誰が為のツバサ (パンド)
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ツバサの探し物

 

 星見ヶ丘学園の中等部。

 その校舎裏には、どでかいゴミ捨て場がある。

 通称『ゴミ山』と呼ばれるそこは、ゴミ収集車へ乗せる前に、一時的にゴミを置いておくスペースなのだが、生徒数が多いこともあって、積み上げられたゴミの量はまさしく山の如しだ。

 特に回収前日の放課後ともなれば、平均的な男子中学生の身長程度は優に超えるゴミの山が、校舎裏にそびえ立つ事となる。

 そんなゴミ山を前に、僕は立っていた。

 ゴミを捨てるためではなく、捜し物をする為に。

 うちのクラスのボンクラに捨てられた、ある物を見つけるべく、このゴミ山を前に一人で立っていた。

 そう、いわゆる大ピンチである。

 目の前のゴミ山を見上げながら、僕は思う。

 捜し物の為に来たは良いものの、実際にこうして見てみると、高く積まれたゴミの山は想像以上に絶望感があった。

 僕の目の前で、校舎4階の窓から投げ捨ててくれやがったので、ここに捜し物があることは間違いない。間違いはない、のだが。

 にしたって、このゴミ山を漁るとなると、無理なんじゃないかという気持ちが鎌首をもたげ始めてしまう。

 悪いのは疑いようもなくあの馬鹿野郎だが、アレを机の上に置きっぱなしにしてしまった自分の迂闊さを、僕は呪わざるを得なかった。

 改めて、僕はゴミ山と対峙する。

 この中にアレがある。だったら、何が何でも捜しださなくてはならない。

 とても大切な物だ。

 僕にとって、無くてはいけない物だ。

 代えの効かない、唯一無二の物なんだ。

 だから、だからこそ。

 シャツが汚れないように、袖口から二の腕まで捲り上げながら、僕は覚悟を決めて、ゴミの山へと手を伸ばした。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 やっぱ無理な気がしてきた。

 2時間ほど経過して、時刻がそろそろ午後5時を過ぎようとしている中で、僕は思った、

 いやいや、だって冷静になって考えても見て欲しい。

 校舎裏のゴミ捨て場だぞ? 捨てられたプリントやら、各種授業で生み出されたゴミやら、どっかの部活から出てきたよく分からないパーツやらが、これでもかと積まれているんだぞ?

 そんな中から、こんなゴミ山の中から、目当ての物を見つけるなんて無理だ、不可能に近い。

 そう思い、落書きで埋まった数学のプリントを脇に避ける。

 だいたい、ついさっき捨てられたばかりの物なんだから、比較的新しい層にあるはずなのに、そう期待していたのにアレは全く見つかる気配すらしない。

 なんて心の中でぼやきながら、技術の授業で使ったのであろう木片をひっくり返す。

 中学三年生の春に、他の生徒たちが部活動に勤しむ中、僕は一体何をやっているんだろう。

 包装紙の塊を持ち上げて、その下を覗き込みつつ僕は……僕は、僕の手が一向に止まろうとしない事に気がついた。

 手を休める事なく、僕は僕の手を動かす、動かし続けている。

 頭ではあーだこーだたと言いつつも、それでも。

 だから、つまりそういう事なんだろう。

 だったら、やってやろうじゃないか。見つかるまで、捜してやろうじゃあないか。

 なんて、決意を新たにして、ゴミ山との格闘を続けようとした矢先。

 

 

「そんなところで、何してるんですかー?」

 

 

 その声に、手が止まった。

 声の方へと顔を向けて見れば、果たしてそこには一人の少女がいた。

 明るい髪色に、活発そうな赤色の瞳。

 整った顔立ちで、不思議そうに小首を傾げている。

 ハッとするような美少女。なんてコテコテの表現が、なんの抵抗もなく頭に浮かぶ、そんな子だ。

 スカーフの色からして、2年生だろうか。

 全く気がつかなかった。側から見れば、今の僕は一心不乱にゴミ山を漁る変なやつである。まさか、こんな時間に、それもこんな所に来る生徒がいるとは思っていなかったから、すっかり油断していた。

 ヤバい、今更ながらに焦ってきたぞ。

 なにか言葉を返そうとしたのに、上手く音になってくれない。

 

「ねぇってば。何してたのって、聞いてるんですよ?」

 

 すると、一向に応答しない僕を、僕の沈黙を疑問に思ったのか、少女は先ほどよりも距離を詰めて、そんな風に問う。

 というか、近い。近い近い、手を伸ばせば届いてしまいそうな距離だ。

 鼻をくすぐる甘い香りにたじろぎながら、僕はなんとか返答しようと、意識を集中した。

 いつまでも黙っていては、変なやつというより失礼なやつになってしまう。

 

「あ、いやゴメン。捜し物を、してたんだ」

 

 やっとの思いで言葉をひねり出すと、僕の返事を聞いた少女は、なおも疑問が尽きないらしく。

 

「ふーん。大事なもの、なんですか?」

 

 などと、やや踏み込んだ質問をしてくる。

 別にそれで気を悪くする僕ではないのだが、こうも率直に聞かれると、どうもくすぐったい。

 かと言って答えずに無言を返すわけにもいかないので、僕は呼吸を整えてからハッキリと言った。

 

「ああ、とても大事なものだよ」

 

 うん、こうやって声に出すと、やはり自分はまだまだ諦めていないのだなと自覚して、自認できる。

 2時間そっとじゃ、全くもって僕を根負けさせるには足りていないのだと。

 なんてことを思っていた僕に、少女は顔の両外側に跳ねた髪を弄り、弄っていた両手を頭の後ろで組むと。

 

「じゃあ、私も手伝っちゃいますね!!」

「えっ」

 

 ニッとした笑みを浮かべて、突拍子もないことを言い出した。

 んん?? いや、何でそうなった。僕の聞き間違えか?

 

「なんか大変そうだし、二人で捜したほーが早く見つかりますよっ」

 

 どうやら聞き間違いではなかったらしい。

 どうも本気に手伝おうと、そう申し出てくれているらしい。

 どうすりゃ良いんだろう、そりゃ手伝ってくれるのは助かるしありがたいのだが。

 

「そうは言うけど君。もうこんな時間だし、僕は見つけるまで帰らないつもりなんだ」

「別に平気ですよー、わたしも遅くなるのはしょっちゅうだし」

 

 それで良いのか中学2年生女子……

 てか、何でこんなに乗り気なんだ。ゴミ山だぞ? ゴミ山漁りだぞ? こう、なんて言うか、この子みたいなタイプが一番嫌がりそうな作業じゃないか。

 僕としてはやはり、気が引ける。

 見ず知らずの女子に、そこまでさせてしまうことに。

 

「でもなぁ……」

 

 そう思い提案を受け渋る僕に、彼女は何かを感じ取ったのか、両の手を体の後ろで組み、小さく前傾姿勢で僕の目線のやや下から、つまり上目遣いでこう言った。

 

「手伝わせてくださいよー、ダメぇ?」

「…………ダメじゃ、ないけど」

「やったー!! えへへっ」

 

 同じ人類の喉から出ているのか、疑わしくなるほどに甘い声だった。気がついたら、了承と受け取れる言葉を発していた。

 そして返事を聞くや否や、少女はシャツの袖口をまくり上げ、右腕をグルグルと回すと。

 

「よーし、それじゃあ!!」

 

 やる気に満ち溢れた声でそう言いながら、一歩二歩と踏み出して、ふと思い出したように振り向き、彼女は言った。

 

「えーっと、何探すんでしたっけ??」

 

……うん、まぁ、そうだよな。まだ何を探してるとか言ってないし。

 色々と理屈をこねくり回してしまったが、折角こうも力になると言ってくれているのだし、ここは彼女の好意に、素直に甘えてみるとしよう。

 だからまずは、僕の探し物を伝えなくてはならない。

 

「ノートだよ、A4のノート。表紙に名前が──」

 

 …………あっ。

 そこまで言って、探し物を教えようとして、僕はまだ、僕らがお互い名乗り合っていないことを思い出した。

 僕は彼女に名前を伝えていないし、彼女の名前を知らない。

 これから力を借りるというのに、それは流石に不味い気がする。

 きちんと名乗って名乗られて、話はそれからだ。

 

「悪い、自己紹介してなかったな。3年5組、岩根(いわね)勇吾(ゆうご)だ」

 

 改めて向き合い、僕は名乗る。

 すると少女も気がついたのか、正面から僕を見据えるように立つ。立って、僕の顔を、眼をジッと見つめてくる。

 これほど真っ直ぐな、純粋な目で見られたのは、一体いつ振りだろうか。

 赤い視線に射抜かれて、お世辞にも人付き合いが上手いとは言えない僕は、自分の背筋がピンと張るのを、どこか他人事のように感じていた。

 つまりアレだ、緊張してきた。

 美人は黙ってるだけで迫力があると言うが、それの美少女版だ。

 表情筋が固まった僕を他所に、彼女は溌剌とした笑顔を浮かべると。

 

