『呪われた王女と森の賢者』【完結】 (OKAMEPON)
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第一話『呪われた王女』

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 それは、遠い遠い……今となっては遥か昔の事──。

 

 世界を滅ぼそうとした一匹の悪い竜が居ました。

 その竜の名前は、ギムレー。

 とても大きくて誰よりも強かったギムレーは、数え切れない程の人々を殺し、多くの町や村を滅ぼしました。

 沢山の勇気ある人たちがギムレーに立ち向かいましたが、誰もギムレーには敵いません。

 人々はギムレーにただ怯え、神様に祈るばかりとなりました。

 

 ですが、中々神様は人の祈りの声には応えてくれず、ギムレーが世界を壊すばかり……。何時しか、最早人は滅びを待つばかりかと、神は人々を見放したのだと、そう人々の心に諦めが忍び寄ろうとします。

 

 しかし、神様は決して人々を見捨てては居なかったのです。

 神様は人々の中で最も強く心優しかった若者を選び、彼に力を与えました。若者は神様から与えられた剣と力でギムレーと戦い、見事討ち果たす事が出来ました。

 ですが……若者に神剣で胸を貫かれたギムレーは息絶える間際に【呪い】の言葉を遺したのです。

 

 

「忌々しきナーガの眷族よ! 

 この程度で我を殺せたなどと思い上がるなよ! 

 我は再び甦る! 

 幾百、幾千の年月が経とうとも、この世に人間が絶えぬ限り! 

 果て無き人の宿業は必ず我をこの世に呼び戻すのだからな! 

 今、この時よりお前の血は呪われた!! 

 我を戒めるナーガの封印が解けたその時には、お前の末裔は人々に忌み嫌われる獣と化すだろう!! 

 我が存在する限り永劫に解けはせぬ【呪い】を、子々孫々に至るまで受け継がせる罪に震えるが良い!!」

 

 

 そう高笑いを遺して、ギムレーは息絶えました。

 

 ……そして、世界には平和が訪れました。

 

 ギムレーを討った若者は人々から『聖王』と讃えられ、人々から願われて国を興しました。

 それが、虹の輝く国、『イーリス聖王国』の始まりです。

 

 しかし、聖王の血に掛けられた【呪い】は、それを隠す様に人々の口にのぼる事はなく、何時しか誰からも忘れ去られてしまったのです。もうこの世に生きる人々の中に、邪竜の【呪い】の事を知る人は一人も居ません。

 ですが、【呪い】は聖王の血脈の中で親から子へ、子から孫へと静かに絶える事なく受け継がれ続けていたのです。

 

 

 

 

 

 そして、それからとてもとても長い月日が経ちました──

 

 

 

 

 

 

■■■■■

 

 

 

 

 

 

 イーリス聖王国。アカネイア大陸を三分する国の一つで、広大な肥沃な土地を持つ、自然の恵み豊かな国だ。

 

 凡そ千年前に世界を滅ぼそうと暴れまわった邪竜ギムレーを退治した英雄……後に言う所の初代聖王によって建国され、初代聖王の時代から大体千年が経った今でも、版図などは時代によって異なれど、数多の国が興ってはやがて滅び行く栄枯盛衰の繰り返しの中で一つの国として生き残り続け、今も尚初代聖王の血を継ぐ聖王家によって統治されてきた。

 かつて初代聖王に邪竜を討ち世界を救う力を与えた偉大なる《神竜ナーガ》より与えられた神剣ファルシオンと、炎の紋章、そしてナーガとの契約の証として子々孫々にまで受け継がれ続ける聖痕が、この国の象徴である。

 また、《神竜ナーガ》を神と奉り信仰の要としたナーガ教の総本山としての側面を持ち、ヴァルム大陸のミラの大樹の上に住まう『神竜の巫女』と共に、イーリスの聖王家はナーガ教の信徒にとって現人神の様な扱いを受けていた。

 多くの神々や宗教が、信仰されてはやがて他の神との争いに敗れ力を喪い消えて行く中で、神竜教が千年以上もずっと強く信仰され続けたのは、偏に目に見える形での信仰の対象が存在したからなのかもしれない。

 

 聖王家及び聖王を君主として、地方領主や官吏や軍人などの貴族達が中心となってきた国家であり、それ故に血と慣習を尊ぶ面が強いのがイーリスの特徴であった。

 貴族制の下で長く存続した国家の宿命として、イーリスもまた貴族達の腐敗などの問題がそこらかしこで起こりつつも、それでもいきなり国が傾く様な事もなく、ゆっくりゆっくりと静かに傾いては少し持ち直すと言う浮き沈みを繰り返しながら今も尚続いていて。

 先々代聖王の時代は、一気に軍閥が拡大してしまったばかりか、隣国ペレジアとの大きな戦争を引き起こした結果、あわや国家存亡の危機……と言う所までイーリスは傾いてしまったが、先代聖王エメリナの尽力によって何とか復興を遂げ、先代聖王が流行り病で急逝した後を引き継いだ現聖王クロムによって国として安定した豊かさを取り戻していたのだった。

 

 初代聖王より伝わる、この世に一振りしか存在しない神竜の力を秘めし神剣──ファルシオンの担い手として選ばれ、そしてその深い懐と人々からの人望も厚いクロムは、初代聖王の再来との呼び声も高く。クロムの治世の間はイーリスも安泰であろうと、民達は皆そう思っている。

 だからこそ、そんな聖王クロムに嫡子たる娘が産まれた時には国中がお祭り騒ぎになったものであった。

 父譲りの深蒼の髪と瞳を持ち左眼に聖王家の証である事を示す聖痕が刻まれたその娘は、古の光の女神の名から『ルキナ』と名付けられ、優しい両親と周囲の人々からの愛情を一心に受けて、すくすくと成長していった。

 

 

 

 そして、ルキナが産まれてから十六年の時が過ぎる。

 ……それは奇しくも、かつて初代聖王が邪竜ギムレーを討ってから、丁度千年の節目を迎えようとしていたのであった……。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 バルコニーから見上げた空は、少し雲が掛かっていて春の柔かな陽射しを僅かに遮っていた。

 少し曇り空である事以外には、空模様は穏やかで。

 雲一つ無い快晴とまではいかなくても、今日と言う日を祝うには決して悪くはない。

 

 今日は、ルキナの十六歳の誕生日だ。

 イーリスの聖王であるクロムの一人娘と言う事もあって、ルキナの誕生日には毎年盛大な生誕祭が開かれているけれど。

 今日のそれは何時もとはまた違う意味がそこにある。

 イーリスでは、十六歳を迎えると成人として扱われる様になるのだ。王族として成人を迎えると言う事の重みは、言葉だけでは表現しきれないものがあった。

 

 しかし、幼少の砌より民を守り率いるべき王族としての確固たる自覚を抱き続けてきたルキナにとっては、その重みは粛々と受け入れるべきものであり、その覚悟はとうに出来ている。

 ルキナがそれ程までの強い覚悟を抱いたのには、聖王の血を継ぎその身に聖痕が刻まれし者であると言う事も勿論あるのだが、それ以上に、偉大な父と同じくルキナもまた神剣に選ばれし者であったと言う事が大きかった。

 

 聖王家、ひいてはイーリスと言う国の根本を支えるその剣に選ばれると言う事は、国一つを背負う事と同義である。

 元より、聖王クロムの一人娘である事から、ルキナが次代の聖王となる事は半ば確定されていた事ではあったけれども、ファルシオンに選ばれると言う事にはそれ以上の重みがある。

 歴代の聖王及び聖王家の者達の中で、ファルシオンに選ばれた者は驚く程少ない。

 が、選ばれた者達は皆『賢君』として後世に名を残していた。

 二代も続けてファルシオンに選ばれたその事実は、更なる繁栄がイーリスにもたらされる証なのであろう、と。

 そう誰もが考えているのだ。

 その重圧は計り知れないものではあるが、ルキナはそれから逃げ出そうとする事もなく、直向きに向き合い続けていた。

 

 しかし覚悟はしていても、やはり緊張はしてしまう。

 この日の為だけに誂えられた何時もよりも豪奢なドレスを身に纏い、バルコニーから祭りの活気に包まれた城下町の様子を眺めていたのだが、これから自分が背負わねばならぬものへと改めて考えを思い巡らせていたからか、どうにもやや緊張からか身体が固くなってしまっていた。

 こんな様を、民や臣下達に見せる訳にはいかないだろう。

 幸いセレモニーまではまだ時間があるので、緊張を和らげる為にルキナは中庭に出た。

 

 幼い頃から慣れ親しんでいる城の中庭は、ここを訪れる者は王族と庭師しか居ない為、人目を気にする事もなく時を過ごせるルキナのお気に入りの場所であった。

 王家付きの庭師の手によって丹念に整えられた庭は、民達の目を楽しませられる様に城の前に造られ解放されている大庭園とはその規模こそ劣れども、そこにある美しさと言うものに関しては一切負けていない。

 美しく整った庭はそこを飾る調度品に至るまで完璧に計算され尽くしており、完成した芸術品と同じである。

 今は春の花に彩られているが、夏には夏の、秋には秋のと、四季折々の景観がそこには現れる様にとなっていた。

 暫しの間花々を眺め十分に心を落ち着かせたルキナは、もう行かなくてはならないだろうと、中庭を後にしようとする。

 

 その時。

 何かの悍ましい呪詛の様な、そんな怨嗟に満ちた……何者かの咆哮が耳元で聞こえた様な気がした。

 それと同時に、自分の身の内で何かが割れる様に……或いは切れる様に壊れた感覚が走る。

 

 ── 何なの……? 

 

 今だかつて感じた事の無い感覚に、嫌な予感を覚えてルキナは思わず身構えた。

 そして、その次の瞬間。

 

 身の内まで焼け付く様な、まるで地獄の業火の中に生きながらに放り込まれたかの様な、そんな耐え難い灼ける様な痛みがルキナの全身を襲った。

 喉を焼き潰されたかの様な痛みから悲鳴を上げる事も出来ずに、ルキナはその場に倒れ込む。

 

 ── 熱い痛い苦しい熱い熱いアツいアツイ……!! 

 

 豪奢なドレスが砂に汚れるのにも構う事なんて出来ずに、ルキナは耐え難いその苦しみを少しでも和らげようとのたうち回るが、その程度では何一つとして和らぐ事はなく、寧ろ却って痛みは激しさを増すばかりであった。

 意識すら焼き切られそうになる程の激痛が、絶え間無くルキナを襲い続ける。

 身の内に焼けた鉄の塊を流し込まれそして掻き混ぜられているかの様なその痛みに、ルキナはともすれば狂いそうになった。

 

 ……そんな、永遠に続くかと思われた地獄の責め苦も、ふとした瞬間に途切れて。

 やっと息が出来ると、ルキナが苦しみでぐちゃぐちゃに涙を溢した顔で少し安堵していると。

 今度は灼け付く様な耐え難い痛みとはまた別の、もっと悍ましい痛みに全身を襲われる。

 

 何かが壊されそして捏ねくり回されているかの様な、巨大な手で無茶苦茶に潰されては引き伸ばされているかの様な、そんな異常な感覚に支配される。

 痛みの中で滅茶苦茶に狂った感覚の中、少しずつ衣装が酷く窮屈になっていく様に感じ、胸元の辺りを掻き毟ってしまう。

 だが、ドレスを少し乱す程度にしかならなかった筈のその指先は、まるで鋭い刃物で切り付けたかの様にドレスをズタズタに引き裂いてしまった。

 その異常に思わず、耐え難い痛みから絶えず溢れる涙と苦しみから霞むその目でルキナが己の手を見ると、それは到底己の手とは思えぬ……獰猛な獣の様な鋭く大きな鉤爪に指先が覆われ、そして指先から二の腕の辺りまでが蒼く銀に輝く鱗に覆われた、怪物の手の様なものに成り果てた『手』であった。

 理解出来ぬその光景にルキナの思考が驚き固まるその間にも、その視界の中でその手は更に人間の手の形を喪っていく。

 まるで地を駆ける獣の様に、関節の向きが音を立てて変わってゆき、ルキナの思う通りには動かせなくなっていった。

『怪物』……否、物語に出てくるかの様な『竜』の前肢の様に、ルキナの手は変じてしまって。

 そして、身体を駆け巡る異様な感覚が、異変はそれだけでは終わらないのだと訴えてくる。

 逃げる事も止める事も出来ぬ中、足も大きく変形していき、二足で自由に歩く事には向かぬ獣の後肢へと変わり果て。

 全身から新たに何かが生えてくる悍しい感覚と共に、ルキナの肌は鱗に覆われていく。

 耐え難い痛みに苦しみながら、ルキナは次第に自身の身体が大きくなっているのを感じた。

 身体の肥大に耐えきれなかったドレスは内側から裂け、最早衣服とは到底呼べぬ程の欠片の様な布切れとしてルキナの身体に纏わり付くか、或いは地に散らばるばかりで。

 全身が鱗に覆われ変形していくその感覚と共に、尻の辺りと背中の辺りからも異常な感覚が芽生え始めた。

 そして、背から尻へと続く異常な感覚は尻の辺りから長く伸びていくかの様で、それとは別に背中からも何かが生えていく。

 その全てに耐え難い激痛が伴い、ルキナは苦しさと恐怖からそれを確かめる事が出来ない。

 そして変化は、首元へそして顔の方へとやって来る。

 喉を恐ろしい力で握り潰されたかの様な痛みから悲鳴を上げられぬまま、首は長く伸びてゆき。

 そして唯一『異変』からは逃れられていた顔も、大きく口元が前に突き出していく形で変貌していく。

 霞むルキナの視界に、本来ならば見える筈の無い、獣の様に……否飛竜達のそれの様に変貌した口元が見えてしまう。

 自身が怪物染みた『何か』へと変貌していくその恐怖と混乱からルキナは正気を喪い狂い果ててしまいそうになるけれど、皮肉な事に耐え難い痛みの所為で正気を喪う事すら叶わない。

 

 痛みと恐怖で何もかもが壊れてしまいそうな生き地獄の様な時間は、唐突に痛みが完全に消失した事で終わりを迎える。

 だが、痛みは無くなったとは言え、身体に起こった異常は消えて無くなったりはしない。

 ルキナの視界の中で、手は『竜』の前肢へと変じたままで。

 そして、足もまた人間のそれとは異なる『竜』の後肢である。

 後肢だけでバランスを取る事は出来なくはないが、それでもその状態で歩く事は到底不可能で。

 歩く為には、獣の様に地に四肢を着けねばならない。

 

 何が起きたのか、自分がどうなってしまったのか。

 今のルキナには何も分からない、理解したいとも思えない。

 それでも……何も分からないままなのも恐ろしくて。

 ルキナは自身の姿を確認するべく、中庭の片隅に設けられている小さな池へと、のろのろと慣れぬ四つ足で歩き出した。

 そして覗き込んだそこに映ったその姿に、言葉を喪う。

 そこに映るのは、『竜』としか言えぬ生き物であった。

 

 飛竜達とも……ルキナが知る如何なる竜ともその姿は異なれども、今のそのルキナの姿を一言で表すならば『竜』としか言えないのだろう。

 水面に映ったその姿には、人間の面影など何処にもない。

 よくよく見てみれば、その瞳の色だけはルキナ本来の色をしている様であるが、それ以外にはこの『竜』と人間であるルキナとに重なる部分は何一つとして無い。

 

 信じ難いその光景にルキナは思わず悲鳴の様な叫びを上げた。

 だが、それはただの『竜』の咆哮にしかならず。

 それに驚いたルキナがどんな言葉を紡ごうとしても、その喉から出てくるのは獰猛な竜の吼える声と唸り声でしかない。

 人間としての姿のみならず人間の言葉すら喪った事を理解したルキナは、愕然と……まさに茫然自失となる。

 最早何がどうしてこんな事になったのか、何一つとして理解は出来なかった。悪い夢なのではないかと思うけれど、鱗を掻き毟ったその痛みは紛れもなく本物であるし、翼も尾も、紛れもなく自身の身体の一部であるのだとそう主張してくる。

 

 どうしたら良いのか、どうすれば良いのか。

 何も分からない、何も考えられない。

 

 ただただ己の身に起きた異常を飲み込む事すら難しく。

 何の前触れもなく『竜』のそれへと変貌した己の身体と……そして何も変わらない己の心と。

 それらは、未だちぐはぐで不安定にすら感じる。

 何度言葉を発そうとしても、それらは人間の言葉らしき音にすらならず、無理に絞り出そうとすればそれは、人間の言葉はおろか竜の鳴き声とするにも奇妙な……そんなまさに何物でもない音にしかならなかった。

 

 混乱に困惑と恐怖、そして不安に絶望。

 そんな負の感情がグルグルと渦巻いて、胸の内を黒く塗り潰していくかの様であった。

 

 だが、そんな一人正気を喪い狂っていきそうな時間は、騒がしく此方に向かってくる人々の足音によって途切れる。

 中庭に駆け付けてきたのは、ルキナも良く知る衛兵達で。

 見知った顔がそこにある事に、ルキナは安堵する。

 しかし──

 

「何て言う事だ……ルキナ王女は……」

 

 中庭を見回して衛兵長は絶句し、そして怒りと憎しみを込めた眼差しでルキナを射竦めた。

 見知った彼にその様な目を向けられた事の無いルキナは困惑して辺りを見回して……そして言葉を喪う。

 

 美しく整えられていた筈の中庭は、その面影すら喪われた程の惨憺たる有様へと変わり果てていた。

 庭師達が丹念に整えていた草花は根刮ぎ荒らされ、庭の調度はその殆どが無惨にも打ち砕かれ。

 巨大な何かが暴れ狂った痕の様な中庭には、ルキナが身に纏っていたドレスの無惨な残骸が散らばって、ドレス以外の装飾品も力任せに壊され捨てられたかの様に散らばっていた。

 更には、周囲には血も飛び散っていて。

 それはまさに、人が一人、獰猛な獣に食い荒らされてしまったかの様な様相を呈していたのだ。

 庭を荒れているのは、身が変貌していく苦しみと恐怖からルキナがのたうち回った結果、その尾や身体で草花や調度を壊してしまったからで。

 衣服が無惨な切れ端となっているのはルキナの身の変化に衣服が耐えられず裂けてしまったからで、それが辺りに散乱しているのもルキナがのたうち回っていたからだ。

 辺りに飛び散る血は、肉体が変貌していくその耐え難い痛みと恐怖に、ルキナがその身を鋭い鉤爪の付いた手で掻き毟り傷付けてしまったからである。

 しかし、その経緯を知る者は、この場にはルキナしか居らず。

 何も知らぬ者が見れば、獰猛な竜が、ルキナを襲い食い殺したかの様に見えるのだろう。

 

 

《ああ、何と哀れなルキナ王女!》

 

《十六の誕生日に、竜に喰われてその若い命を散らすなど!!》

 

《何たる無念、何たる悲劇!》

 

《ああ……斯くなる上は、この悪竜を討つ事でしかその無念は晴らせまい!!》

 

 

 衛兵達の脳裏に描かれるそれは、成る程それはまさに悲劇であり惨劇であるのだろう。

 まさか目の前に居るこの『竜』が、ルキナ王女を襲い食い殺した邪悪な「人食い竜」が、当のルキナ王女本人であろうとは、誰一人として思い至る事はない。

 

 何か弁明しようにも人間の言葉を喪ったルキナにそれが叶う筈も無くて、今こうしている間にも城内は騒然となり、中庭には衛兵や兵士達が武器を手に押し寄せて来ている。

 

『待って、違うんです、私がルキナなんです。

 お願い……信じて……』

 

 ルキナの言葉は、竜の唸り声にしかならず。

 それはまるで、自らに武器を向ける人々を威嚇しているかの様にしか、衛兵達には見えなかった。

 

 衛兵達の武器を握るその手に、敬愛する聖王家の……これから国を導く立場になる筈であった王女へと無惨な死を与えた『竜』への怒りと憎しみから力が籠る。

 竜の腹を捌けば喰われたルキナ王女を助け出せるのなら、きっと誰もが我が身を擲ってでもその腹を裂くのだろう。

 それ程の、怒りと憎しみがこの場を支配していた。

 

 ルキナはただ、狼狽える事しか出来ない。

 この場に於いてルキナだけは、それが誤解であると言う事を承知している。

 例え敵意と武器を向けられているのだとしても、それでどうして彼等へと牙を剥き爪を突き立てられるというのだ。

 だからどうにかこちらの事情を伝えようと努めるけれども。

 しかし、どうやっても人間の言葉を紡げぬこの舌と喉では、それは叶わぬ事であった。

 

 場の緊張が高まり、衛兵たちが『竜』へと狙いを定め引き絞った弓弦は今にも悲鳴を上げそうな程にしなっている。

 何か指示か動きでもあれば、直ぐ様何十と言う弓矢が『竜』の身を襲うだろう。

 その時は、今か今かと迫ってきていた。

 

 そして、その緊張が弾けそうになった瞬間。

 

 

「待て」

 

 

 その場を一瞬で収める程の、威厳と力に満ちた声が響く。

 靴音を高く鳴らして中庭に現れたのは──

 

『お父様……』

 

 ルキナの父にして、この国を導く聖王である、クロムその人であった。

 その右肩には聖王家の正統性を示す聖痕が鮮やかに刻まれ、その腰に在るのは唯一無二の神威の剣──ファルシオン。

 これ以上になく『聖王』としての威厳に満ち溢れたその姿は、ルキナにとっては憧れであり目標であった。

 

 そしてそんなクロムは、中庭の惨状に目をやり、そして『竜』へと目を向ける。

 そこにある感情を、ルキナは恐ろしくて直視出来ない。

 

『お父様……私は……』

 

 それでも。

 親子の、血の繋がりが『奇跡』を起こせるのなら。

 クロムは、この姿であっても、ルキナをルキナとして見てくれるのではないか、分かってくれるのではないか、と。

 そんな期待が胸の中で頭を擡げる。

 

 だがしかしそんな淡い期待は。

 クロムがその腰からファルシオンを抜き放った事で、無情にも断ち切られた。

 

「ルキナ……お前を助けられなかった父を、赦してくれ……」

 

 散らばった衣服の欠片へとそう瞑目したクロムは、次の瞬間、鋭過ぎる眼光で『竜』を射抜く。

 敬愛する父にその様な眼差しを向けられた事など無かったルキナは、反射的に身を縮こまらせるかの様に固まってしまう。

 その隙を逃さぬとばかりに、クロムはファルシオンを鋭く振り下ろした。

 まさに一条の雷光の如き一閃は、ルキナの左前肢を覆う硬い鱗を容易く切り裂いて血飛沫を辺りに散らせる。

 そして続け様に放たれた二太刀目は、ルキナの胸元を斜めに大きく深く切り裂いた。

 その痛みに、思わず竜の咆哮に似た悲鳴を上げたルキナは、とにかくその剣先から逃れようと、その一心で半ば本能的に翼を羽ばたかせる。

 

「逃がすな!  放てっ!!」

 

 空へ逃れようとするルキナへ、何百もの矢が射掛けられた。

 その殆どは硬い鱗に弾かれるが、何度も矢が当たり脆くなっていた部分などは鱗を砕かれその身に矢が突き立っていく。

 それでも十数本の矢をその身に受けながらもルキナは羽ばたき続け、遂には王城が遥か眼下に小さく見える程の高さまで逃れた。しかしファルシオンによって斬られた傷口からは絶えず血が溢れ落ち、斬られたそこは真っ赤に熱せられた火掻き棒を押し当てられているかの様な激痛と灼熱感が走り続けている。

 王城を飛び出した所で、行く宛などある筈も無い。

 それでも、ルキナは。

「死にたくない」と、その本能の声に従う様にして。

 行く宛も無いままに只管羽ばたき続けるのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 気が狂いそうな程の灼熱感に苛まれていた傷口も、今はぞっとする程に冷えきり……まるで『死』の指先がそこに触れているかの様にすら感じる。

 今も尚そこから命の砂が溢れ落ちているかの様な、そんな恐ろしい感覚だけがそこにあるけれど、それはきっと恐らくは気の所為では無いのだろう。

 

 城を脱出してから、何れ程の時間が過ぎたのだろう。

 何時の間にか空は分厚く黒い雲に覆われていて、時折雲の切れ間に雷光が走っている様に見えた。

 そして程無くして、行く宛も無く飛び続けているルキナの身を打ちすえる様に、天から叩き付ける様な雨が降り注ぎ始める。

 春の大嵐は、地上の全てを押し流すかの様な雨と、そして地に根を張らぬ全てを浚うかの様な大風を吹き荒れさせる。

 目の前が何も見えなくなる様な酷い豪雨の中で、今にも身体を押し流されそうな暴風の中で、『死』が迫り来るのをその身で感じ取りながら、ルキナはただ只管に飛び続ける。

 行く宛など無い。寄る辺もない。

 目的など、何も無かった。

 それでも自分でも抑えきれぬ『何か』に突き動かされる様に、或いは恐ろしい『何か』から逃げ出す様に。

 ルキナは無我夢中で翼を動かし続ける。

 

 それは、「死にたくない」と言う……「生きたい」と言う衝動からなのか。

 或いは、この様な人間ならざる姿に変じて……愛する父から剣を向けられ斬りつけられたその耐え難い心の苦しみから逃れようとしているのか……。

 答えなど無く、もう既に朦朧とし始めているルキナには、ろくに何も考えられない。

 

 何処かへ、ここでは無い何処かへ。

 

『死』のその指先を振り払おうとしているかの様に、或いは心を苛む全てを置き去りにしようとしているかの様に。

 ただ一心に飛び続けて。

 そして、それはある時点で限界を迎える。

『死』に心臓を鷲掴みにされたかの様なそんな悍ましい感覚と共に、翼はまるで鉛の様に重たくなり満足に羽ばたけなくなる。

 ルキナは次第に高度を落としていき……遂には、墜落するかの様に力尽きて地へと墜ちていった。

 

 墜落した先は幸いな事に森であった様で、『竜』の身体は木々の枝を巻き込む様にして少しその墜ちる速度を落として、嵐によってできていた泥濘へと叩き付けられるかの様に墜落する。

 下が泥濘であった為墜落の衝撃は和らげられていたのだろう。

 しかし、墜ちたその衝撃で身に突き立っていた矢の幾つかはその矢柄から折れる様に深く刺ささり、ルキナの身を深く抉る。

 申し訳程度に血が固まり僅かながら出血が抑えられていたファルシオンによる胸元の傷も、墜落の衝撃で再び開いた。

 

 どうにかこの場から動かねば、と。

 そう身を起こそうとしてもそれは叶わず。

 僅かに擡げたその身は、再び泥濘へと沈む。

 鉛の様に重い身体には、もう僅か程の力も入らない。

『死』の足音は、もう耳元までやって来ていた。

 

 

 ──私は、ここで死ぬの……? 

 ──こんな、誰も居ない……寂しい、冷たい……場所で……

 ──死にたくない……こんな所で、なんて……

 ──怖……い……、死に……たく……ない……

 ──だれ……か…………たす……けて……

 

 

 最早何も定まらぬ朦朧とした意識の中で、黒い服を来た『誰か』が自分に近寄ろうとしている様な気がした。

 ルキナへと武器を向けるかもしれない、ルキナを殺そうとするのかもしれない。

 そんな誰とも知れぬその者へと、ルキナは必死に訴えかける。

 

「死にたくない」「生きたい」「助けて」……、と。

 

 言葉を喪ったルキナの『声』が届く可能性など無い事など、既に朦朧としているルキナの頭に浮かぶ事は無くて。

 ただただ、その原始的なまでの「願い」を訴える。

 

 その『声』が、その『想い』が、その『意志』が、

 その『誰か』へ伝わったのか、それすら何一つとして確かめる事も出来ぬまま。ルキナは抗い難い『死』への眠りへと誘われ、その目蓋はゆっくりと閉ざされていく。

 

 

 

 誰かの暖かな手が、そっと優しく触れた様な……そんな気がしたのを最後として。

 

 

 

 ルキナの意識は、闇に塗り潰されていったのであった──

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第二話『神竜の森の賢者』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 聖王が御座す王都より東へ遠く離れたイーリス辺境の地。

 そこには人の手の入らぬ険しい深山幽谷と、その山裾に広がる広大な森があった。

 その地の人々はその森を含めた一帯を、『神竜の森』と……そう畏敬の念を籠めて呼んでいる。

 神竜を崇めるイーリスには神竜の名にあやかった地が多く存在するし、《神竜の森》と呼ばれる森は国内に多く存在する為、その森が本当に神竜に関係するのかは誰も知りはしない。

 しかし何であれ、人々に無意識にも畏敬の念を懐かせる神秘的な《何か》がその森にある事は確かなのだろう。

 

 人々が滅多に立ち入らぬ獣達の楽園の様なその森の奥深くに、人里から隠れる様にして一人の『賢者』が住んでいた。

 と言っても、その森の『賢者』は古くからその地に住んでいた訳ではなかった。

 

 かつて、『神竜の森』の袂にある複数の村で疫病が流行った。

 疫病の猛威を前にして、村は全滅の危機に瀕していた。

 王都から遠く離れた辺境の地であるが故に国からの救援はなく、医者も村から離れた街にしか居らずとてもそこまでは病人の身体が持たない。このまま村ごと滅びる運命なのか、と。

 神竜に祈る力すら尽きた村人達が絶望の中で朦朧と考えた時に、その旅人は現れた。

 何処からか流れてきた旅人は村の窮状を見るや否や、その疫病の特効薬を調合しその疫病を鎮めたのだ。

 村人達はその旅人を『賢者』と讃え、是非とも自分たちの村に滞在して欲しいと願い出たのだが、旅人に救われたどの村もそう言い出した事と旅人本人がそれを断った事もあって、結局その旅人は村に残る事は無かった。

 しかし旅人は、『村に住む事は出来ないが、この森に住まわせて貰えるなら』と答えた。

 ならばと村人達が集まって話し合い、『神竜の森』の中にあるとある館を、恩人である旅人に差し出す事に決めたのだった。

 

 その館は、かつてとある貴族が愛人を住まわせる別荘として作ったものであったのだが、その貴族も囲われていた愛人もとうにこの世を去っていて、今は持ち主も居らずほぼ手付かずのままに残されていたのであった。

 建てられてからそれなりの年月が経っていたとは言え、元は貴族が建てたもの。

 館の造りはとても確りとしていて、村人達が多少整備して掃除を行えば、立派に人が住める状態になったのであった。

 その館を住まいとして提供された旅人はいたく村人達に感謝し、それ以降も何かと村に何か問題が起これば力を貸してくれる様になった。

 人々は旅人を『森の賢者』として讃え、何時しかその名は村の外にまで広がり、時折遠方から『森の賢者』に逢う為に訪れる者も居る程にまでなった。

 

 

 そして、『賢者』が森に住まう様になってから、十数年の時が経った……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

「今日は……少し荒れそうな天気だね」

 

 空を見上げて呟いたその言葉に、反応を返す者は居ない。

 それはここ一年程変わらぬ事なのだけれど、未だに少し寂しさを感じてしまうのは、ここが人の気配など自分の他にある筈もない森の奥深くだからだろうか。

 そんな事を想ってしまう自分に僅かな寂しさを感じると共に苦笑を浮かべ、ルフレは黙々と井戸から水を汲むのであった。

 

 頼れる者は周りには居らず、可能な限り全てを自分で完結させる必要がある為、森での暮らしは決して楽ではない。

 母と二人で過ごしていた時には分担していた事も、今は全てルフレが一人でやらねばならぬのだ。

 それでも、ルフレはこの生活を苦とは感じていなかった。

 森は恵み豊かで薬草も食料も確りと確保出来るし、有り難い事にルフレにはこんな森の奥にはそぐわない程の立派な家が……家と言うよりは屋敷と言った方が良い程の住処がある。

 時には森の周りにある村々へと訪れて薬師として医師として呪術師として村人達を助けに行くし、時折ではあるが態々こんな森の奥にまで『森の賢者』の名を頼りに訪れる者も居る。

 人との交流が全く無いと言う訳ではなく、世情に敏感とまでは言えずとも、人の世の流れから隔絶されている訳でもなくて。

 その程々の穏やかな交流は、ルフレにとって心地良いものだ。

 更には、亡き母の跡を継いだルフレは自然と母へと贈られた『森の賢者』と言う称号をも引き継いでいて。

 母の名を頼ってきた人々に、母の代わりに力を貸す事も多い。

 

 知識の泉を湛えているかの如し智慧の持ち主だった母と比べると、ルフレはその知識もその経験もまだ物足りなく感じてはしまうけれど、それでも何とかその称号に恥じぬ様には努めてきたつもりである。

 だからなのか、母ではなく「ルフレ」の名を頼られる事も、ここ最近はあった。そんな人々の声に応えるのは、ルフレにとって小さな幸せの一つにもなっている。

 そして、人里離れた森の奥深くとは言えども、屋敷には母が遺した膨大な書物や手記があるしそこから学ぶ事は多い。

 退屈などは感じる暇すらないのである。

 時に人恋しくなる事はあるが、かといって住み慣れた母との思い出が色濃く残る愛着のあるこの屋敷を出てまで村に住みたいともルフレは思っていなかった。

 朝食の用意をして、屋敷の裏手にある母の墓に近くで摘んだ花を供えて、朝食を食べ終えたら洗濯をして、畑の世話をしたら、森に入って薬の材料となる草花などを集めたり或いは弓を片手に狩りを行う、屋敷に帰ったら薬の調合などを行い、寝る前には書物を読む。

 そんな日々の繰り返しも、物心ついた頃からのものなのでもう慣れたものである。

 

 昔と違うのは、そこに母の姿が無い事だけだ。

 

 物心ついた時からルフレは母と二人でこの森で暮らしていた。

 母は昔の事をそう多くは話さなかったけれども、かつてまだ乳飲み子のルフレを抱えて放浪中だった母が近くの村々を襲った疫病を鎮めた事や、それを切っ掛けとしてこの森の奥の屋敷に住まう事になったとは、聞かされた事がある。

 何故、乳飲み子のルフレを抱えて宛なき放浪の旅へと出ていたのかは、母は決して話してくれなかった。

 存在する筈であろう自身の父の事も、そして母の生まれ育った地の事も、何も話してはくれなかった。

 ……世の中には、不幸な結果として生まれる命もあるし、また生まれ育った地に良い思い出がない事もある。

 だから、母が話そうとしないのならそれはそれで良いのだろうと、そうルフレは思っていた。

 父が居なくとも母が居たし、そこに不満も大きな疑問も感じる事もなくて。『賢者』と呼び表される母の姿に憧れたルフレには、日々の研鑽の方が自分の出自やらと言った些末な事よりもずっと大切であった。

 

 ……しかし一年前、母は病に倒れて帰らぬ人となった。

 

 母の病は人に移る事は無いが特効薬の存在しないもので。

 精々、病による苦しみを軽減させてやる事位しか、ルフレに出来る事は無かった。

『死』が近付いてくるのが理解したくなくとも分かってしまう程に日々窶れていく母の枕元で必死に薬を調合していたあの時の事を、今になり振り返ってもあまり上手くは思い出せない。

 

『死なせない、死なないでくれ』とそう祈り必死に看病していても、他でもない母と共に学び培ってきた知識は母のその状態が最早手の施しようの無いと言う事を囁いていく。

 それを必死に振り払って、何とか出来ないものかと死に物狂いで足掻いてみても、零れ落ちていく命の砂を戻す事はおろか止める事すらも出来なくて。

 あれ程、自身の無力を痛感した事は無い。

 

 最期はせめて安らかに逝けるようにと、その晩期には痛みを抑える薬ばかりを作っては飲ませる事しか出来なかったが。

 ……果たしてそれで本当に良かったのかと、今でも詮無い事と知りつつもルフレは思ってしまう。

 きっと、優れた薬師であり呪術師でもあった母は、ルフレなどよりもずっと自分の状態を正確に把握していたのだろうし、ルフレが調合した薬の意味も分かっていたのだろうけれど。

 ルフレが調合する薬に何時も、ただ「ありがとう」と、そう一言だけ返して黙って飲んでくれて。

 ……最後まで、嫋やかさの中に凛とした確かな芯を感じさせる……そんな幼い頃から憧れ続けていた姿のまま、母は逝った。

 

 ……あれから一年。

 もう大分心の整理と言うものは着いてきたが、やはりまだ何処か心に穴が空いてしまった様な、そんな気持ちになる。

 寂しさにも似た気持ちを抱えながら、ルフレは今日も森の奥の屋敷で暮らしていた。

 

 

 一通りの家事を終えて今日の分の調薬を終えた頃合いで、ルフレが予想した通り、薄曇りであった空が急に暗くなってきたかと思うと強い風と雨がやって来た。

 春先の大嵐は次第に激しさを増し、時折遠くで雷が落ちた様な音すら伴っている。

 まだ陽の光がある時刻だと言うのにも関わらず辺りはすっかり暗くなっていて、とてもでないが出歩こうとは思えない。

 幸い畑には激しい雨風で荒れぬ様に麻布を被せてあるし嵐に対する備えは出来ている。

 故に、こんな時は屋敷の中に籠もるに限るとばかりに、ルフレは書庫に引き籠もると本の世界へと旅立ったのであった。

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 不意に光源となる火がユラリと頼り無く揺れた事で、そろそろ灯りに油を継ぎ足さなくては、とルフレは意識を本の世界から現実の世界へと呼び戻した。採光窓を雨風が叩く音が却って集中力を高めていたのか、随分と本にのめり込んでいたみたいで、机の脇には読み終わった本が何冊も積み重なっている。

 椅子から立ち上がり、凝り固まった肩や腰を解す様に大きく背伸びをし軽く身体を動かした。

 いつの間にか雨風の音が止んでいる気がして、油を継ぎ足しに書斎の外に出たついでで、廊下の雨戸を少し開けて外を見る。

 伺い見た外は、あれ程激しかった雨風の痕跡など全く無いかの様な穏やかな闇夜がそこに広がっていた。

 書斎に籠もり始めたのはまだ日が中点を過ぎた位の頃の事だと思うのだけれども、いつの間にか日も暮れていた様だ。

 

 窓の外を眺めていたその時。

 ふと、妙に獣達の鳴き声が騒がしい事に気が付いた。

 縄張り争い……にしては、どうにも様子がおかしい。

 何時にない森の様子に、ルフレは強い胸騒ぎを感じる。

 一刻も早くそこに行き何が起きたのか確かめなくてはならないと、何故か心の声はルフレを急かそうとする。

 ルフレはその心の声に逆らう事なく、カンテラだけを手に屋敷を飛び出した。

 

 

 獣達の騒ぎの中心は、どうやら屋敷の裏手の方向である様だ。

 屋敷の裏手からほんの少しばかり離れた所には、少し森が開けた場所がある。

 獣達の唸り声や鳴き声の大きさなどから推測するに、彼等が騒いでいるのはそこだろうか? 

 一体何が起きたのかは分からないが、この騒ぎ方は尋常のモノでは無い事だけは確かだ。

 

 嵐は過ぎ去り、荒れ狂う様に唸っていた風は凪いだ様に静まってはいるが、未だ大きな雲が月を隠してしまっているらしく、星明かりだけが夜の森を薄暗く照らしていた。

 カンテラの灯りで暗い道を照らしながら、獣達が騒めく方向へと、何故だか急かす心のままに周りを警戒しつつも急ぐ。

 そう離れていない事もあって、程無くしてルフレは獣達が騒いでいた場所へと辿り着いた。

 そして、そこにあった光景に思わず瞠目して息を呑む。

 そこにあったのは、まさに『異様』と言うべきものであった。

 森の開けた場所を取り囲む様に、様々な獣達が警戒を露に唸ったり何処か怯えた様に忙しなく周りを動き回っている。

 そして……。

 

 その中心に一匹の『竜』がその身を泥濘の中に横たえていた。

 

 ルフレが知っている飛竜達とは身体の作りからして全く異なるその『竜』は、まるでお伽噺の挿し絵の中から抜け出てきたかの様に、何処か非現実的で……。

 ルフレが知るどんな生き物とも異なるのに、まさに『竜』としか表現のしようが無い生き物であった。

 

 古の書物の中に名前だけは残っている、かつてこの地にも居たとされる火竜や氷竜と言った野生の竜たちの生き残り……なのだろうか?  それとも、竜の姿も併せ持つとされる《マムクート》と呼ばれる人々なのだろうか……? 

 ふとルフレが思考の海に沈みそうになったその時。

 雲の切れ間から、柔らかな月明かりが森へと降り注ぐ。

 月光に照らし出されたその『竜』の姿に、ルフレは思わず息をする事すら忘れて魅入ってしまった。

 

『竜』は、剰りにも美しかったのだ。

 

 月灯りに蒼銀に輝く硬質な鱗に全身を覆われ、ルフレの身体など容易く噛み砕いてしまえそうな大きな顎門に、鍛え上げた鋼でも切り裂いてしまいそうな鋭い爪を持つ前肢と、地を力強く踏み締める強靭そうな後肢を持ち、その背からは鳥のそれにも似た蒼みを帯びた白銀の羽根に覆われた翼が生えている。

 脆弱な人間にとってはこの上無く恐ろしい姿をしているのかもしれなくても、その『竜』はこの世の何よりも美しい生き物である様にルフレは感じてしまった。

 

 だが、『竜』は傷付き果て、今にも力尽きようとしていた。

 

 十数本の矢がその身を包む鱗を穿ち砕いて突き立ち、その内何本かは矢柄から折れる様に深く刺さっている。

 だが、そんな矢傷以上に深刻なのは、『竜』の胸元を斜めに一閃した深い斬り傷であった。余程の業物で斬られたのだろう……硬い鱗をものともせずに刻まれたのであろうその傷は、傷口周りで固まった血にドス黒く汚れている。

 遠目からでも傷口の状態を見るに、恐らく傷を与えられてから数刻は経っている筈なのに、止血が追い付かないのかそれとも動く度に傷口が開いてしまうのか、今も尚その傷口からは絶えず血が零れ、『竜』の美しい蒼銀の鱗を赤黒く汚していた。

 

 胸元の傷を庇う様に泥濘の中に『竜』は伏せていて、鞭の様に長くしなやかな尾は力無く地に投げ出され、翼は畳まれる事も無く泥濘へと伏せられていた。よく見ると、庇われている左腕にも、胸元のそれに似た酷い傷が刻まれていた。

 苦しいのかその呼吸は荒く、ルフレの接近に気付いていても最早首をもたげる力すらも無いのだろう。

 ただ、苦しみからか何処か焦点の定まらぬその蒼い瞳が、ルフレを見詰めていた。

 

 ……このままでは、そう遠くない内にこの『竜』は間違いなくその命の灯を絶やしてしまうであろう。

 最早『死』が『竜』の魂を刈り取るのは時間の問題だった。

 しかし、命の灯火が儚く消え行く間際でありながら……『死』の匂い濃くを漂わせても尚、迫る『死』の気配ですら『竜』の美しさを損なわせる事は出来なかった。

 

 ルフレが痺れた様に身動きも忘れて『竜』に魅入っていると。

『竜』はその喉から苦し気に唸り声を絞り出した。

 

 ルフレの耳にはそれは唸り声にしか聞こえないけれども、何故だかそれは敵を威嚇するものだとは思えなくて。

 何処か救いを求める声であるかの様に、ルフレには聞こえた。

 そして、『竜』は僅かに首を動かし、魅入られた様に自身を一心に見詰めているルフレを、確りと見詰め返す。

 宝玉をそのままそこに嵌め込んだ様な美しい蒼い瞳がルフレへと焦点を結び、何かの意志をルフレへと訴えようとしていた。

 

《死にたくない》と、《生きたい》と。

 

 そんな『生』への渇望の熱を強く強く帯びた眼差しが、ルフレを捉えて離さない。

 ……だが、とうとう力尽きたのか。

『竜』は僅かに持ち上げた頭を再び泥濘へと伏せ、その美しい瞳は瞼の奥へと閉ざされる。

 慌ててルフレが『竜』へと駆け寄り、硬い鱗に覆われた頭へと手を触れても、『竜』は身動ぎ一つ返す事も無い。

 

 

 だがそれでも、『生』への執着を表す様に苦し気に荒く弱々しい呼吸を必死に繰り返す『竜』の姿を見て。

 

 

 ルフレの心は、迷う事なく定まった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 急ぎ屋敷に引き返し、ルフレは薬や包帯代わりになりそうな布や治療の杖といったものをありったけ持ち出し、桶に井戸から汲み上げた水を張り、大鍋に火をかけて煮沸して清潔を確保した湯を用意する。

 どうやって塞ぐにしろ先ずは傷口を洗ってやらねばならない。

 泥濘の中から場所を移した方が良いが、意識を喪った『竜』の身体をルフレ一人ではどうやっても動かす事は出来そうに無いので、そこは諦めるしかなかった。

 何度も井戸とを往復しながらも、何とか傷口の泥や血の塊を洗い落としてやる事が出来た。自分が泥に塗れるのを厭わず、ルフレは『竜』の胸元に潜り込む様にしてその胸元の傷を確かめる。遠目から見ても酷いものだと判じる事が出来る傷であったが、改めて近くで確認するとこの傷でよくここまで逃げてきたものだと驚く程のものであった。

 硬い鱗をも綺麗に切り裂いたその太刀筋は深く『竜』の身を傷付けていて、辛うじて臓器こそ傷付いてはいなかったがその傷は肋骨近くにまで達していた。

 分かってはいたが、やはり『竜』の傷は人の手によって付けられたものなのだろう。

 何処でこの傷を負ったのかは分からないが、少なくともこの辺りにある村ではないだろうし、その身に突き立つ矢はこの辺りで流通するそれとは違う為この地方でもない可能性が高い。

 恐らくは何処か遠く離れた場所から逃げてきて……そしてこの辺りで力尽きたのだろう。

 

 この『竜』が何故人から武器を向けられる事になったかなど、その場を知らぬルフレには分かりようもない事だ。

 人を襲ったのかも知れないし、或いは運悪く人里に迷い込んでしまったのかもしれないし、或いは『竜』に何の瑕疵も無くとも人に住処を追われたのかも知れない。

 所詮、その全ては推測にもならぬただの想像でしかない、

 だが、ただ一つ確かな事として、今この『竜』は命を落としかけていて……そして自分にならばそれをどうにか留める事が出来るのかも知れないという可能性がそこにある。

 だからこそ、一度「助ける」と決めたルフレには、この『竜』がどの様な経緯でこの傷を負ったのかなど些末な事であった。

 

 しかし……「助ける」とは決めたものの、治療したからと言ってこの『竜』の命が助かる可能性はルフレの見立てでは五分五分と言った所だろう。

 傷口を塞いだところで喪った血を戻してやる事は出来ないし、抵抗力が落ちれば傷口が膿んでそれが元で死ぬかも知れない。

 人間に比べれば多少血を多く喪っても直ぐ様死に至る事も無いだろうが、ある程度以上の血を一度に失えば死に至るのはその身に血が流れる生き物である以上は変わらないだろう。

 傷口を診た所で具体的にどれ程の血が流れてしまったのかは分からないし、そもそもこの大きさの『竜』の場合どの程度の出血で命に関わってくるのかの知識もルフレには無い。

 牛や馬と言った家畜なら治療の知識も経験もあるけれども。

 飛竜ですら本の知識でしか知らぬルフレにとっては、『竜』の治療と言うのは未知の領域である。

 それでも、迷い手を止めている暇は無いのだ。

 無我夢中で、必死に知識を繋ぎ合わせながら治療を進める。

 

 胸元の傷を丹念に洗い可能な限り清潔を保ち、そこに治療の杖を使ってその傷口を塞いでいくが、それは応急的に薄く塞ぐ程度に留めておく。

 治療の杖の力は確かだが、その力は傷口を塞ぐと同時に少なくない体力をその者から奪う。生き物が元より持つ治癒力を活性化させる事で、治療の杖はその力を顕すものだからだ。

 こんな、今にも力尽きて息絶えそうな状態の『竜』に対してその力を十全に使うとなると、傷口を完全に塞ぐ事と引き換えにその命を奪う結果になりかねない。

 それ故にルフレは、血が流れ出ない程度に塞ぐだけに留めておいて後は時間をかけて癒やしていくべきだと判断した。

 傷口が完全に薄く塞がりもう血が出ていない事を確認してから、そこに化膿防止と治癒促進の効能がある薬を塗り、清潔な布を当ててやってから裂いたシーツを包帯代わりに巻く。

 

 左腕の傷口も同様に手当をした後で矢傷の方へと取り掛かる。

 直接的に命に関わるものでは無さそうだが矢傷も酷いもので、早くに治療しなければ膿んだ傷口から腐っていきかねない。

 傷口を塞ぐにもとにかく鏃を取り除いてやらねばならないのだが、返しのついたそれは一筋縄では取り除けなかった。

 無理に引き抜こうものなら、周りの肉や血管を引きちぎってしまい余計に酷い傷になるだろう。

 

 仕方なくルフレは、返しを安全に引き抜ける程度に、その傷口を持っていたナイフでほんの少し切り開く。

 矢に砕かれて体内に入り込んでいた鱗の欠片も丁寧に取り除いてから、胸元や腕の傷口と同じ様にそれを塞いでいく。

 

『竜』の身に刺さった全ての矢を取り除き、全ての傷口を塞ぎ終わった時には、すっかり夜も更けていて後数刻もしない内に空も白み始めるだろう頃合いになっていた。

 

 ルフレは、今しがた治療を終えたばかりの『竜』の姿を改めて観察する。全身の至る所に包帯代わりにシーツを巻き付けられたその姿は痛々しいばかりで、弱々しい吐息は今にも途切れてしまいそうでもある。

 やれるだけの事はやったが……助かるかどうかはまだルフレにも分からない。

 傷口の処置をしている間も『竜』の意識が戻る事はなく、痛みに対しての反応も微々たるもので。

 暴れてこない事に関しては有り難くもあったが、麻酔もなしにここまで痛みへの反射的な反応すら返さないのはその状態の悪さを物語っていた。

 荒々しかった呼吸も次第に弱々しい浅く早いものになっていって……このまま掻き消えてしまいそうでもある。

 傷口は塞ぎはしたが、それまでに喪った血をどうにかしてやる事は出来ない。

 ……最早助からない命に対し、苦しむ時間を徒に長引かせるだけにしかならないのかもしれないが……。

 それでもやはり、『死にたくない』と……そう「生」への渇望を訴えるあの眼から、目を反らす事など出来なかったのだ。

 ……後はもう、『竜』が目覚めるまで祈りながら見守る事しか、ルフレに出来る事はない。

 

 

 どうか助かりますように、と。

 ルフレは祈るように、『竜』のその鼻先を優しく撫でるように触れたのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第三話『竜の娘』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 焼け付く様な灼熱感と同時に、生命までもが凍り付きそうなそんな悍しい寒さを感じる。

 まるで、幼い頃に城の書庫で読んだ本に書かれていた地獄に、生きながらに落とされているかのようだと……燃え尽きそうな思考の片隅でふと考えてしまった。

 指先から次第に熱が奪われていき、その凍り付く様な冷たさはもう脈打つ心臓にすら届こうとしていて……最後に残ったその熱が消え去ったその時が、きっと自分の「終わり」なのだろうと、理解を拒みたくともそう分かってしまう。

 冷たく凍えていく心に比例する様に、「死」の足音は静かに迫ってきていて。恐くて恐くて……ここから逃げ出してしまいたいのに、何をしても身体はピクリとも動かない。

 

 時間の感覚など狂っている世界では、立ち止まる事無く近付いて来ている筈の「死」が、まるで永遠に引き延ばされているかの様でもあり……その永劫に続いているかの様な恐ろしい時間が心を蝕んでいく。

 抵抗しようとする気力すら尽きかけたその時。

 ほんの指先程度の……しかし凍えきった心身には十分に過ぎる程の温もりが、胸元に僅かに触れた様な気がした。

 そして、その温もりはゆっくりと静かに……だが確実に、全てが凍り付く様な冷たさを拭い去る様に追い払っていく。

 何時しか、耳元にまで迫り喉元を撫でようとしていた「死」は、まだその気配は消えはせずとも遠ざかり、心まで凍り付かせていた冷たさは優しい温もりによって払われて。

 身を焼き焦がす様な灼熱感も、穏やかな温もりによって薄められるかの様に鎮まっていき、完全には消えずとももう息すら儘ならぬ程の苦しみからは解放された。

 そして、やがて優しい温もりは静かに離れていったが、しかしその気配は近くにあって。遠くであっても「死」の気配が消えない不安や恐怖を、優しく打ち消してくれるかの様だった。

