大正男女再会綺譚 (佐遊樹)
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「人生とは出会いである。その招待は二度と繰り返されることはない」
禰豆子がその団子屋に勤め始めてから、半年が経った。
今となっては看板娘である彼女は朝早くからせっせと屋外席を掃除していた。
理由は明白であり、女だてらに強気で芯の通った禰豆子を大層気に入っている店主はおろか、出勤途中に立ち寄る常連すら「またか」と彼女の背中を微笑ましく見守っている。
「あっ、禰豆子ちゃん!」
理由が来た。
禰豆子はその声を聞いただけで花開くような笑顔を浮かべて、駆け寄ってくる金髪の青年に顔を向ける。
未だ名前すら知らぬ長身長髪、派手な黄色の羽織を纏ったその青年──厳めしい表情であれば着込んだ詰襟も相まって軍人にも見受けられるだろう。
だがふにゃと崩された相好を見て、彼を何か、生命のやりとりをする職業と結びつける者はまずいない。
「えへへ。えへへへ。実はそこで見かけたから~、今日はホントは急がなきゃいけなかったんだけど~、来ちゃった~」
台詞の文末全てに音符が付いているかのような浮かれぶりだ。
そして蒟蒻のようにぐにゃぐにゃと曲がる青年に対して、心の底からの笑みを浮かべる禰豆子。
端から見ているだけでも気づける。むしろ気づけない人間が一体どこにいるのか。
「おい見城さん。看板娘が取られちまうぞ。いいのかよ」
常連のからかうような声を受けて、岩のような面をした店長は口をへの字に曲げた。
「人の恋路を邪魔する奴はな」
「馬に蹴られるのかい?」
「嫁に叩かれるのさ」
ああ、と納得して、常連の男は店長の隣でニコニコ笑っている女将を見た。
女三人寄ればとはよく言ったものだが、なるほど。二人でも十分に姦しいようだ。
金髪の青年は普段こそ席に座り、せわしなく働く禰豆子を眺めてやはりふにゃふにゃと笑っているのだが、今日は少し禰豆子と会話すると行きがけの駄賃とばかりに団子三本を袋に入れて路面電車に沿って走り去った。
女将は会計時に取り出される小銭入れや上等な羽織、背負った竹刀袋を見て彼が比較的裕福な暮らしをしているのだろうとあたりをつけていた。剣術道場で稼いでいるとは考えにくい。だが軍人や警官と言われてもピンと来ない。よって女将の推測では、彼は警察学校において剣術を教えているのだった。
「本当かい? あんなに若いのに」
「間違っても教わる側ではないだろう」
常連にそう返したのは女将ではなく店主であった。
彼には軍歴があった。他国の領土にて銃を構え、人を撃った経験があった。
「一本たりとも取れる気がしねえよ。軍での先生もああじゃなかった」
「いやいや、それは……」
「会計するときに、俺が包丁持って飛びかかったらさ、多分だけど俺が斬られちまうんだよ。そう感じるのさ」
青年の佇まいに店主はもう絶滅したはずの武士を幻視していた。
背中にかけた竹刀袋には真剣が入っていて。
詰襟姿であるのにも関わらず、身体が一定の領域には常に剣を張り巡らせている。古来の武士は持っていたという、剣域なる概念。教科書では分からず、戦場でも相まみえなかったそれを、店主は青年に見出していた。
いつでも、どこでも、斬りかかられれば抜刀できるのだろうと理由もなく確信できる。
「俺が反対してんのはそこさ。
結局この場で、切った張ったの話を出来るのが店主だけである以上は誰も言い返せない。
青年がただ者ではないというのは誰にだって分かるのだが、それを血の臭いと結びつけることは難しかった。
結局の所、彼の笑顔は戦場とは最もかけ離れたものだと。
誰もが、そう認識していたから。
むん! と気合いを入れ直した禰豆子ではあるものの、普段と比べて些か元気がない。
