群青の向こう側 (真城光)
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群青の向こう側

「こんな時間に呼び出すなんて、どういう了見?」

 

 イリスは言った。あたりは夕暮れの日で染まっている。

 

「しかもメーシャ王城前って、地元だよ?」

「趣味だ」

 

 そう言い切ったシンジョウに、イリスは呆れた表情を浮かべる。

 このラフエル地方の歴史を知るのを、ポケモンバトルとは別の楽しみにしていたシンジョウを、相変わらずだと笑う。

 

「いっぱい調べたんじゃないの、ラフエルのこと。それどころか、ご本人まで出てきたのに、まだ知りたいことがあるの?」

「知れば知るほど、知らないことばかりだからな」

「ストイックだね。嫌いじゃないよ」

 

 メーシャ王城は、さほど大きな城ではない。むしろ城と呼ばれているのは、周囲を囲む城壁より内側のことであり、城を皆が呼ぶ場所は時の政治施設の跡地のことであった。

 それでも、時代を感じさせる。在りし日にこの地はさぞ賑わい、活気があり、国を動かすような言葉が飛び交っていたのだろうと思うと、心踊るものがある。

 イリスは目の前の男を見る。

 異邦のジムリーダーであるシンジョウという男は、イリスの戦友であった。

 ともに悪と戦い、ともに勝利し、ともに敗北し、ともに笑い、ともに泣いた。

 ライバルとも親友とも違う彼には戦友という言葉がふさわしい。

 

「バトルをしよう」

 

 そう言った彼が、優しく微笑む。

 言葉とは裏腹なその表情に、イリスは胸の苦しさを覚えた。

 約束したのだ。すべてを終えたそのとき、自分たちは決着をつけようと。

 それがどれほどの励みになったか、彼は知らないだろう。

 そしてその言葉をどれほど待ち望み、けれど時に、遠くにあればいいのにと思ってしまったことを。

 彼は想像もしなかったのではないだろうか、とイリスは思う。

 

 一方のシンジョウも、そうだ。

 いつかはそのときが絶対に来ると知っていた。イリスにやりたいことがある限り、シンジョウのやるべきことがある限り。

 己の内側にある炎が叫んでいる限り、このときは絶対にやってくると。

 決してこの約束を目指してきたわけではない。

 だが屈しそうになるときに、イリスとの約束が己を奮い立たせてきた。

 

「全力で?」

「もちろん」

「私、出し惜しみしないからね。負けたって知らないよ?」

「それもまた、バトルだ」

 

 寡黙なシンジョウの言葉少なながらに感じる気概を、イリスは汲んだ。

 メーシャ王城の前にある広場に、すでに人はいない。観光地になっているが、近隣の街であるメーシャタウンにろくな宿がないことから、空を飛べるポケモンを持たないトレーナーでなければそうそうに引き上げてしまうような場所である。

 イリスから離れて立ったシンジョウは、ポケットからモンスターボールを取り出す。

 

「一対一だ」

「お互いの手の内もわかりきってるしね」

 

 すでに選出は決まっている。自分が持つ、最高の相棒。これまでもこれからも、ずっとパートナーで在り続けるポケモンだった。

 対するシンジョウも、そうだ。すでに何を出すのかは決めている。

 

「ピカチュウ、キミに決めた!」

「やるぞ、リザードン」

 

 現れたのはでんきねずみポケモンのピカチュウと、かえんポケモンのリザードンだった。

 いくつものポケモンを育ててきて、けれども、最初に決めたポケモンである。

 

 シンジョウはイリスのピカチュウを見る。

 そのポケモンは、シンジョウが見てきた中で最高の練度を誇っている。どれほどの冒険と、バトルとを繰り返せばその領域に至れるのか。限界を超えたのも一度や二度ではないだろう。

 それでも膝を折らずにやってきたのは、トレーナーとポケモンとの絆があってこそだ。

 最大の敬意を。そして、最大の賛辞を。

 

 審判はいない。バトルの合図もない。

 だが、二人はすでに準備を進めていく。シンジョウの手にはメガストーンのはめ込まれたカードが握られていた。

 

「俺たちの真価を見せてやる、メガシンカ!」

 