「わたし、伊吹翼で〜す!! クラスは2年2組っ、よろしくお願いしまーす!!」

 

 背後にトーンでヒマワリでも咲かせたくなる、華やかな名乗りだった。つい釣られて、こちらまで口端が上がってしまうような、そんな。

 

「あぁ、よろしく伊吹さん。ホント助かるよ」

「わたしもちょうど暇してたから、気にしないでくださいよー」

 

 あくまで軽く、こんなことは何でもないと言わんばかりに彼女は、伊吹翼は笑いかける。

 気を遣われないようにそうしているのかとも思ったが、見た感じこれが彼女の素なんだろう。

 

「それで、ノートですよね? 2人で探せば、きっとパパッと見つかりますよっ」

 

 ね? と、首を傾げて伊吹さんは笑う。

 というか、本当によく笑うな。こうも嫌味のない、とても気持ちのよい笑顔を向けてくれると、先程まで僕の中にあった不安や疲労が、スッと抜けていくような気すらした。

 自然と、こっちの頬も緩んでしまう。

 とはいえ相手は初対面の女子なのだ。うっかり締まりのない顔を見せないように、気を引き締めて願い出る。

 

「そう、だな。よろしく頼む」

「はーい、よろしく頼まれちゃいました!!」

 

 気合十分といった具合に手を挙げる伊吹さんの姿に、僕は最初にゴミ山を漁り始めた時とは、全く違う気持ちで手を伸ばすことができた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 で、それから五分後。

 

「全然見つからないよ〜、わたし飽きてきちゃったかも……」

「何なんだぁあ君はあぁっっ!!!!」

 

 思い切りずっこけながら、僕はつっこんだ。思わず、大きな声を出してしまった。

 だって仕方ないじゃないか、あれだけの押しの強さを見せてノート探しを手伝うと言ってくれたのに、ものの五分でこれだ。

 飽きっぽいってレベルじゃない、秋空の擬人化か何かなのか?

 決してノート探しに飽きてしまったことに対して怒ってるとか、呆れてるとか、そういう訳ではないけれど、少しばかり驚いたぞ僕は。

 

「うぅ……でも〜、なんか想像していたのと違ってて」

「逆にどんな想像をしていたんだ……??」

「わたし、ちょっと休憩してきますねー」

「えっ、あ、おい伊吹さん」

 

 いや自由か。

 言いたいことを言うだけ言って、伊吹さんはゴミ山から下りてしまった。

 想像と食い違いがあって、それが彼女の飽きの原因らしいけれど、僕にはその辺がさっぱり分からない。

 この五分間は真剣な表情で黙々とノート探しに集中してくれていたように見えていたのだが、勘違いだったのだろうか。

 まぁもとより一人で探していて、援軍が来るとは夢にも思っていなかったのだし、僕としてはこのまま捜索を続行するだけだ。

 だけなのだが、何なのだろう。

 ほんのちょっぴりだけ顔を覗かせる、この寂寥感は。

 伊吹さんは勝手に手伝ってくれたわけで、彼女に探し物があったわけでも、僕が頼んだ訳でもない、だから本来彼女の行動に対して僕があーだこーだと考える必要はないのに。

 ……それこそ考えても仕方ないか。もう5時過ぎだし、早いとこノートを見つけないと。今日はかなり強い風が吹いている、いつまでも外にいたらそれこそ風邪をひいてしまうやも知れない。

 僕は再びノートを探すため、未分別の山へ手をつけ始めた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 それから更に20分が経過した。伊吹さんは戻ってこない。

 もう帰ったのだろうか、仮にそうだとしても、それは仕方のない話だ。一体どう言うつもりで手伝うと言ってくれたのかは分からないけど、普通に考えればゴミ山漁りをしてる、それも初対面の相手を手伝ってくれていたのが驚きなんだから。

 だから、これが当たり前なんだ。こうやって一人で探すのが当たり前で、当然のことだ。

 伊吹さんが来てくれて、プラスになっていたものが元の状態に戻っただけ。

 戻っただけ……なのに、どうやら僕は彼女の助力が、自分で思っていたよりも嬉しかったらしい。我ながら甘っちょろいと言わざるを得ないが、助けになってくれる人がいて、その人がいなくなってしまったことで気持ちが下向きになっているのかも知れない。

 駄目だな、切り替えないと。

 何はともあれ、ノートだ。

 あのノートを見つける為に、僕はここにいるのだ。

 しかし本当、あれはどこに埋まっているんだろう。

 かれこれ二時間半は探しているにも関わらず、目当てのノートは影も形も見当たらない。

 もし、このまま見つからなかったら……どうしよう。諦めるつもりはない、しかし諦めるつもりはなくても、明日の朝にはゴミ収集車が来る。それまでに見つけることが出来なければ、僕のノートは跡形もなく燃やされてしまう。

 あー不味い、不味いぞ。意識しないようにしていたのに、ここに来て一気に不安になってきた。

 無理矢理押さえつけていた、焦りってやつが、僕の心を締め付けてくる。締め付けられて、嫌な想像ばかりが僕の脳裏に浮かんでくる。

 そんな、僕に──。

 

「あっ、センパイ!! 先輩これっ、見てください!!」

 

 駆け寄りながら興奮気味にそう言ったのは、伊吹さんだった。

 20分前にゴミ山から下りて、ノート探しから降りたはずの彼女が、何やら手に持ってこちらに走ってくる。

 ……いや、待てよ。何やら、じゃない。伊吹さんの手にあるそれは、長方形の薄い──ノートのように見えた。それもA4サイズの。

 まさかと思いつつ、ゴミ山から飛び降りる。飛び降りたその足で、僕も彼女の方へと駆け出した。

 もしかして、もしかしてだ。

 高鳴る胸の鼓動に後押しされて、僕は走った。

 二人して走るものだから、あっという間に僕らの距離は縮まっていく。

 最後の数歩を走り終えて、数分前と同じように向かい合うと、伊吹さんは興奮冷め止まぬ様子で一冊のノートを差し出した。

 

「センパイっ。先輩の名前って、この字であってます?」

 

 聞かれて、僕はノートの表紙を検める。

 そこには紛れもなく僕の字で、『岩根勇吾』の4文字が書かれていた。

 間違いない、僕のノートだ。僕が探していた、正にそのノートだ。

 あぁ、良かった、見つかった。

 そう思った瞬間、張り詰めていた身体中の緊張が解けたせいか、僕はヘナヘナと膝から崩れてしまった。

 

「センパイ大丈夫? もしかして、違ってました?」

 

 すると急に膝立ちになった僕を心配したのか、伊吹さんはしゃがみ込み目を合わせるようにして尋ねてくれる。

 一呼吸して、僕は言葉を返す。

 

「……いや、合ってるよ、僕のノートだ。悪い、ちょっとホッしちゃって」

 

 格好のつかないとこを見られてしまったが、伊吹さんは意に介さず。

 

「やったー!! えへへっ、技術室の屋根に引っかかってたんですけど、取りに行って良かった〜」

 

 彼女の言葉に、僕は耳を疑った。

 技術室は本校舎から渡り廊下を通った先にあり、このゴミ山からはそこそこ離れている。

 なんでまた、そんな所にノートが。

 そう思った僕の目の前で、突風に煽られゴミ山からプリントの束がすっ飛んでいった。

 ……あぁ、そういうこと。

 ゴミ山は三方をレンガの壁に囲まれており、普段は上からネットをかけている為、今のように風でゴミが飛んでいくことは滅多にない。

 しかし、僕のノートは上の階から投げ捨てられたものだ。地上へ落ちる前に風に拐われたと考えれば、まぁ話としては筋が通る。

 つまり僕は、そこにありもしないノートを延々と探していて、伊吹さんがいなければ明日の朝まで探し続けるところだったわけだ。

 ん? というか今、伊吹さん屋根から取ってきたって。

 よく見れば、彼女は制服のあちこちに桜の花弁をひっつけていた。確か技術室の側には大きな桜の木が生えていたはずだ、まさかアレを登ってノートを取ってきてくれたのだろうか。

 そこまでして、僕のノートを。

 そう思うと、僕は先ほどまでの自分を恥じずにはいられなかった。伊吹さんは帰ったんじゃないかって身勝手な憶測で凹んで、情けないにも程がある。

 

「……ごめん、伊吹さん」

「センパイ?」

「僕、伊吹さんは帰ってしまったんじゃないかって、そんな風に思ってて。伊吹さんはノートを探してくれていたのに……だから、ごめん」

 

