「収穫はいつも通りですよご主人様、あと――――」
くしゅんっ。
朧の小さなくしゃみは遠征の報告を遮った。鼻と口を覆った両手をすぐ離し、絆創膏を張った辺りを真っ赤に染める。提督と漣、潮は頬を緩め、曙もちょっと吹き出す。
「最近寒くなってきたもんね、有り難う、お疲れ様。夕飯はあったかいもの食べてね。」
「い、いえ、すみませんっ。」
「そうしまぁす!これ修復材。報告は以上!」
「うん、三人も有り難う。お疲れ様でした。」
繰り返しの遠征出撃を労い、鎮守府内へ小走りに戻る四人に手を振った。彼女らと入れ違いに祥鳳を旗艦とした囮機動部隊が出発する。気を付けてと声をかけ、六人の顔が見えなくなるまで、提督は港に立っていた。
日暮れ近くなった海から吹く風は冷たい。もう暑さにうんざりせずに済むのだと思うと胸がうきうきしてくる。およそ半年ぶりに袖を通したカーディガンが冷めた肌を撫でていく感触だとか、湯飲みを持った指に熱さが沁みていくのが心地よく変わる瞬間だとか。街の方まで足を伸ばせば直に金木犀も香るだろう。散歩をするなら今くらいの時間に行こう、あの花は寒い方が香るから。一つ息を吐いて、踵を返し入渠ドックへ向かうと担当の妖精さんに修復材を渡した
夕飯の支度も佳境なのだろう。鎮守府一階の食堂付近は、なんとも腹に来る良い匂いが漂っていた。さっきまで鼻先に蘇っていた金木犀は、醤油、だし、味噌にとって代わる。芋煮、おでん、けんちん汁……目に浮かぶ料理はどれもほかほかと湯気を立ち昇らせ一つに決め難い魅力を放っていた。今日、朧達は何を食べるのだろう。明日尋ねるのを楽しみにしながら階段を上がる。
「――――あ、提督!」
呼ばれて振り返ると、小さな包みを手にした夕雲が駆け足で上ってきて、一段下で足を止めた。
「お呼び止めしてごめんなさい。今執務室に伺おうと思っていたんです。」
「構わないよ、どうかした?」
手にした包み……小さめの風呂敷だろう、可愛らしい椿の柄だ。結び目を解くとみかん籠が現れ、中には紫鳶色の皮をした釣鐘型の果物が二つ。
「やあ、無花果だ。いい艶だね。」
「八百屋さんへ行ったら、丁度食べ頃で残ったら勿体無いからって、まとめて沢山売られていたんです。お嫌いでなければ如何ですか?」
「いいの?無花果好きなんだ、嬉しい。今晩のデザートに頂こうかな。」
「ええ、是非。」
差し出された籠を受け取り、無花果を一つ取って顔へ近付ける。ほんのり甘い、いい匂いだ。籠は明日取りに伺いますねと言って夕雲はにっこりすると、丁寧にお辞儀をし、階段を下りて行った。
夕雲型姉妹が甘い無花果に舌鼓を打っている様を想像すると自然に頬が緩む。それ自体がもうご馳走のようなものだ。明日、籠の中にどんなお礼をこめて返そうか。キャラメルがサンドされたクッキーはまだあったかな、花の香りのハーブティーのパックは残っていたと思うけれど。さて何であれば姉妹を笑顔に出来るだろうかと考えるのも、また楽しい。
執務室の扉を開けた。秘書艦の席に着いていた陸奥は顔を上げ微笑む。
「ただいま戻りました。ね、夕雲から無花果の差し入れ貰っちゃった。」
「お帰りなさい。あら、美味しそうね。すぐに食べる?」
「ううん。夕飯のデザートにしようかなって。」
陸奥は壁に掛けられた時計を仰ぎ見、そうねと返すと両手を組んで体を伸ばした。
「丁度良い時間だし夕ご飯の支度をしましょうか。食べたいものはある?」
提督の目と鼻に、くしゃみをした朧の恥ずかしそうな顔が、食堂一帯の香りが、蘇る。「何か温かいものが食べたいな。」すると陸奥は首を捻り「あらあら、ぼんやりしたリクエストね。」と軽く窘めるように言って、すぐに優しく笑った。
「いいわ。冷蔵庫の中を見て考えましょ。和洋中もお任せでいい?」
「いや申し訳ない……お任せでお願いします。」
恐縮しきりで頭を下げれば、茶目っ気たっぷりのウインクが返ってくる。陸奥は席を立ち台所へ行こうと――――その背中を、吹き込んだ風に揺れたレースのカーテンが撫でた。あら、と小さく呟いて、はしばみ色の髪を押さえる。
「風が冷たくなってきたわね。窓、そろそろ閉めましょうか……あ、見て、提督。丁度日が沈むわ。」
