片桐朝茶子は容姿端麗純粋無垢な人殺しである (茶蕎麦)
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棄てる

 片桐朝茶子(あささこ)は容姿端麗純粋無垢な人殺しである。

 上等で見事な配列をした顔に、取っ掛かりが見当たらないくらいに瑕疵のない胸の内。一体全部が白調で美しく、しかし朝茶子のその手は血に濡れていた。

 

 

 瀞河(とろかわ)女子学園――女子少年院の一つ――を退院して、しばらく。最近の否定の続きで疲れた朝茶子は、母親より許可された久方ぶりの出歩きに、色を付けていた。

 コンビニまでの僅かな距離に朝茶子が足したのは、云万円と、数百キロメートル。いい子だった頃に集めていたお年玉を片手に、よく分からない地名を好んで選んだ彼女は、想像以上に辿り着く。

 遠ざかる、車のエンジン音。無愛想にも、いやここも観光地の一つであるためか、夜分にこんなところに少女一人で来ることを問わなかったタクシーの運転手に内心感謝をしながら、少女は眼前の黒黒とした蒼海に向けて、伸びをした。

 

「うーん、これはすっごい!」

 

 はらりと落ちた前髪の長さを気にもとめずに、朝茶子は岩に寄せる怒涛の音に感激覚えて天まで指先広げる。その際に切っ先に僅かの間、一等星が乗っかってくれたような覚えをして、彼女は微笑んだ。

 近くを通りかかった車のヘッドライトが瞬く。それだけで、暗黒は克明に粗を見せた。しかし都会っ子の朝茶子はその生々しさこそを楽しんで、綺麗なその身を躍らせる。

 一つ跳ねて、腕を開いて一回転。彼女が纏ったワンピースは白い軌跡を残す。

 天だけが見ていたその綺麗。しかし、足首までもの線の細さが仇となり、砂に足を取られた少女は、無様にもすっ転んだ。お尻から、どすん。シューズの片方は、勢いに乗っかり吹っ飛んでいった。

 

「あはは。痛ーい」

 

 しかし、隣に落ちている鋭く尖った石を偶々に避けた朝茶子は、臀部の鈍痛なんて、気にもしない。

 電車やタクシーに何時間もお尻を乗っけ続けて、窮屈に感じていた思いが、むしろ発散されてすらいた。

 

「よっ、よっと」

 

 波打ち際まで届かしてしまった靴を取りに行くためのけんけんですら、楽しみ。だって、辺りには何の作為も天才も存在しない。見渡す限りの自然の中で、朝茶子は緊張を大いに解く。

 そもそも少女が黙って家に籠もっていることこそ、無理難題。白けた監視の目があっては、尚更に。

 愛が足りないから、愛したい自然を抱く。そんなこと、朝茶子にとって、当たり前の錯誤だった。故に、夜分に独りでここにある。

 

「あはは。あたしったら、馬鹿だなあ」

 

 安定のために白いスニーカーを踏んづけて戦ぎを輝かす水際と合流し、月光に照らされながら笑顔の花が一つ、咲いた。

 しかし、自虐をフロリゲンとした、同意に頭振るものすらないただ一輪なんて、疾く枯れるのが当たり前。次第に頬は引き締まり、人間の基調にごく近づいた朝茶子は、溢す。

 

「そう。馬鹿で。どうしよう、もないから」

 

 朝茶子には、これからどうする気持ちも存在しなかった。

 水の馴れ合い波の音騒々しい黒海。そこに、呑まれる気力はない。もっとも、歩を光に向けて進めていくという選択肢も彼女にはあり得なかったのだった。

 

「疲れた、なあ……」

 

 不幸続きでくたびれて、自分の先に未練なんてない。けれども命にすがるのが生き物だと教えて貰っていた。大切で忘れることは出来ない、だが、それだけの認識が彼女を生きながらえさせている。

 命が何より大切で無二ではないのは、殺人経験から無駄に知っていた。だから、自分だって特別ではないと朝茶子は思う。

 痛みで傷まない、陶器によく似た少女は、そんな風に鏡を逆しまに見て取っているのだった。

 

 ため息呑み込むために、ついと、小ぶりの頭を持ち上げ、美しき天球を朝茶子は望む。無知故に星に連なりや意味を考えられない彼女は、ただそれらが僅かに光を投げかけてくれているということしか分からない。

 だからそれは遠い宇宙からの遠慮がちな、少女のためのライトアップ。彼方の巨大なトゥインクル、リトルスター。それらは距離によって矮小化させられていた。彼らの威光は遠く、儚すぎる。

 だがしかし、確かに過去は美しく輝いていたのだった。天を見て、己を省みる。ついつい、少女が眦を輝かせた、その時。

 

「わ、女の人! おねーちゃん、だあれ?」

 

 関われないから尊い高みを見上げてばかりいた朝茶子に、手の届くくらいの愛らしい低みから声が掛けられた。

 小ぶりの体躯の天辺にお団子が一つ。少女の朝茶子よりもずっと幼い、場違いな彼女はにこにこと無邪気に相対してくれている。

 笑窪から目を背けた先、風の流れに、上げ損ねた一房の髪束が少女のうなじに流れた。その細い首筋、とても手折り易そうだな、と朝茶子はぼうと思う。

 

「誰? あたしが誰か、かあ……」

 

 遅れて、朝茶子は質問に対する答えを考える。大人達の手により一番に自認させられた表現を用いるならば、自分は人殺し。けれども、それは過去の犯行を口外するなと言う母の厳命によって使えない。

 しかし、それを抜きにすると自分はどうにも何でも無い。学生でもなければ、退院はとうに済んでいる。何一つ、肩書なんて持っていない。そう思い込んだ朝茶子は、自己紹介に窮してしまった。

 

「わかんない」

 

 だから、頭を振る。その動きにふわりと広がった髪の艷やかな広がりを見た少女は感動も相まって、驚きを露わに言った。

 

「わわ、おねーちゃん、きおくそーしつだ!」

 

 自分が誰か分からない。それは、お母さんと観ていたドラマに出てくるあの主人公とそっくりなこと。そして、朝茶子は主人公みたいに特別な美人さんでもあった。

 故に、彼女は同じなのだと誤認する。広がる少女の鳶色の瞳は朝茶子を大いに映し、しかし正しく見えていない。眼前にあるのは恋愛ドラマの主人公ではなく、人殺しを躊躇わなかった悪鬼。そんな勘違いを、彼女は笑う。

 

「あはは……そうだね。そういうことにしよっか」

 

 しかし朝茶子は子供の言葉を愚かと切り捨てず、むしろ都合いいものと取る。それに従い、彼女はさっぱり忘れることにした。絆とか、由縁とか、願いとか、その他諸々を。

 

――――そう、忘れたことにしてしまいましょう。あんなこと。

 

 大事なものを捨て去り、益々純粋無垢でしか無くなった少女は、大切を雑多がちゃがちゃに身に取り付けた幼子に、導かれる。

 

「おとーさんおかーさんに教えなきゃ! わたしに付いてきて!」

「うん」

 

 子供の駆け足に朝茶子は大股で並ぶ。そして、向けられた手を取り、笑みを見せる。

 それを、幼子――塩田美雨(みう)――は大いに喜ぶのだった。やっと、笑ってくれたと。

 

「あはー。おねーちゃん、手冷たい!」

「ごめんね?」

「うーん、気持ちいいよっ!」

「それは良かったー」

 

 赤いほっぺをふやかして、足取り軽く。美雨は楽しくおねーちゃんを引っ張っていくのだった。喜んで、朝茶子は少女のよちよち歩きに迎合する。

 大小笑み二つ、朝茶子のその姿はまるで妹の相手をするお姉さん。しかしその実彼女は子供の後をつける人殺し。それはそれは危険な、ナイトストーカーだった。

 

「あ、そういえばこっちの手は……」

「どーしたの?」

「あはは。なんでもない」

 

 朝茶子は、繋いだ右手が殊更血に濡れていた方だとようやく気づいて苦笑い。しかし、今更手放すことなんて出来やしなかった。

 幻想の中で、べとりとした赤が、美雨を穢していく。それでも、朝茶子は彼女の前で、微笑み続けた。

 ヘッドライトの光遥かに遠い静かな横断歩道を、揃って繋がっていない方の手を高く挙げ渡り、二人は町中の光に消えていく。

 やがて、無垢は限りなく、不明になった。

 

 



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まがい物

 

 渓合(だんご)町は大部分が海に面している、蠍の尾の先のような独特に突き出た形の八玉(やたま)岬を名物とした、海岸線の美しさばかりを誇っていた町である。

 外出して醍醐味を探すより手中の綺麗を求めがちな現在、地元で創られた蜜柑を売りに人を集めようと努力はしているが、芳しくはなく。

 侘しさこそお得意で、映えるものはあまりない。そんな小さな町に、綺麗な花が一つ、話題になりつつあった。

 それは、中華飯店龍鳴(りゅうめい)軒で駆け回っている、新たなバイト店員。いいや、その目立ち振りからすると、彼女は最早看板娘とすら言えるのかもしれない。

 お客様方が名札から読み取れた可憐な少女の名前は、松崎朝子(あさこ)。名札を眺め、それが最近まで放映していたとあるドラマのヒロインと全く同じということに首を傾げる人も居た。

 けれども、多くが彼女の眩しい明度に、疑問の言葉を忘れてしまう。そしてああ、下手をしたらこれは物語の中で溌剌としていた少女よりも尚、彼女はその名に相応しい子ではないだろうか、とまで感じてしまうのだった。

 喧噪に右左。踏み出す足は、その整いに依って綺麗なステップを生み出す。伝う汗一つですら、彼女を煌めかせる一助にしかならなかった。旨味香る店内にて、笑顔で踊る少女は何より薫り高いものに見えた。

 そう、記憶喪失と診断され仮名として朝子と本名に似通った名前を付けられた朝茶子は、その見目の端麗さを新しい庇護者の下で働きながら無闇に振りまいていたのである。

 

「おまちどうさま。はい、チャーハンです!」

「ありがとう。はは。いや、元気でいいね」

「そればかりが取り柄ですー」

 

 謙遜でもなく本心を口にしてから、ただただ元気に朝茶子は、くるりと、スカートも円かに歩みをなるだけ早め続けながら、配膳を続ける。

 彼女は頼まれれば笑顔で応じ、そうして料理が出来ればなるべく自分で届けたがった。懸命を好む少女は、愛される。その頑張りが自罰の一環であるとは誰も知らない。

 新たに切り開かれた後調理されて多分に味を付けられた、豚の屍が乗っかったものを膳から降ろしながら、朝茶子は笑顔で言った。

 

「チャーシュー麺と、杏仁豆腐ですね。どうぞ!」

「ありがと。お嬢さん、あなたここらでは見ないような美人さんね」

「えへへ。ありがとうございます!」

「朝子ちゃん、っていうのね。どこから来たの?」

「えっと、どこからでしょう?」

 

 輝く若さを羨望の目で見つめる老いの前にて首を捻る朝茶子。それは振りではなく、彼女の頭の中に一瞬故郷が出てこなかったのである。

 今が楽しい、だから辛い過去は忘れる。それを自然にしてしまっている少女は、疾く記憶を引き出すことは出来なかったのだ。勿論、本物の記憶喪失ではないから、少し頑張れば栄えた郷里の思い出を引き出すことは可能だった。

 遅れて、朝茶子が都会の喧噪を思い出し始めたところ、お客さんはこれは訳ありではと勘違いして、暢気な笑顔に向けて率直に聞くのである。

 

「何、秘密なの?」

「そういうことにしておいて下さいー」

 

 頬をふやかしながらの、曖昧な肯定。秘密、そうされてしまえば拒絶されているわけでなくとも、どうにも深入りしがたいもの。

 けれども、まるで硝子のような少女の意外な柔らかさに、世話焼きおばさんは静かにその矛を収める。そうして、何故か満足覚えて笑顔で言うのだった。

 

「……頑張ってね」

「はい!」

 

 本当に、そんな優しい言葉が嬉しくて、そうして綻んだ蕾は下手な満開よりも美しく。朝茶子は、経年で薄汚れた店内にて、頬の薄紅浮かせた笑顔の花を大いに魅せた。セピア色に、鮮やかな頬紅が映える。

 

「朝子ちゃーん。申し訳ないが、注文頼んだよ」

「はいはーい!」

 

 そして、朝茶子が背中合わせの位置から首を動かし声を掛けた馴染みのおじさんの方へと向くまで、彼女の周囲はまるで鮮やかな静止画のようだった。

 拍動を忘れさせるほどに止まった時は、感動によるもの。綺麗が中心に来てしまえば、どんな平凡も特別と化してしまう。

 世界を綺麗にするのはやはり花。誰かがそう思ったところで、ばたばたと、朝茶子は去って行ってしまった。

 後は、淡さのない油でてらてらとした料理を前にした普通一般が残るばかり。強めの味を食んでも、彼らが味気なさを覚えてしまうのも仕方なかっただろう。

 そう、極上の後では美味でも足りない、そんな事実を彼らは知ったのだ。

 

「こりゃあ、凄いわ」

 

 客の誰かがぽかんと開けた口から零したその音色は、誰にも届かず騒々しさの中にて消えた。

 

 

 高く響く声に弾ける足。飛び跳ねる少年少女らの遊びはまるで、元気という楽器を擦らして鳴らした幼稚の音。今は区切られた画面の中の別世界に惹かれる幼気も沢山あるが、それでも天気の下にて陽気を散らすような子供も未だ大勢残っていた。

