ヤンレズ攻略RTA (蚕豆かいこ)
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おかえり! ご飯にする? お風呂にする? それとも……

「あ、おかえり。お仕事たいへんだったでしょ。いまちょうどゴハンできるところなの」

 

 マキが仕事から終電で自宅のアパートに帰ると、彼女がキッチンに立っていた。仕事モードが解除できずに強ばっていた全身の筋肉がとろけていくような、安らぎを覚えるにおい。家庭があって自分の帰りをだれかが待っていてくれる生活とはこういうものなのだろうか。

 

「お味噌汁は赤味噌でお豆腐とわかめが好きなんだよね? こっちはひじきと小松菜の甘辛そぼろ。ピリッとするから食が進むと思うんだ。お野菜はベーコンとレタスのシーザーサラダだよ。マキさんの好きなポーチドエッグも乗せてあるからね。メインはガーリック醤油チキン。疲労回復には鶏肉がいいんだって。ちょっと味を濃いめにしてあるから、箸休めにタコときゅうりの酢の物も用意してみました!」

 

 エプロン姿の彼女は花がこぼれるような笑顔で皿を並べた。いつもは侘しいローテーブルが極彩色に輝いた。

 

「さきに手を洗ってね。お風呂も沸かしてあるから。いつもゴハンのあとにお風呂でしょ?」

 

 かいがいしく世話をする彼女に、マキは上着を脱ぎながら尋ねた。

 

「で、あなた、だれ?」

 

 彼女が笑顔のままプラスチックで固められたように止まった。まばたきもせずにマキを直視しつづける。マキは一人暮らしである。管理人のおばさん以外に合鍵を持っているような相手もいない。

 

「だれって」彼女は吹き出した。「そっかぁ。ずーっと見てるばかりだったから、マキさんとじかに会うのははじめてだった。じゃああらためまして。わたしは夕霧美奈子。美奈子って呼んでね」

 

 美奈子の唇が発情した刺胞動物のようにうごめいた。「マキさんのぉ、ストーカーです」

 

「ストーカー!」

 

「はい。183日前にツイッターで見かけたときからずっとずっとストーキングしてました。マキさんがアップしてた空の写真のお天気とか、写りこんでる飛行機雲の角度とか、写真のexif情報とか、地震があったとか火事があったとかのツイートとか、地上波のアニメの感想とか、そういうのからこのお部屋を特定したんです! もうマキさんのことが頭から離れません。マキさんの実家のご住所も生年月日も通われてた学校も入浴剤の好みもぜんぶ知ってます。きょうは思いきってマキさんのお家にお邪魔させていただきました」

 

 美奈子は、もし気味悪がられて通報でもされたらこの部屋でいますぐ自害しようと思っていた。マキに拒絶されては生きていけない。きょうは美奈子にとって勝負の日だった。

 

 マキは震える手で美奈子を指さした。美奈子は覚悟を決めた。

 

「つまり、美奈子ちゃんは、あたしのことが好きってわけだ!」

 

「え、まあ、はい、そうなりますね」

 

「そっかあ! こんなかわいい子がねえ! ならいいや!」

 

 大笑いしながらマキはスーツを脱ぎ、下着姿になった。のみならず、あまりに自然な所作で背中に手を回し、ブラジャーのホックを外しにかかる。

 

 あわてて美奈子が止めた。

 

「なにやってるんですか、帰ってすぐ裸族になる習慣なんかないじゃないですか」

 

「だって、あたしのストーカーなんでしょ?」

 

「は、はい」

 

「あたしのことが好きなんでしょ?」

 

「はい」

 

「よし。じゃあセックスしよう! だーいじょーぶ女どうしとはいえやるこたぁたぶん変わんない」

 

「いろいろすっ飛ばしすぎです! 真珠湾より前にポツダム宣言受諾してどうするんですか! 初対面のストーカーですよわたし」

 

 美奈子は半裸族のマキの手を押さえた。「えー」とマキが口を尖らせる。素肌を露出しているマキからは、美奈子がいままでストーキングしていたときにはどうしても取得することのできなかった情報であるマキ自身の匂いがほのかに立ち昇っていた。美奈子は自らの顔が熱くなるのを感じた。事実として耳まで赤くなっている。

 

 ふいに、マキが美奈子を抱きしめた。

 

「あー、美奈子ちゃん、いい匂いするねえ」

 

 身長差から美奈子の頭頂部に顔を押しつけたマキが思いっきり深呼吸する。「すげー落ち着くー」

 

 はっと我に返った美奈子は腕をつっぱってマキと身体を離した。「と、とにかく、ゴハン冷めちゃいますから」

 

 マキは半裸のまま狭い部屋のなかを移動して席についた。とりあえず箸をつける。

 

 マキは目を見開いた。

 

「うまい!」

 

「よかったぁ。好みはいちおう把握してたんですけど、やっぱり緊張するね」

 

「無限に食えるわこれ。ほんとにあたしのストーカーなんだ」

 

「もちろん」

 

 夢中になって手料理にがっつくマキの姿に、美奈子自身も幸福な顔とならずにはいられなかった。

 

「ところで、この部屋にはどうやって入ったの」

 

 ガーリックチキンと五穀米をかきこんで、追いかけるように熱い味噌汁をすするマキが思い出して尋ねた。

 

「管理会社の社員が、保安検査のためとかいって、鍵を見にきませんでした?」

 

 マキは記憶をさぐった。たしかに美奈子のいうとおりだった。1週間くらい前、なんか真新しいツナギを着て帽子をかぶった女性が来て「登録時と鍵をお変えになったりしていないか確認させていただけますか」というので鍵を見せたのだ。

 

「あれ、わたし」美奈子にマキは、へー、と思った。「鍵っていうのは、シリアル番号とメーカーがわかれば現物がなくても合鍵をネット注文できるんですよ。だめですよマキさん、人にほいほい鍵見せたりなんかしちゃ。ツイートにしても、わたしだったからよかったですけど、もしわるいストーカーだったら、不法侵入されちゃいますよ」

 

 不法侵入しているストーカーにたしなめられた。

 

「大丈夫だよ」

 

 マキに美奈子は首をかしげた。マキは流し目となった。

 

「おかげで、こんな素敵なストーカーが入ってきてくれたんだから」

 

 美奈子はどぎまぎするばかりで、まともにマキの顔を見られなくなって、しばらくうつむいてやりすごした。

 

 落ち着いてからふとマキを見やって、異変に気づいた。食事をしながらマキが涙を流していたのだ。

 

「ど、どうしたんですか、嫌いなものは出してないはずですが」

 

「いやさ」マキは笑いながら涙をぬぐった。「いままでさ、あたしにここまで興味もってくれる人いなかったんだあ。それをさあ、ここまであたしのこと考えてくれてさあ、手料理つくってくれてさあ、実際うまいしさあ。来る日も来る日も出来合いのもんばっかりだったからよけいに来るってのもあるんだろうけど、それでもさあ、やっぱ、あたしのためだけに作ってくれたっていうのはさあ、味以上に刺さるもんがあるんだあ」

 

 うら若き乙女が鼻水をすすりながら食べる姿は醜いことこの上ないが、美奈子も思わずもらい泣きしそうになった。遠慮せずにもっと早く押しかけるべきだったかもしれない。

 

 マキが泣きながら美奈子に振り向いた。

 

「やっぱり、セックスしよう」

 

「え、その、そういうのはもっとほらデートとかしたりお互いのことをよく知ったり」

 

「美奈子はあたしのことよく知ってるでしょ?」

 

「それだけはだれにも負けない自信が」

 

「じゃあしよう! ゴハンが終わったらあたしが皿洗いやるからそのあとしよう!」

 

「後片付けはわたしがしますから、マキさんはお風呂入っててください」

 

「あ! そっか! 風呂も入らずにセックスなんてできないよね!」

 

「いやそういう意味では……むしろわたしは入浴前のほうが……」

 