陸奥が示すのに導かれ、彼女の隣へ行き、開け放たれた窓から海を見た。視線の真っすぐ先の空は水色と橙が溶け合い、紺青の海の果てを金赤に染めながら、今まさに太陽が沈もうとしていた。先ほどの風は一瞬のことで、今はただ、穏やかに肌を冷ます潮の香りを含んだ空気だけがあった。
「……綺麗ね。」
提督は横目に陸奥を盗み見る。眩い夕日は陶器の如き白肌を輝かせ、上向いた睫毛に、鶯色の瞳に、鼻筋の先に、潤いある唇に、螺鈿のような艶を与えていた。眠りにつく太陽の最後の光は彼女の為の捧げものだ。きらきらと眩しい、黄金で織られた薄布越しのような風景に、そんなことを思った。
綺麗だ。とても。
見惚れていたら流石に陸奥も視線に気付いた。提督の方を向いて、瞳も唇も柔らかい弓型にする。
「どうかした?」
「い――――いえ、何も。」
「……ふうん?」
空とぼける提督の、心の内を見るなど容易いことだとばかりに鼻を鳴らし、風のそよぐように柔らかく笑う。窓を閉め、鍵をかけた。
「じゃあお夕飯作ってくるわね。出撃の収支は纏めてあるから、遠征の分をお願い。」
「有り難う、助かります。」
「これも預かるわ。少し冷やしておきましょ。」
提督から無花果の入った籠を受け取り、陸奥は執務室奥の扉を開け台所へ行った。執務室には専用の台所と食堂の他に、寝室は勿論、風呂や手洗いも備わり、それだけで一つの家のようになっている。提督の食事は基本的に秘書艦の手作りだが、連れ立って食堂へ行くこともあれば、天丼やいなり寿司を食堂で買って執務室で食べることもあって、時には街まで足を延ばす。選択肢は様々だ。そして、どれも美味しい。提督は、献立を丸投げしてしまったのを申し訳なく思いつつも、何が出てくるだろうとわくわくしながら椅子を引いた。
収支報告の帳簿を開く。今日の出撃での消費資材、海域での獲得資材、艦隊の修理で使用した資材が、綺麗な文字で丁寧に纏められている。空白の欄に遠征で獲得、消費した資材を記入し、総合計を纏めれば本日分は完成だ。収支報告は毎日作成し、その日の終わりに資材保管所の実数と突き合わせる。時には数値が一致しないこともあるが、大抵は書き間違えか計算ミスだ。すぐに片付く。
着任以来作り続けてきた帳簿は、今では相当な数になった。大規模作戦で忙しい期間もこれだけは必ず開き、一筆でも自分の手で書き込むよう努めてきた。提督にとって、数値を眺め、その日一日何が起きたか思い返す時間は、心の休まるものだった。
さて今日はどうだったか……そうそう、何回か出撃してその度にどういう訳かガンビアベイが集中砲火を受けて中大破して、最終的にはしくしく泣きだしてしまったから神鷹と交代させ、今日は厄日だったねと早めに休ませたんだ。サムを初めとしたアメリカ艦の子たちがきっと慰めてくれているだろうが、あの子にも明日、何か贈ろうか。甘くて美味しいチョコレートブラウニーが良いかな。笑顔のジンジャーマンクッキーにしようか。綺麗な夕焼けだったから明日は清々しく晴れるだろう、それだけでも気分の落ち込みが、多少ましになってくれれば良いのだけれど。
ペンを取る。遠征記録の束を手に、一つずつ帳簿へ写し始めた。今日の遠征は全部で十二回。全て写して、記録と帳簿を見直すこと二回。数字に相違ないことを確認して電卓をたたく。出撃分と合わせた合計を仮書きしたところで台所の扉が開き、陸奥が顔を覗かせた。
「お待たせ。ご飯出来たわよ。」
「はあい、すぐに!」
言うが早いか提督は立ち上がり、うきうきして向かう。台所と一体になった食堂のテーブルの上には、実に美味しそうな夕飯がほかほかと湯気を立ち昇らせていた。
「今日は陸奥特製のオニオングラタンスープよ。それと、魚のソテー。」
「わっ、すごーい!美味しそう!」
「玉葱が幾つか有ったから、ね。でもパンを中へ入れなかったから正式なレシピじゃないのよ。」
陸奥は謙遜するが、グラタン皿にたっぷり盛られたスープは、なんとも腹を空かせる香しい匂いを放っていた。飴色の玉葱はまだふつふつと煮えていて、チーズがその表面をとろりと覆っている。パンは入っていないと言ったがスープの真ん中はこんもり盛り上がっていた。その隣、白磁の平皿には、バターでソテーされ菜の花色の衣を纏った白身魚が一切れ。つやつやした人参と隠元が彩りを添えている。小さなバスケットには焼き戻しされたフランスパンと田舎風パンが数切ずつ収まっていた。
