落とし文 (月見肉団子)
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落とし文

 月の浮かぶ空。今にも落ちてきそうな夜空がこちらを見下ろす。手を伸ばせば届いてしまいそうな程に今宵の月は脆く、儚く、そして完璧であった。

 月光が仄かに差し込んでこちらへと伸びて来る。暗闇を優しく照らし出す光の線を指でつっ、となぞる。……少し着物が被ってしまったわ。

 

 今宵は十五夜。中秋の名月が空を飾り、芒や団子を飾り立て今年の収穫を感謝する日。そうね、あとは里芋を月に見立ててつくる『さぬかつぎ』なんてものもあるし、芋名月なんて呼ばれ方もした、そんな月夜。

 幻想郷では月見酒と言いながら、いつもが如く神社に参集して大騒ぎ。そんな宴会にも顔を出してその後、興奮冷めやらぬ中で永遠亭でもささやかなお月見をしたの。みんなとお団子を食べて、少しのお酒を頂く。それでもやっぱり騒がしいものであったようで。人払いしてもらった空間にいると、少しだけ騒がしさが恋しくなる。

 余韻が耳の中で反響するのを楽しみながら秋の声を聞く。混ざり合った音がまるでさざ波のように繰り返された。

 ふっ、と視線を空へ向ける。視界を覆うようにこちらを覗き込む竹の影。その隙間から見える丸い故郷。手を翳してみるも自身に影が落ちるばかり。

 

「ずいぶんと……遠くまで」

 

 地上に溢す今更なこと。もう時間も経ち過ぎてしまった。住む場所も、取り囲う人も、年月すらも名前を変えた。変わらないのは私と月。それだけ。

 少し感傷的なことを自覚しながらも月をなぞる。ふと、別の気配を感じて振り返る。思わず綻んだ。

 

「ようこそお客人、私の竹林へ。遠路はるばる地上まで、ご苦労様」

 

 視線を遣った先には月からの使者が一匹。白い毛並みを躍らせてぴょんと暗がりから躍り出る。

 

「おいで」

 

 ぽんと、膝を叩いて月より出ずるご客人を迎え入れる。ふわりとした毛をひとしきり楽しみ、笑みをこぼす。そして再び私達の故郷を見遣る。丸くて、表情があって、愛嬌なようなものも感じる。……変わるものね。色々と。

 ふと竹林が揺れる。緑の香りと衣擦れ染みた音を運んできた。コオロギがちりちりと鳴いている。

 

「萩の月 ひとへに飽かぬものなれば……」

 

 もうこらへるものもなけれども。ぽつりと呟いて。

 ねぇ、お客人、と膝下の兎に呼びかける。

 

「今は昔のお話。まだ人間として馴染めていた頃のお話があるのだけど、聞いて下さるかしら」

「今宵限りの寝物語を」

 

 膝の上のぬくもりが少し場所を変える。月からのお客人は聞く体勢。月とお客人と私。

 告解というのかしら、それとも後悔なのかしら。どちらにせよ秘めたままというのにも少し疲れてしまった。月の力が強い今ならどちらかにも浮かんで消える。そんな気がして。

 

 だから、この月夜の下にて明かしましょう。

 今は昔のお話。色あせて擦り切れた古ぼけた光景のお話。こうして変わらずにいる不変の過去。遥か天上にいる生き証人とともに、お話致しましょう。

 

 かつての私は月の民。穢れの無い清浄な土地で変わらぬ生活を繰り返す幸福な民だった。

 けれど、いつからか私の心は月には無かった。遥か彼方の蒼き星、穢れに塗れた月の流刑地に私は惹かれていた。

 神隠しという形でやってくる地上の民に話を聞いたり、噂を集めたり。その欲望はどんどんと膨れていって、ついに、はちきれた。

 罪を贖う場所としての地球。だとするならば、罪を犯してしまうのがいい。

そして私は、好奇心が猫を殺してしまうように、帰還不能点を超えてしまった。月の都に存在する不老不死の薬。存在そのもの禁忌とされるものに私は手を出したのだ。結果、私は月にどころか、人間にすら戻れなくなってしまっていた。

 戻る事を許されぬままに私は地上に流れ着く。何もかもを忘れて、穢れを背負う。それは、長い長い懲役になる。この青い流刑地での私の贖罪。

 

