彼氏が浮気したからボクも浮気する、彼女はそう言った (かりほのいおり)
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 初恋の成就確率

 

 初恋がそのまま実って、結婚まで行き着く確率は果たしてどれぐらいなのだろうか。

 そんなことをふと思い立って文明の利器、いわゆるスマホを使って検索してみれば僅か1%と出た。

 

 その確率を高いと思うか、低いと思うかは各々判断が分かれるところだろうけれども、俺からしてみればそれはなかなか高い壁のように思えた。1%がどんな確率かと言われれば、真っ先に思いつくのはソシャゲのSSRの排出確率である。

 

 やはり、それは低すぎる。

 割を飛ばして一分(いちぶ)の打率をたたき出している打者に果たして期待できようか、いやできないだろう。

 

 俺こと片山直樹は、幼馴染みの宮地綾に今日も今日とて片恋慕中。そんな俺に一通のメッセージ。

 

『彼氏ができました!』

 

 誰から? 幼馴染みから。

 俺の目の前が真っ暗になった。

 

 ●

 

 さて、話の始まりはシーフード味のカップラーメンにお湯を注ぎ3分待っていたときのこと。

 高校生の晩飯にしてはひどく貧相ではあるけれど、親が共働きであるからにして、そしてたまたまいつもご飯を作ってくれる母親が飲み会だったという、ただそれだけの話である。

 

 次の日は土日であるから羽目を外すのに絶好の機会である、しかしながら俺にはその休日の予定はすっからかんであった。

 部活もなく、彼女もなし、友達もなし――というわけでもないけれど毎週遊ぶほど親しくもなく。そんな感じで今週の休日は一日中ゲームでもして怠惰に過ごそうか、そう思っていた。

 

 理由もなく外に出歩くほどアクティブでもなく、体力鍛えようと思うほど意識が高くもない。そんなの帰宅部に入ってる時点でわかる話。変わるには外からの刺激が必要だった、はたしてそれはやってきてしまった。

 

 ほんの少しの待ち時間に始めたパズルゲーム、いつもより調子良く画面をなぞる指の動きが、突然鈍る。

 

 原因は通知にあった。

 ひとつため息をついてメッセージを開く。あいつから、彼女からの久方ぶりの――二週間を久方と言うのだろうか? ――連絡である。

 

『ちょっと人助けをしてくれないかな?』

 

 アバウトすぎるメッセージ。誰を助けるんだよ、と俺は呟いた。助けて欲しいのはこっちの方だっていうのに、メッセージの履歴を辿りながらそう思った。

 

 ここでメッセージの送り主である彼女について紹介しておこう。名前は宮地 綾、小学校中学校を共にしてきた幼馴染みである。

 160センチほどの背丈、ショートカットに一人称はボク。こう言葉に表してみるとイタい子なんじゃないかと思うかもしれないが、それを許すだけの可愛さが彼女には備わっていた。

 良い幼馴染みを持ったと思う、人生を何度やり直してもこれほどの幼馴染みを引き当てる気はしない。

 

 まあ、俺が付き合えるわけでもなかったのだけれども。

 

 さて、高校も一緒ではあるが昔ほど仲が良いわけでもなく、けれども縁が完全に切れるほど離れるわけでもなく。

 じゃあどういった関係かと問われれば、廊下で遭遇すれば世間話をして、時たまメッセージで勉強の教えを乞われたり、テスト範囲を尋ねられたり、まあ都合の良い男友達、女友達と、両者ともにそういう見方をしていたのだろう。

 

 だから彼女から『彼氏が出来ました!』というメッセージが来ても、俺はおめでとうとカエルが宣っているスタンプを何事もなかったような貼りつけて、そのまま布団に入って寝た。

 それが二週間前の出来事である。

 

 あくまで内面でどう考えていようとも、外映えはそれなりに繕うもの。決して彼女に彼氏ができたからと言って拗ねたりはしない、断じて。

 ただそれを実際にうまくやり遂げられるかは別の話なので、彼女からいつメッセージが来るか、または高校の廊下で偶然遭遇してしまったらどうしようかと内心冷や冷やしながら過ごしていた。

 

 結局、俺が恐れていたような事態は起こらなかったなと、そう思いながら自分が過去に送ったカエルを睨みつける。

 俺の視線を知った事かと、太々しくどこ吹く風と受け流すその顔に無性に腹が立って削除ボタンを押し、それとは別にコメントを送る。『誰を助けるんだよ』、と。

 

 返信はすぐさま帰ってきた。

 

『ボクを助けて欲しいんだけど』

 

 一介の幼馴染みである俺ではなくて、出来立てホヤホヤの彼氏に助けて貰えば良いのに。そんな旨を伝えれば、

 

『原因が彼にあるなら?』

『どういうことだ?』

『彼氏が浮気してるらしいんだ』

 

 大きくため息をつく、どうやらあいつには男選びのセンスは無かったらしい。

 

『別れなさい』

『そこで手伝って欲しいことがあるんだけど』

『彼氏をボコボコにして欲しいのか?』

 

 残念ながら腕っ節には自信のかけらも無いので、物理担当は他に頼んでくれ。でも合法的(?)に羨ましいけしからん彼氏を殴れるのはなかなか魅力的かもしれない。しかしそんな俺の願望はあっさり覆された。

 

『そんなことじゃなくてさ、目には目を歯には歯をって知ってる?』

『ああ、ハンムラビ法典の』

『ただ別れるだけじゃ罰にならない、だってやり得になってしまうからから。だから浮気には浮気をぶつけるべきだとボクは思うんだ』

 

 その倫理観が現代において合ってるのかはひとまず置いといて、彼女の考えになるほどと思うのも確かである。

 高校生の付き合いなんて御飯事みたいなもので、罰もクソも無いのだから、そういう考えもまた正しいのかもしれない。

 そこまで言われれば彼女が次に何を語るのかも読めていた。

 

「『だからボクとデートしてくれない?』……ね」

 

 その文を読みあげて背もたれに寄りかかる。

 あいつは俺の感情に気付いているのだろうか、知っていたらどれほど残酷なやつだろうか。

 

 これがチャンスだとは不思議なことに1ミリたりとも思わなかった。どうして放っておいてくれないのか、そんな気持ちしか胸中になくて、だからこそ俺はダメなのだろうと分かってしまった。

 

 返事を返すことなく、ボーッと画面を見つめていると再び彼女からメッセージが届いた。

 

『ダメ、かな?』

 

 ほんの少しの逡巡。言いたいことはいくらでもあったけれども、それら全てをねじ伏せて一言だけを載せた。

 

『いいよ』

 

 なるようになれ、なってしまえ。ボタンを押しさえすれば肩がふっと楽になった。

 既読マークはとっくに付いていた。もう後戻りする事はできない、これでもう俺たちは共犯者なのだから。

 

 昔を思い出してフッと笑みが溢れた。様々な企みを試みて、それがうまくいくことの方が少なかったけれども、その時間は確かに素晴らしい時間だった。

 

『どうせナオのことだから、土日も空いてるんでしょ?』

『なんともまあ、急な話』

『だって、きっぱりこの日にするってボクが決めなきゃ約束のことを無いことにするじゃないか』

『そうか?』

『そうだよ、ボクはそのことをよく知ってる。さっさと答えてよ、土日は空いてる?』

 

 俺の性格をアイツもよく知っている、そしてアイツの性格を俺もよく知ってる。勝手知ったる仲ながら、だからこそここまで踏み込んでこれる。

 

『帰宅部だし当然空いてるよ』

『念のために聞いておくけれど彼女とか』

『残念ながら……』

『じゃあ君にとっては初デートか』

 

 今度は彼女がカエルのスタンプを叩きつけてきた。勝者の余裕、きっと彼女は初デートではないのだろう。

 そう思うと胸がちくりと痛みが走ったが、その痛みを無視して俺は問いかけた。

 

『どこへ行きたい?』

 

 既読はついたが返信は来ず、ふと目についたのがカップラーメンだった。思わず呻き声が漏れた、当然のことながらお湯を注いでから3分を大幅に超過している。

 

 蓋を剥ぎ取り箸を突っ込めば、一目でわかるぐらい伸びきった麺。捨てはしない、勿体ないから。ただし後回しにするとしよう。

 

 テーブルの奥へ、視界の外へとそれを押しやって、再びスマホを覗いてみれば、彼女はまだ悩んでる様子。しょうがない、今日はこちらから案を出してみよう。

 

 顎に手を当て考える。

 映画、動物園、遊園地、候補はいくらでも浮かんでくる。けれども、そのどれもがピンとこなくて。

 ふとカップラーメンの香りが鼻に届いて、何も考えずに言葉を打ち込んだ。

 

『水族館はどうだ?』

 

 打ち込んでから自画自賛。

 少し離れてはいるけれど、電車を使えば乗り換えなしに行けるところがあったはずである。

 前に友達と話したさりげない会話。デートの目的地にぴったりと言われながらも彼女いないし、そう笑い飛ばしたものが今更役に立つとは。

 

『いいねいいよ、ナイスアイデア。電車で行けるあそこでしょ?』

 

 彼女のいうあそこと自分のいう水族館が一緒の場所かはわからないけれど、自分は適当に相槌を打った。

 

『それじゃあ明日の10時にいつもの駅の犬の像の前に集合ね!』

 