 立ち上がり、頭を下げる。

 恩人に対して、失礼なことをしてしまった。ただただ申し訳なくて、僕は頭を下げ続けた。

 しかし伊吹さんがしゃがんだまま僕を見るものだから、頭を下げているにも関わらず見上げられるというおかしな状態になってしまう。

 

「ふふっ。あっはは、真面目過ぎですよ〜センパイってば、そんなの言わなければ分からないのに」

 

 そんな状態に耐え兼ねたのか、軽く吹き出しながら、伊吹さんは笑う。そして僕と目を合わせたまま立ち上がったので、こちらも釣られて顔を上げる。

 改めて向き合うと、彼女の表情に僕への悪感情はこれっぽっちも無く、出会った時から変わらない純粋な目で僕を見てくれていた。

 

「でも、思ってしまったのは事実だから」

「だーからー、そんなの気にしてませんって」

 

 それに。と間を空けて、伊吹さんは少し拗ねたように口を尖らせる。

 

「わたし、センパイに謝って欲しくて取ってきたわけじゃないんですよ?」

「うっ、ごめ……あー、うん」

 

 確かに、さっきから謝ってばっかりだ。

 それよりも先に、真っ先に、彼女に言わなくてはならない言葉があったのに。

 ……いや、言わなくてはならない言葉。は違うな。

 これは僕が彼女に、伊吹さんに言いたい言葉なんだから。

 上手く笑えているかは分からないが、精一杯の笑顔ってやつを浮かべて、僕は口を開く。今度の言葉は、思ったよりもすんなりと音になってくれた。

 

 

「ありがとう、伊吹さん」

 

 

 その言葉に何を思ったのか、伊吹さんは一瞬これまでに見せたことのない、透き通るような表情で僕を見た。

 

「どーいたしまして、センパイっ」

 

 ほんの一瞬だったから、それも直ぐにまた華やかな笑みを浮かべたから、僕の見間違いだったのかも知れない。でも、確かに彼女は何色にも染まっていない、混じり気のない顔をしていて。

 

 ──その純粋さが、僕にはどうしようもないほど眩しかった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「そういえば、あのノートって何が書いてあるんですか?」

「え"っ」

 

 駅への道を歩く途中、伊吹さんはふと思い出したように尋ねてきた。急に尋ねられて、僕は野生動物の断末魔を思わせる掠れた声を出してしまった。我ながらよく出たな今の声。

 そもそもなぜ僕らが並んで歩いているか、その点について説明するとだ。流石に時間も時間であるため帰路へ着くことにした僕たちは、お互い同じバスの路線を──方向は反対だが、使っていることを知り、ならバス停まで一緒に行きましょうよと伊吹さんが言い出して、特に断る理由のない僕が頷いた。という運びになる。

 まぁその経緯は良いとして、良ろしくないのはこの質問だ。出来れば答えたくない質問だが、答えが返ってくると信じて疑わない伊吹さんの顔が隣にあると思うと、変に意地を張るのも不義理になる気がしてきた。

 ……仕方がない、本当に仕方がないけど、覚悟を決めよう。

 

「その、これは秘密にしてほしいんだけど……」

「あっ、いいですねそれ!! 二人だけのヒミツって感じですか?」

「んん? あー、そうだな。そういう事にしとこうか」

 

 なんだか語弊がある誤解を招きそうな発言があったが、もう秘密にしてくれるなら、胸の内に秘めてくれるのなら、それで良いや。

 僕は心の中で呼吸を整える、ここまで言ったからには、口にしたからには、教えなければならない。

 墓まで持っていこうと考えていた、この秘密をだ。

 よし、それじゃあ言うとしよう。これまで誰にも、親にですら言ったことのない僕の秘密を。

 

「小説だよ」

「……えっ?」

「だから、小説だよ。その……自分で書いてるんだ」

 

 案の定というべきか、伊吹さんはキョトンとした顔で固まってしまった。

 引かれたか? 引かれてしまったのか? あんだけ必死になって何を探していたかと聞かれて答えが自作の小説でしたと来て、ドン引いてはいないだろうか。

 不安が、僕の胸を打つ。

 これでも、中学三年生なりに文章の書き方や物語の構成ってのを調べて、一応のプロットらしき物を組み立てそれに沿って書いている……つもりだ。もちろんプロとして、職業小説家として物語を書いている人たちとは比べ物にならないと、そんな事は百も承知だ。

 けど仕方ないじゃないか。書きたいと思ったら、心からそう思ったのなら、もう書くしかないじゃないか。

 理解が欲しいとか評価して欲しいとか、そういう訳ではない。訳ではないけれど、これが理由で伊吹さんの僕を見る目が変わってしまったら嫌だなと、僕は。

 

「あの、伊吹さん。僕は──」

「すっっっご〜〜いっ!!!!」

 

 突然の大声だったものだから、僕は二の句を継げられなかった。

 大声をあげた本人、伊吹さんはキラキラした瞳を輝かせこちらに詰め寄ってくる。

 

「センパイ小説家だったんですね、すごいな〜!!」

「え、えぇえ? いやっ、そんな大そうなものじゃなくて、えと……」

 

 あまりの吶喊ぶりに、僕は上半身をそらしてしまった。このまま放っておくと、こちらの手を掴んで振り回しかねないくらいのハイテンションだった。

 もう何が何やらだ、何でこんなに食いついてくるんだろう。

 すると伊吹さんは勢いに任せてか、とんでもないことを言い出した。

 

「読ませてくださいよ〜、センパイの小説!!」

「む、無理だよ!! 人に見せるようなもんじゃないし、そもそも未完成なんだ」

「えぇ〜? 良いじゃないですか未完でも、わたし読みたいな……ダメぇ?」

「コレばっかりは駄目だ。駄目ったら駄目!!」

 

 顔の前で腕を交差し、バッテンを作り全力で拒否する。

 いくら伊吹さんが恩人といえど、流石に書きかけの自作小説を読まれた日には僕の羞恥心が木っ端微塵になってしまう。

 

「もー、センパイって結構イジワルなんですね」

「勘弁してくれ……今ですら恥ずかしいんだから」

「あっ!! じゃあ完成したら読ませてください、それなら良いでしょ?」

 

 さも良い感じの妥協案を見つけたような顔だった。

 いや良くない、全然良くない。全く良くない、が。完成品を、書き上げた小説を誰にも見せずに、それこそ本当に墓まで持って行ってしまうのは、それはそれで何だか少し寂しいように思ってしまった。

 

「……分かった、分かったよ。書き上げたらちゃんと見せる、約束する」

「えへへ、約束ですよっ!! わたしに、一番最初に読ませてください」

 

 約束してしまった以上、もう後には引けない。小説を書いているという事実に引かれていなかったのは素直に良かったのだが、引き換えにとんでもない一線を引いてしまった気がする。

 ただ、まぁ。伊吹さんならきっと、気を遣わずに思った通りの感想を述べてくれるだろうし、それなら僕もきちんと受け止められるはずだ。

 なんて事を話しているうちに、バス停が見えてきた。僕が使っているバス停は車道を挟んで向こう側にあるため、もう少し歩いて信号を渡るのだが、伊吹さんとはそろそろお別れである。

 色々あった今日も、これで終わり。

 そういえば、終わりといえば、最後に一つ伊吹さんに聞いておきたいことがあったなと、僕は憶いだした。

 

「なぁ伊吹さん。僕からも一つ聞いて良いかな」

「女子にモテる秘訣ですか?」

「いや知らないよ、てか何で君が知ってるんだよっ、よしんば知っていたとしても知ろうとは思わないよっ!!」

「あはは、センパイ面白〜い!!」

 

 完っ全に遊ばれてる……初対面の相手にどうやったらここまでグイグイいけるんだ、パーソナルスペースが狭過ぎる。

 上手いこと乗せられてる、彼女を調子に乗せている僕も僕だ。不思議とそれでも嫌な気にならないのは、伊吹さんの凄いところというか、ズルいところというか。

 

「えーっと、聞きたいことがあるんでしたっけ? わたしに」

 

 一頻り笑って満足したのか、ようやっと真面に答えてくれそうな雰囲気だった。

 なので僕も、真面に、真面目に、問い返した。

 

「うん、答えたくないんだったらそれで良いんだけど……どうしてあの時、僕を助けてくれたんだ?」

 

 最初に手伝うと言われてから、ずっと気になっていた。

 なんで、どうして、初めて会った僕に力を貸してくれたんだろう。

 もしかすると、困ってる人を助けるのは当然だとか、人を助けるのに理由はいらないだとか、そんな聖人的答えが返ってくるのかも知れない。ただ、ほんの短い付き合いではあるけれど、伊吹さんはとても自由な人で、そういった信念に基づいて手助けしてくれた風には見えなかった。