「なんなら一緒に入ろう! 狭いけど!」

 

「あ、あれ? わたしきょうはゴハン食べてもらってあわよくば来週もゴハン作りにくる約束とりつけるかさもなくば死ぬって予定だったんですけど……」

 

「美奈子ちゃんはあたしとセックスしたくないの?」

 

「したいです!」

 

「よっしゃあ!」

 

 した。

 

  ◇

 

 後日。

 仕事から帰った美奈子は真っ先にPCを起動した。前々からマキの部屋に仕掛けておいた監視カメラの映像を堪能するためだ。カメラのことはマキには明かしていない。さすがに「全部見てるんだぁ」とは言い出せなかった。だがいまや美奈子はマキのライブ映像からあした仕事に行くぶんの精神力を補給している状態だった。罪悪感と背徳感によだれを垂らしながら美奈子は液晶画面にかじりついた。

 

 画面のなかには、おなじような時刻に帰宅していたらしいマキの、一人であるがゆえのごく自然なふるまいがあった。もちろんリアルタイムだ。いまこの瞬間のマキの姿なのだと思うと、鼻の奥がツーンとして、目頭が熱くなり、こみあげてくるものがある。

 

「あ! そうだ!」

 

 液晶の向こうでマキがすっとんきょうな声をあげた。

 

「美奈子ちゃん、来週また来てくれるんなら、日曜の午前とかどうかな。どっかさ、二人でお出かけしようよ」

 

 ばれていた。



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お義父さん、娘さんをわたしに、ください!

 説明しよう! 夕霧美奈子はマキのSNSをあまさずチェックして自宅を特定し、無断で合鍵まで作製したストーカーである! 平日に有給休暇をとってはマキの留守中に勝手に侵入し、部屋とトイレと浴室を掃除して作りおきできるおかずを冷蔵庫に忍ばせて帰るのだ!

 

「美奈子ちゃん、ありがたいことこの上ないんだけど、貴重な休みを使ってまでやんなくていいからね? 休日ってのは自分のために使わないと……」

 

「マキさんがわたしの生きがいなんです! ほかの人たちがお休みの日に趣味で癒されるようにわたしはマキさんのお世話で癒されてるんです! 有給使うのもそうでもしないと週末までもたないからなんです!」

 

 つまりwin-winの関係だと美奈子は譲らない。

 

 そして今週の土曜日も、マキが朝に突如として上司に呼び出されて休日出勤して終電で帰ると、美奈子が勝手に夕食を作って待っていた。ドアが開くなりぱたぱたとスリッパで玄関まで迎える。

 

「おかえり! 土曜なのにこんな時間までお仕事してたいへんでしたねぇ」

 

 美奈子はあたりまえのようにバッグを受け取りながら、大輪の薔薇のような笑顔を咲かせた。

 

「ただいま」マキもあたりまえのように荷物を預けた。「おかえりっていってくれる人がいる生活って、いいなあ!」

 

 社会に出て7年、独り暮らしのアラサー女にとって、灯りのついた家に帰るのも、「ただいま」も「おかえり」も、子供のころの思い出にしか存在しない遠い世界のシャングリ・ラなのである。

 

「そうですか? じゃあ……」

 

 美奈子はたたずまいを直して、マキのバッグを両手で提げ、小さな顔を傾けてにっこりほほえみ、

 

「おかえりなさい、マキさん」

 

 美奈子(ストーカー)から後光が差していた。

 

「ただいま」

 

「はい、おかえりなさい」

 

「ただいま」

 

「おかえりなさい」

 

 何度かそのやりとりを繰り返しているうち、マキが唐突に茫沱と涙を流して、美奈子を抱き寄せた。

 

「どうしたんですか、なにか嫌なことでもあったんですか、もし痴漢にあったとかだれかにつきまとわれてるならわたしがそいつをこの世から……」

 

「いやあ、こんな夜遅くまで待っててくれてゴハンまで用意してくれるとか、ぶっちゃけこれよりありがたいことはこの世にないよねーって」

 

 美奈子の甘い体臭を胸いっぱいに吸いこむ。大きすぎないおっぱいの弾力が心地いい。マキは至福の表情を浮かべた。

 

「あぁああ癒されるぅぅ生きてることが許される気がするぅぅぅ」

 

「生きてていいんですよぉマキさん。マキさんがいないと生きていけない人間がここにいますからねぇ。マキさんは生きてるだけでもわたしを幸せにできるすごい女性なんですよぉ。つらいことも嫌なことも、ぜーんぶわたしに吐き出してくださいねぇ」

 

 ストーカーに頭を撫でられ慰められてマキは幼子のように嗚咽した。

 

「きょうはお昼からなんにも食べてないんですよね。いちおう晩ゴハン作っといたんですけど、多かったら残していいですからね」

 

 マキには自分の食事を逐一ツイートする癖がある。外食や社食でも写真つきで投稿してしまう。それも美奈子がマキの住所を特定する手がかりとなったのだ。

 

「きょうのメニューは、24日前にマキさんが食べたいってツイートしてた肉豆腐ですよぉ」

 

「あたしそんなツイートしたっけ」

 

「してましたよ。たった一行だけの“肉豆腐くいてー”って」

 

 本人ですら覚えてないひとりごとを覚えている。そして蓄積情報として手料理というかたちで反映する。マキは美奈子を抱きしめたまま何度もほおずりした。

 

 美奈子の指導のもとちゃんとハンドソープで手を洗ってから食卓についた。

 

「多かったら残していいですからね」

 

 一人用の土鍋では、つゆの染み込んでいることが一目でわかる豆腐が恥じらうようにぷるぷる震える。そのとなりで艶のある牛肉が(けん)を競う。なかばとろけた長ねぎが緑を添える。湯気が空き腹に暴力的なまでに芳しい香りを運んでくる。

 お茶碗には炊きたての白ご飯が新雪の輝きでマキを待っていた。れんこんとごぼうとにんじんのごまサラダが和みをもたらす。お椀にはふわふわ卵とわかめのスープが黄金の雲を浮かべている。

 

「いやこれは、どう考えても」

 

 置かれていく皿にマキがたじろぐ。美奈子は、ああ、やっぱり押しつけがましかったかな、と反省する。

 

 だが、

 

「全部食べちゃうでしょフツー。絶対おいしいやつじゃん。もういただいちゃってもいい?」

 

 それを聞いて美奈子の顔が輝いた。

 

「もちろんです! マキさんのためだけに作ったんですから!」

 

 いただきます、と合掌してから、豆腐を箸でひとくちサイズに切り分け、それに肉を乗せて口に入れる。舌の上に衝撃がひろがる。

 

「うんまい! お肉のうまみに、お出汁のきいたおつゆ! 豆腐のなかまで味がしみててしかもスが入ってない! 味がしっかりしてるからご飯が進む! こっちのサラダはお野菜がシャキシャキしてて肉豆腐と対比になってて相性抜群! ごまの風味が香ばしい! れんこんが糸をひくくらい新鮮! にんじんにエグみがぜんぜんないどころか、ほのかに甘い! どうして!」

 

「切り方にこつがあるんですよぉ。にんじんは繊維の方向に対して横に切ると甘くなるんです。マキさんはトマトが嫌いだから赤はにんじんにしてみました」

 

「すごい! じゃあこっちの卵のスープは……あぁ、やさしい。やさしい味だよこれ。舌が休むから、うん、やっぱり、肉豆腐がまたひとくち目の感動を取り戻しちゃうよ。なにこれ無限ループできるじゃん」

 

 などと、いちいちおいしい、おいしいと感激しながら箸を進める。それを美奈子がにこにこして見守る。

 

「すごいなあ、美奈子ちゃんは」がつがつ食べていたマキがぽつりとこぼした。「いつも身綺麗にしてるし、いつの間にか部屋を掃除してくれてるし、料理だってこんなにうまいしさ。すげーなって思うよ。あたしなんか見てのとおり女子力のかけらもないし」

