高垣楓「そして明日の物語」 (くまたろうさん)
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1話

連続投稿となります。よろしくお願いいたします。


 

 もしも世界の音に色がついているのならば、きっと貴女と同じ瞳の色をしているのだろう。

 

 

 

 

 僕が彼女に出会ったのは、どこか湿気臭さが鼻につく、暗く埃っぽいステージの上だった。何処にでもあるようなライブハウスの、お世辞にも広いとは決して言えないステージの上。そんな場所で、彼女はまるで絵画から飛び出たかのような優雅さでもって、優しく、艶やかに、それでいて誇らしげな表情で、音を紡いでいた。別に初めて彼女の存在をそこで知った訳ではなかった。

 でも、その姿に、その心に初めて触れることが出来たと感じるのは、やっぱりあの場所だったんだと思う。

 

 一音一音が心を震わせ、魂を穿つ。

 

 彼女の音が響く時、そのありきたりなライブハウスは彼女の世界に包まれた。足元のコンクリートは草原へと変わり、湿っぽかった空気を清々しい程の風が攫って行く。

 音色は僕らの今いる場所を一瞬で塗り替え、まるでどこか遠くの花畑に立っているかのような錯覚さえ覚える。

 

 そんな世界の中心で、『歌姫』は歌っていた。

 

 胸のドキドキが鳴りやんでくれない。

 どうして貴女の音は、こんなにも僕の心を震わせるのだろう。

 どうしてこんなに、貴女に魅かれてやまないのだろう。

 視線が離れてくれなかった。一瞬たりとも彼女を見失ってしまわないように。一瞬たりとも、世界から色が消えてしまわないようにと。

 

 視線の先の『歌姫』はその歌声でもってくすんだ僕の世界に、確かに色を付けたのだった。

 

 

 

 

 

「こんなんじゃダメだねぇ……。うちじゃ使えないよ」

 

 もう何度見慣れた光景だろうか。

 僕は机の上に放り出された紙束を恨めし気に睨みつける。バサリと音を立てて整った長方形から形を崩した数十枚の紙束は、ここ最近の熱情の塊だったものだった。

 

「……すみません」

 

 自分が発したはずのその一言で、目の前にあった物語はどう見てもただのゴミ束にしか見えなくなってしまった。

 試行錯誤すること一か月。そんな僕の時間は、たった十五分の打ち合わせであっけなく水泡に帰すこととなってしまった。

 何も言えずに黙ってしまった僕をあざ笑うかのように、外では五月蠅いくらいの蝉の声が響いている。

 

「七瀬君さぁ、これで何度目よ」

「……すいません」

「今西部長が目をかけてるって話だったから俺も付き合ってるけど、こっちだって案外暇じゃないのよ?夏フェスの打ち合わせだってあるんだし」

「それはっ!っ……わかってます……けど……」

 

 机の下で握りしめた拳が、小さく悲鳴を上げたのが分かった。

 自分が心血を注いで書き上げた一本が、こうも無下に扱われるという悔しさは、何度味わっても慣れてくれそうにない。こっちだってふざけてやってるわけじゃないってのに。

 

「うちだってお抱えの脚本家なんていくらでも居るんだから、こんなんじゃそっちに頼んじゃうからさ」

「もうちょっとだけっ、待っていただけないでしょうか……?」

 

 机にぶつけんばかりの勢いで頭を下げる。

 そんな僕を、脇ですっかりぬるくなったコーヒーが冷めた目で見ているのが分かった。

 

「ま、考えとくよ……。でも、今のままじゃ使ってやることは到底できそうにないね。君は親父さんとは違う。ありきたりなどこにでもありそうな話、素人でも書けそうなもん持ってこられちゃ困るよ。金だってスケジュールだってかかるんだからさ、期待しないで待ってるよ」

 

 ”親父さん”というセリフについピクリと反応してしまい、僕は何も言い返す言葉が出てこなかった。

 そのまま彼は机の上の飲みかけのそれに目もくれることなくその場を立ち去っていく。残されたのはくすぶったままいつまでも燃えることのない僕と、僕を冷たく見つめる冷めたコーヒー、そしてついぞ一人にしか見られることのないままこの世を去っていくことになるかわいそうな物語が一つ。

 誰の心にも残らないだろう拙いハッピーエンドが、こうしてまた一つこの世から姿を消すことになった。

 

「……またダメか」

 

 思わず机の上に伸ばした手が、くしゃりと音を立てながら束ねられたA4用紙を握りつぶした。否定されて、結末を迎えることのできなかった物語―。

 

 帰ろう。こんなところで落ち込んでいたって惨めなだけだ。

 

 辺りを見回すと今も大勢の人たちが落ち着いた店内を装飾していた。平日のカフェは思ったより人の出入りが激しい。大手芸能事務所からほど近いこの場所は、そういう所謂業界人達の格好の打ち合わせ場所になっているらしく今も多くのそれっぽい人たちが出入りしている。

 そんな、誰かの夢が生まれるかもしれないその場所で暗く下を向くことしかできない僕が、あまりにもちっぽけに見えて情けなかった。

 ふと、ポケットのスマートフォンが震えるのが分かった。パンパンのジーパンのポケットで小さくその存在を必死に誇示しようとしているそれを開くと、それはバイトのシフト一時間前であることを告げるアラームだった。

 

「……何やってんだろうな」

 

 慣れた手つきでアラームを止めた僕の口を思いがけず付いたのは、そんな言葉だった。

 誰に聞かれてるわけでもないのに、自分で自分が発した言葉を耳にしてより一層その言葉がズシリと沈み込む。

 こんな場所から一刻も早く出ていきたくて、机の上の伝票に目を移す。が、伝票を入れるのであろう小さなプラスチックの筒の中にはもう既にその姿はなく、そこにはただぽっかりと僕の心に空いたものと同じ穴がただ静かにこちらを見つめているのみだった。

 

 なんていうか、大人はズルい。あんなに僕の心を傷つけておいて、それでいてこういう時だけ大人であろうとする。何て言うか、そういう見栄みたいなものが嫌いだ。

 でも……、でも、それ以上に、今の自分はもっと嫌いだ。夢に縋って、憧れに縋って、そして過去に縋って生きている自分。

 一体僕は、こんな世界で何になれるのだろうか。

 

 

 

 

 

「七瀬、そういやお前あれどうだったの?」

 

 喫茶店の出来事から数時間後、僕の姿はとある居酒屋のスタッフルームの一角にあった。仕事上がりを迎えた僕は、バイト先のユニフォームを脱ぎながら今日の出来事を思い出してしまっていた。否が応でもあの苦い感情を思い返してしまう。声をかけられたのはそんな時だった。

 八月真っただ中の室内はエアコンが効いているとはいえ夏特有の蒸し暑さに包まれていた。ベタついた肌を制汗シートで丁寧に拭いながら僕は声の主の方へと首だけ動かす。

 

「……お疲れ様です」

「お疲れ様」

 

 そこに居たのは僕がお世話になっているこの居酒屋の店長だった。近場の椅子を引くと彼はどしりと腰を下ろしタバコに火をつける。

 

「また山田さんに叱られますよ」

「いいんだよ、あのおばちゃんシフトそんなに埋めてくれないのに口だけは達者なんだからさ」

 

 不満げな表情を浮かべた店長はそういいながら口に含んだタバコの煙を勢いよく中空へと吹きかけた。

 

「で、どうだったんだ?」

「えっと、何がですか?」

「ライブだよライブ。お前、この前言ってたじゃねぇか、ほら」

 

 そういって彼はスタッフルームの壁に貼られている一枚のポスターを指さした。

 

「高垣楓のライブ、行ってきたんだろ?いいよなぁあれだろ、親父さんの知り合いの伝手だろ?」

「ええ、まぁ」

 

 店長の指の先、そこに居たのはジョッキを片手に笑顔を浮かべる、『歌姫』の姿だった。夏真っ盛り、青空の下で白い砂浜の上に立つ彼女は、白いワンピースに麦わら帽子というまさにお決まりの格好でこちらを見つめている。

 ステージの上とポスターの中。同一人物なのにそのギャップがなんだかおもしろく感じ、鼻の先が何やらむずがゆくなってしまったのは店長にはナイショだった。

 

「あー俺も三船美優のライブのチケット、どっかから降ってこねぇかなぁ。って七瀬、なんか嬉しそうじゃねぇかよ。」

「そんなんじゃないですよ……」

 

 そういって誤魔化してみるものの、若輩者の見え透いた見栄なんてもんはばっちりとお見通しだったようで店長は不敵な笑みを浮かべながらまた気持ちよさそうにぷかぷかと煙を吐いた。

 

「やっぱり綺麗だったか?」

「そればっかですねホント」

 

 毎度おなじみになってしまったセリフに苦笑いを浮かべつつ僕は空いている椅子へと腰を下ろした。

 

「わりぃかよ」

「新しいタレントさんのポスターが来るたびにスケベな目で精査してるの、みんな知ってますからね」

「男ってのはな、みんな綺麗な女が好きなんだよ」

「それは同意しますけど」

 

 店長の女好きは今に始まったことではなく、もうここのスタッフ全員の共通認識の一部となっている。ここに入った新人バイトがまず初めに教わることは、皿洗いでも注文の受け方でもなく、店長の女癖の悪さだなんて冗談もあるぐらいだ。

 

「綺麗だったか?」

「……はい、とても」

「そか」

 

 それだけ言うと、店長は何とも言えない嬉しそうな表情を浮かべた。

 この店で働き始めて一年。僕が初めて目にする表情だった。

 

「もう帰るのか?」

 

 すっかり短くなった吸殻を灰皿へとぐりぐりと押し付けながら店長は寂しそうに僕に声をかけた。

 その声で思い浮かべるのは、ワンルームの小さなアパート。築40年の古ぼけたコンクリート製のアパート。バブルの終わりかけに作られたというその一室は、僕をこの世に縛る牢獄のようだった。

 ただ夢に縋り続けるだけの一日の終わりを迎える場所。最初はそこには夢が詰まっていたはずなのに、今となってはそこに巣食っているのは、夢という名の”呪い”だった。

 いや、僕はただ夢という言葉を体のいい言い訳にして逃げてきただけだったのかもしれない。

 

「……そう、ですね」

「そか、まぁ、頑張れよ」

 

 ”頑張れよ”に込められた意味を、僕は僕なりに理解しているつもりだった。いつだったか、店長には日常会話のきっかけでポロリと零してしまっていたからだ。

 夢のこと、将来の展望、そして父さんのこと。

 心から応援してくれているのだろうか、それとも子どもの戯言だと腹の底では笑っているのだろうか。それを知る術は今の僕にはだけれども、それならそれでまぁ良しとしよう。

 

「今日も書くのか?」

「……はい」

「あんま遅くならないようにだけ気をつけろよ、お前明日もシフト入ってるからな」

「でも、やらなきゃいけないことが……」

「あーもう、俺は男のプライベートには興味がないの」

 

 それだけ言うと店長はそのままスタッフルーム奥の事務所へと姿を消してしまった。

 

「わかりました、おつかれさまです」

 

 去りゆく背中に向かって声をかけると、「おう」とだけ小さな声だけが返ってきた。

 店を出て見上げた空は、どんよりとした悲しい雲で覆われていた。その空がまるで今の僕の心情を映し出しているかのようでぽっかりと穴が空いてしまった心に蓋をしようとしていた。

 そんな今にも押し潰されそうな空の下で、今日も僕は何かになりたがっている。

 

 七瀬幸市、19歳、職業フリーター。自称、脚本家見習い。そんなちっぽけな肩書が、僕を僕たらしめようとする数少ない存在証明だった。

 そんなちっぽけな肩書を背負って、僕は一体こんな世界で何になろうとしているのだろうか。

 




ということで、感想等頂けると泣いて喜ぶのでよろしくお願いいたします。


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2話

 きっかけというものは往々にして予想外のところに転がっているものだ。それを予測できるものがいるとしたらそれは世間一般で”神”とでも呼ばれているものか、それともFBIもびっくりの予知能力者だろう。そういえば超能力捜査なんて番組も久しく見なくなってしまったな……。みんなきっとそんなものに夢を見られるほど、現実から目を離せる余裕なんてないんだろう。

 そんなこんなで僕の予想だにしなかったきっかけは、とある平日の午後に突然目の前に現れた。

 

「それで……」

「ああ、これが昨日君に突然電話した理由だよ」

 

 普段業界人で賑わうこの場所も、今日に限ってはあまりに静かで、店内には僕と彼の声だけが響いていた。

 

「これが噂のメモ書きですか?」

「ああ、知り合いに聞いてみたらしっかりと残っていたみたいだよ」

 

 そういってどこか懐かしそうな顔を浮かべる彼は、父の古くからの友人で、僕にとっては幼いころから知っている気のいいおじさんだった。

 

「ありがとうございます、今西部長はお忙しいとお聞きしていたのに」

「なに、気にすることはないさ、君のたってのお願いだからね」

「…………ありがとうございます」

「それじゃあ僕はもう行くよ、仕事の最中においしいコーヒーにありつけたしね」

「はい、改めてありがとうございます」

 

 それだけ言うと彼は机の上に千円札を二枚だけ放り投げてそのまま去っていってしまった。

 残されたのは僕と、そして机の上に乗っかる数十枚の紙の束だった。

 自宅に帰る気力もなかった僕は何の気なしに机の上の紙束へと手を伸ばす。そこから伝わってきたのは、圧倒的なまでの力量だった。

 言葉選び、場面の切り替え、伏線の回収。そして、そんなすべてをつなぎ合わせる圧倒的な構成力。たかがメモ程度の走り書きであるはずのそれすらもう僕の自信を奪うには十分だった。

 古くからの知り合いである彼の手から渡されたそれは、圧倒的な世界観でもって全力で僕の心を折りに来ていたのだった。

 

「クッソ……こんなもん貰わなきゃよかった」

 

 何と言うか、自分から言い出したこととはいえこれはないな。そう思わせるほどにその内容はあまりにも綺麗で面白かった。

 ページをめくる手が止まってくれそうにない。

 その世界は、時を忘れさせるほどに僕をその世界の中に引きずり込んだ。

 

「……」

 

 数十分後、僕は机の上で苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。

 

「いや、これは違うだろ……」

 

 くしゃり、と紙が潰れる音が響いた。

 いつの間にかコピー用紙を持っていた紙に、無意識に力が入っていたようだ。

 

 分からなかった。

 

 言葉の意味がとかではない。

 

 その最後の記述に、僕は何を感じればいいのかが分からなかったのだ。こんなのが物語の終わりであっていいはずがない。

 ふと心の奥から湧き出た憤りに、思わず居ても立っても居られなくなった僕はこの場を立ち去るために椅子を引く手にも自然と力が入ってしまう。

 

「あっ……」

 

 刹那、ふと、背中の方から女性の小さな声が聞こえてきた。

 

「すいませんっ!」

 

 引いた椅子から伝わってきた感触から事の経緯を察した僕は慌ててそちらに頭を下げる。タイミング悪く僕の引いた先に女性が歩いていたらしく、その方に椅子がぶつかってしまったようだ。

 

「不注意で申し訳ありませんっ!」

 

 なんというか、間が悪いというか……。思ったようにいかない事というのは、連鎖をすると他人にまで迷惑をかけることになるのか。

 

「えっと、お気になさらないでください」

 

 そんな僕の元に帰ってきた声は、透き通るように綺麗な音で僕の鼓膜を震わせた。

 

「椅子ぐらい、ぶつかってもいいっす、なんて……」

 

 見上げた先、ぱちくりとこちらを見つめるその表情に僕ははっと息を飲んだ。別に先ほどのギャグが全然面白くなかったとかそんなことは今は全く問題なくて、それよりもそのギャグを吐いた本人が僕のよく知る人物だったからだ……。

 

「あ、え、あの……」

「面白く、なかったですか?」

「え、あ、面白かったか面白くなかったかというと面白くなかったんですけどそんな問題じゃなくて、えっと……」

 

 あ、僕今余計なこと言ったな。少し寂しそうな表情を浮かべる彼女を見て咄嗟に自分が口にしてしまった言葉を呪いたくなる。

 

「高垣……楓……さん?」

「あ、はい……。高垣楓と申します」

 

 きっかけというものは往々にして予想外のところに転がっているものだ。お生憎と僕は神でも何でもないので、こうして目の前に降ってきたきっかけを只今は理解するだけで精いっぱいだったのだった。

 

「あの……どうかされましたでしょうか?」

 

 宝石のように澄んだ二つの瞳がこちらを見つめている。その輝きに見惚れて、僕はただその景色を見つめることしかできなかった。

 

 これが、僕と歌姫のちゃんとした初めての邂逅だった。

 

 

 

 

 

「何、じゃあお前高垣楓と喋ったのか?」

 

 あれから数日後、僕はまた相も変わらずバイト先のスタッフルームで店長と仕事終わりの雑談を交わしていた。

 

「だから話はちゃんと聞いてくださいよ!別に喋ったとかそういうんじゃないんですって!」

 

 そうなのだ、結局あの後テンパりにテンパった僕はそそくさと机の上の物をカバンにしまい込むと慌ててその場を立ち去ってしまった。

 あまりの出来事に情けない程の振る舞いをしてしまったことを後悔した僕はあの日抱いた決意もほっぽり出して布団の中でしくしくと悲しみに暮れたことを思い出した。

 

「勿体ねぇなー」

 

 ふう、と一息。相も変わらずな煙をぷかぷかとスタッフルームの天井に吹きかけつつ店長は壁の高垣楓に視線を動かした。

 

「俺なら連絡先聞くとかぐらいするぜ?」

「それは店長だからで僕にはそんなことは到底無理ですって!」

「まー七瀬だからそれはしょうがないか」

 

 職場の上司にしょうがないなんて思われるだなんて普段僕はどんな風に見られているのか不安になってくるな……。

 

「でもほら、お前ライブ行ったんだから応援してますぐらいは伝えたんだろ?」

「それは……」

 

 恥ずかしながら、そんなことあの時は微塵も思いつかなかったです。

 

「言ってねぇのかよ……」

「いや、誰だってそうなりますってっ!」

 

 「これだから七瀬は……」なんて呟く店長を他所に僕は帰り支度の為にロッカーから鞄を取り出す。 バイト着を取り出したそれへと突っ込み、財布をポケットに回収し、家の鍵の確認をして、というところであることに気づく。

 

「あれ……?」

「どうした七瀬~」

「あ、いや……」

 

 気のせいだろうか、鞄の中に乱雑に突っ込んでいたクリアファイルに一切厚さを感じない。気になって取り出してみるとやっぱりその中には”ある”ものが入っていなかった。

 どこかで落とした……?いや、ここ数日忙しかったから原稿をカバンから取り出した覚えはない。自宅で開いた記憶もないし他の誰かに見せた覚えもない。

 それこそ最後に確認したのはあの日、高垣楓と会った日……。

 

「マジか……」

「どした、携帯代払い損ねて携帯止まったか?」

「店長じゃないんですから」

「俺はそんなことしねぇよ」

 

 そう言いながら店長は次のタバコへと火をつける。

 

「そんなことしたら、女と連絡取れないだろ」

 

 あ、確かに。この人はそんなことしないな。

 

「で、大事なものでも落としたのか?」

 

 ふと、乱雑に私物をしまい込んでいた手が止まった。

 大事なもの……。今の僕にとって、あの物語の結末は、大事なものなんだろうか。

 

「……分かりません」

「……そか」

 

 僕の何の飾り気もない心からの呟きに、店長は小さくそれだけを返した。一瞬、静寂が狭い室内を包む。38歳、雇われ店長の彼にも、もしかして大切なものがあったりしたんだろうか。

 大切なものを胸に生きてきたはずなのに、いつの間にか僕らはそんな大切なものの在処を探して日々を過ごしていた。

 あの物語の結末も、作者にとっては大切なものだったんだろうか。

 それを知る術は、もうこの世には存在していなかった。

 

 

 

 

 

 あれから数日後、結局あのメモの束は見つからなかった。

 まぁ、データは残っているはずだから今西部長にお願いしてデータを送ってもらい、そのまま改めて印刷しなおせば済む話なんだろうが、どうにもその気は起きず今もまだあの物語はどこかに行ってしまったままだ。

 そしてこうして今日もまた、あまりいい思い出がないこのカフェへと足を運んでいる。

 ちらと壁の時計へと視線を移すと、忙しなく動き回る針が待ち合わせの時間の10分ほど前を指し示そうとしていた。

 

「お疲れ様、七瀬君」

 

 待ち合わせの人物はトレードマークの白髪と眼鏡を携え、いつもと変わらない柔和な表情を浮かべながらこちらへと小さく右手を振った。

 

「先日はありがとうございました、今西部長」

「ああ、別に大したことじゃないよ」

 

 僕が彼を”部長”と呼ぶには理由があった。それは、彼こそが大手芸能プロダクション346プロアイドル部門において部長という肩書をつけるにふさわしい地位にいる人物だからだ。

 

「それで、突然どうしたんです、急に明日会いたいだなんて」

 

 ウェイトレスからおしぼりを受け取り小さく頭を下げる彼を見ながら僕は今日ここにいることについての疑問を尋ねた。

 その問いかけに頭を2度ほど小さく掻くと、彼は先ほどのウェイトレスに「アイスコーヒーを」と小声で声をかけるとそのまま僕の対面へと腰を下ろした。

 

「いやぁ、別に会いたかったのは僕じゃないんだ」

「え、っといいますと……」

「いやぁ、とある筋からあるものを預かっていてね」

 

 そう言って彼はお馴染みの鞄から何やらそこそこに厚みのある紙束を取り出した。

 

「これを、君にと」

「え、これって……」

「いやぁ、全く。あの子がね、どうしてもというものだから何事かと初めは思ったんだが……。渡された物を見て納得したよ」

 

 そこにあったのは、ここ数日の探し物だった。

 別に、見つかって欲しいとは思っていなかったけど、こうして改めて目にする何やら不思議な気持ちになる。

 

「これ、父のメモ書き……」

「みたいだねぇ」

「どうしてこれを今西部長が?」

「ある人が、君に返して欲しいと」

「ある人……?」

 

