仮面ライダーAGITO×AGITO feat. SPEC〜Shining Spirits are Awakening〜《完結》 (田島)
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0:プロローグ

 空を見上げると、やや灰がかった雲に隙間なく一面覆われていた。

 ここ数日、はっきりしない天気が続いていた。空を覆うのは雨を降らす程厚い雲ではないが、かといって陽光がその姿を見せる事もなかった。

 どことなく憂鬱さを強く感じてしまうのは、この天気のせいだろうか、それとも。

 空になったじょうろを足元に置いて、真魚は俯いて深く息を吐いた。

 菜園のキャベツと大根も、心なしか元気がなく、やや萎れているように見えてしまう。真魚の世話の仕方は以前指示されたものに従っていたが、指示が出されたのは秋口で、あの頃はピーマンやトマトを育てていた。野菜ごとに、気を配らなければならない事が違うのかもしれない。

 顔を上げると、のっぽの頭が塀越しに中を覗いていた。

「氷川さん」

 小走りに駆け寄ると、氷川誠が、こんにちは、と浅い笑顔で挨拶を返した。

「翔一くんの事、何か分かったんですか?」

「……いえ、残念ながら何も。津上さんの事ですから、何だかひょっこり、何事もなかったように戻ってきていてもおかしくないような気がして、何となく、来てしまいましたが……まだ帰っていないんですね」

「はい」

 氷川は薄ぼんやりと、夢の話でもするような落ち着いた口調で話した。それがどことなく淋しくて、真魚はまた俯いた。

 蠍座生まれの人ばかりが前触れなく理由もなく自殺する不可解な事件、その裏にはアンノウンと、神とも呼ぶべき存在の、人類とアギトを根絶するという目論見があった。

 アギトとギルス、G3‐Xの必死の戦いで、アンノウンは全て倒された。

 あの時アギトは、天に昇らんとする黒い青年を一人追い、爆音と閃光が轟いてそして。

 それ以来、津上翔一は、忽然とその姿を消してしまった。

 あの時、世の終わりを感じたように力を失い枯れた野菜は、半分程は戻らなかったが、残りの半分は、残っていた根や茎からまた逞しく蘇り育った。翔一に申し分が立つ、彼から菜園を預かった身として真魚はそう考えたが、肝心の翔一だけが、いつまで経っても帰ってこなかったから、報告すらできはしない。半分程を枯らして駄目にしてしまったのは真魚の世話の仕方が原因かもしれないから、叱られてもいいのに、未だ事実を伝える事すら出来ないでいた。

「どこに、行ってしまったんでしょうね」

 灰色に淀んだ空を見上げて、氷川が呟いた。どうして氷川さんは翔一くんが死んだとは考えないんだろう。少し不思議に感じたが、真魚自身も何故だか、翔一が死亡した可能性については、ありえないと根拠のない確信を抱いていた。そう信じさせてしまうのが、翔一という青年のおかしな所だった。

 氷川の言う通り、何もなかったようにひょっこり帰ってくるような気がする、まだその時が来ていないだけだ、そんな気がした。

「絶対、帰ってきます。だって、自分の居場所はここなんだって、翔一くん自分で言ってたから。だから帰ってきます」

 独り言のように呟かれた真魚の言葉は、自分に言い聞かせているような強さがあり、祈りのように辿々しくもあった。氷川はふっと真魚を見つめると、頬を崩して微笑んだ。

「ええ、そうですね。そう思います」

 氷川が笑ってくれたので、真魚も少し笑えた。息を吐いて、両腕を後ろに反らして体を伸ばす。

「氷川さん、もし良かったら、一休みしていって下さい、お茶でも淹れますから」

「いえ、お構いなく」

「あたしも丁度一休みしようかなって思ってたから、もしお時間大丈夫だったら、付き合って下さい」

 甘えるように言うと、氷川は困ったように苦笑を浮かべて、軽く頷いた。そこに、バイクのエンジン音が近付いてきた。

 思わず真魚は顔を上げたが、氷川は何度か首を横に振った。音が違うのだろう。

 角を曲がって姿を見せたのは、案の定翔一のバイクではないが、よく見知った男の愛車だった。

 門の横にバイクを付けると、ヘルメットを脱いで、葦原涼は自分をきょとんと見つめる真魚と氷川を見つめ返した。

「……何となく、津上が帰ってきたんじゃないかって、思ったんだが。まだ何も分からないか」

「はい……葦原さんもですか」

「じゃあ、お前もか」

 やや口を曲げて葦原が呟いて、氷川は軽く頷いた。だが二人が何を感じていようと、依然として翔一がどこにいるのか分からない状況には、何の変化もなかった。

「あの……良かったら葦原さんも、お茶でもどうですか。今一休みしようかなって思ってたところだから」

「いや、俺は……」

「いいじゃないですか、上がってってくださいよ、ね」

 言って真魚は、笑顔を浮かべて葦原の手を引いた。常の彼女らしくもない、と思ったものの、そうせざるを得ないのだろうと思われ、葦原は難しい顔はしたがそれ以上何も言わずに、真魚に引かれるまま美杉家の敷居を跨いだ。氷川も後に続いてドアを閉める。

 雲は切れる様子もなかった。だが流れてはいる筈だったから、いつか太陽はその姿を覗かせるだろう。氷川も葦原も真魚も、それを信じているに違いなかった。

 

***

 

 それは、初めて経験する感覚だった。突然襲い来たそれは瞬く間に広がり、芦河ショウイチの意識を埋め尽くした。

 行かなければならない。

 焦燥によく似ている直感のような、そんな想念に抗えずに、膝に乗せていたノートパソコンを畳んで両手で持つと、腰掛けていた壁際の椅子から立ち上がる。

「ショウイチ……? どうかしたの?」

 Gトレーラーのオペレーションルームで、オペレーター席に腰掛けて提出用の書類を作成していた八代陶子は、待機任務中で同じく書類を片付けていた筈の芦河が突然立ち上がったのに驚いて、振り向いて彼を見つめた。

「……分からん。分からないが、急がないと取り返しがつかなくなる予感がする」

「えっ?」

「済まん、ガードチェイサーを借りる!」

 やや大きな声で告げて、椅子の上にノートパソコンを置くと、芦河は格納庫へと駆け出した。

 彼は理由なく奇矯な行動はとれない生真面目な男だったし、何よりアギトだった。強力な超能力に目覚めた彼には他者の知覚できないものが分かるのかもしれない。

 八代がオペレーター席から遠隔操作をして後部ハッチを開けると、ガードチェイサーが走り出していく。運転席に無線で指示を飛ばして、Gトレーラーも芦河の後を追った。

 警視庁から大田区方面、海の方へ。脇目もふらないで、ややスピード超過気味に、芦河はひたすらガードチェイサーを走らせた。

 埠頭沿いを暫く走り、芦河はやがて停車すると、海へと駆け寄って、直角に切り立った岸壁からやや身を乗り出して水面を覗き込んだ。

 例えるならば、マッシュルームの水煮缶を開けたところ。明るい茶色の頭が、岸壁直下の水面からやや覗いてぷかぷかと波間をたゆたっていた。

 苦い顔をして芦河はガードチェイサーに戻ると、無線機のスイッチを入れた。

「こちら芦河、G3ユニット、どうぞ」

「こちらG3ユニット、ショウイチ、一体何があったの?」

「……遅かったかもしれん。土左衛門がいた」

「えっ……もうホトケさんなの?」

「それは分からん。引き揚げるから手を貸してくれ」

 通信が終了すると、程なくGトレーラーが姿を現した。積み込んであるロープを使い、芦河が(他に人がおらず、もし土左衛門が生きているなら海の中に放り出しておく訳にもいかず)海に降り、漂う体を引き揚げた。

 引き揚げてみると、年若い青年は意識こそないが水はあまり飲んでいないようで、安らかな寝息すら立てていた。

 彼の服装は明らかにおかしかった。今は初夏だが、彼の格好は実に暖かそうなフリースのジャケットと赤いチェックのネルシャツにジーンズ。冬向きの服装だった。

 たっぷりと水を吸ったフリースのジャケットが大柄な青年の重量を更に増している。水面から岸壁の上までは二メートルほどだが、引き上げには少々難儀した。

 じきに救急車が到着し、青年が搬送されていく。芦河は不審げに辺りを見回すが、倉庫の立ち並ぶ埠頭は人気もなく、不審な点は何もなかった。

 あの胸騒ぎは、いてもたってもいられなくなるような激しい不安感は何だったのだろう。波が寄せて帰る音が繰り返し響くだけで、辺りには気配らしい気配はなかった。

 勘違いか。そんな曖昧な言葉で自分を納得させて、芦河はガードチェイサーを押して、ほど近くに停車しているGトレーラーの格納庫へと向かった。

 芦河が気付けなかったのも詮無い事かもしれない。その視線は、彼のいる埠頭から注がれていたものではなかった。

 

***

 

「何か見えたのかい?」

 目張りをして外からの光を遮断したような、暗い部屋だった。差し込む光もない。

 一寸先も見誤りそうな暗闇の中に、壮年の男の太い声が低く響いた。

 もたりと、澱んだ闇が揺れた。そこにいる誰かが、首を小さく縦に振ったようだった。

「何が見えた?」

「大きな力……でも、どこかおかしい」

「おかしい?」

「分からない……」

 男と話しているのは、澄んでやや高い少女の声だった。

 会話の体は成しているものの、二人はまるで適当な言葉をそれぞれ好き勝手に呟いているようにも聞こえた。

「でも、アギトだわ。彼はもう目醒めているわ」

「アギトか、もう二人目が出てきてしまったのかい……いや、正確には三人目、か」

「どっちでもいいわ、そんな事」

 元々相手に対する興味が薄い様子だった少女の声からは、冷たささえ漂うようになった。

「……ああ、そうだね、すまない。彼が我々に協力してくれるのか、敵になるのか……どちらにしろ、計画は前倒しした方が良さそうだな。あの体は上手く馴染んだようだから」

「体って、彼?」

「そうだよ。ついに私は、神をこの手で創り出すんだ」

 くぐもった笑いが低く響いた。その笑い声は、少女には向けられていないようで、その事が憂鬱だったのか少女は軽く息を吐いたようだった。



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 警視庁公安部公安第五課・未詳事件特別対策係。通称『ミショウ』と呼ばれるその課は、庁外の人間には容易に存在を知られる事はない。

 決してその存在が隠匿されているという訳ではない。ミショウは所謂「島流し先」的な位置付けにあり、割り当てられた部屋も一般人は容易には辿り着けない所にあるというのが理由の一点目。様々な課をやり過ごして進み、廊下の奥に、貨物用の無骨なエレベーターがある。それに乗り上へと上がると、何かの倉庫にでも使っていたような換気の悪いがらんとした部屋に出る。そこがミショウだった。

 理由の二点目は、一般人は通常関与し得ない事件ばかりを扱っている、という事にあった。

「ありえないありえない、あーりーえーなーいーっ!」

 ミショウ所属・当麻(とうま)紗綾(さや)警部補は、現場検証で撮影されたと思しき写真をばたりと机に叩きつけて、右の手でがりがりと頭を掻いた。

 丹念に櫛梳かれたわけではなかった長い髪が、更にぐしゃりと乱れる。

「お前の大声が有り得ない、黙れ」

 当麻の斜め向かいの机に背筋を伸ばして座った、丸刈りのひょろ長い男――瀬文(せぶみ)焚流(たける)警部補が、首を四方八方に振る当麻にぎょろりと目線を向けた。

「はぁ? 全っ然大声じゃないし。つうかこっち見んな」

「誰もお前の顔なんか見たくない、ふざけるな」

「まあまあ二人とも、落ち着いて。当麻くんは糖分が足りないんじゃないですか? ほら羊羹食べて」

 奥で寛いた様子で足の爪を切っていた未詳事件特別対策係係長・野々村がのんびりした動作で靴下と靴を履き椅子から立って、どこからか取り出した羊羹を当麻に差し出した。それを当麻は当然のように受け取り、机の上から無造作に掴み出したカッターナイフで羊羹を包むビニールの口を切って貪り始めた。

「……まあ、有り得んというのは同感だ」

 背筋を伸ばしたままで目を伏せ、瀬文は手にしていた書類を机に置いた。そこにはやはり現状のものだろう、写真が添えられている。

 水に濡れ黒くなったアスファルトの上に、成人男子のものと思われる服が脱ぎ捨てられた写真。

 目撃者の話によれば、彼はいきなり倒れ苦しみだし、暫くして水になって流れてしまったというのだ。

 ミショウは、捜査一課が手に負い切れなかった怪奇事件を担当する。その事件には多くは、『スペックホルダー』なる人々が関わってくる。

 人間の脳の中で眠る未知の能力。それが何かの拍子に、目覚めてしまう事がある。念動力、サイコメトリー、治癒能力、瞬間移動、高速移動能力、等々。それらの能力は、『SPEC』と呼称されていた。

 だが、人間を水に変えてしまうだなんて、そんなSPECは、聞いた事がない。人間の体を構成する分子構造を根こそぎ全て変えてしまう、そんな力を人間が持ち得るのだろうか。外部から何かをするのか、内部に力を作用させるのか、どちらにしろ、今まで見たことも聞いたこともない。

 同じような事件がこれで三件目。三件の被害者は、父と娘と息子。血縁関係にあった。

 今母親には護衛が付いているが、特に何か起きる気配はない。

 SPECからも考えられない不可解な事件。そしてもう一つ、ミショウの三人には気掛かりがあった。

 時の流れを操り、自らを高速の時の中に置く事のできたスペックホルダー・(にのまえ)十一(じゅういち)

 幾度も当麻と瀬文の前に立ちはだかり、暴走の果てに当麻との対決に敗れた彼は、死亡した。その遺体が、死亡直後に何者かに盗み出された。

 ニノマエの所属していたスペックホルダーの組織は彼の暴走で潰されたようだったが、他にも似たような組織はいくらもあるようだった。スペックホルダーの組織の仕業かもしれない、まず考えついたのはそんな憶測だった。

 だが、ニノマエの死体など盗んで何になるだろう。何に使うのかなど見当もつかない。

 ニノマエは、幼い頃に失踪し、記憶を書き換えられ当麻と戦うよう仕向けられた、当麻の弟・陽太だった。幼い頃の失踪以来二度目、当麻はまた弟を見失った。

 遺体を当麻家の墓に入れる、何でそんな事すら阻まれるだろう。

 口汚く、人を喰ったような態度をとる当麻は平然としているように見えた。瀬文も野々村も、敢えて話題には出さず、手がかりを探し続けた。

 だが、犯人に繋がるような痕跡は何もなく、手がかりは一向に得られないまま、時間だけが無情に過ぎた。

 唐突に、エレベーターが作動し轟音が鳴り始めた。上がってきたエレベーターに乗り込んでいたのは、いつもの面々だった。

 捜査一課所属、馬場・鹿浜・猪俣。三人はエレベーターから降りて当麻へと歩み寄ると、馬場が脇に抱えていたファイルをばさりと当麻の机へと置いた。

「また新しい被害者だ。前の三人との血縁関係はない。家族は妻と息子、既に監視はつけてある」

「これは、いつ?」

「事件発生は今日十一時三十二分。二時間ほど前です。今実況検分から帰ってきました」

 くたびれた、とでも言いたげに馬場は首を回したが、当麻は見向きもせずに、机の上に置かれたファイルを開き、目を通し始めた。

「まあ、いい加減何か解決の糸口でも見つけてくれ。手がかりゼロで参ってるんだ」

 続いた鹿浜の言葉に、他の二人からも返事はない。野々村は奥で肩を竦めてみせた。

 驚くべき速度で当麻の手の中の資料は捲られ消費されていった。知能指数201、一度目を通しただけで一字一句違えず記憶する並外れた記憶力を持つ、彼女もまた異能の人だった。

 

***

 

 病院に搬送された青年はじきに目を覚ました。八代と芦河は、彼が運び込まれた病室へと向かった。

 青年の体には、命に関わるようなものはないものの、新しい打ち身や内出血、擦り傷がいくつもあったという。

 この季節に冬の服装で海に浮かんでいる事自体異常なのに、細かいとはいえ外傷を負っているのであれば、何らかの事件に関わったか巻き込まれた可能性も考えなくてはならない。

 いくら暇とはいえ、大方酔っ払って海に落ちでもしたのであろう若者に事情を聞くなど。沸き上がる忸怩たる思いを押さえられず、芦河はそっと鼻から長く息を吐いた。

 未確認生命体はその姿を見せるものの、そう頻繁でもない。G3ユニットは連日待機任務か訓練をこなすだけの繰り返しで、お世辞にも忙しいとは言えない状態だった。

 門矢士と小野寺ユウスケが去ってからかれこれ一ヵ月が経とうとしていた。彼らに助けられ励まされ、己の中の得体の知れない力とも折り合いが付くようになって、ようやく警視庁に戻ったものの、芦河が戻った途端に未確認生命体はあまり表に出てはこなくなり、アンノウンもぱたりと消息を絶った。芦河の決意は空回りする事となった。

 勿論、暇だからというだけではここまでは来なかった。津波のように胸を頭の中を瞬く間に覆い尽くしたあの危機感。その先にいたのがあの青年だった。何も意味がないとは考えづらい。理屈ではなかったが、直感は確信のように強く胸にあった。

 彼は何者なのか、何故芦河は、彼をどうしても助けなければならないと確信したのか。分かるか分からないかは別として、アギトとして持っている何かに駆り立てられた結果ならば、あの青年に話を聞く必要があると思われた。

 やがて病室に辿り着く。六人部屋の、入り口から見て向かって右、真ん中のベッドが青年に割り当てられている筈だったが、そこには誰もいない。代わりに、病室にはあまり似合わない明るい声が向かいのベッドから発せられていた。

「ほー、上手いもんだねぇ。俺はばあさんに任せっきりだったから、こういうのはどうもなあ」

「そりゃ俺、こう見えても一応プロですから。あっ、まだ見習いですけど」

「じゃああんた、見習いの板さんかい?」

「ははは、板さんはちょーっと違うかも。でも、大体合ってます」

 患者衣の青年は向かいの老夫人のベッド脇に置かれた椅子に腰掛けて、手際よく林檎の皮を剥いていた。それを老夫婦が感心した様子で見守っている。剥かれた皮は一繋がりでどんどん長さを伸ばして、あっという間に林檎が白い肌を晒した。

 剥かれた林檎を膝に置いた皿の上で器用に六つに割って皿に並べ、青年は実に人の良さそうな笑顔を満面に浮かべて、皿を老人へと差し出した。

「はい、どうぞ。蜜の入ったいい林檎ですよこれ。身も詰まってるし。美味しそうだなぁ」

「有り難うなあ、あんたも食うかい、林檎」

「えっ、いいんですか? じゃあお言葉に甘えて頂きます。お腹ペコペコだったんですよね、嬉しいなあ」

 差し出された皿からひょいと林檎を摘み上げて、一口に口の中に放り込んでしゃくしゃくと咀嚼音を立てながら、青年は実に幸せそうな笑顔を浮かべた。

 和気藹々とした雰囲気に何となく声を掛けるのを憚られ、八代も芦河も出入口からその様子をただ眺めていた。ナイフを台に置こうと立ち上がった青年が、ようやく入口に立った二人からの視線に気付いた。

「……津上、翔一くん?」

「はあ……そうですけど」

「警視庁の八代と、こっちは芦河よ。ちょっと事情を聞きたいんだけど、いいかしら?」

「はい、構いませんけど……」

 いかつい制服姿の八代に声をかけられたからか、津上はやや緊張した様子で、軽く首を傾げた。

 

***

 

 津上翔一は、検査の結果、見たとおり細かい怪我はしているものの、体には別段異常がない事が分かっていた。

 ただ、服がまだ乾かないため、それを待っているらしい。

「ほんとは知り合いに服とか持ってきて貰おうとしたんですけど、電話が繋がらなくって……」

 実に不思議そうな顔をして、津上は首を捻り考え込んだ。彼は今自分のベッドの上で胡座をかき座って、隣のベッドとの間の隙間に八代と芦河が椅子を置いて腰掛けていた。

「……それ以前に、何でこの季節にあの冬の服装なんだ。何で君は、海に落ちたんだ?」

「寧ろ俺にしてみると、何で冬じゃないんだろう……って感じなんですけど。今五月って聞いたけど、本当ですか?」

「正真正銘五月だ。それ以外の何月だっていうんだ」

「一月の末くらいだと……思ってたんですけど……おっかしいなぁ」

 津上は実に不思議そうに首を捻って考え込むが、訳が分からないと言いたいのは芦河の方だった。この男は一体、何を言っているのだろう。

「記憶が欠落してる、部分的な記憶喪失って事は考えられない? 津上くん、君は何故どうして、海に投げ出されていたの。最後の記憶は何?」

「うーん……話すのは構わないんですけど、お二人とも多分、信じてくれない気がするんですよね」

「そんな事はない。俺達は警察官だ、大抵の事には驚いたりしない。そんなに勿体ぶるような大層な話か」

 渋る津上にやや苛ついたのか、やや早口に芦河が告げた。その言葉を聞いて、津上は何か思い出しでもしたのか、目を丸くして芦河を見つめた。

「……そうだ、氷川さん、氷川さんと小沢さんに聞いてもらえたら、俺の事分かります。未確認生命体対策班の」

 名案が浮かんだと思ったのだろう、津上の声は弾んでいたが、津上の言葉を受けても芦河と八代は、きょとんとして津上を見つめるだけだった。

「……どうしたんですか?」

「未確認生命体対策班というのは、どこのだ」

「えっ、やだなあ、警視庁ですよ。G3ユニット、あるでしょう?」

「……あの……警視庁未確認生命体対策班には、ヒカワもオザワも、所属してないけど」

「……へっ?」

 津上の顎が落ちて口がぽかんと空いた。何を言っているのか分からない、何も言葉にせずともそう顔に書いてあった。だが、芦河と八代の側にしても、津上が何を言いたいのかがさっぱりなのだから、お互い様だった。

 互いの認識のズレを修正できないまま沈黙が続く。そこに看護師が、乾かしたらしい津上の服を抱えて入ってきた。

「はい津上さん、乾きましたよ。退院許可も出てますから、着替えたらもう帰っていいですよ。出る時にナースステーションに声をかけて下さい」

「あっはい、ありがとうございます」

 看護師が津上のベッドに畳まれた服を置いて告げると、津上はぺこりと頭を下げて応じた。

 津上が着替えをするのであれば、席を外さざるをえない。八代と芦河は席を立って、すいません、と小さく頭を下げて津上がベッドを仕切るカーテンを引いた。

 廊下へ出て、八代はそのまま、何か連絡が来ていないか確認する、と電話コーナーへと向かっていった。

 津上翔一の話す内容は不可解すぎた。こちらも理解出来ないが、津上翔一自身も戸惑っている様子だった。

 知り合いへの電話が繋がらない。津上の知る未確認生命体対策班には、芦河と八代ではなく、ヒカワとオザワという人間が所属している。

 まるでタイムスリップでもしてきたようだったが、今年の一月から来たにしても、その頃でもヒカワとオザワはいない。

 名前が同じなのに中身が違うものについてそれぞれが話をしていて、認識の違いに気付いていないから擦れ違う。そんな違和感があった。

「あの……俺、下でベッド代とか払ってきますけど、どうすればいいですか?」

 気付くと津上翔一が着替えを済ませて病室を出、すぐ側の壁にもたれていた芦河の顔を覗き込んでいた。

 さすがに暑いのだろう、下に着ていた無地の白Tシャツ姿で、上着は手に持っている。

「そうだな……支払いが終わったら入り口のロビーで待ち合わせるか。まだ聞きたい事があるしな」

「分かりました。じゃあ後で」

 返事を返すと、津上は軽く頷いた後に歩き出して、ナースステーションに声をかけて書類を受け取ってから、エレベーターへと早足に歩いていった。

 津上の背中を見送って息を一つ吐き、ふと八代が戻ってこない事に気付いた。首を動かして廊下の奥にある電話コーナーを眺めると、八代が飛び出してきて、病院内にも関わらず走り始めた。

「ショウイチ!」

「おい、走るな」

「未確認が現れたわ。ここから近い、あたしたちが帰るよりGトレーラーに来てもらった方が早いから、手配したわ。行くわよ」

「津上翔一はどうする。お前が話してる間に下に行ったぞ」

「待っててくれるでしょ。悪いけどそれどころじゃないわ」

 やや納得がいかないが、非常事態には違いなかった。芦河は苦い顔で頷き、また走りだした八代の後を追った。

 

***

 

 Gトレーラーとは病院を出てすぐに合流に成功した。急ぎG3‐Xを装着し、G3ユニットは現場へと急行した。

 だが、状況が変わっていた。

『警視庁よりG3ユニットへ。未確認生命体が謎の生命体に襲撃されているとの報告、警戒されたし』

「……了解」

 急行中に入った無線の内容は意外なものだった。門矢士が去って以来、姿を潜めていた『アンノウン』と呼ばれていた存在、と思われる。

 八代は低く応答を返して、顎の下に手を当て何かを考え込んだ。

「ショウイチ、今の報告は、前の牛の奴の仲間……だと思う?」

『多分そうだろう』

「あなた、あれはアギトを狙ってるんだって言ったわよね。牛の奴の話の内容がそうだったし、門矢士もそう言ってたって」

『ああ、言った』

 既にG3‐Xを装着し終え、ガードチェイサーに乗り込んで発進態勢に入った芦河と無線越しに話しながら、八代は浮かぬ顔で眉根を寄せた。

「……じゃあ、これから向かう先にはアギトがいるっていう事?」

『それは分からん。未確認も奴らにとっては敵のようだしな』

「まあいいわ、どっちにしても気を付けて」

『分かっている。じゃあ、行く』

 通信を切り、後部ハッチからガードチェイサーが発進した。

 門矢士は、「この世界にはライダーがいる、もうG3‐Xは必要ない」と言ったが、復帰した芦河はG3‐Xの装着員を続ける事を望んだ。

 今のところG3‐Xをまともに扱える人間が他にいないのも確かだったし、警察官として戦うのであれば、アギトの姿は要らざる不安を煽るだけだという芦河の主張は理があった。

 現場は近かった、じきG3‐Xのカメラから送られてくる映像が、現場を映し出し始めた。ように思ったのだが。

 閉鎖した工場前の駐車場は、アスファルトが割れ焦げ跡が残っている。そこには、未確認もアンノウンもいなかった。遠巻きに周囲を包囲して銃を構える警察官達、その中心に、いる筈のない姿があった。

「……アギト?」

 

「アギト……だと?」

 現場に到着した芦河は、ガードチェイサーから降車するのも忘れ、輪の中心にいるその存在を呆然と眺めた。

 アギトは構えもせず、きょろきょろと辺りを見回していたが、G3‐Xの姿を捉えるや、足を踏み出した。

 思わず警戒し、右脚のスコーピオンに手をかける。

「氷川さん……ではない、んですよね。もしかして、さっきの、芦河さん? ですか?」

 声には、聞き覚えがあった。

「お前……!?」

 その声は、間違いなく、津上翔一という青年のものだった。



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 目の前にいるのはアギト。確かにアギトだった。しかも、つい先程聞いたばかりの声で、芦河の名を呼んだ。

「お前、津上翔一か」

「はい、そうですよ」

「……何でお前がここにいるんだ」

「何で……って、それはちょっと説明が難しいっていうか、俺にもよく分かんないっていうか」

 あっけらかんとした緊張感のない声だった。津上の茫洋とした態度も勿論だが、銃を構えた警官達がアギトの一挙一動を見守る視線が、芦河を苛立たせた。

 四号じゃないのか、似ているが違う。新手の未確認か。未確認を殺したあのカマキリの化け物は何なんだ。カマキリの化け物を殺すんなら、あの四号もどきはやっぱり未確認か。

 拾う必要のない呟きを耳が捉えるのは、G3‐Xの集音機能が優秀というだけではないだろう。もしかしたら彼等は、口には出さず心の中で、思っているだけなのかもしれない。

「……かか」

「えっ? 何か言いました?」

「馬鹿か貴様はと言ってるんだ、黙ってろ!」

 力一杯に腹の底から芦河は叫んだ。こいつは馬鹿だ、そうとしか思えず腹が立った。よりにもよって、この衆目環視の中、アギトにならなくてもよさそうなものだった。未確認やアンノウンとはG3‐Xが、警察が戦うのだ、大きなお世話もいいところだ。

 叫んだ勢いのままに、芦河はガードチェイサーから降りてアギトに詰め寄り、突然の事に驚いた様子のアギトの手首をむんずと掴んで、丁度到着したGトレーラーへとアギトを引き摺って歩き出した。

「ち、ちょっ、痛いですよ、それに、いきなり馬鹿はないんじゃないですか」

「うるさい、ややこしくなるから貴様は黙っていろ!」

 二人の言い合う様を、警官達はぽかんと眺めていた。芦河は一度足を止め振り返った。

「この謎の生命体はG3ユニットが確保、連行し調査する。何か質問は!」

「ちょ、謎の生命体とか酷くないですか? アギトですよアギト」

「黙っていろと言っとろうが!」

 警官達は芦河の剣幕に押されたのか、はたまたアギトを自称する謎の生命体のあっけらかんとした様子に気が抜けたのか、とにかく異議を申し立てる者はいなかった。

 誰も文句を言わないのを確認すると、芦河は前に向き直って、再びアギトの手を半ば無理矢理引いていった。

 事情が分かる者も対応できる者もいない。警官達は銃を下ろし、ぎゃあぎゃあと罵り合いながら遠ざかるG3‐Xと謎の生命体を見送った。

 

***

 

 休憩所で瀬文は自動販売機から缶コーヒーを買い、ソファに腰掛けてプルタブを開けた。

 相変わらず、ニノマエの遺体を盗み出した何者かについては、一つの情報もない。不審なカメラ映像が残っていたが、遺体を持ち出したのは全身黒づくめの男二人組、という事しか分からない。

 目撃情報も何もない。スペックホルダーの仕業ならいとも容易い事かもしれない。瞬間移動、記憶を書き換える、通常よりずっと速い時の流れを進む、適切なSPECを駆使すれば、証拠を残さない事など造作もないだろう。

 もう四、五ヶ月ほど経つ、今から犯人の足取りを追う事は、不可能だろう。

 そして、ここ一ヶ月で急に増えた、不可能な状況での不審死についても、一向に調べは進んでいない。

 例えば人が水となる、灰になる、屋上から各階の床を擦り抜けて地上一階のロビーの床に叩きつけられる。SPECを用いたにしても説明を付けるのが困難そうな死亡事件が相次いでいる。

 不審死の現場付近では、奇妙な目撃情報が寄せられていた。

 ある者はそれを神の使いのようだと形容した。頭上に光輪を戴いた、螳螂やハリネズミ、亀、何かしらの動物にも見える人型の生命体。

 そのような目撃情報があるならば未確認生命体対策班の管轄ではないか、とも思ったが、目撃情報は不確かなもので、未確認は今まで拳や武器を用いて物理的に人間を殺害していた。新手の未確認と事態を処理する事は理屈が通らない。

 不可解な現象は見慣れたと思っていたが、いくらでも新手が控えているものだ。しみじみと思い、瀬文は不味そうに缶コーヒーを啜った。

「何こんな所で油売ってるんですか」

 顔を上げると、キャリーケースを引いた当麻が瀬文を見下ろしていた。

「お前こそどこ行ってた。行き先は分かるようにしておくのが社会人として最低限守るべきルールだろうが」

「調査ですよ調査。瀬文さんと違ってちゃんと働いてます」

 しれっと言い放ち、当麻は瀬文の右の椅子に腰掛けた。キャリーケースを空けて水の入ったペットボトルを取り出し、蓋を開けると一気に呷る。

「……調査って、何のだ」

「最近不審死を遂げた人達の共通点について。実にうち向きの案件でしたね、これは」

 勿体付けた当麻の口調に、瀬文は苛立ちを隠さず彼女を睨み付けた。瀬文も何度も資料を読み返したが、被害者達には目立った共通点などなかった。

「ふっふっふ、これ、何だと思います?」

 瀬文の鋭い視線に怯んだ様子など一切なく、当麻は楽しそうににやついた笑みを頬に浮かべて、キャリーケースの中から透明の袋でパッキングされた瓶を取り出した。瓶の底には、銀色の硬貨と思しき物が入っており、鈍く光を跳ね返した。

「……貯金箱、じゃないのか」

「違いますね。この瓶には、貯金箱代わりには使えない致命的な欠陥があります。口に百円玉を当ててみてください」

 怪訝そうな顔色を隠さないながら、言われるまま瀬文は小銭入れから百円玉を取り出し、受け取った瓶の口へと当てた。瓶の底に入っているのも、百円玉だ。

「……入らない、な」

「そうです。瓶の中に百円玉を入れるのは不可能。それは被害者の一人の部屋から見付けてきました」

「ちょっと待て、何が言いたい」

「不審死を遂げているのは、スペックホルダーとその家族、何者かに狙われてるんじゃないか、って事です」

「それは、論理が飛び過ぎだろう」

 確かにこの瓶の中に百円玉を入れるのは、普通では不可能だ。だからといって、不審死を遂げた全員がスペックホルダーという証左にはならない。この瓶の持ち主がたまたま(恐らくはほぼ無自覚な)スペックホルダーだった、という可能性の方が高い。

 だが当麻はごく真顔で首をゆっくり、数回横に振った。

「これは今のところ最後に殺害された佐々木さんの部屋から見付けました。その前に殺された井関さんの奥さんにも話を聞いてきました。所謂、ポルターガイスト現象がここ一月、多発してたそうです。他にもいます」

「……まだいるのか」

「その前に、水溜まりもないような公園で芝生の上で溺死した加藤さんの同僚によると、つい先日一緒に競馬に行って、見えたとか意味の分からない事を言って加藤さんが買ったメインレースの馬券が中穴でした」

「そういう事もあるだろ」

「ボックスで軸流しとかじゃありません、三連単でどんぴしゃです、奇跡と呼んでも良いような確率です。加藤さんが以前から応援していた馬もいたのにわざわざそれを外して、何か確信でもあるように薄い三連単をピンポイントで買っている。それまでは加藤さんはごく普通の競馬好きといったところで、特別に予想が巧かったわけじゃない、三連単なんか当てた事すら初めてです。二着の馬は中山競馬場での成績が悪いうえにここ数戦も着外続きで、どの予想紙を見ても無印でした。買ったのはメインと最終で、堅く終わった最終も当ててます、勿論三連単で。予想の巧くない人が三連単を連続的中なんて普通は考えられません」

 三連単で馬券を買う場合は、一着二着三着を順位通りに当てる必要がある。的中させるのが難しい代わりに配当の高い買い方だった。

 そうそう的中する買い方ではない。しかも二レース連続でとなれば尚更。競馬を知っている者ならば、不可能ではないにしても、非常に困難な事はすぐに理解できる。

 被害者達の身辺で悉く、理屈では説明できない現象が起こっていた。確かにそれは、三連単が二連続で的中するような、通常では有り得ない事だ。

「なあ、さっきのあれって、四号だろ四号」

「おい、声大きいって」

 休憩所に入ってきた二人の若い刑事が、やや落とした声で言い合っている。

 四号といえば、思い出すのは未確認生命体第四号。同じ未確認生命体と何故か敵対していたが、ある時忽然と姿を消してしまった存在だった。

「大体な、金色の四号なんて聞いた事ねえよ。大方新手の未確認だろ」

「あのカマキリも未確認かよ、何であいつら身内でやり合ってんだ?」

「知るかよそんな事」

 話の内容から考えると、また新手の未確認生命体が現れて、未確認同士での殺し合いがあったようだった。

 ミショウとSAULは、常識では考えられない事件に当たるという点では近いが、実際には全く接点がない。未確認についても、報道で知りうる事以上のものは伝わってこないが、時折迂闊な者がこうして漏らすのを耳に入れてしまう事はある。

「そういえばさ、あの、芦河だっけ? いつの間に戻ってきてたんだ?」

「一ヶ月位前だって聞いてる」

「任務中に行方不明って話だったろ、ケロっとして戻ってきてるとか訳分かんないよな。いなくなるちょっと前かな、側にあった物が勝手に空飛んだり折れ曲がったり壊れたりしたって。何があったのか知らないけど、いなくなったのってそれと関係あるんじゃねえの? 気味悪いよなぁ」

 若い刑事の潜めた声は、それでも陽気さを失っていない。彼にしてみればただの悪気のない噂話のつもりなのだろう。

 瀬文は顔を上げた。一ヶ月前、サイコキネシス。関係があるとは言い切れないが、無関係だと断じてしまう事もできない。

 当麻も同じ考えの様子だった。にっと笑うと立ち上がる。

「とりあえず行きましょうか。思わぬ拾い物かもしれません」

 答えないで瀬文が立ち上がると、当麻はキャリーケースを引き歩き始めた。缶コーヒーの中身を呷り空にすると、缶ゴミ入れに投げ入れて瀬文は当麻の後を追った。

 

***

 

「聞かせてもらおうか。お前は何者だ、どうしてアギトになった、何であそこに来た」

 Gトレーラーで壁際の椅子に座らされ、前を塞ぐように立ちはだかった芦河に恐ろしい剣幕で詰め寄られて、津上翔一は多少辟易した様子で口を曲げた。

「何者……って言われても。病院でお二人を待ってたら、アンノウンが来たって思ったから大急ぎであそこまで走ってったんです」

「アンノウンという呼称はまだ外部には明かしていない、俺と八代と上の連中の数人が知ってるだけの筈だ。何でお前がその呼び方を知っているんだ」

「……えっ? 警察の皆さんはあいつらの事、普通にアンノウンって呼んでるじゃないですか」

「だからどこの警察だそれは!」

「そんなの俺が聞きたいですよ、どこなんですかここ、一体」

 声がやや震えていた。はっとして、芦河は言葉を止めた。津上はやや俯いて床を見る。

「……俺、ずっとアギトとして、アンノウンと戦ってきました。警察はアギトの事知ってる筈だし、G3‐Xとだってずっと一緒に戦ってきたんです。それなのに、電話しても知らない家に繋がるし、警察はアギトの事知らないで未確認とか言われるし、G3‐Xは氷川さんじゃないし……。何だか俺、ここにいちゃいけないような気がして」