 その中にて、一段と駆ける足が達者な小さな女の子、美雨は一つ年上の男の子をからかい、幼子達と砂場を踏み荒らして、鉄棒から転げ落ちて笑ってから、一等好きなお姉さんのところへ舞い戻る。少女は面をくちゃくちゃにして、笑顔で言う。

 

「朝子おねーちゃん! 一緒にあそぼー!」

 

 それに、優しさを表に出しながら朝茶子は当たり前のように応える。花が風に傾いだかのように、無闇に優美な所作を持ってして、頷いた。

 

「そうだね。何をする?」

「かけっこー!」

 

 大好きな人と楽しいを、共有したい。ならば自分が一番好きなことを一緒にした方がいいと考えるのが幼子の自然。付いてくれるのが当たり前とでも言うように、美雨は疾く朝茶子に背を向けてから走り出した。

 少女の頭の二つの大ぶり団子が大きく左右に揺れる。

 

「わー、まってー」

「きゃ、おねーちゃんはやーい!」

 

 しかし、そこに直ぐ様朝茶子は追いついていく。

 油断がなければ、その細身の腱も鋭く働くもの。ちょっと駆けっこが得意な程度の子供では、陸上部崩れの少女から逃げ切ることなど出来ない。

 そうしてぎゅうっと幼子は不審者に捕まり、そのままくるくる振り回され、やがて一対の向日葵がうるさく咲いた。嬉しい悲鳴が黄色くあれば、笑顔はそのまま太陽の花の如し。

 二人が作った喜色の景色に、周囲の子供達は大いに惹かれて突貫した。

 

「きゃっきゃ」

「美雨ちゃんくるくる~、って皆どうしたの……わぁ!」

「朝子おねーちゃん、僕もー」

「私も!」

「わわ、重量おーばー、すっごい重いよお!」

「おねーちゃん、頑張ってー」

 

 陽気に惹かれた十歳にも満たない小ぶりな子供達が、朝茶子に果実の如くにぶら下がる。その数一二と増して行き、容易く女の子には耐えることの出来ない重さになった。

 最後に一番小さなポニーテールが覆い被さり、そうして朝茶子は崩れ落ちる。騒々しく、哀れ公園一番人気の玩具はぺちゃんこに。しかしその細身に怪我一つなく、彼女は高く響く子供達の声に笑い声を重ねるのだった。

 

「あははー。やっぱり駄目だったー」

「おねーちゃん、大丈夫?」

「いたたー」

「朝子ねーちゃん、ぱわーないな!」

「むむ、りょう君、言ったねー。うりうり」

「うおう、脇腹つつかないでよ、朝子ねーちゃん」

「あは、うん。皆大丈夫みたいだねー」

 

 揶揄する少年に突いて離れる意地悪で幼い接触をしてから、朝茶子は三々五々に起き上がってくる子供達の元気を確認してまたにこにこ。お空の青にその身伸ばして、燦々に紛れた彼女は照っていた。

 つい先までほの暗い道を進んでいた少女がきらきらと。重み一つ持ち合わせていない朝茶子の心はまるで羽のよう。笑って、跳ねて、容易に留まらない。

 だからこそ、子供達と合ってしまい、故にその世話を厭うこともないのだった。

 

「よーし、じゃあ次は、皆、何をしたい?」

「ダンス!」

「えー、みーちゃん、なにそれー」

「おお、いいね! あたしの盆踊りの腕前、見せてあげるよー、そーれ」

「朝子ねーちゃん、何か古くせー」

「なにおぅ!」

 

 都合三度目の邂逅ですっかり骨抜きにされてしまった子供たちは、優しくしてくれている綺麗なおねーちゃんに、彼女が自分と同程度であると知らず、元気擦れ合うために寄りかかる。

 身体をふりふりしているばかりの幼子の隣でひらひらと、舞う朝茶子。彼女が振る舞えば、大きめジーパンの裾すらどうにも、美麗な軌跡となってしまう。

 けれどもその貴重を知らずに、子供たちはただただ喜ぶのだ。相手の自分に対する本気を知って、愛してもらえているのだと誤認して。

 その笑顔の花咲く光景に、見守っていた親達にも安堵を超えた感嘆の息が漏れた。緑樹の下の澄んだ空気を吸って、彼女たちは次々に評を口にする。

 

「朝子ちゃん、いい子ね」

「そうねえ。暇だから子供たちの面倒見させて下さい、って言い出した時はこの子、頭大丈夫かしらと思ったけれど……まあ、飽きないこと」

 

 木陰のベンチに座して、未だ老いに若さを損ねきってはいない母たちは、朝茶子の真剣を何となしに理解して、微笑む。

 子に遠慮なく、大切に大切に遊ぶ、朝茶子。あれは、子供に毒なくらいに、甘くある。どうしようが、我が子を傷つけるような存在ではない。

 そう、マーダーに対してレッテルを張ってから、ふと、りょう君のお母さんは呟くのだった。

 

「何だか、勿体ない気もするわね」

「貴女も、そう思う?」

 

 粉々の陽光を、集めて輝く一人の少女。そのもとに集まるのが、物知らずの幼子達しか未だないというのは、愛され上手な既婚者達には、どうにも認めがたいもの。

 その綺麗さが自分に欠片でもあれば、どんなに周囲を振り回せたかを夢想した。やがてそうすると何となく、もっと彼女に自分の身の便利さを教えてあげたくもなる。しかし木陰に安堵している二人は揃って考えるのだった。

 

「眩しいわ」

「そうね」

 

 朝子という少女は、そんな軽度の悪辣さを身に付けさせることすら躊躇ってしまうくらいに、無垢であり過ぎるな、と。

 

「あははー」

 

 砂で肌の大体が汚れて、経験した子らの重みでぐちゃぐちゃ皺だらけの服を纏いながら、それでも何一つ、汚れていないと信じて少女は笑む。笑窪の隣を汗が溢れて飛散し、瞬きに消えた。

 まるで、穢れ一つ分からない、そんな姿。だがしかし、朝茶子は、知っている。けれども、彼女はそれを受け止めなかった。

 だから、ひたすらに汚れに染まらない陶磁器の色のまま、似た色をした白無垢と戯れたがる、今がある。そんな事実を、この場の誰一人たりとて判ぜなかったのは、果たして幸運だったのだろうか。

 

「皆、大好き!」

 

 再び飛びついて来たその場の未熟さを出来るだけ抱えながら、大好きだったものの中身の温さを被って紅く汚れたことのある彼女は、美しいままに、そう囀るのだった。

 

 



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セラピー

 

 

 渓合町で中華料理屋を営んでいる塩田夫妻にとって、唐突に現れた記憶喪失の少女朝子こと朝茶子は、とても嬉しい面倒ごとだった。

 一人きりの愛娘が夜な夜な拾ってきた、夜闇にすら溶けきらない眩さの女の子。がらんとした閉店後の蛍光灯のほの明るさの中ですら綺羅綺羅と白く。舞台を選ぶことなくやたらと輝いて、朝茶子は夫妻に正体を見通させなかった。

 まさかこんな美少女が、いいやむしろ人間の理想像の一つといっていいかもしれない整いが、間違ったことをするものとは思えずに、塩田の人達は朝茶子の話したことをまるきり信じ込む。

 そうして、これからどうしようかな、と独り言つ少女に、半ば物語的な展開にわくわくとしながら、塩田家の面々は彼女の保護を選んだのだった。

 医者に何を答えてどうしてこうなったのか全生活史健忘という大層な病名を付けられて、如何なる理由か警察がその身元をろくに辿ることすら出来なかった朝茶子を、家族同然として。

 

「それにしても。役場通いに警察さんに何だかんだあったけれど、朝子ちゃんを助けてみて、ほーんと良かったねぇ」

「そうだなぁ。給金を出すから家の手伝いをしてくれないか、と言ってみたのは思いつきだったが、思ったよりずっと働いてくれている」

「何より、美雨のお世話を買って出てくれるのも嬉しいわよね。あの子も、おねーちゃん、おねーちゃん、って懐いちゃって」

「はは。だな」

 

 テーブルのベタつきを気にして布巾を動かしながら、感慨深げに言う縁(ゆかり)に、鶏肉を弄る仕込みの手を止めて最愛の何気ない所作を眺めつつ冬一(とういち)は微笑みながら返す。

 二人の良好な夫婦仲が寄り添い奏でる言葉の内容は随分と彷徨ってから、身内の一人について、に移っていた。

 塩田の家にて、朝茶子は目新しく華やかな題目だ。一般的な核家族の隙間にするりと入り込んだ、絢爛な不可思議。

 よく分からないけれど愛らしくて面白い、がとても楽しそうに家族の巡りを良くしてくれているなんて、なんて素敵なことだろうと縁と冬一は思うのだ。

 話題にしている少女の白磁の内を知らず、二人して朝茶子の飾らない笑みに素朴を覚えながら。

 

「ただ少しあの子、こんな在り来たりの料理屋に置いておくには少し、見栄えが良さ過ぎるんだよなあ……」

「あら。常連さんの目当てが朝子ちゃんに変わっちゃってることには流石に、のんきなあなたも思うところがあるのかしら?」

「まあ、給仕さんがあれだけ可愛けりゃ、そりゃあオレの料理なんか霞むだろうが……そんなこっちゃなくってさあ」

「だったら、なあに?」

「なんつーかさ。背景が霞むんだよ。最近ちょくちょくそろそろ店、建て替えた方が良いかな、って思っちゃうんだよなあ」

「ああ……」

 

 何となく、同意に頷き損ねた縁から目を逸らして、冬一はどこか黄色がかった店内を見渡す。

 経年劣化は、大概の瞳においては見すぼらしく映る。最近こと清潔を心がけて清掃していようとも、こびりついた汚れに褪せは、どうしたって隠せなかった。

 父親から受け継いで大切にしてきた中華飯店。しかし端々の年季はそろそろボロと呼称されてしまいそうな程に汚くて、それはそれは朝茶子の持つシノニムな美との格差を生んでいた。

 しばし悩み、夫の前で口の紅を意識しながら縁は言う。

 

「でも家にはそんなお金もないし……それに、それは、ずっとこんな趣のあるお店で働いてみたかったんです、って言ってた朝子ちゃんをがっかりさせてしまうことになるんじゃないかしら」

「……あの子、やっぱり変わってるよなあ」

「それは間違いなくね」

 

 半笑いで、縁と冬一は顔を合わせる。対面に、互いに老いを感じながらも、最愛のそれを酷く大事に思いながら。

 そこはかとなく、仕事場に紛れて働く朝茶子を二人は見つめていた。よく働く少女は、明らかに汚れ知らず。いや、それはむしろ汚れに忌みを覚えていないのではという程の、無垢。

 子供には優しく、老人には尊敬を持って、そもそもお客様を大切に。そんな文句を言われずとも徹底的に行えてしまえている辺り、朝茶子は普通ではなかった。

 人の間で生きてさえいたら擦れて全身に付着してしまい元来の体を失くしてしまうだろう筈であるのに、彼女は赤子同然の精神のまま。

 あれは性についてまともに知っているかさえ怪しいな、と思う冬一に、その世話の一助をしている縁はふと呟いた。

 

「そういえば、朝子ちゃん、皿を初めて割った時に泣いちゃったのよね。それで、何を言ったと思う?」

「ん? 割ってしまってごめんなさい、か?」

「違うの。この子、あたしみたいにしちゃった、って言ったのよ」

 

 陶器の意味喪失。それに酷く嘆く朝茶子を見つめた覚えのある、縁は面を複雑に変える。

 涙は、自然に零れたもの。朝茶子が無闇な明るさの中に、突けば底から自ずと水が溢れてしまうほどの脆さを秘めていたことは驚きであり、またある種納得のいくものであった。

 きっと、頑なすぎて、穢に遠すぎるのが朝茶子の本性。それを理解して、比較的に歳近い縁は我が子同然の女の子を想うのだ。

 もっと、色付いてしまっていいのに、と。母情に満ちた妻の隣に寄り添い、完全に唐揚げの用意を忘れた冬一は自らの考えを喋りだす。

 

「……あの子、本当に記憶喪失なのかな」

「怪しいところね。まあ、何時か本当のことを話してくれるでしょう。……つい先日のことだけど、会話の中でぽろっと修学旅行に日光に行ったっていうことを語りだして、後でしまった、ってしていたことだし」

「脇が甘いなあ、朝子ちゃん!」

 

 思わず出た冬一の言葉は龍鳴軒の内一杯に響いた。しかし夫婦の表情に険はなく、むしろ柔らかなものであったからには、それが驚くべきことではなかったということであるだろう。

 そう、彼らは彼女の嘘すらも、呑み込んでいたのだ。家族の間の嘘なんて当たり前と、意外なほどに優しく。

 その判断には、朝茶子の普段の頑張りぶりとその人柄も影響しているが、何よりも。

 

「まあ、何か影背負っていた方がらしいというか」

「ドラマチックだよなあ……」

 

 呑気な二人が望む、ロマンがあったからだった。

 

 

 そうやって塩田夫婦は当事者意識を欠かしていて、おかげで。

 

「おさんぽおさんぽー」

「ふふ。美雨ちゃんは、夜のお散歩大好きだね!」

「うん! だってお星さま綺麗だし、それに……」

「それに?」

「朝子おねーちゃんに会えたのも、夜だったから、大好き!」

 

