輪廻変生 (猗窩座ァ!)
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輪廻の先

 

表面的な煌びやかさとは対照的に悍ましい欲望の蠢く地、平安京。藤原氏が摂関政治により隆盛を誇る時代に、その者は生まれた。以後千年もの間、人を食らいながら現世を彷徨う(かいぶつ)となる未来が待つ一人の()が。

────その名を、鬼舞辻(きぶつじ)(あい)といった。

 

 

 

 

 

 

はて、これはどういう事だろう。

 

幼子にすら届かぬ赤子の身で、その身に似合わぬ思考をつらつらと並べ立てる。それもその筈、成人には至らずとも科学の発展した世界で相応に年月を重ねた精神が不思議な事に宿っているのだから。

未熟だからか聴こえ辛い声をなんとか聞き取り、『平安京』『藤原氏』などの妙に聞き覚えのある単語を拾いつつ、一年ほどかけて自分の置かれている現状を理解した。

 

どうやら転生したらしい。しかも過去に。

 

今世の名は鬼舞辻穢。中々に物騒な名字だし、名前の漢字に至っては『けがれ』とも読む。少なくとも人名に使う漢字ではあるまい。今世の両親の感性を疑わざるを得ない。

今の時代は平安時代。丁度摂関政治の最盛期付近のようで、かの藤原道長の名も時折漏れ聞こえている。鬼舞辻家は血筋的には傍流のようで、主流である産屋敷家が藤原家と縁故を繋いでおり、その縁で鬼舞辻家も利益に与っているらしい。結果として産屋敷家に頭が上がらくなってしまっているのが目下の課題のようだ。正直穢の知った事ではない。

 

が、年を経る毎に問題が浮き彫りになった。とても病弱なのだ。それも床から半身を起こせれば調子が良いという有様。普段はずっと咳き込んでいるし、しばしば吐血する。肌も弱い為に日光に当たれず、健康だった記憶を持つ穢としては苛立ちが募る。健常な身体を知るからこそ、不満はより大きくなった。

それに、静かな部屋で耳を澄ませていれば聴こえてくるのだ。口さがない下女や下男達の嘲弄を含んだ声が。

 

『姫様は長くないんだって?』

『確かのようです、前に来た薬師が旦那様にそう告げていたのを聞いていたのだとか…』

『二十を数えるかどうか…』

『出産と引き換えに奥方がお亡くなりになられてから()()がつき始めた』

『姫様は呪われておられるのかもな』

『旦那様は姫様を気にもかけないとか』

『それにしては頻繁に医師を呼んでいるが』

『病弱の一人娘に手を尽くさぬと囁かれては、外聞が悪かろう』

『呪われた一人娘というのも外聞が悪かろう、然程違いはあるまい』

『それもそうだ』

 

この家に味方など一人もいない。誰もが遠巻きに見るか、消極的に殺しにくるかの二択であった。周囲全てが敵だと判断しなければ、やってられなかったとも言う。親からすらも疎まれるのは心に刺さるものがあった。

乳母でもあった老女がある日から毎日持ってくる、薬湯と説明されたモノは口に含むと舌が痺れた。毒だと判断し、吐き出した血を溜める桶の中に新たな血とともに吐き捨てた。

周囲への敵意を段々と隠さなくなった穢に対し、周囲の嘲笑と殺意もまた露骨になっていった。

穢を頑なにしたのは、産屋敷家の人間が穢を見て吐き捨てた言葉が決定打だっただろう。

 

『使えんな』

 

いつの時代も、権力者が基盤を固めたり人脈を広げるのに用いる最も簡単かつ有効的な手段は政略結婚である。その延長線上として求められるのは、双方の血を継いだ子供だ。互いの血を混ぜる事で関係を強化し、他人から身内になる。特に血筋が重要視された時代、時の権力者達は神経質な程に血筋に拘った。それこそ藤原氏など血筋によって権力を固めた好例だろう。

血を継いだ子供を求めているのに、母体となる女が病弱では話にならない。妊娠・出産という難事に体が耐えきれないからだ。まして先が短いと医師から宣言されてすらいる。

故に、穢は使()()()()

 

家という視点から見れば妥当な判断ではあるが、その言葉から穢と周囲の確執は深化した。最早誰も信じられぬとばかりに周囲を拒絶した穢と、使い物にならないと穢を排斥した周囲。その溝は最早埋められない程のものとなっていった。

 

盛られた毒を血と共に吐き出し、刻一刻と迫る死に怯えながら床に伏して他者を拒絶する毎日。そこに一人の医者が訪ねてきた。どうか治療をさせてくれ、と自ら頼み込む変人であった。その頃には穢の病は不治のものであると知れ渡っており、父が医師を呼ばなくなった事もあって治療しにくる人間などいない有様だった。が、報酬もないのに治療しようとする奇人の類は居たらしい。いくつもの薬を試し、時にはどこから仕入れてきたのかと聞きたくなる程に珍しい薬を持ち込んできた。しかしやはりと言うべきか一向に体調は改善しない。そこで医師は、やや躊躇いがちに一つの薬を取り出した。

聞けばこの奇特な医師が独自に調合した薬で、いまだ試作の段階かつ効き目があるかは分からないという。どうせ長くない身。死んだとしても誰も悲しまないからと、穢はその薬を口にした。

 

次の日から効果は現れた。

 

一日目。血を吐かず、身体を起こせるようになった。胸のあたりに淀んでいた不快感もさっぱりと消え去った。

二日目。寝たきりだった為に骨と皮ばかりだった身体が、心なしかふっくらとしてきた。爪や一部の歯が妙に伸びた。

三日目。見た目の肉付きはほぼ常人と変わりなくなり、己の足で立って歩けるようになった。食欲がしっかりと湧き出す。

劇的な変化である。そして四日目。効果の程を見に訪ねた医師は我が事のように喜び、腹を空かせている穢の為に食事も用意した。

検診のために横になりながら、穢は考える。

 

腹が空いた。何処からともなく良い匂いがする。部屋の中の食事ではない。外から漂っている訳でもない。ならば何処から────。

 

穢の突然の身じろぎで手元が狂った医師の手が、握っていた刃物で薄っすらと傷付いた。そこから僅かに流れ出した血の匂いが穢の鼻孔を擽り────

 

 

 

 

 

────ふと気が付けば、穢の目の前は真っ赤に染まっていた。鉄錆びた匂いが辺りに立ち込め、所々欠けた屍が血溜まりの上にぷかぷかと浮いている。常人ならば吐く光景を目の当たりにして、穢が覚えたのは嫌悪ではなく食欲だった。無造作に屍の腕を捥ぎ取り、齧り付く。花を手折るが如く人体を引き裂いた筋力は正しく人外のもので、血肉の甘美な味を堪能しながらも、穢はそれ程の力を発揮した己に純粋に驚いた。

 

衝撃でずれたのか、僅かに開いた隙間から夕日がかすかに部屋に差し込む。その光に言いようもない恐怖を覚え、穢は大きく後ろに下がった。分かるのである、陽の光(これ)が己を殺すモノであると。今しがた食い殺した医師が用意していた食事を美味しそうと思えなかった事から、人を食らう必要がある事は分かった。それは別にいい。いずれ人間は一秒に四人生まれて二人死ぬようになる。今となっては人を食うのに忌避感はないし、世界的に見て人口の収支がプラスなら人類(たべもの)が絶滅する事もあるまい。

だが、日に当たれないという事実は穢の不快感を大いに刺激した。まさか苛立ちのままに日輪に殴りかかるような真似が出来るはずもなく、晴らされない不快感は常日頃の怨嗟と容易に結びついて周囲への殺意と化した。

 

乳母を殺した。どこか憐れむような目が不快で、その瞳ごと一息に頭蓋を踏み砕いた。

父を殺した。一瞬で手足を吹き飛ばされ達磨のような姿で転がった父は涙を一筋流し、すまない、と小さな声で謝った。今更命乞いかと嘲り、無様な姿を嗤いながら頚を引き千切って殺した。

この二人には食らう価値すらない。骸は捨て置き、騒ぎを聞きつけ集まり始めた者達をおしなべて腹に収める事を決めた穢は唇の端を吊り上げた。

 

 

 

 

 

かちゃかちゃと金属が擦り合う音がする。侍が戦意を示すように刀を抜き、しかしその意に相反する恐怖から体を震わせているのだ。その様を、誰のものかも分からない腕を齧りながらつまらなさそうな目で穢が眺めていた。穢の足元には、威勢良く穢に斬りかかっていった者達の成れの果てが転がっている。全て侍の同僚で、剣の腕を誇っていた者達だった。そんな彼らは穢の虫でも払うような腕の一振りで例外なく肉塊と化した。

 

「ひ、人の、人の所業ではない……この、悪鬼め……!」

 

搾り出したような声だった。その声を耳に入れた穢の目に興味が宿る。まるでたった今、ようやく侍という個人を認識したかのような反応に、侍の皮膚がぞわりと粟立つ。

 

「ふむ、悪鬼……鬼、鬼か」

 

ゆったりとした動きで一歩一歩静かに歩み寄る穢の姿に気圧されるように、侍が一歩ずつ後ろに下がっていく。侍が瞬きしたその瞬間、穢は音もなく詰め寄って侍の頭を鷲掴んだ。ひいい、と悲鳴をあげながら刀を振り回すが、斬ったそばから血が流れ出る間もない程の速度で穢の身体が癒えていく。切れ込みの入った服が、確かに斬ったのだという事実の残滓を僅かに残すばかり。

 

「────良い呼び名だ」

 

ぐしゃり。

生々しい音を残し、侍の頭は無数の肉塊となって消し飛んだ。

以降悲劇を振りまきながら千年の時を生き続ける始祖の鬼・鬼舞辻穢の誕生だった。



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産屋敷

食らい、食らい、食らう。人を食えば食う程に己の力が増すのが分かる。鬼と化しておおよそ十年、穢は自身の身体についての理解を深めていた。

血を与えることによる眷属の作成、その血に刻み込む“呪い”、害となりうる藤の花、多くの人間を食らう事で発現する異能“血鬼術”。致命的な弱点こそあれど、その力は極めて多様で強力だ。

 

今の穢は、至上命題である太陽の克服を成す為の方策をある程度固めていた。医師の持っていた資料によれば、穢に投与された薬は未完成であったという。欠けていた原材料は“青い彼岸花”。その名称以外は一切が不明の謎の原材料を探すと共に、血を与えた眷属を増やしながら太陽を克服した突然変異体が生まれることを待っていた。正直に言って、穢はあまりに情報の少なすぎる青い彼岸花が見つかるとは思っていない。特異個体の発生と確保、その吸収を画策した方がまだ可能性がある。

 

今は鬼を増やし、()()に放り出して有力な手駒やイレギュラーの発生を待つ段階である。無論、穢自身も無数の人間を食らって力をつける事を忘れない。

呪いの一部として施した位置把握の能力によって、鬼達が満遍なく分布している事を確認できた。未だ範囲は狭いが、ここから穢の行動範囲の拡大と共に鬼そのものの勢力範囲も広がっていくことだろう。なにせ、人が鬼を殺す術は極めて限られる。頚を斬ろうとも八つ裂きにしようとも死なない鬼は、日の出の時間と藤の花にだけ気をつけておけばいい。逆に人間は、数倍の膂力を誇る鬼の一撃をまともに受けるだけで命の危機に陥る。その優位は大きい。事実、穢が鬼となってから作り出した眷属達は未だ一体も欠けていない。

 

ただ、不安要素が一つ。産屋敷────あの忌々しい一族が、穢やその眷属である鬼を追っているという情報が割と早期から耳に入っていた。今はただ鬼に突撃してはほぼ全員食われ続けているようだが、情報が集まればいずれ対抗策を考え出してくるだろう。藤の花を用いた毒か、夜明けまでの拘束か、或いは他の何かか。眷属を通して見た鬼気迫る様子からして、まず諦めまい。

 

「いやはや、しかし本当にうざったい」

 

戯れに、足下に転がる男の腹を虫を摘まみ上げるが如き繊細さを以って踏みつける。それなりに気を遣った力加減のお陰で男は死なず、代わりに激しく血痰混じりに咳き込みながら気絶から回復した。

最近、今しがた踏みつけた男のような者が増えている。彼らは穢が増やした鬼や穢自身が食らった者の血縁者や友人だ。全くもってご苦労な話である。穢からすれば食事が自分から雁首揃えてやってきてくれるのだから、特段文句はない。

