「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」外伝:大東京鉄道 (あさかぜ)
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1話 戦前の大東京鉄道

 大東京鉄道は、鶴見から荻窪、練馬、川口を経由して金町に至る約59㎞の鉄道である。山手線の更に外側を通る路線であり、東京外環状線の役割を担っている。規格は直流1500V、1067㎜、全線複線となっている。

 環状線の為、多くの路線と交差している。以下が大東京鉄道の駅である。前についている「◎」が乗り換え路線がある駅、「・」が大東京鉄道単独の駅となる。

 尚、一部の駅では乗り入れている路線が史実とは異なっている。

 

◎鶴見:JR(京浜東北線、鶴見線)、京急(本線、やや離れた京急鶴見)

・下末吉

・上末吉

・川崎小倉

・南加瀬

・矢上

◎元住吉:東急(東横線、目黒線)

・木月大町

◎武蔵中原:JR(南武線)

・宮内

◎等々力:東急(大井町線)

・深沢

◎桜新町:東急(田園都市線)

・弦巻

◎経堂:小田急(小田原線)

・日本大学前

◎桜上水:京王(京王線)

◎西永福:京王(井の頭線)

◎東田:京王(京王新線)

・南荻窪

◎荻窪:JR(中央線快速、中央・総武緩行線)、京王(荻窪線)

・天沼

◎鷺ノ宮:西武(新宿線)

・中村

◎練馬:西武(池袋線、豊島線、西武有楽町線)、東京メトロ(白金線)

◎平和台:東京メトロ(有楽町線、副都心線)

◎練馬徳丸(史実の東武練馬):東武(東上本線)

・志村西台町

◎蓮根:都営地下鉄(三田線)

◎浮間舟渡:JR(埼京線)

・川口原町

◎川口:JR(京浜東北線)

◎川口元郷:東武(赤羽線)

・弥平町

・入谷

・舎人

・伊興

◎竹ノ塚:東武(伊勢崎線)

◎保木間:京成(筑波線)

・六町

◎北綾瀬:東京メトロ(千代田線支線)

・東淵江

・中川

◎金町:JR(常磐緩行線、城東線)、京成(金町線)

 

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 史実では、鶴見~荻窪~金町と荻窪~大宮の免許を「金町電気鉄道」が申請して1928年に認可されたものの、1935年に全ての免許を失効している。時期的に鉄道大臣が小川平吉の頃であり、この時期は鉄道行政が最も混乱していた。この時期に認可された路線は軒並み利権目的で内容も現実離れしたものが多く、真面目に建設する気があったのかは疑問である。何せ、免許を出せばほぼ通った時代だった為である。

 尚、大東京鉄道は金町電気鉄道だけでなく、日暮里~越谷~野田町(現・野田市)の「北武電気鉄道」と巣鴨~大宮の「東京大宮電気鉄道」の免許をそれぞれ保有していた。だが、どの路線も開業する事は無く1935年中に軒並み失効したが、何故か日暮里~越谷だけは1967年まで存在し続けた。

 

 この世界では、環状線の部分を建設するのに十分な資金が集まった事で1936年に開業した。規格は直流1500V、1067㎜、全線複線とかなり高規格であった。

 だが、集まった資金が投機目的が多かった為、開業までは混乱が多かった。資金が不安定で工事が度々中止になったり、東北や満州の開発の影響で各種資材が高騰したりなどして、開業に時間が掛かった。また、資金不足から一部の規格を下げて建設され、レールや橋梁などは各社の中古品や廃線からの転用が使用された。

 開業後も、沿線にある森永製菓関係の貨物輸送以外の収入が少なく、沿線人口の少なさ(沿線の宅地化が本格的に進むのは戦後)や建設費の償還で赤字が続き、元々投機目的だった事から赤字を理由に保有株式を沿線の私鉄に放出した。

 その為、株式を京浜(京急)、東横、目蒲(以上、東急)、小田急、京王、帝都(以上、京王)、西武、武蔵野(以上、西武)、東武、筑波、京成(以上、京成)の11社に過半数を握られる事態となった。鉄道会社だけでなく、鶴見の後背地の開発を目的に浅野財閥、沿線に影響力があった大室財閥や日鉄財閥などの財閥にも株が渡り、最終的に8割近くが鉄道会社と財閥に握られる事となった。

 一方で、財閥に株を握られたのは悪い事では無かった。浅野財閥が大東京鉄道の株を引き受けた代わりとして、鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)の未成線である鶴見~矢向の一部流用を認め、鶴見~下末吉の土地の買収を容易にしてくれた。大室と日鉄も、筑波高速度電気鉄道(現・京成筑波線、京成宇都宮線)と武州鉄道(現・東武赤羽線)の交差部の工事を一部請け負ってくれた。

 

 私鉄各社に株を握られている事から、各社が傘下に収めようとした。その為、社内では私鉄からの出向者や内通者による内紛が相次ぎ、健全な運営が出来ていなかった。大きな事故こそ起きなかったものの定時性は低く、沿線の開発も進んでいなかった事もあり、利用者は常に低かった。

 この動きが変化するのは1938年の事である。この前年、盧溝橋事件を発端に日中の武力衝突が本格化し、北京と中国沿岸の主要都市を占領した。これに伴い、国内では準戦時体制に移ろうとしており、軍需関係の伸びが大きくなった。

 その様な状況で、沿線の農村地帯に多くの軍需工場が設立され、それに釣られる様に宅地も増加した。これにより大量の乗客が発生したが、前述の通り内紛状態であり運営状況は悪かった。また、資金不足から車輛の増備もままならなかった。その様な状態では、工員や貨物の輸送に悪影響が出て、生産体制に大きな影響を及ぼすと見られた為、国(政府と軍部の双方からの為、文字通り「国」)から「内情を安定させろ」という至上命令が出された。

 これにより、警察と鉄道省の介入、上層部が全員逮捕されるという非常事態になったが(横領や贈収賄が理由)、漸く内紛が収まった。また、新しい上層部は鉄道省OBと警察OBが1人ずつ入り、東横、武蔵野、東武、京成、浅野、大室、日鉄から優秀な人材が送り込まれた事で経営の健全化が進められる事となった(社長は浅野出身者が、副社長は大室出身者がそれぞれ就任)。

 

 上層部の刷新が終わった後に行われた事は、車輛の増備と定時性の確保だった。兎に角、運行頻度を増やさなければ工場の稼働率は安定しない為、車輛の増備が急務だった。また、ダイヤを安定させなければ車輛の増備も効果が薄れる為、両方を同時に行う必要があった。

 後者は各社から輸送部門が派遣された事で改称したが、前者が大変だった。当時は準戦時体制という事で物資の不足が目立ってきており、車輛の増備も簡単には出来なかった。

 それでも、鉄道省OBや大手私鉄の出身者がいる事で便宜が図れ、国鉄の中古客車や各私鉄の中古電車が多数譲渡され、新造車輛も10両程認可された。これにより輸送力不足は解消されたが、雑多な車輛が集まった為、今度は性能の不一致や輸送量のバラつきなどの問題が生じた。だが、この問題は輸送量の確保の方が優先された為、後回しとなった。

 兎に角、1940年には輸送量の拡大を行えた事で、国が心配する事は無くなった。その後、沿線には多くの重工や電機メーカーの工場が誘致され、合わせて住宅地も整備される事となった。



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2話 戦時の大東京鉄道

 国による指導の強化、各私鉄の協力により輸送力強化と定時性の向上に成功した。また、内紛状態だった社内も安定し、漸く健全な経営が行える状況になった。

 しかし、時代が安定を許してはくれなかった。何故なら、戦乱が近づいており、沿線にはそれに対応する為の軍需工場が多数存在する為である。

 

 日中の衝突は小競り合いの域こそ出なかったものの、解決の糸口は見えず長期戦の様相を見せていた。また、この頃にはワシントン・ロンドンの両海軍軍縮条約の期限が切れる頃であり、日本も海軍を中心に軍備拡張を行っていた。これは日本に限った事では無く、地球の反対側のイギリスや太平洋の向こう側のアメリカも同じ事を行っていた。

 1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻を切欠に二回目の世界大戦が始まった。日本はまだ参戦していなかったものの、アメリカが英仏に燃料や軍艦など各種物資を供与していた事から、近い内にアメリカが参戦すると見られた。そして、その後は史実と同じ様な歴史を歩み、日米の対立は解消不能になり、1941年12月8日に開戦する事となった。

 

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 開業後の時期が軍拡の時期と重なった為、沿線には多くの工場が建設された。浅野財閥や大室財閥、日鉄財閥との繋がりがある為、浅野財閥系の企業(浅野カーリット、沖電気など)や大室財閥系の企業(大室電機産業、大室化成産業など)の工場が複数誘致された。それ以外でも、東芝や日本無線系列の部品工場が誘致されるなどして、電機関係や金属加工の工場が多数設立された。

 一方で、宅地の開発は低調だった。物資不足が最大の原因である。一応、住宅営団による工場近辺の住宅開発の計画は立てられたが、物資不足から殆どが未完成に終わった。

 

 工場が多数誘致された事により、多くの専用線が建設された。また、大東京鉄道と国鉄各線や私鉄各線を結ぶ連絡線も建設された。その中で最重要なのが、下末吉から品鶴線の新鶴見操車場へ至る路線、荻窪で中央本線に繋がる線路、川口で東北本線に繋がる線路の3つである。

 これにより、国鉄の東京における重要幹線同士を結んだ事となり、国鉄の貨物も多数運行された。だが、国にとって貨物の運行や産業面における重要路線であったが、何故か戦時買収される事は無かった。一説には、鉄道省が内紛解決に介入した際に私鉄各社や財閥との間に「如何なる事があろうとも独立を維持する」という密約が結ばれたからと言われている。

 兎に角、大東京鉄道は他社に合併される事や国に買収される事は無く、独立して戦後を迎える事となる。

 

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 1941年12月8日の開戦以降、沿線の工場はフル稼働状態となった。それによって、原料の輸送や製品の輸送で多数の貨物列車が運行された。資金不足から自前の電機機関車の導入が少ない為、国鉄から電気機関車を借りるなどしたが、国鉄自身も輸送力強化の為に古い機関車を総動員していた為、借りる事そのものが難しく、借りれたとしても短期間だった。

 その為、国鉄の工場に放置されている機関車を改造して導入できないかと相談した。その結果、大宮工場のEC40形電気機関車6両(アプト式)とED54形電気機関車2両、DD10形ディーゼル機関車1両、鷹取工場のDC10形ディーゼル機関車1両が余剰という事が判明した。アプト式を除くこれらは全て、少数生産だったり特殊な機材を搭載している事から、信頼性の面から運用を外された。

 早速、それらの機関車を一般型の電気機関車と同等に改造して導入したいと交渉した。国鉄側としては旨味は薄かったが、現状の大型電気機関車を貸し出す事が減ると考え、1943年までに全車両の改造を完了して順次路線に投入させた。それ以外にも、各電機メーカーが保有している試作電気機関車を購入するなどして輸送力の強化に努めた(沿線に軍需工場が多かった為、蒸気機関車の導入は難しかった)。

 これらの大量導入で、貨物の輸送力強化は実現した。車輛が一定数揃うのも、戦況が日本有利で多少余裕のある1942年中頃というのも幸いだった。これ以降となると戦況が五分五分から日本不利になり、車輛の増備の余裕が完全に無くなる為である。

 

 工員の輸送で連日満員となり、工員専用列車や電車1両又は機関車に客車数両を繋げて輸送力を増やした編成で運行するなどしていたが、それでも不足していた。一時は貨車を連結して運行していたが、流石に安全性の問題や客からの批判(いかに戦時下であっても、客を貨物扱いされるのは勘弁だったらしい)から数ヵ月で運行を取りやめた。

 最終的に、運輸通信省(1943年11月1日に鉄道省と逓信省が合併)が63系の導入計画を早め(史実より1年早く導入)、それによって生じた17m級電車を一部譲渡する事で対応した。それだけでも不足の為、老朽化した木造客車を入れる、貨車を客車化する(前回と異なり、客車風に改造してある)などして対応した。

 

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 戦時中だが、大きな被害を受ける事は無かった。最大の理由は、マリアナ諸島が奪われなかった事である。詳しい事は本編の『番外編:この世界の太平洋戦争⑧』を見てほしいが、これによって空襲の規模が史実よりも遥かに小さいものとなった。一度だけ大規模な空襲を受けたが、場所が浅草区(現・台東区東部)や本所区(現・墨田区南部)、深川区(現・江東区西部)といった下町だった為、沿線の被害は小さいものだった。

 寧ろ、日本の太平洋沿岸に大量の機雷をばら撒かれた方が痛かった。これによって海上交通路が大打撃を受け、そのしわ寄せが鉄道に回ってきた。実際、今まで船舶で運んでいた食糧や燃料を搭載した貨物列車がこの頃に何本か通過している。

 空襲による沿線の被害は小さかったが、被害を受けなかった訳では無く、武蔵野に置かれていた大和航空工業(日本最大の航空機用エンジンメーカー。詳しくは本編の『32話 昭和戦前⑩ :大室財閥(20)』参照)に対する空襲の際に風で流されたり、目標を誤ったり、帰還時に残った爆弾を処理する際などして何発か落ちてきた事があった。偶然から、荻窪の車輛基地に落ちて電車4両、機関車1両、客車8両、貨車11両が被災した。他にも、線路上の1編成が全焼、一部区間の架線が焼失などの被害があった。幸いだったのは、変電所が焼失しなかった事である。