 

「そんなことないですよ! マキさんがあまりお出かけ用の服をもってないのも、髪にコシがないのも、お料理できないのも、それだけお仕事に打ち込んできたからだって知ってるもん。そんなマキさんがわたしは大好きです」

 

 マキは泣いた。

 

「でも、こうしてわたしの手料理食べてるマキさんすてき」

 

 泣きながら食べるマキに、美奈子が妖しい笑みを漂わせた。

 

「わたしが作ったお料理がマキさんの体内に入って、マキさんの一部になるんです。これってもう実質セックスですよね?」

 

「わかった! 朝まで本物のセックスもしよう!」

 

 美奈子はたじろいだ。

 

「え、そ、そんな、急に……」

 

「あしたは休みだからさ、どこにも行かずに1日じゅう一緒にだらだらしてたいな、みーちゃんさえよければ」

 

「み、みーちゃん?」

 

「前からそう呼んでみたかったんだけど」卵のスープをすすりながらマキは上目遣いをした。「だめ、かな」

 

「だめじゃないですオッケーです最高ですわたしはみーちゃんです」

 

「やった。あしたはみーちゃんとふたりっきりだ」

 

 心の底から楽しそうなマキに、美奈子の瞳にかすかな暗雲がよぎった。

 

「マキさんて、恋愛経験とかは……」

 

「男が3人。どれも長続きしませんでした! あたしはだめな女だなあ!」

 

「その男の人たちの見る目がなかったんですよ。で、その……」

 

「へ?」

 

「いままで女性とは……」

 

「なかったねえ! みーちゃんがはじめて! セックスできちゃうもんなんだね!」

 

「そ、そうなんですか」

 

 あからさまにほっとした様子の美奈子に、マキが笑う。「どうしたのよそれが」

 

「いえその、わたしも自分が重い女だって自覚はあるんですよ。マキさん、わたしみたいな女を気持ち悪がったりしないし、エッチもさせてもらって、まだこんなふうに一緒にいてくれるなんて言ってくれて、幸せです、本当に幸せなんですけど、優しすぎるっていうか、わたし以外の女にもこんなに優しくするのかなあとか、不安になっちゃって」

 

 言葉が迷走する美奈子があわてて両手を振って打ち消そうとする。「ごめんなさい、こんなこと言い出して。気持ち悪いですよね……」

 

 マキが茶碗を置いて正座した。挙手をするやいなや、

 

「あたしよりあたしのこと知ってるみーちゃんにしつもーん!」

 

 美奈子も驚いて顔をあげた。マキは真剣だった。

 

「あたしは相手がだれでも好きになったりまんこを舐めたりするような女なんでしょーか!」

 

「マキさんはそんなヘリウムみたいに軽い女じゃないです!」

 

 反射的に叫んで、美奈子ははっとした。マキも口元をゆるめて手をおろした。

 

「でしょ? あたしはこんなだけどさ、みーちゃんが好きになってくれたマキって女を、ちょっとでいいから信じてあげてよ」

 

 今度は美奈子が泣いた。解決である。

 

「でもさあ、みーちゃんもかわいいなあ」マキがちょっかいを出す。「やきもち焼いてくれたんだあ?」

 

「そりゃ焼きますよ。本当はわたし以外とはだれとも口をきいてほしくないです。マキさんがほかの人としゃべってるの想像しただけで死にたいです」

 

「それは無理だよ」

 

 マキは断言した。美奈子は、それはそうだろう、としょげかえった。

 

 だがマキは続けた。

 

「それじゃあみーちゃんのご両親に挨拶に行けないじゃん!」

 

「話が進みすぎじゃないですか!?」

 

  ◇

 

 一か月後、マキは美奈子の実家へ出向いた。アパートに迎えにきた美奈子に連れられるまま、列車を乗り継ぎ、飛行機に乗り、またバスと鉄道をつかい、そこからはふたりで詩情あふれる畦道(あぜみち)を歩いているという次第だった。

 

「いつもこんな苦労してるんだね」

 

 言葉にするとマキは涙をこらえきれなかった。

 

「おおげさですよ。マキさんに逢うためですもん」

 

 隣を歩く美奈子が背伸びしてマキの涙を舐めた。

 

「なんかさ、結婚するときに、相手の親に挨拶に行くの、理由とか意味とか考えたこともなかったんだけど、やっとわかった」

 

 マキが照れながらいった。美奈子が続きを促す。

 

 マキは白い歯を覗かせて、田園風景を吹き渡ってきた薫風(くんぷう)のなか、美奈子を見やった。

 

「こんなすてきな人を産んで、育てて、巡り会わせてくれて、ありがとうございますって、お礼をいうためだったんだね」

 

 美奈子はマキの胸にむしゃぶりつくようにして号泣した。

 

 実家では美奈子の父母が首を長くして待っていた。マキは緊張を取り戻した。なにせ自分は女である。ぶん殴られる覚悟は決めてきた。

 

 正月や盆には親戚一同が集まるのであろう広い和室で、大樹から切り出したらしいりっぱな卓を挟み、美奈子の父親と対峙する。緊張につばを呑みこむ。マキは座布団の外にずれてから畳の上に三つ指をついた。

 

「お義父さん。娘さんをわたしに、ください!」

 

 すると傲然と腕を組んでいた父親は、大喝一声、

 

「喜んで!」

 

「あざっす!」

 

 こうしてマキと美奈子は晴れて婦婦(ふうふ)になったのであった。



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マキさんとの子供がほしいです

百合とは美しくあらねばならないと信じている善良な人間は、閲覧をおすすめしません。
しかしながらゲーテいわく、「われわれはともすれば忘れがちであるが、レズも人間である。そして、人間はうんこをする」のです


 何年前からそうなったのか忘れてしまったが、あやうく終電をのがしそうになる毎日だった。間に合わなかったときはちかくのファミリーレストランで始発まで時間を潰した。

 働き方改革とやらでマキの勤める会社も従業員に残業をさせられなくなった。役員の偉い人はマキたち社員にこう通達したものだ。

「残業はしないでください。ただし人は増やさないし仕事も減らさない」

 いままでテッペンまで残業してようやく1日ぶんの業務をこなしてきたのだ。当然のことながら終業までに仕事が終わるはずもない。タイムカードを押して退勤あつかいにしてから残業するほかない。

 すると偉い人はこういった。

「サービス残業しないでください。ただし人は増やさないし仕事も減らさない」

 マキが思いついた裏技は、全員退社したという体裁のため全館の照明が落とされた社内で、口にくわえたペンライトで手元を照らしながら仕事をするというものだった。これぞ新時代令和の働き方である。部内のみんなが真似をした。

 家に帰るのは寝るためと家事を消化するため。寝るだけなら会社でもできる。ネットカフェならシャワーを浴びて泊まることもできる。しかし住所がないと働けないし、家賃を払っている以上はせめて帰って寝ないとお金がもったいない気がする。なかば意地で帰宅している状態だった。

 そういう日が続いていたためかもしれない。美奈子という見知らぬ女性が勝手に部屋で待っていて、ストーカーだと明かされても、「顔がかわいい、声がかわいい、しぐさがかわいい、匂いがかわいい、ストーキングするほど自分に興味をもってくれる、家事もいっさいやってくれる、おなじ女どうしだけにかゆいところに手が届く。なにもデメリットないのでは?」と受け入れてしまった。

 いま、マキは寝るために帰るのではない。

 美奈子が待っていてくれるから、帰るのだ。

 

  ◇

 

 木曜日。

 いつものように絶対に終業までに終わらない量の仕事を暗闇のなかで片付けていると、おなじように残業している男性社員の姿が目についた。マキより5歳も下だが左薬指に光るものがある。それを見て思い出した。