 

「鬼舞辻め、父の仇め、人の世を乱す悪鬼め、その悪業の────」

「煩い」

 

ぱん、と男の頭が弾け飛んだ。それを見て穢は顔を歪めた。産屋敷の事を一通り喋ってもらってから殺そうと思っていたのだが、喧しくてつい殺してしまった。

 

「こういう短気な所は直さねばな。いつか足を掬われそうだ」

 

人であった頃に十二分に抑圧されたから我慢などしたくないのだが、流石にそういう訳にもいかない。反省反省、と内心で(おど)けつつ、男の屍肉を口に運んだ。

 

 

 

 

 

産屋敷。

ほんの十年程前までは宮中の中心近くに居た一族の名である。彼らが闇に潜む鬼を追うようになったのは、ある一人の人物に端を発する因縁がきっかけだった。

鬼の始祖、鬼舞辻穢。かの悪鬼は産屋敷の傍流の血筋を汲む一人。己が一族に連なる血より穢のような怪物を生み出してしまったが故に産屋敷一族は呪われ、生まれてくる子供は(ことごと)く病ですぐ死んでしまうようになった。次代の不在によって一族がいよいよ断絶を目前とした時、神主からの助言が下った。

 

────血筋から出た鬼を倒すため、心血を注ぎなさい

 

産屋敷にとって、その言葉は天啓にも等しかった。その言葉を拠り所とし、産屋敷一族は鬼の首魁にして始祖たる鬼舞辻穢を追い、そして殺す事を悲願とする組織────のちの鬼殺隊となる組織の原型を作り上げた。惜しげも無く私財を投じ、時には己が命すらも自ら(なげう)って。

現状、鬼の生態はそのほとんどが謎に包まれている。分かっているのは人を食う事、頚を斬ろうと四肢が千切れようと死なず再生する事、何故か夜にしか活動しない事である。血族より原初の鬼が現れてから十年が経ち、今なお手元にある情報は少ない。鬼に殺された人々の遺族が組織の新たな人員として参入する為に組織の崩壊には至っていないが、死者が多すぎて人手不足は常に深刻だ。首魁の鬼舞辻穢どころか末端の鬼すら未だに殺せていない。産屋敷一族は呪いを和らげる為に神職の一族より女性を娶り、しかしそれで漸く次へと繋ぎうるという有様。不死身の配下を実質無尽蔵に増やせる鬼舞辻とは雲泥の差がある。

 

それでも産屋敷は、組織の構成員は、遺族達は繋いでいくのだ。例え何年、何十年、何百年掛かろうとも。いずれ鬼舞辻の命に報復の刃を届かせる、その瞬間まで。



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各々の備え

 

都合、六百年。それが今まで穢が生きてきた時間であり、そして同時に産屋敷が穢を始めとした鬼に追い縋ってきた時間でもある。

いい加減しつこい。六百年もの間穢の追跡を逃れ、末端の鬼を地道に朝日で焼き殺してきた連中である。その努力と執念は穢も認める所だが、粘着される側としてはやってられないというのが本音だ。たちの悪いストーカーが徒党を組んでいるのだろうか。そう考えるとさしもの穢も些か気持ちが悪い。

それはそうと────

 

「日輪刀、ねぇ」

 

手の中にある刀をくるくると弄ぶ。日輪とは、また大きく出たものだ。穢には通用しなかったが、少なくとも眷属の鬼達には効果的らしい。この刀で頚を斬ると、鬼は死ぬ。穢はこの刀を見た時に藤の花や日光に感じたような、言葉にできない本能的な忌避感を覚えなかったので敢えて受けてみた。普通に再生出来たので、あくまで眷属にしか通用しないらしい。日輪刀の有効性を認識した時点で、一応今存在している全ての鬼に呪いを通して注意喚起を促した。知ってさえいれば問題はない。人の身では鬼の身体能力には太刀打ちできないのだから。

ただ、もしも。鬼に比肩しうる身体能力を持つ人間が現れたなら。あるいは、そのような身体能力を発揮する方法が現れたなら。

 

「……安全策は用意すべきか」

 

先ずはより多くの鬼を作らなければ。そしてそれらが血鬼術を発現させるのを待ち、その能力を確認すべきだ。もしその異能が安全の確保に有用ならば────他の捨て駒(おに)とは明確に一線を引き、重用する事も視野に入れねばなるまい。

考えを纏めた穢は、踵を返した。びきびきと軋むような音を立てて穢の指に無数の血管が浮く。素体となるべき人間を求めて、始祖の鬼は夜闇へと姿を消した。

 

 

 

 

 

産屋敷は歓喜した。

これまで、鬼の弱点は非常に限られていた。すなわち、日光か藤の花である。このうち藤の花は人間にも毒性があって扱える人間に制限がある上、多くの人を食らった鬼は藤の毒を個体差こそあれど分解してしまえる。

残るは日光だが、そんな事は鬼も承知の上。捕まりそうになったり夜明けが迫れば躊躇なく逃走を選ぶし、捕まったとしても血鬼術なる異能によって脱出する鬼も決して珍しくない。

 

そんな中、鬼を殺せる第三の手段が見つかった。太陽に最も近いと言われ、一年中陽の射す山とも呼ばれる陽光山。そこで採掘される猩々緋砂鉄(しょうじょうひさてつ)猩々緋鉱石(しょうじょうひこうせき)は太陽光を吸収するという性質を持ち、これらで打たれた刀で以って鬼の頚を斬ることで鬼を殺せるのである。ただし鬼の頚は岩のように硬く、更には人を食らえば食らう程にその硬さは増す。原初の鬼たる鬼舞辻の頚の硬さなど想像を絶するだろう。日輪刀はあくまで刀。力任せでは折れてしまうし、そこまで硬いとなると技巧で補うにも流石に限度がある。課題はまだまだ多い。

 

鬼を殺す手段は得た。後はその手段を活かす為に必要なものを積み上げていくまで。ひたすらに鬼に狩られ続けた今までとは違う。これからは人が鬼を狩るのだ。そしていずれは先人達の悲願を────。

 

 

 

 

 

穢は歓喜した。

これまで、穢は一カ所に留まるということをしなかった。老いず、朽ちぬ不死の肉体。それは素晴らしいが、人に紛れるという点には適さない。姿を自在に変える事は容易いものの、いつまでも死なぬというのはおかしいし、日中に外に出てこないというのも周囲の不信を掻き立てるだろう。隠れ家を複数有してはいたものの、腰を据えるべき地がないというのは何かと不便だった。各地を回る移動時間も決して短くない。完全に無駄とは言わないが、それでもやはり大幅なロスではあった。

 

そんな中、ある一体の鬼が穢にとっての光明となった。鬼としては珍しく闘争を好まず、力を欲さず、しかしそれ故に賢しく隠れ潜んで人を食らい、着実に力を蓄えた女の鬼。発現した血鬼術は空間を操作するタイプのもので、異空間を管理するという一際異質かつ強大なものだった。襖を介する事による長距離の転移を自在に行い、和風建築の要素を無節操に継ぎ合わせたような異空間を意のままに組み替え操る。

 

その力は、まるで誂えたかのように穢が欲していた能力そのもので。その鬼を呼びよせ、手ずから『鳴女(なきめ)』という名を与え、己の側近として重用した。余分な思考を差し挟まない、物静かで従順な性状であった事も一因である。神や仏など塵程も信じていない穢だったが、この日この時ばかりは心からの感謝を神仏に捧げるに吝かでないと感じる程には、穢の心は晴れやかだった。

 

穢が鳴女という有用極まりない配下を獲得した数年後。細胞にまで深く刻まれる程の強烈な恐怖とトラウマを与える男がこの世に生まれ落ちた。

 

始まりの呼吸の剣士、継国縁壱(つぎくによりいち)。単独で始祖の鬼・鬼舞辻穢を討伐一歩手前まで追い込んだ正真正銘の()()()()()である。



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継国巌勝

 

鬼殺隊。

六百年に及ぶ歴史を有する、人を食らう人外の魔性たる鬼に抗い戦う為の組織である。鬼殺隊の歴史とは即ち、鬼との死闘の歴史。これまでに積み上げてきた無数の犠牲の結晶であり、その犠牲の背後にある更に多くの悲劇の証明でもある。

鬼殺隊が鬼殺隊として機能し始めたのは、実はそう昔の話でもない。というのも、鬼の死ぬ条件が非常に少ないからだ。日の光を浴びるか、藤の毒を大量に摂取する事。近年そこに日輪刀による頚斬りが加わったが、人と鬼の身体能力の隔絶した差や鬼特有の異能である血鬼術は埋めがたい溝として依然横たわっていた。

 

その溝を埋め、人と鬼の戦いを成立させた技術を『全集中の呼吸』という。そしてその呼吸を伝えたのが、始まりの呼吸である『日の呼吸』を扱う剣士────継国縁壱だった。

 

全集中の呼吸の存在は、欠けていた最後のピースを埋めた。人でありながら鬼と伍す身体能力を発揮しうる全集中の呼吸と、頚を斬ることで鬼を殺す事を可能とする日輪刀。また、日輪刀は全集中の呼吸をある程度修める事で己に合う呼吸を色で示すという特殊性を有することが判明した。縁壱はそんなものがなくとも的確に適性と一致する呼吸を他人に教授出来たが、縁壱でなくとも教える事が可能になったのである。鬼殺隊の戦力増強は加速度的に進んでいった。

 

鬼を次々と討つ日々の中、しかし浮かない顔をする人物が一人。継国縁壱の双子の兄、継国巌勝(つぎくにみちかつ)である。複雑な感情を向ける先は、双子の弟。

 

 

 

 

 

────巌勝は武家の一つ、継国家の長男として生まれた。

双子の縁壱は生まれた時から額に不気味な痣があることから忌み子として扱われ、父親に殺されそうになる。しかしそれに怒った母親のおかげで十才で出家することを条件に生き永らえた。

武家の跡継ぎとして、巌勝は恵まれた環境で教育を受けた。それとは逆に環境を始めとしてぞんざいな扱いを受け、 母離れが出来ず常に母の左脇に寄り添っていた弟を巌勝は哀れみ、父の目を盗んでは遊びに行き、自作の笛を渡すなどしていた。

 

縁壱は笑うことがなく、七才になるまで耳が聞こえないとさえ思われていた。しかしある時、音もなく松の影に立っていた縁壱は「兄のようになりたい」と流暢に喋りだした。巌勝は彼に初めて気味の悪さを覚え、それでも「命をかける侍に母親にしがみついている奴がなれるはずない」と内心見下しながらも思っていた。

だが稽古を見学するようになり、教えを請うようになった縁壱に父の門下生が戯れに()()()()()()を教えると、 これまで厳勝がいくら挑んでも一発も入れられなかった父の門下生に()()で四発叩き込んで失神させるほどの才を見せた。

 

今まで哀れんでいた相手が実は己より遥かに優れていた現実を知った巌勝の驚愕と失意は如何程か。その強さの秘密を恥も外聞も捨てて縁壱に尋ねれば、体内の状態から先の先を読む技能────『透き通る世界』に目覚めていることが判明した。

 

正しく神童と呼ぶに相応しい才。格が違う。桁が違う。何もかもがかけ離れている。及ぶべくもない異質の才。

 

失意と共に「この国で最も強い侍となる」夢を諦めかけるが 、その夜に縁壱が現れて母親が他界したことを告げ、このまま寺へ発つこと、 そしてかつて貰った笛を────厳勝にとっては所詮ガラクタ程度でしかないそれを大切にすると告げ、本当に去っていった。

 

そして縁壱が去った後に、亡き母の日記を見ると、()半身が不自由になりつつあり苦しんでいたことが判明する。 縁壱が寄り添っていたのは()()()()()()で────。

事ここに至って、巌勝は初めて全てを理解した。弟は母離れが出来ずに母に寄り添っていたのではない。病で弱っていた母をずっと支えていたのだ。

全てにおいて先を行かれていたことを知った厳勝は縁壱に対して臓腑が焼け付く程の嫉妬を抱き、その存在を心の底から憎悪した。 しかし残した言葉とは裏腹に、縁壱は寺にも行かずに行方を晦ませた。

 

それから十年あまりの間、厳勝は縁壱のことを忘れて妻子に恵まれ、平穏な日々を過ごしていた。 だが野営中に鬼に襲われた厳勝を、密かに鬼狩りとなっていた縁壱が助けた事が転機となった。