 

 多少の被害を受けたものの、重要路線であった事から復旧は早かった。架線が復旧するまでの間は蒸気機関車で急場をしのいだ。その後、残った車輛で何とか遣り繰りをしていたが、ただでさえギリギリだった車輛の運用が被災によって狂った為、再び輸送力不足となった。今回は他社も国鉄も余裕が無い為、貨車を増備してそれで急場をしのぐしか無かった。

 しかし、この状況も終わろうとしていた。1945年4月の第二次マリアナ沖海戦以降、日米共に戦争を続ける余裕が無くなり、同年6月5日に日米は停戦協定を結んだ。これにより戦争は終了となり、7月2日に正式に日本は全ての連合国との戦争状態が終了した。



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3話 戦後復興期の大東京鉄道

 太平洋戦争が終わった事で、軍需最優先の輸送体系は終わる事となった。何故なら、講和条約で日本軍の大幅な軍縮が決まった為である。その為、沿線にある多くの軍需工場の閉鎖又は大幅に生産力を下げた。後に、これらの工場は宅地に転換されるか、別産業への転換が決まった。

 

 軍需優先から解放された事で工員輸送は無くなったが、混雑は戦時中と変わらなかった。寧ろ、戦後の方が混雑が酷かった。車輛不足と食糧不足、電力不足、都市部の人口の急増が主な理由だった。

 空襲による車輛損失もあるが、戦時中からの酷使によって、戦後に利用可能な車輛が大幅に減少していた。実際、電車の7割、客車の8割が修理をしなければ利用出来ない程に損耗していたものの、車輛に余裕が無かった事から修理も応急的なものしか行えず、慢性的な故障が相次いだ。そして、資材不足からその修理すらままならなかった。

 

 一方で、国内の天候不良、外地(朝鮮と台湾)や満州、東南アジアからの食糧の輸入が減少した事で(※1)、食糧不足が深刻化すると見られていた。アメリカが食糧危機が統治に悪影響を与える事を懸念して、本国から緊急輸入で対応しているがそれでも不足は避けられないと見られ、東京や横浜などの大都市部から郊外や甲信越へ食糧を買い出しに出かける人が鉄道を利用した。

 大東京鉄道沿線もまだ農村地帯が残っており、東京や横浜から近い事もあり、多くの買い出し客が来た。また、東京の中心部を通らない抜け道として活用された事も利用者を多くした要因となった。

 尚、食糧不足については、前述の緊急輸入やガリオア資金(※2)やララ物資(※3)によって1947年頃に緩和された。

 

 また、送電線の損耗や一部の寸断で電気が送られなくなったり、発電用の石炭の不足で発電量の減少などもあり、電力が不足していた。その為、停電が何度も発生し、その度に電車が止まったり、送電されても電圧が下がっている事から速度が出ないなどに見舞われた。

 

 更に、終戦によって戦地からの復員だけでなく、講和会議によって外地を手放す事となった。これによって、外地だけでなく租界や各地の日本人街の在留邦人の本国への引き揚げ命令が出された。約350万人の復員者と約300万人と見積もられた在留邦人の帰還が行われ、国内人口が急増した(同時に、朝鮮人、台湾人、中国人の帰還も実施)。復員者は故郷に戻ったが、引揚者は国内開拓地に移住するか都市部に移り住む事となった。

 戦時中に空襲による被害拡大を防ぐ為に、疎開が行われた。史実よりも数は少ないが、それでも約20万人の学童疎開(史実では約40万人)が行われた。それ以外にも、工場疎開や縁故疎開が行われ、一時的に都市部の減少が減少したが、それが戦後になって大多数が戻ってきた。

 

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 これらの要因から、大東京鉄道が保有する車輛の多くが「緊急に全面修理を行わなければ大事故は避けられない」という評価を下される事となった。車輛だけでなく、線路や架線、橋梁などの老朽化も著しく、早急に抜本的な改修をするべきという事になった。

 改修計画そのものは戦後直ぐに建てられたが、戦後の混乱や資材不足、殺人的な混雑に対処する必要があった事から、行動に移せなかった。漸く計画を実行する事が出来たのは、多少情勢が落ち着いた翌年の6月頃からであった。

 

 車輛については、被災車輛を修理したり運輸省規格の車輛を導入するなどして対応した(終戦直後に運輸通信省は運輸省と逓信省に分離)。それ以外にも、東急や東武、西武、京成が保有する小型電車を譲り受けたり、車輛メーカーにある注文流れを導入するなどした。その後、情勢の安定や配給量の増加で買い出し客が減少した事で、漸く輸送力不足は解消された。

 設備の方については、自前で全国から使えそうな廃材を掻き集めるか、資材の割り当てを優先してもらえる様に運輸省に願い出る他無かった。尤も、運輸省にしても余裕がある状況ではなく、国鉄も同様に状況が悪かった為、大手私鉄並みに割り当ててくれるぐらいが限界だった。結局、設備更新が本格化するのは資材不足がある程度緩和してきた1948年以降の事となった。

 

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 終戦から数年が経過し、漸く社会に安定が戻ってきた。物資の不足はまだ見られたが、戦時下の緊張感から解放された事で、人々の顔に笑顔が戻ってきた。また、戦地からの復員も進み、元職員の職場復帰も進みつつあった。

 その一方で、職場における人員過剰の問題も発生した。戦時中、徴兵によって男子が出征したが、その穴埋めは学生や女性によって行われた。それが戦後の復員で職場復帰した事で、大量の余剰人員が発生した。

 尤も、この問題は早期に解決した。学生や女性職員はあくまで一時雇用の様なもので、本来の職員が戻ってくれば元の状態に戻すだけだからである。

 寧ろ、余剰人員の問題は国鉄の方が酷かった。軍や外地・占領地の鉄道職員の受け皿として国鉄が利用され、大量の人員を抱え込んでいた。その後、再軍備や警察の重武装化(※4)によって軍に在籍していた者の多くがそちらに流れた事で概ね解消されたが、それでも約3万人という大規模な人員整理を行う事となった。

 

 国内の人口が増加すると、宅地不足が深刻化した。戦前から宅地不足は慢性化していたが、人口急増によって深刻化した。その為、宅地整備が急務となったが、当時は資材不足で簡単に整備出来る状況では無かった。この状況が解消されるのは1960年代になってからであった。

 それでも、廃材でバラックが建設されたり、アメリカから供与されたクォンセット・ハット(※5)を仮設住宅にするなどして一時的な対処が行われた。兎に角、雨風を凌げる建物が何とか整備された。

 

 国内の状況は落ち着いていたが、経済は混乱が続いていた。終戦によって今までの軍需主導から民需に転換する必要があったが、機材の戦時中の酷使や各種原料の不足、経済政策の混乱が原因で上手く行っていなかった。一時は傾斜生産方式(※6)によって高成長を見せていたが、直ぐに経済政策の変更で下火となった。それ処か、経済政策の変更で中小企業を中心に倒産が相次ぎ、大企業でも競争力が低い所はたちまち苦境に陥った。その為、一時は復興による成長が軌道に乗りかけていたが、一転して不況になった。

 一方で、復興によって戦時中から進んでいたインフレが悪化しており、傾斜生産方式によって加速していた事から、インフレを抑制する必要があった。不況にはなったが物価は安定した。また、不況によって企業の合理化が進められ、輸出産業を中心に競争力を付ける事に繋がった。

 この不況が終わるのは、1950年6月25日に朝鮮戦争が始まるまで待たなければならなかった。




※1:朝鮮と満州はソ連の侵攻、東南アジアは現地独立勢力による武力蜂起が原因で1945年8月頃には輸入が途絶えた。台湾からは何とか残っていたが、アメリカと中華民国が占領統治に入った事で一時的に止まった。
※2:ガリオアは「占領地域救済政府資金」の略。陸軍予算から出されている。これを占領地の政府に供与して、アメリカから食糧や燃料、医薬品などを購入させた。この資金はあくまで貸与の為、復興した暁には返済する事となる
※3:ララは「アジア救済公認団体」の略。民間から寄付を集め、それで物資を購入して日本に送った。主な物資は食糧で、それ以外には衣類や医薬品が含まれていた。学校給食が本格的に始まったのもこれに由来する。
※4:終戦直後の混乱期に共産党関係の事件が多発し、中には軍から横流しされた武器を使用した事件もあった。それに対処する為、警察内に銃器対策部隊(後に機動隊及び特殊部隊に改編)が設立された。軍を使用しなかった理由は、終戦直後で軍に対するアレルギーが強かった為。
※5:カマボコ型の建物。トタン製で軽量な事から製造が容易。日本に供与されたのは、駐留部隊が当初予定より減少した事から余剰分の処理をしたいアメリカ側と、住宅不足が深刻な日本側の思惑が一致した為。実用性が高い事、日本でも生産出来る技術や材料で出来ている事もあり、後に日本でも生産される事となり、住宅不足の一時的解消や災害時の仮設住宅として使用される。
※6:重要産業に資金・物資を集中的に投入して、産業全体の復興を目的とした。この場合の「重要産業」は石炭とそれを活用する鉄鋼、電力、化学(化学肥料)を指していた。


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4話 戦後の大東京鉄道①

 1950年6月25日、朝鮮人民軍が38度線を南下した事で朝鮮戦争が勃発した。詳しい内容は本編の『番外編:この世界の日本』に譲るが、これによって日本では国連軍(※1)向けの各種特需に沸く事となった。また、日本に駐留していたアメリカ軍の殆どが朝鮮半島に移動した事で、日本国内の軍事力が低下する事となった。それを防ぐ為と日本軍が朝鮮戦争に参戦した事に、日本軍の重装備化と規模の拡大がアメリカの要請によって行われ、日本軍向けの軍需も急速に拡大した。2つの特需によって、日本経済は急速に回復した。

 特需によって、各地の工場は再びフル稼働状態となった。今回は戦時中と異なり、アメリカからの技術導入や資源投入、安定した資本投下によって、大規模かつ安定した質の生産が行える様になった。当初こそ国連軍及び日本軍向けの需要が多かったが、途中から余剰生産力を活用して民需向けの生産が増加した。この頃には、資材不足が大幅に緩和された。

 

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 資材不足が緩和された事で、計画止まりだった設備更新や車輛増備、宅地開発が本格化した。1951年6月頃には計画が動き出し、最初に設備更新が行われた。1948年から何度か修繕が行われていたが、資材不足によって大規模な修繕は行われておらず、数年間で何度か脱線事故や橋梁の破損が発生している。

 行う事は、軌条、枕木、橋梁、架線、全ての交換だった。これらは建設時の資金不足から廃品を利用していた事から最初から耐久性は落ちており、戦時中・戦後の酷使で更に疲弊していた。その為、早急に新品に交換する必要があった。

 幸い、今回は資材不足が問題とならない事から順調に進んだ。軍需や建設ラッシュなどで資材の価格が高騰しているのは痛いが、資金があれば手に入るのだから前よりは大分マシな状況である。

 尤も、その資金が無いという問題があった。開業当初から資金不足に悩まされており、戦後は補修や車輛の増備などで資金を取られており、大規模な計画を行うとなると自前では足りなかった。その為、銀行からの借り入れとなるが、この際に資金を借りた主要銀行が日本長期信用銀行(長銀)と日本信託銀行で、翌年からは日本動産銀行(動銀)と昭和信託銀行からも借り入れた。この内、動銀と昭和信託は新亜グループ(※2)であり、設立されたばかりという事もあって、繋がりを深めようと最初から多額の融資が行われた。実際、これ以降の大東京鉄道は新亜グループとして見られる様になる。

 兎に角、豊富な資金を得た事で設備更新は進んだ。設備の酷さや沿線人口が急増しつつあった為、1951年10月から急速に進められ、翌年1月に更新工事は完了した。

 

 合わせて、車輛の更新と増備も行われた。戦時中に集めた車輛や戦災車輛の多くは戦後になって車体更新を行った事でまだ運用は可能だが、集めた車輛の中には15mや13mといった小型車輛も多く見られた。他にも、付随車扱いの客車の更新も進んでいなかった。

 これらの状態の解消と車輛性能のある程度の統一化を目的に、小型車輛の地方私鉄への譲渡と残る電車と客車の更新工事が行われる事となった。また、沿線の宅地化が進んでいる事もあり、譲渡と更新によって不足すると見込まれ、同時に増備も行われる事となった。

 尚、小型車輛の地方私鉄への譲渡については、終戦後に大手私鉄が同じ事を行った事、運輸省規格の車輛の増備が進んだ事、地方私鉄が運用する車輛が大型化した事などから地方私鉄側が拒否した為、計画が宙に浮く事となった。その為、これらの車輛は廃車して、使用可能な電装品は新造車輛に流用する事となった。

 この時、増備されたのは新造の電動車が12両、車体更新の電動車が10両、付随制御車(※3)が16両の計38両であり、新造は日立製作所と日本車輛製造で半数ずつ行われた。