 急に落ち込んだ様子で、津上はぼそぼそと言葉を搾り出した。沈んだ声色から嘘は感じられない。

 頼る者のない、寄る辺ない寂しげな顔をちらりと見せて、津上は深く息を吐くと顔を上げ、怪訝そうな眼差しを芦河に向けた。

 後ろで成り行きを見守っていた八代が軽く肩を竦めて、口を開いた。

「津上くん、改めて聞くわ。海に落ちる前、あなたは何をしていたの、どうして海に落ちたの」

「俺は……戦ってたんです。アンノウンと、奴らを造り出した存在と」

「……何ですって?」

 八代も勿論芦河も、驚きを隠せずに津上を見つめた。津上は二人の強い視線にややたじろいだが、戸惑ったように言葉を継ぎ始めた。

「アンノウンは皆倒して、あいつが逃げようとしたから、逃がしちゃいけない、ここで終わらせなきゃと思って追っ掛けたんです。何ていうのかな、バリアみたいのがあって、俺のキックがそれとぶつかって、すごい光になって。気がついたら、さっきの病院のベッドでした。海からは大分離れた所にいたんだから、何で海にいたのかなんて分かりません」

「戦ってたっていうのは……G3‐Xと一緒にか」

「そうです。それと、葦原さんも」

 頷いて、津上が付け足した苗字はやはり芦河も八代も知らないものだった。

 八代は目線を津上から外すと、何かを考え込むように首をやや傾げ、黙りこくった。

「……どうした?」

「小野寺くんの事を思い出していたの。彼は、どこから来て、どこへ去って行った?」

「別の世界、とか、意味の分からない事を言っていたような気がするが……」

「そう、別の世界。彼が話してくれた事があるの。自分の世界にもグロンギがいたけど、G3‐Xはなかった、とね。そういう空想癖があるのかと思っていたけれども」

 八代が頷いてみせる。その意味をとれずに芦河は暫しきょとんと八代を見つめたが、ややあって、何かに気付いたように津上を見た。

「……別の、世界、か。例えば、よく似ているけれども全く違う、そんな」

「何の話ですか?」

 二人の話に入れない津上は首を捻りつつ呟いたが、突然あらぬ方向に首を向けて、目を見開いて宙を見上げた。

 どうしたのかと声をかけようとして、芦河もまた、何かに突然気付いたように同じ方向を見やった。

「何、二人とも、どうしたの?」

 今度は八代が一人取り残されて二人を交互に見るが、津上も芦河もその視線に応え言葉を返す事はなかった。

「行かないと……早くしないと、八代さん、芦河さん、連れてってくれませんか!」

「分かってる、お前がどこに行きたいのかも」

「えっ、どうして」

 芦河は答えを返さず、八代の隣に座りインカムを付けると、キーボードを叩きディスプレイに地図を出した。

「おい斉藤、今から俺が言う通り走ってくれ。未確認……いや、アンノウンがそこに出現する」

『えっ、何も通信入ってきてませんよね』

「いいから。おい、班長、それでいいか」

「……いいわ。斉藤くん、お願い」

『……了解』

 Gトレーラーが走りだす。津上は両膝の上に肘を置いて顎の下で手を組み、落ち着きなく足裏を床に軽く打ち付け、目線を動かしている。

 津上を発見した際に感じたあの不安の正体。あれは、アギトまたはアンノウンに関わるもののようだった。

 今度は芦河にもはっきりと見えた。誰かが、誰なのかは分からないが誰かが確かに、アンノウンに狙われている。

 気ばかりが焦る。焦った所で現場に早く辿り着けるわけではない事は十分に承知しているのに、意識はもう目的地にある。

 

***

 

 未確認生命体対策班の拠点・Gトレーラーは現在任務で警視庁を出、まだ帰投していないという。

 無線での定時連絡から現在地の情報を得て、瀬文と当麻は徒歩で目的地へと向かっていた。

 御苑周囲の通りは車の交通量は多いが、人通りはあまりない。二人は無言且つ早足でひたすらに進んでいた。

 ふと、瀬文が足を止めた。やや後ろを歩いていた当麻は背中にぶつかりかけて、文句を言おうと瀬文の刈り上がった後頭部を見上げた。

「ちょっと瀬文さ……きゃっ!」

 瀬文は物言わず、当麻の肩を抱えるとコンクリートのブロックで舗装された地面を転がった。当麻が手を離したキャリーバックの側に、鋭く微かな音と共に小さな穴が空き、摩擦熱だろうか、白い煙が細く上がった。

 当麻から手を離し素早く構えると、瀬文は手に持った紙袋から銃を取り出し道の先に向けた。道脇の植え込みががさりと動く。

 引鉄に手をかけたまま、瀬文はぽかんと口を開けた。当麻も驚愕に目を見開く。

 一番よく似ているものを挙げるならば、ソニック・ザ・ヘッジホッグ。鋭い針を身に纏った人型の何かが、ゆったりと道へと姿を現した。

「……未確認、か?」

 特殊部隊出身、歴戦を経た瀬文だが、今まで相手にしてきたのはあくまでも人間、未確認生命体のような人外を目前にするのは初めての経験だった。

 未確認らしきハリネズミが足を踏み出し、瀬文は足を摺り身構えたままで、当麻を庇うように体の位置を動かした。

 神経断裂弾でも何でもない、通常の三十八口径の弾丸だ。恐らく撃っても効果はないに違いない。

「おい、走れ」

「えっ、嫌ですよ、一人になって別なのが出たらどうしてくれるんですか。瀬文さんが何とかしてください」

「無茶言うなおい!」

 無情にも速度を落とさずにハリネズミは歩み寄ってくる。さすがに当麻もゆっくりと後退し、瀬文は当麻と距離が離れないよう、銃を構えたまま後ろに下がる。

 暫くして、一台のバイクが歩道に乗り上げてきて、そのままハリネズミと瀬文たちを目掛け突っ込んできた。

 あのバイクは警視庁・未確認生命体対策班所有のガードチェイサー、乗っているのはG3‐X。今から会いに行こうとしていた芦河ショウイチ、その人の筈だった。そして後ろに、ヘルメットを被った誰かが乗っている。

 ガードチェイサーはハリネズミの背中にぶつかり跳ね飛ばすと、やや進んでから停止した。G3‐Xと後ろの男はそれぞれに降車し、男がヘルメットを外す。

 G3‐Xがガードチェイサー後部にアタッチされたアタッシュケース状の箱に解除番号を入力して大型の銃へと変形させ、構える。

 立ち上がったハリネズミが宙空に手を翳すと、頭上に光の円が浮かんだ。そこからハリネズミは、曲刀を引きずり出す。

「津上、お前はそいつらをGトレーラーに」

 G3‐Xが告げると、追いついてきたGトレーラーが歩道に寄せて停車した。青年は頷いて、瀬文と当麻へと駆け寄ってくる。

「とりあえず、あれに乗ってください」

「G3‐Xは分かるが……お前は誰だ? 刑事って感じじゃないが」

「俺は……ああもう、そんな事今はどっちだっていいじゃないですか」

 瀬文が戸惑いを見せて足を止めていると、青年は何かに気付いたようにはっと空を見上げた。

 何だ? と瀬文が口にする前に、青年が口を開いて瀬文と当麻を突き飛ばした。

「伏せてっ!」

 すぐに自身も地面に転がる。その上を、白い鳥のようなものが、恐ろしいスピードで飛び去っていった。

 白い鳥のような人型のそれは、そのままの勢いでG3‐Xの背中へと頭突きを浴びせる。不意打ちを食らい、たまらずにG3‐Xは地面に転がり、ケルベロスが幾度も円を描きながらアスファルトの上を滑っていった。

 すぐに立ち上がるが、G3‐Xを囲むように二体の未確認らしきものが立ちはだかって、じりじりと距離を詰める。

「芦河さん、一人じゃ無理です!」

「いいからそいつらを早く保護しろ!」

 G3‐Xががなった。瀬文は立ち上がると当麻の手を引き、Gトレーラーへと歩き出した。

「あれに乗ればいいんだな」

「そうです、早く!」

 瀬文と当麻がGトレーラーに乗り込むのを見届けると、青年は厳しい顔つきで前に向き直った。ちらと横目でその顔を見ると、瀬文はトレーラーのタラップを登り中へと入った。

 内部はオペレーションが行われるための機材があり、女性がインカムをつけて腰掛け、食い入るようにモニタを見つめていた。

「怪我はない? 大丈夫ならそこに座ってて」

 言われるままに二人は壁に沿って設置された椅子に腰掛けた。女は確か、名は八代淘子。未確認生命体対策班の班長で、G3‐Xの開発者だった。

 彼女の背中の向こうに見えるモニタでは、G3‐Xは既に囲まれておらず、ハリネズミと格闘戦を繰り広げている。

 鳥の方は、見た事もないものと揉み合っていた。

 それは確かに、四号とよく似ていた。但し色は金色。鳥の打ち込む拳は、狙いは的確なのに不思議な程綺麗に外れ、その度にカウンター気味に金色の拳や蹴りが浴びせられる。

 先程の青年はカメラには捉えられていなかった。物陰に隠れているのかもしれない。しかし金色はいつの間に現れたのか。

 やがて腹に重い一撃を食らった鳥は、ふらふらと後退ると身を仰け反らせ、震え、爆ぜた。

 それを見届けると金色は、後ろからハリネズミへと駆け寄り、脇腹に蹴りを入れる。その隙にG3‐Xは転がったGX‐05を拾い構え直し、引鉄を引いた。

 マイク越しにも耳を覆いたくなるような轟音が響き、崩れた態勢を立て直した所に全弾食らったハリネズミは、暫し震えて苦しむ様子を見せた後に、やはり爆散した。

 実際に目の前にしても全く現実味が沸かない光景だった。未確認生命体問題は大きく報道され、社会問題にもなっていたが、遭遇する事さえなければ全くの他人事だった。

 がたん、と車両後部で大きな音がした。後方のドアから、先程の青年が当麻と瀬文の手荷物を手に入ってきて、壁際に座った二人を見つけると、にこりと笑いかけた。



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 互いに身分を明らかにして名乗り合う。G3ユニットが保護した二人は警視庁の刑事だった。

 未詳事件特別対策班。存在は知っていたが、芦河がいない間に新設された部署という事もあり、ミショウに関して芦河は名前以外の知識を持っていなかった。

 何をしていたのか、の問いを一応は投げたものの、機密保持を楯に回答を拒否されるだろうと身構えた芦河は、意外な答えに肩透かしを食わされた。

「芦河ショウイチさん、あなたにお話を伺いに来ました」

「……は?」

 思わず間の抜けた声を上げる。当麻と名乗った若い女は、悪怯れず言葉を継いだ。

「あなたは一年ほど前に失踪し、一ヵ月前に突然復職したと聞きました」

 当麻の口にした事は事実だった。が、芦河としては既に全ての説明は上に済ませてあり、復職も公に認められたものだった。横合いからケチを付けられる筋合いはない、というのが正直な感想だった。

「それがどうかしたか」

「失踪の直前、あなたに超能力発現の兆候があったという噂があります」

 当麻の不遜な表情は動かない。苦々し気に見下ろして、芦河は小さく舌打ちをしてみせた。

「……馬鹿馬鹿しい。お前等はそうやってありもしないものを捜査してればいいんだろうが、訳の分からんいちゃもんを付けられる方の身にもなれ。大体、もしそうなら何だっていうんだ」

「あなたが復職したのと同じ一ヶ月ほど前から、有り得ない不審死が相次いでるんです。あなたが直接関与してるとは考えづらいですが、偶然だけでも片付けられない」

 涼しい顔の当麻に言われて、芦河は今度こそ不愉快そうに顔を歪めて当麻を鋭く睨み付けた。超能力の事を隠している疾しさはあるが、だからといって不審死に関与しているなど、あらぬ疑いにも程がある。実際心当たりも覚えもない。

「何を言ってるんだお前は。関与って、俺が何で不審死と関係あるんだ」

「殺されたのは、超能力発現の兆候を持つ人達とその家族。そして、悉く、有り得ない死に方をしている」

「有り得ない……?」

「水のない所で溺れる、全身が灰や水になる、そんな言葉にしたら頭おかしいんじゃないかと疑われそうな死に方です」

「……それ、犯人はアンノウンです」

 突然ぼそりと、今まで隅で黙りこくっていた青年が口を開いた。先程当麻と瀬文に見せた人懐こい笑みは消え、寄せた眉間には思いの外真剣な色が浮かんでいた。

「何故そう言い切れる?」

「それがあいつらのやり方だからです。俺も死にかけた事ありますけど、その時はそいつの針で刺されたら心臓の横に金属らしい異物が出来て、それに体の熱を全部奪われて、二十四時間後に凍死する、ってやつでした。家族も同じように狙われる。未確認なら、人間を狙うのに色んなルールを作りますけど、あいつらは一つの目的の為だけに、ごく簡単なルールで動いてる」

 芦河に答えた青年の口調は確信に満ちしっかりとしていた。だが、瀬文と当麻にとっては青年の口にした内容は理解の届かないものだった。

「アンノウンとは何だ、芦河ショウイチ、あんたは何を隠してる?」

 やや苛立って瀬文は芦河を真っ直ぐに睨み付けたが、芦河はその視線を正面から睨み返してみせた。

「……あの、余計なお世話かもしれないんですけど」

「ああ、全く余計なお世話だ。アンノウンとは警察が戦うしG3‐Xがあればいい、お前みたいな一般人の力は必要ない」

 おずおずと、遠慮がちに津上が口を開いたが、芦河にぴしゃりと出鼻を挫かれて黙りこくる。横で状況を見ていた八代が、口を挟んだ。

「ちょっと黙ってショウイチ。津上くん、いいから話して」

「なっ……八代お前何考えて」

「津上くんの話を聞くわ、班長命令よ」

「お前そういうのは職権濫用だろうが! こいつは一般人だぞ!」

 芦河に反論されて、八代は面白くなさそうに眉を上げ口の端を下げると、次にはにいっと笑ってみせた。

「あ、そう。じゃ津上くん、君、G3‐Xとか着てみたいと思わない? 今丁度、補欠の装着員を探してるんだけど」

「何を口から出任せを……」

「あっ、俺一度着た事ありますよ、アンノウンも一体やっつけましたし。ホントに働いてたレストランがないんだったら、何か仕事探さないとなー、って思ってたんですよね」

「あら、本当? それなら文句なしね。はいこれで津上くんも警視庁所属、補欠装着員を探してたのは本当よ。何か文句ある?」

 八代に睨まれ、芦河は言葉を詰まらせて黙った。八代は曲がった事を何より嫌う。滅多な事では事実と相違する事は口にしない。彼女が本当と言うからには、補欠を探していたのは本当なのだろう。

 辞令が交付されていないのだから津上はまだ警視庁所属ではない、別の世界から来たのではないかとも推測されている彼の身分の証明はどうするのだろう。疑問は渦巻くが、八代はやると言ったからにはやるだろう、そういう女だった。芦河はよく知っている。

「分かった……話を聞こうじゃないか」

 力の限りに苦り切って顔を歪め、芦河は場を譲るように一歩下がり八代のやや後ろに控えた。四人分の視線を受けて津上は再びやや戸惑った様子を見せたが、やがて口を開いた。

「あの……お二人のどっちかがアンノウンに狙われてるのは間違いないんだから、アンノウンについて知らないのは危険じゃないかって思って……ちゃんと話すべきじゃないですか。家族の人だってあいつらに狙われます。俺の知ってる事なら何でも話しますから、秘密にしてるんならやめにしませんか」

「機密事項を俺の判断だけで軽々に口にできるか」

「じゃああたしが許可するわ」

 横から口を出すなと言わんばかりの芦河の鋭い抗議の視線にも悪怯れず、八代は津上を見て、軽く二三度頷いた。

「あいつらは、アギトを狙ってます。アギトだけを標的にして、アギトでない人には邪魔しない限り危害を加えない」

「アギトとは何だ」

「よく分かんないですけど……人が、進化していく可能性、って言ってた人はいました。アギトの力に目覚めると、超能力みたいなものが使えるようになって、やがて、姿が変わります。あいつらは人が人を超えて、神に近付くのを恐れてる」

 津上の言葉を聞いていた瀬文は、馴染みのない単語を耳にして、胡散臭そうに眉根を寄せた。

「神だ……?」

「ほんとに神様なのかとかは知りません。だけど、アギトになる人が、あいつらに狙われるのは本当です。お二人のうちどっちか、最近体調がおかしかったり、物が勝手に動いたりしませんか」

 津上の質問に、瀬文も当麻も、きょとんとした様子で首を横に振った。

「そうですか……まあ、俺もそうだったし、超能力とかすっ飛ばしてアギトになっちゃうっていうのもあるかもしれません」

「アギトって、さっきの金色のやつですか。あれはあなた?」

「はい、そうですよ」

 当麻の質問に、特に何の拘りもない様子で、ごく簡単に津上が頷いた。あまりに気軽に頷くので、横にいた芦河の方が驚いて目を剥いて津上をまじまじと見つめる。

「狙われてるのはきっと瀬文さんですね。ほら、その石頭が進化したらあんな感じになるかもしれないし」

「馬鹿を言うな、妙ちきりんな事が起こるならお前の方だ。俺はごく平凡だ」

「生命力ゴキブリ並じゃないですか。それで平凡を自称するのは平凡に失礼ですよ」

「何だと、お前に言われたくないぞ、ゴキブリ並にしぶとく生き残りやがって」

 瀬文と当麻は相手を見ないままで、淡々と互いを罵り合う。どちらが、という事は分かりそうになかった。

 そこに、盛大に、腹の鳴る音が響き渡った。

 四人は一斉に津上を見た。津上が照れ臭そうに頭を掻く。

「……いやー、目が覚めてからまだ何も食べてないからお腹空いちゃって、すいません」

 にへら、と津上に頬を崩して笑われ、四人は一様に脱力感を覚えた。緊張感というものが、まるでない。何とも無防備な笑い方だった。

「じゃあ、助けてもらったお礼もしたいですし、奢りますよ。餃子の美味しい店、行きませんか?」

 何気なく当麻が口にして津上は一も二もなく頷いたが、瀬文が大袈裟に首を動かして、鳩が豆鉄砲でも食らったように茫然として、当麻を見つめた。

「……何ですかジロジロと。瀬文さんには奢りませんよ」

「お前の頭の中に人に奢るって概念があったとは知らなかった。というか俺は何度もお前の命を助けてるのに、何だこの扱いの差は」

「あっ、嫉妬ですか? 醜いですね」

「断じて違う、それだけは有り得ない」

 また淡々とした罵り合いが始まり、話を続けるのは無理だろうと判断して芦河は実に分かりやすく嘆息してみせたが、反応といえば八代が横で苦笑を漏らしただけだった。

「津上くん、食べに行く前に、君の住んでた所とかどうなってるか調べておくから、連絡先の住所と電話番号を教えていって。住む所がないなら何かしら考えなきゃいけないし」

「あっはい、すいませんお手数おかけして」

「いいのよ、その分働いてもらうんだから」

 八代が津上にメモ紙とペンを渡しながら告げて、受け取ると津上はぺこりと頭を下げた。八代はどうやら本気だった。あまり冗談を言う女ではなかったが、どこの誰なのかも分からない男をいきなり(補欠とはいえ)G3‐X装着員とは豪放磊落にも程度がある。

 面白くない、実に面白くない。八代は賢い女だ、道理も弁えている。それなのに、芦河の諫言など丸無視で、どこの馬の骨とも分からないこのアギトをまるまる信用してしまっている。面白い訳がなかった。

 

***

 

 目の前に(比喩表現ではなく)山を成して積まれている餃子を目にして、マイペースが身上の津上もさすがに驚いたのか、大量の餃子が瞬く間に消えていく様子を口を開けぽかんと眺めていた。

 津上が頼んだのはラーメンライス。瀬文は津上の隣で八宝菜とチャーハンを黙々と口に運んでいる。

 餃子があらかた消えて、スープを啜った当麻を見て津上がふっと笑った。

「……何かおかしいですか?」

「あ、いえ、すいません。前に知り合いの刑事さんと一緒にやっぱり中華料理屋さんに入ったんですけど、その人もやたら一杯食べる人だったから、それを思い出して。それに……」

 言葉を切って、嬉しそうに笑う。何も楽しい事などないのに、何故津上がそんな笑い方をするのかは、当麻にも横目で眺めている瀬文にも分からなかった。

「それに?」

「好きなんです、美味しそうにご飯食べてる人を見るのって。何か、いいと思いません?」

 拘りなさそうに笑って、ラーメンを啜る。当麻は瀬文を見たが、瀬文は肩を竦めて白いご飯を口に掻き込んだ。

「あなたは、警察官……じゃないですよね。どうして未確認生命体対策班に?」

「説明が難しいっていうか、俺もよく分かってないんですけど……。まあ、成り行きでなんとなく、みたいな感じです」

「G3の装着員も成り行きですか? 成り行きで出来るような仕事じゃないと思いますけど」

「そうですか? 結構簡単ですよあれ」

 津上は気軽に答えてご飯を頬張る。彼自身もラーメンライスを、実に美味しそうに食べていた。

 何を考えているのか全く掴めない。名前は津上翔一、彼自身が語ったところによるとコック修行中。そして自らを『アギト』と呼び、異形に変じて『アンノウン』と呼ばれる異形を倒した。彼について瀬文に分かっているのはその程度だった。目的、なぜ未確認生命体対策班と行動を共にしていたのか、知りたい肝心の部分は何一つはっきりしない。

 どう見ても警察関係者ではなさそうだが、緊張している様子もなく、昔馴染みとでも食事するようにごく自然に笑顔を浮かべている。

 普通ならば萎縮し気後れする。ましてや瀬文のような無愛想な男が隣に座り、向かいの当麻は異様な量の餃子を平然と平らげているのに。おかしな男だった。

「結局何なんだ、アギトとアンノウンってのは。どうしてお前は詳しいんだ」

 同じ質問をもう一度口にする。瀬文の言葉に、津上は手を止めて、やや目線を落としてラーメン丼の中を見つめた。

「俺、ずっとアンノウンと戦ってきました。あいつらが何なのか、俺にもはっきりとは分かりません。でも、アギトを狙っている」

「もう一度聞くが、アギトとは何だ、何故狙われる」

「さっき話した以上の事は分かりません。今はその力は人の中で眠っていて、次々に目覚め始めている。アンノウンはそれが怖いんです」

「奴らは何が怖い」

「人が、人でなくなる事が。人を超えていく事が」

 津上の答えに、瀬文は思わず当麻を見た。当麻は目線を下に落としていた。

 目線の先には彼女の左手。

 よくよく目を凝らして観察しなければ分からないような些細な違いだったが、当麻の左手は右手よりやや骨張って大きい。まるで別の人間の手のように。

 出会った頃、当麻の左腕は失われていた。彼女はそれを隠すため、いつでも左腕に包帯を巻き吊っていた。

 彼女にある時左腕が付き、それと共にそれまでなかった筈の物も、彼女のものとなった。

 時の流れを操り、自分の周囲の時間だけを超加速するSPEC。

 二人には既に密かに護衛が付いているようだったが、津上の話が真実として、狙われるならば間違いなく当麻だ。瀬文にも、恐らく当麻にも確信があった。

 ただ、この事実については、本人と、能力の発動を目撃した瀬文ともう一人、そしてミショウの係長・野々村の計四人しか知らない筈だった。

 だから先刻はシラを切った。死したニノマエの左腕が(理由は不明だが)当麻の左腕となり、それと共に彼のSPECさえそのまま彼女のものとなった事は、明かしていないのだから。

 ニノマエは暴走し、自らの所属する『組織』を壊滅させ、政府要人を次々と殺害して日本を我が物としようとした。彼の圧倒的な能力の前には他のスペックホルダーすら次々敗れていき、対抗する術はほぼなかった。それを当麻が持っていると分かれば、彼女はただでは済まない。もうバレてはいるのかもしれないが、それでも事実を知る四人は、口を噤まざるをえなかった。明らかにするわけにはいかないのだ。

 人が人を超えていく。当麻は以前語っていなかったか。脳にはまだ使われていない部分が多く残されており、それを目覚めさせる事によりSPECは人に宿る、SPECとは人の可能性だと。ならば『アギト』と呼ばれるあの姿も、SPECの一種であると言えるのか。

「何か見てたらあんまり美味しそうだから、やっぱり俺も餃子食べたくなってきちゃいました。頼んでいいですか?」

「いいですよ。私も足りないからもう少し頼みます」

 軽い調子で津上が申し出ると、当麻はあっさりと首を縦に振った。こんな素直に応じる当麻を瀬文は見たことがなかった。なまじ弁が立って理屈臭く、ぱっと見他者の事など意にも介していないのが、当麻という女だった。普段の彼女からは、津上に対する優しい物腰は想像もつかない。

「はいはい。ギョーザをギョーザん食いなはれ、なんちゃって……」

「…………」

「……あれ、やっぱり、ウケません、でした? はははは」

 瀬文は最早言葉もない。当麻は一度目をぱちくりとしばたいて、照れ笑いする津上から目線を外すと、奥のカウンターに大声で注文を告げた。

「人が人でなくなる、と言ったな。じゃあお前は、人じゃないのか。何故そんなにあっさり口にできる」

 津上の方を見ずに、半ば独り言のように瀬文は疑問を口にした。それを聞いた津上は、首をゆっくりと大きく横に振った。横目で見ると、津上はやはり拘りなく笑っていた。

「俺は俺ですよ、何も変わってやしません。人のままで変われるんです。悪い事や、悲しい事じゃない筈なんです。だから別に隠す必要なんてないし、隠したくない。それだけです」

 

***

 

 津上翔一がメモに書き残した二つの連絡先を調べたが、戸籍上でも津上の言う、倉本なる人物のレストランや美杉義彦なる人物の家ではなかった。

 住所と電話番号も一致しない。携帯電話番号も別人の物だった。

 住所まで行ってみたが、どちらも戸籍登録通りの人達が住んでいる。

「ここで普通なら、津上くんが嘘を吐いてるんじゃないかって疑うところなんだろうけど……」

「その可能性もあるだろう」

「でたらめな連絡先を教えて、彼に何のメリットがあるの?」

 八代に問われて芦河は答えに詰まり、押し黙った。確かに、津上翔一が八代に誤った連絡先をわざと教える事によるメリットは皆無だった。

 彼は別の世界から来た故に、彼の知る連絡先が存在していない。彼の言動からはそう考える方が自然だった。

 嘘は吐いていないだろう。掴み所はない男だったが、津上の言葉には、そう信じさせてしまう朴訥さがあった。

 無言のまま所在なく腕を組んでいると、芦河を見やって八代がくすりと笑った。

「……何がおかしい?」

「ショウイチ、妬いてるの?」

「なっ……な、そ、そんな訳があるか!」

「私が津上くんに肩入れしてるのが面白くないって顔してるわよ」

 慌てた様子でやや腰まで浮かせて、芦河は必死に否定したが、八代は意にも介さず笑みを崩さなかった。

 確かに、面白くはなかった。津上翔一については分からない事の方が多い。常ならば八代はあんなに簡単に信じたりはしないだろう、それなのに何故。

「……私が、津上くんを信じる気になったのは、彼が嘘を吐いてなさそうだって思ったのもあるけど。それよりも、あなたを助けてくれたから」

 八代は、独り言のように呟いた。芦河は腰を落として椅子に腰かけ直し、怪訝そうに八代を見上げた。

「それこそ、メリットなんか無いじゃない。アギトだって明かす必要なんてないし、アンノウンと戦う事だってない。でもやってくれた、見返りとかそんなものも要求したりしないで、やってくれた。これで、あなたが一人で戦わなくても、いいんだって思った」

「俺が一人で……」

「補欠装着員を探してたのも、あなたが一人で戦ってるのが、良くないって思ってたから。あなたには余計なお世話だって言われちゃうかもしれないけど……あなたの事助けてくれるんだったら、私は津上くんに助けてもらいたいって思った」

 八代の言葉を聞いて、芦河は複雑な気持ちを隠せずに、八代の目を見つめていた。必死そうな、まっすぐな眼差し、それは出会った頃からずっと変わらない。

 男勝りで荒っぽい所があるから誤解される事も多いけれども、八代はいつだって誰よりもひたむきで、必死だった。

 必死で、未確認から人を守りたいと、芦河を守りたいと、G3をG3‐Xへと強化し、世間の非難にも負けず戦い続けて。

 芦河は己の運命が恐ろしくて逃げ出してしまった事を、一生後悔し続けるだろう。だがそれでも、償うという負い目を抱えてでも、ここに戻ろうと決めた。

 きっときちんと前を向く事はできないだろう。それでも、少しでも出来る限り前を向いて足を踏み出せるのならば。いや、そうしなければいけないと思った。

 彼を信じ探し待ち続けた八代と共に。

 だから芦河は一人で戦っているのではない。誰もいないと思い逃げ惑っていた一年間と比べればすぐに分かる。ここには八代がいる。

 だがそれでも、八代は芦河に背負わせたくないのだろう。その気持も十二分に理解できた。

「……それより、ちょっとお願いしたい事があるんだけど」

「何だ?」

 八代がやや遠慮がちに顔を覗き込んでくる。常の彼女ならば余程の事でなければもっと堂々としている、そんなに言いづらい頼み事なのだろうか。

 疑問に思い芦河は首を捻ったが、肝心の頼み事の内容を聞くや、驚愕のあまりに絶叫を発した。

「なな……な、何でそうなる! 何で俺がそんな事を!」

「ね、お願い、いいでしょ? どうせ余ってるんでしょ?」

 顔の前で手を合わせてやや首を捻って、八代に上目遣いで覗き込まれる。こんな仕草をする女だとは知らなかった。

 面白くない。やはり面白くない。だが他ならぬ八代の頼みを無碍にも出来ずに芦河は、もやもやとした気持ちの持って行き場を失って、ただ苦り切って顔を顰めた。

 

***

 

「……失敗、か」

「ええ、警察と、新しいアギトに邪魔されて」

 僅かな隙間から差し込んだ光は、部屋の中に舞う埃を照らし細く床に反射している。

 薄明かりの中で、中年の男と少女が椅子の両脇に控えていた。

 室内は雑然と家具が散らばりひっくり返っていたが、椅子の周囲だけは片付いて空間が出来ている。

「御身を取り戻せず、面目次第もございません」

「いい……時が満ちれば、体など如何様にもなります」

 男は、年の頃は三十後半程、乱れた頭髪からは脂が抜け、たるみかけた頬はやや削げている。中肉中背、これといった特徴のない容姿だった。

 語りかけられ、部屋の中心に据えられた椅子に腰掛けた青年が、静かな声で答えた。

「まだ、時は満ちていない、という事なのですか。あなた様の下される最後の審判までは、まだ間があると」

「力が戻れば、私はアギトを許してはおかないでしょう。人は人のままであればいい」

 低く揺れない声で答えて青年は立ち上がる。割れて光の漏れる天井を、憂いの勝った眼差しで見上げる。

「だが、悔いる心があれば遅くはない。あなた達は、それを人々に、アギトに伝えてほしいのです」

 中年の男は、意を得たりといった様子で頷いた。少女はただ、感情のない瞳で、青年を見つめていた。

 黒のタートルネックに黒のパンツ。生前と変わらぬ衣服に身を包んだニノマエが、静かに天を見上げていた。



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 元々愛想の良くはない芦河の面には、眉の間に怒りの色さえ見えて、彼が普段と比べても不機嫌であろう事は見て明らかだった。

 だが、同道者は芦河から放出される強い不機嫌オーラにも一切動じることはない。そもそもそんな事に動じる相手ならば、今ここには居ないだろう。

 そう。彼に所謂「空気を読む」というスキルが備わっていたならば、芦河はこんなにも苛つく事はなかった。

 ここは東京都八王子市。郊外ではあるが、既に他界した母から芦河が受け継いだ小さな家は、西洋風の瀟洒な造りだった。

 玄関先から家の外壁を見上げて津上が、素敵なお(うち)ですね、と呟いた。

 仮にも誉められているというのに、逆に迷惑に感じる。普通ならば例え明らかなお世辞と分かっていても、多少は誇らしく嬉しく感じるものだ。ここまで嬉しくない賞賛というのも珍しい。

 返事を返さず鍵を開け中に入ると、津上も「お邪魔します」と小さく頭を下げてから後に続いてきた。

 どうしてこうなった。

 宿のない津上翔一に部屋を貸してあげてほしい。他ならぬ八代の頼み故に断り切れず渋々引き受けてしまったからだ。こんな状況になったのは芦河自身に責任がある。

 確かに自分自身の責任ではある。だが、どうにも腑に落ちない納得いかない。

 電灯を点けると、後ろから入ってきた津上が息を呑んだ。

 玄関から入ってすぐ横は広めのダイニングキッチンになっており、そこから、他の部屋に抜ける廊下や二階へと上がる階段が延びている。芦河が点けたのはダイニングキッチンの電灯だったが、津上が驚くのも無理はなかった。

 忙しさと面倒臭さから、芦河宅の室内の状況は、門矢士が手紙を届けに来た時点と大差が無い状況だった。

 つまり、埃に塗れ、蜘蛛の巣だったものが厚く垂れ下がり、あちこちにおかしなものが散乱したあの状況から、一切の改善がない。

 こんな所にはいられないという人並みの感覚を津上が持っていてくれれば。一縷の望みを託して芦河は振り返ったが、津上の瞳に宿っていたのは困惑や落胆ではない、強い闘志だった。

「芦河さん……あの、不躾だとは思うんですけど、お願いしたい事があります」

「他の所に泊まりたいんなら、八代に連絡する電話は貸してやる」

「いえ、そうじゃありません。俺、ここを掃除してもいいですか」

「はぁっ!?」

 驚きのあまりにひっくり返った頓狂な声が喉から飛び出た。何を言っているのかと文句を付けようとしたが、津上は今まで見たこともないような(もしかしたら、アンノウンと相対している時と同じ位)真剣な眼差しでキッチンを見回していた。

「失礼かとは思うんですけど、許せないんです……こういう汚れた部屋。もしかしたら、アンノウンと同じ位許せないかも」

 決然と言い放って、津上は芦河の返事を待たずに歩き出し、シンクの下の引き戸を開けて掃除用具を物色しはじめた。

 面倒なので放っておいただけで、部屋が綺麗になるのを止める謂われは芦河にはない。問題は、津上翔一がすっかりこの家に泊まる気だという事だった。

 

 三時間の後。

 霊か何かが出てもおかしくない程に埃が溜まり、電灯を点けても薄暗かったキッチンは、長い間この家に住んでいる芦河すら見た事もないほど整頓され、明るく輝いていた。

 更に、途中で芦河を足りない掃除用具と食材の買い物に出し、津上は掃除の合間に晩ご飯まで拵えていた。

 時刻は八時を回っている。やや遅くはあるが、白いご飯と豆腐の味噌汁、開いた鰺に豆腐とレタスのサラダという、簡素な夕飯が並んでいた。

 以前は芦河も自炊をしていたが、アギトに目醒めてこの方、生きる望みも半ば失って自暴自棄にもなっていたから家の荒れようも見た通り、まして食事を作るなど考えもしなかった。この家もたまには戻ってきていたが、料理など全くしていなかったから、これが久し振りの我が家での食事となる。

 それにしても驚くべきは津上翔一の、まるで手練の主婦のような鮮やかな手際だ。

 コック見習いを自称するだけあって、鍋で炊いたご飯はふっくら、味噌汁もいい味、鯵の焼き加減も適切でサラダのドレッシングも甘過ぎず程よい。

 この食事を作りつつ台所の掃除はほぼ完璧、トイレも磨き上げられている。

 そして津上は今夕飯を食べながら、明日からは本格的に家中の掃除を始めて、明日晴れさえすれば布団を干したいという話をしている。芦河が相槌を返さないのでまるで独り言のように。

「…………掃除をするのはいいんだが、お前は補欠装着員をやるんじゃないのか」

「えっ、勿論やりますよ。でもまさか、掃除も出来ないほど忙しいってわけじゃないでしょ? ここも大体片付いたけどまだ壁とか窓とか拭けてないし」

 どういう手順で掃除をするのかを思案しつつ期待に胸を膨らませているのだろうか。答えた津上の声は弾んでいる。

「忙しいんだよ! お前はG3‐Xの装着員の仕事を何だと思っているんだ! それに別に俺は掃除をしてくれとも食事を作ってくれとも頼んでない、余計なお世話だ!」

「うーん、やっぱりお節介でした? でも、綺麗になると気持ちいいでしょ? 何かこう、本当はそんな事全然ないんですけど、新しく生まれ変わったみたいな気分になって」

 にこりと笑って津上が言う。まるで、津上翔一には何か後ろ暗い所がありはしないかという芦河の疑念まで、笑い飛ばしてしまうかのように、曇りなく。

「……言いたい事は分からんでもないが、お前が当たり前のように俺の家の掃除計画を立てているのが気に食わん。お前は俺の母親か嫁か何かか」

「あっはは、まさかそんな。下宿代払えないですから、とりあえず下宿代代わりって事で……ダメ、ですか?」

「…………お前、何を企んでいる?」

 思わず口をついて出てしまった疑念。しまった、と芦河は考えたが、今更引っ込めようもない。津上はきょとんとした顔で、箸を持った右手も止めて芦河を見つめた。

「何……って、俺はとりあえず、帰りたいんですけど……。方法も分からないし、分からなくってもお腹は空くし眠くなるじゃないですか」

「しらを切るならそれでもいい。だが、もし何かあれば、俺はお前を許しはしない」

 厳しい目線で睨みつけると、津上は困惑して眉を寄せ、口を窄めた。全く心当たりも覚えもない、という態度だった。

 実のところ芦河は、左手にご飯茶碗、右手に箸を持って険しい顔をしている自分の説得力について、甚だ不安を覚えていたのだが。

 

***

 

 津上翔一の入班手続きは八代によって滞りなく進められた。考えてみれば、既に過去に小野寺ユウスケ・海東大樹という『別の世界からの旅人』を二人も入班させているのだ。芦河には分からない何らかの手立てを使っているのだろう。

 津上翔一は冗談は寒いが概ね真面目に訓練をこなし、本人の言葉通り、G3‐Xもそつなく操ってみせた。

 本人は「アギトの方がやりやすい」と例によって緊張感のない口調で呟いたが、そんな事は芦河の知った事ではない。

 気には食わないが、八代の気持ちを無碍にもできない。八代の心遣いそれ自体は、嬉しいのだ。気に食わないのは、津上という得体の知れないアギトが関与する事だ。

 自分一人で戦えるしそうしたい、気負いが芦河にはあった。津上がアギトとして戦えるのはこの目で見たし理解したが、こんなふにゃらけたいい加減そうな男に何ができる、分かるというだろう。

