模擬聖杯戦争 Foul/Scarlet Research (井ノ下功)
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クライマックス・イヴ

 

「フッ、ハッハハハハハハハ! なるほど! そういうことか!」

 

 白髪の老人は呵々大笑する。彼の体は金色の粒子に変わりつつあった。残された時間はあと僅か。

 

「いやはや……最初の反応を見た時からねぇ、おかしいと思っていたのだよ。君が私を忘れるなんてことはあり得ない――一度でも“会った記憶があるのなら”。いや――記憶があっても、実感が伴わなければ、君にとっては切り捨てるべき感傷の部類に入るのか」

「気付くのが遅いよ、アーチャー。座に座りすぎて脳味噌が溶けたのか?」

「私ももういい歳だからネェ。最近物忘れが激しくって」

 

 と、老人は、ニヤリと笑った。

 

「これは普通の聖杯戦争ではない。あらゆる面で、劣った聖杯戦争だ――ということを、すっかり忘れていた」

「……」

「だから君は、本来のホームズと違って、不完全だ。不完全だから――私を、無傷で、完全に殺し切れた」

 

 言われた方は、実につまらなそうな顔をして、ちょっと肩をすくめてみせる。それはまるで、分かりきっている数学の答え合わせを丁寧にやられて、うんざりする学生のようで。

 老人は鼻から息を吐き出して、ゆるゆると頭を振った。

 

「マァ、君に負けるのであれば、物語上は“正しい”と言わざるを得ないのだろうネェ……本来の君でない君になら、負けたところで大して腹は立たないし。――次は、世界の最果て、泡沫の夢の中で会おうじゃないか。その時には、カクテルの一杯でも奢ってやろう」

 

 その言葉を最後に――

 ――彼は、完全に姿を消した。

 沈黙は祈祷でなく、静謐な場は安寧の墓所ではない。

 静寂は、次の戦争への八分休符。

 彼は振り返った。

 

「さて――」

 

 唇の前で、その長い指の先端を軽く合わせ、ゆっくりと目を閉じる。

 彼は探偵だった。いや、だった、というのは正しくない。彼は今もなお探偵だ。そして未来永劫、探偵であるだろう。

 さらに言うならば、ただの探偵ではない。

 名探偵である。

 言わずと知れた、世界屈指の名探偵にして、唯一の諮問探偵――

 

 ――シャーロック・ホームズ

 

 その彼が言葉を紡ぐ。

 

「ジョン・ワトソン。奇しくも、僕の親友となる男と同じ名を持つ、僕のマスターよ」

 

 彼にとってはそれが唯一にして最大の武器である。無論、バリツとかいう謎の体術を修めてはいるが、それにいかほどの致死性があろうか。

 言の“刃”の方が、よほど鋭く、毒を持つ。

 おもむろに、瞼が開かれる。

 

「ここがクライマックスであることは、もはや言うまでもないだろう。――覚悟は、できているな」

 

 すべての光を飲み干すような――すべての闇を見通すような――恐ろしいほどに透明の眼差しが、彼に相対する男に照準を合わせる。

 射竦められた男が、半歩後退る。無意識だろう、胸元に揺れるリングへ手を伸ばす。それは焦燥の証。

 名探偵は唇の端を吊り上げて、

 

「機は熟した。それでは、謎解きを始めよう」

 

 刃を振り上げた。

 

「さしあたって、我々の出会いにまで遡ることにしようか。といっても、事件はその時には既に、終わっていたのだが、ね――」

 

 



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第1章
キャスター 1


 

「素に銀と鉄――礎に石と契約の大公――降り立つ風には壁を――」

 

 深夜二時半。俗に言う、草木も眠る丑三つ時、という時間帯だ。

 男はまるで闇に溶けようとしているかのように、全身真っ黒だった。黒いワイシャツ、黒いズボン、黒い革靴。ネクタイを省略しているのは、暑さのためだろう。そのくせ、手には黒い手袋をはめていて、どこか異端的である。髪の毛は明るいブラウン、瞳も明るい緑色だが、何故か暗く落ち込んでいるように見える。部屋の異常な雰囲気がそうさせるのかもしれない。

 

「四方の門は閉じ――王冠より出で――王国に至る三叉路を循環せよ――」

 

 書斎の床には精緻な魔法陣が描かれている。その前に立って、両手を掲げ、彼は緊張した面持ちで詠唱を続ける。

 

「閉じよ」

 

 “みたせ”と繰り返すつどに五度。一言ずつ室内の空気が異様な圧迫感を帯びていく。真夏にもかかわらず閉め切られていたカーテンが揺れ、窓ガラスがかすかに震え始めた。それは嵐の気配に怯える猫の髭。或いは怪物の登場を察した赤子の産毛。

 

「ただ、満たされる刻を破却する――」

 

 頬を伝った汗が、滴り落ちる。

 

「――告げる」

 

 唐突に噴き上がった風に押され、汗の粒は床を目前に砕け散った。

 

「汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 

 魔法陣が煌々と輝く。カーテンを引いてあったのはこのためか。しかしその強い光は、窓の外を満たす夜闇をも切り裂いて。

 

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者。我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天――」

 

 最後の一節を、

 

「――抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」

 

 唱えた。

 瞬間、魔法陣から立ち上った光の柱が、部屋を、視界を、真っ白に塗り潰す。

 彼の目が復帰するのに、五秒ほどが費やされた。

 そしてその五秒は、

 

「……ふむ。なるほど、そういうことか」

 

 召喚されたサーヴァントが推理を完了させるのには、充分過ぎる時間だった。

 呼び出した男は涙を散らしながら、目を開け――その目を疑った。視神経が焼き切られた、そうでなければ大脳がやられたかと思ったくらいだ。

 そのサーヴァントは、魔法陣の中央に立ち、細長い人差し指で顎の先をとんとんと叩いていた。天井まで届く本棚の一番上段にまで、余裕で手を届かせるであろう高身長。ヴィクトリア朝の紳士を彷彿とさせる、やや古風なスーツ。黒いインバネスコートと鹿撃ち帽を小脇に抱え、ひらりと翻った手が顎の下からコートの中へ。取り出したるは、大きなパイプとマッチだった。

 

「君も喫煙者だ、吸っても構わないだろう」

 

 当然のようにそう言われ、彼は思わず頷いていた。彼が、ここには灰皿を置いていないし今日はまだ一本も吸っていないのに、と思ったのは、随分と後になってからのことである。一体何を見て、どこから、彼が喫煙者であることを、かのサーヴァントは読み取ったのだろう。

 マッチの火をパイプに落とすと、やがて白い煙がふわりと漂う。独特な香りのする煙が目の前にまで来て、思い切り吸い込んでから、彼ははたと我に返った。

 

「……え、あ、あの……あなたは――」

「うん。その通り」

 

 彼が何を言うより早く、サーヴァントは頷いた。

 

「僕は君が呼びたかったサーヴァント――ジャック・ザ・リッパーではない」

「っ!」

「何故それが分かったか、って? 明白さ。君の後ろのデスクの上。そこに置かれているのは間違いなく、ジャック・ザ・リッパーが殺した娼婦の一人、キャサリン・エドウッズのエプロンの一部だ。特徴がすべて一致している。それに加えて、デスクの側面にチョークで書いた“The Jews are not The men That Will be Blamed for nothing.”――これはジャックが書き残したとされる落書きだ。――はぁ、こんなのはただのクイズであって、推理とは呼べない代物だよ」

 

 退屈そうに煙を吐き出して、サーヴァントは魔法陣から出た。書斎をくるりと一周したと思ったら、まるでここが自分の部屋であるかのように、デスクの上にコートと帽子を置いて、革張りの回転椅子に腰を下ろす。長い足を組み、もう一度煙を吐く。刃のように冷たい声が溢れ出す。

 

「君はジャックを呼ぶために随分と調べたようだ。そこに平積みになっている書籍、書類、すべて切り裂きジャックに関する記述ばかり。ここ一、二週間ほどで慌てて掻き集めたらしい、本棚には余裕があるのに、しまっていない。本棚を見れば、時計回りに文学・歴史・地理・天文と分野別、著者名順に綺麗に並べていることから、君がたいへん几帳面な性格であることはよくわかる。そんな君にとって、集めた資料を読んだ端から放り投げていくなんて、あり得ないことだろう。――それだけ、この聖杯戦争は急に開幕が決まったということか」

 

 息もつかせぬ怒涛の喋り。驚異的としか形容できない観察力。そこから導き出される、完璧な推理。これらを持ち合わせ、さらに、ジャック・ザ・リッパーと同じ遺物で召喚されうる人物――。

 間違いない、と彼は思った。いやまさかありえない、とも思ったが、他に当てはまる人物はいないのだ。その確信は、確かに完璧な推理ではあったが、かのサーヴァントからしてみれば“遅すぎる”“君はただ眺めているだけで、観察をしていない”と言わずにはいられないものだったろう。

 それでも彼は正解に辿り着き、震える声で尋ねた。

 

「あなたは……まさか……――シャーロック・ホームズ?」

 

 サーヴァントは冷たい目で彼を見返した。

 

「その通りだ、ジョン・ワトソン」

 

 名乗ってもいないフルネームを唐突に呼ばれ、彼は――ジョン・ワトソンは息を呑んだ。サーヴァント――シャーロック・ホームズは、片頬を吊り上げて、どこか皮肉気な笑みを浮かべながら、「まぁ、ジョンもワトソンも珍しい名前ではない。そういうこともあるだろう。ただ――ジョンとワトソンを兼ね備えた男性が、生まれついての魔術師で、聖杯戦争に参加し、切り裂きジャックを召喚し損ねて僕を呼ぶ――なんてことが起きる確率は、相当に低いだろうと思うけれどね。もしかしなくとも、君自身が触媒のような役割を果たしたのかな。ふん、それは面白い」

 

 それから、ワトソンの何か言いたげな目線に気付いたのだろう。左右に振っていた椅子を止め、フルネームを言い当てた理由を述べた。

 

「名前入りの万年筆。プレゼントか? 悪くない趣味だ」

「なるほど……」

 

 言われてみれば、いっそくだらないと思うほど、何の不思議もない推理だ。魔術や神秘とはかけ離れた、純粋な現実を見極める能力。

 

(確かに、凄い)

 

 人並み外れた観察眼と推理力。さすがは、長く語り継がれ、多くのパスティーシュを生み出し、まだなお新鮮な探偵である。が、それは果たして、神秘に到達しうるものだろうか。まして戦闘において、役に立つものだろうか。

 

(いくら“模擬”とはいえ、これは聖杯戦争……勝ち残れるのか……?)

 

 ワトソンの不安を見透かして、ホームズは立ち上がった。

 

「君の懸念は尤もだ。僕は知っての通り探偵であって、戦闘にはまったく自信がない。護身術程度なら扱えるが、セイバーやランサーを相手にして、互角に戦えるとは微塵も思っていない。……だが、こと情報戦、推理戦に関してなら、世界一と謳っても問題ないだろう。戦い方を間違えさえしなければ――充分、勝ち目はある」

 

 事実をのみ淡々と語る冷たい口調には、根拠のない自信も、考えなしの勇気も、弱さからくる自暴自棄すらも混ざっていない。故に、何より信頼のおける分析。だからこその、探偵。

 真実を追求し、現実を見通す者――

 ホームズは鼻を鳴らして、唇を笑みの形に歪めた。

 

「今更だが、こういうのは様式美というやつだからね。――サーヴァント、キャスター。真名をシャーロック・ホームズ。呼びかけに応じ参上した。――問おう、君が、僕のマスターか」

 

 ワトソンがその問いを肯定して――模擬聖杯戦争、二組目がここに誕生した。

 



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アサシン 1

「――祓ひたまひ、清めたまふ――悪しきは滅され――君が世は泰平にして不穏也――」

 

 広い道場に少女の声が響く。甲高い岩笛の音は清冽に、場に突き刺さる。

 

「敢て鬼門を開け放ち魑魅魍魎の息吹を呼び込まん――四辻を駆ける疾風は留まることなく四方三里を廻れ――」

 

 上之宮真琴は魔術師の家に生まれた少女だ。

 魔術師としての上之宮家の歴史は、大して長くない。その家は長らく社家として続いてきた家だった。ところが、明治維新後の神仏分離に伴う社家の廃止によって、上之宮家は転向を余儀なくされ――辿り着いた先が、西洋魔術を吸収した、新式魔術の開発だった。

 最初期は新興宗教として名を馳せたが、やがてその術式が確立されてくると、表舞台からは姿を消す。元々持っていた神主としての血筋と技量、新たに取り入れた西洋降霊術のメソッド、それに陰陽道を組み合わせ、現在のスタイルに至った。

 神憑りの儀――神霊を呼び出し人間に憑依させる、日本式の降霊術――を秘奧とし、それに至る道筋としての使い魔の使役。陰陽道の知見から得た式神の作成。攻防一体となったスタイルは現代的であり、それゆえに好戦的で、一方で不安定であった。

 それを安定させるために、模擬聖杯戦争に手を出したのである。

 そしてそれは同時に、次期当主である上之宮真琴への試練も兼ねていた。

 

「汝我が問ひかけに応じるならば現れよ。汝我が命に従ふならば現れよ。過去の幻影、歴史の泡沫、汝現し世に未練を残すならば現れよ――」

 

 描いた魔法陣は日本式だ。唱える文言も――神憑りを執り行う家としての矜恃がそうさせた――上之宮家のものである。

 

「神聖なる杯を手にせんと欲する者よ、その悉くを我は受け入れ我は認め我は飲み込み、我が力を与へよう――汝我が刃となり己が欲望を果たさんと目論む者よ、汝我が盾となり己が未練を拭わんと企図せし者よ、我が下に至る道は既に開けし、いざ現れよ、いざ、いざ、いざ!」

 

 打ち鳴らす柏手は五度。鳴らすごとに光が溢れ、魔法陣が回る。

 

「誓約を結ぶ――我が聲、我が魂、汝に届くならばいざ、現れよ! 五行の均衡を計るしもべ、大極を司りし守り人よ――!」

 

 光の柱は天井を貫いて――収束する。

 そして、

 

「――あ、こんばんは! お呼びと伺って参りました!」

 

 気の抜けた声が響いた。

 魔法陣の中央に正座していたのは、うら若き少女だった。年の頃は、真琴と同じくらい――十七か八、のように見える。男物の着物をまとい、長い黒髪を後頭部で括っている姿は、男装の女武者と思えなくもない。が、

 

「あなたがボクの主様でしょうか? いっやぁ、嬉しいなぁ、可愛い! ボクと同い年くらいですよね? やったね最高! 仲良くしましょうね! あ、とりあえず恋バナとかしときます? ほらほら、親交を深めるために、ね!」

 

 いかんせん、緩い。

 にこにこと間の抜けた笑顔で喋り倒すサーヴァントを、冷たい目で見やって、真琴は口を開いた。

 

「審神者として問う。第一に問うはあなた様の御名――お答えいただきたく」

 

 審神者とは、神憑りの儀において宿主に降りた神が、いったい何の神であるかを、いくつかの問いを以て審判する係である。ここでは、付喪神を使役する人間のことを指さない。かつては、神を呼ぶ人間と審神者とは分担していたのだが、最近は兼任するようになっていた。目的の神を呼び出せなかったと判断した場合は、早急にお帰り願い、改めて呼び出し直すのが、本来の神憑りの儀であるのだが――正規の神憑りでない今回、呼び直しは出来ないだろう。

 さて、問われた張本人は、こてんと首を傾げ、

 

「おん、な……? あ、名前? 名前ですか? ボクの? はい! ボクは、新選組諸士調役兼監察方、山崎丞と申します! よろしくお願いいたします!」

「山崎丞……――では、第二に問うはあなた様の」

「もー、硬いですね! 硬いです! そんなカッチコチにならなくってもいいんですよ! だってほら、ボクたち、一緒に聖杯戦争を戦う仲間じゃないですか!」

「……」

 

 正座をしたままにじり寄ってきたサーヴァント――山崎丞を、真琴は早速持て余すのだった。

 

「えーと、それで? 主様のお名前は?」

「……上之宮真琴」

「まこと! 真琴さん! 素晴らしい最高のお名前ですね! “まこと”の音の下でなら、ボクはいくらでも戦えます! どうぞ存分にお使いください! あ、それじゃあ早速、周囲の索敵に行ってきても?」

「待ちなさい。先に、これを読んでいきなさい」

 

 渡したのは、コピー用紙の薄い束だ。一週間前、真琴にマスターの兆し――二画しかない令呪が刻まれた時に、近所の教会のシスターが持ってきたものである。監督官だ、と語った彼女は、「ええと、『模倣者』さん? が作ったらしいので、私もよくわかってないんですがぁ……」と言いながら、この模擬聖杯戦争の詳細を記した書類を置いていったのだ。

 

「む? これは――ええっと、何々――模擬聖杯戦争、るーる――これまでの聖杯戦争との共通点――ふむふむなるほど――これまでとの相違点――……ほほう、これはこれは。なかなか厄介な聖杯戦争に呼ばれたようですね、ボク! 初参戦がこれとか、なかなか燃えます! 沖田さんもびっくりするんじゃないですかね!」

 

 この道場に明るい笑い声が響いたことなど、建設後百二十年で初めてではないだろうか。

 真琴は半分うんざりしながら、

 

「……ところで、あなたの座は?」

「座? くらす、ですか? あさしんです! 暗殺者!」

「アサシン――」

「はい! 闇討ち、暗殺、お手のっぅぐっげほっ、ごほっ……失礼、唾が……げっほげっほ……うぅ、何故か今抑止の力を感じました……」

 

 一人でコミカルに動いている山崎を横目に、真琴は思索に沈んだ。

 触媒として用意したのは、新選組の羽織の欠片――無論、本物だ。長らく眠っていたものをわざわざ探し出してきたのである。残念ながら、誰が着ていた物かは判明しなかった。だから、誰が来てもおかしくなかったのは確かだが――

 

(山崎丞。アサシン。新選組の監察官にして、優秀な諜報員――新選組の中で、座に呼ばれるほどの人間であれば、当然セイバーだろうと思っていたけれど……甘かったようね。しかも、こんな女性だったなんて……)

「ん? どうしました? ボクの顔に何かついてます?」

「……いいえ。何も」

 

 冷淡に返しつつ、真琴は自分のサーヴァントを改めて見据えた。

 

(若い……確か、山崎丞が新選組に入ったのは、三十才くらいのことだと思ったのだけれど)

「アサシン。あなたの記憶を確認したいわ。年齢は?」

「はっ、認識の上では二十一です」

「新選組には入る前ね?」

「いいえ? 文久三年、十八の時に入隊しましたが」

「……史実とは、随分と食い違うのね」

「あ、そうなんですか? いやぁ照れますなぁ。ほらボク、諜報とか監察とかいろいろとやってた手前、いろんなところであることないこと適当に喋って、経歴とかもでっち上げてばっかいたもんですから……いやぁ、お恥ずかしい。そういえば入隊する時も、年齢詐称した記憶がありますねぇ。土方さんにすっごい目で見られたんでした。あっはっはっ!」

 

 山崎はへらへらと頭を掻いて、平然とそうのたまった。

 

「……では、聖杯に懸ける望みは?」

 

 真琴がそう尋ねると、山崎はふ、と居住まいを正した。

 

「うぅーん、そうですねぇ……通常の聖杯戦争であれば……副長と一緒に函館で死なせてくれ、とか、沖田隊長の病気を治してくれ、とか、そういうのを願いたいもんですが……今回は、そういうのは叶わないんですよね?」

「えぇ。過去の改変を実行できるほどの力は、今回の贋作は持ち合わせていないらしいわ」

「それならー……うーん……」

 

 腕を組んで考え込み、迷うこと数十秒。

 唐突に目を輝かせて、

 

「あっ! あの時のめっちゃくちゃ美味しかったお団子をもう一回食べたい! ……とか、いいです? これなら大丈夫ですよね?」

「……大丈夫だと思うけれど……」

「やったぁ! え、それめっちゃ嬉しいんですけど! 潜入先の旦那さんがこっそり振る舞ってくれたんですが、あんまりにも美味しすぎてお店の名前を聞きそびれて! それがかなりの心残りだったんですよねぇ。良かった~、すっごいやる気出てきました!」

「……そう」

 

 これまでに接したことのないタイプを前に、真琴はどうしたらいいのか分からず、困惑していた。分かっているのは、相手のペースに飲まれたら終わりだ、ということのみ――溜め息を一つ。気持ちを切り替える。

 

「――アサシンと言うのであれば、諜報は任せます。まだサーヴァントは揃っていないようだけど……単独行動を許すわ。先に、この町の地理を掴んでおきなさい」

「はっ! 承知!」

 

 片膝をついてこうべを垂れ、凛とした返事をする姿は、それなりに頼りになりそうな気がしなくもないが。

 消え去るのを見送って、真琴は一人溜め息をつく。

 

(……私が、どうにかするしかなさそうね……)

 

 こうして、三組目の参戦者が揃った。

 

 



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セイバー 1

 

 世界屈指の魔術学園『時計塔』に、その封書が届いたのは、今から十日前のことだった。

 差出人は、極東・日本のさらにその片田舎に住まう、シスターである。

 封書の中身は、『模擬聖杯戦争』と銘打たれた争いのシステムをまとめた書類と、シスター本人からの直筆の手紙。その手紙によれば、この聖杯戦争は、これまでのどの聖杯戦争とも違い、“亜種”とも言い難く、さらに自分はただのシスターであって、どうしたらよいのか分からないのだという。

 男は書類の写しをパラパラと眺め、眉間に刻まれた皺をさらに深くした。

 

「フン……模擬聖杯戦争、か。確かに、どうしたらいいのか分からんなこれは。――それで? 私にどうしろと?」

「いや別に、どうしろというわけじゃないんだ。ただ少々面倒なことが、というか――いや本当に、心底、明日の天気よりどうでもいいことなんだが――」

「そんなどうでもいいことならいちいち言いに来るな。暇なのか」

「可愛い可愛い義妹に対して随分な言いようだな、親愛なる我が兄よ。こう見えても私は毎日忙しくしているんだよ? ……まぁ実際、言うべきか言わざるべきか、大変迷ったのも事実だけれど」

「それで、何を気にかけているんだ?」

「我らがエルメロイの遠い遠い親戚に、アーキシェルという分派があってだね。そこは、かの第四次聖杯戦争において先代ロード・エルメロイが亡くなった時に、功を急いて迂闊な動きをしたから、エルメロイの名を剥奪されて、今にも途絶える寸前と言ったところの弱小家なんだが――」

 

 流暢に喋る少女は、紅茶を一口傾けてから、続けた。

 

「――そこの現当主、ヘルメス・アーキシェルという男が、この模擬聖杯戦争に参加するべく、極東に向けて発ったそうだ」

「それで?」

「発つ直前にこんな手紙を寄越した」

 

 少女が一通の手紙をテーブルの上に滑らせた。

 男はそれを受け取って、中を覗き――やがて、重苦しい溜め息をついた。

 

「……こいつは、馬鹿なのか?」

「うん。救いようのない馬鹿だ。けれど、万が一ということが、無いとは言い切れないだろう? 今回の聖杯戦争は――その資料の中身が正しいのなら――小聖杯の贋作を核にした儀式で、本物の大聖杯には遠く及ばないものの、出力の方向と強さを相応しいものに調整してあるから、“ちょっとした願い”なら確実に叶えられるらしいじゃないか。特に、俗物的な――金が欲しいとか、女が欲しいとか――エルメロイ家当主の座が欲しい、とか、そういう願いならば、確実に」

「フン、くだらない」

 

 男は冷たく一蹴して、葉巻の先を灰皿に押し付けた。

 

「できるものならばやればいい。模擬とはいえ聖杯戦争だ、そう簡単に行くとは思えないが――だからこそ、それを勝ち抜いた者ならば、この多額の借金を押し付けたってどうにかするだろう」

「ふむふむ、確かにね。――やはり、言いに来るまでもなかったな」

「いや、この模擬聖杯戦争の話を早めに持ってきてくれたことに関しては、感謝する」

「おや、その心は?」

「……血気盛んな我が弟子たちの耳に入ったら、どう動かれるか分かったもんじゃないからな……アイツらには絶対に知らせないぞ……またあの馬鹿みたいに突っ走られたら、いよいよ胃に穴が開く!」

 

 男の切実な叫びに、少女はたいへん嬉しそうな笑い声を上げた。

 

   ☆

 

 ヘルメス・アーキシェル。

 先代のロード・エルメロイ――ケイネス・エルメロイ・アーチボルトから辿れば、その父の従弟の異母兄弟である弟の息子である。血の繋がりは何CCほどだろうか。

 さて、彼は模擬聖杯戦争の話を聞くが早いか、日本に向けて飛び立った。手にはすでに聖遺物を持っている。模擬聖杯戦争の話を持ってきた女が、「偶然手に入れたのはいいのですが、自分では絶対に勝ち抜けません。確実に聖杯を手にするであろうあなた様に買い取っていただく方が、この聖遺物、そしてこれに呼ばれるかの騎士にとっても、喜ばしいことと存じます」などと殊勝に語るものだから、即断即決、言い値で買ったのだ。

 

(ふっ……この聖遺物があれば、確実にセイバーが来る……アーサー王やランスロット、ガウェインなどには劣るだろうが……それでも、円卓の騎士の一人。他のサーヴァントより段違いに格上であることは間違いない!)

 

「ふっふっふっふっふっふ……」

 

 笑いが止まらなかった。自身が呼び出し、使役するサーヴァントとともに、名だたる英霊たちをことごとく屈服させ、聖杯を手に入れる。そして、

 

(この私に辛酸を嘗めさせたあのメスガキと――偶然生き残っただけで大きな顔をしていやがる新参者を――地に這いつくばらせてやる!)

 

「ふっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」

 

 思わず高笑いをする彼を「あのぅ、申し訳ございません、お客様……機内ではもう少々、お静かに……」と客室乗務員がやや怯えた表情で諫めた。

 

 

 

 十二時間を超えるフライトを終え、そこからさらに新幹線で一時間半。

 ようやく、極東の中でもさらに地方の市――賎畿(しずき)市、とか言ったか――に到着した。ここが、模擬聖杯戦争の舞台となる場所である。

 

「ふん、しけた町だな……」

 

 日曜日であるというのにこの人通りの少なさだ。戦争には向いているかもしれないが。町としてはどうなのだろう。

 唯一目を引いたのは、霊峰・富士だ。富士山に最も近い都市部ゆえ、その美しい青みはやや薄れており、岩肌の方が目立っている。近付くほどに、絵画のような美しさは、原始の生命のたくましさに変わっていく――その丁度境目を拝めるのがこの都市だった。季節が季節なだけに、雪も見当たらない。けれども――だからこそ――圧倒的な存在感。霊峰と呼ばれるだけの威容を備えている。

 魔術回路の昂りを抑えて、ヘルメスは駅前の安ホテル(この辺りでは一番高価なホテル)にチェックインした。最上階、最も広い部屋に荷物を置き、すぐさま霊脈をチェックする。

 

「ふむ、充分だな――よし、それでは早速、だ」

 

 ホテルの床に水銀を垂らし、魔法陣を描く。それから、厳重に梱包されていた聖遺物を、うやうやしく取り出した――それは古びた鉄の義手。

 

(かの隻腕の騎士、ベディヴィエールが着けていた逸品!)

 

 これがあれば、とヘルメスは笑う。円卓の騎士の一員、ベディヴィエールの召喚は約束されたも同然だ。

 

「素に銀と鉄、礎に石と契約の大公、降り立つ風には壁を――」

 

 かくして、召喚の儀式はつつがなく遂行され、

 

「――抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」

 

 視界を塗り潰した光が収まった時、魔法陣の中央には、老年の男が気だるげに胡坐をかいていた。髪も髭も真っ白で、小汚く伸ばされたままだったが、甲冑を全身に纏い、腰に剣を帯びた姿は、紛れもなく騎士。右腕は義手のはずだが、鎧と一体化していて判別がつかなかった。

 

「――問おう。お前が俺を呼んだ、主か」

(これが、ベディヴィエールの最盛期……!)

 

 意外や意外、彼は老年に至って最盛期を迎えたのか――と、ヘルメスは思ったのだ。そのおめでたい頭を純朴と言おうか、天然と言おうか。あの男がいたら『ただの馬鹿だ、阿呆だ、大間抜けだ』と容赦なく八つ裂きにしていたに違いない。

 しかし何も疑問に思わないヘルメスは満面の笑みで頷いた。

 

「あぁ、そうだ。私がお前のマスターだ、ベディヴィエール」

「ん? ベディ……何だって?」

「ベディヴィエール――お前の名前じゃないか」

 

 老人は眉をひそめ、首を傾げた。

 

「俺の真名はゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲンだ」

「……は?」

「何を勘違いしてんだか知らねぇが、俺はベディなんちゃらって奴じゃねぇ。ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲン。鉄腕のゲッツだ」

「な――……な、な……――なんだとぉおおっ?」

 

 彼の悲鳴が響き渡った。

 

「嘘をつくな! サーヴァントがマスターに嘘をついていいとでも思っているのかっ? いいか、私が呼んだのはベディヴィエールだ! 遺物だって、ほら――」

 

 ヘルメスが掲げた鉄の義手を、ゴットフリードはしげしげと眺め、不意に目を輝かせた。「よっこらせ、」といかにも老人らしく立ち上がる。立ち上がってみると、相応の偉丈夫であることが分かるのだが、それでも常識の範疇だ。かの大英雄イスカンダル、それをして偉丈夫と言わしめたダレイオス三世には、遠く、遠く及ばない。

 ゴットフリードは目を細めて笑った。

 

「懐かしいなぁ。こりゃ、俺が昔使ってたやつだ。よくもまぁ、こんなの残ってたもんだ」

「っ……う、嘘だ! これはベディヴィエールが使っていたものだ! ここにイニシャルだって刻まれているんだぞ!」

「どれどれ?」

 

 覗き込んだと思ったら、ゴットフリードはひょいと義手を奪った。そして唐突に、裾で義手の内側を擦り始める。

 

「お、おい! 何をするんだ! それは大切な――」

「ほれ。俺の名前だ」

「……は?」

 

 目の前に突き付けられた義手――確かに、Bと刻まれていた部分には、右側に続きが合って。BedivereのBだと説明されていたその部分には――

 

 ――Berlichingen――と。

 

 はっきり刻まれていた。

 

「錆が付いてて――しかもこれは、あれだ。隠すために、あとからわざと付けた錆だな。まんまと騙されたようだなぁ、はっはっはっ」

「な……な……そ、そんな、馬鹿な……」

「そう簡単に騙されてるようじゃ、先が知れるなぁ、我が主?」

「う、うるさい! うるさいうるさいうるさいっ! 黙れ! 消えてろ! ああああああああああああっ!」

 

 頭を掻き毟ってベッドに倒れ込んだヘルメス。ゴットフリードは両手を広げ、やれやれ、と言わんばかりに首を振り、大人しく霊体化した。

 何はともあれ、ここに四組目の参戦者が誕生したのである。

 



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キャスター 2

 

 ホームズを召喚してすぐに、ワトソンは移動の準備を始めた。

 

「どうして拠点を変える? 僕には工房なんて必要ないのだけれど」

「キャスターなのに?」

「僕の工房は“ここ”だ」

 

 と、ホームズは指先で自分の頭をコツコツと叩いた。

 ワトソンは苦笑する。

 

「はは。確かに」

「だから移動する意味など――あるとするなら、君の方の理由だね。ここを攻撃されたくないようだ。思い入れのある家なのかい?」

「うん、まぁ……こっちに来てから、ずっと住んでいるからね」

「来日して二年。同棲していた恋人とは別れたのか?」

「え」

 

 ワトソンはびくりと固まった。

 ホームズはその顔を一瞥して、そのまま続けた。

 

「独り者が住むには大きい。どこも綺麗に掃除されていたが、ここ一カ月ほどは放置されているね。寝室にはダブルベッドと鏡台。浴室には女性が好むシャンプー、リンス、トリートメント。二組ある歯ブラシ、片方はしばらく使われていない。あと洗濯バサミの数、洗濯用のネットの数と種類。洗濯ネット自体は男性だって使うだろうが、ブラジャー用のをわざわざ使うことは考えにくい。それに――」

「分かった! 分かったから!」

 

 ワトソンは堪らず制止した。数分席を外したと思ったら、そんなことを見に行っていたとは。

 

「そうだよ、君の言う通りだ。――恋人がいた。一カ月前に別れたけどね」

「それが、ここを離れる理由?」

「……数ある理由の内の一つであることは認めるよ」

「そもそも、君自身の工房が、ここではなくて外に用意してあるんだよね。ご近所迷惑を考えないで済むような場所に」

「……」

 

 なるほどホームズが常人とは付き合えないわけだ――と、ワトソンは思い知った。この分だと、本来のジョン・ワトソンも、決して普通の人間とは言い難い人物なのだろう。こんな変人に付き合うには、相当の胆力と精神力が要る。

 すべてを暴かれても、平然と笑える心が。

 ホームズは何食わぬ顔で立ち上がった。

 

「さぁ、行こうか。拠点を変えることには賛成だよ。僕の真価は情報収集の先にある。そして情報収集には、潜伏が重要だからね」

 

 ワトソンは頭痛を堪えながら、バッグを持って立ち上がった。

 家を出る直前、ホームズが少しだけ後ろを振り返って――すぐに、霊体化した。

 

 

 

 ホームズが看破したとおり、ワトソンの工房は最初から別の場所にある。賎畿市の東を流れる満穂川の上流、三津楽寺の裏手に回り、竹林の中へ。

 

「かつての防空壕があるんだ。それが結構広くて、霊脈のすぐ近くだったものだから。土地ごと買い上げたんだ」

(「へぇ」)

 

 興味ありません、と言う代わりに、ホームズは相槌を打った。

 興味無さそうだね、と言う代わりに、ワトソンは黙って歩くことに決める。

 人払いの結界が機能していた。していなくとも、元々人気は少ない場所だが。表側の寺も、今や住職不在の空き寺となっていて、そこらの老人が稀に掃除に来る程度である。その老人たちだって、裏側の竹林の方へは来ない。

 おかげで、手入れなど一切されていない竹林は、鬱蒼としている。人の目線と夏の日差しを避けるにはもってこいだ。

 竹の葉が風に揺すられ、さらさらと音を立てる。それ以外は一切が息を潜め、そのまま息絶えてしまったかのようだ。収穫されなかったタケノコが、立派な青竹になろうと、少ない日差し目指して背伸びをしていた。

 防空壕の入り口は極端に狭い。奥は暗く、底知れなく、普通の人ならば覗き込んだ時点で、即座に取って返すだろう。恐怖心を煽るような仕掛けも当然施してある。

 ワトソンはしゃがみ込んで、洞穴の中に入った。入ってすぐの急斜面を、半ば滑り落ちるようにして降りる。ここさえ越えれば、あとはなんということもない。誰でも普通に立って歩けるように、ワトソンが数カ月かけて改造に改造を重ねてきた。

 外からは見えないように設置してあるカーテンを閉めると、勝手に灯りが点いた。

 すると、中の全貌が分かる。

 広さは二十畳ほどだろうか。床も天井もモルタルでしっかりと固められている。四方の角には、柱が立っているらしく、不自然に角張っていた。一方の壁には一面、棚が埋め込まれていて、その内の半分が書籍、残りの半分が魔術的な道具で埋められていた。理科室にあるような実験用の机もあり、そのすぐ上には換気扇が備え付けられている。ソファはベッドと兼用だ。部屋の隅にはミネラルウオーターのペットボトルが数本。最低限の冷暖房器具と調理器具。寝袋。保存食――閉塞感に堪えられるならば、数週間は充分潜伏できるだろう。

 ホームズが霊体化を解く。

 

「立派じゃないか。ちょっとした“秘密基地”だね」

 

 ワトソンは少しだけ恥ずかしくなって、咳払いをした。ずばりそれに憧れて、などとは言えなかったが、きっと見透かされているのだろう。

 

「これはすべて君が?」

「こんなところの改造、業者には頼めないよ」

「器用だね」

「DIYは嫌いじゃないんだ」

 

 ワトソンはバッグを下ろすと、ポットに水を注いで電源を入れた。

 

「煙草、吸っても?」

「どうぞ」

 

 ホームズは早速、ソファに寝そべり、パイプに火を入れた。そんな彼を横目に、ワトソンは換気扇のスイッチを入れる。

 白い煙が天井に吸い込まれていく。

 それを目で追っていたホームズが、独り言のように尋ねた。

 

「これ、地面が燃えてるようには見えないだろうね」

「フィルターをいくつも用意してある。僕も喫煙者だし、実験で出る煙はもっと酷いから」

「それならいい」

 

 ぷかぷかと揺れる白い煙が、筋になって天井に消えていく。

 あっという間にすぐに沸いたお湯を、ワトソンはマグカップに注いで、ティーパックを浮かべた。なんともなしに紐を引っ張りながら、好みの濃さになるのを待つ。

 

「聖杯に何を望む?」

 

 ホームズの問いかけはあまりに唐突だった。

 咄嗟に手を止めてしまっていたことに、ホームズに向けた目を逸らしてから気が付いた。取り繕うように、ことさらゆっくり、紐を引く。

 少しずつ、お湯が染まっていく。

 

「……お得意の推理で、当ててご覧よ、ホームズ」

「いいのかい?」

「どうぞ」

 

 そう言うと、ホームズは少し迷うような素振りを見せながら、口を開いた。

 

「まだ情報が出揃っていないから、ただの仮説にすぎないと思って聞いてくれ。――君の望みには、一カ月前に別れたという恋人が関わっている――ここまでは、いいかな」

「……正解」

「では、続けよう。君の首にかかっているペンダント。指輪にチェーンを通しただけの即席の物だ。そして指輪は、サイズやデザインから、明らかに女性もの――同じデザインのサイズ違いを、君が身に着けていることから、君たちは婚約していたことが分かる。ではなぜ、それを身に着けているのか? 未練があって、という理由も当然考えられる。そうすれば、家に残された彼女の物が、ほとんど処分されていなかったこととも、辻褄が合う――だが、そう考えると、一つ疑問が残る」

「疑問?」

「“なぜ彼女は何一つとして持ち去らなかったか”ということだ。――君の家に残されていた彼女の物は、あまりに多すぎた。突然女性が着の身着のままで転がり込んできても、そのまま普通に生活を始められるくらいにね。いくらなんでも、手持ちの物をすべて置き去りに逃げた、という状況は考えにくい。それほど怒らせたというのなら、話は別だけれど……怒らせた?」

「いや……喧嘩はよくしたけれど」

「だろうね。おおらかな彼女と、神経質な君では、衝突が絶えなかっただろう。彼女は煙草も嫌っていたみたいだし――あぁ、これは、家の中に灰皿が一つも無かったからだ。二階のベランダには、吸い殻の入った空き缶が転がっていた。吸おうとする度に、そっちに追いやられていたんだろう? その上、消臭剤の買い置きが随分とたくさんあったから。――ああ、だが、同棲生活自体は悪くはなかった。適度な喧嘩は円満の秘訣と言うしね。だが、現実に彼女はもういない。――考えられるのは、失踪か死亡。可能性としては、死亡の方が高いと睨んでいる。それなら、君が家の掃除をする気を失っていることにも、全身真っ黒の服でいることにも、説明が付くからね。どうだろう?」

 

 ワトソンは胸元を押さえ、重々しく溜め息をついた。

 

「その通り。彼女は一カ月前に亡くなった。……後を追うことすら考えたよ」

「そしてそれをやめたのは、聖杯戦争のことを知ったから。――だが、君が聖杯に掛ける望みは、蘇生ではない。それなら、ジャック・ザ・リッパーより、もっと相応しい英霊を呼ぼうとしたはずだ。聖杯だけでなく、あらゆる可能性を確かめるために。自分が生き返った、誰かを蘇生させた、その他不死にまつわる英霊は五万といる。そこであえてジャック・ザ・リッパーを選んだのは――……彼女が、殺されたからか」

「っ……」

「つまり、望みは、復讐――」

「……さすがは、世界に名だたる名探偵だ。隠せないね……」

 

 ワトソンは鳥肌の立った腕をさすりながら、弱々しい笑みを浮かべた。話に夢中になったあまり、すっかり濃くなってしまった紅茶を、一口だけ飲み込む。

 

「それじゃあ、ホームズ。君は、何を望むんだ?」

 

 ホームズはその透明な眼差しで、決して自分と目を合わせようとしない男を真っ直ぐに見据えた。

 そして、不敵に微笑む。

 

「――それはまだ、話すべき時じゃない」



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ランサー 1

 

 模擬聖杯戦争――『模倣者』が作った小聖杯の写し。それを核に据えた、小規模な儀式。召喚された英霊七騎の内、最低でも六騎を取り込めば、聖杯は稼働する。七騎を取り込めば更に、聖杯の行使できる力は強まる。また、マスターの令呪を聖杯が回収すれば――つまり、令呪未使用の状態でマスターかサーヴァントを倒せれば――その分も上乗せされる。

 

(理想は、自分以外の全員を、開幕直後に仕留めきること……そのために必要なのは、機動力と圧倒的な火力! すなわち、ライダーのサーヴァント!)

 

 その点、ディオニシオ・シルベストレは、完璧な策を用意していた。

 

(古代、中世、近世――遠い過去から呼ぼうとすればするほど、その精度は落ちる。そもそも、そんな昔の英霊を呼べるような遺物など、僕では探せない……それなら、近代から呼び出せばいいのだ)

 

 近代だろうが歴史は歴史。魔力や神秘性、さまざまなステータスに関しては劣るだろうが、それを補って余りあるだろうことは、確信出来ていた。

 ディオニシオは、白黒写真と古い勲章を掲げ、唾を飲み込んだ。

 

(レッドバロン――第一次世界大戦における、エースパイロット。世界一の撃墜王)

 

 彼が来たならば、彼の愛用機であったフォッカーが宝具となることは確実。そして、宝具と化したフォッカーを駆り、空から偵察、発見次第撃墜――とすれば、勝利は確実。近現代を軽視してやまない魔術師相手なら、この上ない戦法だろう。――己が信念は捻じ曲がるが、そんなことすべて承知の上だ。

 

(どうしても、勝たなければならない……そう、勝つためなら、戦法を選んでなどいられないのだ……!)

 

 シルベストレ家は、知名度こそ地を這うくらいだが、歴史はそれなりに古く、細く長く続いてきた家系だった。目立った戦功、有名な成果が無いために、家格としては中の下に甘んじている。それでも、地元の名士。張本人たちにしてみれば、守らなくてはならない大きな名前だ。

 それが今、断絶の危機にあった。

 妻を亡くし、娘も病死。息子は出奔して行方知れず。いや、それだけならばまだ良い。若い女を後妻に据えれば、子どもはまだ作れる。問題は金だ。借金がかさみ、首が回らない。しかもそこに付け込み、シルベストレ家の縄張りを犯そうとする不届き者まで出てきてしまった。

 

(まずは金をどうにかする……資金さえあれば、あんな三流マフィアどもなど、恐るるに足らん!)