 すっかりどこかに落としてしまって、この街のどこかのゴミに成り果てていたものと思っていたのだけれど、いったいどこの親切な人がこれをわざわざ届けようだなんて思ったのだろうか。

 

「君は、これを最後に見かけた時に誰かに会っていなかったかね?」

 

 あの日は確か……。

 

「今西部長?」

「いや、僕の後だよ」

「小林さん……ですか?あ、いや、小林さんは電話を入れただけか」

「ん、小林?っというとあの映画事業部のか?」

「あ、今西部長もご存知でしたか」

「あぁ、彼とは面識あるよ。なんでも冬に予定している映画の脚本が決まらないとかで方々に声をかけているみたいだねぇ」

「あ、それです……最近お世話になっているのはそれ関連で」

「ふむふむ」

 

 今西部長は本人曰くプロダクション内でもそこそこ顔の広い人物らしい。仮にも大企業である346プロダクションとはいえ他の部署の人間を知っていてもおかしくはない。

 しかしながら今目の前の彼の反応を見るに僕の解答は……。

 

「ハズレ、ですか?」

「その通り。小林君じゃあないなぁ。君はもっと、その後に衝撃的な出会いを、していると思うんだがねぇ」

 

 思い返せ。あの日の僕は何処で誰に会った?バイト先、店長……?違うな、最後に話したのは小林さんだ。それ以前は今西部長と別れて、このカフェを出て……。このカフェ?いやいやまさか、そんなはずは。でも、もしそれがあり得るとするのならばその人物は……。

 

「高垣、楓……?」

「ご名答。高垣君が、君に渡して欲しいと頼んできたんだよ」

「いやいやいやいやっ!おかしいですって!」

「ん~?何がそんなにおかしいんだい?」

「だって初対面ですよ?しかも僕は向こうのことを知ってるかもしれないけれど、僕のことなんか向こうが知ってる訳がっ、それにこれは僕のメモじゃ……」

 

 ふと、今西部長が僕の捲し立てる物言いを咎めるかのように右手で話を遮ってきた。

 

「まぁまぁ、そこまで慌てんでも」

「慌てますよっ!」

「君の言いたいことは分かる。分かるが君はもっと自分の立場を自覚するべきだ」

「自分の立場って僕はそんな人間じゃ……名乗った覚えもないですし……」

 

 思い返せば純情丸出しの対応をしてしまったと思う。女性に慣れていないのがあんなんじゃ丸わかりじゃないか。……記憶が鮮明になっていくほど猛烈に恥ずかしくなってきた。

 

「何を考えてるのかは知らないけど、ほらここに」

 

 僕の悩みなんか大したことじゃないと言いたげな顔で今西部長は机の上に差し出された紙束のある部分を人差し指でリズミカルに叩いた。

 

「え、あ……」

 

 そして気づくのだ。その指先にある答えに。

 

「メモの端っこにご丁寧に名前が入ってるじゃないか」

 

 「あー」と無意識に僕は音にならない声を漏らす。今西部長の指の先、そこには確かに見慣れた名前が刻まれていた。

 題名の横に小さな文字で。

 

 七瀬貴臣、と。

 

 これを見て彼女はわざわざこれを僕の元へと届けようと思ったのだ。

 

「だから高垣君に聞かれたときにすぐにピンと来たよ。どうやって入手したのか聞いたときも君らしいなと思ったものだ」

 

 聞いて納得。あの日高垣楓との突然の出会いにテンパった僕はあろうことか貰ったはずの紙束を丸々その場に置いて立ち去ってしまったのだ。

 それをその場にいた高垣楓氏が持ち帰り、とりあえず事務所内で伝手のあった今西部長に持ち主の元に返してもらえないかとお願いしたというところだろう。

 

「そういうことでしたかぁ……」

「よかったよ、君の大事なものをちゃんと届けることが出来て」

 

 ふと、コーヒーを口元へ運ぼうとしていた手がピタリと止まった。事の経緯が把握できたことに安心しきっていた僕の体に再び小さな緊張が走る。

 

「それは……」

「おや、違ったかね?」

 

 思い返すのは、先日の店長とのやり取りだった。あれから何度考えただろうか。あの物語の結末はあれでよかったのか、それとももっと他のエンドがあったんじゃないか。 

 僕は、あの結末に納得できないでいた。

 

「それは、そんなに大切なものじゃないんです」

「そうなのかい?でも君は知りたがってたじゃないか」

 

 突然の僕の言葉にも今西部長はその柔和な表情をピクリとも動かすことはなかった。

 

「今西部長は、そのメモの内容に目を通されましたか?」

「ああ、通したとも。自慢じゃないが、世界で初めてこれを見たのは僕だと思っているよ」

 

 そう言ってニッコリ笑う彼をみて、彼と父との関係の深さを改めて感じた。 

 きっと父は、ふっと湧いて出たこのアイデアをいち早く今西部長に見せたのだろう。

 

「僕は……そのメモの最後に書かれていた物語の結末が好きではありません。ずっと想いあっていた二人の最後が、あんなのなんてあまりにも悲しすぎます」

「君がそう思っているのは構わないけれど、その物語は君だけの物語ではないということだよ」

「……どういうことです?」

 

 彼はそのまま立ち上がると千円札を二枚机の上に広げた。

 

「ちょ、待ってくださいよ今西部長!」

「すまないね、すぐに会社に戻らなくちゃいけなくて」

「今の話もっと詳しく聞かせてくださいよっ!」

 

 出入り口の取っ手に手を伸ばしかけた彼の手がピタリと止まる。

 一呼吸。肩越しに彼と視線が合う。

 自分がはっと息を飲むのが分かった。

 

「少なくとも、彼女はその物語が好きだ、と言っていたけどねぇ」

 

 それだけ言い残すと彼はそのまま店の外へと姿を消した。

 

「好きって……」

 

 僕の視線は店の出入り口から机の上の原稿へと移る。

 無意識のうちに視線は原稿の文字をなぞる様に追っていき、彼が血反吐を吐きながら文字へと書き起こした風景が頭の中に浮かんでくる。

 そこに居たのは一人の女性とそれを見送る一人の少年。

 その物語の結末は――。

 

「だってこれは……」

 

 父、七瀬貴臣の遺作は、僕にとってはあまりにも悲しい結末だったからだ。

 



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3話

 父であった七瀬貴臣は知る人ぞ知る演劇界の奇才だった。テレビや映画などで滅多に名前を見ることはないが、舞台においては業界人ならば名前を知らない人間の方が少ない、と言われるほどの名脚本家だった。

 「誰かの明日になれる物語を」それが彼の口癖だった。自分の舞台を見た人が、その物語から感じたことを自らの人生に活かして欲しい。いつだったか雑誌のインタビューでそんなことを語っていたのを覚えている。

 そんな父に憧れて、僕もいつの間にか脚本家を目指すようになっていた。

 

 そんな父が亡くなったのは、僕が中学に入学して直ぐのころだった。売れっ子脚本家だった父はその頃は特に忙しそうに働いていた。そして元々体の強くなかったことも相まってある日体調を崩したかと思えばそのまますぐに息を引き取った。

 

 僕と母、そして幻の遺作を残して。

 

 そしてそんな僕らに良くしてくれたのが、父の友人だった今西部長だ。仕事の付き合いで仲良くなった今西部長は、父の考えに感銘を受けたらしくその後もプライベートでも随分親しくしていたようだ。そのことも相まって今もこうして今西部長は稀代の名脚本家と言われた父の忘れ形見であった僕に良くしてくれるのだ。

 

「ああ、遅くなって申し訳なかった」

「いえ、お忙しいのは重々承知してますので」

 

 なぜそんな昔のことを思い出しているのかというと、僕は今日346プロダクション本社内にある社員食堂へと今西部長に呼び出されていたからだ。

 高垣楓と偶然のエンカウントを果たしてから、一月が経とうとしていた頃のことだった。

 

「それで、今日はどういった用件で僕は呼び出されたんでしょうか……?」

「ああ、そんなかしこまった話じゃないから楽にして」

 

 そう言われても普段のカフェとは違っておもいっきり社内だしなぁ……。モデルさんっぽい人もちらほらうろついてるし……。うわ、今話題の月9のあの主演女優さんだ。近くで見ると顔ちっちゃっ!

 

「あの……七瀬君?」

「は、はいぃ!べ、別に女優さんに見惚れてたとかそんなことはあったりなかったり……」

「ま、とりあえず落ち着きなよ」

「は、はぁ……」

 

 何はともあれ話を聞かないことにはこの場は動かない訳で……。テンパってもしょうがないので僕は目の前のコーヒーに一口口を付けると改めて今西部長の元へと向き直った。

 

「それで、お話というのは……」

「ああ、実は君に一つ提案というかお願いがあって……」

 

 そう言って本題へと入ろうとする彼の言葉は、思わぬ人物によって遮られることになった。

 

「あら、今西部長?」

 

 そこにいたのはアッシュグリーンがよく映える、ボブカットの美人だった。

 というより、僕にとってはよく知っているその人であり――。

 

「ああ、高垣君か」

 

 高垣楓その人なのだった。

 

「この前はありがとうございました!」

「ああ、あれくらいのことならいつでも頼んでくれて構わないよ」

「そう言われましても部長はお忙しいのですから……」

 

 突如目の前で始まる知り合いと芸能人との日常会話。こうしてみることで改めて今西部長が業界人であるということを思い知らされるのだった。

 

「それで」

 

 ふと、青と緑の印象的な二つの瞳がこちらを捉える。

 

「こちらの方は?」

「ああ、紹介してなかったね、彼こそがあの台本の持ち主だよ」

「まぁ、そうだったんですね。あの時は顔をよく確認できなかったものですから」

 

 ほんのちょっとの驚きと、心からの喜びの表情を浮かべた高垣さんは嬉しそうにこちらへと手を差し伸べてきた。

 

「え、えっと……」

「自己紹介」

 

 相変わらずテンパってしまった僕に今西部長が釘を刺すように助け舟を出してくれる。

 

「な、七瀬幸市です。は、初めましてその……」

「はじめまして、高垣楓です」

 

 握手を求められた手が柔らかかったなとか、仄かにいい香りがするなとか、そんなことがどうでもよくなるくらいに、僕はその二つの瞳に魅かれていった。

 雑誌やポスターなんかじゃ分かりにくいけれど、この人の目はこんなに鮮やかに色が違うものなんだ。

 

「どうかされましたか?」

 

 思わず魅入ってしまった僕に異変を感じたのか、ふと高垣さんはその綺麗な顔を少し困惑した表情へと変えた。

 

「ご、ごめんなさいその、あまりにも……」

「あまりにも?」

「あまりにも、目が、綺麗だったものですから……」

 

 って何を口走ってんだ僕はっ!こんなのセクハラととられかねてもおかしくないぞ。

 

「そ、その、ごめんなさい、つい思ったことが口に出てしまってっ」

 

 それから慌てて謝罪と言い訳の言葉をいくつも並べて平謝りするしかない僕を見て、彼女は「ふふっ」と小さく笑みを零した。

 

「あ、あの……」

「いえ、そういう事を直接ちゃんと言われたのが久しぶりだったものですから……。なんだか照れくさくって」

「そ、そうですか……」

 

 なぜこんな状況になってしまったのか。更なる救いを求めて今西部長の方へと視線を動かすものの、彼はにこやかな表情でこちらの成り行きを見つめるのみだ。

 

「お、お会いできて光栄です」

 

 なんとか振り絞った言葉を最後に、僕はとうとう彼女の顔を真っすぐに見つめることが出来なくなってしまった。視線の先ではコーヒーに入れたシュガースティックの空が小さく身をよじらせているのが目に入る。

 物語の中でなら、こう言おうああ言おうってすんなり出てくるのに。

 

「それにしても、七瀬……そういう事だったんですね。私も会いたかったんです」

 

 今西部長の隣に腰を下ろすと、彼女はふとそんなことを口にした。

 聞き間違いじゃないだろうか。思わず顔を上げると先ほど見惚れた彼女の笑顔が真っすぐにこちらを見つめているのが目に入った。

 

「僕に……ですか?」

 

 心からの疑問が口を付く。

 

「ごめんなさい、メモ、勝手に読んじゃいました」

「あ……」

 

 彼女が言うメモとは、僕がこの前カフェに忘れて先ほど先日今西部長に手渡されたあれだろう。

 

「読んだんですか?」

「すみません、最後のページだけ少し目に入っちゃって……。それで内容が気になってしまいまして」

「いや、読まれたくなかったとかそういう事ではないんです!けどその……」

 

 あの物語の結末を、僕は今も納得できていない。

 

「あまりいい結末だったと思うんですけど……」

「それは、どうでしょうか……」

 

 ふと、高垣さんはそんな言葉を口にした。

 

「私はあの結末、好きですよ」

「……ハッピーエンドじゃないですよ?」

 

 その言葉をどう受け取ったのかは分からない。けれど、先ほどまで柔らかい表情を浮かべていた彼女の顔に一瞬緊張が走ったのが見て取れた。

 

「物語というのはあくまで指標を示すものであり、答えではありません。同じ物語に触れた人たちでも、その物語をどう感じて、そしてどう思ったのかというのはそれぞれ物語に触れた人たちの数だけあるものでしょう」

 

 細い糸をより合わせるかのように、彼女は丁寧に言葉を選びながら話を続けていく。

 

「もし私がシンシアだったら、きっと彼女と同じ道を私も選んだかもしれません。カインのことを、ずっと心に想いながら。それは人によってはハッピーエンドではないかもしれませんけど……」

 

 その後の言葉を、僕は今後の人生で決して忘れることはないだろう。それが彼女の、高垣楓という人物の、選んできた道なのだから。

 

「私は、そんな彼女たちの選んだ生き方に憧れていきたいと思います」

 

 そう言った彼女の眼は、どこか愛おしそうな慈愛の表情と、そしてどこか寂しそうな寂寥の表情が入り混じった複雑な目をしているようになぜか僕は感じてしまった。

 

「それでは私は、この後打ち合わせがありますので……」

「は、はい……」

「おー、お疲れ様、高垣君」

「はい。それではまたね、七瀬君」

 

 それだけ言い残すと、まるで淑女の教本にでも出てくるかのような仕草で彼女はその場を後にした。

 

 

 

 

 

「どーよ最近」

 

 ある日のバイト終わりの僕を待ち構えていたのは、本当に当たり障りのない会話の導入だった。

 

「店長、その会話の始め方でどうやったら女の子にモテるんですか……?」

 

 そんな誰だってできそうな日常会話を始められて女の子も戸惑うだろうに。

 

「知らんのか七瀬、これはモテる男の最強会話術の第一の型なんだぞ?」

「何ですかそれ。知りませんよ」

「勿体ねぇなぁ。じゃあ教えてやるよ」

 

 店長は先ほどまで咥えていたタバコをぎゅっと灰皿に押し付けるとそのまま前のめりで僕の方へと鋭い視線を飛ばしてきた。

 

「女にモテる男ってのはな……聞き上手なんだよ」

 

 鋭く射抜くような視線と目が合い思わず目を逸らしてしまう。そんな僕の視線の先では相変わらず今日も変わらぬ笑顔で”歌姫”がビールジョッキを片手に笑っていた。

 

「意味が分かりませんよ」

「分かんねぇってのは甘えよ甘え」

 

 呆れたような表情で天を仰いだ店長はそのまま次のタバコへと手を伸ばす。

 

「まずは話してみねぇと相手のことなんて分からねぇだろ?テレパシーなんてもんはこの世にありゃしないんだから」

「話してみないと……ですか」

「ん?なんだ、なんかあんのか?」

 

 僕の言葉に何やら引っ掛かりを覚えたのか店長はそのまま「話してみな」とだけ呟くと手に取ったタバコを口へと運んだ。

 

「いや、大した話じゃないんですけど……」

「んなこたないだろ。悩みってのはな、大きい小さいはあるかもしれんがそれに貴賤ってのはねぇんだよ。小さかろうが悩みは悩みだ」

「店長……カッコいいっすね」

「男から言われても嬉しかねぇよ」

「男のプライベートには興味ないんじゃなかったんですか?」

 

 大人ってのはやっぱりズルい。こういうことをされると改めて自分のちっぽけさを痛感させられる。

 「いいから話せよ」なんて言いながら手持ちのタバコに火をつける店長も、そんなズルい大人の一人だ。

 

「もし、店長が最近見た映画の結末が自分の納得のいくものじゃなかったらどうしますか……?」

 

 一瞬、店長は怪訝そうな表情を僕へと向けたがその顔はすぐに何かを考え込むような表情へと移る。右手で三度程顎を撫でるとそのままその手は手持ち無沙汰そうに机の上でトントンと小気味のいいリズムを刻むと、数秒ほどしてピタリと動きを止めた。

 

「もし、自分の見た映画が納得のいく結末を迎えなかったら……ねぇ」

「すいません、突拍子もない話で」

「でも、それが七瀬にとっては大事なことなんだろ?」

「大事なこと……なのかもしれません」

「そか」

 

 何とも言えない空気がスタッフルームの中に漂う。が、自然とその空気が不快ではなかった。

 自分のよくわからない感情と向き合ってくれる誰かの言葉を聞き逃すまいと全身の神経が鋭くなった感覚を感じる。

 タバコとコーヒー、そしてその臭いをなんとか誤魔化そうと足掻く芳香剤の匂いが、少しだけ強くなった気がした。

 

「俺ならそうだな……それを作った奴を、ちょっとだけ羨ましく思うかもしれねぇな」

 

 ポツリ、とどこか零すように呟いた店長の顔は、どこか寂しげだった。

 

「羨ましく……ですか?」

「そーだな、お前には理解できないかもしれないけどな。作ったそいつの中には、その結末が納得いく理由ってのがあってそれを作ったんだろうよ。誰だって納得してないものを作ろうとは思わないだろ?」

「まぁ、そうだと思いますけど……」

「そんなそいつの納得できた理由ってのを、俺はその映画を見て感じられなかったってことじゃねぇか」

「それのどこが羨ましいんですか……?」

「考えてみろ。俺の人生の何倍も、そいつの人生は納得のいく理由に溢れてるってことじゃねぇか」

 

 その言葉に、僕は思わず「なるほど」と唸ってしまった。

 

「俺の知らねぇことをいっぱい知ってて、色んなものを感じて生きてんだろうさそいつは。どうだ、羨ましいだろそいつの人生」

 

 そう言って笑った店長の顔は、相変わらずどこか寂しそうだった。

 

「俺の人生はさ、納得のいく理由ってのに満ちてないからな……。まぁ、踏ん切りは付けたつもりだけどな。俺はもうおっさんだから手遅れかもしれねぇけどよ、七瀬、お前はまだ若ぇんだから」

 

 どこか満足そうに言い切った店長はそのまま事務所の方へと姿を消そうとする。

 去り際、ふと店長の手が僕の背中を勢いよく叩く。

 

「七瀬、お前の前にはまだ知らねぇ世界がたくさん広がってるぞ」

 

 それだけを言い残して、店長は事務所の扉の向こうへと姿を消した。

 『知らない世界』

 父と、そして高垣さんの見ている世界も店長が口にしたように僕の前には転がっているんだろうか。そしてもし、そこに足を踏み入れることのできるチャンスがあるのなら……僕は、前に足を踏み出すことが出来るのだろうか。

 



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4話

 店長との会話から数日経ったある日のこと、月があまりにも綺麗な夜に僕は美人を捕まえていた。

 いや、誤解なくありのまま起こったことを口にするなら、僕は美人に捕まっていた。

 

「七瀬君、月が綺麗な夜ですね」

 

 そんなことをぼそりと呟きながら、彼女は橋の欄干から空を見上げていた。アッシュグリーンのボブカットが夜風にふわりと掬われ、時折彼女のうなじをさらりと攫って行く。碧と翠の二つの目が東京を照らす夜の光をその目に宿して煌めいていた。彼女には不似合いな右手に握られた500ミリの缶チューハイでさえ、その場においては彼女を作り上げる工芸品の一部を担っているかのようだった。

 

「はい、綺麗ですね」

 

 ポツリ、僕はそんな彼女を目にした素直な気持ちを口にする。触ろうと思えば触れる場所、距離にして五十センチほどだろうか。そんな場所にいるのに、その存在はどこか非現実的に思えてしまう。

 まるでスクリーンの向こう側にいるかのようだった。 

 視線を、時間を、そして心まで奪い去ってしまった彼女に向かって僕は静かにこう続けるのだった。

 

「でも、今の僕にはまだ手が届きそうにはありません」

 

 僕の小さな呟きに、彼女はどこか満足そうな表情を浮かべる。それが僕への期待なのか、それとも一種の諦めなのか、手の届かない場所に居る彼女の気持ちは分かりそうにはない。

 

 月明かりに照らされたその人に出会ったのは、346プロの建物からほど近いとある陸橋の上だった。先日新人アイドルのラジオの短いコーナーの脚本を任された僕は、その簡単な打ち合わせと顔合わせを兼ねて346プロを訪れていた。彼女に出会ったのはその帰りのことだった。

 

「あら、あなたは……」

 

 僕が見つけた時、彼女は橋の上からどこか遠くを見つめていた。僕の近づく足音に気づいたのか、彼女は少しだけ驚いた表情を浮かべるとその顔をちょっとだけ嬉しそうに崩す。向こうが気づかなければ知らないふりをするのも吝かではなかったのだが、バレてしまっては流石に無視するのも気が引けた。

 そんなこんなで一瞬の葛藤の後「こんばんは、高垣さん」なんて面白みもない第一声を発しながら僕は彼女の元へと近づいていくことをしぶしぶ選んだのだった。

 

「こんな夜中にお一人ですか?」

 

 時刻は既に十二時をとうに回っており、東京をぐるりと囲むように忙しなく走っているその日最後の電車が北に向かって姿を消した。

 

「たまには、こんな夜もあります」

 

 そう言って彼女は右手の缶チューハイを小さく振ると、カシュッという小気味のいい音を合図にそれに口を付ける。

 

「七瀬君はどうしてここに?」

「346プロにちょっと用がありまして……」

「そうですか」

「まぁ、せっかくのお仕事の依頼だったものですから……。それにしても高垣さんもお一人ですか?深夜に女性のお一人は危ないですよ」

「あら、ご心配してくださるんですか?」

「もちろんですよ、高垣さんは有名人なんですから」

「有名人……」

 

