【C97サンプル】艦これ~蒼海戦線~ Ⅰ、曙光 (瑞穂国)
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序章、抜錨準備
抜錨準備


コミケ当選してましたので、サンプルです


 一九四〇年一二月一七日。横須賀沖。

 

 第一艦隊旗艦〔長門〕より、「出港用意」の命令があったのは、三十分前のことだ。半日間をかけた機関の暖機暖管は先程完了している。蒸気タービン機関は轟音を上げて稼働中であり、あとは減速機のギアを噛ませてやるだけで、艦の推進力を産み出す。他にやることといえば、海底に降りた錨を引き上げることだろうか。

 

 抜錨の準備を進める駆逐艦〔吹雪〕の艦橋にあって、雪村きよし少尉は上官のすぐ横で、その指示を待っていた。もっとも、抜錨作業における彼の役目は、無きに等しい。各部で異常が発見されれば、上官宛に報告されるので、伝声管と艦内電話に意識を向けていればいい。これまでの経験上、それらが抜錨作業中に使われたことはない。

 手持無沙汰の雪村は、前甲板の揚錨作業を見守る上官の横顔を窺った。()()の背は雪村より頭一つほど小さく、結果的に見下ろす形となる。

 翡翠色の瞳。細い睫毛。丸みを帯びて幼い顔立ち。黒髪を後頭部で一つ結びにしているためか、どこぞの女学生のようにも見える。しかし、きちりと着こなす第一種軍装には、容姿からは考えつかない、大尉の階級を示す徽章がきらめいていた。

 

 近代軍隊に置いて女性の存在は珍しくないが、彼女の出自は少々特異だ。何しろ、その正体は人間ではないのだから。

 ()()()は、艦娘、と呼ばれる。十年程前より現れ、現在は十八人が確認されていた。船に宿る魂の具現化、とされている。魂という形のないものが、現世で形を得るにあたり、少女の姿になったというのだ。

 

 もっとも、横に立つ彼女――吹雪からは、人ならざる者の雰囲気は全く感じられない。大の大人たちの中に少女一人という状況を除けば、極々普通の美人な女学生にしか見えなかった。吹雪の中身は、お転婆で好奇心旺盛な、少女そのものである。

 雪村は、そんな吹雪の、世話係をしている。職務内容は、副官と呼ばれるお付きの士官と似たようなものだ。ただし、じゃじゃ馬の多い駆逐艦の艦娘の場合は、そこに見張りという職務が追加される。

 雪村の視線に気づいたのか、吹雪が見上げるようにして、こちらへ顔を向けた。にへらっと、崩れた笑みを見せる。

 

「どうしたんですか、きよしくん」

 

 懐かしい呼び方を持ち出した吹雪に、顔をしかめる。まだ若いとはいえ、さすがにくん付けは違和感の出てきた年頃だ。

 

「……職務中に、その名前で呼ばないでください。自分のことは、呼び捨てで結構です」

 

 雪村の苦言にも、吹雪は笑みを深めるだけだ。自分を下の名前で呼ぶのは、家族以外では吹雪ぐらいのものだった。訳あって十年前に知り合ったとはいえ、相変わらずの子供扱いはやめてほしい。〔吹雪〕に乗って最初の日に名前で呼んでくれた時は、憶えていたのかとそれは喜んだものだが、ここまでくると自分の名前が安売りされているような気分になる。

 

「緊張しますか?」

 

 笑顔で核心を突く言葉に、喉の奥が詰まる。反論は出てこない。

 海軍を志した時より覚悟していたこととはいえ、いざ戦闘を目の前にした今、どこかで強張っている自分に気づいていた。

 

「緊張しないと言えば……嘘に、なります」

 

 せめてもの強がりに、吹雪はころころと控えめに笑った。彼女の目は再び前を向き、巻き取られていく錨鎖を見つめる。

 

「大丈夫です。……大丈夫、ですよ」

 

 ぽろりと漏れた彼女の呟きは、とても曖昧な励ましだった。雪村だけでなく、自分自身にも言い聞かせるような言葉に、口を噤む。

 

 抜錨作業を終えた〔吹雪〕は、ゆっくりと横須賀沖を進み始める。〔吹雪〕だけではない。旗艦〔長門〕を筆頭に、集められていた第一艦隊の所属艦たちが、次々に錨を上げ、出航する。

 第一艦隊には、現在確認されている十八人の艦娘全員が集められている。〔吹雪〕が配備された第一水雷戦隊も、所属する十三隻全てが艦娘搭乗艦だ。そのうち、〔吹雪〕は第十一駆逐隊―――十一駆の司令駆逐艦を任されている。元々は〔吹雪〕、〔白雪〕、〔初雪〕、〔深雪〕の同型艦四隻で構成されていたが、今は艦娘が搭乗する〔漣〕、〔電〕、〔五月雨〕が〔吹雪〕の僚艦だ。

 艦娘艦隊とでも言うべき第一艦隊が目指すのは、横須賀と小笠原諸島の中間に位置する海域だ。連合艦隊は、かの海を決戦の場と定めている。

 では果たして、第一艦隊は()()戦うというのか。その答えは、〔吹雪〕たち艦娘搭乗艦が第一艦隊に集められている理由にも直結する。

 

 海より来る災厄の名は、艦の形をしているがゆえに、深海棲艦と呼ばれる。昨日、硫黄島と小笠原諸島を揃って灰燼に帰した張本人だ。人の力では決して抗うことのできない、黄泉からの侵入者である。その襲来は、艦娘が現れる少し前、十三年前に予言されていた。

 そして艦娘とは、この災厄を祓うことのできる、神より授かった力の象徴である。艦娘の搭乗する艦のみが深海棲艦へ有効打を与えることができるとされている。目下、第一艦隊に所属する十八隻の艦娘搭乗艦のみが、深海棲艦に抗することを許された戦力だ。

 予言の通りに現れた深海棲艦を迎え撃つべく、〔吹雪〕たち第一艦隊は横須賀を出港するのだ。

 

 浦賀水道を抜け、大洋へと出た第一艦隊は、隊列を組みつつ、決戦の地へ向かう。小笠原を砲撃後、真っ直ぐに日本本土を目指しているという深海棲艦艦隊とは、約一日で会敵予定であった。




コミケ当日に向け、不定期に途中まで投稿していきたいと思います。


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壱章、艦娘誕生
艦娘誕生(1)


ここから本編です


 

 

 

 日本という国は、多くの神々が登場する神話体系を持っている。八百万の神という言葉が示す通り、神とはそこら中に存在するもので、決して遠い存在ではなかった。人々は、自然の中に数多と存在する神々に、恵みがあれば感謝をし、災厄があれば祈ってきた。

 

 もっとも、それはすでに遠い過去の話である。神話の時代はとうに終わり、人間が神々を目にすることはなくなった。神々と人間の世界は天と地よりも遠く分かたれている。人間は神に祈る代わりに、科学をもって自ら難題を解決する術を身につけてきた。

 

 ただ、それでも、人々が神の存在を忘れ去ったわけではない。信仰、祈り、感謝の対象として、この国には今もなお神が息づいている。各地に建立された神社の数々が、その最たる証拠だ。家を建てる前にお祓いをする。大事な取引前には神社を参拝する。五穀豊穣を祈るお祭りも各地に残されている。そうした伝統の中に、神々はなおも生きている。

 

 ただ……神が人の姿を得て、直に語りかけてくるなどという出来事が起ころうとは、科学万能の現代人には全く想像のつかないことであった。

 

 

 

――その日の海は、信じられないほどの青色であった。

 

 昭和二年(一九二七年)一一月二五日。京都は舞鶴の海軍工作部にて、一隻の駆逐艦が進水の日を迎えていた。艦名を〔第三十五号駆逐艦〕という。日本海軍が新たに建造を始めた駆逐艦シリーズの一番艦であり、就役すれば世界に〔ドレッドノート〕と同等かそれ以上の衝撃をもたらすことになるであろう艦だ。全長は百十八・五メートル、基準排水量千六百八十トン。

 進水式には海軍関係者と共に神職者も列席していた。艦の建造に当たっても、船渠内でお祓いは行うし、進水式においてもお清めをする。これも立派な神事と言えるだろう。また、古来より船には神や魂の類が宿るとされていた。ご神体と呼べなくもないかもしれない

 

 一連の式次第が滞りなく終了し、最後に進水の運びとなる。注排水用のポンプが始動し、建造ドック内に海水が流れ込み始めた、正にその時であった。

 突如として、〔第三十五号駆逐艦〕が眩い光に包まれた。記者たちの構えるカメラのフラッシュでも、ここまで明るくはなるまい。その場にいた全員が顔を背け、目を瞑ってしまうほどの激しい光であった。

 ようやくのことで目の慣れてきた何人かが、船渠に視線を遣った。爆発が起こったわけではないようだから、一体何が原因なのかを確かめようと、無理矢理に目をこじ開ける。

 眩い光の源は、〔第三十五号駆逐艦〕そのものであった。駆逐艦の艦体が、太陽のように輝いている。そう、正しく太陽だ。人工的な水銀灯やマグネシウムの発光とも、はたまた蛍のような生物的輝きとも、あるいは焼けた鉄や銅のごとき金属の煌めきでもない。それは万物の母であり、最高神たる太陽の輝きと呼んで差し支えなかった。

 誰もが息を飲む。身じろぎ一つ、できる者はいない。何が起こったのかは理解できないが、おおよそ人間などとちっぽけな存在が、軽々しく触れていいものではないことだけ、全員が本能的に感じていた。神々しい光の渦に巻き込まれた舞鶴の全ての人間が、ただじっと一隻の駆逐艦を見つめる。

 

 ふと、横方向に降り注ぐ光の中に、動くものがあることに、人々は気づき始めた。それは駆逐艦の艦首、ぽっかりと開けられたフェアリーダーの上に立っていた。

 立っていたのだ。そこにいたのは、疑いようもなく、人間の女性であった。ただ、進水式に列席している諸人とは全く異なる。〔第三十五号駆逐艦〕と同じく、その体は陽光を宿して船渠に君臨していた。

 参列者の全員が、同じことを思ったに違いない。あれこそが、現世へ現れ出でた神に他ならない、と。

 フェアリーダーに立つ女性――仮に「彼女」と呼ぼう――は、豊かな髪を風にはためかせていた。ただし、よく観察すれば、その動きが極めて不自然であることに気づけたはずだ。第一、今の舞鶴に髪をはためかせるほど強い風は吹いていない。「彼女」の周囲だけが時の流れから隔絶されているように、その髪は緩やかにうごめいていた。黒髪にも、光の加減では白髪にも見える。「彼女」は冠のようなものをつけていたが、これはどういう理屈からか「彼女」の頭上に浮遊していた。身にまとっているのは神職者の服によく似た、しかしよくよく見ればとこどころに古めかしい装飾や構造の見られる――丁度神話に登場する神々のような衣装であった。

 

 しばらく佇んでいた「彼女」は、やがてゆっくりと目を開く。長く白い睫毛の下に隠れていたのは、黄金色の瞳であった。その輝きはやはり天上の太陽に違いない。何人たりともそれを直視することは叶わなかった。故に、人々は極々自然な所作として、「彼女」に頭を垂れていた。

 

「顔をお上げなさい」

 

 鈴を転がしたような「彼女」の声が船渠に響く。穏やかそのものの声であったが、不思議と巨大な船渠全体に響き渡る声であった。言われるまま、諸人は顔を上げる。船渠を満たしていた眩さはある程度鳴りを潜めている。辛うじて、誰もが目を開き、「彼女」を直視することができた。

 

「故あって、このような形で姿を現すこととなりました。本来であれば、私たちはこうして、あなた方に干渉するべきではないのでしょう。ですが、事が急を要する故、禁を破り、ここに立っているのです」

 

 船渠をぐるりと見まわして、「彼女」が語りかける。「彼女」の語った言葉は実に曖昧で、居合わせた人間は半分も理解ができなかった。ただ一点、「彼女」の目的についてだけは、「彼女」がはっきりと口にしたために、理解することができた。

 

「私はミコ。天照大神の化身として、あなた方に迫る災厄を伝え、これに備えるために、現界した者です」

 

 

 

 ミコの存在は、工作部長を通して、すぐさま海軍省に伝えられた。

 工作部長が海軍省へ電話をかけたのは、ミコが船渠に現れてから二時間後のことであった。その間の彼の働きが、後にも先にも、それ以上が考えられないほどの忙しさであったことは、想像に難くない。一先ず〔第三十五号駆逐艦〕の進水を終え、ミコを艦上から庁舎へ誘導し、再度その出自や目的を確認して、興奮冷めやらぬまま電話をかけたのだ。

 神の化身を名乗る女性が現れたこと。彼女が日本へ迫る危機を予言したこと。これらを可能な限り冷静に、工作部長は上層部へと伝えた。ミコはすぐに東京へ呼ばれると工作部長は予測し、秘書官には夜行列車に乗車券と出張用の鞄を用意させていた。

 

 だが、工作部長の予測とは裏腹に、海軍省の反応は芳しくなかった。当然と言えば当然だ。ミコという、ともすれば胡散臭くさえある存在を、直に目の当たりにした工作部長と、電話越しでしか聞いていない海軍省の人間とでは、認識があまりにもかけ離れすぎていた。ミコを東京へ連れて行き、しかるべき人物と面会させようという工作部長の要請は、呆気なく却下されることとなる。

 ただ、幸か不幸か、工作部長には海軍省内にちょっとした伝手があった。海上勤務時に交流のあった将校で、海軍省内でもそれなりの影響力がある。一先ず彼を頼ることにしたのだ。

 普段より生真面目で知られた工作部長の人柄が、ここでは功を奏した。件の人物は「貴様がそこまで言うのならば」と、無茶苦茶なお願いを聞き届けてくれたのだ。かくして、ミコはお付きの女性士官一人を伴い、夜行電車へと飛び乗ることとなった。

 

 東京へ到着したミコは、件の将校のもとを訪ねる。彼は時の海軍次官であった。工作部長とは同期であるが、出世が早く、階級は中将となっていた。

 次官は改めてミコから話を聞き、同時にこの一件が海軍省内だけで検討できるものではないと判断した。ミコは日本の統治者と会談することを望んだからだ。

 一先ず、次官はミコの話を海軍大臣へと伝えた。また、彼女のことを宮内大臣に紹介したいと具申した。当然の反応として、海軍大臣は渋った。嘘か真実かもわからないことを、まして素性すらもわからない人物を、皇室に近づけることは危険すぎた。

 

 事態は思わぬところから動いた。舞鶴工作部におけるミコの出現が、新聞に取り上げられてしまったのだ。舞鶴工作部、そして海軍省には問い合わせが相次いだ。ただ、海軍内でも事態を把握している者はほとんどおらず、対応は後手に回らざるを得なかった。

 結果として、ミコの存在は日本中の知るところとなる。時の内閣総理大臣は海軍大臣を呼び出し、ミコについて問い質した。この時、次官とミコも呼ばれ、総理と会談している。ミコは、何度目になるかわからない状況の説明を、総理に対しても行った。

 

――「私たちに、人の理を壊すつもりはありません。あなた方には、あなた方の決まりや順序があるのです。迅速な対応をお願いしたいのは本音ですが、そのために踏むべき手順を飛ばしては、意味がないのです」

 

 とは、会談後に対応の遅さを詫びた総理に対する、ミコの言葉であった。

 

 この時より、ミコの身柄は海軍省から内閣の預かりとなった。同時に、総理と宮内大臣立会いの下、天皇陛下との謁見が取り行われることが決定した。この迅速な対応については、一説には陛下がミコとの会談を強く望まれた、とされているが、真偽のほどは定かではない。

 数日後に皇居内で行われた謁見の内容は、明らかにされていない。同席した誰もが固く口を閉ざしている。ともあれ、謁見から数日後には、緊急で御前会議が開催されることと相成った。内閣と宮内省の強い意向によるものであった。

 御前会議には、本来立ち入りを許されない、ミコも同席した。この時、ミコは日本の首脳に、迫る災厄について説明した。

 

――「災厄は、異界と通ずる門、海より訪れます。人の理には属しませんから、あなた方の力で、この災厄を取り除くことはできません。ですから私たちは、あなた方に災厄を鎮める力を授けます。この力と、人類の叡智をもって、来る災厄に打ち勝つのです」

 

 力とは何か。災厄とは何か。同席していた大臣の問いかけに、ミコは答えた。

 

――「力とは、神の加護をその身に宿した魂。災厄を祓うべく、十握剣を手にした戦乙女にて。災厄とは、現世の裏の世界、黄泉そのもの。あなた方が抗するべきは、黄泉の醜女にて」

 

 

 

 

 

 

 昭和五年(一九三〇年)七月二〇日。横須賀。

 

 岸壁に係留中の駆逐艦〔吹雪〕(元〔第三十五号駆逐艦〕。一九二八年に改名)の艦内にて、舞原誉大尉は夜の巡検を行っていた。

 半舷上陸で、艦内の人間は少なくなっている。こういう時こそ、艦の見回りがおろそかになりがちだ。同じく巡検を行っている水兵には「一人で二人分観察しろ」と念を押してある。

 

 甲板部担当の舞原は、機関室以外の艦内施設を順に巡っていた。艦橋や操舵室といった場所はもちろんのこと、乗組員の居室、食堂、非常電源室、主砲塔や魚雷発射管まで、くまなく調べる。たった一つの異常が、艦と乗組員にとって致命的な結果を招くこともある。

 艦内を見終わった舞原は、当直の水兵を一人伴って、甲板に出た。舷梯やカッターを吊るすダビット、〔吹雪〕を係留している舫の様子も見なくてはならない。

 

 七月とはいえ、夜の海には寒さすら感じる風が吹く。鋼鉄製の水密扉から出たところで、隣にいる水兵が身を震わせた。

 

「随分と冷えますね」

 

 半分ほど砕けた水兵の口調に、舞原も頷いた。階級では舞原が上官になるが、実年齢と〔吹雪〕への乗艦期間は水兵の方が上だ。それに、乗組員全員が顔見知りといっても過言ではない駆逐艦の中にあって、階級だの言葉遣いだのと細かいことを気にしだしてもきりがない。艦長である岬明乃少佐の開けっ広げな性格も相まって、公式の場以外でかしこまった言葉が使われることはあまりなかった。舞原も、いわゆる将校言葉を使わなくなって久しい。

 

「夏場でも涼しくはあるが……ここまで冷えるのは珍しいな」

 

 水兵と同じ感想を、舞原も抱いていた。今夜はいささか寒すぎる。

 

「……大尉殿、なんだか今宵は、あの噂みたいじゃあありませんか?」

「……ああ、あれか」

 

 それは、この〔吹雪〕艦内にてまことしやかに囁かれている噂、怪談の類である。舞原も風の噂で耳に挟んでいた。

 寒い日になると、〔吹雪〕には決まって、女の霊が出るという。月夜の下で踊る影を見たとか、海鳥に混じって歌う声を聞いたとか、波間で水浴びをする少女を見たとか、とにかくそうした噂話が、就役して以来〔吹雪〕には絶えなかった。

 

「例の、舞鶴で現れたっていう、巫女さんと関係あるんですかねえ」

 

 これもまた、〔吹雪〕――のみならず、日本中で有名な話である。神の化身を名乗り、人類の危機に備えて日本と協力しているという女性の話は、日本人であれば誰もが耳にしたことのある話だ。しかも、彼女が最初に現れた時というのが、〔吹雪〕の進水式ときた。それだけに、「神のお使いと関わったから、この艦には不思議なことが起こる」だとか、「本来、〔吹雪〕は神様の船で、それを人が使っているから呪われた」などという憶測を呼んでいる。

 

 舞原はかぶりを振った。霊だの呪いだのを信じるタチではない。

 

「早く済ませて戻ろう」

 

 舞原は宣言して、艦首甲板へと歩き出す。〔吹雪〕と岸壁を結んでいる三本の舫を確認しなくてはならない。

 フェアリーダーを通して舷外へ延びる舫の様子を観察する。今は潮が低いが、これから夜中にかけて上げ潮になる。朝方には下げ潮の状態だ。潮の上げ下げを考えて、舫の緩みが適切かどうかも判断しなければならない。

 見たところ、艦首から伸びる三本については、問題がなさそうだ。ネズミ返し用の金属板も落下していない。

 

「異常なし、ですね」

「ああ。後部甲板に行こう」

 

 そう言って顔を上げ、艦尾側の点検に向かおうとした時だ。

 

「ご精が出ますね」

 

 こちらを労う女性の声が、二人の背後から聞こえてきた。夜に、それも突然、背中から声をかけられれば、いかに海軍軍人でも驚きはする。肩を一瞬震わせて、舞原と水兵は声の主を振り返った。

 いつの間にそこまで近づかれていたのか、ほんの目と鼻の先に、ニコニコと微笑む少女の顔があった。巡検中で舫に意識がいっていたとはいえ、物音一つ、気配一つ気づかなかったというのは不気味だ。

 だが、二人が驚いたのは、それだけが理由ではなかった。こちらを窺い、コテンと首を傾げる少女は、しかしその両足を地につけてはいなかった。あたかも、噂話に聞いた幽霊のごとく、夜風の中にふわふわと浮いている。少女はそれを気にした風もなく、ただ微笑んでこちらを見つめていた。

 

「……でっ」

 

 もはや言葉になっていない叫び声の後、水兵はくるりと踵を返し、一目散に駆けだした。上官を放って脱兎のごとく逃げ出したその後ろ姿に、残された舞原と少女も呆気に取られてしまう。二人が見つめる中、艦内へ続く水密扉が固く閉ざされる音がした。

 

(……逃げ出す奴があるか)

 

 大して非難する気にもなれず、舞原は溜め息を一つ吐いて、少女に向き直った。宙に浮いていた少女はそのままゆっくりと足を下ろし、リノリウムの上に立つ。両の足でしっかりと立っているから、幽霊の類ではないはずだ。

 

 舞原は改めて少女を見る。顔つきや体格からして、年の頃は十四、五だろうか。まだまだあどけなさの残る表情をしているが、バランスの良い顔立ちから美人になるであろうことを窺わせた。軍港の光に照らされる黒髪は、大洋を思わせる群青を宿す。こちらを見つめるその瞳には、いつか見た南海と同じ、エメラルドグリーンの輝きが秘められていた。

 

「君、名前は?どこから来た?」

 

 何だか得体のしれない少女だが、確認しないわけにはいかない。舞原の質問に対し、ぱちくりと瞬きをした少女は、さも当然のように答えた。

 

「吹雪、ですけど」

「……吹雪?」

 

 思わず問い返した舞原に対し、少女は殊更困ったように首をひねった。顎に手を当てて考え込む彼女の口からは、時折「おかしいなぁ」という呟きが漏れてくる。少女がこれほど困惑している理由には、皆目見当もつかない。むしろ許されるのなら、こちらが首を傾げたいくらいなのだ。

 十秒ほど悩んでいた少女は、舞原の瞳を覗き込み、確認するようにして尋ねた。

 