常連なら気づけるし、彼女目的で通う不埒な男たちもまた──無論その中には金髪の青年だって入るのだが──覇気の無い禰豆子を見て察している。ああ、あの金髪男がまた禰豆子ちゃんを悲しませたのだと気づいている。
アレがそこらにいる軟弱な男ならオレが成敗するのだが、と一人の男がこぼした。
西洋のシャツを着込んだ書生服の男は、それから視線を落としてしまう。
「オレよりあの男の方が、禰豆子さんが好きなんだ」
言葉は宇宙の真理であるかのように他の音を打ち消した。
誰も反論の出来ない、厳然たる事実だった──例えそれが客観的な観察に基づく推測だとしても、連れの男たちが一様に頷く程度の説得力は備えていた。
「確かに、そうだな」
「俺たちが気づかないような様子の違いにも気づくしさ」
金髪の青年を居合わせようものなら、野犬同志のにらみ合いじみた空気になるところ。
当人がいないのをいいことに、禰豆子目当てで常連と化した男たちは次々に例を挙げていく。
「まず出会い頭に髪型・化粧・服装を見てるのがニクいよな」
「俺たちじゃ気づかない小さな変化も分かってるよな」
「あと、好意を前面に押し出すのが羨ましいよ。あそこまで率直に言えるのはそうない」
「それだよな、禰豆子さんも嬉しそうだし」
「というか禰豆子さんの反応が尊い」
「わかる」
「あの男、分かっててやってるのか」
「オレは分かってないに一票だな」
「俺は分かっててやってるに一票」
続々と言葉が重なり、悲しいことに声が大きいので丸聞こえで。
丸盆をそろそろと持ち上げて顔の半分を隠したはいいものの、禰豆子の顔が真っ赤になっているのは誰が見ても明白だった。
団子を頼まねえんなら出て行けと店主が彼らを追い出すまで、結局は金髪の青年がいかに禰豆子相手にはクリティカルな行動をしているのか、というのが彼らの話題であった。
「……そういうわけで、困ってると言えば困ってるの」
なるべく職場の話はしないようにしていた。
だがここに至っては禰豆子とて兄の手を借りない理由はない。
なかなかその詳細を明かさない職業に就いている兄は、自身の給金と比べると口をあんぐりと開けてしまうほどの額を稼いでくる。彼の部屋に置かれた刀などを見ては心を痛める時期もあったが、生死のかかる職であろうという予想を裏切って兄は何でも無かったかのように仕事から帰ってくる。時に数日や数週間単位で家を空けることはあったが、結局は無傷で帰ってきた。
「私はその、まだ名前も知らないけれど。あの人のこと……好いているとは思うのよ。だからお兄ちゃんに聞きたいの。団子屋の看板娘に言い寄ってくる男性って、その女から逆に言い寄られると、どう思うのかしら」
間借りではなく買い上げたという自宅の食卓で。
夕餉の並ぶちゃぶ台の上にずいと上半身を乗り出して、禰豆子は実の兄へ問うた。
身近な男性といえば父親か兄である。だが禰豆子は父を喪い、更には過去数年間の記憶を失っていた。
記憶を取り戻したときには、寝そべっていた布団のすぐ傍で兄がうつらうつらとしていたのをまだ覚えている。ずっと付き添ってくれていたのだ。
そこからはあっという間だった。兄と、猪の奇っ怪なかぶり物をした男性にひどく気を遣われて──猪のかぶり物をした人はひどく分かりにくい気遣いだったし、何より、
そういう事情があって、禰豆子にとって真っ先に頼るべき存在は実の兄である、炭治郎だった。
「…………禰豆子。もう一度聞かせてくれ」
禰豆子の記憶より随分と伸びた髪を後ろで括った兄は、瞠目したままそう言った。
意外だった。禰豆子は目を丸くした。兄のことだから、そんな相手は禰豆子には相応しくないと烈火の如く怒るのだとばかり思っていたのだ。
少なからずの思い上がりがあったのだろうかと恥じ入りながらも、禰豆子は相手である青年の特徴を列挙していく。
「ええとね。金髪で、背が高くて、いつも竹刀袋を背負ってて。あと、素敵な黄色い羽織をいつも身につけてるのよ」
