知らなかったのか? 美少女に催眠はあんま効かない。 (夜桜さくら)
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ねえこれ催眠効いてる? 効いてない?
「清潔感がない」
バッサリと僕の服装に駄目だしをしたのは、凄く可愛い女の子だった。
つややかなセミロングの黒髪、ぱっちりとしたアーモンド形の目、柔らかそうな唇。
髪を束ねる鮮烈な赤のシュシュが印象的だ。
「まず、伸びた服着るのやめて。首元よれよれ。というかなんかシミついてる。……髪も、せめて寝ぐせくらい直してきてよ」
はーぁ、と大きなため息を吐いた姿まで様になっている。凄いなと、少し現実逃避しながら思いつつ、「ごめん」と一言謝る。
けれどそれも悪手だったようで、彼女の目がキリリと吊り上がる。
「すぐ謝るのやめて。もっと、堂々としていなさい。背筋伸ばす!」
「は、はい!」
よろしい、と彼女が頷く。
「じゃあ、とりあえずショッピングね。服、選んであげるから」
ぼくが、催眠アプリで恋人にした女の子が、唇を尖らせて言った。
ツンなのかデレなのかいまいちよくわからない、この現状。
「なんでこうなってるんだ……」
「なにか言った?」
「……いや」
なんか思ってたのと違う。
ぼくは、自分のスマートフォンを見下ろして、そっと嘆息を吐いた。
それはいつも通り、教室の片隅で一人スマートフォンを触って遊んでいたときのことだった。
今晩使うエロ画像を選出していたら、誤タップ。
何か妙なアプリのインストールが始まった。
(やっっっっべー!!)
どうしたものかとあたふたしているうちに、インストールが終わり、そしてスマートフォンには〈催眠アプリ〉と書いてあるアプリが新しく入っていた。
ひとまず安全な対処法は何かないかとネットの海で情報を探すも、優秀なエロネタが集まるだけで類似した例は見当たらなかった。
思考を停止した末に、アプリを起動。
焦りのせいか、馬鹿のせいか、はたまたアプリに秘められた魔力とでも呼ぶべきもののせいか。
使ってみよう、などという考えに至るのにそう長い時間は必要なかった。
赤嶺さゆり。
いわゆる学校にひとりはいる美少女という奴。
才色兼備。
勉強ができ、友達が多く、常にクラスを華やかにしている。
おっぱいも大きい。
性欲あふれる男子高校生たちが、さぞ夜のお供にしていることであろう。
やっぱり催眠かけるならこういう子だよな、ということで、放課後校舎裏に来てもらうよう手紙を出した。
女の子の下駄箱にものをいれるなんてはじめてで、どきどきしたのはここだけの秘密だ。
そうして、放課後。
大きなケヤキの木の下に立っている彼女のもとへ、ぼくは歩いて行った。
ぼくの足音に気付いた彼女が振り返り、目が合う。
「や、やぁ」
「……手紙くれたの、佐藤?」
柔らかな笑みを浮かべながら、彼女は可愛らしく首を傾げている。
ぼくはどきどきしながら頷いて、「見てほしいものがある」と言った。
「見てほしい、もの?」
「これっ」
ぼくはさっと自分のスマートフォンの画面を、彼女の眼前に突き付けるように差し出した。
催眠アプリの使用方法はとても簡単。
画面を相手に見せるだけ。
心臓を高鳴らせながら、ぼくはおそるおそる、彼女の顔をのぞきこんだ。
「…………」
ぼぅ、としていた。
自失状態。
まるで別の世界を視ているように目の焦点が合っておらず、手を目の前で振っても反応しない。
(やった! 成功した!)
正直半信半疑で、失敗しても構わないと思っていたのだがこれは儲けものだった。
これからどうしてやろうか、と邪な妄想が頭にあふれてくる。
しかしまぁ、とりあえず一番最初にすることは決まっていた。
どろどろとした性欲の原初とでも言うべきもの、性に芽生える前からずっと思っていたこと、子供のころからなんとなく夢見ていたこと。
恋人がほしい。
そんな、ありふれた願い事。
「“ぼくのことを好きになってっ”」
言ってから、恥ずかしいことを言ったなぁと顔に血をのぼらせていると、彼女が動き始めた。
ぱちくり、と目を瞬かせて。
目が、合って。
彼女の顔が、ボッ、と赤く染まって。
「え、ええええええ」
壊れた機械のように、声を上げる。
「え、えっと……」
「え、何。てか近い近いっ!」
彼女の顔を覗き込んでいた関係上、確かにいささか顔と顔の距離は近かった。
顔を真っ赤にしながらあとずさりする彼女を見て、ぼくは確信する。
(催眠が、効いてる――!)
