ある日の…… (スポポポーイ)
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ある日の合コン鎮魂歌

 総武高校を卒業し、早半年が経とうかというある日のこと。

 かつての同級生であり、依頼者であり、誠に遺憾ながら知り合いでもあるソイツは俺の前に現れた。……間違っても友達ではない。ここ重要。

 

 

 

「八幡! お主に我と合コンに行く権利を与えよう!!」

「帰れ」

 

 

 

 これは、大学生になった俺と材木座のある日の物語。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 大学生が大学へ何しに行くのかと問われれば、それはもちろん勉強である。

 大学に普通科は存在しないのだ。何故ならそれは、自らで専攻した分野をより深く学ぶ場であるからに他ならない。

 例外はスポーツや部活関係。だがこれも、スポーツや部活をやるという確固たる目的があってのもの。

 

 ──が、なかにはそうでない者もいる。『まだ就職したくないから』『とりあえず大学に進学しただけ』『マジ卍』、そんな理由で大学へと通う輩もいる。なんなら俺が先に挙げた方がマイノリティで、そうでない者の方がマジョリティなのかもしれない。知らんけど。

 まあ、ろくでもない言い方をすれば、彼らは金で時間を買ったのだ。高校卒業後の数年間という時間を、働いて金に代えるか、それとも金で猶予を設けるか。そういうことである。

 だから、今日も今日とて容易くはない受験戦争に勝ち残り、安くはない授業料を支払って、講義の出席だけ確定させたら早々に退出していく彼らが金で買った時間をサークルなり飲み会なり合コンなんてものに費やそうとそれは彼らの勝手なのだ。

 そんなことは俺には関係ないことだし、なんなら働きたくない一心で大学への進学を決めた俺も同じ穴の狢であると言える。ただ、俺の場合は講義をサボった場合にフォローしてくれる友人知人なんてものは存在しないので、マジメに講義を受けているけども。

 どうも、大学生になっても絶賛ぼっちの俺です。

 

 周囲では講義終わりの学生達がやれサークルだ、やれ飲み会だと騒ぐ中をステルスヒッキーを発動させるまでもなくスススっとすり抜けて、早々に帰路へ着くため足早にキャンパスを後にする。

 そんな俺を待ち伏せするかのごとく、正門前で一人の男が胸の前で腕を組み、仁王立ちしていた。

 

 高校生のときと変わらない、その姿。白髪めいた長髪を首辺りで括り、眼鏡に指貫グローブ、中二病的なトレンチコートを羽織って『ヌワハハハ』とウザったい笑い声をあげる人物。

 

「我、参上!」

「それ日本語の使い方間違ってんぞ」

 

 ──材木座義輝。

 高校時代からの腐れ縁。単なる知り合い、顔見知りだ。決して友達などではない。断じて違う。大事なことなので二回言いました。

 

「……え? マジで?」

「えらくマジだ。おまえ、大学は文学部だろ。それでどうやって合格できたんだよ……」

 

 材木座とは高校を卒業して別々の大学へと進学したはずなのだが、なぜかこうして偶に顔を出してくるのだ。そういうのは戸塚だけで間に合ってます。というか、戸塚だけでいいです。戸塚だけが良い……。

 戸塚! 俺だっ! 結婚してくれーーーっ!!!

 

「まあ、それは置いておいてだな。今日は八幡に相談があって来たのだ」

「断る」

「そ、そんなこと言わずに! ハチえも~ん!! 我を助けてよーーー!!!」

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 とりあえず、あのまま正門で話していては俺まで今以上に不審者扱いされ兼ねないので、大学近くのファミレスへと場所を移すことにした。

 ……選ばれたのは、お手軽イタリアンないつものファミレスでした。

 

 お互いにドリンクバーで喉を潤わせつつ、材木座がふんすふんすと鼻息荒く語る説明をへーへーほーと聞き流し、長い煩いウザい一行でまとめろと催促した俺はきっと悪くない。

 

「んで、つまりはどういうことだってばよ?」

「我と契約して合コンの引き立て役になってよ!」

「おまえはどこのインキュベーターだ」

「いや、八幡と我であれば六対四くらいで我の方がマシかなぁ~って思ってもらえるかなと……」

「よろしい、ならば戦争だ」

 

 俺はテーブルの隅に置いてある塩が入った容器を手に取ると、上蓋ごと開けて材木座が飲んでいた黒くて甘い炭酸飲料に塩を大量投入する。

 え? ドリンクが醤油になった? 仕方ない、ならガムシロで甘くしてやるよ。俺は抵抗する材木座のコップへ十個ほどガムシロをぶっかけたところで溜飲を下げた。

 

「……で、合コンだっけか」

「我のドリンクが甘じょっぱいというレベルでなく大変なことになっておるのだが……」

 

 高血圧一直線なドリンクを飲んでパ●スの断末魔のような叫び声を上げている材木座をサクッと無視して、俺は材木座から聞いた話について思案する。

 そも、材木座と合コンするという相手の女子は実在するのだろうか? 非実在女子大生ではないのだろうか? そこまで考えたところで結論が出たので、俺は可哀相なモノを見るような目でそっと材木座に語りかけた。

 

「……目を覚ませ材木座。おまえはきっと疲れてるんだよ」

「いや、我は別に超常現象オタクのFBI捜査官とかじゃないから」

「いいか、材木座。二次元の嫁に囲まれて食事をとることを合コンとは呼ばない」

「……八幡は我を何だと思っておるのだ。同じ講義をとっておる女子から誘われたのだ」

「まさかとは思いますが、その『女子』とは、あなたの想像上の存在に過ぎないのではないでしょうか」

「頑なであるなっ!?」

 

 そして、材木座がテーブルに届いた辛味チキンをムッシャムッシャしながら語ったところによると、それは本当に実在する女の子からの誘いだったという。

 いつも教室の最前列でポツンと一人で講義を受けていた材木座。その日最後の講義が終わり、さてリア充軍団にノートを強奪される前にさっさと逃げるかと席を立とうとしたところで突然話しかけられたらしい。

 艶のある黒髪を腰元まで伸ばし、他の女子学生とは違い、けばけばしい化粧もしていない。清楚という言葉が思い浮かぶが、顔は美人というより可愛い系。どこか幼さを感じる笑顔で、彼女は材木座に言うのだった。

 

 

 『ねえ、良ければ今度、一緒に飲みに行かない? わたしの友達と、ざい?…ざ……キミの友達も呼んでさ!』

 

 

 突然のお誘いに焦りパニくり取り乱し、なんかもうウンウン頷いて今に至るというのが材木座の説明だった。

 そして、その話を聞いた俺は眉間に皺を寄せ、自然と表情が険しくなっていくのを自覚する。これはあれだ。どう考えてもあれだ。間違いない。断言できる。真実はいつも一つ!

 

「……おい」

「なんであるか、八幡?」

「おまえも、本当のところは分かってんだろ?」

「…………うん」

 

 そう言って、材木座が悲し気に視線を伏せる。

 そうだ。こいつだって気が付いているのだ。それでも、夢を見てしまったんだろう。縋ってしまったんだろう。伊達に大学生になっても中二病を続けていやしない。

 

「どうせ、当日なって意気揚々とお店に行けば、誰も来ないか、イケメン共が待ち構えておるのであろう?」

「だろうな」

「我だって、分かってはおるのだ。我に話しかけてきた子の後ろで、こちらをニヤニヤしながら眺めておるリア充軍団がおったからな」

「なら……」

「それでも、嬉しかったのだ。声を掛けられて、可愛い子と話ができて、嘘だと分かってても、逃したくなかった」

「……」

「それに、我のような輩に『断る』という選択肢がないことぐらい、八幡なら分かっておろう?」

「……ああ」

「ならば、あとは道化にでもなって乗り切るしか道は残ってはいまい。まあ、それに八幡を巻き込んでしまうのは申し訳ないとは思うのだが……」

 

 材木座が語ったことは一つの事実だ。この場合、目を付けられた時点で試合終了のお知らせなのだ。俺や材木座のようなカースト最底辺に『断る』なんて選択は許されない。断ったら最後、『慈悲の心でもって手を差し伸べたのに、相手はそれを振り払った』という罪業が残るのみ。正義や大義は向こうにあり、こちらは断罪を待つばかり。

 まあ、俺の場合は目を付けられるほど認知もされていないのでまったく問題ないわけだが……。あれ、おかしいな? 目から汗が……。

 

「ただ、まだ問題があってな。我と八幡以外に、あと三人ほど生贄が必要なのだ」

「五対五ってことか……。なら、おまえのゲーセン仲間を誘えばどうだ?」

「確かに合コンとだけ伝えればホイホイ来るであろうが、罠と分かっているのに呼ぶのは気が引けるし、多分あとで我が袋叩きに合うから無理だ」

「だよな」

「まあ、どうにもならなければ、素直に誘える人がいませんでしたで、我が顰蹙を買うだけでどうにかなると思うのだが……」

「……」

 

 それはそうだろう。別に材木座を誘った彼女たちだって本気で合コンがしたい訳ではないのだ。生贄が俺と材木座だけであっても特段問題はないはずだ。彼女たちが求めているのは人形であって人間ではない。ただ自分たちの一時の愉悦を満たすための人形があればいいだけ。

 だから、俺たちがその期待に添うように道化であれば彼女たちは満足するのだろう。その対価として、材木座は大学内での一時の安寧が約束される。

 材木座だってそれを理解しているからこそ、俺のところに来たのだ。お互いにWIN-WINの関係。誰も不幸にならず、みんな幸せ。それが材木座を取り巻く世界の秩序。それだけのことである。

 ただ、なんというか。こう、あれだ。

 

 

 ”むかつくんだよ”

 

 

「……材木座」

「ふむん?」

「おまえは、どうしたい?」

「……どうしたい、とは?」

「今回はこれで乗り切れたとしても、そいつらが飽きるまで、きっと同じことの繰り返しだぞ?」

「……」

 

 押し黙る材木座を尻目に、俺はいくつかの解消案を挙げてみる。

 例えば、その講義の単位は捨てて、以後出席しない。つまりは、そいつらと距離をとるということ。だが、恐らくこれは難しい。大学一年目は単位取得のために結構な数の講義を取っているはずだし、一つ二つ講義を捨てたところで無駄だだろう。ましてや、必修科目が重複した時点で詰みだ。

 あるいは、どこかのサークルに所属して庇護してもらう。ただ、これはそもそも材木座を受け入れてもらう必要があるし、その団体にとって材木座を守るだけのメリットがないなら成立しない。

 他に、イメチェンという手もある。俗に大学デビューというやつだ。要は中二病を卒業すればいい。そもそも、大学生になっても未だ中二病から抜け出せず、孤立しているから目を付けられたのであって、それならばそれを捨て去ってその他大勢の有象無象へと埋もれてしまえば相手も材木座を見失うのではないだろうか。……ま、これができるんだったら、とっくにやってるだろうけど。何が楽しくて現在進行形で黒歴史を積み上げてるんだか、俺にはまったくこれっぽっちも理解できんが……。

 最後に、全部放り出す。大学を中退して就職するなり、来年別な大学を受験するなりすればいい。今年度分の学費はドブに捨てることになるけどな。

 

「……随分投げやりであるな」

「あー、思いつきで言ったからな。最後の方は途中で考えるのが面倒になった」

「……」

「で、どうする? このままそいつらの道化であり続けるか、他の手段をとるか?」

「それは……」

「まあ、ごちゃごちゃ言ったけどな、別に道化でもいいと思うぞ? どうせ四年後には相手も材木座のことなんて覚えてないだろうし。当座をしのげばそれで終わりかもしれん」

 

 そう言って、ミルクガムシロましましにしたアイスコーヒーを一口啜る。口内に広がる甘ったるいはずのコーヒーが、何故だかひどく苦く感じた。

 

 別に材木座を助けたい訳じゃない。俺はヒーローではないし、義憤に駆られて正義を振りかざすような度胸も信念も持ち合わせてはいない。

 そもそも、材木座がどうあろうと、俺には関係ないことだ。だから、選ぶのは材木座で、決めるのも材木座だ。そこに俺は関与しないし、そうであるべきだ。

 

 だって俺は材木座の家族ではないし、友達でもない。高校を卒業して、奉仕部が無くなった今となっては依頼者ですらない。

 だから俺と材木座の関係は、単なる知り合いで、顔見知りの元同級生。

 

 

 そのはずだ──

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 自然と、その言葉は口から零れ落ちた。

 

「なあ、材木座」

 

 

 ──俺は、材木座義輝という奴ほど、打たれ弱い男を知らない。

 だって、ネットで叩かれるのが嫌だというだけで、自作の小説を読むように依頼してくるようなクソ雑魚メンタルな奴なのだから。

 

 

「俺は、おまえを鬱陶しいと思ってるし、ぶっちゃけ今回の件だって至極面倒臭い」

 

 

 ──俺は、材木座義輝という奴ほど、情けない男を知らない。

 だって、後輩に正論で論破された程度で、奉仕部へ助けを求めてくるような奴なのだから。

 

 

「高校のときからそうだった。やれ小説を読めだの何だの……」

 

 

 ──俺は、材木座義輝という奴ほど、ウザい男を知らない。

 だって、呼んでもいないのに現れて、勝手に首を突っ込んでは絡んでくるのだから。

 

 

「だから、おまえはどう思ってるのかは知らないが、俺にとっておまえは友達なんてものじゃない」

 

 

 ──俺は、材木座義輝という男ほど、お人好しな奴を知らない。

 だって、普段あれだけぞんざいに扱っていたのに、俺が依頼に行き詰まったとき、何度も助けてくれたのは材木座だったのだから。

 

 

「それでも、俺なんかを頼るって言うなら……」

 

 

 ──俺は、材木座義輝という男ほど、カッコイイ奴を知らない。

 だって、俺が常識や世間の目に屈して捨ててしまったモノを、今も貫き通しているのだから。

 

 

「おまえが考えて、自分で決めろ」

 

 

 ──俺は、材木座義輝という男ほど、勇気のある奴を知らない。

 だって、一年生のとき、孤立して体育の授業でペアを組めない俺に、堂々と、真っ先に声をかけてくれたのだから。

 

 

「俺は、その結論を尊重するし、否定もしない」

 

 

 一度、手元のコーヒーに目をやりながら、また正面へと視線を戻す。

 

 

「なあ、材木座」

 

 

 俺は、ジッと材木座の目を見据え、静かに問い掛けた。

 

 

「おまえは、俺にどうあってほしい?」

 

 

 暫しの間、黙考する材木座。

 

 

「八幡、我は──」

 

 

 材木座義輝が出した答え。

 その答えを聞いて、改めて手に持ったアイスコーヒーへと口を付ける。再度、口の中へと流れ込んだコーヒーの味に、俺は僅かに眉を顰めた。

 今度のコーヒーの味は、苦くない。その代わり、ちょっと甘過ぎた。俺は、まるで何かを誤魔化すようにストローでコップの中身を攪拌すると、それを一気に飲み干した。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 合コン、当日。

 俺と材木座は、材木座が通う大学近くにあるちょっとシャレオツな飲み屋の扉を開けた。

 

 いらっしゃいませと営業スマイル全開で出迎える店員さんへ予約である旨を告げて、案内されたテーブルへと足を運ぶ。

 簡易なパーティションで区切られたそのエリアで待っていたのは、材木座を誘ったであろう女子学生たちが五人。

 そして、その体面に座るどこの大学にも居そうな雰囲気イケメンな五人の野郎共。

 

「うわっ、本当に来たし!」

「マジうける~~~」

「ごっめーん! まさか、本気にするとは思ってなくって~」

「……キモ」

「てゆーか、合コンのときでもそのコートで来るとかマジ無いでしょ、うわぁ……」

 

 そんな予想通りな反応が女性陣たちから返ってきた。あー、うん。最後の反応には俺も同意する。俺ですら小町コーディネートの服装なのに。ないわー、材木座マジないわー。

 俺がそんな感じで我関せずと構えていたのが気に障ったのか、材木座の後ろでぬぼーっと立ち尽くしていた俺にも悪意の矛が向いた。

 

「ていうか、キミにも友達なんていたんだ?」

「あー、なんていうんだろ……うん、ないわー」

「だよねー。なんかこう、目が……ね?」

「……キモ」

「あのさー、せめて生きてる人間を呼んできなよ。いくら友達いないからってゾンビなんて呼んでくんなっての!」

 

 ボロクソですね。分かります。まあ、想定してたけど。

 ちなみに、野郎共はというと女性陣の反応に相槌を入れたり、ニヤニヤしたり、威嚇したりしている。イキってるわー。女子の前だからこれでもかってくらいイキってるわー。

 

「あー、あれか? 俺と材木座はお呼びでない感じか?」

「見ればわかるでしょ?」

「空気読めってwww」

「……そっか、なら俺らが呼んだのは無駄になっちまったな。なあ、材木座?」

「で、あるな」

「……は? なに、あんた等以外にも誰かいるわけ?」

 

 ちょうどその時、店員さんに案内されて追加メンバーがこの場に降臨した。

 華奢な体躯に銀髪の少女……と見間違うほどの可憐な男子。ボーイッシュなコーデが眩くて、なんかもうちょっとモヤモヤムラムラする今日この頃。

 

「八幡、材木座くん。来たよー!」

 

 戸塚彩加。

 俺の中で小町と並ぶ二大天使の一角が登場し、ざわ…ざわ……と場がざわついた。ついでに俺の胸もトキめいた。戸塚マジ天使。今すぐ合コンなんてぶっちして戸塚と二人で夜の街へ繰り出したい。そうしたい。

 

「……え? 誰、この可愛い子?」

「俺、モロタイプなんだけど……」

「いや、それよりなんで女子が? 呼ぶとしても男子だろ」

「戸塚氏は男であるぞ?」

「「「「「 ………… 」」」」」

 

 材木座のカミングアウトに絶句する野郎共。気持ちは分かる。

 

「あ、え…と。僕、男です」

 

「「「「「 はあっ?! 」」」」」

 

 よし、場が乱れた。

 だがまだだ! まだ俺のターンは終わっていない!!

 

「うぇーい! ヒキタニくんたち、おひさ──!!」

 

 新たな乱入者二号こと、戸部。相変わらずのウザさ。

 ただ、高校時代はウザったくふぁさぁふぁさぁさせていたロン毛を切り、今は何と言うか短髪スポーツ青年って感じになっている。

 正直、高校生のときもこっちの髪型だったらもうちょいモテてたんじゃねと思わなくもない。……いや、やっぱねぇか。だって戸部だし。

 

「なんか今日あれっしょ? 合コンっしょ? ヤベーわ! なんてーの? とりあえず、いぇ──い!!」

「い、いぇーい?」

 

 曲がりなりにも、総武高校で葉山と一緒にトップカーストグループに居た戸部である。

 野郎共なんぞ無視して、速攻で女子たちの方へ歩み寄ってノリで騒ぎ出した。正直、俺や材木座では百年経ってもできる気がしない。ベーわ! 戸部マジベーわ!!

 だがしかし、俺のターンはまだ終わらない。大分混乱している彼ら彼女らを尻目に、俺は更なる追撃を仕掛ける。

 

 戸部を召喚したことで、リア充フィールドを展開! リア充の王、リア王を召喚!!

 

「……久しぶりだな、ヒキタニくん」

「おう、悪いな。急に呼び出しちまって」

「いいさ。俺も皆にはまた会いたかったからね」

 

「「「「「 …… 」」」」」

 

 葉山隼人。奴の登場で完全に場を支配したといっていい。

 ぶっちゃけ、彼女らと一緒に居た野郎共はイケメンはイケメンだが、あくまで雰囲気イケメンだ。髪型とか眉毛とか服装でそれっぽくしてるだけ。顔面偏差値で言えば精々が中の上とか、上の下といったところだろう。

 だが、葉山は違う。真なるイケメン。イケメンの中のイケメン。それこそ、レベルが違う。

 現に、葉山が現れてからの女子連中の反応がヤバいことになっている。自分たちが連れてきた男連中を見て、葉山を見て……を数度繰り返し、眼つきを変えた。

 

「あの! あたし、ざい…ざ?……彼と同じ大学のリカって言います!」

「あ、わたしも! ユリです!!」

「私はシホだよ! よろしくー!」

「……ミキ」

「ユカリだよぉー☆ もう、超ヤバイくらいカッコイイよぉー! きゃっ、カッコイイって言っちゃったぁ! テヘ☆」

「……ああ、葉山だ。よろしく」

 

 すげぇな、葉山の奴。登場しただけで女性陣の自己紹介が完了したぞ。ていうか君ら、そんな名前だったのね。

 一方、葉山が現れたことでポツーンと捨て置かれたのは男性陣。イキりたい……でも相手は自分たちを上回るイケメン。圧倒的格差を前に臍を噛む男達。くやしい……でも逆らえない。ビクンビクンッ! そんな心情が手を取るように分かる。

 

「じゃ、早速乾杯しよっか!」

「だね! ほら、葉山君座って座って!」

「ああ、ありがとう。……あれ? でも、そっちの彼らがいるから席は空いてないみたいだね?」

「あー、それなんだけどな。なんか、手違いがあったみたいで、俺らの席は無いみたい──」

 

 目をハートマークにさせた女性陣から促され、葉山が席に近づくが、そこに茫然と座っているイケメン(笑)たちを見て困ったような顔を見せた。

 その様子を見て、俺が事の次第を説明しようとしたところで、ハッと慌てた彼女たちが俺の言葉を遮る。

 

「ちょ、ちょっと何言ってんの! 違うから! そいつらは、偶々会っただけっていうか……」

「そ、そうそう! 葉山君たちが来るまで暇だったから、お話してただけだから!」

「ねえ、あんた達。いつまでそこ座ってるわけ? 私たちこれから飲み会だからどっかいってくんない?」

「……邪魔」

「ユカリ、空気読めない人ってなんかヤダなぁ~って思うなぁ」

 

「「「「「   」」」」」

 

 彼女らの手のひら返しに唖然とする男性陣。

 黙ってさっさと帰れよと、目力で訴える女性陣。

 それを何とも言えない表情で見守る材木座と戸塚と戸部。

 

「……ん」

「……はぁ」

 

 俺は葉山に目配せし、合図を送る。

 それに気が付いた葉山が僅かに溜息を吐きつつ、苦笑しながら頷いた。

 

「……それなら、問題ないかな。彼らも五人いるようだし。丁度、隣のテーブル席が空いているようだからお店の人に使わせてもらえるように頼もうか」

「え? それって……」

「実は俺もここに来るときに偶然友人と会ってね。彼女たちも是非ご一緒したいっていうんだけど、良いかな?」

「ご一緒にって、そんな突然言われても……」

 

 そう、彼女たちには申し訳ないが、まだこちらのターンは終わっていないのだ。

 まだだ! まだ終わらんよ!! ……これ使い方間違ってんな。

 俺がそんな益体もないことをつらつらツラランと考えていたからだろうか、まるで急かす様に苛立たしげな声が葉山たちの会話に割って入る。

 

「……いつまで待たせるつもりかしら。いい加減、待ち草臥れたのだけれど」

 

 そう言って威風堂々と姿を見せたのは、元奉仕部部長、雪ノ下雪乃。

 高校時代と変わらず、さらさらと伸ばした黒髪はまるで絹糸のように美しく、絵画の中から飛び出してきたかのように楚々とした佇まいは他を圧倒する。

 ゴクリと、生唾を飲み込むような音を響かせたのは、雪ノ下に見惚れる彼らだろうか、それとも戦慄の眼差しで固まる彼女たちだったのだろうか。

 だが甘い! こっちのターンはまだ終わらないぜ! ずっと俺のターン!!

 

「もう、ゆきのん! 一人で先に行っちゃわないでよー。いっつもそれで道間違えるんだからー!」

 

 まるで凍った時を溶かすように、ポカポカと太陽のような笑顔で雪ノ下に抱き着く由比ヶ浜結衣。その拍子にタユンと揺れて、雪ノ下の体に押しつぶされてポニョリと形を変えた二つのメロンに絶句する女性陣と目が血走る男性陣。……ちょっと、どこ見てんのよ!!

 

「……誰がいつ迷ったと言うのかしら。誹謗中傷は止めてほしいのだけれど」

「え? この間一緒にディステニー行ったときだって……」

「ごめんなさい何でもないわその話は止めましょうお願いヤメテ」

 

 あ、まだあの方向音痴直ってないんですね。分かります。

 相変わらず、卒業しても仲が良さそうで何よりでごぜいますです、はい。

 

「あ、先輩じゃないですかー! お久しぶりです!!」

 

 と、百合々してる二人を生温かい眼差しで見守っていたら、二人の後ろからヒョコっと顔を出して、あざとく敬礼してくる後輩がいた。というか、一色だった。

 ふんわり明るくあざとい感じのコーディネートで身を包んだ一色は所謂ガーリー系女子。……なんだよ、ガーリーって。寿司の付け合わせで出てくるアレ? 生姜なの? 酢漬けなのん?

 とりあえず、面倒臭いので無難に対応しておこう。そうしよう。

 

「おう」

「おうって……。久しぶりに会ったのにそれだけですか」

「つっても、卒業してまだ半年程度しか経ってないしな」

「それですよ! どうして、わたしがあんなに誘ってもガン無視なんですか!? おかしくないですかっ!!?」

「逆に聞くが、どうして卒業生の俺が生徒会の仕事を手伝わなきゃならんのだ。しかも、大学の講義をサボってまで」

「え、だって先輩だし」

「おい誰だこんなのを生徒会長にした奴。…………俺じゃん」

「ですです! だから、ちゃーんと責任とってくださいね?」

「……あざとい」

 

 そう言ってパチクリとウィンクしてくる一色を軽く小突き、盛大に溜息を一つ。

 まあ、今回は協力してもらった手前、あまり強く出れないのだが。というか、さすがに現役受験生をこんな飲み会の場に連れて来るのはダメだろうと誘わなかったのだが、どこから聞きつけたのかいつの間にか参加者に名を連ねていた。誰だよ、情報リークした奴……。

 

「……おまえ、絶対に飲酒だけはするなよ。あと遅くなる前に帰れ」

「先輩はわたしのお父さんですか。それに先輩たちだって飲酒はダメなはずですよー?」

「あのな……」

「わかってますよぉ。まあ、そこら辺は上手くやりますって! 大学デビューな男どもなんて手玉に取ってやりますよ!!」

「いや、そこは別に心配してないけど。おまえ、こういうパリピっぽいイベント大好物そうだし」

「……一度、先輩とは腹を割って話し合わなきゃいけないと思うわけですよ」

 

 一色が恨みがましそうな視線をザクザク突き刺してくるのを無視して、俺は次なる登場人物へと目を向ける。

 カツカツカッツンとタップダンスよろしくヒールを鳴り響かせ、『あぁん?』『やんのか、コラ?』『表出ろや、ボケェ』と言わんばかりの眼差しで会場に居る女性陣を威嚇する彼女を見て、俺は思わず視線を逸らした。だって、目が合ったら殺されそうな気がしたんだもん。

 

「……ねえ、誰に断って隼人にベタベタしてるわけ? ありえなくない?」

「ゆ、優美子……。ちょっと、落ち着いて! ね?」

「そうだな、俺もその方が良いと思うな。ほら、怒った顔より笑ってる方が優美子には似合うと思うしさ」

「え? そ、そう……?」

「さ、さっすが隼人くんっしょ! いやー、俺もそう思ってた的な? マジ優美子の笑顔ハンパないっしょー!!」

「戸部うっさい」

「……うっす」

 

 葉山いるところに、あーしさん在り。

 今回、葉山を合コンに呼んだことが由比ヶ浜経由で三浦にバレたため、葉山一筋三年の彼女も急遽参戦することとなった。どうでもいいけど、葉山一筋三年って聞くとめっちゃ歴史が浅く感じるな。実際はそんなことないんだろうけど、なんというか、こう……ミーハー感がハンパないです。

 登場したそばから半ギレ状態のあーしさんを由比ヶ浜と葉山が懸命に宥めていた。ていうか、葉山の宥め方が完全にあれだ。三流ラノベの主人公のそれだ。あと戸部は黙れ。いま葉山とあーしさんが良い感じだっただろ。

 

「こ、これが葉山くんのお友達?」

「あはは……。ミンナ、キレイナ子バッカリダネ……」

「ありえないから、これ」

「……ムリ」

「マジ勘弁しろよ……」

 

 そんな女性陣の嘆きとは対照的に、息を吹き返したのは男性陣。

 総武高校時代でも他の生徒たちとは頭一つ飛び抜けた容姿の彼女たちだ。そんな彼女たちと合コンとなれば俄然ヤル気になるというもの。たとえ葉山と言う格上が存在していても、『俺にもワンチャンあんじゃね?』と、思ってしまうのが男の悲しい性というものだ。

 

「いや、実はまだもう一人いてね……」

「……そう、ね」

 

 女性陣のぼやきに反応したのか、葉山が気まずそうに言葉を濁す。

 そして、それに釣られるように、それまで由比ヶ浜とお喋りに興じていた雪ノ下も微妙な顔をして口籠る。

 

 葉山と雪ノ下にそんな顔をさせられる人物など、一人しかいない。

 やるなら徹底的に、圧倒的な戦力差で、二度とこんなくだらないことを企もうなんて思わないよう完膚なきまでに敵を殲滅する。

 そのトドメとなる最後のカード。

 

 ドロー! フィールド上にいる葉山と雪ノ下と俺を生贄に、暴君たる魔王を召喚!