 それでもここは、この地球は眩しかった。今でも地上に降り立った時の事を忘れない。おじいさんに竹から外へと出してもらった時。おばあさんに抱き上げてもらったこと。薄い布団ながらも一緒に寝た事。全てが記憶に焼き付いている。

 美しい姫君と呼ばれた事、言い寄る殿方に無茶なお願いをしたこと。あぁ、そうね。この頃から私の収集癖ってあるのよね。達成されずに諦めていく殿方たち。確か『彼女』の親もその中にいたらしいわ。

 そうして噂が広がっていって、ついには帝の耳にも届いたの。始めは使者を寄越して、そのあと自らいらっしゃって。けれど私は断ったの。今までの方に申し訳ないと。

 それでも彼は諦めなかった。食い下がってきて遂に根負け。そこから帝とのやりとりが始まった。愛を語る歌と、それを躱すやり取り。それはどこか鬼ごっこのようにも似ていて、だんだんと愛着を持てるやり取りでもあったわ。

 あの人は私が終始つれなかったみたいに書いていたらしいけど、実際の所は悪くないくらいには思っていたの。あれは私を守り切れなかった彼が、自分を恥じて、あえてそう書いてくれと言ったみたい。……本当よ。 

 そうやって、様々な愛情を受けて私は育ったの。けれど、そんな時間は長くは続かなかった。

 

 帝と手紙のやり取りを始めて三年くらい。それくらいの長くて短かった時間が過ぎた頃。私は思い出してしまったの。

 いつぞやの月を目にいれてしまった瞬間から、私の罪を思い出してしまった。 不死な私に終わりなんてないけれど、それでも贖罪の期間は終わりを告げる。そのことをはっきりと自覚したのよ。

 けれど、もう私にはそれはどうしようもない事になっていたの。引力に惹かれて地球に降りて、遠い遠い月の斥力に身を任せた。そんな私からは手が出せない程に、あの場所は遠いものになってしまわれた。

 日に日に月の力が強くなっていく。それは月からの使者がやってくる、という文の代わり。日を重ねるごとに、私への呼びかけが強くなっていて、もう、どうしようもないと知りながらも、近づく別れに涙をはらはらと流す。

 

 結局、地球の暖かい重力は、私には耐えられなくて。とても大切なのに、両の手で支えられない。ふわりと浮かぶ月の住人である私には届かない。この流れる涙すらも、月では浮かんでしまう。どうして同じ場所に住んでいられようか。

 そうね。今日みたいな十五夜の夜。それが、夢の様な日々の終わる日だった。

 

 ある日、部屋の片隅を見ると、今までのおじいさんとおばあさんが編んでくれた衣があって、繕ってくれた床があって、今までの日々が浮かぶ。その度に胸につまるものがあって、目元に熱いものがこみ上げる。

傍らの帝の文を見ると、ずいぶんと高くなってしまった嵩の束。書き始めると、一旦筆を置いて何を書いたものかと悩む様になってしまった。幾度の好意を寄せられて、悪く思う者は居ない。月がゆっくりと形を変えるように、私の気持ちも変化していたことに気づく。

 

「あぁ、せめて、もう幾ばくかの時間を――」

 

 そう、願わずには居られなかった。――そして、月へ向けたその願いは叶うことになった。突如として、月からの返事が届けられた。ある日耳元に声が届いたのだ。

 姫様、と懐かしい声がする。それは月の賢者と呼ばれていた彼女の声で、色々と気にかけていてくれたことを明かしてくれた。懐かしさと安堵感がこみあげて、また涙する。

 そして、彼女。現在で永琳と呼ばれる頼もしき才女に、私のわがままを告げた。地上に居たい。月には帰りたくないと。

 その願いを聞いた月の賢者は、少し時間を置いて……違うわね。悩んだあとに、こう告げた。

 

「その願いは叶うでしょう。けれど、貴女は今までの一切のものを捨てなければなりません」

 

 と、告げられる。彼女がそういうのであれば、それ以上は無い、ということ。それを私は分かっていた。それは今の場所からは、どうやっても離れなければならないことを意味していて、それがどうしようもなく悲しかった。

 そう告げられてからも時は流れる。時の流れは残酷で、悩める時間もないままに、すぐに月が登っては形を変え、登る度に月光がこちら側に照り付ける。そして、ついに約束の時が来てしまった。

 