どっどっ、と期待で心臓が高鳴りだした。
「――おっぱい、さわってもいい?!」
思わずそんな言葉が口からこぼれ出て。
「え、いや無理」
彼女が、先ほどとは全く別の理由で、また後ずさる。
胸をかき抱くその振る舞いと表情からは、嫌悪の情が垣間見えた。
「え、どうして」
「いきなりそんなこと言われるの、怖い。私たち、別に付き合ってもないのに……」
「あ、そうか」
ぼくは得心する。
そういえば確かに、催眠をかけた文言としては“ぼくのことを好きになって”であって奴隷になれでもないしぼくの言うことをすべて聞くわけではないのかもしれない。
じゃあ、と短絡的に考える。
「えと、じゃあぼくと付き合ってください……」
「…………不正解」
「えっと、だめってこと?」
「……だめじゃない、けど」
「やったっ」
「い、いいけど。すぐえっちさせてとか、だめだからね? こわいんだからね?」
「うん。わかった。そういうことは言わない!」
「じゃあ、えっと。よろしくお願いします……?」
「よろしく!」
顔を赤らめたまま、「ムードがない……不正解……」とぼやく彼女は大変可愛かった。
この子が今日から恋人だと思うと、テンションが爆上がりである。
ぼくは、リア充になった。
なったはずだった。
最初は良かった。
クラスの中で会話したり一緒に下校したりなんかしちゃったりして、周りが茶化してきたり、付き合ってると言うと驚かれたりしたりまぁなんやかんやそれもまたそれで心地よかったりした。
だが。
そんな甘酸っぱい光景はそう長くは続かなかった。
「えと。いまなんて言ったの。聞こえなかった」
「……もっかい言ってくれる?」
「声が小さくて聞き取りづらい。はっきり言って。そういうの、相手に失礼だよ」
「…………あのね。会話する上で、相手に聞こえるようにしゃべるってのは最低限の礼儀なの。ぼそぼそしゃべってないで、もっとはっきり声に出して。あとどもるのも印象悪い。言いたいことははっきり言って。いちいち他人の顔色を窺わない」
月日が流れ、共に過ごす時間が増えれば増えるほど、彼女はぼくに辛辣になっていった。
これはなにかおかしいのではないか、と催眠アプリを確認するも、どうにもアプリの画面は正常なように感じる。
そしてついでに気付いたが重複して催眠はかけられないらしい。
試しに「犬になって」とアプリを見せながら頼んでみたけれども、「ヤダ」と一蹴されてしまった。
操作説明などが特にないので手探り状態だが、いかんせんとりあえずはこの状態を維持するしかないなーと思いつつ、辛辣な彼女との恋人生活を送っていた。
まぁそんなこんなで―――冒頭に戻る。
「ま、待ってよさゆりさん」
「とろくさいなぁもう……」
つかつかと先行するさゆりの後を追って、歩き出す。
待って、と言えば待ってくれるし、歩くスピードがゆっくりになるあたり、やはりこの子は優しいなと頬を緩める。
「どうかしたの、にやにやして」
「さゆりさん可愛いなと思って」
「……あ、そ」
ふい、と顔をそむけて、また少し歩くのが早くなる。
ぼくは少し足を早めて、さゆりさんはわかりやすいなぁと笑ってしまう。
「……こんな可愛い彼女と歩くんだから、ちゃんとしてよね」
少し間をおいてから彼女は、きっ、とこちらを睨みつける。
「うん。でもとりあえず、そういうのよくわかんないから教えてくれ」
「……まぁ、いいけど」
はぁ、と彼女はまた小さくため息を吐く。
お小言をもらわれながらアパレルショップまでやってきた。
「ところで、進くんって服の趣味とかあるの?」
「ない!」
「もうちょっとちゃんと考えて」
「いやそんなこと言われても……」
例えばこれとか? と着心地のよさそうなスウェットを手に取る。
彼女は「……不正解」と大きなため息を吐く。
「……部屋着としては悪くないけど、それ、うん。いや別にスウェットが悪いって言ってるんじゃなくて。私だって着ることはあるし、ただ、それは室内用なんだよね……」
