しい。

「ギスカールとセイリオスに任せておけば、地上のことは安泰じゃ」

 弟二人をどう思うかと水を向けてみても、万事がこの調子で、嫉妬や反感など全く抱いてないのである。何故ここまで弟を無邪気に信頼できるのか。イノケンティスの態度は、フィトナの理解を越えていた。

 普通なら、王位を簒奪されないかと怯えたり、自分をないがしろにしているとか不満を漏らすはずである。それならば扇動のし甲斐もあるが、これではどうしようもない。

 さらにエクバターナを捨てることをどう思うかと聞いてみても、まったく惜しいと思ってないのだ。

 

「このエクバターナに勝る新都を造る、とセイリオスは言っておる。パルスから離れようと、タハミーネもフィトナも、何も不自由させはせぬぞ」

 エクバターナ保持は難事である、と弟二人に言われ、イノケンティスは当たり前のようにそれを受け入れた。彼にとっては、もともと異教徒の首都に過ぎない街だ。死守する意義は、どこにも存在しなかった。

 そう聞いて、フィトナは舌打ちした。だがそれを翻意させるだけの軍略はない。情に訴えようとしても、ナバタイ育ちであるフィトナである。エクバターナから離れたくないと言っても、説得力はまるでない。

 行き詰った、というのは、この時の彼女のことを言うのだろう。

 

 客が来た。パルスが存亡の危機にあるとはいえ、王妃に近付きたい商人は多い。この男は、絹の国(セリカ)と交易し、なかなか良き品を手に入れたので献上に来たという。よくあるご機嫌伺である。

「この鳥は絹の国(セリカ)では大変おめでたいとされる鳥でございまして…」

 半透明の石に、精細な彫刻が施されている。パルスの宝物庫に入れるにしても、美術品としての価値は充分と言えた。

「私はラヴァンと申します。以後お見知りおきを…」

 




シャガード、ヒルティゴの二人があっさり退場。この話だとさすがにシャガードを放免するわけにはいきません。

フィトナも破滅に向かって着々と進んでいます。これは原作通りか?


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30.大嵐の前

 パルス歴321年5月末、トゥラーン軍が大挙南進。その情報をいち早く入手したのはシンドゥラの国王ラジェンドラであり、彼はそれを知るや、直ちにペシャワール城のパルス軍に急使を発した。

「アルスラーン王太子に知らせてやれ。ペシャワールが落ちたら、あの王子も困るだろうからな」

 トゥラーン軍が矛先を変えてさらに南進してきたら、彼の身の方が危うい。それなのに「知らせてやれ」と恩を着せるような言い方をするのがこの男である。それどころか、内心ではもっと危ないことを考えている。

(ここで、ルシタニアやバダフシャーンのヒルメスとやらにも知らせたら、どうなるか)

 勿論、トゥラーン、ルシタニア、ヒルメスの3勢力に囲まれ、アルスラーンは滅亡するか、しなくても極めて苦しい状況に陥る。その隙に乗じれば、シンドゥラの版図を広げることもできるだろう。

「しかし、俺は心優しい男だからなあ…。盟友であるアルスラーン王太子を売るような真似は、したくない」

 アルスラーンの幕僚たちが聞けば、憤慨したでは済まなかったであろう。彼がそうしなかった理由は、その方がシンドゥラの利益になると踏んだからだ。しかも、「しない」ではなく「したくない」である。

 

 ともあれ、ラジェンドラ王の善意(?)によりトゥラーン軍の襲来を知ったパルス軍は、即座に籠城を決めた。ペシャワール城の留守はルーシャンが預かっており、彼は自分の実力をよくわきまえていた。

「我らの役目は武勇を誇って敵と戦うことではない。王太子殿下が後背の憂いなくルシタニアと戦えるよう、ペシャワール城を守り抜くことにある」

 ルーシャンを臆病者と謗る者はいなかった。主力不在の現状、ペシャワールの戦力だけで野戦を行い、トゥラーンを退けるのは不可能。一刻も早く、王太子の主力軍に知らせ、帰還まで粘るしかない。

 当然ながら、ラジェンドラもルーシャンも何も知らない。ルシタニアの策謀によってアンドラゴラス王が復活し、アルスラーン王太子が追放同然の扱いを受け、王を自称するしかなくなるということなど。

 

「ルーシャンもキシュワードも、皆苦労しているであろうな」

 オクサスの奪還で拠点を得て、ほっと一息ついたアルスラーンが言う。ギランの港もグラーゼの統治の元、アルスラーン支持のまま平穏を保っている。ルシタニアは、動きを止めていた。

「気が咎めないわけではないが、私たちはまだまだ力を養う以外にない」

 アルスラーンの軍は増えたが、それでも2万余である。騎兵は2千弱だ。調練もまだ不十分。アクターナ軍とぶつかったら、一撃で叩き潰される。

 

「銀仮面の君も、カシャーン城で足踏みとなりましょう。ルシタニア軍20万に8万で勝てると思うほど、愚かな御方ではありませんので」

 ナルサスはヒルメスを過大評価も過小評価もしているつもりはない。彼は軍人として極めて優れ、王としての器量も充分すぎるものを持っている。復讐心に目をくらませていたが、それも克服したようだ。

「かの御方も、バダフシャーンを制圧して一皮剥けましたな。…いや、元からあったものが出てきたと言うべきでしょうか」

 政治には熱心であり、軍は規律正しい。神官や貴族でも不正を許さぬ公平な王として、ヒルメスはバダフシャーンの民の心を掴んでいた。彼らにしてみれば自称であろうが何であろうが、善政を布く良き王である。

 ただ、ヒルメスの治世に今までのパルスからはみ出るところは一切ない。そこがアルスラーンとの決定的な差である、とナルサスは思っている。

 

「我らもこのオクサスを、善く治めねばならぬ」

 オクサス、ギランを手にしたアルスラーンは、すぐさま奴隷の解放を布告した。それどころではない状況なのは理解しているが、王として誓ったことは守らねばならない。おかげで財政は火の車だ。

 アルスラーンにとって幸いしていたことがある。ヒルティゴの政治はボダンほど酷くはなかったが、それでもとても善政とは言えるものではない。異国人の支配下に置かれ、民衆の不満は蓄積していた。

 その上、オクサスもギランも多くの有力者が処刑、追放の憂き目に遭い、主を失った奴隷たちは酷使されていた。奴隷解放を行っても、不満は最小限に抑えられる土壌があったのである。

 

「とはいえ、奴隷がいなくなればこれまでの社会制度は維持できないでしょう。それによって生じる不満の抑制が、今後の課題ですな」

 社会制度が変化すれば、その波に呑まれて没落する者は当たり前に出る。その不満は必ず自分の無能力ではなく、波を起こしたアルスラーンに向く。

(ルシタニアは、さすがに狡猾だ)

 それが解っているルシタニアは、奴隷解放の道だけを作った。奴隷制度廃止などという急進を避け、だが奴隷たちに希望を見せた。どちらが良い結果となるかは、これから先の努力次第だろう。

 

 アルスラーンがオクサスを治めるようになってから10日ほどしたある日、珍客が来た。

「アルスラーン王に会いに来た。害意はない」

 エステルである。剣こそ佩いていたが、鎧は脱いで女性の装いとなっていた。その剣もあっさりエラムに渡してしまう。使者としてパルス王に会いに来た、と言う彼女に、アルスラーンは気軽に応えた。

「改めて礼を言わねばならぬ。聖マヌエル城の皆は無事保護され、ひとまずエクバターナに落ち着いた。近いうちに、マルヤムを経由して本国に帰ることになる」

 エステルは何気なく言ったが、アルスラーンには理解できる。ルシタニアのエクバターナ放棄計画は、まったく変わっていない。過分な欲を見せない相手。それが、最も厄介な敵だ。

「それで、ここからが本題だ。王を称したと聞いた。追い詰められてやむなく、というくらい、私でもわかる。そこで、今度こそ我らと講和する気はないか?」

 エステルの表情は真剣そのものである。セイリオスの許可は取ったらしい。相手が承諾するのであれば、許可しよう、と。

 

 アルスラーンは苦笑いした。話の内容がどうこうではなく、これはエステルなりの不器用な借りの返し方なのである。その心根は、優しいものだ。

「何を笑っている。セイリオス殿下に、勝てるはずないだろうが。……お前に死なれたら、私もドン・リカルド卿も、借りを返す相手を失ってしまう。おそらく、これが最後の機だ」

「勝てなくても、戦わねばならぬ時もある。パルスの王は、侵略者から民を護る義務がある。相手が何であろうが、パルスの民を苦しめるものは敵だ」

 セイリオスの正義がルシタニアの繁栄なら、アルスラーンの正義はパルスの安寧である。それが真っ向からぶつかるのであれば、戦うしかない。

 

「迷いのない言葉だな。……正直、私は何が正しいのか判らなくなった。いや、知ったと言うべきかな。この世界は信者と異教徒と、二つで分けられるほど単純ではないということに」

 エステルが自分たちを拒絶しなくなったというのは嬉しいことだが、アルスラーンは少し胸が苦しくなった。自分とて、ルシタニアは憎むべき侵略者としか考えていなかったのだ。

「……私だって、君たちの正義が何かなど、考えたこともなかった。私は未だ、パルスの王宮から見る景色しか知らないのかもしれぬ」

 他国の困窮を横目に、パルス人が豊かに安穏と暮らす。それは他国からは、自分たちを虐げているのと同じに見えるだろう。

 視点次第で、パルスも悪になる。セイリオスに、それを教えられた。絶対的に正しいことなど、この世には無いのかもしれない。ナルサスも言ったことがある、『正義とは星のようなものかもしれない』と。

 ただ、だからと言ってルシタニアのためにパルスが犠牲になるのを肯ずるかと聞かれれば、答えは断固として否である。セイリオスの言葉ではないが、アルスラーンはパルスの王だからだ。

「……生きろよ。死んだらお前たちは、お前たちの信じる神の元に行くのだろう。そうなったら返しようがないからな」

 エステルが去って行く。それを引き留めようとして手を伸ばしかけて、アルスラーンは思いとどまった。何故、そんなことをしようと思ったのだろう。そのまましばらく考えていると、どたどたと足音が響いた。

 

「おい、あの女の腕輪は何だ!?」

 エステルが駆け戻ってきたのである。今度は一人ではなく、連れがいた。ファランギースとアルフリード、それにもう一人の少女。

「レイラがどうかしたのか?」

 アルスラーンがきょとんとして答える。何故エステルがこんなに血相を変えて戻ってきたのか、まったくわからない。

 レイラはこのオクサスで神官見習いをしていた少女だが、変わった特技を持っていた。棒術をかなり使う。その縁で、最近ファランギースやアルフリードと昵懇していたのだ。

 

「……その、…なんだ。王妃の本当の子の話は、お前も聞いているだろう。その少女が見つかって、王妃と一緒に暮らしているという話も」

 勿論、アルスラーンも知っている。心に冷たい隙間風が吹いた気がしたが、一方で「ああ、やっぱり」と納得もしていた。背反する感情を避け、あまり考えないでいたことだ。

 エステルは先日、その少女―フィトナを知ることになった。シルセスの供の一人として、向こうは眼中になかったであろう。礼儀正しくはあったが、どこか余裕がなさそうに見えた。

「レイラの腕輪は、その少女と同じものだぞ」

 

「成程、謎ですな」

 エステルの爆弾投下をぽかんとして聞いた一同は、「謎ならナルサスだ」ということで彼を呼んだ。その彼は、しばらく考え込んだ末に推論を展開した。

「元々不可解だったのは、『銀の腕輪を持った女児が現れた』という点でした。王妃の希望を繋ぐためであれば、噂だけでいい。本当に腕輪を持たせる必要など、どこにもありません」

 言われてみれば、その通りだ。一度捨てた子が現れれば、紛糾の元である。「腕輪と共に捨てた」という話だけを作り、女児はしかるべき人に渡せば、タハミーネには探しようがない。

 しかし、現実として腕輪を持った女児は存在する。しかもエステルの言葉を信じれば、二人もである。その点について、ナルサスは続ける。

 

「…女児を探したとして、複数現れれば誰でも作り話と思います。そこでもっと衝撃的な話をする。王妃はそれを真実と信じ込み、追及を止めるでしょう。実は、真相は全く違う所にあり、全てはそれを隠すためだった」

「回りくどい手だねぇ………」

 アルフリードが呆れて言う。回りくどい上、一見筋が通っているようで滅茶苦茶である。仮に、腕輪を持たせた女児が一人しか生き延びなかったら、それで話の筋は破綻する。

「真相を知るのはアンドラゴラス王だけでしょうな。まあ、我らが陛下には、『あまり深く考えるな』とだけ申し上げておきましょう。……もしかしたら、そこの女騎士殿が本当の子という可能性もあり得るわけで」

 王妃の子を託された者ははるばる西の果てまで行き、とある騎士の家にその子を託して息絶えた。年齢だけを考えれば、辻褄が合わないことはない。

 ナルサスの冗談に、エステルを除いた一同が笑う。タハミーネの本当の子がどうであれ、アルスラーンはアルスラーンである。ナルサスが常々言っていることだ。

 それでも、フィトナには悪いが、アルスラーンの心は幾分軽くなった。

 

「……さてさて、報告がございまして、ペシャワールの重囲が解けたとのことです」

 トゥラーンも相手がアンドラゴラス王だと知って仰天したであろう。幾度かの激突の末、ついにパルス軍が押し切った。アンドラゴラス王の執念が勝ったのである。

 こののち、一度軍を引くべきと考えるトクトミシュ王と攻撃続行を主張する親王イルテリシュの間で対立が生じ、トゥラーンは再びの内戦となる。だがそこまでの情報は、まだナルサスの元には入っていない。

「そうなると、アンドラゴラスが再び大陸公路を西に進むわけだな。私はエクバターナに戻る。気が変わったら、私に伝えろ。シルセス様に取り次ぐくらいはできる。もう一度言う、生きろよ」

 まるで味方のようなことを言って、今度こそ本当にエステルは去って行った。不思議な少女である。彼女は必ず、アルスラーンの心に何かを残して去って行く。

 

 

 ―帰りの道中、その事件は起きた。

「止まれ」

 エステルが、部下の騎兵を止めた。部下と言ってもエステルよりはるかに経験豊富で、腕も立つ男たちである。シルセスが付けてくれた、護衛と隊長としての心構えを学ぶための教官たち、というべきであろう。

「どうされました、エステル卿」

 岩陰に人影が見えた、とエステルは少し離れた岩を指さした。パルスの旅人がルシタニア兵を見て慌てて隠れたのだろうか。それならいいが、何か不穏なものを感じる。

「貴様、何をして―」

 馬を寄せたエステルは絶句した。反射的に剣を抜き、男の首を刎ね飛ばした。その横には別の男の死体。切り裂かれ―、一部が、ない。

 

「おい、貴様。今、何を隠した?」

 男の持ち物を探っていた部下が、観念したように差し出した。聖堂騎士団の紋章である。ボダンに従い聖マヌエル城に籠城した一人であろう。生き延びた者がいたとしても、何らおかしいことではない。

 だが、その男が何をしていたか。理解できない方がエステルには幸せだった。同じものを見た部下たちが、エステルの視線を避けようとする。態度があまりにもよそよそしい。それは、どういうことなのか―。

 そこから先、エステルの記憶は飛んでいる。エクバターナまで馬を飛ばし、セイリオスの執務室の元に駆け込んだ。あっけにとられるシルセスの胸に飛び込み、泣きじゃくる。

 セイリオスは何も批難せず、シルセスに彼女の相手をするようにだけ命じ、自分から部屋を出た。

 

 さて、この間、ルシタニアの中枢である王家は何をしていたか。もちろん日々の政務や軍の調練は欠かさない。だが、それ以外に目立った動きはしていない。端的に言えば、暇をつぶしていた。

「ギスカールよ、これはどうであろうか?」

 悪くない出来である。イアルダボート教の教義に関わること以外何もできないと思っていた兄に、できることがあったのだな、とギスカールは失礼極まりない感心をした。もちろん、声には出さない。

 大したことではない。本国からマルヤム、パルスの西方までを領する巨大国家となったルシタニアは、王を越え皇帝を名乗っていいだろう。その帝国の、新たな紋章を考えていたのである。

 兄者の暇つぶしにはちょうどいいか、と思い、ギスカールはイノケンティスに担当させてみた。何かさせておけばうるさく言われることもないだろうという程度の狙いだったが、意外に芸術の才はあったようだ。

 

 その中に、十二宮騎士団の隊旗もあった。もちろん各星座の紋章が旗の中央にあるが、旗竿の先に大鷲の像が鎮座している。全隊にだ。となると、意味のない飾りではない。

「セイリオスから聞いたのじゃ。大鷲はかつてルシタニアのある西方を統一したという大帝国の軍の象徴であった。我が国がそれを継ぐ意思を示すためにも、これは外せぬ」

 なるほど、イアルダボート教から解放されたルシタニア帝国のモデルは、失われた古の大帝国か。記録と各地に残された遺跡の数々は、その国がパルスにも勝る繁栄を謳歌していたことを物語る。

 パルスの民は知らないだろう。彼らが『西の外海』と呼んでいるマルヤムとミスルの間に広がる海は、実は西の端でほとんど閉じている。狭い海峡で、南(ミスル側)と北(マルヤム側)が向かい合っているのだ。

 古の大帝国は、己の領土でその海をすっぽりと包み込んだ。イアルダボート教の発祥より前の話である。その帝国もやがて衰退して、いくつもの国に分裂した。その欠片の一つが、のちにルシタニアとなった。

 

 一方、その頃のパルスは、蛇王とかいう化け物に支配されたという。ちょうど大帝国が分裂した後の混乱の最中で、パルスにまで関心を持つ余裕のなかった西側の記録には何も残ってない。

 蛇王とその眷属。お伽噺として笑い飛ばせばいいのだが、ギスカールには一つ気になる記述があった。蛇王が、その大帝国の皇帝が持っていたとされる、黒い刀身の剣を欲しがっていた、と言うものだ。

 パルスの王立図書館にあった古文書によると『星々の欠片を鍛えた剣』で、ルクナバードに対抗できる唯一の存在と考えられていたらしい。結局、混乱の中で見つからなかったというが。

 

 黒い刀身の剣、と言えば、ギスカールに思い当たる節は一つしかない。セイリオスの佩剣『アステリア』である。星の女神の名を冠した剣、というのも、伝承と符合する。

 ついでに言うと、その剣には対になる指輪があり、指輪が統治の、剣が軍事の象徴であったという。ちなみにかの大帝国にて指輪はただの装飾品ではなく、印璽の役割も持っていた。

「そうだとすると、何やら因縁めいたものを感じるな」

 アルスラーンと、セイリオス。ルクナバードとアステリアに選ばれた二人が、この時代に激突する。さて、結果はどうなることやら。

 だがその前に、相手をせねばならない者がいる。

「アンドラゴラスが、いよいよ来るか。豪語した通り、勝ってもらうぞ」




アルスラーン戦記でどうしても上手く解釈できなかったのがアンドラゴラス王の子とパルス以外の国に蛇王とその眷属の化物に関する情報が全くない事です。

アンドラゴラス王の子については作中で書いた通り、意味不明。アンドラゴラスが動転してろくなことを思いつけなかったのでしょうか?

蛇王はルシタニアはともかくトゥラーンとかシンドゥラとか(統一国家形成前としても)、1000年続きパルスであれだけ知られていることの情報が全くないのは不自然すぎます。
こちらはあり得そうな解釈が全く思いつきません。

話は変わり『アステリア』はルクナバードが『太陽の欠片を鍛えた』と謳われていたため対比で『星=隕石を魔導を使って鍛えた』という設定になりました。
『セイリオス』という名前や『十二宮騎士団』など星に関係しているのはそのためです。


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31.サハルードの戦い・前編

 パルス歴321年8月5日。アンドラゴラス率いるパルス軍、およそ20万。対するルシタニアは、今度はジュイマンドよりさらに西、よりエクバターナに近い『サハルードの野』で向かい合った。

「こちらが及び腰であると印象付けられるかと思いまして」

 何故そうしたのかと聞いたギスカールに、セイリオスは簡単に答えた。アンドラゴラスを恐れるそぶりは微塵もない。この弟に限って油断ということはないだろうが、それでもギスカールは不安を捨てきれない。

 所在を隠すため深緑の旗を伏せているが、アクターナ軍は左翼の後方に布陣している。ギスカールはそちらを見た。いつもと変わらぬ、静かな佇まいでいた。

 

「……おい小僧。少しは落ち着け」

 声を潜めて、隣の兵士が話しかけてきた。パルス戦役前からアクターナ軍の兵士であった男である。ルクールがそわそわと落ち着かない様子でいたのが、目についたのだろう。

 だが、ルクールの不安も判らぬことではない。彼はパルス人である。アンドラゴラス王とパルス軍の強大さは、パルス人が誇りにしてきたものだ。それと、敵として向かい合っているのである。

「……あの、ここだけの話ですけど、今回は本当に勝てるのでしょうか?」

「あ?俺たちの大将が誰だと思ってるんだ?殿下は負けねえよ」

 信頼と言うより、妄信と言うべきかもしれない。だが人にそう思わすことができるというのは、凄い事なのではないか。しかも一人や二人でなく、アクターナ軍4万人だ。

 

 アクターナ軍が何故常勝なのか。軍学を教えられ、ルクールも理解した。非常に簡単なことである。勝つ自信のある戦しかしないからだ。そして、ヘルマンドス城の騎兵戦を除き、全てがその通りになった。

 だからアンドラゴラス王のパルス軍と対峙している今、セイリオスには勝算があるはずだ。そこまでは頭で理解できる。だが、あのアンドラゴラス王に勝つ自信というのが、どうしてもルクールには解らない。

「考えるだけ無駄だ、小僧。いいか、俺たちぐらいに解るようなら、敵にだって解ってしまうだろ。だから解らなくていい。俺たちは、殿下の言う通りに動けばいいのさ」

 唖然とするような意見であるが、正しいと言えなくもない。しかし、ルクールは考えるのを止めなかった。少しでもセイリオスに近付きたい。旧主の仇は、今や自身の理想となっていた。

 

 

「アクターナ軍は、どこだ」

 深緑に紋章の旗がない。キシュワードは目を凝らして敵軍を見たが、それらしい軍はなかった。後方のどこかか。

 偵騎から、他の軍を発見したという報告はない。別動隊として動いている可能性は低いが、アクターナ軍は騎馬隊だけなら偵騎に劣らぬ速度で駆けてくる。油断はできない。

 ルシタニア軍全体として、多少の喧騒はあるものの、落ち着いているとキシュワードは見た。パルス軍と対峙して、ここまで自信を保った軍を見たことがない。セイリオスの指揮に対する信頼の表れであろう。

 

「今回は、柵がない」

 ルシタニアはジュイマンドと違い、柵を展開していない。アンドラゴラス王のことだから、明日には騎兵の全突撃を命令するのではないか。それを止める理由を探しに、キシュワードは前線まで出てきた。

「クバード卿、どう見る?」

 隣の同僚に話しかける。パルス軍の陣形は先鋒にクバードの騎兵1万、その後ろにイスファーン、トゥース、ザラーヴァントの三将、さらにアンドラゴラス王とキシュワードの本隊と続く。歩兵はその後ろだ。

 騎兵6万2千、歩兵13万4千の大軍である。パルス北東部の全兵力を動員したと言っても過言ではない。だから、この軍が潰えれば、その時パルスは組織的な継戦力を失う。

 

「どう、と言われてもな。ナルサスが言っていた罠が何か判明せねば、王を止めることなどできまいよ」

 半ば諦めたように、クバードが言う。アンドラゴラス王は愚かではないが、「罠の恐れがある」というだけで軍を止めるような慎重さは持ち合わせていない。

「ナルサスは止めていたが、こうなったら夜襲でもしてみるか?」

 夜襲で一部の軍を釣り出し、深追いしたところを叩く。柵がない今回なら、有効そうではある。軽く言ったクバードに対し、キシュワードは真面目に考え込んだ。

 

「夜襲か…。よかろう」

 多少考え込んだ上で、アンドラゴラス王は夜襲を許可した。彼とてルシタニアの布陣を見て、何も考えていなかったわけではない。

「両翼のトゥースとイスファーンに攻撃させよ。深入りせず、適当に叩け」

 敵を中央にまとめ、一気に叩く肚だ。キシュワードはそう感じ取った。決して間違いではない。ナルサスがあそこまで強硬に止めていなかったら、自分も選択肢の一つとして考える。

 夜襲隊は敵を釣り出すのには失敗したが、多少の戦果を得て帰ってきた。パルス軍は7騎を失い、ルシタニアは数十人の死傷者を出した。小競り合いにすぎないが、一応はパルス軍の勝利である。

 翌朝、ルシタニア軍は警戒するように両翼を縮め、中央にまとまった形になっていた。それを見て、アンドラゴラス王は会心の笑みを浮かべた。

 

「サハルードの野なら、我が膝元である。アトロパテネのような断崖は存在せず、パルス軍の突撃を阻む何物も存在しない」

 ルシタニアは前軍と中軍が緩やかな丘の上に陣取り、後軍は土地が足りなかったのか、その丘を下った先に布陣している。起伏はあるが、アンドラゴラス王の言う通り崖と言える地形はない。

 天気は良く晴れている。雲一つない青空、という訳ではないが、霧が出ることは考えられない。

「今度こそ、あの蛮族どもを叩き潰してくれる。キシュワードよ、全軍に布告せよ」

 命を賭して止めるべきなのか、キシュワードは迷った。クバードの言う通り、罠の存在が明らかでなければ止まるまい。それなら、王を諫めても無駄死にするだけである。

(ルシタニアが、アンドラゴラス王を軽視している可能性もある―)

 ナルサスの予感が外れることを願い、キシュワードは全軍に攻撃命令を下した。それしかなかった。

 

「……動いた」

 セイリオスはアンドラゴラスを軽視していたわけではない。無敵のパルス軍の名声は、パルス軍の質が優れていたこともあるが、アンドラゴラスが勇猛果敢な武将であったからもたらされたものだ。

「それゆえ、今は与しやすい」

 彼にとって、アトロパテネの敗戦は痛恨の極みのはずだ。不敗無敵のパルス王としての誇りを大きく傷つけられたと感じたであろう。

 それを取り戻すためには、どうするか。策略で勝っても名誉を取り戻したとは思えないに違いない。今度こそ騎兵突撃によって蹂躙しなければ、彼の矜持は収まらない。そこが、アルスラーンと違う。

 ルシタニア全軍も戦闘態勢に入る。中央の先鋒は、ドライゼン率いる第5獅子座騎士団(レオン)1万。それが槍衾を並べて、パルス軍を迎え撃った。

 

密集隊形(ファランクス)を形成せよ!!!」

 5人ずつの小隊が、5列に並んだ。第一列は槍を水平に突き出し、第二列から順に角度をつけて立てていく。長槍が、林のごとく立ち並んだ。

「もはやパルスの時代は終わった。これからの時代を作るのは我らだと、この戦いで奴らに教えてやるのだ」

 ドライゼンの鼓舞に、兵たちは喚声で応えた。パルス軍の先鋒とぶつかる。無敵と言われたパルス騎兵も、一糸乱れぬ槍の壁に弾き返される。

 

「クバード将軍、先鋒は苦戦しております!」

 そんな馬鹿な、という表情で、部下の千騎長が報告してきた。パルス騎兵の突撃をまともに受けて、断ち割れない軍など無かった。だがその報告はむしろ、戦士の血を滾らせる。

「ふん、アトロパテネから、ずいぶん変わったものだ」

 クバードは元々王家に対する忠誠の薄い男だ。今ここにいるのは同僚のキシュワードへの義理とルシタニアへの敵意、そして一人の戦士としての本能があるだけである。

 もう、王も何もない。あるのは戦士として、これまでにない敵に出会えた喜びのみ。クバードは愛剣を掲げ、馬腹を蹴った。自ら、先頭に立つ。

 

「おおぁ!」

 大剣で槍を弾き飛ばす。2本目も打ち払った。クバードの馬は隊列に達し、一列目の敵兵を頭蓋から叩き割った。3列目の敵兵が、槍を繰り出す。それを小脇に抱え込み、強力で敵を投げ飛ばした。

「続け!この『ほらふき』クバードがいるのだ!お前たちはただ付いて来るだけでいいんだぞ!!!」

 酒と大言壮語が過ぎる、というのが良識的な人間から見たクバードの評価である。だが本人はそれを誉め言葉と思っているのか、名誉の称号のように口にする。

 それを聞いて、兵たちの口元も思わず緩んだ。そして称号が何であれ、クバードの剛勇は本物だ。ルシタニアの最初の小隊を割り、第二列に突っ込む。

 

「イスファーン、トゥース、ザラーヴァントの第二陣も、中央に集中させろ!」

 全体の戦局を見て、アンドラゴラス王が指示を出す。各隊が攻撃を加えるも、ルシタニア陣は乱れない。騎兵に対する対応は、十二分に訓練を積んだのだろう。突出して分断されるような間抜けはいない。

 アンドラゴラス王の戦術眼は、このまま漫然と攻撃を続けるのは無意味であることを直ちに見抜いた。ならば、クバードの剛勇によって亀裂が入った敵中央に力を集中し、一気に断ち切る。

「キシュワード、我らも行くぞ!」

 はっ、と威に打たれたようにキシュワードが頭を下げた。不敗の王であったアンドラゴラスの英姿が戻ってきた、と感じたのは彼だけではない。

「聖賢王ジャムシード、英雄王カイ・ホスロー、パルス歴代の諸王よ!我が軍を守りたまえかし!!!突撃(ヤシャスィーン)!!!!!!」

 

 6万騎の突撃。それが獅子座騎士団を割り、ルシタニアの諸侯軍に突っ込んだ。かつてのルシタニア軍と比べ物にならないほど精強と言えど、パルス騎馬隊の突撃を受けられるものではない。

「案ずるな。この戦、セイリオス殿下の想定通りに進んでおる」

 不安そうにこちらを見たバラカードに、ボードワンはそう答えた。とはいっても、自身も詳しいことは知らされておらず、不安がないわけではない。

(殿下の指示は、『敵に侮られぬほどに、味方が壊滅せぬほどに、敵を中央に通せ』。……難しいことを言われる)

 今のところ、セイリオスの望み通りのはずだ。だが、パルスの騎兵隊はやはり精強である。この勢いを止めねば、ルシタニア軍は中央から二分され、撃滅されるだけだろう。

 

 ルシタニアの後軍は、セドリウス将軍の第10山羊座騎士団(カプリコルニオ)を中核とした3万の軍である。ボードワンの中軍から後方の草地で、何かしていたのは知っている。

 それが何かを知っているのは、セイリオスと実行した部隊だけだ。いや、実行部隊ですら、何なのか知らされてないのかもしれない。

「槍衾を並べ、敵の馬を防ぐのだ!騎兵隊さえ止めれば、パルスも恐れるに足りず!!!」

 ボードワンの督戦に答えた兵たちは、密集隊形を崩さない。それでもパルス騎兵はそれを打ち砕き、叩き割る。国軍が半壊してなお、パルス騎兵は精強だった。

 中央は、明らかにパルスが押していた。

 

「………」

 中央部の劣勢により、ルシタニア陣はくの字に曲がって見えるようになった。高所から俯瞰する者に形勢を聞いたなら、はっきりとパルスが優勢と断言したであろう。

 その状況に、セイリオスは動じない。彼の麾下でルシタニア軍最強のアクターナ軍4万も、まだ後方にいたままだ。

 左翼の前衛はカラドックの第7天秤座騎士団(リブラ)、その後ろで諸侯軍を纏めているのがゴドフロワ将軍である。パルスが中央に力を集中しているため、この二人で充分打ち払えている。

 右翼はグロッセートの第12魚座騎士団(ペイシェス)とモンフェラートの第1牡羊座騎士団(アーリス)に、スフォルツァ、ブラマンテ、モンテセッコの騎馬隊を配備してある。こちらも、形勢は互角。

 

 中央と左翼の間に、隙間ができた。ボードワンの奮闘が限界に達しようとしている。ここでセイリオスは、初めてアクターナ軍を動かした。ボードワンの援護ではなく、その隙間に向けて。

「え?」

 いきなり現れたアクターナ軍に、パルスの歩兵隊を率いるシャガード将軍は粉砕された。新手、と思った時には先鋒が潰走していたのだ。信じられない速さであり、強さだった。

 シャガード将軍は慌てて軍を止め、部隊を再編する。パルスの騎兵隊と歩兵隊の間を、アクターナ軍が断ち切った形になった。

 

「後方が絶たれました!」

 アンドラゴラス王の元にも、すぐさま報告が届く。キシュワードは顔色を変えた。この短時間でパルス軍を断ち切るなどという芸当ができるのは、アクターナ軍しかない。

「構わぬ!このまま前進し、ルシタニア軍を叩き潰す!!!」

 ボードワンの中央軍は崩れかかっている。この勢いのまま敵陣を突破し、包囲を脱する。アンドラゴラス王の判断は、決して間違いではない。

 

 のちに、パルスにて「サハルード会戦でアンドラゴラス王の何が悪かったのか」という話になった時のことである。

 アトロパテネの敗戦から無反省であったこと、変わらぬルシタニアの軽視、パルス軍の欠陥を放置したことなど、色々語られる。

 その中で、一人の男が言った言葉に、誰も反論できず皆が黙り込んだ。「相手が悪かった」と―。

 




突撃してくれた時点でセイリオスの勝ちです。


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32.サハルードの戦い・後編

「ぬっ!ぐおおおお!!!」

 ボードワンの戦斧と、敵の大剣が火花を散らす。討ち取れるような相手ではなかった。パルス人というのは人の皮をかぶった化け物の集まりかと毒づきながら、討ち取られないことだけを考えて斬撃を受け流す。

 隻眼の相手である。攻撃は一切考えず、ひたすら防御に徹する。万騎長のクバード相手に粘れるのだから、ボードワンの剛勇もなかなかの物である、と言えた。

 ボードワンにとって、ここが最後の一線である。役割は充分果たしたであろう。後は、死ぬより先に逃げ出すだけだ。

 渾身の力で、相手の斬撃を弾き飛ばす。一瞬の隙ができた。

 

「覚えていろ!後で吠え面かかせてやる!!!」

 まるで三下のような捨て台詞を投げつけ、ボードワンは一目散に逃げだした。左斜め後、パルス軍の突進を避けるように。

 ボードワンの敗走を見て、最後まで抵抗していたルシタニア軍も逃げ散っていく。急に視界が開けた。少し間を開けて、ルシタニアの後軍3万。

 

「………なんだ?」

 思わず、クバードは馬の手綱を引き絞ろうとした。何か変だ。最前列に槍衾、その陰に隠れるように弓兵。手本のような堅陣に、別におかしなところはない。……だが、それがおかしい。

(冷静過ぎではないか?)

 これが緒戦なら解る。しかし中軍が断ち切られ、自分たちが最後の一線となっているのだ。それなのに、動揺も無く待ち構えている。予定通りと言うかのように、慌てる様子がまったくない。

 だが逸った味方と、そんなことが解るはずもない後方からの圧力によって、クバードは前進するしかなくなった。それにここで馬の足を止めれば、ルシタニア軍に四方から取り囲まれて壊滅する。

 手の力を抜き、馬を駆けさせる。弓兵が矢を射かけてきた。それを払いのけながら、クバードは違和感の正体に気付いた。草の中に、何かがある。

 

「立てろ!!!」

 セドリウスの合図で、兵が綱を引く。夏場の茂った草の中から、いきなり柵が飛び出した。この柵は可動式で、繋げた綱を引くと斜めに立ち上がり、そこで固定される仕組みになっている。

「う、うわあああ!!!」

 勢いあまって、パルス兵が柵に衝突する。慌てて手綱を引き絞り馬を止めた者も、後ろから来る状況が判らない者に追突された。かろうじて一列目を飛び越えても、二列目は助走が足りない。

 

「押すな!!!押すなぁ!!!」

 誰かが叫び声をあげる。だが勢いづいた6万騎がそう簡単に止まれるわけがない。そこに、ルシタニア兵が矢を射かける。

 柵と倒れた人馬が障害物となり、騎兵の足が止まった。ルシタニアの改良された弓は、そのパルス兵を容赦なく穿ち抜く。

「ちぃい!!!退け、退けー!!!」

 クバードは大声で叫ぶが、後方からは6万騎が続いているのだ。引き返そうとする最前線と状況が解らない後方で、パルス軍同士の勢いがぶつかり合う。それは、アトロパテネの再現だった。

 雨の様に降り注ぐ矢を、クバードは大剣で払い落とす。一本払い損ねて、右の太腿に突き立った。ぐらりと体が傾いたが、落馬は耐えた。続く矢を、再び払いのける。

 

「クバード将軍!!!」

 近くにいた兵が、駆け寄ってくる。右隣に並ぼうとしたその時、兵の喉笛に矢が命中した。その体が、クバードの振るう大剣を邪魔するように崩れ落ちる。

 悪運が重なる、というのは、こういうことなのであろう。クバードの身を案じた兵の行動は善意だったし、この時に矢が命中したのも落馬の方向も偶然である。

 神の視点から言えば、クバードはその兵を断ち切ることになっても、大剣を振るうべきであった。だが彼は未来を見る事などできず、冷酷非情でもない。その兵の身を案じ、剣を振るう手が躊躇しても当然である。

 左斜め前からの矢に、反応が遅れた。左目が見えず元から視界が狭い上、右の兵士を気にしてそちらを見てしまったのだ。クバードが隻眼でなければ、また違った結果となったかもしれない。

 はっと振り向いたクバードの右目に、矢が突き立った。眼球から頭蓋を貫き、脳まで達する傷である。致命傷であることは疑いない。

「………」

 落馬し、サハルードの野に仰向けになったクバードの唇が、わずかに動いた。彼が最期に何を言ったのか、聞き取った者はいなかった。

 

 

「何が起きている!!!」

 6万騎の突撃が止まったのを受け、アンドラゴラス王が叫ぶ。隣にいたキシュワードは血の気が引いた。やはり、ナルサスが恐れた通り罠があったのだ。

(アンドラゴラス王をわざと脱走させたのも、騎兵の突撃を誘うため―)

 敵の目的が何か悟り、キシュワードは己の見通しの甘さを悔いた。騎兵と歩兵が分断された時、騎兵を避け歩兵を叩く肚かと思ったのだ。

 セイリオスは、そんな甘い敵ではなかった。彼はパルスの主戦力である騎兵隊を、根こそぎ殲滅するつもりでいた。

 中央突破を狙ったパルス騎兵は、敵の袋の中に飛び込んだ形になっている。

 

「王よ、退却をお考え下さい」

 何だと、と怒りの形相がキシュワードを睨みつけた。それに動じず、つとめて冷静を保ち、先鋒はきっと罠にかかったに違いないと自分の予想を告げる。

「罠など踏み越えてみせよ!!!」

 喚き声の後に、ぎり、と歯が鳴る音が聞こえた。二度目の敗北は、パルス王として絶対に許されない事であった。負けを認めるくらいなら、このまま突撃して果てるべきではないか。

 

「王よ、我が軍で背後の敵を足止めします。あの軍とだけは、戦わぬように。斜め後方の敵陣を突破してお逃げください。………続け!!!」

 キシュワードは冷たい声で言い放ち、旗下の騎兵1万を従えて疾駆する。アクターナ軍の歩兵隊に、勢いに任せて突っ込む。騎兵が歩兵を割っていく。それなのに、キシュワードの全身に悪寒が奔った。

 何か、とても柔らかいものにぶつかったような感触だった。押し込んでいるのに、手ごたえがない。自慢の双剣を振ろうと、そこに敵がいない。

 

 不意に、草の中から何かが現れた。柵だと気付いた瞬間、手綱を搾っていた。勢いを止められなかった部下たちが、柵や前方の味方に衝突する。キシュワードも棹立ちになったところに追突され、馬から投げ出された。

(こういうことか!!!)

 ようやく、全てを理解した。馬から投げ出されても見事に受け身を取り、一回転して立ち上がった。この間も、双剣は手放さない。

「最前列の者は馬を捨て、徒歩になって柵を壊せ!!!」

 馬を捨てろ、というのは、パルスの騎兵にとって死にも勝る屈辱と言える。それをキシュワードはあえて命令し、率先して柵に取り付いた。周囲の騎兵が一瞬の躊躇の後、やむなく馬から降りて柵を壊し始める。

 

 さすがに何重にも柵を展開するのは無理だったようで、一列だけだ。敵の歩兵隊が壊させまいと、一斉に襲い掛かってくる。ここで死んでたまるか。それだけを考えて、キシュワードは双剣を振るった。

 アクターナ軍の歩兵と言えど、もちろん一対一ならキシュワードに敵うはずもない。だが五対一なら、五十対一ならどうなるか。ましてや、キシュワードではない普通の兵では…。

 パルス兵も奮戦するが、俄か仕立ての歩兵とアクターナ軍の歩兵では練度がまるで違う。かといって騎兵の威力を活かすには距離が足りない。騎兵の長所である機動力と突進力を、完全に封じられている。

 

「退け、退けー!!!」

 敗退の合図を出すなど、人生で何度目か。運よく空馬を拾い、後方のまだ残っていた隙間で軍を纏め、右に向かって駆けアンドラゴラス王の部隊と合流する。これ以上アクターナ軍を相手にしても、損害が増すだけだ。

(ろくな時間稼ぎもできないとは)

 なんて軍だ、と内心で毒づいた。ナルサスやダリューンがあれだけ恐れていた理由が、骨の髄まで理解できた。心のどこかで、いくら何でも買いかぶりすぎではないかと侮っていた自分を、呪いたくなってくる。

 幸いと言えるものではないが、この時アクターナ軍の騎馬隊はパルス歩兵隊を追い、そちらを散々に蹴散らしていた。駆ける土地さえあれば、歩兵が騎兵に追いつける道理はない。

 

 前方に、2千ほどの騎馬隊。アクターナ軍とは動きがまるで違う。キシュワード隊の行動を敗走と見て、功を挙げる機会と思ったのだろう。その勘違いの代償は大きいものとなる。

「この『双刀将軍(ターヒール)』を、甘く見るな!!!」

 一直線に敵将に向かって駆け、一閃でその首を刎ね飛ばした。ルシタニア騎馬隊のブラマンテ将軍であったが、キシュワードはその相手に興味を示さず、先を駆ける。

 ブラマンテの戦死で、包囲網の一角が混乱している。キシュワードとアンドラゴラス王はそこに力を集中させ、重囲を突破した。続く味方は、5千もいない。

 

「お前は王を守り、戦場を脱せ!!!」

 千騎長の一人に命令し、すぐさま反転してルシタニア軍に突っ込んだ。ブラマンテの死で生じた混乱も、たちまち繕われようとしている。それが終われば、包囲網の中に残されたパルス騎兵隊は全滅する。

 外からの攻撃により、ルシタニア軍が乱れる。中の武将もそれに気付き、そこに攻撃を集中する。まず最初にザラーヴァントが飛び出してきた。彼とまだ戦える騎兵を従え、キシュワードは再び敵に突っ込む。

 キシュワードの奮戦は、この戦いの中で讃えられるに足るものである。だが彼は、怒りすら見せてそれを嫌った。サハルードの大敗は自分の無能のせいだと、常に言ったという。

 もっとも、それは後の話だ。この時はとにかく、一人でも多くの味方を救うことしか頭になかった。跳ね返されようが、ひたすら攻撃を繰り返す。

 

「死兵と化している。あの男は、相手にするな」

 無駄死にするだけだ、と、エスターシュは命令した。包囲網の一角が開く。逃げられる、と感じたパルス兵がそこに殺到する。瓶の首に詰まった敵を、斜め後ろから攻めかけた。

(パルスの騎兵も、こうなっては脆いものよ)

 中の騎兵隊の戦意は、生き延びる選択肢を示された途端に消え去ってしまった。もはやパルス騎兵は逃げ惑う羊の群れと変わりない。アクターナ軍の歩兵はそれを、容赦なく討ち取っていく。

 キシュワード隊も逃げ惑う味方の援護が最優先となり、動きが大きく制約される。だがその奮戦は無駄ではなかった。そうでなければイスファーン、トゥースの両隊は全滅していたところだ。

 彼らを救出し、ルシタニア軍が一団となってこちらに向かってくるに及んで、キシュワードも退却した。もはやルシタニア陣の中に、パルスの軍旗は見えなくなっていた。

 

 一方、パルスの歩兵は、アクターナ軍の騎馬隊とパテルヌスの第4蟹座騎士団(カンセル)を中心としたルシタニア軍5万に、一方的に追い回されていた。

 元々、パルス軍が精強であったのは騎兵の力であって、歩兵はそこまで強くない。悪く言えば騎兵の後を付いていっていただけだ。騎兵隊が止められたとなれば、士気もがくんと落ちる。

「進め、進め!腰の砕けた敵を討つだけだ!功績は立て放題だぞ!!!」

 威勢のいいことを言っているのは、プレージアン伯というルシタニアの貴族である。思慮は浅いが剛勇で知られた男で、典型的な猪武者と言っていいが、こういう場合にはうってつけの存在であった。

「進め!!!我が部隊に後退の文字はない!!!前進、前進、前進だ!!!」

 プレージアン伯の部隊は錐のようにパルス軍に食い込んでいく。突出しすぎた敵を討とうとしたパルスの部隊は、動き出したところをアクターナ軍の騎兵隊に蹴散らされた。そこからまた、さらに崩されていく。

 シャガード将軍は必死で軍を纏めて退却しようとしたが、彼方から飛んできた矢に胸を射抜かれて即死した。指揮官としての行動が、アクターナ軍のアーレンスの目に留まったのが運の尽きとなった。

 

「もう駄目だ、逃げろ!!!」

 誰かが叫んだ。形勢は圧倒的不利と言えど、パルス兵が「逃げろ!」などと叫んだことは、これまでにない。アトロパテネですら、まさしく玉砕と言える、果敢に戦った末の敗北だったのだ。

「貴様ら、パルス兵の誇りを忘れたか!!!」

 小隊長が怒鳴りつける。だがそれに対し、別のところから声が飛んだ。

「俺はアルスラーン殿下のところに行くぞ!こんなところで死んでたまるか!!!」

 その声が波紋のように広がり、全軍を震わせた。「アルスラーン殿下のところへ!」と誰かが叫び、それを聞いた者もまた叫ぶ。雪崩のように、パルス歩兵隊は崩れ去った。

 

 戦いは、日が大きく傾き、夕暮れまでもう少し、という時刻に終わった。パルス軍の損害は騎兵4万1千、歩兵3万と言われる。騎兵より歩兵の損害が少なかったのは、彼らが逃げ散ってしまったからである。

 パルスが受けた傷の大きさで言えば、『サハルード会戦』はアトロパテネに匹敵する。だが両者には、決定的に違うものがあった。ルシタニア軍の損失である。

 アトロパテネでの戦死5万に対し、サハルードでは僅か6千。ルシタニアとしては歴史的な完勝、パルスからしたらアトロパテネを越える大惨敗、と評されるのもそこに理由がある。

 

「アンドラゴラス王までのパルスの栄光はアトロパテネで崩れ、サハルードで潰えた」

 後世、ある歴史家はそう記述した。この大敗で、アンドラゴラスの名望は地に落ちた。彼の元に残った兵は、騎兵1万と歩兵3万余しかいなかったという。生き延びた者も、逃げ散ってしまったのだ。