 

 模擬聖杯戦争は、起死回生の一手なのだ。勝ち抜いて当然の、割のいい賭け。

 

「――告げる! 汝の身は我が下に。我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ! 誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者。我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天――抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」

 

 木立の中に光が溢れ、魔力が渦を巻く。空気が火花を散らし、突風が木々を大きくしならせた。

 

「――問いましょう。貴方が、私のマイスターですか」

 

 現れたのは、長身の青年。纏った軍服は深い紺色のダブル。制帽の下から、短い金髪が覗いている。脇にドイツ帝国を表す黒い鉄十字をつけ、腰にはサーベル、そして片手に、旗をたなびかせる長い槍を持っていた。

 ディオニシオが違和感を覚えたのは、彼の喉元にあるべき勲章が無かったからである。プール・ル・メリット勲章。彼が撃墜王として名を馳せるようになった証。

 どうしようもない嫌な予感を感じつつ、彼は頷いた。

 

「あぁ、僕が君を呼んだ者だ。――真名とクラスを確認しても?」

 

 周囲を見回していたサーヴァントは、ゆったりと視線をマスターに合わせ、緩やかな調子で答えた。

 

「私は、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン。クラスは、ランサーです」

 

 ディオニシオは目を剥いた。

 

「ランサーっ?」

「えぇ。どうやら、槍騎兵だった頃の私が、現界しているようです。自分でも、最盛期とは言い難いのですが……マイスターの要望でしょうか」

「まさか。君の最盛期は間違いなく、パイロットとして活躍していた頃だろう? どうして――どうして、パイロットになる前の君が、ここに来たんだっ?」

「……申し訳ありませんが、私は魔術に詳しくない。どうして、この状態の私が呼ばれたのか、私では見当もつきません」

「っ……」

 

 当然のことだ。彼はただ呼び出されただけなのだから。問題は呼び出した側にあるはずで。しかしディオニシオには、一体何が悪かったのか、想像も出来ない。用意した遺物は間違いなく、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンに繋がる物。そして実際、望んだその人が召喚に応じた――召喚に応じたなら、その姿は自然と、戦いに適した姿、すなわち全盛期の姿を取るはずである。

 遺物の不備か? ――いや、これは最も有名なポストカードの元となった写真。裏も取った。不備などあろうはずがない。

 場所が悪かったのか? ――賎畿市の中で最も良質な霊脈を探し、こんな山奥まで来たのだ。時間も暦も良い。悪かったわけがない。

 ……己の、未熟さゆえか? ――否。断じて、否! それはあり得ない! それだけは!

 ならば――ならば、何故? 何故、このようなイレギュラーが……――

 

「――そうか」

 

 ディオニシオははたと膝を打った。

 

「これは、普通の聖杯戦争ではない――あらゆることが、本来の聖杯戦争とはかけ離れ、ランクダウンしている戦争だ。つまり、呼び出される英霊も、最盛期とは限らない」

 

 そう考えれば、すべてに納得がいった。そして、勝算も出てくる――他の参加者たちもみな同じ条件下に置かれていると思えば、この程度の予想外、何ら問題ない。

 

「……なるほど。通常の聖杯戦争とは、幾分か勝手が違う様子」

「その通りだ。理解が早くて助かる。――あぁ、その関係上、令呪も二画しか配布されていない」

 

 この仕様を知った時には、心の底から驚いた。本来、サーヴァントに対する絶対命令権となる令呪とは、全員に三画ずつ配布されるべきものである。そうでなければ、制御不能のサーヴァントを引き当ててしまった瞬間、詰みとなる。このことも、ディオニシオが比較的話が通じやすいであろう近代の英霊を呼び出そうと思った要因だった。

 

「切り札が、通常より少ないのですね。分かりました。もとから頼るつもりはありませんでしたが、その旨、心に留めておきましょう」

 

 リヒトホーフェンの対応を聞いて、ディオニシオは察する。

 

(どうやら、これが“模擬”であることは、サーヴァントには伝わっていないようだな……これは都合が良い)

 

 そう、“模擬”であり、あらゆる面で節約に節約を重ねた結果――どうやら、聖杯に懸けられる願いも、一つしか受理されない仕様になってしまったらしい。つまり、マスターかサーヴァントか、どちらか一人の願いしか叶えられないのである。

 

(このことはランサーには伏せておこう……どうせ、最後には自害を命じるのだし)

 

 近代の英霊だ、対魔力のランクは低い。一画で確実に命令を遂行するだろう。

 

「では、これからよろしく頼むぞ、ランサー」

 

 リヒトホーフェンは薄い笑みを浮かべた。史実として残っている通りに、彼はゆったりとした――断固とした――口調で、喋る。

 

「戦争と名の付くもので、二度と負けるつもりはありません。お任せください、マイスター。このマンフレート・フォン・リヒトホーフェン、騎士道の下に、貴方へ勝利を呼び込みましょう」

 

 近代の人間でありながら、この騎士然とした語り口。

 

(――ふん、騎士道など愚かしい。予定は狂ったが……問題ない。元々考えていたプランで行けばいいのだ。……精々、派手に戦ってもらうとしよう)

 

 彼らが七組目、最後の参戦者である――ここに、模擬聖杯戦争の火蓋は切って落とされた。

 

「さて、早速だがランサー。その脇に付けている鉄十字を、目につかないところへやってくれないか」

 

 リヒトホーフェンは分かり易く眉をひそめた。

 

「何故です、マイスター。これは、私の、軍功。国王より賜りし、貴重な勲章。私の身分とランクを示し、味方には士気の高揚を、敵には畏怖を与えるために、必要なものです」

「いいかランサー。それを晒して歩くのは、『自分は近代ドイツの英霊です』と喧伝して回っているようなものだ。この戦いは、正体がばれればばれるほど不利になっていく。身分を明かさない、というのは、この戦争において当然の戦略なんだ」

「……なるほど。承知しました」

 

 どうやら、戦略だと言われたら反論が出来ないらしい。近代軍人らしいというべきか、彼が特別素直だというべきか。ともあれ、御しやすそうなサーヴァントだとディオニシオは判断した。

 言われた通りに勲章を外し、ポケットにしまって――ふと、リヒトホーフェンは横を向いた。

 

「ところで、マイスター」

「なんだ」

「この辺りには、野生の虎が、棲息するのですか?」

「は? 何を言って――」

 

 ディオニシオの言葉は途中で遮られた。リヒトホーフェンが彼を抱えて、大きく飛び退いたからだ。

 木々が薙ぎ倒される音。

 獣の咆哮。

 そこにいたのは、確かに、虎だった。百人に訊いても九十人が虎だというだろう。残りの十人はジャガーとかヒョウとか言うかもしれないが、それは些細なこと。

 ディオニシオは、リヒトホーフェンの肩に担がれたまま、目を凝らした。

 

「……サーヴァントだ。間違いない、ランサー、あれはサーヴァントだ!」

「初戦の相手は獣か。参りましたね」

「何がだ?」

「獣と戦った記憶は、ありません」

「っ――」

 

 近代の人間はこれだから! とディオニシオは唇を噛んだ。せめてあのサーヴァントのマスターが近くにいれば、やりようもあるのだが。

 

「とりあえず、野山は彼にとって、有利なフィールドだ。町まで下りましょう」

「あ、あぁ、急げ!」

 

 虎のサーヴァントはリヒトホーフェンたちを標的と定め、唸りを上げている。リヒトホーフェンはディオニシオを担いだまま、素早く踵を返し、山を下り始めた。



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ライダー 1

 

 五組目の参加者が、賎畿市の山間にある旅館の一室で確定した。

 

「――サーヴァント、ライダー。召集に応じて来ました」

 

 魔法陣の中に現れた、その子供を見て――エリーヌ・ジオネは絶望した。

 簡素な軍服は明らかに近代のもので、しかも階級は下の下の下、偵察兵であるとすぐに分かる。背後に自転車を持っているが、その型からしても、十九世紀の初め――すなわち、第一次世界大戦において活用された、自転車による斥候だろう。

 

(英霊って魂じゃないわよね……この国では、戦死した人間を全員“英霊”って呼んでたらしいけど――って、そういう問題じゃないわよ。まさか土地柄に引きずられたってわけじゃないでしょうし。……下位互換の聖杯戦争だから、ってわけ?)

 

 子どもは黙ったまま突っ立っている。エリーヌを見上げるブラウンの目は、どこか空虚で、覇気がない。

 

(くそっ、やっぱり、触媒なしでの召喚は無謀だったってわけね)

 

 爪がボロボロになるので、爪を噛む癖は改めた。しかし、その代わりにと親指の腹を噛むようになったのは、治せそうにない。

 仕方なしにエリーヌは口を開く。

 

「……あなた、真名は?」

「ジョン・パー」

「ジョン・パー……?」

 

 聞いたことのない名前だ。元々エリーヌは、自分と関係のない歴史には疎い。名前の雰囲気からしてフランス人ではなさそうだし、近代の少年兵で知名度が高い人物などろくにいないだろう。

 

「……」

「……」

 

 かと言って、彼が自分の口で語ってくれることはなさそうだ。

 エリーヌはスマホを取り出し、検索をかけた。ジョン・パー。百科事典には二件の記事。歌手ではなく、少年兵の方を見る。

 

(――第一次世界大戦における最初の戦死者……なるほど、そういう理由で)

 

 ある程度の知名度とエピソード。それがサーヴァントには必要不可欠だ。信仰を集めない神が存在できないのと同様に、英霊ならば出来るだけ多くに知られていなければならない。どんな形であれ――たとえ、戦争が起きたならば最初の戦死者がいるだろう、という雑な認識であれ。

 ジョンの方に目線を戻す。

 

(ステータスは……低いわね。当然だけれど)

 

 全体のステータスとしては非常に低い。かろうじて敏捷は高いが、Aランクには届いていない。反面、スキルはやけに多く所持しているようだった。騎乗スキルは当然として、ライダーのくせに気配遮断と単独行動、諜報スキルを持っているのは、偵察兵ゆえか。無論、アサシンやアーチャーに比べたら、その性能は段違いに劣るであろうが。

 近代の軍人らしく、腰にはコンバットナイフ。拳銃も所持している。

 それで、ピンときた。

 

(この聖杯戦争は“模擬”……資料の通りなら、マスターに付与されるはずの“目”も弱まっていて、自分のサーヴァント以外のステータスは見通せない……――上手くやれば、いける……?)

 

 勝ち抜く気はなかった。

 けれど、むざむざ負けるつもりなど一切無い。

 師の命令で強制的に参加させられてしまったが、参加するからには絶対に勝つ。それが彼女の信条であった。

 

(ま、よく考えてみたら、ちょうどいいハンデね。サーヴァントはあくまで使い魔、真に求められるのはマスターの技量よ……!)

 

 逆境に燃える自分の気性をエリーヌはよく理解している。

 

(そして勝ち残って、凱旋して――あの人に――)

 

 ジョンはじっと自分のマスターを見ていたが、不意に、初めて、自分から口を開いた。

 

「司令官。僕の任務は何ですか」

「――街に出るわ。霊体化して付いてきなさい」

「Yes, Sir」

 

 敬礼をしたのが先か、少年の姿が掻き消える。

 

   ☆

 

 翌日と翌々日の狭間だ。

 エリーヌはそう遠くないところで魔力が衝突するのを感じ、飛び起きた。

 

「ジョン、行きなさい!」

「Yes, Sir」

 

 一瞬だけ顔を見せて頷いたジョンが、すぐさま姿を消し、あっと言う間に離れていく。それを見届けもせず、エリーヌもまた準備を始めた。

 

「[影よ、飛べ!]」

 

 ただ二言。暗い部屋のさらに暗い自分の影から、蝙蝠が飛び出し、壁をすり抜けて飛んでいった。エリーヌの意識はその蝙蝠に重なっている。蝙蝠は普通を凌駕する速度で、真っ直ぐと南へ飛び――

 

(――見つけた)

 

 閉店したスーパーの駐車場。そこで組み合う、二騎のサーヴァント。ジョンもどこかからこの場を見ているはずだが、単独行動の上に気配遮断を全開にしているため、エリーヌであってもどこにいるかは分からない。

 エリーヌはスーパーの軒先にぶら下がり、戦場を見詰めた。

 

(ランサーと……虎? バーサーカーかしら……)

 

 エリーヌの眼はしばらくの間その激戦に釘づけにされた。

 

(……とんでもないスピード)

 

 強化した目でかろうじて追いつけるかどうか。エリーヌはしばらく、眩暈を我慢して、二騎のサーヴァントを注視した。――やはり、他人のサーヴァントのステータスは見えなかった。どうやら、資料は確からしい。

 

(近代の軍服のようなものを着ているけれど……隠蔽工作の可能性があるわね。もっと古い時代のランサーであると仮定しておいた方がいいでしょう。虎の方は……虎になる逸話を持った英霊……そんなの、いたかしら? ――……まったく、心当たりがないわね)

 

 生まれて初めて、歴史に疎いことを後悔した。ただし一瞬だけ。

 

(ま、いいわ。サーヴァントが何であれ――マスターを殺せば、それでおしまいなんだから)

 

 蝙蝠を飛ばす。空ではなく地に向けて、だ。影から生まれた蝙蝠は、地面に吸い込まれるようにして消えた。蝙蝠の形に凝縮させた影――二小節(ツーカウント)では大した量ではない。薄く広げたところで、半径十メートルほどだろうか。それでも、脳には大きな負担がかかる。

 意識が拡大する。視覚を閉じ、ただその場の影と一体化する。

 

(――……この二つの大きな魔力は、ランサーと虎……少し離れたところに、それなりの魔力が一つ……これがおそらく、どちらかのマスター――)

 

 いくつか覗き見をしている使い魔の気配を感じ取ったが、それらのことは無視だ。エリーヌは影を縮小させ、再び蝙蝠となり、飛び立った。

 

(一人しか見当たらないのが少し気になるけど、ま、いいわ。やってしまいましょう。「――ライダー! こちらへ!」)

(「Yes, Sir」)

 

 あらかじめ繋いでおいた回路(パス)はうまく機能していた。してくれなければ困るし、この程度のことができなくて魔術師は名乗れないが。

 相変わらず、ジョンの動きは認識できない。見えないだけでなく、感じ取ることすら出来ないのだ。ライダーの副スキルでこれほどの隠密性能――本来の持ち主であるアサシンがそのスキルを発揮したら、一体だれが見破れるというのだろう。そんなことを考えて、エリーヌは少しだけ肌寒くなった。

 

(「ここよ。この建物の中。戦場を見通せる窓際にいるわ」)

(「わかりました。――司令官、突撃の号令を」)

 

 軍人らしいというべきか。上官の命令なくして動くことは出来ない――いや、そんなこと、考えもつかないらしい。

 エリーヌは溜め息を堪えて、精一杯、なったこともない軍人らしさを演出しようとした。

 

(「では、ライダー……突撃(En avant)!」)

 

 彼が動いた一瞬だけ、その姿が見えた。

 エレーヌが買い揃えた服に身を包み、古めかしい拳銃を自然に構えた彼の姿は――

 

 ――まるで、西部劇の少年ガンマン。

 

  



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バーサーカー 1

 

 遠藤晶は布団の中で丸くなって震えていた。

 

「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ、こんなの……絶対に嘘だ、夢だ……そうだ夢に決まってる、夢じゃなきゃなんなんだよ……」

 

 つい先程見た光景が、脳裏から離れない。

 

「……スマホから虎が出てくるなんて……あり得ない!」

 

 ――彼が、虎を呼びだしたマスターである。マスターとかサーヴァントとか、そういう類のことはまったく理解していない。彼はただの男子高校生で、毎日家に引きこもっていた。今宵に限って、暇が長じて、いつもなら相手にしないダイレクトメッセージにふと興味を引かれてしまっただけである。最近妙な寒気を感じることがあって、風邪でも引いたのかもしれないと、少し弱気になっていたのも原因だろう。霊感があるという自覚はあったし、魔術の素養は持ち合わせていたかもしれない――が、それだけ。ただの一般人である。

 ダイレクトメッセージには召喚の呪文が書かれていた。前置きも説明も何も無い。ただ無機質に、召喚に使う言葉だけが並んでいた。晶はそれを、ただ読んだだけである。声にも出していない。目で追って、次に画像――それは魔法陣の画像だった――を開いて――その瞬間、突然海の底に沈められたかのように全身が重くなり、右手に痛みが走った。そこに痣のような模様を見たが早いか、スマホの中、正確には、液晶に表示された魔法陣の中から、虎が飛び出してきたのだ。

 六組目の参戦者の成立である。

 なんて一休さんだ、と晶は混乱した頭でそう思った。一休さんだって本当に虎と戦ったわけじゃないというのに。一休さんは出てくる前に対処したのだ。実際に出てきてしまったら、いかな一休さんとて手も足も出なかったに違いない――などと一気に頭が回転したのは、生命の危機を感じながらもどうしたらいいのか分からず、そもそもスマホから虎が出てきた、ということを飲み込めていなかったからだろう。命を守るために急発進した脳味噌が、現実逃避のために全力疾走した形だ。

 

「グルルルゥゥ……ガウッ!」

「わあああああ!」

 

 虎が目の前で吠えた。思わず椅子から落ちて、床に尻餅をつく。虎が鼻を寄せてくる。鋭く大きな牙が、鼻先を掠める。虎の熱い息が何度も顔にかかる。

 

(えぇ……何これ……嘘だ、俺、死んだ……?)

 

 その時。

 ぞくり、と寒気を感じた。

 目の前にある死の気配とは違う。このところ何度も感じているものだ。体内の液体を無理やり動かされたような――内臓をぐ、と押さえ込まれたような――だいたい一、二秒で収まるからいいようなもので、これが数十秒も続くようなら、所構わず吐き散らしているに違いない。

 

(……近い……?)

 

 直感的にそう思った。今まで感じてきた寒気より、少しだけ強かったような感じがしたのだ。

 

「ゥゥウウウウウゥゥ……ガァァァァアアアアッ!」

「っ!」

 

 虎の唸り。ガッシャン、と、窓の割れる音。

 振り返ると、部屋の窓が大破して、虎が外に飛び出していた。そして、空中に向かって二度、三度鼻をうごめかせたと思ったら、一目散にどこかへと駆け出した。

 虎の背中はあっという間に見えなくなった。

 

「……はっ」

 

 その様をぼーっと見ていた晶は、はためくカーテンに頬を叩かれ、はたと我に返った。

 窓どころかその周辺の壁まで破壊されている。風圧のせいか、机の上にあった物のほとんどが床に落ちて散乱していた。開きっ放しのノートパソコンは、画面に亀裂が入っている。

 

「……」

 

 現実を受け止めきれない晶は、のろのろとベッドに向かって、倒れ込み――冒頭に戻る。

 

 

 

 ひとしきり喚くと、少しだけ気が楽になった。

 

(――……落ち着け。そうだ、落ち着け。こんなのは絶対に夢なんだ。寝て起きたら、全部元通りになってるはず……っ、うっ)

 

 不意に、ドクン、と心臓が跳ねた。

 そして唐突に、灼けつくような痛みが全身を走る。

 

「うあっ……あ、あああああっ、ああああああああっっっ!」

 

 熱したワイヤーを血管に通されているような痛み。指先を一ミリ、首の角度を一度、ほんの少し動かすだけでその部分が焼け落ち焦げ腐り断ち切られ磨り潰され溶かされ剥がされ爛れるような激痛が走る。だというのに、その痛みは彼がじっとしていることを許さない。痛みに悶えて身じろげばまた痛み――その痛みにまた背をベッドにこすりつけては更に痛み――

 

 そんなことを繰り返して、どれほど経っただろうか。

 収まった時にはもう息も絶え絶えで、意識は朦朧とし、目の前は霞んで今にもブラックアウトしそうであった。むしろ意識が残っていたことが奇跡的である。

 胃液の酸っぱい臭いが鼻についた。昼から何も食べていなかったのが幸い――これを幸いと言っていいものかは不明だが――して、吐しゃ物に顔をうずめる羽目は避けられたようだが。

 唇の端から糸を引く胃液を、布団の隅で拭って、晶はふらふらと起き上がった。

 そして、

 

「っ!」

 

 自分の真横に座っている虎を見て、大きく飛び退き、壁に頭を強かに打ち付けた。

 

「~~~~~っ、ぃ、あ、うぅ……」

『――やはり、我が身はあさましかろう。君に畏怖嫌厭の情を起こさせるつもりはなかったのだ。許せ、我が故人(とも)袁傪(えんさん)よ』

「……は?」

 

 恐る恐る目を開けると、虎は大人しくこうべを垂れ、毛づくろいのようなことをしている。よくよく見れば、その大きな肢体のあちこちに、切り傷と思しき跡があり、そのほとんどが塞がっておらず、点々と床に染みを作っていた。

 

(おれ)はまだ人間か? もはや虎でしかないか? ああ、徐々に己の内から己が消えていくのが分かる……――だが、袁傪、君が、この己を、このあさましき姿に成り果てた己を、受け容れてくれたことに、己は何よりのしあわせを感じるのだよ。すまない、すまない我が故人よ、袁傪よ。君は、君の職を捨ててまで己のために――己はもはや人間には戻れまい。けれどもし奇跡があると、その奇跡を君が求めると言うならば、ああ、己は君のために、己が人間であることを捨てても構わぬ――』

 

 その時、虎の髭がぴりりと震えた。喉の奥を獰猛に鳴らしながら、彼はゆっくりと立ち上がった。長い尻尾で床を何度も打ち鳴らし、壊れた窓の外を睨む。

 

『下がれ、故人よ――外ツ国の官吏だ――君を巻き込むわけにはいかぬ――』

 

 裂けた脇腹から血が滴り落ちて、ぼたぼたと重たい音を鳴らした。

 晶は少しずつ事態を理解していた。元々、頭の回転は遅くないのだ――ただ誤った方向に空回りしがちというだけで。これは夢ではない、現実だ。そのことを理性抜きに実感した今、脳味噌は正しい方向に回った。

 

(えんさん――虎――……もしかして、コイツは……――)

 

 中島敦『山月記』――例のダイレクトメッセージを開く直前に読んでいたのは、そんなタイトルの短編で、確か人間が虎になってしまう話ではなかったか――。

 

「グルゥゥルォォオオオオオオオオッッッ!」

 

 虎が大喝し、窓に向かって突進した。その直前、窓に人影が見えたような気がして、晶は慌てて窓際に駆け寄った。

 窓の下。さして広くもない道路の上で、虎が誰かに襲い掛かっている。けれどその誰かは、明らかに人間の姿でありながら、虎の猛攻を往なしていた。――などと、呑気に観戦できたのも束の間。

 

「うっ……あ、ぐぅ……」

 

 再び、先程の痛みが蘇ってきた。心臓を押さえつけ、床にうずくまる。呼吸も覚束ない。吸っているはずなのに空気が入ってこない。吐いているはずなのに出ていかない。苦しい、苦しい苦しい苦しい苦苦苦苦苦苦苦苦――っ!

 

「なに、すぐに楽になるとも」

 

 苦しみの外から降ってきたのは、流暢なフランス語だった。紗が掛けられた視界の端に、革靴が映った。誰かいる――

 

「《―――――》」

 

 有り余る時間に任せて多言語を学びつくした晶にも、分からない言葉が聞こえた。これはもしや、死神の言葉だろうか――ぞくり、と悪寒が走る。これまでに感じてきた寒気と同質の、しかし少しだけ違う、死の気配。

 

「《――》っ、何っ?」

 

 驚愕の声で死神の言葉が途切れて、視界の中を革靴が縦横に跳ね回る。それから、怒声。怒声、怒声――声が徐々に薄れていって、それと同時に痛みが和らいでいき――今度こそ、晶は意識を失った。

 



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セイバー 2

 

 ヘルメスは飛び起きた。

 嵐の気配を嗅ぎ分ける犬のように、暗闇の中、頭を巡らす。

 

「魔力の衝突……聖杯戦争が始まったのか!」

 

 出遅れてはならない。今すぐ使い魔を送り、戦況を把握しなくては――と思ったヘルメスが、ゴットフリードを呼び出そうと口を開いた瞬間。

 それより早く現れたゴットフリードがヘルメスの襟首を掴んで思い切り引き倒した。

 鋭い風切り音が、その首の残像を一刀のもとに両断した。

 床をごろごろと後転したヘルメスが壁に頭を打ち付けて「ぶげっ」と実に奇怪な呻き声を上げた。それを尻目に、ゴットフリードは抜剣。戦闘をするにはいささか狭い室内だが、器用に肘を折り畳んで反転。

 刃がかち合い、暗い部屋に閃光が散った。

 一合。

 闇の中に溶けるように消えた敵の刃が、ぬるりと飛び出てきた。

 二合。

 危うげなく対処して、今度は反対に斬り込む。

 三合。

 上段からの振り下ろしを、相手は真正面から受け止めた。

 ここで初めて、敵の姿を捉えた。小柄で華奢な男。顔の下半分を布で覆っている。無機質な真っ黒の瞳が、ゴットフリードの方を向いている。

 

「ハッハァ、いいねぇ、暗殺者(アッテンティーター)か!」

 

 アサシンは鍔迫り合いをするつもりはないようで、刃を返した。ゴットフリードはその動きに逆らわず、剣を持った左手からするりと力を抜いて、一歩踏み込むと同時、右の拳を叩き込む。

 

「ふんっ!」

「っ!」

 

 鉄の拳が刃ごとアサシンを吹き飛ばした。

 

「っし、今の内だ、行くぞ!」

 

 ゴットフリードは素早く踵を返すと、ヘルメスを肩に担ぎあげ、あろうことか窓に向かって走り出した。

 

「ちょ、おい、何処に行く気だ!」

「んなもん決まってんだろ!」

 

 最上階の大窓に向け、一閃。砕け散ったガラスがばらばらと路上に向かって落ちていく。それらと一緒に落ちながら、ゴットフリードだけは途中で空を蹴って、バスの停留所の屋根に着地した。

 

「これは戦争だ。戦争なら、自分以外全員殺戮(バトルロイヤル)が基本だろ!」

「はぁっ? おい、待て――」

「口開けてっと舌噛むぞ!」

 

 音を置き去りにする急発進に、案の定ヘルメスは舌を噛んで、異論は物理的に封じられたのだった。

 

 

 

 サーヴァントの足をもってすれば、山間部までの十数キロなどカップラーメンより早くゴールする。ゴットフリードが目を細め、その先に刃――正確に言うと、槍と牙――を交わす二騎を認めると、にんまりと笑った。

 

「お、いいねぇ、なかなか派手にやってんじゃねぇか――と、ん?」

 

 ゴットフリードは眉をひそめた。目線の先で、組み合ってた二騎が唐突に離れ、それぞれ別々の方向に、猛然と駆け出したからだ。

 

「……弱ってるところを叩くのは、戦の必勝法だよな」

 

 そう呟くと、ゴットフリードは迷わず――虎の方に向かって、再び屋根を蹴った。

 

「おい、おい、セイバー!」

「ん? どうした主よ」

「今追ってる――虎だかなんだか、獣だが。まともにやるのは阿呆の所業だ。適当に時間を稼ぐだけにしろ」

「ふむ。それで、どうやって勝つ?」

「私がマスターを仕留める。それが最善だ」

「……いいねぇ、気に入った! だっはっはっは! なんだ、案外主も悪いんだな!」

 

 大口を開けて笑うゴットフリードに、ヘルメスは呆れた目を向けた。

 

「まぁ、お前ならそう言うと思ったが……」

「ん? 俺について、調べたのか?」

「一応は」

 

 ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲン――またの名を鉄腕のゲッツ。十六世紀前半、ドイツで活躍した、最後の騎士だ。ただし、“騎士”と言っても、そのイメージはいわゆる“騎士道”からは遠く離れており――神聖な決闘『フェーデ』を悪用し、強盗や恐喝などの悪行を繰り返して富を築き上げたために、“強盗騎士”と呼ばれたという。

 ゲーテの戯曲の題材にもなり、そこでは英雄的な人物として描写されている。しかし、その中での有名なシーンは、彼が「俺の尻を舐めろ!」と叫ぶ場面。“英雄的”の定義を疑いたくなる。

 最終的には軟禁され、解放の条件として『二度とフェーデを行なわない』という誓約書を書かされた。享年八十二歳。その当時にしてはかなりの高齢である。

 

「それで、お前はどの時代のお前なんだ? 誓約書は生きているのか?」

「ふむ、その辺の話はあとにしよう、主。獲物が止まった。あの家だ」

 

 ごく普通の一軒家だ。おそらく窓があったのであろう辺りが、ぶち抜かれてたいへん風通しが良さそうになっている。その穴の向こう側に、虎の姿と――虎に寄り添う、少年の姿があった。

 

「あれがマスターか。若いな……」

「獣なら殺気には敏感だろう。適当に誘い出すから、その隙にちゃっちゃと仕留めてきてくれ」

「お前に指図されるつもりはない。とっとと行け」

「へいへい。ったく、気位の高ぇ主様だ」

 

 などと小さく愚痴りながら、ゴットフリードは飛び降りた。家の前の道路に立ち、剣を構える。わざわざ、分かり易く敵意を露わにしてやってから、一気に飛び上がり家の中へ押し入ろうとして、

 

「グルゥゥルォォオオオオオオオオッッッ!」

「っ!」

 

 跳び出てきた虎に反対に押し出された。

 

(はい予定通り――だが、思いの外、強い!)

 

 爪を受け止めた剣を放棄して、身をよじり、虎の巨躯を蹴飛ばす。そうして、下敷きになるのは回避した。

 ずん、と音を立てて虎が着地し、即座に反転。

 

「ガァァアアッ!」

「よ、っと」

 

 飛びかかってきたのを寸でのところで躱し、落ちた剣を拾う。

 

(猛獣は基本、往なして、躱して、そして――)

 

 振り向きざまに一閃。

 

(――弱いところから突く!)

 

 狙いは、先程の戦いで負ったらしい傷。爪に入ったヒビ。

 パキ、と硬質な音が鳴り、爪が弾け飛んだ。

 

「グッ――ルォオオアアアアアッ!」

 

 一瞬怯んで、しかし、一瞬だけ。

 虎は自身の怪我など歯牙にもかけず、頭から突っ込んできた。

 

「がっ!」

 

 咄嗟に躱せず、突進をまともに受けた。その勢いのまま石壁に叩き付けられる。

 石壁が脆い造りをしていたのは、不幸中の幸いと呼ぶべきだった。衝撃は拡散し、土煙が舞う。衝撃が強かった所為、というよりは生前の体の“くせ”なのだろう、意識が遠退くような感覚があって、しかし瞬時に振り払われる。

 

(人間だったらまず間違いなく死んでたな……!)

 

 片手を付いて跳ね起き、振り下ろされた爪を避ける。口の中に溜まった血を路上に吐き出して、再び虎に向き直り、

 

 ――殺気。

 

「っとぉっ!」

 

 降ってきた刃を義手で受け止める。即座に反撃。しかしアサシンは義手を蹴って宙を舞い、あっさりとそれを躱した。

 隙間に、猛獣が牙を向く。

 

「くっ、そっ!」

 

 強引に重心をずらして、ゴットフリードはその一撃をどうにか躱し切った。

 が、無理やり躱した所為でバランスが崩れ。

 それは、敏捷性に秀でたアサシンに対する、致命的な隙。

 鋭利な刃が喉元に迫る。日本刀の煌めき。なんの逸話も持っていない甲冑など、容易に貫くであろう切先。鋭い刺突。

 ――それが、突然、何かに弾かれたように火花を散らし、軌道を変えた。

 

「っ!」

「なっ!」

 

 誰にとっても予想外の出来事であったらしい。両者ともに硬直して、一瞬の間隙が生まれる。

 そこに、

 

「セイバー!」

 

 ヘルメスが家から飛び降りてきた。

 ゴットフリードは即座に地面を蹴った。ヘルメスを受け止め、そのまま走り出す。

 

「ちっ……一筋縄ではいかないな……くそっ」

 

 ヘルメスが血を吐くように呟いた。

 アサシンの追撃がないことを確認してから、ゴットフリードは頷く。

 

「――これこそ、戦争ってやつだな」

  



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アサシン 2

 

 地の利、というものは確かにある。特に魔術師には。

 霊脈。風水。血筋。歴史。伝統――

 すべて、土地と強く結びつき、土地に染み込んでいき、土地から離れられないものだ。

 その点において、上之宮真琴と山崎丞は、非常に有利な位置にいると言っても過言ではなかった。

 

「随分とまぁ変わりはしましたけど。なんかこう、空気感? 雰囲気? いや雰囲気は変わったなぁ……なんていうか、久々に会った親戚の子が知らない内に大きくなっていて、『うわ~雰囲気変わったねぇ、でも根っこの部分は昔のままだなぁ』ってほっこりする感じ……分かります?」

「……偵察は上手くいった、ということで、いいかしら」

「お、さっすが主様! そういうことです!」

 

 わー、と無邪気に手を叩く山崎を前に、真琴は堪えきれず溜め息をついた。

 山崎はにこにこと緩い笑みを浮かべたまま、

 

「で、主様は、どういう方針で行くおつもりなんです?」

「……方針?」

「はい。ですから――サーヴァントを殺すか、マスターを殺すか」

 

 どちらかでいいのでしょう? ――と、小首を傾げて、無邪気なままにそう言った彼女の目は、その無邪気さが装ったものであることを雄弁に語っている。

 真琴の背筋に冷たいものが走った。

 

(どれだけふざけた振りをしていようと、彼女はサーヴァント――アサシン――新選組の一人として刃を振るった、幕末の志士――)

 

 真琴は認識を改めた。もとより、真琴が求めていたのは、そういう強さである。目的のために手段を講じ、最良の策を躊躇わず実行できる、強さ。

 背筋を伸ばし、毅然として答える。

 

「――狙うべきはマスターです。ただし、マスターならば私でも殺せます。一方で、サーヴァントの相手はサーヴァントにしか出来ません。相手のサーヴァントが出てきたら、あなたはそちらへの対処を最優先にするように」

 

 山崎はにっこりと笑った――まるで、“合格”とでも言うような顔。

 

「承りました」

 

   ☆

 

(うんうん、主様は悪くないお人だ。まだちょっと青い感じがあるけれど――それはまぁ、経験不足ですかね。でも、それを自覚していて、補おうと頑張ってる。それなら、成長の見込みがある)

 

 素晴らしいことだ。山崎はホテルの屋上に潜伏しながら、そんなことを考えて、一人で何度も頷いていた。

 

(いっやぁ、本当に新鮮だなぁ。最高かなぁ。同年代の女の子と話すことなんて滅多に無かったし――)

 

 ――あったとすれば、それは潜入先でのこと。そして大抵、後に殺すことになる相手との、不毛な会話だった。

 

(――沖田隊長とはほとんど、接する機会ありませんでしたし。でもあの人も絶対、座にいますよね。ボクがいられるくらいなんですから、局長と副局長と沖田隊長は、絶対にいるでしょう。――そしたら、またどこかで、会えたりするんですかね……)

 

 それはおそらく、夢の果て、いまに弾ける泡沫の物語に過ぎないかもしれないが。

 

(――っと、そろそろ、予定の時刻ですね)

 

 山崎は思考を切り替えた。顔の下半分を隠した布の内側で、唇はいつものように、緩々とした笑みを形作っている。

 暗殺に必要なのは緊張感ではなく。特別感ではなく。使命感も大義も要らない。義務感など邪魔でしかない。

 必要なのは――生まれた瞬間から当たり前に、誰にでも用意されている普遍的な贈り物を、少しだけ早めに届けてあげるのだ、という――親切心。積極的な善意。

 いわゆる、有難迷惑、というやつだ。

 北の方の山沿いで、大きな魔力の衝突が起きた。とほぼ同時に、真琴からの指示が届く。

 

(「――始まったわ。行きなさい!」)

(「はっ!」)

 

 聖杯戦争の開幕だ。

 山崎は天井をすり抜け、標的がいる部屋に降り立った。標的――ヘルメス・アーキシェルは、ベッドの上に半身を起こしていて、ちょうど殺しやすそうな体勢でいてくれている。

 一歩。

 沖田総司のように速くはない。

 二歩。

 土方歳三のように強くもない。

 三歩。

 しかし山崎の歩は静かに密やかに――着実に、死を運ぶ。

 無防備に晒された男の首を目がけて、

 抜刀。

 

「っ!」

 

 切先は空を切った。一瞬前に現れた大男が、ヘルメスを後ろへ放り投げたのだ。

 

(やあっぱり、そう簡単にはいかしてくれませんよねぇ!)

 

 戦闘には狭すぎる室内だが、山崎にとってみれば大した問題ではない。生前から何度も経験してきたシチュエーションだ。小柄な体躯と脇指は、こういう場面にこそ栄えがある。

 一方こういう場を苦手としそうな大男は、しかしその豪快な甲冑に似合わず、存外器用に剣を扱った。日本刀よりやや細く、やや長い両刃の剣。脇指と比べれば倍以上ある長さの剣を、手首と肘が柔らかいのだろう、上手く折り畳んで、山崎の攻撃を往なす。

 繊細。かと思えば大胆に。

 斬るよりは突くことにのみ特化していそうな形状の剣を、男は無骨に振り回し、振り下ろしてきた。

 山崎は鍔のすぐ上で相手の刃を受け止めた。

 

「ハッハァ、いいねぇ、アッテンティーターか!」

 

 男は上機嫌に笑った。

 力比べは拮抗。しかしジリ貧だ。山崎はそれを横に流して、懐に斬りこむ――直前、刃を反転させたのは本能のなした業だった。

 

「ふんっ!」

「っ!」

 

 真正面から殴られた。為す術もなく吹き飛ばされて、部屋の奥に転がる。刀を滑り込ませていなかったら、致命傷とまではいかずとも、それなりの負傷となっていたに違いない。

 追撃が――来ない。

 室内から気配が消えていた。開いていなかったはずの窓から、夜風が吹き込んでくる。馴染んだ夏の夜よりずっと熱く、湿っぽい風。

 山崎は構えを解いて、逃げられた旨を真琴に伝えた。

 

 

 

(「すみません主様。逃げられました」)

(「どちらに向かっていった?」)

(「――北、ですね。先程魔力の衝突があったあたりかと思われます」)

 

 わざわざ戦いが起きている場所に向かっているとは。どうやら好戦的な性格であるらしい。

 真琴は少しだけ考えて、すぐに言った。

 

(「追ってちょうだい。挑む必要はないわ。ただ隙を見て、やれそうだったらやって」)

(「承知です!」)

 

 念話を終えると、真琴は再び使い魔の目と同期する。

 カラスの目は夜闇に構わず、戦場の様子を映し出す。場には二騎、ランサーと思われる青年のサーヴァントと、クラス不明、おそらくバーサーカーではないかと思われる虎が、壮絶な打ち合いを繰り広げている。

 やや、ランサーの方が優勢か。猛獣の唸りにも顔色一つ変えず、冷静な態度でヒット&アウェイを繰り返している。

 ここに、先程山崎が交戦したサーヴァントが加われば、乱戦になることは間違いない。

 

(二騎が結託して一騎を潰すか……それとも、お開きになるか……なんにせよ、隙はきっと生まれる……)

 

 そこを突くのが、アサシンとしての最適解だろう。

 

(それにしても、凄い戦いね……)

 

 真琴は固唾をのむどころか、息をつくのも忘れて、いっそ華麗にも思える戦場に見惚れた。

 一瞬で攻防が入れ替わる高速の戦闘を、どれほど見詰めていただろう。体感では数時間を過ごしたようにも思えるが、実際は三分も経っていない。

 

(――来た)

 

 新たなサーヴァントの登場を視認したその時。

 その一秒で、戦場もまた大きく動いた。

 魔力の揺らぎが発生したと思ったら、ランサーが瞬時に戦線へ背を向けた。そして近くの建物の中に飛び込んでいった。

 虎もまた背を向けて、どこかへと向かって走り去ってしまう。

 その様子を少しだけ見下ろして、三騎目は寸の間立ち止まり、即座に虎の尾を追って走りを再開した。

 

(っ……)

(「主様?」)

 

 指示を催促するような山崎の問いかけに、混乱しかけた頭を無理やり回転させる。

 

(「そのまま、虎の方へ行きなさい!」)

(「はっ!」)

 

 力強い返事を受けて、――ああ、私の指示は合っていたんだ――と息をつく。山崎にはどこか、そう思わせるところがあった。こちらの采配を見定めているような、力量を計っているような、そんなところが。

 真琴は意識的に呼吸をして、精神を落ち着かせた。

 山崎と同じように、虎の方を追いかける。

 真琴がその場に着いた時には、すでに新手のサーヴァントが、虎と交戦を始めていた。セイバーだろうか、細身の剣を扱っている。ランサーより敏捷値に劣るのだろう、やや劣勢なように見受けられた。

 すぐ傍に建っている民家は、虎のマスターの家だろうか。窓があったと思われる壁が、無残に大穴を開けて、室内の様子を晒している。

 

(……待って。ここ、この家って、まさか……)

 

 ――真琴は、この家のことを知っていた。この家に住む家族のことを。この家にいる、自分と同級の少年のことを。

 まさにその少年――遠藤晶が、床に倒れている。その傍らに立ち、呪詛を呟いている男がいる。ヘルメス・アーキシェル。つい先日この市内に入り込んだ魔術師の一人。上之宮家の調査に唯一引っ掛かった男。鉱石を用いた呪詛を得意とする、元時計塔の魔術師。

 

「《花は花として、毒は毒として、如何にもそれらしき装いのままに、死をもたらせ》」

 

 矛先は少年に向いていた。

 真琴は咄嗟に、ヘルメスの鼻先目がけて突進した。

 

「っ、何っ?」

(「主様っ?」)

 

 カラスの体の良いところを存分に発揮し、鋭い爪で皮膚を掻き、くちばしでその目を狙った。そうしながら、叫ぶように命令を下す。

 

(「アサシン、虎に加勢しなさい!」)

(「へ?」)

(「早く! こいつらを追い払うの!」)

(「うぇ? っとー……あーはい、承知しました!」)

 

 山崎が霊体化を解いて、頭上からセイバーに襲い掛かった。それを横目に、

 

「くそっ、ふざけるな! 使い魔ごときで、私に敵うと思ったのかっ?」

 

 いきり立って両手を振り回すヘルメスに、向き直る。

 

(使い魔ごとき? ――そうやって嘗めた人間から、死ねばいい)

 

 真琴は胸の前で両手を組み合わせた。複雑な印を形作り、組み替え――唱える。

 

「〔変容せよ〕」

 

 瞬間、カラスの輪郭が溶けた。言葉通り、黒い塊へと“変容”する。それは蠢く呪詛の塊。荒れ狂う呪いの凝縮体。真琴の使い魔は使い捨てのものではない。長く呪いを溜め込み、飲み込み、縛り上げて作り上げた、式神である。

 ヘルメスが顔色を変えて、跳び退った。

 

「〔切り裂け〕」

「《銀は銀として我が加護たれ》!」

 

 両者の間で魔術が衝突した。真琴が伸ばした触手はちぎれ、ヘルメスが放った銀の欠片は砕け散る。

 

「うっ、ぐ……」

 

 削られて、軛から放たれた呪いの一部が、真琴に返ってきた。ひとりでに爪が割れて血が噴き出す。

 真琴が怯んでいる内に、ヘルメスは家から飛び出ていった。

 完全に連中が撤退したのを確認して、真琴は式神をカラスの形に戻した。すぐに家から飛び立って――大きく、息を吐き出す。

 

(……今度は、守れた……)

 

 霊体化した山崎が、式神のすぐ傍を走っていた。何か言いたそうな雰囲気を出しているが、気にしてなどやらない。どうせ、帰ってきたら直接問い詰められる。

 真琴は、どういう順序で話そうかと考えながら、爪に絆創膏を巻いた。

  



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ランサー 2

 

 パイロットが生き残るために必要なものの、九割方は運だ。

 風が味方をすること。天候が味方をすること。機関銃が詰まらないこと。ゴーグルが壊れないこと。自分が気付くより先に接敵されないこと。複数の敵に遭遇しないこと。相手の銃撃が燃料タンクに当たらないこと。たとえ当たったとしても空中で爆発しないこと――何か一つ欠けただけでも、致命傷に至る要因が、運、ただそれのみに左右される。

 残りの一割が実力。近付いて狙って撃てば勝つ。相手の九割の幸運をひっくり返すためには、ここで競り負けてはいけない。

 そしておそらくそれは、白兵戦においても変わりないのだろうと、リヒトホーフェンは身をもって感じ取った。

 

(攻める――引く――攻める!)