 あまりに急であるけれど、こちらに拒否権があるはずもなく、つまるところ俺は明日水族館に行くということが確定したらしい。一応いいえと言う事もできるだろうけれども、一方通行のRPGの如く同じ会話の無限ループになる事間違いなし。『了解』と打ち込んで、俺は天井を見上げた。

 

「……服、どうすっかな」

 

 目の前のカップラーメンから目を逸らして現実逃避、今からこれを食べなければいけないのか。

 

 彼女からメッセージが来れば後回しにできるのに、結局それから来ることはなく。仕方なく覚悟を決めて口に運んだ伸びきった麺は、やはり美味しいと言えるものではなかった。

 

 ●

 

 1日経って土曜日の駅前である。

 眠気に抗って目を擦りつつ俺は石像を見上げていた。今日もいつも通り凛々しく、その犬は空を見上げている。

 

 遠足前に浮かれて寝不足の小学生の如く、グロッキーなわたし。もうそんな子供でもあるまいし、出来れば彼女には悟られたくないところ。バレたら絶対馬鹿にされる、そんな確信があった。

 

 アイツはまだ待ち合わせ場所に来ていなかった。

 それも当然。待ち合わせの時間にはだいぶ余裕がある、今ようやく9時半になったところ、来るのが早すぎると思われるかもしれないが別に浮かれているわけではなく、心構えの問題である。

 

 ほらよく聞く話だ、彼女を絶対待たせるなと。

 そうしてやってくればなるほどと思う。待ってる間に何を話せば良いのか、どんなことを聞かれるのだろうか、そんなことを考えろと言うことなのだろう、多分。

 まあそんな想定を立てることはもう諦めていたけれども。

 

「まあ、なるようになるさ」

 

 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、彼女は何時ごろ来るのだろうかという方に思考を逸らす。

 時間ギリギリ、もしくは遅刻するようなキャラでもない。

 

「あれ、来るの早くない?」

 

 耳に届いた声はそれはそれは聞き慣れたもので、似たもの同士か、と内心そう呟やきつつ振り向いた。

 

 案の定、彼女の――宮地 綾の登場である。いつも通りのショートカット、灰色のニットに黒色のスカート。記憶に残る彼女は大体制服姿であったから、今日の服装はなかなか新鮮だった。

 

「……俺も今きたばっかだよ」

「先にやってきて女の子を待たせるなんてサイテーって言うつもりだったんだけど失敗だね、まったく」

「心の底から先に来といて良かったと思ってるところだよ、過去の俺に感謝しなきゃな」

 

 冗談だってと笑いながらこちらの肩をバシバシと叩く、力加減もクソもなく普通に痛い。

 こちらの気持ちを察してくれたのか彼女は手を止め、一歩下がりこちらの上から下をじろじろと舐めるように見始めた。

 

「俺の服装になんか問題が?」

「いや、別に、そう言うわけじゃないんだけどさ」

 

 躊躇いがちになんか昔よりカッコよくなった? と彼女は言った。

 なんだよそれは。

 別に何か変わったという自覚もなく、強いていうならば失恋の味を知ったから、としか言いようがない。

 

 けれどもそんな皮肉を口にする勇気もなく「俺は昔と変わらない」と答えたのだ。

 

「じゃあ変わらないナオに対して、ボクの変わったところは分かる?」

「彼氏が居るのに別の男を下の名前で呼ぶのはダメじゃないのか?」

「良いんだよそんな事、それより先にボクの質問に答えてよ」

 

 本当にいいのか、まあ浮気してるような奴を慮る必要もないということか。気を取り直して真面目に考える、記憶の中の彼女と今の彼女を擦り合わせて導き出された答えは。

 

「……なんも変わってなくないか?」

「うん、君はそういうと思ってたよ」

 

 やれやれと彼女は肩を竦めた。そんなこと言われても、髪型は変わった様子はないし、背丈も変わらず、胸のサイズと当てずっぽうに言ってみれば社会的な死が待っている。

 まあ今も昔も合って無いような胸だし、彼女からしてもそこは論点では無いのだろうけれども。

 

「なんか失礼なこと考えてない?」

「滅相もございません」

「ならいいけど。答えはボクがスカートを履いてるってことさ」

 

 そう言われて首を傾げる、そんな珍しいことだっただろうか。そもそも制服はスカートであるからにして、見たことがないという訳でもない、というか結構見る機会は有った。

 そんなことを指摘してみれば、

 

「そりゃ制服は除いて私服だけの話に決まってるでしょ」

「ああ、なるほどね」

 

 との事。

 なるほど、そう言われてみれば無かったような気がする。あまり覚えてはないのだけれども。

 本当に覚えてるのかと胡乱げな視線を笑って受け流す。

 

「まあ、そろそろ出発するか」

「む……それもそうだね」

 

 抜けるように青く澄み切った空の下、そうしてデートは始まった。

 

 ●

 

 窓の外を流れていく風景を眺めていると、不意に彼女が口を開いた。

 

「こういう時ってさ、彼氏が場の空気を腐らせないように話題を作るべきだと思うんだけれども」

 

 悲しいかな。

 デートの経験もなく、待ち合わせ前のシュミレーションを放棄した俺には会話の幅があまりにも少なくて、電車に乗る前から会話はとんと途絶えていた。

 まるで仲のいい友人が亡くなったのかのように、どんぞこの空気を纏いはじめ、結果として俺たちへ近づく奴はいない。

 

 まあ電車にそもそも人が少ないと言うこともあるのだが。

 

「じゃあ、一番好きな魚は?」

「秋刀魚、理由は美味しいから」

 

 彼女の声が割と大きいけれども、ガラガラの列車内だから特に視線を向けられることもない。

 

「ナオは?」

「タツノオトシゴ、そもそも魚なのか知らないけれど」

「あー、海老とか同じ分類かな?」

 

 あまり詳しくはないけれど甲殻類、というには殻がないし、そこの所どうなのだろうか? 

 どちらにしろ、タツノオトシゴのどれともつかない異形のフォルムが俺は好きだった。

 

「水族館で観れるといいね、タツノオトシゴ」

「……まあ見れるといいけど、別に死ぬほど見たいって訳じゃない」

「何それ」

「それがどういうものか知ってるから」

 

 初めてテレビで見た時にはその形に衝撃を受けたけれども、見るたびに驚くようなものじゃない。一回見てしまえば満足するようなもの、まあ好きなことには変わりはないけれど。

 俺の言葉に納得したのかしてないのか、彼女はふーんと呟いた。

 

「そういえばナオはあの水族館行ったことあるの?」

「ない、そもそも水族館に行ったことが殆どない」

 

 だから、このシチュエーションはともかく水族館に行くということは割と楽しみだったりする。覚えてる限りで一度だけ、水族館の楽しみ方なんて知らない子供の頃の微かな記憶しかないから。

 

「昔、約束したよね。一緒に水族館行こうって」

「……覚えてないな」

「嘘、覚えてたからこそ水族館にしたんでしょ?」

 

 そう言って彼女はこちらの顔を覗き込んだ。

 こちらを信じ切った目。それがあまりに眩しすぎて、俺は窓へと目を逸らす。

 本当に、覚えてないのだ。ただの偶然が重なっただけで。

 

「……約束したのに、君が日付を決めなかったから」

「なら、お前が決めれば良かったんじゃ」

「ナオは馬鹿だなぁ、そういうのは男の子がエスコートするものだよ?」

 

 それっきり、間が空いた。電車がガタリと大きく揺れる。

 

「……ボクはさ、ペンギンが見たいんだ」

 

『ナオは何が何を見たい?』、そう彼女に問いかけられて、俺は目を閉じた。何を見に水族館に行くのだろうか。

 

「……クラゲが見たいな」

「なんで?」

「単純明快に、それが不老不死らしいから」

 

 なんとなく、どこかで聞いた言葉を口にする。きっと終わりを見据えてるからこそ、人は終わらないものに惹かれるのだろう。

 俺の言葉を聞いて彼女は笑った。

 

「渋いね」

 

 でも君らしいよ、彼女はそう言った。

 

 ●

 

 果たして目の前の水槽に浮かんでいるクラゲは予想以上にちっちゃいものであったが、確かに不老不死らしい。そんな説明と一緒に名前はベニクラゲだと書いてあった。

 

「なかなか、予想以上に小さいもんだね」

「クラゲときたら全部死なないものかと思ってたが」

「流石に体が大きくなって複雑になると、死なない事の両立が難しいのかな」

 

 そう言いながらパタパタと隣の柱状の水槽へと近づいていく。1センチにも満たないベニクラゲと違ってそっち側に入っているクラゲはそこそこの大きさで。大きさと言い形と言い、俺がイメージする通りのクラゲだった。

 

「クラゲって何を考えてるのかなぁ」

「……さあな」

「そこら辺もうちょっと考える努力をしようよ、似たもの同士さ」

「いうほど俺とクラゲが似てるか?」

「似てるんじゃない? 同族だからこそ見たいと思ったんでしょ」

 

 浮かんでるだけ、水に流されるだけのクラゲと俺は似てるだろうか? 