 

「ひゃっはろー、比企谷くん! あと、雪乃ちゃんと隼人たちも」

 

 ──雪ノ下陽乃。

 彼女の登場で、場が完全に静まり返る。

 先ほど雪ノ下が現れた時の比ではない。見惚れるとか、嫉妬とか、そんなちっぽけな感情なんて一切合財吹き飛ばし、ただただその場にいる全員を圧倒する。

 ……なにそのオーラ。覇王色の覇気が使えるとか聞いてないんですけど。ねえ、ちょっと。なんでこんな茶番に本気出してんですか、アンタ。おい、止めろ。俺の腕に組みつくな。あ、服越しでも柔らかい二つの塊が……「比企谷くん?」「ヒッキー?」「先輩?」ふぇぇ、小町ぃ…お兄ちゃん、尋常じゃないプレッシャーで圧し潰されちゃうよぉ……。

 

「それじゃ、役者が揃ったところで合コン、はじめよっか?」

 

 冷や汗なのか脂汗なのかよく分からない液体を汗腺からダラダラ垂れ流す俺を気にも留めず、ニコリとも、ニヤリとも言える笑顔で、陽乃さんがこのカオス過ぎる合コンの開始を告げたのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 合コンが始まってから早三十分。

 それはもう、我ら総武高校勢の独壇場だった。

 元から予約されていた十人掛けのテーブルにはそのまま材木座の大学メンバーが座り、新しく用意されたテーブルの方を俺たち総武高校組が占拠している。

 

「……だからね、ヒッキー。あたし、ちょっと怒ってるんだからね?」

「……ッス」

「別々の大学へ進学したのだから、会う頻度が減るのは理解できるのだけれど、ゼロというのはどういうことなのかしら?」

「いや、そのバイトが……」

「してないよね、バイト。だってヒッキーだし。それに、小町ちゃんもヒッキーの口座にここ数ヶ月給与振込なんて無かったって言ってたし」

「ねえ、待って? なんで俺の銀行口座の入金状況が把握されちゃってるの? おかしくない? このままだと、スイス辺りに隠し口座とか作らないといけない感じになっちゃうんですけど……」

「残念だけれど、あなたが思っているような秘密口座のようなサービスはスイスに行っても存在しないわよ? そもそもスイス銀行からして通称だもの」

「え? マジで?」

「元ネタになりそうなものはあるけれど、ほとんどはフィクションが独り歩きしたようなものよ」

「なん…だと……」

 

 えー、じゃああの某スナイパーの人とかが御用達の口座もないのか……。ちょっと、ショックだわ。やっぱり、現実って夢も希望もないんだなって思いました(小並感)。

 とりあえず、通帳とキャッシュカードが無いのにどうやって小町が俺の口座状況を管理しているのかを問い詰めないとな……。なんか色々と俺の個人情報が危うい。セキュリティがガバガバだわ、これ。

 

「あれ? でも、僕はちょくちょく八幡と遊びに行ったりしてるよ?」

「当たり前だろ、戸塚! 俺は戸塚とならエブリデイがフリーダムでワンダフルだからな!!」

「この男は……」

「相変わらず、さいちゃん好き過ぎだし」

「ちょっと何言ってるか分からないですねー、先輩」

「ふむん? それなら我も週二ぐらいのペースで八幡と戯れておるぞ?」

「おまえの場合は押し掛けてくるの間違いだろ」

「んあれ? でも、俺と隼人くんも二ヶ月に一回ぐらいで遊びに行ったりしてるっしょ?」

 

 そんな戸部のカミングアウトと同時、俺の正面に座る三人が放つプレッシャーが一段上がったように思えるのは気のせいだろうか。

 ちなみに席順はと言えば、横並びに端から俺、材木座、戸塚、戸部、葉山となっている。なぜ戸塚と材木座の席順が逆ではないのか。小一時間ほど問い詰めてやりたい。材木座マジ空気読め。

 そして、俺たちに相対する形で、雪ノ下(妹)、由比ヶ浜、一色、雪ノ下(姉)、三浦という並び順となっている。

 

「さいちゃんと中二はまだ分かるけど、ヒッキーと隼人くんたちってそこまで仲良かったっけ?」

「別に仲良くなんてない。こいつらが勝手に絡んでくるだけだ」

「その割には、二ヶ月に一回は遊ぶのでしょう? 私たちは放っておいて」

「その言い方は色々な方面で誤解が生じるから止めろ」

「……ははっ、安心していいよ。ヒキタニくんは相変わらずだから」

「そうそう! ヒキタニくんってば俺らが誘っても基本反応してくれないし。だから講義終わりの時間を見計らってヒキタニくんの大学で待ち伏せしてんの。んで、拉致る」

「……こいつら、マジで洒落にならないからな。戸部が運転免許取ったからって、わざわざレンタカーで黒塗りのバンを借りてきて、白昼堂々俺を誘拐してくんだぞ」

 

 俺は若干遠い目をしながら当時のことを振返り、雪ノ下たちに話す。

 

「その日の講義が終わって大学を出たと思ったら、正門そばに止まってた車が突然こっちに突っ込んできて急停車したんだよ」

「あー、なんかテレビのドラマとかでそういうシーンありますよね」

 

 俺は一色の相槌に頷きつつ、適当に注文されたピザを手に取りつつ続きを語る。

 

「んで、車の後部ドアが勢い良く開けられたと思ったら、目出し帽を被ってどこぞの特殊部隊みたいな恰好した二人組が降りてきてな、抵抗する間もなく羽交い絞めにされて車に押し込められた」

「大学前だったのでしょう? それでよく通報されなかったわね」

「あー、そのときは隼人くんが目出し帽とって、『これ、映画サークルの撮影なんです。ご協力ありがとうございました』って言ったら拍手と歓声が起きて一件落着だった」

「……比企谷くん。あなた、大学選びを間違ったんじゃないかしら?」

「俺も切にそう思う」

 

 あの時はマジで殺されるかと思って超ビビったんだからな。

 いくら映画の撮影だって言ったって、周りにカメラを持っている奴もいないのに、どうして信じるんだよ。

 あれか、葉山だったからか? イケメンだからか? イケメン無罪とか法治国家としてもはや破綻してるだろ。

 

「で、その後はどうなったんですか、先輩?」

「ああ、目隠しと猿轡をされて、手足縛られたまま暫く運ばれてな。どっかの空き倉庫みたいなところへ連れ込まれた後に、目隠しを外されたんだよ」

「うわぁ……、それまたありがちな……」

「ヒッキー、大丈夫だったの?」

「だいじょばない」

 

 当時のことを思い出したらイラッとしたので、手元にあったピザをむしゃむしゃやけ食いする。

 

「やっと視界が開けたと思ったら、強制的に椅子に縛り付けられて、目出し帽被った奴らが銃口を突き付けてくんだぞ。ガチのときってあれだ。悲鳴すら上げる余裕もないぞ」

「あのときのヒキタニくん。マジビビりだったもんな」

「ちなみに、そのとき使ってたのはただのモデルガンだよ」

「何やってるし、隼人たち……」

 

 あーしさんが呆れたように嘆息しているが、戸部と葉山は気にする様子もなく、やけに楽し気だった。

 まあ、お前らはそうだろうよ。やられるこっちは堪ったもんじゃないけどな。

 

「んで、俺の正面にはライダースーツにフルフェイスのヘルメット被ったいかにもな女が仁王立ちしてんだよ」

「……女?」

「それって……」

「あー、わたし、なんかこの先の展開が読めたんですけど……」

 

 雪ノ下たちが『女』というワードに反応し、三人揃ってスーっと視線を横に向ける。

 その視線を受け止める様に、陽乃さんがニヤッと笑みを浮かべて立ち上がった。

 

「どーもー! 悪の黒幕ことお姉ちゃんでーす!!」

「つまりはそういうことだ」

「その後は四人でメシを食べに行って解散だったかな」

「そーそー! で、二回目のときはあれだっけ? ヒキタニくんがヤクザの跡取り設定で、俺らが舎弟のチンピラ役でお出迎え的なやつ」

「ちなみに、わたしは着物着て極妻役をやったよ!」

「……おまえらの所為で、俺は大学の知らない奴らから『あのときの映画っていつ完成すんの? 俺ら観に行くから!』って声掛けられんだからな。ありもしない映画の完成予定を聞かれるこっちの身にもなれってんだ」

「え? なら、ホントに映画作っとく? お姉ちゃん、張り切っちゃうよ?」

「映画か……最近はハリウッドでもスマートフォンで撮影とかするらしいからね。やろうと思えば俺たちでもできるかな?」

「うっそ、マジかー! そーすると、あれっしょ? 俺たちもハリウッドデビュー的な? 赤いカーペットの上とか歩いちゃう感じじゃね!?」

「マジで止めろくださいお願いします」

 

 おい馬鹿ヤメロ、葉山! 陽乃さんがガチで目を爛々と輝かせてるだろ! あの人、本気でノリ気だぞ!?

 あ、ほら、スマホを取り出してレンタル機材の検索とか始めだしてるし、誰かぁぁぁ! あの人止めてぇぇぇ!!!

 

「ふむん、そう言うことなら我も脚本家として助力しようではないか! 設定集は任せろー!!」

「あ、なら僕も参加しよっかな! なんか楽しそうだし……」

「え、戸塚も参加するの? ……よし、材木座。主演は戸塚な。相手役は俺がやるから。他の役者はいらん」

「……八幡。お主、少々業が深すぎではないか?」

 

 俄かに騒がしくなる俺たち五人と陽乃さん。

 いまここに、『戸塚が主演で助演が俺で』製作委員会が発足したのだった。

  【主演】戸塚彩加

  【助演】比企谷八幡

  【脚本】材木座義輝

  【雑用】戸部翔

  【監督】葉山隼人

  【スポンサー】雪ノ下陽乃

 見ろ、この夢のラインナップ。これはもうあれだ。全米が泣いちゃうやつだな。CMとかで『絶対! もう一回! みる~!!!』とかヤラセ臭い感想を垂れ流す感じの映画だ。……なにそれ駄作確定じゃん。

 

「……随分楽しそうね、比企谷くん」

「むー、ヒッキーが楽しそうなのは嬉しいけど、ちょっと複雑……」

「なんかムカつきます」

 

 あの、一色さん? 君だけちょっと感想おかしくない? なんでその台詞と一緒にシャドーボクシングとか始めちゃってるの? おいこらこっち見てジャブ打つの止めろ。

 そんで、どうしてそこで陽乃さんは一色に『腰の捻りが足りない』『もっと脇を閉めて』とかアドバイスしてるんですかねぇ……。ほらー! なんか見る見るうちにパンチが鋭くなってるじゃないですかー! ヤダー!!

 そんな風にワイワイガヤガヤと盛り上がる総武高校勢を見ながら、ポツリと材木座が呟いた。

 

「……なあ、八幡」

「どうした、材木座?」

「これ、合コンというか…もはや単なる同窓会なのではないか?」

「……だな」

 

 そう相槌を打ちつつ、俺はチラリと隣のテーブルへ目を向けた。

 隣のテーブルは、最早お通夜状態だった。

 

「……なに、これ」

「うち等、なんかバカみたいじゃん」

「……なら、隣に混ざってくる?」

「……ムリ」

「あの同窓会みたいな空気に混ざるとか、できる訳ないじゃん」

 

 ちなみに、彼女たちが座っているのは俺たちの真後ろの席なので、小声の会話でも耳を傾ければ辛うじて拾える。

 

「んだよ、これ。話がちげぇよ……」

「おまえ、雪ノ下さんだっけ? あの子に声掛けて『……誰? 気安く話しかけないでもらえるかしら』とか言われて、バッサリ斬られてたもんな」

「そういうテメェは、あの胸が大きい娘に話しかけて、露骨に避けられてたじゃねぇか」

「……なあ、俺、この際『オトコの娘』でもアリなんじゃないかって思えてきたんだけど」

「待て! 気持ちは分かるけど、落ち着け!! 二度と帰ってこれなくなるぞ!!」

「俺、陽乃さんに踏まれたい」

 

 その体面に座っている野郎共もわりと重症だった。

 なぜなら、合コン開始とともに全員が撃沈したから。雪ノ下に声をかけた奴は秒で袖にされ、由比ヶ浜に絡みにいった奴はドン引きされながら視線を逸らされる。

 一色に至っては、『なんですかわたし狙いですか鏡見直して一昨日きやがれってんですよ。あ、でも何かの役に立つかもしれないので連絡先だけ置いてとっとと失せてください。ごめんなさい』とお得意の長台詞でお断りする始末。あーしさんはそもそも葉山以外興味ないので声を掛けられてもガン無視だし、陽乃さんはもうなんか言葉にできない。俺の語彙力じゃ無理。ただただ可哀相と言うか哀れと言うか……。明らかにオーバーキルだった。若干一名、新しい扉開けちゃったし。

 なんか、もう全員が荒みきって真っ白になっちゃてるんだもん。正直、同情する。……だが、戸塚を狙っている奴。テメェはダメだ。

 

「……おまえらの所為だからな。俺らは協力してくれって言われたから来ただけなのに」

「は、はぁ!? あんた等だってバカみたいに笑いながらノリノリだったじゃん!」

「そうだよ。それに、あの子たちに相手にされないのだってそっちの問題でしょ? わたしたちの所為にしないでよね」

「ハッ、お前らもあのイケメンにまったく相手にされてないけどな。あんだけ慌てて掌返したクセに、ダッセェ……」

「煩いわね! あんた達なんか呼ぶんじゃなかった!! マジありえないから!!」

「……ウザ」

「それはこっちの台詞だっつーの。はあ、マジあっちが羨ましいわ。全員、化粧なんかしなくても、お前らより断然美人だし。ウチの大学レベル低過ぎじゃね?」

「あー、それね。俺もそー思うわ。ぶっちゃけ、微妙な女ばっかだよな」

「は? こいつ等なら兎も角、ユカリ的にそれ聞き捨てならないんだけど」

「うわ、出た本性! こいつ絶対メンヘラ入ってるって」

 

 ……なんていうか、千葉村のときのルミルミ達を思い出すな。

 あのときと同じで、こんなことをしても材木座を取り巻く環境は何一つ変わりはしないんだろう。けど、そんなのは百も承知だ。

 ただ、材木座が選んだから。だから、俺は俺にできる最善手でもってそれに応える。それだけだ。

 

「……あのデブ、何者なんだよ」

「だよな、あのイケメン野郎は仕方ないにしても、他のメンツだったら俺らの方が上だろ」

「……ちょっと、これ以上アイツに絡むの止めてよね。望みゼロのアンタたちと違って、あたし等まだ葉山君のこと諦めた訳じゃないんだから」

「そーそー。現状、あの葉山くんとの窓口があのデブだけってこと理解してんの?」

「いや、お前らこそ現実見ろよ。どうやったら、お前らレベルの女があの美人集団に割って入れんだよ」

「バァーカ! 葉山君はアンタたちみたいに、女を外見だけで判断するようなクズとは違うんです~! 葉山君ってホント紳士だから」

「知ってる? 葉山君の両親って医者と弁護士らしいよ! 葉山君も将来は弁護士だって!! それに比べて……あーヤダヤダ、なんでウチの大学こんなレベルの男子しかいないんだろ」

「……お前らが俺たちに言ってること、全部ブーメランだからな」

 

 うーんこの地雷臭……。どうにもならねえな、こいつら。

 ま、当座はしのげたんだから、いいだろ。葉山を餌にしておけば暫くは大人しくしてるだろうし。

 あとは材木座が上手いこと逃走できることを祈っておこう。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 その後も合コンという名の同窓会は盛り上がったものの、陽乃さん以外は全員未成年ということもあり、遅くなる前に本日はお開きと相成った。

 男女不平等な割り勘で会計を済まし、全員で店を後にする。最後の解散の辺りで葉山や雪ノ下たちの連絡先を巡って一悶着ありはしたものの、あーしさんや陽乃さんにあしらわれ、材木座の大学メンバーはスゴスゴ退散していった。

 

「それじゃあ、比企谷くん」

「ヒッキー、おやすみ」

「おう」

「……偶には、あなたからも連絡くらいよこしなさい」

「そーだよ、ヒッキー! あたし達だって、色々心配なんだからね!!」

「お、おう」

 

 ムスっとした様子の雪ノ下と由比ヶ浜。

 その点については、こちらの不徳の致すところなので誠に申し訳なく思っていると申しますか何と言うか…………男の子にだって色々あるんだよ、察しろ。

 

「……先輩。いつまでもそんなんだと、お二人に愛想を尽かされちゃいますよ?」

「うるせぇよ。……そのときは、そのときだ」

「ふーん……。なら、そのときはわたしが胸を貸してあげましょうか? バブみます?」

「小町がいるので間に合ってます」

「うわぁ…実の妹にバブみを感じるとか……ないわぁ」

「おいマジトーンやめろ」

 

 ほら、おまえの所為で雪ノ下と由比ヶ浜が蔑むような眼差しを向けてきてるじゃん。

 どうすんだよ、この風評被害。最近、小町からも『お兄ちゃん、千葉の兄妹ENDはフィクションなんだからね? そこんとこ、ちゃんと理解してる?』とかガチトーンで言われるんだぞ。実家で俺の肩身が狭すぎて、もはや身内からも不審者扱いされる始末。

 

「それじゃ、雪乃ちゃんたちはわたしがお持ち帰りするから、比企谷くんは安心してね?」

「……それはそれで安心できない気がするんですが、とりあえずよろしくお願いします」

 

 陽乃さんがタクシーを呼んで、雪ノ下と由比ヶ浜、ついでに一色も乗せていく。

 今日はこのまま雪ノ下家まで連れて行って、お泊り会らしい。

 

「隼人ー! あーしもタクシーで帰りたい」

「駅まで近いんだから歩いていこうよ、優美子。……という訳で、俺たちもそろそろ行くよ」

「優美子は、俺と隼人くんでちゃんと送っていくから! またな、ヒキタニくん!!」

「ああ、その…今日は助かった。……ありがとな」

 

「「「 …… 」」」

 

 何でそこで三人揃って無言になるんですかねぇ……。なんなの? そんなに俺が礼を言うのがおかしいの?

 

「……デレたし」

「……デレたな」

「……デレたっしょ」

「うるせぇ帰れ」

 

 う、うぜぇ……。なんだこいつ等。おい、そのニヤニヤ顔ヤメロ。喧嘩売ってんのか。特に戸部と葉山。

 だが一応、今回は手伝ってもらった手前、怒るに怒れない。仕方がないので、心の中で悪態を吐くだけに留めておくことにした。

 か、勘違いしないでよね? 別にデレてなんていないんだからね!!

 ……なんか自分でやってて虚しくなってきた。

 

「じゃ、八幡。僕ももう帰るね?」

「と、戸塚!? も、もう帰っちゃうのか? よよよよければ、このまま俺と夜の街へ繰り出してサタデーナイトフィーバーでワンナイトカーニバルしないか?」

「あははは、ゴメンね? 僕、明日は大学でテニスの試合があるから、もう帰って明日に備えないと」

「そ、そうか……。悪かったな、そんな忙しいときに無理言って」

「ううん。八幡と一緒に遊べて楽しかったから、むしろモチベーションが上がったよ。僕、明日の試合頑張るね!」

「おう! な、何なら俺も応援に行くぞ!!」

「うーん……。八幡の気持ちは嬉しいけど、明日の試合は公式戦じゃなくて、部活内のランキング戦みたいなものだから。部外者は入れないと思うな……」

「そ、そうか。残念だ……」

「うん、だから気持ちだけ貰っておくね?」

「……ああ! 任せろ!! 明日は一日神社仏閣巡りして必勝祈願するぜ!!!」

「ありがとう! 八幡に応援してもらえるなら、なんだか明日の試合も勝てそうな気がしてきたよ」

 

 そして、非常に名残惜しくはあるが、戸塚とはここで別れることになった。

 よし、まずはお百度参りからだな。それから水垢離……は願掛けとは違うんだっけか? まあ、別にいいか。

 あとは……丑の刻参りでもして対戦相手を呪うか。よーし、八幡徹夜で祈祷しちゃうぞー!

 

「お主、相変わらず戸塚氏のことになると目の色が変わるな」

「ふっ、なにを今更……。俺は戸塚のためなら人間を辞めることも辞さないぞ」

「なにそれ気持ち悪い」

「気持ち悪い言うな」

 

 気がつけば、この場に残ったのは俺と材木座の二人になっていた。

 

「……なあ、八幡」

「あ? なんだよ?」

「…………いや」

 

 少しだけ、何かを言い淀んだ様子の材木座だったが、僅かに首を振るとフハハハと笑いだす。

 

「ところで八幡。我、少々食べ足りないのだが」

「そりゃ、宴会用のコース料理なんだから、そんなもんだろ。あれは腹を満たすというか、酒のつまみが目的だろうし」

「うむ。なので、ちょっくらラーメンでも食いに行かぬか? 今回は世話になったので我が奢るぞ」

「……トッピングは?」

「無論」

「よし、ならちょっと恵比寿まで行こうぜ。一杯三千五百円のラーメンって食ってみたかったんだ」

「あ、あの……八幡? それだと、我の財布が空っぽになるんですけど……」

「俺の懐は痛まないから気にするな」

「気にするポイントが違う!?」

「……急げ、材木座! 今調べたら閉店二十三時だった。このままじゃ間に合わねえ!!」

「こ、こやつ……人の金だと思ってマジで食いに行く気かっ!?」

 

 材木座の抗議を聞き流し、颯爽と駅へ走り出す俺。

 それを追いかけるように走り出して、一分足らずでゼーハー息切れしてストップする材木座。

 

「材木座、おまえっ! 牛歩戦術で閉店待ちする気だなっ!?」

「ヌワッハハハッゴホッブホァ! な、なんとでも言うがいい、八幡! 金を払う者こそが強者なのだ!!」

「は、話が違えぞ! 騙したな!?」

「いや、三千円越えとかマジ無理。そこの日●屋で勘弁してください」

「価格帯が十分の一近くまで下がってんじゃねえか」

 

 そんな俺の追求から逃れるように店舗へと駆け込んで行く材木座を追いかけながら、ふと、ここ数日の日々を振り返る。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 面倒で、騒々しくて、慌ただしいけれど、賑やかだった毎日。

 ただそれは、きっと俺の自己満足に過ぎない毎日なのだろう。

 

 俺がやったことなんて、問題の解決になんかなっていないし、なんなら解消すらしていない。

 ひどく幼稚で、拙くて、子供染みた暴力となんら変わらない。そんなお節介のようなナニかを材木座に押し付けただけ。

 

 多分、それが事実で現実だ。

 

 けれど、あのとき材木座が選んだ答え。俺と材木座の関係性、その在り方を考えるなら──

 

 

「おーい、相棒! 早く来ないと、八幡の分はライスのみで注文してしまうぞー!」

「おまえ、ふざけんなよ。絶対に三千円分注文してやるから覚悟しろ」

 

 

 友達でもなければ、家族でもない、まかり間違っても恋人なんかでは決してない。

 ただの知り合いで、腐れ縁な、ちょっと痛い中二病な俺の相棒。

 

 これは、そんな俺と材木座のある日の物語。

 



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ある日の正門狂想曲

 正門についてどう思うかと質問されて、『危険地帯』と答える人間がどれほどいるだろうか。

 大抵の人が質問の意図に困惑し、聞き返すことだろう。お前何言ってんの、と……。

 

 だが、俺にとっては言葉の通り危険地帯なのだ。

 昼でも夜でも関係ない。人の目の有無など気にも留めず、奴らは今日も俺の都合など構わずやってくる。

 そいつらは、さも当然のように、それが自然であるかの如く、まるで既定路線であるように俺の前へと立ち塞がるのだ。

 

 例えばそう、今まさに俺の眼前へと現れたように──

 

「いい加減、素直に応じる気にはなったかしら?」

「……」

「……そう。残念ね」

「貴様ッ!」

「なんだその態度はッ!!」

「控えなさい」

「しかしッ!?」

「控えなさいと言ったの。二度も言わせないで」

「……失礼しました」

「うちの者が失礼したわ。ゴメンなさいね?」

 

「とりあえず、帰れ」

 

 

 これは、大学生になった俺が騒動に巻き込まれたある日の物語。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 最初の襲撃は、大学へ入学して二ヶ月程経ったある日のことだった。

 なんとなく、嫌な予感はしていたのだ。四月に入ってから、幾度となく送られてきた脅迫メール。だが、脅迫なんていう卑劣極まるやり方に屈する俺ではない、毅然とした態度で無視を決め込み、その全てを削除してやった。おそらく、犯人たちは業を煮やしたのだろう。脅迫手段がメールから電話へと変わるのに、そう時間はかからなかった。

 それでも、俺は屈しなかった。初志貫徹、奴らからの悪質な電話攻撃を悉く回避してみせた。もはや神業と言ってもいいだろう。その流れるような着信拒否設定の指さばきは我ながら惚れ惚れする。

 そして、ある日を境に奴らからの脅迫行為がピタリと止んだ。

 もしかして、ようやく相手も諦めたのか? いや、本当にそうだろうか? あれだけ俺に執着していた奴らが、そんな簡単に諦めるものだろうか? 疑心暗鬼に苛まれる俺。そんな俺を嘲笑うかのように、何事もなく穏やかに過ぎてゆく日常。

 平和な時間が、俺の精神を摩耗させる。

 

 

 ──それは、一瞬の出来事だった。

 

 

 その日予定していた講義が全て終わり、一人講堂から抜け出した俺。

 群れるようにそこ彼処で集団を作る学生たちを避け、その間を縫うように進み、正門へと差し掛かった、その時だった。

 

 正門から少し離れた位置に停車していた一台の車。それが突然急発進し、こちらへと突っ込んでくる。

 黒塗りのバンだった。急加速の勢いそのままに、猛然とこちらへ迫ってくる車体。

 

「っ……」

 

 逃げなければ、そう思った時には既に車はスキール音を辺り一帯に響かせて、その車体を俺の眼前へ急停車させていた。

 横付けされたバンの後部ドアが勢いよくスライドされると同時、大きな声が上がる。

 

「確保ッ!」

 

 車から飛び出してきたのは黒い目出し帽を被った二人組。全身を黒一色のタクティカルジャケットとズボンに身を包み、唯一露出しているはずの目元はゴーグルに覆われ、その顔を判別することすら叶わない。

 

「な、なにが……っ」

 

 不意の事態に、俺は抵抗することも、逃げることも出来なかった。

 俺が正面に陣取った一人へ気を取られている内に、残りの一人が背後から俺を羽交い絞めにする。同時、正面にいた一人が俺の膝を抱え、そのまま開け放たれていた後部ドアから車内へと押し込められる。

 

 ──拉致された。

 俺がその事実を認識したときには、既に車の後部ドアは閉められていた。

 一瞬だけチラリと車の窓から見えた光景。それは、俺を襲った犯人の一人が、何事かを周囲の人へ説明しているような場面。犯人の手が自らを覆うゴーグルと目出し帽に手を掛けて、素顔を晒すその直前、俺は視界を塞がれ、暗闇の世界へと落とされたのだった。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

「ふっ…ぐぅ……」

 

 どれくらい、時間が経ったのだろうか。体感なら一時間程だろうか、それとも、実際には三十分も経っていないのだろうか。

 手足を縛られ、目隠しと猿轡をされた俺を乗せた車は、しばらくの間、ひたすら走り続けていた。

 

「大人しくしていろ、馬鹿な真似をしようなんて考えるな」

 

 俺が僅かに身動ぐと、頭上から声がかかる。その声を聞きながら、俺は少しだけ冷静さを取り戻していた。

 まず考えたのは、救助について。犯行現場が正門前という人の多さであったことから、すぐに誰かが通報してくれるだろうと推測。なら、主要な幹線道路はすぐに警察の検問やパトロールの対象となるだろう。そう信じて、唯一塞がれなかった耳に全神経を集中させる。

 車外から聞こえる車の走行音。少しでも現在地や目的地のヒントを得るため、俺は必死になって耳を澄ませた。

 

「──ッ」

 

 パトカーのサイレン音が聴こえる度、一喜一憂する。

 遠くで聴こえたサイレン音が徐々に近づいて、また遠ざかっていく現実。

 そんな絶望を二度三度と繰り返して、ようやく車が止まった。

 

「着いた。降りるぞ」

「うぐ…っ……」

 

 車に押し込まれた時と同じように、二人に抱えられたまま移送させられる。

 そして、どこに運ばれるのかと戦々恐々としているうちに、椅子へと座らせられ、そのままロープのようなもので縛り付けられた。

 

「……いいわ」

 

 聞こえたのは、拉致されてから初めて聞いた女性と思われる声。

 女性と確信できない理由は、ボイスチェンジャーのようなもので声質が変えられているため。

 ただ、口調の癖がどこか女性的だと、そう思えた。

 

「っ……」

 

 目元を覆っていた布地が取り払われ、唐突に明るくなった視界に思わず目を顰める。

 次いで、猿轡も外された。自由になった目と口。未だままならない視界が正常に戻るのをジッと待つ。

 

「もう、いいかしら?」

「……ああ」

 

 一分程、そうしていたのだろうか。俺が正面に立つ人物へと目の焦点を当てたことで、俺を攫った黒幕だと思われる彼女が声を掛けてきた。

 その声に相槌を返しつつ、横目で周囲を確認する。俺の両脇には、こちらに銃口を向けたまま直立する二人の男。おそらくだが、この二人はあくまで実行犯なのだろう。指示を出したのは、俺の目の前にいるこの女……。

 

 そう、やはり女だった。

 声だけでは確信が持てなかったが、視界に収めてみれば一目瞭然。実行犯の二人組とは違い、黒のライダースーツにフルフェイスのヘルメットで正体を隠している。

 だが、そのシルエットは明らかに女性のモノ。あれだ、ル○ンに出てくる峰不○子とか、アベ○ジャーズのブラ○クウィドウなんかを想像すればいい。たぶん、美人だ。そんな気がする。知らんけど。

 

「どうして自分がここに連れて来られたか、理解できてる?」

「……ひ、ひひひと違いじゃないでしゅか?」

 

 それはもう盛大に噛みました。

 いや、無理だよ。この状況で漫画やラノベみたいに格好良く『……ふっ、知らんな』とか『当ててやろうか? ○○だろ?』なんて会話できる訳ないだろ。こっちは日常生活すらまともに会話できない生粋のぼっちだぞ。俺のコミュ力の低さを舐めるな! これが限界だよ!!

 

「……」

「……」

 

 おい、無言やめろ。目なんて見えないけど、なんかスゲェ憐れんでるような視線を感じるぞ。

 ぼっちは視線に敏感なんだからな。もっと壊れモノを扱うみたいに、丁重に扱わないとすぐに自分の殻に引き籠っちゃうんだぞ。

 

「……残念だけど、人違いではないのよ。比企谷八幡くん?」

「あ、ならやっぱり人違いですね。僕の苗字はヒキタニですから」

 

 よし、今こそ小中高と数多くの教師やクラスメイト達を惑わせた俺のヒキタニデコイの出番。

 何人も、この幻術からは逃れられ──

 

「……彼が所持していた財布に入っている学生証。フリガナは『ヒキガヤ』だ」

「ふーん……。そうだって、ヒ・キ・ガ・ヤ・くん?」

「お、おうふ」

 

 か、肝心なときに役に立たねぇーーー!

 心なしか相手から伝わる剣呑さが増した気がするんですけど、気のせいですよね……?

 

「次はないわ」

「……はい」

 

 気のせいじゃなかった。

 もうダメぽ……。

 

「それじゃ、早速本題に入りましょうか」

「ぐっ……」

 

 彼女がこちらに一歩踏み出し、なんら戸惑うことなく、俺の首へ片手を伸ばす。

 俺の首へそっと添えられた掌。レザーグローブ越しに伝わるひんやりとした感触。そして、徐々に力が加わり、締め上げられていく俺の首。

 

「単刀直入に言うわ。今回、貴方はどちらに付くつもり?」

「ど、どちらに付くって…なにが……っ」

「……惚けないで。日本政府か、それとも、わたしたち組織に付くのか。そう聞いてるの」

「だから、意味がわから──」

「分かるわ。分かるはずよ、貴方なら。いえ、貴方だからこそ、分かっているはず」

 

 こいつが何を言っているのか、さっぱりだった。日本政府? 組織?

