幻想童子祭~Two girls who behind a door~ (文章崩壊)
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一話 神秘への憧れ

 紙の前から目を離す。漆黒の机が白と合わさっており、その上を文字が泳いでいた。小さい一部屋に一人のわびしい男が座っている。私だ。先ほどまでゴリゴリと白面に跡を残していた鉛筆を脇に置き、ほっと一息をついた。執筆活動は順調であるためか、周りの景色が全くわからず、横手にある窓の外を見た。

 赤く上昇する太陽に、わずかに映りこむ朝ぼらけと緑。朝の空気がガラス越しに感じられるほど情緒(じょうちょ)漂うその光景に、やはりここで良かったと心の中に安堵の気持ちが湧いてきた。

 都会暮らしの中、持病が悪化したことにかこつけて自然に囲まれた生活を始めたのだが、やはりこちらの方が(しょう)に合っているようだった。アイディアが突如(とつじょ)降ってくるあちらも良いが、チマチマと構想が発生するのも嬉しさを覚える。

 それにしてもいい朝だ……。立ち上がり、インスタントコーヒーを作って窓を開ける。初夏の開放的でありまた神秘的な雰囲気がするものだ。片手に持ったカップに入った、熱く黒い飲み物を口に含む。苦味が私の口内に侵食し何とも言えない心地よさが体の奥から溢れ出た。目が冴えていきより視界が明けていく。幻想的な光景にうつつを抜かしながらしばしの休息を(たしな)んでいた私は、急に我が目を疑った。

 遠く離れた木々の間。そこに一つの人影があったのだ。いや、それは普通だ。問題は、それが明らかに地面から浮いているという点だった。……何と。老い先は短くないがそれなりに年を経たこの身、ついに呆けてしまったのか。いや、ありえない。小説のストーリーも考えられるし、頭はハッキリしている。では徹夜明けの幻覚か。いや、それにしてもあまりに鮮明すぎる。

 私が衝撃を受けていると、影はふよふよと移動しながら木の裏へと消えていってしまった。――待ってくれ! 好奇心はもはや外へと飛び出していた。玄関へ行き、靴を履いて外に出る。少しばかり涼しい風が吹くなか、私は遮二無二(しゃみむに)走り、林の手前まで来た。

 木の後ろにチラリと姿が見えた。私はもう急がざるをえなかった。弱った身体がきしみ、年不相応(ふそうおう)の走りに足が悲鳴をあげる。しかし、止まる気は毛ほどもなかった。あの者の姿を見たならば最高のものを書けるようになると、私は無根拠にそんな気がした。現代に欠けたもの。私が若いときに持っていた何かを取り戻せる気がした。葉を踏み光陰を進み、蒸散された気体の臭いがする。彼の後ろ姿は変わらずにそこにあった。――頼む、待ってくれ! 待ってくれ!

 ほとんど踊っているように前のめりになりながら、後二十歩ほどの距離になっていた。彼――いや、彼女か? いや、性別などどうでもいい。後十五歩、その神秘性を感じながら、知りたいという欲求はより強くなっていった。後十歩、消えてくれるな。私はそう叫んだつもりだが、果たして自分の耳にはそう聞き取れなかった。前の人物は、ピクリと肩を震わせこちらを見ようとしていた。後五歩、顔が逆光に照らされてい――

 瞬間、私の視界は一気に開けた。鬱蒼(うっそう)とした木々が周りから消え、映るのはただ開けた空間と足場のみ。何者かの足が視界から外れ、私の体は宙を翔んでいた。下に見えるは自然な緑と太陽の赤の混じった森。顔を打つ風が痛く、何もしなくても体が進んでいる。そして私は唐突に、やっと気づいた。私の体が高所から落下したことに。

 はるか先に林冠(りんかん)が見える。私は、心の内に恐怖というよりもむしろ空しさが到来していることを感じた。グングンと木々が近づいてくる。ああ……。目前に茶色の地面が迫り――

 

 ひんやりとした石の感覚が覚醒した体を伝う。細長い、石の間の溝が肉に食い込んでおり微少な痛みがした。体をゆっくりと起こして、私は周りの景色に目を配った。

 ここは……どこだろうか……。

 どうやら私が今いる所は神社の境内(けいだい)であり、石が敷き詰められた(みち)の上に倒れていたようだった。

 おかしい。確かに先まで私は落下し、正に地面と激突しその生涯を終えようとしていたはずだが……。地獄だろうか、まさか天国だろうか……。それとも生き残ったのだろうか。どうにもそのどれとも当てはまらないのではと直感がささやき、私はその考えにおぞけが走った。ここは生と死の境界か? それともそれらの後ろか? それとも偽りだろうか……。

 もう少し辺りを把握してみよう。神社は寂れており、境内の側面の土からは草本が無節操に生え、後ろには鳥居と狛犬がいずれも欠けた状態でそこにあった。二つは折れるか倒れるかしており、後ろ手にわずかに見える階段を見事に塞いでいた。神社の周りは一様に木々で囲まれており、太陽の光は射さず灰色の退廃的な神社の姿がそこにはあった。ひと気などあるはずもなく、オオオと不気味な風音がどこからともなくしてきて、まるで霊の住まう地であるかのようだった。

 本当に……どこだここは。森の奥に隠された神社のようではあるが、その割に神域らしい一片の神秘性もなく、ただ忘れられた悲しさだけがあった。とにかく、先までの状況はどうなったのか、この異様な神社は一体何なのか気になることは山積みだが、ひとまず神のいる場に来たならばすることは一つだろう。

 私は乾燥した空気のうごめく石道を進み(すす)けた賽銭箱の前に立って手を合わせた。すると、頭の中で何とも奇怪、酷く聞き取りづらい声がした。

"我は神、この神社の弱き守り神なり。神の住まう場の真なる姿を視るものよ。汝、なにをか知ることを欲す"

 私は突如として降りてきた神と名乗る者の発言に驚愕しながらも、気をとりなしつつ、ここはどこか、私はどうなったかを訊いた。少しすると、やはりおぼろげな返事がした。

"ここは博麗神社の(しん)なる場にて我の結界内である。汝、幻想の者の不手際で外界にて死ぬる定めにあったため、我が助け出したのみ。困惑も憤りもしよう、しかし、今は抑えよ。すぐに生命を蘇らせる"

 ほう……。助け出した、ということは先ほどから脳内に語る者は私の恩人というわけか。そして生き返らせてくれると。無論、博麗神社など聞いたこともないが、この者はそこの祭神であるらしい。外界も幻想の者という言葉も抽象的でわからないが、まあ大した意味ではないだろう。

 何とも不可思議でまた信じがたい事実ではあるが、どういったわけかスンナリと頭が理解を受容していた。何にしてもありがたい話である。死に急いだと思ったが救済があったとは。私が申し出を受けると、しかし神様は唐突に声を小さくした。

"なれど、元の時代に戻す、あたわず。我の力は弱く、決まった時間空間に魂を固着は不可能。過去か、未来か、現代か。日の本か、海の先か、宙の中か。その事象は偶然性に左右される"

 私は、自らの頭を疑った。元の時代には戻れない。その言葉は思っていたよりも重く私の双肩にのしかかってきた。友との思い出、親族との日々、執筆作品の数々。それらが目蓋の裏で次々と弾け飛んでいく。

 私の持つ記憶や存在がもはや無用の長物であることを知ったとき、足下が液状化してグラリと体が揺れる感覚に陥った。そうか。ああ、そうなのか。

"種も判らず。人か虫か妖か神か。しかし、我は鬼ではなく神である。もし必要ならば、何か能力を授けよう"

 神様が同情するように語りかけてくる。今、私の内では二つの相反する想いが駆け巡っていた。一つは元の世に戻りたいという帰属の念。もう一つは好奇心のままに新しい地を見たいという進展の念。それらがゴチャゴチャと動き回り、心が七転八起を繰り返している。

 私は、とっさに主張した。隠れたい。かくしたい。想いを、存在を、何かを。ふと、誰かの後ろ姿が私の脳裏に浮かび上がった。

"良かろう。何れかを秘となし、透過にて座し、捜す者から逃れる。汝は隠者となり世を生きよ。……生よ廻れ、死よ来い。哀れな探索者は今秘匿者に生まれ変わらん!"

 頭に叫び声がすると同時に、前方から凄まじいほどの強風が私を襲った。力に反して目を開けると、神社の内から光とともに四つのものが吹き出していた。桜の花びらに緑葉、紅葉に雪。それらがまるで台風のように前から無数に私にふりかかってくる。

 四つのふぶきが神社に彩りを与えていく。笑い合う人の声が横から聞こえたような気がした。葉の爽やかな香りと古風な着物に染み付いたような匂いがする。細くなった視界に、二つの人影が見えた。バサバサと着ていた服がたなびく。光が強く、強くなっていき――

 

 小鳥の鳴き声が振動となって中耳の器官に届く。ピヨピヨと可愛らしい声が聞こえ、さっと私は目を開いた。背の高い木の先が遠くにあり、生い茂った葉の隙間から照射(しょうしゃ)される薄い光が私の眼を刺激した。眩しい。どうやら私は仰向けになっているようだった。

 背後にサラサラとした葉と、いくばくか湿った土の感触が布越しにする。静けさが流れる森の中で、一人の男がそっと身を起こした。

 死んだのだろうか……。いや、先の光景が真実ならば蘇ったと言うべきだろうか……。新しい空気が身に染みるなか、私はとりあえず膝に付いていた落ち葉を払おうとして、見た。

 目の前で動く二本の筒を。……何だろうか、これは。横、ちょうど私の肩辺りから出ているようであり、粗末なぼろ切れでできている筒を眺めていると、意志に従いピタリと止まった。おや? そういえば私の手はどこだろうか。先ほどから前に出しているつもりなのだが、一向にその姿を現さない。

 もう一度腕を動かすようにする。すると、またしても二本の筒が上下に振られた。……何? 激しく腕を動かしてみる。筒は、やはり風を切るようにブンブンと音を鳴らした。しゃがんで足元を見てみる。足が無い。下目に鼻先と首を見ようとする。無い。再び手を動かし目の前にもってくるようにしたはずだった。

 私の目には筒――いや、袖の口とその内、真っ暗な空洞しか――

 私は叫んだ。声は出ている。そのことで酷く安心する自分がいた。森の一角で服を着た()()()()のわめき声が、しばらく、しばらく反響していた。

 



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二話 幻想に住む神

 時が幾分(いくぶん)か経った頃、私の心はおおかたの平静を取り戻していた。自らが透明になっていると気づいたときは恐ろしくビックリしたものだが、何とか感情を抑えつけることができた。……それにしても、よもや透明人間とはな。自分の姿が見えないというのは中々に不安なものだが、今までにない、普通に生きていて体感したことのない感覚だ。どれ、自伝でも出せばかなりウケるのではないだろうか。冗談である。

 とにもかくにも姿はどうであれ、また世に生を受けて地に立つことができたのだ。これに感謝を言わずとして何をしようか。手を合わせて神に祈ると、また一歩冷静さを取り戻した気がした。

 さて、今私は森の中にいるようだが、地面がなだらかな坂になっているところを観るに、どうやらどこかの山の麓のようである。ならば、上ではなく下に行くほうが賢明というものだ。近くに落ちている葉を確認すると、小さく円形を描いており、そこまで高い所に来ているわけではないだろう。

 とにかく、私はここから下山することに決め、緑の中を歩き始めた。ザクリザクリと何もない足元に次々と足跡がついていく。木々の間から覗く太陽の位置から判断して今は正午のようだ。早くひと気ある場所に着きたいものだが……。

 しばらく歩いていると、野性動物などは警戒心が強いためか出くわさないが、ふと清涼な少女の歌声がしてきた。人間がいるようだ。曲調は何とも寂しげなものだが、生命の謳歌(おうか)と繁栄を感じさせるフレーズである。草の少し多い地面を進みそれの発信源まで近づいていく。

 接近してみて気づいたが、どうやら二人で歌っていたようであり、微妙に音がずれておりそれもまた妙であった。……心なしか涼しくなってきた。カッチリとした冷たさではなく、心地よいなんとも夏然とした周りの景色に合っていない涼風だ。そもそも今の季節はいつなのだろうか。この少女らの声を聴いていると、どうにも秋のような雰囲気に感じられた。こんなにも緑葉がもりもりとあるのではあるが。

 少しすると、やっと二人分の人影を見つけた。それは少女の姿をしており……またしても宙を浮いていた。オレンジ色が特徴的な二人は、一人は葡萄(ぶどう)を付けた赤い帽子を頭に被り、もう一人はいくらかの紅葉を直接髪に差していた。

「こんにちは」

 私が挨拶をすると、二人の、おそらく姉妹だろう、は歌をやめてフワフワと飛びながら振り返った。

「あら、こんにち……うわ」

「どうしたの姉さ……誰?」

 淑やかにしていた姉と呼ばれている紅葉を差した少女が、私を見るなり顔をしかめた。一方妹だろう葡萄の少女は隣の姉を不思議そうに見て、そして私に注意を向けて目をパチクリと開閉した。

 そうか。私は透明人間だったのだ。空を飛ぶか服が立っているかすれば、間違いなく後者の方が異様だろう。そうであるならば、彼女たちの反応もあながち変なものではなかった。むしろこれは私の不注意である。ならば、考えなしに急に出てきて驚かせてしまった非礼を詫びなければならない。

「これは急にすみません。私、透明人間でして。決して怪しいものではございません」

「まあ、そうでしょうね。むしろ透明人間じゃないっていうほうが驚くわよ」

「服の妖怪とか、あり得なくはないかもねー」

 コロコロと笑う妹とは反対に、姉の方はジッと私を油断なく見ていた。不愉快だが仕方なく、むしろいきなり異様な存在が現れたにしては冷静な対処である。もし私が彼女らの立場だったならば、驚きに、まばたきをすることさえ許されなかっただろう。そう考えると両者の反応は良く、私は中々どうして幸運であると言えるに違いない。

 しばし沈黙が降り、やがて姉が肩の力をゆるめた。少しばかり警戒心が薄れたようだ。

「はあ、こんにちは妖怪さん」

「妖怪? 私は人間ですが」

「はいはい。それで私たちに一体何の用?」

 軽く流されてしまった。ここは是非(ぜひ)を問わず断固主張したいところだが、致し方ない。私は、自分は人間だ、という言葉を呑み込んでこちらを見下ろしてくる少女に向かい合った。妹の方は木を見ていた。自由なものだ。

「私、先ほどここに来たばかりで右も左もわからず、困っていたのです。もし宜しければ貴方たちの所属するコミュニティに案内してくれませんか」

「こみゅ? なにそれ」

 私の期待していた反応とは違い、彼女はただ首を傾げるのみだった。発音よりもカタカナ語じたいが通じていないようであり、妹の方は気にせず葉をむしっていた。

「言い換えると、人が集団で暮らしている場所のことですが」

「ああ、なるほど。……ねえ、貴方。話は変わるけど私たちって何だと思ってる?」

 随分と抽象的な返答だ。目の前の彼女たちを良く良く観察しても、奇特な格好をした少女、という印象以外に何も浮かばなかった。

 ……はて、少しばかり答えに困りかねて意識を別の方へ向けると、果物の匂いがした。上を見ると、少量ではあるが熟した木の実がポツポツとなっていた。少女は、姿が見えないからか私が余所見をしたことに気づいてないようだった。

「人間、いや妖精だろう。おそらくは」

「よ……! ふ、ふーん。酷くなめられたものね」

 おや。私は勿論冗談のつもりで言ったのだが、彼女は本気にしたようで体を大きく仰け反らせると、すぐ様こちらを睨んできた。ふうむ、私なりのユーモラスのつもりだったのだが、どうやら思ったよりも傷つけてしまったようだ。いかんな。茶目っ気など今の状況で出すべきではなかったか。

「申し訳ありません、少女よ。このような森の奥に住むなどと並の人間ではないのでしょう。非礼をお許しください」

「にんげん……。ああ、そう! いい? 私はねえ、私たちはねえ」

 少女は私の言葉に対して呆然と呟くと、親殺しを見る目を私に向けた。

 妹は木の手入れをしているのか、その時私は自らの目に飛びこんできた光景を信じることができなかった。彼女は、瞬間的に側芽を成長させ鮮やかな花となし、果実を作っていたのだ。

 そういえば、なんだ。周囲を見渡すと、正しく秋の光景が広がっていた。木々の葉は紅く黄色く色づき、落ち葉が地面一帯に敷き詰められている。ハラリと紅葉が落ち、私の肩へと乗る。再び目を二人に向ける。これをしたのか? 目の前の二人が? 私の頭は理解が追いつかず完全に取り残されていたが、次の少女の、いや童女の外形をした何者かの言葉でついにオーバーフローした。

「神よ! 名は秋静葉、こっちは秋穣子。紅葉と豊穣を司る山の神!」

 我慢の限界だといったように彼女が、静葉と名乗った神が叫んだ。もう一人は手にリンゴを持って無邪気に笑っていた。私は乾いた笑い声を上げてしまった。

 神とはな。先も神を自称する者に会ったが、よもや立て続けに、その、神に出会うなど現代人であれば誰が予期できるだろうか。仮死体験をし、神に助けられ、体が透明になって、どことも知らない所でまた神に遭遇する。刺激は人生の最高のスパイスとは呼ばれるが、どうにも多すぎて胸焼けしてしまいそうだ。

「はあ、神、ですか」

「そうよ、わかったでしょ? 神は人の信心を力とする存在。貴方みたいな怪しいやつにホイホイと案内するわけにはいかないの」

「はいどうぞ。信仰してね」

 私の気の抜けた返事に秋の神は決然と言うと背を向けた。彼女の妹は私に赤く熟れたリンゴを手探りで渡すと、姉に続いて去っていこうとした。勿論浮いて。私は二つの小さな後ろ姿に、声を大にして呼びかけた。

「すみません。ここは、ここはどこなのですか」

「ずいぶん抽象的ね。ここは山の麓よ。……いえ、この地域の名を知りたいのかしら」

 姉の神様はこちらを振り向くと、クスクスと笑った。周囲の葉がいっそう黄色く、そして紅くなり、パラパラと落ちていく。それらが風によって舞い上がり、辺りは秋で埋め尽くされた。――そうか。今はちょうど初秋なのか。

 その時、私はここの季節と目の前の二人、周りの景色をハッキリと認識することができた。何者にも縛られない自由さと不確かさという気風を感じとった。そうすると、神々の格好は、なんら不思議ではないと悟ったのだった。

「幻想の楽園。重苦しい失楽園(しつらくえん)。いろいろ例えようがあるけど、そうね。一般的にこの世界はこう呼ばれているわ。幻想郷って」

 ザアザアと音を鳴らしながら風が紅葉を浚っていく。一回まばたきをすると、もはや姉妹の姿はなく、幻のように忽然(こつぜん)と消え去っていた。唖然とした男を一人残して。

 幻想郷……。これはまた風情のある呼び名だ。短絡的に取るとするならば、幻想の郷。つまりは想像が集まる場所だろう。想像とは何だろうか。彼女らは確か私のことを妖怪と言っていた。最初は冗談の類いだろうと決めつけていたが、今考えると、どうにも、その……。

 この状況で私が思い浮かべている、空想上の生物がこの世界に存在する、といった考えを一笑にふす者がいるならばお目にかかりたいものだ。それはかつての私自身だろうか。しかし、私は知ってしまった。近くに潜んでいる超自然的な存在を。超科学的な存在を。

 視線を落とす。そこには赤くいかにも美味しそうなリンゴが空中に浮いていた。ああ、そうか、なるほど。思ってみれば、私こそまさに非現実的ではないか。周囲に目を配ると何もかもが調和をしており、ある所では紅、ある所では黄であるにも関わらず全く不自然ではなかった。そして、その中には私も入っていた。

 ハッハ、ハッハッハ、アッハッハッハッハッハ!