 こつりと水槽を叩いてみても、クラゲがそれに気づく様子はない。盲目に、何も考える事なく、その場凌ぎで生きてきた自分と。うん、なるほど、似てるかもしれない。

 

「多分お腹が減ったとか、そんなことを考えてるんだろうさ」

「それはナオがお腹減ってるってだけじゃないかな?」

「まあ、ほんのちょっとだけな」

 

 彼女の方へと振り返れば、他の客の行方を目で追っていた。いずれの客もある方向へと足早進んでいってる様子。それを見て何かを察したのか、彼女は一つ頷いた。

 

「ボクたちも行ってみようか」

 

 俺がその返事を言うより先に彼女は先へと進んで行って、その背中を俺も追う。

 懐かしきこの感じ、彼女が俺のことをグイグイと引っ張っていき、そして俺もまた彼女を追いかけるのを辞めなかった。

 

 俺は告白しなかったことを後悔してるのだろうか? 

 そう自問して、答えることもない。だって考えるまでもなく、答えはわかり切っているのだから。

 

 俯き気味に歩いてた視界が彼女の足が止まったことに気付いて、俺も慌てて足を止めた。大きな野外水槽と、ショーを待ってベンチに腰掛ける客の群れがそこにあった。

 

「どうやらこれからイルカショーをやるみたいだね」

 

 見るかい? と尋ねられ、俺は一もなく二もなく頷いた。今日だけとはいえ時間はいくらでもあるのだから。

 

 手頃な席に腰掛けて一息ついて、そうしたところで自分の喉がカラカラである事に気付いた。ほんの少し、慣れないこのシチュエーションに緊張してるらしい。

 まだショーの準備に時間がかかりそうなのを見て、俺は再び立ち上がった。

 

「ちょっと飲み物を買ってくる。何か飲みたいなら買ってくるけど、要るか?」

「ん、ボクの好きなアレがあったら欲しいな」

 

 綾が好きなのはミルクティーだったか、野外水槽をすぐ出たところにあった自動販売機に並びながら考える。まあ、間違ったら自分のと交換すればいい。そんな考えから緑茶とミルクティー二つ買って元の場所へと戻れば、丁度ショーが始まるとこだった。

 

「ほらよ、これで良いんだろ」

「おぉーいぐざくとりー」

 

 ショーをそっちのけでぐびぐびと一気に呷る、見てるだけで気持ちよくなるぐらいの飲みざまである。

 

「ん、何こっち見てんの? ちゃんとショーを観なよ」

「……言われなくても分かってるよ」

 

 イルカそっちのけで喉を潤わせてた奴が言えるセリフとは思えないな、そう思いながら緑茶を少し飲む。

 元気に跳ね回るイルカ、けれどもあまり集中して見ることができない。

 原因はきっと、多分、隣に彼女が居るから。

 

 俺がそんな様子だと言うのに、ちらりと隣を伺えば彼女は俺が居るのが当然の如く、全く平常心のように見えた。

 果たして彼女は何を考えているのだろうか。

 

「楽しめてるか?」

「何さ、急に」

「ふつーに馴染んでるけど隣にいるのはその……俺だし、お前の彼氏ではないわけで」

 

 なんだ、そんなことか。そう言って微かに笑って彼女はこちらを向いた。

 

「ナオは今、楽しめてる?」

「そりゃまあ、楽しめてるけれど」

「ナオが楽しいならボクも楽しい、それで終わりだよ」

 

 そう言って再びイルカへと向き直った。ほんの少し横顔があからんで見えたのは、きっと気のせいだろう。

 

「彼氏に浮気されて凹んだかと思ったけど、そんなことないんだな」

「だって付き合い始めて二週間だし、それに彼にそこまでの好意を抱いてるわけでもないし」

 

 なんだよそれ、そう吐き捨てた言葉を彼女が拾い上げる。

 

「ボクから告白したわけじゃ無いんだ。彼から告白されて別にこの人じゃなきゃいけないと思ったわけでもないけれど、付き合ってあげてもいいかなって、そう思ったんだ」

 

 緑茶を一度、口に含む。ステージではイルカが丁度輪潜りに挑戦していた。

 

「なら良かったよ、気兼ねなく別れられそうで」

「そうしたら君がボクを引き取ってくれる?」

「……」

「そう言うところで黙り込んじゃうから君はダメなんだよ」

 

 綺麗なダメ出しが心に突き刺さる。こんな俺だから今まで失敗し続けて、それを今日も改善することなくこの失敗。

 

「もうそろそろ終わるし、そろそろ行こうか」

 

 そう言いつつ、彼女は立ち上がった。

 

「まだショーの途中だけど」

「だからだよ、ここに人が集まってるうちにペンギンのところへ行きたいんだ」

 

 それにイルカはあまり好きではないし、その彼女の言葉で少し笑う。ならイルカを見ないでペンギンの所へ行きたいといえば良いのに。

 でもまあ、同じか。彼女も俺も自分の意見をはっきりと言葉にしようとしない点では少しだけ似ている気がした。

 

 再び彼女を追ってペンギンのコーナーへ。泳ぐペンギンにただぼーっと突っ立ってるペンギン。選り取り見取りのペンギンたちを前に、子供らしく目を輝かせる彼女を見て俺は目を細めた。

 

 これから先、彼女の隣に立てる男が妬ましく思えて。不思議なことに隣に俺が立つなんて一ミリたりとも思えなかったのは。

 俺がどこまで行っても負け犬で、性根が底まで終わっているからだろう。

 

 ●

 

 水族館は十分楽しかったのだけれども、それ一つで一日過ごせるような場所ではなく、彼女がお腹減ったなとの鶴の一声で他の場所へ行くことになった。

 

 昼ごはんに丁度いい時間帯。

 水族館に隣接されたレストランは高校生の財布事情から回避して、どこにでもあるようなバーガーチェーン店へ。

 

「いやはや、こういう風に二人してご飯食べるのも久しぶりだね」

 

 ダブルチーズバーガーへ元気よくかぶりつくのを横目に、俺は飲み物で喉を潤わせていた。

 

「でさ、なんで君は高校に入学してからボクのことを避けていたのかな?」

「ごふっ!」

 

 唐突に爆弾を投げ込まれ思わず咽せる。苦しむ俺を差し置いて、彼女はいけしゃあしゃあと食事に勤しんでいた。

 

「……避けていたつもりはないが」

「嘘、確かにボクから誘いをかけたときは素直に乗ってくれたけど、ナオからこっちに働きかけようとするのはなかったはずだよね」

 

 彼女は早くもダブルチーズバーガーを食べ終え、指についたケチャップを行儀悪くペロリと舐めていた。

 

「そうだったかな」

「確実にそうさ、疑念でもなんでもなくボクは確信を抱いてる。だから理由を知りたいんだ」

 

 ポテトを一つ、口へ運ぶ。

 確かに彼女の言葉は半分事実であって、けれども、彼女を避けていたわけではない。

 ちゃんと理由ある行動だった、しかしそれを彼女に直接いうのは気恥ずかしいものだったから。

 それでも今日だからこそ、俺は一歩だけ踏み出せた。

 

「軽蔑しないで聞いてくれるか?」

「理由による、と言いたいところだけども……しょうがない、世界中の誰もが君を軽蔑しようともボクは馬鹿にしないと神に誓うよ」

 

 そう言って無茶苦茶な順番で十字を切った。記憶によれば彼女は神を信じていないと言って憚らなかったし、そういうことなのだろう。

 一つ深呼吸をして覚悟を決める。己から踏み出した以上、やけに目が据わってる彼女を相手して、この場を嘘八百で切り抜けられそうにない。

 

「俺はさ、嫌われたくなかったんだ」

「……なにそれ」

「綾はさ、自分のことをある程度信頼してくれるから。そう自分が思い込んでただけかもしれないけれど、俺はそう思ってた」

 

 だからこそ、

 

「嫌われたくなかったんだ。何気ない日常の小さな行動の積み重ねがマイナス評価に繋がって、それがいつか決定的な破綻に繋がるんじゃないかって不安で」

 

 だから俺はそこで止まることを選んだんだ。それ以上の関係を望むことを放棄して、それが今日までの二週間みたいな日がいつかやってくるかもしれないと思いながらも。

 

「……ばっかじゃないの」

 

 綾がそう言葉を絞り出すのを、俺は直視することができなかった。

 

「今思えば俺も馬鹿なことをしたと思ってる」

 

 けれども過去はどうやっても変えられない。

 その時の俺の前には一方通行の道しかなかったから。その道は前にしか進むことしかできないけれど、立ち止まることもできてしまう、出来てしまうからよくなかった。

 前へ進むより停滞を選ぶ方が楽だった、そうして俺は楽な選択肢へ逃げるヘタレだったから。

 

 視界がいきなり上へと引き上げられる、机から身を乗り出して彼女が俺の胸倉を掴んでいた。

 

「……なんだよ」

「目を逸らさないで、ボクを見て」

 

 下がる視線を無理やり上げる。かち合う視線、瞳が潤んでるように見えたけれども、本当がどうかは定かではない。

 

「約束して、今度からは逃げないって、ボクからも誰からも」

「とりあえず手を離して欲しいんだが」

「約束してくれたら手を離すよ」

 

 やれやれと俺はため息をついた。あいも変わらず胸倉を掴まれ互いに顔が近い状況、ほんの少しだけ腹が立って都合がいいことに良い反撃を思いついた。

 

「この距離がどういう意味かわかってんのか?」

「なにさ、いきなり」

「手を離してくれなきゃ、頬にキスするぞ」

 

 効果は覿面、反応は劇的だった。瞬時に手を離して顔を真っ赤につつ元の場所へと引き下がったかと思えば、顔が熱いのかすごい勢いで飲み物を飲み始めた。

 