「えっと……ミコさんからは、何か聞かされていませんか?」

 

 少女が「ミコ」と呼んだ人物の見当はすぐについた。丁度先程話に出た、神の使いを名乗る女性のことだ。今は宮内省がその身を預かっており、公式には「御子」の名で呼ばれている。少女は、御子と知り合いなのだろうか。

 

(だとすると、この艦の噂は、あながち的外れでもなかったわけか)

 

 噂の幽霊であろう少女と、〔吹雪〕に現れた神の使いには、何らかの関係性があったわけだ。

 こちらの表情である程度事情を察したのか、少女は改めて、先よりも幾分か詳しく、自己紹介をしてくれた。

 

「はじめまして、吹雪と申します。駆逐艦〔吹雪〕の船魂を、ミコさんの力を借りて、人の姿へと形作りました。わたしこそが、予言された災厄を祓う力となります」

 

 きわめて実直で、真っ直ぐな言葉に、舞原は無言のうち、直立不動となっていた。もはやその言葉を疑うことはない。それだけの説得力と信頼感が、少女の言葉にはあった。

 生真面目な表情から一転、先程と同じように柔らかな微笑みを浮かべた少女は、その右手をそっと差し出してくる。舞原もまた、無言のうちに手を出し、少女の手と重ねた。思わず相好が崩れる。彼女の手は見た目相応に小さかったが、それでも随分と力強く感じられた。

 

 

 

 吹雪を含め、船魂が少女の姿を得た存在は、のちに「艦娘」と呼ばれるようになった。一九三〇年の吹雪出現を皮切りに、ぽつりぽつりと、何人かの艦娘たちが現れ始める。彼女らこそが、御子が予言した神が授ける力の象徴、十握剣を手にした戦乙女。

 ここに予言の正しさは証明された。同時に、もう一つの予言、来る災厄への危機感が、日本国内で高まっていくこととなる。



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艦娘誕生(2)

 

 

 

 昭和六年(一九三一年)七月某日。横須賀市街。

 

 横須賀鎮守府のすぐ近くに、「ゆき」という和菓子屋があった。干菓子や練り物といった、お茶の席で使う菓子はもちろんのこと、隣の喫茶店内では、餡蜜やぜんざいといった物も扱っている。寡黙な店主と、器量の良い女将、穏やかなご隠居が切り盛りする、繁盛店だ。

 鎮守府が近いこともあり、日曜日や半舷上陸の日になると、甘い物好きな士官や水兵も多数訪れた。中には、ご隠居が店主であった頃から通いつめているという将官もいる。噂が噂を呼ぶ軍隊の中で、「ゆき」の名前を知らない者はいなかった。

 

 雪村きよし少年は、和菓子屋「ゆき」の次男坊である。歳は十四。学校へ通う傍ら、休日は兄や姉二人と共に店の手伝いをしている。妹もいたが、こちらはまだ小さいので手伝いは免除だ。

 家の後を継ぐことが決まっている兄は、奥の調理場で店主――父の指導を受けている。きよしの仕事は、もっぱら姉と共に、給仕や勘定だ。そうした手伝いをこなしつつ、店にやって来る海軍さんの話を聞くのが、彼の楽しみだった。顔馴染みが多いこともあって、やれ訓練だの、遠洋航海だの、実に愉快な話をたくさん聞くことができる。が、あまり話に熱中しすぎると、姉からお盆が飛んでくるので、そこは見極めなければならなかった。

 

 今日も今日とて、きよしは水兵たちに餡蜜やぜんざいを運び、軍艦の話を聞いている。

 餡子の絡んだ白玉をおいしそうに頬張る一曹が、こんな話を聞かせてくれた。

 

「きよしくん、艦娘って聞いたことあるかい?」

 

 きよしは頷く。一年くらい前、新聞で読んだことがあった。なんでも、軍艦の魂が少女の姿形を獲得して、人間の前に現れたらしい、と。あれから一年間で、合計五人の艦娘が現れたそうだ。

 艦娘の正体はいまだはっきりしていないが、その目的だけは明確にされている。御子と名乗る神の使いが予言したという、世界に迫る危機に対抗できる存在、それが艦娘だ。

 

「僕が乗ってるのは、その艦娘搭乗艦なんだ」

「本当ですか!?」

 

 店の中だというのに、思わず大きい声が出てしまった。慌てて口を噤むがもう遅い。恐る恐る厨房を窺うと、この世のものとは思えないほど可憐な笑顔を、下の姉が向けていた。が、その笑顔の意味するところを理解できるのは、この家の人間だけだ。お盆を指さすあの笑顔は、間違いなく「次は当てる」の意味だ。

 無言のままこくこくと頷いて、きよしは水兵に向き直る。艦娘といえば、巷の少年少女が今最も興味のある事柄だ。海軍はその存在を公にしているのに、艦娘に関する具体的なことは何一つ語らない。

 

「〔吹雪〕!?それとも〔漣〕!?艦娘ってどんな見た目なんですか!?」

 

 声のトーンを落として水兵に質問する。興奮を押さえろというのが無理な相談だ。この件だけは何としても話を聞いてみたい。

 

「艦は秘密。艦娘は、そうだなあ――丁度、向こうの娘さんくらいの、」

 

 そこまで言った時、水兵の動きが固まった。不審に思って、きよしも水兵の目線の先を振り返る。

 店の入り口に、女学生と思しき集団が立っていた。五人で来ているらしく、席の空き具合を上の姉に尋ねていた。大きめの机が開いていたので姉がお品書きを持ち、少女たちを案内する。

 そのうちの一人、セーラー服を着て、髪を一つに結んだ少女が、こちらに――きよしたちのいる机に、軽く会釈をした。

 

「ふ、吹雪大尉!?」

 

 すぐ近くで聞こえた野太い声に、耳の奥がキーンとした。水兵が慌てた顔で、先程の少女たちを見ている。

 内心首を傾げながら、きよしはもう一度少女たちの方を見る。

 見たことのないデザインのセーラー服だ。少なくともこの辺りの学生ではない。見たところ、年齢はきよしとあまり変わらない。十五、六歳くらいだろうか。全員揃って別嬪さんという以外、どこにでもいる仲のいい女学生たちだった。ただ不思議と、何か惹きつけられるものを感じる。それはオーラと言っていいかもしれない。

 吹雪大尉と呼ばれた先程の少女が、眉を下げて笑いかける。

 

「見つかっちゃいました」

「ま、舞原大尉はどうされたのですか?」

 

 水兵の問いかけに、吹雪は気まずそうに目を逸らした。他の少女たちも同じだ。にわかに椅子から腰を上げた水兵が、声をわななかせて尋ねる。

 

「まさか、黙って出て来たんですか……?」

「……お忍びですよ?」

 

 何が違うのだろうと、きよしは訝しんだ。

 いよいよ、水兵は頭を抱えだす。

 

「……ここで吹雪大尉を見たことは忘れます」

「あはは……お願いします」

 

 溜め息交じりに水兵が着席したところで、きよしのタイムリミットが来た。姉に呼ばれて、きよしは厨房へ戻る。しかしどうしても、少女たちが気になって仕方がなかった。

 

 何となく推察はできているのだ。おそらく、今姉がアイスクリーム付きの餡蜜を運んで行った少女たちが、噂に出ていた艦娘だろう。昇進が遅い女性士官の中で、あれだけ若いのに大尉の階級を持っているとなると、艦娘以外に考えられなかった。

 お忍びと言っているところを見ると、お付きの士官には内緒で来ているんだろう。淑やかで落ち着いた雰囲気とは反対に、案外やんちゃな気質なのかもしれない。

 

 改めて、五人の少女たちを見遣る。出された餡蜜を、少女たちは夢中になって頬ばっていた。水兵たちの心配をよそに、それはそれは幸せそうにスプーンを動かす彼女たちに、苦笑すら湧いてくる。何ともはや、のん気なものだ。

 ふと、そのうちの一人、吹雪と目が合った。スプーンで餡子と寒天を口へ運んでいた少女は、ぱちくりと瞬きをする。それから、朗らかに笑みを浮かべて、軽く会釈してきた。パッと咲いた花が、風に揺られて頭を垂れたような、実に自然で様になっている礼だった。家が客商売をしている関係上、その美しさはよくわかる。

 染みついた癖として、会釈を返す。吹雪は益々笑みを深めて、再び餡蜜を食べるのに集中し始めた。

 

「ごちそうさまです。また来ます!」

 

 帰り際にそう言って、笑顔で手を振ってくれた少女たちの姿は、きよしの記憶に深く刻まれることとなった。

 

 

 

 その日以降、少女たち――艦娘が、ちょくちょく「ゆき」を訪れるようになった。特によく来てくれたのは、きよしが真っ先に名前を覚えた、吹雪だった。一人で来たり、あるいは他の艦娘を連れたりと、何だかんだで一週間に一回は必ず店に顔を出した。

 商売人の息子であるから、客の顔を覚えるのに苦労はない。それが、あの噂の艦娘となればなおさらだ。きよし含めて雪村一家は一発で吹雪の顔を覚えたし、吹雪も通っているうちにこちらの名前と顔を覚えてくれた。特に、店に出て給仕や勘定をしている、きよしと姉二人のことは、いの一番に記憶してくれた。

 

「吹雪さん、こんなに頻繁に来ていいんですか?お付きの士官さんに怒られるんじゃ……」

 

 今日は一人でやってきていた吹雪に、最中(もなか)付きの餡蜜を出しつつ、きよしは尋ねる。微かに苦笑を漏らした吹雪は、悪戯っぽく片目を閉じて、自信満々に断言した。

 

「大丈夫です。お土産はちゃんと持って行ってますから」

「いつも買ってる、餡蜜セットですか?」

 

 最近、一番上の兄が開発した商品だ。寒天や餡子、黒蜜を別々の竹筒に詰めることで、持ち帰りができるようにしたものだった。店で食べる味には劣るが、好評を博している商品で、用意した一日分はいつも完売している。

 吹雪は、「ゆき」に来る度、この餡蜜セットを買って帰っていたのだ。てっきり、来ることができなかった艦娘に渡していると思っていたが、まさかお付きの士官に渡っていたとは。

 

「……餡蜜セットを袖の下に、無断外出を許してもらってるんですか?」

「む、無断外出じゃないですよ!?ただちょっと、自由にさせてもらってるだけです」

 

 頬を膨らませながら抗議の意思を示す吹雪に、きよしは無言で返す。お付きの士官の苦労が窺われた。

 

「そういえば、きよしくん」

 

 最中をおいしそうに齧っていた吹雪が、きよしを呼んだ。売上金の確認をしていたきよしは、手を動かしたまま吹雪の方を窺う。もうすぐ暖簾を外す時間の店内には、吹雪が残るのみであった。

 

「なんですか?」

「きよしくんは、学校を卒業したら、どうするんですか?」

 

 正直なところ、どきりとした。吹雪は、よくきよしの近況を尋ねてくる。学校の様子はどうとか、〔三笠〕の見学はどうとか、休日は何をしているだとか、本当に他愛のないことばかりだった。けれど今回の質問は、何だか雰囲気が違ったのだ。

 自分がこれからどうするのか。何となく決めていることはある。それとなく、調べたり話を聞いたりはしていた。

 

「海軍に入ろうと思ってます。だから、海軍兵学校を、受験しますよ」

 

 店は兄が継ぐことが決まっているし、次男である自分がこの家にいる理由はない。男子たるもの、自分の家を持って初めて一人前だ。一国一城の主になるには、何にせよ稼ぎが無くてはならない。幸い学はそれなりにあったから、選択肢は広くあった。

 海軍を選んだことに、特に深い理由はない。普段から関わりが多かったのが、海軍だったというだけだ。海も船もそれなりに好きであるし、自分の中で違和感もない。

 ……もっとも、何か一つ、大きな理由を取り上げるとすれば、それは吹雪の存在になるだろう。世界の危機に立ち向かうという艦娘と、こんなにも近くで接することになった経験が、きよしに海軍への道を決心させた。

 

「そう、ですか」

 

 餡蜜の器を空にした吹雪が立ち上がり、お勘定のためにきよしの方へとやって来る。いつも通り、釣銭なしのぴったりなお金を、吹雪は用意していた。加えて、きよしはお土産用だという餡蜜セットを準備する。吹雪のために取り置きしておいたものだ。

 

「わたし、横須賀から移動になるんです」

 

 袋を受け取りながら、吹雪はさらりと言った。きよしは目を見開く。

 別段珍しいことではない。艦艇の所属が異動になることなんてしょっちゅうだ。

 

「呉に、艦娘搭乗艦を集めた部隊が新設されるんです」

 

 顔を上げた吹雪は、夕陽の中で寂しげに笑う。睫毛に反射するオレンジに、不覚にもドキリとしてしまった。

 

「今までお世話になりました。皆さんにもよろしく伝えてください」

「……こちらこそ。ご贔屓にしていただいて、ありがとうございました」

 

 吹雪はもう一度笑って、彼女の艦へ帰っていく。店の片づけそっちのけで、きよしは彼女の背中を見つめていた。その背中が見えなくなったところで、彼は改めて頭を下げ、暖簾を店内へと仕舞い込んだ。

 

 横須賀の街には、ゆっくりと夜の気配が広がっていった。



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艦娘誕生(3)

 

 

 

 一九三六年一〇月二日。

 

 瀬戸内海に浮かぶ見上げるように巨大な艦へと、内火艇はゆっくり近づいて行った。錨を下ろし、海上で休むその艦からは、塗りたてのペンキの匂いが漂ってくるかのようだ。新品そのものの戦艦の各所に目を凝らし、マイケル・ハリス中佐は感嘆の息を漏らした。

 彼はいわゆる駐在武官として、一年前から駐日アメリカ大使館に勤務している、海軍軍人である。情報が第一と言われる昨今の軍事情勢の中、各国の軍関係者と交流することの多い駐在武官の責任は重大だ。今日もそうした活動の一環で、呉を訪れている。

 

 目の前に迫っているのは、ロンドン軍縮条約の下で建造された日本海軍の新造戦艦だ。艦名を〔尾張〕といった。全長二百三十七メートル、基準排水量三万五千トン。一六インチ級の主砲を九門備えた、強力な軍艦だ。真新しい檜が敷き詰められたその甲板上に、ハリスは上がる手筈となっている。

 

 内火艇が〔尾張〕の舷側へ横づけるまで、ハリスは何度も目を通した〔尾張〕建造に関する書類の内容を思い返す。

 目の前の〔尾張〕をネームシップとする〔尾張〕型戦艦は、元々ワシントン海軍軍縮条約内で建造が認められていた、艦齢二十年を超える戦艦の代艦である。日本の場合は、これに〔金剛〕と〔比叡〕が当て嵌まっており、両戦艦を練習戦艦へと格下げすることを条件にして、〔尾張〕と〔駿河〕を建造していた。同様の理由で、合衆国海軍も〔ミネソタ〕級戦艦二隻を建造している。

 ロンドン海軍軍縮会議の席上で、代艦の建造を強硬に主張したのは、他ならぬ日本であった。世界が軍縮へと向かう流れに、真っ向から逆らうものだ。さらに言えば、日本は一九三四年にワシントン軍縮条約を破棄することを各国へ通告し、いよいよ今年から条約が失効する。すでに海軍省では、ポスト条約型――基準排水量三万五千トンを超える戦艦の青写真が引かれているとの噂もあった。

 

――「日本海軍は、死神にそそのかされて、再び軍拡の道を歩んでいる」

 

 というのは、イギリスの駐在武官が冗談交じりに言っていた、何とも笑えない話である。死神の名前は「ミコ」といった。

 

 もしも、このまま日本海軍が、その力を強めていくのであれば、太平洋の対岸に位置する合衆国との衝突は避けられない。再選したルーズベルト大統領は、対日強硬派とのもっぱらの噂だ。

 

(だからこそ、この目でしかと、見極めなければならない)

 

 ハリスに与えられた使命は、〔尾張〕が条約に基づいて建造されているかを視察すると同時に、日本海軍の建造技術を観察し、この先建造されるであろうポスト条約型戦艦がいかなものであるかを推測すること、以上の二点であった。どちらにしろ、合衆国海軍の国防に直結する、重大な役割に変わりはない。

 

「接舷に備えてください」

 

 案内をしてくれている日本海軍の士官が、ハリスに注意を促した。今一度居住まいを正し、しかと手すりに掴まったハリスは、すぐそこに迫った〔尾張〕の舷梯を見つめる。やがて、内火艇の舷側が、柔らかい衝撃と共に舷梯に横づけた。

 

 

 

 二時間の視察を終え、ハリスは呉軍港の岸壁へと戻ってきていた。

 太陽はすでに、山の方へと傾き始めている。波間にオレンジを映す海を振り返り、ハリスは改めて、〔尾張〕を見た。

 個人的な感想としては、実に美しい軍艦であると感じた。後から多くの装備品を追加していったこれまでの日本戦艦とは違い、最初から多くの機能がすっきりとまとめられている。全体的にスマートな印象を受ける艦だ。同じことは、同時期に建造された〔ミネソタ〕級にも言えるだろう。

 

(日本の建造技術は本物だ)

 

 合衆国に並び立つだけの技術を、この国はたった数十年で手にしたのだ。その発展の早さには、敬服する他ない。日本で過ごせば過ごすほど、合衆国の好敵手がいかに強力な相手であるかが、身に染みた。

 

「ハリス中佐」

 

 背後から呼びかける声に、ハリスはゆっくりと振り向いた。日本人には珍しく、気さくな調子で呼びかけてきたのは、マイバラという日本海軍の士官であった。階級はハリスよりも一つ下の、少佐である。軍人同士の交流会で顔見知りとなり、不思議と馬が合ったことから、度々話すようになった仲だ。今回の視察にも、わざわざ同行してくれている。彼のおかげで、呉鎮守府内での活動にも全く困らなかった。

 

「お疲れでしょう。宿舎までご案内します」

「ありがとうございます」

 

 力強く頷いて、マイバラは鎮守府内の建物の一つへと案内してくれる。

 

「〔尾張〕はいかがでしたか?」

 

 宿舎への道すがら、マイバラは何気ない風に尋ねて来た。遠回しに「アメリカはこの戦艦をどう評価しているのか」と訊いているのだろうか。そんな考えが一瞬よぎったが、この男にそんなものを考えても仕方のないことだ。マイバラは公私の使い分けが実にうまい。公的なマイバラは油断のならない人物だが、私的な時は実に快活で付き合いやすい。

 今のマイバラは、私的なトーンで話している。単純に、今日の感想を求めているだけだろう。

 

「実に素晴らしい。話に聞く、日本の城郭のようで、実に精悍でした」

「それはよかった」

 

 マイバラは隠すことなく笑みを浮かべる。最新鋭戦艦を褒められたことが、嬉しくて仕方がないという様子だ。かくいうハリスも、〔ミネソタ〕級の写真をマイバラに絶賛された時は、満更でもなかった。やはり、自国の象徴たる戦艦を褒められて、嬉しくならない海軍軍人はいない。

 

「他にも何隻か、視察されればよろしいのに。巡洋艦〔神通〕などは、いくらか伝手もあります」

「そうしたいのはやまやまですが、大使に早く戻ってくるよう言われておりまして」

 

 三か月前に着任した駐日大使は、駐在武官が日本海軍の軍人と個人的に接触することをあまり好ましく思っていなかった。直属の上司ではないが、間借りしている関係上無視もできない。

 

「そうですか。――では、このあと少し、お時間をいただいてもよろしいか」

 

 マイバラの返答に、ハリスはぴくりと眉を跳ねる。会話の途中で、マイバラが急にトーンの公私を切り替えたからだ。

 

「ええ、構いません」

「では、このまま応接室までご案内します」

 

 庁舎のドアを開け放ち、マイバラはそう宣言した。

 廊下を真っ直ぐに歩いて行き、応接室の札が掲げられた部屋に通される。部屋の中には二つの人影があった。

 

「急にお呼び立てして申し訳ない、ハリス中佐」

 

 初老の男性が最初に立ち上がり、握手を求めてくる。顔には覚えがあった。呉鎮守府の長を務めている中将のはずだ。

 そしてもう一人、女性士官が中将の後ろで一礼する。秘書官か何かかと思ったが、大尉の徽章を見てその考えを捨てた。彼女がこの席にいる理由が掴めない。

 

「はじめまして」

 

 中将に続いて握手を求めてきた女性士官の顔を見る。内心の驚きは、何とか精神力で押さえつけた。

 若い。いや、若すぎる。大尉という階級から考えても、いいやその前に海軍士官としても若すぎる。日本人が若く見られがちであることを差し引いても、その顔つきや体格は、十代の少女にしか思えなかった。ハリスとは頭一つ以上、目線に差がある。

 ()()()をしたつぶらな瞳が、温和に笑ってハリスを見つめていた。交わした握手に合わせて、彼女の髪が揺れていた。

 ハリスの疑問に対する答えは、中将に続いて少女を紹介したマイバラによって示された。

 

「こちらは吹雪特務大尉。駆逐艦〔吹雪〕の艦娘です」

 

 

 

 マイバラが出してくれたコーヒーの味は、普段より苦く感じられた。あれだけコーヒーにこだわりのあった彼が、淹れ方をミスするとは思えない。だからこれは、あくまでハリス自身の感覚のはずだ。何しろ、合衆国海軍の人間としては初めて、艦娘と会談する機会を得られたのだから。

 

 全員が席についたのを確認して、中将が話を始める。

 

「我が国が呼びかけている世界の危機については、ご存じですかな」

 

(いきなり切り込んできたな)

 

 数年前から、日本があくまで非公式に訴えている「災厄」というものについては、駐在武官着任前に聞かされている。いわく、一九二七年に日本に現れたというミコが予言したことだという話だ。

 災厄は海からやって来る。そしてそれに唯一対抗できる手段が、艦娘だというのだ。

 

「ええ、存じています」

 

 ハリスは頷く。この件に関して、駐在武官としての回答は一つだ。合衆国は日本の言い分を認めない。

 アメリカ合衆国は勇気ある者を称えるが、基本的には合理性を突き詰める国だ。予言だの神の使いだのという言葉は、現代国家の合理性からは遥かにかけ離れている。国家を動かすのは唯一、国民の意志によってのみであり、独裁者に代表されるたった一人の戯言であってはならない。

 合衆国政府の判断は、「日本が主張する災厄は軍拡を正当化する詭弁である」とするものだった。事実として、日本はロンドン会議で〔金剛〕型代艦の建造を強く主張し、今度は軍縮条約そのものを破棄した。世界大戦を経験した世界が、平和の実現に向けて歩もうとするその足並みを、乱す行為に他ならない。

 ハリス自身も、この件に関して、合衆国政府の判断に全く異存はない。合衆国は常に現実主義を貫く。いずれ来襲するかもしれない宇宙人には備えても、真偽のほどが怪しい災厄に備えるつもりはない。

 

「正直なところ、我が国の話を信じてもらえるとは、考えておりません」

 

 さらりと言ってのけた中将に、ハリスは拍子抜けする。総理大臣の署名付きでホワイトハウスに送られてきた日本の要請書は、どう見ても本気であったと聞いている。だというのに、この温度差はなんだ。ハリスは無言を貫き、中将の言葉が続くのを待つ。

 

「信じてはもらえないでしょうが……知っていただくことはできます。万が一の際に、予備知識があるとないとでは、大違いですからな」

 

 なるほど、一理ある。信じる信じないは別にして、合衆国は災厄の存在を知ることができた。何も起こらないのであればそれでよし。万が一災厄が訪れても、あらかじめそのことを知っていれば、いくらでも対策の取りようはある。

 日本の狙いは、災厄に抗する協力者を募ることではなく、災厄が起きてしまった時の理解者を作ることであったとも言える。

 

「さて、本題に入りましょうか」

 

 話題を切り替えた中将が、隣に座る吹雪を見た。小柄な彼女は、すらりとした背筋をさらに真っ直ぐ伸ばす。

 

「以前より、ハリス中佐は艦娘との会談を望んでいると、聞いております」

 

 ハリスは無言で頷いた。事実、海軍省には公式に何度か要請を出しているし、マイバラにも事あるごとに相談していた。日本の言う災厄に直接関わりがあり、しかも今のところ日本海軍にしかいないとなると、気になるのも当然というものだ。ただこれまで、アメリカ含め各国の軍関係者が艦娘と接触できた前例はない。

 

「彼女たちは、非常に繊細な存在です。できる限り、外部との接触は断ちたいというのが、正直なところでもあります」

 

 ただ、と中将は前置きして、再度吹雪に目線を遣った。

 

「今回は、吹雪大尉たっての希望で、少し強引にこの場を設けさせてもらいました。故あって、短い時間ではありますが、貴官と吹雪大尉の会談を許可いたします」

 

 ハリスも吹雪の方に目を向ける。随分と慣れた様子で、吹雪は一礼した。どれほど幼い見た目でも、彼女が海軍の人間であることを理解させるのに、十分な所作であった。

 

「吹雪と申します。駆逐艦〔吹雪〕の艦娘です。突然お呼び立てしたことを、お許しください」

「いいえ。こちらこそ、お会いできて光栄です」

 

 礼を返したハリスに、吹雪は小さくはにかむ。その笑い方は見た目相応のものだ。あどけなさの残る目が、ハリスを真っ直ぐに見ている。

 

「なぜ、自分に会ってくださったのですか」

 

 最初の疑問を投げかける。吹雪は確認を取るように中将とマイバラを見、それからゆっくりと答えた。

 

「太平洋の対岸に位置している米国は、災厄が訪れた時に、とても重要な協力国になると、私は考えています」

 

 協力国、という言い回しに、ハリスは眉を跳ねさせた。合衆国と日本の間に、軍事的な協力関係は皆無だ。むしろ、太平洋の覇権を争う、ライバル同士と言って差し支えない。だというのに、吹雪は合衆国を、協力国と呼んだ。

 

(災厄が訪れれば、合衆国は否が応でも、日本に協力せざるを得ない、ということか?)