十年あまりの間に剣技を極め、非の打ち所がない人格者へと成長を遂げた縁壱を見て再び嫉妬と憎悪の炎が再燃した。縁壱の強さ、剣技。かつてよりも更に洗練され、より鋭さと美しさを増したそれは巌勝を深く魅了した。

 

妻子も、家も。文字通り今までの全てを捨てて必死に縁壱の後を追い続け、やがて他の仲間に倣うように縁壱の額に浮かぶものとよく似た痣を発現させ、全集中の呼吸を学んでいく。 だがそうして身につけた『月の呼吸』も他の者と同じく派生系に過ぎず、未だに縁壱には遠く及ばない。

それでも、年月をかければいずれは追いつくと思っていた────はずだった。

 

────ある日を境に痣を発現させた者が次々と死亡していった。

身体能力を更に強化する『痣』。それはあくまで寿()()()()()()に過ぎない。二十五才に至る頃、その命は失われる。

 

最早掛ける年月もない。鬼を殺せれば、鬼舞辻の頚に刃が届けば、無辜の民を守れれば。そう目的を定め、命を最初から半ば度外視している他の者達とは違い、巌勝はあくまで縁壱の強さに追いつき追い越すことこそが目的。鬼を討つ事、その親玉たる鬼舞辻を討つ事、民を守る事には興味がない。そう、時間────時間だ。巌勝の命とて、あと一年もあるまい。

 

任務を終え、しかし先がない事を知るが故に眠る事も出来ない巌勝は誰にも会いたくないとばかりに真夜中に屋根の上で頭を抱え、(うずくま)っていた。巌勝の口からは同じ言葉ばかりが漏れ出る。残された時間がない、どうすれば、と。

 

果たして、救いの手は差し伸べられた。ただし、血に塗れた悪鬼の手だったが。

 

「────鬼になれば良いではないか」

 

瞬間、跳ね起きた巌勝は日輪刀を鞘から引き抜き、声のした方向へと切っ先を向けた。

そこにいたのは女だ。艶のある長い黒髪を垂らし、赤色の瞳を細め、口元を笑うように吊り上げている。着ている服は黒地に鮮やかな赤で彼岸花が刺繍された着物。瞳孔は縦に裂け、口元から覗く犬歯は鋭く尖っている。そして何より、その身から漂う血臭。今まで巌勝が狩ってきた鬼など比較にならない程に、その身に色濃く染み付いた死の香りだった。

────鬼。それも強大な。

 

「私の名は鬼舞辻穢。原初の鬼だ」

「………やはりか」

 

並大抵の鬼では、ここまで死の気配を色濃く醸し出すことはできまい。背筋が凍る程の悍ましさを感じながら、一挙手一投足全てを逃さぬように見据える。

 

「で、どうだろうか。鬼になる気はないか?鬼となれば、無限の刻を生きられる。傷を負って刀を振るえなくなる事もない。お前は技を極めたいのだろう?私は呼吸とやらが使える剣士を鬼にしてみたい。じきに死ぬお前と利害は一致していると思うが」

 

正直な話、魅力的な提案ではある。他の者ならば決して頷くまいが、そもそも鬼狩りとしての意識自体が低い巌勝は鬼となる事にも特に抵抗はない。

 

「………私は、鬼狩りの一人なのだが」

「私を鬼舞辻と理解した上で斬り掛かって来ない時点で、お前は鬼狩りに相応しくあるまいよ」

 

穢が巌勝に手を伸ばす。その顔は、己の提案が受け入れられない事など一切考慮していない。巌勝が頷くと、確信している顔だった。

 

「私の提案を受け入れるなら、この手を取れ。受け入れないなら、この腕ごと私の頚を斬るがいい。尤も、私の命に届く事は保証しかねるがな」

 

さあ、どうする?

声なき問いに、巌勝は刀を下ろす事で応えた。



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継国縁壱

 

それは満月の夜だった。淡い月の光の下で対峙する、鬼と人。一方は鬼の首魁・鬼舞辻穢。もう一方は呼吸の開祖・継国縁壱。鬼と鬼狩りが顔を合わせた以上、殺しあう以外に道はない。

 

「そこの鬼、名は」

「………鬼舞辻穢。貴様の名は」

「継国縁壱」

「鬼狩りか」

「然り」

 

ただの確認だった。穢は先日傘下に加えた巌勝から縁壱の事を聞いていたし、縁壱は己の特殊な視界によって眼前の鬼が他と隔絶した力の持ち主であると見抜いていた。

縁壱が刀を抜くと同時に、穢も準備として血鬼術を発動させる。しかし縁壱の刀を目に映して、久しく感じていなかった忌避感────命の危機を本能的に感じ取った。

(あか)い色の刀だ。呼吸の適性によって個々に日輪刀の色が異なるのは穢も知っている。初めて見た時は呼吸が無かったからか普通の刀と変わりなかったし、その他にも濃淡の異なる様々な色を見てきた。その中で赤色の刀も見なかった訳ではないが、忌避感を感じた事は一度もない。あの刀は他の色とは明確に一線を画していた。

 

穢が横に全力で跳び退る。瞬間、先程まで頚があった位置を日輪刀の刃が切り裂いていった。避けきれなかった腕が斬られ、血がどろりと流れ出す。再生が遅い。まるで()()()()()()かのように、傷口がじりじりと灼けるような痛みを訴えていた。それでも一秒あれば完全に治る程度のものだが、成る程確かにこれは洒落にならない。これで人間とか嘘だろう。六百年を生きた鬼の始祖の全力を相手に、涼しい顔をして先手を取るなど人間の所業ではない。次が来る前に、穢は血鬼術を行使した。

 

血鬼術・黒暗行(こくあんぎょう)

 

縁壱の視界が黒一色に染まる。音も、匂いも、肌の感覚も、何もかもが閉ざされた。

 

「これは………」

 

血鬼術・黒血枳棘(こっけつききょく)

 

一切の感覚を奪われた縁壱に、有刺鉄線状に変化した穢の血が迫る。単純な殺傷能力は勿論のこと、始祖の鬼の血であるため、この攻撃を受ければ最悪鬼化する。囲い込むように伸ばされた血の棘が、縁壱を串刺しにしようと一息に詰め寄った。

しかし突き刺さる寸前、日輪刀がその全てを斬り捨てる。戦闘開始前に発動させた『心を読む』血鬼術────浄玻璃鏡(じょうはりきょう)で穢が確認した限り、幻惑系の血鬼術である黒暗行はまだ破られていない。未だ縁壱の感覚は尽く封じられている筈。だというのに、さも当然のように黒血枳棘に対応してみせた。勘にしたって鋭すぎる。

 

穢は剣士の善し悪しなどよく分からないが、少なくとも巌勝は優秀だと思っている。その巌勝が自信を失くす程の才気とは如何程かと思っていたが、これは無い。これと比べては、あらゆる剣士が有象無象に成り下がる。剣才など持ち合わせていない穢がそう思うのだから、なまじ優秀なだけに間に広がる差をより正確に理解出来てしまった巌勝が鬼へと変じることを選んだのも理解出来る。この時代、生まれの順は絶対的だった。もし逆の順で生まれていたなら、巌勝は鬼にはならなかったろう。そう思えばいっそ感謝すらしたくなる。

 

縁壱が穢のいる方を向く。その目には何も映っていない筈なのに、視線が交わるような気さえした。

勘だけを頼りに、縁壱は穢と斬り結ぶ。血鬼術による炎弾も、水刃も、雷槍も、何もかもを勘と技量のみで捌き、一つもその身に届かせない。擦り傷にすら至らない。頚への一撃だけは死に物狂いで防ぐも、その度に穢の身体を斬り捨てていく。

やがて縁壱も思考を読まれていることに思い至ったのか────遂に()()を実践し始めた。

 

「(あ、これやば────、)」

 

穢は咄嗟に血鬼術で肉体を硬質化。両腕を刃の軌道を遮るように配置すると共に、全力で離脱を開始した。縁壱の一閃は他の剣士ならば一方的に日輪刀をへし折る程の強度を誇る両腕をするりと両断し、両腕よりも桁違いに硬い筈の穢の頚すら半ばまで断ち切った。

しかし頚を落とすには至らず、穢は今まで受けた痛みとは比にならない強烈な激痛に顔を歪めた。同時に血鬼術の制御が狂い、縁壱の感覚を奪っていた黒暗行が解除される。頚の傷の治りが遅い。口からも血を吐きながら、穢は終始無表情を崩さない縁壱の顔を正面から見据えた。

 

「………何故私の頚を斬ろうとしない?ああ、まさか兄の事が聞きたいのか?」

 

縁壱は答えなかったが、僅かに目を細めたのが穢には分かった。

 

「先に言っておくがな、私は強制などしていないぞ、提案しただけだ………鬼にならないか、とな。応じたのは奴の方だ。人を食ってでも生き延びたいのだと、弟が殺したい程に憎いのだと語ってな………私の血をまるで干天の慈雨を得たかのように啜っていた。お前は奴を人の側に留める(よすが)には終ぞなれなかった訳だ。ここまですれ違うのもいっそ滑稽────!?」

 

()()

ひたすらに無表情だった縁壱の顔が、憤怒に染まって歪んでいる。怒りのままに振るわれた刃が穢に迫り────

 

べべん!

 

────それよりも早く、琵琶の音と共に虚空から現れた襖の奥へとその身を滑らせ、穢は姿を消した。

穢は瀕死だった。普段の縁壱であれば、あの襖が現れるよりも速く穢の頚を断てた筈だった。

継国縁壱の双子の兄・継国巌勝、或いは頂点に至る為に全てを捨てた悪鬼・黒死牟(こくしぼう)。その存在そのものが、始祖の鬼の頚を繋いだ。

 

穢は以降、縁壱の死を確認できるまで鳴女の管理する無限城から出ようとはしなかった。そしてその死が黒死牟によって確定されたのち、その象徴たる『日の呼吸』を滅殺せんと全霊をもって駆け回る事となる。



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十二鬼月

 

穢が鬼へと変じ、また他者を鬼へと変じさせ始めてからおおよそ九百年が経った。死した今なお穢に怨嗟よりも恐怖を抱かせる不世出の剣士・継国縁壱が死んだ後、穢は己が直接指揮統制する最精鋭の鬼を揃える事を計画した。名は十二鬼月(じゅうにきづき)。上弦六鬼と下弦六鬼の計十二体の鬼で、最強は上弦の壱、最弱は下弦の陸である。選考基準はただ一つ、実力のみ。

 

戦国の世より三百年。数多の鬼が生まれ、消えていったが、不動の最強たる黒死牟以外は十二鬼月もこまめに入れ替わる。それはより上位の鬼への挑戦権として用意した『入れ替わりの血戦』による下克上であったり、鬼殺隊による討伐作戦だったりした。現在の十二鬼月は、下弦はともかくとして上弦はかなり粒揃いなのではと穢は思っている。

 

上弦の壱、黒死牟。説明不要の最強の剣鬼。穢も黒死牟の能力は信用を置いている。どこぞの双子の弟みたいな、チートを通り越したバグが出てこない限りは単騎で葬られる事は決してあるまい。

 

上弦の弐、童磨(どうま)。鬼になる前となった後で性格的な違いが一切存在しない生粋のサイコパスな男鬼。鬼になれば何かしら性格が悪方向に歪むのは穢も知るところだが、変化がないところを見るに、変化する余地がない程性格が歪んでいたと判断すべきだろう。思考を覗けば快不快程度の感情しか窺えなかったので、虫みたいな奴だなと穢は内心思っている。

 

上弦の参、猗窩座(あかざ)。色々と癖の強い連中が揃う傾向にある上弦にあって、実直で忠実な性格な為に扱いやすい男鬼。力を渇望する鬼らしい性質も備えており、徒手空拳による小細工抜きの真向勝負を得意とするなど黒死牟と共通する点も多い。

 

上弦の肆、(あざみ)。藍色の髪の女鬼で、全力を出す為に事前準備が必要な血鬼術を持つ珍しい鬼。準備さえ整えてしまえば、ギミックを見破られない限りは最強と言ってもいいかもしれない。

 

上弦の伍、燐墓(りんぼ)。白髪の男鬼で、他者の悲嘆や苦悶を(よろこ)びとする性格の持ち主。人間の頃からさほど変わっていないので、童磨の同類と言えるかもしれない。その能力は一対多に長けており、性状を示すかのように面倒くさいものが目白押し。嫌がらせならば上弦でも頭一つ飛び抜けているだろう。