 ふと、月に照らされている彼女の横顔が、一瞬曇ったように見えた。

 

「私は……」

 

 彼女が見上げる空は、雲一つない綺麗な星空だった。東京の空だというのに柄にもなく空のキラメキが見て取れる。

 そんな空の下で、一つ、ポツリと雨が降っている。

 

「高垣さん……」

 

 何と言葉をかけていいか分からなかった。思わず、彼女の名前だけが僕のどうしようもない感情よりも先に音になる。それ以上の言葉の紡ぎ方なんて分からないくせに。

 

「七瀬君、月が綺麗な夜ですね」

 

 そして彼女は冒頭の台詞を呟くのだ。

 その頬を伝う一滴の理由を、貴女だけの世界の奥にしまい込んだまま。

 

 

 

 

 

 舞台はとある王国の港町セレツィア。国でも有数の交易の拠点であるその街のとある外れ、そこではとある一家が農業を経営していた。その農家の長男であるカインの日課は毎朝バイオリンを弾くこと。

 小さいころに読んだ絵本に憧れて、無理を言って父に買ってもらったそれを毎朝欠かさず彼は誰に聞かれることなく弾き続けるのだ。

 

 彼のもう一つの楽しみは、街に朝一で取れた新鮮な野菜を売りに行くことだった。市場で新鮮な野菜を卸し、馴染みの厩に餌用の野菜を渡す。そしてそんな彼が最後に辿り着く先は、海に面したとある酒場であった。

 父と娘、そして数人の従業員で経営されているその酒場は、海の男たちはもちろん沢山の行商人達で賑わい街中でも有数の評判の酒場となっていた。

 そんな酒場の名物は、港で水揚げされた新鮮な魚料理、そして看板娘であったシンシアの歌声である。

 彼女は毎晩酒で盛り上がった客たちを相手に、酒場に作られたステージの上でその美声を披露していた。父ジョシュアの伴奏と共に華麗に歌い上げられる彼女の歌に酒に酔った彼らはより一層酔いしれるのであった。

 そんな看板娘である彼女と言葉を交わすことが、カインが街に野菜を売りに行く一番の楽しみだったのだ。

 

 いつか自分の伴奏で彼女に歌を歌って欲しい。それが、カインの密かな夢だった。

 

 自分より少し年の離れたシンシアは、まさにカインの憧れの女性だった。彼女の美しさに魅かれ、優しさに魅かれ、そして何よりその歌声に心奪われた。

 そしてシンシアも、自分を慕ってくれるカインに少しずつ心を動かされていくのだった。

 

 しかし、そんな彼らの間に転機が訪れる。

 偶然街を訪れていた国お抱えの劇団の団長が、シンシアの歌に魅かれたのだ。

 「もっと広いステージで、もっとたくさんの客の前で歌を歌える」。そう口にした団長の言葉が、シンシアの耳からは離れてくれなかった。今はもうここにはいない母から教えてもらった歌。シンシアにとって、歌は命の次に大切なものだった。そんな歌と今まで以上に深く付き合っていけるということが、シンシアの心を掴んで離してくれなかった。

 

 結局、シンシアは悩みぬいた末に首都へと向かう。王国お抱えの劇団で、歌姫として更なる高みを目指していくことを選ぶのだった。

 そんな彼女に、結局カインは最後まで自分の心情を明かすことはなかった。

 彼女の夢を誰よりも後押しするためには、自分という存在は邪魔になるだけだ。だって自分は、彼女の歌に何よりも魅かれたのだから。

 

 その後カインは、誰にも知られぬままセレツィアの街を後にする。抱えたものは、わずかな身銭とバイオリンのみ。

 彼は歩く。いつか彼女の一番近くで、その歌声を聴くことができるように。願わくば、その歌声が、自分のバイオリンの音と共に、この世界に響き渡る様に。

 そしたら伝えよう。自分の気持ちを。

 

 貴女を、心から愛したことを。

 

 

 

 

 

 机の上に広がったそれは、簡単に要約するとそんな話だった。

 帰宅してすぐに父のメモを読み直した僕は、そのまま机の上に突っ伏したまま父が最期に遺した話を思い返していた。何と言うか、着地点に納得したくない話だと思う。好きなら好きだと言えばいいじゃないか。それを適当に誤魔化して、何かと言い訳をして、結局はシンシアのことを想い続けているだけ。

 そんなの、あまりにも寂しすぎる。

 

「彼女達の選んだ生き方に憧れていきたい……か」

 

 無意識に僕の口を付いて出たのは、先日別れ際に高垣さんが発した言葉だった。

 彼女はこの結末が好きだと言っていた。あの吸い込まれるようなオッドアイには、もしかして僕とは違う物語が見えていたのだろうか。もし、その世界を共有できた時、僕も同じように愛せるだろうか。この生き方を選んだ彼らを。

 カサリ、と小さな音を立てて僕の右手はメモとは別のA4用紙を掴み取っていた。先日高垣さんが去った後、今西部長は一枚の紙をこちらへと手渡してきていた。僕の無意識は、まるで僕の背中を後押しするかのように右手をその紙へと伸ばしている。

 

 知りたい。彼女が見ている世界を。見たい。彼女と同じ景色を。触れたい。何よりも、同じ一人の表現者として、あの作品の奥に秘められた世界に。その衝動が、僕を前へと強く進めようとしていた。

 

 先ほどの無意識は、今度は明確な意思をもって僕の右手を動かした。

 充電器のケーブルを手繰る様に引き寄せるとその先に刺さったままのスマートフォンのロックを外す。何度もやり慣れた動作で電話帳を開くとこれまた見慣れた名前を探し、迷いなく表示されたプッシュボタンを押し込んだ。

 

「やぁ、七瀬君」

 

 二、三度程の短いコール音の後に、声が電話越しに聞こえてくる。

 

「夜分にすいません、今西部長」

「こんばんは。この前会って以来だね」

「そうですね。それで、お願いしたいことがありまして……」

「その口ぶりだとあれかい、決めてくれたかい?」

 

 スマートフォンを握りしめた手に自然と力が入っていることに気づく。全く、こういうのはガラじゃないってのに。

 

「ええ、先日お話していただいた写真集の撮影の件、お手伝いさせていただけないでしょうか」

 



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5話

 JR山手線浜松町駅から徒歩八分。ゆりかもめ竹芝駅のすぐ目の前。海から吹き込む風が爽やかな夏の匂いを都内へと運び込もうとするまさにその入り口に、その場所はあった。

 竹芝客船ターミナル。

 レストラン船などの発着場としても利用されるこの場所だが、最も大きな目的は別にある。この場所は伊豆・小笠原諸島を往復する船の出発点であり、そして到達点なのだ。

 そんな東京の玄関口ともいえるこの場所で、僕が一体何をしているのかというと―。

 

「こちら、荷物運び終わりました!」

「ああ、助かる。そしたら出発まで四十分ほど時間があるから少し待っててもらってもいいか?」

「はい、大丈夫です」

 

 今日の責任者に簡単に声をかけた僕はその後、ターミナル内の椅子に腰を掛けると静かに辺りを見回した。

 八月真っただ中のこの場所も、朝一番早い便の為か心なしか人は少ない。346プロ玄関口に六時集合という連絡を貰った時は流石に目を疑ったものだ。今もまだ眠りの中から完全に抜けきっていない頭を働かせながら僕は改めてこれからの予定を脳内で反芻した。

 

 高垣楓の次回発売の写真集の為の撮影ロケ。これが今回のロケ内容だ。同行するのは高垣さんを含めて全部で7人。最近は346プロも大所帯になってきたためどうも人員を割くのが難しくなってきているらしい。

 メンバーは高垣楓を筆頭に彼女のプロデューサーさん、カメラマンさん、カメラアシスタントさん、ヘアメイクさん、スタイリストさん、そしてその他雑用の僕。男女比4:3のまさに少数精鋭となっている。

 その雑用枠に、この度僕は今西部長の伝手で同行させてもらうことになった次第だ。正直ロケの雑用なんて何すればいいのか全く見当もついていないのだけれど、これが自分のステップアップに繋がるのであればまたとない機会である。と、前向きに考えておこう。

 ちらと視線を動かした電光掲示板には、この後僕らが乗る予定の船の出発時刻と行き先が何度も流れていた。

 伊豆大島。

 そこが、今回の撮影の目的地である。

 

「七瀬君!」

 

 ふと、頭の中で今回の概要を確認していた僕の元へと声がかけられる。

 

「大崎さん、どうかしましたか?」

 

 その声の人物こそが高垣楓の担当プロデューサーであり、346プロきってのやり手と言われている大崎プロデューサーだった。

 短パンに白いTシャツ、いかにもラフですと言いたげな服装に身を包んだ彼は両手を合わせながらこちらに申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 

「すまん、先に荷物を動かしてもらってもいいか?」

 

 そう言ってちらと動いた彼の視線の先にはカメラなどの精密機械以外の今回使用する諸々の道具が詰め込まれた大型のカバンがいくつも並んでいる。

 

「重いと思うけどよろしく頼むわ」

 

 それだけ言い残すと雑談を交わしている二人組の男性の元へと向かっていく。彼らこそ今回のカメラマンと、そのアシスタントさんだ。

 きっと今日のスケジュールを改めて確認しているのだろう。仕事熱心な彼の背中を見送ると僕も僕に課せられた業務へと移る。

 いくつも並んだ鞄の中のから一番手近な鞄から伸びた肩紐に腕を通す。今日から二泊三日の撮影ロケ、一体その短い期間で僕は何かを掴むことが出来るのだろうか。

 僕は、ほんのちょっとの期待とそれを覆い隠すようにうごめく幾多もの不安を、肩にかけた鞄と共に持ち上げるのだった。

 

「…………おっもっ」

 

 生きていくうえで背負うべき荷物は、いつだって重たい。

 

 

 

 

 

 東京から船で一時間と四五分。日本列島のはるか先の太平洋にあるその場所に向かって、高速船は水を切るように進んでいた。

 周りには陸地なんてまるで見えず、時折漁船やタンカーが遠巻きに見て取れるくらいだ。そんな大海原に浮かぶ小さな船の上で、僕は――。

 

「どうかされましたか?」

 

 柄にもなく緊張していた。

 

「い、いえ……」

「それにしても、七瀬君も来てくださったんですね」

「ええ、どうしてもと今西部長にお願いしました」

「ふふっ、そうですか」

 

 そういって隣で笑う高垣さんを見て、胸の奥がギュッと苦しくなるのが分かった。こんな美人が隣にいて、緊張しないほうがどうにかしていると思うが……。あの夜がおかしかっただけだ。

 

「そうですか、それにしてもよかったです。ジェット船は外に出られませんから。二時間近く暇をするところでした」

 

 高垣さんはもう一方の席で思いっきり寝息を立てている男性へと視線を動かす。

 

「ああ……」

 

 前言撤回。いましたね、高垣さんが隣でも思いっきりリラックスできるどうかしている人が。

 

「いつもそうなんです。プロデューサーったらすぐに寝ちゃうんですよ?担当アイドルをほっぽり出して酷いと思いませんか?」

「そ、そうですね……」

 

 仮にも今回のロケにおいては僕の上司となる人物である。あまり悪いことは言いたくないものだ。しかしながらなんと気持ちのよさそうな顔で寝ているのだろう。大崎プロデューサーの寝顔を見ていると先ほどまでの緊張が少しだけ和らいだ気がした。

 

「不安ですか?」

 

 ふと、隣の高垣さんがこちらへと何とも言えない笑顔を向けてくる。

 

「不安……と言われればそうかもしれません」

 

 その表情から逃れるように視線を逸らすと、相も変わらず窓の外からは何も変わらない海しか見えない。

 目印も何もないその風景に何となく不安感を覚えてしまいさらにそこから逃げるように視線を戻すと視界に入るのは前の座席のクッションとその座席ポケットに乱雑に突っ込まれたペットボトルのお茶だけ。広すぎる世界から目を逸らしたと思ったら辿り着いたのは随分と息苦しい場所だった。

 

「雑用とは言え撮影の手伝いなんて初めてですから……」

「それだけ、じゃ、ないみたいですけどね」

 

 誤魔化すように口を付いた言葉はどうにもあっさりと見抜かれてしまったようだ。蒼と翠、こちらを見つめる二つの瞳が僕の心の奥までを見透かしていくようで、その様が少しだけ怖かった。

 

「七瀬君にとって、それは大切なことですか……?」

 

 そんな僕の不安感に入り込むようにその言葉は僕の心へと深く沈んでくる。

 まるで深海に引きずり込むかのように、どこまでも、深く――

 

「ん、んあぁ……」

 

 そんな僕を海面へと引き上げたのは、隣で苦しそうに声を上げる大崎さんの声だった。

 

「ん、お前ら起きてたのか?」

「え、ええ」

「朝早かったのに元気だな。楓も昨日は遅くまで撮影だっただろ?」

「はい」

 

 眠気眼を擦りながら彼は一つ大きなあくびをつく。そんな気の抜けた表情を見ていると先ほどまでの緊張感も一瞬でどこかへと霧散してしまい、先ほどまで吸い込まれそうだった海も今は何処か長閑さを漂わせているように感じる。

 一瞬、ちらと隣で柔らかに微笑む高垣さんの視線と目が合う。その表情に一瞬陰りが見えたような気がしたのはきっと窓から差し込む光のせいだろう。

 

「ほら、そろそろ到着だぞ。降りる準備だけしとけよ」

 

 腕時計へと視線を寄せる大崎さんが僕らにだけ聞こえる程のボリュームで声を上げると、それと同時に船内に入港を告げるアナウンスが響いた。

 

「着きましたね」

「はい」

「さ、ちゃきちゃき働いてもらうぞ」

 

 ポンと僕の肩を力強く叩くとそのまま大崎さんは足元に乱雑に詰め込まれた荷物へと手を伸ばしだした。備え付けの窓から島の外観が目に入る。

 

 僕が追い求めている世界は、そこにあるんだろうか。

 

 燦燦とした太陽に照らされたその島は、静かに僕らの到着を待ち構えてた。

 

 

 

 

 

「到着です~!」

 

 どうしてこうも美人とワンピース、麦わら帽子というのは絵になるのだろうか。

 船着き場について早々大きく背伸びをする高垣さんを眺めながら僕はそんなことを思うのだった。

 

「ほら、楓に見惚れてないでさっさと行く」

 

 そんな僕へと発破をかけるように大崎さんがけだるげな声を上げながらその場を後にしようとする。

 

「べ、別にそんなこと思ったりなんて」

「してない、なんて言わせないぞ」

 

 ふと、彼が足を止めこちらへとくぎを刺すかのようにそう口にする。

 

「そ、それは……しましたけど……」

「素直でよろしい」

 

 うんうんと数度満足そうに頷くとポンと一つ僕の方へと手を伸ばしてくる。

 

「俺が育てた自慢のアイドルだからな」

「育てた、ですか?」

「そうだ。あいつは俺がモデル部門から引き抜いて、それでアイドルにした」

「そうだったんですか!?」

 

 敏腕とは聞いていたけど、僕は今改めてものすごい人と話してるのでは……?

 

「ま、その話はどうでもいいけどな」

「どうでもいいことはないと思うんですけど」

「そうだな、もうちょっとの間だけ、どうでもよくないかもな」

 

 今はスタイリストさんと楽しそうに談笑する高垣さんに、彼はどこか愛おしそうな視線を向けた。その視線にチクリと胸が痛んだのは、ここだけの話にとどめておこう。

 きっと、二人の間には僕が知らない、知ることのできない何かがあって、そしてその末にその何かが彼にその目をさせているのならば、僕の居場所はきっとその物語の中には含まれていない。

 

「そのうえであいつが選んだ道ならば、俺はそれを応援してやることしかできないさ」

 

 去り際、大崎さんが呟いた言葉の意味が、その時の僕には理解できなかった。

 

「ほら、雑用の仕事が待ってんだからあんまりぼーっとするなよ?」

「え、あ、はいっ!」

 

 触れていいものかどうかわからないものは、とりあえず置いておくことにする。

 悪い性分なのかもしれないけど、今の僕にはきっと知ってもどうしようもないことだからだ。

 

 

 

 

 

「そんじゃ次はくるぶしぐらいまで水につけてみようか」

「はいっ」

 

 撮影が始まったのはこちらに到着してから2時間ほど経ったころからだった。

 宿に荷物を置いて、撮影に必要なものだけを改めてレンタカーへと詰め込んで事前に決めていた現場へ。それからが大変だった。カメラマンさんのイメージとちょっと違うと別の場所へ。気に入るアングルを探してあちらこちらを行ったり来たり。

 なんというか、そういうのを見ていると”プロ”という言葉を改めて強く意識させられる。

 言葉と写真。扱うジャンルが違っても、こういう部分はちゃんと見習っていかないとと痛感させられる。

 

「雑用君」

「は、はいっ!」

 

 そんなことをぼんやりと考えているとふとカメラマンさんが僕のことを呼んだ。彼は今日の朝挨拶を交わしてから”雑用君”と僕のことを呼ぶ。

 別にその通りなのだからそう呼ばれることはおかしいことではないんだけど、ちゃんと名乗ったうえでそういう風に呼ばれるのは何というか、ちょっと癪だ。

 

「ちょっとアングルの外から水飛沫立てて貰えないかな。一回楓ちゃんフレームから外れて」

「わかりました」

 

 カメラマンさんの指示した場所は波打ち際から一メートルほど海へと入ったところ。僕は素早く素足へとなるととただでさえ短い短パンの裾をより一層捲り上げた。

 そんな姿を見ていたのか、ふと近くで高垣さんの笑い声が聞こえた。確かに、今の僕の姿はどこか滑稽に見えるだろう。そんな姿を見られてしまったことが、ちょっとだけ恥ずかしかった。

 

「つめたっ」

 

 八月と言え水温は思ったより僕の足へと思わぬ刺激をよこして見せる。海面は透き通って今僕が確かに踏みしめている海の底までばっちりと見ることができた。一歩足を前に出すたびに指の隙間から砂が飛び出てきてそれがなんか面白かった。

 

「この辺でいいですか?」

「ああ、いい感じ。この辺に向かって掌でちょっと水掬って飛ばしてみて」

 

 カメラマンさんへと声をかけると彼は指先で僕の前方の空間を指し示す。

 海面へと手を伸ばすと先ほどの足先と同じ感覚が伝わってくる。

 

「どうですか?」

 

 手始めに紙コップ一杯ほど。僕は水を掬って中空へとばらまく。

 

「ん~もうちょい多くてもいいかも」

「これくらいですか?」

「量はそれぐらいかなぁ。もうちょい多めでもいいよ。それよりもっとばーってまき散らす感じで一回できる?」

「はい!」

 

 三脚に固定されたカメラを覗き込んだままの彼とその後も数度同じようなやり取りを交わす。

 

「そんじゃ次、楓ちゃん入ってみて」

「はい~」

 

 カメラマンさんの声を合図に先ほどと同じような場所に高垣さんが移動する。

 

「いいね、そんじゃ雑用君、合図したら適当にさっきみたいな感じで楓ちゃんに向かって水飛沫上げてみ」

「わかりました!」

「そんじゃ軽く試しに撮ってみようか。雑用君、いいよ!」

 

 その声を合図に先ほどのように今度は高垣さんに向かって海面を勢いよく浚う。

 

「きゃっ!」

 

 その拍子に随分と可愛らしい声が高垣さんから上がる。思わずドキッとしてしまったのは内緒だ。

 

「我慢して楓ちゃん、あくまで表情は崩さないようにね!」

「ごめんなさい、思ったより冷たくて……」

「ぼ、僕もなんかごめんなさい!」

「良いのよ、七瀬君は自分の仕事をしてるだけなんだから」

 

 そういって笑う高垣さんはこの青空に負けないくらいに綺麗だった。どこまでも、青く、高く。それでいて……そのうちどこかに羽ばたいていってしまうんだろうか。

 

「七瀬君、どうしたの?」

「い、いえっ!」

 

 だめだ、いつの間にかぼーっとしてしまってたようだ。

 

「ほら、雑用君、撮影戻るよ!」

「すいません!」

「そうだ、七瀬君」

 

 ふと、改めて撮影に臨もうとしていた僕を高垣さんが呼び止める。

 

「えいっ!」

「つめたっ!」

 

 突然のことで思わず叫び声を上げてしまう。気づけば僕の顔は塩を含んだ水でびしょぬれになっており、高垣さんに仕掛けられたそれに脳が気づくまでに一瞬の間が空いてしまった。

 

「ちょ、何するんですっ!?」

「……お返しですっ!」

 

 悪戯っぽく笑う高垣さん。その笑顔に惹きこまれてしまいそうで慌てて僕は彼女から目を逸らす。

 なんというか彼女の狡さを改めて痛感する。彼女は分かってるのだ、こうすると自分が魅力的に見えることを。……それをどうして僕だけしか見えないところで仕掛けるんだろうか。

 

「そっちがそのつもりならっ」

「やりましたねっ!それなら私は足を使っちゃいます!」

「ちょ、そのワンピース思ったより裾が短いんですから!」

「お前ら遊ぶなよー撮影に戻るぞ」

 

 その後、お昼休憩をはさみながら何度もアングルを変え、時には腰まで水に浸かりつつ、その日の撮影は太陽が水平線へと顔を隠す直前になるまで続いた。

 カメラマンさんの撮影終了の掛け声とともにどっと疲れが押し寄せるが、この疲労感は決して撮影本編だけの疲れじゃないはずだ。

 



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6話

 

「流石にハードだった……」

 

 撮影が無事に終わり宿へと帰還した僕は、現在自分の与えられた部屋の床に完全に大の字で果てていた。

 流石に個室を7人分取るなんて贅沢は天下の346プロでも許しては貰えないらしく、高垣さんだけが個室らしい。その為当然ながらこの部屋にも相方はいるのだが、その人物は現在今日撮影した写真の確認と明日の打ち合わせのために別の部屋で打ち合わせ中だ。

 

「七瀬君」

 

 そんなことを考えているとその張本人が部屋の方へと戻ってきたようだ。

 