 光を放つリザードン。そのメガシンカエネルギーが周囲に吹き荒れ、草木を揺らした。

 大地が揺れているのではないか、と錯覚するほどの力だった。イリスは目を細めるが、絶対に逸らさなかった。

 現れたのは姿を変貌させたリザードンだった。メガリザードンXと呼ばれる、メガシンカの形態である。

 漆黒の姿に青い炎を揺らすのは、シンジョウの似姿であるとイリスは思う。

 ジムリーダーのひとりは、シンジョウを『誰かに染められることのない、誰かを染めることもない黒』であると評した。それを聞いて、イリスは深く納得したものだった。

 複数のポケモンをメガシンカさせる使い手はいる。だが、シンジョウは二種類のメガシンカを使い分けるトレーナーだった。

 XとYで、Xを選んだのはピカチュウとのタイプ相性だけではない。彼自身が最も力を発揮できると信じているからこそだ。

 

「待たせたな」

「うん、本当に。ずっと待ってたよ」

 

 だから、とイリスは天を指差す。

 

「もう、待たない。ピカチュウ、しんそく!」

 

 イリスの指示でピカチュウの姿が搔き消える。でんこうせっかを超えたその速度に、人の目が追いついていないだけだ。

 並外れた修練の先にたどり着いた奥義とも言えるピカチュウの技は、並み居るポケモンたちを凌駕する。

 本来は覚えるはずのない技、本来は進化しないはずの技。

 何度も何度も同じ技を繰り返したピカチュウは、ついに壁を超えたのだ。

 

 だが、シンジョウはその技を知っている。

 イリスのピカチュウが使う姿を見た。ジムリーダーのカイリューが得意としているのもあった。二人ものルカリオ使いと戦ったこともある。

 いずれも優れたポケモントレーナーであり、しんそく使いであった。

 そんな彼らに勝つために、シンジョウは何度も何度も想像したのだ。

 ああ、どうすれば最速を超えられるか、と。

 

「……っ!」

 

 リザードンが大きく羽ばたく。空を飛ぶためではない。風を起こすためにだ。

 ピカチュウのしんそくが止まる。でんこうせっかと同等の速度はあった。それは、しんそくと比べてしまえば、止まっているも同然だった。

 飛び込んだピカチュウに対し、リザードンのドラゴンクローが繰り出される。

 大きな激突。だが、威力の減衰したしんそくでは、リザードンの拳に打ち負けてしまう。

 後方に飛ばされるピカチュウであったが、すぐに体勢を立て直す。シンジョウのリザードンは、元いる場所から動かなかった。

 

「驚いた。そんな方法があったなんて」

「初手のしんそくは、読めていたからな」

 

 初手でのしんそくは大きな意味がある。相手の出鼻をくじくこと、消耗が少ないうちに全力の攻撃をぶつけられること。

 しかし、シンジョウはそれを見越していた。微塵も動いていない状態、すなわち、脚が地につき踏ん張っている状態であれば、大きな風を起こしその動きを止められるのではないか、と。

 カイリューやルカリオではない、身体の小さなピカチュウでなければ使えない手ではあったが、効果はあったようだ。

 

「やるね。でも、これはどうかな。10まんボルト!」

「だいもんじ」

 

 巨大な火力同士の激突だった。だが、これもリザードンの方が上手であっただろう。元のポケモンの能力にしても、技の威力にしても、メガリザードンXの方が上回っている。

 それも織り込み済み、とイリスは笑う。煙の中ならば目で追うことはできないだろう。リザードンはその巨体故に、動いてしまえば煙の動きですぐに所在がわかってしまう。一方のピカチュウは小さい身体であるから、その煙の中で隠密に行動することができる。

 

「じしん」

 

 対するシンジョウは、面での制圧を仕掛ける。見えないのであれば、すべてを飲み込むほどの大技を出せばいい。

 リザードンは腕を地面に打ち付ける。途端、大きな揺れとともに大地に亀裂が入り、地面がめくれあがる。それは牙となって、ピカチュウを飲み込もうとしていた。

 

「上に避けて! アイアンテール!」

 

 その地面をピカチュウは切り裂く。アイアンテールによって尖った亀裂を乗り越えていき、リザードンに一太刀浴びせようと迫った。

 ピカチュウの尻尾がリザードンの肩に迫る。だが、それは当たらなかった。刀を振るうように、返す太刀を浴びせようとするも、これも一寸のところで避けられる。

 何度も何度も、振り下ろす。けれど掠りもしない。何かの技を疑って、その狙いを読んだ。

 

「りゅうのまいのステップで、避けてるの!?」

「気づくのが遅いぞ、舞は完成した」

 