「あなた、たしかきょうは結婚記念日じゃなかったっけ?」

 声をかけると、若手社員はまず自分に向けていわれたということを認識するのにしばし時間がかかり、それから疲れた笑いをみせた。

「仕事ですから……」

「いいよ、やっといてあげる。もう帰んなさい」

「そういうわけには……」

「女は記念日すっぽかされると永遠に恨むよ。きょうくらいは嫁さんを優先してあげなさい」

 なかば強引に仕事を奪うと、若手社員は申し訳なさそうに何度も頭を下げてオフィスをあとにした。

 二人ぶんを背負うことになったが、後悔はなかった。

 美奈子と出会って、帰りを待ってくれる人がいることのありがたさを知ると同時に、そういう人を待たせることの心苦しさも知った。きょうくらい、先輩らしいことをしてもバチは当たるまい。

 

 金曜の夜は、自分で鍵を開けなくてもいい。インターフォンのボタンを押す。ぱたぱたとドアの向こうからスリッパの音。鍵が回る。チェーンが外される。

「マキさん、おかえりなさい。今週もおつかれさま!」

 とびきりの笑顔がドアから覗く。モノクロになりかけていた視界に色彩が戻った。マキも自然にほほがゆるむ。「ただいま、みーちゃん」

 片付けられ掃除された部屋。脳と胃袋に直撃する香り。なにより、美奈子がいる、ということに、えもいわれぬ安らぎを覚える。

「きょうはマキさんの好きなビーフシチューですよ」

 うれしそうにいう美奈子を見ていると、無意識に抱きしめてしまった。

「どうしたんですかぁ、たいへんだったんですねぇ」

 あやされるように背中に回された手で優しく撫でられる。マキが、はっと我に返る。

「ご、ごめん。帰ったばかりで、あたし臭かったかも……」

 急に恥ずかしくなって離れると、美奈子が小さく吹き出してから、

「臭くなんかないですよ。マキさんががんばった匂い、わたしは大好きです」

 逆に胸に飛びこんできた。

「でも、あんまり無理はしないでくださいね」

 マキはただただ美奈子の細い体を懐抱するのだった。

 食卓では、視覚からでも芳醇な風味が伝わってくる魅惑のビーフシチューが湯気を立てていた。回しかけされた生クリームの白い渦に引きこまれそうになる。付け合わせのインゲン、蒸かしたじゃがいも、艶やかなにんじんのグラッセが華を添える。

 となりのガラスの皿では、赤パプリカと黄パプリカ、グリーンリーフのマリネサラダが豊かな色彩でマキを待っている。

 美奈子と神羅万象に感謝していただく。煮込まれた牛すね肉は、スプーンが抵抗なく入るほどにやわらかい。ルーと一緒に口へ運ぶ。噛みしめると、細胞が震えるかのような感動が、じんわりと全身に染みわたっていく。舌の上で肉がほどけるようにとろける。

「すごいねこのビーフシチュー。コクがあってうまみがぎゅっと詰まってる。ワインかなにか?」

「赤と白の両方使いました。あと、隠し味にコーヒーを」

 にんじんのグラッセは甘めにつくられているので、濃厚な味わいのシチューと交互に食べるとお互いがひきたてあって、相乗効果を生む。あえて味をつけていないインゲンと蒸かしいもが名バイプレイヤーを務めている。

「あの……シチュー、おかわりある?」

「もちろんです!」

 皿を受け取った美奈子が足取りも軽くコンロへと向かった。

 その後ろ姿を見て、さまざまな思いがマキの胸に去来する。

 マキの居住地も美奈子の住んでいる自治体もパートナーシップ宣誓制度は採用していない。女と女では役所は婚姻届を受理しない。あたりまえのことだ。だが、なぜあたりまえなのか。いままで疑問に思ったこともなかった。美奈子と付き合いはじめてからはじめて気づかされた。男と女なら入籍できる。同性ではできない。まるで法律によって「正しい愛のかたち」を規定されているかのようだ。役所は書類に不備があると受け付けない。では、女と女が籍を入れたいという気持ちは不備だということなのだろうか。

「いやあしかし、女どうしの結婚生活って、こんな楽しいもんなのかね。それともみーちゃんだからかな」

 いうと、美奈子ははにかみ笑いをみせた。

 その健気さにマキの胸中でにわかに罪悪感が頭をもたげる。楽しく感じるのは美奈子に家事を任せているからではないか? 家事ほど生産性のない時間もないのだ。

「いまさらにもほどがあるけど、いつもみーちゃんに与えてもらってるばっかりじゃん。なにかあたしにお返しできるもんあるかなあ」

「お返しなんて、そんな」美奈子が必死にかぶりを振る。「わたしはマキさんのそばにいられればそれで……。こうやって一緒の部屋にいるなんて奇跡みたいなものですし。お世話だってわたしがやりたくてやってるんです。マキさんのぱんつを洗うことで、日々の仕事で汚れたわたしの心も洗われるんです」

 だいたい女が「気にしないでいいよ」といっているときはもっと突っ込んで気にしてほしいと思っているときである。

「ほんとにぃ? あたしにしてほしいことないのぉ?」

 おどけてみせながら確かめる。

「……いいんですか?」

「もちろんよ。あたしにできる範囲なら」

「じゃあ」美奈子が決意したように口を開く。「子供がほしいです」

 マキは箸を置いて悩んだ。マキにできる範囲どころか、人類の科学力はいまだ同性とのあいだに子をなす階梯(かいてい)に達していない。

 もっとも現実的な方法は、

「里子をもらうこと、かなあ」

 自分の言葉にマキは唸った。

「でもさあ、里子は親を選べないんだよねぇ。ふた親が両方とも女ってのは子供がかわいそうなんじゃない?」

「そうですか? 子供が親を選べないのは、ふつうの家庭でも、ノンケの里親でもおなじことですよ。ゲイカップルの里親のときだけ、なんでかわいそうになるんですか?」

 美奈子のいうことにも一理ある。しかしやはり子供も人間である。幸せをアピールするためのアクセサリーとして人ひとりの人生を引き受けるわけにはいかない。少なくともマキにはまだ人の親になる覚悟はできていない。

「とはいっても、わたしもマキさんの血が流れてない子供を愛することはできませんけど」

 美奈子も生物学的なつながりがほしいようだった。

 どうすればそれが成るか……食事を再開しながら悩んでいると、

「あ、ごめんなさい」

 美奈子が顔をそむけて、かわいらしいくしゃみをした。くしゃみは何度か続いた。

「花粉症?」

 マキから隠れるようにしてティッシュで鼻をかむ美奈子に訊くと、くしゃみのあいだから「そうなんです」とつらそうな鼻声が返ってきた。

「スギとイネとブタクサがだめで……」

「年中じゃん。かあいそうに」

「薬を飲むとどうしても眠くなって……」

「たいへんだなあ」

 マキはデザートのはちみつトーストにバニラアイスを乗せたものを堪能し、

「なんか寄生虫を飼ったら花粉症治るらしいけどね、サナダムシとか」

 思いつきを口にした。軽い冗談のつもりだった。

「それですよ!」

 美奈子が世紀の大発見をしたような顔でマキを見つめた。きっと湯槽に浸かってお湯が溢れるのをみて「ユリイカ! ユリイカ!」と叫びながら裸のままで飛び出したときのアルキメデスもいまの美奈子とおなじ表情をしていたにちがいない。

「わたしのおなかで育ったサナダムシにマキさんが感染したら、それはふたりの子供といえるんじゃないでしょうか」

 どうです、と涙目で訴えられて、月の残業時間が平均190時間のマキは、美奈子の手を両手で包んで、こう答えた。

「すっごくすてきだと思う……!」

 かくして食後にふたりだけの作戦会議がはじまった。要項はこうである。

 サナダムシは古代ギリシャ語でNudel(ヌーデル)といい、すなわち麺類を意味するヌードルの語源となっているとおり、一見するときしめんのような、クリーム色の長い扁平な条虫である。全身に蛇腹のような折り目があり、ひと節ひと節に1対ずつ生殖器が備わっている。つまり1本の長いサナダムシは1個体ではなく、何匹もの個体が単縦陣を組んでいるといったほうが正しい。成虫は人間の小腸内で生涯ひたすら産卵し続ける。卵は大便に混じって宿主の体内から排泄され、環境中に拡散される。