 

 その温もりの気配に安心したからか、トロトロと……まるで暖かで穏やかな春の陽射しに包まれているかの様に、優しい眠りの気配に包まれていく。眠りは「死」に近付く事であるけれど、この温もりが傍に居てくれるなら、怖くは無くて。

 だから、穏やかで安らかな眠りの淵へと、ゆっくりと沈んでいくのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 あれから三日三晩経ったが『竜』が目覚める事はなかった。

『竜』は身動ぎ一つする事も無く、眠り続けている。

 あの大嵐が近くの雨雲を全部吹き飛ばしていったのか、幸いな事にあの晩から雨が降る様な事もなく、『竜』は野晒しの状態ではあるが問題なく傷口は塞がったままである。

 意識が戻る事はなかったが、所謂「峠」は越えられた様で、弱々しく消えそうだったその息も、今は小さいながらも静かに落ち着いたものになっている。

 念の為化膿止めを塗っていたからなのか、或いは『竜』が人間よりも頑丈だからなのか、心配していた傷口の化膿も引き起こす事もなく経過自体は良好な様だ。

 

 ……とは言え、このまま目を覚まさなければ、何も口にしていないだろう『竜』は何れ弱って死んでしまうだろうが……。

 どうにかしてやりたいとは思うものの、こうして『竜』の目が覚めない事にはどうにも出来ないし、『竜』が目を覚ました所でルフレ自身が餌として襲われてしまう可能性も否めない。

 ここは付近の村からも大分離れているので、ちょっとやそっと『竜』が暴れた程度では誰に迷惑がかかると言うものでもないが、万が一にもこの『竜』が人を好んで襲い喰らおうとする様な「人食い竜」だった場合は……可哀想ではあるしルフレとしても助けた手前心が痛むが、『竜』が人里を襲わぬよう、ルフレが責任を持って『竜』を殺さねばならないだろう。

 そうならない事を願うが、何にせよ『竜』が目覚めない事にはどうにもならない。

『竜』が何時目覚めても良いように、ルフレは時間さえあれば『竜』の傍で過ごしていた。

 

『竜』の事が気に掛かるとは言え、四六時中『竜』だけを診ている訳にもいかない。

 特に、何時目覚めても良いように『竜』に与える食料は蓄えておく必要がある。

『竜』の歯や顎の形を見るに肉食か或いは雑食であろうと当たりを付けて、ルフレは連日森で狩りや採集に勤しんでいた。

 野生の獣なのだから血の滴る生肉が一番なのだろうけれど、流石にそのままでは日持ちしないので、狩った獲物は一日置いてから燻製にして保存している。

 かなり弱っているであろう『竜』がいきなり燻製肉を消化出来るのかは分からないけれど、もしも殆ど食べられそうにない程に弱っているのなら、柔らかく煮込んでから与えてみるのも良いかもしれない。……ただその場合も、人の手が入ったものを『竜』が食べてくれるのかと言う問題もあるのだが……。

 

 元々、半ば発作的とも言える衝動で『竜』を治療したが故に、今後に対する計画性などは今の所は何も無くて。

 勿論『竜』を助けた事自体には何一つとして後悔などしてはいないのだけれども、どうにも将来的な部分に関してはまだ考えあぐねてしまっている。

 何はともあれ、『竜』が目覚めない事にはどうにもならない。

 楽観視し過ぎるのは当然良くないが、今の時点であれやこれやと悪い方悪い方へと考える事もまた愚かしい。

 その時その時に応じて考え対応していくしかないのだから。

 

 そんな事を考えながら、ルフレは森の奥で仕留めた若い牡鹿の血抜き処理を行っていた。

 首を一矢で射抜かれた鹿はとっくに絶命していて、首を切って木に逆さに吊られていても身動き一つしない。

 辺りに血の匂いが充満し、森の獣達がおこぼれに預かろうと集まって来ているのは感じるが、彼等は獣除けに焚かれた火とそこで燻された特殊な調合薬の煙によって近寄れない。

 血抜きの終わった鹿を、ルフレは大まかに解体し始めた。

 細かい部分の処理は屋敷の方へ帰ってからするのだが、鹿の様な大きな獲物だとそのまま抱えて持ち帰るのは難しいので持ち運べる様にある程度の部位に分けておく必要がある。

 手馴れた手付きで解体用のナイフを振るい、バラバラになった肉の塊を縄で縛って背負った。

 解体した時に余った肉片や臓物の類は森の獣達への分け前としてその場に置いていくのが、ルフレの中での「決まり」だ。

 

 ……瀕死の所をルフレに助けられた『竜』と、ルフレによって狩られこうして肉として食われる鹿。

 そのどちらもが同じ一つの命であり、そこに命としての「価値」の重さに変わりはないのだけれども、その命運は真逆だ。

 生きるとは決して平等な事ではなくて、こうして他の命を奪わねば命は生きてはいけない。

 生きると言う事は、そして何かを助けると言う事は、決して綺麗事では無くて、生きていればその手は血に汚れていく。

 ただ……、それを当然と感じただ他の命を貪るのか、或いは儘ならぬそれを受け入れてもそこに「敬意」と「感謝」の気持ちを抱く事を忘れずに生きるのか……、そこに『人』としての心の尊厳があるのだと、かつてルフレは母に教えられていた。

 だからこそ、ルフレは自身の手で殺した命に、敬意も感謝の念も、どちらも懐く事を忘れた事は一度たりとも無い。

 それが、「人間」の傲慢、思い上がりの自己満足であっても。

 ……そして『命』への敬意があるからこそ、『救う』事を選択した命は、全霊を賭けて助けたいのだ。

 

 解体した鹿肉を背負って屋敷まで戻ってきたルフレは、解体作業の続きをする前に『竜』の様子を見ようと、そのまま屋敷の裏手の森へと向かう。

 それはここの所の決まったルーティンの様なもので、……残何ながら今までは良くも悪くも『竜』の様子に変わったモノは無かったのだけれども、しかし。

 ルフレの足音に反応してか警戒する様な唸り声が聴こえ、それに急かされた様にルフレが足早に急いだそこには。

 

 目覚めた『竜』が、怯える様にルフレを見詰めていた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 小鳥たちが鳴き交わす様な、そんな囀りがまず耳に届いた。

 そして、聴覚がゆっくり目覚めていくかの様に、次第に小鳥の囀り以外の様々な音が……木々の間を木の葉を揺らしながら風が吹き抜けていく音、地を獣達が駆けていくその足音、獣の声、何処からか聞こえる水音……そんな世界に溢れている様々な音が耳に入ってくる。

 そしてそれと並行する様に深い深い微睡の底にあった意識がゆっくりと浮上し、鉛の様に重たい瞼が徐々に開かれてゆく。

 

 ── ここは……

 

 自分が今居る場所が一体何処なのか、全く見当も付かない。

 見慣れた自室ではなく、それどころか全く見覚えの無い……まるで森の中の様に木々が立ち並ぶそこに、ルキナは困惑する。

 王城の庭の様に人の手によってその枝葉の先に至るまで管理された木々とは異なる……木々の生育に任せるがままに育ったかの様な目の前に立ち並ぶ木々が王城に存在する筈は無く。

 ならばここは少なくとも王城ではないのだろう。

 何処かの森の中であるにしても、一体どうして自分はこんな場所に居るのであろうか……。

 王族であるルキナには、身の安全上の問題やその他にも様々な事情から基本的に公務や休暇以外で城の外に出る自由は無くて……例え抜け出しても精々が城下町までだ、こんな森へ来る事など考えられない。……そもそも目覚める前の自分は、一体何をしていたのだろうか……。

 ……それすら、未だ何処か鈍い頭では辿り切れない。

 取り敢えず身を起こさねば、と。

 俯せの状態で眠っていた身体を起こそうとするが、腕に力を込めた瞬間に左腕と胸に激しい痛みが走り、バランスを崩したルキナは思わず地面に倒れこんでしまう。

 一体何がと、左腕へと目を落とした……落とした筈だった。

 

 だが、視界に映ったのは、自身の左腕などではなくて。

 布の様な何かを巻き付けている……蒼銀の鱗に覆われた獣の前脚としか呼べない何かであった。

 その光景に一瞬にして未だ夢現を彷徨っていた意識がハッキリと目覚め、そして「目覚める」直前までの記憶を呼び覚ます。

 

 ── そう、そうだ……、私は……! 

 

 突如獣の……『竜』の姿へと変貌していった自分の身体。

 向けられた敵意、敬愛する父の怒りと憎悪に染まった視線、残酷な程に美しく煌めいたファルシオンの切っ先、切り裂かれた傷口の熱さとそこから零れ落ちる命の雫、迫る『死』……。

 一気に脳裏を駆け巡ったそれらに、ルキナは思わず痛みを覚えて呻くが、それは獣の唸り声にしかならない。

 自身の記憶を否定したくて半ば反射的に自身の身体を確かめるが、……そこにあるのは『竜』の身体でしかなくて。

 あの悪夢の様な出来事が、夢などでは無かった事だけを残酷にルキナに突き付けてくる。

 

 ── ああ……一体何故、どうして……

 

 何度そう自身に問い質しても答えなど見付からずそれが返って来る事も無く……そして状況が好転する事も無い。

『竜』の身にその心と魂を囚われたまま、何も変わらない。

 絶望が荒れ狂う波の様にルキナの心に押し寄せて、心を支えるものを見失いそれに呑み込まれそうにすらなる。

 こんな『竜』の身体で、どうすれば良いのだろう、どう生きてゆけば良いのだろう……。

 こんな「怪物」の姿では、人々の世で生きる術など何処にも無い……現に父からは目の前の『竜』がルキナであると理解して貰えなかったからとは言えファルシオンを向けられた。

 例え「ルキナを襲い喰い殺した『竜』」と誤解される様な状況でなくとも……この姿では人々に追われる事になっていた。

 それも当然だ。こんな恐ろしい「怪物」を見た時に、人が抱くのは恐れや畏怖……そう言った感情になるであろうから。

 酔狂な人間だと狩る対象として見るかもしれないが、……何にせよこんな『竜』の姿ではルキナが『人間』として……知性ある生き物として扱われる事は無い。

 

 ならば野の獣の様に生きねばならぬのだろうか。

 たった独り、人目を忍ぶ様にして。

 ……それは想像するだけでも余りにも恐ろしい事であった。

 そもそも、今まで人間として生きてきたルキナにその様な野の獣の生き方が分かる筈も無くそもそも出来やしないのだが。

 

 ── 戻りたい……元の『人間』の姿に……

 

 そうは願っても、そもそもこうなった原因も何も分からないのだ……祈るだけならば当然の事ながら事態は好転しない。

 それでも、『人間』に戻りたかった。

 イーリスの王女として成さねばならぬ事があると言う自負とそこに在る責任感もその思いを支える柱の一つであるけれど、それ以上に……こんな『竜』の姿のままで、誰にそれを知られる事も無く孤独に死ぬ事に耐えられないのだ。

 自分は人間として生まれたのだ……なればこそ、最後まで『人間』としてその生を全うしたい。

 その為にも、こんな場所で『竜』のまま死ぬ訳にはかない。

 生きねば、と……そう強く意識した瞬間、無性に腹が空いている事にルキナは気が付いた。

 城から抜け出してここに逃げ延びてこうして目覚めるまでに何れ程の時間が経っていたのかは分からないが……少なくともかなりの時間を飲まず食わずで過ごしている。

 加えてあれ程の傷を負ったのだ……消耗していて当然だ。

 

 ── 傷……? 

 

 ふとルキナは自身の左腕に目をやった。

 先程は混乱の余りにそれどころではなかったけれども、よくよく見なくてもおかしな部分がある。

 左腕に巻き付けられたこの布の様な何かは一体何なのか。

 何者かの意図を感じるそれを、注意深く観察する。

 この布は何だろう……シーツ、だろうか……。

 ルキナが王城で使っているそれとは比べるべくもない質素なものではあるけれど……しかし一体何故……? 

 消耗が激しいからか僅かに腕を動かすのも億劫であるが、それを顔に近付けて臭いを嗅いでみる。

 僅かにシーツの下から香るのは……何とも独特な臭いだった。

 近いものを上げるなら、昔嗅いだ事のある調合薬のそれに何処か似ている気がする……。

 ファルシオンによって斬られ、今もまだ痛むその場所を覆う様に巻かれているそれは……「包帯」の様にも見えた。

 だが、こんな『竜』の姿をしているルキナに対して「包帯」を巻く……「治療行為」を行う人間など居ないだろう……。

 居たとしても、余程の酔狂か恐れ知らずの馬鹿だけだ……。

 偶々逃げ延びた先で、そんな酔狂な人間が偶々傷付いたルキナを見付け、それを治療したなど……到底有り得ない可能性だ。

 ルキナが人間の姿であればまだ有り得たかもしれないが……。

 ルキナは、その可能性を否定した。

 ……正確には否定したがっていた。

 腕だけでなく胸など……傷付いている様々な場所にしっかりと巻かれたシーツの存在は既に認識している。

 ……それでも、期待して……それを裏切られる恐ろしさに尻込みする様に、『希望』を持つ事を諦めようとしていたのだ。

 ルキナは独りだ、誰も助けてなどくれはしない、助けを求める声は『人間』の言葉にはならないのだから……。

 そう思っている方が、余程楽だ。

 

 その時、「何か」が草木を踏み分けながら、ルキナの居る場所へと近付いてきている音が聞こえた。

 獣か……或いは人か。

 森の獣だとしてもこのろくに動けぬ手負いの状態では熊などを相手にするのは厳しいものがあるし、もし人であるならばこうして弱ったルキナを見て殺そうとしてくるかもしれない。

 強く警戒している所為か、無意識にも唸り声が零れる。

 だが、凶暴な『竜』が威嚇している様にしか聞こえない唸り声にも、足音は怯んだ様子も無く寧ろやや足早に近付いてくる。

 そして、茂みを掻き分ける様にして現れたのは。

 一人の、若い男であった。

 年の頃はルキナとそう変わらなさそうで、柔らかな面立ちの中に何処か目を惹く『何か』を感じる……そんな印象の男だ。

 ルキナが今まで目にした事の無い少し不思議な意匠の外套を身に纏い、イーリスでは少し珍しい白銀の髪に黄金色の瞳。

 ……ここはもしかしてイーリスの地では無いのか? と男に対して警戒を続けるルキナの意識の片隅に僅かに過る。

 王城から逃げる中、行く宛も無く我武者羅に飛び続けていた上に、そもそもどの方角に向かって飛んだのかすら記憶が無いルキナは、そもそも今居るこの森が何処の国の地であるのかすら分かっていなかった。

 無意識の内にイーリスだと思っていたが、ぺレジアやフェリア……どうかすれば異なる大陸の地である可能性もあるのだ。

 ……こんな『竜』の身に窶している時点で、何処の国であるのかなど最早些末な事でしか無いのかもしれないが……。

 ……いや、今はそんな事を考えるよりも目の前の男の事だ。

 ……男は……武器は手にしていない様であった。

 しかし、背に背負う様に「何か」を持っている。

 男は驚いた様にルキナを見ているが、そこに怯えの様な感情は見えず、何故か「安堵」に似た様な顔をしている。

 男が、一歩ルキナに近付いた。

 それに反射的に、獣の様な威嚇の唸り声を上げてしまう。

 しかし、恐ろしい『竜』が唸っていると言うのにも関わらず、男に臆した様子は無く、まるで不用意に刺激するのを避けようとしている様に、害意は無い事を示すかの様にその両の掌をこちらに向けてゆっくりと慎重に近付こうとしてくる。

 

「大丈夫、僕は君を傷付けない、武器を向けたりしない……。

 ほら、だからそんなに怯えないで……。

 まだ君の傷口は完全には塞がっていないんだ。

 無理をするとまた傷口が開いてしまうよ……。

 大丈夫、僕は怖くない……だから怯えなくていいんだよ……」

 

 ……男にとってルキナは、人間の言葉など通じる筈も無い『竜』にしか見えぬであろうに、男は優しく言葉を投げかけてくる。

 その声音が、本当に優しくて……思わず警戒を解きそうになったけれども、優しい言葉を口にしているからといってそれを信じて良いのかはまた別である。

 警戒を解かないルキナに、男は諦めたのか……ルキナから少し離れた位置で立ち止まる。

「……同じ人間に傷付けられたんだ……。

 そう簡単には人間を信頼出来ないのは仕方ないね。

 でも……そうやって僕に対して怯える様に威嚇するだけ……って事は、君が人に追われた原因は、偶然の不幸で人里に迷い込んでしまった……って所だったのかな? 

 君が人を襲う様な『人食い竜』じゃなさそうで安心したよ。

 ……きっとお腹が空いているよね? 

 人間の手から与えられたものなんて、君には食べられないかもしれないけれど……」

 

 男はそう言って、ルキナの目の前に、その背に背負っていたモノを……鹿か何かの獣の後足の肉を置いた。

 熱を通してすらいない生肉を、「どうぞ食べて」と言わんばかりに差し出す様に置かれて、ルキナは困惑した。

 

 男の意図が読めなかった、と言うのもあるが……。

 ……身体がどうであれルキナの意識は紛れも無く人間だ。

 いきなり生肉にかぶり付く事なんて出来はしない。

 それをしたら自分から「人間性」を捨てる事になる気がする。

 焼くなり煮るなり、そう言った手間がルキナには必要なのだ。

 それに男が肉に毒を仕込んでいたりする可能性だってあるかもしれないので、用心の為にも口を付ける訳にはいかない。

 

 ルキナが顔を背ける様にその肉を拒絶すると、男は少し困った様な顔をした。

 

「うーん……やっぱり駄目か……。

 人間の手に渡ったモノは食べられないのか、……生肉を消化する体力も無いのか、どっちかは分からないけど……。

 何も食べなければ、折角命が助かったのにこのまま弱っていって死んでしまうよ? 

 ……少し煮込んでみたら、食べられるかい?」

 

 男はそう言って、生肉をそのままルキナの前に置いて、何処かへと姿を消す。

 そして少ししてから戻ってきたその手には、水が入った大鍋と薪木と肉の塊、そして木皿と桶があった。

 男は、その意図を理解出来ずたじろぐルキナの前で、慣れた手つきで火を起こして大鍋を火にかけた。

 そして水が茹った所で肉の塊を鍋に入れて煮込みだす。

 少しの塩とハーブの様な物と共に肉を煮込んだだけの……料理と呼ぶにも憚られる……少なくとも王城でルキナが口にする事など絶対に無かったであろう、そんな簡素な肉の煮込みだ。

 だがしかし、少しだけ加えられていたハーブの匂いの所為なのか、大鍋から沸き上る湯気がルキナの食欲を酷く刺激する。

 男は煮込んだ肉を切り分けて、小さな塊を木皿へ、大きな塊を桶へと入れ、その桶をルキナの目の前へと置く。

 そして、男はルキナの目の前で木皿に載せた肉を口にした。

 

「ほら、僕がこうして食べられるんだ、毒なんて入ってないよ。

 少し香草も混ぜたから君にとっては少し変な感じかもしれないけれど……弱った胃腸を癒す力があるモノで、今の君に必要なものだから……気にせず食べてくれると嬉しいな」

 

 男に何の目的があってこんな事をしているのかは分からないが、……確かに何か口にしなければ弱っていくだけであるし、身動きが自由に取れない以上は自力で糧を得る事も出来ない。

 男が差し出してきたこの肉を口にする事が、生きる為に今必要な事であると言うのは分かっているのだ。

 恐る恐る、ルキナは桶の中の肉を口にした。

 ほぼ肉を煮込んだだけのモノであるが、僅かな塩味と微かな香草の匂いが不思議と合っている。

 よく煮込んだ肉は柔らかく、疲れたルキナでも容易に咬み千切り呑み込む事が出来た。

 一口呑み込んでしまえば、後はもう済し崩しだった。

 空腹感に突き動かされる様に、夢中で食べてしまう。

「獣」そのものの様な食べ方だとか、そんな事を気にしている余裕は今のルキナには既に無い。

 気が付けば桶はあっと言う間に空になっていて、男が嬉しそうにそれを見ていた。

 

「良かった、これで一安心だ。

 完全に傷が癒えるまではまだ暫くかかるけれど……。

 こうして食べる事が出来たんだ、必ず良くなるよ」

 

 男はそう言いながら、恐れる様子も何も無くルキナの身体に優しく触れた。

 その微笑みが、とても優しくて。

 それが何故だか、ルキナの胸に痛みを感じさせるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 目覚めた『竜』は、とても大人しい個体であった。

 目覚めた当初こそルフレを警戒し怯えていたが、それも次第に鳴りを潜めてゆき、今では抵抗する事も無く治療行為を受けてくれる様にまでなっていた。

 

 飛竜は、その賢さは他の生き物の比ではなく、心を通じ合わせ騎乗を許した相手とは、まさに以心伝心の状態になり簡単な言葉なら容易くその意図を理解出来る……と言われている。

 そうであるならば、この『竜』も、「助けたい」と言うルフレの意図を感じ取ってくれたのかもしれない。

 この『竜』は竜と人間の姿を併せ持つ《マムクート》と呼ばれる存在では無かった様で人間の言葉を話す事は出来ないが、しかし相当に賢いのは間違いない。

 当初こそ、ただの気休め程度に言葉を掛けていたルフレだが、『竜』が明らかにその意図を理解している様な素振りを見せるようになってからは、意識的に『竜』に話しかけている。

 ある程度なら身体を動かせる様になってきても、ルフレを襲おうとする素振りは全く見せず。

 寧ろ、何怯えや恐れに似た感情で、『竜』はルフレを見ていた。

 この『竜』が人を襲って人から追われる様になったとは考え辛く、運悪く人里に迷い込んでしまったのが人に襲われる要因になったのだろうとルフレは見ていた。

 

 そして『竜』と言えばどうにも不思議な事があって、あれから随分と回復してきた筈なのに、何故か生肉は決して食べようとはせずに、煮込んだり焼いたりと、ルフレが手を加えた肉を好むのだ。更には、滋養に良い蜂蜜と蜜蝋と雑穀とを混ぜた粥の様なモノを試しに作って与えてみたのだが、野に生きる獣なら食べた事など無いだろうそれをどうやら大層気に入った様で、尾を揺れ動かす程に喜んで食べたりしていた。

 どうやら雑食な上に甘い物が好きであるらしく、森で獲ってきた果実などを与えるととても喜ぶのである。

 

 ……しかし、ルフレが『竜』の面倒を見るのはあくまでもその傷が癒えてまた一匹で生きていける様になるまでだ。

 人の手が加わったモノの味や、人から糧を得る事を過度に覚えさせてしまうのは『竜』自身にとっても害にしかならない。

 貴族などが道楽で人間の食料を野の獣に与えた結果、その味を覚えた獣が人里にまで降りてきてしまい、結果双方共に不幸な結末に終わった話はしばしば耳にする。

 だからこそ、『竜』が必要以上に人間に……引いてはルフレに対しての警戒心を解かない様にしようと……そう心がけようとしてはいるのだけれども。

 しかし、どうにも上手くはいかなかった。

 

『竜』の……あの深い孤独に似た色と「何か」への恐怖を映す目を見ていると、どうしてだか心がざわついてしまう。

 相手は野に生きる存在で、人間の理屈や意識とは全く異なる理で生きている命である筈なのに、……どうしてだか酷く「人間臭い」ものをこの『竜』から感じるのだ。

 

 今もルフレに多少怯えてはいるものの、人馴れしていると言うべきなのか……『竜』はルフレの意図を汲み取る事に長けていた。例えば、『竜』にとっては見慣れぬものであろう治療道具の類や薬に対してだって、最初だけ多少は怯えていたが今となっては怯える事も無く、寧ろ治療しやすい様に傷付いている腕をルフレの方へと差し出す様にしてくる事だってある。

 もしかして、この『竜』は……かつては人の手で飼われるなりしてその近くで暮らしていたのだろうか? 

 貴族や大富豪の類の中には珍しいモノを飼う事に楽しみと箔付けを見出している者も居るらしいと聞くし、そう言った者が珍しい猛獣などを飼う事はしばしばあるらしい。

 それこそもう千年以上も前の事になるが、イーリスを興した初代聖王が生きていた時代などには、《マムクート》や……獣の姿と人間の姿を併せ持つ《タグエル》と呼ばれた人々を『飼う』者達も居たと言われてもいる。

 そう言った「人間」を、『飼う』事・非人道的な扱いをする事は、初代聖王が直々に禁じた事ではあるのだけれども……。

 禁じられたが故に更にその希少性が高まり、そこに価値を見出して隠れて『飼って』いた者も居たと……そう僅かながら文献で目にした事もあった。

 何にせよ、希少な生き物を飼う事は社会的ステータスを誇示する方法の一種であると考えている者は何時の時代にも居る。

 この『竜』も、そうだったのではないだろうか。

 

 傷付き果てていても、その蒼銀の鱗に覆われた体躯はしなやかで、深い蒼の瞳は夜明け前の空をそこに閉じ込めたかの様で、飛竜たちのそれとは異なる鳥の翼にも似たその翼は天からの御使いだと言われても何の疑問も感じずに受け入れてしまいそうな程に荘厳さを秘めていて、物語の世界から抜け出してきたかの様なその姿は、まるで万物の創造主がこの世で一番美しく特別なものを創ろうとして生み出したかの様だ。

 近寄り難さすら感じる美しさとは、この事を言うのだろう。

 そう言った感性を持つ者にとって、この『竜』がその手の内に在る事は限りない至福であったのではないだろうか。

 そんな感性は一切持たない……命は在るべき場所に在ってこそ美しいと思うルフレですら、この『竜』には何かが惹かれるのを感じてしまうのだ。……無論、だからと言って自らの手の内に閉じ込めたいなどとは思ってはいないけれども。

 ただ……そういった「道楽」を持つ貴族の内には、そうやって自身の内に囲った命に対しての「責任」を果たさない者もそう少なくは無いと聞く。飽いて捨てられた猛獣が、人を恐れないばかりに人里にやって来てしまう事だってあるらしい。

 

 ……そう思えば、この『竜』が人に傷付けられ追われる事になった原因は、そこにあるのではないだろうか。

 人を知っているが故に人恋しくなり人里に降り立って……そして人に追われたのだとすれば。

 それは、酷く『竜』の心を傷付けた事であろう。

 それでもこうしてルフレに対し攻撃的にはならずにただ怯えるだけであると言う事が、この『竜』が人に深く接して生きてきた証左になるのではないかとも思う。

 

 しかしそうだとすれば、益々『竜』への対応に悩んでしまう。

 一度でも人の手の内で生きていた獣は、捨てられるなりして解放されたとしてもそのまま野で生きていく事は酷く難しい。

 野の同族の群れに混じって逞しく生きていく事もあるにはあるだろうが……そもそもこの『竜』の同族が何処に居るのかは知らないルフレには、群れに帰してやる事も難しい。

 かと言って森に放したとしても、既に人里に降りて追われた事があるだけにまた同じ事を繰り返す可能性は低くない。

 折角こうして助かった命なのだ、出来るならば少しでもこの『竜』にとって幸せな生き方をさせてやりたい。

 

 どうする事が、どうしてやる事が、この『竜』にとっての最善になるのだろうか……。

「森の賢者」と呼ばれるルフレではあるが、この手の事は全くの門外漢であるだけにどうにも良い手が思い浮かばない。

 

 

「いっそ、君が『人間』だったら……なんて考えてしまうんだ」

 

 もう何度目かも分からない薬の塗り替えの際に、ルフレはそうポツリと独り言として呟く。

 それは『竜』に向けての言葉では無かったのだけれども。

 しかし、『竜』はその言葉に何故か身を固くして、ルフレの言葉を決して聞き漏らすまいとばかりに静かに見詰めてきた。

 そんな反応が返ってきた事に驚きながらも、ルフレは治療の手を休める事無くそのまま独り言を続ける。

「君が『人間』だったなら……近くの村に送り届けるなり、君の家を探して連れて行くなり、そうやって君にどうしてあげるべきなのか……って言うのは簡単だったんだけどね。

 傷が癒えた後で君にどうすれば一番良いのか分からなくて。

 君は……どうしたい?」

 

 返事など返ってくる訳も無いけれど、そう問いかけてしまう。

『竜』は、当然ながら何も言わなかった。

 しかし、ルフレの手へと摺り寄せる様にその頭を触れさせる。

 そこにある隠す事すらない不安の色に、ルフレは『竜』の頭を優しく撫で返して、思わず苦笑する様に呟いた。

 

「傷が癒えるにはまだまだかかるから、当分は先の話だよ。

 それに、人里に降りるのは危険だけれど、僕の所になら何時でも遊びに来ても良いから……そんなに心配しないで良いさ」

 

 そう言ってやると、『竜』はその言葉の意味を解したかの様に安堵した様に小さくその喉を鳴らして尾を揺らした。

 その仕草に無性に「人間臭さ」を感じて、思わず呟く。

 

「……どうにも、君に接していると、まるで人間を相手にしている様に時折思えてしまうな……。

 案外、本当に『人間』だったりして…………。

 …………何てね、そんな事、ある筈──」

 

 有り得ない冗談の様なそれを呟いた瞬間。

『竜』は何かを訴えかける様に鳴いた。

 そして、その瞳からポロポロと光る雫が零れ落ちていく。

 その反応に思わず唖然として、そんな事ある筈無いと……そう思いながらも、ルフレは『竜』に問わずにはいられなかった。

 

「まさか……本当に。君は『人間』……なのかい……?」

 

 そう問い掛けた瞬間。

『竜』はそれを肯定するかの様に……見間違え様も無くハッキリと、涙を零しながらその首を縦に振ったのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 男は、本当にルキナに対して害意は全く無い様であった。

 害意が無いどころか、彼にとっては恐ろしい『竜』でしかないだろうルキナに対し、献身的なまでに治療を施し、食事などの用意までしてくれている。

 酔狂なのか何なのか、彼はルキナに対して怯える様子も無く鋭い爪や牙に対しても恐れる様子を微塵も見せなかった。

 傷だらけでこの森まで逃げ延びてきたルキナの傷を治療して助けてくれたのは間違いなく彼であろう。……と言うより彼の様な酔狂な人間がそうそう他に居るとも思えない。

 

 ……彼はルキナに対して色々と語りかけてくれるけれども、それはルキナを『人間』として見ている訳では無くて、精々知能が高く人間の言葉をある程度は解せる獣程度の認識である。

 それでも、こうして人間の言葉で語り掛けてくれる者が居ると言う事は、今のルキナにとってはこれ以上に無い程に有難い事であって、その扱いに文句など言える筈は無い。

 まあ……文句を言った所でそれが彼に伝わる事は無いのだが。

 傷付いた身を治そうとしてくれている彼には感謝しかなく、今更彼のそう言った「善意」を疑うつもりは毛頭ない。

 しかし……それでもどうしても彼の事を信じきれないのだ。

 

 彼の優しさに触れる度に……父のあの憎悪に染まった視線が脳裏を過り、そしてファルシオンによって斬られた傷が痛む。

 ……何かの切っ掛けで、彼もまた父と同じ様にあんな目を向けて武器を手にルキナを殺そうとしてくるのではないかと……そんな考えが頭の片隅に居座り、それを何故か追い払えない。

 ……そんな事をするのなら、最初から彼にとっては『竜』でしかないルキナの命を助けようなんてしないと言う理屈は分かっている……分かっているのだけれども……。

 

 ……顔見知りの『人間』に、そして最も信頼していた相手である父に、憎しみと怒りを向けられて殺されかけた経験は、ルキナの心の深い場所で大きな傷になっていた……。

 ……紛れも無く命の恩人である彼にすら、どうしても心を開き切る事が出来ない程に。

 しかし、ルキナ自身がそれを「良し」とは出来ないからこそ、苦しくて仕方ないのだ。

 

 そして……彼は間違いなくルキナに対して良くしてくれているし優しいのだけれど、それは「獣」に対するものなのだ。

 それを仕方ない事だとは分かっているのだけれども、自分が「獣」扱いされている事を改めて認識するのは辛いものがある。

 自分は『人間』だ。……『人間』、なのだ。

 

 言葉を話せるのならばそれを彼に伝える事も出来るだろうに。

 しかし、この喉から出るのは獣の鳴き声でしかない。

 いっそ、彼が気付いてくれれば良いのに……だなんて、夢を見るにも程がある事を思ってしまう。

 ……そんな事を思っていたからだろうか。

 

 

「いっそ、君が『人間』だったら……なんて考えてしまうんだ」

 

 何時もの様に傷口に薬を塗りながら彼がポツリと呟いたその独り言に、過剰な程に反応してしまったのは……。

 もしかして……と言う淡い期待から、彼の言葉を聞き逃すまいと……決定的な言葉があれば、直ぐにでもその言葉を誰が見ても伝わる様に肯定しようと、身構えてしまう。

 ルキナの突然のそんな反応に彼は少し困惑していたが、そのまま手を止める事無く言葉を続ける。

 

「君が『人間』だったなら……近くの村に送り届けるなり、君の家を探して連れて行くなり、そうやって君にどうしてあげるべきなのか……って言うのは簡単だったんだけどね。

 傷が癒えた後で君にどうすれば一番良いのか分からなくて。

 君は……どうしたい?」

 

 それは、ルキナの期待していた言葉では無かったけれども、しかしルキナにとってはとても重要な問いかけだった。

 ……今のルキナには、何処にも行く宛が無い、それどころかこれからどうしたら良いのか、どうするべきなのかと言う指標すら何も無い。

 元の『人間』の姿に戻りたい」と言う願いはあるのだけれども、どうすればそれが叶うのか……その手掛かりは何処かにあるのかどうかすらも……何も分からなくて。

 まさに、見渡す限りの全ての道が深い深い霧に覆われてほんの指先程度の先すら見通しが立てられないかの様だった。

 

 目下の所は、傷を癒して動ける様になる事が目標だけれども。

「その後」をどうすれば良いのかなんて、ルキナの方が誰かに聞きたい位であった。

 どうしたいのかと言う事ですら、自分にも分からない。

 ただ……例え自分を『人間』として見てくれている訳では無いのだとしても、こうしてこんな姿をしている自分に優しくしてくれている彼から離れるのは……恐ろしかった。

 何も分からないまま自分と言う存在が変質してしまった恐怖と混迷に荒れ狂う暗い海の中で、やっと見付けた寄る辺なのだ。

 そこを追い出され喪う事は、……何よりも恐ろしい。

 だから、どうかその小さな寄る辺から追い出さないでくれと、そんな不安を胸にそれを伝えようと、ルキナは彼の手に鱗で覆われた『竜』の頭を摺り寄せた。

 人間らしい指先を喪ったこの身体では、そう言う風にしなくては、自分の想いを伝える事すら難しかった。

 ……ルキナの想いが伝わったのか、彼は優しい目でそっとルキナの頭を撫で返し、そして苦笑する様に呟く。

 

「傷が癒えるにはまだまだかかるから、当分は先の話だよ。

 それに、人里に降りるのは危険だけれど、僕の所になら何時でも遊びに来ても良いから……そんなに心配しないで良いさ」

 

 何時でも帰って来て良いのだと、彼の中にルキナの居場所はあるのだと、そう感じた途端……安堵がこの胸に溢れ出す。

 無意識の内に喉を小さく鳴らしてしまい、今の自分の身体の一部ではあるが未だにその存在に慣れぬ尾が微かに揺れた。

 そんなルキナの様子を見た彼は、ちょっとした冗談を言うかの様な軽さで呟く。

 

「……どうにも、君に接していると、まるで人間を相手にしている様に時折思えてしまうな……。

 案外、本当に『人間』だったりして…………。

 …………何てね、そんな事、ある筈──」

 

 彼の言葉は、そこで途切れた。

 そして唖然とした顔で、ルキナを……そしてその頬を零れ落ちる涙の雫を見詰める。

 

 

『そうです! 私は……私は! 人間なんです!! 

 貴方と同じ……、人間なんです……』

 

 

 それが人間の言葉にはならないと分かっていながらも、どうか届いてくれと願い、ルキナはその思いを訴える。

 ボロボロと零れる涙で、彼の姿が滲む。

 もしかして、もしかしたら……! 

 今ならば、そして彼ならば……。

 目の前のこの『竜』が、人間なのだと。

 そんな、まるで夢物語の様な、到底信じられない事実を。

 他でもない彼ならば、信じてくれるのではないかと。

 そんな「期待」がルキナの胸を圧し潰さんばかりに溢れ出す。

 

 彼は、そんなルキナの様子に。

 有り得ないと、信じられないと、そんな筈無いだろうと。

 そんな思いを隠す事も無い表情で。

 しかし、聞き間違えようも無くハッキリと。

 ルキナが求め続けていた問いを、口にした。

 

「まさか……本当に。君は『人間』……なのかい……?」

 

 その問いに。

 ルキナは絶対に誰が見ても確実に理解出来るよう、これ以上に無い程にハッキリと大きく頷いた。

 それを見た瞬間、彼は驚愕の余りに一瞬硬直して。

 そして次の瞬間には混乱の極みにあるかの様に取り乱した。

 

「そんな……まさか……。そんな事が起こり得るのか……。

 そんな話、お伽噺の中位でしか……。

 何だってそんな事に……。

 いや、原因が何であるのかなんて、今はどうでも良い。

 とにかく、事実を確かめる事、それが一番大事だから……。

 でも、そんな……もしそれが本当なら……。

 何て……何て惨い……」

 

 乱れた思考がそのまま言葉として零れ出ているかの様にブツブツと呟いていた彼は、何故か酷く傷付いた様な……痛ましいモノを見る様な目でルキナを見詰めた。

 そして意を決した様にルキナの頭へとその手を伸ばした

 

「大丈夫……君を傷付けたりする様な事はしない。

 絶対に痛く無いし、君に害が及ぶ事は無い。

 ただ……確かめさせて欲しいんだ……」

 そう言って彼は、ルキナには何と言っているのか聞き取れない言葉で何事かを呟き、ルキナの頭を抱き寄せる様にして、彼の額とルキナの額を触れ合わせる。

 ……暫しの間、沈黙がその場に落ちた。

 そして……。

 

「そんな……こんな事が……どうして……」

 

 ルキナの頭から手を離した彼は、今にも泣きそうな顔で悲痛に震える声で、言葉を零した。

 

「君は……君と同じ『人間』に、……こんなに……死の淵を彷徨う程に、傷付けられたと……そんな……。

 君が何かをした訳じゃないのに、何でそんな……。

 酷い……惨過ぎる……。

 すまない……僕は……。

 僕は、気付いてあげられなかった……。

 君の苦しみに、何も……。

 すまない、もっと僕が早く思い至っていれば……。

 君を、『獣』の様に扱うだなんて、僕は何て事を……!」

 

 耐えられないとばかりに、彼はルキナに懺悔の言葉を繰り返す。それには流石に慌てたルキナは、何度も「そんな事は無い」と首を横に振った。

 彼が「ルキナが人間である」と思い至らなかったのは何一つとして彼に落ち度がある事では無いし、寧ろこうして理解して貰えた事の方が奇跡以外の何物でも無いのだ。

 出逢う生き物全てを、本当は『人間』なのでは? と疑うなど狂気の沙汰でしかないし、実際それは狂人の思考だ。

 ルキナ自身、未だに自分の身に起こった事である筈なのに何も信じられないのだ。彼が気に病む事では全くない。

 

 しかし……『人間』であると信じて貰う事は出来た様であるが、ルキナの鳴き声にしかならぬ言葉は相変わらず全く通じていない様で、ルキナが何を言っても彼は自分を責め続ける。

 だから、再びルキナは彼に頭を摺り寄せた。

 すると、虚を突かれた様に彼は謝罪の言葉を止めて、漸くルキナの事を真っ直ぐに見詰める。

 小さく喉を鳴らして首を横に振れば、その意図が漸く伝わったのだろう……彼はまだ苦い顔を隠せないまでもそれ以上の懺悔の言葉を連ねる事は止めた。

 

「分かった……君が望まないなら、これ以上は何も言わない。

 だから、その代わり……と言う訳じゃないけれど。

 君の……『人間』としての君の名前を、教えて欲しいんだ。

 ちゃんと君自身の名前で、君の事を呼びたいから……」

 

 そう言って彼は、そっとルキナの腕に触れる。

 ルキナは、僅かに迷った。

 人間の言葉にはならぬ以上、音でそれを伝える事は出来ない。

 ならば書いて伝えるしか無いのだけれど……。

 人の指先とは掛け離れた形に変貌しているこの手で、果たしてちゃんと伝わる字を書く事が出来るのであろうかと……。

 ……しかし、こうして促された以上は、やってみなくては何も始まらないであろう。

 

 ルキナは右の前脚で、地面を爪で削る様に文字を書き始めた。

 しかしこれがどうしても中々上手くはいかない。

 途中で潰してしまったり削り過ぎてしまったり……。

 そうやって十数回程書き直して、漸く、字を手習い始めたばかりの子供が落書きで書いたかの様な……自分の普段の字とは程遠い、読み辛いが何とか読めなくも無い字が書けた。

 

「『L…U…C…I…N…A』……『ルキナ』……。

 これが、君の名前なんだね、『ルキナ』……。

 ……じゃあ、僕もちゃんと名乗らないとね……。

 ……僕は『ルフレ』。

 この『神竜の森』に暮らしている……『森の賢者』だ。

 これからよろしくね、『ルキナ』」

 

 

 そう言ってルフレは、優しく微笑む様にルキナの名を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第四話『小さな希望』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 助けた『竜』が、その本当の姿は『人間』だった。

 そんな……作り話の中でしか起こり得ない様な事が現実に起こるだなんて考えた事は無かったし、実際ルキナがそれを訴える事が無ければ、ルフレは一生それに気付けなかったであろう。

 それを疑う事も無く、本来は人間である彼女を……野の獣として扱ってしまっていたであろう。

 それは……それはあまりにも残酷な、彼女の「人間性」を踏み躙る様な行為だ。

 それを知らなかったとは言え、どう詫びれば良いのか全く分からない程に残酷な事を、ルキナに対して行ってしまっていた、

 僅かにでも疑念を抱いた時に、確かめていれば良かったのだ。

 違和感……と言うよりも引っ掛かる部分を度々感じていたのにそれを気の所為だと……或いはそれらしい理屈を付けて、それ以上それを確かめようだなんて思っていなかった。

 呪術の心得もあるルフレにならば、ほんの少しの手間があれば彼女の「正体」を確かめる事なんて容易に出来ていたのに。

 実際、慌てて呪術で確かめた彼女の「魂」の形は、紛れも無く『人間』のものであった……。

 もっと早くに、どうして気付いてやれなかったのかと、そう自分を責めるばかりである。

 ……その事への申し訳無さは尽きず、慚愧の念は絶えない。

 そしてそれ以上に。彼女が負った惨たらしい傷の『意味』が……自分が考えていたモノとは全く違う意味を帯びた事に、そしてその余りの惨たらしさに、ルフレの胸は酷く痛むのだ。

 

 ……彼女が何故『竜』の姿をしているのか、その事情はルフレにはまだ分からぬけれど、こうして傷付き果てて命すら危うい状況に在っても元の『人間』の姿に戻る事も叶わず言葉すら喪った状況から察するに、その『変化』は決して彼女自身の望んだモノではなく……また、彼女自身の意志では元の姿に戻る事も叶わないモノであろう事は間違いない。

 ……ルキナがどの様な状況で『竜』と化したのかは分からないけれども……。

 突然の変貌に誰よりも驚き混乱し恐怖したのは彼女自身であろうし、そして……混乱した彼女が、身近な者……友人や家族などに助けを求めようとした可能性は十分以上に在る。

 そして……彼女が負った酷い傷が、他ならぬその者達の手で付けられた可能性だって……。

 ……そうでなくても、彼女は「同じ」『人間』に、生死の狭間を彷徨う程の傷を負わされた事だけは確かだ。

 ……人々から殺されかけたその恐怖は、何れ程その心を深く傷付けた事であろうか……。

 彼女には、身体の傷を癒す事以上に、その深く傷付いた心を癒す事の方が必要であったのかもしれない。

 ……それなのに、自分は彼女を「獣」扱いして……。

 

 ……もう今更過ぎてしまった事を何時までも悔いていても何も変わらないし、それで彼女の心が救われる訳でも無い。

 とにかく今は少しでも、彼女に『人間』として出来る限りの事をしてあげなくてはならないのだ。

 彼女が元の姿に戻る為の方法を探す事は当然として、最大限『人間』の様にしてあげられる事はしてあげたい。

 先ずは、こんな野晒しの場所では無くて、せめて屋根と壁がある場所で過ごさせてあげなくては。

 そう考えたルフレは、早速行動を開始した。

 

 かなり広い屋敷ではあるけれど、流石に『竜』の身体が入れる大きさの戸はなくて、屋敷の中に招くのは難しい。

 だけれども、今は物置小屋代わりに使っている馬小屋ならば、きっと『竜』の身体でも十分以上に寛げる筈だ。

 元々は貴族の為の屋敷であった事もあってか、備え付けられていた馬小屋も、一度に十何頭も入れそうな程に大きく立派なもので、しっかりとした頑丈な造りである。

 ルフレ達親子は馬など飼ってはいなかった事もあって今ではただの頑丈な物置としてしか使ってはいなかったが、中の物を片付けて掃除をすれば、十分以上に快適に過ごせる場所になる。

 その為、早速ルフレは馬小屋に置いていた様々な物を全部移動させて、隅から隅まで埃を掃いた後に水拭きをして、人も十分に中で過ごせる状態にした。

 そこに、藁を軽く固める様にして作ったベッドを作る。

 ……残念ながら『竜』の身体で眠れる様な寝台はこの屋敷の中にも無かったので、藁で代用するしか無かったのだ。

 天井付近の採光窓もしっかりと掃除した為日中の小屋の中は十分に明るく、照明の油も補充したので夜も安心だ。

 そうやって諸々の準備が整ってから、ルフレは裏手の森に居たルキナを小屋にまで案内した。

 まだ左腕の傷が治りきっていないから、そこに負担を掛けない様にとゆっくり移動したルキナは、小屋を見て目を丸くする。

「ごめんね……今の君の身体で過ごせる様な屋根がある場所はここしか無かったんだ……。

 快適に過ごせる様に、色々と工夫はしてみたんだけど……」

 

 やはり、幾ら屋根がある場所とは言っても馬小屋で過ごすのは抵抗があるだろうかと、そう思っていると。

 

 ルキナは「違う」と言いた気に、首を勢いよく横に振った。

 そして、何かを伝えようとして優しい響きで喉を鳴らす。

 彼女が懸命に伝えようとしているものは、「喜び」、「感謝」……そう言った感情だろうか。

 彼女が『人間』である事は分かっているけれども、ルフレの言葉は通じていても、彼女の言葉はルフレがそれを正確に読み解くのはまだ難しく、それを正しく解釈出来ている自信は無い。

 それでもきっと、その尾が大きく揺れているのを見るに、そこにあるのは負の感情では無いのだろう。

 

 少しでも彼女の為に『何か』をしてあげられた事が嬉しくて。

 ルフレは、漸く安堵から微笑みを浮かべるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレの厚意で、ルキナは彼の家にある馬小屋で寝起きさせて貰える事になった。

 馬小屋で寝起きさせる事にルフレは抵抗を感じていた様ではあるけれど、肝心の当人であるルキナには、そんな事は何一つとして気にならない程にそれは有り難かったのだ。

 そもそも、『人間』に比べればずっと大きい『竜』の身体では、幾ら広い間取りであったとしても『人間』の為に作られた家で過ごすのには無理があるし、寧ろこうしてルキナが窮屈さを感じずにいられる程に大きな馬小屋がこんな森の奥の家にあった事の方が驚きである。

 ルキナが不思議そうに小屋を見回している所を察したルフレが話してくれた所によると、彼の家は元々はとある貴族の別荘の様なモノであったらしい。

 最初の持ち主たる貴族がこの世を去り、家が手離されて暫く経った後でルフレとその母がここに住み始めたのだとか。

 元は貴族のものだと言われれば、ここが馬小屋にしては無駄とも思える程に広く立派な造りをしている事も納得がいく。

 本来の用途では久しく使われていなかった為か、馬小屋独特の臭いも全く無く、ルキナが気になる様な所は無い。

 そもそも、こうして雨風を凌げる場所を用意して貰えた時点で、不満を感じるも何もただ感謝するしかないのであるけれど。

 寝藁として使っている藁束だって、ただ乱雑に積んだモノではなくて、軽く固めてベッドの様にする気遣いまでされている。

 これで不満を感じる者が居たら、それは余程の恩知らずか厚顔無恥な暴君だろう。

 

 しかも、そうして居場所を提供して貰うだけではなく、相変わらず献身的に傷を治療してくれているし、更にはルキナが元の『人間』の姿に戻る為の手掛かりまでも探そうとしてくれて。

 ルフレには、本来ルキナの事情など何の関係も無い事である筈なのに、偶々彼の所に傷付いたルキナが転がり込んできたと言う……ただそれだけで、有り得ない程親身になってくれる。

 いっそ彼には何か裏でもあるのではないかと疑ってしまいそうになる程に……しかしそんな疑いを持つ事など到底出来ない程に誠実に、彼はルキナに良くしてくれるのだ。

 ふと気が付けば何時の間にか、ルフレの『優しさ』に触れても、傷が痛む事はもう無くなっていた。

 目を閉じた時や眠る時に、父の姿が浮かんで身が竦む事はあるけれど……それも、何時しかその頻度は少しずつ減っていて。

 ……それはきっと、ルフレが傍に居てくれるからだろうと、そうルキナは思うのだ。

 

 例えば、雨が一日中降り続いて心が沈みがちな時。

 例えば、あの日を思い出させる様な強い風が一日中吹き荒れて……心細く不安になる時。

 例えば、夢見が悪くて魘されがちな時。

 

 ルフレは、まるでそれを察したかの様にルキナの心に寄り添おうとしてくれているかの様に、ずっと傍に居てくれるのだ。

 ただ静かにルキナに身を預ける様にして傍に居てくれる事も、様々な本を持ち込んでそれをルキナと共に読む様に見る事も、他愛ないお喋りをするかの様に語り掛けてくる事もあって。

 ルキナにとっては、その何れもが酷く心地よい時間であった。

 

『竜』の姿から未だ戻れない事は今も変わらず苦しくて不安で仕方が無いのだけれど、それでも……心の全てを塗り潰す様だった「絶望感」は少しずつ薄れてきていた。

 ルキナ自身の状況が大きく変わった訳ではない。

 それでも、こんな姿をしている自分を、それでも『人間』なのだと……それを理解して、そしてそう接しようとしてくれる者が居る事が、泣いてしまいそうな程に嬉しいのだ。

 ……ルフレは、ルキナにとってまさに、「救い」であった。

 

 ルキナが言葉を話せなくても、彼は懸命にルキナが伝えようとしている想いを汲み取ろうとしてくれて。

 何時だって、ルキナの意志を尊重しようとしてくれる。

 ルフレは、『竜』ではなく、『ルキナ』を見てくれているのだ。

 それが何れ程得難く『価値』がある事なのか、ルキナには計り知る事など到底出来なかった。

 ……少なくとも、あの父ですら出来なかった事だ。

 状況的には仕方の無かった事でも、父の目に映ったルキナは、『ルキナ』ではなくて『竜』でしかなかったのだから。

 

 王城に居た頃……ルキナが「王女」としての自分の役割を全うしようと懸命に努力していた頃でも。

 ルキナを……『ルキナ王女』ではなくて、『ルキナ』と言う一人の人間として見ていた人は何れ程居たのだろう。

 少なくともそれは、きっと両の手で数えられる程の数すらも居なかったのだと思う。

 自分でも、「王女」としての自分と『ルキナ』としての「個人」とは不可分で同じものだと思っていたのだから。

 それを当然だと……そう思ってずっと生きてきたけれど。

 ……しかし、こうして『竜』の姿に変えられた今のルキナを、『ルキナ王女』として見る者なんて誰一人として居ない。

 それどころか、『人間』として見てくれる者すら、この世にルフレただ一人しか居ないのだ。

 そう思うと「王女」としての自分なんて、『自分』の在り方として絶対的なモノでは無かったのだと、そう思い知らされる。

『人間』としての在り方を喪ってそれに気付くだなんて、少し変な感じはするのだけれども。

 しかし、こうしてルフレと過ごす時間は、王城で『ルキナ王女』として過ごしていた時間よりもずっと穏やかで、暖かくて。

 ……だからこそ、この身が『竜』である事が苦しいのだ。

 