「そうなのか」
「そうなの」
「何がどう違うの?」
「……説明するのめんどい」
「そっか」
「知りたいか知りたくないで言うとどっち」
「え。いやうん、どっちでもいい……?」
「不正解。いまはどっちって聞いてるんだからどっちか答えて」
「えと。じゃあ知りたい」
そう答えると、つっけんどんとした態度のまま彼女はつらつらと話し始める。
形がどうの、生地がどうのと。
あまりよくはわからなかったが、服にはある程度綺麗に見える形があるらしいとかどうとかいう話だった。
なんかもうスウェット関係ないなと思いつつ、話を聞く。
「まぁ、とりあえず、ボトムスかな……」
「ボトムス?」
「とりあえずスタイルよく見せるには下半身だからね」
「へー」
棚からボトムスを出して、「ウェスト何センチ?」「とりあえず試着してみよ」「は? 試着したことない……? そんなひといるんだ」「細いほうがいいの。ゆったりしてるとモサっと見えちゃう」やらなんやら、会話をしながら試着をしたりなどした。
「……まぁ、こんなもんかな」
「おー。さすが。で、どれ買えばいいの?」
「んー。まぁ別にこのお店のでもいいけど、もうちょっと他のも見よ。このモール、あと三、四件はメンズのお店あるし。というかトップスも見たいし」
「えっ」
「ほらさっさとして」
「あ、うん」
そうして先ほどと同じように店内を見て歩いて、「お店によって結構置いてある服の感じ違うでしょ?」「どこのが一番好き?」「というかいくら持ってる? 財布事情考えてなかった」「お昼ごはんどこで食べよっか」などなど適当に会話をしながら、歩いていた。
「…………」
「……疲れたの? 体力ないなぁ」
「いやまぁうん。こんなに長いこと買い物してるのはじめてで」
「買うって決めてるもの以外、何も見てないんでしょ」
「いやうん。なんかごめん」
先ほどまで比較的穏やかそうだったさゆりの目が、キリリと吊り上がる。
それを見てぼくは、あわてて言葉を付け足した。
「ご―――ええと、すぐ謝るのはやめます。まだ慣れてなくて、つい」
「……ん」
どうやら対応としては間違っていなかったらしい。
吊り上がってた目が下がり、しゅん、と彼女が大人しくなった。
少しばかり気落ちしているようにも見えて、ぼくはどうしていいかわからず口ごもる。
「“すぐ謝るのやめて”って言ったの。ちゃんと聞いてたんだね」
「え、いやうんそりゃ怒られたし」
「うん」
やっぱり、とさゆりは宙を見つめて呟いた。
そして、ぼくに向きなおり、今日一番の笑顔で「次あっち行こう」と指をさす。
「ちんたらしないでって言ったでしょ。ほら早く」
「えぇ、まだ歩くのか……」
「途中で休憩はするからだいじょぶだいじょぶ。まだまだ前半戦だぜー」
「前半……?!」
「おうよー」
前半……もう一時間以上経っているのに、まだ前半の途中……。
(女の子の買い物が長いって、漫画の中だけの話じゃなかったんだな……)
なんだか口調も不思議な感じになった彼女に、ぼくはうなだれてついていくしかできなかった。
とりあえず彼女のコーディネートに従って服を買い、そのまま試着室で着替えて、デートを続けていた。
服なんてものには興味の欠片もなかったが、「悪くないかな」とにこにこされると、そう悪くない気分である。
飴と鞭というのはこういうことか、と怒ったり笑ったりする振れ幅が物凄く大きい彼女を見て思う。
「さすが私。センスいい」
「さゆりさんはセンスがいい」
繰り返すように、彼女を褒める。
適当に口にしているだけでも、彼女は少し上機嫌になってくれていた。
こういう表面だけの言葉というのは、“作った”言葉ではあるがそれで関係が上手くいくならそれでいいのかな、と彼は思って。
これが、相手に合わせるということなのかな、と漠然と感じたのだった。