 代わって、ルシタニア軍と、それを指揮した『軍神帝』セイリオスの名は世界に響き渡ることになる。その瞬間を間近で見て、ルクールは呆然とした。この瞬間、セイリオスは彼の神になった。

 同じとき、エステルは大勝利の昂揚の一方で安堵していた。アルスラーンがこの戦場に居なくてよかった。何故か判らないが、その気持ちが消えない。

 

「兄上、終わりました」

 何事もなかったかのように報告する弟に、ギスカールは「お、おう」とぎこちなく頷いた。こいつが敵になったら、と想像すると、背筋が寒くなる。「終わりました」とは、想定通りでしかないから出る言葉だ。

 だが、セイリオスは当たり前のようにアクターナ軍を除く全軍の指揮権をギスカールに返上してしまった。それを見て、ギスカールは大きく息を吐く。

(何を考えているのだ、俺は)

 セイリオスが敵意を示すのは、自分を害する存在と、ルシタニアかアクターナにとって有害な存在だけである。ギスカールが兄弟の絆を信じ、堕落しない限り、弟が裏切ることなどありえないではないか。

 

 それより、あのアンドラゴラス王とパルス軍を一蹴した男と軍を、自分は口先一つで動かせるのである。為政者にとってこれほど甘美で、これほど愉悦なことはない。

(セイリオスに軍を率いさせれば、地の果てまで征服できる)

 つい、想像してしまう。だがそれは現実を無視した暴挙であり、それを自覚しなくては、あの兄者より有害な為政者となるであろう。それこそ弟と戦うことになってしまう。

「…正直、ここまで大勝するとは思っていなかったぞ。ルシタニアのために、よくやってくれた。諸将も、兵士も、感謝に堪えぬ。このギスカール、ルシタニアの王族として歴代の諸王に代わり、皆に礼を言う」

 ギスカールは全軍に対し頭を下げた。それを見て、合図も何もなく、喚声が上がる。その声は、サハルードの野に響き渡り、しばらく消えなかった。

 

 ルシタニア軍は日暮れまで遺体の回収と生存者の捜索を行い、サハルードから撤退した。パルス兵の遺体が多すぎて、ルシタニア兵の埋葬までで精一杯だったのだ。死体が転がる草原で寝たいとは、誰も思わない。

 ―その夜、事件が起きた。

 




ルシタニアの勝利、確定―。


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33.暗躍する影

 その夜、ギスカールとセイリオスは同じ天幕で寝ていた。今後の展開について話し合わねばならないと言い、そのまま夜も更けたため引き留めたのである。

 ギスカールには少々後ろめたい所があったのであろう。信じているぞ、と言わんばかりに、さっさと寝てしまった。セイリオスがその気になれば、直ちに事は済むはずだ。

「………」

 セイリオスも苦笑いして横になった。ギスカールが何を考えたかくらい、察せぬはずもない。むしろ、こんなあからさまにされる方が疑心を生むではないか。

 

 王侯用の天幕である。大人が二人寝たとしても、充分すぎる空間がある。その中で、わずかに風が動いた。

「……!」

 その瞬間、セイリオスは跳ね起きた。同時に『アステリア』を抜き放っている。抜き打ちの一閃が影を斬り裂いた。絶叫が響く。

 さらにもう一つの影が、ギスカールの枕元に忍び寄っていた。そちらは仲間の断末魔にぎょっとし、慌てて天幕の入り口に跳び退る。追い打ちの剣閃はその影を斬った。手応えはあったものの、致命傷ではない。

 

「な、何だ、何だ?」

 ギスカールも目を覚ました。セイリオスは曲者を追って天幕の外に飛び出したが、その影は地に潜るように消えてしまった。しばらく警戒したのち、炬火から一本松明を取り出し、天幕に戻る。

 天幕の前では、見張りの兵士が眠り込んでいた。いきなり、意識を失う様な眠気に襲われたという。普通なら即斬首刑となる失態だが、曲者が曲者だったので命を拾うことになる。

「……魔導士か」

 以前、プーラードとかいう魔導士が忍び込んだことがある。その男と同じ仮面と暗灰色のローブなのだから、仲間なのだろう。実はその本人であったが、一刀で斬り捨ててしまったため判るはずもなかった。

 

「何を狙ったんだ、こいつらは?」

 ギスカールが疑問を呈する。まず考えられるのは、ギスカールとセイリオスの命であろう。だが奴らは『パルスの現体制を憎む者』と言った。その言葉が嘘でないなら、ルシタニアの王弟暗殺は無益どころか有害だ。

 その魔導士の持ち物の中に、短剣があった。鞘と柄に蛇が巻き付いた意匠である。それを見て、ギスカールはふと思い出した。蛇王が、黒い刀身の剣を欲しがっていたという話だ。

「狙いは『アステリア』ではないか?」

 ギスカールの説明に、セイリオスもその可能性を認めた。だが、自分に向かってきた男はそれでいいとして、ギスカールを襲おうとした方の狙いは何だったのか。

「……どうやら、このままマルヤムまで撤退して終わり、とはいかないようだな」

 

 

「……申し訳ございません、『尊師』」

 エクバターナの地下で弟子の報告を受け、珍しく『尊師』は仰天した。弟子の一人のプーラードは胴体切断で即死、グンディーは左足を失い、地行術(ガーダック)で、命からがら逃げてきた。

「馬鹿な。眠りの魔導が効かなかったというのか……」

 パルス人は幼少のころより蛇王の伝説を聞かされる。その際に、大人は子供に様々なおまじないをかける。子供は大人の迷信深さに辟易するが、実は蛇王の魔導に対する、れっきとした防御術なのである。

 その耐性のないルシタニア人なら、弟子二人が目的を果たし天幕を出ていくまで、何も気づかないはずである。何故か。考え進めるうちに、ある可能性に思い当たった。

「………あの指輪か。天より降りし星を鍛えたという。その際に、魔導に対する耐性を付与されたのやもしれぬ」

 ギスカールも運が良かった。その日に限って、セイリオスと同じ天幕で寝ていたのだ。プーラードとグンディーの二人は手間が省けたと思ったのだが、その判断が大失敗となった。

 

「『尊師』、いかがいたしましょう。ギスカールの身柄を抑え損ねた以上、計画の変更が必要かと…」

「出来ぬ。奴らはこのままパルスを去るつもりだ。そうなれば、誰がアルスラーンを討つ?」

 大きな計算違いがあった。アルスラーンにルクナバードを手に入れさせる。それで直ちに蛇王の封印が解かれるはずだったのに、一向にその兆しがない。

「考えられる理由は一つ。カイ・ホスローとアルスラーンが、ルクナバードを通じて繋がっておる。あり得ぬ話だが、それしかない」

 すなわち、アルスラーンがカイ・ホスローに認められ、ルクナバードの正統な所有者となった。血の繋がりもない小僧が認められるはずがない、と高をくくっていたところ、夢にも思わぬ事態が起きた。

 もっとも、300年の月日で、封印の力はかなり弱まっている。今はカイ・ホスローの最後の足掻きと言っていい状態にある。だがその最後の抵抗が、いつまで続くかが判らない。

 

「アルスラーンさえ討てば、直ちにザッハーク様の復活は成るのだ。ルクナバードの正統な所有者となった以上、ザッハーク様の障害となる可能性もある。万に一つの可能性だろうと、取り除いておくべきだ」

 しかし、どうやって?眷属の魔物たちは蛇王復活後の大事な戦力である。手持ちの戦力を減らしたくないとなれば、勝てそうな奴を動かすしかない。つまり、ルシタニア軍であり、セイリオスだ。

「それにギスカールは失敗したが、もう一人は抑えた。もう後戻りはできぬ。これで、あの三弟を動かす。奴らには、もう一働きしてもらわねばならぬのだ」

 

 

 時は少し戻り、サハルードに向けてルシタニア軍が出陣してすぐのことである。

「タハミーネよ、フィトナよ、またこのエクバターナを出ることになった。今度こそ、マルヤムを経由して我らが祖国に帰ることになるらしい」

 満面の笑みで、イノケンティスが言ってくる。フィトナはそれを内心、苦虫を百匹ほど纏めて噛み潰した思いで聞いた。目じりのあたりがひきつっただろうが、二人はあまり気にしなかったようだ。

 タハミーネはフィトナに向ける温顔とは別人のような冷静な表情で、イノケンティスに従う。パルスが勝とうがルシタニアが勝とうが、彼女には興味が無いのだろう。

 

「アンドラゴラスにとって、フィトナは捨てた児じゃ。紛糾の元であろう。もしかしたら、直ちに斬ろうとするやもしれぬ」

 ジュイマンドの際、その言葉でタハミーネは押し切られた。結婚はともかくエクバターナ放棄には賛成したのだ。今のタハミーネにとって重要なのはフィトナの身だけである。そうなるように振舞ってもきた。

 それを、逆手に取られた。弟のどちらかの入れ知恵に違いない。

 フィトナには、娘の心配をする母親に逆らうことはできなかった。従順で、母思いで、しかし時たまわがままを言って甘える、失った母子の時間を埋めようとする娘。それが、彼女の狙った虚像だったのだから。

 

(ケルボガは何をしている)

 最後の頼みの綱が彼だったが、城内の広場に出てぎょっとした。ルシタニア兵1万が整列していた。それはいいのだが、檻車と縛られたパルス人が大量に並んでいる。ざっと目算して、千数百人。

「あれなら、反乱を企んだ愚か者だそうじゃ。大人しくしておれば、ああならずに済んだのにのう。ギスカールはマルヤム辺りで奴隷として売り払う、と言っておったが…」

 イノケンティスは本心から同情しているようである。その表裏ない言葉に、フィトナの全身から冷や汗が噴出した。王弟二人を、甘く見過ぎた。

「………」

 もはや、観念する他ない。自分があの中に入らなかったのは長兄への遠慮で、今回限りだ。その声のない警告を聞き取れないほど、フィトナの頭は悪くない。

 檻車の前を通る際、捕らえられていたケルボガと目が合う。フィトナは思わす視線を逸らした。

 

 1万の軍は、急ぐでもなく西に向かう。フィトナにとっては、拷問に等しい旅である。ここ数日、ほとんど記憶がない。いつの間にか夜になっていた。野営である。幕舎と寝台は用意されたが、眠れるものではない。

「………」

 少し、夜風にでも当たろう。ふらつく足取りで、フィトナは天幕を出た。どうするのが最も安全かは判っている。このままタハミーネの娘という立場を演じ続け、ルシタニアの一諸侯の妻にでもなることだ。

 しかし、パルス、この世界屈指に豊かな国の女王の座は、簡単に諦めきれるものではない。ルシタニアの一諸侯領を得たとしても、パルスと比較したら塵芥にすぎない。

「ご安心ください。この私が、あなた様の願いを叶えて見せましょう」

 いきなり横から声がして、はっとして跳び退る。だが月明かりに照らされた顔を見てほっと息を吐く。知らない顔ではなかった。

 

「確か、ラヴァンと言う商人であったな。私の願いを叶えるとは、どういう意味じゃ?」

「あなた様をパルスの女王にする、という意味でございます」

 打てば響くように、ラヴァンが答える。ルシタニア、というよりセイリオスの戦略は明白だ。まだパルスの完全制覇は難しいから、ひとまずパルスを分裂させる。民が王家を見限れば、その時こそ機である。

「奴としては、誰かにパルスを統一されるのは不都合なのです。故にアルスラーン、アンドラゴラス、ヒルメスの三者が力を持つ構図になっている。あなた様がそこに入っていないのは、持つ力が弱すぎたため」

 きっぱりと断言されてフィトナはむっとしたが、構わずラヴァンは続ける。

「そしてサハルードの戦いは、ルシタニアの大勝利に終わりました。アンドラゴラスはこれで脱落します。アンドラゴラスの残党を吸収したアルスラーンとヒルメスの対峙となりましょう」

 だから、何だというのだ。アルスラーンとヒルメスによってパルスが二分されようと、やはりフィトナの出番はない。アルスラーンか、ヒルメスが消えない限り…。

 

「もしや、そなた、どちらかを葬り去る手立てがあると申すのか?」

 フィトナにも話の流れが見えてきた。消えるのを待つのではなく、消すのである。だが、ラヴァンはそんな力はないと首を振る。それはそうだ。そんな簡単に、しかもこの急場で都合よく暗殺などできるはずがない。

「アルスラーンでもヒルメスでも、葬ることができる力を持った存在がいるではございませんか。その男を、操ればよいのです」

 ここまで来て、フィトナにも答えが解った。セイリオスを意のままに操ればいいのだ。そうすれば、フィトナはパルス王位の争奪戦に加われる。いや、セイリオスの力があれば、ただ一人のパルス王になれる。

 

「それにはどうすればよい?」

 勢い込んで聞くフィトナに、ラヴァンはにやりと笑って答える。セイリオスの弱点は、何といってもその虚栄心だ。その気になればルシタニアを手中にすることなど容易いはずなのに、考えすらしない。

「奴は孝悌であることを捨てられません。国王である兄を人質とされたら、どうするでしょうか?」

 フィトナも頷いた。敵国の王妃にうつつを抜かすような馬鹿な国王を、「兄だから」という理由だけで支え続ける奴である。どれほど戦争に強かろうが、どれほど政治に優れていようが、愚者に過ぎない。

 だが問題はある。イノケンティスを拉致するには、ここにいる1万の兵を何とかせねばならない。しかもフィトナには手勢が全くない。ルシタニアが強硬手段に訴えるのを、躊躇させる程度の兵力が必要だ。

「ご心配なく。すでに飲食物に、眠り薬を仕込んでおきました。ケルボガの兵を解放し、エクバターナで旗を揚げましょう」

 ………最悪の決断をしたことに、彼女はまだ気づいていない。

 

 

「兄者が人質に取られ、あの女がパルスの女王を僭称した!?」

 ギスカールは唖然とした。フィトナとラヴァンはイノケンティスとタハミーネ、それにケルボガの兵を連れ、強行軍でエクバターナに帰還した。理解不能、寝耳に水の急報である。

 途中で目を覚ましたイノケンティスは縛られて身動きできず、状況が一切呑み込めなくて喚き散らしたが、フィトナは冷笑を向け、タハミーネは一切を無視した。絶望の表情そのまま、牢にぶち込まれたという。

「ルシタニア国王の身を返してほしくば、アルスラーン、アンドラゴラス、ヒルメスの首を取り、フィトナをパルスの女王として認めよ」

 要求は以上である。ここにきて、ギスカールも理解する。全てがあの魔導士たちの仕業に違いない。イノケンティスと自分の身を拉致し、セイリオスを操るのが目的だった、ということだ。

 

「………さて、どうする?」

 困惑の表情で、弟に聞く。半ば演技、半ば本心である。はっきり言ってしまえば、イノケンティスに人質の価値はない。彼がどうなろうと、ギスカールとセイリオスが健在ならルシタニアは微塵も揺るがない。

 問題は、セイリオスの孝心だけだ。故に、弟がどういう結論を出すのか聞き出すまで、自分の意見を明らかにするのはまずい。

「………」

 考え込む弟を見て、確かに悪い手ではないと思った。それにしても、1万人の護衛を出し抜いたとなると、魔導とやらも決して侮るべきではない。何か対抗策はあるだろうか。

 

「兄上、要求を無視し、予定通り全軍をザーブル城まで下げるべきと考えます」

 セイリオスの言葉に、ギスカールも諸将も「え?」という表情で固まった。

 




蛇王陣営の暗躍で、もう一波乱が起きました。


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34.ルシタニアの真意

 ルシタニアの大軍がエクバターナの近郊を通り、西に向かう。エクバターナの城壁からでも、その様子ははっきり見えただろう。

「奴ら、今頃、エクバターナの宮中に集まって、どんな顔をしていることやら」

 ギスカールですら予想外の答えだったのだ。首謀者たちに予想できるはずがない。セイリオスを甘く見過ぎた報いを、存分に味わっているはずだ。

「兄上の身は大事ですが、それだけでルシタニアを危難に晒すわけにはいきません」

 国王を人質に取られたとはいえ、脅迫者の意のままに動くようでは威信が丸つぶれである。ここは強烈なしっぺ返しを食らわせねばならない。

 それで人質の身に危害が加えられるのではないかという懸念に対して、セイリオスはあっさり言い切った。

「その時はその時です。兄上の命運はここまでだったということでしょう」

 

 それでもセイリオスは読んでいる。少しでも頭が回る相手なら、イノケンティスを殺す意義が全くないことに気付くはずだ。唯一の人質がいなくなれば、ルシタニア軍は完全に自由になる。

「となれば、条件を下げて再交渉を求めるほかありません」

 ルシタニア軍がいなくなれば、フィトナの手勢はケルボガの数千だけだ。他の勢力に対抗できるようなものではない。そしてフィトナが組める相手はルシタニアしかない。彼女が悲鳴を上げるのは、すぐだろう。

 問題は、裏切り者だけだ。フィトナを見限り、他と手を結ぼうと考える者が必ず出る。そうなったらイノケンティスがどうなるかは不明である。それはもう、兄の運を信じるしかない。

 

「……うむ」

 ギスカールはあいまいに頷いた。セイリオスの言ったことは、ルシタニアの為政者であるならこの上なく正しいし、ギスカールもそうしただろう。それでもどこか、冷酷な印象を捨てきれない。

 兄弟の情と為政者の判断を混同してはならない。ギスカールも重々承知だが、次兄としては、長兄のために苦悶する弟が見たかったという思いがある。

 こいつはやはり、兄だからというだけで従うような甘い奴ではない。とんでもない弟を持ったものだと、今更ながら実感する。セイリオスが判断を誤る存在がいるとしたら、ただ一人だけだろう。

(拉致するならシルセスにするべきだったな)

 魔導士たちのために思う。その場合、どんなことになるか想像できないが。

 

 一方、エクバターナ宮中。

「ラヴァンはどこへ行ったのじゃ!!!この状況、どうするのであるか!!!」

 フィトナが辺り構わず喚き散らしていた。タハミーネはそのフィトナをなだめようと、おろおろするばかり。恐懼しながらケルボガは、心の中がどんどん冷えていくのを感じていた。

 名案など、誰にもない。ルシタニアに再度交渉の使者を送るべきだという声もあったが、フィトナはそれを渋った。要求を下げては、彼女にとって意味がなくなる。不毛な議論が続く中、機を見て宮中から引き下がる。

「………ケルボガ、おい、開けてくれ」

 住処に帰ったケルボガに、窓の外から嘆願する声がある。誰かは確認するまでもない。

 

「ラヴァンよ、この不始末、どうするつもりだ」

「どうもこうもないわ。あの三弟を測り損ねた、大失敗よ。……こちらからも聞くが、お前はこの状況から逆転する見込みがあると思っているのか?」

 逆に詰問されて、ケルボガが言葉に詰まる。彼の掌握する兵は多少増えたが、せいぜい3千に過ぎない。ルシタニアが動かなければ、絶望するしかない戦力である。

「わしは逃げる。あの女に貢いだ分が泡と消えるが、諦めるしかなかろう」

 ラヴァンはフィトナを見捨てると断言した。ケルボガもそうしたいところである。しかし、ただ逃げれば念願だった万騎長への道は閉ざされ、苦労して手にした千騎長の座さえ失う。

 

「……そもそもの失敗は、あの女と組んだことだった」

 サームが軍を募った時、応じていればよかったのかもしれない。何故そうしなかったかと言えば、サームに対するわだかまりがあったからだ。

 エクバターナ防衛時にサームは消極的な防衛策を取り、幾度もガルシャースフと衝突していた。撃って出てルシタニア軍を蹴散らしていればエクバターナ陥落も、ガルシャースフの死もなかったかもしれない。

 それがのうのうと生き延び、しかもルシタニアに降伏してその手先になったという。ヒルメスのことを知らなければ、そうとしか見えない。ケルボガがサームを恨んだとしても、無理のない話であろう。

 

 同時に、アルスラーンの所にも行きたくなかった。ペシャワールの軍に擁立されたという話で、それなら連中が主導権を握り大きな顔をすることは目に見えている。アルスラーンにそれを抑える器量はないと見たのだ。

(何故エクバターナの攻防で苦労した俺が、何もしていなかったペシャワールの奴らの下風に立たねばならないのか)

 アルスラーンの真価を知っていれば、ケルボガも違ったことを考えただろう。だがそれが見え始めたのはアトロパテネ以降のことであり、彼が全く気付けずにいたのも批難できることではない。

 好機を逃し続けた彼は、結局余りもの同士と言う感じでフィトナと組んだ。これ以上部下を養うにはそうするしかなかった。パルス王妃、すなわちタハミーネに仕えるという名目で、自分と部下を納得させたのだ。

 

「……まあ、愚痴はそのくらいにしておけ。それより、お前もあの女はもう終わりと見ているのだな」

 露骨に言われケルボガは不快に思ったが、否定はしなかった。それを見て、ラヴァンはにやりと笑う。狡猾とも陰険とも取れる、嫌な表情だ。

「それがお前の本心なら、もう一仕事できる。実は、ヒルメス王の所にちょっと伝手があってな。それを頼ろうと思っていたが、手土産の一つぐらい欲しい所だったのだ」

 ケルボガが息を呑んだ。ラヴァンが何を言っているかくらい、すぐわかる。ヒルメスに内通して、このエクバターナを明け渡せ、ということだ。

「あの王は王位に非常に執着している。そして正統な王と示すには、エクバターナは必須だ。城門を開ける代わりに我らの立場の保証を願えば、十中八九乗ってくる」

 

 ケルボガが考え込んだ。確かに、寝返るとしたらヒルメスの所が最も安全だ。他と比べた場合に比較的、としか言えないが。

 ルシタニアは国王誘拐の片棒を担いだ自分たちを決して許さないだろう。アンドラゴラスに降伏した場合はと言えば、自分以外の存在を担いだとして大逆罪に問われ、即刻刑場行きになる。

 アルスラーンはどうも筋目を通すところがあり、裏切り者が歓迎されるとは思えない。このままフィトナと組み続けるのは、自殺行為でしかない。

「…………やるか」

 ケルボガが決断した。ヒルメス軍8万はエクバターナのすぐ近くまで迫っていた。

 

 

 ルシタニアがアンドラゴラス軍に大勝利を収めたと聞き、ヒルメスは愕然とした。ルシタニアが勝つにしても、ここまで一方的な勝負になるとは夢にも思ってなかったのだ。

「一度カシャーン城まで撤退するべきではないでしょうか?」

 サハルードで両軍が激突している頃、ヒルメス軍はエクバターナに向けて進軍していた。彼の予想では両軍が激突しているうちに、アンドラゴラスに先んじてエクバターナに乗り込むはずだった。

 それが、たった2日で勝負は決した。勝ち誇ったルシタニア軍20万が反転してくるとなると、ヒルメスの8万では手も足も出ない。ひとまずニームルーズ山脈の険路に防衛陣を布き、様子を伺う。

 そのルシタニア軍がエクバターナを素通りして西に撤退中、と聞いて、ヒルメスは耳を疑った。真偽を確認していたところに、ケルボガの使者がやってきたのだ。

 

「どういうことなのだ?まさか、奴ら―」

 本気でエクバターナを放棄するつもりなのか、と言おうとして、ヒルメスの全身に悪寒が奔った。そんな馬鹿な、と慌てて否定する。エクバターナを捨てるなど、ヒルメスの常識では考えられない。

 だが、ルシタニア軍が西に去ったのは事実である。フィトナの一党に占拠されたから、というのも、理由として薄い。数千の部隊を蹴散らして奪還するなど訳が無いことだ。

(国王の身を案じて―。…いや、ありえない)

 王弟二人が健在なら、ルシタニアは微塵も揺るがない。ルシタニアの宮中を知っているヒルメスは、それを充分承知している。それにそうだとしたら、脅迫者の言う事を無視するはずがない。

 

「陛下、何であれ、これはエクバターナ奪還の好機ではありませんか!迷うことなく、軍を進めるべきでございます!」

 威勢のいい大声を上げたのはザンデだ。カーラーンとサームも、不安を残しながらも賛同した。エクバターナ奪取は当初からの目的である。遅巡して誰かに先を越されたら、全てが水の泡となる。

「よし、エクバターナを解放する」

 ヒルメスも決断した。不安は消えるどころか、より強くなっている。それでもエクバターナは必要なのだ。そう自分に言い聞かせて不安を押し隠したヒルメスの軍は、エクバターナに迫る。

 

 ヒルメス軍がエクバターナに迫っていると聞いて、当然フィトナはケルボガに各城門の守備を命じた。ケルボガはそれを、一切の抗弁をせず受けた。

 エクバターナの城門は9つ。ケルボガの手勢は3千程度。城門以外にも守兵は必要だから、各門にせいぜい百数十しか配備できない計算になる。

「よい。考えがある。死にたくなければ、黙って従うことだ」

 不安を口にした部下に、ケルボガは表情を変えずに答えた。このあたりで、部下も薄々自分たちの隊長が何を考えているのか感づいたであろう。

 

「開門せよ!我こそは正統なる第18代国王(シャーオ)、ヒルメスである。父である第17代国王(シャーオ)オスロエス5世を弑逆した簒奪者アンドラゴラスの非道を正すため、エクバターナに帰ってきた!」

 ヒルメスの軍は、ついに城門下まで迫っていた。城内から見れば二十数倍の大軍である。損害度外視で力攻めすれば、いくらエクバターナが堅固な要塞と言えども落とせないはずがない。

「開門せよ。あの御方はオスロエス王の嫡子であるぞ。このエクバターナの正統な主である」

 ヒルメスの宣言を受け、ケルボガは何ら動揺するそぶりも見せず部下に命じた。部下も唖然としたり憤激する者は少なく、「やっぱりか」と納得したように門を開ける。

 

 ヒルメスは何の妨害もなくエクバターナに入城した。唖然とし呆然とし、次いで憤激した者はフィトナだけであった。それも収まると、次に来たのは恐慌である。

「………」

 もう、自分が何をしているのかさえ解らない。逃げなくては。だがどこに?とにかく、王座の間にいるのはまずい。タハミーネの声がしたような気がしたが、それも耳に入らない。

 結局、彼女は地下の倉庫に転がっていた空き箱に隠れ込んだ。ヒルメスの兵が虱潰しに捜索すれば隠れ通せるものではないのは明らかなのに、何故そうしようと思ったかもよくわからない。

 さほどの時もかからずかくれんぼは終わりとなり、彼女はヒルメスの前に牽きたてられた。

 

「ぎ、銀仮面卿……」

 懐かしい呼び名だ、とヒルメスは思った。ヘルマンドス城攻略以後、初めて呼ばれたと思う。

「我が名はヒルメス。パルスの正統なる第18代国王(シャーオ)である。パルス王を僭称した反逆者よ、覚悟は良いか」

 喉元に、剣先を突き付ける。逃げようとする意思すら無くし、ただがくがく震えて怯えるだけだったフィトナだったが、ヒルメスが動かずにいると次第に目が据わってきた。

「……愚かな男よ。私を愚かな女と蔑んでいるのであろうが、そなたはそれ以上に愚かじゃ。ルシタニアが何を考えておるのか知りもせず、ただ踊らされているだけ―」

 ヒルメスの剣が一閃し、その声を永遠に遮った。転がった首を見て、タハミーネが発狂したように叫ぶ。その狂女に対しては、ヒルメスは斬る価値を見出さなかったようだ。

「牢に放り込んでおけ」

 短く、そう言っただけである。しかし内心にて、彼の感じていた不安はさらに大きくなっていた。

 

 フィトナの処分を付けたヒルメスは、まず兵糧庫と宝物庫の確認に向かった。ナルサスほどではないが、彼とて食料がなければ人は生きられず、軍資金がなければ軍も政治も動かないことは知っている。

「こ、これは……」

 兵糧は8万の軍なら半月分もなく、宝物庫はほぼ空である。『ほぼ』というのは、持ち運べるものは根こそぎなくなっていたからだ。

 残っていたのは運ぶことの出来ない大型の財宝(それも装飾などは可能な限り剥ぎ取られていたが)と、持ち運べるにもかかわらずそのままになっていた一つの宝、それに多少の金銀貨だけである。

 

「パルスの王冠…」

 これが残ってないのなら、まだいい。ルシタニアがあらゆるものを略奪して去って行ったというだけだ。これだけはあえて残した。何らかの意図と、それだけの余裕があったということだ。

 これは、追い詰められて逃げ去ったのではない。そう思い至り、ヒルメスの全身から冷や汗が噴き出した。ルシタニアが何を考えていたのか、この時彼もはっきりと悟ったのである。

「ルシタニアは、エクバターナの放棄を前提に動いていた……」

 利用されていたのは自分だけだった。こちらとて奴らを利用していると思っていたが、最初から今に至るまで、奴らの掌の上で踊っているだけの道化でしかなかった。

 




フィトナ退場。そしてヒルメスは真実に気付く―。


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35.淵源の予言

※※※※※※※※注意※※※※※※※※
この回には(かなり独自解釈が入ってますが)ヒルメスの出生に関する記述があります。
漫画版で追っている方で、二次創作でネタバレされるのが嫌な場合はブラウザバックを推奨します
※※※※※※※※注意※※※※※※※※


 エクバターナを占拠したヒルメス軍にとって、喫緊の課題は兵糧と軍資金となった。特に兵糧は手持ちと合わせても一月分もない。エクバターナを当てにして軽装で駆けてきたのが致命的だった。

 それに対し、フスラブは臨時税を課す―と言う名目で物資を徴発する―ことを提案し、ヒルメスに一蹴された。

「それは駄目だ。民心を失っては元も子もない」

 内政においてヒルメスは雄ではない。だが、この状況で物資の徴発などしたら、間違いなく暴動が起きる。そのくらいの常識はある。

 幸い、水は何とかなりそうだ。ボダンが破壊した用水路だが、最低限の応急処置だけはしていたらしい。これで水まで不足していたら、それこそ直ちに暴動が起きただろう。

「略奪、強奪、婦女子暴行は決して許さぬ。それは改めて、全軍に徹底させろ。……破った場合、死ぬより恐ろしい目に遭わせてやる」

 エクバターナは確かに手にした。だがこれを保持できなければ、何の意味もない。真の王に向けて一歩前進したとは言えるが、問題がどどどっと山積みになったのも事実である。

 

 その問題の一つに、ルシタニア王の身柄をどうするか、という問題があった。殺すべきだという意見も出たが、外交のカードとなる可能性もあるとして、そのままになっている。

 ルシタニアからは、早々に使者がやってきた。要求はもちろんイノケンティス王の返還。条件は軍資金と兵糧の提供、つまりパルスから奪った内から、いくらか返すということだ。

「パルス西部およびマルヤムからの撤退、それが条件だと伝えろ」

 提示された条件があまりに軽くむっとしたこともあるが、ヒルメスは群臣に諮ることなく感情に任せてそう言ってしまった。カーラーンやサームでさえぎょっとしたほどの強硬意見である。

 その中に、愛する人の影がちらついていたことは否定できない。

 

 当然ながら、交渉は決裂した。外交上では明らかな失策であり、ルシタニア軍がエクバターナに引き返してきたら、兵糧もないヒルメス軍は全滅しかねない。ヒルメスも言ってから気付いたが、時すでに遅しである。

「短期決戦に訴えるしかありません。兵糧が尽きる前、ルシタニアが介入する前に、アルスラーンかアンドラゴラス、どちらかを討ち取ってしまわねば……」

 サームの理想を言えば、ヒルメス、アンドラゴラス、アルスラーンが手を取り合い、ルシタニアを駆逐することである。だが、それは決して叶うことのない夢物語だ。

 となれば次善として、誰かの元にパルスを結集させるしかない。王家に対する忠誠に心を痛めながら、パルスという国のために全力でヒルメスを盛り立てるしかなかった。

 

「俺も同感だ。まずは、アンドラゴラスを討つ」

 サハルード会戦の結果とルシタニアのエクバターナ放棄はヒルメスにとって想定外の事態であったが、悪い事ばかりではない。

 何より、アンドラゴラス軍が壊滅したことが大きい。パルスの三王の争いで、現状最も優位になったのはヒルメスなのである。

「アンドラゴラスとアルスラーンを滅ぼし、ルシタニアにこの俺を虚仮にした報いを受けてもらおう」

 不足している物資は、バダフシャーンから運べばいい。フスラブの計算によると、来年の税が入るまでかなりの我慢を強いることになるだろうが、何とかなるとの見通しである。

 だがヒルメスの勢力圏を見ると、エクバターナは鳥の嘴の様に飛び出た先端にある。そして運び込む道を脅かす位置に、討ち減らされたとはいえアンドラゴラス軍がいる。これをまず排除せねばならない。

 

 ヒルメスはエクバターナに充分な守兵を残し、東に向かった。心にかかることはあるにせよ、ようやくここまで来たと思えば感慨もある。16年、アンドラゴラスを倒すことだけを夢見て生き延びてきたのだ。

 大敗を喫したアンドラゴラス軍はルシタニア軍の撤退後、恐る恐ると言う感じでサハルードに戻ってきた。アンドラゴラス王はともかく、兵士たちにとってはそうとしか言いようがない。

 ヒルメス軍の接近を知って、アンドラゴラスの軍はさらに減った。脱走が脱走を呼ぶような状況で、この時には3万弱しかいなかったという。それでも、アンドラゴラスはエクバターナへの進軍を命じたのだ。

 ヒルメス軍はケルボガの軍やサハルードの敗兵を吸収し、エクバターナに守兵を残しても8万の規模を維持している。アンドラゴラス軍の、3倍近い。

 

「カーラーンに、サームもおるか」

 ヒルメス軍を遠望し、アンドラゴラスはそう呟いた。8万の大軍に臆している様子はない。サハルードの前なら勇壮と見えたが、今はどこか鈍っているのではないかと側近たちも不安に思う。

「誰か、使いを出せ。予が、少々話したいことがある故な。供は一人。予はキシュワードを連れていく。ヒルメスにも、口の堅い、信用のおける者を連れてこいと言っておけ」

 その側近の一人に、王は何事もないかのように言った。友軍に対するような軽さである。

「殺し合うのはいつでもできる。だが、その前に話し合ってもよかろう。いつぞや地下牢で顔を合わせただけだからな」

 ふふ、ふふふと忍び笑いを漏らす王に、側近たちもキシュワードも悪寒を覚えた。

 

 

「何の目的だ」

 今更になって、アンドラゴラスから会談―。それをヒルメスは、いぶかりながらも応じた。供はサームである。彼がカーラーンやザンデを押しのける勢いで、買って出たのだ。

「サームよ、まだ伝えておらなかったのか。では、最初から話すとしよう。…ゴタルゼス王とオスロエス王、我らが父と兄に、何があったかを」

 その口調は嘲るようであり、憐れむようであり、愚弄するようなものであった。

 

 ―そもそもの淵源は、先々代、ゴタルゼス2世の御代にある。

 ゴタルゼス2世は『大王』と呼ばれるのにふさわしい名君であったが、大きな欠点があった。やたらに迷信深いのだ。その王は、若いころ、即位してすぐのころと思われるが、その時に一つの予言を受けた。

『パルスの王家はゴタルゼス2世の子をもって絶える』

 迷信深い王には、ただの戯言と聞き流すことはできなかった。しかし、ただ迷信深いというだけで信じたわけではないだろう。この時のゴタルゼス王には、蛇王の存在が思い浮かんだのではないか。

 英雄王カイ・ホスローに封印された蛇王は、世の終わりに再び地上に現れ、世界を闇に返そうとする―。パルス人なら誰でも知っている説話だ。そしてその時が、300年後という伝説があった。

 ゴタルゼス2世はパルス歴271年に31歳で即位した。300年後となると、自分か、自分の子の代となる。蛇王が復活し王家を絶やすに違いないと恐慌した王は、何とかその予言から逃れる方法を探した。

 彼が名君と呼ばれるにふさわしい善政を布いたのも、蛇王との対決に備え、少しでも国力を上げておくためだったのかもしれない。絶望して遊興に逃げなかったのは、褒められていい。

 

 まず彼が行ったことは、即位してから生まれた自分の子に『オスロエス』と『アンドラゴラス』と名付けたことだ。『アンドラゴラス』という名の王はこれまで、二人ともオスロエス王の次に即位している。

 これはオスロエスの早世や内乱を願ったというより、「自分の崩御後にオスロエスが即位し、オスロエスの崩御までアンドラゴラスが死ぬことはない」という期待を込めての命名であろう。

 だがこれだけでは、『子をもって絶える』という予言を覆したことにはならない。蛇王に勝つには人力ではなく神力が必要だと、王は神秘や予言にのめり込んでいった。

 53歳になり、老いの兆しが見え始めた大王に、別の予言がもたらされる。

 

『長男オスロエスの妻に子が生まれれば、アンドラゴラス以後もパルスの王統は続くかもしれない』

 ゴタルゼス王は歓喜した。ただし、である。この予言には付帯する条件があった。それは、『その子は、ゴタルゼス王の子でなくてはならない』という―。

 オスロエスは父に従順であったが、この時ばかりは激昂した。偉大な大王と言われる父の命といえど、胡散臭い予言を根拠に新婚間もない妻を差し出せなどと言われて納得できるはずもない。

 それに、オスロエスは妻を愛していた。それは決して嘘偽りでなく、惚れた下級貴族の娘を、無理を言って正妻としたのだ。妻の死後、タハミーネに心奪われるまで彼が独身を通したのも、そのためであろう。

 

 結婚時、ゴタルゼス王は家格に懸念を示す貴族たちを抑えるなど、息子を陰から後押ししてくれた。だが彼は息子に対する愛情からそうしたのではなく、予言のためにそうしたのだ。

「お前にあの娘をあてがったのは、王家の血筋を絶やさぬためよ。孫が生まれる可能性を高くするため、身分卑しき女であろうと我慢したまで。なに、お前にはもっと高貴な、もっと良い娘を探してやる」

 これ以上逆らうなら廃嫡する、パルスの王家はあの娘から我が子が生まれれば安泰なのだと凄まれ、オスロエスも屈した。父の眼には、明らかに狂気の色があった。

 それから10月ほど経ち、男子が生まれた。その子は表向きオスロエス王の子と発表され、ヒルメスと名付けられた…。

 

「………」

 ヒルメスは全身を震わせながらアンドラゴラスの言葉を聞いていた。キシュワードも真っ青になっている。二人とも耳を塞ぎたくなるおぞましさとそれを上回る衝撃で、声も出ない。

 サームはただ一人、俯いていた。彼はかつて、地下牢に囚われていた王から話を聞いている。このことに違いないと直感したから他の誰もを押しのけて、ヒルメスに付いて来たのだ。

「―だが、話はまだ終わりではない」

 アンドラゴラス王が、話を続ける。サームですら、血が凍る思いがした。

 

 それから、8年。もはや、ゴタルゼス王に賢王の面影はなかった。ヒルメスが生まれたことで、安心して箍が外れてしまったのだろうか。そこにいたのは迷信や神秘に憑りつかれた、偏狂的な老人である。

 もう、どうしようもない。諫言も何も聞かず、うさんくさい予言者や魔導士ばかり近寄らせる。このままではかつての名誉を失うばかりだ。そう考えた兄弟は、非常の手段を用いることにした。

「……この意味が解るか、ヒルメスよ。解らぬのなら、はっきり教えてやろう。兄と予は、ひそかに父王を弑したてまつったのだ。…だが、言っておくぞ。熱心だったのは、予より兄の方だった」

 最愛の妻を寝取られたとあっては、それも当然のことであろう。ゴタルゼス王はヒルメスが生まれてから見向きもしなくなったが、だからと言って夫婦の間に入った亀裂が修復できたわけではない。

 妻はヒルメスが生まれて程なく病死した。心労のためであろう。あるいは自殺か、ゴタルゼス王の命で葬り去られたのか、オスロエスとの間に一悶着あったのか。真相はアンドラゴラスも知らない。

 何であれ、オスロエスは妻の死の原因となった父王を、それを止める力のなかった自分に対する憤りも合わせて憎んだに違いない。

 すぐさま行動に移さなかったのは、弟の賛同を得るためと考えられる。共犯となれば、それを理由に自分の王位を脅かすことはできなくなるからだ。8年間、弟が父に愛想を尽かすまで、彼は待ち続けた。

 

「ち、父が…」

「おぬしが父と呼んだのは誰のことだ。これより将来、おぬしは誰を父と呼んで自分の正体を確かめるつもりだ。……ふふふ、もっとも、どちらの種からおぬしが生まれたのかは、予にもわからぬ」

 オスロエスも、自分の子と思おうと努力したのだろう。ゴタルゼス王崩御の後も、彼はヒルメスにとって良き父であろうとした。純真に自分を父と慕うこの子には何の罪もない、と思ったのだろうか。

「…兄がおぬしをどう思っていたか、本当のところは、これまたわからぬ。だが、割り切れないところはあったのであろうな。臨終の床で、おぬしを葬り去れと言った」

「な、何だと…」

 オスロエスの死因は、発表した通り熱病による病死。アンドラゴラスはその死を冷ややかに見つめるだけで何もしなかったのは事実だが、自ら手を下したわけではない。

 

「死の間際、予は兄から一切のいきさつを聞いた。予言のことは、その時初めて知った。それを一笑に付した予に、兄は言ったのだ。『あのような呪われた子を生かしておくな』と―」

 オスロエスは死の間際に何を考えたのだろうか。もしかすると、ヒルメスが死ねばあの予言もすべて消えてなくなると思ったのかもしれない。王の義務としてだけでは、彼がヒルメスに示した愛情は説明できない。

 しかしアンドラゴラスの口調はそういった内心を慮るようなものではなく、ヒルメスには思いめぐらすような余裕がなかった。彼にできたことは、アンドラゴラスの言葉を否定することだけである。

 

「信じるものか。きさまの言うことなど、自分をかばう心算がふくまれているに違いない。誰がうかうかと信じるものかよ!」

「おぬしも同じよ。おぬしの言う事は兄が良き王で予が簒奪者であり、自分は悲劇の王子でありたいという心算で成り立っている。予は予の知る事実を語っているだけのこと。何を信じようと、おぬしの自由だ」

 ぐうの音も出ない指摘に、ヒルメスが黙り込む。それでも彼は、絞り出すような声で「何が目的だ」と聞いた。何故、今の今に、こんな話をしたのか。

「知りたかろうと思ってな。予が死ねば語る者がいなくなり、おぬしが死ねば聞く者がいなくなる。それに半年も鎖に繋がれれば、多少の報復(おかえし)をしたくなるのは当然であろう」

 アンドラゴラス王が知る『事実』を語ることが最高の報復であることは、今のヒルメスの表情が証明している。精神の拠りどころを全て壊された彼の表情は、蒼白になっていた。

「腑に落ちぬのは、あの火事からどうやっておぬしが逃げ延びたのかということであるが…。だが、もはやどうでもよい事であろう。さて、予は語り終えた。おぬしに何もなければ、決着をつけるとしよう」

 




ゴタルゼスとオスロエスが何を考えていたか、を考えて言った結果、こんな感じになりました。
こう考えると結構自然に繋がるのではないでしょうか?