 

 頬の皮一枚と引き換えに、獣の懐に飛び込んで、短く持った槍の穂先で脇腹を切り裂いた。迂闊に突き立てれば、筋肉に挟まれて抜けなくなる可能性があったのだ。

 

「グガアアアアアアアッ!」

(引く)

 

 向かってきた牙に石突をぶつけて、その反動で九十度左に方向転換し、距離を取る。追撃に備えて槍を構え直し――

 

(「~~っ! ~~~~!」)

 

 ――虎の突進を往なす。真正面から受け止めるのは自殺行為だ。バックステップを繰り返し、立て続けに振り回される爪を避け、避け、避け――

 

(「~~い、おい、~~~~っ!」)

 

 ――石突で爪を叩く。細かな攻撃を繰り返して、体力を消耗させるのが先決だろう。狙うは足。機動力を削いでいけば、いずれ膝を折る。次に攻撃すべきは――

 

(「~~~くそっ、ランサー! ランサーァアアアア!」)

 

 先程から頭の中に響いている声を、リヒトホーフェンは無意識のうちに、“ただのノイズ”として切り捨てていた。

 これが、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの生来の気質である。一度熱中すると止まれない。周りが一切見えなくなる。トランス状態にも似た深い集中は、生前の彼に勝利の栄光をもたらし――そして同時に、死をも呼び込んだ。

 しかし、

 

【――令呪を以って命ずる! ランサー、我が元へ来い!】

 

 その、絶対的な命令だけは、心臓に響いた。鎖でがんじがらめにされ、引きずられるような感覚とともに、体が意思に反して勝手に動き出す。踵を返し、目の前の敵に背を向ける。地面を蹴り、まるで逃走するかのように、反対の方向へと走り出す。

 

(そんなっ――敵前逃亡など――っ!)

 

 思いを置き去りに、戦場のすぐわきにあった建物の外壁を駆け上がる。窓を割って飛び込んだ瞬間、現場の状態がいっぺんに目に入ってきて――

 ――一気に、頭が冷えた。

 彼を呼んだ人物――ディオニシオが、壁に背を預け座り込んでいる。彼が右手で押さえている肩からは、血が流れていた。

 そして、室内に充満する、硝煙の匂いと敵の気配。

 

「っ!」

 

 乾いた音とともに発射された弾丸を、すんでのところで弾いた。

 二発、三発と続けて放たれたそれを、難なく防ぎ、リヒトホーフェンはディオニシオを背に庇った。

 

「申し訳ありません、マイスター、遅くなり――」

「まったくだこの馬鹿! まさか、こんな序盤で令呪を消費する羽目になるとはな! それもこれもすべて、お前が僕の命令を聞かなかったからだ!」

「……申し訳ありません」

「チッ」

 

 ディオニシオは高らかに舌を打って、立ち上がった。傷はもう塞がっている。

 

「虎は逃げた。標的を変える。僕に傷を負わせた不届き者を殺せ、ランサー。決して逃がすな!」

「Ja!」

 

 リヒトホーフェンは槍を打ちふるった。

 そして、暗闇に向かい、姿なき狙撃者に向かい、吠える。

 

「姿を現せ、外道!」

 

 その怒号に、びりびりと空気が震えた。

 

「この私を、卑劣な手で討ち取れるとは思うな! 戦場に生きる者として、軍服を纏い、軍旗の下に集うならば、堂々と――っ」

 

 言葉を切ったのは、拳大の丸い物体が、どこからともなく飛んできたからだ。反射的に叩き払った瞬間、その物体は爆発した。

 爆風が埃を巻き上げて、視界を覆う。

 

(……煙幕? 姿を消せるのに、なぜわざわざ――)

 

 直感、が働いた。煙幕を放置して反転。何度か銃声が響いたが、それも無視。どうせ威嚇射撃だ、と思い込む。当たったとしてもそれはそれ、不運だったと言うだけである――自分には当たらない、という根拠のない自信があったことも確かだが。

 ただ真っ直ぐ、リヒトホーフェンはディオニシオに向かって、槍を構える。

 

「え? ちょ、おい、ランサーっ? ランッ――」

「はぁぁあああっ!」

 

 気合を載せた渾身の突きが、ディオニシオの脇腹――

 ――の、すぐ横にまで迫っていた短剣に突き刺さり、それを粉砕し、なお止まらず、奥の壁を壊した。

 衝撃に押され、襲撃者――それは年端もいかぬ少年だった――が、小さな呻き声を上げた。そのまま外に落ちる。

 

「追撃します」

「あ、あぁ……」

 

 ディオニシオががくがくと頷いたのを目の端に確認しつつ、リヒトホーフェンは飛び降りた。

 少年と相対する。少年は、十五か十六か、それぐらいの年頃に見えた。テンガロンハットを浅く被り、手にはリボルバー式の銃。腰には太いベルトを通し、そこにいくつも、先程投げられた黒い物体がぶら下がっていた。生成りのシャツはやや大きいらしく、肩が落ちている。暗い瞳が、見定めるようにこちらを凝視していた。

 

(見た目は子供でも、サーヴァントだ。油断はすまい)

 

 リヒトホーフェンは隙無く槍を握り、少年を睨んだ。少年は、殺気立つランサーを目の前にしても、自然体のままで、銃を持った手すらだらりと太腿の横に垂らしている。

 

「私はランサー。貴公は――アーチャーか?」

「……」

「それとも、アサシンか?」

「……」

「……ここは、名乗りを上げられぬ戦場だ。せめてクラスぐらい、答えてみせたらどうだ」

 

 リヒトホーフェンの静かな怒りに触発されたか、少年はゆっくりと口を開いた。

 

「僕は、“ガンナー”だ」

「ガンナー……? そんなクラスが?」

 

 少年は思わせぶりに目を伏せて――次の瞬間、発砲した。

 腕を水平にまで持ち上げる。撃鉄を起こす。狙いを定める。引き鉄を引く――それらの動作を、少年は一息にやってのけた。

 

「くっ」

 

 弾丸が脇腹を掠めた。あまりの速さに、打ち払うことはもちろん、避けることすら満足にできなかった。

 息つく間もなく連射される弾丸を、あるいは避け、あるいは弾き、円を描くように走る。相手もまた一定の距離を保ったまま、反対回りに走りながら、それでいて狙いは正確だった。距離を詰めるのは難しそうだ。

 

(……弾切れのタイミングも、なさそうだ。なんらかの対策を講じてあるのか、サーヴァントとしての能力か……)

 

 装弾数を明らかに超える数を撃ってきているが、弾を込め直す、といった動作はまったく見られない。

 つまり、向こうが隙を生んでくれるということは、無い――そう判断した瞬間、リヒトホーフェンは急停止した。不毛な円を描くのはやめだ。踏ん張って無理やり方向を変え、体勢を低くし、一直線にガンナーへと向かう。

 

「っ!」

 

 少し焦ったガンナーによる迎撃は、大方が外れた。何がしかの加護があるのではないかと思うほどの、外れ方。しかし両者の距離が縮まれば縮まるほど、ガンナーにとっては狙いやすくなる。槍の有効範囲まであと一歩、というところまで迫られた時、ガンナーは冷静さを取り戻した。

 一歩下がって、狙うは額。

 乾いた銃声が響き、血しぶきが舞う。

 リヒトホーフェンの体が、ぐらりと傾ぎ――

 

 ――けれど、その足は止まらない。更に一歩、二歩と踏み込んで、無理やり攻撃範囲内に入り込む。

 犠牲にした右腕は放棄した。彼にしてみれば、燃料タンクに穴が開いても、爆発しなければ大丈夫というだけの話。

 死なずに殺せば、それだけでいいのだ。

 

「おおおおおおおああああああっ!」

「うあっ、ぐ、ぅ……!」

 

 槍は少年の薄い体を易々と貫いて、そのまま彼を壁に縫い止めた。

 確実に、霊核を砕いた。彼の手足の先が、少しずつ金色に光り始めたのが、その証拠である。座に還ろうとしているのだ。

 リヒトホーフェンは深く、息を吐いた。相手はサーヴァントだと、理解している。子どものように見えても、その内実は自分と同じ、戦うために呼び出された兵士だ。ならば、その命を奪うことに、躊躇いを見せてはならないし、まして憐憫など抱いては――それは、侮辱に他ならない。

 もう一度つきそうになった溜め息を呑み込んで、リヒトホーフェンは槍に手を掛けた。

 左手だけで引き抜くと、少年はぐらりとその場に倒れ――

 ――その瞬間の、強大な魔力の揺らぎを感じたヘルメスは、咄嗟に声を上げた。

 

「ランサー! まだだ!」

「っ!」

 

 ただ、その回避行動はあまりに遅かった。

 少年の目は暗く、リヒトホーフェンを見ていた。彼の傷はもうほとんど塞がっている。彼はひょいとその小柄な体を、背後の壁の裏、リヒトホーフェンの槍が開けた穴の向こうへ押し込んだ。リヒトホーフェンの目の前には黒い物体が飛んでいる。少年が放り投げた物。それが再び――先程とは段違いの威力で――爆発した。

 視界が潰れ、吹き飛ばされ、反対の建物に叩き付けられた。

 

「ぐっ! う……」

 

 膝を折る。槍を支えに、倒れることを防いだ。が、立ち上がれない。

 

「さよなら」

 

 少年が銃口を突きつける。

 引き鉄が絞られる。

 

(ここまで、か……申し訳ありません、マイスター……やはり、まともな望みを持てない自分では、この戦争を制することは――)

 

 鈍い、鈍い音が響いて。

 霊核を、撃ち抜かれ。

 

 

 ――ガンナーと名乗った少年が、地に伏した。

 

 

「な……」

 

 リヒトホーフェンは己の目を疑った。

 少年の小さな体が、ほとんど音を立てずに、地面に落ちる。

 

「なぜ……」

 

 元々暗く淀んでいた少年の目が、さらに、虚空に沈んでいく。指先から、爪先から、金色の粒子へと変わっていく。もう、魔力の揺らぎはなく、彼の粒子化は止まらない。彼の霊基は修復されない。

 思わず、リヒトホーフェンは這い寄った。

 

「少年、君は――君、は……――」

「……僕は……ジョン・パー……ミドルサセックス連隊、第四大隊所属の、二等兵、です……部隊に来たことを……後悔しては、いません……――母に、どうか、どうか――僕の、最期を――」

 

 か細い声で、訥々と語った少年は、やがてゆっくりと目を閉じて――消えた。

 リヒトホーフェンはすべてを察した。ミドルサセックス連隊。二等兵。つまり彼は自分と同じく、第一次世界大戦に関わったことで、歴史に名を残した人物で――

 

(――私と同じ、最後まで戦うことを選んだ人間だった。……過去も現在も、敵同士とは……なんとも――)

 

「おい、ランサー! 何をしている! 早く霊体化しろ! お前まで狙撃されたらどうする!」

「……はい」

 

 リヒトホーフェンは、丁寧に十字を切ってから、霊体化した。



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キャスター 3

 

 ワトソンは元々天文科に属していた魔術師である。専門とするのは星見であり、星座を用いた占いであり、星の動きを利用した様々な実験だ。むろん、使い魔を通した覗き見程度は、教養として普通に扱える。

 

「ふむ、これは便利だな」

「だろう?」

 

 ワトソンは初めて、ホームズに対して得意げな顔をしてみせた。

 彼が趣味で作り上げたのは、真空管の中にエーテル体を流し込み、基盤を星図と対応させて完成させた、テレビである。使い魔を通じて得た視覚情報を映し出すことができる。古めかしいビデオデッキも付属されていて、録画も出来る優れものだ。

 優れもの、と言っても、使い魔からの映像を二人以上で共有する状況など、滅多に――というか、まったく――なかったために、今までは押し入れの肥やしとなっていた代物なのだが。

 

「では、そちらの映像は記録しておいてくれ」

「えっ、リアルタイムで見ないのか?」

「こちらはこちらで覗き見をする」

 

 そう言ってホームズはソファに背を預け、目を瞑った。

 

(なんだ、自分で見に行けるなら、これは必要ないじゃないか)

 

 ワトソンは不貞腐れるようにそう思ったが、正直使い魔の目を通して見るより、画面に映した方が見やすいため、そのままテレビに向き直った。

 

 

 

 開幕戦は、十分もしない内に終息した。

 ワトソンは最後に見た映像を、いまだに信じられずに、使い魔の回収を忘れている。

 ぱちりと目を開けたホームズが、「早く使い魔を戻したまえ」と冷淡に言って、勝手にビデオを巻き戻した。

 ワトソンは慌てて使い魔を拠点に戻し、フラスコにしまった。途端に、ホームズが口を開く。

 

「君はどう見た?」

「え? あ、何を?」

「敵となるサーヴァントたちだ。たとえば、君はランサーと、虎、ガンナーの方を見ていただろう? 彼らの真名に心当たりはないのか?」

「え、あ、ええっと……」

 

 そう言われても、とワトソンは頭を掻く。しかしホームズは、あくまでワトソンの意見を聞くつもりのようで――本当の意味で“聞く気”があるのかどうかは不明だが――口を固く閉ざしたまま、唇の前で両手の指先を軽く合わせ、テレビの画面を見据えている。

 ワトソンは意を決した。

 

「ランサーは……たぶん、騎士だと思う。軍服のようなものを着ていたけれど、年代は分からない。わざと近代的なものを着せて、隠蔽工作をしてくる奴だっているだろう。そうだとしたら、見た目より古い英霊かもしれない」

「騎士、と言った理由は?」

「ええと……隠れて撃つのが卑怯だとか、名乗りがどうとか言っていたし、なにより最後。ガンナーが狙撃された後、最後に十字を切っただろう? そういうことをするのは、騎士道を持ち合わせた人間なのかなと」

「では次。虎については?」

「虎は……正直、まったくよく分からない。白虎とか窮奇とかがすぐに浮かぶけれど、あれらはどちらかというと神獣とか幻獣にあたる生物だから、サーヴァントにはなれないと思うんだ。だとしたら、虎に変化する逸話を持った人物――ということになるんだけど、そういうのを持っているのは、ギリシャ神話の女神テティスとか、ヒンドゥー教の獣人ナラシンハとか、そういう神霊レベルになってしまう。しかも、正確には虎じゃなくてライオンだし。それなら普通の人間で、って思うけれど……虎との関連が深い人間なんて、僕には思いつかないな」

「それじゃあ、最後だ。ガンナーと名乗った少年」

「彼は分かり易い。ガンナーと名乗りうる少年と言ったら、ビリー・ザ・キッドだろう?」

「……なるほどね。よく分かった」

 

 ホームズはおもむろに立ち上がると、外套を羽織って、拠点を出ていこうとする。

 

「ちょ、ちょっと待てよ、キャスター! 一体どこへ?」

「現場さ。すぐ戻るよ」

「現場って――」

 

 ワトソンの言葉など、彼にはもう届いていなかった。

 

   ☆

 

 ホームズが戻ってきたのは、それから十二時間後のことだった。

 

「起きたまえ、マスター」

「……へぁ?」

「間抜け面を晒すのがそんなに楽しいか? しゃきっとしたまえ」

「ぶっ」

 

 顔面に新聞紙を叩きつけられ、ワトソンは覚醒した。のそのそと起き上がり、床に落ちた新聞を拾う。

 

「……新聞? なんでこんなもの」

「地方欄、事件、左下。目覚めのパンチにしては、なかなか衝撃的だよ」

 

 言われた通り、ワトソンは地方欄のところを開き、左下の記事に目をやった。

 そして、言われた通り、驚愕に目を見張った。

 

「――……え、これって……」

「長期滞在の外国人客、拳銃自殺か」

 

 勝手に淹れた紅茶を飲みながら、ホームズは淡々と記事を暗誦した。

 

「梅沢温泉旅館――ここから十キロほど北にある旅館だね――の一室で、今朝未明、長期滞在中だったフランス人観光客エリーヌ・ジオネ(25)が死亡しているのが発見された。手には拳銃を持っており、警察は自殺として捜査を進めている」

「エリーヌ・ジオネ……確か、降霊科にいた……」

「昨夜脱落したライダーのマスターだろう。手の甲に令呪の痕があったからね」

「見てきたのかっ? っていうか、え? ライダー?」

「あぁ、ガンナーと言っていたのは隠蔽工作だ。実際はライダー」

 

 ホームズは当然のことのように頷いた。

 

「彼は死の間際、ランサーに向かって何か言っていた。あの唇を読めば、彼が名乗っていたのが分かる。それによれば、彼はミドルサセックス連隊第四大隊の二等兵、ジョン・パーだ」

「ジョン・パー……第一次世界大戦における最初の犠牲者……?」

「その通り。彼は、自転車斥候部隊の一員だった。つまり、適正クラスはライダー。実際、彼らが戦っていた建物の中には、車輪の痕が残っていたよ。ランサーのマスターを追い詰める時に使ったんだろうね」

「そうだったのか……それで、彼女は自殺を……」

「そういうタイプの女性だったのか?」

 

 ホームズの問いに、ワトソンは少しだけ考えて、やがて首を横に振った。

 

「いや……ほとんど接点は無かったから、よく知らないけれど、すごく気が強くて、相手を選ばず噛みつくような人だ、って聞いたことがある。そして――」

「そして?」

「――……自分の師の助手に、惚れ込んでる、って」

「よし。これで、動機からしても自殺の線は完全に消えた。問題は誰がどうして、彼女が自殺したかのように見せかけたか、だ――」

 

 そう言うと彼は、唇の前で指先を合わせ、ぶつぶつと何事か呟きながら、部屋の中を歩き回り始めた。

 あまりに真剣に考えを巡らせる彼の姿を見て、ワトソンは声をかけるのを遠慮し――やはり我慢しきれず、ソファの背に身を乗り出して、尖った声を出した。

 

「キャスター」

「………」

「キャスター、ホームズ!」

「なんだい、マスター」

 

 ワトソンは、こちらを一瞥すらしないホームズの態度に少しだけ腹を立てたが、努めて冷静な口調で言った。

 

「君、これが聖杯戦争だということを忘れていないか?」

「あぁ、忘れていないとも」

 

 ホームズは平然と答えた。

 

「そしてこれこそが、勝利に至る道筋だよ、マスター」

  



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アーチャー 1

 

 その女性は旅館の一室で荒れ狂っていた。

 布団を蹴り、枕を投げ、荷物をぶちまけ――その内窓ガラスの一枚や二枚は、割ってしまいそうな勢いである。彼女以外に客がいなかったからいいようなもので、繁忙期だったら追い出されても仕方のない振る舞いだ。

 

「どうして! どうしてよ! 何なの! なんで――なんであたしが、真っ先に負けなきゃいけないのよ!」

 

 一通り叫んで、息が切れたのだろう。彼女は肩を上下させながら、振り回していたハンドタオルを投げ捨てた。そのまま暗闇に立ち尽くす。

 エリーヌ・ジオネ――二十五歳。時計塔出身の魔術師。降霊科の下位学科、召喚科に属す。課程はすでに修了しているが、今もまだ時計塔内部に残り、師匠の手伝い等をしている。

 

「これじゃあたし……どんな顔して、帰ったらいいのよ……」

 

 来歴――ジオネ家の二女として誕生。魔術師としての素養を持ち合わせていたにもかかわらず、魔術刻印は長男が継ぐことに決まっていたため、不遇な幼年時代を過ごす。しかし不慮の事故から長男が死亡したため、突然、相続者にされたが、みるみる頭角を現し、昨年開位(コーズ)の称号を得た。現在は、弟子仲間のレイノルド・アバッチオに想いを寄せている。

 

「師匠の無茶ぶりだったのは確かよ。確かだけど……そんなの、言い訳で……」

 

 気性――荒く、攻撃的。強気。勝気。反骨精神が強く、男尊女卑を嫌う。なかなか他人を信用しない一方で、一度気を許した相手には甘く、ひどく油断する。プライドが高く、自身への攻撃に対し敏感。なおかつ貪欲、執拗で、決してただでは転ばない。

 

「――……アーチャーよね。最後に、あたしのライダーを撃ったのは……許さないわ。許さない、絶対に。勝ち逃げなんてさせてたまるもんですか! こうなったら、とことんまで邪魔して、こんな儀式台無しにしてやるわ!」

 

 以上のことから、このまま野放しにしておくのは危険だと判断し、女は旅館へ忍び込んだ。

 このために、あらかじめエリーヌ以外の宿泊客が来ないよう、細工をしておいたのだ。

 エリーヌは結界を構築していたが、気にせずに踏み込ませる。間違いなく、侵入したことは向こうに把握されただろう。荒れていようが、苛立っていようが、いっぱしの魔術師だ。

 室内に清冽な魔力が渦巻く。召喚の準備に入ったのだ。こんな深夜に忍び込んでくる不届き者の命を刈るために。

 

(――……ソイツに、命はないんだけどね!)

 

 エリーヌの部屋の扉をすり抜けて、人影が一つ。

 

「[応じよ!]」

 

 彼女の呼びかけに、影が立ち上がった。四方八方から刃と化して襲い掛かった影が、瞬く間にその人影を八つ裂きにして――

 

「――……紙?」

 

 エリーヌの足元に、白い紙きれが散らばる。

 

(あら、いいじゃない。まるで死出の旅路を祝福する、紙吹雪みたいね)

 

 などと思いながら。

 結界が張られた時にはすでに内部に潜んでいた女は、エリーヌの背後に降り立った。

 振り向くより早く、こめかみを撃ち抜く。

 

 

 

「ふむふむ、私を呼んだ時点で、なんとなく分かってはいたけどネェ、マスター君?」

「何かしら」

「――君、私ほどではないにしろ、なかなかの悪党だな」

「お褒めにあずかり光栄だわ、犯罪界のナポレオン様」

 

 妖艶に笑んだ女が、握っていた拳銃をひょいと放り投げる。と、それは瞬く間に紙切れへと変わり、地面に落ちた。

 『模倣者』――彼女がそう名乗るゆえんは、この魔術である。系統としては錬金術に連なるものであるが、その性質は“創造”ではなく“模倣”に偏っている。

 しかしただの“模倣(コピー)”ではない。

 それはたとえるならば、名刀の“写し”のように。

 彼女の模倣は、複製品、あるいはレプリカ、または海賊版、廉価版、下位互換――などと呼ばれるようなものではないのだ。本物でないことは確かだが、しかして偽物でもなく、その本質は本家に迫り、稀に本家を上回ることさえある――

 ――二次創作。

 むろん、その場限りの役目でいい場合は、適当な素材で適当に作ることもあるのだが。今しがた放り投げたばかりの拳銃のように。

 

「おや、こいつはもう使わないのかね?」

「ええ、使い捨てなの。放っといていいわよ」

「おっと、それはいけないな、マスター君――」

 

 と、白髪の老人は、わざわざしゃがんで、くわえていた葉巻を紙に押し付けた。

 すぐに火が移り、燃えていく紙。

 

「――こういうのを見逃さない奴が、ごく稀にだが、この世には存在するのだよ」

「たとえばあの探偵とか?」

「ソーソー、あいつってば本当に陰険でしつこくて目敏くて、もー小姑かってぐらいに厭味なヤツだからネ! 用心するに越したことはないのサ! なんなら、この焼け跡からだってなんとなく推理しちゃうような野郎だから! ――よーし、これぐらいでいいだろう。っとと、腰が……」

 

 おちゃらけた調子で言いながら、老人はゆっくりと立ち上がった。そして腰をとんとんと叩きながら、

 

「ヤダネー歳をとるっていうのはサ。私ももっと若い姿で来たかったものだよ」

「あら、もしかしてあなたまで、“全盛期じゃない頃の姿”で来ちゃったわけ?」

「まさか」

 

 老人はふと声音を変えた。

 

「私は間違いなく、この時分が最盛期だよ。――そもそも、私“だけ”は全盛期で召喚されるように、と、歪んだ聖杯を作ったのは君だろう? その君が何を今更」

 

 模倣者はにたりと笑った。

 

「……ふふ、そうね、そうだったわ」

 

 二人の顔は鏡写しのように。

 あるいは模倣(コピー)したかのように。

 まさしく――“悪党”と呼ぶに相応しい笑みを湛えていた。

 

  



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第2章
バーサーカー 2


 晶は目を覚ました。のそのそと起き上がる。床に寝転がっていた所為だろう、体のあちこちが軋む音を立てた。

 

(夢……じゃ、ないんだよな……)

 

 窓に開いた大穴はそのままだ。虎の姿はない――が、なぜか、“いる”ということだけは感じられた。

 

(姿を消せるのかな……?)

 

 床に染み付いていたはずの虎の血は、跡形もなく消えていた。それが彼の特性なのか、よく分からないまま巻き込まれた事件の特徴なのか、は知らない。

 晶はぼんやりと、壁の穴から空を見上げた。いつもと変わらない、霞がかかっているような、あるいは自分の目がかすんでいるかのような、薄い色の空。太陽はすでに高く上がっていて、すっかり寝過ごした形である。

 

(虎……李徴(りちょう)、って呼ぶべきかな……)

 

 理解は出来ていない。だが、こちらの習熟度などお構いなしであろうことは、肌で感じ取っている。

 晶は溜め息をついて、ゆっくりと立ち上がった。

 その時、ハラリ、と視界の隅で何かが動いた。

 紙だ。白い紙。メモのような小さな紙に、可愛らしい文字が並んでいる。晶は何の気なしにそれを取り上げて、

 

「――……“賎畿中央教会に行きなさい。そこですべてが分かる”――……っ!」

 

 末尾に付されていた名前に、晶は息を呑んだ。

 

「上之宮、真琴……っ!」

 

 彼女が――彼女こそが、自分が引き籠っている原因であり、自分の家族が壊れた――壁に大穴が開いても、家の前で尋常ならざる戦闘が起きようと、どんな反応も見せないほどに壊れてしまった――事件を、引き起こした張本人である。

 晶は、自分の息が荒くなるのを感じた。どうやら、“そういう筋”の話にまた巻き込まれたらしい、と察して、心臓が軋む。内臓が痛む。

 

『――どうした。何事だ、我が故人(とも)、袁傪よ』

「っ!」

 

 まるで影のように、虎――李徴が、すぐ脇に現れた。

 晶はびくりと肩を震わせて、しかし、

 

『気分が優れないのか。何事か、君に凶事が起きたのか。いや、それとも、(おれ)の所為か……? 己は、此処に居ない方が好いか?』

 

 猫のようにすり寄ってくる李徴の温もりから、自分を本当に心配してくれていることが伝わってきて、晶は飛び退こうとした足を抑えこんだ。

 そして反対に、恐る恐るではあるが、虎の背に手を伸ばす。毛皮に触れる。長くて立派な毛並みに、手が完全に埋まる。生者の温もりがある。

 

「大丈夫、君のせいじゃない……でも、あの……ちょっと出かけるから、姿を消して――」

 

 晶はここで少しだけ迷ったが、すぐに付け足した。

 

「――ついて、きてくれるかな」

『承知した』

 

 李徴は深く頷き、姿を消した。気配がすぐ傍に寄り添っている。

 まるで虎の威を借る狐だ、と晶は思った。

 

 

 

 賎畿中央教会は、賎畿市の中心部から少し離れたところにある。晶が住んでいる辺りから行こうとすると、一旦バスで駅前まで出て、そこからまた別の路線に乗り替えて行かなくてはならない。

 一時間ほどかけて、ようやくそこに辿り着いた。

 こぢんまりとしているが、非常に綺麗に整えられた教会である。晶は特定の宗教に属しているわけではないが、どちらかと言えば仏教の方が馴染み深く思えるので、敷地に入ることを躊躇った。

 門の外から中を窺う。

 小さな前庭には花壇があり、見覚えのある花が咲いていた。晶は花に疎いので、名前までは分からない。その花壇に挟まれるような形で、真ん中に扉がある。木製の大きな扉。あれを開けるのは生半可な覚悟では無理だろう、と晶は唾をのみ込んだ。行ける気がしない。

 

(……やっぱり、帰るか……)

 

 虎の威を借りていようと、狐は狐だ。晶は尻尾を巻いて逃げ出そうとして、

 

「あの~」

「わあっ!」

 

 唐突に背後から声を掛けられて、思わず叫び声を上げてしまった。

 慌てて振り返る。と、そこには、修道服を纏ったシスターが立っていた。茶色の髪がベールの隅から二筋ほどこぼれている。シルクの手袋とスーパーのポリ袋という不釣り合いな取り合わせが、いやに神秘的に感じられて、晶は余計に狼狽えた。

 

「あっ、ごめんなさい~。驚かせてしまいましたねぇ」

「え、いえ、あの、その……」

「何か御用ですかぁ?」

「ええと、その……用、っていうか、何て言うか……」

 

 尋ねられて初めて、晶は説明する言葉がない事に気が付いた。

 

(スマホから虎が飛び出てきて――よく分からない戦いに巻き込まれた――なんて話したら、絶対に頭がおかしな奴だと思われるよな……最悪、警察を呼ばれるかも……)

 

 やっぱり逃げるしかない、と結論付けるのに、一秒も必要としなかった。

 が、

 

「あら、その手……」

「え?」

「あらあら、なるほど~、分かりましたわぁ。ええと、あなたも、“マスターさん”ですのねぇ」

「マス、ター?」

「うーん、私にも、よく分かっていないのですがぁ……マスターさんには、皆さんに同じものをお配りしていますので、あなたにも渡さないといけませんねぇ。さぁ、立ち話もなんですから、中へどうぞ~」

「あ、あのっ……」

 

 シスターは――自分の職場なのだから当然であるのだが――慣れた調子でずかずかと中に入り込み、重たげな扉を存外軽々と押し開けた。そこで晶を振り返って、

 

「気兼ねなく、どうぞ~」

 

 と微笑む。

 晶は意を決して、聖域に足を踏み入れた。

 

 

 

 礼拝堂を抜けて、その奥にある小さな部屋に通された。

 

「ハーブティーは、お嫌いじゃありませんかぁ?」

「えっ、あっ、はい。嫌いでは……ない、です……」

 

 素直に答えてしまってから、(ここは遠慮して「お構いなく」とか言うべきだったか)と思い至ったが、もう遅い。

 シスターは簡易キッチンで手早くグラスを用意し、作り置きのハーブティーを冷蔵庫から取り出すと、二人分注いで机に置いた。

 

「良かったぁ。私ねぇ、このハーブティーが好きなんですよぉ。ちょっと特別なものなんですがぁ……あ、変な物は入っていないので、ご安心を。はい、どーぞ」

「あ……ありがとう、ございます……」

 

 にこにことされると、何となく落ち着かない。ただでさえ、家族以外の三次元の人間と接するのは数年ぶりなのだ。視線をどこに置けばいいのかすら定かでない。

 

「あ、それでですねぇ、こちらなんですがぁ――」

 

 シスターが机に滑らせたのは、薄っぺらい紙束だった。束という言葉が不相応かもしれないほど薄い。左上をホッチキスで止められている。表紙には『模擬聖杯戦争 ルール』と書かれていた。

 

「これは……」

「私にもよく分からないんですがぁ、模擬聖杯戦争? っていうのが、ここで開幕する……というか、もうしているらしいんです~」

「模擬……聖杯、戦争……?」

「はい~。なんでも、“万能の願望器”である“聖杯”を取り合って、七人のマスターさんが、七騎のサーヴァントを使役して、戦う――儀式? らしんですがぁ、今回のはちょっと話が違っているらしくって~……でも、私にはよく分からないんです」

「はぁ……」

「詳しいことは、その紙を見てくださいねぇ。あ、それと、私は一応“監督官”ということになっていて、この教会は安息地――つまり、誰からも襲われない場所として機能しているらしいので、何かありましたら、いつでも駆け込んでください~」

「はぁ……」

 

 晶は溜め息のような相槌しか打てなかった。渡されたプリントの束を手に取り、一枚目をめくる。

 

『この聖杯戦争は私――模倣者が作った“模擬戦”である。マスターの兆しを手にした諸君らには、私が写した小聖杯を取り合い争ってもらう。以下に、本来の“聖杯戦争”との共通点と相違点をまとめておく。各自参考にしてもらいたい。

 共通点――マスターは手の甲に刻まれた兆しである“令呪”をもってマスターとなる。七人のマスターがそれぞれ一騎ずつ英霊を喚び出し、サーヴァント同士を争わせる。令呪すべての消費、あるいは死亡をもって、マスター権の喪失と見なす。サーヴァントの消滅をもって、その組の脱落とする。六組の脱落をもって、戦争の終結とする。勝ち残った者の元に聖杯は現れ、その願望を成就させる。なお、令呪の移譲は認める。

 相違点――刻まれる令呪は二画のみである。聖杯にかけられる願いは、一つのみとなる。すなわちマスターかサーヴァントか、どちらかの願いしか叶えられない。この聖杯を持って根源の渦に至ることは不可能である。ただし現実のより単純な願いであれば、叶えることが出来るだろう。サーヴァントが消滅した際にマスターが使い残した令呪があれば、それは自動的に聖杯へ回収され、願望器としての力の補充に回される。

 なお、サーヴァントの召喚方法、敵対者の脱落のさせ方に関しては、当方は一切関知しない。担当の教会は「賎畿中央教会」とし、そのシスター神野麻子を監督官とする。教会に保護を求めた者は棄権と見なし、マスター権を剥奪する。その者への襲撃はルール違反とし、マスター権を剥奪する。以上』

 

 晶が読み終えたのを見計らったかのように、シスターが声を掛けてきた。

 

「分かりましたかぁ?」

「ええと……いえ、その……よく、分からないんですけど……」

「ですよねぇ、私もです~」

 

 おっとりと笑いながら、シスターは相槌を打った。それきり言葉がなくなる。

 晶は耐えられなくなって、素早く席を立った。

 

「あ、あの、ありがとうございました。僕はこれで、失礼します」

「あら、もうよろしいんですかぁ?」

「はいっ、あの……さ、さよなら!」

 

 逃げるように背を向けて、晶は教会を飛び出した。出されたものに一口も付けなかったのは失礼だったかもしれない、と思ったのは、随分と後になってからのことである。

 駅前をあてもなく彷徨いながら、晶は一人物思いに沈んだ。

 

(模擬、聖杯、戦争……)

 

 その単語がぐるぐる、ぐるぐると頭の中を巡る。自分が巻き込まれたもののことは分かった。なぜ殺されかけたのか、ということも。

 

(勝ち残れば……願いが、叶う……?)

 

 信じたわけではない。が、その言葉はあまりに甘美で――晶が何より求めたもので――ともすれば、救いになるかもしれないもので――少なくとも、無視して切り捨てられるものではなかった。

 

(……家族を、治せるかもしれない……?)

 

 廃人になって日がな一日空中を眺めている母を。ふらりと出ていったまま杳として消息の分からない父を。そして何より――怪物に飲み込まれ、消えてしまった弟を。

 

(助けられるかもしれない……?)

 

 だとしたらこれは運命だ。自分がなさねばならぬ使命だ。神に与えられた最初で最後の試練にして好機だ。掴まなくてはならない、絶対に、手に入れなくてはならない! そのためなら――人を、殺すことだって――

 

「遠藤君」

「っ!」

 

 突然呼び止められて、晶はびくりと固まった。知っている声だった――今、一番会いたくない声だった。けれど無視するほどの勇気もなく、晶はゆっくりと視線を上げる。

 

「う……上之宮、さん……」

 

 数年ぶりに会った同級生は、相変わらず、真っ黒い髪を無造作に背へ垂らし、華奢ながら威風堂々たる立ち姿で、深淵のような瞳を晶に向けていた。



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セイバー 3

 

「ゴットフリード」

「んー?」

 

 呼びかけられたので、ゴットフリードは姿を現した。マスター――ヘルメス・アーキシェルは、ベッドの上に胡坐をかいて、細々とした金属やら宝石やらをいじっている。

 ゴットフリードに魔術のことはよく分からない。“深入りすると殺される”という程度の認識である。彼が生きたのは、ちょうど魔女狩りが横行し始める頃だった。関わるべきものではない。だからゴットフリードは少し遠巻きにしながら、窓枠に腰掛けた。割ったはずのガラスは、ヘルメスの魔術によって綺麗に直されていた。

 

「なんだよ、主」

「話の続きだ。お前に課されたフェーデ禁止の誓約書は、生きているのか?」

「あぁ……」

 

 そういえば、昨晩言いかけてやめたのだった、とゴットフリードは思い出した。いつかは話さねばならないだろう、と思っていたことだ。

 

「そうさな、生きてるよ」

「だから真っ先に虎の方へ行ったのか」

「ご明察だ、我が主よ。相手が人間じゃなけりゃ、フェーデにはあたらない。別に、人間が相手でも、フェーデにあたるような“決闘”でなけりゃいいんだけどな」

「フェーデにあたるような形式で戦うと、どうなる?」

「知らんのか」

「知るわけないだろう」

 

 ゴットフリードは肩の横で両手を広げた。

 

「ちょっと調子が悪くなる」

「なんだ、それだけか?」

「おお、それだけさ。少ーし剣が握れなくなって、強い眩暈と息切れ、動悸に襲われる、ってぐらいだな」

「致命傷じゃないか!」

「まぁ、即座に死ぬってわけじゃねぇから、安心しろよ。そうなっても逃げるくらいのことはできるぜ」

 

 ヘルメスは溜め息をついた。

 

「一対一になったらすぐに撤退、というわけだな……とすると、乱戦が多い序盤はともかく、最後の方が厳しいな……私がどうにかして……」

「なぁ、主殿」

「なんだ」

「そこまでして、何を聖杯に望むんだ?」

 

 ゴットフリードはあえて唐突に問うた。

 案の定、ヘルメスは寸の間動きを止める。それからおもむろに、首だけで振り返った。真意を測りかねているような鋭い視線が、しばし突き刺さって――やがて、元の体勢に戻る。

 

「私が至るべき地位を奪った盗賊どもがいる……そいつらに凄惨な死を与え、私に正当な権力をもたらす、圧倒的な力が欲しい。金でも、能力でも、なんでもいい。とにかく大きな力を――どんな手を使ってでも、手に入れなくてはならない」

 

 その言葉は背中越しに、しかし強い決意と反感を宿して響いた。

 

「ほぉん」

「なんだ、その、気のない相槌は」

「いや。存外、俺と主は馬が合うのかと思ってな」

「はぁ?」

 

 ヘルメスが心底嫌そうに眉根を寄せながら振り返った。ゴットフリードはその顔に、かつての知己を思い出す。生真面目で細かくて口うるさくて、自分と同じ道を歩んでいるようでありながら、実際は正反対の目的へ向かって――自分よりもっと大きな野望を抱いて――散っていった男のことを。

 覚えず、口角が上がる。

 

「俺のケツを舐めろ! って言ってやりてぇ奴がいる、ってことだろ?」

「違っ……違う! 間違ってもあんな奴らに尻を舐められたくはない!」

「実際にやるかよ。もののたとえだ」

「……まぁ、己が受けた以上の屈辱を味わわせたい、という意味なら」

「そーそー、そういうこった。なるほどなぁ」

 

 うんうんと一人勝手に頷いていると、ヘルメスがこちらに向き直った。

 

「そういうお前はどうなんだ? 聖杯にかける望みがあるから、ここへ来たんだろう?」

「んー? あー、そうだなぁ……」

 

 ――望み。聖杯にかける望み。最奥にして深淵に根差し、魂のあり方を規定する存在意義。死して尚消えず、むしろ燃え上がり、己を捕らえて離さぬ渇望。どうしても満たさねばならぬと己を縛る、宿命とでも呼ぶべき執着。

 

(若かりし頃の俺ならば、この右腕の復活を願ったかもしれんなぁ……)

 

 と、ゴットフリードは鉄の義手に視線を落としてそう思った。

 ゴットフリードが右腕を失ったのは、一五〇四年、齢二十四、バイエルン継承戦争の時のことだ。味方からの砲撃が当たったのだ。運悪く。

 何が起きたのか、咄嗟には理解できなかった。砲撃音は最初からずっと鳴り響いていたから、意識などしていなかった――まさか撃たれるとも思っていなかったが。気が付いた時には、槍が馬の足元に落ちていたのだ。それでよくよく見てみると、剣の柄頭が弾け飛び、腕甲を貫き、鉄片が皮膚に食い込んで、己の右手がちぎれかけた革紐のようにぶらぶらと揺れていたのだ。

 落馬しなかったのは奇跡である。冷静さを失わなかったことも。普段から多めな血が抜けたのが、かえって良かったのかもしれない。若かりし頃のゴットフリードは、自分の状況を理解すると、何騒ぐことなく戦線を離脱したのである。

 

(……思えばこれが、俺の生き方を決めたのかもしれんな)

 

 怪我を負った時、ゴットフリードは神に祈ったのだ。――どうか恩寵を。戦士としてはもう終わりなのだから、今すぐこの命を召し上げてくれ、と。

 しかしすぐに思い直したのだ。ケヒリという名の隻腕の傭兵のことを思い出し、再び祈ったのだ。――どうか恩寵を。俺はまだ神のご加護のもと、誰よりも勇ましく戦いたいのだから、と。

 意地、といえばそれまでだ。だが、もしもこの腕を失っていなかったら――果たして、死ぬ間際まで戦い尽くせただろうか?