もう待ちきれなくて、提督はいそいそと席に着く。陸奥はくすりと笑って向かいに座った。両手を合わせ、頭を下げる。
「いただきます。」
「はい、召し上がれ。熱いから気を付けてね。」
早速スプーンを取り、オニオングラタンスープの中央に差し込む。こんもり、の正体は、卵だった。半熟より少し硬いくらい、黄身のとろけるような塩梅で、掬った瞬間思わず歓声が洩れる。慎重に吹いて冷ますつもりが、気持ちが急いて、まだ熱いのは分かっていたけど口に入れた。沸騰しているような熱さにはふはふと息を吐く。チーズも、玉葱も、卵も、全てが口の中でとろけて。
「んーふふふ、美味しいー……!」
「ちゃんと冷まさないと、火傷しちゃうわよ。」
陸奥は水の入ったコップを勧めるが、この口の中の旨味を洗い流してしまうのは惜しい。行儀は悪いけれど、咀嚼しながら唇を少し開けて熱を逃し、飲み込んだ。間を開けずもう一口。堪能する様子に目を細め、陸奥はフォークとナイフを手に、ソテーを小さく切る。身はふっくらして丁度良い火の通りだ。塩加減も悪くない。我ながら良い出来だ。
提督はパンをちぎってスープに浸した。ふわっとした白い部分がスープを吸い込み、スプーンで玉葱とチーズと卵をちょっと乗せて口へ運べば、これもまた堪らない。
「美味しいなあ……骨まで冷えるような寒い日に海から帰ってきて、このスープを出してもらったら、温かくて美味しくて泣いちゃうかもしれない。」
「大げさねえ。でも、寒くなると、スープとか具が沢山入ったお味噌汁とか、恋しくなるわよね。」
「ね。シチューとか、豚汁とか。ああでも、具が少なくても、あら汁なんかもいいなあ。海老とか蟹のお味噌汁も。食べきった後の骨やら殻やらからあんなに美味しい出汁が出るんだから、偉いもんだよねえ。捨てるところ無しだ。」
「あら汁か……いいわね。私も食べたくなってきちゃった。明日は魚屋さんを見て、良いものがあったらその身をメインのおかずに使って、骨や頭を汁物にして。目ぼしいものが無ければ雑魚をたっぷり買ってブイヤベースにしましょ。どう?」
「いいねえ!いやあ、あら汁もブイヤベースもどっちも食べたいなあ、悩ましい……。」
あれが美味しい、これが美味しい。食事の間、食べ物の話が尽きることは無かった。
おかわりしたパンでグラタン皿を綺麗に拭って、しみじみと味わい、口は名残惜しいがお腹はいっぱいで、ごちそうさまと深く礼をした。陸奥は空の皿を集め立ち上がる。
「無花果はどうする?今すぐ?それとも、少しおいてから?」
「今でお願いします!」
「それじゃあ、少し待っててね。」
にっこりして踵を返した。食後の後片付け、何度か申し出たものの、その度に丁重に断られてしまう。陸奥は皿を流しに置くとまな板と包丁を出し、やかんに水を入れ沸かし始めた。無花果に合わせるのは温かいコーヒーだ。
無花果のへたに切り込みを入れてお尻の方へひっぱれば、バナナのように皮が剥ける。小ぶりなので四等分。フレンチプレスを出して、粉を量って、そうこうするうちにお湯が沸く。
「お待たせしました。」
まるでレストランのそれのように恭しく、コーヒーと無花果が供された。提督はまた深々と頭を下げるが、コーヒーは二つなのに無花果の皿が一つなのを不思議に思う。
「むっちゃんは後で?」
「ええ、私はお風呂が済んでから、お酒と一緒に……ね。」
はにかむ陸奥になるほどと相槌を打って提督は無花果一切れ口へ入れた。果肉はとろり、種はぷちぷち。舌には甘く、鼻には香りが抜けていく。夕雲たちは、もう食べただろうか。
「美味しい、本当に食べ頃だ。無花果って、お酒のアテ向きなの?」
提督は、下戸だ。しかも超が付くほどに。大規模作戦の祝勝会で手にするのはサイダーかジュース、正月のお神酒の振舞いでは渡された杯を猫のようにぺろっとひと舐めしてどうにか形を取り繕い、なんなら注射を打つ前のアルコール綿でも皮膚が赤くなる。だからおつまみ自体の味の良し悪しは分かってもそれが酒と合うのか、この酒にはこの味とか、その判断が殆どつかない。