そして「自分の子ではない」子を育てたのは同じでも、愛情を注いだオスロエスと冷淡だったアンドラゴラス。
原作で読んだ時に、果たして『王』としてはどちらの器量が上だったのか、と思いました。


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36.変転に次ぐ変転

 ヒルメスとアンドラゴラスの決戦となった『第二次サハルード会戦』であるが、この戦いについて、戦術的には特筆することは何もない。

 8万のヒルメス軍に対し、アンドラゴラスは3万。だがこの戦いにおいてヒルメスの指揮はさっぱり冴えず、アンドラゴラス軍の猛攻に場当たり的な対処をしているだけで終わってしまったのだ。

 受けた衝撃の大きさで、完全に思考が停止していたと言える。ついでに言うとキシュワードも似たり寄ったりで、この戦いで彼がしたことはアンドラゴラスの命令を伝達するだけであった。

「おぬしも知りたかったであろう?予の死後、アルスラーンに伝える者がいなくなるのも困るのでな」

 キシュワードは悪寒を覚えた。サハルードの大敗で、どこかおかしくなってしまったのではないか。もはやアンドラゴラス王がパルスの存続を願っているのか滅亡を願っているのか、それすら判別できない。

 

 ともあれアンドラゴラス王はルシタニアに惨敗した第一次の鬱憤を全てぶつけるかの如くヒルメス軍を蹂躙し、大破した。あの会談はヒルメスの動揺を誘うための策謀としてだけと考えれば、大成功だったと言える。

「カーラーン、殿軍は俺がやる。何としても陛下をエクバターナに連れ戻せ」

 ここが死に所だ、とサームは決めた。思えば、エクバターナは守り切れず、ヒルメスに忠誠を尽くしたとも言えず、パルスという国家のために何ができたという訳でもない。それなら、死ぬしかないではないか。

 サームは殺到する敵軍に先頭で突っ込み、剣を振るう。その中でまずイスファーンを、次いでザラーヴァントを相手にしてそれを退けた。

(あのような若者がいるのであれば、きっとパルスも持ち直すであろう)

 その時のパルス王が誰であるかは、考えないようにした。後は最後の欲として、駆け出しの若造やそこらの兵に首を取られるのは御免である。雄敵を探し、サームは剣を振り続けた。

 

 

「陛下、このままエクバターナまで駆け通します。軍を再編し籠城すれば、まだまだ挽回は可能ですぞ」

 カーラーンの言葉に、ヒルメスは虚ろに頷く。アンドラゴラスとの会談から戻ってきて以来、ずっと生気が抜けたままである。それを、腹立たしく思う者がいた。

「………」

 ザンデが無言で馬を寄せた。カーラーンがそれに気付き視線を向けると、ヒルメスも視線を向ける。その顔に、ザンデは思い切り拳を叩き込んだ。

 

「………」

 ヒルメスが、無様に馬から転げ落ちる。時が止まったようだった。カーラーンも近習も、呆然として硬直している。殴られたヒルメスさえ、何が起きたのかわからないようにザンデを見るだけであった。

「剣を抜く気概さえ失いましたか。……情けない!俺は陛下こそパルスに正道を取り戻す人だと信じていたのだ。それが、こんな腑抜けだったとは!!!」

 ザンデがヒルメスを罵倒したことなど、初めてである。硬直の後、いち早く剣を抜こうとしたのはカーラーンであった。その父親をじろりと睨みつけ、ザンデはさらに大声を張り上げる。

「父よ、斬りたければ斬れ!だがその前に言わせてもらう!!!末裔がこの体たらくでは、英雄王も墓の下でさぞ嘆いておろう!!!だからアルスラーンなんぞにルクナバードを渡したに違いない!!!」

 

「ザンデ、貴様ぁ!!!!」

 英雄王の名が、弛緩しきったヒルメスの神経を刺激した。怒りに任せてザンデに斬りかかる。鋭くはあったが単純な振り下ろしに過ぎない一閃は、彼愛用の大剣で防がれた。

「少しはお目が覚められましたか。陛下が英雄王の名に恥じぬ気概を取り戻されたのであれば、言った甲斐があったと言うもの。しかし、万死に値する行いであることも判っております」

 ザンデは馬から降り、剣をわきに置いて拝跪した。言いたいことを言い終えた後の、清々しさすら感じさせる姿である。

 

「………」

 ヒルメスは、無言で荒い呼吸を繰り返した。剣を納めるわけではなく、かといって再度振りかぶろうとするわけでもない。

「……………俺は、俺が信じていたような存在ではなかったのかもしれない」

 ようやく、絞り出すように言った。アンドラゴラスの言ったことなど、信じられるはずがない。そう自分に言い聞かせても、「もし本当だったら」という疑念が消えないでいる。

 そして本当だったら、自分は間抜けな道化でしかない。これまで、何のために戦っていたのか。そして、これから何のために戦えばいいのか。

 

「………」

 ヒルメスが、こんな弱気な物言いをしたことなど、かつてない。傲岸なところはあれど、それは自信によって王にふさわしい覇気へと昇華されていた。カーラーンでさえ、かける言葉が見つからないでいる。

「……アンドラゴラスが何を言ったかなど知りませぬが、どうせろくでもないことで、しかも陛下には何ら責がないことでしょう。であれば、それを正すのは、陛下しかおられぬではありませんか」

 呆然としたヒルメスが、しばらくして周囲を見渡す。ヒルメスに劣らずきょとんとしたカーラーンも、表情に自慢を覗かせながら頷いた。他の者も、不安が晴れたような顔をしている。

 その部下たちを見て、ヒルメスの中で何かが切れた。

 

「……そうだな。本当に、こんな情けない末裔では、カイ・ホスロー王も見限るというものだ」

 こんなにさわやかな気分で自嘲するなど、これまでの人生でありえなかったことである。血統に自分の価値を求めてきたヒルメスは、ここで初めて自分という存在に自分の価値を見たのだ。

 そうすると、見えてきた。アンドラゴラスの言ったことが嘘ならば、これまで通りにしかならない。ヒルメスはオスロエス王の嫡子であり、正統性という観点からは彼の主張に理がある。

 逆に本当だったとすると、アンドラゴラスは父王殺しの大逆犯だ。王族だろうが、王を、父親を殺していいはずがない。それを正すことができるのは、カイ・ホスローの血を受け継ぐ自分しかいないではないか。

 結局、どちらに転ぼうが、自分がパルスに正道を取り戻すことは変わらない。いや、パルスの王家に溜まった澱みの浄化こそが、自分の使命ではないのか。

 

「………ザンデ、これから先、死ぬまで俺のために尽くせ。俺が何者であろうと、お前だけはどこまでもついてきて、俺の行く末を見届けろ。逃げることは、決して許さぬ。それが今回の罰だ」

 その言葉に、ザンデは「ははっ!」と平伏した。この瞬間、ヒルメスは本当の意味で無二の臣を得た。そしてザンデもそれを裏切ることなく、生涯をヒルメスのために使い尽くすことになるのである。

 声音に力が戻ったヒルメスは、馬上に戻るとすっと馬首を返した。エクバターナとは逆の向きだ。どこに行くつもりかといぶかしんだカーラーンに、ヒルメスが宣言する。

 

「サームを救う。あやつも、腑抜けた主君のために命を落とすのは不本意であろう。……怖気づいた者は付いて来ずとも好い」

 ヒルメスの言葉に、いつもの覇気が戻ってきた。感涙を流しながら馬上に戻り、真っ先に「行くぞ!」と叫んだのはザンデであった。彼の麾下が、「おう!!!」と歓声を上げる。

 先頭を走るヒルメスは、後ろを顧みてふっと微笑んだ。

 

 

 殿軍を買って出たサームは、ついに望みの相手を見つけた。『双刀将軍(ターヒール)』キシュワードである。

「サーム卿、剣を引き、改めて陛下に忠誠を誓え。僭越だが、お主の罪が赦されるよう、俺も口添えさせてもらう」

 ヒルメスと同等に呆然自失だったキシュワードも、サームの動きを知って現実に立ち戻った。明らかに死にたがっている。軍の動かし方を見れば、そうとしか思えない。

「キシュワード卿、俺はひとたび、仕える主君を変えた。それは運命に強いられたと弁解できようが、再び変えるのは、単なる変節に過ぎぬ」

 情けをかけるなら、双刀将軍の全力をもってきれいさっぱり殺してくれ。言外にそう言ったサームの声を、キシュワードも聞き取った。

 

「考え直せ。……シンドゥラでバフマンが、サハルードでクバードまで死んだ。もう生き残っている万騎長は俺とお主、ダリューンとカーラーンの4人だけだ。お主の力は、パルスのために必要なのだ」

 クバードの名が出て、サームも少し動揺したようだ。まさか、あいつが。何が起ころうと、誰が相手だろうと死ぬはずがないと思わせる男の一人だった。

「……俺たちは、ルシタニアを甘く見過ぎていた。アトロパテネで負けても、なお、だ。…わかっていよう?パルスを分裂させるために、ヒルメス殿下を利用したことも」

 間違いなく、このルシタニアとの戦争はパルスにとって蛇王以来の災厄として語られるだろう。しかも、これで終わりではない。西に超大国が出現するのに、パルスの国力は激減したのだ。

 

「………」

 サームは無言で首を振った。その表情は、苦渋と諦念と虚無感が入り混じったような、語り掛ける者が悲しみを覚えるものである。

「………」

 もはや、キシュワードも無言で双剣を構えるしかなかった。シャプールやガルシャースフのように、死に場所を得れた奴らがうらやましい。それを翻意させることは、できそうもない。

 しかし、やはり惜しい。戦友としても、パルスという国のためにも。一方で、歴戦の戦士として、そんな思いを抱きながら、サームほどの勇士を切れるか、とも思う。

 

 踏み込む機を見いだせず、対峙が続く。傍の兵は、万騎長同士の向かい合いを固唾を呑んで見守っている。わずかな間、その一角だけは静寂に包まれた。それが、急に破られる。

「サーム!!!!!」

 ヒルメスが、騎馬隊の先頭に立って突っ込んできたのだ。前を遮るものはすべて斬り捨てるような猛気に、キシュワードも一瞬ぎょっとした。感覚としては、竜巻が突っ込んできたようなものだ。

 その竜巻はサームと彼の部下たちを呑み込むと、反転して同じ道を消え去った。「追撃しろ!!!」というキシュワードの号令に、呆然としていた周囲の兵がようやく動き出す。

 

「へ、陛下…。何故…」

「サームよ。お前が呵責に苦しみ、死にたがっているのを、ようやく理解した。……愚かな王よ。だが、それを許すわけには行かぬ。俺には、お前が必要なのだ」

 え、とサームの頭の中が真っ白になった。つい先ほどまでのヒルメスとは、まるで別人である。覇気を取り戻したというのは違う。その上に、人としての情が加わっている。

「………頼む。これからも、俺を支えてくれ」

 サームの心の中で、何かが響いた。少年のころの憧憬だと、しばらくして気付いた。理想の王に仕える立派な騎士の姿。アンドラゴラス王に見ながら見いだせず、所詮夢でしかないと目を背け続けた思い。

 涙をこぼすのは必死でこらえたが、目頭が熱くなるのは止められない。この時、サームも初めてヒルメスという個人を見たのである。正統も何もなく、ただの人として。

 

「カーラーンよ、残る兵は何人だ?」

 エクバターナにたどり着くなり、ヒルメスが叫んだ。3万ほどという答えに顔をしかめたが、誰を批難できることでも無かった。批難するなら、自分自身を、であろう。

「………どうすべきか」

 ケルボガはあっさり死んだ。ナセリは殿軍を務めたサームに従い、討ち取られたという。シャハールやイドリースの姿も見えない。中核は健在だが、それを支える中堅が崩壊したのである。

 一方、アンドラゴラス軍はヒルメスの降兵を吸収し、サハルードで散った兵も戻ってこようとするだろうから、5万は超えるだろう。普通なら、3万の兵が籠るエクバターナの攻略は難しい。

 だが、アンドラゴラスに負けたという事実は大きい。やはり正統の王はアンドラゴラスで、ヒルメスは僭称者に過ぎないというイメージを与えてしまった。このままでは、間違いなく内通者が現れる。

 

「こうなれば、手段は一つしかありません」

 吹っ切れたような表情をしたサームが言う。言いたいことはヒルメスにも解る。この急場で、交渉に脈があり、アンドラゴラスに勝てる存在となれば、一つしかない。

 ただ、それにすがるというのは、誇りも何もかなぐり捨てるに等しい。ヒルメスがこれまで唱えた大義名分を裏切る行為である。パルス王として許されることではないが、情勢をひっくり返すにはそれしかない。

「ここで滅びれば、残るのは悪名だけですぞ。ルシタニアに、援軍を求めるのです」

 

 

「……兄上の悪運も、なかなかの物ですな」

 フィトナがあっさりと退場してしまい、ヒルメスがエクバターナの主になって、イノケンティスの身はかなり危うかった。それがアンドラゴラスの大勝で一変した。長兄にとって、良い方に。

 セイリオスとしては、もはやヒルメスと戦うつもりでいたのだ。カーラーンやサーム辺りを捕らえれば、交換に応じないわけにもいかないだろう。

 その目算は大きく狂った。アンドラゴラスが勝ったというのが、計算外の事態である。あの状況から逃げず、勝利によって挽回するというのは、アンドラゴラスの底力を侮っていたということなのか。

 サハルード以降、予想外の展開が続いている。ヒルメスの救援要請を受けたセイリオスは、ギスカールにそう言った。ただ、ルシタニアにとって致命的なことは何もない。

 

 ヒルメスが出した条件は、イノケンティス王の返還及びパルス西部の割譲、賠償の放棄、さらにイリーナ内親王の持つマルヤム正統の放棄であった。ギスカールには、少々不満である。

「しかし、兄者の解放を除けば、どれも現状の追認ではないか。もう少し粘って譲歩を取りたいところではあるが……、まあ、兄者の身のためだ。仕方ない」

 セイリオスの眼が、一瞬冷えた。そう感じたギスカールは、慌てて前の言葉を打ち消した。ルシタニアのためとなれば兄王でも捨てる奴だが、今の状況でごねるほど情の薄い奴でもないのだ。

「とはいえ、全軍を出すことはないでしょう。アクターナ軍4万と、ルシタニア軍から6万。兄上はこの城で、西の固めをお願いします」

 おいおい、とギスカールは窘めた。アクターナ軍を使うまでもないだろう。10万をボードワンかモンフェラート、ゴドフロワ辺りに率いさせれば充分ではないか。弟以外の将軍を育てるためにも、そうしたい。

「いえ、必ずアルスラーンが出てきます。真の敵は、そちらですから」

 

 ルシタニア軍、進発。その知らせを受け、アンドラゴラス軍の将兵は色を失った。その上ルシタニアの帥将がセイリオスだと知り、もはや恐慌に至る寸前である。

 常勝不敗、泣く子も黙ると謳われ恐れられたパルス軍の面影は、もはやない。キシュワードは怒りと情けなさで泣きたくなった。とはいえ、それより優先すべきことは、これからどうするかである。

「撤退なさいますか、陛下」

 アンドラゴラス王は不機嫌そうに唇を引き結んだが、キシュワードに対して何か言う事はなかった。撤退しパルス北東部の防衛に努め、軍を再建する。最も安全な策はそれだろう。

 

 しかし、一時的にしろエクバターナを諦めるということは、ヒルメスに対して政略的に非常に大きなアドバンテージを与えるということである。サハルードで勝利した意義も、水の泡と消える。

 …かといって、ルシタニア軍10万と戦ってこれを退け、エクバターナを攻略しヒルメスを討ち取るなど、現状では全くの絵空事でしかない。

「………やむを得ん。アルスラーンの罪を許す代わりに、軍を出すように伝えよ」

 




ヒルメス覚醒。それを受けてサームも変わりました。

そしてアルスラーンが何を考え、どう出るかは次回。

ちなみにこの作品を書いてきて、作者は個人戦より政略や謀略の方が書いていて楽しいということがよく解りました。


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37.決戦への道

 さて、この頃、アルスラーンはどうしていたかと言うと、オクサスから動けずにいた。サハルードの敗北は予想の内にあったものの、アトロパテネ以上の圧倒的な大敗北を喫したとなると、やはり気は沈む。

「………アンドラゴラス王が、ここまで惨敗するとはな」

 ダリューンが唸った。報告したエラムはルシタニアがどう動いたのか、合戦の最初から最後までを逐一見届けた者の正確さで語る。馬止めの柵のことも語った。

 自分の予見の正しさが証明されたナルサスだが、「先に予想できねば軍師たる意義がない」と吐き捨てた。とはいえ、木材が運び込まれただけで可動式の柵まで読み切るなど、誰にできたであろうか。

 

 とにかく、ルシタニアは当初の目的を果たした。あとはエクバターナから撤退して、パルスの三王が争うのを高見の見物と決め込めばいい。敵でなければ見事と讃えるしかない勝ち逃げである。

「エクバターナから撤退した後、ここがルシタニアの第一防衛線となるでしょう」

 パルス西部の地図を広げながらナルサスが言う。(筆を持った時にダリューンが渋い顔をしたが)赤い絵の具で、その地図にいくつかの点を加えた。その点を結べば、パルスの西部を切り離す線となる。

 もちろんナルサスは、この連環を断ち切ることを考えた。要はザーブル城である。だがそこにマルヤム軍を率いたデューレン将軍が陣取っているとあっては、簡単に断ち切れるものではなかった。

 さらに本隊まで到着すれば、防衛線は鉄壁となる。もはや、手の出しようがない。

 

 サハルードの敗兵が続々とアルスラーンの元に集まり、兵力は騎兵7千、歩兵は5万に達した。しかし、現状では、アクターナ軍だけが相手でも勝ち目は薄い。

「騎兵戦力の劣勢が、特に痛い」

 ダリューンがナルサスに言った。パルスが騎兵で劣勢となるなど、トゥラーン相手でもなければありえなかったことである。サハルードの大敗のせいで、落ち延びた騎兵自体が少なかったのが痛恨となっている。

 ともあれ、アクターナ軍の騎馬隊は4隊編成の1万騎。まず、同じ4隊編成にしたい。

 問題は指揮官である。2人はすんなり決まった。ダリューンとファランギースだ。次の一人は多少ごねた。ギーヴである。能力は問題ないのだが、性格の方がそういうことに向いてないのだ。

 

「人に指図なんて、するのもされるのも嫌だ。……パルスが平和になったら、すぐ突き返すぞ」

 嫌がったギーヴだが、最後には折れた。今、どれだけ人材不足なのかは充分わかっている。しかも、その状況に追い込んだ責任の一部は、間違いなく自分にある。飄々としている彼だが、無責任な男ではないのだ。

 それでも、残る一人をどうするか。ナルサスとジャスワントはアルスラーンの傍を離れられない。エラムやアルフリードでは力不足だろう。その場しのぎのために千騎長から上げるのは博打過ぎた。

「そうなるとメルレイン殿を移動させて、ゾット族のまとめをアルフリードにやってもらうのが妥当ではあるのだが…。しかし、ギーヴ以上に難問だな」

 ナルサスが悩んでいる中、急報が入った。三百ほどの騎兵隊が、ニームルーズ山脈を越えてくるというものである。それだけなら大したことではないが、その騎兵はトゥラーン兵だという。

 

「…どういうことだ、それは?トゥラーン兵がなぜこんなところをうろついている?」

 ナルサスもダリューンも首を傾げた。侵略にしては数が少なすぎるし、略奪ならこんな深々とパルスの中に入ってくるはずがない。とはいえ、不穏な存在として、対応しないわけにはいかない。

 状況の確認と対応を命じたファランギースの騎馬隊は、しかし、その三百のトゥラーン騎兵を丸々連れてオクサスに帰ってきた。

 

「ジムサというトゥラーン人じゃ。国を追われて、陛下に会いに来たという」

 ジムサの話によると、ペシャワールの攻略に失敗したトゥラーンは内戦中だという。現王トクトミシュに対し、親王イルテリシュが反乱を起こしたのである。

 トゥラーンにおいて、弱い王はその存在が罪となる。イルテリシュの行動に正義がないわけではなく、賛同したトゥラーン人も多い。しかしジムサは、どちらに付くのも気が進まなかった。

「……何か、どっちもどっちだと思えたのだ。ところが弟の奴が、『何故兄貴は傍観しているのか』と喚き出し、しまいには俺を追い出して、現王の元に奔って行った」

 弟の名はブルハーンという。トゥラーン人にしては珍しく、筋目を重んじる性格であった。あまり仲のいい兄弟とは言えなかったが、それでも弟は弟だ。追い出されたジムサは、潔く別天地を探すことにした。

 

 まず隣国のチュルクに向かおうとしたが、この国も内戦中、しかも盆地の只中にあるチュルクに入るには臨戦態勢にある国境の砦を避けることはできず、余所者が歓迎される状況ではなかった。

 シンドゥラは、はっきり言って気が進まない。略奪の対象としてなら魅力的だが、温暖湿潤なシンドゥラはトゥラーン人にとって永住したいと思わせる国ではない。

 とりあえずパルスで略奪でもして糊口を凌ぐ、それからはそれからだと考えていたが、うろうろしていたところをペシャワールの偵騎に見つかったようで、留守を守るルーシャンから使者が来たのだ。

 

「ルーシャンが?」

 行く当てがないのなら、アルスラーン殿下の元に行ってほしい。そう言われ幾何かの金を貰ったジムサは、居付くかどうかは先のこととして、傭兵ということでオクサスに向かうことを決めた。

「………ルーシャン殿も、ささやかな反抗をしたくなったようだな」

 アンドラゴラス王の偏重は相変わらずで、イスファーン、トゥース、ザラーヴァントらが(彼らの内心は別として)変わらず重用されているのに対し、文官である彼は軽視されている。

 人格者であるルーシャンと言えど、不満に思っても不思議はない。それにアルスラーンに対する同情もあったかもしれない。トゥラーン騎兵といえど三百程度の敵なら、打ち払えないはずないのだから。

 とにかく、騎兵が不足しているアルスラーン陣営にとっては、三百だろうとありがたい戦力である。それ以上に、ジムサという指揮官は拾い物だった。万騎長も充分務まる力がある。

「これで4人目が決まった」

 最も喜んだのはナルサスであろう。あとは、この軍をどこまで精強にできるか。

 

 ―それから十日もせず、フィトナの王位僭称、ヒルメスのエクバターナ奪取、アンドラゴラス王の援軍要請と、立て続けに報告が入ったのである。

 

 

「応じるべきではないでしょう。……第一、アクターナ軍相手に勝てるとは思えない」

 口火を切ったのはギーヴである。反アンドラゴラスという点では、彼が最も率直だ。「あんな王のため何故俺が苦労せねばならないのかね」と公言して憚らぬ男である。

 アンドラゴラスが出した条件は、王太子の立場の復帰、王太子府の設立許可、王太子領の封建、奴隷解放を3年後を目途に実施、その他改革についてアルスラーンの意見を容れる、というものである。

 要約すると、王位を取り下げて軍を出せば正式にパルスの後継者と認め、独自の領地を与え、意見を聞くようにする、ということである。彼の部下も罪を問わず、王太子府の臣下としてそのまま仕えることになる。

 アンドラゴラス王にしたら、かなり思い切ったものだ。王太子府と王太子領はアルスラーンが独自の軍事力を持つことであり、奴隷解放を始めとする改革を受け入れると言うのだから。

 

「それだけ切羽詰まってるってだけの話だな。そして俺たちとルシタニアが共倒れしてくれれば万々歳ってとこさ」

 ギーヴの毒舌が続く。しかし言っていることは間違いではないだろう。ここにそろった全員に、その思いは共通していた。もちろん、アルスラーンにも。

「父上からの命を受ける受けないということではない。どちらであろうと、ここは戦うべきだ」

 だから、断固として言った。エクバターナの争奪には加わらず、オクサスに籠りルシタニアが去るまで待つのが最も安全であろう。しかしそれは、パルス王としての気概を失った退嬰策だ。

「準備が不足していることは明白である。しかし断れば、誰もが臆したと見るであろう。戦うべき時に戦わぬ王など、無用の存在である」

 その言葉に、ギーヴはにやりと笑う。ファランギースは無表情で頷いた。ジャスワントは感激したようであり、ジムサは呆れたようであった。

 …ナルサスは、無言で目を閉じた。

 

「ナルサス、お前、何も言わなかったな」

 二人だけになったところで、ダリューンが咎めるように言う。ナルサスが反対したなら、アルスラーンも考え直したかもしれない。それに対してナルサスは冷静に、無表情に答えた。

「ここは逃げられん。逃げたら、パルスの民は俺たちを見限るだろう。陛下の判断は正しい」

 そのくらい、ダリューンとて理解している。だがアクターナ軍と激突するとなると、ここにいる全員が野に屍を晒すぐらいは覚悟する必要があるだろう。はたして、勝てる見込みはあるのか。

「……これは他言するなよ。ない。万に一つ勝てたとしても、こちらの被害も甚大なものとなる。だから、この戦は、可能な限り『上手く負ける』しかない」

 

「………」

 『上手く負ける』と言われて、ダリューンが苦虫を噛みつぶしたような表情になった。武人として軍人として、敗北を目指して戦うなど、受け入れられることではない。

 しかし一方で、ナルサスの苦悩も理解できる。どうしても勝つ術が見いだせなかった、戦わねばならない敵。どうしたらいいかと考えて考えて考え抜き、それで達した結論だということは、ダリューンも解る。

「……とはいえ、あのアクターナ軍が『上手く負ける』など、許すはずもない。正直に言って、俺は今、どうすれば全滅しないで済むか、そればかりを考えている」

 ナルサスがここまで悲観的なことを言ったことなど、かつてない。いつも余裕綽々な態度が鼻につきながら、しかし結果はその通りになる。皆、ナルサスがいれば勝てる、と心のどこかでは思っていたのだ。

 

「………狙うべきは無茶な勝利より、良き負け、か」

「嗤ってくれ。バシュル山で懇望されて、散々大口を叩いておいてこの様だ。勝つため策を考えるのが役目の軍師であるのに、ジュイマンドも今も何もできない役立たずでしかなかった」

 それは違う、とダリューンは思う。アトロパテネで被った損害とそれを利用し尽くしたルシタニアの狡猾さ、そしてアクターナ軍の戦闘力が、ナルサスをもってしても挽回を許さなかったのだ。

 しかし、ここでいくら慰めの言葉を口にしようと、取って付けたような軽いものにしかならない。そんなものは望まれていないと感じたダリューンは、一言だけ言った。

「………セイリオスの首は、俺が取る」

 

 

 アルスラーン軍5万7千が進発したころ、ルシタニア軍10万はすでにエクバターナの近郊、『イスバニルの野』に陣していた。

「ううう…、セイリオスよ、我が愛する弟よ…」

「遅くなり申し訳ありません、兄上」

 周囲が内心どう考えているかは脇に置き、セイリオスはだいぶやつれた長兄を優しく迎え入れた。牢に放り込まれていたのは十日ほどであったが、彼にとっては人生最大の苦難であっただろう。

「タハミーネは予を愛してくれなかった…。フィトナにいい思いをさせたいだけで、話を合わせておっただけじゃった…。予の、何が悪かったのじゃろう…」

 なだめる言葉に困るセイリオスの脇で、「あの女に心を傾けたことだ」という内心の声を、シルセスは呑み込んだ。同じ女として、外面はともかく内面は荒涼とした砂漠のような女だと見抜いていたからだ。

 

「……予は疲れた。ルシタニアに帰ろう。帰って、また皆で仲良く暮らすのじゃ」

 これは、イノケンティスの偽らざる本心である。戦略も政略も何もない、子供が無邪気に自分の望みを言うようなものだが、セイリオスもギスカールも、最後の最後ではこれに弱い。

「そうですね、兄上。この戦いが最後です。これに勝って、ルシタニアに帰るとしましょう」

 イノケンティスが、感涙に咽びながら頷いた。結局、セイリオスもギスカールも狡猾ではあっても、悪人にはなり切れなかったということであろう。

 

「さて、アルスラーンはどう出るかな」

 このままのこのことやってくるようなら、間抜けとしか言いようがない。事実、オクサスを見張らせていた密偵からは、早々にアルスラーン軍を見失ったと報告が来ている。夜間にひっそりと移動したようだ。

「……ままならぬものだ」

 地図を睨みながら、セイリオスは一つ息を吐いた。オクサスが見張られていることは見抜かれていた。事ここに至っては、向こうもアクターナ軍との決戦を覚悟しているだろう。

 計算外は、アルスラーンが短期間で6万近い軍を擁してしまったこと。サハルードで散ったパルス兵がこぞってアルスラーンの元に行ってしまったことで、大きく膨れた。

 アルスラーンと戦うなら、今しかない。これ以上大きくすれば、アクターナ軍だけで戦うのは危険となる。パルスの分断は、ヒルメスとアンドラゴラスを残せばいい。

 しかし、アルスラーンとの決戦と考えるなら、決して望んだ状況ではない。練度に圧倒的な差がある。勝敗はアルスラーンが兵力差を活かしてその差を挽回できるか、ということになってしまった。

 

 一方で、アンドラゴラスにはモンフェラート指揮下の6万を当てただけだ。アンドラゴラスは軍を二つに分け、3万余の軍でルシタニアと向かい合っているが、緒戦のぶつかり合いはルシタニアの優勢で終わっている。

 それ以降はひたすら守りを固め、仕掛けようとしない。その状況に歯ぎしりしているだろうが、もはや彼にできることはただルシタニア軍をやり過ごすしかない。

 キシュワードは2万の軍で、エクバターナ城内のヒルメスを牽制。2万ではエクバターナを包囲することなどできず、出撃を阻止するので精一杯という苦しい状況に置かれている。

「モンフェラートには、適当に戦えと言っておけ」

 そちらをまったく気にしていないわけではないが、セイリオスの関心は専らアルスラーンに向いていた。

 




アルスラーン軍の置かれた状況は、「三方ヶ原に向かう徳川軍」と考えてください。


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38.イスバニルの戦い・緒戦

「西、か…」

 ようやく、アルスラーン軍の消息を掴んだ。オクサスから真っ直ぐエクバターナに向かうのではなく、北西に向かっている。

「ザーブル城にはゴドフロワ将軍が入り、他城もそれぞれ守兵が配されております。これらの城は、力攻めであれば十日は落ちることはないと思いますが…」

「アルスラーンの狙いは、何であろうか。西部の都市の奪還…、とも思えぬが」

 パルス=ルシタニアの国境はザーブル城を要とする城塞群となった。それらの城塞は純粋たる軍事要塞であり、籠るのもルシタニア兵だ。内通の可能性は、まずないと言っていいだろう。

 しかし、それ以外の都市に住む住民は、ついこの間までパルス人だった者である。先に不穏分子の摘発は行ったが、アルスラーンがやる気になれば住民を蜂起させるのも難しくない。

 

「ルクール、意見を述べてみよ」

 無言でいたセイリオスからいきなり話を振られ、諸将に茶を運んでいたルクールがびくっと震えた。話は聞き耳を立てていたから理解している。しかし、この場で意見を求められるなど、全く思ってなかった。

「…は、はい。………西の方の城を一つや二つ取ったところで、どうなるとも思えません」

 ルシタニアの勢力圏の中に拠点を作ったところで、孤立した点に過ぎない。最後は叩き潰されて終わるのは明白である。それはその通りだが、皆わかっていることだ。まだ凡庸な分析でしかない。

「…であれば?」

「はいっ!……ええと、パルス軍としては、何でもいいから一つ勝ちを拾いたいと思っているに違いありません。つまり、移動中の王の軍が危ないのではないでしょうか?」

 

 イノケンティス王の護衛として派遣された3万の軍は、行軍三日の先を進んでいるところだ。6万弱のアルスラーン軍に攻めかかられたら、耐えきれないだろう。ルクールの目の付け所は、悪いものではない。

「…しかし、ナルサスという曲者が付いているらしいですから、その裏くらいは考えているでしょう」

 シルセスが、セイリオスの耳元で囁いた。セイリオスも口元で笑う。

「モンフェラートには、防御を固めさせろ。早馬でギスカール兄上に増援を要請し、王の軍は進軍を止めさせる。増援到着まで、アクターナ軍を西に移動させる」

 

 

「アクターナ軍が、西に向かって動いたよ!」

 ゾット族の偵察から情報が入り、アルフリードがナルサスに告げる。ナルサスの思惑通り、と胸を張るアルフリードに、普段なら絡むはずのエラムは真剣な表情のままナルサスに囁いた。

「ナルサス様、これは…」

 確かに西に動いたが、騎兵隊は全軍で最後尾に付いている。後方で何かあれば、すぐさま反転して駆けると考えているからこその配置である。

「……ああ、どうやらこちらの意図は読まれているらしい。………そうでなくては、困る」

 

 アルスラーンもナルサスもダリューンも、皆わかっていることである。今、アクターナ軍と正面から激突すれば、勝つのは極めて難しいということだ。

「サハルードの大敗は、パルスにとって致命的なものです。無敵と言われたパルス軍の自負は、木端微塵に打ち砕かれました。兵たちには、ルシタニアにも勝てるという自信を取り戻して貰わねばなりません」

 ルシタニアとの戦いでパルスが勝ったのはヘルマンドス城の騎兵戦と聖マヌエル城、それにギラン及びオクサスを奪還した時だけである。局地戦の判定勝ちと、正規軍とすら考えられていなかった相手だけだ。

 ここは、一つ勝ちを拾いたい。それで、勢いに乗る。勢いがついたところで、アクターナ軍とぶつかる。緒戦で互角以上に戦えれば、光明も見えてくるはずだ。

 

 イノケンティス王の3万を狙うのは、誰もが第一に考えるだろう。アクターナ軍も当然それを見抜き、西に移動する。そこで逆に手薄になるのは、イスバニルに残る、モンフェラートの6万。

 そこまでは解るが、モンフェラートも陣営地をしっかり固めており、破るのはなかなか難しい。どうするかといぶかる諸将に、ナルサスが提案したのは夜襲である。

「この位置から歩兵隊を急行させれば、夜半にはイスバニルに到着します。機は夜明けまで。夜明けとともに攻撃を停止し、後退して陣を組みます」

 アルスラーンが硬い表情で頷いた。モンフェラートを襲う2()()の指揮は、彼が行う。ナルサスが事細かに策を授けているとはいえ、補佐にダリューンもナルサスもいなくなる状況には、緊張を隠せないようだ。

「…アクターナ軍でも、さすがに読み違えたな。ここにいるのは5万7千ではなく、2万7千だ」

 

 その夜、イスバニルのルシタニア陣営地の近くで、いきなり火が燈った。今のルシタニア軍には、見張りで居眠りしているような輩はいない。なんだと状況の確認に目を凝らす一方で、モンフェラートに伝令が飛ぶ。

 その見張りの目に向けて、火の方が飛び込んできた。火矢と投げ松明だ。陣営地は堀と土塀で囲い外に柵を廻らして防御を固めているが、さすがに城壁の様に何ガズもの高さではない。

「敵襲ー!夜襲だ!!!」

 堀と塀を越えて投げ込まれた松明が、近くの幕舎に燃え移る。火矢はさらに奥を炎上させた。鎧を着けようと必死のルシタニア兵が、自分の幕舎に付いた火を見て慌てて飛び出してきた。

 

「中央に集まり、隊伍を組め!!!」

 モンフェラートも、ギスカールの期待を受けているだけはあった。陣営地中央の広場に兵を集め、その周りの幕舎や小屋一切を撤去する。これで、中央が火の海となることはない。

 一方、モンフェラートが中央に兵を集めたことで、周辺は無防備になった。アルスラーン軍は塀をよじ登り陣営地の中まで侵入したが、すでに中央は2万ほどの軍が堅陣を敷いていた。時間と共に、さらに増える。

「陛下、あれは崩せません。騒ぎ立てるだけ騒ぎ立て、撤退しましょう」

 エラムの言葉にアルスラーンも頷いた。敵軍の動きを見ると、こういう場合の取り決めがしっかり成されているようだ。ヒルティゴを討ち取った時に鹵獲したルシタニアの軍装で紛れ込むという策は、諦めた方がいい。

 アルスラーン軍2万は周囲の燃やせそうな物を燃やし、さっと引き揚げた。

 

「モンフェラート卿、敵が退却していきます。それにどうも、敵軍は明らかに6万もいないと思うのですが…」

 側近の言葉に、モンフェラートは内心で賛成した。アルスラーン軍は6万弱と聞いていたが、夜襲の火に浮かび上がった影からすると、その半分もいないであろう。

 しかし、声に出しては、明らかに追撃して今の失態を漱ごうと考えている側近を、明確に否定した。

「…伏兵の可能性がある。何であろうが、軍は動かさん。兵糧さえ守り抜ければいい」

 ボードワンあたりなら、逸って追撃したかもしれない。自分の長所であり短所は臆病なところだ、とモンフェラートは思っている。そして今は、臆病ゆえの慎重は長所になると見た。

 アルスラーン軍が2万でしかないことなど知り得ないし、アンドラゴラス軍が動いている可能性もある。そう考えれば、致命傷を避けた彼の行動も間違っているとは言い切れない。

 しかし、結果として見れば、ルシタニア軍の損失は八百人。対しパルス軍は数えるまでもないほどであったという。戦術的敗北は間違いなく、それを挽回する好機を逃したという点は、認めるしかなかった。

 

 

 一方、そのアルスラーン軍の奇襲を読んでいたセイリオスは、その日の昼にアルスラーン軍5万7千がイスバニルに向かったと偵騎から情報を得、反転を開始していた。

「デューレン、我が軍の指揮を忘れてはいまいな」

 セイリオスの軽口に、デューレンは「明日の朝には」と返した。セイリオスが、にやと笑う。アクターナ軍であれば、イスバニルのルシタニア軍陣営地には、騎馬隊なら夜、歩兵は明日の朝にはたどり着く。

 

「…しかし、どうも素直すぎませんか?」

 シルセスが懸念を口にする。確かにな、とセイリオスも頷いた。パルスもアクターナ軍の進軍速度は読んでいるだろう。ただモンフェラートを襲っただけでは、意表をついたと言えるほどではない。

 しかし、オクサスを出たアルスラーン軍は6万程度。偵騎はその全軍を探り当てている。把握しきれなかった別動隊が動いているとしても、1万もないはずだ。

「騎馬隊の介入を防ぐために、敵も騎兵は分割しているだろう」

 騎兵戦なら、アクターナ軍にも対抗できる。パルス側はそう考えているだろう。騎兵戦で互角に戦い、夜襲でモンフェラートに損害を与えれば、トータルではパルスが勝ったと言える。

 

「それこそが狙いだ。ここで騎兵を釣り出し、撃破する。騎兵戦での勝利はパルス軍の士気を、致命的なまでに落とすだろう」

 ヘルマンドス城での戦いでダリューンが率いたのは、パルスの正規兵であった。兵数も互角だった。今のアルスラーン軍は質量ともに劣勢だ。しかも、今回はセイリオス自らが指揮を執る。

 歩兵も相手がもたもたしているようなら、追いつける。徹夜の急行軍から戦闘に入るなどという訓練は、定期的にやっていた。アクターナ軍にとっては、苦とする程のものではない。

「……さあ、少しは楽しませてくれよ、アルスラーン」

 それを解っていない敵ではあるまい。とすれば、何か仕掛けてくる。そうであって欲しいとセイリオスは願い、それが何であれ叩き返して見せると自信を覗かせた。

 

 アクターナ軍の陣地からイスバニルの野までは大陸公路を駆け、エクバターナの手前で道から外れるのが、最も楽な道であろう。しかし、必ずしもそれが最短、という訳ではない。

 大陸公路は商隊のための道である。大量の荷車と共に進むのだから、山道は避け、多少遠回りをしても平地を進んだ方がいい、と考えるのも道理だろう。

 さらに大陸公路はエクバターナに向かう道で、イスバニルのルシタニア軍宿営地に向かう道ではない。イスバニルに向かうなら山中の間道を抜けた方が、距離は短くて済む。

 

「歩兵は1万ずつの3隊で行軍し、間道を進め」

 半年以上もエクバターナで過ごしたのだ。周辺の地理は調べ上げている。加えて、すぐさま駆けられるように輜重は極端に少なくした。これなら、峠越えをした方が早い。

 一方、騎兵隊は大陸公路を選んだ。騎兵を釣り出し戦うとなれば、縦横無尽に駆けることのできる平野の方がいい。

 ………そのすべてを、ナルサスは読んでいた。

 

「……………」

 肚の底の震えを、気合で押し止める。全てのことが上手くいっている。おそらく、これ以上の状況は今後来ることはない。ここで負ければ、オクサスに逃げ帰るしかない。

「…ナルサス、大丈夫?」

 表情は傍目が心配するほど青ざめているのだろう。それを、隣のアルフリードが気遣ってくれた。アクターナ軍に対し歩兵戦を挑もうなどと無謀に近いことを考えた時は、自分自身を正気かと疑った。

 しかし、それしかない。アクターナ軍に勝つ、少なくとも優位に戦いを進めたという事実が一つあれば、展開は大きく変わる。モンフェラートの軍を破ったなどという実績とは、比べ物にならないほどに。

 

 アクターナ軍の前軍が、峠を越えた。今だ、と思わず叫んだ。峠に土煙が立ったのが、かすかに見て取れた。すぐさま、3万の軍を動かす。

 アルスラーンの全軍は5万7千。アクターナ軍もそれは掴んでいるはずだ。だからナルサスは、3万の軍を散り散りに出発させた。知らぬ者の目には、日常の人の動きにしか見えないように。

 当然、そんなことをすればアルスラーン軍の数が半減する。大々的に進発した時点で、誰もが気付くだろう。それを誤魔化すために、オクサスやギランの住人を雇い、3万の軍を偽装した。

 5万7千という数を掴んでいたがために、アクターナ軍も騙せた。掴んでいる情報と同数、一度は偵察の目を振り切ったとなれば、全軍で出たと考えてしまうのも無理のないことである。

 そしてその内2万の歩兵はイスバニルに向かい、騎兵の7千は敵の騎兵1万を止める。そして散り散りに出した3万はこの地に終結させた。

 

「敵軍の分断に成功した!一気呵成に叩き潰せ!!!」

 峠に岩や大木を落とし、道を遮断した。いくらアクターナ軍と言えど、越えるのに時間が必要になる。その間に、山のこちら側に取り残された1万に、3万の軍をぶつける。

「全軍、隘路を抜けた先に陣を布け!」

 しかし、アクターナ軍の指揮官であるグリモアルドもさるものである。混乱が起きたと見るやすぐさま山道を抜け、ナルサスが舌を巻く速度で堅陣を布いた。

 

「押せ!!!」

「密集隊形で防げ!一歩も退くな!!!」

 主将同士が声を嗄らす。こうなると、ナルサスの智謀もあまり役に立たない。とにかく敵陣の綻びを突き崩すしかないのだが、アクターナ軍は全く隙を見せない。綻んでも、すぐさま繕われる。

(3倍の軍で襲ってなお、崩せないのか)

 打ち寄せる波を割る大岩の様に、アクターナ軍は頑として動かない。歩兵の質に、絶望的と言っていいほどの差がある。パルスが騎兵ばかり重用し、歩兵を軽視してきたツケがここに出ている。

 

「ナルサス、撤収だ。奴らが山を越えた」

 駆け寄ってきたメルレインの報告に歯噛みした。アクターナ軍は道が寸断されたと知るや、中軍は道の復旧に当たり、後軍は躊躇なく山に入って獣道を進んで山を越えた。

 それはナルサスが想定していた展開の中にないわけではないが、この短時間でやってくるのは想定の中でも最悪を極めている。後続が1万でも合流すれば、勝ち目は皆無だ。

「全軍撤退!残る体力を振り絞って走れ!!!」

 潮時だ、とナルサスは断を下した。夏の長い日も、だいぶ傾いている。3倍の兵力相手に夕暮れが近いとなれば、アクターナ軍と言えど追撃は避けるはずだ。

 アルスラーン軍は一定の距離までは整然と下がり、そこから駆けて一気に逃げ去った。ナルサスの予想は正しく、グリモアルドは友軍との合流を優先して追撃を見送った。

 

 3倍の兵力で崩せなかったのは事実だが、パルスが優勢であったのも事実である。勝ちきれはしなかったが、負けたわけではない。ぎりぎりだが、及第点としていいだろう。

「………ふう」

 大きく息を吐く。アクターナ軍と互角に戦ったという自信を得た兵士たちの顔から、悲壮感や緊張といった表情は大分薄まった。ナルサス卿の智謀があれば、と皆思ったのだろう。

 しかし、当の本人としては、鉛を呑み込んだように胃が重い。今回はたまたま策が全て当たっただけだ。そして、それなのに互角だった。あれだけしてなお、互角までしか持ち込めなかったのだ。

「…悲観してばかりもいられぬ。…次の策を考えねば」

 アクターナ軍に対しては、反間や流言といった手は一切効果がない。下手に打てば、逆手に取られる。戦術によるぶつかり合いしかないのである。

 イスバニルのアルスラーン軍に合流すべく、ナルサスは軍を返した。

 

 

「…アルスラーンの5万の内3万が、偽兵だったという訳か」

 やってくれる、とセイリオスは内心で呟いた。騎兵隊同士の戦闘は、ダリューン以下アルスラーン軍の指揮官がぶつかり合いを避けたため、両軍ともほぼ損害はない。

「我が軍に歩兵戦を挑むとは、想定外でした」

 デューレンが俯く。パルスの主力は騎兵、という先入観から、皆が歩兵を軽視していた。セイリオスとて、例外ではない。

「…気にするな。負けたわけではない」

 グリモアルドが、よくやった。3倍の軍に襲われても動揺することなく、戦線を維持するだけに特化した。歩兵の質の差があったとはいえ、潰走の醜態を晒さなかったのは彼の指揮が的確だったからである。

 

「今回の戦いで、アルスラーン軍の士気は大いに上がったでしょう。……逆に、これを利用するべきです」

 シルセスが話の流れを断ち切るように言った。戦術的勝利の一つくらい、くれてやっても何の問題もない。その上がった士気が落ちる前に、アルスラーンは次の行動を起こさねばならない。次の戦で、一気に叩く。

 だが彼女の言葉の一つ一つには、隠しきれない憤怒が篭っている。ナルサスに読み切られた。同じ参謀として、彼女の誇りは大きく傷ついた。アクターナ軍は負けてないが、彼女はナルサスに負けたのである。

 同じ思いは、セイリオスにもある。今度はこちらが、ナルサスがどれほどの曲者であろうと、夢にも思わぬ策で打ち破って見せる。そう思いながらシルセスに視線を送ると、彼女も頷いた。

「…次の戦いでは、あれを使う」




ちなみにルクール君のモデルは銀英伝のユリアンです。


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39.イスバニルの戦い・秘策

 翌日、アクターナ軍は何事もなかったようにイスバニルの野に布陣した。両翼に騎兵隊。歩兵は1万ずつの横陣が3列。おかしなところがあるとすれば、後方に2千ほどの騎馬が纏まっていることである。

「ルシタニア軍から騎馬隊だけ抽出したのだろうな。各隊の補充に使うとは考えにくい。あれは、独立した部隊と考えるべきだろう」

 どう思うとダリューンに聞き、その答えにナルサスも頷いた。質の劣る騎兵を混ぜれば、全体の力が落ちてしまう。損害が無視できなくなるまでは、ダリューンの言う通りだろう。

 だから使うとすれば囮か、歩兵を切り崩すため。歩兵相手なら多少質が悪かろうが、かなりの効果を期待できる。

 

「止められるか?」

「アクターナ軍の騎兵隊でないならば、防げる。…と思っているが、そんな甘い敵か?」

 今度はダリューンが頷く。実はその2千騎が、アクターナ軍の騎兵隊と入れ替わっていた。いかにもありそうなことだ。ただ、そうであれば、それを跳ね返すことができれば、戦局はずいぶん楽になる。

 残念なことに、サハルードのルシタニア軍の様に、馬止めの柵を作ることはできない。機動力と隠密性を重視したため、輜重隊に大量の木材を積むことができなかったのだ。歩兵で槍を並べて追い返すしかないだろう。

「アクターナ軍なら、粘れるだけ粘ってやる。その間に、騎馬隊の方を何とかしてくれ。アクターナ軍でないなら、歩兵で何とかする。…次いで、騎兵が5部隊できた場合はどうする?」

 パルス一の知将とパルス一の勇将の会話は、次の想定に移った。想定しなければならない事態は多岐にわたり、この時点でまず恐るべきは敵軍の質だった。ナルサスと言えど思いつけなかったのも、無理はない。

 

 さて、この時のエクバターナ周辺を俯瞰してみると、実に奇妙な状況となっているのがこの『イスバニルの戦い』である。

 まずヒルメスはエクバターナに籠城。キシュワードの2万が、そのエクバターナを包囲。ただし2万では完全封鎖などできるはずがなく、ヒルメス軍がイスバニルに向かうのを阻止するのが精一杯である。

 アンドラゴラスの3万とモンフェラートの6万が対峙中。どちらも小手調べに終始して、決定打となるような打撃は与えられていない。

 つまるところ、本気でぶつかる気でいるのはアクターナ軍4万とアルスラーン軍5万7千のみ。それを、皆で固唾を飲んで観戦していたようなものだった。

 

 対峙したまま両軍とも合図を出さず、その日は何もなく終わった。アクターナ軍は後方で騎兵を駆けさせたぐらいしか動きを見せず、日の出とともに陣営地から出て、日が傾いてくると陣営地に戻っていった。

 翌日も、変わらない。両軍とも日が昇ると陣営地を出て、夕暮れになる前に帰っていく。矢の一本も飛ばない状況に、アルスラーン軍の兵士も焦れてくる。それが過ぎれば、次は不安が襲う。

「…ナルサス、まだ起きていたのか」

 夜遅くになってもナルサスの幕舎から光が漏れているのに気付き、アルスラーンが訪れてきた。一度は寝付いたものの、何となく目が覚めてしまったらしい。

 

「申し訳ありません。勝つための策を考えているうちに、つい…」

「…明日は、こちらから仕掛けるべきではないか?」

 アルスラーンの提案と同じことは、ナルサスも考えていた。このまま対峙を続けるのは、こちらの士気を下げるだけだ。せっかく緒戦の勝利で得た優位を何もせず食いつぶすのは、下策だろう。

「…しかし、怖いのです。あのアクターナ軍が、緒戦の敗北に対し黙っているはずがない。次の戦では、必ずこちらの意表を突く奇策を取るはずです。……それが何か、まったく見えない」

 それはアルスラーンも考えている。ダリューンやファランギースだけでなく、エラムやギーヴ、兵士たちとも語ってみた。結果は、「ナルサスの想定以上の答えは出てこなかった」である。

「いつまでも臆しているわけにはいかぬ以上、ここは覚悟を決めるべきであろう。それに一当てしてみれば、何か見えるかもしれない」

 アルスラーンの言う事は、全く正しい。相手がアクターナ軍でなければだ。それでも、ナルサスとしても名案がない以上、動くべき時であるとは感じていた。

 

 

「全軍に伝令、応戦準備」

 にや、と口元が緩む。翌朝、アルスラーン軍の陣立てを見たセイリオスは、今日は戦いになると確信した。いきなり全力でのぶつかり合いをするつもりではないだろうが、向こうから来る。

 別に、必須という訳ではない。ただ、パルス軍が前進してくれた方が効果的なのである。あとはもう、シルセスとデューレンに任せれば何の問題もない。

 セイリオスは、四隊の騎馬隊を動かした。歩兵戦への介入を防ぐために、今度はパルスの騎兵隊も逃げ回るわけにはいかない。

 機は熟した。

 

「前衛、1万5千前進!」

 物見櫓の上からナルサスが指揮を下す。アクターナ軍の布陣は、変わらず1万ずつの横陣が3列。まずは1万5千を1万にぶつける。深入りはさせない。これで、敵がどう動くか見極める。

 アクターナ軍の前衛1万の指揮官は、今度もグリモアルドだった。彼は全く動じず、小隊ごとに密集隊形を組ませて待ち受ける。1万5千では崩せないという自信か、後方には動きがない。