何気にデートをするのはこれがはじめてなので、丸一日フルタイムで接していると、いままで見えていなかった部分が見えてくるものだった。
最初はカップルだしなぁ、ということで学内でも頻繁に話しかけていたものだが最近はめっきり会話をしない。
いわく、「私にも人間関係っていうのがあるから、それを乱さないで。……めんどくさいから直球で言うと、学校では話しかけるな」とのことだ。
まあ話しかけるなと言われて話しかけるほど命知らずではないというか、彼女は自分の意に沿わない行動をぼくがしようとすると大変怒るので、仕方ないかなという感じだった。
「佐藤氏がリア充になってから三ヶ月。どうなることかと思いましたが、特にお変わりはないようですな」
一応、さゆりさんに言われて髪とかもいじくってるんだけどなと、ぼくは自分の前髪に触れる。
けれども、はたから見たら別にそんなに変わらないのか、とガッカリしてしまう。
「ブヒ太郎くんは変わんないね」
「ブヒヒ。それほどでもないですぞ〜」
ポチポチとスマホをいじくりながら、ぼくは友達のブヒ太郎くんと話していた。
日陰者同士、というとアレだが、まあ実際そんな感じの連れ合いというかシンパシーを感じるのは事実。
まあまあ気が合うのでクラスの中ではよく話している。
「佐藤氏佐藤氏。ちょっとお伺いしたいことがあるのですがよろしいですかな?」
「なに?」
「ここだけの話、どうやったのですかな? 普通に考えて、佐藤氏が赤嶺殿と付き合うなどあり得ないでござろう?」
「まあそうかもね」
運命的な出会いがあったんだよ、とか言うのもめんどくさくて、適当に相槌を打つ。
「おや、認めるのですかな!?」
「いやてかうるさいよ。みんなこっち見てるよ」
「話を逸らさないでいただきたい!」
実際変なことをしている手前、後ろめたさがあった。
だけど、さゆりさんもいるクラスの中であまりそうした会話をしたくなくて、ぼくの口調に苛立ちが混じる。
――そういうの、相手に失礼だよ。
「ブヒ太郎くん。その言い方は失礼だよ」
思わず、さゆりさんがぼくに言うように、話していた。
それに気付いて。
ぼくは。
失礼なのはどっちだよ、と惨めになった。
窓の向こうに飛行機雲が流れていた。
喫茶店の中でぼくは、ぼぅとそれを目で追って、それを作る飛行機を見つけようとしてだけど見つからなくて。
「ねぇ聞いてる?」
「……え。うん」
だから少し、反応が遅れてしまった。
対面に座る彼女にあらためて視線をやると、いつも通り、キリリと目が吊り上がって唇を尖らせていた。
「不正解」
はぁ、とさゆりはいつも通りにため息を吐く。
「話聞いてなかったでしょ」
「はい」
「適当に相槌するのやめてよね」
「はい」
まぁいいけど、と抹茶ラテを口にする。
「抹茶って凄い無難に美味しいからずるい」
「苦いのと甘いのを組み合わせる感覚がぼくにはわからない……」
「カフェオレとかも飲めないの?」
「いやカフェオレは飲める」
ふーん、と。
可憐に嫣然に朗らかに。
「飲めんじゃん」
笑みを浮かべる。
ぼくは彼女がときおり浮かべる、この笑みが好きだった。
「いつも思うけどさぁ」
「うん?」
「進くん、よく私と一緒にいていやにならないよね」
「エ?」
あまりにも想定外な台詞に、素っ頓狂な声が出た。
「なにその声」
くすくす、と彼女が笑う。
「いや、え? なんで?」
「なんでって、いつも私、進くんのこと馬鹿にしてんじゃん。いまだって、『何その笑い声~』ってさ。嫌になんないのかなって」
「……?」
「何」
「いや……」
頭がまだ回らない。
「だって、さゆりさんはほとんどぼくのために言ってくれてただけじゃん」
「……」
「“そういうのは人に悪印象を与えるからやめたほうがいいよ”――って、だいたいそういう感じだったでしょ」
「……ふうん?」
笑みを浮かべていた彼女は、眉根を寄せはじめた。