 煙が晴れた向こうで、シンジョウが言った。リザードンとまったく同じポーズをとっている彼を見て、すべてを察する。

 シンジョウというトレーナーの目は、ピカチュウの動きが見えていたのだ。武術に優れるシンジョウは、いかにすればピカチュウの攻撃を避けられるかわかったのだろう。そしてリザードンは、シンジョウの動きを真似ていたのだ。それはメガシンカという繋がりが可能にしている神業であった。

 シンジョウのポケモンたちが、シンジョウの持つ武術の動きをできることは知っていた。それでさえ脅威的なことだ。

 あろうことか、トレーナーがポケモンの技を会得しているとは思いもしなかった。

 リザードンがドラゴンクローを繰り出すより前に、ピカチュウを後退させる。

 

「これは、参ったね」

 

 冷や汗が流れる。メガリザードンXに一撃もくわえられないどころか、りゅうのまいが完成したいま、その能力向上によって手が付けられない状態になっている。

 一方のシンジョウも、残す策を数えて、ジリ貧になっているのを感じている。リザードンの持っている技はすべて見せてしまった。いや、もとよりすべてを互いに知り尽くしているのであるが、それを正面から受けるかどうかは大きな違いがあった。

 

「ピカチュウ、10まんボルト!」

 

 イリスの掛け声と同時、ピカチュウから雷撃が走る。それはシンジョウがめくった地面を弾き飛ばすほどの衝撃だった。

 いくつかの大きな岩がリザードンに迫る。ドラゴンクローで直撃を防ぎ、掠めるような岩は身のこなしで捌いた。

 だが、その岩に紛れてピカチュウはリザードンに迫る。リザードンが避けて後ろへ飛んで行った空中の岩を蹴り、死角から突撃をする。しんそくが為しうる高速の戦闘軌道に、さしものリザードンも反応が遅れる。

 シンジョウの動きのトレースで避けるが、ピカチュウはリザードンの足元に着地すると同時にボルテッカーを繰り出す。ドラゴンクローで電撃を弾きつつも、ダメージは明確に入った。

 このバトルでの初めての直撃は、イリスのピカチュウによるものだった。

 

「見事だ、だが」

 

 身を回転させたリザードンの尻尾がピカチュウに直撃する。電気の壁でいくらかダメージを減らしながらも、こちらも真正面からダメージが入る。

 再び両者の距離が開く。ダメージを受けたが、未だ健在だった。

 

「やっぱり、押し切れないか」

「いまのはさすがに焦ったな」

「ぜんぜん表情を変えずに言われても、説得力ないんですけど?」

 

 イリスがそう言う。だが、これで終わるはずがない、という思いもあり、むしろ安心したほどだった。

 イリスはシンジョウを知っている。シンジョウという男がどういう者なのか。彼とリザードンが、どこを目指そうとしているのか。

 強さのその先、決して見えない場所を見定め、飛んで行こうとしている。

 並み居るポケモントレーナーが目指すチャンピオンという頂点すら眼中にないのだ。超えるべき壁はいつだって内側にあり、見据える先は霧の中、雲の上だ。

 恐ろしいと感じる。自分が山の頂上を目指し山道を歩いているのに、隣を歩く彼はその頂きではなく、その頂きから見える群青の空にしか興味がないのだ。

 登りきったのもつかの間、あっちの山からの方がよく見えそうだ、とつぶやく。誰に言うわけでもなく、声にするわけでもなく、その目が語るのだ。

 キングダムレギオンのバトルタワー、その頂点で新しい空を見たときの、彼の目を忘れることはないだろう。

 

 シンジョウはイリスを知っている。イリスという女がどういう者なのか。彼女とピカチュウが、どこに立とうとしているのか。

 幾度も幾度も戦い、経験し、学び、ひらめく。それはポケモントレーナーという存在の理想であるとも言っていい。ジムリーダーとして役目を果たすとき、理想のチャレンジャーを名指しするならば、イリスの名前を挙げることは憚らない。

 よく学び、よく鍛え、よく耐えて。

 最後まで諦めず、ポケモンの声を聞き、自由であることで、あるいは自分を律することで。

 手に入れたすべてを己の色とすることで。

 自分の在り方を定めるのがポケモントレーナーというものなら、イリスはまさにその理想の体現だ。

 恐ろしいのは、戦術や物量で押し切ってくる相手などではない。理屈ではない何かで立ち向かってくることだ。

 きっとそれを「愛」と呼び、イリスはそれを持っている。

 チャンピオンシップで灰色の座と相対した彼女の目を、生涯覚えていることだろう。

 