『ルフレ』さん、と。

 彼の名前を、ちゃんと自分の声で呼びたいと。

 そう心から願ってしまうから。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「駄目だ……これも違う……」

 

 独り言と共に隠す事も無く溜息を吐いて、ルフレは手にしていた本を閉じてそれを書架に戻した。ルキナが、その姿を何らかの要因によって『竜』の姿に変えられた『人間』だと判明してから……ルフレはこうして時間を見付けては彼女を元の姿に戻す為の手掛かりを求めて、屋敷の書庫を漁っている。

 屋敷には、母が残した書物が数多く遺されていて、その中には『呪術』に関するモノもかなりの数に上っているのだ。

『呪術』がそこまで一般的なものではないイーリスに於いては、一・二を争える程の蔵書量だろう。

 優れた呪術師でもあった母の遺した『呪術』に関する書物の多くは非常に高度なモノで、そこには『呪術』を知らない者からすればまるで神か悪魔の業の様にすら思えるだろうモノも多く記されてはいるのだけれども。

 しかし、そんな蔵書の数々を隅々まで読み漁っても。

 ……『人間』を、『竜』に変える様な術は存在しなかった。

 正確には、理性の無い「怪物」の様な……この世のどんな生き物とも似つかぬ様な悍ましい化け物へと『人間』を堕とす『呪術』ならばあるのだけれども……しかし、それはまさにその者の「人間性」も何もかもを汚し尽くすだけのもので。

 少なくともルキナの様に、姿こそ歪められていてもその『魂』を本来の状態を保った状態のままに出来るものではない。

 そもそも、肉体をその『魂』の在るべき姿から無理矢理に『呪術』で歪める時点で、『魂』自体にも大きな傷が付くのだ。

 それは、どんなに卓越した呪術師が行っても変わらない。

 だが……少なくともルフレが調べられる限りでは、ルキナの『魂』にその様な痕跡は無い。

 ルキナの『魂』は何一つ歪みも傷も無く本来の姿のままだ……だからこそ余計に苦しみ絶望しているのかもしれないが。

 だから、彼女の身に起きたその異常の原因は、『呪術』とは違う所にあるのではないかと……ルフレは思うのだ。

 

 彼女の身体を歪める何かとてつもなく大きな『力』が存在している事にもルフレは気付いていた。

 しかしそれは余りにも強大で、ルフレが何れ程力を尽くしても、大山に素手で押し比べをするかの様にしかならなかった。

 いっそ逆転の発想で、『解呪』の方向ではなく、『人間』の姿になる様な『呪術』を掛けてみれば良いのではないかと思い付いて試してみたのだが、それも敢え無く強大な『力』に跳ね除けられる様な形で失敗に終わった。

 ……ルフレは『呪術』の心得があるし、その扱いにも長けている方だとも思ってはいるのだが、残念ながらあくまでも母からその手解きを受けて後は独学で学んだだけで、出来る事に限りはある。だが、『呪術』に長けたものが多く集いその研鑽の質は他国のそれとは比較にすらならぬ程であると知られているぺレジアになら、ルフレでは全く歯が立たぬ『呪術』でも軽々とこなせてしまう者も居る筈だ。

 中には『呪術』を極めようとするばかりに、生まれてきた赤子の臍の緒を切る事にすら『呪術』を使う一族も居ると聞く。

 ……ぺレジアに行き、そういった者達の力を借りれば、ルキナを元の『人間』の姿に戻してやる事が出来るかもしれないが。

 しかし、ルフレにはそれをどうしても躊躇する事情があった。

 ……母が生前に繰り返し繰り返し……そしてその今際に在ってすらルフレに繰り返し言い聞かせ続けていた事。

『ギムレー教に、関わってはならない』と言うその約束。

 それが、ルフレの行動を縛っていた。

 何故母が偏執的な程にそう言っていたのか、ルフレに約束させ続けてきたのかは……母亡き今となってはもう分からない。

 この森で生きていくならば、そもそもイーリスには殆ど居ないギムレー教徒の者と関わる事なんて先ず考えられなかったし、だからこそ母の言葉に何の疑問も不自由も感じなかった。

 しかし……ルキナを元の姿に戻す為にぺレジアの『呪術師』に頼ると言う事は、まず間違いなくその約束を破る事になる。

 ぺレジアはその民のほぼ全員が『ギムレー教』の信徒であるし、況してや呪術師の大半は『ギムレー教』の中心的存在である『ギムレー教団』の一員だ。

 ルフレが探している様な卓越した呪術師なんて、まず間違いなく『ギムレー教』の関係者になる。

 そもそもそんな凄腕の呪術師への伝手など無いと言う問題もあるけれど、母との約束の事もあって、ぺレジアの呪術師たちを頼ると言う選択肢はほぼほぼ存在しないのである。

 ……そして、『ギムレー教』に関わらないと言うルフレのその姿勢には間違いなく母の言葉とその約束が影響しているけれど、ある部分ではそれ以上に。

『ギムレー』の名を聞く度に、ルフレの胸はざわつき、恐ろしい『何か』が心を呑み込もうとしてくる様に感じるのだ。

 その感覚が心の底から嫌で、ルフレは『ギムレー』と言う名前自体から半ば逃げる様にそれを避けていた。

 ……ぺレジアに行くのは、本当にもうそれしか方法が無いと確信した時だけだと……ルフレはそう決めている。

 ぺレジアに向かう事が、ルキナの苦しみを最も早く取り除いてやれる手段であるのだとしても……それがルフレの我儘である事を十二分に承知の上で、それだけは譲れないのだ。

 

『呪術』以外の手掛かりは無いのかと、最近は神話や伝承……最早創作なのか事実が元なのかも定かでない様な書物にも目を通す様にしている。しかし……僅かにでも手掛かりになるかと一瞬思った内容は、そのどれもが事実無根の出鱈目でしかないと直ぐに分かってしまうものばかりで……。

 そう言った神話伝承の類の中でも、『人間』が異なる姿へと変貌する事象の大半は、ラブロマンスを彩る為のある種の香り付けとしての創作でしかなかった。

 

 中々有効な手掛かりを見付ける事が出来ず、ルキナの力になってやれぬまま無為に日々が過ぎて行ってしまう。

 それを心苦しく思う一方で。

 ……ルキナと過ごす時間に、自分でも誤魔化す事の出来ない程に充足感を感じてしまっている事に、ルフレは気付いていた。

 

 母を喪った日から、独りこの森の奥の屋敷で暮らす内に少しずつ隙間風の様な何かを感じていた心が、優しく塞がれて。

 母の命を救う事の出来なかったこの手が、一人の命をこの世に繋ぎ止める事が出来て、何かが救われる様なものを感じて。

 その言葉こそルフレにはまだはっきりとは分からないけれど、ルフレの言葉に耳を傾けて……そして想いを必死に伝えようとしてくれる彼女の事が、どうしようもなく大切に思えて。

 ルキナと過ごす穏やかで暖かな時間が、何よりも楽しい。

 最初の内は、少しでもルキナの心の傷を……その孤独を癒そうと……、そう思ってしていた事だったのに。何時の間にかそれは、ルフレにとっての「癒し」になっていて。

 

 ……だからこそ、ルフレは何処か後ろめたさを感じてしまう。

 

 ……ルフレが喜びと安らぎ感じているその瞬間も、ルキナは姿を歪められて苦しんでいるのに……。

 ……ずっと、こうして傍に居たいと、そう思ってしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「ルキナ、今日は森の奥の湖に行ってみないかい?」

 

 すっかり包帯代わりのシーツも要らなくなった傷口に、軟膏の様な塗り薬を塗りながら、ルフレがそう尋ねてくる。

 ルフレに命を救われたあの日から、もう随分と……それこそ二月以上の時間が経ち、一時は命すら危うかった傷ももうその殆どが綺麗に塞がっていて。最も重篤だったファルシオンで胸を切られたその傷も、鱗も綺麗に生えてきているのでよくよく見なければ傷痕に気付く事は難しくなっている。

 激しく動くとまだ少し痛むので無理は出来ないが、最近は日中は畑の世話の手伝いをしたり、狩った獲物を家まで運ぶ手伝いをしたりと、自分なりに今の姿でも出来る事をしている。

 

 最初の内は、ルキナに手伝わせる事に抵抗があったのかそれを遠慮しようとしていたルフレであったけれど、ルキナとしてはここまで彼に世話になっているのにこのまま何もしない方が落ち着かないからと、押し切る様に手伝い始めたのだった。

 最初は「無理をしないで」と頻りに言っていたルフレであったが、他ならぬルキナが生き生きと手伝っているのを見て次第に止める様な事は言わなくなり、代わりに色々とルキナに頼んでくれる様になっていった。

 恩返し……と言うには余りにも細やかな事ではあるのだけれど、そうやって少しでもルフレの力になれているのなら、ルキナにとってはとても『幸せ』な事であった。

 そして、そんなルフレから誘って貰えた事が嬉しくて、ルキナは喜びから尾を揺らして頷く。

 

『はい! 是非行ってみたいです、ルフレさん』

 

 相変わらず人間の言葉は話せなくて、喉を鳴らしたり唸ったりといった音にしかならないけれど。

 最近はそう言った鳴き声の『言葉』でも、ルフレに大体の意味が通じる様になってきていた。

 正確には、ルフレがルキナの伝えようとしている『想い』を汲み取る事に慣れてきた、とも言えるのだけれど。

 特に、『ルフレさん』と呼び掛けた時の『声』は確実に伝わる様になっていて、それがルキナには堪らなく嬉しいのだ。

「そうか、良かった。

 湖の周りの景色も凄く綺麗だし、水もそのまま水浴び出来る位に綺麗だから、一度連れて行ってあげたかったんだ。

 少し離れているから、今まではあまり無理をさせたくなくて連れて行けなかったけれど、もう十分動ける様になったからね。

 それに、この時期は湖で獲れる魚が美味しいんだよ。

 魚が獲れたら、今日のご飯は魚料理にしよう」

 

 ニコニコと微笑むルフレに、ルキナは『楽しみです』と鳴く。

 決して、ルキナの食い意地が張っているなんて事は無いのだけれど、ルキナはルフレの作る料理が好きだった。

 王城で食べていた料理に比べれば限りなく質素なものであるし味自体もきっと王家付きの料理人達が腕を振るっていたそれと比べる事は難しいのだろうけれども。

 ルフレがルキナの事を思って作ってくれる料理は、……城で食べていた毒見を行う内に冷めてしまっている事が大半であったそれとは比べ物にならない程に、とても「温かい」のだ。

 たった一口でも心がぽかぽかと温かくなる。

 同じ料理を分け合って食べる事はルキナにとってはとても新鮮で……そして幸せな事であった。

 そして、それだけではなくて。

 ルフレは、森での独り暮らしと言う決して楽ではない生活の中でも、それを苦とも見せずにルキナに良くしてくれている。

『竜』の身体のルキナは、普通の人間を基準に考えると成人男性よりも食べてしまうのだけれども。

 その分余計に日々の食料は必要で……それなのにルフレはそれを欠片も厭う事無く……寧ろルキナが食べている姿を嬉しそうに微笑んで見ているのだ。

 ……だからなのだろうか。

 金銭的に豊かな人々が贅を凝らして作る料理よりも、ルフレと共に食べる質素な食事の方が、ずっと美味しく感じるのは。

 

 どうすれば彼に恩を……こうして一緒に暮らさせて貰っている恩だけでなく、そもそも命を救って貰った事の恩も含めたその全てを、返す事が出来るのだろうかと、そう思ってしまう。

 ……彼はルキナに何か見返りを求めようとは全く思ってもいない様ではあるけれど、それではルキナとしては気が済まない。

 だが……『王女』と言う立場でも最早ないただの『ルキナ』が……そしてこの『竜』の身体で、彼に何をしてあげられるのか……ルキナには全く何も思い付かない。

 ルキナは彼から貰ってばかりで、それを返す術すら思い付かないままに次から次へ受け取るばかりになってしまっている。

 ルキナが世話をかけてばかりでいる事を気にしているのを察しているのか、ルフレは事ある毎に「好きでやっている事だから気にしないで」と笑って言うのだけれど……。

 ……儘ならない想いはあるのだけれども、どうしてだかルフレのその言葉すらも心地良くて、ルキナは少し戸惑ってしまうのであった。

 

 

 竿や網などの魚を獲る為の道具を持ったルフレに案内されて森の奥の方へと歩いていくと、突然に視界が大きく広がり、目の前一杯に広がる大きな湖面が姿を現した。

 

 晩春と初夏の移り変わりの時期の少し強い温かな風が湖面を揺らし、湖畔に静かな漣を寄せて。湖を取り巻く木々は降り注ぐ陽射しに照らされて青々と輝き、吹き抜けていく風にその木の葉を揺らして。少し遠くの岸辺近くでは、鴨の群れがのんびりと水草を食みながらプカプカと浮かぶ様に泳いでいて。

 陽の光を照り返す様に、湖面は宝石の様に輝いている。

 美しい……とても美しい景色であった。

 人間の手によって整えられた美しさとは異なる、そこに在るがままの美しさの、そんな極致の一つなのだろう。

 深い森の奥にあるからこそ、湖には人の姿はルフレとルキナ以外には見当たらず、まるで獣達だけの楽園の様ですらあった。

 

「ね、綺麗な湖だろう? 

 この時期だけじゃなくて、秋も冬も春先も凄く綺麗なんだ。

 ずっと向こうにある山の方から流れてくる雪解け水や、湧き水なんかがこの湖に集まって来てて、凄く豊かな水だからか魚も物凄く多いしよく育つんだよ。

 この湖の水は、遠く海の方まで流れていくらしいんだけれど、僕はこの森を離れた事が殆ど無いから『海』って言うモノをこの目で見た事はまだないんだ。

 ルキナは、『海』を見た事があるかい?」

 

 網を使って罠を作りながら、ルフレはそう訊ねてくる。

 ルキナも、まだ『海』を目にした事は無かった。

 公務として赴いた場所は内陸の領地ばかりであったし、『海』を見る為だけに我儘を言える性格でも無かったからだ。

『海』と言うモノは勿論知識としては知っているけれど……。

「未知」のモノを知る為に我儘を言う前に、ルキナには成さなくてはならない事が沢山あって、そして「『海』を見る事」はルキナにとってはそれらを後回しにしてでもする必要がある事ではなかった。

 

「そっか、ルキナも『海』を見た事が無いんだね。

 僕と一緒だ」

 

 そう言いながら罠を仕掛け終えたルフレは、岸辺に転がっていた手近な岩に腰かけて釣竿を握る。

 

「……僕は、この森の中の世界しか、殆ど知らないんだ。

 本から沢山の事を学んだけれど、その殆どはこの目で確かめた事が無い事ばかりで。ずっと、それでも良いと思っていた。

 この森の中で生きていくには不自由はしなかったしね。

 ……でも、ルキナと出会って、少し変わった」

 

 穏やかな声音で、その視線を湖面で微かに揺れる浮きを見詰めながらルフレは静かに言う。

 ルキナは、そんなルフレの傍に寄り添う様に座りながら、その言葉の続きを待った。

 

「……君と出逢ってからの毎日は、『知らなかった』事の連続でね……それを手探りする様に考え知っていく事は、僕にとって……とても楽しかったんだ。

 母さんの後を継ぐ様にして『森の賢者』なんて言われながら近くの村の人々に力を貸す事だって、満足していたんだけど。

 何て言ったら良いのかな……自分の世界が広がっていく楽しさ……広がった世界がしっかりと経験に裏打ちされていく喜び……『知らなかった』事自体を知る驚き……。

 狭かった世界だけで満足していた僕の『世界』を、君が変えてくれた……その切っ掛けをくれたんだ。

 それに……僕は君に何時も支えて貰っている。

 誰かと一緒に食事する楽しさを、こうして喋る言葉に耳を傾けていてくれる人が居る事の『幸せ』を。

 君が、僕にもう一度教えてくれたんだ。

 だから、有難う、ルキナ。

 君に出逢えて、僕はとても『幸せ』なんだ。

 少し照れ臭いけれど……それでもちゃんと伝えたかった」

 

 そう言ったルフレの頬はその言葉通り照れ臭かったのか少し赤くて……それでも、ルキナの目を真っ直ぐに見ていた。

 ルキナは、何かを言おうとして、でもどう言えば良いのか分からなくて、伝えようとした言葉も無いままに小さく唸る様にその喉を鳴らした。

 もしも『竜』の姿でなく元の人間の姿であったなら、ルキナの頬も朱に染まっていたであろうと、そう根拠もなく思う。

 ルフレと目を合わせているのがどうしてだか落ち着かなくて視線を彷徨わせて偶然目にした湖面に映る今の自身の姿は。

 落ち着きなく翼を震わせて、尾はゆっくりと大きく動き、蒼銀の鱗に覆われている『竜』の顔は赤みが差しているのかどうかは分からないけれど……動揺を隠す事も出来ずにソワソワとその視線を彷徨わせているものであった。

 

 どうしてルフレの言葉にここまで動揺してしまっているのか、ルキナにはまだその理由が分からない。

 ルフレから「有難う」と言われただけであるのに、心が浮き立つ様にソワソワしてしまう。

 感謝してもしきれないのは寧ろルキナの方であると言う想いはあるけれど、それがこの動揺の原因ではないだろう。

 何か伝えたくて、でもどうしたら良いのか分からなくて、分からないままなのに、想いは勝手に溢れ出す。

 

『私も、ルフレさんに出逢えて、本当に──』

 

 あの日、ルフレに出会えていなかったら。

 ルキナがこうして息をする事は叶わなかったであろう。

 泥濘の中、嵐に打たれて冷えきった身体と心のまま……そこで誰にそれを知られる事もなくその命の灯は消えていた。

 ……ルフレ以外の者がルキナを見付けていたのだとしても、やはりルキナはあのまま死んでいたであろう。

 無我夢中で何の宛も無いままに飛んで偶然に墜ちた場所がこの森であった事、そしてルフレがそれを見付けてくれた事。

 それは、幾つもの奇跡が重なりあって初めて成し得る、可能性の極致にある「奇跡」であった。

 この身が突然『竜』に変じた事、そして父達から追われ殺されそうになった事。

 それらは予期する事も出来ぬ不運であると……理不尽であるとも言えるのだろうけれども。

 その過程があるからこそ、ルフレと出逢う事が出来た。

 それだけは確かな事実であり……そしてルキナにとって、それは掛替えの無い程に『幸い』な事であるのだ。

 

 ルキナの全てを変えてしまったあの日がなければ、ルキナがルフレと出逢う事はきっと無かったであろう。

 王城で『王女』として生きるルキナと、この森で生きるルフレの人生が交わる事は、きっと何処かの往来ですれ違う事すら無かっただろうと……そう思う。

 ルキナは、ルフレと言う人のその為人どころかその存在すら知る事も無く生きて……そして死んでいったであろう。

 その人生を『不幸』と断ずる事は出来無いけれども。

 ……ルフレと出逢い彼に命を救われた今のルキナには、そんな人生は、これっぽっちも考えられないものであった。

 命を救われたあの日から、心を救われたその日から。

 ルフレは、ルキナにとってはなくてはならない……心のとても大切な場所に居る存在になったのだ。

 その出逢いの為に、どんな苦痛が、どんな理不尽が、どんな絶望があったのだとしても。それですら全て抱き締めて、『出逢えた』事をこの上ない『喜び』であると感じられる様な……そんな『特別』で『大切』な存在なのだ。

 ……ルフレにとってのルキナも、少しでもそんな存在に……彼の心の大切な場所に居る存在になれているのだと、そう思っても良いのだろうか……。

 出逢えた事を『幸せ』であると、ルフレにそう思って貰える事は、ルキナにとっては限りない『幸せ』であった。

 

 そして、ルキナの存在がルフレの『世界』を広げたと言うけれど、それはルキナにとってもそうなのだ。

『王女』としての生き方しか……そしてそこから見える『世界』しか、かつてのルキナは知らなかった。

 けれどもルフレと出逢って、彼に手を引かれる様に共に見る『世界』は、あの頃の自分では想像も出来ぬ輝きに満ちていて。

 それを、「美しい」と心からそう思う。

 その心の色彩を与えてくれたのは、『世界』に色付けてくれたのは、間違いなくルフレなのだ。

 

 そう言った全てを、ルキナはルフレに伝えたかった。

 貴方からこんなにも沢山の大切な物を貰ったのだと、貴方と出逢えたから見付ける事が出来たのだと。

 だがそれは、ただでさえ言葉にするのも難しくて。

 況してや、複雑な『想い』を伝える事が困難な『竜』の鳴き声では、到底伝えきれない。それが、どうしても苦しいのだ。

 

 ……何時か、この身が再び『人間』の姿に戻る事が出来たのなら、伝える事が出来るのだろうか。

 この心を暖かく照らす光の様なその『想い』を……。

 ……その日が少しでも早く来るように、ルキナは願っている。

 

 

 

「ルキナ……僕は、叶うなら……君と……」

 

 

 ルフレは何かを言い掛けて、そしてそこで何かを思い直した様に軽く首を横に振り、口を噤んで曖昧に微笑んだ。

 

 

 その後はルフレは他愛ない話を始め、それは日が傾き始めて釣りを終えるまで続いたのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナと共に森での日々を過ごすルフレではあるが、ずっと森の奥だけで生活している訳ではない。

 二月に一度程度の頻度ではあるけれど、森の傍にある村へと出掛けてそこで村人たちの力になっている。

 本当にのっぴきならない事情があれば村人達が森の奥へと分け入ってでもルフレの下へと訪れる事はあるけれど、村でルフレが訪れるのを待っている事の方が多いし、彼等が森の奥にまで来た事は母が生きていた頃から数えても一回や二回程度の事でしかない。そもそも熊や狼なども多く生息している森に立ち入るのは猟師位なもので、その猟師達もルフレが暮らしている森の奥まで立ち入る事は殆ど無いも同然であった。

 そうやって人目がある事はほぼほぼ考えられないからこそ、ルキナを安心して匿えてやれているのだ。

 そう言う環境の事を考えても、あの日ルキナを見付けたのが自分で良かったと、そうルフレは心から思う。『竜』の姿であるルキナが落ち着いて傷を癒せる環境の条件は厳しく、偶々この森がそれを全て満たしていた事は紛れも無い「幸運」だった。

 と、そんな事をつらつらと考えながらも、ルフレは村の方へと出掛ける準備を進める。

 作っていた薬の数々や、換金する為に持っていく毛皮など、何時もちょっとした大荷物になってしまう。

 そして……。

 

「ごめんね、ルキナ。

 今から森の近くの村に行く用事があるんだ。

 なるべく早くには帰ってくるけれど……少しの間留守番を頼めるかな?」

 

 夜明け前に出発しても、ルフレがどれだけ急いでも戻って来る事が出来るのは翌日の明け方近くになってしまう。

 その間のルキナの為の食料はしっかりと用意してはいるけれど……彼女を一人残していくのは幾分か不安が残る。

 傷が治っていなかった時ならばいざ知らず、完全に復調した状態である今ならば、熊などの猛獣でも相手にならぬ強さを持つ『竜』であるルキナが危険な目に遭う事は、ここが人の立ち入らぬ森の奥深くである事も踏まえてあまり考え難いけれど……それでも万が一と言う事はあるだろう。

 もしも身に危険が差し迫ったのなら、ルフレの事は気にせずに空へと逃げて欲しいとは言ってあるけれど……。

『分かっています』と言わんばかりに頷くその姿が、自分でも気の迷いだとは分かっていてもどうにも心配になるのだ。

 それは、ルフレがルキナに万が一があれば平静ではいられないからと言うのもあるし……一度深く傷付いた彼女の心の傷が何を切っ掛けにまた開いてしまうとも分からないと言う何処か漠然とした不安が常にあるからでもある。

 が、それでもルフレには自分を待っているだろう村人の事を無視する事は出来なくて、後ろ髪を引かれる思いながらも、屋敷を後にして村へと向かうのであった。

 

 

 村人達とはほぼ全員と顔見知りの状態であり、誰がどの様な薬を求めているのかをルフレはよく知っている。

 村に着いたルフレは、村人達からの歓待もそこそこに、慣れた手際で村人達の診察と共に彼等に必要な薬を渡していく。

 そして、村人たちの悩み事などを解決したりしていく内にすっかり日は傾き始めて。

 それでもどうにか陽が沈む前に用事を済ませる事が出来た。

 そしてそろそろ森に帰ろうと準備を始めたその時、村の集会所の入り口が妙に騒がしくなっている事に気が付く。

 何事かと、近付いて話を聞いてみると、この国を治めている王家の人物の訃報が届いたらしい。

 どうやらこの国の王女が若くして逝去したと言うのだ。

 こんな辺境の村まで王都での出来事であろうその情報が届いたと言う事は、その王女が亡くなったのは随分と前なのだろう。

 既に国葬も行われた後であるらしいのだが、彼女の死を悼んで国中が当分の間喪に服す事になるそうだ。

 大々的な祭りは暫くの間は自粛せねばならないと言う事で、村の人々の中にはその事に不満を零す者も居る。

 

 こんな辺境の村では、そもそもこの国を治める聖王家だのと言った雲上の人々の事など全くと言って良い程に無関係で。

 村人達にとって直接的に関係があるのはこの地を治める貴族の事位なものだ。

 早逝したその王女の名前すら知らなかった者が大半である。

 ルフレにとっても、王族だの何だのと言った人々の事は自分に全く関わり合いの無い事であるし、喪に服すと言う話だとてそもそも森の奥で引き籠る様に暮らしている為関係ない。

 その生き死にが、その一挙一動が、多くの人々の生活に強く影響を与えるのだと考えると、王族に生まれ育つと言う事も楽では無いのだろうとそう心から思う。

 餓え苦しむ事は無いのだとしても、その肩に載せられた責任の重みと言うモノを考えると、そう生きたいとは全く思わない。

 ……そんな重荷を背負っていたのだろうその王女は、その命の灯が消えるまでの間に『幸せ』を見付けていたのだろうか。

 ……願っても喪われた命は戻る事は無いけれど、……それでもせめてそうであって欲しいと願う。

 

 

 ルキナが待つ森の奥の屋敷へ一刻も早く帰ろうと、村人たちの話を聞く事もそこそこに急ぎ支度を終えて森へと戻って行ったルフレは知らなかった。

 

 王女は、蒼銀の『竜』に襲われて命を落としたと言う事を。

 その王女の名が、『ルキナ』であると言う事を。

 そして……今も何処かで生きている可能性があるその『竜』を……彼女の父たる聖王が直々に命を下して、確実に息の根を止める為に捜し続けていると言う事を……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレが森の近くにあると言う村へと出掛けてから少しの時間が経ったのだが……ルキナは落ち着きなく所在無さげに屋敷の周りをウロウロと彷徨っていたり、或いは何かすると言う事も無く寝床で丸くなっていた。

 ルフレが居ない時間がこんなにも長くなるのは初めてで。

 彼が居ない屋敷は、大切な何かが欠けてしまったかの様に、酷く寂しく思えるのだ。

 本当は、今すぐにでも飛んで彼の元へ行ってしまいたい位に、ルフレに逢いたかった、その傍で時を過ごしていたかった。

 が、そんな事は出来ない事はルキナが一番よく分かっている。

 ルフレはルキナの為だけの存在では無いし、彼には彼の生活があって……ルキナは寧ろそこに転がり込んできた立場だ。

 片時も離れずにずっと傍に居てくれ……だなんて思える訳なんて無いし、それを願いたい訳でも無い……筈だ。

 ただ……ルフレ以外の人間に関わる事の出来ない今の自分は、ルフレが居なくなれば真実『孤独』になってしまう。

 それがとても恐ろしく、考えるだけで心まで凍えそうになる。

 ルフレに出逢う事が無ければ、ルキナは『人間』ではなくなった我が身を嘆き憐みながらも、その『孤独』を仕方が無いものと諦めて受け入れていたのだろう。

 しかし、ルフレに出逢って理解して貰えて救われて……。

 こんな姿になってしまっても『孤独』になる事がなかったルキナには、もう今更それを諦めて受け入れられる事なんて出来る訳は無かった。

 別に、ルフレは永久の別離をした訳でなくて近くの村へと行っただけなのは分かっているけれど、ルキナがあの日何の前触れもなく『人間』ではなくなってしまった様に、この世には絶対なんて何処にも無くて。

 ルフレがこのまま帰って来ないかもしれないと言う可能性を考えるだけでもどうしようもなく不安になる。

 だけれども、ルキナがルフレの傍に居続ける事は難しい。

 

 自身の手を……変わり果てた『竜』の前脚を見て、ルキナは深い溜息を吐く。

 モノを優しく掴んだりする事にも、壊さぬ様にそっと触れる事も、……凡そ『人間』らしい事が何も出来ない手。

 それは、自身の変貌を最も実感させるものだ。

 蛇の鎌首の様に長い首も、前に突き出た口やそこに並ぶ鋭い牙も、空を飛ぶ事も出来る翼も、感情の機微に反応して無意識に動いてしまう尾も。

 そのどれもが自分の身が変わり果てた事を実感するものであるのだけれど、その中でも極めつけがこの前脚だった。

 

 ルキナは、ルフレの手の温かさも、優しい見た目以上にしっかりとした厚さのあるその質感も、どちらも知っているけれど。

 ルフレのその腕に、肩に、頬に、触れた時はどの様な感じであるのかは全く知らない。

 ルキナの今のこの手では、ルフレに触れる事は出来ない。

 無理にそうしようとしても、この鉤爪は彼を傷付けてしまう。

 それに、別に手で触れる事だけではなく、この身では叶わぬ事は余りにも多い。

 最近は、この身が変わってしまった事そのものについて嘆くよりも、そう言った『出来ない事』の積み重ねに心を苦しめられるようになっていた。

『人間』であったなら出来た事、この身体では出来ない事。

 それらが些細なものから深刻なものまで積み上がっていく。

 そして、そのどれもが、ルフレに関しての事であった。

 勿論、ルフレの事以外にも、自分が置き去りにする形で残してきたモノもその心を苛むけれど。

 しかしそれは、二月以上の時が経つ中で次第に整理が着いて、どうにもならぬ事だと諦めが先立つ様になっていた。

 ……あの状況ではルキナは死んだと誰もが思っているだろう。

 突如現れた『竜』に襲われて死んだ……と、そうなっている。

 ならば、とっくにその葬儀は終わっているだろうし、そういう意味でも『ルキナ王女』と言う存在はこの世にはもう居ない。

 今代の聖王である父の子はルキナ一人であるが、聖痕を受け継ぎ王位継承権を持つ者はルキナ以外にも存在する。

『ルキナ王女』がこの世から消えたとしても、この国の根本が揺らぎ、取り返しのつかない事態になると言う事は無い。

『王女』であるルキナもまた、この国を動かす歯車の一つでしかなく、その歯車としての機能に関しても代替出来る者が居ない訳ではない。

 恐らくは、既にその者が次代の聖王と言う事になっている。

 そして、一度決まったそれを覆すのは難しい。

 ……その状況で、この先ルキナが元の『人間』の『ルキナ』に戻れたとしても、王城に帰るべき場所があるのかと言われれば、それに関しては分からないとしかルキナには言えない。

 死んだ筈のルキナが戻る事で国に余計な混乱をもたらす可能性はあるし、そうなれば最悪国が割れるだろう。

 厄介な事にルキナには『ファルシオンに選ばれた』と言う、聖王としてのある種の正統性があるし、それを神輿に担がれる事は十分に考えられる。

 残してきた家族にも、そして果たすべきであった役目にも、そのどちらにも未練はあり、帰りたいと言う願望が無い訳ではないのだけれど……。

『王女』としての矜持は、国の禍になる事を自身に許さない。

 そして……だからこそ、ルキナはあの場所をもう半ば『自分の帰る場所』ではないと……自分の『居場所』ではなくなったのだと思っていた。

 

 そして、今のルキナにとっての『居場所』は、この森……正確にはルフレの傍だ。

 だからこそ、それを喪う事を恐れ、彼の傍に居続ける事の難しいこの身が苦しいのだ。

 きっともう二度と、『喪う』事に絶えられないから。

 ここで得た安息の場所を、そしてこの胸を照らす『想い』を、絶対に喪いたくないのだ。

 ……未だ、『人間』に戻る為の手掛かりは見付からない。

 無論、そう簡単に見つかる様なものではない事は分かっているし、まだ二月しか経っていないとも言えるけれど。

 少しずつ少しずつ、諦めの様な恐怖が……『もしかしたら一生自分はこのままなのかもしれない』と言う想像が、僅かにでも現実味を帯び始めている。

 その嘆きは、あの日からずっと心にある恐怖であるけれども、そこにある感情と苦しみの根源にある『想い』は違う。

 

 あの日の嘆きは、このまま『竜』として誰にも顧みられる事も無く『孤独』に死んでいくのではないかと言う恐怖だった。

 だが、今はまた少し違う。

『一生このまま』であるのだとすれば、ルキナは一生ルフレに触れられない、ルフレと言葉を交わせない、ルフレにこの『想い』を伝えられない……。

 それが、恐ろしかった。

 

 何時かルフレが『竜』である自分を置いて、誰か他に大切な人を見付けてしまうのではないかと……恐ろしいのだ。

 

『人間』だと自分でそう思い続けルフレからもそう接して貰えてはいるけれど、事実として今のルキナの身体は『竜』のものでしかないのだ。

 ……『竜』であるルキナが、『人間』であるルフレの一生を自分だけに縛り付ける事なんて出来る訳は無く、してはならない。

『竜』でしかないルキナと、『愛』しあってくれだなんて……願える訳は無いのだ。

 

 ……そう。ルキナは……ルフレの事が好きだ。

 一人の男性として、『愛』を向ける相手として。

 ルフレの事を、愛している。

 ルキナはルフレに、『恋』をしているのだ。

 

 だからこそ苦しい。

 彼に触れる事の叶わないこの手が。

 彼と肩を寄り添わせる事も出来ないこの身が。

 彼に、『好きです』と、『愛しています』と……そんな大切な言葉すら届ける事の出来ぬこの喉が。

 口付けすら難しい『竜』の身体が……。

 苦しくて、仕方が無いのだ。

 もしも、このまま一生『人間』に戻れないのなら。

 一生、この苦しみを抱え続けなければならないのだろうか。

 伝える事も出来ないのに忘れる事も出来ない『想い』を。

 毎日の様にルフレに『恋』をして、そしてそれを伝えられない苦しみに悶え続けるのだろうか。

 それは、余りにも……。

 

 

 そこまで考えたルキナはまた一つ、重く深い溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ……最近、ルキナの様子が少しおかしい気がする。

 具体的にどこがどう……と言うモノでは無くて、もしかしたらルフレの気の所為なのかもしれないけれど……。

 

 しかし例えば、ふとした瞬間にルフレの方をジッと見詰めていたかと思うと、ルフレが目を向けるとその視線を逸らす。

 呼び掛けた時の反応が僅かに遅い気がする。

 何かを思い悩む様に、何処か遠くを見ている事がある。

 自分の手を見ては溜息を吐いている……。

 

 そう言った事が積み重なっているとルフレも心配になるのだけれども、ルキナは何を訊ねても『何でもない』と首を横に振るばかりで……、それが、ルフレには寂しかった。

 ルフレでは、彼女の力になってやれないのだろうか、と……。

 自分なら彼女の為に何でもしてやれる、どんな悩みだって解決してあげられる……なんて自惚れている訳では無いけれど。

 それでも、大切な人に何もしてあげられない事は苦しいのだ。

 ……ルキナを思い悩ませているのは、やはり未だ元の『人間』の姿に戻る方法もその手掛かりも見付からない事であろうか。

 ……恐らくは、そうであろう。

 ルキナは『人間』であり、望んで今の状態に在る訳でないのなら元に戻りたいと望む事は当然だ。

 そして……『人間』としてのルキナには、家族や友人……或いは恋人と言った、彼女の『居場所』が、ある筈なのだ。

 ルキナを思い悩ませているのはそう言った、彼女が置き去りにせざるを得なかった者達の事だろうか。

 会いたいと、帰りたいと、そう望み……だがそれが未だ叶わないからこそ、その心を痛めているのだろうか。

 

 ……ルフレは、ルキナを元の姿に戻してやりたいと……そう心から願っているし、その為に出来る限りの事はしている。

 だけれども……心の何処かでは、この時間が……ルキナと共に過ごすこの日々が、終わらないで欲しいとも、思っていた。

 ルフレとルキナの人生は、彼女にとっての突然の『不幸』によって偶然に交差しただけで。

 ルフレがこの森で今まで生きてきた様に、彼女にも彼女の人生が……彼女の生きる場所とそこを取り巻く人々が居る。

 この日々は傷付いた彼女がほんの一時その羽を休める為のものでしかなくて、彼女が元の姿に戻れた時に、彼女の本来の『居場所』へ帰ろうとするその手を取って引き留める為の言葉を……その明確な理由を、ルフレはまだ持っていない。

 ただ傍に居て欲しい……だなんて理由では引き止められないし、そんな事はしてはならない。

 ……ルキナの為を思うのならば、ルフレにとってのこの暖かな日々は少しでも早く終わりを迎えなければならないし、その為に出来る事をしなくてはならない。

 

 だからこそルフレは、その気持ちに矛盾を抱えながらも、その方法を探し続けている。

 でももし……この屋敷の書庫を調べ尽くしても、そこに手掛かりも無いのなら、その時は……。そう過る愚かな考えを振り払い、ルフレは書庫の中を探し続ける。

 そもそも、個膨大な蔵書の山はまだまだ未開拓の場所が遥かに多いので、そんな『もしも』は今考えるのは無駄でしかない。

 気を取り直して書架の上の方の棚にある本を取ろうと、踏み台の上に乗りながら思いっきり手を伸ばす。

 キッチリと挟まり過ぎた本を引き抜くのは難しい。

 況してや背伸びをしているに近い姿勢だと中々本が取れなくて、上下に本を揺する様にしてゆっくりと引き抜かねばならない。その拍子に頑丈な本棚も軽くだが揺れ、本棚の天板部分に積もった埃が落ちてきてルフレは軽く咳き込んだ。

 

 と、その時。本棚の天板の上に、箱の様な物が置かれている事にルフレは気が付く。

 全く見覚えが無いので、恐らくは天板の奥の方に置かれていた物が、本棚全体が揺れた為手前の方に移動してきたのだろう。

 その箱に興味を引かれたルフレは、何度か飛び跳ねる様にしながらその箱を少しずつ引き寄せ、そして手の中に落とした。

 随分と長い事本棚の上に置かれていたのだろうその箱は埃塗れで、それを手で軽く払ってからその箱を開ける。

 

 中に在ったのは、一冊の本……と言うよりも分厚めの手記の様な感じの装丁のものであった。

 表紙には何の文字も無く、誰が書いた物なのか何の内容が書かれているのかはパッと見ただけでは分からない。

 

「これ……母さんの字だ……」

 

 何の気も無しに開いたそこに懐かしい字を見付け、ルフレは驚いた。母は多くの本を書き残してくれていたし、それはルフレも知っているし活用もしている。

 しかし、こんな場所にひっそりと隠されているのは初めてで……だからこそ、隠していた秘密を暴こうとしているかの様な後ろめたさと共に、どうしても抑えきれない好奇心が湧き起こる。その好奇心には抗えずに、少しだけ……と、そう思いルフレはその母の手記を読み進めた。

 

 そこに書かれていたのは様々な伝説や伝承……それこそ神話の中の出来事の様についての走り書きの様な物であった。

 

 かつてこの世界に数多存在し強大な力を持っていたとされている【竜族】と、彼等がこの世界に遺した様々な人智を超えた神器や遺跡、それらに纏わる伝説や伝承の数々。

 手記の中には、マルス王の時代に暴威を振るったと伝えられている暗黒竜メディウスについての伝承や、グランベル大陸のロプトウス、ヴァルム大陸のドーマとミラ神、神竜族の王ナーガ、……そして邪竜ギムレーなどの、人の歴史にも大きな影響を与えてきた神々の如き【竜】の事も特に多く記されている。

 そして【竜】そのものだけではなく。

 古い伝承に語られる救国の英雄アンリ、その子孫であり世界を救った偉大なる英雄マルス……そしてこの国を興した初代聖王と、……そんな彼等が振るっていたと神の剣『ファルシオン』に関する伝承。遠く海を隔てた彼方のユグドラル大陸の伝説にある、神器と聖戦士たち……。時を超える力が眠るとされる遺跡に、『異なる世界』と言う此処ではない何処かを繋げる『竜の門』……。

 手記に記されたそれらは、全て【竜族】に繋がる物であった。

 

 ……何故母がこの様なものを調べていたのか、そしてそれをこうして書き残していたのかは分からない。

 だけれども、手記に記されている様々な伝承の中に、一つルフレの目を捉えて離さないものがあった。

 

 

『真実の泉』……そしてその伝説。

 それこそまさに、ルフレが探し求めているものであったのだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第五話『旅立ちの風』

 ◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『真実の泉』……それは、ヴァルム大陸の北部のとある地域に伝わる伝説の一つだ。

 遥かなる古の時代から存在するその遺跡の最奥には、神秘の力を湛えた泉が存在すると言う。

 

 

その水面は真実を映す鏡。

 そこに映し出された者の「真実」を暴き出す。

 何人たりとも泉を前に己を偽る事叶わず。

 如何なる魔法も幻術も虚構も、泉の前には無力なり。

 己の「真実」を映す覚悟がある者だけが、泉を訪れるべし

 

 

 ……そう伝説に謳われるその泉は、覗き込んだ者にその者の「真実」を与えると……そう言われていると、手記には書かれていた。

『真実』……。

 その言葉が含む意味は多様で、具体的にそれがどう言った性質の『真実』の事を指すのかは分からないけれど……。

 だが、もしかしたらその『真実の泉』には、ルキナの姿を元の『人間』の姿に戻す力があるのではないかと思うのだ。

 今のルキナの『竜』の身体は、彼女にとっての『真実』の姿では無くて……ならば『真実の泉』がルキナに映し出す『真実』とは、彼女本来の『人間』としての姿ではないかと、……そう考えられるのではないだろうか。

『真実の泉』は伝説の中だけでしか語られず、それが具体的にヴァルム大陸の何処にあるのかは分からないし、手記の中でもそれは明らかにはなっていない。

 実在するのかどうかも不確かで……そして『真実の泉』に辿り着いた所で望んだ結果が得られるかは分からないが。

 それでも、何の手掛かりも全く無い今の状態では、そこに僅かにでも可能性があるならば、賭けてみる価値はあるだろう。

 ルフレは早速、手記を手にルキナの元へと急いだ。

 

 

「ルキナ! 見付けたよ!!」

 

 ルフレが息を切らして小屋に飛び込んできたのを見たルキナは、突然の事に驚いた様に目を丸くする。

 主語も何もないそのルフレの言葉に困惑したのか、『どうかしたのか』とばかりにその首を傾げる。

 そんなルキナに、興奮を隠しきれずにやや上がった息でルフレは母の手記を手に言った。

 

「君を元の『人間』の姿に戻す事が出来るかもしれない方法が、やっと……! 見付かったんだ!! 

 この……ほら、ここに……!」

 

 ルフレは『真実の泉』について書かれているページをルキナに見える様にした。

 ルフレの勢いに戸惑いながらもルキナはそのページを読み始め、次第に食い入るようにそれを見詰める。

 

「確証は無いけど、『真実の泉』に辿り着く事が出来れば……! 

 ルキナが元の姿に戻れるんじゃないかと、僕はそう思うんだ。

 このままどうすれば良いのか分からないまま、確実に元の姿に戻る方法をただ探し続けるよりは、可能性が低いかもしれなくても、『真実の泉』を探し目指す価値はあるんじゃないかな?」

 

 ルフレの言葉にルキナは顔を上げるが、突然降ってきたその可能性を完全には飲み込め切れずに戸惑いが先に立っている。

 だから、ルフレはルキナに力強く言った。

 

 

「行こう、ルキナ! ヴァルム大陸へ、『真実の泉』へ!!」

 

 

 例え結果として無駄足になるのだとしても、そもそも『真実の泉』は実在しなかったのだとしても。

 確かめてみない事には、何も変わらない。

 居心地の良い『幸せ』な平穏の中で、『人間』に戻れぬ苦しみに静かに静かに心を削っていく位ならば、例え分の悪い賭けであるのだとしても、賭けてみても良いであろう。

 悪い方悪い方へと考え続けていては、可能性の光を逃してしまうだけである。

 

 ルフレの言葉に、ルキナはまだ少し何かを考えていた様だけれども、最後には力強く頷いた。

 その眼は、迷い人が目指すべき道を見付けたかの様に、そんな前へと進もうとする意志の輝きに満ちていて。

 それに安堵を覚えると共に、ルフレもまた心を決める。

 目指すべき道は見えた。

 ならば、後はその輝きを見失わぬ様に目指すだけだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルフレと過ごす日々は『幸せ』で、だからこそ……その穏やかな安寧がルキナの胸を締め付けていた。

 元の姿に戻りたい……ルフレにこの『想い』を伝えたいと言う願望と、それを叶わない事だと……叶わない夢を見て傷付く前に諦めて今のこの『幸せ』な日々で満ち足りるべきだと囁く諦念に染まった心の一部と。

 それらが相反して、ルキナの心を苛む様に苦しめる。

 

『人間』としてのルキナが、ルフレの傍に居て、そして今の様な穏やかで暖かい日々を過ごして。

 そして、沢山言葉を交わしあって、相手を傷付ける恐怖に怯える事もなくその身体に触れ合って。

 ……そんな『幸せ』を、ルキナは夢に見てしまう。

 

 だけれどもその一方で。

 どうして何の前触れも無くこの身が『竜』の身に変わってしまったのか、その原因も何も分からないのだから。

 この異変を解決して元の『人間』の姿に戻る術など見付かる筈も無いと……そう諦めてしまいかけている心もある。

 ルフレは、ルキナを何とか元の姿に戻そうとして様々な手を尽くしてくれているし、今も彼の家にあると言う書庫で文献を探し続けてくれているけれども。

 今の所、試した手は尽く失敗に終わり、何か他に手掛かりになりそうな書物も見付からないままだと言う。

 まだ二月と少ししか経っていないのだから、完全に諦めると言うには早過ぎるのかもしれないけれども。

 ……それでも、恐ろしい『もしも』を受け入れる為の心の準備は……どうしようも無い事だと心が諦めようとする準備は。

 少しずつ少しずつ、この心を蝕んでいく。

 

 あの日、何処に行く宛も無いままに独り死に行く筈であった自分からすれば、今のこの日々は……『人間』ではなくなってしまってもこうして穏やかな日々を送れている自分は、間違いなく類稀なる『幸運』に恵まれていて。

 これ以上を望み続けてしまえば、その所為でこの『幸せ』を喪ってしまう事になるのではないかと……そんな根拠も無い漠然とした不安が常に付き纏うのだ。

 何かを得ようとすれば、それに見合った何かを差し出さねばならないのがこの世の常であるのだけれども。ならば。

 ルキナの願うそれに見合う代価とは何であるのだろうか。

 今のルキナには、『願い』の為に差し出せるものは何もない。

 そもそも、その『願い』を叶える方法を探す事自体を、ルフレの善意に頼ってしまっている状態なのだから。

 だからこそ……もしも代償として喪うものがあるとすれば、この『幸せ』以外には無いのではないかと思ってしまうのだ。

 単なる気の迷い、考え過ぎであるのかもしれなくとも。

 ……その不安を晴らす手立ては、無い。

 故に、迷い悩み続け、それはこの心を苛むのだ。

 だからこそ……。

 

 

「ルキナ! 見付けたよ!!」

 

 今まで見た事が無い程の勢いで小屋に飛び込んできたルフレが開口一番にそう言った時には、何が何だか分からなかった。

 余程急いで来たのか微かに肩で息をする程に、その息は荒く。

 そしてそれ以上の、隠しきれない興奮にその瞳は輝いて。

 だけれどもルキナは。何を? と。

 ここ最近の彼が探し続けていたモノなんて一つしか心当たりなど無いのに、困惑のままに首を傾げてしまう。

 そんなルキナへ、興奮を抑えきれない様なやや上ずった声で、その手に持った本か何かを見せながらルフレは言う。

 

「君を元の『人間』の姿に戻す事が出来るかもしれない方法が、……やっと! 見付かったんだ!! 

 この……ほら、ここに……!」

 

 ルフレのその言葉に背を押される様にして、ルキナは彼が見せてくれているその本のページへと目を向ける。

 本か何かと思っていたが……どちらかと言うと手記の類だった様で、そこには何かについての覚書と走り書きの様な内容が整然としつつも細々と書き綴られていて。

 そして、ルフレが見せてくれているそこには。

『真実の泉』と言う……伝説の場所について記されていた。

 

 そこに記されたその伝承に、そしてそれを補足するかの様な数々の記述に。ルキナも、段々と食い入る様に読んでしまう。

 覗き込んだ者にその者の真実を与えると、そう謳われる泉。

 成る程、確かにそれは……そこには、ルキナのこの身を『人間』のそれに戻す力があるのかもしれないと、そう思えてくる。

 未知なるもの、それが「伝説」などと謳われるものであるのならば尚更に、人はそこに期待と希望を抱くのだから。

 

「確証は無いけど、『真実の泉』に辿り着く事が出来れば……! 