 

(なんて、思うのは、歳を食ったからだろうなぁ)

「おい、セイバー?」

 

 年寄りらしく物思いにふけっていたら、ヘルメスが怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。いつの時代も、若者はせっかちである。

 ゴットフリードは頬杖を解いて、両手を肩の辺りに広げた。

 

「これと言った望みはねぇな」

 

 するとヘルメスは大袈裟に眉毛をひん曲げた。

 

「望みがないのに、英霊の座にいるのか?」

「そうさ。――俺はな、生きてる間中ずっと、神の加護を祈り続けた。死ぬ直前にも、神の加護を願った。この世では肉体に、あの世では魂に、どうかご加護を与えたまえ。永遠の死からお守りくだされ……ってな。だから、今ここに在れるのは、神のご加護の賜物なんだろう。それ以上は何も望まんさ。――ま、強いて言うなら、派手に戦いてぇ、ってくらいのもんかな」

「……存外、敬虔だったんだな」

「おいおい、俺を何だと思ってやがる」

「お前の行状を知れば、誰もが“神をも恐れぬ盗賊騎士だ”って、そう言うさ」

「何言ってんだよ、神を恐れぬ人間がこの世にいるか? 俺はただ、神以外の何物も恐れなかっただけだ」

 

 ゴットフリードが何気なくそう言った瞬間、ヘルメスはなんとも言い難い顔になって、「……神以外の何物も、恐れなかった……」とオウム返しに言った。

 

「あぁ。それがどうかしたのか?」

「……いや、なんでもない」

 

 ヘルメスは無愛想に会話を切ると、すぐさま手元に目線を落とし、再び作業に没頭し始めた。

 

(……ま、いいか)

 

 ゴットフリードは少しの間だけ首を傾げていたが、すぐに霊体化した――しようとして、

 

「セイバー」

「おう? なんだよ」

 

 消えかけたのを取りやめる。

 彼の主は目線を上げていなかった。ゴットフリードは、それを少しだけ残念に思った――というのも、ヘルメスの目は琥珀色の狼の目なのである。ベルリヒンゲン家の紋章には、子羊をくわえた狼が描かれている。狼はゴットフリードにとって、縁起の良い動物なのだ。だから、残念に思う――顔を上げてさえいれば、獲物を見つけた狼の瞳の輝きを拝めただろうに、と。ゴットフリードにそう思わせるほど強い口調で、ヘルメスは言ったのだ。

 

「奇襲は、フェーデにあたらないな? ――今夜、襲うぞ」

「――Ja!」

 



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アサシン 3

 

「主様」

 

 唐突な呼びかけに、真琴はびくりと肩を震わせた。割れた爪を隠すかのように、拳を握ったのは、無意識の行いである。それから声の方に振り返る。

 山崎は道場の出口、深夜の渦への入り口に立っていた。アサシンの隠密性能は、マスターの認知すら欺くらしい。彼女はまるで、今この瞬間に闇から生まれ落ちてきたかのように、暗がりに馴染んでいた。

 

「只今戻りました」

 

 灯りの下にまで来ると、彼女は情けない笑みを浮かべているのだった。どことなく申し訳なさそうな空気感を纏っているのは、戦果を挙げられなかったからだろう。一方で、真琴の言動に対する疑問の色は、まったく隠していない。――おそらくは、こうやって与えられた印象すら彼女の制御の内にあるのだろう。

 真琴は道場の床の冷たさに気が付いた。いいや、床は最初から冷たかった。この床が暖かかったことなど一度たりともない。

 これは――恐怖だ。

 

(……飲み込め。受け容れろ。我ら上之宮流の神髄はその先にある――)

 

 霊的存在との接触は、常に危険が伴うものだ。まして歴史上の偉人、英霊ともなれば、なおさら――意思疎通の可不可にかかわらず、場合によってはむしろ意思疎通できるからこそ――扱いには心を砕かなければならない。たとえ怨霊や悪霊や呪詛のように、破壊の意志を持っていなくとも、彼女がその気になれば人間の命など一息で吹き消せるのだから――

 

「いやぁ、つっかれました!」

 

 山崎は真琴の隣へ、男のような仕草でどっかりと腰を下ろしたと思ったら、そのまま大の字に寝転んだ。

 

「うっひゃあ、床、冷たっ! ああああ~気持ちいい~! 熱帯夜ってやつですねぇ。さぁばんとだから汗はかいてないんですけど、こういうのって気分的なもんですよねぇ。あーほんっと、疲れたぁ~」

「……」

「言い訳するつもりはありませんけど、あのせいばぁ、けっこうなやり手でしたよ。ボクの襲撃に気付くなんて……でもたぶんあれは、気配に鋭いってわけじゃなくて――暗殺者の襲撃があるかもしれない、って予期していた感じですね。なかなかの悪党だと見受けました。まぁ、次は仕留めますけど!」

「……」

 

 山崎は頭の下に両手を敷いて、すっかり寛ぐ姿勢になっていた。それから、真琴の方を見上げたらしい。真琴は彼女と目を合わせてしまわないように、ほんの少しだけ視線をずらしていて――ゆえに、綺麗な弧を描いていた山崎の唇が、一瞬だけ僅かに歪むのを見逃せなかった。

 元の弧に戻り、それが割れる。

 

「それで、主様と、あの虎のますたぁとのご関係は?」

 

 分かっていた質問だ。聞かれるであろうことは覚悟していた。なのに息が詰まった。反射的に逸らした視線で、床板の間隔を目測する。けれど、二枚目から先には進めなかった。壊れた時計の秒針のように、一枚目の床板の境目を往復する。

 山崎が身を起こしたのが気配で分かった。

 

「主殿。……隠し事は、無しにした方がいいと思いますよ。ボクはほら、監察方ですから。隠されると暴きたくなるんで、そっちに意識がいっちゃって、戦いの方が疎かになってしまうかもしれません」

「……それは困るわ」

「でしょう?」

「分かってるのよ――」

 

 だからちょっと待って、とは、口に出せなかった。

 しかしその言葉になる前の言葉を、山崎は聞き取ったらしい。

 沈黙の中に蝉の声が満ちる。かの声を“岩に染み入る”と表現した俳人は、場に居据わる静けさを岩のようだと感じたのかもしれない。とすれば、最初の一言の難しさにも納得がいく。

 岩を割るのは、非常に困難だ。本来の意味での“口火”を必要とするほどに。

 真琴はゆっくりと息を吸って、吸って、吸って――もう吸えない、という限界までいって――

 

「彼の名前は、遠藤晶」

 

 ――吐くついでにそう言った。

 

「小学校の頃の同級生よ。六年生の頃、ある事件がきっかけで、それきりずっと引き籠っているの。……その、“ある事件”が、問題なのだけれど……」

「ある事件、ですか」

「ええ。……それは、半分は私の所為でもあるの。私が近くにいたのに、守り切れなくて――彼の弟を、死なせてしまった。それが原因で、彼の家庭は壊れてしまった。――どうして彼が聖杯戦争に関われたのか、は分からないけれど、目的はまず間違いなく、家族を取り戻すことでしょうね」

「……残りの半分は、誰の所為なんです?」

 

 真琴は山崎を一瞥した。寸の間、言いあぐねて、しかし沈黙の岩に押し潰されるのを恐れたかのように、すぐに口を開いた。

 

「彼自身よ。――彼は、特殊な体質の持ち主なの。霊媒体質と言うか……悪霊や、怨霊の類を、望むと望まざるとにかかわらず、引き寄せてしまう体質を持っていて――特に、感情が激すると、途轍もない引力を発揮するの。……それだけじゃない、って、もっと早くに気付いていればよかったのに……そうすれば、あの日……――」

 

 ああ、そういえば、あの日もこんな蒸し暑い夜だった。

 五年前――小学校で、遠藤晶はいじめられていた。別に原因という原因はなく、生来の気質がそうさせたのだろう。大人しくて、真面目で、声が小さくて、ちょっとしたことですぐに怯える少年は、乱暴者たちの標的にされていた。弟もまた大人しくて、色白で小さくて、一緒にいると巻き添えをくらっていた。

 真琴も大概爪弾きにされていたが、その手の悪口や陰口にいちいち目くじらを立てているような精神性では、魔術師になどなり得ない。そもそも、魔術師とは孤高に生きる者である、と物心ついた時から教育されているのだ。幼稚ないじめに屈するような少女ではいられない。ゆえに、少し広めに距離を置かれるだけで済んでいた。

 仲間外れ同士、少しずつ距離が縮まるのは自然の摂理のようなものであった。

 距離が縮まれば、霊感を持つ者同士、互いの能力に気が付くのも時間の問題だった。

 だが、気付いたからと言って何をするわけでもなく。大して会話をすることも無かった。ただ時折、どこからともなく雑霊が湧いて出てきては、晶が大袈裟なまでに怯えて、真琴があっさり調伏して――その間も、その前後も、お互いに無言であった。晶は時々お礼を言ったが、あまり話題にしてはならない類の出来事だ、ということを肌で感じ取っていたらしい。何事もなかったかのように振る舞う方が正しいのだ、と、徐々に学んでいった。

 ある日、晶と彼の弟は行方不明になった。

 夜になっても帰ってこないのだ、と、家から学校に連絡が入り、連絡網が回されて、真琴はすぐに思い出した。放課後、いじめっ子たちに引きずられていく二人の姿を見たのだ。

 占いで場所を割り出した。満穂川の上流。三津楽寺の裏手。あの場所には古い防空壕があるから、近付いてはいけない、と、口うるさく言われているところだった。――幽霊が出る、という噂もあった。

 その噂が噂でないことを、真琴は知っていた。

 方角は北東。いわゆる“鬼門”に当たる場所であり、霊が溜まりやすい地形をしている。防空壕では何人かが亡くなっている――空襲によるものではなく、心中だ。その上、三津楽寺は戦前、上之宮家と争った“密烙教団”という神秘主義結社の本拠地だった。彼らによって汚染された土地は、戦後七十年経っても完全には元通りになっていない。

 真琴はすぐさま家を飛び出した。幽霊を恐れる彼の性質を面白がった連中が、肝試しだとか称して無理やり連れて行ったのだろう。そうに違いない。きっと彼は泣いている。彼には幽霊が見えるから、普通以上に怯えているはずだ。助けてあげなくてはならない。それが、力ある者の義務だ――そんな風に思ったことを覚えている。

 そして、そこで見たもののことも。

 真琴は未だに忘れられない。

 

「――彼は、あの日、異形の存在に、成り果てたの。まるで、私の式神みたいに――彼は、呼んだ霊を体内に取り込んで、自身を〔変容〕させる体質も兼ね備えていた。異様に強い霊媒体質、とでもいえばいいのかしら。――私にはどうにも出来なかったわ。私は、隠れて、ただ見ていただけ。……せめてあの時、母を呼んでいたら……一人で出て行かないで、親に相談してたいたら……」

 

 ――分かっている。そんなことをしたら、晶はその場で殺されていただろう。けれど、今になって考えてみれば、その方が彼にとって良かったかもしれないのだ。

 自分の手で弟を食い殺して、それで満足したように眠りに就いて――元に戻った時、彼は何も自覚していなかった。『化け物が弟を殺した』と繰り返し繰り返し、壊れたおもちゃのように言っていたから、幽体離脱のような形で現場を俯瞰していたのかもしれない。それがまた一層残酷に思えた。

 彼の精神は不安定になって、学校には来なくなり、辺り構わず雑霊を呼び込むようになった。それに当てられて、彼の母親は病み、彼の父親は家を捨てた。

 

「私がようやく、彼の性質を理解した時には、彼の家はもう手遅れだった。気休めにしかならないけど、これ以上彼の元に雑霊が集まらないように、結界を張って――それだけ。……問題を先送りにすることしか、出来なかった。何もしていないのと同じよ」

「ほほぉう、そんなご関係でしたか」

 

 呑気な相槌が憎たらしく思えて――どうせまたへらへらと笑っているのだろう、他人事だと思って――真琴は山崎を睨むように見た。

 そして、息を呑む。

 山崎は真剣な顔つきで、道場の壁を見つめていた。小麦色、とまではいかないが、適度に日焼けしたやんちゃな顔から、普段の快活さが消えている。漆黒の瞳が稲妻のようにこちらを向いて、真琴の眼を捉えた。

 

「……勝てますか? 主殿」

「っ――」

「いえ、その前に――戦えるのですか? 彼と」

「……」

 

 真琴は膝の上で拳を握りしめた。割れた爪に圧力がかかって、じくじくと痛む。その痛みが真琴には、どこか別の、見えない部分の痛みのように思えた。

 

「これは戦争です、主殿。――どうか、お覚悟を」

 

 そう言い残して、山崎は姿を消した。

 岩に染み入る、蝉の声――。

 



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ランサー 3

 

 自分が死ぬ間際のことは、よく思い出せなかった。操縦桿を握ったまま息絶えたことだけは確かだが、それ以外は、霧の向こうに沈んだ小島のように曖昧である。聖杯から与えられた記録によれば、英軍機との交戦中に肺と心臓を撃ち抜かれて墜落したのだという。とどめを刺したのが一体誰であったのか、ということは、不鮮明なままだ。

 遺書の類はなく、残された日誌には後継の指揮官の指定だけがしてあったという。

 リヒトホーフェンは、昨晩戦死した少年の最期を思い出した。

 

(……彼は、母への言葉を、最期に残した……うん。理解できる。私だって――いや、“今の私”なら、必ず、そうするだろう。――何故、“かつての私”は、家族へ、何も残さなかった?)

 

 自分のことであるのに理解が及ばなかった。どうすればそんな気持ちになれるのか、想像することすら叶わない。

 それで結局、思考は元の場所に戻る。

 

(――聖杯にかける願い)

 

 霊体化して休養している最中、リヒトホーフェンはそのことばかり考えていた。死に際のことを思い出せば、何かヒントを得られるのではないかと思って、丹念に思い返してみたのだが、やはり駄目だった。

 拭いきれない違和感が、心に、魂に、体に、ずっと纏わりついている。

 

(何か一つ、必ず、叶えられるとするならば……私は、何を望む?)

 

 聖杯から得た知識によれば、サーヴァントは望みがあるから聖杯戦争に参加するのだ、という。そしてその望みは、生前の後悔の解消であったり、第二の生を得ることであったり、様々ではあるが――すべからく、“自分という存在の意義”と関わっている。

 当然だ。サーヴァントの現界を可能にするものが“願い”である以上、その願いがサーヴァントの魂を縛っているのは自明の理。

 つまり、“願い”とはサーヴァントの存在理由に他ならない。

 それが。

 今、リヒトホーフェンを悩ませていた。

 

(私の、願い……欲望……。――私は……)

 

 ――……私は、空を、飛びたい。

 それは、生前の自分がすでに叶えたはずの願いだった。

 

(あぁ……やはり、間違いない。私は空を飛びたい。パイロットになりたい)

 

 思えば思うほど確信が強まっていく。空を飛びたい。こんな重たい槍など捨てて、時代遅れの馬など降りて、空を駆ける騎士になりたい。

 

(何故だ……? 何故、すでに叶えたはずの願いに、私は、縛られている?)

 

 記録は頭の中に残っている。自分は確かに、パイロットとして戦線を駆け抜け、パイロットとして死んだ。疑いようのない事実として、魂に刻まれている。

 なのに――そこに、実感が伴っていない。

 記録は記録でしかない。記憶とは違うのだ。まるで他人の伝記を読んでいるかのように、そこに自身の手応えがない。

 

(槍騎兵時代の姿で、召喚されたから、か? 精神が、肉体に、引きずられているのか……?)

 

 リヒトホーフェンは溜め息をついた。分からない。胸の内に疑問と不安がわだかまる。このような不安定な状態で、果たしてこの戦争を勝ち抜けられるのだろうか。

 霊体化を解く。

 数時間前まで死んだように眠っていたディオニシオは、今は机の前に座し、地図と書籍を広げてそれらと睨み合っている。そうしながら、背中越しに、冷徹な声で言った。

 

「必要のないことをするな、ランサー。実体化には魔力を消費するんだ」

 

 斬り伏せるような鋭い声音に、リヒトホーフェンは少しだけ眉根を寄せる。しかしすぐに取り繕って、霊体化する。

 

『……失礼致しました、マイスター。――重ねて、失礼を、お許しください。どうしても、お聞きしたいことがあるのです』

「なんだ」

『私は、本当に、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンですか?』

 

 その問いに、ディオニシオは眉をひそめて振り返った。

 

「私がミスをしたとでも言いたいのか?」

『いいえ。いいえ、そうではありません。――ただ、私には、実感がないのです。己が、パイロットであったという、実感が。……いずれ、聖杯を前にした時――私は、空を飛びたい、と、願うでしょう。これは、すでに叶っているもののはずです。いくら、肉体年齢に寄せられている、といっても、このあり方は、英霊として、サーヴァントとして、相応しくないのではないでしょうか』

 

 赤裸々に吐露してしまってから、リヒトホーフェンははたと我に返り――自分を刺殺したくなった。霊体化していなかったら、みっともなく頬を上気させて、その場を立ち去っていたに違いない。

 

「ランサー」

『マイスター、今のは――』

「取るに足らない感傷に囚われるな、情けない」

 

 刃よりもなお冷たく、彼は吐き捨てた。

 

『っ……』

「戦場でそんな悠長な思い煩いをしている暇があるのか? 余計なものは一切捨て、合理的に考え、必要とされただけ動け。いいな」

 

 そう言うが早いか、ディオニシオは背を向けた。

 ――マイスターの言う通りだ、と、リヒトホーフェンは思った。だから、

 

『はい。失礼、致しました』

 

 と答え、気持ちだけでも頭を下げ、息を潜めた。

 ――正論だ。戦場に余計な感情は要らない。正当だ。道理だ。

 と、思ったが、しかし。

 心を軋ませた自分がいた。

 認めたくはない。認めるわけにはいかない――マイスターに叱責されて傷付いた自分など!

 

(……私は、一体、何を、期待していた……?)

 

 優しい励まし? 甘い慰め? それとも――否、否、否! それらはすべて甘えである! 自分で自分の感情を思想を理性を論理を制御できない未熟者が他者に依存した挙句に求める救済である! そのようなもの、このリヒトホーフェン家に生まれた長男として、国家に身を捧げる責務を負った者として、断固として求めてはならぬ!

 

(やはり、私は――どこかが――何かが、おかしい――っ!)

 

 疑念だったものは確信に変わった。

 リヒトホーフェンは頭を抱える。魂の奥底からフツフツと湧いてくる焦燥が、憤りが、不安が、ぐるぐると黒い渦を巻いて、血の巡りを妨げる。妨げられて血が止まる。酸素が止まる。息が詰まる。頭痛がする。――たい。死にたい、生きたい、戦いたい――

 

(――飛びたい……っ! 飛んでいない、自分など、自分では、ない……!)

 

 ふ、と、リヒトホーフェンは顔を上げた。

 現代の飛行機のエンジン音が聞こえたのだ。

 窓の外は、一面の青。それを横切る、一条の白い線――

 唇を噛み締める。血が出ないのが、今はかえって、痛かった。

 



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バーサーカー 3

 

『我が故人(とも)に何用ぞ、女!』

 

 真琴が声を掛けた瞬間、晶――李徴にしてみれば、“袁傪”――の心臓がびきりと音を立てて固まったのが、伝わってきたのだ。李徴にとって、姿を晒す理由にそれ以上のものはない。

 

(袁傪、君を、(おれ)は守らねばならぬ――たとえ、あらゆる謗りを受けようとも――たとえ、このなけなしの理性をすら失おうとも!)

 

 李徴は牙をむき出しにして、呪術師のにおいを纏う怪しげな女を睨みつけた。

 が、

 

「ちょ、待って、待って! 街中じゃマズい……!」

 

 晶が目の前に飛び込んできた。

 李徴はまさか友に向かって牙を向くわけにもいかず、しぶしぶ口を閉じる。

 

『――何故だ、故人よ。かの女、君の敵ではないのか?』

「ええと、その……」

 

 曖昧に言葉を濁しながら、晶はちらりと肩越しに後ろを見て、

 

「……向こうに、戦う気はないみたいだし……何より、ここじゃ、目立ちすぎるから……!」

 

 すでに李徴の姿を見た周囲の人々が、ざわざわとどよめいている。平日の昼間だが、時は夏休みだ。何も考えていなさそうな子供が、李徴を指差して歓声を上げる。その程度なら可愛いものだが、それより少し歳が上がれば、途端にスマートフォンを構え出す。動画の拡散は時間の問題だろう。さらに年上の人々は、「脱走……」「警察を呼んだ方が……」などと言っている。間違いなく、通報される。

 李徴にそのあたりの事情は理解できなかった。しかし、晶が周りを気にしていること、己の姿が人に畏怖嫌厭の情を起こさせることは、よく分かっていた。

 しぶしぶ姿を消す――無論、その直前に、女を一睨みして牽制しておくことを、李徴は忘れなかった。

 李徴が消えた途端に、真琴は両手を打ち鳴らした。

 

「〔変質せよ〕」

 

 一瞬、薄い靄のようなものが空気中に散らばった。――と、ざわめいていた民衆が、ふ、と動きを止めて、瞬き一つの後には、まるで何事も無かったかのように元通り歩き出した。

 何らかの呪術を行使したであろうことは、李徴にも分かった。

 

「ちょっとした視線避けよ。少し注目をずらせば、人の記憶なんてすぐに消えるわ」

「え、あ……そう、なんだ……」

「来て。話があるの」

 

 言うが早いか、真琴はくるりと背を向けた。

 晶は恐る恐る、その背についていく。彼が非常に緊張しているのを、李徴は感じていた。その緊張が何に根差すものなのか、李徴には分からなかったが――あの女を恐れている、そのことだけは確信が持てた。

 

(守らねばならぬ……我が故人を、守らねばならぬ……!)

 

 李徴は、陰に潜む暗殺者のにおいも感じ取っていた。虎になってからというもの、嗅覚がいやに鋭敏になってしまって仕方がない。勿論、便利な時もあるにはある――今回の戦いのように――のだが、それよりも困ることの方が多いのだ。特に、血の匂い、とりわけウサギやシカといった獲物のにおいを嗅ぎつけた時、理性があっさり吹き消されるのには閉口する。

 だが、

 

(この辺りは、何と言おうか、己が知るどの都とも異なって――)

 

 ――生き物の気配が薄い。

 ウサギやシカなどといった食いでのある獲物のにおいなど鼻を掠めもしない。

 電線に止まった雀の二羽三羽程度に食指が動くほど飢えてもいない。

 これは李徴にとって甚だ都合の良いことであった。

 

(我が故人の為だけに、この忌むべき力を使えるのだ――ならば、良い。それならば、己も耐えられる)

 

 この手がこの爪がこの牙が、袁傪の敵の悉くを打ち砕くならば、それ以上の幸せはなかろう――と、李徴は思うのだ。

 小さな公園の真ん中で、真琴は足を止めた。そこから三歩以上開けて、晶も立ち止まる。

 ひどく寂れた公園だった。遊具はまったく無く、小さなベンチが申し訳程度に設置されている。いくら夏休みの午後といっても、このような場所にわざわざ遊びに来る子供などいないだろう。――真琴が、人払いを行なっているのかもしれないが。

 

「教会に行ってきたのね」

 

 前置きを知らない人間のように、彼女はそう言った。

 晶は小さく頷く。

 

「なら、あなたが何に参加しているのか、理解できたでしょう?」

「……うん」

「分かったなら――この戦いから手を引きなさい」

「っ」

「これは、あなたのような常人が参加していいものじゃないわ。今すぐ、マスター権を放棄して、安全な場所に――」

「嫌だ!」

 

 晶が、吠えた。

 李徴も驚くほどの大きな声で、はっきりと――どこか幼さを残しながらも――言ったのだ。

 

「嫌だ。僕は、逃げたくない――叶えたい願いがあるんだ。叶えられるかもしれないって知った以上――逃げるなんて、無理だよ」

「……なら、どうするの?」

「え?」

「あなたは何も分かっていない。魔術師の戦いがどういうものなのか――サーヴァントを使役するとはどういうことなのか――何も分かっていないでしょう。現に、あなたは昨晩、死にかけたのよ。それを助けたのは私。私が何もしなかったら、あなたは昨日、殺されていたのよ。あんな状態で、どうやって戦うって言うの? どうやって勝つって言うの?」

「――」

「無理よ。あなたには無理。あなたに、願いは叶えられない」

「そ、そんなの、やってみなくちゃ――」

「昨日のことを思い出しなさい」

「っ……」

「悪いことは言わないわ。手を引いて。……お願いだから」

 

 晶は太腿の脇で拳を握りしめて、深く俯いた。この拳が細かに震えていた。言い知れぬ悔しさが彼の胸中を激しく揺さぶっているのが、李徴には分かる――分かるのだ。たとえ彼のサーヴァントでなかったとしても、理解できたに違いない。

 ――あなたには無理よ。

 ――やってみたじゃない。やってみて、それで駄目だったじゃない。

 ――お願い、諦めて……あなたは、詩人にはなれないわ。

 まるで呪いのような言葉。いや、そこに比喩表現は必要ないだろう。まさしくあれは呪いの言葉。夢抱く人間を正しく打ちのめす正義の鉄槌。死後もなお魂を縛る鋼鉄の鎖。それが今、袁傪、我が故人を苛むというならば――

 

『俯くな、我が故人よ』

 

 李徴は霊体化を解いた。晶にすり寄って、揺れる瞳を見上げた。

 

『夢破れることは恐ろしかろう。自分の無力を思い知るはつらかろう。――だが、それ以上に、夢半ばで唐突に、理不尽に、夢を見ることすら許されぬ身となるほうが、余程恐ろしく、つらいものだ』

「……」

『俯くな、故人よ。他人の言に惑わされるな。君は君が思った通りに進まなくてはならぬ。他の誰が何を言おうとも、君の正しさは君にしか分からぬのだから――』

 

 ――君は、己のようになってはならぬ――己のような、あさましきけだものに堕ちてはならぬ――

 

『――他人の為に、君の正しさを、曲げてはならぬ』

 

 晶の瞳から揺れが消えた。拳を解いて、手のひらを李徴の頭の上に乗せる。そこに恐れはなく、躊躇いはなく、ただ決然とした意志だけが灯っている。

 晶は顎を上げた。

 

「ごめん、上之宮さん。……僕はもう逃げたくないんだ。僕に出来ることは、もうこれしか残されていないと思うから」

「……そう」

 

 真琴は苦々しげに顔を歪めて、口の中で何事か呟いた。それから、憮然とした態度で背を向ける。それきり、彼女は何も言わずに、その場を後にしたのだった。

 その背中がすっかり見えなくなってから、

 

「――……はぁー」

 

 晶が大きな溜め息をついた。緊張が解けたらしい。そのまま李徴の首に腕を回して、すがりつくようにしながら、地面に膝をつく。李徴は晶を支えるように、意識して頭を上げたまま、そっと鼻を寄せた。

 

『大丈夫か、我が故人よ』

「うん、大丈夫。……さっきはありがとう、李徴」

『む?』

「すごく、励まされたから――本当に、ありがとう」

『礼には及ばぬさ、故人よ。君の役に立てたなら、己にとってそれ以上のことはない』

 

 言いながら、李徴は、その言葉通りのことを――あるいはそれ以上のことを――感じていた。ずっと、ずっとこうしたかったのだと、そう思っている自分がいた。袁傪が自分にしてくれたように、自分もまた、袁傪にこうしたかったのだと――己が袁傪を故人と呼ぶように、袁傪にもまた故人と呼ばれ、対等に、互いを助け合いたかったのだと――そう思った。

 

(あぁ……まるで夢のようだ……)

 

 そこにも比喩表現が必要ないことを、李徴は知らずに――仮初の幸せを、長い尾がゆっくりと掻き混ぜていた。

 



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アサシン 4

 

 真琴は、道場の中心で瞑想しながら、昼間のことを思い返した。

 

(止められなかった……)

 

 体も、心も成長していた。――何も変わっていないと思っていたのに。

 強い視線で、真っ直ぐに見返された。――弱いままだと思っていたのに。

 サーヴァントがぴったりと寄り添っていた。――私が守らなければならないと思っていたのに。

 

「瞑想になってませんよ~主様」

 

 真琴はゆっくりと眼を開いた。

 山崎がおちゃらけた態度で真琴の顔を覗き込んでいる。

 

「……何か用? アサシン」

「いえ、取り立てて用があるってわけではないんですが」

「なら――」

「そういえば主様の願いを聞いていなかったなぁって、ふと思いまして」

 

 にこにこと絵に描いたような笑顔を貼り付けている山崎を前に、真琴はぐ、と息を詰まらせた。それから、息を詰まらせてばかりいる自分に気が付いて、意識して力を抜いた。思い返せば、山崎との会話中に、まともに呼吸ができていた記憶がない。

 真琴は視線を逸らして、淡々と答えた。

 

「ルールを見たなら、わかっているでしょう。叶えられる望みは一つだけ。あなたがその――お団子? を食べたいと願ったなら、それでおしまいなのよ」

「それじゃ、主様には願いがない、と?」

「……ええ、ないわ」

 

 一瞬間が開いたのを、真琴も自覚した。だから、尋ねられる前に口を割った。

 

「ない、というより――願ってはいけないの、私は」

「願っては、いけない?」

「そう。――願いとは、雲を掴むような話。望みとは、湖上の月のようなもの。我ら上之宮家は、雲を呼び、月に迫ることはあっても、それに触れてはならないの。私たちは、雲を掴もうとする人間の心から出てくる芥や、湖上の月を捕まえるために飛び込んだ人間の念を集めて、それに名と形を与え、自らの手足としているの。だから、使役する側が塵芥を出してはならないのよ。――そんなことをしたら、呪詛に反逆されるわ」

「ふぅん……そういうことなら、これ以上聞くのはやめます」

 

 そういうところは察しの良いサーヴァントだ、と、真琴は心中で安堵の息をついた。

 

「ところで、どうして主様は、あんまりボクと目を合わせてくれないんです?」

「え?」

 

 思いもよらぬことを聞かれて、真琴はパッと振り返った――が、それでもまだ目線までは、山崎の目の高さには到達しないで止まるのだ。それは真琴にとって、ある種の癖のような、当然の仕草であって、それを山崎が気にしているとは思いもしなかった。

 なんて説明したものかしら、と考えながら、真琴はまた視線を他所へやった。

 

「その……霊的存在とは目を合わせてはならない、って、そういう教えなの。目は呪術的な意味合いの強い部分だから……迂闊に目を合わせたために、取り殺された例なんていくらでもあるわ。普通の人間が相手であっても、知らず知らずのうちに影響を受けたり、するものだし……だから、基本的に、誰とも目を合わせないようにしているの」

「えぇ~なんですかそれ」

 

 山崎が不満げな声を上げて――次の瞬間、真琴の両肩がびくりと跳ねた。山崎の両手が、真琴の頬を包み込んだからだ。冷たくて、かさついた手のひら。そして目の前には、へらへらと笑う山崎の、光を灯さない漆黒の瞳がある。

 問答無用で目線を合わせられて、真琴は身を固くした。こんな風に、人と触れ合ったのはいつ以来だろう――いや、ともすれば、生まれてこの方、一度もこんな距離感で視線を交わしたことは、なかったかもしれない――

 

「あいこんたくと、って言うんでしたっけ? 言葉では間に合わないことも、目でなら充分に間に合うってもんです。戦闘中なら、その一秒が生死を分けるってもんですよ。ボクも現役の時はよくよく目だけで会話して――いや、でも沖田隊長なんか、全っ然こっちの言いたいことを汲み取ってくれなくって、もー本っ当に大変でした! すっごい明後日の方向に解釈するんですよあの人、信じらんないです!」

「……」

「それに、ちゃんと目を見た方が――」

 

 不意に、山崎は言葉を切って、視線だけで横を向いた。丸まった鉛筆のように腑抜けていた視線が、一瞬にして小刀で削られて、キンキンに尖っている。完全に、臨戦態勢に入っていた。

 

(なるほど……目は口程に物を言う、って言うけれど、こういうことなのね)

 

 真琴は何故か呑気にもそんなことを思って、それから、小さく頷いた。

 山崎がちらりと真琴を見て――その視線だけで、伝わった、と真琴は思った――姿を消した。

 

(魔術師の工房に直接殴りこんでくるなんて――嘗められたものね)

 

 真琴は改めて姿勢を正し、両手を合わせた。

 

「〔変貌せよ〕」

 

 影が、立ち上がる。

 

   ☆

 

 山崎は霊体化し、道場を飛び出した。

 

(間違いない――来ますね)

 

 気配感知。直感のように確信は持てず、千里眼のように先を見通せるわけでもない。が、相手が同業者でなければ充分に通用する。

 影に溶け込み、気配を断ち、襲撃に備える――

 

(――来た!)

 

 目視より早く、山崎は斬りこんだ。

 敷地内に降り立った瞬間の、やや体勢が崩れたところに刃を突き込んで――受け止められる。

 

「よーお、アッテンティーター!」

「どこの言葉です、それ?」

「さぁて、どこだろう、なっ!」

「っ!」

 

 セイバーとアサシンという点からしても――外国人の大男と日本人の小娘という点からしても――膂力で敵うわけがなく。脇指を弾かれ、体勢が崩れたところに蹴りが飛んでくる。山崎は咄嗟に腕を畳み込んで防御に回し、蹴りと同じ方向へ跳んだ。

 大型トラックに突っ込まれたかのような衝撃。山崎の矮躯は軽々吹き飛んだ。道場の扉に背中から衝突し、なお止まらず、扉を破壊して中に転がり込む。一瞬意識が白んだのを慌てて呼び戻して、

 

(……っ、っわ~……なんて威力! 土方さんに思いっ切り殴られたらきっとこんな感じになるんでしょうねぇ!)

 

 などと余計なことを考えたのは、彼女なりの思考の切り替え方だ。次の瞬間には思考は消え失せ、表情は抜け落ち、戦闘するだけの人間に変わる。

 上から降ってきた剣先を転がって躱し、素早く身を起こす。

 再び、刃をかち合せる。負けると分かっている競り合いはしない。流す。流して、懐に飛び込む。相手は甲冑を身に着けているから、狙うは関節の継ぎ目。あるいは脇。あるいは腰。身を縮め、潜り込み、鋭く斬り返す。

 右肘を突く――金属音が響いて、弾かれた。

 

「っ?」

「っと、あっぶねぇなぁおい!」

 

 間髪入れずに繰り出された蹴りを躱して、大きく後退する。

 

(義手――?)

 

 明らかに生身ではなかった。彼のサーヴァントとしての特質、という可能性も捨てきれはしないが、確実なのは、右腕を攻撃しても意味がない、ということ。

 

(……問題は、右腕以外――)

 

 全身がこの調子だったらもうどうしようもない。敵の装甲を打ち破れるほど威力のある攻撃など、山崎には出来ないのだから。出来ることと言えば、真琴が相手のマスターを仕留めるまで、時間を稼ぐぐらいである。いや――

 

(――すでに、そうなってるかも)

 

 視界の端には、これだけの戦闘を前にしても微動だにせず座っている、真琴の姿がある。その周りを、真っ黒い霧のような彼女の使い魔が、とぐろを巻いて、牙を向き、相手のマスターを威嚇している。魔術師の攻防の優劣など山崎には分からない。が、

 

(ボクの主様の方が、気迫で勝ってますね!)

 

 気迫で負けた者に勝ち目はないのだ。格闘だろうが魔術だろうが。

 

(それなら――ボクは、ボクらしく――やるべきことをやるだけです!)

 

 生来、時間稼ぎとか目くらましとか、そういうことには長けているのだ。のらりくらりと相手の剣先を躱し、付かず離れずの距離を保って、ぎりぎりまで戦線を保持する――この、場合によっては消耗戦にしかならない戦い方が、山崎の性には合っているのだ。

 一方――

 

「ったく、俺がどうにかしねーと、ヤバそうだなぁ」

 

 ――セイバーの方はセイバーの方で、反対の事を察したらしい。

 軽く溜め息をついて、ごきごきと首を回し、剣を構え直す。

 獅子の如き金色の瞳が、獰猛に光る。

 

「悪ぃけど、さくっと片付けさせてもらうぜ、アッテンティーター」

 

 次の金属音が響くまでに、一秒も必要なかった。

 

 



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セイバー 4

 魔術師の工房に殴り込むなど、自殺としか言いようがない。

 だが、ヘルメスには“あえて”それをする理由があった。

 

(かつてロード・エルメロイは、名も無き下賤な鼠に、わざわざ構築した工房をビルごと爆破されたという)

 

 工房にいる魔術師は強い。ならば工房を壊してしまえばいい。なんと明白で簡単で合理的で――美しさを欠片も持ち合わせていない戦術だろうか。無論、それだけで敗北に至るほど、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは凡庸でも軟弱でもなかったのだが。しかし、そこから少しずつ事態が悪化していったことは、確かである。

 

(だから、私は乗り込むのだ――エルメロイの名を継ぐものとして。正々堂々と、魔術師の工房に乗り込み、真正面からそれを打ち破るのだ! 先代の恥辱を雪いでこそ、当主の座に相応しい……!)

 

 ただ生き残っただけの若造とは違う、ということを、示さなくてはならない。

 他人に教えるしか能のない青二才とは格が違う、と、知らしめなくてはならない。

 

(そうでなくては――そうしなくては、私はエルメロイの名を取り戻せない!)

 

 故に、ヘルメスは夜陰に紛れ、上之宮家の塀を飛び越えたのだ。

 

 

 

 ――なのに。

 

(何だこの場所は……異様に寒い。異様に冷たい!)

 

 ヘルメスは道場に踏み込んだ瞬間、己が気圧されるのが分かった。臨戦態勢に入った魔術師の工房は、怪物の胃の中に等しいのだと、知ってはいたが実感していなかったのだ。――それが今になって、ようやく骨身に染みた。

 気圧された自分を叱責するように、魔術を放つ。

 

「《金は金として我が刃たれ》!」

 

 小さな金塊を核とした魔術は、針よりも鋭く、弾丸よりも速く放たれた。

 しかしそれは、道半ばで自然に解け、崩れ落ちる。

 

「〔変転せよ〕」

 

 少女の小さな、本当に微かな囁き声。それに応じて、黒い触手が四方から押し寄せてくる。それはまるで、この世のありとあらゆる病苦と呪いを押し込めたかのように禍々しく、異様な圧迫感を纏い、ヘルメスへと襲い掛かった。

 

(っ、速、い――)

 

 集中も詠唱も間に合わない。

 

「《銀は我が加護》!」

 

 かろうじて捻じ込んだ半端な術などあっさり切り裂いて、鋭利な棘と化した触手がヘルメスの肩に突き刺さった。

 

「ぐあっ――あああああああああっ!」

 

 そこから流れ込んできた呪詛が血管を食い破り、筋肉が引き裂かれ、皮膚が内から弾けた。血が溢れ出し、ぼたぼたと音を立てて床を汚す。その穢れすら飲み込んで、黒い靄が蠕動(ぜんどう)する。

 

「〔変ぜよ、変ぜよ、変ぜよ、其の怨嗟は我が糧也、其の苦悶は我が血肉也、汝変ずることなく只其処に在れ、我は変ずる、汝を糧となし血肉となし、我が呪詛は変貌する〕」

 

 一気に圧力が増した。靄は一層その色を濃く、深くし、夜の闇よりもなお暗く、なお冷たく、ヘルメスの体を蝕んでいく。

 

「うっ……うう、あああああっ、ああああああああああああああっ!」

 

 激痛、などという生ぬるい言葉では到底言い表せない痛みが全身をくまなく包み込む。間断なく繰り返される苦痛の波に、遠退いた意識がすぐまた引き戻される。もはや脳味噌は世界を認識せず、声帯はただ事務的に呻くのみ。唾も涙も血と一緒くたになって滴り落ち、それがまた靄に吸い込まれ、さらに影を淀ませる。

 己の死を覚悟する暇すら与えられなかった。

 己の愚策を嘆く猶予すら許されなかった。

 それはヘルメスの身体を、魂を、一方的に縛りあげて圧迫し、無情に押し潰す――

 

   ☆

 

 ゴットフリードは焦りを感じていた。

 

(やっべぇ、主が……このままじゃ……――)

 

 向こうの戦況を気にできるほどの余裕はある。アサシンはそこまで強くない。

 が、

 

「っ!」

 

 甲冑の隙間に差し込まれた細い刃が皮膚に到達する寸前、身を捩ってそれを避けた。すかさず、懐近くにまで潜り込んできているアサシンの額目がけて剣柄を振り下ろす。躱されることは分かっていた。だからそのまま手首を返し、一歩踏み込んで相手の足さばきを邪魔しつつ、首筋を撫で切りに。

 

「ふっ!」

「――っ!」

 

 アサシンの姿が一瞬だけ掻き消えた。

 剣先が何かを切り裂いた。しかしそれは着物だけ。大きく後退したアサシンは、ただの一滴の血を落とすこともなく、素早く身を翻して再び向かってくる。

 強くはない――が、適度に速い。また一方で、速過ぎないが故に軽過ぎず、かえって扱いづらい。

 

「ちっ」

 

 思わず舌を打つ。やりにくい。引き離せない。押し切れない。

 このままやり合っても、ゴットフリードが負けることはないだろう。かといって相手を倒し切れるかと言われると、もう少し時間が必要だ。しかし時間をかければ、マスターの方が先にやられてしまう。だからとマスターの方に助太刀しようとすれば、その隙をすかさず仕留めてくるだろう。それを良しと出来ないほどには、アサシンの刃は鋭い。

 ヘルメスの絶叫が耳に届く。魔力回路が滞るのが、いくら魔術に疎いゴットフリードであっても分かった。

 

(――致し方あるまい、か)

 

 ここにきてゴットフリードは腹を括った。

 この状況を打破する起死回生の一手があるとするならば、それはただ一つ――

 ――宝具しかない。

 

「神よ、我にご加護を与えたまえ」

 

 剣を縦に、胸の前に。柄に嵌め込まれた十字架に口づけをして、腹の底から声を出す。魂の奥底に埋め込まれている大きな力を呼び覚ますため、神に祈るのと同等に、強く、強く、言の葉を紡ぐ。

 

「決闘(フェーデ)をせずとも、片腕がなくとも、我は神の騎士、戦いを求める勇士なり! 我が覇道を妨げる者よ、悉く――」

 

 魔力が集積するのを見て取ったのだろう。アサシンが床を蹴る。

 しかし、宝具は既に開帳された。

 剣を縦に、胸の前に。高く掲げ、空を斬り下ろす。

 

「――糞くらえ、然るのち消え失せろ(Leck mich im Arsch)!」

 

 言い放った瞬間、暴風が吹き荒れた。

 ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲンの有するは対人宝具。全盛期のそれには遠く及ばないが、それでも、戦況をひっくり返すほどの威力は持ち合わせている。『Leck mich im Arsch』――直訳すれば、“俺の尻を舐めろ”という意味になるこの罵倒は、古くからドイツに存在する慣用句であり、マルティン・ルターが悪魔に対して言い放ち、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがカノンにしたことで知られている。過去にゴットフリード自身が言ったわけではなく、後に作られたゲーテの戯曲の中で“言ったことにされ”、一躍有名になった台詞だ。

 この言葉の前では、あらゆる敵対者が退けられる。命を奪うものではない。神に敵対する者、すなわち己に敵対する者すべてが、悪魔だろうが精霊だろうが騎士だろうが英霊だろうが関係なく、戦力を――一時的にだが――大幅に削がれるのだ。

 

(そして、俺のために首筋を晒す)

 

 風が収まった時、そこに立っているのはゴットフリードただ一人だった。アサシンは体勢を崩して膝をつき、頭を何度も横に振っている。アサシンのマスターも同様だ。彼女の魔術から解放されたヘルメスは、床に倒れ、荒い呼吸を繰り返している。

 ゴットフリードは一瞬、迷った。すなわち――アサシンの首を取るか、それとも離脱を最優先にするか。ただ、迷ったのは本当に、一瞬だけである――長く迷えるほど、戦場は安穏としていない。何より、場が相手にとって有利過ぎるのだ。真正面から宝具を受けたはずのアサシンは、すでにほとんど回復しているようだった。

 

「っ、と、元気だなぁオイ!」

 

 アサシンが投げた釘のようなもの――棒手裏剣――を軽やかに躱し、ゴットフリードはヘルメスを肩に担いだ。

 

「決着はまたいずれ! あばよ!」

 

 そしてそのまま、道場を飛び出した。

 しばらく無心にひた走る。絶対に来ると思っていた追撃が来ない。やや不思議に思えたが、そのミステリーをありがたく享受し、ある程度の距離を稼いだところで、ゴットフリードはようやく詰めていた息を吐いた。無論、走る速度を緩めたりはしないが。

 

(さぁて、主殿のご様子は、っと)

 

 弱ってはいるが息はしている。意識はないが、生きてはいる。そのことに再び、溜め息を漏らす。

 

(ま、死んでちゃ今ここに俺はいられねぇか)

 

 随分と無理をした、と思う。ゴットフリードは魔術に明るくなくとも、戦術には明るい。そして魔術だろうが戦術だろうが、自ら不利に飛び込むことほど愚かなことはないのだ。拠点を攻めるのは確かに定石であるが、難しくもある。こちら側に圧倒的な戦力がない限り、採らない方が良い戦法だ。

 それを分かっていて、ゴットフリードはあえて止めなかった。

 

(……この手の野郎は、言っても聞かねぇからなぁ)

 

 長く伸びた鼻は一度折れなければ元に戻らない。そういうものである。

 

(さて、問題は、主が快復するまでどう凌ぐか、ってことなんだ、が――っ!)