 透明な生物のなんと幻想的なことか。私はほとんど気が違わないようにすることに必死だった。両手で足元の葉っぱを掬って空中に散らばらせる。ヒラヒラとうごめきながら降下していくそれらを見ていると、私はやはり自分はこの世界の住人になったのだなと感じた。そして、それは悲しくもあり、同時にどこか嬉しくもあった。

 



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三話 人を想う賢者

 歩みを止めるわけにはいかないので歩き続けていると、段々と林床に射す日光の量が多くなってきた。日が徐々に傾き始めたのもあるかもしれないが、そうであっても下部に降りていることは坂の傾斜(けいしゃ)が緩やかになっている時点でも明らかだった。このまま直進していけば、いずれは森の中を抜けられるかもしれない。

 そういえばあの姉妹の後も、おそらく人外の者に一人遭ったが、そちらは私のことを気味悪がって話そうとすらしなかった。いくら同種属間(どうしゅぞくかん)ではないとはいえ、意思の伝わる者に対して故意に避けられるのはやはり良い気分ではない。

 私は手に持ったあたかも空中に浮いたようなリンゴを穴が空くほど見つめた。周りの景色と相まって酷く不自然なそれは、ただ赤い表面を肩身が狭そうに鈍くひからせていた。このまま仮に人々の住む地が見つかったとしても、今の格好ではいかんせん不都合だろう。……服を脱げば大丈夫か? いやいや、私がいくらチッポケなプライドしか持ち合わせていないとしても、流石に自らの尊厳を踏みにじるようなことはしたくない。それに誰からも認識されないのでは正しく本末転倒ではないか。

 バカバカしい。私の口から低く重い呟きが漏れ出た。いろいろあって疲れた。若くないこの身では、自己定義としての今日は、様々なことがあったために展開についていけない。……オーイ、あまりにも急展開の連続じゃあないかね。このようなストーリー、私の元担当に渡したらそれこそ目の前でビリビリに破かれるだろう。

 それほどまでに理不尽であり考えなしであり、しかしその不断(ふだん)な荒波に私はどこかリアリティを感じていた。次は何が起きるのだろうか。私の予想や常識を遥かに上回るなにかが来るのではないだろうか。実は年甲斐(としがい)もなくワクワクしている部分も心の底にあったのである。

 それ、今度はなんだ。そうだな、例えば後ろを見たら……扉があったりなどと。突拍子もないことだろうか。いやいやあり得るかもしれないぞ。その先には、うーむ、神がおり、その者こそが私が信奉するに相応しい――

「止まりなさい」

 私がとりとめもない妄想をしていると、ふと前方から若い女性の声がした。浮遊していた意識を戻して前に置くと、そこにはまたしても何とも奇抜な、中華の服装の少女がいた。右手は怪我でもしているのだろうか包帯でぐるぐる巻きにしており、ピンクの髪に両サイドを纏めているシニョンが特徴的だった。

 とりあえず私は彼女の言うとおり静止した。雰囲気から少女は相当の強者だとわかったが、別段どうでもいいことだ。

「この先は人の住む地よ。貴方のような半端者が入ったところで一瞬で(むくろ)をさらすことになるわ。わかったら元居た場所へと引き返しなさい」

 早口で(まく)し立てると彼女は油断なく私を見てきた。言葉から察するに、この先に人々がいるようだ。なるほど有益な情報だがそれにしても彼女は何者だろうか。彼女は私でも人間でもなく、人と何かの関係の変容を危惧しているようだった。とすると、まず人ではない。人ではないということは人外であり、異種である。

 しかしながら話しかけてきたということは、少なくとも暴力に身を任せる獣ではないということで、しからば礼節を尊んでいるのだろう。そう結論付けると、私はまずこちらも礼を示すべく腰を折った。頭を下げているのは見えないとは思うが、服の動きで理解できるだろう。

「こんにちは。貴方は?」

「へ? あ、ええ。こんにちは。仙人です」

「通っても宜しいでしょうか」

「え、ああどうぞ。お気をつけて――違う!」

 仙人と名乗る少女から許可が降りた。さて、これから同胞のいる地だと意気こんだところで、急に通せんぼをしていた仙人様が叫んだ。何だとそちらを向くと、そこには鬼がいた。正確ではない。鬼のごとき形相をした者がいた。とてもこわい。

 私が泡を食っているのを感じ取ってくれたのか少女は一つ咳を払うと、落ち着いた様子になった。上空で何かが飛び回る音や、地上の周辺で何かが動き回る音が聞こえる。

「貴方、私がさっき言ったこと聞いた?」

「私が先へ行くことは奨励されないようですね」

「そう。だから森へ戻りなさい」

 彼女は腕を組み、厳然(げんぜん)たる面持ちで私の前に立ちはだかった。風が吹きピンク色の髪が揺れる。……参った。彼女からは断固とした決意しか感じとることができない。これはつまり、私は障害により前以外の道を行かなければならないことになるが、横も後ろも行く価値がない。

 フーム。今、彼女はありとあらゆる感覚をもって私を認識している。それは、少し戻ってしぶしぶ裸体となり横を通り抜けることも叶わないことを意味している。するつもりもないが。

 となると解決策は一つだろう。すなわち、この者の考えの変化である。説得だ。そうしなければ私はまたしても緑の迷路をさまよい、持っている神の恵みさえも消費してしまうに違いない。生きる目的はないが、生きるという目標は持っている。

「通していただきたい」

 沈黙。

「私は争いを好まぬ元来の平和主義者的牧歌人です。春は茶をすすり、夏は蒸気に蒸され、秋は(みの)りに感謝し、冬は冷風に身を振るわせている、ただのインドア派なのです。そのようなものがいかようにして何かの火種となることがありましょうか?」

 沈黙。

「私は人間です」

「……貴方のような透明な人間がどこにいるのよ」

 私が諦め半分に放った言葉を、しかし少女は先と違い受け止めた。バカモノを見る目を向ける彼女に対面している私にとって、これはチャンスであるように思えた。取っ掛かりは小さいが、こうなればクレイジーになるより他はない。自らを口から産まれた者と信じ込むのだ。

「本当ですとも。ただ少し外面が違うだけで、本質は同じです」

「人間だっていう証拠は?」

「ありません。私がそう思っているだけかもしれません」

「随分と、正直者ね」

「私は一切自らを偽りたくないのでございますゆえ。秘は虚ではありません」

 私がそう言うと、仙人様はまたしても黙りこくってしまった。しかし、それは今までの様子と幾分か違っていた。彼女は喉元まで出かかっている何かの言を放つまいと我慢しているように見えた。自我の放出は自らの否定となっているのだろうか、(さか)しい彼女は深呼吸をすると右腕を自らに引き寄せた。

 ジッと見てくる彼女に私はニッコリと笑うと、見えていないだろうに溜め息をつかれた。何がどうしてどの言葉が心に伝わったかはわからないが、少なくとも私と少女の双方の間にあった堅固な空気は和らいでいた。

「貴方の姿はわからないけど、心の有り様は把握したわ。問題を起こすことはないでしょう……多分」

「それならば」

「理解した。貴方は人間、そういうことにしてあげる」

 一ヶ所気になるところがあったが、概ね私に対する嫌疑はなくなったようだ。やれやれ、とんだ道草を食ってしまった。生来話すことに慣れていないためか、これまでの道程よりも多少疲労を感じた。

 話し合いを終え、意気揚々と目の前の道とも言えないみちを歩こうと踏み出し、またしても呼び止められた。

「ちょっと。まさかその格好で行くつもりじゃないわよね」

 私が億劫げに振り返ると、そこには少しばかり驚いた様子の仙人様がいた。そうか、再三(さいさん)思うことではあるが、今の私は透明ではないか。もしこのままで行ったならば、人々に混乱を招き、通報されるか、石を投げられるか……。

 考えただけでもげんなりするが、それを回避することができない私は、ただ彼女にわざとらしく空いた手で自らの服をつまみ、続いて肩をすくめることしかできなかった。

「この服は私の唯一の持ち物……あ、いやリンゴも含めれば二つカッキリの持ち物です。仕方ありません。為すがままに」

「任せたら服どころか肉体、はどうとしても魂も消えてしまいますよ。しょうがない。本当はこのような協力めいたことはしたくないのだけれど」

 彼女は包帯を巻いていない片腕を真っ直ぐ横に伸ばすと、何事かを呟いた。……なるほど。何か術でも使うのだな? 私が()()()をつけると、それは果たして予想した通りであり、彼女の手先が煙で包まれる。そして晴れるとそこにはいつの間にか立派な鳥類がいた。

 彼、あるいは彼女は全く私のことなど眼中にないのだろう主人に対して浅黒い布を突き出しており、仙人様はくちばしに摘ままれたそれをスルリと受け取っていた。

 鷲だろうか、鷹だろうか……。私が頭を悩ませていると、ふと頭上にて先ほどまで聞こえていた羽ばたき音が完全に消え失せていることにおくらばせながら気づいた。動物を従えるという全く仙人然とした少女は、ごわごわした皺だらけの布を手中で丁寧に折り畳むと私に素っ気なく差し出した。

「はい。まあ無いよりはマシでしょう」

「おお……。やはり人々に尊敬される仙人様は違いますな。私、彼らの気持ちが今わかったような気がします」

「はいはい。見返りは……。そうだ、それと取り換えましょう。ちょうどお昼から数刻経ったし」

 私が丁重に布を貰うと、今度は仙人様が空中に浮いていたリンゴを取った。少し早い秋の恵みを前に、少女は物珍しげにそれを舐めるように見て、すぐには食べずにクルクルと指先で回し始めた。

 布一枚と果実一個。私にとっては過ぎた物品交換であり元々誰かからの貰い物であっただけに何だか申し訳ない気持ちになったが、これも神の恩恵と割りきることにした。彼女は私がそちらを見ているのに気づいたのかこちらを向くと、わざとらしく控え目に笑った。

 私は、やはり罰が悪かった。

「それでは気をつけて。見えない面を付けた人間よ」

「感謝します。かすみ(まと)う仙人よ」

 突如地面にあった多量の落ち葉が巻き上がる。私が一瞬そちらに意識を傾けると、もはやそこには仙人と鳥の姿はなかった。幾本かの羽が地面に落ちている。遠くで羽ばたき音と鳴き声がして私は軽く笑い声をあげた。

 人と会わずに人外の者らと連続して遭う。なんと奇妙な日だろうか。なんと不思議な世界だろうか。貰った布をはためかせ羽織(はお)り服にする。

 小説のネタがいくらでも湧いてきたが、しかし仮に紙があったとしても、どうにも私はそれを白紙の上に写そうという気にはなれなかった。それはきっとこの世界を出たとして、もとの世界に戻れたとして、また同じことだろう。

 自分の中のチッポケな心が物書きとしての信念を穏やかに押さえつけていることに、この程度であったのかと職への熱意に失望する一方で、それ以上になぜだか無性(むしょう)に嬉しかった。



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四話 導きを示す闇

 ふくろうの鳴き声が林の中を通り抜ける。周りは暗黒に包まれており、上からは月の光が降ってきている。あれからかなりの時間が()ちとうとう夜になってしまった。私自身の土を踏む音が、不気味に辺りに行き渡っていく。秋の始まりといってもやはり蒸し暑く、えてして不快になってしまうものであり、それが植物に囲まれた場ならなおさらである。

 どうしたことだろうか。もう随分歩いたはずなのだが、道一つ見えてこない。人々が居るのではないのか。……もしかしてだが、よもや仙人様の嘘だったのだろうか。貰って体をくまなく被った布が、不可視の体と擦れる。

 格好は大丈夫だろう。手も足も見せず顔のある部分には陰が降りるような風にしたため、私の実態を知ることはいかなる者でもできないに違いない。だというのに、その努力がこうも長くのあいだ無下(むげ)にされるとは何事か。イライラとした気持ちが時につれ増していき、それと同時に空しくなってきた。

 私はなぜ歩いているのだ。足は棒になり、もはや自分と別の部位であるかのようにカチカチと機械的に動いている。一寸先が見えないということはギリギリないが、しかし先がわからないということは、私にある種のストレスを与えていた。

 これを緩和するにはやはり情報があれば良いのだろうが、しかしそれも(かんば)しくなかった。ここいらに来るまでに多くの魑魅魍魎(ちみもうりょう)に遭ったのだが、私が声をかけても無視するか、反応した場合であっても私が人間であるという素性(すじょう)を明かすと、一瞬目の色を変えてから思い出したように首を振り、酷く決まりが悪そうにトボトボと去っていったのだった。

 呼び止めても振り向かず、忌々しく舌打ちをしてから彼らは一様にして木々の闇へと帰っていってしまう。この世界では人間とそれ以外には何か確執があるのだろうか。フーム……。

 少しでも気をまぎらわすために無理矢理考え事をしていると、私はある違和感に気づいた。はて、周りはこんなにも暗かっただろうか。いくら夜とはいえ、ここまで黒塗り一色であるのは月が出ている限りあり得ないだろう。ではなんだ。また不思議現象か。

 私が予想しているのもかくや、いきなり前方に現れた細長い何かにぶつかった。体前面に鈍い痛みが走り、衝撃で思わず尻もちをつく。凄まじくイタイ。

 木の臭いが鼻にこびりついていることで、私は今しがた衝突した物体が木の幹であることを悟った。ふつふつと心が煮えくり返る。木の姿は相変わらずない。視界も完全に何も映していない。変化があったにも関わらず足を止めなかった私も悪くはあるが、それにしても理不尽ではないか。

 私は自らに溜まっていた怒気(どき)を放とうと口を開き――

「んあ? なに今の音、そこに誰か――いった!」

 突如発生した少女の声と悲鳴に閉口せざるをえなかった。ドシンと前から衝突音がして、頭におそらく葉がハラハラと落ちてくる。

 その瞬間、闇が取り払われて薄ぼんやりとした巨木が私の前に顕現(けんげん)した。……よもやこれが先ほどの声を出したのか? 何はともあれぶつかったならば謝罪であろう。胸に去来していた憤怒の気は、いつの間にか消えてしまっていた。

「ああ、すみません。ぶつかってしまいました」

「え? えええ、しゃ、しゃべった!」

 話すのは当たり前だろう。ああいや、今の私は服しか見えていないため、ひょっとすると服が飛んできて衝突したと思ったのかもしれない。

 それにしても、どうやらぶつかって悲鳴をあげた主はどうやら非常に信じがたいことだがこの木であるようだ。……タイミングが違っていたような気もするが、植物が喋ることに比べれば些細なことだろう。

 私は目の前に、立派に直立する大木を見上げて、これがあのような童女の声を出すものかとしばし感慨にふけった。

「お怪我は……見たところ大丈夫そうですね」

「あ、ありがと。それにしても、ええー……。貴方、名前は? 私はルーミア」

 木であるのに名前があるのか。もう少しで出かかった失礼な物言いを私は何とか引っ込めた。名前、名前……。私にとってもはや手から離れたモノコトに囲まれた名を使うことは、幾分かのためらいの感情を引き出した。私にそのようなものは要らず、またこの先も必要ないだろう。

「私に名はありません」

「ふーん、まあそうでしょうね」

 納得したような言葉に、私はカチンときた。しかし、それと同時に気づいた。これは……情報を得るチャンスではないか? 

 少なくとも、おそらく彼女は、雄大にでんと構えてそこに生えている。これまでの者たちと違いどこかへ行くといったことはなさそうだ。ならば、試してみようという心持ちに私はなった。

「ところでルーミアさん。つかぬことをお()きしますが、この先に人はいますか?」

「貴方がそれを知ってどうするのさ。……人? それなら私の後ろをまっすぐ行くとうじゃうじゃいるよ」

「へえ! そうですか」

 思わず声が昂ってしまう。捨てる神があれば拾う大樹様がいるものだ。彼女は私の上がり調子になった言葉尻に、苦笑を漏らしていた。相変わらずの無表情をさらしているが、私はそれに対しても安心感を得ていた。

「ありがとうございました。ルーミアさん」

「どーも。それじゃ元気でね。枯れないように」

 うん、枯れる……? ああ、彼女自身の立場から言えば(まさ)しくそれは『お大事に』と言っているに等しいのだろう。周りは無間(むけん)の暗闇に覆われており、ここだけが私の視界で隔絶(かくぜつ)されている。しかし、目的地まではあと少しだ。

 私は自らをひっそりと鼓舞すると、精神の救済者にお辞儀をして歩きだした。木様の向こう、そのさらに奥へと向かう。

 側面まで来ると、いきなり木の裏から一人の浮遊した少女が視界に入った。彼女は少し楽しげに顔を綻ばせながらこちらを進行方向として飛んでおり、私には気づいていないようだった。……それにしても見えづらいが金髪である。頭に付けた赤いリボンは普通であるが、ここいらの住人には少々日本風でない奇特な髪色が多い。

 そんなことを考えながら双方近づいていくと、少女は私に気づいたかほんの少し目を見開き、続いて社交的で幼い笑みを浮かべた。

「こんばんは。良い夜を」

「ええ、こんばんは」

 少女の挨拶に返答し、会釈をする。……はて、先の声はどこか、しかもつい最近聞いたような気がするのだが、上手く思い出せない。

 彼女は不思議そうに私を見ていたが、それも一瞬であり、すぐに興味を失うとハミングをしながら進み続けていた。有益な情報は横の者から与えられ私も特に彼女に興味はなかったため、互いに何も言わず通り過ぎた。

 心に余裕を持って、上を見る。前の方にはより空の隙間ができており、そこにはパラパラと星が散りばめられていた。一部しか見えていないが、どれ私の元星座は……。星が多すぎて何が何だかわからない。

 眼をゆるめると様々な点が遥か遠くから私に光を運んでくるが、それがとても線を(つむ)いでいるように私には見えなかった。ウーン、ウーン。どうにも知っている星の集まりが見つからない。

 こうして歩きながらも何か目下の課題以外で悩んでいることは心に余裕を持てたということの確認となるので良いことなのだが、やはり苦悩は心の病気である。何とかして解決しなければ。

 しかし、探せど探せど一向に私の知識と照らし合わせられるモノがない。困ったな。今にも雲がその体を動かして空を黒一色にしてしまうのではと私は気が気ではなかった。

 バカバカしいことだが、なぜか意固地になってしまっている自分がいた。解決策は、解決策は――おお、そうだ!

 私は立ち止まると足を痛めないようにおもむろにしゃがみ、二つの丸い小石を拾った。どれどれ、これを……よし。

 私は手を思いっきり伸ばすと小石をまるで空中に浮いているかのように見せた。両方の手に一つずつ。すると、ほぼ一直線上に四つ並んだ星と少し上に離れた一つの間に、先ほどの二つを置く。ものの見事なひしゃく型。できた。私でも知っている星座、北斗七星の完成である!

 空中に留まる七つの星々は、私の目に焼きつき、サッと溶けてしまいそうに感じた。私は、初めて自らの透明な体に感謝した。この姿が見えないために、自らの知るものを作り上げることができたことに。

 

 

 その後、急に襲ってきた眠気を制しながら間隔の大きくなっていく林の中を私は歩いていた。時間にして十分ほどだろうか。私は、ついに木々のない空間を先に見た。

 足取りが自然と速くなってしまう。その自らの無意識的行動に私は人知れず笑い、あっと思うと歩行速度を何とかゆるめた。危ない危ない。また先は崖かもしれないのだ。二度目はないかもしれないため、繰り返しは避けたいものだ。

 虫の鳴き声が私を落ち着かせる。そっと最後の木まで着くと、そこから顔を出した。どうやら先は丘になっているようであり、ひらけた場に薄い暗闇があった。意を決して草本(そうほん)のひしめく地面へと踏み出す。

 小高い丘陵となっていたその眼下には、月の光に照らされている家々があった。

 木造なのだろうか、ほとんどが三角屋根のそれらは整然と並んでおり、大きな道が遠くに見える。かなり広い土地にそれを囲む塀に、敷き詰められた家、遠目に見える川のようなもの、道、木……。この規模は、かなり大きな里といったところだろうか。

 私はそれを目の前にして足の力が抜けていくのを感じた。本当に、本当にあったのだ。数時間歩き続け、闇をかき分け、ついに辿り着いたのだ。

 私は地面に崩れ落ちそうになって、すんでのところで何とか体を支えた。喉の奥から声にならない笑い声が出た。赤子のように眠る人里の、私が今まで見てきた夜光に包まれる街に比べてなんとも未熟なことか。無機質なそれらより、なんと愛らしいことか。

 遥か昔の童子(どうじ)の頃、迷子になりようやく帰りついたときに(いだ)いたものと全く同じ情動を私は実感していた。現代の人工物に彩られた子ども達にこの景色を見せてあげたい。私は何の前ぶりもなく、ふとそう思った。



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五話 拒む里の門に

 慎重に一歩一歩坂を降りていき、そして私は門と思われる所に辿り着いた。大きく三角屋根の乗ったそれは来訪者を固く拒むように口を閉じている。遠方ではそれほどでもなかったが、いざ近くに立つとこれまた存外(ぞんがい)高く、立派である。どうやら私が丘の上で確認した通りこの里は結構な大きさであり、そうであるならば人口も多いだろう。

 そして門であるが、勝手に開けるのも気が引けるので私がジッと柱のように立ち(ほう)けていると、さてさて、ドタドタと向こうから足音がして扉が少しだけ開いた。(だいだい)色の灯りが隙間から()しこんでいる。門番か。

 すぐにロウソクを持った老人と、脇で武装した二人の若い男が門から現れた。脇の二人は眠そうに目を半開きにしていたが、真ん中に立つ者は全く一分のスキすらもなく私を見据えていた。灯りのおかげで、うっすらとではあるが彼らの後ろにも複数の人がおり、弓の輪郭を描く物を持っていることが目視(もくし)できた。光源(こうげん)の男が私を指させばすぐにでも相対する三人などお構いなしに矢を放出してくる。そんな雰囲気である。

「旅のお方よ。こんな夜分(やぶん)になに用かな」

 ロウを持った男が柔和に私に話しかけてきた。初老のその者は、顔のしわをさらに深めていたが、しかし目は一切笑っていなかった。私だけでなく風景全体を見ている。彼は闇に何かうごめくものはないか確認しており、もちろん私の一挙一動を見逃さぬぞという気風が感じられた。

 近くに何も通らないことを祈りながら、私は頭を包むフード状の布を少し深く調節した。

「私は人間です。気がついたら森の中におり、一心不乱に歩いていたところ、偶然にこの里にたどり着きました。願わくば、中に入れて貰えないでしょうか」

「人間だあ? だったらどうやってあの木々のなかを抜けてきた。妖怪どもから一切を逃れてきたとでも言うのか」

 槍を持った右の若人が嘲笑しながら私を見下ろしてきた。全くと言っていいほどに信用されていないのは、まあ当然だろう。このような夜更けに体を隠した一人のゆえも知れない誰か。この人物を警戒しない者はいないに違いない。

 誤解をとくにはどうするか。このような状況で偽りを述べたとしてもそれは下策だろう。私はこの世界に対してあまりに無知すぎるためである。ボロを見せて一層怪しまれるくらいなら、最初からボロを見せても良い。

「その通りです。途中で()った者たちは私が人間であると教えると、皆無視していきました。彼らが貴方がたの言う妖怪という存在ならば、正しく私は一切を逃れたと言って相違ないでしょう」

「ああ? そんなことがあるわけないだろ。お前、嘘を――」

「黙れ。ふうむ、どうやら旅のお方。貴方は、嘘は言ってないようだな。真に通常なら信じられぬが、今なら、ふうむ……」

 調子づいた男の言葉をロウソクの男がピシャリと遮ると、続いて自らの顎を撫でブツブツと呟き出した。何とも不思議な空気になってしまった。老人が呟きを止めると私を見つめ始めた。その黒く小さい瞳には、昔をなぞっている年老いた者特有の懐古の念があった。……どうして私をそんな眼で見ているのだ。疑問は全く疑問のまま終わってしまった。