 車体更新された車輛は2種類あり、1つは東急が運用していた3600系電車に、もう1つは東武が運用していたクハ450形電車に似たデザインとなった。これは、車輛の多くを融通をしてもらったのが東急と東武だった事に由来しているが、両社が大東京鉄道に影響力を保ち続けようとしている為でもあった。これらも、電動車・付随制御車共に半数ずつが東急デザインと東武デザインになった。

 これらは1年半かけて増備され、輸送力強化と老朽化した車輛の修繕が完了した。丁度、沿線開発が本格的に始まった時期に増備が完了した為、タイミング的には良かった。しかし、沿線開発が進んだ事による利用者の増加は止まる事を知らず、近い将来の更なる輸送力強化を行う必要があった。




※1:「国連軍」という名称だが国連憲章に基づいて設立された訳では無い為、実際はアメリカを中心とした多国籍軍であった。「国連軍」の名称を使えた理由は、安保理決議82に基づいて設立され「国連軍」の名称を使用する事が認められた為。
※2:この世界オリジナルの企業グループ。詳しい内容は本編の『番外編:太平洋戦争の総決算と戦後の東アジアの混乱』に譲るが、戦前に外地を拠点としていた企業を再編して成立した。中核企業は動銀と昭和信託、日本貿易銀行となる。
※3:付随車は動力を持たない車輛、制御車は運転台が付いている車輛を指す。


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5話 戦後の大東京鉄道②

 日本経済は、朝鮮戦争による特需を足掛かりに飛躍的な回復を見せた。1950年代中頃には戦前経済並みに復活し、「もはや『戦後』ではない」と言われた。工場は常に労働力を求めており、地方では余剰労働力があった事から、地方から都市部への人口流入が続いた。

 

 一方で、都市部における宅地不足が深刻化した。その為、大都市郊外の宅地開発がこの頃から進められ、1960年代になってからは爆発的に増加した。日本住宅公団(現・都市再生機構)や地方住宅供給公社(※1)によって多くの団地が開発されたが、それに伴い郊外の人口が爆発した。

 その結果、郊外から都市部への路線の混雑が酷い事になった。1960年当時の東京における国鉄の主要路線の内、総武本線と東北本線の混雑率(※2)が300%を超えており、それ以外の路線も200%越えは当たり前という異常事態になっていた。私鉄でも、1969年に東武伊勢崎線で248%(恐らく私鉄におけるワースト1位)を記録するなど、大都市を走る路線は軒並み酷い混雑だった。

 これらに対処する為、長大編成化や複々線化などが行われた。国鉄では「通勤五方面作戦」と呼ばれる東海道、中央、東北、常磐、総武の5路線の複々線化が行われ、五方面作戦とは別にこれらの幹線を通る貨物線を都心部に通さない事を目的で建設されたのが武蔵野線であり、同じ時期に京葉線も計画された。私鉄でも、東武や小田急、東急、京王が複々線化を行った。

 

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 混雑は大東京鉄道にも押し寄せた。直接都市部に繋がる路線は無かったが、多くの放射状路線との乗換駅がある事から沿線の開発が進み、今後も残る農村地帯や荒れ地の開発が進むと見られた。この時、自前による開発による新たな収益源の確保と他の私鉄による乱開発の阻止を目的に、1958年に不動産事業に進出した。

 

 事業進出後、沿線の農地や荒れ地、利用方法が決まっておらず放置されていた工場跡地の開発が進められた。資金力の小ささから公団や東急の様な大規模な開発は行えなかったが、自前で土地造成を行った場所では平屋を中心に宅地の建設が進められた。

 これにより、沿線の宅地化が進んだ。特に、元大東急との連絡が多い鶴見~荻窪と沿線に比較的余裕がある川口~金町の開発が進んだ。

 また、大東京鉄道が通っている事から、川口市南部にある鋳物工場の多くが北部や周辺都市の工業団地に移転した(※3)。跡地の再開発に大東京鉄道が東武と共同して取り掛かる事となり、その為にJV(共同事業体)を組織して開発が行われた。初めての他社との共同開発であり大規模開発でもあったが、それだけに本体の労力も大きかった。また、開発失敗による余波が本体にまで及ばないようにする為、開発完了後の1968年に不動産部門を「大東開発興業」として独立する事となった。

 

 大東開発興業は宅地開発と保有するビルなどの不動産の管理だけでなく、後にビルやマンションの開発、リゾート地の開発などを行う事となるが、この時はまだ宅地の開発と土地の造成が中心だった。

 

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 宅地以外では、主要駅にデパートが造られた。1958年に「大東デパート」を設立し、1960年から営業を開始した。

 しかし、大東京鉄道には小売店のノウハウが無かった。ノウハウが無い状態で営業を行っても失敗すると見られた為、当初は他の小売店との提携を考えていたが変更し、地域の商店をビル内に移転させるテナント方式に変更となった。これは、百貨店形式で建設しても先発の三越やそごう、大丸などの他の百貨店との競争には勝てないと見られた為、それらとは異なる路線を取る事となった。また、地域の商店との関係の維持という理由もあった。

 これによって、1960年に鶴見と金町がオープンした。鶴見店は地上8階地下2階、金町店は地上7階地下1階のビルとなっている。概ね、地下は飲食店、1階と2階は食品、3階は衣類、4階は日用品、5階以上は玩具やその他というフロア構成になっている。

 

 尚、鶴見店建設の際に鶴見線と分断される事となった。戦前に浅野財閥が支援した関係から、鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道から鶴見~矢向の免許を受け取っており、その為に鶴見で線路が繋がっていた。鶴見臨港鉄道が国有化された事で繋がりが無くなったが、線路は依然繋がっており改札も共用だった。

 しかし、大東京鉄道と国鉄では運賃体系が異なっており誤乗も多発した事から、ホームの扇町側と荻窪側で分けたり大東京鉄道の塗装を変えるなどしたが(1955年に茶色一色から緑と白に変更)、大きな効果は上がらなかった。その為、デパート建設と並行して鶴見駅の分断も行われる事となった。

 この工事によって、大東京鉄道の鶴見駅が50m程荻窪寄りになった。また、鶴見駅が2面3線の頭端式ホームとなり、ホームも18m級電車10両が止まれる190mになった。これ以前は120mしか無く、輸送力の増強が限界だった事と将来的な更なる輸送力強化を目的とした。

 

 デパートがオープンすると、駅と直結している事、価格の安さで高評価を得た。また、地元の商店をテナントにしている事、雇用には地域の人を採用している事から駅周辺の商店街との関係も悪くなかった。

 その後、1962年に主要駅の荻窪と川口に、1965年には経堂と練馬に、1967年に武蔵中原と保木間に建設された。この時建設されたデパートは、立地の関係から概ね地上6階地下1階であり、荻窪だけは地上8階地下2階となった。

 

 沿線の開発が進むとスーパーの需要が高まる一方、スーパーとの競合に敗れる個人商店などが出る様になった。それらの受け皿や自社沿線の商圏を他のスーパーに取られる事に対する予防を目的に、1965年に「大東ストア」を設立した。

 大東デパートとの違いは、駅に直結していない事、地上2階建てなどでビルでは無い事、食品に特化している事である。そして何より、テナント方式では無く自社運営の形を取っている事である。これは、大東デパートでノウハウを身に着けた人材がいる事、大東デパートとの差別化からこうなった。

 1967年に元住吉店が開業し、順調なスタートを切った。その後も、桜新町や練馬徳丸、川口元郷などに展開する事となった。

 

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 宅地や小売業の拡大には積極的だったが、それ以外の事業については消極的だった。

 鉄道以外の輸送部門については、1949年に社内にバス部門を設立し、1954年に複数の複数のタクシー事業者を買収して統合、タクシー・ハイヤー部門の「大東自動車交通」を設立している。バス部門設立に際して、東急、小田急、京王、西武、東武、京成の各社から一部路線を譲り受けた。

 しかし、タクシーは他社との競合が激しく、利用者は増加しているものの、収益は微々たるもので新たな収益の柱には程遠かった。だが、収益が出ているのは事実で、タクシー事業は成長産業でもあった為、力は入れ続ける事となった。

 バスの方は酷く、譲り受けた路線の多くは赤字路線で、他社との競合路線ばかりだった。新規参入しようにも、既存他社の妨害で難しく、駅と宅地とのフィーダー路線すら満足に設定出来なかった。

 その為、バス部門は競合他社の下請けや不採算路線の押し付け先に甘んじる事となった。路線バス以外の部門に方向を見出す事となるが、まだ先の事となる。




※1:地方公共団体が設立した特殊団体。「労働者に良好な集合住宅又は住宅を供給する事」を目的に、住宅の建設、住宅地の造成、賃貸などを業務とする。戦後から財団法人という形で設立されたが、1965年に施行された地方住宅供給公社法によって特殊法人化した。
※2:定員/乗車人員数=混雑率
※3:史実でも1960年代中頃から鋳物工場の移転は発生しているが、この世界では5~10年早く発生している。東西の交通である大東京鉄道の存在が、沿線開発が進む要因となる。


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6話 戦後の大東京鉄道③

 1960年代以降、沿線の開発は進んだ。それに伴い、輸送力の強化は急務となった。1960年に鶴見駅の拡張工事が行われる前から各駅の拡張工事は行われており、車輛の増備も1950年代から行われていた。

 しかし、沿線人口の増大は車輛増備のペース以上であり、1957年には混雑率が200%を超えていた。今後も沿線人口は増加し続けると見られている為、更なる増備が急務となった。

 

 車輛増備だが、今までの様に電動車と付随車を別々にする方式から、最初から編成を組む方式に変更となった。これは、もう1両や2両を増結して対処する方法では追い付かないと判断された事、MT比の違いから来る速度の違いによるダイヤの乱れが深刻化した事を解消する目的があった。現在使用している約80両も車体更新と合わせて編成化する予定だが、それは新編成を一定数導入してから行う事となった。

 編成案だが、6両案と8両案に分かれた。6両案側は、「初期導入費用が安い事」、「駅や車輛基地の拡張工事も6両分でいい事」と言った費用面での利点を挙げた。一方の8両案側は、「現状の輸送量と将来の人口増加から6両でも直ぐに輸送力不足と見込まれる事」、「そうなった場合、結局駅や車輛基地を拡張する必要があるが、沿線の開発が進むと拡張が難しくなる事」、「それならば、まだ拡張が比較的容易で拡張費用も抑えられる今に行うべき事」と言った中長期的な視点から主張した。

 現状の費用と中長期的な費用のどちらかを取るかで分かれたが、最終的に折衷案となった。つまり、将来の輸送量増大を見越して駅などの設備の8両化をする一方で、新車導入は取り敢えず6両で行うというものだった。

 この時の選択は慧眼だった。もし設備拡張も前者の案を採用していたら、1970年代にもう一度拡張工事を行う必要があったが、その後のインフレの進行や沿線の宅地化によって、当初予定の倍近くの出費になると見られた。また、当時の輸送量だと8両だと過剰であり6両で充分だった。6両で限界に達するのは1970年代後半になってからの為、維持費用などの面からもこれが最良だった。

 

 編成は決まったが、車輛のデザインを決める余裕が無かった。その為、既存車輛のデザインを基に新車輛の発注を行う事となったが、この時に日本車輛製造(日車)からアプローチがあった。曰く、「日車標準車体を用いればコストを抑えられるから、うちの車輛を使ってくれ」と(※1)。

 だが、日車標準車体は2ドア車の為、3ドアに設計を変更する必要があったが時間が無かった為、東急の3800形を基にする事となった。また、導入予定数が大量(6両編成を70編成以上導入予定)の為、日車1社では供給に追い付かない為、東急系の東急車輛製造と西武系の西武建設(※2)でも製造が行われる事となった。その為、各社でデザインが異なっており、東急車輛製は3800形を、西武建設製は351系をモデルにしたデザインとなった。性能こそ同じだが前面のデザインがそれぞれ異なる為、日車製を100系、東急車輛製を200系、西武建設製を300系と別形式にした。

 兎に角、車輛のデザインが決まった事で、1962年から先ず10編成導入し(内訳は日車4編成、東急車輛3編成、西武建設3編成)、最終的に1974年までに計72編成が導入された(内訳は日車28編成、東急車輛24編成、西武建設20編成)。

 

 1966年頃には一定数揃った事で、既存車輛の編成化も行われた。82両在籍していたが、新編成導入と老朽化が進んだ車輛の淘汰もあった為、72両が編成化に活用され、残り10両は部品取りとして廃車が決定した。1968年から日本鉄道興業(日鉄)による車体更新と編成化が行われ、1972年までに12編成が作成された。車体のイメージは小田急の2220形だが、前面は営団の2000形電車風になっている。

 先述の増備と合わせて、計84編成が入る事となった。これだけ多数の編成を入れるのは既存の車輛基地では不足の為、1966年から末吉基地と舎人基地の拡張工事が行われた。共に沿線の宅地化が進んでいなかった地域の為、拡張は比較的容易だった。1970年までに40編成分を留置出来る設備が整えられ、合わせて整備能力の強化も行われた。

 今までの車輛基地の整備能力だと、重要部検査や全般検査などの大掛かりな検査を行えず、東急の元住吉検車区と東武の西新井電車区(現・東京メトロ千住検車区竹ノ塚分室)に委託していた。それがこの強化工事によって自前で行える様になり、以降他社への依存は減少していく事となる。