 いつぞやの近くの海岸線にて、二人。きっと死後は地獄に堕ちるのだろう彼女は夜な夜な幼子の手を引けていた。

 満月の光すら陶磁に隠された彼女の心を明るくするには足りない。けれどもその面の美しさはまざまざと浮かび上がり、そして影あればその深き彫りははっきりと映し出されて。

 俯きの所作一つですら、光で色を変える花の可憐。

 

「……そっか」

 

 ぎゅっと、握るその手の力優しげながらもなるだけ強く。美雨の温もりが、何よりも朝茶子を慰めているものとは、誰も知らない。

 

 

 

「あの子は…………ん。これ」

 

 そして、孤独なままに小児セラピーを受けながら揺蕩う乙女を、隣町のゲームセンター帰りに大崎まひるは少し離れた位置から見かけた。

 いつぞや彼女の嬉々を料理屋の前で見かけた覚えに、そして漣を隣にした今の寂しげな表情に、まひるは思わず感じ入る。

 そうして満月の下の白い花が振りまく優しき照りをただ綺麗だな、という感想に窮屈にも押し込めていると、足元に何やら影が。拾い精査し、その黒が彼女のものと確信する。

 落とし物が、真っ黒なハンカチーフであったことに、どうにも古典的な展開を覚えながらも、しかしまひるは都合に合わせて朝茶子に届ける気持ちを急がせなかった。

 

「楽しそう、だったもんな……」

 

 だって、すれ違っただけでも分かるくらいにあの二人はとても幸せそうだったのだ。稚気の隣でそれに合わせた心が満面に。それをざわめかせるのはきっと、勇気が居るだろう。

 そしてまひるにはいたずらにお邪魔をする気は更々ない。そもそも、夜分唐突に暗がりから声を掛ける男なんて、怯えさせることにしかならないだろうとも考える。

 そうして、彼は美人に近づきたがる男の性に蓋をして、そうしてあくびを一つ。結果、微かな逡巡よりも眠気が勝った。

 

「ふぁ。後で、返してあげるか」

 

 まひるは、まどろむ。僅か、不随意呼吸に刺激された涙腺から滲んだ汁が視界を濁らし、やがて。

 

 彼女は闇に溶けるように消えていった。

 

 



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 花は大概において、己が華であることを知っている。

 しかし、朝茶子にとって、そんな自己認識はどうでもいいから一番に忘れるようなことだった。だからか、端からは彼女が自分の美しさすら知らないように見えてしまう。

 別段、無垢は無知と同じではないというのに、周囲はそんな、錯誤をするのだった。

 

 日差しを受けて、朝茶子は目を細める。照る睫毛の重なり、それは綿毛の煌めきのよう。

 思わず、艶やかな唇を開いて何か呟くその様ですら、開花の広がり。急がない朝茶子は一体優しげで、角一つない平面下の花のよう。札を営業中と取り替える作業の一コマですら、美しき自然の相似、フラクタルな世界の精緻を表してしまう。

 それほどに、良く出来た見目の乙女。しかしそんな体躯に抱かれた内側は絹の稜線。取っ掛かり一つ無い内面には拘るもの一つもなかった。

 たとえば、昨日夜分に失くしたハンカチーフの残念だって、眼前の世界を愛する邪魔にはならない。大きく息を吸って、吐いて。艶やかにラインを変える少女は言った。

 

「頑張ろう」

 

 そうして始まった彼女の一日。だが口ほどにも朝茶子は頑張らないのだった。

 何せ、彼女は自分が頑なに有りすぎると全てが台無しになってしまうことを知っているから。凶器は、必要以上に尖ることはなかった。

 

「もう、開いてるかな?」

「あ、いらっしゃいませー」

 

 だから、お辞儀一つだって大切にしながらも、それに囚われ過ぎはしない。草臥れきった老いの前でも朗らかに、刹那でしかない愛を持ってして。

 朝茶子は今日も無闇の中で輝くのだった。

 

 

 

「わあい。落とし物、わざわざ持ってきてくれるなんて、ありがとう!」

「はは……どういたしまして」

 

 確かに口の端弧を描いているというのに歪み一つ感じられない微笑みが、咲く。それは、彼には初めて見受けられた種類のものだった。

 つまり、大崎まひるにとって、目の前の少女はとんでもない未知である。思わず胸元が、恐怖のような緊張できゅっと縮まるような思いがした。

 美人は遠く知っている。性格のいい子とはよく話す。しかし、眼前のこれはそれどころではない。

 

 敏感な、彼には察せた。子供の内面をした陶磁器になんて、一体どう触れて良いものか。ついまひるが対面に困ってしまうのも仕方のない。

 半笑いのまひるの前で、朝茶子は子供の踊りを披露する。飛び跳ね、くるん。一連の仕草が意図なく流麗であるのは、何のいたずらなのだろうか。

 まるで嘘の塊のような少女が、まひるの目の前で、微笑む。

 

「ふふー。このハンカチ、おじさんおばさん達に買ってもらったものだったから、失くして悪いなあって思ってたの」

「喜んでくれたなら良かったよ」

「でもでも、どうしてあたしのだって分かったの?」

「タグに茶子さんっていう名前と龍鳴軒ってあったから……キミのかなって」

「あ、ホントだー。おばさん、書いておいてくれたんだ!」

 

 わあわあ言いながら、朝茶子はまひるとの距離を知らずに縮める。

 ほの甘いその薫りよりも突き刺さるは、もはや暴力的な視覚情報。整いきった細胞の羅列に、陰は一つも見当たらない。

 整いきらない自分とはまるで別。そうまひるが思ってしまうくらいに朝茶子は孤独にも完結していた。

 故に、そんな満点の答案を訂された少年は言うのだ。

 

「大丈夫?」

「え? どうしてそう思うの?」

「いや……ごめん。何となく」

「ふふ、おかしいんだっ」

 

 上手く、ふつと湧き出た想いを言語化出来なかったまひるは、続いた謝罪までもを朝茶子に変なものと笑われる。

 けれども、おかしいのは彼よりも彼女の方だった。ひさしで半分になった陽光の全てを捉えているかのような燦々を笑顔にして、零している姿はあまりに自由。

 感情を表すのがまともな人体であれば、不如意な結果で終わるのが当然であるというのに。しかし、透明に嬉々を映した朝茶子の表はまことに眩しい。

 加算的とはいえこんな異常が世に排斥されないなんて、嘘。そう思ってしまうのは当然であるとはいえ、そんなこと、当の少女は無垢に考えもしない。

 だから、少女が客にまた来てくださいと言ったところを少年が捕まえたからこその、軒下での会話はこうも不通になったのだった。

 だがそれでも愉快ではある。言いたいことが判らない、しかしだからこそ朝茶子は話をそっと添わせてみるのだった。

 

「そんなにあたし、頼りない? やっちゃった後で説得力ないかもしれないんだけど、これでも普段は落とし物なんて、殆どしないんだよ?」

「ええと、そういうのじゃなくて……」

「じゃなくて?」

「そんなにしていて。痛くは、ないのかな、って」

 

 非具体的にも、まひるはそう言う。でも、それは朝茶子を認めた誰にだって、起きる疑問だった。

 赤子の肌を、大事に抱くのは人心を持ったものの当たり前。無防備を認められないのは、刺激により対象が受けるだろう痛みが経験によって想起されてしまうため。

 朝茶子から伺い知れてしまう、あんまりなまでの剥き出し振りから、まひるはその無垢に感じるだろう痛みを想像してしまったのだ。

 

「あは」

 

 しかし、不感症の少女は笑う。

 

「キミって、怖がり。世界ってとっても優しいよ?」

 

 やがてそのまま嘘のような本音を、朝茶子は続ける。その後ほら、と優しく手を掴んだ掌の感触に、まひるは黙す。意外にも、彼女はやけに冷たい手をしていた。

 彼の心に応じたのか、一時、風は止んで辺りの動きは死んだ。光は木々の間を走ることなくなり、周囲にどこか淡さが消える。

 少年の心は明確な拍動を始めた。

 

「……キミと呼ばれるのは何となく嫌だな。ボクは、大崎まひる」

「まひる君って言うんだ。あのね、あたしは片ぎ……じゃなかった。松崎朝子って言うんだ」

「そうみたいだね……名札に書いてある通りだ」

「あ、これ見せれば一発だったねー! うっかりしてたー」

 

 胸元にぶらりと下がった名札を持ち上げ、少女は全身を傾げさせる。

 こうすれば笑ってくれるという経験則から、素直に戯ける朝茶子を見て、まひるはこの日初めて心から笑んだ。

 少年は思う。なるほど、この子はとても面白い。そして本物なのだ、と。

 

「はは。朝子さんは、珍しい子なんだね」

「そう?」

「だって、ほら。未だ手繋いだままじゃないか……あまり、異性に無遠慮に触れる人って居ないよ? ボクは止めといたほうが良いと思うな」

「えー。男の人の手って、ごつごつしていて面白いから好きなんだけど……うーん」

 

 残念がる朝茶子を前に、まひるは繋がったその手をそっと離すことを選択する。

 名残惜しげな視線に心惑うのが、少年には面白くすらあった。ああ、絆されてしまったのだな、と。

 まひるは数多の塩粒の中から、砂糖を一欠片見つけた、そんなような心地を覚えていた。

 塩辛さの中から別種を発見した少年は、それが染まらないようにと願う。

 だから、深く触れ合うこともなく早々にそのまま背を向けてから、言うのだった。

 

「また、来るよ」

 

 再訪、それは何のためでもなく、自分のため。萌芽のような好きを大事にするために、ほとんど独り言のように、彼は小さく溢した。

 

「また来てねー」

 

 去るまひるの背中には、そんな声が掛けられる。弾けるように周囲に響いた朝茶子の音色を、まひるはよく覚えた。

 

 やがて彼は心中に転がす。また来よう。何かの前に彼女を守ってあげるために、と。

 ためらいなど、ない。けれどもそれを表すことすら相手を変えてしまうことなら、ずっと秘めておこう。

 それでも。出来るならば彼女と。

 

「はぁ」

 

 呼気に熱が入るのは久しぶりの体験。

 

 この日。大崎まひるはそこはかとなく、恋をした。

 

 

 

「まひる?」

「なんだよ、夕梨(ゆうり)」

「あ、あのさ。お前はさ。私のこと…………い、いや、何でもない」

「……そっか」

 

 そう、すぐ隣に燃え盛る愛を忘れて、人殺し、なんかに。

 

 

 果たして、雪がれた罪は、守られるべきものなのだろうか。

 

 

 

 血は穢れであると、彼は考える。故に、それを浴びて生まれた全ては何もかもが度し難い。そも、血潮を生かす衆生のあり方こそが罪ならば。

 考える。産穢の是非を論ずるつもりはなくとも、その内に確と結論付けて。彼にとっては生まれ落ち血を帯びたことこそが呪いだった。

 

 だからこそ。

 

「ごめん、なさい……」

 

 その死の際にて目にした穢れの海に呑まれた筈の彼女が、今まで見た何よりも何よりも美しかった、清廉でしかなかったことは。

 それこそ、彼にとって唯一の祝いだったのかもしれなかった。

 

 

 



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単ならない

 

 大井夕梨(ゆうり)は、自分の見目が劣っていると自覚している。デコレーションですら隠せないその損ない、それは一般的な不。大したものではないというのに、しかしいじめられた過去を持つ彼女は己の凹凸ばかりの肌を至極嘆いていた。

 正しく有りたくても、そうはなれない彼女は卑屈に笑んで、人の輪にて目立ちすぎないようにする。自分は影で、劣った存在。そうあることこそ明かりの中で痛みばかりの己に課したもの。

 不整如きで彼女が華である事実は損なわれないというのに。ただ、それで捻くれ過ぎなかったのは、夕梨にとっての幸せだったのだろうか。

 

 綺麗になれないのならば、せめて、よくありたい。そんな苦しい思いは少女を全うに育んだ。人を思える感ずるための襞だらけの内面は、不揃いであっても優しかった。

 夕梨の良さは、砂粒で磨かれた軽石の如き親切。宝石のように輝く擬石は、とてもありきたりでしかし大切なもの。それを知っている大半は、彼女を嫌いになれなかった。

 むしろ、そんな彼女を好む者も相当数にある。それは家族に友人。たとえば彼、大崎まひるとか。

 

「だからさ、まひる。そこは違うって」

「ん。どこが?」

「農具便利論は大蔵永常。やったばっかだろ? どうしたんだ?」

 

 町立図書館での真面目な会話はどうにも狭苦しく響くもの。どこか勉強に気が漫ろな様子のまひるの隣で夕梨は努めて小声で問った。

 どこか整いきらないまひるの隣で、口にしながら夕梨は思わざるを得ない。彼のテスト前の追い込みは普段はもっと必死でなかったかと。

 好きな人の隣であるからこそ集中しきれなかった日本史の教科書から目を離して、彼女はどこかおかしい彼をそっと見つめた。

 

 恥で斜めりながら、それでも上がる視線。その意味を鈍ではないまひるは理解している。

 けれども、今の青年は恋に愚かでもあった。だから、何時もなら言わないはずのことを、口から零す。

 その一滴は、強く夕梨の胸の水平線を穿った。

 

「いやさ。気になる人が出来て、さ」

「……気になる、人?」

 

 彼が気になる存在。問うまでもなく、それはきっと私ではないだろう。天板にぶら下がるライトに凹凸照らされ続けながらも、少女は目の前が真っ暗になったような心地がした。

 熱い胸に氷のような恐怖が差し込まれて、身体がきゅっと縮む。頬の紅は意味を変える。そんな彼女を見て察し、慌ててまひるは言い訳を始めた。

 