 厳しさは残っているが、本当に少しだけだが空気が和らいだ気がした。かといって状況が好転したわけではなく、このままでは詰みであることには変わりはない。そう、もし顔を見せろなどと言われたならば私はどうすることもできないからだ。

 何も無い状態をさらすわけにはいかない。すれば必ず、私の体には矢かあるいは槍の鉄製の部分が刺さるだろう。感覚はあるため絶命は必至である。

 さて、次はどのような言葉を投げかけてくるか。なにが来たとしても、あの手この手で切り抜けるより他はない。私が己の中に決意を固めたとき、まるでそれを見透かしていたように男は静かに声を放ってきた。

「良いだろう。入りなさい旅の人よ」

「……何?」

 今、この御人はいったい何と言った? 付きの者が困惑しているのをよそに、彼は先ほどまでとは違いカラリとした笑顔を浮かべた。それは、正しく同種に接するときの表情に違いはなかった。どういうことだ。あまりにも開けっぴろげすぎやしないか。都合が良すぎる。この里は()()()()()()()()()()()()()? いや、それは前の観察から間違いであることは火を見るよりも明らかだ。ではなぜ。

 思考はグルグルと回るが結局答えを見つけ出せない。すると、いつの間にか(きびす)を返し背を向けていた男性が不思議そうに、私に呼びかけた。

「どうした、早くせんと門を閉めるぞ。それとも寒門の方がお好きかな?」

 途中で意地悪そうに笑った彼に私はハッとしてボサッとしていた二人の男とともにその者の元へ急いだ。門の前にもはやこの四人以外の人影はない。そして、それらすらも少しばかり開いたスキマに吸い込まれて、消えた。

 

 暗闇に浮かび上がる無数の家屋に、路の脇に何本か植えられた(やなぎ)。私は彼らから借りた灯りのついたロウソクと一枚の地図を持って里の中を歩いていた。

 あの後、私は老人から泊まるところはあるかと訊かれてかぶりを振ると、印の付いた地図を貰った。何でもそこなら宿泊が可能でありこの時間帯でも開いているため、そこに寄ると良いと言われた私は、眠そうな仏頂面の若者二人と男に別れを告げ地図上に示されている場所を目指している。

 里の内に入った後に目的ができたのは幸運だった。かの者には感謝してもしつくせないだろう。……彼は門の見張りをしていたのだろう。私と同年代だろうにこのような夜中まで若さに気劣りすることなく、むしろ追い越しているのは中々凄まじいものがあった。私も心は若いつもりではあるが……いやはや。

 閑話休題。静けさに呑まれている家々の窓はただ黒のみを映しており、眠っていると表現するのが適している。明かりのついているのもしばしば見受けられるが、それでもほんの僅かな光源でありそれこそ私の今所持しているロウソクと似たようなものだろう。

 さあさあと水の流れる音と私の歩行音しかしない。……今なら踊ったとしても誰にも咎められることはないに違いない。もちろんしないが。

 気を取り直して地図を照らす。西に十四区画、北に五区画。印は、そこの前に間違いはない。私は他の家と何ら変わりのない――待てよ。良く良く見ればその家には他と違い玄関の先に明かりが確認できた。家の者は起きているのだろうか。夜もどっぷりと更けているのだが……。

 とにかく目的地に着いたのだ。私は道と家の境界を乗り越えて、暗い敷地内を灯りを頼りに進んだ。私のそれと前方のそれが線で繋がっている。

 扉の前につき、控え目に戸を叩くと全く間隔をおかずに応じる声が向こうからした。少し待つと扉が開き、そこには質素は身なりをした老女が立っていた。

「こんばんは。主人から話は聞いていますよ。ささ、お上がんなさい」

 彼女は薄明かりのなか微笑を浮かべると家の内へと引っ込んだ。話を聞いている? 私はここまで直線に道を歩いてきた。最短ルートだ。だというのにもう情報が伝わっているのは、早すぎやしないか。

 私はしばし謎に対して熟考したかったが、家の者に迷惑をかけたくないのとだいぶ体が疲れているのもあって複雑な思考を停止し、彼女に続いた。

 玄関は雑多であり、長いロウソクが棚の上に置かれて周囲を照らしている。私は背を向ける女性に付き従いすぐそこにあった襖をくぐった。部屋から部屋を二つほど通り抜け、私はある一室に案内された。こぢんまりとしたそこは、丁寧に布団が敷かれておりおおよそ四畳半の広さであった。かろうじて外形が見えるそこで私が目を凝らしていると、女性は再び笑って私のフードの内を見た。

「こんな夜分に疲れたでしょう。ここが貴方の部屋です。それではおやすみなさい」

 寝巻き姿の彼女はウニャウニャと眠そうに言うと、私の脇を通り抜けてどこかへと行ってしまった。その場に取り残されてしまった私は、ただポツネンと置かれた敷き布団を凝視していた。もともと空き部屋だったのだろうそれ以外に特に目立った物はない。

 それにしても話が旨いものだ。これも生前なにか善いことをしたからなのだろうか。それとも……。

 私は当てもない思考を振り払いとにかく今は自らの欲求を満たそうとそのままの格好で布団に潜った。薄いが、しっかりと私は何かに包まれている。その心地よさを感じるとともに、私の意識は静寂(せいじゃく)に溶けて消えてしまった。

 扉の向こうから覗く二人の小さな先住民に気づかずに。

 

 一人の老人と男が門に立っていた。先ほどまで共にいた一人は、門の向こうを監視するために低い物見台に座しており、その首はコクリコクリと上下に動いていた。夜に包まれるなか、不満げな視線を老人は軽く流していた。

「あの、本当に通して大丈夫だったんですか? あんな見るからに怪しいやつを……」

 もごもごと口を動かす若人が言うと、男はそちらを見ず小さく笑っていた。その様子に眠気のそれなど微塵も感じられず、若い者は本当にこれが老体かと思った。

「ふん、動くより能のない者はこれだから困る。学び舎ができても良い頃かもしれんな」

「へ、へえ」

「私が呪詛(じゅそ)を使ったことなど気づいてもいないだろう、このうつけ者が。あの者は何の力も持たぬ、ただの人間だ。……それにしても、お前は見かけ倒し過ぎる。私がお前ぐらいの頃はちょうど百体の妖怪を封印したもの――」

「こないだは二百体って言ってたじゃあないですか」

「ふん、どっちも変わらんな。ちっぽけな男だ」

 呆れた視線を送ってくる彼に、口を真一文字に結ぶと何とも若者は情けない顔をした。一緒に見張りをしてくる旨を伝えるとそそくさと離れた男に、老人は溜め息をこぼした。布をまとった、年を食った異様な男が去っていった道を見る。そこには、誰もおらず風が吹いているのみだった。

 彼が上を見上げると、星空がどこまでも続いていた。月は巨大な提灯(ちょうちん)のようであり、周りの散らばった星たちがそれを中心に踊っていた。

「奇縁か。のう、師匠よ。祭ばやしが聞こえるわい」

 老人の呟きは彼自身しか聞かず、夜はいっそう更けていった。

 



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六話 団欒の邪魔者

 光が服の間から侵入してくる。けたたましい鳥の声とともに、私は起床した。ゆっくりと身を起こし、周囲の様子を確かめる。……なるほど、前の夜に見た部屋を明るくしたら確かにこのような部屋だろう質素な内装が私の目に映った。後方からはガラスを透過した太陽光が湾曲(わんきょく)しながら室内を間接的に照らしている。夢ではなかったようだ。

 私はこれまでの経緯を思い起こしながら布団から這い出て、ジックリと伸びをした。少しばかり呆けると布団をたたんで隅におき、より広くなった部屋の中心で立ち尽くした。ここから何をしようか……。思いつくことがないため、とりあえず私は部屋の外に出てみた。おや?

 ふと視線を感じ横を向くと、一瞬だけ何者かの深緑色の残影(ざんえい)が見えた。なんだろうか。私がその方角に行きかどに着くと、その先にまたしても小さな残像があった。

 座敷わらしだろうか。それにしても何だか良い匂いがするな……。私が好奇心のままに歩いていると誰かの話し声がして、それは歩を進めるごとに大きくなっていった。横手からは障子越しに光が降っており、下のガラスからは土が、上には青空が見えた。

 さて、私は唐突に匂いの正体に気づいた。子どもの頃の記憶が掘り起こされる。それは懐かしい……米が蒸気によって炊かれている匂いだ。歩くごとに強くなっていく。

 そして角を曲がったところで、私の目には一般的な田舎の家庭の食事風景が飛び込んできた。木のテーブルを取り囲む四人。二人は年老いたの男女であり、もう二人は小さい、六歳ほどの少女だった。深緑がかった髪色をした少女は、茶髪の少女と楽しげに話している。夫婦だろう老人二人はそんな彼女らの様子を見ながらほほえみ静かに料理を口に運んでいた。

「でねでね、里乃。僕がさっき――」

「舞。喋らずきちんと飯を、おや、話していた御仁(ごじん)の登場のようだぞ」

 苦笑した男は、舞と呼ばれた深緑の髪色の少女をたしなめ、次に私に気づいた。彼は笑って手招きをしており、隣の女性は私に笑って会釈をした。その人物は昨夜会った門の男と部屋に連れていってくれた女、(まさ)にその人たちだった。

 里乃と呼ばれていた茶髪の少女が私を見て先まで浮かべていた無垢な笑顔を硬直させ、すぐにあわあわとお辞儀をした。

「お、おはようございます」

「あー! 昨日の、さっきの怪しいやつ! どうやってここに着いた!」

 舞という童子が茶碗を持ったまま勢いよくこちらを見て、大声をあげた。小さな食器がカタカタと揺れ、続いて前方から男の怒声が飛んだ。

「こら! 食べ物を振り回すんじゃない、舞! それに客人になんという口のきき方だ」

 竹を割るかのようなその声に少女は肩をビクリと震わすと、すぐに口を尖らせた。むーんと聞こえてきそうな表情でみそ汁をすする彼女を、里乃という童子が、こちらをチラチラとうかがいながら慰めていた。

 なんという騒々しい朝食だろうか。私が呆然とバカのように立っていると、見かねた男が頭を下げた。

「娘がすまない。さあ客人よ、とりあえず飯を食べようではないか」

 私は曖昧に頷くと、とりあえずその場にいる全員に挨拶をした。夫婦両方は普通に対応してくたが、舞さんは明らかに敵がい心を、里乃さんは完全に私の容姿に恐怖心を持っているようだった。男の、ほぼ間違いなくこの家の主人だろう男性と里乃さんの間に挟まれるような形で座る。

 前の台には、一人分のいかにも美味しそうな品々。私は手を合わせると布越しに箸を持った。

「いただきます……。ああ、主人よ。非常に不作法(ぶさほう)極まりないのですが、なるべく肌を出さないように食べても宜しいでしょうか」

「ダメだね!」

 私が主人に尋ねると、代わりに対面していた舞さんが満面の笑みで拒絶の意を示した。子どもらしい元気溌剌(げんきはつらつ)な声を聞いて、私は困ってしまった。家の者がダメと言うのならダメなのだろう。しかし、(おおやけ)に手を出すわけにも、ウーム。

「お前はここの主人じゃないだろう。……何か訳がおありなのでしょうな。その程度なら、私も家内も気にしますまい」

「ええー」

 良いようだった。舞さんが不服の声を出す。

「さあ舞ちゃん片づかないからさっさと食べてしまいなさい」

「僕がやったら文句言うだろうに、ぶー」

「舞はいつもどおりねー」

 本当になんと騒がしく、活力溢れる朝食だろうか。私はなんとも口の中にいくらか砂を含んだ心持ちになり、それを流すためにみそ汁を口に運んだ。中々に素朴でおいしい。

 その後も時は過ぎ、私の腹は満たされ、少女の声が響く。童女二人は早々に食事を終えると食器を持って台所だろうに行ってしまった。婦人もそれに続き、後にはいまだ食べ終えていない私と腕を組んだ主人が残された。家の中から、そして外からもポツポツと話し声が聞こえる。

 私はやっと重圧に解放されたことに少しだけ安堵していた。もくもくと食べていると、ジッと主人が私を見ていることに気づいた。

「まずは、そうだな。ようこそ我が家へ。あの通り落ち着かない娘らがいるが、大丈夫かね」

「とても明るい家族ですね。泊めてくださり、ありがとうございます。それにしても元気なお子さんですな」

 私がそう言うと、彼は昨晩見せた笑みをもう一度うかべた。そのサッパリした笑顔は、まるで水に浸した白菜のようだった。

「そうだろう。元気だけが取り柄だが、子どもはあれぐらいがちょうど良い。もう一人も同様だな」

「ええ。……それにしても、どうしてこのような身も知れぬ者と同じ空間に置いてくれたのですか」

「それは私が、君はそんなに悪くないやつだと知っているからさ」

 それはまたどうしてと言いそうになったが、主人の表情には有無を言わさぬものがあったため私は口をつぐむより他はなかった。

「君はしばらく私の家に客人として滞在してもいい。どうせ他に行く所もないのだろう? その格好を見れば一目瞭然だ」

 私は曖昧に笑った。確かにこのような身なりの者が何も持たずに歩いているなどと、世捨人と思われてもしかるべきだろう。もっとも、実際は違うのだが。

「そこで泊める代わりにいくつか条件がある。なあに、たった二つだ」

「何でしょうか」

「一つは外で一定の働きをしてもらうことだ。いくら私が良いとはいえ、タダ飯を食い続けるのはそちらも気が滅入るだろう?」

「そうですね。いずれは探そうと思っていましたので、そちらは期待に沿えられるでしょう。して、もう一つは」

「うむ。そして二つ目でありこちらが主要な役割なのだが……。あの二人の遊び相手になってほしいのだ」

 私は止まっていた箸と茶碗を台の上に置いた。重々しく告げられた内容は、案外拍子抜けするものだった。一つ目の方が重要なのではないか。私が彼に顔を向けると、笑いながらも目付きは凄まじい男がいた。

「君にとっては軽いかもしれないが、私、そして家内にとってこれは重要な案件なのだ。さっきも言ったが舞――あの元気な方はどうにも平常は無鉄砲(むてっぽう)()()()があってな。いざという時は意外と大丈夫なのだが。逆に里乃の方は洞察力があり冷静なのだが、いざという時には失敗ばかりしてしまう(たち)でね」

「はあ」

「そして私が思うに彼女らには経験が足りぬのだ。親として、まあ、心配でね」

「なるほど、つまり私は彼らの成長の手助けをすればいいのですね」

「その通りだ。私たち夫婦はこのところ多忙でね。二人で一つではダメなんだ。一人で一人前にならなければ……」

 彼は眉根を寄せると天井を見上げた。彼の目には何が映っているのか、私にはわからない。また、どうにも彼の意見には賛同しかねるというのも事実だった。

 私が彼女らの、おそらく相談相手になるのは全く問題ない。性格が(なん)であれば、更正させるというものが筋というものだろう。しかし、それは年をある程度経た場合であり、あのようにまだ未来ある幼子ならば、周りが積極的に影響を与えずともゆっくりと正しい方向に成長していくものだ。

「お言葉ですが、彼らはまだ六歳ほどでしょう。であるならば積極的に変えようとせずとも十分な時間があるため、()く必要はないのでは?」

「時間はある……。いや、ないのだ。そうだ、もう少しなのだ。それまでに何とか……。とにかく頼んだよ。私はこれから仕事だ。君も早く職と二人の信頼を勝ち取ってくれたまえ」

 彼はポツリポツリと吐き捨てるように言うと、サッと腰を上げて出ていってしまった。障子が閉まり、私は一人になった。何かを秘としているようだ。しかし秘匿とは元々存在し、えてして破られるものである。ならばそれまで気長に待つことにしよう。

 私は食事を再開し、残り白米ひと口となったところであるものに気づいた。視線である。

 私がそちらを横目に見ると、そこには襖とそれに掴まっている少女がいた。彼女――確か里乃さんだったか――は顔半分を出して、ジッとまばたきせずにこちらを凝視していた。私が箸を口に運ぶと、彼女はピュッと体を引っ込めていなくなり、少しして再び顔を覗かせた。私が食器を持ち立ち上がるとまたもいなくなってしまった。

 彼女が同じくおそるおそる一人の男が鎮座しているだろう部屋を覗くと、その前には私がいた。目と鼻の先ほどではないが、だいぶ近い。里乃さんは身を硬直させると、私とそのすぐそばに置かれている器を意味もなく交互に見ていた。

「良い朝ですね」

「あ……そ、そうですね」

 彼女はギクシャクとした笑いを浮かべた。目には、得たいの知れない布で全身をくるみこんだ男がしゃがんでいる姿が映っていた。と、それが揺らぎだした。

 マズいだろうか。そう思った瞬間、私の眉間におはじきが飛んできて、ポスンと命中して、また落下した。里乃さんの向こうには全力でこちらへと走っている舞さんがいた。彼女はブンブンと腕を振りながら威嚇(いかく)をしており、私はその様子に少々圧倒され身を引いてしまった。

「こらー! 里乃をいじめるな、不審者! ……こっち!」

「あ、え、でも」

 彼女は呆気にとられている里乃さんの手を掴むと、どこへともなく引っ張っていってしまった。私の目に困惑した少女の姿が映り、それは徐々に遠ざかって、やがて角の辺りで消えた。少しすると家の中を走るなとの女性の怒りの旨が聞こえた。

 私は落ちていたおはじきを拾い、置いていた食器を持つと立ち上がった。大丈夫だろうか。私は自分自身に不安だった。

 

 

 



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七話 秘の元の対等

 いろいろ歩き回ってようやく台所に着いた。水の匂いと朝特有のおぼろ気な光が射し込んでいるそこでは、奥さんが一人食器を洗っていた。(おけ)だらいに手を突っこみじゃぶじゃぶと音をたてている彼女の後ろ姿を見ていると、なんだか懐かしい感じがする。

 ここに水道は通っていないのだろうか、蛇口の姿がない。そういえば私が持っている皿も木と石のものであり、プラスチックは一つもない。うーん、ここは中々どうして森の中を連想させるが、その割りに地が広範であるのもまた疑問点である。今は、やはり現代ではないのだろうか。

 私が隣に立ち台の上に積み重なった茶碗類を置くと、気難しい表情をしていた婦人は()っている髪を振ってこちらを見た。

「ごちそうさまでした。美味しかったです」

「あら、お粗末様。お口に合って嬉しいわ」

 笑顔を浮かべる彼女に、私は十年ほど前に会ったきりである母親を思い起こした。新しく小さな食器と古く一般的な大きさのそれがガラス戸に入っている。彼女は再び自らの手元に視線を戻すと、慣れた手付きでしっかりと洗い始めた。冷たい風が開け放たれた窓から木の柵を伝って室内に流れ込む。外から生活音がまばらにしてくる。

 私はジャマになるのもイヤなので部屋を出ていこうとすると、奥さんは、視線はそのままに話しかけてきた。

「あの子達は、貴方の目にはどう映ってるかしら」

 彼女の横顔には疲れと充実があった。

「どう……。とても元気で、(さと)しそうですね。まだ会ったばかりですが」

「ふふ、そうでしょ。舞ちゃんはまるで男の子みたいに元気で、里乃ちゃんはおしとやかさん。両方ともうちの自慢の娘よ。……時々イタズラもするけどねえ」

 クスクスと楽しそうに笑っている。家族、というよりも子どもを持たなかった私に彼女の心はわからなかったが、幸せそうなことは感じ取ることができた。……しかしなぜだろうか。彼女の目には強い光があるとともに、微かなニゴリを持っているようだった。それは、主人が隠していたものと同質なものなのかもしれない。

「……仲良くしてあげて下さいね」

「勿論です」

 私が応えると、奥さんはホッとしたように肩の力を緩めた。私は扉の前まで歩を進めると、一応振り返った。私の目に、最初と同じ彼女の後ろ姿が入る。手に持ったおはじきが手の内でブルブルと震えていた。

 光射し込む家中をどこへともなく歩いていると、ポカポカと気持ち良さそうな縁側が目にとまった。どうしようか。といっても当てもないため、私は少しそこで休憩することにした。縁側に行き腰かけると、目の前には狭い庭がありその先には塀、その先には家の屋根、そしてもっと遠方には太陽が見えた。

 昇り始めている赤い円は山からその欠片を出している。あそこが、私が昨日迷っていた山だろうか。おそろしく巨大であり、雲を突き抜けても違和感のない程だった。幼かった頃に見た富士山と同じくらいか、あるいはもう少し大きいか……。何にしても圧巻である。

 ぽつりぽつりと紅と黄が緑のかたまりと混じり合っていることで、私は道中で遭った神様を思い出した。彼女らは元気にしているだろうか。いや、緑山(りょくざん)が秋の色に染まっているということは正しく元気どころではなく、今も紅葉に囲まれながらはしゃぎまわっているに違いない。

 別のところにも意識を傾けてみよう。塀の向こうに見える屋根は全てが木でできている。灰色のものは一つもなく、陽光を反射してその明るい茶を全面に出している。私が目覚めたときよりも耳に入ってくる音は多くなっていた。例えばそれは荷車を押す音であったり、子どもたちの笑い声であったり、人々が歩く音であったり……。

 色々な音刺激(おんしげき)が一かたまりとなって私の鼓膜を揺らす。都会ほどの騒音でもなく、自然の中ほどの静けさでもない。実はこれくらいの中途半端な生活音はものを書くという場合には意外と向いていないものだが、しかし普通に暮らすぶんにはこれほど適したものはない。私はもはや二度と筆を取る気がなかったため、先ほどの自らの思考に苦笑してしまった。この期に(およ)んで前の自分と何かを関連付けるとは。

 庭の方に目を向けると、小さな草原が拡がっていた。岩も池もない簡素な場であり、いくつかの野良だろう花が咲いている。小さなその庭の主たちは、そよそよと風にゆらめき、日光を浴びて立っていた。全くその平和的光景を見ていると、唐突に眠くなってしまった。