 

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 1960年代には新線計画も浮上した。前々から保有していた田端~越谷の免許線の建設計画が浮上したのである。以前からこの区間の鉄道は沿線住民から要望があったが、1962年6月の都市交通審議会答申(※3)第6号で「田端~舎人~越谷」が組み込まれた事(※4)で、建設が行い易い環境となった。

 しかし、沿線の開発が進んだ事とインフレが進んだ事によって建設費が高騰し、単独での建設は非常に難しくなった。また、並行線となる東武は計画に猛反発し、これを機に元の計画にあった野田市まで延伸される可能性を考えた京成もいい顔をしなかった。

 それ処か東武は、この計画を潰す為に1965年に鳩ケ谷~越谷~野田市の計画を打ち立てた。東武側の意見では「混雑が激しい越谷付近のバイパス」、「東西の交通が乏しい鳩ケ谷市・川口市・越谷市の改善」を挙げていたが、大東京鉄道の計画潰しである事は明らかだった。

 

 しかし、沿線や運輸省は東武案の方に関心があった。越谷の混雑が酷いのは事実であり、それが原因で伊勢崎線の輸送量は限界に近付きつつあった。日比谷線との直通で東京都心部へのアクセスが出来た事が理由だった。この為、比較的余裕のある赤羽線へ逃がす鳩越線(仮称)案は悪い意見では無かった。

 一方で、このルートは計画中の東京8号線(※5)が開業する事が前提だった。計画当時、8号線は用地買収に取り掛かったばかりであり、開業は暫く先だった(※6)。その為、鳩越線が開業しても8号線が開業しなければバイパスとはなり得ないのである。また、鳩ケ谷~越谷はいいとして、既に京成によって東京都心部と野田市を結ぶルートを形成しており、越谷~野田市は必要なのかという疑問もあった。

 東武としてはこれらの疑問に対して、答えを濁すしか無かった。8号線の建設は営団の管轄であり、東武に出来る事は「建設を優先してくれ」と願う事だけであった。京成との並行線問題も、東武が後発なのでどうする事も出来なかった。

 

 結局、当初の大東京鉄道の新線である田端~舎人~越谷の建設が決定された。しかし、現状では地価や建設費の高騰、増備や基地拡張などで資金面に余裕が無い為、大東京鉄道が中心となって別会社の設立などが検討される事となった。その為、建設は暫く先の事となったが、免許は引き続き保有する事となり、延長も認められた。




※1:史実では新潟交通や岳南鉄道、松本電気鉄道で使用されたが、この世界の岳南鉄道は小田急や西武から中古車を多数譲り受けた為導入していない。詳しくは本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(東海②)』を参照。
※2:「復興社所沢車輛工場」が源流。元は戦時中に酷使した車輛の補修を目的として1946年11月に設立されたが、後に戦災車輛の復旧や新車製造も行われる様になった。
※3:大都市における陸上交通事業(この場合の「陸上交通」は鉄道を指す)の促進を目的に、1955年7月に運輸省内に設置された。1956年8月の答申第1号を皮切りに、1972年3月の第15号まで提出された。同年4月に運輸政策審議会に改編され、現在は交通政策審議会となっている。
※4:史実では、ほぼ同じ区間の日暮里~舎人が1985年の運輸政策審議会答申第7号で盛り込まれている。
※5:南北線の事。史実では東京7号線だが、この世界では答申第6号で7号線が白金線(品川~広尾~千駄ヶ谷~新宿~中井~池袋)になった事でそれ以降の番号が1つずれる事となった。白金線については本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(関東)』を参照。
※6:この世界の南北線は1978年に赤羽岩淵~駒込が開業、1985年までに溜池山王まで開業する。全線開業は1992年だが、東急側の工事が進んでいなかった為、直通開始は1998年になってからとなった。


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7話 ここまでの大東京鉄道①

 ここで時間を開業前まで巻き戻す。

 

 大東京鉄道の免許が認可されたのは1928年だが、法人としての大東京鉄道が設立されたのは1929年だった。昭和恐慌の真っ只中だったが、どういう訳か資本金予定額の3600万円・120万株が集まってしまった。これについては社史でも『昭和恐慌の中ではあったが、我が社は幸運に恵まれていた。市井の資本家からの出資によって資本金が集まったのである』と書かれた程であり、偶然と幸運が幾重にも重なった結果だった。

 この資本金3600万円というのは、同時期に計画していた東京山手急行電鉄(※1)が3400万円、小田原急行鉄道(後の小田急電鉄)が開業する前で3000万円だった事から、筆者が勝手に考えた数字である。約60㎞の全線複線電化の環状線だが、東京山手よりは規格が低いのであれば、多少上回る程度ではと考えた。また、120万株も同様で、東京山手が80万株発行した事、細かくする事で少しでも購入し易くする事(1株当たり、東京山手は42.5円、大東京は30円)からこの数字とした。

 

 資本金が集まった事で1930年から建設が始まったが、昭和恐慌の影響は大きく、直ぐに株を手放す資本家が多かった。その株式だが、この時は金融機関に売却した。私鉄に売却すると建設が覚束無くなると見られた為であった。主な売却先として、生命保険会社だと第一生命、明治生命(三菱財閥)、安田生命、東亜生命(大室財閥)、三井生命、帝国生命(現・朝日生命、古河財閥)、損害保険会社だと東京海上火災(三菱財閥)、大正火災海上(三井財閥)、日本動産火災(安田財閥)、大室火災海上、証券会社は野村證券、山一證券、日鉄證券、銀行だと日本勧業銀行、第百銀行(東京川崎財閥)などそうそうたる顔ぶれであった。金融会社以外にも、東京川崎財閥や浅野財閥など財閥自体が保有する事もあった。これらだけで過半数である8割を保有していた。

 金融会社としては利益が出るか不透明な鉄道への投資は控えたかったが、他に有望な投資先が無い事から(当時はまだ満州事変前)、止むを得ず引き受けた感じだった。実際、満州国建国後は資本がそちらに移り、金融各社が保有する株式も多くが売却された。だが、この時は金融各社が株式を引き受けてくれた御陰で建設が進んだ。

 

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 開業は1936年だが、この頃になると満州で大規模な開発が行われる様になり、資本もそちらに移っていった。また、軍拡も進みつつあり、軍需産業を中心に資本や資源が投下された。

 大東京鉄道の株主である各種金融会社もそちらへの投資に注力する様になり、その資金を捻出する為に保有する株式を売却した。大東京鉄道もその中に含まれており、各社が保有する株式の殆どが市場に放出された。その株式を手に入れたのが、沿線の私鉄各社だった。各社は大東京鉄道を自社の影響下に置こうと株を買い占めた。

 その結果、開業直後で京浜電気鉄道(京浜)、東京横浜電鉄(東横)、目黒蒲田電鉄(目蒲)、小田原急行鉄道(小田急)、京王電気軌道(京王)、帝都電鉄(帝都)、西武鉄道(西武)、武蔵野鉄道(武蔵野)、東武鉄道(東武)、筑波高速度電気鉄道(筑波)、京成電気軌道(京成)の各社(※2)に株を握られる事となったが、保有状況は各社で異なっていた。

 

 京浜と京成は、沿線から僅かに離れており影響も少ないと判断された事から、それぞれ1.8万株(全体の1.5%)を保有したのみだった。

 帝都、西武、武蔵野、筑波の各社は、開業したばかりや経営危機である事から、会社名義では無くオーナー名義で保有していた。それでも、帝都は0.6万株(全体の0.5%)、それ以外の3社が3万株(全体の2.5%)をそれぞれ保有していた。

 小田急と京王は、バックに電力会社(小田急は鬼怒川水力電気、京王は大日本電気)が付いている事から資金的な余裕があった。その為、共に9万株(全体の7.5%)を保有する事となった。

 東横、目蒲、東武は、豊富な資金力にモノを言わせ、東横と目蒲がそれぞれ12万株(全体の10%)、東武が18万株(全体の15%)を保有した。しかも、東横と目蒲は兄弟会社であり、保有直後に合併して新たな東京横浜電鉄となった。その為、新東横が保有数で単独トップとなった。

 最終的に、11社に計61%の株を握られる事となった。実際は、各社のオーナーや繋がりが深い企業が保有する事もあった為、私鉄関係だけで約70%も保有されていた。

 

 尚、私鉄関係以外だと、以前の金融会社と財閥の幾つかが申し訳程度(0.1%程度)に保有し続けたぐらいだが、浅野財閥と大室財閥、日鉄財閥が傘下企業を含めて合計10%程度とある程度の株を保有している。

 

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 発行株式の約70%をライバル会社に握られた為、役員人事もその影響を受ける事となった。会社設立時の役員は金融会社が株の過半数を獲得した時に全員追い出され、社長は第一生命、副社長は山一證券、それ以外の取締役も各社からの出向者となった。

 こうして、新しい役員になって開業したが、前述の資本の流れの変化と新役員が軒並み鉄道経営の素人である事が災いした。ダイヤ作成すら覚束無く、開業当初は満足な運行が出来なかった。出向者の殆どが社内の権力闘争で敗れた人達の為、出向元からの支援は期待出来なかったが、繋がりがある他の私鉄から関係者を呼び寄せる事は出来た。

 これによってダイヤ作成や車輛管理などが整ったが、私鉄からの出向者は大東京鉄道を自社の影響下に置こうとして派遣されてきた為、1936年末に社内クーデターを起こして経営権を握った。金融各社は大東京鉄道の株を手放しており、出向者の厄介払いも済んでいた為、彼らは表面的な批判を行ったのみで実質的にクーデターを容認した。

 

 こうして、大東京鉄道は私鉄各社によって経営を握られた。しかし、合同でクーデターを起こしたものの呉越同舟であり、クーデター後は主導権争いに明け暮れた。クーデター派の金融各社からの出向者の努力によって財務状況こそ安定させたものの、運行については以前と変わらない処か、経費削減の一環で保線や修繕など安全対策の費用も削減してしまった為、事故が多発した。幸いだったのは大事故が発生しなかった事だが、小規模の事故や故障は多発しており、後に「大事故が発生しなかったのは奇跡」と言われる程酷い状況だった。

 この様な状況の為、運行管理など出来ている訳が無かった。内紛が1年以上続いていた訳だから、外部が呆れるのも当然であった。

 

 時代は戦乱に向かっており、沿線には軍需工場が進出する様になったが、会社がこの状況では満足に操業する事は不可能だった。その為、軍部が大東京鉄道の状況に憤慨し、軍政・軍令両部(※2)が鉄道省と内務省と共に内情を安定させるように圧力を掛けた。当時、軍部の影響力は絶大であり、そこに鉄道行政を担う鉄道省と警察行政を担う内務省も加われば抵抗する事は不可能だった。しかも、当時の上層部全員が出向元や金融会社からの賄賂、収入や借入金の着服、不正文書による偽装発注や借入などを行っていた為、介入する口実は幾らでもあった。

 1938年、遂に警察による一斉捜査が行われ、不正を行っていた者と全役員を逮捕した。合わせて、賄賂を贈った者及び貰った者も芋づる式に逮捕された。最終的に、鉄道各社と金融各社から約100人の逮捕者を出す大事件となった。

 

 その後、鉄道省と内務省から役員が1人ずつ派遣されて再建を任された。また、鉄道各社と金融各社も誠意を見せる意味から、優秀かつ信頼出来るものを派遣する事を迫られた。これにより、漸く大東京鉄道の経営状況が安定した。

 尚、株式についてはそのままとなった為、依然として私鉄各社の影響力は強かった。だが、1940年に設備強化を目的に増資を行っており、資本金は4000万円となった。増加した400万円は、200万円が従来の株主に保有比率に応じて割り当て、残る200万円は国(鉄道省、内務省、陸軍省、海軍省、大蔵省)に割り当てられた。




※1:大井町と洲崎(東陽町付近)を自由が丘、明大前、中野、駒込、北千住経由で結ぼうとした環状線。全線複線電化・掘割による立体交差(後に高架に変更)となる予定だった。小田急や帝都電鉄(後の京王井の頭線)とは資本関係にあり、明大前には工事の痕跡が残っている。
※2:軍政部は陸軍省と海軍省、軍令部は参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)。軍政部は軍の維持・管理・計画など軍関係の行政を担い、軍令部は作戦の立案や兵站などを行う。


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8話 ここまでの大東京鉄道②

 内情が安定した大東京鉄道だが、私鉄各社の操り人形であるのは変わらなかった。そこに国も入ってきた為、自由な経営など行える筈が無かった。

 尤も、時は戦争へ一直線であり、国による統制が強くなっていた。鉄道も軍事輸送や工員輸送が優先となった為、自由な経営を行える状況では無かった。

 兎に角、大東京鉄道は終戦直後までは私鉄と国、正確には国主導の経営が行われる事となるが、国営になった訳では無く、民間色が強い半官半民企業という特殊な状況になった。

 

 戦後、日本はGHQによる一時的な統治な統治が行われた。詳しい内容は本編の『番外編:太平洋戦争の総決算と戦後の東アジアの混乱』に譲るが、戦後の改革の中で大東京鉄道の株主に大きな変化を齎した。