兄は数瞬呆けたように、口を開けっぱなしで、箸から米粒をぽろりと落とした。
その反応に禰豆子は訝しんだ。
「知ってるの? お兄ちゃん、あの人のこと」
「……それで、すごく、感情が顔に出やすい奴だったりしないか?」
「知ってるのね」
最早身を乗り出すではすまなかった。禰豆子はちゃぶ台をひっくり返す勢いで兄に顔を寄せた。
想い人と実兄が顔見知りであったなど、なんたるロマンスか──違う違うと禰豆子は頭を振った。頬に溜まった熱を吐き出してから再度、キッと兄を睨む。
元より自分が記憶を失っている間のことは、何も知らされていない。屋敷に住む人々は一様に口をつぐんだ。最も狙い目だと判断した猪男ですらもがヤケクソ気味に『ウルセエ! シラネエ!』と禰豆子から逃げ去ったぐらいだ。
隠しているのだとは嫌でも分かった。知りたいという欲求は月日が経つにつれて朽ち果てていったし、今となっては記憶の欠落していた時期を知ろうという気力も日々の労働によって押し潰されている。
されどここまで語られたならば、
「そいつは、今の俺の同僚だよ」
禰豆子は一気に熱が奪われていくのが分かった。
いつも無傷で帰ってきているとはいえ、兄の赴く先が、一秒先の生死すら分からぬ戦場であると知っていたから。そして何よりも背負っていた竹刀袋。あれは竹刀を入れていたのではないのだ。
思えば、この大正の時代に竹刀袋を背負っていれば警官に呼び止められて中身を検分されるだろう。だが青年は店の近くで警官に呼び止められると、何かしらの身分証をチラと見せて、すぐに警官は敬礼を返していた。女将はそれを見て剣術師範だと判断していたが、違うのだ──
「そっか、そうかあ。禰豆子のところに、随分前から通ってたんだなあ」
考えを巡らせている間に、炭治郎は箸を置いて感慨深く頷いていた。
過去に思いをはせることの多い兄だったが、今までで一番、質量を伴うほどに重い息を吐いていた。それがひどく珍しいことで、禰豆子は数瞬言葉を忘れてしまった。
「あいつが、教えてくれたんだよ、禰豆子。俺たち兄妹にも、明るい未来があるって」
「それは、どういう……」
「ずっと俺たちを気にかけてくれて。あの時は必死で、なあんにも分かってなかったけど……取り戻した未来には今までみたいな光があるって。あいつが身体を張って証明してくれていたんだ」
「だからお兄ちゃん、説明してくれないと」
「きっとあいつも、整理がついたんだなあ」
納得したように頷かれても、こちらには何も分からない。
終いには洟すらすすり始めてしまうのだから禰豆子は何も追求できなくなってしまった。
結局はこうなるのだと、禰豆子は服の袖をまくりながらむんと自分を奮い立たせた。
今朝は先に家を出るとき、炭治郎に『今晩は早く帰ってくれ』と言い含められたのだが、それを気にしている余裕はいざその時間が迫れば無くなってしまった。
いつも通りに出勤して、開店準備を終えて、さあ朝の出勤途中でやってくる常連を捌く時間。だが禰豆子は上の空だった。けれど普段よりも業務に集中できている節さえあった。
(私のこと、知っているんだわ)
確信さえあった。
兄の同僚というだけでは、兄の反応に説明が付かない。
恐らく記憶を失っている間にも、彼と自分は会っているのだ。自分には意識がなかったと聞いているが、それは嘘だろうと判断している。でなければ、自分の知らない相手が自分に親しげに接してくることに道理が通らない。
そして金髪の青年はきっと。
「……ッ」
自分の想像力の豊かさに、思わず禰豆子は赤面した。
文字通りに、禰豆子の脳内では身動きの取れない自分を颯爽と一閃を以て救う、金髪の青年の姿が浮かんでいたのだ。随分とたくましい想像だ、列車の中で彼の背中を眺めている自分など。状況までも鮮明に思い浮かんでいる。頭をブンブンと振って得体の知れないイメージを打ち消す。常連らがこりゃ今日は重症だなと苦笑した。