 両軍が弓の射程に入ると、数千本になるであろう矢が日をも陰らす。盾を組み、耐えながらじりじり進む。肉薄するところまで至れば、今度は槍の出番だ。これまた千本単位の槍が、火花を散らす。

 形勢は互角。というよりどちらも様子見に終始して、アルスラーン軍には敵陣を突破しようという気迫が欠けており、アクターナ軍はそれを打ち払っているだけで、動きがないのだ。

 

「両翼展開!包囲隊形!」

 先に動いたのはアクターナ軍であった。シルセスの号令にアクターナ軍の中軍と後軍は2つに分かれた。5千ずつの4隊が左右の翼を形成しながら、1万ずつの2隊に編成されていく。

「1万ずつを左右に展開しろ。密集陣形を取り、隊伍を崩さずにだ」

 その動きに舌打ちしながら、ナルサスも号令を出す。実戦の最中で隊を分割して編成し直すなどという芸当を、至極当たり前の様にやってのけた。明らかに練度では負けている。

 

 この時点での投入戦力は、アクターナ軍3万に対しアルスラーン軍3万5千。だがアクターナ軍は全歩兵団を投入したのに対し、アルスラーン軍にはまだ1万5千の余力がある。つまり、まだ耐えられる。

「…さあ、どうする」

 ナルサスは思わずつぶやいた。ここまでは、想定通り。気になっていた騎兵隊は、相変わらずアクターナ軍の後方に付いたままだ。

 アクターナ軍の中央が割れた。ということは、そこから騎馬隊が噴出してくる。やはり、歩兵を切り崩すためだった。想定の内だ。それもどうやらアクターナ軍の騎兵隊ではない。凌げる。

 次の瞬間、ナルサスの血が凍った。

 

 セイリオスが、急激に方向を変えた。

「追え!」

 一拍置いてダリューンが叫ぶ。セイリオスが相手だと、二手三手先を読んで隊を動かさねば、たちまちやられる。だが、今回は罠ではない。ダリューンの戦の勘は、そう告げた。

 丘を駆け上がる。ダリューンもそれに続く。登り切る直前に、セイリオスの騎馬隊が左右に別れた。並の将軍なら反転しての逆落としと見る。それは間違いではないが、ダリューンは見落とさなかった。

「このまま突っ切れ!!!」

 別れた敵の間に向かい、隊を進める。2つに分かれるふりをして、実は3つに分かれた。一部の騎兵が、丘を越えてダリューンの視界から消えたのである。おそらく、数百が離脱した。

 

 何のためだと考えるより先に、追う。丘を駆け上がろうとするダリューンの騎馬隊に、セイリオスの2隊が突っ込む。構わずダリューンは前進する。2隊の役割は足止めだ。それ以上の動きはない。

 だからセイリオスは、離脱した中にいる。

「なっ!!!」

 そのダリューンが、丘を登り切ったところで愕然とした。反対側の尾根を駆け上る、別の騎兵隊。隊長の鎧に見覚えがある。ヘルマンドス城で戦った、ルキアの隊だ。

 

「全力で駆けろ!!!」

 しまった、とダリューンは悟る。セイリオスの目的は、確かに離脱。だがそれだけでなく、同時にダリューンを罠に嵌めようとしたのだ。

 ダリューンが凡庸な指揮官であれば、敵の薄いところを突破しようとしただろう。しかし彼は、あえてルキアの騎馬隊と正対した。自ら先頭に立ち、逆落としでの正面突破に打って出たのだ。

 そのダリューンを、ルキアは隊を2つに分けてかわす。丘を登る騎兵と下る騎兵の速度の差が、ダリューンの騎兵を分断し、隊の厚さに差を生む。最も薄い個所に、左右からルキアの騎馬隊が突っ込む。

 

 突撃をかわされたダリューンも、すぐさま反転。ルキア隊の後ろから取り残された味方を援護しようとするが、断ち切れない。そのルキアとセイリオスの騎馬隊が、何かに気付いて流れる様に撤収していく。

「すまん、振り切られた」

 味方、ギーヴの騎馬隊が駆け寄ってきたのだ。ルキアの騎馬隊を追っていたが、起伏を利用されて見失った。山勘で駆けた先が、まさにダリューンが襲われているところだった。

「まったく、顔はなかなかだったが、可愛らしくない女だ。こんな時でもなければ、じっくり語り明かしたいところではあったが」

 ギーヴの軽口に、ダリューンも大きく息を吐いた。今回は幸運に恵まれた。ギーヴの山勘が当たらなければ、ダリューン隊は半壊していたところだ。

 

 しかし、セイリオスには振り切られた。どこへ行ったのか、と丘の上から周囲を見渡す。喚声が聞こえる。歩兵隊が激突しているのであろう。不意に、ダリューンの全身に悪寒が奔った。

「…?どうした?」

「ギーヴ、すまないが俺の騎馬隊をしばらく頼む。話している時間も惜しい」

 あっけにとられるギーヴを置き去りにして、黒影号(シャブラング)の全力に付いて来れるわずかな兵だけを従えてダリューンは駆けた。

 

 

「馬鹿…な…」

 何故、今これを見ているのか。中央から、敵の騎馬隊。横一列に、三十騎。馬が通常より密着しているのに、隊列が乱れない。鎖で繋がれているからと、書物で読んだ。だがこれは、『絹の国(セリカ)』の軍法だ。

「全軍、散れーーーーー!!!決してあの前に立つなーーーーー!!!!」

 もう遅いと思いながら、ナルサスは叫んでいた。見抜かれた。たとえこの軍法の知識があろうと、使ってくるとは予想できない。ルシタニア人がこれを知っているはずがない。そう思うことまで、見抜かれた。

 

 連環馬。三十騎を横一列に鎖で繋げ、その密集突撃により敵を蹂躙する。まさにその文字通りに、先鋒の歩兵隊は馬の蹄にかけられ、蹂躙され粉砕された。

「退却だ!合図を早く…」

 連環馬にも、もちろん弱点はある。対策を施してあれば、破るのは難しくない。だが今は、何の備えもないところに受けたのだ。アルスラーンの中央前衛1万5千は、あっという間に崩れた。

 退却するより先に、逃げ惑う味方と連環馬が津波の様にアルスラーンの本陣にまで流れ込んできた。もはや指揮も隊伍も何もなく、できることはひたすら自分の身を守って逃げるだけだ。

 

「陛下、早くお逃げを!!!エラム、決して陛下から離れるな!!!」

 ナルサスの声がしたような気がして振り返ったアルスラーンだが、姿を見ることはできなかった。アルスラーンもナルサスも、濁流に呑み込まれる。気が付いた時には、エラムの姿も消えていた。

 ちょうど連環馬の隙間に入ったため、轢き殺されるのは免れた。そこを核に、生き残った味方が集まってくる。ナルサスやエラムは、と辺りを見回す。次の瞬間、人を割って旋風が飛び込んできた。

「……!!!」

 黒い刀身の剣。とっさに、ルクナバードで防いだ。ルクナバードとその剣が火花を散らし、しかし馬の勢いまで乗せた一撃を捌ききることはアルスラーンにはできなかった。

 黄金造りの兜と、鮮血が飛んだ。セイリオスの一撃はアルスラーンの右のこめかみの辺りを切り裂いて兜を吹き飛ばし、衝撃で落馬させた。首を取ろうと、ルシタニア兵が群がり寄ってくる。

 

「………」

 何故、セイリオスがここにいる。傷の痛みも忘れ、アルスラーンの思考は一瞬停止した。いくら連環馬を使うことが判っていたとしても、こちらの壊滅の時間を測り、それに合わせてダリューンを振り切るなど…。

 呆然としたアルスラーンだが、剣撃と歓声、自分に向かってくる穂先の光に、すぐさま我に返る。だが遅かった。一人目はなんとかルクナバードで防いだ。そこに、騎兵の剣が迫る。かわせない。

「させるもんか!」

 駆け付けた少女が、棒でそれを防ぐ。レイラだった。まだ子供ということでオクサスに残してきたはずの彼女だったが、こっそり紛れ込んでいたのだ。

 レイラの奮闘は騎兵を馬から叩き落し、さらに一人の刃を弾き返した。そこに馬首を返したセイリオスが飛び込む。『アステリア』の刃はレイラの棒を容易く両断し、兜の上から頭蓋を叩き割った。

 

「あああああ!!!!」

 レイラが崩れ落ちる姿をまじまじと見せつけられたアルスラーンは、怒り任せに敵兵を両断した。セイリオスが迫る。相討ってでも殺してやる。修羅の形相で睨むアルスラーンに、セイリオスはふっと笑う。

「陛下!!!」

 その絶体絶命の危機に、数騎の騎兵が駆け込んできた。先頭の男が、セイリオスに曲刀を投げつける。ジャスワントだ。セイリオスの注意が逸れ、一瞬の隙ができた。

 彼は渾身の力で、アルスラーンを馬上に抱き上げた。「防げ!」と部下に命じ、自分は全力で駆け去る。もちろん部下たちは自分が捨て石であることを理解している。決死の防戦が、セイリオスの追撃を遅らせた。

 

 ジャスワントに抱きかかえられるようにして、アルスラーンは戦場を駆けた。とにかくセイリオスから離れるべく、必死で駆ける。ふと我に返った時には、自分の周りを騎兵が囲んでいた。

 これまでか、と覚悟したアルスラーンだったが、よく見れば周りにいるのは皆パルスの騎兵である。寄ってきたのは、黒衣黒馬の騎士。ダリューンの騎馬隊だ。

「セイリオスに振り切られました。遅れて申し訳ありません。その額は、お怪我を…」

「……いや、浅手だ。心配ない。ジャスワントが護ってくれたのだ。ありがとう、ジャスワント。そなたのおかげで助かった」

 ダリューンの姿を見て、ようやく人心地のついたアルスラーンが笑顔を見せる。しかしジャスワントはアルスラーンに覆いかぶさるように体重を預け、静かに答えた。

 

「…陛下、俺はシンドゥラで三度も貴方に命を救われました」

「…ジャスワント?」

 様子がおかしい、と思ったところで、アルスラーンも気付く。腰のあたりが生暖かい。血であることは、すぐ気づいた。ジャスワントはアルスラーンの元に駆け付ける際に、腹を突かれていたのだ。

「………一度しか返せず、申し訳…、ありま……、せん」

「そんなことはどうでもいい!医者だ!!!いや誰でもいい、血を止めろ!!!ジャスワント、気をしっかり保つのだ!!!きっと助かる!」

 馬の揺れで、支えていたアルスラーンの体からジャスワントの体が滑り落ちる。

 

 アルスラーンの慟哭が、イスバニルの野に響いた。

 




そう言えば、以前感想で「作者はドS」と言われたことがありました。


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40.イスバニルの戦い・激戦

 軍議の席で平伏したナルサスを、誰も咎めようとはしなかった。彼の後悔は解る。だが連環馬などという戦法、誰に思いつけただろう。

「……それより、次の策を考えよう」

 アルスラーンが静かに命じる。彼は彼で、昨晩ナルサスに「戦うべきだ」とそそのかした、その責任を悔いていた。

 ダリューンもうつむいたままだ。騎兵戦で手玉に取られ、結果としてアルスラーンを危機にさらした。そして臍を噛む。セイリオスの能力をルキアやクラッドと似たようなものと侮る気持ちが、どこかになかったか。

 わずか半日の戦いで、死者3千。重傷者を含めれば、アルスラーン軍の損害はおよそ1万。レイラとジャスワントの犠牲がなければ、アルスラーンの首も取られていただろう。大惨敗である。

 

 アルスラーン軍は1ファルサング近く後退し、岩場の多い丘に陣取った。ひとまず、連環馬を避けることが何よりも優先した。むき出しの岩が点在している地形なら、連環馬は使えない。

 そう聞いてほっとした兵たちに、連環馬を破る方法を伝える。馬の足を傷つけ、倒れさすこと。鎖で繋がれているため、一部を倒せばその重さで、全体が動けなくなる。策があると判ると、さらに安心したようだ。

「しかし、もう連環馬を使ってくることはない、と思います。…もちろん油断はできませんが」

 連環馬は大きな賭けだ。特殊な軍法であるが故、対策も確立している。セイリオスもそれを充分理解した上で、この一戦に賭けたのだ。そう考えると、やはり自分たちは甘かったとしか言いようがない。

「次の手は、夜襲でしょう」

 アルスラーンを取り逃がしたのは、セイリオスにとっては失態のはずだ。すぐさま次の一手を打ってくるに違いない。それも連環馬のような奇策は使わず、力で圧してくる。

 

「3千ずつ十隊。交代で夜明けまで攻める。残る1万は自分が指揮」

 夜襲、というナルサスの予想は当たった。だがやり方を、最初の一撃に全てをつぎ込むのではなく、小出しにした。それぞれ3千の部隊による、多面同時攻撃。攻撃は仕掛けてくるものの、深入りはさせずに引き上げる。

「…そう来たか。これは撹乱だ。半数で対処できる。休みの者はそのまま休め」

 ナルサスはそれをすぐ見抜き、全軍を叩き起こすような真似はしなかった。修羅場を潜り抜けてきた兵士となると、喚声が聞こえようが平然と寝る。寝付けない新兵は、それを呆れと不安の表情で眺めた。

 

 夜明け近くまで、アクターナ軍の攻撃は断続的に続いた。一見やみくもに攻撃しているように見えて、しっかり弱いところを見極めてくる。しかし、アルスラーン軍はそれを打ち払った。

 やがて東の空が明るくなり始めると、兵の疲労を慮ったのか、大きく間が空いた。アルスラーン軍もようやく一息つける、と気を抜き始めたところ…。

「…違う!次は鉄槌だ!全軍に陣を組ませろ!!!」

 ナルサスが気付くのが遅れていたら、アルスラーン軍は壊滅していたかもしれない。夜明けを待って温存していた1万を先鋒に、全軍が一丸となって仕掛けてきたのである。

 

 アルスラーン軍が逃げ込んだ岩場だが、実はここもナルサスが要地の一つと考えていた場所だ。岩が天然の防塁となり、攻めにくく守りやすい。

 重大な弱点がある丘だが、いざという時のため輜重の一部を運び込み、多少の要塞化を手掛けていた。足りない箇所は輜重の車を連ねて防塁の代わりにしてある。

 そこに、アルスラーンの全軍が必死で陣を組んでいる。ひとしきり攻撃を加えたセイリオスは、これは簡単には破れないと見て、舌打ちしながら軍を引いた。最後の総攻撃まで、読まれていた。

「………力押しで破れないわけでは、ないのだが」

 アクターナ軍の唯一の欠陥と言える。あまりにも精強すぎるため、兵の補充が簡単にはできない。無駄死させるような用兵は、できるだけ避けたい。

 

 それにしても連環馬に夜襲と、セイリオスが本気で仕掛けた二度の戦を、アルスラーンは生き延びた。いや、本来なら『アステリア』で斬り付けたあの時に、剣ごと首を刎ね飛ばしているはずだった。

「あれが、ルクナバードという剣らしい。カイ・ホスローに救われたか」

 『アステリア』でなければ、撃ちかかったこちらの剣の方が折れていたかもしれない。あの機を逃したことで、速戦で終わらせることはできなくなった。

「考えても仕方のないことでしょう。…アルスラーンには運があった。それだけのことです」

 大勝してもすっきりしない気分でいたセイリオスに、シルセスが微笑みかける。セイリオスも未練を捨てる様に一度俯き、顔を上げる。自分が認めた敵なのだ。天運くらい持っていて、当然だろう。

 アクターナ軍は、丘の上から降りる道を塞ぐように陣を布いた。

 

「……あいつら、本当に人間か?」

 アクターナ軍を知らなかったジムサには、そうとしか思えない。丸一昼夜戦い続けた。人間なら疲弊して当然のところだ。なのに、不眠不休で陣営地の建設を猛烈な勢いで進めていた。

 第一、いくら国軍でなく兵数で劣るとはいえ、パルスの騎兵隊相手に優勢に戦えるなど、トゥラーン騎馬隊以外でありえることではなかった。お伽噺に出てくる化物と戦っていると考えた方が、まだ理解できた。

「人だろうと化物だろうと、あれが我らの敵じゃ。……次は水を断つ、か。軍師殿、いかがされる」

 ファランギースの指摘にナルサスは唸った。打つ手の一つ一つが的確に弱点を突き、着実にこちらを追い詰めていく。夜襲を凌いだと思ったら、すぐこれだ。

 

 この岩場には、湧水がない。弱点とはそれだ。セイリオスはそこまで調べ尽くしていたのだろう。一部隊が川との通行を遮断するように陣を布いている。完全遮断は無理としても、運び込むのは大きく阻害される。

 水がないというのは致命的である。人間は水を全く飲まないと四日で死ぬという。各自で持っていた分と積まれていた樽の分を合わせて、確保されている水は三日分ほど。我慢すれば、もう一、二日延ばせるか。

「多少は運び込めるとしても、猶予は十日というところだな。…時間がないわけではない。騎馬隊だけ包囲の外に出すが、戦闘は行うな。今日は休め。今出撃しても、勝てはせん」

 一昼夜戦い続けたのはアルスラーン軍も同じである。休息が必要なのは明らかだ。疲弊した軍で包囲網を突破するのは無謀、とナルサスは見た。騎馬隊だけなら、妨害をすり抜けられる。

 ここは、ひとまず仕切り直す。

 

「ナルサス様、少しはお休みになられたほうが…」

 遠慮がちに、エラムが勧める。ここのところ、常に地図なり兵法書なりを睨んで何か考え続け、あまり寝ていない。特に昨日の朝からは、わずかな仮眠だけで戦い続けているのだ。倒れてもおかしくない。

 連環馬について、責任を感じているというのは理解できる。だが、皆が言った通り、あんな戦法予想できるはずがないではないか。

「……それでも予想しなくてはならぬのが軍師というものだ。エラムよ、よく覚えておけ。軍師というのは、一つ間違うと数えきれない味方を殺す。その責から、決して逃げてはならぬ。怖いなら、軍師にはならぬことだな」

 そう言い、エラムを下がらせようとする。対しエラムは、渋い顔で「せめて食事だけはしてください」と持ってきた料理だけ置いて引き下がって行った。

 その忠言には苦笑いしながら従うことにしたナルサスだが、食べ終わると抗しがたい眠気に襲われた。さすがに、心配をかけすぎたようだ。先ほどの料理の中に、弱めの睡眠薬でも入れてあったに違いない。

 おそらくアルスラーンが命じたのだろう。まあ、水を断とうとするなら、今日明日の攻撃はないと見ていい。眠ってもまず問題ないと思い、ナルサスは大人しく寝台に横たわった。すぐに意識を手放す。

 しかし、ナルサスもセイリオスも含め、誰一人として想定の中に入っていなかった男の存在により、この予想は外れるのである。

 

 

「……ボダン?」

 亡霊か、と思わない方が無理というものである。聖マヌエル城陥落で、誰の意識からも消えていた。その男が、何とダルバンド内海を渡り、マルヤムの北の地を抜け、本国まで帰り着いたのだという。

 ギスカールからの急報を受け、セイリオスもアクターナ軍の諸将も、憎悪や憤慨よりまず感心した。マルヤムの北の地などと言えば、未開の蛮族の住処という知識しかない。

 その未開の地を命からがら抜け本国ルシタニアに帰り付いたボダンは、ルシタニア王家を『世界の脅威』として弾劾し、イアルダボート教を信仰する民に王家打倒を呼びかけた。

 もちろん、本国に帰還させたボノリオ公爵やトゥリヌスらはその反乱を抑え込もうとしたが、さすがに本国ではまだボダンの権威は残っていた。緒戦で大敗し、慌ててパルスまで急使を派遣したのだ。

 

 ギスカールが未来の執政と嘱目しているトゥリヌスだが、軍事の才能はさっぱりらしい。まあ、元々ひ弱で、軍の訓練に参加させたら半日でぶっ倒れるような奴だ。指揮官として期待はできないとは思っていた。

 しかし、ボダンごときに負けるとは。ギスカールも情けない奴と憤慨したが、軍事は必要無いと見たから彼を送ったのだ。憤慨はしたが、見限ったわけではない。

 とにかく、ボダンを放っておくわけにはいかない。アルスラーンと遊んでないでさっさと帰ってこい、というギスカールの命令書を持って、使者が駆け込んできた。

「……三日待ってもらおう。それで、アルスラーンの首を取る」

 

 

 翌日、アクターナ軍が全軍で攻めかけてきた。投石器やバリスタ、井楼まで準備し、城を攻めるにも充分な態勢である。兵士たちは総攻撃かと怖気づいたが、ナルサスはおかしいとすぐ気づいた。

 何故、ここでそれほどの攻勢に出なくてはならないのか。定石なら、水を断たれて焦ったこちらの動きに合わせ、それを殲滅しようとするはずだ。明らかに、焦っている。

「……何かあったな」

 アルスラーン軍にとってはいいことである。数日。あと数日粘れば、アクターナ軍は撤退する。この急な攻勢と損害覚悟の力攻めは、そうとしか考えられない。

 

「ナルサス卿、敵の勢いが強く、このままでは支えきれません!」

「泣き言を言っている暇があるなら戦え!騎兵隊はどうしている!?」

 そう言いながら、ナルサスは自分で石を運んだ。敵が打ち込んできた石を、こちらも投げ返す。輜重隊の車を解体し組み立て直すと投石器なり井楼になるよう、ほぞ穴を開けておいたのだ。

 数は少ないが、一方的にやられるだけでないとなれば、士気に大きく関わる。小さな工夫であったが、ここでは大きな役割を果たしている。

 それでも、攻勢に出ると決めたアクターナ軍の圧力は、凄まじいものがある。耐えているだけでは、耐えきれない時が必ず来る。だが、耐える事しかできない。

 

 アクターナ軍が、一度引く。それに追い打ちをかけようと、一部の兵が陣を出た。止せ、とナルサスは叫び、慌てて退却の合図を出させたが、止められない。

 出たのは、ゾット族の一隊だった。後方撹乱の場がなく、仕方なく通常の部隊として編成していたのだ。ナルサスの命には従っていたが、根が軍隊ではない彼らが抑えていた思いがここで爆発した。

「防いでるだけじゃ勝てねぇ!追い撃って敵を一人でも倒せ!!!」

 隣の同胞が、槍にかけられる。弓で射抜かれる。それなのに退いていく敵を見送るだけなのは、軍律違反だろうが仲間思いの彼らには我慢できない事であった。気付いたメルレインが追う。

 

 ゾット族の一隊が、アクターナ軍を切り裂いた。そう見えたのは一瞬のことで、アクターナ軍はわざと正面を開け、深入りしたゾット族を取り囲んだのだ。あとはもう、四方から殲滅するだけである。

「………全軍を引かせろ!!!」

 もう間に合わない。ナルサスは、ゾット族を切り捨てる決断を下した。隣にいたアルスラーンとアルフリードがぎょっとしてナルサスを見やるが、その表情を見て口を閉ざした。

 噛み締めた唇から血の味がする。メルレインは最後まで奮闘していたが、ついには槍で突かれた。崩れゆく体を、さらに二本の槍が貫く。人の波の中に、呑まれて消えた。そのすべてを、凝視する。

 

「強すぎる……」

 いつか呟いた言葉を、再び呟く。戦術でどうこうできるレベルを超えている。いや、そうさせないように、最も質の差が出る愚直なぶつかり合いに引き込まれているのだ。

 やはり、連環馬が致命的だった。あれを読み違えたせいで完全に主導権を握られ、逃げたくても逃げようのない状況に追い込まれている。

 だが客観視すれば、ナルサスだからここまで耐えていると言えた。彼がいなければ、アルスラーン軍はとっくに壊滅していたはずだ。

「全軍に伝令!ああなりたくなければ、決して逸るな!隊列を堅持し、ひたすら耐えろ!今は耐える時だ!」

 まだ、正午を回ったくらいか。夜までは長い。ダリューンはどうしているだろうかと、ふと思った。騎馬隊が戦術的勝利の一つでも挙げてくれれば、多少は楽になる。

 あと数日でいいはずだ。そうナルサスは自分に言い聞かせた。……耐えきれるかどうかは、考えないことにした。

 

 

 アクターナ軍の全力攻勢。それを見た者はアクターナ軍の精強さに戦慄し、アルスラーン軍の健闘に感動すら覚えただろう。しかし、同時に思った。アルスラーンも、これで終わりだと。

 もはや、アクターナ軍の優位は動かない。唯一、セイリオスを討ち取るという大逆転の目はあるが、その前にアルスラーン軍が潰される可能性の方が高い。

「………」

 一人の男が、覚悟を決めた。

 




ここでボダンの再登場を予想していた人はいるだろうか?


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41.イスバニルの戦い・勝敗の行方

 セイリオスの騎馬隊を、追う。騎兵戦で、常に先手を取られる。ダリューンにとって生涯初めてであり、これ以上ない屈辱を噛み締めながら、辛うじて食らいつくことしかできない。

 今度の反転は、正か奇か。遅巡も読み間違えも許されない。ナルサスならそれができるかもしれない。自分には、理論で読み解くなどできやしない。ならば、逆に読まなければいい。

 セイリオスの騎馬隊と、他の騎兵隊が交差した。ダリューンはその騎馬隊と正対する形になる。追走を逆手に取られた形だ。回避は、間に合わない。しようとも思わない。正面から、ぶつかる。

 先頭に立つ男が、大剣を振り回し突っ込んでくる。ヘルマンドス城の指揮官だった男だ。一刀目。ザンデより鋭い斬撃が、ダリューンを襲う。

 

「ふっ!」

 一合、二合、三合。ダリューンの槍とクラッドの大剣が、凄まじい金属音をまき散らす。その一騎打ちをしている間に、セイリオスは駆け去った。

 もうそれでいい。指揮官の能力は、明らかに向こうが上。セイリオスをただ押さえつけるのは、無理だ。

「おおあぁ!」

 クラッドの大剣が、鎧を掠めた。ダリューンの槍を、クラッドが小手で弾く。強い。これまで戦ったルシタニア人の、誰よりも。大剣使いとしては、サハルードで戦死したクバードにも充分匹敵する。

 十二合目。槍が叩き折られた。ダリューンはすぐさま剣を抜く。狙いは、振り下ろされる大剣の腹。まともに受ければ剣ごと叩き切られる一撃を、横からわずかに逸らす。

 必殺の一撃を流されたクラッドの表情が驚愕に染まり、次の瞬間、わずかに微笑んだように見えた。

「おおおっ!」

 雄叫びと共に剣を薙ぐ。クラッドの喉元に滑り込んだダリューンの剣が、首を切り裂いた。鮮血が飛ぶ。そのまま馳せ違う。ちらりと、クラッドが馬から転げ落ちるのを確認した。

 

「追い討て!討てるだけ敵を討て!」

 クラッドの戦死で、さすがのアクターナ軍の騎馬隊にも動揺が走る。しかしそれがすぐさま各隊ごとにまとまり、二つの大部隊になったかと思うと、一つにまとまった。

「………!」

 歯噛みする。討てた敵兵は、理想よりはるかに少ない。指揮官が戦死した場合どうすべきか、次の指揮官は誰になるかといったところまで、指揮系統が確立されている。

「セイリオスを追う!離脱だ」

 それでも、混乱が全くないわけではない。僅かな隙を突き、ダリューンはセイリオスを追う。敵騎馬隊の一角を、ようやく崩した。これで他が耐えてくれれば、大分楽になったはずだ。

 

 

 ファランギースが追っていたのは、アーレンスの騎馬隊。彼女の弓が、一騎を射落とした。しかし次の矢は鎧で弾かれる。ついつい、舌打ちがでた。

 疾駆しながら正確に弱点を射抜くファランギースの神技でも、アクターナ軍の兵士に当てるのは難しい。遠距離では、いかに狙いをつけようと見切られ、かわされてしまう。

 逆に、味方の騎兵が、馬上から吹き飛んだ。「吹き飛ぶ」という表現が比喩ではないほどの威力で、アーレンスの矢は飛んでくる。その前には、鎧など気休めでしかない。

 弓の技量を競う大会であれば、ファランギースに勝る者などいないだろう。だがこの戦場では、威力に特化したアーレンスの弓の方が有用となる。

 

 ジムサの騎馬隊が、そのアーレンスの前を遮った。クラッドを追っていて振り切られ、見つけたのがアーレンスの騎馬隊だった。ファランギースと挟撃できる、と考えたのだろう。

 ジムサの得物は、右手に持つ反りのある片手剣と、左手に持つ筒である。武器にしては短いその筒を口に当てると、敵の騎兵が馬から転がり落ちる。その兵を見ると、小さな矢が顔に突き立っている。

「息で矢を噴き出しているようだな。あれが吹き矢とかいう、古典的な武器か?」

 吹き矢は、今のルシタニアではまず使われない武器だ。アーレンスも、実際に見るのは初めてである。廃れた理由は、端的に言って威力が足りないためだ。

 

「あの矢に鎧を貫くほどの威力はない。必ず素肌を狙ってくるはずだ」

 吹き矢の威力は使い手の肺活量で決まる。そして人の肺では金属板を貫くような矢は放てず、まず筒を口に当てねば使えない。毒を塗っていようと、それさえ判れば防ぐのは難しくない。

「ちっ!」

 ジムサの突進が遮られると、その勢いに引っ張られていた騎馬隊の動きも衰える。それでも後背からファランギースの騎馬隊が迫る。挟撃は成った。

 そう思った時、ジムサは左肩に凄まじい衝撃を受けて吹っ飛んだ。

 

「………?」

 何が起きたのか、理解するまでに数瞬を必要とした。矢が、鎧ごと肩を貫通している。止血さえすれば命に別状はなさそうだ。跳ね起きた。トゥラーン以来の愛馬が駆け戻ってくると、走りながらそれに飛び乗る。

 その間にアーレンスは騎馬隊を分割し一部を反転、ファランギースと向かい合う。ジムサ隊に千、ファランギースに千五百。最上の機は逃したが、まだ挟撃の体勢にあるのは変わらない。

 その時だった。丘の向こうに、砂塵。ジムサは心底ぞっとした。セイリオスの騎馬隊が、丘を越えてファランギースに向けて突っ込んでくる。

 

「……どこまで読んでいるのじゃ、あの男は」

 戦慄と共に思う。一瞬で、挟撃している側からされている側にされた。測ったように現れるセイリオスの動きは、ファランギースの予測を越えている。

 とにかく、もはやアーレンスを挟撃するのは無理だ。ジムサは負傷した左腕がうまく利かないようで、突進に力が欠けている。これではアーレンスを討ち取るより先に、セイリオスに討ち取られる。

「離脱する。ジムサ卿にも合図を出せ」

 セイリオスから逃げるように走り出す。それでもファランギースの最後尾に、セイリオスが喰らい付いた。アーレンスもそれに続く。これは、非常にまずい。ファランギースも、覚悟を決めた。

 

 不意に、正面にまた砂塵が見えた。なんとルキアと交戦しているはずの、ギーヴの騎馬隊だ。セイリオスもすぐ気付き、ファランギースの追撃を切り上げた。ファランギースも、すぐさま兵を纏める。

「いやはや、妙な胸騒ぎに襲われ、居ても経ってもいられなくなり、駆けに駆けた先がファランギース殿の窮地とは。これはきっと、ミスラ神がファランギース殿を救えと、俺に啓示をくださったのであろう」

 戦場にもかかわらず、ギーヴがいつもの軽口で話しかける。それに対しファランギースの方は「助かった」と短く礼を言った。それを聞いてギーヴは、頭を掻く。

「どうにも調子が狂うなあ…。戦場とはいえ、いや、だからこそ、いつも通りの毒舌を振るってもらいたかったのだが」

 

 ギーヴによる、ファランギース隊の壊滅阻止。さらにクラッド戦死の報を受けたセイリオスは、一度軍を止めた。アクターナ軍の将軍として、初めての戦死者である。

「クラッドの隊は、副官だったメルガルが指揮」

 務めて冷静を保ち、言う。今日の戦は、大きく外した。クラッドは惜しいが、考えられなかったわけではない。問題はギーヴの方で、どうにも味方の危機に駆け付ける、不思議な天運を持っているようである。

 だが、ルキアが遅れた。ファランギースを討ち取ろうとした際、ギーヴは間に合わないはずだった。ルキアが何もなく振り切られるなどと言う失態を犯すはずがない。

「申し訳ありません、別の騎馬隊が現れ、そちらに足止めを食らいました」

 別の騎馬隊。そんなものが、どこから。少し考えたセイリオスだが、ルキアの報告ですぐ気付いた。

「モンフェラートめ、失態だぞ」

 

 

 セイリオスが騎馬隊を纏めたことを受け、アルスラーン軍も一度騎馬隊を纏めた。7千余であった騎兵は、すでに6千強にまで減っている。そこに、2千ほどの騎兵が合流した。

「ザラーヴァント卿!!!」

 先頭に立つ指揮官が誰か、ファランギースが真っ先に気付いた。アンドラゴラス王が援軍を出したのかと一瞬疑ったが、何と独断で出撃したという。

「国王の怒りはもっともなれど、俺はもともと王太子殿下の元に馳せ参じた身。さらには殿下には故郷を取り返していただいた恩もある。第一、ここでセイリオスを倒さねば、パルスに未来など無いではないか」

 死罪も覚悟の上、とあっけらかんに笑う。部下たちも主将の暴走を止めるどころか、むしろ率先して扇動したというのだから、もはやアンドラゴラス王の軍は内部から崩壊している。

 

「…残念だがザラーヴァント卿、お主の活躍の場はあまりないかもしれぬ」

 ここから自分の活躍で挽回を、と意気込むザラーヴァントに、ダリューンが残念そうに告げる。何故だと諸将もいぶかるが、ダリューンは確信していた。

 ナルサスが言った『上手く負ける』という方針。クラッドを討ち取り、ザラーヴァントの騎馬隊が合流したとはいえ、騎兵戦だけでも損害ならこちらが大きい。歩兵は考えるまでもない。

「この機を逃すナルサスではない。必ず、撤退する」

 

 緒戦は互角に戦い、次は大きく負けたものの壊滅を阻止。そして今騎兵戦で一矢を報いた。ダリューンが機だと思った通り、ナルサスもこれが潮時だと判断するしかなかった。

「これ以上は、歩兵が耐えられません」

 撤退を、と言上するナルサスに、アルスラーンも難しい顔で考え込んだ。数日耐えれば情勢が動くという確信はあるものの、ナルサスの見たところでは明日明後日には破られる。余力のあるうちに逃げるしかない。

 連環馬の大敗さえなければ、とは思うが、アクターナ軍の将軍を討ち取ったというのは、これまで誰も成しえなかったことである。これを、宣伝材料にするしかない。

 

「……ナルサスの言う通りであろう。それで、撤退するとして、どうやってするのだ?」

 ナルサスならまた何か奇策を考えたのであろうという期待を込めてアルスラーンが問うが、こんな切羽詰まった状況ではできることなど限られている。つまり正攻法で、敵陣の間を強行突破して逃げるだけだ。

「決行は深夜とします。陛下は後方に構わず、ひたすらオクサスへ向けて逃げてください。……例え、何があろうとも、です。陛下が遅れることは、それだけ多くの人が死ぬということになります」

 ナルサスの冷酷な言葉に、アルスラーンが視線を逸らした。アクターナ軍の追撃は、当然あるだろう。後方の部隊から犠牲になる。アルスラーンにできる事は皆が時間を稼ぐ間に、できるだけ逃げることだ。

 アルスラーンがセイリオスの想定を超えた点まで逃げれば、追撃は止む。それまではただひたすら逃げるのが、現状で最上の策となる。

 言われていることは、間違いなく正しい。それは解っている。だが、それを仕方ないとだけ言って、割り切れるほどアルスラーンの心は冷淡ではない。泣くことを、必死でこらえている。

 

(……心優しき王だ)

 どれほど有能であろうが情を持たない王より、よっぽど良き国王ではないか。このルシタニア戦役で唯一良かったことがあるとすれば、アルスラーンの中に眠っていた気質を叩き起こしてくれたことだろう。

「エラム、お前もだ。陛下を引き摺ってでも、安全圏まで逃げ延びろ。それ以外のことは考えてはならん。絶対に油断するな。敵は、相当しつこく追撃してくるぞ」

 その灯を、ここで消してはならない。パルスという国の未来のために、どんな代償を払っても。

 

「ナルサス様…」

「ナルサス…」

 二人とも、ナルサスが何を考えているのか感じ取ったのだろう。口を開きかけたアルスラーンにナルサスは笑顔を向け、先に言った。

「……負けました。もともと勝ち目など全く見えない戦でしたが、想定以上に負けました。『絹の国(セリカ)』の言葉に『三十六計逃げるに如かず』というものがありますが、今はまさにそれでしょう」

 ただ逃げる、と言っているのではない。勝ち目がないのなら撤退し、捲土重来を図るべきである。無理をしても傷口を広げるだけで、良いことなど何もない。それがこの言葉の本義である。

「……ご安心ください、死のうとは思ってませんから」

 今はとにかく、生き延びる事だけを考えよう。負けてもいい、戦わなければ得られないものがある。そう信じて始めたが、失ったものは大きすぎた。その責は、死んだくらいで償えるものではないのは判っている。

 アクターナ軍を侮っていたつもりはなかった。想像を超えていたのだ。

 




ようやくダリューンが一矢報いました。


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42.イスバニルの戦い・撤退戦

 深夜―。

「……よし、行こう」

 アルスラーンが静かに号令を下す。周囲の人間も声を出さず、暗闇の中で頷いた。姿はほとんど見えないので、気配で感じただけだ。

 空は曇り、月明かりがないのは幸運と言える。鎧も、できる限り軽装にした。鎧ずれで音をたてないようにだ。夜目が利く者を先頭に、そろそろと、闇の中を這うように進む。

 

 敵の篝火だけが、闇の中に浮かんでいた。不意に、それに向けて別の火が飛ぶ。苦し紛れの夜襲に見せかけた、別動隊が放った火矢だ。

 参加している者の中に、これまでの戦いで重傷を負った者たちまでいる。見捨てるのは断腸の思いだが、撤退となれば置いていくしかないと判断した者たちだ。

 そのため「朝になったらすぐ降伏しろ」と命じたところ、逆にまだ動ける者から「何でもいいから戦いたい」と言われたのだ。

 

「…パルスのためだ」

 口の中だけで呟いた。今やるべきことは、心を殺し、そんな彼らだろうと躊躇わず犠牲にし、とにかく生き長らえることである。いや、それしかできないと言った方が正しい。

 アクターナ軍だろうと、人知を尽くせば対抗できると思っていた。やはり自分もパルス人だった。パルスの騎馬隊は絶対無敵であり、何があろうと負けるはずがない。その常識が、セイリオスの力を見誤らせた。

 

 宿営地を狙った派手な火計であれば、さすがに反応しないわけにもいかない。石造りの堅固な防塁を築くのは時間的に無理であり、建材は木を使うしかなかったからだ。

 その騒ぎの中、柵しかない場所に向けて、アルスラーンの歩兵がにじり寄る。1ヵ所ではない。4か所同時の突破だ。これも、攻勢に出ると決めたため、さほど頑強な物を作る時間はなかった。破れないはずがない。

「敵襲!」

 闇夜に鐘の音が鳴り響く。突破が察知されるのは当たり前である。ただ、4隊のどれにアルスラーンがいるかまでは、どんな人間だろうと判別できないはずだ。

 

「4隊に部隊を編成します」

 当初5万いたアルスラーンの歩兵隊は、3万5千程度まで減っている。4隊に同等に分けたとすれば、一隊につき8千程度。それに騎兵隊が加われば、1万弱。

 こちらも4隊に部隊を分割して追撃する。シルセスはそう考えた。デューレンは反対した。逃げるなら無理に追撃する必要もない。これまでの戦いで、勝敗がどちらにあるかは明らかだ。

 シルセスとて、実を言ってしまえばそう思っている。ただ、今回だけはそうできない理由がある。

「殿下が珍しく乗り気でして…」

 ばつが悪そうに言うシルセスの言葉を肯定するように、すぐさまセイリオスの指示が来た。全軍を4隊に編成し追撃するというものだ。

 

 むう、とデューレンが唸った。セイリオスとアルスラーンの間に何があったか知らない彼としては、何にそれほど執着しているのか判らない。

 ただ、アルスラーンは間違いなく名君であろう。少なくともその素質はあるに違いない。ここまでアクターナ軍と戦って壊滅していないというだけでも、それは判る。ならば、ここで潰しておくべきか。

「……もはや策を廻らすほどの余裕もなかろう。叩くのであれば、徹底的に叩くぞ」

 全軍を叩き起こし戦闘準備、そこから4隊編成に移行となると、出立は明け方近くなる。アルスラーン軍の突破は許したが、闇夜では大した距離は進めないだろう。充分追いつける。

 

 当然、ナルサスも考えている。戦闘中に軍の再編を行うような敵だ。闇夜で身動きできないなどという甘い予測ができる相手ではない。追撃を受けるまでの時間は、さほどない。

(さて、ここまではいいが―)

 ここからどうするかは、各隊に任せた。4隊を統括して指揮するなど無理な状況であるし、むしろそちらの方がセイリオスの意表を突く動きになるのではないかという期待もある。

 最大の問題は、セイリオスがどの隊を追うか。

 

「前方の部隊に、ナルサスおよびアルスラーンと思われる姿を確認しました」

 夜明け。早速の偵騎の報告に、セイリオスは首を傾げた。土埃に邪魔されない風上に回り込んで、黄金造りの兜をかぶった少年とその横で指揮を執る男の姿を確認してきたという。

 しかし、素直すぎる。撤退するのにいつもと同じ目立つ黄金の兜を被り、偵騎の目に留まるなど間抜けもいいところだ。ただし、そう思わせてさらにその裏をかく、という場合もあり得た。

 

「ダリューンと、もう一隊の騎馬隊!」

 別の報告が入る。ダリューンが慌てて駆け付けてきたということは、やはり前の部隊にいるのはアルスラーンなのか。となると、このまま追うべきか。

 もう一隊の騎馬隊は、2千近くいる。どうやら先日合流したザラーヴァントの騎兵の様だ。さすがに2隊同時に相手にするのは無謀である。移動しながら隙を伺い、味方を待つ。

 アーレンスの騎馬隊と、シルセスとベルトランの歩兵隊が追いついた。

 

 

「……ナルサスやダリューンは、無事だろうか」

 神の視点から俯瞰した評価になるが、アルスラーンを逃がすことに関してはいくつもの幸運に恵まれた。まず本物のアルスラーンはセイリオスが追わなかった部隊にいた。ナルサスの傍にいたのは、影武者である。

 ダリューンとザラーヴァントの騎馬隊は、アルスラーンの援護に動いたのではない。いかにもそれらしい動きを見せながら、ただセイリオスの妨害に動いたのだ。

「陛下、そう暢気なことも言ってられませぬ。ここからは、騎馬隊で先行します」

 ファランギースの言葉に、アルスラーンは表情を消して頷いた。すなわち歩兵隊を見捨てるということだ。昨晩承知したこととはいえ、やはり気が進まない。

 だが、アクターナ軍はもはや視界に入っていた。ただ逃げるだけでは追いつかれる。

「……すまぬ」

 遠ざかる歩兵隊に対し、アルスラーンは小さく謝った。アクターナ軍に追いつかれれば、一方的な蹂躙となるだろう。果たして、彼らの何人が生き残れるか。

 

「騎馬隊を切り離したか。…歩兵を捨てても逃がすべき者がいる、ということだ。追え!」

 これがアルスラーンにとって二つ目の幸運で、デューレンが命じた騎馬隊の指揮官はメルガルだった。つい昨日、ダリューンが討ち取ったクラッドの後任の男だ。

 もちろん、彼とてアクターナ軍騎馬隊の副将を務めてきた男だ。無能とは程遠い。が、副将と主将では責任の重さがまるで違う。そのための萎縮は、仕方ない事であろう。

 

「…単調じゃが、速いな」

 メルガルの動きは、これまでの指揮官に比べ駆け引きに欠ける。その分一直線に向かってくるので、速さはある。

 ファランギースはすぐそれに気付いた。討ち取れる。ただし、アルスラーンがいなければの話だ。彼の武勇も大分上達したが、アクターナ軍の騎士相手では分が悪い。騎兵戦に巻き込むのは、危険すぎた。

 上手くあしらって逃げるしかない。そう決めたファランギースは、騎馬隊の方向を変えた。南東に逃げていたのを、少し北寄りにしたのだ。そちらの方が、起伏が多い。

 だが、進む先に砂塵が見えた。しまったと臍を噛む。味方はいるはずのない方向だ。敵の騎馬隊に先回りされていたとなれば、状況は一転し死地に変わる。

 その騎馬隊はパルス軍の旗を認めると通路を開けファランギースを通し、後ろから追ってくるメルガルの騎兵隊に突っ込んだ。

 

「……ルーシャン?」

 すれ違う時に指揮官を遠目に見たアルスラーンが呟く。ペシャワールの守将として残されたはずの彼が、サハルードの大敗で逃げ散った敗残兵を纏め直し、ここまで来ていたのだ。

「友軍を助けるのだ!」

 ルーシャンの方もアルスラーンに気付いた。アンドラゴラスの命令は敗残兵を纏め直し自分に合流しろというもので、二人の関係性を考えればルーシャンの行動をアンドラゴラスが喜ぶことはない。

 しかし、敵に追われているパルス軍を見て助けるのは当然のことだろう。東方にいた自分が状況を把握してないのも無理のないことだ。アルスラーンのことは気付かなかったととぼけ通す腹積もりである。

 

「ルーシャン、無理はするな!!!」

 アルスラーンが叫ぶ。ルーシャンの騎馬隊は1千ほど。彼自身、決して戦下手な訳ではないが、ダリューンやキシュワードとは比較できない。アクターナ軍相手に、どれだけ戦えるか。

「…陛下、私は反転いたします。ルーシャン卿が駆けてきた方へ、このままお駆けください。エラム卿、しっかり陛下をお守りするのじゃぞ」

 ファランギースが言う。ルーシャンの騎兵隊という計算外の要素により、余裕ができた。アルスラーンの護衛に一隊を割いても、敵を討ち取れる。そしてルーシャンが駆けてきた方角には、敵はいないはずだ。

「………頼む、ファランギース!」

 自分も、と出かかった声を呑み込み、アルスラーンが指示を下す。昨夜、ナルサスから言われたことを思い起こしたのだろう。エラムと三百ほどの騎兵を連れて、駆け去る。

 

 よし、とファランギースは内心で頷く。これで存分に戦うことが出来る。ルーシャンを圧倒していたメルガルの騎馬隊に、横から突っ込んだ。

 メルガルは部隊を前後に分割し、ファランギースの突撃をやり過ごそうとした。だがルーシャンが上手く牽制をかけ、前方の部隊の反転が遅れた。

 やり過ごされたファランギースも、急角度に方向を変える。元々狙いは敵の分断。メルガルは最前線に立っていた。反転が遅れたため、分断され挟撃された形になっている。

「今だ!」

 好機と見たルーシャンが反撃を開始した。それを見て、ファランギースが焦る。アクターナ軍の騎馬隊は、この状況でも乱れることはない。ルーシャンは、それを知らない。

 

 ルーシャンが知っている敵、例えばミスルやシンドゥラの騎馬隊なら、この突撃で崩れ去るはずだった。だがメルガルの騎馬隊はその突撃を受け止め、逆に押し返し始めた。

「くっ」

 もう少し。あと少し近付ければ。ファランギースが矢を構える。だがその瞬間、ルーシャンは敵騎兵の一撃を兜に受け、馬上から転落した。それを横目に、心の動揺を抑え込んで矢を放つ。