一方陸奥は、鎮守府内でも上位レベルの酒豪だ。ワインも飲むし、カクテルも日本酒も。飲む時は相当飲むのだが、隼鷹やイヨのような、明らかに酔っぱらった姿はついぞ見たことが無い。世間一般にはザルとかワクとか呼ばれる部類だろう。ただ普段は、提督も飲まなければ姉の長門も同様なので、夜に数杯嗜む程度だ。
「干した無花果はワインのお供でよく出されるし、生の無花果も生ハムとかチーズと合わせて、シャンパンと一緒に楽しんだりするわね。」
「うわ、お洒落。」
「でも今日は、何も手を加えないでそのまま、ウイスキーと頂こうかな。梅酒みたいにウイスキーへフルーツを漬け込んで果実酒を作ったりするんだけど、その簡易版みたいなものかしら。生のままの果物を食べながら少しお酒を口に含むのって、華やかでいいの。」
「ああなるほど。そう言えば、うちのおばあちゃんがホワイトリカーじゃなくてウイスキーで梅酒作ってたなあ。これは寝かせれば寝かせるほど美味しくなるんだって言ってったっけ。」
「あら、それはとっても贅沢ね。普通は作らない上等な梅酒よ。」
「うち、おじいちゃんが吞兵衛だからね。多分、色んな種類の梅酒が飲みたいって我儘言ってたんじゃないかな。」
「それで作ってあげる御祖母様が優しいじゃない。きっと御祖父様が、美味しい美味しいって喜んで飲んでたのね。」
微笑み、陸奥は不意に自分のコーヒーカップをソーサーへ戻した。
「試してみる?」
つやつやと光る、桜の花の下へ置いた真珠のような爪の先で、提督の前にある無花果の皿のふちをコツンと示した。
「無花果と、ウイスキー。一口だけ。」
超が付くほどの下戸、ではあるが。
一口で顔が赤くなることはあれど前後不覚になるでもなし。洋酒の入ったケーキやプリンは好きな方だし……それは、酒の云々ではなく甘いものが好きだから、だけど。そう、甘党だからこそ、果物と一緒に飲めば甘くて美味しいかもしれぬと思ってしまったら試したい。提督は超が付くほどの下戸だが、美味しいものに目が無い食いしん坊なのだ。
――――陸奥が好きな味を知りたいという下心も、無くは、ない。
無花果と陸奥を交互に見て小さく頷いた。陸奥は席を立つと酒棚からウイスキーを出し、食前酒用の小さなグラスへ半分ほど注いで提督の前へ置いた。
無花果、一口。二度ほど噛んで、ウイスキーを恐る恐る、一口。滑らかな琥珀色は鼈甲飴を想像させるが、グラスを近付けるときついアルコール臭が鼻を刺す。口の中で無花果と混ぜる。一瞬、苦味が無花果の香りを纏い、食べ頃の無花果がさらに熟したような……有り得ないことだが、腐らずに熟し続けたかのような、深みのある甘さが舌を包んだ。
しかし次の瞬間、下戸の口にはアルコールの苦味が優勢になって一気呵成に広がる。顔を顰めてどうにか飲み込むと喉が焼けるように熱い。大嫌いな野菜を無理矢理食べた子供のような有様に陸奥は朗笑した。
「お……美味しかったです、一瞬……。」
「やっぱりウイスキーは強かったかしら。無理しないで、残りは私が飲むわ。」
「面目ない……。」
コーヒーカップを取ってピリピリ痺れる舌を洗い流す。こっちだって苦いには苦いのだが、ほっと染み込むような苦味だ。微かにチョコレートを思わせる香りに提督は安堵の溜息を吐き、そのまま項垂れ、落胆の息に変えた。
「お酒、もう少し飲めるようになったら料理の楽しみ方の幅も広がるんだろうけどなあ……。」
「少しずつ飲んで飲めるようになる人も居るけど、何度か試して駄目ならもうそれは体質よ。それなのに意地になって飲んだら体に毒だわ。」
「ですよねえ。ああ、じいちゃんは呑兵衛なのに。お酒の味知ってて、コレにはアレが合うよ、なんて言える格好良い大人になりたかったなぁ。」
「あら、格好の為にお酒を知りたいなんて、子供みたいなこと言って。お酒の味を知ってるより格好良いことなんて沢山あるじゃない。」
「力自慢とか、車の運転が上手いとか?」
陸奥は殆ど注いだままの量が残っているグラスを攫う。一口飲んで、その手で頬杖をついて艶笑した。