「あっ、禰豆子ちゃん!」
重症の原因が来た。
禰豆子がガバリと振り向けば、金髪の青年が、一つに束ねた長い金髪を揺らしながら駆けてくる。跳ねるような足取りは平時と変わらない。いつものことだった。けれどそこからが違った。
業務中だというのにもかかわらず禰豆子は咄嗟に走り出していた。お盆を抱えたまま、店より三間ほど離れたところまでわざわざ迎えに行ってしまった。
「えっ……なんか、今日は随分と熱烈だね、禰豆子ちゃん?」
「あのっ」
息を整えながらも声を吐き出した。
ずっと胸の内で猛っていた想いを全部吐き出すような心持ちだった。
「私のおにいちゃ……兄と、お知り合いなのですか?」
青年が目を見開いた。
沈黙が訪れる。禰豆子は返事を待つことしかできなかった。青年はひどく狼狽した様子で視線を左右にさまよわせる。
はいかいいえしかあり得ない返事。それを悩むこと自体が雄弁に事実を語っていた。
「知り合いなんですね」
「…………それは」
「そうなんですねッ!?」
最早悲鳴だった。
常連たちはおろか店主さえもが聞いたことのない声にギョッと二人を見る。
青年は言葉を探すように何度か口を開閉させてから、やがて諦めたように薄っぺらい笑みを貼り付けた。
「ええと……何か、勘違いしてないかなあ?」
「勘違い? 勘違いってなんですか! お兄ちゃんは何も教えてくれませんでした! お願いです、教えてください…………あなたは──」
「
ストンと。言葉が、言葉だけが、無意味に無慈悲に無感情に、禰豆子の胸の内に落ちてきた。
青年の声も目も、それ以上の意味はないと語っていた。ただそれだけのつながりだと。
「いやあ、炭治郎のやつからは随分と自慢話を聞いてさ。妹が美人だって、気立てもいいって。気になったから、働いてる先のお店を訪ねたら──通いたいなって思ったんだ。それだけだよ。何か、気に触っちゃったならごめんね?」
まるで用意していた原稿を読み上げるように、淀みなく彼は一連のセリフを言い切ってみせた。それが禰豆子にはひどく悲しかった。
嘘と呼ぶには余りにも真実が籠もっていたし、真実と呼ぶには余りにも感情の色がなかった。
「そうだ。俺は今日も朝が早くてさ。今日は席に座れないんだ──団子は買うけど。ただ、夜は気をつけてね? 今日は特にさ」
念を押すように彼は言った。兄と同じ言葉だった。幼子に言い含めるような声色だった。
それきり禰豆子は何も言えなくなってしまった。
気づけば仕事は終わっていた。
雨が降る夜。傘を持って出ることすら忘れていた。ただ、金髪の青年と今日こそ意味のある言葉を交わせるのだと──端的に言えば、舞い上がっていた。そこから叩き落とされて、最早気分はどん底以下だった。
すぐにやむだろうと店で傘を借りることを丁重に断ってから、しばらく喫茶店で時間を潰しても雨はやまない。
しびれを切らして禰豆子は外に飛び出したが、昇っているはずの月すら雨雲に消されて見当たらない。街頭のガス灯だけを頼りに、雨に打たれながらも家路を歩いた。既に着ている服は濡れ鼠だった。彼との記念すべき日になると思って引っ張り出した淡い色合いの服は、濡れそぼって彩りを失っている。
「お兄ちゃんの馬鹿……」
言ってくれればよかった。
青年の態度は、露骨に自分を拒絶していた。こうなる可能性があるのならあらかじめ言い含めて欲しかった。確かに普段、余りに多い兄の小言──禰豆子の記憶の中でもそれは多かったが、最近は『俺は長男だから』と言う頻度が増えていた。まるで存在しない弟たちにも語っているかのように。あるいは、禰豆子の知らない間に増えた弟分へ語りかけるように──を聞き流している節はあるが、それでもと感じる。
「あの人の、馬鹿……」
遠くに雷鳴が響いた。