 陸上交通事業調整法(※1)によって、戦時中の大株主は大東急となり、1944年時点では3分の1以上の37%を保有していた。その後、大東急保有の株式の内の12%を政府に譲渡したが、それでも4分の1の25%を保有しており依然として筆頭株主だった。それ以外だと、西武が5%、京成が4%を保有した。

 それが、政治・経済の民主化とそれに伴う財閥解体、軍備の大幅縮小によって変わった。これにより、財閥は解体され、保有していた株式は市場に放出された。財閥解体とは関係無かったが、大東急も内部対立や復興費用の観点から解体される事となり、保有株式は各社に分配された。政府が保有していた株式も、全て市場に放出された。

 これにより、元大東急の内、東急に10%、小田急に8%、京王が3%、京急が1%と分配され、残り3%は市場に放出された。東武も5%を手放したが、東急と共に筆頭株主となっている。

 一方で、59%が市場に放出された為、グリーンメーラー(※2)によって大量に買い占められた。経営の乗っ取りすら考えられた為、株を持っていた他社がグリーンメーラーから株を買い戻して乗っ取りを防いだ。一部は自身で買い戻したが、その為に銀行や保険会社から借りる羽目となり、再び金融会社の影響力が強まった。

 この一件で、大東京鉄道の株式は東急・東武・西武がそれぞれ12.5%、小田急が10%、金融会社が計25%が保有する事となった。

 

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 朝鮮戦争後、輸送力の拡大や戦時中から放置されていた設備の抜本的修繕に追われたが、それを行うには経営規模が小さかった。資本金は戦前と同じく4000万円だが、これは1948年に独立した京王帝都電鉄の5000万円より小さかった(因みに、小田急は1億円、相鉄は1951年で6000万円)。これでは修繕と拡張は難しかった事、1949年から稼働したバス部門の拡充や新事業への進出から、1952年に2000万円の増資が計画された。

 しかし、この前年に修繕を目的に4行(※3)から大量に借り入れており、増資分の引き受け先は全て借り入れした銀行となった。この増資により、筆頭株主は東急・東武・西武であるのは変わりないが、新たに4行が主要株主に名を連ねる事となり既存株主の影響力が低下した。

 その後、復興と軍備再編、輸出振興によって日本経済は順調に回復した。それに伴い、沿線では宅地開発や工場の移転が相次ぎ、輸送量は年々増加した。その為、これ以降は輸送力増強やそれに合わせた施設強化を繰り返す事となった。

 また、1954年にタクシー事業に進出したが、現状の資本金では事業拡張が難しくなった。グループ企業の敵対的買収を防ぐ意味から、1956年に再度増資を行う事となったが、今回は4000万円の増資を予定した。今回は株主割り当てとした為、各社の影響力はそのままとなった。

 この増資によって、1958年に不動産事業、1960年に小売業へ進出した事が出来、その後も事業拡張の度に増資を行う事となる。

 

 流石に、増資や借入金を行っても、新線建設は不可能だった。1960年代には保有していた田端~越谷の建設再開を目論んだが、東武の反対や交通政策との調整もあったが、何より沿線の開発がある程度進んでいた事やそれに伴う地価の高騰、インフレによる資材費の高騰から建設費が跳ね上がった。

 その為、自力で建設する事は不可能となった。当時はまだ国や自治体からの助成金制度も確立していなかった為(※4)、建設は自力で行うしか無かったのだが、その為には多額の資金が必要となり、どうしても自力では限界があった。




※1:1938年に施行された法律。過当競争の防止や利便性の向上を目的に、交通事業者の統合を勧めた。対象地域は東京市とその周辺部、大阪市とその周辺部、富山県、香川県、福岡県の5つだった。この法律によって、大東急(東急・京急・小田急・京王)や大近鉄(近鉄・南海)、京阪神急行(阪急・京阪)、富山地鉄、琴電、西鉄が誕生した。この世界では、追加で大京成(京成・筑波)、讃岐急行(琴参・琴急)も誕生した。尚、この法律は現在でも有効である。
※2:株を大量に買い占め、経営陣に高値で引き取りを要求する投資家。合法性で言えばグレーゾーンだが、この時代はそういう人物が多く、陽和不動産(三菱本社の保有不動産の受け皿会社。1953年に三菱地所に合併)や白木屋(呉服屋が起源の百貨店。1958年に東急百貨店と合併するが、法人格は白木屋が存続した)など多くの企業がターゲットにされた。
※3:長期信用銀行の日本動産銀行と日本長期信用銀行、信託銀行の昭和信託銀行と日本信託銀行。
※4:日本鉄道建設公団(現・鉄道施設・運輸施設整備支援機構)による大都市圏(東京都、大阪市、名古屋市とその周辺部)の私鉄線建設という方法もあるが、この方法が行えるのは1972年以降。


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9話 戦後の大東京鉄道④

 オイルショックによって、高度経済成長は終わりを迎えた。これ以降、日本は安定成長期を迎える事となる。

 安定成長に入った事で、鉄道政策にも変化が起きた。これまでの鉄道政策では、大都市圏の人口は増え続けるという前提に立っていた。その為に郊外にニュータウンを建設し、都心部への通勤客の輸送の為に鉄道を計画していた。

 しかし、オイルショックによる物価の高騰、全国総合開発計画(※1)による地価の高騰、大都市圏の人口増加の鈍化から、今までの様な計画の実現は難しくなった。また、経済成長が進んだ事で人の嗜好が変化し、今までの様な居住一辺倒では入居が進まなくなり、団地から一戸建て、居住スペースから田園都市や文教都市へ転換される事となった。

 

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 大東京鉄道もオイルショックによって輸送力の伸びが鈍化したが、沿線は既に開発が進んでおり、伸びは鈍化したとしても依然として混雑率は高かった。その為、引き続き輸送力強化は続けられる事となった。

 幸いだったのは、オイルショック前に駅や車庫の拡張工事、車輛増備が完了した事である。その為、土地の収容費や建設費など様々なコストを抑える事が出来た。

 しかし、オイルショックの影響によって数年間は大きく動く事は無かった。車輛増備の計画は先送りとなり、バス路線の新設計画や大東ストアの新規出店計画も数年間凍結されるか規模を縮小せざるを得なくなった。

 

 1978年、予定されていた8両化計画がスタートした。この数年前から6両編成では輸送力が限界に来ていたが、オイルショックによる物価の高騰と沿線人口の増加が鈍化した事による混雑の一時的緩和によって、輸送力増強は凍結していた。しかし、数年も経つと再び増加が見られる様になり、特に川口~金町での工場跡地の再開発が進み、多くのマンションが建設された。その為、輸送力強化が急務となり、以前から計画されていた増備計画がスタートした。

 今回の車輛増備では、単純に輸送力強化が目的の為、増備する車輛は電動車と付随車を同数であり、編成内に組み込む予定である。6両導入時の編成は3M3T(※2)であり、今回の増備によって4M4Tとなる。現在走行している形式は4つだが、増備車は製造コストを抑える為に1形式とする。製造元や側面の造りは異なるが、基本性能やドアと窓の配置は同じの為、大きな影響は無いと判断された。

 翌年には、現編成の製造元である日本車輛、東急車輛製造、西武建設、日本鉄道興業に発注を行い、年内には6編成分が納入された。翌年以降は年12編成を予定していたものの、1980年勃発のイラン・イラク戦争の影響で第二次オイルショックが発生した事(※3)で6編成しか納入されなかったが、翌年以降は当初の計画通りに製造・納入された。これにより、1986年までに当初予定数である168両の納入が完了し、翌年の4月までに全編成の8両化が完了した。

 

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 鉄道だけでなく、副業でも積極的な投資を行った。稼げる事業が多くなかった為、この頃に多くの事業に投資している。特に小売業、不動産、バス事業への投資に注力した。

 

 小売業では、大東デパートと大東ストアが沿線外に進出した。

 大東デパートは、1977年までに沿線の主要駅に進出しており、他の大手百貨店の存在もあり、これ以上の沿線への出店は望めなかった。その為、沿線から離れた地域に出店する計画が立てられた。

 1980年の大船店出店を皮切りに、淵野辺、熊谷、取手、佐倉、君津に出店した。これらは沿線の外側の地域であり、駅前開発に合わせて出店したのが多い。

 大東ストアも、既に沿線の駅付近に粗方出店した。他のスーパーとの競合もあり、拡大路線を取る事となった。その際、既存の小規模スーパーを買収するなどして出店コストを抑えたが、大東デパートの穴を埋める為に新規出店した例も多い。

 その後も、鉄道以外での収益力確保の為に積極的な店舗展開が進められ、その動きはバブル景気終焉後の1990年代中頃まで行われる事となった。

 

 不動産では、リゾート開発とホテル事業への進出が行われた。沿線には観光地が特に無い為、地方の観光地の開発が殆どだった。

 スキーブームやゴルフブーム、1987年に制定された総合保養地域整備法(通称・リゾート法)によって、関東・甲信越、静岡、東北、東北に進出した。その中で最大の目玉が、栃木県日光市の会津寄りに整備された「男鹿高原リゾートコンプレックス」、北海道の羽幌炭鉱跡地に建設された「羽幌スキー&リゾート」、同じく北海道の雄別炭鉱跡地に建設された「釧路雄別スキー&リゾート」である。羽幌と雄別の様に、元鉱山町に進出した事例が多い。これらの施設は1980年代後半から1990年代前半にかけて整備・開業した。

 ホテル事業は、リゾート開発の一環で設立されたが、リゾートホテル部門とビジネスホテル部門の2つ存在する。前者はリゾート施設に併設して整備されたが、後者は沿線とその近辺に整備された。現在のビジネスホテルが整備されてきたのが1980年代後半から1990年代の為、他の業者よりやや早い展開となった。当初はバブル景気の真っ只中という事、個人旅行が少ない事もあり利用者は少なかったが、出張や都心部での宿泊が出来なかった客が宿泊するなどして一定数のリピーターを獲得した。

 

 バス事業では、高速バスへの進出が行われた。これはリゾート開発の一環でもあり、多くが沿線及び都心部と大東京鉄道系のリゾート施設を結ぶ路線である。一部は名古屋や大阪発着だったり、沿線と地方都市を結ぶ路線も設定された。

 路線バスの方も拡充が行われ、主要路線の増便や共同運航路線の拡大、ニュータウンを結ぶ路線の新設などが進められた。




※1:その名の通り、日本全国の開発計画だが、主な目的は「大都市集中の緩和」と「それに伴う地方の工業化の促進」だった。その為、計画内容は産業、住宅、道路など多岐に亘る。1962年に最初に策定され、1998年の第5次まで策定された(オイルショック時は第2次計画)。現在は国土形成計画に移行し、目的も「開発」から「地域の自立」や「安全」、「環境保全」などに変更している。
※2:Mは「モーター」で電動車を、Tは「トレーラー」で付随車を意味する。制御車(運転台が付いている車輛)の場合、電動車ならMc、付随車ならTcと表記する(cは「コントローラー」の意味)。
※3:この世界のイランでは1979年のイラン革命が発生していない。その為、親米のパフレヴィー朝が続いている。第二次オイルショックそのものは発生するが、原因がイラン・イラク戦争であり一年遅れで発生。


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番外編:東埼モノレール+α

 1981年、遂に田端~越谷の免許が動き出した。この年、大東京鉄道が中心となり、東武、営団、東京都、埼玉県、川口市、越谷市などが出資する第三セクター「東埼新交通」が設立された。免許も東埼新交通に譲渡され、この区間の建設が決定した。

 一方で、元の免許のままだと都市開発や道路整備の兼ね合い、ターミナルの位置などから都合が悪く、一度破棄して新たに日暮里~西日暮里~江北~舎人~新越谷の特許を申請し(日暮里~舎人は日暮里・舎人ライナーと同じルート)、翌年に許可を得た(※1)。起点を日暮里に変更した理由は、国鉄や京成、地下鉄が通っている事、終点を新越谷に変更したのも東武と国鉄が交差している為である。

 

 ただ、問題になったのが、どの様なタイプで敷設するかだった。検討されたのが、普通鉄道、軽快電車、モノレール、案内軌条式鉄道の4種類だった。

 普通鉄道の場合、東武や大東京と同じ全線複線・1067㎜・直流1500Vで建設する事となる。技術的な問題は無い事、東武との直通が可能という利点はあるが、高架にしろ地下鉄にしろ建設費が高くなる事、車輛のコストも高くなる事が欠点となる。

 軽快電車は、路面電車の改良型であり、都電荒川線と同じ全線複線・1372㎜・直流600Vで建設する事となる。路面電車の延長であり導入実績もある事から技術的な問題は無い事が利点であるが、軌道を何処に敷設するかが問題となった。荒川線との直通を狙って併用軌道で建設した場合、多くの路面電車の廃止の原因となった軌道内への自動車乗り入れによる定時性の低下が懸念された。それを避ける為に高架又は地下にした場合、建設費の高騰や乗り入れの為の改良工事などの問題がある。

 モノレールの場合、東京モノレールと同じ跨座式で建設する事となる。こちらも技術的な問題が小さい事、道路整備に合わせて建設し易い事が利点だが、車輛のコストが普通鉄道並みの割には輸送量が小さい事、輸送量の小ささから詰込みがしにくい事が欠点だった。