「一緒に夕日を見ている人を、照れずに口説けるか……とかね?」
ぎくっとして提督は息をのむ。飲み込んだ筈のアルコールが喉へ戻ってきたようにカッとする、「それは、」泳ぐ目の縁が熱く、「あの、」舌がもつれてどもってしまう。頭が火照ってきた、ほらたった一口で顔が赤くなる。
綺麗だ、と。
思った瞬間素直に言える舌に下戸も上戸も無いでしょうと、綺麗な人が目で言って笑っている。
しどろもどろになった提督はとうとう観念して、両手をテーブルにつくと頭を下げた。
「……今日はすみませんでした。明日以降、やり直させてください……。」
あらあら、と陸奥は高く笑って残りのウイスキーを飲みほした。透き通ったグラスに、無花果の果肉のような薄紅梅色の口紅の跡が、艶やかに残っていた。
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大井と雨とコーヒー
ショルダーバッグを下げれば、それだけで『街まで行ってきます』のシンボルになる。鎮守府内なら制服のポケットへ財布と小物をいれれば……否、最悪全て忘れてもどうにかなってしまうから、何か荷物を持っている、というだけで、ただうろついているのではないと分かる。階段でばったり会った雷巡二人も、提督の姿を見るや表情を和らげた。
「お、提督、街行くのー?」
「うん。予約してた新刊が入ったって連絡あったんだ。今日は夕方から雨だっていうし、早めに行ってくるよ。」
「なるほどねー。うちらも雨降る前に洗濯してきたんだ。」
ね、と北上が顔を向けたのに合わせて大井は頷く。
先日、鎮守府のある地域でも梅雨入りが発表された。予報では今夕から降る雨は明後日未明まで続くらしい。その後も曇ったり小雨だったりと、梅雨らしい一週間となるようだ。今から干せば部屋でも乾くだろうし良いね、と提督は穏やかに返す。
それじゃあとその場を離れる提督は、本が待ちきれないのか足取りも軽い。まるで子供のような背中をやれやれと優しい微苦笑で見送り二人は部屋へ戻った。カーテンレールと柱へ紐を渡して、洗濯物を順次干していく。まだ午前中だというのに、分厚い灰色の雲の所為で、外は日が暮れたかのように暗い。最後に洗濯籠に残ったスカーフをかけて、大井は窓の外を眺め顔を顰めた。
「なんだか、もう降ってきそうですねえ……。早めに行ってきて正解でしたね。」
「やだねえ梅雨なんて。視界は悪いし艤装は濡れるし良いことないよ。」
「この時期は大規模作戦が無いのがせめてもの救いですね……さ、お茶でも淹れましょうか。」
「賛成ー。」
北上の長閑な返事ににっこりして、大井は窓辺を離れた。
サーッ……。
不意に耳へ入って来た音に、しまった、と、眉を顰めて顔を上げた。細かな雨粒は、喫茶店の広い窓をすっかり濡らしきっている。「ああ、」溜息ともつかぬ声を漏らすと、カウンターの内側で、客の自分と同じように本を読んでいた店主も窓を見やって、「ああ、」と似たような音を返した。
「降ってきちゃったねぇ。」
「参ったなぁ、天気予報だと夕方からって言ってたのに。」
「まぁ仕方ないね、この時期は。」
初老の女性店主はおっとり言いながら窓へ近付き、濃い色に染まった路面を見て肩を竦めた。降り出してからそれなりに経っているようだ。降り始めの弱い雨音は、店内を流れる音楽にかき消されていたのだろう。
心待ちにしていた本を受け取るや提督は外の天気のことなんて忘れ、冒険に出かける前のように胸が高鳴った。その鼓動のまますぐに鎮守府へ帰るのも惜しく、本棚の間を、また書店を出た後も商店街の道をそぞろ歩き、物語へ飛び込む友は美味しいコーヒーにしようと喫茶店の扉を叩いた。入った頃はまだモーニングの客が残っている時間帯だったが、コーヒー一杯頼んで本を開き、そのうちに一人帰り、二人帰り、たった一人残っても、まあ昼時まではお世話になろうとお代わりを注文して読みふけっていたら、この雨だ。提督は本を置いて溜息を吐く。滑稽な悲哀に満ちたその様に店主はころころと笑った。
「心配しなさんな、傘の一本くらい余ってるよ。次来る時に返してくれればいいから。」
「本当?助かります、有り難う。」