八つ当たりだという自覚は十二分にあった。
けれど吐き出さずにはいられなかった。
「私の知らない理由で、私を拒絶しないでよ……」
我儘なのかもしれない。けれど事実だった。
禰豆子の知らない世界できっと、兄も、金髪の青年も、何かを知っているのだ。そして何かをして、何かを終えて、何かを新しく始めて。
そこに禰豆子は居る。半透明の姿でいる。実在を伴っているとは言い難い。
自分の知らない世界で全てが済んでしまったことがひどくもどかしかった。
「私、何なの……?」
もしも明日以降、青年が来なかったら。
もしも帰ってから、兄に冷たくされたら。
それが恐ろしかった。
禰豆子は歩みを止めた。雨に打たれながら、暗い空を見上げた。星は一つも見えなかった。
「…………どうして」
雷雨の中でも天を見上げて。
問うことしかできない。
答えなど、返ってくるはずもないのに──
「…………お嬢さん、大丈夫ですか?」
ガバリと振り向いた。
西洋服に身を包みハットを被った男が、禰豆子の背後に佇んでいた。
全身を悪寒が駆け巡った。否、それはある種の臨戦態勢だった。頭から爪先までを鉄棒が貫いたような感覚。細胞一つ一つが凝固するような感覚。
「おや、そこまで警戒されると傷つきますねえ」
「……ッ!」
声をかけられた。夜道で、見知らぬ男に。警戒に不足はない状態であるものの、禰豆子は自身の対応もまた常軌を逸していることに遅れて気づいた。両足を肩幅に広げて、雨粒を散らしながら両腕を前方に突き出して構えている。身体が勝手に動いたのだ。
「え……わた、し、なんで……ッ」
「気づいたのですか? もしや元鬼狩りか──まあ、あの刀さえ持っていなければいいのですが」
禰豆子の脳髄が叫んでいる。同類だ。呪いをはねのけて、単独で生きながらえている異形だ──
「こうして、夜は夜でもことさらに警戒を重ねなければならない時代になりました。鬼狩りの目をかいくぐるには余りにも多くを気にしなければならない。だが、貴女のように不用心な女性は特段と……やりやすいのですよ」
男の姿が変わる。
存在が変質する。
禰豆子が尻餅をつかなかったのは僥倖だった。自分でない自分が勝手に、身体を必死に制御していた。
西洋服を突き破り、肉体が膨張していく。人間ではないと証明するには過ぎる変化だった。
「…………鬼」
「はい、そうです」
額を突き破って二本の角が生えて、その後男は数度肩を回して頷いた。
外見さえ禰豆子の知る人間のままであれば自然なほどに、人外としては相応しくない挙動だった。
「ヒッ──」
悲鳴にならない息が漏れた。
──夜には、気をつけてね。
二人分の声が重なって脳裏を巡った。だが遅すぎた。
「今宵は特段に飢えています。残念ですが……骨もしゃぶりつくしてしまうかもしれない」
男だった鬼に言われて、禰豆子は思わず誰かに助けを求めた。
助け? これぐらいなんとでもなるはずなのに。いいや、今の自分では何もできない。今の自分? 今でなければ、何かができたような言い分だ。
こんな人の身を超えてしまった怪物相手に何をするのか。到底人間では叶わぬ相手に、何を、どうすれば。
後ずさろうとして足がもつれる。
ばしゃりと雨水の水たまりに臀部から落ちて、禰豆子は痛みに顔をしかめた。だがそれどころではない。
「ああ逃げないでください。取って食おうというワケではないんです。いやまあ、人間にとっては取って食うということなんですが、それはそれ。私と一体化して永久に生きながらえることが出来ますよ」
「来ない、で……!」
水を跳ねさせながら禰豆子がそう言えば、鬼は困ったように表情をしかめた。
さも予想外の言葉を聞いてしまったかのような表情だった。
「拒まれると──困りますね。腹は減っている。向こうは食べられたくない。では文明の成果ではなく、野生で決めませんか?