「なんというか、ちょっとその人危なっかしいんだ。だから今どうしているかな、大丈夫かなって」

「そう、なんだ……」

 

 大好きな彼の言葉を聞いて、しかし彼女の心は落ち着かない。

 慈愛が垣間見えてしまったから。そんな、親のような顔をして、見知らぬ誰かを語らないで。

 そんな心に刺さるような棘持つ文句はしかし優しい彼女の口から出てこない。むしろもっと丸く愛らしい言葉が転がり出るのだった。

 

「その人元気だと、いいな」

「……まあね」

 

 真っ当である夕梨は、苦しくも本心から言っている。

 他人なんて、皆元気な方が良いに決まっている。何せ自分が苦しいからといって、他まで悲しげであってはとても辛いから。

 手を組み合わせずとも、心より想うのは無意味にならない。砥石の滑らかさで、彼女は誰かの幸せを願い続ける。

 そんな大切を間近に眺めて、眩さに目を細めながら青年は言葉を繰るのだ。

 

「っと。そんなことはどうでも良いか」

「そんな、こと?」

 

 夕梨はまひるの言に当惑する。他人を思うことは大事。ましてやそれが想い人であるならば。

 そんな自然を己を曲げて認める少女に、微笑んで青年は言うのだった。

 

「いくら忘れられなくっても、目の前を忘れちゃ駄目だ。夕梨に貰った一緒の時間の方を、何より大事にしないとな」

 

 だからまた間違っていたら教えてくれないかな、とまひるは戯ける。

 そんな青年の気遣いを察し、頬の色付きはそのままに、胸元の恋情を高めながら夕梨はぽつりと呟くのだった。

 

「ありがとう、まひる……」

 

 同学年で一番に正答を知っている彼女は己の可愛さばかりを知らず、ただ見難い己の紅顔を隠すためにそっぽを向く。

 

「こっちこそ」

 

 しかし、隣の彼は、その愛らしさを何より大事にしているのだった。

 綺麗でない襞の何が悪いのか。単ならない人は複雑であっていい。そう、思わずとも理解して、まひるは夕梨を一番に大切な友達として愛するのだった。

 

 

 

 暗闇には光が似合う。家の窓辺に座り火照った頬を夜風に晒しながら、夕梨はそう考える。

 彼女が二階から見下ろしているのは世間の輝き。夜間活動の励み。エネルギーの尽かなさ。

 人々の生の証となる街の光を少女は好きで、よほど肌に寒さ染み入ることすらなければ、夕梨は長風呂の後に眠くなるまで外を見下ろすのだった。

 

「気になる人、か」

 

 そして、瞬かない明かりの数々に飽かずともその持ち前の知恵故に暇になった夕梨は、先のまひるの言葉を思う。

 人が気になる、それは夕梨にとってよくあることである。好きだから、というのもあるが基本的には恐れ故に。

 狭い人の交わりの中で蔑まれ、無視され続けた傷は浅くはない。彼女が勉強に熱中したのも、学習ばかりは即応的であり疾く自信を慰めてくれるものだったからだ。

 しかし、少し厚めの唇をきつく閉ざしてから、夕梨は続けた。

 

「でも、あいつは私とは違う。まひるは真っ当に人を思える人間だ」

 

 そっと、夕梨は胸元に振り返る。自分のように、人の坩堝を怯えと恋しさから好んで覗くのは、数寄者。でも、あの青年にはそんな異常さはきっとない。

 

「だって、皆の私に対する嫌いを、あいつはどうでも良いって言ってくれた」

 

 恋はそこから萌えた。彼女はどうしてか構ってきてくれた、転校生のぼやきのような言葉をすっと忘れない。

 感謝がある。だからそれを返すために見つめた。そうして夕梨はまひるをある程度以上理解することになったのだ。

 彼は普通という名の異常だと。どうしようもなく、染まらない存在なのだと夕梨は知っている。

 

「そんなあいつが好きになったんだ。きっと……うん。間違いなくいい人だ。私なんかよりもよっぽど」

 

 一人では笑顔はどこまでも卑屈に。汚く見える己をダシにして、少女は世界の綺麗を持ち上げる。

 もちろん、世の中は殊の外平坦。夕梨の不なんて気に止めるべきですらないほどにどうでもいい。そして、下から見上げずとも全ては綺麗であるに違いないだろう。

 しかし、一度歪んでしまった少女に、真っ当は難しい。ただ優しく全てを認め、しかしそれでも一言口から出ていくのは止められなかった。

 

「でもちょっと、辛いな」

 

 胸元にずきずきと。愛は盾にならずに、しかし恋は槍。思おうとも、想いには勝てなかった。

 彼が、好きだ。それは、間違いのないことで。

 それだけで良いはずなのに、しかし夕梨は複雑。だからどうしようもなくって涙がこぼれそうな、そんな時。

 

「……あ。誰? 子供と、女の人だ」

 

 夕梨は足元に余計を見つける。それは一組。小さな影と、そこそこの影の二つ。

 知らない間に町中を歩んでいたのだろう暗がりの中の彼女らに、彼女の気は行った。

 仲良く手を繋いだ二人は、こんな夜に散歩でもしているのだろうか。いや、今日は胸のモヤモヤをどうにかしようとと早く風呂に入ったのだったな、そう考えていた時。

 夕梨は揺れる手のひらを見つける。

 

「私に気づいた。はは、手振ってるよ。わ、女の人も手を振ってくれてる」

 

 近づいて理解し、まず先に稚気がひらひらと元気を表した。その隣で合わせるように、手が柔らかく動く。

 その所作に親愛を感じた夕梨は返答代わりに手を振り返す。そうして、上から下から互いに視線を通わせた。

 

 やがて二人は街灯に足を踏み入れる。その姿を克明に眺め、夕梨の心は停まった。いや、そんな気になったのである。

 

「綺麗だ」

 

 闇夜の元、街灯の下に現れたのは一羽の蝶。

 離れていても、よく分かる。単色でその整いを浮かび上がらせるのはどうにも勿体ないと思ってしまうような、綺麗。

 暗闇には光が似合う。けれども、光にはきっと彼女が一番に似合っているに違いない。そう錯誤してしまうような美がそこにあった。

 曲線の綺麗を身に纏う少女はどうにも白く透明で。だから輝いて綺麗なのだろう。そう、朝茶子は夜な夜な陶磁の明かりを発していたのだった。

 

「あ、笑った」

 

 見ているものは見返される。それは当然。朝茶子は夕梨を確かに認め、しかし嫌味一つなくただ、微笑んだ。そうして彼女は幼児を引き連れ去っていく。

 その、自分の不をもどうでも良いものとしている自然の所作にあまりのたおやかさを感じながらも、夕梨は思った。

 彼女は、彼と同じだと。

 

「ああ、なれたら良いのに」

 

 そう、夕梨が呟いてしまったのは間違いか。何時も正解ばかりが彼女を形作っているというのに。

 しかし、複雑が単純に憧れるのは在り来たりなことでもあるのだった。

 

 

 忘れてしまった無垢の、その中身の脆さが、もう分からないから。

 



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煙草

 

「ふぅ……っと」

 

 知らず胸ポケットをまさぐる毛むくじゃらの手は、そこに何もないことを知って止まった。

 おもむろにその太い指先を顔に持っていき、くんと一つ嗅いでから、どこか枯れた様子の男は呟く。

 

「やれ、そうだよ。俺はもう止めたんだ」

 

 男、来田(らいた)雄三は、額に深く刻まれている皺を歪める。そして、煙草を欲していた指先を、液晶タブレットへともう一度向けた。

 仕事の資料ばかりではない生活の色まで混じった雑多な一室。雄三の仕事場で、数多の紙の束よりも重要となりつつある機器。

 それに入った最新の顧客情報に連なる仕事の一つに指を這わせながら、彼はぼやく。

 

「どうか内密に娘を探し出して欲しい、ねぇ……」

 

 依頼を見直し、どこか雄三はうんざりとした様子であった。これは、探偵はその探査能力を買われる商売だと、日頃誇りを持って口にしている彼にしては珍しい。

 そう、雄三は来田探偵事務所の所長である。ちなみに所員は、一人。もっとも彼も別段孤独にやっていた訳でもなく、つい先ごろに一人いた職員に逃げられたばかりだった。

 そんな事態の嫌気も含めて、男は頂点を目指して広がり続ける額を掻きながら続ける。

 

「こんなの普通は、札の束でケツ叩いてまでやらせるもんじゃねえよなあ……きな臭え」

 

 近頃なんでも屋のようになっていてしまい、探偵という言葉すら忘れて久しくなっていた時に舞い込んできた人探しの依頼。

 それに喜び飛びつき快諾したところ、依頼人が粗末なものですがと置いていった菓子の中から札束がごろりと出てきてしまえば、もう純粋には笑えない。

 きちんと一枚一枚に諭吉先生が記されていることを認めた後で、その百枚四束のことについての処遇は保留にしているが、それにしても金庫に投げたままにしてあるのは不安である。

 金庫番号を空で思い返しながら、椅子から投げ出した足でそこが間違いなく固く閉まっていると探った後に、また雄三はあくびのように呟いた。

 

「後で報告を聞きに来るってえ日取りだけははっきりしてるが、それ以外はもう、訳わからんな」

 

 ブラインドから斜光に輝く宙の埃を眺めながら雄三は考える。思えば、確かに与えられた情報の少なさもどこか変だったのだ。

 不明者の顔と名前のみを提示させられて、それ以上を差し出すのはは難しいとの一点張り。

 確かに必要とはいえ親の承諾だけで私物やSNSの内容確認をこんなおっさんがしたとあれば、それを知った或いは自然に戻ってくるかもしれない年頃の娘さんと家族の仲がこじれることだって考えられる。

 それに、個人情報はデリケートなもの。面倒になって後で自宅周辺で聞き込みでもすればいいと考えたのだった。そう、雄三は思い返す。

 

「それで自宅の住所電話番号が嘘だったなんてなあ……」

 

 新手の寄付か何かかこれ。そうまで雄三が捻くれた考えを持ってしまうのも仕方ないだろう。

 探す中で机の上の今や殆ど意味のなくなった資料をばさばさと落とし、モウモウと埃撒き散らかしながら、雄三はデジカメプリントな写真をもう一度確認してみる。

 片桐朝茶子という、そんな奇妙な名前であるとは教わり知っていた。しかしこの嫌に綺麗なお嬢さんは、どこの誰とも分からない。

 ネットで調べたところ、少し前に同県の陸上県大会出場者に該当名があったので、確かに存在はするのだろう。しかし、それ以外は何の情報もない。

 ざっと目を通した数年前の記事を伺うに、水瀬(みなせ)中学の代表として駆けていた事実が確かなら、当校周辺にて聞き込みをすれば何か出てくるかも知れなかった。

 だが、正直なところ面倒だと雄三は感じている。探して欲しいと金を積まれたとはいえ、それが嘘にまみれてきな臭くては、どうにも。

 思わず、彼は言った。

 

「金持って、ばっくれちまうか?」

 

 悪い面をした中年が口にすると、それはどうにも真に迫って聞こえてしまうものだが、しかしこれは冗句である。

 色が付きすぎていて返金不可避で、いくらその金額が魅力的とはいえ、仮にも依頼金に仕事もしないままに手を付けてしまうのは雄三のプライドに合致しなかった。

 別段、この強面の男に悪心がないわけではないのだが、それでも守るべき一線というのは弁える性質である。

 体に悪いは好んでも、犯罪だけは犯さない。何しろ、それによって悲しむ人間を雄三は職業柄よくよく見てきたから。

 

 もっとも、煙草や酒は悪性であるからこそ嗜んでいたものだったが。

 

「格好つける相手も居ないんじゃあなあ……」

 

 そう、逃げた相方のことを想いながら、零す。そして、雄三は何かを求め続けていたその空の手をぎゅっと握った。

 

「真面目に探してみるとしますか」

 

 一先ず、雄三は前を見る。つまらない今を続けて、そうしてどうなるかはわからないけれども。

 彼女が帰ってくる場所を守るくらいはしないとな、と考えて老い混じりの肉体に、鞭を打つ。

 雄三は大人であり、決して急がない。だからきっと、彼は間違えないのだ。

 

 

 

 戸長市水瀬の周辺は栄えていると言えた。駅の側に連なるビルディングに、交じる緑が今を表す。

 雑多が方向性を入れ違いにして廻る、単に染まることない街の中。人通りの色の多さは特筆すべきものがあるだろう。

 殊更異常ではない限り、そこにある個は消える。いや、人の群れは最早異常ですら呑み込みかねない。

 そんな中で雄三は、端に紛れてその一粒一粒に問いかけるという、下手な方法を採っていた。

 

「申し訳ありません。ちょっと、いいですか?」

 

 何度無視されて、何度誰かが振り向いただろう。最早そのルーチンに成果を期待はしない。

 自罰のように、果てのない作業として、雄三は聞き込みを続ける。

 

「写真の、この子を探していまして」

 

 片桐朝茶子が通っていただろう水瀬中学校に直接問うことは、どうにも何かを秘したい様子である依頼者のことを思うと気が引けた。

 もっとも、これを一日続けて何も情報を得られなければ、しれっと伺いに向かうことだってあるだろう。

 

「ええ。写真の子と自分が似ていないとおっしゃられるのも当然ですね。実は自分は親御さんに頼まれた、探偵でして」

 