 本当に人違いじゃないのか? いったい何の話をして……。

 

「貴方が『転生体』ということは、調べがついているのよ」

「──ッ」

 

 『転生体』

 その言葉が飛び出したことで、思わず息の呑む。

 同時、強烈なフラッシュバックが俺の脳裏を駆け巡る。

 

「……少し、昔話をしましょうか? 遠い遠い昔……遥か彼方、この世界の成り立ちのお話」

「……っ」

 

 瞬間、背筋がゾッとする。猛烈な悪寒が俺の背中で這いずるように蠢いた。

 ありえない。何故、こいつが知っている? そんなことは、ありえない……。ありえないありえないありえナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイアリエナイ──

 

「もともとこの世界には七人の神がいた。創造神である三柱の神として『賢帝ガラン』『戦女神メシカ』『心守ハーティア』が、破壊神たる三柱の神として『愚王オルト』『失せ御堂ローグ』『疑心暗鬼ライライ』が、そして最後の一柱、永久欠神『名も無き神』」

「……め」

「創造神と破壊神、二つの陣営に別れた神々は何度となく争い、この世は常に繁栄と衰退を繰り返していた。今はちょうど、その七回目のやり直した世界」

「ヤメ……ろ…」

「神々は時代時代で転生を繰り返し、わたしたち人間の中に潜んでいる。だから、日本政府は今度こそ世界の滅亡を防ぐため、血眼になって神々の転生体を探し出そうとした」

「嘘だっ…そん…なはず……」

「既に、創造神たる三柱は日本政府が、破壊神たる三柱はわたしたち組織が確保したの」

「違うウソだそんなことあるはずないデタラメだだってそれじゃ……」

 

 困惑、焦燥、疑心、憂鬱、それらの感情が綯交ぜになって思考がまとまらない。

 

「だからそう、あとは最後の一柱。永久欠神『名も無き神』の転生体を確保した方が勝つ」

「……ヤメロ」

「貴方を探し出すのは苦労したわ。まさか、記憶ごと神格を封印していたなんて、ね」

「俺は…ちがう……。そんなの知らない。俺じゃない……っ!」

「言ったでしょう? 調べはついてるって……。比企谷八幡、貴方こそが永久欠神『名もなき神』の転生体なのよ」

「嘘だッッ!!」

「嘘ではないわ。その証拠に、貴方はこの世界の成り立ちを知っていた」

「そ…れは……俺のただの妄想で…」

「いいえ、それは貴方の魂魄に刻まれた記憶の欠片。どんなに封印を施そうと、決して忘れることなんてできないのよ」

 

 徐に彼女が空いてる方の手で胸元からナニかを取出し、俺の眼前へと突き付ける。

 

「……おそらく、何らかの要因で一時的に封印が弛んだのでしょうね。貴方は、まるでナニかに憑りつかれたかのように、その記憶の欠片をこのノートへと書き写した」

「なっ、ソレはっ…!?」

「正直、助かったわ。このノートが処分されずに残っていたのは僥倖だった。おかげで、貴方が転生体であると確信できたんですもの」

「……うやって」

「あら、なにかしら?」

「どうやって…? ソレは、他の黒歴史コレクションと一緒に、俺だけが知る秘密の隠し場所に封印したはず……」

 

 知らず、声が震えていた。言い知れぬ不安が、俺の心臓を激しく掻き毟る。

 その先を知りたいはずなのに、本能が知りたくないと警鐘を鳴らしている。

 

「……大変だったのよ。このノートを手に入れるために、いらない犠牲も強いられてしまったし」

「犠牲……?」

「そう、犠牲。まさか、貴方以外にノートを守っている存在がいるだなんて思わなかったんだもの。仕方ないわよね?」

「守る? いや、そんなのいるはず……まさか!?」

「比企谷小町さん……だったかしら。『それだけはヤメてあげてください! お兄ちゃんの大事な記憶なんです!』って、泣いて縋るのよ? 困ってしまったわ」

 

 ガンッと、頭をハンマーで殴られたような感覚に襲われる。

 あのノートは、俺の部屋に隠していたものだ。なら、こいつらは俺の家に侵入したということになる。

 もしそのタイミングで小町が家にいたんだとしたら……。

 

「こ、小町……」

「うん?」

「小町を…どうした?」

「安心してちょうだい。貴方のように拉致なんてしていないわ。別に、貴方の妹さんは組織のターゲットではないもの」

 

 その言葉に、最悪の結果を予想していた俺は、思わずほっと安堵の息を吐く。

 

「だから、残念だけれどその場で始末したわ。まだ、わたし達のことを世間に知られるわけにはいかないの」

「………………は?」

 

 脳が、言葉を、理解するのを、拒んでいる。

 

「ああ、そうだ。妹さんから貴方への伝言を預かっていたんだった」

 

 その言葉が合図であったかのように、俺の横にいた実行犯の一人が、女へスマートフォンを手渡す。

 スマートフォンを受け取った女は、画面にするすると指を這わせると、徐に画面を俺の方へ向けた。

 そこに映し出されていたのは、これまで俺が一度も見たことがない、恐怖に顔を引き攣らせ、泣きじゃくる妹の姿。

 

 

 『だ、だずげて……、助け、おにぃ…っ! たすっ…け……て、お兄ちゃんっっっ!!』

 

 

 あっ…あ、あああ? ……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛

 

「どう、安心した?」

「……こ、殺してやる! お前だけはッ! 絶対に殺してやるッッッ!!」

 

 目の前の女に掴みかかろうとして、椅子に縛られた俺は何もできず、ただ無様にバランスを崩して床に転がった。

 

「さて、茶番もここまでにして、そろそろ貴方の封印を解かせてもらうわね」

「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやるころしてやるころしてやるころしてやるころシてやるコろシてやるコロシてヤるコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤルコロシテヤル」

「……大丈夫よ。封印を解けば、いまの『比企谷八幡』としての記憶も、人格も、何もかも消えて無くなる。貴方はただ、また永久欠神『名も無き神』として、人ならざるモノへと戻るだけ」

 

 何処から取り出したのか、紅く、朱い、真っ赤な怪しい光沢を放つ果実を手に持った女が、倒れ伏した俺の頭上に覆いかぶさる。

 

「さあ、口を開けなさい」

「ッ──!」

 

 拳大ほどもあるその果実を俺の口へとあてがう女。

 俺は、せめてもの抵抗とばかりに口を真一文字に結び、絶対に開いてやるものかと両目を瞑る。

 

「……手間を取らせないで」

 

 苛立った様子の女が俺の鼻を摘まむ。結果、一分程で耐えきれなくなった俺は、息継ぎのために口を開けてしまう。

 

「…………ぷはっ! んむぐっ!?」

「よく噛みなさい」

 

 僅かに開けた隙を逃さず、口内へと捻じ込まれた果実。

 鼻孔を塞がれ、口を果実で塞がれてしまった俺は、止む無く果実を咀嚼した。

 

「んぐっ……!?」

「あら、好き嫌いはダメよ? ほら、キチンと飲み込んで……」

 

 急速に口内へと広がる青臭さと酸味。弾力がある表皮をプツリと噛み抜く度、およそ人が食べるモノとは思えないドロリとした食感が舌の上を這いずりまわる。

 ……俺は知っている。この果実の正体を。何度記憶の彼方へ追いやろうと、忘れることなどできるはずがない。

 そう、この果実は──

 

「……んべっ!」

「うわっ、ちょっとここで吐き出さないでよ、比企谷くん!?」

「いや、トマトはマジ無理っす」

「……大丈夫か、比企谷?」

「おまえ、これが大丈夫そうに見えるか?」

「その、正直スマン」

「あー、ヒキタニくん。はい、これ水ね」

「おう、その前にこの縄解けよ。何もできん」

 

 こうして、俺のギブアップ宣言とともに、この盛大な茶番は閉幕となった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 場所を移して、どこぞの居酒屋で俺たち四人はとりあえず乾杯した。

 ちなみに、陽乃さん以外の野郎どもはソフトドリンクである。だって未成年だもの。

 

「それで、どこら辺から気が付いてたの?」

「あー、最初に違和感を覚えたのは、拉致られた直後ですね」

 

 俺の隣に座った彼女。

 女黒幕こと雪ノ下陽乃が悪戯めいた微笑みを浮かべて聞いてくる。

 

「え、そんなすぐ?」

「ええ。といっても、ん? って気になった程度で、すぐにそれどこじゃなくて忘れちゃいましたけど」

「へー、ちなみにどんなの?」

「そっちの実行犯A・Bのどっちか、俺を車に押し込んだ直後に周囲の野次馬に顔を晒そうとしただろ?」

 

 そう言って、俺は体面に座る実行犯役の二人へ視線を投げる。

 俺の正面に座るのが葉山隼人。そして、その隣に座っているのが戸部翔。二人は顔を見合わせると、お互いに肩を竦めて苦笑する。

 

「それ、隼人くんじゃん」

「……見られていたのか」

「ああ。でも、顔が見える前に目隠しされちまったから、正体までは分からなかったけどな」

「ん? なら、どうしておかしいと?」

「……拉致実行犯がわざわざ目撃者に顔晒すわけないだろ」

「ああ、そりゃそうか。でも、そうしとかないと通報され兼ねないからな」

「むしろ、どうして顔晒したぐらいで通報されなかったのか不思議だ。なんなの? 一人くらい疑って通報してもよくない? 最近の若者の通報離れが深刻過ぎるんですけど」

 

 俺はゲンナリした気持ちを誤魔化すように、目の前に置かれた唐揚げを箸で摘まみ、勢いよく口へ放り込んでゆく。

 

「ふーん……。なら、これが茶番だって確信したのは?」

「小町ですね」

「小町ちゃんって言うと、あの映像?」

「そうです」

「えー、でもお姉さん的に、あの泣き演技は良くできてたと思うんだけどなー」

「いや、もし本当に命の危険を感じるほど恐怖してたんなら、小町はあんな風に泣いたりしませんよ」

「そうなの?」

「そうです」

「うーんこのシスコンめ」

 

 まあ、実際は恐怖に慄いた表情とは裏腹に、目がランランと輝いていたからなのだが……。

 とは言っても、それも十数年と一緒に育った兄妹だからこそ感じ取れる違いだ。それと小町が本気で泣くときは、俺並みに目が腐るしな。……遺伝って恐ろしい。

 

「と言うか、どうやってあの黒歴史ノートを回収したんですか?」

「ああ、それ? 小町ちゃんに『何か比企谷くんの弱みになりそうなのない?』って聞いたら、あのノートが出てきたの」

「こ、小町ェ……」

「でも流石に渡してくれなくてね。ヨヨヨって泣き真似しながら『それだけはヤメてあげてください! (こんなのでも)お兄ちゃんの大事な(青春の)記憶なんです!』って……」

 

 ねえ、小町ちゃん。そう思うなら何で陽乃さんにそのノート見せちゃうの?

 そこは秘匿してあげよう? お兄ちゃん、うっかり自殺しちゃうよ?

 

「じゃ、犠牲っていうのは……?」

「そのノート借りるために、わざわざ銀座からお菓子取り寄せたんだからね。銀座ハ○スブルク・ファイルヒェンのテーベッカライ。五千円以上したんだから」

「いや、こんな茶番にあんな車まで用意する金持ちがそこ気にします?」

「それは必要経費だからね。知ってる比企谷くん? 経費削減するコツは、コストを圧縮するんじゃなくて、切り捨てるの」

 

 ……この人あれだ。コストカッターだ。なんかもう、将来の雪ノ下建設の社員たちに同情する。万が一、経営が傾こうものなら、なんの躊躇もなくリストラを断行するぞ、この人。

 俺は密かに、仮に将来就職することになっても、雪ノ下建設だけは止めておこうと心に誓うのだった。

 

「んー……。なあ、ヒキタニくん。途中で嘘だって気がついたんなら、何でそのとき言わなかったん?」

「……確かに。最後の方は鬼気迫るものがあったしな。あれには俺も驚いたよ」

「そーそー、わたしのこと絶対殺すとか言ってたもんね。……シクシク、あのときはお姉ちゃんショックだったよ」

「いやいやいや、雪ノ下さんがその程度でショック受ける訳ないでしょ」

 

 あんた、そんなタマじゃねえだろ。なんなら俺が本気で殺意を向けても鼻息一つで弾き返されるレベル。

 

「……あのな、こっちは帰り際をいきなり拉致られて、思い出したくもない過去の黒歴史を詳らかにされてんだぞ。そりゃ演技でも恨み言の一つや二つに三つ四つ八百万も言いたくなるわ」

「こらこら、途中で恨み言の数が神様レベルで肥大化しちゃってるぞ?」

「それだけ俺にとっては耐えがたいものだったと言うことです」

「まあ、確かにあれは黒歴史だな」

「……お、俺はカッコイイって思うぜ? ……なんだっけ、永久欠席?」

「それだとただの不登校児じゃねーか」

 

 きっとあれだ。学校に登校したら机と椅子を投げ捨てられて、『おめ゛え゛ーーのせき゛ね゛ぇーーか゛らー!』とか言われちゃったに違いない。

 良い子の諸君! あれは現実でやられると秒で心が折れるからな。自殺騒動を起されたくなかったら絶対にマネしちゃイケないぞ! 現実では手を差し伸べてくれる主人公なんていないんだからな!!

 

「それにな、もし俺があのタイミングで嘘だって指摘してみろ。絶対この人ヘソを曲げて余計に事態が悪化するぞ」

「あー……」

「ちょっと、どうして隼人はそこで同意するのよ」

「そこは、ほら。日頃の行いと言うか……」

「……はーやーと?」

 

 誰もが見惚れる妖艶な微笑みとは裏腹に、一切目が笑っていない陽乃さんと、漫画みたいに額から汗をダラダラ垂れ流して目を逸らす葉山。いいぞ、もっとやれ! 俺に被害が及ばなければ大歓迎だ。潰し合えー!

 

「ま、まーまー! それより、ヒキタニくん次なに頼む? ホッケ? ホッケいっとく? ここはいくっきゃないっしょ!?」

「なにその執拗なホッケ推し。おまえの家、ホッケ漁師かなんかなの?」

 

 戸部が卓上に置かれたコールボタンを連打しつつ、手を上げて『店員さーん! ホッケ! ホッケ一丁!!』と喚き立てる。

 おい、コールボタン押したんだから大人しく店員が来るの待ってろよ。お店の人に迷惑だろ。俺がやれやれと嘆息しながら、さてこちらの修羅場はどうなったかなと視線を戻せば、ちょうど陽乃さんが何事かをボソリと呟くところだった。

 

「……隼人が五歳のとき」

「ほら陽乃さんコップが空じゃないか次は何を頼むんだいビールに焼酎梅酒ロックにハイボールでいいかないいよねついでにホッケも頼もうか、店員さーん! ホッケあるだけ持ってきて!!」

 

 え、なに? いまホッケって流行ってんの? 空前のホッケブーム?

 とりあえず、葉山が五歳のときになにか人に知られたくない事件が起きたらしい。よし、今度機会があったら雪ノ下にでも聞いてみよう。

 

「え、えーと……。うぇーーい! ホッケにカンパーイ!!」

「カンパーーーイ!!!」

 

 テーブルに置かれた大量のホッケを前に、ノリと勢いだけで空気を変えようとする戸部と葉山。当然のことながら、二人ともシラフだ。酔ってもいないのに大量のホッケを一心不乱に貪る光景は正気の沙汰とは思えない。

 どうでもいいけど、このホッケどうすんの? テーブルの九割がホッケで埋め尽くされてんだけど。あ、更に追加分がきた。

 ……もうあれだ、持ち帰り用のタッパーとか用意してもらおうぜ。こんなのムリゲーすぎる。

 

 その日、俺たちは閉店間際まで無心でホッケを食べ続けた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 衝撃の『比企谷八幡狂言誘拐ホッケ食い倒れ事件』から早二ヶ月の月日が経過していた。

 あの事件により、リア充たちとつるむと碌なことにならないと改めて実感した俺は、今日も今日とてぼっちライフの日々を満喫している。

 相変わらず、奴らからは電話やメール、LINEなどを使った多種多様な攻撃が後を絶たないが、その全てを受け流し、やり過ごし、『ゼロにする』の掛け声とともにそっとスマホの電源をオフにしてその場を凌ぐ。

 そんなある日のことだった。

 

「若、お勤めご苦労様です」

「っさまっーす!!」

 

 大学での講義終わり、正門を出たところで突然頭を下げられる。

 それは、いかにも堅気ではありませんと主張するかのような姿をした二人の男。

 

「……なにしてんだよ」

「もちろん、若をお迎えに上がりました」

 

 慇懃な態度でそう答えるのは、黒の開襟シャツに白い上下スーツとエナメル靴、金の喜平ネックレスという出で立ちの葉山隼人だった。

 流石イケメン。そんな一昔前のVなシネマに出てくるようなテンプレ衣装でも、こいつが着ると妙にシックリくる。何も知らないで、どこぞの組の若頭ですと紹介されたら信じちゃうレベル。

 

「おい、翔。若の荷物をお持ちしろ」

「失礼しやすっ!」

 

 一方の戸部はと言えば、ダボッとした上下お揃いの三本ラインなジャージにスニーカー。下っ端感が似合いすぎててハンパない。明日にでも鉄砲玉とかやらされて死んでそう。

 

「お車を用意してますので、こちらへ」

「車って……これかよ」

 

 恭しく葉山が案内する先には、前回の土方系バンとは異なり、黒塗りな高級国産セダンが待ち構えていた。

 そして、戸部がさささっとその高級車の後部座席へ近づくと、敬うようにそっとドアを開ける。

 

「遅かったじゃない。待ち草臥れたわ」

「……極妻かよ」

 

 泰然とした様子で現れたのは、血のような鈍い紅色で染められた反物を身に纏い、いつもとは違い、前髪を後ろに流してアップにまとめた雪ノ下陽乃。

 丁寧に仕立てられたその着物は、素人の俺でも分かるほど高級なものだと感じられる。きっとあれだ、大○紬とかだ。まあ、着物なんて○島紬以外知らんけど。

 もしこれが雪ノ下なら、着物の貫禄に負けてしまっていただろう。別に雪ノ下がダメなんじゃない。それだけ、人を選ぶというだけだ。なんなら陽乃さんでもギリだ。一応、着こなしてはいるが、陽乃さんの若さが前に出過ぎてコスプレ感が漂っている。

 

「……それ、似合いそうで似合ってないっすね」

「あ、やっぱり? これ、お母さんのなんだよね。雰囲気出そうと思ってちょっと拝借してきたの」

 

 それを聞いて、以前会った雪ノ下母の存在を思い出し、そして納得する。確かに、あの母親ならなんの違和感もなく着こなせるだろう。こう見るとあれだな、雪ノ下母が組長の正妻で、陽乃さんは若い妾とか愛人ポジションがしっくりくるな。組長の葬式にキャバ嬢みたいな衣装で現れて、遺産相続とかでモメる展開だ。……あれ? これ途中から火曜日なサスペンスになってね?

 

「いま、お母さんがこれ着た姿を想像してたでしょ?」

「ええ、そうですね」

「……ねえ、お母さんがこれ着て『ヤッチマイナァ!』とか叫んだら様になってると思わない?」

「ブフォッ!?」

 

 陽乃さんが言うことをそのまま脳内で再現してしまい、あまりの違和感の無さに思わず吹き出す俺。

 横を見れば、隣に控えていた葉山も肩を震わせて懸命に笑いを堪えている。そうか、おまえも想像しちまったか。ぶっちゃけ、はまり役だよな。

 あ、ヤバイ。思いついてしまった。

 

「……『ヤッチマッタナァ!』」

「っ……!?」

「ばっ、ばかヤメロ比企谷! なんでクー○ポコ……ぶはっ」

 

 俺の呟きにより、葉山が着物姿で餅をついている雪ノ下母を思い浮かべたのだろう。我慢しようとして堪えきれず、盛大に吹き出した。

 陽乃さんはと言えば、流石にこのネタで実母を笑うのは憚られるのか、必死で笑いを堪えようと両手で顔を覆い、蹲っている。この中で唯一、戸部だけが話についてこれずポカーンとしていたけど。

 

 そんな状況だったので、俺は前回と今回の意趣返しとして陽乃さんへ追い打ちをかけるべく、今も断続的に過呼吸へと陥っている葉山へ目配せをする。……笑い過ぎだよ。どんだけツボにハマってんだ、おまえ。

 

「……暇を持て余して、母親の着物を着て遊び歩いている女がいるんですよ~」

「な、なぁーにぃー? ヤッチマッタナァ!」

「女は黙って……」

「内職!」

「女は黙って……」

「内職!」

「それ貧乏なだけだよぉ~」

 

「──ッ! ちょ、ふざけ……あっははははははっ! や、止めてよ! 想像しちゃったじゃん!! もう最っ高! ひ、ひぃ~、あー。ダメだお腹痛い」

 

 勝敗は決した。その場で腹を抱えて爆笑する陽乃さん。それに釣られて再び笑いの波に呑まれる俺と葉山。

 だからだろうか、俺たち三人は気付くことができなかった。自分たちの背後に、明確な『死』が歩み寄ってきていたことに……。

 

「……ん?」

 

 最初に気が付いたのは、笑いの輪に入れず、若干寂しそうに立ち尽くしていた戸部だった。それに反応して、どうしたと戸部に視線を向ける俺たち三人。

 

「いや、その……後ろ」

「「「 後ろ? 」」」

 

 その時だった。俺たちの背後から、囁くような、しかし周囲の喧騒をものともしない、力強く透き通るような声が響いたのは……。

 

 

「私の着物をネタに、随分と楽しそうね。三人とも」

 

 

 俺たち三人の呼吸が、同時に止まった。

 滝のように流れ出す汗を拭うこともできず、恐る恐る振り返った先。陽乃さんが着ているものとは色違いの、けれどハッキリと高級と見て取れる着物を着こなした極妻が、そこにいた。

 彼女は見惚れるほど美しい微笑を浮かべると、背後に控えていた黒服たちへと指示を飛ばす。

 

「ヤッチマイナァ!」

 

 その日、俺と陽乃さんたち三人は雪ノ下家へと連行され、四時間にも及ぶ説教地獄と、雪ノ下母による夜食を兼ねた物理的に息が詰まるテーブルマナー講座(ガチ指導)をやらされる羽目になったのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 『比企谷組御曹司お出迎え説教テーブルマナー事件』から暫く経ったある日のことである。

 途中、材木座による合コン騒動なんてものがあったりしたが、俺としては概ね平穏と言って差支えない日常であった。

 それというのも、さすがに過去二回に及ぶ襲撃から学習した俺は、あの三人からの連絡に対して無視するのではなく、キチンと返事を送ることにしたのだ。『スマン、今日はレポートの提出期限が迫ってて無理だ』『悪い、その日はゼミの集まりがあるから……』『あ、バイトなんで難しいですね』といった具合である。

 そして、今日も葉山からきた遊びの誘いに対して『本日は体調不良のため自宅にて静養しております。御用の場合はまたの機会に出直してきてください。ごめんなさい』と丁寧に返した俺は、さて帰りにお手軽イタリアンなファミレスにでも寄っていくかと考えながら正門への道のりをテクテク歩いていた。

 

「……あ?」

 

 異変に気が付いたのは、あと少しで正門に辿り着く距離まで近づいたときだった。

 いつもより高い人口密度、何やら騒がしい学生達、そして何より、正門付近に設置された見慣れぬ簡易ステージ。

 そのステージにデカデカと掲げられた看板。アホっぽいPOP体フォントで描かれた文字を読み、俺は白目を剥いた。

 

 

 【はるのん☆ゲリラライブショ~!】

 

 

 すると、まるで俺が来ることを見計らっていたかのごとく、ステージ上でもくもくとスモークが焚かれ、ステージ脇に置かれた巨大スピーカーから軽快なイントロが流れ出す。

 

「「 はい! はい! はい! はい! 」」

 

 そして、ステージ前に陣取り、ライブを盛り上げるべく大声で合いの手を入れる二人の男。

 いかにもオタクですと主張するかのように、『はるのんLOVE』とプリントされたピンク色のはっぴと鉢巻を身に纏い、両手にはピンクに輝くサイリウムを装備している。

 誰あろう、葉山と戸部である。

 

「「 はい! はい! はい! ふふふー! 」」

 

 そして、彼らのコールに応えるようにジャンプ一番、ステージ下の昇降装置から飛び出すように、ステージの主がマイク片手に現れた。

 フリッフリのミニスカピンクドレスにあざといベレー帽。純白のロンググローブがノースリーブで露出した両腕を肘辺りまで覆っている。

 周囲の観衆へバチコンっとウィンクをかましながら、八十年代アイドルもビックリなTHE・アイドルな装いで登場したのは、皆さんご存知、雪ノ下陽乃こと、アイドル☆はるのんであった。……マジでなにやってるの、陽乃さん。

 

 

『チェックの キャミソールを着て』

 

 

 振付を交えつつ、恥かし気もなく堂々と歌い出す陽乃さん。無駄に上手い。

 ちなみに、彼女の背後では四人ほどの給仕服を着たお姉さんたちがバックダンサーよろしく踊っている。全員が『私、なにやってんだろ……』という心情を物語るように目が死んでいるのが実に印象的でした。

 

 

『今夜』

 

「「 今夜! 」」

 

『ねえ』

 

「「 ねえ! 」」

 

『遊びにゆくわ』

 

「「 ふーふふっ、ふっふ! 」」

 

 

 周囲の学生を置き去りに、一人と二人によるゲリラライブは勝手に盛り上がってゆく。

 それにしてもこの三人、ノリノリである。

 

 そこでふと気が付いた。戸部と葉山の二人が立つ位置関係。人ひとり分くらいが入れるように空けられたスペース。

 その空間には、綺麗に畳まれたピンク色のはっぴと鉢巻、そしてサイリウムが地面に置かれていた。

 

 ……どう考えても罠である。もしくは嫌がらせの類。

 現に、コール中にも関わらず、さっきからチラチラこちらを窺っている葉山と戸部。おいヤメロ。こっちみんな。おまえらの所為で、他の学生たちも俺に注目し始めたじゃねえか。

 

「っ……」

 

 それはまるで、水面に波紋が広がっていくようだった。

 呆然と立ち尽くす俺の存在に気がついた学生が周りの人間へヒソヒソと耳打ちし、徐々に伝播していく。

 俺とステージの間にいた群衆が、まるで俺に道を譲るように左右へと移動し、『モーゼの十戒』でモーゼが海を割るように、俺の前で群衆が二つに割れた。

 

 ──ほら、行けよ。

 ──空気読めって。

 ──どう見てもおまえ待ちだろ、これ。

 

 そして浴びせられる同調圧力。

 正面の三人、更には左右の観衆たちから放たれる無言のプレッシャーが俺を襲う。

 

 だがしかし、こっちだって伊達に小中高とぼっちしていない。

 そういう同調圧力への対処は慣れたものだ。なんなら俺の後からやってきて、この状況にポカンと呆けている冴えない感じの学生A君を捕まえて、『君のことだよ。ほら行って行って』と背中を押して、俺自身はこの場からフェードアウトすることだって可能だ。

 

「チッ──」

 

 けれど、どうにもそんな気にはなれなかった。

 俺の中からふつふつと込み上げてくる怒りの感情。ふざけるなと、怒鳴ってやりたい。いい加減にしろと、声を荒げて叫んでやりたい。

 俺はひとつ舌打ちすると、苦虫を噛み潰したような顔のまま、大きく一歩踏み出した。

 

「葉山の野郎……。ぬるいコールしやがって……」

 

 忌々し気に呟いて、どんどんと歩を進めていく。

 そして、ついに俺用に誂えられたオタグッズの前まで辿り着くと、無言でそのはっぴをばさりと羽織り、鉢巻を頭にキュッと巻く。次にサイリウムを手に取ると、俺はそれを装備せず、ポケットへと仕舞った。

 訝しげに俺の行動をチラ見する戸部と葉山をガン無視し、俺は右手を肩の辺りで掲げて指パッチン。

 

「召喚《サモン》! 材木座ッ!!」

「呼ばれて飛び出て、ヌワハハハ! 我、参上!!」

 

 おまえ、いまどうやって現れたとかいうツッコミは横に置いておき、俺は懐から取り出した二本のキ●ブレを構えながら、傍らに居る材木座へ声を掛けた。

 

「……似非王国民どもに、『本物』の王国民ってやつがどんなものか教えてやる。手を貸せ、材木座」

「かんらかんら。……委細承知した。背中は任されよ!」

 

 材木座はそう言って俺の背後へと移動すると、腰元から刀を抜くようなジェスチャーで同じくキ●ブレを抜き放つ。

 え? なんで俺らがキ●ブレなんて常備してるのかって? ……王国民の嗜みだよ。察しろ。

 

 流れている曲はちょうど間奏部分。

 俺は大きく息を吸い込み、一瞬止め、そして解き放つ。

 

「「 はいっ! はいっ! はいっ! はいっ! 」」

 

 ステージの上で踊る陽乃さんが、俺の横でサイリウムを振り回す葉山と戸部が、驚愕の表情で瞠目する。そんな三人の反応に俺と材木座は一切怯むことなく大声を張り上げ、全力でキ●ブレを突き上げた。

 馬鹿がっ! サイリウムはな、ただ闇雲に振り回せば良いってもんじゃねえんだよ! おまえらがやっているのは、ただのオタ芸を真似たパフォーマンスだ! こういうのはな、まずは全力で声出すんだよ。応援するのが目的ってこと忘れんな。目的と手段を穿き違えてんじゃねぇ! そしてキ●ブレやサイリウムは他の人の迷惑にならぬよう、ジャンプとコールに合わせて突き上げる。それがマナーだ!!

 

「「 はいっ! はいっ! はいっ! ふふふっ! 」」

 

 俺と材木座によるコールに圧倒され、茫然とする三人。

 だが、時間は待ってはくれない。そろそろ間奏が終わる。それに気が付いた陽乃さんが、取り繕うようにマイクへ口を近づけた。

 

 

『カートに あふれてしまうほど』

 

 

 見せてやるぜ、王国民の本気ってやつを──!

 

 

『今日は』

 

「「 今日はっ! 」」

 

『ねえ』

 

「「 ねっえーっ! 」」

 

『お買い物の日』

 

「「 ふーっふふっ、ふっふーっ! 」」

 

 

 もはやここは、大学の正門ではない。

 彼女がいて、俺たちがいる。ならば、ここは立派なライブ会場だ。例え簡易なステージであろうと、そんなことは関係ない。誰憚ることなく、威風堂々と、声を枯らして拳を突き上げる。

 そんな俺たちに巻き込まれるように、葉山たちも声を張り上げ、コールのボルテージが上がってゆく。やがてその流れはじわじわと拡散し、徐々に観衆からも声援が飛びはじめる。

 

 

『大きなハートが欲しい』

 

「「「「 ハイッ! ハイッ! ハイッ! ハイッ! 」」」」

 

『ホントはちょっと弱虫よ』

 

「「「「 ハイッ! ハイッ! フッフッ! フッフフーッ! 」」」」

 

 

 いま、俺と材木座を中心に、会場はひとつになろうとしていた──

 

 

「「「「 もっとーっ! 」」」」

 

『愛される』

 

「「「「 スィーガール! 」」」」

 

『女の子』

 

「「「「 ねっえーっ! 」」」」

 

『目指したい from my heart』

 

「「「「 フローム マーイハーーッ! 」」」」

 

 

 会場を、ピンクの灯りが、埋め尽くす──

 

 

『Happy! fancy baby doll!』

 

「「「「 オォォォォッ! イェイッ! 」」」」

 

『Love me! fancy baby doll!』

 

「「「「 オォォォォッ! 」」」」

 

 

 満面の笑みを浮かべるはるのんへ、俺たちが伝えたい想い──

 

 

「「「「 世界一可愛いよーっ! 」」」」

 

『ほーんとにぃーー?』

 

「「「「 ウオォォォーーーッ! 」」」」

 

 

 熱狂するオーディエンス。弾けるような笑顔で歌うはるのん。

 すごい一体感を感じる。今までにない何か熱い一体感を。

 風・・・なんだろう吹いてきてる確実に、着実に、俺たちのほうに。

 中途半端はやめよう、とにかく最後までやってやろうじゃん。

 この会場には沢山の仲間がいる。決して一人じゃない。

 信じよう。そしてともに戦おう。

 大学の警備員や邪魔は入るだろうけど、絶対に流されるなよ。

 

 

「「「「 イェイッ! イェイッ! イェイイェイッ! 」」」」

「「「「 イェイッ! イェイッ! イェイイェイッ! 」」」」

 

 

 ギターソロが鳴り響く会場。何処から取り出したのか、眼つきの悪いアホ毛な少年をデフォルメしたようなヌイグルミを観衆へ投げまくる、はるのん。ハイパー餌付けタイム!!

 

 

「「「「 フフッ! フフッ! フフッ! フフッ! フッ!」」」」

「「「「 フフッ! フフッ! フフッ! フフッ! フッ!」」」」

 

 

 そして、ライブは佳境へと差し掛かる。

 途切れぬコールの嵐。一糸乱れぬピンクの輝き。そのどれもが、彼女へ向けたエールのかたち──

 

 

「「「「 もっとーっ! 」」」」

 

『夢見せて』

 

「「「「 もっとーっ! 」」」」

 

『そばに来て』

 

「「「「 とぅーないっ! 」」」」

 

『二人きり Let’s Party!』

 

「「「「 レーッ パァーティーーッ! 」」」」

 

 

 俺たちは、最後の気力を振り絞り、ありったけの想いを込めて、全力全開で咆哮する。

 

 

『Happy! fancy baby doll!』

 

「「「「 オォォォォッ! イェイッ! 」」」」

 

『Love me! fancy baby doll!』

 

「「「「 オォォォォッ! 」」」」

 

 

 この想い、君に届け──

 

 

「「「「 世界一可愛いよーっ! 」」」」

 

『どーもありがとぉーー!』

 

「「「「 フゥーーーッ! 」」」」

 

 今まさに、俺の大学は最高にフェスティバっていると言っても過言ではない。

 乗るしかない。このビッグウェーブに!! 