「おかえりなさい、大崎さん」

「おう。それにしても初日から中々ハードだったな。お疲れさん」

「そんな、カメラマンさんとの打ち合わせや次の撮影地の管轄に電話かけたりと大崎さんの方が僕なんかより大変そうだったじゃないですか」

「おまけに東京の方でスケジューリングでトラブったらしいっていうおまけつきだぞ」

 

 彼は窓際の小さな椅子に腰を下ろしながら何とも言えない表情を浮かべていた。

 電話越しになかなかヒートアップした論戦を繰り広げている様子を昼間目にしていた僕はその光景を思い返しながら彼の苦労を心の中で労った。

 

「そう言えばこれ」

 

 ふと、大崎さんが一枚の四角い何かをこちらへと差し出してくる。

 

「あんま給料弾んでやれなかっただろ。バイトもこのために休んでるって今西部長から聞いた」

「そ、そうですけどそれがどうしたんです?」

「ま、追加報酬ってことで」

 

 そこに映っていたのは海辺で水をかけあう僕と高垣さんだった。

 

「これって……」

「井田さんがな、あ、井田さんってのはカメラマンさんな。その人が撮った写真の中に混ざってたから貰ってきた」

「貰ってきたって……」

「ちょうどプリンターも持ってきてたからサクッとな」

「いや、そういう事じゃなくてですねっ!」

「要はこう言いたい訳だろ、”こんなものを貰ってしまってもいいのか”」

 

 そういうと彼はポケットからタバコを取り出すとそれにそっと火をつける。

 

「タバコ吸うんですね」

「アイドルの前じゃ絶対吸えないけどな」

「そりゃそうですよ」

 

 ぷぅと煙を宙へと吐き捨てる彼を見て僕はその姿にバイト先の店長の姿を重ねた。

 なんというか、大人になるといろいろあるんだろうな、そう思うと年齢を重ねることをどこか寂しいことのように感じてしまう。

 

「まぁ、今西部長から話は聞いてるって言っただろ」

「そうですけど」

 

 ふと、彼の口から今西部長の名前が出た。

 

「よろしく頼むって言われてんだよ」

「よろしくって……何をです?」

「そこまでは俺も聞いてねぇよ」

 

 吸殻を部屋の備え付けの灰皿に押し付けながらけだるげに彼はそう言った。そんなことより、この部屋喫煙OKだったのか。

 

「……俺も読んだんだよ」

 

 ふと、大崎さんは吐き捨てるようにつぶやく。

 

「何をですか……?」

「演劇界の奇才、七瀬貴臣の最期のメモ」

 

 チクリ、と僕の左胸にありもしない痛みが走ったような気がした。想定もしていなかったところから父の名前が出てきたからだ。こんなところで聞くなんて思ってもいなかった。

 

「三年ぐらい前だったか、ちょっとうちの担当をそっち方面に売り出そうと考えていた時だったか。そんときお世話になった人に教えてもらってな。たまたまだ」

 

 父の遺作は世に出ていない。となるとそのお世話になった人というのは346の人間か父に近しい人間だったのだろう。

 

「それで……?」

「すげぇ構想だと思ったよ。奇才だなんて持て囃されてた理由が分かった。でもな、あの物語には大切なものが足りなかった」

「まぁ、あくまでメモですからね。でも、それでも父の話に足りなかったものなんて」

 

 物語としての素材は揃っていたはずだ。舞台設定、登場人物の背景、そして物語のプロット。シナリオとしてはもう十分形になっていたはずだ。そんな言い切られるほど欠如してるものなんて――。

 

「あるよ。あったよ。あれはな、お芝居の台本だ」

 

 そう強く言い放つ大崎さんを見て僕の脳裏にはある言葉が閃いた。

 

「……役者」

「流石だな」

 

 台詞やト書きはキャストの息が吹き込まれて、初めてそれが舞台の上で形になる。脚本とはあくまでお芝居の設計図でしかないのだ。

 演じられることのなかった父の物語は、本当にまだただのメモでしかなかった。

 

「読んだ瞬間俺は楓のことを考えたよ」

「シンシア……ですか?」

 

 確かに高垣さんにはぴったりの役だろう。街評判の歌姫。そして彼女は新たな世界を求めて王都へと赴く。美貌だって高垣さんが演じるのであればハードルなんて軽く乗り越えてしまえるだろう。

 もし彼女が演じたいというのであればこれ以上の適任はいないだろう。

 

「大崎さんは、あの物語の結末はお好きですか?」

 

 あの本を読んだ。そう耳にした瞬間からどうしても聞きたかったことを尋ねた。

 高垣さんはあの結末が好きだと口にしていた。担当の大崎さんは、エンディングをどう思ったのだろう。

 

「俺は……、いや」

 

 そこまで口にして彼は小さく顔を横に数度振った。

 

「それは言わないでおく」

「なんでです?」

「もしかしたら七瀬君は、近いうちに俺の口からその答えを聞くかもしれないな」

「だったら!」

「でも、今は知らない方がいい。そのほうが明日明後日変なことを考えなくて済む」

「どういうことですっ!?」

「風呂、入ってくる。この宿露天風呂があるらしいからな」

「だからどういうっ」

 

 答えを聞くまでもなく彼は入浴用の荷物を手に部屋から出てしまった。あんな意味深なことだけ言われてどうしろっていうんだよ。

 どうしても僕は大崎さんの後を追うつもりになれず、一人部屋に取り残される。その後の入浴もせっかくの旅館の売りである露天風呂のことなんて忘れて部屋で済ませてしまうのだった。

 

 

 

 

 

 伊豆大島で迎える二日目の朝も、それはどこまでも綺麗な青空だった。

 寝ぼけ眼もすっきりと目覚める程の青さが部屋の窓から見て取れる。蒸し暑さも本格的になる前のこの時間はどこか自分が世界中で独りぼっちかのような錯覚を覚えてしまう。

 そんなはずある訳ないのにどうしてこうも息苦しいのか。心の一番奥がぽっかりと空き続けている感覚が、いつまでたってもこの時間だけは拭えなかった。

 

「ん、起きてたのか」

「はい。おはようございます」

 

 しばらくすると同部屋の住人が大きなあくびを伴って僕へと声をかけてくる。

 

「今日の撮影は山の方だからな。ま、頑張ってくれ」

「……つかぬことを聞きますけど、その山は車で登れます?」

 

 そんな僕の素朴な疑問に彼はニヤリとどこか悪巧みを浮かべた時の悪役を彷彿とさせる笑みを浮かべた。

 

「途中まで、な」

 

 なるほど、やっぱりそうか。

 無意識のうちに僕の肩が下がるのが分かる。今日も暑くなるらしい。そんな気温の中おまけに重い荷物を持っての山登りときたもんだ。

 この後襲い来る苦難を想像して今から気が重くなる。荷物も重けりゃ気分も重いってか。

 

「写真、持ってるか?」

「え、あ、はい」

 

 突然のことだったが彼の言う”写真”の意味はすぐに分かった。いまだにそれがあんなにあっさり渡された理由の方は分からないままだけど。

 

「とりあえず企業秘密だから貰ったことは内緒な」

「それは分かってますけど……」

 

 仮にも出版前の撮影物。その撮影時に撮られた写真の一枚だ。おいそれと公にしていい代物でもない。それによりによってばっちりと僕の顔が映っている。そんな写真をカメラマンさんがとった意味も、そして大崎プロデューサーが僕に手渡した意味も僕の想像の範囲にはありそうになかった。

 

「ま、それが手元にある理由は自分で考えてみろ。仮にも物書きなんだから」

「仮にって……これでも一応この仕事でお金は頂いてるんです」

「それは悪かったな。っつかちゃんとそれで食ってんのか」

「流石にこの仕事だけじゃ一週間分の食費にもなりませんけどね」

「まぁ、まだ19だろ。その辺はしょうがねぇよ。ってキャッツまた負けてんじゃねぇか」

 

 吐き捨てるようにそういうと大崎さんはつまらなそうな顔をしながら部屋のテレビのリモコンをいじりだした。

 

「同い年の新田美波はひと月で僕が三か月暮らせる額を稼ぐらしいじゃないですか。年齢は言い訳になりませんよ」

「俺もそれぐらい稼いでるぞ」

「マジですか!?」

 

 あっけらかんと言い放った大崎さんに思わず声を驚きの声を張り上げてしまう。

 

「346の給料ってそんな良いんですか!?って大崎さんはそれこそ僕らより大人じゃないですか」

「バレたか」

「っていうか大崎さんって実際おいくつなんです?」

「俺か、三十五?」

「なんで疑問形なんです……」

「俺ぐらいになると自分の年に無頓着になっていくんだよ。1年前も1年後もやってることはたいして変わんねぇよ」

「そんなもんなんですかねぇ」

「ま、その写真が手元にある理由はそのうち分かってくるかもな……分かんねぇかも」

「どっちなんですか」

 

 そんなこんなのやり取りののち、今僕はがたがたと山道を走るレンタカーの中からぼんやりと眼下に広がる海を眺めていた。

 

「いい天気ですね」

 

 隣に座る高垣さんがまぶしそうに目を細めながら同じように海へと視線を傾けている。

 今日も高垣さんは綺麗だ。細めた目元から僅かに見え隠れする二つのオッドアイはこの伊豆大島の雄大な自然とそしてそれを包み込むように広がる広大な海を連想させる。

 ブラウスから伸びたすらりとした白い腕が日光に照らされてほんのりと赤く上気しているのもポイントが高い。

 

「本当に、綺麗ですね」

 

 ふと心の声が口からこぼれてしまう。

 視線がばちりと彼女と交差しする。しまった、海なんて見てなかったことがばれてしまっただろうか。

 

「ふふっ」

「ど、どうかしましたか?」

「いえ、なんでもっ」

 

 そういって僕には理由もわからない笑顔を浮かべて彼女は再び視線を海の方へと戻した。

 そんな彼女につられるように僕の視線もついつい海の方へと動いてしまう。陸地なんて一つも見えないその場所は、今日も青々とその水面を輝かせておりどこか自分のちっぽけさを痛感させられる。

 高垣さんは、この景色に何を思うのだろうか。

 ちらと覗き込んだ彼女の表情は僕には到底読み取ることが出来るような代物ではなく、ほのかに緩んだ目元にただただ僕の思考は吸い込まれるだけだった。

 

「っと、そろそろだな」

 

 そんな僕の意識をこちら側へと引き戻したのは、呑気に声を上げる大崎さんの言葉だった。

 

「もう着いたんですか?」

「着いたというか……七瀬君にとっては苦労の始まりかもしれん」

 

 そういって苦笑いを浮かべる彼を見て僕は早朝のやり取りを思い出すのだった。

 

「登るんですね……」

「ああ、あそこをな」

 

 大崎さんが指さした先には小高い丘がそびえていた。頂上には小さな展望台が備え付けてあり、そこに向かって目の前から展望台に続く道のりが丘に這うように伸びている。

 距離にして二百メートルほど。高さにしてざっと五十メートル以上だろうか。

 いや、あれをこの荷物を背負って……?

 後部座席には衣装やメイク道具を詰め込んだ大きめのボストンバッグが4つほど鎮座している。これからこの坂道を共に歩く憎き相棒たちである。その隣ではメイクさんがニコニコと微笑みながらこちらに小さなガッツポーズを送ってきていた。

 

「いや……。はい、頑張ります」

 

 そんなこんなで始まった高垣楓伊豆大島写真集ロケの二日目はコンディションに恵まれ順調に撮影を進めていくのだった。

 



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7話

「お疲れ様」

 

 撮影開始から2時間ほど経った頃だろうか。

 お昼休憩となったタイミングで木陰に身を休める僕のもとへと冷たいペットボトルが差し出された。

 

「あ、リエさん、お疲れ様です」

 

 そこにいたのは二つ結びのおさげが印象的な眼鏡がよく似合う女性だった。

 彼女は今回の撮影に同行しているスタイリストのリエさんだ。年齢はヒミツ、ちなみに苗字もヒミツらしい。先日の自己紹介の際に「女性は秘密が多い方が魅力的なのよ」と言っていたが僕の見立てではきっと大崎さんと同じぐらいの年齢だろう。本人には思っても言わないけれども。

 

「うん、お疲れ様。撮影順調そうで何よりだよ」

「そうですね……」

「いや、七瀬君は大変そうだったけど」

「衣装関連のスタッフさんは木陰でずっと見てただけでしたもんね」

「ごめんねー、マチコちゃんと二人でずっと喋ってたわー!」

 

 そういってニカッと笑うエリさんを見て僕は先ほどまでの自分のハードワーク具合を改めて思い出すのだった。

 坂道、高温、重い荷物。

 夏場の地獄三点セットは想像通りの体験を僕に提供してくれた。挙句その後も白い板もって高垣さんの周りを行ったり来たり。展望台を囲うように設置されている安全柵は、本来乗り越えることは禁止されているのだがそれも問答無用で乗り越えあっち側へ。

 足場が崩れこぶし大の石が急斜面を転がり落ちていったときは流石に肝が冷えたものだ。

 

「撮影、楽しい?」

 

 エリさんは手元のミネラルウォーターをくぴりと煽りながらあっけらかんとした表情で僕へと尋ねる。先ほどの光景はばっちりご覧になってるはずなんですがね。

 

「楽しいか楽しくないかって言われると楽しいですけど、ことごとく大変ですよ」

「まま、この業界の若い者ってのは大抵そんな扱いなのよ」

「ブラックですね」

「……否定はしないわ。でも、AD君たちよりはましだと思うけどね」

 

 そういって苦笑いを浮かべるエリさん。あれがマシな方っていったいどんなことをさせられているのか……。僕はそっと顔も名前も知らないこの世の全てのアシスタントディレクター達の無事を祈る。

 

「そういやさ、七瀬君、どうしてこのロケに帯同したの?大崎さんから直前に一人人員が変わるって聞いたからびっくりしたよ」

「あー、それは……」

 

 これは今西部長から聞いた話だが、本来このロケには別の人間がついていく予定だった。346のスタッフだったらしいのだが僕が名乗りを上げたせいで今は別の現場に赴いてるようだ。

 今回のロケ隊に人員の変更が伝わったのはロケ直前のことだった。

 

「そこはいろいろとありまして……」

「色々、ねぇ。これ、聞いていいのかわかんないんだけどさ」

 

 ふとエリさんの顔に陰りが見える。こちらの顔色を窺うように、どことなく不安そうだ。

 

「いいですよ。むしろこちらはお世話になっている身なので、なんなりと聞いてください」

「それなら聞くけど、七瀬君、ぶっちゃけ七瀬貴臣の息子?」

 

 ドキリ、と心臓が高鳴るのが分かった。僕が七瀬貴臣の息子だということは業界で知っている人間なんてほとんどいない。ましてや父と僕の才能なんて天と地ほどの差があるのだ。そこに関係性を結びつける方が稀だろう。それなのにどうしてこの人は……?

 

「アタリ、って顔してる」

「……誰から聞いたんですか?」

「マチコちゃんがね」

 

 そう言ってエリさんが視線を向ける先には大崎さんと楽しく談笑しているヘアメイクのマチコさんの姿があった。頭の上にポコリと乗っかったお団子ヘアがよく似合う、こちらはエリさんとは対極に少し物静かな印象の女性だ。

 

「マチコさんがどうしたんです?」

「あ、噂好きなのよ彼女」

「へぇ~」

 

 少し意外だった。人付き合いとか苦手そうな印象を受けたのだが。案外そういうことでもないのかな。このロケ中エリさんとは何度か言葉を交わしているがマチコさんとは朝の挨拶と後はちょっとした業務連絡ぐらいの会話しかしていないことを思い出す。

 もっと彼女とも交流を深めていくべきなんだろうか。 

 

「で、マチコちゃんからちらっとね。あ、気にしてたらごめんねっ!」

 

 こちらに両手を合わせながらペコリと頭を下げるエリさん。別に謝られるほどのことをされた覚えはないのだが、素直に貰えるものは貰っておくことにする。

 

「気にしてるか気にしてないかって言われたら気にはしていますけど……。でも、僕は父とは違いますから」

「なんかドライだね~、イマドキの子って感じ」

「いや、そういうのとは違うっていうか……違うと、思います」

 

 余計なことを言わないようにと、言葉と一緒に飲み込んだペットボトルの水は既にこの暑さですっかりぬるくなってしまっていた。

 喉を通るちょっとした嫌な感じの正体は、きっとこの飲料水のせいだ。

 

「……エリさんは、どうして今のお仕事に?」

 

 不快感を何とか押し込めようと絞り出した僕の質問に、エリさんは一瞬困惑した表情を浮かべた。その後顎に静かに手を添えると彼女は何やら考え込むような仕草を取った。

 

「何というか、一言で言うとここだって思ったんだと思う」

「ここだって思った……ですか?」

 

 彼女が口にした答えの意味を僕はイマイチ理解できなかった。

 

「ワタシ、ちっちゃい時から服とかが好きでね。高校卒業してすぐに服飾の専門学校に進んだんだよね」

「へぇ、いいですね、なんか女の子の憧れって感じします」

「でしょ!それで卒業を機にアパレル関係のメーカーに就職したの」

「あれ、346じゃないんですね」

「そーなの。まぁ、その後ちょっとした仕事で346のスタイリストさんと知り合いになってねぇ。ああ、こういう仕事もあるんだーってなったの。それで転職して346に来たって訳」

 

 人生の数だけ物語がある、とはよく言ったものだ。きっと転職するときにも一波乱あったんだろうなぁ。

 

「で、急にどうしたのよ。おばさんの人生なんて聞いてもしょうがないでしょ?」

「おばさんだなんて」

「いいのよ、どうせ大崎君より四つも上なんだから」

「えっ」

「あ、心からの声が聞けたわね」

「す、すいません、失礼しました」

 

 同じぐらいだとは思ってたけどまさか四歳も年上だったとは。大崎さんは35。ってことはエリさんは今……だめだ、これ以上はいけない。簡単な足し算を僕の脳はそっと拒否したのだった。

 

「急にどうしたってことの程ではないんですけど」

「七瀬君も一応同僚なんだから、話ぐらいは聞くわよ?今は346で放送作家もどきなんでしょう?」

「まぁ、そんな感じです。新人アイドルのラジオ番組の構成やってたりしてます」

「十九でそれはすごいわよ!もっと誇りなさいな」

「あくまでサブなんですけどね。僕が考えてるのは番組内のミニコーナーの企画とかですよ。全体の流れはメインの作家さんがいるので」

「それでも十分よ、自信もって」

「”自信”ですか……」

 

 今の仕事に不満は正直ない。自分の実力も分かっているし、それを見越したうえでこうして使ってもらっているのはすごくありがたい。僕の年齢でこれだけのことをやっているのは業界広しといえども決して多いわけではないだろう。

 本来は自信を持ってもいいのだろうけど、だけど、どうしても心の奥底のもやもやがそれを許してくれそうにはなかった。

 

「今の仕事は不満?」

「不満って訳じゃないんですけど……ちらつくんです」

「ちらつく?」

「はい、父の影が、ちらつくんです」

 

 ”演劇界の奇才”七瀬貴臣の息子。というのは案外簡単には消えてくれない。キーボードに向かう度に僕の脳裏には常に昔見た父の背中がちらつくのだ。

 

「偉大な御父上を持つってのは大変ね」

「そう、ですかね……。父っていうよりも尊敬する同業者に近いですけど」

「亡くなったのは7年前?」

「ですね、僕が中学に入ってすぐのころでした」

 

 あの日のことはよく覚えている。

 学校から帰宅した僕の家の前に救急車が止まっており、慌てた様子の母が救急隊員に縋っているあの光景を。

 あの時の僕は父が倒れたなんて実感が無く、病院のベッドの上で白い布を被された父の姿を見てようやくそのときになって初めて父の存在がこの世から無くなったことに気づいたのだった。

 あの時の僕は、寂しかったのか、それとも悔しかったのか。

 今思えば、僕がこうして物書きを志したのも、あの背中が居なくなったからなのかもしれない。

 

「ごめんね、しんみりとした話になっちゃったね。お父さんに憧れてるの?」

「過ぎたことですので……。でも、同じ仕事をしてるっていう実感は無くて、父に近づきたいのかそれとも彼と同じ道を歩きたくないのか、よくわからないんです」

「お父さんを超えたいの?」

 

 ふと、リエさんが呟いた言葉に時が止まったかのような錯覚を覚えた。

 記憶の奥から僅かに父の書斎の香りがフラッシュバックする。日焼けした本の臭い。わずかに埃臭いその空間は僕が小さいころから見てきた父の背中を思い起こさせる。

 

「超えたい……というよりは」

 

 それはきっと僕がずっと思い続けていた願い。その為に僕はこうして物書きを名乗っているのかもしれない。

 

「きっと、父を”理解”したいのかもしれません」

「理解?」

「ええ、どうして彼が脚本家なんて仕事を始めたのか。どうして演劇界の奇才なんて大層な名前で呼ばれるようになったのか。彼が、自らの世界で何を伝えたいのか」

「なんか小難しい話ね」

「そうですかね……。僕だってよくわかってないです。でも、父は小さいころからこう言ってました。”誰かの明日になれる物語を”って」

「……素敵な言葉ね」

「僕もそう思います。でも、きっと僕はその真意を理解できてはいないんです」

 

 我ながら訳の分からないことを宣っているのだということは分かる。でも、そんな僕の拙い言葉にエリさんは笑顔を崩さないままそっと見守ってくれていた。

 なんというか、こんな人間なのに僕の周りには本当に素敵な大人が多いと思う。

 

「じゃ、理解しに行かなきゃね」

「出来るでしょうか……?」

「出来る出来ないじゃなくて、やらなきゃいけないことなんでしょ?」

「厳しいことを言いますね」

「ワタシ、七瀬君のこと結構評価してるのよ?キミは若いのによくやってる。ワタシがあと十年若かったら手を付けちゃうかも」

「今だっていいんですよ?」

「ナマイキなところはマイナスポイントかな。それにアタシ」

 

 そういうとエリさんは左手の甲をこちらへと晒してくる。その薬指には、きらりと光る親愛の証が輝いていた。

 

「ケッコンしてるの。んじゃ、楓ちゃんのメイク直しがあるから」

 