「……ナオはズルい」

「ずるくて結構」

 

 しかしながらこのままいって、彼女の不機嫌が継続されるのも困る。パパッと正しい手順で十字を切る、自分も神様なんて信じていないけれども。

 

「誓うよ、今日から俺は逃げない」

「じゃあその誓約の保証人にボクがなってあげるよ」

 

 代わりに、そう言いつつ彼女は俺のポテトを自分の方へと引き寄せた。

 

「このポテトを今までのお詫びと今日のお礼として貰うとするよ」

「……勝手にしろ」

 

 ハムスターのようにポテトを口の中へ詰め込む彼女の姿は、なかなかに新鮮で可愛らしいモノだった。

 

「ふぉっひひてはいてはへなよ」

「口を閉じて喋れ」

 

 全くなにを言ってるかわからないけれども、とりあえず自分もチーズバーガーを齧る。

 

「平和だな」

「ずっとこの時間が続けば良いのにね」

 

 そうなれば良いのにと心の底から願ったのは、きっとこの時間にも終わりが来るとわかっていたからで。

 きっと俺も彼女もその事実から目を逸らしたかったのだろう。

 

 ●

 

「こういう風にゆっくり過ごすのも良いもんだね」

 

 そう言いながら彼女はゆっくりとブランコを漕いでいた。昔よく遊んだ公園は絶好の散歩日和だというのに、人は殆ど居なかった。

 

 結局、昼ご飯を食べたあとに特に行きたい場所もなく、地元へ電車に乗って帰ってきていた。

 別にどちらが行き先を示したわけでもないけれど、自然と公園にたどり着いていた。

 

 もしかしたら彼女が少しずつ誘導していたのかも知れないし、逆に俺が無意識にこちらへ行こうとするのを彼女が合わせてくれたのかもしれない。

 けれどもたどり着いた経緯なんてどうでも良くて、もうデートも終わりがこの公園ということが皮肉なもんだと思っていた。

 

 楽しかった、幸せだった、夢のような時間を過ごせた。けれども、夢は覚めるものだと決まっているし、幸福は永遠に続かない。

 

 それを続けたいと願うなら。

 彼女が別れた時、それに乗じて告白してしまえばいい。今この場で告白して仕舞えば良い。

 

「考え込んでないでさ、隣座りなよー」

「俺は良いよ、他の子供が乗るだろ」

「別に他に乗るような子がいるとは思えないけれど」

 

 仕方なくブランコ周りの柵から腰を上げて自分も腰掛けると、錆びた鎖が微かに悲鳴を上げた。

 

 ふと今更の疑問が頭に浮かんだ。

 彼女は俺に何を期待していたのだろうか? 

 慰めてくればいいと思ってたのだろうか、それとも隣に居てくれさえすればいいと思っていたのか。だとすれば、ここに居るのは俺じゃなくて誰でも良かったんじゃないか? 

 

 嫌な思考、我ながら卑屈すぎると唾棄するレベル。それを掻き消すように、俺の考えを否定してくれと俺は言葉を吐き出した。

 

「これだけ遊べば気は済んだか?」

「まあね、ボクとしても十分満足だよ」

「そうか」

「ナオも楽しかった?」

 

 言葉は返さず頷けば、それはよかったと彼女は朗らかな声で言った。

 

「初めにあったのもそういえば、この公園だっけ」

「覚えてないな……気付けば隣にいて、それからずっと居たとしか」

「覚えてないことばっかじゃないか、記憶の劣化が著しいね」

「勝手に言ってろ」

「まあ、でもそれだけ覚えてくれれば嬉しいよ。ずっと隣にボクが居たってことを忘れずに居て欲しいな」

 

 彼女のことを忘れることはないだろう、そんなことできようか。忘却こそが幸福だとしても、今の俺は彼女無しでは語れないのだから。

 

 俺も彼女も小中高と同じマスを進んできたけれど、もういつ別れてもおかしくないのだ。さよならだけが人生だとは言ったのは昔の文豪で、それが誰かも忘れてしまったけれども、その言葉をメッセージの件からよく思い返していた。

 

 遅かれ早かれどちらにしろ彼女と別れる時が来て、俺は大学に行くまでは縁は続くだろうと驕っていたけれど、それよりほんの少しだけ早く来ただけなのだ。

 だからこの別れはその中の一つに過ぎない、と。

 

 まあ、そう思い込もうとして、結局飲み込めていなかったわけだけれども。

 

 だって、あまりに長い時間彼女と過ごし過ぎたから。高校に入って距離を離そうがもう手遅れで、その事に気づく事にすら遅れてるのだから、全てにおいて周回遅れだった。

 

 決定的な破綻を躊躇っていた俺は、今度は自分から率先して壊そうとしていた。手遅れになる前に告白すればいいのに、手遅れになってからわざと破綻させる本末転倒さ。

 

 絶対に必要だった。嫌ってくれれば、軽蔑さえしてくれれば後腐れなく前に進むことができる。

 

 今日一日の関係だと初めから割り切っていた、変な望みを持つべきではないと。

 だからバーガーショップで素直に言葉を吐き出せた。失う物がないからこそ、もう失った物だからこそ胸中の言葉を曝け出せた。

 

 嫌われたくないからこれ以上近づかないなんて、どうしようも無い卑怯者の理論、語ってしまえば嫌われるに決まってる。

 

 そうだ。俺はきっと付き合えたら幸せだろうと思いながらも、今だに彼女を好きだと分かっていても、まだ俺は前へ進もうとしていなかった。

 

 勝手に見切りをつけて、もうどうなっても良いと思って。ああこれで楽になれると勝手に思い込んでいた。なのに、そんなアホな俺を彼女は受け入れてしまうなんて夢にも思わなかったから。

 

「ねえ、大丈夫?」

「……あぁ、大丈夫だよ」

 

 気付けば彼女はブランコから降りて、心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。考え込みすぎ、嘘を取り繕うように一つノビを入れて立ち上り、俺は言った。

 

「そろそろ行くか」

「行くってどこに?」

「何処にもいかない、ここで終わりだよ」

 

 最後ぐらいは俺が形を作らせてもらう。ちっぽけな意地だけど、これだけは譲れなかった。

 

 彼女が笑いながらもすぐに背を向けた。今にも泣き出しそうに見えたのは、きっと気のせい。

 

 ●

 

 帰り道、まだまだ日は高く。

 一歩一歩進むたびに残された時間は減っていって、互いにそれがわかってるからこそ足の進みは遅くなっていた。

 

「……家に帰りたくないな」

「遅かれ早かれの問題だろ」

「そういう問題じゃないんだけどな、こんなに明るいのに」

 

 ちらりと隣を伺うと、何か用かと首を傾げた。

 ずっとこちらを見ているのだろうか? 

 そう思うも彼女はすぐに前を向いた。

 

「いつかまた、ボクと今日みたいにデートしてくれる?」

「さあな、少なくとも今回みたいな報復のために呼び出されるのは勘弁して欲しいけど」

「だよねー、はは……」

「そういえばその浮気した彼氏の名前ってなんて言うんだ?」

「あれ、ナオは聞いてなかったけ?」

 

 聞いてないし、多分聞いていたとしてもショックで頭から抜けているのだろう。断じて痴呆などではない。

 彼女が語った人名を忘れないようにスマホのメモ帳へと打ち込んで再びポケットへ仕舞い込む。

 それを隣で見てた彼女がふと思いついたように口を開いた。

 

「そういえば水族館で一度も写真を撮らなかった気がするけど良かったの?」

「いいんだよ、別に」

 

 よく気付いたなと、素直にそう思った。

 いつもなら撮ってただろうけれど、後からこの写真を見た時にどれだけ傷口が抉られるかと考えれば、撮らないほうがずっとマシだ。

 

 そんな俺の考えを他所に、彼女はスマホを取り出すや否や自分に向けてパシャリと一枚。

 

「……消しなさい」

「一枚ぐらい記念にいいでしょ?」

「いいけどなんの役にも立たないし、データを圧迫するだけだと思うんだが」

 

 価値を決めるのはボクだからと言われれば返す言葉もなく、無理やり消させようと迫るほどの気力もなく。

 俺たちは赤信号を前に足を止めた。

 

「もうすぐ分かれ道だね」

「だな」

 

 信号を渡って少しいけば分かれ道があって、自分は真っ直ぐに彼女は右へと分岐する。

 そこが終点。

 

「ねえ最後にお願いがあるんだけどいい?」

「聞いてから考える」

「ケチだなぁ、ただ久しぶりに家に行って良いかって」

「ダメだ」

 

 即座に出た俺の声は予想以上に強くて、どうしようもなく自分に嫌悪感を抱かせるもので。信号が青になるまで、俺も彼女も何も言わなかった。

 

「お前はもう家に帰れ」

「……そっか。うん、そうだよね」

 

 もう昔のような関係は無理なのだ、戻ってこないのだ。それを俺もあいつもわかっていたから。分水嶺なんてとっくに通り越して、ここが行き着いた端だから。

 

「これは例え話なんだけどさ、もしボクと君が付き合ってたらどうだったんだろうね」

「今日みたいな日がずっと続くのなら幸せだっただろうさ」

 

 あり得た未来、起こらなかった話。

 最後の曲がり角、分かれ道。俺とあいつは同時に立ち止まった。

 