 

「俺たちのライブは、これからだーーー!」

 

「「「 うおぉぉぉぉっーー! 」」」

 

 その後、調子に乗って追加で二曲目を歌おうとして、いい加減にしろと大学側に怒られたためゲリラライブは中止となった。どうやら、一曲だけという約束で許可されていたらしい。

 ……いや、そもそも許可出すなよ。こいつらうちの学生じゃなくてただの部外者だぞ。俺が自分の大学への不信感を募らせている横で、ライブの余韻冷めやらぬ陽乃さんと葉山たち。そんな彼女たちと目が合い、交わされるアイコンタクト。

 

 その日、俺たちはカラオケ店へ向かい、五人で朝までカラオケはるのん生ライブが開催されることと相成った。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 驚愕の『はるのんゲリラライブ事件』以降も、奴らは事ある毎に正門前に陣取っては騒動を起こしてゆく。

 それはもはや、うちの大学の風物詩となりつつあり、正門前で何が起きても『ああ、またアイツらね。はいはいおっぱいおっぱい』程度の扱い。なんならイベントの開始を肌で感じとる猛者も出始めており、挙句の果てには教授自ら講義を休講にして参加する始末。

 

 例えば、ある日は選挙カーが正門前で陣取り、立候補もしていないのに俺の被選挙権が勝手に行使されていた。

 選挙カーの側面や上部には『ヒキタニはちまん』とデカデカ書かれており、窓部分には加工されて異様に目が輝いている俺の顔写真とともに、『ぼっち党公認候補者 ヒキタニはちまん』という選挙ポスターが幾枚も貼られている。

 

「応援ありがとうございます! ヒキタニはちまん! ヒキタニはちまん! どうか! どうか、よろしくお願いします!」

 

 ウグイス嬢となった陽乃さんが俺の名前を連呼し、声援に応えてゆく。

 その周りでは、『ヒキタニはちまん』と書かれたのぼりを持った葉山と、同じく『ヒキタニはちまんをヨロシク!』と書かれたポケットティッシュを通行人に配る戸部の姿が……。

 思わず回れ右して引き返そうと思ったが、それより先に陽乃さんに俺の存在が気付かれてしまう。

 

「皆様、後ろをご覧ください! 我らがヒキタニはちまんの登場です! どうぞ、熱い拍手でお迎えください!」

 

 割れんばかりの拍手とともに、『ガンバレー!』『投票するぞー!』『つーか、選挙日いつだよー?』という声が乱れ飛ぶ。

 俺は普段の五割増しで目を腐らせながら、その歓声の中を憂鬱気に歩いていく。

 

「……なにしてんすか、陽乃さん」

「なにって、選挙応援?」

「なんの選挙なんですかね、それ……」

「この大学のぼっち総選挙」

「潰れてしまえ、そんな碌でもない選挙」

 

 なにその晒し者感満載な選挙戦。立候補した時点で社会的に死んでるんですけど。

 ……俺もう立候補させられてるじゃん。詰んだ。

 

「あ、大丈夫だぜ? さすがの俺らだって勝手にヒキタニくんの個人情報ばら撒くのは悪いと思ったからさ、ちゃんと偽名と偽造した顔写真にしてあるべ」

 

 俺が絶望に打ちひしがれていると、俺の心情を察したらしい戸部が励ますように言った。

 ああ、だから名前が『比企谷』ではなく『ヒキタニ』なのね。選挙ポスターも目が異常に輝いてるし。なるほど、これなら誰も俺だと気が付かない……あれ?

 

「……なあ、戸部」

「ん、どったのヒキタニくん?」

「ちょっと俺の本名言ってみてくれ」

「うん? 比企谷八幡っしょ?」

「だよな。そうだような」

「いやいや、どったのヒキタニくん。記憶喪失にでもなった的な?」

「違う、そうじゃない。むしろ戸部の認知症を疑ってるんだが……」

「え?」

 

 待て待て待て。なに? 無自覚なの? なにそれ怖い。

 

「おまえ、俺の本名が『ヒキタニ』じゃなくて『比企谷』だって知ってたのか?」

「そりゃ知ってるっしょ。高校時代はクラスメイトだった訳だし。あれ、もしかして俺ってばクラスメイトの名前も憶えてない薄情なヤツだと思われてた系? うわー、ヒキタニくん。それ普通にショックだわー」

「いや、スマン……じゃねえ。ならなんで『ヒキタニ』呼びなんだよ。おかしくね?」

 

 俺がそう指摘すると、戸部はバツが悪そうにしながらガシガシと頭をかいて視線を横に逸らした。

 おいこら、こっちみろ。

 

「あー……、実は気がついたのが二年の終わりくらいでさ。訂正しようか悩んだんだけど、もう俺の中ではヒキタニくんは『ヒキタニ』でインプットされちゃってたから……。まあ、今更かなって」

「戸部ェ……」

「で、でもあれだべ? 最初に『ヒキタニ』で覚えたのって、隼人くんとか海老名さんがそう呼んでたからだべ? 俺、てっきりそーいう渾名なのかなって……」

「……おのれ葉山」

 

 いま明かされる衝撃の事実。

 俺は諸悪の根源たる葉山へと恨みがましい眼差しを向けた。それに対して、嫌味なほどのイケメンスマイルで応える葉山。

 

「すまない……、ヒキタニ(・・・・)くん。悪気はなかったんだ」

「出てる出てる。スマイルからめっちゃ悪気が滲み出てる」

「……計画通り」

「その腹黒スマイル止めろ。ノートに名前書くぞ、コラ」

 

 残念ながら死神のノートが手元にないので、家に帰ったら絶対許さないノートに今日のことを書き記そうと心に固く誓う。

 

「ところで、このポスターを見てくれ。こいつをどう思う?」

「すごく…大きいで……おい、海老名さんが喜ぶようなネタフリは止めろ。いま、一瞬背筋に悪寒が走ったぞ!?」

「ハハッ、姫菜がこの辺りにいるはず──

 

 

  ぐ腐腐腐……

 

 

 ──ッ?!」

 

「なあ、おい葉山」

「……きっと幻聴だ」

「だ、だよな……」

 

「……」

「……」

 

「そ、それで、ポスターの話だけど」

「お、おう。ポスターな。良いよな、ポスター。いま流行ってるもんな、選挙ポスター」

「落ち着け、比企谷。別に流行ってはいない」

 

 冷静さを取り戻すために深呼吸を繰り返す。油断していた。高校卒業後はその手の話題とは縁がなかったから、BL耐性が下がるどころか過剰反応してアナフィラキシーショックを起こすレベルになっていた。ヤバイな、これ。もし同窓会なんかで海老名さんに会ったら発作起すんじゃね? 死因がBLアレルギーによるショック死とか嫌過ぎる……。

 

「……うっし」

 

 何度かスーハーして心を整えた俺は、葉山から渡された選挙ポスターを改めて観察してみる。

 ……なにこの選挙ポスター。よく見たら、ちゃんとマニフェストまで記載されてるんですけど。さすが政治家の娘、芸が細かい。

 

  【ぼっち党 マニフェスト】

   ・ぼっち優遇制度の導入を大学へ提案していきます!

   ・食堂はすべて一人席にして、グループ席の廃止を訴えます!

   ・ぼっち保護を目的として、人気の無いエリアへのリア充の立入禁止を求めます!

   etc.

 

 ……どうしよう。ちょっと、ぼっち党を応援したくなってきちゃった。

 でもこれ、どれも実現を確約してはいないんだよな。例え選挙で当選しても、提案して、訴えて、求めてみたけどやっぱりダメでした。テヘ☆ ってなるのが目に見えてるし。汚いなさすが政治家の娘きたない。

 俺が選挙ポスターを見ながら遠い目をしていると、それまで笑顔で手を振りながら選挙活動に勤しんでいた陽乃さんがマイクを持ってこちらにやってきた。

 

「それじゃー、ヒキタニ候補者。一言お願い!」

「……マジかよ」

「ほれほれ、ビシッと頼むよ。噛まないようにね?」

「ええー……」

 

 俺は渡されたマイクを受け取り、ゲンナリと項垂れる。

 周囲から向けられる期待の眼差し。おまえら、俺みたいな陰キャに何を期待してんだよ。噛むわ、こんなん。もぅマジ無理。リスカしょ……。

 

「……あー、これからは各々頑張って生きてください。解散ッッッ!」

 

 翌日から、なぜか俺は一家離散してダンボール生活をしているという噂が飛び交い、誤解が解けるまでの暫くの間、周囲から異様に優しく接されるのだった。

 

 

 

*  *  *

 

 

 

 また別のある日は、西洋風の甲冑を身につけ、騎士然とした葉山と戸部が俺を出迎えた。

 二人の傍らには馬が待機していることから、ここまで馬でやってきたのだろう。

 ……はい? 馬?

 

「陛下! さぁ、こちらへ」

「女王陛下がお待ちです」

 

 そう言って彼らが指差す先、四頭引き馬車の前で西洋風のドレスに王冠と錫杖を携えた陽乃さんが、満面の笑みで手を振っていた。

 いや、馬車って……。現代日本の公道で馬車の走行って合法なの? え? 軽車両扱い? マジで!?

 俺が馬って間近で見るとデケェな……。あと鼻息がスゲー掛かる。とかどうでもいいことを考えて現実逃避していたら、いつの間に準備したのか、葉山たちとは異なり西洋風の騎士服を着たエキストラの皆さんが抜剣して花道を作っていた。ああ、映画とかで観たことあるな、こういう光景……。茫然とする俺を葉山たちが無理矢理エスコートして連行する。

 

 その日の居酒屋のチョイスはなぜか馬肉がメインのお店だった。悪意がハンパない。でも、陽乃さんオススメの馬刺しは正直美味しかったです。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 その日は、もう見るからに異様だった。

 正門前のメインストリートに設置された競馬で使われるようなスターティングゲート。

 ゲートに括り付けられた看板には『ギネスに挑戦! 三〇秒間パンツ履き選手権!!』と綴られており、俺は気が遠くなった。

 

「それではこれより、ギネス『三〇秒間パンツ履き』にチャレンジしていただきます。参加者はゲート前に並べられたブリーフを三〇秒以内に一六枚より多く履ければギネス認定となります」

 

 ギネス認定員っぽい雰囲気を醸し出しつつ、陽乃さんがルールの説明をする。

 よく見れば、ゲートから正門までの間にはブリーフが一列に等間隔で幾枚も並べられており、ゲートから飛び出した参加者がこれを履いて正門を目指すのだろうと予想できた。

 一つ気がかりなことと言えば、スターティングゲートが三つあるということ。既に一つ目と二つ目には馬面の被り物をしてブリーフ一丁となった男が二人スタンバイしており、残る一つが埋まるのを今か今かと待ち構えている。

 

 ……無理だ。さすがの俺でもこんな公衆の面前で人間辞めたくない。

 おい、手招きすんな。被り物してるから戸部か葉山どっちか知らんけど。やる気まんまんでストレッチとかするの止めろ。

 

「……どうしました?」

「いや、どうもしませんので話しかけないでもらえます?」

「安心してください。まだここ空いてますよ?」

「そんな心配は微塵もしてないです」

 

 どうして俺が出場枠が埋まってしまったかの心配をしていると思ったのか。

 その後もどうにか出走させようとする陽乃さんと、拒否る俺。すったもんだの問答の末、陽乃さんが切り札を切った。

 

「ちなみに、ギネス認定の暁には景品の用意がございます」

「だから、そんなものいらない……」

「本日ご用意したのは……こちら! 【戸塚彩加と行く一日遊園地デート券(※お泊りNG)】でーす!!」

「俺は人間をやめるぞ! 戸塚ーーーーッッッ!!」

 

 結果? ……馬の被り物は、視界が最悪だったということだけここに記しておく。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 その後も、ある日は参勤交代。またとある日はバイオでハザードな世界。またまた別な日はフラッシュモブ。その他にもミュージカルやドミノ倒し、エレクトリカルなパレードと奴らの襲撃は尽きることなく繰り返された。

 

 一度だけ、なぜこんなことをするのか真面目に問い質したことがあった。

 それに対する三人の回答はひどく単純なモノ。

 

『だって、ヒキタニくん。俺らが普通に遊びに誘っても無視するべ?』

『そーそー。だから、比企谷くんが構ってくれないなら、わたしたちから絡んでやろうかと思って』

『まあ、そういうことだ』

 

 三人の言葉に、俺は答えに窮し、何も言えず黙り込んでしまったのを覚えている。

 きっと、放っておいてくれとか、一人にさせてくれとか、いくら言葉で言っても無駄なんだろう。こちらの心情を見透かしたような笑みを浮かべる三人に、俺は力なく笑うのだった。

 

 そして、今日もまた奴らは俺の前にやってくる──

 

 

「えぇい! 静まれ、静まれぇーい! この紋所が目に入らぬか!」

「ここにおわす御方をどなたと心得る! 恐れ多くも雪ノ下家が長子、雪ノ下陽乃嬢にあらせられるぞ!!」

「……ふふん」

「お嬢様の御前である」

「頭が高ーい!」

「控えおろう!」

 

「うるせぇ帰れ」

 

 

 これは、大学生になった俺と暇を持て余したリア充どもとのある日の物語。

 



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ある日の婚活子守唄

 『結婚は人生の墓場』という言葉がある。

 人々は結婚という幻想に夢や理想を膨らませ、そして儚く散ってゆくのだ。故に、俺は結婚相手に幻想など抱かない。あるのはビジネスライクな関係のみ。相手が俺を養ってくれる代わりに、俺は家事全般をこなす。俺は社会に出て働かなくていい。相手は面倒な家事をしなくて済む。完璧なWIN-WINの関係。

 それこそが、俺が描く将来設計である。

 

 だから神様、こういう出会いはあんまりじゃないでしょうか──

 

 

「ひ、比企谷……?」

「……どもっす」

 

 

 これは、大学生になった俺と高校時代の恩師とのある日の物語。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 大学生といってもまだまだ単位取得のために忙しい毎日を送っている俺に、ある日、お母上から声がかかった。

 

「……婚活パーティ?」

「そう。もう登録しといたから」

「え? なに……母ちゃん再婚すんの? てか親父とは離婚? おい、小町の親権どっちだよ。俺もそっち側につく」

「なに馬鹿なこと言ってんの、あんた」

 

 呆れたような眼差しを俺に向け、溜息を吐く母ちゃん。

 どうやら、比企谷家終了のお知らせは俺の早とちりだったらしい。

 

「八幡、あんた将来の夢は?」

「専業主夫」

「それよ」

「どれだよ」

 

 要領を得ない親子の会話。

 スッと目を細めた母ちゃんが、テーブル越しに俺を睨みつける。

 

「結婚舐めんなってこと」

「いや、別に舐めてるつもりは……」

「舐めてなきゃ、将来の夢が専業主夫なんて発想にはならないわよ。この馬鹿息子」

「ええー……」

 

 俺の将来全否定である。

 まあ、母ちゃんの気持ちも分からなくはない。自分の息子が『将来、働きたくないから専業主夫になるでござる!』と声高に宣言しているのだ。俺が母親の立場なら今すぐ親子の縁を切って、家から放逐している自信がある。

 え? そう思うなら考えを改めないのかって? ……それでも働きたくないでござる! 絶対に働きたくないでござる!!

 

「あんた、また何かくだらないこと考えてるでしょ?」

「しょ、しょんなことないじょ……」

「……」

「……」

「真面目に聞け。アホ毛引っこ抜くわよ」

「……うっす」

 

 ふぇぇ、この母親、目がマジだよぉ……。

 

「兎に角、一度婚活パーティでも行って現実をみてきなさい。四十近くなって今更焦りだした男と、三十過ぎて勘違いを拗らせた女をみたら、あんたも結婚に対してちょっとは危機感持つでしょ」

「つっても、そう言う場に俺みたいな学生が紛れても誰にも相手されないだろ。冷やかしだと思われて叩き出されるだけじゃね?」

「それならそれでも良いのよ。とにかく、あんたなりに考えた条件で婚活してみなさい。そして、現実を知って悔い改めろ」

「言いぐさ」

 

 そんな経緯でもって俺は、婚活パーティへと参加することとなったのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 今回、俺が母ちゃんから参加させられた婚活パーティは二部構成となっている。

 第一部は、パーティションで区切られた部屋の中で、男女が番号順に一対一でお話しするというスタイル。言ってみればお見合いと同じである。お互いが自己紹介をしたり、趣味を聞いたりなんだりして、婚活相手の目星を付ける。

 そして、第二部はフリートークタイム。会場内で気になったお相手へ話しかけ、更に親睦を深めるという流れだ。

 

 で、いまの俺はと言えば絶賛第一部の真っ最中。今も、俺のプロフィールカードを読んでいるお相手(三十八歳:家事手伝い)が顔を引き攣らせている。

 うーむ……。我ながら良くかけていると思うのだが……。

 

 【お名前】比企谷 八幡

 【年 齢】18歳

 【血液型】A型

 【職 業】大学生

 【自分の性格】孤高

 【休日の過ごし方】自宅警備

 【好きなタイプ】養ってくれる人

 【家族構成】親、妹

 【オススメ映画・本】『よだかのほし』『ごんぎつね』

 【趣味・特技】人間観察

 【デートで行きたい場所】自宅待機

 【年 収】350万円未満

 etc.

 

「……ねえ、君。もしかして冷やかし? それとも結婚舐めてんの?」

「いえ、別にそんなことは……」

 

 すんごいガンつけられてる。あれだ、高校時代に受けたサキサキのガン飛ばしが可愛く思えるレベル。

 ちなみに今のところ一〇名中七名がこの女性と同じような台詞とともにガンを飛ばしてくる。残りの三名は、俺を見た途端にプロフィールカードも見ないで制限時間までずっとスマホ弄ってた。もちろん会話も無し。

 

「君、こんな条件で結婚なんてできると思ってるの?」

「はぁ……」

 

 あ、この人めっちゃ説教するタイプの人だ。おめでとうございます! 本日、俺に説教を垂れた人は貴女で五人目です!! ……いい加減、現実逃避するのも辛くなってきた。

 それからも俺は目の前に座る女性たちから代わる代わるキレられ、嘲られ、蔑まされ、無視されるの一時間だった。……なんの拷問なんですかねぇ、これ。

 

 

『それでは、次で本日最後の対面となります。この後は休憩を挟み、フリートークタイムとなりますので、皆さんお楽しみください』

 

 

 ふと会場にそんなアナウンスが響き、俺はようやく終わるのかとグッタリしながら本日最後となる罵倒を受け止めるため、席に着いた相手の女性へ目礼し……ようとして固まった。

 

「ひ、比企谷……?」

「……どもっす」

 

 本日最後のお相手は、高校時代の恩師であり、婚活に心血を注ぐことウン十年「まだ十年も経ってないわ、この戯けがッ!?」 ちょっと、どうして俺のモノローグに割って入れるんですかねぇ……。

 とにかく、俺を涙目で睨みつけてくるこの人、平塚静が最後の対面相手だった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 その後、俺が書いたプロフィールカードを読むなり鬼の形相で尋問してきた平塚先生へ、俺は事の経緯を説明した。

 

「……なるほどな。母親に現実を知るために参加させられた、と」

「うっす」

「……それで?」

「それで、とは?」

「何か成果はあったのかね?」

「うーん……」

 

 平塚先生の問いに対し、答えに窮する俺。そんな俺を眺めながら平塚先生が面白そうに小さく笑う。先生はふぅーと一息吐くと、椅子の背もたれに背中を預け、煙草を一服しようとして『室内禁煙』の張り紙を見て軽く舌打ちした。

 その一連のやり取りが何だかかつての生徒指導室を思い起こされ、ひどくむず痒い。まるで高校時代に戻ったような気分だった。

 

「……ふむ。ならば比企谷。私とも真面目に婚活してみるかね?」

「……はい?」

「今日の君はここへ勉強しにきたようなものだろう? 私は教師で、君は元とは言え教え子だ。なら、ここはひとつ実習授業といこうじゃないか」

「そう言われましても……」

 

 言葉を濁して難色を示す俺に構わず、平塚先生はコホンとひとつ咳払いすると、その居住まいを正す。

 

「っ……」

 

 突然の変わり身に、俺は思わず息を呑んだ。それはまるで世界そのものを再構築するように、彼女の一挙手一投足が緩く弛んでいた空気を張りつめたものへと塗り替える。

 しなを作るように髪を耳に掛ける仕草が、伏し目がちな目元から覗く艶めかしく光る瞳が、蠱惑的に薄く伸びた淡い色の唇が、俺の知っている平塚先生という存在と食い違い、ごくりと生唾を呑みこんだ。

 

「平塚静です。今日はよろしくお願いしますね?」

 

 いつもよりワンオクターブ高い先生の声音に、目の前に座る女性が俺が知っている”高校の恩師”ではなく、俺の知らない”妙齢の女性”なのだと強制的に意識させられる。

 

「……名前」

「え?」

「君の名前。これ、ヒキ…ガヤ、ハチマンって読むの?」

「あ、はい」

「ふふ…。変わった名前だね? あ、でもちょっと可愛い…かも。ね、八幡君って呼んで大丈夫?」

「あ、ああ…。はい」

 

 彼女の楚々とした雰囲気に気後れして、俺は吃るような返事とともにただただ頷く。

 もしこの会話が陽乃さんや一色のような相手だったらここまで緊張なんてしていなかったかもしれない。たとえ同じ台詞だったとしても、陽乃さんであれば強化外骨格のような仮面が、一色であればあのあざとさが、俺のなかの自意識を引っ張り出してくれたから。

 けれど、まるで迷子の幼子を安心させるように、柔らかい笑みを浮かべて人懐っこく話しかけてくれる彼女のその姿が、俺がこれまでの半生で必死になって築き上げた防壁をするりとすり抜けた。

 

「ふーん。八幡君は妹さんがいるんだね」

「あ、はい」

「八幡くんより年下ってなると、いま高校生か中学生くらいかな?」

「あ、そうです。今年で高校二年生になりました」

「そっか。なら、妹さんはいまが一番可愛い盛りで、生意気盛りなお年頃だねぇ……」

「あー、そう…ですね。生意気なのはずっとですけど、まあそれは永久不滅ポイントみたいなものなので、あと今も昔もウチの妹は可愛いです」

「……このシスコンめ」

「あ、いや…違いますから。そんなんじゃないです」

 

 気がつけば自然と会話は続いていた。なんか枕詞の如く『あ、』って言っちゃうのを自覚して軽く死にたくなるけど。でも、そんなコミ障全開な俺を気にするでもなく、彼女は楽し気に会話のキャッチボールを続けてくれる。何故だかそのことが、そんな程度のことが、どうしようもなく嬉しくて、自分の単純さ具合にやっぱり死にたくなる。

 中学生のときに痛いほど経験した筈だ。何度も同じ失敗を繰り返して、そんな自分に失望して、戒めて、省みた筈だ。俺に向けられるその優しさや好意といった感情は、他の誰かにも向けられるもので、自分だけが特別なんかじゃないってことに。それなのに、どうして今になって彼女の言動にこれほど振り回されてしまうのか。まるで中学生時代に戻ってしまったような自制心の無さに戦慄して、ひどく嫌悪した。

 

「八幡君はさ、休日は『自宅警備』ってあるけど、外には出ないの?」

「あ、はい。基本は家で本読んだりとか……」

「そっか。読書家さんなんだ。ならさ、この間、直木賞とった作家の新作は読んだ?」

「あ、あのミステリーものですよね。ちょっと伝記っぽいやつで……」

「そうそう。私はまだ半分ぐらいまでしか読めてないんだけどね。なんというかさ、主人公の生い立ちと現在との対比がちょっとずつ事件と絡んでいく様がドキドキさせられるというか」

「あ、分かります! しかも、最後には主人公が幼少の時に……」

 

 だからそんな気持ちを誤魔化すように、俺は不用意にも話題に挙がった本のネタバレをしそうになってしまい──

 

「わーっ! 私まだ半分までしか読んでないっていったでしょう! ネタバレは無しにしてよ、八幡君!!」

「んぐっ」

「あっ……」

 

 俺の口を塞ぐように添えられた彼女の掌と、口づけを交わすことになった。

 

「……っ」

「ス、スマン!」

 

 いっそ体中の血液が沸騰してしまったんじゃないかと錯覚するほどに、体が熱を帯びていく感覚に戸惑い、動揺する。たぶんきっと俺の顔は漫画やアニメのチョロインよろしく真っ赤に染まっているんじゃないだろうか。ふわふわと風船のように宙を浮いてどこかへ旅立ってしまいそうにる夢心地な意識とは対照的に、唇から伝わる彼女の掌の温もりだけがひどくリアルで、だからこそ彼女の手が俺の唇から離れようとしたとき、俺は咄嗟に彼女の手を掴んで縋ろうとしてしまった。

 

「……え?」

「あ、あれ?」

 

 ほんのりと頬を赤らめて戸惑う彼女と、無意識にとってしまった自分の行動に固まる俺。

 

 

『──ご歓談中、失礼します。時間となりましたので、参加者の皆様は一度会場から退出し、控室へご移動してください。用意が整い次第、フリートークタイムを開始させていただきます』

 

 

 そんな止まってしまった二人の時間を動かしたのは、無機質に会場へ響くスタッフからのアナウンスだった。

 

「……んんっ。ふむ。まあ、こんなものか」

「え、あ……はい」

「どうだね? 私の演技も捨てたものじゃないだろう」

「……そうっすね」

 

 演技と、そう言葉にしてはっきり言われて、いま俺が抱いているこの感情は安堵なのだろうか、それとも──

 

「言っておくが、好条件の男を前にすれば今の私以上の演技を平然とやってのけるのが女という生き物だ。そのこと、努々忘れるな」

「……っす」

 

 演技だと始めから分かっていた筈なのに、それでも惑わされた自分が何だかひどく情けなくて、平塚先生の言葉に項垂れるように相槌を打つことしかできなかった。

 そんな俺の様子が可笑しかったのか、先生は苦笑するように眉尻を下げると俺の頭を乱暴にわっしわっしと撫でつける。や、やめてよね! もし俺がヒロインだったらうっかり惚れちゃうんだからね! ……陥落早過ぎませんかねぇ、俺。ナデポ程度で堕とされるとか俺マジでチョロイン。

 

「さて、特別授業はここまでだ。後は自習にしてやるから、私の婚活テクニックを見て覚えたまえ」

「見て覚えろとか、あんた職人かよ」

 

 俺はフハハハと笑いながらポケットから煙草を取り出して咥える先生を眺めながら、本当にどうしてこの人結婚できないんだろうと黄昏れる。

 

「悩めよ、比企谷。君はまだ、いくらでもやり直せるんだから」

「……はい」

 

 平塚先生はそう言ってからからと辺り憚らずに笑い、そしてスタッフから喫煙を咎められて平謝りしていた。そんなんだから結婚できねぇんだよ、あんた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

『フリートークタイムは一時間となります。より親睦を深めたいと思う相手に積極的に話しかけていきましょう』

 

 

 そんなアナウンスを右から左へ聞き流して、俺は配られたドリンク片手に会場の隅で立ち竦む。

 会場ではあっちで如何にもITベンチャー企業の社長ですっといった風貌のそこそこ若いイケメンな男に説教臭い中年女性たちが群がり、そっちでは保育士二十代玉の輿希望といった雰囲気の若い女性にスカした中年男性がウザったく絡んでいた。

 俺はと言えば、そんな会場をなんともなしにボーっと眺めながら、手に持ったドリンクになんとなく口を付ける気にもなれず、背景に埋もれる様にただただ時間が過ぎるのを待っている。

 

「やあ、平塚さん。よければ少しお話しませんか?」

「ええ、よろこんで」

 

 ガヤガヤと騒がしい会場のBGMに紛れ込む様に、ふとそんな話し声が耳に届く。

 見れば、会場の中央付近で平塚先生に一人の男性が声を掛けるところだった。この会場内にいる男性陣の中では比較的若く、それでいて顔も整っており、尚且つ全身から醸し出される年収高いよオーラが、彼が今日一番の有望株であると教えてくれる。

 傍から見たらお似合いな美男美女の組み合わせに、俺は『平塚先生うまいことやったなぁ』とか『そこよ、静! そこでボディタッチするの!!』と適当に心の中でエールを送りつつ、二人のやり取りに耳を傾ける。

 

「……へえ、高校教師とは聞いてましたが、あの総武高校で教壇に立っていたんですか? 県下でも進学校として有名ですよね」

「ええ。と言っても、昨年に別な高校へ転任となってしまいましたけど」

「ああ……。確かに、公立校の先生となると数年単位で転任されますもんね。僕が高校生のときも部活の顧問が突然転任になって…あのときはひどく驚いたのをよく覚えてますよ。理不尽なっ! って……」

「それは、人気があった先生なんですね?」

「そりゃもう。なんというか、変わっているというか面白いというか、変な先生だったんですけどね。でも部活の仲間からはすごく慕われてて、僕も好きだったなぁ……」

 

 懐かしむように天井を仰ぎ見る男性と、それを優しく微笑み見守る平塚先生。そんな二人の会話を聞きながら、俺もふと在りし日の奉仕部を思い浮かべ、そしてあの日、唐突に終わりを告げた俺たち三人の居場所について想いを馳せた。

 今でも鮮明に覚えている。絶句して取り乱す雪ノ下と、泣いて縋る由比ヶ浜。そして、そんな二人を眺めながら、ただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった自分。そんな俺たち三人に、先生は心底申し訳なさそうに、ただただ無念そうに、それでも決定事項として奉仕部の廃部を告げたのだった。

 

「平塚さんが転任されたときはどうでした?」

「そう、ですね。私が顧問をしていた部活…と言っても部員も三人だけで、同好会みたいな小さな部活だったのですが、私の転任を機に廃部となってしまって……。今でも、彼と彼女たちには申し訳ない気持ちでいっぱいです」

「それは……」

「仕方のないことだと、最後には生徒たちも理解を示してくれました。けれど、やはり感情では納得してしなかったでしょう。大人の都合で彼らの居場所を壊してしまったのですから」

 

 そうだ。あの時の先生は、いつもの凛とした姿からは想像もできないほどに弱々しいものだった。思わず感情的になってしまった雪ノ下や由比ヶ浜の責めるような言葉に反論することもなく、甘んじてその言葉を受け止める先生の姿に、俺はどんな声を掛けたのだったか。きっと当たり障りのない言葉で雪ノ下たちを諌めて、けれど平塚先生のフォローをするでもなく、お茶を濁して場を掻き乱して、ただただ有耶無耶にしただけだったのではないだろうか。

 ああ、そうだ。俺はあのとき、そうなることを予期してしていた筈だったのだ。学校を訪れていた陽乃さんと職員室で邂逅したときに、その可能性を指摘されて、そう遠くない未来に訪れる終焉に思い至っていたのだから。それでもどこか楽観視していた。きっとどうにかなると、なんの脈絡もなく、なんの根拠もないのに、そうやって見ない振りして目を背けて、耳を塞いで口を閉ざしたのだ。そんな自分にどうしようもなく嫌忌して憎悪して、何もかもが面倒になって、そして俺は全てを放り投げて逃げ出した。

 

「在り来たりなことしか言えませんが、辛かったですね。その教え子さんたちも、そして平塚さんも」

「ええ……。けれど、私の教え子たちはそれでも立派に前へ進んでくれました。躓いて、這いつくばって、それでも少しずつ前へと進んでみせてくれた。そのことが、私は教師としてとても誇らしい」

「……なんだか、平塚さんの教え子さんたちが羨ましいですね。僕も高校生のときに、先生からそう言ってもらえるだけの青春を過ごしてみたかった」

 

 和やかに話す二人を他所に、俺は自問自答する。

 果たして今の俺は、本当に平塚先生が誇れるような生徒になれたのだろうか。卑屈に卑怯で陰湿な、そんな最低の俺が、彼女たちと同じように堂々と胸を張って並んで歩いてもいいのだろうか。

 ぐにゃりと、微かに視界が揺らめいた。どうしてか自分の立っている床が今にも崩れてしまいそうなハリボテのよう気がして、なんとも心許無く感じる。それはきっと自分の中で確固たる答えがないからで、やっぱり俺は、あの時から何も変わっていないのだと再認識する。確かに平塚先生の言う通り、前には進んでいるのだろう。けれど、俺は未だ自分の足で立ち上がれてはいないのだ。惨めに無様に這いつくばって、匍匐前進よろしくズリズリと、どうにかこうにか足掻いている。それが今の俺だ。

 

 そうやって俺が鬱々と自分を省みているときだった。

 

「……ほら見て。あそこ、またあの残念女きてるわよ」

「あー、見た目すごい美人なのにねぇ……。あのルックスでまだ結婚できないとか、もうその時点で地雷だよねぇ……」

 

 会場の隅から僅かに聞こえる……いや、違う。わざと聞こえるように囁かれた悪意の言葉。

 俺がキョロキョロと辺りを見渡せば、そこ彼処で婚活パーティに参加している女性たちが平塚先生のネガティブキャンペーンを展開している。これはあれだ。平塚先生といい感じなあの男の人を狙ってる女性たちが先生の足を引っ張ろうとしてるんだ。……リアルでバチ○ラーとか流石に引くわ。ああいうのってヤラセとか仕込みなんじゃないの? リアル女の戦いとか、ドロドロというかおどろおどろしいだけだと思うんですけど……。

 八幡ですが、会場内の空気が殺伐とし過ぎて最悪です。

 

「あ、わたし聞いたことある。あの人、前も婚活でイイ男ひっかけて、初デートの待ち合わせに外車で乗り付けたらしいよ」

「うわっ、そんなことされたら男の方は堪ったもんじゃないよねぇ。面目丸潰れじゃん」

「あれ? ラーメン二郎坊で大豚ダブル頼んだ挙句、ドヤ顔で天地返ししてドン引きされてたんじゃなかったっけ?」

「……なにそれ。女辞めてんの?」

 

 いやいや、いくら平塚先生だって結婚を意識してる相手にそんなことするはず…………どうして先生はそこで目線泳がせて額から滝のように汗ダラダラ流してるんですかねぇ……。ほら、さっきまでにこやかに会話してた男性も頬引き攣らせてるじゃん。違うんです! これはちょっとした手違いというか、先生は本当にいい人なんですよ!! ちょっと漢気がドバドバ溢れ出ちゃってるだけで、根っこは乙女なんです!! いろいろ拗らせちゃってるけど乙女には違いないんです!!