 フードをキチンと顔全面を覆うようにしてゴロリと横たわる。浅黒い布越しに、左から柔らかな光が貫通してくる。ああ、本当に、日光は毒だ。ゆっくりしていると、眠気を誘引して人を無防備な状態にさせてしまう。その魔力は……全く…………(あらが)いがたい……。

 一人の老人が欲求に身を(ゆだ)ねて眠りについた

 

――祭り囃子(ばやし)が聞こえる――

 暗い。夜だろうか。私は自身の体がどこかの屋根にいることに気づいた。前の空中には扉が開いており、そこからは炎に包まれた神社が見えた。いや、神社ではない。境内に火がついているのだ。それなのに人々は外に出て楽しそうに踊ったりしている。笑ったりしている。肩を組み合っている。なぜだろうか。逃げないのだろうか。()()()()()()()()()()()()()

 私がふわふわとした思考の中そこにいると、私の座っている建物の前に誰かがいた。夜中であるのに、その者が良く見える。金髪に現代風の恰好。大学生ぐらいだろうか。

 彼女は私に背を見せて、ただジッと前を向いていた。呼びかけようとするが、どうにも口が上手く動かない。開くのだが、まるで口中がねばついた液体で満たされているように不自由だった。視界が閉じていく。それと同時に裏から光が溢れだした。

 時間がない。私は無理やり口を動かして言葉を放った。

 ――夢違(ゆめたが)え。

 光はなおさら強くなっていった。彼女は私の声に反応しこちらを振り向こうとしていた。だが、それも間に合わないだろう。私は消える。視界の端に紅い館が映った。

――光で視界が埋め尽くされる――

 

「やめない? 人の嫌がることは……」

「しっ! 起きちゃうから静かにして、里乃」

 側面から少女の声が二人分してくる。なるほど完璧に顔を(おお)って眠っていたはずなのに、隙間があってそこから光が中に射し込んでいた。いくら直射日光ではないとはいえ、寝起きではどのような光も眩しいものである。

 そして、どうやら陽光のさしこみ口は徐々に広がっているようだった。何が原因かといえば、それは私の布を掴んで上にあげている、小さな手に他ならないだろう。興味深そうにおそるおそる私の視界に入ってくる、開いたスキマから出てきた二つの目。

 これではマズいな。私はスウと息を吸い込み、背に力をかけて頭をある程度上げた。

「うわあ!」

「きゃあ!」

 私のその行動に彼女らは目を見開くと同時に視界から外れた。布を握っていた童子の手もなくなり自由のみとなった私は、あまり動かない体をゆっくりと起き上がらせた。眠気がそれほど尾を引いていないことから、長い間眠っていたということはなさそうだ。私はフードを中心として手を出さずに身なりを整えると、横を見下ろした。そこにはやはり目を丸くした二人の少女、舞さんと里乃さんが尻もちをついていた。

 危ないところだった。子どもの好奇心というものは全年代の中でもとりわけ特筆すべきものがあり、すぐに知らないことを暴こうとする。正しく彼らは胸おどらす冒険者であり勇気ある探索者となるのだが、私にとっては結構不都合なことだ。

 さて、そんな勇気ある者は視界の先にある暗い洞窟の中にいかなる表情を生み出しているのだろうか。気になるが訊くわけにもいかないので、ひとまず私は彼らのいる位置から半歩離れて、再び縁側へと腰をおろした。……それにしても良い日である。里乃さんと舞さんはそんな私を酷く不思議そうに見ていた。

「良い天気ですね。里乃さん、舞さん」

「え、はい、そうですね」

 私が何の気なしに声をかけると、里乃さんはカタコトの返事を言い、舞さんは口をパクパクとさせて反応した。

「どうしました。随分と元気がないご様子ですが」

「え、あ、う、むー」

 口をもにょもにょさせると舞さんは言葉とも取れない音を出した。その姿は私がこれまでに持った人物像とはいくぶんか解離していたため、首を傾げさせるには十分であった。

 私が持った疑問点は、里乃さんの言葉でより深まった。

「あの…………怒らないんですか?」

「怒る? なぜ」

「だってイヤなことしてたもん」

 眉根を寄せて不可解そうに言う彼女。イヤなこと……ああそうか。つまり彼女たちは幼心ながらに罪の意識を感じていたのである、主に私の顔を無許可に覗こうとしていたことに対して。当然のことだろうか? この場合であれば、謝るのは当然であり、私は怒らなければならないのか? いいや私は全くそう思わない。

 視線があちこちにさ迷っている彼女らに、私は特に向かい合うことはしなかった。

「貴方がたが気にする必要はありません。私は問題ではないと捉えていますので」

「でも」

「良いですか。秘匿とは暴かれるためにあるのです。それの裏にあるモノは真実でしかないため、人間の意識および性質からいってそれを自らの目で見ずにはいられません。そして暴かれる者と暴く者は対等でなければなりません。そこに上下はなく、種族も、年齢もない。そうであるならば、そこに残るものは自己の判断と良心より他はなく、守るも責めるも自由なのです」

「言ってることがわかんないなあ」

「つまり」

 私は言葉を切ると手の中に握っていたおはじきを取り出した。空中に浮いているかのようなそれに、少女二人はパチパチとまばたきをして私とそれを見つめていた。私はまるで超能力でも使っているかのように腕を振動させて円形のガラスを揺らしながら舞さんの目の前へと持って行き、落とした。テンテンと床を跳ねたそれは、やがておとなしくなり二人にその姿を大胆にさらけ出していた。

 私は彼女らが欲していた答えのヒントを教えた。すなわち私の本質が()()()()であり、そのために体を隠していることを。しかし二人は一向に気づく気配もない。その唖然(あぜん)とした顔は中々に面白く、描写のしがいがありそうだった。

「私は選択したのです。怒る必要がないと判断した。それだけのことです」

 私は彼女らの探究心を刺激してしまった。それ自体は私にとって不利益なことであるが、仕方ないことである。

 日差しがこうこうと照り、青空に雲が漂っている。散歩にはもってこいの気候であり、空気である。私は縁側から庭へと降り立ち、そのままに伸びをした。尻目には、こちらをジッと見ている舞さんと里乃さんがいた。

「暇があればで宜しいのですが、この里を案内してくれませんか」

 私がそう言うと、二人はボーとしたのち、会得(えとく)しきっていない面持ちながらも、小さい体を動かして地面へと立ってくれた。承知してくれたようだ。

 上を見ると鳥が一羽空の大海を旋回(せんかい)しており、下を見ると偶然ネズミが走っていた。人間が鉄砲を持ってどちらを狩るかならば、きっと前者を狙うのだろうな。私は何の気なしにふとそう思った。



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八話 小さき案内人

 人々が行き()う道。そういった場は得てして携帯機器に依存した者たちが集まり、自然の怒りによって不都合が起きているものだが、今の私――あるいは大人一人と子ども二人――が歩いている場はそうではなかった。

 皆多くが和服を身に付け、隣のものと笑い合い、開放的な商店が至るところにある。そこに私の住んでいた科学世紀(かがくせいき)の空気はみじんもなく、造られた自然ではなくそのままの環境に人間が人工物を確立している。夜に通ったときはこれほど感慨深いものはなかったが、光に満ちた今では心の中にほがらかな火が点灯しているのを感じた。

 このように思うのは、私の見ている景色が、まだ幼少の頃に展開されていたそれと酷似しているからなのだろう。私はそのころ山奥の地区にいたのだが、それよりも古く感じるとは一体いかようなものか。やはり現代ではないのだろうか……。

 作られた自然の中にねじ込まれた科学的なものに囲まれ生きていくという点では、私の生前では田舎であれ都会であれ同じだった。前者では人工樹林が立ち並び道の大部分が舗装され、後者は言わずもがなである。

 そうしてみると、このまるで資料の中から明治時代が飛び出してきたような町並みと雰囲気は私にとって新鮮だった。

「それで、あれが霧雨さんの――」

 先導する舞さんと里乃さんが、時折キチンとした里の説明を私に放ってくる。といってもそれらは大抵がぶつぎりであり、私の理解を飛び飛びにしてしまっていた。

 なぜなら彼女らは好奇心の刺激する良さそうなものに説明途中で飛びつき、案内を打ち切ってしまうからである。例えばそれは歩いていた犬であったり、おいしそうな甘味(かんみ)であったり、知り合いと思しき人であったり。童子二人はそういったものを見つけると、目をキラキラとさせて夢中になってしまうのだった。幼子であるため仕方ないし、私も一緒になって興味引かれて里乃さんや舞さんと同じく先ほどまでのことを忘れて物珍しいものに熱中してしまうのではあるが。

 また、私達は興味を持たなくてもあちらから関心を持ってきて説明が流れるということも多々あった。そして、どうやら今回はそのパターンであったらしい。

 霧雨道具店という所謂(いわゆる)雑貨店について舞さんと里乃さんが補い合うように語り、私がそれを聞いていると、ふと一人の男が我々に話しかけてきた。

「よう、里、舞乃。お師匠さんは元気でやってるか?」

「あ、こんにちはー。元気でやってますよ、ビックリするぐらい。あと私は里乃で、舞は舞です」

「おおそうだったすまない」

 そう言うとガタイの良い男はワハワハと笑った。よほど顔が広いのだろうか、夫婦二人関係のものだろう人々がこれまでにも多く話しかけており、それは目の前の二人の関係者だろうも交じっていた。そして彼らは一通りなごやかな会話をした後、私を見て肩をピクリと震わし貼りついたような笑みを浮かべるのである。

 「こんにちは」「ええこんにちは」このように素っ気ない会話をして、微妙な目を向ける二童子に手を振り、その場を立ち去るのだ。しかし一部、特に年配の女性であればまるでマシンガンのように質問を浴びせてきて非常に困ったものであった。そういった場合二人は面白そうに声を出さずに笑っているか、どこかへ行くのみであった。薄情な。

 さて、今度の男性はどのようなものだろうか。

「それでよお、もうかみさんがマジでひでえよ。お前昨夜はどこに行ってたって夜中――」

「ごめんなさい。今はお客さんを案内してるから、その話はまた今度でお願いします」

「お、そうだったのか、それはすまない。よーし、舞乃里乃も厳しいだろうけどちゃんと修行頑張るんだぞ」

「舞だけど……。ま、一日も早くお父さんに追いつけるようにやっていくよ」

「そうか、そうだろうな。……えー、それであんたが」

 男がこちらを向いた。どこかで見たことのある顔だとは思ったが、なるほど()()()()()()()()()()()()()()()()の一人だった。今は物々しい恰好をしておらず、あの時は暗かったが間違いないだろう。その証拠に、彼は私の姿を確認するやいなやまぶたが裏返るほどに目を大きく見開いた。

 舞さんが突然固まった男の腰を不思議そうに叩いているが、全く応じる気配はなく、ただその瞳に黒い男のみを映していた。奇縁(きえん)だろうか。ふうむ、いや、十分予想できることだろう。

 私が微動だにしていないと、男は突如しゃがみこんで二人に顔を近づけた。

「あいつは……! なんでお前らと一緒にいるんだ!」

 内緒話をしているつもりなのだろうが、元の声量が大きいからか丸聞こえだ。対して二人は特に潜めることもなく普通に対応した。

「それは、まあ、案内してるし」

「まさか、一緒に暮らしているのか! ありえん。いくら師匠といえど寝込みを襲われたら、それにお前達も……。ああクソが!」

 彼はオーバーな身振りで頭を抱えると、目をパチパチさせている彼女らから離れてズカズカと私の元に歩み出た。好奇の視線が四方からする。男は顔を真っ赤にして私を見下ろしてきた。私は愛想笑いを浮かべたが、わかるはずもない。殺すまではいかないにしても、今にも殴りかかってきそうな気勢である。

「良いか、一家に手を出したらこの俺が容赦せんぞ! 我流奥義(がりゅうおうぎ)夢想浮遊で貴様を跡形もなく」

「何、ついに霊撃(れいげき)できるようになったの? 見せてみせてー」

「……粉砕する予定だ。俺は大器晩成型だし、あと一年くらいしたら妖精すらも圧倒できるぞ。そうすれば後はトントン拍子に進むはず、覚悟しておけよ!」

 彼は後方からの(はや)すような言葉で一転して、なんとも情けない顔になり、また復活して私に人差し指を向けるとどこへともなくズカズカと走っていった。肩を怒らす男の後ろ姿は、しかし図体の割りにチッポケであった。

 話途中で出てきた単語に私は興味を引かれていた。霊撃。不思議パワーの一種だろうか。こういった言葉は少年時代に流行っていたゲームの記憶を思い起こさせる。

 しばし立ち止まっていると、私はこちらを見ている二つの視線に気づいた。

「気にすることないよ。怪しいし」

 私がショックを受けていると思ったのだろう、舞さんが励ましの言葉だろうを山なりに投げてきた。隣の少女も同じように頷いている。……邪気の無い発言だ。気にしても仕方が無い。私はとりあえず彼女達の心配りを丁重に受け流して、代わりに今気になっていることを訊ねた。

「もし宜しければ、先ほど言った霊撃というものの意味を教えてくれませんか」

「へ? 霊撃は霊撃だよ、ほら」

 そう言うと舞さんは唐突に両手を、何かを包み込むように丸めた。里乃さんは黙って見ている。何だ何だ。私が目を凝らしても、全く彼女の手にはなにも無い。だというのに行き交う人々は、彼女の行動というよりもその結果に驚いているかのように立ち止まる。中には感心の声をあげる者もいる。

 何かが起きているのか? しかし、私の目には誇らしげな表情をしている舞さんと、おにぎりでも作っているかのような形の手のみがあった。

「あの……非常に申し上げにくいのですが、何が起こっているんですか?」

「え。いやいやほら、溜めてるでしょ」

 すっとんきょうな声を出して両手を近づけてくれる舞さん。しかし、私には何も見えず、ただ遊んでいるようにしかとることができない。

「わかりません」

「え、えええ! あ、あれえ? 里乃、僕ちゃんと霊力溜めてるよね」

「うん、後は発散すれば一部的な霊撃だけど。……ねえ、本当に何も感じないの?」

 里乃さんがビックリした様子でこちらを凝視している。会話内容が聞こえていたのだろうか近場の人もざわついている。勿論私は何も感じないし、雰囲気の変化もわからない。仙人様のときのようなカンも働かない。

 これはひょっとして、二人は私にドッキリを仕掛けているのではないか。幼子ではあるがある程度の教養は備えているようであり、しからば他人をだまくらかすなど(えき)であることだろう。……いやいや、流石にそれはないと信じたい。このような意味のないことをするなどと。いや、奥さんは、二人はイタズラ好きであると言っていたではないか。子どもとはやんちゃであり、私が見知らぬものであることを考慮しても、前の行動を鑑みるに十分ありえる線ではないか? いかん、判断不可能である。

 私が真実に頷くと、二人は目を合わせた。それは今私がしているものと同じ、信じられないというものだった。

「これって珍しいのでしょうか」

「えー、今までにも力を少ししか感じなかったという人はいたらしいけど」

「一切感覚がない、っていうのは聞いたことがありませんね。よほど幻想に関ってこなかったか、うーん」

 首を傾げている二人に、しかし私は何も言えなかった。真に不可解そうにしているその表情からは全く演技の一かけらも見出すことができない。

 私が異常なのか……。生前は、私は一般市民として暮らしていたが、やはり勝手が違うようである。隠れることは、一人間となって空気に溶け込むか、強大な力を有して固有の空間を作りそこを根城(ねじろ)にするかのどちらかだが、私は前者より選択の余地はない。自らの中に力があるかわからない程に実力不足だからである。

 しかしながら現実はどうだ。幼子にすら感覚は届かず、人々の中で外見は異質というより他はない。

 これはいかん。

 ぜひとも解決しなければならない案件ではあるが、その糸口はまるでない。このままでは秘となせず、それどころか目立ってしまうではないか。太陽の光がこうこうと道を照らし、そこに人々がいる。彼らの視線の一部は里乃さんと舞さんにあったが、大部分は私に向けられていた。そこにあるのは好奇の他に愛国者がする排他の色であり、またオドロオドロしいものを見たときの――ダメだ。

 どうにも私は被害妄想のごとくになっていた。冷静になれ、冷静になれ。彼らは私になぞ興味はない。目に見えない想像の怪物を気に留めているのだ。私はなんとか降って湧いてきた情動(じょうどう)を抑えつけようとしたが、しかしそれは間に合わず、無意識のうちにアクションを起こしてしまった。

 原因がわからないのであれば、それに触れればいい。一瞬で思い浮かんだこの短絡的かつ愚直な思考は私の腕を動かした。その布の棒の先にあるのは、キョトンとした顔の舞さんと私に対する自己否定の原因である丸められた両手。黒衣の男にいきなり近づかれた少女は、驚き顔から一転、酷く怯えた様相になった。――マズい。

「きゃあ!」

「ああ! ちょっと舞!」

 私が自我を取り戻したときには、その前には目をつむり顔を背け、手を何かを放つようにしてこちらに向ける少女の姿があった。それと全く同時に私の体を衝撃が打った。おお、遥か遠くに太陽がさんさんと輝いている。里乃さんとまた誰かの焦り声が耳に入りながら、私は余りにも突然であると痛みを感じないのだと知り、仰向けに空中に飛ばされて、そして頭から地面にぶつかった。ゴツン。

 頭に音が反響し、光が失われていく最中、私は理解できない力の恐ろしさを身をもって刻み込まれたのだった。

 

 



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九話 飛ばない信用

 目が覚めると、屋根があった。横から(あか)い日差しが来ているのを見るに今はどうやら夕方のようであり、私の体には布団が掛けられていた。サッパリとした空気が漂い、夜ではないのに一日の終わりを感じさせる。

 朝ごはんを食べ、うたたねをし、二人に里を案内してもらって、舞さんに吹きとばされた……。あれは夢だったのだろうか。いや、頭を動かすとグワングワンと揺れる感覚がした。どうやら頭を打ったのは間違いないようだった。

 とりあえず布団を押しのけ、頭の他に何も異状がないことを確認してから部屋を出た。夕焼けにより紅く染まった畳や壁、その他生活用品はただそこにあって私を受容していた。

 ミシミシと音をたてながら和風の床を歩いていくと、前に朝ごはんを食したちゃぶ台の前に主人が座っていた。彼は腕を組み目をつぶっていたが、私の足音を聞いたのかゆっくりと開眼し、こちらへと手を上げた。

「やあ、調子はどうだね。応急処置はしておいたが、十分だったか」

「ええ、まだ少し痛みますが、少しです。重大ではありません」

「そうか、それは良かった。祈祷(きとう)によるものだが、効き目は保障しよう。……やれやれそれにしても驚いたわい。娘が青くなって私の元に来たと思ったら、君が舞に霊撃を受けたというのだからね」

 そう言うと男はハッハと笑った。(かす)れたその声は老いを感じさせたが、力強さは生きるものソノモノだった。立っているのもなんであるので彼と同じくちゃぶ台の前に腰掛けると、先ほどと打って変わって目を細めてこちらを見ている彼の姿があった。

「舞と里乃や周りの者から事情は聴いた。不用心なことは慎んでくれ。全く君は良く道理を判っている人間だと思っていたのだが」

「返す言葉もございません。娘さんを不当に怖がらせてしまったことをここに深く反省します」

「まあ興味を持つことは悪いことじゃあない。好奇心は抑えられぬものだしな、ハッハッハ……」主人は膝を手に立ち上がると、外をジッと見つめていた。「私は期待しているのだ。君と、そして二人に。それを努々忘れぬようにな」

 寂しそうに言うと、主人は部屋を出て行ってしまった。私の耳に彼の笑い声が執拗(しつよう)にこびりついている。外を見ると、開け放たれた戸からは紅い空と白い雲があった。家とそれ以外の境界である灰色の塀にはヒビがはいっており、そこに植物だろうか緑色の物体がチョコンと生えている。あれが背景に馴染むことは一生ないだろう。灰色と緑では区別がハッキリしすぎているからだ。

 ボーと変わりない光景を打ち眺めていると、ふと私は足音を聞いた。忍び足のつもりなのだろう異様に小さいが、聞き取れないほどではない。ためらっているのだろう、数歩近づき、音が止まり、少し下がって、また近づく音が周期的にしている。

 私がゆっくりと振り返ると、そこにはやはりソロリソロリと近寄っていた、そしてギョッと顔を(こわ)ばらせた舞さんがいた。彼女の後ろには朝と同じく襖から顔を覗かせている里乃さんの姿もある。舞さんを応援しているのだろう、バタバタと手を出して不思議な動きをしている。一所懸命だ。

「あ、あの、えー、そのー」

「すみませんでした」

 舞さんは何かを言いよどんでいたが、彼女が来たということは紛れも無き好機である。私は頭を下げて謝罪の旨を述べた。(いわ)く、怖がらせてしまったこと。曰く、無理解のまま行動してしまったこと。曰く、私のために手間をかけさせてしまったこと。これらの末に申し訳ないの意を込めて。

 一通りの懺悔(ざんげ)の後に顔を上げると、パチパチと瞬きをする少女がいた。

「あれ、そっちが謝るの? 僕が、その、吹きとばしちゃったのに」

「そうですね。結果はどうであれ事の発端は私です。私には謝る、そして舞さん、貴方には怒る権利があります」

「えーそうなのかなあ。本当に?」

「昼、貴方達に私は怒るということをしませんでした。これは私の選択だからです。今回の件、その権利は貴方にあります。貴方は自由。何であれ自らのままに」

「そうなのかなあ、それじゃあ……」

 言葉の後、彼女は胸を張ると、尊大に私を見下ろしてきた。映る陰が天井の一歩手前まで伸びる。深緑の髪に赤色光が反射して、その様はまるで燃える海草のようであり、その下には楽しそうに口角を上げている童子がいた