 見た目で判断している、偏見という自覚はあったが、芦河は津上への警戒心を、捨てる気になれなかった。

 アギトと化しアンノウン共に命を狙われ、異形の姿故に誰にも打ち明けられない。その苦しみを知る者が、アギトに対してこんなにも能天気でいられる筈がない。それは偏見ではあったが、芦河の中ではほぼ確信でもあった。

 あれから一週間ほど。芦河邸は見違えるほど美しくなった。勿論芦河は頼んでいない。だが津上は何故かやけに楽しそうに掃除をするので、止めるのも憚られたし、家が人の住む場所になるのに文句を言う理由もなかった。ほぼ強制的に手伝わされるのには辟易したが、そもそも芦河の家だ、本来は自分で掃除しなければならない。

 津上翔一はあまり中身の入っていない財布の他は何も持っていなかった正体不明の男だ。服も雑多な生活用品もない、給与が支払われる翌月までは彼は一文無し同然だから、芦河が貸してやるほかない。

 試用期間中という事もあり、津上はほぼ定時に退庁するが、G3装着員の訓練は厳しい。くたくたになるだろうに、帰れば夕飯を作りがてら洗濯機を回しアイロンをかけ、とにかく何かしら動き回っている。

 「貧乏性なんですよ、動いてないと落ち着かないんです」と本人は笑っていた。

 津上翔一はあまりアギトの話をしようとはしなかった。時折気紛れに話を向けてみるが、気乗りしない様子で話が続かない。

 その代わりに、彼が前暮らしていた家の話は聞きもしないのに独り言のように話し続けた。先生と真魚ちゃんと太一、先生は普段は酒を飲まないが絡み上戸だとか、真魚は服を脱ぎっぱなしにする癖を直してほしいとか、太一はレバーを避けてしまうので困るとか、実に必要のない情報に詳しくなった。

 芦河はまだ、津上翔一が何らかの思惑から芦河や八代の信頼を得る為に、この嘘の無さそうな朴訥な青年を演じているという疑いを捨てていない。

 海に浮かぶ必要は皆無だが、何かの目的でSAULに近付く、というのは考えられない事ではない。

 世界を見渡してみても、G3‐Xほど完成度の高いパワードスーツなど他に例がない、それだけでも十二分にSAULに近付く理由にはなる。

 だが、芦河の信頼を得ようという下心があるのであれば、この方法は採らないだろう。

 今は昼時、芦河と八代は今まで昼食は、食堂に行くか店屋物を取っていたが、津上が来て状況が変わった。

「いやあ、お腹空きましたねー」

「今日のおかず何?」

 津上が鞄から取り出した三つの包みがそれぞれに行き渡る。そう、今や、何故か八代の分まで三人分の弁当を、朝早く起きた津上が作ってきている。

 蓋を開けてみれば、玉子焼きにひじきの煮付け、いんげんのきんぴらに唐揚げ、キャベツの浅漬。

 こいつお母さんか、絶対お母さんだろう。そんな思いがこみ上げる。弁当の中身がどう考えてもお母さんだ。

 そもそも、八代淘子はもっとクールな女ではなかったか。彼女が優しい心根と熱い情を持っている事は勿論知っている。だが、少なくとも初めの内は、彼女はG3を開発した才女で気性が荒いせいもあり、話しかけづらい雰囲気があった。それが一体何で。

「うーん、このひじきおいしい! おばあちゃんのひじきの次においしい!」

「はははは、おばあちゃんにはちょっと敵わないですねー、でも中々のもんでしょ」

「ねえ、今度教えて。練習して実家帰ったらうちの母ギャフンと言わせてやるんだから」

「あっ、じゃあレシピ作って持ってきますね。他に何か知りたい奴ってありますか?」

 何故どうして、会ってから一週間も経たないこの胡散臭い男と、和気藹々と料理談義をしているのか。頭を抱えたくなった。

 更に腹の立つ事に、津上の弁当はそれなりに美味かった。

 美味しいと言って笑う八代を見て、津上が嬉しそうに笑う。眼前でこんな光景を繰り広げられて、芦河は一体どうすればいいというのだろう。面白くないに決まっている。芦河の歓心を得たいならこの方法は下の下策と言わざるを得ないだろう。

 

***

 

 日は暮れかけている。遮るもののない公園の広場を、緩やかな風が通り抜けていく。昼間の暑さに比べると、冷え込むとまではいかないものの、やや肌寒い。

 低い位置から差し込む陽光で陰った植え込みの裏から、その男は姿を見せた。男が死ぬのは何度か見ている、気味の悪さは消えないが、瀬文は気を取り直して後ろのベンチに腰掛けた。

 津田助広。この男は幾人もいる。パブリックドメイン――自らの命や歴史を組織と使命に捧げた者達が、この名前と顔を、共同利用している。

 『私が死んでも、代わりはいるもの』を地で行く存在だ。今横に腰掛けた彼が、会ったことがあるのか初対面なのかも、瀬文には分からない。

 彼らの所属する特殊能力者対策特務班警視庁公安部公安零課、通称『Aggressor』は、ミショウとは違い正真正銘存在を秘匿された部署だった。創設からずっと、スペックホルダーの存在を公にしないための工作を続けており、また彼らに対抗する為にスペックホルダーを懐柔し手駒としてきた。ミショウは公安零課の陽動という役割を担い創設されたらしかったが、その辺りの事情は瀬文がミショウに入るもっと前の出来事の為、把握していない。

「未確認に襲われたと聞いたが」

「……アンノウンだ。どうせ知ってるんだろう」

「知っているというには分からない事が多すぎる。例えば津上翔一、何者だあれは」

 津田の言葉に、瀬文は意外そうに眉を寄せて津田を見た。凡そ日本国籍を持つ者の事を、津田達公安零課が把握できないというのは考えづらい。

「SAULに海で救助されるまでの経歴は一切不明、連絡先として告げた住所と電話番号は出鱈目、そもそも戸籍上では、今日本に存在している『津上翔一』で、あの年代の者は存在しない。持っている免許証もおかしい」

「どうおかしい?」

「発行の日付が2000年だ。それから更新もしないで使えなくなった免許を持ち歩くのは、理屈に合わない」

 今は2009年、免許の話は初耳だった。瀬文が面食らってやや顎を引いてみせると、津田は俯いて目を伏せた。

「まるで最初から存在しない人間じゃないかと思える。何か聞いていないか」

「別に、何も」

 顎を引いたままで瀬文はしらを切ってみせた。実際瀬文も、話を聞いたところで、津上翔一の素性などさっぱり分からないのだから、あながち全面的な嘘をついているという訳でもなかった。

 津上翔一の話など、そのまま信用できる筈がない。別の世界から迷い込んだらしい、と本人から聞いたが、誰がどうすればそんな荒唐無稽な話を信用できるだろう。

 とにかくアンノウンは、アギトの力を持つ人間と未確認、つまり人間をはみ出して強すぎる力を持った者を標的にしている、という程度しか理解は届かない。

 神とかどうとかいう単語も耳にした気がするが、アンノウンとやらは粛正でもしているつもりなのだろうか。気に食わない。

 月並みだが、瀬文は無神論者だった。神という単語を口にした途端に津上翔一が胡散臭く見えてしまう程度には。

「まあいい。今日は忠告に来ただけだ。津上翔一のデビューは少々華々しすぎた。SAULがアンノウンと呼んでいるあれ、あれは何故か写真にも動画にも姿が映らないが、アギト単体のものは何枚か画像を入手している。一日に二度も、都心のど真ん中でいきなり人間でないものに姿を変えたんだ、マークされて当然だろう、勿論我々以外にも。彼は今その界隈では、ちょっとした有名人だよ」

「あいつはあんた達じゃない、SAULの管轄だろう」

「彼が未確認ならな。だが彼は何だ? 人間ではないのか?」

 問われて瀬文は言葉に詰まり黙りこくった。彼が何者かなど分からない、実際に目の当たりにしても信じられないのに、何が答えられるだろう。

 津田はだが、瀬文の返答になど興味はなかったのだろう、そのまま言葉を継いだ。

「それと、組織の動きがどうもおかしい」

「おかしい?」

「何者かが、多くの組織を統合して一つに纏めようとしている。彼らはそれぞれに目的があって組織を作っているのに、大した抵抗も見せずに併呑されている。ニノマエの時のように粛清もなくだ。こんな事は、今までなかった事だ」

「あんた達にも、不都合という事か」

 津田は無表情のまま答えを口にしなかった。そのまま立ち上がる。

「おい」

「忠告は終わりだ」

 振り向かないで津田は短い言葉を残して、ずんずんと歩き去って行った。

 勿論津田が真に衷心から忠告などしてくれるなどと思えるほど、瀬文の頭の中に花は咲いていない。要は組織統合の対処に忙しくて、一度はニノマエに壊滅状態に追い込まれて人手不足の零課は津上翔一にまで手が回らないから、ミショウで対処しろ、という事なのだろう。

 未確認は、人間とは異なる化物だからこそ、実際に相対しなければ他人事として処理していられた。だが津上翔一は、少なくとも普段の見た目は人間だ。

 人が人を超えていく力。今まで存在していたSPECとは異なる、その力に興味のある者は、いくらでもいるだろう。

 瀬文も立ち上がり、早足に歩き出した。

 

***

 

 とっぷりと日は暮れている、都心では夜の間も灯火が絶えることはないが、人の作った灯りが夜の闇を全て覆い隠し尽くせるわけではなく、そこかしこの片隅には吹き溜まりのように前を見通せぬ闇に包まれた箇所がある。まして都心を離れた住宅街では、光の届かない場所などいくらでもあった。

 未確認生命体対策班を訪れると、津上はつい先刻退庁し、帰宅したという。普段は芦河と車で出退勤しているが、今日のように芦河が残らなければならない仕事がある時には電車を使って帰る。八王子駅で降りてからバスに乗り二、三十分。それから更に十分ほど歩くらしかった。

 詳しい経路を訊こうとすると、さすがに芦河は訝しげに眉を顰めた。

「……なんで俺の家の場所をそこまで懇切丁寧に教えなえきゃならん。確かに津上は胡散臭いが、それはあんた達とは関係ないだろう。アンノウン関連の管轄はうちだ」

「関係ある、という情報が入ったからこうして動いている」

「どこの情報だ」

「情報源を明かせる訳がないだろう、だが確かな筋からだ。護衛が必要なのは俺じゃない、津上だ」

 芦河はむっとして目を細めたが、動じない瀬文を睨みつけて、息を一つ吐いた。紙を取り出して、線を引いていく。

「そこまで慌てるような相手か」

「そうだ」

 芦河が描いた簡単な経路地図を受け取って未確認生命体対策班を出ると、護衛の刑事を呼びつけて急ぎ車を走らせる。退庁時間と所要時間を考えれば、途中で捕まえられる筈だった。

 八王子に入り経路通りに車を走らせると、それらしき後ろ姿が歩道を歩いている。近くで車を停め、瀬文は早足で茶色い頭の後ろ姿に駆け寄った。

 後ろから呼び止めると、津上翔一は軽い足取りを止めて、振り返った。

「あれ……瀬文さん、でしたっけ? 俺に何か?」

 津上は着付けないスーツに身を包み、やや窮屈そうに見えた。着慣れないというだけではなく、着られない程ではないがサイズもやや小さいらしい。足首から靴下がやや覗いているし、ジャケットの肩周りもきつそうに張っていた。

「……どうでもいいが、似合わないな」

「あ、やっぱりそう思います? 俺も自分で全然慣れなくって」

 津上が照れくさそうに笑って頭を掻いた。袖が張って、腕も上げづらそうだった。

 よく考えなくてもこんな世間話をしている状況ではなかった。今の所おかしな気配はないし、瀬文についた護衛の刑事も背後のどこかに潜んでいるだろう。だが、いつ何が起こっても何も不思議ではない。

「よく聞け、お前は狙われているかもしれん。誰に、かは分からんが」

「えっ、何で」

「お前が、普通の人間にない力を持っているからだ」

 瀬文の言葉に、津上は不思議そうに首を捻った。心当たりがない、そういう顔をしている。自覚の薄さにやや長く息が漏れそうになるが、通り過ぎずに津上の後ろで立ち止まった二人の人影に気付いて、そちらを見た。

「おい、何か用か」

 黒いスーツ姿の二人の男は、瀬文に返事を返さないで、冷たい目付きのまま二人一様に両手を胸まで上げた。

「おい……!?」

「えっ、何、何です、か……!」

 どん、と大きな音をたてて、二人の周りのアスファルトが凹み割れた。足の裏が崩れたアスファルトにめり込んでいき、立っている態勢も保持できずに前屈みに膝と掌が地面に付く。頭を上げる事もままならない。目に見えない圧力が、瀬文と津上、二人の周りを包んでいるらしかった。

 後ろから駈け出してきた護衛の刑事が二人、ひしゃげた声を上げて倒れたのが聞こえたが、首を向ける事ができない。

「なん……なん、ですか……こいつ、らっ!」

「知ら、んっ!」

 津上も瀬文も潰れた声でやりとりするが、互いの姿を横目に見る事もままならない。アスファルトにめり込んだ膝と掌が裂けて、血が滲む。

 だが急に、二人にかかる力が消えた。押し返そうと込めた力の勢いで、瀬文も津上も背中から勢い良く倒れこんだ。

「ぐが……が、あ……」

 顔を上げてみると、黒いスーツの二人の首に、何か紐のような物が巻き付いていた。

 いつの間にかその向こうに姿を現していたのは、朱に染まった体色、髪の代わりに幾筋も幾筋も、うねる蛇を頂いた異形だった。

「アンノウン……」

 津上が呟いて瀬文が携帯電話を取り出した。だがすぐに、ごきりと嫌な音が響いて、首に巻きついた鞭を引き剥がそうと首元にかけられていた二人の黒スーツの腕は、一様にぶらりと垂れ下がった。

 鞭が戻り、ゴミ屑か何かのように黒スーツ二人の体はアスファルトに投げ出された。こちらを見るアンノウンを睨み返して瀬文は息を飲み、津上が構えようとする。

 場違いな音が高く響いた。固い靴裏がアスファルトを叩く足音が、一定のリズムで繰り返され近づいてくる。

 歩いて来たのは、まだ幼いと言ってもいい、少女だった。

 踝まで丈のある、黒いワンピースの裾をゆるりと靡かせて、彼女は歩み寄ってくる。細い月が照らした肌は目に痛いほど青白い。

 蛇のアンノウンは下がり控え、津上と瀬文からやや距離を置いて立ち止まった少女に向かって膝を付いた。

「真魚…………ちゃん?」

 ぼんやりと津上が呟いた。ちらと見やると、津上は驚愕に顔を歪め、いっぱいに目を見開いて、現れた少女を凝視していた。

 津上翔一でもこんなにも狼狽する事があるのだろうか。知り合いが目の前に現れたというだけなら、こうは驚くまい。

「どうしてあなた、私の名前を知っているの」

「だって、真魚ちゃんは、真魚ちゃんじゃない。こんな所で何してるのさ、危ないから早く逃げないと……」

 津上の声は震えて弱々しかった。まな、と呼ばれた少女は、津上の言葉に特段反応を示さずに、じっと津上を見つめていた。

 死人の顔だ、と瀬文は思った。死んだ直後の顔ではない、送り出す前の静かに整えてやった顔をしている。どんな苦痛に満ちた死を迎えても、目を伏せ整えてやると、死者は一様に、まるで心残りなど何もないような穏やかな顔になった。この少女はそんな顔をしている。

 生きていない。少女は目の前で歩き喋ったが、何故か瀬文の胸に、動かしようのない確信が生まれた。生気、と言えばいいのか。呼吸と熱を感じられない。

「私はマナだけど、あなたの事は知らない。あなたを迎えに来たの」

「迎えに……って、どうやって」

「歩いてきたけど」

 津上は力弱く首を横に振った。茫然自失、信じられないものを見るような目で、自身が「まな」と呼んだ少女を見つめている。

 話が噛み合っていない。名前は同じだが中身が全く違うものについて、齟齬を無視したままそれぞれ話している、そんな印象があった。

「こっちに、来て」

 静かな声がゆっくりと、澄んで高く響いた。少女の白い腕が、闇の中から伸び、差し出される。

 津上は呆然としたままだったが、躊躇しながらも右手を上げかけていた。

「おい……待て、死人に引っ張られるな!」

 瀬文は叫び、咄嗟に津上の頬に張り手を一発浴びせていた。はっと、目が覚めた様に津上は瀬文を見た。

「いきなり、何するんですか」

「あれはお前の知ってる『まな』じゃない、違うか」

 言われて、津上は戸惑って僅かに頷き、少女へと向き直った。手が握り返されない事に失望したのか、少女が差し伸べた右腕は下がり、闇に溶けた。

「お前は何だ、何者なんだ!」

 瀬文が鋭く叫ぶが、返事は返って来ない。

「こっちに来て」

「どうして」

「裁きを免れるため。アギトは罪だけれども、悔い改めれば、罪は許されるから」

 かつり、かつりと、硬く靴音が響いて近づいてくる。津上はふっと悲しそうに目を細めると、すぐにきっと前に向き直った。

「俺は、行かない」

「どうして」

「アギトは罪じゃない、裁きとか何とか、何があるのか知らないけど、いちゃいけない人なんていない」

 津上の言葉はきっぱりとしていた。だが、それを聞いた少女の表情は動かない。

「人は人であればいい、だから」

「そんなの、誰かに決められる事じゃない。それより真魚ちゃんがこっちに来ればいいんだ」

「あたしが……?」

 戸惑って、少女は微かに眉を動かして歩みを止めた。

 睨み合う間に、エンジン音が割って入る。

「動くな!」

 金属音と駆動音を喧しく立てて、ガードチェイサーから降りたG3‐Xがスコーピオンを構え歩み寄ってくる。

「おい、つが……み…………」

 だが芦河は、津上と瀬文のやや後ろで歩みを止めた。何かに驚いた様子で、言葉も止まった。

 それを見て、少女は踵を返す。控えていたアンノウンも立ち上がり、少女の後ろを守るように続いた。

「待って!」

「また、来るから」

 静かな声だけが残って、少女とアンノウンの姿は深い闇に霞んで溶けてしまった。

「そんな、筈は……ない」

 芦河の呆然とした声に、津上と瀬文は訝しげに芦河を振り返ったが、それ以上は何も言わないで芦河は、スコーピオンを右大腿部にアタッチし直すと津上の手首を取り引いて、歩き出した。



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 護衛の刑事は二人とも、幸い気絶していただけで、診断の結果多少の打撲は負っていたが、入院の必要はなかった。

 病院を出た瀬文は、一度警視庁へと戻った。もう二人とも帰ったろうと思いつつエレベーターを使い上がると、ミショウのフロアの電灯は灯っていて、当麻が椅子に腰掛けて本を読んでいた。

「……まだ帰らないのか」

「気になる事があったんで、調べものしてました。瀬文さんこそ、すぐ戻るって言ってたそうですけど、何処行ってたんですか」

「野暮用だ。少し長引いた」

 まあいいですけど、と上の空に呟いて、当麻は瀬文に向けた目線を再び本に落とした。

 通り過ぎがてら本の表紙を見ると、『神話と伝承――そのルーツ』というタイトルが読み取れた。青い布張りの表紙に金色で箔押ししてある。一見して、堅い雰囲気の本だった。

「何だその本は、趣味の読書なら家で読め」

「これが調べたかったものなんです、邪魔しないでください、もう少しで読み終わるんですから」

 ぴしゃりと言われて瀬文は黙り、荷物を机に置くと、二つのカップにコーヒーメーカーで煮詰まったコーヒーを注いだ。

「あ、あたし砂糖五つでお願いしまーす」

 紙面から目は離さないで当麻が告げる。不必要な所まで目敏い女だった。しかも砂糖五杯とは、聞いただけで胸が悪くなる。

 やや乱暴に机にカップを置くと、当麻がばたりと音を立てて本を閉じた。読み終わったようだった。

「この本、なかなか興味深い内容でしたよ。比較宗教学の入門書で、世界中の神話は実は、遠い遠い昔に起こったただ一つの事実をルーツに持っているんじゃないかっていう話なんですけどね、これが評判が酷い本なんです。トンデモ学説だ、なんて青筋立てて怒ってる人もいる位で」

 席に戻った瀬文に、当麻が話し始める。放っておいても続けるだろうと、瀬文は返事は返さずコーヒーを啜った。

「この本は一応初心者向けなんで、一番有名な大洪水の説話に相当紙幅を割いてるんですけど、知ってます? 世界中の神話に、似た様な大洪水の説話が残ってるのって」

「知らん」

「ノアの大洪水位は知ってるでしょ、いくら何でも。あれと似た様な話が世界中に残ってるんです。悪い人間が滅ぼされて、神様に助けられたごく少数の人間が新しい人類の祖になる。ノアの大洪水の説話って、旧約聖書の中では他の部分とちょっと毛色が違うんですよね。天使と人間が交わって産まれたネフィリムっていう怪物がどんどん増えて地上を荒らして、手に負えなくなったから神様が一度地上を綺麗にしようとしたっていうんです。で、ギリシャ神話にもデウカリオンの大洪水っていうほぼ似た様な説話があって、人類は一度滅びるんですけど、プロメテウスの子デウカリオンと妻が石から新しい人間を生み出して新しい時代が始まる」

「だから何なんだ」

「人間は、何も無い所から勝手に話を作り出したりはできないんですよ。必ず何かを基にする。神話に書かれている事は何かの比喩である、という読み方を突き詰めると、この本みたいにトンデモ学説とか牽強付会とか我田引水とか言われますけど、ある程度の真実もそこには恐らくあります」

「……何が言いたいのかさっぱり分からん」

「まあ、実はそこは大した問題じゃありません。一番の問題は、この本を書いた人間、そしてこの人が研究していた事です」

 言葉の後に深い息を一つ吐いて、当麻は本の表紙を瀬文に向けた。著者名は、『沢谷ヨシユキ』と記載されている。

 この大して珍しくもなさそうな名前の何処に問題があるのだろう。分からずに瀬文は当麻の顔を伺ったが、当麻は益々愉快そうに、にたにたと笑ってみせた。

 

***

 

 芦河の放つぴりぴりとした空気に、さすがの津上も肩身が狭い様子で縮こまり、助手席に座って体を小さく丸めていた。

 瀬文が去った後、芦河は引っ掛かりを覚えて念の為にGトレーラーを出動させ後を追い、途中で例の「予感」が胸に過ぎり、G3‐Xを装着しガードチェイサーで現場へと急行してきていた。

 津上は掌と膝をやや深く擦りむいただけで、他には傷らしい傷は負っていない。簡単な手当を受けて、芦河と津上はようやく帰路につく為車へ乗り込んだ。

「今から、お前は絶対に一人で行動するな、いいな」

 ハンドルを握り運転する芦河に有無を言わさぬ口調で告げられて、津上は反論もせずに素直に頷いた。

「すいません」

「別に謝る事はない、お前を一人にしておいた俺も軽率だった」

「でも、何か嬉しいなぁ」

 言葉の意味通りに、実に嬉しそうに津上が口元を緩めた。反応が不可解過ぎて、芦河は返す言葉がない。

「……何がだ?」

「だって、心配してくれたんですよね? 芦河さん俺の事嫌いなのかなーって思ってたから」

「……そういう問題じゃないだろう」

 芦河は津上が、自分に向けられる感情になど無頓着で、芦河の刺々しさなど気にもかけていないのかと思っていた。今まで彼は芦河が素っ気ない態度をとっても全く気にする様子がなく、いつも下らない事を喋ってばかりいた。

 実際に芦河は、津上の事をあまり快くは思っていない。

 津上翔一は陽気で家事の好きな、無邪気で気のいい青年だった。だが芦河は口数の多い相手は苦手だし、何より、やや適当でいい加減な印象のあるこの男を信用できない。

 あまり声高には言えないが、八代があっさりと彼を信用し心を許しているというのも、彼を警戒する一因だった。

 芦河はようやく、自分の生きる指針を僅かながらも見つけ、守りたいものの為に心を決めたのだ。一年も迷い悩み逃げまわった挙句にだ。

 それを、横からぽんと出てきて引っ掻き回すこの男は一体何なのだろう。面白くなかった。

 車が走り出す。ちらと覗くと、津上は不思議そうな顔をして芦河の様子を伺っていた。

「あっ、もしかして、『命を守るのに理由なんて要らない』……とかですか?」

 津上の低い呟きは車のエンジン音にすら掻き消されてしまいそうだったが、芦河の耳にはっきりと届いた。

 面白くなかった。

 何故この男は、芦河が殊更に口に出した事もない、胸に秘めた信条を言い当てる事が出来るのだろう?

 そんな事は警察官として当たり前だと思っている、だから言い募ったりしない、八代にだって言った事などない。

「何で分かったんだ? って顔してますね。凄いでしょ?」

「……正直に言えば、お前に見透かされるのは不愉快だ」

 言い捨てて、実に不愉快な様子で長く細く溜息を吐いてみせるが津上は、ははは、と笑い流しただけで、堪えている様子は全くなかった。

 暖簾に腕押し、糠に釘。そんな諺が浮かぶ。

「別に俺、見透かしてるとかそんなの全然ないですけどね。今だって芦河さんが何でそんな怒ってるのか、さっぱり分かりませんし」

「……別に怒ってない」

「嘘だ、ほら、何か機嫌悪そうですもん。眉間の皺凄いですよ、形ついちゃいますよ!」

「…………少し黙ってろ」

 腹に力を込めて低く呟くと、津上は不服そうな声で、はーいと答えて、それきり黙った。

 やはりこの男は苦手だ、と芦河は改めて感じた。つい乗せられて、言いたくない事まで口に出してしまいそうになる。

 アギトの癖に、何でそんなに能天気なんだ。そう聞けてしまえれば、楽だったのかもしれない。

 何故言い出せないのか、というのが、芦河自身にも判然としないところだった。津上自身アギトなのだし、津上が何か思惑を持っているにしても、知られても困る事はない。言ってしまって問題はないというのに。

 何を怖がっているんだ、俺は。本当はその疑問こそ、一番芦河を不愉快にさせているのかもしれなかった。

 

***

 

 新たな被害者の報告が相次いだ。二日の内に三件。死因は失血死またはショック死。いずれの被害者も頸動脈を鋭利なもので切断されているが目撃者はなく、一人は人ごみの中で突然首筋から血を噴き出し倒れた。

 鑑識の見解では、刃物ではなく所謂鎌鼬現象によって、刃のようになった真空状態の空気に被害者の喉笛は裂かれたようだ、という事だった。

 人間に出来る仕業ではなかった。とすれば犯人は決まっている。

「不可能犯罪……のようね」

 報告書の束を置いて、八代が呟いた。芦河がそれに頷き返す。

「ねえ津上くん、ちょっと聞こうと思ってたんだけど……君は、アンノウンが出た時に、その位置が予め分かってるような様子だったけど」

「アンノウンが出たら百パーセント分かる、っていう訳じゃないんで……知らない所で狙われてる人は沢山いると思います」

「まあそう都合良くもいかないわよね。基本は今まで通り、被害者の親族を護衛監視、しかないのかしら」

「誰がアギトになる人なのかなんて、それこそアンノウンでないと見分けられないですから、それしかないと思います」

 津上の言葉に八代は頷いた。アンノウンに対して常に後手に回る事にはなるが、津上(と芦河)の感知能力は不安定で、それを頼りに行動方針を決められるような性質のものではなかった。

 気付いていればという自責の念があるのか、津上は浮かぬ顔で目を伏せた。

 今回の被害者の親族には、既に護衛の人員は配置してあるから、何かあれば速やかにG3ユニットへと指令が下る手筈となっている。

「……それより、津上くんを狙ったっていう二人組と、アンノウンを従えた女性の事も気になるわ」

 八代の言葉は芦河に向いていたが、芦河はちらと八代を横目で見ると、すぐに視線を逸らし口を開かなかった。

 津上は困惑して、八代と芦河を交互に何度か見つめると、おずおずと芦河に話し掛ける。

「あの……芦河さん、真魚ちゃんの事、知ってるんですか?」

「……何の話だ」

「だってあの時真魚ちゃんの事見て言ってましたよね、そんな筈ない、って。知ってるからじゃないんですか」

「知らないな。確かに俺は、あの女と同じ顔のマナという女を知ってる。だが、昨日のあの女が、俺の知ってるマナな筈がないんだよ」

 芦河の答えの内容が飲み込めず、津上も八代も訝しげに芦河の不機嫌そうな横顔を眺めた。芦河は鼻から深く長く息を吐くと、面白くなさそうな潰れた低い声で言葉を続けた。

「俺の知ってるあの顔のマナは、俺の姉だ。そして二十年以上前にあれ位の年で死んでる。万が一生きてたとしても、見た目があんな十五、六の筈がない。それとも何か、あれは幽霊だとでも言うのか? 訳が分からんのはアギトだけで十分だ」

 八代も津上も芦河の語った内容を聞いて、驚きを隠し切れずに芦河を見たが、芦河はもう何も答えようとせず、目を背けて押し黙った。

「……あの、お姉さん亡くなってたなんて知らなくて、すいません」

「昔の話だし謝る必要はない、そしてあの女の事は知らん。他に言う事はない」

 津上が申し訳なさそうに、弱い声音で謝意を伝えるが、芦河の返事は実にぶっきら棒で、取りつく島もなかった。

 気まずい沈黙が三人を包むが、芦河は不機嫌に明後日の方向を睨み続けて、津上はかける言葉が浮かばないのか困窮し、八代はやや眼を伏せ何かを考え込んでいた。

 

 夕刻に、緊急の捜査会議が開かれた。あまり実のある内容になるとも思われなかった為、八代が一人で出席した。

 芦河と津上は、遺族の様子を見回る事を希望した。既に護衛は付いているし、何かあればすぐに連絡は入るが、二人ともじっとしているのは落ち着かない様子だったので許可した。連絡があってからGトレーラーが現場に到着するまでにはどちらにしろタイムラグがあるのだし、ここの所は待機続きで、後手に回らざるを得ない二人に何もするなというのも酷に思われた。

 予想通り、会議の内容は終始、現状の把握と確認を繰り返したのみだった。(これは報告していないが)一年近くアンノウンと戦っていた、という津上すらアンノウンが何なのか、何処から来ているのかなど、詳細な情報は一切持っていない。まさに正体不明、探る方策など思いもつかなかった。

 廊下を歩きながら、つい眉が寄り溜息が漏れる。いけない、と思い直して八代は顔を上げた。

「八代さん」

 後ろから追いかけてきた声は、出来れば返事を返したくない不愉快な相手のものだった。無視することに決めて歩き続けると、やや慌てた様子で早足の足音が後ろから追いかけ、追いついてきた。

「無視とは酷いんじゃないですか」

「私はあなたに用事はないもの」

「お伺いしたい事があるんですが」

「こんな所で油を売ってる暇があるなんて羨ましいわね」

 ようやく八代は足を止め振り向いた。男も追いついて足を止める。南条トオル。所謂キャリアで、この四月から警視庁刑事部捜査第一課に配属されたばかりの若手だった。

 悪い人間ではないが、とにかく鼻っ柱が強い。超常現象には懐疑的な態度をとっており、映像には残すことができないアンノウンなどは存在自体を疑ってかかっている節があった。

「未確認生命体対策班班長である、八代さんの考えをお伺いしたいんです。先程の報告ですが、アンノウンとかいう奴らはアギトだけを狙っているという話がありましたが」

「それが何なの」

 南条が何を聞きたいのか、意図が全く把握できず、八代は眉を寄せ南条を薮睨みに見据えた。

「アンノウンとは、アギトとは何か。アンノウンがアギトだけを狙うというのならば、普通の人間には関わりのない事ではないんですか」

「関係ないってあなた……アンノウンが殺してるのは人間よ!」

「だが、報告を信じるならば、アギトは人間ではないものになろうとしている、違いますか」

「違うわ、アギトは人間よ」

「何故、そう断言できます?」

 きっと南条を睨み付けた視線を逸らさないで、八代はぎゅっと強く口を引き結んだ。陽光は鼠色した雲で翳り、警視庁の廊下にも茫漠とした光が射し込むだけで、やや薄暗い。

 八代にとって、アギトは人でしか有り得ない。ショウイチが一体、それ以外の何だというだろう。

 だが、それをどう伝えればいいのかなど分からなかった。ショウイチは恐れている、アギトである事を、忌み嫌われ追われるのではないかと恐れている。

 だがショウイチは、ただ荒れ狂うだけだったアギトの力を、門矢士の助けを借りて、自らのものとしたではないか。律することが出来ている。

 包丁はただの包丁、ナイフはただのナイフ。誰がどう使うかによって、結果が変わるだけだ。

「……こんな所で繰っちゃべっている暇があるなら、現場に行けばいいわ。アンノウンに狙われている人達が人間でないものになろうとしているだなんて、とんでもない誤解だって分かるから」

 言い捨てると、八代はふいと前に向き直って、足音高く歩き始めた。後ろ姿を見送って、行ってますけどねえ、と呟いて、南条は肩を竦めてみせた。

 

***

 

 芦河と津上は、今回の鎌鼬現象で命を落とした被害者の遺族を回り、警護の警官から状況を聞いていた。

 遺族とは直接顔を合わせない。ただでさえ家族を失った上に命を狙われている人を刺激するのは得策ではないと思われたし、狙われている側が何も有用な情報を持っていない事はこれまでの例から明らかだった。

 昼過ぎから回り始めて四組の元を訪れたが、いずれも今のところ異状はないようだった。

 そろそろ日が暮れる。四組目の女性の家付近では道路工事を行っていて、車が入っていけない。芦河と津上は工事現場近くの時間貸しの駐車場に車を入れて、歩いて様子を見に行っていた。アパート付近で張り込んでいる刑事からは、特に変わった事は起こっていない、と他の場所と似た様な答えが返ってきた。

 じっとしているのも落ち着かないが、当てもなく動いたところで大した収穫はない。二人は言葉少なに、車へと戻るため道を戻り始めた。

 角を曲がると、街灯の下に誰かが立っていた。誰なのか、を考える暇はなかった。黒いスーツに黒いソフト帽、サングラス、そこまで認識できたろうか。

 津上の身体がふわりと浮いた、浮いたと思った次の刹那には追い付けない速度で、後ろへと吹き飛ばされていた。

 ブロック塀に叩き付けられた津上の身体は、そのまま貼りつけられたように動かない。苦しげな呻き声が津上の喉から漏れる。

「津上!」

 芦河が振り向いた時にはもう、横の道路工事現場の、膝ほどの高さのバリケードの内側から、ワイヤーがひとりでに飛んできて津上の首筋に絡みついた。

「くそっ!」

 腹立たしげな強く短い声が飛んだ。芦河は腹を立てている。何に対してなのか。

 急に、津上の身体を戒める力が消えた。叩き付けられたブロック塀からようやく背中が剥がれ、全身を締め付けていたワイヤーも力を失って垂れ下がった。

 何かに弾き飛ばされたのか、黒スーツの男は少し先の地面に倒れこんでいる。立ち上がろうとすると何か見えないものが、彼をまた弾き飛ばした。

 津上は芦河を見た。芦河は瞬きもせず、感情のない目でまっすぐに前を見据えていた。すっと右腕を前に差し出すと、また黒スーツの男が弾き飛ばされる。

 頭を強く打ったのか、黒スーツの男はもう立ち上がらなかった。死んでしまったのではないか、不安になって津上は男に駆け寄ろうとしたが、芦河は左腕を伸ばして津上の動きを制止すると、歩き出して倒れた男の顔を覗き込んだ。伏した男の肩を足で押してひっくり返し、屈みこんで口元に手を当てる。

「安心しろ、死んでない、気を失ってるだけだ」

「芦河さんが、やったんですか」

「そうだ」

 淡々と告げた芦河を、津上は悲しそうな目をして見つめた。立ち上がった芦河はその視線が余程不愉快だったのか、むっと顔を顰めて背けた。

「驚かないのか」

「何となく、そうなんじゃないかって、思ってましたから」

「お前に何が分かる、知ったような口をきくのはやめろ」

 不機嫌そうな声で答えながら、芦河は倒れた男を再びひっくり返して、後ろ手に手錠をかけた。携帯電話を取り出して電話をかける。津上はそれ以上答えようとせず、座り込んで背中を塀に凭れさせた。打ち付けられた時に後頭部が切れたのか、塀の高いところには黒い染みが出来ていた。

 通話を終えて携帯電話を内ポケットにしまい込み、津上に向かい歩き出してすぐ、芦河は唐突に足を止めた。

 弾かれたように後ろを振り向く。そこには、犬の首を持ち、黒光りする人のような肢体を持った異形が物言わず佇んでいた。エジプトのアヌビス神という奴だったか、壁画に描かれている、ジャッカルの頭を持ち天秤で人の真実(まこと)を量る神に良く似ていた。

 声はないが、犬首の喉から漏れる低い唸りが辺りを震わせている。剥き出しの鋭い歯は唾液でぬめり、獣の臭いが鼻についた。

 犬首が右手を胸の辺りに当て、左手の人差し指と中指を立てて右手の甲を横に二度、なぞった。

 分かっていた事だった。力を使えば奴らを呼び寄せる事になる。だが、アギトだというのに力は持っていない様子の津上を咄嗟に助けるためには、こうする他なかった。

 Gトレーラーはここに向かっているが、待っている(いとま)はない。躊躇いはあったが、こんな所でアンノウンになど殺されるつもりもなかった。

 犬は、頭上に輝いた光輪から長い柄の付いた鎌を引き摺り出し構えた。芦河も構えると、眩い光が下腹部に宿る。

「変身!」

 鋭い声が飛んだ。頭を打ったためか、意識がはっきりしない様子の津上は、芦河の声に薄く目を開いた。

 目に痛い程の白い光の中に彼はいた。津上はその姿をよく知っている。

 その光を、ある者は人には御しきれぬ力として恐れ、ある者は人の持つ無限の可能性の体現と信じた。

 自身にとってはどうだったのだろうと津上は、霞む視界を覆う鋭い光を見つめつつ、ふと思った。知らぬ内に持たされていた力。船で出会い消えたあの青年を恨んでも良かったのかもしれないが、誰かを恨む気持ちは湧かなかった。原因が何かよりもこれからどうするのかの方が、ずっと大切に思われた。