 狙いすました一矢は、見事メルガルの首を横から貫いた。この距離から狙えるはずがないと侮っていたのか、兵がルーシャンを討ち取ったのを見て意識がそちらに向いていたのか。とにかく、敵将を仕留めた。

 だが、追撃、と叫びそうになった時、ファランギースの耳は精霊の声を聞いた。近くで邪法が使われていると訴えてきたのだ。愕然とした。指揮も放り出して駆けだした。副官に説明している時間も惜しい。

 アルスラーンの身が、危うい。

 

「陛下、あちらの森へ!」

 まだ後ろに敵の姿はない。木々に紛れれば、追手も完全に見失うだろう。エラムの考えを察したアルスラーンは、森へ馬首を向ける。

 アクターナ軍だけを敵と考えるなら、森に逃げ込んだエラムの判断も部隊を分割したファランギースの判断も正しかった。アルスラーンの身を狙っていた存在が他にいるとは、誰の計算にも入っていなかったのだ。

 森に入り、しばらく進む。不意に、肌に湿り気を覚えた。

「………霧?」

 そんな馬鹿な、と思った時には、濃密な霧が取り囲んでいた。そればかりでなく、周囲には誰もいない。エラムの名を呼ぶが、返事はなかった。

 

「………!!!」

 心拍数が一気に跳ね上がる。アトロパテネの戦場に一人取り残された時の記憶と、今の状況が重なった。違うのは、あの時は誰かの助けを乞うだけだったが、今は自ら道を切り開く気概があることだ。

 馬を止め、ゆっくりとルクナバードを抜く。明らかに殺気を感じる。この霧の中に、何か禍々しいものがいる。

「……セイリオスも、詰めが甘い。あれだけ勝ちながらも、肝心な者を取り逃がすとは」

 現れたのは、商人風の男。かつてフィトナにラヴァンと名乗った商人であるなど、アルスラーンが知る由もない。だが殺気の源は、間違いなくこの男。

「……まあよかろう。我らの手で、蛇王様の障害を取り除く」

 霧が、一度ラヴァンの姿を隠す。霧が流れた時、そこにいたのは仮面と暗灰色のローブを身に纏った、魔導士であった。

 




この話を楽しみにしている方には申し訳ない話なんですけど、このイスバニル戦は「三国志で言うと五丈原」です。

当初構想ではイスバニル戦終結で終了、とも考えていたのですけど、その後のこの世界の行方がネタもあるし気になる人もいるだろうと思って書いてますが、かなりの駆け足になると思います。


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43.イスバニルの戦い・決着

「………」

 視線だけで、見れるだけの周囲を見る。正面には魔導士が一人。霧の中には、何が潜んでいるかわからない。だが馬がある。相手は徒歩だ。反転し全力で駆ければ、脱出は可能なはずだ。

 機を窺う。今だ、と決断し、馬首を返す。駆ける。一歩二歩三歩と、勢いに乗りかけた。よし、と思ったところで、がくんと馬が足を折った。その勢いで、アルスラーンは投げ出される。

「覚えておくとよい。『操空蛇術(グールイラムツ)』という。空気の蛇を操る術だ。逃げようとて、逃げられはせぬ。それにこの霧は人の感覚を狂わす『迷いの霧』。助けも来ぬわ」

 地面に叩きつけられたアルスラーンが、痛みをこらえて身を起こす。そこに黒い影が襲い掛かった。有翼猿鬼(アフラ・ヴィラーダ)だ。

 

 霧の中からいきなり現れてくるから、何体いるかわからない。怪物の爪を、ルクナバードで受け止める。いや、ルクナバードの刃は逆に爪を切り裂く。そのまま、顔面に突き立てた。

 怪物の体を蹴り飛ばす。その力でルクナバードを抜き、次の有翼猿鬼の右手を斬り飛ばした。

「………むむう」

 アルスラーンの奮闘を見て、『尊師』は小さく舌打ちした。五体の有翼猿鬼で充分だと思っていたが、どうやら甘かったらしい。ルクナバードの力は彼らの力も縛る。その所有者には、魔導が通用しないのだ。

 

 だが、アルスラーンも霧の中、上方から攻撃を仕掛ける有翼猿鬼にばかり気を取られ、足元の注意がおろそかになった。

「え?」

 不意に全身から力が抜ける。痺れるような感覚に、立っていられない。何が起きたのか、辛うじて確認したところ、左足の鎧の隙間から、蛇が噛みついていた。力を振り絞り、その蛇を両断する。

「ルクナバードの加護があろうと、こういう魔導の使い方もある。冥途の土産に、これも覚えておくとよい」

 視界が揺らぐ。その中で、風を切る音を聞いた。『尊師』が仰け反ったように見えた。体が浮く感じがしたところで、アルスラーンは意識を失った。

 

 

「………あ」

 視界がぼやける。体が浮く感じはまだ続いていた。そうか、死後の世界とはこんな感じなのか、とアルスラーンはまず思った。それが、鷹の鳴き声で破られる。

「………告死天使(アズライール)?」

 そうぼそっと呟くと、周囲の光景が戻ってきた。天幕の中で、寝台に寝かされている。生きている…のだろうか。周囲に喧騒はあるが、戦闘が続いているという雰囲気はない。

 

「お目覚めになられましたか、陛下」

 横から、よく知った女性の声がする。ようやく視界がはっきりしてくると、ファランギースの顔が見えた。隣にはギーヴもいた。

「……ファランギース、何がどうなった?……戦はどうなったのだ?」

 あの時、ぎりぎりのところでファランギースが間に合った。魔導の霧も、女神官(カーヒーナ)である彼女には通用しなかったのだ。そうでなければ、アルスラーンの命はなかった。

 だが彼女が到着したのが、アルスラーンが毒蛇に噛まれた直後。『尊師』に向けて矢を放ち、アルスラーンの身を抱えて一目散に走り去った。体が浮くと感じたのは、毒のせいだけではなかったのだ。

 

「解毒が間に合い、ようございました」

 ファランギースが心底ほっとしたように言う。アルスラーンが王族として過ごしてきたことが、ここで幸いした。蛇王に対する反呪の中には、蛇毒に対する物もある。そのおかげで、命を拾った。

「そうか…。私は、生きているのか」

 ようやく得心がいったアルスラーンが、落ち着いて言う。だが犠牲は大きかった。まずファランギースの騎馬隊が、ほぼ壊滅。指揮官がいきなりどこかに行ってしまったのだから、当然ではある。

 さらにアルスラーンに付けた三百騎も、半数以上が死んだ。こちらは霧の中で蛇王の眷属に襲われたようである。運よく霧から抜け出せた者だけが、生き残ることが出来た。

 

「……生存者の中にエラム卿はおられますが、背中を切り裂かれ、重傷にございます。……生死は、予断を許さぬと」

 何だと、と起き上がろうとしたアルスラーンが、つんのめるように倒れ込んだ。まだ毒が抜けきってないようで、体が上手く動かない。地面に激突する前に、ギーヴがそれを受け止める。

「そして戦は、……我らの大敗に終わりました。……セイリオス以下アクターナ軍は撤収中」

「……え?」

 何故だ、とアルスラーンは思った。決着をつける。セイリオスの覚悟は、ひしひしと感じていた。仮に負傷しようと、意識さえあれば自分を滅ぼすまで戦ったはずである。

「……アンドラゴラス王が、戦死されました」

 

 

 ここで、時間は少し巻き戻る。すなわちアルスラーン軍が撤退を開始する前、ナルサスがそれについて言上していた辺りのことである。

「………」

 エクバターナ、宮中。セイリオスとアルスラーンの激突の情報は、ヒルメスの下にも逐一入っていた。連環馬などという聞いたこともない戦法でアルスラーン軍を潰走させた時など、全員が唖然としたものだ。

 そこから息つく暇も与えぬ総攻撃に、カーラーンやサームでもどこか喜色を隠せないでいる。アクターナ軍に任せておけば、この戦は必ず勝てる。内心そう思っているのは間違いないだろう。

 その中で、ヒルメスだけが何処か不機嫌そうに寝室に引き上げた。

 

 宮中と言っても、ヒルメスが王侯貴族の暮らしを楽しんでいたわけではない。軍装を解いたことはなく、兵糧は兵と同じ物とし、(アンドラゴラスが使っていたものを使いたくないという思いもあるが)寝台も簡素なものを使っている。

 一人になったところで、彼は壁に拳を叩きつけた。

「おのれ……」

 情けない。情けないにも程がある。アルスラーンが倒れれば、アンドラゴラスも退くに違いない。自分は何もせずとも良い。それは解っているのだが、それでは自分の誇りは丸潰れだ。

 セイリオスもセイリオスである。イノケンティス王の返還を求める使者を寄越したきり、何も言ってこない。アルスラーンとの対決に夢中で、ヒルメスのことなど忘れているのではないか。

 

 眠れない夜を過ごす中、遠くに喚声を聞いた。見張りから、光が見えるという報告も入った。位置からして、アルスラーンが夜襲に出たに違いない。

「……全軍を叩き起こせ!!!」

 思わず叫んだ。アクターナ軍の優勢を崩すには、もはや博打に打って出るしかないだろう。つまり、この夜襲はアルスラーンの最後の足掻きである。ヒルメスはそう見た。

 

「全軍で出撃する!!!」

 ヒルメスがそう宣言したので、カーラーンもサームも顔を見合わせた。どうやって止めるべきか、と同時に思ったのである。

 出撃するなら、全軍で出る必要があるだろう。キシュワードを打ち破るだけでも、そのぐらいは必要だ。ただ、何故そんなことをしなければならないのか。戦略的な優位を捨てる意義があるとは思えない。

「このままエクバターナに引き籠っているだけでは、俺は今後ルシタニアに頭を上げられぬ王になるぞ!」

 ヒルメスとて、明快な考えがあったわけではない。今日この時に乗り遅れたら、全てが終わる。戦人の直感で、そう感じた。その前に、ルシタニアも含めて、何としても意地を見せてやると思っただけである。

 

「お待ちください。……全軍でとなれば、誰がこのエクバターナを守るのですか?」

 エクバターナは3万の軍がいるから何とか抑えられているようなものだ。仮に数千の守兵を残したところで、広大な城内を守り切ることなどできない。すぐ内通者が城門を開き、敵の部隊を招き入れるだろう。

「エクバターナは捨てる!!!アンドラゴラスの首を討ち、そのままバダフシャーンに走るのだ。それでよい!!!」

 サームの懸念を、ヒルメスは切って捨てた。勢いで宣言してしまったようなものだが、言ってみると名案のように思えてきた。

 元々、エクバターナを保持するのが問題だったのであって、捨てると決めてしまえば一気に身軽になれる。バダフシャーンに戻りさえすれば、再起は容易い。

 

 バダフシャーンにはパルハームが残っている。カーラーンが彼を推挙してくれたことを、今ほど感謝したことはない。

 彼はたびたび東からちょっかいを出してくるラジェンドラ王を都度叩き、主力不在の地を見事に守り抜いていた。ここ一連の情報も届いているはずで、ならば軍の再建にも手を付けているに違いない。

 問題は、この行動を人は、特にエクバターナの住民はどう思うか、だ。だからアンドラゴラスの首を取る。ただ逃げたのではないと示すためにも、アンドラゴラスかアルスラーンのどちらかは討ち果たさねばなるまい。

 

 朝になった。ヒルメスとしては、手持ちの軍勢すべてを投入し、一気にキシュワードの包囲を突破してアンドラゴラスを背後から襲いたい。キシュワードに手間取れば、アンドラゴラスを討つのが難しくなる。

 幸運が、ヒルメスを助けた。

「シャハールとクラテスが……」

 生きていた。それだけでなく、サハルードで散った味方を集め、5千ほどの軍になっていたのだ。そしてキシュワードを挟撃できる位置に来ていた。ヒルメスの出撃を見て、彼らはそれに呼応して攻め込んだ。

 キシュワードの不覚と言えば言える。だが昨晩からは特にアルスラーンとセイリオスの動きを注視して、全体を俯瞰する余裕を無くしていたのだ。

 ヒルメスの出撃に対処しようとして、横合いから突きかかられる。軍の集合が遅れた。しまった、と後悔した時には、ヒルメスは包囲網を貫いて駆けていた。

 

 ヒルメスは全軍の先頭を駆けた。すぐ後ろに、ザンデが続く。アンドラゴラスはルシタニア軍に対するように布陣しているはずだ。キシュワードが早馬を出したとしても、陣を布き直す時間はない。

 さらなる幸運が、ヒルメスを助けた。

「前方で、ルシタニア軍とアンドラゴラス軍が戦闘中!」

 昨日、ザラーヴァント隊の離脱を許したモンフェラートが、失態を取り返そうと攻め込んでいたのだ。このままではセイリオスの不興を買ったままで終わってしまうと感じている以上、必死だった。

 

突撃(ヤシャスィーン)!!!」

 ヒルメスが、全力で叫ぶ。もはや考えることはない。パルス王の旗の元へ、一直線に駆ける。後方からの攻撃に、アンドラゴラス軍の抵抗はまばらだった。パルス兵が、無様に逃げ散っていく。

 アンドラゴラスは剣を掴み、ただ一騎で泰然としていた。周囲に、それでも彼に付き従おうという兵士がわずかに寄ってくる。

「アンドラゴラス!!!」

 この時ヒルメスの剣にあったのは、かつての憎しみではない。自分自身でも解らぬほど澄み切っていた。決着をつける。何の決着なのかも解らぬまま、ただそう思う。

 

 アンドラゴラスも馬を駆けさせた。ヒルメスと、正面から向かい合う。アンドラゴラスの剛剣が風を起こした。その風が、耳を打つ。

「おおおおあああぁぁぁ!!!」

 アンドラゴラスの剛剣をすれすれで回避したところからの、渾身の突き。馬の勢いまで加えた一撃はアンドラゴラスの鎧を突き破り、胸を貫通して背中まで突き抜いた。

 アンドラゴラスが、笑みを浮かべたように見えた。

「……これもまた、よかろう」

 その呟きを、ヒルメスだけは聞き取った。何が良いのか。ヒルメスには理解できない言葉を残し、パルス第18代国王(シャーオ)は息絶えた。

 

 

 ファランギースから一部始終を聞き、アルスラーンは大きく息を吐いた。父が死んだ。成程それならアクターナ軍が引いたのも理解できる。

 ヒルメスはそのままバダフシャーンに向かい撤退中、エクバターナは敗兵をまとめたキシュワードが占拠した。アンドラゴラスに従っていた将兵に、以後アルスラーンの指揮下に入るよう説得中との事だ。

「そうか、父上が―」

 アンドラゴラスの死を、アルスラーンに冷静に受け止めた。父とは言うが、情の通じ合わなかった人の死である。悲しみも喜びもない。何よりも「終わった」という思いだけがある。

 

 朗報が一つあった。ルーシャンが生きていた。兜に一撃を受けて馬上から転落した彼だったが、衝撃によって脳震盪を起こしただけだった。ぴくりとも動かなかったため死体と思われ、放っておかれたのだ。

「……最悪の目覚めでしたな。同胞たちの骸の中で一人起き上がるというのは―」

 その時のことを、彼はのちにそう語る。アルスラーンを救うためとはいえ指揮官が誰もいなくなった軍は、メルガルの死後すぐ次に指揮権が委譲し秩序を回復したアクターナ軍にとって好餌でしかなかった。

 

「他の者は?皆はどうなった?」

「…ジムサ卿は無事でございます。………ナルサス卿は、もうすぐ戻ってこられると」

 ファランギースの声に暗いものを感じたアルスラーンは、今度は慎重に立ち上がり、幕舎を出た。言葉通り、ナルサスの軍がこちらに向かってくるところだった。ぼろぼろである。激戦であったことは、一目で判る。

「……ナル……サス」

 先頭で向かってくるナルサスに、アルスラーンは声をかけるのを躊躇った。それほどナルサスの表情は暗く、何かがあったことは明白だった。

「陛下……、申し訳ありません……、ダリューン卿が、討死しました……」

 




感想で言っていた「最初に戦死が決定した4人」

一人目:クバード(サハルードの結果を変えるため)
二人目:ジャスワント(連環馬でアルスラーンの身代わり)
三人目:アンドラゴラス(ヒルメスに討たれ戦死)

そして四人目:ダリューン。


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44.イスバニルの戦い・戦士の中の戦士

「嘘…だ…」

 ナルサスの言葉を聞き、アルスラーンは足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。ダリューンが、死んだ?明確な言葉であるにも関わらず、頭が理解するのを拒絶している。

「嘘であろう!ナルサス、嘘だと言ってくれ!!!」

 必死で否定しようとするアルスラーンに対し、ナルサスは無言で頭を下げる。その姿は、首を差し出しているようにも見えた。

 続く兵が、板の上に人を載せて運んできた。ダリューンの遺体。それを見てもアルスラーンは「嘘だ…」と小さく呟いた。

 ナルサスが、淡々と語り出す。

 

 セイリオスの陽動。もっとも危険な男をアルスラーンから離すために、ダリューンとザラーヴァントの騎兵隊を足止めだけに使うという策は成功したと言っていい。

 ダリューンが駆ける。セイリオスは、それと付かず離れずで駆けた。アーレンスの騎兵隊に歩兵隊まで追いついた現状、もう待つ必要はない。兵数でも戦力でも、優勢となった。

 どこで仕掛けるか。セイリオスもダリューンも、その機を計っていた。

 

 セイリオスの騎馬隊が、遂にダリューンの騎馬隊に仕掛けた。あまりに愚直で平凡、しかしセイリオスが仕掛けた以上、ダリューンはその対応でかかりきりとなる。

(狙いはザラーヴァント卿か)

 ダリューンはすぐ気付いた。アーレンスとザラーヴァントも交戦に入っている。ダリューンをどうあしらい、ザラーヴァントの方に向かうか。騎兵隊のどちらかが壊滅すれば、歩兵隊の壊滅も必至だ。

 その一方で、歩兵隊は歩兵隊でにじり寄っている。時間はかかるだろうが、やがて追いつく。アルスラーンを抱えているふりをしているナルサスとしては、下手に反転することは出来ない。

 時間は、今はまだ敵の味方だ。そう結論付けたダリューンは、多少無理をしても反撃に出ると決めた。

 

「ちっ!」

 ダリューンの突撃を、セイリオスはぐにゃりと隊を曲げてかわした。クラッドが一騎打ちで討ち取られたせいで、ダリューンと直接切り結ぶのは得策ではないと判断したようだ。

 セイリオスは、そのまま旋回。ダリューン隊の最後尾に食らいつく。ダリューンは可能な限り小さく逆に旋回し、セイリオスの騎馬隊の先頭近くに食らいつこうとする。

 後ろに続く部隊が、ダリューンを包み込もうと動いて来た。ここは無理をせず、敵騎馬隊を切り離せたことを良しとして部隊を纏める。

 

 ダリューンとセイリオスが、ザラーヴァントとアーレンスが、時に組み合わせを入れ替えながら、小競り合いを繰り返す。時間稼ぎに徹する姿を見て、セイリオスも失敗に気付いた。

「……あれはアルスラーンではないか」

 歩兵隊がもうすぐ追いつく。ナルサスはただ逃げるだけ、ダリューンとザラーヴァントはこちらの足止めをするだけ。アルスラーンを抱えているなら、悠長すぎる。

 と言ってダリューンと戦闘に入ってしまった以上、どうにかしなくては次に向かえない。こうなると、時間がパルスに味方し始めた。時間をかければかける程、アルスラーンを取り逃がす可能性が高くなる。

 

「………」

 少しだけ考え込んだセイリオスであったが、自分の騎馬隊を二つに分けた。ダリューンが追ってきたのは自分がいる方だ。ここ数日、散々戦ってきた相手だ。動きだけで誰が指揮官か見当がつく。

 セイリオスは、さらに部隊を分ける。自身は数百の部隊で離脱、残りが副官の指揮による足止め。離脱した部隊は先に分割したもう一隊と合流し、ザラーヴァントの部隊を狙うと見せかける。

 ダリューンも、それを待っていた。敵を潰走させず、足止めされたように見せかけて横に流れる。セイリオスの狙いは、ここからダリューン隊の包囲殲滅。

 分割した部隊を全て集め一気に叩こうとした敵に、ダリューンも正面から迎え撃つ。セイリオスの部隊に突っ込める。危地を、セイリオスを討ち取る好機に変えた。そう思った。

 

 次の瞬間、ダリューンの騎馬隊の動きが、何かに突っかかったように乱れた。何人か落馬した。それを踏み越えるわけにはいかない後続の兵が慌てて手綱を搾り、あるいは止めきれずに彼らもすっころんだ。

「………原始的な手を!」

 サハルードのような柵はない。何故だと足元をよく見れば、所々で草が結ばれていた。それに、馬が足を取られたのだ。離脱してダリューンの視界から消えたわずかな時間でも、これならできる。

 突撃の勢いを殺されたダリューンはすぐさま反転、だがセイリオスの部隊が後方に噛みついた。諦めるしかない。百数十騎は、討ち取られるか。

 

 ……普通なら、その百数十騎を見捨て、一度部隊を纏め直すべきだと考えたであろう。だが相手はセイリオスだ。そんな普通の手では、じり貧となることは明白だった。

「………」

 副官に、合図を出す。すまぬと心の中で謝罪するしかできなかった。およそ半数の騎兵を、その百数十騎と共に捨てる。

 百ならすぐに討ち取られたであろうが、千近い騎兵が壊滅覚悟で足止めに入ったのだ。いかにセイリオスと言えど、無視することも簡単に潰走させることもできない。

 

 その間に、ダリューンは駆ける。部隊の半分を犠牲にして、初めてセイリオスを振り切った。一度限りの、指揮官として恥ずべき方法だ。だが、どれほど犠牲を払おうと、ナルサスだけは救わねばならない。

(あいつがいなければ、今後のパルスは立ち行かない―)

 セイリオスという化物に対抗していくとなれば、ナルサスの智謀は欠かせない。実際のところ、今回の戦いでもナルサスが読み損なったのは連環馬だけだ。それ以外は、全て予測している。

 アクターナ軍の質が異常なことと連環馬に意表を突かれたため負けただけで、ナルサスの智謀がセイリオスに劣っているわけでは、決してない。

 

 歩兵同士のぶつかり合いは、アクターナ軍の圧倒的な優勢となっていた。ナルサスはアルスラーンを守っているふりをすべく、すり潰されるまで抵抗するつもりだろう。

 その場に現れたダリューンの騎馬隊を見て、アクターナ軍の一隊が素早く反転し、槍衾を並べて迎い受ける。流石に対応が速い。だがそれにもかかわらず、ダリューンは敵陣に突っ込んだ。

「おおおああぁぁ!!!」

 雄叫びと共に槍を振るう。ダリューンをして、やっとのことで一列目を崩す。その亀裂が閉じないうちに、二列目。過去、経験したことのない頑強さに舌を巻く。部下も必死で押し込み、ようやく三列目を突破。

 

 不意に、後ろから押す力が強くなった。ザラーヴァントの騎兵隊が、ダリューンの後から押し込んで来たのだ。これなら、行ける。

 右から首元を狙って繰り出された槍を、体を倒すことでかわす。掠って兜が弾き落とされた。体勢が崩れたところに、反対側からまた槍。浅く腿を突かれた。内臓と主要な血管だけ守れればいい。

 ザラーヴァントの後ろからはアーレンスと、足止めを突破したセイリオスが続いているだろう。届け、と心の中で叫んだ。敵の歩兵を指揮している、あの男。勇敢で、最後まで戦うに違いない。だから討ち取れる。

 

「おおおおおおぉぉぉ!!!」

 もう一度叫んだダリューンに、ベルトランは槍を持って向かい合う。ぐっと腰を据えて繰り出された突きを、すれすれのところで回避した。そこからの、一撃。ベルトランの首が飛ぶ。

 ベルトランの死で動揺する歩兵隊にかまわず、騎兵隊が突っ込んできた。不意に、黒影号(シャブラング)が前足を宙に向かって振り上げた。ダリューンを振り落としたのだ。その首を、矢が貫く。

黒影号(シャブラング)!!!!」

 アーレンスが狙っていたことに、ダリューンは気付いていなかった。黒影号(シャブラング)が振り落とさなければ、直撃していたはずだ。長年、共に戦場を駆けた戦友は身を挺して、背に乗る友を助けたのだ。

 歯を噛んだダリューンは近くの騎兵を引きずり落とし、馬を奪った。悲しんでいる暇はない。まだ、戦う。黒影号(シャブラング)の犠牲を踏み越えて、歩兵隊を斬り抜けた。

 

 歩兵隊の指揮官は、もう一人。そのシルセスはダリューンに構わず前衛だけでナルサスの歩兵隊に突撃した。動揺を無視して、敵を殲滅するつもりだ。

 ダリューンの騎馬隊は、もう数百しか残っていない。シルセスは防ぎきれると見た。ダリューンもそれは理解している。だが、それでもシルセスの首を狙う。

 しかし、後ろからセイリオスが恐ろしい勢いで駆けてきた。遮ったザラーヴァントの右腕を斬り飛ばし力任せに突破するというセイリオスらしからぬ用兵であったが、これでは舌打ちして諦めるしかない。

 …仮の話であるが、この歩兵隊の指揮官がシルセスでなければ、歴史は変わっただろう。歩兵隊から飛び出したダリューンを、セイリオスが追う。

 

「………」

 初めて、セイリオスが用兵を誤った。何をそんなに焦っているのか。ザラーヴァントを強行突破したせいで、セイリオスの部隊は縦に大きく伸びた。それを纏め直さず、ひたすらダリューンを追ってくる。

 深入りのし過ぎだ。今度こそ、セイリオスを討ち取る千載一遇の好機となった。前衛だけなら、ほぼ同数のぶつかり合いとなる。後方が追いつくより先に、セイリオスの首を取る。

 機会は、一度きり。反転し、全力で駆ける。失敗に気付いたようだが、もう遅い。セイリオスの姿が眼前に迫った。軍の指揮では遠く及ばなかったが、一騎打ちの勝負なら負けない。

 馳せ違う。セイリオスの剣は、あのルクナバードにも匹敵するという。まともに受けたら剣が折られる。クラッドの大剣にしたように、受け流し滑り込ませるように斬る。自分なら、できる。

 

 ………馬が、わずかに怯んだ。

 

 ダリューンが奪った馬は、アクターナ軍の軍馬だ。毎日毎日、セイリオスの馬を群れの長として駆けてきた馬である。つい先ほど乗った主とは、心も通じ合っていない。

 キン、と高い金属音が響く。ダリューンの剣と、セイリオスの『アステリア』が打ち合う音。黒影号(シャブラング)であれば、絶対にありえなかった遅巡。それが、ダリューンの目測を狂わせた。

 ダリューンの剣が、半ばで斬られた。『アステリア』の一撃はそのまま、ダリューンの肩から胸までを切り裂いた。かまわず、セイリオスの首元を薙ぐ。

 

 鮮血が飛んだ。

 

 どうだ、と確認のため必要とした一瞬の隙。槍が、背から胸までを貫いた。口から、鮮血が噴き出す。さらに脇下にもう一本。馬上の体勢が崩れ、馬から落ちた。

「………」

 落馬した際の勢いで槍が折れ、仰向けになったようだ。空が青い。周囲は静まり返っていた。剣戟の響きも、馬蹄の轟きも聞こえない。

 パルス兵もルシタニア兵も、身動きすることを忘れたように固まっていた。その中で、一騎だけがダリューンの視界に入る。首筋に手を当てているようだが、逆光に加えて視界がぼやけて顔は見えない。

「……無双の、武人だった」

 そんな評価は止めろ、と言いたかった。俺はアルスラーン陛下に忠義を尽くせなかった。お前を、殺し損ねたのだ。そんな武に、何の意味があるか。

 唇が動いたかは、わからない。

 

 手に付いた血を眺める。あとほんの僅かで、首の血管に達していたところだ。ダリューンの馬がそのままであれば、あるいは剣が『アステリア』に匹敵する物であれば、自分の命はなかった。

「……馬と剣の差か」

 これは、勝ったのか負けたのか。生き残った、とは言える。天を仰ぐ。そんなセイリオスを始めて見た周囲の騎兵が、とりあえずという感じで周囲に円陣を布く。

 騎馬隊が完全に止まった事に、シルセスも動転して軍を止めた。セイリオスに何かあった。敵の騎兵隊の攻撃を防ぐ態勢を構築しながら、後退する。

 

 この遅巡が、ナルサスを救うことになる。崩壊寸前だった歩兵隊を立て直す時間が与えられ、しかもその間にヒルメスがアンドラゴラスに攻め込んだという報告が入ったのである。

 確認のため、セイリオスは軍を止めた。ヒルメスでもアンドラゴラスでも、一人だけが残ってしまうと、ルシタニアの得にならない。アルスラーンを討つかどうかも、考え直さなければならなくなる。

「撤退する」

 アンドラゴラスが討たれた、と詳報が入ると、セイリオスは短く言った。アルスラーンは生かさねばならない。ナルサスの首を取る意義もない。厄介な相手なのは事実だが、アルスラーン軍の再建に彼は必要となる。

 これ以上戦う意義は無くなった。ヒルメスが文句を言ってきたら、負傷したので退却したとでも言えばいいだろう。既にアルスラーンが討たれていたなら、それはその時だ。

 

 ―アクターナ軍が全軍撤退に移ったことで、『イスバニルの戦い』は終結した。

 




この話でも個人の武勇なら最強はダリューンです。


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45.そして再び歩み出す

 言い終えたナルサスはただ平伏したが、アルスラーンはそれに目もくれず、幽鬼のような足取りでイスバニルの野を見渡す丘の上に昇って行った。誰も声をかけられなかった。

「………」

 やらねばならないことは多い。だが、今くらいはそっとしておいてやろう。誰もがそう思った。同時に、自分たちの誰にもアルスラーンの絶望を癒せないとも確信していた。

 

 それでも、伝えなければならないことはある。

「………陛下」

 アルスラーンは無言のまま、ゆっくり振り返った。アンドラゴラス王に言上した時でも、これほど重々しい空気であったことはない。キシュワードはそう思った。とにかく、伝えるべきことは伝える。

「私を始め、イスファーン卿、トゥース卿ら、皆の総意でございます。今後は、陛下をパルス王と仰ぎ戦う所存。…アンドラゴラス王に従ったことが罪であるとされるならば、どうか罰するのは私だけにお留めください」

 キシュワードが掌握している兵は、2万5千ほどである。アンドラゴラスの死、イスバニルの激戦、特にダリューンの死を知った兵達の中から、逃亡する者が相次いだからだ。

 しかし、残った兵からアルスラーンを認めないという声は聞かれなかった。誰も勝てなかったアクターナ軍とここまで戦ったのだ。代償は大きすぎたが、王の名誉は守られた。

 

「……また、タハミーネ王妃でございますが、崩御なされておいででした。自害、とのことです」

 牢に放り込まれたタハミーネであったが、フィトナの死で生きる気力を無くしたのだろう。サハルードにヒルメスが出陣する中、手薄になった城内でかつての侍女に命じ、秘かに手に入れた短剣で自ら咽喉を突いた。

 ヒルメスも、タハミーネの自害に至った心境には多少の同情をしたのかもしれない。パルス王妃の礼に乗っ取って、棺に収められていた。

 そう聞いても、アルスラーンは「そうか」と返しただけである。

 

「キシュワードよ。そなたには大将軍(エーラーン)の位に就いてもらわねばならぬ」

「……ダリューンには遠く及ばぬ非才の身ではありますが、全身全霊を持って務めさせていただきます」

 アルスラーンが、作り物のような声で告げる。キシュワードは受けるしかなかった。この声を聞き、誰が断ることなどできるだろう。

(俺も、生きねばならぬ―)

 死んでしまえば楽になるが、それは許されない。アルスラーンが王として生きる以上、かつてのパルスを取り戻すところまで、自分たちは死者に嗤われぬよう生きねばならない。

 

 『イスバニルの戦い』におけるアルスラーン軍の損害は、死者1万1千、重傷者1万5千という。生き残った者でも傷を負わぬ者はないと言われるほどであった。アンドラゴラスの死が無ければ、さらに増えたであろう。

 対し、アクターナ軍の死傷者は合わせて3千8百。数字だけ見ると勝敗をどう評すべきか明らかだが、なんとこの数字はセイリオスが指揮するアクターナ軍が一つの戦で負った、最大の損害になるのである。

 解放王とその臣下はいかに勇敢に戦ったことか、とパルスの吟遊詩人は謳う。アルスラーンはそれをやめさせようとはしなかったが、一つだけ要求を付けた。「我らは負けた。それを、ありのままを伝えよ」と。

 

 アルスラーンの手元に残ったのは、ぼろぼろになった、かつてのパルスの半分だけである。アンドラゴラス軍を吸収したとはいえ、軍も崩壊寸前。退却するルシタニア軍の追撃など、考えられない事であった。

「……ダリューン」

 せめて、彼が居てくれたら。どうしてもそう思わずにはいられない。ナルサスがいる、キシュワードもいる、他にも自分にはもったいないほどの臣下がいる。そう思っても、心の穴はふさがらない。

 シンドゥラで「自分は誰なのか」と暗い淵に沈み込んでいた自分を、「大事なご主君でいらっしゃいます」と救い上げてくれた人は、もういないのだ。

 

「アルスラーン」

 いつまでもただイスバニルの野を見ているだけだったアルスラーンが、ここで初めてはっと振り返った。エステルの声を聞き、感情を失ったような表情がようやく動いたのだ。

「セイリオス殿下から、借りを返してこいと言われた。ドン・リカルド卿も一緒だ。………その、私たちを許せないと思うパルス人も多いだろうし、私自身とんでもないことをしてしまったりもしたが―」

「君たちの責任ではないだろう。パルスの復興に力を貸してくれるというのなら、私は嬉しい」

 エステルの言葉を遮るように、笑顔を浮かべてアルスラーンが言う。しかし、その笑顔を見たエステルはつかつかと歩み寄り、アルスラーンの頭を掴んでいきなり抱き寄せた。

 

「泣け」

 いきなりのことで狼狽してじたばたもがいていたアルスラーンが、エステルの言葉で動きを止める。

「思いきり泣け。…それで、少しは楽になる。お前が失ったものの代わりになどなれるはずもないが、お前の傍にいてやることは出来る。どんな弱い姿を見せても一緒にいてやるから、だから泣け」

 そんな作り物のような笑顔を見せるなと言われ、しばらくアルスラーンは身動き一つしなかったが、やがて小さく嗚咽の声が漏れた。それは次第に大きくなり、ついには号泣となった。

 

 ―いつまでも続く涙の中で、アルスラーンは一つの決意を固めていた。

 良い国王(シャーオ)になろう。

 ダリューン、ジャスワント、メルレイン、レイラ、それに自分を信じて散っていった兵士たち。

 自分が良き国王として君臨すれば、彼らはその名君のために命を捧げた忠臣として名を残せる。そうやって名誉を与えることが、自分ができるせめてものことだ。

 それにクバードや歩兵隊のルッハーム、シャガード将軍も、パルスの未来のために戦ったのだ。その思いを、自分は受け継がねばならない。パルスをきっと、立て直して見せる。

 アルスラーンが顔を上げるその時まで、エステルは抱きしめてくれていた。

 

 解放王は、再び歩み出す―。

 

 

 一方、本人の気持ちはともかくとして、大勝利を収めたセイリオスは軍を纏めてザーブル城まで撤退した。

「随分やられたな」

 ギスカールが少し批難するように言うと、セイリオスは頭を下げた。アクターナ軍の損害3千8百という数字は、ギスカールの想定にはない。アルスラーンが予想以上に健闘したということだ。

 アクターナ軍でなければ、負けていたかもしれない。そうなればアンドラゴラスもヒルメスも一気に呑み込み、パルス西部の奪還にも乗り出していただろう。ここで大きく叩けたことは、結果としては良かった。

 とはいえ、セイリオスには反省してもらわねば、と思う。聞いたところによると、あと少しで死んでいたというではないか。自分の存在がルシタニアにとって、兄二人にとってどれほど大きいのか、よく考えてくれ。

 

「再編を終え次第、ルシタニアに向かいます」

 兵士の補給はセイリオスの方から断った。訓練する暇もない今では当然だろう。それに元々アクターナ領で養える軍を考えると、4万は少し無理がある。妥当な規模は、3万余だ。

 立て続けの戦となるが、神の名を持ち出すボダンに対抗するにはアクターナ軍の力が必要不可欠である。済まぬな、と肩に手を置き労わってやる。打算が入っているとはいえ、本心であるのも事実だ。

(こいつがいたから、ここまで来れた。そして、まだまだ先に進む)

 本国がどんな状況になっていようが、ボダンごときに負ける弟ではない。本国の教会勢力をも叩き潰したルシタニアは、世界でも屈指の超大国と化すだろう。かの大帝国を超えることも、夢ではない。

 

「船の手配は、既にゴドフロワに命じて始めさせているが、急な事なので渡せる兵力は5万から6万というところだ」

 ボダン軍は10万を超えているだろう。こちらも10万を渡すとなると、準備にさらなる時間が必要になり航海が冬期にかかってしまう。冬は嵐が多く、航海を避けるのが常識である。

 かといってのんびりと来春まで待っていたら、トゥリヌスたちが耐えきれるかどうかわからない。

「充分です。今はとにかく早くルシタニアに着くべきでしょう」

 それでも護衛のガレー船、人員輸送の帆船、馬のための平底船を合わせれば、数百艘の大艦隊になる。荷を積み込むだけでも大仕事だ。それを滞りなく進めるギスカールの行政手腕は、流石であった。

 

 パルスでの戦を終えた軍神は、次の戦場へ―。

 

 

 バダフシャーンに撤退中のヒルメスが、イスバニルの結末を知るのは、少し先のことになる。カシャーン城に入城し、援軍と合流する当てもついた。諜報を再開したのは、それからだ。

 アルスラーンはアンドラゴラス軍を吸収しエクバターナに入城したが、軍はぼろぼろであるらしい。特にあのダリューンが戦死したというのが、一同に衝撃を与えた。

「………これからどうするべきか、皆の存念を伺おう」

 引き返してアルスラーンと決戦に及ぶ、というのも手ではある。しかし、大博打だ。特にエクバターナに籠城されたら面倒である。兵糧と攻城兵器が足りない。ぼろぼろなのは、こちらも似たようなものだ。

 そして何より、ただ一人のパルス王になった瞬間から、セイリオスが牙をむいてくる。

 

 バダフシャーンに戻り勢力を扶植するというのが、一番安全だろう。カーラーンは軍の再建を考えそう主張したしヒルメスも妥当だと考えていたが、サームは攻勢に出ることを提案した。

「ペシャワールを奪取するだと?この状況で、か?」

 サームが示した攻略目標はエクバターナではなく、東のペシャワール城。確かに大陸公路を抑える要衝であるが、難攻不落の城だ。そのイメージに躊躇したヒルメスを叱咤すべく、サームは言葉を続ける。

「アルスラーン軍は大打撃を受けました。我らに対応できる兵力はたかが知れておりましょう。しかも、アンドラゴラスがペシャワールの軍を呼び寄せたため、かの城も手薄。千載一遇の好機です」

 

 ヒルメスもカーラーンも、そう言われてはっとした。確かにその通りである。しかも大陸公路を取ればそこを通る商隊からの関税が見込め、それを失ったアルスラーンはさらに苦しくなるだろう。

「よし、サームよ、精鋭を率いてペシャワールに向かえ。俺はソレイマニエに向かう」

 ソレイマニエはペシャワールとエクバターナの中間辺りにある街だ。ここも要衝ではあるが、攻めるのは陽動である。取れればいいが、取れなくてもいい。アルスラーンの援軍を阻止できれば、それで充分。

 

 主従はそれぞれの目標へ向かう。パルスの混迷は、まだまだ続く―。

 

 

 そして、エクバターナ地下。蛇王を信奉する魔導士のねぐらである。

「おのれセイリオスめ…。あの女神官(カーヒーナ)め…」

 アルスラーンの殺害に失敗した『尊師』は、忌々しそうに呟いた。受けた矢傷も、じわじわ痛む。どうやら破魔の力が込められていたようで、治癒が遅い。

 これでアルスラーンも用心するだろう。手駒が少ないことを考えると、暗殺はよほど機に恵まれなければ難しく、失敗した時のリスクは大きい。蛇王の復活は、何もせず時間を待った方が良いかもしれない。

 セイリオスが討ち取っていれば事は簡単だったのに、と嘆くが、彼に言わせれば「そんな事情は知ったことではない」であろう。

 

「……だがしかし、ザッハーク様の依代に最もふさわしい肉体が手に入った。……此度の戦、勝者は我らよ」

 




これが物語としては事実上の最終回になります。
(アルスラーンの涙で終わりにしようかと考えてましたので…)


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46.その後の世界・ルシタニア内乱

『この時エステル卿が傍にいてくれたことは、解放王にとって何よりの救いだった』

 アルスラーンの生涯を間近で見通すことになる、エラムが後に残した言葉である。セイリオスがそこまで狙ってエステルを派遣した、ということはないだろう。結果としてそうなった、というだけだ。

 エクバターナに入城したアルスラーンは、パルス第19代国王(シャーオ)として即位した。エクバターナの住人はそれを、生温かい視線で受け入れた。

 

「……無理もございません。このところ、ころころ主が変わりましたからな」

 ボダンが統治していた頃ならともかく、1年近くのセイリオスの統治で、住民はそれなりの満足の中を生きていた。それがフィトナ、ヒルメスと代わり、今度はアルスラーン。情勢を把握している者などいないだろう。

「民が求めるのは『誰が為政者であるか』ではなく、『良き為政者』です。善政と思えれば誰であろうと、どのような政治形態であろうと、一向に構わないのです」

 新王に政治の心得を説くナルサスに、アルスラーンは深く頷いた。笑顔を見せることが減った、一人で物思いに耽ることが増えた、とは思うが、虚ろの状態からは甦った。とりあえずは安心できる。

 

 エステルの方も、どうやら聖マヌエル城であったことを知ったようだが、大丈夫なようだ。イスバニルの丘でアルスラーンと話す前はおどおどしていたのに、連れ戻ってきたときには気丈な女騎士の顔になっていた。

「しばらくパルスに留まる。よろしく頼む」

 アルスラーンの絶望を見て、自分が支えてやらねばと思ったのか。それとも自分のことなど大したことではないと開き直ったのか。とにかく、アルスラーンを救い上げてくれたことには、感謝してもしきれない。

 ただ、困る事がないわけではない。二人の関係性が全く分からない。果たしてこの二人に、男女の想いはあるのかないのか。キシュワードからもルーシャンからも聞かれたが、ナルサスも答えようがなかった。

 もちろんルシタニア人ということで嫌悪を見せる者も多かったが、アルスラーンがそれを窘めた。彼がエステルにした特別な事と言えば、そのくらいである。

 

 ほどなく、間諜からヒルメス軍の動きが伝えられた。軍を分断し、本人は北東のソレイマニエへ。もう一隊はさらに東。狙いがペシャワールの奪取であるのは明らかである。

「援軍を送らないというわけにはいかないだろう」

 軍議の席で、アルスラーンが苦々しく言った。しかし、動かせた兵力は騎兵3千に歩兵1万でしかない。エクバターナの防衛と軍資金、兵糧の不足が、今度はアルスラーン軍に圧し掛かっていた。

 ひとまず、その部隊をイスファーン将軍に率いさせ、東に向かわせる。情けない話だと誰もが思う。あのパルスが、たった1万3千を動かすので精一杯というのだから。

 将軍も減った。生き残った者でも、右腕を失ったザラーヴァントと左肩を貫かれたジムサ、背中に大怪我を負ったエラムは療養中だ。エラムも、医師の必死の治療で何とか命を拾うことができた。

 だが、片腕を失ったザラーヴァントが今後前線に出るのは無理だろう。回復したならエクバターナの城司に任じようとナルサスは考えている。彼に代わり、ドン・リカルド卿に軍を率いてもらう。

 

「……内憂外患とは、このことだ」

 私邸に戻ったナルサスが、顔に手を当てながらつぶやく。正直に言って、兵力がない以上ペシャワールは諦めるしかない。ナルサスは魔術師でも錬金術師でもない。無いものは、どうしようもない。

「ダリューンの奴、俺にこんな面倒を押し付けて逝きやがって……。あの大馬鹿野郎め……」

 当然ながら、ダリューンの死がアルスラーンにだけ影響したわけではない。例えばキシュワードは大将軍として軍の再建に励む傍ら、自己の鍛錬に費やす時間が増えた。ギーヴは文句を言わず騎兵隊を指揮している。

 ナルサスは絵筆を置いた。アルスラーンとの約束であった宮廷画家の地位も、パルスの復興が成し遂げられるまで据え置いた。ダリューンが生きていれば、「実に結構なことだ」と言ったであろう。

 

 しかし、酒量が増えることだけはどうしようもなかった。控えようとしても、夜に一人になるとどうしても酒が欲しくなる。潰れるまで飲まずにいられない。

 いくら後悔してもしきれないのは、やはり連環馬だ。あれだけは読み損なった。そして、その読み損ないが致命だった。今の窮状もダリューンの死も、あれさえ読んでいれば防げたはずだ。

「……一人で飲んでいると、体に毒だよ。……気持ちは解るけど」

 心配して訪れてきたアルフリードを、うるさいと追い返そうとして思いとどまった。彼女も兄と一族の大半を亡くしたのだ。いつもの様に明るく、気丈に振舞っているが、無理をしていないはずがない。

「なら、付き合ってくれ。……お前の方も、愚痴を聞く相手がいた方がいいだろう」

 

 ……翌朝、早々からナルサスはアルスラーンに目通りを願い、冷や汗を流しながら奏上した。アルフリードと結婚しなくてはならなくなった、と。

 いきなりすぎて「は?」と聞き返したアルスラーンに、ナルサスはより汗を増して説明する。まあ単純な話ではある。二人で泥酔するまで飲み、その勢いで行きつくところまで行ってしまったということだ。

「………」

 記憶はないが、こうなってしまった以上責任は取らねばならない。決して嫌っていたわけではないし、相手がアルフリードで良かった、とは思う。

 女の方は恥ずかしがったり「十八で結婚の予定だったのだけど」と照れながら言ったりしたが、願ったり叶ったりで嬉しそうである。

 

 パルス一の智者らしくない失態に、アルスラーンは思わず噴き出した。結婚の許可を求めるナルサスに、笑いながら二人のことを祝福した。

「わかった。許可するも何も、臣下の結婚のことまで王が口を出すべきではないと思う。だが、このところ暗い話題ばかりだったのだ。盛大にやろう」

 ダリューンの死から、初めて爆笑した。あのナルサスが、と思うと、どうにも堪えられない。自分を笑わせるために企てた、ナルサスの策謀ではないかと思ったほどである。

 なにはともあれ、この一件以来、沈み込みがちだったアルスラーンの宮廷が少し明るくなったのは確かだ。ナルサスの酒量も減った。……療養中のエラムから軽蔑の眼差しを送られたことだけが、問題だったが。

 

 一方、軍事的には明るい展望を描けそうになかった。ペシャワール城救援の見込みは立たず、大陸公路の支配権は諦めるしかない。大陸公路の関税以上に、パルス王の威信を失うのが痛い。

 軍資金と兵糧はギランの港にいるグラーゼに連絡をつけ、何とかするしかない。今後は海路とエクバターナ=ギランを結ぶ南北の道が重要になるだろう。トゥースをその防衛として派遣した。