 助けてもらった身で言うのもなんだが、まるでご都合的なヒーローのように、彼女は僕の前に現れた。一人ぼっちの、僕の前に。

 だから、気になった。気になって、聞かずにはいられなかった。

 すると僕の疑問を受けとめて、伊吹さんはポツリと、こう溢す。

 

「センパイ、凄い一生懸命だったから」

 

 あまりに、伊吹さんらしからぬ声色だった。

 先ほどまでニコニコと笑っていた彼女は、これまでになく真面目……というより、どこか憂い気な表情をしていた。

 

「すごーく必死な顔で、センパイはなにかを探してて……」

 

 俯いて、少し前の情景を見ているように、伊吹さんは言葉を紡ぐ。

 

「そんな夢中になれて、なんか良いなぁーって。わたしも一緒に探せば、なにか分かるのかなって。ただ、それだけなんです」

 

 最後に、なぜか困ったような笑みを浮かべて、伊吹さんはバス停の列に並ぶ。

 あぁ、そうか。

 心のどこかで、合点がいった。

 あの時、一度彼女がゴミ山から下りた時に、想像と違ったと言っていたのは、この事だったのか。

 僕がノートを探していたのと同じで、伊吹さんもまた、自分が夢中になれるものを探していたんだ。

 自然と、口が開いた。

 もうお別れを言わなきゃならないタイミングで、けどコレだけは伝えたくて。

 

「見つかるといいな、伊吹さんの夢中になれるもの」

 

 本心から、僕はそう思った。

 伊吹さんが夢中になって、がむしゃらになって、一生懸命になれるものが見つかれば良いなと。

 きっと、いや絶対、それを見つけた伊吹さんは、今まで以上に輝けるはずだ。

 そんな彼女を見てみたいと、僕は思ったんだ。

 

「はいっ。わたし……わたしも、あとちょっとだけ、探してみようかな」

 

 キラリと、出会った時みたいに、伊吹さんは笑ってた。

 やっぱり、伊吹さんの笑顔には不思議な力がある。彼女が笑っているだけで、近くにいるだけの僕も、何故だか晴れやかな気持ちになってしまう。

 

「あぁ、きっと見つかるよ。僕のノートを見つけてくれたみたいにさ」

「えへへ、わたしが手伝ってたはずなのに、なんか助けて貰っちゃいましたね〜」

「いや別に、助けたとかそんなんじゃ──」

「それでも、ですよ」

 

 僕の言葉を、遮りながら。

 最後の最後に、今日一番の笑顔と共に。それこそ太陽のような燦々とした明るさで。

 

 

「応援してくれて、ありがとうございます。ユーゴ先輩っ」

 

 

 ……後になって思えば、思い返せば。この時にはもう既に、僕は伊吹さんを応援する側に立っていたってことなんだろう。

 

 

 



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翼の探しもの

 

 

 伊吹翼は幸せのために生きている。

 ゆえに彼女の行動基準は、自分が幸せに──ハッピーになれるか否かが全てだ。

 自分がやりたいか、やりたくないか、そんな基準が彼女の行動指針なのである。

 その基準からすると、あの日の彼女の行動は、いつもとちょっぴり違っていた。

 

 数日前のことだ。

 6時間目に入っていた数学の授業をサボって、翼は優雅なシエスタに勤しんでいた。

 なぜ授業をサボったのかといえば、それは今日の範囲が前回の復習で、翼はすでにその範囲を覚え切っていたからだ。

 勉強はする。なんとなくだが、やっておいた方が良いのは分かるので勉強はする。しかし一度覚えてしまった箇所を、わざわざもう一時間使って学ぶ意味を、彼女はついぞ見出すことが出来なかった。

 なのでサボタージュ&シエスタである。

 ちなみに場所は敷地内にある倉庫の一つで、窓の一つに鍵がかかっていないのをいい事に、翼はそこを自分の休憩場所として使っていた。

 しかし自分でも知らないうちに眠気が溜まっていたのか、目を覚ますと既に時刻は四時半を回っていて、翼はじゃあ帰ろうかなと身嗜みを整え帰路に着こうとする。

 着こうとして、ふと思ってしまった。

 

(なんか、"いつも通り"って感じ……)

 

 自分は多分、いやかなり恵まれている方だ。

 優しい両親に、姉と兄。

 クラスにはたくさんの友達がいて、男子にも結構モテてる。

 やりたいことは大体やれてるし、いい感じのハッピーライフを満喫してるはずだ。

 なのに、それなのに。

 翼の心には『退屈』の2文字があった。

 贅沢だという、自覚はある。

 ただ自覚があろうとなかろうと、彼女が退屈している事実が消えるわけではない。

 もっと楽しく、もっとハッピーに、もっと夢中になれる何かを、翼は無意識に求めていた。

 

(あれ、こんな時間に……誰だろ)

 

 校舎裏のゴミ山を横切ったのは、倉庫からだとその方が出口──裏口に近いからだった。

 普段、校舎から真っ直ぐに帰ろとすればまず通らない道。その道の脇にあるゴミ山に、彼女は人影を見つけた。

 一瞬警戒するが、格好を見れば、それが星見ヶ丘学園中等部の制服であることは直ぐに分かる。

 人影は男子生徒で、ゴミ山に手を突っ込み、何かを探しているようであった。

 フラリと、翼の足は自然と、ゴミ山の方へと向かっていた。

 こんな時間に、あんな場所で、一体なにを探しているんだろうかと。

 男子生徒からほんの数メートル離れた場所に立ってみて、様子を窺ってみる。けれど彼は翼のことなど眼中にないようで、ちっとも反応してこない。

 クラスの男子達なら、例え何十メートル離れていたって、翼に気がつけば寄ってくるのに。

 新鮮だった。新鮮な気持ちで、もっとよく見てみようとして、彼女はもう数歩近づいた。そこでようやっと、男子生徒の顔がハッキリと視界に収まる。

 目を引いたのは、大きな火傷痕。

 顔の大部分、少なくとも翼の方から見える右側に関しては、口元から耳元までが赤っぽい火傷の痕で覆われている。

 仮に反対側もそうだとしたら、元の顔がどうだったのかなんて、写真でも見なければ分からない程だ。

 それはとても強烈で、気の弱い人ならそれだけで調子を崩してしまいそうなインパクトがあった。

 だが、そんな事より、そんな些細な事よりも。

 翼は見た。

 彼の真摯な、一生懸命な顔を。

 なにを探しているかは知らないが、探している何かの為に、必死になっているその顔を。

 自分に、あんな顔が出来るだろうか。

 きっと無理だ。あそこまで一つの物事に打ち込んでいる顔は、翼には作りたくても作れない。

 だって、彼女にはないから。

 それほどまでに求める何かが、夢中になれる唯一無二のものが。

 だから──。

 

「そんなところで、何してるんですかー?」

 

 気がつけば、翼は口を開いて、そんなことを聞いていた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 ピピィ────ッ!!

 

「ゲームセット!! ウォンバイ伊吹、ゲームカウント7-5」

 

 試合終了のホイッスルが鳴り、ワッと歓声が響く。

 肩でしていた息を整えると、翼はラケットを左手に持ち替え、対戦相手と握手を交わした。

 

「対戦ありがとう。いやぁー負けたわ、伊吹ちゃん。ラケット握ったの一昨日が初めてってほんま?」

「ありがとうございまーす。そうですよー? テニスはやったことなかったから」

「……おるもんなんやなぁ、天才って」

 

 参った参ったと、対戦相手──テニス部のレギュラー選手が去っていく。するとあっという間に、翼の周りに人垣が広がった。

 

「凄いよ翼ちゃん!! レギュラーの選手に勝っちゃうなんて!!」

「伊吹さん体験入部中なんだっけ? もうテニス部入っちゃいなよー」

「翼先輩カッコ良かったですっ、次、私とも試合してください!!」

 

 同級生に先輩に後輩と、三者が三様に、三者三様の言葉で、翼の勝利に湧いていた。

 彼女が女子テニス部に体験入部して早三日、とんでもない集中力とセンスでメキメキと上達するその様子を間近で見ていた部員達にとって、今の翼はちょっとしたスターである。

 無論、ポッと出の彼女が次々と白星をあげていくことに、複雑な思いを抱く部員もいたのだが、その辺りに対して翼は天性ともいえる人懐っこさを存分に発揮していた。

 

「あれ、でもツバティー先週はソフトボール部行ってたよね? 走っても打っても投げても凄かったって、あっちの子が言ってたよ」

 

 そう声をあげたのは、テニス部員のクラスメイトだ。

 