 目の前でアギトへと変貌を遂げた芦河も、恐らくは恐れ、絶望したのだろう。誰もそうだったように、過去をしか見つめられなくなったのかもしれない。

 津上は、嬉しいと思っていた。アンノウンの気配を察知し、アギトに対しやや憎しみに似た恐怖を露わにする。芦河は恐らくアギトなのだろうと推測されたけれども、彼は過去しか見ていないわけではなさそうだった。誰もがアギトに目覚めれば、アギトではなかった過去に逃げこんでしまうしかなかったのに、芦河はそうではなかった。彼はアギトの力を恐れているだろう、だけれども、戦おうとしていた。臆する事なく、理不尽に命を奪う者と。

 それが、とても嬉しかった。

 一メートル程の柄の鎌が振るわれるとその重みが空気を震わせ、肌まで裂くのではないかと思わされる。しかも操るのは人ならぬアンノウンの怪力。振るわれたと思えば間合いに踏み込む前に返す刃が襲いかかる。アギトへと変じた芦河は、鎌の一撃を確実に避けてはいるものの、距離を詰めかねている様子だった。

「芦河さん!」

 体は起こせぬまま、津上はぐたりとした体に力を込めて精一杯に叫んだ。芦河はその声に気付くと、やや遠めに後ろに飛び、アンノウンと距離をとった。

「あなたが……アギトに、負けないなら……、見える、筈です、あなたの出来る事」

「今忙しい、訳の分からん事を言うな!」

「変わってくのは……怖い、ですけど、芦河さんだったら……強いから大丈夫、だから。芦河さんの、まんま、で……」

 次第に弱まっていく津上の声に返事を返さないで、アギトはアンノウンへと向き直った。

 不愉快だった。何を知っているというのだろう、何が分かるというのだろう。何もかも見透かされているような気がして気分が悪かった。

 戦う意志を得たところで、怖いものは怖い。逃げるのを辞めたからといって、怖くなくなるわけではない。

 変わらずに変わる、まるで禅問答だ。だが、津上の言葉をもし信じるなら、()()()()()()()

 犬首の鎌の鋭い一撃を振り切り間合いを詰められる程、速くだ。この場所を踏み越えて、芦河は芦河のまま、変われる、のならば。

 一気に間合いを詰めてきた犬首が袈裟斬りに鎌を振るう。避けて踏み込もうとするが、石突の一撃がすぐ腹の横に迫り、大きく右に飛ぶ。

 その刹那、津上の言うように、それは唐突に『見えた』。

 そうだ、芦河はそれを用いる事が出来る。

 ややバランスを崩し片膝を突いて着地し、アギトは立ち上がる前に腰の左脇に掌を当て押し込んだ。光が再びアギトを包んで、金色に輝いていたその姿は、闇に溶け込み沈むような、深い蒼へと変わった。

 特に左腕に力は満ちている。動ける、確信がどこからか根拠もなく湧いた。次に何をすべきかも、もう分かっていた。

 腰の前に右手を添えると、下腹のベルトの中心から、柄が飛び出てくる。どうなっているのかなど分からないが出来る事だけ分かっている。柄を掴み一気に引き摺り出すと、身の丈ほどもある薙刀がアギトの手に握られた。両端に片刃の刃が互い違いに取り付けられている。

 横薙ぎに振り払われた鎌の一撃を薙刀の柄が受け止め、弾き返す。犬首は鎌の重さに引き摺られて体勢を崩し、戻す前に薙刀の一撃が犬首の肩から胸にかけてを薙ぎ払っていた。

 アギトは薙刀を構え、右に左に回し振った。その動きは風を巻き起こし、体勢を崩した犬首は立て直す間もなく強風に煽られて後退る。

 よろけた犬首に、薙刀の斬撃が続けざまに二撃、三撃。鋭い刃先に首の下を突かれて、犬首は大きく後ろに吹き飛ばされ仰向けに倒れこんだ。

 アギトが薙刀を右脇に構え直す。立ち上がった犬首は、受けたダメージを感じさせぬほど軽やかに鎌を振り上げ、駆けつつアギトへと振り下ろすが、紙一重で躱され逆に、すれ違いざまに腹に横薙ぎを食らう。

 食らったまま犬首は前に二歩三歩進んだが、立ち止まりアギトへと向き直る。がらん、と乾いた音がして鎌が犬首の手を離れ、アスファルトに転がった。

 犬首は身を捩って腹の辺りを掻き毟り、暫く悶えていたかと思うと背を反らせた。頭上に光輪が現れ広がり、じきに犬首の身体が内側から爆発を起こし、弾け飛んだ。

 炎はすぐに消えてしまう。鎌もすっと消えてしまった。夜の闇に沈んだアスファルトには僅かに焦げ跡が残っているだけで、アンノウンの形跡など最早跡形もなかった。

 サイレンの音が遠くから徐々に近づいてくる。アギトは変身を解き芦河の姿に戻ると、津上を見た。

 津上は少し悲しそうに目を細めて、だけれども満足そうに笑ってみせると、目を閉じた。

 やはり、何もかもを見透かされているようで気分が良くなかった。アンノウンは「人は人であればいい」と語ったし、芦河は変わるのが怖かった。それなのにこの男は、そのままで変われるという。

 望んでなどいない変化だ、変わらずにいられるならば、こんな変化などなくても良かった筈だ。

 津上を助け起こす気にはなれなかった。ふと気付いて辺りを見回すと、手錠をかけた黒スーツの男の姿がなかった。

 逃げられた。だが、そんな事も今はどうでもいい気分だった。

 変わっていくのだとして、芦河は、変わらずにいられる程、己をしっかりと認識しているのだろうか、保てるのだろうか。

 近づいてくるパトカーのけたたましいサイレンが耳障りで、芦河は、一つ舌打ちをした。



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 病院に運び込まれた津上は検査を受けたが、差し当たって異常は見受けられないというのが診断結果だった。後頭部の傷も浅く、出血もすぐに止まった。

 頭を強く打っているため、念の為に精密検査も受けたほうがいいという事になり、大事をとって入院、という運びにはなったものの、当の津上は目覚めるとすっかり元気になり、ベッドの上にいるのも落ち着かない様子で寝転んだり寝返りを打ってみたり、起き上がってみたり、忙しなく体勢を変えていた。

 一晩を津上の横で椅子に腰掛け過ごしていた芦河は、その様子をずっと見ていたが、いつものように苛ついてやめろと怒鳴るでもなく、目を伏せて何かを考えこんでいた。

「……おい、聞きたい事がある」

「何ですか?」

 津上が丁度体を起こした所で、芦河は目を伏せたまま口を開いた。津上は気軽な様子で返事を返し、微笑んで芦河を見た。

「あれは、何だ、あの青いのは」

「……何、って改めて聞かれると困っちゃいますけど。名前とかあるのかなあ」

「つまり…………お前もよく分かってないのか」

「あ、バレました? へへへ」

 へへへ、と笑われて、芦河は口を曲げて顔を顰め、津上を睨みつけた。吐きたくもない溜息が漏れる。

「全く……いい加減だな。お前のそういう所はどうも好かん」

「俺は、芦河さんの事結構好きですけどね」

「気持ちの悪い事を言うな」

 軽く言われて芦河は、実に嫌そうに眉を寄せ目を細めて呻いた。

「そうですか? だって芦河さん、何だかんだいってお願いしたら聞いてくれるし、いい人だし優しいんだなーって。それに、何かその……そこまで頑張らなくてもいいのに何でもどこまでも真面目なとことか、何か俺の知り合いの事思い出しちゃって、親近感湧くっていうか」

「……お前の親近感なんぞいらん」

「だって、床拭いてくださいってお願いしたら、ホントにあんなにピッカピカにしちゃうなんて。びっくりしちゃいましたよ」

「綺麗な方がいいだろう、何か文句があるのか」

「まさか、ありませんよそんなの。ほら俺結構いい加減だし、そういうの凄いなって思って」

 にっと笑われると、それ以上反論出来なくなる。芦河は顔を思い切り顰めたままで、また一つやや長い息を吐いた。

「お前は、怖いとか不安だとか、そう思う事はないのか」

「うーん……確かに、今も不安だしちょっと寂しいんですけど。俺、結構今も楽しいですよ。芦河さん家が凄く掃除のし甲斐があって、綺麗になってくの楽しいし、明日のお弁当のおかず何にしようかなーとか、全然知らない所に来ちゃったのに、そういうの考えられるの嬉しいなあって」

「……そんな事が、楽しいのか?」

「えっ、楽しくありません? じゃあ芦河さんは何が楽しいんですか」

 問われて芦河は、答えに詰まって口を閉ざし、やや俯いた。

 何が楽しいというのだろう。芦河は自分が楽しいかどうかなどどうでも良かったし、今まで意識して考えた事もなかった。

 考えてみれば妙な話だった。

 芦河が警察官になったのは、普通の人達が笑っている日々がとてもいいものだと思えて、それを守るために少しでも力を尽くしたいからだというのが主な理由だった。そういうものが、理不尽に踏みにじられて罵声や悲鳴が上がるような事は、出来る限りなくならなければならない。

 いいものだ、とは思うけれども、母親が死んで以来、芦河自身はそういう気持ちをあまり感じた事も思い出した事もない。日々は楽しくないのが普通だったし、何か楽しい事があったとすれば、律し鍛えられた自分の成長を感じた時だったのかもしれない。

 ましてアギトに変じてからは、己の変貌に怯え、意志の届かぬ変化に怯え、己を狙い襲うアンノウンに怯え、誰かを巻き込む事に怯えた。何かを楽しむなどとそんな余裕はなかった。

 思い出した。何がおかしかったのかは忘れたけれども、八代が何かがおかしくて笑ったのを初めて見た時の事。

 普段は同僚が冗談を言っても眉一つ動かさない、このきつい女でもこんな風に笑う事もあるのだと思い、それが何だかおかしくて、とてもいい、と思った。

 笑顔は愛嬌があってかわいいのだから、怖い顔ばかりしていないでもっと笑えばいい。そんな風にふと思っただけで、すぐ忘れてしまった。そんなつまらない出来事だった。

 正義とか、本当はそういう事ではない。芦河がいいと思ったものは、どこにでも転がっているありふれた、どうでもいいようなもので、八代が何かおかしくて笑った顔だとか、ベビーカーを押して歩いている母親だとか、ゴミ袋を持って出勤するサラリーマンだとか、小銭を握りしめて駄菓子を買う子供とか、そんなものだ。

 まるでゲームのように人間を殺していく未確認生命体を許し難いと思ったから、G3の装着員の話があった時には二つ返事で引き受けたし、人が自らの意思でなるわけではないアギトだというそれだけで、惨い殺し方をするアンノウンを許し難いと思う。

 自分では持てなくて、手が届かないから、憧れて守りたくなったのだろうか。分からなかった。だけれども芦河は、八代の笑顔をとてもいいと感じて、とても好きだと、思った。

「……別に、楽しい事なんかない」

「ええっ、それじゃつまんないじゃないですか」

「面白くなきゃいかんのか」

「いけないって事はないですけど……俺は、楽しい方がいいなぁ」

 芦河に楽しい事がないからといって、それが何だというだろう。それなのに津上は、実に不服そうに口を尖らせた。

「……お前は、何で、そんな風に楽しいだとか言いながら、笑っていられるんだ」

 低く漏れた呟きは、それでも津上の耳に届いた。津上は不思議そうに芦河を見て、やや首を傾げた。

「うーん……何で、って聞かれてもなあ。悩んでたってしょうがないじゃないですか」

「しょうがないって、それはそうかもしれないが、お前だってなりたくてなったわけじゃないんだろう、何でとかどうしてとか思わないのか」

「思いましたけど、分かんなかったんで考えるのやめました。別にアギトだからってどうにかなるわけじゃないし、普通なんだから、まあいいかなって」

 ふっと、津上は芦河から目線を外し、前に向き直った。やや細めて、夢でも語るような遠くを見る目をしていたけれども、何かの痛みを堪えるように光が揺れた。

「……人が、沢山、死にました。誰も死ぬことなんかなかったのに。アギトだからって、死ななきゃいけないなんておかしいです。アギトになったって、毎日楽しい事とか嬉しい事とか一杯あって、俺は何も変わってなくて、生きていけてるのに……アギトだから居ちゃいけないとか、アギトだから生きていけないとか、そんなの絶対、おかしいです」

 やや眩しそうに、少しだけ目を細めて、津上は悲しそうに、遠くを見るように芦河を見た。

「俺は、嫌です、もう嫌です、誰もアギトのせいでなんて、死ぬことなんかないんです。怖いです、怖いけど、大丈夫だから……別のものになるわけじゃなくって、俺はちゃんと俺だから、大丈夫なんです」

 訥々と語られた言葉は、決して上手くはなかった、美しくもなかった。辿々しくつっかえて、詰まる息で言葉は時折途切れた。

 だけれども芦河は、返す言葉を失ってしまった。津上はまるで今にも泣き出しそうな目をして、泣くのをこらえているように見えた。彼は肩を震わせているわけではない、呼吸は静かなものだったし、時折目の光が揺れるだけで、穏やかに芦河を眺めているだけだったのに。

「お前は……怖がってるようには、見えない。お前は平気かもしれないが、普通はそうじゃない」

「酷いなあ、俺だって怖かったですって。でも、大丈夫だって言ってくれる人がいました。だから大丈夫だったんです。芦河さんにだって、いるじゃないですか」

 口元に浮かんだ笑みはふわりと滲んで、芦河は見透かされたような不愉快さをまた覚えて、目線を外して横を向いた。

 

***

 

 ノックの音がして、芦河と津上の返事を待たずに引き戸が開いた。ひょこりと顔を覗かせたのは、ミショウの当麻だった。

「こんにちはー」

「何の用だ」

 芦河に睨まれるがまるで相手にしていない様子で、当麻はそのまま中へと入ってきた。後ろに瀬文が続く。

「用って、お見舞いですよお見舞い。津上さんが入院したと伺ったので。他にどんな用事があるっていうんですか。あ、これ、つまらないものですが」

 当麻は興味なさそうに芦河から目を逸らすと、左手に提げたフルーツの籠を津上に手渡した。

「わっ、ありがとうございます、すいませんわざわざ。俺剥きますね、何食べます?」

「うーん……じゃあ夕張メロンで」

「遠慮というものはないのか、お前には」

「じゃあ瀬文さんは食べないんですね?」

「食べる」

 受け取ると津上はベッドの上で正座して、フルーツを覆ったビニールを剥がし、横に置いた台の上からナイフやら紙皿を手にとって、食事をする為の収納式の台を広げてメロンを切り始めた。入院している当の津上がメロンを切っているのも妙な光景だったが、誰も彼からその役目を奪おうとはしなかった。

 メロンが行き渡ると当麻と瀬文は黙々と無心で淡い橙色の果肉を貪り始めた。充満する甘い香りにやや胸を悪くして、芦河は機嫌悪そうに鼻白んだ。

「何しに来たのかは知らんが……丁度いい、お前達に聞きたい事があった。あの黒スーツ、あいつらは一体何なんだ」

「私達も知りませんよ」

 しれっと答えた当麻を、芦河はぎろりと睨みつけた。当麻は視線を受けてやや眉を上げたが、軽く息を吐いただけで首を横に軽く振った。

「そんな訳はないだろう、あいつらはお前らの管轄じゃないのか」

「うちは別にあの人達専門の部署じゃありません。結果的に多く関わってるっていうだけです」

「そんなお前らの事情はどうでもいい、奴らは何なのか教えろ」

「お答えできるような情報は残念ながら持ってません」

 芦河も当麻もそれ以上の応酬を止め、暫し睨み合う。津上が思わず体を起こすが、芦河に横目で一睨みされると、口出し出来ぬまま黙って芦河と当麻を交互に見つめた。

「……と、言っていても話が始まらないから困ったものです。奴らについてあたしが話せる事は三つ。まず、奴らはスペックホルダー、俗にいう超能力者の集団です。次に、奴らは多分アンノウンを軽く捻る津上さんのアギトの力に興味を示して、それを手に入れようとしている。最後に、それにしても二日連続で襲撃されるなんて、何故かは知りませんが、どうも何か焦っているような感じを受けます。申し訳ないんですけど、本当にこれ以上はお話できるような事は何も知らないんですよ」

 滔々と、途切れなく当麻に告げられて、芦河は返事をする代わりに一つ息を吐いた。何にしても、当麻に話せる事は(知っているいないに関わらず)もうない、または話す気がないのだろう。

「……で、私の方の質問にも、答えてもらいたいんですけどいいですか?」

「そら見ろ、やっぱり用事があるんだろうが」

「いいじゃないですか細かい事は。それよりも芦河ショウイチさん、あなたのお父さんについて伺いたいんですけど」

 告げられて芦河は、驚いたのか目を見張って当麻を見た。当麻はやはり悪怯れず、芦河の視線を受け止め、まっすぐ見つめ返した。

「お父さんが何を研究されてたか、ご存知ですか?」

「……知るわけないだろう。もう二十年以上前に死んでるし、その何年か前に離婚して俺は離れて暮らしてた。興味もない。何でそんな事を聞かれるのか意味も分からない」

「お父さんの専門は比較宗教学です。でも亡くなる直前は、ご自身の専門とまるで関係がないように思えるものを研究していました。切っ掛けの一つは、文献調査の為に訪れたシリアで、ある古文書を見つけた事です」

「何の話がしたいんだ、回りくどい喋り方はやめて要点をはっきり言え!」

 当麻の外堀を埋めるような話し方が余程不愉快だったのか、芦河は声を荒らげた。当麻はつまらなさそうに息を吐くと、意外と短気なんですね、と淡々と呟いて、言葉を続けた。

「お父さんがしていたのは、超能力の研究です。契機となったのは二つの出来事。一つ目がさっき言った、シリアで古文書を見つけた事。もう一つが、離婚してお父さんに引き取られたあなたのお姉さんが、恐らく超能力に目覚めた事」

「何だと? 何を証拠にそんな事を……」

「お父さんの論文を読ませて頂いたんですけど、まるで本物の超能力者が側にいるみたいに、超能力について詳細な記述が沢山あるんですよ。調べたんですけど、お父さんは離婚の少し前に、それまで勤めていた大学を辞めて、それからは学会の機関誌に直接論文を発表している。お父さんとお姉さんが亡くなったとされている火事の調書も見ましたが、お父さんは生活必需品を買う以外は外に出る事がなかったし、来客もほぼなかった。お父さんが詳細に観察出来たのは、お姉さんだけ、という事になります」

「だから何なんだ、親父と姉さんは、もう随分昔に死んだんだ、今更そんな話を俺から聞き出して何がしたいんだ!」

「もし、二人が生きているとしたら? 火事の記録では、遺体は何故か複数見つかっていますがどれも完全に炭化していて、歯型も一致するものは見つからず身元は特定できていません。もし瀬文さんと津上さんとあなたが見た女性が、あなたのお姉さんだったら?」

「有り得ない、俺の姉だぞ、あんな十五、六な訳がないだろう!」

「津上さんの力も、アンノウンも未確認生命体も、今まで想像も出来なかったものです、説明も出来ません。でも存在している」

 いつの間にか椅子を立って声を張り上げる芦河を、当麻は座ったまま、不思議そうに見上げた。

 芦河は自分がいつの間にか腰を浮かせ立ち上がっていた事にやっと気付いたのか、はっとした様子で息を飲み、再び椅子に腰を下ろした。

「……そんな事は有り得ないがもし、あれが俺の姉だとして、それが何だっていうんだ」

「アンノウンの正体、っていう奴が、少し分かるんじゃないかと思いまして」

「正体だと……?」

 怪訝そうな声に、当麻は答えないで、口の右端を釣り上げてにやりと笑ってみせただけだった。

 津上も瀬文も不思議そうに当麻を見るが、意に介した様子もなく、再びメロンをスプーンで掬い口に運び始めた。

「ああそうそう、津上さん、経験から言うと、病院もあまり安全じゃありません。というか安全な場所というものが存在しないので、怪我が大丈夫ならさっさと退院しちゃった方が身動き取り易いと思いますよ」

 メロンを口に運びながら、当麻が淡々と語り、津上はやや困惑して芦河を見た。先程語った通り、不安や恐怖がないというわけではなく、命の危険ともあれば不安にはなるらしい。

 芦河は、スペックホルダー、というものが何なのか知らないが、昨日の黒スーツのような輩が徒党を組んでいるのであれば、確かに安全な場所などどこにも存在しないのかもしれない。芦河は予知能力者ではない、前触れ無く現れられれば昨日のように対処が遅れ、津上を守りきれない事態も十二分に有り得る。

 どうすればいいのかなど分かる筈もないが、一度八代と相談すべきか。

 津上の視線は無視して思案していると、ポケットの中に入れたまま電源を切り忘れていた携帯電話が振動を始めた。

 電話だ、と告げて席を立ち、付いて来るよう津上を目で促す。慌てて電話コーナーへと駆け込む。

「はい、芦河ですが」

「ショウイチ、大変な事になったわ。今すぐ戻ってこられる?」

 電話に出ると、八代の常よりはやや高い声が早口で流れた。少し慌てているか、興奮しているらしかった。

「何があった?」

「未確認の死体が見つかったわ。十体以上、有り得ない場所で」

「……何、未確認?」

 思わず声が高くなる。追いついてきた津上の表情も、驚愕した芦河の声を耳にして硬くなった。

 

***

 

 未確認生命体十数体の遺体が発見されたのは、武蔵村山市にある自然公園だった。

 公園に自生する木の頂点に、一本に一体、胴を串刺しに突き刺されている。

 人間が未確認生命体に対抗するには、神経断裂弾やG3‐Xなどの兵器が必要となる。それらは管理されていて、使われた形跡はない。そして、未確認を絶命せしめたのは人間の兵器ではないようだった。

 いずれの遺体にも、矢に刺し貫かれたと思しき傷がいくつか空いていた。

「何故、未確認が全く姿を見せなくなったのか……ずっと、考えていたけど」

「人知れず、アンノウンに狩られていた、という事か……」

 ヘリコプターやクレーン車を動員しての遺体回収作業は難航していた。現場に到着した八代と芦河、半ば無理矢理退院した津上は、遺体を包んだシートを捲り上げ、悪鬼の如き形相で絶命した未確認の遺体を確認した。

 まるで百舌の早贄。惨い殺し方だった。

「まるで、見せしめだな」

 シートを戻しながら、芦河が低く呟いた。八代はちらと芦河を見たが、返事は返さなかった。

「あの……そういえば、第四号って、いないんですか?」

 津上の疑問に、芦河と八代は不思議そうに津上を見た。八代が一つ息を吐いて口を開く。

「いたわ。だけど、ある時を境に姿を消した。君の知っている四号はどうなの」

「未確認は、四号と警察が協力して全部やっつけて……いなくなったって聞いてました。その後四号がどうなったのかは知らないです」

「そう。やっぱり私達の知っている四号とはちょっと違うみたいね。私達の知ってる四号は、未確認とも警察とも、戦っていたわ」

 八代の答えに、津上は不思議そうに首を傾げた。

「……未確認は分かるんですけど、何で警察と?」

「警察が四号を未確認として扱っていたからよ。捕獲または射殺しようとしていたから、彼は身を守ろうとしていた」

「えっ、だって四号って未確認と戦ってくれてたんですよね? 何で警察はその邪魔をするんです」

「四号も未確認だったから。正体も知れず、未確認と似た様な姿をしている四号も、警察は未確認と同様に扱ったの。ある時、恐ろしい力を持った未確認が市街地に現れて、死者は数百名にのぼったわ。四号が現れてその未確認と戦ったけど……何があったのかは分からない。その現場には、未確認と、現場を包囲していた数十名の警察官の死体が残されていて、四号の姿はなかった。それ以来、四号は姿を現さなくなった。未確認の活動もぐっと大人しくなって、丁度その頃完成した神経断裂弾を使って、警察が何とか対抗出来るような奴しか現れないようになった。警官の装備じゃ身は守れなくて、被害者はどうしても出るから、G3の開発計画が持ち上がったんだけど」

 淡々と言葉を継いで、八代はまた一つ息を吐いて、口を閉ざした。

 芦河の記憶が確かなら、八代はその頃装備開発の部署にいて、神経断裂弾の開発にも関わっていた。四号とは対話すべしという少数派の意見を主張する変わり者、という評判だった筈だ。

 津上は今一つ納得がいかない様子で、黙って八代の言葉を聞いていた。

 こんな事をするのは恐らくアンノウンの他にないだろう。彼らは未確認を敵視していた。だが何故、十数体もの未確認の死体を、何かの見せしめのように無残に晒す必要があるのだろう。アンノウンの活動は今までどちらかといえば痕跡を残さず静かに為されていた。それが何故。

 

「アンノウンは、誰にこれを見せたかったんでしょうね」

「知るか」

 興味本位の様子で当麻が現場に行くと言い出し、流れで瀬文も武蔵村山市へと来ていた。帰りは電車で帰るという約束で、猪俣の車に同乗させてもらった。

 作業の邪魔にはならない芝生から現場を見上げる。アンノウンはアギトに覚醒したために能力をも得てしまった人々と同様に未確認を敵視しているという話だけは聞いていたが、実際に殺害されたと思しき現場は初めてだった。

 未確認は化物だが、アンノウンにとってはアギトになろうとする人間も未確認も同じなのだろうか。そこが瀬文には分からなかった。

 何をもって「同じ」とするのだろう。

 当麻は都こんぶの箱を開けて、昆布をくちゃくちゃと音を立てて咀嚼しながら上空を見上げていた。昆布が一枚差し出されるが、瀬文は謹んで辞退した。

 封鎖されている地帯の外側のため、周囲には何人かの野次馬がいた。何となく目を滑らせて、瀬文はある一点で目を留めると、驚愕に息を呑んだ。

「おい……」

 言葉が出ない。当麻が瀬文の様子に気付いたのか向き直り、瀬文が凝視する方向を見やった。

「…………どう、して?」

 ぽとりと、都こんぶの箱が芝生に落ちた。当麻もまた、驚きに言葉を失ったようだった。

 やや離れた木の下、佇んでいるのは黒のタートルネックに黒いパンツの青年。

 ニノマエ、と呼ばれていた青年に他ならなかった。

《――その左手は、いずれ返してもらいます》

 突然、頭の中に声が響いた。そちらに意識が向き、駆け出そうとするともう、ニノマエの姿はなかった。

 滲むのは既に夏を感じさせる黄色く鋭い日差しと野次馬のざわめき、流れてくる重機の駆動音。日差しに熱された芝生から、緩く陽炎が立ち上っていた。



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 住宅街の細い路地は、闇に沈んでいた。等間隔に並ぶ白色灯が狭く足元を照らす他は明かりがない。月も星も、今日はその姿を雲に遮られ隠されていた。

 人の気配のない中で響く靴音は不規則だった。靴裏が地面に上から当たっているのではなく、地面に擦れる、摺り足のような耳障りな音を立てている。

 男は白色灯の下で足を止めたが、よろよろと気怠そうに再び歩き出した。だが程無くして、力が抜けてしまったのか、ふらりと斜めに体を揺らすと、緩くコンクリートの塀にぶつかり、そのまま肩を預けて凭れかかった。

 男がかけた眼鏡が弱い光を照り返した。左目側のレンズは割れてしまって、半分ほどが抜けている。肌の出ている場所だけでもそこかしこに痣が出来、口元には乾いてこびりついた血の痕があった。

 なぜ、ニノマエは生きている?

 公安零課の津田は、荒い呼吸を漏らしながら、分かりもしない事を考えていた。

 潜入捜査は問題なく進んでいた。何者かがスペックホルダーの組織を統合しようとしている、その事実関係を探る為、統合の動きに強硬に反発している組織に潜り込んだ。

 統合の誘いは穏やかだった。使者はサラリーマン風の男で、既に統合された組織の多い事と、待遇の良さを語った。既にこれで三度目の来訪らしい。取り付く島もなく断られても、使者は穏やかな笑顔を崩す事はなかった。

 だが、使者は表情を変えないまま言った。『あなたがたの力は人の犯した罪の証である。悔い改めるならば主はそれをお許しになるが、改悛が見られぬのであれば厳しく罰せられるだろう。その証を明日お目にかける、それからまた答えを聞く』と。

 勿論その言葉は、何を馬鹿な事をと一蹴され流された。

 だが今日、未確認生命体の惨殺死体が多数発見されたという情報が昼頃入り、組織の者たちは騒然となった。

 未確認生命体はスペックホルダーといえど、対抗する事の難しい、恐ろしい怪物だった。彼らは見境がなく、殺す事しか考えていないし心から楽しんでいる様子があった。躊躇のない相手は恐ろしいし、単純に力が強く人間離れした身体能力を持った彼らは、対抗が難しかった。

 もし証、というのがこの未確認生命体の大量殺害を指しているのであれば。組織内の意見は纏まらなかった。

 そして夜、彼らは訪れた。中年の男、若い女、そしてニノマエ。

 興奮した強硬派がそのスペックを使い襲いかかろうとすると、ニノマエは右手を軽く胸の前へと突き出した。すると、動いた強硬派が吹き飛ばされた。

 吹き飛ばされた彼の力は強力なテレキネシスだった。跳ね返した、ように見えた。

 ニノマエが生きているのか単なる他人の空似なのかは分からなかったが、彼にあんな能力はなかった。銃弾なら時間を操作して弾き返したように見せられるが、テレキネシスは手で触る事は出来ない。

 統合反対派はその光景を目の当たりにして、完全に恐慌状態に陥った。彼らの攻撃は三人に届く事はなく、津田は巻き添えを喰らって傷を追った。

 結局、生き残った者達は統合される道を選んだ。三人が去り、場が混乱して人が激しく出入りを繰り返しているのに乗じて、津田は抜けだしてきた。

 これを、報告しなくては。怪しまれぬように、連絡のための携帯電話などの機材は一切持っていない。公衆電話でもいい、早く見付け出して仲間と連絡を付けなければならなかった。

 消えそうになる意識を引き戻して、津田は頭を起こして、のろりと再び足を前に踏み出した。ふと、何かの気配を感じて上を見上げる。

 塀の上に、誰かが立っていた。だがその誰かの口には、どうした事か鋭い嘴があり、肩の向こうには畳まれた黒い羽が見えた。

 烏なのか人なのか分からない、それが軽く塀を蹴って飛び上がり翼を広げた。危ない、逃げなくてはいけない、本能とでも言えばいいのか、頭のどこかが激しく揺さぶられるような感覚があったが、それが、津田が知覚する事ができた最後の感覚だった。

 

***

 

 未確認生命体対策班を含む未確認生命体対策本部の会議に(無関係の部署に所属しているにも関わらず)潜り込んだが、会議で分かった新しい事実は一つもなかった。小さく舌打ちをした当麻を、瀬文は冷ややかに見つめた。

 未確認生命体の大量殺人などという事態で、昨日今日で明らかになる事象があるとは思えない。だが当麻は明らかに焦っていた。

 瀬文とてあの顔を見れば焦る。ニノマエ、まさか彼が当麻の左手を奪い返しに来るなどと、予測できよう筈もない。

「あら、あなた達……」

 会議室を出ようとしていた八代が、二人に気付き足を止めた。

「ミショウは対策班にも応援要員にも組み込まれてなかったと思うけど……」

「まあいいじゃないですか、細かい事は」

 しれっと答えた当麻を、八代はやや呆れた様子で見つめて、軽く息を吐いた。瀬文にはその気持ちはよく分かる。

「昨日の未確認生命体の事案が、あなた達の追ってる件に何か関係があるの? この前聞かれた件はアンノウン関連の可能性が高いからうちの管轄になった筈だけど」

「また別の件ですが、そんな所です。ああそうそう、八代さんに一つ伺いたい事があったんでした」

「何かしら?」

「芦河さんのご家族について、何か聞いていませんか?」

「家族……? 父親と姉を二十年以上前に亡くして、お母さんも何年か前に亡くなったと聞いているけど、それが何なの?」

 八代はさも怪訝そうに首を傾げたが、当麻はにっと笑って見せると言葉を続けた。

「アギトに目覚める人が何で今目覚めてるのかって考えたんですけど、どうもまだ繋がりません。パズルのピースが足りない、という感じがします」

「何の関係があるのか分からないけど……あなたは、人々がアギトに目覚めたのには理由があると思っているの?」

「理由もなくいきなり目覚める方が変じゃありません? まあそういう事もあるかもしれないですけど、理由付けをしたくなるのが人間の性ってもんです」

 それはそうだと納得したのか、八代は軽く頷いてみせた。当麻は尚も言葉を継ぐ。

「アギトの登場は、随分昔に予言されていました。その予言と出会い警告を発した人がいましたが、彼の声は取るに足りないトンデモ学説として黙殺された」

「……学説?」

「そうです。彼の名は沢谷ヨシユキ、比較宗教学の研究者でした。そして、二十数年前に火事で亡くなったとされている、芦河ショウイチの父親です」

 当麻の答えを聞くと、八代は眉を寄せ口を軽く開いて、困惑した表情を見せた。

「芦河さんが関与していると言いたいんではありません。ただ、彼の超能力の噂というのは、本当に事実無根なのかが気になりまして」

「……どういう事?」

「私は、彼のお姉さん……沢谷マナさんが、アギトの力に目覚めたのではないかと考えています。現時点では単なる推測ですが、もし芦河さんもアギトの力に目覚めているとすれば、可能性が高くなります。そして私は、彼のお父さんに聞きたいんですよ。アギトについて、そして、今のこの事態について」

 当麻はしれっとしたまま淀みなく答えたし、八代も困惑した表情を変えなかった。暫く無言が続く。

「……知らないわ」

 やがて、低い声でそう答えて、八代は出口へと歩き出していった。

 背中を見送って当麻は、肩を軽く竦めると、配布された書類を纏め始めた。

 

***

 

 トレーニングルーム側に設えられたシャワールーム前で、芦河は相変わらずの仏頂面を見せつつ腰掛けていた。

 現在津上はいつ何処にいても安全ではない為、芦河が四六時中張り付いている。寝る部屋まで一緒だった。

 芦河とて男と一緒の寝室で嬉しい事など一つもないが、そうする必要がある。それは津上も理解していた。

 初日など、学校の友達が泊まりに来たみたいでわくわくする、と相変わらず緊張感のない発言が飛び出して、芦河の意欲を殺いだ。ここは俺の家だからお前が遊びに来た方だろう、と返すと、それもそうですね、と何がおかしいのか笑った。

 しかし、シャワールームだけはどうにもならない。自宅の風呂ならば入り口に張り付いていればいいが、警視庁のシャワールームは共用で広い。津上を視界に届く場所に入れておきたいのならば芦河も一緒に入る他ない。

 シャワールームに入るには裸にならねばならないので、武器が携行できないし、さすがに津上も実に嫌そうに目を細めて難色を示したため、外で待つ事になっている。

 先日、ミショウの当麻が話した内容を思い出す。父と姉がもし生きていたら。有り得ない、と思えた。だが有り得ないと思う事にもさしたる根拠はない。

 芦河の抱いた感情はどちらかといえば、『だから何だ』とでも言い表すべきものだった。

 父など、顔は知っているが興味はない、としか言いようがない。幼かった芦河には父の記憶は殆ど無い。離婚する少し前と、離婚して暫くは、母は泣いてばかりいた。お父さんは急に変な事を言うようになった、そんな話をずっとしていた。

 人が変わったようになったのは確かに、長い海外出張に行った後だったように思う。気難しい所もあるが家族に対しては温和だった父は、何かに取り憑かれたようになり、母やショウイチなど目に入らなくなったようだった。対話も成立せず、付いて行けなくなった母は子供を連れて家を出ようとしたが、父は姉だけは手放そうとしなかった。今まで努めて忘れるようにし、実際思い出す事も今ではほぼなかったが、父にとってはまるで存在していないかのようにショウイチは扱われた。

 だから何だというだろう。もう今では関係のない事だし、万に一つ父と姉が生きているとして、会いたいとも謝って欲しいとも思わない。過ぎ去った事だしもう母も死んでしまった。今回の件と関係があったとしても、別段感想は浮かばない。

 そろそろ津上が出てくる頃合いだろうか、そう思い何とはなしに左右を見渡すと、廊下を八代が歩いてきた。

 ショウイチが気付いて目線を向けると、軽く笑みを零す。横に腰掛けて、八代は緑茶のペットボトルを差し出した。

「お疲れ様、どうだった、今日の津上くんの訓練」

「別にどうという事もない。変わった事はなかった」

「そう、ならいいの」

 薄く笑みを浮かべて、すぐにその笑みを頬から消して俯いた八代を、芦河は不思議そうに見やった。

「どうかしたか」

「何でもないんだけど……良かったのかが、分からなくて」

「何がだ?」

「津上くんの事。戦う事なんかないのに、恩着せがましくアンノウンとの戦いに巻き込んで」

 そんな事か、とでも言いたげに、芦河は首を軽く横に振ってみせた。ナンセンスだ、という思いを込めて。今度は八代が不思議そうに芦河を見た。

「……どの道、あいつは自分から首を突っ込んでいたろうさ。そもそも事の始まりだって、あいつが勝手に首を突っ込んでいたじゃないか。住む場所と仕事を世話してやったと思えば、そう悪いことをしたわけでもないだろう」

「でも……」

「別に騙してるわけじゃない、あいつも全部納得した上での話だ、お前が気に病む事なんか一つもないだろう」

 芦河は思ったそのままを返したが、八代は答えを聞くと、浮かぬ顔のまま俯いた。

「ショウイチ、津上くんの事は、もう疑ってないの?」

「……正直、分からなくなった。あいつは、アギトの為に沢山の人が死んだと言った。そう言った時は、嘘をついてるようにはとても見えなかった。アンノウンを倒してアギトを守りたいと思っているのは、本当なんじゃないかと思えた」

「そうよ、きっと本当よ」

「……何で、そう言い切れる? それだけの材料もないだろう」

 訝しげに目線を向けて芦河が問うと、八代は自信ありげに口の両端を持ち上げて笑った。

「勘よ」

「…………勘、って、そんな自信満々に言うような事か」

「あたし、人を見る目は確かなつもりだけど」

 言い切って八代は、勝ち誇ったように笑みを深めた。認めるのも面白くないが否定するのも違うような気がして、芦河は苦虫を奥歯で噛み潰したように顔を顰めて八代から目線を逸らした。