 

 殺気。

 咄嗟に飛び退いたところへ、轟音とともに槍が突き刺さった。コンクリートがめくれ上がる。砂埃が舞い上がり、しかし真夏の夜風に煽られて消え失せる。あるいはそれは殺気立つ青年の眼光に恐れをなしたのかもしれない。

 青年はゆったりとした動作で槍を構え直し、静かに、宣言した。

 

「私はサーヴァント、ランサー。――セイバーよ、構えろ。いざ、尋常に、勝負!」

 

 その真摯な言葉を真正面から受け――ゴットフリードは思い切り、顔を歪めた。

 



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アーチャー 2

「強いものから脱落させていく……それがあなたの方針だったわよね、アーチャー」

「ああ、そうだとも。それがどうかしたかね、マスター君」

「真っ先にライダーを撃ったのが気になるの。どうして彼を狙ったの?」

「――良い質問だ、マスター」

 

 アーチャーはにやりと笑い、教授然として手を叩いた――事実、彼は教授であるのだが。

 

「ライダーがジョン・パーであることはすでに知っていたね」

「ええ」

「では、ジョン・パーがどんな人物であるか、ということは?」

 

 模倣者は無言で首を横に振った。

 

「ジョン・パー。彼は第一次世界大戦において、イギリス軍に所属し、自転車斥候を任務とした一兵卒だ。目立った功績は一つもない。勝敗を分ける重要な任務や作戦に関わったわけでもない。ぶっちゃけ――英霊の座に至るような人物では、ない。彼が成した“業績”と呼べるものはただ一つだけ――何だと思う?」

「見当もつかないわ」

「“誰よりも早く死んだこと”だ」

 

 アーチャーは何てことないようにさらりと言った。

 

「“第一次世界大戦における最初の犠牲者”――それが、彼を規定する最重要事項だ。さて、それをふまえて、君の最初の質問に戻ろう。“なぜ、真っ先にライダーを撃ったのか”――一言で答えるなら、怖かったのだよ」

 

 その言葉を、一瞬聞き間違えたと思って、模倣者は繰り返した。

 

「怖かった?」

 

 聞き間違いではない、と言う代わりに、アーチャーは深く頷く。

 

「ライダーは“戦争の最初の犠牲者”として座に刻まれた存在だ――つまり、裏を返せば、“戦争と名の付くものにおいて、最初の犠牲者は彼でなくてはならない”ということになりかねない。私が取り込んだ“魔弾”と、彼の存在意義に深く根付いている死因――どちらの概念の方が強いか、軽卒に試してみる気にはなれなかったものでね。より確実な方から仕留めさせてもらった」

「なるほど、そういうことだったのね」

 

 模倣者は二、三頷いて、

 

「もう一つ、いいかしら」

「意欲のある生徒は嫌いじゃない――が、マスター君。そろそろ、時間じゃないかね」

「少し早いわ」

「五分前行動はどの業界でも常識だろう? 現場には早めに行っておいて、入念な下見と準備をするべきだ。想定外を出来るだけ排除することが、成功の秘訣さ」

「それは、サーヴァントとしての忠告かしら」

「いや? “教授”としてのアドバイスだヨ」

「それなら、聞かないわけにはいかないわね」

 

 模倣者は肩をすくめて立ち上がった。

 別行動をすることは事前に決めてある。サーヴァントとマスターをそれぞれが確実に仕留め、なおかつ狙撃者の位置を気取られないようにするためだ。単独行動スキルを持つアーチャーならではの戦法。

 着替えてから拠点を出て行った模倣者を、アーチャーはまるで教え子を見るように送り出した。

 

   ☆

 

 セイバーが道場を飛び出した。それを見て、模倣者は合図を出す。

 コンマ一秒以下のラグを開けて、アーチャーの魔弾が放たれた。

 空を横切る、流星が一条――だがそれは凄烈でも精悍でも善良でもない。凄惨で醜悪で邪道な一矢。それはかの英雄のように、戦争を終わらせるためのものではない。むしろ戦争を燃え上がらせるためのもの。

 それは、セイバーを追撃しようとしたアサシンを過たず貫いて、その霊核を破壊した。

 

「アサシン!」

 

 絹を裂くような叫び声を上げて、道場から飛び出してきたのは、まだうら若き少女だ。

 上之宮真琴。齢十七にして、上之宮家の当主の座についた若き才英――その裏には、先代当主である彼女の母の早逝が絡んでいる。さらに言うと、先代の死は真琴によってもたらされたのだが。

 才英に相応しい判断の早さを彼女は見せた。左腕を掲げ、鋭く命ずる。

 

「【令呪を以って命じる】――っ!」

 

 しかしその命令は通らない。通させない。

 彼女は呻き声を上げて地に伏した。――肘から先を唐突に失えば誰だってそうなる。むしろ他の一般人と大きく違い、気絶はおろか、それ以上の醜態を晒しすらしなかったことを賞賛すべきだろう。

 黒い靄が鎌首をもたげ、彼女を包み込む。続けて放った銃弾は、すべてその黒い触手に絡め取られて消失した。

 

(ふぅむ……マズい、かなぁ)

 

 ライフルを構えた女は、牽制射撃を続けながら、のんびりとした調子で思った。彼我の距離は一キロ弱。だがその程度の距離、彼女の魔術なら難なく飛び越えてくるだろうし、あのアサシンなら消えかけでも狙撃者の位置ぐらい容易く割り出してみせるだろう。

 

(「アーチャー、すぐにこちらへ合流!」)

(「任せたまえ」)

 

 アーチャーに指示を出した、次の瞬間。

 スコープの向こうに見えていた黒い靄が、溶けるように消えた。そして、

 

「〔豹変せよ〕」

 

 その囁きは、すぐ背後に迫っていた。

 

「っ!」

 

 咄嗟に窓から身を投げる。落ちていく最中、窓から無数の黒い棘が飛び出てくるのが見えた。あと一瞬でも遅かったら、間違いなく串刺しにされていたことだろう。

 

(あっぶな、本当に怖い魔術だこと!)

 

 上之宮家は神職だ。つまり、穢れを祓い落とすことが本来の役目である。ところが彼らは、維新後の転換を通して、それを逆手に取った。――すなわち、落とした穢れを集めて固め、己の手足としたのだ。それがあの魔術の正体であり、代々の当主を早逝させてきた元凶である。

 他人の穢れを我が身に引き取るのだ。術者自身に大きな負担を強いることは間違いなく。

 またそれが一人だけならばまだ良い。二人目が、それも、生活も血も最も近い家族が術者となり、同じように穢れを飲み込み始めたらどうなるか。

 

(二種類の異なるお守りを近くに置いておくと、神様が喧嘩する、って言うじゃない?)

 

 それと同じことであって。あるいはそれ以上のものであって。

 二つの穢れの固まりが互いに反響し合い、反目し合い――強きが弱きを挫いて――敗者は勝者にこうべを垂れ――やがて、術者ごとその命を食い尽くす。

 

(親を食って、さらに力を蓄える……よく出来てるわ。――でもねぇ)

 

 模倣者は空中で身を捻り、猫のようなしなやかさで着地した。

 その背を追って、影が到来する。それは模倣者のばらまいた銃弾など一切寄せ付けず、模倣者の全力疾走を嘲笑うかのように、人間の知覚を超えた速度で、真っ直ぐに体を貫く。

 直前。

 

「フーゥ、間に合ったァ」

 

 そんな軽薄な声とともに分厚い弾幕が降ってきた。

 閃光。轟音。

 圧倒的な質量をもって降り落ちる銃弾の雨を、“まるで瀑布のようだ”と表現するのは、彼に対する厭味だろうか――そんなことを考えながら、模倣者はそっと溜め息をついた。彼が間に合ってくれなければ危うかったのは確かである。

 弾幕が消えたあとに、影は欠片も残っていなかった。

 

(彼女の魔術は強い。でも歴史が浅く、不安定――呪いを固めている力が弱まったら、その瞬間、術者に翻る。無理やり押し込められた穢れは、反乱の狼煙を待ち構えている。もちろん、そう簡単に削れないのは分かってるわ――人間には、ね)

 

 英霊の攻撃を受けて、彼女の溜め込んできたほとんどの呪いは、彼女自身へと跳ね返っただろう。今頃、あのビルの上階で、もがき苦しんでいるに違いない。

 

「アーチャー、とどめを刺しに行くわよ」

「よろしい。ではレディ、ちょいと失礼」

 

 アーチャーが模倣者をひょいと抱え上げ、地面を蹴った。本当に軽く蹴っただけのように見えるのに、その飛距離はあっさりと家屋を超えた。

 

「腰は平気?」

「平気だとも! マスター君が軽いおかげだ」

「それはどうも」

 

 空きビルの上階、先程まで模倣者が狙撃の拠点としていた場所には、少女が転がっていた。息も絶え絶えで、血の海に沈んでいる。小さな獣に襲われたかのように、全身がくまなく、不自然に食い破られていた――人間のシルエットをかろうじて残しているのが、かえってグロテスクに思えるほど。

 

「一ポンド分くらい取られたのかしら? でもやっぱり、血を一滴も流さずに、っていうのは、難しいみたいね」

「……」

「あら、まだ動けるの」

 

 親指と人差し指の半分しか残されていない手のひらを、血の海の中について、少女はゆっくりと身を起こした。

 

「――、――」

 

 深く俯いた先に落ちるその息遣いが、何かを呟いている。

 まさか呪詛ではないだろう、と高を括りつつも、模倣者はライフルをそっと構えた。

 不意に、少女が顔を上げた。

 

「っ!」

 

 本能的に、模倣者は引き金を引いた。目が合ったのだ――目が、あの漆黒の目が! 深淵の闇を湛える目が、私を見ていた! 肉体も精神も関係なくすべてを無に帰す咆哮を有した怪物の目が、本物も偽物も関係なく巻き込みすべてを消し去る渦が、私を――恐怖に囚われたまま、模倣者は引き金を引く。ろくに狙いもつけていなかったが、この距離だ、まさか外すわけもなく。少女の体がマズルフラッシュの向こうに消えて、引き金の数だけ血飛沫が舞う。

 

「マスター君、マスター君」

「――」

「死人に鞭打つような真似はやめたまえ」

 

 アーチャーがひょいとライフルを取り上げた。それで模倣者ははたと正気に戻り――深呼吸をした。少女はもはや人の形を保っていない。そのことに何よりも安堵を覚える。

 もう、あの目を見なくていい――あの、目を――

 模倣者は眩暈を覚えて、額を押さえた。

 

「どうしたのかね?」

「いえ……いいえ、なんでもないわぁ……」

「顔色が悪い。今日の予定はすべて済んだのだから、すぐに拠点へ戻ろう」

「そう、ねぇ……そうしましょう」

 

 アーチャーが再び彼女を抱え、窓を飛び出した。

 



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第3章
ランサー 4


 アサシンがやられた。

 その様子を遠くから観察していたディオニシオは、髭を剃ったばかりの顎を撫でながら、思案する。

 

(ふむ……やはり、アーチャーは徹底的に潜伏を続け、自分にとって最も都合がよくなるように戦況を操作していくつもりだな。そうなると――)

 

 ――堂々と戦うのは危険。どのタイミングでどこから狙撃されるか、分からない。

 ――後顧の憂いを断つために、出来るならば今すぐ始末しておきたい。が、

 

「ランサー、アーチャーの居場所は分かるか?」

「……いえ。申し訳ありません、マイスター」

 

 リヒトホーフェンは力なく首を振った。

 

「だろうな。まぁ、期待はしていなかったから、いい」

「……」

「それより、あれを見ろ」

 

 ディオニシオが顎で示した先には、マスターを背負ったセイバーがいる。いかに優秀なサーヴァントであろうと、マスターが機能していない状態で、まともに戦えるとは思えない。そして、敵対勢力は削れるときに削っておくべきだ。

 

「好機だ。仕留めろ」

「っ――手負いの、敗残兵を……?」

「そうだ」

 

 ディオニシオには彼が躊躇する理由が分からなかった。何故躊躇う必要がある? 手負いだろうが何だろうが、戦場において“敵”を殺すことに理由は要らないはずだ。最小限の労力で最大級の戦果を挙げる、それは近代的な合理主義の賜物であり、リヒトホーフェンはその時代において期待通りの、いや期待以上の働きをした人物のはず。

 命令には従うもの。敵兵とは殺すもの。その原則を叩き込まれているはずの彼が、何故、言う通りに動かない――?

 ディオニシオはランサーを睨みつけた。

 

「何をもたもたしている。行け!」

 

 一喝すると、リヒトホーフェンはようやく姿を消した。

 

   ☆

 

 屋根を蹴り、宙を蹴り、標的に肉薄する。

 

(迷うな。躊躇うな。命令だ。戦争だ。疑問など、ない。弱った敵を叩くのは定石だ。常識だ。――おかしいのは、私の方だ……!)

 

 本来の自分が召喚されていたなら、こんな迷いなど無かったに違いない。そう思うほどに情けなくなる。腹が立つ。

 もはや気配を消す気にもなれなかった。

 真上から躍りかかる。穂先が揺らいだことには、気付かなかった振りをした。案の定避けられたが、そんなことはどうでもよい。

 ――せめて真正面から戦いたい。そうすれば、自分を納得させられるかもしれない――そう思ったリヒトホーフェンを、一体誰が責められようか。その結果が、セイバーをかつてない窮地に追いやることになるのだが。

 

「私はサーヴァント、ランサー。――セイバーよ、構えろ。いざ、尋常に、勝負!」

 

 言った瞬間、セイバーの顔が大きく歪んだのが見え――その理由を考える前に、臨戦態勢に入っていた体は自然と槍を振るっている。

 セイバーは倒れ込むようにしてそれを避けた。いや、実際、彼は“倒れ込んだ”。膝を突き、呼吸を荒げ、剣に手を伸ばすことすら出来ないでいる。マスターを落とさないようにするので精一杯のように見えた。

 そうやって蹲っている姿は、歳相応の老人である。

 ――兵士ではない。

 リヒトホーフェンの動きが鈍る。払い切れなかった迷いが一気に増幅する。

 

(無抵抗の人間を――殺す――?)

 

 膨れ上がった躊躇が彼の動きにブレーキをかけたがしかし、一度振るい始めた槍はそう簡単に止められるものではなく。また彼自身の真面目な気質が、命令違反を容易には受諾しなかった。内心の葛藤を置き去りに、槍は結果を求めて奔る。

 

「あああああああああっ!」

 

 裂帛の気合、とはとても言い難い叫び声が、槍の軌跡の上に乗っかった。

 何も出来ずにただ蹲るセイバーを、その穂先が貫く――寸前。いや、実を言うと、その一秒ほど前から、情けない悲鳴が頭上から聞こえてきてはいたのだ。かすかに届いていたその声は徐々に大きくなり、そして、

 

「――ぁぁあぁあああああああああーっ!」

 

 リヒトホーフェンの目の前に、人間が落ちてきた。

 

「っ!」

 

 視界が完全に覆われた上、咄嗟にその人間を助けようと動いたせいで、槍の軌道が大幅に逸れた。穂先は、セイバーには掠りもしないで中空を掻く。

 腕に引っ掛けるようにしてどうにか受け止めたその人は、そのままぐったりと俯いている。普通の人間だ。サーヴァントではない。

 

「だ、大丈夫、ですか」

「……ええ、あの……はい……すみませんでした……」

 

 その人は深呼吸をしながら、ゆっくりと地面に足をついて――一旦後ろによろけたが、どうにか持ち直し――それから空を睨み上げた。

 

「キャスター!」

 

 その鋭い叱責に、リヒトホーフェンは彼がマスターであることを悟った。

 

(キャスターの、マスターだったのか……!)

 

 思いもよらぬ展開に、動作が止まったリヒトホーフェンの前で、キャスターのマスターは震える声を気丈に張った。

 

「さ、さ、サーヴァント同士の戦いの、ど真ん中に、僕を放り投げるなんて、い、一体、どういう了見だ! ランサーが受け止めてくれなかったら、どうするつもりだったんだよ!」

「大丈夫よマスター。だってランサーさんなら絶対に受けとめてくれるって、あたしには分かっていたもの。それともなぁに、あたしのことが信じられないっておっしゃりたいわけ? ああ嫌だわ、なんて酷いマスターなのかしら! あたしはこんなにマスターのことを考えて動いているっていうのに! ねぇとっても酷いと思わない、紳士的なランサーさん?」

 

 唐突に話しかけられて、リヒトホーフェンはびくりと肩を震わせ、槍を持ち直した。

 夜の向こう側から、少女が一人、飛び降りてきた。絵本から飛び出してきたかのような格好の少女は、ふわりとそのマスターの前に降り立つと、可憐なお辞儀をした。

 

「こんばんはランサーさん、セイバーさん。今夜もとってもいい夜ね。月があんなに綺麗だわ。月が綺麗だとあたし、とっても嬉しくなっちゃうのよ、お分かりになって? ぴょんぴょん跳ね回りながら夜のお散歩をしたくなるの、ウサギでもないのに! きっとこういうのを“風情がある”って言うのね。軍人さんには難しいかしら、いえそんなことないわよね、軍人さんだって人間だもの、きっと分かっていただけるはずだわ。ねぇそうでしょ? ――あら、もしかしてあたし、喋りすぎかしら? 嫌だわごめんなさい、あたしったらいっつもこうなの。ついついおしゃべりが止まらなくなって、いつまでも本題に入っていけないの、だからあたしが話すと話が進まないってみんなにそう怒られるのよ。でも今夜は月があんなに綺麗なんですもの、舌だって跳ね回りたくなっているんだわ。ね、そう思って許してくださいまし」

 

 目まぐるしいお喋りとはまさにこのことを言うのだろう。少女の圧倒的な喋りは、生前からあまりこの手の女性と――そもそも、母と姉以外の女性と――親しく付き合うということのなかったリヒトホーフェンにとって、思考も行動も停止させるには充分な威力を持ち合わせていた。

 少女はくるくると踊るように回って、セイバーとランサーを交互に見ながら、再び舌を走らせる。

 

「それでね、あたし今日はお願いがあってきたのよ、セイバーさん、ランサーさん。昨日からずっと隠れてあたしたちを狙っているアーチャーさんがいること、お二人もご存知でしょう? このまま放っておいたらきっと、あのアーチャーさんの一人勝ちになってしまうわ。そうなったら嫌でしょう? ええ、きっと嫌に決まってるわ。だってあたしも嫌だもの。答えのないなぞなぞと甘くないお砂糖ぐらい嫌よ。あら、自分で言っててもおかしいわ、甘くないお砂糖ですって! それじゃあただの白い粉だわ、小麦粉と何が違うって言うのかしら! ――あら、あたしったらまた喋りすぎちゃったわね。ごめんあそばせ。本題に入りましょう、ええ、本題に。それでね、あたしたちたぶんアーチャーさんを止めなくちゃいけないと思うのよ。つまり何が言いたいか、って言うと――あたしたち、共同戦線を張りませんこと?」

「共同戦線?」

 

 反問したのはセイバーだ。地に膝をついたままではあったが、蒼白だった顔色はすっかり色を取り戻している。彼は怪訝な顔付きで少女を見上げ、

 

「するってぇとなんだ。この三人でアーチャーを囲んで、叩きのめそうって?」

「嫌だわ“叩きのめす”だなんて! もっと可愛い言葉を使ってくださる? たとえばそうね――」

「回りくどいのは嫌いなんでね」

 

 セイバーはするりと少女の言葉を断ち切った。老練な剣士は早くも、少女の性質と制し方を理解したらしい。

 

「やりてぇことは分かったが、どうやってやるつもりだね? アーチャーは今のところ、影も形もさっぱりだ。そう簡単にはいかねぇだろ」

「ええ、ええ! あなたのおっしゃりたいこと、よく分かります。でもどうかご安心なさって、きっとうまくいくわ。ね、マスター」

「え、あ、うん……」

「もう、しゃっきりなさって! ほら!」

 

 少女に喝を入れられて、彼――とりたてて目立つところのない、地味な男性だ。華も覇気もない、真面目そうな若者――は、慌てて背筋を伸ばした。喉仏が大きく上下する。唾を飲みこんだらしい。それから、リヒトホーフェンの方を見た。

 

「まずは、ランサーのマスター、聞いているだろう」

 

 そう言われても、とリヒトホーフェンが思った瞬間、どこからともなく一匹の鼠が体を駆け上がってきた。肩の上で止まり、鳴きもせず、静かにキャスターたちの方を見やる。

 キャスターが目を輝かせた。

 

「あら、可愛らしい小鼠ちゃん! ねぇマスター、あなたもああいう可愛らしい使い魔をお使いになったらどうかしら? その方が絶対によいと思うのだけれど」

「いや、僕は、生き物とは相性が悪いから……というか少し黙っていてくれ、キャスター」

「はぁーい」

 

 キャスターはぷくりと頬を膨らませて、そっぽを向いた。それを持て余すように、小さな溜め息をついて、キャスターのマスターは仕切り直す。

 

「アーチャーの狙撃は明らかに威力が高すぎる。でも、だからこそ、連発は出来ないんだろう。連発が出来るなら、昨日の時点で君のランサーだってやられていたはずだ」

 

 その指摘に、リヒトホーフェンは思わず槍を握りしめた。返す言葉はない。

 

「つまり、アーチャーの狙撃には何らかの制限がかかっていると見て間違いないと思う。今まで見た感じだと――といっても、二件しか例がないから、確実かと言われたら微妙だけれど……アーチャーの狙撃は、一対一の戦闘に決着が付きそうになった時、勝ちそうな方を撃っている。時間はいずれも、深夜零時過ぎ。そこで――僕らの内二騎で戦う演技をして、アーチャーをおびき出し、狙撃される前に残りの一騎が仕留めに行く――という作戦を、実行したい」

 

 反論や疑問を挟まれるのを恐れたかのように、男はすかさず続けた。

 

「アーチャーの居場所は、マスター三人が全力で探せばどうにかなるだろう。アーチャーが気配遮断スキルを持っているとは思えないし、僕はもともとこの土地に住んでいたから、下準備は済んでいる。絶対に、見つけられる――いや、見つける。令呪を懸けてもいい」

 

 彼ははっきりと断言した。――どれだけ大人しそうに見えても、やはり彼は魔術師なのである。一筋縄ではいかない奇人変人の巣窟で生き抜いてきた、強者(つわもの)なのだ。それを肌で感じて、リヒトホーフェンはぞくりとした。ともすれば己のマスターより、彼の纏う空気の方が、怖い――

 

(「ランサー、話に乗れ。ただし、アーチャーを仕留める役は我々が請け負わせてもらう。それが出来ないなら、この話は無しだ」)

 

 リヒトホーフェンは小さく頷き、槍をしまった。

 

「話は、分かりました。では、アーチャーを仕留める役は、我々にお任せいただきたく」

「あら、それじゃあ、あたしとセイバーさんが一騎打ちの演技をするって言うわけね。いいわ、お芝居は大好きよ。あんなに楽しいもの他にはめったにないわ。セイバーさんはそれでよろしくって?」

「この状況じゃ、嫌とは言えねぇだろ。……ちなみに、作戦決行の日時は?」

「明後日」

 

 キャスターのマスターが即答した。

 

「今から四十八時間後。それまでに、各自で準備をしておく――ということで、どうでしょうか」

「いいだろう。請け負った。では俺はこれで失礼する」

 

 セイバーが頷いて、一足先に消えた。

 リヒトホーフェンの肩から鼠が駆け下りて、闇に消える。

 

「では、私も、これで」

「ランサーさん」

 

 キャスターの少女の小鳥のような声が、ランサーの袖を引いた。

 振り返ると、真っ黒の瞳がじっとリヒトホーフェンを見詰めている。にっこりと笑った彼女は、囀るように言った。

 

「迷うのは若者の特権だわ。恥じることなんてないのよ。でもね、恐れる必要だってないの。だってあなたが英雄になることは、すでに起きてしまった過去なのだから。今更あなたが何をしようと、過去は変わらないわ」

「え……」

「それでは、ごきげんよう」

 

 先程までの威勢のいい喋りを封印して、少女はしおらしくお辞儀をすると、あっさりと踵を返した。

 二人が闇の向こうに消えるまで、リヒトホーフェンは動けなかった。

 夏の夜風が、慣れない湿った空気が、そっと軍服の裾を揺らす。

 



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キャスター 4

 拠点に戻るなり、少女はその姿を溶かして、元の長身の青年に戻った。

 

「会ってみて確信した。セイバーは間違いなく、ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲン――鉄腕のゲッツだ。ランサーはおそらく、レッドバロン、深紅の撃墜王、すなわちマンフレート・フォン・リヒトホーフェンだろう。――おや、どうしたマスター。ひどく疲れ切った顔をしているね」

「当然だ! あんな風に放り投げられるなんて聞いてないぞ、キャスター!」

「直前に言ったじゃないか。“着地はランサーに任せたまえ”と」

「ランサーは“敵”だぞっ? 敵! 分かるか? enemyだ!」

「分かっているとも、君より遥かに深くね」

 

 ホームズは澄ました顔でパイプに火を入れると、ソファにゆったりと腰を沈めた。

 そしてそれ以上、何かを言う気配すら見せない。自分の口から出ていく白い煙を、何の感慨も覚えていない空虚な目で眺めている。

 ワトソンは諦めて、電気ポットのスイッチを入れた。

 

「それで、君のさっきの能力は何だ?」

「さっきの能力? ああ、変装のことか。僕が変装の達人であることは知っているだろう? それの応用にすぎない」

「変装……っていう域を超えていたような気がするけれど」

「エピソードは盛られていくものさ。サーヴァントになったことで、さらに強化されたようでね」

「それじゃあ――」

 

 と言いさして、ワトソンは口をつぐんだ。時間にして一秒以下。並の人間ならば間違いなく見過ごすであろうそのわずかな逡巡を、ホームズの鋭い目は射貫いていた。

 

「――どうして今まで、僕に言わなかったんだ? それを知っていれば、もう少し何か、違う作戦を立てられたかもしれないのに」

 

 ホームズは面白そうに目を細めた。そして表情とは裏腹に、冷たい口調で、

 

「言う必要性を感じなかったからさ」

 

 と吐き捨てるように言った。

 

「そんなことより、今後の話を詰めておこう。予定通り、セイバーとランサーはこちらの話に乗っかった。ランサーはおそらく、魔弾が放たれるのを待ってからアーチャーの討伐にかかるだろうが、それは些末な問題だ。君にはすでに言ったが、アーチャーは常に勝者を狙っている。当然なのだがね。残すべきなのはより弱い方、そうでなければ、狙撃手としての優位性が意味をなさない。故に、撃つとしたら僕ではなくセイバーだろう。……もう一つ仕組んでおいたことが功を奏せば、それもまた変わるのだけれど」

「仕組んでおいたこと?」

「少しランサーの背を押してみただけさ。それは、まぁ、上手くいこうがいくまいがどうでもいい。大勢に影響はない。――何より気にかかるのは、アーチャーだ」

 

 ホームズはパイプを口から外して、立ち上がった。どこへともなく、歩き始める。誘蛾灯につられた蛾のように、ソファを中心にぐるぐると回る。

 

「奴は一体何者だ? 現場を見ても、攻撃を見ても、分かることが何一つとして無い――そんなことありうるのか? あまりにも情報がなさすぎる。用意周到で慎重で、ほんのわずかな慢心も油断も許していない。手掛かりを求めることすら良しとしないなんて……まるで――」

 

 その足を唐突にぴたりと止めて、

 

「――まるで、我が宿敵のようだ」

 

 そう言ったホームズの顔は、今までに見たことのない険しさを湛えていた。

 

「無論、あの男である可能性はほぼ無いに等しいけれどね。アーチャー適性があるとは考えにくい――奴が何か、あるいはこの聖杯戦争を企画した人間が、何か特別なことを仕組んだならば、話は別だが」

「……」

「アーチャーの正体はいずれ突き止めるとして、だ。現段階で分かっていることを突き合わせた結果、確実だと断言できることが一つだけある」

「それは?」

 

 先を促したワトソンに、ホームズはもったいぶるような間を置いて、言った。

 

「――たとえすべての事が上手く運んだとしても、僕はアーチャーに勝てない、ということだ」

「っ――」

 

 ワトソンが息を呑む。彼の右手が胸元を押さえ、強く握りしめた。

 ホームズは再びソファに体を預け、淡々と言葉を紡ぐ。

 

「それは厳然たる事実だ。僕は、あの狙撃を回避する技も防御する技も持っていない。たとえばあれを一撃受け、君が令呪を切って僕の霊基を修復したとする。しかしそれでも、アーチャーの方もまた令呪を用いれば、すぐに第二射を放つだろう。そうすれば、その段階でもうおしまいだ。僕には、何も出来ない――」

「……向こうの令呪のストックを、削らなければならないんだね」

「そういうことになるね。だが、容易に出来ることではない」

「……」

 

 沈黙。

 死んだ海の底のような停滞した空気。

 その水圧に抵抗するように、ホームズがゆっくりと立ち上がる。

 

「ともあれ、今は明後日のために、万全の状態にしておくべきだ。僕も、いくつか考えをまとめたい。――少し、外に出てくるよ」

 

 一方的にそう言い残して、ホームズは姿を消した。

 海の底にぽつりと、男が置き去りにされる。彼はしばらくの間、手の中のティーカップを撫でていたが、やがて、それを棚の中に戻すと。

 静かに、ゆっくりと泳ぎ出した。

 



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バーサーカー 4

 目を覚ますと、いつになく澄みきった青空が、窓の代わりに残してある穴の向こうに見えた。空が綺麗なのか、空気が良いのか、それとも自分の目の調子がいいのか、青空は一点の曇りもなく透き通っている。

 李徴が開けた大穴は、そのままにされている。直そうにもどこに頼めばいいか分からないし、そんなお金もないからだ。仕方なく、段ボールを貼り付けて応急処置としていた。

 

(今が夏で良かった……)

 

 冬だったら耐えられなかったに違いない。この辺りは賎畿市の中でも北の方で、比較的寒い部類に入る。

 

(……いや、冬でも、李徴に助けてもらえたかな)

 

 昨日触れた虎の毛並みの柔らかさと、温かさを思い出す。彼がいれば、冬でもきっと問題なく過ごせただろう。

 のそのそとベッドから下りて、着替えをして、もう一度ベッドに寝転がる。

 スマートフォンを開いて、検索をかけた。『聖杯』『聖杯戦争』『サーヴァント』――なんとなく予期してはいたが、一般的な用法以外にはゲームの攻略情報しか出てこない。

 

(聖杯――キリストの血を受けた杯――聖杯伝説――あらゆる傷を癒す魔法の杯――騎士道文学――アーサー王伝説――)

 

 自身が今置かれている状況の助けになりそうな情報は一つもない。

 

(よく分からないけれど……)

 

 教会で知った話を思い返す。あれによれば、自分の他にあと六組の参加者がいて、その六組すべてのサーヴァントを消滅させれば、聖杯を手に入れることが出来る、ということだったはずだ。

 

(上之宮さん以外に、あと五人――)

 

 一体どんな人たちが参加しているのだろうか。

 その人たちはどこで何をしているのだろうか。

 どうやって見つけ出して、どうやって戦えばいいのだろうか――

 

(……見当もつかないや)

 

 晶は両手を投げ出し、天井を眺めた。

 上之宮さんに聞きに行こうか――などと一瞬だけ考えて、すぐにその考えを打ち消す。昨日の今日で、彼女を頼るなんてこと出来るわけがない。そもそも、彼女は敵だし――出来るだけ、近付きたくない相手でもある。

 五年前のあの日、晶の世界は一変した――夢うつつの中で、弟の泣き叫ぶ声が聞こえる。化け物が弟を食っている。そして少し離れたところに、無表情で立っている上之宮真琴の姿がある。彼女は何をするわけでもなく、ただ静かに、弟の声が消えてゆくのを見守っていた――あの事件が、彼女の手によって引き起こされたものなのか、晶は確認できなかった。何が起きたのか、詳細を聞く勇気はついぞ出なかった。

 

(聞かなきゃ、いけないかもしれない)

 

 いつかは、いつかは――と思いながら、ずっと先送りにしてきたが。

 ついに向き合うべき時が来たのだろう、たぶん。

 

(……でも、今日は……)

 

 晶はベッドの上に蹲った。

 結局先延ばしにしてしまう自分の性質を情けないとも思うが、生まれてこの方ずっとこうなのだ。特にここ五年は、家からほとんど出ていない。昨日は特例中の特例だったのだ。

 

(……明日にしよう。明日に)

 

 そう決めて、目を閉じた。

 その時。

 

 ピンポーン

 

「――……え?」

 

 晶は目を見開いた。

 うちのインターフォンが鳴ったのなど、いつ以来だろう。あまりに久々過ぎて、器械の方も音の出し方を忘れていたらしい。ひび割れた音をしていた。

 

(宅配……は頼んでないし。来客なんてありえない)

 

 母親は下の階にいるが、出るとは思えない。

 再び、電子音が響く。

 晶は何か嫌な予感がして、全身を固めた。動こうという気になれない。動きたくもない。なんだか、ひどく、ひどく悪い気分になる。

 絶対に出ない、と決めた瞬間、玄関の戸が開かれる音が聞こえた。

 晶は跳ねるように起き上がった。

 

「李徴」

 

 小さく呼ぶと、虎はその姿を現して、晶の足元にすり寄った。それから、湿った鼻を二、三度うごめかして、

 

『呪術のにおいだ』

「やっぱり……」

 

 嫌な予感とはこのことだったのだろう。李徴が来た最初の夜、誰とも知らぬ人間に襲われたことを思い出す。今思えば、あれも聖杯戦争に参加している人間だったのだろう。上之宮真琴と同じ世界に生きる、同じ人種の人間。

 つまり、敵。

 控えめな足音が階段を上ってくる。

 李徴が全身を伸ばし、毛を逆立てる。

 晶は奥歯を噛み締め、震えそうになる膝を手で押さえた。心の中では、李徴がいるから大丈夫、李徴がいるから大丈夫、と念仏のように唱えている。虎の威を借る狐でもなんでも良かった。虎の威を借りてでも、変わってしまった世界を元に戻せるならば、それでいい――そのためなら――李徴に、人を殺せ、と命じることも――

 そこまで考えてぞっとした。

 

(殺す? 人を? 殺させる? ――李徴に? それじゃ、それじゃあまるで――)

 

 ――弟を殺した化け物みたいじゃないか――

 扉が開けられた。

 

『貴様、何奴!』

「戦う意思はない」

 

 両手を目の高さにまで上げながら、その男は扉の外で立ち止まった。中に入ってくる様子はない。どうやら本当に、戦うつもりはないようだった。

 普通の男性だ。自然な色合いの茶髪は、今どき日本人でもよく見られる。ただ、自然な緑色の瞳は、カラーコンタクトとはとても思えない。

 

(外国人……?)

「上之宮家から届け物があって来ただけだ。ここに置いておく」

 

 一方的にそう言って、男は分厚いファイルを足元に置き、あっさりと背を向けた。

 

「え、あ、あのっ!」

 

 晶は思わず声を上げた。が、その人はちらりとも振り返らず、出て行ってしまった。

 白昼夢だったのかもしれない、と思った。特異な状況に巻き込まれた脳味噌が見せた、幻覚のようなもの。そう思ってしまうほど拍子抜けな、襲撃とも呼べぬ襲撃。

 ――幻覚でない証拠に、廊下には黒いファイルが残されている。

 においを嗅いだ李徴が、『呪の類は掛けられておらぬようだ』と言って、晶を振り返った。

 晶は唾を飲み込み、それに近付いた。――嫌な予感が消えない。襲撃は終わったはずだ。なのに、気分が悪い。気持ちが沈んだままだ――持ち上げる気にはなれず、床に置いたまま、それを開く。

 一瞬、脳が理解するのを拒否した。

 

「――……僕……?」

 

 目を疑った。信じられない。何故、どうして、何のために――

 ――()()()()()()()()()()()()……?

 入っていたのは、小学生の頃から今までの晶の姿を写した写真。一年生の頃から、ずっと、ずっと――つい一週間前の自分まで。何十枚もの写真が入ったクリアファイルがしばらく続き、それが唐突に、文書に変わった。

 

「遠藤、晶――継続監視対象者――危険度、S――特殊霊媒体質――」

 

 書かれていることのほとんどは理解が出来なかった。出来なかったが、最後の一部分だけは分かった。分かってしまった。

 

「――……二〇一五年、暴走……弟、明を……」

 

 強い吐き気に襲われる。眩暈がする。鼓動が跳ねる。床が揺れる、輪郭がぼやける、世界が崩壊する――いや、崩壊はとっくにしていたのだ。とうの昔に壊されていたのだ。己の手によって!

 不鮮明だった記憶がはっきりとした形をもって蘇った。そうだ、冷静に考えてみれば、何もかもがおかしかったのだ。何故あの時、自分は生き残った? 何故化け物に襲われたのは弟だったのか? 弟の最も近くにいた自分が、最も近くで()()していた自分が、何の被害も受けなかったのだ?

 

 ――何故自分は、あの化け物の姿を覚えていない――?

 

「あ……あ、あ……」

『袁傪――?』

「あああああああああああああああああっ!」

 

 その場にくずおれた晶へ、李徴がすり寄る。声も、温もりも、届かないと知らずに、李徴はその耳に鼻を寄せる。

 

『袁傪、故人(とも)よ、どうした。何があった。大丈夫か。(おれ)に、何か出来ることはあるか。それとも、己は此処に居ない方がよいか、袁傪――?』

 



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セイバー 5

 ヘルメスが目を覚ました時にはすでに、日は暮れていた。山の向こう側に、橙色の光が僅かに残っている。ヘルメスはそれをぼんやりと眺め、紺色に塗り潰されるまでの時間を数えながら、じっと考えていた。

 自分の身に何が起きたのか――しばらくの間、記憶が混濁していた。が、やがて、絡まったコードがほぐれていくように、明瞭になっていく。

 すべて思い出した途端、どうしようもない衝動が腹の底から沸き上がってきた。

 

「う――がああああっ! あっ! ぐ、うぅ……」

 

 暴れようとして右肩の痛みに気が付き、浮かせかけた背がベッドに落ちる。

 ふと、ゴットフリードが空気の中から現れた。

 

「おう、お目覚めか、主」

「セイバー……」

「まぁ無茶だったな。命があっただけ儲けもんだろ」

「なっ……お、お前……――」

 

 ヘルメスはわなわなと震えながら、自身のサーヴァントを指差した。

 

「――お前が! お前のせいだろう!」

「俺?」

「そうだ! 最優のセイバーともあろう者が、アサシンごときに遅れをとるだなんて、何をしていたんだ!」

「はっはっは、そいつぁ責任転嫁ってやつだぜ主殿」

 

 ゴットフリードは窓枠に腰掛け、からからと笑った。ヘルメスの怒りなど歯牙にもかけていない。

 

「サーヴァントの強さってのは、マスターによるところが大きいんだろう? 俺がアサシンと互角だったってことは、向こうのマスターが優秀だったってことなんじゃあないのか?」

「っ……そ、そんなわけあるか! あんな、あんな小娘が……!」

「その小娘に、殺される一歩手前までいってたな」

「――っ、そ、それは! それは、あそこが……相手の工房だったから……」

「そこに突っ込もうって言い出したのが誰か、忘れたわけじゃあねぇだろう」

 

 ヘルメスが投げた枕はひょいと躱され、窓に当たって床に落ちた。

 

「お前は一体誰の味方だっ!」

「そりゃあもちろん、主殿の味方さ。あんたに死なれちゃ俺もおしまいだからな」

「……」

「だから、あんたがおねんねしてる間に、ちょっとした約定を交わしちまったよ」

「約定?」

 

 ゴットフリードは、キャスターから持ちかけられた共同戦線について、包み隠さず話した。

 それを聞いている内に、ヘルメスの眉間の皺が、どんどん、どんどん深くなっていく。

 話が終わった時には、その深さたるやマリアナ海峡に匹敵すると思われるほどになっていた。あまりに深く刻まれすぎた皺は、彼自身が指先でほぐしてもほぐしきれずにいる。

 

「――それで、承諾した、と?」

「ああ、そうだ」

「馬鹿かお前はっ!」

 

 ヘルメスは反射的に吠えてしまってから、痛んだ肩に呻き声を上げた。

 ゴットフリードは不満げに顔を歪める。

 

「断ったらあの場で袋叩きに遭ってたぜ。それでも良かったって言うのかよ」

「そうじゃない! そうじゃないが――せめて、アーチャーを仕留める役はお前が買って出るべきだっただろう!」

「そんなことランサーが許すかよ」

「分かってるのか? たとえ首尾よくアーチャーの潜伏先を見つけられたとしても、だ――絶対、絶対に、ランサーは、狙撃されるのを待ってから襲撃するぞ! そうすれば、一度に二騎を脱落させることが出来るからな!」

「そうそう、そうなんだ」

「何を呑気なことを――」

「提案した張本人が、それに気付いていないと思うか?」

「――」

「ランサーがとどめ役をやると言った時、キャスターは一言も反論しなかった。自分が危険になり、ランサーが優位に立つと分かっているはずなのに、だ……どうしてだと思う?」

 

 ヘルメスの眉間の皺が、再び深まった。

 

「……なにか、対策がある?」

「まぁ、普通に考えたら、そうだろうな」

 

 神妙な顔をしてゴットフリードが頷く。

 

「ふぅん……キャスターとそのマスターは、どんな連中だった?」

「キャスターは女のガキだ。よく喋るこまっしゃくれたクソガキで、面倒くさそうな奴だったぜ。そのマスターは、陰気で根暗な感じの、大人しそうな――キレたら何するか分からねぇような感じの男だった」

「ああ、よくいる典型的な魔術師だな」

 

 平然とそう言われて、ゴットフリードは――やっぱり魔術なんてもんに関わる奴はろくな奴じゃねぇな――と思ったが、「そうですかい」と従順な相づちを打った。

 ヘルメスは思案に沈んだ。

 キャスターの目的はなんだ? 対策とはなんだ? 女のガキ、よくしゃべる、そんな英霊がいるか? マスターの方の特定は現段階では不可能だ、顔を合わせればあるいは?