 

 その可能性は示唆されている。日本は艦娘を、唯一災厄に対処できる戦力、と説明した。彼らの言う災厄がどういう類のモノかはわからないが、仮に艦娘のみが対抗手段だとすれば、艦娘を持たない日本以外の国は、災厄に対処する術を持たないことになる。

 確かめたいことは山ほどあるのだ。ハリスは口を開く

 

「……まずお尋ねしたい。艦娘とは何です?なぜ、日本の軍艦にしか、現れないのですか?」

 

 ハリスの質問に、吹雪は微笑んで頷いた。先程の笑みとは、いささか印象が違うように感じる。目を細めた拍子に、長い睫毛が瞳にかかった。しなやかに反った睫毛の間から覗く金色の瞳が、雲間に浮かぶ太陽のようでもあった。

 

(……何者だ、一体)

 

 得体のしれない感覚に、吹き出そうになった汗を押さえて、吹雪の返答を待つ。

 

「ええ、そうですね。まずはそこからお話ししましょう。艦娘とは、船に宿る魂の具現化です。神々の力を借り受け、人の似姿を得て、現世へと降り立った少女たちのことです」

 

 黄金色の瞳が、真っ直ぐにハリスを見ている。太陽を宿した眩ゆい輝きから、しかし目を逸らすわけにはいかない。初見の幼い印象は、もはや鳴りを潜めていた。何か巨大なものと対峙している、そんな気がしてならない。

 

「艦娘は、神の使いである御子の力を借りて、現界します。その性質上、御子から離れた場所では、現界が叶いません。御子が日本にいる以上、日本の軍艦しか艦娘を現界させることができないのです」

「……例えば、御子さんに合衆国へ来ていただければ、我が国の軍艦も艦娘を持てるのですか?」

 

 現実的には実現不可能だが、その可能性は考慮しなければならない。

 吹雪はしばし考える仕草をすると、悪戯っぽく笑みを浮かべて、首を横に振った。

 

「どうでしょう。御子の力とはすなわち、日本神話の最高神、天照大神の力です。その力は、この大八州という地を触媒にして発揮されるものですから、この地からあまりに距離がありすぎると、艦娘を現界させることはできないでしょう。艦娘を搭乗させるには、日本の周辺にいることが、必要最低限の条件です」

「それはつまり、たとえ合衆国軍艦であっても、日本周辺であれば、艦娘を得ることができる、ということですか」

「さあて、どうでしょう。()()()()()がありませんので」

 

 吹雪は目を細めて答える。「試したことがない」という文言が、妙に引っかかった。

 

「……では、艦娘には活動できる範囲の制限があるのですか?すなわち、日本周辺でなければ、活動ができない、と?」

「いいえ、その心配はありません。日本周辺にいる必要があるのは、艦娘を現界させる時だけです。一度人の似姿を得てしまえば、あとは艦体そのものが艦娘を現世に留める錨の役割を果たします。それから――」

 

 それから、もう一つ。吹雪は人差し指を立て、どこか情熱的に、そして艶やかに、こう付け足した。

 

「艦娘を現世に繋ぎ止める、いわば『鎖』となる人間が、同じように必要です」

 

(……『鎖』となる人間……?)

 

 時折、吹雪の説明は抽象的に過ぎた。日本語と英語で若干ニュアンスの違いはあるかもしれないが、それにしても彼女の真意は掴みずらい。利根川に棲むウナギを手掴みしようとするような、そんな感覚だ。とにかく掴みどころがない。

 艦娘は御子が作る。その存在は、軍艦の艦体そのものと、「鎖」となる人間が繋ぎ止める。まるで神話を読み解いているような、あるいは難解な詩歌をなぞるような、頭の中をかき乱される感覚がする。残念ながら、どちらもハリスの専門外だ。

 

「――申し訳ありませんが、お時間になってしまいました」

 

 吹雪との会談は、彼女の一方的な宣言によって、唐突に終わりを告げた。心底申し訳なさそうに、彼女は眉を下げている。強引に話を続けたいところであったが、ここが引き際だろうと、ハリスは理解した。

 

「ありがとうございます。大変有意義なお話ができた」

 

 ハリスが先に差し出した右手を吹雪は力強く握り返す。彼女の微笑みは、最初に見た時と同じものに戻っていた。

 

「ハリス中佐。貴方は将来有望な方です。必ずや、米海軍の中枢でご活躍なさる事でしょう。その時はどうか、今日のことを思い出していただきたいのです」

 

 吹雪の言葉に無言をもって答え、ハリスはマイバラの案内で応接室を後にする。最後に一礼した吹雪の瞳は、燦然と輝く太陽の色を失い、たゆたう大海の翡翠色を新たに宿していた。




以上、第壱章でした


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弐章、邪砲覚醒
邪砲覚醒(1)


さてさて、ここからお話を動かしていきます


 

 

 

――その日は抜けるような青空の、眩しい日であった。

 

 一九四〇年一二月八日。ハワイ準州、オアフ島。この島には、真新しい合衆国海軍の基地が置かれていた。太平洋艦隊が、サンディエゴに代わる拠点として、数年前から整備を進めている。基地機能はそのほとんどが完成状態にあるが、太平洋艦隊が本格的に拠点として使い始めるには、もう一年ほど時間が必要であると見込まれていた。

 

 そんなオアフ島へ、今まさに入港しようとしている軍艦が一隻あった。

 戦艦〔アリゾナ〕。太平洋艦隊に所属する、戦艦の一隻である。〔ペンシルヴェニア〕級二番艦であり、四五口径一四インチ砲を三連装四基十二門搭載する、海上の要塞に相応しい軍艦だ。

 サンディエゴでの定期整備を終えた〔アリゾナ〕は、彼女の新たな母港となるパールハーバー基地を目指して航海してきたのだった。

 

 そんな〔アリゾナ〕の艦橋から、ハリス()()はパールハーバー基地の様子を観察していた。二年前に駐在武官の任を解かれた彼は、この度大佐への昇進が決まり、同時に太平洋艦隊情報参謀の辞令が下っていた。

 図らずも、数年前に吹雪が言った通り、彼は米海軍の中枢へ招かれたことになる。

 

「パールハーバーには、来たことがあるか?」

 

 入港作業の指示を下しつつ、ロバート・リー艦長がハリスに問いかけた。階級は同じ大佐だが、戦艦の艦長を務めるだけあって、経験はリーの方が長い。そもそもハリスは、どちらかといえば軍政一筋でやってきた人間だ。現場でやってきた人間とは、経験が天と地ほど開きがある。

 

「練習航海の際に、一度だけではありますが。住むにはいいところという印象です」

「人間にとっては、な。だが、この〔アリゾナ〕にとって、住みよいところとなるだろうか」

 

 艦を預かる人間らしい心配だと思った。戦艦とは存外に、繊細な精密機械の塊と言える。最高のパフォーマンスを維持するためには、それ相応の備えが必要だ。扱う人間の訓練はもちろん、設備や機材の揃った母港も、艦を十全に保つには必要不可欠である。いまだ完成に至っていないパールハーバーの基地が、それだけの能力を有しているのか、リーは懐疑的な様子であった。

 

 未完成のパールハーバーに太平洋艦隊が進出を急いだのは、それなりの理由がある。近年活動を活発化させている、日本海軍へ睨みを利かせるためだ。一九三六年のワシントン条約失効以降、大規模な建艦計画によって海軍力の増大に努める日本海軍は、同時に太平洋地域に持つ島嶼の基地機能強化も進めている。こうした動きに対抗する形で、太平洋艦隊もハワイ諸島の基地化を急いだのだ。

 

(災厄の時が近いのか。あるいは他に狙いがあるのか)

 

 いずれにしろ、日本は再三、合衆国に対して「基地能力強化は米国の安全保障を脅かすものではない」と説明している。ハリスとしてはその言を信用したいところだが、そう悠長に構えていてはいけないのが、軍事の世界でもあった。

 

 いらぬ思考を、かぶりを振って打ち消す。

 

「住めば都、という言葉もあります。結局のところ、実際に生活してみなければ、わからないことも多いものです。軍港も同じではないでしょうか」

「……今はそう考えるとしよう」

 

 そう答えて、リーは入港準備に戻っていく。丁度、入港時の部署配置が終わったタイミングであった。

 

 

 

 異変が起きたのは、〔アリゾナ〕がパールハーバーの湾口まで二マイルに迫ったところであった。

 

「か、艦長!パールハーバーが!」

 

 見張り員の一人が叫んだ。状況を正確に伝えていない言葉に、ハリスもパールハーバーの方を見遣る。

 一見しただけでは何も見えない。パールハーバーの港湾施設に異変はなく、穏やかな海が広がるばかりだ。

 だが――

 

(なんだ、あれは……?)

 

 天然の要害となる湾内に違和感の正体を見つけて、ハリスは双眼鏡を覗き込んだ。拡大された視界の中に、映るはずのないものが映っていた。ハリスは息を飲む。

 

 パールハーバーの湾内に、暗雲が立ち込めている。大質量を伴っているような、実に重厚な雲が、湾内に広がっていく。黒雲の中には時折稲光が走り、その度に生物の如く雲がのたうつ。腕のように伸びた雲海は湾の隅々まで至り、海を、艦を、港湾施設を、次々に飲み込んでいった。

 正体はわからない。あれの正体を知る人間などいない。ただ、それがとてつもなく恐ろしいものであることを、本能が感じ取っていた。決して触れてはいけない。もっと言えば――今すぐに、ここを離れなければならない。

 

「ハリス大佐、あれに心当たりはあるか」

 

 リーが問いかける。これより数秒前、彼はすでに操舵室へ〔アリゾナ〕の反転を命じていた。

 ハリスは首を振る。

 

「いいえ……皆目見当もつきません」

「そうか。――詳しい状況を知りたいところだが、今は艦の保全を最優先にさせてもらう」

「はい」

 

 程なくして、〔アリゾナ〕は艦首を右へと振りだした。戦闘時でなければやらないような、急速回頭だ。艦橋の床が、遠心力で左舷へと傾く。黒い物体に覆われたパールハーバーの景色が、視界の左方向へと流れていった。

 

 ハリスは再度、双眼鏡を覗き込む。

 黒雲はすでにパールハーバーを覆いつくしていた。うねる触手は、すでにその目標を陸上へと向けているようだ。砂嵐を思わせる暗雲の渦が、じわじわと湾内から溢れ出ていた。

 その只中、最も稲光の激しい場所に、ハリスは目を凝らす。妙なものを見た気がしたからだ。

 低く低く広がり続ける黒雲の中に、半透明の球体が浮いていた。それほど大きなものではない。ハリスの双眼鏡では倍率不足だ。

 見張り員用の大きな双眼鏡を借り受ける。先程と同じ場所にレンズを向け、球体の様子を確認した。より大きく映った球体は、雲と同じくさながら生物のように、脈動していた。膜のような表面が波打ち、それに合わせてわずかに拡縮を繰り返す。球体の中央付近には、稲妻を纏った黒い水晶のようなものが浮いていた。

 

 ハリスが球体を見ている間も、〔アリゾナ〕は回頭を続けている。艦はまもなく、パールハーバーへ完全に背を向けようとしており、ハリスの位置からその様子を観察できなくなるのも時間の問題だ。

 艦上構造物の影に、パールハーバーが隠れる、まさにその時であった。全くもって信じがたいものを、ハリスの目が捉えたのだ。

 うごめく球体の前に、人影が見える。その人影は金色に輝いていた。光をまとった髪が風の中ではためく。あたかも雲海を従えるようにして中空に浮かぶその姿は、ハリスには女性に見えた。と同時に、「彼女」から放たれるきらめきを、ハリスはどこかで目にしたような気がした。

 

 次の瞬間、ハリスの視界を艦上構造物が遮った。ここからでは、もはやパールハーバーの姿は見えない。最後の足掻きで艦橋の縁から身を乗り出し、自前の双眼鏡を覗いてみたが、彼女の姿をはっきりと捉えるには倍率が足りなかった。果たして、ハリスの目にしたものが夢幻か否か、確かめる術はない。

 

 ハリスを乗せた〔アリゾナ〕は、異常事態に飲み込まれたパールハーバーから遠ざかっていく。水上偵察機が準備される中、暗雲はいよいよ、オアフ島全てを覆わんとしていた。



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邪砲覚醒(2)

 

 

 

「一体全体、なんなんだ、こいつは」

 

 愛機であるOS2U〔キングフィッシャー〕を操りながら、マイケル・フィリップ中尉はそう漏らした。

 彼と、同乗者である偵察員を乗せた〔キングフィッシャー〕は、二十分ほど前に〔アリゾナ〕を発艦した。目的地は、今しがた離脱してきた、ハワイ諸島オアフ島、パールハーバー基地である。黒雲に覆われた基地の状況を確認するのが任務だ。

 

「とんでもないことになってますね」

「まったくだ。こういうのを、地獄の窯って言うのかね」

 

 偵察員の言葉に、フィリップも率直な感想を述べる。

 

 フィリップたちの眼下には、チャートで確認する限り、オアフ島が広がっている。もっとも、肉眼で捉えたその姿は、フィリップの知るオアフ島の景色とかけ離れていた。パールハーバーも、ダイヤモンドヘッドも、クアロアランチも、オアフ島を窺わせるものは何一つ見当たらない。雷をまとった雲が渦を巻き、かつてオアフ島だったものを覆い隠しているのみだ。

 不穏極まりない空気の上を、〔キングフィッシャー〕は飛んでいる。

 

「写真の方はどうだ」

「全体像は撮れました。もう少し、高度を落とせますか」

「わかった」

 

 一つ深呼吸を挟んで、フィリップは操縦桿を倒す。どうしても本能的に、あの雲へ近づくことを拒んでしまっていた。それほどに禍々しい、忌避感の塊のような雲であった。

 

 二翅プロペラを回す〔キングフィッシャー〕の機首が、次第に前へと傾いていく。高度計の針が回り、機体が徐々に高度を落としつつあることが確認できた。高度が三百を切ったあたりで、フィリップは機体を引き起こし、水平飛行へ移る。

 

 今フィリップが飛んでいるのは、フォード島の上空であるはずだ。島のすぐ横には戦艦の泊地があり、〔アリゾナ〕入港前には七隻が停泊していた。しかし、翼越しに見えている光景には、それらの面影すらない。威容を誇った太平洋艦隊の戦艦群は、雲に飲み込まれて忽然と姿を消してしまっていた。櫓のような三脚檣も、要塞のごとき主砲塔も、無数の小火器も、何一つ確認できない。

 代わりに、今は別のモノがフォード島の側に浮かんでいる。半透明の球形をした、謎の物体だ。〔アリゾナ〕が離脱する最中に、ほとんどの見張り員が目撃を証言している。雲と共に現れた、正体不明の物体だ。偵察員はその球体も写真に収めていく。

 

「人影は見えるか」

 

 球体の上空を旋回しつつ、フィリップはもう一つの目撃証言について、確認を求める。こちらは、〔アリゾナ〕の艦内でも、ハリス大佐のみが証言していた。球体のすぐ側に、人影を見たというのだ。

 普段なら「そんな馬鹿な事」と吐き捨てていただろうが、状況がすでに常軌を逸している今、「ありえないこと」というのは存在しない。とにもかくにも、確たる証拠を得られるか否かが、今は一番重要なことだ。

 

「いえ、それらしいものは見えません」

「……そうか」

 

 ハリスの証言については、確証を得るには至らなかった。

 

 フィリップは操縦桿を引き、〔キングフィッシャー〕の機首を上げた。偵察はここまでだ。収集した写真を〔アリゾナ〕へ持ち帰り、しかるべき人間に分析してもらう必要がある。長居は無用であった。

 高度を稼ぎつつ、緩やかに右旋回をかけたフィリップは、ふと、視界の端に何かが映ったことに気づいた。これでも飛行機乗りの端くれだ。視力と勘には自信がある。機体をさらに傾け、フィリップは翼の先を見遣る。

 

「っ!おい、何だあれは」

 

 後ろの偵察員を呼ぶ。同じようにパールハーバーの方を向いた彼も、声を失っていた。

 

 オアフ島を覆う雲と海の境目が、急激に盛り上がっている。雷光をまとう雲から黒い塊飛び出て、ゆっくりと横へ横へ伸びていく。例えるならばそれは、土の中から芋虫が這い出てくるような感じだ。

 広がった雲の塊は、やがてその先端から崩落し、霧散し始める。その中にあるモノを吐き出すようにして。

 黒雲から、同じように黒い物体が現れた。こちらは一目で金属とわかる、光沢をまとっていた。物体の表面は、時折青白い光を帯びているようにも見える。話に聞く日本刀のように細く研ぎ澄まされたその姿が、徐々に徐々に、雲の中から露わになった。

 

 海面を切り裂く鋭角の艦首。要塞のような主砲塔と、突き出る三本の砲身。開拓時代の櫓のような風情をした艦橋。ハリネズミもかくやというほどの副兵装。

 間違いない。あれは戦艦だ。何を確かめる訳でもなく、フィリップは確信した。海洋の覇者に相応しい、堂々たる風格の戦艦が、雲より現れたのだ。

 

「……生き残りが、いたのでしょうか?」

 

 やっとの思いで偵察員が呟いた。だが、フィリップはすぐにその可能性を否定する。合衆国海軍の有する戦艦の艦型は全て頭に入っているが、あの戦艦はそのどれとも合致しなかった。何より合衆国の軍艦は、闇夜の漆黒を写し取ったような艦体色をしていない。

 

 では、あれはなんだ。あんな軍艦は、パールハーバーにはいなかった。

 

(まさか、あの雲から産まれた、なんてことはないだろうな)

 

 そう思えなくもない光景を見ているだけに、ありえない想像が頭をよぎった。フィリップはかぶりを振って、余計な思考を一先ず頭の隅へ追いやる。今は他にやるべき仕事があるはずだ。

 

「……もう一度、高度を落とすぞ」

「……はい」

 

 覚悟を決めた偵察員の返事を聞き届け、フィリップはもう一度、操縦桿を押し込んだ。〔キングフィッシャー〕はゆっくりと機首を下げ、戦艦の方へと緩降下していく。

 

 戦艦から〔キングフィッシャー〕に向けて対空砲火が放たれることはない。戦闘の準備ができていないのか、それとも脅威と認識していないのかはわからない。不気味な沈黙を保ったまま、眼前の戦艦はゆっくりと航進を続けていた。

 

「中尉!」

 

 偵察員の声に、フィリップは目線を戦艦から上げる。そこには信じがたい光景が広がっていた。

 

 黒雲の中より、次々と艦艇が姿を現していた。戦艦だけではない。より小さな巡洋艦級や駆逐艦級と思しき艦影も見える。無数とも思える軍艦たちが、うごめく暗雲より現れる。ざっと見積もっても百隻はくだらない。それどころか、雲の中からはさらに新しい艦船が、次々に姿を見せていた。

 

「だ、大艦隊じゃ、ないですか……!」

 

 戦艦の上空を離れ、再度高度を稼いだところで、偵察員が声を震わせて言った。全く馬鹿げている程に、大規模な艦隊だ。

 

「……〔アリゾナ〕へ戻ろう」

 

 スロットルを一杯に開き、〔キングフィッシャー〕を加速させる。P&W社製のエンジンが唸りを上げ、機体を強く前へと引っ張った。フィリップたちはオアフ島を離れ、自らの母艦へと帰途に就く。その間にも、島を覆う雲からは続々と艦艇が吐き出され、やがていくつかの小さな艦隊を形作り始めた。



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邪砲覚醒(3)

 

 

 

 オアフ島を襲った異変についての報告は、駐米大使館経由で日本政府にも届けられた。もっとも、それは「オアフ島で何かがあったらしい」という曖昧な報告のみであり、詳しい内容は米国政府内で情報の精査が行われた後で判明した。これが、日本時間で一二月一二日のこと。オアフ島で異変が発生してから、実に三日が経過していた。

 

――「オアフ島に異常あり。太平洋艦隊の安否不明。謎の艦艇群出現せり」

 