 「ガハハー」なんて打てば響くような笑い声を発しながらエリさんはそのままレンタカーの方へと姿を消した。

 残された僕はエリさんから差し出されたミネラルウォーターへと口を付ける。今日も気温は猛暑日を優に超える暑さだ。案の定先ほどよりもさらにぬるくなったそれは僅かばかりの潤いを喉へともたらすとそのまま胃の中へと姿を消した。

 

「おーい七瀬君、続きやるぞ」

 

 遠くで大崎さんが僕の名前を呼ぶ声がする。カメラマンさんたちも幾らするのかわからない高そうなカメラを弄繰り回しながらこの後の撮影の準備に取り掛かっていた。

 

「やらなきゃいけないこと、ねぇ」

 

 口をついたのは先ほどのエリさんの言葉。先の見えない未来に近づくために、僕はそんな言葉と共に重い腰を上げたのだった。

 



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8話

「お疲れ様です」

「おう、お疲れ様。そんじゃあの辺の機材適当に車に乗せといてくれ」

 

 撮影が終わったのはまだ太陽が丸々水平線の上に姿を残している午後六時過ぎのことだった。夏場の日は子どものころから何一つ変わらない長さで、日差しが辺り一面をオレンジ色に染め上げているその光景はどこか幻想的な雰囲気を醸し出している。

 大崎さんに言われたままに荷物をレンタカーの後部座席へと押し込みながら昼間のリエさんとの会話を何となく思い返す。

 結局このロケの間、僕はこれといって確証を得ることが出来ないでいた。

 高垣さんの見えている世界。そして父が見てきた世界に手を伸ばしたくてここへ来た。しかし、今もその世界の光景は背中すら見せてくれない。

 店長はその世界を”羨ましい”と表現した。今は何となくその気持ちが分かるような気がする。僕の知らない世界は、あまりにも僕にとって綺麗すぎた。

 

「七瀬君」

 

 そしてその綺麗すぎる世界の一部は、その世界にぴったりの音色で僕の名前を呼ぶ。

 

「どうしました、高垣さん」

「海がとっても綺麗ですよ。夕日に照らされて真っ赤。荷物を積み終わったらちょっとだけ眺めてみませんか?」

 

 そういって視線の先の高垣さんは展望台の柵にちょこんと寄りかかりながら僕の方へと手招きをする。そんな仕草に誘われるように僕の足は彼女のもとへと向かっていった。

 

「ちょっとだけ、お話がしたくなったものですから」

「僕なんかでよければお付き合いしますけど……。高垣さんが楽しめるような話題が出来るかどうか自信はないです」

「楓」

「あ……えっ」

 

 ふと、高垣さんがぷぅと頬っぺたを膨らませながらこちらへ不満そうな表情を向ける。

 

「何かご不満ですか?」

「ご不満しかありません。親しい友人はみんな私のことを楓って呼んでくれます」

「……僕にもそう呼べとっ!?無理ですよっ!第一僕は高垣さんと親しくなってそんな日が経ってる訳じゃないんですからっ!」

 

 突然のことに困惑する僕。今回のロケだって彼女とまともに言葉を交わした回数は少ない。僕が親しい友人に含まれるかと言われればそれは当然ノーだろう。

 第一、年上の綺麗な女性を名前で呼ぶというのは僕の人生経験上初めてのことな訳で……。

 

「……」

 

 ちらと顔色を伺ってみるものの相変わらずその表情が変わりそうにはない。

 このままだと延々と時間が過ぎていくだけなのだろう。言葉にできないその雰囲気に僕は根負けしてしまい、意を決してその名前を口にする。

 

「……楓さん」

「はいっ!」

 

 なんて嬉しそうな顔で笑うのだろうか。名前を呼んだのはこんな僕だというのに。

 まるでステージの上から客席に向かって投げかけるような笑顔でこちらへと微笑む高垣さん、改め楓さん。彼女の後ろに広がる広大な海に乱反射するオレンジの光がより一層その姿を惹き立てる。その光景が僕にはまるでサイリウムの波の中に佇むかのように見えてしまい込み上げる言葉にならない思いが体中を駆け巡っていった。

 

「楓さんは……」

 

 楓さんは、僕の知らない向こうの世界からこちらを見ている。手を伸ばせば届く距離なのに、心は何処までも遠くに感じた。

 

「楓さんには、どんな世界が見えているんですか……」

 

 問いかけでも何でもなかった。きっと僕はそのどうしようもないやるせなさをどうにか吐き出したかっただけなんだろう。生きる世界が違う。なんていう言葉は陳腐に聞こえるかもしれないけど的確だ。今目の前に広がる世界は、僕の十九年じゃ埋まってくれそうにないほど深く遠い。

 そんな僕の両手がふと、見知らぬ温かさに包まれるのが分かった。

 真夏の気温のせいではない。ましてや熱いものを急に握りしめた訳でもなかった。

 いや、僕は知っていた。この熱は――体温。

 

「ステージの上っていうのは」

 

 楓さんはそっと僕の両手を自らの二つの手の平で包み込みながら静かに水平線の彼方を見つめていた。

 

「いつだって知らない世界です」

 

 言葉を探すように、その口からは美しい音が紡がれていく。

 

「三万人以上のドーム、百人にも満たないライブハウス、デビューしてすぐは地域のお祭りの舞台にも立ちました。見てくださったのは、十人ほど。そのどれもが、私の知らない世界でした。私はあの、恥ずかしながら同僚から時折抜けてるって言われることもありまして、おまけに酒癖も悪いみたいです」

 

 そう言って楓さんは照れ臭そうに笑った。それでも、音を紡ぐ口が閉じられることはない。

 

「そんな私にとってステージの上っていうのは、私が私でいられる場所なんだと思います。新しい世界を求めて、私はステージに立ち続けていたのでしょう。写真でも、映像なんかでもなく、この二つの瞳でそんな世界を見に行きたくて私は、歌ってきました」

 

 もしも、世界の音に色がついているのならば、それはきっと楓さんと同じ瞳の色をしているのだろう。初めて彼女と出会ったとき、僕は切にそう思った。

 今ははっきりと違うと言える。あの色は、彼女の目を通してみた色。僕らが見ようとしていた世界の色は高垣楓という二つの目を通して感じた世界だったのだ。

 

「七瀬君は……」

 

 ふと、先ほどまで饒舌に語っていた彼女の言葉が詰まった。

 見ればその二つの瞳は何処か悲しそうな色を含んでいる。

 

「楓さん……?」

 

 恐る恐る声をかけてみるがその色が消えることはない。

 

「な、何でもありません。ごめんなさい、ふと吐き出したくなっちゃいました。アルコールも入ってないのに私ったら」

「い、いえ、そんな僕なんかでよければまたいつだってっ……っ」

 

 誤魔化すように先ほどまでの見慣れた笑顔に切り替える彼女を見てチクリと胸が痛んだ。彼女の生きている世界を、僕は知らない。でも、それを分かっていながらそんな世界を知ることができない自分の無力さがただただ今は痛かった。

 彼女のために自分が出来ること。彼女の世界に手を伸ばす方法を――。

 

 楓さん。今あなたの頬を伝う涙を、僕はどうやったら拭えますか?

 

 

 

 

 

「どうだったか、この三日は」

 

 伊豆大島から東京へと戻った日の空は昨日とは打って変わってどんよりとした雲に覆われていた。事務所へと今回の撮影で使用した大荷物を運びこんだ僕はというと今は346プロダクションの入り口で大崎さんと軽い雑談を交わしている。

 

「まぁ、大変でした……力仕事は慣れていないもので」

「そーだよな。ま、また機会があったら声かけてくれよ。バイト代は弾むぞ?」

 

 そう言っていやらしそうに右手の指で小さく丸を作る大崎さん。彼の言葉通り今回のバイト代はいつもの僕の稼ぎじゃ到底届きそうにないほどに美味しかった。まぁ、これは多分今西部長からの口添えも多少あるんだろうけど……。

 

「その時はぜひ、お願いします」

「ま、その時は……別の子になるかもしれねぇけどな」

 

 ぽつり。今にも雨が降り出しそうな空模様よりも先に、大崎さんの口から冷たい言葉が零れた。

  

「七瀬君」

 

 ふと、大崎さんが僕の名前を呼ぶ。

 見れば彼の眼はこの三日間で見たこともないような真剣な眼差しをしている。

 

「高垣楓は、今やどんなトップアイドルや歌手にも引けを取らない歌姫になった」

「はい、僕もそう思います」

 

 彼女の声を初めて生で耳にした時から、僕はずっと高垣楓という世界の虜だ。

 

「十二時の鐘が鳴る時間が、来たんだろうな」

 

 物語には必ず終わりが訪れる。

 昨日の楓さんの涙の理由は、何となく想像がついていた。もし僕という存在が、そしてこの世界そのものが高垣楓という物語の虜なのならばその物語の行きつく先は、その世界が最後に見せる景色は、いったいどんな結末なんだろうか。

 

 悲しそうな、悔しそうな、それでいてどこか満足した表情を浮かべる大崎プロデューサーの顔が、眠りにつく直前まで僕の脳裏にこびりついて消えてはくれなかった。

 

 

 

 

『ええ、ぜひとも永迫選手には次代の日の丸を背負うエースになってもらいたいですね』

 

 あれから二週間が経った。

 僕の日常はいつも通りの光景へと戻りバイト先と自宅の行き来、そして空いている時間はパソコンに向かって原稿の執筆と代り映えのしない日々を送っている。

 テレビからは聞き慣れたキャスターの声でニュースが流れ特に関心もない音だけが狭い僕の巣の中に虚しく響いていた。

 

『それでは次は芸能コーナーです。いやぁ、まさかって感じですよ。僕も朝から驚いてしまいました』

 

 しかし、世界はいつも通りを許してくれることはなく、僕の世界も少しずつ変化を強いてくる。

 

『高垣楓、アイドル引退。いやぁ朝から様々な新聞の一面を飾りましたこちらのニュース、驚きでしたねぇ』

 

 右手に握りしめた携帯電話に無意識のうちに力が入る。

 画面にはついぞ閉じることができなかった大崎さんから送られてきたメールが表示されていた。受信時間は昨日の午後十時過ぎ。きっと彼もこのメールを送るのに躊躇したに違いない。 

 僕へと連絡をくれたのは僕を信頼してのことだったのか。それとも、彼なりの僕への義理立てみたいなものなのかもしれない。ベッドの上には、先日大崎さんから手渡された写真が可愛げのない写真立てに収まっていた。

 あの時の言葉も、表情も、きっと彼はこうなることを知っていたが故のものだったんだろう。

 ”アイドル”であった高垣楓の物語。それに僕が触れられるように大崎さんは気を遣ってくれたのかもしれない。それなのに、僕は……。

 

『それでは、次の芸能ニュース。続きましては韓国で大人気の三人組アイドルグループがついに』

 

 リモコンのボタンを乱雑に押し込みテレビの音を消す。壁掛け時計の針はバイトの時間まで一時間を切っている。

 机の上の自転車の鍵へと手を伸ばすと僕は飛び出すように家を出た。

 

 その後のことは、よく覚えていない。

 無心で自転車をこいで無心でドリンクを作った。無心で飲食物を運んで無心でオーダーを取った。

 意識をするときっと思い出してしまうからだ。

 

 あの時の楓さんの笑顔を。

 あの時の楓さんの涙を。

 

 僕の知らない世界で、僕の知ることのできない悲しみを抱えるあなたを、とてつもなく想ってしまう。

 



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9話

「お疲れさん」

 

 閉店作業を終えてロッカールームへと向かった僕を待っていたのは店長だった。

 

「お疲れ様です」

「いやぁ、流石に肩凝ったわ。今日はホールも忙しかっただろう?」

 

 いつもの仕草で椅子へと腰かけると彼は机の上に放り投げられていたタバコの箱へと手を伸ばした。

 

「まぁ、団体さんが三組いましたからね。しかもそのうち二組は十人越え。ドリンク捌くの大変でしたよ」

「予約貰った段階で人増やしといて正解だったな」

「ですね」

「そういや、この前のあれ、どうだったんだ?」

「あれ?」

 

 店長と同じシフトになるのは実は大島から帰って以来初めてだった。そうなると自然と話題はそのことになる訳で……。まぁ、仮にも発売前の写真集の撮影。店長には簡単な概要しか話していないため楓さんのことを根掘り葉掘り聞かれることはない。

 

「いやぁ大変でしたよ、重い荷物持たされたりあちこち走らされたり」

「なんだ、うちと対して変わんねぇじゃねぇか」

「バイト代は向こうの方が圧倒的に上でしたけどね」

「それはうちじゃどうしようもねぇんだよ。チェーン舐めるな」

 

 そう言って大手を振る店長。まぁ、僕もこうやって不満は口にするものの良くしてもらっているここを今のところやめる気はない。

 

「で、今日はどうしたんだよ」

 

 仕切り直し、といわんばかりに二本目のタバコに火をつけると店長は明後日の方向を向いていた体をこちらへと向けた。

 

「どうしたって……」

「今日は様子が少しおかしかったぞ」

「……そんな日もあります」

「じゃあそんな日が来る度に聞いてやるよ。何があった?」

 

 大人はズルい。普段はそんな態度を見せることなんてないのに、こういう弱ってるときに限ってきっちりと手を差し伸べてくるのだ。

 まるでタイミングを見計らってるかのように、虎視眈々と手を差し伸べる相手と瞬間を狙ってるのだ。そんな風に手を差し伸べられてしまったら、見えてるそれを取るしかないじゃないか。だって、僕はこの世界じゃあまりにも無力すぎるのだから。

 

「……高垣楓」

 

 ぽつり、店長が呟く。視線の先には相変わらず笑顔の楓さんがビール片手に笑っていた。あのポスターも、彼女がアイドルを辞めてしまったら外されてしまうんだろうか。

 

「ご名答ってところか?」

「何というか、見透かされてる感じですかね」

「七瀬、お前思ったよりわかりやすいからな」

「マジですか……?」

「マジマジ」

 

 そんなことはじめて言われた。あれ、もしかしてあの時の態度も全部楓さんに見透かされてたり。それはちょっと恐ろしくて考えたくない。

 

「引退報道で一ファンとしてただ悲しみに暮れてる。って訳でもなさそうだな」

「……まぁ、色々とありまして」

「そっか……。で、どうするんだ?」

「えっ」

「どうするんだって聞いてんだよ。お前、どうせその様子だと高垣楓と顔見知りにでもなったんだろう?羨ましい限りだぜ」

「いや、まぁ、そうなんですけど……。どうするって言ったって僕には何も……」

 

 こんな状況で僕に出来ることなんてあるはずがないじゃないか。トップアイドル高垣楓、片や僕は駆け出しのちっぽけな物書きに過ぎない。アマチュアに毛が生えた程度の僕が、楓さんにいったい何が出来るというのだろうか。

 

「出来る出来ないってのは確かに問題だ」

 

 両瞼を片手で摘まむように擦りながら店長は呟く。

 

「問題だけど、それ以前にもっと大事な問題があるだろう?」

「もっと大事なって……」

「やるかやらないかだよ、単純だろ?」

 

 そう言って店長はニヒルに笑って見せた。そう言えば、島でのエリさんも同じことを口にしていた。

 

「そうは言われましても……」

「いいか七瀬。やらないで後悔するよりもやって後悔しろ。よく聞く台詞だろ?」

「そうですけど」

「言うだけなら簡単だよな。でも実際問題何かをやるってのはすげぇ大変なことだ。能力もいるし時間もいる。場合によっちゃ金もかかるかもしれねぇ。人生を賭ける覚悟も必要かもな」

「随分と壮大ですね」

「甘ぇよ。何かをやるってのはそういうことだ。だがな、そこまでして変えたい何かが、手に入れたい何かがあるのならば躊躇うな。勇気も無くて布団の中で縮こまって震えてるお前と、その覚悟があってボロボロになった先で笑ってるお前。七瀬はどうなりたい?お前が高垣楓にどういう思いを抱いているのかは知らねぇ。だがな、その先で、その世界で、お前は高垣楓にどうあって欲しいんだ?」

 

 僕が楓さんにどうあって欲しいか――

 

「出来る出来ないじゃねぇ。お前自身がやりたいことを探せ。結果は最後にゃどうせ出るんだから。それを確認してからでも後悔するのは遅くねぇぞ」

「店長……。どうしてそこまで」

「飲食チェーンの雇われ店長の座に収まって十年が経つ」

 

 僕は忘れないだろう。

 

「それまで色々あったぜ。俺だってボロボロになりながら夢追っかけてやってきた時期もあった」

 

 こんなちっぽけな背中を、精一杯に押してくれた彼のその言葉を。そして――

 

「そして俺は今精一杯やって、後悔してる」

 

 余りにも満足そうに笑う、その笑顔を。

 

 

 

 

 

「か、楓さん!?」

 

 彼女と出会うときは、たいてい僕の想定外の場所だ。

 初めてはカフェで。二回目は伊豆大島。そして三回目は――

 

「あら、七瀬君?」

「七瀬?じゃあこの子が例の?」

 

 注文のドリンクを両手いっぱいに持ち、慣れた手つきで引き戸を開けた僕の目の前に広がっていたのは、何とも言葉にしがたい光景だった。

 机の上に突っ伏してピクリともしない美人。部屋の隅で壁に向かってひたすらに頭を下げまくっている美人、机に潜り込むようにうつ伏せで寝転がっている美人。そこは、美人の地獄絵図だった。

 そんな地獄絵図の真ん中で、ビールジョッキを片手に幸せそうな表情を浮かべている見慣れた美人と、お猪口を摘まんでアンニュイな表情を浮かべる何処か見覚えのある美人。

 ドキリとした。楓さんとはまた違う色気が机越しにも伝わってくる。

 

「はじめまして、柊志乃です」

 

 そういって笑う彼女からは、どこかこちらへと親しみを込めたような雰囲気が伺えた。

 

「は、はじめまして……。七瀬幸市、です」

 

 柊さんは僕の自己紹介に「ふふっ」と小さく口元を緩めるとそのまま手に持っていたお猪口にゆっくりと口を付けた。

 そりゃ何処か見覚えが有る訳だ。彼女も立派な346プロダクションのアイドル。それに恐らく二人に潰されたのであろう美人たちもしっかりと顔を見ればみんなアイドルじゃないか。

 

「ど、どうしたんですこんなところで」

 

 そりゃ僕の口からもこんなありきたりな言葉が出るってもんだ。状況がさっぱりわからない。というかなんでこの人たちがこんなチェーンの居酒屋なんかでバカバカとジョッキを空けてるのかが謎だ。芸能人ってもっとこ洒落たところでゆったりとグラスを傾けてるものだと思っていたのだが。

 

「いやぁ、今日は私の送別会みたいで……」

 

 そう言って楓さんはころころと音が鳴るかのような可愛らしい表情で笑った。それだけでもうこの空間が彼女にとって居心地の良い場所なんだということが伝わってくる。

 送別会。

 そうか、これは楓さんを送る会だったのか。

 

「それにしたってこんなところで、驚きましたよ」

「あれ、聞いてなかったんですか?ここの店長さんの気遣いだそうで……」

「て、店長?」

 

 なんだってこんなところで店長の名前が出てくるんだ。

 

「あれ、プロデューサーさんと古くからの友人だって聞いてましたけど」

 

 僕にとっては前代未聞の新事実。それを楓さんはあっけらかんと言い放った。

 

「お、やってるか?って……こりゃまたひでぇな」

 

 そしてそこにまた新しい人影が一つ増える。

 こういう時の現実というのも奇妙なことにうまくできていて、そこにいたのはまさに直前に名前が出た人物だった。

 

「あら、大崎さんじゃない」

「プロデューサーさん」

「相変わらず起きてるのは志乃と楓だけか……どーすんだよこれ」

「お、大崎さん!?いったいどういうことですっ!」

 

 見慣れた顔を見慣れない場所で見続けているせいか先ほどから物凄い違和感に包まれまくっている僕。そんな僕の心情を大崎さんは一瞬で把握したのかその顔に同情の色を浮かべると同時に僕の手から流れるように注文のドリンクを攫っていくのだった。

 

「黙ってたって訳じゃねぇんだが……話すようなことでもなかったしな。それとハイボール。出来るだけ濃く、作ってくれよ」

 

 そう言って大崎さんはバツが悪そうに頭をポリポリと数度掻くのだった。

 

「店長、どういうことです!?」

 

 厨房へとオーダーを拾いに行った僕はというと開口一番キッチンスペースの一角で呑気に休憩をかましている店長へと噛みついた。

 

「お、その様子だとあれか、大崎も来たのか?」

「そうです。……じゃないですよ!知り合いだったんですか?全くそんなこと口には」

「待て待て」

 

 ふと目の前に現れた手のひらに口をつぐんでしまう僕。そこには店長が呆れたような表情で手をこちらに差し向けているのが目に入った。

 

「この歳になるとな、話したくねぇ事も色々あんだよ。色々な。まあ、詳しいことは大崎から聞いてくれ」

「そ、そう言われましても……。とりあえずこれ、四番のお座敷な。それ届けたらこっちのハイボール、大崎に持ってってやってくれ」

「は、はぁ……」

 

 これ以上はきっと彼は何も口を開かないだろう。気になりつつも進展が望めないことを何となく察した僕は渋々店長から渡されたドリンク類を手に持つと再びフロアへと足を向ける。

 そしてそこで小さな違和感に気づくのだった。

 

「あれ、僕大崎さんのオーダー通しましたっけ?」

「どうせあいつはそれだろ?ちゃんと濃い目に作っておいたって伝えておいてくれ」

 

 そう言って笑う店長は、どこか昔を懐かしむかのような優しい目で笑っていた。

 

 

 

 

「悪いな、こんな時間まで」

「いえ、それにしても大変ですね……」

「ホントだよ。特別手当なんて出もしねぇってのに。それじゃあ志乃、領収書ちゃんと貰っといてな」

 