 ルキナが元の姿に戻れるんじゃないかと、僕はそう思うんだ。

 このままどうすれば良いのか分からないまま、確実に元の姿に戻る方法をただ探し続けるよりは、可能性が低いかもしれなくても、『真実の泉』を探し目指す価値はあるんじゃないかな?」

 

 ルフレはそう言って、その答えを待つ様にルキナを見上げた。

 だがしかし、ここにきてルキナは戸惑いと……そして躊躇いを覚えてしまい、彼の言葉に反射的に頷く事は出来なかった。

 

『真実の泉』は、この森から遠く離れたヴァルムの地の何処かにある……と伝説は言うけれども。

「伝説」のそれが実在しているのかは分からないし、それを確かめるのだとしてもヴァルムの地は此処からは遠過ぎる。

 ぺレジアの砂漠やフェリアの雪原を超えて、大海を渡って遥かなる大地を目指して……そしてそこから更に『真実の泉』を探さねばならないのだ。そして、その果てに目的の地に辿り着けたとしても、ルキナの『願い』を叶えられる保証は無い。

 ルキナ一人であるならば、そんな困難な道のりでも、僅かな可能性に賭けて『真実の泉』を探そうと……そう思えただろう。

 しかし、現実的な問題として、人と言葉を交わせないルキナ一人では到底そこには辿り着けず……『真実の泉』を目指すならばルフレの力を借りる他に無い。

 だが、例えルフレ本人がルキナに力を貸す事に積極的であるのだとしても、その厚意に甘えても本当に良いのかと迷うのだ。

 ルフレにはルフレの生活があって……それを、ルキナの為だけに壊させてしまって良いのかと、徒労に終わる可能性の高い旅路に付き合わせてしまって本当に良いのかと……。

 ルフレの事が大切であるからこそ、素直にそれに頷けない。

 だけれども、そんなルキナの躊躇いを見透かしたかの様に。

 ルフレは、ルキナに手を差し伸べるかの様に、ルキナの鱗に覆われた長い首筋に触れて、真っ直ぐにルキナを見詰めて言う。

 

 

「行こう、ルキナ! ヴァルム大陸へ、『真実の泉』へ!!」

 

 

 その力強い声に、その眼差しに。

 ルフレの『想い』が、煌めく様に揺らめいていて。

 それに引き込まれる様に、ルキナは思わず頷いてしまった。

 

 そう、そうだ。自分は、元の姿に戻りたいのだ。

 そして、叶えたい『願い』がある。

 どうしても諦めきれない『夢』がある。

 だからこそ、ルキナはその可能性を切り捨てる事は出来ない。

 

 ただの徒労に終わるかもしれない、辿り着いたそこはルキナが期待していた様なものではないかもしれない。

 それでも、無為に時間を費やして何も得られなくても。

 ここで何もしない内から諦めてしまうよりは、ずっと良い。

 ここで諦めてしまったら、きっとルキナは一生『あの時諦めていなかったら』と言う「もしも」を抱え続ける事になる。

 そんな気持ちでルフレの傍に居ては、ルキナを思い遣ってくれている彼を苦しめてしまうかもしれない。

 

 なればこそ、勇気を持って挑まなくてはならないのだ。

 挑む者にこそ、『願い』を叶える資格はあるのだから。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

『真実の泉』を探しに行くと決めたからと言って、思い立ったが吉日とばかりに直ぐ様旅立つ事は出来なかった。

 物心ついてからは全くこの『神竜の森』とその周辺の村からは出た事の無いルフレにとっては、ぺレジアやフェリアと言った同じ大陸の中にあるイーリスの隣国どころか、大海原を超えた遥か彼方にあるヴァルム大陸は余りにも遠く。

 十分以上に念入りに準備をしてからではなくては、旅立つには余りにも心許なさ過ぎるのだ。

 先ずは第一の目的地となるヴァルム大陸までの地図と海図を手に入れなければならないし、ここで調べていけるだけの情報は調べていくに越した事は無い。

 元より、半ば宛の無い旅路になるのだ。

 最初から行き当たりばったりでは、一体何時『真実の泉』に辿り着けるのか分かったものではない。

 だからこそ、ルフレはそれはもう入念な準備を行った。

 長旅にも耐えられる様に干し肉などの保存食を蓄えて、薬を売って旅先で入用になるだろう金銭を貯めて。

 ルキナは街には入れない事を考えると旅先では殆ど野宿に近い生活になるだろう事を見据えて最低限必要な道具を揃えて。

 村からまた少し離れた町にまで行って、ヴァルム大陸までの地図を何とか手に入れた。

 

 肝心のヴァルム大陸まで渡る方法だが、ルキナは飛竜などと偽るのも難しい程に美しく人目を惹いてしまう『竜』である事を考えると、ヴァルムに渡る船に乗り込むのも難しいだろう。

 と、なればルキナに飛んで渡って貰うしかない。

 幸いこの季節だと、ぺレジア側からヴァルム大陸の方向へと強い海風が吹いている上に、ぺレジアから渡るその途中には大小様々な島々が飛び石の様にヴァルム大陸まで続いている。

 島々で休息を挟みながら飛んでいけば、ヴァルム大陸まで辿り着ける……筈だ。

 途中で悪天候に巻き込まれたりしない事を祈るしかないが。

 まあそれは船を使っていても同じ事である。

 

 怪我がすっかり完治して久しいルキナは、最初の内こそ戸惑いながらであったが今では鳥の様に軽やかに思うがままに空を翔ける事が出来る様になっていて。

 ルフレ一人をその背に乗せる事など何の負担にもならない様で、恐らく海を超える事も難しくはなさそうであった。

 ルキナに負担が大きくなってしまう事だけはルフレとしては申し訳なく思ってしまうのだけれど、ルキナ本人はとてもやる気満々で、だから気にするなと言いた気なので、ルフレは掛ける言葉は感謝のものだけに留めている。

 海を渡る手段はそれで良いとして、ぺレジアを横断するルートは念入りに考えなくてはならない。

 ぺレジアはその国土の多くを砂漠や荒野と言った厳しい環境が占めており、そういった場所では身を隠しながら行く事は中々に難しく、またその羽を休める場所も限られている。

 それに……ルフレとしてもぺレジアでは出来る限り人の目に付く場所は避けて通りたいのだ。

 気休めであろうが、母との『約束』もあって、ギムレー教団と何らかの形で関わり合いになる可能性は極力避けたい。

 ギムレー教団では、神であるギムレーに対して多くの『生贄』を捧げており、『生贄』の対象は獣も人もお構いなしであるらしく、また珍しい生き物を生贄にしたがる傾向もあると聞く。

 ルキナがその標的になりかねない事を考えると、やはりギムレー教団だけは避けるに越した事は無いだろう。

 そんなこんなで、『真実の泉』に向かう事を決めてから半月近くの時間が過ぎて。

 ルキナと出会ったあの日からは凡そ三か月経っていて、夏の陽射しが木々の青葉を眩しく照らす季節になっていた。

 

 全ての支度を終え、背嚢に纏めた荷物を背負ったルフレは。

 物心付いてからの長い時間を過ごしてきた屋敷を振り返った。

『真実の泉』に辿り着くまでに……或いはそれが存在しないと確証を得るまでに、何れ程の時間がかかるのかは分からない。

 再びここに戻って来るのが何時の事になるのか……帰って来れるのかも、分からない。

 だけれども、ここがルフレにとっての『家』である事には何があっても変わらないのだ。……だから。

 

「行ってきます」

 

 住み慣れた屋敷に、そしてその裏庭に眠る母に、そう告げて。

 ルフレは、ルキナの背に跨って合図を出した。

 軽やかに飛び立ったルキナの背の上で、ルフレは振り返る事無く遥か彼方のヴァルム大陸を思うのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 最早日課となった墓参りを済ませた男──イーリス聖王国の当代聖王であるクロムは、癒える事の無い痛みにその眼差しを歪ませて、立ち上がった。

 

 この墓土の下に、最愛の娘の身体は無い。

 ……あの日、娘の……ルキナの十六歳の誕生日であったその日に……、突如現れた『竜』に襲われて……骨の欠片すら遺す事無く無惨にも喰い殺されたからだ。

 その場に残っていたのは、辺りに飛び散った血と、そしてその身に纏っていた衣服の残骸だけで。その惨たらしい死は、王城の者達のみならず、国中の民に深い悲しみを与えていた。

 王妃に至っては、愛する一人娘の惨い死に様を深く哀しむその余りに心の安定を崩して、すっかり寝込んでしまっている。

 だが、クロムの心に在るのは、深い悲しみだけではなくて。

 それ以上の燃え滾る憤怒がその身を突き動かしていた。

 ルキナを襲い喰い殺したあの『竜』……忘れもしない蒼銀の鱗に覆われたあの「獣」を。何処までも追い詰めて……この手で八つ裂きにしてルキナが受けた以上の苦しみを与えて殺さなくては到底気が済まないのだ。

 あの日、クロムは『竜』に竜殺しの神剣ファルシオンで深い傷を与えはしたが、殺しきる前に飛んで逃げられてしまった。

 そして、直後に発生した大嵐でその行方すら見失ったのだ。

 あの深い傷では『竜』とてただでは済まなかっただろうが、……あれで死んだと言う確証も無い。

 クロムは直ぐ様に彼の『竜』の首に懸賞金を掛けてその後を追ったのだが、今の所何の報告も無かった。

 その死体を見付けただけで一生を働かずに暮らしていけるだけのその懸賞金は、民達に血眼で『竜』を探させるには十分過ぎる程のものだったのだけれども。

 その姿を見かけたと言う証言すら無いのだ。

 イーリスのみならず、フェリアやぺレジアの方面へとその捜索の手は伸ばしてはいるが、まだ何の音沙汰も無い。

 海を越えたか……或いは海に墜ちて水底に沈んだか……。

 最近はその可能性も検討し始めている。

 もしもこのまま『竜』が見付からなければ。

 決して消える事の無いこの昏く深い憎悪の炎を、復讐を叫ぶこの心を、一生抱えて生きるしか無いのかもしれない。

 だが。『竜』の首を墓前に捧げる事で亡き娘への弔いにすると、クロムはその空っぽの墓前に誓ったのだ。

 それが果たされるまで、クロムは自分を止められない。

 聖王としての政務をこなし続ける一方で、その心は『竜』への憎しみに囚われていた。

 第一王位継承者であったルキナがその命を落とした以上、王族としては後継者を正式に据えねばならないのだが。

『竜』を討ち滅ぼすまでは……少なくとも一年以上の時が経つまでは、クロムはそれを先延ばしにするつもりであった。

 周囲の貴族たちも、クロムの深い憎悪と哀しみを知っているだけにそれに表立って異を唱える者は居ない。

 

『竜』が見付かり……そしてまだ生き長らえているならば。

 

 クロムは常に佩いているファルシオンの柄に触れる。

 竜を殺す事に特化した神の牙は幾千の時を経てもその切れ味に僅かな曇りも無く、『竜』の身を切り裂いて見せた。

 ルキナの手に託されゆく筈だったこの剣で、仇を討つ。

 それこそが、愛娘への唯一の手向けとなると、そうクロムは信じている。……信じるしかない。

 生者が死者の為にしてやれる事など本当の意味ではこの世に存在せず、生きる者達の欺瞞と自己満足であるのだとしても。

 それしか……もうクロムにしてやれる事は無く。そしてそうするしか、クロムは最早この胸を焦がす憎悪を晴らせない。

 あの『竜』をこの手で殺す事だけを、最近は夢に見るのだ。

 ルキナの事を想う度に、思い出そうとする度に。

 浮かぶのはあの『竜』の姿であり、それへの憎悪だ。

 それもまた耐え難くて、一層クロムの中の憤怒と憎悪へと糧となる炎を注ぎ込んでいる。

 そして……遂に待ち望んでいたその時は訪れた。

 

 

「『竜』が現れた……だと?! それは確かか!?」

 

 執務室に慌てる様にして飛び込んできた兵士の言葉に、震えたち今にも叫び出しそうな程のどす黒い憎悪の炎と共に燃える歓喜も似たそれをどうにか抑えて、クロムは問い質す。

 クロムの視線の圧に少し怯えつつも頷いた兵は報告を続けた。

 曰く、イーリスの東部からぺレジアとの国境がある西部へと向けて飛ぶ『竜』の姿を見かけたとの目撃情報がここ最近相次いで寄せられているらしく、それらの情報を統合すると『竜』はぺレジアの方へと向かっている様であるとの事だった。

『竜』が目指しているのがぺレジアなのか、或いはその更に先、海を越えたヴァルム大陸であるのかはまだ分からないが。

 それでも、待ち望んでいたその情報に、クロムの心は昏い喜びと憎悪と共に快哉を叫んだ。

 

「急ぎ討伐部隊を集めろ! 『竜』を追うぞ!!」

 

 他国に足を踏み入れる可能性も高いので大軍を率いる訳にはいかないが、クロムはイーリスの精鋭中の精鋭から選抜した討伐部隊を既に組織していた。

 聖王である自分が一時とは言え国を離れる事は本来ならば望ましくは無いが、信頼出来る名代は既に用意している。

 

「待っていろ……必ずその身を引き裂いてやる……!!」

 

 憎悪に燃えるクロムを止められる者は、何処にも居なかった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 イーリスの王城で憎悪の炎が燃え上がっているその頃。

 イーリスと国境を接する砂漠の国ぺレジアの、深い深い闇の底にある様な神殿の奥深くでは、一つの異変が起きていた。

 

 

「最高司祭様……! 今、ギムレー様の反応が……!!」

 

 歓喜に打ち震える様な声で、教団の信徒が自らにとっての絶対の神の名を口にする。

 憎き神竜の傀儡の手によって彼らの神が封じられてから千年。

 絶望と憎悪を織り上げ続けて、漸く彼等の手に神は取り戻された……筈だった。

 しかし、彼等の願いの連鎖の果てに甦り、神竜の忌々しい封印から取り戻した筈の神は……卑劣な裏切りにより喪われた。

 だがしかし、神は決して自身を崇め奉り続けてきた彼等を見放す事は無かったのだ。

 喪われていた筈の、彼の神がこの世に存在する事の証が。

 今再びその健在を示す様に輝き始めていた。

 それも、かつてのそれよりもより一層禍々しく猛々しく……見る者全てを喰い殺さんばかりの輝きでそれを知らしめる。

 彼等の神の帰還を確信し、信徒たちは喜びに打ち震え涙を流してその輝きへと平伏した。

 

「ギムレー様……! 我等が偉大なる神よ……!」

「その破滅と絶望の翼で、この世に静寂を齎し給え」

「苦しむ全てを救済し、偽りの安寧を終わらせ給え」

「終焉の先にある楽園へと、我等を導き給え……」

 

 信徒たちの祈りの声はより多く重なってゆく。

 それを満足気に眺めたギムレー教団最高司祭ファウダーは、朗々と配下の信徒たちへと宣下する。

 

「さあ、我等の神の帰還は直ぐそこだ。

 故に、我等が神に捧げる『炎の紋章』を完成させねばならん。

 さあ、神へと我等の祈りを届かせるのだ……!」

 

 祭壇に輝く台座には、四つの宝玉が煌めいているのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第六話『神竜の巫女』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 森を飛び立ってから数日が経つと、イーリスの国境を越えてぺレジアに辿り着いた。

 眼下に広がる景色が、緑豊かなイーリスとは異なり、何処までも続いているかの様に見える砂の海か、岩が転がる荒れた土地が多くなってきた事から、国境を超えた事は直ぐに分かった。

 人家が近くに無い小さなオアシスなどを転々と経由しながら、ルキナ達はひたすらに西へ西へと……海を目指し続けている。

 

 こうして空を飛べる事は……認めるのは少し複雑な気持ちにはなるけれど、ルキナにとっても楽しい事であった。

『竜』の姿になって唯一良かった事だと言えるかもしれない。

 この翼があれば、何処までも飛んで行けそうな気がする。

 ……初めてこの翼を使って無我夢中で空を飛んだあの日は、「死」への恐怖に苛まれていた為、とてもではないけれどそんな気持ちにはなれなかったのだけれども。

 今はこうしてこんなにも心が弾むのは、この蒼穹を何処までも行きたいとそう思えるのは。

 きっと、ルフレが共に居てくれるからなのだろう。

『真実の泉』を目指すのはルキナの事情であって、ルフレは本来全くと言って良い程に関係は無いのに、こうして一緒に来てくれているだけではなくて。『竜』であるルキナが共にいる事で自由に街に出入り出来ずに半ば強制的に野宿生活になっていると言うのに、ルフレはそれに関して何一つ文句は言わない。

 森での暮らしに慣れてるから平気だよ、とそう笑うばかりで。

 それを心苦しくは思うのだけれども、その一方でずっと自分と共に居てくれる事が嬉しかった。

 

 共に寄り添い合って眠る夜は、砂漠の冷えきった夜であっても何処か暖かくて。

 この旅で新たに見た物・見た景色を語らう一時は至福だった。

 

 王城で暮らしていた時には知らなかった物、森で生活していた間にも見た事が無かった物。それらを見付けながら行く旅は、自分が想像していた以上に楽しくて幸せなものであった。

 この旅の目的が叶わなかったとしても、旅をした事は決して無駄ではなかったと……そう言えると確信出来る程に。

 それはルフレにとってもそうなのだろう。

 旅の中で、ルフレは何時もその眼を輝かせていた。

 元々、ルフレは本の虫と言うかその知識欲は強い方なのだ。

 こうして「未知」を見て知る事が、彼にとって楽しくない筈も無かったのだろう。

 そうやって、ルキナとルフレは旅を続けていた。

 

 そして、砂漠を飛ぶ内に、眼下に何か大きな岩の様な物が点々と転がっている事に気が付いた。

 ただの岩かと思っていたのだが、それにしては妙に等間隔に転がっているのが気に掛かる。

 ルキナが気にしている事に気が付いたのだろうか。

 背の上のルフレは、眼下の岩を指さした。

 

「あれは、かつてこの地で滅ぼされたギムレーの骨だと……そう伝えられているモノなんだって」

 

 ギムレー……それはルキナにとってはある意味で馴染みが深い、しかしそれと同時に目にした事は決してない存在の名だ。

 かつて、ルキナの先祖にあたる初代聖王が神竜ナーガから授けられた神剣ファルシオンで討ち滅ぼした強大な邪竜……。

 その身一つで世界を滅ぼしかけた大災厄の名である。

 聖王家に連なる者で……否この世界に住まう者で、その名を知らぬものは誰一人として居ない……。それ程の強大な存在だ。

 

 その骨と言われて、ルキナは改めて眼下の岩を見る。

 骨だと言うその岩は、等間隔に遥か彼方まで続いていた。

 その全貌は、こうして遥か上空から見下ろしていても全く掴める気配はなかった。

 

「余りにも巨大な竜だったからその骨も凄まじく大きくて、ぺレジア全土に骨が散らばっているらしいよ。

 ぺレジアを往く旅人たちの目印になっているんだって。

 本によると、ぺレジアの王都はその頭の骨の下に、王城は骨の上に建てられているらしいよ。巨大な都や城がすっぽりと入ってしまえる大きさの骨なんて……全く想像がつかないね。

 そんな大きさだったなら、一体何を食べていたんだろう?」

 

 不思議だね、とルフレは言う。

 伝説の中の存在の、その実在の証拠がこんなにも無造作とも言える形で転がっている事には驚いたが、今のルキナ達にギムレーは全く関係が無い。珍しいモノを見たと言う感慨だけだ。

 ギムレーの頭の骨を利用した都と言うモノには多少興味は惹かれるけれども。

 だからと言って寄り道をする様に王都へと向かう事は無い。

 ルキナ達が目指すのは、遥か海の彼方のヴァルム大陸なのだ。

 その目的を間違えたりはしない。

 だから、ルキナは骨が続いている方向には半ば背を向ける様にして海を目指し続ける。

 

「……!?」

 

 その時、ふと何かを気にする様に、ルフレは骨の続く先……彼が言う所の王都があると言う方向へと勢いよく振り返った。

 どうかしたのかと、問う様にルキナが鳴きかけると。

 ルフレは慌てて前を見て、何かを振り払う様に首を振る。

 

「いや、一瞬あっちの方向から誰かに呼ばれた様な気がしたんだけど……まあ気の所為に間違いないね。気にしないで」

 

 そう言ってルフレは微笑んだ。

 その言葉に、ルキナは疑問を抱く事なく頷くのであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ── ……まただ……。

 

 まだ薄明の空を見上げ、目覚めたルフレは横で寄り添う様に眠っているルキナを起こさぬ様に、小さな小さな溜息を吐いた。

 ルフレの身体が冷えぬ様にと言う心遣いから、ルキナはその翼で寄り添い眠るルフレの身体を包む様に眠っている。

 海を渡り始めてもう数日経ったが、幸いな事に今の所は少し雨に降られた事がある程度で悪天候に巻き込まれてはいない。

 が、それでも疲れたら何時でも降り立てる地上があった時とは違い、少なくとも次の島に辿り着くまでは休息を取る事は出来ない海上の移動はやはり疲れが溜まる様で、一回一回しっかりと休息を取る様にはしているのだけれども、毎晩こうしてぐっすりと眠ってしまう程にルキナは疲れている様であった。

『神竜の森』を離れて、半月に近い時間が過ぎた。

 思えば、随分と遠くまで来たものだ。

 何時か共に見てみたいと思っていた『海』をこんな機会で共に見る事になろうとは、あの時では想像も着かなかっただろう。

『海』に出た瞬間の感動は、それは素晴らしいものだった。

 夏の陽光に照らされた海は、まるで蒼い宝石をちりばめた様にキラキラと輝いて見えて……。

 ルキナと共に、思わず無邪気にはしゃいでしまった。

 こうしてルキナと旅に出てから様々な物を見てきたのだけれども、そのどれもが掛け替えの無い宝物の様な思い出で……。

 何時か、この旅の最後で……『真実の泉』に辿り着いて。

 そして、元の『人間』の姿に戻る事の出来たルキナと共に、見てきたモノを二人で語り合いながら、来た道を辿る様にあの森に帰れたら……とそう思うのだ。

 それが、ルフレにとっての『夢』であった。

 

 元の姿に戻れた彼女には帰らなくてはならない場所があるのかも知れなくても……。そんな、もしもを考えてしまう。

 それはきっと、とても『幸せ』な事だから。

 

 ……だけれども。

 ここ最近……ぺレジアに足を踏み入れてから……否もっと正確に言えば、『神竜の森』を離れて少し経った頃から。

 どうにも、毎晩の様に妙な夢を見ている。

 目覚めた時には、内容は殆ど覚えてはいないのだけれど……。

 煌めく様に走った鋭い剣先と、そして何かに対して【呪う】様な言葉を吐きかけていた事だけはボンヤリと覚えていた。 

 夢は、多くの場合記憶の整理をしているかの様に、自分が見聞きした物事が出てくる事が大半なのだけれど。

 生憎とルフレには誰かに剣で斬りつけられた記憶など無いし、況してや誰かを【呪った】事など一度も無い。

 そもそも森暮らし故に関わる人間が極端に少ないルフレが、誰かを【呪う】程に他人に対して強い執着を持つ事など無い。

 ……ルキナと出逢ってからは、少しばかり違うのだけれども。

 それにしたって、他人を【呪う】事はやはり無いだろう。

 呪術師でもあるルフレは、他人を【呪う】事の危険性もその恐ろしさも、人よりも深く知っている。

 故に、その動機も無いのに軽々しく【呪う】事は有り得ない。

 

 それが悪夢と呼べるものであるのかは記憶が朧気である為分からないけれども……少なくとも愉快な夢ではなかった。

 ……思い出したくも無い過去を無理矢理に思い出させられようとしているかの様な、そんな不快感が残っている。

 だからなのか、最近は妙に早く目覚めてしまう。

 眠りが浅いと言う訳ではない……寧ろ寝入っている時は旅を始める前よりも遥かに深く眠りに沈んでいる。

 ……何かが変わってきている様な、そんな気がするけれど。

 その漠然とした感覚を上手く自分でも捉えきれない。

 

 二度寝する気にはなれなかったルフレは、僅かに欠伸を零して薄れゆく夜闇を見送る様に空を見上げた。

 ゆっくりと世界を照らし始める陽の光に掻き消されてしまったかの様に、空の星々の輝きを捉える事はもう難しい。

 それでも、こうして海を渡ってあの森から遥か遠い場所にまでやって来ても見上げた夜空に輝いている星々はそう変わらなくて……それが何だか不思議な気持ちになるのだ。

 古くから星々は、方角を捉える事ですら容易ではない海渡る人々にとっては大切な指標であったと言う。

 特に、一年を通してその天の玉座から動く事の無い極星は、昔から様々な逸話や伝承を紐付けられて信仰されている。

 導きの星、旅人の道標……様々な名で呼ばれるそれは、今は微かにしか見えないがまた夜になれば再び天極に輝くだろう。

 そうやって道標があると言う事は、やはりとても心が安らぐ。

 

 ルフレは、母の手記を取り出してその表紙を撫でた。

 ルフレ達にとっての一番の道標は、この手記だ。

『真実の泉』の在処はここには書かれてはいないけれども……それを知っているかもしれない存在について記述があった。

 

 古の大英雄マルス王の時代よりも遥か昔からこの世に在ったと言われている、【竜族】の姫君。その齢は既に三千年を超えると言う、人の世の移り変わりをその眼で見詰めてきた……まさに歴史の生き証人と呼べる者。今では『神竜の巫女』としてヴァルム大陸に於ける神竜信仰の象徴的存在となっている者。

 古の【竜族】の末裔である彼女ならば。

 ヴァルム大陸に存在する、同じ【竜族】が関係している可能性が高い『真実の泉』についても何か知っているかもしれない。

『神竜の巫女』が住まうのは、ヴァルム大陸の中央に天地を支えるかの様に立つ『ミラの大樹』と呼ばれる樹の上の神殿だ。

『ミラ』……母の手記の中にも記されている、古のヴァルム大陸にあってその南半分の地を豊穣の力で以て支えていたと言う慈悲深い女神の名だ。

 兄神である力の神ドーマとは争っていたが、ドーマが英雄王アルムによって討たれた後は共に永遠の眠りに就いたと言う。

 その二柱の神の亡骸の上に生えたのが、『ミラの大樹』であると……そう伝説では伝えられていた。

 ミラとドーマは【竜族】であったと言う説もあり、実際にその二柱の神は【竜】の姿で描かれる事もあったと言う。

 それが事実なのかは今となっては確かめようが無いが、そう言った下地もあった為、ヴァルム大陸には古くから【竜族】への信仰……ひいては神竜信仰の下地が存在したらしい。

 それが、千年前の邪竜ギムレーによる世界滅亡の危機に際してそれを救った神竜ナーガへの信仰へと繋がったのだとか。

 

 イーリスでの神竜信仰の中心は、聖地である『虹の降る山』、そして初代聖王の時代から脈々と『聖痕』と言う形でその加護を繋ぎ続けている聖王家、そして聖王家所有の神剣ファルシオンと、『炎の台座』と呼ばれる神宝で。

 このヴァルム大陸においてはその信仰の形が『神竜の巫女』に全て集約されていて、『神竜の巫女』はまさに生き神の如く人々の尊崇を集めているのだそうだ。

 ヴァルム大陸は大小様々な諸国が群雄割拠する状態が長く続いているのだけれども、そんな中であっても『神竜の巫女』と彼女が住まう『ミラの大樹』は絶対中立の象徴であるらしい。

 ……そんな彼女に、ヴァルム大陸の諸侯に何の伝手も無いルフレ達がお目通り叶う方法は殆ど無いのだけれども。

 ……もしどうしようも無いならば、半ば強行的に『ミラの大樹』の頂上を目指して飛ぶ事もルフレは考えていた。

 賊か何かと思われる可能性は高いけれども……。

【竜】である彼女ならば、ルキナの窮状を理解してくれる可能性は低くないと思うし、『竜』であるルキナの言葉だって理解してくれるかもしれない。……期待の域を出ないけれども。

 蛮行を咎められて最悪ヴァルム大陸を追放されたとしても、元よりルフレはヴァルムの民では無いしそこはあまり困る所ではない。……流石にそれは褒められた考えでは無いのだが。

 何はともあれ、今目指すべきはヴァルム大陸であり、そこに居る『神竜の巫女』だ。

 

 海ももう半ばを渡った所で、後一週間もしない内にヴァルム大陸へと辿り着けるであろう。

 願わくは、そこに『希望』がある事を信じたい。

 

 まだ眠りの中に居るルキナのその身体をそっと撫でて、ルフレは慈しむ様に微笑むのだった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 それはもう十数年前程の事。

 ヴァルム大陸全土に、戦乱の嵐が吹き荒れていた。

 古のアルム王の血統を今に継ぐ大陸北部の小国の一つであったヴァルム帝国を、覇王と呼び表されたヴァルハルトが継いだ事を発端に、彼が掲げた覇道は大陸全土を戦火に沈める程の戦乱を引き起こした。神竜を信仰するあまり、自身の足で大地を踏み締め生きる事を半ば放棄していた人々を憂いたが故の覇道であったが……その代償として流された血は余りにも多く。

 今も尚「覇王ヴァルハルト」の名は畏怖と共に語られている。

 一時は南部の僅かな小国を残して、ヴァルムに存在する他の全ての国々が彼の支配下となる程の勢力を誇り、大陸の統一を果たした暁には他の大陸へとその覇を轟かせるであろう事は間違いないと誰もが思っていたのだが……。

 しかしその覇道は、呆気無い程にある日突然に終わった。

 ヴァルハルトが病に斃れたのだ。

 如何に精強な武人でも、病を倒す事は叶わず。

 

 覇王ヴァルハルトは、彼の覇道の行く先の未来を夢に描きながら、志半ばにしてこの世を去った。そして、ヴァルム大陸全土を更なる波乱と混沌が襲ったのはその直後の事であった。

 

 ヴァルハルトは、己の後継者を定めてはいなかった。

 故に、ヴァルハルト亡き後のヴァルム帝国とその支配地域は乱れに乱れ、我こそは覇王の後継なりと主張する有力将校達が互いを喰い合う泥沼の戦乱の時代が訪れたのだ。

 覇王ヴァルハルトの威光の下に全てが等しく曳き潰されていった時代の戦乱と、先が見えぬままに争い続ける泥沼の戦いと……そのどちらが「マシ」なのかは誰にも答えは出せないが。

 少なくとも、ヴァルハルトによる侵略と同等かそれ以上の血が、その泥沼の戦いの中で流されていった。

 ヴァルハルトが斃れて十数年の時が経って漸く、ある程度の膠着状態に陥って見せ掛けの安定が訪れはしたが。

 それでも何かの切っ掛けがあれば再びヴァルムの大陸は容易く血で赤く染まる事になるのは、誰が見ても明らかであった。

 さて、そんな戦乱に揺れ明日も分からぬ世の中で人々が最後に縋ろうとするものは往々にして「信仰」であり、それはこのヴァルムの地でも変わりはしなかった。

 神竜の信仰に傾倒し過ぎていた民を憂いて始まった筈の覇道は、彼の思惑とは反対に、民達に益々強く信仰を根付かせる事となり、そしてその動きはその後の混乱の中で益々強まった。

 ヴァルム大陸に於ける神竜信仰のその中心的存在である『神竜の巫女』は、民達のその様な信仰の在り方を憂う様な眼差しで見詰めては居たが、結局は何も言わずに中立を保ち続け。

 そして代々『神竜の巫女』を守護する事を己が使命としているヴァルム大陸南端にあるソンシン王国もまた、如何なる戦乱の中に在っても独立不羈を保ち続けていたのであった。

 

『神竜の巫女』とソンシンの関係は非常に深い。

 かつて邪竜ギムレーによって世界が滅びの危機に瀕していた時に、初代聖王は『神竜の巫女』の助力を得て神竜ナーガより神剣と神宝を賜りギムレーを討った事は広く知られているが、凡そ千年前のその頃『神竜の巫女』がヴァルム大陸へと渡ってきた辺りから既に、ソンシン王家は彼女の護衛を行っていた。

 故に、『神竜の巫女』からのソンシン王家への信頼は厚く、彼女が所持していた竜族の秘宝の一つを託される程であった。

『神竜の巫女』より託された竜族の秘宝……強大なる力を秘めた宝玉の一つ『碧炎』は、ソンシン王家の誇りであり。

『神竜の巫女』からの信頼の証として、王家の秘中の至宝とされて代々大切に受け継がれ守られてきた。 ……だが……。

 

 ヴァルハルトによる戦乱と、その後に巻き起こった大陸全土を巻き込んだ混乱の中で、ソンシンもまた大きく揺れ動き。

 その隙を突くかの様に、何者かがソンシン王家から『碧炎』を盗み出したのだ。

 秘宝として扱われていた『碧炎』が王家の者達の目にであっても晒される事は王位継承の儀などの極めて重要な儀式の時だけであって……それが仇となって『何時』盗み出されたのかも判断出来ず、下手人もその足取りも未だに追えていない。

『神竜の巫女』より託された『碧炎』を奪われるなど有ってはならぬ事態で……その為ソンシン王家は非常に揺らいだ。

 他ならぬ『神竜の巫女』が止めなければ、王家の者の中には自刃する者すら出ていたであろう……。

 ……過ぎてしまった事はどうする事も出来ず、故にソンシン王家はより己が使命を全うする事でその償いをしようとした。

『碧炎』と同じく【竜族】の至宝である『蒼炎』を所有する『神竜の巫女』を守る事、『蒼炎』を守り通す事。

 それこそが、今のソンシン王家の絶対の使命であるのだった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 遥かなる上空へとその枝葉を広げている巨大な……一本の大木であるとは思えない程に巨大な大樹を見上げ、ルフレは言葉を喪って、ただそれを仰ぎ見る様に見上げるばかりであった。

 天地を支えているかの様……と表現されていたそれが決して誇張などではなく、事実に限りなく近い事を表現していたのだと理解するばかりである。

 木の幹の周りを歩くだけで一日掛かってしまうかもしれない。

 よくよく見ると、幹の周囲を螺旋を描く様に樹に直接板を打ち付ける様にして、遥かその頂上までその足場が伸びている様に見えるけれども……。

 高所に強い恐怖を感じる者は元より、豪胆な者ですらその高さと足場の狭さには冷や汗をかくしかないだろう。

 こうして空からその頂上を目指そうとしているルフレ達ですら驚く程の高さまで登っていかねばならないのだから……。

 

 目の前一杯に聳え立つ『ミラの大樹』。

 その頂上に、『神竜の巫女』は居る。

 ……ヴァルム大陸に辿り着いてから、正規の方法で『神竜の巫女』に会おうと手は尽くしてみたのだけれども、どれも敢え無く門前払いを喰らってしまい断念せざるを得なかった。

 元より、神聖にして崇高なる存在だと人々から崇められている『神竜の巫女』へと、一介の旅人がお目通り叶う可能性は殆ど無かったのだけれども……。

 だがそこで諦める訳にはいかないと、強行手段ではあるけれどもルフレ達は直接頂上を目指す事にしたのであった。

 

 

 今にも雲の端に届きそうな程の高みに、大樹の天辺はあった。

 地上を警備する者に見付からぬ様に、そして上空で警備する者達も極力見付からぬ様にと、大樹から離れた場所から飛び立って雲の合間に隠れる様にして飛び続けて暫しして、漸くルフレ達は眼下に大樹の頂上を目にする。

 

 無数の枝葉がまるで編み込まれる様にして足場を形成して。

 大樹の中央に当たる場所に、立派な神殿が建っていてその周辺には細々とした施設がある様だ。

 恐らくは眼下の神殿が、『神竜の巫女』の住まう場所である。

 今から大それた事をしでかそうとしている自覚はある為、どうしても緊張してしまうけれど。

 それでも、ここまで来て後に引く気はない。ルフレはルキナに合図を出して、一気に大樹の頂上へ向けて降下した。

 

 大樹の上で警備を行っていた者達が異常に気付き矢を番えているのが見えるが、飛んでくる矢には構わずにそのまま突っ込む様な勢いで木の上に着地し、ルキナの背から飛び降りる様にルフレも樹上に降り立つ。

 木の上であると言うのにまるで地面の上であるかの様にしっかりと身体を支えられる不思議な感覚に驚いたが、それに気を取られる前に、ルフレは護身用と狩りの為に持っていた武器を転がす様に樹上に放り投げ、決して交戦の意志は無い事を示す様に無手の状態で両手を上げた。

 ルキナも、敵対する気は決して無いと示す様に威嚇などと捉えられかねない唸り声は出さず、静かに姿勢を正す。

 強襲してきた筈の闖入者が、唐突にその様な行動に出た事に驚いたのか、警備を行っていた者達は油断無く矢を番え弦を引き絞ったままではあったが困惑した様な顔をする。

 即座に殺される事は無いと判断したルフレは声を上げた。

 

「この様な形での突然の来訪、無礼千万の蛮行である事は百も承知の事ではありますが、どうしても『神竜の巫女』様のお力をお借りしたく、この様な無礼を働いてしまいました。

 我々に『神竜の巫女』様を、そしてその警護の方々を害しようなどと言う意図は露程もございません。

 ただ、『神竜の巫女』様にお目通り願いたく──」

 

 

「ならぬ」

 

 

 だがそれは、凛とした気配を纏う女武者の一声に遮られた。

 

「何処の者とも知れぬ痴れ者に巫女様を会わせる訳にいかぬ。

 巫女様の御前を血で汚す事は憚られる為命は見逃してやる。

 即刻ここから去ね」

 

 彼女は剣の切っ先をルフレの首に突き付け、そう宣告する。

 

 

「いいえ、その必要は無いわ」

 

 だがその瞬間。何処か神秘的な静かな声が、その場に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第七話『真実の泉』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

『ミラの大樹』の樹上で『神竜の巫女』の御所を守っていた武人達の一人が、その剣を抜き放ちルフレの首へと突き付けた事で高まっていた場の緊張は、不意に彼等の背後からその場へと現れた女性の一言で鎮まった。

 女性は、武人達がルフレへと武器を向けている事に構う様子も無く、極自然な足取りでルキナ達へと歩み寄ってくる。

 

「巫女様……! 危険です、お下がりください!!」

 

「サイリ……良いのよ。この人達に害意が無い事は確かだし、私の力が必要なのもきっと本当の事だから。

 だから、武器を下ろして頂戴」

 

 ルフレに剣を突き付けていた武人……サイリと呼ばれた彼女は、巫女……間違いなく『神竜の巫女』その人であろう女性の言葉に、渋々と言った様子でその剣を納刀する。

 それに倣う様に他の武人達も武器を下した。

 

「さあ、聞かせて頂戴。

 貴方たちは何の為に此処に来たのかしら。

 どうして、私の力が必要だと思ったの?」

 

 静かにそう訊ねてくる『神竜の巫女』に、ルフレは緊張して生唾を呑み込むかの様にごくりとその喉を動かす。

 そして、ゆっくりとルキナの事情を話し始めた。

 

「信じて貰えないかもしれませんが、彼女……この『竜』は、本来の姿は『人間』であるのです……。何が原因でこの様な姿になってしまったのかは僕にも分からないのですが……。

 何とか、元の姿に戻す方法は無いのかと、色々と手を尽くしてはみたのですが……僕にはどうする事も出来ず……。

 そんな時、『真実の泉』についての伝説を耳にしたのです」

 

「……『真実の泉』……。

 成る程、だから私を頼って来たのね? 

 私ならば、『真実の泉』について、何か知っているかもしれないと……そう思ったから」

 

 ルフレの意図を理解した『神竜の巫女』は小さな溜息を吐いてルキナへと歩み寄り、その首筋に優しく触れる。

 そして、その憂いを帯びた静かな眼差しで、ルキナの目を覗き込む様に見詰める。

 

「……強い……とても強く古い『力』が働いているわ……。

 貴女の姿が歪められてしまったのは、この『力』が原因ね。

 ……私の力ではどうしてあげる事も出来ないけれど……。

 確かに、『真実の泉』に秘められた力ならば、【呪い】の様に貴女に絡み付いたこの『力』を解く事も出来るかもしれない。

 あの泉の力も、とても古くて強いものだから……」

 

『それは本当ですか!?』

 

『神竜の巫女』の言葉に、ルキナは思わず声を上げる。

 人間の耳には咆哮にしか聞こえぬ筈のその『言葉』に、『神竜の巫女』は慈しむ様な微笑みを浮かべた。

 

「ええ、そうよ……。そこに希望は必ずある。

 辛い事も沢山あったでしょうけど……よく頑張ったわね」

『巫女様には私の言葉が分かるのですか……?』

 

「ええ、分かるわよ。私が、【竜】だからかしら。

 ……それと、巫女様なんて畏まって呼ばなくても良いのよ。

『チキ』、と。そう呼ばれる方が私は嬉しいの」

 

『竜』に姿を変えられて以来初めて……本当の意味で自身の『言葉』が通じた事に、ルキナの目は思わず潤んでしまった。

『神竜の巫女』……チキは、ポロポロと零れ落ちたその涙を、労わる様に優しく手で拭ってくれる。

 そんなルキナ達の様子を、傍らに立つルフレは優しい眼差しで見守っていた。

 

『有難うございます……チキ様……。

 ごめんなさい、こんな所で泣いてしまって……』

 

「良いのよ。

 貴女の心が、それだけ傷付き苦しんできたと言う証だもの。

 我慢なんてせずに、泣いても良いのよ。

 涙を流せると言う事は、心がその傷を塞いでいける証よ」

 

 チキは、まるで旧来の友であったかの様な、そんな親しみのある眼差しをルキナへと向ける。

 

 傷付いた、苦しんだ……確かにそれはそうだ。

 突然に自分の意志とは無関係に姿が変わり、言葉も奪われて。

 父には剣を向けられ、生死の境を彷徨う程の傷を負い。

 ルフレに救われてからも、言葉を交わせぬ苦しみと、思う様に触れ合う事も叶わぬこの身に傷付いてきた。

 ルフレに理解して貰えたあの日以来ルキナが涙を零した事は無かったが……それでも、この心の奥底には流せなかった涙が海の様に静かに波打っていたのだろう。だけれども……。

 

『いいえ、その……。

 突然にこの様な姿に変わって、……苦しい事は沢山あって、それ以上に傷付き絶望してきたのは確かですけれど……。

 それでも……それだけじゃ、無かったんです。

 苦しいだけでも、辛いだけでも無くて……。

 いえ、元の姿に戻りたいのは間違いないのですけれど。

 それは、……現状に絶望し苦しんでいるからでは無いんです。

 その、……上手くは言えないのですが……』

 

 どう言葉にすれば伝えられるのかは分からないけれど。

 ……ルキナは、チキにただ憐れんで欲しい訳では無かった。

 

 自分の意思とは無関係に『竜』になってしまった事は辛い事で、その所為で喪った物は数えきれないけれども。

 それでも、そうだからこそ得る事が出来た物も沢山ある。

 ルフレから貰った『幸せ』は、そしてこの胸に灯る『想い』は……ルキナが『竜』になってしまったからこそ得られた物だ。

 その全てを纏めて憐れまれては、ルキナにとっては大切な物まで否定されてしまったかの様な……そんな気がするのだ。

 そんな事を考えていると、チキは苦笑する様に頷いた。

 

「ふふふ……そうね、素敵な出逢いがあったのね。

 貴女にとって、とても大切で特別な出逢いが……。

 貴女の顔を見ていたら分かるわ」

 

 そう言って、チキはルフレへと優しい眼差しを向ける。

 それは……悠久の時の中で人々を見詰め続けてきた者だからこそ持ち得る……ある種の超然とした慈愛の様なものだった。

 そして、同時に何かを懐かしむ様にその目を細める。

 

「……私がかつて、マルスお兄ちゃん……英雄王マルスに出逢えた時の様に……。

 一つの不幸が、苦しみが……大切な出逢いに繋がる事もある。

 運命とも偶然の奇跡とも、どちらとも言える大切な出逢いが。

 ……貴方が、この子の心を支えてあげていたのね」

 

 チキは柔らかな声でルフレにそう言った。

 ルフレは、どう返そうか迷う様に少しその視線を彷徨わせて。

 ゆっくりと、頷く。

 

「僕がルキナの心を支える手伝いが出来ていたのかは分からないですが……。そうであれば、と。そう心から思っています」

 

 ルフレらしい答えだと、ルキナは思った。

 チキは、ルフレのその答えに満足した様に微笑む。そして。

 

「さて、と……『真実の泉』の場所を教えてあげなくちゃね」

 

 待ち望んでいたその言葉に、ルフレもルキナも少し緊張しながら居住まいを正した。

 

「『真実の泉』は、ヴァルム帝国領の北西部にあるの。

 ヴァルム城を越え、王墓を越えて、更にその奥の……。

 人が踏み入る事は難しい峻険な山々の連なりを四つ程越えた先……霧煙る山の頂上に、古い遺跡があるわ。

 そこの最奥に、『真実の泉』はある……」

 

 ヴァルム帝国の北西……。

 ここから真っ直ぐにそこに向かったとすれば、一週間かその辺りで辿り着けるだろうか……。

 

「貴女の翼なら、ここからなら十日も掛からないでしょう。

 でも、今日はもうそろそろ日が暮れてしまうから……。

 向かうのなら、明日陽が昇ってからにすると良いわ。

 今日はここに泊まっていきなさい。

 大したおもてなしは出来ないけれど……ゆっくり寝る場所ならちゃんとあるから」

 

 そういって優しく微笑んでくれたチキに、ルフレと顔を見合わせてから、ルキナはゆっくりと頷くのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 チキの厚意に甘えて、ルキナ達は一晩泊めて貰う事になった。

 チキの警護を行っていた者達……その中でも最も立場が上であるサイリと言う名の武人は中々渋ってはいたけれど、チキの『お願い』を前にして溜息を吐きながらも了承した。

 自分が護衛している相手……と言うのもあるだろうけれど、チキとサイリの間にあるものはそれだけではなくて……ルキナの見立てが間違っていなければ、「友達」と言うモノに少し似ている気がする。

 何にせよ、サイリはチキの『お願い』には逆らえないらしい。

 

 そんな訳で、一晩の宿を得る事が出来たのである。

『ミラの大樹』の上には『神竜の巫女』の為の神殿の他にも、警護の者達の為の宿舎の様なものもあって、ルフレはそちらで一晩を過ごし。ルキナは、神殿の大広間に泊まる事になった。

 久々に屋根がある場所で眠る事が出来るのはやはり喜ばしい。

 野宿が過酷であった訳では無いけれど……屋根の有る無しでやはり安心感とでも言うべきものが違うのだ。

 静まり返った大広間で、ルキナは一人小さな溜息を吐いた。

 ルフレが傍に居ない夜は、何故だか少し不思議な心地がする。

 寂しい……とは少し違うけれども、何だか落ち着かない。

 毎晩ルフレと寄り添い眠る様になったのは旅立ってからの事で……そもそも誰かに寄り添って貰いながら眠る事なんて、『竜』の姿になる前は本当に幼い頃にしかしなかったけれど。

 ルフレが傍に居る事が、ルキナにとって何時の間にか「当たり前」になっていたのだろうか……。

 そんな事を考えていると不意に誰かが近付いてくる音がした。

 ルフレの足音ではないそれに、反射的に身を浮かすと。

 

「あら、ごめんなさい。起こしてしまったかしら?」

 

 奥からやって来たのは、この神殿の主であるチキだった。

 チキであった事に安堵したルキナは身に入っていた力を抜く。

 

『いいえ、考え事をしていただけです。

 それより、どうかなさいましたか?』

 

 夜更けと言うには早いが、眠っていてもおかしくない時間だ。

 普通の人間よりも多く眠ると言うチキが、態々こんな時間にルキナに何の用なのだろうか……。

 

「少しお話をしようかと思って……。迷惑だったかしら?」

 

『いいえ。私が話せる事ならば、何でも』

 

「そう? だったら嬉しいわ」

 

 そう言いながら、チキはルキナの横に座った。

 そして、真剣な眼差しでルキナを見る。

 軽い世間話の様な物を想像していたルキナは、その様子に少々面食らった。

 

「貴女は、聖王の末裔の一人……よね?」

 

『えっと、はい……。

 私は当代聖王クロムの娘です。

 チキ様には、分かるのですか……?』

 

「ええ……私は【神竜族】だから。

 貴女に流れている、初代聖王から受け継がれてきた神竜の力の欠片を感じとる事が出来るの。

 かつて……千年前に邪竜ギムレーを封じた時、私も初代聖王と共に戦ったわ……。……あれから、丁度千年……。

 恐らくは、再び邪竜ギムレーが目覚めようとしている……」

 

 突然のその言葉にルキナは驚き、戸惑った。

『邪竜ギムレー』と言われて思い浮かぶのは、聖王家の伝承に伝わるそれと、そしてぺレジアの砂漠で見たあの巨大な骨だ。

 邪竜ギムレーは、初代聖王と彼が振るった神剣ファルシオンの前に斃れ死んだ筈だ。だからこそ、ぺレジアに骨があるのだ。

 それが……目覚める? あの骨が動き出すとでも……? 

 

 ルキナの困惑を察したのか、チキは説明する様に言う。

 

「千年前、初代聖王はギムレーに勝った、それは間違いないわ。

 だけれども、彼の邪竜を滅ぼす事は出来なかった。

 だから、初代聖王はギムレーを千年の眠りの中に封じたの」

 

 チキの言葉にルキナが今まで信じていたモノが覆されてゆく。

 千年の眠り……それは竜に比べれば短き命の人間にとっては永遠にも等しい時間ではあるが、決してそれは死ではない。

 かつて世界を滅ぼしかけた大災厄は、生きているのだ。

 あの砂の海の中に沈んでいた骨は、今この瞬間も目覚めるその日を待ち侘びて、封印の眠りの中で生きているのであろうか。

 何とも想像し難く、俄には信じ難い事であった。

 

『あの……ぺレジアの砂漠に埋もれているギムレーの骨は、生きているのですか……? 

 ならば、ギムレーが目覚めれば、あの骨が動き出すのですか?』

 

「いいえ、あの骨はもう死んでいるわ。

 ギムレーが封印から目覚めても、あの骨が動く事は無いわよ。

 そうね……正しくは、肉体を殺す事は千年前も出来たの。

 でも、力ある【竜】の中には、肉体が滅びてもその魂だけが存在し続けて……そして然るべき手順を踏めば何度でも肉体を持って蘇る事が出来る者も居るの。ギムレーがそう。

 そして、ギムレーの魂を殺しきる事は例え神竜ナーガの力を以てしても不可能だった、だから封印するしかなかったの」

 

 魂だけで存在し続けて何度でも蘇ると言うのは、どうにもギムレーはルキナの理解を越えた存在である様だ。

 封印が解けたら、初代聖王の伝承通りに、千年前と同じ様にギムレーは再び世界を滅ぼそうとするのだろうか……。

 そして、蘇ったギムレーを討つ役目を負うのは……。

 間違いなく、当代聖王であり、神剣に選ばれた父だ。

 ギムレーが蘇らんとしているこの時に、神剣に選ばれた聖王が居るとは、僥倖と言うべきか、或いは神竜の思し召しか。

 

『千年が経った今、ギムレーは直ぐ様蘇るのでしょうか……。

 もしそうならば、どうすれば……。

 お父様がギムレーと戦う事になるのでしょうけれど……』

 

 現時点では『竜』であるルキナに、ギムレーとの戦いに際して父の為に出来る事など殆ど無い。

 それでも……伝承の中の大災厄へ、父が不可避の戦いを挑まねばならないのであれば……何もしない訳にはいかなかった。

 ……例え、娘であると理解されずにその剣を向けられ……殺されかけたのだとしても、ルキナにとってクロムが敬愛する父親である事は今でも変わらないのだから。

 

「……それが、分からないの……」

 

 チキは悩まし気に眉根を寄せて溜息を吐いた。

 

「今からもう十数年は前になるのだけれど、……一度ギムレーの力を感じたわ。でも、それは直ぐ様消えた……。

 そして、丁度千年目の節目だったこの春に、また一瞬だけギムレーの力を感じたのだけれど……それもほんの一瞬。

 ギムレーが蘇ろうとしているのかどうか……私にも今一つ判断が着かなかったわ……。でも……」

 

 チキはルキナの身体に触れて、目を伏せる。

 

「貴女の姿を歪めている『力』は、ギムレーのもの……。

 でもこの『力』は、つい最近貴女に絡み付いたのではないと思うの……それこそ、もっともっと古い……。

 私にも詳しくは分からないけれど……初代聖王がギムレーを封印した時に、何かをされたのかもしれない。

 それが、この時代にまで受け継がれてしまって……不運な事に、貴女に現れてしまったのかも……」

 

 あまり詳しく分からないから推論になってしまうけど、とチキは申し訳なさそうにそう言う。だが、ルキナとしては何一つ原因が分からなかった所に、推測であったとしても原因らしきものが分かって少し安心出来た。

 

 初代聖王の時代から受け継がれてきた……ある種の【呪い】。

 それが原因であったのならば、ルキナが知らぬ内に何かをしてしまった訳ではなく、理不尽とも言える不運によるものだ。

 ……そう考えると少しばかり、気が楽にはなった。

 そして、伝承に語られる大災厄からの【呪い】を解く術が全く見付からなかった事も、然も有りなんと言う話だ。

 ルフレは自分の力不足を嘆いていたけれど、彼の力が不足していたのはどうしようも無い当然の事であったのだ。

 それがルフレにとって慰めになるのかは分からないけれど。

 

『ギムレーが蘇ろうとしているのかどうかは、チキ様でも分からない事なのですね……』

 

「あの強大な力は何処に居ても分かると思っていたけれど。

 ……もしかしたら、まだ封印が解けた直後で、ギムレーも寝惚けている状態なのかもしれないわね」

 

 まだ寝起きの状態で寝惚けている伝説の大災厄……と言うのは想像するだけで何だか妙な気持ちになるけれど。

 ならば、完全に目覚める前に何とか出来ないだろうか。

 

『ギムレーを再び封印するにはどうすれば良いのでしょう。

 伝承の通りにファルシオンで倒せばよいのでしょうか』

 

「ええ、かつての聖王の様に、ギムレーにファルシオンで止めを刺せば、再び封印出来るわ。

 ただ……今のファルシオンには本来の力は宿っていないの。

 神竜の牙の真の力は、人が持つには強過ぎるから……。

 だから、再びその力を蘇らせる為に特別な儀式が必要なの」

 

『儀式……それは、聖王家に代々伝わる「誓言」の儀ですか?』

 

「いいえ、それは聖王を継ぐ時の儀式でしょう? 