 しかし、今は懸命に頑張るだけの時間だ。昼が過ぎ茜が差して、電灯輝く夜が来ても、それは行われた。

 写真を見る。正直なところ、こんな年頃の子が本当に見つからないのだとしたら、雄三も可哀想だと思わなくもない。

 少女の無事のための一助になることを考えれば、足が棒のようになるほどに疲労が貯まるのを無視出来た。

 

「写真の解像度が悪い、ですか……写真はこれ一枚しか貰っていないのですよね……いえ、ご協力、どうもありがとうございました」

 

 ふぅ、とため息一つ。そうしてから少し端がくたびれた様子の写真を逆さに持ち直して、雄三は空を呑み込むようなあくびをした。

 夜になり眠いのは、どうしようもない。しかし、これくらいならば以前ならば問題にしなかったはず。年齢の積み重ねを覚え、彼は僅かに気を悪くした。

 周囲を見渡してみれば、脂の乗った年齢が幾分増えたかのように見える。これにならば、自分も違和感なく混じることが出来るだろうな、と雄三は半ば自嘲的に思った。

 

「俺も、年か」

 

 三十代を気楽に過ぎて、四十代も変わらず行けるだろうと雄三は考えていたが、甘かったようだ。

 老いを感じさせてくれるような子供も設けていなかったからには、少し実感に足りていなかった。

 だから風景の中で場にそぐわない子を見つけて、自分に子供が居たらこんな、と思いながらぼうっとしていると、向こうから声を掛けられる。

 シックな上質を纏った、しかしどうにも幼気な彼女は彼に問う。

 

「どうか、しましたか?」

 

 その大粒の強気な瞳は弱った心に痛い。逸して欲しくって、雄三は直ぐ返した。

 辟易するほど脂ぎった頬を掻きながら、半笑いで彼は言う。

 

「いや、すみません。少しぼうっとしていました……」

「そうですか。こちらこそすみません。どうも自意識過剰だったようで……って、あれ?」

 

 少女と中年。本来ならば、直ぐに分かれるだろう二人。それ以上の関わりなんて、互いに想像なんてしていなかった。

 

「その写真の人物は、朝茶子様ではありませんか?」

「え、っと?」

 

 けれども、それは一枚の写真にて変わる。見上げる視線は、裏返った朝茶子の面を見つけたのだった。

 小柄は、大人をより強く望んで、それこそたじろがせるくらいには意気を持って、問う。

 

「オジサマは、どういう人、なのですか?」

 

 愛するものに近づくものは、果たして良からぬ何かなのか。

 それが気になった佐々木夕月(ゆうづき)は、雄三に詰め寄った。

 少女は誰かがのこした煙草を踏みにじって、男は目の前の本気の視線に呑み込まれる。

 からんと、遠くのゴミ箱に投じられた缶の音が一拍の合間に響いた。

 

 



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誤差

 

 美しさは誤差である。そう、夕月は考えていた。

 幼い頃からサテンのドレスの裾を掴みながら、社交の合間に美しく着飾った醜いものをよくよく見てきた少女にとって、美とは表層に過ぎない。

 人の芯はそこにはないのに愛をさらっていくその薄っぺらは、むしろ彼女の白藍色の瞳には邪魔にすら映っていた。

 

 父は不憫である。母が努めた美麗を底なしと勘違いして結ばれてしまったのだから。

 母も不憫である。父が勤めた大金を底なしと勘違いして結ばれてしまったのだから。

 両方とも、ミリが計る単位に丁度いい、その程度の浅薄だと言うのに。

 そして、当然のように愛情だって無限ではなかった。だから、尽きた二人が別れてしまったのも、至極当たり前のことだったのだろう。

 そんなこんなをトラウマにして、だから少女は一時期自分の面構えすらも忌んでいた。しかし、夕月は何時か本物を知る。

 

「ワタシはきっと、上等なのでしょう」

 

 夕月は可憐な少女だ。幼い頃の贅の渦中から抜け出し祖父母の親愛に囲まれるようになり、その溺れるようなスキンシップから離れて一人暮らしになった今も変わらず彼女のレイヤは愛らしい。

 自分が美しいなんてそんなこと、言われ飽きるずっと前から知っている。神が望んだその造作に、手抜かりなんてどこにもなかったというのに。

 けれども、彼女は違うと頭を振るのだった。

 

「でも、それでも朝茶子様には遠く及びません」

 

 そっと、夕月は空を見上げる。曇りに塗れて天は暗澹。果たしてその向こうに輝きなんてあるのだろうか。目を開けるばかりの余人には理解できない、絵空の彼方。

 感覚器の拡張なしには覗けもしない遥か遠くに、陽光よりも巨大な炎塊は確かに存在していた。

 それを近くに見てしまった少女は幸か不幸か。想起した眩さに、少女は目を瞑る。そう、夕月は高き天井にて、天蓋を知ったのだ。

 

「造り、ではありません。そもそもの質が違う」

 

 それは、位階違いのカオリナイト。純度も白の意味すら異なる、何か。

 夕月の輝きは惹き付ける灯。朝茶子の光は利己をも消し飛ばす日。そんなものを、直(・)に見てしまった幼さはどうなったのか。

 

「なんでワタシはこんなに醜いのだろうと、死にたく、なりました」

 

 相手が気に入らないバケモノなら良かった。しかし、彼女は愛されるための存在。ミューズですら汚らわしい無垢。とても、叶(敵)うものではない。

 それはそうだろう、何しろ相手は活き(生き)モノでないのだから。生物というよりも血が流れているばかりの静物。愛玩されるための白磁。完成している(終わっている)ものだった。

 動物の斑は生命活動故。いかに生物の中で整っていようとも、そんな代物と並び立ちはしない。

 だが、奇跡的ですら生ぬるい、ひたすらに幽玄でしかない朝茶子は、その中身も生まれたままで終わっていた。変わらずの、白い汚れ知らず。

 だから、生きた人間に感動を残すだけでなく、奇矯な音色を響かせるのだ。

 その時のことを思い出し、胸元を押さえながら、朝焼けと似て非なるものを持つ夕月は語るのだった。

 

「けれども、朝茶子様は言ってくださったのです。少しくらい汚れていないと生きていられないよ、と」

 

 磁器と見紛うばかりの至極美しき、白骨屍体。かちかちと、おばけの少女はそんなことを言ったそうだ。

 

「ワタシには、このお言葉の意味がよく分かります」

 

 絹に皺が付くくらいに強く、少女は言葉の綾に、感じ入る。程度の差が甚だしくないからこそ、夕月は朝茶子の意図と美しさを理解できた。

 そう、泥を潤滑油とするこの世にて、それ一つまとえない裸の彼女はどれほど。

 

「死にたいくらいに恐れ入る、ワタシよりも朝茶子さまはよっぽど生きるのが痛かったのですよ」

 

 それこそ、殺してしまいたくなるくらいには。言の葉の合間に、生まれなかったお終いに対しての敬意と憐れみに、窮屈な笑顔が花のように咲く。

 そんな訳知り顔な少女の言葉なんて、雄三にはとても理解できるものではなかった。

 

 

「よーいどん、ってするのあたし嫌いなんだよねー。難しくって」

 

 生まれながらに書画の静止と変わらない命しか響かせてこなかった朝茶子は、最近の常連さんに向かってそう呟く。

 感情が表立った歪みは艷に、口元に手を当てるその様は絵にしかならない。

 そんな多面の美でしかない代物が中華料理店に鎮座しているある種のシュールレアリスムに、目眩すら覚えながらまひるは返す。

 

「いやあ……そんなに難しいことかな?」

 

 まひるは首を捻る。当人の言を信じるならば、朝茶子が入っていたのは陸上部。

 短距離走を専門としていたらしい彼女が、スタートダッシュに難度を感じていたというのは彼にとって不思議だった。

 水泳部を齧っていた程度であるまひるであっても、はじまりに遅れた後悔を覚えようがスタートを嫌うまではなかった。

 しかし、朝茶子は女神のコピーの様子のまま、真面目くさって変てこなことを言うのである。

 

「だって。皆バラバラに走っても結局同じ距離を走るのに変わりないじゃない。あたし、自分のタイミングで走りたかったなー」

 

 今度は反対に、まひるは首を傾げた。この、休憩時間だと気安く向かいの席に座ってきたお姉さんは何を言っているのだろう。

 よーいどん、というのは計るための合図。つまり、測定要素がそこにはあるのだ。陸上競技において、いや、そもそも競う物事において比べ合いは当たり前なのに。

 しかし、世間一般の当たり前を朝茶子はまるでどうでも良いように、言う。

 

「朝子さんは、その。自分のタイムとか順位とか、気にならないの?」

「そんなの気にならなかったなー。世界一位とかなら気持ちいいのかもしれないけど、お家の近くでのナンバーワンはあたしにはピンとこなかったよ」

「なら、どうして朝子さんはわざわざ陸上部に入ってレースに出たのさ」

 

 まひるがそう零してしまうのも仕方のないことだろう。

 抜きん出ることに快感を覚えるのは人の常。人が人を愛するくらいには、それは当たり前のことの筈なのだ。

 だから、そんな余分は知らないかのように振る舞う朝茶子が彼には不思議だった。

 しかし、最初から動けない、終幕にて遊ぶ少女は言うのだった。

 

「走るの好きだから! 知らない人と走るのも楽しかったよ! 色んな人が懸命な姿は素敵だよねー」

 

 まるで、人間がそうあるのが当たり前のように、朝茶子は語った。

 そして、彼女は透明すぎる水を向ける。

 

「夕梨ちゃんも、そう思うでしょ?」

「へ? えっと、あの……」

 

 共に距離としては宵闇に近いというのにまるで違う女の子に、夕梨は慌てる。しかし、一つ二つ呼気を呑み込み、そうしてから落胆したかのように彼女は言った。

 

「私はそうは思わない……です」

「そう?」

 

 まひるの代わりのように首を傾げ出した朝茶子を見て、夕梨は深く胸元暗がる。

 目の前の、どうしようもない美人に、嫉妬すら浮かばない自分に呆れて。少女はただ、汚れた自分を諦めとともに披露するのだった。

 

「だって、私は朝子さんみたいに、認められていないから」

 

 生きるたびに、人は世界の中心を忘れがちになる。だから、確かめたがるのだ。何より、己を認めるために他の視線を使う。それは、安堵のために。

 しかし、朝茶子にはどうしたってそれは要らないようだった。

 見られることが当たり前、観賞用の乙女に自認なんて普通のこと。だからほら、更にこてんと朝茶子の首は左方に落ち込むのだった。

 

「そっかな? あたしは夕梨ちゃんのこと、認めてるんだけど」

「私、を?」

 

 そして朝茶子の一人言は見当違いの方向に向かい、偶々に皆中となる。

 ずい、と近寄る朝茶子の目映き瞳に歪んだ夕梨の姿が映った。期待に染まった頬の紅を克明にしてから、彼女は稚く言うのだ。

 

「ねえ、夕暮れだって――――綺麗だよ?」

「っ!」

 

 それは、物が人を透かして見た後での感想。解析には自然よりむしろ人工物が良い。そんな当たり前が目の前で披露されて、青くなる夕梨。

 終わりの手前の優しさを、朝茶子は認めた。それは愛を持って、綺麗と言ったのだ。

 今直ぐにでも目の前の美しすぎる尖りから逃げ出したくなった夕梨。だが、そこに彼が、待ったをかける。真剣な笑顔で、まひるは場面を断つ。

 

「そうだね、確かに夕梨は綺麗だ」

「ねー」

「も、もうっ。まひるも、朝子さんも!」

 

 果たして、想い人の愛言葉に隣り合っては、陶器の少女ですら怖くなくなってしまうものか。

 取りあえず、動悸は別の心地よいものに変わってくれた。それに喜びを覚えながら、夕梨は。

 

「私は、認めないんだからなっ!」

 

 歩調あわせてからかう二人の前で二つの意味を持って捻くれた、言葉を出すので精一杯だった。

 

 



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普通

 

 

 塩田美雨にとって、世界は大体がとてもやわっこい何かである。

 硬性は見た目だけ。触れてみれば、おおよそ優しく返してくれる。時々尖ったものがチクッとすることがあるけれども、おおよそ幼き瞳に危険は少ない。

 少女は心安らぐ凡ての中で愛おしむ。だから彼女は足下見えない夜すら恐れることはなかった。

 しかし翻って、自分はどうなのだろう。優しい皆と一緒になれているのかなと、少女は悩んだりもする。

 小さなその背を伸ばしてみても、鏡に中々届かない。自省知らずの幼さには、他人の言葉ばかりが頼りだった。

 可愛い、良い子、うるさい、小さい、バカ。雑多な評価に、しかし少女は塗れない。

 誰の言葉に対しても、そうなのかなとは思えども、それだけとは考えられなかった。

 だって、たとえば朝茶子の瞳に映る自分はどう見たところで。

 

「朝子おねーちゃんとは、違うよね」

 

 陶器の少女に劣る、薄汚れた餓鬼でしかなかった。思わずがっかりしてしまう程の落差は、常に場違いな感を抱かせる。まるで自分がこの世の汚れであるような、そんな思い込みが幼さに芽生えてしまうのも、どうしようもないことだろう。

 

「でもね、それでもいっしょだから」

 

 とはいえ、小猿のようなちんちくりんが跳ねまわるのを、朝茶子は何時だって優しくその白磁の指で留めていてくれる。そうして、てっぺんのお団子からリンゴのような頬に至るまで彼女は愛おしそうになで回してくれるのだ。