「うん、その前はフットサルでー、あと写真部。次はバスケと吹奏楽に行こうかなぁって考えてるトコ」

「え〜?! テニス部入らないの? 私ツバティーと一緒に部活やれるって楽しみにしてたのに〜」

「えへへ、ごめんね〜。色々やってみたくって」

「にしてもツバティーやり過ぎだよー、ソフトボールにテニスにフットサルでしょ。あと運動部じゃなくて写真部。それと今度はバスケと吹奏楽だっけ? どしたのさ急に」

 

 確かに、側から見れば至極当然の疑問だ。

 一年間部活動に参加していなかった翼が、なぜ今頃体験入部を繰り返しているんだろうかと。それも、短期間で複数回も。

 無論、それは先日の邂逅が、岩根勇吾との出会いが理由であり、翼は宣言通りに夢中になれるもの探しの真っ最中、というわけだった。

 ただ未だに体験入部を繰り返しているということは、それすなわち、イコールで、彼女が自分を夢中にさせてくれるものに出会えていない事実を示している。

 ソフトボールは楽しかったし、テニスも他選手に勝つ為工夫するのが面白かった。風を切ってボールを追いかけるのは爽快感があったし、思った通りの写真が撮れた時は嬉しかった。

 でも、足りない。

 鏡で確認してはいないけれど、自分があの時の先輩のような顔をしているかと訊かれれば、翼には自信がなかった。

 楽しいし、面白いし、嬉しい。

 けど心底夢中になれては、いない気がした。

 やや飽き性の彼女にしては、ここまで一つ一つ真剣に取り組んでいる。手を抜いてなんかいない、全力でやっている。

 だったら何故、夢中になれないんだろう。

 

「うーん、なんとなく!! 今はそーいう気分なの!!」

「なにそれ〜、変なツバティ〜」

 

 なんて心情を、テニスに夢中なクラスメイトに打ち明けられるはずもなく、翼は笑って相槌を打つ他なかった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 二週間後、翼は机に突っ伏していた。

 心配したクラスメイトに声をかけられるが、大丈夫だよー。と生返事。

 あの出会いから一月弱、めぼしい部活は粗方回った。回ったが、空回り……というより、空振りだった。

 どの部活動にも魅力はあった、それは確かだ。しかし、そこでとことん続けたいと、翼は思うことが出来なかった。

 夢中には、なれなかった。

 そもそも夢中になっているとは、どう判断するんだという話になるが、翼としては夢中になっているなら、もっとこう胸の高鳴りというか、ワクワクやドキドキするものだと思っている。

 それこそ、あの時みたいに。

 ノートを見つけて、差し出して。それを受け取った彼が見せた、ぶきっちょな笑顔と、『ありがとう』を受け取った。あの時のような、ドキドキを。

 あれは結局、なんであんなにドキドキしたのだろうと、伊吹翼は考える。

 異性の笑顔にドキッとしたとか、そんな話ではない。多分、先輩の性別とか、そういうのは関係ない気がした。

 その点を踏まえて、翼は改めて思い出す。彼との出会いを、そこでのやり取りを思い出し、自問自答を繰り返す。

 ノート探しを一旦やめて、ゴミ山を下りたのは単純に飽きてしまったからだった。先輩には悪いことをしたかも知れないが、本来翼はそういう性分なのだ。

 けど、飽きてしまって、暫く歩いて、翼は振り返った。

 振り返って、もうちょっとだけ探してみようかなと、何となしに思った。

 だから、技術室の屋根に引っかかるノートを見つけた時、翼は迷わなかった。迷わず桜の木を登って、精一杯手を伸ばして、ノートを掴んだ。

 それで、ノートを渡して、彼の笑顔を見た時。

 あぁ、頑張って良かった。

 そう思えた、思うことが出来た。自分のやったことで、心からの笑顔を見られて、それで──。

 

(あ、そっか。だから、わたし……)

 

 あの時の気持ちを、もう一度確かめたい。

 でもどうすれば良いのか、どうやれば確かめられるのか。

 考えても分からない。

 分からないし、考えても仕方ない気がする。

 そういう時は今まで通り、したいと思ったことをすれば良い。

 とりあえず、立ち上がりながら翼は決めた。

 

(ユーゴ先輩のところに、行ってみよーっと)

 

 目指す先は、三年五組の教室だ。

 

 

 



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ツバサの噂

 

 

 二年生に、体験入部を繰り返す美少女がいるらしい。

 

 なんて噂が、ここ一月ほど話題になっている。

 曰く、フットサル部でハットトリックを決めただとか。

 曰く、ソフトボールで完投勝利しただとか。

 曰く、テニス部でレギュラー選手に勝っただとか。

 そんな噂だ。

 まぁ噂なんてのは、例え聞く気がなくても耳に入ってくるもので。

 少なくとも、僕はその噂を聞こうとして聞いたのではなく、あまりにクラスで話題になるものだから、勝手に耳に入ってきた、と言わせて欲しい。

 決して、その二年生の美少女とやらに心当たりがあったから、聞き耳を立てていただとか、そういう訳ではないのだ。

 そもそも、僕に『噂になってる二年生のことなんだけど』なんて声をかけられて、まともに答えられそうな奴は、このクラスにいない。

 原因は僕の顔面の、その右半分を覆っている火傷痕だ。

 かつて僕がまだ幼かった頃、それこそ純真無垢で純一無難であった頃の話になる。

 といっても僕に当時の記憶はなく、これも父親に聞いたのだが。

 ざっくり言うと、母親の不注意だったらしい。僕と母親が二人きりの時に、母親は僕から目を離してしまい、その間に僕は火傷を負った。

 結果として僕には大きな火傷痕が残り、今現在お決まりのようにクラスでは浮きに浮いている。

 そういう話だ。

 正直なところ、現状に対して怨みとか妬みだとか、そんなマイナスの感情はある。あるにはあるが、怨んだところで仕方がないという、諦めに近い悟りも、同じように僕にはある。

 こんな顔でも、声をかけてくれる人がいるにはいるし、良くしてくれた人は、皆んな人間ってやつが出来ていた。

 なので、僕はまだツいている方だと思う。これまで出会った人に恵まれたから、今の僕があるわけで、辛い思いばかりをしていたら、もっと鬱屈とした岩根勇吾がここにいたはずだから。

 と、そんな自分語りはさて置き。

 噂になっている件の美少女二年生というのは、まず伊吹さんで間違いないだろう。

 噂が流れ始めたのは"あの日"以降のことだし、内容からしても予想は当たっているという自信を持てた。

 きっと彼女は探している。自分が夢中になれるものを、今もこうして探しているんだ。

 そう思うと、なんだか少し嬉しかった。あの時の出会いが、伊吹さんが探しものをするキッカケになっているような気がして。

 あれ以来顔を合わせてはいないが、なんだか応援しているスポーツ選手の活動を聞いているようで、僕は上機嫌になれた。

 いったい、彼女は何に打ち込むんだろうって考えると、こっちまでワクワクしてしまう。

 例えば──。

 

「お邪魔しま〜〜す!! ユーゴ先輩いますか?」

 

 後ろ側。

 僕の席は最前列の右から二番目なので、後ろ側の出入り口からだ。

 どうにも聞き覚えのある、甘い声が教室に響いた。強いて言うなら、その声で僕の名を呼んでいた。

 ピタッと、先ほどまでのガヤガヤとしていた昼休みの空気が凍る。多分僕以外のクラスメイトは、一人残らずそちらを向いていたに違いない。僕は頑として前を向いているから見えないけど。

 おいおい嘘だろ。

 噂をすれば影とは言うけど、言うけどもっ。そんな律儀に従ってたら、彼女は校舎中に現れなくっちゃいけなくなる。

 噂の彼女、体験入部の美少女二年生。

 そう、伊吹翼は。

 

「あれ、ユーゴ先輩お休みなのかな〜?」

 

 困ったことになった。

 とても困ったことになってしまった。

 彼女はどう見ても僕に会いに来ている。

 いや、別に会うのは構わない。構わないのだが場所が悪い、悪過ぎる。

 これでクラスの注目が僕のほうに向いたりしたらジ・エンドだ。

 するとクラスの中で『ゆーご?』『あれ、そんな名前のやついたっけ?』なんて言葉が聞こえ始めた。なるほど、そもそも名前を覚えられていなかった。確かに先生も基本苗字で呼ぶけどな、流石に酷くないか?