「許そう! ここに君の罪は洗われた。堂々とするがいい」

「ありがとうございます、小さな裁判官よ。貴方のその寛大な処置、私には胸が詰まるばかりでございます」

 床に手をつき、平身低頭によって彼女の言葉に応える。

 幼児の前に土下座をする大の男。はたから見ると奇妙な図だろうが、しかし私はそこまで心配る余裕はない。ただ全力で謝るのみである。カラカラと輪を回す音がする。視界は畳で埋め尽くされているため私は前にいるであろう舞さんがどのようなアクションをしてくるのかはまるでわからない。

 やがて、前方からトコトコと歩を進める音――おそらく里乃さんのそれだろう――がした。

「もー舞ったら調子に乗っちゃって。貴方にも非はあるんだからちゃんと謝らなきゃ」

「……まあそうだよね。ごめんなさいおじさん。頭、大丈夫だった?」

「今はもう大丈夫です」

 先の舞さんの言葉は二重の意味にも取れたが、流石にそこまで皮肉を効かしてはこないだろう。

 私の言葉に二人はホッと息を吐き、少し遠い所でエヘヘと笑っていた。

 信用とは得るのは難しいが失うのは簡単であり、下手を打つとマイナスまでいってしまう。しかし彼女らはどうやら素晴らしい人であるらしく、軽蔑した様子はない。良い子たちである。このような者たちと、私が正常な関わりを持つことができるのだろうか。朱に交われば赤くなるという諺があるが、一刻(いっこく)も早くそうなりたいと私は願った。

 

 夜が過ぎ朝食後、前と同じほどの和気藹々(わきあいあい)とした食事の後に私を待っていたのは、ある仕事の斡旋(あっせん)であった。奥さんが紹介してくれたそれは、彼女の知り合いが営んでいるという本屋の雑用だった。

 聞くところによると昨日さりげなく頼んでみたところ了承を貰ったらしい。何でもその本屋では夫婦二人、二人三脚で経営していたのだが、このごろ本が良く入荷し始めたためその整理に追われて接客がままならなくなったという本末転倒な事態になってしまったらしく、丁度求人をしていたのだとか。

 素性の知れない者を易々(やすやす)と就職させて平気なのかと疑問もあったが、奥さん曰く、変なものは幾多の本で読んできたためそれほど抵抗はないのだとか、とのこと。他に希望するところも目星もなかったので、ありがたく私は提案に乗ることにした。

 そんなわけで私は今、昨日のように二人の案内人に連れられて、一軒の店の前に立っていた。看板には鈴奈庵(すずなあん)と書かれており、古風この上ない雰囲気を醸し出している。……それにしてもまた本とはな。自分とそれには切っても切れない縁でもあるのだろうか。

「おじゃましまーす」

 感慨に(ふけ)っていると、前の舞さんと里乃さんがテクテクと店の中へ入っていってしまった。慌てて後に続くと、そこにはおびただしい数の整然と棚に詰められた本と、暗くシックな空間が広がっていた。

 不用心なことに店の中には先の童子二人以外は誰もおらず、カウンターと思しきポツンとある作業台にも、店員の姿はない。先に入った二人はそんなことなど気にも留めずにぎゅうぎゅうに敷き詰められた本の数々を物色している。楽しそうに言葉を交わしながら読む本を選んでいるその光景は中々和やかなものであるがこのまま待っていても仕様がないのでまだ見ぬ誰かに対して大声で呼びかけると、はたして奥からバタバタと音がするとともに、一人の平々凡々な男が走って現れた。彼は息を切らしているが、肩を払うと気さくに私に話しかけてきた。

「こんにちは。貴方が新人さんですか? 話は伺っております」

「はい、これから宜しくお願いいたします」

「うーん、思っていたよりも変な恰好……。ああいや、気にしないでください。えーと、それでは早速で悪いのですが、接客をお願いします。内容としては、まあ気楽にしてくれればいいです。お客さんに対応して、表を見て金額のやり取りをして、暇な時間は本でも読んでいてください。他には何か」

「ちょっとーあなたー。これはどこにどうすれば良いのー?」

「あー、ちょっと待ってくれー! ……すみません、本の整理をしているもので。私、本居(もとおり)と申す者でして、何かわからないことがあればその都度呼んでください。――今行くぞー!」

 奥の声に応えて早口で説明すると、本居さんはセカセカと奥へ戻って行ってしまった。世知辛いものであるが、彼の表情に苦というものは一つもなかった。本に囲まれて幸せなのだろう、全く変な男である。

 さて、ズイブンとざっくり仕事の説明を受けたが、しかしもてなす客はいない。ならば気を紛らすために、男の言った通りに本でも読むか。そう思い立ち、本棚に目を向けたところで私はビックリしてしまった。なんと、知っている背表紙が遠目に見ても五六冊ほどしかないのである。それも約百冊中、だ。

 これは、おかしい。

 私は同職によりも比較的本を読まない方であったが、それにしても有名どころは一応知識のみ知っているつもりだったのだが。ここは……ひょっとして地球ではないのか? いやいや、それだったらなぜ記憶にある本が存在しているのだ。試しに一冊手に取ってみる。妖怪八頭伝記。うむ、知らない。この他にもチェックしてみたが、さっぱりであった。そして、そのことに少なからずショックを受けている自分がいた。私は、もしかして小説家に向いていなかったのではないか。いや、今の状況でもう何も書かないと決めているので、どうでもいいことではあるのだが……。

「ねえ、おじさん。そこの黒い本取って」

 私が立ち呆けているといつの間にか下にいた舞さんが見上げていた。彼女は眉を寄せている。ちなみに里乃さんはソファに座って、年の割に分厚い書物を開き黙々と読んでいた。

 黒い本……。私が前に目を向けると、確かにあった。彼女の背ではまあ届かない位置にある。それを手に取って渡すと、舞さんは頭を下げて応えてくれた。表紙には、飛という一文字が書かれているのが見えたが、正確にはわからなかった。

「中々難しそうな本を読むのですね」

 私がそう言うと、本を胸に抱き持ち背を向けようとしていた舞さんは振り返り、その大きな黒緑の目を向けてきた。

「それほどでもないよ」

「本を読むのは面白いですか?」

「面白い? 興味はあるけど、楽しくはないかな」

 彼女は微小に笑うと里乃さんの方へ歩いて行った。舞さんにとって書物は、先の発言から取るに娯楽ではなく学ぶための物であるようだ。おそらくそれはもう一人の少女も同様だろう。何を学んでいるのかはわからない。昨日の男が言っていた霊撃と関係があるのだろうか。

 なんにしてもこの空間にいる三人の内二人は手段のために本を使用している。ならば均衡を取るためにもう一人は、娯楽のためにそれを読もうか。前にある本を一つ抜き出す。パサパサと繊維が出るそれの巻頭(かんとう)には、山姥調査記録とあった。面白そうだ。私は作業台に向かい手にある知識の塊に思いをはせていた。小説の内容が楽しみだ。



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十話 筒の電気の源

 日にちは流れ私が里に着いてから十日が経った。新たな生活に完全に慣れたとは言えないが、少なくとも勝手はわかってきた。周りの者――主人や本屋の店主等々――によるとやはりこの地には妖怪といった現代で架空上の存在であると規定されている生物たちが暮らしているらしい。そしてこの里はそんな危険地区にポツンとある人間の住まう場所であるとのこと。

「危なくないのでしょうか」

 私が至って普通の疑問をぶつけると、尋ねられた者はキョトンとした後、真顔で皆一様(いちよう)に「大丈夫だ。そういう約束がある」といった旨の返答を投げ返してくるのだ。ただ眼にはモノスゴイ力をもって。

 本によると妖怪というのは私が知識で持っているそれ――人間を襲ったり、害を及ぼしたりする存在――と完全に同一だったのだが、しかしながら人間は(おび)えてはいないようだった。それよりも畏れという感情を私は彼らから感じた。(うれ)うことなのだろうか。感激するべきなのだろうか。

 さて、いま私はたまの休日ということで人里を練り歩いていた。隣にいつものように二童子はいない。何か用事があったのだろう、家の中に彼女らの姿はなかった。まあ、いつまでも二人におんぶにだっこでは何であるし、そろそろ一人で行動したかったので良い機会だったのだろう。

 通りには幾らかの人々が闊歩しており、その足取りはゆったりとしていた。太陽は真っ白な雲に隠れて光を間接的に里に届けている。商いの声や、誰かの楽しそうな笑い声が道を進んでいく。その様子は、正しく私が生前本の中で知っていた日常の風景であった。

 一日中ただ歩いているのも良いかもしれない。私はその幸せな光景に囲まれて、漠然とそう思った。

 それにしてもこの里は、中々にして広い。街ほどではないが、町ぐらいはあるかもしれない。あ、あれは確か霧雨魔法店というところだな。確か雑貨屋だったか……。脳裏に、店のことを真剣に説明している里乃さんと舞さんの姿が浮かび上がって、ならば入ってみようという心持ちになった。

 ドアを押すとカランカランと音が鳴った。少々店内は広く、様々な物が整然と並べられており、奥のほうへと陰が伸びている。店内から反応は来た気がするが、それも古ぼけた雑貨屋の中に吸い込まれて消えてしまった。

 ロウソク、布、食器類……。多種多様な商品が並んでいる棚の間を歩いていく。埃など全くと言っていいほど無いのだが、しかし年季の入った建物であると感じさせられる店だ。その独特な雰囲気と様相から、まるで森の中に建っている洋館をさまよっているような感覚に陥ってしまう。魔女でも出てきそうだ。

 私のそんな少年のワクワクとドキドキを引き連れた冒険は、やがて終わってしまった。カウンターが視界に入ったのだ。下に目を向ける白髪の男性。その人物を見た瞬間、私はここは店の中だという意識を取り戻せた。彼は下、おそらくは手元で開いた本に目を落としており、全くその顔つきは聡明そうでありながらどこか頭でっかちな印象を受けた。長々と蘊蓄(うんちく)でも語りそうな人物である。

 近づくと彼は視線を私に寄越した。そこに無興味や無感動は意外にもなく、気さくそうでありながらも、どこか人間離れしたものがあった。

「いらっしゃい。商品はお決まりですか」

 男は私の奇特な恰好にも眉一つ動かさずに話しかけてきた。豪胆なのか、普段から異様なものを見慣れているのか。どうでも良いことか。

「スミマセン。ここのおすすめの商品はなんでしょうか」

 ジッとこちらを見ている店員と思わしき青年に応えるべく取り敢えずの返答をした私に、彼は言葉を聞くと本を閉じた。腰を上げるとカウンターから近づいてくる。結構乗り気なのだろうか。そういえば、私がこの店を探索している間、他の客を見なかった。あまり人気はないのか、それとも今が早朝であるのが起因しているのか。どうにも私は別の理由がある気がした。

「おすすめですか。……そうですね、これなどいかがでしょうか」

 彼は隣まで来ると、棚から小さく細長い、黒い棒を取り出した。それは光沢があり、まるで表面は太陽光を浴びた沼のようにぬらぬらと鈍く光っている。周りの商品から浮いているその物品。それの正体を私は知っていた。私も文献でしか聞いたことがないが、これは確か()()()という物である。

「ほう……。一応聞いておきますが、これは何という商品でしょうか」

「これは乾電池という物らしく、良くこの幻想郷に流れ着く外来品だよ。電気を放出するためのものらしい」

「使い道はどういったものなのでしょうか」

「実用的なこととしてはわからない。ただ使ったら取り換える必要がある」

 男は一息つくと私にその商品を渡した。男の説明はおおむね私の知識と一致していた。ライト等の電気製品の内部に入れ、そこでエネルギーを発生させて電気を作り何かを稼働させる。そして、中に入っている物質が切れたらゴミ箱に投げ入れてまた新しいそれを内部に組み込む。旧時代的なものであり、一時的なものである。

 しかし、それはおよそこの店の主である商品たちと比べ飛びぬけて科学的であり、持っていた男とも似つかわしくなかった。

「何だか珍しい感じですね。外来品ということは貴重品なのでしょうか」

「本来は売るものではないのですが、かなり数が多くなってきたので、他のおすすめ品に比べると貴重という程ではないですね」

「なるほど。しかし店側が使い道のわからない物を売っても良いものなのですかね」

「趣味で置いているようなものなので、観賞用、ですかね。まあ(やしき)に設置されている家具のようなものさ」

 そう言うと白髪の男性は愉快そうに笑った。要するに実用性は皆無であるが、知的好奇心を満たすような物であるようだ。

 ここはかなり昔の地球であると私は思っていたが、電気の利用する物というとそれほど昔の産物ではない。そして外来品という言葉。ここいらはもしかすると現代に入りかけの時代で、隔絶されたために取り残されてしまったのかもしれない。前に聞いた外の世界とは、すなわち現代社会のことだろう。そして科学の蔓延(はびこ)る時代に妖怪は存在しない。幻想郷という名前……。この世界はもしかすると幻想的な事象の保存場所なのかもしれない。

 スサマジイ昔には人々に妖怪といった未知に対する畏怖が溢れていたと読んだことがあるが、それも時が経つにつれて消えていってしまった。精神的な存在を保ち続けるには精神の要因を組み込む必要がある。昔の気風(きふう)を封じ込めることによってその存在を固着し続ける、そういうことだろうか。そうであるとすると、ここを治めているのは人外なのだろうな。全ては予想でしかないのだが。

 私がうだうだと考えていると、男は動作が止まってしまった者を不思議そうに見ていた。

「大丈夫かい?」

「ああ、すみません。……ちなみにこの商品はどうやって仕入れたのでしょうか」

「秘密にしておきます。結構危ないので」

 私の頼みごとを、青年はやんわりと取り下げてしまった。この世界で危ないということは、妖怪の渦中(かちゅう)にでも行くのだろうか。聞き出せそうもないし、私もそれを聴いてどうこうするといったつもりもない。

 しかし乾電池か……。個人的に興味はあるが、銭を払って手に入れたいというほどでもない。

「せっかくご紹介いただいたのですが……」

「いや、こんなものは物好きしか欲しくないだろうし、気にしなくていいよ」

「そんな物を紹介したのですか」

「僕は欲しいからね」

 そう言うと、彼はカウンターへと戻って行ってしまった。後には私だけが残った。とりあえず乾電池を元の棚に戻し、各商品を拝見しながら、どうしても必要な物はなかったので出口へと歩いた。変わった店主、あるいは店員だった。

 暗い店内を抜けて日の本に出ると、そこには一人の金髪の女性が霧雨店を背にして立っていた。

 彼女は傘を差しており、一般から逸脱(いつだつ)した雰囲気を持っている。怪しげに笑っている。関わったら面倒そうなので横を通り抜けようとして、できなかった。まるで体が死体になったように動けなくなったのだ。それは物理的なものではなく、喉の奥まで寒さがせりあがってくる恐怖心によるものだった。その気配は私のちょうど真横にいる先ほどの彼女からだった。

「良い物はありましたか」

 彼女は流れるように声をかけてきた。全身を支配された感覚に陥りながらも、私はなんとか口を動かした。

「珍しい物は」

「そうですか。ところで、子どもは元気ですか」

「子ども、とは」

「貴方の傍にいる、彼女たちのことですよ」

 間違いなく里乃さんと舞さんのことだろう。なぜこの女性が私と彼女らを知っているかは、もちろんわからない。二人の知り合いだろう。クスクス笑いが聞こえる。尋常な人物ではないことは、いくら私でもわかる。これは、森であった仙人様以来の感覚であった。

 通りに人はまるでいない。もしかすると今まで普通に歩いていたが、横の女性によって……。そう思わせるものがあった。

「さあ、あまり知らないもので」

「あら、そうなの。意外と仲は良くないのね。まあ彼女らは元気ね」

「知っているならなぜ尋ねたのですか」

 至極当然な疑問をぶつけると、しかし少女は何も答えなかった。不思議な者であり、全く人物像が掴めない。視界の端に映っている傘の縁がくるくると回った。

 彼女は、私に興味はなさそうであった。それよりも二童子と私の関係に気になるようであった。しかし、どうやらその問題もついさっき解決したようであり、軽い溜息を彼女は出した。その吐息は何ものをも驚嘆(きょうたん)させる繊細さがあり、また近しい者を感じさせた。

(こた)えてくれてありがとう。また会うかもしれませんね」

 風が吹き、カラカラと両者の空気を笑っていた。自らの服の外形を見る。私はこんなにも小さかっただろうか。こんなにも脆弱だっただろうか。相対的になり、私は自然のうちに自分を卑下(ひげ)してしまっていた。それほどまでに隣の彼女からは力と強さを感じた。

 ぐにゃりと視界が揺れる。私が横を向くと、もはやそこには誰もいなかった。まるで最初から何もなかったかのように、まっさらとした壁があった。向こう側には太陽が雲のスキマに挟まって、身動きが取れないでいる。舞さんと里乃さんの用事とはなんだったのだろうか。ふと、そう思った。



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十一話 記憶ない少女

 里に来てからさてはて約二週間ほどが過ぎた。生活としては順調であり、ストレスで死んでしまうのでは、といったことはない。人並みの暮らしを送る私に、しかし人間としての役目が達成されていないという事実がのしかかっている。すなわち家主の子ども二人に精神の成長を促すというものである。これがどうやって何から手を付ければいいのか見当もつかないのだ。

 今の彼女らと私の関係は、突如やってきた来訪者と先住民(せんじゅうみん)そのままである。お互い毛嫌いしているわけではないが、気を許すほどでもない。これも私の人間的魅力が欠如していることが要因なのだろうが、流石に今から自分を変革(へんかく)するには精神がムダに突っ張りすぎたと言えるだろう。

 この家に泊めてもらえるのは善意によるものではあるが、しかし、やはり社会にいる一個人としてはその好意に応えるのが当たり前というものだ。そして、私はその課題を与えてもらっている。それが先ほど述べた成長云々の話なのだが……。行き詰っているというのが現実である。(いく)ら本のことを知っていたりしてもそれが真に役に立つことはあまりない。こと対人関係、特に児童相手では顕著(けんちょ)である。

 うまくお近づきになるには……プレゼントでもすれば良いのだろうか。しかし、私はそういった、誰かを祝うための物品についてはうとい。前の乾電池などはどうだろうか。いや、あれは一本しか店内に置いてなかったな。二人が喜ぶ物など、私には見当も付かない。互いを良く知らないのだから当たり前ともいえるが、そうして停止してしまえば何の解決にもならない。

「何を悩んでるの?」

 私が夕日の注ぐ縁側でうんうんと頭を唸らせていると、ふと後ろから少女の声がした。首を動かすと、そこには里乃さんがいた。彼女に、初日私と会う際に見せた怯えの色は、慣れたのかもはや見られない。大きな目を開け不思議そうにしている彼女は、夕日も相まってまるで血の池地獄に浮かぶひな鳥のようだった。

「いえ特に。昔のことを思い出そうとしていたのです」

 私はとっさに嘘をついた。別にやましいことはなかったのだが、当人たちに言うのも妙にこっぱずかしい。ここで私が素直に悩みを打ち明けられる人間だったならば、ここの家族とも良くなじめるのだろうか。

 私の当てもない疑問を知るはずもなく少女はへえと少々興味ありげにすると、私の横へと移動した。サアサアと風が()いでいる。それに(ともな)って、庭に生えた一輪の花がゆらゆらと揺れていた。

「何か思い出せましたか」

「何も。この世界以外の記憶は消えてしまいました」

「そうなんだ。大変なんだね」

 彼女はそう言うとよっという掛け声とともに地面へと降り立った。はだしが雑草を押し潰す。里乃さんはボケーと立ち、空を見上げていた。小さな雲は自由にその姿を変えている。いや、自由なのではなく風が動かしているのだった。ふわふわと宙に浮くそれは、自らではどうしようもないものによって変えられ、消えていく。そう考えると、ズイブン哀れなものに思えてしまい、しかしそれが本質なのだと同時に気づいた。

「私も、小さかった頃の記憶がないの」

「今、十分小さいと思いますが」

 私が疑問を持って問いかけると、少女はふるふると首を振った。束ねられていない髪が揺れ、やがておさまった。

「そうじゃない。例えば本当のお母さんの顔、自分の本当の名前。……知ってた? 私と舞がここに来たのって、一年前なのよ」

 彼女はこちらを向くと、にへらと笑った。

 先ほどの言葉。額面通りに取るとすれば、里乃さん、そして舞さんはつい最近この家に来たらしい。本当の名も、両親もわからないということであるとか。つまりそれは、そういうことなのだろう。

「とてもそうは見えません」

「……ありがとうございます。これもね、今のお父さんとお母さんから聞かされたの。お前は、私たちの本当の子どもじゃないって。でも、それ以外のことは何も言ってくれないのよ。私も舞もどこで拾ったかさえ」

 里乃さんの顔にはほんの少しの不満そうな色があった。

 彼らは善人である。このような年端もいかない少女に自らの境遇のみを言い、その他一切のことを説明しないのにも何かわけがあるのだろう。無責任だと糾弾することもできないことはない。このような幼い者に伝えるのはいささかヒドいのではないか、と。しかし、彼らが時折見せる重い泥を背負ったかのような雰囲気を感じていると、非難するそれ自体が無責任であるような気がした。

 里乃さんの話を聞いて、私は何も言えなかった。語るべき言葉を持つには私がこの家族と暮らした期間が短すぎたからだ。そんなツマラない男に対して、少女は視線を落とした。

「ごめんなさい……。ただ私たちとおじさんはちょっと似てるって言いたくて。自分だけがツラいのは、さみしいし」

「ありがとうございます。失礼ですが、今は幸せですか」

「――うん! 舞もおっちょこちょいで、お父さんもお母さんもちょっと厳しいけど、でも私は」

 その瞬間、彼女は目の前の男が大笑いをしてることに気づいた。そう、私はもう腹が痛くて痛くて仕方なかった。むろん対象は前にいる純粋で、今も驚いて目を大きく見開いている少女ではなく、あまりにもわかりきった事を質問した私もバカさ加減にだった。