 そうでは無くて、神竜ナーガの力をその身に宿す為の……『覚醒の儀』の事よ。誓言自体は同じものだけれど、違う物だわ。

 ただ、『覚醒の儀』には『炎の紋章』が必要なのだけれど……」

 

『『炎の紋章』……ですか? 『炎の台座』ではなく……』

 

 ルキナは聞き慣れぬその首を傾げた。

 かつてイーリスに存在した神宝の一つ、『炎の台座』と神威の宝玉『白炎』……。

 それら二つは、ルキナが生まれる少し前に、王家の宝物庫から何者かによって奪い去られてしまったと、そう聞いている。

 

「聖王家でも伝承は途絶えてしまっていたのね……。

『炎の台座』は、未完成な『炎の紋章』なの。

『炎の台座』に、五つの宝玉……『白炎』・『緋炎』・『蒼炎』・『碧炎』・『黒炎』を揃える事で、『炎の紋章』が完成する……。

 それが無くては、『覚醒の儀』は行えないの。

 ……聖王は、ギムレーを討った後で『炎の紋章』を巡って無用な争いが起こる事を恐れて、『炎の台座』と宝玉に分けた。

『炎の台座』と『白炎』は自分の手に、そして残りの宝玉は信頼出来る者へと託したわ。……だけれども。

 私がソンシンへと預けた『碧炎』は先の戦争での混乱の中で何者かに奪われてしまっている……」

 

『あの……実は、イーリスからも『台座』と『白炎』が奪われたんです。……私が生まれるより少し前の事ですが』

 

「既に二つの『宝玉』と『台座』が奪われてしまったのね……。

 ……そうなると、行方が分からない『緋炎』や『黒炎』も何処かで奪われている可能性は高いわね。

 ……やはり、十数年前に感じたギムレーの力……。

 それが、何か繋がっているのかもしれない……。

 何者かが、『覚醒の儀』を邪魔しようとしている……?」

 

 最後の方は独り言の様にチキは呟く。

 ……しかし、少なくとも二つの宝玉と『炎の台座』が何者かに奪われ、しかもそれがどちらも十数年程前に起きていると言う事は、無関係の事では無いだろう。

 それが、ギムレーの復活に関わっているのかは分からないが。

 何事も想定しておくに越した事は無い。

 

 ルキナは、随分と大事になってきた事態に思わず身震いする。

 最初は、この身を襲った異変を解決して元の『人間』の姿に戻る為の旅であったのに。

 世界が滅びるかもしれない、『邪竜ギムレー』復活の可能性をこうして聞かされる事になろうとは……。

 もしルキナがこうしてチキの下を訪れていなかったら、ギムレーが完全に復活して取り返しの付かない事になってから漸く、『覚醒の儀』や『炎の紋章』の事が父に正しく伝わっていたのかもしれない。

 それを考えると、こうしてまだギムレーが復活していない状況で、それを聖王家の人間であるルキナが知る事が出来たのは、まさに僥倖、天の配剤としか言えない事なのだろう。

 今の聖王家にルキナの帰る場所があるかは分からないが……。

 ルキナも聖王家の一員として、イーリスの民として、そしてこの世に生きる一つの命として、ギムレーの復活やそれによって起こる大災厄を止めなくてはならないと言う想いがある。

 何としてでもこの事を父に伝え、ギムレーの復活に備えなくてはならない。奪われた『炎の台座』や宝玉の行方を探すにしろ、王家などの国家規模の力が必要となる。

 

 …………だが、そうなると。

『人間』の姿に戻ったルキナが、あの森に帰る事は難しくなるだろう。ルフレとのあの温かな日々は……きっともう……。

 だがそれでも、ルキナは成さねばならない。

 何故ならば、ギムレーが蘇ったその時に、そして伝承に語られるその大災厄の如き力が振るわれた時に、幾万幾億の犠牲となる人々の中に、ルフレの姿があるもしれないからだ。

 ルフレを守る為にも、ルキナは選ばねばならない。

 それこそがルキナがルフレの為に出来る事だと、そう思う。

 

「……貴女には重荷を背負わせる事になってしまったかしら。

 それでも……この世界を守る為に『炎の紋章』と『覚醒の儀』は必要なの……」

 

『いえ、良いんです……。伝承の様にギムレーがその力を振るったら、何万何億の人々が犠牲になってしまう……。

 その中には、私の大切な人も沢山含まれてしまう事でしょう。

 だから、それは私の為でもあるんです。

 元の姿に戻る事が出来たら、……お父様にチキ様からお聞きした事を全てお話しします』

 

 固く決意を抱いたルキナのその眼差しに、チキは子供を見守る様な……そんな優しい目をした。

 

「そう……、貴女にとって、彼はとても大切な人なのね」

 

『ルフレさんは……言葉も交わせない、『竜』にしか見えない筈の私の事を、何も言わずに助けてくれて……。

 ルフレさんに関係のある事じゃなかったのに、私が元に戻る為の方法を探し続けてくれて……こんな所まで一緒に来てくれた人なんです……。

 ルフレさんが居なければ、私はとっくに死んでいました。

 ルフレさんに出逢えなければ、私はこうしてここに辿り着く事も出来なかった……。

 とても……とても大切な人です。私にとっては、誰よりも』

 

 そう言うと、チキは優しく笑った。

 

「……とても素敵な『恋』をしているのね。

 何だか少し、羨ましいわ」

 

 それじゃあお休みなさい、と。手を振ってその場を立ち去ったチキを見送って。

 ルキナはルフレを想いながら目を閉じるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

『神竜の巫女』であるチキの厚意で、一晩の宿を得る事が出来たルフレ達であったが。野宿に慣れてしまったからなのか、どうにも与えられた部屋のベッドでは中々寝付けなくて。

 気分転換も兼ねて、ルキナの様子を見に行った。

 この様な時間であるのでルキナは既に寝ている可能性もあり、その場合は起こす気は無いので神殿の入り口の近くからそっと伺うだけのつもりだったのだけれども。

 

 

 

「貴女は、聖王の末裔の一人……よね?」

 

 分厚い扉の向こう。ルキナが寝泊まりしている筈のそこから聞こえてきたチキの言葉に。ルフレは咄嗟に息を殺して、物音を立てない様に注意しつつ、中の会話を伺ってしまった。

 混乱と動揺から、盗み聞きする事に対する罪悪感などは感じる暇も無くて、チキとルキナの会話に意識が向かってしまう。

『聖王の末裔』……誰が? ルキナが……? 

 

 信じ難いそれに、ルフレの鼓動は早鐘を打つ様に激しくなる。

 信じたくないのか、ルキナにそれを否定して欲しいのか。

 それは自分でも分からないけれども。

 ゴクリと、緊張から生唾を呑み込む音がやけに耳に響く。

 

 ルキナは……、チキの言葉に喉を鳴らす様にして答えた。

 ……具体的に何と言って答えたのかは、……彼女の『言葉』を解し切る事はまだ出来ていないから分からないけれど。

 ……その『音』が、否定の意味を含む物では無い事は分かる。

 

「ええ……私は【神竜族】だから。

 貴女に流れている、初代聖王から受け継がれてきた神竜の力の欠片を感じとる事が出来るの。

 かつて……千年前に邪竜ギムレーを封じた時、私も初代聖王と共に戦ったわ……。……あれから、丁度千年……。

 恐らくは、再び邪竜ギムレーが目覚めようとしている……」

 

 チキの静かな声が聞こえる。

 その言葉に、ルフレは思わず再び息を呑んだ。

 初代聖王の伝説は、ルフレも物語として知っている。

 その中には確かに、『神竜の巫女』である彼女であろう人物の存在はあった。

 チキが初代聖王と共に戦ったのは間違いないのであろう。

 ならば、ルキナが初代聖王の末裔……乃ち聖王家の人間である事は、もう否定する事の出来ない事実で。

 自分とルキナとの間には、決して埋める事など叶わないであろう大きな隔たりがあった事を、理解してしまう。

 貴族でも何でもない……森の奥で半ば世捨て人の様に生きてきたルフレが、王族であるルキナと出逢う事など……本当に奇跡の様な偶然の結果でしか無くて。

 こうしてルキナが『竜』になる事がなければ、一生出逢わなかったであろう……その存在すら知らなかったであろう程の……まさに住む世界の違う人間であったのだ。

 それが……どうしてなのか自分でも分からないけれど、息をする事すら覚束無くなる程に苦しかった。

 

 ルフレはそのままひっそりとその場を離れ、与えられた部屋へと戻った。……だが、気持ちは荒れ狂い眠れる筈も無い。

 ルキナが元の『人間』の姿に戻れたならばその時には、何れ別れが来る事は分かっていたし、納得していた……筈だった。

 だが、会いたいと思えば会いに行けると、そうも思っていた。

 しかし、ルキナが王族であるのなら、そしてそこに彼女の帰るべき『居場所』があるのなら。

 ルフレが、『人間』として生きているルキナに会いに訪ねに行く事すら……とても難しい事である。

 平民でしかないルフレと、王族であるルキナとの間には、それ程の『身分』と言うモノの差が歴然と存在する。

 特に、血筋を尊び王侯貴族と平民との間が隔絶した世界となっているイーリスでは、その差を覆す事は不可能に等しい。

 軍に入り目覚ましい武勲を挙げるなりして爵位などを与えられればまた話は少し違うけれど……それにしてもポッと出の成り上がり武人と王族とでは天と地の差があるだろう。

 触れ合える程傍に居る事が出来るのは、ルキナが『竜』である間だけであったのだ……。

 

 それを理解してしまったから、苦しくて。

 だけれども、この日々がどんなに……それこそ何をしてでも終わって欲しく無い程に、愛おしいのだとしても。

 それがルキナの苦しみの上にしか成り立たぬのであれば、願ってはいけない、願うべきではない。

 ルキナにとっての『幸せ』は、彼女自身が在るべき場所に、彼女が生きるべき世界にあるのだと、そう思うから。

 だからこそ……ルキナの『幸せ』を純粋に想う気持ちと、そこに一滴のインクの染みの様に滲む……この日々を終わらせたくない……ずっと『竜』のままでも良いから自分の傍に居て欲しいとそう願う醜い欲望が、相反する様に心を責め立てる。

 

 目を閉じて思い浮かぶのは、ルキナと出逢ってからの暖かで穏やかな日々の事、そして二人で過ごしてきた時間だった。

 その全てがキラキラと輝いていて……だからこそ辛い。

 

 母を喪ってからは、ルキナに出逢うまではずっと独りだった。

 これからは独りで生きていくのだろうと、そう思っていた。

 あの森の奥の屋敷で、変わる事の無い日々をずっと独りで。

 それで良いと思っていたし、そこに何の不満も無かった。

 でも違った、ルフレはずっと寂しかったのだ、……孤独である事に苦しんでいた。それを自覚していなかっただけだった。

 それなのに、ルフレはルキナに出逢ってしまったのだ。

 最初に出逢ったあの日、彼女は傷付き果て今にもその命の灯を消してしまいそうな……そんな儚い命だった。

 彼女を必死に助けようとしたそこには、傷付き果てた『竜』への憐みがあったのかもしれないし、或いはこの心を揺さぶり一目で魅了する程の『竜』の美しさへの崇敬があったのかもしれないし、或いは……母を救う事の出来なかった自身の無力への怒りがあったのかもしれない。

 何であれルフレはルキナを助けた。

 そこにルキナからの見返りを期待する様な心は欠片も無かったが、結局自分の心の為にルフレは彼女の命を助けたのだ。

 だが、見返りなんて何も求めてはいなかったのに、ルキナはルフレに余りにも多くのモノをくれた、沢山の感情を教えてくれた、この心に様々な色をくれた。彼女は『光』その物だった。

 ……そうしてルフレは、再び独りでは無くなってしまった。

 他者の温もりを、自分ではない誰かが傍に居る事の喜びを。

 ルフレは思い出してしまった、一度喪ったその尊さその大切さを……深く知ってしまったのだ。

 だからこそ辛い、耐え難い程に苦しい。

 この旅の終わりが、その光を再び喪う事に他ならぬからこそ。

 暖かな日々を終わらせる事が、成さねばならぬ事だからこそ。

 ルフレの喜びは、『幸せ』は……ルキナの『幸せ』が叶う場所には無いからこそ……。この心が張り裂けそうな程に辛いのだ。

 喪いたくない、もう絶対に手離したくない、ずっとずっと傍に居て欲しい、あの『神竜の森』の奥で誰にも邪魔をされず何に阻まれる事も無くずっと二人で暮らしていたい……。

 そんな事を、余りにも身勝手な事を考えてしまう。

 何時しかルフレにとって、自分の人生の中にルキナの姿が無い事は考えられない事、耐えられない事になっていたのだ。

 そして、それを自覚するに至って。

 

 ああ、そうか……、と。

 ここに来て、ルフレは漸く理解した。

 ルフレは、ルキナに『恋』をしているのだ。

 彼女を、……心から『愛』してしまっているのだ。

 

 だが……その『恋』は叶わない、叶うとすればそれは。

 彼女の『幸せ』を……本来生きるべきだったその人生を捻じ曲げて無理矢理にルフレの望みに縛り付ける様な……そんな歪んだ叶い方をするしかない……。

 だが、それは最もしてはならない事だ。

 ルキナを元の姿に戻す為に何の手掛かりも解決の術も無く、『真実の泉』が何処にも存在しないかその伝説が全くの出鱈目であったのならば、仕方ないとそんな風に自分の良心を誤魔化す様にしながらその『想い』を叶えられたかもしれないが。

 だが、『真実の泉』は実在し、その力も恐らくは本物で。

 ならば、ルフレはそこを目指す他に道は無い。

 そこに辿り着いた時、この『恋』は叶わなくなるとしても。

 それが、ルキナの『幸せ』になるのなら。

 彼女を心から『愛』しているからこそ、

 ルキナの『幸せ』を、一番に叶えなくてはならない。

 

 いっそ、あの日手記を見付けなければ良かったのだろうか。

 そうすればこんなに辛く苦しい思いをする事も無く、ルキナが苦しんでいる事に罪悪感と遣る瀬無さを感じながらも、穏やかで暖かな愛しい日々が何時までも続いていたのだろうか。

 今更考えても仕方の無い『もしも』が頭から離れない。

 

 ルフレは頭を振って、無理矢理に雑念を追い出そうとする。

 だが、それも中々叶わなくて、思考は堂々巡りを繰り返すばかりで……その苦しみはただ増すばかりだ。

 チキの言葉が再び脳裏に響いた。

『聖王の末裔』、『神竜の力の欠片』……。

 彼女に流れる血筋がそれでないのなら、ルフレはこの旅が終わってもその傍に居られたのだろうか。

 考えても仕方の無い事を考えてしまう。

 

 初代聖王の伝説、神の剣ファルシオン、邪竜ギムレー……。

 遠い遠いお伽噺、ただの伝説でしかないと思っていたそれは、ルキナに直接繋がる物であった。

 伝説の英雄の直系の子孫、神竜の力の欠片を今に継ぐ者、イーリスを千年治め続けてきた血統の末裔……。

 ……森の奥深くに住むただの世捨て人とは到底釣り合わない、比べる事も並び立つ事も赦されない。それが、苦しい、哀しい。

 

 ルキナの事を考えていると心がざわつき、荒れる心の海の奥深くから何かがゆっくり目覚めてくる様な気すらする。

 それは、ギムレーの名を聞く度に感じていたそれに似ているが……いつものそれよりももっと激しいものであった。

 

 そう言えば、チキはギムレーが目覚めると言っていた。

 それがどういう事なのか何を意味しているのかは、その続きを聞く前にあの場を離れてしまったから分からないけれど。

 もしそんな事になるならば、ルキナもかつての聖王の伝説の様に、彼の伝説の邪竜であるギムレーと戦うのであろうか。

 その手に伝説の神剣を握り締め、あの砂漠に転がる巨大な骨の主と……神話の中の怪物と対峙するのだろうか。

 勇敢なる兵士たちを率いて、世界を救う為に戦うルキナは、きっとこの世の誰よりも美しいであろう……。

 ルフレはルキナの『人間』の姿を知らないが、そう確信する。

 何故ならば、あの美しい『竜』の本来の姿なのだから。

 ルキナに戦って欲しい訳では無いし、邪竜ギムレーが蘇る事なんて欠片も望んではいないけれど。

 この旅が終わればルキナの人生に関わる事など叶わないであろう自分の事を思うと、例え彼女に滅ぼされる怪物としてであるのだとしても……彼女の物語に永遠に刻まれ語り継がれるであろうギムレーの事が僅かばかり羨ましくもなる。

 ……無意味である上に余りにも馬鹿馬鹿しい考えに、ルフレは自分でも呆れ果てた。

 そして、これ以上余計な事を考えない様にと、夢すら見ない程の深い眠りの中へ無理矢理沈んでいくのであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 翌朝、まだ日が昇ってそう時間も経っていない早朝。

 ルキナとルフレは既に出立の準備を整えて、チキやサイリ達に見送られながら『ミラの大樹』を離れようとしていた。

 何故か、起きてきた時のルフレは、何処か難しい顔をしていたけれど……今は普段通りの表情に戻って。

 どう『真実の泉』を目指すのか、チキに再度確認していた。

 出立の間際、チキはルキナを呼び止めて、その懐から取り出した何かをルキナの方へと差し出した。

 ゆらゆらと揺らめく蒼い光を放つその玉は、見るからに何かの強い力を秘めているモノで。

 チキが取り出したそれを見た瞬間、サイリが焦る様に叫んだ。

 

「巫女様! それは『蒼炎』ではありませんか!! 

 それを何故この様な者達に……」

 

「良いのよ、サイリ。在るべき場所に帰す時が来ただけ。

 この子達ならこれを正しく使ってくれるわ……」

 

 チキはそう言って『蒼炎』をルキナに渡し、ルキナは受け取って良いのか迷ったが結局それをそのままルフレへと渡す。

 チキとサイリの、そしてルキナの様子から、それが非常に重要で貴重なものだと察したらしいルフレは、それを綺麗な布で包んでから慎重に懐へとしまった。

 

「ルキナ……これは必ず貴女に必要になる。

 ……勘の様なものだけど、私の勘は結構当たる方なの。

 だから、貴女に託すわ。ルフレ、どうか失くさないでね」

 

「はい、勿論です。……確かに、預かりました」

 

 ルフレは確りとチキに頷く。

 そして、そんなルフレを、チキはジッと見詰めた。

 そこまで見詰められる理由に何も心当たりが無いのか、ルフレは戸惑い助けを求める様にルキナの方へと目を向ける。

 だが、ルキナとしてもどうにもし難い事であった。

 

 

「あ、あの……。僕に何か……?」

「……不思議ね。貴方からは【私達】と同じ力を感じる……。

 凄く近いけれど同時にとても遠い様な、一見荒々しい様でいて……でもとても静謐に満ちている様な……そんな力……。

 ……貴方は、一体何者なのかしら……」

 

「あの……それは一体どう言う……。僕に何が……? 

 僕は……ただの……」

 

 ルフレが答えるべき言葉を迷っていると、突然にふわ……とチキは欠伸を零して眠そうに目を擦った。

 

「ごめんなさい、こんなに長く起きているのは久し振りだから……眠くなってきてしまったみたい。

 ……貴女達の旅路の無事をここで祈っているわ……」

 

 半ば夢心地の表情でそう言ったチキは、既にうつらうつらと舟を漕ぐ様にその身体を揺らし始めている。

 その身体を横に控えていたサイリが慣れた手付きで素早く支え、チキはその手を信頼しきっている様に身を預けた。

 うとうとと目を閉じかけているチキに代わりサイリは言う。

「すまないが巫女様は大分お疲れの御様子、暫しの眠りに就かれる故、見送りもここまでだ。

 巫女様から託された『蒼炎』をくれぐれも無碍に扱わぬよう。

 ……私からも旅路の息災を願おう。さらばだ、旅人よ」

 

 そう言って小さく手を振ったサイリに頭を下げ、ルフレとルキナは『真実の泉』を目指し、ヴァルム大陸の北西を目指し、『ミラの大樹』を飛び立つのであった。

 

 

 

 

 ……『ミラの大樹』を発ってから数日が過ぎた。

 チキの言う通りならば、恐らくあと二日もしない内に『真実の泉』があると言う山脈の連なりが見えてくるであろう。

 後少し、後一歩。

 そう考えるとやはり、何処か落ち着かない気持ちになる。

 早く辿り着きたいと逸る心と。

 そして、それに相反するかの様な……まだこの旅を終わらせたくないと言うそんな思いが、互いに混ざり合う。

 古の邪竜が蘇ろうとして……そしてそれまでにどれ程の時間が残されているのか分からない現状では、その復活に備えそれを防ぐ為の対応に使える時間は多ければ多い程良いだろう。

 ……『人間』に戻った後再び王城に戻った時に、父をどう説得するのかと言う問題はあるけれども。

 もしもの時も、『神竜の巫女』であるチキに何か一筆認めて貰えれば、託された『蒼炎』と合わせて皆を説得出来る。

 少なくとも父は、ルキナの説得を無碍にはしない筈だ。

 元より今も尚イーリスから奪われた『炎の台座』と『白炎』の捜索は密かに続いているのだから、それらをより大々的に探す事に否は無いだろう。

 ……だがそうやってギムレー復活の阻止を考える一方で。

 ルフレとの日々が終わってしまう事に未練を抱えていた。

 

 ルキナが王城に戻ったとしても、既に一度死んだ事になっているであろう自身の処遇がどうなるのかは分からないが。

 ……聖王家の血統を管理すると言う意味でも、その管理下から離れる事は出来なくなるだろう。

 ……あの森で、ルフレと二人静かに過ごすと言う細やかな『夢』は……どう転んでも恐らくは叶わない。

 ……ルフレを王城へ、ルキナが「在るべき」と定められた其処へ、連れ出す事ならば出来るのだろう。

 だがそれは、ルフレから森での暮らしを奪う事に他ならない。

 ある意味では酷く不自由でもあるその生き方を、そんな生活を望んでいるとは思えないルフレに強要して良い筈は無い。

 無理に連れ去ったとしても、そこにルフレにとっての『幸せ』があるとは、ルキナには到底思えなかった。

 

 ならば。……ルフレにとっての『幸せ』を思うならば。

 ルフレにとっての生きる場所……あの森での生活を乱さぬよう、『人間』のルキナはもう彼に関わるべきでは無いのだろう。

 ……だが、そう考える事、それを思う事は、酷く苦しくて。

 ……だからこそせめてこの時が、ルフレと二人で過ごせる時間が終わって欲しくないと、そう思うのだ。

 

『真実の泉』に辿り着いて『人間』に戻ったからと言ってそこで旅が終わる訳でも無く、少なくともイーリスに向かって帰る旅が再び始まるだけなのだが……しかし、そこでルフレに何を伝えれば良いのか何を言えば良いのかが分からない。

 何れ別れねばならぬのであれば、共に生きる事は難しいのであれば……『想い』を打ち明けた所で互いに傷付くだけなのではないかとも思ってしまう。

『真実の泉』に辿り着いてから、そして『人間』に戻れてから考えるべき事であるのかもしれないけれど。

 その時は刻一刻と迫っているのだ。

 それもあって、逸る気持ちとは逆に、まだ辿り着きたくはないとも思ってしまっている。そして……。

 

 ルキナは、チラリとルフレの方を見た。

 ルフレは相変わらず何も言わずに……深く何かを考えこんでいる様な、……何かを迷っている様な、そんな顔をしている。

『ミラの大樹』を発ってから、ルフレはずっとこうだった。

 地上に降りて休んでいる時も、こうして空を飛んでいる時も。

 ずっと何かを考え続けている。

 

 ……やはり、『ミラの大樹』を発つ間際、チキに掛けられた言葉が何か引っ掛かっているのだろうか。

【神竜族】であるチキと同じ力……それをルフレから感じると言っていたが、それが意味するモノが分からない。

【竜】の力、と言う事なのだろうか……。だがそれだとしても何故その様なものがルフレに……? 

 聖王の血を継ぐルキナから感じると言うならまだ分かるが。

 だが、チキのあの言い方だと、聖王家の血筋に受け継がれている神竜ナーガの力の欠片の様なそれでは無いのだろう。

 とは言え、ルフレは【竜】ではない。

 そんな素振りは全く見せなかったし、ルフレ自身でも何も思い当たる所は無さそうであった。

 

 しかしそもそもルキナはルフレについて知っている事は余りにも少なかった。

 森の奥深くに棲んでいる賢者、医術や薬師の知識と技術に明るいだけでなく、恐らくは呪術にもその才を発揮している者。

『竜』を助けようだなんて少し変わっている所もあるけれど、優しくて温かで誠実な人。

 ルキナにとってはそれだけで十分以上なのだけれども。

 彼の出自の部分……何処で生まれたのか、何故彼の母親は幼い彼を連れてあの森に流れてきたのかなど、それは分からない。

 恐らくはその全てを知っていた彼の母親は既に墓の下で……語る口など持ち合わせている筈も無い。彼の母親が遺した手記などに彼の出自を辿れそうなものなどは無いらしく……ルフレ自身が気にしなかった事もあって詳しく聞いた事すらもなかったらしい。偶然語る機会が無かったのか、或いは彼の母が意図的に彼の前から遠ざけ隠していたのかは分からない。

 ルフレ自身が知らない『彼自身』が、そこにあるのだろうか。

 ……それは分からないけれども。そこに何があっても、ルキナにとってルフレが大切な存在である事には変わらない。

 ただルフレ本人としては、突然に降って湧いた様なその疑問、『自分は何者であるのか』と言うある種哲学的なそれを、有耶無耶にしておく訳にはいかなかったのだろう。

 

 だからなのか、ここ数日の物思いに沈むルフレは、何処か昏く思い詰めた様な目をしている時がある。

 ……ルキナが何を言っても、そう言う悩みは本人がある程度自分で納得するまではどうしようもなくて、そもそも今のルキナはルフレに『言葉』を届ける事は難しいのだけど。

 それでも、抱え込み過ぎて悩んで苦しむ位ならば、少しでもいいから自分に話して欲しかった。

『言葉』を返せなくてもルキナはその言葉に耳を傾けるし、例えそれが叶うのは今だけだとしても、その傍に居るのだから。

 だが、そう伝える事すらこの身では叶わない。

『言葉』ではなく仕草で伝えようとしても、やはりそれだけでは伝えきれず……却ってルフレに気を遣わせるだけで。

 どうにもならぬ儘ならなさばかりが降り積もるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナが吐いた小さな溜息の音に、物思いに沈んでいたルフレの意識はふと現実に呼び戻された。

 そして、またやってしまっていたのかと心の中で溜息を吐く。

 

 ……ルキナが聖王家の人間であると知ってから……そして、ルフレが自分の『想い』を自覚してからずっと。

 ルフレは……想い悩み続けていた。

 相反する『想い』に、『願い』に、心を千々に引き裂かれそうになりながら……。

 ずっと……ずっとこうして傍に居たい、それがもう叶わないのであればいっそ、この旅が永遠に終わらなければ良いのにと。

 ふとした瞬間にはそんな事を考えてしまう。

 だが、『真実の泉』はそれまでの道程を考えればもう目と鼻の先と言っていい程に近く、旅の終わりはもう間近であった。

 近付きつつある『終わり』から、ルキナの手を掴んで逃げてしまいたい位なのに……しかし、ルキナの望みを叶えてあげたい、彼女を『幸せ』にしたいと言う『想い』がそれを許さない。

 ……もし、こんな身勝手で醜い『願い』を抱えているとルキナに知られたら、間違いなく軽蔑されるであろう。

 弱っている所に付け込んで、相手を束縛しようとしている事と何ら変わらないだろうから。

 それが恐ろしくて、こんな浅ましく澱んだ心をルキナには知られたくなくて……それなのにそれを殺しきれずにいる。

 そんな今の自分を、ルフレは心から嫌悪していた。

 

 しかし、そんなどうしようもない矛盾する欲望から思考を離れさせようとしても中々上手くはいかない。

 別れ際にチキに言われた言葉は確かに引っ掛かっているが。

 しかし、彼女の言う『力』とやらに何も心当たりはないし、万が一自分の出生に関する部分に何かあるのだとしても今の自分にそれを確かめる術はないのだ。

 それに、躍起になってまで確かめたい事でもない。

 だから、ルフレはそれ以上は考えない様にしていた。

 

 ……それに、チキに関して気になるのは別れ際の言葉よりも、託された蒼い宝玉の事であった。『蒼炎』と呼ばれたこの宝玉を……ルフレは何処かで見た事がある様な気がするのだ。

 だが、ルフレが生きてきた中でこの様な宝玉に触れる機会などある訳も無くて、記憶にない生まれたばかりの頃に見た可能性に関しては、この宝玉はずっとチキの元にあったと思われるのでそれもまた考え辛い。

 だが、何とも言えないが……宝玉を見ていると胸の奥がざわつく様な……そんな錯覚を覚えるのだ。

 ……チキがこれをルキナに託した事を考えると、これは聖王家に何か所縁があるものなのだろうか……? 

 

 聖王と宝玉……。

 ……確か母の手記の中に、それに近いものの記述があった様な気がするな、と。ルフレは手記を取り出してパラパラと捲る。

 その中にあった、『炎の紋章』と『封印の盾』の伝説……。

【竜族】の強大な力を秘め、時に【竜】を封じ、時に【竜】に力を与え、時に【竜】を守るなどと、【竜】の力をある種制御する力を持つ、【竜族】の秘宝……。

 かつて【竜族】の手から喪われ、それを構成する五つのオーブが散逸し、散ったオーブの一つ一つが強大な力を秘めていた為、時に悪しき者の手に渡り悲劇を作り上げてしまった神宝。

 かの古の英雄マルス王が再び蘇らせたと言うそれ。

 

 伝承の中では、五つのオーブが揃ったそれを『封印の盾』とする説と『炎の紋章』とする説があるらしいが……何分もう二千年は昔の事だ、それを確かめる術はない。

 そして、マルス王が蘇らせたそれと同じであるかは分からないが、『炎の紋章』は初代聖王の伝承の中にも現れる。

 神竜ナーガから託された神宝の一つとして……。

 しかし、イーリスに伝わっていたのは確か『炎の台座』と言う名の神宝である筈だ。途中で名前が変わったのか……或いはかつての様にそれを構成するオーブ……宝玉が再び散逸した為にその名なのかは分からないが……。

 後者であるならば、チキから託されたこの宝玉は『炎の紋章』を構成する為のそれあるのだろうか……。

 そしてそれは、今この世に目覚めようとしていると言う邪竜ギムレーと対峙する為に必要なものであるのだろうか? 

 かつての戦いの中で『炎の紋章』がどの様にしてその力を現したのかは伝承が途絶えているらしく分からないけれど。

 ……何にせよ、これを託されたと言う事は、ルキナは王族としても極めて重要な位置に居る者だったのだろう。

 そして、だからこそ一つの可能性が脳裏にちらつく。

 ……以前、近くの村で聞いた若くして亡くなった王女の訃報。

 初めて出会った時の、『竜』の堅牢な鱗すら易々と切り裂かれていた何らかの刃物による鋭利な傷……。

 イーリスに伝わる神宝の一つ、【竜】殺しの力を持つ神竜の牙……神剣ファルシオン。

 ……それらはまだ点と点でしか無いけれども。ルフレの想像はそれらを推測にも満たぬ妄想の糸で結ぼうとしてしまう。

 だが、その想像は全く以て気分が良いモノでは無い。

 もしその想像が当たっているならば……。

 ルキナは、王女の身の上でありながら、王家に伝わる神剣でその身を切り裂かれた事になる。

 そして伝説が正しいのであれば、神剣は誰にでも使える物では無く選ばれなければ振るう事すら叶わない代物で。

 イーリスの当代聖王は、数少ない神剣に選ばれた王としてその名をイーリス中に轟かせていた。

 ならば……ならばルキナは、実の父親に殺されかけたと……そう言う事になるのではないかと……そう考えついてしまう。

 だが、その想像をルキナ本人に確かめてみようとは……ルフレには全く思えなかった。

 それが事実だとしても、ルキナの心の傷を抉るだけであるし。

 何よりも、ルキナが王族である事をルフレが知っていると……そう悟られたくなかったからだ。

 もしそれが明らかになってしまうと、その瞬間にでもこの時間が終わってしまう様な気がして……。

 ルフレはまた一つ、心の中で溜息を吐いた。

 

 目の前に、雄大な山脈のその山裾が見えてくる。

 この山脈を幾つか越えれば、『真実の泉』に辿り着く。

 念の為何処かで一度降りて一晩を明かした方が良いだろうが。

 もう目的の場所は目の前だ。旅の終わりは、直ぐそこに在る。

 ルキナの傍に居る事が叶わなくなる時が、刻一刻と近付く。

 過ぎ行く時を惜しみ縋り付こうとする心を律しようとした。

 丁度、その時だった。

 

 ルキナの翼を掠める様にして、矢が高い音を立てて下から風を鋭く切り裂きながら飛んで来くる。

 何事か、と。下を見たそこには。

 幾十人もの兵士たちが矢の切っ先をルフレ達に向けていて。

 そして蒼髪の壮年の男が、憎悪に歪んだ眼差しで、ルフレを……否ルキナを怨敵を見るかの様に睨み付けていた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 山裾にその人物の姿を見付けた瞬間。

 ルキナは見た物を信じられず、思わず吼える様に叫んだ。

 

『お父様……!? そんな、どうしてここにお父様が……』

 

 イーリスに居る筈の……こんなイーリスから遠く離れたヴァルムの地に在る筈も無いその姿に、動揺を隠せない。

 いっそ偽物か幻かとも思うのだけれども。

 その昏く深い憎悪の炎とそれにより燃え滾る憤怒は、あの日ルキナをファルシオンで斬り付けてきた時のそれそのまま……いやあの時よりも更に深みを増したそれで。

 ルキナを射竦める様に睨むその眼差しには、怒りや憎悪とはまた別の……昏い歓喜の様な感情が混ざっている。

 まさに凶相と言っても良いその表情は、厳しくも優しかった……ルキナの敬愛する父の姿とはまるで重ならない程の、復讐心の炎にその身も心も焦がす獣の様ですらあった。

 それでも紛れも無く本物の父──当代聖王クロムであった。

 余りの事態に動揺したルキナは、次の瞬間にまるで地上から天に向かって降り注ぐ雨の様に放たれた矢の嵐を避け切れず、矢に翼を射抜かれてしまう。

 

『────ッッ!!』

 

「ルキナ! 大丈夫かい!?」

 

 翼を穿った矢の多くは羽を幾つか折るだけに留まったが、その内の数本が翼の付け根近くを傷付けて。背中を切り裂かれたかの様なその痛みに苦痛の悲鳴を上げたルキナは、飛び続ける事が出来ず地上に墜ちる様に不時着した。

 矢の雨の中でも、堅牢な鱗に覆われているルキナの身体が盾となっていた為に何とかルフレは無事だったが、墜落の衝撃でルキナの背から投げ出され地に身体を強く打ち付けてしまう。

 全身を打ち付けた痛みを抑えて立ち上がったルフレはルキナに駆け寄ろうとするが、ルキナの周囲を武装した兵士たちに素早く囲まれてしまい阻まれて。更にはそれに混乱し動揺した隙を突かれて兵士たちに乱暴に取り押さえられ、力尽くで地面に押し倒され身動きを取れなくさせられてしまった。

 

「……お前が、この『竜』の主か?」

 

 押し倒された状態のルフレの前へと近寄ったクロムは、ファルシオンを抜き放ち、ルフレの首筋へとその切っ先を突き付けながらゾッとする程の感情が窺えない声で尋ねる。

 

「……違う! 『主』なんかじゃない! 

 僕は……僕は! ……ルキナの友人だ!」

 

 ルフレは臆する事無く真っ直ぐにクロムを見上げ声を上げた。

 だがクロムは、感情を無理矢理剥ぎ取ったかの様な……激し過ぎる余りに却って凪いですら聞こえる声で問う。

 

「『ルキナ』……だと? お前はその名の意味を分かった上で……この『竜』が誰の命を奪ったか知った上で、そう呼ぶのか?」

 

「……命を奪った? そんな筈は無い。

 ルキナが誰かの命を奪うなんて、考えられない。

 貴方が何処の誰だかは知りませんが、きっと勘違いしているんです! だって、彼女は──」

 

 

「勘違いだと……!? 

 お前の方こそ、その『竜』の何を知っている!!」

 

 

 ルフレの言葉は、咆哮の様な……激昂したクロムの叫びによって遮られて。何かを続けようとしたルフレは、クロムの剣幕に圧されて何も言えないまま、困惑した様な目をする。

 そんなルフレの様子に構う事も無く、クロムは吼える。

 

「この『竜』が!! 娘を……ルキナを……!! 喰い殺した!! 

 その事実は、何がどうあろうと変わらん……!! 

 ルキナの墓に、骨の欠片一つ入れる事は叶わなかった……!! 

 ルキナは……骨すら遺せず『竜』に喰い殺されたんだ……!! 

 お前にその絶望が分かるか!? その怒りが分かるのか!? 

 俺は、娘を助ける事が出来なかった……!! 

 助けを求めただろう娘の悲鳴に気付く事すら出来ずに! 

 その仇すらとってやれずに『竜』を逃がしてしまった、この絶望が、この憎しみが、この怒りが!! 分かると言うのか!? 

 生きながら貪り食われたルキナの苦痛が理解出来るのか!? 

 何の事情も知らない様なら見逃してやるつもりだったが、『竜』を庇い立てすると言うなら、お前から殺してやる……!!」

 

 最早絶叫と言っても良い様な……苛烈な言葉と同時に、深い絶望と哀しみと怒りと憎しみが混ざり合って泥の様になった感情を吐き出しながら。クロムはファルシオンを握り締める手に力を籠める。その切っ先が触れた首筋の皮が薄く斬れて、紅い雫が線の様に滲み出した。

 

『止めて下さい、お父様!! ルフレさんは、何も悪くない、何も関係無いんです! ただ、私を助けてくれただけで……!!』

 

 それは余りにも悪夢の様な光景だった。

 父が、ルフレに剣を向けて……殺そうとしているなど……! 

 一体何故こんな事になってしまったのか、全く分からない。

 だが今はとにかく、『竜』への憎悪に囚われて怒り狂っている父から、何一つこんな場所で殺されたり傷付けられて良い理由など無いルフレを守らなければならない。

 父が愛する人を殺す様な事だけは絶対に阻止せねば、と。

 這ってでもルフレを守りに行きたいのに。

 灼ける様に痛む翼と、そしてルキナを油断なく取り囲む様に矢を向ける兵達の所為でそれも叶わない。

 故に、伝わらないと分かっていながらも、ルキナは吼えた。

 全身全霊の咆哮は、クロムの意識をルフレからルキナへと向けさせるに十分で。憎悪に染まり切った眼が、ルキナを射抜く。

 心に深く深く刻まれた癒えぬ傷痕が……ルフレとの日々の中で薄れつつあったそれが、その眼差しによって一気に蘇った。

 全てが変わってしまったあの日の、あの恐ろしい『死』と『孤独』と『拒絶』の絶望が、心を食い潰さんばかりに甦る。

 何とかしなくてはルフレを助けなくてはと、そう思う一方で。

 身体はまるで芯まで凍り付いてしまったかの様に動けない。

 

 ユラリと、まるで幽鬼の様な足取りで、クロムはルフレの前から離れてルキナへと近寄ってくる。

 その手の中で西日によって紅く輝く様なファルシオンが、まるで血に塗れた処刑用の斬首刀の様にすら見えた。

 それを、凍り付いた様に見詰める事しか出来ない。

 

「止めて下さい!! ルキナは……! 目の前のその『竜』は!! 

 貴方の! 聖王様の娘の! ルキナ王女その人です!! 

 貴方は今、ご自身の娘を殺そうとしている所なんですよ!?」

 

 ルフレの必死の叫びが、その場に響いた。

 どうして、何故、何時……と。ルフレが自分の素性を知っていた事にルキナは驚いたが、今はそれどころでは無くて。

 ルフレの必死の言葉にも、クロムは何も躊躇わない。

 

 

「この『竜』が俺の娘のルキナだと……? 笑えない冗談だな。

 その程度の見え透いた嘘で時間稼ぎをするつもりか? 

 ルキナは死んだ、この『竜』に喰われてな……。

 その事実は、何をしても覆りはしない……。

 ……ルキナへのせめてもの手向けだ。

 このファルシオンで、貴様がルキナへと与えた苦しみ以上の苦痛を与えて、地獄に送ってやる」

 

 憎しみのままに、クロムはその足取りを緩める事は無く。

 身動きの出来ぬルキナを前にして、復讐を果たせる昏い歓喜のままに、その口の端を歪める。

 そして、ファルシオンを振り上げた。今度こそ逃がさぬ様、一刀の下に首を落とすつもりなのだと、ルキナは悟る。

 

 ──ルキナの命運が尽きようとしたまさにその時。

 

 

「──ルキナっ!!」

 

 

 自身を取り押さえていた兵士たちを力任せに弾き飛ばす様にして振り払いルキナの元へと駆け出したルフレが。

 ルキナを守るかの様に、クロムとルキナとの間に飛び込んで。

 そして、振り下ろされたファルシオンをその身で受け止めた。

 振り下ろされたファルシオンの勢いのままに地に叩き付けられ、切り裂かれたその傷口から、血が溢れる様に零れだして。

 飛び散った血がルキナの鱗を赤く染める。

 辺りには、濃い鉄臭さが漂い出した。

 

『ルフレさん…………?』

 

 目の前の光景が、信じられなくて。ルキナは呆然と呟く。

 すると、地に伏したルフレが、僅かに身を起こして。

 自身の血で汚れたその手を、ルキナへと差し出して。

 まるで労わる様に……ルキナの顎の下を優しく撫でた。

 

「良かった……。ルキナが、お父さんに斬り殺される様な……そんな、哀しい事にならなくて。本当に、良かっ……──」

 

 血に汚れたその手が、再び力無く地に落ちる。

 支える力を喪ったその身体は再び地に倒れ伏して。

 ルキナが呼び掛けても、もう応える事は無い。

 死んでは、いない。今は、まだ。だがしかし、このままでは。

 

 突然の乱入に気が逸れたクロムであったが、その目に宿る憎悪は些かも変わらず、ルフレを斬った事に何の動揺も無くて。

 今度こそルキナを屠るべく、再びファルシオンを構え直した。

 

『──────ッッッ!!』

 

 その光景を前に、ルキナは『言葉』も失くした獣の様に吼え。

 鉤爪がルフレの身を傷付ける事すら最早構わずに、力一杯ルフレを抱き寄せて。怒りとも哀しみとも取れぬ感情のままに、蒼い炎の様な『竜』の息吹を地に吹きかけてクロムを遠ざけた。

 突然の目の前に燃え盛った炎にクロムや兵士たちが動き止めたその瞬間を見逃さずに、ルキナはルフレを離さぬよう抱き締め、力強く羽ばたく。翼を切り裂いた矢傷の痛みなど、感じる余裕などもう何処にも無くて。ルフレを抱き抱えたまま、ルキナは空高くへと逃げ去るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第八話『真なる影』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 全速力で高く空を飛び、山脈を幾つか越えて。人気などある筈も無い深山の更に奥地で見付けた清涼な水が流れる川辺に。

 傷付いたルフレを抱えて飛び続けたルキナは漸く降り立った。

 既にもう日は暮れていて、辺りは月灯りと星灯りしかない暗闇の帳に覆われている。

 幾ら復讐に燃える父であってもこんな山奥をこの時間に分け入ろうとする程に考えが狂っている訳ではないだろう。

 故に、夜明けまではここに留まれる、とルキナは判断した。

 森の獣達は見慣れぬ『竜』を恐れて近寄ろうとはせずにいるらしく、少なくとも今晩の間は襲われる可能性は低い。

 

 先ずは火を起こさねばと、ルキナは川辺にあった樹を爪で切り倒して、大雑把な薪木を作り、それに炎の息吹で火を着けた。

 乾燥していない生木は火が着き難く本来薪木には適さないが、炎の息吹の威力を前にすればあっさりと燃え上がる。

 炎を吐き出した事など、クロムの元から逃げる為に無我夢中になって吐いたそれが初めてであったのだが、一度出来てしまえばまるで生来可能だった様にすら感じてしまう。

 だが今は炎を吐ける様になった事について考える暇はない。

 焚火によって熱源と光源を確保出来た事で、ルキナは改めてルフレの様子を観察した。

 意識がまだ戻らないルフレは、左肩から脇腹に掛けて服が大きく切り裂かれ……そこを中心に服が血で赤黒く染まっている。止血が追い付いていないのか、未だに零れる様に血の雫は傷口から滴り落ちていく。そして、ルキナが鋭い鉤爪の生えた手で構わずに抱き抱えた所為で、左肩の傷程深くなくとも腕などには裂傷が幾つも刻まれていた。

 

『ルフレさん……。

 お願いです、死なないでください……』

 

 自分のこの手では、かつて彼がしてくれた様に、傷を治療する事など出来なくて。そもそも、ルキナにはその知識すら無い。

 獣がそうする様に傷口を舐めてやる事なら出来るだろうが……それで治る様な物でも無い事位は流石に判断が付く。

 せめて水を飲ませようとするのだけれども、水辺に連れて行った処で、気を喪っているルフレがそれを飲める訳も無く。

 水を掬ってみるのも、ルキナのこの手では難しい。

 だからルキナは、意識が無い相手にこんな事をするのはどうなのだと思いつつも。水を自身の口に含んでから、ルフレの唇に口先を押し当てる様にして。

 そして舌で優しく抉じ開ける様にして、口移しで水を与えた。

 すると、急に水が口に入って来たので身体が反射的に驚いたのか、ルフレは激しく咳き込み、うっすらとその目を開けた。

 

「……ルキナ……無事……だったんだね……良かった……」

 

 そう言ってルフレは苦しそうな表情のまま、微笑みを浮かべようとするが……痛みからかそれは上手くいっていない。

 だが、意識が戻った事を喜び、傷付いていない右肩へとそっと鼻先を触れさせたルキナの頭を、そっと優しく撫でてくれた。

 

『すみません、ルフレさん。お父様が、ルフレさんに……』

 

「……気にしなくて、良いんだよ、ルキナ。

 君がまた実のお父さんから殺されかけるだなんて……そんな酷い目に遭う事に比べたら……こんな傷、どうって事ないさ。

 それに、僕は身体は丈夫な方だから、これ位じゃ死なないよ」

 

 ルフレのその言葉に、胸に何かが詰まったかの様な苦しさを覚える。……どんな事情があれルフレを傷付けたのはクロムだ。

 クロムはルフレの命などどうでもいいと本気で考えていたし、実際あの一撃でルフレが命を落とした可能性だってあったし、そうなっていたとしてもそれを悔いる事も無かったであろう。

 ルフレが「どうと言う事は無い」と言うその傷は、どう考えてもそんな言葉で流して良いモノである筈なんて無くて。

 それなのに、ルフレはルキナの事ばかり気に掛ける。

 それがどうしようもなく苦しいのに、それ以上の謝罪の『言葉』を、ルフレのその優しい目は許してはくれない。

 それが、どうしようもなく苦しい。

 

 ルフレはルキナの背に預けていた荷物を持ってくる様にと頼み、ルキナが言われた通り荷物の入った鞄を咥えてくると。

 その鞄の中から治療の杖と薬を取り出したルフレは。

 あろう事か、自分の傷を癒すのではなくて、ルキナの翼の傷に治療の杖を使い始めた。

 

『ルフレさん! 私の事など後でで良いのです! 

 今は、ご自分の傷を最優先にして下さい!』

 

 だがルキナが幾ら抗議の唸り声を上げても、何処吹く風とばかりにルフレはルキナの治療を止めない。

 

「深く傷付いていたのに、無理をして飛んだんだろう? 

 今の内に治しておかないと、もっと酷い事になってしまうよ。

 それに、僕の傷は見た目程酷くは無いみたいなんだ。

 嘘だと思うなら、ほら」

 

 そう言いながらルフレは服を捲り上げてその左の脇腹を晒す。

 ……その傷口は、服を汚す血の量からはとても考えられない様な、「浅い」傷だった。だが……ルキナは確かに、ザックリと深くまで切り裂かれた傷口を見たのだ。

 あれが見間違いだとは到底思えないのだけれど……。

 更に気になる事はそれだけではなく、ルキナの鉤爪が傷付けてしまった裂創は、もう薄い瘡蓋になっていた。……本当に? 

 ルキナは自分が見たそれを信じられずに、その臭いを嗅ぐ様に鼻先を押し当てるが……。あれ程までに深い傷口で、しかもさっき確かめた時でも傷口からは血が流れていた筈なのに、もうそこからは乾いた血の臭いしかしない。ほんの十数分程度でそこまで治る事など、有り得るのだろうか? 

 どうにも落ち着かないものを感じるけれど、ルフレの傷が深くない事自体は喜ぶべき事である。……傷の深さがどうであれ、父がした事の重さは変わらないのだけれども。

 

『ルフレさん……。私の所為で、あなたをこんな目に遭わせてしまって……。本当にごめんなさい……』

 

 ルキナは、……恐ろしかった。

 ルフレが、そのまま死んでしまうのではないかと。

 父の手で、否ルキナを庇って、命を落としてしまうのではと。

 それが恐ろしくて恐ろしくて……。

 ルフレが死ぬ事自体、到底耐えられない事だけれども。

 それがよりにもよって自分を庇ってだなんて……ルキナには何があっても耐えられなかった。

 愛する相手を、『恋』している相手を。そんな形で喪うなんて。

 絶対に耐えられないと、ルキナには分かっていた。

 それに、どうしてあそこにイーリスに居る筈のクロムが居たのかは分からないけれど……もしも、ルキナがあの森を旅立ったからなのだとしたら……ルキナの『願い』に付き合ってここまで来てくれたルフレを、半ば自分が殺した様なものになる。

「自分の所為で」と言う想いが、どうしてもルキナの心から離れない。そんなルキナを見て、ルフレは優しく苦笑する。

 

「良いんだよ、ルキナ。この傷は誰の所為の者でも無い。

 だから、そんな顔をしないで。

 君が苦しんでいるのを見る事が、僕は一番辛いんだから」

 

 そう言って、ルフレはルキナの顔に両手を当てて、眼を……ルキナの左眼を覗き込む。

 

「……ずっと前から思っていたけれど、綺麗な眼だ。

 ……ここに刻まれた『聖痕』に、僕はもっと早くに気付くべきだったのかもしれないね……。

 そうしたら、もっと別の道があって……ルキナのお父さんが……聖王様が。あんな風に憎しみに囚われてしまう事も、無かったのかもしれない……。

 ……でも、僕は全然気付いてあげられなかった。

 ……ごめんね……。

 君をこんな風に苦しめずに済んだのかもしれないのに……」

 

 ルフレが苦しそうな顔をするので、ルキナは首を横に振った。

 ルフレの所為では無い。その責の所在を問うのであれば、寧ろ全く伝えようともしなかったルキナの責任になるだろう。

 

『良いんです、ルフレさん。

 そんな事……あなたの所為じゃないです』

 

 それよりも、全く伝えようともしていなかったのに、どうしてルキナが王女であるとルフレは分かったのだろうか……。

 そんな風に考えてルフレを見詰めていると、ルフレは少しバツが悪そうな顔をした。

 

「……実は、ルキナとチキ様が夜中に会話している所を少しだけ聞いてしまってね……。その時に、気付いてしまったんだ。

 ……でも、それを言い出せなかった。……言ってしまったら、君が王女であると知っている事を伝えてしまったら……。

 ルキナと過ごす『幸せ』なこの時間が、その瞬間に終わってしまう様な気がして……それが、怖かったんだ。

 馬鹿みたいだろう……?」

 

 ルフレの言葉に、『そんな事無い』と思い切り首を横に振った。

 ルキナも同じだったからだ。

 もし王女だと知られてしまったら、この『幸せ』な時間が終わってしまう様な気がして……だから、伝えられなかった。

 だから、自分もまた同じ気持であったのだと。

 そうルフレに伝える様に喉を鳴らした。

 

「……ルキナも、同じ気持ちだったのかい……? 