「畏まることはないよ、困った時はお互い様さ。」
奥の扉へ引っ込んだ店主は程なくして黒の蝙蝠傘を手に戻ってくる。「コーヒー二杯で千円。レンタル料はサービス、ね。」茶目っ気ある会計に提督は雨の憂いをすっかり解き、財布を出そうとショルダーバッグを開いた。
中へ放り込んでいた懐中時計が、不意に目に留まった。十二時少し前。我ながら正確な腹時計をしているものだと心の内で笑って、鞄を閉じてカウンター席に向き直った。
「店長さん、もう少し居てもいいですか?」
「ああ、それは勿論。いつまででもどうぞ。」
「良かった。じゃあ、ナポリタン一つお願いします!」
美味しかった昼食に膨れた腹を、よく食べましたと褒めるようにポンポン叩きながら食堂を出るや、ぱたぱたと小さな駆け足が二つ、此方へ向かってきた。
「北上さーん!」
ぱしっ、と北上に抱き着いた大東は、子供らしい丸顔いっぱいに笑みを浮かべて見上げる。
「ねー漫画借りに行っていい?今から!」
「おわ、なんだよ急にー。漫画ぁ?」
「大ちゃん、走ったら駄目だってば……ご、ごめんなさい北上さん、大井さん。こんにちは。」
遅れてきた日振は大東のワンピースの背を掴んで窘め、北上と大井を見上げるとぺこりとお辞儀をする。困り顔は妹と二人をいったりきたり。すっかり恐縮しきっているから、なに構わないよと手を振り、北上は大東の帽子をポンと叩いた。
「漫画ってこないだ読ませたやつ?」
「でもいいし、違うのでもいい!北上さんの持ってる漫画、図書室に無いのばっかだから、ぜーんぶ読みたい!」
「貴女達、今日は練習航海の後、対潜哨戒じゃなかった?時間は平気なの?」
「あの、練習航海は中止になったんです。雨が降ってきちゃって……。」
「雨?」
日振の言葉に二人は廊下の窓を見やる。遠くからでは朝と変わらぬ曇天に見えたが、近付くと、道や木の葉の濡れているのや、細く降る雨が分かった。「だから鎮守府近海は止めて、神風さん達が北方鼠輸送へ行かれることになって……。」続く説明に、北上は納得の溜息を漏らし、まだ抱き着いている大東を見下ろした。
「んで、暇になったから、漫画貸してってことかあ。」
「そ!ねー今から行っていい?」
「いいけど、先に昼ご飯食べてきなよー。食べながらは読ませないよ?」
「とっくに食べたよ!遠征行くんだったんだから!」
「……あ、そっか。」
「だからいいでしょ、ね!」
大東は行く気満々でにこにこしている。北上は大井と顔を見合わせ、仕方ないねと互いに苦笑いを浮かべた。ぽん、今度は抱き着いている小さな手を叩く。
「分かった。でもうちらの部屋は駄目、漫画持ってアンタ達の部屋に行くから、先行って待ってな。」
「やったあ!待ってるからね、早く来てね!」
「ちゃんと部屋片して座布団出しとけよー?」
「もう……ごめんなさい、有り難うございます。」
「そんなに気にしなくていいのよ。私達も、用事もないし、午後何しようかって話していたくらいだから。」
大井がそう慰めると日振はようやくほっとした顔になって、また頭を下げ、大東にも礼をするよう促す。「あんがと!待ってるからね、早く来てね!」大東は弾むように言って、北上が来るのが待ちきれない様子で階段を駆け上がっていった。
二人ものんびり部屋に戻る。さて、と小さく呟き、北上は本棚から漫画をピックアップしていく。並んでいるのは、もう完結している、ちょっと古い漫画ばかりだ。幼い大東の目には珍しく面白い読み物なのだろう。「こないだこれ読んでたから……」中々真剣な表情をして選んでいる北上を微笑ましく見つめ、それから、大井は窓へ視線を移す。雨は強くなったり弱くなったりするくらいで止みはしないのだろう。海は暗く、遠く靄がかっていた。
「――――よし、こんなもんでいっか。じゃあ大井っち、ちょっと行ってくるね。」
「ええ……あ、北上さん、念の為鍵を。もしかしたら私も何処かへ出るかもしれませんから。それと、これ。」
部屋のお菓子籠から個包装されている小さい栗まんじゅうを幾つか渡すと北上は大東とそっくりな笑顔を浮かべた。「ありがとね。」ドアの傍にかけてある部屋の鍵をポケットへ突っ込み、大井に手を振った。