「え、え? 今どこかおかしなところが」

「ヒ、ヒ、アーすみません。し、幸せ、ハッハッハ」

 自分の能無し具合は把握していたつもりだったが、よもやこれまでとは。オロオロとする少女と、バカの笑い声は、少し後までそこに残った。

 

 夕食後、いつものごとく食べるのが遅い私がボソボソと白米を咀嚼(そしゃく)していると、ふすまが開いた。目を向けると、そこには普段着に身を包んだ奥さんがいた。皺だらけの彼女の顔を見ていると、なんだか申し訳なくなったのでひとまず箸を動かすスピードを速めた。薄暗い室内にカチャカチャと無機質な音が行き渡る。

 私は再び彼女の顔を見ることができなかった。怖かったのだ。まるで水分を失ったミカンがめくれて身を出すのと同じように、振り向くとようやく見慣れた顔ではなく一体のロボットが立っているような……そんな予感がしたからだ。

「すみません。もう少しで食べ終わりますので」

「いえ大丈夫です、ゆっくりで。……里乃ちゃんから聞いたみたいですね」

 その柔らかい、しかし気疲れした人間味ある声を受容して、私は何とか振り向くことができた。彼女は笑っていた。悲しそうに笑っていた。外からだろう、コロコロと虫の鳴き声がしている。

 私は別段何も言わずに向き直り、無味(むみ)の夕食を口に運び続けた。

「かわいそうだと思いましたか?」

「私は、一切口を出しません。出せません。貴方たちの子育ては、やはり貴方たちが決めるべきなのですから」

 私がそう言うと、後ろからため息が聞こえた。それには二つのものが含まれていた。一つは安堵であり、もう一つは失望だった。

 本当は言いたくなかったのだろうか。仮とはえ、我が子を率先して傷つける親などいないし、あってはならない。娘二人を不安にさせたくはなかったのだろう。しかし、それをやらざるをえなかった。それはきっと私を家に招いた理由と同じ、彼女らを早急(そうきゅう)に自立させたいがためなのかもしれない。そうだとすると、私の先ほどの不干渉である発言は、家に混乱を巻き起こす因子(いんし)でなかったという点ではプラスであり、()()()()()()()()()()()()()ということにならないという点ではマイナスだったと考えられる。

 彼女は、やはり背負わせたくなかったのだろう。自らが孤児であるという事実と、その辛さを。あの子たちに。

「すみません、私は他人なのです。ただ言えることは、どのような結果になろうと、貴方がたは彼女らをその最期まで見届けなければなりません」

「そんなこと、わかっています。親として、私は……」

 彼女は言葉を切ると、トタトタと居間を出て行ってしまった。

 私は一瞬、彼女と主人を扉につけられた留め具のように自らの与えられた使命を淡々とこなしているのみかと考えてしまった。そこに人情はなく、ただ機械のごとく幼木を育てているのかと思ってしまったが、それはどうやら間違いであったようだ。少なくとも一方に愛情はあり、苦しんでいた。強制されているというよりも、運ばれているといった方が表現としては適切であるようだった。だから、私に家族に対する憧憬(しょうけい)の気持ちは消えなかった。

 みそ汁を一口すする。例え彼らがどのような運命に流されたとしても、後悔はして欲しくないものである。この一家の行く(すえ)を見守ることこそが、私の生きる目的であり、この世界に生まれ落ちた意味であるのかもしれない。そう思った。

 



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十二話 博麗神社へと(前編)

 意外と月日は()っただろうか、秋も終わりに近づいてきた。紅葉の量は一時期、目を見張るほど多くなっていたが、それも納まり、虫の鳴き声も少なくなっている。寒風が家屋(かおく)を、道を突き抜けるようになり人もまた暖かそうな恰好が増えていく。家の障子はあまり開けられなくなり、外の景色を(うかが)う頻度は減ってしまった。朝はキインとした空気を受け、昼は僅かな陽光に身を寄せ、夜は早いうちに眠りにつく。全くここは今までと同じ国かと思う程に生活サイクルが変わってしまった。

 ひょとすると雪でも降るのではないか。まだ初冬であるためそのようなことはないのだろうが、しかし私の急変した環境を受容するモノはそれくらいの錯覚を感じていた。

 私はいま居間でボサとしていた。仕事は午後からであるため暇である。この頃入荷する本が激減してしまったため、そこそこ閑古鳥が鳴いている店である鈴奈庵だ、夫婦二人で十分事足りるのである。両者は私を申し訳なさそうに見ていたが、そもそも仕事がないということは嬉しがることであり、私の目的など所謂(いわゆる)バイトや暇つぶしといったそこらとさほど変わりはなかったため、特に気にならない。昔の日本人は勤労欲に溢れており、私のいた時代はだれもかれもが放棄的だったので、彼らと私の考えの差異はきっとそのような背景から来ているのだろうな。

 閑話休題。家の中には主人も奥さんもいない、仕事だ。二童子は、舞さんはわからない。ことわざの通りならばこの寒さに負けず笑って外を走り回っているのだろうか。そうであるならば、なんとご苦労なことだ。いくら寒いといっても、外よりは家のほうが断然マシである。昨日重たい体を引きずって外出するとなんとあまりの寒さに、空を青く白い人間が飛んでいるという幻覚を見たのである。いやはや、あれは正しく形容するなら冬人間のような雰囲気であった。それとも幻覚ではなく、秋に見た姉妹と同じ、そういった季節の化身なのだろうか。ううむ。

 変なことを考えていると、ふすまが開いて幾ばくか冷たい空気が流れてきた。私がそちらを向くと、そこには深緑色の髪をした少女がいた。舞さんは寒さに身を縮こまらせており、私をチラリと見て、特に気にすることなく歩き障子を開けた。青々しいサッパリした光景が私の少し眼前に広がり、部屋にこもっていた微弱な熱気が朝の寒さに上書きされてしまう。

 伸びをする後ろ姿に私は抗議の目を向けた。

「……おはようございます」

「おはよー。寒いね」

 寝間着姿の彼女は先ほどよりもシャキリとした顔をこちらに向けると、続いて目をぐしぐしとこすった。その表情に悪意はない。

 いつまでもグチグチと考えていても仕方がないので思考をリフレッシュするために少女の背に広がる風景を見た。小さな自然と、カッチリと外と内を分ける壁、漂っている雲に青空……。一日の始まりを感じさせる空気は、私の足をムズムズとさせた。どうせ午前中は暇であるため、食事が終わったら外出でもしようか。

 計画を立てていると、ふと舞さんがこちらを見ていることに気がついた。

「ねえ、お父さんとお母さんは?」

「今日は()()()()早く仕事に出かけました」

「ふーん、そう……。ごはんは?」

「私が作ります」

「げー! 嫌だなあ」

 そう言うと少女は本当に心底イヤそうな顔をした。……以前同じような状況があり、大人としての責務で二人にご飯をふるまったところ、恐ろしいほどの不評を受けてしまった。どうやらこの時代と私の一般的趣向は合っていないらしい。断じて私が下手なのではないと確信はしている。

 私と舞さんは中々おいしいどろどろとした朝食を終えると、縁側に腰かけた。里乃さんは朝、お二方と一緒に出かけたため今はいない。その(むね)を舞さんに伝えると、彼女はただ一言ズルいと呟いた。

 ゴロゴロと滑車(かっしゃ)の転がる音だろうとまばらな人の足音。天気も良く今日は絶好の散歩日和である。時間も経ち寒さも多少和らいだので、何の気なしに今から少し出かけることを隣にたたずむ少女に告げると、私は立った。

「出かける? どこか行くの?」

「いえ、とりあえず里をグルグルと回るぐらいですかね」

「ふーん……。ねえ、新しいところに行ってみたいと思わない?」

 やけに弾んだ声に顔を向けると、そこにはワクワクとした面持ちの童子がいた。身を乗り出して、大きく目を開けているその姿は正しく年頃の子どもであった。新しいところとは、流れ的に里以外の場所であろうか。舞さんがどうして私を誘ってくれたのかはまるでわからないが、どのような事情であれ共に旅立つというのは親睦を深めるチャンスでもある。私に断る理由はマッタク見当たらなかった。

「新しい所、ですか。具体的にはどこでしょうか」

「ここのはずれにある神社だよ。博麗神社って言うのさ」

 博麗神社……。何だか聞いたことがあるような気がする。どこだっただろうか……。いつだっただろうか……。

 私がおぼろげな記憶を引っ張り出そうとしていると、横から布越しにつつかれた。そちらを見ると、眉根を寄せて不審そうにする少女がいた。

「大丈夫?」

「はあ」

「気がないなあ。まあいいや、それじゃあ行こうよ!」

 そう言うと舞さんは立ち上がり、トタトタと早足で家の中へと行ってしまった。おそらく玄関に向かったのだろう、楽しそうな足取りだった。彼女は私と出かけることに対してウキウキしているのでは当然ないのだろう。私たちはそれほどまでに仲良くはない。可能性としては二つである。その神社に行くことか、あるいは里の外に出ることのいずれかか両方が嬉しいのだろう。そうであるならば――

「おーい、何してるのー?」

 遠くから急かされてしまった。私の考え癖も程々にしなければならないな。

 私は独り意味もなく苦笑すると、腰を上げようとして、下に落としていた視線がダンゴ虫を見つけた。この虫が空を飛ぶ日は来るのだろうか。もしそうならなかったら、この者は一生をこの家で過ごすのだろう。漠然とそう思った。

 門は案外あっさりと潜ることができた。主人と出くわさないかドギマギしたが、別の若人が門番であった。舞さんが大人と一緒に行くから神社に行かせてほしい、と言うと、彼は何も言わずに門をサッと開けてくれた。……魑魅魍魎(ちみもうりょう)がひしめく里の外に、人間二人をこうも簡単に放って良いものなのだろうか。少し聞きたかったが、舞さんが先を急いでいたので会釈のみをして外の世界へと踏み出した。

 この里には幾つかの出入り口があるようで、私が初めて通った門とは違っているようだ。平坦な道が林を割くようにして伸びており、その先に山はなかった。ピヨピヨと鳥がさえずり、少々ジメッとした空気が体にまとわりついてくる。時折草本(そうほん)が揺れるが、前を行く少女は全く意に(かい)することなく道を進んでいる。……怖くないのだろうか。私など、物音がするたびに精神をすり減らしているというのに。

「ここまで来てなんですが……危険ではないのでしょうか?」

 私が問いかけると少女は、歩行はそのままに振り返って私を不思議そうな目で見た。

「え? それは僕じゃなくておじさんがよく知ってることでしょ」

「うん? 私は外の情報など人づてでしか聞いたことはありませんが」

「でも里の中では有名になってたよ。おじさん、夜中なのに完全に無傷で妖怪の山を抜けてきたって」

 完全に無傷で……。ああ、確かにあの夜私はもののけ達がいたらしい所を抜けてきた。舞さんはカラカラと笑っていた。

「何の力もないくせにって皆不思議がってたよ。霊力も感知できない奴なのにどうしてって」

「……別に私に秘められた力などはありませんよ、舞さん。それを期待しているのであれば――」

「そんなの僕と里乃が一番知ってるよ。()()()()()()()()()。でも、危険を、いや全くの害なしに妖怪どもの巣から生還した」

 先の道はT字に分かれていた。舞さんは迷わずに前へと進み私もそれに続く。その間、野生動物の息遣い以外は何もなかった。それこそ不自然であるほどに。先を歩む少女の小さな背中は、しかしまるで大木のように頼もしかった。

「おそらく原因は君じゃない。妖怪だ。彼らは今、人間を襲わないようにしている。たとえどれだけ極上の精神や肉体を持つ者がいても、自分たちの欲を抑えているんだ」

「なぜ?」

「それはお父さんがあたりをつけてる。おそらく彼らはあの事件のせいで飢餓(きが)の毎日を送って――あ、もうすぐだよ、おじさん」

 彼女が立ち止まった先には中々に急な坂があった。――あの事件とは何か。私はそう言いそうになったが、横に並んだ時、舞さんの真に嬉しそうな横顔を見てとっさに口をつぐんでしまった。事件というからには何か不幸なことであるはずだ。であるならば深く聞いて良い思いはしないだろう。そのうちわかることだ、私はそう思うことにした。彼女も口を閉じてしまっている。

 私たちは坂を上り、また道を曲がった。両者ともに額に汗を浮かべたが、それもすぐに吹く寒風によって引いていった。徐々に道が舗装(ほそう)されている。それは、この先に建物があることを意味していた。太陽が木々の先端の向こうに見える。道中で多少あった重苦しい雰囲気は掻き消え、神聖な者に保護されている安心感と満足感が一歩進むごとに得られる。それと同時に、なんだか懐かしい空気も感じることができた。

「よーし、とうちゃーく!」

 前に開けた空間がある。舞さんはそこにいち早く踏み出した。私も気持ち急いで後に続く。そうだ、なぜ私は忘れていたのだ。博麗神社。聞いたことがある、どころではない。私は実際そこに行ったではないか。前の世で死にかけ、その時気が付いたらいた場所……あそここそまさに博麗神社と、そこの祭神も言っていたではないか!

 一歩一歩踏み出す。そして、視界が開け――私は博麗神社に着いた。

 



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十三話 博麗神社へと(後編)

 私が出たところは境内(けいだい)の、まさにその側面であった。前に見えるのは、太陽の光を受けている神社に、綺麗に舗装(ほそう)された石道とそこにいる舞さん。そして鳥居に、その横に座る狛犬、小ぎれいな賽銭箱……。鳥居と私が来た道以外の神社の周りは全て木々で囲まれており、正しく世間から隔離されていた。

 そこは、私が訪れたものとはだいぶ違っているとはいえ、本質的には紛れもなく、あの神がいた博麗神社という神社そのものであった。脇道には落ち葉が溜まっており存外(ぞんがい)長い間家主がいないことがうかがえる。

 なんということだろう。もはや来ることはないと思っていた地にまた足を運ぶことになるとは。私が衝撃を受けていると、そんなことは露も知らず舞さんがいそいそとどこからか箒を持ってきて散乱している落ち葉を掃き始めた。

「ひどいなあ。掃除してないなんて」

 ポツリと放たれた舞さんの独り言で、私はようやく正気を取り戻した。

 改めて目の前の建物を見る。秘匿的であるその姿は、人外が闊歩(かっぽ)するこの世界に、完璧に馴染んでいた。いや、これが無ければこの幻想郷は元から存在しえなかっただろう、そう感じた。それほどまでに幻想的であり、普遍的だった。

 ……今私の顔が白昼にさらけ出されていたならば、一所懸命に箒を動かしている少女は目を白黒とさせるのだろうな。何とも形容のし(がた)い、自分すら、心を読む妖怪ですら把握することは不可能だろう複雑な胸中を、そのまま透明な顔に浮かべているのだから。

「……立派な神社ですね」

「うん、そうでしょ。ちょっとさびれちゃってるケド、それでも十分」

 舞さんは私の言葉に対して微笑みながら誇らしそうに、手は休めずに応じた。自然音以外にはサッサッという音しか聞こえない。確かに言われてみれば、神社は私の訪れた時よりはマシであるもののそれでも少し古びていた。年季がいっている、というよりは管理されていないという感じだ。

 音はマッタク前述したもの以外はしない。ひと気といえば舞さんのみである。

「この神社に神主(かんぬし)さんや巫女さんはいるのですか?」

「あー、今はいないなあ。ちょっと前から無人だね」

「このように立派であるのに? 跡継ぎの方はいなかったのでしょうか」

「うーん、まだ見つかってないようだね。……前の巫女様がお亡くなりになられてから、二か月は経つんだけどなあ」

 そう言うと舞さんは口を閉じた。二か月……。私がこの世界に来たのも確か二か月ほど前だったな。それにしてもどうして巫女さんなのだ? 普通そこは神社の所有者が亡くなったとなるのではないのか? こういっては何だが、巫女さんが一人神社を離れたところで、経営は立ちいくのではないのだろうか。

 私が首をひねっていると、掃除に集中していた舞さんが不思議そうにこちらを見た。

「どうしたの?」

「いえ、その、シツレイだと思いますが、どうして巫女さんなのですか」

「へ? ……ああ。そういえばおじさんは聞いていないの? 博麗の巫女様の役割について」

 聞いていないも何も、博麗の巫女という言葉自体が初めてであった。まさか私の知識に間違いがあったのだろうか。神社とは私の時代になく全て本から得た情報だったのだが、もしやカンヌシなどはおらず、巫女さんが統治者(とうちしゃ)だったのか? やれやれ、やはり目に見ていないものは少し当てにならないようだ。

 私が頷くと、彼女は少し驚いたように肩を上げて、動作を中断した。

「はい。博麗の巫女という言葉も初めて聞きました」

「あれ、そうなの。てっきりちょっと日にちも過ぎたから知ってるものだと思ってたけど……。えーと、この神社に神主さんはいなくて、巫女様が一人で管理してるんだ。博麗様は日々幻想郷内の安全に目を光らせて、調子に乗ってる妖怪はこてんぱんにして、困ってる人は助けてくれるっていう人だよ。すっごく強い人が選ばれるんだ」

「妖怪を……。ははあ、つまりその人はこの幻想郷の()()()()()()()()()()()()なわけですね」

「ぱわー? うん良くわからないけどたぶん合ってる」

 どうやら私の知識に間違いはなかったようだ。通常神社とは神主と呼ばれる元締(もとじ)めがおり、巫女と呼ばれる女性方が祈祷(きとう)を捧げるといった構成になっているらしい。しかし、どうやらここは特異的であるようだ。巫女さんが、しかもたった一人で治めているとのこと。そして、その人物はそうやら妖怪退治も行っているらしい。

 先ほど舞さんはその者を博麗様と、固有の敬称で呼んだ。つまりその博麗様は人々から尊敬を受ける者であり、一介の人物ではないことを表している。この世界で尊敬を集める。つまりそれは身近に潜む脅威から自身を遠ざけてくれる者で、脅威とはすなわち妖怪。そして先の妖怪をこてんぱんにするという言葉から考えるに、妖怪を退治する人間であるという結論が得られる。

 ここで注意したいのは、ただひたすらに妖怪を消滅させるのではおそらくないのだろう。そんなことをすれば人外の者らが反発し、この幻想郷という箱が完璧に崩壊してしまう。つまり、()()()は妖怪に対する人間たちの抵抗力であり、妖怪と人間の関係の均衡を保つという役割を果たしているのではないのだろうか。

「なるほど。しかし、そのようなお人がいないとは、大丈夫なのですか」

「うん。……博麗様がいないのは不安だけど、でもなんでか妖怪たちは何もしてこないし。おじさんのように、妖怪に会っても何もされなかった人も結構いたらしいよ。博麗様が死んじゃってから……」

 舞さんは悲しそうにうつむいた。箒を支えにして立っているようなその様は、博麗様、という単語を出すほどに悪化しているようだった。正直不明瞭(ふめいりょう)な部分――例えば死因など――もあったが、それを聞いても仕方ないし、流石に酷だろうと思って私は話題をそらした。

「そうですか。それにしても、舞さんは偉いですね。神社を率先(そっせん)してきれいにするなどと」

「そうかな、普通だと思うけど。……でもこうしてると、何だか自分が巫女さんになったみたいで」

 舞さんは言葉を途中で切り上げると照れ臭そうにニシシと笑った。私に少女の感覚は理解できなかったが、しかし私たち以外誰もいない神社の中では彼女こそが神職につくにはふさわしいような気がした。深緑色の髪は巫女装束には合わないだろうか。いや、そんなものは本人の気の持ちようだ。

 私たちはそれぞれそこで少しばかり時間をつぶした。少女は巫女さんごっこを、男は石道に立ってひたすら空を見ていた。穏やかな時が流れていく。

「ふーんふんふふーんふんふふーん」

 どこかで聞いたようなフレーズを小さく舞さんが繰り返しているのが風に乗って聞こえてきた。それを集中して耳に入れていると、空の上に誰かの影が見えたような気がした。自由に飛んでいるそれは、錯覚なのだと知りながらも不思議とそこにいるような感触がした。

 影は、太陽に照らされながら山へと向かい、突然消えてしまった。私が舞さんの方を向くと、彼女は歌を止めて私と同じようにボーと空を見上げていた。そちらには一羽の鳥がおり、グルグルと神社の真上を旋回(せんかい)していた。

「いいなあ。僕も飛びたいなあ」

 ポツリと呟かれた少女のむなし気な言葉は向けられた当鳥のいななきによって消えてしまった。

 

 昼になり特に危なげなく私たちは里に戻ると、そのまま鈴奈庵へと向かった。その道中やかましい若者に会ったりしたがそれ以外は異常なく歩き続けて、そして店の暖簾(のれん)が視界に入った。

「今日はありがとうございました」

 私の言葉に舞さんは後ろ手に両手を組んで笑った。全く幼子とは思えないその風格に、しかし私は親しみを覚えていた。

「どうも。里の外には大人が着いていかないとダメだったからさ、調度良かったよ。こちらこそありがとうね」

 その言葉を聞くと、思わず私は苦笑してしまった。要するに私は手段であったわけだ。良いように利用されたともいえるが、しかし同時に意外とシッカリしているのだな、とも思った。もしかすると私よりも全然。

「さて、今日はどんな本を読もうかなあ」

 童子が興味に跳ね踊っている。その姿はずっと私の目に残ってほしいと無意識のうちに思ってしまうほどだった。

 

 誰もいない神社で、一人の女性が屋根に腰かけていた。傘を差し、紫色の服を着たその女性は鳥居の先をただジッと見つめていた。かと思うと、突然額を押さえて深い溜息をついた。

「結界が……」

「お前がここにいるのは珍しいな。あの日以来か」

 後ろから声を掛けられて女性が億劫(おっくう)げに振り返ると、そこにはただ開いた扉のみがあった。その先はぐちゃぐちゃと混沌とした配色に彩られており人の姿はどこにもない。しかし、不思議とそこからまた声が来た。