 

「友達から聞いたけど、『合コンクラッシャー』としても有名なんだって。酔っぱらって管を巻いた挙句、『グラスじゃまどろっこしい! 樽で持ってこーい!」とか暴れ出してお店から出禁になったとか噂あるしね」

「あたし、前に休日の真昼間から駅前でワンカップ片手にぶらついて、カップル相手に絡んでるあの人見たよ?」

「確かホストクラブでドンペリ開けてやるから婿になれとか迫ってたって話も聞いたことあるような……」

「……ねえ、近所の小学生にお菓子を貢いで、逆光源氏計画を企ててるって噂ホントかな?」

 

 も、もうやめたげてよぉ!

 瀕死ぃ! 先生もう瀕死だからぁ! それ以上はオーバーキルになっちゃうのぉぉぉ! だから死体蹴りするのは止めてあげてぇぇぇ!! 五百円あげるからぁぁぁ!!

 

「……あ、それじゃ僕は他の人とも話してきますね」

「え、あ…待って!?」

「アハハ、オハナシタノシカッタデスヨー」

 

 もうやめて下さい! 泣いてる先生だっているんですよ!!

 去っていく男性の背中を茫然と見送りながら肩を落として項垂れる先生の後ろ姿が哀愁漂い過ぎててヤバい。なにがヤバいって同情心から思わず先生を抱きしめて俺が貰ってあげたくなっちゃうくらいヤバい。誰かぁー! 誰でもいいから早く先生を貰ってあげてぇぇぇ(嗚咽)!!

 

「ぷっ……逃げられてやんの」

「どうせすぐボロが出て失敗するんだから、いい加減に結婚なんて諦めたらいいのにね?」

 

 俺が先生の将来に悲観しながらひっそり涙していると、先ほど先生の悪評を囁いていたグループのひとつから嘲るような笑い声が風に乗って俺の耳まで運ばれてくる。

 

「あー、笑った。いい気味だわ」

「ほんとほんと。あの人が婚活に参加する度にあたらしら迷惑被ってんだから、本当に勘弁してほしいわよね」

「それね。それあるわー」

「それよりも、あんなのが高校教師って千葉県大丈夫なの? 絶対生徒に手とかだしてそうなんだけど」

「うわっ、確かにやってそうだわ! どうする? 教育委員会とかに通報しておこうかしら?」

「そうねー。将来、あたしたちが結婚した時に子どもが通う学校にあんな教師がいたら嫌だものねー」

 

 ニヤニヤと嘲笑を浮かべる女性たちを眺めながら、俺は母ちゃんや平塚先生から忠告された内容を反芻する。

 確かに、女の戦いとは実に恐ろしきものだと実感することができた。所詮この世は弱肉強食、強ければ結婚し、弱ければ未婚のまま。だから彼女たちのように他人の足を引っ張るのだって立派な戦略だし、むしろ簡単に足を引っ張られてしまう平塚先生にも問題があるのだろう。

 

「転任になったとか言ってたけど、本当は不祥事で飛ばされたとかじゃないかしら?」

「あんな教師に教わる生徒も可哀相よね。碌な大人にならないわよ」

「っ……」

 

 どうも、碌でもない教え子代表の俺です。

 まあ自覚はしてるのでその評価は甘んじて受けますよ。事実だし。ただ、俺以外の教え子は割かしマトモ……まと…も? なんだか若干不安になってきちゃったけど、それでも俺なんかとは比べ物にならないほどに、先生の教え子だと胸を張って誇れる、そんな奴らばかりだ。

 

「あー、手が滑ったー」

 

 だから平塚先生、その殺気は仕舞ってください。振り上げた拳も下ろして。そんなんだから出禁とか喰らうんだよ、アンタ。ちょっとは慎めよ。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

「スミマセン。コップを落としてしまって……」

 

 俺が落としたコップが重力に従い床と激しくぶつかり、盛大な音を立てながら砕け散る。コップに入っていた烏龍茶とガラスの破片が辺りに飛び散り、会場の床に茶色い染みをじわじわと広げてゆく。思わず『砕けろ、鏡花水月』とか言いたくなる衝動を堪えながら、音に気がついて駆けつけてきたスタッフさんにペコペコと頭を下げる。いや、コップ割っちゃったのは本当にごめんなさい。弁償はしないけど。マジ反省してます。

 

「お怪我はありませんか?」

「ええ、大丈夫です。幸い、ズボンの裾が少し濡れた程度だったので」

「そうですか。いま、代わりの飲み物を……」

「あ、いえ。自分で取りに行きますよ。いやーもう、なんていうか……会場内の結婚できない女どもの陰湿な空気が息苦しくて、思わず手が震えてコップを落としちゃいました」

 

 瞬間、スタッフさんも会場内の参加者も、もちろん平塚先生も含めてビシリと音を立てたように固まった。

 

「え、あの……?」

「それにしても、歳を重ねても結婚できない女性の執念って恐ろしいですよねー。ドロドロした女の戦いって言うんですか? ぶっちゃけドン引きっすよね」

「は、はあ!? このガキ! あんた喧嘩売ってんの!?」

 

 よっし、一匹釣れた。フィィィィイッシュ! ……あ、よく見たらこの人あれじゃん。今日、俺に説教垂れた五人目の人だ。まあ、どうでもいいか。

 ふふふ……、人をイラつかせる仕草や態度や物言いは誰よりも心得ていると自負する俺である。ここは煽る。圧倒的に煽る。倍プッシュだ……!

 

「え? 別に俺はアンタのことだなんて一言も言ってないんすけど……。あれっすか、自分だって思い当たる節でもあったんすか?」

「……っ! ちょっと! なんでこんな奴がここにいんのよ!! 明らかに冷やかしじゃない、追い出しなさいよ!! 私たちは真剣に婚活してんのよっ!?」

 

 そうだよな。真剣だよな。だから結婚するためならどんなに金がかかっても自分磨きに余念がないし、ライバルがいればどんな手を使ってでも蹴落としにかかる。その姿勢と貪欲さは称賛に値するし、自他ともに認める捻くれ者の俺だって素直に敬意を表するレベル。

 だからこそ、俺も本気で応えてやるよ。

 

「ほーん、真剣だったんすか? いや、てっきりアンタら冷やかしで来てるもんだとばっかり……」

「ど、どういう意味よ?」

 

 ほら、よく言うだろ? 『人を呪わば穴二つ』『撃ってもいいのは、撃たれる覚悟がある奴だけだ』って。これも同じだよ。

 アンタら、他人の足を引っ張るなら自分も一緒に最底辺まで引き摺り下ろされる覚悟はいいか? 俺はできてる。

 

「だってアピールしたい異性がすぐ傍に居んのに、他の参加者の陰口叩いてせせら笑ってるとか、男からしたらガッカリどころか百年の恋も冷めるレベルっすよ」

「なっ!?」

「だからてっきり、この人たちは婚活じゃなくて、真剣に婚活してる人たちを嘲笑うために参加してんのかなぁって……ねえ?」

「そ、そんなこと……」

 

 俺の矢面に立たされた女性は咄嗟に反論しようとするも、しかし言葉は途中で尻つぼみになり、やがて俯き口を閉ざしてしまう。

 そんな彼女を尻目に、俺はニヤリと笑いながら会場をゆっくりと睥睨し、他の参加者たちへも視線を巡らせた。さて、いま何人の参加者たちが俺から目を逸らしたでしょう?

 

 なんだかもう本当にさっきまでワイワイガヤガヤと婚活パーティが賑やかに行われていたのかと疑いたくなるほどに、今この会場の空気はひどく重苦しいものとなってしまった。それに会場のあちらこちらから向けられる『もうその辺にしておけよ』『空気読めって』という名の無言のプレッシャーが俺に圧し掛かってくるが、スマンね、もうちょっとだけ続くんじゃ。

 

「だいたい、三十八歳にもなって家事手伝いって、ようはアンタ無職っすよね?」

「う、うるさいっ!!」

「どうして今まで結婚しなかったんすか? そこそこ綺麗なんだから高望みしなきゃ幾らでも結婚するチャンスなんてあったでしょ? あ、そもそもその年齢で職業『家事手伝い』って時点で地雷が──」

「……そこまでだ」

 

 俺がトドメとばかりに三十八歳@家事手伝いさんを貶めようとしたところで、それまで固まっていた平塚先生が俺と女性の間に割って入った。

 その表情は苦虫でも噛み潰したかのように顰められ、眉間にはこれでもかと皺が寄っている。どうしたんですか、平塚先生。加齢で皺寄っちゃいました? ……ヒェ!? ちょ、だからなんで俺のモノローグに殺気向けられるのこの人!? 

 だがまあ、これで収拾はつくだろう。先生の苦々しい表情から俺のやりたいことは察せられてるみたいだし。あとは先生に任せればいいだろう。

 

「なんすか? アンタだってその人に色々言われて腹立ってんでしょ? 何で止めるんすか?」

「黙れ小僧っ!」

 

 ……おい。どうしてそこで山犬チョイスした。

 

「お前にこの女の不幸が癒せるのか? 若いときにモテたのを勘違いして、高身長・高学歴・高収入にこだわって妥協しないままアラフォーになってしまったのがこの女だ! 結婚もできず、独身を貫くほどのキャリアウーマンにもなりきれぬ、哀れで醜い、この会場にいる女たちの末路だ! お前に三十路過ぎの独身女を救えるか!?」

 

 ええー……。ちょっとなんでこの人泣いちゃってるの? あと会場内の至る所からすすり泣く声が聴こえてくるんですけど。あ、先生に庇われた女の人が膝から泣き崩れた。

 まあそれはともかくとして、さっきから先生の右手に黒くて禍々しいオーラみたいのが集まってるのは気のせいですか? なんかタタリ神を殺して呪われちゃった主人公みたいになってますけど。……あれ? これもしかしてこのまま殴られるパターン? 大丈夫だよね? 映画みたいに弓矢で敵を首ちょんぱしちゃうような超人的な膂力とかないよね? ……ヤヴァイ、これ。ちょ、顔をやばいよ! ボディにしな!?

 

「……私たちに寄り添い、共に生きる覚悟もない奴は、ここから出ていけぇーっ! 抹殺のぉ……ラストブリットォォォ!」

 

 なぜ…途中で……ユニコーン混ぜたし…………ぐふっ。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 あの後、婚活パーティから追い出されて仲良く出禁を喰らった俺と平塚先生は、先生の車で場所を移すことになった。

 というか、先生まで出禁にさせてしまった後ろ暗さからさっさと帰ろうとした俺の襟首を掴み、ちょっと顔貸せとばかりに強制的に連行されたのだ。……なんか前にもこうやって拉致られたな。最近こんなんばっかり。

 道中の車の中は無言、無言、無言のオンパレード。マジ空気重い。やだこれ先生もしかしてご立腹!? ……まあ、元教え子に自分の婚活邪魔されたとあってはそりゃ怒るか。

 

「……着いたぞ、比企谷。降りたまえ」

「うっす。……あ」

 

 車に乗っている間は気まずい空気から逃れる様に、ずっと下ばかりを見ていたから気がつかなかった。けれど、先生に促されて車を降りてみて、ここが何処だかすぐに思い至る。

 

 『美浜大橋』

 

 かつて、クリスマスイベントの依頼で俺が思考の袋小路に陥っていた時に平塚先生が連れてきてくれた場所。

 図らずも、時刻もあのときと同じような時間帯で、橋から海浜幕張方面に映る夜景も変わらない。

 

「なあ、比企谷」

「……はい」

 

 風に乗って鼻についた煙草の匂いに、懐かしさが込み上げる。あの時も、先生はこうやってかっこつけていた。それが実に様になっていて、男としては少しばかり悔しくもあり、無性に憧れた。

 

「……君はあれだな。まるで成長していないな」

「なんすかそれ。基礎を疎かにしたままアメリカにバスケ留学でもしに行けばいいっすか? ついでにヒゲも生やします?」

「くくっ……。死亡フラグを建てるのはやめたまえ」

 

 先生は僅かに笑うと、戒める様に俺の頭を軽く小突いた。

 

「比企谷」

「……はい」

「ありがとう。そして、すまなかった」

 

 それは、何に対してのお礼なのだろうか。そして、何に対しての謝罪だったのだろう。

 あれこれと答えは思い浮かぶけれど、何となく気恥ずかしくて、俺は誤魔化すように少しおどけてみせる。

 

「俺は別に褒められるようなことは何もしてないっすよ」

「当然だ。君のやったことは到底褒められたもんじゃない。今も昔も、な」

「……そっすね」

 

 呆れたような先生の言葉に、俺は苦笑で返した。

 先生が燻らせる煙草の煙だけが、二人の間でゆらゆらと揺らめいて、それはまるで距離感を図りかねている俺と先生の在りようを表しているようにも思えた。

 

「あれから雪ノ下や由比ヶ浜とは?」

「……この間、会いましたよ。と言っても卒業から二カ月近く経ってた上に、材木座絡みの依頼で他に一色とか雪ノ下さんとか、あと戸塚や葉山たちも一緒でしたけど」

「それはまた……あの二人、怒っていただろ?」

「ええ、怒られました」

「一年近く心配かけたんだ。その位は甘んじて受けたまえ」

「……うっす」

 

 諭すような先生の声音に、俺は素直に頷く。

 雪ノ下や由比ヶ浜だけじゃない。きっと俺は色々な人に心配をかけたのだろう。そして、それは今も続いている。

 もし中学生や高校一年生のときの俺が、今の俺を見たらなんと言うだろう。弱くなったと、そう嘲るのだろうか。騙されていると、そう憤るのだろうか。それとも……羨ましいと、そう妬むのだろうか。

 

「私は、君や彼女たちが一番辛いときに、その傍に居てやることができなかった。いや、むしろ君たちが苦しむきっかけを作ってしまったとすら言えるだろう」

「……」

「だが君は…君たちは、私なんかが居なくても、きちんとその苦境を乗り越えてみせた。……多少、時間はかかったかもしれんがね」

「……え?」

 

 そう言って一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべた平塚先生は、けれど次の瞬間には柔らかく微笑んで、そっと俺の頭を抱き寄せた。ぽすりと、間抜けな音を立てながら俺の頭が先生の胸元に抱かれて、その柔らかい感触に頭がパニックを起こして真っ白になる。

 

「……比企谷」

「ちょ、先生!? なにやって……」

「確かに君は躓いたのかもしれない。けれど、こうしてきちんと前に進んでいるんだ。たとえ独りで立ち上がれなかったのだとしても、そんなこと気にするな。それよりも君が立ち止まってしまったとき、傍で支えてくれる人がいたことを誇るべきだ」

「……先生」

 

 そっと包み込むような先生の優しい声に、気付けばほろほろと涙が止め処なく溢れては、先生の胸元へと染み込んで消えてゆく。

 

 

「胸を張りたまえ、比企谷。たとえ誰がなんと言おうと、君は私の自慢の教え子だよ」

 

 

 平塚先生のその言葉が耳に届いたとき、俺の涙腺は崩壊した。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 改めて今日一日を振り返ってみると、平塚先生と再会してからの情緒不安定っぷりはなかなかのものだったのではないだろうか。

 

「……すんませんでした」

「なに、気にするな」

 

 もしかしたら、俺は怖かったのかもしれない。全部投げ捨てて、逃げ出してしまった俺のことを先生がどう思っているのか。それを知るのが嫌だったのだろう。

 この人に失望されることを恐れて、見限られることに怯えて、そんなことはないと強がって……。

 

「……やっぱ先生、かっこいいっすね」

「かっこつけてるからな」

 

 あのときと同じようなやり取りに、お互いにクククッと小さく笑い合う。

 そうすると、徐に腕時計を覗きこんで時間を確認した平塚先生が顎を使って車のドアを指し示す。

 

「……さて、もういい時間だ。どうだ? 久しぶりにラーメンでも食べにいくか?」

「いいっすね。俺は別に気にしないんで、存分に天地返ししてドヤ顔してください」

「それは忘れろ」

 

 殺気交じりの物騒な低音ボイスに、俺は思わず「ヒャイッ!?」とか情けない返事をして助手席へと回ろうとする。

 その間際、ふと空を見上げた。

 あのときは雲に隠れて見えなくなっていた月が、今日はそっと夜空に佇んでいて、それはまるで俺と先生の再会を静かに見守ってくれているような気がした。

 

「どうした比企谷、空なんて見上げて……女の子でも落ちてきたかね?」

「……いえ、残念ながら。……それより肉団子は二つでいいっすか? 二番のバルブはしめときます、親方?」

「誰が親方だ。……四〇秒以内に乗らないと置いていくぞ」

 

 楽し気に笑う彼女に促されて、俺も車に乗り込み、数年ぶりに一緒に食べる先生とのラーメンの味に思いを馳せる。そのとき、ふと窓から見えた月に、俺は祈るように願いを込めた。

 

 

 願わくば、先生が幸せな結婚ができますように、と……。

 

 

 これは、そんな俺と平塚先生のある日の物語。

 



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ある日の文化祭行進曲

 ”高校最後の~”という言葉は一種の魔法の言葉だ。その一言が添えられるだけで愚かで憐れな学生たちは勝手に盛り上がり、普段はかったるいと嫌々やっているような学校行事にも積極的に取り組む様になる。

 ”高校最後の体育祭”は何がなんでも優勝しようとするし、”高校最後の期末テスト”となれば最後ぐらい良い成績を取りたいと必死に勉強し、”高校最後のマラソン大会”なんてラスト一〇〇メートルで本気ダッシュしたくなっちゃうレベル。

 

 そして、ここにもまた一人、”高校最後の~”に憑りつかれた一人の学生がいた。

 

 

「なにボーっとしてるんですか、先輩! その備品申請の書類整理が終わったら、その後は各部活への予算配分調整が残ってるんですからね! キビキビ働いてください!!」

 

 

 ”高校最後の文化祭”に闘志を燃やし、『大学生ってとりあえず暇の代名詞ですよね』の一言で俺を呼び出し、馬車馬の如く働かせようとするあざとい後輩。

 正直言って断りたかった。しかし、こちらは以前にデブ絡みの依頼で借りがあるのも事実。だから仕方なく『書類整理だけでも手伝ってください』という言葉に踊らされて、やれやれとどこぞのラノベ主人公よろしく肩を竦めて溜息を吐きつつ呼び出しに応じたのである。応じてしまったのである。

 

 

「お兄ちゃん! いつまで書類整理なんてやってるのさ!! それ早く終わらせて、資材運搬の方も手伝ってよ!!」

 

 

 そんな俺を待ち構えていたのは『立っている者は兄でも使え! なんなら座ってるときでも使い倒せ!!』が持論であらせられるマイシスター。

 一年生のときから生徒会へ入会した我が妹は、今ではすっかり生徒会長の右腕的な存在となっている……らしい。とにもかくにも、ちょっとした書類整理を手伝うつもりで来てみれば、あれよあれよという間に俺は文化祭実行委員会オブザーバー兼委員長補佐兼特命雑用係に任じられることと相成った。

 

 

「先輩、早くしてください!」

「お兄ちゃん、早くして!」

 

「うわぁーん! もう仕事なんてしたくない!! ハチマン、おうちに帰るぅぅぅ!!!」

 

 

 これは、大学生になった俺と後輩と妹のある日の物語。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 書類整理という名の手書き暗号文の解読を終わらせ、資材運搬という名の賦役をこなし、その他もろもろの雑用を片付けた俺は生徒会室で机に上半身を投げ出して突っ伏していた。

 

「……イヤだ。もう働きたくない。仕事なんてしたくない。手書きの申請書なんて滅べばいいのに……。申請事由を丸文字で書くなよ。顔文字とハートマークで空欄埋めるのも止めて。なんで備品申請以外の申請事項をついでに記入してくるの? バカなの? 死ぬの!?」

「先輩、うるさいです」

「お兄ちゃん、うっさい」

「……ふぁい」

 

 ふぇぇ…この後輩たち年上に容赦ないよぅ……。

 

「ほら、項垂れるのもそのくらいにして帰る準備してくださいよ。もう最終下校時刻過ぎてるんですから」

「お兄ちゃん、ハリーハリー!」

「……理不尽すぎる」

 

 『生徒会室』と印字されたキープレートを掴み、一色がブンブンブブブンと威嚇するように鍵を振り回して俺に退室を促した。それに同調するように、俺の荷物が入ったカバンを肩にかけた妹も俺が座る椅子をガタガタガッタンと揺らして席を立たせようとする。

 俺は渋々といった体でのっそり椅子から立ち上がると、緩慢な動作で生徒会室を後にした。背後でカチリと鍵がかけられる音を聞きながら、蛍光灯に照らされながらもぼんやりと薄暗く延びる廊下へなんともなしに目を向ける。大学の講義棟とはまた違う、どこか仄暗い独特の雰囲気を内包した廊下は本来なら懐かしいはずなのに、ここ数日の残業のせいでそんなノスタルジックな気持ちもすっかり萎えてしまった。

 

「……先輩、なーに黄昏てるんですか?」

 

 そう言いながら一色が左手で俺の右腕の袖をちょこんと摘まみ、そっと隣に並び立つ。ちらりとそちらに目線だけを向けてみれば、生徒会室の鍵を右手の掌で器用に弄りながら、ニヤニヤとからかうような表情を浮かべてジッとこちらを見据えてる。

 静かに交差する視線のなかで、少しだけ、一色の瞳が不安で揺れたような気がした。

 

「なーに妹の前でイチャついてるかな、このごみいちゃんは……」

 

 そんな俺と一色の睨めっこを止めたのは不機嫌なことを隠しもせず、苛立たし気に放たれた妹の言葉。

 小町はすっと俺の左側に回り込むと手を取り、せっせかさかさか歩き出してしまう。それに引っ張られるように、俺と一色もとっとことことこ後に続く。

 

「ちょ、おい小町! 歩きにくいから手を放せって」

「……それ、いろはさんには言わないんだ」

「あ? ああ……。放せよ、一色」

「えー? わたしは別に小町ちゃんみたいに先輩と手なんて繋いでませんよ?」

「いや、だから袖から手を放せってことで……」

「いーじゃないですかー別にー。それにほら、こうして歩いてるとなんだか肝試ししてるみたいな雰囲気を味わえてお得じゃありません?」

「……お前が薄暗い廊下程度で怖がるとは思えんのだが。なんか肝座ってそうだし」

「先輩は年頃の乙女を何だと思ってるんですかねぇ……」

 

 俺はヒクヒクと口角を引き攣らせる一色から目を逸らすように首を反対方向へと向けると、こちらを凍てつかせるような冷たい眼差しの妹と目が合った。やだこの妹、実の兄に対して視線で射殺さんばかりの勢いで俺を睨みつけてる。……危なかった。雪ノ下で耐性ができてなかったら別な世界の扉を開いてたかもしれない。An○therなら死んでた。

 

「……さっさと帰るか」

「……うん」

 

 ここ数日、俺が一色の手伝いとして総武高校を訪れるようになってから、妹はこのように不機嫌モードとなることがある。別に生理とかではない。一度、冗談のつもりでそう聞いてガチ目な軽蔑の眼差しを向けられた俺が言うんだから間違いない。……あの時は死を覚悟した。

 原因は何となく察している。というか、他に思い当たる節が無い。今も俺の右隣りで俺と妹の様子を興味深そうにしげしげと観察している一色だろう。どうしてか、俺と一色が二人で一緒にいると小町の機嫌はすこぶる悪くなる。別に小町と一色の仲が悪いという訳ではないのだ。むしろ仲は良い方だろうし、家でも一色に対する愚痴や悪口なんて聞いたこともない。

 ではなぜ不機嫌になるのかと言えば、その理由はてんで不明ときている。小町本人に聞いてみても『別に……』と某エリカ様みたいな返事が戻ってくるばかりで埒が明かない。一色に聞いてみてもへーへーほーと頷いて苦笑するだけだった。

 

「……愛されてますねぇ、先輩」

 

 ぽつりと零すような一色の呟き。それが聞こえたのだろう。心なしか不機嫌さを増した小町の歩幅が大きくなり、歩く速度もそれに合わせて速くなった。俺は『これ以上、妹の機嫌を損ねてやるな』という意味を込めて一色を睨みつけるが、彼女は何を思ったのかバチコンと片目を瞑り、ウィンクをかましてくる始末。……違う、そうじゃない。

 

 結局、昇降口で別れるまでの間、小町も一色も俺の腕から手を放すことは無かった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 今日も今日とて総武高校へとやってきた俺は、『先輩のためにとっておきました!』と満面の笑みで告げられた書類の山を前に、死んだ魚のような目で項垂れていた。……あ、目は元々だったわ。

 

「それが終わったら、外部参加団体の募集案内の素案と、近隣の小中学校へのポスター手配ですからね。あ、あと周辺の小売店とかにもビラとか配った方が良いですよね!」

「……やるのは勝手だが俺を巻き込むな」

「え? なんだって?」

「鈍感系ヒロインとか今日日流行らねぇよ……」

「……なんですかそれ。もしかして遠まわしに先輩にとってのヒロインはわたしだって言いたいんですか。残念ですけど今はまだお互いドタバタしてるので来年わたしが先輩の大学に合格したときにでも出直してきてください。ごめんなさい」

「そこっ! 仕事中にイチャイチャしてないで、さっさと手を動かーす!!」

 

 いつかのような一色お得意の高速お断り術をさくっと聞き流し、小町から飛んでくるクレームには聞こえなかったフリをしてやり過ごす。何人か傍にいた文実メンバーがこちらに困ったような、呆れたような眼差しを向けてくるが、そちらには何となく申し訳なくなったのでうちの後輩と妹がスミマセンとばかりにペコリと会釈だけ返しておいた。……俺と目が合っただけでビクッと身構えるのはなんでなんですかねぇ。

 

 その後もやってくる書類をせっせとノートパソコンを使って電子化しては処理済みの箱へ追いやり、舞い込んでくる部活間の場所取りトラブルを職員室で暇していた顧問共へと押し付け、競うように新たな仕事を持ってきた一色と小町に白目を剥いた。

 

「……つーか、やることが多すぎなんだよ」

 

 俺はそう愚痴を零しつつ、マウスをスッとしてカチッとさせて使っていたノートPCをシャットダウンさせた。起動していたOSが役目を終えたことで光を失ったディスプレイには、連日の過重労働に辟易とした表情を浮かべる俺の顔がぼんやりと写り出される。

 既に文化祭実行委員の奴らも全員帰宅し、今はもう俺と一色、小町しか教室には残っていない。

 

「まあ、そうなんですけどねぇ……」

 

 俺の愚痴に苦笑いを浮かべて、一色が力なく応えた。

 俺の手を借りる程に一色や小町がてんてこ舞いになっている原因は主に二つある。その一つが仕事量の多さだ。俺が二年生のときに参加した文化祭も仕事量では中々のものだったが、それは途中で遅れた分をキャッチアップするためにデスマーチとなったに過ぎない。だが、今回は違う。単純に仕事量に対してマンパワーが足りていないのだ。

 それはなぜか? 一色があれもこれもとアイデアを取り込んだ結果、例年に比べて今年の文化祭は数倍の規模に膨れ上がってしまったからだ。いつぞやのクリスマスイベントと状況が似ているが、あっちが机上の空論で終始していたのと違い、こっちは現実的に実現可能な範囲に落とし込み、実際に計画へと組み込んでしまっているから性質が悪い。

 

「そもそもが、だ」

 

 しかし、それだけならまだどうにかなったかもしれない。仕事量は多いが、きちんとタスク化されて文実の間で分担されているし、計画自体もよく練られている。だからこそ、もう一つの原因がトドメを刺したと言えるだろう。

 

「どうして生徒会長が文化祭実行委員長を兼任してるんだよ。しかも、文実の委員長は例年二年生から選ばれるのが暗黙の了解なんじゃねえの?」

 

 これが決定打だった。

 本来、文化祭実行委員会にとって生徒会とは別組織の存在だ。その位置づけは権力や金銭の監査であり、烏合の衆として集められた文化祭実行委員たちのフォローでもある。文化祭実行委員といっても俺のときのように立候補ではなく、仕方なくやらされている生徒も多いのだ。そんなやる気のない相手に、ぽっと出の実行委員長なんかが制御などできるはずもない。ノリと勢いだけで委員長となった相模は兎も角として、あの雪ノ下ですら完全には御しきれず、結局は崩壊一歩手前まで追い込まれたのだ。もしあのとき、城廻先輩を筆頭とした生徒会のフォローが無かったら、きっともっと早い段階で文実は空中分解していただろう。

 つまり、いざという時の後詰という役割を担っている筈の生徒会が、一色が実行委員長へと就任してしまったが為に強制的に主力となってしまっている現状。もはや余剰戦力なんてものはなく、しかも通常の生徒会業務も同時並行でこなす必要もあり、更には例年以上の仕事量となったことで文実と生徒会は完全にキャパオーバーへと陥ってしまっていた。

 

「……別にそんなルールは明文化されてないですし? それにほら、生徒会長と文実委員長を同時にやった人なんていないらしいじゃないですかー。あのはるさん先輩だって成し遂げていない偉業ですよ?」

「成し遂げる前に破綻しそうだけどな」

「そこで先輩の出番ってわけですよ」

「ドヤ顔すんな。ぶっとばすぞ」

 

 ふふーんと鼻を鳴らしながらドヤる一色を睨みつけながら、俺は開きっぱなしになっていたノートPCを閉じると席を立つ。俺の行動を察したらしい一色が慌てて帰宅の準備に取り掛かるが、俺は待ってなんてやらない。スタスタと教室の出口まで歩いて行って、何故か準備万端で待機していた小町と一緒に廊下へ出た。背後から聞こえてくる『待ってくださいよー!』なんて叫び声を右から左へ聞き流して、俺は今日も小町に手を引かれながら廊下を進んでゆく。

 ふと窓の外を見れば、空に広がるキャンパスは鮮やかな青色から橙色を通り越して、既に群青色へと移り変わろうとしていた。俺は文化祭本番までにこなさなくてはならない残りの仕事量に鬱々とした気分となり、遠くで輝きを放ち始めた星々を眺めながら、溜息を吐く。……いま、確実に三年分くらいの俺の幸福が逃げて行った気がする。

 

「……ねえ、お兄ちゃん」

「あ? どした小町?」

 

 不意にそれまで黙って歩いていた小町が繋いでいた手を僅かに引いて、囁くように俺を呼んだ。小町は足を止めることなく、こちらに顔を向けるでもなし、ただ少し思い詰めたような表情で前を向いたまま、ゆっくりと薄暗くなった廊下を歩いてゆく。

 

「いろはさんのこと、助けてあげてね」

「……は?」

 

 言われた言葉に疑問符を浮かべた俺に、しかしそれ以上は話すつもりがないのか、妹は沈黙したまま歩き続ける。

 

「なあ、小町。それってどういう──」

 

 小町へ言葉の真意を問おうと口を開きかけたとき、後ろから迫ってきたパタパタという足音がそれを遮った。

 

「せんぱーい! 待ってくださいって言ったじゃないですかーっ!!」

 

 追いつくなりバシバシと俺の背中を叩きまくる一色の手前、先ほど小町がお願いした言葉を問う気にはなれなかった。あとで家に帰ってから聞こうかとも考えたが、小町から発せられる聞くなオーラを鑑みるに、たぶん教えてくれないんだろうなと諦める。

 

「あ、そうだ先輩。疲れたんで途中まで自転車の後ろ乗せてってくださいよ」

「……悪いが、俺の後ろは小町専用だ」

「でたシスコン……。小町ちゃん!」

「……悪いですけど、お兄ちゃんの後部座席は小町の指定席なので」

「でたブラコン……。なんなのこの兄妹。仲良過ぎじゃない?」

 

 ブツクサと止め処なく文句を垂れ流す一色を適当にあしらいながら、もはや恒例となってしまった騒がしい三人での帰路に小さく息を吐いた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 いよいよ間近に迫った本番へラストスパートをかけるべく、気勢を上げる一色たち文実スタッフや生徒会に冷や水を浴びせるような問題が発生したのは、文化祭まで残り二週間を切ったある日のことだった。

 

「……という訳で、一部の先生方からプログラムの見直しを求められているのが今の状況です」

 