 ……互いにそんな事を考えて、何も言えなかったなんて。

 ……僕たちは、似た者同士だったのかもね……」

 

 ルフレは苦笑して、ルキナの頭を両手で抱き寄せる様にする。

 そして、そっと額を合わせて目を閉じた。

 

「……僕は、ルキナに出逢えて『幸せ』だった。

 あの日、傷付いた君を見付けた時は、こうしてこんな所にまで旅をするなんて、ちっとも考えた事は無かったけれど。

 ……でも、あの森で二人で過ごしていた時間も、こうして二人で旅をしてきた時間も。

 ……僕にとっては、本当に……本当に、『幸せ』その物だった」

 

 そして、ゆっくりと目を開けたルフレは。

 少し、寂しそうな……そんな顔をして微笑んだ。

 

「『幸せ』過ぎて、終わらないで欲しいと、そう心から思ってしまう程、君と過ごした日々は僕にとって特別なものだった。

 ……僕にとって、ルキナは特別で大切な……そんな人だから。

 だけど、『人間』としての君には帰るべき場所がある。

 そしてそれは、あの森じゃない。

 ……僕なんかではどんなに手を伸ばしても届かない場所に、君は去ってしまう……。……それが、怖かったんだ。

 ずっと傍に居たい、傍に居て欲しいと。……そんな我儘な子供みたいな、叶わない『願い』を夢見てしまう程……。

 でも、やっぱり、そんな事を願うべきじゃない……。

 ……ルキナを想うあまりに、あんな風に憎しみに囚われてしまった聖王様を見て、やっと思い切る事が出来た。

 ルキナ、君は君の生きるべき場所に、君を心から想う人達が待つ場所へ、帰るべきだ。

 今の聖王様に、僕の言葉は届かないだろうし、君の『言葉』も届かない……。でも、『人間』に戻った君の言葉なら届く。

 君が、お父さんの苦しみを、終わらせてあげるべきだ……」

 

『ルフレさん……。私は……。私も、あなたとの日々を、終わって欲しくないと……ずっとそう思っていたんです。

 ……叶う事ならば、この旅が終わっても、あなたと二人、あの森で静かに生きられるなら……。

 そんな事を、ずっと思っていました。

 ……ルフレさんにとっての私がそうであるように。

 私にとって、ルフレさんは何よりも大切で特別な人だから』

 

 伝わらないと分かっていても、ルキナは『言葉』に『想い』を乗せる。……叶うならばルフレのその身体を抱き締めたい位に、気持ちが心の奥底から溢れ出してしまいそうだった。

 

 ルフレと自分が抱えている『想い』が同じものであるかは分からないけれど。

 ルフレから、『大切』だと、『特別』だと……そう思って貰えた事が、そう言って貰えた事が、泣きそうな程に嬉しくて。

 そして、ルキナの事を心から想うルフレの言葉が嬉しくて。

『愛しい』気持ちが、止め処なく溢れ出してしまいそうだ。

 思わず彼の胸へと摺り寄せた頭を、ルフレは優しく抱き締めてくれる。その優しい温もりを伝えてくれる。

 

 

『ルフレさん。好きです。あなたの事が、何よりも、誰よりも。

 叶う事ならば、ずっと……ずっと傍に居たい。

 愛しています。……この『想い』が叶わなくても、ずっと』

 

 

 伝わらないからこそ、ルキナはその『言葉』を口にした。

 

 ……復讐と憎悪に縛られてしまった父を、ルキナは救わねばならない。娘としても、そしてイーリスの王女としても。

 ルフレの言う様に、ルキナには帰らねばならぬ場所がある。

 そこに、ルフレが居ないのだとしても、共に生きる場所は無いのだとしても……。そこから逃げ出す事は、出来ない。

 ……ならば、こうしてルフレと共に在れる時間は、本当に後少しだけしか残されていないのであろう。

『真実の泉』に辿り着いたその後は。

 ……父を、止めなくてはならない。『人間』としての姿と言葉で、その苦しみから解放してあげなくてはならない。

 

 ならばこそ、せめてこの夜だけは、とルキナは願う。

 この温もりを、何れ程の時間が過ぎても忘れない様に。

 ルフレに抱き締められたまま、ルキナは目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 空が白み始めると共に、ルキナとルフレは飛び立った。

 今も『竜』を血眼で捜しているであろうクロムに見付かるよりも前に、『真実の泉』へと辿り着かなければならない。

 ルキナも、そしてルフレも。

 それを暗黙の了解として、少しでもクロム達に見付かるまでの時間を稼ごうと、一言も話す事は無かった。

 目指す地は、もう間もなく見えてくる筈である。

 遺跡らしきものを見逃さぬ様、ルキナ達は注意深く下を探す。

 

 恐らくはこれが最後の飛行になるのであろうと思うと、何だか不思議な気持ちになる。

 思えば、もう四ヶ月以上『竜』の姿であったのだ。

 季節も、春どころか夏すら過ぎ行こうとしていて、少しずつ秋の気配が訪れている。

 決して少なくは無い時間を過ごしてきたこの『竜』の身体に今日で別れを告げるのだと思うと、感慨深さと共に僅かばかりの寂しさの様な物も感じる。不思議なものだ。

 

「……!」

 

 眼下に何かを見付けたのか、ルフレが軽くルキナの背を叩き少し遠くを指さす。その方向に目をやると、それはクロム達で。

 大分距離を離したつもりだったのに、昨晩の内にこんなに近くにまで迫って来ていたのだろうかと、背筋が凍り付きそうなものを感じる、が。まだこちらを見付けた訳ではない様で。

 ルキナは音を立てない様に注意してより高度を取った。

 この高さならば早々気付かれはしないし、万が一気付かれたとしても矢も届かない。その分、地上の構造物を見逃しやすくはなるので遺跡を見逃さないようにと神経を使うが……。

 そうしてクロム達を見付けた所から更に一つ山を越えた辺りで、急に視界に霧がかかり一気に見通しが悪くなった。

 これがチキの言っていた、『真実の泉』があると霧煙る山なのだろうか。深い霧の中では上空から地上を見下ろす事は難しく。

 高度をギリギリまで落とすしかないが、視界の悪い中だと急に山肌にぶつかりそうになったりと中々に大変であった。

 

 こうも深い霧がこの山だけに発生するものなのだろうか。

 これも、【竜族】の遺跡の力によるものなのだろうか……。

 

「ルキナ、あそこに……」

 

 そんな事を考えていると、再びルフレが何かを見付けたらしく、小声で呼びかけながら、霧の中でもルキナに見える様に身を乗り出すようにして前方やや右を指さした。

 その指示通りに飛ぶと、急に霧が晴れた様に途切れ、目の前に古びた石造りの様に見える何かの構造物が見えてくる。

 これが、チキの言っていた遺跡だろうか? 

 

 山頂付近の山肌に貼り付く様に造られたそれの前に降り立つと、ルキナの背中から飛び降りたルフレが早速それを調べる。

 

「石で作られている様に見えるけれど……。よく見たら、特殊な……今まで見た事も無い様な加工が施されているみたいだ。

 建材の一つ一つから、古く強い魔法の力を感じる……。

 ……ここが、チキ様の言っていた『真実の泉』がある遺跡で間違いないと思う。こんな場所にあるなら、今までここに辿り着いた人は殆ど居ないんだろうね……。

 幻の泉になる訳だ。寧ろ、伝承が残されていた事に驚くよ」

 

 そう言いながら、ルフレはカンテラに火を灯し遺跡の入り口を照らす様に掲げた。

 

「さあ……行こうか、ルキナ。『真実の泉』は、この奥だ」

 

 ルフレの言葉に頷き、ルキナは遺跡の中へと入っていく。

 ……遺跡の中は『竜』の身体の大きさで考えても十分な程の広さがあり、緩やかに下に降りる形で奥へ奥へと続く内部は、奥に行くに従って天井もかなり広く作られている様であった。

 そして、カンテラの灯りは必要ない程に遺跡の内部は薄ぼんやりと明るくて。それは驚く事に、建材となっている石の一つ一つが自ら淡く光っているからであった。

 人智を超えたその遺跡にルキナも驚くばかりである。

 やはり、古の【竜族】が造り出した遺跡であるのだろうか。

 ……少なくとも、現代の魔導師達でも想像も付かない程の、尋常ならざる力で造り出されている事は間違い無いだろう。

 まるで緩やかに地の底に続いている様な遺跡の中を、ルフレから離れない様に注意して先を急いだ。

 自分達以外の生き物の気配は無いが……。自分の理解を越えた『何か』の中に長居するのは、そう気分が良いモノではない。

 ルフレも同じ気持ちなのだろうか……何時もよりも先を急いでいる様にルキナには思える。

 緩やかな坂と階段を何れ程下って行ったのか、曖昧になってきた頃に、急にそれまでよりも格段に広い空間に出た。

 そして、その空間の最奥には……。

 

「……! ルキナ、あれが……」

 

 ルフレが指さしたそこには。

 王城の中庭にあった池よりもどうかしたら小さい位の……そんな大きさの、澄んだ水を湛えた一画があった。

 あれが、『真実の泉』なのだろうか。

 何となく神々しいモノを想像していたルキナにとっては少し肩透かしな程に、一見その泉の水は普通に見えた。

 だが、ルキナよりも余程魔道や呪術の力に詳しく敏感なルフレが驚いているのを見るに、恐らくはルキナには感じ取れない何か強い『力』がそこにはあるのだろう。

 緊張から生唾を呑み込んだルキナが、恐る恐ると『真実の泉』へと近付こうとすると、急にルフレは何かを思い出した様にその背に背負っていた鞄をルキナへと慌てて投げ渡してきた。

 その鞄を咄嗟に咥えて受け取ったルキナは、突然のその行動の意図が掴めずに首を傾げるが。

 

「多分、ルキナに必要なものだと思うから。

 僕はここであっちを向いて待っているよ」

 

 そう言ってルフレは、『真実の泉』から少し離れた場所で立ち止まり、何故か後ろを向く。

 

 何故? とは思うけれども、今は先に『人間』の姿に戻る方を優先するべきだろうと、ルキナはそのまま『泉』へと近寄る。

 そして、その水面を覗き込んだその瞬間。

 そこにあった光景に驚き、ルキナは思わず後退さった。

 

『真実の泉』の水面に映っていたのは、『竜』の姿の自分では無くて、紛れも無く元の姿の……『人間』の自分であったのだ。

 だが、今の自分は未だ『竜』の姿のままで。

 現実と、水面に写し出された虚像が、乖離している。

 それはまさに、尋常ならざる光景であった。

 ルキナは再び『真実の泉』を覗き込んだ。

 すると、水の中から『人間』の自分がこちらを覗く。

 そっと、恐る恐る左の前脚を水面へと伸ばすと、鏡像の『自分』も手を伸ばしてくる。そして、ルキナの指先が水面に……鏡像の『自分』が伸ばした指先に触れた瞬間。

 全身が燃え上がる様な、目も開けていられない程の激しい痛みの様な感覚が一瞬で全身を駆け巡り、直後には霧散した。

 直前までの痛みが完全に消え失せ、寧ろ身体は爽快その物で。

 直前までは感じていなかった様な、ひんやりとした空気を全身で感じたルキナは、恐る恐るその目を開ける。

 

 先ず気付いたのは、視線の低さだ。

 そして、次に視界に入った『手』に……紛れもなく『人間』のそれである、鱗など一つも生えていないしその指先に鉤爪も付いていない、柔らかな質感の腕と手に、気が付いた。その場に膝をついて、ルキナは恐る恐るその手を顔と首に伸ばす。

 そしてその手の中に返ってきたのは、『竜』のそれとは全く違う……『人間』である自身のそれと同じ感触で。

 立ち上がり、全身を見回しても、そこに在るのは、紛れもなく自分自身の、生まれたままの状態の『人間』の身体であった。

 衣服を何も身に纏っていない状態である事に気付いた瞬間。

 途端にルキナは近くにルフレが居る事を思い出して、顔から火が出てしまいかねない程に気恥ずかしくなるが。

 反射的に振り返った先に居る彼は、言葉通りに律義に反対方向を向いていて、恐らくは何も見ていないのだろう。

 ルフレは、元の姿に戻ったルキナがこの状態である事を察していたのだろうか。……そう言えば、と。

 ルフレから渡されていた小さな鞄があった事を思い出したルキナは、それを開ける。

 するとそこには、質素ながらも一式の衣服と靴が入っていて。

 ルフレの気遣いに感謝しながら、ルキナはそれを身に着ける。

 少しばかりルキナには大きかったが特には問題なく着る事が出来るサイズであって、ルフレの用意周到さに舌を巻く思いだ。

 

 そして、ルフレに呼び掛けようとして。

 そこで、上手く言葉が出ない事に気が付いた。

 

『竜』であった時の様に、そもそも音として言葉が話せないと言う訳では無くて。

 長く言葉を発していなかったからか、喉と舌が言葉の発し方を忘れてしまったかの様な感じであった。

 

 

「るっ……るっれ……ふ……るふ、……るふれ、さん」

 

 

 何度もつっかえながら、まるで舌足らずな子供の様に覚束ない言葉であったけれども。

 

 漸く。ルキナは、初めて。彼の名前を呼ぶ事が出来た。

 その事に思わず感極まって、涙を零してしまう。

 

 名を呼ばれて、弾かれた様にルキナの方へと振り返ったルフレは、心から驚いた様に硬直して何度も目を瞬かせて。

 そして、ルキナが涙を零している事に気付いた瞬間に、慌てた様にルキナへと駆け寄ってきた。

 そのままルキナを抱き締めようと手を広げていたけれど、その手は直前で何かを思い止まったかの様に止まる。

 どうかしたのかと、ルキナよりも背が高くなった彼を見上げる様に見詰めると。ルフレは少し頬を赤らめた。

 

「あ、その……何時もの癖で、抱き締めそうになったけど。

 流石に、女性に対してそう言う事を軽々しくやるのは良くないと言うか、その……。色々と驚いて、戸惑ってしまって……」

 

「どうか、したの、ですか……?」

 

 まだ涙は止まらないけれど、それを少し乱暴に拭って、ルキナは首を傾げる。確かに、ルフレが『人間』としてのルキナの姿を見るのはこれが初めてあろうけれども。それでもその中身とも言える部分は今までと全く変わらないのに。

 

 すると、ルフレは益々その頬を赤らめる。

 

「その……あんまりにも、ルキナが綺麗だから……。

 あ、いやその、『竜』の姿の時も、美しいとずっと思っていたんだけれど、そう言うのじゃなくて……。上手く言えないけど。

 とにかく、今の君を抱き締めるのは少し憚られると言うか」

 

 まさにしどろもどろと言った有様で、ルフレはそう言う。

 そんなルフレの姿に、ルキナは思わず笑ってしまった。

 何だろう……『可愛い人』だなと、そんな事を思ってしまう。

 そして、おたおたとしているルフレを、ルキナの方から飛びつく様にして抱き締めた。

 

 今のこの身体なら、思い切り抱き締めてもルフレを傷付けたりはしない、この手がルフレの身を引き裂いたりもしない。

 腕の中にある温もりを全身で感じる様にルキナは目を閉じる。

 

「ずっと、こう、したかった……。

 この手で、ルフレさんの温もりを、確かめたかった……。

 ずっと、ルフレさんの、名前を、呼びたかった……。

 今やっと、漸く……」

 

 少しずつ喋る感覚が戻って来て。それでも伝えたい事ばかりが溢れてきて、上手く言葉に出来ない儘ならなさが募った。

 そんなルキナの身体を、ルフレの手はそっと優しく抱き抱える様に支え、よりその距離は縮まる。

 互いの鼓動の音すら聞こえてきそうだと、そんな事も思ってしまう程近くに、ルフレを感じる。

 

 

「ルキナ……。僕は……、君の事が──」

 

 

 その時。ルフレが口にしようとした言葉は。

 突然その場に響いた緩い拍手の音によって遮られた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ルフレとルキナしか居ない筈の『真実の泉』に、有り得ない第三者の拍手が響く。

 一体誰が、何処から、と。辺りを見回した瞬間。

 ついさっきまではそこには誰も居なかった筈の。

『真実の泉』の目の前に。一人の男が立っていた。

 パチパチと、まるで心の伴っていない拍手をしながら、ニヤニヤと……まるでその心にある悪意がそのままそこに現れているかの様な表情を浮かべているのは。

 まさに鏡像であるかの様に、ルフレとそっくり同じ……クロムに切り裂かれ血で染まったが故に左の半身が赤黒く染まっている外套すらも全く同じ姿をしていた。

 だが、そこにある表情だけは、そしてそれを映し出す心は、疑いようも無くルフレのものではなくて。

 余りにも似通っているが故に、その違いが却って絶対的な程に浮き彫りになっている。

 

 ── 『これ』は、一体何だ……? 

 

 武器なんて持っている筈も無く……『竜』から戻ったが故に、今のルキナはとても非力な状態ではあるけれど。

 目の前の『何か』へ、最大限の警戒心を持つ。

 もし『竜』の身体であれば威嚇の唸り声を上げていただろう。

 ルフレはと言うと、突然に現れた自分に極めて近似した『何か』への動揺を隠せない。まるでお伽噺の『ドッペルゲンガー』と言う名の怪物に遭遇してしまったかの様な顔をしている。

 

 ルフレもルキナも、何も言わず身動き一つせず、『何か』の一挙手一投足を警戒していると。

『何か』はルフレなら絶対に浮かべない表情に、その口の端を醜く歪め。……そしてルフレの声で、喋り出した。

 

「いやはや成る程、実に感動的な場面だと言うべきだろうね。

 邪竜の【呪い】によって『竜』にされ居場所を追われた姫君が、偶然出会った若者の力を借り幾多の苦難を乗り越えて、終にはその【呪い】を解く……。

 実に、感動的じゃないか。素晴らしい、称賛するよ。

 ……ああ、本当に、よくやってくれた。例を言うよ、ルキナ。

 君のお陰で、『僕』はここに辿り着けたのだから」

 

『何か』はニヤニヤと嘲笑いながらそう宣う。

 そんな『何か』へ、ルフレは声を上げた。

 

「お前は一体何者だ。どうして僕の姿をしているんだ!?」

 

 ルフレのその言葉に、『何か』はおかしくて堪らないとばかりの哄笑を上げて腹を抱える様な真似をする。

 

「どうして……? お前もここが何処だか知っているだろう? 

 その者の『真実』の姿を映し出す、『真実の泉』じゃないか。

『僕』はお前の『真実』の姿……正確には、お前の本性の人格を写し出した、言わば『真なる影』だ。

 全く……緩んだ封印の隙間から抜け出す様にして、こうして『人間』のものであっても身体を得て蘇ったと言うのに……。

 まさか、あの忌々しい神竜の力に満ちた森に、まだ【力】が蘇りきらない状態で逃げ込まれるとは思いもよらなかったさ。

 そのお陰で、もっと早くに目覚める筈だった『僕』が今まで眠らされ、お前みたいな『人間モドキ』の心が生まれたんだ。

 こうして、『真実の泉』の力で仮初の実体を得なければ表に出る事すら出来ないとは……全く忌々しい限りだよ」

 

 そう吐き捨てた『何か』……ルフレの『真なる影』と名乗ったそれは、ルキナの方を見て表面上だけの笑顔を浮かべる。

 

「だがまあ、千年前に戯れに遺した【呪い】がこんな風に役立つとは思わなかった。有難う、ルキナ。

 君が、コイツをあの忌々しい森の外へと連れ出してくれた。

 君が、コイツをここまで連れて来てくれた。

 君のお陰で、あの神竜の娘から『宝玉』を手に入れられた。

 全て、君のお陰であるとも。

 君のお陰で、『僕』は蘇る。心から感謝するよ、ルキナ」

 

 それに、と。『影』は一転して歪んだ笑みを浮かべる。

 

「君の絶望は。姿を奪われ、居場所を奪われ。

 獣として追われ苦しみ傷付き絶望する君のその心は。

『竜』の身体に苦しむその有様は。

 実に! 素晴らしい見せ物であったよ。

 君は実に退屈しない最高の玩具だった。

 君があの日あの森に辿り着いたのは、運命とも言えるだろう。

 無意識の内に『僕』の【力】に惹かれたのかもしれないけど」

 

 くつくつと喉を鳴らして、『影』は一歩近付いてくる。

 戸惑い混乱しながらも、『影』の危険性を肌で感じ取って。

 ルキナ達は近寄られた分だけ後退る。

 それを、『影』は「おやおや」と言わんばかりの目で見た。

 

「どうして逃げるんだい? 

『僕』はお前の『真実』であるし、『僕』の【力】があったからこそ今も生きていると言うのに……その反応は心外だね。

 まあ……あの鈍に成り果てたファルシオンで斬られた衝撃で、一気に『僕』が目覚めたとも言えるけれども……。

 かつて『僕』を封じた剣が、今度は『僕』を目覚めさせた最後の切っ掛けになるとは……何とも皮肉な結果だね。

 ああ……そう言う意味でも、ルキナには感謝しているよ」

 

「【力】……? 一体何の事だ……? 

 それに、封じるとか目覚めるとか、一体何を言って……」

 

 ルフレは、戸惑いの中に怯えの様なモノを含ませながらも、『影』の言葉の真意を問う。

 すると、『影』は呆れた様に肩を竦めた。

 

「全く……神竜の封印の所為とは言え、『記憶』が無いと言うのも面倒なものだね……。

『人間』なんかを模しているとは言え、『僕』自身なのにここまで愚鈍な存在に成り下がっているのを見るのは不愉快だ。

『僕』は、千年前に神竜とその下僕によって封じられた者。

 人間達が言う所の、『邪竜ギムレー』さ。

 ああ、その顔! まるで全く気付いて居なかったんだね。

 そうとも、お前は、『僕』は、『人間』ではないのさ!!」

 

『影』の言葉に、信じられないとばかりに首を振って否定するルフレを、『影』は嘲笑う。

『影』の言葉に揺さぶられているルフレを庇う様に、ルキナは一歩前に出て反射的に言い返した。

 

「何を言っているんですか!? ルフレさんは『人間』です! 

 ルフレさんが、邪竜ギムレーだなんて、有り得ません!!」

 

 そんなルキナの言葉に、『影』は愉快で堪らないとばかりに、口元を歪めてそれを手で覆い隠す。

 そして、ギラギラと悪意が灯る眼でルキナを睨んだ。

 

「有り得ない? それは君がそう思いたいだけだろう? 

 君が一体コイツの何を知っているんだい? 

 君にとって都合のいい虚像を信じているだけじゃないか。

 君がどう思おうが、事実は変わらない。

『僕』達は、君達が『邪竜』と呼ぶモノ、ギムレーさ。

 まあ、肉体はまだ仮初の『人間』のものである事には間違いないから、『人間』だと言う君の指摘も、全部が全部的外れとまではいかないけれどね。

 第一君も、色々と『おかしさ』は感じていたんじゃないかな? 

 普通なら致命傷になる様な傷が、何もせずとも直ぐに治るのは『人間』なのかな? ……うんうん良いね、その表情! 

 あの鈍のファルシオンに斬られた傷なんて、もう綺麗さっぱり跡形も無いよ? 気になるなら確かめてみると良いさ」

 

『影』の言葉に、ルキナは思わず反射的にルフレの左の脇腹を見てしまう。そして、ルフレは何処か顔を蒼褪めさせて、そこを……傷がある筈の場所を手で隠す様に押さえていた。

 何かに怯える様なルフレのその表情を見て、ルキナは『影』の言葉が、少なくともルフレにはもう傷は無いという其処だけは事実なのだろうと、理解してしまった。

 

「それに、神竜の力の影響下にあったあの森を出てからは、『僕』の『記憶』を度々夢に見ていただろう? 

 まあお前はそれをただの夢だとして、記憶からまた消してしまっていたけれど……。消しきれないものはあった筈だ。

 特に、ファルシオンに斬られる感覚は、君の意識の奥底に刷り込まれていたんだろう? だからこそ、あの鈍に斬られた時に、『僕』の意識に届く程の衝撃を受けたんだろうに。

 目を反らして、耳を塞いで、気付かないフリをして。

 そうやってこんな所まで来てしまった。

 さあ、もう『人間ごっこ』の時間は終わりだ。

『僕』を受け入れ一つとなり、【竜】として再び蘇ろう。

 ……ああ、なに心配はするな。

 お前の望み通り、ルキナは殺さないさ。

『僕』も、目覚めさせて貰った『恩』は感じているからね。

 忌々しい神竜の下僕の末だが、喰い殺すには流石に惜しい。

 全てを殺し尽くした後でルキナと二人生きるのも良いだろう」

 

 喉を震わせる様に嗤いながら、『影』はまた一歩また一歩とルフレに近付いていく。

 どうにか離れようとするも、足が凍り付いた様に動かない。

 

「逃げようとしたって無駄さ。逃げた処で、『真実』から逃げる術は無いし……第一『僕』がみすみす見逃すとでも? 

 あまり『僕』の【力】を舐めるのは止めた方が良い。

 何なら、もう一度ルキナを『竜』に変えてしまっても良いよ? 

 今度は何をしても絶対に戻れない様に、念入りに。

 ……それなら、『王女』じゃないルキナとなら、ずっと一緒に居られると、お前自身が願っていただろう?」

 

『影』が何らかの力でルキナ達の動きを封じているのかは分からないが、今自分達の意志で動かせるのは首から上だけで。

 圧倒的強者の余裕を見せつける様に、ゆっくりと近寄ってくる『影』から距離を取る事すら出来ない。

『影』の言葉に、ルフレはか細く震える声で言い返す。

 

「違う……僕は、僕は、そんな事を望んでいない。

 僕が望んでいたのは、ルキナの『幸せ』だけで……」

 

 その途端、『影』は愉快で堪らないと言わんばかりに笑い出し、乱暴な手付きでルフレの顎を掴んだ。

 そして、呪詛の様な言葉を吐きかける。

 

「『僕』はお前だと言っただろう? 

 お前がその心に隠してきた、醜い欲望も、願いも! 

『僕』は全て知っているのさ! 

『竜』のままでも良いからずっと自分の傍に居て欲しいと、そう思っていただろう? 

 自分の手の届かない存在になってしまう事を恐れて、いっそ何処かに攫ってしまいたい、二人だけで閉じた世界で暮らしていきたいと願っただろう? 

『真実の泉』など知らないまま、あの森で『竜』の身に縛り付けたままのルキナと二人で過ごしていたかったんだろう? 

 ルキナの『幸せ』を願うと口ではそう言いながら、醜い欲望を捨てる事も出来ずに抱え続けていただろう? 

 しかもそれを知られて幻滅される事を恐れて、ルキナの前では最後まで『良い人』の仮面を被ろうとしていたじゃないか! 

 なぁに、お前が心を痛めていた身分の差なんて、ギムレーとして蘇れば何の関係も無いさ。

 滅ぶ世界には、身分など何だのとそんな物に意味は無いし。

 人間如き虫けらなんて、幾らでも自分の好きな様に出来る。

 ルキナを好きなだけ『愛』せるし、二人で生きられる。 

 良かったな、お前の『願い』は全て叶うぞ?」

 

 ニヤニヤと嗤う『影』に、ルフレは必死に「違う」と言い返すが、その声は『影』の言葉を打ち消すには到底及ばない。

 そしてルフレは、恐怖を多分に含んだ目でルキナを見た。

 

「違う、違うんだ、ルキナ。

 僕は、そんな事を思ってない。僕はそんな事望まない。

 僕は、『人間』だ。君と同じ……。

 僕は、ギムレーなんかじゃない。

 お願いだ、信じてくれ、ルキナ……」

 

「ルフレさん……。私は──」

 

 その眼差しに、そこに宿る感情に。ルキナは覚えがあった。

 どうか否定しないで。どうか拒絶しないで。と。

 そう懇願する眼だ。……痛い程に身に覚えがある。

 だから、ルキナはルフレの不安と恐怖を拭う為に言葉をかけようとして……だがそれは『影』によって阻まれた。

 

「お前が『人間』だって……? 

 これを見ても、まだそんな戯言が言えるのかな?」

 

 そう言うなり、『影』は片腕だけでルフレの身体を持ち上げて。

 そして、ルフレに無理矢理『真実の泉』を覗かせる。

 その瞬間、ルフレの表情は絶望に染まった。

 

「嘘だ!! こんなの、こんな化け物、僕じゃない! 

 僕は『人間』だ! 『人間』なんだ!!」

 

「『真実の泉』の力を理解しても尚、まだそう否定するのは流石に往生際が悪いと『僕』は思うけどね。

 ほら、これで『人間ごっこ』を終わらせる気になれただろう?」

 

 ……ルフレが『真実の泉』に自分のどの様な姿を見たのかはルキナには分からないけれども。

 しかしその尋常ではない取り乱し様と、強い否定に染まった絶望を見れば……恐らくルフレにとっては自身の全てを否定するかの様な『化け物』の姿をした自分が映っていたのだろう。

『影』の言葉を否定するその表情は、いっそ死んでしまいそうな程に蒼褪めている。

 それでも、ルフレは諦めなかった。

 それがただの悪足掻きにしかならないのだとしても……。

 ルフレのそんな様子に興が冷めたのか、『影』は詰まらなさそうに溜息を吐いて、無造作にルフレを放り投げた。

 身体を自由に動かせないまま受け身を取る事も出来ずに、硬い床にその身を強かに打ち付けたルフレは息を詰まらせる。

 そんなルフレを感情の籠らない眼で見やった『影』は、今度はルキナの方へと近付いた。

 

「『人間ごっこ』の弊害がここまで大きいとはね……。

 全く、教団の連中があの女を取り逃がしたからこんな面倒で頭が痛くなる事になったんだ。

『僕』を神だのと崇め奉っておきながら、杜撰にも程がある。

 ……目の前でルキナを少し痛めつけてやれば、諦めるかい? 

 なに、心配はいらないさ。『僕』は君には本当に感謝している。

 命までは取らないし、腕の一本や二本再生させる事は容易い。

 何なら、ここで再び君の姿を歪めるのも良いね。

 どんな姿になりたいか、希望はあるかい?」

 

『影』が、ルキナに手を伸ばしてくる。

 逃げようとしても、身体はピクリとも動かなくて。

 ルキナは、凍り付いた様にその手を見詰める事しか出来ない。

 

「止めてくれ……! ルキナには手を出すな……!!」

 

「止める必要が何処にある? 

 怨むなら自分の無力を恨むが良いさ」

 

 ルフレの制止に構う事すらなく、『影』はルキナの首を掴む。

 万力で握り締められているかの様なその力に息が詰まった。

 殺す気は無いと言いながら加減を知らないのか、それとも苦しむルキナを見てその嗜虐心を満たしているのか……。

 首筋の血管を押さえつけられているからなのか、頭に血が足りない。意識が次第に薄れていく。

 

「るふ、れ……さ…………」

 

 薄れゆく意識の中で思うのは、自分の事では無くて。

 

 

「止めろ──ッッ!!」

 

 

 まるで竜の咆哮の様な、ルフレの怒号に似た叫び声と共に。

 激しい衝撃が、遺跡全体を揺らした。

 衝撃に弾かれた様に、『影』はルキナから手を離し後退った。

 喉が解放された反動でルキナは咳き込み、喉に手をやる。

 そしてその次の瞬間に、身体を自由に動かせる事に気付いた。

 

 ルキナは弾かれた様に辺りを見回して状況を確認する。

『影』は衝撃の影響を強く受けたのか片膝をついていて。

 ルフレは叫ぶ事にかなり体力を使ったのか肩で荒く息をしながらも、手をついて身を起こし、『影』を睨み付けていた。

 

 ── 今ならば逃げられるかもしれない! 

 

 武器も何もない状況では、『影』に立ち向かうという選択肢は最初からルキナの頭に無かった。

 今はただとにかくこの危険な『影』から逃げなければと。

 ルキナはルフレの元へと全速力で駆け寄り、立ち上がっていた彼のその腕を取る。

 

「行きましょうルフレさん! 今なら!」

 

 だが、その瞬間。ルフレはルキナを勢いよく突き飛ばす。

 一体どうして、と。そう思った次の瞬間。

 倒れたルキナの目の前で、ルフレの身体が激しい勢いで吹き飛ばされ、遺跡の壁に叩き付けられた。

 一瞬前までルフレが居たその場所には。ほんの一瞬で距離を詰めていた『影』が立っていて。ルフレを蹴り飛ばしたその足で苛立ちをぶつける様に床を踏み付けて石材に罅を走らせる。

 

「クソ! 一瞬でもお前なんかに『僕』が押されるなんて……! 

『僕』自身であっても、こんな『人間ごっこ』で腑抜けたやつに『僕』が膝をつくなんて、何たる屈辱だ……! 

 自分じゃないなら八つ裂きにして殺してやりたい位さ!」

 

『影』は壁に叩き付けられた衝撃で動けないルフレを更に甚振る様に蹴り飛ばした。

 腹を凄まじい力で蹴りつけられたルフレは、息を詰まらせた後で空嘔する様に何度も咳き込む。

 

「この身体は所詮は仮初のモノに過ぎないと言う事か……! 

 全く忌々しい! その身体が『僕』のものなら、とっくに【力】を取り戻して完全なる復活を果たしていたと言うのに……!!」

 

 動けなくなったルフレの襟首を掴む様にしてその身体を持ち上げた『影』は、忌々しさを隠す事も無く唸る。

 

「お前も【力】を使える事が分かった以上は戯れもここまでだ。

 幸い、『蒼炎』はここにある。

『竜の祭壇』に戻れば、忌々しいお前も食い潰せるだろう。

『人間』の皮を被る必要もなくなるさ」

 

 そして、と。『影』はルキナの方へと向く。

 

「コイツを食い潰す方が先だから、今は見逃してあげよう。

 だが、必ず君を捕らえに行くとも。

 精々その時までは『人間』として生きるが良いさ」

 

 そう言った次の瞬間。

『影』はその手で掴んでいたルフレの身体ごと、その場から影も形も無く消失する。……ルキナが手を伸ばす暇すら無かった程の一瞬で。

 

 そしてその場には。ルキナ唯一人が残されたのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「ルフレさん……」

 

 独り取り残された空間で、ルキナは呆然とその名を呼ぶ。

 だが、その声に応える者は居ない。

 余りにも多くの事が一度に起こり、まだ何も整理出来ていないし、殆ど何も呑み込めてもいないけれど……。

 自分は、ルフレを奪われた。

 ただそれだけが、ルキナにとって一つ確かな事であった。

 

 ルフレがギムレーであるかどうかなど、ルキナにとってはそんなに大きな問題では無かった。

 実際、あの悪意の塊の様な『影』にさえ出逢わなければ。

『人間』の肉体を得て蘇ったギムレーであると言うルフレが、かつての伝説の邪竜の様に世界を滅ぼそうとするなど到底考えられない事であったし、例えそれが『影』の揶揄した様に『人間ごっこ』に過ぎないのだとしても、ルフレはあの森の奥で静かに平穏な『幸せ』な日々を過ごしていただろうから。

 自分の所為、なのだろうか。

 ルフレが……ルフレとしての彼の心が決して知りたいと望んですらいなかった『真実』を突き付けられる事になったのは。

 自分は『人間』では無いのだと、絶望する事になったのは。

 そして……あの邪悪な『影』を呼び覚ましてしまったのは。

 

 ……ああ、それは。それは何と言う……。

 

 だが、ルキナには。

 愛する者を結果として傷付けてしまった苦しみに、ズタズタに引き裂かれた心の痛みに涙を流す様な暇も。

 溢れ出す後悔に足を取られて迷い立ち止まる様な時間も。

 愛する者を奪われた絶望に吼える事も。

 何一つ許されてはいないのだ。

 

 時は、待たない。

 何れ程後悔に沈もうとも、時を巻き戻したいと願っても。

 全てを等しく未来へと運んでいく。

 だからこそ、愛する者を取り戻したいと心から想うのなら。

 足掻かねばならない。立ち向かわねばならない。

 己の出来る全てを限られた時の中で果たさなくてはならない。

 そして、まだ全ての手掛かりと道が喪われた訳ではないのだ。

 

 ルキナは、ルフレに突き飛ばされたその時に。

 彼から押し付けられる様にして密かに託された小さな袋を、それが『希望』そのものであるかの様に握り締める。

 それは、チキからルキナへと託され……あの瞬間までルフレが預かっていた『蒼炎』であった。

 

『影』は、『蒼炎』に拘っていた。

 だからこそ、……恐らくは『影』から逃げきる事は出来ないと悟ったルフレは、あの瞬間にルキナにこれを託したのだ。

 恐らく、『影』はまだそれに気付いていない。

 ならば、『蒼炎』がここにあると言う事は。

『影』の目的であった、ルフレの意識を呑み込むまでには、きっとまだ余裕が出来た筈だ。

 それが何れ程の時間なのかは分からないが……それでも、ルフレが託してくれた時間である。

 自分に出来る全てで、その役目を果たさなければならない。

 ルフレを、取り戻す為にも。

『影』の行方には『竜の祭壇』と言う手掛かりがある。

 それが何処なのかはルキナには分からないが……。

 幸いにもルキナはそれが何であるのか、何処にあるのかを知っていそうな人物を知っている。

 そして、ルフレを取り戻す為に必要な力……戦う為の力を持っている者も、よく知っている。

 

 ……ルキナは、まだルフレに自分の『想い』を伝えていない。

 感謝の気持ちも、……この胸を今も熱く燃やす『想い』も。

 何も、まだ何一つ。

 

 だからこそ、行かねばならない。

 ルフレを、救う為に、この手に取り戻す為に。

 

 ルフレが何者であっても、ルキナには関係ない。

 何故ならば、ルキナにとってルフレがこの世界で一番大切で愛おしい存在である事は、何があっても変わらないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第九話『心の在処』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 遺跡を後にして霧煙る山を下りたルキナは、程無くして『竜』を探し続けていたクロム達を見付けた。

 死んだものだとばかり思っていたルキナが、何一つ変わらない姿で現れた事に一同は騒然となっていたが。

 幻術でも偽物でも無い事をその場で証明してみせた途端。

 クロムは憑き物が落ちたかの様に、涙を滂沱と流しながら、ルキナを力強く抱き締めて。娘が確かに生きている事を実感して、誰に憚る事も無く号泣した。

 

 そんなクロムに、ルキナがこれまでの経緯を手短に掻い摘んで説明していくと。自分が斬り殺そうとした『竜』が他ならぬ娘自身であった事を漸く悟ったクロムは、後悔の余りに自らの腕を斬り落とそうとまでしたので一時大騒ぎになった。

 が、ルキナ自身、父からの贖罪など欠片も求めていない事もあってその場は何とか収まって。

 クロム自身はまだ混乱と後悔と過去の自分への怒りの渦中の中にあった様ではあるが、何とか和解する事が出来た。

 ルキナにとっては、殺されかけた事すら今は些事だったのだ。

 蘇ろうとしている邪竜ギムレーの事、そしてギムレーでありながらも『人間』として生き『人間』としての心を持つルフレの事。そんな彼を攫い、邪竜ギムレーとして復活を果たそうとしている『影』の事……。

 それらを説明していくと、流石に情報量が多過ぎたのかクロムは困惑していたが。チキから……そしてルフレから託された『蒼炎』を示すとその眼に真剣さが宿る。

 かつてイーリスに在った頃の『炎の台座』と『白炎』を見た事があるクロムは、ルキナの持つ『蒼炎』が間違いなく『白炎』と同質のものである事が分かったのだろう。

 

 とにかく今は、邪竜ギムレーの復活を……ルフレが『影』に喰われて邪竜に成り果てる事を防がなくてはならない。

 その為には、『神竜の巫女』であるチキの協力も仰がねばならないし、聖王であるクロムの力も必要だ。

 クロムは、自分も出逢った事のあるあの歳若い男が、彼の伝説の邪竜ギムレーの現身であった事に驚きを隠せず、また半信半疑であるようだったけれども。だがルキナが説明と説得を繰り返す事でそれを理解し、更には娘の恩人であるルフレを助ける事に全面的に賛成してくれた。

 本人の意識や願いはどうであれ、ギムレーである事には変わりがないルフレを、殺すのではなく「助ける」、と考えて貰える様にクロムを説得するのが一番大変だろうとルキナは内心思っていたので、クロムがあまりにもあっさりとそれを了承した事に正直拍子抜けする程に驚いた。

 ……しかし、クロムとしては、ギムレーである事など関係無くなる程に、それだけルフレへの感謝の念が深いという事なのだろう。危うく自分が斬り殺してしまう所だった娘を二度にも渡って救ってくれた恩は、彼のその本性が『人間』ではなく……邪竜と恐れられ語り継がれるギムレーであるのだとしても、僅か程もクロムにとっては揺るがぬものであったのだ。

 

 クロムの理解と協力の確約を得られたルキナは、直ぐ様『神竜の巫女』であるチキの元へと向かった。

 突然の再訪ではあったが、チキは快くルキナ達を迎え入れてくれて、ルキナの話を真摯に聞いてくれた。

『影』の出現とほぼ時を同じくして高まったギムレーの力を、『真実の泉』から離れた『ミラの大樹』の上でも感じたらしい。

 そして今、そのギムレーの力は、海を越えた先……恐らくはぺレジアのある方向から感じているとも、チキは言う。

 ルフレの正体を知ったチキは、彼への哀れみの様な感情と共にそれに納得と理解を示した。

 ……ルフレを『影』の手から救い出した後でどうすればいいのか、その答えはまだ分からない。

 チキ曰く、神竜の力を以てしても、ルフレがギムレーである事自体は変える事もどうする事も出来ぬものであるらしい。

 ただ……かつての伝説の様な世界を滅ぼす邪竜に変わってしまう事は防げるかもしれないと、チキは言った。

 ルキナにとってはそれだけで十分であったし、今は一刻も早くルフレを救出する事の方が大切であった。

 

『影』の言った『竜の祭壇』とは、ぺレジアの砂漠の只中にある神殿で……それは、かつての邪竜ギムレーの、その亡骸の心臓があった場所に建てられたものであるらしい。

 その詳しい場所はチキにも分からないらしいが……まああのギムレーの骨を追っていけば、凡その位置の見当は付く。

 この世で最も邪竜ギムレーの影響が強い場所であると言う其処に、恐らく今、ルフレは囚われているのだろう。

 

 ……今のルフレがどの様な状況に置かれているのか、どの様な状態であるのかは、ルキナには分からない。

 ……巨大な竜の姿が現れたと言う話は聞かないから、まだ『影』にその心を喰われた訳では無いと思うけれども。

 ……しかし、それが何時まで持つのかは誰にも分からない。

 明日かもしれない、明後日かもしれない、一か月後・一年後かもしれない。ひっくり返された砂時計に後何れ程の時の砂が残されているのか誰にも分からないのは、酷く恐ろしい事だ。

 首尾よく『竜の祭壇』に辿り着いて……しかしそこに居る彼が最早ルキナの愛したルフレではなくなってしまっていたら。

 自分は、どうするのだろう。彼に何をしてやれるのだろう。

 分からない。考えたくない。それが現実になるのが恐ろしい。

 ……それでも、「その時」が来る可能性にも、覚悟を決めておかなければならないのだろう。

 

 だからこそ、ルキナはその時が訪れるまでは、そしてそれをこの目で確かめるまでは、絶対にルフレを諦めない。

 その本性が『人間』でなくても良い、どんな姿でも良い。

 それこそ、辿り着いたその時に『人間』の姿ではなくなってしまっていたって良い。

 どんな姿であろうとも、そこにある心があの愛しい彼のモノであるのならば……優しく温かな『人間』の彼のモノならば。

 ルキナには、最後まで愛し通せる『覚悟』がある。

 ……ルフレは『竜』の姿でもルキナを愛してくれていた。

 言葉が交わせなくても、自分と掛け離れた姿であろうとも。

 相手を『愛』する事に、そんな事など何も関係無いのだ。

 

『愛する覚悟』を決める事が出来ると言う事は、ある意味では「救い」に近しいものであった。

 諦めも、絶望も、その全てを置き去りにしてただそれだけを目指して走り続けられるのだから。

 傷付く痛みよりも、もっと激しく熱い『想い』が、この足を、この心を突き動かす。

 揺らめく様に微かに残る『希望』へと、躊躇わずに全力で走り出していける、その『希望』を最後まで信じられる。

 ルフレの不安と恐怖を拭い去る為に、あの手を掴む為に。

 愛しい人の為に、己が出来る全てを賭けられる。

 

 遠く海の彼方の、そこに在る筈の『竜の祭壇』の方向を向いて、ルキナは決意と共に囁いた。

 

 

「待っていて下さい、ルフレさん。必ず、迎えに行きます」

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 意識が戻った時、ルフレは光の射さぬ薄暗い部屋に、手を縛られて転がされていた。

 頼りなく揺れる小さな灯火だけが唯一の光源で。

 大きな獣の胎の中に居るかの様な気味の悪い居心地の悪さを感じるのに、何故か酷く懐かしくも感じる。

 だが、その懐かしさに反して全く見覚えの無い場所だった。

 

 ── ここは一体何処だ……。自分は一体、直前まで何を……。

 

 何故か腹の辺りが痛むが、手を縛られている為手で押さえる事も出来ず。困惑しながら周囲を見回そうとしたその時。

 

「……漸く目覚めたか」

 

 薄暗い部屋の中。その薄暗がりに溶け込むかの様に、そこに何者かが佇んでいた。

 その姿を認識した瞬間、ルフレの頭は割れる様に痛む。

 

「お前は……! ルキナは何処だ……! まさか……」

 

『真実の泉』で現れた、ルフレの『真なる影』を名乗る存在。

 ルフレの本性……邪竜ギムレーと呼ばれる怪物の心を持った、ルフレ自身だと、この者は自分をそう称した。

『人間』である筈の自分が、伝説に謳われる邪竜そのものであるだなんて到底信じられないけれども……。

 だが、『影』に無理矢理に見せられた『真実の泉』に映った自分の顔は……『化け物』としか呼べぬ『何か』であった。

 三対の紅い眼、前方に長く伸びた一対の角、暗紫色の鱗に覆われた異形の相貌……。

 自分の姿とは似ても似つかぬ……醜く悍ましい『化け物』のそれを、『真実の泉』はルフレの『真実』であると示した。

 到底受け入れ難い筈のそれを……心の何処かでは、静かに受け止めてしまっていて。だが、それを認められずに拒絶した。

 すると『影』は、ルフレの心を折る為にルキナを甚振ろうとして、その首を絞めて……。

 そこから先の記憶は酷く曖昧だ。

 この場にルキナが見当たらない事が良い事なのか悪い事なのかすらも分からない。

 ……もし、ルキナが殺されていたり、酷く傷付けられていたりしていたその時は……。

 最悪の事態を考えた瞬間、酷く凶暴で破壊的な衝動が激しい嵐の様にルフレの心を支配する。

 ルフレの様子を黙って観察していた『影』は、ルフレの言葉に僅かに肩を竦めた。

 

「やれやれ……『人間ごっこ』で腑抜けているだけかと思ったら、本性の部分もしっかり残っているじゃないか。

 この分なら、お前を完全に喰らってもギムレーとして蘇るのに支障は無さそうだね。まあ安心したよ。

 さて、ルキナの事なら……『僕』としては残念な事に、彼女にはまだ「何も」していないさ。

 彼女はまだ『人間』だよ。ここには居ないけどね。

 全く……面倒な事をしてくれものだ。

 あの瞬間に『蒼炎』を彼女に託したんだろう? 

『蒼炎』さえ揃えば『覚醒の儀』を行えたと言うのに……。

 だがまあ……彼女はここに自らの意志で来るだろうけども。

 他ならぬお前を助ける為にね。

 ……全く、美しい『愛』じゃないか。反吐が出る」

 

 そう吐き捨てた『影』は、にまにまと嗤いながらルフレの髪を乱暴に鷲掴みにして、その耳元で囁く様に言う。

 

「この邪竜の領域とも呼べる場所にのこのことやって来て無事でいられる訳が無いのにねぇ……。

『愛』なんて無価値な衝動のままに生きる事は全く愚かだ。

 まあ、『僕』が生まれたこの場所で、彼女を歓待するのも悪くは無いさ。光一つ届かない闇の如き、とびきりの絶望を贈ろう。

 お前も愉しみだろう? 

 お前の望み通り、彼女の全てを……意志も魂も尊厳も何もかもをお前のモノに出来るんだから」

 

「僕は……そんな事は絶対に望んでいない……! 

 僕はただ……ルキナと共に生きたいだけだ」

 

『影』の悍ましい言葉を、身動きが取れないながらもルフレは心から否定する。

 ルキナを自分のモノにしたいと望んだ事など一度も無い。

 ルキナは……彼女の全ては、彼女自身のモノだ。

 それを、彼女以外が力尽くで踏み躙って良い訳は無い。

 だが、『影』はそんなルフレの言葉をせせら笑った。

 

「共に生きる? 彼女と? お前が?? 

 くっふふふっ、あぁ可笑しいねぇ、馬鹿も休み休み言いなよ。

 神竜の下僕のあの娘が、邪竜たるお前と共に生きるなんて! 

 お前が言う所の『化け物』を本性に持つ者と、『人間』の彼女が、共に生きられる訳は無いだろうに! 

 お前の本当の姿を知れば、彼女とてお前を拒絶するさ! 

 お前たちが言う『愛』なんて、所詮はその程度の薄っぺらいものでしかない。無意味で無価値なものだ。

 ギムレーであるお前が、共に生きたいとそう心から『願う』と言う事は、即ち彼女の全てを縛り付けて己が物として、彼女を邪竜の眷属とするしかないのさ! 