「今度はこちらから仕掛ける。リザードン!」

 

 シンジョウの言葉とともに、リザードンは飛翔した。

 地面を低く飛ぶ黒きリザードンは、その両手にドラゴンクローを纏う。対するイリスのピカチュウもアイアンテールで迎え撃った。

 交錯すると同時に甲高い音が響く。空を飛ぶリザードンはそのまま通り過ぎ、イリスの脇を抜けて空高く飛ぶ。

 そして頂点に達すると急転直下。だいもんじを繰り出し、身を回転させながら、その尾はドラゴンクローを纏っている。

 炎の大回転だった。小さな隕石のようにも見えるその攻撃は、直撃すればひとたまりもないだろう。

 重力加速を味方につけたリザードンがピカチュウに一撃を見舞う。それをしんそくで避けたが、衝撃波で身体が煽られる。

 

「空中戦はお手のものって? でもね、私たちだって、負けないんだから」

 

 ピカチュウがその身に雷を纏う。再びのボルテッカーである。ピカチュウはリザードンではなく、その周囲を駆け回った。

 電気がリザードンが撒いた炎を巻き上げて、巨大な炎の竜巻を生み出す。大きすぎる火力が仇になり、その牢獄にリザードンは閉じ込められた。

 これによって空中戦を封じ込まれた。

 

「擬似的なほのおのうずか!」

 

 思わずシンジョウも声を張り上げる。イリスというトレーナーは、つくづく底が知れない。

 その炎の渦を、リザードンはドラゴンクローで切り裂いた。撒き散らされる火の粉は、夕焼けのほとんど沈んだ先にある暗い空に、一足早い星を映していた。

 

「ねえ、ジョーくん」

「なんだ?」

「ポケモンバトル、楽しいね」

「……ああ!」

 

 まだ、まだ先がある。

 バラル団は言った。お前たちはポケモンを苦しめると。モンスターボールという檻にポケモンを閉じ込め、その指示によって傷つけることを娯楽とし、時に虐げ、時に嘲笑っている。人の歴史とは、何者かを犠牲にしてきた罪だ。

 イリスもシンジョウも、それを否定しない。自分たちがそうでないからと言い切ることはできない。ポケモンを苦しめる者を何人も見てきた。己の欲望を満たすために利用してきた者たちも。

 けれど、人とポケモンは信じあえる。

 人とポケモンという組み合わせでしか見れない夢があって、楽しみがあって、思い出があるのだ。

 悪かったことの前に、よかったことまで消していいはずがない。

 自分たちは、そこに立つのだ。

 

「そろそろ終わりにしよう」

 

 シンジョウは言う。イリスは帽子を深くかぶる。

 リザードンの持つ、最大最強の技。無論のこと、ポケモンリーグ規定では四つの技しか使えず、シンジョウがリザードンに覚えさせている技はだいもんじ、ドラゴンクロー、じしん、りゅうのまいだ。

 ……例外はある。イリスのピカチュウがでんこうせっかを超えてしんそくとしたように、シンジョウのリザードンもまた己の限界を超える。

 

「うおおおおお!」

 

 シンジョウが叫んだ。その拳を振りおろす。まったく同じ動きを、リザードンも行った。

 大きな震動が起こる。それだけではただのじしんだ。その先にあるものを、イリスは一度だけ見ている。

 バトルタワーの頂点で披露したその技だ。ライブカメラがホワイトアウトするほどのエネルギーを発する技が、イリスの前に立ちはだかった。

 リザードンの拳に炎が吹き上がった。それはじしんとともに打ち出され、地面を裂けた跡から吹き上がった。

 

「そうか、ブラストバーン!」

 

 いかなる技を模倣しているのか、イリスは理解する。ほのおタイプ中で最強の技と名高いものの再現、いや、オリジナルを超える技としてシンジョウとリザードンは繰り出したのだ。

 逃げる場所はない。地中も空も、すべてその技の射程である。

 あまりの衝撃に、イリスは腕を交差させる。ピカチュウも同じように受け止めていた。

 光に飲み込まれる。アオイイロの炎は、イリスの目の前を真っ白に染め上げる。

 

 あたりを満たしたのは静寂だった。

 全力を出し切ったシンジョウは性も根も尽きている。メガシンカに加えて、じしんとだいもんじを組み合わせるなどという荒技を行ったのだ。未だリザードンと繋がった状態であるのが奇跡的である。