 とにかく初手は免れた。ただどっちにしろ、やはり場所が悪い。

 こんな教室の中で、僕と伊吹さんが会話でもしてみろ。伊吹さんはこの間みたいに、僕の火傷痕なんて最初から見えてないように話してくれるかも知れない。そうなれば、根っこしか合っていない滅茶苦茶な噂が蔓延するに決まってる。

 僕はいい、僕は今更どんな謂れのない噂を流されようが、別にどーってことはない。

 でも伊吹さんは駄目だ。

 僕一人ならまだしも、彼女まで変な噂の対象にしてしまうのは許せない。僕が、僕を許せなくなる。

 さて、どうしたものか……

 

「な、なぁ伊吹さん。久しぶりだね」

「えと、あ〜吹奏楽部の部長さん? 久しぶりですねー」

「う、うん。ここに来たってことは、もしかして……正式に入部してくれる気になったのかい?」

「……えっ?」

 

 おや、話の風向きが変わってきたぞ。

 

「おい待てよ、伊吹さんは写真部にだな……っ」

「ちょっと、伊吹ちゃんは女バスに入るんだから」

「いやいや、うちのテニス部にだって!!」

 

 吹奏楽部の部長やらが言った一言を皮切りに、次々と自称部活の代表者たちが伊吹さんの所属先を巡って声をあげ始めた。

 どうにも伊吹さんのポテンシャルの高さは桁外れだったらしい、ほぼ全ての部活があーだこーだと彼女を求めて紛糾している。

 こうなってくると、もう伊吹さんも僕を探すどころではあるまい。

 チラリと時計を確認。昼休みの残り時間は数分だ。五時限目の担当教員は来るのが速いし、これならヒートアップして伊吹さんが揉みくちゃにされそうになったとしても、先生が止めてくれるだろう。

 そう判断した僕は。

 

(よし、じゃあ帰るか)

 

 カバンに荷物をまとめ、スタコラサッサと教室を後にした。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 伊吹さん3年5組襲来を経て、午後の授業をブッチした僕は近所の喫茶店を訪れていた。

 扉を開くとカウベルが小気味の良い音色を奏で、僕を出迎えてくれる。

 

「あれ、岩根クン。今日もサボりかい?」

「僕がさも日常的にサボってみたいに言わないでくださいよマスター。まぁ、サボりなんですけど」

 

 開口一番にそんなことを言ってのけるのは、たっぷり蓄えられた口髭にスキンヘッドが印象的な30代半ばの男性──この喫茶店のマスターだ。

 この店に通い始めて二年と少しになるが、相変わらず見た目のキャラが濃い。そして口は軽い。

 

「そっかそっか、まぁ座ってなよ。お昼は食べた?」

「はい、なんでお構いなく。コーヒーだけ貰っても良いですか?」

「あいよ、んじゃごゆっくり〜」

 

 それだけ言うと、マスターは厨房に引っ込んでしまった。

 なので僕もいつも通り、一人掛けの椅子へと腰掛け、ノートを広げる。

 ここは僕が小説を書く時に、良く使わせてもらっている店で、学校がしんどい時の避難場所でもある。

 マスターは本当に良くしてくれており、頭は上がらないし、足を向けては寝られない恩人だ。

 中学に入ってからの二年間、僕が腐らずにいられたのは、この店の影響が非常に大きい。

 にしても安心できる場所に来たせいか、ドッと疲れが出てきた。ああいう、自分に視線が集まりそうな空気は苦手だ。胸がギュッとなって、息苦しくなる。

 けど、伊吹さんには悪いことをしてしまった。

 せっかく訪ねてきてくれたのに、僕は逃げ出した。事情が事情とはいえ、もっとスマートに事態に収拾をつけられたらなと思わずにはいられない。

 

「難しい顔してるねえ岩根クン、ほら珈琲お待ちどう」

「あ、ありがとうございます。頂きます」

「うん、私は倉庫の整理をしているから、用があったら声をかけてくれい」

 

 コーヒーを置くないなや、マスターは倉庫の方に行ってしまった。これはアレだな、気を遣われてるやつだ。

 こういう時に、根掘り葉掘り聞いてこようとしないで、一人にしてくれる心遣いが身に染みる。

 ……しっかし、あの場は運良く切り抜けられたが、どうしよう。

 きっと伊吹さんはまた来るだろう。今回ので懲りてもう来ない、というのは彼女の性格を考えると望み薄だ。

 どうにかして、周りにバレないよう伊吹さんに連絡を取る方法を、考えなければならない。

 けれど、考えれば考えるほどに無理ゲーの臭いがプンプンする。

 伊吹さんは人気者だ。

 あの容姿と性格からしてそうだろうとは察していたが、推定していたが、今日の騒ぎで推定は確定に変わった。

 彼女が一人で学校にいる時間はほとんどないだろうし、運良くそうなったとしてもそこに僕が居合わせる確率なんて無きに等しい。

 それこそ伊吹さんを付け回しでもしない限りだ。もっとも、そんな手を打てば即座にバレるだろうし、僕の名は地を割って奈落の底まで落ちるだろう。

 あれ、これ詰んでないか? チェックメイトなんじゃないか?

 と、僕があれこれ考えていたその時だった。

 

「こんにちはー。マスター? いる? 私が来たわよー」

 

 カウベルと共に入店したのは、一人の女性だった。

 初対面どころかまだ対面すらしていない相手に、こんなことを思うのは失礼だと承知の上で思わせて貰うと、とても背の低い女性だ。

 といってもこの時間に、真面目な学生なら授業中である時間に来たということは、身長通りの年齢ではないのだろう。

 それに、確かに身長は低いが、マスターを呼ぶその声色や表情からして、少なくとも成人しているように僕は感じた。

 こう見えて、他人の顔色から場の空気を察知するのは得意な僕だ。もうちょっと話しているところを見れば、確証が取れる気がする。

 

「あれ、いないのかしら。でもオープンになってたし……あっ」

「えっ」

 

 なんて考えていたせいか、バッチリ目が合ってしまった。

 当然のように、女性はこちらに向かって歩いてくる。うーん、歩き方も大人の人っぽい……いや、んな事を考えている場合ではない。

 

「ねぇ、ちょっといいかしら。ここのマスターがどこに居るか、あなた知ってる?」

 

 そうだよな、僕以外にお客さんはいないし、その僕がマグカップを片手に持っていれば、マスターの所在を知っているかもって思うよな。

 そして話しかけられて、僕はこの人が大人であると確信した。醸し出す雰囲気が子供のそれではない。

 ともあれ、聞かれたからには答えなくては。

 

「えっと、マスターならさっき倉庫の方に──」

「おや、お客さんかと思えば、このみちゃんじゃないの。元気してた?」

 

 僕が答えていると、カウベルの音が聞こえていたらしく、答え本人がやって来た。

 

「ちょっとマスター? 今は私も立派なお客様なんだけど」

「冗談だって、じょーだん。カモミールで良いよね?」

「砂糖は一つよ。立ち話もなんだし、カウンターで話しましょうか」

「あはは、それはお客様の台詞じゃないと思うなぁ」

 

 どうも知り合いらしい、それも結構親密な。マスターの軽口はいつも通りだが、飄々と流しつつ合いの手を入れてくる辺りからして、付き合いの長さが窺えた。

 二人はカウンター席へ向かい歩き出す。すると、女性はふとこちらを振り向いて。

 

「答えてくれてありがとね、勉強頑張って」

 

 言い終えると、とても綺麗なウィンクをして、女性はマスターの後に続いて行ってしまった。

 お、大人だ。大人の女性だ……

 誰なんだろあの人。この二年ちょいで会ったことは一度もないが、話し振りからしてプライベートな仲ってやつなのか。

 ま、やめとこう。これ以上の詮索は。

 普段マスターが僕にそうしてくれているように、下手な藪は突かないに限る。

 そう決め込むと、僕は残りのコーヒーを喉に流し込んだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「おーい岩根クン、ちょっと良いかな?」

 

 それから二時間ほど経って、僕がそろそろ引き上げようとしていた頃だった。

 マスターの声に釣られて顔を上げると、さっきの女性とマスターが並んで立って、僕を見ていた。

 

「岩根クン、こちら馬場このみちゃん。このみちゃん、こちら岩根勇吾クンだ」

 

 急に隣の女性を紹介されて、僕も女性に紹介された。え、なにこれ、なにこの流れ。

 

「ごめんなさい岩根くん。私から無理言って、マスターに紹介させてもらったの」

 

 と、マスターの知人女性──馬場さんはバツの悪そうな顔で笑いかける。

 こうしてきちんと正面から向き合ってみて思ったが、馬場さんは造形の整った顔をしている。きめ細やかな茶髪は三つ編みに結われていて、ピョコンと左右に飛び出しているくせっ毛が印象的だ。

 パッと見は小学生高学年か、よくても僕らと同世代なのに、エメラルドグリーンの瞳には、大人びた光が見てとれる。いや、実際大人なんだろうけども。

 

「じゃあ改めて、馬場このみよ。よろしくね」

「あ、はい。岩根勇吾です、よろしくお願いします」

 

 僕の凝り固まった返事に、僕が馬場さんを大人として見ていることを察したのか、馬場さんは意外そうな顔で。

 

「……マスターの言ってた通りね、ちょっと驚いたわ」

「えと、馬場さん?」

「マスターがね、岩根くんなら私が大人だってことに気がつくって言うから」

 