 だが、それ以上の続報は何も届けられなかった。米海軍でも情報を正確に掴んでいないのだ。大使館が問い合わせても、米政府は何も回答をしてはくれなかった。

 

――「一週間後に、生き残った戦艦が帰ってきます。話はそれからにしていただきたい」

 

 それが唯一の回答であった。

 

 一週間後、明確な回答が届けられる。ただしそれは、大使館を経由した米国からの通達という形ではなかった。

 それは、海軍航空隊が駐留する硫黄島からの、一本の電文であった。

 

――「不明艦隊より砲撃を受けた」

 

 

 

 小笠原諸島唯一の滑走路へ次々に降りてくる大型機を、第十一航空艦隊――十一航艦司令官の葛城(くずき)(たすく)中将は険しい表情で見つめていた。

 

 這う這うの体で滑走路へ降り立つのは、硫黄島から退避してきた九六式陸上攻撃機――九六陸攻たちだ。これより少し前には、同じく硫黄島へ展開していた零式艦上戦闘機――零戦も、父島の基地へ降り立っている。いずれも編隊など組んではおらず、ばらばらに飛んできては、着陸の許可を求めた。

 

 今から二時間前、正体不明の艦隊が現れ、硫黄島の航空基地を砲撃した。同地には二つの飛行場が整備されており、不明艦隊はこのうちの第一飛行場を目標としていた。同飛行場が砲撃を受けている間、第二飛行場に駐機していた機体には直ちに退避命令が出され、可能な限りの機体が飛び立ち、父島にある飛行場へと今降り立っている。

 硫黄島基地からの続報は、一時間前より届いていない。同地の状況は今もって不明だが、二時間という時間は、二つの飛行場を破壊するには十分すぎる。十一航艦は、その重要拠点であった硫黄島の機能を、一度に喪失したことになる。何より、残された基地司令や優秀な搭乗員、整備員の生存は、絶望的であった。

 

「司令官、集計が完了しました」

 

 最後の一機が滑走路へアプローチをかける中、参謀の一人が葛城を呼んだ。彼には残存戦力と被害の集計を任せていた。

 

「わかった、今行く」

 

 滑走路に背を向け、葛城は作戦室へと足を向ける。疑問は尽きないが、状況はひっ迫しているのだ。今は何よりも情報が欲しい。その上で、今後の対応も考えなければなるまい。

 

 葛城が足を踏み入れた作戦室には、すでに参謀の面々が集まっていた。とは言っても、この場にいるのは、十一航空艦隊司令部全員ではない。いるのは司令長官葛城と参謀が三人だけだ。参謀長他数名は本土の司令部に残ったままである。そもそも、葛城が父島の飛行場にいることが、運の悪い偶然のようなものだ。彼は参謀三人を伴って、視察に訪れていただけである。

 とはいえ、こういう事態を覚悟していなかったわけではない。一週間前にオアフ島を異変が襲って以来、最悪の事態として想定していたことではある。今回の視察も、十一航艦の状態を確認する意図があった。

 

 緊張の面持ちを向ける参謀らに頷いて、葛城は先程呼びに来た参謀へ報告を促す。握っていたメモを開き、彼は精一杯強がって答えた。

 

「第二十一航空戦隊の現有戦力は、父島及び硫黄島の残存機を合わせて、戦闘機四十五機機、陸攻三十八機です」

 

 唸る他はなかった。十一航艦には三つの航空戦隊があるが、二十一航戦以外は内地に配備されたままだ。つい数時間前まで、小笠原諸島は最前線基地ではなかったのだから。

 

 そもそも十一航艦とは、近年発展著しい航空機を集中的に運用することを目的とした、航空艦隊構想の下に新設された部隊だ。開設からは半年も経っていない。航空機の集中運用についてもいまだ訓練中という部隊がほとんどだ。

 

 悪い報告は続く。

 

「父島には、航空爆弾も航空魚雷も、ほとんど備蓄がありません。現状では、航空魚雷十二本、航空爆弾は二五番が二十発のみです」

 

 もとより父島は、最前線基地としての機能が弱い。どちらかといえば、内地と硫黄島の中継点という意味合いが強く、武器弾薬はほとんど備蓄されていなかった。むしろ、貴重な航空魚雷が十二本もあったことの方が、奇跡に近い。

 

(反復攻撃は不可能だな)

 

 例え機体が無事でも、再攻撃用の武装がなければ無意味だ。現状で、二十一航戦が戦えるのはただの一度きりということになる。

 

 押し黙ったままの参謀に代わり、葛城は口を開いた。

 

「ご苦労。……硫黄島を襲撃した艦隊について、証言は得られたか」

「はっ。搭乗員の数名が実際に目撃しております」

 

 降り立った零戦や陸攻の搭乗員から熱心に話を聞いていた参謀が答える。

 

「硫黄島を砲撃したのは、戦艦と思しき二隻であったとのことです。この他、巡洋艦数隻と駆逐艦多数を視認されています。いずれも、見たことのない艦型であったと証言しております」

「艦体色については、何か言っていなかったか」

「……新月の海のような漆黒であった、と」

 

 話に聞いた、オアフ島より現れた軍艦の姿と、合致する。とすればやはり、硫黄島を襲撃したのは、オアフ島で確認された不明の艦艇群と同一であろう。十六ノットの速力が出せれば、一週間でハワイから硫黄島まで到達できる。

 

「例の、予言との整合性はどうか?」

「……深海棲艦、ですか」

 

 葛城の言葉に、参謀の一人が反応する。

 

 深海棲艦。それは、御子が予言した災厄に対して、日本海軍が付けた名前だ。海より来る災厄は、艦の姿をしているがゆえに、深海棲艦。艦娘と違って、その名称は公にされていないが、司令部クラスは災厄に対してこの呼称を使っている。

 もっとも、この場にいる誰一人として、実際に深海棲艦と相見えた者はいない。不明艦隊の正体はいまだわからず仕舞いだ。深海棲艦と断定する手段がない。

 

「現状では何とも言えません。我々は黄泉というものがどういう物か、どうやったら見分けられるのか、皆目見当もつかない状況です」

 

 不明艦隊が深海棲艦であるか否か。これを見分けるという一点において、葛城も参謀たちも、何ら役には立たなかった。

 

 不明艦隊の正体については、一旦保留する。

 

「今後の対応については、単純明快だ。不明の艦隊は、明らかに我々へ、敵対行動を取っている。――実力を行使するべき相手だ」

 

 葛城の言葉に異論は出ない。

 

 参謀の一人が、挙手して発言許可を求める。

 

「硫黄島を砲撃した敵艦隊ついて、現地からは既に報告が途切れています。まずは索敵機を出し、情報収集に努めるべきかと」

「索敵用の九六陸攻は、すぐに出せるか?」

「すでに用意を進めさせています。滑走路が空き次第、六機を出す予定です」

 

 参謀の言葉に頷く。その上で、葛城は指示を付け足した。

 

「残った機体には、雷装と爆装をして、待機させておいてくれ。索敵の結果如何によっては、二十一航戦のみで、不明艦隊を叩くことになるかもしれない」

 

 

 

 二十分後には、退避してきた九六陸攻が駐機場へ移動され、入れ替わりに索敵用の九六陸攻が滑走路より飛び立った。

 

 硫黄島への索敵が行われている間、残された零戦と九六陸攻は、出撃に備えた整備と燃弾補給を受けている。整備後、稼働可能機を再集計した結果、出撃できる状態になったのは零戦三十八機、九六陸攻三十機であった。これらの機体は、いつでも暖機運転ができる状態で、滑走路脇に待機していた。

 

 索敵機が飛び立って一時間。搭乗員たちの控室は、これ以上ないほどの緊張感に満ちている。肌を焼くようにピリピリとした雰囲気は、作戦室までひしひしと伝わってきた。

 

「失礼します!」

 

 参謀たちも押し黙る作戦室に、電信室から報告が飛び込んでくる。

 

「三号機より入電です。敵艦隊見ゆ!」

「見つけたか……!」

 

 硫黄島を襲撃した艦隊は、いまだに硫黄島周辺を航行していたのだ。

 

 接敵した九六陸攻からの報告は続いた。敵艦隊の編成は、戦艦二、巡洋艦四、駆逐艦二十。単縦陣を形成し、真っ直ぐに小笠原諸島へと向かってきている。

 

「……やはり、こちらへ向かってきますか」

「どうやら明確に、こちらを敵と認識しているようだな」

 

 硫黄島から父島までの距離はおよそ二百七十キロ。海里(ノーティカルマイル)になおせば百四十五マイルほどだ。巡航十二ノットでもおよそ半日、十六ノットなら十時間かからない。

 

 葛城に同行してきた三人の参謀が、判断を仰ぐようにこちらを見ている。全員、腹は決まっているようだ。元より、逃げる訳にはいかない。

 

(貧乏くじを引かせてしまったな)

 

 戦艦二隻を擁する艦隊に、残存の二十一航戦だけで戦えるとは思えない。そもそも、深海棲艦に対して陸攻が有効打を与えられるのか、それすら不明だ。

 

「〔尾張〕から返信はあったか」

 

 報告を届けてくれた電信員に、参謀の一人が尋ねる。伝令として電信室と作戦室を行ったり来たりする彼女は、首を横に振った。

 

 連合艦隊旗艦〔尾張〕には、連合艦隊司令長官以下司令部要員が詰めている。索敵機の出立とほとんど同時に、硫黄島襲撃に関する詳細と、不明艦隊への攻撃を実施する旨、報告を入れた。だが、そこから返答はない。あちらはあちらで、状況の把握と処理に手一杯という状態だ。

 すなわち、全ての判断は今、葛城に委ねられていることになる。

 

「……攻撃隊を出す。手をこまねいているわけにはいかない」

 

 葛城の判断は下った。参謀たちは頷き、すぐに動き出す。出撃を告げるサイレンが鳴り響くと、搭乗員控室からたくさんの足音が駆けだしていった。各々、整備が終わった乗機へ駆け寄る。程なく、整備員たちが発動機の暖機運転を始めた。

 

「三号機は接敵を続けているか」

「ぴたりと張り付いたままです。五分おきに報告を入れさせます」

「他の索敵機も、同じ空域に集まるよう、言づけてくれ。この後の攻撃の様子を、可能な限り記録させる」

 

 相手は不明点ばかりの存在だ。戦闘の様子は、貴重な資料となりうる。撮影した写真を連合艦隊へ届けられれば、日本海軍至宝の頭脳たちが、有益な情報を見つけるかもしれない。

 

「伝えておきます」

 

 答えた参謀が電信室へ話を通し終わった頃、出撃全機の準備が整ったと連絡が入った。

 

 唯一残された滑走路を、零戦が、九六陸攻が駆けていく。滑走路の端を蹴って、空中へ舞い上がった銀翼たちは、高度を稼ぎつつ編隊を形成する。全機が揃ったところで、攻撃隊は南東の方角へ進撃を開始した。

 

 攻撃隊の向かう先を見つめる。水平線の彼方、しかしそう遠くない海域を、こちらへと向かってくる不明艦隊。その先に待つ厳しい戦いを思うと、眉間に力が入る。自覚をしていても、直すことはできなかった。

 

(みな、どうか頼むぞ)

 

 蒼空を進む海鷲たちの奮闘を、祈る他なかった。




基地航空隊使いがちな作者


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邪砲覚醒(4)

 

 

 

突撃体形作れ(トツレ)

 

 攻撃隊長機からの短い一文に、二十四機の九六陸攻は敏感に反応した。雷装の十二機、爆装の十機が、それぞれに攻撃の陣形へ移行する。

 残る二機については、攻撃隊先頭で誘導を担当していた。誘導の二機は、搭載する爆弾がなかったため、今をもってお役御免となる。

 

 先頭にいた誘導機にバンクを振って、攻撃隊長を務める大崎卓少佐は操縦桿を握りなおした。

 大崎機が率いるのは、硫黄島より避退してきた鹿屋海軍航空隊――鹿屋空の十二機だ。全機が雷装である。

 

 鹿屋空は、硫黄島の第二航空基地を拠点に、陸攻四十機超を擁する部隊であった。しかし、現在残っているのは、大崎直属の雷撃隊十二機と、爆撃隊に六機、発動機の不調で出撃不可と判断された四機だけだ。残った機体は、退避が間に合わず、敵艦隊の砲撃で爆砕されている。その搭乗員も同様に、退避は叶わなかった。どれだけが生き残っているかは今もって不明だ。

 

(今は考えまい)

 

 悲しんでいる暇はない。硫黄島基地と鹿屋空の仲間の仇は、必ず自分が討つ。それだけを心に誓い、大崎は機首の先に見える敵艦隊を睨んだ。

 

 敵艦隊への距離は、すでに三万メートルを切っている。ここまで、敵戦闘機による迎撃はない。空母を伴っているという情報はないから、直掩機がいないのだろう。これなら、攻撃はかなり楽になる。たった十二機でも、うまく雷撃を決められるかもしれない。

 こちらの直掩機である零戦隊は、陸攻の上空に張り付いて離れない。戦闘機の姿が見えないとはいえ、油断は禁物だ。戦闘機隊長はそう判断したのだろう。

 

突撃はじめ(ト連送)

 

 二万メートルを切ったあたりで、雷撃隊と爆撃隊は編隊を分ける。大崎の雷撃隊を追い抜くように、爆撃隊の十機が加速した。その腹には、二発ずつの二十五番爆弾が搭載されていた。

 

 陸攻隊による攻撃は、二段階に分けられる。最初に爆撃隊が水平爆撃を実施し、然る後に雷撃隊が突入する。爆撃で対空砲火を減殺してから雷撃を行う、セオリー通りの攻撃だ。

 高度を稼ぎつつ、前進する爆撃隊。一方、大崎達雷撃隊は、徐々に徐々に、その高度を下げていく。魚雷を投下可能な高度は、五十メートル以下の超低空だ。敵艦隊との距離五千メートルをめどに、高度五十メートル以下の飛行を始めるつもりだった。

 戦闘機隊の半数も、爆撃隊に合わせて加速する。爆撃隊の護衛はもちろんであるが、敵戦闘機が確認されなければ、敵艦に対して機銃掃射を行う手筈になっていた。零戦の二〇ミリ機銃であれば、敵の機銃座を破壊することができる。

 

 攻撃隊それぞれが動き始める中、敵艦隊との距離は一万五千メートルを切った。目を凝らせば、穏やかな海上を悠々と進む軍艦の集団を、見て取ることができる。

 敵艦隊は単縦陣を維持したまま、真っ直ぐに小笠原を目指して進んでいた。その先頭は、一際目立つ威容の、二隻の戦艦だ。先に硫黄島を砲撃し、基地機能を燃やし尽くした張本人たちである。

 

 今回、攻撃隊が狙うのは、先頭の戦艦一隻だ。戦力的に考えて、複数艦を狙う選択肢は取れない。故に、最大の脅威になる戦艦ただ一隻を目標とすると、出撃前に決めていた。

 操縦桿を掴む手から、ふっと余分な力を抜く。高度はすでに五百メートルを切っていた。この先は繊細な操縦が求められる。余計な力を入れると、眼下の海面に衝突しかねない。あるいは、襲い来る対空砲火を掻い潜ることもできない。

 

 次の瞬間、敵戦艦の艦上に閃光が走った。先行している爆撃隊へ向け、対空砲火を放ったのだ。数秒後、上空で対空砲弾が炸裂し、黒い爆炎を多数生じさせる。

 爆撃隊は、密集隊形を維持したまま、敵艦隊上空へと進入していく。その周囲では、数秒おきに対空砲弾の黒い花が咲いた。その様子は、さながら漆黒のカーペットを歩いているようにも見受けられる。

 

(頼むぞ……!)

 

 海面まで二百メートルを切りながら、大崎は上空の爆撃隊を激励せずにはいられない。彼らの爆撃の成否が、雷撃隊の戦果にも関わってくる。ここで敵戦艦を屠るには、両者の奮闘が不可欠だ。

 

「敵艦隊まで八〇(八千メートル)!」

 

 副操縦士の報告と、爆撃隊の投弾開始がほぼ同時だった。爆撃隊は一機も失うことなく、敵艦隊の上空へ進入することに成功していた。十機の爆装九六陸攻の腹から、重量二百五十キロの爆弾が二発ずつ、計二十発放たれる。慣性の法則と重力に従って放物線を描き、二十発の爆弾は敵戦艦へ降り注いだ。

 

 最初に落着した爆弾は、敵戦艦左舷至近に水柱を産み出した。第二弾もそのすぐ近くだ。爆弾が炸裂する度、硝煙を含んだ海水が舞い上がって、白濁したカーテンを作り上げる。

 そしてついに、一発が敵戦艦を捉えた。水柱の合間に、炎のそれとわかる橙色が映える。二五番爆弾が敵戦艦の甲板に当たり、信管が作動して炸裂したのだ。

 その後も命中弾が連続する。敵戦艦は回避運動を取っていなかった。爆撃隊の投弾した二五番爆弾は、狙い違わず、その甲板を捉えている。

 最終的な命中弾は五発を数えた。水平爆撃の命中率としてはまずまずだ。ここからは、雷撃隊の仕事である。

 

 一時沈黙していた敵艦隊の高角砲が、射撃を再開した。当然、その目標は雷撃隊十二機だ。七千メートルを切った敵艦隊から横殴りに高角砲弾が飛来し、雷撃隊の周囲で爆発する。炸裂に伴う衝撃が、九六陸攻を小刻みに揺らした。

 全長十六・四五メートル、全幅二十五メートル、全備重量七千六百四十二キロの九六陸攻は、搭載する二基の「金星」発動機によって、三百キロ超の速度を叩きだす。投雷距離一千メートルまで距離を詰めるのに、単純計算で一分強があればいい。

 

(さあ、行くぞ)

 

 数秒おきに襲い来る高角砲弾の衝撃に闘志を奮い立たせ、大崎はさらに高度を落とす。十二機の九六陸攻は、いよいよ五十メートル以下の超低空飛行に突入した。

 

 単縦陣を敷いているせいか、敵艦隊からの対空砲火は、それほど濃密ではなかった。黒にも茶褐色にも見える高角砲弾炸裂の煙は、まばらに生じるばかりでまとまりがない。

 それでも、九六陸攻にとって脅威であることに変わりはない。防弾装備がほとんど施されていない九六陸攻では、たった一発の至近弾でも致命傷になりかねない。

 機体のすぐ上方で、高角砲弾が炸裂する。拳を振り下ろされたように機首が下がりかけ、寸でのところで姿勢を立て直す。海面はもはや目と鼻の先だ。迫る壁のようにすら見受けられる。少しでも操作を間違えば、波に飲み込まれておしまいだ。

 

「距離四〇(四千メートル)!」

 

 その声と同時に、敵艦上に小さな閃光が瞬いた。次の瞬間、光のシャワーが雷撃隊へ伸びる。対空砲火に、高角砲だけでなく機銃が加わったのだ。高角砲弾よりもはるかに多い機銃弾が、攻撃隊を舐めるように飛び交う。時折、機体を銃弾が掠める嫌な音がした。

 

(全機、しっかりついて来いよ……!)

 

 海面までの距離は二十メートルもない。両翼のプロペラが後方へ投げ飛ばした空気が海水を巻き上げ、飛沫を散らすほどだ。海面の上を飛ぶというより、海面を這っているという表現が近い。あたかも船のような航跡を後ろに従えて、陸攻隊は敵戦艦へ肉薄する。

 

「距離二〇(二千メートル)!」

 

 対空砲火に、高角砲弾が混じらなくなる。時限信管の調停限界に達したのだろう。代わりに、機銃弾がなおも濃密さを増して、襲い来る。高速で移動する航空機に銃弾を当てるのがそう簡単でないと、頭で理解していても、恐怖を覚える。心なしか、機体を掠める銃弾が増えた気もする。

 ここまで来たら、後は押し通るだけだ。

 

「〇八(八百メートル)で投雷する!」

「よーそろー!」

 

 大崎の宣言に、それぞれの持ち場から搭乗員たちが返事をした。大崎機に合わせて、残った十一機も投雷する。

 

「一〇(一千メートル)!」

 

 弾雨の中を抜けることおよそ一分。ついに待ち望んだ瞬間が訪れた。

 

「〇九……〇八!」

「てっ」

 

 魚雷の投下レバーが引かれる。途端、機械的な動作音がして、機体がふわりと浮いた。重量八百キロの魚雷が切り離されたことで、機体が軽くなり、浮かび上がったのだ。操縦桿を押さえて、機の挙動を制御する。

 

「全機投雷完了!魚雷の航走を確認!」

 

 最後尾の見張り員兼機銃座手が報告する。それを確かに聞き届け、大崎は機体を引き起こした。九六陸攻は敵戦艦の甲板すれすれをフライパスする。

 

 艦体色と同じ漆黒の艦橋へ目を向ける。工学的な構造美を有するそれには、窓らしきものが見受けられた。光を反射する窓の奥は、同じく純黒に包まれて窺い知れない。人影を見出すことはできなかった。

 

 いくばくか高度を稼ぎ、大崎機は敵艦隊の上空で旋回する。先程放った魚雷の戦果を確認するためだ。すでに敵艦隊からの対空砲火は止んでいた。

 十二機の九六陸攻から放たれた魚雷は、放射状に広がって敵戦艦を目指す。爆撃の時と同様、敵戦艦に回避運動は見られなかった。このまま進めば、確実に六本は命中するだろうと、大崎は睨んでいる。片弦に六本も魚雷を受ければ、大抵の軍艦を葬ることができる。

 魚雷の航跡は、真っ直ぐに敵戦艦へ突き進む。やがてその先端が、敵戦艦の舷側に吸い込まれた。

 

 次の瞬間、敵戦艦の舷側に、真っ白なバベルの塔が現れた。天を突かんばかりの巨大な水柱。魚雷が命中し、炸裂した証拠だった。

 水柱は一本だけに留まらない。二本、三本、次々に敵戦艦の舷側に生じては、その艦体を揺さぶる。舞い上がった海水の塊が崩れて、スコールのように敵艦へ降り注いでいた。

 機内が歓声で溢れる。たった一隻とはいえ、自分たちは敵戦艦へ魚雷を命中させた。それも、最低限の戦力だけで、だ。それが、硫黄島の仲間たちの仇ともなれば、これほど痛快なこともない。

 やれる。航空機だって、戦艦を沈められる。大崎もまた、強く拳を握らずにはいられなかった。

 

 敵戦艦への命中雷数は、最終的に七本を数えた。撃沈するには十分すぎる数だ。水柱が晴れた時、黒煙を上げ、傾ぎ、断末魔を上げる敵戦艦の姿を、誰もが想像した。

 だが――

 

「!?敵戦艦、なおも健在!」

「なんだと!?」

 

 旋回を続けつつ、大崎は再度敵戦艦へ目を向けた。

 単縦陣の先頭、今しがた、雷撃隊の魚雷七本を受けた戦艦が、そこに浮いている。その様子に、それまでと異なる箇所は、一切ない。黒煙もなく、傾ぐこともなく、速力すら落とさず、まるで何事もなかったかのように、悠々と航行を続ける。

 

(そんな馬鹿なことがあるか!)