 爆炎と煙の向こうに、ピカチュウとイリスはいる。その姿を確認するまで油断してはいけない、残心の精神だった。

 煙の中に、影がある。立っているのはイリスだ。顔は土埃で汚れてしまっている。

 そして、目を見て全てを悟った。

 

「まだ立っている……!?」

「間に、合った!」

 

 イリスのピカチュウはその身に電気を纏っている。ボルテッカーによって、その身を守ったのだ。

 むちゃくちゃだった。もはや技能などではない。強引に力を相殺したにすぎない。

 だが、それでも勝つことにこだわるのが、ポケモントレーナーだった。

 じりじり、とピカチュウは迫る。イリスのピカチュウも満身創痍だ。リザードンの攻撃を受けたことに変わりはないのだから、当然である。

 戦意は衰えず、しかし体力は限界である。雷を身体から散らしながら、ゆっくりとリザードンへ足を進めた。

 

 リザードンも同じように、大技を連発し、無茶をしたせいで身動きがとれない。

 ブラストバーンとて大きな反動があるのだ。それを模し、超えていく技がどれほどの反動をリザードンに与えるかなど考えるまでもないことだろう。

 限界を超えた体で、リザードンは動く。その拳を握りしめ、手に小さな炎を宿した。ピカチュウを迎え撃つつもりなのだ。

 

 両者は最後、重なるように交錯する。

 決着を見届けた二人のトレーナーは、もはや喜ぶこともできず、泣くこともしなかった。

 

 

 

 

   *   *   *

 

 

「ここは……」

 

 イリスは座らされていた。

 バトルのあとの記憶はひどくあやふやだった。

 思った以上に体力を使ったようだった。自分はただ指示を出していただけだというのに。

 シンジョウと握手をし、何かを語ったような気がするが、そこから先は覚えていない。

 

「ええっと、ええと。明日は朝からガラル地方に向かって」

 

 など、これから先の予定ばかりが頭を過ぎる。

 そうだった、シンジョウと語ったのはそのことだった。眠気に負けそうになりながらも、再戦しようと。

 シンジョウがジムリーダーをしている地方にいくのが先か、彼がイリスのいる場所を訪れるのが先か。

 もしかするとまたラフエル地方で会うかもね、という話もした。

 

「って、あれ、ここ、メーシャ王城の中?」

 

 周囲のことに、ようやく目がいく。

 王城の中でも一番有名な玉座の間であった。かつてラフエル地方の頂点に立った者は、そこで配下の者たちを見て、国の趨勢を決めていたという。

 そう、イリスが座っている場所こそ、まさしくその玉座である。

 

「え、え、うそ、五秒以上座ってるよねこれ!?」

 

 この玉座にはひとつ、言い伝えがある。

 と言っても子供がみる小さな夢のような話だ。

 夜にひとり、この玉座に五秒以上座れば、最強のトレーナーになれると。

 今回に限って言えば、一人で来たわけではない。シンジョウもきっと付き添って、そして彼もその言い伝えを知っていてこの玉座に座らせたのだ。

 顔が赤くなる。そして、いつか彼にこの仕返しをするのだと誓ったのだった。

 

 

 

    *    *    *

 

 

 

「よかったのですか、置いてきて」

「共通の知り合いに連絡はしたさ」

 

 シンジョウはカイリューの背でそう言った。

 ラフエル地方の上空で、風に吹かれている彼は空を眺めていた。

 都市の光が遠くなっていく一方で、空の輝きは増していた。

 向かう先は南だ。しばらく拠点を置いていたセシアタウンに一度戻ることにしていた。

 シンジョウは自分の故郷に戻る。ジムリーダーをしながら、後進を育て、チャンピオンになりうる者を見定める。そうしていきながら、自分の身の振り方をもう一度考えるのだ。

 手を伸ばしても、星に届かないことなんてわかっている。

 けれども、少しでも触れたいと手を伸ばすことそのものが間違いだなんて思いたくはない。

 いまも信じているのだ。この群青の先にある漆黒に想いを馳せた。

 瞬きを繰り返す。泣きそうで、笑いそうだった。

 きっとこの先に自分の行きたい場所があるのだと、空の向こうへと目を凝らした。

 視界に入ってくる銀色の髪がよりいっそう、星の光を眩くさせていた。

 

「なあ」

「なんでしょう」

「やっぱり悔しい」

 

 ふふっ、と笑う声がした。

 それが「頑張れ」と言われている気がして、シンジョウは己の思いを口にしたことを少し恥じたのだった。



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