 

上弦の陸、堕姫(だき)。能力的には上弦に列するには弱い女鬼だが、融合しその体内で眠る兄鬼の妓夫太郎(ぎゅうたろう)が類稀な戦闘の才を持つ。さほど昔でもない時期に鬼となった兄妹だが、早期に力をつけて上弦に名を連ねた実力者でもある。童磨が自己判断で鬼にしてきた者なので、実は実際に会うまで穢が堕姫達の性格に不安を抱いていたのは秘密にしている。

 

いい加減ころころと人員が入れ替わるのは勘弁してほしい。この辺りでメンバーを固定して、各々に力をつけさせたい所である。この面々が次に入れ替わるのはいつだろうかと考えながら、穢は次の鬼を配置する地を選定し始めた。

 

 

 

 

 

幕末。明治維新と呼ばれる急速な近代化の直前────戊辰戦争の最中に、穢はある屋敷を訪れていた。中に踏み入れば、 屋敷のだだっ広い居間に布団を敷いて床に伏せっている男がいた。一人でぽつんとただ在るだけの様は、穢にかつての己を想起させた。

 

「────何者だ」

「ほう、そんな様でも感覚は鋭いか。………私の名は鬼舞辻穢。お前に聞きたいことがある」

 

誰何の声は鋭く、死を待つのみの身とは思えなかった。そうでなくては、と穢は内心で笑った。

 

「その病、治したくはないか?()()()()

 

男────沖田総司は力なく笑って言った。

 

「この病が治るものか」

「いいや、治るとも」

 

そう、治る。()()()()()、如何なる病も治るのだ。かつて穢がそうだったように。

 

「お前は病を治したいのだろう、沖田総司。病を治して、戦場へと赴きたいのだろう」

「………やめろ」

「お前はもう勝てないことが分かっている。それでも死地へと向かうのは、戦友達と共に死にたいからだ」

「やめろ」

「己を偽るな、心を隠すな。私には意味がない。私は全てを知っている。お前の秘めた内心すらも。死地へと赴きたいのだろう?戦友と肩を並べたいのだろう?そして彼らと共に死にたいのだろう?何を迷う、何を躊躇う。刻一刻と戦況は悪化するぞ、肩を並べる友がいなくなるぞ、死ぬと定めた死地を喪うぞ。お前に残された時間は少ない。さあ、私の手を────」

「やめろ!」

 

穢は口を噤んだ。沖田は息を荒らげ、汗をびっしょりとかいている。

 

「分かっている、分かっているんだ。私は死にたい。病床で果てるのではなく、苦楽を共にした友らと共に死にたい。もはや敵軍には勝てぬ、ならばいっそ死に場所と死に方位は選びたい」

 

それから二、三回深呼吸し、もごもごと口を動かしてから、頼む、とだけ語った。

血を入れんと沖田の首元に手を伸ばしながら、穢は思う。

 

まあ鬼へと変じれば全て忘れるのだが、と。

 



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物語の始まり

 

寒い。雪山の中を歩く穢は、至極当然にそう思った。鬼の身体はこの程度の低温環境では鳥肌も立たないが、それでも寒さという信号だけはご丁寧にも伝えてくる。

わざわざ穢が雪山を登っているのは、鬼を配置する為だ。廃刀令を経てなお鬼殺隊は鬼の討伐を辞めず、どうやってか政府の目を掻い潜って動き続けているらしい。もし政府に接触するならば、政府要人を鬼に見張らせていた価値があったのだが。

そんな職務に熱心な鬼殺隊を相手に、適当に鬼を作っていたのではすぐに討伐されてしまう。既存の鬼の行動範囲と極力重複せず、かつ発見の遅れる人里離れた地が望ましい。今回足を運んだのは、この山奥に炭焼きを生業とする一家が家を構えているという話を耳にしたからだ。もし好立地なら適当に鬼に変えようと考えながら進めば、なるほど確かに一軒だけ家が建っている。随分と都合のいい立地だ。

 

扉を容赦なく蹴破り、中に侵入する。女三人に男三人。随分と数が多い。大人は女一人だけ。他は全て子供だ。もし父親がここに居ないなら、とも考えたが、これから作る鬼に狩りを教えるいい教材になる。敢えて放置することに決めた。取り越し苦労ならそれはそれで問題ない。

子供に指示を出そうとした母親をいの一番に殺し、次いで突然の事態に混乱しているらしい娘と息子を一人ずつ殺す。長女らしき娘は未だ呆然とする弟を抱え、穢の横をすり抜けようと突撃した。自分を肉壁に、せめて弟だけでもといったところか。その咄嗟の判断力と度胸が気に入った。こいつを鬼にしようと決め、敢えて体をずらして逃げ道を空けて背後から弟共々貫いた。娘にだけ丁寧に血を注ぎ、琵琶の音と共に現れた襖の奥へと身を沈める。見慣れた惨状から視線を離すと同時に、穢を呑み込んだままに襖が音もなく閉じて消え去った。

 

 

 

 

 

鳴女を側近として重用してからというもの、穢は己の拠点を無限城と定めている。縁壱という超級の特記戦力の実力を身を以て知ってからはより顕著で、それまで個人的に進めていた自身の細胞の研究やその為の資料などを無限城に集中させるようになった。

それでも情報収集の為に外で活動することは必須事項で、外に出るときには姿形をこまめに変え、一度外部での活動を打ち切ったら数年単位で外には出ないという徹底ぶりだった。それだけ縁壱が穢に刷り込んだ衝撃と恐怖が強い事の証明でもある。

 

今現在、穢は浅草で孤児院を営んでいる。鬼殺隊の目を欺くコツは極めて()()()に働くこと。孤児を食ったりはしないし、孤児を送り出した先が不自然に襲撃ばかりされたりもしない。この時代において十分に高度な教育を施し、有力者・権力者の養子として選ばれやすくする。そして養子として選ばれれば、その繋がりを利用して関係を深め、情報なりコネなりを得ていく。浅草という地を選んだのは、堕姫を配置した遊郭が近いからだ。遊郭や酒場といった場は口が軽くなりやすい。情報収集にはうってつけと言えた。

 

子供たちを引き連れて夜の浅草を歩く。昼は日の光が、夜は街灯の光が照らし出す『眠らない街』。急速な発展の代償か、混沌とした様相を呈している地故に相応の危険が伴うので、ある程度成長した子供だけを選抜して連れ回っている。日の出と共に起き、日没と共に眠る生活から脱した近年は、穢に近現代の時代が訪れたのだと実感させる。人混みの中ではしゃぐ子供たちを宥めつつ歩みを進めれば、突然肩を掴まれた。

 

「────鬼舞辻、穢………!」

 

はて。内心で穢は首を傾げた。何故穢の本名を知っているのだろうか。少なくとも孤児院を先代の経営者から引き継いで経営し始めてからは、一度たりとも本名を名乗った覚えはないのだが。

肩を掴んだのは少年だった。珍しい色の髪が目を引く。忌々しい継国縁壱と、その兄の黒死牟がこの髪色だったか。日輪刀特有の、藤の花とは違う忌避感を伴った鋼の匂いから鬼殺隊の一員であることは分かる。己の障害たり得ないが、どうやって姿すら知らない筈の穢を見つけ出したのかは探らねばならない。

────と、そこまで考えたところで子供たちが控えめに穢の手を引っ張った。

 

「せんせー、おともだち?」

「『おにーちゃん』なの?」

 

どうも子供たちはこの鬼殺隊士を、自分達の知らない孤児院の『兄』と認識したらしい。鬼殺隊士の方は愕然とした顔をしている。穢が誰かと共にいる事は考えなかったのだろうか。

 

「いいえ、この子は私の友人でも、あなたたちの『兄』でもありませんよ」

 

ねえ?と鬼殺隊士に尋ねる。連れている子供の一人を抱き寄せ、その首に見せつけるように、かつさりげなく手を添えた。この子供が死ぬぞ、と暗に示した形になる。気付かないほど馬鹿ではなかったようで、取って付けたように「知り合いに似ていた」と述べたが、その顔が何とも言い難い表情だったのは指摘した方が良かったのだろうか。もしや嘘をつく事に慣れていないのか。

 

「では、私達はこれで」

 

追ってくるな、という無言の威圧は届いたらしい。苦虫を口いっぱいに頬張って丁寧に咀嚼したような顔で、さようなら、と返してきた。酷くか細く、漸く搾り出したような声だった。

視線を剥がす刹那、風で鬼殺隊士の被っていた頭巾が脱げる。その耳にぶら下がる耳飾りが目に入った瞬間、穢の脳裏をかつてのトラウマが(よぎ)った。

 

────日輪の描かれた花札の耳飾り。

 

────継国、縁壱。

 

かの鬼殺隊士に興味など一切なかった穢の脳内を、純然たる殺意が席巻した。日の呼吸に連なる者、その可能性。四百年前に尽く断ち切った筈の可能性が、今、穢の目の前に現れていた。

 

「(────殺さねばならない)」

 

表面上は穏やかに子供たちを誘導しながら、内心は狂騒のさなかにあった。殺さねばならない。日の呼吸は、その系譜は、何をもってしても必ずや絶やさなければならない。

 

「(鳴女、鳴女、戯骸を私の許へと呼び出せ。今すぐにだ)」

 

────先ずは下弦を送り込むとしよう。それで失敗したならば………次は上弦を送る他あるまい。

 

「名も知らぬ鬼殺隊士よ。貴様は殺す、絶対にだ。日の呼吸は、その系譜は、絶たねばならないのだから」



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下弦の参

 

呼び出された鬼、戯骸。その左目には『下参』と刻まれており、十二鬼月の一席に名を連ねる事が窺えた。浅草近辺に腰を据えていた鬼────朱紗丸(すさまる)矢琶羽(やはば)に命を下して例の鬼殺隊士を追わせていたが、どうも隠蔽された先に痕跡が続いているとの報告が上がっている。戯骸の合流を待ってから襲撃するように命じたが、はて。単に隠されている程度ならば隠蔽などという言葉は使うまい。更に穢の知覚能力で把握した二体の位置からして、その付近には広場しかなかった筈だが。

………まさか、血鬼術だろうか。

 

「………尻尾を出したか?珠世(たまよ)

 

穢の支配から逃れた鬼。二百年以上、穢の追跡から逃れて反抗し続ける異常個体。あの耳飾りの所有者と、珠世が邂逅した。穢を討つためなら何でもする産屋敷が珠世と組んでいない可能性は低い。ならばあの鬼殺隊士が穢と接触して穢側が追っ手を放った事も産屋敷の知るところとなるだろう。鎹鴉(かすがいがらす)とか言う伝令代わりの珍妙な鴉までいる事だし。

 

矢琶羽と朱紗丸には共に居るであろう『逃れ者の鬼』を捕らえるように改めて命じ、戯骸には件の鬼殺隊士を殺すことを課した。

人の良い孤児院の経営者を演じる以上、縋ってくる子供たちを無下には出来ない。珠世が居るならば、出来れば己が身で乗り込みたいものを。笑顔の下に激情を隠しながら、戯骸の視界と己の視界を連結し、穢は観戦に徹する構えを示した。

 

 

 

 

 

炭治郎を招いた珠世とその助手・愈史郎(ゆしろう)の隠れ家に、三体の鬼が襲来した。珠世の生み出した鬼である愈史郎の血鬼術によって隠されていた屋敷が、一切の遠慮呵責の無い攻撃に晒される。

 

「日輪の花札の耳飾りを付けた鬼狩り………貴様か」

 

堪らず出てきた炭治郎を見据える、肺が腐りそうな程に重苦しい匂いを纏った鬼。その左目に『下参』という文字が刻まれているのを、炭治郎は嫌にはっきりと認識した。匂いから判断するに、今までの鬼とは格が違う。

 

「俺は十二鬼月・下弦の参、戯骸。鬼狩り、貴様の命を貰い受ける」

 

鬼殺隊士として日の浅い炭治郎は十二鬼月という言葉の意味がわからない。それを察した珠世が語るに曰く、鬼の首領・鬼舞辻穢の直属である最精鋭の鬼。下弦の参とは下から数えて四番目であり、十二鬼月全体で語るのであれば()()()()()()部類だという。