 ――約定を守って、何かメリットはあるか?

 ――いや、ない。

 

「セイバー」

「おう、なんだ」

「芝居の振りをして、キャスターを仕留めろ」

 

 そう言ったヘルメスの目が、鋭く尖っている。今度こそ見られた。琥珀色の狼の目。

 

(こういうところは、嫌いじゃねぇんだけどなぁ)

 

 ゴットフリードはにやりと笑った。

 

「承知した、主。――必ず、仕留めてみせよう」

 



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バーサーカー 5

※グロ注意




 

 思い出の中の彼女は、いつも仏頂面をしていた。晶にだけ特別、ではなく、誰に対しても同じように。それが、誰からも嫌われて爪弾きにされていた晶にとっては、ある種の救いのように思えることもあった。

 

 ――上之宮真琴。

 

 先生の都合で午後から学校が休みになり喝采が上がった時も、教室の中に蜂が入ってきてクラス中が半狂乱になった時も、ただ黙って、伏し目がちに座っている子だった。

 呪い屋の子供、などと呼ばれて遠巻きにされていたが、ただ遠巻きにされるだけで、晶とは違い、直接手出しされている様子はなかった。皆、呪われるのを怖がっていたのだ。

 当の本人は飄々としたもので、仲間外れにされるのが“むしろ静かでいい”とでも思っているかのようだった。その超越した態度は、先生が話しかけるタイミングすら奪い去っていた。

 

 ――この世界を正しく生きているのは私だけ――

 

 そんな声が聞こえてきそうなほど、超然とした佇まい。

 晶はその彼女を、遠くから眺めていたのだ――限りない憧憬と、絶大な尊敬を込めた眼差しで。

 

 晶は小さい頃から、不可思議なものをよく見てきた。

 人間のような目を六つ付けてケタケタと笑うサル。蜘蛛の足のムカデ。足とくちばしがそれぞれ二つに分かれたカラス。そういう形あるものから、靄の固まりや独立する影といった形の定まらないものまで。

 それらの中には、こちらに一切関心を向けないモノもいれば、好んで襲い掛かってくるモノも、不気味な目でじっと凝視してくるだけのモノいた。

 相手の態度に関わらず、晶はただ怯え、見ないふりをするだけだった。

 相手の態度に関わらず――上之宮真琴はそのすべてを素手で掴み、握り潰した。

 彼女は何も言わず、淡々とそれらを処理した。晶も、何も分からないなりに、それらに関して触れてはならないのだという空気を感じて、見ないふりを続けた。

 ――ただ、一度だけ。

 晶は彼女に尋ねられたことがある。

 

「怖くない?」

 

 彼女から話しかけられたことのなかった晶は、非常に戸惑った。それで、取り除かれている目的語が何であるのか――たぶんあの化け物たちのことだろう、と――ろくに考えもせず答えたのだ。

 

「こ、怖い……」

「……そう」

 

 小さな相槌が、少しだけ沈んでいるように思えて、晶は慌てて言葉を繋いだ。

 

「で、も、その――」

 

 上之宮さんが助けてくれるおかげでいつも助かっているよ、とか、上之宮さんがいるから今はそんなに怖くないんだよ、とか、そんな気の利いた言葉を出せるような少年だったら、おそらくいじめられることも無かったに違いない。

 

「――その……」

 

 迷った挙句に、晶は何と答えたのだったか。

 自分自身が放った言葉の中身は、覚えていない。けれど――

 

「……そう」

 

 ――いつものように、まったく感情を見せない声で頷いた彼女と、初めて目が合ったことだけは、よく覚えているのだ。

 あの黒曜石の瞳。

 

   ☆

 

 どれだけ長くの時間そこに蹲っていただろう。

 

『――袁傪……?』

 

 晶がのろのろと起き上がった時には、夜はすっかり深まっていた。冷たい、寒い、とても夏とは思えない夜。電灯をひとつも点けていない屋内は闇に沈み、空気を一層底冷えさせている。

 晶の吐いた息は白く凍った。震えが止まらない――しかしそれがまったく気にならない。

 ゆっくりと階段を降りていく。その後ろを、心配そうに尻尾を垂らしながら、李徴がついていく。

 階段を降りきると、女性のか細い悲鳴が途切れ途切れに聞こえた。母親の声だ。日がな一日、台所のテーブルに座ってぼんやりと宙を見ている母。その声を聞いたのは何年ぶりだろうか。

 ちらりとそちらを覗くと、頭に纏わりついてくる羽虫を追い払うように、手をめったやたらに振り回している影が見えた。

 晶は引き攣った笑みを浮かべた。

 

「大丈夫だよ、母さん……これで、全部、終わるから……」

 

 玄関を開けて、外に出る。熱帯夜の温風が吹き付けてきたが、それも晶の手足を温めるほど強くはなかった。

 吐息は白く、白く凍る。

 

 

 

 晶の家から上之宮家まではそれなりの距離があったのだが、晶はそれをまったく気にせずに歩き切った。震えは一層ひどくなり、顔色も唇も真っ青になっている。

 

(僕は、退治されなくてはならない――怪物なのだから――殺されなくてはならない――上之宮さんに――殺されなくちゃならない――化け物なのだから――殺されないと――殺されないと――殺されないと――殺されないと――)

 

 上之宮家はしんと静まり返っていた。こんな夜中だ、当然のことである。

 しかし、晶は気にすることなく、門を押し開けようと手を伸ばした――

 ――その時だった。

 

『血のにおいだ』

 

 それまで沈黙を守っていた李徴が、不意に現れた。

 

『血のにおいがするぞ! オォ、オォォオオオオオオオオォッ!』

 

 びりびりと空気を震わせるほどの大声で、虎が咆哮する。そして次の瞬間、晶の体を鼻で押し上げて器用に背に乗せたと思うと、宙を疾走した。

 何が起きたか分からないまま、晶は李徴の背にしがみついて、目を瞑る。

 李徴は思いの外、すぐに止まった。

 急停止された拍子に、晶はその背から転がり落ちた。そろそろと目を開けると、そこはビルの一室のようだった。“ようだった”と不確定なことを思ったのは、晶が世間知らずだったからではない。世間知らずな晶ですら不審に思うほど、月明かりに照らし出されたその一室は――窓が破壊され、床一面に血がこびりついているという――異様な荒れ方をしていたのだ。

 李徴がその血の跡に鼻を突っ込み、執拗に嗅ぎ回っている。

 

『煙――鉄――そして血だ! 血だ! これは――人間の血だ――あの女のにおいだ!』

「……あの、女……?」

『然り! あの女呪術師だ! 間違いない――間違いないぞ! オォ、オオオオオオオ!』

 

 そう言いながら顔を上げた李徴の鼻先に、髪の毛がくっ付いていた。黒くて長い――いや、長かったのであろう、髪。美しかったはずの髪。無残に千切れ、血で汚れ、醜く固まっている髪。――上之宮真琴の、髪。

 李徴は猛り狂ったように何度も吠えて、再び血だまりを嗅ぎ出した。

 そして――ゴリ、ガリ、と――骨を噛み砕くような音が、静寂の中に響く。

 

「あ……あ、あ……――」

 

 李徴が何をしているのか、正しく理解した瞬間、晶は胃からせり上がってくるものを感じて膝をついた。激しくえずいたが、吐き出すものなど何も無い。ただ薄く黄色がかった、酸っぱいにおいのする、粘性のある液体が、唇の端と床とを繋いだだけだった。

 

「――や、やめろ、李徴……」

 

 ガリ、ガチ、バキ――

 

「やめてくれ……」

 

 ――ゴリ、ガリガリ、ボキ――

 

「やめろおっ!」

 

 叫んだ瞬間、心臓が大きく脈打ち、右手の紋様が赤い光を放った。その紋様へ向かって、体中の血が、力が、一気呵成に集中し――

 ――びくり、と全身を震わせて、李徴が動きを止めた。なにか大きな力に、無理やり意思を捻じ曲げられたかのような、ぎこちない挙動だった。

 ゆったりと、李徴がこちらを振り返った。狂気に血走った眼は、どこか恨みがましさを湛えている。かすかな唸り声をもらした口の端から、髪が数本、垂れていた。

 怪物だ。化け物だ。――だが、それは自分も同じだ。

 晶は、自分でも驚くほど静かな声で言った。

 

「――……李徴」

『……』

「【令呪を以って命じる――上之宮真琴を殺した奴を、殺せ】」

 

 再び、赤い光が二人の間に瞬いた。

 



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アーチャー 3

 賎畿市の北。市街地を一望できる高台の上。やはり今夜は誰も衝突しないか、予想通りだな――などと考えながら、アーチャーは町を見下ろしている。

 すでにライダーとアサシンが脱落した。バーサーカーのマスターと思われる少年が家を出ていったのを確認したが、彼はアサシン以外の居場所を知らないだろう。であれば、行き先は上之宮家で、サーヴァントもマスターもいなくなった今、戦闘は起こりえない。

 

(さァて、そろそろ、私の企みもバレてきている頃だろうからネェ……)

 

 どれほど凡愚な連中が揃っていたとしても、安全圏から一方的に撃って勝ち星を挙げながら、一切姿を現さない狙撃手の存在を、黙認するほど馬鹿ではないだろう。だが、その方が都合が良い。

 

(中途半端に賢い人間が、一番御しやすい。――私が恐れるとするならば、かの探偵のような飛び抜けた天才か――あるいは、想像も出来ない愚者か)

 

 より恐ろしいのは愚者の方だ。脳ある賢人なら、出し抜くか出し抜かれるか、いずれにせよ頭脳戦が出来る。しかし愚者はそうはいかない。それは、迂闊に計算式に放り込もうものなら、どんなに美しい解が用意されていようともお構いなしに破壊しつくしてしまう。数学記号が入らなければならないところに、無理やり漢字を詰め込んでくるような、そんな暴力的で非論理的な存在だ。

 

(それになりそうなのは、バーサーカーだが……いかんせん、存在が不明瞭だ。なんとも……ふむ……勘で語るのは嫌いなのだが――彼は、私と似た存在のような気がする。……ま、今気にすべきは、そちらではないか)

 

 アーチャーは自分のマスターの様子を窺って、こっそりと肩をすくめた。

 マスターは地面の上に体育座りをして、ほんのわずかな異変すら見逃すまいとばかりに、市街を凝視している。そのくせ、目には光がないのだ。これでは見つけられるものも見つけられないだろう。

 昨日からずっとこの調子なのだ――正確には、昨夜アサシンのマスターと戦った時から、ずっと虚ろな目をしている。

 

(このままでは、少ぉし厳しいな……ま、()()()()()ということは、明白なんだが、ね――)

 

 だから彼女にはすべてを話していないのだ――と、アーチャーは凶悪に笑んだ。話さないでいることが、吉と出るか凶と出るかは分からない。この分では凶と出そうだが、それならそれで、なんの悔いもない。どうせすべては一夜の夢であるし、この件は最初から自分の手の外を転がっているのだから――不意にアーチャーは考えるのをやめた。

 矢のような、いや弾丸のような黒い影が、真っ直ぐにこちらへ向かってきている。

 

「マスター!」

「えっ、何――」

『オォォォオオオオオオオオオオオオッ!』

 

 マスターを抱きかかえて横に跳ぶ。

 外套の裾が持っていかれた。それぐらいで済んで僥倖と言うべきかもしれない。荒々しい咆哮とともに突っ込んできたその影は、勢いそのままにアーチャーたちの背後の木々をなぎ倒し、十数メートルをはげ山にして、ようやく止まった。

 

「アーチャー!」

「準備運動をしている暇はなさそうだね!」

 

 銃を内蔵した大きな棺桶を構え、襲撃者に向き合う。

 

「おや、バーサーカーか」

 

 現れたのは大きな虎だ。その背に小さな人間がしがみついているのが見えた。

 

(あれがマスターか。しかし――どうも様子がおかしいネ!)

 

 バーサーカーが脇目もふらずに飛びかかってきた。バーサーカーにマスターを気遣う様子は一切なく、人の子を超人の戦闘にそのまま巻き込んでいる。試しにマスター目がけて撃ってみたが、バーサーカーはこれといって特別な反応も見せなかった。

 明らかに、おかしい。それだけ狂化が進行しているということかもしれないが、それならマスターの方が相応の対処をするべきだ。が、彼は虎の背にしがみついたまま、じっとしている。途轍もない、人間には耐えきれないスピードで戦闘を行なっているのだ、声が出せないのはまだ分かる。が、銃弾が手足を掠めても、横ざまに転倒しても、顔あげることすらしないというのは異様だ。

 

(というか……なぜ、振り落とされないでいられる?)

 

 普通の人間の腕力だったらとっくに落とされているはずだ。それなのに、何故――

 

「んんっ」

 

 棺桶を盾に、飛びかかってきたのを防ぐ。が、膂力に負けて体勢が崩れた。

 

(ミスった――)

 

 虎の牙が、脇腹に食い込んだ。

 

「ぐぅっ、んっ」

 

 そのまま頭を振られて、決して小柄ではないアーチャーの体が宙に浮いた。牙がさらに深く、さらに強く突き刺さり、ぎちぎちと音を立てて肉が裂ける。食い破られる。

 アーチャーは片手で虎の首根っこを掴み、

 

「ふんっ!」

 

 棺桶と繋がっている鎖を思いきり引いた。

 大きな楕円を描いて、棺桶を真上から落とす。狙いは虎――の背にいる、マスターの頭。

 

(――ジャスト!)

 

 棺桶の底が彼の後頭部に直撃した。と同時に砲撃。棺桶の上部から放たれた追尾式の弾丸が、一旦空に舞い上がってから一斉に降り落ちてくる。

 

『グガッ、ガァァアアアアッ!』

 

 衝撃で牙が外れる。肉の一部はそのまま持っていかれたが、致命傷には至っていない。爆風に紛れて後退する。仕留めた――という手応えはあったものの、構えは解かなかった。油断してはならない、と本能に近い部分が警告音を鳴らしている。

 

「っ、やはりか!」

 

 土煙の中から、ほとんど傷を負っていない虎が飛び出てきた。振り下ろされた爪を紙一重のところで躱す。

 

「一斉掃射!」

 

 放った弾丸はすべて虎に命中する。が、まったくダメージが入っていない。いや――違う。弾丸は間違いなく虎の毛皮を削り、肉を削っている。それが、瞬きの間に、すぐ治っているのだ。何かがおかしい――何かが。何か、どこかに違和感がある。果たして――

 ――アーチャーは、それに気が付いた。

 バーサーカーのマスター。かの少年は、虎にしがみついてなどいない。

 ()()()()()()()()()()

 ぞくり、と背筋が凍った。

 

「魔弾装填! 真名封鎖――疑似宝具展開!」

 

 高く跳び上がったのは虎の牙を避けるためであり、宝具を展開するためでもあった。

 夜が縮こまった。青い蝶がどこからともなくふわふわと漂い出てくる。ほの白い月光を浴びて、青く輝く鱗粉を振り撒く、蝶。幻想的な光景――それを壊すように、銃撃が始まる。徹底的で圧倒的な、不可避の弾幕。先程の銃撃とは比べ物にならない規模で、土煙が濛々と立ち上る。それを突っ切って相手に肉薄したのは、それまでと逆、アーチャーの方。

 銃口を虎の眉間に突き付ける。

 

「――世界は、破滅に満ちている」

 

 ひときわ大きな発射音とともに、魔弾が放たれた。

 それは、アーチャーが取り込んだ幻霊『魔弾の射手』の能力。射手が望むものを必ず貫くという、悪魔の弾。

 

『ォォォオアアアアアアアアアァァァ……ァ……』

 

 霊核を砕かれた虎が、金色の光になって消えていく。

 

『えん、さん……我が、とも、よ……』

 

 アーチャーは片眉を吊り上げた。――ホウ! えんさん、虎……そうか、この虎は李徴か! 道理で、同じにおいがしたわけだ……ある意味、“同郷”と言えなくもないのだからネ。……しかし、あのマスター……虎に、埋まっているとは……?

 アーチャーが改めて疑問に思った、その時だった。

 

『……李徴、ごめんね』

 

 虎から、別の人間の声がして――消滅が、止まった。

 

『僕は、袁傪じゃない……僕は、どちらかというと、李徴、君の方の人間だ……――化け物なんだよ』

「――ッ!」

 

 周囲の空気が揺らいだ。異様な質の魔力が、虎――いや、もはや()()は虎の形を保っていなかった。輪郭は既に崩れている。ただの影の固まり。蠕動する触手の束。それを中心に――集束する。

 

『グォ、オオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーッ!』

「おやおやおやおや……コイツは――」

 

 アーチャーの頬に一筋の汗が伝った。

 

(冷や汗を掻くなんて、一体いつ以来だろうネェ……)

 

 周囲の悪霊や怨霊を際限なく、容赦なく呼び寄せ、片っ端から取り込んでいった怪物の集合体が、彼の前に立っている。

 柱のようにそびえ立つ、高濃度の魔力の凝縮体。

 ぎょろり、とその全身が瞼を開いた。その目線に、再び肝が縮み上がる。咄嗟に飛び退いたところに、レーザービームが大穴を開け、そこがさらに爆発した。

 アーチャーは柄にもなく大声を張り上げた。

 

「マスター! 令呪を切りたまえ!」

「えっ?」

「コイツは無理だ! ()()()()()()()()()!」

「――わかったわ」

 

 赤い光が、夜闇を切り裂く。

 

「【令呪を以って命ずる――アーチャー、魔弾を用いてあの化け物を打ち倒しなさい】!」

「魔弾装填――真名封鎖、疑似宝具展開!」

『オ、オオオ、オオ、オオオオオオオオオオ――!』

 

 力が、激突する。

 



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第4章
キャスター 5


 

 いや、狭い部屋に籠るのは嫌いじゃないのだ。たとえそれが地下空間になろうが、大差はない。嫌いであったら、おそらく魔術師になどなれなかっただろう。

 

(ああ……息が詰まる)

 

 ワトソンはティーバッグの紐をゆっくりと引きながら、ぼんやりと考えを巡らせていた。目線の先では、時計の針が勤勉に時を刻んでいる。考えなければならないことは山ほどある。が、そのどれもが漠然とした不安()に覆われていて、解を得られないでいた。

 毎日のように外を出歩いていたキャスターは今、霊体化して室内にいる。数時間後に控えている大一番のためかもしれないが――それにしても――まるで、調べ物はすべて終わったのだ、といわんばかりに。

 

(――息が詰まる)

 

 ティーバッグをカップから引き抜いてゴミ箱に放り込んだ。一口飲んで、少し濃かったなと眉を顰める。

 

「キャスター」

「――なんだい、マスター?」

 

 予期せず話しかけられて驚きました、という顔を作りながら、彼はソファの背に寄りかかった状態で現れた。それをちらりと確認して、また時計に目を戻す。静音仕様の秒針がぐるぐると回っていく。

 

「君、昨日はどこに行っていたんだ?」

「昨日? ああ――そういえば、昨日は使い魔を寄越さなかったね」

 

 動揺しそうになった指先を意識的に抑え込んだ。サーヴァントの動向を把握しておくのはマスターとして当然の行動であるのだから、と、素早く言い聞かせ、心の中から疚しさを消す。

 キャスターは相変らず、すべてを見通しているかのような澄ました目で言った。

 

「少しこの周辺をぶらぶらとしていただけさ。気分転換になるものが他にないのでね」

 

 それから、マッチを擦る音がして、キャスターがパイプに火を入れたのが分かった。

 

「困ったものだよ、ヴァイオリンはおろか薬すらないとは。君は魔術師のくせにコカインのひとつも持っていないのか?」

「僕はその手のものを必要としていないからね。まぁ、たとえ持っていたとしても渡さなかったけれど」

「どうして?」

「その明晰な頭脳をわざわざ曇らせる意味が分からない」

「曇らせてなどいない。むしろ逆だ。世界の声に耳を傾け、宇宙の真理へ到達するためには、より一層思考をクリアにしなくてはならないのだよ。薬はその補助だ」

「なぁキャスター、薬はそんな好都合なものじゃないよ。失うものがどれほど大きいか、よく考えてみるべきだ。間違いなく薬は脳の動きをよくするだろう。けれど、それはごく限られた一瞬限りの、不自然で異常な作用だ。その所為で脳が壊れる可能性はけっして低いものじゃない。というか確実に脳は壊れていくんだよ。それに、使った後の反動でひどい憂鬱に襲われることは、君もすでに実感済みのはずだ。こんなハイリスク・ノーリターンの話なんてなかなかないぞ。君はもう少しその頭脳の価値と言うものを――」

()()()()()()()()()()()()()()

「っ――」

 

 驚くほど冷たい声音に、言葉を遮られた。

 ――逆鱗に触れた、と、嫌が応にも分からされた。

 背筋が凍る。とてもじゃないが振り返れない。キャスターを――シャーロック・ホームズを、見ることが出来ない。見たら、見てしまったら――彼が怒っていることを目の当たりにしてしまったら――

 ――殺されても、おかしくない――

 ワトソンは震えそうになる声を必死に抑え、隠し、何食わぬ顔で白を切った。

 

「何のこと?」

「……」

 

 沈黙が重く、重く両肩にのしかかる。

 

(息が……詰まる……)

 

 詰まるどころの騒ぎではない。もう止まりそうだ。

 秒針がゆっくりと、本当にゆっくりと一周する。

 不意に、キャスターが息を吐いた。

 

「マスター、君は僕を……――いや、なんでもない」

 

 キャスターは、何か喉の奥に物が詰まっているような言い方をした。それから、かすかな衣擦れの音。――気配が遠ざかる。

 

「少し出てくる。時間までには戻るよ。――僕がいない方が、君もリラックスできるようだからね」

 

 そう言って、消えた。

 完全に気配がなくなったのを確認し――けれど一応使い魔を放って、彼を追うように指示し――それからようやくワトソンは息を吐いた。

 

(彼は……どこまで、気付いているのだろうか……)

 

 かの名探偵シャーロック・ホームズを相手に、自分がすべてを隠し切れるとは思っていない。彼が来ることをまったく予期していなかったわけではないが、予期して動いたら本当に来てしまいそうな気がして、ほとんど隠さなかったのだ。誰が来ようと等しく隠しておこうと決めていたもの以外は、ほとんどが、彼が来る前の状態のままで放置されている。――警察や地域住民向けの偽装で、他ならぬあの探偵を、欺けるとは思えない。

 

(しかし……()()()彼は()()()()()()()な)

 

 先程の対応からしてそれは明らかだ――なら、

 

(……付け入る隙がある、か? 僕の考えをすべて読まれているとは――思いたくない。いや、けれど、万一、読まれているとしても、それでも……大丈夫。勝機は、ある)

 

 すっかり冷めた紅茶を一息に飲み干した。

 元の早さに戻った秒針を眺め、再び、思考の海に潜る。

 

 

 

 日付が変わる頃になって、キャスターは戻ってきた。その頃にはすっかり冷静さを取り戻していて、先程激昂したことなどまるでなかったかのような涼しい顔をしていた。

 

「マスター」

「ああ、そろそろ時間だね。――それじゃあ、行こうか」

「了解」

 

 軽やかに頷いて、青年は少女に変化する。不思議の国のアリスを髣髴とさせるフリルの付いたエプロンドレスに、赤毛のアンを思わせるニンジン色のおさげ。どちらにせよ、お喋りで空想家で、周りの手を煩わせがちな少女のキャラクター。

 

「どうしてそのキャラクターにしたんだ?」

「わかりやすい特徴があった方がいいだろう?」

 

 声も随分と高くなっている。なのに喋り方が普段のままだと、どこか奇妙な感覚を覚えた。

 

「誤認させることができるのならば、させておいた方がいい。それも出来るだけ、本来の僕とはかけ離れた姿でね。その方が何かと有利に事を運べるだろう。――まぁ、あのセイバーの場合、真名が分かったことの方が大きいけれど」

「ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲン――だっけ?」

「そう。尤も、あの年齢だと、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン・ツゥ・ホルンベルクと称す方が正しいかもしれないが」

「へぇ。僕はよく知らないんだが、有名なのかい?」

「無名ではない。ヘラクレスやアキレウスのような、いわゆる“英雄”とまでの知名度はないがね。ゲーテが戯曲の題材にしなかったら、知名度はさらに下がっていただろう」

 

 そう言いながら、キャスターは拠点を飛び出し、それから霊体化した。

 

『さぁて、行きましょうマスター。たぶんきっと、これがあたしたちの一世一代の大舞台になるわ』

 

 ワトソンは軽く頷いた。内心では――気持ち悪い――と思いながら。

 



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ランサー 5

 

 指定の時間になった。

 

「――マイスター。始まりました」

「よし」

 

 約定の通り、セイバーとキャスターが戦いを始めた。それを確認して、ディオニシオは術式を起動させる。

 

「〈共鳴する(resonamos)共鳴する(resonáis)共鳴する(resonan)――〉」

 

 学校とおぼしき建物の裏手にあった、小さな池。生き物の気配の薄い、淀んだ水溜まり。そこに、風もないのにさざ波が立ち、蛍のような光が集まってきた。空気が震え、整い、そして場が完成する。

 

「〈怠惰な乙女の奸計と祈りに屈せし悪魔よ、我らの名のもとに立ち現れ、その偉業を再現せよ。汝の手によって水は一夜の内に流れ出し、最初の鶏が鳴くまでの内に町全体へと行き渡る。そして最後の一石を、沈黙の内に投げ入れよ〉」

 

 池の水が蒸発し、濁った霧が水上を覆った。ディオニシオが指を鳴らすと、それが一斉に四方へ散らばり、街中へと流れ出ていく。

 

(あとは待つのみ――)

 

 アーチャーを見つけるために神経を張り詰めさせるディオニシオを、ランサーが斜め後ろから窺っている。

 

   ☆

 

 マンフレート・フォン・リヒトホーフェン――レッドバロン。第一次世界大戦における、エースパイロット。世界一の撃墜王。

 ――その名を、その栄誉を、得る前の自分。

 リヒトホーフェンは木にもたれ、目を瞑った。

 

(私は、いずれ世界一の撃墜王になる――今はまだ、なっていないが。そして、そうなることは、既に定まった過去のこと――私にとっては、未来のことだが、世界からすれば、それは過去のこと――だから、あの少女は、ああ言ったのか――)

 

 恐れる必要はない、と。

 今更何をしようが、過去は変わらないのだ、と。

 思い返せば、あの少女、外見に見合わぬ聡明な光を両目に宿し、すべてを見通すような顔をしていた。彼女に聞けば、分かるだろうか――己が抱えている葛藤の出口が。己が成すべきことが。

 

(……いや。自分の行動を、他人にゆだねて、どうする。私が成すべきは――)

「――見つけた!」

 

 ディオニシオの叫び声を聞きつけて、リヒトホーフェンはパッと目を開いた。

 

「行くぞ!」

「Ja!」

 

 ディオニシオを抱えて、空中を蹴る。

 

 

 

 案内されるままに走り、跳び――町の西側に位置する山の中腹辺りで、「止まれ」とディオニシオが言った。

 ここまで近付けば、リヒトホーフェンにもその気配が分かった。硝煙と血と呪い――そして、巨大な悪のにおい。

 

「この先にいる」

「わかりました。では――」

「待て」

 

 早速その場を飛び出そうとしたリヒトホーフェンを、ディオニシオが制した。

 

「まだだ。まだ早い」

「は――」

「この場で、しばらく待機しろ」

「――承知しました」

 

 リヒトホーフェンは素直に頷いた。

 

(セイバーとキャスターが来るまで待つ、ということか――確かに、皆でかかれるなら、より確実に、仕留められる)

 

 魔術のことには詳しくない。が、遠くに潜む敵兵を見つけ出すことができたのだ。その場所を他の者たちに伝えることなど造作もないのだろう。そう思って、リヒトホーフェンは口をつぐむ。

 彼が再び口を開いたのは、それから数分後のことだった。

 

「あの、マイスター」

「なんだ」

「セイバーとキャスターが来るのを、待っているのですよね。少々、遅くはありませんか」

 

 サーヴァントの足ならば、数分もかけずにここまで来られるはずだ。今頃到着していてもおかしくないはずなのだが、とリヒトホーフェンは考えたのだ。――同時に、このマスターが目論みそうなことを思い付いてもいた。まさかそんなこと、とすかさず否定しながら、その否定が上辺だけのものであることも、また、自覚している。

 

「マイスター」

「黙って待て」

 

 ディオニシオが答えを避けるのを見て、リヒトホーフェンは察した。

 詰め寄る。

 

「まさか本当に、()()()()()()()()()()()()()()()()のかっ?」

 

 ディオニシオが大きな溜め息をついて、面倒くさそうな顔を向けた。その目は明らかに、リヒトホーフェンの疑念が正しいことを裏付けていた――ばれたくなかった、とも語っていた。

 

「それでは約定に――」

 

 反するではないか、と言いかけて、やめた。

 ディオニシオがリヒトホーフェンを理解して、この姑息な作戦を黙っていたのと同じように。

 リヒトホーフェンもまた、ディオニシオを理解して、反論をするのをやめた。

 いい加減気付いている。マスターならば、などという理想や希望はすでに失っている。この男には何を言っても通じない。何を言っても理解されない。この男は――あまりにも――私が掲げる騎士道と、外れた道を生きている!

 リヒトホーフェンは憤然として立ち上がった。

 ディオニシオの顔色が変わる。

 

「おい、ランサー? 貴様、まさか――」

「一人無駄死にしたくなければ、あの二人へ、ここに来るよう伝えればいいだろう」

「はぁ? ――おいっ!」

 

 もう制止などされない。されてなるものか。

 かの少女が言った通りなのだ。自分がこれから何をしようと、自分の未来は世界の過去、既に起きた出来事は変わらない――変わるとするならば、この英霊の座に刻まれた己の魂が、けがれるか否かということだけ。今ここに在る自分は、英霊として、二度目の、夢幻の如き生を得ただけの存在。英雄として世界に名を残すことは、決して変わらない――だから、ここでは、()()()()()()()()()。己が望むままに、己の成したいことを、成したいように、成せばいい。

 かつて、空を飛びたいという我が儘を、貫き通したように。

 かつて、空の上で死にたいという希求を、誰にも譲らなかったように。

 

(ならば、私は――()()()は――己の魂に、恥じない戦いをしたい! 空にいようが、陸にいようが、私は、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン――騎士道のもと、最前線で戦い、勝利をこの手で掴むために、生きる男だ!)

 

 リヒトホーフェンは槍を携え、木々の隙間を通り抜け――その先へ、躍り出た。

 白髪の老人が一人。その傍に、小柄な女性が一人。リヒトホーフェンの襲来を予期していたかのように、老人はニヤリと笑って、手の中の鎖をじゃらりと鳴らした。

 

「やはり来たか――よろしい。ならばこの私が、相手になろう!」

 

 女性の方がマスターなのだろう。小走りに場を離れ、木の後ろに隠れるのが見えた。

 それを見届けてから、リヒトホーフェンはゆったりと、しかし隙の無い動作で、槍を構え直す。

 

「兵として、騎士として、貴公の闘志に敬意を表し――」

 

 ヒュン、と軽く振り抜いた穂先が風を切り裂いて、地面に鋭利な線を刻み込んだ。

 凄烈な闘気がランサーの全身から立ち上る。晩夏の深夜をさらに暑く、熱くさせながら、一方で島国特有の湿り気など一切感じさせないほど清々しく、鮮やかに、爽やかに、しかして凄絶に、彼の気迫が夜空を焦がす。

 

「――全霊を以って、その命を奪う。行くぞ、アーチャー!」

 

 金属のかち合う音が、星を貫いた。

 

   ☆

 

 

『全部中途半端な奴の言うことなんて、聞きたくもない。じゃあな』

 

 飛び出したランサーの背中に、一瞬だけ息子の姿が重なった。その陳腐な幻覚のせいで、いっそう己が惨めなものに思われて、ディオニシオは地団太を踏んだ。

 

「くそっ、畜生っ、チクショウッッッ! どいつもこいつも私をないがしろにしやがって、何様のつもりだ、クソッ! ああ畜生、サーヴァントのくせに……私がいなくては存在すら許されない、使い魔風情が……あああああああああああっ!」

 

 木の幹に拳を叩きつける。

 

(許せない……許すものか、青二才め! 貴様の言うことなど誰が聞くものか。命令はお前が聞くものだ! ――見てろ。どちらが上の存在なのか、分からせてやる……っ!)

 

 ディオニシオは踵を返すと、血走った眼で、戦闘音の響く方を睨みつけた。

 

 



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セイバー 6

 少女はくるくると踊るように回りながら、ゴットフリードの剣をのらりくらりと躱している。

 

「嫌だわ怖いわ、そんな恐ろしいものを向けられたらあたし、震えてしまって仕方がないわ! きっと今夜は眠れないでしょうし、眠れたとしても悪い夢を見るに決まっているわ! ――だから、ね、こうしましょう。世界は牛乳とお砂糖(The World is made of MILK,)それにちょっぴりの香辛料で出来てるの(SUGAR and just a few SPICES)!」

「っ――!」

 

 小さな両手が打ち鳴らされた。瞬間、ボンッ、と音を立てて、ゴットフリードの目の前に真っ白い煙が発生した。視界が完全に覆われて、少女の姿が見えなくなる。

 ――殺気。

 ゴッドフリードは前に向かって思い切り身を放り投げ、煙の檻から飛び出した。

 

「――っと、と!」

「あら、どうして躱してしまったの? せっかく、せっかく素敵で可愛くて怖くないものを用意して差し上げたのに」

「誰が好き好んで謎の光線に焼かれるかよ」

 

 頬を膨らませた少女が、ちょっと肩をすくめると、彼女の背後に浮かんでいたルーペのようなレンズが、一斉に姿を消した。そこから出てきたビームのような光を受けた道路は、アスファルトが丸く溶けて、白い煙を上げていた。

 

(厄介なガキだぜ、ったく……)

 

 と言っても、アサシンほどのものではない。その気になれば、一分と掛けずに仕留められるだろう。

 勝った方が撃たれるのだから、勝たなければいい――そう思えばこその、消極的な八百長。だから、セイバー対キャスターでも、拮抗しているかのように見せられるのだ。

 

(主がアーチャーを見つけるまでは、このままで、と)

 

 見つけたら即座にキャスターを殺し、撃たれる前に移動、その足でアーチャーを仕留めに行くというつもりでいるのだ。だからそれまでは、面倒だが、このまま――

 

「――あら」

 

 不意に、キャスターが肩を落として、そっぽを向いた。それからすぐ、こちらに向き直って、にっこりと笑った。

 

「予定通り、ランサーさんがアーチャーさんと戦い始めたみたいだわ」

「はぁ? んだって?」

 

 ゴットフリードは耳を疑った。ランサーがアーチャーと戦い始めた? 絶対に、こちらのどちらかが狙撃されるまで待つだろうと踏んでいたのに、何故? 何のために?

 まさか本気で、約定を守るために?

 

(「セイバー、キャスターの言っていることは事実だ」)

 

 ヘルメスの声が脳内に響いた。

 

(「ってぇことは……」)

(「ああ。アーチャーの居場所は分かった。――予定通り、動け」)

(「了解」)

 

 ゴットフリードは軽く顎を引き、構えを解いた。

 にこにことしながらキャスターが近寄ってくる。

 

「それじゃあ、セイバーさん? 約束通り、あたしたちもアーチャーさんのところへ――」

「ふっ!」

「きゃあ!」

 

 完全に不意を突いたはずの斬撃は、咄嗟にしゃがみ込んだ少女の頭上の空を切った。手首を返して斬り下ろす。――しかし刃が両断したのは、少女の着ていた外套だ。

 

「酷いわ、酷いわ、約束が違うじゃない!」

 

 キャンキャン声は背後から聞こえた。どうやら魔術を使って逃げ出したらしい。

 

「ランサーさんが戦い始めたらあたしたちも加勢するって――」

「うらっ!」

 

 喋る隙など与えない。無駄話は無論、詠唱すらさせるものか。

 さすがのお喋りキャスターも口をつぐんで、避けることにのみ専念し始めた。

 もう八百長ではない。少女の姿だから、と、加減するほどお人好しでもない――そもそも、本気で斬りかかったのに一撃では仕留められなかったのだ。油断も慢心も出来まい。やはり、どれほどふざけた姿形(なり)の、ふざけたガキであっても、世界に選ばれたサーヴァントなのだ。

 しかし――少女の頬に、肩口に、腕に、次々と裂傷が刻まれていく。歴戦の騎士を相手に、ここまで紙一重で躱し続けている少女の身体能力を賞賛すべきだろう。だが、誰がどう見ても、ジリ貧だ。一方的な、故意的ではない、なぶり殺し。

 

「っ!」

 

 何かに足を引っかけたらしく、かくん、と少女の膝が落ちた。

 

(取った――っ!)

 

 脳天目がけて刃を振り下ろす。

 直前。

 

「これは決闘(フェーデ)よ!」

 

 少女の甲高い声がそう宣言した。

 

「なっ――う、ぐ」

 

 瞬間、視界が揺れ、剣筋がぶれた。易々と躱されたのが見なくても分かる――ろくに見えてもいないのだが。強い眩暈に襲われて、握力が消える。剣がずるりと手のひらから滑り落ちて、膝の上で跳ね、アスファルトの上に転がった。

 

「ああ、良かった、良かったわ。あたしでもちゃんと決闘だと言えば決闘だってことになるのね。ああ良かった、本当に安心したわ」

「っ……はぁ、ふっ……」

 

 わざわざ顔を覗き込んで笑いかけてきたクソガキを、ゴットフリードは睨みつけた。

 

(くそ……なんで……)

 

 ――なんでコイツは、誓約のことを知っているんだ?

 

「あら、だってそんなの簡単なことよ」

 

 と、少女はゴットフリードの思考を読み取ったようにそう言った。

 

「なぜってあなたは最初に会った時もそうやって蹲っていたわ、これといった怪我もしていなかったのに。ならどうして蹲っているんでしょうって考えたのよ。そうしたら――あら、ごめんなさい。またあたしってば喋り過ぎちゃうところだったわ」

 

 そう言いながら、少女は立ち上がった。

 

「さようなら、鉄腕のゲッツ、ゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲンさん。またいつか、夢の向こう側でお会いしましょう」

 

 ルーペが光る。致死性の光線が放たれる。

 それが過たずゴットフリードの胸の真ん中を貫いて――

 ――動悸が収まった。

 ――眩暈が消えた。

 ――けれどそれは、“自分の死”によって決闘が終わったという証左であって。

 己の体が金色の粒子になって消えていくのを見ながら、ゴットフリードはゆっくりとその場に腰を下ろして、地面に寝転がった。生前の星空とはまた趣が違う、少し遠退いているように感じられる夜空。

 ゴットフリードは溜め息をつくと、まだ動かせる右手で十字を切った。

 

「……神よ、全能の御方よ、永遠の言葉よ――どうか、永遠の死から我らを守りたまえ――」

 

 目を瞑る。

 

(――そして、ひと時我が主となった男に、どうか、ご加護を――アーメン――)

「アーメン」

 

 少女が、いやにしおらしく微笑んで、呟いたのが見えた。

 

   ☆

 

 

『神以外の何物も恐れなかっただけだ』

 

 その言葉が、ヘルメスの頭のどこかに常に引っ掛かっていた。

 キャスターの少女を容赦なく追い詰めていくセイバーの姿を、見るともなく見ながら、ヘルメスはぼんやりと考えていた。

 

『神以外の何物も恐れなかっただけだ』

(――私は、神すら恐れてはいない。魔術師が神を恐れなどするものか)

 

 ならばなぜ、ゴットフリードと違って、私は負ける?

 ゴットフリードだって、全戦全勝とはいっていない。味方のせいで利き手を失っているし、負けて逃げることもあった。捕らえられ十年近く幽閉されもした。なのになぜ、なぜ――

 ――堂々と、悠々と、生きていられる?

 

(……恐れているのだろうか、私は)

 

 頭を大きく横に振った。

 

(そんなわけあるものか! 私は何も恐れてなどいない! 教えるしか能のない若造も、悪魔のような小娘も、何も、何も――そうだ、あんな奴らは、恐れるに足らない。怖いのは――怖いのは……――)

 

 ――己の無力を知ることだ。

 ――己を求める人間がいないことを、思い知ることだ。

 自覚した瞬間、胸の奥がびりびりと痛んだ。奥歯を食いしばり、戦場を睨みつける。

 

(……分かった。もういい、よく分かった。――私はもう恐れない。自分が何者だろうと、絶対に恐れない。恐れるものか!)