 そんな事も理解出来無いとは……全く以て愚かだね!」

 

 大笑いしながらルフレの身体を揺さぶってくる『影』のその言葉に……ルフレは何も言い返せなかった。

 

 ルフレ自身も……、共に生きると言う『願い』は到底叶わないと、そう思っていたから……。

 王女と平民と言う身分の差なんて処の問題では無くて。

 邪竜と、それを討つ使命を負う一族の姫君。

『人間』に非ざる悍ましい『化け物』と、『人間』。

 いっそ、ルキナが【呪い】によってその身を窶していた様な美しい『竜』ならまだマシだったかもしれないが。

 己の本性であると示されたそれは、まさに怪物と……『化け物』としか呼べない様な……見るからに邪悪なもので。

 こんな『化け物』が『人間』と共に生きる事なんて出来はしないと……あの瞬間にルフレは絶望と共に諦めを感じていた。

 ルキナだって……あの姿を見れば、きっとルフレを拒絶する。

 あの眼差しが、恐怖と嫌悪感と拒絶に染まる瞬間を想像するだけで……いっそ死にたくなってしまう。

 

 ……だけれども、やはり『影』の言葉に頷く訳にはいかない。

 例え、自分の細やかな……今となっては大き過ぎる『願い』が叶わなくても、それはもう良いのだ。

 共に生きられなくても、二度と逢えなくても。それで良い。

 ただ、同じ空の下の何処かにルキナが居てくれるのなら。

 遥か遠い場所でも、そこでルキナが『幸せ』になってくれるなら、愛しい人が心から笑っていてくれるなら。

 そしてそれを信じて、遠く離れた場所で、二度とは逢えぬ愛しい人の『幸せ』を祈り願えるなら、もうそれだけで良いのだ。

 ルキナの自由を奪ってまで、彼女が彼女として思うがまま望むがままに生きる権利を奪ってまで。自分の『願い』を押し付けたいとは思わないし……それを是とするのはルフレにとっては『愛』ではなく『悪』そのものであった。

 

 自分の本性とも呼べるそれが『悪』と示されるものであったとしても、どう生きるか何を成すかは自分の意志で決められる。

 だからこそ己が『人間』と共に生きる事は叶わない『化け物』であるのだとしても、愛した『人間』に殺される未来が待つとしても、ルフレは最後まで『人間』としての自分を貫き通す。

 そして、『化け物』としてルキナに討たれる未来が待ってるのだとしても、それを受け入れるつもりであった。

 例えルキナに『化け物』だと拒絶されたとしても、それを決して恨まない、怒りなど感じない、ただただ受け入れる。

 ルフレにとって、『愛』とはそう言うものだった。

 そして、それ程に『愛』する者がこの世に存在していると言う事は、限りない喜びであり幸福であった。

 

 ……『影』は、『愛』を無意味だ無価値だと嗤う。

 ……『影』の言う通り、『影』こそが邪竜ギムレーの本来在るべきであった心や人格……その在り方であると言うのならば。

 今のルフレは、ギムレー自身にも理解不可能な程に得体の知れない気味の悪い価値観と意志を獲得しているのだろう。

 だからこそ『影』はルフレを排除し、その心を屈服させて、ギムレーとして本来在るべき在り方に戻ろうとしている、

 ……その為に、ルフレの心を折る為ならば、『影』は何でもしようとするだろう。……それこそ、ルキナに手を出してでも。

 

 ……ルフレは、ルキナに逃げて欲しかった。

『蒼炎』を託したのは、『蒼炎』に執着している『影』に嫌な予感を覚えたのと、あれは本来ルキナに託された物だからで。

 決して、それを手に死地に飛び込んできて欲しいなんて、欠片も願ってはいなかったのだ。

『真実の泉』に独り置き去りにされたのだとしても、近くには彼女の父親である聖王が居るのだし、『人間』に戻れた状態ならば聖王も彼女の言葉に耳を貸すだろう。

 ギムレーの復活を阻止する為に戦う必要があるのだとしても、それは彼女の役目では無い筈だ。

『影』の手の届かない場所で、平和に生きて欲しかったのだ。

 

 ……だけれども。

 ルフレを救い出す為に、先陣を切ってでもこの闇の中にルキナは飛び込んで来てしまうと。そんな確信めいた予感がある。

 だが、それを待ち構える『影』が何の策も弄さぬ筈は無く。

 とても危険な目に遭うだろう、もしかしたら酷く傷付く事になるのかもしれない……。それを想像するのは酷く恐ろしい。

 

 そして。……「助けに来ないでくれ」とそう願う一方で。

 もし、この深い闇の底にまで、あの蒼い輝きが射し込んでくれるのならば……、と。そんな事も考えてしまう。

 そんな矛盾した思考を抱えつつも、ルフレは今唯一ルキナの為に出来る事を……最後まで足掻き続けようと決意する。

 

 何があっても、何をされても。

 決して『影』には屈しないと、この身を邪竜ギムレーとしての本性のそれに明け渡してはなるものかと。

 邪竜ギムレーの復活が、例え僅かな間でも遅れるように。

 ルフレは、ルキナの存在を心の支えにして。

『影』に抗うのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 行きは空を飛んで渡った海を、今度は船で渡っていく。

 目的の港も、海流の関係でぺレジアではなくフェリアの方だ。

 ぺレジアの『竜の祭壇』に向かうにしても、フェリアに辿り着いた後に一度イーリスにまで戻る必要がある為に、『竜の祭壇』に辿り着くまでにどれ程の時間が掛かるのか……。

 一刻の猶予も無いかもしれない中では、どうにもならないと言うのに気持ちばかりが焦って空回りし眠れない夜がある。

 そんな時は、気持ちを落ち着かせる為に、甲板に出て夜空を見上げる事にしている。遮るものが何もない満天の星空を見ていると、ルフレと共に旅をしていた時に見上げた夜空を思い出し、彼が直ぐ近くに居てくれているかの様にすら思えて。

 不安で仕方の無い夜も、少しすれば眠れる様になるのだ。

 

 ルフレが『影』に攫われてから、もう二週間が過ぎた。

 上手く海流に乗り風を掴まえられたらしい船は、予定よりも遥かに早く進んでいて、あと一週間もしない内にフェリアに辿り着けるらしい。

 だがその後の陸路にかかる時間を思うと、気はどうしても焦ってしまうし。この背にまだ翼があれば、真っ直ぐ彼の元へ向かえるのに……だなんて事も考えてしまう。

 

 甲板に固定されていた樽に腰掛けて夜空を見上げて重く溜息を吐いていると、横の樽に誰かが静かに座った。

 誰だろうと、横を向くと。そこに居たのは父であった。

 

「こんな夜中に甲板に出ていると風邪を引くぞ。

 夜空を見上げるにしても、もう少し暖かい格好をしてくれ」

 

 そう言いながら、父は温かな毛布をルキナに手渡した。

 それに礼を言って、ルキナはそれを羽織る様に被った。

 冷えた夜の海風で少し冷たくなっていた身体が、じんわりと温もりを取り戻し始めた。

 

「すみません、お父様……気を遣わせてしまって……」

 

「いや良い、気にするな。俺が勝手にした事だ。

 ……せめてこういう事だけでも、させてくれ」

 

 父はルキナを見て慚愧の念に絶えないと、苦い顔をする。

 ……父の中では、未だに自分が娘を斬り殺しかけた事実は消化しきれてないのだ。ルキナがそれを最初から赦していても。

 それは仕方の無い事であるのかもしれないが……。その心に刺さった棘を、どうしてやれば良いのかルキナには分からない。

 ルキナとしては、ルフレを救い出す事に協力してくれるだけで十分以上にその贖罪に当たると思うのだけれども……。

 

「お父様……その、本当にもう良いのですよ。

 あれは、不幸な行き違いで……お父様に非がある事では……」

 

 確かにこの心は深く傷付いたし、一度は死線を彷徨いもしたが……その結果としてルキナはルフレに出逢えた。

 それが、『影』が言った様に、無意識の内に自らの身体に絡み付いたギムレーの【力】に引き寄せられた結果だとしても。

 どんな因果があったにせよルキナがルフレに出逢えたと言う事実だけがそこに在り、そしてルキナにはそれで十分なのだ。

 それに、ルキナが言葉を話せなかった状態で、あの状況下にあってそれを誤解するなと言うのは暴論である。

 あれは、誰にとっても仕方が無かった事なのだ。

 

「いや、最初は……仕方が無い事だったのかもしれない。

 だが、二度目の……『真実の泉』に向かう途中であったお前たちを襲ったのは、何の言い訳も出来ない事だ……。

 あの男……ルフレ、だったか。彼の言葉に、俺は耳を貸さなかった。あの『竜』はお前なのだと、そう自分の命乞いをするでも無く、必死に言ってくれた彼の言葉を……。

 俺は、戯言だと……一蹴して。そして、お前を斬った。

 ……彼がその身を挺してまでお前を庇わなければ、俺が振るったファルシオンは、お前の命を絶っていた……。

 俺は、……憎しみと怒りに囚われる余りに、お前を切り捨ててしまっていたんだ……。

 ……お前の事を一番に思うのなら、彼の言葉の真意をまず確かめるべきだった。殺してしまっては、何も確かめようがない。

 それなのに、俺は……」

 

 父は、深い後悔に沈み、その心を自ら苛む様であった。

 ……その後悔を、自らを責め苛むその心の束縛を、ルキナはどうする事も出来ない。

 ……だが、そんな後悔も懺悔も、ルキナは欠片も望んでいないのだ。そしてそれは、ルフレもそうであろう。

 

「私は……お父様を責めません。でも、お父様がそれを望まないと言うのであれば……お父様の行いを赦さない事にします。

 ……『赦される』事が、決して幸いな事とは限らない事を、私も知っていますから……。

 ……ルフレさんは……、お父様に斬られても、お父様を決して恨んでも責めてもいませんでした……。

 あの場で動けなかった私の事も、何一つ責めず。ただ……。

 親が子を殺す様な悲劇にならなくて良かった、と。

 ただそれだけを喜んでいたんです……。

 ……責められないと言う事は、決して楽な事では無い……。

 ……大切なモノを傷付けてしまった時、その原因になった時。

 自分を責めるその苦しみの出口を、哀しみの行き先を、『償い』の形で昇華する手段すら喪ってしまうのだから……。

 ……だから、お父様。

 私に、ルフレさんに、償いたいと言うのであれば。

 どうか……ルフレさんを助け出す為に力になって下さい。

 それこそが、『償い』になるのではないでしょうか」

 

 誰も決して過去には戻れない。起きてしまった事、成してしまった事を変える事は誰にも出来ない。

 だからこそ、後悔を抱えてでも前へ前へと歩き続けなければならないのだし、己の罪はこれからの未来でその帳尻を合わせなければならないのだ。

 そうしてその先で漸く、己の罪を自分自身が赦せるのだろう。

 だからこそ、最初から咎めてもいないし責めても居ないのだけれども。ルキナは父を『赦さない』事に決めた。

 父が赦されるのは、彼自身が自分を『赦した』その時だろう。

 それが何時の事になるのかは、ルキナには分からない。

 今の父自身にも分からない事であろう。

 己を責め苛む者が己を『赦す』と言う事は、それ程に難しい。

 だからこそ、父の心を縛る枷が少しでも緩む様に、ルキナは本心では求めていない『償い』を求めた。

 

 ルキナの言葉に驚いた様に目を僅かに見開いた父は、少ししてから何処か感慨深げな……そんな苦笑を浮かべる。

 そして、ルキナの頭を優しくも力強い手で撫でた。

 

「……何時の間にか、強くなったな、ルキナは。

 …………ほんの少し前までは、片手で抱き上げてやれる位に小さかった気もするのに……。時が経つのは早いものだな」

 

 感慨深気にそう言う父に、ルキナは少し気恥ずかしくなる。

 

「も、もう、お父様……。片手でなんて……そんなに小さい頃なんて、もう十年近くも昔の話ですよ?」

 

「そうだったか? だが……本当に大きくなったな。

 俺が見守ってやらねばと……ずっとそう思っていた。

 産まれたばかりのお前を抱き上げたのが、ほんの少し前の事だった様な気すらしているのに。何時の間にか、お前はこんなにも確りと、自らの意志で決め、そして進む強さを持っている。

 ……子供の成長とは、斯くも目覚ましいものだな。

 ……やはり、『恋』をしているのか? あの男に」

 

『恋』と、父に言われたルキナは頬を赤らめる。

 それを父に指摘されるのは、何とも面映ゆいものであった。

 だが、それを否定する事は当然出来なくて。

 コクリと、そう無言ながらに小さく頷くと。

 

「はあ……」と、父はそう大きく溜息を吐き、ぐしゃぐしゃと自身の髪を右手で掻き乱した。

 

「そうか……『恋』か……。

 ルキナにはまだ早いと……そう思っていたのだがな……。

 いや、誰かに『恋』をする事に早いも遅いも無いか……。

 しかしそうなると、ルキナに相応しいか見定める必要が……。

 だが、そもそも彼がルキナの命を救ってくれたのだし……」

 

 ブツブツと、ルキナには聞き取れない声で何かを呟く父の顔はひどく真剣なモノで。一体どうしたのかと戸惑ってしまう。

 

「あ、あの……? お父様……?」

 

「いや、大丈夫だルキナ。少し、これからの事を考えていてな。

 しかしルキナが『恋』をするとは……本当に大きくなったな。

 ……大切な誰かを、心から『愛』する誰かを見付けられた事は、……間違いなく、とても素晴らしい事だ。

『愛』する事で傷付く事はあるだろう。

『恋』が必ず叶うとも限らない。

 ……それでも、共に生きたいと思える誰かに巡り逢えた事は、何よりもの『幸い』になる。……俺がそうだった様に、な。

 だから、その『想い』を大切にするんだ。そこに希望は在る」

 

 優しい顔でそう言った父に、ルキナは確りと頷いた。

 

「はい、お父様……! 

 私、絶対にルフレさんを諦めません……! 必ず、助けます!」

 

「そうだ、その意気だ。

 ……安心しろ、ルキナ。

『神竜の巫女』殿曰く、昔から、『恋をする女の子は最強』であるらしいからな。お前の『想い』は、きっと届くさ」

 

 そう苦笑する様に言った父に、ルキナもつられて微笑む。

 ギムレー復活の一大事を前にして、『ミラの大樹』を離れてルキナ達と共にやって来てくれたチキは、何かとルキナに優しくしてくれて、悩み事や不安を和らげる手助けをしてくれていた。

 そんな彼女が、度々そう言って励ましてくれていたのを、父も聞いていたのだろう。

 そんな心遣いが、今はとても嬉しかった。

 

 目指す先はまだ遠いが。そこに囚われている彼を思って。

 ルキナは、祈る様にもう一度夜空を見上げるのであった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 邪竜ギムレー……否、その『影』は、苛立ち続けていた。

 これが有象無象の『人間』ども……地を這う虫ケラどもに対する苛立ちであるならば、その場で存分にその者達を殺戮してその鬱憤を晴らせるのではあるけれども。

 その苛立ちの原因がよりにもよって『自分自身』……、『影』としての在り方を考えると、その主たる人格に対してなのだからそうそう簡単にこの苛立ちをぶつける訳にはいかない。

 不愉快甚だしく、全く以て不本意ではあるのだけれども、今の自分……こうして思考し仮初ながらも実体を持つ己は、あの腑抜けた『人間モドキ』になってしまった『自分』の、その『影』でしか無いのだ。あの『人間モドキ』を殺す事は、即ち自分自身の消滅を意味するのだし、そもそも『影』にしか過ぎぬ自分の力では、曲がりなりにも『邪竜ギムレー』であるあの『人間モドキ』の肉体を殺す事は出来ない。

『影』である自分に出来るのは、『人間モドキ』に成り下がったあの人格を精神的に圧し折って、自らが主になる事なのだが。

 それがどうして中々上手くいかないのである。

 

 肉体的な苦痛は可能な限り与えてみたし、精神的な苦痛も勿論与えてきた。『人間』ならとうに廃人になっている。

 だが、あらゆる面で揺さぶりをかけていると言うのに、あの『人間モドキ』は多少揺らぎこそはしても常に耐え続け、ありとあらゆる拷問に屈さずにいる。

 この『竜の祭壇』に連れ去って来てから、そろそろ一カ月半が経とうとしているのに……未だその心は折れない。

『人間モドキ』の心が折れない限り、『影』が主たる人格に戻る事は叶わず、そして『邪竜ギムレー』としての復活も無い。

『人間モドキ』が、『邪竜ギムレー』として蘇る事を頑なに拒否している以上は、不完全な『炎の紋章』で疑似的な『覚醒の儀』を行い力を取り戻す事も難しい。

 

 宝玉が五つ揃った完全なる『炎の紋章』があれば、『人間モドキ』の意志など無関係に『覚醒の儀』を行えただろうが……。

 その最後の一つ……外界から殆ど隔絶された環境かつその警備も最も厳しかったが故に、ギムレー教団の力を以てしても手に入れる事が叶わなかった、『神竜の巫女』が所持していた『蒼炎』は。一度はこの手の内に在ったと言うのに、『人間モドキ』の小癪な浅知恵であの神竜の下僕の末の手に渡っていて。

 この身が『真実の泉』の力を借りて造った仮初のものであり、自身が『影』であるが故に、『影』はあの『人間モドキ』の傍をそう離れる事は出来ず、『蒼炎』を回収しに行く事も難しい。

 精々がこの『竜の祭壇』内を動き回れる位の自由しかない。

 全く以て、全てが不愉快であり、苛立ちばかりが募る。

 

『影』……否、『ルフレ』は、この『竜の祭壇』で生まれた。

 ギムレーの血をその身に取り込んだ者達が、その身に流れるギムレーの血と因子をより濃くより濃くする為に、『人間』の身には気の遠くなる程の時間と執念と悍ましい手技と呪術のその試行錯誤の果てに産み出した存在。

 千年の封印が緩み始めた隙間から抜け出してきたギムレーの魂が、それを収めるに相応しい肉の器に宿った存在。

『人間』の肉体の殻を被りつつも、その中身は全く『人間』とは異なる人に非ざる者、神の現身。

 それが、『ルフレ』と言う存在であった。

 千年の封印が完全に解けた時には、『邪竜ギムレー』として覚醒を果たす事を定められし者。……そうである筈だったのに。

 

『ルフレ』を身籠りそして産んだ女が、まだ乳飲み子であった『ルフレ』を連れて出奔した所から全てが狂い始めた。

 女が放浪の末に辿り着いたのは、あろう事か神竜の力が濃く残る森で……その森に残る力が、『ルフレ』からギムレーとしての記憶も力への自覚も奪い、本来の人格を深く眠らせた。

 ギムレーとしての記憶も無く、ギムレーとしての人格も眠り続けていたが故に真っ新になっていた『ルフレ』は、『人間』としての人格と記憶を積み重ね始め……そうやってギムレーとしての本来の在り方からはどんどんと乖離していった。

 そうして、あの『人間ごっこ』ですっかり頭の中を壊されてしまっている『人間モドキ』が出来上がったと言う訳だ。

 

 女が出奔した理由は『影』には分からない。

 世界を滅ぼす邪竜を自らが産み落としたのだと言う事実に耐えられなかったのか、或いはギムレー教団が中枢に居る信徒に施す洗脳が何らかの要因で解けてしまったのか……。

 何にせよ、そのまま教団に留まり続けていれば、神の現身を産んだ女として何不自由ない生活が約束されていたと思うのだが、女はそれを全て投げ捨てて教団から生涯追われる事を承知の上で出奔したのだ。全く、理解に苦しむ。

 ……まあ、女の出奔を許した教団員たちは、既に処理されているので今更『影』が新たに制裁を加える必要は無い。

 寧ろ、未だ完全には【力】の戻り切らぬ『影』には、幾ら虫ケラ同然の『人間』であろうと、邪竜ギムレーに絶対の忠誠を捧げている教団員達は有用な手駒である為、何の意味も無く徒に消費するのは『影』とて惜しむ。

【力】を取り戻し【竜】として完全に蘇ったその暁には、教団の信徒たちは全員を贄として喰い殺すつもりであるので、今から餌を自ら減らす様な愚かな事をするつもりは無かった。

 

『影』がこうして『竜の祭壇』に帰還するまでに『蒼炎』を手に入れられなかった事に関しては、不問にする事とした。

 どうせ、『蒼炎』はあの聖王の末が持って来るのだ。

『蒼炎』と神竜の力の欠片の気配が、『竜の祭壇』の目と鼻の先にまで近付いてきているのを『影』は既に感知している。

『真実の泉』から『人間』の足でここまでやって来たのだとしたら中々に早い到着だろう。

 それ程までに、聖王の末は『人間モドキ』に執着している。

 だが、この邪竜の領域に飛び込んでくるには、準備も覚悟も足りていなさ過ぎるのではないだろうか。

 聖王の末の気配の他にも、あの鈍に成り下がったファルシオンとその主の気配と、神竜族の娘の気配も感じはするが……。

 その程度の軍勢なら、『影』が出るまでも無く潰してしまえる。

 丁度、こちらにもそれなりに優秀な手駒……確かファウダーとか言ったか……が居るのだ。それに任せてみるのも良い。

 この肉体の「父親」にあたる駒だが、自らが崇める神その物である『ルフレ』……そしてその『影』に絶対服従の意を示し、既に自らの意志で半ば屍兵となる事で死を半ば超越している。

 中々に役立つ手駒として、この一カ月半程の間に『影』はファウダーを使い続けていた。

 ……『竜の祭壇』に訪れる神竜の手の者達の相手はそれで良いとして、やはり問題はあの『人間モドキ』の事であった。

 

 このままでは、『蒼炎』を手に入れて『覚醒の儀』を行ったとしてもどんな支障が出るか分かったものではない。

 どうにかしてその心を折りたいものなのだが……。

 しかし、あの聖王の末をその目の前で徒に甚振るのも危険な行為であった。

『人間モドキ』は聖王の末に強く執着しているが故に、それを傷付ける事は決して赦そうとはしないし、ギムレーとしての本性以上の凶暴性を発揮してあの娘を傷付けた者へ報復するだろう。……例え『影』であっても、その【力】には抗えない。

『本体』と呼ぶべきモノは、あの『人間モドキ』の方なのだ。

 故に、『人間モドキ』にその【力】を行使させない様に、【力】を自覚させない様にした上で、その心を折らねばならない。

 それは中々の難題であった。

『人間モドキ』はあの娘への強い執着……『人間』が『愛』だのと呼ぶそれを心の支えにして、『影』に抗っている。

 そして、その支えを折る事は並大抵の事では叶わない。

 

 いっそ、あの娘が、『人間モドキ』の心を殺してくれれば話は早いのだが……。

 

 そう考えた時、一つの妙案が『影』の脳裏に閃いた。

 そしてそれは検討すればする程、これ以上に無く素晴らしい方法だと思えてくる。

 上手くいけば、『人間モドキ』の心を壊すだけではなく、あの娘にも最高の絶望を与えてやれるだろう……。

 全てのタネを明かし、あの娘の前で真にギムレーとして蘇る瞬間を想像するだけで、これまでの積み重なった苛立ちが全て吹き飛ばされていくかの様だった。

『影』は上機嫌に、『人間モドキ』を閉じ込めてある部屋の扉を開け、中に拘束されたそれを有無を言わさず引き摺り出す。

 手足を拘束され身動きの取れない中でも必死に抵抗する『人間モドキ』を、『影』は『竜の祭壇』の最奥……ギムレーの力が最も強く、『覚醒の儀』を執り行う為の祭壇が設けられているそこまで引き摺って行く。

 そして、祭壇に安置された不完全な『炎の紋章』に手を翳してから、もう片方の手で『人間モドキ』の顔を掴んだ。

 

 

 

「喜びなよ? もう直ぐ彼女がお前を助けに此処に来る。

 全く呆れるよねぇ……こんな場所にのこのこ飛び込んで来るなんて。愚かだ。だが素晴らしい『愛』じゃないか。

 その『愛』に免じて、『僕』はお前を自由にしてやるよ。

 尤も……その姿で、彼女の元に帰れるかは別だけどねぇ……」

 

 

 

『影』の手の下で、不完全な『炎の紋章』の力によって『人間モドキ』の姿は歪んでいく。

 その有様を見て、『影』は愉悦の嘲笑を零すのであった……。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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第十話『魂の証明』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ぺレジアに広がる広大な砂漠のその中心地。

 そこに、『竜の祭壇』と呼ばれる巨大な神殿は在った。

 生きとし生ける者を拒絶し排斥するかの様なその場所に、ルフレは囚われているのだろう……。

 ルキナが神竜の力の系譜の末席に連なる者であるからなのか、『竜の祭壇』からは並々ならぬ悍ましい力が溢れ出ている様にすら感じてしまう。それは父やチキも同じである様であった。

 今尚邪竜の力が色濃く残されていると言うその神殿は、『影』……いや『ルフレ』と言う主が帰還したからなのか、より一層その力を高めている様にすら感じてしまう。

 ……未だ巨大な【竜】の姿は現れない所を見るに、邪竜ギムレーは復活はしていないのだろうけれども……。

 しかし、ルフレが無事であると言う保証がある訳ではない。

『影』に屈していない事を願うが……。あの『影』はあの手この手でルフレの心を折ろうと画策しているだろう。

 

 ……あれからもう一か月半が過ぎてしまった。

 今のルフレがどう言う状態であるのかは、誰も分からない。

 だが、それでもここで躊躇う訳にはいかないのだ。

 フェリアの港に着くなりクロムがイーリスに早馬を飛ばして戦いの準備を整えてくれていたお陰で、最短の日数で十分な装備で『竜の祭壇』に向かう事が出来た。

 無暗にぺレジアを刺激して戦争を起こす訳にはいかないので、ルフレを救出し邪竜ギムレーの復活を阻止する為の戦いであっても率いる事が出来る部隊は極少数の者だけであったけれども、イーリスの精鋭中の精鋭を搔き集めた部隊は、寡兵であれどもまさに一騎当千の実力を持つ。

 が、相対するのは千年以上にも渡りぺレジアの闇の中でその力を蓄え続けてきたギムレー教団の信徒たちだ。

 優れた呪術師や教団兵を多く抱えているその教団の中枢に殴り込みを掛けるのだから、そう言った者達との激突は必至だ。

 それに……ギムレーとしての【力】を振るう『影』が居る以上、油断など出来る筈は無い。

 ルキナ達には【神竜族】としての力を持つチキの助力と、そして竜殺しの力を持つ神竜の牙ファルシオンがあるけれども。

 チキは人々の世に寄り添い生きる為にその力の多くを封じてしまっているし、ファルシオンからは真の力が喪われて久しい。

 ファルシオンに力を蘇らせる為に『覚醒の儀』を行おうにも、『炎の紋章』はこの手には無く。

 何処かへ散逸した四つの宝玉と『炎の台座』を探し出している時間的な余裕も無く、ファルシオンは力を喪ったままである。

 しかし臆する訳にはいかない。

 邪竜ギムレーの復活に一刻の猶予も無いかもしれないのだ。

 今この瞬間にも、僅かに躊躇ったその一瞬の内にでも、ルフレが、ルフレではなくなってしまうかもしれないのだ。

 ならばこそ、ルキナは行かねばならない。

 

 愛しい人の為に、出来る事を成す為に。

 ルフレの手を取り、共に生きる為に。

『愛している』と、伝える為に。

 その為に、ルキナは今此処に居るのだから。

 

 ルキナは剣帯に吊るした剣を撫でた。

 あの時とは違い今の自分には武器がある。

 だが、これで何処まで『影』に対抗出来るのかは未知数だ。

 ……しかしそれでも、ルキナは恐れない。

 ルフレを取り戻せる可能性を、疑わない。

 そして、砂の大地を蹴り上げる様にして。

 ルキナ達は『竜の祭壇』へと突撃した。

 

 

『竜の祭壇』の内部は防衛の為にか複雑な構造をしている様で、中々その奥には辿り着けない様にその中は入り組んでいる。

 そして当然の様にギムレー教団の者達が中で待ち構えていた。

 予めルキナ達が攻め込んでくる事が分かっていたかの様に、教団兵達の準備は万全で、誰もが完全武装して襲ってくる。

 死をも厭わず突撃してくる教団員達は、ルキナ達にとって異質な存在であった。全員が全員、狂った目でギムレーを讃えながら己の命を投げ捨てる様な特攻を繰り返してくる。

 狂信者と言うモノであるのだろうけれども、自らの命を何も顧みない彼らは非常に厄介な敵であった。

 痛みを薬か呪術などで消しているらしく、致命傷を負おうが手足を斬られようが、構わず襲ってくるし武器を握る手を喪ったならその口で獣の様に噛み付いて足止めしようとしてくる。

 教団兵達には地の利があるが故に、あらゆる場所に潜み奇襲をかけてくる。精強なるイーリスの兵達はそれに応戦する為に、また一人また一人と兵達が足止めされていった。

 少しずつ戦力が分断されていく状況の不味さに歯噛みしながらもルキナ達は前に進み続けていく。

 奥へ奥へと誘い込まれている様な気もするが、かといってここで足を止めても挟撃されて数の差に圧し潰されるだけだ。

 

 無人の広間の様な場所に辿り着いた時には、ルキナの他にはクロムとチキしか傍には居なかった。

 教団兵達の雪崩は取り敢えず抜け出せただろうかと、ルキナ達が一旦立ち止まって息を整えていると。

 靴音を高く鳴らして何者かが広間の奥から現れた。

 

「これはこれは……忌々しき神竜に与する者達が何用かな? 

 我等が神の復活を祝しに来たのか、或いは自ら生贄に志願しに来たのか……。まあ良い……。

 もう間も無く、我等が神はその真なる権能を取り戻し、再び伝説の威容を以て蘇る……。

 貴様ら神竜の者達には、等しく滅びが齎されるであろう……」

 

 それは全く見知らぬ男であった。

 部屋が全体的に薄暗いからなのか、血色の悪さが際立つ肌。

 彫りの深さ以上に目付きが鋭過ぎる、凶相とも言える顔立ち。

 教団の中でも高い地位にあるのか、その身に纏う装束やその装飾品は、他の者達とは一線を画する程に上質な物で。

 年の頃は詳しくは分からぬが、クロムよりも上だろう。

 そんな表層的な情報しか分からぬ男であった。

 

「お前は誰だ? 悪いが、ここは通してもらうぞ」

 

 一歩前に出たクロムのその言葉に、男はそれを阻む様に動く。

 そして、大仰な程に芝居がかった口振りで名乗った。

 

「おお……私とした事が、まだ名乗ってはいなかったな。

 私はファウダー。この教団の最高司祭を務める者。

 我が神の忠実なる下僕、死をも超越した使徒である。

 そして、聖王よ。貴様はこの先へ通す訳にはいかぬなぁ。

 我が神の復活を邪魔立てはさせぬ」

 

 男が懐から取り出した魔導書が妖しい紅紫の光を放つ。

 ルキナでも肌で感じられる程に魔導書に集まっているその力から、ファウダーと名乗ったこの男は相当高位の魔道と呪術の使い手である事に間違いは無い。

 すると、クロムとチキがファウダーと相対する様に前に出る。

 

「ルキナ、ここは俺たちに任せてお前は先に行け!」

 

 二人は促す様にルキナを見詰め、ルキナはそれに頷いた。

 

「分かりました、お父様、チキ様! ここはお願いします!」

 

 ファウダーの隙を突く様にしてその横をすり抜け、ルキナは更に奥へと駆けて行く。

 ファウダーはそれを咎めるでも無く、寧ろ愉悦に満ちた表情で見送っていたのだが、振り返る事も無く駆けて行ったルキナがそれを知る術はない。

 だが、クロムは当然それを咎めた。

 

「その顔……何を企んでいる」

 

「なに……これで我等が神の復活は確定したと思うとな。

 貴様の娘が、我等が神の復活の最後の鍵となるのだ。

 ……自らが、最後の一押しをしてしまったと悟った時の、あの娘の顔を……想像するだけで愉快になると言うもの……。

 その絶望も等しく我等が神の糧になると思えば……、貴様らは素晴らしい供物を我等が神の御前に態々運んでくれたものだと、そう思ってな。嗤いを抑えきれぬのよ」

 

 強力な魔法を行使しながら愉快そうにファウダーは嗤う。

 飛んで来る闇の炎を剣で切り裂き、空を切り裂いて走る雷光を避けながら、クロムは叫んだ。

 

「ルキナがギムレーの復活の鍵になるだと……!? 

 それは一体どう言う事だ!」

 

「どうもこうも無い。言葉通りの意味だ。

 我等が神のその現身に宿った『人間』としての心。

 ああ、『ルフレ』などとあの女は名付けておったか……。

 それが今も、小癪にも神としての意識に抗い我等が神の復活を妨げておるのだ。ギムレーの血を継ぐ者と言えど我等如きの下賤な『人間』の血がその身体に混じってしまったからか……。

『人間』としての心は存外にしぶとくてな……中でも、貴様の娘に並々ならぬ執着を抱き、それを心の支えとしている。

 ……だが、他ならぬあの娘にその執着を裏切られた時、支えにしていたモノを一気に失い、その折れた心は我等が神の心に呑み込まれると言う訳だ。くくく……愉しみだろう?」

 

 全てが崩壊するその時がもう間近に迫っている事を感じ、ファウダーはニヤリと嗤うのであった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 薄気味悪い仄かな紫炎が灯る燭台だけが照らす、まるで何かの胎の中にいるかの様な……そんな息苦しさに似た不快感のある昏い通路を、ルキナは必死に駆けて行く。

 この先にルフレが居ると言う保証は無い。

 だが、己の直感は、確かにこの薄闇の先を示していた。

 

 ファウダーが最後の教団兵だったのか、薄暗い通路でルキナを阻む者は居ない。

 だが、進めば進む程に、息苦しい空気の重さは増していく。

 この先に尋常ならざる強大で危険な存在が居る事を、ルキナの本能が訴えているかの様であった。

 だが、それに臆して足を止める訳にはいかない。

 長い長い通路を駆け続けていると、ふと遠くに揺らめく明かりが見えた。この通路の出口だろうか。

 その時。

 

 

『━━━━ッッッ!!』

 

 

 まるで大地が揺れ動いたかと錯覚する程の。

『竜の祭壇』全体を震わせる程の怒号にも似た咆哮が響いた。

 大太鼓を何百と同時に叩いたかの様な、何百頭の飛竜が一斉に吼えた様な、この世に存在する音では表現し難いその音は、通路の奥、ルキナが向う先から響いてくる。

 まさか、もう邪竜ギムレーが復活してしまったのか、と。

 焦る心のままに一気に出口へと飛び出したルキナは。

 奥に何かの祭壇が設けられている大広間へと出た。

 ここが『竜の祭壇』の最奥であり中心であると、直感が囁く。

 

 そして、祭祀場であろうその広間の中央に。

 ルキナが探し求めていた「ルフレ」の姿と。

 異形の『化け物』の姿があった。

 

『異形』の手足などの形は『人間』の身体のものである様に見えるのに、その首から上は異様としか言えないものであった。

 三対の紅い眼、前方に長く伸びた一対の角……暗紫色の鱗に覆われた異形の【竜】の頭部が、人間の身体の上に載っている。

 それはまさに悪夢の中の『化け物』であるかの様であった。

 その身体に生えた尾よりも、その頭部が異質に過ぎる。

 ルフレと同じ服を身に纏っているからこそ、その『異形』の異質さは更に際立つ様でさえあった。

 感情の読めない相貌でありながらも、その三対の紅い眼が爛々と輝き、その喉からは竜の憤怒に染まった唸り声が零れ続けている為に、『異形』が怒り狂っている事をルキナは悟る。

『異形』の尾は、怒りをそこにぶつける様に石畳を叩いてはそこに罅を走らせていた。

 

 そして、そんな『異形』に、「ルフレ」は細身の剣だけを手にして対峙している。

 既にその身はボロボロで、『異形』によって負わされたのか、幾つもの生々しい傷がその身には刻まれていた。

 

 ルキナが状況を呑み込めず、一瞬固まってしまったその瞬間。

 

『異形』は、獣が獲物を狩るが如く、「ルフレ」に飛び掛かり、押し倒した「ルフレ」の右肩にその異形の大顎で喰らい付き、腕ごと咬み千切ろうとして勢いよくその牙を立てた。

 腕が裂けていく様な、不吉で嫌な音と共に、「ルフレ」は苦悶に満ちた悲鳴を上げる。

 

 

「ルフレさん!!」

 

 

 ルキナが思わず上げたその悲鳴の様な声に、何故か。

『異形』が「ルフレ」を拘束する力は弱まった。

 その隙に、「ルフレ」は『異形』の身体を蹴り飛ばす様にしてその拘束から抜け出し、空かさず持っていた剣で『異形』の身体を床に縫い留める様に、その腹に深く突き立てる。

 

 人間には聞き取れない、獣の咆哮を上げて『異形』はその剣を抜こうとするが、姿勢が悪い事と床深くまで剣が突き刺さっている為に中々それを抜く事が出来ない様だった。

 その隙に、「ルフレ」がルキナの方へと駆け寄ってくる。

 

「良かった、ルキナ……。無事だったんだね。

 有難う、僕を……助けに来てくれたんだね……。

 君が声を上げてくれたお陰で、『影』の意識が反れて、何とか助かったよ……、本当に、有難う……」

 

 そう言いながら、「ルフレ」はルキナの方へと手を伸ばす。

 それを見た『異形』は鋭い咆哮と共に益々暴れるのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナが『竜の祭壇』の最奥に辿り着いた瞬間から、時は少し巻き戻る。

 

 度重なる苛烈な『影』による拷問によって、ルフレの心身は既に限界近くに達していた。

 幾度身を切り刻まれたか、手足をもがれたか、もう数えていないので分からない……。

 ……だがどれ程の拷問を受けようが、この身に刻まれた傷はどんな深いモノであろうとも時が経てば治ってしまうし、千切られた手足すらくっ付いてしまう……。この身体が、姿形こそ『人間』のものであっても、その中身は全く違う物であるのだと……その度に嫌と言う程に突き付けられてきた。

 自分は『人間』ではないのだと、そう嫌と言う程に思い知らされてはきたけれど。それでも、ルフレは折れていなかった。

 

 もし自分が屈してしまえば、その時には『影』がこの身を完全に掌握し、邪竜ギムレーが蘇ってしまう。

 そうなれば、ルキナがどうなるか分からない……。

 ……『影』は、ルフレが抱く『愛』とは全く別の方向性の執着をルキナに懐いていて……。

 それが故に、『影』が邪竜ギムレーとして蘇った時、ルキナに何をしようとするのか考えるだけで恐ろしい。

 ……『影』が以前に言っていた様に再びルキナを『竜』に変えようとしてしまうのかもしれないし、あるいはもっと別の……『怪物』の姿に変えてしまうのかもしれない。

 ……『影』は、姿を歪められて苦しむルキナのその姿が、大層好きだったようだから、そうなる可能性は十分にある。

 そうでなくとも、無理矢理に邪竜の眷属にされてしまう可能性は極めて高いだろう。

 ……そんな事をルキナが喜ぶとは、ルフレには例え狂っていても全く思えないし、当然ながらそこにルキナの『幸せ』などありはしないだろう。

 

 ルキナの『幸せ』は、邪竜が齎そうとする滅びの果ての静寂の世界にではなく、神竜が見守るこの命溢れる世界にこそ在る。

 それを、壊す訳にはいかない、守らなくてはならない。

『影』の歪んだ執着から、ルキナを守れるのはルフレだけだ。

 ……そんな思いが、心身ともに傷付き果てていたルフレの心を寸での所で保たせていた。

 

 しかし、四肢を強固に戒められ、既に体力的にも限界が近かったルフレには、囚われの身から抜け出す事は難しく。

 ルフレに出来るのはただ耐え忍ぶ事のみでしかなくて。

 だからこそ、『影』に有無を言わさずに乱暴に何処かに引き摺られて行った時も、抵抗らしい抵抗は出来なかった。

 

『影』に引き摺られて辿り着いた其処は、この薄暗い領域の中心であるかの様な、想像を絶する程の強い【力】が其処を中心に渦巻き集まっているのを肌で感じる様な、そんな酷く不吉で禍々しい気配を放つ祭壇の前であった。

 その祭壇には、銀に輝く盾の様なモノに、緋・碧・白・黒に各々輝く宝玉が嵌め込まれたモノが鎮座していて。

 ルフレはそれを何処か本能的な部分で、『炎の紋章』だと感じていた。ここに『蒼炎』が揃っていれば、正しく『炎の紋章』は完成するのであろう……。

 ……ただ、どうしてその【神竜】の至宝とも言えるであろうそれがここにあるのかは、ルフレには分からなかった。

『影』が『蒼炎』に拘っていたのを考えるに、『影』……いやルフレが、ギムレーとして真の【力】を取り戻す為には、『炎の紋章』が必要なのだろうか……。

 そんな事を考えていると、『影』がルフレの顔を掴んでくる。

 万力の様な力で掴まれ、『影』の指の力だけで顔の皮が剥ぎ取られてしまいそうな予感すら感じたルフレは、何とかその指から逃れようと藻掻くが、手足を縛られていてどうにもならない。

 そんなルフレを嘲笑う様に『影』はその口を醜く歪め、もう片方の手を未完成の『炎の紋章』に掲げる。

 

 

「喜びなよ? もう直ぐ彼女がお前を助けに此処に来る。

 全く呆れるよねぇ……こんな場所にのこのこ飛び込んで来るなんて。愚かだ。だが素晴らしい『愛』じゃないか。

 その『愛』に免じて、『僕』はお前を自由にしてやるよ。

 尤も……その姿で、彼女の元に帰れるかは別だけどねぇ……」

 

 

 その言葉が耳に届くや否や、『影』に掴まれた顔が今まで生きてきた中でも未だ感じた事が無い様な、まるで高熱で顔自体が爛れ融け落ちていくかの様な、激しい痛みに襲われた。

 その痛みは顔から首元へ、そして背中へと抜けていく。

 燃え滾る踏鞴場の融けた鉄の中に落とされたかの様な、気が狂いそうな痛みに堪らずルフレは悲鳴を上げる。

 だが、その悲鳴は首元を灼く痛みに潰されて。

 死に物狂いで『影』の手から逃れようとするが、何れ程暴れても『影』の指はビクともしない。

 そして、耐え難い痛みによって時間の感覚が無限に引き延ばされていく中で、ルフレは自分の骨が軋む悍ましい音を聴いた。

 頭を構成する骨が、音を立てて歪んでいく。

 骨が歪み、鼻先と顎が前へと延びていく感覚と共に、何かが顔と首の皮膚を突き破る様にして生えていきそれは瞬く間に頭部を覆っていく。

 腰の辺りから激しい痛みと共に何かが長く伸びていく様な、そんな異常で異質な感覚が生まれる。

 何かが目の横で裂ける感覚と共に、視界が突然に広くなった。

 瞬きをしても視界が閉ざされない……否、眼が増えたとしか思えない異常な感覚だ。

 そして、痛みが引いたその時には。

 ルフレはもう、変わり果てていた。

 

 

「はははっ! 良いねぇ、良い姿じゃないか! 

『人間』の皮を被っていた時より余程良い!」

 

 

 嘲笑いながら『影』は、ルフレの手足の戒めを解いた。

 だが、手足が自由になった喜びなど、ルフレには無くて。

 恐る恐る……何も変わらぬ様に見える、『人間』のそれそのまままの様に見える手を、ゆっくりと顔へとやる。

 だが、自分の顔を触った筈なのに。

 指先に反ってきたのは、まるで『竜』の姿のルキナの頭を撫でた時の様な、鱗としか思えない硬質な何かの感触で。

 そして、触れて確かめれば確かめる程、自分の顔である筈のそれは、到底『人間』の顔をしている様には思えなかった。

 

「くくく、どうした? 今の自分の姿を知りたいのかい? 

 ほら、これで存分に確かめなよ」

 

『影』はそう言いながら、その懐から大振りの手鏡を取り出し、それにルフレの姿を映した。

 鏡の中に映ったルフレは。ルフレ自身である筈のそれは。

 まさに、『化け物』としか言えない姿をしていた。

 三対の紅い眼、前方に長く伸びた一対の角……暗紫色の鱗に覆われた異形の【竜】の頭が、人間の身体の上に載っている。

 表情の読めない不気味な【竜】が、鏡の中から見返してくる。

 それはまさしく、『真実の泉』に映された自分の『本性』の姿に……その顔に限りなく似ていて。

 そして、そんな悍ましい化け物の姿をしているのに、その首から下の胴体は、【竜】の尾が生えている以外は『人間』のそれそのままである事が、却って人に非ざる存在としての異質感を……悍ましい『化け物』としての恐怖感を煽る。

 首から下は『影』の姿と大差ない事が、却って醜さを増す。

 

 こんな『化け物』が、自分だと言うのかと。

 ルフレは言葉も喪い、呆然とした。

 だが、鏡の中の【竜】の顔は、余りにも表情が乏しく……。

 不気味にその紅い眼を輝かせている様にしか見えない。

 その姿には、凡そ『人間』らしさなど無い。

 いっそ、完全に邪竜ギムレーの姿にされてしまった方が余程マシであったのかもしれない。

 こんな、どちらでも無い様な、『化け物』の姿に堕とされる位なら、いっそ……。と、思わずそう考えそうになる。

 

 だが、次の瞬間にはその狂った考えを否定した。

 

 例えこの身がどんな『化け物』に成り果てようとも、この心まで『化け物』に堕とす訳にはいかないと。

 この心が折れるその時を『影』は待ち望んでいるのだから。

『影』に……邪竜ギムレーとしての自分に抗うならば、この程度で心を屈する訳にはいかないのだ。

 元より、自分が『人間』ではない事位とうに理解している。

 ……ルキナと共に生きられる筈も無い『化け物』である事も。

 だからこそ、今更その事実を上積みされようとも、ルフレが堪える事はとうに無いのだ。

 どれ程苦しくても、絶望に心を明け渡したりはしない。

 だから。

 

『これが、どうしたって言うんだ。

 元より、『人間』ではない……『化け物』の僕がルキナの傍に居られる筈は無い事位、百も承知だ。

 この程度で、僕がお前に屈するとでも思ったのか』

 

 その言葉すら、ただの咆哮と唸り声にしかならない。

『竜』であったルキナのそれとは比べ物にならない程の、悍ましく恐ろしい『化け物』の声だ。

 だが、『人間』の言葉すら奪われていようとも、最早ルフレがそれで揺らぐ事は無い。

 ……もう、ルキナと逢う事も叶わぬ身だ。

 最も言葉を交わしたい相手がそこに居ないのなら、言葉など話せなくても何も構わない。

 

「やれやれ、『炎の紋章』の力を借りて、『本性』の姿を少し引き出してあげただけじゃないか。

『人間』の皮を被っていた時よりも余程楽だし、【力】も振るえるのに何が不満なんだい? 

 まあ、『炎の紋章』が不完全だから、そんな『人間』の姿と邪竜としての姿が混じった『化け物』になってしまったけど。

 それに、さっきも言っただろう。彼女が、此処に来る、と。

『僕』なりに盛大に歓迎してあげようと思っただけさ」

 

『僕がお前に、ルキナに手出しさせるとでも?』

 

 こうして手足の戒めは解かれたのだ。

 ルフレは、『影』を殺してでもその凶行を止める覚悟があった。

 この手に武器は無いが、それなら咬み殺してでも止める。

 溢れる殺意から低く唸り声を上げ、ルフレは身を低くして構える。そんなルフレの姿に、「怖い怖い」と、欠片もそう思っていないだろう顔で呟きながら、『影』はその手に剣を握った。

 

「お前の様な『人間モドキ』……いやもう『人間』の擬態すら出来ていないから……そうだな、『半端もの』が、『僕』を止められるって? 自惚れるのも大概にしなよ。

 お前に出来るのは、彼女が目の前で無惨に変わり果てていく姿を、無様に泣き叫びながら見ている事だけだろうに。

 ふふふ……どうやって可愛がってあげようか。

 お前がここで受けてきた拷問を一通り試すって言うのはどうだい? お揃いの経験が出来るんだから、嬉しいだろう? 

 ああ、勿論、お前みたいにちょっとやそっとじゃ死なない身体にしてから試してあげるとも。安心しなよ」

 

『そんな事、絶対にさせるものかッッッ!!』

 

 ルキナがここに辿り着いてしまう前に、何としてでもこの『影』を殺さねば、と。

 ルフレは憤怒の咆哮と共に、『影』に襲い掛かった。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

『影』の振るう剣に身を切り裂かれる痛みに構う事無く、ルフレは『影』を、その凶悪な顎で、その強靭な尾で攻撃していく。

 どうせ構うまでも無く自分の傷は直ぐに治ってしまうのだ。

 ……それは、『影』にも同じ事が言えるが。

 もう幾度『影』のその手足を食い千切っただろう、尾で叩きのめしてその全身の骨と言う骨を砕いたのだろう。

 だが、その度に『影』の傷は直ぐ様治る。

 食い千切った筈の首が何事も無かったかの様に瞬時に生えてきた時には流石にぞっとした。

 その姿こそルフレの今の姿に比べればまだ『人間』に近いが、その中身はルフレなどより『化け物』である事を再確認する。

 

『化け物』同士の醜い争いは中々終わりが見えない。

 いっそその全身を喰ってしまえば、もう蘇る事は無いのだろうかとも考えるのだが、流石に中々そのチャンスは無い。

 ルキナが来る前に決着を着けねばならないと言う苛立ちと焦りから、尾が無意識に石畳の床を叩き、そこを砕く。

 その時、何故か『影』の動きが鈍った。

 まるで誘う様に、隙を見せる。

 罠か? と一瞬考えるも、それ以上に絶対の好機を逃す訳にはいかなくて。『影』の動きだけに集中していたルフレは、千載一遇の好機に飛び付いた。

 

 一気に飛び掛かりその勢いで『影』を押し倒し、拘束から抜け出せない様に尾でその足を押さえてから、ルフレは大顎を開けて『影』の右肩に喰らい付いた。

 このまま拘束して全身を喰ってしまおうと、先ずはその肩を腕ごと食い千切ろうとする。

 すると、それまでは一切痛みに反応していなかったと言うのに、突然『影』は苦悶に満ちた悲鳴を上げた。

 何故? と一瞬呆気に取られたその瞬間。

 

 

「ルフレさん!!」

 

 

 この世で誰よりも大切な……。だけれども、この場でだけは聞きたくなかった愛する人の、悲鳴の様な声がその場に響き。

 突然に現れた様に思えるルキナの存在にルフレは動揺して、半ば無意識に『影』を拘束する力を緩めてしまう。

 そしてその隙を『影』が見逃す訳は無く、 ルフレの身体を蹴り飛ばす様にして拘束から抜け出し、空かさず握っていた剣をルフレの腹に深く突き立て、ルフレの身体を床に縫い留めた。

 何とか剣を抜こうにも、余りにも深く突き刺さって固定されている上に、体勢が悪くて中々力を入れられない。

 

 ここに来てルフレはこの状況の『最悪さ』を……。

『影』の本当の狙いを悟った。

 

 今のこの状況は、誰がどう見ても異形の化け物が、「ルフレ」を襲っている構図になるだろう。

『人間』の言葉を喪ったルフレが真実を訴える術など無く、『影』によって事実は幾らでも捻じ曲げられてしまう。

『影』がルキナに付け入る隙など幾らでもあるだろう。

 

「良かった、ルキナ……。無事だったんだね。

 有難う、僕を……助けに来てくれたんだね……。

 君が声を上げてくれたお陰で、『影』の意識が反れて、何とか助かったよ……、本当に、有難う……」

 

 そう言いながら、『影』はルキナへと差し伸べようとする。

 それを見たルフレは、必死に叫んだ。

 

『駄目だ、ルキナ! そいつは偽物だ! 

 そいつが『影』なんだ!! 

 今直ぐそこから逃げろ、早く!』

 

 だが、その言葉は届かない。『化け物』の咆哮にしかならない。

 そして、それがルキナに伝わる筈も無い。

 

 だがルキナは戸惑う様に、『影』のその手を掴む事は無かった。

 それに一瞬僅かに眉を顰めながら、直ぐ様『影』は「ルフレ」を装ってルキナに話しかける。

 

「こんな所にまで来る危険を冒させて、すまない、ルキナ。

 今まで拘束されていて逃げ出せなかったんだ……。

 多分君達がここに侵入してきた時のゴタゴタでどうにか隙を突いて逃げ出したんだけど……こうしてここまで『影』に追われてね……。何とか、祭儀用か何かに飾ってあった剣を取って応戦したら、『影』があの『化け物』の本性を現したんだ」

 

 わざと傷を治さない事で満身創痍をアピールする『影』は、今にも倒れそうな状態を演じ、ルキナの動揺を誘おうとする。

 

『違う! そいつの言っている事は出鱈目だ!! 

 僕が、ルフレだ! そいつにこんな姿に変えられたんだ! 

 僕の事はどうでも良いから、そいつから離れるんだ!!』

 

 どうにか腹に刺さった剣を抜いて、ルフレは立ち上がり叫ぶ。

 だが、『影』はまるでルキナを盾にする様にその陰に隠れ、それ故に手出し出来ないルフレを見て、ルキナに見えぬ様に嗤う。

 

「すまない、ルキナ……。

 長い監禁生活と度重なる拷問で、僕はもう戦う力も無い……。

 だから、君にあの『影』を殺して貰うしか……。

 君が持っているその剣……ファルシオンなら、あの姿の『影』にも致命傷を与えられる筈だよ……」

 

 囁く様に掠れた『影』の言葉に、ルキナはその腰に下げていた剣を……ファルシオンを抜いた。

 どうしてルキナがそれを持っているのかは分からない。

 ただ……『影』がルキナに自身を切り捨てさせようとしている事だけはハッキリと分かった。

 ……ルキナに、『化け物』として斬られると、そう考えると心臓を直接掴まれたかの様に苦しくなる。恐ろしくなる。

 ルフレとしてすら認識して貰えない事は酷く恐ろしい。

 だけれども、それ以上に恐ろしいのは。

 もしここでルフレが斬られてしまえば、『影』がルキナに何をするか分かったものではない事であった。

 それとも、ここでルフレが死ねば、自分の本性の影である『影』も諸共に消えたりするのだろうか。

 それならば、良いのだけれども……。

 だがそれはそれで、ルフレを殺したと言う十字架を背負わせ、ルキナを苦しめる結果になるのではないだろうか……。

 どうすれば良いのか、もうルフレには分からない。

 

 

『ルキナ……僕は……』

 

 

 その切っ先が、自分の胸を貫く瞬間を覚悟しながら。

 ルフレは、ルキナに呼び掛ける様に、小さく鳴いた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナへと手を伸ばし、咆哮を上げる『異形』を見て、ルキナは困惑していた。状況が、今一つ掴めないのだ。

 それ故に、差し出されたその手を取る事は、無かった。

 あの時は、「ルフレ」が危ないと……そう咄嗟に声を出してしまったが、果たしてそれで良かったのかと、そう考えてしまう。

 何故なら、ルキナには目の前に居るこの「ルフレ」が果たして本当にルフレなのかと……そう疑っているのだ。

 確かに見た目は間違いなくルフレそっくりではあるけれども。

 そもそも、『影』はそっくりそのままルフレと同じ姿をしているのだ。目の前に居る彼が、『影』でないと言う保証は無い。

 だからこそ、ルキナは「ルフレ」の一挙一動をそれと悟られぬ様に注意して観察する。

 そして、それと同時に『異形』へも目を向けた。

 ……もし、この「ルフレ」が『影』であるのだとしたら……、この『異形』こそがルフレであるのだろうか……。

 何とかその表情を読み取ろうとはするものの、『異形』の表情は非常に乏しく、その内面を推し量る事は難しい。

 

「こんな所にまで来る危険を冒させて、すまない、ルキナ。

 今まで拘束されていて逃げ出せなかったんだ……。

 多分君達がここに侵入してきた時のゴタゴタでどうにか隙を突いて逃げ出したんだけど……こうしてここまで『影』に追われてね……。何とか、祭儀用か何かに飾ってあった剣を取って応戦したら、『影』があの『化け物』の本性を現したんだ」

 

「ルフレ」は今にも倒れそうな、弱々しい声音でそう語る。

 傷だらけのその身体を見るだけなら、その発言に矛盾は無い。

 だが、そう言って苦しそうな顔をするその直前の一瞬。

 ルキナが、その手を取らなかった瞬間に。

「ルフレ」はその眉を僅かに顰めていたのだ。

 その表情に、ルキナの直感は警告の鐘を鳴らしていた。

 

 そして、「ルフレ」がそう言うや否や。

 腹に刺さっていた剣を引き抜いて立ち上がった『異形』は、その剣を遠くへと投げ捨てながら咆哮を上げた。

 だが、今にも飛び掛かってきそうな程の敵意を「ルフレ」に向けていると言うのに、『異形』は先程の様に飛び掛かろうとはせず、言葉も無くただ唸るだけであった。

 

 それは、もしかしなくても、ルキナが「ルフレ」の傍に居るからであるのだろうか……。

 もしこの『異形』が『影』であるならば、ルキナに構う事など無く「ルフレ」に飛び掛かっていたであろう。

 それにそもそも、言葉でルフレを甚振る事を楽しんでいる節があったあの『影』が一言も発さないと言うのもおかしな話だ。

 益々その違和感は蓄積し続ける。

 

 それに……ルフレがルキナを盾にする様にその陰に隠れようとする事など、果たしてあるのだろうか。

 ……少なくともルキナの知るルフレは、何れ程傷付こうともルキナの盾になる事はあってもルキナを盾にしようとはしないであろうと、そう思える。

 ……ルフレの姿とは似ても似つかぬ『異形』の方が、この「ルフレ」よりも遥かにルキナの知るルフレの様であった。

 

「すまない、ルキナ……。

 長い監禁生活と度重なる拷問で、僕はもう戦う力も無い……。

 だから、君にあの『影』を殺して貰うしか……。

 君が持っているその剣……ファルシオンなら、あの姿の『影』にも致命傷を与えられる筈だよ……」

 

「ルフレ」はそう囁く様に言った。

 ……この戦いの前に父から託されたファルシオンだが、真の力を喪った状態では、『影』に致命傷を与えられない事は、以前『影』本人が口にしていた事である。

 漸く、ルキナは「ルフレ」の……否『影』の意図を理解した。

 ルキナに、『異形』の姿に変じさせられてしまったルフレを斬らせる事で、ルフレの心を壊そうとしているのであろう。

 

 ルキナは、ファルシオンを引き抜く。そして、その瞬間。

 

 

『ルキナ……』

 

 

『異形』の小さな鳴き声が、自分の耳には確かにハッキリと、哀しそうに自身を呼ぶルフレの声に聞こえた。

 自分の選択が間違ってはいなかった事を確信したルキナは、『異形』の姿にされた愛しい人に微笑みを浮かべて。

 

 自らの傍らに立つ薄汚い紛い物を、全力で斬り捨てた。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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終話『王女と賢者』

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何故だ、ルキナ……! どうして僕を……!!」

 

 ルキナに右肩から左の脇腹までを袈裟斬りに一刀両断された『影』は、骨と皮だけでどうにか繋がっている状態になりながら、信じられないと言わんばかりの顔をしてルキナを見た。

 だが、今更ルフレの振りをした所でルキナには逆効果だ。

 

「そうやってルフレさんのフリをするの、止めて貰えますか? 