「じゃあ、これから新装甲の性能テストだから行くわ。悪いけど後はお願いね」

 愉快そうに笑いを零しながら八代はベンチを立ち、小走りに駆け出していった。お前が採用した海東大樹はG4システムのチップを盗もうとしてたんじゃないのか、と文句を言おうにも、八代の背中はさっさと角を曲がって消えてしまったので、芦河は何だかおかしくなって自嘲気味に軽く笑った。

 

***

 

 捜査一課所属、南条と川口はその日、数日前に(恐らくアンノウンに)母親を殺された女子大生の護衛に当たっていた。

 交替で任に当たっているが、今の所動きはない。本人にも事情は説明してあり、講義が終われば余計な寄り道はない。

 中央線を降り最寄り駅を出て住宅街へ。まだ時刻は夕方の四時半、道を進むにつれ人通りが減るが、ゼロにはならない。

 国道を渡るための地下道へ続く階段を降りる。半ばまで降りた所で保護対象が足を止め、階段を降り始めようとした南条と川口も動きを止め息を呑んだ。

 奥から歩いてきた影が、階段から斜めに差し込む光を受ける。てらりと脂でぬめり、燻した金色をした、つるりとした甲虫の外殻のような皮膚、突き出た角に剥き出しの牙。

 アンノウンだった。

 数瞬の後悲鳴が上がって、保護対象は腰から力抜けたのか、へたり込んで階段に尻をついた。アンノウンが足を踏み出して、南条と川口は慌てて階段を駆け下り始めた。

 南条が先に懐から拳銃を取り出し、それを見て川口は携帯電話を取り出してダイヤルしつつ、保護対象を抱き起こそうとする。

「本部、アンノウン、アンノウンです! はっはや、早く、対応を!」

 騒ぎ立てる川口の声が、南条の放った銃声に掻き消される。すぐに、アンノウンの胸あたりでちぃん、と音がして、次に天井にぼこりと小さな穴が開いた。

「跳ね返し……え……」

 思わず南条は呆然と自分が放った銃弾が開けたばかりの穴を見つめた。この銃に装填されているのは神経断裂弾。神経断裂弾は実戦を経て改良され、頑強な未確認生命体の外皮を撃ち抜けるように特殊合金コーティング・スパイラル加工がなされている。至近距離ならば鉄板も撃ち抜ける。

 今までアンノウンに対しては、届かないか或いは届いてもあまり効果を発揮していないと報告にはあった。だが恐らく、届いているのに跳ね返された、というのは初めてだろう。

 保護対象と川口が階段を駆け上がる不規則な足音が響いた。南条も気を取り直し、構えは崩さないまま後ろ向きに階段を登り始めた。

 南条は、アンノウンに遭遇するのはこれが初めてだった。保護対象の女子大生は、ごく普通の年頃の娘で、今日一日ずっと見ていたが特別どうという事もない。印象で話をするならば、何故彼女がこんな怪物に狙われるのかは全く分からなかった。アギトといえばアンノウンと戦って倒したというではないか。彼女にそんな力があるとはとても思えなかったし、生命の危機に晒されて尚、そんな様子は一切なかった。

 後ろ向きに歩き続けて、左足を上げて後ろに踏み出したが段を踏めずに軽くよろめく。階段は終わっていた。南条は後ろに向き直ると駆け出し、川口と保護対象を駆け足で追った。

 正直な感想を言えば、何もかも投げ出して逃げ出してしまいたかった。アンノウンがアギトだけを狙っているというのならば南条を追ってくる事はない。

 一体が数百人の死者を生む事もあった未確認生命体を撃ち倒す力を持った、神経断裂弾を弾き返す相手だ。南条に、いや、人間にどうこう出来るとは思えなかった。

 二人に追いついて、南条は後ろを顧みた。アンノウンはゆったりとした歩調で歩いていたが、三人との距離は詰まっていた。保護対象の歩みは恐怖のためか辿々しくぶれて定まらない。このままでは追い付かれる。

 今来た道を逆に辿って逃げ続けると、追うアンノウンに気付いた通行人が悲鳴を上げ逃げ出す。このまま大通りまで出てはとんでもないパニックを誘発する事にもなりかねない。

 下手に発砲すれば、思わぬ方向に跳弾する危険性があった。例えば目や関節の内側、口といったような箇所を寸分違わず撃ち抜けば跳ね返されないかもしれないが、そこまで精密な射撃技術はないし、外した時のリスクが大きすぎる。妙な方向に跳弾すれば、全く関係のない通行人に当たってしまう可能性も大いにあるのだ。

 我彼の間の距離は既に五メートルほど、眼前に迫っている。アンノウンが一駆けすれば、簡単に追い付かれる距離だった。

 距離が詰まっている事に気付いて動揺したのか、庇う川口が肩に置いた手を保護対象が振り切ってバランスを崩し、転倒する。川口がすぐ助け起こそうとし、南条は銃を構えて二人を庇うように立つが、アンノウンが歩み寄る速度は変わらない。

 終わった、と思った。恐怖に涙を流し引き攣った声を上げている保護対象が、アンノウンから逃れるために走る事など出来そうにないし、南条と川口にあのアンノウンに対抗する術はない。保護対象を守ろうとしたとて三人仲良く殺される他はないだろう。

 左右一車線の路地で、南条たちの後方から野太いエンジン音が響き近付いてきた。斜め後ろに停車すると、重い金属が擦れぶつかる音が響いた。

「SAUL、やっと来た!」

 川口が揺れた声を喉から絞り出した。G3‐XはGM‐01を右手に構え、アンノウンに向かい引鉄を引く。南条の小銃から撃ち出された神経断裂弾とは違い、スコーピオンの弾丸がアンノウンの外殻に勢い良く弾き返される事はなく、アンノウンの体にめり込む。だが、外殻を突き破った銃弾はぽろりと体外に排出され、アンノウンの体に開いた穴は何事もなかったかのように盛り上がり修復された。

「早く逃げろ、今トレーラーが追い付いてくる、早く行け!」

 構えを解かず、G3‐Xは太く鋭い声でそう告げた。軽く頷くと、南条と川口は両脇から保護対象を抱え、走りだした。

 組み合い揉み合う物音が後ろから聞こえるが、追いかけてはこない。三人は振り返らずに走った。

 しばらく道なりに走ると、前方から青いトレーラーが走ってきて、三人の側で急ブレーキをかけ停車した。Gトレーラーだった。

 ようやく助かる、何とか守りきれた。側面のドアがスライドして開き、タラップに足をかけて、南条は息を吐いた。

 登りかけると、保護対象の短く高い悲鳴が響いた。振り返ると、そこに異形がいた。

 南条と川口は知る由もないが、先日芦河が青いアギトへと変化し倒した犬を模したアンノウンとほぼ同じ、犬の頭に人の顔を持った奴が、低く唸り声を上げてドアの奥を睨んでいた。

「は、早く中に!」

 再び体から力が抜けてしまい、動けない様子の保護対象を川口が引き摺り上げ、のろのろとタラップを登ってドアの中へと入る。

 銃を構えた南条も続こうとするが、睨み合った形のアンノウンが動いた。動揺したためか足を滑らせ、踵がタラップの段を踏み外す。がたりと滑って次の段に踏みとどまるが、腕を振り上げ鋭く地を蹴ったアンノウンはまっすぐに南条を狙い目指していた。

「逃げて!」

 銃のグリップに力を込め握り直すと、後ろから大きな声と、走りこんでくる靴音が響いた。靴音の主は、南条の頭のすぐ上あたりのタラップを蹴って、すぐ脇を通り抜け前方へ飛び上がると、頭と肩からアンノウンの鼻先に飛び込んでぶつかっていった。

 咄嗟の事に驚いて、南条は声も出ない。飛び出してきたのはG3ユニットの制服を着た、若い男だった。

 突然の飛び込みに対処しきれず地面に転がったアンノウンとやや揉み合うと、アンノウンの鋭い爪を避け素早く飛び退る。躊躇のない動き、見るからに彼はアンノウンと対峙する事に慣れていた。数瞬先にそこに来るはずの攻撃を回避する為の動きを、数瞬前に開始している為、生身にも関わらず、アンノウンの攻撃が彼に当たっていない。

「ちょっとあなた、早くしなさい! こっちへ!」

 知っている声に叱咤される。振り向くと八代がハッチから姿を覗かせていた。

「は、はい……」

 慌てて起き上がろうとするが、思うように腰が立たない。それでも無理矢理に力を入れて、南条は中腰のままでタラップを一気に駆け上って、ハッチ内へ飛び込んだ。

 すると、八代がハッチ横のパネルを操作した。ハッチが閉まっていく。南条は驚いて八代を見た。

「えっ、ちょっ……ど、どうするんですか彼は!」

「G3なしでどうやってアンノウンと戦うんです!」

 南条と川口が口々に喚き立てるが、八代は一瞥しただけで答えもせず、モニタールームへと戻ろうとする。

「八代さん、彼を見殺しにするんですか! 彼は私を助けてくれたのに……」

 南条の言葉に、ようやく八代は振り返ると、軽く首を横に振った。

「違うわよ。あたしたちは彼の邪魔になる、それだけよ」

 短く答えると八代はドアを潜り閉めた。訳が分からずに南条と川口は怪訝そうに目線を合わせたが、何も分かる筈がない。

 保護対象がひどく怯えて、うずくまってがたがたと忙しなく震えていた。今南条に出来る事は彼女を守る事だ。命の危険からも勿論だが、恐怖からも。その意味では、先程のように八代に食って掛かってみせたのは良くなかったかもしれない、余計に怯えさせてしまったかもしれない。

 命を救ってくれた彼の事は気にかかるが、何か成算があるから八代は放置しているのだろう。

 保護対象に寄り添った川口とは反対脇に屈みこんで、震える背中にそっと手を当てて、もう大丈夫です、安全です、と出来るだけ穏やかに呼びかけた。

 

***

 

 組み合いでは分が悪い。燻した金の甲虫のようなアンノウンの怪力と素早さは想像を凌いでおり、僅かな隙を突かれて胸の辺りを殴り飛ばされる。

 弾き飛ばされて地面に背中を叩き付けられる。衝撃はアンチショックシステムが吸収するが、同時にバッテリーも多く消費する。そう何度も殴り飛ばされ続けるわけにはいかなかった。

 G3‐Xは電力で駆動している、バッテリーが切れればただの鉄の塊になる。

 ケルベロスは既にアクティブになっている筈だったが、下手な場面で使ってもこの眼前のアンノウンに通用するとは思えなかった。通常のアンノウンに比べ、外皮が硬い。スコーピオンの銃弾は外皮は突き破ったものの、勢いを殺され内側の筋肉に押し返された。

 掴みかかる右腕をいなして逆に投げ飛ばそうとするが、腹に左膝が迫る。躱しきれない、G3‐Xに搭載されたAIが選び出した最適解は、腕装甲でのブロックだったようで、知らぬ間に両腕が腹を庇って膝の直撃を受けた。

 衝撃は装甲越しに骨に響く。腹を抱えた格好のままで後ろによろめいて、芦河は歯噛みをしながら姿勢を整えた。

 例えば、もう一人誰かがいて戦っていたなら、G3‐XはGXランチャーを用いてこのアンノウンを吹き飛ばす事ができるだろう。

 だがその想像は、ないものねだりとでも言うべきものだ。G3‐Xが体勢を崩した隙に、アンノウンは頭上の光輪から、フレイルと盾を引き摺り出し構えた。

 先端に鉄球が取り付けられた鎖が勢い良く回り、G3‐Xをめがけ飛んでくる。一撃、二撃と左右に身を振ってかわすが、三撃目に左の肩を捉えられ、大きく体勢を崩す。腹を狙った四撃目は、躱す事もままならずまともに食らって、G3‐Xは背中から勢い良く地面へと叩き付けられた。

 強い。今まで芦河が相手にしたアンノウンと比べても、かなりの手強さのように思われた。

 立ち上がり、振り下ろされた鎖部分をどうにか掴んで引き寄せ、胴を狙って蹴りを放つが、アンノウンの左手に構えられた盾が爪先をいなし逸らした。脚を引く動作が、盾が胸元辺りに叩き付けられる速度に間に合わない。

 衝撃で、鎖から手が離れる。肩口から地面に再び転がる。すぐに肩を起こす、アンノウンはG3‐Xの動作を見守っていた。身じろぎもせず余裕さえ感じさせる静けさだった。

 

***

 

 アンノウンだったものの残り火がアスファルトの上に僅かに燻っている。既に姿を戻した津上が鼻から軽く息を吐くと、Gトレーラーの後部ハッチが再び開き始めた。

「お疲れ様、津上くん、ごめんね」

 後部ハッチから八代が姿を見せ、駆け寄ってくる。津上は不思議そうに八代を見た。

「八代さん、何で謝ってるんですか? 何かありました?」

「……ううん、何でもないの。それより、早くショウイチの支援に向かわないと、急ぎましょう」

 八代が躊躇いつつ軽く笑って、津上も不審げながら頷いた。二人がトレーラーへ戻ろうと動きかけた、その時だった。

 その人影は、視界に唐突に現れた。今までそこにいなかったものが突如存在を顕わにする。

 いなかった筈なのに存在している、生きている筈のない女。マナは、袖の長い黒無地のワンピースに身を包み、やや離れた道の先から、先日と同様に津上を見つめていた。

「真魚ちゃ……うあっ!」

「ひっ……!」

 津上が足を踏み出そうとすると、そこに道路脇の塀の上から跳びかかる影があった。八代が思わず短い悲鳴をあげる。いつかもマナに従っていた、蛇のアンノウンだった。

 突然飛びかかられ、咄嗟に頭を庇うが、庇った腕の上から殴りつけられて津上は地面に転がった。

 転がった津上には構わず、アンノウンは今度は八代へと向き直り掴みかかった。

「離して、離しなさい!」

 やや揉み合った後、八代は後ろを取られて両手首を掴まれ、捻り上げられた。痛みがあるのか顔が苦しげに歪む。

「八代さん!」

 津上が名を呼び叫んで、駆け寄ろうとするが、アンノウンが八代を盾のように己の前に立たせると、たじろいで足を止めた。

「どうするの? その人、死んでしまうわよ。私と来れば、離してあげる」

 マナが、感情のない透き通った声で呼び掛ける。津上は切迫した表情のまま目を剥いてマナを見、アンノウンに目線を移すと、やや俯いた。

「俺が、俺が行くから……その人を、離して」

「津上くん!」

「大丈夫ですよ、芦河さんがいるから、俺、何も心配してないです。ちょっと行ってきますから」

 背中から両腕を捕まれ動きを封じられているが、八代は身を捩って津上を呼んだ。だけれども津上は軽く笑ってみせると、すぐそこに買い物に行くとでも告げるような軽い調子で、八代に言葉を返した。

「そうじゃなくて、あなたが」

「俺ならもっと大丈夫ですって。こう見えてもかなり強いんですよ? 疑ってます?」

「嫌よ、あたし、ショウイチの事ばっかりで、あなたの事なんか何も考えないで巻き込んで」

「いいんです、八代さんは、芦河さんに大丈夫だって言える人なんだから、いなくなったら駄目です。それに、他人事じゃなくって、俺自身が知りたいんです。だから、行きます」

 さもおかしそうにくすりと笑って、津上が答えた。八代は首を何度も横に振ったが、津上は頬から笑みを消すと前に向き直って、八代と彼女を取り押さえるアンノウンへと向かい歩き出した。

「その人を、離せ」

「あなたがここまで来たら離すわ、その人に興味はないもの」

 津上は、八代が見た事もないような厳しい顔をして、はっきりとした怒りを顕わにしていた。アンノウンの後ろに控えていたマナが淡々と答える。

 アンノウンは、その言葉通り、八代を傷つける事はないだろうし、一緒に連れて行く事もないだろう。良くも悪くも、力持たぬ人には興味を示さない。八代は別の強い力を持っていることにも気付かないで。

 人が積み上げ磨き続けてきたその力を、津上は強く信じていた。それを人が、少なくとも八代が正しく用いる事が出来る、という事も。

 八代とアンノウンの横を通り抜け、津上はマナの前で歩みを止め、彼女をまっすぐに見つめた。

 マナはその視線に特段の興味は示さないで踵を返す。それを合図のようにして、アンノウンは八代を掴んでいた腕を離した。

「津上く……!」

 身を捩っていた勢いが余り、数歩よろけた八代が体勢を立て直して振り向くと、マナに手を取られた津上とアンノウンが、ふっと掻き消えた。

 振り向いた刹那には目に入ったのに、本当に急にいなくなってしまった。津上がいた筈なのに、ちらと八代を振り返って薄く笑みを口元に浮かべていたのに、もうそんな気配も全く消えてしまった。

 不必要な不安に胸が騒いだ。ある筈のものがない、それだけでどうしてこんなにも、喩えようのない不安を覚えるだろう。

 八代は落ち着かない様子で辺りを見回したが、もう何の気配もない。緩い風が吹いて、名前の分からない若い草を撫で揺らしていった。



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 奥多摩にある某山中。観光客や登山者も多く訪れる山だが、ひとたび登山コースを外れると、進むのにやや困難を伴う山道となる。

 昼過ぎに、その山の森の奥から、鳥の群れが一斉に飛び立った。

 鳥の気配に気付けた者は、人も獣も一斉にそちらを見た。渡り鳥の群れは黒い帯となって空を覆っていた。

 空気がざわついている。登山者が戸惑って脚を止めていると、狸か鼬か、小型の四つ足が足元を駆け抜けていった。

 何という事はない、偶にある事だ。山に慣れた者なら野生の小動物位は何度も遭遇する。だが彼は、何故かどうしようもなく落ち着かなくなり、天気が悪くなるかもしれないと不確実な理由を付けて、山を降り始めた。

 少しずつ徐々にだが、彼と同様に、他の者達も獣達も、山を離れ始める。

 何が、というわけではない。だが、長い時の中に野生の勘を捨て去ってきた人間にも察知できるほど、その気配は異様だった。

 何か見えるわけではないが、それは確かにいる。だがそれが何なのかを知ろうとすれば、潰されるだろうという確信が湧き上がる。

 無邪気な好奇心がむくりと頭をもたげるのも許さぬほど、強固な予感が恐怖を呼び起こした。

 これは知らない方がいいもの、遠ざかるべきもの。何も分からぬうちから胸の内で警報が鳴り響いて、人も獣も隔てなく、抗わずに逃げ出した。

 夕暮れには、低い雲が厚く空を覆って、山の辺りは激しい雨に見舞われた。

 ぬかるむ山道を奥に分け行ったなら、ある地点から点々と、打ち捨てられた死体が続いている。所々白骨化を始めているそれらは、人型ではあるが人間ではありえない異形達だった。

 奥に眠るものが、動き始めようとしている。その気配だけで、人や獣を無意識のうちに恐怖させ、遁走させるに十分だった。

 

***

 

 芦河は呆気にとられて、アンノウンが姿を消した角の奥を覗き込んだが、もう姿も気配もない。どうした訳か、アンノウンは自身に有利な状況が揺るがないにも関わらず、退却していった。

 芦河には狙われる理由がある。それなのに見逃されたのは何故か。他に何かもっと大切な目的があるか、または芦河の窺い知れない緊急事態でも起きたか、程度しか思い浮かばない。アンノウンに、アギトの抹殺に優先するような目的があるのだろうか?

『芦河主任、すぐに退却を』

 通信が入る。八代ではない、聞き覚えのない若い男の声だった。

「……誰だお前は、八代はどうした」

『自分は捜査一課の南条です。八代さんは車外に出ていたG3ユニットの隊員を連れ戻しに出たのですが……彼がアンノウンに連れ去られて』

「何? そんな筈があるか、あいつは……」

『本当です。アンノウンの追撃はせずに、戻ってきてもらえますか』

「……了解した」

 短く返答すると、芦河は踵を返してガードチェイサーへと乗り込んだ。

 スペックホルダー、とかいう奴等に津上が連れ去られたのならばまだ話は分かる。

 津上は、アギトとしての体と高い戦闘能力は持っているが、副次的に目覚める超能力については(あの不思議な、アンノウン感知能力とでも呼ぶべき感覚以外は)持ち合わせていない様子だった。もし芦河の居ない隙に何らかの超能力を用いて襲われたなら、対抗は難しいだろう。

 だが、彼がアンノウンに対抗できないとは考えづらい。どこまで本当かは分からないが、一年の間様々なアンノウンと戦ったと話していたし、実際にアギトの姿をとった津上は強かった。彼がアンノウンを前に戦わないで手を拱いて拉致されるなど、有り得るだろうか。

 暫く走ると、Gトレーラーはすぐに見つかった。付近には何台かのパトカーが到着していた。G3‐Xの接近を察知したのかトレーラーの後部ハッチが開く。

 ガードチェイサーを収容し、差し当たりマスクを外して、芦河はオペレーションルームの扉を開いた。

 八代はいた。いつもの席に腰掛けて、両肘を突いて頭を抱えて項垂れている。

「八代、どういう事だ」

 八代は芦河を見ないままで、首を何度か横に振った。

「あたしが捕まって、来ないと殺すって脅されたの」

「脅す……? 奴ららしくないな」

「分からないけど、津上くんは何か特別なのかも。少なくとも、あの女の子にとっては」

「女……」

「あなたも見たっていう、あなたのお姉さんにそっくりな子じゃないかしら。津上くん、知ってる様子だったし」

 八代は依然として顔を上げず、声は微かに震えていた。責任を感じて、自身を責めているのだろう。

 そっと肩に手を置こうとして、無骨な金属の音が鳴って、芦河は眉を寄せた。そういえば、芦河はまだこの鉄の鎧を脱ぎ捨てていないから、八代の肩に手を置いたところで、伝えたい気持ちは鉄の塊に遮られてしまう。

 眉の間に皺が寄る、こういつもしかめっ面をしていれば、確かに眉間には深い皺が刻まれてしまうだろう。だけれども、どう笑ったらいいものか、見当もつかなかった。

 アギトなんてものの為に沢山人が死んだ、と津上は言った。もう嫌だと、心底哀しそうに声を絞り出していた。ならば彼はなぜ、そんな事などまるで何もなかったように、能天気に笑っていたのだろう。あまりにも楽しそうに笑うから、つらい事など何もないように見えてしまう。

「お前が気に病む事はない。逆に考えれば、あいつはアンノウンに命は狙われてない、ともとれる。なら無事だろう。寧ろ、アンノウン共に捕まってる間はスペックホルダーとかいう奴等に狙われる心配も減るだろうから、却って安全かもしれん」

 慰めたいという思いはあったが、状況をいい方向に言い直すような器用な真似は苦手だったから、芦河は思いつくままの可能性を淡々と述べた。

「何でそんな事が言えるの、どんな目に遭ってるかなんて分からないじゃない!」

 声を荒らげて、八代がようやく顔を上げた。誰かを責めずにはいられないかのように、強い目線で芦河を睨み付ける。だが彼女が今責めているのは、自分自身の他にはいないだろう。

「殺すなら、お前を人質にとって抵抗できない所を殺すだろう。俺がアンノウンで、アギトを狙ってるならそうする。連れていくってのは、何か生かしたまま知りたい事があるからじゃないのか」

「それはそうだけど……」

「あいつなら大丈夫だろう、自分でなんとかする」

 自然に口から漏れた言葉だったが、八代は怪訝そうに芦河を見上げて、芦河自身も今自分の口から出た言葉の内容に違和感を覚えた。

 決して口から出任せでいい加減な事を言ったつもりはなかった。それにしては根拠があまりにも薄弱だが、何故かそうであるのが自然、という気がした。

 八代は暫く芦河の顔を眺めていたが、芦河が居心地が悪そうに口を歪めると、くすりと軽く笑いを吹き出した。

「津上くんも言ってた、芦河さんがいるから何も心配してないって。いつの間に、そんなに仲良くなったの?」

「馬鹿を言うな、あいつと仲がいいだとか、気持ち悪い」

「だって、お互いにとても信頼してるじゃない」

 そう言った八代の眼は穏やかに少し細められていた。

 あいつならなんとかしてしまうだろう。この根拠のない確信を、信頼と呼んでいいのだろうか。

 津上翔一は妙な男だった。冗談は寒いし空気は読めない。いつでも馬鹿みたいに翳りなく笑っていて、好きなものが沢山あった。

 キャベツも茄子もトマトもレタスも好きで、肉も魚も卵もチーズも、パンにご飯にうどんにパスタ、何を食べる時にも、これが大好きだ、これがおいしい、という話をされたような気がする。

 ここに来る前に彼が世話になっていた人たちの何気ない話、彼は前に住んでいた家で庭に菜園を作っていて、それは今はどこにも存在しないのに、天気の事をよく気に掛けていた。彼は好きなものの事を実に楽しそうに話して、芦河にとっては不要な知識ばかりがどんどん増えた。

 好きなものの話をすれば、笑顔になれるだろう。胸に思い描けば、穏やかで優しい思いが広がるだろう。

 これ以上疑う事はできそうになかった。彼は八代を守ってくれたのだ。芦河が、例え側にいられなくなっても守りたかった、かけがえのない人を。

 その恩に報いないで、その気持に報いないで、芦河は一体、どんな自分になれるというだろう。

「八代、頼みがある」

 真っ直ぐに立ち直して居住まいを正し、芦河が告げると、八代はふっと芦河の目を見つめた。

 きっぱりはっきりとした性格だから、無遠慮に真っ直ぐ目を見つめる。最初のうち、芦河は八代の視線が苦手だった。

 彼女は「目を逸らす事ができない」のだ。それが彼女の強さであり、脆さでもあると知ったのはいつだっただろう。折れそうになっても、彼女は目を逸らせない。だから。

「次もし、アンノウンが現れたら、俺は、アギトとして戦いたい」

 自分で思っていたよりは、穏やかに滑らかに言葉が出てきた。八代は目を大きく見開いて、ややびっくりした様子で芦河の目を見ていたが、やがてふっと目に込めた力を緩めると、笑った。

「一つ聞いていいかしら。どうして急に?」

「……津上が、言っていたんだ。変わるのは怖いけれども、俺は俺のままだったから大丈夫だ、と。もしそうなら、俺もきっと大丈夫だし、俺が大丈夫なら、これからアギトになる人達だって大丈夫になれる。そう思った。俺はもう、怖がるのをやめにしたい」

「そう……そうね、そうよね。あたしも、それがいいと思う」

「お前の作ったG3‐Xを、もう、怖がっている言い訳に使いたくないんだ」

「いいのに、そんな事。でも、G3‐Xは、他の人が使った方がいいわ。そうしたら、G3‐Xがあなたを助けられるもの。力を合わせられたら、きっと今よりずっと、楽になるから」

 八代の声は低く、囁くようだった。芦河はその声を、落ち着いて優しい声だ、と思った。

「怖くないのか」

「どうして。だってショウイチは、ショウイチのままなんでしょう。なら絶対大丈夫よ。あたし、あなたの事を信じてるもの」

 低く穏やかだけれども、確信に満ちた声。芦河は思わず訝しげな目線を八代に向けたが、八代の笑顔は揺るがなかった。

「世界中の人が皆怖がったって、あたしは怖がったりしない。何も変わってない、素直じゃなくて怖い顔ばっかりしてるけど、誰よりも真面目で不器用で優しい、あたしの大好きなショウイチだもの」

 八代は本当に、心から嬉しそうに、明るい笑顔を見せた。

 きっと、待っていてくれたのだろう。芦河はいつだって、八代を待たせてばかりいた。怖がって踏み出せず、怖気付いて。

 もし、例え芦河が自分で自分の事を分からないのだとしても、八代がきっと知ってくれているのだ。芦河ショウイチとは何者であるかを。

 そんな気がした。

 

***

 

 八代が自分の名前を呼ぼうとした、そう思った次の瞬間には、目線の先は知らない景色に切り替わっていた。

 前に向き直ると、知らない建物。二階建てで、ぼんやりと薄汚れた剥き出しのコンクリートの外装は、雨や風に削られたのか窪みや凹みが多い。

 しんとしていて、人の気配や温度が感じられない。脇に積まれた廃材に被せられた青いビニールシートは、端が破れてばさばさと風に靡く。

 マナは津上の手を引いたまま歩き出した。大人しくそれに従い歩を進める。

 一階部分は遮る壁がなく、広いスペースとなっていた。何かの作業機械がいくつも乱雑に放置されている。打ち捨てられ蜘蛛の巣の張った機材を摺り抜けて二階へ上がり、少し進んでマナはある部屋のドアを開けて入っていく。

 何の変哲もない部屋だった。白い棚に古びたベッド、小さなテーブルと背もたれのない丸椅子。窓にはカーテンがかかっていて、外の様子ははっきりとは見えなかった。

「ここから出なければ、好きにしてていいわ」

 言い残してマナは部屋を出た。外から鍵のかかる音がする。

 する事もないのでベッドに腰掛ける。ポケットには、連絡用にと貸与された携帯電話が入っていた。もしここに電波が届いているならこの場所を知らせる事は可能だろうし、そもそも、抜け出そうとさえ思えば障害を排除してこの場からいつでも立ち去れる自信はあった。だけれども、今はその時ではない。

 分からなかった。アンノウンはアギトを抹殺しようとしている。それなのに何故、自分だけは来るように言われたのか。それはもしかして、自分が、この知っているようで全く知らない場所に来てしまった事と関わりがあるのではないか。

 そして、真魚と同じ顔の彼女を無視する事は、津上には出来そうになかった。別の人間なのは分かっている、だが、何故アンノウンを従えているのか、それを知りたい。

 立ち上がってカーテンから外を眺めた。広い駐車スペースが塀で荒地と区切られている。背の高い草の生い茂った更地が続き、なだらかな坂に従って次第に木が増え、山へと続いていた。東京近郊としても、かなり奥に入った山の麓のようだった。

 来たからといって何が出来るのかは分からなかったし、どうなってしまうのか不安もあった。しかし、以前にマナと会った時に瀬文が発した言葉が、ずっと津上の気がかりになっていた。

 死人に引っ張られるな、と瀬文は言った筈だ。そして津上はその言葉を正しいと直感した。

 そして、芦河は有り得ないと言ったが、芦河の姉と同じ名前で同じ顔だという。もし彼女が芦河の姉ならば、二十年以上前に社会的にも死んでいる事になる。

 まなちゃんは生きてるのに、どうやったらまなちゃんはちゃんと生きられるんだろう。気付けば、そんな事を考えていた。

 彼女はいるべき場所にいないから死んでしまったのではないか。そう思えた。

 

***

 

 津田の死体が発見された、という事実を瀬文が知ったのは、昼を過ぎてからだった。

 ミショウのフロアに至るまでの廊下で、珍しくもない不審死の話が流れてきて、それがやけに気にかかった。(さしたる特徴がない、そして身元を確認する物を一切所持していなかったという)死体の特徴を耳にしてもしやと思い、踵を返して捜査一課に駆け込み、アンノウン関連の可能性が高いから未確認生命体対策班に回されようとしているところを、もしかしたらうちにも関係があるかもしれないから、と半ば強引に資料を頒けてもらってきていた。野々村が後ろから一緒に資料を覗き込み、難しい顔で唸っている。

 検死によれば、死因は喉を切り裂かれた事によるショック性の心不全。絶命した後に何故か、高い場所から落とされて地面に激突し、体中の骨が砕かれた。

 発見されたのは住宅街の道路。周囲に三階建て以上の高い建物はない場所で、ビルに換算すると二十階に相当する高さから落ちた様子だという。

 津田の遺体は、身元不明者のものとして処置されている。どうせまた新しい津田が現れるだけなのだろうが、何故津田が死んだのか。

 彼は確か、組織が不自然に統合している原因を探っている筈だった。しかし手口から見て、アンノウンによるもの、と考える方が妥当だった。何も無い上空から突然人間が落ちてくる、という事件は何件か報告がある。

 組織の統合にアンノウンが絡んでいるのか、津田がアギトだったから狙われたのか、それともその両方か。

 考えたところで分かる筈はない。そして一つ、どうしても分からない点があった。

 もし、組織の統合にアンノウンが絡んでいるのだとすれば、何故アンノウンはスペックホルダーの組織に関係しようとするのか?

 アギトの力を秘めている者を抹殺したいのであれば、組織の統合など必要ない、殺すだけの話ではないのだろうか。

 スペックホルダーを集めて一体何をしたいのだろう? これこそ、考えて分かるものでもなかったが、どうしても気にかかった。

「アンノウンはアギトを襲う。でもそれは何故か? 瀬文さんと津上さんが会った女性は、アギトは罪だからと言った、って言ってましたよね」

 当麻の言葉は唐突だった。関係がない、とも言い切れないが、津田はアンノウンに殺された、と断定する材料もない。繋がりが曖昧だ。

 それにも関わらず口にするというのは、何らかの確信があるからなのだろう。そういう女だった。

「言ってた。だが意味は分からん。大体アンノウンの目的がどうであれアギトが襲われる事に変わりはないんじゃないか」

「そうでしょうか? 何か原因があるなら、それを取り除けばアンノウンはアギトを襲う理由を失うんじゃありませんか?」

「どうとも言えん」

 口を曲げて、瀬文は書類を机にばさりと置き、無愛想に答えた。どうとも言えなかった。何か目的はあるのだろうが、それがどうもはっきりしない。

 パズルのピースが足りない、確かにそうなのかもしれない。今この場にいる三人が知りたい事――何故ニノマエの遺体が盗まれ、それが再び息を吹き返して歩いていたのか――について、繋がるピースがない。当麻にはある程度見当が付いているのかもしれないが、それは瀬文には分からない。

 唐突に、エレベーターの駆動音が響いた。事前の連絡はない。上がってきたエレベーターに乗っていたのは、芦河ショウイチだった。

 エレベーターから降りた芦河は、真っ直ぐに当麻目がけて大股に歩を進めてくる。意外な来訪者に驚いた当麻と瀬文、野々村は、ぽかんとしてその様を見守った。

「おい、俺の父親は一体何を研究していた」

 開口一番、芦河が言った言葉を、三人はやはりぽかんと聞いた。

「確かに親父が変わったのは海外出張に行ってからだった。そこで何を見つけたっていうんだ」

 早口に、荒い口調で一息に芦河がまくし立てる。当麻はその様子を冷ややかに見つめると、眉を寄せ口を尖らせて、女子高生がパパに甘えるような表情を作ってみせた。

「興味ない、って言ってませんでしたっけ?」

「事情が変わった。津上が奴等に連れて行かれた」

 切羽詰った芦河の早口からは、緊迫した状況が見て取れる。当麻も他の二人も芦河の次の言葉を待った。

「あの女はきっと俺の姉だろう、おかしいし認めたくないがあれだけ似ていればそう考えるしかない。そして俺の姉には、確かに少し変わった力があった」

「分かりました、分かってる事はお教えしますから。ええと……」

 芦河の剣幕にも動じないで、当麻は机の上に積まれた紙の束をひっくり返し始め、やがてその中から一枚の紙を引っ張り出した。

「まず、これです」

 乱雑に紙の広がった机の上に当麻が広げたのは、薄汚れた一枚の絵だった。絵とはいってもA4サイズの紙に印刷されたもののようで、つるりとした表面の光沢が蛍光灯の白い光を照り返している。それを眺めて芦河は息を飲んだ。

 奇妙な絵だった。余り芦河は詳しくはないが、昔教科書で見たような気もする。ルネサンス前の宗教画のような画風と色彩。

 向かって右に群衆、左には翼を持った獣のような人のような、それはそうだ、まるでアンノウンや未確認にも見えるものの集団。群衆と羽持つ獣は、互いに剣と盾を手にし戦っていた。上方には幾人かの天使が描かれ、画面中央やや上に、女に赤子を授ける天使の姿があった。その下に、胸に剣が突き刺さり堕ちる天使、大きな船。下方には船から降りて道を歩く人々。その中に紛れて、大きな赤い目と金の角を持った異形の姿があった。道行く人の手を引いているようなその姿は、未確認生命体第四号に似ているようにも思われた。

「何だ、これは」

「あなたのお父さんが、シリアで見つけた古い絵です。推定では六世紀か七世紀に描かれたもののようです。この絵は、絵単体ではなく、ノアの箱舟の話によく似た、とある伝承と一緒に伝わっていました」

 そこまで言って当麻は、隣の机の椅子を芦河に指し示した。話が長くなる、という事なのだろう。芦河は素直に従い、腰掛けて再び、食い入るように机の上の絵を見つめた。

 

***

 

 津上が入れられた部屋に、マナが再び現れたのは夜になってからだった。

 不思議な事に電気は通っているようで、暗くなる前に灯りは点けた。部屋に入ってきたマナは両手でトレイを持っており、テーブルの上に湯気の上がった深皿とスプーンを置いた。

「食事……持ってきたから、食べて」

「あ、どうも……ありがとう」

 礼を述べて、津上は椅子に腰掛けてスプーンを手にとった。明らかにレトルトのものを温めただけ、といった風情の白粥だった。

 病人じゃあるまいし、と半ば呆れるものの、出して貰えるだけ有り難いのかもしれない。いただきますと律儀に小声で挨拶をして、粥を掬って口に入れ、津上は難しい顔をして暫し黙り込んだ。

「…………あの、これさ、俺が作り直したら……駄目、だよね……」

「どうして?」

「だって美味しくないからさ」

 難しい顔で呻いた津上の文句を耳にして、マナは無表情のまま首を軽く傾げた。

「それが何か、問題なの?」

「大いに問題ありだよ。美味しくない食事は楽しくないし、ただのお粥じゃ栄養だって偏るし」

「分からないわ。私はいつもそれだけど、別に困った事はなかったから」

「いや、困るっていうかさ……うーん」

 スプーンを置いて、津上は腕を組んで首を捻り考え込んだ。暫しの時を置いて、何か思いついたのか破顔して面を上げる。

「そうだ、材料があったらさ、俺がマナちゃんの好きなもの何でも作っちゃうよ。何が好き?」

「……好き?」

「そうだよ。何か好きな食べ物あるでしょ?」

「…………分からない、そんなの、考えた事なかった。昔はあったような気もするけど、もう思い出せない」

「うーん、そうだなあ、真魚ちゃんだったらケーキとかパフェとか甘いもの……でもそれだとご飯じゃないしなあ」

 上げたばかりの顔をまた落として、津上は真剣な顔をして考え込んだ。不思議そうに津上を眺めるとマナは考えこむように目を伏せ、やがておずおずと目線を戻した。

「そういえば……一つ、思い出したわ」

「えっ、何何」

「私、チャーハンが好きだった。学校が休みの日に、お昼は家で食べるでしょう、お母さんが作ってくれるチャーハンが、とても楽しみだった。ような、気がする」

 抑揚のない口調で恬淡と、低い声でマナが呟いた。その様子を少し目を細めて津上は眺めて、言葉が途切れると、スプーンで粥を掬って口に運び始めた。

「……チャーハンなら、俺も得意だよ。お母さんのよりは美味しくないかもしれないけどさ、食べてもらいたいなあ」

「どうして?」

「どうしてって……そう聞かれてもなあ。料理作って、食べた人が喜んでくれたら嬉しいじゃない。俺もさ、休みの日のお昼にお母さんが作ってくれるチャーハン好きだったな。ちゃんと覚えてないんだけどさ」