伴って現れた二体の鬼は外に出てきた炭治郎よりも屋敷の中に興味があるようで、炭治郎には目も向けない。炭治郎も戯骸以外に目を向ける余裕はないので、ある意味ありがたかった。ただ、その分珠世や愈史郎が危険に晒されるとなれば忸怩たるものがある。

 

日輪刀を構えて隙を探す炭治郎に対し、戯骸はあくまで自然体。先ずは炭治郎の力量と出方を見定めようとするかのように、じっと炭治郎を見据えていた。

じゃり、と音を立てて足下の土が踏みしめられる。次の瞬間には炭治郎は飛び出し、首に通る『隙の糸』目掛けて刀を振るった。

 

水の呼吸 壱ノ型 水面斬(みなもぎ)

 

しかし当たる瞬間に戯骸の姿が消え、疑問の声を溢す間も無く腹に衝撃が走った。飛び込む時に倍する速度で壁に衝突した炭治郎を、足を振り切った姿で戯骸がつまらなさそうに見つめている。

戯骸は意識の隙を突こうとする炭治郎の意識の隙を逆に突き、死角に滑り込んで消失。それに咄嗟に対処されるよりも速く蹴撃を叩き込んだのだ。

戯骸の腕がめきめきと軋み、中から白色の脇差程度の長さの刀を生み出した。それは骨だった。自身の肉体をある程度自由に操作可能な鬼といえど、ここまで可能とは思えない。ならばあれが戯骸の血鬼術。

骨の脇差を構えた戯骸は、態勢を立て直した炭治郎に高速で詰め寄る。

唐竹割り、足首狙いの斬り払い、そのまま斬り上げ、返して袈裟懸け、頭と胸と腹を狙って突き三連。反撃しようとした炭治郎の刀を柄で打ち払い、流れるように横薙ぎ一閃。炭治郎は後方に下がって躱すも、横薙ぎに隠れて投げられた骨のクナイが三本飛来する。それを炭治郎が打ち払う間に戯骸が再度間を詰め、連撃。

 

型を出す暇もない。反撃を試みる隙もない。炭治郎に許されるのは、ひたすらに命を刈り取ろうとする刃を避けることのみ。

だが、戯骸にとっては相手が避ける事に徹するだけでいい。身体能力で人を遥かに凌駕する鬼の攻撃を躱すには、少なからず呼吸法による身体強化を挟む必要がある。そして呼吸法を使うだけで、練度による差こそあれど呼吸器系へのダメージと体の疲労は積み重なっていく。対して、鬼に疲労や負傷という概念はない。互いに決定打には至らずとも、こうしているだけで差は顕著に現れる。

無理をせず、じわじわと追い込むのが戯骸の戦い方。使えるものは全部使って、いかに己に有利な戦況を整えるかを追求する事で、これまで戯骸は生き残り、下弦の参にまで上り詰めた。

それはまるで狩りのよう。囲い込まれた獲物は、決して己では逃げられない。外部から横槍を挟まない限りは。

 

途端にぴくりと何かに反応した戯骸は、素早く体を地に伏せた。その直後、戯骸の頭があった場所を禰豆子の足が唸りを上げて通り去る。戯骸の視界の奥で、禰豆子が鬼であることを知った穢が眉を顰める。矢琶羽や朱紗丸と対峙する珠世を含む二体に加え、これで逃れ者の鬼が三体目。自身の支配から抜け出す鬼がいる事は決して愉快な事ではない。

逃れ者の鬼を全員捕らえ、件の鬼殺隊士が死ぬのが最良。しかしいたずらに戯骸をせっついて得意とする戦術を崩させるのは穢の望むところではないし、何より存外に粘る。少なくとも回避に専念すれば戯骸の攻撃を捌ける何かを持っているらしい。

それに、もう夜明けが近い。

急遽命令を変更し、矢琶羽と朱紗丸には珠世とその従者の腕を持って来させる。呪いを外した手法が気になるし、従者の方に至っては何となく穢の作る鬼とは根本から微妙に異なっている気がするのだ。単純に興味を惹かれる。

 

命を受けた矢琶羽が、朱紗丸の手鞠を血鬼術で操って半ば囲うように攻撃に晒し、その間隙を縫ってさらに血鬼術を発動する。

矢琶羽の血鬼術は力のかかる方向、つまりベクトルの向きを自在に操作するもの。逆回転同士のベクトルを珠世達の腕に干渉させ、まるで絞られた雑巾のような挙動の後に二人の腕を力任せに捩じ切った。昨日までの矢琶羽では力不足から出来なかった芸当で、命令遂行に際して予め穢に血を注がれていた事から血鬼術の能力が格段に上がっていた。

引き千切られた二人の腕は鋭角に曲がりくねった軌道を描きながら、朱紗丸の手の中にすぽりと収まった。

一方で鬼の不死身にあかせて特攻を続ける禰豆子の四肢を斬り捨てながら炭治郎の相手も続けていた戯骸は、矢琶羽と朱紗丸が穢の命令通りに腕を得た事を確認し、僅かに白み始めた東の空に目を向けると、二体を引き連れて去っていった。

 

 

 

 

 

珠世達の腕を受け取り、戯骸を元の配置に戻した穢は身の振り方を考えていた。見つかった以上、遠からず腕利きの鬼殺隊士が派遣されるだろう。羽虫程度の相手に纏わり付かれるのは不愉快にも程がある。従業員の中から子供たちに人気のある者を代わりの経営者に据え、適当な理由をつけてここから去る事を決めた。数年に一度、様子見をしに訪れれば問題あるまい。時が経てば穢がここに居たことなど忘れていくだろう。

 

次いで、呪いを介して全ての鬼に命を下す。穢の記憶から映像を引き出し、容貌を伝えていく。

 

『────この鬼狩りを見つけ次第殺せ』

 

血の繋がりを通して黒死牟の殺意が急激に膨れ上がったのを感じながら、送り込む上弦は決まったなと一人呟いた。



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上弦の壱

 

累が死んだ。家族ごっこがしたいと言うから、わざわざ私が累に発現した血鬼術を分割して「家族」とやらに分け与えてやったというのに。使えない奴め。手間以上に役目をこなせとは言わないから、せめて手間分は役に立て。具体的には例の鬼狩りの手足を一本捥ぐとか。

 

十二鬼月の最下位、下弦の陸であるとはいえ、曲がりなりにも最精鋭の一枠。一年ほど前に下弦の伍が欠けた事もあり、随分と短いスパンでしばしば入れ替わる下位の下弦にさしもの穢も苛立ちが募る。

だが、累の目を通して見たあの呼吸────似ても似つかぬ程にお粗末極まりないものではあったにせよ、あれは日の呼吸に通じる代物だった。やはりあの因縁の系譜は受け継がれていたのだ。

 

絶対に逃がさない。油断も慢心も一切不要。必ず殺す。その為の布石として、鬼殺隊の柱共よろしく短期で入れ替わる下弦の下位三鬼のうち、最後の一体を囮として用いる事を決める。下弦の肆、魘夢(えんむ)。何かしら上弦に伍するものを持つ下弦上位三鬼────準上弦とは違い、その気になれば幾らでも補充できるのが下位三鬼だ。十二鬼月に列する程にまで上り詰めた事は評価に値するが、所詮はその程度。換えが利くなら予備ではなく下弦を使う。十二鬼月というネームバリューは鬼殺隊に対する餌として十分に効果があるのだから。

 

「精々私の為に役に立て、魘夢」

 

もし柱と戦って生き延びたなら、その時は多少扱いを変えてやろう。

まあ、無理だろうが。

 

 

 

 

 

人の消える汽車、『無限列車』。派遣された鬼殺隊士を含めると()()()以上が忽然と消息を絶った場所である。解決の為に派遣されたのは鬼殺隊最高戦力、九人の『柱』の一人。炎柱(えんばしら)煉獄(れんごく)杏寿郎(きょうじゅろう)。そして『ヒノカミ神楽』の手掛かりを求めて煉獄を訪ねた炭治郎と、その仲間の我妻(あがつま)善逸(ぜんいつ)嘴平(はしびら)伊之助(いのすけ)の計四名。

柱の任務に巻き込まれる形となった炭治郎達を襲ったのは、十二鬼月・下弦の肆、魘夢。

夢に引き摺り込む血鬼術を用い、甘言で籠絡した人間すら列車と融合する為の時間稼ぎとした上で食い殺そうとする魘夢を奇跡的に死者無しで倒した炭治郎達だったが、その歓喜と安堵はすぐさま砕かれる事となる。

 

────べべん

 

澄んでいるのに悍ましい琵琶の音と共に、炭治郎の鼻に突然強烈な腐臭が届いた。炭治郎が今までに遭遇した強力な鬼は全部で四体。元凶である鬼舞辻穢、下弦の参・戯骸、下弦の肆・魘夢、下弦の陸・累。千年もの間人を食らい続けていた鬼舞辻は別にしても、他三体も炭治郎からすれば明らかな格上、死の象徴だった。

しかし、今のこの匂いは────その三体を遥かに上回る程に濃い。そしてその中でも嗅ぎとれる程に深い殺意の匂い。知らず、炭治郎の歯ががちがちと鳴った。感情を音として捉えられる程に耳の良い善逸も、必死に耳を押さえて蹲っている。

 

じゃり、と足音が鳴った。腐臭の根源が姿を見せる。

紫の袴下に黒の袴という簡素な服を身に付け、腰にはまるで生きているように脈打つ鞘に納められた刀を差している。長い黒髪を後ろで纏めたその容貌には三対の赤眼が並んでいて、その中央の一対の眼に刻まれた字は『上弦』『壱』────。

 

「………貴様が」

 

刀を構え、前に出て新手の鬼────()()()()に向き合った煉獄を()()し、ぽつりと何かを呟いた上弦の壱は炭治郎に向かってその刀を振るった。否、炭治郎は刀を向けられた事すら分からなかった。気付いた時には炭治郎の目と鼻の先で火花が飛び散り、煉獄が刀を振り抜いた姿で炭治郎の横にいた。上弦の壱は右腕を刀の柄に、左腕を鞘に添えている以外は何も変わっていない。

 

「何故少年を狙った」

「私の……目的は、もとより……その子供の首……故、狙ったまで」

 

上弦の壱が再度動く。今度は炭治郎にも僅かながら理解できた。()()()()()だ。抜刀の加速で斬り、即座に引き戻して納刀。その繰り返し。ただそれだけなのに、その速度、威力、精度、何もかもが正しく人外。戯れのように繰り返される単調なそれのみで、守るべきものを背としているとは言えども柱たる煉獄を容易く追い込んでいく。

負けてしまう。あのままでは、煉獄は死ぬ。肩を並べて戦うだけの技量を持たない炭治郎でも、容易に想像できてしまう未来だった。そして、今のままでは近いうちに現実となるだろう。下弦の陸に一歩届かず、下弦の参相手では終始翻弄された。あくまでその程度でしかない炭治郎が加わった所でどの程度変わるというのか。誤差にもなるまい。それでも、炭治郎は魂ごと押し潰すような重圧の中で震えながら刀を手に立ち上がった。

 

「来るな!待機命令!」

 

それを押し留めたのは、他ならぬ援護を受ける当の本人だった。

 

「余所見とは……余裕だな」

 

月の呼吸 壱ノ型 闇月(やみづき)(よい)(みや)

 

そこに上弦の壱の攻撃が襲いかかる。今までと同じく抜刀術による攻撃だが、()()による身体強化に加え、三日月に似た無数の大小様々な斬撃が新たに付随する事でそれまでの攻撃とは一線を画したものとなっている。

明らかに上昇した速度と威力で迫る斬撃。矛先となっている煉獄はそれに冷静に対処した。

 

炎の呼吸 弐ノ型 (のぼ)炎天(えんてん)

 

鬼が呼吸を用いるという事態に目を見開きこそしたものの、横薙ぎの一閃を上にかち上げて逸らす事に成功する。それでも、舞い踊る三日月が煉獄の体を細かく傷つけた。

 

月の呼吸 参ノ型 厭忌月(えんきづき)(つが)

 

炎の呼吸 肆ノ型 盛炎(せいえん)のうねり

 

続く三日月型の二連撃に対し、渦巻く炎のような攻撃で煉獄はそれを捌いた。

 

炎の呼吸 伍ノ型 炎虎(えんこ)

 

月の呼吸 弐ノ型 珠華ノ弄月(しゅかのろうげつ)

 