雷鳴の中でも彼の言葉は明瞭に聞き取れた。
これ以上ない価値観の違いを明示され、それでも禰豆子が悲鳴を上げないのは幸運だった。
彼女は元より頭の悪いたちではない。だが自身と相手の存在の違いを、元から知っていたかのように理解出来てしまった。今の自分が抗える余地など無い。
夜深い路地で食い殺されること、ただそれだけが残された道だと思い知って。
(お兄ちゃん──!)
真っ先に、あの額に痣を走らせ、耳飾りを付けた兄に助けを求めて。
けれどその後に。
(
知らない名前を、心の内で叫んで。
一つ。
遠くで。
雷が落ちた。
「──そこまでだ」
声が聞こえた。聞き慣れた声だった。聞こえるはずのない声だった。
振り向こうとした途端、わざわざしゃがんだのだろう、禰豆子の肩に手が置かれた。視界を派手な黄色い羽織が横切って、ただそれだけで胸の底から安堵できた。
温かい手だった。禰豆子は一切の身動きをやめた。身体が覚えていた。もう大丈夫だと。彼が来てくれたから、大丈夫だと。
そう、心が覚えていた。
「貴様……!?」
「うるさいな喋るなよ。時間がかかった理由を教えてやろうか? お前が女性ばっかり狙ったからだよ。鬼の犯行だと判断するのが遅れた──それだけだ。もう次はない。女性を狙った連続殺人も、お前という前例ができたから鬼殺隊の管轄に入る……いやまあ俺が毎回出張るわけじゃないと思うけどね!? ホント! 毎回俺引っ張り出されたら身が保たない! 保たないから本当にそれだけは勘弁して!」
「金髪! 黄色の羽織! 鳴の……ッ!」
会話が成立していないことは禰豆子にも分かった。
というよりも、会話とは双方がコミュニケーションを成立させようという意図によって成立するもので。
片方にその気が無ければ、まるで成り立たないのだ。
「知っているぞ! 我らの死神! 死すら認識できぬ最速の刃! 相対すれば絶命は決まったと、そう誰もが──!」
「あ、もうお前いいから」
男の一声が会話のなり損ないを断ち切った。
自分のすぐ傍にいるというのに、その言葉はひどく遠くから響いたような残響を伴っていた。
雨粒が地面にぶつかっては弾ける。遠くには雷鳴がとどろいている。ただそれだけしか聞こえない、数秒の沈黙が訪れた。
静寂を破ったのは男の声で、それは鬼ではなく禰豆子に向けられていた。
「目を閉じて」
禰豆子は言われたとおりに目をぎゅっとつむった。
もう何も見えない。
「耳を塞いで」
禰豆子は言われたとおりに両手で耳を塞いだ。
もう何も聞こえない。
────雷鳴だけが聞こえた。
それで全部、片付いた。
耳を塞いでいた手を下ろす。
それから目を開く。
異形はただそこに横たわっていた。否、首から上がない。
「畜生……なんで……」
「なんで、って。人を食いたいって……お前は抗えなかったんだろ。じゃあそれだけだよ」
「畜生、畜生……! 俺が、生きないと……生きて帰らないと……! 生きなきゃ駄賃がもらえねえ! じゃないと、カミコは……!」
青年は深く息を吐いた。
何か逡巡するような間を置いてから、しゃがみこんで彼は転がった鬼の首に語りかける。
「…………会えるよ。きっと、生前にあんたがそんなに愛していたのなら……きっと、これから会える」
「……ぁぁ」
それきりだった。
転がった首も、身体も、同時にさあと溶けていった。禰豆子にとっては理解不能だったが──それが、彼らの死に様なのだろうと理解した。
しばしの沈黙。
「さて」
青年が立ち上がった。
刀身についた血を払って鞘に納めると、ゆっくりと竹刀袋に包んで背負う。
兄の同業者──こうした仕事に就いているとは、と禰豆子はあるべき驚愕をスキップして納得してしまっていた。
だって、今の禰豆子は、もう全部を思い出している。
「ゴメンね、禰豆子ちゃん……君を巻き込むつもりなんてなかった。君が巻き込まれる前に片付けようって、俺も炭治郎も考えてたんだよ? だから今日は早く帰って、炭治郎を安心させてあげてね」
青年が背を向けた。
思わず禰豆子は叫んだ。
「あの! 貴方は……貴方は……ッ!!」
「名乗るほどの者じゃ──」
「
痛烈な叫びだった。
青年は動きを止めた。
「私、やっぱりだめです……!