「それじゃあボクはここでお暇させてもらうよ」

「ああ、気をつけて帰れよ」

「そこはさぁ、一緒に家の前まで帰るのが男の礼儀ってやつなんじゃないかな」

 

 だから君はダメなんだよ、と今日何度目かのダメ出しをくらって苦笑い。最後の最後まで締まらない、俺らしいといえば俺らしいのか。

 

「その前にちょっと顔下げてくれない?」

「どうしてだよ」

「良いから良いから」

 

 何やらニンマリと悪巧みを企てている顔だけれども、何をする気か全くわからない。そのまま彼女を置いて帰ることも一興だけれど、さすがにそうは問屋が卸さない。

 

「あー……ついでに目を閉じて貰えば良かったな」

「そう言いつつなんで手で目を覆うんだよ」

 

 彼女の手に視界を塞がれても、やけに温かい手だなと呑気に考えていた。唇に柔らかいものが当たる感覚がして、再び視界が明るくなって。

 

「ファーストキスもーらいっ」

 

 彼女は小悪魔的な笑みを浮かべていた。

 

「君はボクのことを一生忘れられない、これは呪いだよ」

 

 そんな笑みを浮かべてるとはいえ、顔が真っ赤なことから彼女がだいぶ無理をしていることはあまりにも分かりやすくて、ふっと肩の力が抜けた。

 

「それじゃ、さようなら」

「ああ、さよならだ」

 

 今度こそ彼女は一度も振り向くことなく去っていった。そうして彼女の姿が見えなくなって、しばらくの時間が経ってからようやく俺も歩き始めた。

 

 ●

 

 以上を持ってこの幸せな話は終わりである。

 ある恋の終わり。なんでもない、誰もが経験する大人への通過儀礼。どんな天才でも全てが全てうまくいくなんてあり得ないし、多かれ少なかれ失敗するものだから。

 果たして俺が経験したのは幾分かマシなのか、それとも酷いものだったのかの評価はわからないけれども、どちらにしろ世界は回っていく。

 

 家に帰ってベッドに倒れ込み、そうして日曜日を無為に過ごして、再び嫌な顔をしながら学校へ向かう。

 

 

 

 

 ――だから、これ以上の話は蛇足になる。今までのは俺のこれまでの話で、これから話すのは俺達のこれからの話だ。後味の悪いストーリーのエンディング後の語られざる話。

 結局、俺は幸運にしてそれを知ってしまったのだけれども、というか俺という主役を中心にして回る話な以上、知って当然の話なのだけれども。

 

 彼女は二つほど嘘を付いていた。決して褒められたものではないし、どちらかといえば非難されるべき嘘。

 

 ただその偽りの被害者は1名、要するにコラテラルダメージというわけだ。全く素晴らしい、その被害者が俺だったということを除けばだが。

 

 最後にそれを語ってこの話を終わるとしよう。俺はその嘘を含めて、彼女のことが大好きなのだ。

 

 ●

 

 月曜日、憂鬱な一週間の始まり。

 そんな日に俺は他のクラスの教室の前で立っていた。目的は幼馴染みの件の彼氏、浮気した男として最低の彼である。彼女が最終的に決着をつけるのだろうけれども、こちらから一言でもぶつけてやらなければ気が済まなかった。

 

 はっきりいえば八つ当たり。ただの幼馴染みが何様のつもりかと言われるかもしれないけれど、浮気する方が悪いのだ。

 

 クラスの友人数人に彼女から聞いた名前を尋ねてみれば、彼がどこのクラスかすぐにわかった。そうなれば後は行動あるのみ、そうして昼休みの平穏和やかな時間を乱すものとして、俺はやって来た。

 ひとつ深呼吸を入れ咳払い、たまたま通りかかったこのクラスらしき人に名前を告げ呼び出してもらう。空に数を15ほど数えれば扉をガラリと開ける音がした。

 

「呼び出された後藤ですけれどもー……」

 

 そう恐る恐る顔を出したのは、浮気する様には少しも見えない人物であった。人の良さそうな顔、一目みた印象はなよなよとした本の虫、眼鏡をつけているからだろうか? 

 こんな奴がもう一人女をひっかけられたのだろうか、内心で失礼なことを考えながらも俺は言った。

 

「少しだけ話があるんだけど、まずは場所を移そうか」

「は、はひ」

 

 流石にこの廊下は人目が多すぎる。

 初対面の人に呼び出されていきなりそんなことを言われて戸惑いながらも、彼は素直に後ろをついてきた。目的地は中庭、そこなら人も少なくゆっくり話せるだろうから。

 

 案の定、中庭で昼食を食べる酔狂な人物は殆どいなく、手頃なベンチが一つ開いていた。一先ずそこに腰掛けると、彼は座ろうとせず突っ立っている。座らないのか、と尋ねる前に彼が口火を切った。

 

「あ、あの!」

「なんだ?」

「も、もし一度会ってたらすいません、貴方の名前を聞いても良いですか?」

 

 ああ、肝心の自己紹介を忘れていた。彼女から俺の名前を教わってるわけでもあるまいし、彼が知っているわけがない。それにしてもどうしてここまで怖がるのか、そんなに不機嫌さがあらわになってるだろうか。

 

「片山直樹、同学年だから適当に呼び捨てで呼んでくれ」

「それじゃあ、片山さんって呼ばせてもらいますね」

 

 軽く頬を揉みほぐしてにっこり笑顔、なんだこいつと言いたげな目を見て再び元に戻せば再び少し変な声を上げた。

 ちょっと面白いけれどもこんなことをしてる場合ではない、彼からしても話を長引かせたくないのだろう。

 

 それで片山さんは僕になんの用ですか? 、と彼はベンチに腰掛けることなくそう言った。

 そりゃそうだ、俺も知らない奴から呼び出されればさっさと話を終わらせて帰りたいと思うだろう。

 手短に終わらせたいと思ってるのはこちらも一緒である。こう言う話はさっさと終わらせるに限ると思っていたから、ずばりと単刀直入に切り出した。

 

「お前二股してるんだろう」、と。

 

 

 ――そうして話を終えて俺は真っ先に彼女の教室へと向かった。

 後藤くんをその場に取り残して全速力でやって来て、そうしてやってきた俺に告げられたのは、今日は休みというクラスメイトの言葉で。

 

 それでもへこたれずに、すぐに携帯を取り出してメッセージを送ろうとして。けれども、なんて送ればいいかわからずに、取り敢えず『これを見たら反応しろ』と送ったのだ。

 

 あっという間に着くはずの既読マーク、それに期待してスマホにしがみつく。

 けれども既読マークが付くことはなかった。

 

 ○

 

 宮地綾は今日何度目かもわからないため息を漏らした。

 

 ため息をすると幸福が逃げるというならば、持ち合わせの運はとっくに尽きていただろうし、もしため息が重さを持つような世界ならば、部屋にぎっしり詰まったため息に圧殺されていたに違いない。

 

 当然ながらそんな世界観ではなかったし、現状ボクに負荷を掛けているのは布団と重力だけであった。

 日頃から気にも留めないようなそれは、今日だけはやけに強く感じていた。重力に負けるなんて人間失格ではあるけれど、どうしたって動く気力が湧いてこない。

 

 しかしながら気分が乗らないから学校を休むなんて親に言い出せる気もない。全人類にとって月曜日は憂鬱なものだと決まってる以上、自分も我慢しろと言われるのが当然の流れだろう。

 

 しょうがないと5分ほど集中して動く気力を集めた後、えいやっと布団から抜け出して、体温計をテーブルライトで軽く炙って温度調整。一度の失敗の後、38度に調整したそれを抱えて親に告げる。

 

「調子が悪いから今日は休む」、と。

 

 ずる休み、不良少女の仲間入りである。

 特に疑われることもなくお休みの権利を手に入れ上機嫌で布団へと潜り込めば、すぐに意識が遠のいて行った。

 

 ○

 

 彼の隣に自分の知らない誰かが立っていた。

 ここがどこかなのか分からなくても、それがどういう状況かは不思議と理解が出来た。

 

「好きな人ができたんだ」

 

 彼はそう言って自分に背を向けて、慌てて声を掛けようにも言葉が出てこない。ならば追いかければいいと走って追いかけても、彼は歩いてるはずなのに一向に距離は縮まらない。

 

 次第にスピードが落ちて行って、ついには足を止めてしまう。追いつけないのだからしょうがないと、そう自分に言い訳をして。

 すっかり彼の後ろ姿は小さくなっていて、ボクは届くかも分からないけれども言葉を投げかけることにした。

 

「さよなら」と。

 

 

 

 がばりと布団を跳ね除けて起き上がる。

 夢、夢か。

 汗で体に張り付いたパジャマの感覚が少しだけ不快だった。さよならと言ったのは自分なのに、それにさよならと返されることが嫌で。

 

 

「学校、行けばよかったな」

 

 そうポツリと声を漏らす。

 やることなく自由な時間がたくさんあることが苦痛だった。時間が余ってるからこそ無駄に考えてしまう思考の悪循環、もう一度寝ようにも先ほどの悪夢が邪魔をする。

 

 楽しかったことを思い出そうとすれば、出てくるのはやっぱり一昨日のデートのことで。そこから楽しい考えに繋がるはずもない。

 

 だってそれは失敗した記憶に他ならないから。

 水族館を満喫して、そこそこいい雰囲気になって、キスをして、けれども両者の距離に変わりはなかった。

 