 文実の作業部屋として割り当てられていた特別教室に急遽集められた文実スタッフと生徒会メンバー。そして文実担当を押し付けられた若い教員とオブザーバーとして参加させられていた俺。今年の文化祭関係者が一堂に会したこの場で、教師陣との折衝役として話を聞いてきた生徒会側、その代表として副会長である小町が現状を簡潔に告げる。

 心なしか説明している小町が若干憔悴しているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。中学生時代から生徒会に所属していた小町だ。こういう突発事態にも遭遇したことだってあった筈なのに、それでもここまで動揺しているということは、それほど寝耳に水のことだったに違いない。

 

「そ、そんなぁ」

「今更そんなこと言われたって……」

「なんで今になってそんなこと言い出すんだよ。どうなってんすか、先生!?」

「ご、ごめんなさい。私も今日突然言われて……」

 

 それはもちろん、説明を聞かされた彼らも同様で、ざわざわと動揺がさざ波のように教室全体へと広がってゆき、一部の生徒が文実担当の教師に詰め寄っていた。

 彼らの困惑や憤りも尤もだろう。各クラスや部活連中の企画とは別に、文実が主体となって行う全体プログラム。それは云わば総武高校としての文化祭における顔であり、今回の文実スタッフたちが最も苦労を強いられ、そして情熱を傾けてきた部分でもある。そこに待ったがかかったのだ。当然、納得できるものではない。

 

「だって全体プログラムは素案の段階から教師向けに説明会だってやったし、俺ら計画書にもきちんと記載したんですよ! 先生方だって承認してるじゃないですか!?」

「それは、そうなんだけど……。でもやっぱりダメだって言われちゃったし…」

「それだったら、せめてもっと早く言ってくれれば……。なんで今になって…言うんですかぁ……。あたしたちが全プロのためにどれだけ頑張ってきたか、先生だって見てたじゃん。なにこれ、全部ムダだったってこと?」

 

 途中参加の部外者である俺から見ても、彼らは今日まで必死になって文化祭開催のためにタスクをこなしてきたと思う。二年前のように途中でダレるようなこともなく、誰もが己に任された役割を全うしようと全力で取り組んでいた。これがもし、文実側の不手際が原因だとかだったらまだ納得できたかもしれない。けれど、事前に調整し、然るべき手順を踏んで、関係各位の承認も得たうえで、教師側が一方的にちゃぶ台をひっくり返したとなれば、彼らも憤懣やるかたない思いであると言える。

 

「あ、あのね! なにも先生たちだって、みんなに嫌がらせがしたくてこんなこと言ってる訳じゃないと思うの」

 

 それまで責められる一方だった文実担当の若手教師が、興奮する生徒たちを諭すように、声を張り上げる。

 

「残りの日にちと作業量を鑑みて、これ以上のオーバーワークはあなた達の健康を害する恐れがあるっていう判断なの。それに、一部の保護者からも生徒の仕事量についてクレームがきてるって話だし、公立の学校でそこまで大規模な文化祭を開くこと自体がそもそもどうなのかって話もあって……」

 

 なんとか生徒たちを諌めたかったのだろう。必死になってフォローする若い教員だったが……その情報って生徒に教えてもいいものなの? オフレコなんじゃね? と思わなくもない。

 案の定、『大きなお世話だ!』『なら先生達だって手伝ってよ!?』『誰の保護者だよ、そんなクレーム入れた奴!!』と教室内は紛糾してしまっている。事件は会議室で起きてるんじゃない。特別教室で起きてます。

 

 そんな喧騒に包まれる教室内を睥睨し、俺は考えをまとめるために瞳を閉じた。

 きっとここが、この文化祭の分水嶺となるのだろう。だから俺は改めて今ある問題点を整理すべく思考を巡らし、この先の展開について思案する。

 あの文実担当の教師が言うように、全体プログラムに待ったをかけた先生たちも悪意で言っているわけではない。果てしなく空気が読めていないが、教師という立場上、それでも言わざるを得ないのだろう。ならば提言を受け入れて、規模を縮小させるのか? ……生徒の健康と文化祭の成功を考えるなら、それが妥当だろう。計画変更による多少の混乱はあるだろうが、それだって大幅な変更を加えるわけではないのだ。元来あった計画を縮小させるだけとなれば、着地点さえ決めてしまえば今からでも十分対応可能と思われる。そう考えると、教師連中が今このタイミングでストップをかけたのにも納得がいく。今より前だと『まだどうにかなる』と生徒たちは反発するだろうし、もっと後なら今度はスケジュール的にリカバリーする余裕が無くなってしまう。

 逆にこのまま計画通りに推し進めた場合だが、こちらはもう博打だ。もし進捗がオンスケなら問題なかったかもしれないが、現状はやや遅延が出ている状況。最悪、中途半端なまま文化祭当日を迎えかねない。そうなるくらいなら、多少の不満は呑みこんで、妥協点を探った方が建設的と言える。

 そうして俺がある程度自分の考えをまとめ終えたところで、聞き慣れた妹の声が耳に届いた。

 

「……はいはーい! みんなの気持ちは分かるけど、とりあえず今はこれからどうするか決めないとなので、一旦落ち着いてくださーい!!」

 

 もうお前の指示なんて聞けるかとばかりに再び先生へ詰め寄ろうとしていた文実スタッフたちに向かって、小町が制止の声を上げる。おそらく最初に話を聞かされていた分、多少は冷静さを取り戻したのだろう。パンパンと大きく手を叩き、場を仕切り直す。

 その姿に我に返っただろう騒いでいた生徒たちも徐々に静かになっていき、やがて全員が自分の席へと腰を下ろした。

 

「これからどうするかって……」

「どうするの?」

「え? 見直すんじゃないの?」

「いやいや、今からじゃ無理だろ」

 

 小町のおかげで幾分か他の生徒たちも落ち着き、これからについて頭を巡らせ始めた。

 その様子を睥睨していた小町が、ふと俺に視線を向けた。一瞬だけ交差した目線。小町は一つ頷くと改めて議題を提議する。

 

「えっとですねー。文化祭実行委員の皆さんには方針を決めてほしいのです。先生方の要求通りに全体プログラムの規模を縮小するか。……それとも、このまま押し通すか」

 

 小町の言葉に、しんと静まり返る文化祭実行委員のメンバーたち。狼狽える様に辺りをキョロキョロしていた彼らはやがて、ぽつりぽつりと周りのメンバーと囁き合い、相談を始める。

 

「縮小、かなぁ?」

「え、でも……」

「だって、先生がそうしろって言ってるんだし」

「それに規模を小さくするだけなら、そこまでプログラムを弄るわけでもないだろ」

 

 場の流れが、規模縮小へと傾いてゆく。

 まあ、そうだろう。人間、やらなくてもいい苦労なら誰しもしたくはないし、絶対的な上位者である教師自ら『やらなくていい』とお墨付きを与えているのだ。大義名分はある。ならば楽な方へと流れるのが大衆心理というものだろう。

 

「縮小でいんじゃね?」

「ここまで頑張ってきたけどさ、正直限界かなぁってのもあったし?」

「そ、そうだね。私たち頑張ったもんね」

「でもさ、ほら……」

 

 しかし、それでも結論は出ない。いや、出せないのだ。なぜなら彼らがしているのは相談であって議論ではないから。あくまで相談という体で、意見している訳でも、提案している訳でもない。

 その原因。誰しもが規模縮小の声を上げることに躊躇するその理由。

 

「……」

 

 一色いろは。生徒会長であり、文化祭実行委員長を兼任する彼女の存在が、彼ら文実メンバーの口を閉ざさせる。

 皆、分かっているのだ。この文化祭で一番尽力してきたのが誰であるかを……。誰よりも準備に駆けずり回って、誰よりも調整に奔走して、誰よりも悩んで笑って、この文化祭を楽しんでいたのを知っているから、だからこそ決定的なことを言えずにいる。

 ああ、そうだ。言えるわけがない。今も黙って俯いて、悔しさを滲ませるように唇を強く噛みしめて、怯える様に震えてじっと堪えている彼女に『仕方がないから諦めよう』なんて、そんなこと彼らに言える筈がない。

 だから──

 

 

「……妥協しろ、一色。お前はよくやった。だが実行委員長なら文化祭を成功させるために私情を挿むべきじゃない」

「っ……」

 

 

 だから、これは部外者である俺の役目だ。

 

「お、お兄ちゃん!?」

「気持ちは分かる……でも現状じゃどうにもならんだろ。作業量に対して人手が足りてないんだ。かと言って、今から追加で人員を招集することも難しい。なら教師陣が言う通り規模縮小させたって誰も文句なんて言わんし、お前の名声に傷が付くことだってない。別に失敗した訳じゃないんだ。あれだ。戦略的撤退だ」

「…ぃ……っ」

 

 俺の言葉に何度か口を開きかけた一色だったが、結局は声を詰まらせて項垂れる。

 そんな彼女の姿に周りから非難するような眼差しが俺に集中するが、しかし俺の言葉を止めるために反対する奴もいない。一色の心情を思えば、俺の言葉が許せないのも理解できる。だから彼らに対して何か思うことはない。甘んじて受け止める。別に二年前の焼き直しがしたい訳じゃない。けれど、誰かが言わなきゃいけないなら、その適任は俺しかいないのだ。小町や他の生徒会メンバーも、文実メンバーも、担当の先生も否定意見を口にして足並みを乱すわけにはいかない。文化祭本番までもう二週間を切っている現状、いまさら人間関係でギスギスしている暇なんてないのだから。なら、元々途中参加で部外者の俺が抜ければいいだけ。それだけだ。

 一色だって馬鹿じゃない。自分の置かれた状況は正しく理解しているだろうし、ああ見えて責任感もある奴だ。俺がこう言えば、あいつなら──

 

「……一色?」

 

 だから俯く彼女の目元から、ポタポタと零れ落ちる滴に気が付いたとき、俺はひどく動揺してしまった。

 

「……ッ!」

「いろはさんっ!?」

 

 制服の袖で涙を拭いながら、突然教室を飛び出して行ってしまった一色の姿を、俺はただ茫然と見送る。

 誰もが口を開けず、動くこともできず、静まり返った教室。そのとき、怒ったような叫び声が教室内に響き渡った。

 

「……んもぉぉぉおおおお!!!」

「こ、小町?」

「お兄ちゃん、何言ってるの。ごみいちゃんのバカ! ボケナス! 八幡!」

 

 お、おうふ……。これは小町ちゃんマジ切れですわ。

 

「追いかけて!」

「……は?」

「いろはさんのこと追いかけて! たぶん生徒会室だと思うから!」

「いや、でもな……」

「さっさと行く!!」

「お、おう」

 

 小町の剣幕に押されて、思わず席を立ち上がり、ドタバタと他の人が座る椅子や机にぶつかりながら何とか教室の出口まで辿り着く。未だ困惑したままだが、それでも妹からの命令にオートで従ってしまうこの体が憎い。やだ、俺ったら妹に調教され過ぎ!?

 そんな惑乱してる俺を小町が呼び止めた。

 

「お兄ちゃん!」

「あ?」

「いろはさんが…どうしてあんなに張り切ってたのか、それをよく考えてあげて」

「小町……」

「任せたからね、お兄ちゃん!」

「あ、ああ!」

 

 背後から響く『とりあえず、今日は一旦解散でー! 明日また集合してくださーい!!』という小町の声を聞きながら、俺は生徒会室へと向かって走り出す。

 小町が俺に託した真意を考えながら……。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 俺が知っている一色いろはとは、強かで、計算高くて、あざとい、けれど真っ直ぐな少女だ。

 やろうと思えば上手く立ち回ることだってできるくせに、それでも男子に愛想を振りまいて、女子を敵に回して嵌められるような、そんな馬鹿正直な奴だった。

 

「……一色」

「……っ」

 

 俺はそんな一色を生徒会長へと祭り上げた。

 その時はそれが俺にとっての最善手だと思えたから。それはそうだ。俺は依頼人である一色のことなんて考えていなかったのだから。ただ只管に俺の勝手な都合で彼女を言い包めて、その結果が空虚でハリボテのような奉仕部だった。

 

「一色」

「せ、せんぱい……」

 

 だから、そんな彼女が生徒会長としてまともにやっていけるはずもなくて、案の定、生徒会メンバーとも上手くいかなければ海浜総合とのクリスマスイベントでも翻弄されるばかりで……。

 

「……」

「……」

 

 しかし、彼女は成長してみせた。

 俺なんかが居なくても、立派に生徒会長としての責務を果たしたのだ。

 二期連続で生徒会長をこなして、更には文化祭実行委員長まで兼任して、あの雪ノ下や葉山、城廻先輩や陽乃さんすら成し得なかったことをやってのけた。

 

「……会議、明日に仕切り直しだとさ」

「そう、ですか」

 

 そんな彼女がこの文化祭にかけた想い……。

 きっと俺はその想いを踏み躙ってしまったのだろう。だから、一色いろはという少女は泣いている。

 

「なあ、一色」

「……なんですか、先輩」

 

 小町は、どうして一色がここまで文化祭に傾倒していたかを考えろと言った。

 二年前の文化祭実行委員に一色の姿は無かったと思う。であれば、少なくとも一年生のときはそこまで文化祭の運営には興味は無かった筈だ。なら去年の文化祭は? ……残念ながら、その答えを俺は知らない。なぜなら俺は、その文化祭に参加していないから。いや、文化祭だけではない。俺は昨年のほとんどの学校行事に参加しなかった。

 そこまで考えて、ふと頭を過った一つの解。荒唐無稽で、根拠なんて何一つない、何とも馬鹿げた与太話。しかし、不思議とその答えはしっくりきた。

 

「……スマン」

「……なんで先輩が謝ってるんですか?」

 

 不機嫌そうにキッと俺を睨みつける一色に、俺はガシガシと片手で頭をかいて首を振る。

 俺が一色に謝罪した理由。

 

 規模を縮小するように諌めたこと? いいや違う。

 俺が自分の立場を危うくしたこと? それも違う。

 

「待たせて、悪かった」

「っ……」

 

 

 ──”高校最後の文化祭”

 

 

 本来なら、それは一年前にあったはずの光景だったんだ。

 三年生になった俺や雪ノ下や由比ヶ浜たちと、一緒に盛り上がれるはずだった最後の文化祭。

 

「二年分の想いを込めてたんなら、そりゃ規模もデカくなるわな」

「……悪いですか」

 

 図星をつかれたからか、一色は頬を染めてそっぽを向いた。こんな時でも不貞腐れたようにぷくりと頬を膨らませる仕草があざとくて、それがなんとも彼女らしくて、俺は僅かに苦笑する。

 

「お前ってそんなキャラだったか?」

「うるさいですよ……」

 

 俯く彼女の頭に、俺はそっと右手を添えた。

 

「……楽しみに、してたんだな」

「そう、です……」

 

 サラサラと揺れる亜麻色の髪を優しく撫でさする。

 

「一緒に参加してやれなくて、悪かった」

「……遅いん…ですよぉ」

 

 くしゃりと顔を歪めて、じわりと滲んだ涙を目尻に溜めて、一色が俺の胸元へ額を押し当てた。

 

「怖かったん…ですから……」

「ああ……」

 

 縋るように震える彼女の両手が、俺を拘束する。

 雪ノ下や由比ヶ浜だけじゃない。俺の弱さが、目の前で涙を流すこの少女も傷付けていた。その事実に、胸の奥がじくじくと痛む。

 

「学校に来ても先輩はいなくて、もうこのままずっと会えないんじゃないかって……」

「……そっか」

 

 おずおずと頭を上げる彼女と目が合って、揺れる瞳に心が揺れた。

 その潤んだ眼差しに目が離せない。密着した彼女の体から伝わる体温でひどく心地よくて、気がつけば一色の頭に乗せた右手とは反対の手で彼女の腰を掻き抱く。

 

「……」

「……」

 

 二人きりの生徒会室で、至近距離で見つめ合う俺と一色。

 まったく非現実的なシチュエーションなのに、耳に届く彼女の息遣いが、伝わる温もりが、ひどくリアルだった。

 

「せん…ぱい……」

「……一色」

 

 どちらともなく、ゆっくりと顔を近づける。

 ただでさえ近かった俺たち二人の距離がゼロになる──

 

 

「……なーに妹の前でイチャイチャしてくれてやがりますかね、このごみいちゃんは」

 

 

 ──直前で、マイシスターの怨念じみた声が待ったをかけた。

 

「こ、小町……?」

「小町ちゃん!?」

 

 唐突に現れた小町の存在に、我に返った俺と一色は慌てて距離を取った。

 

「お兄ちゃん。確かに小町はいろはさんのことを任せると言いました」

「お、おう……」

「でもですね! いろはさんとイチャイチャラブチュッチュしろなんて、小町は一言も言ってないわけですよ!!」

「ラブチュッチュってお前……」

 

 どこでそんなアホっぽい言葉覚えてきちゃったの、小町ちゃん。お兄ちゃん悲しいよ……。お兄ちゃん、小町をそんなはしたない妹に育てた覚えはありませんことよ!?

 そうやって馬鹿なことを考えながら動揺を落ち着かせてる俺の横で、小町がジロリと一色を睨みつける。

 

「……いろはさん?」

「ちっ……」

「いろはさん?」

「反省してまーす」

 

 あらやだ、さっきまでウルウルしてたはずのいろはすがケロッとした感じでテヘペロしてらっしゃる。……なんかもう女性不信になりそう。

 

「……はあ。まあ、いいや。今日は小町に免じて許してあげます」

「え? 自分に免じちゃうの? ありなのそれ?」

 

 なにそのセルフ免罪符。超お手軽なんですけど。マルっとしたルターさんも驚きももの木一六世紀。

 

「ほら、帰るよ。お兄ちゃん」

「あー……。そうだな。帰るか」

「あ、ちょ!? だから置いてかないでくださいよー!」

 

 ワタワタと慌てながら『あれ? わたしのカバン……あ、文実の教室じゃん!?』とか騒ぐ一色を尻目に、俺の手を取った小町が生徒会室の扉を開ける。

 人気の無い廊下。隣で静かに歩いていた小町が僅かに唇の端を持ち上げて、小さく笑った。

 

「……いろはさん。元気になったみたいだね」

「うん? ああ、まあな」

 

 これじゃ俺も一色も、まったくどちらが年上なのか……。いつの間に、小町はこんな風に大人びた顔で笑うようになったのだろう。そういえば、いつの頃からか髪型も変わっていた。以前は首筋辺りまでだった髪の長さが、今は肩にかかるほどに伸びている。

 

「去年はさ、大変だったんだよ。見るからに空元気で、無理矢理に笑ってさ」

「そう…なのか」

「いろはさんだけじゃない。雪乃さんに結衣さん、沙希さんだってそう。みんな、お兄ちゃんのこと心配してくれた」

「……」

 

 偲ぶように語る小町の横を歩きながら、俺は言葉を返すことができずに押し黙る。

 

「……大丈夫だよ」

「小町?」

「大丈夫。だって小町のお兄ちゃんだもん。小町が大好きなお兄ちゃんなんだもん。だから、きっと大丈夫!」

「小町……」

 

 小町は諭すようにそう言って、優しくふわりと笑ってみせる。

 本当に、俺には過ぎた妹だと思う。なんで血が繋がってるんだろう。実妹なのが悔やまれる。小町ちゃん、マジ天使。

 

「……なーんて! あ、いまの小町的にポイント高いっ!」

「それが無ければな……」

 

 まあ、安定のウザさだ。可愛いけど。これこそ小町。実にウザ可愛い。

 

「……んで? それどうすんの?」

「んー、それって?」

「お前が二つ持ってるカバン。片方は一色のだろ。今頃あいつ、必死こいて探してるぞ」

「あー、忘れてたー。うっかりうっかりー☆」

 

 わー、台詞がめっちゃ棒読みだよ、この妹。

 ……まあ、いいか。せめて下駄箱あたりで待っててやろう。そのうち、一色もこっちに来るだろ。

 

「……明日、どうすっかな」

「まあ、どうにかなるって」

 

 俺が呻くように零した言葉に、小町が何てことなさそうに応える。

 そんな妹が逞しくて、そろそろ妹離れする時期なのだろうかと思わず唸ってしまう。妹の成長は嬉しいけど、まだまだ養ってほしいお兄ちゃんとしては複雑です。

 

 

 

 鞄が見つからないと半泣きでやってきた一色に、ドヤ顔で鞄を差し出した小町が一色にブチ切れられるのは、それから三〇分後のことだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 明くる日、全体プログラムの方針を決めるために再び文実関係者が集まった。

 全員が揃ったことを確認したところで、開口一番、一色が声を上げる。

 

「……現状、いまの進捗だと期限までに全ての準備が間に合うか、難しい状況です」

 

 昨日と違い、どこかスッキリしたような表情の一色。恐らく、昨日のうちに気持ちを切り替えてきたのだろう。さすがのメンタル。俺みたいに一年近くもズルズル引き摺ったりはしない。

 ちなみに一部の文実メンバーが訝しそうに俺と一色を見やりながらヒソヒソ囁き合っているが、それは無視だ。

 

「みんなは良くやってくれました。それでも目標に届かなかったのは、無理な計画を推し進めたわたしの責任です。ごめんなさい」

 

 一色はそう言って全員に頭を下げた。

 その潔い姿に、誰もが押し黙る。ある者は呆けたように、ある者は悔しそうに、ある者は安堵するように、各々が色々な感情を表情に出しているが、やがて誰かが小さく拍手をした。

 パチパチと一人分だった音色は、いつしか二人三人と増えてゆき、全員が一色を労うように手を叩く。

 

「いや、一色先輩は頑張ったよ」

「私たちこそ、足引っ張っちゃってゴメンね?」

「大丈夫だって! 規模縮小したって、去年以上なのは確実なんだから、きっと盛り上がるよ!!」

 

 野次や罵倒ではなく、励ましの言葉が飛んできたのがそんなに意外だったのか、一色はポカンと口を開けて唖然としていた。

 けれど、それもすぐに照れたようなはにかみになり、ペコペコと周囲に頭を下げる。

 

「……あ」

 

 俺がジッと一色を見ていたからだろうか。ふと視線が合い、一色が小さく言葉を漏らす。

 一瞬だけ照れ臭そうにした彼女だったけれど、すぐに自慢げに胸を張り、こちらにピースサインを向けてくる。

 

「……先輩!」

「なんだよ?」

「最後まで、付き合ってくださいね?」

「……ああ」

 

 そうだ。たとえ計画通りじゃなかったとしても、彼女の頑張りは無駄にはならない。皆が一色の努力を知っている。だから悔しさも虚しさも飲み込んで、それでも笑顔で前へと進んでいけるのだ。

 これも一種のハッピーエンド。大団円。そのはずなのに……。

 

「……にやり」

 

 どうして我が家の妹様は腹黒い笑みを浮かべてらっしゃるんですかねぇ……。

 その答えは、ババーンという効果音が付きそうな勢いで開かれた教室の扉から現れた。

 

 

 

「話は聞かせてもらったわ! この文化祭は成功する!!」

 

 

 

 教室の入り口にドヤ顔で仁王立ちする陽乃さん。……あの、いま良い雰囲気なんで空気読んでもらえます?

 

「は、はるさん先輩?」

「ひゃっはろー、いろはちゃん。でも、わたしだけじゃないわよ?」

「え……?」

「やあ、いろは。久しぶり」

「葉山先輩……」

「俺もいるぜ!」

「……どちらさまでしたっけ?」

「ちょ、いろはすそれ酷過ぎじゃね!? 隼人くーん! なんか俺の扱いだけ超雑なんだけどー」

「……スマナイ。誰だい、キミは?」

「それないわー。隼人くん、そのボケはないわー」

 

 なんかガチで涙ぐんでる戸部。いや、男の涙目上目遣いとか誰得だよ。

 ……違う。ツッコミどころはそこじゃない。

 

「なにやってんすか、雪ノ下さん。ここウチの大学の正門じゃないっすよ?」

「一体いつから────わたしたちが正門にしか乱入しないと錯覚していた?」

「なん…だと……!?」

 

 驚愕する俺を嘲笑うように、ふふんと鼻で笑う陽乃さん。やだこの人、ドヤ顔でも美人とか神様ってマジ不公平。

 

「いや、そういうボケいらないんで。ちょっと本当に空気読んで? いまアニメで言ったら十一話ぐらいの感じだったから。最終回に向けて盛り上がる展開だから。ギャグ回とかいらないです」

「まあまあ、八幡。ここは我に免じて矛を収めよ」

「……なんで材木座までいんの? 暇なの? ちょっと大学生暇過ぎじゃない?」

「あ、ごめん。僕たち邪魔だったかな、八幡?」

「と、戸塚ぁ!? そ、そそそそんなことないぞ! なんの問題もない! マジ無問題!!」

 

 やばい。テンション上がってきた。もう陽乃さん達とかどうでもいい。

 何故ならそこに戸塚がいるから。戸塚ってマジ偉大。そして世界は平和になった。

 

「……なにやってるし、ヒキオ」

「あんた……全然変わってないね」

「あ、比企谷先輩! お久しぶりっす!!」

「ぐ腐腐腐……。久方ぶりのとつはちご馳走様です!」

 

 俺がハァハァと息を荒げていたら、材木座のデカい図体を押しのけて、あーしさんと川なんとか沙希さんと、その弟の川崎大志が姿を現した。……鼻血を垂れ流した海老名さんなんて俺は見てない。

 

「なんでお前らまで……」

「は? そんなの、あーしらの勝手っしょ?」

「いや、それはそうなんだが……」

「なに、何か文句でもあるわけ?」

「な、なんでもないっす」

 

 思わず腰が引けて下っ端口調になってしまった。なんで君ら仲悪そうなのに俺を睨むときだけ息ピッタリなの? そんなに俺を追い詰めたいの? 俺の弱小メンタル舐めんなよ。二秒で心挫けるわ。

 

「……本当に、あなたが絡むと呆れるくらいに問題ばかり起きるのね」

「まあ、ヒッキーだもんね。仕方ないよ」

 

 そう言いながら最後に教室へ入ってきた二人の女性。

 雪ノ下と由比ヶ浜が、苦笑するように小さく息を吐いて俺の前に進み出る。

 

「……それで? あなたには学習能力というものはないのかしら痴呆谷くん?」

「ゆ、雪ノ下?」

 

 あれ? これもしかしなくても怒ってる?

 

「あたしたち、ヒッキーから連絡してくれるのずっと待ってたんだよ?」

「ヒェ!?」

 

 あ、これアカンやつや。だって由比ヶ浜の目からハイライト消えちゃってるもん。……こわっ!?

 

「あなたには色々と言いたいことが山……いえ、山脈のようにあるのだけれど。……今は一先ず置いておくわ」

「あ、はい。文句が積み上がるどころか連なっちゃったのね」

 

 凍えるような眼差しで俺を睨みつける雪ノ下だったが、僅かに首を左右に振ると全身から放っていた冷気を霧散させる。……ねえ、それ個性? もう個性だよね、それ? 僕のヒーローになっちゃうの?

 

「……状況は小町さんから聞いているわ」

「小町から?」

 

 雪ノ下の口から飛び出した妹の名前に、思わず首を傾げる。

 ちらりと本人へ視線を向ければ、ドヤ顔で腕を組む小町と目が合った。

 

「ふふん! こんなこともあろうかと、昨日の内に小町ネットワークを使って雪乃さんと結衣さんへ連絡を入れたのです!」

 

 誇らしげに無い胸を張る妹。あらやだ可愛い……じゃない。いや、小町は可愛いけど、そうじゃない。

 

「……小町ちゃんから、あたしたちに依頼があったの。内容は文化祭を成功させるために協力してほしいって」

「人手が足りないという話だったから、勝手ながら由比ヶ浜さんや姉さんの伝手を使って応援を頼んだわ」

 

 ようやく正気を取り戻した由比ヶ浜が小町の依頼内容を説明し、雪ノ下がくすりと笑って陽乃さんや三浦たちへ視線を投げる。

 

「そういう訳だから、一色さん」

「は、はい!」

「後は任せるわ」

「ふぇ……?」

 

 突然の雪ノ下からの丸投げ宣言に、一色が呆けたような返事で固まった。

 

「え、でも……」

「何を動揺しているの。あなたも知っているでしょう? 私たち奉仕部の基本原則はあくまで依頼達成のための手伝いだけよ」

「うん、だから後はいろはちゃん次第だよ」

「雪乃先輩、結衣先輩……」

「あなたが実行委員長なのでしょう? なら、これからどうするかは一色さんが決めなさい」

「わたし…わたしは……」

 

 一見突き放すような雪ノ下たちの言葉。けれど、彼女たちの表情を見れば分かる。

 雪ノ下と由比ヶ浜は……。いや、二人だけじゃない。陽乃さんや葉山たちだってそうだ。みんな確信している。誰も疑ってなんかいない。一色ならやり遂げられると、そう信じているから全員が笑って力強く頷いているんだ。

 

「……一色」

「先輩?」

「お前がやりたいようにやってみろよ。後の尻拭いはこっちに任せればいい」

「……なんですか、それ。それだと、わたしが失敗する前提みたいじゃないですかー!」

 

 大きく頬を膨らませて『わたし怒ってます』アピールを披露する一色。

 プンスカプンスコ膨れっ面を晒す彼女だけれど、目尻に溜まった涙が、それが一色なりの照れ隠しなのだと教えてくれる。そんな一色が可笑しくて、ついつい宥める様に頭を撫でてしまう。

 

「……ふんだ。今まで以上に扱き使っちゃいますよ、先輩?」

「俺は二年分だからな。利息だと思って諦めるさ」

 

 ぷいと拗ねる様に、けれどどこか嬉しそうにそっぽを向いた一色が、今度は視線の先にいた雪ノ下へ挑発的な笑顔を向ける。

 

「雪乃先輩が相手だって容赦なく命令しちゃいますからね?」

「……それが正しい指示ならきちんと従うわ」

 

 雪ノ下が目をすっと細めて応え、怯えた一色が慌てて由比ヶ浜へ矛先を変える……が、途中で軌道修正。

 

「結衣先輩も…………結衣先輩は頭脳労働以外でお願いします」

「あたし全然信用されてないっ!? あ、あたしだって立派な大学生なんだからねー!」

 

 憤慨する由比ヶ浜に冗談ですよと割と真顔で返した一色は、一度だけ俺たち全員をぐるりと見渡す。そして彼女はゴシゴシと制服の袖で涙を拭うと、ニヤリと勝ち気な笑みを浮かべて、少し離れたところに控えていた小町に顔を向けた。

 

「……やるよ、小町ちゃん!」

「がってん承知! 小町におっまかせーーーっ!!」

 

 そして、それまで突然登場したOB・OG連中に呆気にとられていた文実メンバーたちに向かって、一色は両手を腰に当てて堂々と宣言する。

 

「前言撤回! 規模縮小? ふっざけんなーっ! 逆に規模拡大してやりますよ! デスマがなんだ! やってやるぜコンチクショウ!」

 

 一色の豪快な啖呵が教室内に轟いて、放心していた文実メンバーたちを徐々に解き放つ。

 

「わたしたちの文化祭は、これからだぁーーーっ!!」

「「「 うおおおおお!! 」」」

 

 熱狂する文化祭実行委員共を焚き付けるように、小町が天に向かって拳を突き上げ、声を張り上げる。

 

「ぶんじつ~~~ファイッ!」

「「「 オーーーッ!! 」」」

 

 そんな盛り上がる彼女たちを、俺たちは微笑ましく見守る。

 

「いろはちゃんも小町ちゃんも、本当に楽しそうだね」

「ええ、そうね」

「……だな」

 

 一色にとって”高校最後の文化祭”は、きっとかけがえのないものになる。そう思えた。

 

「……あっ」

「ん? どうした雪ノ下?」

「いえ、ちょっと言い忘れていた事を思い出して……んんっ、一色さん。盛り上がっているところ悪いのだけれど、ちょっといいかしら?」

「え? あ、はい。なんですか雪乃先輩?」

「一色さんにとって、これが”高校最後の文化祭”であることは理解しているのだけれど……」

「……けど?」

「どうして、比企谷くんにだけ手伝いを頼んだのかしら?」

 

 見惚れるような笑顔で放った雪ノ下の言葉で、俺たち四人の周囲だけ空気が凍りついた。

 

「ゆ、雪乃先輩?」

「あなたの気持ちは分かるの。去年は引きこもり谷くんの所為で、私たちもあまり文化祭には集中できなかったもの。だから比企谷くんを手伝いに呼んだこと自体を咎める気はないわ」

「で、ででですよね!」

「でも、それならどうして私たちも一緒に呼んでくれなかったのかしら?」

「え、ええっとですね……。その、なんと言いますか……」

 

 しどろもどろになって目線を右往左往させる一色。

 あー……、うん。がんばれ。俺は応援しかできない。だからこっち見んな。俺に縋る様な眼差しを向けるのは止めろ。

 

「……あなたもよ、比企谷くん。人手が足りないって分かっていながら、どうして私たちに声を掛けてくれなかったのかしら?」

「いや、それはですね。あれがあれでして……うん、あれだよ。あれ。あれなんです」

「……そうよね。あなたは日頃から姉さんや葉山くんたちと遊んだり、平塚先生と婚活パーティに行ったりで忙しいものね。そこに一色さんの手伝いまで入ったら私たちに連絡する時間なんて取れないわよね…………なんて言うとでも思っているのかしら、不義理谷くん?」

 

 ほらー! やっぱりこっちに飛び火したじゃないすか! ヤダーーー!!