何か気に入らないことがあるのか、とぼくは少し困惑しながらも、言葉を続ける。
「というかそもそも、それを言うならこっちの台詞なんだよね。いつもぼくのそういうところ注意するけど、それ、嫌にならないのかなって」
言いながら、ずるい言葉だなと思った。
そんなのも含めて「好きになって」と言ったのはぼくなのに。
「そりゃ」
だけど、返ってきた台詞は、思っていたものとは違うものだった。
「嫌に、なるよ。いつも俯いてたし声小さかったし服もダサかったし髪も妙に長かったし何言ってるかわかんなかったしやりたいこともわかんなったし……ホント、意味わからなかった」
好意を植え付けたはずなのに、返ってきたのは“嫌”だという言葉。
それがまず意外で。
「でもまぁ、なんか好きなんだよね」
そして嫌いだけど好きという言葉が。
当たり前のその現実が、胸に、突き刺さった。
結局自分は、相手の心をもてあそんでいるだけなのではないか、と。
「……」
「どうしたの」
「いや……」
「変なの」
けらけら、とさゆりはおかしそうに笑う。
「あ、雨だ」
「……ほんとだ」
しばらくここで雨宿りだね、と笑う彼女の顔を、ぼくは直視できなかった。
「不正解」
と、彼女が言った。
「え、なにが?」
「なんで傘二本買ってきちゃったのかなぁ、って」
「え?」
「相合傘、一回やってみたかった」
ふふ、と笑みをこぼす。
「冗談だよ。ありがとう」
ぱしゃり、と。
水たまりに足を踏み入れる。
屋根の外に一歩足を出すだけで、足は濡れるし雨粒が傘を叩く。
とんとんとん。
ぱしゃぱしゃぱしゃ。
そんな音を立てながら、ぼくたちは歩いて帰った。
陽の光が燦々と降り注ぐ休日。
ぼくたちは自然公園へと足を運んでいた。
映画やらカラオケやら、学生が気楽に行ける場所というのはあらかた足を運んでいて、恥ずかしいながらお財布的に来れるのがこういうコストの安い場所が多くなってしまうという現実がある。
この場所は以前にも一度足を運んだことがあり、今日で来るのは二度目だった。
前に来たのは暑い夏の日だった。
太陽の光の具合も、燦々と――などという可愛らしいものではなく、灼熱のという形容が似合いそうな熱くて暑い日だった。
汗をかいて、まぁ正直ここはナンセンスだったなと自分では思ったものの、意外とさゆりに好評だったことだけは覚えている。
「うわ涼し。いや別に今日も涼しくはないけど、あったかいけど、暑くない! いい天気」
「そうだね」
真っ白なカットソーの上に薄手のカーディガンを羽織ったパンツルック。
散歩しやすい簡素な恰好をした彼女は、今日もやっぱり可憐だった。
「行こうよ。歩こう」
「うん」
歩く以外することないんだけどね、と笑う彼女に、ほんとそうなんだよな、と頷きながら歩き始める。
「なんだかんだ広くて、前地味に迷ったよねぇ」
「いやほんと広いよね。また迷う気しかしない」
「ちゃんとエスコートしろー」
「……園内マップ、撮って来てもいいですか」
「はやくしろー」
きゃっきゃと騒ぐ彼女を置いて、少し先にあるマップのもとへと足を進める。
まぁ見れればいいかと簡素に写真を撮って、振り返るともういない。
「…………あれ?」
飲み物でも買いに行ったのかな、と入り口のさらに入り口のあたりを思い浮かべる。
確か、あそこには自動販売機があったはず。
「うーん」
エスコートちゃんとしないとまた怒られるなぁ、などとぼんやり考えて、まぁとりあえず端末から「どこいるの?」とメッセージを送った。
すぐに、「探してみて」と返事がきた。
「………………いた」
「わ、早い」
「いやていうか隠れる気なかったでしょ」
「でも最初見失ってなかった?」
「……」
「視野がせまーい」
むぅ……とうなると、「ごめんごめん」と彼女がけらけらと笑う。
「いこ」
「はいはい」
「『はい』は一回」
「はーい」
「伸ばさない」
「うっす」
「ぶっ飛ばすぞ」