 津上が拘りのない様子で笑うと、マナはまた不思議そうな顔をして津上を眺めた。

 暫く黙々と津上が粥を食べ続ける。皿が空になるころ、ドアをノックする音が二度響いた。

「マナ、もう食事は終わったかね」

 ドアの向こうから、やや太い男の声がする。マナはドアに向き直ると、相変わらず表情のない目を冷たく光らせて答えた。

「ええ、終わったわ。準備が出来たの」

「会われたいそうだから、連れてきてくれないか」

「分かったわ」

 マナの答えを聞くと、足音が遠ざかっていった。マナが振り向いて、目線で着いて来るよう促す。津上は残りの粥を掻きこむと、ごちそうさまと軽く手を合わせてから立ち上がった。

 部屋を出て暗い廊下を進む。電灯は点いておらず、床には埃が溜まり、所々で主を失って久しい蜘蛛の巣がだらんとだらしなく垂れ下がっている。

 暫く進むと突き当たりに出る。左側のドアを、マナは躊躇なく開けた。

 部屋の中は薄暗い。中央に椅子、壁際に背の高い棚が二つ三つ、窓には暗い色合いの遮光カーテンが引かれている。椅子の側に、男が立っていた。

「お待ちしていました」

 まだ少年と言ってもいいのかもしれない、若い男の姿には軽い既視感があった。黒いタートルネックに黒いスラックス、美しい顔立ち。だけれども彼の顔は、翔一が知るその人物とは全く別の知らないものだった。

「……俺に、何の用なんです?」

「あなたはここに来なければならなかった。あなたの存在が歪みを拡げ、混乱を大きくしている。あなたは、この世界に存在してはならない者だ」

 マナと同じような感情のない目で、冷たい声が淡々と事実を告げた。思わず息を呑んで翔一は、男の怜悧な面を言葉なく見つめ返した。



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 遠い遠い、太古の昔の物語。

 神は自らの僕たる、翼持つ使徒を生み出し、使徒を模して地上の動物達を、そして自らを模して人を生み出した。

 人はやがて、獣を狩り、あるいは飼い慣らし殺して食べる事を覚えた。それを人の驕り昂ぶりとして憤慨した使徒達は神に訴えるが、人をこよなく愛す神はその訴えを退けた。不服に思った使徒達は、地上に降り人を襲い殺した。

 力持たぬ人は、一方的に使徒に殺され逃げ惑うばかりだった。それを哀れに思い、神そのものから分かれた強い力持つ使徒――火の力を司る天使は、神を裏切り人の女に子を授けた。

 その子はギルスと呼ばれた。むき出しの火の使徒の力は人には制御できぬものだった。狂暴で力が強く、人と使徒の区別を付けずに襲い掛かり殺し、女は犯した。ギルスは瞬く間にその数を増やして、地上に溢れた。

 その頃の人は争いを好まない穏やかな人達だったが、人の中で闘争心の強い者達が、ある石を見つけた。

 その石はそれ自体が思考と意識を持っているかのように、闘争心の強い者の下腹部に吸い込まれ、戦うのに適したものへと体を作り替えた。

 彼らはグロンギと呼ばれた。ギルスや使徒と戦ううち、彼らは次第に石の力に飲み込まれ、力のみを追い求め戦いを楽しむようになっていった。

 人、グロンギ、ギルス、使徒。四者の殺し合いは果てもなく続き、地上は怨嗟と悲嘆で満たされた。

 神は、裏切り者の天使を粛正した。だが火の力持つ天使は、死の間際に自らの力を地上目がけ撒き散らした。

 神の憎んでやまぬ裏切り者の力は、多くの人に知らぬ間に宿った。最も愛する子達が、消えぬ罪の烙印を負ってしまった。神は罪を赦さず洗い清めることとし、地上は大波に飲み込まれた。

 

 

「ちょっと待て、グロンギというのは」

「そうです。九郎ヶ岳の碑文に古代文字で残されていた、未確認生命体を指すと思われる名称です」

 話を切った芦河の疑問に、当麻は淡々と答えを返した。

「親父が二十年以上も前にその伝承とやらを見つけていたなら、何で今までグロンギの名前まで出ているその話が出て来なかったんだ」

「失礼なんですけど、お父さんの研究は、当時全く評価されずに埋もれました。荒唐無稽すぎますし、よくあるキリスト教異端派独自のノアの説話のバリエーションだ、と考えられたんです。当然といえば当然ですが」

 淡々とした当麻の返答に、芦河は軽く頷いて黙った。お父さんは急に、誰からも相手にされないような研究に夢中になった。母の愚痴の中にもあった内容だった。

「だけど沢谷氏は、これが只のバリエーションだとは考えなかった。原文には、ギルスの持つ悪魔の力の描写として、手を触れずに物を動かしたり、隠れた人の位置をまるで見えているように捜し当てた、という下りがあります。姿も人間とは異なっていて、大きな赤い眼と緑の硬い皮膚を持ち、鞭のような触手を身体から伸ばして武器にしていた、という記述もありますね」

 当麻の説明に、芦河はややびっくりして眉を寄せた。緑色の硬い皮膚、大きな赤い眼、鞭のような触手。それはまるで、芦河が門矢士と会うまで苦しめられていたあの姿ではないか。

「ここで、普通の大洪水伝承なら、心の清い人だけ助けられて終わりです。だけどこの話は、もう少しだけ続きます」

 

 

 洪水は地上の至る所を攫い、洗い流し尽くした。

 沢山いたギルスはほぼ波に攫われ海に沈み、僅かに生き残った者達も、使徒に狩られた。

 使徒は神に罰せられ、人への激しい憎悪は胸に宿したまま、故なく人に干渉せぬようになった。

 グロンギのうち幾許かもまた、洪水を生き延びていた。敵を失い戦う事を楽しむ心だけ残った彼らは強さを競い合い、人を狩るゲームでその序列を決めるようになっていった。

 だが穏やかな人達の中にも、勇気ある者は新しく生まれていた。人は、人をグロンギに変えてしまう恐ろしい石の力を()()()()制御する装置を作り上げ、勇気ある若者はグロンギを凌ぐその力で戦い、自らの命をもって、ついにグロンギを封じた。

 裏切り者の天使との戦いで自らもまた深い傷を負い、愛する我が子たる人を大波に沈めた事で心にも深い傷を負った神は、悲しみのうちに眠りについた。

 いずれ人の中に、忌まわしき力が目醒める日が来る。その日には己もまた復活する事を告げて。

 

 

「キリスト教の異端派の伝承として解釈すると、かなり不自然なんですよね、これ。じゃあイエス・キリストの復活は何だったのって話になる。単なる民間伝承と考えられなくもないですが、沢谷氏は、これは本当の事ではないか、神の復活が近いのではないだろうかと考えたんでしょう。恐らくは、娘……マナさんが、アギトに変貌した事を根拠として。神に倒された天使の撒いた力が、覚醒を始めたのではないかと」

「馬鹿馬鹿しい、発想が飛び過ぎだ」

「そうなんですよね、少々飛躍しないといけない。何故沢谷氏は確信を持つに至ったのか、それがはっきりしません。あそうだ、そういえば一つ聞きたいんですけど」

「何だ」

「お姉さんの持っていた変わった力って、どんな力だったんですか?」

 質問され、芦河は言いづらそうに口の端を曲げて暫し黙りこくっていたが、やがて口を開いた。

「人より色んな物が見える人だった。姉さんは秘密にしていたから、俺しか知らなかった筈だ」

「色んな物? 例えばどんな?」

「今でいうサイコメトリーって奴だろう。物に触ると、例えば買ってきた時とか作られた時とかの様子が見えてたようだった。俺が学校で使ったノートだとかその日着ていた服に触ると、その場にいたんじゃないかって位正確に状況を言い当てられた。後は恐ろしく勘が良かったな、神経衰弱だとかババ抜きで勝てた試しがない。他に超能力だとかそんな様子はなかったが」

 芦河の言葉を、当麻は目を伏せて聞いていた。芦河が話し終わると顔を上げる。

「……例えば、なんですけどね。お姉さんが、この古文書や絵の原本に触ったとしたら、どうなったと思います?」

「どうなったって……」

「これが書かれた当時の事、もしかしたら内容の真偽について、見えたんじゃないかって思いません? そして沢谷氏がお姉さんの能力を把握していたならば、確信を抱いてもおかしくはありません」

 どちらにしろまともな話ではない、発想は相変わらず螺子が飛んでいる。芦河は文句を言いかけてやめた。そもそも今はまともな話など端からしていないのだ。

「親父がどうだったかは知らないが……神が復活して、それで何だっていうんだ。その話の通りなら、神とかいうのはアギトを憎んでる、復活なんてしたら姉さんが殺されるって事になる。いくら何だってそこまで酷い親じゃなかった」

「そうなんですよね。でも例えば、例えばですよ。どうにかして恩を売り付けたら、助けてもらえるんじゃないだろうか、って考えても、不思議じゃないですよね?」

 当麻の言葉に、芦河は意外そうに目をしばたかせた。

 恩を売るというが、何をどうするというのか。

「この伝承がもし真実を元にしているなら、使徒は人を憎んでいる。それなのになぜマナさんには付き従っているのか? 何か理由があると思いません?」

「恩というが、どんな恩だ」

「そんなの分かるわけないじゃないですか」

 しれっと言われ、芦河は当麻の口調に苛立って首を動かし、ぎろりと睨み付けた。

「これは私の推測なんですけどね。どうやってかは知りませんけど、もし沢谷さんが神に恩を売って、悔い改めたアギトは襲わないようにしたとしたら? とりあえず一通りの説明は付きます。だけどまだ分からない事があります」

「……何だ」

「実は、スペックホルダーの組織というものが幾つもありまして、大雑把に言ってしまうと、彼らは非合法な裏の仕事をしてるんですけどね。それが最近、何者かによって統合されてたんですよ。それにどうもアンノウンが絡んでる。アンノウンがそんな事をする理由が全く分かりません」

 当麻に分からない事が他の者に分かる筈もなかった。当麻が口を閉ざすと、何かを喋る理由を持っている者も他にはおらず、沈黙が流れた。

 

***

 

 保護対象を厚木の実家まで送り届けて警視庁へと戻ってきたのは、夜十九時過ぎだった。ロビーにかかる時計を見上げて、南条は溜息を吐いた。

 今日は色々な事がありすぎた。超能力やらアンノウンなどと、G3ユニットが延命の為に持ち出したでっち上げではないのか、そう考えていたが、実際に目にしたアンノウンの強さ恐ろしさは、筆舌に尽くし難い。冷静に報告書が書けるだろうか。

 アンノウンを前に銃は構えたものの、脚が震えて、歯の根が合わなくなり、暑くもないのに額に汗が滲んだ。勝てる筈がない殺されると、頭の中のどこかがひっきりなしに叫び声を上げていた。

 配属されて間もない南条にとっては初めて遭遇した現場だった。あんな恐ろしいものと戦わなくてはならないのか。考えただけで気が重くなった。

「お疲れ様、今日はありがとう」

 エレベーターへと歩く南条に、声をかける者があった。八代だった。

「お疲れ様です」

「ああ、ちょっと待って」

 一礼して通りすぎようとする南条を呼び止めて、八代は太い柱の側から足を踏み出して駆け寄ってきた。

「何かご用ですか? 悪いのですが、報告書を書き上げないと」

「すぐ済むわよ。今日は本当に助かったわ。研修の時から、あなた見込みがあるって思っていたのよ」

「はあ、それはどうも」

 笑顔で褒められ、南条はやや不審を覚えて訝しげに八代を見た。確かに、未確認生命体対策班に組み入れられる事が決まって受けた研修の成績は良かった。オペレータールームの機材も問題なく操作できるし、必要であればG3‐Xのオペレートも出来るだろう。システムについて、研修で教わった部分については理解している。

「で、相談があるんだけど。南条くんあなた、G3‐X、着てみたくない?」

「…………は?」

 八代の申し出は、あまりといえばあまりに唐突だった。暫しの間、耳に入った言葉の意味を理解できずに南条は、ぽかんと八代の顔を見つめた。

 

***

 

「俺が混乱を大きくしてるって、どういう意味ですか、あなた何を知ってるんです」

「この世界は、破壊者に破壊される為に生まれました。破壊者は来訪したが、この世界を壊すことなく去っていった。だが、壊れる為に生まれた世界です、壊れなければ歪んでいく。歪みの影響で偶然、本当に偶然に、別の世界の別の時間にあなたが生み出した大きなエネルギーとこの世界で発生したある大きなエネルギーの軸が合ってしまい、あなたはこの世界に誤って存在してしまった」

「壊れる為って、そんな……」

「今も歪みは拡がり続けている。この世界には本来いない筈のあなたの存在も、世界にとっては歪みそのもの、歪みを拡げている一因です」

「歪むって、具体的にどういう事なんです」

「いない筈のあなたが存在し、目覚めない筈の私が目覚め、そして、生まれない筈だったものが生まれてしまった。こんな物語は用意されていなかった、もっと前に終わる筈だったのに、終わらなかった為に先の分からない物語が続いているのです」

「……何を言っているんだか訳が分かりません、先が分からないなんて当たり前じゃないですか。あなたは俺をどうするつもりなんですか、まさか元の所に戻してくれるとでも言うんですか?」

「私に次元の壁を抉じ開ける力などありません、あなたを帰す事は不可能です。あなたは存在そのものが歪みですが、芦河ショウイチと関わる事によって歪みが更に強まっている。あなたは彼と関わるべきではない」

「どうしてですか、何でここで芦河さんの名前が出てくるんです」

「彼こそこの世界のアギト、そしてあなたは彼をそうあるべきだった姿から変えてしまう。そうすれば世界の姿はそうあるべきだった世界からずれていって、歪みは大きくなる」

「そうあるべきだったって……そんなのおかしいじゃないですか、何で変わっちゃいけないんですか」

「この世界は変化に耐え切れぬほど脆弱なのです。元々、破壊される為にのみ作られた世界なのだから。私はせめて、人が滅びないようにせねばならない。だからあなたに力を貸してほしい」

「……どういう事ですか?」

「世界が滅びず歪んだ結果、生まれてはならないものが生まれてしまった。だが私は身体が不完全で、それを押さえ込むだけの力は出せない。それの力を防ぐための人も集めていますが力不足です、今はあなたに頼らざるを得ない。放っておけば、何千何万という罪なき人が殺されるでしょう」

「何万って……何なんですか、それ……何が生まれたっていうんですか」

「戦いと相手を打ち殺す強さのみを追い求めた結果生まれたもの、究極の闇を齎す者。グロンギ……あなたがたが未確認生命体と呼ぶ者らの王が」

「……それが、俺がここにいるせいで、生まれたっていうんですか」

「そもそもの発端は破壊者がこの世界を定められた通り破壊しなかった事、あなたは巻き込まれただけです。だが、あなたの存在は確実に影響している」

「俺は……俺は、あなたの言う事はおかしいと思う。人だって世界だって、変わっていくものです、強くなくたって、変わっていけます。強くなっていける。けど、力は貸します」

「考えの違いなど些細な事です。今は力を貸してもらえればそれでいい。彼の者は動き出そうとしています、一両日中には動き出すかもしれません。何か動きがあればまたお呼びします」




Dead Man Walkingを読んでくれた方は既視感がある展開だったと思いますがすみません……構成力ナニソレオイシイノなんだ!


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10

 部屋に戻されると、マナは空になった食器を回収し、質問を投げかける間も与えずに部屋を出て行った。鍵を掛ける音もしっかりと聞こえた。

 一人残されて、深く息を吐くと津上はベッドに腰掛けた。

 そもそも己がアギトとして体験したあれこれの顛末も普通ではなかったけれども、今聞いた内容は更に理解し難いものだった。

 やはりここは津上が生まれ育ったのとは別の世界で、津上は迷いこんでしまった異分子だった。

 自分が存在する事が世界にとっては綻びであり歪みであり、混乱を大きくしているという。

 彼がもし見た目の通りに、この世界での神にあたる人物であるならば、その言葉は真実なのだろう。

 勿論、「歪み」という話を全て是とは出来ない。世界は変わっていくものだ。朝が昼になり夜になる。冬の寒さはいつしか和らいで、気付けば夏の日差しに照らされる。種は芽を出して、やがて茎が伸びる。大人は老いていくが子供は育っていく。一時だって留まってはいない、生きているという事自体がそうではないか。そして人はより良い方向へと変わろうとする。もし変化が許されないのであれば、この世界は、生きていく事ができないではないか。

 破壊する為だけに生み出された世界とは、何だ。そんなものがあっていい筈がない。

 彼の力をもってしても帰る事は不可能と言われたのは勿論ショックだったが、今はここに生きる人の事――例えば芦河や八代であったり、瀬文や当麻、そしてマナ――の方が気がかりだった。自分はきっとどこでだって生きていける、津上は根拠のないそんな確信を持っていたけれども、生きていく世界自体が壊される運命にあり、壊されなくても歪んで壊れていってしまうというのなら、この世界に生きる人たちはそれを甘んじて受け入れなければならないというのだろうか。

 そんな事は、絶対におかしい。

 真偽を確かめる方法がないが、もし本当に未確認生命体の王が生まれた事によって何万人も人が死んでしまうというのなら、そんな事を見過ごせる訳がない。

 マナともっとちゃんと話をしなければならない。彼女の事についてはまだ、全くといっていい程分かっていない。だけれども用事がなければ彼女がここに来る事はないだろうし、鍵を壊して抜け出して会いに行けば、次にどういう拘束をされるのかが分からなくなる。今のところは彼らと争う必要が感じられないし、そのつもりもなかった。

 電灯を消すと、靴と上着を脱いでベッドに身体を横たえた。する事がないのであれば無駄に動き回っても仕方がない。

 来た原因が分かっているなら、もしかしたら帰る方法を探し出す事も可能かもしれない、次に彼に会ったらそれを問おう。

 大して眠くもないが、黴臭い布団を被る。布団を干したいな、窓を開けたら怒られちゃうだろうか。ふと思った。

 そういえば芦河の家の冷蔵庫に、今日の夕飯の材料を出したままだった。今日は鰈の煮付けとサラダ、ほうれん草の胡麻和えに、鶏ささみとキュウリやチーズやセロリを生春巻きで巻いたものを作ろうと思っていた。蛋白質とビタミンを中心に摂取できるように、毎日それなりに考えている。何を作ろうか何を食べようか、取り合わせはどうか、栄養のバランスはいいだろうか。そんな事を考えながら献立を決めるのも楽しかった。

 芦河はちゃんと食事をしているだろうか、気になった。嫌われているようではあったけれども、津上は、芦河の事が嫌いではなかった。

 彼は津上が知っている人たちにどことなく似ていた。口数が少なくて口が悪くて、怖い顔ばかりしているけれども何か頼むと意外にすんなりと聞いてくれる所などは、まるきり葦原のようだった。折り目正しくて正義感の強い警察官で自分に厳しいけれども家の中はだらしない様子だとか、真面目すぎてすぐむきになる所なんて、(芦河はあんなにはぶきっちょではないけれども)氷川を見ているようだった。臆病で中々足を踏み出せない所は、もしかしたら津上自身に似ているかもしれない。だから勝手に親近感が湧いてしまって、うざったいと思われているのだろうけれども、放っておけなかったし甘えてしまった。

 芦河と八代の関係は、如何に鈍い津上とはいえ、すぐに感じ取る事ができた。もし小沢さんと氷川さんがそんな事になったらきっとびっくりしてそれから、おかしくて笑っちゃうけど、あの二人はいい感じだなぁ。そんな風に思った。誰かが誰かをとても好きなのが嬉しかった。そういう気持ちは、暖かくてやさしい。芦河は多分、八代が津上に気を移すのではないかと心配していたようだったが、そんな事は絶対有り得ないのにと思うとおかしくなった。

 芦河は、きっと前に進みたい。守りたいものがあるなら、変わっていくのが怖くても、恐れてもたじろいでも、負けたりなんかしない。

 それを助けてやりたかった。恐れて進めなかった自分が沢山の人に助けられたように。

 薄墨を撒いたような蒼い闇が、火の気のない部屋を覆っている。山の中の事、カーテンの外の闇は更に深い。芦河も、心細い気持ちをきっとずっと抱えていただろう。

 それほど立派な事はできないけれども、きっと大した事はできないけれども、何か助けになれればいい。芦河が、思ったよりは怖くないのだと思えるようになればいい。そう思った。

 

***

 

 厚さ二センチの防弾ガラスの向こうで、G3‐Xがスコーピオンを構えて引鉄を引いた。

 撃ち出された鉄球が次々に砕け散っていく。飛び出してきたコンクリートの壁も、キックで砕かれた。

 モニターには仮想の敵――ハリネズミのアンノウンの姿が映し出される。G3‐Xの視界にシミュレートされただけで実際には存在しない、謂わば幻だが、実際のアンノウンのデータを元にした動きをとる。

 やや辿々しい動きながら、G3‐Xはハリネズミの動きを躱しいなし、拳を叩き込む。食らった攻撃はG3‐Xのプログラム制御により実際に受けた衝撃のように装着者の身体に伝わる。何発か殴られ怯みかけるが、何とか気を持ち直してG3‐Xは構えを直し、再度アンノウンへと向かっていった。

 やや破れかぶれとも見える攻撃だったが、連続した左と右のパンチがアンノウンの胸元に当たり姿勢を崩させる。その隙にG3‐Xは走り、置いてあったケルベロスに暗証コードを入力し、組み立てる。

 アンノウンが立ち上がり駆け出した。直線上、まっすぐを狙いケルベロスが火を噴き、雨霰の如くに弾丸が降り注いだ。シミュレートされたアンノウンはモニター上で動きを止め、爆発し燃え去った。

「テストはここまでよ、お疲れ様」

 オペレーションルームからインカム越しに八代が声をかけ、G3‐Xはその仮面を外した。汗でしとどに前髪を濡らした南条のしかめっ面が出てくる。

 インカムのスイッチを一度切って、八代は目線を斜め後ろに流した。芦河がやはりしかめっ面でガラスの向こうを睨みつけていた。

「どう、ショウイチ。彼も中々やるでしょ。津上くんが戦い慣れてて落ち着いてたしシステムとのシンクロ率も高かったから声はかけてなかったんだけど、元々候補としては考えてたのよ」

「昨日アンノウンに追われていた奴だろう。本物を前にして動けなくなっていたようだったが、大丈夫なのか」

「慣れるわよ、一人で戦うわけじゃないんだし。ちゃんとサポートしてあげてよ」

「その余裕があって、あいつが嫌がらなければな」

 目線を逸らして芦河が吐き出す。八代はその様子を軽く笑い流すとキーボードを叩き、テストシステムの終了処理を始めた。

 昨日の今日で、急遽新たな装着員として決まった南条のG3‐X装着テストとは急な話だったが、八代は前々から彼用の調整データを作っていたようだった。未確認生命体対策班に関わる業務に就く際に受ける研修で、特に優秀だったという。芦河は今まで彼の事を知らなかったが、彼は所謂キャリアで元々文武両道。体力的・技量的にはG3‐Xを動かすのに問題はないだろうと思われた。

 正式な辞令交付は勿論まだ行われていないから、現在は依然として芦河がG3‐Xの正装着員であったが、今日のテストを元に八代が報告を行い、近いうちに南条が正式な装着員として認可される筈だった。

 引き受けてもらうに当たって、八代は芦河の了解を取り付け、芦河がアギトである事実を南条に話してある。

 芦河はもう隠すつもりはない。事実が明るみに出れば、もしかすれば芦河の身柄を拘束し調査、という話になるかもしれないが、そのような事態に陥った場合には芦河自身なり八代なりが然るべき団体へ連絡して、そこを通じ抗議をする手筈も整えた。無論アギトについてきっちりと解明する事はこの先必要になってくるだろうが、秘密裏に行われるべきではない。芦河の権利は法によって保護されている。隠していればG3‐Xに敵と認識されて撃たれるような事態も十分起こり得るから、装着員を引き受ける者は芦河がアギトである事を知っているべきだった。その点、津上がいれば話は早かったのだろうが、言っても始まらない。

 勿論南条はいたく驚き動揺した。八代はゆっくりと、アギトには分かっていない事も多いが、芦河が自らの力を制御し戦える事、アンノウンは強力で複数現れる事もあり、芦河がG3‐Xの正装着員として単独で戦うより、アギトとG3‐Xが共同戦線を張る方が効率的且つ安全である旨を説明した。

 決め手は、『あなたが優秀で、あなただからこそ出来ると思って頼んだ』という言葉だった。南条は自尊心をくすぐられるのに弱いタイプのようだった。

 残る問題は、彼が実戦で怯まないか、冷静さを失わないか、という事だったが、こればかりは実際にやってみなければ分からない。

 津上翔一の居場所は判明していなかった。頼みの綱は貸与した携帯電話のGPS機能だが、探索の結果は圏外または電源が入っていないというものだった。

 南条は着替えの為奥に下がり、八代も機材の後片付けを概ね終えてチェックをしている。芦河は腕を組んで、深く息を吸って吐いた。

 気ばかりが焦るが、分からないものは分からない。今出来る事は、動くべき時にしっかり力を発揮できる体制を作り上げる事だった。

 八代の携帯電話が鳴り出した。インカムを外してからポケットから携帯電話を取り出し、八代が電話に出る。

「はい、八代。はい、はい……分かりました、はい、すぐ」

 手早く通話を切り、携帯電話をポケットに再びしまうと、八代は立ち上がりながら芦河を見た。

「アンノウンよ、昨日の奴。南条くんには悪いけど出動だから、呼んできて」

「分かった」

 八代はもう既に歩き出していて、ドアを開けながら告げた。後を追い、芦河も返事を返して軽く駆け出した。

 

***

 

 朝食にマナが持ってきたのはやはり白粥だったが、昨日と少しだけ変わっていた。

 上に、ぱらぱらとちりめんじゃこが乗っていた。

 テーブルに座り、いただきますと手を合わせて食べ始めると、視線を感じた。ふと顔を上げると、マナがじっと津上を見つめていた。

「……どうかした?」

「おいしい?」

 感情のない目で大真面目に聞くものだから、何だかおかしくなってしまって、津上は笑いを漏らした。それを見てマナは不思議そうに首を傾げた。

「おいしいよ、ありがとう。やっぱり何か乗ってると食べやすいなぁ。じゃこがあるなら、梅干を刻んで混ぜてみたりさ、かつお梅とかでも美味しいかな。塩焼きの鮭とか、漬物だけでもいいし、卵落として味噌添えた奴も意外といけるんだよね。思いっきり甘辛く煮付けた佃煮とかさ。小海老があったら混ぜてさっと煮て、胡麻油をちょっと落として中華風にするとまた感じが変わるから、おかゆ続きの時でも飽きないで食べてくれるんだよね」

「うちはいっつも、じゃこだったの。お父さんと弟が、梅干は好きじゃなかったから。そんなに一杯乗せるものがあるなんて、知らなかった」

「食べたいって思ったら、何だって乗せていいんだよ。知ってる? 台湾だと、おやつみたいな甘いお粥だってあるんだから。おやつっていう訳じゃなくって薬膳って言って、漢方薬が一杯入ってる健康食みたいなもんだけどさ」

 いつもの調子で饒舌になると、マナはきょとんと口を緩く開けて、津上を見つめた。手が留守になっていた、粥を一匙口に運ぶ。

 おそらくレトルトだから、食べられないほどまずいわけでもないが、そう美味しいわけでもない。さらっとして味気ないのだ。

 そこに例えばこんな風に、ちりめんじゃこが散らしてあるだけでも、何だか嬉しくて楽しくて、美味しくなる。

 暫くスプーンを動かして粥を食べ続けたけれども、意を決して津上は口を開いた。

「あのさ、ちょっと聞きたい事があるんだけど」

「……何?」

「弟さんってさ、芦河さんでしょ」

「そうよ」

「何でマナちゃんは歳をとってないわけ? 芦河さんのお姉さんだったら、ちょっと言葉がよくないけど、もっとおばさんじゃないと計算が合わないじゃない」

 返事はすぐには返ってこなかった。皿の底に残った粥を器用に掻き集めて口に入れると、津上は手を合わせ、ごちそうさまと頭を軽く下げた。皿は空になったけれども、マナはそれを片付けようとせず、静かな顔をして何かを考えていた。

「昨日の話、聞いたでしょう。あなたの力と、この世界で発生したある大きなエネルギーの軸が合ってしまった、って」

「聞いたけど、それが何よ」

「軸が合ったのは私の力。時や空間の概念が歪んで曖昧になった所でテレポートをして、私とお父さんは時間を超えて飛ばされてしまった」

 相変わらず淡々とした口調に驚いて、津上はマナをじっと見つめた。

「帰ろうとして何度も試したけれども帰れなかった。私とお父さんは本当ならもっとずっと前に死んでいる筈だったけど、生きてしまった」

 凪いだ水面のような、静かな口調だった。何も揺らす事がない。

 津上は不思議に思っていた。芦河の様子を見ていると、彼が生まれ育ったのはおそらく(程度の問題はあっても)普通の家庭だったと推測された。それなのにどうしてマナは、何かを殺して沈めてしまったような凪いだ目をして、淡々と口を開くのだろう、分からなかった。

 食べるためだけに味もろくにしない粥を流しこむだけだなんて、そんなの楽しくない。美味しくもない。

 甘いものが大好きでケーキに目がなくて、勝気でお姉さん風を吹かせたがって、だけれどもとても傷つきやすくて、とても優しい。津上は、そんな風谷真魚が笑う顔がとても好きだった。料理を口にして、おいしいと感心したような声を上げて、弾けるように笑顔になってくれたら、たったそれだけで喩えようもなく、幸せな気持ちになれた。

 マナも(きっと違うのだろうけれども)同じように笑える筈なのに、どうして。笑いも怒りもしない、よく知っているようでまるで別の顔を眺めていると、訳もなく悲しくなった。

「……あのさ、俺やっぱり、マナちゃんにご飯作ってあげたいよ。今のが美味しかったから、お返しって事でどう?」

「必要ないわ」

「必要とかそういうんじゃなくってさ、ご飯はやっぱり、美味しい方がいいよ。昨日と今日だったらさ、今日のご飯の方が美味しかったもの。駄目とか必要とかじゃなくて、俺がマナちゃんに、美味しい物食べてもらいたいんだよ。喜んでもらいたいの」

 やはりマナは、不思議そうに目をしばたかせて、じっと津上を見るだけだった。

「私、嬉しい事なんか、もう何もないから」

「どうして、そんなのっておかしいでしょ」

「だって私もう、嬉しいとか思ったりしちゃいけないもの」

「いけないって……そんな事ある訳ないじゃない、何でそんな事……」

 マナは答えないで、テーブルの上に置かれたままだった空の食器を手にとった。尚も言い募ろうとする津上をちらと見つめる。

 津上は開きかけた口をそのままに、言葉を失った。マナの目の光はひやりとしていた。何も感じていない、何もかも遮断してしまった、だから温度がない。だから生きている感じがしない。

「だって、人を沢山殺したのに、自分は嬉しいとか楽しいとか思ったら、そんなのおかしいでしょう?」

 津上が何も答えられないでいる間に、マナは食器をトレイに乗せて部屋を出てしまった。津上は悲しそうな目のままで唇を噛み締めて、ばん、と掌で軽くテーブルを叩いた。テーブルは軽く揺れただけで、一人の部屋から音はすぐに消えてしまった。

 

***

 

 都会のど真ん中にあるが、ただ緑を増やすという目的の為に作られた緑地公園の芝生は、五月半ばという季節柄もあって、青々と萌え盛っていた。

 周りは広葉樹に囲まれている。ひっきりなしに車が行き交う喧騒は、完全には消えはしないものの、遠く微かに流れてくるだけになっていた。

 サッカーコートほどの広さがある芝生の広場は、今は人気がない。その真ん中に屹立して当麻は天を睨めつけた。

「こんな所で何がしたいんだお前は」

 紙袋を持った瀬文が苛ついた口調で問うが、まるで頓着しない様子で薄く笑んで当麻は振り返った。

「取り返しにくるなら、早く来てもらおうと思ったんです。いつくるかって恐がってるの、馬鹿馬鹿しいじゃないですか」

「は……?」

「それに、取り返したいのはあの人じゃなく、私です」

 ぷいと瀬文に背を向けて、当麻は嘯いた。それが当然、と言わんばかりのふてぶてしい顔付きで。

 確かに、あれはニノマエ(というよりは彼女の弟である当麻陽太)の死体なのだから、彼女が取り戻さなければならないものだ。

 ならば、瀬文と二人で来るのは随分無用心というか、無謀ではないだろうか。護衛はまだ付いているが、あれは間違いなくニノマエで、それならば拳銃程度で太刀打ちできる相手ではないのだ。

 瀬文は、ぐるりと辺りを見回した。四方は鬱蒼とした木々に囲まれて薄暗く、林の向こうの遊歩道もはっきりとは見通せない。丁度雲が太陽にかかって、輝いていた若芝の鮮やかな緑も陰ってやや沈んだ。

 雲が行き過ぎて陽射しが白く辺りを包む。ぱん、ぱん、と炸裂音が二度鳴った。サイレンサーを付けているのだろうか、音が反響しない。豆鉄砲のような音だった。

「当麻!」

 瀬文はようやく叫んで駆け出そうとしたが、当麻は既にすっと左手を前に掲げていた。ごっ、と明後日の方向の地面が抉れる音がした。

「あなたたちを返り討ちにするのは簡単な事ですけど、別にそんなのどっちだっていいんですよ。事と次第によっては手を組めると思いますけど、どうですか?」

 脚を肩幅に開き、左手を掲げたままで当麻は声を張った。返答はなく、何かが動く様子もない。

「好きであの男と怪物どもに従ってるなら止めませんけど、勝てない相手に挑むのって、実に馬鹿馬鹿しくありません?」

 返事の代わりにまた短く、今度は四つの炸裂音が上がった。だがやはり、左手を胸の高さに掲げて前を睨んだままの当麻にその弾丸が届く事はなかった。

「分からない人たちですね。あなたたちに私は殺せない、この左手は取り戻せない。いい加減悟るべきです」

 淡々と当麻が告げる。瀬文は必死に周囲の気配を探った。音はハンドガンのもの、射程はそんなに長くはないだろう。音しか判断材料がないのではっきりと言い切れないが、右前方と正面から撃ち込まれているように思われた。

 当麻の前方は二三十メートル、芝生が続いている。何らかのスペックで射程を伸ばしているのか気配を消しているのか。

「あなたたち、ニノマエの力をおぼえてるでしょう。あれは今、私の力です。私と組めば、あいつを倒して元に戻れるって、思いませんか?」

「おいお前!」

「瀬文さんは黙って見ててください」

 ぴしゃりと言葉を叩きつけられ、瀬文は黙った。目星をつけていた右前方と正面の木陰からそれぞれ、若い男が出てくる。

「素直なのはいい事です」

「ほんとに勝てるのかよ、見た目はニノマエだったけど、あいつ死んだって聞いてたし、ニノマエよりもっと変な力使ってたし……何なんだよあいつは」

 右から出てきた金髪の男が早口にまくしたてた。もっともな疑問だが、聞かれても返答に困る質問でもある。だが当麻は何事もなさそうに、口の端を上げて笑ってみせた。

「あなたたちに何かしろと言うつもりはありません、あいつの居場所を教えてくれればそれでいいです」

 金髪の男と、正面から出てきた茶髪の男は、一様に戸惑って顔を見合わせた。

 彼らは恐らく成り行きから従っているだけで、忠誠心の欠片もない駒なのだろう。その方が当麻にとっても都合はいい。

「ほんとに俺らの事は見逃してくれるわけ……?」

「私も一応警察官です、不法所持している銃は没収させてもらいますが、殺人未遂で逮捕したりはしません」

 明らかな越権行為、当麻にそんな事を決める決定権はないし、警察官たる者の行動としてもおかしい。瀬文は口を出しかけて、喉まで出た言葉を飲み込んだ。二人の若者は明らかに迷った様子で、恐らくは当麻の言葉に傾き始めていた。

 二人は交わした目線を外すと当麻に向き直った。すると、ごっ、ごっ、と鈍い音が二度響いた。

 芝生をまだらに覆ったのは、血の鮮やかな紅と脳奬のどろりと白じんだピンク色、粉々に砕けた頭蓋骨の破片と思しき、黄ばんだ白だった。

 首から上を一瞬で失った成人男性二人の体は、ばたりと前のめりに崩れ落ち、筋繊維を晒した首の断面から止めどなく溢れ出た血が芝生を汚して地面に吸われた。

 陽炎が揺らめく。そこには誰もいなかった筈の場所に、黒衣の青年が静かに立っていた。左腕の手首から先はない。彼の斜め後ろには、燻した金色の、いかにも硬そうな外皮と角を持った異形が付き従っていた。手に持った鎖付きの鉄球からは、今流れたばかりの血と脳奬の混ざり合ったものが滴り落ちていた。

「最初からあなたが来ればいいんです。その体は返してもらいます」

 当麻は、やはり淡々と言葉を紡いだ。ニノマエの顔をした青年は、ゆっくりと何度か首を横に振った。

「私に逆らおうなどと、愚かな事です。その左手はどうしても必要なもの、あるべきものは、あるべき所へと帰らなくてはならない」

 青年の言葉が途切れると、従っていた異形が動き出した。護衛が通報したとして、G3ユニットが到着するまで逃げ切る事はできるのだろうか、瀬文には自信がなかった。兎にも角にも、当麻の手首を掴んで駆け出す。