 つまり、それは美雨がとても美しい彼女にとって大事なものであることの証左。自分みたいなつまらないものが、朝茶子の心の一部を占められていると思うと、思わず美雨はきゅんとするのだった。

 

「朝子おねーちゃん大好きー」

「わわ、美雨ちゃん今日も元気だね!」

 

 そしてその思いに従って、美雨は今日も終わった少女に飛びつく。朝茶子が胸元の破片によって幼子を傷つけないように努めて笑んでいることに、気づくことなく。

 

 

「だから、そんな子なんて知らねえっての」

「いや、ですから佐藤さん。この子……片桐さんが戸長駅前で貴方のタクシーを拾う姿を見たという確かな証言がありまして……」

 

 髪染めることに飽いて暫く、今や白髪に染まった頭を掻きながら、佐藤良二(りょうじ)ははた迷惑な自称探偵のお仕事に付き合わされて難儀していた。一応はと受け取った名刺を握りつぶしながら、良二はろくに目も合わせず話す雄三に苛立ちを隠さないままに言う。

 

「なら、そうなのかもしれんな。あいにくオイラは一人一人の客のことなんていちいち覚えちゃねえけどさ」

 

 器用にも雄三が商売道具のタクシーを背に隠して邪魔しているために、中々撒くことが出来ないことにも良二はむかっ腹立てつつも、無視は出来なかった。

 それは、なけなしの良心の咎めのために。嘘を吐けない性質であるというのに、無理してするからこそ半端となる。

 そう、良二は確かにあの日朝茶子を乗せたタクシードライバーだった。

 だがそれだけ。縁もゆかりも殆どない。ならば、親に頼まれたという探偵にその行き先を正直に話してもよさそうなものである。しかしそれは更に気が咎めることだった。

 綺麗であるほど曇りは大きく見える。朝茶子ほどの汚れのなさだと、その陰りはとても目立つものだった。それこそ、一般的な心根を持っていれば、思わず庇ってしまいたくなるくらいに彼女の憂鬱は目立っていたのだ。車中で交わした一言二言の会話での感情移入も効いていた。

 言い訳するように良二は言う。

 

「しっかしよう。お前さん、親御さんに頼まれたとか言うけんどよ。その子の気持ちはどうなるってんだい。かもしたら、親から逃げ出したんかもしんないよ?」

「そうかもしれませんね」

「なら……」

「ですが私も何も一方的にこの子の居場所を暴こうとしている訳ではありません。むしろ、どうにも怪しい依頼主より、探されている少女の言い分の方が私にとって重要かもしれません」

 

 雄三は音量を落とし、真剣な声色で良二に告白する。そう、彼の今も彷徨う視線は周囲の不審な影を探していたのだった。

 それは、つい先日。雄三は聞き込み中に、こちらを伺う影を見つけていた。追い掛けようとしたらすぐに姿をくらました相手のことを、彼は札束の不審と共に気にしている。

 そんな実情を知らない良二は首を捻った。

 

「……依頼主ったら親だろう? それが怪しいってのはどういうことだい」

「……お話を伺う際に身分証明はして頂きましたが……どうにも目的が見えずに、また秘密主義なところがある様でして。依頼とはいえ正直に言って、こちらのことを信じていないようである相手を信じることは難しいです」

「そりゃあ……難儀だな」

 

 雄三は真面目な大人である。そして、良識のある人間でもあった。犯罪行為はもちろん、迷惑行為ですら嫌う一般人だ。

 自分の仕事を信じずに尾行までさせるような相手を嫌がるのは当たり前である。

 その不快の表情を見た良二は、ぐうというような音を喉の奥で立ててからおもむろに口を開いた。

 

「仕方がねえな。オイラも気になってたところだし……怪しいってえ依頼主に居場所を教える前に朝茶子ちゃんっていうのか、あの子にことの次第を聞いてくれるってんなら送った場所をあんたに教えてあげるよ」

「いいのですか?」

「よく考えるとオイラが教えなくってもその依頼主って奴が何らかの方法で朝茶子ちゃんのところに行き着いちまう可能性だってあんだよな。なら、先に教えてやってマシそうなお前さんを間に置いといた方が良さそうだ」

「ありがとうございます!」

 

 疾く、頭を下げる雄三に良二は苦笑い。

 所作にもにじみ出るその仕事に対する真摯振りには、信に値するものがあると感じながら。

 渓合の地名を耳打ちしてから離れ、のそりとタクシーに乗り込もうとする良二に雄三は問う。

 

「……最後にどうして、貴方がそれほどまでに朝茶子さんを気にしていらっしゃるのか、お教えして頂いてもよろしいでしょうか」

「そりゃあなあ……」

 

 空を見て、そして頷く還暦過ぎ。良二は若くはないが、しかし老いても忘れてはいけないことをよく覚えていた。

 振り向いてから、ニヒルに言う。

 

「あんな綺麗な子が、助けてくれって言ったんだ。気にしてやらんきゃ男じゃねえだろ」

 

 彼には人として、いいや男としての矜持があった。知らない人を助けるなんてそんなの当たり前じゃない。気に入った人を助けることこそ、普通なのだと良二は知っていた。

 そして、彼は普通に彼女の幸せを思う。相手が当たり前の存在でないことを知らずに。

 

 




 ここまで読んで下さった方には申し訳ありませんが、ちょっととある賞に応募してみるためにこの作品を一時隠すことにしましたー。問題なかったら二三日後に、そうしますね。
 題名とか色々変えて完結させてから応募してみて、駄目という結果が出ましたらその後に設定を公開に戻します。
 ひとまず、ありがとうございました!


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終わり

 駄目でした!
 ですので終わりまで書いた続き、順に公開させていただきますねー。


 

 

 異性に対する好きの終着点は告白であると、青いまひるは考える。

 どうしようもない高まりは、言葉になって溢れるもの。想像していたばかりのそれを、実体験で彼は理解した。

 そう、偶に出会った朝茶子と公園で会話を楽しんでいた時に、まひるは零したのだ。貴女が好きです、と。

 気持ちの篭もった吐息のような声色を聞いて、さしもの停滞少女も少年の想いを知る。赤ら顔の前で、綺麗なものが困惑に歪んだ。

 

「えっと、好き? それって……」

「恋愛としての好き、ですよ朝子さん」

「うーん……嬉しいけど……」

 

 こうなっては仕方がないと、腹をくくったまひるに対して、朝茶子はそわそわと慌てた。それは、別段彼女が告白を受け慣れていないから、という訳ではない。ただ、この子にどう断りの言葉を入れるべきか悩んでいるからだった。

 まだまだ日は陰らない。下らない大切なものが克明である今。壊れ物を繋げた綺麗の指を動かしながら、朝茶子は言う。

 

「あんまり、いやらしいことはしたくないな」

「え?」

 

 朝茶子は彼の告白が成就したその続きを思って、少し嫌な顔をした。全く、彼女を汚すことなど考えていなかったまひるはその言葉を理解して、ぼっと紅くなる。

 そして、まひるは下から朝茶子の笑みを見た。少年は、年上の彼女にからかわれたのだと勘違いして、口を尖らせて言う。彼女の微笑みが、己を嗤うものと知らず。

 

「いや、そんな。そんなことは考えていませんよ! そこまでこう……先走ってはいません」

「でも、男の人と女の人が手を取り合っていれば、何時かはそこにたどり着くよね?」

「……そう、ですね」

 

 何、好きな人にいやらしさの当たり前を聞かなければならないのか。どうにもまひるにとってはむず痒いことだった。そも、こんな美しい人の口から生々しさが転がり出てくるなんておかしいが。

 そう、彼の思い通りにおかしいのだ。朝茶子は、汚い物と綺麗なものの違いがあまり分からないのに。いや、それにそもそも。

 

「あたしはね。恋愛が分かんないんだ。そこに価値を見いだせないの」

「え?」

 

 まひるは、朝茶子の浅薄なほどの真っ白さを甘く見ていた。

 太陽の光を誰より浴びそれをそのまま返しているだろう白。それが面の色ではなく心の無染色から来ているとは。

 驚くまひるに、朝茶子はカートゥーンの交わりを続ける。

 

「みんなどうしてか持て囃すけれど。でも、恋愛ってつまり助走だよね。えいや、って飛び越えて良いくらいの」

 

 隣で鉄パイプの柵に載せていたお尻を持ち上げ、少女はぴょんとまひるから離れた。思わず、彼は顔を天へ向ける。

 青空の雲はうねりによって姿を奇妙に変えていく。それに心を相似させてしまっているまひるは、言う。

 

「そんなこと……いや、一緒に歩むそれこそが大切でしょう?」

「ううん。あたしにはどうしても、それが大切には思えないんだ」

 

 頭を振る、少女の綺麗がまひるには理解できない。どうして、この人は笑っているのだろう。

 そんなにもまっ更に、情動を無視できるのか。何故、朝茶子は人と手と手を取り合う未来を諦めていられるのだろう。

 認めてばかりいる、普通のファインダーたる少年にはそれが分からなかった。

 

「ねえ。どうして人は、恋をしなければいけないの?」

 

 恋愛の必要性を問う。それほどまでに、朝茶子はピュアだった。

 少女は恋に、落ちて汚れた試しがない。

 代わりに別件でずっぷりと、紅に穢れたことはあったのだが。

 

「そんなものなくたって、人は人を、犯せるよ?」

 

 だからそう、朝茶子は口走るのだった。

 陶磁器の身体のラインの価値を気にもせずに、生温かな言葉を女は転がす。

 

「結局物と物の付き合いなら、擦れ合うのが当たり前だもんね。そして、それが生物のものであるなら、くっつくために液体で塗れ合うのが自然だから。ちょっと、恋愛ってばっちいなって思っちゃう」

 

 粘液って、なんか気持ち悪いよね、という朝茶子の言。しかしまひるには彼女のその言葉こそが気持ち悪かった。

 何を察しているのか、どうせそれを行ったこともないだろうに、人の快の素晴らしさをどうしてそんなに嫌がるのか。

 いやらしくなんてない。だって、それを求めることこそが愛の本質なのに。互いを温めて繋げ合うことこそ、生き物だ。

 そんな当たり前を考え、しかしと少年は迷う。もし人が泥より出来ていたら、綺麗を音色としてぶつけ合い、お互いを台無しにしてしまうような愛し方もあったのではないかと、血迷った。

 くっつかずにただ、損ね合う愛。そんなものの存在を彼は薄々と察した。

 からりと、何一つ汁気が伺い取れない静物は、混乱するまひるに、問いかける。

 

「まひる君は、そうしたいの?」

「ボクは……」

 

 本当は、即答したかった。何せ、目の前の綺麗と交わることはきっと埒外の幸せ。

 どうしてかそれを考えたことはなかったが、深みに嵌まれば互いに内へと導きあうようなこともあるに決まっている。

 人同士ならば、それで然り。けれども、まひるは思う。

 目の前の女の人が純潔を望むのならばそれでもいいじゃないか、と。別に、自分は排泄器官への刺激を求めてばかりの人間ではないのだから、と己を曲げて。

 

「朝子さんを汚したくない」

 

 だから、彼はそう言った。僅かで下手な文句。そんな可愛らしさに、彼女は笑う。

 

「あは」

 

 零す、零れ落ちる。嬉しさに、甲高い音を立てて心には罅が入った。

 そして、白の下から真っ赤が覗く。真っ赤な舌をぺろりと出してから、朝茶子は述べるのだ。

 

「私はとっても汚れているんだよ?」

 

 くるり、と少女はその場で回る。周囲は巡り巡って線となびく。その中にいつの間にか、幼子とおじさんが紛れ込んでいたような気がするが、朝茶子にとってそんなことは些事。

 どうでも良いように、彼女は言うのだった。

 

「私は人殺し」

 

 ピタリと止まって、お終い。そう、朝茶子はお終いになっている現時点を語った。

 認めたくないけれど、認めさせられたそんな事実。あれと、どうしようもない人間は、そこで湿潤を覚える。

 

「あはは……あたし、泣いてる」

「そんな」

 

 少年は歯噛みする。

 終わっていたものは、守れない。何をしようとただ、終焉が目の前で流れていくばかり。

 さらさらと、陶磁の器は砂と消える。

 その後には、悲しみに顔をぐちゃぐちゃにした一人の少女がうずくまっていた。

 

 

 生きるということは、ただ意識があるだけの状態ではないと小さな頃の朝茶子は思っていた。生は推移であり、変化と反復を交えた動きの総称だと幼き少女は考えていたのである。

 つまるところ、朝茶子にとっては世界の多動が生々しいものに映るのだった。太陽活動ですら命の輝きで、小石の転がりにすら意味がある。

 

「お空、すっごいなあ」

 

 だから少女が空を見上げることは、生き物の腹を覗く行為と似ていた。まるで大いなるもののダイナミックな生命活動。朝茶子にとって風のそよぎは空の優しさで、雲は蠢く何かだ。見せつけてくるその偉大に、どうにもその下に転がっているだけの彼女はこのままで良いのかと悩むのだった。

 おもむろに頬を両手で挟んで、そうして柔らかさを捏ねながら、朝茶子は嘆息するように呟く。

 

「あたしって、小っちゃいんだねえ……」

「そうだな。どうでも良いくらいに、僕らは小さい」

「あ、真夜(まよ)おにーちゃん!」

 

 そんな小粒な少女の独り言を拾い上げたのは、彼女の従兄弟である片桐真夜。博覧強記なばかりの足りない青年は、笑顔を転がす完全な未熟である朝茶子を見下げながら、続ける。