 忌々しげな眼差しと共に冷気を放って俺を凍えさせる雪ノ下だったが、やがて諦めたかのように溜息を吐いてゆっくりと視線を落とす。

 雪ノ下は拗ねたようにそっぽを向いて、ついでに頬も朱に染めたりしながらぽつりと呟いた。

 

「……一色さんばっかりズルいじゃない。私と由比ヶ浜さんだって、”高校最後の文化祭”には思うところがあるのよ?」

「うっ、そう…だよな。……はあ、スマン。俺が悪かった」

 

 ちょっとデレのんの破壊力が強烈過ぎて俺の絶対不可侵なフィールドが突破されちゃいそう。これがセカンドインパクトか……。

 

「……まっーたく、お兄ちゃんはいつからハーレム主人公になんてなったのさ。それって小町的にポイント低い!」

「そうは言うけどさ、小町ちゃん」

「え、結衣さん?」

「他人事みたいな感じだけど、小町ちゃんもヒッキーが文化祭を手伝ってること、ギリギリまで教えてくれなかったよね?」

「あああ、あれー? やだなー、もう。ちょっと小町なに言われてるのか分からないですねー。たはは……。もう結衣さんったら、瞳から光が消えちゃってますよー! そーんな怖い顔してどーしちゃったのかなーって……」

 

「……」

「……」

 

「こーまーちーちゃん?」

「ふぇぇ……お兄ちゃーん! 結衣さんが壊れたー!!」

 

 結局、この日は俺と一色と小町が正座をさせられて、雪ノ下と由比ヶ浜から説教を受けるだけで一日が終わるのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 そしてリスタートを切った文化祭実行委員会。

 見直しを要求された全体プログラムについては、まずは雪ノ下がまだやれるでしょうとばかりに『千葉ポートタワー ~ 猫とパンさんと、時々、ワタシ ~』という個人的趣向全開な謎企画を立ち上げ、妹に負けてなるものかと対抗した陽乃さんが『はるのん☆かむばっくライブ』なんていう悪ノリ一直線な企画をブチ込み、ならばと海老名さんが葉山と俺を巻き込んだ2.5次元ミュージカル(全年齢版)を猛プッシュ。ドンとこいやー状態の一色がヤケクソ気味に全ての企画案に決済印を押した。

 困惑する文実メンバー。爆笑する小町。まあまあ、それより予算どうするのと算盤を弾くいつの間にか勘定奉行に就任した由比ヶ浜。普通なら無謀を通り越して絶望するレベルに天元突破したこの全体プログラムだが、しかしそこは無駄にハイスペックな人材が揃った我らが総武高校OB・OG+α同盟。葉山がその圧倒的なカリスマで部活連や女子生徒たちを掌握するのを皮切りに、あーしさんとサキサキによる非協力的生徒へのプレッシャー、取り成しに奔走する戸塚と大志、ステマ? いいえダイレクトマーケティングですと言わんばかりにSNSを駆使して宣伝工作を行う材木座、ちょっとメロンパン買ってきてくださいとパシられる俺と戸部。

 そんな混沌とした文化祭実行委員会の様子に始めこそオロオロしていた文実メンバーたちだったが、慣れとは恐ろしいもので、次第に順応した彼ら彼女らは異様な熱気とハイテンションで今や積極的に加担する始末。もはや俺たちを止められる奴は存在しない。……ちなみに文実担当の若手教師は葉山が五分で籠絡した。

 

 僅か二日という短期間で大幅に魔改造された全体プログラムを引っ提げて、規模縮小を提案する一部教師連中に対し、逆に規模拡大案を突き付けた一色たち文実メンバー。

 紛糾する職員会議。知ったことかとゴリ押しする文化祭実行委員共。最終的には生徒の自主性に委ねるべしという論法で全校生徒を集めた緊急総選挙が開催され、本来なら否決されて然るべきこの世にも奇妙な全体プログラムは圧倒的賛成多数でもって可決されたのだった。これが若気の至りである。

 

 それからは怒涛の日々だった。

 

 辣腕を振るい、極限まで作業の効率化を図る雪ノ下。

 純情な思春期男子高校生たちを笑顔ひとつで傀儡化して働かせる陽乃さん。

 一切の無駄を許さず、一円単位で予算を切り詰める大蔵大臣の由比ヶ浜。

 不平不満を漏らす女子生徒を腹黒スマイル一発で従順にさせる葉山。

 葉山に集って働かない女子生徒たちを不機嫌オーラだけで支配下に組み込む三浦。

 腐女子界のフィクサーの異名で暗躍する海老名さん。

 ただ只管に可愛い、癒し、尊い、天使な戸塚。

 宣伝ポスターのキャッチコピーでその中二センスを遺憾なく発揮して却下される材木座。

 雑用を一手に引き受けて(押し付けられて)涙目の戸部。

 問題(主な原因は俺たち)が発生する度にフォローに駆けずり回っては毎回貧乏クジを引かされる大志。

 そんな大志に母性本能が擽られてときめいちゃった女子たちを屋上に呼び出す川崎。

 しゃーんなろー! っと奇声……じゃない。気勢を張り上げて俺に仕事を押し付ける一色。

 東奔西走してトラブルを拾ってきては俺に丸投げする小町。

 

 ……最後の二人だけちょっとおかしいな。なんで俺の仕事増えちゃってるの?

 

「先輩、なにブツブツ言ってるんですか? 気持ち悪いですよ?」

「気持ち悪い言うな。もうちょいオブラートに包め」

「……お兄ちゃん。お気持ちが悪いのですことよ?」

「小町……。オブラートに包むってそういうことじゃないから。語調を丁寧にすればいいって訳じゃないのですことよ?」

「……そこの三人。無駄口を叩いている暇があるなら手を動かしなさい。仕事増やすわよ」

 

 そんなこんなで、過去に例を見ないほどにフリーダムとなった今年度の総武高校文化祭が幕を開けるのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

「お前ら、文化してるかー!?」

「「「 うおおおおお! 」」」

 

 え、そのコール&レスポンスってお決まりなの? 伝統なの? という俺の疑問を置き去りにして始まった今年の文化祭。

 一言でいえばカオス、二言でいえば混沌とお祭り騒ぎ、三四が無くて、五里霧中。

 

 いや別に失敗してる訳じゃない。表面的に見れば文化祭自体はひどく順調だ。すんごい盛り上がってる。

 ただちょっと本来の計画って意味じゃ順調とは言えない。主な原因はノリと勢いだけでアドリブをブッこんでくる奴らの所為。

 

「……どうして姉さんのライブ衣装とは別に、私の分まで衣装が用意されているのかしら」

「そんなの、わたしが雪乃ちゃんと一緒に姉妹ユニットでステージに立つからに決まってるじゃーん! ほらほら、もうすぐ出番だからさっさと着替えた着替えたー!!」

 

 いつの間にか陽乃さんの単独ライブが雪ノ下姉妹によるユニゾンステージになってたりとか。

 

「……なあ、葉山。俺の気のせいか? なんか練習のときと台本の内容が微妙に違う気がするんだが」

「奇遇だな、比企谷。俺もそう思ってたところだ」

「……」

「……」

「ぐ腐腐腐……」

 

 何でもない筈の台詞が意図的に改変(意味深)されたことによって体育館が血の海に沈んだり。

 

「おい、もう一五分以上は同じ猫動画がリピート再生されてるぞ!? どうにかしろ、由比ヶ浜!」

「だ、ダメ! ゆきのんがプロジェクターに繋いだパソコンの前から動いてくれないの! ゆ、ゆきのーん。その猫動画がお気に入りなのは分かったから、後で家でゆっくり観よう? ね?」

「何を言っているの由比ヶ浜さん! こんな大画面で猫動画を視聴できる機会なんて滅多にないのだから、このチャンスを逃す手はないわ。あと十回は観るわよ!!」

 

 体育館の巨大スクリーンで上映された猫動画に興奮して暴走する雪ノ下などなど。

 もはやボケとツッコミとフォローが入り乱れる群雄割拠な戦国時代と化した全体プログラム。良いか悪いのか、誰かがアドリブに走っても即座にフォローできるだけのスペックを持った人材が多数揃っているという事実。まあ、問題を起こす奴も大抵がハイスペックな奴だったりするのだが……。とりあえず、幸いにも今のところは大事に至っていない。

 

「……カオスってますねぇ、先輩」

「カオスってるよねぇ、お兄ちゃん」

「呑気にお茶しばいてんじゃねぇよ、責任者コンビ」

 

 今もまたステージの空き時間に即興寸劇をやり出した陽乃さんと葉山と戸部の正門トリオ。

 うーん、由比ヶ浜が雪ノ下を引き摺って無理矢理乱入したな。あ、三浦と川崎も巻き込まれた。あと材木座と……戸塚も参加しただと!? 俺も! 俺も参加しなくちゃ!! こうしちゃいられねぇ、おいらも混ぜてくんなぁ! っとばかりに走り出そうとした俺の肩を一色と小町が同時に掴み、強制的にスィットダウンさせられる。ちなみに『シットダウン』だと別な意味になっちゃうので注意が必要だ。英語が苦手な子はよく調べてから発音しよう!

 

「先輩まで混ざったら誰がフォローするんですか! 今だって海老名先輩と大志くんだけで何とか調整して……」

「……あ、二人ともしれっと寸劇に混ざった」

「や、野郎! 俺だって戸塚と同じ舞台に立ちたいのを我慢してるのに……っ! 大志許すまじ!!」

 

 今なら勇者じゃなくてもカースシリーズを発動させられる自信がある。ラースシールドぶちかますぞ、ゴラァ!

 

「……なんなのこの先輩たち。フリーダムすぎてわたしの手に負えない」

「いや、いろはさんも大概だから。この中で常識人枠は小町だけだよ、もう。やれやれ……」

「「 それはねーわ 」」

「真顔でハモられたっ!?」

 

 その後、我慢の限界に達した俺たち三人も即興劇に乱入し、他の文実メンバーから仲良く全員お叱りを受けるのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 午前中から続いたドタバタもようやく一段落し、もはやお馴染みとなってしまった文実御用達の特別教室へと戻ってきた。

 束の間の休息とばかりに、しばしの間だらりんと寛いでいると、徐に一色が席を立つ。

 

「ふぅー……。さーて、それじゃわたしは部活関連の企画を見回ってきますねー」

「あー、行ってらー」

「行ってらっしゃいでーす」

 

 グテッとグダッと脱力しながら返事をする俺と小町に何を思ったのか、なんとなく顔を顰めた一色がチョイチョイと俺を手招きする。

 

「どした一色? なんか厄介事?」

「いや、そういう訳じゃないんですけどねぇ」

「んじゃ何だよ?」

「うーん……。まあ、わたしとしては借りは返せるときに返す主義なので」

「はい?」

 

 なんのこっちゃかしらんとクエスチョンマークを頭上に生やす俺を尻目に、一人うんうん頷いて自己完結した一色が内緒話でもするように俺の耳元へ顔を寄せる。

 ら、らめぇ……お耳は弱いのぉぉぉ! ……うん、これはキモイな。

 

「……先輩。小町ちゃんのこと、もうちょっと気にかけてあげてくださいね」

「いや、いつも超気にかけてるけど。小町に悪い虫が寄ってこないかとか。悪い大志が近づいてこないかとか。川崎大志がそばにいないかとか」

「……そういうことじゃなくてですね」

 

 真面目に答えたのに一色には何故か呆れられてしまった。解せぬ。

 

「いいですか、先輩。一度しか言わないので良く聞いてください」

「お、おうよ」

「わたしにとって去年の文化祭は、今年みたいな”高校最後の文化祭”とはまた別の、”特別な”文化祭になる筈だったんです」

「あ、ああ……」

「でもですね。それはわたしだけじゃない。小町ちゃんにとっても同じだった筈なんです。……何でか分かりますか?」

「小町にとっても……」

 

 一色から投げられた問い掛け。その答えを思案しようとして、けれどすぐに思い至った事実。

 脳裏を過るのは、あのとき生徒会室で言葉を交わした一色の姿。

 

「……あっ」

 

 ガツンと、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた気分だった。どうして、こんな簡単なことに今まで気が付かなかったのか。

 ヒントはいくらでもあったはずなのに、気付く機会なんて何度もあったはずなのに、俺は妹のことを見てるようで、何も見てなんかいやしなかった。

 

 

「……先輩も気付いたようだから言っちゃいますけど。小町ちゃんにとっても、去年の文化祭は先輩との”最初で最後の文化祭”になる筈だったんですからね」

 

 

 ああ、そうだ。本来ならそうなる筈だったんだ。

 俺が逃げ出したことで傷ついた存在が、こんなにもすぐ近くにいたのに……。

 

「わたしと先輩が二人でいると、小町ちゃん不機嫌になりますよね? あれ、たぶん不安なんだと思います」

「不安……?」

「もし、また先輩が一年前みたいに塞ぎ込んじゃったらどうしようって……。そんなことにはならないって信じてても、でも万が一はあるかもしれないじゃないですか? だから、学校内でアピールされるってシチュエーションに怯えてるんだと思うんです。まあ、少しは嫉妬とかも含んでるかもしれませんけどね」

「……そう、か」

「でも、まーわたしは構わず荒療治のつもりでガンガンいっちゃいますけどね。そうでもしないと、先輩は一生前に進めなさそうですし」

 

 そう言って俺から距離を取ると、からかうようにペロリと小さく舌を出して一色はあざとく笑う。

 

「小町ちゃんはわたしにとっても可愛い後輩なんですからねー? 寂しい思いをさせたら怒りますよ?」

「……任せろ。生まれてこの方、小町には迷惑も心配もかけ続けてるけどな、寂しい思いだけは……去年ぐらいしかさせてないぜ」

「ダメじゃないですか、それ」

 

 半眼になってジト目を向けてくる一色から視線を逸らす。やっぱり駄目ですよね。反省してます。

 

「はあ……。仕方ない。んんっ! 文化祭実行委員長として、総武高校生徒会長として、そして何より小町ちゃんの頼れる先輩として、一色いろはが命じます! 先輩は小町ちゃんと一緒に各クラスの企画を見回りに行ってくること!!」

「なにそのギアスが刻まれちゃいそうな命令。でも、まあ……承知した」

 

 お互いにくすりと笑って、俺は今もだるるーんとどこぞのクマのぬいぐるみ並みにリラックスしている小町へ声を掛ける。

 

「おーい、小町! 文実委員長兼生徒会長兼小町の先輩兼俺の後輩様からの命令だ。クラス企画の見回りに行くぞー!」

「うぇー……、また仕事なのー? ……大丈夫。小町はお兄ちゃんと一心同体だから。だからお兄ちゃんが行けば小町も仕事した気分になれる。あ、いまの小町的にポイント高い!」

「八幡的にはマイナス査定だぞ、それ。ほら、グダグダ言ってないでさっさと行くぞー」

「んあーい!」

 

 とっとことーと小走りで駆け寄ってきた小町の手を取って、俺と小町は廊下に出る。

 

「んで、小町。どこ行く?」

「……お兄ちゃん。それ雪乃さんとか結衣さん相手にやったら小町ポイント大暴落だからね?」

 

 うわっ…、俺のデート力、低すぎ…?

 

「まーいいや。どうせお兄ちゃんだし。……んー、じゃあとりあえず三年生のフロアから回ってみる?」

「それな。それある。ぱないのぉ!」

「……」

「無言やめて」

 

 この人は他人ですと言わんばかりにスタスタと先を歩いて行ってしまう小町。しまった。言葉のチョイスを間違えた。

 とりあえず、お臍をぐりんと曲げてしまった妹を追いかけながら、俺はその背中へ声を掛ける。

 

「なあ、小町」

「……」

「文化祭の準備、どうだった?」

「……疲れた」

「そっか……。ならさ、去年と比べて楽しめはしたか?」

「……」

「……」

「……楽しかった」

「そうか。なら良かった」

 

 はじめは早歩きのペースだったのに、いまではもう普通に歩く速度になった小町に追いつき、俺も横に並んで歩く。

 

「……お兄ちゃん」

「おう」

「三年A組がスイーツ喫茶なんだって。お兄ちゃんのおごりだからね」

「任せろ、確か財布に六〇〇円は入ってた筈だ」

「なにそれ全然ダメじゃん」

 

 苦々しく笑う小町の横顔を見て、俺も思わず苦笑する。

 

「まあ、あれだ。……小町」

「なに?」

「楽しもうな、文化祭」

「……うん」

 

 このあと滅茶苦茶甘やかした。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 あっという間の二日間。

 嵐のように騒がしい文化祭は終わりを告げた。

 

 後夜祭だなんだと言って、もうほとんどの生徒が帰宅してしまっているのだが、俺と一色と小町は簡単な事後作業だけを済ませて、今は生徒会室に残って気が抜けたように座り込んでいる。

 

「終わっちゃいました…ね、先輩」

「そう、だな……」

 

 俺の右隣りに座っている一色が、どこかほうっとして呆けたように呟いた。無理もないと思う。この二日間……いや、文実が動き出したときからずっと、彼女は気を張り続けてきたのだから。

 

「成功…でいいのかなぁ、お兄ちゃん?」

「ああ、問題なく…とは言い難いかもしれんが、最後の最後まで盛り上がった文化祭だったのは間違いない。そう言う意味では、大成功だろうよ」

 

 俺の左隣りに座る小町も一色と同じようにぼんやりと黄昏ていたが、ふと思い出したように文化祭の成否を聞いてくる。

 そんな小町の頭をそっと撫でてやりながら、俺は成功だったと断言してやる。いや、素直にそう思う。何かとトラブルは多かったけれど、それでも最後まで笑顔が絶えない、そんな文化祭だった。

 

「雪ノ下も、由比ヶ浜も、あの雪ノ下さんでさえ手放しで称賛したんだ。誇っていいと思うぞ」

 

 どこか悔しそうに、けれど嬉しそうに一色の手腕を褒めた雪ノ下。

 心の底から満足そうに、楽しそうに笑って小町を抱き締めた由比ヶ浜。

 そんな彼女たちを見守りながら、微笑ましそうに柔らかい笑みを浮かべた陽乃さん。

 

「……俺も掛け値なしに良い文化祭だったと思う。文句のつけようもない、素晴らしい文化祭だった」

 

 本音だったと思う。特に何か考えるまでもなくスラスラと口をついて出てきた言葉だった。

 

「……先輩がデレた」

「……お兄ちゃんがデレた」

 

 両サイドから同時にキョトンとした顔を向けられる。うっせぇ、ほっとけ。はっず……。

 

「先輩」

「お兄ちゃん」

 

 ゆっくりと、俺に寄り掛かるようにして両肩へと頭を乗せた一色と小町。

 その肩の重みは、不思議と苦にはならなかった。

 

「お疲れさま」

「ご苦労さま」

 

 ふわりと優しく、小さく囁くような二人からの労いの言葉。

 ああ……、これはちょっとダメかもしれない。最近あれだ。歳だから涙腺が緩くなったんだよ。きっとそう。

 

 

「……ありがとう」

 

 こんな俺を、ずっと待っててくれて──

 

「……本当に、ありがとう」

 

 こんな俺に、ずっと寄り添ってくれて──

 

 

 止め処なく溢れ出しそうになる涙を懸命に堪えながら、二人へ感謝の言葉を紡いだ。

 

「先輩ですからねぇ……。まったくもーですよ。まったくもー」

「お兄ちゃんだもんねぇ……。まったくもーだよ。まったくもー」

 

 そんな呆れたような二人の言葉が、何だかひどくこそばゆい。

 

「先輩なら、きっと大丈夫です。でも……」

「お兄ちゃんなら、きっと大丈夫。でもさ……」

 

 それは、とても穏やかな時間だった。

 もう随分と昔のように思えてならない。あのとき失くしてしまった大切な居場所。

 窓の外から僅かに聞こえる喧騒を聞き流しながら、俺たち三人だけの空間は、夕日に照らされて橙色に染まった。

 

「今はまだ……」

「もう少しだけ、このままがいいなぁ」

 

 少しだけ、ここで休もう。この心安らぐ場所で。

 

「……おやすみ」

「おやすみなさーい」

「おやすみー」

 

 眠るように、俺はゆっくりと瞳を閉じた。

 微かに聴こえる小さな寝息は、どちらのものだろう。少しだけ悩んだけれど、それもすぐに気にならなくなる。溶けるように薄れてゆく意識を手放して、俺は微睡の中へと旅立った。

 両肩と、両掌から伝わる温もりと一緒に……。

 

 

 

 これは、そんな俺と一色と小町のある日の物語。

 



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ある日のお見合い譚詩曲

 その昔、昭和の時代には”お見合いオバサン”なる存在がいたらしい。

 近所や親戚で未婚の男女をみつけてはお節介を焼き、お見合いを斡旋する。そんなありがた迷惑の権化ともいえる人間だ。今のようにインターネットもない時代ならおばちゃんネットワークによる仲介事業は役だったのかもしれないが、今やスマホのマッチングアプリで済む時代である。更に言えば、若者の結婚離れが叫ばれる昨今、親戚や会社の上司から異性を紹介するなんてお誘いはハッキリ言って大迷惑なのだ。こちらが断り辛い立場だから尚のこと、それは顕著であると言える。なんならもうパワハラの領域と言ってもいい。五十代バツイチかまってちゃんとかマジやめろ。ケンカ売ってんのか。滅びればいいのにこんな世界。…………失礼。脱線した。

 

「……はぁ」

 

 カッコーンと鳴り響く鹿威しの音色。窓から覗く日本庭園。どこぞの料亭か旅館を思わせる格式高そうな和室。

 なんてベタなんだろう。テレビドラマでも観ているかのようなテンプレな舞台セッティングに思わず溜息がこぼれる。

 

「それでは、私たちはそろそろ……」

「そうですねぇ……。後は若い者同士でってことで……」

 

 そう言って、二人の女性が自分たちの娘を残して席を立つ。片や凍えるような微笑を漂わせた女傑、こなた柔和な笑みを浮かべる人妻。対照的な印象を受ける二人の女性はしかし、仲良さそうに揃ってこの部屋を後にした。

 いや、ちょっと待って。そろそろも何もまだ顔合わせたばっかりなんですけど。なんなのこれ。展開が早過ぎて八幡ついていけない。

 

「んじゃ、私もお暇しますかね」

「え……」

 

 いやいや、もうちょっと寛いでってもいいのよ、お母様。心細さの余り、思わず縋るような眼差しをマイマザーへと向けてしまう。

 俺にこの状況をどう捌けと? むしろ裁かれる側なのでは? なんかもうあれだ。『まな板の上の鯉』ってこんな心境なんだなと思いました(小並感)。

 ふぇぇ……。かあちゃーん…はちまんも一緒にかえるぅ……!

 

「……八幡」

 

 そんな俺の気持ちが通じたのだろうか、立ち上がって襖に手を掛けた母ちゃんがクルリと振り返り、神妙な面持ちで俺に向き直った。

 きた! 絆きた! 親子の絆きた! これで勝つる!

 

「骨だけは拾ってあげるから、精々がんばりな」

 

 ダメだ。全然気持ちが通じてなかった。

 無慈悲にも襖を開け放ち、我が子を置いて部屋から去ってゆく母親の後ろ姿を見送り、俺はその場で項垂れる。

 そんな俺の態度が気に食わなかったのだろう。俺と同じように動揺していたはずの彼女たちが、怒気のこもった声音で俺の名前を呼んだ。

 

「……比企谷くん」

「……ヒッキー?」

 

 途端に重苦しい空気に包まれる和室。

 やだもう。これ絶対あれだよ。瞳からハイライトが消えちゃってるパターンのやつだよ。サイドエフェクトで言われるまでもない。

 俺は意を決して頭を上げると、黙して語る……というより、プレッシャーを放つ二人へと口を開く。

 

 

「ご、ご趣味は……?」

 

 

 これは、大学生になった俺と元部活メイトとのある日の物語。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 ──青天の霹靂。

 まさにそんな心境だった。

 

「……パードゥン?」

「だから、これから外食に行くって言ったの。あ、あとドレスコードあるところだから。大学の入学式で買ったスーツあるでしょ? あれ着なさい」

 

 休日の早朝。惰眠を貪る俺の部屋に乱入した母親がぬっくぬくの布団を引っぺがし、有無を言わせぬ表情で告げた外出宣言。

 十八年以上も親子をやってきたのだ。こういうシチュエーションで抵抗しても無駄だということは経験則で分かる。だから俺は大人しく寝間着を脱ぎ捨てて、寝ぼけ眼でYシャツへ袖を通した。しかしながら、ひとつ言わせていただきたい。

 

「突然すぎだろ。理由くらい説明してくれよ、母ちゃん」

「……行けば分かる」

 

 どうしてそこでふいっと視線を逸らすんですかねえ……。

 俺はモヤっとした気持ちを押し殺し、むくむく肥大化する疑念をなるべく考えないようにした。だって考えたところで拒否権なんてないんだもん。ならば『押してダメなら諦めろ』が座右の銘の俺である。考えても仕方がないことなら考えない。その結果訪れるであろう未来については、未来の俺がきっとなんとかしてくれる。がんばれ、未来の俺! 今の俺は応援することしかできないけどね!

 

「あれ、そういや小町は?」

「……小町は置いていくわ。ハッキリ言ってこの戦いにはついてこれそうにないもの」

「なにそれこわい」

 

 ただでさえ休日の安眠タイムに叩き起こされてテンションだだ下がりなのに、俄然行きたくなくなった。

 しかし、そんな俺の心情を慮ってくれるような母親ではない。いや、こう言うと語弊があるな。……あれだ。部屋の掃除をしにきた母親が、ベッドの下に隠してたHな本をキレイに整頓して机の上に置いておくような、そんな無用の気遣い。そう、慮ってはくれるのだ。ただ、慮ったうえで、あえて息子の心情を汲んでくれないだけで……どっちにしろダメじゃん。

 

「……八幡」

「あ?」

「寝癖。直してあげるから、後ろ向いてそこ座りなさい」

「……何を企んでやがる?」

「うるさい。いいから、さっさと座れ馬鹿息子。あんまり時間もないのよ」

「あ、はい」

 

 体が勝手に反応して正座待機してしまう俺。あれだよね。いくつになっても母親には逆らえないものだよね。決して俺がマザコンとかそういうことではない。断じてない。大事なことなので二回言いました。

 

「……」

「……」

 

 無言で俺の髪を梳かす母親と、黙って母親に頭を撫でられる俺。

 表現の違いは主観によるものですので悪しからず。

 

「……大丈夫よ」

「……」

「最悪、あんた一人くらい私が死ぬまで面倒みてやるから。だから…後悔だけはしないようにね」

「母ちゃん……?」

 

 照れ隠しなのかなんなのか、最後に俺の頭のつむじをグリグリと指圧した母親が手を放し、俺から離れると部屋の扉に向かってさっさと歩き出す。

 慌てて立ち上がって後を追う俺に、こちらを振り向くこともなく、前を歩く母ちゃんが笑い混じりに俺の名を呼んだ。

 

「ねえ、八幡」

「な、なんだよ?」

「ちゃんとトイレ行っときなさいよ」

「……それ迷信だからな」

 

 そうぼやきながらも、念のためトイレへと駆け込んだ俺。そんな俺を爆笑しながら見送る母親とはこれ如何に。

 兎にも角にも、そんなこんなで俺は母親同伴で何処とも知れぬ外食へと旅立ったのだった。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 そうして母親に連れられて到着した千葉県某所。

 従業員に案内されて通された一室で、俺は唖然としてポカンと口を半開きにしたまま固まってしまう。

 

「ゆ、雪ノ下? 由比ヶ浜?」

「ど、どうして……比企谷くんと由比ヶ浜さんが?」

「ゆきのん? ヒッキー? え、なんで? だって今日は……」

 

 どうやら俺だけでなく、彼女たちもこの事態に困惑している様子だった。

 そんな俺たち三人を置いてけぼりにして、勝手に挨拶を始める保護者連中。そう、俺と同じように、雪ノ下と由比ヶ浜も母親同伴でこの場に来ている。更にいえば、二人ともちょっとお高そうな着物で着飾っており、これではまるで……。

 そこまで考えて、この状況にピッタリな表現に思い至った俺は、ツツーと冷や汗が頬を伝っていくのを自覚する。

 

「比企谷くん。私の思い違いでなければなのだけれど……」

「言うな、雪ノ下。お前が今日なんて言われてこの場に来たのかは知らないが、少なくとも俺は何も聞かされちゃいない。ただ外食するとだけ言われて、ここに連れて来られただけだ」

「そ、そうなの……」

「でも、ね。あの、あたしは…その……」

「あー……、由比ヶ浜。その、なんだ。何となく察してるから大丈夫だ」

「う、うん」

 

 なにこれ気まずい。あと雪ノ下たちがちょっと落胆してんのは何故だ。

 狼狽する俺たち三人は、互いにチラチラと視線を向けてはすぐに逸らし、目が合っては赤面し、見つめ合っては黙り込むというローテーションを三度ほど繰り返して、そんな俺たちの様子を見兼ねたのか、それとも単なる愉快犯か、微笑ましそうに口の端を僅かに持ち上げた三人の母親たちが示し合わせたように口を開いた。

 

 

「それでは」

 

「はじめましょうか」

 

「うちの愚息と、そちらのお嬢さんたちとのお見合いを……!」

 

 

 こうして、男一人に女二人という三つ巴のお見合いが幕を開けた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 緊張に黙り込む俺。動揺から目を泳がせる雪ノ下。混乱から右往左往する由比ヶ浜。

 そんな俺たち三人を置き去りにして、母親トリオはそそくさと部屋を後にしてしまう。その探偵並みに早すぎる展開についてゆけず、俺があまりにも狼狽えてしまったからなのだろうか。対面に座る雪ノ下と由比ヶ浜がムッとした表情でプレッシャーを放ち、俺は遂に白旗を上げた。兎にも角にも、この鉛でも含んでんのかと言いたくなる重たい空気のままなのはいただけない。俺は灰色の脳細胞をなんとか唸らせてお見合いの常套句を捻り出す。

 

「ご、ご趣味は……?」

 

 おずおずと尋ねた俺に、真顔の雪ノ下が応える。

 

「読書と映画鑑賞。あとは、乗馬を少々……」

 

 雪ノ下に触発されたのか、由比ヶ浜も固まった表情筋を解すことなく、淡々と口を開く。

 

「カラオケ、あとは料理鑑賞を少々……」

 

 なんだろう、これ……。お見合いって、こんな殺伐とした感じなの? テーブルの向かいに座った相手といつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気なんですけど……。やだ、なんか俺が知ってるお見合いのイメージと全然違う!?