 トゥラーンの内乱は終結し、イルテリシュが新王となったという。今後、ダイラム地方にトゥラーンの侵攻が予想される。チュルク、ミスルとてどう動くか判らない。

 シンドゥラだけはいまだ同盟関係にあるが、あのラジェンドラ王の事だ。好機と見れば、直ちに掌をひっくり返す。ただ、ヒルメスの勢力圏と隣り合っている現状、今はまだ維持する方が彼の利となろうが…。

「ルシタニアが再び攻め込んでくる可能性は低いと考えていい、というだけが救いだな」

 パルスを滅茶苦茶にした元凶の一人であるボダンが今の状況の救世主、というのは何とも皮肉だが、セイリオスをひきつけてくれるなら何でもよい。あの男とだけは、二度と戦いたくない。

 

 

 さて、そのセイリオスはマルヤムを出航し、自領であるアクターナに寄港していた。留守を任されていたルッジェロは直ちに最新の情勢を伝え、同時に水や食料の補給を行う。

「本国は混乱しており、誰が敵で味方なのかもはっきりしません。ただ、ボダンに従っている者も、心から従っているわけではないはずです」

 ボノリオ公爵とトゥリヌスは南部のマスティアという海港都市に逃げ込んでいた。ここは古来より海に突き出た岬を要塞化した、難攻の地として知られている。

 二人が何とか粘っているのはそのためと、何よりボダンの政略性の無さが大きい。ボダンは全軍に対し、二人に味方した者は降伏を一切認めない、全て抹殺すると断言してしまったのだ。

 彼にしてみれば背教者とそれに味方した者には死あるのみ、という当然の理であり、断言したことに後悔や反省は微塵もないだろう。実際、攻め落とした城塞の一つを鏖殺した。

 さらに、一部の軍はお墨付きを得たと言わんばかりに、関係ない者に対しても略奪暴行に励む始末だ。背教者である、とさえ言えば、何をしようと咎められる恐れはない。

 マスティアの住民は陥落すれば皆殺しだと恐怖し、必死で二人に味方している。

 

「……確実に味方と言えるのは、トロズ伯か」

 最後に確認して、セイリオスは軍を進めた。出航した船団はマスティアではなく、そのトロズ伯の領する港に向かわせた。全軍をそこに上陸させる。

 トロズ伯は素直で表裏のない人であるが、悪く言えば考えの底が浅い。今回ボダンに味方しなかったのは、政敵のコラード候が先にボダンに味方したためである。あいつの後塵を拝せるか、というだけだ。

 それだけならまだしも、そのコラード候がトロズ伯の所領を狙い攻め込んできたため、反ボダン、王家支持に肚を決めた。一度そう決めたら考えを翻さない男である。表裏がない分、信用できる。

 

 トロズ伯領に腰を落ち着けたセイリオスがまずやったのは、ボダンに替わって大司教になったエンゲルベルトの書簡を、敵味方問わず諸侯と教会に送り付けたことだ。

「ボダンは国政を壟断し、王家の継承にも関わろうとした。司教の分を超えた行いである。腐敗堕落がここに至るとは嘆かわしい。聖職者は世俗に関わるべきではなく、今は教会自身が変革しなければならぬ時である」

 死ぬまでに一度でいいから見てみたいものの一つが、政治に介入しない聖職者と言われた時代である。エンゲルベルトの書簡は諸侯の心を揺るがすに充分だった。

 彼としてもボダンのやり方には常々反感を覚えていたし、東方教会との融和を果たさねばならない立場にある。これまでの教義を捨てねば成せぬことであり、そのためにはボダンを悪役にするのが最も手っ取り早い。

 もちろん打算もある。ギスカールやセイリオスの実力を間近で見て、自分たち聖職者が遠く及ばない存在であると重々承知させられた。ボダンの真似をして国政に関わろうとすれば、たちまち叩き潰される。

 

「神の言葉を聞かぬ背教者め!!!地獄の業火に焼き尽くしてくれん!!!!!」

 ボダンが激怒したことは言うまでもない。それに放っておくと離反する諸侯が続出しかねなかった。トロズ伯領を攻めているコラード候に大部隊を合流させ、セイリオスを一気に討ち取ることに決めた。

 この時のボダン軍は15万と言われ、ボダン本人は後方でさらなる軍の動員を進めていた。対してセイリオスはトロズ伯の1万弱を加えた6万余。しかしセイリオスに焦りは全くない。

「15万というが、精鋭はせいぜい2、3万だ」

 農民や傭兵をかき集めた軍に過ぎない。コラード候は勇猛な軍司令官として知られており、彼に軍を任せたのはボダンにしては良い選択をしたと言えたが、やはり軍事には素人、数しか見えてないのだろう。

 

 コラード候もさすがに理解している。正面から戦えば、アクターナ軍と戦った部隊が一撃で粉砕され、それが全軍に波及して潰走するであろう。無策のまま会戦を挑むのは、無謀でしかない。

 だからといって時間を掛ければ、15万もの軍を支える糧食その他諸々が不足する。これもボダンの素人性を証明するものだが、兵站という概念を理解してないのだ。自腹を切るなど、絶対にやりたくない。

「………」

 彼としては知恵を絞ったつもりだった。まず特に質の悪い部隊を各城塞に振り分けた。これは囮だから質が悪くともよい。そして自身は比較的質のいい部隊を連れ、セイリオスの進軍路に埋伏させた。

 セイリオスは先鋒にトロズ伯の部隊、次いでアクターナ軍、後方にルシタニア諸侯軍、という順に行軍していた。後方から襲い諸侯軍を崩し、その勢いでアクターナ軍を叩く。そう考えたのだ。

 

 地名から『カゼルスの戦い』と呼ばれることになるこの戦いで、コラード候は惨敗を喫する。後方の諸侯軍を崩すどころか逆に押し返され、そこに反転してきたアクターナ軍の突撃を受けて四散五裂したのである。

 パルス戦役を越えたルシタニア軍は、かつての軍とは別物となっていた。それを考えなかったのがコラード候の失敗と言える。

 そして当然ながら、セイリオスはコラード候の動きを掴んでいた。最後尾に置いたのが、サハルードで活躍した猛将プレージアン伯の部隊である。彼ならどんな大敵でも臆することはない。

 

「進め、進め!奴らなど木偶のようなものだ!臆する奴は、後で殿下の特別訓練行きだ!!!」

 プレージアン伯には冗談交じりに鼓舞する余裕すらあった。だが兵士たちにとっては冗談ではない。セイリオスの特別訓練など、真っ平御免である。それなら今戦った方がいい。

「……まったく、あの男は勇猛と評するより、頭のねじが飛んでいると言うべきだな」

 そうぼやいたゴドフロワも、諸侯軍全てを反転させプレージアン伯に続く。たった2万でしかない諸侯軍が、10万余のコラード候の軍の真央に飛び込んだのである。

 

 コラード候の軍が統一された指揮系統の元、一糸乱れぬ動きができたのであれば、包囲殲滅に持ち込めばいいだけであった。だが予想外の敵の奮戦に気を呑まれ、圧倒的な大兵である彼らの方が臆してしまった。

 その間にアクターナ軍まで戦場に到着したことにより、勝敗は決定的となる。コラード候は敵の中央突破を許し、逃げようと雑兵に紛れ込んだがエルマンゴーという騎士に討ち取られた。

 当初、彼はそれが敵の総大将とは思っていなかったらしい。いい剣を持ってるな、と、それを奪い取ろうとしただけであった。彼は戦後の恩賞で重賞に加えて、その剣も正式に手にすることになる。

 

 カゼルスの戦いの結果を受け、ルシタニアの国中に衝撃が走る。コラード候があっさり負けた上に戦死したと聞き、ボダンが集めていた軍も四散してしまった。諸侯はこぞって自領に逃げ帰る始末である。

 セイリオスはそのままマスティアに向かい、そこを解放する。ボダンが送っていた包囲軍は、セイリオスがやってくると聞いただけで逃げ去った。

 マスティアに入城したセイリオスを迎えたのは、ボノリオ公爵だけだった。トゥリヌスはどうしたと聞くと、つい先ほどアクターナ軍の軍旗を見た安堵で気絶したという。

「………あの男らしい」

 げっそり痩せて顔色も土気色になりながらも最後まで頑張ったのだから、勘弁してやって欲しい。そうボノリオ公爵に笑いながら言われて、セイリオスも笑った。

 




イスバニル戦後の話はこのくらいの密度になります。


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47.その後の世界・ルシタニアの躍進

 ボダンの逃げ足の早さは、この時も発揮される。カゼルスの戦いで国内の状況が一転したと見ると、すぐさまわずかな側近だけ連れて姿を消したのである。

 次に現れたのは、ルシタニアにとって北の大国となる、ゴール王国の首都ルテティアであった。彼にしてみればこの国を参戦させて状況をひっくり返すための外交交渉であり、決して逃げたわけではないらしい。

「教会の一大事である!ゴール王は速やかに軍を発し、背教者どもを討つべし!!!」

 ボダンの調子は相変わらずだった。群臣たちはそろって眉をひそめたが、それ以上に彼らを困らせたのはゴール王がとても敬虔な王であった、ということだ。

 

「神よ、ご安心なされませ。私めが、必ずや貴方に背きし者を討ち果たして見せます」

 ゴール王ロベールを動かした最大の報酬が、『信仰の護り人』の称号であった。彼はこの称号をイノケンティスと争い、ギスカールに惨敗したという過去がある。今度こそ、と意気込む王を、誰も止められない。

 ちなみにギスカールがこの称号を欲したのは、侵攻の大義名分とするためでしかない。マルヤムからパルスに攻め込むにも使われた。中枢不在のルシタニアに攻め込む国がなかったのも、この称号のためだ。

 ロベール王としては、ただその名誉が欲しかっただけだろう。ルシタニアがそれにふさわしくないとなれば、ふさわしいのは自分しかいないと言うのは、確かに衆目の一致する所であった。

「神の威光を、世界に示す時である」

 ……彼の不幸は、相手にした敵が神など恐れぬセイリオスであったことに尽きる。

 

 ゴール王国の動きを掴んだセイリオスは、迷うことなく軍を北上させた。およそ5万5千である。アクターナ軍とマルヤムから連れてきた兵だけだ。

 対するロベール王は、傘下の諸侯も含めて7万の精鋭を動員した。カゼルスの戦いで量だけだったコラード候が惨敗したのを見て、質量ともに重視したのだ。

 そこまでは良い判断と評価できるが、隣にボダンがいたことが不幸の始まりになった。ここまで来ても意気軒高なボダンは即刻の討伐を主張した。それに引きずられてセイリオスに野戦を挑んだのである。

 ちなみに後世の軍学者がセイリオスに対するにはどうするか考えた時の話で、その人はひたすら城塞に籠るのが良いと結論付けた。絶対に野戦を避け、相手が諦めるまで粘るしかない、と。

 

 『ミルバッシュの戦い』は、全てがセイリオスの想定通りに進む。中央を厚くした7万のゴール軍に対し、セイリオスは両翼にアクターナ軍を二分した。開戦と同時に、アクターナ軍が突撃を開始する。

 中央が耐えている間に、両翼を崩す。勢いに乗った騎馬隊が後方を遮断したことで、絵にかいたような包囲殲滅戦が展開された。ロベール王に出来たことはわずかな近衛兵とともに逃げたことだけである。

 ルシタニア軍の戦死4百。対しゴール軍は戦死3万、降伏3万と、文字通りの全滅に等しい損害を出した。西方世界は骨の髄から震え上がった。もはやルシタニア軍は、完全に精巧かつ精強な戦闘兵器と化している。

 這う這うの体で首都まで逃げ帰ったロベール王だが、彼にとっての救いは季節が冬に入り、しかも例年になく寒気が甚だしかったため、セイリオスがやむなく軍を止めたことだ。

 命拾いした、とは言えたが、春になれば敵は来る。防ぎきれるとは到底思えない。ルテティアの群臣は蒼白になりながら、ボダンに呪いの眼差しを送った。

 

「カールルッドに使者として発つ」

 ボダンもさすがにその視線には気付いた。彼はゴールの北西、海を渡った島に本拠を置く、カールルッド王国に向かうことにした。名目上は、またしても援軍を求めるためである。

「ボダンだと?………捕らえてルシタニアに送ってやれ」

 カールルッド王エドウィンは、特に迷うことなく断を下した。ボダンに味方する気はさらさらない。元々、ゴール王国は大陸の所領を巡って幾度も争ってきた宿敵である。何故それを助けねばならぬのか。

 そういった利害より信仰が優先する、というのがボダンの主張であるが、エドウィン王はそこまで敬虔な信者ではなかった。いきなりやってきて居丈高に国政に口出しする聖職者など、邪魔以外の何者でもない。

 だがイアルダボート教を信仰する国であるから、当然ボダンの味方もいる。急報を受けたボダンは間一髪のところで脱出に成功した。とはいえ、ゴール王国には帰れない。彼はまた逃げることになる。

 

 ボダンを取り逃がしたエドウィン王は舌打ちしたが、セイリオスの元に使者を送り、正式にルシタニア=カールルッド同盟を結ぼうとした。同時にゴール王国の分け取りも提案する。

 カールルッドは島国であり、強力な海軍を保有していた。セイリオスとしては攻めにくい国である。アクターナ軍は陸上でこそ絶対無敵の力を発揮するが、海戦の訓練は積んでいない。

 それにエドウィン王は控えめに、ゴール王国の主要部はルシタニアの物と認め、自身は北の湿地帯が広がる地方を分けてくれればいい、と言ってきた。それなら、ここであえて敵対する理由はなかった。

「正式に承諾するのは王であり、私にその権限はない。ただ、賛意は示す」

 セイリオスはそう言い、使者に書状を持たせてマルヤムにいる兄たちの元に送り出した。内政の再建を行いつつ、春になるのを待つ。

 

 

「……流石、と言う他ない」

 カールルッドの使者、そしてセイリオスからの詳報を受けたギスカールは、つい唸った。セイリオスの到着から、僅か二月ほど。それで国内の平定に目途をつけ、強敵だったゴール王国を半壊させた。化物である。

「ふむふむ、本当にセイリオスは強いのう」

 これで本国に戻れると無邪気に喜べるのがイノケンティス王である。本当に気が抜ける。セイリオスが自立するなど一切考えないこの兄を見ていると、気にしてしまう自分の方が愚かに見えてくる。

 

 さて、カールルッドとの同盟の話であるが、ギスカールにも特別反対する理由はなかった。ゴールが滅亡すれば境を接するのはこの国であり、北部国境の防衛を減らせるのだから、利は充分にある。

 しかし、問題がないわけでもなかった。カールルッドのエドウィン王は、自分の一人娘とルシタニア王家の婚姻を求めてきたのである。

「兄者、この同盟は賛成しますが、婚姻というのがちと……」

 ギスカールとて、この2か月何もしていなかったわけではない。マルヤムの統治の引継ぎに、防衛体制の確立と情報収集。そして、マルヤムとアクターナの間にある、エピロス王国との外交を行っていたのだ。

 

 エピロスと好誼を結べば、ルシタニア本国からアクターナ、エピロス、マルヤムと、間に海を挟むものの領地の繋がりができる。エピロスの港を使えるようになれば、海路の安全性は格段に増す。

 エピロスとしても、東西をルシタニアに挟まれた今の状況は理解している。ルシタニア側から交誼を求めてきたのだから、これ幸いと飛びついてきた。

 しかし、考えることは一緒らしい。この国も巨大化したルシタニアに娘を入れ、自分の血を引く子にこの超大国を支配させたいのである。あわよくば、ルシタニアを乗っ取れる。

 もっともこれは、王家三兄弟の自業自得と言えば言える。兄弟そろって正妻を持たずにいたのだから、他国が狙うのは当たり前のことだ。

 

「結婚か…。予は望まぬぞ。ルシタニアの後継ならお主かセイリオスか、またはどちらかの子が継げばよかろう」

 先に来ていたエピロス王アリュバスからの縁談に、イノケンティス王は物憂げに答えた。タハミーネのことが忘れられないというより、一生分の慕情を燃やし尽くしてしまったらしい。結局、彼は生涯を独身で過ごす。

「……まあ、いいか」

 ギスカールにとっては悪い話ではない。兄の早死を願うほど人でなしではないが、これでルシタニアの王位は自分か、自分の子のものだ。セイリオスは間違いなく辞退するからである。

 さて、となるとエピロスとカールルッドの縁談にどう答えるべきか。まず兄は生涯結婚する気はない、と伝えた。そうなると両国とも、一度王の考えを確かめねばと言い、使者は戻って行った。

 

 当然ながら、近いエピロスの方が往復は速い。冬の内に再びやってきた使者は、それならとギスカールと王女の結婚を望んできた。ギスカールが王位継承権第一位となるのだから、これは当然だろう。

 ちなみにギスカールはこの年36歳、対する王女は16歳であった。政略結婚だから年齢差など問題にされなかったとはいえ、父親と同年代の男に嫁ぐ羽目になった娘の心境が、のちの大事に繋がったのかもしれない。

 対し、カールルッドの使者が来たのは、春になってからである。こちらはセイリオスとの結婚を強く望んでいる。できればセイリオスをカールルッドの王配として、次代の共同君主にしたいと言う。

「あいつを渡せるか!!!!!」

 冗談ではなかった。何故手中の宝玉を他人にくれてやらねばならん。他国の使者の前ということを忘れ、自国の王を差し置いてギスカールは叫んでしまった。ただ、その気持ちは群臣たちにはよく理解できただろう。

 それを受けた使者は、それならこちらから輿入れさせるので、二人に子が生まれたらカールルッドの次期国王に迎えたいと言う。

 

「……やけに必死だな?」

 ギスカールが首を傾げるほど、カールルッドの使者はセイリオスとの婚姻を求めてきた。何か裏があるのかと探ってみたが、判明したのは簡単な話だった。

 春になってすぐ、エドウィン王とセイリオスは会談の席を設けている。ゴールに対する軍事行動について、実務者との間で話を詰めておく、という名目だ。内容についてはギスカールも納得の結果で、不満はない。

 しかしエドウィン王はその席に、娘もこっそり連れて行ったらしい。ゴールを半壊させた男を取り込みたいが、娘があまりに嫌がるなら考えねばならぬな、というだけの思いだったろうが、それが裏目に出た。

 どうやら娘の方が乗り気になり、「絶対に結婚する」と言い出したとのことだ。自分の血を引く者にカールルッド王家を継いでもらいたいエドウィン王としては、何としてもこの縁談を纏めねばならなくなった。

 

「策謀も弄しすぎると墓穴を掘る、ということだ」

 遠い島のエドウィン王が頭を抱えている光景を想像し、ギスカールは西の空に皮肉な笑みを送った。娘を人質に差し出したようなものだ。カールルッドを取り込む好機である。

 マルヤムをモンフェラートに任せ、イノケンティスとギスカールも本国に向かった。セイリオスは春になるや本国をゴドフロワに任せ、アクターナ軍だけ率いてルテティアに向かったらしい。

 補給線だけ確保し一直線に向かってきたアクターナ軍に対し、ゴール王国の抵抗は弱弱しかった。首都ルテティアは民衆を徴用し傭兵をかき集めた結果四十日持ちこたえたが、所詮は無駄な抵抗にすぎない。

 諸侯からは見限られ、ルテティア陥落は避けられないと絶望したロベール王は、身の安全を条件にルシタニアに降伏する。以後、残存勢力が抵抗を続けるものの、公式にはゴール王国はこの年に滅亡したとされる。

 

 ルシタニアが急激に勢力を拡張し、セイリオスが『軍神帝』の異名を確固たるものにしつつある中、希望の一つもない逃避行を続けていたのはボダンである。

「何故じゃ、何故勝てぬ!おおイアルダボートの神よ、どうかご加護を!!!背教者に裁きを下す神の使徒に、どうかご加護を与えたまえ!!!」

 つまるところ、ボダンとセイリオスが衝突する理由はこの点に尽きる。この世を治めるのは「神」と考えるボダンと、「人」と考えるセイリオスでは相容れるはずがなかった。

 

 ボダンは結局アクターナの北に位置するキサルピナ同盟に逃げ込んだ。この同盟は自治都市の集合体で、伝統的に王や皇帝といった権力者に対する反感が強い。

 しかし、彼らの目的はあくまで「自治権」の確保でしかない。さらに言えばその都市を牛耳る有力な家系が、自分達がこの都市の王様として君臨したい、というだけだ。そのため王や皇帝が邪魔なのである。

 彼らの反感は、宗教でもイデオロギーの問題でもなかった。そしてこの時は、ルシタニアの力が圧倒的すぎた。同盟だけでは到底相手にならず、ゴール王国の状況を見てなお対ルシタニアに立つ国など無い。

 ボダンを匿ったはいいが、このままではセイリオスがやってくる。滅亡は確実だ。自分たちの権力が失われる、と感じた各都市の代表たちは一室に集まり、一言も交わさず頷き合った。

 

「……ボダン大司教、各都市の代表を集めました。皆に神の言葉をお伝え願います」

 ボダンが案内されたのは、ただの石造りの部屋であった。どういうことだといぶかるボダンが振り向いたその時、部屋に潜んでいた一人の男が背後から短剣を突き立てた。

「おのれおのれおのれ……。背教者どもよ、地獄に落ちるがいい……。……………神よ、…我が魂は、貴方の…御許……へ……」

 ボダンの逃避行は、この部屋で終わる。30年早く生まれていれば、聖人として名を残したかもしれない男の死であった。

 

 ボダンを殺したキサルピナ同盟はルシタニアにそれを告げ、以後傘下に入る事を願った。税金は払うが、都市の自治権を認めて欲しい、というものである。

「調子のいいことを言いやがる」

 ギスカールは宮廷書記官のオルガスに不満を見せた。ルシタニアの傘下となれば、防衛の責任者はルシタニアになる。安全保障を買いながら、内政面での自分たちの権力は保持したいという肚だ。

「……だが、まあいいだろう。傘下に入りたいと言うのなら、認めてやる。ただし法はルシタニアの法に従ってもらう。勝手は許さん。その線で、話を進めろ」

 徐々に骨抜きし、順次解体してやる。そのギスカールの意を汲んだオルガスは一礼して退室した。以後、キサルピナ同盟は存在意義を見失い、必然として自然消滅の道をたどる。

 

「これで、西方に我らの敵はない」

 ギスカールがルシタニアの国政に関わり始めた20年前から見れば、信じられないほど領土は広がった。あの時点で、ルシタニアがここまで発展すると予想した人間が、一人でもいるだろうか。

「………だが、広がりすぎたな。しばらく内政に専念し内側を安定させねば、うっかり国を空けることもできん」

 ギスカールは流石に現実をわきまえていた。領土が増えても、アフターケアをしっかりせねば、本当に増えたとは言えない。ボダンのせいで混乱した国内の立て直しも必要だ。

 パルスは当分アルスラーンとヒルメスの内乱が続くだろうし、カールルッドとエピロスとの好誼も成り立った。婚儀と聞かされてセイリオスは渋い顔をしていたが、ルシタニアの為と判断したのかすぐ折れた。

 各国もルシタニアがどう出るかという懸念で、軍事は控えざるを得なかった。下手に仕掛けて相手がルシタニアに泣きついたら、目も当てられなくなる。

 

 この後、西方世界は比較的静かに1年を過ごす。幸いなことに全国的に気候も安定し、不作に苦しむこともなかった。ルシタニアにとっては順風が吹いていたと言えるだろう。

 この中で、ルシタニアはかねてより検討していた新都の建造に取り掛かる。ラヴィニアと名付けられることになるこの都市は、のちに西方世界の中心となる。

 

 たまたま東方の安定のため旧マルヤム王国の首都イラクリオンに滞陣していたセイリオスの元へ、二組の使者がやってきたのは、そんな時である。

 




現実世界の領土と対応させるとこんな感じになります。

ルシタニア…イベリア半島、フランスの大部分、イタリア、トルコ
カールルッド…イングランド、ノルマンディー、フランドル、ネーデルラント
エピロス…ギリシャ


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48.その後の世界・蛇王復活

 ルシタニアが順調どころか膨張する勢いで勢力を拡張していくのに対し、パルスはこの間アルスラーンとヒルメスの争いに決着をつけられずにいた。

 全体として見れば、優勢だったのはヒルメスの方だ。イスバニルでアルスラーンが負った深手が、そこまでのものだったと言える。

 ヒルメスはペシャワール及びソレイマニエの奪取に成功し、大陸公路を手中にした。そのまま、南方、ギランの港を狙う。ここでアルスラーンがギランまで失えば、国は破綻すること疑いない。

 アルスラーンも重々承知だ。残る力を振り絞る、という感じで軍を動員し、それでもヒルメス軍の半数であったが、ここは兵力差を覆しアルスラーンが勝利した。その陰には当然、ナルサスの存在があった。

 しかし、アルスラーンにできたのはそこまでだった。ヒルメスに致命的な損害を与えた訳でなく、奪われたペシャワール奪還に動くこともできず、ギランとの道をひとまず確保しただけ、という勝利であった。

 ただ、この勝利でヒルメスの勢いを砕いたのも事実だ。ヒルメスの方も限界だったに違いない。彼の方もヘルマンドス城に留まり、しばらく軍の再建に務めることになる。

 

 冬になった。西方ではセイリオスが『ミルバッシュの戦い』で完勝しながら冬の寒さを慮って軍を止めた頃である。この年はパルスでも寒気が強く、それはアルスラーンにとっては一息つけることを意味した。

「従兄殿と和議は出来ない物であろうか…」

 アルスラーンが呟く。恒久的な和議のためには、どちらかがパルスの王位を退かねばならない。それは解っているし、無理だろう。そこまでいかずとも、数年の休戦くらいなら見込みはないものか。

「無理だろうな。相手は自分こそパルスの王様だって信じているんだろう?何かを強く信じていると、それ以外は頭に入らなくなるものだ」

 エステルが言うと、人の三倍は説得力がある。「そうか…」と残念そうに呟いて、アルスラーンも諦めた。

 

 二人のやり取りを見て、ナルサスがエラムに「どう思う?」と話を振った。対しエラムは、少しだけ機嫌悪そうに、わずかに口調に怒気を交えて答える。

「エステル卿の言は妥当でしょう。それにかろうじて勝利は収めましたが、いまだ敵が優勢な状況ですから、向こうには和議を結ばねばならぬ弱みもありません」

 短い間だがセイリオスの薫陶を受けたというエステルの判断は、なかなか的確である。エラムと二人、アルスラーンの左右にあって切磋しながら支える存在になってくれればよい、とナルサスは考えていた。

 しかし、どうもエステルに対するエラムの言動には棘がある。これまで常にアルスラーンの隣にいたのに、いきなりその居場所を取られたと感じているのだろう。少々嫉妬深いのが、エラムの欠点か。

 

「エラムが言うことももっともだ。……とにかく、この冬の間にできる限りのことをせねばなるまい」

 エクバターナの財をルシタニアに取られた現状、国庫はほぼ空である。それに対しアルスラーンは国債の発行という手段を用いた。急場しのぎにはなったものの、あまり売れ行きがいいとは言えない。

「………嫌われているな、私は」

 国債を買うほど余裕があるのは、富裕者に限られる。その富裕層をアルスラーンの奴隷解放宣言は直撃したのだ。人気が無いのも当然である。

 自由民(アーザート)は自由民で、ルシタニアの支配が終わり、だんだんと以前の生活が戻ってくると思ったらこれである。彼らにとって、まだアルスラーンは経済の混乱に拍車をかけただけの存在でしかない。

 一方で、何とか財源を工面して解放した奴隷たちも、まだ国富に寄与する存在にはならない。税収を得るまでに、数年はかかるだろう。

 そのような状況で、会計を担当するパティアスは頭と胃を痛めながら、火の車状態にあるアルスラーンの財政を破産ぎりぎりで回していた。彼も、いなければ解放王の滅亡は確実だった、と言われる一人である。

 

 この冬が、アルスラーンにとって最も辛い時期であったに違いない。ルシタニア戦役が夏に集結したのが救いと言える。秋の収穫を得ることが出来ていなかったら、確実に乗り越えることができない冬であった。

 そのアルスラーンと対するヒルメスは、ギランの攻略で一敗地まみれたとはいえ、経済でも軍事でもアルスラーンより優位に立っていた。

「今度こそアルスラーンと決着をつける。そなたは身を大事に、この城で待っていよ」

 イスバニル戦後、ソレイマニエを奪取してヘルマンドス城に退却したヒルメスがまず行ったのは、マルヤムの王女であるイリーナ内親王に頭を下げたことである。

 

 ルシタニアとの交渉で、勝手にマルヤムを捨てた。ルシタニアが乗りそうな手札は王の返還以外にそのくらいしか無かったからだ。もちろん後になれば知らぬ存ぜぬで押し通し、マルヤムを奪還する肚であったが。

「私の存在が少しでもヒルメス様のお役に立てたのであれば、嬉しゅうございます。……マルヤムで無くとも、ヒルメス様の傍に居られれば、私は充分なのですから」

 無意識の行動だった。その言葉が終わる前、気付いた時にはヒルメスはイリーナ内親王を抱きしめていた。「ヒ、ヒルメス様?」と戸惑う彼女より真っ赤になり、それでもヒルメスは言う。

「……………そなたを、王妃にしたい」

 マルヤムの王女だからではない。俺も、そなたが傍にいてくれればいい。そう言い続けようとしたが、口にできたのは一言だけである。それでもイリーナ内親王は、泣きながら頷いてくれた。

 そして冬の間に、イリーナ王妃の懐妊が明らかとなった。春を迎え、腹のふくらみも目立つようになってきた頃である。

 

 しかし、ヒルメスの側にも問題がないわけではない。

「ペシャワールには替わりの将軍を入れ、サームを呼び寄せるべきでしょう」

 ヒルメスとカーラーンが考えた作戦は、三方からの多面同時攻撃である。アルスラーン軍で恐るべきはナルサスとキシュワードの二人であろう。二人では三面攻撃に対し、どれか一面に対応できないのは当然だ。

 だが、ヒルメス軍としてもヒルメス本人とカーラーン、それ以外に指揮を任せられる人材と言えばやはりサームしかない。そのサームは、ペシャワールを奪取して以後、その防衛に配置したままだ。

 パルハームを前線に出す、という手もあるが、彼が居なければ軍政が回らない。地味ながらヒルメス軍の縁の下を一人で支えているのがパルハームだ。それに代われる人材は、まだ見つかっていない。

 

「……いや、ここはザンデを抜擢しよう。あいつにもそろそろ、一軍を任せてみるべきだ」

 東方の国境はきな臭い空気が漂っていた。トゥラーン、チュルク、シンドゥラの三国とも内乱を片付け、パルスの混乱を蚕食の好機と見ていたのである。サームを動かせば、どの勢力が動くかわからない。

 さらにヒルメスの考えとしてあったのが、軍の若返りである。アルスラーン軍と比較して、将軍の年齢は全体的にヒルメス軍の方が高い。カーラーンやパルハームが老いる前に、若手も育てておきたい。

 もう一つ理由を挙げるなら、ザンデに代わる側近を得たことがある。ブルハーンというトゥラーン人である。トゥラーンの内乱で前王トクトミシュに味方し、敗れて流浪していた所を拾い上げた。

 野垂れ死ぬしかなかったところを救われた、とブルハーンは歓喜しヒルメスへ忠勤を尽くしたが、それがヒルメスの一の腹心を自負するザンデには内心大いに不満らしい。

 側近からは外れたが、他を差し置いて将軍の一人に昇格となればザンデの不満も消えるだろう。そう考え、作戦を実行に移そうと決めた矢先に、事件が起きた。

 

 パルス歴322年4月―。突如、デマヴァント山が噴火した。同時に大地震が起きる。昨年3月にも二十年ぶりと言われる地震があったが、今回の規模はさらに大きい。軍を発するどころではなくなってしまった。

「集めた軍を各地に派遣し、復興に当たらせよう」

 火山灰の降灰、家屋の倒壊、土砂崩れ、橋の崩落と、被害は多く出ただろう。王位のためにはルシタニアを引き込むまでしたヒルメスだが、王位に就いてからは領民思いの名君として通っている。

 この『二人の王による戦争』とされる内乱で救いがあったとすれば、二人とも名君に分類される統治者であったことだろう。それゆえ、分裂し、争いはしたが、パルスの決定的な荒廃は避けられた。

 

 ともあれ、この噴火と地震により戦機を逃がしたヒルメスは、秋には小さな軍事行動を起こし、アルスラーン側だった小さな城塞を二つ攻略した。戦略的価値はあまりないが、宣伝の意義はある。

 そしてこの秋には、家庭的にも彼は幸福に恵まれた。イリーナ王妃が、男子を出産したのだ。戸惑いながら初めて我が子を抱いたヒルメスの腕の中で、赤子は大いに泣きじゃくった。

「この子の名前はティグラネスにしようと思うが、よいだろうか?」

 第四代パルス王の名である。その父クシャーフルは王位に就くことが出来なかったが、彼は従弟の死後王位を奪取した。ヒルメスにとっては吉例と言える名であろう。

 

 この時が、彼個人としても、国としても幸福の絶頂であった。アルスラーンとの対決は時間を掛ける程相手が回復し差が縮まるだろうが、まだ優勢である。来年こそ、と牙を研ぎながら、冬を過ごす。

 影が差したのは、ペシャワール城を守るサームからの急報が入った時だった。奇妙、というより異様としか言えない報告である。

 ―チュルク国が、一人の騎士により滅亡したという。

 

「………なんだ、それは?」

 チュルクが滅亡したと言っても、他国との戦争に敗れて征服された、というわけではなかった。チュルクの国都ヘラートの宮殿に一人の騎士が斬り込み、カルハナ王の首を取ってしまったという。

 ダリューンがいない今、パルス第一の武勇の人といえばヒルメスであろう。そのヒルメスでも首をかしげた。とても人間技とは思えない。

 それ以降の状況は、不明。普通、こういう政変が起きれば逃げ出す者が出るはずなのだが、それが全くと言っていいほどない。もっともチュルクは盆地の中にあるので、取り締まり易いとは言えるが…。

 

 当然、サームも間者を放ったが、一人も戻ってこなかった。あまりに異様なこの状況を知らせるため、とにかく現状の報告だけで急使を出したのである。

「……チュルクから目を離すな。情報は逐一送れ」

 アルスラーンとの決着どころではない。ヒルメスもカーラーンも、表現しがたい不安に襲われていた。何か、とてもよからぬことが起きている。理屈ではなく、感覚がそう告げていた。

 その不安が何によるものか、彼らはすぐ知ることになる。

 

 チュルク軍、国境を突破。規模は10万という大軍である。まあ、簒奪者が自分の強さを誇示しようと他国に攻め込むのはよくあることだ。だが季節は真冬。しかもチュルクはパルスより寒冷の地である。

「常識も何もない奴らだ」

 真冬に大軍を動かすなど馬鹿のやる事と言っていいが、ペシャワールの守兵はサーム以下3万。10万で遮二無二攻めれば、陥落させることもできるかもしれない。

 ヒルメスは3万の兵を連れて援軍に向かった。6万で防御を固め籠城していれば、やがて敵は冬の寒さに疲れ、撤退するしかなくなるはずである。

 簡単な戦だと見たので、カーラーンはバダフシャーンに残し、副将はザンデを選んだ。ブルハーンは不死隊(アタナトイ)に編入している。二人の仲を取り持ってやるにも、丁度良い機だ。

 その予測は正しかったはずである。敵が、普通の軍であれば…。

 

 ヒルメスは西側を包囲していたチュルク軍を蹴散らしてペシャワールに入城した。チュルク軍の戦意は低く、ヒルメスの精鋭が突撃すると逃げ惑うばかりである。

 翌日には、チュルク軍の陣頭に首が二つ掲げられていた。先日西側の包囲を担当していた将軍である。不甲斐ない戦をしたことの罰であろう。

「……どうやら今度の新王は先王にも増して冷酷な輩らしいが、敵の気が引き締まったのも事実だな」

 しかしヒルメスの口調には余裕がある。援軍到着で城内の士気は大いに高まった。少々敵が気を引き締めたところで、ペシャワールを陥落させるには至らない。

 

「御意。我らは油断せず、このまま守りを固めます。こちらは兵糧も燃料も充分。わざわざ出撃せずとも相手は消え去るしかありません」

 サームも同じ考えである。敵が必死で攻めてくるとしても、三日も冬の寒気に晒されれば気も萎える。数日耐えることなどわけがない。敵はわざわざ負けに来たようなものだ。

 実際、そこから五日に渡ってチュルク軍は攻撃を仕掛けたが、ペシャワール城は小動もしなかった。城内のヒルメスもサームも、「意外に頑張るな」と敵軍を褒めていたくらいである。

 異変は、六日目に起きた。

 

「何だ、何だ?」

 その異変に真っ先に気付いたのは、城内の塔にいた見張りである。東の空が黒い。大きな鳥の群れ…と最初は思ったが、どうもおかしい。鳥にしては大きすぎる。

「………有翼猿鬼(アフラ・ヴィラーダ)!!!」

 その正体に気付いた一人が叫んだ。すぐさまヒルメスとサームに報告が飛ぶ。二人も全く考えていなかった存在の登場に仰天したが、すぐさま我に返る。

「弩弓兵!!!」

 サームの指示に従い、城壁上に弓兵が並ぶ。一度の斉射ごとに十体は落とすが、いかんせん数が多い。明らかに千はいるだろう。さらに地上ではチュルク軍が攻め寄せ、そちらの対応もせねばならない。

 有翼猿鬼は上空から大石を投げつけ、下のチュルク兵に向いて頭上がおろそかになった兵を襲う。ヒルメスも自ら弓を取って奮戦したが、上と下から同時に攻撃されるなど初めての体験である。流石に分が悪い。

 

不死隊(アタナトイ)、出るぞ!!!」

 城壁に取り付くチュルク兵だけでも蹴散らし、弓兵には上空の敵にだけ専念してもらう。ヒルメスの判断は悪いものではない。城門が空いたぞ、と歓喜した敵兵は、すぐさま噴出した騎兵隊によって蹂躙された。

「ふん、チュルクには一人の勇者もいないと見えるな!!!」

 ヒルメスの驍勇は、歴代パルス王の中でも三本の指に入るに違いない。彼が今まで恐れるに足ると評した相手はただ一人、ダリューンだけである。

 最前線の指揮をしていたチュルクの将軍を一太刀で討ち取り、雑兵を蹴散らした。恐れをなしたチュルク兵が逃げ散っていく。

 

 ―不意に、戦場が静寂に包まれた。

 ただ一騎。馬蹄がゆっくりと歩く音だけがその場を支配する。剣を構えた、黒い鎧の騎士。チュルク兵が怖気づいたように後ずさる。ヒルメスも、わけもなく冷や汗が噴き出した。

 男が駆けた。遮ろうとした兵を吹き飛ばすように蹂躙し、あっという間にヒルメスに迫る。迎え撃とうとしたヒルメスの剣を軽く弾き飛ばし、振り下ろしの一撃。

「――――!!!」

 その一撃は防ごうとしたヒルメスの剣を両断し、左肩を深く切り裂いた。

 




蛇王戦役、開始―。


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49.その後の世界・対立王の死

「陛下!!!」

 城壁の上からサームが叫ぶ。凍り付いたように固まっていた不死隊(アタナトイ)がその声で我に返り、とにかくヒルメスの身を守って退く。

 黒い騎士は追ってこなかった。理由の一つに、剣が折れたことがある。力任せにヒルメスの剣を両断したので、その際に相当な負荷がかかったのだろう。その後肩を切り裂いた際に、折れたのだ。

「医者だ!!!早く医者を呼べ!!!」

 だがそのおかげで、ヒルメスは重傷だが息はあった。剣が折れなければ、胸まで両断していたかもしれない。そうなれば即死は免れなかったはずだ。

 

「………そ、そんな、陛下が」

 ヒルメス軍の拠り所の一つが、ヒルメス個人の驍勇である。「うちの王様は最強だ!」という単純で非常にわかり易い象徴があったから、兵たちはヒルメスを畏敬してきた。

「落ち着け!まだ戦闘中だぞ!!!総員、持ち場を離れるな!!!」

 それが、崩れた。士気ががくんと落ちるのは避けられない。サームが応急の指示を出すが、動揺した兵士たちはこれまでの様に動かない。

 

「う、うわああああ!!!」

 上空から襲撃した有翼猿鬼(アフラ・ヴィラーダ)が、兵士の一人を捕らえ飛び上がる。上空から落とされたその兵士はペシャワール城の石畳と衝突し、無残な肉塊と化した。

「………」

 サームが声を嗄らして鼓舞するが、恐怖に囚われた兵士たちには通じない。それどころか有翼猿鬼が運んできたチュルク兵が内側から城門を開けようとしていたのに、怖気づいた兵士は何もできないでいる。

 それは駆け付けたサームが何とか蹴散らしたが、上空からの投石と敵兵の投下、同時に地上からの攻撃はより激しくなるばかりだ。

 

「………ザンデを、…呼べ」

 ヒルメスが苦しい息の中で声を出す。西の敵陣を突破し、ヘルマンドス城に向かえ。チュルク兵の戦意は低い。敵の大将は恐怖で縛り付けているが、ザンデの剛勇なら突破は可能だ。

「はっ!必ずや援軍を連れて戻って参ります!!!」

 ヘルマンドス城にはカーラーンの軍が残っている。当然その救援を請いに行くのだと考えたザンデは威勢よく答えたが、ヒルメスはそれを否定した。

「……違う。お前はバダフシャーンに戻り、皆を避難させるのだ。できる限り、西に逃がせ。………場合によっては、マルヤムまで行くのだ」

 それは…、とザンデが絶句した。ヒルメスはペシャワールはもう守り切れない、と見たのである。

 

「イリーナとティグラネスを、頼む」

 頷けなかった。ヒルメスはここで死ぬ気だ。重傷の身で、馬を駆けさせるなど無理であろう。そしてヒルメスが死ねば、国は崩壊する。まだ赤子のティグラネスに従おうとする者が、どれだけいる事か。

 それを理解しながら、ザンデは頷けない。喉まで「ここで陛下と共に死にます」という声が昇ってきていた。それが声になる直前、ザンデを殴りつけたのはブルハーンだった。

「何を呆けてやがる。お前は陛下に最も難しいことを命じられたのだ。自信がないなら、はっきり言え。俺が代わる」

 何を、とザンデが激高した。お前みたいな新参者に、任せられる役ではない。胸ぐらを掴んで憤るザンデに、ブルハーンは静かに告げる。

「……簡単な方は、俺が引き受けてやる」

「……すまぬ」

 もっと早く、この男と語り合うべきだった。この状況では謝る事しかできない。それも、いいからさっさと行け、とにべもなく言われた。ザンデは配下から騎兵だけを選抜し、西門へ向かう。

 

「………陛下、わずかな間でしたが、あなたの下で戦えたことを、誇りに思います」

 ザンデが去ると、サームが口を開いた。彼も状況は理解している。ここが、自分たちの死に場所となるだろう。だが後悔はない。

 アンドラゴラス王の元で万騎長まで出世した。それは充実していたし喜びもあったが、どこかに虚しさもあった。パルスの武人として示された模範の道を、ただ進んでいただけだったからだ。

 転機が訪れたのは、ルシタニアの侵攻から。運命に翻弄されヒルメスの下に付いた。今では、その運命に感謝すらしている。

 裏切り者、不忠の臣と言わば言え。そんなものは理想の主君を持てなかった者のやっかみだ。たった2年ばかりであったが、生涯でもっとも充実していた時間だった。

 

「粘るぞ。……あれが何であろうが、どれほど傷が深かろうが、俺は戦う」

 敵は顔全体を覆う兜を装備していたため、何者かはわからない。だが有翼猿鬼を使役している時点で、ヒルメスにもサームにも相手が誰かなど予想がついている。

 この間に、東の城門を突破された。後は内城に籠る。徹底抗戦の構えを見せるヒルメスとサームに、チュルク軍も手を焼いた。それを見て、ヒルメスに深手を負わせた黒い騎士が進み出る。

「……我が人生で最後の相手が、蛇王とはな」

 小さく笑った。蛇王に討たれた男として名が残るなら、なかなかの死に場所と言えるのではないか。

 

 

 ペシャワール城、陥落。その知らせは脱出に成功したわずかな兵により、ヘルマンドス城に届いた。チュルク軍は損害も顧みず、そのままヘルマンドス城を目指して南下する。

「ザッハークだ…、あれは蛇王ザッハークが蘇ったに違いない…」

 その兵の中に真実を推察をした者がいて、その声はあっという間に城内に広まった。ヒルメスの戦死という事態もそれに拍車をかけている。あのヒルメス王を打ち負かす奴など、蛇王に違いない、と。

「ザ、ザッハーク…」

 蛇王の名を聞くとパルス人は震え上がる。他国人が冗談として馬鹿にすることであるが、本人たちにとっては笑い事ではない。

 恐怖に駆られたパルス人の中から、家財を纏めて逃げ出そうとしたものが続出した。そのあまりの動転ぶりを見て、バダフシャーン人にも徐々に恐怖が伝染した。彼らはとにかく西に向かおうとする。

 

 一足先にザンデから報告を受けたカーラーンも、仰天したと言っていい。軍にも動揺が広がっている。もはや戦うことができるような状況ではないと、カーラーンも絶望するしかなかった。

「全軍で、住民も連れて西に逃げる。女子供を最優先にだ。その護衛ならば、臆病風に吹かれた連中でも、自分の妻子を護る為に踏ん張るだろう」

 ひとまず、ヒルメスの遺言に従って指示を下した。マルヤム、とヒルメスが言った意味はすぐ理解できた。ルシタニア領内に入れば、セイリオスの庇護を受けられる。

 しかし、セイリオスがここまで来てくれるはずもなく、難民の集団を引き連れて向かうしかない。蛇王の眷属にとっては格好の獲物だろう。その魔手から逃れ、アルスラーンの領内を混乱なく通過するなど不可能だ。

 

「ザンデよ、早馬でエクバターナに向かってもらう。アルスラーンにこの状況を包み隠さず伝え、民の庇護を仰げ」

 頼りたくはないが、それしかない。分裂しているとはいえ、パルスの民だ。アルスラーンなら、承知してくれるのではないだろうか。

 もちろんアルスラーンとて無償では動くまい。民は支配下に治めるだろう。だが、それでもパルスの民を蛇王の餌食にするよりましだ。

 そしてイリーナ王妃とティグラネス王子の安全を認めてもらえれば、自分などどうなろうと構わない。その線で話を進めろと、カーラーンはザンデに命じる。駄目ならば、二人だけでもセイリオスの元に逃がす。

「………はっ!」

 内心の葛藤を押し込んで、ザンデも従った。ヒルメスの最後の命令なのだ。何としても、イリーナ王妃とティグラネス王子は生かす。そのためなら、よりによっての相手だろうが、使えるものは使う。

 

 出立の準備を急ぐザンデの元を、イリーナ王妃が訪れた。

「ザンデ卿、この子を一緒に連れて行って欲しいのです」

 いつ蛇王の眷属に襲われるかわからない集団の中より、そちらの方が安全ではないか。赤子一人なら、馬にも大した負担にならない。イリーナはそう考え、息子を夫が誰よりも信頼していた男に託そうとした。

「わかりました。しかし、王妃様は……」

 カーラーンが守るとはいえ、危険はある。イリーナも何とかして連れて行くべきではないか。そうザンデが続けようとする言葉を、イリーナは遮った。

「目が見えない私が馬に乗るなどできません。そしてこの子はパルスの正統な主。私が足手まといになりこの子を危険に晒すことは許されないのです」

 反論を拒絶する強さで、イリーナが断言する。ザンデは承諾するしか無かった。赤子のティグラネスを抱え、代馬を連れてエクバターナに急ぐ。

 