無類の強さを誇るでもなく、いつも飄々としているから、駆逐艦も海防艦も懐っこく寄ってくる。小さい子は鬱陶しいだなんだと言いながら面倒見がいいし、かといって過度に親しくするでもない。従姉妹よりもう一つか二つ離れた親戚のお姉さん、くらいの、丁度いい付き合い方をしている。唯一無二の相棒が『お姉さん』している姿を見るのは大井の密かな楽しみでもあった。更にそれを一人で見るのではなく、何人かで眺め、「北上さんって優しいですよね」なんて言われようものなら、その喜びは二三日胸に灯った。
大東と日振に挟まれ漫画を読んでいる北上を想像するとつい頬が緩む。帰ってきたらきっと満更でもない顔をして「疲れたあ、読ませるんじゃなかったよ」なんて言うのだろう、まるでそこにいるかのように声が再生された。大井は忍び笑いをしながら腰を上げ、壁掛け時計を見る。十二時を過ぎた頃だった。
部屋を出て、念の為帰宅しているかを確認しておこうかと考えながら廊下を歩いていると、向かいから声がかかった。何冊か本を手にした鹿島だ。
「大井さん!お出かけですか?」
『鞄』は、出かけます、のシンボルだ。大井の左肩には生成りのトートバッグが下がっている。
「ええ。北上さんが、夕ご飯は醤油ラーメンにしようかなって言ってたから。彼女、葱たっぷりが好きなんだけど、卵とかチャーシューの追加はあっても葱はないでしょ?だからこっちで葱を買って用意していこうかな、って。」
「へえ、北上さんって薬味お好きなんですか?」
「ラーメンの時だけね、お蕎麦は普通だし。」
へえー、と頷く鹿島が持っている本へ目線をやり、貴女はこれから何処へ行くのかと声にせず尋ねる。鹿島は背表紙を此方へ向け得意げに胸を張った。
「今日は睦月型の皆と魚雷の勉強会です!小口主砲では大型艦相手に決定打を与えられませんけど、雷撃であれば撃沈させられますから!魚雷の種類による威力の違いと、各艦でどんな風に魚雷を搭載したら大型艦の装甲が破れるかをまとめるつもりです!」
漲るやる気に微苦笑するが、勉強会の中身は有用だ。「いい会ね、頑張りなさいな。」「はい!」鹿島は元気よく頷いた。
「お買い物、気を付けてくださいね。雨降ってきちゃいましたし。」
「あら大丈夫よ、レインブーツも履いたし。貴女の方こそ、資料が足りないとか勉強会に遅れそうとかで走って、濡れた廊下で転んだりしないようにね。」
「しっ、しませんよ!」
声が裏返ったのをみるに経験があるのだろう。大井は、ならいいけれど、と白々しく返し、そこで鹿島と別れた。
正面玄関を出て傘を開く。白いラインが細く入った、あけ色の傘はお気に入りだ。暗い空が頭の上だけ薄く晴れたような気分になる。大井は傘を見上げひと回しして、街へと歩き出した。
からん、とベルが鳴って、店主はドアを向き「おや」と綻んだ。
「こんにちは。珍しいね、今日は一人?」
「ええ。雨の中、北上さんを連れ回す訳にいきませんから。」
その声に提督はスプーンを置いて振り返る。目が合い、大井は呆れた顔で肩を竦めた。
「早く帰るって言ってませんでした?」
「大井?あれ、え……あぁ、いやぁ……。」
丸くした目を幾度か泳がせ、提督は眉を八の字にして笑って誤魔化す。呆れ顔のまま大井は提督の隣の椅子を引き、二人の間に藍色の傘の持ち手をかけた。
「半日艦隊を放っておくなんて、いいご身分ですこと。」
「……返す言葉もございません。傘、有り難うございます……。」
「本当ですよ。まさか、傘が無いから帰れませんでしたなんて言いませんよね?」
「傘一本レンタルするよとは言ったけど、どうせお昼だからって追加の注文をもらったねぇ。」
「ああっ、あの、それは……」
「本っ当にいいご身分ね?華族のご出身でしたっけ?」
「……大変申し訳ございませんでした……」
提督はテーブルに手をついて深々と頭を下げた。大井は店主と顔を見合わせ、ふっと苦笑いする。
「艦隊を代表してお詫びの品を受け取ってさしあげます。蜂蜜カフェオレいただけます?」
「はいはい、ちょっと待ってね。」
提督は恐る恐る顔を上げた。大井が座る椅子に、生成りのトートバッグが引っかけられている。葱の緑の部分がひょっこり顔を伸ばしていた。