 案内軌条式鉄道は、所謂「新交通システム」の内、ゴムタイヤで走るタイプが想定された。普通の鉄道と比較して勾配に強い、導入コストが安い利点があるが、鉄道以上にエネルギーロスが大きい事、ゴムタイヤの為輸送量が小さいなどの欠点もある。

 

 どの方式も利点と欠点がある為、簡単に決まらなかったが、早い段階で普通鉄道案と案内軌条式鉄道案は削除された。前者は輸送力過剰と建設費の面で、後者は輸送力過少や導入業者の少なさによる信頼性が原因だった。

 最終的に、モノレール案が採用された。当初は、導入コストや整備コストを抑えられる事、荒川線の浅草延伸が実現に向けてスタートした事(※2)から軽快電車案が最有力だったが、この案だと熊野前の前後を地上線にしなければならない事、騒音問題、野田市延伸の際に新越谷付近で急勾配が必要になる事などがマイナス要因となり、モノレール案が逆転採用された。

 モノレールの方式は、東京モノレールと同じ跨座式が採用された。これは、懸垂式(※3)だと建設費が高くなる事、跨座式の車輛の標準化が進んでいる事、輸送力強化が行い易い事が要因となった。

 

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 全ての計画が1983年に完成した。翌年、日暮里で起工式が行われ、建設が始まった。同時に、ルート上の道路整備と荒川線の浅草延伸と三ノ輪橋付近の改良工事も始まり、社名も「東埼モノレール」に変更された。

 幸いだったのは、工事開始がバブル景気直前であり、地価が暴投するまでに8割方の土地の収容が完了した事である。残った2割も郊外地域で比較的収容し易く、建設費の高騰は避けられた。

 それでも、残る土地の収容の遅れから建設開始が1987年からとなり、資材費や人件費の高騰は避けられなかった。実際、建設費用の高騰によって工事の遅れが見られる様になり、当初予定では1992年に開業予定だったが、1994年にずれ込んだ。

 

 車輛については、北九州高速鉄道(北九州モノレール。この世界では存在しない)の1000形が採用された。導入当初はオリジナルと同じく4両編成だが、将来的な輸送量増加に対応出来る様に6両編成まで対応可能な設計となっている。カラーリングは、実在する緑帯塗装と同じものとなった。

 これが18編成導入された。見沼代親水公園の北にある見沼車庫で全編成の管理・補修を行う事となるが、ノウハウについては製造元の日立製作所や運転士・整備士の教育を行わせてもらっている東京モノレールから導入する事となった。

 

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 日暮里~新越谷の約17.6㎞が1994年8月13日に開業した。これにより、今まで公共交通機関がバスしか無かった地域に大量輸送手段が整備された。

 しかし、開業がバブル景気終息後という事がマイナスとなった。当初、1日の平均乗車人員を7.5万人と予測していたが、これは沿線の開発が進む事が前提だった。それが、バブル終息によって土地価格が落ち込み、多くの開発計画が白紙となる事態となった。その為、開業初年度の平均乗車人員が4.5万人と3分の2未満であり、その後も多少人口増加となったが5万人程度の状態が続いた。

 また、建設費が高くついた事による負債も合わさり、1999年には100億近い超過債務となった。しかし、この時期は極東危機による混乱や金融再編などが合わさり、日本全体が大混乱状態だった。その為、東埼モノレールの再建は後回しにされ、2002年に漸く産業活力再生特別措置法(※4)を適用して再建が行われた。

 

 その後、なりふり構わない再建と沿線人口の増加、大型商業施設の開業などによって収益が改善した。2008年には当初の平均乗車人員を記録し、以降増加している。将来的な増便や増結の計画も存在するが、これについてはもう少し様子を見てからとなっている。

 一方、野田市延伸計画は再建中にほぼ凍結となった。野田市側も盛り上がりに欠けていた為、今後も復活する可能性はかなり低いと見られている。

 

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 モノレールが開業した翌年の3月4日には荒川線の浅草延伸が実現した。途中の停留所は浅草、言問橋、浅草七丁目、清川、日本堤、泪橋、南千住駅前、三ノ輪橋となる。約3㎞の路線だが、路面電車であり地下鉄でもある変わった路線となった。

 浅草延伸だが、実質1971年に廃止となった都電千住線(※5)であるが、全線地下で建設された事、南千住~三ノ輪橋が追加された事が異なる。当初予定されていた東埼新交通との直通は流れたものの、浅草延伸による新規需要の獲得、渋滞が酷い都道446号の混雑緩和、軽快電車型の地下鉄線の導入実験などもあり、建設が決定した。

 浅草延伸に合わせて、荒川線の荒川区役所前~三ノ輪橋の地下化と三ノ輪橋~南千住の道路整備が進められた。前者については、一時的に路線を休止して、現在の路盤の下に地下線を建設する事で対応出来た。こちらについては1988年に工事が完了した。尚、車輛新造を抑える為、トンネルはやや大きい設計となっている(※6)。

 しかし、延伸区間の用地買収に手間取り、当初予定の1990年までに全ての用地の収容が完了しなかった。その為、工事も1年延期となった。収容完了後の工事は早く、予定の4年で工事は完了した。

 

 バブル終息後とあって、当初の1日平均乗車人員の6万人に達するか不安だったが、都北部や東埼モノレール沿線から浅草へ直接行ける事、浅草と南千住を抜ける新ルートである事から、利用者は当初予定より10%多いと記録された。建設費高騰による赤字は痛いが、開業区間の利用者が順調な事、それに伴う既存区間の利用者が増加に転じた事などもあり、概ね好調と見られる。




※1:免許だと地方鉄道法(1987年に廃止、新たに「鉄道事業法」制定)、特許だと軌道法にそれそれ基づく。違いとして、監督官庁(地方鉄道法は運輸省、軌道法は建設省)、敷設の申請(地方鉄道法は認可制、軌道法は許可制)、敷設する場所(地方鉄道法だと原則道路に敷設出来ない、軌道法だと原則専用軌道不可)が挙げられる。
※2:史実では、銀座線の三ノ輪延伸は都市交通審議会の頃から存在するが、1985年の運輸政策審議会答申第7号で削除された。この世界では、建設費の圧縮や新しい路面電車のテストケースとして、荒川線の浅草延伸という形で実現。
※3:車体の上にレールが敷かれ、レールから吊られている方式。雪に強い事、分岐点の建設が安価な事が利点だが、線路を地上から高く作る必要があるという欠点がある。日本では湘南モノレールや千葉都市モノレールに採用されている。
※4:1999年に制定された。経営不振に陥った中小企業の事業再構築、選択と集中の実施、有用な経営資源の活用などによって中小企業の活力の再生し、以て日本産業の活力の再生を目指した。適用した主な企業にダイエーや日産自動車、フジテレビなどがある。
※5:駒形二丁目を起点に、浅草、隅田公園、泪橋を経由して南千住に至る路線。
※6:地下を走る鉄道は非常扉の設置が義務付けられている。地下鉄の車輛の前面に貫通扉があるのはこれに起因する。しかし、横のドアから避難出来る程広い場合、貫通扉が無い車輛も走行出来る。京葉線の東京付近が良い例である。


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10話 戦後の大東京鉄道⑤

 バブル景気は1989年に絶頂を向かえ、以降緩やかに後退した。幸いだったのは、史実の様に暴落しなかった事である。これは、東アジア・東南アジアへの工場の移転が少なかった事、東アジア諸国の経済的遅れによる日本の優位性の維持、冷戦最後の軍拡競争によって製造業の好調が続いた事、政府による技術投資への誘導による土地投機や設備投資の抑制などが大きかった。

 

 それでも、景気は緩やかに不況となり、多くの企業の業績が低迷する事となった。中には倒産する企業もあったが、その様な企業の多くが政府の方針に反して土地投機や株投機に注力し過ぎた事が原因だった。

 この時の低迷とグローバリゼーションの進行もあり、企業は単独では生き残るのは難しいと判断した。その為、20世紀末から21世紀初頭にかけて、国内では企業再編と淘汰が進む事となった。

 

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 大東京鉄道だが、バブル終息後に経営が大きく傾いた。今までの積極的な投資が原因だった。特に大きかったのが、子会社を通じて行われた小売業とリゾート開発だった。

 

 バブル期の積極的な店舗展開によって、1995年時点で大東デパートは14店舗、大東ストアは126店舗と大規模展開した。関東にしか出店しなかったが、沿線外の新興住宅地の最寄り駅を中心に多数出展した。

 しかし、その規模と早さが異常だった。1980年から出店攻勢を行い、デパートは2年に1店舗、ストアは毎年4,5店舗出店していた。これはかなりのハイペースであり、その為には短期間で大量の資金が必要になるが、その調達方法が多額の借入金や大量の社債発行だった。運営会社である大東デパートと大東ストアが共に大東京鉄道の完全子会社の為、新株発行という手段は採られなかった。

 また、出店地の土地を借りるのではなく購入した。これは、購入する事で土地を担保にし易くする目的があった。その為、金融機関から借りやすくなった。

 その結果の大量出店だが、急速な出店で店員のノウハウが追い付かなくなった。それによるサービスの低下やバブル終息による購買意識の低下で収益性が低下し、土地価格の下落による含み損で赤字が増大した。

 

 リゾート開発も、開発規模が大きく、開業スピードも早かった。北関東や東北を中心に、東日本と北日本に約20のリゾート施設が1980年代後半から1990年代前半に開業した。

 しかし、男鹿高原(栃木県塩谷郡藤原町、現・日光市)や羽幌炭鉱跡地(北海道苫前郡羽幌町)、雄別炭鉱跡地(北海道阿寒郡阿寒町、現・釧路市)など、場所が奥地だったり元鉱山町など交通の便が悪い場所が多かった。しかも、元鉱山町は土壌汚染が進んでいたり老朽化した建物などが多い為、それらの処理も行う必要があった。

 その結果、建設費などは高くついた割には利用者が少なく、多くの赤字が発生した。また、設定したバスも短期間で減便する、一緒に開業したホテルも利用者の少なさやノウハウ不足から赤字を垂れ流すなどの悪影響があった。

 

 上記以外にも、東埼モノレールへの出資、ビジネスホテル出店の為の土地の購入代と建設費、その他諸々の事業を展開していた。これらの事業を行う為には大量の資金が必要だったが、大東京鉄道単体にはそんな余裕が無い為、社債発行と金融機関からの借り入れ、後に不動産の証券化(※1)によって調達した。借りた先が日本信託銀行や日本長期信用銀行、第百生命保険、東邦生命保険など有力企業との融資関係が薄い企業が殆どであった。繋がりのある昭和信託銀行と日本動産銀行は、自ら育てた新亜グループの方に注力していた為、この頃から疎遠になった。新たに融資した金融機関も、業績の為に大量に貸し付けた。

 その結果、1998年時点で借入金だけで7000億円、その他にも社債で3500億、土地・不動産の評価損で4000億、その他各種負債の合計は1兆5000億円を超えていた。また、後に帳簿外の負債も見つかり、それらも含めると2兆円に達するのではと見られた(最終的に約1兆8000億と判明)。

 当時、政治的・経済的・対外的に混乱していた時期と重なっていた事、借入した金融機関の多くも経営が危なかった事から、先延ばしは不可能だった。その為、早急な再建が急務であり、1999年4月に会社更生法(※2)を申請しそれが適用された。これにより、大東京鉄道は倒産となったが、鉄道会社として初めての会社更生法適用となった(※3)。

 

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 会社更生法適用による倒産の為、再建してくれるスポンサー探しが行われた。当初は西武鉄道が最有力と見られていたが、西武もグループによるバブル期の大規模進出の影響で負債が大きく動けない為、スポンサーから降りる事となった。その代わり、以前から関係が強かった東急と東武、バブルの影響が小さかった京成の3社がスポンサーとなる事が決まった。

 

 再建が始まって真っ先に行われたのは、不採算部門からの撤退と遊休資産の売却だった。その中でも、グループで最大の赤字を出していたリゾート部門のリストラはいの一番に行われた。これがグループを傾かせた元凶である為、グループ再建を目に見える形で行うにはこれが不可欠だった。

 

 不採算部門からの撤退により、運営しているリゾート施設とリゾートホテル部門は全て同業他社に売却となった。ホテルとスキー場の多くが星野リゾートや外資系の運営会社に売却され、ゴルフ場については他のゴルフ場運営会社に売却された。テーマパークについては、立地の悪さや娯楽の多様化によって閉鎖されたものが殆どだった。

 尚、同じホテル事業でもビジネスホテル部門は残った。これは、バブル終息によって個人旅行が増加した事、低価格が歓迎された事、駅から近い事から利用率が高い事などから収益性が高く、「今後の事業の核」と位置付けられた。2000年以降、後述するデパートやスーパーの跡地に出店する事例が多くなる。

 

 また、小売業では不採算店舗からの撤退が行われた。「撤退」とした理由は、同業他社へ譲渡する為である。これにより、80年代に出店した店舗の多くが1999年から2001年にかけ撤退となった。この時期に出店した店舗の多くが採算割れしていた為である。