 当麻の、いやニノマエのスペックは『物理法則はそのままに、自分の周囲の時間を超加速させる』というもので、あらゆる事態に対応可能な万能の力ではあるが、加速したところで怪物の硬い皮膚を貫く力が持てる訳ではない。

 そしてあまり多用すれば、当麻は時間を一人だけ早く進みすぎて、急速に老化する危険がある。まだ若いのだから十や二十の年をとったところで死にはしないだろうが、出来れば避けたいだろう。

 例えば追い付かれた瞬間、攻撃が当たりかけた瞬間にピンポイントで使うなら、負けないという意味では無敵と言って差し支えないスペックだろう。ニノマエの力に後輩を殺されたり助けられたりし、自身も発動の瞬間を何度か見、実際に高速の時間に身を置いた事もある瀬文は、今は当麻に宿ってしまったスペックの恐ろしさをよく知っている。

 林に駆け込むと、護衛の刑事二人が飛び出してきて異形に向かい発砲する。ちぃん、と鋭い音がして、弾丸は硬い外皮に跳ね返された。異形には傷一つ付いていない。

 その様を眺めていた青年も、異形と四人を追ってゆっくりと歩き出した。立ち込めた生臭い鉄の臭いと陽炎を、緩い風がさらっていった。



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11

 まばらに植えられた木々の間を駆け抜ける。下草はよく手入れされていて足の動きを阻まない。

 やや黒ずんだ鈍い金色をした、甲虫を連想させる異形――アンノウンは、走りはしないものの悠然と、一定の速度を保って四人を追っていた。

「あんたらは散れ!」

 瀬文は叫んだ。護衛二人は当麻を庇うように囲みつつ駆けている。

 狙われているのは当麻だ。護衛二人が別の方向に逃げたとしても、追われる可能性はない。瀬文と当麻の二人だろうが護衛を加えた四人だろうが、あれに対抗する手立てがない事実には何一つ変わりがなかった。

 だが壮年の刑事二人は、役に立たない銃を片手に必死の形相で駆け続け、瀬文の言葉を黙殺した。予想していたとはいえ、ままならなさに苛立ちが湧く。SAUL到着が遅れれば、下手をすると四人仲良く犬死にとなる可能性だって十分にある。

 この緑地公園は桜田門からそんなに離れていない。大分逃げ続けている気もするが、どれだけの時間が経ったのか正確なところは全く分からなかった。

 当麻が脚をもつれさせてよろけ、地面に転び膝と手をついた。走り詰めだったし、彼女は体力的にそんなに優れてはいない。起き上がろうとするが、息が切れたのか足を止めている。

 勢い余って追い越していった護衛が引き返して来る間に、アンノウンが突如速度を上げ駆け出した。

「ちっ!」

 瀬文が舌打ちをして覆いかぶさるように立ち塞がる。アンノウンが血糊の乾いた鉄球を振り上げた。振り下ろされようとした刹那、横合いから発砲音が響いた。銃弾を食らいアンノウンは動きを止めてふらめいた。

 横を見ればG3‐X、そして何故かアギトがいた。

「アギト……」

 まるで呪いたいように、皺枯れた声で低く呻いたのはアンノウンだった。

 G3‐Xが右手に構えたサブマシンガンから発砲を続けつつ歩いてくる。その後ろからアギトが駆けて跳んだ。

「二人とも、早く逃げないと」

 護衛の一人が気もそぞろに呼び掛けたが、当麻は首を横に振った。

「私はあの人と、どうしても決着つけなきゃいけないんで。ここまで護衛してくださって、どうもありがとうございました」

 面白くなさそうに呟いた当麻の視線の先にはニノマエの顔をした黒衣の青年が佇んでいた。

「何を言ってるんですか、危険です、後はSAULに任せて早く安全な所に」

「いえ、アンノウンはともかく、あっちは私が話をつけなくちゃ終わりません。後は瀬文さん程度で十分事足ります」

「それは認められない」

「さっき御覧になったでしょう、私に弾が当たらなかったの。私も超常能力を使うんです。お二人がいても邪魔にこそなれ、守ってもらう必要なんて元々ないんですよ」

 いつも通りのしれっとした不貞不貞しい顔で淡々と当麻が告げた。眉をやや上げて小馬鹿にしたように目を軽く開き、唇をちょこんと突き出した、実に神経を逆撫でする腹立たしい顔付きだ。護衛二人はむっとして押し黙り、当麻を睨み付けた。

 アンノウンはG3‐Xとアギトに二方向から攻撃を受け、徐々に当麻から引き離されていく。その脇を悠々と擦り抜けて、黒衣の青年は歩み寄ってきた。

「警察だ、君、止まりなさい!」

 護衛二人は銃を構えて青年を威嚇したが、二人など目に入っていない様子で青年は歩き続けた。

「と、止まれっ!」

 やや若い方の護衛が、銃はしまいこんで青年を拘束しようと拳を振り上げて駆け出した。眉一つ動かさないで、青年はその様子をちらと見て、軽く右手を翳した。

 血気に逸った護衛が何か壁のようなものに突き当たったように動きを止め、吹き飛ばされた。相棒が吹き飛ばされたのを見たもう一人も飛び掛かるが、やはり何か見えない壁でもあるかのように、青年の手前の何もない場所で何かにぶつかったうえ吹き飛ばされた。

「左手を返してください、取り返しのつかない事になる前に」

 静かな青年の声は、やや潰れ震えた早口で、必死さと真剣さがあった。

「その左手がなくてはあれを止められません、あなたが持っているべきではない」

「あれ……って何ですか」

「生まれてはならなかった者、究極の闇をもたらす者。彼の者が目覚めれば、どれだけの命が刈り取られるか分からない」

 

***

 

 振り下ろされた鉄球の軌跡はもう見切っている。胸を抉るすれすれで身を躱すと、鉄球に繋がった鎖を鷲掴み、芦河は力一杯に鎖を引いた。

 引き摺られアンノウンが体勢を崩す。頭の横にG3‐Xは拳から蹴りへと流れるように打撃を加えたが、アンノウンはよろけただけで、低く唸ると鎖を引っ張り返した。

 今度は芦河が引き摺られ前のめりに体を崩す。肩口に拳が飛んでくる。まともに食らい後ろに弾かれるが、G3‐Xがそれ以上の追撃を阻む。

「芦河さん、駄目だこのままじゃ!」

 南条の声はやや揺れて弱い。怯んだのかと芦河は軽く舌打ちするが、彼は初めての実戦で相手は恐ろしい怪物だ、怯むのも当然だった。

 まともに食らったから痛みは強いが肩は動く。すぐに体勢を立て直すとアンノウンの脇腹に中段蹴りを浴びせるが、やはりびくともしない。

 このままでは二人とも打撃の通らない相手を攻めあぐねて疲れるだけだろう。何か手はないか、顔前に迫った異形の左手の盾を避けながら考えを巡らすが、そうぽんと出てくるものでもなかった。

 芦河が組み合う間に、G3‐Xはスコーピオンを構え、狙いを定めようとしている様子だった。なかなか定まらないらしく、銃口は忙しなく揺れている。

「おい、お前は何がしたいんだ!」

「関節ですよ!」

 苛立った芦河が声を荒げて問うと、あっさりと短い答えが返ってきた。

 南条が何がしたいのかはっきり分からないが、鉄球を躱してアンノウンの懐に潜り込むと、その勢いのままに胸に蹴りを浴びせた。アンノウンが体を開いて後退る。そこに、スコーピオンの発砲音が響いた。アンノウンの右の肘より少し上に弾丸がめり込み、昨日と同様吐き出された。

 関節。成程、どんな甲虫でも、関節は動かさなければならない、硬く覆えずに脆いだろう。だが相手は激しく動き回るアンノウンだ、初の実戦で動く的を狙うのも不慣れな南条には、アンノウンの関節の(硬い外殻に覆われていないと推測される)内側を狙え、というのは少々荷が重いかもしれない。かといって、アギトに敵の動きを見極め、的確に弱い部分を叩く事は出来るだろうか。

 

 ――あなたがアギトに負けないなら、見える筈です、あなたの出来る事。

 ――変わっていくのは怖いけど、芦河さんなら強いから大丈夫。

 

 らしくない弱く擦れた声を、唐突に芦河は思い出した。

 そうだった、必要ならば、為すための力はあるのだろう。後は為すか為さないか、芦河の心一つにかかっている。

 再び、唐突に芦河の意識にそれは浮かんで焼き付いた。あってほしいという願望ではない、人の可能性を潰そうとする者と戦う為の力だ、足りない筈がない。

 G3‐Xは距離を詰められて、いつの間にか手にしていたスコーピオンも地面に転がっている、防戦一方の様子だが、耐えてもらうしかない。構えると芦河は右腰に掌を当て押し込んだ。

 右腕が赤く染まる。青く変わった時とは対称に、右半身に特に力は漲っている。

 昂揚はなかった。異形との戦いの真っ最中だというのに何故か、心はしんと凪いでいた。

 耳鳴りがしそうな程の静寂、どこまでも遠くに視界は届く気がするが、くっきりはっきりと見えているのは眼前の敵の動き、息遣いすら把握できそうな程だった。音がしていない訳ではない、遠見ができるわけでもない。ただ、磨ぎ澄まされ鋭くなっている。

「俺が動きを止める、ランチャーを準備しろ!」

 芦河が叫ぶと、アンノウンに地面へと叩きつけられたG3‐Xが、素早く体を起こして頷いた。

 臍の辺りに手をやると柄が飛び出て、細身の両刃剣がずるずると引き摺り出された。異変に気付いたアンノウンが駆けてくる様は輪郭がくっきりとしていて、コマ送りのスロー再生のようにも感じた。体を斜めに腰を落として左の肩を突き出して、赤いアギトは下段に剣を構えた。

 脳天を割ろうと振り下ろされた鉄球のどこを柄で弾けば跳ね返せるか、そんな事も思考を経ないで心がそのままに悟っていた。何故こんなにも静かなのだろう、不思議だった。

 アンノウンは盾を翳すが、右の体が開いている。左の脚を内に捻って盾の内側へ爪先を叩き込む、盾が上がって体が完全に開く。脚を地に付いて膝を使って反動をつけ、赤いアギトは逆袈裟に斬り上げて、一気に剣を滑らせた。

 狙いは、一ミリの狂いもなく精確だった。剣先は、アンノウンの右肘の内側、外皮の薄い部分を裂いた。

 アンノウンは痛みに苦悶し、鉄球の付いた武器を右手から取り落とし、地鳴りのような低く腹に響く呻き声を喧しく上げた。

「芦河さん、離れて!」

 やや離れた場所でG3‐XがGXランチャーを構えて発射態勢を取っていた。縋るアンノウンの腹に蹴りを与えて後退させると、赤いアギトは後ろに大きく飛んで、次の刹那にアンノウンの背中にGXランチャーの弾頭が着弾した。

 大きな爆発が起きて爆風が巻き上がった。火はすぐに消え去って、後には身じろぎもせず立つアンノウンの姿があった。

 赤いアギトもG3‐Xも警戒し構えるが、やがてアンノウンは背中を反らせて絶叫を上げ苦しみだした。頭上の光輪が膨張して、ややあって唐突に、内側から爆発を起こして、アンノウンは跡形も残さずに消え散じた。

「芦河さん、その姿は」

「知らん。まあ何にせよ緒戦から大戦果じゃないか、大したものだ」

「芦河さんのお陰です」

 南条の声は案外素直なものだった。鼻っ柱が強いという評判とは違う、やや肩透かしを食らった気分で芦河はG3‐Xを見た。

「怖かったですが、あなたに出来るんだ、僕に出来ない筈がない。それに、二人で連携できたから太刀打ちできたんです」

「お互い様だ。俺一人では歯が立たなかった相手だからな。それより、被害者が気になる、戻るぞ」

 言いながら赤いアギトは駆け出した。G3‐Xも後を追う。

 当麻と瀬文は先程の位置から動いておらず、簡単に見付かった。

 当麻と睨み合っているのは、黒の上下に身を包んだ年若い男だった。彼は眉を寄せて、怒りか悲しみかは知らないが、抑えきれない激情に唇をわななかせていた。遠くで、消防車や救急車のサイレンがひっきりなしに、近付いて遠ざかってを繰り返していた。

 

***

 

 山が燃えていた。

 それを囲む人垣は力持つ人々の群れだったが、そんな事は何の関係もなかった。

 力を浴びせれば、王は力の存在を認知してそちらに意識を向けた。

 誰が想像していただろう。まさか認識されただけで自分の体に火が点き一瞬にして燃え尽きて炭となるなど、想像する者はいない。

 王は、未確認生命体第四号によく似ていた。ただ、その姿は第四号よりもずっと大きく刺々しく、禍々しさと強い攻撃性を感じさせた。

 第四号とは違う印象を与えていたのは、何よりもその眼だった。

 第四号の眼は明るい赤をしていた、大きな複眼だった。王の眼は形は四号によく似ていたが、色は曇り濁ったような黒だった。

 燃やされる人が増えて、火もますます勢い良く広がっていく。王は、前に進むと手近な人間を殴りつけた。何の目的も感じさせない淡々とした動作だった。殴られた男は火の粉と黒い煙に覆われた下草の上に倒れこんだ。首は妙な方向に曲がって、首もやや伸びたように見えた。

 煙は勢い良く天に向け立ち上った。狼煙のようにも見えるが、誰に助けを求められるというだろう。

 焼けた人間の皮膚や髪の毛の匂いが肺を巡り吐き気を催させる。温度が余程高いのか、王に燃やされた者は燃え続けられない、すぐに消し炭になり簡単に燃え尽きた。燃え尽きるまでに激しい炎が飛び火して下草に燃え移りそれが木を焼いて、風に煽られて森は激しく燃えていた。

 王が燃える山を降りようとするのを阻める者はいなかった。彼らは例えば彼らの持つテレキネシスで王の身体を操ろうとしたり、空間を操作して王をどこかこの世界ではない場所に飛ばそうとしたのだが、攻撃を仕掛けると、いや何かのスペックを行使したその瞬間に王は即座にその者を認識して燃やしてしまった。岩石は王を押し潰したが、何事もなかったように岩を砕いて、王はまた歩き出した。

 まるで息をするように。王が人を燃やし破壊する様は、ごく当たり前の事を行っている雰囲気があった。

 王には破壊の意志など感じられなかった。黙々と(まるで息をするように、さりげなく自然に)ただ焼いた。

 人里に降りようとしている。口をきかぬから、王の目的など誰にも分かりはしなかったけれども、彼は確かに人の住む街を目指し歩いていた。

 

***

 

 時ならぬノックが響いたのは昼過ぎだった。

 昼食は先程済ませたばかり、一体何の用事があるだろう。怪訝に感じつつ津上は、はいと返事を返した。

 鍵が開きドアが開いて、マナが顔を覗かせた。

「王が目覚めたの」

 言葉は簡潔でごく短かった。ふ、と不審げに眉を寄せてから津上は口を引き結び表情を固くした。

 未確認の王というものが何なのか、どれだけの力があるものなのか分からないが、危険なものであろう事だけははっきりしている。

 津上が立ち上がると、マナはやや眼を細めて津上を見た。

 マナは眩しそうな様子で、気のせいなのだろうけれども、微かに微笑んでいるようにも見えた。

「マナちゃんが連れていってくれるの」

「そうよ、後もう一人」

 頷いて歩き出し、マナは扉を開け放って廊下へ出た。津上もその後に続く。

 一階へ降りる階段の前に中年の男が立っていた。

 男は中肉中背、眼鏡をかけ薄汚れたベージュの帽子を目深に被って、同じ色の薄手のコートを羽織っている。目元辺りの厳しさと口元の結び方は、どこかで見た事があるものによく似ていた。

「あなた、芦河さんの……お父さん?」

 津上は呟いたが、マナも男も返事を返さなかった。

「何でこの人も一緒なの、危ないんじゃないの」

「その人は、自分の目で見ないと満足しないから」

 マナは当たり前の事のように、淡々と答えた。まるで興味のなさそうな、取りつく島もない冷たい口調だった。

「君の邪魔はしない。私はただ、あれを自分の目で見られればそれでいいのだよ。私の説が正しかったと知る事が出来れば、それで」

 男はにやにやと、口元に笑みを浮かべた。だが目が笑っていない。

「知るって……何だかよく分かりませんけど、死んじゃうかもしれないんですよ、気にするなって言われたって無理です」

「余計なお節介だな。私とマナは、この日の為に生きてきたんだ、部外者の口出しは無用だ」

 男は気分を害されたのか、口元の笑みを消して強い声で吐き捨てた。

「君には分かるまいよ。私にとっては知る事が全てだ。古代史の定説を覆す大発見だったんだ、命を賭けている。正しいものが認められなかった理不尽と悔しさは君になど分かるまい」

「……あなたは、そうかもしれませんけど、マナちゃんは?」

 自信のなさそうな、遠慮がちな弱い口調で津上が呟いた。男は眉を寄せて眦を決し、忌々しそうに息を吐いてからマナの手首を乱暴に掴んだ。

「君と問答するつもりはない、行くんだマナ」

 手首を掴む手の力が強いのか、マナは軽く顔を顰めたが、頷いて津上の肩に空いた右手を添えた。

 津上は尚も口を開こうとしたが、次の刹那には階段の前から三人の気配は全く消えていた。急にしんとした廊下に人のいた名残は、踏みたてられ舞い散った埃がゆらゆらと沈む様だけとなった。



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12

 娘の力の事を、沢谷ノブユキも妻も薄々とは感付いていた。だがそれは、人が用いるべきではないものだ。娘が幼い頃に人前では決して見せぬように釘を刺して、娘も言い付けを守って大人しく従っていたから、普段は思い出す事すらなかった。力は振るわれず、何も問題は起きなかった。

 シリアへの研究旅行で見つけた文献と絵を、許可を得て日本に持ち帰ってきた。放射線測定でこの文献が書かれた詳しい年代を絞り込んだうえで、どのような経緯を背景に生まれた説話か仮説を立て、可能であれば文献を引いて状況から仮説を証明する。

 あまり面白みのない仕事だと思っていた。内容が荒唐無稽すぎるし、そんなに大したものでもない、与太話の類とも思えた。神話はいくらかの真実と事実を含む、彼のそんな学者としてのポリシーに合致しない仕事のように思えた。

 だが、空港に迎えに来た娘に、土産話の代わりと何の気なしに文献と絵を見せた時に、沢谷ノブユキの運命は抗いがたい力に決定されてしまった。

 娘は、まるで実際に見てきたかのように、文献に書かれた内容を(書かれていない事すら交えて)語り始めた。

 古代ギリシャ語で記された文献を娘が読める筈はない、第一彼女は透明なビニールの袋ごしに文献に触れただけで、まともに目を通してすらいないのだ。

 沢谷は興奮した。娘の見通す力は確かなもので、真実が見えてしまう事を彼は知っていた。

 太古に起こった人と使徒とグロンギの争い、全てを洗い流した大洪水、やがて人の中に目覚める堕天使の力。これが全て真実だというのだ。興奮しない筈はなかった。

 だが、比較宗教学の論壇で内容を発表しても、事実という証明は出来ない。娘の力の他に証拠はないし、超常能力の証明は比較宗教学から逸脱する、沢谷の専門ではない。

 事実だと主張した沢谷は頭がおかしいと陰口を叩かれて、あるいは面と向かって非難され、論文は誰にも顧みられなかった。

 こうなれば、娘の超常能力を証明し、以て自説の証明とするしかない。専門ではない研究に沢谷はのめり込んでいった。大学も辞め、もう付いていけないと嘆く妻と別れて息子を手放し、山の中の借家を借りた。

 娘の能力はサイコメトリーの他にも、テレキネシス、テレパス、透視、予知など多岐に渡っていた。驚く程に強い力を娘は発揮した。

 沢谷は夢中になった。誰の諫言にも耳を貸さず次々友を失って、彼の目には最早、娘の能力しか入らなかった。娘もその頃はまだ笑うこともあった、辛抱強く実験続きの毎日に耐えていた。

 だが、その蜜月は、そんなには長く続かなかった。

 山の中にぽつんと建った借家に、大勢の男が踏み入った。彼らはやはり能力者という触れ込みで、娘の能力を利用しようとしていた。仲間に引き入れようというのを断ると、取り押さえられた。

 父親は殺せ、取り押さえられて壁に手をついた沢谷の耳にそんな言葉が飛び込む。続いて娘の、やめてという涙混じりの声。

 絶叫は、沢谷を取り押さえていた男から上がった。体の自由を取り戻して振り向くと、男たちは全身を炎に包まれて、のたうち回っていた。床に柱に火が燃え移る。脂と髪とウールとポリエステルの燃える嫌な臭いは黒く煤っぽい煙に乗って辺りに満ちた。

 ごうと燃える炎の中に娘の姿はなかった。沢谷の眼前に立っていたのは、黒と黄金の皮膚に額から突き出た一対の角、赤く爛々と大きな複眼に鋭い顎、異様に発達し盛り上がった筋肉を持った、異形だった。

 おとうさん、と異形の喉から娘の声は漏れた。

 お前が燃やしたのかと問うと、首を盛んに横に振る。こんな事しようとしてないと言う。声に涙の気配が混じると、呼応するように炎が大きく揺れた。

 とにかくこの場を離れなければならないが、出入口は当の昔に焼け落ちている。飛べるかと問うと、異形は頷いた。沢谷は異形の黒い手を取った。

 異形の姿はシリアから持ち帰ってきた絵の下部に描かれていた、人ではない何かに似ているように思われた。もしこれが、この姿こそが堕天使の力の覚醒の結果であり、覚醒の前には伝承のギルスのように超常能力が芽生えるのならば。

 約束された神の目覚めの時には、この子は裁かれてしまうのか。

 考えが纏まらぬ内に、眼前の景色は知らない風景となっていた。辺りは暗い、どこかの森の中の様子で、今いる場所から街の明かりは確認できない。異形の全身から光を漏れると、姿が娘へと戻った。

 沢谷と娘が、今立っているのが本来いるべき時間の約二十年後だと知るのは、意識のない娘を沢谷が抱えて歩き始めて程なくしてからだった。

 

***

 

 まだ時刻は昼だというのに辺りは薄暗い。黒い煙がひっきりなしに上がり、辺りを包んでいる。ぱちぱちと生木のはぜる音が響いて、煙が目鼻に沁みた。津上は目を細めて眼前に佇むものを見た。

 目の前のそれは、いつかのニュースか雑誌か何かで見た未確認生命体第四号に似ていたが、全く別の何かだった。

 それは(二本足で直立歩行している、という意味合いにおいて)人の形をしていた。異様に発達した筋肉は甲殻の様に黒く、脂でぬめり光っている。金色の細い筋が盛り上がった筋肉をくっきりと縁取っている。

 彼の顔はどこかアギトにも似ている。額から突き出た一対の黄金色の角、鋭い顎、大きな複眼。津上の知る第四号ともアギトとも全く異なっているのは、目が淀んだ黒に沈んでいるという点だった。

「一体何なんだ……どういう事なんだ、これ」

 問い掛ける口調ではあったが、津上の疑問は誰にも向いていなかった、漏れ出ざるをえないから溢れ零れてしまっただけの呟きだった。

 ごうごうと燃え盛る森を背にして、それは立ち尽くしていた。辺りの茂みから焼け出されて男が駆け出てきて、それに何かをしようとした途端に、ばっと大きな炎に包まれた。火はすぐに消えて、人だったとは想像の難しい黒い炭の塊のようなものがぼとりと転がった。

「止められる?」

 マナの口調は淡々としていた。津上は軽く横に首を振った。

「分かんないよそんなの……でもあれを、山から降ろしちゃいけない、って事でしょう」

「そう。あれはもう、目に入ったものを壊す事以外はしないから。街に降りたら大変な事になるでしょうね」

「……そんなの絶対、駄目だ」

 呻いて津上は両腕を構え腰を落とした。

 恐ろしい敵は今までもいたし、勝てる気などしなかった事も覚悟を決めた事もある。だが目の前のあれは、そんな恐ろしいアンノウン達とも何か違う。

 津上にはあれが、アギトのように思えた。

 己を失い力に呑まれて暴走したアギトは、例えばこんな風に見えるのではないか。その姿は縋るべき慈悲も見当たらず、理解できないもののように映った。

 人はそれを恐れるだろう。津上が今恐れているように、分からないもの、言葉の届かないものを、恐れ忌むだろう。

 どうして捻じ伏せようとするしか出来ないだろう。彼がもしアギトなら、津上はいくらでも言葉を尽くして、木野にも最後には伝わったように、いくらかだけでも伝えて少しだけでも分かりたいと、いつだって願っているのに。彼に言葉が通じず目に入ったものを壊すしかないなら、そんな事はとにかく何としても止めなくてはいけなかった。

 鋭く腕を振ると、力の証は必要な時に腰に現れる。紫の宝玉を龍の爪が掴んでいるかのような、そのベルトの両脇を力一杯に押し込む。

「変身!」

 津上は強く白い光に包まれて姿を変える。はらはらと散った光の残滓の向こうには、光を集めて煌めく白銀の姿があった。力強く展開したクロスホーンは繰り返し火入れをして鍛えぬいたような深紅色をしていた。

 マナとその父が見た事のない姿のアギトが駆け出すと、その両手にはどこから出たのか一対の曲刀が握られた。

「素晴らしい、予言以上じゃないか。神とも戦おうという、身の程を知らないで膨れ上がった人の力が二つ、どちらが勝つにしても愚かしい」

 アギトの背中を見守って口を開いた沢谷ノブユキの声は、弾んで明るかった。マナはちらと横に目をやって、すぐに前に視線を戻した。

 沢谷の目は橙色した火に照らされて、きらきらと輝いていた。まるで花火を見上げる子供のように堪えきれない笑みを浮かべて、沢谷はアギトと王を見守っていた。

「これで満足?」

「ああ満足だとも。アギトの目覚めに呼応して神が目覚め、グロンギはついに封印を破って王が生まれた。私の説の正しさを、今のこの状況が証明してくれている」

 どっちでもいいわ、という呟きは誰にも受け取られないまま煙に紛れた。

 アギトに気付いて王は目線を向けたが、アギトから炎が上がることはなかった。手順が違う事に戸惑ったのか、王が身動きしないうちにアギトが距離を詰めて曲刀を横に薙ぐが、するりと躱される。続けて払った左の手首を掴まれると力任せに放られた。

 燃え盛る木の幹に強かに背中を打ち付け、衝撃で折れた幹が倒れるのに巻き込まれて転がる。熱が膚を焼くが、今は押さえ制御している、身体中を駆け巡る業火に比べれば、何という事もない熱量だった。

 王には隙がない、動きは速いし力も強い。アギトがまるで子供のように軽々と放られるとは、津上自身も他の誰も予想していなかった。

 王がアギトを見る、軽く手を翳すがやはり何も起きない。

 やや離れた場所から両者に熱く視線を投げる沢谷は、隣のマナが苦しげに息を漏らした事にも、その腕や脚が一瞬ぶれて歪んだ事にもまるで気付く様子がなかった。

 

***

 

「アギトが止めていますが、いつまで保つか分かりません、一刻を争うんです。こうしている間も惜しい」

 青年が口を開いた。芦河と南条も、首都機能を一時麻痺させたテロ事件の首謀者としてニノマエの顔を記憶しているし、彼が死亡した事も聞いていた。何故目の前で生きて立っているのか、疑問は湧いたが答えは得られそうにない。

 ただ、人間となれば、G3‐Xの重装備で向かうのは仰々しすぎる。睨み合う当麻とニノマエの顔の青年を交互に見比べて、芦河も南条もどうしたものか判断がつかずに見守っていた。

「嫌だ、と言ってる筈です、しつこい人ですね。アンノウンまで差し向けてくるんだから私の生死は問わないんでしょう、それとももう手駒が尽きたんですか」

 当麻の悪態に、青年は返事をしなかった。暫し睨み合っていると、G3‐Xの背後で芝生が踏まれる音がした。

「何だ、うわっ!」

 物音に反応して振り返った刹那、背後から襲ってきた鞭に強かに打たれて、G3‐Xが横薙ぎに倒れる。芦河は咄嗟に横に跳んだ。今までいた場所を鞭が舐め擦っていった。背後に現れていたのは、何度か出現している蛇の髪を持った女性型のアンノウンだった。

 鞭が閃いて、G3‐Xが構えたスコーピオンが保持した右手から叩き落され、からからと下草の上を滑っていった。姿勢を崩したG3‐Xに再度鞭が襲いかかろうとするが、横合いから駆け込んだアギトの蹴りがアンノウンの脇腹を捉えた。

「貴方達は、人を守りたいのであればこんな所で戦っている場合ではない」

 ニノマエの顔をした青年の声は苛立って荒かった。だが苛立ちならば芦河も決して負けはしない。

「お前がアンノウンを操っているのか、それなら津上を連れていったのもお前だろう、一体何を企んでいる!」

「あなたに話す事は何もない」

 ニノマエの顔をした青年の答えは冷たい声で放たれた。それ以上の問答は目の前のアンノウンが振るった拳に阻まれた。

 当麻が前に足を踏みだした。一歩、二歩。ゆっくりと、だがしっかりと、ニノマエの顔をした青年との距離を詰める。

「その体は陽太のものだ、陽太はもう、死んだんだ。陽太の体を返して」

「今は私の体でもある。私をこの体から引き離したいなら体を消すしかない、それに今はすべき事があります、返すわけにもいかない」

「あんたが何者かは知らないけど、陽太はあんたの入れ物じゃない、あたしの弟なんだ。返せ」

 聞く耳を持たずに当麻は足を前に進めた。手を伸ばせば届きそうな程に距離を詰めて、立ち止まる。

「愚かな」

 黒衣の青年の瞳がぎらりと青く光った。後ろで銃を構えたものの動けずにいた瀬文が反応する前に、当麻の体が強く叩かれたように後ろに舞った。

「おい、この!」

 恐らく無駄だろうという思いは頭の隅に浮かべながら、瀬文は銃の引鉄を引いた。狙いは腿、続けざまに二発放つ。

 だが、黒衣の青年の様子は何一つ変わらない、脚を引くことすらしなかった。ちょうど腿の辺りに、一瞬ちらりと波紋のような揺らぎが浮かんで消えた。

 青年がこちらを見たと認識した時には、既に瀬文の体は何かに弾かれて宙を舞っていた。真後ろの櫟の太い幹に背中と後頭部を打ち付けられる。息が詰まって吐き出せなくなり、直後に襲い来た打撲の衝撃と痛みを息を吐いて逃がし紛らす事がかなわない。

 当麻は体を起こしていた。懲りずに再び前に足を踏みだす。

「返して……!」

 ふらりと覚束ない足を前に出して、口元を拭って当麻は呻いた。目の光は爛と黒衣の青年だけを捉えていた。

 当麻は再び黒衣の青年の前に立ち手を伸ばしたが、手は何かに遮られて前に進めず、青年の眼前の何もない空間に波紋のようなものが立つだけだった。

「無駄な事を」

「うるさい、陽太を返せ!」

 青年と己を隔てる障壁を、当麻は破れかぶれに叩いた。波紋の形に歪んで何事もなかったように光は消える。

 逆に青年が右手を伸ばして、当麻の左の手首を掴んだ。当麻は右手で青年の右手首を掴み返した。

「あなたが素直に渡せば、あなたの命を無駄に奪う必要がない」

「返して貰うのはあたしの方だ、あんたに渡すものなんか何も無い!」

「無駄な事を」

 再び青年の瞳に蒼く光が灯るのと、当麻が眉を怒らせ青年を厳しく睨みつけるのは同時、それからやや遅れてG3‐Xへとアンノウンをうっちゃった芦河が当麻へと駆け寄った。

 G3‐Xは腹を蹴られのめったアンノウンを迎え撃って殴りつけた。刹那、横合い――芦河が駆けていった、ニノマエの顔をした青年とミショウの女がもみ合っていた方角から白い光が強く溢れ、すぐに消えた。見ると、そこには誰もいなくなっていた。

『えっ……何で? GM‐01ロスト……? ちょっと南条くん、何があったの、応答して!』

 八代の声が響いたが、南条に事態が把握できる筈がない。青年も当麻紗綾も芦河も、木の根元に倒れていた瀬文とかいう刑事も。誰もいなくなっている。

「状況、分かりませんが、ミショウの二人も芦河さんもいません、消えました!」

『どういう事⁉』

「だから分かりません、僕は現在アンノウンと交戦中ですから、そちらを優先します!」

 告げて南条はアンノウンへと向き直る。二対一で優位に戦闘を進めてきたが、ここから先は南条一人でなんとかしなくてはならない。

 南条は自分の優秀さには自信がある。芦河に出来る事が南条に出来ない筈はなかった。

 脚をゆっくりと抜き、じりじりと後退する。武器の類はガードチェイサーに収納されている、近くまで移動する必要があった。

 蛇のアンノウンは鞭を持っており、間合いが広めにとられている。ガードチェイサーまで走れなくはないが、アンノウンがG3‐Xを追ってくるとは限らない、姿を消してしまうかもしれなかった。南条は(今の所分かっている限りでは)アンノウンに狙われる理由はない。

 振るわれる鞭を横に飛んで避け、徐々にジグザグに後退する。あと少し、視界の端にガードチェイサーの大きな車体が入った。

『南条くん、GX‐05アンロック済よ、解除コードを!』

「了解!」

 答えて駆け出すと、アンノウンも足を速めて追ってきた。あと少しの所で、左手首に鞭が絡みつく。

 鞭を引かれて前に倒れそうになりながら、南条は身体を伸ばし、右腕を懸命に伸ばした。ケースに手がかかる。慎重に引き寄せなければ、あらぬ方向に転げ落ちてしまうかもしれない、左腕は鞭の引く力とせめぎ合いつつ、じりじりと足を引く。

 ようやく手が届いた。右手をGX‐05の持ち手に引っ掛け持ち上げると力を抜く。鞭に引かれてG3‐Xは全身し、南条はその勢いを利用して蹴りを繰り出した。腕より脚の方が長い、それは相手がアンノウンだろうと変わらない。G3‐Xを殴りつけようと待ち構えていたアンノウンは襲い来た足裏を躱せずに胸に喰らってそのまま後ろへ吹き飛ばされた。

 倒れこみ立ち上がる間にGX‐05の解除コードを入力、組み立てる。

 アンノウンも受けたダメージは然程でもない、すぐに立ち上がるが、起き上がった所を既にGX‐05の銃口が捉えていた。

 連続して薬莢が弾け排出される轟音が響く。弾丸はアンノウンの胸に腹に飲み込まれた。暫くすると、アンノウンは弾丸を受けつつ背を逸らせ苦しみ、やがて頭上の光輪が膨張して、全身が爆発を起こした。

 GX‐05の弾丸は切れている、引鉄を引いてももう手応えはない。南条はしばし指を戻すのを忘れ、息荒く目を見開いていた。

 

***

 

 当麻は勢い良く腕を振りほどいた。腕は簡単に解かれたが、ニノマエの顔をした黒衣の青年はきっと当麻を睨み付けた。

 当麻と、当麻が許した者しか動くことは出来ない筈のこの時間の中で。

 青年の息は荒かった。心なしか、左腕がぶれ、像が揺れ、一瞬かすれて戻って見えた。

 ここはどこだろう。当麻は辺りを見回したが、ここがどこなのか分からなかった。森の中のようだが、辺りは燃え盛り煙がごうごうと立ち上っている様子だった。時は止まっているように見えるから、炎も煙も凍ったように動きを止めていた。

「何をしたの、ここ、どこですか」

「引き寄せられた……あなたと私の力がぶつかって、時空間が捻じ曲がった。そして、歪みの根源へと引き寄せられた」

「何を、言ってるんですか」

 当麻は辺りを見回した。やや離れた場所、炎の中に黒い影が見えるが、煙に隠れて姿ははっきりとしない。そこから距離を置いて立っている二人の人影、片方の、黒いワンピースの少女と目が合う、彼女は首を軽く動かし当麻を見た。

 どうして、動けるのだろう? 当麻は彼女を初めて見た。瀬文が見たという少女と特徴は一致しているが、当麻は初対面だ。彼女が動く事を当麻は許可していない。

「どうしてあなたが『許可』していないのに動けるのか、簡単な話だ。我々も、あなたと同様の力を使っているからです」

 心を見透かしたような青年の言葉に、当麻は目を剥いた。

 この特異なスペックを使える者が他に二人もいる、という事自体が信じられなかった。ニノマエ以外には例を聞いた事もない、ニノマエいや陽太の体に宿った事すら間違いとしか思えない異様なスペックだった。

「ただ、その左手が足りない以上、私の力は万全ではありません。この人の子の身体に負担がかかっている。そして目の前にあれがいるのならば、私の敵はあなたではない」

 弱々しい声で、青年は告げて前に足を踏み出した。

「私はアギトを許しはしない。だけれどもあれをそのままにしておけば、アギトだけではない、人の子は全て死に絶えてしまう。私はそんな事は望まない」

 青年はゆっくりと歩を進め、当麻の左側に立った。そして右手で、当麻の左手をとる。

「こうしていれば、あれが何をしようとするかあなたにも分かる。あれは燃やす事と壊す事しか考えられない、世を灰と芥に帰そうとする者。燃やすものは燃えなかった事に、他の事はアギトが受け持ちます。あなたは私に意識を合わせればいい」

「アギト……? それって」

「さあ、時を動かして」

 青年の声は穏やかで、今は当麻に対する害意は感じられなかった。

 時が動き出す。凍りついていた煙は熱風に乗って勢い良く天に登り、火の粉が舞って散った。黒い煙の間から炎に照らされて、黒い影が見えた。

 未確認生命体第四号に似ているが、報道や記録で見知った写真とは全く別の姿だった。全身を黒光りする筋肉と刺々しい装飾が覆っている、禍々しい黒く沈んだ瞳。青年の言う通り、当麻にも伝わってきた。目の前のあれの意識には、目の前のものを破壊する事しかなかった。

 それは黒ずんでも濁ってもいない、ある意味で純粋な意志だった。

 煙を裂いて、白銀の刃が舞った。一振り、二振り、流れるように動きが繋がっていく。剣の軌跡はほの白く帯を描いた。

 未確認四号らしきものは、その刃を鷹揚な動きで躱し続ける。だが諦める様子もなく刃は四号らしきものを追いかけた。

 薄まった煙の向こうから現れたのは、やはり見た事はない、四号にもアギトにも似ているがどちらとも違う姿だった。

「津上、お前、津上か!」

 太い声が飛んだ。どうやら一緒に飛ばされたらしい、アギトが炎に向かって駆け出していた。

「芦河さん!」

 答えた声は確かに津上翔一のものだった。前傾姿勢をとって両腕を顔の前で交差させ、四号らしきものの拳を受け止めようとするが、止めきれずに姿勢を崩し、そこにもう一発拳が叩き込まれた。