 

 何かの間違いだ。そう言いたくて、大崎はさらに目を凝らす。そこで一つ、気づいたことがあった。

 

 敵戦艦の艦上には、傷跡一つ見受けられなかった。爆撃隊の二五番爆弾を五発受けたにもかかわらず、だ。艦上で爆弾が炸裂すれば、多少なりと損傷があるものだ。主砲や機関といった艦の重要区画は無理でも、機銃や高角砲といった比較的防御の薄い装備品は破壊できる。だというのに、敵戦艦にはただの一つも、損傷個所が見受けられなかった。

 

 大崎は強く奥歯を噛み締める。仇は討てなかった。相手は人類製兵器では傷つけられない存在だった。

 だがこれで、一つの事実が確定した。

 

「攻撃隊長より各機。逐次集まれ」

 

 込み上げる悔しさを噛み殺し、攻撃隊に空中集合を命じる。それから大崎は、電信員に電文を打たせた。宛先は、父島で待つ、十一航艦司令部だ。

 

「攻撃成功なれど効果なし。敵艦隊は深海棲艦と認む」

 

 

 

 

 

 

「稼働可能全機の退避、まもなく完了します。残りは九六陸攻三機です」

 

 漆黒の闇に飲まれた作戦室に、参謀の報告が響いた。緊急避難の発令から半日足らず。可能なことは全て終わったと確認し、葛城は静かに頷いた。

 

「そうか。――皆、無事に内地へ辿り着くことを、祈ろう」

 

 航空機に搭乗して避難した者は、おそらく大丈夫であろう。だが、輸送船に分乗して退避した者は、場合によっては敵艦隊に捕捉され、撃沈されるやもしれない。

 

(全責任は私にある)

 

 島民たちは、今の生活を捨てて、退避せざるを得ないのだ。そんな事態になったのは、有効な策を講じることのできなかった、自らの不甲斐なさ故と、葛城は考えている。

 

「……長官、お早く。まもなく、敵艦隊が来寇します」

 

 参謀は葛城の退避を促している。予想される敵艦隊の来寇までは一時間もない。あと一時間もすれば、硫黄島を襲った業火が、この島をも焼き払うことになる。

 だが、と葛城はかぶりを振る。

 

「私は残る」

「ですが、長官……!」

「貴重な戦力を失い、あまつさえ我が国の領土への侵攻を許したのだ。誰かが責任を取らねばなるまい」

 

 そして、責任を取るべき人間は、十一航艦の指揮を執っていた、葛城をおいてほかにない。

 

「……でしたら、私もご一緒します」

「それはならん」

 

 参謀の申し出を、葛城は却下した。それでは意味がない。彼らは日本海軍が誇る、至宝とも呼べる頭脳だ。彼の能力が生かされるべき戦場は、この先いくらでも訪れる。死して責任を取る者は、一人で十分だ。彼らには、生きて果たすべき責任がある。

 

「……」

 

 それでもなお、彼は動かない。無言のその表情は、葛城も退避しなければここから動かないと、雄弁していた。

 

「……これは命令だ。行け」

 

 その時、搭乗員が一人、駆け込んできた。いまだ機体に乗り込んでいない二人を、迎えに来たのだろう。暗闇で目を凝らせば、一度っきりの攻撃隊を任せた、大崎少佐であった。

 

「お早く願います!」

「……いいところへ来た。彼を連れていけ」

「……長官は、」

 

 しかし、それ以上の疑問を、大崎は飲み込んでくれた。

 

「長官!」

 

 大崎に手を引かれた参謀が、最後に直立不動の姿勢を取った。それに応え、葛城もまた、踵を合わせて居住まいをた正す。

 参謀が鮮やかに敬礼を決める。葛城もまたそれに答礼した。彼は名残惜し気に手を降ろし、滑走路で最後に待っている九六陸攻へと駆けていく。大崎もすぐ、それに続いた。

 参謀たちを乗せた最後の九六陸攻が、滑走路を駆ける。双発の航空機はふわりと空中へ舞い上がった。父島基地を一周旋回したあと、九六陸攻は北西の方角へと飛び去って行った。機体の色は闇に溶け、やがて発動機の音すらも聞こえなくなる。

 

 代わりに、別の音が聞こえ始める。聞き覚えのない音だ。甲高い音はどこか気の抜けたようにも聞こえる。その正体はすぐに判明した。

 基地の上空に、ぼうっと淡い光が現れる。子供の頃に見た蛍のような光だが、それよりもずっと大きい。どことなく人魂のような気配さえした。闇夜に二つ、ゆらゆらと漂う様は、不気味極まりなかった。

 

(照明弾、か)

 

 闇夜に紛れていた父島基地を照らし出したのは、二発の照明弾であった。夜間空襲や夜戦時に、敵艦隊の姿を浮かび上がらせるために使用される。

 その照明弾が、今父島基地に使われている。使用した相手には、自ずと想像がついた。

 

 やがて、巨大な物体が大気を切り裂く音が聞こえて来た。その音が途切れた時、父島の滑走路は、巨大極まる地獄の炎に包まれた。




次からいよいよ艦娘の出番です


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参章、艦娘戦線
艦娘戦線(1)


新章です。艦娘の初戦闘


 

 

 

 一二月一七日。東京。

 

「深海棲艦で、間違いありません」

 

 断言した御子の言葉に、島田丈太郎軍令部総長は低い唸り声を返す他なかった。

 

 応接用の机で向かい合う二人の間には、数枚の写真が広げられている。数時間前、父島より退避してきた二十一航戦の生き残りが届けてくれた、戦闘の記録である。そこに映っている不明艦の艦影を、御子は指さしていた。

 

「この艦艇たちは、どこからやって来たのです?」

「一週間前に、ハワイで確認された正体不明の艦艇群と、同一と思われます」

 

 副官として島田の横に控えていた女性士官が答える。彼女の答えに納得するところがあったのか、御子は穏やかに頷いた。

 

「なるほど、賢いですね。私が()()でもあそこを選ぶでしょう」

「……彼女、とは?」

「ハワイの主、とでも言うべきでしょう」

 

 御子の言葉は、島田にはとんと理解できない。神の使いを名乗る彼女の言葉を、一から十まで全て理解できる人間など、この国にはいないだろう。説明するということに、彼女は無頓着だ。

 咳払いを一つ挟み、島田は話を続ける。

 

「深海棲艦は人類製兵器で沈めることができない、というあなたの予言は実証されました。では、深海棲艦に対抗可能な艦娘であれば、この艦隊の侵攻を止めることができるのですか」

 

 小笠原諸島を砲撃によって壊滅させた後、敵艦隊が東京を目指して北上していることは、夜明け直後に接敵した偵察機の報告からわかっていた。これに対し、半日前から出撃の準備を整えていた第一艦隊が、邀撃のために横須賀を出港しようとしている。同艦隊には、現在確認されている全ての艦娘搭載艦が集められていた。

 艦娘でなければ深海棲艦を沈められない。御子が語ったことだ。だが今一度、保証が欲しい。第一艦隊の艦娘搭載艦たちであれば、深海棲艦を打ち破り、東京を守り通してくれる、と。

 島田の質問に御子は首を傾げる。

 

「それはあなた方次第です」

「……それは、どういう意味ですか」

 

 御子は微笑む。温和そのものの表情だが、突き放すように残酷な響きも伴っていた。

 

「私たちは、あくまで、力を与えるだけです。艦娘という力を、いかに活かし、いかに災厄を祓うか。それはあなた方次第です」

 

(生き残りたければ、自分たちの力で戦え、ということか)

 

 過度に人類へ干渉する気はないらしい。全くもって、彼女の、そして神々の考えはわからない。

 

「では、私はこれにて。良い結果を祈ります」

 

 御子はおもむろに立ち上がる。お付きの宮内職員を伴って退席する彼女を、島田は一礼して見送った。

 

 扉が閉じられたところで、島田は大きく息を吐き、再びソファに腰掛けた。懐のケースから煙草を一本取り出し、灰皿を手繰り寄せる。マッチをつけようとした副官を手で制し、ジッポーで火をつけた。一息に吸い込んで、紫煙を天井へと吐き出す。

 

(すまん、五十嵐。俺にしてやれることはない)

 

 同期であり、盟友兼好敵手としてきた男の名前を思い浮かべる。瀬戸内海に停泊する戦艦〔尾張〕を住処とする彼は、島田の後を引き継ぐ形で、連合艦隊司令長官になった男だ。

 

 太陽は随分と高い位置まで来てしまった。徹夜で付き合わせてしまった副官を下がらせ、島田も仮眠を取ろうと休憩室へ入る。だが、眠気は一向に訪れず、結局一時間ほどを無為に過ごして、執務室へと戻った。

 

 程なく、第一艦隊が横須賀を出港したと、報告が入った。

 

 

 

 

 

 

 一二月一八日。柱島沖。

 

 連合艦隊旗艦〔尾張〕の一室、連合艦隊司令部の面々が詰める部屋には、重苦しい沈黙が流れていた。司令長官、五十嵐茂大将以下、参謀十数名、誰一人として口を開かない。誰もが真一文字に口を引き結び、腕を組みながら、あるいは時計の針を気にしながら、黙っている。時刻はまもなく正午を迎えようとしていた。

 

 小笠原沖に確認され、目下東京へと北上を続ける敵艦隊――深海棲艦の艦隊を邀撃せんと、横須賀から第一艦隊が出撃して早一日。無線封止中の同艦隊からは、いまだに何一つ報告はない。敵艦隊見ゆの一報も、戦闘開始の電文も、何一つ、だ。

 

(そろそろ、会敵してもおかしくない頃合いのはずだが……)

 

 カチカチと規則正しくなり続ける壁時計を見遣り、舞原は心の中で呟いた。彼は昭和一五年(一九四〇年)四月一日付けで、連合艦隊の情報参謀に抜擢されていた。同時に、階級も中佐へと上げられている。

 

 舞原は改めて、部屋の中を見回す。自軍と敵軍を示す駒が置かれた海図を囲み、腕組みをしているのは、司令長官である五十嵐と、参謀長の宇崎総司中将、先任参謀の真鶴亀十郎大佐の三人だ。他の参謀たちは、壁に背を預け、あるいは舷窓から外を眺め、もしくは煙草をふかして、流れる沈黙に従っている。

 戦闘前の、あまりにも長すぎる静けさ。戦場からは遥かに離れているとはいえ、連合艦隊の全てが集まるこの部屋にも、最前線と等しい緊張感が漂っていた。これを取り除ける者は、ただ一人としていない。

 

「……倉橋中将(倉橋望中将。第一艦隊司令官)は何をしておるのだ……!」

 

 耐えきれなくなった航空乙参謀がついに口を開く。誰かが口を開いたことに対する安堵と、今は黙っていてほしかったという溜め息が混じって、ようやく部屋の空気が動いた。

 のそりと腕組みを解いた五十嵐が、海図を見遣って重々しく口を開く。

 

「第一艦隊は、今どの辺りか」

「現在の時刻ですと、この辺りかと思われます」

 

 答えるのは宇崎だ。海兵主席の秀才である。その頭の中には、連合艦隊全ての情報と、参謀全員の思考と知識が詰め込まれているという。事実、よほど専門的なことでなければ、五十嵐の質問には宇崎が全て答えた。

 宇崎が示した海図の一点を、五十嵐と他の参謀たちも確認する。小笠原諸島と横須賀を直線距離で結んだ、そのほぼ中点だ。巡航十二ノットで進んでいれば、大体その位置ということになる。

 

「予想される敵艦隊の位置も、ほぼ同一です。もう間もなく、会敵してもおかしくないかと」

 

 うむ、と五十嵐はわずかに顎を引いた。それ以上に言えることはない。すでに賽は投げられている。第一艦隊の奮戦を祈る他なかった。〔尾張〕含め、呉に停泊している連合艦隊艦艇はいまだ戦闘の準備を終えておらず、向こう三日は出撃できる見込みがない。横須賀で即応状態にあった第一艦隊のみが、現状で唯一、深海棲艦に対抗できる戦力であった。

 

(だが、その状態も万全ではない)

 

 この場の誰もが思い至り、しかし絶対に口にしないことを、舞原も考えている。

 第一艦隊は、深海棲艦の脅威に備え、その陣容を大きく変えている。具体的には、深海棲艦に唯一対抗しうる(と言われている)艦娘が搭乗している艦が優先的に配備、編成されているのだ。ただ、その搭乗率も百パーセントではない。第一水雷戦隊こそ、旗艦〔神通〕以下配備された駆逐艦十二隻全てに艦娘が搭乗しているが、他の巡洋艦や戦艦、空母では、艦娘の搭乗率は三割にも満たない。

 

 先の「小笠原沖航空戦」(二十一航戦と深海棲艦艦隊の戦闘につけられた暫定呼称)において、御子の言葉――「深海棲艦は、人類の技術では沈められない」――が実証された以上、第一艦隊の艦娘が搭乗していない艦は無力といっていい。この状態で、戦艦二隻を有する敵艦隊とどこまで渡り合えるかについては、疑問符が残った。

 再び部屋の中に満ちる沈黙。暗雲立ち込める静寂を故意に破ったのは、意外にも宇崎であった。

 

「第一艦隊はよく訓練が行き届いております。司令官の倉橋中将も、優秀な男です。必ずや、期待に沿う結果を……第十一航空艦隊の仇を討ってくれると、確信しております」

 

 舞原は目を見開いて宇崎を見遣った。常に冷静沈着で感情を表に出さず、その様から鉄面皮、黄金仮面の異名を取った宇崎からは信じられないような、激情の籠る言葉だったからだ。そこでふと思い出す。宇崎と、十一航艦司令官の葛城は、同郷の出であり、海兵も同期であったはずだ。加えて言えば、第一艦隊の倉橋も、二人とは同じ釜の飯を食った仲である。敵わぬと知ってもなお深海棲艦と戦い、責任を一身に受けて小笠原に散っていった親友のことを、思わずにはいられないのかもしれない。今は前線で戦えない自分に変わり、もう一人の親友がその敵を討ってくれることを望んでいるのかもしれない。

 

 宇崎の肩に、五十嵐が手を置く。宥めるように、励ますように、二度肩を叩いて頷いた。

 

「参謀長の言う通りだ」

 

 実に短い一言であった。だがそれで、居合わせた参謀たちの腹は決まった。

 

 一時間後、第一艦隊旗艦〔長門〕より、「敵艦隊見ゆ」の報告電が飛んできた。



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艦娘戦線(2)

なっがーい


 

 

 

「合戦準備!」

 

 上空を飛ぶ零式水上観測機――零観が水平線上に敵艦隊を発見するや否や、倉橋望中将は第一艦隊全艦にそう下令した。〔長門〕艦長がすぐさま復唱し、伝声管を通して各所に「合戦準備」を号令する。艦はすでに戦闘状態へと移行済みだ。各砲火器のカバーは取り外され、砲身内には第一射目の砲弾が装填されている。砲撃戦に備えて甲板からは人が退避した。艦橋の周囲には弾片を防ぐハンモックが巻き付けられている。

 

「上空観測機より、さらに報告。敵艦隊は、戦艦二隻を先頭に単縦陣を形成。真っ直ぐにこちらへ向かっているとのことです。距離は三〇〇(三万メートル)」

「……敵もやる気ですな」

 

 隣に立つ小野田均参謀長が呟く。他の参謀たちは階下の作戦室へ下がらせたが、彼だけはこの昼戦艦橋に残ると言い張って譲らなかった。参謀を取りまとめる者として、常に長官の隣にいる義務があると、思っているのだろうか。

 

「何しろ、人類の兵器は全く効かないときた。それは、大手を振って堂々と進撃もしてくるさ」

 

 軽い調子で言ってはみたものの、自分の眉間に凄まじい力が入っていることはわかっていた。

 

 倉橋指揮下の第一艦隊には、確かに多くの艦娘搭乗艦が集められている。だが全てではない。艦娘搭乗艦のほとんどは駆逐艦や巡洋艦で、戦艦には一人、第二戦隊の〔扶桑〕に乗るのみだ。空母に至ってはゼロである。

倉橋の座上する旗艦〔長門〕にも、艦娘はいない。

 

(一水戦と七戦隊の使い方が肝要だ)

 

 両戦隊は艦娘搭乗艦で固められた部隊だ。ここに〔扶桑〕を加えた計十八隻が、実質的に深海棲艦へ対抗可能な戦力ということになる。

 

「長官、どちらで撃ち合いますか」

 

 艦の運航に専念していた山本四郎艦長が、倉橋を振り返る。戦艦同士で戦うつもりなら、同航戦がセオリーだ。反航戦の状態になっている今、どちら側に艦隊の頭を振るつもりなのかを気にしているのだろう。

 倉橋の判断は最初から決まっていた。

 

「右砲戦用意。距離二〇〇(二万メートル)で取舵、針路〇九〇を取れ」

「はっ」

 

 応えた山本は再び前へと向き直り、見張り員に今の距離を訪ねていた。海上四十メートル近い位置にある昼戦艦橋からでも、敵艦隊はいまだその全貌を水平線上に表していない。艦橋と思しき構造物が覗いている程度であった。

 

 

 

――反航戦の状態にあった両艦隊の距離が二万メートルを切るのに、さして時間はかからなかった。

 

「距離二〇〇(二万メートル)!」

 

 見張り員の報告に山本が頷き、次いで確認を取るように倉橋の方を見た。それに、倉橋は黙って顎を引く。いよいよ、正念場だ。

 

「一、二戦隊逐次回頭。針路〇九〇」

「取舵一杯、針路〇九〇!」

 

 倉橋の指示に、山本が号令で応えた。操舵の号令はすぐさま操舵室へと伝えられる。今頃は、当番の操舵手が、舵輪を左側へと目一杯回しているはずだ。

 戦艦というものは、そう簡単には曲がらない。〔長門〕の全長は二百二十四メートル、基準排水量三万九千百二十トン。艦尾に並列配置された二枚の主舵が最大限に仕事をしたとしても、艦の惰性に横方向のモーメントが勝つまでには三十秒近い開きがある。

 ようやく舵が利き始めて、〔長門〕は左へと回頭していく。それまでさざ波を切り裂いていた鋭利な艦首が徐々に徐々に、左へと振られていった。それに合わせて、海上の風景も右に流れる。正面に見えていた敵艦隊の影は、艦橋右側面へと移っていった。

 

 遠心力で右へと傾く艦橋の床に足を踏ん張り、倉橋は眼下の甲板を窺う。人のいない甲板上では、巨大な二基の主砲塔がゆっくりと右舷側へ旋回していた。〔長門〕の象徴とでも言うべき主砲塔は、世界最大最強の四十五口径四一サンチ砲を二門収めている。厚い装甲板で覆われた主砲塔は、そのものが一つの要塞といっても過言ではない。長門にはそれが四基も搭載されている。さらに、同じく一戦隊第二分隊を組む〔陸奥〕と合わせれば、合計で八基十六門を備えることになる。大抵の軍艦であれば、たったの十斉射足らずでくず鉄に変えることのできる威力を秘めていた。

 

「見張り、敵艦隊の動きはどうか」

 

 山本の問いかけに対し、見張りの水兵からは、敵艦隊も同航戦へ移行しつつある旨が知らされた。

 

「砲術、回頭直後を狙え。先手を取る」

 

 艦橋頂部の射撃指揮所に指示が伝えられる。一戦隊の目標は敵戦艦一番艦、二戦隊の目標は二番艦だ。まずは射撃諸元を詰めるための、交互撃ち方による観測射が行われる。

 射撃指揮所から測的完了の報告があったのは、敵一番艦の回頭終了からすぐのことであった。艦上にブザーが鳴り響く。爆風に人が巻き込まれないよう、主砲発射を艦上に報せるためのものだ。

 

(いよいよだぞ、〔長門〕)

 

 心の中でそう念じて、倉橋は腹の辺りに力を込めた。

 

「砲撃始め」

 

 厳かな砲術長の指示から一瞬、〔長門〕艦上には表現しがたい静寂が流れた。それはあるいは、生涯初の実戦に〔長門〕そのものが息を飲む瞬間であったのかもしれない。その雰囲気に飲まれ、乗組員の誰もが息を止めて、その時を待った。

 次の瞬間、全てを薙ぎ払う閃光と、叩きつけるような爆轟音が、〔長門〕艦上を支配した。振り立てられた各砲塔右砲から、巨大な火球が生じている。火球は一瞬後に黒煙の塊となり、艦の前進に合わせて後方へと流れていった。視界を覆って広がる黒煙の中から、重量一トンにもなる鋼鉄製の火矢が四発、同航する敵戦艦めがけて放たれる。装填されていた対艦戦闘用の九一式徹甲弾は、音速の二倍を超えて大気を引き裂き、物理法則に従った放物線を描いて飛翔していった。

 居合わせた誰もが、生涯で初めて体験する、実戦での砲撃である。主砲発射の反動で生じた横方向への動揺は、〔長門〕が砲撃の余韻に浸っているようでもあった。

 

 十秒ほど遅れて、〔陸奥〕も発砲する。こちらも同じく、交互撃ち方による観測射だ。同一目標への砲撃であるので、主砲の発射にわずかな間隔を開けている。

 

「敵二番艦、回頭完了!二戦隊〔扶桑〕、撃ち方始めました!」

 

 後続する二戦隊の様子を見張り員が報せる。こちらは〔扶桑〕、〔山城〕、〔伊勢〕、〔日向〕、四隻がかりでの砲撃だ。その砲声は、十秒ほどの間をおいて、〔長門〕の艦橋にも届いた。

 

「だんちゃーく!」

 

 艦隊全体に向いていた倉橋の意識は、砲術長の声で目の前へと引き戻される。ストップウォッチで第一射からの時間を計っていた砲術長が、弾着の時間を報せたのだ。倉橋は自前の双眼鏡を覗き込み、敵一番艦の様子を観察する。

 こちらと同航する敵一番艦の手前に、白濁の巨塔がそそり立った。沸騰した海水に硝煙が混じり、天を衝かんばかりに高々と持ち上がる。巨大極まる水柱の頂部は、敵戦艦の艦橋を優に超えていた。数は全部で四本。初弾命中をモットーに訓練を積んできたが、やはりそう上手くはいかないらしい。

 

 詳細な弾着の結果は、上空の観測機よりもたらされる。

 

「観測機より、『全弾近』」

 

 放たれた〔長門〕の第一射は、全て敵戦艦の手前に落ちていた。これを受け、射撃指揮所では諸元に修正が行われる。具体的には、砲身をわずかに上げ、より奥へと飛ばすのだ。

 

 冷却と再装填の行われている右砲に代わり、今度は左砲が鎌首をもたげる。その位置は先程の右砲よりもわずかに高い。

 第一射の結果をもとに、〔長門〕が第二射に備える間、〔陸奥〕の砲撃も敵艦へ到達している。こちらの結果は全弾遠であった。一戦隊の両艦が放った第一射は、いずれも空振りに終わったのだ。

 

(焦るなよ、砲術)

 

 艦橋に立つ砲術長と、頭上の射撃指揮所に思いを馳せる。砲術においては忍耐が肝要だ。地道に射撃諸元を修正し、確実に敵艦を捉えたところで畳みかける。功を急いてはならない。

 二度目のブザーが鳴り響き、〔長門〕は再度砲撃に踏み切った。左砲から眩い閃光がほとばしり、爆発した装薬の燃焼ガスが徹甲弾を押し出す。腹の底に響く衝撃を、反動で傾ぐ艦橋の床に足を踏ん張って堪えた。

 十秒ほど遅れて、後方の〔陸奥〕も第二射を放った。背後から轟くおどろおどろしい砲声が頼もしい。

 今は着実に射撃諸元を修正していく。その上で、七戦隊と一水戦を突入させる。そんな今後の展開を思い描いていた時であった。

 艦橋右舷の窓から、突き刺すような光が飛び込んできた。〔長門〕の砲撃によるものではない。その証拠に、艦上には砲声など響かず、機関が上げるごうごうという音と、舷側を流れるさざ波の音だけがはっきりと聞こえていた。

 放たれた光が意味するものは明白だった。

 

「敵戦艦発砲!」

 

 これまで沈黙を守っていた敵戦艦が、ここへきてついに、日本艦隊へ牙を剥いたのだ。

 

 倉橋は、壊滅した二十一航戦よりもたらされた敵戦艦の情報を紐解く。小笠原諸島を襲撃し、今まさに第一艦隊が相対している敵艦隊は、二隻の戦艦を擁していた。これらは同型艦と見られ、十一航艦の偵察機によると、主砲は一四インチないし一五インチ砲を連装と三連装の混載で八門とされている。単純な火力で言えば、〔長門〕に軍配が上がった。

 だが、艦娘のいない〔長門〕の四一サンチ砲では、敵艦に何の痛痒も与えられない。

 

(敵戦艦の標的は、本艦か?それとも〔陸奥〕か?)