 

「朝茶子は、大きくなりたいのか?」

「うん! あたしはいつかお空みたいに大っきくなって、皆に優しくしてあげたいんだー」

「なるほど、触れ合いに快ばかり抱く子供らしい。朝茶子、お前は知らないんだな」

「なにを?」

 

 朝茶子が人間のお手本のような見た目の少女であるなら、真夜は陰気の見本であるような青年だった。この世を凡てと諦めて、すっかり心を離している。

 凡ては穢。生来の持ち物ではないその考えが、真夜の胸の内にはぴたりと嵌まっていた。

 

「触れ合いとは自他共に薄汚れることだ。本当に優しくありたいなら、疾く死んだ方が良い」

 

 嫌いな自己を認めたくて良くありたがる潔癖症はそんな囀りを見せる。しかし、何も考えていない子は、ただ真っ直ぐに青年を認めて言うのだ。

 

「汚れるのも、たのしいよ?」

「僕にはとてもではないが、楽しくないな」

「そーかな-?」

 

 泥んこで遊ぶ少女と、自分の悪心すら憎む青年は違う。通じ合えないことは自然だった。

 しかし、未だ薄片でしかない朝茶子は、それでも当たり前のことを口にすることは出来る。大好きなおにーちゃんに向けて、幼気は呟くのだった。

 

「ばっちいのって気持ちいいのに」

「そうだな」

「なら……」

 

 真夜も朝茶子の言を否定はしない。人の擦れ合いは穢れを押しつけ合うものであるが、果たしてそれこそが快楽であるのは間違いなかった。

 いやそも穢れこそが生ならば。汚らしいことこそ正しくて、清廉であることこそおかしいのだろう。

 だがしかし。

 

「僕はね。気持ちいいのが気持ち悪いんだ」

 

 青年は認めない。気持ちいいからと、異形にて己を慰めることなんてあり得ないと。

 異を認めることこそ愛なのに、それを否定して孤独になる。

 そんな真夜のことが、朝茶子は心配でならなかった。

 

「ならおにーちゃんは、どうすれば気持ちよくなれるの?」

 

 打ちのめされてばかりの人生に、心より心配してくれる人間が現れるのは珍しい。

 餓鬼の戯言であると錯覚しながらも、それでも気持ち悪いくらいに嬉しくなってしまった真夜は、素直に本音を口にした。

 

「殺された時、かな」

 

 真夜は、とうに結論終わっているが故に、思う。そう、死にたいくらいでは死ねないけれど、それでもきっと、誰かに殺されるほどに思われたなら潔く死ねるだろうと。 

 愛すら苦手な自分なんて、生まれてしまったことこそ間違いだ。だから、嫌われ者らしく、嫌われて亡くなりたいと、真夜は本気で考えていた。

 それを聞いて、朝茶子は笑む。

 変態にて成る蝶に幼き時はない。けれども、かもしたらその幻想は目の前に存在しているのではないだろうか。真夜は胸を嫌気で押さえる。少女のその可憐さは、正しく彼への毒(薬)だった。

 

「じゃああたし、大きくなったらおにーさんを殺してあげる!」

 

 そして、そんなことを朝茶子は言う。ころりと、笑いながら。

 

「そうか」

 

 真夜は、久しぶりに不格好に微笑んだ。どうせ消えゆく思いやりなんて、笑顔で送ってしまえば良いと思って。

 

「任せてー」

 

 だが、覚悟し心に決めた朝茶子は、間違いない。壊れて砕けて、鋭い破片は彼のために。

 だからきっと彼女は、この時より終わってしまったのだろう。

 

 



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アンハッピーエンド

 それは当たり前の、不幸せな幸せ。


 

 朝茶子は年齢ばかりを長じさせて、それでも変わらなかった。或いはどうでもいいのかもしれない彼を殺してあげたいと、痛いくらいに思いながら、生き続けたのだ。

 彼女は、かもしたら殺人鬼よりも多く人の死を望んでいたのかもしれない。

 だって、朝茶子は。

 

「あたしは殺したいくらいに、不完全を見るのが辛かったんだ」

 

 そう、笑顔を見せる。悲しみに白蝋よりも尚血の気なく、愛の色すら失った陶器は、ただ綺麗に歪んでにっこりとした。

 強い風が吹いたところで、不動。光景ごと彼女が壊れるのを見たくなくってぴくりとも出来ない不揃いの三人は、何の言葉も返せない。

 朝茶子は続ける。

 

「皆どうして、あたしの周りは終わっていないのかな、と思ってた。不完全で生きている、それってきっととっても辛いよね? だからあたしは、一人だけでも終わらしてあげたかったんだ」

 

 完結し、綺麗に固まってしまった存在にとって、その他の汚く動く雑多に向ける愛はただ一つ。それが腐り落ちる前に終わらせてあげること。神と似た視点を持つ者は、どうして皆が足掻くのかと不思議に思うのだった。

 欠けた陶器の破片は傷を付ける形に固定されるもの。端から壊れて鋭いまでに綺麗に裂けていた朝茶子はナイフと同じであった。だからこそ、その成就を望まずにはいられない。

 損ねて、壊して、正してあげる。下手な生き物であることこそ間違いならば、完全に動かぬ者にしてしまえばいい。

 人を愛しているからこそ、そんなことを彼女は思うのだった。

 

「それにね。真夜さん、誰かを殺したいって言ったんだ」

 

 冷え冷えと、少女は言う。大切だった彼を話しているのにこれほどまで熱が持てないのは、それほどに終わった真夜の姿が残念だったから。

 黒々としたものが、鬱々と。人より崩れてバケモノと化した内面は、刺々しさよりも哀れなアメーバ。それは癒着し諸共壊す人でなし。不信により真夜はそこまで追い詰められたのだった。

 人を殺して、殺して貰う。そんな最低を口にするのですら当たり前のように、成年となっていた彼は終わっていたのだ。

 

「あたしは、それだけは許せなかったの。だって、約束を破るなんてずるいもの。あの人はあたしが台無しにする筈だったんだから」

 

 それに誰かにもあの人にも、幸せになって欲しかったの。そう朝茶子は語る。

 

「だから、止めて、留めて、結局止めを刺しちゃった」

 

 刺して刺して、血がねっとりと凶器を持った右手に付着する。暮れきった、その赤はまるで夜のよう。だのに、温もっているのがとんでもなく気持ちが悪い。

 そこで朝茶子は人との擦れ合いがばっちいものと、思った。

 陶器に付いた血の汚れはあっという間に皆によって流される。罪だって、今はそう残らなかった。

 

「あたしが悪いんだ」

 

 それでも、人でなしの異形は、綺麗なばかりの血の壺は、自省する。

 そうして、一筋、涙を溢した。

 

「あたしはあたし以外(生き物)を許すことが出来なかったんだ」

 

 それは、少女の本音。どうしようもなく終わった、汚れない彼女の繋がらない心の言葉だった。

 

 

「そんなこと、嘘だよ」

 

 その罪深さはカーテンレール。危険物と人との心を裂くために、容易く沈黙は落ちる筈だった。

 しかし、彼女は言う。幼子でしかない塩田美雨は、大好きなお姉ちゃんが物語の主人公ではなくただの人殺しだからって、大好きであることは変わりないからと、言葉をかけるのだった。

 驚きを見せる朝茶子に、美雨は心の底を絞り出す。

 

「嘘? あたしの言ったことは全部本当で……」

「嘘だよ、おねーちゃん。だっておねーちゃんはあの時私の手を取ったもの。一緒にいるの、許してくれてたじゃない! 私のこと見て、ずっと笑ってくれてたのにっ」

「美雨、ちゃん……」

 

 美雨は、泣く。大好きなお姉ちゃんが、辛そうなのが苦しくって。だから、ばっちいと思われても、それでもと、朝茶子の胸元へと飛び込むのだった。愛されたくて、その身を抱く訳ではない。愛したくて、抱きしめるのだ。

 それを、幼子のその不格好を悲しみながらも、陶磁器の少女は割れ物に触れるかのように優しく受け止める。それは、その外見に反した心根の誤った柔らかさのために。

 朝茶子は、誰に許しを請うこともなく皆の幸せを願っていた。苦しい生を、苦手に思いつつも。だから組み合わせなかったその手のひらは空いていて、故に何時かの日に少女の手を握れたのかもしれない。

 そう、好きだから。皆々、大好きで、愛しているからこそ。彼らが背負う、その苦しみを殺したくなってしまうくらいに許せなかった。

 純粋無垢な、そんな殺意。大切抱く女の子にそんなものがあると知り、この上なく苦い顔をしてから、来田雄三はため息をつく。

 

「はぁ。こりゃあマジ話っぽいな……正直なところ、俺の良心は犯罪者に許しなんて必要ないって言ってるけれどな。ましてや、人を殺しちまった奴になんて」

「あなたは……」

「俺は聞いちまっただけの殆ど無関係のオジサンだ。でも、だから言えることもあるんだよな」

 

 朝茶子が思い出したかのように見つけたのは、年重の男。

 渓合の町を探し回った挙げ句幼子の案内によって、出くわしたまさかの場面。殺人者の自白に、まともな男も抱く感想はあった。

 こういう時、煙草がないのは辛いな、と独り言ちながら、雄三は続ける。

 

「許さないというのは、許して欲しいということの裏返しだ。一人ぼっちはとんがるよな。そりゃ辛え」

「う、ぅう……」

「でも、だからって人を殺すのは駄目だろ! んなのは馬鹿げたことで、一生反省することだ! それをなんだ、お前。こんなところで自己解釈に浸って自分のために泣いて。そんなことで、本当に良いとでも思ってんのか?」

「っ!」

 

 涙目の少女を気にせず、雄三は悪意の水たまりに足を浸けて、蹴っ飛ばす。汚い言葉は飛散しそして、教えるのだ。

 嫌うのではなく、叱る。その意味を。今更になって、朝茶子という止まってしまった女の子に。

 怒声があたりに響く。周回遅れの言葉は、頑なな彼女の内に、痛く刺さった。

 

「逃げてんじゃねえよっ! 罪ってのはお前の重荷だ……それを負わずに幸せになるなんて言語道断!」

「あ、ぁあ……」

 

 立ち聞いたばかりの無関係の人間が、何を言っているのか、そう雄三も思わなくもない。こんな哀れな無垢を傷つけて、何をしたいのだと考える冷静な自分もある。

 だが、しかし。良識から見逃すことが出来ないことだってある。何せ、雄三は良二から聞いて知っている。

 痛みに泣くぐちゃぐちゃの彼女へ確りと向いて、人生の先輩は言うのだ。

 

「名前も捨てて何処からも誰からも罪からも逃げ出したってのは、許さない。許しちゃいけないことだ。でも、朝茶子ちゃん……君は助けて欲しかったんだってな?」

「ぐす、それは……」

「なら、今までのことを忘れずに助かれよ! もっと本気で幸せに、なりなよ……俺にはさ、キミが捨て鉢になっているだけに見えるんだよ……」

 

 雄三はまともな人間だった。普通一般平凡から努力で少し抜きん出たばかり。ただ、人を見るのが好きなだけの男だ。

 そんな彼は、腐肉との恋だって普通だと考える、現実逃避の少女が見ていられない。

 それはきっと、愛ではなく、哀から。人殺しだろうが知ったことか。そんなことで見捨てられるほど自分は人間を嫌っちゃいない。そう思い、誤っただけの彼女の更生を男は芯から求める。

 

「己を殺すな! キミはどうなりたい!」

「あたし、あたしは……」

 

 しかし、ただ熱を求めるかのように美雨を抱いてただ震える朝茶子を見て、雄三は拙速過ぎたかと思った。

 きっと想いは届いたが、だがそれがどうしたというのだ。相手は傷ついて、冷え切った。当たり前に誤った彼はそこまでしたくはなかったどうしようかと思う。

 そこで、ずっと一つ前に進み出た少年を見て、雄三は口をつぐんだ。もう、余所者が出しゃばるのはこのぐらいで良いだろうと、当事者に任せることにして。

 そして、朝茶子の心を切り開いてしまった当の本人であるまひるは、彼女に向かっておずおずと口を開いた。

 

「朝子さ……いや、朝茶子さん」

「……な、なぁに?」

「ボクは、貴女のことが好きです。変わらず、好きです」

「えぇ?」

 

 疑問の言葉に、真っ直ぐを返答として、まひるは真剣を続ける。

 朝茶子は、死後を晒している。そう、彼は思っていた。可哀想な、人殺しで終わってしまった少女。

 でも、それは違った。後ろの見ず知らずの訳知り顔が、厚顔にも偉そうに教えてくれたのだ。

 まだ、物語には続きがある。ただ、欠けているだけだ。それを、知った。一瞬だけ夕梨の姿が頭によぎる。だが、一重に未練を断ち切り、彼は歩みだす。

 

「ボクは、貴女といやらしい接触をしたいし、何なら子供だって作りたい。そして、一緒に……幸せにだって、なりたい」

 

 男の子は本音を、呟く。いやらしさがそこにあろうが、どうした。接触に不理解こそ当たり前、不快こそ本来であるのならば、なればこそ優しくあろうと願うのだ。

 そう、まひるは朝茶子を、愛したかった。投棄された陶器に対するものではなく、ただ美しいばかりのバカで過ちばかりの女の子に、恋したのだから。

 守りたい。そう、それは翻せば。ずっと共に有りたいということではないか。

 