煉獄の反撃を上弦の壱は三連撃で相殺────否、付随する刃でやはり煉獄を切り刻んでいく。技そのものの攻撃は捌ききっている筈なのに、半ば一方的に煉獄のみが傷付く。それは相手が再生可能な鬼だからではない。上弦の壱は煉獄の動きを完璧に見切り、回避した上で戦っている。

 

「諦めろ……お前では……私には、勝てん」

「うむ!そうだろうな!」

 

煉獄は鍔迫り合いに持ち込んで斬撃を封じながら、上弦の壱の言葉を至極素直に受け入れた。煉獄は炭治郎を狙った初撃をやり過ごした時点で、既に理解していた。

 

月の呼吸 伍ノ型 月魄災禍(げっぱくさいか)

 

無数の横薙ぎが()()()で繰り出される。煉獄は跳んで躱すも、やはり細かな傷は防げない。出血は呼吸の応用で止められる。鬼殺隊に属する以上、痛みには慣れている。それでも怪我をしている時と万全の時ではどうしても動きに差が出てくる。動きの鈍った瞬間を見逃す程上弦の壱は甘くない。いずれ斬断される事は想像に難くなかった。

 

「先にも述べた通り……私の目的は、そこの子供の首……其奴さえ殺せれば、ここは退こう」

 

それは命の交換だった。ただの一隊士と、柱を交換しようという持ちかけだった。見逃す代わりにそこを退け、という。

 

「────断る!」

 

だが煉獄は頷かない。

鬼殺隊は鬼の被害者の遺族を主として構成された組織だ。当然ながら、助けられた恩に報いる為に属する者もいれば、金の為に籍を置く者などもいる。理由は様々だが、煉獄の場合は鬼殺の剣士の名門・煉獄家の長男として生まれたからだ。いわば生まれた瞬間から鬼殺隊に属し、その命を燃やす事は決まっていた。煉獄の心の柱は、今は故人の母が煉獄の幼い時に口にした言葉だ。

 

『弱き人を助ける事は、強く生まれた者の責務です』

 

煉獄はその言葉を忘れた事も、違えた事も決して無い。鬼殺隊の柱たる煉獄は強い。そして背に庇う三人や無辜の民は、煉獄に比して弱い。ならば彼らの命を守る為に己が命を賭ける事に何の不足があろうか。

煉獄は己の生存を諦めた。ともすれば誰にも看取られずに命を落としたり、鬼へと堕ちて嘗ての朋友へと刃を向けるような事態に陥る事も、鬼殺隊では決して無いとは言えない。そんな中で、()()()を守り、その生き様を後進へと示して死ねるのだ。無辜の民に害を為すとは言え、元は人であった存在を斬り殺している身でありながら、なんと恵まれた死に様だろうか。

 

「俺は俺の責務を全うする!ここに居る者は誰も死なせない!」

 

煉獄の啖呵に、上弦の壱は僅かに目を細めた。

 

「……そうか────ならば、()く死ね」

 

月の呼吸 陸ノ型 常世孤月(とこよこげつ)無間(むけん)

 

炎の呼吸・奥義 玖ノ型 煉獄(れんごく)

 

縦横無尽に入り乱れる斬撃の結界を突き破るようにして、煉獄は突撃した。大きな土煙が上がる。

 

────上弦の壱は、健在だった。

 

肩も脇腹も足首も、傷がない場所など存在しないのではないかと思わせる程に煉獄の全身に大小様々の傷が付いている。特に酷いのは胸で、体を半ばまで断ち斬るようにして上弦の壱の剣が肉体に埋もれている。手に持つ日輪刀は半分程の長さになっており、離れた場所に切断された日輪刀の刃が転がっている。上弦の壱は煉獄の斬撃を躱すように身を傾けていて、そのせいで刀を思うように振り切れなかった事が煉獄の命を僅かに繋いでいた。

ごふ、と煉獄が血を吐き出す。

 

「……見事な……一撃、だった」

 

掛け値無しの賞賛であったが、まるで遥か高みから見下ろすような口振りだった。かちゃり、と煉獄の手に残る日輪刀が音を立てる。

瞬間、折れた日輪刀が振るわれた。

 

「ぬ、う、おぉ………!」

 

頚へと向けて死力を尽くして振るわれた日輪刀は腕を掴む事で止められた。しかし同時にまだ煉獄に突き刺さったままの刀を握る上弦の壱の腕を煉獄がもう一方の腕で掴み、拘束した。

────東の空が、白む。

 

「……日の出、」

 

上弦の壱の目が夜明けの予兆を映し、抵抗が強くなる。しかし煉獄は離さない。傷口を刀で抉られようとも、苦悶を零しながらも手に籠める力を緩めはしない。

明確に苛立った様な顔をした上弦の壱は、日輪刀を握る煉獄の腕を()()()()()。そのまま反対の腕も手刀で半ばから引き裂き、刀を引き抜く。

その目が、炭治郎を見据えた。

 

月の呼吸 参ノ型 厭忌月(えんきづき)(つが)

 

迫る剣閃。死を覚悟した炭治郎を、死に体の煉獄が突き飛ばす。縺れるようにして倒れこむ二人から逸れた凶刃は周囲を無為に切り裂いて終わった。

日光が辺りを照らす。炭治郎が頭を上げた時、上弦の壱の姿は既になかった。

 

 

 

 

 

「────殺せなかったか」

「返す言葉も……ありませぬ」

「構わん、過ぎた事だ」

 

無限城の一室で薬品を弄る穢の側に、跪いた黒死牟が侍る。釣り餌(魘夢)に引っかかった中に()()が居た為に急遽黒死牟を送り込んだのだが、どうも足りなかったらしい。生存を度外視すれば、柱ならば手を抜いた黒死牟にもある程度追い縋れるという事が分かっただけでも良しとすべきだろう。黒死牟なら大丈夫と判断したのは穢自身であったのだし。

 

無限城を辞した黒死牟を脳裏に描きつつ、その黒死牟から運良く生き延びた少年を思う。人間を使えば、その名前や家族構成は割と容易に特定できた。

 

「………竈門、炭治郎」

 

情報では、いつぞやに鬼を作る為に襲撃した炭焼きの一家の長男だった。あの後、一日程度でも留まっていれば。そう思わないでもないが、致し方ない。

 

「………名前は覚えた。必ずや屠ってやろう」

 

そう、如何なる犠牲を払ってでも。



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悪鬼跳梁

 

闇夜を蠢く二つの影。一人は闇に溶け込むような藍色の髪をした女鬼、もう一人は闇の中にあってなお映える純白の髪を持つ男鬼。その二人の目には共通して『上弦』の字が刻まれており、もう片方の目には女が『肆』、男が『伍』と記されている。

女鬼と男鬼────薊と燐墓の目線の先には、家屋がいくつも並ぶ隠れ里があった。

 

暫し前、吉原の遊郭に配置された上弦の陸の鬼、堕姫と妓夫太郎が斃された。百年以上顔ぶれの変わることのなかった上弦の鬼が敗死した事に業を煮やした穢は、日輪刀の供給源である刀鍛冶達が住まう里を燐墓が見つけてくると、薊と共同で襲撃するように命を下した。そこで燐墓の協力の下、薊の血鬼術の下準備を終えて今に至る。

 

「さて薊殿、準備は宜しいですかな」

「勿論。さあ、始めましょうか」

 

血鬼術・夜闇(やあん)(とばり)

 

里に侵入した二人諸共包み込むように、里が黒々とした()に覆われる。

 

「さあ、ひたすらに殺しましょうぞ、苦しめましょうぞ、貶めましょうぞ!我らが主の望むがままに!」

 

血鬼術・此岸(しがん)(ほとり)

 

ぞわり、と骨と皮ばかりの亡者が至る所から這いずり出る。亡者達はふらふらと彷徨い歩き、見かけた生者に飛びついては縊り殺していく。騒ぎを聞きつけたらしい鬼殺隊士が二人を見つけては斬りかかるも、薊が何処からともなく取り出した槍で捌き、刺殺する。

 

「では薊殿、囮役を頼みましたぞ。これより(わたくし)は亡者共の使役に注力します故、単体戦力としては役たたずになってしまいます」

「分かってますとも。さて、行きますか」

 

薊はふっと姿を消した。遠くから建物を破壊する音や犠牲者の悲鳴が聞こえるので、囮として盛大に暴れているらしい。燐墓は天を仰ぐ。燐墓の血鬼術によって閉ざされた里は、太陽の光すらも通さないばかりか、踏み入る者を歓迎し、去る者を決して逃さない。いわば大きな檻の中。上弦の鬼二体と無数の亡者が蔓延る死地で生まれる悲嘆と絶望を思い、燐墓は哄笑した。

 

 

 

 

 

炭治郎は上弦の陸との戦いで破損した刀を修復しに、刀鍛冶の里を訪れていた。修練の為に来訪していた霞柱(かすみばしら)時透(ときとう)無一郎(むいちろう)と共に夜の里を歩く。時透の新しい刀を受け取り、次いで炭治郎の刀を受け取りに行く最中、至る所から悲鳴が響いた。

最も近い悲鳴の先に向かえば、里に住む刀鍛冶を骨と皮ばかりの亡者が襲っていた。無数の亡者は戸を壊して侵入し、或いは不用意にも外に出てきた人々を襲い、殺していく。

炭治郎達に気付いた亡者が群がるようにして襲い来る。時透がそれに鯉口を切ることで応えた。

 

霞の呼吸 伍ノ型 霞雲(かうん)(うみ)

 

爪を構え牙を剥く亡者の隙間を縫うようにして時透がすり抜ける。すれ違いざまに斬り刻むが、まるで空振ったかのように手応えがない。振り返れば、亡者達は五体満足。一体たりとも欠けていない。その様に、時透は眉を顰めた。

 

「ねえ」

「え、は、はい!?」

「君、鼻が利いたよね」

「え、まあ………はい」

 

唐突な問いかけに答えた炭治郎に軽く頷き、時透は口を開いた。

 

「今から全速力で刀を取りに行って、この亡者達を呼び出してる術者を探し出して。多分これ、術を行使している鬼をどうにかしなきゃ意味がない性質を持つ血鬼術だ」

「じゃあ、その間里の人達は────」

()()()()()()()()。僕はあっちで暴れてる奴を相手するから、君は術者の鬼をなんとかして」

 

そう言った時透の目は、断続的に地響きと土埃が起きる先を見つめていた。

 

 

 

 

 

三人の鬼殺隊士が薊に斬り掛かる。それを得物の槍を回転させることであらぬ方向へと弾き飛ばし、そのまま遠心力を乗せて切り裂く。一人は腹を裂かれ、残る二人はそれぞれ腕と脚を片方ずつ捥がれた。血鬼術も何も絡まない純粋な武術。上弦に列して百年余り、柱とすら幾度も交戦してきた薊の武技には生半な戦技では届かない。不気味に脈打つ槍を片手に、薊は戦意を挫かれて地を這いずる鬼殺隊士を睥睨して嘲笑した。

とどめを刺そうと槍を構えた薊は、殺気を感じて槍を上に掲げた。瞬間、振り下ろされた刀と火花を散らして鍔迫り合う。鬼の膂力で強引に拮抗を傾けて体勢を崩した下手人に槍を振るえば、まるで舞うように空中でひらりと身を翻して回避し、何事もなかったように着地した。

 

「ここは私が引き受けるわ。下がりなさい」

「は、はい………!」

 

脚を斬断された隊士が腕を落とされた隊士に支えられながら下がるのを庇う姿を見ながら、綺麗だな、と薊は思った。長い髪を湛え、左右に蝶の髪飾りをつけた剣士。顔は整っていると同性の薊も思うし、何より身のこなしが実に優美で洗練されていた。もしかしたら柱か、それに準ずる腕を持っていると予想する。少なくとも先程まで相手にしていた雑魚とは比較にもなるまい。しかし悲しいかな、それと同時にこの女では己には勝てないと薊は極めて冷徹に断じてもいた。

 

「私は上弦の肆、薊。鬼殺の女、名は?」

「────元花柱、胡蝶カナエ」

 

何と、元柱か。そう呟きながらも、薊の顔には余裕が窺える。薊は武を修める身として、カナエの抱える問題をあっさりと見抜いていた。

 

「引き受ける、とは言うが。その身で、上弦である私を相手にいつまで持つのやら。呼吸音がおかしいぞ、それではあなた達が使う呼吸法とやらを使ったとて貴方自身が持つまいに」