 なるほど、それで。

 そこで視線をマスターに向けて見れば、30代のおじさんが決め決めのドヤ顔を披露していた。ついでにサムズアップ。

 うわぁ……

 

「ふっふっふっ、私の目に狂いはないってことさ」

「マスター、うわキツです」

「その年と顔でドヤ顔サムズアップはちょっとねぇ……」

「はっはー。息ピッタリだね、お二人さん。じゃ、お邪魔虫は厨房に引っ込むとしよう」

 

 言うなり、マスターは本当に引っ込んでしまった。

 僕と馬場さんを置いて。

 なんてこった、これで正式に初対面の女性と二人きりだ。

 なにを話せば良いんだこれ。あ、いやでも用があるのは馬場さんぽいし、向こうから話を振ってくれるんじゃなかろうか。

 そんな期待を胸に、彼女を見る。

 

「マスターは相変わらずねー。岩根くん大丈夫? 振り回されてない?」

「あー、まぁ。でもマスターはやっぱりあんな感じじゃないと落ち着かないっていうか」

 

 逆に冷静沈着なマスターとか、アレルギー反応が出てしまいそうだ。

 どうやら馬場さんも同意見であるようで、口に手を当て笑いながら。

 

「ふふっ、分かるかも。大きな少年というか、子供心を忘れないというか。けど根っこのところで──」

 

 そう言って、馬場さんは僕へ振るように、こちらを見やる。どんな言葉が続くのか、何となく分かって、僕は口を開いた。

 

「大人、ですよね」

「そうそう、私もバイトしてた頃は色々と助けられたわ」

「馬場さん、ここでバイトしてたんですか」

「えぇ、大学生の頃にね。懐かしいわ。その時に──」

 

 それから暫くの間、僕と馬場さんはマスターとこの喫茶店という、共通の話題で盛り上がった。

 馬場さんはとても話し上手の聞き上手で、マスターの知り合いということもあり、そんな彼女に僕が打ち解けるまで、そう時間はかからなかった。

 

「──で、結局マスターが全部食べることになって」

「なにその綺麗な因果応報、やっぱ持ってるわねマスターってば……あぁ!! いっけない、もうこんな時間?」

 

 僕が二人スーパーウルトラロシアンルーレットドーナッツ事件の話をしていると、馬場さんは腕時計を見て、慌てた様子で立ち上がった。

 そしてカバンの中から一枚のチラシを取り出すと、僕の方へと向ける。

 

「ごめんね、もう行かないと。話せて楽しかったわ、岩根くん。楽しくてこれを渡しそびれるとこだったもの」

「僕も、楽しかったです。ありがとうございました馬場さん。それで、その……これは?」

 

 手渡されたチラシには『765 LIVE THEATER 開幕!!』と派手なフォントでデカデカと書かれており、隅の方には所在を示す地図が貼付されている。あれ、これめっちゃ近所じゃないか?

 

「岩根くん、765プロは分かる?」

「えと、一応の一般常識としては」

 

 このご時世に765プロを知らない人間がいるとすれば、テレビも新聞もネットも見ない、仙人もかくやといった生活を送っている者だけだろう。

 765プロ、というのはアイドルプロダクションの一つであり、そこに所属するアイドル達の活動範囲は歌番組、CM、バラエティにドラマと幅が広い。

 かくいう僕もアイドルに強い関心があるわけではないけれど、それでも765プロの名前くらいは知っている。

 いわゆる国民的アイドルってやつだ。

 

「なら話が早いわね。これは765プロの新プロジェクト、39プロジェクトの宣伝チラシってわけ」

 

 詰まるところ、こういう話だった。

 現在765プロには13人のアイドルが所属しているが、今回新たに39プロジェクトとして39人のアイドルをデビューさせる。その拠点となるのが先の765プロライブ劇場(シアター)であり、馬場さんは宣伝のためにチラシを配って回っている最中、旧知の仲であるマスターを訪ねて来た。

 天下の765プロなら、もっと派手に宣伝出来そうなものだけれど、馬場さん曰く地道に足元から固めていくのがとても大切らしい。

 ん? 待てよ、じゃあ馬場さんって。

 

「馬場さんも、アイドルなんですか?」

「そうよー。新人アイドル馬場このみをヨロシクね、岩根くん」

 

 パチンと、またもやウィンクを決められる。

 

「とは言っても、まだメンバーが揃っていなくって、デビュー前なんだけどね」

「あれ、なのに宣伝チラシを配って大丈夫なんです?」

 

 万が一にでも、39人のメンバーが揃わなかったらどうすんだろう。

 

「その辺りはプロデューサーが頑張ってるみたいだし、成るように成るわよ。岩根くんも、良ければ観に来てちょうだい」 

「…………」

 

 そう言われて、劇場に足を運んで欲しいと言われて、僕は頷くことが出来なかった。

 理由は、伊吹さんの時と同じだ。

 僕が行ったせいで、劇場にあんな奴が〜なんて事になったら、とか考えてしまう。

 ちょっと、被害妄想が強過ぎるだろうか。

 でも現実としてあり得る以上、僕は素直に首を縦には振れなかったのだ。

 そんな僕の沈黙をどう受け取ったのか、馬場さんは優しく微笑んで、そして。

 

「ねぇ、岩根くん」

「……はい」

「『自分がどう見られるか、じゃなくて、自分がどう在るか、それが大切だ』って、私達はよく知ってると思うの」

 

 それは、いつだったかマスターが僕にかけてくれた言葉だった。

 好きな時にここにおいでと言うマスターに、僕は今と同じように言葉に詰まって、それでもマスターは僕にそう言ってくれた。

 馬場さんが、僕に語りかけてくれたように。

 

「だから、行こうと思ったその時は、迷わず来て欲しいの。お姉さんとの約束よ?」

 

 言いながら、馬場さんは右手を差し出す。

 見た目を理由に負い目を持つなと、大人は言う。

 子供の僕には、まだ難しいけれど。

 きっと正しい事なんだろう。

 きっと、本来誰もがそう在るべきなんだろう。

 だから、僕は。

 

「分かり、ました。もうちょっと……やりたい事を、素直にやってみます」

「よろしい!! 会える日を楽しみにしてるわ」

 

 しっかりと、差し出された右手を握り返した。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 割とホントに余裕が無かったらしく、馬場さんは急ぎ足で行ってしまった。

 良い出会いだったと、心から思う。

 僕はやっぱり、出会いに恵まれている。

 そして、馬場さんと話して決心がついた。

 次に伊吹さんが来た時は、逃げずに話をしよう。

 その結果どうなろうと、僕は胸を張ろう。

 それが、通すべき僕の筋だから。

 なんて、一丁前に覚悟を決めながら、僕は何気なしに窓の外を見た。

 窓の外を見て、窓の外にいる伊吹さんと目があった。

 

 ────えっ????

 

 

 



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ツバサのやりたいこと

 

 

 前略。

 窓の外に、伊吹さんがいた。

 

「お待たせしております、ミルクティーになります。岩根クンの紹介だし、今日はサービスしちゃおうかな」

「やったー!! ありがとうございま〜す」

「ほい、岩根クンもご新規様紹介キャンペーンってことで、もう一杯飲んでいきなよ」

「そのキャンペーン初耳なんですけど……」

 

 中略。

 伊吹さんは当たり前のように相席してきて、いつの間にかやって来たマスターは飲み物を置いてドロンした。

 後略──までしてしまうと流石に話が進まないので、僕は二杯目のコーヒーを啜り、伊吹さんに問いかけた。

 

「なぁ伊吹さん、どうやってこの店に来たんだ?」

 

 まず気になったのはそこだ。

 別にこの店は街角の奥にある隠れ家的お店ってわけでもないけれど、偶然訪れたってのには無理がある。

 店はウチの近所で、伊吹さんは僕とは街の反対側に住んでいるはずなのだから。

 それに何より、今の時間に来たってことは、放課後になって直ぐこちらに向けて出発したってことだ。そうでないと間に合わない。

 つまり彼女は、最初から僕がここに居ると知った上でやって来たことになる。

 訝しむ僕に、伊吹さんはあっけらかんと。

 

「どうやってって、永吉先生に聞いただけですよ?」

「なにやってんだ永先んんんっ!!!!」

 

 永吉(ながよし) (つよし)

 通称──永先(ながせん)は星見ヶ丘学園中等部の国語教師であり野球部の顧問、ついでに言うと僕が所属する三年五組の担任だ。

 そしてこの店の常連客で、僕にここを紹介した張本人、僕の恩人その2である。

 いや、だからって、恩人だからといって、勝手に人の行き先を教えてしまうのは……まぁ、実際助かったけど。

 おかげで、人の目に触れず伊吹さんに会うって当初の目的が、図らずも達成されたわけだし。

 永先が彼女にこの店の存在を伝えたのだって、あちらには教える自由があるのだから、僕が責めようとするのはお門違いだった、気がする。

 それに今は、目の前の伊吹さんと話す方が大事だ。

 