「妖怪とは薄情だな。私など日に一回は来ているというのに」

「神様は暇ね。私はこれから眠りにつくから、ついでに見に来ただけよ。後の仕事はお願い」

「余裕を持たずして何が神だ。……それで、候補はさっきの二人のどっちだ?」

「あら、貴方もここにいたのね。全然気づかなかったわ。流石秘神(ひしん)、隠れるのはお手の物ね」

「問いかけに応えよ。それに貴様もたいがいだろうが、このスキマ妖怪」

 後戸からの問いかけに、妖怪と呼ばれた女性は顎に指を当てた。相も変わらず境内には一人の女性と扉しかない。

「女の子の方よ。男はどうでもいいわ」

「あれは男だったのか。秘匿されていたからわからなかったわ」

「あともう一人、彼女と一緒にいる子もいるから、そっちもね」

 そう言うと、女性は先ほどまでの胡散臭げな表情から一転して、眼光を鋭くしてドアの先を見た。ざわざわと広域の木々がざわめき、異様な空気が漂い始める。並の霊力の持ち主であれば昏倒してしまいそうなほどに重いその力の中、しかし扉は飄々(ひょうひょう)としてそこにあった。

「猶予は刻々となくなっている。早急(そうきゅう)に次代の博麗の巫女を立てないと幻想郷は限界を迎えるわ」

「……あと一年か。この世界のシステムは単純でありながら、なんと脆いものね」

 (うれ)うような声音に、女性は何も言わなかった。

 



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十四話 いつも通りの

 冬も半ばになってきた。寒さは中々に極まり主人から貰った上着が手放せない日が続いている。ついこの前などスサマジイ寒さだなあと外に出てみたら雪が降っていたほどだった。久しいそれは見ている分には良いのだが、実際に傍にあるとなると話は別であり、暑くないのに地獄であった。(ろく)な暖房設備などあるはずもなく刺すような冷たさがダイレクトに打ち付けてくるのである。通勤道中は本当に死んでしまうかと思った。

 そんな中子ども二人はどうしているのかといえば、別に外で元気にはしゃぎまくっているわけでもなく家の中でダラダラと過ごしているのだった。雪を見た初日こそ目を輝かせて遊んでいたが、そんなものは一日だけだ。後はダメ人間の私のように家に引きこもり、彼女たちはおはじきやトランプなどで遊んでいた。

 私たち三人は今一緒の部屋にいたが、それも必然といえるだろう。なぜなら、私たちのいる部屋が最も家の中心に近いからである。寒さから逃げるようにしていればその発生源である外から遠ざかるのは半ば当然である。

 舞さんと里乃さんは本を仲良く読んでいる。いや、仲良くというよりも()()()()()()解読(かいどく)しているといった風だった。眉根を寄せるその姿はまさに勉学に励む学生の風貌であった。まだ小学一年ほどであろうに、その知識欲は感嘆するべきものがある。先ほど何を読んでいるのか尋ねたところ、こちらを全く見ずにただ祈祷(きとう)関係と言われてしまった。雰囲気から察するに現代の参考書のような物なのだろう。

 舞さん曰く、私が鈴奈庵に()いてから以前よりも本が気軽に借りられるようになったとのこと。とても喜ばしいことではあるが、二人はどうしてかむつかしそうな本ばかりを借りているのである。それも全部が先ほどの参考書のような堅苦しいものばかりだ。よろしくない兆候だと思い私が気に入った本をちょっとばかしの給料で買ってプレゼントしたところ、舞さんは読んでいる途中で苦しそうに眉根を寄せ、里乃さんはいかにも無理をしている雰囲気で目を滑らせていた。どうやら私と二人の本の好みは世代が原因か、違うようである。仕方ないことではあるのだろうが、やはり幾ばくかさみしいものだ。

 閑話休題。勉強熱心である二童子は隅っこで佇んでいる私など目に入っていないのだろう、本を各々(おのおの)指さしながら議論をしていた。祈祷だの浄化だの普段の生活では耳にしないような言葉が幼い子供の口から出ている。蛍雪(けいせつ)(こう)だろう、自身らのためか両親のためかはわからないが、努力して勉強に打ち込んでいるということは何か成し遂げたいものがあるのだろう。立派なことだ。

 私が自らの体温にうとうととしていると、急に二人は頷きあって立ち上がった。何事だろうか。そのまま部屋を出ようとしている彼女らを私は呼び止めた。

「どこかに行くのですか?」

「え? ああ、おじさんいたんですか。えっとね今からちょっと試したいことがあって」

「そうだ、おじさんも来る? だいさんしゃの意見っていうのも大事だし」

 舞さんが笑って私を誘ってくれた。この状況で行く、ということは何か不思議現象でもしに行くのか。二人のジャマはできるだけしたくなかったし、前の霊撃体験が脳裏をよぎって背筋がゾッとしたが、しかしやはり好奇心には勝てなかった。私は申し出を受けることにした。

「貴方がたが宜しければ。しかし、何をするんですか?」

「雪合戦だよ」

 三人が家の中から庭へと移動する。そこは、もう隔離された一面の銀世界が広がっていた。雪は積もり庭にある枯れ木と相まってひどく寒い印象を受ける。厚着の舞さんと里乃さんがその上へと舞い降り、少しばかり足踏みをしていた。まっさらだった白い地面に丸い跡が次々とついて、それを二人は楽しそうに作っていた。

 私はひとまず縁側の定位置に腰かけて二人の動向(どうこう)を見守った。天然の雪の上でキャイキャイとはしゃいでいる少女たちを見るのは、久方ぶりであった。このままこの光景を見ながら緑茶でも飲みたいものだが……。

 足踏みを止めると二人はお互い何れかを話し合って、すぐに行動に移した。しゃがんで雪をかき集め、それを丸めたのである。完全な円とはいかずでこぼことしたそれを、ジッと見つめてから二人は少し溜息をついた。綺麗な丸形にしたかったのだろうな。しかし、初めからそうならないと決定している物を思い通りにするというものは中々難しいものだ。

 私は声を潜めて笑った。幸いにして両方に聞こえていなかったようであり、少女らはすぐさま気を取り直すと、お後ろ向きに歩き互いの距離を数歩離した。

 さてこれから行われるのは雪合戦という行事らしい。ルールは単純明快。雪の球を作って投げ、相手にそれをぶつけるという好戦的とも平和的とも取れる遊びだ。通常ならここまでではあるが、しかし先ほど里乃さんは試したいことがあると言っていた。つまり何か違った別なことがあるのだろう。

 両者が向かい合い、ほとんど同じタイミングで振りかぶる。お互いをマッスグ見据(みす)え、そして投げた。

「そら!」

「えい!」

 投げた後に二人は掛け声をした。順序が逆ではないか。私がそう思ったのも束の間。

 少女らの投げた雪玉が破裂した。それも凄まじい勢いで。

 それは互いに違う動きをしていた。舞さんの投擲したそれは破裂したのち、その欠片はまるで雷のごとくジグザグにうねりながら放散し、霧散した。里乃さんのは破裂したあと、欠片はカーブを描きながらもおおむねまっすぐ飛翔して、やはり霧散してしまった。私に何やら小さな衝撃が襲い掛かる。その部分を見ると、ちょっとした水滴が服についていた。

 台風のようだった二つの雪かけらは途中で水に融解して私の元へと、いや、全方位にバラまかれたようだ。あっけに取られていた私の元に、寒さに頬を紅くさせながら二人が寄ってきた。

「どんな形でしたか?」

「え……? 何がでしょうか?」

「見てたじゃん。さっきの弾幕だよ」

 弾幕……。さっきのだろうか。それ以外になかったのだが、私は頭が回っていないばかりに、変な応答をしてしまった。

「弾幕、ですか。さっきの台風のことでしょうか?」

「台風? 変な表現だなあ。まあいいや。それでどんな形だった?」

 キラキラとした眼差しを向ける二人に、私は先ほどの外形の説明をそのままにした。舞さんのはマッスグ飛ばない垂直の軌道を繰り返す動きをしており、里乃さんのは少しへにょったまっすぐの弾だったということを。

 私の言葉を聞くと、二人の少女は意外そうにお互いを見た。

「へー、舞のは意外ねえ。もっとまっすぐ行くものかと思ってたけど」

「こっちもさ。里乃の性格だと向日葵(ひまわり)の首ぐらい曲がったものだと思ってたよ」

「……それってどういう意味」

 ひとしきりにらみ合って、後笑った二人に、私は先ほどの行動がどういったものなのかを尋ねた。彼女たちはちょっと考えた後、話してくれた。

 先のは、私なりにかみ砕いて説明すると、どうやら自らの本質を見るための行動であったらしい。曰く、無意識の内に込めた霊力には本人の真面目(しんめんぼく)が映るらしい。それを目に見える形で浮き彫りにさせる、そして周りに危害が加わらないようにしたことが今回の術であったとのこと。

 私なりの解釈ではあるが、まあ少女らが好む一種の自己分析の占いだったのだろう。これを見、体験して私が何を得たのかはわからないが、しかし目の前の少女たちは真剣に向き合って、結果に対して推考(すいこう)していた。それだけでも今回のことは無駄にはならなかったと言えるに違いない。

 どれ、私も試してみようかと二人にバレないように雪玉を作って、静かに投げてみた。それは特に何かのアクションを起こすことなく、でこぼことした一面の雪の表層に当たって同化し、消えてしまった。それがあった場所などもはや窺い知ることはできない。もしかするとそれが私の本質なのかもしれないな。

「あー! また何か浮かしてた」

 大声にぎくりとしてそちらを向くと、そこには私を糾弾するように指をさしている舞さんの姿があった。里乃さんも特におおげさな反応はしていないが、私の目と思われる部分を見ていた。油断していたか。舞さんはズケズケと私に近づくと、上目遣いに私をにらんできた。

「何の力も感じなかったのに。魔力も妖力も霊力も……」

 不審な目で両者が見てくる。私としてはただ単に冷たい雪の塊を手で握り作って、そのまま投げただけなのだが、なるほど確かに傍から見ればこれほど奇妙なことはない。何の力も働かせずに何かを浮かすなど、私の常識でも彼らの常識でもありえないことだ。

 さて、どうして切り抜けたものか。これで正体を明かすのもやはり抵抗がある。であるならば、でっちあげれば良いのである。

「それはそうでしょう。私には()()()があるのです」

「ちょうのうりょく? 何それ?」

「……は? 僕には何も感じられないぞ!」

「それは、私にとっては貴方がたの霊力と同じようなものだからでしょう。私が霊力を感知できないのと同等に、貴方がたには超能力の源を感じ取ることができないのです」

 そう仮定した場合、筋は通っているはずだ。呪いとは過去の産物であり、超常とは未来の物事である。恒常的に触れていない限り、どちらも感知できないとすれば私と彼らの今の状況はありえると言える。最も、私の中に超能力などという力は欠片も存在していないが。おそらく。

 そのあと彼女らは私に、だったら再びその力を使えと何度も強要してきたが、私は任意に発動不可能であると言い続けることでなんとか難を逃れた。そんなことを尋ねるくらいだったらお(すす)めの本でも質問したほうが何倍も有意義であると私も主張したところ、私の紹介する本は内容が難しすぎると逆切れされてしまった。その事実を聞いたとき、私は超能力など言わなければこんなことも暴露されなかったのではと少し後悔した。

 そんな風にいつも通りの、毒にも薬にもならぬ、日常が過ぎていった。



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十五話 弟子のお使い

 冬も終わりの色を見せていた。地面のいたるところからは植物が芽吹き、雪が一斉に融けているその有様は何とも圧巻であることこの上ない。人々は徐々に道を出歩くようになり、その服装も軽くなっていく。特にふきのとうが食卓に並んだときは、ああ冬は終わりそうになっているのだなと実感したものだ。

 それまであった景色が一変し、周りの人々も新しい季節にまるで性格が変わったように明るくなっている。……私がこの里に来てからおよそ半年以上が経過した。私もここに馴染んできたのではと調子づく一方で、まだまだ彼らとの違いを思い知らされることも多い。そのことを主人に言うと「同じ人間なのに何を考えているのか」と笑われてしまった。

 そして、その最たる例が私に迫っていたのだが、それを予見できるはずもなく、私はのうのうと日々を過ごした。

 ある晴れた午後のことだった。日光を浴びることなく私が本屋の番をしていると、入り口にかかっている暖簾が押された。その二対の小さい影。その正体は、やはり舞さんと里乃さんだった。いつものことなので私は手元で広げていた一冊の本に目を落とした。彼女らと私は同じ屋根の下で暮らす者だが、あくまで知り合いのようなものだ。特にこの読書という最も互いで関連性が密接であるものでも、外で話すことは少ない。

 今日も業務的な会話で終わるだろうな。そう思って中々に面白い本を読んでいると、前の方に気配がした。そちらを見ると、はたして真剣な表情でこちらを見ている二童子がいた。

「もう決め終わったのですか。今日はズイブンと早いですね」

 私がそう言うと、しかし、二人は首をふるふると振った。

「ああ、違うの。今日は本の貸し借りとかじゃなくて……」

 里乃さんが目をパチパチさせながら今日の用を話した。どうやら彼女の言葉によると、二人は私にあるお願いをしたいらしい。その内容とは、お薦めの本を紹介してほしいとのこと。

 私はその言葉を聞くと、思わず椅子に深く座り込んでしまった。舞さんは何とも微妙な顔つきをしているが、しかしその視線は私のフードの見えない向こうに注がれていた。それは、驚愕でもしたり顔でもバカにするような顔でもなく、子どもらしい、相談することに対する羞恥心とか抵抗感とか、そういった複雑な色を帯びていた。

 本について聴くということ。それも私にということはいつも読んでいるような参考書が目当てではないのだろう。自分が常日頃持っている、小説調であったり、文献のようなものを彼女らは欲しているわけだ。かつて二人は私の趣味に首をひねった。それに対して私は一時期自分でも恐ろしいまでに落ち込み、このまま服を脱いで消えてやろうか、とも思った。しかし、今、かつてのその拒絶の主が再度私に魅力を伝えるチャンスを与えている。私は、もう飛び跳ねてしまいそうなほどに嬉しかった。

「あー、忙しいなら構わないけど……」

「とんでもない。それで、どんな本を所望しているのですか?」

 舞さんの言葉を遮り、私は舌を多少巻きながらしゃべった。二人は少しビックリしていたようだが、すぐに気を取り直して、再び真剣な様子になった。

「えーと、本なら何でも……。あ、でも呪い関係はダメだよ。普通? のものが対象らしいから。あと一冊でいいから」

「ははあ。ではちょっと待っていてください」

 私は立ち上がると、少し歩いて本を探し始めた。

 整然と本棚に詰め込まれた本の中から適当だと思われる一冊を抜き出す。表紙には竹取物語と書かれており具体的に子どもでもわかりやすい絵が添えられている。私はここに来るときこの本を知らなかったが、読んでみるとかなり面白いものだった。おおざっぱな内容としては、地上に墜ちてきた月の姫が成長して月に帰るという単純明快なものだ。

 渡すと、舞さんはその本を怪しそうに、里乃さんは口を結んで私を見ていた。その視線は正に未知に対する不安の表れだった。そうであっても私に解消する術はないのでおずおずと黙っていると、やがて舞さんが首をブンブンと振って、私に頭を下げてくれた。

「おじさんありがとね。ちゃんと読むよ」

 その言葉を聞くと、私の体から力がふっと抜けた。その場にへたり込むのはあまりにも情けないので、何とかぐッと気を持ちながら椅子まで歩み寄り腰かけた。誰かに頼られるというものは、どうにも疲れるが充実したものなのだな。

 そう感慨にふける私など知るよしもなく、目の前の少女らは一所懸命今しがた手にした本の内容をにらみつけていた。……それにしても一体全体どういった風の吹き回しだったのだろうか。昨日までの二人は、私に対してそれらしい素振りを欠片も見せていなかったように思うのだが……。私だってアホウではない。子どもが、特に舞さんなら、悩んでいる様相ならば普通に気がつく。しかし、彼女らはいきなりやってきた。私が見落としていたのだろうか。

「忙しいところスミマセン」

「へ? なあに?」

「どうしてまた、急に、私に本の相談などを持ちかけてきたのですか。いや、答えたくないのなら良いのですが」

 私がそう言うと、二童子はお互いを見て溜め息をついた。

「お師匠様が、お前らはもっと一般教養を身につけろって言ったから……。僕たちにはそんなものいらないのに」

「でもすごい不機嫌そうにしてたよねー。とよさと……なんだっけ? そんなに偉いのかなあ」

 口を尖らせている舞さんに、里乃さんがケタケタと笑いかけた。深緑色の髪の少女は、その時の空気を思い出したのかぶるりと身体を震わせて本を胸元に引き寄せた。

 なるほどどうやら二人、ないしはどちらかがその師匠という人物に強要されて常識をつけるために、最も手近な方法である読書を行おうとしているらしかった。結局は手段でしかなかったのは少々残念ではあったが、しかしそれよりも私は他のことに興味を惹かれていた。ズバリ、彼女らのお師匠様という呼び名についてである。里乃さんと舞さんにとってそういった存在は、私が知っている限りだと主人かと予想してしまうが、それは間違いだろう。平常この娘らは彼のことを、お父さんとしか呼ばないからだ。それに、仮にも自分の子であるのに、お前たちは一般教養を身につけろとは、ズイブン変な言葉ではないか?

 知りたいという単純な欲求が私の頭をグルグルと回っていた。

「ぶしつけですみませんが、その師匠とはどなたなのでしょうか」

「へ? うーんと、お師匠様はお師匠様ですけど」

「まあ貴方たちからすればそうなのでしょうが……」

 猫のように首をかしげた里乃さんに、私は苦笑した。これを知って私が何をしてどうするのかなどマルデわからない。しかしながら、私はどうしようもないぐらいに知りたかった。その師匠という存在を。私の中に眠っているだろう脳髄が、記憶がその情報を欲していたのである。漠然としたこの情動を私は冷ややかに見ながらも、全く無視できないでいた。

 結局私がその先を知ることはなかった。用事があると言って舞さんと里乃さんはさっさと本屋から出ていってしまったからである。 

 男一人しかいなくなった店の中で、小銭同士がぶつかり合う音が、コーンとむなしく響いた。

 仕事場から帰宅している夕暮れ。カアーカアーと烏がどこかで鳴いており、通りに人はまばらである。道のわきには葉のみのタンポポが並び、その先には幅の狭い川がごうごうと流れていた。その音に耳をかたむけていると、やはり今は冬と春の間なのだなと感じた。雪は欠片もなくなっている。

 見慣れた物が無くなることのさみしさを幾ばくか噛みしめながら歩いていると、前に白髪の男性の姿が見えた。彼は――確か霧雨道具店の店員だったか――は私を見ると眉を上げて、また手も上げた。何とも知り合い然としたものだが、私と彼は一度霧雨店で会い、そして鈴奈庵にも店員と客として相まみえた程であるので、彼はそのクールな外見から反して存外開放的な人物なのだろうな。私も反応して手を挙げると、彼は少しだけ笑った。

「久しぶりですね」

「ええ、しばらくでした。この前会ったのは、確か冬の半ばでしたな」

「時が経つのは早い。季節があるとなおさらそのことを実感しますね」

 私たちはお互いに別種の笑いを浮かべた。しかしそれは年を経た者が見せる、擦れたような純朴なようなそれであることは一致していた。彼は二十代にしか見えないが、その雰囲気からはもしかすると私よりも高齢なのではないのか、というような感覚が呼び覚まされた。

「それじゃ」

 彼が別れの言葉を残して、私の横を通り過ぎた。彼の夕焼けに照らされた横顔を見ていると、そこになぜか私は生前の時代の気風を感じ取った。科学の匂いだ。とある一面のみではあるが、その時、私は彼にある種の親近感を覚えた。

「待ってください」

 私は思うよりも先に静止の言を彼に放っていた。青年はピタリと歩行を止めると、こちらを向いて首を傾げた。

「なんだい」

「突然ですみません。しかし、貴方にしか聞けないような、そんな質問があるのです。――聞いていただけますか」

「……別に良いけど、碌な返答は期待しないで欲しいかな。なんせ、突然だから」

「ありがとうございます。もし、貴方の傍に雁字搦めの人がいたら、その人の呪縛を解いてあげようとしますか?」

 青年は私の質問に目を丸くすると、顎に手を当てた。ザアザアと風が吹いて白髪を揺らしている。黒い衣装を身にまとったチッポケな男を、理知的な青年は言葉の真意を探るように見つめて、ふっと肩の力を抜いた。

「調度在庫にハサミが余っていてね。僕ならそれを貸してあげるかな。君はどうするのかな?」

「ほどき方を教えます。自分の知ってる限りのことを」

「道具か、知識か。いずれにしても当人が解決しなければならない。その見解は一致しているようですね」

 彼は微笑んだ。私はその顔で在りし日の、数少ない友人の一人を思い出した。彼は眼鏡をかけていたな……。目の前の男性も似合うかもしれないな。白髪の道具屋店員と私はその後特に何も言うことなく別れた。



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十六話 花火日和の春

 春が来た。この前いっとう冷たい風が通り過ぎてから気候がガラリと変わった。寒かった空気は暖かくなり、植物が長い休眠を経て芽を出していたり、小鳥が道の脇をわがもの顔でかっ歩し始めたり……。変化を上げれば全くキリがない。もっと身近なことでは、子ども二人の服装も薄くなったし、本もめくりやすくなった。今までのキーンとした厳しさから一転した、ポカポカと陽気な空気は、誰しもを気分屋にしてしまいそうなほどにうららかであり、だからだろうか人々が外に出る頻度も増えたように思う。