 タクシーの扉の向こうへと消えていく柊さんに声をかける大崎さんを見ながら、僕は彼と店長のことを考えていた。

 結局、あれから”高垣楓送別会”がお開きになることはなかった。浅い眠りからイマイチ現実に戻れないでいる佐藤さん、何とか冷静さを取り戻そうと取り繕う三船さん、思考がどこかに行ったっきりの安部さん。その他諸々。その層のファンが見たら卒倒しそうなレベルのアイドルオンパレードは閉店時間まで続くこととなったのだった。

 そして閉店作業後に店を出てみると酔っ払い美女に囲まれて疲労困憊の大崎さん達が未だに店の前にたむろしていたという訳だ。

 

「これもお仕事なんですか?」

「そこまでブラック企業に就職したつもりはないんだけどな」

「じゃあどうして……?」

「楓がな、どうしてもってうるさく言うもんだからさ」

 

 そういって大崎さんが視線を向ける先には、店先のベンチで気持ちよさそうに寝息を立てる楓さんの姿があった。

 トップアイドルがこんな繁華街の店先で寝てるなんて、考えただけでも危険極まりないのだが、それもこれも、きっと大崎さんが居てくれるからなんだろうか。

 

「ほら、起きろ楓」

「ん、んぅ~。睡魔に襲われすいません……?」

「しょーもないこと言ってんな。俺はこの後また会社に戻らなきゃいけなんだよ」

「そーれすかぁ……大変ですねぇ」

「なぁ、七瀬、俺はキレてもいいよな」

 

 なんてことを口にしながらプルプルと右手のこぶしを震わせる大崎さんを何とかなだめる。

 

「ってかこの後会社に戻るんですか!?」

「そーなんだよ。明後日のロケのスケジュールがまだうまく決まって無くてな……」

「大変ですね……」

「そういうことだから、頼むわ」

 

 ポンと僕の背中が子気味の良い音を立てた。

 

「いや、頼むって何を……」

「楓、家まで送ってくれ」

「……はい!?」

「これ、住所な」

 

 そういって手渡されたのは一枚の紙切れだった。聞き覚えのある地名といくつかの数字が羅列しており、それがとある場所の住所だということが一目でわかる。どうやら彼の名刺の裏面に走り書きされたものらしく表面には346プロダクションのロゴと彼の名前、そして肩書が黒の印字で印刷されていた。

 というか、この人ご丁寧にこれを準備していたってことは、最初っからそのつもりだったのか。

 

「いや、あのですね、仮にも僕は楓さんの関係者ではない訳で……。ほら、間違いがあったりだとかしたりですね!」

「間違いが、あるんですか?」

 

 思わず声を上げてしまった僕へと差し向けられた声は、楓さんの声だった。 

 

「いや、そりゃ、僕なんかある訳がないんですけど……」

「じゃあ、いいじゃないですか」

「ってことだ。まぁ、俺も七瀬君はそんな度胸ないと思ってるから安心してるんだけど」

 

 そういって大崎さんも楓さんへと助け船を出す。

 いや、それ僕褒められてないですよね。

 

「こういう時ってどういう顔をすればいいんですかね」

「笑えばいいと思いますよ?」

 

 そう言って楓さんは嬉しそうに笑った。

 

「じゃ、決まりだな。なんかあったら連絡してくれ。連絡先は、さっき渡しただろ?」

 

 僕の右手には、先ほど半ば押し付けるように手渡された大崎さんの名刺が握られている。

 

「そ、そこまで言うんだったら任されました」

「そか、お、ちょうどタクシー来たみたいだ」

 

 その声から何秒もたたないうちに一台のタクシーが道端へと滑り込んでくる。大崎さんは流れるようにそれへと乗り込むと、最後に窓の隙間から残された僕にこう声をかけるのだった。

 

「それじゃあ少年、いい夜を」

 



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10話

 楓さんと歩く夜の道は、ちょっとだけこの世のものじゃないように感じてしまうのはどうしてだろうか。

 都内だというのに星がいつもより輝いて見え、周りの音がより鮮明に聞こえる。そして何より、世界が澄んで見えるような気がした。

 

「楓さん、ご機嫌ですね」

「ええ~お酒が入ってとっても酒あわせ、ですよ~」

 

 僕の数歩先を鼻歌を歌いながら楽しそうに歩く楓さん。時折立ち止まり空を見上げて大きな深呼吸をしたかと思えば、今度は別の歌を歌い出す。さらに数歩歩いたかと思えばこちらへと何やら嬉しそうな笑顔を見せる。その笑顔がこちらに向かう度、僕は何とも名状しがたい胸の高鳴りに襲われてしまうのだ。

 でも、そんな彼女の自由さに心情を振り回されている自分が、僕はとても心地が良かった。

 

「ねぇ七瀬君」

 

 それは、彼女の自宅まで後数百メートルというところまで差し掛かった頃だろうか。

 ふと、彼女が道端で立ち止まると僕の名前を呼んだ。

 

「どうかしましたか、楓さん」

「私がどうしてアイドルを辞めるか、聞かないんですか?」

 

 瞬間、僕の心臓が一つ大きな音を立てた。

 気にならない訳がなかった。でもそんな大事なことを聞ける訳がない。僕なんかが踏み込んでいい場所じゃない、そこはそういう場所な気がしていたからだ。

 

「……聞いて欲しいんですか?」

「どうなんでしょうか」

 

 ふと、高架下を一台のトラックが大きな音を立てて通り過ぎて行った。そこで気づく。この場所は、以前楓さんと深夜に出会った場所によく似ていた。

 これが同じ場所だったならよくできた物語だと思うが、現実はそこまでは寄せてくれないらしい。

 

「楓さん」

 

 一つ、僕は小さく深呼吸をすると彼女の名前を呼んだ。

 

「僕はきっとカインにすら慣れないどこかの誰かだったんだと思います」

 

 その言葉に一瞬楓さんは驚いた表情を浮かべたが、すぐに先ほどまでのどこか掴みどころのない顔に戻ってしまう。

 

「憧れている女性が居て、そんな女性に近づきたいと願うどこにでもいるような男だ。でも、そんな彼女に近づけるような大層なものを僕は持ち合わせていない」

 

 半ば告白のようなセリフを吐いてしまったがもうどうにでもなれという感じだ。というか、きっとこの夜を逃してしまったら僕は一生彼女の世界に手を伸ばすきっかけを失ってしまうような、そんな気がする。

 今なら分かる。あの物語の結末が、きっと僕にとっての今なのだ。

 カインは向かった。王都のシンシアの元へ。僕も、進まねばならない。

 

 職業として高みに上るために。

 父を理解するために。

 憧れである楓さんに近づくために。

 そして、何より僕自身を納得させるために。

 

「それでも彼は旅立ちました。そこにはきっと、憧れに手を伸ばそうという勇気があったんだと、僕は思います。楓さん、話せる分でいいんです。どうしてあなたはアイドルを辞めてしまうんですか?」

 

 月明かりの元、僕の問いかけに満足そうな表情を浮かべる楓さんの姿が目に入る。

 

「七瀬君、月が綺麗な夜ですね」

 

 そして彼女は、あの人同じセリフを吐く。

 だからこそ、僕はこうして小さな決意と共にその言葉を口にできるのだ。

 

「はい、今の僕はその輝きに手を伸ばしたいと思っています」

「……そう、ですかっ」

 

 この世界は全て、誰かの物語の積み重ねだ。家族、恋人、友人、同僚、赤の他人。様々な人物の物語が複雑に絡み合って構成されている。

 あの日、スクリーンの向こう側のように感じていた彼女の存在も実は僕の錯覚で、楓さんも僕と同じ物語の中で生きている。

 

 ああ楓さん、あなたの世界は、こんなにも僕の近くにあったのですね。

 

「私がなぜ、アイドルを辞めるのかというと――」

 

 

 

 

 

 

 

「え、楓を主役に本を書かせて欲しい?」

「はい、我儘言っているのは分かります。無茶だってお願いも分かってます。でも、どうしても書かせて欲しいんです」

 

 数日後、僕の姿は346プロ最寄りのカフェにあった。ここにあまりいい思い出はないのだが、ここが一番待ち合わせに最適なのだからしょうがない。

 僕は本日の待ち合わせの相手に開口一番に頭を下げてオウム返しにされた先ほどの台詞を口にしたのだった。 

 

「どうしてもって言われたって急すぎじゃないか。それに俺にだって予定もある。楓のことは……」

「楓さんは、諦めません」

「諦めませんってったって書くとしても今からだろ?引退宣言までしといていつまでもダラダラとしてんのはCMの降板を認めてくれたスポンサーにも悪いし何よりも世間のイメージがだな」

 

 そう言って本日の待ち合わせ相手、もとい大崎プロデューサーは苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。

 

「本なら、原本があります」

「原本ってなんだよ」

「これです」

 

 机の上に僕が差し出したのはA4サイズの紙束だった。伊豆大島から戻った後の店長との会話以来、穴が開くように目を通したそれは、僕がいつか向き合わなければならないだろうと強く感じていたものだ。

 

「……正気か?」

「ええ。大崎さんは言いました。この作品には、足りないものがあると」

 

 思い返すのは先日伊豆大島で交わした会話。

 

「役者、だな」

「ええ」

「七瀬君、まさか君は」

「はい、僕が、この七瀬貴臣の最期のメモを完成させます」

「……んな無茶な」

「とりあえず二か月、いや、一月でいいんですっ。僕に時間をください。お願いします。出来たら一番に大崎さんのところにまた頭を下げに来ます。お願いします、僕にチャンスをください!」

「チャンスってったってなぁ」

 

 胸ポケットからタバコを取り出した大崎さんは、ここが禁煙だということに気づいたのかバツが悪そうにそのままタバコを元の場所に戻す。

 そんな彼から僕は一時も視線を外すことなく更に言葉を続ける。

 

「……楓さんから、引退の理由を聞きました」

「そうか」

「僕には持つ者ゆえの苦悩というのが分からないです」

 

 楓さんはあの日の夜、引退の理由をこう語った。

 曰く、”歌を嫌いになってしまいたくない”と。

 

「”歌姫高垣楓”この称号が彼女にどれだけのプレッシャーを与えてきたのか、僕にはそれを理解することはできません。でも楓さんは、ステージの上は世界を教えてくれる、そう口にしていました。彼女が歌うことを、ステージを無くしてしまったら楓さんの世界は狭まってしまう」

「七瀬君が、その世界を創ろうってのか?高垣楓という最高の素材を使って、君がやろうとしていることは君のただの我儘だぞ」

 

 その通りだ。これは僕の完全な我儘。楓さんのために、僕が楓さんのためだけに、今こうしてこの想いをぶつけている。

 

「時間だって、人だって、金だってかかる。それでも君は、彼女をシンシアにしたいのかい?」

「楓さんは、あの結末を好きだと言ってました。僕はずっと何でなんだろうって考えてたんです。だって、あの結末を僕は好きじゃなかったから」

 

 カラン、と机の上に置かれているアイスコーヒーの氷が崩れる音が響いた。

 

「でも、ちょっとだけ今は理解できるような気がしています。きっと楓さんは新しい世界を探して旅立つことを選んだシンシアの生き方に共感したんだと思います。あくまで……憶測ですけど。僕は、楓さんにとってのカインでありたい。恋とか愛とかは正直よくわかってないんですけど……。あの背中の向こう側に、あの世界の先に僕も一緒に行きたい、そう思っていました」

 

 でも、今はもうそれが叶わない状況になりかけている。楓さんの求めている世界は既にもうその入り口を閉じかけている。

 これが彼女にとって最適かは正直よくわからない。それでも、僕がその物語を作り上げることが、今それが一番楓さんに贈りたい僕の精いっぱいなのだというのなら、せめて僕はその気持ちに真摯でありたい。

 

「俺はな、あの結末が嫌いだった」

 

 グラスに残ったアイスコーヒーを一気に飲み干した大崎さんは、ポツリと言葉をこぼした。

 

「シンシアと、楓。確かに似てると思ったよ。でも、そんな風に無意識に楓を重ねてしまう自分が、どこか嫌だった。あいつもあのシーンのラストみたいに、どこかに行ってしまうような気がしたんだ。俺も、きっと恋をしていたんだろうな、高垣楓という物語に。それを失ってしまうのが、きっと怖かったんだ」

「でも、楓さんは……」

「ああ、楓の引退の話はずっと前から聞いていたよ。でも、それでも俺は、あの物語の続きを見続けて居たかったんだろうな」

「そんな終わってしまったみたいな言い方」

「あいつの想いはしっかりと汲んだつもりだ。俺と彼女との関係は、正直終わったも当然なんだよ。でも、俺の中では未だにちゃんと踏ん切りがついている訳じゃないんだ。言うなれば、理解はしたけど納得はしたくない、そんなところだろうな。恨んだよ。どうして二人は離れなきゃいけないんだって。カインだってついていきゃいいじゃないか王都に一緒に。なんでそこで見送る選択肢が取れるんだよってな。俺も、見送る側だったのに」

「僕は、何となくカインの気持ちが分かるような気がします」

「ああ、分かるよ。今ならわかる。俺達は、シンシアと一緒に道を歩けるような人間じゃなかったってことだっただけだ。カインになることを選べない奴らだったんだ、俺は。なぁ……」

 

 そこまで口にして、大崎さんは机の上に散らばったメモ束に静かに手を伸ばした。

 

「楓の物語は、まだ続くのかい?」

「続きますよ。いえ、僕が続けてみせます」

 

 そう言い切った僕に向けて、大崎さんはちょっとだけ驚いたような表情をみせた。

 

「誰かの明日になれる物語を」

「……それは?」

「父が昔よく口にしていた言葉です」

 

 僕はメモ書きの束を数枚ペラペラとめくると終盤の方に走り書きのように書かれていたそれを指さした。

 

「もし、父がこの物語に何かメッセージを込めていたのなら、きっとそれはこれなんだと思います。見た人の、演者の、そしてこの物語に関わった人の、全ての人の明日になれる物語を。このメッセージを、僕は遺していきたい。なによりも楓さんと、そして僕のために」

「そうか……。なんかいいなぁ、そういうのさ」

「へ?」

 

 ふと、先ほどまでどこか険しい表情を浮かべていた大崎さんの顔が砕けた。

 

「いや、なんつーかさ、この歳になると世間体とか周りにかかる迷惑とかいろいろ考えちゃって本当に自分のやりたいことって明確に口にできなくなるのよ」

「あの、僕遠回しに迷惑かけてるぞてめぇって言われてます?」

「ああ、言ってる」

「うぐっ」

「でも、嫌いじゃないぜそういうのさ。七瀬君、カインになってくれ。あいつを、どこまでも追いかけて行ってくれ。俺の代わりにな。んじゃ、会計よろしくな。この後も仕事なんだ」

「え、あ、はいっ」

 

 懐から二千円だけ取り出すとそのままそれを机の上に放り投げ大崎さんは席を立つ。

 

「まぁ、俺のできる限りで都合は付けてやる。その代わり――」

「その代わり?」

「楓の説得は七瀬君がやれ。あれがいちばん手間だ。高垣楓を、口説き落とせ」

 

 それだけ言い残し大崎さんは店の出入り口から姿を消した。

 え、あの、いや……。僕、楓さんと連絡を取る手段を持っていなんですが。

 



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11話

 

「どうしたものか……」

 

 346プロでの簡単な打ち合わせを終えたその日の午後、僕は346プロダクション社屋内の食堂でうんうんと頭を悩ませていたのだった。

 楓さんの口説き方が分からないのだ。

 思い返すのはあの日の夜のこと。楓さんはアイドルを辞める理由をこう語った。

 

『私にとって、歌というのは世界と繋がるための手段でした。歌を通して世界を知って、その世界を通して私は私と向き合ってきました。でも、いつからか高垣楓という名前は私の中から離れていったんです。売れるのは嬉しかった。認められるのは嬉しかったです。沢山の人が私の歌を聞いてくれて、私の想いを汲み取ってくれる世界。でも、いつからかその世界は私に私の知らない私を求めました。それが……怖かったんです。いつか私が私じゃ無くなる日が来て、ステージの上に立つのが嫌になる日が来るのが怖かったんです。歌を……嫌いになりたくなかった』と。

 

 秋の訪れを感じるちょっとだけ肌寒い星空の下で耳にしたのは、そんな余りにも人間らしい独白だった。”高垣楓”という非現実感から高垣楓という何処にでもいる女性に戻る瞬間。そんな光景が僕の目の前にはあったのだった。

 ”歌姫”であるということは、彼女にとっては誇りであり呪いだった。

 そんな呪いを解いてやりたい。僕の中にあるのはそんなちっぽけな傲慢さ。だけど、それが今は何よりも僕が僕足りえる原動力なのかもしれない。シンシアに憧れるカイルが、楓さんを追いかける僕がなぜ彼女を追いかけ続けるのか、その姿がどれだけ綺麗なのか伝えたい。仮にそれが仮初の歪んだ思いであったとしても――

 なんて考えてしまうのは僕が高垣楓という毒に侵されてしまったからなのだろう。

 

「あれ、あなたは……」

 

 ふと、そんな僕を現実に引き戻すかのように声が聞こえた。

 振り向くとそこにはこの場にはやたらと不似合いなドレスに身を包んだ女性が立っていた。裾からすらりと伸びる白い足。ふくよかなその胸部を強調するかのように開いた胸元。そしてその姿を更に魅力的に仕上げる全身に纏われた色香。

 

「ひ、柊さん?」

「こんにちは、物書きの雛さん」

 

 そこには柊志乃さんがその妖艶な姿にはちょっと不似合いな愛らしい笑顔を浮かべて立っていた。

 

「奇遇ね、こんなところで」

「えっと、この間お会いして以来ですね」

「ええ、楓ちゃんの送別会ね。噂の七瀬君がアルバイトしていたのは驚いたけど」

「噂の?」

 

 「ええ、噂の」なんて言いながら柊さんはテーブルの対面に腰を下ろした。

 

「楓ちゃんから耳にしたの」

「楓さんが……?」

 

 噂の、なんて言い方から考えると楓さんが柊さんに僕の話をしたのだろうか。

 

「楓さん、ねぇ。随分と親しくしてるみたいじゃない?」

「そ、それは楓さんがそう呼べって」

「ま、いいけれど」

「その……柊さんは」

「志乃」

「えっと」

「楓ちゃんばっかりズルいじゃない。私のことも名前で呼んで」

 

 またこのパターンですか……。今回も呼ばないと話を続けてくれないんだろうな。

 期待した表情でこちらを見つめる柊さんの視線が痛い。覚悟を決めて僕は彼女の名前を口にする。

 

「し、志乃さん」

「はい、よく出来ました」

「あの、僕、揶揄われてます?」

 

 テーブル越しにニコニコとこちらを見つめる志乃さん。聞かずもがな、これは完全に揶揄われてるんだろうなぁ。

 

「もちろん」

「でしょうね……」

「それで、どうしたの?」

「先ほどから気になってたんですが……私服ですか?」

「どっちだと思う?」

 

 いや、聞いといてなんだけどこの場合どっちだと答えるのが正解なんだ。

 

「えっと、これからパーティーとかですか?」

「ふふっ、そう見える?残念ながら不正解。衣装合わせの途中なの」

「衣装合わせ中ってじゃあこんなところいちゃだめじゃないですか!?」

 

 予想だにしない回答だった。仮にもどこかからの借りものだろうに。仮の……借り物。楓さん的には何点なんだろうか。

 

「良いのよ。動きやすさのテストも兼ねてるから」

「それならいいんですけど、衣装合わせの途中なら時間とかも……」

「それも問題ないわね。業者の発注ミスで今スタイリストさんが衣装を取りに出払ってるところなの。戻ってくるまで私は手持ち無沙汰」

「それでこんなところをうろついていた訳ですか」

「そういうこと」

 

 ぐいとこちらに顔を寄せる柊さん、改め志乃さん。この距離で見ると改めて分かる。この人、めちゃくちゃ綺麗な顔してるな。っていうかどうして衣装を着たままなのだろうか。着替えればいいのに。

 

「それよりも、悩んでるって顔に書いてあるわ」

「……そんなに分かりやすいつもりじゃなかったんですけどね」

「楓ちゃん?」

 

 大人はズルい。誰かの心に踏み込むときは、大概完全武装か逃げ道をしっかり作った状態で飛び込んでくる。

 この人の場合は……どっちなんだろう。それすら見せてくれないのもひたすらにズルい。

 戦闘態勢に入る前に殴られたらこちらとしては開幕お手上げだ。

 

「見つからないんです」

 

 ぽつり。ぶん殴られた心の奥から溢れ出た言葉はそんな言葉だった。

 

「それだけ言われても分からないわ」

「そう……ですよね」

「探してるのは大切なもの?」

「だと、思います」

「なら、それは誰かに貰うものじゃないわ。もし探しているものがあなたにとって本当に大切なものなのなら、それじゃあそれはあなた自身が見つけるものよ。でも、そうねぇ……あなたが進むべき道ぐらいは、示してあげることはできるかも知れないわ」

 

 志乃さんはそういうと誰もいないはずの食堂の入り口にちらと視線を配るのだった。

 

「志乃さん。こちらにいらっしゃったんですね。スタイリストさんが戻られたみたいです」

「あ……」

 

 扉の陰から現れたのは見慣れたアッシュグリーンのボブカットだった。ふと僕と目があった彼女は驚いたような表情を見せたかと思うといつもの笑顔に瞬時に切り替わる。

 

「ありがと、楓ちゃん」

「楓さん……」

「それじゃね、七瀬君。後は二人でゆっくりと話なさい」

 

 そういうと志乃さんは妖艶な雰囲気そのまま食堂の外へと姿を消そうとする。

 

「あの、志乃さん!」

「……大丈夫、男の子でしょ?」

 

 去り際、ぽんと背中をひとつ叩かれたのがやけに印象的だった。綺麗な人だなと思っていたけど、案外おちゃめな人なのかもしれない。

 そんなやりとりで忘れかけていたが、それよりも重要なことが今目の前に残っている。

 

「七瀬君……」

「楓さん、あの……、お、お話が、ありますっ」

 

 覚悟を決めろ、七瀬幸市。お前と、そして何よりも彼女自身の、明日のために――。

 高垣楓を、口説き落とす覚悟を。

 

 

 

 