 しかしながらマキも美奈子も潔癖をもって鳴る現代日本人のご多分にもれず、体内に条虫や回虫といった寄生虫など存在していない。ふたりはぎょう虫検査の経験すらしたことがないほどなのだ。だからまずどちらかがサナダムシに感染する必要がある。これについては、「わたしのサナダムシがおなかにいるマキさんが見たいです」という美奈子たっての熱望から、美奈子が先行することで一致した。

 では、かりに美奈子がサナダムシに感染し、彼女の大便から卵を回収してマキが服すれば、マキの腸内に美奈子直産のサナダムシが定着するのか。否である。

 レウコクロリディウムがその生活史でカタツムリと鳥類を往き来するように、あるいは500年もの永きにわたって山梨県は甲府盆地の人々を苦しめた風土病の原因たる日本住血吸虫が、ミヤイリガイを介して人間などの哺乳類に感染するように、サナダムシもまた成長に応じて宿主を乗り換えていく。サナダムシの成虫が人間の腸内で産卵するからといっても、その卵は人間の体内では成熟しないのだ。便宜上、寄生虫が成虫となって産卵するための宿主を「終宿主」とよび、幼虫が成長につかう宿主を「中間宿主」と呼称する。しかし寄生虫にとって終宿主はけっしてゴールではない。寄生虫の生活環では、幼虫が成虫になるように、成虫もまたつぎのステージで卵になる。本質的には、寄生虫は卵、幼虫、成虫とループ状に姿を変えながら生き永らえていると考えるべきである。

 寄生虫は終宿主、中間宿主ともに寄生相手の生物の種類が決まっている。たとえばレウコクロリディウムはオカモノアラガイのみを中間宿主とする。おなじカタツムリの仲間でも、オカモノアラガイと分類的にちかいミスジマイマイやニッポンマイマイ、もしくはナメクジには定着できない。つまり生活史のすべてにおいて、正しい中間宿主、正しい終宿主に移住できないと、寄生虫は天命をまっとうできずに死ぬのである。

「運ゲーじゃん。なんでわざわざそんなめんどくさいライフサイクルしてんだろうね。成虫になれる確率を自分で減らしてるようなもんじゃない」

「宿主が1種類だけだと、その宿主が絶滅したら自分も共倒れしちゃうからじゃないですか? 頼りきってた取引先の倒産で連鎖倒産するみたいな感じで」

 なるほどとマキは納得した。

 サナダムシの場合、人間や犬、猫、豚、熊などの哺乳類が終宿主である。卵は大便とともに外界へでて川に放出され、水中で孵化して幼虫となり、ケンミジンコに摂食されることで寄生する。さらにそのケンミジンコがマス、サケなどの魚類に捕食されると、幼虫は魚に移住する。その魚類を食べることで、人間はサナダムシに感染するのである。

 すなわち、第1中間宿主がケンミジンコ、第2中間宿主が魚類、終宿主が哺乳類となる。

 以上を踏まえたふたりが立案した作戦の運用は5段階。

 第1段階では、美奈子がサナダムシに寄生された魚類を生食して感染する。

 第2段階。美奈子の排泄物にサナダムシの体節の混入が認められたら、糞便中に虫卵が混在しているものとし、ケンミジンコを飼育している水槽中に当該糞便を投入する。ケンミジンコへの寄生を観察することは困難を極めるので、当該糞便の投入をもって、ケンミジンコは幼虫に汚染されたものとする。

 第3段階。汚染されたケンミジンコを魚類に給餌する。

 第4段階。寄生された魚類をマキが摂食し、サナダムシを体内に取り入れ、自身に感染せしめる。

 最終的には、マキの糞便にサナダムシの一部が混入していること、もしくは排便時の肛門からサナダムシが下垂(かすい)していることを目視確認することにより、作戦は達成されたものと見なす。

 作戦名は、『日本海裂頭条虫による被寄生を利用した擬似的な生殖を目的とする飼養下の中間宿主への意図的な感染ならびに摂食を主軸とした作戦』、通称『らぶらぶ作戦』とした。

 まずは美奈子が寄生されるための始祖となるサナダムシを探さねばならない。サナダムシの主たる感染経路はマスやサケの生食である。ではそこらへんのスーパーマーケットで売られているサケを刺身で食べればサナダムシのブリーダーになれるのか。

 あくる日の土曜日、ふたりは、地方に出店して地元の商店街を寂れさせては撤退してあたり一面を焼け野原にすると評判の全国チェーンのスーパーに出かけた。鮮魚コーナーで白エプロンにヘアーキャップとマスクとゴム長靴で完全武装した従業員をみつけたので、1尾まるまるパックのニジマスを示して、サナダムシがいるかどうか訊いてみた。彼は自信満々に胸を張った。

「弊社で販売している国産サケやマスは、すべて独占契約の淡水養殖場で配合飼料によって養殖されています。公的機関で構成される全国養鱒(ようそん)技術協会の実施する実態調査でも、弊社と契約している養殖場の養殖サケ・マスからは、1981年度からいままで、寄生虫がいっさい認められていません。完璧なサナダムシ・フリーです。じつはパック寿司のサーモンもベニザケじゃなくてニジマスなんですよ。ですから安心して生食をご賞味いただけます」

 いないのか。マキと美奈子はがっくりと肩を落とした。従業員は怪訝な顔をするばかりであった。

 かつて高度成長期くらいまでは日本国民の大半が飼っていたというサナダムシであるが、現代日本ではむしろ感染するほうがむずかしいということだ。おかげで衛生的な生活が送れている。

 サナダムシの第2中間宿主はマス、サケ、カマスが代表格である。しかしどんなマスやサケにもサナダムシが寄生しているわけではない。サナダムシが寄生するのは降海(こうかい)型の個体のみである。

 サクラマスは川で産まれ、海に下って回遊し、産卵時に故郷の川にもどってきて遡上する。このように河川から海にでる生態のものを降海型という。しかしなかには海へ行かずに一生を川で過ごす個体もいる。この残留組を陸封(りくふう)型とよぶ。サクラマスのうち川に残る陸封型がヤマメである。

 サナダムシが第1中間宿主とするケンミジンコは淡水産と海産が存在する。ところが、サナダムシは海産ケンミジンコのほぼ全種類に寄生するのに対し、淡水産ケンミジンコには1種類しか寄生できない。事実上、サナダムシの第1中間宿主は海産のケンミジンコということになる。マスやサケは降海時にこの海産ケンミジンコを摂餌することでサナダムシに寄生されるのだ。スーパーの従業員が淡水養殖場で養殖されたニジマスにサナダムシはいないと豪語したのはこのためである。

 ならば海外から輸入された魚はどうか。いわゆるアトランティックサーモンはノルウェーやチリからの輸入品である。

 しかし、食の安全に世界一うるさいといわれる日本に輸出するだけあって、なにも対策を施されていないはずがない。アトランティックサーモンもまた養殖ものは乾燥した人工飼料で育てられるから寄生虫の入りこむ余地がなく、天然ものでもどのみち日本へはマイナス40度以下で72時間冷凍した状態で輸送され、鮮度をたもつと同時になにがなんでもサナダムシやアニサキスを皆殺しにしてから販売される。魚を凍らせてから解凍して食べるアイヌ民族のルイベという調理法は理に適っているといえる。