 フラフラと着替えながら、なにがいけなかったのだろうかと振り返る。自分の魅力が足りなかったのか、そもそもデートのきっかけというものがよろしくなかったのだろうか。

 

 家を出ると夕焼けが綺麗だった、どうやら予想以上にぐっすりと寝ていたらしい。昼ご飯も食べずにぐっすりと、けれども不思議と空腹を感じなかった。

 

 ○

 

 宮地綾は片山直樹のことが大好きである。

 そうでもなければデートに誘うこともなかったし、キスすることもなかっただろう。

 

 ずっと前から、それこそ中学生の時から好きだった。

 けれども告白する勇気は湧かなくて、高校に入ってからは彼から距離を開けられてると感じてさらに告白する勇気は無くなって。

 だってOKされる見込みがないのに、告白して自爆するなんてそんなの馬鹿馬鹿しくてやってられない。生憎ながらマゾでもないし、自傷癖があるわけでもない。

 

 そういう訳で勝てる見込みもない戦いを挑みたくはないのだけれども、いつまで経っても平行線を変えるべく、大きくこちらから仕掛けることにした。

 

 つまりは『彼氏が出来ました!』というメッセージ。

 これは真っ赤な嘘である。彼の他に魅力的と思う人物もなく、さらに付き合ってもいいかなと思える人物も居なかった。そうして告白して来た相手にごめんなさいと告げた時、ふと思いついたのだ。

 

「ボクに彼氏が出来たと知ったら彼はどう動くのだろうか」

 

 何気ない発想は軽率なゴーサインと共に爆散した。得たものはカエルのスタンプが割と腹立つという無駄な情報だけであり、両者の関係は前よりさらに冷え込んだ。

 

 関係性を動かすという発想は良かったかもしれないが、それにしても「彼氏が出来た」という情報はあまりに重すぎた。それは両者の関係が友達止まりになった事を決めるもので、交流が増える訳でもないと失敗してから気付くも、もう後の祭りである。

 

 けれど転んでもただでは起きない。

 必死に考えを振り絞って「彼氏に浮気された」というカバーストーリーを作り、そこからデートまでなんとか漕ぎ着けることに成功して。

 

 そうして拒絶されたのだ。それさえなければ、こちらから告白してたかもしれないのに。

 

 でも、それが言い訳だって事を心の片隅でちゃんと理解していた。それまでに告白する機会は幾らでもあって、それでもしなかったのがボクなのだから。

 彼に逃げるなと言ったくせに、結局最後の言葉から逃げ出したのが自分なのだから彼を責められる権利はない。

 

「なにやってんだよ、綾」

 

 

 そう聴き慣れた声が不意に耳に届いて慌てて顔を上げた。

 

「……どうも」

 

 見知らぬ他人にいきなり声をかけられたかのような、ぎこちない挨拶。それをみてため息をついて彼はボクの前へと立った。

 そこに至ってここが公園だとようやく気づいた。適当に歩いて、考え事にふけってる間にたどり着いていたらしい。

 自分はブランコに腰掛けたまま、彼は柵へと寄りかかる。

 

「なにやってんだって聞いてる、病人は家で寝てるべきだと思うんだが」

 

 学校を休んだ事を知ってる、それでもボクがずる休みだとは思いも寄らなかったらしい。

 

「ナオはどうしてここに居るの?」

「気の迷いだよ、なんとなくだ」

 

 ふーんと呟いて自分がここに居る理由を答えずにいれば、当然ながら話は続かない。そんな間を嫌ったのか、彼は尋ねるうべきか迷いながらも切り出した。

 

「なあ、メッセージ見たか?」

「いや見てない、ずっと寝てたし」

 

 ポケットを叩けばスマホどころか財布すら入ってないから確認する事も出来ない。何だったのだろうと気になるけれど、彼は特に意味もない事だからまあ良いかと彼は言った。

 

「何かボクに聞きたいことがあったの?」

「聞きたいというか言いたいことがあったんだよ、好きな人ができたって」

 

 ああ、ダメだ。

 今日会うべきではなかった、家を出るべきではなかったのだ。もう彼を直視できずに顔を伏せる。

 

「良かったね」

 

 そう言葉を絞り出せたのは我ながらファインプレー。果たして自分がきっちり笑顔を保ててるか不安だったけれど、見えてないだろうし大丈夫な筈だ。

 

「不器用なやつなんだ。見栄っ張りで、他人には自分の弱いところを見せようとしないやつで」

「……やめてよ」

「分かったよ、嫌ならやめる」

 

 それ以上聴きたくなかった、遮らずにはいられなかった。

 ボク以外の誰かを彼が好きになるなんて、当然起こりうることだったし、そもそも前から好きな人がいてそれをようやく明かしてくれたかもしれないけれど、自分の知らないところでやって欲しいと思うのはボクの我儘だろうか? 

 

「だけど最後に一言だけ言っていいか?」

「うん、いいよ。いやだけど」

「そう言うなよ、言葉に甘えて言わせてもらうけどさ」

 

 足元に伸びた影を見下ろしていた。視界の端に映る彼の足元が数歩を距離を詰めるのをぼんやりと眺めていた。

 

「だからさ、綾、俺と付き合ってくれないか」

 

 数秒間、彼が言った言葉が飲み込めなかった。ようやくその意味を理解して、彼の顔を見上げれば恥ずかしそうに頬を掻いていた。

 

「……なん、で」

 

 喜ぶより先に、疑問の方が先だった。

 

「だって、嘘をついたんだよ? 彼氏がいるって」

 

 ついぽろっと自分がついた嘘をバラしたのも、あまりに動揺していたから無理もないことだろう。けれどもそれを聞いても彼は動じない。

 

「知ってるよ、件の彼に会いにいったから」

「逃げるなって言った癖に、ボクはナオから告白することから逃げていた卑怯者なのに?」

「それは俺も一緒だから、好きだって分かってるのに告白しなかった。そもそも付き合ったことが嘘だってわからなきゃまた逃げてただろうし」

 

 視界が滲む。

 言いたいことはまだあったけれども、様々な感情が渦巻いて選べないから。

 

「好きです、大好きです」

 

 それだけ言って、彼に抱きついた。

 こんなひどい顔を彼には見せたくなかった、いつ堪えきれずに泣き出すか分からなかった。案の定、すぐさま嗚咽が漏れて。

 それを慰めるように彼が頭を撫でてくれるのが心地良かった。

 

「なんだよ、泣くなよ」

「……服汚してごめんね」

「そんなこといちいち気にしなくていいのに」

 

 ○

 

 この後、彼の言葉に自分がどう返事をしたのかなんてもう分かり切ってるだろう。それでも、わからないと言うならば、ボクも彼も幸せだという特大ヒントを与えてこの話を終えるとしよう。

 

 ひどく長い遠回りをしたけれど、きっともっと楽な道もあったに違いないけれど、終わり良ければ全てよし。

 一つ言葉を残すとするならば、好きな人がいるなら彼から告白されるのを待つより自分から告白しよう。

 

 ボクの教訓はそれだけだ。

 

 



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お人好しのレゾンデートル

大人気の後藤くんifルートです
後藤くんもボクっ子だしいいか……


 僕、つまり後藤慎一が勇気を出し宮地綾さんに告白してから、幸運にもOKを貰って早くも二週間が経った日のことである。

 その日はなかなかにデート日和のいい天気で、けれども彼女をデートに誘う勇気もなかった為に、僕は一人で本屋に赴いていた。

 

 付き合うことにOKは貰ったけれども、いまだ恋人らしいイベントもなく。出来たことはといえば、連絡先を交換してメッセージのやり取りをするようになっただけだけれども、それでも十分に僕は幸せだった。

 

 綾さんは一年の時のクラスメイトであり、その時から僕は彼女に惹かれていた。

 人気者で、モチベーター。誰にでも平等に、きっちりリーダーシップをとってクラス全員を引っ張っていく姿が眩しかったから。それは気弱な僕が持ち合わせていないものだからこそ。

 

 遠くから憧れの視線を飛ばすだけだった自分が告白しようと思ったのは、二年生に上がってクラスが変わったからで。

 

 これを逃したら多分後悔すると。

 そもそもこれから先話す機会も殆どなくなるだろうし、三年に上がって同じクラスになったとしても、彼氏ができていておかしくはない。というか、今の彼女に彼氏の影が全く見えない方がおかしいのだ。

 

 だから僕は告白した。

 振られても別に良かったのだ、いや正直に言えば、きっと振られるんだろうなと思っていた。

 そうだとしても何もしなかったことを後悔するより、やるだけやって失敗したという結果が欲しくて。

 

 そして予想に反してあっさりと成功した。

 

 僕は今、幸福の絶頂期にある。

 今ならば何でもできる、そんな気さえした。

 もう焦る心配は無いはずだった。まだまだ時間はあるのだから、これからゆっくりと仲を深めていけばいい。

 

 事が起きたのは帰り道、適当に映画化が決定した文庫本を数冊買い込んでホクホク気分で家へと向かう途中であった。

 そうした本を選んだのは綾さんと映画を見にいくことを想定したからで、本屋についてから思いついたにしては、なかなかいいアイデアなんじゃないかと思っていた。

 

 僕は公園から出てくる彼女を偶然見かけてしまった――彼女が知らない男と一緒に出てくるところを、だ。

 一目で彼女だと分かった、自分が恋焦がれてる人の姿を間違えるはずもなく。それを否定しようにも微かに聞こえてくる声がそれを本当だと告げていた。

 

 ああ、あれは綾さんなのだ。

 こちらからは後ろ姿しか見えなかったけれども、日頃は制服姿しか見てこなかったから中々に新鮮だった。彼女のことだしズボンを履くのかと思っていたら普通にスカートだったというのも驚きで。

 

 なんでこんな風に知ってしまったのか?