 

 聖杯を手にすれば、そんなものはどうでもよくなろう。己の無力さなど、情けない劣等感など、払拭されるに決まっているのだ。

 だから今は、この戦いに集中するのだ。

 

「セイバー……頼むぞ、勝ってくれ――」

 

 少女がバランスを崩した。そこにセイバーが剣を振り上げる。

 

(よし!)

 

 ヘルメスが勝ちを確信した瞬間――不意に、セイバーが膝をついた。

 

「何っ!」

 

 何が起きたのか、まったく分からなかった。想像することすら叶わない。

 ただ、このまま放っておけば、負けるということだけは分かった。

 

「くそっ。【令呪を以って命じる――」

 

 右手を掲げ、命令を下す。二度しか使えない、絶対の命令を。

 ――下す、直前。

 弾丸がヘルメスのこめかみを撃ち抜いた。

 

「……は?」

 

 何が起きたかなど、分かるはずもなかった。

 視界が閉ざされる。意識が遠退く。力が抜ける。

 暗闇に沈んでいく――

 

 



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アーチャー 4

 ランサーは青年だ。金髪。碧眼。年齢はおそらく二十歳前後。骨格や顔立ちはドイツ系。騎士道を持ち合わせた人物。初日からの観察ではまだ情報が足りないが、こうなってしまっては仕方がない――こうなると予想して、その上で“時間が足りない”という計算結果が出ていたのだ。ここから先は、現存の情報だけで、即興(アドリブ)といくしかない。

 

(生前の私からは想像も出来ない“考えなし”だナ――)

 

 自嘲気味にそう思いながら、情報を整理する。

 着ているのは近代的な軍服。勲章の類は付けていない――付いていた跡が残っているから、真名看破を防ぐために取ってあるようだ。軍服自体も隠蔽工作である可能性は捨てきれないが、かなり低いと見ていいだろう。明らかに年代物で、現代で二、三日の内に手に入れられるものとは思えないからだ。

 人間としても近代の存在だろう。最初、まだ距離があった時に行なった一斉掃射は、あっさりと躱され、弾丸に驚いたり怯えたりするような様子は欠片も見受けられなかった。――何より不思議なのは、“当たる気がしない”と思わされたことである。そして実際に、一発も当たらないどころか掠りもしなかった。何か弾丸との関係性が強い逸話を持っている英霊なのかもしれない。

 

「ふっ!」

「むぅっ」

 

 鋭い刺突を避けた瞬間、腰がミシリと音を立てた。それを苦笑いで抑え込み、さらに腰を酷使して、右足を軸にターン。

 

「ぅおっ」

 

 急速に方向を変えて横薙ぎに半回転してきた石突が、腹の前を掠め、ジャケットのボタンを弾き飛ばした。そこからさらに回転の速度が上がり、横に逃げたつもりだったアーチャーを追って、穂先が頭上から降り落ちてくる。

 

(予測は出来る――)

 

 バックステップで振り下ろしを躱す。が、そこで“躱せた”と止まってはいけない――反対に踏み込むのも駄目だ――彼の攻撃は止まらない。回転の勢いを殺すことなく、一旦脇に引き込んだ。そのエネルギーが手のひらの中で槍に伝わり、槍自体が回転する。

 それは確かに隙だが、反撃が許されるほどの間では、ない。

 瞬き一つ以下の間を置いて、刺突が来る、と分かる。

 

(――が、避け切れん!)

 

 裂帛の気合が穂先に乗る。

 

「はぁっ!」

「ん、ぐっ」

 

 致命傷を避けるのがようやくだった。左肩に深々と槍が突き刺さり、そこから斜め上に切り裂かれる。肩のエンブレムが弾け飛び、血を含んだマントがふわりと舞って地面に落ちた――そんなものを悠長に目で追っている暇などコンマ一秒もない。

 追撃が来る。右下から石突が振り上げられて、目の前を掠めた。その次は石突がそのまま突き出される。次は逆回転して穂先で横薙ぎに。次は刺突が連続して三回。次は下からぶん回し。そこから回転して胴を狙った横薙ぎ――シミュレーションは実に簡単に出来るのだ。それぐらい、正当で正統な槍筋。個性はなく、癖もなく、隙もない。まるで教科書のようでたいへん読みやすい――だが、避けられるかどうかはまた別の話。

 

(肉を切らせて、などとやっている余裕はないし、そういうキャラでもない。ならば――ジャックだ)

 

 アーチャーはわざと目線を余所にやり、そこに何も無い、誰もいないにもかかわらず、軽く頷いてみせた。ほんの僅かな、顎先だけの動き。

 それを見逃さなかったランサーの穂先が、一瞬だけぶれる。

 

(――だが、何もしない)

 

 これはただの布石だ。いずれ蜘蛛の巣に彼を落とすための、最初の一糸。

 

(次、クイーン!)

 

 シミュレーション通りの胴薙ぎが、先程の影響で少しだけ精彩を欠いた。ジャケット一枚分掠らせて躱して、大きく後退。少しだけ開いた間合いに棺桶を突き立てて、射撃。追尾式の弾丸が二重、三重の弾幕になり、頭上からランサーに襲い掛かる。

 が、彼は構わず突っ込んできた。

 

(ふむ、予想通り)

 

 ランサーの背後で幾つかの弾丸同士がぶつかり合って、誘爆を起こす。その衝撃波に乗るようにして、いっそうスピードを増した振り下ろしを、棺桶の先で受け止める。それが真横に弾き飛ばされて、その向こうから自分の放った弾丸が真っ直ぐ向かってきた――ランサーに当たらなかったからだ。

 アーチャーはあえてそれを受けた。

 自分で放った弾丸に自分で当たり、大袈裟に吹き飛ばされる――“大袈裟に”吹き飛んでみせた。無論、演技である。全く痛くないし、全くダメージなど入っていない。だが、爆発の白煙と粉塵で、目くらましにはなったはずである――当然だ。そういう弾丸を選んで撃ったのだから。

 

(そして、キング)

 

 濛々と立ち込める煙を切り裂いて、ランサーが肉薄する。

 それを見てアーチャーは叫んだ。

 

「今だ、マスター!」

「っ!」

 

 警戒心に足元を掬われたランサーが、ぴたりと立ち止まって、周りを見る――が、しかし、何も起きない。誰もいない。

 蜘蛛の巣は完成した。

 絶好の隙が完成する。

 

(では――ジョーカーだ)

 

 魔弾装填。

 

「真名封鎖、疑似宝具展開。お仕置きの時間――っ!」

 

 アーチャーは息を呑む間もなく身を捻り、かろうじて刺突を躱した。頬が深く斬られ、鋭い痛みとともに電流が脳に走った。

 計算外――ランサーの立ち直りの早さ。及び状況判断力。

 再計算――体勢を立て直す時間、ランサーの宝具の展開速度、こちらの宝具の展開速度――駄目だ、すべてが足りない!

 ランサーの槍に魔力が集まり、真っ赤に光り出す。

 

「止まるな。振り返るな。ただひた走れ――『いずれ深紅に染まるまで(Hurra, Hurra,)――」

 

 アーチャーが己の敗北を覚悟した、その時だった。

 強大な魔力の流れがランサーに纏わりついて――

 

 ――ギシリ、と。

 

 彼の動きが不自然に固まった。

 そしてその端正な顔立ちがぐしゃりと歪んだかと思うと、アーチャーに向けられていた槍がくるりと翻り。

 

「うおあああああああああああああああああっ!」

 

 血反吐のような叫び声を上げて。

 明後日の方向へ地を蹴った。

 ――多少のノイズに回転を緩めるほどアーチャーの脳味噌はヤワでない。先程の魔力は令呪だろう。であれば何事か強制された命令が実行されたはず。このタイミングで令呪を切るのはなんとも不可解だがあのマスターならやりかねない。ならば何を命ずるか。ランサーが向かった方角には何がある? 誰がいる? 時間は――間に合う!

 アーチャーは即座に、宝具の展開を再開させた。

 ランサーの背中を追って、地面を蹴り、宙を舞い――魔弾を放つ。無駄のない軌道を描いて闇を切り裂いた弾丸が、過たずランサーの霊核を――アーチャーのマスターに槍を突き立てる直前の、彼の胸元を――貫いた。

 

「素晴らしい。世界は、破滅に満ちている」

 

 地面に両膝を落とし、槍をだらりと下げて、ランサーはアーチャーを振り仰いだ。

 それから、

 

「……あぁ、なるほど」

 

 何かに納得したように呟いて、表情を緩めた。

 

「確かに、遺す言葉など、不要だな」

 

 体が金色の粒子に変わっていく。

 

「良かった――やはり、私は、私のままだった――」

 

 最期の輝きが、彼の柔らかな微笑みを照らし出し――そして、消えた。

 

(マスターが良かったら、危険だったかもしれないネェ)

 

 まぁ、そんな“たられば”など無駄な議論なのだが。

 ひょいと木の裏を見ると、アーチャーのマスターが地面に座り込んで、膝を抱えている。その肩が、全身が、がたがたと震えている。――死に瀕したことだけが原因では、ない。

 

「マスター君? 平気かね」

「――私――私は――わたし――私――わたしはぁ――」

「落ち着きたまえ。君はここにいるよ。ここにいる君は――()()だよ」

「……そうよね。そうだわぁ、そう……本物……私は、本物……こうやって、生きてるんだもの――」

「そうともさ。生きている以上、本物だ」

 

 アーチャーはことさら優しい声を取り繕って、心にもないことを言った。

 その目が冷徹な光を帯びていることに、彼女は気付かない。

 

(トリガーはランサーの最期の言葉だな。自分とは何か、自分らしくあるとはどういうことか――全盛期でない、ズレた自分でありながら、全盛期の自分を記録として持っている、とは、何とも複雑なものだネ。……マスター君の場合は、また少し違うのだが)

 

 落ち着くための手掛かりは与えた。あとは静かに待っているしかない。そう判断して、アーチャーはその場を離れた。

 ランサーのマスターが近くに潜んでいることは分かっている。彼を放っておく必要性はない。魔術師というだけで充分、大きな変数になりうる――もうこれ以上の“計算外”を許すわけにはいかない。

 

「さぁて。――この手の()()は苦手なんだが」

 

 言葉とは裏腹に、アーチャーはスキップをするような調子で走り出した。

 



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第5章
キャスター 6


 

「マスター」

 

 キャスターの声だ。普段通りの、青年の声。

 ワトソンはびくりと肩を震わせて、振り返った。

 

「あぁ、キャスターか……セイバーは? どうなった?」

「倒したよ」

「倒したっ? どうして――」

「向こうが襲ってきたからさ。それに、僕が手を下さずとも、彼は消滅していたはずだ」

「っ――」

 

 息を呑む。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ワトソンには見当もつかない――しかし、いやだからこそ、どんなに稚拙であっても嘘をつくしかない。

 

「――どうして、知っている? セイバーのマスターが、殺されたことを」

 

 キャスターはじっとワトソンを見て、それから、するりと彼の脇を抜けた。

 道端の闇に沈んでいた、死体の傍らに膝をつく。

 三十歳前後の男性。イギリス系。右手には二画の令呪がまだ赤々と刻まれていたが、それらももうすぐ消え失せる――セイバーのマスターだ。頭部を撃ち抜かれ、死亡している。

 

「狙撃されたみたいだ。僕が来た時には、すでに、その状態だった」

「……」

「キャスター? どうかしたのか?」

「……いや、別に」

 

 キャスターは首を振りながら立ち上がると、にっこりと笑った。

 

「どちらが先だったかは知らないが、助かったね。令呪を使えば、一度壊れた霊基でも再生できるようだから」

「そうなのか?」

「僕の推測が正しければ、だが」

 

 謙虚なふりをして、その裏には“正しくないはずがない”という自信に満ち溢れたセリフだ。

 

「ライダーはそうやって蘇ったはずだよ。セイバーのマスターがそのことを知らなかったのか、あるいはそうする間もなく殺されたのかは定かでないが……どちらにせよ、そうされなくて良かった。本調子のセイバーなら、悠長に変装などしている場合じゃなかったからね。――アーチャーの方は、どうなった?」

「ランサーがやられたみたいだ」

「そうか。なら、あとは僕とアーチャーの一騎打ちのみ、というわけか」

「そういうことになるね」

 

 ワトソンはキャスターの横に並び、自分より少し高い位置にある彼の顔を見上げた。

 改めて見ても感想は変わらない。やや冷酷な印象を与えるほど整った顔立ち。心配になるほど透き通った肌。どこか非人間的な、人智を超えた怜悧さを持ち合わせていることを窺わせる、深淵の瞳。

 ――恐ろしい。

 ――だが、彼との付き合いももうすぐおしまいだ。

 意識して笑みを浮かべ、軽い調子で言った。

 

「もしかして、緊張してるのかい、キャスター?」

「まさか」

 

 キャスターは即答した。そして笑みをよりいっそう深めて、

 

「ようやくすべての謎が解ける――そう思うと、胸がわくわくして堪らないよ」

 

 朗々と言った。

 その言葉が、彼の言う“すべての謎”が、一体どこからどこまでを指しているものかワトソンには分からない。本当に、本当に()()()を知られていたとしたら――いや、しかし、知られているからと言って何だ? 彼はサーヴァントで、一時この世に立ち戻っただけの幻霊、本来なら不帰の客である存在だ。二度とは来ないし、この世に何かを残すこともないだろう。そうだ、だからバレたところで問題など何もないはずなのだ――ワトソンはここ数日ずっと同じことを繰り返し考えては、繰り返し襲い来る恐怖を打ち払っていた。心臓の裏が凍るような恐怖。知らぬ間に両足が消えていくような恐怖。

 首筋に滲んだ汗は、おそらく、夏の暑さのせいではない。

 ワトソンは胸元で握りしめていた手を開き、踵を返した。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 無言で頷いて、キャスターは霊体化した。

 

   ☆

 

 マスターは真っ直ぐ、賎畿中央教会へ向かっている。アーチャーの方へと向かわせた使い魔が、彼らがそちらへ移動するのを見ていたのだろう――というのは、おそらく建前だとホームズは考えていた。

 教会が最終決戦の地になることを、たぶん、マスターは知っている。知っていて、そちらへ向かっているのだ。聖杯もそこにあるのだろう。

 

(――さて)

 

 懸案事項として脳内の棚に並べていた瓶は、もうそのほとんどが空になっていた。残っているのは――第一に、アーチャーの正体。

 

(必ず貫く弾丸、あるいは射手。“弓”であれば候補が多すぎるが、“弾丸”“銃”で絞れば、かなり範囲は狭くなる――そのうち最も有名なものといえば、『魔弾の射手』だろう)

 

 カール・マリア・フォン・ウェーバー作曲のオペラ。台本はヨハン・フリードリヒ・キーント。初演は一八二一年、ベルリン。狩人と恋人と恋敵、そこに悪魔が絡み、物語は完成する。恋敵が唆し、狩人は悪魔とともに“狙ったものに必ず当たる弾丸”を七発鋳造した。ただし、その七発目は、射手が最も大事に思っているものに当たる――

 

(さて、問題は、これに登場する狩人のマックスが、英霊たりえる人物ではない、ということだ。少なくとも、単体で顕現するのは不可能――)

 

 であるならば。

 他にどんな幻霊と複合して現界したのだろうか。

 いや、正確に言おう。

 他にどんな幻霊と複合()()()現界()()()のだろうか。

 

(――会ってみないと分からない、というのは、少々怖いけれど。まぁ、こればかりはどうしようもないか)

 

 もう一つの懸案事項――この聖杯戦争を仕組んだ人物について。

 

(聖杯戦争は儀式だ。儀式ならば、それを執り行う人物が必要になる。かつての聖杯戦争では、“御三家”と呼ばれる魔術師たちが先導したらしいが――さて、今回のコレは、誰がどんな意図をもって始めた戦争だ?)

 

 アーチャーのマスターか――己の、マスターか。

 あるいはその二人の共謀か。

 

(答えはこの先にある。――明かされるのを待つ、というのは少し、いやかなり、癪に障るが。情報があまりにも少なすぎる……三つ目の懸案事項、これに関しても……――)

 

 溜め息をつく。

 教会はもう、すぐそこだ。

 ――ちょうど、山の方から来た影が、マスターの前に降り立った。

 ホームズはすぐに霊体化を解いて、最後の一騎――アーチャーと、そのマスター――と向き合った。

 街灯の光に照らし出され、アーチャーの姿が目に入る。

 初老の男性。黒い縁の四角い眼鏡をかけている。乱れた白髪は、もとはきちんと撫でつけられていたのだろう。ランサーとの戦闘によって崩れたに違いない。茶色いピンストライプの上品なスーツは、左肩の辺りが裂けて、血が流れた痕跡があった。

 アイスブルーの硬質な瞳が、ホームズを捉えて、ぎらりと輝いた。

 ひげを蓄えた口が、にたりと笑みの形になる。

 

「ヤァ、これはこれは――いると思ったよ、()()()

 

 さらりと言い当てられた――互いの顔を見知っているならば、真名の隠蔽など無意味である。ホームズの脳内に叩き込まれていた膨大な量の“記録”の中にも、その男の顔はあった。

 それで、ようやく、確信に至る。

 アーチャーは、()()()我が宿敵となる男だ――

 ――ジェームズ・モリアーティ。犯罪界のナポレオン。ロンドンの、いや英国の未来を賭け、命懸けで戦い、ライヘンバッハの滝へ落ちていった男。

 

(……やはり、か――)

 

 三つ目の懸案事項も、これでハッキリした。

 少しだけ、寂しさが胸の内をよぎり――すぐに消える。心の揺らぎなど、取るに足らない感傷だ。脳の動きを鈍らせるだけの雑音である。だが、これが“雑音”だとハッキリした今なら、捨て去れる。容赦なく切り捨てられる。

 ホームズは()()()に相応しい、不敵な表情を浮かべて、宿()()に相対する。

 

「さして難しくもなかったよ、()()

「あっそ。アーヤダヤダ、これだから風情の無い探偵は」

「お褒めにあずかり光栄だ」

「褒めてナイヨ」

 

 おちゃらけた仕草で肩をすくめて――アーチャーは鎖を引いた。彼の背後に、白い棺桶ががしゃりと音を立てて立ち上がる。あれが武器であることは容易に察せられた。

 ス、とその目から、表情から、色が消える。

 

「――それでは、授業を始めよう」

 

 アーチャーの引き鉄が、戦いの火蓋を切って落とした。

 

 



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キャスター 7

 目の前で始まった戦闘を、大きく迂回して、ワトソンはアーチャーのマスター――模倣者に近寄った。

 模倣者は険しい目でワトソンを見ていたが、敵対する行動は見せなかった――当然だ。彼女はワトソンの味方なのだから。

 これから、裏切るのだが。

 模倣者は不満の声を上げた。

 

「ねぇ。どうして戦わせているの? あなたはサーヴァントに興味があるのであって、聖杯は要らないから、私にくれるって言ったじゃない」

「うん、確かにそう言った」

 

 ワトソンは困った風な声を出して――次の瞬間、発砲した。

 

「ギャアッ」

 

 腹を撃ち抜かれて、模倣者はその場に蹲った。令呪を切ろうとしたのか、膝の前に出された彼女の右手を、ワトソンは踏みつける。

 そして、彼女の額に銃口を突きつけた。

 

「令呪を切るなら、アーチャーに自害を命じてくれるかい」

「な……なん、で……」

「事情が変わったんだ。僕は、聖杯を手にしなくてはならなくなった」

「……どうしてぇ……私はぁ、あなたのためにぃ……」

「その通り。すべては、僕のためだ。だから最後まで、僕のために動いて――」

 

 ――彼の言葉を遮るように、大きな銃声が響き渡った。

 ワトソンは咄嗟に振り返った。

 

「キャスター!」

 

 見れば分かる。霊核が撃ち抜かれていた。彼の細い指先が、華奢な爪先が、金色の光に包まれ始めている――諦めの色を宿した瞳が、こちらを向いて、申し訳なさそうに閉ざされた――

 

(負ける――?)

 

 その予感が、ワトソンの頭に充満して――次の瞬間、ある言葉を思い出させた。

 左手の手袋の先を噛んで、無理やり外す。

 そして、叫んだ。

 

「【令呪を以って命じる! キャスターの霊基よ、復元せよ!】」

 

 左手の甲に刻まれた赤い印が、強い光を放った。

 少しの痛みとともに、魔術回路が励起する。強大な魔力が一気に流れ出す。

 視界が一瞬だけ、光に閉ざされ――

 

「――よくやってくれた、マスター!」

 

 キャスターの声。それから、凄まじい攻防の音が再開する。

 

(……まぁ、彼の推測が正しくないことなど、ありえないものな……)

 

 ワトソンは安堵して、拳銃を握り直した。

 

「さて、それじゃ――っ!」

「――嫌よぉ」

 

 紙吹雪が噴き上がった。視界が白く塗り潰される。

 ワトソンは舌を打って後ろに飛び退いた。

 

「だって私は、本物だもの! こんなところで、死んだりはしないわぁ……あなたにだって、絶対に、譲らない!」

 

 軽く、溜め息をつく。

 

(こうなる気がしていた)

 

 ワトソンはポケットから試験管を取り出すと、その中身を周囲に振り撒いた。

 漆黒の液体が紙に染みを作る。

 

「{我は思う}」

 

 宣言。

 した瞬間、染みが伸び、風の形の影となって吹き荒れた。模倣者が放った紙のその悉くを吹き散らし、切り裂き、ねじ伏せる。

 視界が晴れる。模倣者は少し離れた位置で、紙の束を手の中に抱えていた。

 そして、

 

「⦅復讐と正しい性交と似ているって何故(Why is a revenge like a righting sex)?⦆」

 

 詠唱。彼女の息を吹きかけられて、一斉に舞い上がった紙が、次の瞬間カラスの形をかたどって襲い掛かってきた。

 ワトソンはちらりと夜空を確認し――確認するまでもなく、今夜の星の位置は分かっていたのだが――カウンターを唱える。

 

「{空飛ぶ鷲(アルタイル)急降下し(ヴェガ)めんどりの尾(デネブ)を掴む}」

 

 先程の紙吹雪を蹴散らした液体が、再び風の形になって、ワトソンの足元から飛び出した。存在そのものが風であり刃であるその影は、触れたそばからカラスを八つ裂きにしていく。

 魔術の相手は魔術に任せ、ワトソンは銃を構えた。

 

(軍役経験はないけど、銃の腕には自信がある)

 

 狙いをつけ、撃つ。

 

「キャンッ!」

 

 虐待された子犬のような悲鳴を上げて、模倣者が身を捩った。集中が途切れ、カラスの動きが鈍る。その隙を風が駆逐する。

 

(今はまだ、殺せない。まだ、彼女は必要だから――)

 

 模倣者――神野麻子――サラ。固有名ではなんと呼べばいいのか分からなくて、脅し文句がうまく出てこなかった。その代わりに、ワトソンは三度(みたび)引き鉄を引いた。足を撃ち抜き、機動を奪う。蹲った彼女に近付く。

 出来るだけ、彼女が強く怯えるように。

 出来るだけ、彼女が早く諦めるように。

 足音を高く、高く鳴らして、威圧する。

 ――不意に、模倣者が顔を上げた。

 

「【令呪を以って命じる! アーチャー、魔弾を以ってこの男を撃ちなさい!】」

「っ!」

 

 しまった、とワトソンは身を固くした。霊核をも貫く魔弾だ、人間の魔術では流石に防げないだろう。――命令が実行される前に殺せば、間に合うかもしれない。だが――一瞬の躊躇が、ワトソンに引き鉄を引かせなかった。

 魔弾が、放たれる。

 



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アーチャー 5

 マスターを抱えて降りてきたアーチャー――ジェームズ・モリアーティは、教会に向かって歩いてくる男を見て、その前に着地した。こんな夜更けに教会へ来る人間など、勇者でなければ狂人、この場合はすなわち聖杯戦争の関係者に決まっている。

 モリアーティの姿を見て、男はピタリと止まった。

 

(普通――のように見えるだけで、普通ではない男だな。魔術師だからというだけではない。――犯罪者だ、間違いなく)

 

 眼を見れば分かる。所詮、同じ穴の狢だと。

 

(ま、そんなのどうだっていいんだが)

 

 犯罪を暴くのは探偵の役目だ――今まさに目の前に現れた、世界最高の名探偵の。

 モリアーティは思わず満面の笑みを浮かべてしまった。

 

「ヤァ、これはこれは――いると思ったよ、()()()

 

 いないはずがない、いなくてはおかしい、と思っていたのだ。

 

(あぁ、相変わらず、腹が立つ顔をしているものだ)

 

 高身長の美青年。ランサーとはまた違う系統の――頭脳労働しかしていないことが明白な――美男子。触れれば切れるのだからズルいものである。天は二物を与えずと言うのではなかったか。

 かつて、我が宿敵であった男――

 ――シャーロック・ホームズ。世界唯一の諮問探偵。ロンドンの、いや英国の覇権を賭け、命懸けで戦い、ライヘンバッハの滝で生き延びた男……。

 

(……ン?)

 

 モリアーティはごくごく僅かな違和感を覚えた。たとえるならば、暦の上では満月のはずの月が、一日分欠けているように見えたような――老眼を疑えばそれだけで済むような、極めて小さなノイズ。

 

(なんだ――?)

 

 見逃してはならない、という気はした。だが、それ以上追究の手掛かりとなりうるものはなく――或いは、なくすためにだろうか――ホームズが一歩前に出た。

 光に応じて如何様にも色を変える淡褐色(ヘーゼル)の瞳が、鋭く細まった。

 薄い唇が、冷酷な下弦の三日月を形作る。

 

「さして難しくもなかったよ、()()

「あっそ。アーヤダヤダ、これだから風情の無い探偵は」

「お褒めにあずかり光栄だ」

「褒めてナイヨ」

 

 おちゃらけた仕草で肩をすくめて――モリアーティは鎖を引いた。白い棺桶、超過剰武装多目的棺桶『ライヘンバッハ』を臨戦態勢にする。ランサーからの連戦、厳しくないと言ったら嘘になるが――

 

(アラフィフの意地を、見せてやろうじゃないか、若造)

 

 ここが、クライマックスだ。

 

「それでは、授業を始めよう」

 

 ろくに狙いも定めずに、引き鉄を引いた。

 一斉掃射。最初の一手はあくまで牽制だ。当たるとは思っていない。白煙の向こう側にホームズの姿が消えていったが、当たってはいないだろう。

 

(相手がホームズなら、こちらもやりやすい……!)

 

 捜し回ったりはしない。ただ、脳味噌を働かせる。かつて能力の限りを尽くし、雌雄を決した男の思考回路を、思い出す。

 背後から振り下ろされたステッキを、こちらもステッキで受け止める。カウンターの射撃。再びホームズの姿が消えて、地面を抉った感触だけが残る。白煙を切り裂いて飛んできた光線を棺桶で受け止める。ホームズの姿は見えない。こちらが発生させた煙だけではなく、向こうも何かしらの魔術で視界を悪くさせているらしい。

 それで、確信する。

 

(ほう。ヒット&アウェイを貫くつもりか。ということは――)

 

 ――我が蜘蛛糸はホームズをも絡め取ったらしい。

 ヒット&アウェイは短期決戦には向かない戦法だ。アサシンならまだしも、キャスターならばいっそう、長期戦、長距離戦になる。長距離でのやりとりを選ぶということは、()()()()()()()()()()()()()ということである。警戒しているならば、距離を空けなどせず、撃たれる前に仕留めようとするはずだ。

 

(今日の分はランサーで撃ち止め――とでも、思っているのかね?)

 

 きっかり二十四時間ずつ間を空け、マスターすら騙してきた甲斐があったというものである。

 確かに、魔弾には限りがある――だが、()()()()はないのだ。

 マスターの魔力を食いはするが、この近距離ならば、フルの威力でなくとも問題なく霊核を砕けるだろう。そこまでの負担はかけずに済む。

 

「魔弾装填」

「っ!」

 

 呟いた瞬間、ホームズが小さく息を呑むのが気配で分かった。

 ――だが。

 もう準備は整っている。

 

「宝具解放。我が最終式、終局的犯罪をここに証明しよう――『ザ・ダイナミクス・オブ・アン・アステロイド』!」

 

 魔弾の射手は必中のスキルを有している。だから狙いなど付ける必要はない。引き鉄を引けば、それは因果を捻じ曲げてでも、必ず標的に(あた)るのだ。

 瀑布のような轟音が響き、魔弾が射出される。

 高密度の魔力の固まりは、不可思議な軌道を描いて、自分の背後に迫っていたホームズの体に過たず突き刺さった。

 

(仕留めた――!)

 

 ああ、なんとも、他愛ない――モリアーティは鼻から息を吐いて、どこか残念そうに話微笑んだ――これがあの強敵だったとは。ライヘンバッハで死闘を演じたのが、まるで夢の中のことのようだ。……今の方が“夢”だとは、よく分かっているのだが。

 ホームズは何度か瞬きをすると、長い溜め息をつき、ふいと他所を向いた。

 

(――ンー、やはり……)

 

 やはり、何か違和感がある。あのシャーロック・ホームズが果たして、こんなあっさりと、こんなハッキリと、諦めた顔をするだろうか? ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()が、モリアーティの判断を鈍らせた。

 

「キャスター!」

 

 彼のマスターが焦りきった声で叫び――次の瞬間、左手を掲げた。

 

「【令呪を以って命じる! キャスターの霊基よ、復元せよ!】」

「――よくやってくれた、マスター!」

 

 霊基の消滅が止まった。ホームズの顔が豹変する。

 

(チィッ)

 

 モリアーティは心の中で舌を打った。

 

(やはりあの時のライダーの復活は、令呪によるものだったか!)

 

 あの現象を検証する時間がなかったのが、ここへきてあだとなった。おそらく、ホームズは検証を重ね――そして、わざとあのような表情を見せたのだ。

 

(まったく……らしくないネ、名探偵! 一瞬でも、()()()()()()()()()()()()()()()()!)

 

 何事もなかったかのように、ホームズが殴りかかってきた。棺桶を盾にする。

 と、明らかに刺突でない衝撃が二度、三度と棺桶にぶつかり、ホームズが頭上を飛び越えていった。背後に着地したのを追って、振り返る。

 

「ぐっ」

 

 ステッキの先が腹部に突き刺さった。が、これはわざとだ。――ランサーと違って、こういうことが出来るから良い。

 鎖を巻きつけて、得物を叩き落とす。

 ――した瞬間、ハイキックが頭部めがけてとんできた。

 だがそれも予測済み。対応できない速さでもない。首を傾けるだけで躱し、棺桶に手をかけて、後ろに跳ぶ。距離を詰めようとしたホームズへ、自分のステッキを投げつける。

 ホームズはそれを受け止めず、背後に流した。

 

(ふむ、さすが、天賦の見識の持ち主――)

 

 彼の背中の向こう側で、ステッキが爆発した。爆風を背に受けてさらに踏み込んでくる。バリツ――日本式レスリングとボクシングに、フェンシングと棒術を織り交ぜた謎のマーシャルアーツ――が炸裂する。

 それをガードし、或いは躱し、光線には射撃で対応する。

 互いの手の内を互いに読み切っている戦闘には、ある種の安心感すら覚えてしまう。台本のあるプロレス、または練習を重ねた殺陣のようなもの。

 とはいえ、いつまでも遊んでいるわけにはいかない。

 

(切り札はもうないからネ……)

 

 ここからは純粋な実力勝負になる。サーヴァントとなったホームズが何か隠し持っていれば話は別だが――それをこの局面で出し惜しみしてまで、“一度撃たれる”という危険な橋を渡るとは思えない。

 

「何を狙っているのかね、名探偵!」

「さて、何だと思う?」

 

 涼しい顔で問答に応じながら、ホームズは自分のステッキを拾った。打ちかかってきたのを棺桶で受け、競り合う。

 

「……君の()()()()は、どんな人間だった?」

「――」

 

 何気なく尋ねた瞬間、ホームズの目の色が変わった。

 

「マスターのことを言っているのかい? それなら、君の目も節穴になったものだ。彼は僕の助手ではないよ」

「なら、言葉を改めよう。君のマスター、彼は犯罪者だろう? 探偵が犯罪者の指示に従う、とは、どんな気分だったのかね?」

「……」

 

 ホームズは苛立ったように、無理やり、力任せに競り合いを終わらせた。彼の手の中でステッキが翻り、刺突が一度。二度。三度。実に単調な攻撃だ。容易く躱して、棺桶を大きくぶん回す。それを真正面から受けて、ホームズの肢体が吹き飛んだ。

 

(ああ――なるほどね、わかったよ、ホームズ。これなら――)

 

 勝てそうだ、と思った。

 その瞬間だった。

 

「【令呪を以って命じる! アーチャー、魔弾を以ってこの男を撃ちなさい!】」

 

 模倣者の声。令呪が発動し、魔力が集束する。

 モリアーティは顔を引き攣らせた。

 

「マズい――これは――七発目だ」

 

 意思に反して、引き鉄が引かれる。

 ホームズのニヤリと笑う顔が、暗闇の中に浮かび上がった。

 



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第6章
クライマックス・イヴ


 流星のような光が夜闇を切り裂いて――その魔弾は、放った者のもとに返った。まばゆい光がモリアーティの体を射貫き、消える。

 わざと吹き飛ばされてみせたホームズが、平然とした顔で戻ってくる。

 

「最も大事に思っているもの――やはり、自分自身だったか、アーチャー」

 

 両膝を地について、モリアーティはホームズを見上げた。

 

「最後に聞かせたまえ、ホームズ」

「なんだい?」

()()()()()()()()()?」

 

 ホームズは目を細めて笑った。どこか寂し気にも見えるその表情は、モリアーティの指摘が正しいものであることを如実に語っている。

 それから彼は改めて、

 

「ああ、その通りだ」

 

 と頷くと、溜め息をついて表情を消した。

 

「――フッ、ハッハハハハハハハ! なるほど! そういうことか!」

 

 モリアーティは呵々大笑する。彼の体は金色の粒子に変わりつつあった。残された時間はあと僅か。

 

「いやはや……最初の反応を見た時からねぇ、おかしいと思っていたのだよ。君が私を忘れるなんてことはあり得ない――一度でも“会った記憶があるのなら”。いや――記憶があっても、実感が伴わなければ、君にとっては切り捨てるべき感傷の部類に入るのか」

「気付くのが遅いよ、アーチャー。座に座りすぎて脳味噌が溶けたのか?」

「私ももういい歳だからネェ。最近物忘れが激しくって」

 

 と、モリアーティは、ニヤリと笑った。

 

「これは普通の聖杯戦争ではない。あらゆる面で、劣った聖杯戦争だ――ということを、すっかり忘れていた」

「……」

「だから君は、本来のホームズと違って、不完全だ。不完全だから――私を、無傷で、完全に殺し切れた」

 

 ホームズは、実につまらなそうな顔をして、ちょっと肩をすくめてみせた。それはまるで、分かりきっている数学の答え合わせを、丁寧にやられて、うんざりする学生のようで。

 モリアーティは鼻から息を吐き出して、ゆるゆると頭を振った。

 

「マァ、君に負けるのであれば、物語上は“正しい”と言わざるを得ないのだろうネェ……本来の君でない君になら、負けたところで大して腹は立たないし。――次は、世界の最果て、泡沫の夢の中で会おうじゃないか。その時には、カクテルの一杯でも奢ってやろう」

 

 その言葉を最後に――

 

 ――彼は、完全に姿を消した。

 

 沈黙は祈祷でなく、静謐な場は安寧の墓所ではない。

 静寂は、次の戦争への八分休符。

 ホームズは振り返った。

 そこには、地面にへたり込んで呆然としているアーチャーのマスター――模倣者と、彼女に向けて拳銃を構えているキャスターのマスター――ジョン・ワトソンがいる。

 

「さて――」

 

 ホームズは唇の前で、その長い指の先端を軽く合わせ、ゆっくりと目を閉じる。

 そして、言葉を紡ぎ出す。

 

「ジョン・ワトソン。奇しくも、僕の親友となる男と同じ名を持つ、僕のマスターよ」

 

 彼にとってはそれが唯一にして最大の武器である。無論、バリツとかいう謎の体術を修めてはいるが、それにいかほどの致死性があろうか。

 言の“刃”の方が、よほど鋭く、毒を持つ。

 おもむろに、瞼が開かれる。

 

「ここがクライマックスであることは、もはや言うまでもないだろう。――覚悟は、できているな」

 

 すべての光を飲み干すような――すべての闇を見通すような――恐ろしいほどに透明の眼差しが、ホームズに相対する男に照準を合わせる。

 ワトソンが、半歩後退る。

 ホームズは唇の端を吊り上げて、

 

「機は熟した。それでは、謎解きを始めよう」

 

 刃を振り上げた。

 

「さしあたって、我々の出会いにまで遡ることにしようか。といっても、事件はその時には既に、終わっていたのだが、ね――」

 

 



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ホームズ 1

 初戦が、ライダーの死をもって終わった、ほんの一時間後のことである。

 ホームズは現場を訪れた。

 そこは閉店したばかりのスーパーの駐車場だった。閉店したばかりであることは、見れば分かる。シャッターが閉ざされているだけで、塗装や看板などはすべてそのままであるからだ。

 まさか壮絶な戦場になろうとは思いもしなかっただろう。

 ホームズは霊体化したまま、その場に膝をつく。ランサーと虎――ホームズはバーサーカーだと睨んでいる――が争っていた場所だ。

 凄まじい攻防だった。ビデオで見た通り。

 凄まじい攻防だったのだろう。映像以上に。

 アスファルトが抉れ、削れ、戦争の――文字通り――“爪痕”を残している。

 血痕は残っていない。

 

(あれほど深く傷つけられていたのに?)

 

 ランサーの方はともかく、虎の方は、それなりの深手を負っていたはずだ。しかし現場に血の跡は残っていない。それどころか、爪の欠片、毛の一本すら残っていないのだ。

 ホームズは寸の間考えて、すぐに動いた。

 すぐ脇の建物の中に入る。使われていないビル。放置され始めて半年ほど、と判断したのは、埃の厚みから。

 二階に上がる。戦闘の余波を受けて、埃はすべて取り払われている。壁に大きな穴が開いていた。そこから夜風が舞い込んでくる。

 手榴弾のピンが落ちていた。それから空の薬莢。

 ランサーのマスターの血痕。結界の痕。

 ランサーの血痕。

 

(こちらの血痕は残っている……バーサーカーだけ特殊? 何が? ……零基が? 存在が?)

 

 アスファルトに焼け付いているのはタイヤの跡。随分と細い――ホームズには、見慣れた細さのタイヤ。

 

(二十世紀初頭に使われた自転車のタイヤ――読唇した内容は嘘ではなかったわけだ。ジョン・パー。自転車斥候を役目とする二等兵。第一次世界大戦最初の犠牲者。すなわち、“ガンナー”と言ったのは嘘……――)

 

 ――しかし、なぜ嘘をつく必要があった?

 

(聖杯からの知識によれば、マスターは相手のサーヴァントのステータスを見る目を持っているはず。隠蔽工作が出来るサーヴァントであれば、一部ステータスは隠せるかもしれないが、クラスまで隠蔽するのは不可能……まして近代の、このレベルの英霊ともなれば、そのような高度な隠蔽は出来ないだろう。つまりクラスを偽るのは本来不可能であるはず――それをしようと思った、そしてそれがまかり通る、ということは?)

 

 その先の言葉が。

 今はまだ、出てこなかった。

 ただ、小さな疑念が芽吹く。

 

(……マスターは、僕に何か隠しているのかもしれない。これは、僕が知っている聖杯戦争ではない可能性がある。マスターはランサーに関して、『隠蔽を考える奴だっているだろう』と言った。ここから、彼がステータスを見る目を持っていないことは確か……いや、あえて見えない演技をした可能性も捨てきれないが、どちらにせよ、だ。隠し事をしていることは間違いない――……聖杯戦争以外にも、ね)

 

 ホームズは脳内で、『これからしばらくの懸案事項』というラベルを貼って、このことを棚の中にしまうと、次に目を向けた。

 穴から外へと飛び降りる。

 爆発の形跡。

 ランサーとライダーの血痕。

 

(ランサーは一度、ライダーを仕留めた。だが、ライダーは復活した。なぜ?)

 

 情報が足りない、と判断すれば、懸案事項、として脳内の棚に並べる。

 

(復活したライダーはランサーを追い詰め――そして、ここで、何者かに狙撃された)

 

 ホームズは、ライダーが最期を迎えた場所に跪き、周囲を見回した。狙撃できそうなポイントはいくつかある。しかしいずれも、近すぎる、あるいは遠すぎる。近すぎれば感知されるはずであるし、遠すぎれば霊核を貫くほどの威力は出せまい。

 

(アーチャーの英霊なら、届かせるかもしれないが……果たして、それほどの威力を出せるのか?)

 

 最も遠く、しかし最もこの場を見通せる高層ビルは、跪いたホームズの目線の先にあった。

 

(ライダーは胸の辺りを貫かれていた。彼の身長は約百六十八センチ。貫かれた位置はだいたい地表から百五センチ――そこからビルまで直線で結ぶと、最上階から撃ったとしても、目の前の建物を貫通させずに当てるのは不可能。そもそも、ライダーは背後から撃たれた――が)

 

 ホームズは振り返り、その先に、ここより高い建物がない事を再度確認する。

 

(つまり、弾は不可思議な軌道を描いたということだ――なのに、霊核を一撃で貫き、滅ぼすほどの威力――なぜライダー一騎のみを仕留めて撤退した? ――高威力ゆえの弾数制限の可能性――)

 

 両手の指先を唇の前で軽く合わせ、目を瞑り、彼は思案する。

 その姿はしかし、『祈りを捧げているようだ』とはお世辞にも言えない。

 当然である。

 彼は死者に敬意を示してなどいない。

 彼は旅立った魂の安寧を願ってなどいない。

 彼が敬意を示し、願うのだとしたら――それは、謎を残してくれたことに対してであり、そしてそれがどうか自分を退屈させないものであるように、ということだけである。

 ホームズは立ち上がった。

 次の現場へと足を向ける。

 

 

 

 バーサーカーは唐突に最初の戦場へと背を向けて、マスターのいる場所へと舞い戻った。

 

(マスターが呼んだ? それとも、バーサーカー自身の判断か?)

 

 ホームズは、まだ大口を開けている壁から家の中を覗こうとして――やめた。結界が張られている。人払いと視線避けの結界。日本式の術であることが分かる。やけに丹念に張られた、そして年季の入った結界だった。

 

(覗き見た感じでは、彼は魔術師ではないようだったが……一体誰が?)