 導きだされる結論をマキが下す。

「自分たちで降海型のサケなりマスなりを釣って食べるっきゃない」

 サクラマスにせよサケにせよ、遡上する降海型を釣るのは異常にむずかしい。

「なんでですか?」

「遡上フェイズに入ったあの手の魚って、ほとんど餌を食べなくなるのよ。だから餌と勘違いさせて捕まえる釣りって手法自体が生態とマッチしてないのね。でも生まれてからいままでずーっと、口に入るものはなんでも食べてきたわけだから、目の前に餌っぽいものがきたら反射的に食いついちゃう、かもしれない。サクラマス釣りなんかはこの“食いつくかもしれない”に賭ける分のわるいギャンブルみたいなもんでね」

「く、詳しいですね」

「大学のころから趣味でサクラマスやらシロザケやらの釣りやってたからね、いまの会社に入るまでは」

 ときあたかもサクラマスの遡上シーズンである。ネットで調べてみるとここ数日は福井県九頭竜川での釣果が芳しいとのことだった。九頭竜川といえばサクラマスの聖地である。

「釣りなんか久しぶりだなあ。まあ、SNSで自分の個人情報ばらまいてたらこんなきれいなストーカーが釣れたけど」

 マキに美奈子は赤面するばかりであった。

 この数年は仕事で忙殺される日々だった。サクラマス釣りなど何年ぶりかわからない。

「なまってないといいけどなあ」

 

 というわけで月曜日、マキは2年ぶりくらいに有給休暇を申請した。

「有休~? じゃあきみの空いた穴をだれが埋めるの~? きみが休んだらそのぶんほかのみんなが苦労するんだよ~? きみがそんなに薄情だとは知らなかったな~」

 課長がやんわりと撤回させようとした。これまでこの論調で何人が有休取得を断念させられてきたことか。だが家族計画はすべてにおいて優先される。

「そんなにあたしの存在が大切ならもっと給料あげてくださいよ」

「仕事ってのはお金のためにやるんじゃないの。自分を成長させるために仕事するの。それに、役員でもない社員の給料なんか上げたら会社が潰れちゃうんだよ~? いくら低学歴でも日本がいま不況なの知ってるでしょ~? 若いもんはもっと愛社精神を持たないと~」

「社員に正当な報酬が払えない会社は潰れるべきだと思います」

 マキは反論の余地を与えることなく年次有給休暇届を課長のデスクに叩きつけて仕事に戻った。

 

 サクラマス釣りにはなによりもまず遊漁券が必要になる。券なしで釣りをしようものならその太公望はかならずや九頭竜川の急流の一部となるだろう。

「本当ですか?」

「そんくらいサクラマスの資源量や川を維持管理してる人たちに敬意を払わなくちゃいけないってこと。本当の敬意ってのは上っ面の言葉とかじゃなくてお金だからね」

 マキと美奈子は一路、福井県へと飛んだ。あらかじめ美奈子が探して契約しておいた現地の家具家電付きウィークリー・マンションで旅装を解き、抱き合いながら寝て翌朝に備えた。サクラマス釣りは日の出からはじまる。

 九頭竜川の遊漁券は1日有効の日券(にちけん)が1500円、シーズン中有効の年券(ねんけん)が6000円なので、5日以上釣りたいなら後者が得である。ブランクもあって4日以内に1尾でも釣れるかどうか自信がなかったので、マキは年券を申しこんだ。サクラマスはそれほどの難敵なのである。とはいえ申請した有給休暇は7日だから、それまでに釣らなければならない。

 

 落葉樹が装いを脱ぎ捨てて枝をさらす褐色の光景に、きらきらと風が抜けていく。ほころびはじめた木の芽にも霜がおりる。激流の轟きはふしぎと耳に障らない。春の足音が聞こえるかのような静謐な風情はバルビゾン派の絵画にも通じるものがある。

水色(すいしょく)は最高にいいね。水位は平年よりちょっと低いってくらいか。コンディションとしては申し分なし。これで釣れなかったらあたしのせいだな!」

 ファーストポイントをマキはそう評した。

 マキたちが九頭竜川流域に到着したときは、対岸に釣り人がひとりいる以外、同好の士はなかった。平日のうえにシーズン半ばすぎだからだろう。解禁日なら川岸にずらりとアングラーが並ぶ。

「すいませぇ~ん! ここいいですかぁ~!」

 念のため上流側に陣取ったが、対岸の先行者に断りを入れておく。先行者は片手を上げて了承の返事をくれた。「ありがとうございまぁ~す!」

 マキが水温を計ってタックル(竿、リール、糸などの釣具)を選ぶ。

「あー、とりあえず13フィート6の6番とECHOのION8/10にしとくか。ランニングはAIRFLO RIDGE R/LINE-30LB FLOAT、シューティングヘッドはOPSTの475グレインだなー。情報だとフライでの釣果が多いらしいんだよね。フックがTMC7999の4番のやつがいいかな」

 美奈子にはさっぱりである。

 そんな美奈子にもわかるくらい慣れた手つきでマキが竿を鞭のようにふるう。ひゅっと風を切る音が心地よい。

 雪解け水の流れこむ川に腰まで浸かって何度もキャスト(疑似餌を投げこむこと)するが、この日はノーバイト(バイト=噛む。つまりアタリすらないの意)だった。聖地の洗礼である。

「きょうは釣れなかったけど、やっぱ楽しいね。最悪の釣り日は最高の仕事日よりいいってね」

 不安な美奈子にマキは大笑してみせた。

 翌日も、フライからミノー(小魚を模した疑似餌)に変えたりして、あるいはミノーにしてもシンキングやフローティングタイプをローテーションしたが、ノーバイト。より生きた小魚にみえるように左右にルアーを揺らして演技させてみる。ノーバイト。無慈悲なほどに美しい黄昏が、その日の釣行の終わりを告げた。

「バイブレーションもだめか~……」

 3日目もサクラマスの気配なく終わった。

 マキの経験上、魚が釣れないときは逆ギレがいちばんである。タックルを最初のフライフィッシングに戻して、サクラマスの目の前でじっくりアピールしてやろうとかそういったことをなにも考えず、ただ機械的に糸を引いた。

 何回目かのキャストのときだった。

 竿が、しなった。

 本能的にアワセる。

 水流とはあきらかに異なる、ぐい、ぐいという断続的な引き。心臓がフルスロットルとなって血液が沸騰。マキの全身が臨戦態勢にスイッチする。

 脊髄でまだ半分眠っていたアングラーの本能が一気に覚醒。マキ自身の理性よりも的確にロッドを保持し、適切なスピードでリールを回させる。抵抗する魚と引っ張りあうのではなく、魚が休んだ瞬間に引き寄せる。それを繰り返す。

 やがて清流を横切って魚影があらわれる。瑠璃の川面を切り裂く銀鱗のきらめき。

 マキが手網を左手に竿を持ち上げた。

 虹が弾けた。

 北陸の太陽を浴びて踊る、白銀の生命力。反射した光を透かした水しぶき一粒一粒までが宝石となる。

 はるかなる大海原を旅し、試練をくぐりぬけてふたたび故郷に帰還してきた奇跡が、魚のかたちに凝縮されているようだった。

「やった……!」

 叫んだつもりだが、いろんな感情がいちどきにおしよせて声がでなかった。全長50センチはある鼻曲がりの堂々たる1本である。傷だらけの体が遡上の過酷さを物語る。それでいて青空を映して淡い青に輝いている。

 感傷にひたりたいのは山々だが、すぐビニールバッグに水ごとパッキングして、コンテナボックスにつめこんで、レンタカーで遊漁券を買った釣具店へ報告に行った。時間帯や水温、タックルなどの情報が、後続のアングラーたちの参考になる。

「いや~、楽しかった!」

 疲れているであろうマキを助手席に乗せて車を運転する美奈子は、複雑な気持ちだった。釣れたことは喜ぶべきだ。だが、もしマキにとって釣りが自分といるときよりも楽しいのだとしたら? マキを束縛するより釣りに時間を割いたほうが彼女のためなのでは?