「……買い物してきたの?」
すると大井はツンと鼻先を上げる。
「誰が態々お迎えにだけ来ますか。というか、買い物がメインで貴方はついでです。北上さんがラーメン食べたいっていうから葱を買い足したくて、そういえば傘も入らないような小さい鞄もって浮かれて出て行った誰かさんがまだ帰ってきてないなって出がけに偶々思い出したので。北上さんの思い付きと私の優しさに感謝しなさいな。」
「しますっ!神様仏様北上様大井様、感謝してもしきれません。」
「これに懲りたら、この時期の外出には傘を持って行ってくださいね。雨男さん。」
はい、と素直に首を垂れ、ふと、食べかけの自分の注文に目を移す。カウンターとキッチンの境目に置いてあるメニューをとり、それを大井に向け、なんとも情けなく笑った。
「もしよろしければ、カフェオレと一緒に何か甘いものも……。」
大井はちらりとメニューを見やり、それから提督の正面にあるものへ向いた。脚付きの銀色カップに入った、コーヒーゼリー。
黒ではあるが、透き通ったそれをじっと見つめていると、時折赤銅色が顔を覗かせる。くすんだ輝きのある銀のカップの中に収まっている様には凛々しさが漂い、水出しコーヒーを元にした澄んだ苦味と相まって、ブラックドレスを纏った往年の名女優が如き品格を感じる。滑らかな歯ざわり、鼻腔に広がる香ばしい香り、舌に沁みる柔らかい甘さ、喉へ落ちるつるんとした感触。この先暑くなってからは最高のおやつで、今日のような湿気の纏わりつく日にも快い一品だ。さっぱりと味わいたいならそのまま食べてもいいし、別添えで生クリームを頼めばしっかりしたデザートになる。
大井はメニューへ視線を戻し、ケーキの写真を眺め、背筋を伸ばしてカウンターの奥にあるガラスケースの中身を確認する。青磁の平皿に並べられたチーズケーキとシフォンケーキもなかなかに蠱惑的だ。焼きたてのホットケーキにバターを乗せメープルシロップをたっぷりかけるのも捨てがたいし、コーヒーと少しのリキュールを含んだスポンジとチーズの濃厚さがたまらないティラミスも食べたいけれど。
「――――コーヒーゼリーもお願いできます?」
店主に声をかけ、閉じたメニューを提督に返した。お揃いが嬉しいみたいに小さく笑われたから大井もついつられてしまった。
「いいよね、コーヒーゼリー。お昼ナポリタンにしたんだけど、その後ちょっと甘いものが食べたいなぁ、でもそんなに量はなぁ……ってなると、コーヒーゼリーがぴったりでさ。」
「甘さが、一息つくのに丁度いいんですよね。苦味と香りもしっかりしてて、これだけでもコーヒー一杯飲んだみたい。」
提督の相槌にケトルの鳴る音が重なった。コーヒー豆を蒸らすのに少しだけ湯が垂らされ、それだけいい香りが広がり、二人は深呼吸する。
「……カフェインがあるから夜飲むのは良くないって分かってるんだけど、この匂いのリラックス効果っていうのも絶対あると思うんだよねえ。」
「緑茶とかも、一日の終わりに、のんびり飲みたくなりますよね。それに甘いもの一口あれば完璧じゃないですか?」
「そうそう、寝るちょっと前、コーヒー一杯と小さいチョコレートとか、でなかったらエスプレッソ!」
楽しく話すうちにコーヒーの香りは強くなり、ややあって蜂蜜カフェオレが供された。「ゼリーも今出すね。」店主は穏やかに言って冷蔵庫を開ける。一口飲んだ大井の唇を白い泡が覆う、ほう、と一息つき、提督と見かわして小さく笑い合った。
「――――あ、そうだ。持ち帰りでチーズケーキも二つお願いします。」
「はーい。包んでおくね。」
「北上の分?」
「ええ。私ばっかり美味しいもの食べる訳にはいきませんし、それにお昼ご飯のあと海防艦の子たちに捕まっちゃってましたから。おもりで疲れて帰ってくるでしょうから甘いもので労わなきゃ。」
「ああ、大東か、なるほどね。しかし北上もなんだかんだ言いながら面倒見が良いよなあ。」
「……ええ、でしょう?」
そう答えた大井は、甘いお菓子を食べたみたいに、とても幸せそうだった。
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