 

 何かわけがありそうだ。棚の中に並べる。

 ホームズが覗き見用にと放った使い魔――不正規連隊(ベイカー・ストリート・チルドレン)――は、アサシンの攻撃を受けて、砕け散ってしまった。

 

(あんまり早く脱落者が増えてもつまらないと思って、あえて飛び込ませたのだけれど。アーチャーの狙撃の秘密が分かるまでは特に、頭数は減らしたくない。……いや、しかし、少々惜しかったか)

 

 これで、戦況を見る目は失った。といっても、そこまで惜しいとも思っていない。

 リアルタイムで見なくとも、ある程度は結果から遡れる。

 場合によっては、結果のみを見た方が、先入観なく捉えられることすらあるのだから――ただしこれは、ホームズに限る。

 

(アサシンは男性――のように見えたが、確定ではない。東洋人にしてもやや身長が低すぎるからね。セイバーは中世の騎士だろう。甲冑の型からしてドイツ地方の人間――アサシンの攻撃に対して即座に右腕を差し出した――義手の可能性――敏捷値は虎にもランサーにも劣るが、戦闘経験はそれなり――どちらかというと、一対一、対人戦の方に優れているような立ち回りだった――騎士、一対一、といえば、フェーデ――義手――鉄腕のゲッツ? いや、だとしたら、あの年齢では、明らかに全盛期とは言い難い――)

 

 とは思えど、義手を扱う老練の騎士、などに心当たりはなく。

 やはりホームズはこのことも棚に並べる。

 脳内の棚がいっぱいになると、少しだけ心が躍るのを感じた。

 

(謎は解いている時が一番楽しい。惜しむらくは――……)

 

 と、考えて。

 ホームズはふと、動作を止めた。それはパソコンのフリーズによく似ている。精密機器、ゆえにノイズは許されず。ノイズの原因を探って思考が奔る。

 

(……何が、惜しいんだ? 僕は一体、“何が不足だと感じている”?)

 

 先程までとはまったく種類を異にする動悸に見舞われ、ホームズは胸元を押さえた。

 

(欠乏? 不安? 焦燥? 恐怖? ――……こんなことを考える、“僕”は“一体”“何者”だ?)

 

 は、と、彼の思考が引き戻されたのは、パトカーのサイレンが耳に届いたからだ。

 事件の匂いを嗅ぎつけて、駆け付けない探偵ではない。

 考えは丸めて棚の奥底に放り込んだ。走り出す。

 

 

 

 パトカーは山間の旅館に停まった。辺りに民家はなく、街灯も立っていないが、夜はもうそろそろ明ける頃である。随分とその闇は薄まっていて、その分、浮き足立った従業員たちの挙動が目立っていた。

 ホームズは館内へ入る前に、路面に膝をついた。

 

(焼かれた紙屑……焼く必要があった紙――メモ、暗号、それ以外――煙草の火で簡単に燃えるような素材――)

 

 霊体化を解いた。僅かに残った燃えカスを指先に押し付け、においを嗅ぐ。すぐにまた霊体化する。

 

(この葉巻は……どこの葉だ? いくつかの種類を自分でブレンドしたかのような、不思議な香りだ……しかし嗅いだ覚えが、あるような、ないような……)

 

 奇妙な既“嗅”感を頭にとどめつつ、ホームズは旅館の中に入った。

 結界の痕が残っている。西洋式。侵入者の足跡はない。どうやら死んだのは魔術師らしい。

 客室に入る。布団や枕があちこちに散らばった室内。その中央で、数人の警官が死体を取り囲み、細々とした採取やら計測やらを行なっている。ホームズは霊体化したまま、死体に近寄った。

 亡くなったのは女性。二十代半ば。右手に拳銃を持っている。撃ち抜かれたのは右のこめかみ。周囲には細かな白い紙が、紙吹雪のように散乱している。

 

「自殺だな」

「自殺ですね」

 

 早々とそう断じた警官が、彼女の手から拳銃を取り上げた。その時に右手が持ち上げられて、甲が晒される。

 

(令呪の痕――!)

 

 使い切られた令呪の痕跡が、薄く残っていた。

 ホームズの頭が急発進を切る。

 

(聖杯戦争のマスター。誰の、だ?)

 

 視線を右に振る。ゴミ箱の中。服のタグ。男児用のシャツやズボン、ブーツ。

 

(つまり、ライダーのマスターか。隠蔽のために買った服だろう。ということは、昨夜の敗北が原因で自殺? ……いや、何かおかしい。敗北を嘆いて命を絶つような人間が、部屋を荒らすだろうか? 部屋の荒れは怒りの表出――怒りの果てに死ぬ、ということが、無いとは言えないが――死に至るならばそれなりの決定打が必要になるだろう)

 

 視線を左へ。彼女の荷物を検めていた警官が、パスポートを開いていた。

 

(エリーヌ・ジオネ。二十五歳。フランス国籍。イギリスから日本へ、四日前に到着)

 

 もう一度、視線を中央へ。エリーヌ・ジオネの死体を検分する。自分の手で動かせないのが少々厄介ではあったが、それでもギリギリまで迫ることは出来る。

 

(外傷はなし。争った形跡もなし。魔術師が侵入者に対し枕を投げて迎撃するとは考えにくい――まったくあり得ない、とも言い難いが。……右手の親指に噛んだ痕。おそらく、自身の癖だろう。皮膚が裂けて流血の痕がある――……待て、それならば)

 

 ホームズは踵を返した。回収された拳銃を見る。

 

(撃鉄に血の跡が無い……)

 

 左手で撃鉄を起こして右手で撃った、とは考えにくい。怒りが原動力になったのならばなおさら、そんな手順を踏む余裕はなかっただろう。

 となれば、結論は一つ。

 

(――自殺ではない。殺人だ)

 

 一体誰が、何のために、敗北したマスターを殺したのか?

 ホームズは膝をついて、散らばった紙切れを見た。鋭利な刃物で切られたように、その切り口は真っ直ぐだが、一方で、切られ方は均一でない。適当に八つ裂きにした、というのが妥当である。

 

(怒りのままに引き裂いたなら、手で千切るのでは? わざわざ魔術を使ってストレスを発散した? いや――)

 

 さらに、周囲に目をやる。エリーヌ・ジオネの持ち物。旅館の備品。

 

(――これと同じ素材の物は、ここにはない。外から持ち込まれたものだ――つまり、紙を扱う魔術師による襲撃――)

 

 ならば、外に残っていた焼け跡も、同じ人物によるものだったのだろう。

 ホームズは目を閉じた。

 

(……なぜ、外のものだけ焼いた? そこまでするのなら、この部屋の紙切れを残していくのはおかしい。行動が一貫していない。そもそも、紙ならば焼くのではなく持ち帰った方がよっぽど確かな証拠隠滅になる。……外に出した紙だけが特別? あるいは――)

 

 ――使った人間と焼いた人間は別?

 ――あるいは、そう思わせるための工作?

 覚えず、唇の端が持ち上がる。懸案事項がたくさん並んだ脳内の棚を、瞼の裏で眺めて、悦に浸る。これを少しずつ少しずつ、時にはいっぺんに、棚から取り出して空へ放つのが、最高に楽しいのだ。

 瞼を開ける。

 

(彼女に関する懸案事項は、あと二つ――)

 

 ――なぜ、彼女の令呪は二画しかなかったのか?

 

(彼女の右手には明らかに令呪の痕があった。しかし、どう見ても二画分しかなかった。マスターには三画の令呪が配られる、というのが聖杯戦争の通例だ。……やはり、この聖杯戦争はどこかがおかしいらしい。そういえば、僕のマスターは常に手袋をはめているな……あれは、令呪を隠すため、か? 誰に対して?)

 

 ――その二画を、どのタイミングで使い切ったのか?

 

(彼女が令呪を切ったのは、一度だけ――ライダーが霊核を貫かれた瞬間に、一度きりだ。つまり、あの一度にすべての令呪を投入した、ということだろう。そうするつもりだったのか、あるいは、令呪への命令内容が二画使用を要求するようなものであったのか……だとしたら、何を命令した? ……霊基の再生?)

 

 ホームズは脳味噌をぐるぐると働かせながら、旅館を後にする。見るべきものは見た。知るべきことは知った。解剖をすればもう少し分かりそうなものだが、自殺した外来の客人を開くとは思えない。あてには出来ないだろう。

 旅館を出ると、すっかり夜が明けていた。晩夏の朝。すでに暑さを予感させる太陽。

 

(……さて)

 

 ホームズは何気なく振り返り――立木の上に使い魔の気配があるのを確認すると、そのまま歩き出した。

 

(今後この能力が必要になる時も来るだろう。その前に、仕掛けておくべき、か――)

 

 

 



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ホームズ 2

 単独行動スキルを保有していないサーヴァントの活動限界は、ホームズの場合、マスターを中心とした半径二キロ程度だった。サーヴァントによって個体差はあるかもしれないが。

 

(……なるほど。これ以上行くと、その先はマスターからの魔力が供給されなくなる、と)

 

 そのことが肌で感じられる。

 

(が、別に、自力で魔力を生成できるのなら、問題ないだろう)

 

 マスターに向かって“工房はここだ”と頭を指差したのは、嘘ではない。原典に忠実にいうならば、彼の工房はベイカー街の221Bであるべきかもしれない――が、彼が“工房”で事件を解決した例は、何件あるだろう。ホームズはほとんどの場合動き回り、走り回り、現地で頭を働かせては事件を解決してきた。つまり、頭脳が工房でありそこが働く限り魔力は尽きない、と定義すれば、それは無理のない論理として成立する。

 ちらりと振り返ると、木の上に使い魔がいるのが見える。

 

(……マスターだな)

 

 己の体内を巡る魔力と、まったく同じ波長をしている。

 

(気付かれない――とは、思っていないだろう。気付かれると想定の上で、わざと送ってきている。つまり――)

 

 ――僕の行動を制限するための、牽制だ。

 常に見ている。だから余計な真似をするな、と。

 それは裏を返せば、()()()()()()()()()()()()()()()()()という意味である。

 ホームズはしばし考えた。

 時刻は朝九時を過ぎ、駅前からかなり離れたこの辺りにもそれなりの人出がある。とびきり声の大きい大学生の一団が、向こうから歩いてきている。ホームズはそれとすれ違い、彼らの背後を通って右に曲がった。

 ちらりと振り返ると、使い魔は少し狼狽えたように、きょろきょろと辺りを見回している。

 

(……まぁ、あの程度の使い魔に見破られるようでは、変装のスキルを保有している意味がないんだけれど)

 

 すれ違うと同時に霊体化を解き、サラリーマンに扮したのだ。

 そのままマスターの支配圏から出た。

 目指す場所は決まっている。

 

 

 

 表札にはアルファベットで「WATSON」と書かれている。最近はローマ字表記の表札も増えてきているから、普通の家にアルファベットの表札でも、あまり浮いている印象は与えないだろう。

 昨日出てきたばかりの、マスターの家だ。

 ホームズは変装を解くと同時に霊体化して、家の中に入った。

 ごくごく普通の一般的な家だ。適度に汚れ、適度に片付けられた、清潔な家。特筆すべきところなど何もないように思える、見本のような家――

 しかし、ホームズの目はノイズを捉える。

 昨日ざっと見た時に、すでに違和感は覚えていた。

 台所に踏み入る。普通のダイニングだ。何の変哲もない、どこか野暮ったさの残るタイルの床には、半地下の貯蔵庫に繋がるであろう跳ね上げ式の蓋がある。四足の大きなテーブルの上には、中身のない花瓶が置かれている。マグネットの類は一切付けていない白い冷蔵庫。ホーローで出来ているシンクとコンロ。いずれもいずれも非常に綺麗で、不審な点は何処にもない――ように見える。

 だが。

 

(綺麗すぎる。これは、掃除で出来た綺麗さじゃない。それ以前の問題として――この家は、()()()()()()()()()使()()()()()()()

 

 証拠などいくらでも挙げられる。冷蔵庫の製造年月日、ガスボンベの交換期限、その他細かな調度品の傷み具合――ホームズが来ることを想定していたとは思い難い穴だらけの偽装だが、ホームズ以外ならば確実に誤魔化し通せる程度には()()()()()()()()。内装を普遍的なものにしたのも、違和感を出来るだけ抑えようとした結果だろう。

 

(周りの人間に聞き込みを――しても、無駄だろうな。やはり、魔術師は推理の大敵だ)

 

 記憶など阻害されているに決まっている。周囲の人間にとって、マスターとその恋人は二年前からここに住んでいる仲睦まじい外人カップルでしかなかっただろう。――裏にどんな顔を隠しているかなど、気にもしなかったに違いない。

 

(何か隠しているのだろうと思って、こちらも気付かない振りをしていたが――間違いないな。マスターは何かを隠している。……まぁ、その内容も、なんとなく分かってはいるのだけれど。――……であれば、マスターの言葉には矛盾が生じる)

 

 つい昨日のやり取りを思い出す。

 ――思い入れのある家なのかい?

 ――うん、まぁ……こっちに来てから、ずっと住んでいるからね。

 マスターが日本に来たのは、二年前だ。パスポートを覗き見て確認したのだから、そこに疑いはない。恋人のパスポートも一緒に保管されており、恋人――サラ・メイヴィルも同時に入国した。だが、彼らが最初に住んでいた場所はここではない。果たしてそんな家に、“思い入れ”があるだろうか?

 ――そうだよ、君の言う通りだ。恋人がいた。一カ月前に別れたけどね。

 ――それが、ここを離れる理由?

 ――……数ある理由の内の一つであることは認めるよ。

 ここは上手く嘘を避けた。こう言っておけば、もう一つの理由、つまり“本来の工房がここではない”という理由に、大抵の人間は目を眩ませる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ホームズはおもむろに霊体化を解くと、床下収納へ手をかけた。

 金属製の取っ手を引き上げて、蓋状の扉を開く。

 プラスチックの内蓋があり、その下にケースが一つ。缶詰や酒、調味料、保存食の類――冷暗所を好み、長期保存の出来る品々が、几帳面に並んでいる。

 

(――おや……?)

 

 底に、細く灰色の筋がある。元からある模様ではない。まるで、ぽたりと落ちたペンキを、消すことを目的に擦った結果そうなったかのような、不自然に細く、歪んだ線。

 ホームズはケースの中に頭を突っ込んだ。普通、このサイズの家に付属するこの手の床下収納は、可動式になっており、二、三個のケースが連結しているものである。事実、隙間から覗くと、暗闇は隣りの空間へと続いている。

 しかし、

 

(固定されている)

 

 何かで止められているらしく、まったく動かせない。がたがたと揺らすことすら出来ないから、相当きっちりと固定してあるようである。

 

(あからさまに怪しいな)

 

 こういう時だけ、己も魔術師(キャスター)のクラスで現界していることを感謝した。魔術に頼れば、この程度の固定など瞬時に――

 

(――っ、勘付かれたか)

 

 ホームズは咄嗟に霊体化し、気配を遮断する魔術を行使した。

 その一秒後――マスターの使い魔が窓から目をのぞかせた。ガラスをすり抜け、中に入ってくる。

 

(……今は、これ以上は無理か。どうやら、僕のマスターはそこまで凡庸ではないらしい)

 

 ホームズは使い魔に察知されないよう、細心の注意を払いながら、家を出た。

 



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ホームズ 3

 

(アーチャーが今回、一番の脅威だ)

 

 そうマスターに伝えたのは、決して嘘ではない。自身の火力に自信がない以上、他の誰かにどうにかしてもらう他、この聖杯戦争を制する術はない。

 だから、ランサーとセイバーの一騎打ちだけは、どうしても避けなくてはならなかった――彼らがいなくては、アーチャーを制する駒が足りなくなってしまうと分かっていたからだ。マスターを急かして、どうにか介入したのだが、間に合って良かった。

 

(おかげで、セイバーとランサーの真名も分かったことだし)

 

 特定の条件下――一対一の決闘――において、極端に能力が制限される。その特性は、サーヴァントを強く規定する。すなわち、やはり最初の見立て通り、セイバーはゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲン。隻腕の盗賊騎士。彼は老年に至って、決闘放棄の誓約(ウアフェーデ)を結ばされている。であるならば、あの不自然な弱りようも、自分が介入した後の素早い回復も、納得が出来る。

 ランサー。二十歳前後の青年。金髪碧眼、ドイツ系の顔立ち。明らかに女性慣れしていない対応。常にはにかんでいるような、ゆったりとした喋り方。槍。近代ドイツの軍服。騎士道を持ち合わせている。以上の条件を満たした上で、英霊になりうる存在は――マンフレート・フォン・リヒトホーフェン。彼しかいない。

 問題はやはり、“両者とも明らかに全盛期でない”ということである。

 実際、ランサーの方は特に、その点について思い悩んでいるような顔をしていた。

 

(もう一つ、確認できた。――やはり、令呪は二画しか持っていない)

 

 気絶していたセイバーのマスター。彼の右手に刻まれた令呪は、ライダーのマスター同様、やはり二画しか無かった。

 

(これで、通常の聖杯戦争でないことは確定した)

 

 ――令呪は二画のみ。

 ――サーヴァントは全盛期でない。

 現段階ではこの二点がハッキリしたわけだが……これら以外にもなにかありそうだ。

 何より、これらの情報を()()()()()()()()()()()()が分からない。

 

(これらのことを僕に伝えたら、何か不都合があるのだろうか……?)

 

 懸案事項の瓶がいくつか空き、一つだけ増えた。

 

(やはりこの戦争、マスターのことを探るのが、最も勝利に近付ける方法だな)

 

 ただ、その“勝利”はあくまで、“ホームズ自身にとって”のものである。

 

(さて――)

 

 拠点から、マスターが出てきた。時間が時間だ、周りを気にする様子はなく、淡々とした調子で歩いていく。魔術による索敵だけは行なっている――が、今のホームズは、そのマスターの魔力を貰って稼働している存在だ。すでにマスターの魔力の分析は終わっている。故に、その索敵の目をかいくぐることなど、赤子の手をひねるより容易い。

 マスターは竹林の中を音もなく抜け、確固とした足取りでどこかへと向かっていく。

 

(どこへ行くのだろうかな)

 

 方向は――ついさっき、戻ってきた道を再び辿っている。だが、ランサーと対峙した場所とは少し違う。

 しばらく経って、マスターは大きな日本家屋の前に立ち止まった。

 表札を見れば、「上之宮」と書かれている。

 マスターはその中へ入っていった。

 ホームズはそれを追わず、家の周りをぐるりと一周する。

 

(血痕……弾痕……)

 

 アサシンが仕留められたことは感知していた。

 同時にアサシンのマスターも殺されたらしい。生気を失った左腕が路面に落ちている。その手の甲には令呪の痕が残っていた。

 だが、殺害現場はこの場所ではなく――残留した魔力がずっと東に伸びている――向こうのビルだろう。この距離、この角度なら、狙撃も可能である。

 

(狙撃したのは人間。狙撃された後、アサシンのマスターは移動し、狙撃者の元へ。そこで殺された、か。……この魔力の波長、バーサーカーの拠点に張られていた結界と同じものだな)

 

 つまり、アサシンのマスターと、バーサーカーのマスターには、何らかの繋がりがある――それも、アサシン側が一方的に守るような、そんな繋がりが。

 

(事情が分かれば、たきつける材料にはなるだろう。が――その辺りのことは、おそらく戦況には関係ない。ここに僕のマスターが来たからには、彼に何かしらの考えがあるようだし……彼の動きの結果を見てからでも、遅くはなかろう)

 

 そう判断して、ホームズは上之宮家に背を向けた。

 

(マスターはしばらく、アサシン関連のことで手一杯になるだろう。――今が、最大のチャンスか)

 

 行く場所は決まっている。昨日調べきれなかった、マスターの家だ。

 

 

 

 人のいない家は、夏にもかかわらずひんやりとしていた。気温ではなく、雰囲気の話だ。

 台所の床下の収納庫。

 

(DIYは嫌いじゃない、か)

 

 あの言葉が嘘だったかどうかなどあまり関係ない。秘密基地を作った時に余ったモルタルを、ここに利用したのだろう。

 固定されているのを、出力を絞ったルーペの光線で溶かし、剥がす。

 一つ目のケースを取り外し、床下から出す。

 床下を覗き込むと、隣には二つ目のケースがあるものの、その中も外も完全にモルタルで埋められていた。

 再び、ルーペを利用してモルタルを剥がす。まずは外側を削りきって、底に取り付けられたローラーが機能するようにする。引きずり出す。

 

(ふむ、こういうところはサーヴァントのよいところだね。こんなに重たいもの、普通の人間だったら引きずることすら出来なかった)

 

 真上から、内側のモルタルを少しずつ溶かす。

 

(僕の予想が正しければ――)

 

 ――見えてきた。

 溶けたモルタルのにおいに、かすかなアンモニア臭が混ざる。

 

(……やはり、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 頭部が完全に現れたところで、ホームズはそれ以上掘り返すのをやめた。蝋化し始めている部分と、腐敗している部分とがないまぜになっている。体育座りのような状態で置かれているらしい。そっと頭部を持ち上げると、名状しがたい奇怪な音を立てて、あっさりと首が抜けた。あるべきものを失った眼窩は、虚ろな空洞に満たされている。何本か抜け落ちた歯。ゴールドのピアスを着けた耳。ぼろぼろになった茶色い髪が、腐った肉に貼り付いている。

 

(女性。三十歳の手前。少しえらが張っている。――頭部に外傷なし。歯に異状なし。皮膚にも異常はなし。死因の断定は不可能。――仮に、彼女の死亡がマスターの言葉通り、一ヶ月前だとして。気温、環境から腐敗のスピードは……まぁ、妥当だな)

 

 一ヶ月前に恋人を殺害。それから一、二週間後に聖杯戦争の開幕が決定する――それも、この場所で――果たしてこれは偶然だろうか?

 ホームズは少しだけ考えを巡らせ、それから動き出した。

 死体の入ったケースを一旦取り出し、食料の入っている方を先に奥へ入れ、それから死体入りの方を戻す。床下収納の蓋を閉める。この気温だ、二日も経たない内に、腐臭は隣家へ届くだろう。

 

(……一応、あとで仕掛けをしておこう)

 

 ほんのわずかでも計画がずれる可能性が見えたなら、それを潰すのは当然のことである。だが、その作業は後回しにして構わない。

 今は家探しが先だ。

 マスターの寝室には、恋人と撮った写真が置かれていた。少しえらの張った、茶髪の女性。歯並び。ゴールドのピアス。――死体との特徴は一致する。

 書斎に行く。召喚に使われた魔法陣は、綺麗に掃除されていて跡形もない。カーテンはきっちりと閉められたまま。本棚や散乱する書類は数日前に見たままである。

 ホームズは改めて部屋の中を見回した。

 ゴミ箱――レシート。請求書。手紙。メモ書き。

 机――本。ファイル。引き出し。手紙。手帳。ノート。

 

(恋人……サラ・メイヴィルの情報がほとんどないな。聖杯戦争のことも、ジャック・ザ・リッパーに関する調査と、過去に行なわれた聖杯戦争の詳細のみだ)

 

 召喚されたその日に探索して得た情報と、ほとんど変わりがない。しいて新たに気付いたことと言えば、ゴミ箱に入っていたレシートくらいだろうか。

 

(僕が呼ばれる四日前に、通販で大量に購入している。『墨雲院 板締』――何のことを示しているのか、確かめる必要がありそうだな)

 

 もう一度家の中を隅々まで見て回って――ちょっとした細工を施してから――ホームズは外に出た。

 夜が明けている。

 マスターの使い魔の気配はない。

 

(どういう心変わりだろうね……)

 

 ともあれ、監視されないなら好都合だ。『空家の冒険(エンプティー・ハウス)』――たぐいまれな変装能力――も、もうばれてしまっている。

 

(日が昇ったら、レシートの品目を確認して――それで、戻ろうか)

 

 懸案事項はだいぶ減った。まだいくつか残ってはいるものの、あとは自分の脳の中で仮説を組み立てていくしかない。

 ホームズは――やはり心のどこかに何か思うところを抱えながら、それを紛らわすように――あるいは、それを考えないために――懸案事項を眺めてはいじくりまわし、また脳内の棚に戻す。そうしながら、行動を再開した。

 

 



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ホームズ 4

 

「なぁキャスター、薬はそんな好都合なものじゃないよ。失うものがどれほど大きいか、よく考えてみるべきだ。間違いなく薬は脳の動きをよくするだろう。けれど、それはごく限られた一瞬限りの、不自然で異常な作用だ――」

 

 マスターが流暢に紡ぐその言葉の羅列が、響きが、どうしようもなく癪に障った。自分でも驚くほど心がざわついて、苛立って、腹が立って、脳味噌が沸騰した。こんなこと今までに一度もない。こんな風に感情が大きく揺れ動くことなど、ありえない!

 こんな自分など自分らしくない――と思っていながら、口が動くのを止められなかった。何より、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

()()()()()()()()()()()()()()

「――何のこと?」

 

 その男はとぼけた声を出した。それがまたホームズの不快感を増幅させた。吐いた息がドラゴンのブレスのように、炎を纏っているように見えた。それに続いて、腹の中に渦巻いたマグマのような感情が、そのまま溢れ出す――

 

「マスター、君は僕を……――いや、なんでもない」

 

 ――のを、どうにか抑え込んだ。頭を振って、雑念を飛ばす。

 

「少し出てくる。時間までには戻るよ。――僕がいない方が、君もリラックスできるようだからね」

 

 吐き捨てるように言って、霊体化し、拠点を出た。

 

 

 

 使い魔が少し離れた場所から自分を見張っている。それにもまた腹が立ったが、無理やり押し殺す。――あの男はもう僕の言動について諦めた。だからあのような真似をしてみせたんだ。使い魔を寄越したのはさっき僕が「昨日は使い魔を寄越さなかったね」と言ったから。特に何をしたいというわけでもない。

 意識して外部のノイズを取り除き、ホームズは目を瞑った。これから、()()()ノイズに向き合わなくてはならないのだ。

 

(考えろ。考えろ。考えろ。思考をフルに回転させろ。――見たくないなんて甘ったれたことを思うな。認めろ、受け入れろ。ありえないことを一つ一つ除外していけば、最後に残ったものが真実だ。――たとえそれが、どんなに信じられないものであったとしても……)

 

 自身が持っている“記憶”を掘り返す。丹念に、丹念に、丹念に――

 実感を伴って思い出せる記憶の内、真っ先に出てきたのは一つの事件。

 

 グロリア・スコット号事件。

 

 よく覚えている――これは大学時代に手掛けたものだ。これがきっかけで、探偵を生業とする覚悟が出来たのだ。

 ――だが、この事件を()()()()()()()理由は、本当にそれだけか?

 ――何百もの事件に相対した僕が、真っ先にこれを思い出した理由は、何だ? これよりももっとセンセーショナルでグロテスクな事件はいくらでもあったはずだ。なのに何故?

 ――己の生き方を規定したからか? いやしかし、よくよく考えてみれば、探偵になるきっかけはグロリア・スコット号事件だけだったか? それ以外の事件は、僕の生き方に影響を与えなかったのか?

 

(……人が記憶を保つ理由……印象深かったから。のちに必要となることが分かっているから。恐怖や愛情といった強い感情と結びついているから。――忘れた頃に、何らかの理由で、詳細に思い出したから)

 

 記録がある。グロリア・スコット号の話は、『シャーロック・ホームズの物語』として世に広まっている。世に広めた人物がいる。その()に向かって、()()()話したという記録がある。

 

 だが――それは“記録”だ。

 

 温度のない、ただの文字列。

 だから――

 

『―――――』

 

 ――声を、思い出せない。

 この才能を、唯一手放しで賞讃してくれた。やりすぎた時には常人らしく怒って、不機嫌になった。そのくせ、こちらの説明を最後まで辛抱強く聞いて、驚くほど素直に飲み込んで、やっぱりまた褒めるのだ。

 

『――――!』

 

 理解できないことははっきりとそう言い、理解できるまで付いてきた。危険だと言っても構わなかった。家庭をもった後でも、訪ねていって一言「事件だ」と言えば、顔中に喜びを浮かべて飛び付いてきた。電報で呼びつけた時も、平然とやってきた。そこにあるのは愚昧な妄信ではなくて、本物の信頼であり、友情だった。

 

『―――、――――』

 

 ――あの声を、思い出せない。

 ありえないことだ。信じられないことだ。だが、他に可能性はないのだ。ならばこれが、疑いようのない真実なのだろう。

 ――だから、あれほど腹が立ったのだ。自分を心配する声は、思い出すことすらできない()()()でなくてはならないのに――()とは似ても似つかない犯罪者の声が、記録の中の言葉を塗り替えようとしたから――腹を立てたのだ。どうしても、許せなかったのだ。

 ホームズは立ち止まって、天を仰ぎ、目を開けた。

 結論を、出す。

 

(――僕は、全盛期の僕ではない)

 

 だから、“何かが欠けている”と感じていたのだ。

 

(探偵では、ある。それは違和感なく自覚している。おそらく、一八七八年、二十四歳の頃の僕だ。……まだ探偵としては駆け出しで、モンタギュー街に住んでいた頃の自分だ)

 

 結論は出た。あの男――マスターによって揺らされた心はまだふらついているが、じきに落ち着いて、追い付いてくるだろう。それを待っている余裕はない。

 考えるべきことは、他にもたくさんある。この戦いを、己の勝利で終わらせるためには、立ち止まっている暇などないのだ。

 たとえ、話し相手がいないとしても。

 

(……まさか、ランサーに言った言葉が、自分に跳ね返ってくるとは思わなかった)

 

 ホームズは自嘲気味に笑った。

 再び、歩き出す。

 推理がぐるぐると頭の中を巡る。

 使い魔がその影をずっと踏んでいた――親ガモの後をついてまわる子ガモのように愚昧に。

 



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クライマックス

「さしあたって、我々の出会いにまで遡ることにしようか。といっても、事件はその時には既に、終わっていたのだが、ね」

 

 ホームズの目は、追い詰めたウサギへ今まさに食い付こうとする猟犬のように、らんらんと輝いていた。

 

「僕は魔術師ジョン・ワトソンに召喚された。だが、君は僕を召喚する予定ではなかった。君が聖杯戦争に参加した動機は、聖杯を手に入れることではなく、サーヴァント、ジャック・ザ・リッパーに会うことだった――ここまでのことに嘘はない。

 だが、そのジャックに会う目的が復讐、というのは嘘だ。まだ情報の少ない段階で僕に推理させることで、僕の目を欺こうと思ったんだろうが、それは愚行としか言いようがない。

 そもそも、君の恋人、サラ・メイヴィルを殺したのは、君自身だ。

 君は一ヶ月前に彼女を殺害し、家の地下収納庫にモルタルで埋めた。それから、聖杯戦争の準備に取り掛かった。

 では何故、ジャック・ザ・リッパーを呼ぼうとしたのか?

 ――ジャック・ザ・リッパーは殺人鬼だ。五人の娼婦を殺し、ロンドン中を恐怖に陥れておきながら、捕まることなく霧に消えた伝説の人物。彼――彼女かもしれないが――彼に会って、何をすることが目的なんだろうね。

 ここは、君自身の証言を聞かせてもらおうじゃないか」

「……」

「おや、だんまりかい。それはあまり頭の良い行動とは思えないね。まぁいい。君が喋らないなら僕が喋ろう。万一間違っていたら、後で訂正してくれ。

 思うに君は、()()()()()、あるいは()()()()()、ジャック・ザ・リッパーを求めたのではないかね?

 逃げ延び方を知りたかったのか、殺し方を知りたかったのか、それとも殺す時の心境でも聞きたかったのか、そこまでは分からないが。ただ会うだけ。聖杯はおろか、彼の能力すら求めないのだとしたら、あと彼に出来ることは、彼自身の経験を語ることだけだろう。そしてその“彼の経験”こそが、君の求めたものだった――

 ――何か、異議申し立ては?」

 

 男は力なく首を横に振った。すっかり諦めきっているような調子だった。

 

「よろしい。では次だ」

 

 ホームズは居丈高にそう言うと、不意に地面に座り込んでいる模倣者のもとへ近付いた。模倣者は怯えた目でホームズを見上げた。

 

「茶色い髪。えらの張った顔。僕はこの顔を知っているぞ。君の寝室の写真立ての中に入っていた顔だ――殺されたはずの、サラ・メイヴィルだ」

「え……わ、私は、私はぁ……」

「君は何て聞かされた?」

「……私は、神野麻子、っていう名前の、魔術師でぇ……“模倣者”だ、ってぇ……」

「なるほど。察するに君は記憶喪失に陥っているようだ。そして――ちょっと失礼」

 

 ホームズは彼女の手を取ると、ぐいと引っ張って立たせた。

 

「ああ、やはりそうか。()()()()()()()()()()()()()()()ね。何発か撃たれていたようだが、地面には血の跡も残っていない――奇遇だね。ついさっき消滅したアーチャーも、この僕もそうだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()んだよ」

「え――」

「正規の聖杯戦争ならまた少し違うのかもしれないがね。少なくとも今回は、僕らのような存在は、撃たれた瞬間、傷付けられた瞬間には血を流す。が、それは継続しない。すぐに消えてしまう。服は存在の一部だから、痕跡は残るだろう。だが――

 ――現実世界には、染み込まない。

 さあ、これですべてはっきりした!」

 

 ホームズは晴れ晴れとした顔で振り返った。

 

「今回の聖杯戦争は君たち二人の共謀だ。君たちが繋がっていることは、君の書斎に捨てられていた一週間前のレシートが証明している――『墨雲院 板締』――和紙の一種なんだってね。文房具屋に見せてもらったよ――あれは、ライダーのマスター、エリーヌ・ジオネの殺害現場に落ちていた紙とまったく同じものだった!

 さてさて、結論をまとめよう。ああやっぱり、途中経過を聞いてくれる人間がいないとまとまりが悪いね。だが仕方がない――

 ――神野麻子はサラ・メイヴィルが紙で作った“模倣”だ。

 ――君はサラ・メイヴィルを殺した後、あるいは殺す前に、彼女が自分のコピーを取っていることを知った。

 ――だが、神野麻子に、サラ・メイヴィルの記憶は受け継がれていなかった。

 ――君はそれを知っていて、神野麻子にある提案を持ちかけた。提案の内容はこうだ。

『聖杯戦争を起こし、聖杯を手に入れよう。聖杯に願えば、紙の人形でも本物の人間になれる。僕はサーヴァントに会えればそれだけでいい。君の目的を邪魔することはないし、むしろ君が聖杯を手に入れられるように、陰でサポートしよう』

 ――それで、この奇妙な聖杯戦争がスタートした。

 ――が、ジャック・ザ・リッパーではなくこの僕、シャーロック・ホームズが召喚されてしまったがために、計画は別のルートを通ることを余儀なくされた。

 ――その瞬間、君の目的は“サーヴァント”から“聖杯”に切り替わり、神野麻子は切り捨てるべき敵に変わった。

 ――君は、自分の目的を達成しながら、なおかつ僕に殺人を暴かれないように、()()()この聖杯戦争の詳細を語らなかった。

 ――目の前の謎に、僕の目がくらむようにね。

 ――しかし同時に、負けるわけにもいかなかった。だから、セイバーのマスターを殺し、アーチャーを討つまで僕を生かした

 ……訂正があれば、今の内にどうぞ?」

「……さすがだよ、お見事だ、ホームズ」

「やめたまえ」

 

 先程までの高揚が一気に冷めたかのように、ホームズは冷たい目になって、その男を睨むようにした。

 

「君にそう言われるのは気に食わない」

「それは、僕が――ジョン・ワトソンが人殺しだから?」

「っ……」

「ただ同姓同名なだけなのに、気にし過ぎだよ。それに、原作でも君たちは、人が死ぬのを何度も見過ごしてきたじゃないか。ちょっと美化し過ぎなんじゃない?」

 

 ワトソンはそう言って淡く微笑むと――唐突に、発砲した。

 

「ほら、今回だって見逃した」

 

 模倣者の胸元に穴が開き、彼女の肢体がゆっくりと横ざまに倒れる。彼女は目いっぱいに涙を溜め、信じられない、と言う顔をしていた。

 

「結局君たちは、自分の好奇心とか、正義感とかが一番で、他人がどうなろうがどうだっていいんだろう? 真実が暴ければいい。ホームズとワトソンが生き残っていればそれでいい――そういう存在だ。物語の主人公なんて、みんなそうだ。自分勝手でご都合主義。びっくりするほど能天気だ。……反吐が出る」

 

 本当に吐くような感じの顔で、彼はそう言った。

 ホームズは静かな声で聞いた。

 

「――君は、聖杯で何を叶える気なんだ?」

「――お得意の推理で、当ててご覧よ、ホームズ」

「いいのかい?」

「どうぞ」

 

 挑発するような笑みに、ホームズは剣呑な顔を向けた。

 それからゆっくりと口を開いた。

 

「……この聖杯に、人を蘇らせるほどの力があるなら、()()()()()()()()()()()()()()()()。それが望みならば、君が快く彼女に協力した動機にもなる。それほどの力がないのなら――この先誰を何人殺そうと、決して捕まらないこと。

 そんなところじゃないかな」

「ご明察だ」

 

 ワトソンは馬鹿にしたように肩をすくめ、拳銃を仕舞った。

 

「そんなお利口な君なら、()()()()()()()()()も分かっているよね」

「ああ、もちろん。君の書斎には、これまでの聖杯戦争の詳細をまとめたレポートがたくさんあった。あれを模倣の参考にしたことは想像に難くない。その中で、聖杯の隠し場所に関し、最も君たちが模倣しやすかったのは――第四次聖杯戦争のやり方だ。とあるホムンクルスの体内。すなわち、この場合は――

 ――神野麻子の体内」

 

 ホームズが言い終えるのを待っていたかのように。

 二人の足元に倒れていた模倣者の体が金色の光を放って、急速に縮まった。

 そして――聖杯が、地面に転がる。

 ホームズは俊敏な動作でそれを拾い上げた。

 瞬間、

 

「【令呪を以って命じる! キャスター・ホームズ、自害せよ!】」

 

 ワトソンの毅然とした声が響き――

 ――しかし、何も起こらない。

 当然のことだ。ワトソンの手に残っているのは、すっかり色を失った令呪の()だけで、それではサーヴァントを従わせるなんて不可能である。

 

「……え……何故……」

「そう言えば、言ってなかったね」

 

 平然とした顔で、ホームズは言った。

 

「一度砕かれた霊基の復元には、すべての令呪の消費を必要とする、と」

「なっ……そ、そんな、こと、君は……」

「あえて黙っていた、ということは認めよう。君がこうするであろうことは分かっていたからね。だから、僕は一度負ける必要があったのだよ。――まぁ、その相手が彼であったことだけは、少々気に入らなかったが」

「ホームズ、それを寄越せ。それはお前には必要ないだろう!」

「必要ならある」

 

 飛びかかってきた男をひらりと躱し、ホームズは聖杯を掲げた。

 夜明けを知らせる白い光が射し込んで、聖杯に一層の輝きを添える。

 

「――こんな男に、僕たちの緋色の研究(a Study in Scarlet)汚されたくはない(don’t want to be Fouled)からね――笑ってくれ、My, dear. もしかして君はすでに知っているかもしれないが、僕は本当に、心が狭いんだよ――」

 

 血に満たされた聖杯が、探偵の小さな願いを聞き届けた――

 

 



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エピローグ

 ロンドンの片隅。集合住宅の一室で、少女はしかめっ面の男に、上機嫌で話しかける。

 

「事の顛末を聞いたかい、我が兄よ」

「ああ。だいたいのところはな」

「キミの言う“だいたい”は、私の遥か上を行くからね。まったく厭味な兄をもったものだ」

 

 心にもないことを言いながら、少女は優雅な仕草で紅茶を傾ける。

 

「時計塔から派遣されたエリーヌ・ジオネは死亡。スペインに拠点を構えるシルベストレ家の当主も消息を絶った――ああ、そういえばあの家、敵対していたマフィアのサブリーダーが、シルベストレ家の長男だったんだってね。ディオニシオの失踪を機に、すっかり彼が覇権を握って、マフィアとは和解したって」

「そうらしいな」

「皮肉なものだね」

「それを見抜けなかった当主がぼんくらなだけだ」

「おっと、これは正論だ」

 

 チョコレートを口に放り込み、しばしその味を楽しんでから、少女は続けた。

 

「アーキシェリの家もこれで完全に途絶えた。まったく、大人しくしていれば細々とであれ血脈を繋げたであろうものを。まぁ別に勿体なくもなんともないけれど。――生き残ったマスターは一人だけだってね。まるでどこぞのお兄様みたいだ」

「……」

「確か――()()()()()()()()()()()と言ったかな?」

「そうだ」

 

 しかめっ面の男は、眉間の皺をさらに深くして、呼んでいた新聞紙を彼女の手元に放り投げた。

 それを手に取り、少女は首を傾げる。

 

「日本語?」

「ああ。ジェイムズ・メイブリックの名が載っている」

「――おや、本当だ」

 

 小さな記事だ。――『二階で発生した小火の通報を受け、警官が踏み込んだところ、地下収納庫に遺体を発見。恋人であったサラ・メイヴィルを殺し、家の地下収納庫に遺棄した疑いで、英国籍の男性ジェイムズ・メイブリック(28)を逮捕』――

 少女は形の良い眉を顰めた。

 

「彼は勝ち残って、聖杯を手にしたんじゃなかったのか? どうして逮捕なんかされてるんだろう」

「さぁ。生き残っても私のような場合もあるし……当事者でなければ真相は分からないだろう。――彼のサーヴァントが願いを叶えたかもしれないしな」

「自分のマスターの破滅を願った、って?」

「そういうことも無いとは言えない。己の楽しみのために、己のマスターを殺すサーヴァントだっているくらいだ。……何にせよ、無事に終わったならそれでいい――」

 

 コンコン、と控えめなノックの音が、彼らの話を中断させた。

 グレーのフードを深くかぶった少女が顔をのぞかせる。

 彼女は室内の二人に深々とお辞儀をして、遠慮がちに申し出ると、窓を開けた。

 

 ――東の風が吹いてきた。

 

「嵐が過ぎ去った後は……か」

「突然どうしたんだい、お兄様?」

「いや、ふと思い出しただけだ、気にするな」

 

 秋の訪れを感じさせる日の光が、中庭の木を暖かく照らしていた。

 

 

 

 ――嵐が過ぎ去った後は、輝く陽光の下、もっと美しく透き通った強い国が現れるだろう。さあ、エンジンをかけてくれ、ワトソン。出発の時間だ――

 

 

 

   ☆END

 




 





お付き合いくださいましてありがとうございました。
ここまで読んでくださった方々に、心からの感謝を申し上げます。

説明不足などいくらでもありそうですが、どうかご容赦を。
裏話といくつかの補足説明(および言い訳)は活動報告に載せてあります。よろしければ、そちらをご参照ください。各サーヴァントのステータスとか、何故“ジェイムズ・メイブリック”なのかとか、つらつらと書いております。
また、苦情文句その他もろもろもいつでも受け付けておりますので、お気軽にお寄せ下さい。

繰り返しになりますが、本当にありがとうございました。
またどこかでお会い出来る奇跡があることを祈っております。


井ノ下功
 


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