「うわあっ!」

「津上、このっ!」

 芦河は駆け込んだ勢いをそのまま乗せて、四号らしきものの脇腹に蹴りを叩き込んだ。だが四号らしきものは微動だにしない、却って芦河の右足が弾き返されて、勢い余った体が跳ね返され転がった。四号らしきものは芦河を見た。

 来る。

 当麻にもはっきりと分かった。言われた通りに、合わせた手から感じる青年に意識を合わせる。燃えるはずだったものを、燃えなかった事に。

 全てを瞬時に燃やし尽くす筈だった炎を、どこでもない場所へ転移させる。その空間は「存在しない」という定義がなされた為に逆説的に存在してしまった場所だった。存在しない場所では、炎も存在はできない。

 芦河は燃えない。四号の意識は再び立ち上がった津上へと向いた。

 存在しない筈の場所を瞬時に演算しそこへ炎を転移させる。言葉にしてしまえば短かったが、その作業は全神経を研ぎ澄まし集中し切ることを要求した。

 当麻のこめかみから脂汗が一筋、たらりと流れた。気持ちが悪いが拭う余裕もない。

「あれの注意が向けば、燃えるまでは一瞬。人の子の体に宿りしかも体が不完全な私に、あれを阻む力はない。だがこうして、こちらに向けられた力でなければ辛うじて防ぐ事はできます。後はアギトに、あれを打ち倒して貰う以外にありません」

 ニノマエ、いや陽太の顔をした青年の額にも汗が浮かんでいた。息が浅い、声を絞り出す間にも苦しそうに息を漏らしていた。

「あれは、何なんですか」

「あれはグロンギの王」

「未確認生命体第四号に見えますが、それならグロンギと戦っていた筈です」

「そう、彼はグロンギと戦う戦士でした。だけれども石の力に完全に取り込まれ、聖なる泉が涸れ果て、破壊しか分からなくなった姿。そもそも彼が芦河ショウイチと同時に存在している事が、この世界が歪んでいる証左だ」

「どういう事ですか?」

「芦河ショウイチ以外には、あの力を振るう者は存在しない筈だった、という事です。そして世界は今、歪みからくる反動で在り方を修正しようとしている」

「修正……?」

「排除という事です。生まれなかった筈のグロンギの王、生きていなかった筈の沢谷マナ、いなかった筈の津上翔一、目覚めなかった筈の私。それらを消し去ろうとしている」

「そんなの、おかしいですよ」

 つまらなさそうな声で当麻が吐き出した言葉を、青年は不思議そうな顔をして受け止めた。

「世界っていうのは、人が生きていく場所です。人が生きようとして、それが世界を作っていくんです。世界が人を規定するなんて、そんなの順番が逆じゃないですか」

 当麻の言葉はきっぱりとして、語尾もはっきりとしていた。彼女の目はまっすぐに第四号だったものに向けられていた。

「人が変わっていき、それが世界を変えていく、という事ですか」

「よく分かってるじゃないですか」

「それは、私の役割にそぐわない」

「したい事に役割がついていくのが順番です、役割からする事を決めるのも、順番が逆じゃないですか」

 青年は答えなかった。

 生きる意志が変わっていくことを求め、それが世界を変えていくのならば、この「破壊されるために生まれた、本来はもう存在していない筈の世界」を救い得る希望とは、人が生きようとする事そのものなのかもしれない。

 より良く在ろうとする願いが、人の心に宿る光そのものならば。

 変転の果てにそれぞれの姿に辿り着いた異形三体が、強まる炎の中睨み合い対峙していた。



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13

 カップをソーサーに置いて、ふっと真魚は斜め上を見上げた。そこには何も無い、視線の先にはリビングの高い天井があった。

「……真魚さん、どうか、しましたか?」

 葦原と会話が続かず、居心地悪そうに長い体を縮こまらせていた氷川が真魚の様子に気付いて、覗き込むように首を傾げた。

「何か、声が聞こえたような気がして」

「声、ですか? 誰の? まさか津上さんとか」

「いえ、翔一くんじゃないです。よく知ってるような気がするけど、一度も聞いた事がないような」

 俯いて目線を伏せて、真魚が答えた。

 思い出そうと記憶を手繰るが判然としない。葦原も怪訝そうに真魚に目線を向けていた。

 氷川と葦原は、相性が悪い。氷川は葦原のつっけんどんな言動が苦手だし、葦原は氷川の四角四面で暑苦しい所がうざったい。

 二人の間に存在するある種の信頼関係は、翔一の仲介を抜きにしては成立し得ないものだった。

 翔一はよく喋ってまた人によく話を振るから、口下手な氷川や無口な葦原も、翔一の質問に答えているうちに何となく会話になっている。

 流したりふわりと付け足したりして、どう見ても断絶している氷川と葦原の間を繋げてしまうのだ。

 まるで手品だ、そういえば翔一は手品が得意だった。真魚と太一を驚かせて喜ばせるのが大好きで、期待通りに二人が驚くと、実に嬉しそうに破顔して満足気に何度も頷いていた。

 真魚も氷川と葦原とは懇意にしていてそれぞれとは普通に会話するが、翔一のように二人の間に入って会話を成立させる事はできない。だから今日のリビングも、居づらさを覚えさせる重い空気が漂っている。

 何度考えてみても、ここにいる筈の、いなければならない人が足りなかった。

 物思いに沈んでいると、また声が聞こえた。今度はもう少しはっきりと。だけれども誰の声なのかは分からない。

 真魚はソファから立ち上がり、足早に窓へと歩いてサッシを開き、外を見上げた。

「どうしたんですか、その声というのは何と?」

「はっきり、聞こえないんです。でも多分あたしの事、呼んでる……」

 

***

 

『G3OP、こちら南条。ロストしたGM‐01はまだ発見できません』

「こちらG3OP。南条くん、もういいわ、帰投して。捜索は他の人に任せましょう」

『了解』

 必要最低限の会話を交わして通信が切れる。八代は息を吐いて不審げに眉を顰めた。

 有り得ない事だった。

 G3‐Xの武装はG3‐X本体・Gトレーラーと無線通信を行い弾薬や使用許可の管理を行なっている。

 無線通信が不通になる――ロストするという事は、故障・電源切れ等で通信機能が使用不能になるか、もしくは通信も出来ない程遠くに離れなければ有り得ない。

 GM‐01のロックは解除されたままだった。つまり使用可能な状態だ。生身の人間が扱えるようには出来ていないが、万が一事故でもあれば大変な事になる。

 先程からひっきりなしに無線での緊急連絡が入っている。奥多摩で山火事があり、そこで大勢が騒乱を起こしているようだ、という通報だった。

 不審な情報があった。黒い大きな影に睨まれた人間が一瞬にして燃え尽きた、という、幻覚で片付けられてもおかしくない訴え。

 もしスペックホルダーやアンノウンの関与があるなら、もしかすれば消えた芦河達の手がかりもあるかもしれない。

 何が起こっているのか状況ははっきりとは見えない。だが、恐らくは只ならぬ事態なのだろう。

 芦河の側にいたかった。もし八代が、芦河に大丈夫だと言えるのならば、いくらでも言いたかった。

 八代はよく意地を張る。女だと舐められるのは嫌だったし、自尊心も自負もあった。G3‐Xの事だってそうだ、必要がない危険だと叩かれ非難されても、それでも必ず必要になる時が来ると意地を張り続けた。だけれども八代の知る人間の中で、八代以上に意地っ張りな者がいた。

 怖くて仕方がないのに、誰の言葉も耳に入れないで姿を消した。頑迷ですらあった。だけれども彼が恐れていたのが、誰か、とりわけ周囲の人、八代を傷つける事だったのだと知れば、馬鹿だとは思えても嫌悪など湧くはずもなかった。

 彼は誰かの為に孤独に耐えられるのだから、アギトに負ける筈がない。それでも八代は心配だったし、側にいたい。それは自分が安心したいという願望だろう。

 でも、それがもし力になるのならば。

 伝えたい事を伝えられないまま失う事が怖い。芦河は負けたりはしない、それを信じている。だけれども信じていても、やはり恐れはあった。

 

***

 

 彼の影は大きく力強い。未確認生命体第四号によく似た黒い生き物は、悪意や愉悦すらなく、ただ目の前のものを壊し、燃やそうとする。

 身の丈はそんなに変わらないように思えた。殊更に大きく見える理由は、己の心がそう見せている他にはないだろう。

 ふらつき後退った足を踏みとどまらせて、芦河は意識して足裏を地に擦り付けて踏張った。この黒いものには芦河の攻撃は効いていない。殴り付けても蹴っても、びくともしない。

 力を尽くそうとも及ばず、びくともしないものは恐ろしい。ゆらりと黒い影は揺らめいて、音を悟る間もなく、知覚の困難なスピードで太い腕が伸びて拳が迫った。コンマ数秒反応が遅れれば捉えられる、危うい間合いでどうにか身を躱すが、無理に捻った胴を支え切れずに脚がよろめく、だが倒れられない、無理くりに踏張って、芦河が再び前に向き直ると、黒いものに津上が斬りかかっていた。

 津上の姿は、アギトのようではあるが、芦河の知らない姿だった。

 その力は猛る事はない。胸や脛を覆う白銀は金属なのか筋肉なのか判別はつかないが、静かにしかしはっきりと光を纏っている。

 溢れだすものはない。全てを抱え包み湛えて、その力を振るう意志の力がある。

 津上も、恐れ怯えながらそれでも変わったのだろうか。怖いと言っていた、あの眼の暗さが真実なら。

 芦河には分からなかった。津上翔一は能天気で陽気で、どうでもいいような事も何でも楽しそうで、ややいい加減な物言いをする青年だった。彼だからアギトへの変化という苦悩も然程苦にすることはなく、ああして何も悩みなどないように笑えるのではないか、そう思っていた。

 変化すると言ったって、芦河は津上のようにはなれない。笑い飛ばす事など出来ないし、これから先どうするかを考えれば気も塞ぐ。受け容れてくれると言ったって、自分が戻った事が八代にとって本当に最善なのかなど、今も分からない。

 芦河は芦河のままで。芦河なりの受け止め方があり、受け入れ方があるという事だろう。だがそれがどのようなものかなど、全く見えはしない。闇雲にでも何かしてみれば見えるものもあるのではないか、そんな不確かでいい加減な憶測しかなかった。

 だが、白銀のアギトに感じる力強く静かな意志の力が津上のものであるのならば。彼にはやはり人に言えぬ痛みがあり、悲しんで恐れてそれでも、足を踏みだし決意したのではないか。彼はそれでも選んだから、アギトである事を躊躇わないのではないか。

 分かりはしない。芦河にとって津上は不可解で理解の及ばない人種だ。あんな風に息をするのも楽しんで喜ぶような感じ方はできない。あんな笑い方はできないだろうし似合わないだろう、したいとも思わない。だけれども分かる事もあり、見える事もある。

 人は変われる、足を踏みだし歩く事ができる。生きる事を望む限りは。そして芦河は、自分の手で守りたいものがあり、見たいものがあるのだから、生きる事を望んでいる。

 こんな力も運命も、いらなかっただろう。だけれどもこの力を、もし守られるべき誰かの為に使えるのならば。この忌まわしい運命も不必要な力も、忌むべきではないものへと、変われるのではないか。芦河は何気ない風景を、どうという事はない八代の笑顔を、簡単に失われてしまう暖かさの全てを、守りたいのだから。変わらないものが己の中に確かにあるのならば、想いを見失わないのなら、芦河は変われる。

 津上の双剣の斬撃を躱して、黒いものは無造作に右の腕を振るった。回避が間に合わない津上の左の肩口を裏拳が襲う。

 芦河は駆け出した。何も考えはない、体が自然に動き出した。黒いものの顔面に正拳を叩き込もうとするが、すんでで手首を掴まれて放られる。

「芦河さん!」

 津上の叫び声はすぐに遠ざかった。投げられたと思った次の刹那には、芦河の背中は燃え盛る木の幹に叩きつけられていた。

 変われるならば、どう変わればいい? あの拳が追い切れぬほど速く、刹那の気配も逃さないほど鋭くだ。

 芦河は変われる筈だった。そして今は変わりたい。嘆いて立ち止まらずにいられるように、何かを守る為の己の力から目を逸らさないで、大切なものを見つめ続けられるように。そんな風に変わりたい。

 すっと、心が凪いだ。

 木のはぜる音も津上の声も、ざわめきとして外にある。

 黒い煙の向こう、森を包んで燃え盛る炎の向こうには、白く霞んだ青空があった。夏が近付いて、日に日に空の青は濃さを増している。普段ならば、空が青いのは当たり前だから別段どうという感想も浮かばないのに、今は炎と煙に塞がれて見づらいはずの空の青さが、やけにくっきりと胸に染み込んだ。

 ああ、綺麗な空だ。きっといつも空は綺麗だったのに、どうして今まで気付かなかったのだろう。

 ふと、感想が胸に浮かんだ。

 何事もなかったように立ち上がると芦河は足を肩幅に開き、真っ直ぐに前を見た。相変わらず力強く大きな黒いものの美しさも強さも弱さも、今は見える気がした。在るように見る、それはどれだけ困難な事だろう。黒いものは、それ以上でもそれ以下でもなかった。当たり前の事を悟るのは、どうしてこうも困難だろう。

 どうすればいいのかはもう分かっている。両腕を軽く前に伸ばして、芦河は両の腰に両の掌を当てて押し込んだ。黄金色の体は滲み歪んで、すっと戻った時には変わっていた。

 人を超越した肉体の力は、拘る心を超越した精神に支えられて、未知のもの知らぬもの恐ろしいものを、在るように見て受け止め、必要ならば力を振るうだろう。

 右半身は赤く、左半身は濃紺、それを繋ぎ合わせるのはアギトの生きるという意志。両手のそれぞれに片手剣とハルバードが握られた。

 立ち上がった芦河を見守っていた津上は、芦河の変化を見届けると、ただ頷いてみせた。今は沢山の言葉や意味は必要がないから、それだけで十分だった。

 出来る。胸に確信があった。剣を下段に、ハルバードは小脇に構えると、芦河は駆け出した。

 黒いものは先程までと同様に、ごく当たり前のようにゆるりと剣先を躱した。放たれた左の拳の手首をハルバードの柄が受けて跳ね上げる。空いた腹を狙い膝蹴りを放つがまたゆらりと躱されて、黒いものの体は向かって右に僅かにずれた。そこに、津上が手にした双剣が、川の流れに晒した布のように白く残光を引いて迫った。

 強いものは強いように、なだらかなものはなだらかに。事象それぞれに合わせて見れば、次にどうなるのかまでが緩く見えた。動きは次の動きや目的に繋がって連続している。その意味で孤独なものは存在せず、全ては繋がり流れて存在していた。

 黒いものも、隔絶した存在ではない。胸元に肩口に白銀の斬撃を受けて、黒いものは大きく吹き飛ばされた。

「芦河さん、変われたんですね」

 津上の声は弾んでいた。そうだな、と軽く返して、芦河は黒いものに向き直り剣を構え直した。

 手応えはあった。津上と連携すれば、決して対抗できない相手ではない、胸に確信が湧いた。

 黒いものはややあって、ゆらりと体を起こした。ぐるりと辺りを見回して、一点で目線を止めた。

 目線の先のマナは、苦しげに眉を寄せて軽く口を開き、浅い息をさかんに吐いていた。立っているのも気怠げで、背中を丸めて肩を落としている。

「いけない」

 密やかな青年の声に当麻もマナを見やった。黒いものが拳を振りかぶって振り下ろされて、薄汚れたベージュの帽子が空に巻き上げられた。

 マナは隣の父に飛び掛かられて横に倒れこみ、数瞬遅れて駆け出した津上が黒いものの胴を抱えて跳ね飛ばされた。

 あれは力が強い、押さえるのは容易ではない。芦河も軽く駆けて勢いを付けると飛んで、黒いものの背に蹴りを浴びせる。だが黒いものは倒れず、芦河は反動で弾き返された。

 黒いものの濁り沈んだ複眼は、当麻と青年に向いた。黒いものはそのまま足を踏み出した。

「うおおおぉぉっ!」

 絶叫が響き、続いて連続して二回三回と、銃声がこだました。黒いものは銃弾を受けて、衝撃に動きを止め身動いだ。

 ただの銃が動きを止められるはずがない。この銃声は、芦河も津上もよく知っているものだった。

 当麻の斜め後ろで、GM‐01を構え続け様に引鉄を引いているのは、恐らく訳の分からぬ内に一緒に飛ばされ、今まで事の推移を見守っていた瀬文だった。

 GM‐01はG3及びG3‐X専用の武装で、生身の体で射撃を行う事は想定されていない。威力が高く、勿論その分反動も強い。普通なら一発撃てば脱臼を起こしたり衝撃で跳ね飛ばされるだろうし、狙いなど定められるはずがなかった。

 だがどういう訳か、瀬文は引鉄を引き続けたし、弾は黒いものの胴の辺りに概ね命中していた。常識外れとしか言い様がなかった。

「人間、舐めんなあぁっ!」

 やがて破れかぶれに放った銃弾の内の一発が黒いものの臍の下辺りを捕えて、かきんと澄んだ高い音がした。

 銃弾の威力に足を止めるものの、GM‐01の弾が黒いものにダメージを与えられている様子は今までなかった。しかし黒いものは腰を抱え前のめりに蹲ると、低く苦しげに唸り声を上げた。

 それを見届けると瀬文は、荒い息を吐いて口の端を大きく歪めて歯を剥き、にやりと満足気に笑ってそれから、糸が切れたようにどたんと後ろに倒れこんだ。

「無茶苦茶ですね……でも期待通りです」

 倒れた瀬文を見下ろして当麻もにやりと口を歪めた。

「芦河さん!」

 津上が芦河を顧みて、芦河は即座に頷いた。今しかない、そう思われた。

 腰を落としてゆるりと腕を伸ばし引き、芦河は構えをとった。漲った力は足元に紋章を描いて現れる。

 黒いものは、漸く体を起こして苦しみ悶え腕を振り回した。素早く間合いを詰めて津上は両手の双剣を振るった。

 右を逆袈裟に掬い上げ、左と右を横に払い、袈裟懸けに左を振り下ろす。流れは繋がり連続していた。

 軽く助走をつけ芦河は地を蹴った。津上とすれ違い、胸に胴に幾度も斬撃を浴びてもまだ立っていた黒いものを着地点に捉える。

 黒いものの回避の動きは緩慢だった。両足の裏が胸元を捉え、衝撃が走る。弾かれて芦河は着地できずに背中を地面に打ち付けた。

 すぐに顔を上げる。やはり黒いものは両の足をしっかりと伸ばして立っていた。しかし、胸元を押さえて掻き苦しげに悶えている。

 ぴき、と音がした。聞いたことがある、この音はガラスに熱を加えすぎたせいでひび割れる音によく似ていた。

 やがて、ぱりんと乾いた音がして、黒いものの腰の辺りから黒い欠片がぱらぱらと落ちた。黒いものは一層苦しみ悶え身を捩る。

 暫くそうして黒いものは地響きのような低い低い呻きを漏らし続けていたが、ぜんまいが切れていくように声は弱くなり、やがて突然にぐらりと傾いで倒れ伏した。

「……これで、終わった。彼が最後、グロンギはもう、現れる事はありません」

「それで……あなたは、どうするんですか。アギトを許さないから、また殺すんですか」

 倒れ伏した黒いものを見つめながら当麻が呟いた。手は重なったまま、視線は決して交わらない。

 青年は答えず、津上と芦河の変じたアギトを見つめた。緩く首を横に振る。

「あなたは、人も世界も変わっていくものだと言った。だが世界は性急な変化など望まない。なかった筈のものはなかった事になる。あなたも、私も」

 呼びかけられ、津上は変身を解いて人の姿に戻った。訝しげに青年を見つめる。

「どういう意味ですか、それ」

「彼女はもう消去されかかっているから」

 その言葉に何か気付いた様子で、津上ははっと目を見開いて、辺りを見回し、駆け出した。

「マナちゃん!」

 マナは膝を投げ出して両手を地面に突き、上体を持ち上げていた。時折ぱちんと歪んで戻る。姿はどこかうっすらとして、存在感が薄かった。

 横には沢谷ノブユキが伏して、割れた額から流れる血が草を濡らしていた。

 駆け寄ろうとする津上をマナは手で制した。息が荒い。津上は足を止めて、青年に向き直った。

「何で、何でこんな、どうして!」

「説明したでしょう、世界が歪んでいると。彼女はあなたを燃やそうとする炎を転移させ続けていた。歪みに関わりすぎて、飲み込まれかかっているのです。元々いる筈のなかったあやふやな存在だったのですから尚更」

 青年の説明の意味がとれなかった。驚いたような納得できないような、苦しげに歪めた顔で津上は再度マナを見た。

「そう、でもだから、境目が曖昧だから、今ならあなたを帰せる」

「えっ」

「声が、聞こえたわ、きっとあれ、私じゃない私なのね。今は壁の形がはっきりしないから、彼女があなたを呼んでくれたら、あなたをそこに送り届ける事が、できる」

 

 開け放ったサッシから顔を出してぼんやりと空を見上げていた真魚が、びくりと背を震わせた。

「……何? 誰なの?」

 真魚の呟きは独り言としか見えないが、真魚が持つ不思議な力を知っている氷川と葦原は、緊張した面持ちで真魚の背中を見守った。

「そこに、いるの? ねえ答えて、いるの? 翔一くん、翔一くん?」

 真魚が高い声を上げて、氷川は思わず腰を浮かせた。葦原もソファの背から身を乗り出して真魚の様子を伺う。

「帰ってきて、翔一くん」

 

「でもそんな事して、マナちゃんはどうなるの」

「いいから。どっちだっていいって、思ってたけど、今は、違うから」

 切れ切れに吐く息の間から言葉を搾り出して、そうしてマナは口許を綻ばせると、浅く笑ってみせた。

「あなたが、嫌だって言ったって、飛ばすから」

 目を細めて笑って言うので、津上は目線を逸らして何度か緩く首を横に振った。そうしてから俯いて、振り返って芦河を見た。

 芦河は状況が飲み込めていない。変身は既に解き、訝しげに津上を見ていた。その様子を見て、津上は笑いを漏らした。

「芦河さん、俺、随分急だけど帰ります」

「帰るってお前」

「もう大丈夫そうだし、拒否権ないみたいなんで。八代さんに会えないの残念だけど、宜しく伝えておいてください。あっ、後、俺がいなくてもご飯はちゃんと食べてくださいよ」

「何を言ってるんだお前は、分かるように説明しろ!」

 苛ついて眉を顰めた芦河を見て、津上は一層大きく笑ってみせた。そして今度は再び、青年へと向き直る。

「やっぱり俺、人も世界も、それにアギトも、ちゃんといい方に変わっていけるって思います。だってほら、芦河さんは、人のまんまです。失敗したり間違ったりしたって、変わっていける」

「全ての人がそうではありません」

「そんな事ありません。俺は信じてます」

 鮮やかに津上が笑った。青年は答えず、隣で聞いていた当麻が吹き出した。

 最後に、津上はマナを顧みた。

「手を、貸して」

「俺ほんと……ごめん」

「ありがとう」

 屈んだ津上の手をとって、マナはまた笑った。津上は悲しげに目を細めて首を振って、また芦河を顧みた。

「お世話になりました、八代さんとお幸せに!」

 一際明るい声だけが響いて、姿はふっと、芦河の視界からは消えてしまった。

 文句を言う相手を失って、芦河は戸惑ったような怒ったような顔をして、馬鹿野郎と低く呟いた。



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14:エピローグ

 人間の体が点滅して現れたり消えたりしている。

 言葉にしてみるとまるで、出来の悪い三流のSFのようだった。

 芦河は歩き出して、何故か年を重ねていない姉と父の前に立った。

「何故こんな事をした」

 声に感情は籠もらない。見知らぬ他人に事情を聞く時の方が、何らかの声色や顔色は乗るだろう。

 興味がないのではなくて、凍らせているだけだ。分かり切っていたが、今までそれを認める必要も発想もなかった。

「お父さんが、あたしを信じてくれたから」

「……何?」

「ごめんね、許してもらえないだろうけど、ごめんなさい」

 マナはやはり緩く笑った。もう一度ごめんねと呟くとぷつんと姿が消えて、それきり現れなかった。

 暫く芦河はマナがいた場所を見つめていたが、やがて歩き出して倒れた男の口元に手を当てて、やや俯いて立ち上がった。

「彼女はアギトだったんでしょう」

「そうです。彼女は最初のアギト。彼女の持つ癒しの力が、この体に私を定着させた。だがこの体も、もうそう長くは保たない」

「体が消える、って事ですか。ふざけなんな、返せ」

 当麻は大した表情も浮かべずに淡々と悪態をついた。青年は顔を上げた。

「私は私の子らを愛していますが、アギトを愛する事はできない。アギトは許されざる者、それは魂に刻まれた烙印とも言える、永劫消える事はありません。だがもし変えられるというなら」

 青年は芦河を見つめ、芦河は目線を正面からぎろりと睨み返した。

「……多分変われるんだろう、いい方にな」

 大して面白くもなさそうな声色で芦河が吐き捨てると、青年は薄く笑みを浮かべた。

「人がアギトが変化して、それがこの世界を強靱に変えていけるというなら。あなたが持ちえぬ筈の力を得て敵わぬ筈のグロンギの王を打ち倒したように、可能なら。私もそれを、信じてみたくなった。だから、見守る事にしましょう」

 言い終えると青年はそっと瞼を閉じた。途端に青年の体から力が抜けて、押しつぶされそうになりながら慌てて当麻が抱き留めた。

『――私の使徒がアギトを狩るのをやめても、人はアギトを恐れる、受け入れはしない。多くの悲しみが生まれるでしょう。だが、変えられるというのなら、足掻いてみせなさい、力の限りに』

 声が響いて、大分薄まった煙に撒かれて消えた。

 木々を燃やし尽くして、ようやく火勢は落ち着き収まりかけていた。残り火がいつまた燃え盛り始めるか分からないのが山火事の恐ろしい所、早々にこの場を離れるべきだった。芦河は当麻の後ろで引っ繰り返っている瀬文を背負い、ついでに横に転がっていたGM‐01を回収した。

「お父様は」

「もう息がない。後で回収してもらえばいい、まずは生きてる人間だ」

「結局、これで全部元に戻った、って事ですかね」

 やや目を伏せて低い声で当麻が呟いた。芦河は首を少し動かして当麻を見ると、息を一つ吐いた。動作に不快さは感じられなかった。

「変わっただろう、多分、色んな事が」

「……それもそうですね。あなたもあまり喧嘩腰じゃなくなってきましたし」

「お前のその神経に障る喋り方も変わるべきだと思うがな」

「えー、ひっどぉい、こんなにカワイイ声と喋り方なのにぃ、その眼は節穴ですか、それとも鱗でも貼りついてるんですかぁ」

「……思わず黙らせたくなるから、その妙な猫撫で声はやめてくれないか、しなも作るな」

「きゃー、暴力はんたーいっ!」

 付き合いきれんとばかりに芦河が呆れた顔をして歩き始めると、幾人かの足音とざわめきが近付いてきた。裸に煤けた木々の向こうから、レスキュー隊と思しき制服の一団が見える。

「丁度いいタイミングだったな、おーい、こっちだ、手を貸してくれ!」

 芦河の声に気付いた一団が向かってくる。その中には、今度こそ貸与品の携帯電話のGPSが役に立ったのか、八代が混ざっていた。

「ショウイチ!」

 足を取られる山道をものともしないで、炭化した木の残骸の間を縫って八代は傾斜を駆け登ってくる。眉を寄せて、口を僅かに開いて息を継いでいる。今、一番見たいと思っていた顔だった。嬉しくなって、芦河の頬には自然に笑みが浮かんだ。

「大丈夫だって信じてた、あなたは、大丈夫だから」

 辿り着いた八代は、おずおずと両手をショウイチの胸の前で泳がせた。芦河は気持ちの表し方が不器用だから気の利いた事の一つも言えないが、八代だって負けてはいない。

 沢山話したい事があった。芦河は、手から余る沢山の事柄や気持ちを、辿々しい言葉で、少しずつしか話せないだろう。八代は、時折質問を挟んだり意見や気持ちを率直に述べたりしながら、きっと余さずに全部聞いてくれる。

 運び込まれた担架が三つ広げられて、周囲は慌ただしくなった。ゆっくり話す時間がとれるのは、もう少し後になりそうだった。おろおろする八代に笑いかけると、芦河は瀬文を背負い直して担架へと歩き出した。

 

***

 

 庭に続いたリビングのサッシを開け放って、サッシの間から顔を出している真魚と目が合った。

 ここは、美杉家の庭のようだった。

 言葉の通りに、翔一は真魚の許へと送り届けられたらしい。真魚ちゃんがトイレとかお風呂にいなくて良かった。つまらない雑念が浮かんだが、口にしたところで真魚には意味不明だろう、喋るのはやめた。

 屈んだ翔一は、思わずにへらと笑みを浮かべてみせた。真魚はぽかんと眼を見開いて、口を開けたままにしていた。

「翔一、くん?」

「えへへ、真魚ちゃん、久し振り」

 笑いかけると真魚も笑った。だけれども気のせいだろうか、涙ぐんでいるようにも見えた。

「おかえり、翔一くん」

「うん、ただいま」

 穏やかに笑んで、挨拶を交わす。庭を渡る風は冷たくて、菜園の大根の葉も寒さに震えるように揺れた。そうだった、ここはまだ冬だった。軽く身震いすると、真魚の後ろからのっぽの頭が顔を覗かせた。

「つ、つつ……つっ、津上、さん!」

「津上!」

「あれぇ、氷川さんに葦原さんまで。どうしたんですか? ちょっと珍しいですね、二人揃って先生ん家にいるなんて」

 真魚の頭の上から氷川が呆然とした顔を出して、からからとサッシが開いて葦原の訝しげな顔が出てきた。

「な、なな、なっ……何を言ってるんですか君は! 今までどこで何をしてたんですか! それに何ですかその服は、何で君が警視庁の制服を……」

「ああもう氷川さん、そんな一遍に答えられませんよ。質問は一個ずつにしてもらえません?」

「何を呑気な事を、あなたという人は、一体どれだけ心配したと思っているんですか!」

 氷川はがなっているうちに本当に頭にきてしまったようで、口を尖らせ、きつい目で真っ直ぐに翔一を睨み付けた。その顔を見て、翔一は頬を緩めて、ややだらしなく笑った。

「あれ、氷川さん、俺の事そんなに心配してくれたんですか?」

「当然でしょう、心配するに決まってる! 僕は君がもしかして、もう戻らなかったらどうやって謝っていいのか……!」

「ほんとですか、嬉しいなあ」

 翔一が実に嬉しそうに笑うと、氷川もそれ以上は強く言えなくなったのか、軽く咳払いしてばつが悪そうに黙った。その顔をちらと見て、翔一は眉根を寄せて口を曲げ、難しい顔をしてみせた。

「うーん、でも、男の人っていうか氷川さんにそんな熱烈に心配されちゃうと、ちょっと困るっていうか気持ち悪いっていうか……」

「……君はっ! 僕は真面目に話してるんです、ふざけないでください!」

「冗談です。心配かけてすいませんでした、ありがとうございます。凄く嬉しいです」

 氷川の怒気など気に掛けないで、翔一は穏やかに呟いて頭を下げた。氷川はまたばつが悪そうに眉を寄せて、一つ息を吐いた。

「とにかく、君がこの二週間どこで何をしていたのか、それを教えてくれますか」

「二週間、二週間しか経ってなかったんだ、良かったぁ」

「……どういう事ですか?」

「うーん、話すのは勿論構わないんですけど、氷川さん信じてくれるかなぁ」

「君に関しては色々な意味で不可解なのは分かりきっています、今更何を聞いても驚きませんよ」

「あっ、それってなんかちょっと酷くないです? 俺だってすごく大変だったのに。もういいです、そんな事言うんだったら真魚ちゃんと葦原さんにだけ話します、氷川さんには教えてあげません」

「いやだから、そういう事ではなくて……」

 応酬は果てなく続いていきそうだった。いつもの事ながら真魚は聞こえよがしに大きく溜息を吐いて、呆れ切った様子の葦原が割って入った。

「……どうでもいいが、いつまでここでじゃれ合ってる気だ。いい加減寒くなってきた。津上、そんな所にいないで、中に入ったらどうなんだ」

「あっ、そうですよね、すいません」

「まあ、お前があんまり相変わらずだから、安心した」

 葦原もきつい眉を緩めて微笑んだ。それを受けて翔一もまたにこりと笑った。

「やだなあ、そんなにコロコロは変われませんよ」

「そうだろうな、その方がお前らしくていい。早く上がってこい」

 葦原が背を向けて中に戻り、氷川と真魚も続いてサッシが閉じられた。翔一は玄関に回ってリビングに入る。

 ここを離れたのはそんなに遠い過去の事ではない、ちょくちょく顔も出していたのに、最後に訪れたのがもう十年も昔のように思われた。懐かしくて居心地が良かった。

 長い旅から故郷へと帰り着いた旅人は、例えばこんな気持ちを抱くのだろうか。

 何もかもが慕わしい。ここは翔一が大好きな人たちのいる、大切な場所だった。

 人が変わるとか世界が変わるとか、例えば、こんな風に久しぶりに訪れた場所が少しだけ知らない場所になってしまったような、そんな些細な変化を積み重ねていくものかもしれない。

 ソファの空いた席に腰掛けると、真魚が暖かい紅茶を出してくれた。

 氷川は、やっぱり別の世界なんて話を簡単には信じようとはしなかった。

 芦河ショウイチの人となりを、氷川さんと葦原さんを足して二で割ったみたいな、と説明すると、氷川と葦原は一斉に面白くなさそうな顔をして、それを見た真魚は軽く吹き出していた。

 氷川が本庁に連絡を入れていた。小沢も翔一の事をかなり心配していたようで、仕事が抜けられないから明日にでも顔を見せに来るように言われた。

 翔一の失踪の件では倉本への説明に氷川が大層難儀したらしい。倉本に電話を入れて詫びると、神隠しなら仕方ないと言われて却って困惑した。

 じきに外に遊びに出ていた太一が帰ってくる。珍しい恰好をした翔一を眼を丸くして眺める。

「ああそうだ、久し振りだからさ、今日は俺が晩ご飯作っちゃうよ」

 何となく口に出してみると、太一がやったぁとはしゃいで声を上げた。

「氷川さんと葦原さんも、もし用事とかなかったら一緒にどうですか」

「まだ君の話も途中のようだし、ご迷惑でなければ是非。メニューは何ですか?」

「今日は、チャーハンにしようと思って。帰ってきたら絶対作ろうって思ってたんです。氷川さんも好きでしょう」

「ええ、好物ですが……」

「ですよね」

 不思議そうな顔をした氷川に、にっと笑ってみせる。氷川は首を傾げたが、すぐにチャーハンに意識がいってしまったようで、それ以上は深く聞いてこなかった。

 チャーハンなんてありふれたメニューに深い意味がある筈がない。それでいいしその方がいい。

 話は一度切り上げて、エプロンを借りて夕飯の準備を始める。美杉が少し早く帰ってきて、翔一を見て驚きのあまりに鞄を足の上に落とした。

 今日は人数が多いから、予め炊いてあったご飯を移して更に炊いた。真魚が手伝いを申し出て、翔一の隣で玉ねぎの皮を剥いている。

 真魚ちゃんももう、毎日晩ご飯作ってるんだもんな。今更のように思い当たった。これは少し大きな変化だった。

 それでも、真魚は何だかとても嬉しそうに玉ねぎを剥いている。だからきっと、概ねいい方向に変化しているんだろう、そう思えた。

「うん、真魚ちゃんはやっぱり、そうやって笑ってるのが一番いいや」

「……突然何よ。あっもしかして、会えなくて寂しかった?」

「うん、寂しかったよ。ずっと会いたいなって思ってた。真魚ちゃんも、太一も先生も、氷川さんと葦原さんも」

 素直に答えると、真魚は困惑したようで、返事を返さなかった。

「汁物は卵とわかめのスープでいいかな、胡瓜と鶏むねがあるから、サラダは棒々鶏にしちゃおうか。あとおかずがもう一品くらい欲しいとこだけど……」

「それだったら、菜園のキャベツを使って回鍋肉は?」

「おっ、いいねえ。豚肉あるかな? バラがいいよなあ」

 楽しそうに真魚が微笑んで、翔一はそれが嬉しくて仕方がなかった。冷蔵庫の中身を眺めながら、何てことはない夕食のメニューを考えるのはどうしてこんなに楽しいだろう。

 今この時はとても楽しくて、掛け替えがない。だけれども翔一は、明日はきっともっと楽しいのだと、心のどこかで思っていた。

 陽はもう暮れて、赤い光の筋が屋根の端を染めている。空は淡い紺色をしていた。

 もう二度と会う事はないだろうけれども、芦河と八代にも、あの世界の人たちにも、こんな夕暮れが訪れていればいい。

 太一は葦原に懐いているようで、しきりにバイクを見せて欲しいとせがんでいた。翔一のバイクについてそんな事を言った事はないから、つまり「葦原の」バイクが見たいのだろう。氷川は美杉と、何か難しい顔をして話していた。

「何だか、人が一杯いると、パーティみたいでわくわくするなぁ」

「そうだよ、翔一くんが帰ってきてくれたから、お祝いだよ」

「えっ……お祝いの料理を自分で作ってるのって、何だか微妙じゃない?」

「いいじゃない、翔一くんはさ、作るのが楽しいんだから」

 可笑しそうに真魚が笑った。

 変わるものもあれば変わらないものもあるけれども、これは変わらなければいいな。もし変わるんなら、明日はもっと一杯笑ってくれるとか、そういう風に変わればいいな。

 そんな感想が浮かんですぐにどこかにしまわれた。翔一は鼻歌を歌いながら、みじん切りにしたピーマンを俎板からシンクに置いたボウルに移した。




最後までご覧いただきありがとうございました☺


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