 そして、約束の日。月から使者を乗せた車がやって来る。見知った顔、知らぬ顔。その面々が私達の地上へと降り立つ。おじいさんも、帝も兵を派遣してくれたが、それは無駄な事。幼年期すら迎えていない星の民に、月の使者を止める事なんて出来るはずも無い。もしかしたら、と思う暇すら私には残されていなかった。

あっという間に私は捕らえられ、地上の面々から引き離される。そして近くに寄った永琳に視線を送ると、小さな頷きで返す。準備は万端な様。永琳を除いて使者は数人。これは賢者が計画した殺人計画。失敗するはずも無かった。

 

 計画に乗っ取り事態は進行する。顔も知らぬ使者に薬を渡されて、そして羽衣を渡される。

 

「これを受け取りなさい」

 

 月の羽衣。それは月に戻る資格。すべてを忘却し、穢れを消し去る。この地球の重力から解放されることの出来る着物。すべて記憶を零に戻せる月の着物。これが計画の分岐点であり、私の最後の選択肢だった。

 彼女に言われていたのは、これを着るかどうかはあなたの心のままに。と言われている。永琳は私が過ごして来た記憶をどうするのかを私に託したの。

 

 私はしばし目を閉じる。全ては零になる。無に帰してしまう。あぁ、あはれとは思うものの、これから起きることが悲しいと思うのならば、全てを無かったことに出来てしまうのならば、これを着てしまうべきだ。それですべては解決する。

 今から私は、愛すべき人の前で殺人者となる。無くしたくない、と願った大切な思い出も壊れてしまうかもしれない。

 全てを賭して守ろうとしてくれた愛しき人よ。全てを与えてくれた愛しき両親よ。私は不老不死。あなた達を先に無くしてしまうことが、手から取りこぼしてしまうことが辛いのならば。いずれ、別れてしまうことが分かっているのならば。この選択肢はきっと間違っている。けれど、私はどこかで、あなた達の終わりまで、この地球で暮らしたい。

 本当は分かっている。全てを零にさえすれば、私の事は無かったことになる。白紙になってしまえば、きっとこのままに、私もあなたたちも幸せ。あなたたちには思い出と贈り物が。私は辛いことを思い出さずに済む。

 満月から下される光が降りて来た。あぁ……私はきっと、間違える。きっと、諦観の果ての幸せもあったはずなのに。

 

「――ごめんなさい。それでも、私は狂っているのよ」

 

 使者により、贈り物が手渡される。おじいさんとおばあさんには、この事に対する忘却という選択肢を与える意味で、私と同じ天の羽衣を。帝には………手紙と、不死の薬を置いていく。

 彼はどうするだろうか、そんな事を思う。だから使者に急かされながらも、もう一つだけ、と一つだけ歌を書く。

 

 今はとて天の羽衣着るをりぞ君をあはれと思ひ出でたる

 

 書き終えた私は数歩下がり、羽衣を受け取る。本当は重さなんてない衣の重さを感じながら、その衣を激しく打ち捨てた。そして、私は、そのままに命を一つ摘み取った。

 それを合図に計画は実行された。明るい月夜。いやでも観衆の記憶に焼き付くのだろう。忘れられない程にくっきりと。

 

 全てが終わった後、辺りに命だったものが転がっていた。少し跳ねてしまった残滓をそのままに、帝に近寄る。

視界の端で、おじいさんとおばあさんが腰を抜かしていて、帝のお付き人はこちらを警戒する。私はそんなことすら気にせずに帝に近寄って、満月の下こう告げた。

 

 それでも。どうか、愛しの君よ。また、会える日まで。

 

 それからは永琳との逃避行だったわね。楽しかったわ。もう、おじいさんもおばあさんも会うことはなかったけれど。どうしたのかしらね。私のことなんて忘れたのか、それとも覚えていてくれたのかすら分からない。それにあの人は……

 ただ、旅の途中。富士に立つ煙を見て、永琳にこう告げたのは覚えてるの。

 

「ねぇ、永琳。私……失恋したわ」

 

 これが、今宵のお話。結局どうすればいいのか、なんて今もわからないけれど、あのときのもう一つを選んでいたらきっとこっちにはたどり着けなかった。そんな気がするの。ハッピーエンドではなかったけれど、みんなと一緒にお月見が出来る。それだけで今は良いわ。

 帝への手紙の内容が気になるのかしら……そうね。

 

『月明かりばかり見すぎると、太陽の元に出られなくなるので、思い出すのなら隔夜がよろしいわ』

 

 そう、書いたのよ。

 



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