 

 放たれた敵弾が高空を駆けている気配を感じつつ、倉橋は冷静に事態を見つめようと努める。深海棲艦に人類の考え方が通じるか否かは不明だが、セオリー通りであれば、一番艦が〔長門〕を、二番艦が〔陸奥〕を目標として砲撃するはずだ。あるいは、こちらが一、二戦隊それぞれで一隻ずつを相手取っていることに気づいているのならば、一番艦が一戦隊、二番艦が二戦隊を目標としてくる可能性もある。面倒になりそうなのは後者であった場合だと、倉橋は判断していた。

 

 敵弾が到達するよりも早く、〔長門〕の第二射が飛翔を終えた。先ほどと同じく、白濁した海水のオブジェが海面に林立する。倉橋の目には、水柱の数は先の砲撃同様、四本に見えた。

 

「観測機より、『全弾近』」

「……まだ手前か」

 

 砲術長が悔し気に拳を握る。上手くすれば、この二射目で修正を終え、斉射に移行したかったのが本音であろう。事実、訓練では第二射で諸元の修正が終わることも珍しくなかった。だが、これは実戦だ。また勝手が違ってくることは容易に想像できる。

 

 修正急げの叱咤と、敵弾が弾着するのはほぼ同時であった。艦の右舷側にて、轟音が連続する。位置エネルギーを消費しきった敵弾が、音速を超えて次々に海面へと突き刺さる音であった。弾着のタイミングからして、一番艦が放った砲弾に間違いない。一番艦の目標は、この〔長門〕であったというわけだ。

 

「……水柱の数が多いですな。初弾から斉射、でしょうか」

 

 敵弾弾着の様子を観察していた小野田が小声でそう言ってきた。倉橋も感じていたことだ。正確な数を数えられたわけではないが、明らかに交互撃ち方の弾着数ではない。

 倉橋は内心で訝しむ。敵戦艦は、硫黄島と小笠原諸島の海軍航空隊に対して艦砲射撃を行っていた。十一航艦によれば、両艦とも五百発は砲弾を撃ち込んでいる。残弾数は半分を切っているはずだ。無駄撃ちはあまりできないであろう。だというのに、敵戦艦は初弾から斉射を選んできた。残弾にはいまだ余裕がある、ということであろうか。

 

 倉橋が思考している間に、修正の終了した第三射が放たれた。再度、右砲から砲炎が迸る。次こそは当たれ、そんな風に〔長門〕が意気込んでいるようにも思われた。

 

「〔扶桑〕至近に敵弾弾着!」

 

 砲声が収まらないうちに、見張り員が叫んだ。こちらは敵二番艦の砲撃だ。どうやら敵戦艦は、一、二戦隊を一隻ずつで相手取る腹積もりでいるらしい。

 

(よりにもよって〔扶桑〕が標的か……!)

 

 内心歯噛みする。戦艦の中では唯一艦娘の搭乗する〔扶桑〕が狙われたのは、あまりにも運が悪いと言わざるを得ない。まさかとは思うが、敵二番艦はそれを知った上で〔扶桑〕を狙ったのだろうか。

 ここからできることはない。今はただ、各艦の奮闘を祈るのみだ。だが、打てる手は打つ。

 

「参謀長、予定を早める。七戦隊と一水戦を突入させよう」

「……よろしいのですか?せめて一隻は無力化してから、突入させる予定では」

 

 小野田の確認に、倉橋はかぶりを振った。

 

「〔扶桑〕が標的にされた以上、悠長に構えてはいられなくなった。最悪の場合、七戦隊と一水戦のみで、敵艦隊を押さえてもらわねばならん」

 

 一、二戦隊の支援があるうちに、敵艦隊へ肉薄させる。それが倉橋の考えであった。当初の作戦よりもリスクは高くなるが、手が付けられなくなってからでは遅い。

 

「……わかりました。七戦隊、一水戦に突入を打電します」

 

 小野田も了承し、倉橋の指示はすぐに電信室へ、さらにそこから七戦隊と一水戦へ伝えられた。一分とせず、七戦隊と一水戦から了承の返答が届けられる。一、二戦隊とは距離を開けて待機していた両部隊は、敵艦隊へ向けて突撃を開始した。

 

 その間に、〔長門〕はさらに四度目の観測射を放っていた。射撃諸元は大方修正が終了していた。先の第三射では全弾遠を得たので、砲術長は第二射と第三射の中間点に射撃諸元を合わせている。上手くすれば、この第四射で命中弾が出るか、あるいは夾叉する可能性が高い。

 第四射が飛翔している間、敵一番艦も第三射を放つ。第一射、第二射に続き、やはり斉射のままだ。こちらはまだ、夾叉も至近弾もない。

 

(今のうちに、先手を取っておきたいが……)

 

 そんなことを考えつつ、倉橋は砲術長の「だんちゃーく!」の声を聞いた。双眼鏡を覗き込み、敵戦艦の様子を確認する。数秒後、その姿は立ち上った水柱に隠された。高々と持ち上げられた海水が、太陽の光を受けてキラキラと輝く。

 

「観測機より、『近二、遠二』。夾叉です!」

 

 観測機から届いた報告に、艦橋の空気が湧いた。誰も声は上げない。ただ静かに拳を握る。それだけで、艦橋の温度が数度上がった気がした。

 

「次より斉射!」

 

 砲術長が揚々と告げる。待ちに待った瞬間だ。いよいよ〔長門〕は、備えた八門の四一サンチ砲全てを用いての、全力斉射へと移行する。今頃各砲塔では、下げられた主砲身に、弾薬庫から上げられた主砲弾と装薬が装填されているはずだ。

 

 斉射へ向けて〔長門〕が準備を進める間、〔陸奥〕と敵一番艦それぞれの射弾も弾着している。両者とも夾叉には至っておらず、〔長門〕はこの砲撃戦で一歩先んでた形になった。

 

(一先ず、先手は取れた、か)

 

 後はどこまで戦えるかだ。七戦隊と一水戦が肉薄するまでは、ここに踏ん張り、敵艦隊の注意を引き続けなければなるまい。それが果たしてどれほどの時間になるかは、皆目見当もつかなかった。

 艦上に今日五度目のブザーが鳴り響いた。眼下に見える第一、第二主砲は、先程までとは違い、右砲左砲ともに砲身が上がっている。煤を纏った砲口が、太陽の光を受けてギラリと輝いた。

 ブザーが鳴り止んだ次の瞬間、それまでに倍する火球が、〔長門〕右舷に生じた。耳朶を打つ爆音も、窓を震わせる衝撃も、それまでとは比べ物にならない。四万トン近い〔長門〕の艦体が、左舷側へ大きく傾いだほどだ。

 

 各砲が下げられ、砲身の冷却と次弾の装填が急ぎ行われる。〔長門〕の斉射間隔はおよそ四十秒だ。

 後続する〔陸奥〕も負けじと第五射を放つ。こちらはまだ、観測用の交互撃ち方だ。練度で言えば〔長門〕と並んで日本海軍最高峰を誇る戦艦である。〔長門〕が斉射に移行した今、近々〔陸奥〕も夾叉を得る可能性が高い。厳しい訓練を目の当たりにしてきたからこそ、倉橋は〔陸奥〕の砲術科員を信頼していた。

 

 敵一番艦も更なる射弾を放っている。こちらも変わらず、斉射による観測射だ。生じた火球が、一瞬敵艦の姿を覆い隠す。火球はやがて真っ黒な雲へと変わり、敵一番艦の前進に合わせて後方へと流れていった。

 

 黒煙の影から敵一番艦の姿が現れた時、〔長門〕の放った第一斉射が、その頭上から降り注いだ。重量一トンの四一サンチ砲が八発、音速の壁を突き破って、敵一番艦を包み込む。林立する水柱。巻き上げられた海水が、純白のカーテンとなって、敵一番艦を視界から消し去った。厚い壁の向こう側に、オレンジ色の火炎が見えたような気もする。

 

「観測機より、『命中弾一』!」

 

 射撃の結果は、上空の零観よりもたらされた。〔長門〕の放った斉射は、そのうち一発が敵一番艦を捉えていた。

 

「次弾装填急げ」

 

 効果のほどは窺い知れないが、とにもかくにも当たるのだ。今は一発でも多く撃つことに専念する。指揮所と各砲塔を叱咤する砲術長の言葉には、言外にそんな意図が込められている気がした。

 

 二度目の斉射へ準備を進める〔長門〕の頭上から、今度は敵一番艦の砲弾が降ってくる。機関の轟音に混じって聞こえてくる甲高い風切り音に、倉橋はそれまでと違う雰囲気をひしひしと感じていた。今度は近い。

 八発の敵弾によって海面の割れる轟音が、艦橋のすぐ横からした。被弾の衝撃は感じない。だが、足元から突き上げるような振動は、〔長門〕の至近に敵弾が落着したことを示していた。

 次の一射、ないしはその次で、敵弾が必ずこの〔長門〕を襲う。倉橋はそう確信した。

 

(七戦隊と一水戦は、どの辺りだ……?)

 

 双眼鏡を覗き、今しがた自らが突撃を命じた両戦隊を見遣る。第一艦隊の隊列から離脱した七戦隊と一水戦は、速力に物を言わせて、敵艦隊へ肉薄していた。しかし、いまだその距離は、一万五千メートルほどの開きがある。さらに言えば、敵の巡洋艦部隊も、迎撃のために出張って来ていた。

 

 準備を終えた〔長門〕は、第二斉射を放つ。先程同様、水圧機で受けきれなかった反動を艦体が受けて、床が左方向へと傾いた。耳朶を打つ砲声の向かう先を、倉橋は固唾を飲んで見守る。

 

「〔陸奥〕、斉射!」

 

 後方の〔陸奥〕と二戦隊を見ていた見張り員が、〔長門〕の僚艦が斉射に移ったと報せた。これで、第一戦隊第二分隊を構成する〔長門〕型戦艦は、姉妹揃って射撃諸元の修正を終了したことになる。大海に覇を唱える四一サンチ砲が、十六門揃って咆哮しているのだ。これほど頼もしいこともあるまい。

 一方で、二戦隊に関する情報は、同じ見張り員からもたらされていない。あちらは〔扶桑〕型二隻、〔伊勢〕型二隻での砲撃だ。性能で言えば〔長門〕型に及ばないとはいえ、よく訓練の行き届いた艦ばかりだ。それに、三六サンチ砲十二門を備えた戦艦ばかりであり、単純な手数では一戦隊に勝る。ここまで命中弾なしというのは考えづらい。

 とはいえ、〔長門〕にいる倉橋が二戦隊にしてやれることは何もない。今は、彼らの訓練の成果を、信じる他なかった。

 

「だんちゃーく!」

 

 そうこうするうちに、第二斉射の弾着を報せる砲術長の声が、〔長門〕の艦橋内に響いた。倉橋は再び、敵一番艦に目を凝らす。

 敵一番艦の周囲に、連続して水柱が立ち上った。今度は、そそり立つ白い海水の壁の向こうに、艦上で炸裂する四一サンチ砲弾の火炎が見えた。見た限りでは二本の火柱を確認できる。

 

「観測機より、『命中弾二』!」

「……よしっ」

 

 砲術長が強く拳を握った。〔長門〕はその射界に、敵一番艦を完全に捉えている。

 倉橋は口を引き結んだまま、上空を睨んでいた。手放しで喜ぶわけにはいかない。今飛翔中の敵弾は、次こそこの〔長門〕に当たるかもしれないのだ。

 やがて、巨大な物体が大気を引き裂く音が聞こえてくる。中天に輝く太陽の中に、小さな影が映った気がした。倉橋が目を眇めた瞬間、影は現実となって〔長門〕に降り注ぐ。

 襲ってきた衝撃は、今度こそ本物であった。〔長門〕を包み込むようにして、巨大な水柱が生じた。炸裂する敵弾によって揉みしだかれる〔長門〕の艦橋から、倉橋はその光景を見る。

 見つめる先の〔長門〕艦首に、それまでは無かった大穴が穿たれている。穴からは黒煙が立ち上った。重要防御区画外であり、比較的装甲の薄い艦首甲板に、敵弾が突き刺さった証拠であった。

 

(喰らったか……っ!)

 

 被害状況の確認と応急修理を命じる山本の声を聞きつつ、倉橋は内心で唸った。〔長門〕はついに、敵艦の射界に捉えられた。次からは確実に、一発ないし二発の命中弾が出る。

 

 四一サンチ砲搭載艦である〔長門〕には、当然ながら同程度の砲に耐えうる装甲が施されている。敵一番艦が装備しているとみられる一四インチ又は一五インチ級の砲に対して十分な耐性を持っていた。

 ただ、集中防御を採用している〔長門〕には、装甲の薄い箇所が艦首尾部にある。そこに砲弾が飛び込めば、たった今の艦首のように、容易に大穴が穿たれることになる。重要な装備類がないからこそ装甲が配置されていないわけであるが、それでも複数を被弾すれば多大な被害を被ることになる。

 

 悪い報告は続いた。

 

「敵二番艦、〔扶桑〕を夾叉しています!」

 

 後方の見張り員が、声をわななかせて報せた。敵二番艦もまた、相手取った〔扶桑〕に対して夾叉を得たのだ。二戦隊は、敵二番艦に先手を取られた格好となる。

 

(まずいぞ……)

 

 倉橋の背中を冷たいものが伝う。このままでは、本当に二隻の敵戦艦を、七戦隊と一水戦だけでどうにかしなくてはならなくなってしまう。

 一、二戦隊の窮状を知ってもなお、〔長門〕は新たな射弾を放つ。三度目の斉射だ。重力に逆らい、上空へと駆けあがっていく四一サンチ砲弾の行く先を見つめ、倉橋は静かに決心をした。どうやら、腹を括る他ないようだ。

 三十秒ほどで〔長門〕の砲弾は敵一番艦に到達する。連続して上がる水柱と火柱。今度も二発が命中弾として報告された。だが――

 

「観測機より、『敵一番艦への効果を認めず』!」

 

(やはり、か)

 

 すでに命中弾五発。四一サンチ砲弾をそれだけ受ければ、艦体のどこかに何らかの異常が起きてもおかしくはない。しかし、敵戦艦には全くと言っていいほど堪えた様子が見受けられなかった。破壊された艦上構造物が飛び散ることも、火災が甲板をのたうち回ることもない。砲撃を受ける前と何ら変わらない姿で、平然と航行を続けている。

 無言のまま、山本が倉橋を振り返った。このままでよろしいですか、双眸が問いかける。いい加減、この場の誰もが気づいていた。いかに〔長門〕の四一サンチ砲が強力と言えど、艦娘を乗せていなければ、深海棲艦には手も足も出ない。

 だがそれで、諦める訳にはいかないのだ。それこそ、倉橋たちが海軍軍人たるゆえんである。

 

「戦闘を続行。撃って撃って撃ちまくれ。どれほど傷つこうと、この〔長門〕は退かん」

 

 倉橋の声に艦橋の空気が静まっていく。戦闘中にもかかわらず、〔長門〕艦橋から一切の音が消え失せた。誰もが倉橋の言葉に耳を傾けている。

 

「帝国臣民一億の命が、我々の背後にはあるのだ。たとえ体当たりしてでも、深海棲艦はここで食い止める」

 

 倉橋はそこで言葉を切る。伝えるべきことは伝えた。誰しも、大切なものを抱えて、今この戦場にいるのだ。横須賀出港時に誓ったことを今一度思い出せ。倉橋が込めた言外の意味は、彼らに伝わったはずだ。

 艦橋内に静かな――しかしそれまでにも増して強い熱が生まれつつあることを、倉橋は肌で感じていた。

 

「砲術、まだやれるな」

 

 山本の問いかけに、砲術長は笑顔すら浮かべていた。

 

「当然であります。五発でダメなら、十発二十発、叩き込んでやるまでです」

 

 誰もが自らの職務に戻っていく。倉橋が話している間に、すでに四度目の斉射は放たれていた。下げられ、冷却に入った砲身から、〔長門〕の決意を示すように、陽炎が立ち上っている。

 

「……みな、頼むぞ」

 

 小さく呟いた倉橋に、答える者はない。

 代わりに、ふっと息が漏れる音がした。

 それは実に短い音であった。普段であれば、倉橋も聞き逃していたに違いない。しかし、戦闘中の艦橋に置いて、あまりにも場違い極まりない音は、鮮明に倉橋の耳に届いていた。

 息の音は、まるで笑っているかのようだったからだ。

 

(なんだ?)

 

 振り払おうとしても頭にこびりつく息の正体を確かめるべく、倉橋が後ろを振り向こうとした時だ。

 

 

 

「その意気やよし!」

 

 

 

 艦橋を――否、〔長門〕そのものを震わせるような声が響いた。体の内から奮い立たされるような声。それは砲声にも似た、畏怖と敬意を抱かされる声音であった。

 固いものが床を叩く音がする。リズミカルな音の連なりは、丁度巡検中の士官が鳴らす踵の音に聞こえた。おかげで、何者かがすぐ後ろより歩いてくることを、容易に想像することができた。

 

 倉橋の隣に立った人影の姿を、彼はチラリと見る。確証はなく、曖昧な感覚ではあるが、彼は人影が――彼女が何者であるかを、直感的に理解した。

 きりりと引き締まった目元。よく通った鼻筋。端正な顔立ち。背は高く、倉橋と同じくらいはある。腰まで伸びた黒髪は艶やかで、たゆたう海を思わせた。女性的で緩やかなラインを描く肢体は、美しい曲線で構成される。しかし体自体はよく鍛えられており、強さと美しさを兼ね備えた姿はさながら〔長門〕のようであった。

 隣に立った女性は、よく通る声で名乗る。

 

「我が名は長門。戦艦〔長門〕の化身なり」

 

 瞬間、〔長門〕が強く脈打ったように感じた。足元から響く衝撃。それはあるいは、心臓の鼓動のようにも思えた。〔長門〕という艦そのものに生命が宿り、内から力を宿していく感覚を、その場にいる誰もが感じている。艦娘という魂を手にした〔長門〕が、今正に目覚めたのだと、容易く理解できた。

 

「……遅くなった非礼を、許していただきたい」

 

 倉橋を見た長門が、小声で目礼する。それを咎める気はなかった。艦娘の出現は、もとより彼女の意志とは関わりのないことでもある。

 

「君の力、今ここで示してくれたまえ」

 

 同じく静かに述べた倉橋の言葉に、長門は小さく頷いて、口の端を吊り上げながら答えた。

 

「ああ。私の力、存分に振るってやるとも」

 

 次の瞬間、敵一番艦の斉射が〔長門〕に降り注いだ。三度目となる命中弾の衝撃が、艦橋を右に左にと揺さぶる。が、中央に立つ長門は、腕を組んだまま微動だにしていなかった。それどころか、口元に笑みを湛えたまま、高らかに宣言する。

 

「その程度で、この〔長門〕は傷つかぬ」

 

 事実、計四発の命中弾のうち、被害らしい被害が出たのは、最初に艦首へ飛び込んだ一発だけだ。それ以外は全て、対四一サンチ砲の装甲に弾かれている。

 

 報復となる砲火は、すでにその準備を終えていた。前甲板二基四門、後甲板二基四門の四一サンチ砲が、ぎらつく砲口を天へと掲げる。それはさながら、遥かな高空を睨み、今まさに覇者たる咆哮を響かせんとする、獅子の如くであった。

 信じがたいことに、主砲発射を告げるブザーが鳴り止んだ時、艦上には静寂が訪れた。ありとあらゆる音から隔絶された世界。誰もが固唾を飲む雰囲気。そして――この〔長門〕そのものが、待ち望んだ瞬間に打ち震えている。

 静寂が、破られる時が来た。

 

「てーっ!」

 

 砲術長の号令に、〔長門〕が応える。右舷を指向した主砲口から、紅蓮の炎が沸き起こった。合計重量八トンにもなる巨弾たちを吐き出したその衝撃は、直に〔長門〕の艦橋を揺さぶる。七本の支柱で支えられた、堅牢極まる鋼鉄の櫓が、振り子のように右左と揺れ動いた。傾ぐ艦橋に両の足で踏ん張り、倉橋は巨弾の行方を追う。

 

「七戦隊、敵巡洋艦と交戦始めました!一水戦はなおも突撃を続行中!」

「〔扶桑〕、斉射へ移行しました!」

 

 味方艦隊に関する二つの報告が、同時に上げられた。いよいよ反撃だ。〔長門〕に後れを取るな。そう言っているかのようであった。

 やれる。第一艦隊は戦える。倉橋は確信した。双眼鏡を掴む手に、自然と力がこもった。見つめる先はもちろん、二万メートル先で相対する敵戦艦である。

 

 弾着の時間だ。

 

「だんちゃーく!」

 

 砲術長の声に合わせるようにして、敵一番艦に四一サンチ砲弾が降り注いだ。元より、射撃諸元は完成している。命中弾も出ているのだ。これまでは、艦娘が搭乗していないがために、その砲弾が敵艦を傷つけることはなかった。だが今は違う。今この艦には、艦娘である長門が乗っている。この砲弾は、必ずや敵一番艦を打ち破ってくれるはずだ。

 敵一番艦の姿を隠していた水柱が晴れる。双眼鏡を砕かんばかりに握りしめて、倉橋は敵一番艦を凝視した。その艦上には、先程まで見受けられなかった、炎の揺らめきが見えた気がした。

 

「観測機より、『命中弾一。敵艦への効果を認む』!」

「よしっ」

 

 観測機から届いた報告に、艦橋の空気が一気に沸いた。砲術長は強く拳を握り、口の端に笑みを浮かべている。

 

「砲術、その調子だ!」

 

 山本が砲術長を、そして射撃指揮所の砲術科員を激励する。いよいよここからだ。

 

「長門型の四一サンチ砲、侮るなよ」

 

 隣に立つ長門も、どうだというように得意げな表情だ。

 

 入れ替わりで到達した敵弾が降り注ぐ中、〔長門〕艦上には次なる斉射を告げるブザーが響いた。新たに生じた一発の命中弾をものともせず、〔長門〕は巨大な砲炎を躍らせる。累計六度目、長門が現れてから二度目の斉射だ。

 

 十秒ほど遅れて、敵一番艦も更なる斉射を放つ。敵艦隊も、先程の〔長門〕の一撃が、それまでと違うことには気づいたはずだ。それでもなお、撃ち合いを続けているのは、自信の表れなのか、あるいは撤退という概念がないのか。何にせよ、敵戦艦二隻はいまだ一、二戦隊と砲撃戦を続けている。

 

 各砲塔でさらなる斉射の準備が進められる中、〔長門〕の第六斉射が、十秒後には敵一番艦の斉射が、お互いの周囲に弾着する。〔長門〕は命中弾二発、敵一番艦は一発をそれぞれ得ていた。有効な被弾数は、〔長門〕が六発、敵一番艦が三発。お互いに堪えている素振りはない。

 

「二戦隊の様子はどうか」

 

 七度目の斉射を〔長門〕が放つ中、倉橋は後続する二戦隊の様子を尋ねる。斉射に移ったとはいえ、〔扶桑〕は敵戦艦に先手を取られている。加えて、その装甲は〔長門〕ほど頑強ではない。耐久力の面ではいまだ不安が残る。

 

「〔扶桑〕、砲撃を続けています。〔日向〕も斉射へ移行」

 

 どうやら、倉橋の心配は、杞憂であったようだ。

 代わりに、別の報告が上げられる。

 

「一水戦、敵巡洋艦部隊を突破!現在敵駆逐艦と交戦中!敵戦艦へ肉薄しつつあり」

「一水戦が……!」

 

 水雷屋出身の小野田が、喜色を滲ませて声を漏らす。先行させていた一水戦は、七戦隊の援護の元、敵巡洋艦の防御網を突破したのだ。もう少し距離を詰めれば、魚雷戦を仕掛けるのに十分な位置まで迫ることができる。

 

(もうしばしの辛抱だ。頼むぞ、〔長門〕……!)