 

薊の言う通りである。カナエは現役時代、『呼吸を用いなければ強壮な鬼を狩れない』という鬼殺隊が持つ欠点を的確に突いた鬼に出会った。薊の同僚にして上弦の弐に座す鬼、童磨である。カナエが童磨の魔手から生き延びたのは、カナエが強かったからでも何でもない。絶対的な実力差に基づく童磨の慢心や、日の出という鬼に課せられた制限時間など複数の要因が重なった、詰まる所は奇跡の結果である。

童磨の血鬼術はカナエの肺を著しく傷付けた。刀鍛冶の里への派遣という名の療養の結果、今では日常生活こそ不便なく可能となったものの、呼吸法を用いるとなると満足に動けるのは精々が一分。それ以上行使すれば呼吸法の負荷が弱った肺を傷付け、吐血。尚も続ければ以降の日常生活に支障が現れるばかりか、最悪の場合は命を落とすだろう。

 

「────なら、僕が相手するよ」

 

霞の呼吸 肆ノ型 移流(いりゅう)()

 

足元に滑り込むようにして時透が割り込む。自身の頚に向かって寸分違わず振るわれる日輪刀をしっかりと認識しながら、薊はにやりと唇の端を吊り上げた。

 

「────うわあっ?!」

 

カナエの後方で叫び声が上がる。振り向けば、退避しつつある負傷した隊士の片方────腕を斬られた隊士の頚が斬断されていた。思わず二人が薊に目を向けると、一切動かずに無傷でにやにやと笑っている。困惑を見て楽しんでいるようだった。

薊が踏み込む。一瞬で近寄られた時透は反射的に刀を振るい────今度は足を斬られた隊士の頚が斬れる。短く持ち直された槍が振るわれ、時透の体に薄く血が滲んだ。

 

薊の血鬼術・死示憑血(しじひょうけつ)。その効果は、条件を満たしている間に受けた傷を特定の相手へと移し替えること。すなわち、傷の押し付けである。

効果発揮の為にクリアしなければならない条件は二つ。一つ、己の血で指定した五ヶ所を繋いで描かれる円の内部に自身が居ること。二つ、傷を移し替える対象の血を体内に取り込むこと。このうち二つ目は簡単だ。というのも、薊の槍は薊自身の肉体で形成されている。よって、槍が啜った血も条件を満たすのだ。面倒なのは一つ目だが、今回は事前に里を囲むようにマーキングを済ませている。そしてそのマーキングは、燐墓が展開した結界の()にある。燐墓が滅べば結界も解除されるが、薊がそれを許す道理もない。おまけに燐墓は性格も血鬼術も厄介極まりないときた。

 

幾人もの柱を屠った薊の血鬼術。その術中にある鬼狩りの面々を見つめ、薊は酷薄に嗤った。

さあ、どう抗う。



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悪鬼跳梁・弐

「薊殿は随分と愉しんでいらっしゃる、良きかな良きかな。そのまましっかり囮役を果たしていただきたいものです」

 

鍛冶師や鬼殺隊士が死に絶えた事で喧騒から隔離された一角で、建物の中に居座りながら燐墓はくつくつと笑っていた。燐墓の血鬼術・此岸の畔で召喚される亡者達は、その尽くが燐墓の犠牲者である。そこに居たからという理由だけで何もかもを蹂躙されて息絶えた死者達は、そこに居たからという理由だけで目につく生者を無差別に襲う。それは召喚者の燐墓やその同胞である薊も例外ではない。亡者の成り立ちを考えれば、むしろ燐墓は積極的に襲われる側である。それを縛り、人間にのみ矛先を向けさせる為に燐墓は戦闘に参加する余裕すらない程に多大な集中力を必要とするものの、現世の存在でないが故か干渉する術がなく、術者の燐墓ですら血鬼術の解除しか根本的な対処法がない厄介な尖兵だ。

 

最後の安息たる死すら愚弄する。今際の際の怨嗟すら使い潰す。千年を鬼として生き、大抵の悪徳を網羅した穢すら、燐墓の悪辣さには敵わないと評する程の精神性────その悪性を存分に発揮した血鬼術といえる。

里中に張り巡らせた()を通して戦況を俯瞰しながら、燐墓は亡者を誘導する。刀を抜く鬼殺隊士、逃げ回る鍛冶師、結界からの脱出経路を探る隠。誰も彼もが等しく亡者の餌食となる。勇ましく戦いを挑み、一切が通用しない事に絶望し、断末魔の叫びを上げながら無為に命を落とす。無駄な抵抗を嘲る燐墓の視界に、奇妙な動きをする隊士が映った。

 

「………なんと」

 

亡者も犠牲者も無視し、黒色の日輪刀を携えた鬼殺隊士が憤怒の形相で里の中を駆け抜けている。一直線に燐墓の潜む方向へと向かってくるその様は、明らかに燐墓の位置を特定していた。ダミーとして気配を備えた幻影を別方面へと複数潜めているにも関わらずそちらに引っかからず、別方面で盛大に暴れている薊にすら目もくれず本物の燐墓の方へと向かう様は異常と言う他あるまい。大抵の鬼殺隊士は気配で鬼の位置を察知するし見つけた鬼は決して逃がさぬとばかりに襲い掛かるが、どうも些か毛色が違うらしい。

燐墓は舌打ちした。燐墓は凶猛な気質の者が多い鬼の中では珍しく力に執着しない性格だが、数多いる鬼の中でも最精鋭たる上弦に列席している事にそれ相応のプライドを持っている。上弦の伍たる自身の隠形の術が柱に及ばない程度の能力しか持たない鬼殺隊士に見破られた事は、燐墓の自尊心に酷く傷を付けた。

 

「………仕方ありませんな」

 

念には念を。気に食わずとも見破られた事実を重く見た燐墓は、標的を結界で閉じ込めている現状と鍛冶師を粗方殺し尽くした戦果を加味した上で迎撃を決め、血鬼術を解いた。

 

 

 

 

 

どろり、と周囲を彷徨っていた亡者の体が溶け崩れる。それを見たカナエと時透は軽く安堵の息を吐き、結界を一瞥して燐墓の健在を確認した薊は不機嫌そうに眉を顰めた。

 

「全く、面倒な」

 

忌々しげに吐き捨てた薊は、槍を逆手に持ち替えて己に突き立てようとし────

 

霞の呼吸 肆ノ型 移流(いりゅう)()

 

────それより先に動いた時透に弾かれる。舌打ちした薊に、時透は予測が正しい事を悟った。横薙ぎに振るわれる槍を飛び退って躱す。己の傷を移し替える血鬼術、加えて特に傷を負った様子のないカナエに対しては真面目に攻撃していた事から、一度でも直接的に傷を与えた相手に対して発動するものかとあたりをつける。無条件に発動するなら理不尽極まりないが、傷を押し付けられる相手に条件があるならやりようはある。

 

「………ねえ、もう一方の鬼の方に向かってくれる?」

 

だからこそ、カナエはここに居てはいけない。既に条件を満たしているであろう時透なら、薊からの攻撃に対してはある程度余裕がある。逆にカナエは、呼吸が使えないにも関わらず、上弦に数えられる鬼の攻撃を一切食らってはならないという極めて厳しい制約が課せられている。しかも、まかり間違って薊に攻撃を加えてしまえば、時透が傷つくというおまけ付きで。それは分かっているのか、カナエは特に反論もせずに頷いた。

 

「ええ………気をつけて」

 

心配そうに時透を一瞥し、カナエは踵を返した。その間も薊の微かな動きに反応し、時透は細かく体を動かす。

本当に厄介な血鬼術だな、と時透は思った。

現状で薊が取りうる行動は四つ。

一つ、時透を無視してカナエを追う。長時間呼吸を使えないカナエに上弦の鬼が追いつくのは容易いだろう。一撃を加えるのも同様だ。

二つ、時透に狙いを定め、攻撃を加える。時透はまさか攻撃するわけにもいかず、躱す事に集中する他ない。疲れを知らぬ鬼との耐久戦は、いずれ体力切れで薊に軍配が上がるだろう。

三つ、自傷を試みる。機動力を削ぐのも致命傷を与えるのも思いのままで、血鬼術の対象となっているであろう時透はそれを阻止するしかない。単に攻撃を躱すよりも神経を使うだろう。

四つ、何も知らない隊士の前に姿を晒す。もしその隊士が何も知らずに薊の頚を斬れば、間接的にその隊士は柱を殺めることになる。精神的なショックは計り知れまい。知ったら知ったで、攻撃できない相手など柱でもない限り薊には鴨同然。傷の押し付け先ができた事に感謝すらするかもしれない。

 

結論、悪辣極まりない。

 

再度薊が自傷を試みる。それを止めようと走り出した時透を迎撃するように唐突にくるりと向きを変えた槍の穂先が、咄嗟に身を捻った時透の体を抉った。僅かずつ、しかし確かに流れ出る時透の血を眺めて薊は嗤う。

その薊の背後に、桃色の影が現れた。

 

恋の呼吸 壱ノ型 初恋(はつこい)のわななき

 

霞の呼吸 陸ノ型 (つき)霞消(かしょう)

 

恋柱(こいばしら)甘露寺(かんろじ)蜜璃(みつり)。駆け抜けざまに放たれた彼女の攻撃と、即座に反転した薊の攻撃。その両者を、飛び上がった時透が誰よりも速い剣閃で捌く。しかし薊の左腕に甘露寺の斬撃が届き、血鬼術ですぐさま傷が時透に移し替えられた。斬り飛ばされはしなかったが、左腕が血に濡れる。

 

「えっ、」

 

薊の攻撃は兎も角としても甘露寺の攻撃まで防いだ時透に、甘露寺が疑問の声を上げる。しかし斬った筈の薊の腕が血すら滲んでいない事、そして時透の腕が先程と違って血塗れである事からすぐにその理由を察した。柱として厄介な異能を有する鬼としばしば相対する中で培われた、観察・分析能力の賜物である。

 

薊の槍が甘露寺に向けて突き出される。それをすんでのところで回避し、甘露寺は拳を握った。

轟音と共に、薊の槍が跳ね上げられる。思わぬ衝撃に薊は体勢を崩した。上空に向かって力一杯振り抜かれた甘露寺の拳が、薊の膂力すら無視して無理矢理槍の軌道を捻じ曲げている。

隙を晒した瞬間を見逃さず、甘露寺は薊を拘束する。純粋な体術による拘束は、上弦の鬼として生半な呼吸使いの剣士すら手を焼く身体能力や自傷を苦にしない再生能力、更には傷を攻撃に転用できる血鬼術を有するはずの薊を押さえ込んだ。まさに力技。傷つけず、傷つけさせず足止めする唯一に等しい手段だった。

 

現代において、ミオスタチン関連筋肉肥大と呼称される遺伝子疾患。それを抱える甘露寺の筋繊維は常人の八倍という常軌を逸した密度を誇る。天性の肉体が発揮する筋力、呼吸による肉体強化、鬼殺隊士として積み上げた鍛錬、女性特有のしなやかさ。それらが組み合わさり、災厄とも称される上弦の鬼の動きを封じ込める事を可能としていた。

ただし問題もある。疲労を知らず、肉体の損傷を恐れない薊がなりふり構わず抵抗できるのに対し、甘露寺は当然疲れもするし傷を負えば動きが鈍る。加えて、異常な筋肉量は剣士としての恩恵を与えるのと同時に、肉体の維持と駆動に常人とは比にならない莫大なエネルギーを要求する。そう長くは持たない。

 

今の内だ、と時透は考える。血鬼術には常識の通用しないものも数多あるが、決して理不尽ではない。薊の血鬼術は初見殺し極まる性能だが、一撃加えなければならないという条件では効果の凶悪さに釣り合わない緩さだ。必ず何か別の必須条件があるはず。相応に戦闘をこなすとはいえ、薊は戦闘能力の大半を血鬼術に依存した鬼。血鬼術の対処方法さえ分かれば脅威は半減する。

 

「今の、うちにっ……行ってぇ……!」

 

ぎちぎち、みしみしと肉体の軋む音がする。それは薊の全力の抵抗の証。歯を剥き出しにし、全身に血管を浮かび上がらせて拘束を解こうと悪鬼が蠢く。頑強な抵抗に抗いつつも零された声は、時透の離脱を促した。