「言葉遣いが荒い」
「わかるー」
まず最初に向かったのは、薔薇園だった。
多種多様な薔薇が集まっているその道は、見るからに華やかだった。
「きれー」
「そうだねぇ」
「思ってもないことを」
「いや想ってるよ?!」
「ほんと?」
「うん」
じゃあ、とさゆりは照れたようにして口にする。
「薔薇と私、どっちが綺麗?」
「……」
「おい」
「照れるくらいならそんなこと聞かなきゃいいのにと思って」
「不正解が過ぎる……」
む、と眉根を寄せて、彼女は拗ねたように歩き始める。
「相変わらず可愛いね」
「……正解」
「それはよかった」
次に向かったのは、蓮の池。
大きな大きな池があった。
「蓮ないねぇ」
「ええと。もう散ったあとかな」
「え、なんでここに来たの」
「何でと言われても流れで、としか」
エスコートがなってないなぁ、と彼女はぼやきながら、けれどその表情は朗らかで、うっとりした様子で水面に視線を向けていた。
「今から恥ずかしいこと言うから笑わないでほしいんだけど」
「何」
「光が反射する水面って、宝石みたいだよね」
「……あー、なるほど」
「わかる?」
「うん。きらきらしてる」
「ふふ、正解」
ただの水溜まりを見て綺麗だと感じるその目線は、自分にはないもので。
水光の宝石を見て笑みを浮かべる彼女を見て、ぼくはその眩しさに目を細めた。
「前に来たときから思ってたんだよね。宝石みたいだって」
「あ、そうなの」
「うん」
池に落ちないよう立てられた柵に寄り掛かり、彼女はぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「言ったら笑われるかなと思って、前は言わなかったんだよね」
「別に笑わないのに」
「知ってる」
今はね、とさゆりは付け足した。
ぼくはそれを聞いて喜ぶべきなのか悲しむべきなのかがわからなかった。
ただ一つ確かなのは、その好意は植え付けたものなんだよなという罪悪感だけだった。
ハーブ園。
ぶっちゃけ見た感じだと雑草と何も変わらないのがハーブである。
いやまぁ花が咲いている種もあるし、華やかさがないとは言わないが、それ以前に訪れていた薔薇などとは比べ物にならない地味さだった。
「んーっ」
だけれども、さゆりはご満悦である。
「こういう、ちっちゃい花もいいよね」
「そうだねぇ。……あ、ジャスミン茶売ってるけど、いる?」
「いる」
前も売店を見てテンション上げてたなぁということを思い出しながら、ジャスミン茶を買い求めに行く。
るんるんと弾んでいる彼女は、まぁ草木が好きで散歩が好きとは言っても、やっぱりこういうお茶やら口で直接味わうものが好きなようだった。
「んー美味しい」
「ジャスミン茶好きだねぇ」
「普段別に飲まないのは知ってるでしょ。こういうとこだと飲みたくなるじゃん」
「まぁ、そうね」
「向こうのベンチ行こ」
「はーい」
並んで座って、軽く乾杯。
乾いたのどを潤した。
二人の肩は触れ合わず、されど二人の影は重なり合う。
そんな距離で、足を休めた。
「あ、トイレ大丈夫?」
「不正解。聞き方がナンセンス……」
並木道を、歩いていた。
ただ両脇に木々が並んでいるだけの道。
だけれども、普段目にするよりもはるかに緑の量は多く、これだけでもひどく非日常だった。
空からそそぐ陽光は木々の枝葉に遮られ、木漏れ日として煌めいていた。
「木漏れ日ってなんか凄く綺麗だよね」
ただの太陽の光でしかない。
「なんていうか、普通の明かりとはちょっと違う感じ」
それはたぶん元気なひとを見ても足を止めないが、儚く消えてしまいそうなひとが腰かけていると足を止めてしまうのと同じこと。
弱さの中の美しさ、儚い美しさは、人の目を惹き付ける輝きを持たないまま、ごく自然に人の足を止める。
惹き付ける強い美しさではない、自然と足を止める儚い美しさ。