 そんな美奈子の内心も知らずにマキは笑いながらいった。

「みーちゃんと一緒にいるときの次くらいに楽しかったわ!」

 美奈子は自分が運転手でよかったと思った。いまはとてもマキの顔が直視できない。

 

 マキが釣り上げたサクラマスはその1尾だけだった。シーズン中に5000人前後が九頭竜川で遊漁券を購入して、釣れるサクラマスの合計数は500尾に満たないという年もざらにある。それを踏まえれば大戦果といえた。

 キッチンに立った美奈子がサクラマスをみごとな手際で3枚に下ろした。夕陽を凝縮したような艶やかな赤身があらわになる。

 マキと美奈子は2枚の身をそれぞれ丹念に観察した。美奈子は目を皿にした。マキもくまなく探した。するとマキの目に、オレンジの魚肉のなかに埋もれている白い小さなミミズのようなものが飛びこんできた。

「いた!」

 思わず上ずった声がでた。美奈子もあわてて覗きこむ。美奈子が安堵のあまり涙を浮かべた。「よかった……」

 いちど見つけると魚体のいたるところにサナダムシの幼虫がいることがわかった。すべて丁寧に集め、

「おねがい、着床して……!」

 神仏照覧、美奈子はあおるようにして、てのひらいっぱいの幼虫たちを一気に嚥下した。身は醤油麹の炊き込みご飯やポワレやアラ汁に姿を変えてふたりの夕食になり、余りは冷凍にした。

 しかし数時間後、部屋でまったりしていると、突如として美奈子が激しい腹痛に七転八倒した。サナダムシの症状ではない。おそらくアニサキスも混入していたと思われた。救急車を呼ぼうとしたが、のたうちまわる美奈子に断固拒否された。

「きっと虫下しを()まされてしまいます。それではサナダムシも巻き添えに。わたしを愛しているならこのままにして!」

 人体に侵入したアニサキスはおおむね3日で死ぬ。3日を耐えればサナダムシの生育を続行できるのだ。美奈子の決意はあずきバーより固かった。

 そして美奈子は勝利をおさめた。

 なお、サナダムシはサクラマスより釣るのがずっと簡単なスズキにも寄生しているということ、アニサキスのもたらす腹痛は虫体が胃壁を食い破っているとかではなく単なるアレルギー反応なのでステロイドを飲めば緩和できたことをふたりが知ったのは、ずっとあとのことである。

 

 有給休暇を終えて出社すると、マキのデスクが片付けられていた。仕事用のPCも文具も机上整理棚の書類も、なにもない。課長に訊ねてみると、

「きみ、自分がなにをやったかわかってるの~? 無断欠勤だよ、む・だ・ん・けっ・き・ん~。社会人として最低の行為だよ~? どれほどの人間がきみのせいで迷惑こうむったと思ってるの~?」

 マキは状況が理解できなかった。

「有休の申請をだしたはずですが……」

「えぇ~? ボクそんなの知らないよ~?」

 課長は芝居がかった動作でおどけてみせた。

「クビにされても文句いえないねぇ~? でもさ~、きみみたいな無能にほかに行くとこなんてあるの~? あるわけないよねぇ~? 知ってる~。だからさ~、いまこの場で、みんなの前で土下座して、今後半年間無給で働かせていただきますから許してくださいって謝ったら、考えてあげないこともないけどな~?」

 マキは頭が混乱した。なんとか食い下がろうとする。

「ですから、わたしは有休の申請を」

「まだいってるの~? 往生際わるいな~。ミスしたらミスしたことをきちんと認めて、いさぎよく謝罪するのが大人でしょ~? お母さんに教えてもらわなかった~? それともなに? ボクが申請握りつぶしたとでもいいたいの~?」

 課長はふんぞりかえって冷笑した。

「きみがちゃ~んと申請したって、だれが証明してくれるのそんなこと~?」

 マキは八方塞がりだった。口をぱくぱくするばかりだった。

「はい、土・下・座! 土・下・座!」

 連呼しながら手拍子して課長があざ笑う。

 爪が食いこむほどマキが拳を握りしめていた、そのときである。

「マキさんは申請してましたよ」

 課長が凍りついたように停止。ひきつった笑みで声の主を探す。「だれ~いまの?」

 マキも振り返る。

 水を打ったように静まり返るなか、同僚たちの視線が集中しているのは、ひとりの男性若手社員だった。いつか結婚記念日にマキが残業を肩代わりした彼だった。

「マキさんは、有休を課長に書面で申請してました」

 彼は声を震わせながらもういちど繰り返した。

 課長は鼻で笑った。「ひとりがいってるだけじゃあねぇ~」あとで覚えておけよと顔に書いてある。

「わたしも、みました」

 べつの女性社員が声をあげた。

「わたしも申請するとこみました」「ぼくもみました」「わたしも」波紋が拡がるようにつぎつぎと証言があがっていく。課長が目を白黒させる。

「課長、労働者の有給休暇と使用者の時季変更権はともに労働基準法第39条で認められています」例の若手社員がゆっくりと述べる。「時季変更権は、繁忙期や決算期など有休を認めるとどうしても会社が回らない場合にのみ、ほかの時季に有休を与えることができるというだけで、有休の申請そのものを拒否することはできません。時季変更権を悪用した場合は、労基法第119条により刑事罰もありえます。しかも課長が独断で有休取得を妨害したのなら、コンプラ的に非常にまずいです。会社も課長の味方をするかどうか」

 課長の顔から血の気が引いていく。

「なに、きみたちボクに逆らうの。会社に逆らうなんて言語道断だよ! クビになりたくないなら黙って――」

「ああ辞めてやるよこんな会社!」「いい機会です。やってらんない」「てめぇだけで仕事してみろ」「こんな社会の寄生虫みたいな会社潰れりゃあいいんだよ」「このパラサイト・カンパニー!」「定時で帰れねぇ会社に価値はねぇ!」

 社員たちはいままで鬱屈していたものを爆発させるように気炎を上げて本当にぞろぞろとオフィスから出ていってしまった。

 残されたマキと課長は、しばらく無言だった。今度は課長が口をぱくぱくさせる番だった。マキは向き直って、一言、

「お世話になりました」

 と頭を下げた。

 

 晴れて無職になった。美奈子は「よかったじゃないですか。なんでしたらうちに住みません?」と喜んでくれた。

「ごくつぶしじゃん……」

「べつにわたしはそれでもいいんですけど、じゃあ、つぎのお仕事がみつかるまで家事手伝いってことでどうです?」

 善は急げという美奈子に連れられて彼女の実家に向かった。両親にあいさつしたとき以来だ。マキは義父にぶん殴られる覚悟を決めていた。娘さんをくださいと啖呵をきっておきながら無職とは。マキは暗澹とするばかりであった。

 美奈子の実家、広い和室で緊張しながら待っていると、いつみても厳格そうな義父が悠揚迫らず入ってきた。無職になったこととそのいきさつを話すと、義父は両の掌をローテーブルに叩きつけた。

「よくやった! 最近の若いもんは引き際を知らん。合わんと思ったらさっさと次に行ったほうがいい。石の上に何年座ってても、石は石でしかない!」

 ぶじ住めることになった。

 その日のうちに美奈子の部屋にケンミジンコのための水槽をセットした。熱帯魚の飼育経験がある美奈子が死蔵していた60cm規格水槽をつかう。サンゴ砂を敷き、上下に2分割したペットボトルの上半分を底床に差しこんで飲み口からエアストーンを入れ、エアリフト式のフィルターにする。海水は人工海水だ。

 さっそくふたりで海へ繰り出した。満潮時ですら海水が届かない岩礁海岸の止水域を捜索する。目当てのものはすぐに見つかった。水中を飛び交うように泳ぎ回る微小生物。ケンミジンコの一種であるシオダマリミジンコだ。海水ごとすくって持ち帰る。シオダマリミジンコは水たまりという劣悪な環境に棲息するだけあって極めて強健である。飼育そのものは夜店ですくってきた金魚にひと夏越させるより遥かに簡単だ。美奈子の水槽でも問題なく元気に泳いだ。