 

 戦場の空気が、第一艦隊有利へと傾きつつあることに、倉橋も気づいている。押し切れる、半ばそう確信している。だがだからこそ、功を急いてはならない。ここで撃ち漏らしては、元も子もないからだ。

まずは確実に一隻仕留める。それが、今倉橋が〔長門〕に求める戦果だ。

 

 七度目の斉射が弾着の時間を迎えた。水柱に混じって、巨大な火柱が生じる。爆風と破片が敵艦上を薙ぎ、爆炎が業火となって敵艦を焼く。火災が広がりつつあるのだろう。うっすらと漂い始めた黒煙を見て取ることができた。

 衝撃は〔長門〕にも襲い来る。艦橋後方から聞こえて来た圧壊音が、被弾箇所の近さを物語る。

 

「副砲二門大破!」

「航空甲板火災発生!」

 

 被弾の詳細が速報でもたらされる。致命的な損害はない。建造から二十年近いとはいえ、四一サンチ砲搭載艦である。格下の一四インチ砲クラスに、そう易々と装甲は貫けなかった。

 

 副長が消火作業の指示を出す中、〔長門〕は八度目の斉射の準備を終えた。主砲発射を告げるブザーから一拍、〔長門〕が咆哮する。八つの火炎が一つの巨大な火球となり、砲口から広がった衝撃波がさざ波を打ち消して海面にクレーターを作った。

 倉橋以下、艦橋に詰める全員が、左舷へ傾く床に足を踏ん張る。その両目だけは、敵一番艦を捉えて離さない。

 三十秒ほどの飛翔時間は、長いようで短い。高空で交錯した彼我の砲弾が、お互いの目標へと落下していく。先に到達するのは、やはり〔長門〕の砲弾だ。

 水柱が敵戦艦を包み込む。すわ、轟沈したような錯覚を受けるが、それは間違いだ。数秒後に水柱が晴れると、敵艦は再び、健在な姿を現す。

 否、今回は健在とは言えない。水柱が晴れても、敵一番艦後部の状態は、一向に見て取れない。それまでにも増して噴き出る黒煙が、艦橋から後ろの様子を丸ごと覆い隠していた。

 観測機から報された命中弾は二発。火災の火元から見て、副砲や高角砲が密集している艦中央付近に命中したのだろう。

 

 喜ぶ間もなく、今度は敵一番艦の射弾が〔長門〕を叩く。衝撃は艦橋基部から一発。さらに、眼前の二番砲塔で火花が散った。主砲塔の正面防楯が、飛んできた敵弾を弾いたのだ。

 二番砲塔内の砲術科員にも、被害はなかった。射撃に支障はなく、数秒後には〔長門〕の第九斉射が放たれた。再度飛翔していく、重量一トンの砲弾が八発。

 

 数秒遅れで、敵一番艦も斉射を放つ。爆風で一瞬だけ煙が晴れ、後部甲板の様子が露わになった。据えられた三連装砲塔は健在だ。あちらも変わらず、八門の一四インチ砲で応戦していることになる。

 

「ほう、なかなか骨のある敵と見える」

 

 ふと、隣に立つ長門の呟きが聞こえた。腕組みをして敵艦を見つめるその双眸は、笑っているように見受けられる。四一サンチ砲弾六発を受けてなお戦い続ける敵艦を、褒め称えているようでさえあった。

 

(武士、だな)

 

 優れた敵には敬意を払う、日本古来よりの精神を思い出す。長門から漂う雰囲気は、幼き日に祖父へ感じた、武人の雰囲気そのものであった。

 武人の刀が振り下ろされる。九度目の斉射が黒煙を破って敵一番艦に突き刺さり、沸き立った海水が巨壁となって敵艦の姿を隠す。

 数秒後に水柱が晴れる。現れた敵一番艦は、明らかに深手を負っている様子であった。濛々と立ち上る黒煙は、入道雲のように成長していく。甲板をのたうつ大火は勢いを増すばかりだ。炎と煙に巻かれて、敵一番艦の姿が変わってしまったようにも見える。

 

 数秒遅れで到達した敵弾は、さらに一発が〔長門〕を抉る。後部の非装甲区画に命中して大穴を穿ち、火柱を噴いた。長門が低い唸り声を漏らす。だが、依然として艦の航行や戦闘に支障はない。

 その事実を示すように、十度目の斉射が火炎を上げた。〔長門〕右舷を橙色に染め上げる火球は、数瞬後には真っ黒な雲となる。艦の前進に伴って煙が後方へ流れ、陽炎を漂わせる砲口を露わにした。

 

 一方、敵一番艦が、それ以上撃ち返してくることはなかった。

 

「敵艦隊、転針しつつあり!離脱する模様!」

 

 上空観測機からの報告を、電信員が喜色を滲ませて読み上げる。形勢不利と見て、敵艦隊は遁走し始めたのだ。針路は一三五と報告されている。

 無理もない。〔長門〕が撃ち合っていた敵一番艦は、もはや戦闘ができるような状態ではない。敵二番艦も、〔扶桑〕に対して有利に戦闘を進めていたが、決定打は与えていない。たとえ〔扶桑〕に撃ち勝ったとて、その後に形勢を逆転できるとは思えなかった。巡洋艦以下の敵艦は、七戦隊と一水戦がよく戦っている。

 海戦の精査を行えば、誰もが第一艦隊の勝利を認めるだろう。であれば、損害が拡大する前に撤退するというのは、至極もっともな判断に思えた。

 

「追撃する。可能な限り叩くぞ」

 

 倉橋の腹は決まっていた。深海棲艦の総戦力が不明な以上、できる限りここで沈めておきたい。

 逃走を図る敵艦隊に合わせ、〔長門〕以下戦艦部隊も舵を切る。相対位置の変更に伴い、射撃計算がやり直されているため、主砲の射撃は一旦止められていた。

のそりと艦首を振った〔長門〕が射撃を再開したのは、二分ほどが経過してからだ。砲術長は初弾から斉射を指示している。

 

「敵艦の速度はわかるか」

「二十八ノットです」

 

 倉橋の質問に、航海長がすぐ答えた。

 

「……存外にすばしっこい奴ですな」

 

 顔をしかめて小野田が呟いた。

 第一艦隊の戦艦群は、総じて足が遅い。同世代艦の中では平均的な性能だが、新鋭艦に比べれば、明らかにその速力は足りていない。一戦隊の〔長門〕型は揃って二十六ノット、二戦隊は二十三ノットが精々だ。二十八ノットを発揮する敵艦を追いかけるには、いささか心許ない。

 

(四一サンチ砲弾多数を被弾してもなお、機関に被害を及ぼさない敵艦の防御力を、褒め称えるべきか)

 

 転針後二度目の斉射を見届けつつ、倉橋はそんなことを考える。敵一番艦は、〔長門〕の砲撃を受けてなお、二十八ノットが発揮可能な余力を残しているのだ。艦上構造物には相当の被害を与えたはずだが、四一サンチ砲弾の破壊力は敵艦内部まで届いていない。実に頑強な艦だ。

 累計十一度目の斉射が飛翔を終える。八本の水柱が敵一番艦右舷にまとまって上がるが、命中弾はない。これまでの射撃諸元の蓄積がある分、転針後二度目の斉射にしてはかなり正確だが、敵艦を捉えるまでには至っていなかった。

 

「……敵艦、距離開きます。まもなく、三、四番主砲の射界を外れます」

 

 砲術長が苦々し気に報告する。

 転針したことで、〔長門〕はほぼ正面に向けて射撃を行っている。このまま敵艦との距離が離れると、後部の三、四番主砲の射線が艦上構造物に遮られ、射撃不能になる。前部の一、二番主砲四門だけでは、まず当たらない。

 

 砲術長の心配をよそに、〔長門〕は更なる斉射を放った。一方で、逃走中の敵戦艦は、一発も撃ち返してこない。全速力で第一艦隊と距離を取ろうとしている。随伴の巡洋艦や駆逐艦など、お構いなしといった様子だ。

 

(あちらも必死、か)

 

 深海棲艦は、黄泉の国よりやって来た、と伝え聞いている。得体のしれない怪異を想像していただけに、どことなく人間味のある行動には、妙な安心感すら覚えた。

 

「敵艦、三、四番主砲の射界から外れました」

 

 三度目の斉射が落下する頃、砲術長が悔しげな声を漏らした。〔長門〕は以降、四門での射撃となる。

 

「……そう上手くは、いかないものだな」

 

 倉橋の内心を代弁する声は、隣の長門が発したものだ。腕組みをした彼女もまた、眉間に皺を寄せ、表情を曇らせている。

 

(あとは――)

 

 四度目の砲炎を上げる前部主砲の先にある海面を見つめる。針路を変えたことで、見えるようになったものがあった。

 敵巡洋艦と撃ち合う四隻の巡洋艦。そして、その奥には――

 

「一水戦、敵戦艦へ肉薄します!距離一〇〇(一万メートル)!」



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艦娘戦線(3)

戦闘は今回までとなります


 

 

 

 吹き荒ぶ小口径砲弾のスコールの中を、〔吹雪〕含めた一水戦は突き進んでいた。

 眼前に迫るのは、敵駆逐艦の群れ。そしてその奥に、傷ついた二隻の戦艦。雪村は、その両方を交互に睨みつけていた。

 一水戦の目標は、最初から二隻の敵戦艦だ。元の作戦では、戦艦部隊が一隻を叩き、然る後に七戦隊の支援の下、一水戦が突入してもう一隻を撃沈する手筈であった。

 が、現状は見ての通りである。

 

「目標、右舷三十度の敵駆逐艦!砲戦始め!」

 

 雪村の隣で、吹雪が声を張り上げている。小さな体のどこから、それほどの迫力が出されているのか、いまだ雪村にはわからない。陸の上と、海の上、吹雪の印象はあまりにも違いすぎる。

 

 艦娘は、艦艇の中で何らかの役職を付与されることがほとんどである。大抵は航海長か砲術長の補佐、あるいは応急修理の指揮を執る。

 吹雪は少々特殊だ。呉所属時に短期とはいえ海大を経験した彼女は、各科の長になる資格を得て、〔吹雪〕砲術長の役職を担っている。一方、砲術長補佐の役職は、どういう訳か巡り巡って雪村のところへやって来た。

 

 吹雪の指示通りに、主砲が旋回し、咆哮する。前甲板に一基、後甲板に二基が据えられた一二・七サンチ連装砲は、小太鼓を打ち鳴らすような砲声を発する。戦艦のそれには劣るかもしれないが、至近で耳にすると随分頼もしく感じられるものだ。

 距離五千メートルもない敵駆逐艦に対して、〔吹雪〕の主砲は砲身をほぼ水平にして射撃を行っている。弾着までは十秒もない。さらに、小口径砲ゆえの発射速度も手伝って、まるで機関銃のように次々と水柱が乱立していた。

 

 当然、敵駆逐艦も撃ち返してくる。こちらとほぼ同じ口径と思われる主砲を振り立て、一水戦の突撃を阻もうと砲弾を撃ち出す。スコールや雷雨を思わせる勢いで小口径砲弾が降り注ぎ、一水戦の周囲を沸き立たせた。正しく弾雨の中を、〔神通〕を先頭とした十三隻の単縦陣が駆け抜ける。

 

 四度目の斉射で〔吹雪〕は敵艦を捉えた。射撃諸元の修正が終わったと判断し、吹雪は可能な限りの連続斉射を指示する。各砲塔では、力自慢の砲術科員たちが、揚弾された二十三・五キロの砲弾をリレーして装填していた。

 一二・七サンチとはいえ、装甲に乏しい駆逐艦には十分な脅威だ。およそ六秒おきに発射する砲弾が、次第に敵艦の艤装を抉っていく。十三度目の斉射で、ついに敵艦は炎上し擱座した。

 

「〔神通〕より、『一水戦一斉回頭、針路一四五』」

 

 丁度その時、旗艦〔神通〕から回頭の指示が飛んだ。吹雪が撃ち方待てを指示し、復唱した雪村は伝声管に取り付いて射撃指揮所へ指示を伝える。

 

「取舵一杯、針路一四五」

 

 二千トンしかない〔吹雪〕の艦体は、素直に指示を聞き届ける。甲板を右舷へと大きく傾げながら、鋭い艦首が左へ左へと海面を切り裂いた。正面に見えていた十四駆〔陽炎〕の姿が右舷へと流れる。

 一斉回頭は十秒ほどで終わった。

 

「目標、右舷正横の敵艦!準備でき次第、砲撃を再開!」

 

 砲撃再開を告げる吹雪の号令が響いた。回頭に合わせて旋回していた主砲は、すぐさま射撃の準備を整え、指揮所の命令で発砲する。海面すれすれを這うように飛んでいく砲弾。弾着までは十秒もかからない。

 

 敵駆逐艦と撃ち合っているのは、何も〔吹雪〕だけではない。一水戦の針路を阻むものを排除しようと、旗艦〔神通〕も、そして他の駆逐艦たちも、備えた主砲全てを振り立てていた。

 加えて――

 

「敵駆逐艦周囲に弾着!七戦隊です!」

 

 たった今、〔吹雪〕が射撃目標に定めた敵駆逐艦の周囲に、別の水柱が乱立する。一二・七サンチ砲弾のものよりも一回りほど大きい。

 敵艦とは反対側、左舷側の窓に目を向ければ、海軍旗を掲げる巡洋艦の姿が見えた。敵巡洋艦と撃ち合っていた七戦隊のうち、すでに敵艦を撃沈破した二隻が、今度は敵駆逐艦に向けて主砲を振り立てている。前甲板に集中した特徴的な主砲配置から、〔利根〕型軽巡の〔利根〕、〔鈴鹿〕と判断できた。

 

(ありがたい……!)

 

 駆逐艦と旧式軽巡の主砲では限界がある。その点〔利根〕型は、近年流行りの「重巡のような軽巡」だ。砲火力も、一五・五サンチ三連装砲四基十二門と、圧倒的である。敵駆逐艦を牽制する面の制圧力として、これほど適任の艦もない。

 

「〔神通〕より、『我に続け』」

 

 一水戦司令部は、この機に乗じて一気に敵戦艦へ距離を詰める腹積もりらしい。

 

「砲術長、砲撃止め」

 

 艦長の晴野みき少佐が下令する。吹雪が頷いて、雪村へと復唱した。伝声管に雪村は命令を吹き込む。

 

「砲撃止め!別命あるまで待機!」

 

 小太鼓を打ち鳴らすような砲声が止んだ。一水戦は〔神通〕を先頭にして、脇目も振らず敵戦艦を目指す。

 

「見張り、敵戦艦までの距離は?」

「八〇(八千メートル)です!」

 

(これだけ粘って二千メートルか……!)

 

 想像以上に遠い敵戦艦への距離にめまいがしそうになる。敵巡洋艦の防御網を突破して早十分以上。敵駆逐艦に応戦しつつ、逃走を図る敵戦艦へ肉薄するには、多くの時間が必要であった。

 

 先程加わった〔利根〕〔鈴鹿〕の援護によって、敵駆逐艦を無視できるようになったとはいえ、魚雷戦を仕掛ける距離まではまだ三千メートル以上。二十八ノットを発揮して逃走する敵戦艦を追いかけるのは、骨が折れる。

 

 一方、〔利根〕と〔鈴鹿〕は激しい弾雨を敵駆逐艦たちへ浴びせかけている。十二門の一五・五サンチ砲は巨砲とは言えないが、一撃で駆逐艦を砕くだけの破壊力を備えていた。

 橙色の砲炎をおよそ十秒おきに吐き出す、二隻の軽巡。その姿をちらりとだけ見遣ってから、雪村は再度〔吹雪〕の艦首方向へ目を向けた。十四駆と〔神通〕の向こうには、黒煙を噴き上げる敵戦艦の姿。

 

 その敵戦艦の艦上に、小さな炎が踊った。火災によるそれではない。明らかな砲炎だ。

 数秒後、一水戦を取り囲むように水柱が上がった。小さな水塊の群れは、先程掻い潜って来たスコールに酷似している。すなわち、敵戦艦の副砲が、一水戦を近づけまいと砲撃を始めたのだ。

 およそ六秒おきに立ち上る水柱。その合間を、一水戦は韋駄天となって駆け抜ける。

 

「……さすがは神通さんです。避ける気が全くない」

 

 額に一筋汗を伝わせて、吹雪が呟いた。

 一水戦旗艦〔神通〕の戦術は一貫している。水雷戦隊は一本の槍となり、真一文字に敵戦艦へと肉薄する。単純明快、損傷を恐れず、最短距離を突っ切るその戦術は、「逆さ落とし」の異名を取っていた。

 今回も〔神通〕は、この逆さ落としを実施している。

 

「距離七〇(七千メートル)!」

 

 小口径砲弾の弾雨を駆け抜けるうち、一水戦はさらに一千メートルの距離を詰めていた。いまだ被弾した艦はない。〔長門〕や〔扶桑〕と撃ち合ったことで、敵戦艦の射撃能力は多少なりと損害を受けている様子だ。

 このまま無傷で肉薄できるかもしれない。雪村がそんな淡い希望を抱き始めた頃だ。

 

「〔雪風〕に至近弾!」

 

 後続する十六駆の司令駆逐艦に敵弾が迫っていると、見張り員が叫んだ。

 さらに十秒後、悪い報告が届けられる。

 

「〔雪風〕被弾!」

「〔陽炎〕にも至近弾です!」

 

 新鋭駆逐艦が二隻、立て続けに危機に陥る。「ブリキ缶」と揶揄されるほど薄い駆逐艦の装甲は、最新鋭の〔陽炎〕型になろうと変わらない。装甲を犠牲にして、速度と魚雷に性能を振り分けたのが駆逐艦だ。

 六秒おきに、両艦の艦体が抉られていく。後方の〔雪風〕を直接見ることはできないが、〔陽炎〕は〔吹雪〕の目と鼻の先だ。一発の被弾ごとに炎が上がり、艤装品の破片が舞い飛ぶ。リノリウムを炎がのたうち、後甲板二基の主砲塔を炙っていた。

 

 ギリッと嫌な音がする。強く噛み締めた自分の奥歯が鳴っていた。同じように、隣の吹雪も、歯を鳴らしながら〔陽炎〕を見つめていた。

 

「〔雪風〕、速度低下!落伍していきます!」

 

 後方で〔雪風〕が限界を迎えた。その報せが飛び込んできた、次の瞬間であった。

 

 黒煙に包まれていた〔陽炎〕が、めくるめく炎の塊へと変貌した。黒煙の内側より爆ぜたのだ。火柱というにはあまりにも大きすぎる。爆発の衝撃が、数秒後に〔吹雪〕艦橋を揺らしたほどだ。と同時に、おどろおどろしい轟音が雪村の耳朶を打つ。

 雪村は息を飲む。否、雪村だけではない。隣に立つ吹雪も、艦橋にいる誰も彼も、物音一つ立てずに〔陽炎〕を見つめている。

 何が起こったかは明白であった。降り注いでいた敵弾の一発が、運悪く〔陽炎〕艦上の魚雷に直撃し、誘爆させたのだ。

 炎が晴れても、〔陽炎〕の艦体は姿を現さない。天へと昇る黒雲の塊。熱せられた海水が蒸気となり、辺りに立ち込める。その只中に、かつて艦であったであろう鉄の塊が浮かぶばかりだ。

 

(陽炎……!)