 あなたが『影』である事はもう分かってますから」

 

『影』に追い打ちを掛けるべく続け様にファルシオンを振るうが、横薙ぎの一撃を『影』は軽やかに後ろに跳んで避ける。

 先程与えた傷は、もう半ば回復している様だ。

 こうも回復力が高いと、『影』を殺すのには骨が折れるだろう。

 

 小さく舌打ちしながらも、ルキナは素早く『異形』の姿に変えられてしまったルフレの元へと駆け寄った。

 ルフレは表情の読み辛い顔をしていながらも困惑している様で、その尾は小さく揺れていた。

 

「ルフレさん、良かった……。

 無事、……と言って良いのかは分かりませんが。

 こうしてまた逢えて……本当に……」

 

 抱き着いてしまいたい衝動を何とか堪えて、ルキナはルフレのその手を握った。

 ……忘れる筈の無い、あの温かなルフレの手だ。

 その相貌を【竜】のモノに変えられてしまっても、その身体に【竜】の尾が生えているのだとしても。

 その手は何も変わらない……ルキナの最も愛しい手だった。

 

 再び巡り逢えたその喜びで、泣き出しそうになってしまう。

 まだ『影』との戦いの最中であると言うのに……。

 そんな浮足立つ様な自分の心を少し諫め、ルキナはルフレに向き合った。

 ルフレは……あまり状況が呑み込めていないのか、三対の紅い眼をパチパチと瞬かせ、困惑した様に頻りに喉を鳴らす様な音を立てているが……。それは、『どうして? 何で?』と言っている様にしかルキナには聞こえなかった。

 ルキナも、『竜』の身だった時にその様に鳴いた覚えがある。

 

「どうしてって……私がルフレさんの事を間違える訳なんてないでしょう? 

 例え姿が私の知っているルフレさんのモノでは無かったとしても……そこにルフレさんの心があるなら、間違えません。

 ルフレさんが『人間』ではなくても良い、どんな姿でも良い、例え言葉を交わせないのだとしても……それでも良い。

 だって私が『愛』しているのは、ルフレさんの姿では無くて。

 その優しくて温かな『心』だから……。

 誰かを『愛』する事には、相手がどんな姿であるかなんて関係無いんですよ?  少なくとも、私にとってはそうです。

 どんな事があっても、私にとってルフレさんがこの世界で一番大切で愛おしい人である事は、何があっても変わりません」

 

 そして、それを証明するかの様に、その【竜】のものになった顔の、その口先に優しく口付けた。

 こうして口と口を触れ合わせるのは、ルフレがクロムに斬られた時に口移しで水を与えた時以来だろうか。

 奇しくも『人間』と【竜】と言う……あの時とはまた正反対の状態だけれども、今度はあの時とは違い愛情を伝える為のモノである。だからか、少し気恥ずかしい。

 

 

『────!?』

 

 

 慌てて口元を手で押さえたルフレは何かを慌てる様に唸り、その尾は忙しなく揺れる。表情こそほぼ変わらないけれども、激しく動揺して混乱しているのが分かった。

 ……最初こそルフレの姿が変わってしまっている事には驚いたが、恐ろし気にも見えた【竜】の顔もルフレの顔だと思って見ていると、愛しく何処か可愛げすら感じる様に思える。

 やはり、ルフレを愛しいと感じるこの『想い』は、この程度では小揺るぎもしなかった様だ。

 この異形の姿のルフレに対しても、ルキナは何一つとして変わらずに『恋』をしていた。

 

 ルキナの行動に戸惑い慌てていたルフレではあるが、そんなルキナの態度が本心からのモノであると理解したからなのか。

 その紅い眼を細めて、静かに喉を鳴らして。

 ルキナの頬にそっとその手を当てて。

 そしてルキナの頬にその【竜】の口先を優しく触れさせた。

 そこに言葉は無いが、ルキナにはそれだけで十分以上にルフレの気持ちが伝わったので、言葉は元より不要だったのだろう。

 だが、互いにそうやって『想い』をゆっくりと確かめ合っている暇は、残念ながら無い様であった。

 

 ファルシオンに斬られた傷が完全に塞がった『影』が、憤怒にその顔を歪めてルキナ達を睨み付けているからだ。

 ルフレと顔は同じである筈なのに、その中身が違うだけでこうも醜悪に感じるのかと、ルキナはその事実に驚いていた。

 

「クソッ! クソックソッッ!! 

 どうしてだ!? 『僕』の策は完璧だった筈なのに!? 

 この『化け物』と『僕』なら、誰がどう見ても『僕』の方をルフレだと思うだろうがッッ!! それがどうしてこんな!!」

 

『影』は理解出来ないものを見る様な目でルキナ達を見てくるが……寧ろそんな目をしたいのはルキナの方であった。

 

「完璧な策、ですか。……あれが? 

 残念ながら、あなたの演技は下手くそ過ぎたんですよ。

 それに、『化け物』だなんて言うの止めて貰えますか? 

 ルフレさんの何処が『化け物』なんですか」

 

「気でも狂っているんじゃないのか!? 

 それの何処が『人間』に見えるんだ!」

 

「見た目がどうかなんて私にはどうでも良い事です。

 ルフレさんは、言葉も話せないしどう見ても『竜』でしかなかった筈の私の事も、この心を見て理解してくれました。

 どうしてそれが私には出来ないと思ったのでしょうか」

 

「それがそいつの、『ルフレ』の『本性』の姿なんだぞ!?」

 

「別に、ルフレさんの『本性』が何であっても私は構いません。

 その本性が初代聖王様の伝説に語られる邪竜ギムレーだろうと、ルフレさんの心はそんな事を望む筈は無いですし。

 本性の姿が何であろうと、それが愛さない理由になる事は有り得ません。だって、私が愛したのはルフレさんの心ですから」

 

 言葉の応酬は止まる所を知らない。

 そもそも論点がズレている気がするし、何を言った所で『影』はルキナの『愛』を理解出来ないだろう。

 理解出来ない得体の知れないモノを見る様な目がそこにある。

 

 何であれ『影』の思惑は既に破綻しているのだし、今更『影』が何をしようがルキナがルフレを傷付ける事など有り得ない。

 少なくとも、ルフレの心を壊す為……と言う『影』の目論見通りに事が運ぶ事は決してあるまい。

 真の力を喪ったままのファルシオンで『影』を倒し切る事は難しいかもしれないが……。

 ここでルキナ達を逃がしてくれるとは思えないし、『影』が存在する限り平穏は訪れないだろう。

 それに、『影』によってルフレの姿が変わってしまったのなら、『影』を倒せばルフレの姿も元に戻るのかもしれない。

 ならばやるしかないと、ルキナはファルシオンを再び構えた。

 

「私にルフレさんを斬らせようとしたつもりでしょうけれど、あなたは、私のルフレさんへの『想い』を軽く見過ぎです。

 ……それに、ずっと不思議だったんですけれど。

 どうしてルフレさんの心を折るなんて手間をかけるんです? 

 あなたが本当に『ギムレー』の力を持ってて……ルフレさんがあなたの言う様に『人間』としての意識が強いからその力を扱えないなら。あなたの方がずっと強い筈じゃないですか。

 あなたは、本当はルフレさんに勝てないんじゃないですか?」

 

 ただの挑発のつもりだったその言葉は。何か『影』にとっては不都合な事実を言い当てていた様で。

『影』は怒り以上に焦りが混じった感情にその表情を歪めた。

 

「『僕』がこの『半端もの』に敵わないだと? 

 そんな事は無い! あってたまるか! 

『僕』こそがギムレーだ! 『僕』こそが『本物』なんだ! 

 こんな、こんな『半端もの』なんて何時でも喰えたさ! 

 より絶望させようと戯れに弄んでみただけでしかない!」

 

「そうですか? でも、以前『真実の泉』で言ってましたよね。

『この身体は所詮は仮初のもの』だって。

 それに、あなたは自分で言ったじゃないですか。

 自分は、ルフレさんの『真実の影』だ、と。

『影』とは、そもそもそれを投影する本体があって初めてそこに在るモノ……。つまり、あなたは本体ではなくて、ルフレさんから写し出された、ただの『影』に過ぎないのでしょう?」

 

 それらはその場の勢いに任せた推測だったけれども、ルキナには『影』の本質を突いた予感があった。

 その証拠に、『影』は益々その表情を歪める。

 そして。

 

 

『────』

 

 

 ルキナを庇う様に一歩前に出たルフレが何事かを吼えると、途端に『影』のその表情から余裕が喪われた。

 

「ふざけるな!! 誰が、誰がお前なんかの……! 

『僕』が『本物』だ! 『僕』こそが『本物』の筈だった! 

『邪竜ギムレー』は、この『僕』なんだ!!」

 

 そう吼えた『影』は、魔導書も無しに魔法の炎を作り出し、それをルフレ達へと浴びせかける。

 だが。まるで生きている大蛇の様にルキナ達に襲い掛かった蒼白く燃え上がる炎は、ルフレの一息で掻き消された。

 それに益々激昂した『影』は次々に様々な魔法を繰り出してくるが、その尽くがルフレによって相殺されるか、ルキナのファルシオンによって斬り伏せられていく。

 だがそれに負けじと、『影』の攻撃は苛烈さを増すのであった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナが、この異形の『化け物』の姿となったルフレではなく、『影』の方を迷わずに叩き斬った事にも驚いたが。

 それ以上に、躊躇う事も無く駆け寄って来た事にも、そして今にも泣きそうな程に再会を喜んだ事には、理解すら越えてただただ困惑するしかなかった。

 一瞬、自分に都合の良い夢でも見ているのじゃないかとすら思ったのだけれども……。

 ルフレの手を握るその手の温もりは、決して夢幻ではなくて。

 そして、真っ直ぐにルキナの嘘偽りない『想い』が、その深い深い『愛情』の全てが直接心に伝わる程情熱的な、まさに一世一代の『愛』の告白と。そして……優しい口付けを。

 幻なんて言葉で片付ける事は到底出来なくて。

 

 こんな……『化け物』の姿でも、『人間』でなくても。

 それでもルフレを『愛している』のだと言う、その言葉を、その想いを……嘘だと跳ね退ける事など出来る筈は無かった。

 何故なら、ルフレはずっとそれを欲しがっていたのだから。

 ……例え、ルキナの気持ちがどうであっても、一国の王女がこんな『化け物』と共に生きられる筈は無いのだし、傍に居れば居ようとする程に互いに傷付いていく不幸な『愛』にしかならないのだとしても。この手を離してあげる事こそが、ルキナの本当の『幸せ』に繋がるのだとしても。

 

 それでも。こうしてこんな姿の自分でも、こんな『化け物』の自分でも、その本性が邪竜と呼ばれた恐ろしい【竜】でも。

 そんな自分であっても、変わらずに『愛』しているのだと。

『ルフレ』として生きてきた、その『人間』の心を、信じているのだと、その心こそ『愛』しているのだと。

 そう言って貰える事が、そう想って貰える事が、受け入れて貰える事が……。……何よりも、嬉しくて。

 生きていても良いのだと、そう言って貰えたかの様で。

 それは……この世の何にも代え難い、『幸せ』であった。

 

 ルキナへの愛しさが、今にも溢れ出しそうで。

 思わず、その頬に口付けてしまった。

 もし、『影』がその場に居なければ、その唇にも口付けていたかもしれない。

 互いの『想い』が通じ合った事が、嬉しくて仕方が無い。

 互いに『愛し』・『愛され』ていると言う、その素晴らしい事実が、ルフレの心に温かな灯を点した。

 

 この愛しい人を、守らなければならない。

 その為に必要なものを、恐れてはいけない。

 

 自分の『本性』が、邪竜ギムレーであると言うのなら。

 自分にも、『影』と同じ様にその【力】がある筈だ。

 今までは、【力】があると言う可能性を恐れて、そこから目を反らしていた。その【力】を使ってしまったら最後、自分は心身共に本当に『化け物』になってしまうのではないかと、そんなあるかもしれない可能性に怯えていたからだ。

 

 だけれども、もうそんな事は怖くは無い。

 例え世界を滅ぼしてしまえる程の【力】があったとしても、この身体が恐ろしい『化け物』になってしまっても。

 ルキナは、必ず信じていてくれるから。

 そこに在るルフレの心を、迷わずに見付けてくれるから。

 だからもう、自分自身を恐ろしいとは思わなかった。

 ルキナの言葉に冷静さを失くし、醜く吼える『影』を見て。

 やはりルキナの言葉は『影』にとっての急所に当たっているのだろう、とルフレは考える。

 思えば、何れ程苛烈な拷問をしても、『影』は決してルフレを殺さなかった。言葉で嬲り、こうしてルフレの姿を『化け物』に変えても……それでも力尽くでルフレの心を呑み込もうとはしてこなかった。

 そう、『影』は影でしかないのだ。

 ルフレの内に眠る本性の影が、仮初の実体を得て現実に干渉する力を持っただけに過ぎない。

『影』は、決して『本物』ではないのだ。

 

 

『お前は、僕を『人間モドキ』だの『半端もの』だのと散々罵ってきたけど。じゃあ、お前こそ何なんだ? 

 ただの、僕の『影』でしかないんだろう? 

 お前の方こそ、ただの『邪竜ギムレーモドキ』じゃないか!』

 

 

『影』の憤怒に満ちた視線からルキナを守るべく、一歩前に出たルフレがそう啖呵を切ると。

 

「ふざけるな!! 誰が、誰がお前なんかの……! 

『僕』が『本物』だ! 『僕』こそが『本物』の筈だった! 

『邪竜ギムレー』は、この『僕』なんだ!!」

 

 余裕も冷静さも全てかなぐり捨てた『影』は、激昂した様にそう吼えながら、次々に強力な魔法を放っていく。

 だが、普通の人間なら先ず命を落とすだろう威力のそれも、ルフレが吐息の様に吹きかけた僅かな【力】で霧散していく。

 そこにあるものだと自覚し、そしてそれを受け入れてしまえば、【力】はあっさりとルフレの意のままになる。

 荒々しい奔流の様なそれを、横に立つルキナに害が及ばぬ様に制御するのは少々骨が折れるが、だからどうと言う事も無い。

 そして、【力】が何であるのかを自覚したルフレの眼には、『影』の持つそれはルフレのそれに比べれば小さなものである事も分かってしまう。

 そして、この『影』を消す方法も、何となく分かった。

 

 だが、『影』はルフレがそれを理解してしまった事を察したのか、決してルフレに近寄ろうとはせず、そしてその攻撃は全て避けようとしてくるけれども。

 だが、ルフレがルキナに合図を送ると、ルキナはその意図を察して、『影』に斬り掛かる。

『影』は、力を喪ったファルシオンでは『影』を殺せないと言っていたしそれは確かにそうなのだけれども。

 だからと言って、ファルシオンによる攻撃が全く効果が無いのかとそんな事も無く。

 ファルシオンによって付けられた傷は明らかに治りが遅い。

 ルフレとルキナの連携を前に、『影』はその左腕を斬り落とされ、右足も半ば断たれ、右肩を大きく削られる。

 その何れもが治り始めてはいるものの瞬時に治るとまでは行かなくて、斬り落とされた左腕はまだ半ば取れかけの状態で辛うじてくっ付いている程度だ。

 

『影』の猛反撃もルフレの前には意味が無く、邪竜のブレスによって全て消し飛ばされていく。

 完全に形勢は逆転し、ルフレとルキナで『影』を嬲っているに等しい状態であった。

 だが、ここで手を緩めればどんな反撃が飛んで来るかも分からないので、ルフレもルキナも一切容赦はしない。

 

 そして、終に。

 四肢を斬り刻まれ、その身体も半ば吹き飛ばされた『影』は、逃げる事も出来ずその場に崩れ落ちる。

 そして、その『影』の頭を、ルフレは掴んだ。

 

 

『確かに、お前は僕の影であるんだろう。

 だけれども、僕はお前を認めない。お前は必要ない。

 僕はギムレーだけれど、お前は違う。

 お前は、かつての邪竜ギムレーの記憶の残滓、その欠片だ。

 ……もうお前が目覚める事は無い。僕の中で眠り続けるんだ』

 

 

 そして、ルフレが威力を抑えずに放った邪竜のブレスによって、『影』の姿は解け崩れる様に消えていく。

 仮初の身体は、その跡に骨の欠片一つ残す事無く、この世界から消失した。

 そして、『影』だった欠片は……ルフレの心の中に広がる無意識の海の中で、もう二度と浮かび上がる事も無い眠りに就く。

『影』との戦いは、もう終わった。

【邪竜ギムレー】が蘇る事は、もう無い。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 ……消滅してゆく『影』を見ながらルフレは自分の姿に目をやるけれども……、『影』が完全に消え去っても、ルフレの姿が元に戻る事は無かった。

 相も変わらず、首から上は邪竜ギムレーの頭部そのものであるし、その身体からは尾が生えている。

 

 ……『影』は。『炎の紋章』の力を借りて、ルフレの本性の姿を引き出しただけだと、そう言っていた。そして、『炎の紋章』が不完全であるからこそ、『人間』と【邪竜ギムレー】の姿が混ざった様な中途半端な姿になったのだとも。

 そうであるならば、ルフレの姿がこの様な『化け物』染みた姿になっているのは『影』の力だけによるものではなくて。

 切っ掛けこそ『影』なのだろうけれども、ルフレ自身がその本来在るべき姿に半ば戻ろうとしているだけとも言える。

 何にせよ、『影』を倒した所でこの姿が元に戻る訳ではない事は確かなのだろう……。

 

 ならば、どうにか自分の力で戻れないかと試してはみるが。

 それもやはり出来そうには無かった。

 中途半端だからこそ、却って出来ないのかもしれないが……。

 だからと言って、『影』が言っていた様に、『炎の紋章』を完成させて、それによって真の【邪竜ギムレー】としての姿と力を取り戻そうとは、とてもではないが思えなかった。

 

 ……ギムレーの力は、強過ぎる。

 まだ完全にその力を取り戻した訳ではない、中途半端な今のルフレの状態ですら、人の世には過ぎたる【力】なのだ。

 多分、今のルフレがその気になりさえすれば、国を一つや二つ滅ぼしてしまう事だって難しくはないのだろう。

 ……まあ、そんな事をしたいだなんて、ルフレが思う事は何があっても無いのではあるけれども。

 とにかく、もしルフレが完全なる力を取り戻した状態になれば、それこそこの世からありとあらゆる生き物を消し去る事だって不可能ではなくなってしまうのだろう。

 そんな【力】を抱えてこの世界で生きていく事は、難しい。

 今の時点のルフレですら、姿が異形のモノであると言う点を差し引いても、人の世で生きていく事は出来ないだろう。

 その気になれば何時でも自分を跡形も無く消し飛ばせてしまえる『化け物』の傍で生きられる人は、極めて稀だ。

 今のルフレは、人々からそして世界から、排斥される対象にしかならないだろう。

 

 ルフレ独りが排斥され追いやられるだけならまだ良いのだけれど、そうなるとルキナまで傷付いてしまうかもしれない。

 優しくも勇ましいルキナは、人々の『恐怖』と言う形の悪意無き害意からルフレを守ろうとしてくれるかもしれないが。

 ……しかしそれは、終わり無き戦いになってしまうだろう。

 心無い人々に、ルキナが傷付いてしまう姿を想像するだけでそれは恐ろしい事だし、それ以上にそうなってしまえば自分が何をしてしまうか知れたものではない。

 ルフレは、その本性がギムレーであるからなのか、己の大切な存在への害意や悪意に対しては、極めて強烈な破壊衝動と報復の欲求を抱いてしまうのだ。

 どうかしたらそれが【邪竜ギムレー】復活の原因になってしまうのではないかと思ってしまう程に。

 

 だが、それはとても危険な衝動だ。

 そして、その心のままに暴れ狂ってルフレとルキナが共に生きられる場所を手に入れたのだとしても、それは『恐怖』で人々の心を抑圧した歪な『平穏』でしかないだろう……。

 そんな事は、決してルフレの望むものでは無い。

 ルフレが望むのは、あの『神竜の森』の奥で共に過ごしていた時の様な……そんな穏やかで『幸せ』な時間なのだから。

 ……だが、それは到底叶わないものである事も分かっている。

 

 ルフレは、心配そうな顔で自分の身体を抱き締めてくるルキナのその肩を、優しく抱いた。

 柔らかくて、温かくて。とても良い匂いがする。

 この腕の中に在る全てが、愛しかった。

 自分の全てよりも、何よりも、大切な存在だった。

 漸く見付けた……きっとかつて邪竜ギムレーとして生きていた時間の全てを合わせても出逢う事の叶わなかった、愛しい愛しい……『光』その物の様な、宝物。

 手離したくなんて無い。

 このまま、互いが望むがままに共に生きていきたい。

 

 ……だけれども、そうして望み共に生きた先で、この愛しい人の笑顔が喪われてしまうのならば。

 そして、自分が彼女にあげられる『幸せ』が、何処か薄暗いモノでしかないのならば。

 ルフレは、この愛しい手を、離さなくてはならないのだ。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 ルキナの肩を優しく抱き締めていた手が、不意に離れる。

 ルキナはその手を追い掛ける様に掴もうとしたけれど、それはやんわりと避けられてしまう。

 どうして、と。ルキナは思ったけれども。

 ルフレは、ゆっくりとその首を、横に振った。

 

 ……ルフレの姿は、『影』を倒しても、元には戻らなかった。

 変わらない、戻らない自分の姿を見て、ルフレが何を思ったのかは分からないけれど。

 何故か、このままではルフレが遠くに行ってしまう気がして。

 居ても立っても居られず、ルキナは衝動的にルフレの身体を思い切り抱き締めた。

 すると、ルフレもまた優しく抱き返してくれて。

 良かった、とそう安堵したのだけれども。

 ルフレは、静かにその手を離してしまった。

 その三対の紅い眼は、何処か穏やかに……だけれど哀しそうに揺らめいていて。

「ルフレさん」とそう呼び掛けても。

 静かにその首を振るだけであった。

 

「ルフレさん、何で手を離すんですか? 

 もう戦いは終わったんです。『影』はもう居ないんです。

 帰りましょう、イーリスに……」

 

 だが、ルフレはその呼びかけにも、静かに首を振るだけだ。

 

「お父様が、ルフレさんにお逢いしたいと言ってました。

 あの時、傷付けてしまった謝罪と……そして私を助けてくれたお礼が言いたいから、と。それにチキ様も……」

 

 ルフレは、『駄目だよ』とばかりに、首を振る。

 

「大丈夫ですよ……。その、お父様は少しルフレさんの見た目に驚かれてしまうかもしれませんが……。

 それでも、ルフレさんのお人柄が分かったら、直ぐに気にしなくなると思いますし……。だから……」

 

『──』

 

 ルキナ、と。そうルフレは呼び掛ける様に鳴く。

 そして、奥の祭壇に安置されていた、四つの宝玉が嵌め込まれた盾の様なモノを……ルキナへと差し出して。

 そして、ファルシオンとルキナを指さして、ルフレは最後に自身の胸を指さして、優しく喉を鳴らした。

 その意味を、意図を理解出来ないけれど。

 何かとても承服し難い事を言われている様な気がして。

 どうして? とそう訊き返す。

 するとルフレは、その服の内をゴソゴソと漁っていたかと思うと、あの……彼の母が書いたのだと言う手記を取り出して、そのページを静かに捲って。

 初代聖王の伝説についての項目を……かの英雄が、神竜ナーガより授かったと言う神剣で邪竜ギムレーを討ったと言う……ルキナも知るその伝承を示した。

 そして、ルキナを指さしてから初代聖王を、ルキナの持つファルシオンを指してから神剣ファルシオンを、そして自身を指してから邪竜ギムレーの名を、示す。

 それが意味するものは、ルフレが伝えようとしているものは。

 

「私に、初代聖王の伝承を。ルフレさんと私で再現しろと……そう言いたいのですか?」

 

 その言葉にゆっくりと頷いたルフレに、ルキナは思わず食って掛かる様な勢いで返した。

 

「どうしてそんな事を……! 

 そんな事をする必要なんて無いでしょう!? 

 ルフレさんは、確かにギムレーなのかもしれませんが、聖王伝説のギムレーの様に世界を滅ぼそうだなんて全く考えもしないでしょうに!  それで、どうして!」

 

 確かに以前チキと、ギムレーの復活を阻止すると約束はしたけれども。しかしルフレ本人には【邪竜ギムレー】として蘇って世界を滅ぼそうなんて意図は、欠片も無いのだ。

 それでそうしてそんな事をしろと、ルフレは願うのだろう。

 ルキナには、全く以てその意味が理解出来なかった。

 

 だってそれでは、そんな事をすれば……ルフレは……。

 

「ルフレさんの姿がそんな風に変わってしまったからだと、そう言う事が言いたいのですか?」

 

 ルキナの言葉にルフレは僅かに頷くが、それだけでは無いのだと静かにその首を巡らせた。そして、突然そのブレスで巨大な祭壇を一撃で粉微塵に粉砕する。

 突然過ぎるその行動にルキナが唖然としていると。

 ルフレは、哀しそうに小さく唸った。

 

「……その力があるからだと?」

 

 ルフレが頷いたのを見て、ルキナは何と言って良いのか分からず黙るしかなかった。

 

 確かに、凄まじい力である。

 そもそも、『真実の泉』で対峙したあの時にはルフレとルキナをその強大な力で圧倒し蹂躙した『影』を、今のルフレはまるで無力な幼子を甚振る様に蹂躙出来てしまうのだ。

 その力を、『影』とは比べるべくも無い非力な『人間』達に向ければ……どうなるのかなど、火を見るより明らかであった。

 

 勿論、ルフレは絶対にそんな事をしないだろう。

 そんな風に誰かを傷付ける位なら、傷付けられそれを耐える方を選ぶ様な……そんな優しくお人好しな……強い人だから。

 ……だけれども、ルフレの為人を知らない人々には、ルフレはどう映るのだろう、どう感じるのだろう。

 

 それに思い至って……ルキナは、ルフレの気持ちを理解出来てしまった。かつて『竜』の姿に変えられてしまった時には、自分もそう結論付けていたではないか……。

『人間』は、自分を容易く殺せる力がある『化け物』と共に生きる事は……とても難しい、と。

 

 あの時のルキナにとってのルフレの様に、そして今のルフレにとってのルキナの様に。その内面を、その心を、それを見て愛して寄り添う事が出来る人は、稀に居るけれども。

 それを万人に要求する事など、到底出来ない事なのだと。

 それは、ルキナも分かっている事であった。

 

 ……あの森の奥でひっそりと生きる事を選ぶのだとしても。

 それで平穏が訪れるのかと言われると、そうでもなくて。

 絶対に人が立ち入らぬ様な場所でも無ければ、誰かがその姿を見付ける可能性はあるだろう。

 そして、『人間』とは不思議な事に、『化け物』がそこに居ると知れば、どれ程無害でもそれを退治しようとするものなのだ。

 ……この世界に、今のルフレが平穏に生きていける場所は、存在しないにも等しいモノであった。

 

 でも、だからと言って、それでルフレを【邪竜】として討つ事が良い事である訳なんかなくて。

 どうにか他の方法は無いのかと。

 ルキナはルフレに問うけれども。……ルフレにも分からない事であるらしく、静かに首を横に振るばかりであった。

 

 どうすればルフレを助けてあげられるのだろう。

 どうすれば、ルフレがこの世界で人々から隠れる事も無く普通の生き方をさせてあげられるのだろう……。

 せめて、その姿だけでも『人間』のそれに戻せるのならば……少しはどうにか出来るのかもしれないけれど。

 だが、その方法がルキナにもルフレにも分からない。

 

 まさに八方塞がりになっていたその時。

 祭壇の間へと、駆け付けてくる者達がいた。

 祭壇の間の手前の広間で戦っていたクロムとチキだ。

 ファウダーを倒してここに駆け付けてくれたのだろうか。

 

 クロムは、異形の姿をしたルフレを見てギョッとした様に剣を抜こうと柄に手を掛けたが。

 チキからの制止と、その異形を大切そうに抱き締めているルキナを見てそれを寸での処で止めた。

 

 

「ルキナ……? もしかして、そいつが……」

 

「はい、ルフレさんです……。

 私が辿り着いた時にはもう、『影』に姿を変えられていて。

 でも、その心は、ルフレさんのままなんです。

 だからお願いします、お父様。

 ルフレさんを傷付けないで下さい……」

 

「そうか……ルキナがそう言うのなら、信じよう。

 娘の恩人に二度も剣を向けたなど、あってはならんからな」

 

 ルキナの言葉に確かに頷いたクロムは、異形のルフレを恐れる事無く近付いて、その手を差し出した。

 

「こうして会うのは二度目になるのだろうか。

 ……こんな形で何だが名乗らせてくれ。

 俺は、クロム。イーリスの当代聖王を担っている。

 だが今は、聖王ではなくルキナの父親として話をさせてくれ。

 先ず、ルキナの命を助けてくれて、本当に有難う。

 俺がルキナを殺してしまう所だったのを、お前は二度も救ってくれた。……何と礼を言って良いのか分からない位だ。

 ……そして、あの時は、本当にすまなかった。

 お前の言葉に耳を傾けていれば、ルキナの心を傷付ける事も、お前を傷付ける事も無かっただろうに……。

 何をしても償える事では無いかもしれないが、……俺に出来る事があるなら何でも言ってくれ。

 お前には一生掛けても返しきれない程の恩と、罪がある」

 

 クロムのその言葉に、ルフレは戸惑った様に喉を鳴らし、困惑する様にルキナを見た。が、ルキナが諦めた様に首を振ると。

 ルフレは、恐る恐ると差し出されたその手を握る。

 恐らく、想像以上に力強く握り返されたのだろう。

 ルフレは驚いた様にその尾を跳ねさせた。

 そして、そんなルフレに今度はチキが声を掛ける。

 

「……ルフレ、ルキナから話は聞いたわ……。

 こうして見ると、あの時気付けなかった事が不思議な位だけど……それは、貴方の『人間』としての心がとても強固だったからなのでしょうね……。

 そうして【邪竜ギムレー】として目覚めかかっている状態でも、貴方の心は全く変わっていない……」

 

『──?』

 

「ええ、分かるわ……。

 貴方は、千年前に封印されたあの邪竜ギムレーと同じ【力】を持ってはいるけれど……そこに在る心は全く違う……。

 あの、とても恐ろしいのに……それ以上に孤独で寂しい心とは全く違う……。自分以外の誰かを何よりも大切に想う……とても温かな心をしているもの……。

 それはきっと、貴方が心から愛されて、愛を知ったから……」

 

『──……』

 

「ええ……そうね。

 ルキナと出逢えた事も間違いなくそうだけれど、それよりももっと根源のもの……母親からの無償の愛が、ギムレーとして生まれた貴方の心の在り方を変えた……。

 貴方の母が『愛』を与え空っぽだったギムレーの心を満たし、そして『愛』を享受するだけでなく与える事も知ったからこそ、貴方は【邪竜】ではなく、『人間』になれた……。

 ……貴方がギムレーである事は変えられなくても、その心はもうかつての【邪竜】のものとは違うわ……」

 

 チキは、喉を震わせて鳴くルフレと、そう言葉を交わす。

 その表情は、慈愛に満ちた優しいモノであった。

 

「あの……チキ様。

 ルフレさんの姿を、元に戻す方法に心当たりはありますか?」

 

 ふと、数千年分もの知啓を持つチキならば何か思い付くものがあるのではないかと、そう期待を込めてルキナは訊ねる。

 すると、チキは少し考えて、難しい顔をした。

 

「……元に……と言うのも難しいわね……。

 ある意味で、ルフレのこの姿は、魂の姿に身体が合わせようとしているものだから……。

『炎の紋章』がまだ完全な状態じゃなかったから、こうなっているのだろうけれど……。

【竜石】を作って制御するにしても、ギムレーの【力】は大き過ぎて【竜石】に封じきる事は難しいし……。

 もっと強く【力】を制御したり封印出来る様な方法があれば、何とか出来るかもしれないけど……」

 

 でもその方法は思い浮かばないのだと、そうチキが申し訳なさそうに言うと。

 ふと、ルフレが何かを思い付いた様にその尾を揺らした。

 

『──────……?』

 

 ルフレが何かを伝える様に鳴くと、途端にチキは驚いた様にその目を丸くする。

「確かに、その方法なら……もしかするといけるかも……。

 久しくそんな使われ方をしてなかったから盲点だったわ……」

 

「あの、ルフレさん、何をしようと?」

 

 チキの様子を見る限り、ルフレを斬ったりする様な方法を提案した訳では無いと思うのだけれど。

 どうしても気になったルキナがそう訊ねると。

 ルフレは小さく喉を鳴らしながら再び手記を取り出して、今度は先程とは異なるページを示した。

 そこに書かれている『炎の紋章』の伝説に、ルキナが目を走らせていると。チキがポツポツと語り始めた。

 

「『炎の紋章』……かつて【竜族】からは『封印の盾』と呼ばれていたこれには、とても大きな力が秘められているわ……。

『覚醒の儀』の様に……眠っている【竜の力】を目覚めさせる力もあるし、かつての私が獣の衝動からこれに守られていた様に【竜】を守る力もある。……そして。

【竜の力】を封じ眠らせる事も出来るの。……尤もそれは、弱らせるなりして抵抗する力を削ぐ必要はあるけれど……」

 

 でも、ルフレならそもそも抵抗などする事も無い。

 だからこそ、『炎の紋章』の力で、ルフレの【力】だけを封じる事は出来るかもしれない。

 そうすれば、ルフレの姿を『人間』のものに戻せるだろう、とチキは静かに言った。

 

「最後の宝玉、『蒼炎』はルキナが持っていたよな?」

 

「はい、失くしてはいけませんから……こうして肌身離さず」

 

 ルキナは首から提げて服の中に隠していた袋の中から『蒼炎』を取り出し、そしてそれを『炎の紋章』に嵌め込む。

 完成した『炎の紋章』を見て、チキは頷く。

 

「ええ、これで大丈夫よ。

 ……ルフレ、心の準備は良いかしら?」

 

 コクリと、ルフレが頷いたのを確認したチキの手の中で、『炎の紋章』は、目を開けていられない程の眩い光を放つ。

 その輝きの中で、ルフレの姿はゆっくりと変わっていった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 

「ただいま……」

 

 旅立ったその時から、もう三か月以上経っているのだけれど。

 屋敷は、旅立ったあの日と殆ど変わらない状態であった。

 強いて言えば、屋敷の周りの雑草が生い茂っている事位だ。

 

 あの日二人で旅立った森に、一人で帰る。

 それは分かってはいたが、少しばかり寂しい事であった。

 また独りきりになってしまった屋敷は思った以上に静かで、広さ自体は変わらない筈なのに、その寂しさが募ってしまう。

 そんな寂しさを無理矢理振り払う様に、ルフレは三か月の間に積もっていた埃を軽く箒と叩きで払って掃除した。

 そして、母の墓の周りの雑草を綺麗に毟り、そこに屋敷の裏手の森で摘んできた花を手向ける。

 ……旅をした先で、自分の出生を知ったけれど、それで母を恨んだりする気持ちなど欠片も無くて。

 

 ただただ愛してくれた事に、深い感謝と喜びを懐いた。

 母が、ルフレが【ギムレー】であると……『人間』に非ざる『化け物』であると知りながらも、『ルフレ』と名付けて……そして惜しみない無償の愛を注いでくれたから……その最後まで「我が子」として愛し抜いてくれたから……。

 ルフレは、【ギムレー】ではなく、『ルフレ』になれた。

『愛』を知り、『愛し方』を知り、……そして誰かを心から『愛』せる……そんな『人間』に成れたのだ。

 だからこそ、ルフレはルキナを『愛』する事が出来た、『恋』をする事が出来た……。

 それは、この世の何よりも素晴らしい奇跡だったのだ。

 ……その事を、『愛された』事のその幸せを、再確認して。

 ルフレは、墓前に花の雨を降らせた。

 

 ……母は最期まで、この【神竜の力】に抱かれた揺り籠の中で、ルフレが『人間』として生きて死ぬ事を願っていた。

 ……残念ながら約束は守れず、ギムレー教団の者達とも関わってしまい自分が何者であるのかを知ってしまったけれど。

 それでも、旅に出た事を何一つとして後悔はしていなかった。

 それに、何だかんだと母も笑って赦してくれる気がするのだ。

 

 ルフレは母の手記を取り出して、その表紙を優しく撫でた。

 ……母が何を想ってこの手記を遺したのかは分からない。

 ……ただ……この手記があったお陰で、ルフレはルキナを助ける事が出来たし、こうして今も姿だけは『人間』で居られる。

 だからきっと、何時かルフレが自分の『本性』の所為で何か困った時の為に遺してあったのではないかと思うのだ。

 それが事実かどうかはもう確かめようが無いけれど……ルフレはそう思う事にしておいた。

 

 

 屋敷中を掃除して回る中で、馬小屋の前を通りかかった。

 旅立ったあの日と何も変わらぬそこは、今もそこに『竜』の姿のルキナが居る様な錯覚がして……それを振り払う様に、ルフレは馬小屋の掃除はまた別の日にしようと決める。

 まだ、その残滓に触れるには、寂しさと痛みが強過ぎた。

 

 そんなこんなで一通りの掃除をし終えた頃には、もう随分と日が沈むのが早くなったからか、とうに日は暮れていた。

 明日からは、また何時もと変わりのない日々が始まるのだ。

 ルキナと出逢う前の、変わらない日々が……。

 ルキナの事を考えると、どうしても苦しくなる。

 森に帰る事を選んだのは、ルフレ自身だと言うのに。

 ……我が事ながら未練がましいと、ルフレは心から思った。

 

 ……真なる『炎の紋章』の力でルフレの中の【ギムレーの力】は眠る様に封じられ、ルフレは『人間』の姿に戻る事が出来た。

 流石にもう一国を滅ぼしてしまえる様な力は振るえない。

 だけれども、例え【力】を封じようと、『人間』の姿をしていようとも……ルフレはやはり、『人間』ではない。

 チキから貰った【竜石】にその本性を封じているとは言え、ルフレの本性がギムレーである事には変わらないのだ。

 

 ……ルフレ本人がどうであれ、この世界では【邪竜ギムレー】は悪しき存在であると……そう言う事になっている。

 万が一にもルフレの正体が誰かに知られでもしたら……それはもう大変な大騒ぎになるだろう。

 況してや、その悪しき邪竜が、それを封じた英雄の末裔である王女と共に生きているなんて事になれば……。

 どうなるのかなど、火を見るよりも明らかな事であった。

 だからルフレは、ルキナの傍を離れたのだ。

 

『竜の祭壇』での戦いを終え、その後始末も何とか済んで。

 そして、後はイーリスに帰るだけとなったその夜。

 眠っているルキナを、一人残して。

 起きていた聖王に事情を話し、馬を一頭譲って貰って。

 そうして、ルフレは独りこの森に帰って来た。

 馬は近くの村に預けてあるので、少しして馬小屋を掃除したら引き取りに行ってやらねばならないだろう。

 

 ……きっと今頃、ルキナ達は王都に戻っているのだろう。

 そして、奇跡の生還を果たした王女として、人々に迎え入れられているに違いない。

 ……ルキナはルフレを追い掛けようとするかもしれないが、それはきっと聖王が止めてくれる。ルフレがそう頼んだ。

 ルフレはここで、ルキナの幸せを願っている位で良いのだ。

 それで満足するべきだし、『化け物』なのにそうして心から『幸せ』を願える人と巡り逢えた奇跡を噛み締めて生きるべきだ。

 

 きっと、ルキナは良い女王になるだろう。

 そして、良き夫と……ルフレではない、ルキナを支えてくれる誰かと結ばれ、そして次代へその命を繋げていく。

 それを想像するのは、『幸せ』な想像である筈なのに、何故か張り裂けてしまいそうな程に胸が痛かった。

 ……でもきっと、何時かこの痛みも消えてなくなるだろう。

 遠くから愛する人を見守る事が出来るなら、そしてそこで『幸せ』になってくれるなら、それが何よりもの幸福なのだから。

 だけれども、どうしてだか涙が零れ落ちていく。

 それを乱暴に拭ったルフレは、こんな風に何時までも未練がましく思う位なら寝てしまおうと、寝室へ向かおうとした。

 

 だが、ふと窓の外に見えた月灯りが、まるであの日の様に美しく輝いていて……。

 それに誘われる様にして、ルフレは屋敷の外に出た。

 

 月明かりに照らされた森は、あの日を再現しているかの様で……そんな感傷に自嘲しながらも、ルフレは夜空を見上げる。

 ルキナも、同じ夜空を王都で見上げているのだろうかと、そう考えていたその時だった。

 かつてよりも鋭敏になったルフレの耳に、何者かが屋敷の裏手の森で動く音が聞こえた。

 最初は大型の獣かと思ったのだけれども、音からすると二足歩行をしている様なので『人間』だろう。

 

 こんな夜に、こんな森の奥深くに人が……? 

 

 そう考えた瞬間、「まさか」と。

 有り得ない、有って良い筈の無い、そんな妄想が湧き起こる。

 だがそれを否定出来ずに、ルフレは灯りも持たずに裏手の森へと駆け出した。

 

 あの日とは違い、月灯りと星灯りが照らす森の道なき道を、急かす心のままにルフレは走る。

 そんな筈は無いと言う思いと、でももしそうならばと言う淡い期待の様な何かと。そんな相反する想いを抱えたまま、ルフレが藪を突っ切って抜けると。

 

 かつて、あの美しい『竜』が、傷付き果て今にも命尽きそうな状態だった彼女が倒れていた丁度そこに。

 

 ルフレにとってこの世で最も愛しいその人が。

 ルキナが、そこに居た。

 

 ルキナの美しい蒼の瞳が、ルフレを見詰める。

 あの日の『竜』と同じ、美しい蒼が、ルフレだけを見詰める。

 それは、この世の何よりも、素晴らしい奇跡であった。

 

 

「ルキナ……どうして」

 

 

 此処に、と。そう続けようとした言葉は、ルキナがまるで飛ぶ様にルフレの胸に飛び込んできた勢いで途切れる。

 咄嗟に優しく抱き留めるけれど、頭の中は酷く混乱していた。

 

 何故此処に? まさか、追い掛けて来たのか? 

 聖王は止めなかったのか? 

 

 色々と浮かんでは消え浮かんでは消えていくけれども。

 それらは、ルキナが静かに零した涙の雫の前に鎮まる。

 

「ルフレさん……ルフレさん……」

 

 何度も何度も名前を呼んで、そしてもう絶対に離さないとばかりに強く強く抱き締めて。ルキナは泣いていた。

 この涙が自分の所為で流されたものだと言う事位は、幾らルフレでも分かる。でもそれが分かった所でどうすればその涙を止めてあげられるのかはルフレにも分からなかった。

 かつて母がそうしてくれた様に優しくその背を擦る。

 

「ルキナ……どうか、泣かないでくれ……。

 君が泣いていると、僕は辛いんだ……」

 

 するとルキナは抱き締める力を更に強める。

 

「泣かないでと、そう言うのなら……! 

 そうして黙って行ってしまったんですか……! 

 ルフレさんが居なくなったと知った時、何れだけ私が……!」

 

「……すまない、ルキナ。

 でも、何れだけ考えても、僕が君と共に生きる事は出来ないのだと……そう考えが至ってしまって……。だから……。

 ……聖王様に、後の事は頼んだから、大丈夫だろうと……」

 

「お父様が? ……確かに少しは引き止められましたが……。

 最後にはルフレさんを追いかける事を許してくれましたし、『早く追い掛けろ』と馬も用意してくれました」

 

 止めきれなかったのか、最初から本気で止めるつもりは無かったのか……何にせよ聖王は当てに出来なかった様だ。

 

「……こうして追い掛けてくれたのは嬉しいよ。

 でも……やっぱり僕は君の傍に居るべきじゃない。

 こうして今は『人間』の姿をしているけれど、僕は人間じゃない……なろうと思えば、【竜】の姿にもなれる。

 ……そんな『化け物』が……【ギムレー】が、聖王の血を継ぐ王女の傍に居る事は、きっとこの国にとっては良くない。

 それに、誰かが僕の事に気付いて、【力】を利用する為に酷い事をするかもしれない。……ギムレー教団の様に、ね。

 ……僕だけが傷付くなら良いけど、もし君までそれに巻き込まれてしまったらと思うと……」

 

 何も気にせず縛られず互いを愛し合えるならそれが一番良いのだけれども。ルフレも、そしてルキナも。

 そう生きるには柵が多過ぎる。

 だが、そんなルフレの言葉に、ルキナは否を突き付けた。

 

「そんなの……! そんな事、どうだって良いんです! 

 私がルフレさんを守ります! 

 誰にも、あなたを『化け物』だなんて言わせません! 

 絶対にあなたの【力】を利用なんてさせません!」

 

 ルフレの首元を絞める勢いで、ルキナは胸元を掴み叫ぶ。

 

「私には、ルフレさんが居ない未来なんて意味が無いんです! 

 あなたが居ないそこに、『幸せ』なんてありません! 

 私が王女だから共に生きられないと……そう本気で言うのなら、王女の地位は返上します! 

 元々あの日に死んだと言う扱いでしたし誰も困りません! 

 それなら、ルフレさんもこれ以上言い訳に逃げませんよね?」

 

 王女の地位を返上すると言うが、そんな風に決めて良いモノではないだろう。それでは、あの聖王からルキナを奪う事になるのだ。それ故に、簡単に頷ける筈は無かった。

 

「ルキナ、そんな事をしてはいけない。

 君は君の生きる場所がある。

 ……僕は、それを遠くから見守るだけで良いんだ」

 

 そう言った瞬間、ルキナは俯いて震えた。

 

「ルフレさんの……」

 

「……?」

 

「ルフレさんのっ! このっ、分からず屋ーっ!! 

 何をどう言えば、分かって貰えるんです!? 

 私は、ルフレさんの事が世界で一番大切で大好きだと! 

 そう言ったじゃないですか! 

 その意味が本当に分かってるんですか!? 

 後にも先にも、ルフレさんよりも愛しいと想える相手は居ないって事ですよ!? 

 それをまあ、『遠くから幸せを見守っている』だの何だのと! 

 馬鹿にしているんですか!?」

 

 そうまるで心から憤慨しているかの様に言うルキナに、ルフレも思わず言い返した。

 

「僕だって……! 

 君の事が世界で一番好きだ、愛しているさ! 

 だから、『影』に何をされても絶対に折れずに耐えてきた! 

 僕だって、君の居ない世界なんて考えられないし、そこに幸せは無い! でも、君が傷付く事を考えると、僕は……」

 

「まだ起きてもいない事をあれやこれやと考えて臆病になっているだけじゃないですか、この意気地なし!! 

 本気で私を愛していると言うのなら、絶対に私を幸せにする位言って下さいよ!! 

 幸せにする覚悟も、愛する覚悟も無いんですか!?」

 

 ルキナにそう言い募られて、ルフレの中で自分をどうにか抑えていた最後の『何か』が切れる音がした。

 そして、湧き上がった衝動の侭に。声を上げ続けた為荒く息をするルキナのその口を、ルフレは唇で少し強引に塞いだ。

 そして、突然の口付けに驚いて目を丸くするルキナに言う。

 

 

「あるに決まっているだろう。

 愛し抜く覚悟も、最後まで君を守る覚悟も! 

 覚悟しているからこそ、その幸せを一番に考え続けるからこそ、どんなに苦しくてもこの手を離そうと思った。

 だけど、君がそんな風に思うのなら、僕はもう諦めない。

 元より僕は、邪竜ギムレーだ。

 王女様一人を攫ってしまう位、訳も無いさ。

 何なら、王城に居座って我が物顔で王女様と生きても良い」

 

 

「なら私は。そんな優しくて愛しい邪竜の為に、大人しく攫われて、ずっとずっと傍に居てあげます。

 愛しています、何があってもずっと、絶対にもう離しません」

 

 

 ルフレの言葉に微笑んだルキナは、ルフレに口付けを返す。 

 その熱に浮かされる様に、互いに幾度となく口付けを交わし、そしてその手をそっと重ね合わせる。

 それはまるで秘密の契約の様ですらあった。

 

 

 果たしてどちらが相手を掴まえたのだろうか。

『邪竜』が聖なる『王女』を攫ったのか。

 聖なる『王女』が『邪竜』を捕らえて飼い馴らしたのか。

 

 

 まあどちらにせよ、『邪竜』と『王女』が、互いにこの上無く満ち足りて幸せである事には間違いないのであろう。

 愛し合う二人が共に生きる事に、そこにある形式は当事者にとっては割とどうでも良いものなのだ。

 

『竜』と『賢者』として出逢った二人は、『王女』と『邪竜』として相手に向き合った。

 

 

「僕と、共に生きてくれますか?」

 

 

『邪竜』は、人に非ざる『賢者』は問う。

 

 

「ええ、勿論。この命ある限り、ずっと」

 

 

『王女』は微笑み、そして誓う様に『邪竜』に口付けた。

 

 

「私と共に、生きてくれますか?」

 

 

『王女』は、かつて『竜』として出逢った女は問う。

 

 

「勿論、何時か共に永遠に眠る日まで、ずっと」

 

 

『邪竜』は、優しく微笑んで『王女』のその頬に口付ける。

 こうして、二人の間に誓いは結ばれた。

 ……その未来に何が起きようと、決してもう離れる事は無いと言う、そんなこの世の何よりも重い契約は、確かに成った。

 

 

『人間』である『王女』と、【竜】である『賢者』の未来に、何が待ち受けているのかは、誰にも分からないけれども。

 

 それでも二人は、決してその手を離さない。

『愛』する相手と生きる明日を、何があっても諦めない。

 何時か共に永久の眠りに導かれる日まで、ずっと。

 

 

 ……それだけは、一つ確かな事であった。

 

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆



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