 美奈子がちいさなボトルの中身をケンミジンコの水槽にふりかけた。濃いオレンジ色の粉末だった。

「ブラインシュリンプ・エッグです。もともとブラインの卵は硬い殻に覆われていて、食べても消化できないんですが、これは殻を溶かしてあるんで、そのまま与えられるんです」

 マキにはさっぱりである。だが美奈子がいっているのだから間違いないのだろうと得心した。

「ほら、ミジンコのおなかがオレンジに染まってきたでしょう?」

 観察するとたしかにそのとおりである。ケンミジンコたちがちゃんと食べている証拠だ。

 

 それから3週間を第2中間宿主の選定に費やした。自然界においてサナダムシに寄生される魚は海水魚である。それはサナダムシの第1中間宿主が海産ケンミジンコだからであるが、サナダムシ自身が海水環境を必要としているわけではない。サナダムシに汚染された海産ケンミジンコを補食する機会さえあれば、ヤマメだろうがアマゴだろうが、陸封型の魚もキャリアになりうる。だからわざわざ第2中間宿主を海面養殖する必要はない。この点は救いだった。

 美奈子の実家が所有するちかくの山に渓流がある。そこでとりあえず釣り糸を垂れてみることにした。

「山もってるなんてすごいね……」

「価値そのものは二束三文なんですよ。苦労も多いですし、父が先祖から受け継いだっていう意地で持ち続けてるようなもので。でもこんなかたちで役に立つなんて」

「ご先祖さまに感謝だね」

 サクラマスを釣るマキの腕前である。釣果はすぐにあった。20cmほどの渓流魚らしいスマートなフォルム。体側(たいそく)に歌川広重が東海道(とうかいどう)五拾三次(ごじゅうさんつぎ)之内蒲原夜之雪(のうちかんばらよるのゆき)で描いたような雪降る白斑が散らばっていて、それは(ふん)のさきまで至る。胸びれと腹びれ、尻びれ、尾びれがレモンイエローに染まっていて美しい。マキもあまりアユやイワナにはくわしくない。おそらくニッコウイワナだろう。第2中間宿主に適当かどうか試してみることにした。

 渓流魚は水槽での飼育に向いていない。単純に高温が苦手なのと、広い運動スペース、強い流れと休憩場所を必要とするからだ。野生動物の飼い主は自然をおいてほかにない。

 それでもサナダムシの確実な感染のためには飼育管理下におかねばならないので、マキと美奈子は渓流にいけすをつくることにした。当初はせっかくつくったいけすが急流に流されたり、造りが不完全で翌朝にはイワナに1尾残らず脱走されていたり、鳥に捕られたりと、失敗の連続だった。そのたびにふたりは脳漿をしぼっていけすを改良し、力をあわせてバージョンアップを重ねた。頑丈かつ水がつねに通り抜け、イワナに逃げられず、天敵にも襲われないいけすが完成するのに、3週間かかった。

 ある日、美奈子の様子がおかしかったので問いただすと、軽い吐き気がするとのことだった。サナダムシの初期症状である。マキが心配すると美奈子は熱っぽく凄艶(せいえん)な笑みで、

「でもこれって、つわりってことですよね」

 と随喜の涙を流した。アニサキスの中毒症状に耐えた甲斐があった。

 しかも美奈子の大便にちぎれたきしめんのようなものが混じっていたので、すでに小腸内で成虫になっているとみてよかった。糞便を希釈してケンミジンコの水槽に与える。ケンミジンコがサナダムシに寄生されるのをマキと美奈子は拝むように祈った。

 数日後、いけすのイワナにケンミジンコを給餌した。いけすの四方をいったん塞いでケンミジンコが逃げられないようにする。逃げ回るケンミジンコをイワナが猛烈に追いかけてあっというまに平らげた。それから1か月ほどは、潮溜まりから採捕してきたケンミジンコに美奈子の糞便を与え、そしてイワナに食べさせる日々が続いた。

 ついに成果を確かめる日がきた。イワナを水揚げし、美奈子が手早く捌く。サクラマスのときのようにふたりして身のなかにサナダムシを探す。

 1尾めからは幼虫は検出されなかった。

 2尾め、3尾めにもいない。

 だめだったか……心が挫けそうになりながらもマキが15尾めの身を確かめているときだった。

 捌く美奈子の動揺があらわれていたのか、わずかに身についていた内臓の表面に、生っ(ちろ)いミミズのようなものが蠢いていた。

「いた! いたよ! サナダムシ!」

 震える手で見せた。美奈子も信じられない顔で確認して、サナダムシであることを理解すると、整った造作の顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった。長い戦いがついに実を結んだのだ。

「これってみーちゃんの体内で育ったんだから、みーちゃんで出来てるっていっても過言じゃないよね。つまりみーちゃんの精子であり卵子だよね」

 感慨深いマキに美奈子が泣きながら羞恥に身をよじった。

「ほら、みーちゃん。みーちゃんのナカで育ったサナダムシをあたしが呑むところ、ちゃんと見てて?」

 いたずらっぽく笑うマキに美奈子がおずおずとしたがう。美奈子が見ている前でマキが「あーん」とサナダムシを踊り食いする。美奈子から産まれたサナダムシがマキの体内へ注ぎ込まれる。その光景に美奈子が熱っぽい息を吐く。

 捌かれたイワナをあらためて確かめると、捨てた内臓にサナダムシの幼虫が潜んでいたことがわかった。サナダムシは内臓に寄生する。宿主が死んで内臓の鮮度が落ちると筋肉へ避難するのだ。美奈子があまりに手際よく捌くので、幼虫が内臓から移動するひまがなかったのだろう。

 ともあれ、あとはサナダムシがマキに定着するのを待つばかりである。マキは気がつけばいとおしそうに自分のおなかをさすっていた。

 あるとき、余ったイワナを塩焼きや甘露煮にするべく下ごしらえをしていると、たまたまそれを見かけた美奈子の父が目を見開いた。

「これは、ゴギじゃないか!」

 マキも美奈子もなんのことかわからない。

「イワナじゃないんですか?」

「似ているが別種だ。中国地方の渓流にのみ棲息する絶滅危惧種だよ。どこでこれを」

「裏の山ですが……」

 マキに義父は仰天した。

「そんなところにゴギがいたとは。とんでもない大発見だ」

 いけすでキープしていると美奈子が付け足すと腰を抜かした。

「マキさん、ゴギを飼育できているのか?」

「はい、いちおう……」

「すごいことだよ。きみ、ゴギの養殖をやってみないか。絶滅危惧動物の保護にもなるし、いい商売にもなる」

 マキの再就職先は養殖場のオーナーということになりそうだった。

 

 それから2週間ほどたった夜。

 トイレで大便を排泄したマキだったが、残便感というべきか、いつまでも括約筋で切れないような妙な感覚に陥った。天橋立を眺めるときのように股を覗く。

 マキはトイレを飛び出した。夕食の準備をしていた美奈子のもとに急行する。マキは下半身が生まれたままの姿で息も切らして叫んだ。

「産まれた!」

 ただならぬ様子に美奈子の顔も輝く。

「あたし、みーちゃんの子供産んだよ!」

 くるりと後ろを向く。白桃のごときマキの尻からはきしめんが垂れ下がっていた。

「マキさん!」

 万感の思いがこもった声だった。駆け寄ってきた美奈子をマキが抱き止める。

「マキさん、大好きです」

「あたしも大好きだよ、みーちゃん」

 泣きながらマキと美奈子は抱きしめあって、それから笑って、また泣いて、笑って、いつまでも熱い抱擁を続けた。

 ふたりは確信していた。相手がおなじ確信を抱いていることをも、互いに理解できていた。

 役所の書類より、プラチナ5グラムより、たしかなものがある。

 それはあなたの存在そのもの。そして、ふたりのサナダムシ。



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