 撤退する店舗の内、沿線付近の店舗は駅毎に沿線の大手私鉄の同業種に売却された。鶴見~下末吉は京急、下末吉~弦巻は東急、弦巻~日本大学前は小田急、日本大学前~荻窪は京王、荻窪~中村は西武、中村~竹ノ塚は東武、竹ノ塚~金町は京成にそれぞれ譲渡された。沿線外の店舗は他のチェーン店に譲渡された。

 譲渡後の店舗だが、大東ストアの方は多くの店舗が譲渡されたが、店舗の多くが採算割れしている為、譲渡後に合理化によって閉店となる店舗が多かった。悲惨だったのは大東デパートの方で、譲渡先が見つからなかった為、雑居ビルや複合商業施設となった。多くが小規模店舗で商業圏の人口も多くない事、他の百貨店も経営が苦しかった事から、譲渡先に名乗りを上げた会社が現れなかった。

 また、撤退とは別に、大東デパートの鶴見店に川口店、練馬店、大東ストアの元住吉店など開業初期からの店舗については、採算が取れているが建物の老朽化が著しい為、建物の全面改装工事を行う事となった。また、採算が取れている店舗については改装と他店舗との差別化路線を取る事で存続が決定した。

 

 遊休資産の売却も進められた。多くが沿線の住宅・店舗予定地であるが、一部は沿線外のリゾート開発予定地もある。沿線の土地は駐車場やビル、マンションなどの用途があるから売却が進んだが、土地価格の下落が進んでいた事から購入価格の半分程度でしか売却出来なかった。

 尤も、都市部の土地はある程度の価格で売却出来ただけマシだった。リゾート予定地の方は暴落が激しく、ほぼタダ同然で売る事となった。

 

 それ以外にも、収入を増やす策として高架下を物置や駐車場、学生向け住宅用地や店舗用地として貸し出す、電車・バスの広告を全面に出す、運賃の値上げが行われた。また、出資を防ぐ策として赤字の路線バス路線をコミュニティバスに転換する、赤字の高速バス路線の廃止、合理化による社員削減、給与・賞与の削減などが行われ、負債を減らす策として金融機関からの債務免除と債務の株式化(※4)、減資が行われた。

 これにより、2003年度には負債は約1兆8000億から約8500億円と約半分まで減らす事が出来たが、まだまだ再建途上である。




※1:不動産など流動性の低い資産を原資に、流動性の高い証券を発行する手法。原資が少なくていい事、資金調達が容易になる事などから、バブル期頃に日本で流行となった。
※2:「経営難に陥った会社の事業の更生」を目的とした法律。1952年に制定された。適用対象者は株式会社に限定されている。2003年4月1日に内容を全面改定した同名の法律が施行された為、1952年制定の旧法は廃止となった。
※3:史実での交通関係での申請事業者は、バス会社の川中島自動車(現・川中島バス)、海運会社の三光汽船、三宝海運(1997年解散。事業の一部は愛媛阪神フェリーに譲渡)が存在するが、鉄道事業者では例が無い。因みに、高松琴平電気鉄道は再建時に適用した法律は民事再生法。
※4:借金した分と同じ分の株式を受け取る方法。借り手から見れば借金が減り、貸し手から見れば資産が減らなくなるという利点がある。


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11話 ここまでの大東京鉄道③

 オイルショックの頃から、大東京鉄道は相次いで増資を行っていた。その全てが公募と第三者割当の為、今までの大手私鉄の保有比率が大きく減少した(筆頭株主だった東急・東武・西武で数%)。一方で、保険会社や証券会社、信託銀行の保有比率が上昇し、今まで保有していなかった金融機関も保有する様になった。増資はバブル終息後の1994年まで行われ、その頃の資本金は800億円となった。

 1994年時点で3%以上の株式を保有していたのは、以前からの筆頭株主である東急、東武、西武、新たに加わった日本長期信用銀行、日本信託銀行、東邦生命保険、第百生命保険、日産生命保険、第一火災海上保険、富士火災海上保険、日興證券、三洋証券である。また、メインバンクも以前は日本動産銀行と昭和信託銀行だったが、1980年代中頃に日本長期信用銀行と日本信託銀行に変更となった。

 

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 一方で、過剰な投資にのめり込んだのもこの頃からだった。背景には、東京都心への路線は無い、沿線に主要な観光施設は無い、沿線の開発も成熟期に入り新たな開発は難しいといった要因があった。その為、沿線の開発による新たな収益を望むのは難しい事から、沿線外の開発を行う様になった。丁度、レジャーブームの到来、総合保養地域整備法(通称・リゾート法)の制定もあり、リゾート開発が全国的に行われた。

 リゾート開発だが、資金面や情報面でのリスクの大きさ、現地業者との軋轢の緩和から、単体での開発は殆ど行われなかった。その為、現地の有力企業と共同して開発を行ったが、その共同事業者の多くは相互銀行(現在の第二地方銀行)だった。これは、相互銀行は有力な貸出先が少ない事、「地方銀行に追い付け、追い越せ」の精神が強く拡大志向がある事を利用した。

 実際、新潟相互銀行(新潟中央銀行・新潟県新潟市)や徳陽相互銀行(徳陽シティ銀行・宮城県仙台市)、第一相互銀行(太平洋銀行・東京都)、加州相互銀行(石川銀行・石川県金沢市)などと共にテーマパーク建設やリゾート開発を行った。これにより、融資額の拡大による一時的な規模の拡大が見られたが、バブル崩壊後は軒並み不良債権化し、20世紀末の経営破たんの原因の一つとなった。

 

 リゾート開発以外にも、小売業の積極的出店、バス事業の拡大、東埼モノレールの設立など、兎に角拡大政策が行われた。大東京鉄道は、会社や路線の規模、輸送量などから大手私鉄扱いとなっているが(※1)、大手私鉄内では末席であり、未だに東急・東武・西武の影響下にある事から、他の在京大手私鉄に対するコンプレックスが強く残っていた。それを払拭する為に、身の丈に合わない大規模な投資が行われた。

 その結果、バブル終息前には相鉄や山陽電鉄(※2)を抜き、京阪や南海に匹敵する規模になった。

 尤も、これは輸送量では無く資産面の話である。そして、大東京鉄道の保有資産の殆どが不動産である。その為、バブル終息後は土地価格の下落による含み損から、資産内容は悪化した。

 

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 これだけ大規模な投資を行うには、増資だけでは不可能だった。その為、金融機関からの借り入れ、社債の大量発行、不動産の証券化によって資金を獲得した。

 しかし、これらを行うには担保が必要だった。その為、最初に保有している店舗や土地を担保に金融機関から借り入れを行い、その借り入れで土地を買い、買った土地を担保に借り入れを繰り返した。この方法で、リゾート開発の為の土地と資金の両方を手にした。

 また、「鉄道会社だから簡単に破産しない」という意識から社債の格付けも比較的高かった事から、発行した社債も簡単に買い手が付いた。不動産の証券化も、各社が行っていた事から疑問に思われる事は無かった。

 これによって大量の資金と土地を得て、リゾート開発と大量出店を行ったが、内情は厳しかった。バブル期は良かったが、終息後は地価の下落で担保としての価値を失い、新たに借りる事が難しくなった。また、借り入れの返済や社債の償還もあり、1995年からこれらの支払いに四苦八苦する様になった。




※1:「大手私鉄」の定義として、『日本民営鉄道協会が「大手私鉄」と区分している事』となる。大東京鉄道は1982年に「準大手私鉄」から「大手私鉄」に昇格した。
※2:この世界の山陽電鉄は岡山延伸が実現した為、大東京鉄道と同じ1982年に準大手私鉄から大手私鉄に昇格した。


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12話 21世紀の大東京鉄道①

 21世紀に入っても、大東京鉄道は再建途上だった。2003年度時点でまだ約8000億円の負債が残っていた。これでも再建当初の半分以下に減ったのだが、それでも会社を吹き飛ばすには充分過ぎる額である。

 残った負債を処理する為、2006年に負債の株式化を負債と同額分を一気に行った。これにより、2007年に更生手続きが完了した。

 

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 再建中、行われたのは大規模リストラ以外には大きく2つだった。1つは「本業回帰」、もう1つは「新たな事業の核への経営資源の集中」である。

 バブル中、不動産への投資に熱中だった一方で、本業である鉄道への投資は抑えられていた。車輛の新造は行われておらず、小規模な体質改善工事に留まっていた。設備投資も最小限で、安全対策こそ重視していたものの、駅構内の省力化は進んでおらず、陳腐化も目立っていた。

 その為、2002年に車輛と設備の更新に合わせて、駅舎の改築に伴うバリアフリー設備の導入やトイレの改良などサービス面の向上も図られた。また、今まで分かりにくかった表示を分かり易いものへ変更したり、駅構内やホームに監視カメラを設置するなどの改良も加えられた。

 これにより、設計の古さや場当たり的な改良工事によって段差が目立っていた駅構内がスッキリとした空間になり、無駄が多かった柱や動線も改良された。何処か薄暗い印象が強かった駅構内が明るくなった事も合わさり、明るく開放的になった。

 

 合わせてダイヤ改正も行われ、優等列車の見直しが行われた。大東京鉄道の優等列車の歴史は、工員の素早い輸送を目的に1942年に急行列車を設定したのが始まりである。

 しかし、急行列車は工員輸送が目的の為、終戦直後には運転を終了し、以降20年近く各駅停車のみの運行となった。だが、貨物列車の運行が小規模ながら続いていた事、将来的な優等列車の復活を鑑み、下末吉や武蔵中原、荻窪、練馬、川口の退避設備は残しており、新たに川崎小倉や舎人、北綾瀬に退避設備が追加された。

 復活したのは1980年だった。この前年、千代田線の綾瀬車両基地への引き込み線が旅客化し、北綾瀬駅が設置されて乗換駅となった。また、沿線の開発の進行や他社路線との接続駅の拡大による利用者の増加によって遅れが慢性的になってきた事もあり、優等列車を設定して利用者の分散を図った。これにより、「急行」の名称が復活した。

 停車駅は、元住吉、武蔵中原、等々力、桜新町、経堂、桜上水、西永福、東田、荻窪、鷺ノ宮、練馬、平和台、練馬徳丸、蓮根、川口、川口元郷、竹ノ塚、保木間、北綾瀬であり、全て乗換駅である。後に、1985年の埼京線開業、1994年の東埼モノレール開業によって、浮間舟渡と舎人がそれぞれ追加された。

 急行の運行によって速達性の向上と、乗換駅における遅れの短縮に繋がった。その一方、各駅停車の本数を減らしての優等列車の設定の為、急行が停車しない駅では利便性が低下した。その為、何度かのダイヤ改正で各駅停車を増便したが、今度は退避設備の許容以上に本数を増やした事で平均速度が低下し、速達性が低下した。また、ダイヤのパターン化がされなかった事で、急行の運行間隔がバラバラだった事も問題視された。

 

 その為、2003年のダイヤ改正でパターンダイヤ化と優等列車の再編が行われた。変更点は以下の通りとなった。

 

・1時間当たりの運行本数は、通常時は16本(4分に1本)、ラッシュ時は24本(2.5分に1本)に固定する。

・優等列車の本数は、通常時は2本に1本、ラッシュ時は3本に1本に変更する。

・ラッシュ時の急行は廃止して、新たに「通勤急行」を設定する。

・通勤急行の停車駅は、急行の停車駅に加え、下末吉、木月大町、日本大学前、六町を追加したものとする。

 

 この改正によって、運行本数こそ変わらないものの、以前よりも分かり易いダイヤになった。また、ラッシュ時の各駅停車と急行の混雑の格差の是正、それに伴う停車駅での乗車時間の短縮と遅れの減少、速達性の改善などが見られた。駅構内の開発と合わせて、大東京鉄道が目に見えて変わった事を意識させるには充分だった。

 

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 また、もう一つの再建計画の柱である「新たな事業の核」とした近距離高速バス路線とビジネスホテルへの投資が強化された。再建計画初期から行われているがこれが好調で、その2つは順調に収益を上げている。

 

 前者は、不採算路線が多かった長距離路線を減らす一方、利益が出ていた近距離路線に投入した。

 今までは、男鹿高原や越後湯沢、菅平高原などのリゾート地、仙台や神戸、福井などの地方都市が多かったが、前者は季節毎の利用者の格差が大きい事、後者は新幹線や航空機との競争激化による利用者の低下が著しかった。その為、リゾート地への路線は夏季と冬季で運行本数を変えたり、遠距離の地方都市路線では内装を豪華にして差別化するなどの路線を取っていたが、それでも利用率は向上しなかった。

 それ処か、夏季と冬季で稼働車輛数が異なる事によって運行しない車輛が出たり、リゾート路線と都市間路線で車輛が異なって互換性が無くなるなどの不便の方が目立った。

 その為、再建直前の高速バス部門の赤字は酷く、一時は全面撤退すら検討された程だった。

 

 しかし、各路線の状況を洗い出してみると、赤字はリゾート路線や長距離路線が主であり、短距離路線は比較的利益を出しているのが判明した。特に、富士登山の玄関口となる富士吉田、同じく御殿場、成田空港など通年で集客性が高い場所への路線が好調だった。その為、赤字路線は廃止か他社に譲渡する一方、これらの路線に対して重点的に投資する方針となった。

 それが功を奏し、収益性を改善する事に成功した。それだけでなく、長距離路線が減った事で保有車輛数が減少した一方、運行距離が短くなった事で運行本数は増えており、維持費の減少と増便による増収もあった。