 

 明朗快活な少女の姿を思い出さずにはいられない。同じ一水戦所属として、〔吹雪〕乗組員とも交流が多く、顔見知りの同期も数知れない。あの有様では、二百人の乗員全て、逃げる暇さえなかったであろう。

 

「取舵一杯!〔陽炎〕の左舷を抜けろ!」

「取舵一杯!」

 

 晴野の指示に、慌ただしく航海長が答える。そのやり取りで、ようやく艦橋に人の動きが戻った。呆然自失としている時間はない。今は前だけを見ろ。晴野はそう言っているかのようだった。

 針路をわずかにずらした〔吹雪〕は、〔陽炎〕の左舷側を抜ける。丁度、〔陽炎〕の上げる黒煙が、敵戦艦から〔吹雪〕を隠す煙幕の役割を果たしていた。

すぐ近くに浮かぶ〔陽炎〕からは、むっとした熱気が伝わって来た。赤く染まった鋼鉄に海水が触れ、ジュウジュウと音を上げている。周辺の海面に浮かぶのは残骸ばかりで、人の姿はない。

 目礼だけで〔陽炎〕の横を抜け、〔吹雪〕は再び一水戦の隊列に戻る。

 

「〔神通〕より、『右魚雷戦用意。投雷距離は五五(五千五百メートル)』」

 

 六千メートルよりわずかに距離を詰めたところで魚雷を放つと、一水戦司令部は決断したのだ。本音は五千メートルまで距離を詰めたいところだろうが、二隻の駆逐艦が落後した今、そこまではもたないと判断したのか。

 だが今は、その距離すらも遠く感じられる。

 

「大丈夫。大丈夫……ですよ」

 

 ふと、隣の吹雪が呟くのが聞こえた。出撃前と同じく、自分自身へと言い聞かせるような声だ。ともすれば悲鳴を上げそうになる内心を、必死に押さえつけるような声だ。

 敵戦艦の副砲弾が再度降り注ぐ。〔陽炎〕を仕留めた柱口径砲弾の雨は、今度は〔吹雪〕へと迫りつつあった。先程まで水柱が生じていた海面を、鋭い艦首が切り裂いていく。

 

「距離六〇(六千メートル)!」

 

 見張り員が叫ぶ。投雷距離まではあとわずかに五百メートルだ。艦橋の誰もが拳を握り、自らの職務を果たしながらも祈り続ける。これ以上の被弾はしてくれるな、と。

 

 艦首のすぐ先で水柱が生じ、〔吹雪〕は一瞬突き上げられた形になる。しかし、〔吹雪〕そのものの重量と、波を切るのに特化した艦首形状が、すぐに水柱を踏み砕いた。崩れた水塊が特大の雨粒となって、バタバタとリノリウムの甲板を打つ。生じた波が錨鎖管を逆流して、艦首甲板へと広がっていった。

 

「水雷長」

 

 晴野の呼びかけに、水雷長が答える。

 

「一番から三番連管まで、魚雷戦用意よし。いつでも行けます」

「そうか。もうしばしの辛抱だぞ」

「はっ」

 

 六千メートル先の敵戦艦を、改めて見つめる。目と鼻の先というには遠い気もするが、海の上ではすぐ手の届く距離に違いはない。事実、敵の副砲は一水戦を包み込んでいるし、撃とうと思えば〔吹雪〕の主砲も敵戦艦を捉えられる。軍艦同士の戦闘を剣士の決闘に例えるなら、ここはすでにお互いの懐奥深く、短刀を喉元へ突きつけることのできる距離だ。

 一水戦は今、魚雷という名の短刀を、敵戦艦の喉元へ突き立てようとしている。

 

 襲い掛かる短刀を振り払わんと、敵戦艦の副砲弾が振り下ろされる。すぐ近くに弾着したことは、足元からの振動と、艦橋右舷へ叩きつけられた海水でわかった。床に足をしかと踏ん張り、雪村は右舷を見遣る。艦橋のすぐ横には、敵弾のそれとわかる、硝煙を含んだ水柱が現出していた。

 冷や汗ものだ。後十メートル、いや五メートルずれていたら、この艦橋に直撃していた。雪村含め、艦の首脳部が根こそぎ二階級特進になっていたかもしれない。

 同時に、次こそは当たるという、一種の予感があった。

 

 雪村の予感は現実のものとなる。次にやって来た敵弾の群れ、そのうちの一発が、〔吹雪〕の甲板に飛び込んできた。

 二千トンしかない艦体を激しい揺れが襲う。両足だけでは足らず、艦橋のへ(・)り(・)にまで掴まって、雪村はなんとか揺れをやり過ごす。だが――

 

「きゃ……っ」

 

 そうもいかなかった人間が一人。雪村は慌てて手を伸ばし、吹雪の体を片手で受け止めた。痛みを堪えるように眉間に皺を作る吹雪は、目線だけで礼を寄越す。

 

「被害個所は!?」

 

 晴野の声に、数秒して返答がある。被弾箇所は前部煙突の脇。短艇(カッター)が一艇犠牲になったとのことだ。

 

(これ以上、被弾してくれるな……!)

 

 投雷距離はすぐそこだ。どうかそこまでは。この魚雷を放つまでは、決して沈むわけにはいかない。

 

 届け。届け。届け。

 

「……届け」

 

 雪村の心を代弁するような声がする。

 吹雪だ。どこかが痛むのか、顔をしかめたまま、彼女は歯を食いしばって前を睨む。その瞳に、一瞬太陽の色が映った気がした。

 再び敵弾が降り注ぐ。連続する弾着の衝撃に揉みしだかれ、大海の枯葉の如く揺さぶられる〔吹雪〕。だが奇跡的に、被弾はゼロだった。先の〔陽炎〕のように、多数の中口径砲弾が〔吹雪〕の艦体を切り刻むことはない。

 

 そしてその時がやって来る。

 

「距離五五(五千五百メートル)!」

「〔神通〕より、『投雷始め』!」

「投雷始め!」

 

 見張り員と電信室からの報告に、晴野が号令で応える。そのまま、水雷長が各魚雷発射管へ投雷を下令した。連続した圧搾空気の音が響き、一番から三番までの各発射管から、魚雷が飛び出す。

 

「一番連管、発射完了」

「二番連管、発射完了」

「三番連管、発射完了」

 

 全ての発射管から魚雷発射完了が報告された。程なく、同じ十一駆の〔漣〕、〔電〕、〔五月雨〕からも魚雷発射完了が報告された。これを受け、晴野は「十一駆、発射完了」を〔神通〕へと報告する。

 すぐに〔神通〕から、一斉回頭の指示が飛んだ。

 

「取舵一杯、針路〇七〇!」

 

 晴野の言葉を航海長が復唱し、総舵手が舵輪を回す。すぐに反時計回りの加速が生じて、〔吹雪〕は左へと艦首を振った。その鼻先を掠めるように、敵弾が弾着の水柱を上げる。あのまま直進していたら、降り注ぐ砲弾の只中に頭を突っ込んでいたことだろう。

 次第に距離を取っていく〔吹雪〕たちへ、最早敵戦艦も砲弾を浴びせてくることはなかった。

 

「あの、魚雷はどうなってますか?」

 

 額の汗を拭う仕草を見せ、吹雪が尋ねる。双眼鏡は持ち合わせていないので、雪村は可能な限り目を凝らした。

 波の間に、海面を走る水泡の道筋を見つける。魚雷が無事に航走している証拠だ。

 

「問題なく航走しています」

「そうですか」

 

 吹雪が胸を撫で下ろした。

 

「水雷長、予想到達時間は?」

 

 転針の完了を確認して、晴野が水雷長へ呼びかけた。水雷長は手元のストップウォッチを見る。

 

「到達まで三分半です」

 

(三分半か……)

 

 ざっと簡単な計算式を頭で組み立てる。

〔吹雪〕より放たれた九〇式魚雷の速度はおよそ五十ノット。一水戦には、他に最新型の九三式魚雷を搭載するものもあるが、こちらも速度はほとんど変わらない。この魚雷を距離五千五百メートルで放っている。大まかでしかないが、敵の未来位置の航走距離は六千メートル弱。この距離を五十ノットの魚雷が走破するには、四分弱の時間がかかる。

 魚雷発射からすでに三十秒以上。それでもなお、命中には三分強の時間が残されている。魚雷は艦砲に比べると、命中までの時間が極めて長い。

 当然、その間に回避運動を取ることもできる。

 

(現状でその可能性は低いと思うが……)

 

 楽観的な自分の意見に内心で顔をしかめる。

 今、敵戦艦は二つの部隊に追われている。すなわち、先程まで撃ち合っていた一、二戦隊と、たった今魚雷を放った一水戦だ。

 速力差によって射撃の機会を失っているとはいえ、いまだ一、二戦隊の主力戦艦たち、中でも一戦隊の〔長門〕型戦艦二隻は、最大戦速でぴたりと敵戦艦に付けている。

 もしも、魚雷を回避しようとして舵を切り、速力を落とせば、再度四一サンチ砲の射界に捉えられることとなる。

 一度撤退を選んだ敵戦艦が、その方針を変えるとは思えなかった。

 

 それから、理由はもう一つ。敵戦艦は、こちらの魚雷の数を、()()()()()()可能性がある。

 

 雪村の想像通り、敵戦艦に魚雷を回避する素振りはなかった。やや黒煙が落ち着き始めた二隻の巨艦は、最大戦速と針路を維持し、戦場からの退避を続けている。その他の中小艦艇にしても同様だ。先程まで七戦隊を撃ち合っていた巡洋艦や駆逐艦たちも、這う這うの体で退避行動に入っている。当然、それを追って七戦隊も動き出した。

 

 追撃戦の様相を見せ始めた戦場で、魚雷を撃ち尽くした一水戦のみが戦場より距離を取っているのは、いささか不可思議な気分がする。

 

「あと三十秒です!」

 

 被弾箇所の応急手当が行われる中、水雷長が緊張の面持ちで残り時間を読み上げた。

 見張り員だけでなく、艦橋の誰もが二隻の敵戦艦へ意識を向ける。

 二水戦は、落伍した〔陽炎〕と〔雪風〕以外の十一隻が投雷に成功していた。投雷数は、全て正常に作動していれば、百二十四本を数える。

 だが、おそらく、敵戦艦からはその半数が()()()()()()

 

 発射管の構造の関係から〔吹雪〕には搭載できなかったが、〔白露〕型以降の新鋭駆逐艦には、九三式魚雷が搭載されている。この魚雷は、威力の向上もさることながら、燃焼剤に純酸素を用いることで、長大な射程を手に入れていた。さらに、純酸素使用の副産物として、航跡がほとんど残らないようになっている。たとえ日中でも、目視は不可能だ。

 配備艦の半数が九三式魚雷を運用できる一水戦では、それ故に半数の魚雷を目視できない。

 

「じかーん!」

 

 水雷長が声を張り上げた。魚雷が敵戦艦へ到達する時間だ。

 すぐには何も起こらない。艦橋の窓からは、相も変わらず、二十八ノットで驀進する敵戦艦が見えるばかりだ。その舷側に、魚雷命中の水柱は上がらない。

 じとりと汗が伝う。焦れるような時間が続く。

 

 魚雷の命中率は、お世辞にも高いとは言えない。平時の演習でも、よくて十パーセント、平均すれば数パーセントもない。百本超の魚雷を放っても、一本も当たらないという状況は考えられる。

 外したか。誰もが唇を噛み締めた、その時だった。

 

 敵二番艦の舷側に、突如として巨大な水柱が立ち上った。戦艦の主砲弾よりも遥かに巨大だ。敵二番艦の艦橋の二倍はあろうかという高さまで、その先端は達している。海神の腕が、敵二番艦にアッパーカットをお見舞いしたようにも見える。

 巨大な排水量を持つ敵戦艦が、魚雷炸裂の衝撃で震えていた。

 

 命中弾はその一発だけではない。今度は立て続けに二発、艦首付近に命中する。名状し難いほどの水塊が持ち上げられ、敵戦艦の姿を隠す。

 敵一番艦にも魚雷が命中した。左舷中央付近に一発、天をも突かんバベルの塔がそそり立つ。

 五発目の命中弾は、再び敵二番艦であった。艦尾付近で炸裂した魚雷の衝撃で、敵戦艦の巨体がわずかに浮く。見えざる何かに躓いたように、敵戦艦がつんのめった。

 六発目以降の命中弾はなかった。最終的な一水戦の戦果は、敵一番艦に一発、敵二番艦に四発。

 

「敵二番艦、速力低下!左舷へ傾斜しています!」

 

 四発を受けた敵二番艦は、すでに瀕死の状態であった。それもそのはずだ。日本海軍の魚雷は、列強でも最強の破壊力を持つ。口径は六一サンチと、欧米の多くが採用している五三・三サンチより一回り大きく、その分炸薬量も多い。その一発は、海上の鎧武者たる戦艦であろうと、致命傷になりえた。

 敵二番艦の運命は、最早決したと言っていい。

 

 一方、被雷が一発だけであった敵一番艦は、しぶとく生き残っていた。水中防御の厚い箇所に当たったのか、速力に衰えは見られない。他の残存艦を付き従えて、ひたすらに第一艦隊から距離を取っている。

 

(〔神通〕はもう一撃を加えるだろうか?)

 

 ちらと、実現性の低い可能性が、雪村の頭をよぎった。一水戦のうち、〔白露〕型以降の駆逐艦六隻には、魚雷の次発装填装置がある。これを使えば、短時間で発射管に再度魚雷を装填可能だ。残った敵戦艦一番艦にトドメを刺すべく、一水戦司令部が再突入を決断することは考えられたが――

 

「〔長門〕より、『追撃止め。逐次集まれ』」

 

 雪村の考えは、電信室からの報告で中断された。〔長門〕座上の第一艦隊司令部は、追いつけないと判断して、追撃を断念したのだろう。これが実質的に、戦闘終了の合図であることは理解できた。

 先頭の〔神通〕からは、すぐに速力を緩める指示が飛んできた。機関の回転数が落とされ、艦の轟音が鎮まっていくのに合わせ、艦橋の空気も弛緩する。

 雪村もまた、軍帽を一度取り、額に溜まった汗を拭った。じっとりとした髪を手櫛で整え、再度帽子の下に仕舞い込む。その手はといえば、戦闘中握りしめていたために、汗でべたべたであった。

 

「なんとか……なった、でしょうか」

 

 どこかぼぅっとした様子で、吹雪が呟いた。一つの戦闘を戦い切ったという実感に乏しいらしい。

 

()()()()()、なのだろうか)

 

 両の手を握ったり、開いたりして、感覚を確かめる。ありとあらゆる感情が、どこかで堰き止められているような、そんな感覚だ。気持ちが悪くなるほど、心の内からは何も出てこない。一つの感想も浮かんでこない。

 

「油断をするなよ。帰るまでが、戦闘だ」

 

 真面目腐ってはいるが、口角を吊り上げながら言った晴野の言葉に、艦橋が小さな笑いで満たされた。彼女の言う通りだ。再度気持ちを引き締めなおそうと、雪村は頬を張る。

 その様子を、隣の吹雪が微かに笑って見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 一二月二〇日。東京。

 

「艦娘艦隊大勝利!小笠原沖に敵艦隊を撃滅せり」

 

 新聞に大々的に踊る題字を、来客者は愉快そうに眺めていた。一通り文面を読んだ彼女は丁寧に新聞を折りたたみ、机の上へ置く。それから微笑を湛えて、島田の方を向いた。

 

「おめでとうございます、島田大将」

 

 連合艦隊の勝利を寿ぐ言葉にも、島田は素直に喜ぶ気分にはなれない。

 

 確かに連合艦隊は、小笠原へ来寇し、東京を目指した敵艦隊を撃退することに成功した。だが結果を見れば、ただ本土への直接攻撃を防げたに過ぎない。

 

「……トラックを攻撃された以上、そう手放しで喜ぶことはできませんよ」

 

 率直な感想を漏らしても、御子は首を傾げるばかりであった。

 

 第一艦隊が小笠原沖で敵艦隊を撃滅したのとほぼ同時に、トラック環礁も攻撃を受けたと報告があった。トラック環礁は、日本が太平洋上に獲得した委任統治領であり、海軍の大規模な泊地が整備されていた。現地に移住した日本人も多い。

 さらについ先ほど、今度は米国が統治するフィリピンに敵襲があったと報告があった。

 小笠原への一撃は、ほんの一部でしかない。深海棲艦は断続的に、太平洋の要所を攻撃して回っている。今の連合艦隊に、これを防ぐ手立てはない。

 

「最初は小さな一歩なのです。何事も最初から完璧は求められません」

 

 はたと、島田は御子を見る。今のは、励ましてくれたのだろうか。

 金色の瞳は何も語らない。

 

「あなた方は戦うことを選んだ。そして彼女たちは、そんなあなた方を選んだ。それで十分なのですよ」

 

 いつもの調子で意味深なことを言い、御子は煎茶で唇を湿らせる。島田も目の前の湯飲みに手を伸ばしかけた。が、さして乾いていない喉に思い至り、溜め息を飲み込んで手を引き戻す。

 

「そうです、島田大将。実は一つ、お願いがあるのですが」

 

 湯飲みを置くと、御子は穏やかに切り出した。島田は頷いて、先を促す。

 

「〔尾張〕に、私の部屋を用意してはいただけませんか」

 

 島田の中で「オワリ」の三文字が連合艦隊旗艦のことだと理解するのに、数秒を擁した。と同時に、別の衝撃が襲い来る。

 

「〔尾張〕にですか!?」

 

 何か問題でもありますか、と純粋な顔で首を傾げる御子。

 もちろん、部屋を用意することは可能だ。海軍の司令部系統に属さない御子であるから、島田から五十嵐辺りに一言断るだけでいい。だが、ことはそんなに簡単な話ではないのだ。

 御子は、日本にとって最も重要な人物だ。そんな彼女が、連合艦隊という実戦部隊の旗艦に乗り込むとは、いかがなものか。彼女の身を保護する宮内省も、当然内閣や海軍省も承認はするまい。

 

「……理由をお聞かせ願えますか」

「理由というほどでは。より近くで、彼女たちの戦いを、見届けたいだけです」

 

 御子は薄く微笑んで、もう一口湯飲みに口づけた。中身はすでに、ほとんど空だったようだ。副官が勧めたおかわりを、御子は首を振って断っていた。

 

「もちろん、無理にとは言いません。少々検討していただけると、ありがたいです」

 

 それを言い置いて、御子は立ち上がる。今回の要件はそれで終わりだったらしい。相変わらず、気ままに現れて、気ままに立ち去る、神の化身だ。

 

「お話はまた、宮内省の方から正式にさせていただきます」

「……わかりました。できる限りの対応を致します、としか言いようはありませんが」

「ええ、それで結構です」

 

 ころころと笑った御子は、一礼して部屋を出て行った。



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肆章、深海棲艦
深海棲艦(1)


 

 

 

 一二月三一日。真珠湾。

 

「お目覚めですかな、陛下」

 

 玉座に向かう廊下にて、男はそんな風に呼びかけてきた。

 聞きなれない呼び方に対して律儀に首を傾げ、彼女は問いかける。

 

「ええ、おはようマサキ。――なに、その呼び方は?」

「いえ、貴女のことをどう呼ぼうかと悩んでいたのですが。どうも人間界では、貴女のような方を、陛下と呼ぶらしいので」

 

 男――マサキは半分笑いながら、真面目腐って答える。正直、呼び方など些事であるが、それを咎める必要もない。彼女は軽く笑って頷く。

 

 それほど長くない廊下を抜ければ、広い空間に出た。一面の白。壁や床、柱の境目が最低限わかる、純白の空間。その中央に位置する階段の頂点が、彼女の玉座だ。

 

「それで、用件は何でしょう。あなたがあの部屋から出てくるなんて珍しい」

「そんなことはありませんよ。私にだって興味も関心もある。宮殿ができたら寿ぎに来ますし、たまには貴女の顔を見たいとも思う。海の風に当たるのも悪くはない」

 

 清々しいほどに言ってのけるマサキには、もはや苦笑しても仕方のないことだ。義務への責任と、興味への執着。それを上手く切り替えられる彼の方が、余程神らしい。

 マサキを話し相手に選んだのは正解だった。

 

「丁度いい。ついでに、お使いを頼まれてはくれませんか」

「ええ、もちろん。なんなりと」

 

 恭しく一礼などして見せるマサキに、彼女は一枚の紙片を渡す。中身は手紙だ。宛先も決まっている。

 

「これを、届けてほしいのです」

「なんですか、これは?」

 

 紙片の内容をためつすがめつしてから、マサキが尋ねる。

 

「宣戦布告、というものだそうよ。近頃は、戦争をするのにも、公式な外交文書が必要みたい」

「ははあ、何やらややこしいことになっているのですね。わざわざこのようなことが必要ですか?」

「ええ、必要です。それが()()()である以上、無視することはなりません」

 

 そういうものですか、とマサキはさして興味もなさそうに相槌を打つ。

 

「宣戦布告については理解いたしました。しかし――日本はともかく、アメリカとイギリスが入っているのは、どういう理由なのです?わざわざこの両国と、ことを構える必要はないのでは?」

 

 もっともな疑問をマサキは呈する。

 先の襲撃で、彼女の艦隊に対抗可能な存在が、日本にしか存在しないことは確認された。当面、彼女たちの障害となるのは、十握剣を携えた戦乙女たち――日本において艦娘と呼称された者たちだけだ。

 わざわざ、それ以外の国と喧嘩をする必要はないのでは、というのがマサキの主張だ。

 彼女は首を振って否定する。

 

「これも必要なことです。――私たちが間借りしているこの地がアメリカ領であった以上、かの国に宣戦布告するのは最低限の礼儀ですよ。イギリスも同じくです。私たちは日本の息の根を止めるために、シンガポールの周辺海域を封鎖したのですから」

「礼儀、ですか。何だか妙な心地ですね。我々は戦争を仕掛けようというのに」

 

 その一言を最後に、マサキは一礼して立ち去っていく。紙片を胸ポケットに仕舞いこんだ彼は、最後に広間の入り口からこちらを振り向いた。

 

「そういえば、我々のことは、なんと名乗ればいいのでしょう」

 

 ああそういえば、失念していた。普段名乗る必要などない身だ。電文という形とはいえ、手紙を出すのは彼女も数万年ぶりだ。宛名には思い至っても、自らの署名のことはすっかり忘れていた。

 

「なるほど――そうですね、では『深海棲艦』と名乗りなさい。それで、()()には伝わるはずです」

「では、そのように」

 

 そう言って、マサキは今度こそ広間から立ち去った。純白の神殿に残された彼女は、特に感慨もなく、玉座への階段を上っていく。

 

 古来より、神とは頂きにいるものだ。そして、人の王は、卑しくも神に近づこうと、高い玉座を築く。玉座とは神への冒涜に他ならない。

 神たる彼女が、玉座という人の王に収まる矛盾。だがそれも致し方ないことと、彼女は受け入れている。

 初めから決まっている。人に神の理を求めるのはナンセンスだ。神でありながら、人の上に君臨することを求められた者は、それを弁えなければならない。

 ゆえに彼女は、玉座に収まる。人と対峙するものとして。あるいは――災厄の王として。

 

「さて、私への拝謁を許されるかしら」

 

 彼女――深海棲艦の女王は、冷たく、そして穏やかに笑った。

 彼女の身が玉座に収まった時、ついに全てが動き出した。




サンプルとしての公開はここまでとなります。

こちらの作品は12月29日(日)N-29b「MASA」にて頒布いたします。ぜひ、お越しください。


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