ごう、と熱波が広がる。そちらに目を向ければ、緑の蛍光色の炎が里の一角を覆っている。尋常ならざる炎は、闇に紛れて宙に浮く二体目の悪鬼を不吉な光で照らし出していた。

時透は新たな鬼を見て、振り返って甘露寺を見、そして頷いた。次の瞬間には駆け出し、漸く姿を見せた二体目の鬼へと向かっていく。怨嗟と憤怒が入り混じった薊の咆哮が背に叩きつけられる。強壮な上弦の鬼の威圧に本能的に足が竦みかけるも、時透は無理矢理足を動かしてその場を離れた。

 

「絶対に……逃がさないわよ……!」

「舐めるな人間……!」

 

残された甘露寺と薊は、互いに死力を振り絞る。圧倒的に不利な状況にあって、甘露寺の内心は穏やかだ。時間さえ稼げれば、例え自分が斃れても仲間が薊を討ち果たしてくれるという確信があったが故に。共闘という概念が根本から欠けている鬼にはない強みだ。不意に戦友達の顔が脳裏に思い浮かび、甘露寺はくすりと柔らかな笑みを零した。



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悪鬼跳梁・参

 

鬼殺隊士────炭治郎の接近を察知した燐墓は早々に迎撃態勢を整えた。燐墓の血鬼術は、血液を用いて描いた『式』を媒介として様々な効果を発揮するというもの。里を覆った結界も、結界内に呼び出した亡者も、その現象に合致する『式』を見つけ出して形式を整えたものである。符として保存・貯蓄しているそれらを用い、障壁を展開。攻撃用の符を何枚か取り出し、それらを構えた上で待ち構える。

 

水の呼吸 捌ノ型 滝壺(たきつぼ)

 

突撃の勢いそのままに障子を突き破り、勢いよく炭治郎が刀を大上段から振り下ろす。燐墓の障壁はその一撃を苦もなく受け止める。燐墓の指に挟まれた符の一枚が燐墓の意に従って燃え落ち、中に収められていた式が空気を掻き乱して周囲に鎌鼬を撒き散らす。避けた炭治郎の腕が薄く、痛みもなく斬られた。鎌鼬は易々と建物を斬断し、住居は材木と成り果てて崩れ落ちる。

 

水の呼吸 陸ノ型 ねじれ(うず)

 

炭治郎は降りかかる残骸を回転しながら斬り払い、燐墓は障壁を纏ったまま別の符を用いて()()()()。家屋を強引に突破した燐墓は、続けて符を数枚解放。燐墓を中心に巻き起こった竜巻が家屋を囲む風の壁を形成し、それに一拍遅れて蛍光色の緑という気味の悪い色をした炎弾が放たれ、更に追い風が吹いて炎の勢いを煽る。本来よりも一層燃え盛った炎弾は、家屋の残骸を容易く火で包んだ。しかし即座に炭治郎は炎に包まれた瓦礫から飛び出し、風の壁も切り裂いて脱出。若干焦げてこそいるものの、戦闘に支障はない。

 

「(あの耳飾り……)」

 

ノイズ混じりに脳裏によぎる、同じ耳飾りを身に付けた剣士。異様な程に心の底から湧き上がる敵意と不快感は燐墓のものではない。血や細胞に至るまで刻み付けられた穢のトラウマと耳飾りの剣士に抱く殺意が、同じ耳飾りや似た髪色を持つ炭治郎に向けて反応し、燐墓の意思に影響を与えている。噴き出す黒い感情のままに、燐墓は符を使用。暗褐色の雷が複数の狼の姿を形作り、空を駆けて炭治郎に襲い掛かった。

 

炭治郎はその全てを難なく斬り払うが、もとより燐墓は雷狼によるダメージなど期待していない。狼の形を崩された雷が弾け、ぱりぱりと空気を焼く音が響く。炭治郎がそれを避けようと身を翻すも、日輪刀を伝って襲い掛かってきた雷は躱しきれずに直に浴びた。

獰猛そうな狼の姿はフェイク。その真の狙いは迎撃させること。使い手によってその形に差こそあれ、鬼殺の剣士達は必ず日輪刀を武器とする。()()()のものを武器とするのだ。当然ながら、相応に電気は流れる。血鬼術の産物である以上は雷の誘導もある程度可能である事も相まって、日輪刀は雷を導く道となる。

燐墓の思惑通りに迎撃してしまえば日輪刀を伝った電撃によって体は痺れ、筋肉は硬直する。動きが鈍れば後はただの的同然。寸前で日輪刀を手放すなら唯一の武器を失う。もし躱しても雷狼はしつこく追ってくるし、その状態で燐墓を相手取るには上弦の伍の肩書は重すぎる。

 

燐墓が符を燃え落ちさせながら手を一閃する。その軌道をなぞるように、炭治郎に向けて細く鋭く研ぎ澄まされた水が放たれた。この水の中には微細な金剛石の粒子が混ざっており、これによって鉄どころか金剛石すらも斬断可能。人体など一瞬で日輪刀ごと真っ二つに出来るだろう。

あわや凶刃が届くというところで横から炭治郎に人が飛び付き、水刃の下を潜り抜けるようにして回避した。地面を転がり、大地すら深々と切り裂いた水刃の巻き上げた土埃に塗れながらも、斬断されることは免れる。

けほ、と息を吐き出した乱入者────胡蝶カナエを面倒そうに見つめ、燐墓は忌々しげに舌打ちした。囮役程度もこなせないのか、という薊への苛立ちの現れだ。鬼は穢が血に仕込んだ呪いの一つ、相互嫌悪の呪いによって互いに対する悪感情を蓄積しやすい。共食いの性質と並ぶ、鬼殺隊という脅威を持つ鬼が個々で活動する最たる理由だ。他の雑多な鬼と比べれば幾分か理性的な薊と燐墓も(上位者)の命令だから組んでいるだけで、その仲は決して良好ではない。少なくとも、相手の失敗を嘲笑って皮肉り、自分を棚に上げて相手を貶す程度には。

 

ふう、と息を吐いた燐墓は、眼下で転がる二人を見据えて唇の端を吊り上げた。無様に転がる様を上から見下ろすという行為は燐墓の嗜虐心を擽り、ささくれた気分を僅かながらも慰撫した。二人が立ち上がる。女の方は兎も角、少年の方の動きは些かぎこちない。それを見て痺れはまだ取れていないと判断した燐墓は、血鬼術を発動させた。

符が燃え落ちる。先程、家の残骸ごと炭治郎を焼き払おうとした毒々しい色の炎が再度放たれる。細長い円錐状に整形された炎が幾つも二人に向けて降り注ぐ。地面に突き刺さった炎の槍は、ぶくりと膨れたかと思うと針のような形状の小さく鋭い火を撒き散らしながら弾けた。小さいと言っても、一番太い部分で槍の柄程度の直径はある。殺傷能力は充分だろう。一発一発の炎から撒き散らされる炎の針は少ないが、大本の炎の弾数が多い為に気休めにもならない。上空からの撃ち下ろしだけでなく、着弾から時間差で横から襲い来る炎まで追加される事で躱し辛くなっている。

燐墓は片手で炎を放ちながら、もう片方の手で別の符を握る。その符を使いながら手を振るえば、その軌道に沿って、酸化した血にも似た赤黒い炎が地を舐めた。ぐるりと逃げ道を塞ぐように大きく弧を描きながら一周、更にその円を区分けするように直線の炎が幾筋も走る。カナエとようやく痺れの取れた炭治郎はそれらを避け続けた。迫る炎の針を斬り落とし、地を走る炎のぎりぎりを転がって潜り抜け、狙いを付けさせないように縦横無尽に駆け巡る。

 

げほ、とカナエが咳き込んだ。呼吸を用いていないとはいえ、肺の傷付いた身には激しい運動────鬼との戦闘は大きな負担となる。動きの鈍ったカナエに、しかし燐墓は攻撃を加えない。むしろ忙しなく動かしていた手を止め、笑みすら浮かべた。訝しげに燐墓を見上げる二人を無視し、燐墓はぱちりと指を鳴らす。

 

────途端、辺りを熱気が包む。

 

燐墓の炎によって周囲は燃え盛っているが、その熱気とは比にならない膨大な熱量。上空に居る燐墓から見れば、困惑する二人は既に()()()。燐墓の視界に映るのは、赤黒い炎で地面に描かれた、五芒星を歪に崩したような陣の中に居る二人の姿。赤黒い炎は燐墓の血を燃料に燃える炎で、燐墓はそれを用いることで即興の式を描いて二人を閉じ込めていた。

 

血鬼術・大難災禍(たいなんさいか)

 

炎で描かれた陣を塗り潰すように、鮮やかな緑の火柱が上がる。その炎は陣の外側にまで漏れ、広範囲を炎で包み込んだ。火柱はすぐに消えたが、燃え広がった炎は消えていない。里の一角を一撃で火の海へと変えた手腕は正しく上弦の鬼に相応しい。炎の中から現れた炭治郎達の髪は焦げ、その身には火傷の痕が散見される。それでも日輪刀は手放さず、その目には未だ闘志が浮かんでいる。

無駄な事を、と燐墓は嘲った。燐墓の戦闘スタイルはアウトレンジからの一方的な高威力射撃。刀の届かない場所から撃ち下ろす戦闘手法は、他の鬼達と比べても一風変わっている。自分の安全はちゃっかり確保している辺りがお前らしい、とは穢の言葉だ。そんな燐墓にとって、基本的に鬼殺隊士に負ける事はあり得ない。だって、人は空を自由に飛べない。宙へと跳べば行動を制限されるし、燐墓に届く程に高く跳べば地に墜ちて死ぬ。人は脆く弱い。故に、その脆く弱く直ぐに死ぬ命を如何に()()()()()()()()()という行為に、燐墓は倒錯した悦びと芸術性を見出す。そして苦痛と絶望に歪んだ、()()()()()()表情のままで殺す。それこそ至高と信じて疑わない。

 

ぐらり、と眼下の人影が揃って膝をつく。獲物が罠に掛かった事を悟り、燐墓が嗤った。先程から燐墓が放っている毒々しい色の炎は、やはりというべきかただの炎ではない。燃え盛りながら広がる()()()()は嗅いだ者の神経回路を混乱させ、電気信号の伝達を乱す。右手首を動かそうとすれば左膝が動くといったように、頭と体の動きが一致しなくなるのだ。燐墓との戦いで精神と体力をすり減らしている中で、この突然の異変に対応できる人間などそうは居ない。元々はもっと早く効果の出る炎を用いていたのだが、かつて当時の水柱と戦った際に普通の炎とは異なる臭気に気付かれて不発に終わった事があった。その時から即効性よりも確実性を重視した今の炎に変えている。

燐墓は風の刃を生み出し、二人に向けて放つ。単一の攻撃でピンポイントを狙うのではなく、大雑把な狙いだけつけた無数の刃で周囲もろとも斬り刻もうとした。

 

霞の呼吸 参ノ型 霞散の飛沫

 

そこにすんでのところで時透が割り込む。ぐるりと払う様な流麗な太刀筋で風を斬り散らした。二人は未だ動けない。唯一自由になる口で、体の自由を奪われた事を伝えていた。特に炭治郎は燐墓の罠に気付いた。炭治郎の鼻は良い。それこそ、かつて燐墓が戦った水柱なんぞよりも余程に。感情や言葉の虚実すらも暴くというのだから相当だろう。今まで気付かなかったのは、上弦の鬼という強大な相手と戦闘中であった事、更には燐墓自身から漂う強力な鬼特有の濃密な腐臭が辺り一帯に広がっていた事がある。炎の匂いの僅かな違いなど、気にしていられなかったのだ。

炭治郎の言葉を聞いた時透は、鼻と口に被せるように手拭を巻きつけた。燐墓の罠に掛からない為には仕方がないとはいえ、呼吸がし辛くなる。それだけでも燐墓に利がある。人の体力は有限。わざわざ疲れやすくなってくれるというのなら、それに越したことはないのだ。それに、完璧に防げるという訳でもない。燐墓は待てば良いのだ。

 

燐墓は風の刃を放つ。所詮は先の焼き直し、防がれることなど分かっている。しかしそれで良いのだ。呼吸を使えば使う程、燐墓の罠は相手の身を蝕んでいく。そうだ、もっと動け。そう呟く代わりに、燐墓は喉を微かに鳴らして笑った。そう、じっくりやれば良い。燐墓がいる限り、この里の夜は明けないのだから。

救いの日輪(カミ)は、此処には無い。



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