 

 しかし、異変はヒルメスの領内だけで起きていたわけではない。

有翼猿鬼(アフラ・ヴィラーダ)だ!!!鳥面人妖(ガブル・ネリーシャ)もいるぞ!!!」

 エクバターナにも、東の空から黒い影が襲来する。それに、見張り搭に立っていた兵士が気付いた。その報告を最初に受けたのはエクバターナの城司となったザラーヴァントである。

「城壁に弓兵を並べろ!!!それと民を屋内に避難させるんだ!急げ!!!」

 失った右腕さえあれば、と思いながら指揮を下す。片腕では、弓は使えない。弩とて大型の物は支えられず狙いが付けられないため、出来る事は兵士に指示を出すことだけだ。

 

「ザラーヴァント卿、我らも助力しよう」

 もっとも頼もしい二人が、部下を連れて来た。ファランギースとギーヴである。弓の腕ならパルス一と二と評してよい二人の援軍に、兵たちは喚声を上げる。

「ざっと三百というところか。…俺が百、ファランギース殿が百、他の連中で残り。ふむ、奴らも本気でエクバターナを落とすつもりではないようだな」

 エクバターナを落としたいならこの十倍は連れてこい、と言わんばかりのギーヴの豪語である。しかし兵たちはそれが大言で無い事を知っている。士気は大いに高まった。

 

芸香(ヘンルーダ)も持ってきておるぞ」

 パルスでは、芸香の匂いは魔除けによい、とされている。これは単なる迷信ではなく、カイ・ホスロー王の時代に実証されたことだ。原理は不明だが、蛇王の眷属には芸香が毒となる。

 ヒルメスとの戦いの影に隠れていたが、有翼猿鬼や鳥面人妖の被害や目撃証言が増えていた。そこから蛇王復活を予見したナルサスは、厳しい財政状況の中、芸香も集めさせていたのである。

 芸香の果汁を塗った鏃により、空の敵も次々に落下していく。連動して下から攻める軍もない状況では、空中からの攻撃も大した効力を発揮しない。

 

「あわ、あわわわわ……」

 蛇王側の指揮官として派遣されていたのはビードという魔導士であったが、魔導ならともかく軍の指揮に関しては素人でしかない。予定と全く違う状況に慌てるだけである。

 元々、この攻撃でエクバターナを落とせるとは思ってない。威力偵察というか、蛇王復活のお祝いというか、エクバターナを少し混乱と恐怖に陥れる事が出来ればよい、という程度の目論見だったのだ。

「退却だ、退却ー!!!」

 半数まで打ち減らされたところで、有翼猿鬼が運ぶ籠の上から身を乗り出して叫ぶ。しかしまさにその瞬間を狙っていたファランギースとギーヴの二人の矢が、彼の喉笛を貫いた。

 ビードは籠から落ちて地面に叩きつけられた。数十ガズの高さである。まず生きていまい。それを見た怪物たちも、散り散りに逃げて行った。

 

「行ったか…。だが、まずい」

 エクバターナから黒い影が逃げ去って行く様子を、ザンデは城外の遠くから見ていた。ティグラネスを抱えての道中である。戦闘は避けるべきだった。

 しかし、あとわずかでエクバターナという状況で、ザンデの気が緩んでいたことは否定できない。ザンデの隠匿は甘く、逃げてきた鳥面人妖に見つかってしまったのだ。

 森にでも逃げ込んでおくべきだったと後悔したが、もう遅い。この一帯は木が少なく、引き返さないと隠れるのに良い森がなかったのである。早くエクバターナに着きたいと焦り過ぎた。

 

「くっ、ティグラネス様には、爪の先であろうと、絶対に触れさせぬぞ」

 赤子を抱えている、と鳥面人妖も気付いたようだ。散々にやられたからせめて貴様らだけでも食ってやる、と考えた鳥面人妖の追跡は執拗である。ザンデも愛用の大剣で応戦するが、空の敵には分が悪い。

 エクバターナまでは、視界に入っているとはいえまだ距離がある。城門もまだ閉じたままかもしれない。自分だと判れば開けてもらえない可能性もある。

 

 上空からの鳥面人妖の攻撃を、大剣で打ち払う。敵が一匹ならザンデは十二分に守りきれたはずだ。しかし左から、いきなり別の鳥面人妖が急襲したのである。

「しまっ……」

 鳥面人妖の爪を、左腕で受けた。大剣は間に合わない。ティグラネスを守るためには、そうするしかない。ザンデは躊躇なくそうした。

 だが、怪我のせいで左手に上手く力が入らない。手綱を操れなくなった。腰と太腿の力で、馬に意思を伝える。とにかく真っ直ぐ走ってくれ。

 

 ザンデを追いながら、二匹の鳥面人妖は相手を口汚く罵っていた。元々友情などない二匹である。横取りするな、早い者勝ちだ、と、ザンデより同胞の方を敵と見做している。

 それを、彼方からの矢が射抜く。芸香の汁がたっぷり塗られた鏃に、二匹は揃って地に落ちた。これもファランギースとギーヴの矢だ。

「……お主、ザンデ卿じゃな。ここで何をしておる」

 ファランギースが気付いた。彼女はペシャワールへの逃避行の際に、ザンデと会っている。ヒルメスの腹心であることは誰も知っている。名前を聞いて、彼女の部下は一斉に矢を構えた。

「頼む。アルスラーンに会わせてくれ」

 ザンデはそれに対し、大剣を捨て、馬から飛び降りて平伏した。

 




ついにヒルメスも死亡。
ほんのわずかな登場になりましたけどブルハーンがカッコいい…


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50.その後の世界・英雄を知る英雄

「デマヴァント山の噴火に引き続き、今度の急襲…。いよいよ、蛇王が本格的に復活したと見えます」

 エクバターナの宮中ではナルサスが冷静に今の状況を分析していた。予兆はあったから、予想の範囲内ではある。しかし、ルシタニア戦役の傷が回復していない今というのは、非常に時期が悪い。

「チュルク軍がペシャワール城を奪取した、ともザンデ卿から聞きました。……チュルク軍であるが、指揮していたのは蛇王である、と」

 さらに、トゥラーンとミスルも動き始めていた。蛇王の戦略は簡単だ。チュルク、トゥラーン、ミスルら周辺国を総動員しての、パルスの大包囲網の形成。机上でなら歴史に残る壮大な作戦と言える。

 

「逆に言えば、ルクナバードを持つ陛下を、それだけ恐れているということですな」

 アルスラーン軍は必死で再建を進めていたが、それでも6万から7万を動員するのがやっとというところである。今年の農作物はデマヴァント山の噴火で、大きな被害を受けた。国庫は貯蓄する余裕などなく空のままだ。

 その程度の力しか持っていないアルスラーンに対し、蛇王側の戦力は明らかに過剰すぎる。見せしめの意味もあるのだろうが、とにかくどんな理由だろうと、難敵なのは変わらない。

 なお、シンドゥラは不参加である。ラジェンドラ王がアルスラーンへの義理を重視したわけでなく、この頃東方に遠征軍を出していたのだ。それを理由に、色よい返事はしつつもパルス出兵に言質は与えていない。

 ちなみにこの東方遠征は大成功を収める。ヒルメスの領地に手を出せないでいたため、別方面で軍事的成功が欲しくなったというところだが、ラジェンドラ王と指揮したバリパダ将軍の名は大いに高まった。

 

「ではエラム。ここで最大の問題は、何だ?」

 ナルサスの試験に、エラムは「西方です」と答えた。ルシタニア、と言うよりセイリオスがこの包囲網に加われば、パルスの滅亡は疑いない。当然、蛇王たちも誘いの手は伸ばしているだろう。

「いや、セイリオス殿下は動かない。あの御方の考えは『ルシタニアのため』が第一の基準だ。今のパルスを取ったところで、復興には多大な時間と手間がかかる。そんな余計なことはしない」

 素早く反論したのはエステルだ。アルスラーンとナルサスがそれに頷き、エラムは悔しそうに黙り込んだ。ここは身近にセイリオスに接したエステルの方が、理解度が深かったということだろう。

「第一、セイリオスなら独力で我らを滅ぼせる。連合など組む意義がない」

 自嘲するようにアルスラーンが言う。しかし、事実だ。ナルサスもキシュワードも、認めたくはないが、と表情に浮かべながらも頷いた。

 

 さて、セイリオスは動かない可能性が高いとすると、問題になるのはザンデが持ってきた話だ。バダフシャーンの難民をどうするか、ということだが、アルスラーンは明確に答えた。

「見捨てることは出来ぬ。どんな理由であろうと、パルスの民だ」

 しかし、そうするとエクバターナを出るしかない。チュルク、トゥラーン、ミスルが各10万ずつと考えれば、30万の大軍と野天で戦わねばならなくなる。勝ち目は非常に薄い。

 と、そこで、真剣な軍議が赤子の声で破られた。ひとしきりエステルがあやしている間は、軍議など続けていられる空気ではない。

 

「……ねえナルサス、あの子、どうするつもりだい?」

 妻のアルフリードにザンデが命懸けで守ろうとしたティグラネスの今後を聞かれたが、ナルサスもどうしようかと悩んでいたところだ。

 ヒルメスの子である。このまま保護すれば、将来の火種となりかねない。ルシタニアに渡すなど論外だ。10年後に彼を押し立てて攻めてくるかもしれない。禍根を絶つにしても、赤子殺しの汚名が一生ついて回る。

 もう一つ困ったことが、何故か何人も子供の面倒を見てきたはずのアルフリードには全く懐かず、エステルに懐いてしまったことだ。拙いあやし方が、逆に母親に似ていたのかもしれない。

 

「ティグラネス殿はひとまずこの城で保護しよう。何であろうと、この戦いが終わってからだ」

 ナルサスとアルフリードの会話が聞こえたのか、アルスラーンが断を下す。自分たちの王が赤子を殺すような非情ではないという安堵と、将来の問題を先送りしただけの不安で、称賛も反対もできない。

 おそらく、アルスラーンとエステルの二人を除いて、皆この先どうなるか何となく予想は出来ているだろう。決して悪い事ではないのだが、割り切れないものは残る。

 不幸中の幸いはヒルメスが戦死したことと、彼を討ち取ったのがアルスラーンではなかったことか。そうだったらもっとややこしい事態になっていたはずだ。

 連れてきたザンデはと言うと、療養中である。左手の傷から毒でも入ったのか、高熱を出して倒れてしまった。意識も朦朧とするほどの重症だが、あの男のことである。不思議に死なないという気がする。

 

「……さて、話を戻すとして、どう戦うかだが」

 一段落したと見たキシュワードが言う。戦略的には、とにかくバダフシャーンの難民をどこかの街に避難させ、蛇王が率いるチュルク軍を撃破するしかないだろう。トゥラーンとミスルはその後だ。

 とは言っても、出撃するとなると出せる軍はせいぜい5万余。カーラーン率いるヒルメス軍残党と合わせれば敵の一軍と拮抗できるが、それは数字上だけの話だ。

 軍の質とて、セイリオスに粉砕された傷は今だ癒えていない。かつてのパルス軍5万ならチュルクの10万くらい易々と叩き潰して見せる、と言っても笑われなかったであろうが、今や昔日の夢である。

 ナルサスでも、今の段階では明確な勝算など立てようがない。局地戦で勝利を拾い、光明を掴み取るしかないと思っていた。

「………この戦いで、我らの勝ち目は一つしかない」

 その中、アルスラーンが迷いなく断言する。だが次の言葉は、一同を愕然とさせた。

「セイリオスを、動かす」

 

 

 そして、時は合致する。この時セイリオスは、西方はギスカールに任せて、東方の安定のため旧マルヤム王国の首都イラクリオンに滞陣していた。

 マルヤムは平穏だった。セイリオスがいる限り、反乱の目途など立てようがない。あのパルスを半壊させた男だ。どんな馬鹿でも、無謀でしかないと理解できる。

 第一、政治は旧時代の悪弊が取り払われ、むしろ良くなったのだ。もはや反乱を起こそうと考えるのは、よほどマルヤム王家に思い入れのある者か、前王朝で甘い汁を吸っていた人間しかいないであろう。

 

「今年は、パルスへの穀物輸出で大儲けできたな。あとは西部の銀山開発で有望な鉱脈が見つかれば、マルヤムの経済は安定する」

 植民したパルスの元奴隷たちが育てた作物を国家で買い取り、輸出したのである。学のない元奴隷たちだ。放っておいたらあくどい商人に買い叩かれていたであろう。数年は国家が適正な価格で買い上げ、面倒を見る。

 その資金を、セイリオスは銀山開発に使うことにした。これもパルスの技術者が流れてきたためである。マルヤム中を精査させたところ、西の方で鉱脈が見つかった。採算が取れるかはまだ調査中だ。

 

 ルシタニア全体として、この時点で軍事行動を起こす意図はなかった。そもそもパルス戦役で40万もの大軍を動員したのだ。続けて内乱と戦争の連続である。領土こそ広がったものの、領内の疲弊は癒えていない。

「数年は、軍を出す気はない」

 謁見の場で対パルス包囲網の参加を求めてきた魔導士に、セイリオスははっきりと断った。グルガーンと名乗ったその魔導士は何も抗弁せず引き下がった。仮面のせいで表情は読み取れない。

「………今度こそ決着を、か」

 セイリオスにしてみれば、変な話だ。何故、自分とアルスラーンが宿敵であると前提にされているのか。確かに気になる相手ではあるしイスバニルで激戦を繰り広げたが、勝手な期待はしないで欲しいところだ。

 しかし、そのアルスラーンからも使者が来たと聞いて、さすがのセイリオスも当惑した。

 

「エラムとやら…、ああ、アルスラーンの後ろに控えていた男か」

 使者にどこか見覚えがある、と記憶を探り、ジュイマンドの会談を掘り当てた。アルスラーンの腹心であるのだろう。エステルかドン・リカルドではなかったのは、彼らの個人的な縁に縋りたくなかったためか。

「恐れ入ります。我らが陛下の要望は、セイリオス殿下にパルスの窮状を救っていただきたい、ということになります」

 余計なことは言わないでいい、とアルスラーンからは言われている。しかしエラムとしては、内心冷や汗どころではなかった。アルスラーンは断言したが、本当にこれで大丈夫なのか。

「……こちらが、進物になります」

 声が震えた。従者が大きな箱を差し出す。蓋を開けると、獣臭さと腐臭が混じった、人を不快にする臭いが立ち込めた。季節が冬でまだましと言える。これが夏なら、もっと酷いことになっていたはずだ。

 

「………何だ、これは?」

 周囲が思わず呟いた。セイリオスは無言のままだ。腐臭に対しては不快そうな表情を浮かべたが、視線は箱から出された死体に向いている。

「先日我らが討ち取った敵、鳥面人妖(ガブル・ネリーシャ)の死骸になります」

 エラムの表情がひきつっている。アルスラーンの為なら命を捨てる覚悟はある。とは言っても、これではまるでわざと斬られるために挑発しているようなものではないか。

「………」

 普通なら、とにかく財宝をかき集めて哀願したであろう。エラムもそうするべきだと思った。しかしアルスラーンが断言したのだ。セイリオスに対する贈り物として、これ以上の物はない、と。

 

「……まず、兄上に急使を出せ。シルセス、デューレン、エスターシュ、グリモアルド、ルキア、アーレンス、全軍に出撃準備をさせろ」

 生きた心地がしないでいるエラムに対し、セイリオスがようやく口を開く。シルセスとデューレンの二人だけは想定の内だったのか、頷いている。状況が呑み込めない周囲に対し、セイリオスはさらに命令を下す。

「パテルヌス、グロッセートの両名は私に従え。モンフェラートは残る全軍を率い、兄上からの援軍と合わせミスルに攻め込む」

 この時のセイリオスは東方全軍の指揮権を持っている。だけでなく、状況に即応できるよう開戦権まで委任されていた。唖然とするエラムに対し、セイリオスが決定的な通告を下す。

「ミスルへの宣戦布告の理由は、『友邦パルスへの侵略』。アクターナ軍3万5千とルシタニア軍2万は、即刻パルスに向かう」

 

 

「あいつ、何を考えやがった!!?」

 思わず、ギスカールが叫んだ。パルス救援のため、東方の全軍を動かしたい。意味が全く解らない。何故、パルスの、アルスラーンの救援に動いたのか。

 パルス救援は名目で、本心はミスル攻略とも思えない。それならアクターナ軍でミスルを攻めている。それに領内の安定に尽力している現状でさらなる拡張は下策だと、認識は一致していたはずだ。

(パルスから、何か裏取引でもあったのか?)

 そう考えて、いや…と思い直した。どんな財物だろうが軽々しく動く奴ではない。しかも、パルスが持ってきた進物は、何と怪物の死骸一つであったという。より意味が解らない。

 

「のうギスカールよ、ここはセイリオスの思う通りにさせてやったらどうじゃ?」

 困惑と怒りの収まらないギスカールにのんびりした声で言ってきたのは、長兄イノケンティスである。問題が何だか解ってないのだろうか。確かに開戦権は与えたが、勝手にパルスと結ぶのは見過ごせることではない。

「ふうむ、しかし、セイリオスがこれまでルシタニアのためにならぬ事をしたことはあったかのう?今回も、ルシタニアのためを思ってのことではないのか?」

 むぐ、とギスカールが言葉に詰まった。セイリオスの手紙には、出師による利についても書いてあった。しかし、この兄がそれを理解しているとは思えない。ただ、弟への純粋な信頼があるだけなのだ。

 

「………………わかりましたよ。ミスル国への侵攻を認めましょう。しかし、セイリオスは後できっちり叱りますからな」

 長兄を説得するのは不可能だ、と悟ったギスカールが折れる。セイリオスも名分はあるとはいえ、流石に勝手が過ぎたのは承知の上だろう。謹慎ぐらいは命じていい。

 逆に言えば、ギスカールを怒らせるのも覚悟でパルスの救援を急ぐと判断したのだ。むしろ開戦権を与えておいてよかったかもしれない。そうでなければ、もっと大問題になったはずだ。

「ボードワン、ミスルに向かえ」

 本国は、先の内乱を鎮圧した功によって第3双子座騎士団(ジェミオス)の団長に任命したゴドフロワに任せれば問題ない。ボードワンも対抗心から功を立てたがっているし、ここは彼を使うべきだ。

 ボードワンに任せた軍は6万である。モンフェラートと合わせれば10万を越えるだろう。セイリオスの軍を含めれば、またしても20万近い軍を動員することになる。

「……まったく、予定がすっかり狂ったぞ」

 疲弊しているとはいえ、ルシタニアにはそれだけの軍を動員する余力があった。しかし、それをパルスの救援で使い尽くすとは思っていなかった。ギスカールとしては、愚痴の一つも言いたくなる。

 




セイリオスは「ルシタニアの為」ならば躊躇なくパルスを焦土にもすればアルスラーンも生かす人です。

それを見抜いたことでアルスラーンの勝利が確定しました。


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51.その後の世界・ミスルの行方

 さて、ミスル国である。ルシタニアの宣戦布告を受け、国王ホサイン三世は仰天して思考が停止した。意味が全く解らないのは彼も同じだった。何故セイリオスが、今になってアルスラーンと組んだのか。

 既にミスル軍は国境のディジレ川を渡り、パルスの南部に進軍中だった。王自ら軍を率いる、親征である。急いでエクバターナに進軍するような馬鹿な真似はしない。狙いはギランの港であり、南洋交易の覇権だ。

「アクミームが危うい。即刻、軍を返そう」

 片足が義足の魔導士が話を持ってきたとき、好機だと思った。チュルクはバダフシャーンを制圧し、トゥラーンもダイラムに侵攻を開始した。ミスルは背後から挟撃する形になる。必勝の態勢だ。

 ルシタニアにも参戦を呼びかける使者は送ったと言う。最悪でも中立を保つだろうとその男は言ったし、ホサインもそう思った。攻め込まれるはずがないと思っていた国の防御は、なおざりにしかしていない。

 

「急げ、急げ」

 ホサインは決して暗愚な王ではなかったが、軍事には疎い。国都がモンフェラート将軍率いるルシタニア軍により包囲下にあると聞き、全体を俯瞰する余裕を無くしていた。

「お待ちください。ディジレ川を渡る前に、ルシタニア軍の動向を探るべきであります」

 カラマンデスの諫言を、ホサインは聞き捨てにした。慎重策を取っているうちに国都が陥落したら、末代までの恥になる。

 ホサインはまず軍を二つに分けた。自身が向かったのはディジレ川の河口にある、シイナという港町である。もう一つの軍はマシニッサに率いさせ、上流に向かわせる。

 

 ディジレ川は大河でミスルが平坦な地形であることから、河口付近でいくつもの流れに分かれ巨大なデルタ地形を形成している。

 その支流を一つ一つ越えるのは面倒だから、自身は海路、マシニッサは上流で分岐する前の地点を渡河させようとしたのだ。上手く行けばアクミームを囲むルシタニア軍を、南北から挟撃する形になる。

 海路を進んだホサインの軍は、上陸を阻止しようとするルシタニアの海軍と衝突した。それは想定内のことであり、40隻余のガレー船を進ませた。ルシタニア軍はガレー船だけの50隻というところだ。

 船数では若干劣るが、ルシタニア海軍はまだ改革が進んでいない、旧態依然としたものである。ミスルとて決して海軍国ではないが、戦えない相手ではない。

 

「……よし、予定通り、後背から襲え」

 戦慄と共に命を下す。ルシタニアを出航したボードワンの軍は、セイリオスに命じられた通りパルスのタムル地方に停泊していた。マルヤムとミスルを陸路で繋ぐ地方だ。

 ミスル軍に気付かれぬよう、マルヤムを周航してタムルに入った。そうしたらホサインが目の前に現れた。そのまま気付かれぬよう後を付けたら、絶好の機になった。解ることはそれだけである。

(殿下は何処まで読んでおられるのか―)

 もしセイリオスが他国に生まれていれば、自分たちの考えることなどすべて看破され、今頃ルシタニアは滅亡していたかもしれない。セイリオスの存在は、ルシタニア人にとって天祐としか言いようがないであろう。

 

 前方では、両軍のガレー船が激戦中。ミスルが若干優勢と言う所か。それをホサインは後方で、輸送船団と一緒に観戦していた。そこにボードワンが突っ込んだのである。

「一隻たりとも逃すな!まずは帆船を全て沈めろ!」

 基本的に、輸送船は風頼みの帆船、軍船は櫓付きのガレー船と考えていい。小回りの利かない帆船の横腹に、衝角を突き出したガレー船が衝突する。突き破った穴から海水が侵入し、混乱する敵の様子が見て取れた。

 もちろんホサインの旗艦はガレー船だし輸送船団を護衛するガレー船もいたが、数が違い過ぎた。ボードワンの60隻に対し、ミスル軍はわずかに10隻である。

 

「王の危機であるぞ!船団を回頭させよ!」

 ホサインの号令が飛んだ。前方で戦っているミスルのガレー船団に、合図が出される。だが戦闘中の船団がそう簡単に回頭できるはずがない。生まれた混乱に乗じて、ルシタニアのガレー船団が反撃に出る。

 前後から挟撃されたのはホサインの方になった。形勢不利、挽回の余地はないと見て、ホサインは逃げ出した。とにかく船を浜に乗り上げさせ、陸に逃れる。ディジレ川を遡れるほど喫水の浅い船ではない。

 王が逃げたことで、ミスル軍の戦意は潰えた。その中でカラマンデス将軍は上陸させたわずかな部隊で殿を務めたが、ボードワンの軍が次々に上陸、衆寡敵せず、無念を抱えて捕虜となった。

 

 カラマンデスの奮戦、というよりルシタニアがアクミームの奪取を優先した、あるいはホサインのことなど無視したため、彼はマシニッサの軍まで逃げ延びることが出来た。

「カラマンデスは生きていまい…。予に良く尽くしてくれた…」

 自国の名将を哀悼するくらいには、ホサインとて情がある。対しマシニッサはそれに倣いながら、どこか喜色を隠せないでいる。これで自分がミスルの大将軍だと思っているのだろう。

 カラマンデスが捕虜として生きていることは、二人とも知らない。

 

「………」

 底の浅い男だ、と表情に出さないように軽蔑した。この男一人でルシタニアに勝てるかと考えると、はなはだ心許ない。兵数でも、敵は残ったミスル軍の3倍近い。

「とにかく、敗兵を集めて軍を立て直すのだ。それに手近な軍は、どんどん動員しろ」

 ホサインの考えが、決して間違っていたわけではない。軍を再建しなくてはどうしようもないというのは、客観的に見ても事実だった。失敗は、先の大敗を受けて、今度は慎重策に傾倒しすぎたことだ。

 ホサインは軍の再建に勤しんだが、その間にアクミームが陥落した。国王軍からの鹵獲品を見せられて、城内の兵はもう援軍の望みも絶たれたと思ったのである。城内の者全ての命の保証と引き換えに、開城した。

 

「もう少し粘っておれば…。不忠者め…」

 内心、せめて城内から見える位置まで軍を進ませるべきだったと後悔したが、もう遅い。第三者から見れば、ホサインの行動はルシタニア軍を恐れて後方に留まっていた、と見られても仕方ないことである。

 アクミーム陥落による動揺を抑える程の威厳を、ホサインは持ち合わせていない。城内に家族がいる者も多い。彼らにしてみれば、このままホサインに従い続けて家族が罰されてはたまった物ではない。

 日ごとに、ホサインの軍は目減りしていった。国王の勅命で向かっていた軍も、アクミーム陥落を聞くと引き返していく。彼らの思考は、既にどうルシタニアに取り入るかに移っていた。

 

 そこから7日、起死回生の策など無く、かといって万に一つの博打に打って出る気概もなく、ホサインは無為に滞陣を続けた。ルシタニアには完全に無視されている、という状況である。

「一度、南方に退却されてはいかがでしょうか?」

 進言してきたのは、譜代の臣ではなかった。かつてパルスの諸侯の甥でミスルに亡命してきたナーマルドである。落ち目の国王などすぐ見捨てる男だと思っていたため、ホサインは多少見直した。

 それはともかく、この言は聞くに値するだろう。ミスルの南方、ディジレ川上流にあるアカシャの街で、ナバタイ国の侵略を防いでいる軍がある。この『南方軍』は、まだ健在のはずだ。

 この時の南方軍を指揮する『総督(キャランタル)』は、カラベクという老将である。もう70歳に近いはずだ。野心も枯れているだろう。南方軍はおよそ1万5千、減ったとはいえ、まだホサイン軍の方が多い。

「よし、南方に向かい、体勢を立て直すとしよう」

 ホサインの知らないことである。カラベクにはテュニプとビプロスという息子がいて、彼らが何を考えているかなど…。

 

 さて、南方に向かうとなると、陸路よりディジレ川を遡る水路の方が便利である。将来の捲土重来を図る上でも、輸送のための船は必須だ。

 マシニッサの努力で、船の数だけは充分集まった。ホサインが乗った船は国都に残してきた国王専用の周航船とは比較にならないぼろ船ではあるが、贅沢は言っていられない。

 幸い、カラベクからは承諾の返事が届いた。案内役として次男のビプロスという男を送ってきたのだから、異心はないであろう。カラベクは本心から、ミスル国王への忠義を尽くそうとしているようだ。

「……しかし、カラベクは軍から外すべきであろうな。宰相に出世させ、文官の頂点とすることにしよう。……マシニッサよ、アカシャに着いたら、直ちに軍を掌握するのだ」

 将来、もしカラベクが異心を抱いても、軍が無ければどうしようもできまい。問題はやはりルシタニアだ。南方軍を掌握しても、とても敵対はできない。

 

「国都を失った愚王として名を遺すか……」

 ミスルの国力は、ディジレ川のデルタ一帯が生み出す農作物と、海洋での交易に拠ると言っていい。アカシャを中心に南方の領土が残ったとしても、国力はかつての5分の1あるかも怪しいところだ。

 あの魔導士の口車に乗った代償は大きすぎたという他ない。と言って、誰がこの状況でルシタニアがアルスラーンと結ぶなど思えたであろう。それこそ魔術でも使ったのではないか。

 取り留めのない思考が次々に浮かぶ。ルシタニアは沿岸部の制圧に熱中しており、ホサインとしては無視された不快感はあるものの、襲撃されることはないと思えばほっとできる船旅だった。

 

 船団が、第一峡谷と呼ばれる難所に差し掛かった時だった。両岸の崖の上に人影が見えた。次に大量の火矢が降ってきた。それだけでなく、上流からは柴を満載して火をつけた船が押し寄せてくる。

「ルシタニアの待ち伏せだ!!!」

 誰かが叫んだ。馬鹿な、とホサインは内心で叫んだ。沿岸部にいるはずのルシタニア軍が、どうやってここまで先回りしたと言うのか。理性はそう否定するが、口が動かない。

「落ち着け!敵は賊徒だ!」

 マシニッサはホサインよりは冷静に状況を把握していた。遠目に見ただけでもルシタニア兵ではない。しかし、その冷静に指揮を執る姿が仇となる。

 その姿は遠目からでも、大将だとはっきり見分けられた。すなわちその船こそ王とミスルの重臣たちが乗る船である、と。

 

 大型の弩から放たれた矢が、ホサインの船に集中する。そのうちの一本がマシニッサの胸を貫いた。何故、賊徒がそんなものを持っている。持ち運べる大きさではない。であれば、この襲撃は綿密に計画されて―。

「裏切ったな、カラベク―」

 マシニッサの思考は、惜しいところで断絶した。カラベクがルシタニアに内通して、あるいは独立するつもりでホサインを討とうとしたと思ったのである。

 その最後の声は、ホサインにも届いた。ホサインとて判らなかったわけではない。だがマシニッサが死の間際に言った言葉の重みが、全ての希望を押しつぶしたのである。

 マシニッサの死、そしてホサインの絶望により、指揮が途切れた。次にどうするべきか迷った船団は、ばらばらの行動を取ろうとする。岸に寄せる者、回頭して下流に逃げようとする者。もはや、秩序も何もない。

 その混乱の中で、ホサインの船に別の船が衝突した。衝撃で、ホサインは水面に投げ出された。それがミスル王の最後の姿になった。溺死したか鰐に食われたか、ホサインのその後を知る者はいない。

 

「ちっ!」

 それを見て、襲撃者の指揮官らしい、覆面をした男は舌打ちした。死んだか判らないのでは、後々面倒になるかもしれない。だがディジレ川に潜って川底を浚うわけにもいかない。

「まあいい、岸まで泳ぎ着いた奴は全員切り殺せ。死体は鰐の餌にすればいい」

 冷酷な指示を下したこの男が、カラベクの長男のテュニプであった。理想的とまではいかなくとも、粗方望み通りには行っている。

 

 国都アクミームが陥落した時、テュニプは国家を見限った。もはやミスルを捨てルシタニアに付くべきだ。アカシャを中心に、この地方の領主として認めてもらえれば良い、と考えたのである。

「ビプロスの馬鹿が、余計な事をしてくれやがって」

 父も耄碌したと言っていい。国王を迎え入れようなどと言い出したのは弟だ。国王の歓心を買い、その後ろ盾を以って自分を追い落とそうとしたのだろう。その程度の腹の内も見通せないとは。

 落ち目のホサインなど迎え入れてどうなるというのだ。南方軍にも、テュニプの賛同者は多かった。老齢の父に代わり、ここ最近の南方軍を動かしてきた実績がある。将兵はビプロスよりテュニプを選んだ。

 

 国都の間諜から情報を得たテュニプは素早く動いた。旗下に賊徒の扮装をさせ、第一峡谷で迎え撃つ。それは上手く行った。マシニッサは討ち取ったし、ホサインも浮かんでこない以上溺死したのだろう。

 あとは弟の死を確認できればいい。その弟を捕えたという報告が上がり、舌打ちと欣喜がない交ぜになった。やはり南方軍の兵士として、総督の息子を殺すのは気が引けるらしい。

「あ、兄者…」

 覆面はしていたが、弟は気付いた。日頃は妾腹とか蔑んでいたくせに、最後は兄弟の情にすがろうというのか。しかし、どうでもいいことだ。

「賊徒に襲われて、国王と共に死んだ。父にはそう伝えておく」

 ビプロスは鰐の餌になった。他の者も纏めて斬る。最後の最後まで助けてくれと哀願していたうるさいパルス人がいた。貴族だと言うので兵も躊躇したらしいが、テュニプは一瞥しただけで斬るように命じる。

 その男は常日頃ビプロスから金銭を貰い、彼の間者として働いていた。今回もビプロスの意を受け、南方への避難を進言した。そんな内情など、知られたところで何の影響も与えなかったであろうが。

 

 ―この頃にはパルスの戦は終わっているが、先にミスルの行く末を述べることにする。

 テュニプの計画は、ここまでは見事に進んでいたと言えるだろう。彼の不幸はカラマンデスが捕虜として生きていたことに始まる。

 第一峡谷の襲撃を生き残った兵士たちは、ルシタニアに降伏した。その兵たちからカラマンデスは一部始終を聞き、テュニプの仕業だと断定した。

 その彼はルシタニアの諸侯として認めて欲しいと言ってきていた。事件を知ったカラベクはショックで寝込んでしまい、程なく世を去る。テュニプが幽閉、暗殺したとも考えられるが、どうやらこれは本当の事らしい。

「………」

 カラマンデスとて、ホサインにそう思い入れがあったわけではない。しかしミスル人として、国王をだまし討ちにした男をそのままにはしておけない。自分の、というより、ミスル人の恥だ。

 

「ルシタニアに降伏しましょう。その代わり、テュニプを討たせていただきたい」

 かつて『アズザルカの戦い』で粘りのある指揮を見せたカラマンデスを、セイリオスは評価していた。人心を取るにも、彼の望みを叶えた方が聞こえがいい。ギスカールへの報告は自然、カラマンデス寄りになった。

「カラマンデスを、第6乙女座騎士団(ヴィルジェン)の団長に任命する」

 カラマンデスにとっては法外な厚遇と言っていい。旗下はミスルで編成することも認められた。ミスルの人心を取る政略であるのは明らかだが、カラマンデスはそれに乗る。

 

「国が滅びたことに思う所はあるだろう。だがルシタニアは正々堂々戦った相手、テュニプは裏切り者。我らの憎むべき敵は明らかである」

 ホサインの遺族はルシタニアに連れ去られ、対ミスル戦の戦勝を祝う凱旋式で見世物にされたが、殺されはしなかった。その後は地方の一都市に軟禁され、年金暮らしの生活を送ることになる。

 ここでもルシタニアの変化は明らかである。以前なら、異教徒の王族など根絶やしにされただろう。ミスル古来の信仰も、文化も認められる。求められたことはルシタニアの統治を認め、その法に従うことだけだ。

 カラマンデスはミスルの宿将として、なかなかの人望があった。少なくともマシニッサよりは慕われている。その彼が率先して反テュニプに起ったのだから、南方軍にも動揺が走る。

 

 南方軍を調略するのは簡単だった。充分な根回しを済ませた上で、カラマンデスと乙女座騎士団は南方に向かう。

 テュニプは再び第一峡谷で迎撃しようとしたが、裏切る者が続出して軍は崩壊、彼自身は断崖に追い込まれ、突き落とされるようにディジレ川に落ちた。ホサインと同じく、死体は浮かんでこなかった。

 

 カラマンデスは乙女座騎士団の団長としてミスルに駐屯する軍の指揮官となるが、ルシタニアの将軍として忠誠を尽くし、裏切ることはなかった。以後、ミスルはルシタニアの一地方を指す言葉になる。

 




タムル地方…現実のシリア・パレスチナ地方に相当

カラマンデスの行く末は考えながら書いていったらこんなことに…。
アズザルカの奮戦がセイリオスに評価されていたなどあの時には全く考えてませんでした。


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52.その後の世界・決戦前

 セイリオスが動いた。その報告を受け、『尊師』も呆然とした一人である。

「何故だ!!!」

 喚いた。それしかできなかったと言っていい。アルスラーンがセイリオスと手を組むと決断することも、セイリオスがそれを受けることも想定外である。宿敵のはずの二人が、何故手を組める。

 フィトナをけしかけてエクバターナを占拠させたときは、予想が外れてもまだ理解できた。だが今回は。アルスラーンもセイリオスも、頭のどこかがおかしいのではないか。

 その辺り、『尊師』はやはり魔導士でしかなかったと言えるだろう。魔導士としては極めて優秀で、ついに蛇王の復活までこぎつけた彼だったが、英雄の心は理解できなかった。

 

「いかがいたしますか?」

 弟子のグルガーンが静かに問う。それが、非常に腹立たしい。ガズダハムはシンドゥラで言い逃れられたがトゥラーンは二つ返事で成功した。グンディーはミスルを動かしている。功を挙げてないのはこいつだけだ。

「どうもこうもない。セイリオスのアクターナ軍が出てきた以上、チュルク軍だけで勝てるはずなかろう」

 軍事の専門家でなくとも、そのくらいは判る。アクターナ軍は世界最強の軍隊だ。少なくとも同数で勝てる軍は存在しない。トゥラーン軍と合流し、大軍を以って当たるしかない。

 なお、この時のミスルはモンフェラートがアクミームを攻めて、ホサインが引き返した頃である。その情報はまだ届いていなかったが、ルシタニアが動いた以上ミスルはもう期待できない。

 

 北進を、と進言され、蛇王は頷く前に一つ問うた。そこまで慌てて方針を変えようとするほど、アクターナ軍とは強いのか、と。

「人間の強さとは思えませぬ」

 『尊師』の返答は、逆に蛇王の関心を買ったようである。面白いではないか。ならば逆にその軍を討ち滅ぼし、西の果てまで攻めこんでやろう。

「北に向かえ」

 短く命じる。チュルク兵はそれに暗い表情で従った。従わなければ、自分だけでなく国に残してある家族まで化物の餌になる。

 

 蛇王の方針転換により、九死に一生を拾ったのがカーラーンである。この時彼は、パルハームの領地であるハサに逃げ込んでいた。蛇王の軍が北に向かったと聞き、大きく息を吐いた。

 カーラーンはアルスラーンとセイリオスが組んだことも、セイリオスが直ちにパルスに向けて進発したことも知らない。おそらく、ザンデが上手くやってくれた結果だろうと思った。

「よく、頑張った。まだ油断はできないが、敵は北に去ったという。それが確認出来たら、ここで少し休むことにしよう」

 カーラーンの言葉に、難民たちもほっとする。蛇王に対する恐怖が足を動かしていたとはいえ、さすがに限界は見えていた。追ってくる者が無いと判れば、皆へたり込んで動けなくなるであろう。

 

 とはいえ、カーラーンに休んでいる暇はない。すぐさま諜報を開始する。事態がどうなっているのかを知らなくては、次の動きも決めようがない。

 まず蛇王の軍が本当に北に向かっていて、もう追ってこないか確認するのが最優先である。念入りに偵騎を出したが、どうやら嘘やこちらの油断を誘う策謀ではないようだ。

「我らなど、眼中になかったということだ」

 パルハームが言う。狩猟のつもりだったのだろう。逃げ惑うのが面白いのかいつでも殺せると思っていたのか、追撃はゆっくりだった。そこに邪魔が入ったため、遊びを切り上げた。その程度のものだったのだろう。

 しかし、そこまで急に方針を変えるとは、何が起こったのだろうか。当初は疑問しかなかったカーラーンであったが、アルスラーンがセイリオスを動かしたということを知ると納得すると同時に唖然とした。

 

「カーラーンよ、これからだが…」

 危険が無いなら帰りたい、と言い出す者も多いだろう。しかしバダフシャーンにも偵察を出してみたところ、ヘルマンドス城は灰燼と化しているという。蛇王が略奪を欲しいままにした挙句火をかけたのだ。

 ひとまずハサに逃げ込んだのはいいとして、このまま永久にハサ領でこの難民を養うのは無理である。領主であるパルハームは自領の国力を知っている。周辺の諸侯も、ヒルメスがいない現状、従うかどうか。

 

「やむを得まい。……アルスラーンに降伏するしか、あるまいよ。巻き込んでしまってすまぬな、パルハームよ」

 ティグラネスは殺されなかった。赤子殺しをするような男ではないとは思っていたが、実際それを確認すると心底ほっとした。将来のことは判らないにしろ、現状とりあえずはこれで良い。

 あとは、自分たちのことだが、そもそもあのアトロパテネ会戦が大敗北となった原因はカーラーンの裏切りだ。パルスを滅茶苦茶にした元凶として、許せない者も多いだろう。自分はどうなろうと、覚悟はある。

 しかし、パルハームはヒルメスに忠誠を尽くしてきただけだ。パルスの現状について、彼に責任はないと言っていい。それでもアルスラーンとその臣下が、彼を許すかどうか。

 

「水臭い事を言うな。……今だから言うが、お前が陛下に仕えよと言ってきたとき、わしは嬉しかったのだ。平凡な万騎長でしかなかったわしを知り、買ってくれる人がいた、とな」

 このハサで静かに朽ちていくだけの人生と比べたら、この数年は何と恵まれていたことか。カーラーンがいなければアンドラゴラスもアルスラーンも、パルハームの偉才に気付くことはなかったであろう。

「それにアルスラーンとて、一兵でも多く欲しいはずだ。蛇王討伐に加わろうとする者を斬るような馬鹿ではないさ」

 ヒルメス軍の残党を組織してアルスラーン軍に加われば、すぐに斬られることはないとパルハームは読んでいる。その後のことは後で考えればよい。どうせ蛇王を倒さない限り、パルスも何もあったものではない。

「……うむ、その通りだ。今はとにかく蛇王をどうするべきか、か」

 

 

「合流しろだと?何様のつもりだ、蛇王とやらは」

 俺は奴の臣下になった覚えはないぞ、と嘯くトゥラーン王イルテリシュに、ガズダハムは「蛇王様の命を軽んずるのか」といきり立つ。そのガズダハムの頭に、イルテリシュは槍の柄を振り下ろした。

「うるさい。まずは状況を説明しろ。納得できる理由があれば、行ってやる」

 打たれた頭をさすりながら、ガズダハムはセイリオスが動いたことを説明する。まったくこの男は扱いにくい。蛇王ザッハークに対する敬意も恐怖もないのだから。

 

 ガズダハムから恨みがましい目で見られたイルテリシュだが、彼にしてみれば元々近いうちにパルスに攻め込むつもりだったのだ。新王の威信を上げる手段として、軍事的成功が最も手っ取り早い。

 だから蛇王のことなど知ったことではないし、あくまでトゥラーンはトゥラーン軍として戦うつもりであったが、セイリオスの名前は興味を引いた。

「セイリオスとやらの名前は知っている。パルスを散々に蹴散らした奴としてな。………面白い」

 トゥラーン軍はダイラムからパルスの北東部を席巻し、略奪した財貨は満足いく量を得ている。しかしパルスの守備部隊は民衆を連れて山間の城塞に引き籠り、トゥラーン軍をやり過ごすだけだ。

 このままトゥラーンに引き返してもいいのだが、せっかくパルスに出兵したのに略奪しただけではトゥラーン王として少し物足りない。やはり有力な敵軍と戦い、それを撃破してこそ。

「……よし、南に行ってやる」

 

 

 パルス、ルシタニア、ヒルメスの残党、トゥラーン、チュルク、蛇王の魔軍。全ての軍が、一点に向かう。

「………」

 地図の上で駒を動かしながら、この戦いはもう俺の手を離れた、と思ったのはナルサスである。もちろん考えうる限りの準備はしている。手を抜いた覚えはない。しかしそんな感慨に囚われてしまう。

 アルスラーンがセイリオスと組むと決断した時、ナルサスがまず思ったのは「無理だ」であった。あのアクターナ軍を味方にする。軍略として最上の策であり、起死回生の一手となるのは疑いない。

 しかし、セイリオスをどうやって動かせばいいのか。利で釣れる相手ではない。情に訴えても無駄だろう。ナルサスが諦めたそこを、アルスラーンは軽々と飛び越えて見せた。

 

「まずトゥラーン軍は、我らに任してもらおう」

 軍議の席で、セイリオスは豪語した。彼の軍は5万5千である。トゥラーン軍は10万、伝統的に全てが騎兵だ。かつてのパルス軍でも難敵だと思う相手を、この男は歯牙にもかけていない。

 シルセスとエスターシュの二人も、当然という顔をしている。パルスの諸将も反対はしなかった。できるものならやってみろという思いと、この男ならやるという思いが半ばしている。

「我らは蛇王のことだけを考えればよい」

 アルスラーンもそう断言した。元々、いくら今回は共闘することになったとはいえ、連携など取れるはずないのだ。個々別々に戦うしかない。トゥラーンのことを考えなくて良くなっただけでも、儲けものだろう。

 

「記録を見ても、蛇王ザッハークが策を弄する存在ではないと思います。……力押し。自らの力で、敵を打ち砕く。味方の損害など、お構いなしに」

 おそらく今回もチュルク軍と降伏あるいは略奪中に捕縛したパルス人の部隊を押し出し、その後ろに彼の眷属である魔軍の部隊が続く。駆け引きなど一切なく、ひたすらに押してくる。

「チュルク兵と殺し合いはしたくない」

 アルスラーンが言う。人道的にどうこうという問題でなく、蛇王に与する人間は恐怖で動かされているだけだろう。蛇王が倒されれば逃げるはずだ。そんな相手に、無駄な損害を出したくない。

「万事、心得ています」

 

 

「………」

「あ、またびびってるのか?蛇の王だろうがドラゴンの王だろうが殿下が負けるはずねえだろ。殿下が勝つと言ったら勝つんだよ。……小隊長になったんだから、シャキッとしろや」

 そうは言っても、とルクールは思う。今度の敵は蛇王だという。パルスを千年に亘って暗黒に沈めた、恐怖の象徴と意識に刷り込まれている。王族だろうが奴隷だろうが、パルス人ならそれは変わらない。

 その潜在意識が消えないルクールにしてみれば、蛇王のことを知らないからそんな楽観的でいられるんだ、としか思えない。その不安を部下の兵士に見抜かれ、逆に叱られる羽目になった。

 セイリオス率いるアクターナ軍は無敵である。ルクールもそれには同意する。しかしそれは、あくまで相手が『人間』の場合ではないのか。今度の相手は蛇王だ。人外の化物である。

 

 パルス戦役にルシタニアの内乱を戦い抜いたルクールは、セイリオスの命で9人の配下を持つ小隊長になった。サハルードの時に自分が所属していた小隊だ。何かあれば子ども扱いされるのは変わってない。

 本来、アクターナ軍の小隊長は小隊に属する10人の間で決める。セイリオスが出張るのは慣例違反だ。その特別扱いに対して、他の兵士が出した条件がこれだった。

「指示には従います。ですが、態度をどうするかは俺たちの好きにさせてください」

 上司として敬って欲しいなら、俺たちを心服させてみろ。そう言ってきたのだ。と言っても不平不満は言われない。むしろ新米隊長を率先して盛り立てようとしてくれる。が、子ども扱いされるのだけは直らなかった。

 

「それより何だこれ?殿下から化物を相手にする際は使えと配布されたが、本当に効くのか?」

 毒なのだろうが、人には無毒だという。嗅いでみても甘酸っぱいさわやかな香りで、芳香剤としてもいいかもしれない。こんなものが本当に化物に通じるのかという方が、パルス人でなければ気になるところだ。