 浮かれた気持ちに冷や水をぶっかけられ、僕は立ち竦んでいた。音が聞こえない、そう思ったのは痛いほど胸が高鳴っていたからだろう。

 知らないうちに取り落としていた本屋の袋を拾い上げ、ふらふらと彼女を追いかける。

 

 冷静になれ、そう自分に言い聞かせる。

 まだ彼女が二股してると決まったわけじゃない、ただの男友達かもしれないだろ?

 お粧しして男友達と公園で遊ぶ、多分よくある話だ。

 

 じゃあ、彼女が知らない男とキスしたとしても?

 

 キスをして、すぐに彼女と誰かは別々の道へ進んでいった。

 誰もいなくなった分帰路に僕だけが取り残されて。ほら見たことか、お前とはお遊びだったんだよと誰かが言っている気がした。

 

 

 

 そして気づけば天井を見上げていた。

 ベッドから身を起こせば窓から夕陽が差し込んでいた。

 もしかしてさっきまでの出来事は夢だったんじゃないか?そんな淡い期待をばっさりと、机の上に乱雑に置かれた本が声高に否定する。紛れもなく、実際に起きて、僕が見た現実だと。

 

 とりあえずスマホをとって彼女に電話をしようとして、ほんの少しの躊躇いののち、妥協して彼女へとメッセージを送った。

 

『今日なにしてた?』と。

『一日中家にいたよ』、彼女はそう返してきた。

 

 ●

 

 それから先に、僕が踏み込むことはなかった。後回しでいいじゃないか、どうせ月曜日に会うのだから、と。

 遅いか早いかの問題でどちらにしろ向き合わなきゃいけない問題だというのに目を逸らしていた。

 

 実際話題に出さないで何事もなかったように過ごす選択もあったのだろうけれど、僕がそれに耐えられるとはどうしても思えなかった。

 

 いっそのこと全部忘れて仕舞えば良いのに。

 でも自分にはそんな器用なことはできない、しこりが残ることは必定、だから。

 

 そうして休みが明けた月曜日、彼女が嘘をついたという事実だけを握りしめて僕は学校に行った。刻々と迫ってくる期限に怯えて、あまり寝れずに寝不足の遅刻気味。

 これだけ遅いと朝に話に行くのは無理だ。そう言い訳を並べたのも、やっぱり確認するのが嫌だったからだろう。

 

 ほんの少し世界が色褪せて見えた。

 相変わらず退屈な授業。黒板の内容をノートに写すのを放棄して、ぼんやりと外を眺めた。

 そんなことをしながらも脳裏に思い浮かぶのは彼女の姿だった。授業に集中せず彼女もよく窓の外を眺めていた、時たま怒られることはあったけれどそれでも飽きずにずっと見ていた気がする。

 

 彼女と同じようなことをしている、そんな自覚があった。昔は遠かった窓際が、今はすぐ隣にある。

 彼女と同じように空を見上げて、けれども彼女が何を見ていたのかなんて、やっぱり僕にはわからなかった。

 

 

 

 四限目が終わり、片手には弁当箱を引っ提げてすぐさま立ち上がる。たっぷり四時間かけて覚悟は出来ていた、それでもなお重い足を引きずって彼女の教室へと向かう。

 

「宮地さん?今日は休みだけど」

「そうですか……」

 

 ピシャリと締まったドアを前に何故か安堵していた。なんの解決にもなっていないし、ただ後回しになっただけだというのに。

 

 だからバチが当たったのだろうと思う。

 教室の前に立つ彼をみて僕はピタリと足を止めた。

 昨日、綾さんとキスをしていた知らない彼。

 

 こちらの視線に気づいたのだろうか、こちらに視線を向けて、けれどもすぐに興味なさげに視線を戻した。どうやらクラスメイトと何かを話してる途中らしい。

 

「あー、後藤ならどっかいったみたいだ。また後で来てくれれば会えると思うけど、なんか言付け残しとくか?」

「そうか……いや、大した様じゃないから別にいい」

 

 そんな言葉がこちらに流れてくる。

 僕を探している?なら、なぜこっちをみて反応しない?

 同じクラスに他の後藤さんはいないし、まず間違いなく僕のことだろう。疑問はもう一つ、どうして僕に会おうとしたのか。

 

 話を終えてこちらに向かって歩いてくる彼は、廊下の真ん中で突っ立ってる僕を避けて通り過ぎていった。

 このまま話しかけれなければ、気づくことは無いだろう。

 

「あの!」

 

 なのに、勝手に口が動いていた。これが彼氏なりのプライドだった、誰にもみられてなかったとしてもここで引き下がる訳には行かない。

 

「僕が後藤、後藤慎一です」

 

 ゆらりと彼が振り返る。

 目の奥に剣呑な光が見えた気がした。

 

「片山直樹だ、ちょっとだけ話がある」

 

 場所を移そうか。そんな提案に頷いて、場所を移した先は中庭である。いい天気。けれども中庭で昼食を食べる様な人は殆どいなくて、誰にも話を聞かれる心配はなさそうだった。

 彼はベンチへと腰掛けて、僕は立ちっぱなしである。

 口火を切ったのは片山さんだった。

 

「なあ、お前が二股してるって本当か?」

「……は?」

 

 思わずぽかんと口を開けてしまうほど、彼のいったセリフが何一つ理解できなかった。僕が、二股?誰に?何で?

 疑問符に頭を埋め尽くされるのを横目に片山さんは話を続けていく。

 

「正直他人の恋愛に口挟むことほど野暮なことは無いと思うんだが、こればっかしはきっちり蹴りをつけなきゃいけないからな」

「いやいや、ちょっと待ってくださいよ!!僕が綾さん以外の誰と付き合うっていうんですか!?」

 

 キョトンとした顔を浮かべたかと思えば、すぐさま口に手を考えて彼は何やら考え始めた。

 

「……前提が違うのか?口実、建前を嘘で固めて、あいつは何が欲しかった?」

「片山さん何をいってるんですか?」

「ちょっと待て、考えを纏める。30秒、いや1分だけ猶予をくれ」

 

 なんなのだこれは、そう呟いた。

 中庭で好きでも無い男と二人っきり。ぶつぶつ呟く彼が何を考えてるか全く予想もつかないし、まったく何を待たされてるというのか。

 手持ち無沙汰にぶら下げた弁当袋を見下ろした。自分が空腹だと気づいたのかぐぅとお腹が鳴って、それを気にすることなくようやく彼が口を開いた。

 

「……そういうことか」

「いや、勝手に納得しないでくださいよ」

「じゃあお前は何が聞きたいんだ?」

 

 いきなりの絶好球、これを逃すほど僕は馬鹿ではなかった。

 

「片山さんと綾さんはどういう関係なんですか?」

 

 後から考えても、その時の質問は正鵠を射たものだったと思っている。その言葉を聞いて彼は明らかにたじろいで、僕は確信を抱いてしまった。ああ、やっぱりそうなのか。

 

「ただの、友人だよ。少なくとも俺はそう思っている」

「へー、そう。これはほんの疑問なんですけど、ただの友人の関係でもキスとかするって本当なんですか?」

 

 ザクザクと身勝手に言葉を突き刺して、果たして誰を傷つけたのかといえば、きっと自分自身なのだろう。

 

「一昨日、デートしてたんでしょう?公園から一緒に出てくるのを見たんですよ、どういう理由で呼び出されたかは知らないですけど」

 

 今になって現実がよく見えた、目を逸らして気付きたくなかった現実を自暴自棄に振り返っていく。

 彼は僕に対して何か間違った印象を抱いている、誰がそんなことを言った?思い出せ、キスしたのはどっちからだった?

 

「キスしたのは綾さんからだった。ねえ片山さん、綾さんは本当に貴方のことをただの友達だと思ってるんですか?」

「……わからないよ」

「嘘、わかってて知らないフリをしてる。僕にいえたことじゃ無いですけど」

 

 ほぼ間違いなく、綾さんは彼のことが好きなのだ。だというのにその事実を認めようとしない彼のことが憎くて憎くて堪らなかった。ともすれば殴りかかりたいぐらいに、辛うじてそれを押さえ込むだけの理性は残っていた。

 

「なら、どうして綾さんは片山さんとデートをしようとしたんだと思いますか?」

「俺と自分の関係に区切りを付けたかったんだろ、多分。……そうでもしなければ前に進めないと思ったから」

 

 僕はお邪魔虫だったのだろうか?

 僕が告白しなければ、彼女は自分の恋を諦めることは無かったのだろうか?

 はたして恋を諦めて僕と付き合うことが彼女にとっての幸せなのだろうか?