肩が震えているのだけが、禰豆子には見えた。
夜の雨の中でも、それだけはハッキリと見えた。
だから。
「待ってますから!」
雷鳴の残響よりも大きく、禰豆子の声は路地に響いた。
「あのお店で……ずっと、ずっと! ずっと! 貴方を……! 善逸さんを待ってますから……!」
顔を伏せて嗚咽混じりに叫ぶ。
答えはないと分かっていた。けれど視線を上げたときに、もう路地に自分しかいなくて。
禰豆子はただ泣くことしかできなかった。
さて。
結論から言うと善逸は数日後、団子屋に花束を持って、何故か白い西洋服姿で訪れた。
当然ながら常連の男たちからしこたま殴られた。
彼が団子屋を訪れたのは禰豆子が記憶を取り戻してから、しばし時間が経った後で。
団子屋を訪れた時にはもう完全に事情を把握して完全に成すべきことを定めた炭治郎が日輪刀すら携えて待っていたのだから、それはもう大騒ぎだった。
刃傷沙汰にならなかったのは奇跡である。
「結局、善逸さんがしばらく来てくれなかったのって、何でなのかしら」
「それは簡単だよ、禰豆子。あいつは次に行くなら結婚を申し込む時だって決めてたらしい」
「え?」
記憶を取り戻しても心が折れることなく、過去を糧に力強く生きている妹に目を細めていた炭治郎はそう返した。
愛しい妹が絶句したのに苦笑しながら、炭治郎は指を一本立てる。
「あいつは雨の中送ることすら出来なかったのを悔やんでたよ。あの場で決断するのは、そりゃあ難しい。だってあいつにとっては……お前と一緒に居ることは、もうそれ自体が、これから先はずっと一緒に居るっていう意思表示そのものだったんだ。丁寧に姿を消してから、家に帰るまでずっとお前を見守ってくれていたんだぞ。それから考えて、考えて、俺に相談して。いやあ、あの時は凄かったな。道場で伊之助に止められたのは初めてだったぞ! それ以上は弱味噌が弱い強いじゃなくてただの味噌になるって!」
大正時代にはなかった言葉だが、要するにミンチである。
「だけどあいつは最後まで剣を持ってた。将来の義兄に剣は振るえないって言いながらも、最後までちゃんと立ってた。だからお兄ちゃんも覚悟を決めたよ。きっと善逸なら、って。そうやってあいつは俺に根回しを終えて、お館様にすら話を通した。全部万全の状態にしてから、あいつはお前の所に顔を出したんだ。逆に、袖にされたらどうするつもりだったんだろうな?」
兄の言葉を聞き終えてから。
とんでもない善逸さんだよ! と禰豆子は顔を真っ赤にして叫んだ。
なんだかあいつの言いそうな言葉だな、と炭治郎はクスリと笑った。
ぎゆしのもいいけど
ぜんねずもいいぞ
流行れ
流行ってくれ
頼む
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