 四人が食卓を囲んでいるところに同席していると、急に舞さんが身を乗り出した。

「ねえ。今度みんなでお花見に行こうよ」

 少女は目をキラキラとして箸を動かしている四人を見た。彼女の言葉に、主人は微笑を浮かべた。

「そうだな。全員で行こう。いつにしようか?」

「そうねえ……」

 舞さんを筆頭にして、四人はぽわぽわとした会話をし始めた。花見の件だが、里乃さんは乗り気なようであり、舞さんに便乗(びんじょう)するようにして言葉を(つら)ねている。主人と奥さんは、花見に行きたいというよりは二人のワイワイと、ウキウキとした様子を眺めるのが楽しいようで、相槌を打ちながら冷静に計画を立てていた。

「おじさんも行くでしょ? 綺麗だよ!」

 里乃さんは突然私の方を見ると、手を床について純真なまなざしを向けてきた。しかし、彼らの指定した日はあいにく仕事があったので丁重に断ると、二童子は露骨に()()()()()()と言わんばかりの顔をした。私一人が居ても変わらんだろうに、ずいぶんオーバーな反応だ。

「えー、それじゃあ変わらないじゃないか」

「……えっと、その。休むことは、できないのですか?」

 奥さんがこわごわと、確かめるような声色で私に予定の変更を変えられるのかどうか聞いてきた。彼女がそんなことを言うのは珍しいどころか、初めてのことであった。いつもなら舞さんを(いさ)めるであろう主人も、口を真一文字に結んでこっちを凝視していた。……なんだ、この反応は。

 私が助けを求めるように里乃さんを見ると、しかし彼女はハッとして、あいまいに笑うだけだった。

「ふうむ。私には私の責務がありますから、難しいですね。私は散らないうちに見に行きますから、四人で楽しんできてください」

 目的意識のない仕事であっても、やはり勝手に自分の都合で休むというのは気が引けるというものである。二度目の断りに彼らは特にそれ以上の誘いはしてこなかった。多少残念そうにしている彼らの顔を見ているとそんなに私に見せたいほど綺麗なものなのかと興味がわき、今日は午後が空いていたので行ってみることにした。

 以前舞さんと歩いた道を、博麗神社への道程をつき進んでいく。門番は昼寝をしていた。起こすもの気の毒なほど幸せそうに寝顔を(さら)していたので、そのまま寛大な陽光に(さら)しておいた。妖怪と人の関係は、私がここに来た時よりもかなり軟化したようだった。それとも春の陽気な風が互いの脳髄をとろけさせているのか。白い綿のようなものが飛んでいる――実際には虫なのだが――道をグングンと歩いていく。

 博麗神社の森の出入り口の前まで来て、私は足元に幾らかのピンク色の花びらが落ちていることに気づいた。それは私の知っている桜の花びらよりもくすんでいたが、それが確かに自然の趣きをそのままに映し出していた。……そういえば、天然の桜を私は見たことがない。真の意味で自然が溢れているこの世界で、私はいくらの初体験を今までしてきたのだろうな。そう思うと、この一歩先に広がっているだろう光景が先よりも俄然(がぜん)気になってきた。

 木々のスキマを抜けると、そこにはピンク色に染まった博麗神社があった。

 青い空の下で、数本の桜の木がゆらゆらと揺れており、その花弁からピンク色の欠片をあたりに振りまいている。石道にも、土の地面にも、風によって運ばれた桜の花が程よく散りばめられており、追加され、浚われていく。ザアザアと側面から風が打ち付け、春の匂いが漂っている。神社はより一層その神秘性を増しており、どこまでも突き抜けた青い空と若々しい緑の木々を背景にしており、非常に情緒(じょうちょ)的である。

 美しい光景だ。気を抜いてしまえば思わず涙が零れてしまいそうであり、急に私のこの黒づくしの恰好が恥ずかしくなった。この布を脱いでしまえば、私はこの古風であり柔らかいこの場所に溶けて同化できるのでは。私の透明さなら可能なのではないか。ありえないことではあるが、しかしそれを切に望んでいる自分がいることに気づいて、私は胸が詰まった。

 桜の木の下には先客がいた。普遍的な、白い花を持った男がこちらに背を向けて立っていたのだ。その背恰好と髪型から、私はすぐに彼が時折道で会う、初夜に門番をしていた青年であることがわかった。男はこちらに気づかず桜の木をジッと見ていたが、やがて首を振ると振り向いた。

 彼は私に気づくと眉を上げて、手に持っていた胡蝶蘭(こちょうらん)をそっと後ろに隠した。

「おお、久しいな、黒い奴。お前も桜を見に来たのか」

「はい。見事な桜ですね。この神社に合っています」

 そう言うと、彼は、そうだろうそうだろうと言いながら喜色満面の笑みでしきりに頷いた。やがて彼はその動作を止めると古めかしい神社へと目を向けた。その顔には、嬉し気な、さみし気な、複雑な感情が浮かび上がっていた。

「この神社にはな、一人の巫女さんがいたんだよ」

 突然スルリと言葉を出してきた彼に、そのいつもと違うおだやかな声音に対して私は思わず眉をひそめてしまった。巫女さん……とは言うまでもなく博麗の巫女のことだろう。場所に関わりはあるが、どうして男はいきなり私に彼女のことを言ったのだろうか。

 私が疑問のままに首をひねると、彼は静かに笑った。

「すまない。お前には、この話を聴いてほしい」

「なぜですか」

「カンだ。お前に話せって、俺の感覚が言ってるんだ」

 ザワザワと近くの茂みが揺れる。二人しかいない神社には微量に停滞の空気が流れていた。

「博麗の巫女は知ってるか」

「知ってます。確かこの神社に所属している巫女のことで、妖怪退治等をしているんですよね」

「ああ、大方合ってる。そしてここからが本題なのだが、先代の博麗の巫女は、お前が人里に来る前に亡くなったというのも聞いているか?」

 私が頷くと、彼は急に渋みを帯びた顔をした。目を押して、口をもにょもにょと動かしている。しかしそれでは(らち)が明かないと思いなおしたのかおもむろに顔を上げると、私の空洞をマッスグと見つめてきた。

「彼女は、妖怪に殺された」

 ヒューと桜の花びらが私と彼の間を通った。それはむき出しの茶色い地面に落ちて、すぐに風に拾われどこかに消えていってしまった。以前来た時に聞いた少女の鼻唄がしたような気がしたがそれは全くの幻聴だった。改めて青年を見ると、彼はやはり笑っていた。

「この情報は部外者であるお前と、あと二人を除いて、里の者は全員知っている」

「なぜ隠す必要が?」

「博麗の巫女のことは、その仕組みに関して言えば外の世界の奴らにはなるべく言わないようにしてるんだ。余計な首を突っ込まれて、変な感情を起こされたくないからな」

 因習(いんしゅう)というものだろうか。確かに自らの常識を押し付ける可能性のある者に、何かをウカツに話したくないのは理解できる。博麗の巫女が、妖怪退治を行う存在が、逆に妖怪の凶刃(きょうじん)にかかってしまった。何ともいたわしいものだが、危険な職業であるようなので、致し方ないとは言えるかもしれない。

 彼は言葉をつづけた。

「お前に教えることはもう一つある。これも博麗つながりなのだが……子ども二人は元気か?」

 子ども二人。その言葉を聞いて私はドキリとした。無論、それは舞さんと里乃さんのことだろう。博麗の巫女という流れでこの二人が出たことに、私は驚きよりもむしろ納得の感情を抱いていた。何となくは気づいていたが、所謂カンであったため、決して口には出さなかった。出さなかったのだが――

「……元気、と言えます」

「そうか。単刀直入に言おう。彼女らは、次期博麗の巫女、その候補だ。いや、もう確定と言っても良い」

 私が黙っていると、彼は死んだ目で私を見下ろしてきた。

「彼女らは、あの夫婦に一年半前に引き取られた。その目的は緊急時の博麗の巫女の育成であり、教育だ。それ以前の記憶は、あの二人にはない。弊害(へいがい)となるから消された。幻想郷を管理する者らによってな。あいつらの、それぞれの親は今もあの里で暮らしているよ。生活を保障されながら、実の娘には一切会えず、話せず、目に入れてもなからいように規約されているがな」

 彼は言葉を切ると、ゆっくりと、ゆっくりと、能面のままに話を続けた。

「彼女らが選ばれたことは単純明快。あの里内で最も霊力を持っていた子どもだったからだ。真の親も、すでに割り切っている。情はもちろんあるだろうが、仕方ないと諦めているようだ。最後に、二人は、あの夫婦が何も説明していないなら、これらのことは一切知らない。自分が巫女の後継であることも」

 喋り終えると、青年はまるで実子のように桜の木の幹を()ぜ始めた。

「貴方はどうしてそれほどのことを知っているのですか?」

「俺が特別なんじゃない。里の皆は、全員さっきのことを知っている。全員が了承しているのだ。ただ二点、あの

二童子を除いてな」

 彼の後ろ姿が精神的に遠のいていく。ハッとして(やしろ)を見ると、一瞬だけそれは色を失っていた。その光景は、私が最初に訪れた時と同じ雰囲気であった。舞さんと来た時のように親しみはない。ただ、異質、異質、異質。

 この世界は私を内部に組み込むことはできない。どこまで行っても私は第三者であり続け、徹底した傍観者となるしかないと、再確認してしまった。私には、彼の話が限りなく嘘くさく聞こえてしまったのだ。それ程までに私にとって先の説明は常識から逸脱しており、全く考えられないことだった。だから、自分には何もできないと痛感してしまったのだ。

「お前は俺たちを否定するか?」

 振り向いた男は自嘲していた。彼は私にどんな回答を求めていたのだろうか。きっとそれは非難だったのだろう。しかし、私はいいえと応えてしまった。偽らざる本心で、それを聴いても私は何もできないと言うと、彼は泣き笑いを浮かべた。

「お前は弱いな。だから、俺は話せたわけだが……」

 男は胡蝶蘭を手に、神社の後ろへと去って行ってしまった。彼が何をしにここに来たのか。花見以外の理由を、その時、私は少しだけ感づいた。

 主人の家に帰ると、ほの暗い玄関が私を出迎えた。居間には、二人の少女がまるでエビのように体を曲げて静かに眠っていた。机には本が無造作に置かれており、そのページを見るに、中盤まで読み進めているようだった。

「わたしが、かぐやひめー……」

 寝言だろう、里乃さんが幸せそうに呟き、舞さんは静かに笑っていた。この後私は毛布を持ってきて彼女らの安眠をより良いものにするだろう。それが今できる私の精一杯だった。



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十七話 博麗の名誉を

 あたたかな陽光が降り注ぎ始めてから、少しの時間が経った。人々は春の訪れにいち早く順応(じゅんのう)し優しい環境の中で笑いあっている。この前、小さい、羽の生えた少女が空を飛んでいた。嬉しそうなその様子に不思議なものだと思って見ていると、隣にいた本居の店主が、あれは春を告げる妖精だと教えてくれた。春を運ぶ自らの役目を終え、充足感に満たされているのだろうか。ピンク色でフワフワと浮かぶその姿は、遠き未来も変わらないのだろうという予想を私に立てさせた。

 本屋の仕事から帰ると、もう夕方になってしまっていた。デンと建っている家の中に入ると、ドタバタと幾人かの人が走り回っていた。その顔は、見知らぬ人も、見覚えもある人もいる。しかし(うたげ)のような騒がしさはなく、むしろ葬式だとか、出産だとか、そういった荘厳な場の雰囲気だった。

 何本かのロウソクを持った少年に、私は話しかけた。

「これは一体どうしたのですか」

「何が?」

「このように人が来訪しているなどと」

「ああ、貴方はこの家の人でしたか。でしたら、奥に進んで。僕よりも詳しい人がいるだろうから」

 そう言われていつも通り私は家の中を歩き始めた。誰もが多少せわしなく道を行き交っているが、その顔には焦燥よりも安堵の気持ちがにじみ出ていた。――これでひと段落着いたな。――ああ。誰かの話し声が四方から聞こえる。しかし、私の知り合いとも言える人物は全くと言って良いほど見つからなかった。

 ひとまず私は縁側に向かった。私の勝手な予想だが、そこに見知った誰かがいると漠然と思ったからだ。

 はたして、そこには一人の少女が背を向けて座っていた。懐かしく、以前もこのようなシチュエーションがあったような気がする。その茶髪の少女は、里乃さんは、私が近づいてきたことを足音で察したか肩を揺らして、しかし目線は外に置いていた。

「こんにちは。今日は騒がしいですね」

「お帰りなさい。お仕事お疲れ様です」

 彼女は行儀よく、いつものように丁寧な物言いで私の返事に応じた。一呼吸おいて、彼女は自発的に私に語りかけてきた。

「……夢が現実になった瞬間って、おじさんは体験したことがある?」

「……はあ、ずいぶん唐突ですね。どうしてまた」

「すみません、少し気になって」

「……あったとしても、私にその記憶はありません」

 私がそう言うと、里乃さんはカラカラと笑った。

「良いなあ」

 彼女の後ろには私がいるため、互いに表情は見えなかった。今、彼女の顔を見てもその表層しかわからないのだろうなと思うと我ながら情けなく、しかしそれも当然だと感じた。出所も知れない男と己のことすら知らない少女では、あまりに違いすぎたからだ。

「私ね、私と舞ね、博麗の巫女になるの」

 彼女は振り向いた。その顔には悲しさと、嬉しさと、さみしさと、苦しさと……。そういった単純な感情がわちゃわちゃと集合していた。児童とは思えないその様子に、反してそれは子ども特有の行く当もない不安感から来ているのかもしれなかった。

「夢だったけど、でも、どうしてかな。あんまり嬉しくない。本当に私で大丈夫なのかなあ……」

 そう言うと里乃さんは目を伏せた。後ろの方から全くの継ぎ目なしに誰かの歩く音がしている。私は、目の前に座る少女に、()()()()()()()()()()()

「……何も言ってくれないの?」

 意外そうな面持(おもも)ちになった彼女に、やはり私は言葉を発せなかった。無責任な、おめでとうだとか大丈夫とか、そういったねぎらいどころか、今自分が思っていることさえ。私にできたことは、ただジッと不安にさいなまれている人を見ること、ただそれのみだった。

 そうしていると、段々と少女の眼が淡く光り始めた。

「なんで? いつもみたいにわけわかんないこと言ってよ。煙に巻いてよ。私を安心させてよお……」

 彼女は私に失望しているようだった。私という最も外部にいる人間から安心材料を貰いたかったようだ。里乃さんはその後も貝のように押し黙っている私を見続け、やがてごめんなさいと呟くと立ち上がりどこかへと行ってしまった。

 私は自己中心的だ。

 先ほどの状況で何かを言ったならば、間違いなく彼女はその言葉を(かて)として進むだろう。それこそ彼女のこれからの人生を左右するほどに。それが怖かった。私は目の前で責任を背負わされている少女の、その一端を担うことになるのを恐れたのだ。ほかの世界で生きてきた人間に手を差し伸べられるほど私に勇気はなかった。だからといって、何か軽い言葉を投げかけられるほど私は二童子に関心がないわけでもなかった。

「おいおい。何か言葉をかけてあげなさいよ」

 私が茫漠(ぼうぜん)としてそこにいると、突如背後から声をかけられた。

 ビクリそして振り向くと、そこには金髪の女性があきれ顔で立っていた。頭には黒い山のような帽子を被り、前掛けのついた、古代中国風の服を着ている。

 その姿を見た瞬間、私の背筋に衝撃が走った。その威風堂々(いふうどうどう)さ、その絶対さ……。今にも腰が抜けてしまいそうな感覚を、私は一度体験したことがあった。前に道具屋で女性に会った、あれだ。その本質は全く違っているが、寿命が縮むような存在感と、あわせ持つ秘匿性(ひとくせい)は同じ程だった。

「かわいそうじゃないか。それともあいつの言った通り、仲はそんなに良くないのか」

 絶対的な少女は、腕を組むと可愛らしく首を傾げた。気落とされていた私は、その動作でようやっと正気に戻った。

「貴方は、一体」

 カラカラになった喉からなんとか言葉を出すと、目の前の者はジロリとこちらを見下ろしてきた後、支障はないかと独り言を発した。

「ああ、そういえば自己紹介がまだだったな。弱き人間よ。私の名前は魔多羅隠岐奈(またらおきな)星神(せいしん)であり、宿神(しゅくしん)であり、後戸(うしろど)の……。いや、この()()()()()()()賢者の一人、と言った方が早いかな」

「賢者、作った?」

 私がぼんやりとした思考の中、隠岐奈と名乗った者の言葉を一部繰り返すと、彼女はうんうんと得意げに頷いた。

 幻想郷を……この世界を作った者。――気狂(きぐる)いのたちだろうか。一瞬よぎった余りにも失礼な考えを、私はすぐさま一蹴した。そんな下賤(げせん)な思考を目の前で浮かべること自体が不敬(ふけい)であると感じさせるほどに、彼女は堂々として、当たり前の様相をしていた。

 先にこの者は星神と名乗った。つまり神であるわけだ。そうであるならば、ヒシヒシと感じるカリスマと超常識的な雰囲気を漂わせている隠岐奈さんは、今までに会った神様よりはずっと納得できた。

「それで、その賢者様が私に何の用でしょうか」

「いや、次代博麗の巫女の教育も一段落着いたし、一回ぐらい彼女らの言うアドバイザーに会ってみたくてね。もっとも幼気(おさなげ)な者を泣かすような下種(げす)だったわけだが」

 彼女はニヤリと笑った。誤解だと主張することもできたが、どうやらワザと言っているようだったので、訂正する必要はなさそうだ。

「教育……。すると彼女らの言っていた師匠とは貴方のことだったのですか」

「間違いはない。彼女らに先生と呼べる者は複数いるが、私はその内の一人だな」

「はあ。複数ですか」

「個性的な奴らが揃っているぞ。隙間(すきま)に座る奴とか、妖怪封印男とか、四六時中布を(まと)った変態とか」

 微妙に穏やかな空気が流れる。その雰囲気に似合わず隠岐奈さんは中々どうして親しみやすい人物なようだが、私の緊張が解けることは一切なかった。

 彼女と一方がチグハグな世間話を続けていると、私は胸の奥にあるもう一つの感情に気づいた。畏敬(いけい)の念である。確かに隠岐奈さんはこれまで会った神より断然そのオーラは名に合っていた。しかし、それ以外にも私はこの気持ちには理由があるとした。まるで昔から信奉し続けていたようなこの想いは……。

 私たちがその後も取り留めもない話をしていると、廊下の角の方から一人の少女が顔を出した。舞さんである。彼女は、先ほど里乃さんがしていたような普段とは少し違う神秘的な装いをしていた。彼女は隠岐奈さんに目を向けると、多少顔を引きつらせて、そのままこちらに近づいてきた。

「お師匠様、こんにちは」

「お? 舞か。彼らへの堅苦しい挨拶はすませたのか?」

「もう、途中で里乃が勝手に抜けて大変でしたよ。……今日は修業はありませんよねー。なんたって特別な日ですから」

 笑顔のままにスルと少女の口から出てきた言葉に対して、隠岐奈さんは特に何も言わなかった。私はその時の彼女の顔を見ていなかった――少しの恐怖心からである――が、舞さんは顔に一筋の汗を垂らして、逃げるようにして私に目を向けた。

 私がジッと黙っていると、彼女はいかにも純粋であるという目をした。嬉しさしかないように思える目には、しかし、その深層には、少し突っつけば出てきそうなほどに不安定なモノが潜んでいた。彼女は隠そうとしているのだろうが、それはもしかすると里乃さんよりもハッキリと出ているかもしれなかった。

「おじさん! 僕、夢が叶ったよ」

「はい」

 単調な返事をする。少女は予想外の反応に一瞬固まると、少しわたわたとした後、隠岐奈さんを上目遣いに見てどこかへと駆けて行ってしまった。いつもよりも上級の服装をした彼女の後ろ姿はいつも通りの天真爛漫(てんしんらんまん)なそれであり、だからこそ私は多少安心することができた。

「労いの言葉も祝福の言葉も吐かんか。やっぱり貴様は冷たい奴だ」

 隠岐奈さんがこちらを睥睨(へいげい)しており、その様相は正しく小さい者を憐れんでいる強者だった。

 私は笑った。声を出さずに肩を揺らさず笑った。

「神様、これから彼らはどうなりますか」

「教える価値はないねえ、お前に」

「ですよね。……では、私は貴方を信奉してもよろしいでしょうか」

 彼女は突然の私の申し出に(いぶか)しげな表情をした。カアカアとカラスが外で鳴いている。その時、今まで何とも思っていなかったその声々に、私は懐かしさと同時に嫌悪感を持った。それは目の前の少女から発生している雰囲気に呑まれたからであることに他ならなかった。

 後戸の神は不思議そうに、穴が開くほど私の顔を見て、そして手をいきなりバッと広げた。

「好きにせよ。何が目的かは知らんが、私は神。敬うのならどのような大悪人であれ、一握りの聖人であれ、等しく信徒である。信仰した瞬間から、双方の意志を問わず神は雨となり人はカエルとなるのさ」

「ありがとうございます」

「……本当に何を考えているかは知らないけど、変な奴だなあ」

 彼女は困ったように呟くとふすまの方へと歩き、消えてしまった。

 私がなぜ彼女を信仰するように思ったのか。

 全細胞が私に命令したのか、俗に言うカンというものなのか。全くわからないが私は自らに芽生えていた、彼女に対する畏敬の念とともにある種の親しみに気づいていた。それは同じ秘匿性を持っていたからか、それともずっと過去か未来かの因縁から来たのかサッパリではあるが、しかしここで彼女との関係を藁一本ほども持っておかなければ、私は遠い未来で後悔するような気がしたのだった。

 庭を見ると、紅い霧が立ち込めたような景色が私の眼を突いた。幾分かおさまった物音が後方から聞こえ、めでたりゃめでたりゃと言う声がしていた。フラフラと揺れている草本たちを見ていると心の中が不自然にザワつき、やがてその不安感さえも、私のこころにくっついてしまった。

 唐突に、本当に突然私はふすまをけ破って精神病のようにわめき騒ぎたい思いに襲われたが、実体のない体も脳も全く働かなかった。



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