 

 後者は、バブル終息後の個人旅行の増加と旅行単価の下落、海外旅行者の増加が上手く合わさった事で利用者が増加した。また、駅前再開発に合わせての新規出店や地方都市の中心部にあるホテルを買収して地方進出するなど積極的な拡大を見せていた。

 これにより、2004年に首都圏・中京圏・京阪神圏に属する都府県に出店し、高い収益性を上げている。低価格でありながらサービスの質は高く、リピーターも多数付いた事が大きな要因だった。その為、10年以内に全都道府県に出店という計画が立てられたが、これについては「再建してから3年後に行う」という事で落ち着いた。

 

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 冒頭で述べたが、2007年に更生手続きが完了した事で再建した。それでも、事業の核は完全に育った訳では無く、本業への投資も続けている。今後は、事業の核である鉄道・高速バス・ビジネスホテルを中心に投資を行い、稼げる体制を築いていく事が求められる。



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13話 21世紀の大東京鉄道②

 再建終了後、今まで滞っていた高架化や地下化などの連続立体交差事業が進められた。

 大東京鉄道の建設前の計画では、全線を高架や掘割で建設し、全ての鉄道と道路と立体交差する予定だった。計画当時、沿線の開発は進んでいなかった為、この様な大規模計画を立てる事が出来た。

 しかし、国鉄線との接続駅周辺の開発が予想以上に進んだ事、昭和恐慌による資金不足から、当初の予定の建設は不可能となった。建設費の圧縮と沿線の開発が進んでいなかった事から、多くの区間が地上線に変更された。高架化した区間は鶴見駅や他社線と交差する区間程度となった。

 

 開業当初は沿線の開発が進んでいなかった事からそれで良かったが、戦後は問題になった。沿線の発展とモータリゼーションの進行で自動車の数が急増し、主要道路との踏切の多くが開かずの踏切となった。ラッシュ時にもなれば1時間中45分は閉じている事は日常茶飯事であり、混雑による小規模な遅延も日常茶飯事であり、1時間ずっと閉じっぱなしという事態になった事も一度や二度では無かった。

 開かずの踏切解消の為、1970年代には全線の立体化計画が立てられていた。しかし、資材費・地代の高騰、沿線住民による反対運動、多角化による本業軽視から、一部の土地を買収しただけとなった。その土地は一時的な駐車場や駐輪場として利用されたが、その状態が20年以上続いた。

 再建中も、計画そのものは存続しており、土地も手放さなかった。「駐車場からの収入がある」というのが理由だったが、手放すと高架化を進める際に再度買収する必要があるから、その面倒を避ける為にそのままにされた。

 

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 再建が完了した翌年の2008年、長年塩漬けされていた全線の立体交差化計画が立ち上がった。計画そのものは既に出来上がっていた為(基本的に高架、他社線との交差は地下の予定)、土地の収容が完了し建設工事が認可され次第取り掛かる予定となっていた。

 しかし、沿線の殆どが住宅地と商店街の為、土地の収容には時間と費用が掛かった。工事への反対意見も強く、当初予定していた2013年の全区間での工事開始は不可能だった。最終的に、反対が強かった場所の土地の収容が完了したのは2012年だった。

 

 工事そのものは2010年から始まり、最初は鶴見~武蔵中原と金町~竹ノ塚となった。この区間は多くが地上で沿線の宅地化も進んでおり踏切が多く、それでいて細い道路が多い為(多くが2車線、場所によっては1車線)、多くの踏切で渋滞が頻発していた。これによりこの区間の道路状況は悪く、遮断桿の破損や電車との接触事故などの発生件数も他の場所と比較すると多かった。

 その為、この区間の立体化は急務であり、2008年から1年で工事に必要な場所の土地の収容を完了させた。沿線も道路状況の悪さから工事には理解を示しており、収容は比較的スムーズに進んだ。

 工事は2010年から始まり、2020年を目処に完了する予定となっているが、工事区間が長い事、2011年の東日本大震災を始めとする大規模災害の復興と重なり、建設業での労働力不足や資材費の高騰もあり、当初予定より最長3年は延びると見込まれている。

 

 鶴見側の計画では、鶴見~下末吉が現在の高架から地下になり、鶴見駅がJRと京急の中間に移転する。その後、下末吉を出て元住吉の手前まで高架、元住吉手前で地下に入り、武蔵中原を出た所まで地下化する予定となっている。

 鶴見駅の地下化と移転は、JR・京急・大東京の3社の鶴見駅の一体化を目的としたものであり、JRの鶴見駅と京急鶴見を繋ぐ様に大東京の鶴見駅が設置される。森永の鶴見工場への貨物輸送も1970年代に終了した為、機関区の再開発も兼ねて行われる。

 元住吉~武蔵中原の地下化は、高架だと東急とJR南武線を超える為にかなり高く建設する必要があり、景観の問題がある為、地下化が選択された。小川が通っている地域の為、地盤の緩さが問題視されたが、東急グループが工事に全面的に協力してくれる事を約束してくれた。

 金町側の計画は、金町~中川が高架で、中川を出たら現路線の地下を通る事になっている。この区間は地盤が緩い事から高架も検討されたが、北綾瀬周辺が地下化されている事から(※)、それを活用する為に地下化となった。六町~保木間で地上に出て現在線に繋がり、保木間~竹ノ塚も全線高架となる。

 

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 立体化工事は進められ、2015年に金町~中川が最初に切り替わった。金町と中川を渡る区間については1980年代に高架化した為、工事区間と期間が短かった。

 続いて、2017年に鶴見~川崎小倉と中川~六町が切り替わった。鶴見側はロータリー部分に駅が移転する為、その場所の建設工事に多少時間を要したが、横浜市の協力もあった為、比較的早く完成した。金町側も、住宅地での工事に時間が掛かり、当初予定より1年遅れることとなった。

 残る川崎小倉~武蔵中原と六町~竹ノ塚の工事も行われているが、地盤の緩さから来る難工事や復興への注力、2020年の東京オリンピックなどで人手や資材が不足気味となり、当初の計画より1~2年の遅れが見込まれている。

 

 立体交差化の完了によって、既存区間は廃止となった。廃止区間の活用方法については既に決められており、鶴見駅周辺は駅前再開発によって駅ビルに、下末吉跡地には商業施設とビジネスホテルが建設される予定であり、鶴見~下末吉の跡地は公園に、下末吉~川崎小倉の高架下には倉庫や駐車場、学生用の賃貸住宅が建設される事になっている。中川跡地には保育施設の誘致が、東淵江と六町の跡地は公園と商業施設が建設される。

 また、これらの整備に合わせて、駅周辺の道路の整備も進められることになる。道路の拡張やロータリーの設置、特に踏切の廃止によって渋滞が大きく緩和された。




※:営団地下鉄の綾瀬車両基地を建設の際、大東京鉄道を移転させるか立体化させる必要があった。移転は出来なかった為、立体化となった。高架は部品が落ちる可能性がある為、地下化となった。大東京鉄道が車両基地の地下を通る為、営団の北綾瀬駅も車両基地に隣接する形で設置された(史実では車両基地の手前に設置)。


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最終話 21世紀の大東京鉄道③

 第一期計画の残り区間である川崎小倉~武蔵中原と六町~竹ノ塚の工事が行われている一方、第二期計画の区間である武蔵中原~荻窪と竹ノ塚~川口の土地収用も進められた。この区間も宅地化が急速に進んだ事で人口が急増した一方、道路整備は遅れた為、狭い道路が多かった。その為、この区間も渋滞や事故が多かった。

 土地の収容は2010年から始まったが、この区間は宅地化が早い地域や商店街が多い地域の為、収容に反対する住民が多かった。特に、他社線と交差する用賀、桜新町、荻窪、川口、東京都23区では希少な等々力渓谷の直ぐ側を通る宮内~等々力での反対が強かった。その為、3年で収容が完了するが倍の6年も要する事になり、工事開始も2018年になった。

 その間に第一期工事の鶴見~川崎小倉と金町~六町の立体交差化が完了しており、残る区間の工事も数年以内に完了する見込みとなっている。

 

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 また、第三期区間である残る荻窪~川口の土地の収容も2012年から開始した。この区間も他の区間と同様に人口密集地帯だが、他の地域以上に他路線との交差が多い。第一期工事区間(鶴見~武蔵中原、金町~竹ノ塚)だと5駅、第二期工事区間(武蔵中原~荻窪、竹ノ塚~川口)だと9駅、第三期工事区間は6路線と交差する。駅数だと第二期工事の方が多いが、工事区間の長さは第三期工事が短い。また、この区間は開発が戦前から進んだ地域の為、住宅及び商店の密集地となっている。

 一方で、他社線との交差の為に戦前から高架や掘割などで立体化された区間も多い為、この区間については既に立体化はされていた。スペース自体もある程度存在した。

 しかし、戦前に建設された事、建設費節約の為に一部工事が簡略化された事から耐震面での問題があり、現状の設備のままでの運行は厳しいと見られている。また、交差する西武池袋線や東武東上本線の高架化の影響で交差部分を地上線にした部分も存在する為、その部分の渋滞解消から立体化は行う必要がある。

 

 土地の収容が始まったが、住宅地と商業地の密集地域の為、住民からの反対が強かった。住民としては、開かずの踏切を原因とした渋滞や交通事故も嫌だが、住んでいる土地を手放す事や工事による騒音なども嫌な為、両者の妥協が中々成立しなかった。大東京鉄道もこの区間については収容が難しいと考えていた為、当初予定していた2015年より3年も前倒しで行ったが、それでも収容は遅々として進まなかった。

 しかし、2013年にブエノスアイレスで行われた2020年夏季オリンピックの開催地選考で東京が選出されると、オリンピックに向けて東京再開発が急速に進められた。その一環で土地の収容も急速に進められ、東京都からの側面からの支援もあり、2020年には全ての予定地の収容が完了すると見込まれている。

 工事の開始についてはオリンピック終了後の2021年以降の予定だが、兎に角、オリンピックの開催決定が収容を促進させた。

 

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 オリンピックの開催が決まった事で、東京の再開発が加速した。高度経済成長期からバブル期にかけて建設された各種建物や道路、水道などのインフラの老朽化が深刻化しており、更新の時期がやって来た。各地で古いビルの建て替えや道路・水道の更新工事が行われており、合わせて商業地区の再編なども行われた。

 

 大東京鉄道もこの再開発に乗じ、全線の立体化に加え駅前再開発を行った。主な内容は、ビル・マンションとビジネスホテルの建設である。

 前者は、駅前の商業地区の再開発と生活圏の集約の観点から、下層部が店舗、上層部がマンションの併用型の建設が多く建てられる事となった。同時に、職住近接の観点からビルも複数建設する事になった。

 後者は、国内観光の拡大や訪日外国人の急増によってビジネスホテルの需要は増加しており、東京オリンピックによって客室の供給不足が懸念された。都心部は高価格帯のホテルが中心の為、都心部からやや離れた地域にビジネスホテルの多数展開が予定された。

 

 開発が行われたのは、大東京鉄道単独の駅がある場所が大半だった。他社線と交差する場所は戦前から開発された地域で権利関係が複雑な事から、開発を行うのは時間が掛かる上に共同で行う必要がある。その為、大東京鉄道が開発に関わる事は出来るが、規模や影響力の点からどうしても優先順位が低く見られた。

 一方、単独駅の多くは高度経済成長期以降に急速に開発が進んだ地域が多く、商業地区は小規模な場所が多い。その商業地区も大東京鉄道が絡んでいるものが多い為、開発がし易い場所だった。老朽化も大分目立ってきていた為、早急な建て替えが必要だった。

 

 再開発は2015年から始められた。対象は、地下化された事で空間に余裕のある下末吉と六町の2駅だった。前回の後半でも述べてるが、立体化後の再開発の予定では共に商業施設が建てられる予定であり、それに合わせて駅前も一体で再開発される事となった。

 商業施設は大東デパートと大東ストア、大東京鉄道系のビジネスホテルがテナントの中心になった。これを機に大東デパートと大東ストアの拡大戦略が再開される事になるが、1980年代の様な無軌道な拡張とは異なり、採算性が重視されている。他の店舗のテナントも入っており、シネマコンプレックスや日帰り温泉などの集客性が高いテナントの誘致も実現した事でより採算性が高まった。

 

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 2019年末、大東京鉄道の再開発はまだ途上である。東京オリンピックが終わった後の経済状況は不確定な部分も多く、今後の状況次第では計画の大幅変更や凍結も考えられる。また、再建は完了したが、稼ぐ手段についてはまだ完全に固まっていない為、今後の展開次第では再度の倒産すら可能性に入れておく必要があった。

 それでも、ここ数年の大東京鉄道は好調な業績で決算を迎えており、昇給や賞与も解禁された事で社員の士気も上がっており、市場からの評価も上がってきている。将来を担う人材の育成にも力を注いでおり、若返りと新旧世代の融和も進んでいる。

 贔屓目に見ても、今後数年間は大東京鉄道の経営が急激に傾くとは市場は見ておらず、たとえ傾いたとしても以前の様に無様な事にはならないと見られている。少なくとも、再建は無駄ではなかったというのが多くの人の意見である。



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