「足を止めたからはじめて気付いた綺麗なものって感じが、凄く好き」
「そうだね。凄くわかる」
彼と彼女では、美しいと思うものは決定的に違うだろう。
彼女は木漏れ日の儚い輝きに惹かれた。
彼は活発で明るく鮮烈な太陽に惹かれた。
ただ美人で可憐で清廉だったというのが切っ掛けなのは事実だ。自分には決して手の届かない高嶺だったから、引きずり下ろす魔法が、奇跡が、手に入ってしまったから使ったというただの愚かな男の話。
だからまぁ、清算をしようと思っていた。
罪滅ぼしにもなんにもならないけれど、もう、終わりにしようと思っていたのだった。
最後は彼女が一番楽しそうにしていたこの場所で、と。
「? どうしたの?」
さゆりは、自分の携帯端末をじっと見つめる彼を見て、眉をひそめる。
いい感じに浸ってたのに、何をしているんだろうと。
少し離れていた距離を、彼女が詰めようと足を踏み出した瞬間、彼はアプリを削除した。
削除。
もう二度と、心をもてあそぼうだなんて思わないように。
「――――――」
さゆりは、胸に手を当てた。
何かがなくなったような気がした。
いや、気のせいではなく、なくなった。
あぁなるほど、と。
彼女は納得した。
だから、
「何か言うことは?」
いつも通りキリリと目を吊り上げて、彼女は憮然とした表情で言った。
「え、と……」
「何か、言うことは?」
「ごめんなさい。あの、ほんとに―――」
「不正解」
謝罪の言葉を口にしようとして、即否定される。
「というか、前も言った。すぐ謝らないで。謝って済む問題じゃないならなおさらに。……一回ヤダからやめてって言ったら、やらなくなるのが進くんの良いところなんだけどな」
前半の鮮烈さとは打って変わって、後半の口調の柔和さは彼をずいぶんと驚かせた。
その不透明な透明は、真意を彼に悟らせず、どうしていいかがさっぱりわからなかった。
だけどはっきりしているのは、こんなときでも彼女は変わらないなということで。
それは、催眠をかけていようがいまいが、彼女の真実は変えられてはいなかったということで。
それが凄く嬉しくて、涙が出た。
「え、いやちょっと。なんでいきなり泣いてるの」
つっけんどんとした態度が瓦解して、さゆりはあわてて彼にかけより、「大丈夫?」と肩をゆすった。
「ごめん」
「だからそういうのはいいって」
「ごめん……ごめんな……」
「謝るくらいならはじめからそんなことしなければよかったのに」
全部わかったような口調で、彼女は彼を諭すように撫でる。
彼の嗚咽を聞きながら、「かっこ悪いなぁ」と花咲く笑みを浮かべていた。
「……好きだ」
「うん」
「綺麗だ」
「ありがとう」
「世界で一番可愛い」
「それは言い過ぎ」
まぁでもわからなくもないけど、と彼女はまた笑う。
「私も好きよ。なかなかのレベルでかっこ悪いあなたのことが好き」
「…………は?」
「え、なに。『は?』って何」
「いやいまなんて言った?」
「好き」
恥ずかしいんだから何度も言わせないで、と彼女は唇を尖らせる。
「正気か?!」
「流石に聞き捨てならない。キレるわよ」
「もうキレてない?!」
ぎゃーすかと、先ほどまで泣いていたのはなんだったのかというような具合に言い合いを始める。
「……はぁ」
彼女はいつものようにため息を吐いていた。
馬鹿だなぁ、という目でぼくを見ていた。
「最後にもう一回だけ聞くけど、何か言うことは?」
「え、あ。好きです!」
「それだけ?」
「付き合ってください!」
「はい正解」
こんなの女の子に誘導されなくても言ってほしい、と呆れた目を向けられる。
いやこの状況でんな無茶な、と思いつつ、未だに頭がぐるぐると迷走していた。
「……乙女心もてあそんだ罪、一生かけて償ってね?」
ぼくは、「はい」と述べて頷いた。
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