「背負うよ。朝茶子さんが悪いと言われたらその人に頭を下げるし、何だったらもう頭を上げずにずっと居たっていい」

「どう、して?」

「どうしたって関係ない。ボクは、朝茶子さんがそれくらいに、好きなんだ」

 

 笑顔。それは、誰のためでもなく自分のため。笑ってしまうほど、彼女が人であったからこその暗い喜び。

 そして、人を刺すほどの割れ鍋には、自分のように歪んだ綴じ蓋がお似合いだとまひるは思ってしまったのである。

 やがて真っ当に、魔性の美に恐れ入らず、少年は前を向く。そして、綺麗なばかりが取り柄の何もなしは、狼狽えた。

 少女/悪鬼は、本当に幸せになってしまっていいのかと、怯えきって、叫んだ。

 

「あたしは、あたしは!」

 

 そう、歩みだすにまずは自己確認から。それから右見て左見て、進むのだ。

 それを忘れていたのに、今更朝茶子は気づいた。そう、自分がどうなりたいか、少女は考えずに停止していたのだ。

 ただ周囲に不理解の視線ばかりを向けて、そうして汚れずただ一人ぼっち。しかし、その前に手は伸ばされた。

 抱きつく子供。叱る大人。恋する男の子。そんな人達の前で、果たして変わらずに居られるのだろうか。

 

「あたしが悪かったんだって、思えるようになりたい……あたしが、間違っていたんだって、悲しみたい……」

 

 朝茶子は、そう言う。自分が醜いのだと思い、人間みたいになりたいと、そう思って。

 一人ぼっちは寂しかった。ただそれだけの真理こそが、止まって終わっていた少女を動かす。

 少年院で強かに殴られようともへらへらとしていた朝茶子は、酷く辛そうにして、美貌を歪ませた。

 

「だから、誰かその時まで見捨てずに、あたしと一緒に、いてよぉ……」

 

 それは、本音。誰かのためと勘違いして大罪を背負った彼女は皆へと手を伸ばして。

 

「痛っ!」

「朝茶子さん!」

「おねーちゃん!」

 

 飛んできた何かにより額から血を垂れ流すこととなる。

 心配に近寄る子どもたち。反して投石という攻撃が飛んできた方向へ構えた大人は、見つける。

 

「はは、ざまあみろっ!」

 

 今は亡き我が子のために人殺しになりたがっている女性。大家である片桐本家の目から逃れるように、場末の探偵雄三へ朝茶子捜索を願い出た張本人は、美人だったはずの顔を怒らせて、鬼となっていた。

 実際鬼母であって、真夜を捨て鉢にさせた張本人であるが、そもそも鬼に道理なんて関係ない。どうでも良いものだけれど失くしたから、それを奪ったものを許さない。

 そして恨みは次第に大きくなる。そんなことで、彼女は朝茶子を害するモノと化していた。

 

「あんたか、片桐宵(よい)さん……やっぱり、あんたは本当の親じゃなかったか」

「そうよ。あんたは私のこと母親と間違えたけど、本当の所は叔母。まあそんな人でなしと少しでも血がつながっていると思うと怖気がするけれどね!」

「っ、くぅ」

「おねーちゃん、おねーちゃん!」

 

 血を大いに零す朝茶子は、そんなに好きではなかった人を赤の中から見上げる。

 一度も自分を可愛がってくれなくて、自分の息子をすら愛さなかった見下げ果てた人間を認めた。人間原理、いや自己原理を信じるような自己中心は、思い通りにならない少女に苛立ちの視線を返す。

 かもしたら朝茶子に匹敵する程の美だったかもしれない、未だ中身なしは、言うのだった。

 

「前々から、私はあんたのことが嫌いだった! 綺麗なだけでお高く止まって、綺麗なだけで幸せそうで」

「……止めろ」

 

 大人の暴走を止めるのは大人だ。そうでなくても、聞いていられない身勝手な言葉に、雄三は低い声を出す。

 血を流して心痛めている筈の少女に、これ以上醜いものを見せるのは酷だ。たとえ、自業自得だとしても、重すぎて。

 しかし、人の心なんてどうでもいい宵は、踏みにじるのだった。嫌いで嫌いで、どうしようもないから。彼女は、鏡に映る人影を苦手としてろくに見ることも出来ないタイプだった。

 

「だから、あんな子供を殺して嫌われるようになってすっとしたのに……どうして、人殺しがまた幸せになろうとしてんだよ、冗談じゃない!」

「止めろと言っている!」

「近づかないで!」

「っ!」

 

 そして、宵は鞄から包丁を取り出し、それを瞬く間に剥き身にしてから人に向ける。

 手出ししたらどうなるか。その柳眉の怒り具合で、刃物を持ったまま暴れるだろうことがその場の誰にも想像が付いた。

 思わず手を拱く雄三。その間隙に、宵は決して言ってはならないことを口にする。そう、それは少女の生まれながらの罪。彼女の嫌いの始まり。また朝茶子という人間が大事にされ過ぎた理由でもあった。

 

「死ね、死んじまえ! お前なんて生まれるべきじゃなかったんだ! お前なんて姉さんの命を食って生まれてきたクズじゃないか!」

「あ、ああ……」

 

 知っていた。だが、忘れたかったそんなことが、今更こんなに鋭くなって返ってくるなんて。

 朝茶子は、震える。膝に力を失う。全身を闇が覆ったかのようなそんな心地がして、たまらない。

 そう、朝茶子は母が命の代わりに生んでくれた命。そうであるのに、命を無残に毀損した、最低。クズですらない出来損ないだった。

 だから、だから。死にたくなった。終わりたくなった。過去はあまりに暗く、眼前は闇。胸ばかりが張り裂けそうで。

 だからこそ、ぎゅっと縋るように美雨を抱きしめた彼女を、支えるものがあった。感じるのは普通一般の、温かみ。

 それは勿論まひるで、真っ先に凶器持ちの暴漢に反駁したのも彼だった。

 

「だからどうした! お前が幾ら嫌おうとも、彼女が幾ら罪深かろうとも、朝茶子さんが幸せになることには何の関係もない!」

「なんてこと……あんた私に逆らうの? こんなのにたぶらかされて、どうしようもない餓鬼ね!」

 

 分からなくて、どうでもいい。そんな心地ばかりが占めているものが、宵だった。

 故にどんな思いやりだって通じ合えない、繋がらない。むしろただ、意味を感じない騒音に激する宵。

 果たして、朝茶子と比べてどうしようもないのはどちらだったのだろう。彼女は喚き散らしても何の意味を披露することもない。

 

「旦那、いやあいつだって最後まで私の言うこと聞かなかった! 私のために生きれば幸せなのに。どうして! ああ、ああ。ムカつくっ!」

 

 そして、前にばかり感情を向いていた宵の背後はがら空きだった。だから、走り寄るその足音にも彼らの驚きにすら気づかない。そのためにやけに簡単だったと思いながら、少女は言う。

 

「ほい、っと。まひるが言ったのはそういうことじゃないんだが、まああんたみたいなのには分かんないか」

「な、ぐぅっ……痛い、や、止めて! 止めなさい!」

「ちょっと捻っただけでこれか。ダメな奴ってのは本当に、痛みに弱いんだなあ」

「夕梨」

 

 彼女が醜いばかりに太いのには、理由があった。柔道に長じていたというそれだけの便利で、夕梨はいとも容易く宵を拘束する。

 カラン、と出刃包丁が地をえぐり損ねて甲高い音を立てた。それを、真っ先に駆け寄った雄三が安全方向へと蹴り飛ばす。

 

「あ、ああ、痛い! 痛いわっ!」

「危ない危ない……っていうか、危ないからって女子高生よりも手出しが遅くなっちまうとはな……後付けさせちまったことといい、大失態だ。罪滅ぼしといっては何だが嬢ちゃん、この女は俺が預かるよ」

「そんな、私を物みたいにして……痛い!」

「動くな……あんたは?」

「ただの駄目な探偵だ。ただ、機械は得意でね。録音とかはほら、何時でも出来るくらいには色々と扱える」

『死ね、死んじまえ! お前なんて……』

「なぁっ!」

「これは……そうか。少しは頼りになりそうだ」

 

 人の言葉を聞き取る職業に、録音機器は欠かせない。そんなことを知らない宵は、自分の発言が録られていることに驚く。

 だが初対面の二人は彼女を他所に滞りない会話をしてから、騒音のもとを受け渡す。きゃ、と言った宵を雄三は問答無用で連れて行く。

 大柄の隣で去りゆく華奢な背中。大事なハンカチを紅くしながらそれを見送りかねた朝茶子は声を張った。

 

「おばさん!」

「っ、な、何よ……」

 

 振り返ったのは、自分が悪いと思ったわけでなく、どう仕返しをされるか恐れたがため。だから決して、宵は朝茶子を認めた訳ではなかった。

 けれども、朝茶子は彼女の視線に険が失せていたことを喜んで、こんなことを言うのだ。

 

「あたし、死ぬよ!」

「はぁ?」

 

 それはまるで自殺宣言。それを、あまりに朝茶子は楽しそうに言った。

 衝撃にひび割れ欠けている彼女は、だがしかし活き活きとして続けるのだ。

 

「何時か、あたしが悪かったんだって死んであげる! ただ、それは今じゃないんだ。ごめんね!」

「はぁ……」

 

 本気の謝罪に返ってくるのは、溜息。似ているが二人は違う。どうしようもないと宵は思う。

 元より交わることは出来ず、故に意見は交換できない。だが、それでも向こうは向こうなりにこちらの意見を汲んだ。ならば、とようやく彼女は認めるのだった。

 

「なら仕方ないわね」

 

 昼空の下に、夜顔が咲く。不釣り合いにも、それは朝顔と並んで映えた。

 はじめて、朝茶子の前で笑んだ彼女はやっぱり、群を抜いて美しく。だからこそ誰にも勿体ない代物として染まれず、何にもなれなかったのかもしれなかった。

 そして朝茶子と対する無垢とはもうこれっきりな程に離れてゆく。どうしてだかそのことを深く深くも悲しんで。

 

「ごめんなさい」

 

 ぽろり、と少女は涙を流した。それは、輝きとなって、やがて少年の手元で露と消えるのである。

 

 

 額には、傷が出来た。美しさを損ねるそれは、醜くかさぶたとなってしばらくそこに鎮座するだろう。

 だが、今宵においてそんな無聊は無意味と帰する。暗がりは、割れを隠してその身の白のみを浮かび上がらせるばかり。

 美しき痩身は、何よりも綺麗なままに、夜風になびかれながらそこにあった。

 保護者と保護者が深く会話している合間に抜け出した朝茶子は、予感に胸踊らせながら、渓合に来てはじめての土地に舞い戻る。

 無闇を切り裂くライトの群れが通り過ぎるのに感慨抱くことなく、彼女は夜の海岸へと歩を進めた。そしてどすんとその場に腰を降ろしてみる。またまた、偶々によって角張った石塊を避けられたことなんて、知る由もなく。

 完成には未だ少し。その前で傷物になった磁器はただそのことをすら良しとして、男の子の登場を待つのである。

 はじめて愛して欲しいと思った人。見初めた、愛という名の普通。それが駆けつけてくれることを、乙女は願うのだった。

 やがて、願いは叶う。瞬きの星々に抱かれながら、二人は凹凸に溢れた海の側にて再会する。

 

「こんばんは、まひる君」

「はぁ、はぁ……こんばんは、朝茶子さん。美雨ちゃんに言われてここに来たけど……どうしてお父さんの迎えを嫌ってこんなところに……」

「それはね」

「わ」

 

 衣擦れの音。立ち上がった朝茶子は衣服を脱ぎ捨てる。白いワンピースは足元に縮まり、全身は殆どが晒された。

 そして、胸元のそれもまた、顕になる。左胸を裂くかのように引かれた、傷痕。一度彼とともに死のうとしていた彼女の行為の名残が、そこにあったのだった。

 天蓋の美しさを惜しくも地に貶した朝茶子は、訊く。

 

「あたしは、傷物。それでも良いか、あなたに聞いてみたかったの」

「うん、平気だよ。それでいいんだ。ボクは、朝茶子さんがなんであっても関係ない」

「そう?」

 

 首を傾げる、全裸の美女。それにいやらしさどころか、下も脱ぐ必要あるのかな、という間抜けの心配をしている自分に、まひるは少し心配を覚える。

 だが、それでも間違いなく思えたことを、彼は話してあげるのだった。

 

「だって、ただ一緒に幸せになりたいだけだから」

「そっか」

 

 一歩二歩。砂の上に足跡がどんどんと続いていく。その様子を、朝茶子は逃げずに認めた。やがて抱き留められて、彼女の逃避はここに終わるのだろう。

 恋は終わるもの。愛は残さず消え去るが然り。だが、それでも願うならば。一時でも幸せであれと、そう想うのは間違いないだのだろう。

 そして少年は、少女が少女でなくなりやがて塵と消えてしまうまでの幸せを、望む。それだって、当たり前のことだった。

 

 至極美しき、白骨屍体。かちかちと、おばけの少女は言う。

 愛されるために生きたい、と。

 だから少女は汚くも、生きることになった。

 それだけの、アンハッピーエンド。

 

 




 ここまで読んで頂けて、嬉しいですー!
 どうもありがとうございます、お疲れ様でした!

 中身がないを言葉で装飾してみせていたのに無理に意味を作ろうとしたら、それはもう半端なものが出来て然り。見直したところ、なるほど勉強になりましたー。
 そんな作品ですが感想評価頂けると、とても嬉しいです!


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