 高垣楓と過ごす三度目の夜は、それは月が綺麗な夜だった。

 まぁ、今までの二回も晴れていたから月は綺麗に見えていたのだけれど。これまでと違うのはそんな綺麗な月に妙な親近感を覚えることと、楓さんがアルコールを摂取していないことぐらいだろう。

 

「お待たせしました」

「いえ、月を見ていましたのですぐでしたよ」

 

 そして、そんな月をずっと想っていたから。

 なんてキザな台詞を言える勇気は僕にはないのでこれは心の中に留めておこう。まぁ、月を見ていたのも大概な台詞だけどな。

 

「楓さんも、お仕事お疲れ様です」

「ありがとうございます」

 

 楓さんと待ち合わせたのは食堂で突然の邂逅をしたその日の夜だった。楓さんはあの後ラジオの収録が入っていたらしくその場で話をするということは適わなかったのだ。

 おかげでこんなに月が綺麗な夜に、楓さんと二人なんて状況を享受できるのだからよしとしよう。

 

「それで、お話って何でしょうか」

 

 僕がここに楓さんを呼び出した理由は本人には伝えていない。これから大切な話をしようと覚悟を決めた僕の心境なんて楓さんは知ったこっちゃないだろう。

 だけど、ずっと考えてきた。

 今思えば、彼女と出会ったときからずっと想っていたことなのかもしれない。彼女のために出来ること。彼女のためにしたいこと。

 

「楓さん、本当にアイドル辞めちゃうんですか?」

「……ええ、決めたことです」

 

 そういって笑う彼女の笑顔は、月明かりに照らされてあまりにも綺麗だった。

 

「ステージに立つことも無くなっちゃうんでしょうか?」

「アイドルを辞めちゃうとそうなるかもしれませんね」

「ステージの上は世界を教えてくれるんじゃなかったんですか?」

「でも、今の私じゃきっとステージを、歌を通して繋がってきた世界を、嫌いになってしまう。あんなに愛したものを、嫌いになってしまいたくないんですっ!」

 

 普段の彼女からは想像できないほどに、その語気は強かった。まるで今まで溜めてきたものを吐き出すように、楓さんは力強くそう言い放った。

 

「ここからは完全に僕の独り言というか我儘なんですけど……」

 

 台本も事前のリハーサルもない、突貫の一人芝居。楓さんという観客に向けて、僕は今からありったけの僕を演じる。あなたの、明日のために。

 

「初めてあなたをステージで見かけたのは、とあるライブハウスのステージの上でした。あの時ステージ上で歌うあなたを見た瞬間、僕の曇った世界に色が付いたような感覚を覚えました。スタンディングの固いコンクリートの床は気づけば草原になっていたし、どこか生ぬるく感じていた空調も透き通るように吹き抜ける風のようでした」

 

 楓さんは、僕の言葉に一切の口をはさむことなく、真剣にこちらだけを見つめていた。

 蒼と翠。綺麗な二つの瞳が、こちらの心を見透かしてくるようでちょっとだけ怖い。だけど気にするな、なんなら思いっきり見透かしてくれ。そこに、僕が貴女に伝えたい本当の想いがあるのだから。

 

「貴女が、僕の世界に色を付けてくれた。くすんだ世界を鮮やかに染め上げてくれたんです。貴女が手を伸ばした世界が、僕の世界を広げてくれたんですっ。覚えてますか?貴女と初めて会ったとき。貴女は父の物語の結末を好きだと言ってくれた」

「あれはっ」

 

 ふと、先ほどまで静かに僕の言葉に耳を傾けてくれていた楓さんが声を上げた。アッシュグリーンの綺麗な髪が、彼女の感情に合わせて左右に振れる。

 

「あれは……。羨ましかったんです」

「新しい世界に踏み出す、シンシアの覚悟がですか?」

「そう……なんだと思います。愛した世界を、嫌いになりたくなかった。愛した人たちを、嫌いになってしまいたくなかった。嫌な女でしょう、私。臆病で、弱虫」

「確かに、臆病で、弱虫かもしれません。でも、僕はそんな楓さんに世界を変えてもらいました。それは、そんな臆病で弱虫な楓さんが、そんな世界と戦ってきた証なんだと思っています」

 

 楓さんの宝石のような二つの瞳が、わずかに開いたような気がした。

 

「父の遺したメモをちゃんと台本に起こそうと思うんです。だから、楓さんが今もしこれからの世界に手を伸ばすことを恐れているのならば……」

 

 言え、言うんだ。七瀬幸市。これでも物書きの端くれだろ。言葉一つで人間一人の心を動かして見せろ。

 

「楓さん、貴女の生きる世界の一つを、僕に作らせてくれませんか!もし、台本が完成した暁には、僕の世界で……歌ってくださいっ!」

 

 僕の拙い語り口が止まった時、彼女の口元は小さく震えその隙間からは言葉にならない音が零れた。

 

「っ、……わ、わた……私は……っ」

 

 いつも笑いながら涙を流す彼女の顔が、今はもう泣き顔でぐちゃぐちゃだった。それすらも心から愛おしいと思えてしまうのは、僕という人間が高垣楓という存在にどうしようもなく心を奪われてきた結果なんだろう。

 

「楓さん」

「は、はい……」

「お願いします、楓さん。シンシアを、演じては頂けないでしょうか」

 

 この世界に生きる人々は、きっと誰もが特別な何かじゃなくて、それになりたい只の誰かなんだろう。楓さんだって、僕等から見たら別の世界の人間のように見えるけど、彼女だってこんなキラキラとぐちゃぐちゃが溢れた世界で自分の特別を掴もうと足掻いてきた。

 そんな世界で生きる貴女だから、そんな世界で物語を紡ごうとしてきた貴女だからこそ僕は――

 

「七瀬君、私はまだ、新しい世界を探してもいいの?」

「もちろんですよ。迷ったら呼んでください。貴女を助けてくれる人はたくさんいます。大崎さんだってそうです。今西部長も当然駆けつけてくれます。今まで沢山楓さんが想いを届けてきたファンの人たちだって、楓さんの背中を押してくれます。もちろん、その際は僕が一番最初に、貴女の居場所に駆け付けます」

 

 その言葉に、楓さんは嬉しそうに空を見上げた。

 

「七瀬君、月が綺麗ですね」

「はい、でもまだ、死ぬわけには行きません」

「ふふっ……そうですね」

「はい。でも、そんなことよりなによりも楓さんに出会えたことが、僕にとっては一番のツキだったのかもしれません」

「……ん~、もうちょっと頑張りましょう」

「ひどいですよっ!!」

 



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12話

 

 あの夜以降僕の日常は劇的な変化を遂げた。

 なんてことはなくシンプルに忙しくなった。バイトして346プロへと打ち合わせに行って空いた時間にはノートパソコン片手にうんうんと頭を捻らせる日々。

 時折楓さんとキャラクターのすり合わせのために顔を合わせる。その度打ち合わせなんて名目でいろんなところを連れまわされて挙句居酒屋に拉致られる日々。

 それはそれで楽しかったけど残念なことに参考には全くならなかった。

 一番ひどかったのはあれだ、346プロのお姉さま方の飲み会に拉致られた挙句方々の介抱に東奔西走させられたことだ。

 まぁ、普段テレビで見ることのできない三船さんの色っぽい姿が見れたのでそこについては楓さんに感謝している。あの後すごくネチネチとそのことについて弄られたのだけれど。

 そんなこんなで父の背中を本格的に追いかける日々が始まって三週間が経った頃だろうか。僕の元へと大崎さんから一本の電話が寄こされた。

 

「楓から話は聞いてる。調子はどうだ?」

 

 電話越しの大崎さんはそう言って笑っていた。

 

「ってかいつの間に口説いたんだよ」

「あはは……あの時は返事すぐには、貰えなかったんですけどね」

「まぁでも、半分ぐらいかな」

「何がですか?」

「俺が予想していたものとの差、かな」

「どういうことです?」

「ん、いやぁ。あいつ、アイドルはやっぱり辞めるんだとよ」

「そうですか」

 

 寂しそうな声がやけに印象的だった。楓さんの言葉が意味することは大崎さんの物語が一つ、終わりを告げる言葉と同じだからだ。

 

「悲しんでるって感じじゃなさそうだな」

「そうですね、僕にとっては楓さんがアイドルかどうかなんて関係ないんです」

「随分と強い言葉を吐くな」

「そんなつもりはなかったんですけど、そう……なんでしょうか」

「理由、聞いてもいいか?」

 

 受話器越しにライターの音が小さく聞こえる。短い付き合いだけど大崎さんについて一つ気づいたことがある。タバコに火をつけた時だけ、彼はプロデューサーという肩書を捨てる。

 タバコの先端に火が燈るということは、これから電話越しの彼は一人の人間に戻るという合図だった。

 

「確かにアイドル高垣楓、”歌姫”高垣楓というのは耳障りの良い偶像です。僕も最初はそんな彼女に憧れてました。でも、この数か月楓さんと過ごして思ったんです。僕が憧れた世界というのは高垣楓という一人の女性が作り上げた夢の結果なんです。だから、楓さんが楓さんらしく前を向いてくれるのならば、僕は彼女が何を背負っていようと関係ないんです。彼女が何者でも、その背中を僕は追いかけていくだけなので」

「なんていうかさ、眩しいよ」

「そうですかね……」

「大丈夫だ、熱いのは嫌いじゃないぞ。俺もそんな時期があった。心配すんな。大人には大人のやるべきことがあるってもんだ」

「ありがとうございます」

「それよりも……」

「なんです?」

「締め切りは守ってくれよ。俺、七瀬君を買ってるんだ。方々にもう頭下げてあんだよ。いい話が上がってくるからって。……大丈夫か?」

「大丈夫……だと思います」

「自身なさげだな」

「最後の台詞だけ無いんですよ」

「無い?」

「ええ」

 

 穴が開くんじゃないかというほど見返したメモ。シンシアを追いかけるカインが最後に彼女のことを想う場面。故郷を旅立つ彼の心境。誰かに話すのか、それとも彼の独白なのか。 

 父のメモにはそれが無かった。

 父は、この最後の場面をどう表現するつもりだったのか。

 

「最後のシーンのメモが無いんです。父のメモを見て精一杯繋ぎ合わせたつもりです。でも、そこだけどんだけ探しても見つからなくて……。昔の父の脚本も見返しました。最後の場面ってどんなやり方してるんだっけっなんて。でも、なんか……違うんです」

「分かった……」

「分かったって何がですか?」

「適当に誤魔化しとけ」

「とんでもないこと言いますね!?」

「そう言う大事な言葉ってな」

 

 受話器の向こうからはまたライターの音。大崎さんは二本目のタバコに火をつけた。

 

「きっと出てくるタイミングってのがあんだよ。それが今じゃないだけだ」

「だから誤魔化しとけと?」

「ああ、ま、そこは彼と相談だな」

「か、彼?」

「内緒だけどな、何となく配役は決まってる」

「え、配役決まってって、大崎さんそこまでできるんですかっ!?」

「俺を誰だと思ってるんだ。高垣楓をトップアイドルまで引き上げた男だぞ」

「その言葉の説得力凄すぎるので大崎さんを妄信します」

「よろしい。人狼ゲームだと七瀬君は最後まで残されるタイプだな」

「嫌な例えだけどわかりやすいっ!」

 

 

 

 

 

「七瀬君、聞いたよ」

 

 あれから数週間後、僕は346プロのとあるオフィスで今西部長と対面していた。

 

「出来たらしいじゃないか」

「まぁ、一応は……」

「そうか、よかったよ」

 

 窓から見える景色は既にすっかり秋づいており、街並みを彩る街路樹もその姿を茶色に染め上げていた。カレンダーの日付も十月の終わりを告げており、その数字は僕に時の進むスピードをまじまじと感じさせてきていた。

 

「色々と……ありがとうございました」

「色々?」

「ええ、父のメモの件もそうですし……。八月の伊豆大島へのロケの件も便宜を図ってくれたのは今西部長ですし」

「気にしないでくれ。ヒロには恩義があるんだ」

「ヒロ?」

「ああ、君のお父さんのことだよ。僕はそう呼んでいたんだ」

「仲、よかったんですね」

「そうだなぁ……。懐かしいよ。でも、君もこう見てみるとだいぶ似てきたなぁ」

「えっ?」

「お父さんに、だよ。夢や野望にギラギラとしていたあの頃のヒロに、今の君はちょっと似ている」

 

 その言葉が妙にくすぐったく感じてしまい、僕の右手は無意識に鼻の先っぽへと向かってしまう。

 父に似てきた……かぁ。あの偉大な父に近づけている。そう言われると素直に嬉しかった。

 

「だけど、まだ終わりじゃないよ」

「分かっています。物語は、誰かに読まれて初めて物語になる。心の中に閉じ込めておくだけじゃただの妄想になってしまいます」

「覚悟はもうとっくに決まっているようだね」

「はい、僕は父を理解しに行きます。父に追い付いて、そして、父を超えるために」

「そうかぁ……大きくなったなぁ」

「まだまだ大きくなる予定です」

「はははっ!これは失礼したね。期待して待っているよ」

「期待だなんて……。いや、こういうのは応援してる方に向かっては失礼ですね。精一杯頑張ります」

「良い心意気だ。楽しみにしてるよ」

「はい、それでは失礼します」

 

 オフィスを後にして外に出ると偶然志乃さんがロケバスに乗り込むところが目に入った。向こうもこちらに気づいたらしく、一つ頭を下げると志乃さんも小さく手を振り返してくれた。

 いろんな人が期待して、応援してくれている。そのことに改めて気づかされたのだと分かると心の奥がギュッとなるのを感じた。期待されるって、なんというかこんなに誇らしいことなんだな。

 

 

 

 

 

 それからの日々はこれまで以上に怒涛の連続だった。これは文字通りの意味でいろんな人に挨拶して、何度も大崎さんをはじめとした偉い人たちと打ち合わせを交わした。

 今まで”バイト”の文字が埋め尽くしていたスケジュール帳も次第にその文字が別のものに変わっていき、それを目にする度に自分の日常が改めて変化していくことを痛感する。

 そんなこんなで僕は今日、今後のアルバイトをしばらく休むという旨を伝えに店長に伝えるべくバイト後のスタッフルームで一人彼の到着を待っていたのだった。

 

「お疲れ様です」

「おう七瀬、お疲れ。ってかお前帰ってなかったのか」

 

 難しそうな顔で何やら大量の紙束を抱えた彼が現れたのは、僕がスタッフルームに入ってから三十分が経とうとしていた頃だった。

 

「何持ってるんです?」

「あー、納品書だよ。明後日までに纏めなくちゃなんなくてな。めんどくせぇ。なんで未だに紙なんだよって話だよな。遅れてんだようちの会社は」

 

 そんな愚痴に思わず僕は苦笑いを浮かべる。何というか、誰もが誰もどこかで苦労をしているんだな。

 

「で、お前はどうしたんだよ。もう着替えて帰ったもんだとばかり」

「あー、店長にお願いというかお伝えしなきゃいけないことが……」

「なんだ、物書きの夢が潰えて実家にでも帰んのか?」

「冗談。逆ですよ逆」

 

 ケラケラと笑う彼の顔が僕の言葉で一瞬素に戻る。驚いたような顔を浮かべたかと思えばすぐにそれは笑顔に変わり、というか……。これあれだ、子どもを見つめる親の顔だ。

 

「辞めんのか?」

「辞めはしないんですけど……、来月のシフト、ちょっと二週間ほど全く入れない期間が欲しいなと思いまして」

「それはちょっと極端……。まぁしゃあねぇわ。ほんとに人が居ねぇ時だけ聞くかもしんねぇけど適当に断ってくれ」

「え、あ、はぁ」

「それにしても、なんかデカい仕事か?」

「僕の本が、舞台になることになりまして」

「やったなっ!346の仕事か?」

「はい」

「なんだ、大崎と寝たりでもしたのか?」

「辞めてくださいよっ。でも、大崎さんには良くしてもらいました」

 

 「そうか」なんて小さく満足そうに呟くと店長は先ほどまで手にしていた紙束を机の上に放り投げた。大崎さんと店長は友人だったな。過去に何があったのかは知らないけれど、そんな表情をするだけの何かが二人の間にはあったんだろう。

 

「あいつの名前が出てくるってことは結構大きな舞台なんだな」

「店長、詳しいですね」

「まぁ、俺も色々あったからな」

「詳しくは聞かないでおきます」

「ありがてぇ。で、主演は?」

 

 カチリ、とライターの音が響き渡ったかと思うと店長は口元から紫煙を一息天井に向かって吐き出した。

 

「それは流石にまだ言えません」

「だよなぁー。でも気になるなぁ。ヒントだけでもないか?」

「ヒント……そうですねぇ、じゃあ一つだけ」

「おっ!」

 

 子どもみたいに目をキラキラさせる店長の背中越しに、彼女の姿が目に入った。ポスターの中、ビールジョッキを片手に朗らかな笑顔を浮かべる彼女。

 そういえばうちの店で打ち上げをしてた時も随分と楽しそうに飲んでたな。それ以降に連れまわされた居酒屋でも、アルコールを口にしていた彼女はいつも嬉しそうだった。

 

「そうですね、お酒が大好きな人、とだけ」

 

 酒好きを公言している楓さんだけど、流石にいちファンの立場だけじゃあそこまで彼女がうわばみだとは知らないだろう。

 これは、なんというか僕だけの特権だ。

 

「え、誰だよ!?ってか酒ってなると成人してるのか……?酒が好き……。柊志乃、はありそうだけど七瀬が書きそうな話かってぇと……。佐藤心……も違うか?」

 

 店長、さっきから惜しい線言ってますけど違いますね。ってか僕が書きそうな話って店長の中の僕はいったいどんなイメージなんですかね。

 

「まぁ、素敵な人ですよ、とだけ」

「畜生、余計に気になるじゃねぇか!」

 

 ぼさぼさの髪を掻きむしりながら一生懸命に悩む姿が妙に面白くて口元が引きつってしまう。高垣楓だって口にしたら、彼はいったいどんな表情をするのだろうか。まぁ、正式な告知が出来るまでは死んでも口にはできないんだけどな。

 

「まぁでもよかったよ。七瀬、変に悩んでる風だったからさ」

「そ、そう見えるでしょうか?」

「バレバレだよ。でも、込み入った事情があるんならおいそれとは聞けないだろう?こちとら只の雇われ店長なんだから」

「なんか、ご心配おかけしてすみません」

「良いってことよ。納得の行く理由、見つかったか?」

「はい!」

「……そか。なら良かったよ。じゃ、俺はまだ残業があるから、お前はさっさと帰れよ」

 

 それだけ言い残し、店長はスタッフルームから姿を消す。「おつかれさまです」とだけ去り行く背中に声をかけると、僕はそのまま店を後にした。

 もし、僕の今の決断に自分自身が背中を押すことが出来ていたのだとしたら、それはきっとあの日僕の納得の行く理由を見つけに行く決意をくれた店長のおかげなんだと思う。

 帰り際、僕はそんな彼の姿に心の中で小さく感謝の言葉を呟く。家路に向かう足が、なんとなく軽くなった気がしたのはきっと気のせいなんかじゃないんだろう。

 



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13話

 それからというもの、舞台の準備は僕の手の届かぬ場所で驚くほど速いスピードで進んでいっていた。雑誌やテレビでは一面を使って取り上げられるほどで”高垣楓”引退のステージの存在は着々と世の中に認知されていったのだ。

 様々なマスコミがそのニュースを告げる中、唯一と言って良いほど世に知らしめられなかったものが一つある。

 それは、僕の名前だ。

 今回の作品は、”演劇界の奇才”七瀬貴臣の遺作として世に出ることになる。アイデアは借り物だしキャストに関してはほぼあて書きみたいなところがある。以前大崎さんが打ち合わせ中にポロリと溢したおかげで楓さんのシンシアだけじゃなく、カインはもちろん、その他数人はばっちりあて書きをすることができた。これはほとんど僕の技量の範囲外だろう。

 これについては納得しているというか、僕がそうして欲しいと大崎さんに頼み込んだのだ。

 僕は、いずれ僕のアイデアで名前を遺す。

 僕の作品は、僕の世界は、僕が一から作り上げるつもりだ。

 そんなことがあったとある日の午後、僕は舞台の稽古場となっているとある芝居小屋を訪れていた。

 

「おはようございます」

「おはようございます!」

 

 僕が中に入り挨拶を交わすと同時に、偶然居合わせた今回の演者さんが数人挨拶を返してくれた。雑多な荷物の脇を抜け、お目当ての人物の元を訪れるとそこにはその人物と一人の青年が真剣な表情で一つの本を見つめていたのだった。

 

「おはようございます、熊谷さん、それに……」

「おう、お疲れ坊主」

 

 無精ひげがよく似合う強面の男性はお目当ての人物である熊谷正敏氏である。彼はお芝居の世界では名の知れた演出家で、今回の総合演出を務めてくれることになっていた。

 彼もまた父の知り合いで、彼の遺作という名目のこの舞台を行うにあたって自ら名乗りを上げくれた人物でもある。

 

「おはようございます、七瀬さん」

 

 そして、その向こう側でこちらに爽やかな笑顔を飛ばす彼こそ、今回の舞台でカインの役を務めてくれることになっている――

 

「おはよう、涼君」

 

 今を時めくトップアイドル、315プロの秋月涼その人なのである。

 

「急にすまんな坊主。ちょっとどうしても確認したいことがあってよ」

「いえ、大丈夫です。僕もちょうど気になっていたところだったので……」

「すみません、お忙しいところ」

「いや、気にしないで。というか熊谷さん、僕に確認したいことってどうせあの部分ですよね?」

 

 熊谷さんから突然連絡が来た時点で何となく予想はついていた。というか十中八九あの部分だろうという予想が立っていた。

 今回僕がどうしても描けなかった場所。以前大崎さんにも指摘された場面だ。

 

「ラストシーン、これカインの独白になってるけど、どうすりゃいいんだ?」

「最初に本を頂いたときなんか”なんかいい感じに”なんてト書きで書かれてて頭を抱えましたよ僕」

「それについては本当にごめんなさい……」

 

 深々と二人に頭を下げるものの、ここに関しては正直どうしようもなく言葉にならなかったのだ。カインはシンシアに何を伝えたいのか、それがどうしても文字に起こせなかった。