 

「そ、そうっすか……」

「……」

「……」

 

 俺の適当な相槌に反応することもなく、無表情を貫く雪ノ下と由比ヶ浜。

 なにこれ。なんの戦いなの。将棋とか囲碁の名人戦やってるんじゃねえんだぞ。なんでこんな緊張感に包まれた雰囲気になってんの。

 

「…………二〇秒・一・二・三」

「っ! ……ぶふぅっ!」

「ゆ、ゆきのん!?」

 

 あまりにも重たい空気に耐え兼ねた俺が挟んだ小ボケに、雪ノ下が堪え切れずに噴き出した。残念ながら由比ヶ浜には通じなかったようで、突然笑い出した雪ノ下に困惑している。……というか、雪ノ下でも将棋の中継放送とか観るのね。

 とりあえず、あれだな。今も肩を震わせて必死に笑いを堪えようとしている雪ノ下に畳み掛けるか。

 

「んんっ! 比企谷くん、唐突になにを言って……」

「先手、7八飛車」

「ふっ…くっ……だから、将棋から離れなさ……」

「後手、2八猫にゃー」

「や、やめて…っ……。もはや将棋ですら…くくっ…ないじゃない……っ!」

「先手、8三パンさん成る」

「それはちょっと語呂が悪いわね……」

「急に素に戻ったっ!?」

 

 俺が適当にボケを放り込み、雪ノ下が生真面目に反応し、由比ヶ浜がツッコミを入れる。そんなかつての部室のようなやり取りに、固くなっていた空気が少しだけ弛緩したように感じた。

 ちょうどそのとき、場の空気を切り替えるように外の庭園から鹿威しの奏でる音色が俺たち三人の間に鳴り響く。

 

「……ふぅ。似合わないわね」

「あ?」

「あなたのスーツ姿。見るのはこれで二回目だけれど、スーツに着せられているというか……絶望的に似合っていないわ」

「安心しろ、自覚はある」

「ヒッキー、それ安心できる要素が微塵もないから」

「由比ヶ浜が……『要素』なんて言葉を知ってる…だと!?」

「由比ヶ浜さんが……『微塵』なんて単語を使った…ですって!?」

「どういう意味だっ!?」

 

 驚愕する俺と雪ノ下に憤慨する由比ヶ浜。

 いや勿論冗談なんだけど、なんだけど……ねえ?

 

「……そうだよな。由比ヶ浜だってセンター試験を突破してきちんと大学に合格したんだもんな。がんばったんだよな」

「そうだし! あたしだって勉強がんばって……」

「……雪ノ下が」

「あたしじゃなかったっ!?」

「あのときは苦労したわ……。ええ、それはもう…自分の受験がイージーモードに思えるほどだったもの。二度とやりたくないわ」

「ゆきのんまで!? そ、そんなこと言わないでよー!」

 

 遠い目をして当時のことを思い出したらしい雪ノ下が黄昏る。雪ノ下にそこまで言わせるってどんだけだよ。

 うわーんと半泣きで雪ノ下に縋りつく由比ヶ浜を尻目に、俺はゆるゆりご馳走様ですとばかりに茶をしばこうとして、そういえば湯呑もなにも出されてなかったことに今更ながら気付く。あらためて和室を見渡してみれば、部屋の片隅に急須やポットのセットが置かれているのを見つけた。

 よく見れば雪ノ下たちにも何も用意されていなかったので、ついでに全員分の湯呑を取り出す。いそいそとお茶の用意に取り掛かかろうとしたのだが、そんな俺に雪ノ下が待ったの声を掛けた。

 

「……代わるわ。それは…私の役目だもの」

「そう、か…。そうだったな。んじゃ、頼むわ」

「ええ。それに比企谷くんが適当に淹れたお茶なんて、渋くて飲めそうにないでしょうし」

「人生が苦渋に満ちてるからな。自然と滲み出るんだろ」

 

 そんな俺の返しに苦笑しながら、雪ノ下は俺から受け取った湯呑にお湯を注いで温めながら、急須に茶葉を入れる。

 

「ほえー。ゆきのん、紅茶だけじゃなくて緑茶も淹れられるんだ」

「……素直に褒め言葉として受け取るべきか、それとも、侮られていると憤るべきか悩むところね」

「前者だろ。由比ヶ浜だし」

「うえっ!? いや、そのなんてゆーか…ゆきのんが紅茶淹れてくれるときも思ってたけど、所作ってゆーのかな。ひとつひとつの動作がキレイっていうか、洗練されてるっていうか……」

 

 由比ヶ浜のその言葉を受けて、俺も改めて雪ノ下を観察してみる。

 和装しているというのもあるのだろう。ただお茶を淹れているだけなのに、やたらと気品のようなものを感じる。

 

「……その、あまりジロジロと見ないでもらえると嬉しいのだけれど」

「あ、悪い。つい……」

「むっ! うーん……。あたしも茶道とか習った方がいいのかなぁ…」

 

 茶道と日本茶の淹れ方は別物じゃね? まあ、所作って点では通ずるものはあるんだろうけど。俺は茶道を嗜む由比ヶ浜を想像してみるが……五分位で足が痺れたと音を上げる姿が容易に思い浮かんだ。由比ヶ浜はあれだな。正座より、女の子座りの方が似合うな。あれって絶対膝の関節に悪そうだけど、痛くないのかね?

 そんな風にぼーっと思考に耽る俺と、むむむっと唸る由比ヶ浜の前に雪ノ下が静かに湯呑を置いた。

 

「どうぞ」

「あ、ありがとー! ゆきのん!」

「ども」

 

 少しばかり息を吹きかけて冷ましてから、ずずずっと雪ノ下が淹れてくれたお茶を啜る。同じくお茶を飲んだ由比ヶ浜がくわっと目を見開き、なんか真面目くさった顔で雪ノ下に向き直った。

 

「むむっ! 結構なお手前で!」

「……由比ヶ浜さん。無理してそれっぽく褒めようとするのは止めなさい。その…普通に言ってもらえるだけで嬉しいから」

「そうだぞ、由比ヶ浜。ふむ……、このお茶は雁が音がきいてるな」

「比企谷くんも知ったかぶるのは止めなさい。雁が音は茶葉の種類であって、褒め言葉ではないの。これはただの煎茶よ」

 

 俺のにわか知識が撃沈した。マジかよ。せっかく世界を大いに盛り上げる為の団長が憂鬱になるラノベで覚えたのに……。おのれ本名不詳許すまじ!

 なんて下らないことを考えながら、暫し黙って少し温くなったお茶に舌鼓を打つ。

 

「……」

「……」

「……」

 

 いつの間にか、お喋りしていたはずの雪ノ下と由比ヶ浜の二人も無言となり、再び静けさに包まれる和室。

 先ほどまでのような重たい沈黙ではないけれど、どこか落ち着かない様子の雪ノ下と由比ヶ浜。そんな二人に訝しげな眼差しを向けたからだろうか、雪ノ下が意を決したように口を開いた。

 

「……何も聞かないのね」

「なにが?」

「あたしたちが、今日ここに来たこと」

「……お見合いだからだろ」

 

 そう言葉を返して、どうして雪ノ下たちがそわそわとしているのか、ようやく察することができた。

 なんというか、そこまで気にしなくてもと思うが、そういう問題ではないのだろう。不安そうな顔を隠しもしない彼女たちの表情を見て、なんとなく居た堪れなくて、思わず頭をガシガシと掻いて目を逸らしてしまう。

 

「……大丈夫だ。ちゃんとわかってる。お前らが望んで今日ここに来たんじゃないんだろ」

「う、うん! ママから断ってもいいから、会うだけでも会ってあげてって何度もお願いされて、仕方なく……」

「私も由比ヶ浜さんと似たようなものね。先方の面子もあるから、顔合わせだけでもって無理矢理……。まさか、こんな企みだったとは夢にも思わなかったけれど」

 

 俺の言葉に由比ヶ浜が嬉しそうに頷き答えて、心なしかほっとしたような表情をみせた雪ノ下もそれに続く。

 誰とも知れない相手とのお見合いにほいほいやってきたと思われるのが嫌だったのだろう。そう確信している自分がなんだか自惚れているようで、そこはかとなく小っ恥ずかしい。俺は誤魔化すように湯呑を掴み、残っていたお茶を一気に呷った。

 

「……ふふ。比企谷くん、おかわりは?」

「あ、頼む」

「ええ。由比ヶ浜さんは?」

「あたしもお願い!」

 

 俺と由比ヶ浜から湯呑を受け取ると、雪ノ下が急須から再びお茶を注ぐ。由比ヶ浜は何やら鼻をすんすんさせながら辺りをキョロキョロしたかと思うと、テーブルの下から御茶請けとして用意されていたらしい和菓子を見つけて目を輝かせていた。犬か。

 

「やたっ! ねえ、見てゆきのん。お菓子みつけたー!」

「小学生じゃねえんだから、落ち着けよ」

「えー……。じゃあ、ヒッキーは食べないの?」

「いや、食う。つーか、よく考えたら朝飯も食ってなかったわ」

「えー、どうしよっかなー? このお菓子はあたしが見つけたんだから、一割はあたしのものだよねー?」

「……よし。なら残りの九割は俺と雪ノ下で等分だな」

「あたし大損してるっ!?」

「はあ……。遺失物ではないのだから、素直に三等分すればいいじゃない」

 

 そうして三人で和菓子を摘まみながら、暫しの間、まったりと雑談に興じる。

 

「あ、そうだ」

「どした、由比ヶ浜?」

「ねえ、ヒッキー。この振袖…どうかな?」

「あ? あー……、まあ、その、似合ってんじゃね?」

「むー。どうしてそこで疑問形になるかなー」

 

 プンスカと頬を膨らませる由比ヶ浜。そんな彼女が着る振袖は、薄桃色の地色に色々な花と御所車……だったか? なんか平安時代とかの貴族が乗ってそうな乗り物が描かれた柄があしらえていた。なんというか、ちょっと意外である。色のチョイスはまあ由比ヶ浜らしいと思えるのだが、柄の方はもっと桜とかの花が大きく描かれたものを好みそうな気がするのだが……。

 

「この振袖をレンタルするときさ。あたしは違う柄のを選ぼうとしたんだけど、ママがこっちの柄にしておきなさいって言ってね」

「……そうなの?」

「うん。あれ、もしかしてゆきのんも?」

「ええ……。母さんがこちらの柄にしなさいって。特にこだわりもなかったから大人しく従ったのだけれど」

 

 そう言って両腕を広げてみせる雪ノ下の振袖は、藍色に手毬の柄が描かれたものだった。さすがの雪ノ下でも着物の絵柄にまで造詣が深いわけではないらしく、由比ヶ浜と二人揃って首を傾げている。

 そんな二人の目を盗むように、俺はこっそり背広の内ポケットからスマホを取り出すと『着物 柄 意味』で検索をかけてみた。いくつかのサイトを巡ってようやく雪ノ下たちが着ている振袖と同じ図柄の説明を見つけ、そこに記載されていた内容に思わず苦笑する。

 

「ヒッキー?」

「比企谷くん?」

「ナンデモナイデス」

 

 なんというか、外堀を埋められている感がハンパない。いや、こんな場を設けられている時点で既に本丸まで攻め込まれてるようなもんだけど。それはともかく、あれだな。親の心子知らずってやつなんだろうな。特に雪ノ下。親子揃って不器用すぎるだろ。まあ、親子間の問題に俺が土足で踏み込むのもどうかと思うので、口には出さないけども。

 それにしても、二人の母親が選んだ柄ってことだったけど、なんとなく雪ノ下が御所車で、由比ヶ浜が手毬の方がしっくりくる気もするんだが……。母親目線だとまた違うものなのかもしれんね。

 そうして俺が一人うんうんと訳知り顔で頷いていると、どことなく不貞腐れ気味な雪ノ下が口を開いた。

 

「……ところで、比企谷くん」

「あん?」

「その、私に何か言うことはないかしら」

「は? いや、特には……」

 

 無い、と言いかけて、慌てて口を噤む。だっていま体感温度が五度くらい下がった気がしたもの。これ選択肢を間違うと即An○therな展開のやつだ。

 考えろ、比企谷八幡。大丈夫、俺ならやれる。伊達に神様だけが知ってるセカイの漫画を読破していない。あれだ、ギャルゲーみたいな選択肢を思い浮かべればいいんだ。カモン、選択肢!

 

 

  A.雪ノ下。一回、きちんと母親と話し合えよ。

  B.着物って胸が小さい方が着こなせるらしいな。似合ってんぞ、胸囲的に考えて。

  C.なあ、着物のときは下着は穿かないって本当?

 

 

 ……詰んだ。

 俺が脳内選択肢の鬼畜具合に絶望していると、俯いて冷気を発してる雪ノ下の横に座る由比ヶ浜が焦った表情で何やら必死に口をパクパクさせていた。なにそれ、鯉のモノマネ?

 

「──! ──!」

 

 どうやら口パクで何かを伝えようとしてくれているらしいのだが、生憎と俺は読唇術の心得なんて持ち合わせていない。とりあえず、母音に変換して考えてみればいいか。ええっと……。

 

 『イオオ! オエエ!』

 

 ……気分でも悪いのだろうか。いや、母音だからか。これを今の状況に適した単語に変換していけば由比ヶ浜の言いたいことも分かると思われる。

 イオオ…イ、キ、シ、チ、ニ、ヒ……ヒ? ヒオオ……ヒモ………ヒモノ? 『ヒモノ! オエエ!』……違うな。これだと全国の乾物屋に喧嘩売ってるだけだわ。俺が途方に暮れて由比ヶ浜に視線を送ってみると、今度はなにやら自分の着物の袖をクイクイと引っ張って……って、そうか。

 

「……キモノ」

「っ……!」

 

 俺がぽつりと呟いた言葉に俯いていた雪ノ下が凄い勢いで顔を上げ、期待に満ちた眼差しを向けてくる。

 あー……、うん。流石の俺でも由比ヶ浜が何を伝えようとしてたのかようやく分かったわ。間違っても『キモノ! オエエ!』とかではない。つーか、言ったら殺される。

 

「その、雪ノ下が着てる振袖も似合ってる……んじゃね?」

「そ、そう?」

「おう」

「だから、どうして最後が疑問形になるし」

「うるせぇよ。察しろ」

 

 目を泳がせてそっぽを向く俺に、由比ヶ浜が呆れたような眼差しを向けてくる。しかし、その表情はどこか安堵しているようでもあり、なんというか手間のかかる我が子を見守る母親っぽい微笑みがなんともこそばゆいのでその表情やめてくださいお願いします。

 ちなみに、雪ノ下は俺が視線を逸らすのと同時に小さくガッツポーズしてた。見えてるから。そこはちゃんと隠して。でないと俺が恥ずか死んじゃう。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 それからも、俺たちはぽつりぽつりと言葉を交わした。

 元々、俺も雪ノ下も口数が多い方ではないし、自分から話を振るような性格でもなかった。なので、会話の切っ掛けはどうしても由比ヶ浜頼みだし、その話だって特別盛り上がったりするようなこともない。

 

 でも、きっとそれでいいのだ。思い返せば、かつての奉仕部での日々も似たようなものだったように思う。雪ノ下や俺が読書に耽って、それに由比ヶ浜が文句を言って、雪ノ下が折れて、俺も巻き込まれて……。そうやって、俺たち三人だけの世界は廻っていた。

 

 なんだかあの頃に戻ったかのようなこの空間に、知らず俺は居心地の良さを感じていて、そしてそれは俺だけじゃなかったのだろう。

 

「あ、あれぇ……?」

 

 不意に、楽しげに笑っていた由比ヶ浜の頬を涙が伝う。

 

「由比ヶ浜?」

「由比ヶ浜さん?」

「あはは……。おかしいな。あたし、なんで泣いて…っ……!」

 

 まるで堰を切ったように、涙が由比ヶ浜の目元から溢れてはぽろぽろとこぼれ落ちてゆく。

 

「ちがっ、ちがうの……。ただ、また奉仕部の頃に…っ……あの頃に戻れたみたいだなって、そう思ったらっ……」

 

 由比ヶ浜は何度も何度も振袖の袖で拭うけれど、止め処なく流れる涙は枯れることなく溢れ出す。

 

「嬉しくて…うれしい、はずなのに……」

「……由比ヶ浜さん」

 

 懸命に涙を堪えようとして嗚咽をもらす由比ヶ浜。そんな彼女に寄り添うように、雪ノ下が横から優しく由比ヶ浜を抱きしめた。

 それがトドメだったのかもしれない。雪ノ下に抱きしめられた由比ヶ浜が、まるで幼子のように声をあげて泣きじゃくる。そして気がつけば、俺も雪ノ下も静かに泣いていた。理由なんてわからないし、理屈で説明もできやしない。どういう感情で泣いているのかなんて表現できないけれど、不思議とこれは必要なことなんだと思えた。

 

 本当なら、もっと早くこうやって三人で向き合うべきだったのかもしれない。タイミングならいくらでもあったのだから。それなのに何もしてこなかったのは、俺が恐れていたからだ。

 一度背を向けた二人に、再び向き直るという後悔が。今更どの面下げて会えばいいのかという葛藤が。手を伸ばしたら、今度こそ壊れてしまうんじゃないかという不安が。俺は、また二人から逃げ出してしまうんじゃないかという焦燥が、二人に連絡するという選択肢を俺から奪っていた。

 

 あれから二年近くの歳月が過ぎ去って、どんなに表面上は取り繕ってみせても、こうして三人だけになればすぐにボロがでる。

 時間がすべて解決するというのは嘘だ。だからいま由比ヶ浜も雪ノ下も、そして俺も泣いている。有耶無耶にもできず、風化もせずに、俺たち三人の問題は今もここにあり続けていた。

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

………

……

 

 

 きっかけがなんだったのか、今ではもう覚えていない。

 きっと些細なことで、至極どうでもいい、何てことはないありふれたものだったのだと思う。

 

「……帰るか」

 

 高校三年生になって四月ももう終わろうかという時期だった。

 ある日、いつものように登校して、自分の教室の前までやってきた俺は、閉じられた教室の扉を何故だか開けることが出来ず、踵を返してしまった。

 

 体調が悪かった訳ではない。イジメられていた訳でもない。ただなんとなく気分が乗らなくて、軽い気持ちで学校を後にして、そのまま学校を休んで帰宅した。

 幸か不幸か、三年生へ進級して新しくなったクラスに知ってる奴はおらず、また新しいクラスメイトも俺に関わろうとはせずに、平塚先生のように積極的に俺へ関わろうとする教師もいなかった。

 

 次の日は、昇降口から下駄箱へと辿り着いたところで、どうにも靴から上履きへ履きかえることが億劫で、そのまま家に帰ることにした。その次の日は、校門まで来たところで自転車から降りるのが面倒で帰宅した。そんな風に、まるで何かに流されるようにフラフラと自宅と学校の間を行っては来たりを繰り返して、いつの間にか自分の家から出ることすらできなくなった。

 

 学校には毎回それっぽい理由を告げていたからか、俺の不登校がすぐに露見することはなかった。

 朝は小町よりも先に家を出ていたし、奉仕部が無くなったことで、俺が小町より先に家へ帰ってきていても、特に不振に思われることは無かった。……いや、訝しんではいたのか。俺が学校をサボり始めてから、小町はやたらと雪ノ下や由比ヶ浜のことを聞いてくることが多くなったのだから。そんな小町に辟易して、俺は受験勉強を理由にして家に居る間は極力自分の部屋へ引っ込んでいることが多くなった。

 

 俺が学校を休み始めてから一週間が経過して、学校から両親へと連絡がいき、俺が学校を休んでいることが家族に露呈した。

 その日の晩、親父と母ちゃんに理由を聞かれたけど、俺は答えることができずに押し黙った。ただ、イジメだとかではないことを説明して、休んでいる間も勉強もきちんとすることを条件に、俺は両親から学校を休む許可をもらった。

 

 そして、その日を境に俺は自分の部屋に引き籠ったまま、一歩も外へ出ることはなくなった。

 

 

……

………

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 由比ヶ浜のすすり泣く声だけが響いていた室内に、雪ノ下の少し上擦った声が割って入った。

 

「比企谷くん」

「……なんだよ」

 

 さり気なく目元を拭った雪ノ下が、少し赤くなった目で俺をじっと見据える。

 

「全てが自分の責任だなんて自惚れているようだけれど、それは違うわよ」

「違わねえだろ」

「違うわ」

 

 俺の否定を、雪ノ下が断ち切るように否定で返す。

 だが、こればかりは俺の問題で、その全ては俺に帰結するべきだ。

 

「俺が何もかも投げ出して、お前たちから逃げ出した。それが事実で真実だ。それ以上でも、それ以下でもない」

「ええ、そうね。けれど、あなたがそうなってしまった要因は私たち二人にあるわ」

「ねえよ」

「あるのよ。ある。結局、私たちは…私は、またあなた一人に押し付けただけ」

「違う! あれは俺が弱かったからっ」

 

 言い争う俺と雪ノ下を遮るように、それまで泣いていた由比ヶ浜が声を荒げる。

 

「違くないっ! 違く、ないんだよ……。そうじゃないの。ヒッキーだけのせいじゃない。あれは、あたしたち三人ともがダメだったんだよ……」

 

 由比ヶ浜が再び目尻にじわりと滲んだ滴を着物の袖で拭い、涙声で切実に訴える。

 

「本当なら…プロムナードの依頼が終わった後に、もっと踏み込むべきだった。向き合うべきだったの」

「だから、それは俺が逃げ出したからっ!」

「あたしだって逃げたもん! あのとき、ヒッキーの想いが誰に向いてたのか、ゆきのんの気持ちがどう動いてたのか、わかっちゃったから……それに耐えられなくて、あたしはヒッキーにも、ゆきのんにも一歩踏み出せなかった」

「それを言うのなら、私もそうなのでしょう。知らぬ存ぜぬで無知な振りをして、ただただ全てに甘える雛鳥のように、与えられるのを待っていただけ」

 

 懺悔するように、悔恨に苛まれる由比ヶ浜と雪ノ下の姿に、臍を噛む。

 止めてくれと、俺はお前らのそんな表情は見たくないのだと、そう言おうとして、それすら自己保身で自分勝手なエゴであることに気が付いて、そんな自分の浅ましさに嫌気が差す。

 

「……あなたが今自分に対して抱いている自己嫌悪の感情を否定するつもりはないわ。私だって自分のこの弱さは嫌いだもの」

「あたしだって自分のこんな醜い感情なんかイヤだよ……。でも、そこから逃げちゃったら、結局は二年前と同じになっちゃう」

 

 何度も歩み寄っては、大事なところで躊躇して足踏みして擦れ違う。それが二年前の俺たちだった。

 なにかと理由をつけて、言い訳を繰り返して、怯えて縮こまる毎日。そうこうしているうちに、俺たちは平塚先生の転任を機に居場所を無くしてしまった。

 あのとき雪ノ下が向き合おうとして目を逸らした気持ち。由比ヶ浜が踏み込もうとして踏み出せなかった一歩。そして、俺が手を伸ばそうとして手放してしまったナニか……。

 

「俺…は……っ!」

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

………

……

 

 

 奉仕部が廃部となっても俺たち三人は、当初は楽観していた。

 いや、違う。今思えば、そう思い込もうとしていただけだったのかもしれない。

 

 雪ノ下は元々在籍している科が違うし、俺と由比ヶ浜も文理選択の関係もあって別々なクラスとなった。

 それでも、偶に昼食を共にしたり、放課後に三人で勉強会をしてみたりして、奉仕部という繋がりが無くなっても、俺たちは大丈夫だと思おうとした。

 

 でもそれは、きっとただの強がりで、悪足掻きだったのだ。

 居場所を失った不安は日に日に大きくなっていき、やがて不安はありもしない恐れや不満を呼び寄せた。

 

 最初に押し潰されたのは、由比ヶ浜だった。

 

「ヒッキー……。今日は、二人で遊びにいこ?」

 

 喪失感を埋めるように、由比ヶ浜はその隙間を俺との時間で埋めようとした。

 

「ひ、比企谷くん。あの、ちょっとお願いが……」

 

 そしてそれは、雪ノ下も例外ではなかった。まるで競うように、二人は俺との関係を深めることで失ってしまったナニかを誤魔化そうとしていた。

 

「比企谷くん」

「ヒッキー」

 

 砂上の楼閣のように、俺たち三人の関係は脆くも崩れ去った。

 学校で会うたびにいがみ合う雪ノ下と由比ヶ浜。お互いが、相手のことを恐れていたのだと思う。それは幼い姉妹が自分の母親を取り合って喧嘩するような。相手に奪われたら、もう自分のことは見向きもしないのではないかという疎外感と、自分だけを残して何処かに行ってしまうのではという焦燥感、一人ぼっちにはなりたくないという孤独感。そういった感情が疑念に代わり、やがては憎悪となってすべてを狂わせた。

 

「雪ノ下、由比ヶ浜」

 

 そんな風に徐々に変わってゆく二人を前に、俺は何もできず、ただ流れに身を任せているだけだった。

 俺が手を伸ばしたら更に悪化してしまうんじゃないかと恐れて、俺が踏み出したらもう後戻りできないんじゃないかと怖くて、そんな言い訳を並べて現実から目を逸らしているだけだった。

 

 『大切』だから、失いたくなかった。

 失いたくないから、『大切』にしていた。

 そのはずなのに、気が付いたら何が『大切』なのか分からなくなっていた。

 

 そうして、雪ノ下とも、由比ヶ浜とも、自分とも向き合うことなく、俺は全てを放り出して逃げ出した。

 

……

………

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

「俺…は……っ!」

 

 ふと、高校を卒業してから今日に至るまでの日々が脳裏を過る。

 

 ──材木座の依頼で、俺はまた二人の前に立つことができた。

 ──陽乃さんたちのおかげで、俺は一人ぼっちになることがなかった。

 ──平塚先生と再会して、俺は今の自分を受け止められた。

 ──一色と小町の二人が、俺の背中を押してくれた。

 

 それだけじゃない。戸塚も、川崎も、三浦や海老名さんだってそうだ。あの日、俺がすべてを投げ出してしまったときからずっと、色々な人が俺の傍にいてくれた。

 ときには笑って、ときには怒って、ときには叱ってくれて、そうして俺はあの暗い部屋から出ることができたのだ。

 

「いまだに、『本物』が…なんなのかなんて、俺にはわからない」

 

 かつて、二人の前で咄嗟に口からこぼれた『本物』という言葉。

 あれほど渇望したそれは曖昧模糊としていて、結局は存在するのかもわからないナニか。

 

「雪ノ下に抱いた感情が、由比ヶ浜に向けた想いが、その答えなのかどうかも判然としなくて」

 

 結局、俺はどうしようもなくガキだったのだ。

 いくら図体ばかり大きくなっても、本の虫になって知識を詰め込んでも、肝心な部分は何一つ成長していやしない。

 

「目に見えないから怖くて、手で触れることもできないから恐ろしくて、それが何なのか理解できないから怯えていた」

 

 自分以外の誰かを受け入れるということが、どういうことなのか。

 自分を他の誰かに受け止めてもらうということが、どういうことなのか。

 

「いくら考えても論理も理論も理屈も通じなくて、通じないからそれが何なのか理解できなくて、また思考の海に溺れていく。ずっとその堂々巡りだった」

 

 それはまるで、なんでどうしてとあらゆることに理由を求める幼い子どものようなもので。

 そこに意味なんてないのに納得できなくて、意義もないのに固執して、嫌だ嫌だと駄々をこねる。

 

「雪ノ下」

「……比企谷くん」

 

 あのとき俺が雪ノ下に抱いた憧れは、『恋慕』と呼ばれる感情なのかもしれない。

 

「由比ヶ浜」

「ヒッキー……」

 

 あのとき由比ヶ浜に向けた親しみは、『親愛』と呼ばれる想いなのかもしれない。

 

「おかしいと笑ってくれてもいい。ふざけるなって怒ってくれてもかまわない」

 

 それでもこれが俺の偽らざる気持ちで、本音なのだ。

 碌でもないし、解決もしなければ、解消もされない。ああ、まるでいつか読んだラノベ主人公のようだ。ヘタレで、優柔不断で、一貫性もなくブレてばかりのクソみたいな主人公だった。けれど、今なら共感できる気がする。あれほど嫌悪した存在のはずなのに、自分がそうなろうとしていることに思わず自嘲してしまう。

 

「俺、比企谷八幡は──」

 

 理屈じゃなければ、理論も論理もありはしない。理由なんて知るか。説明なんてできる訳がない。考えて考えて考えて考えて考えて考え尽くして結局理解できないまま最後に残った感情がこれだったんだ。

 

 

 

 

 

「雪ノ下雪乃に恋をして、由比ヶ浜結衣に惚れている」

 

 

 

 

 

 *   *   *

 

 

 

 言ってやった! 言ってやった! 後のことなんて知るかバァーーーーカ!!

 そう開き直っていた三分前の自分をぶん殴ってやりたい。

 

「……比企谷くん?」

「……ヒッキー?」

「落ち着け。話せば分かる」

 

 やっぱりダメですよね。知ってた。

 いや、違うんだ。別にハーレムルートだとか、二股かけるとかそういう意味じゃないのよ。俺にそんな甲斐性は無い。なんなら自分を養う甲斐性すら無いまである。……我ながら情けねえな、おい。

 

「……はあ。それが、今のあなたの本心、ということでいいのかしら?」

「まあ、そうだな」

「サイッテー」

「ぐっ……」

 

 ですよねー。正直、俺もこの結論はどうかと思うし。反論の余地ないわ。

 でもですね。君らモテない男の心理というものを甘く見過ぎだよ。どうして物語の中の自称平凡主人公がハーレム状態になったときにウダウダぐずぐずして煮え切らない態度してると思う? 結論なんか出せる訳ねえんだよ。これまで一度も好意なんてものを向けられたことのない人間が、それを手放せると思うか? やっと見つけた居場所を自分で壊す勇気があると思うか? ねえよ。ない。そんなんあったら、とっくにリア充してるわ。どこぞの『え? なんだって?』なプリン野郎をみてみろ。ああやって何もかもグダグダにして、最後には全ての人間関係が崩壊して十年後くらいに後悔するのが関の山だ。

 

「わかってる。物語の世界じゃねえんだ。そんな答えが現実で受け入れられるなんて思っちゃいない」

 

 そうだ。それが分かっていたから、あのときの俺は逃げ出した。俺が選ぶことによって、どちらかが傷付くと知っていたから、選ばないという選択肢を選んだのだ。

 その結果、雪ノ下と由比ヶ浜の二人ともを傷付けて、一色や小町といった多くの人を巻き込んだ。

 

「だから、お前たち二人にひとつ依頼がしたい」

 

 俺の言葉に、雪ノ下が肩を震わせ、由比ヶ浜が目を見開いた。

 

「手伝ってほしい」

「手伝い?」

「俺たち三人の答えを見つけるために。その手伝いをしてほしい」

「手伝いでいいの?」

「ああ。『餓えた人に魚を与えるのではなく、捕り方を教えて自立を促す』それが奉仕部の理念だろ?」

「そう、ね」

 

 雪ノ下が考え込むように瞑目し、由比ヶ浜は何かを堪えるように俯いた。

 

「……期限は?」

「答えが見つかるまで」

「ホントに見つかるの……?」

「見つける」

 

 いくつかの応答の後、暫し黙考していた二人が目を開き、顔を上げた。

 

「……条件があるわ」

「あたしも」

「おう」

 

 目を細めて鋭利な眼差しでこちらを見据える雪ノ下と、眉根を寄せて頬を膨らませる由比ヶ浜。

 

「あなたたちに紅茶を淹れる役目は、私だから。譲らないわよ」

「むしろ、雪ノ下以外に適任がいないだろ」

「お菓子はあたしが持ってくるから。ちゃんと食べてよね」

「黒焦げじゃなければな」

「今度、あなたがオススメの本を教えてほしいのだけれど」

「任せろ。材木座の小説よりはマシなやつはいくらでもある」

「本ばっかり読んでないでさ。たまには、あたしにもかまってよ。ゆきのんもだからね!」

「ええ、分かったわ」

「分かったよ」

 

 気がつけば、三人揃って苦笑しながら、また泣いていた。

 きっと他の人から見れば、俺たち三人の在り方はひどく醜い関係なのかもしれない。共依存のように歪で、妥協と打算と惰性で構築された唾棄すべき繋がりのようなもので。それは俺が最も忌み嫌っていた上っ面だけの関係に似ているはずなのに……。

 

「比企谷くん。それに、由比ヶ浜さん。二人に伝えておきたいことがあるの」

「……うん。あたしも、ヒッキーとゆきのんに聞いてもらいたい事がある」

 

 雪ノ下が居住まいを正して、俺と由比ヶ浜に相対する。それと同じように、由比ヶ浜も向き直って俺と雪ノ下を見つめ返す。

 

 

 

「私、雪ノ下雪乃は────比企谷八幡に好意を寄せて、由比ヶ浜結衣を慕っています」

 

「あたし、由比ヶ浜結衣は────比企谷八幡が愛おしくて、雪ノ下雪乃が大好きです」

 

 

 

 そうして、どうしようもなく面倒臭くて、間違いだらけな俺たち三人の青春は再び動き出す。

 

 

 これは、そんな俺と雪ノ下と由比ヶ浜のある日の物語。

 



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