「それは芸香(ヘンルーダ)という植物の汁です。言い伝えでは、蛇王の魔物たちはその匂いを嫌い、その汁を塗った鏃は一矢で魔物を倒したと言います」

 ルクールの説明に、「こんなものがねえ」と相手はいぶかる。とは言っても最後の結論は決まっている。

「まあいいさ。殿下が使えと言ったのなら、何か意味はあるんだろ」

 

「………はぁ、どうしてそんなに楽観的でいられるのだろう」

 アクターナ軍の兵士は、万事がこの調子だ。敵がイアルダボートの神だろうが蛇王ザッハークだろうが恐れもしない。遠目に見たパルス軍の悲壮さと比べれば、物見遊山にでも来たかのような気楽さである。

 そう思ってぼそっと呟いた言葉が、相手に聞こえてしまったようだ。しかし、相手は気を害した振りも見せず言ってのけた。

「決まってるだろう。馬鹿だからだよ。俺は元々アクターナの貧民で、学も何もねえ。だから殿下を信じるだけなのよ。……なまじに頭のいい奴は、大変だよなあ」

 頭がいい、などと言われるのは、ルクールにとって初めての経験である。何とも自分には似つかわしくないというか、的外れな評価であろう。

 

 自分だって元々はパルスの奴隷だ。セイリオスに拾われて幸運にも教育を受けられる身となったが、所詮付け焼刃の学識しかない。

「そういう所は鈍いんだな。殿下は『ものになる』と思ったからいろいろ教えてるんだよ。あの方の目は鋭いぞ。そもそも、殿下が愚鈍な奴を傍に置くと思うか?」

 将来は将軍にする気だろう。そして兵卒の気持ちを知る将として育てようと、一兵卒から順を追って育てているのだ。そう断言されて、ルクールは開いた口が塞がらなかった。それこそ的外れだとしか思えない。

「ま、楽しみにしていろ。殿下に付いて行けば、面白い人生になるだろうよ」

 




ルクール君の未来も決まっています。
…そう言えば彼の歳を書いていなかった(脳内設定で決まっていたので気にしてなかった)のですが、セイリオスに拾われた時15歳でアルスラーンより一つ上になります。


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53.その後の世界・蛇王決戦

「………」

 周囲から濃厚な殺意を感じる。まあ、当然だし予想していたことだ。そう思いながら、カーラーンはアルスラーンに頭を下げた。謝罪ではない。蛇王との戦いに参戦する許可を求めたのである。

「…………カーラーンよ、そなたの身をどうするかは、ひとまず置く」

 アルスラーンも長い沈黙の末、それだけ答えた。彼にも内心の葛藤はあるに違いない。だが、最優先すべきは蛇王をどうするかだ。その点をアルスラーンは見失わなかった。

 

「……許したわけではない。蛇王を倒したのち、パルスの王としてそなたを裁く。不満であればルシタニアに亡命するなり、蛇王に寝返るなりすればよい」

「……ティグラネス様の安全さえ言質を頂ければ、この身については覚悟はできております」

 それでも棘のあるアルスラーンの言葉に、カーラーンは静かに返す。ヒルメスが死んだ時点で、彼の人生はほぼ終わったと言っていい。残る気がかりはティグラネスのことだけだ。

 自分が生贄になることでティグラネスに向けられる感情が和らぐなら、それでよいではないか。そしてザンデがいる。ティグラネスを守る立場は、息子に任せればいい。

 

「ティグラネス殿の身をどうするかは、まだ結論が出ておらぬ。………しかし、……これは私の個人的な思いでしかないが、殺したくないとは思っている」

「父よ、アルスラーン王の言ったことは嘘ではない。ティグラネス様は歓迎されていた」

 アルスラーンの言葉を、ザンデが補足する。嘘はないであろう。不確かな言葉ではあるが、人が聞いている場でパルス王が言った意義は大きい。カーラーンは小さく息を吐いた。

 

「……カーラーンの軍は、後方に配置しましょう」

 ナルサスの言葉に、カーラーンは疑念を抱く。当然ながら、先陣を強制させられるものと思っていた。逆に後方に置かれるのは、邪魔だと言いたいのだろうか。

「我らはチュルク軍を断ち割り、そのまま蛇王の元に向かう。チュルクの相手をするのがそなたの役目だ」

 その疑念を見越して、アルスラーンが言う。策はあるのだろう。チュルク軍は多勢であるが、恐怖で縛り付けられている兵なので、戦意は高くないだろう。戦いようはある。

 最後にトゥラーンについては、ルシタニアに任せたという。「考える必要はない」とそっけなく断言したアルスラーンに、カーラーンは内心首をひねる。信頼しているのか憎んでいるのか、よくわからない。

 

 

 イルテリシュの目は、向かい合った敵の軍旗に二本の短い横線と一本の長い縦線を組み合わせた紋章を見て取った。遥か彼方の動物も見分ける遊牧民の優れた視力だ。見間違うはずがない。

「…あれは、話に聞いたルシタニアの紋章だな。ということは向かい合ったのはセイリオスか。……望むところの敵だ」

 パルスの諸将が聞いたら憐れむか馬鹿にしたであろう言葉を、イルテリシュは呟いた。セイリオスと戦った者がどうなったか。イルテリシュとて知らないわけではないが、この俺が負けるかと思っている。

 

「……いや、アクターナ軍は軍旗の色が深緑だ。あの軍は赤いように見えるぞ」

 横から口を挟んだのはガズダハムである。トゥラーン王に対し礼儀も何もない言葉遣いだが、イルテリシュは気を害したわけでも無くそれを認めた。前衛の旗はすべて赤だ。

「ルシタニア軍とて侮れぬぞ。かつてのパルス軍に引けを取らぬ練度を持っている」

 続けたガズダハムの言葉に、イルテリシュはまた頷く。彼の軍事の才覚は、歴代のトゥラーン王の中でも上位に位置するであろう。その戦術眼は敵が強敵であることを見抜いていた。

 ……だからこそ、破りがいがあるという物だ。

 

「諸将、励め!あの敵を破り、エクバターナまで駆けるとしよう。エクバターナを落とせば、恩賞は望みのままぞ」

 イルテリシュの鼓舞に、トゥラーン兵は雄叫びで答えた。10万の騎馬が疾駆を開始する。蛇王からの合図も待たずに戦端を開こうとするトゥラーン軍にガズダハムは舌打ちしたが、止められるものではない。

 10万騎の突撃。ルシタニア軍の前衛は歩兵を中心にした2万。一息に押しつぶしてやると歩兵隊を押し込んだところで、騎馬隊の足がいきなり止まる。

「何だ、これは!?」

 サハルードで展開した柵だ。それを、今度は歩兵の中に埋伏させていたのである。敵軍が渋滞したと見たところで、セイリオスは後方に控えていたアクターナ軍を動かした。トゥラーン軍の右から横腹を突く。

 

「………」

 その展開に、イルテリシュはにやりと笑う。予想していないとでも思ったか。パルスの騎馬隊を破った策がトゥラーンの騎馬隊にも有効なのは認めるにしても、一度使った奇策をまた使いまわすとは。

「よし、後軍は、あの軍の横腹を突け!」

 イルテリシュは軍を二つに分けた。元々前後で少し間隔を空けてある。前軍の横腹を突いて来るのも予想通り。こちらは、さらにその横腹を突く。

 この速さで動いては、柵を展開する時間はない。邪魔する物なくアクターナ軍に斬り込める。セイリオスも噂ほどではない、とイルテリシュが思い始めた時、前が詰まった。

 

「何をしている!突撃だ!!!奴らを馬蹄にかけろ!!!」

 何が起きたのか。アクターナ軍は3万5千。分割したトゥラーン軍は5万。抵抗は受けるにしても、全く押し込めないことなどあるはずがない。

「……予想していないとでも、思ったか?」

 それが先ほどイルテリシュが心の中で呟いた台詞などと知る由もなく、セイリオスは呟いた。前衛と後衛の間隔が、わずかに広い。それで、イルテリシュが柵を想定していることは読めた。

 

 ならば、イルテリシュの思う通りに動いてやろう。ただし、アクターナ軍の左側面に、全身鎧の歩兵隊を配置して。最も移動距離の多い部隊だが、エスターシュが見事に部隊を動かしたので、不自然には見えなかった。

 その全身鎧の歩兵隊には、盾を持たせず槍を二本、両手で構えさせる。人で柵を作ったわけだ。その陰から、弓兵が敵の馬を狙う。トゥラーンの騎兵がぶつかったのは、この鉄壁だった。

「行くぞ、全軍、蹂躙せよ!!!」

 盾は無くとも、敵の矢は全身鎧が防いでくれる。馬の突撃は普通の倍ある槍衾で止めた。そして動きの止まったトゥラーン軍に、アクターナ軍の騎馬隊が斬り込む。

 

「……!!!」

 愕然とした。何だこの軍は。アクターナ軍の騎馬隊の前に、トゥラーン軍が逃げ惑う。イルテリシュは一瞬悪夢を見ているのではないかと疑った。同時に悟る。この軍には、勝てない。

「全軍、退却だ!!!!!」

 叫んだ。耳を疑った側近を急かし、銅鑼を打たせる。イルテリシュの反応が早かったこと、トゥラーン軍が騎兵隊であること、セイリオスの目的がトゥラーンの壊滅でなかったことなど様々な要因があったが、トゥラーン軍は大損害を出す前に戦場から離脱した。

 

(それでも千は失ったか)

 歴史上で見れば、セイリオスと戦ってそれだけで済んだというのは、充分褒められて良いことになる。イルテリシュが名誉だ何だと言って粘れば、それだけ損害が増えたであろう。

「……トゥラーンに帰還する」

 最後にとんでもないケチがついた、とは思うが、やってしまった以上は仕方ない。トゥラーンはまた内戦になるかもしれないが、ここにいる者たちは自分の決断を理解してくれるだろう。

 幸い、略奪した物資は失っていない。乏しい戦果ではあるが、それを慰めに戦場を去ろうとする。

 

「お、おい!何をしている!ルシタニア軍を蹴散らすのではなかったのか!?」

 その中で、人を掻き分ける様にやってきたガズダハムが居丈高に叫ぶ。彼にしてみたら、イルテリシュの行動は背信としか見えない。そのガズダハムの脳天に、再び槍の柄を振り下ろした。

「うるさい。……あれには勝てん。……お前の自慢する蛇王とやらも、あれに勝てるものか」

 今度は本気で殴られて気を失ったガズダハムに、イルテリシュは苦々しく吐き捨てる。そして諸将はその言葉に頷いた。

 

 トゥラーンがあっさり撤退していくのを見て、チュルク軍は大きく動揺した。当たり前だ。あのトゥラーンがこんな簡単に敗走するなど、信じられることではない。

「………。今だ!!!例の策を実行しろ!」

 ナルサスも、さすがにここまで早い潰走は予想していない。ただしこれはアクターナ軍の強靭さと言うより、イルテリシュの見切りの速さを褒めるべきことである。

 トゥラーンとルシタニアが互いに大損害を出してくれればパルスにとってもっけの幸いではあったが、それはセイリオスが来た時点で諦めていた。

「……味方になると、これほど頼もしい相手もいない」

 つい、呟いた。複雑な心境だ。あれと今後ずっと向かい合わなくてはならない。今こそ味方だが、次はイルテリシュと組んでパルスに攻め込んでくるかもしれない相手だ。

 

 ナルサスの号令に、パルス軍は中央を空けた。何だ、とチュルク兵が思った時にはもう遅い。噴き出してきたのは牛の群れだ。わざと怒らせた牛を、敵軍目掛けて解き放ったのである。

 文字通りの奔牛の勢いに、思わずチュルク兵が道を空ける。そうしなければ轢き殺される。そしてその後を、アルスラーンとその本隊は一気に駆けた。チュルク軍は無視して、一気に蛇王の元まで。

 このときチュルク軍を指揮していたのはゴラーブという将軍であった。彼は咄嗟に後背を突けと指示を出そうとしたが、アルスラーンに続いてカーラーンが押し込んできた。それを見て、出かかった声を呑み込む。

 考えてみれば蛇王などという奴のために必死で戦う義理など無い。化物が怖いから従っているだけだ。アルスラーンがその化物を討ち取ってくれるなら、それも終わる。

 

「前から来る敵を防げ!決して隊列を乱すな!」

 勝つための指示ではない。むしろ負けて散り散りに逃げてもよい。しかし、ある程度は戦わないと蛇王が勝った場合、チュルクの家族が殺されてしまう。カーラーン相手で手一杯の凡将。狙うべきはそれだ。

 今後がアルスラーン次第であるのは、カーラーンとて同じだ。ここでチュルク兵相手に力戦する意義はない。蛇王が勝ったなら、もうイリーナとティグラネスの身を抱えてルシタニアに亡命するしかないのだ。

 申し合わせたように一進一退の押し合いが繰り広げられた。犠牲はほぼない。

 

 カーラーンとゴラーブの芝居が繰り広げられるのを後目に、アルスラーンは一気にチュルク軍を駆け抜けた。馬鹿な、と思っただけで、『尊師』は声も出せない。

 アルスラーンなど、一息に踏みつぶすつもりだった。いくらセイリオスが敵に付いたとしても、ここまで追い込まれるはずがなかった。だが現実は、ほぼ無傷のアルスラーンとセイリオスが迫ってくる。

「アルスラーンを討ち取ればよいだけのこと。何をそれほど慌てておる」

 アルスラーンを討てば、目的の無くなったセイリオスは必ず引く。眷属などどれほど失おうが、また()()()よい。そう嘯く蛇王に、『尊師』は「おお…」と感嘆の声を上げた。

 蛇王はアルスラーンに向けて馬を進めた。『尊師』はそれをただ見送った。逃げるべきではないか。最初はそう思ったのに、信ずる存在の御言葉に思考の全てを塗りつぶされたのである。

 

「蛇王様がアルスラーンめを討ち取るまで、耐えるのだ」

 威勢よく言う『尊師』に、弟子のグンディーが前線に出ていった。指揮を執るつもりだろう。対しグルガーンは、無言のまま『尊師』の傍を動かない。

「………」

 考えているのは、セイリオスは何なのだということだ。信仰も何もなく、何故ここまで強くなれるのか。いや、信ずる存在はあるのかもしれない。自分自身を、だ。

「何をしておるか。することが思いつかないなら、後ろの奴らを急かしてくるのだ」

 『尊師』の言葉に、グルガーンは黙って従った。

 

 蛇王の軍が二つに割れた。アルスラーンと、自分の方へ。トゥラーン軍を排除したセイリオスは、そのまま蛇王軍に突っ込んだ。

 ここからの敵は人ではない。有翼猿鬼(アフラ・ヴィラーダ)鳥面人妖(ガブル・ネリーシャ)食屍鬼(グール)四眼犬(シェムル)と、ありとあらゆる化物が相手になる。

「地上の物は、全て轢き殺せ!!!」

 セイリオスの号令に、騎馬隊が噴出する。ただの騎馬隊ではない。イスバニルで使った連環馬だ。そして上空の敵は、芸香(ヘンルーダ)の汁を塗った矢で射落とす。

 

 あっという間だった。化物の群れだろうが、まるで濁流が全てを押し流すように断ち割られていく。グンディーは成す術もなく討ち取られた。誰にも気にされることなく、である。

「ば、馬鹿な…」

 耐える事すらできない。『尊師』はここで初めてアクターナ軍の、セイリオスの恐ろしさを身をもって知った。傍観者の立場からでは、決して解らないことを。

(ヒルメスの阿呆め―)

 もっと扱いやすい奴と手を組め。よりにもよって、こんな化物をパルスに招き入れなくともいいではないか。アトロパテネで手を貸したことを、初めて後悔した。

 それが最後の思考になる。呆然自失のまま、彼はアクターナ軍の濁流にのみ込まれた。

 




少し間隔が空いたのはようやく書けたためです。どうも今回はいまいちの文章しか思いつかずにいました。
あとは蛇王を討ち取って終わりだー。


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54.その後の世界・パルスの行方

 蛇王軍の後軍が潰走した。これで残るは蛇王の軍の、半分のみ。しかもアルスラーンとセイリオスで挟撃する形になっている。

「パルスと蛇王の因縁に、今日で決着をつけるぞ!!!」

 アルスラーンの鼓舞に、兵は歓声で答えた。これなら蛇王ザッハークにも勝てる。歴史として語り継がれる瞬間にいる興奮が、蛇王に対する恐怖を上回った。

「俺たちはイスバニルで地獄の戦いを生き抜いたんだ!それに比べたら何でもないぞ!!!」

 兵士の誰かが叫んだ。アルスラーン軍のおよそ半分は、あの戦いを経験している。刻一刻と敗北に近付くだけの、上向くことのない絶望的な戦場だった。あれから見れば、今は勝てそうというだけでマシである。

 それは、蛇王にとっては計算外の事態であったと言える。自分の名を聞けば逃げ惑うはずのパルス兵が、果敢に立ち向かってくる。戦局の不利は認めるしかなかった。

 

「アルスラーンの孺子はどこだ!!!予こそ蛇王ザッハークであるぞ!」

 それでも蛇王は突き進む。その剛勇は、文字通り一騎当千の働きをしていた。その剛勇でもって、アルスラーンを一騎打ちで討ち取る。とても戦術と言えるものではないが、挽回するには最も簡単な方法でもある。

「蛇王、覚悟!!!」

 その蛇王に真っ先に剣を付けたのは、先陣を任されていたイスファーンであった。しかし勢い込んで斬り付けたはいいもの、その一撃は軽々と防がれる。

「………!!!」

 反撃の一撃を辛うじて捌いたものの、イスファーンの両手から肩まで衝撃が突き抜け、剣を弾き飛ばされた。とてもではないが、勝てる相手ではない。

 

 蛇王の二撃目。逃げるのも間に合わないと死を覚悟したイスファーンだが、蛇王はそこであらぬ方向に剣を振るう。キン、と金属の音がした。ジムサの吹き矢だ。その隙に、一目散に逃げ出す。

「あれは、まさしく化物だな」

 ジムサも乱戦に紛れ離れる。イスバニルで負った肩の怪我の後遺症で、左腕の動きが悪い。力も弱くなった。吹き矢筒は何とか持てるが、剣を扱うのは無理だ。右手だけで挑むのは無謀すぎる。

 

「ふん、カイ・ホスローの時代より、将士の質も落ちたものだ」

 イスファーンぐらいの使い手なら、あの時代にはいくらでもいた。こんな体たらくだから、ルシタニアに蹂躙されたのだ。そう嘯く蛇王の前に、一人の男が立ち塞がる。

「その言葉、『双刀将軍(ターヒール)』キシュワードが取り消させてやろう」

 ダリューン亡き今、パルス最強の武人と言えば彼に違いあるまい。蛇王も望むところの敵とばかりに、一騎打ちに応じる。キシュワードが出てきた以上、アルスラーンも近いはずだ。

 

 蛇王の武器は、人では到底振り回せないと思える大剣。キシュワードはもちろん愛用の双剣だ。なのに、蛇王はその大剣でもって、キシュワードに劣らぬ速さで斬撃を繰り出す。

「……ぐっ!」

 一撃の重さでは比較にならない。それでもキシュワードと蛇王の一騎打ちは、四十合に渡った。そこでキシュワードはわずかに笑みを浮かべる。その不自然の理由は、蛇王もすぐ察した。

「……貴様!」

 勿論勝てればそれに越したことはないが、勝てなくとも粘ればよい。蛇王の背後からはアクターナ軍が猛烈な勢いで押し込んできているのである。あの軍が到着すれば、いかに蛇王といえど、どうしようもあるまい。

 

 蛇王はキシュワードの双剣を弾き、これ以上は関わっていられないと馬を前に走らせる。早くアルスラーンを討ち取らねば。時間がない。

(―何故だ)

 何故、こうなった。デマヴァント山の地中に封じ込められている間も、地上の情勢は把握していた。パルスがルシタニアに蹂躙されたことも、当然知っている。それなのに、何故自分が窮地に立っている。

 歩を進めるごとに、自分の力が弱まるのを感じる。ルクナバードのせいだ。それでもこの最強の体であれば、アルスラーンを討ち取るなど容易いはず。まだ、間に合う。

 

「あれが、蛇王…」

 エラムが呟いた。黒い鎧の騎士が、ただ一騎で本陣目掛けて進んでくる。それに続く味方はいない。狂気としか言いようのない光景だろう。だが、その騎士の強さが脅威であるのも認める。

 本陣を移すべきではないか。後退して時間を稼ぎ、大勢で取り囲んで討ち取るのが最上の策のはずだ。そう言いたげなエラムに、アルスラーンは断言する。

「私が出る」

 耳を疑った。何もここで危険を冒す必要などない。同意を求めるためにエラムは師を見たが、ナルサスは無言で首を振った。

 

 アルスラーンが、蛇王に向かう。その存在に、蛇王も気付いた。剣はまぎれもなくルクナバード。アルスラーンで間違いない。

「貴様がアルスラーンか!」

「……もういい。お前には色々聞きたいことがあったが、もう喋るな。声が穢れる」

 アルスラーンが、馬を加速させる。蛇王はそれを迎え撃つ。アルスラーンの武芸も上達したが、蛇王の強さはまさしく化物。勝てるとは思えない。

 なのに、アルスラーンは何の策も無いように蛇王に向かう。蛇王にとっては格好の獲物。その剛力に任せて剣を振り下ろせば、アルスラーンを両断するだろう。どうなるのか、と周囲が固唾を呑んで見守る中―。

 

 蛇王の腕が、振り上げたところで停止した。

 アルスラーンはまるでそうなることが解っていたかのように懐に飛び込み、ルクナバードで蛇王の胸を貫いた。

 

 時間が停止したようだった。その中で、蛇王の体が馬上から消える。あの蛇王が、こうもあっさりと、まるで無造作に倒された。目に見た光景を信じられないと、誰もが思った。

「……う、うおわああああああ!!!!!!」

 大歓声が上がる。我らの王が、蛇王を倒したのである。その中でアルスラーンだけは静かに、蛇王の死体を見下ろしていた。その隣に、ナルサスとエラムが並ぶ。

 蛇王の死体は、徐々に溶けて泡立ちながら白い粘液と化していく。しかし、顔はまだ判別できた。落馬の際に兜が落ちた。アルスラーンは先程から、その顔だけを見つめている。

 

「死んでなお、陛下に忠義を尽くすか。……呆れた男だ」

 蛇王の腕が停止したのは、明らかに不自然だった。あれは、蛇王ではない誰かの意思によるものではないか。非科学的ながら、ナルサスはそう思う。

 蛇王という存在について、ナルサスは一つの仮説を考え出していた。蛇王ザッハークとは生まれたのではなく、何者かによって『造られた』のではないか、と。

 そして千年に渡って生きたというのも、肉体を単なる『部品』と見做し、古くなるたびに取り換えていたのではないか。であればこの時代、最上の『部品』としてこの男の肉体を選んだのも、納得できる。

 それが致命的な敗因になるとは、何とも皮肉な話だが……。

「……ありがとう、ダリューン」

 泡のせいかもしれない。アルスラーンにそう言われ、蛇王の口元が笑ったように見えた。

 

 

 蛇王はアルスラーンが討ち取った。眷族はアクターナ軍が粗方掃討した。残ったチュルク兵は散り散りに故郷を目指し、蛇王に従わされていたパルス人は全て降伏した。

 蛇王ザッハークの勢力は、ここに完全に壊滅した。いや、ただ二人残った魔導士がいる。その一人のガズダハムはイルテリシュに殴られ気絶した後、目を覚ました時にはすべてが終わっていたのである。

「……………」

 呆然自失としか言いようがない。気がついたら馬に縛り付けられて運ばれているところで、蛇王は死んだという。嘘だと否定しても、アルスラーンは生きている。時間が経つごとに認める他無くなった。

 

「お前、これからどうするんだ?」

 イルテリシュに問われ、ガズダハムは考え込んだ。蛇王も仲間ももういない。行く当てもない。仕方なくトゥラーンに留まることにした。トゥラーンを強大にすることでパルスの禍となれば、仲間の無念も少しは晴れるだろう。

 そう考えてイルテリシュに仕えている内、王に対しても直言を憚らぬ、とトゥラーン内でも認められていった。イルテリシュに対する敬意が薄かったというだけなのだが、それが逆に気に入られたのかもしれない。

 そして本人にとっては大いに不本意なことであるが、彼の名は蛇王に仕えた魔導士の一人より、トゥラーン王イルテリシュの側近として歴史に名を残すことになってしまうのである。

 

 一方、グルガーンのその後は知られていない。唯一判っているのは、戦後、セイリオスの前に現れた魔導士がいたというだけだ。その男は静かに、神はいるのか、と聞いたという。

「居ようが居まいが、この世を生きるのは人であろう」

 それがセイリオスの返答であった。それがグルガーンであったのは間違いないだろうが、そこから彼は全く姿を消してしまう。パルスの暗部で蛇王の復活のために生涯を捧げたとか、感銘を受けてセイリオスに仕えたとかいろいろ言われたが、真相は不明である。

 

 同じように姿を消した人として、カーラーンとイリーナ王妃がいる。

「ティグラネス殿を私の養子とする」

 蛇王との戦いが終わり、祝宴の席となったところでアルスラーンが宣言した。予想してないことではなかったが、いきなり断言されて全員が面食らった。

 しかし、その決定がイリーナ王妃に辛い決断をさせることに繋がった。普通であれば我が子の成長を希望として、母親として生きていく道があった。盲目の身でなければ、そうなったに違いない。

 目の見えない彼女では、近くに座っていることしかできない。母親としての立場は専らエステルが努めている。ティグラネスがはい出すようになると、その傾向は一層強くなった。

 それなら、いっそ自分などいない方がいいのではないだろうか。物心つくころからアルスラーンを父、エステルを母と思って生きていく方が、息子にとって良いのではないか。

 

 カーラーンも処分が曖昧のまま、放置されていた。甘いと言われても、アルスラーンは厳罰に処す気になれなかったのだ。蛇王討伐で浮かれているパルスの中で、彼への風当たりが軟化することを期待していたと思われる。

 しかし、カーラーンの方がそれを望んでいなかった。アルスラーンの温情は理解できても、自分が忠誠を尽くすのはヒルメスに対してだ。パルスでのうのうと生きていくわけにはいかない。

 ある日、書置きを一つ残して、忽然とイリーナ王妃とカーラーン、それにマルヤム時代からイリーナに仕えていた女官や騎士たちが、エクバターナから消えた。

 書置きを読んだアルスラーンは深いため息をつき、彼らを追わせようとはしなかった。それを見てはパルハームもアルスラーンに仕える気にはなれなかったのであろう。彼はハサの領主として、静かに一生を終える。

 

 そしてアルスラーンは、再びぼろぼろになったパルスの復興に、全力を注ぐことになる。

「……隙があると見れば、私がパルスを取る。せいぜい励め」

 セイリオスはそれだけ言って去って行った。去り行くアクターナ軍が地平線に消えるまで、アルスラーンはエクバターナの城壁の上からその姿を見送った。

 そしてこれが、二人の最後の会話になる。以後彼らは国交を閉ざしていたわけではないが、親書のやり取りもしなかった。ただ、互いに相手のことは逐一調べさせていたらしい。

 パルスとルシタニアが再び争うことも、アルスラーンの代にはなかった。どちらも国境の防備を固めるだけで、相手の領土に踏み入ろうとはしなかった。

 

 その間にシンドゥラは、ちゃっかりと漁夫の利を得る。王が居なくなったチュルクに軍を進め、そこを占領してしまったのだ。とはいえパルスにとっては、決して悪いとは言えない。

「東方の国境の多くをシンドゥラと接することになりました。かの国との同盟を維持できれば、東方の守兵を減らせます」

 勿論ラジェンドラ王が何か仕掛けてくるなら、きつい灸を据えてやる。ナルサスは言外にそう言い、油断することは無かった。

 ラジェンドラは一代で領土を大きく広げ、経済でもルシタニアにまで香辛料を輸出して大いに儲け、シンドゥラを発展させたため『大王』と尊称されたものの、西方に領土を広げることはできずに終わる。

 

 アルスラーンは蛇王の恐怖からパルスを解放したということで『解放王』と尊称される。パルスの復興が進み経済が回り始めて、庶民の人気も得た。不満を持つ者がいなかったわけではないが、治世は安定していた。

 彼の死はパルス歴360年8月、54歳の誕生日を迎える僅か一月前のことになる。パルス王としての在位は38年と11ヵ月。パルスの復興に費やされた生涯であった。

 

 『解放王』は生涯、正式に結婚することはなかった。実質的にエステルが妻としての役割を果たしていくが、この二人はベッドを共にしたことも無く、それでいて深く結びついていた二人だったという。

 蛇王戦後、ドン・リカルド卿はルシタニアに帰ったが、彼女は「まだ借りが残っている」と言い、パルスに留まった。ルシタニアの領地はバルカシオン伯の遺族に譲渡してしまったらしい。

 彼女の死は、アルスラーンの二月前になる。彼女も54歳の誕生日を迎える一月前に世を去ったことになる。何か因縁を感じた者も多かっただろう。

 40年近く、アルスラーンの心を支えてくれた女性であったことは、間違いない。

 

 アルスラーンの死後、パルスはティグラネスが継いだ。先王の養子であり、旧王家の血も引く。正統性という面では申し分ないであろう。年齢は38歳を迎える直前。アルスラーンの補佐をしてきて、実績も充分。

 解放王に続きパルスは名君を得た、と思った人は多かったに違いない。実際ティグラネスは名君と断言して差し支えない王だった。ただ、この時、彼はルクナバードを抜けなかったのである。

 

「ルクナバードを抜けないのは何故か。それでも私はお前に王位を継がせることにした。その理由を、よく考えよ」

 ルクナバードを抜けない、と言っても、他に抜けた者がいるわけでもない。ティグラネスが継ぐのは妥当であったのだが、アルスラーンの言葉にはそれだけではない重みがある。

 何故なのか。自分が養父に劣っているからだ、とは思う。何しろパルスの厄災であった蛇王を討ち取った男である。こののち、パルスの伝説となる存在であろう。

 その伝説に勝るとなると、その伝説が成せなかったことをするしかない。すなわちルシタニアに奪われたパルス西部の奪還である。アルスラーンは決して、ルシタニアと戦おうとしなかったのだ。

 ただ、それだけならティグラネスも開戦までは決断できなかったであろう。何しろルシタニアにはあのセイリオスがいる。『軍神帝』ある限り、ルシタニアに勝てるとはとても思えなかった。

 

 ―しかし、パルス歴360年、アルスラーンと同じ年に、セイリオスも世を去るのである。

 




ダリューンを殺したのはあのイスバニルの涙と、このためです。


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55.その後の世界・英雄たちの挽歌

※書きあがったので今日は2話投稿しています。お気に入りのリンクから来た人は前の話に戻ってください


 蛇王戦後、ルシタニアに戻ったセイリオスは、ギスカールにしこたま怒られた。「しばらくの間アクターナで謹慎していろ」と言われ、不平の色は一切見せずに従った。

 これは、兄弟の間での黙契も含まれている。勝手なことをすれば、セイリオスだろうが処罰する。他の群臣への示しとしたいと思っていることなど、言葉が無くとも理解できる。

 それに謹慎と言っても、引き籠っているわけではない。アクターナの政務はやらねばならない。このところルシタニアに関わってばかりだったから、領地をじっくり見るいい機会でもある。

 

 とはいえ、セイリオスがルシタニアの中枢から外れたとなれば、相当の影響が出るのは避けられない。真っ先に起きたのが旧ゴール王国領での反乱だった。セイリオスがいなければ勝機はある、と思ったのだろう。

「俺を甘く見るなよ」

 ギスカールはそう凄んで、まずゴドフロワを出陣させた。このところセイリオスばかり目立っているが、ルシタニアの発展はギスカールの軍事行政の手腕あっての物だ。それを忘れたような反乱に腹が立つ。

 

 パルス歴で言うと、323年になる。ルシタニアは反乱など屁でもないと言わんばかりに、予定通りイノケンティス王を皇帝に即位させた。ギスカールはその式典に出席したのち、第二陣を率いて反乱鎮圧に向かう。

 戦局からすれば、ギスカールが出張らなくても充分だったろう。しかしアフターケアと、たまには戦場を踏んでおかないと勘が鈍ると思い、ギスカールはラヴィニアを離れた。

 その間に、仰天することが起きる。ギスカールの出陣からわずか一月後、イノケンティスが崩御する。前日まで何の予兆もなかったのにいきなり胸を押さえて倒れ、周囲が医師だ何だと騒ぐ間に、息を引き取った。

 後世医学の観点で見れば、肥満が心臓発作を誘発したのだろう。『痴愚帝』(ルシタニアの記録などでは『幸運帝』だが世間での通称)らしい世の去り方であったような気がしないでもない。

 

 とにかく即位わずか一月での皇帝崩御に、ラヴィニアの群臣は騒然となった。しかし兄の急死を知ったセイリオスが即座にアクターナ軍を率いて上京し、都を制圧して落ち着かせる。

 あまりの急展開に仰天したギスカールだったが、戦闘を一段落させて悠然と戻ってきた。普通なら弟が帝位を簒奪しないかと疑うところだが、セイリオス相手ではその心配もない。

 事実、セイリオスはギスカールを迎える準備を着々と進め、兄が戻ってくると率先してその前に跪いて即位を願った。ギスカールもそれを受け、第二代のルシタニア皇帝として即位する。

 ちなみにこの時セイリオスの謹慎も解いている。跪く弟の肩に手を置き、兄弟でルシタニアを富み栄えさそうと宣言した時は、群臣から歓声が上がった。

 

 ギスカールの治世の特色を一言で言えば、土木建設の異常な多さとなる。かつて「ルシタニアの国中を掘り起こさねばならない」と言った通りに、道路、上下水道、港、橋、灌漑設備と、次々に工事を進めていった。

「ルシタニアを、かつての大帝国に勝る文明国とする」

 それがギスカールの抱負であり、パルスから奪った財貨を元手にルシタニアの社会資本を造り上げた。それゆえ彼は『創建帝』と呼ばれるようになる。

 反面、この時期のルシタニアはほとんど領土を拡げていない。特に治世の前半は全くと言っていいほど対外的な軍事行動をしていない。エピロスやカールルッドのために援軍を出したくらいである。

 

 セイリオスもゆっくりできたためか、カールルッドの姫との間に女児を儲けた。ところがその初産は難産で出血がひどく、危うく母子とも命を落とすところだった。

 医療が未発達だったこの時代では子供を産むのも命懸けで、珍しいことではない。むしろよく助かったと言うべきなのだが、再び子を得るのは諦めた方がいい、というのが医師の見立てである。

「………」

 ここで決断を迫られた。ルシタニア王家は男系優先なので、このままではアクターナの嫡子がいなくなる。自分の子に継がせるのは諦めるか、離婚して再婚相手を探すか、愛人を持つかという話になる。

 セイリオスとしては、諦める方向に傾いていたようである。離婚はカールルッドとの関係悪化に繋がるので避けたいところだ。第一、再婚にしろ愛人にしろ、相手がいないのではどうしようもない。

 ちなみにイアルダボート教は一夫一妻を教えとして説くが、実際のところ貴族となれば愛人の一人や二人は当たり前である。何より貴族には、家系を絶やさないことが求められるからだ。

 

「シルセス卿を迎えればいいではありませんか」

 しかし、妻の方がそれをひっくり返した。裏がないわけではない。娘は、父であるエドウィン王が欲しがっていた。何としても自分の血を引く子孫に国を残したい彼にとってこの孫娘は、唯一の希望なのだ。

 なお、この娘の運命を先に述べるが、彼女はエドウィン王の従弟の子と結婚し、カールルッドを継ぐ。成長して男子を産むが、長寿のエドウィン王はその時まで生きていた。曽孫を見て、ようやく安心したであろう。

 さて、娘はそれでいいとしても、アクターナにおける自分の立場が浮いてしまう。養子を取るにも実家との関係が厄介になるかもしれない。それならいっそ夫に愛人を勧めてしまえばよい。

 セイリオスもシルセスも自分をないがしろにする気はなさそうだし、何より二人にどういう思いがあるかなど周囲から見ればばればれである。むしろ何故結ばれなかったのかが不思議なくらいだ。

 

 セイリオスがうろたえたところを初めて見た、と周囲は語る。シルセスはシルセスで、この年まで未婚であった。セイリオスのお気に入りというのは誰もが知っていることなので、相手が現れなかったのである。

「あなたのせいで、シルセス卿は結婚できないでいたのですよ。その責任も取るべきです」

 セイリオスの道徳観なのであろうが、幼馴染の一の腹心を妻や愛人にするというのが、どうにも受け入れられないことになる。そのくせ男は近寄らせないでいたのだから、妻の言い分は正しい。

 結局この話は、周囲を味方につけた妻が逃げようとするセイリオスをシルセスと一緒の部屋に押し込んで、無理矢理結んでしまうことで決着がつく。セイリオスの生涯唯一の完敗、と言われることになるエピソードだ。

 

 

 ギスカール帝の治世は、ルシタニア帝国歴の21年、パルス歴343年まで続く。しかし晩年、『創建帝』を悩ませたのは後継者問題だ。

「……兄者と俺の悪い所だけを受け継ぎやがった」

 エピロスの王女との間に男子は得たが、その子ブリエンヌについてギスカールはそう嘆いた。14歳になる。母親が溺愛して育てたせいか、我が儘で暗愚。そのくせ野心は父親譲りだ。国にとって害毒としか言いようがない。

 同じ暗愚でも、兄イノケンティスには野心など欠片もなかった。そのためどこかで憎めずにいた。が、ブリエンヌの弟であれば、ギスカールは躊躇なく国を奪ったであろう。そうしなければこっちが殺される。

 他に庶出の男子が二人いたが、どっちも凡庸だ。ブリエンヌよりマシだと言えるのは確かだが、それならセイリオスに帝位を譲ってしまった方が、絶対に国のためになる。

 弟には、後継者の心配もない。セイリオスとシルセスの間にはシルヴィウスという男子が生まれていた。ルシタニア随一の両親の薫陶を受け、利発で、自制心もあった。羨ましいことに、良い君主となるであろう。

 問題は、セイリオスが素直に継ぐと言ってくれるかどうかだ。

 

「……ボードワンよ、俺と一緒に死んでくれるか?」

 ブリエンヌを廃嫡する。その決心を、ボードワンにだけ明かした。ボードワン、モンフェラート、ゴドフロワの三人が、変わらず軍部の重鎮となっている。

 この時、モンフェラートは東方、ゴドフロワは北方に配置されていた。セイリオスも適当な理由をつけてアクターナ領に返している。首都近郊で軍を掌握しているのは、ボードワンだけだ。

 廃嫡となれば、ブリエンヌとその一党が騒ぐのは間違いないであろう。それを抑えるために軍事力が必要になるのは道理だ。だが、万に一つも、ギスカールとボードワンが死ぬような事態になるとは思えない。

 

「セイリオスを、後腐れなく後継者にする。俺の子が邪魔だ。お前はブリエンヌの元に行き、廃嫡のことを告げろ。そして他の子と俺を殺し、ブリエンヌを皇帝に擁立する」

 ギスカールから真意を打ち明けられ、ボードワンが息を呑んだ。ブリエンヌなら乗るだろう。そして皇帝弑逆、父殺しとなれば、セイリオスが黙っていない。

「あいつはそれすらわからぬ愚か者だ。セイリオスと言えど臣下でしかない、自分が何をしてもいいと高をくくっている。……馬鹿が。あいつはルシタニアの為なら、俺でも殺す奴だぞ」

 当然ながら、ボードワンがセイリオスに勝てるとは思えない。だからボードワンも死ぬ。皇帝弑逆に加担したという汚名も背負って。

 

「………やりましょう。が、陛下、このようなことを言い出すということは……」

 ふん、とギスカールが笑った。病には勝てそうもない。もってあと数年というところであろう。それなら、今このとき死んでも大した差はない。

 ギスカールの覚悟を聞き、ボードワンも肚を決めた。その場からブリエンヌの所に行き、廃嫡の件を告げる。嫌だ嫌だと泣きわめくブリエンヌを内心軽蔑しながら、決起を勧める。案の定、あっさりと乗ってきた。

「俺はルシタニアの皇太子だぞ!この国は俺の物だ!!!」

 ギスカールの目論見通り、ブリエンヌは父を、兄弟を殺した。しかしその急報を受け激怒したセイリオスがアクターナ軍を進めてくると、一支えもできずに敗走し、逃げた先で近臣に裏切られて殺される。

 

 セイリオスはその近臣を誅殺し、本人としてはやむなくという感じで第三代の皇帝に即位した。群臣、国民皆、『軍神帝』の即位を祝った。ブリエンヌは反逆者としてのみ、歴史書に記録される。

 セイリオスが疑問に思ったのはボードワンである。何故、ブリエンヌに加担したのか。ボードワンは何も答えず、粛々と斬られた。彼の名誉は、のちにギスカールの手記が発見され、それによって回復する。

 一方、セイリオスの即位により、エピロスとの関係は断絶した。エピロスのアリュバス王からしたらせっかくルシタニアを乗っ取る好機だったのに、それを潰されたのだ。不満なのも無理はない。

 

 この頃のエピロスはルシタニアとの同盟を活かし北に勢力を広げ、西方世界では屈指の強国となっていた。しかし、ルシタニアを除けば、の話である。アリュバス王は私怨で外交を誤ったとしか言えない。

 セイリオスにしても、エピロスで領地が分断されるのは好ましくない。双方不満と不信の中で、エピロスが領内に寄港するルシタニア船の税を上げたことが、開戦のきっかけになった。

 いざ戦闘となれば、セイリオスに勝てる者などいない。圧倒的というより一方的な蹂躙の末、エピロスは壊滅する。ルシタニアに南部の良港を取られ、国力が激減した所に北方から攻め込まれて、衰退から滅亡の一途を辿ることになる。

 しかし、この戦いでルシタニアも大きな将器を失う。ゴドフロワが陣中で病没したのだ。大勢に影響はなかったが、ボードワンに続く重大な損失であった。

 

 セイリオスの治世の初め、ルシタニアの国力は充実し、戦争の準備は充分すぎるほどだった。誰もがルシタニアが征服戦争に打って出ると思っただろう。

 エピロス戦後、セイリオスはアクターナと海を挟んで向かいとなる、ヌミディアに攻め込んだ。後継者争いで揉めて国を追われた王子が、ルシタニアを頼ってきたのだ。

 その王子を助けて王位に就けたことで、ヌミディアはルシタニアの傘下に入る。これで西の海のほぼ全てが、ルシタニアとその与国によって支配されることになった。

 その後セイリオスは2年をかけて海賊を一掃し、海上の覇権を確立した。大陸公路もマルヤムから延長され、首都ラヴィニアまで繋がる。ラヴィニアの市場に、絹の国(セリカ)の物品が並んだという。

 

 しかし、セイリオスの軍事行動で目立つものは、そこで止まる。再びパルスに攻め込もうと提案された時は、一顧だにせず却下している。

「今のパルスは君臣が一体となっており、破るのは難しい。国力の無駄遣いだ」

 セイリオスがそう言うのなら、頷くしかない。事実、この頃パルスはアルスラーンの統治によって、アトロパテネ以前に並ぶほどまでに回復していた。

 そのため、セイリオスの巧みな統治と大きな戦争が無くて溢れた国力は、海の彼方に向かう。大型船が建造され、絹の国(セリカ)を始めとする東の国への海路を開くことに費やされた。大航海時代の幕開けである。

 ―セイリオスの死はルシタニア帝国歴38年、パルス歴360年の11月のことになる。生涯不敗の『軍神帝』も、病には勝てなかった。8月にパルスでアルスラーンが崩御したことは、知っていたであろう。

 

 

 セイリオスの崩御を知って、ティグラネスは勢い込んだ。まるでパルスの神々の御加護ではないか。ルシタニアは動揺しているに違いない。千載一遇の好機だ。

 この頃には、ナルサスもキシュワードも世を去っている。ティグラネスの隣にはその二人の息子であるアイヤールとファルザームがいたが、彼らも父親に勝りたいという思いは、常に胸の中に燻ぶっていた。

 唯一、それを諫止したのはエラムだ。この頃にはパルス一の智者と呼ばれ、新王からも国家の柱石として扱われていたが、その彼でも止められなかった。

 逆に勢いづけたのはザンデだ。ヒルメスの遺児であるティグラネスはついにパルス王になった。ここでパルス西部からマルヤムの奪還まで成し遂げられれば、ヒルメスとイリーナの供養になるに違いない。

 アルスラーンには感謝しているし40年近く忠誠も尽くしたが、ヒルメスのことは一日たりとも忘れることはなかった。その彼にしたら、この場面で少々冷静な判断に欠けても仕方ないだろう。

 ティグラネスはザンデを大将軍(エーラーン)に任命し、20万という大軍を動員した。まずはザーブル城を目指す。

 

 対し、ルシタニアを継いだシルヴィウスも20万の大軍を動員したが、ここで彼は父が生涯しなかったことをする。ルクールを、ルシタニアの宰相に任命したのだ。

「貴方はわが父に育てられた。血の繋がりは無くとも、兄とも思う方である。父には遠く及ばぬこの愚弟を、どうか扶けてほしい」

 セイリオスはルクールを鍛えに鍛え上げたが、決して大臣のような重役には登用しなかった。ルクールが自分に近すぎたからだ。崇拝者は自分で思って無くとも、その対象に阿る。

 シルヴィウスなら、それがない。だからルクールを使える。それを見抜いたシルヴィウスは、セイリオスを継ぐ者としての器量を見せた。そしてパルスの奴隷だった少年は、ルシタニアの宰相にまで昇りつめた。

 

 ザーブル城は元々パルスの城であったが、当然ながらルシタニアの手で大改修が行われている。かつての図面などは何の役にも立たない。

 そうなれば天然の要害である。ティグラネスはルシタニア軍の到着までに陥落させようとしたが、守り抜かれた。そこで方針を転換、ルシタニア軍との決戦に臨む。

 20万対20万という大激突になったこの戦いだが、一進一退のまま時間だけが進む。父親たちが見ていればその稚拙さに頭を抱えたかもしれない。

 

 両者とも即位したばかりである。あまり長滞陣はしたくない。結局、最後は現状維持で講和を結んだ。ティグラネスはいくつか落とした要塞を放棄したが、その要塞の分だけパルスが優勢だったと言えなくもない。

(私は父には及ばぬ―)

 皆がそれを思い知ったというのが、この戦いの最大の戦果だったと言える。特にティグラネスは強烈にそう思った。そして非才の身であるが、自分の出来る限りで、パルスを守り抜くしかない、と。

 すると、ルクナバードが抜けたのである。『解放王』に勝ろうとしていたから駄目だったのだ、と気付いたティグラネスは、アイヤールとファルザームの二人の友と共に、パルスを見事に治めていく。

 

 

 ―大軍が去ったザーブル城の城頭に、一人の老人が立った。

「…あの彼方に、イスバニルがある」

 地平の向こうに広がる原野に、思いを馳せる。英雄たちの夢の跡だ。あの激戦を知る者が、この児戯のような戦場に何人いただろうか。

 みな、いなくなってしまった。セイリオスも、ギスカールも、十二宮騎士団の仲間たちも、敵だったアルスラーンも。自分ももうすぐ彼らの元に行くだろう。あの英雄たちの時代は、もう戻らない。

 モンフェラートの双眸からは、涙があふれ続けた。

 




以上、これでこの作品は完全終了です。書きたかったことは書き終えました。
ここまで読んでくださってありがとうございます。

さて、次はどうしようかな…。


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