 

「熊谷さん、ちょっと七瀬さんと二人で話させてもらえないでしょうか?」

 

 どうしたものかと逡巡してる僕を尻目に声を上げたのは涼君だった。

 

「俺が居ちゃダメか?」

 

 そこは一応演出家。気になるところではあるだろう。熊谷さんがそう答えるのも当然だ。

 

「あーいえ、なんというか、演出についての話じゃないんです」

「そうなのか?」

「そうなの!?」

「なんで坊主まで驚いてるんだよ」

「いや、僕も涼君が何をしたいのかわかんなくて……」

「ちょっとカインの役作りでお聞きしたいことがあるだけです」

「……なら構わねぇよ。俺はちょっと王都組の方を見てくるからよ」

 

 無精ひげをひと撫ですると納得した表情で熊谷さんは舞台上手のグループの方へと足を向けた。

 

「それで、話したいことって……?」

 

 稽古場となっているとあるホールは思ったよりも広く、僕と涼君が陣取った空間から手の届く範囲には人の姿は見えない。時折遠くの方で台詞あわせの声が聞こえてくるがそれもついぞ気にはならない。

 涼君はステージの縁へと足を投げ出すように腰を下ろすと僕に隣に座るようにと促してきた。

 

「いやぁ何というか……」

「言いづらいこと?」

「って訳でもないんですけど、七瀬さん、楓さんのこと好きですよね?」

 

 突然の指摘に軽口を叩こうと思っていた僕の口先がぴたりとその動きを止めた。

 

「え、あ、それは」

「誤魔化そうとしても無駄ですよ。脚本書いてる人間を知ってるのなら誰だってわかります」

「そ、そうかな……」

「そーですよっ、七瀬さんとはこの前が初対面だった僕だってわかったんです。そりゃ楓さんだって……」

「バレてるかな……?」

「バレてないと思うその精神力がすごいです」

「だよねぇ」

「案外あっさりしてますね」

「まぁね」

 

 実際のところ僕の気持ちがばれていようがいまいがどうだってよかった。きっと僕の想いは届いたところですぐには実らないだろうということは分かっているのだから。

 それに、僕にとってはあんなに遠くにあった背中に、手を伸ばせるところまで来たというところが誇らしかったのだから。

 

「僕も何度かお会いしてますけど、素敵な人ですよね楓さんって」

「そう思うよ、本当に」

「ええ、何というか、あの人の背中を見てると僕も頑張ろうってなるんですよね。カインもきっと、そんなシンシアの生き方に惚れたんでしょう」

「そう、かもしれないね」

「僕をカインに推薦してくれたのは大崎プロデューサーだとお聞きしました」

「らしいね」

 

 これについては大崎さんからキャスティングの際に耳にしていることである。僕も、実際にこうやって会ってみて改めて涼君がぴったりだと感じている。

 

「お芝居って、最初ちょっと抵抗あったんですよ。なんか、周りを騙しているようで……。でも、いろんなことがあって僕の中にも心境の変化があって」

「そっか、良い事だね」

「ええ、本当に。何かを演じていた僕の姿に、沢山の人が夢を見てくれていたんです。そんな人たちが、今の僕を支えてくれている。だから、これからもそのことは大切にしていこうって。僕が演じた何かが、誰かの夢になれるように」

 

 素敵な言葉だと思う。と、同時にそんな涼君の背中を見て僕はある言葉に思い至った。

 

「誰かの、明日になれる物語を」

「それは?」

「僕の父の言葉だよ。この舞台の、脚本家さ」

「七瀬貴臣さん、ですか」

「そ。僕の父さん。すごい人だった。憧れてる、と同時に僕はずっと理解したかったのかもしれない。知りたかったのかもしれない。父の居た場所を、そしてそんな彼が見ていた世界をね」

「……なるほど、何となく分かった気がします」

「何が?」

「ラストシーンですよ。七瀬さんが”なんかいい感じに”なんてでかでかと書いたラストシーンの台詞です」

「え、なんとかなんの?」

「任せてください。だって僕はカインなんですから」

「そ、そういう事なら……」

「だから、期待しててください、もう一人のカイン。貴方の想いは、僕が舞台の上でちゃんと伝えてみせます」

 

 ああ、トップに立つアイドルの輝きっていうのはこういう場所でもキラキラと光って見えるんだな。なんて凡人並みな感想を抱いてしまった。それまでに彼の、秋月涼の抱く光というのはとても眩しく僕には映った。

 それにしても――

 

「もう一人のカイン、かぁ」

「そうですよ。最初に彼女に、高垣楓に手を伸ばそうと前に進んだのは七瀬さんです。僕は、その

勇気をちょっとだけ手助けするだけですよ。いいじゃないですか、スポンサーもマスコミも、事務所も出演者も観客も巻き込んだ一世一代の愛の告白。僕はそういうの、好きですよ!」

「涼君……」

「僕は、貴方という目を通してシンシアと、楓さんと向き合うんです。今、僕とってもワクワクしてます!」

 

 世界は、先へ先へと手を伸ばし続けてきた想いの積み重ねで出来ている。楓さんや涼君、大崎さんやリエさんだってそうだ。今、僕がその一員に加われたことがどこまでも誇らしかった。

 でも、こんなところで止まってられないよな。

 

 台本の一番最後、僕は自前のそれに胸ポケットから取り出したボールペンである一文を書き足した。

 

『あなたの、明日になれる物語を』

 

 明日を創る物語は、まだ幕すら開いていないのだから。

 



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14話

「今日はよろしくお願いします」

「はい、お願いします!」

「こちらこそお願いしますー!」

「宜しくお願いします」

「お願いします」

 

 舞台初日を前日に控えた今日、会場となる赤坂ACTORホールの客席には数十人ほどの関係者が幕の閉じた舞台の上へと熱い視線を送っていた。座席数1324。ちょうど中央から少し右に外れたところに陣取った僕は、期待とも不安ともいえぬ何とも言えない心境でポツリと燈る天井の光を見つめていた。

 

「七瀬君、ここにいたの」

「お疲れ様です、リエさん」

「ええ、お疲れ」

 

 こちらに小さく手を合わせながら僕の隣へと腰を下ろしたのは、あの伊豆大島でのロケ以来時折顔を合わせることが増えたスタイリストのリエさんだった。

 

「いいんですか、こんなところにいて」

「いいのよ、今日はゲネだし、後輩たちに任せてきちゃった。ま、明日以降はワタシは舞台袖でてんやわんやしてると思うけど」

「そ、そうですか……」

 

 今回の舞台には、僕の想像以上に大勢のスタッフが関わっている。リエさんもその一員で、彼女は主に裏方として出演者の衣装関係を担当していた。

 

「というか、舞台関係の知識もあったんですね。最初にリエさんに会ったときは驚きました」

「あら、ワタシはスタイリストに関しては何でも屋よ?政治家のパーティーからAVまで何でもござれの凄腕スタイリストなのよ?」

「最後のは何も着てないですよね」

「あら、服を着たままっていうのも」

「それ以上はよしましょう」

 

 彼女の威勢のよさにすっかり押し負けてしまってタジタジになっていた僕を救ったのは、ホール中に響き渡った本ベルだった。舞台の開演を告げるベルだ。

 これから始まるのはゲネプロ。リハーサルよりも更に後段階で行われる、まさに本番前最後の通し稽古だ。会場中の暗闇の中、照らされるのはステージに差し込む一筋のスポットライトのみ。

 

 幕が上がり、光差し込むその場所で、高垣楓は静かに天を仰いだ。

 

「すごい……」

 

 ステージの上。

 なぜそこにこんなにもたくさんの人が情熱を注ぐのか。それは、その場所がこの代り映えしない日常から格別された世界だと、誰もが無意識に感じているからだ。

 あの場所は、誰かの夢が形になる場所であり、誰かの想いの発信源。

 届くだろうか。僕の想いも。客席に、世界に、そして、何よりもその場所で歌う貴女に。

 

『あらカイン、よくいらっしゃったわっ!』

『シンシアさんっ、今日はトマトがたくさん収穫できたんです。よかったら新鮮なうちにいかがですか?』

 

 気づけば舞台の上ではどんどんシナリオが進行しており、楓さん演じるシンシアと涼君演じるカインのコミカルなやり取りが続いていた。

 自分で書いてるときは寒いかな、なんて思われたやり取りも二人の絶妙な演技のおかげか随分とまともに見えるものだ。これに関しては後で二人にお礼を言っておこう。

 

『どうしても、王都に行くんですか?』

『叶えたい、夢があるの……』

 

 そこからのお芝居は脚本を手掛けた本人だというのに随分とのめり込んでしまった。何よりも劇中歌がすごい。歌が入るタイミングについては演出家の熊谷さんと随分と念入りな打ち合わせをしたものの作詞や作曲に関してはてんで知識がなかった僕は実績のある先生方にまるっきり任せきりになってしまっていた。そのため実際にその曲がシナリオの途中で流れる場面を目にしたのは初めてだった。

 ステージの上には、皆の情熱が踊っていた。

 

「凄い……」

 

 思わず零れてしまったその台詞を飲み込むことすら忘れ、僕の視線は舞台上へと釘付けになったままだった。

 楓さんや涼君だけじゃない。脇を固める役者さん達だって選りすぐりの演者たち。水曜九時の刑事ドラマでは名脇役と謳われている彼。主戦場はオペラ、ふくよかな体から魂を震わせるような美声を響かせる彼女。涼君とは同じ事務所、甘いマスクと切れのいいダンスでお茶の間のマダムたちを虜にしていく彼。

 あの場所には、きっとそんな魅力的な彼らを、さらに惹きつける何かがあり続けているのだろう。そんな場所に、楓さんは憧れ、そしてそんな楓さんに僕は憧れた。

 すぅ、と一息、隣のリエさんが息を呑む音が聞こえてきた。

 舞台には小さな光だけが差し込み、その中心にはぼんやりと二人の姿が映し出されている。シンシアとカイン。楓さんと涼君だ。

 シンシアは、王都に向かう直前にカインの拙い演奏で歌を歌う。物語の舞台であるその国に、昔から伝わる古い恋の歌だ。まぁ、これは僕の後付けなんだけど。

 自分で書いといてなんだが、随分と酷なことをするんだと思う。今この場では決して叶わない想いを伝えることに果たして意味はあるのだろうか。

 二人の関係が、離れ離れになっても壊れてしまわない保証なんてどこにもない。まして、シンシアはトップスターを目指してカインの元を離れるのだ。そんな彼女に、カインの想いは重荷にしかならないのではないだろうか。

 

『シンシアさん、僕は必ず貴女の元に参ります。それまで、待っていてくれますか……?』

 

 物語はほぼ終幕。王都へと旅立つシンシアをカインが港町で見送るというシーンである。

 

『ええ、待っていますわ。煌めくステージの上で、いつかあなたがまた私の元へと来てくれることを』

 

 去り際、シンシアとカインの顔が重なる。口づけを交わした、ように見える絶妙なアングルである。だが、そう見えるだけで明確な表現を避けるあたり熊谷さんの演出のニクさを感じる。

 重なり合ったその顔が意味するのは、親愛なのか信頼なのか。それとも――。

 感謝、とかだったら……僕は嬉しいな。

 

『シンシアさん……』

 

 そして物語はラストシーンへと映る。シンシアの乗った船がどんどん離れていく。その姿を見送りながら、カインがポツリと言葉を口にする、というところでこの物語は終わりだ。

 そして、この物語の終わりはもうすべて涼君に任せっきりになってしまっている。恥ずかしい限りだけど、この物語の最後は、いまだにどう〆たものかてんで分からないのだ。

 

『もし、僕が貴女に出会わなければ、きっと僕の世界はこの目の前に広がる海と、それを囲うように広がるこの街だけだったでしょう。でも、今は違う。貴女に出会って世界を知った。貴女にあって夢を知った。貴女に出会って、愛を知った。……ありがとう。僕の世界は、貴女でこんなに染められている。行くよ、僕は。一か月後、一年後、一生。どれだけかかったっていい。僕の全てを持って、その隣にまた立てる日が来るまで』

 

 涼君が、舞台の上で小さくニヤリと笑ったのが見て取れた。

 幕が下がる。

 物語の終わりを告げる合図だった。ゲネプロは無事に終わり、関係者だけの客席からはポツリポツリとまばらな拍手が起きる。そんな中、僕の口元は小さく震えていた。

 

「……ふふっ、そうだよな」

「ん、どうかした?」

「い、いえっ、何でもないですっ」

 

 予想以上に僕の声はボリュームを伴っていたようで、隣のリエさんの耳にまで届いてしまったようだ。まぁ、今はそんなこと些細な問題だ。

 そうだ、些細な問題なんだ。

 僕らは表現者だ。自らの手で創り上げたもので誰かの心に楔を打ち込んでやりたいと心血を注いでやってきたんじゃないか。 拙い演奏?いいじゃないか、それが僕らの今の精いっぱいだ。だけど、例え技量が伴っていなくたって目を逸らしちゃだめだ。お前自身がその想いを届けたい誰かを、決して見失っちゃいけないんだ。それだけは、絶対に。

 

 この物語の終わりは”エンディング”じゃないんだ。

 カインにとっては新たな始まり。

 そして、それは僕にとっても同じだ。

 行くよ、父さん。僕も、僕の精いっぱいで、この世界で必死に足掻いてみせるよ。

 何よりも、僕と、そしてそんな僕に世界を見せてくれた人にだけは、何よりも誠実でありたいから。

 



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最終話

「こうやって二人で話すのは久しぶりですね」

「そう、ですね……楓さん、忙しそうでしたもん」

 

 舞台が無事千秋楽を迎えたのはもう二週間も前のことだった。

 不安だった客足も、蓋を開けてみれば当日券待ちが出るほどの盛況で四日間、全六公演のそれは近年でも稀にみる集客を見せたらしい。

 それもこれも、主演を演じた楓さんと涼君の持つネームバリューのおかげか。僕なんかが貢献できたものなんてたかが知れてるだろう。

 

「本番中は全くと言って良いほど顔を合わせませんでしたからね」

「すみません……舞台袖でてんやわんやしてたんです。恥ずかしい所をお見せしたでしょうか?大崎さんにも落ち着けって何度も頭を叩かれましたよ」

「ふふっ、バッチリ見てましたよ」

 

 月明かりに照らされる楓さんは、今日も一段と綺麗だった。

 

「恥ずかしいから忘れてくださると……」

「ダメですっ」

「そうですか……」

 

 今日は都内の某ホテルにて、先日行われた舞台の打ち上げが行われていたのだった。慣れないドレスコードでガチガチになった僕は出演者のベテラン俳優さんや裏方のおじさま方に囲まれて今の今まで酒臭い空間に身を置かれていたのだ。

 抜け出すようにホールを出て閑散とした廊下へと出てみると、ふと窓際で黄昏ている楓さんの姿が目に入り今に至るという訳だ。

 時計の短針も九時を回ろうというのに黄昏ている、という表現については目をつぶっていただけるとありがたい。

 

「あの……」

 

 ここ二週間は僕も楓さんもお互い身の回りのことで手いっぱいだった。こうして二人きりで言葉を交わすのはいつ以来だろうか。そういえば本番前も大して話した記憶はなかったような気がする。

 もしかしたら、あの夜以来かもしれない。

 そして、これが最後になるかもしれない。

 

「楓さん、ありがとうございました」

 

 思えば、きっかけはあの日偶然喫茶店にてぶつかったことだったかもしれない。あれが無ければ、きっと彼女はずっと憧れの先の存在。別の世界の人だったんだろう。

 

「お礼を言われるようなことは何も」

「それでも、です」

 

 僕の力強い返答にしばし考え込むような仕草をすると楓さんは僕を隣に誘うかのような手振りを見せた。

 

「お礼を言うのは、こちらの方です」

 

 ドキリとした。なにせその言葉は僕の耳元で囁かれたものだったからだ。

 

「い、いきなりなんですか!?」

「男の子は、こういう方が嬉しいかと思いまして」

 

 まるで悪戯が成功した後の子どものような笑顔を浮かべる彼女を見て、突然高まった僕の緊張も一瞬で解けてしまう。

 

「悪い人ですね」

「よく言われます」

「でも、僕にお礼を言われるような心当たりは何もありませんよ?」

「同じ言葉を七瀬君にも返してあげます。私は、あなたに何もしてません」

 

 このままじゃ議論は平行線だ。ここは甘んじて楓さんの言葉を受け入れることにしよう。

 

「まぁ、でも、それで楓さんが満足するのならば……」

「満足は……できないかもしれません」

「えっ」

「新しい世界を、知ってしまいました」

 

 そう言って照れ臭そうに顔をはにかませる楓さんは、まるで少女漫画のヒロインのような顔を浮かべた。あれじゃあまるで恋する乙女じゃないか。

 もしや自分に――。

 なんて自惚れが許される訳もなく、その先に続く言葉は僕と楓さんのこれからを明確に指し示していくものだった。

 

「アメリカに、行きます」

「アメリカ……ですか?」

「はい、楽しかったんです。お芝居が」

「それで、アメリカですか?」

「はい!演じて歌って踊って……。歌を歌うという目的だけで舞台に立つ、ということ以外が私には新鮮でした。既にアメリカの有名な監督さんからオファーも頂いてるんです。だから改めてありがとう、七瀬君」

 

 そのありがとうを、僕は一生心の中に抱えて生きていくのだろう。

 そして、その後に続く言葉も。

 

「だから、待ってるわ」

 

 ズシリと重く、その一言は僕の胸へと沈み込んでいった。

 想いは呪い。僕は、きっとその呪いが解けるまでこの世界で足掻き続けるしかないのだろう。人と人とは繋がり。それは見えずとも確かに誰かの心に形となって残り続け、それは誰かの明日への道を作る。

 そうか、父が本当に遺したかったものは、こんな呪いのようなものだったのか。

 

「はい」

 

 だったら僕は、僕の全てを持ってそんな世界に抗ってやろう。走って走って走り抜けたその先、そこにはきっと目の前の彼女が待っているのだから。

 

 

 

 

 

「おう、なんか久しぶりに会うような気がするな」

「そう、ですかね……」

 

 あれからどれだけの時間が経っただろうか。

 楓さんはアメリカへ旅立ち、僕もあれ以来業界でちょっとだけ名が知れ渡るようになったおかげで飛び込んでくる仕事も以前よりちょっとだけ増えた気がする。

 そのため居酒屋バイトの方も自然とシフトが減り、店長とこうして顔を合わせることも少なくなっていた。

 

「最近は忙しそうじゃねぇか」

「ええ、お陰様で。まぁ、僕の名前は世間様には一切出ないんですけどね」

「それでも、お前のことを評価してくれる人間は確かにいるってことは忘れちゃいけねぇよ」

 

 網膜の裏にでももう焼き付いてしまうんじゃないだろうか、というぐらいに見慣れた手つきで

タバコに火をともした店長を見ながら、僕も彼の対面に腰を下ろす。

 この世界に変わらないものなんて言うのは何一つも無くて、既に生活の一部となっているこのスタッフルームにも世界の変化は訪れていた。

 

「楓さんのポスター、変わっちゃったんですね」

「あー、大崎の奴がな、今推してる子だから宜しく頼むって」

 

 そう言えば打ち上げのあったあの日、大崎さんにもお礼を言われたのだった。曰く、ありがとな、また俺はあの頃と同じような気持ちでアイドルと向き合えるようになった、とのことだ。

 そんな彼は先日から新人アイドルのプロデュースを始めたらしく、次代のトップアイドルの座を二人で虎視眈々と狙っているのだそうだ。

 

「綺麗な人ですね」

「だろう?まぁ、大崎の奴と女の好みが被るのだけはいただけねぇけどな」

「さいですか……」

 

 仕事終わりの僕等を労ってくれるかのように微笑んでいた楓さんのポスターはもうそこにはなく、彼女の笑顔があった場所には今346プロダクションが売り出し中のアイドルが新しくそこではビールジョッキを片手に笑っていた。

 あの人がきっと、今の大崎さんの担当なんだろうな。

 

「楓さんのポスター、捨てちゃったんですか?」

「うんにゃ。今はおはようからおやすみまで俺のことを見守っててくれてる」

「心からそう思ってるならもう限界ですね。病院紹介しますよ」

「冗談だよ。まぁ、うちにあるのは確かだけどな。なんだ、欲しかったか?」

「いえ、僕には必要ないですから……」

 

 ピロン、と聞き慣れた効果音と共に僕のスマホが点滅し始めたのは僕の言葉とほぼ同時だった。

 

「なんだよ、女でも出来たか?」

「どうでしょうね。それじゃ、明日も朝早いんでこの辺で失礼します」

「あいよー」

 

 スタッフルームの扉を後ろ手に締めながら僕は自宅へと足を向ける。去り際、握りしめたスマートフォンを開くとそこには彼女の名前が表示されていた。

 

『今日は東海岸でも有名なジャズバーで歌って来ました。ぶい』

 

 そんな文面と共に送られてきたのは一枚の写真。

 真っ赤なドレスに身を包んだ彼女は、嬉しそうにカメラにVサインを向けていた。

 

「全く……変わらないというかなんというか」

 

 そんな言葉がついつい口をついてしまう。蒼と翠。澄んだ宝石のような二つの瞳は、例え画面の向こう側であっても変わらず輝き続けていた。

 世界は変わっていく。沢山の夢と想いを一身に纏って。

 そんな世界の中で、せめてちょっとぐらいは変わらないものを持ち続けていこう。

 夢へと進み続ける意志、そして貴女への……憧れ。

 

 

 

 

 もしも、世界の音に色がついているのならば、それはきっと貴女と同じ瞳の色をしているのだろう。

 それは、貴女が追いかけてきた光。

 そして、僕が憧れた光だ。

 行こう、光の下へ。僕の全てを持って、その隣にまた立てる日が来るまで。

 

 楓さん。

 今日も貴女の世界は、貴女の音で溢れていますか?

 

 

 




ここまででこの物語を終わりとさせていただきます。
もし、読んでくださった皆様のお心に少しでも形に残る何かがございましたら、ご感想等頂けると幸いです。

※誤字報告、誤用共々待っております


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