 

「片山さんにお願いがあるんです」

 

 その後に続いた言葉を聞いて、彼は顔を苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「それでいいのかよ、お前は」

「みんなが幸せになる方法は、これしか無いと僕は思うんですよ」

 

 

 ●

 

 昼休みも殆ど終わりに近づいてみんな教室に戻る頃だというのに、僕はその流れに逆らって誰もいない場所に行こうと校舎裏に向かった。

 誰もいない場所、何を話しても聞かれない場所。ポケットから取り出したのはスマホ、コールするのは彼女の電話番号である。

 

 この決意が揺らがないうちにどうしてもやらなきゃいけないこと。頼むから出てくれと祈りながら心の片隅で、寝ててくれれば、電話を取らなければいいのにと願っていた。

 

 そうして自分の決意が鈍ってくれさえすればきっと普通に付き合えるのに。だけども、長いコール音の後に彼女は電話に出てしまったから。

 だから僕は開口一番、言った。

 言ってしまった。

 

「勝手な都合で悪いけど、別れよう」

 

 結論だけ押し付けた、あまりに言葉足らずな台詞。けれども僕に上手い言葉回しなんて出来るはずもないのだから、これができる精一杯。

 案の定戸惑った様子が伝わってくるけれど、それに構ってる暇は無い。

 

「一昨日、綾さんが片山君とデートをしてるところを見たんだ」

 

 それを伝えれば彼女もようやく状況を理解したのだろう。長い間の後、彼女は言った。

 

『……見られちゃったか』

 

 嘘でもいいから否定してくれと思っていたのに、彼女は何一つ言い訳もせずごめんなさいと言った。

 

「別に、謝る必要はないんだ。どういう理由で彼とデートをしたのかは予想がついてるから。好きだったんだろ、片山くんのこと。でも僕に告白されたから諦めることにして」

 

 彼女は何一つ否定することなく、僕の言葉を聞いていた。僕が暴かなくていい事実を掘り起こしてるなんて、そんなこと当然わかってる。

 

「だから最後に思い出が欲しかったんだ、そうでしょ?自分の恋に区切りを付けるために。でもデートしてる時点でそんなの、諦め切れてるわけないじゃないか」

 

 そこまでするぐらいなら僕の告白に答えないでくれよ。さっさと告白して付き合って、こっちの希望を絶ってくれよ。

 

「なんとか言ってくれよ、綾さん」

『想像通り、だよ。だいぶ前から彼のことが好きだった』

「それってさ、いつぐらいからの話?」

『……小学生ぐらいかな、多分』

「ッなんだよ、それ。幼馴染みってありきたりすぎる設定。僕よりずっとお似合いの相手じゃないか」

 

 自分よりずっと長い関係だった。僕の彼女とあって一年、その何倍も彼は過ごしていた。そりゃ勝てるはずもない、こんなの結果のわかり切った出来レース。

 彼も彼で、ただの友達だなんて嘘をついて。もしかして自分のことを思って隠してくれていたのだろうか。

 

「ねえ、綾さん。なんで貴方は僕の告白に答えてくれたんですか?なんでばっさりと振ってくれなかったんですか?なんで淡い期待を抱かせたんですか?――なんで」

 

 壁に寄りかかってしゃがみ込む。地面が揺れてる気がするほど、酷く気分が悪かった。

 

『僕が今、何を言っても信じてくれるとは思わない。だけど、これだけは信じて欲しいんだ。キミなら付き合ってもいいと思ったのは本当だから、彼のことを忘れることが出来ると思った』

「……そう、それはちょっとだけ嬉しいかな」

 

 なら付き合う前に関係を精算してくれと思うのは間違いではないだろう、けれどもそれを口にする事はない。

 だってどちらにしろ、もう終わった関係なのだ。そして多分、先にそうしたとしても、僕は今と全く同じ事をするだろう。

 

「でも僕は綾さんとは付き合えない、知ってしまったから。僕が恋したのは、片山君に恋する綾さんだったんだって気づいちゃったから」

 

 どうしようもなく残酷な現実。

 そして、ようやく気づいた。どうして彼女が外を眺めていたのか。きっと、別の教室に居る彼と同じ物を見ようとしていたのだ。

 僕も彼女と同じ様に空を見上げる、彼女もいつもと同じ様に窓の外をぼんやりと眺めているのだろう。

 

「僕が好きになったのはそういう宮地さんなんだから、だからお願い。僕に二度と顔を見せないでくれ、同じ学校だし結構無茶な事だとわかってる、だけどお願いだ。そして」

 

 一旦、深呼吸をして僕は言った。

 

「可能な限り、早急に、片山君に告白してくれ」

 

 彼にお願いしたのはこの事だ。事情を知っている彼ならば、彼女を振る可能性が高いと見たから、だから先に釘を打っておいた。『僕を理由にして彼女の告白を断るな』と。

 

「二つだけ、とっても簡単でしょ」

『……それで後藤君はいいの?』

「いいんだよ、好きな女の子に尽くすのが男の子って奴なんだから」

 

 親切の押し売りだと分かってるけれども、それが彼女にとっての1番の幸せだと僕は思っている。

 

「これでサヨナラだ、最後に何か言うことは?」

『後藤君はさ、お人好しすぎるよ』

「履歴書の長所に『優しい』しか書けないって話したっけ?」

『それは、初耳だけど』

 

 彼女の笑い声を今日初めて聞いて、ふっと肩の力が抜けた。

 通話を切ったら完全に関係が絶たれると分かってるから、その先の言葉をどうしても思いつかない。

 

「ねえ」

『何?』

「僕は、後藤慎一は、貴方のことが好きでした」

『……うん、知ってる』

「いつもクラスを引っ張る姿に憧れて、人気者の貴方の姿は日陰者の僕にはあまりにも眩しくて。時々話す機会が堪らなく幸せでした」

 

 前の告白の焼き直し。けれども今度は彼女はここには居ない、もう会うこともない。

 

「僕は綾さんのことが大好きです。だから陰ながら貴方の幸せを祈ることにします、さようなら宮地さん」

『……さよなら、慎一君』

 

 ツーという通話の切れた音を耳から離して、僕はようやく立ち上がった。昼休みはとっくに終わって、授業の遅刻扱いは免れないだろう。

 

 目元を拭って歩き出す、もう振り返る事はない。さようなら好きだった人よ、さようなら青春よ。

 

 もうしばらく恋愛はお腹いっぱいだと、僕はそう思った。

 

 ○

 

 もう去年のこと、入学したばっかの頃の話だ。

 私は入学したてでウキウキで学校を探索していた、そうしてある場所へと差し掛かったのだ。

 

 校舎裏の人気のない場所、としか説明できないのだけれども妙に収まりのいいところで、今誰かが告白している場面に私はやって来てしまったのだ。

 

 果たして彼らは私に気づくことなく、二人して仲良くその場所からさって行ったのだけれども、私は暗い愉悦に身を震わせていた。

 

 それ以来、私に趣味が一つ増えた。

 悪趣味かつ、人に言えないようなもの。つまりは他人の告白を隠れて覗くという趣味である。

 

 校舎裏のその場所は人気が少ないから告白の場所としてもってつけなのだろう、本当にたくさんの人が来るのだ。時たま先生に告白したり(当然ながら先生がきっちり断って終わるのだが)、女の子同士で告白したりする人がいたり、本当にさまざまな人たちが交錯する場所だった。

 

 そうして上手くいったり、失敗したり、その悲喜交交を一人で出歯亀して、堪能して。

 人に言えない趣味だと分かってはいたけれど、そこらへんの巷でよく聞くラブストーリーや恋愛体験談よりずっと実感が伴ってリアリティがあるからこそ惹かれていた。

 

 その日もよくある昼休みだった。残念ながら告白の現場は抑え切れずに、つまらないなと思って帰ろうとしたときのことである。

 

 彼が現れたのはそんな時、ほんの偶然だった。期待外れから僅かなためらいなどなければそのまま帰っていただろう。

 

 微かにその容姿に見覚えがあった、それも最近。

 ほんの少し考えて、なるほどと閃いた。

 確か二週間ぐらい前に告白してた彼だ、彼女の返答までやけに時間がかかったから失敗したと思わせて成功した彼。

 

 失礼ながら容姿が釣り合ってるとも思わなかったし、そこまで深い関係だと思わなかったので、まさか告白に成功するとは思わなかったから印象深い。

 

 ちゃんと思い返せば鮮明な記憶が思い出せる。

 たしか後藤くんとか呼ばれていた気がする。その彼はスマホを取り出して何処かへと電話をかけ始めていた。

 

 片方の声しか聞こえないけれど、要約すると別れるということらしい。別れて、好きだった人に告白しろと。

 

 呆れてため息が出るぐらいお人好しである、自己犠牲に浸ってるだけの馬鹿とも言える。

 告白にOKした時点で彼女も分かってるはずなのだ、それは元の恋を諦めるってことだって。

 

 それをわざわざ掘り起こす必要なんて、私からしてみれば理解不能である。

 

 でも、悪くはない。

 少なくとも私はそう思った。

 その選択を選ぶのも彼の自由なのだから、それを咎めることなんてできないのだ。本当に馬鹿だと思うけど。

 

 そうして彼は一通り電話の向こうへと勝手に言葉を叩きつけて、電話を切った。

 目をグイッと拭って歩き出す。悠々堂々と自分の行動になんの疑問も抱いていないかのように、それが正解だと確信してるようで。

 

 だから私は彼に興味を抱いたのだ。

 一度面と向かって話してみたいな、と。

 




これにて完全に完結です
本筋でもななしの彼女と後藤くんは遭遇するので、遅いか早いかの問題です



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