「……伊吹さん、昼間はごめん。折角来てくれたのに、帰っちゃって」

 

 そう言うと、伊吹さんはぷくぅと頬を膨らませて。

 

「あっ、そうですよ〜!! ユーゴ先輩どこにもいないから、てっきりお休みなのかなって」

「うっ……ごめん、ホント申し訳ない」

 

 その件に関しては、返す言葉のない僕だ。

 どんな理由であれ、やってしまった事はやってしまった事なのだし。

 怒られても、仕方がない。

 しかし、頬を膨らませていた伊吹さんは一転。

 

「でもでも、永吉先生があまり怒らないでやって欲しいって言ってたし……許しちゃおっかな〜」

「ありがとう、で良いのかこれ……」

 

 きっと僕の事情を鑑みて、その上で察して永先は伊吹さんにそう言ったのだろう。

 ……あぁ浮かぶ、目に浮かぶ。永先がドヤ顔で貸一つなとか言ってる姿が目に浮かぶ。

 けど助かったしなぁ、後で礼を言わないと。

 なんというか、あの人に対しては借りが膨らむばかりである。

 閑話休題。

 

「それで、今日はなんの用事だったんだ?」

 

 僕が尋ねると、伊吹さんは何やら思案顔になり、やや経ってから口を開いた。

 

「んー、特にこれって用事があったわけじゃないんですよね〜。なんとなく、ユーゴ先輩に会いたくって」

「ぐほぉっ!!」

 

 盛大に咽せた。

 いや、分かってる。分かってるよ?

 深い意味がないのはもちろん分かっているが、こんなことを言われて平静を保てって方が無理がある。

 伊吹さんのような美少女に、あなたに会いたくて来ましたなんて言われた日には、大多数の男子はドキッとするに決まってる。

 きっとこれで素なのだから、恐ろしい人だ。危うく勘違いするところだった。

 とりあえず息を整えたい。

 

「そ、そっか……にしても凄い騒ぎだったな、すっかり有名人じゃないか」

「わたしもビックリですよー。永吉先生が来るまでず〜っと、あの感じで。結局、先生が皆んな静かにしちゃいました」

 

 流石ゴリr──じゃない、永吉先生だ。暴走した中学生の10や20どうって事ないぜ。

 僕もその辺りを見越しての行動ではあったけれど、文字通り事態を沈静化してしまうとは。

 とはいえ、あれだけの人数が伊吹さんにラブコールを送っていたのは紛れもない事実である。

 ソフトボールにテニスといった運動部に、写真部や美術部などの文化系の部活まで、選択肢には困らないラインナップだ。

 結局、彼女はどの手を取るつもりなんだろうか。

 

「何にしたってあれだけ引き手数多なら、よみどりみどりって感じだな」

「うーん、えーっと、そうなんですけど……」

 

 やけに歯切れの悪い返答だった。

 太陽みたいに明快で、快晴のような笑顔を振りまく伊吹さんにしては。

 いったい、どうしたんだろう。

 すると、彼女はいつぞやみたいに困ったような笑顔を浮かべて。

 

「まだ、見つからないんですよね。探しもの」

 

 伊吹さんの探しもの、彼女が夢中になれるもの。一月かけて、学校中の部活動を体験しても、それでも見つからないもの。

 どうやら、伊吹さんはこの一月で、自分の求めるものに出会えなかったらしい。

 天才肌ゆえの悩み、ってやつなんだろか。

 凡人であるところの僕には分からないが、何でも上手くできるから、一つに打ち込むことができない、みたいな。

 一見贅沢な悩みかも知れない。でも本人からしてみれば関係のない話で、きっと大変なはずだ。

 力になれることならなりたいと、僕は思う。

 一月前、彼女が僕の探し物を手伝ってくれたように今度は僕が、と。

 しかし手伝うといったって、何をどう手伝えば良いのだろう。僕の時は探し物がノートだって最初から分かっていたかが、伊吹さんの場合はそもそも探すものを探すところから始めなければならない。

 せめてヒントになるものがあればと、僕が思っていると。

 

「色々試してみて、それもけっこう楽しかったんですよ? でも、あの時はもっとドキドキしてて」

「……あの時?」

 

 あの時って、どの時だろ。

 その質問に、伊吹さんは僕の目を見据えながら、思い返すように答えた。

 

「わたしがノートを見つけて、ユーゴ先輩に『ありがとう』って言ってもらった、あの時です」

 

 予想外の答えに、僕は言葉を失った。

 確かにあの時、僕のお礼の言葉に伊吹さんは笑顔とはまた違う、とても純朴な表情をしていた。

 あの日あの場所で彼女は、そんなことを思っていたのか。

 

「結局あの時は分からなくって……でも、ユーゴ先輩にまた会えて分かったんです。わたし、自分の力で誰かを笑顔にできたのが嬉しかったんだなーって」

 

 だから。と、伊吹さんは続けた。

 

 

「あんな風に誰かを笑顔にできたら、そしたらわたしもドキドキで嬉しくって。そんな毎日は、きっと最高にステキだって思うんです」

 

 

 それは多分、簡単なことじゃない。 

 僕があれだけ感謝できたのは、状況が状況だったからで、今また同じように彼女の心を動かせるような笑顔で『ありがとう』を言えるかと聞かれれば、おそらく言えないと思う。

 僕だけではなく、誰かを心から笑顔にするのは難しい。身近な人ですら、笑って欲しくても笑顔にできないこともあるのだから。

 でも。

 それでも。

 伊吹さんは笑う。さっきまでの困った笑顔ではなく、答えを得た笑顔で満開に。

 一月前と変わらない。いやそれ以上に周りの人も巻き込んで、一緒に笑顔にしてしまうような、不思議な笑顔で。

 

 それこそ、アイドルのような──アイドル?

 

 ティン!! と。体に電流が走ったかと思わんばかりの衝撃だった。僕はとっさに、馬場さんから貰ったチラシを手に取る。

 下端にはプロジェクトメンバー募集中!! の文字があり、その上では衣装を身にまとった765プロのアイドル達が各々のポーズをとっていた。

 仮に、仮にのつもりで、彼女らの衣装を、伊吹さんが着ればどうなるかを想像してみる。伊吹さんがステージ衣装を着て、歌って踊る姿を脳内に投射する。

 曲の最後に伊吹さんがポーズを決めて、ニッと笑えば、大歓声と客席中の笑顔がシアターを埋め尽くす。なんて光景を、眩いばかりの情景を。

 これは、良いんじゃあないか? 

 ちょいと想像から妄想の域に入っていたが、入っていたけれど、我ながら妄想逞しいと思ってしまったけれども。

 

「……伊吹さん、一つ僕から良いかな。もちろん、これはあくまで提案なんだけど」

「ユーゴ先輩?」

 

 少なくとも、提案してみる価値は、あるように感じた。

 僕は手に持ったチラシを差し出して、あくまで冷静に、伊吹さんの気持ちを確かめるべく問いかけた。

 

「アイドル、ってのはどうだろう?」

 

 

 



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ツバサが羽ばたく時

 

 

 誰か、この状況を説明してくれ。

 

「ユーゴ先輩!! 見てくださいっ、おっきな文字ですよ!!」

「あぁ、そうだな……デカいな……」

 

 六月頭の土曜日。

 春の麗かな天気から一転、ジメジメとした空気が東京を覆ったその日。

 僕──岩根勇吾は、学園トップクラスの人気者であるところの美少女、伊吹翼と横並びになって歩いていた。

 それも二人で。

 なんというか、決してそうではないと自分では理解していても、言い訳のしようがない絵面である。

 先程から、つまり伊吹さんと合流してから、彼女は目の前の建物にいたく感動したようで、キラキラと輝いた瞳で見えるもの一つ一つにリアクションをとっていた。

 対する僕は、そんな彼女へのレスポンスすらままならない有様。我ながら無様であった。

 今だって、伊吹さんが建物の屋上辺りに設置されている巨大な文字看板を指差しはしゃいでるのに、しょうもない生返事しか出来ずにいる。

 ちなみに文字看板は『765 LIVE THEATER』と書かれており、ここが天下の765プロダクション肝煎の、新しい劇場であることを示していた。

 そう、僕は今日、伊吹さんと二人で765プロライブ劇場を訪れているのだ。

 

「なぁ伊吹さん、凄く今更なのは承知の上で聞くんだけどさ。僕いなくてもよくないか?」

「え〜? よくなくないですよー、ちゃんと責任取ってください」

 

 責任。

 責任か、確かにアイドルを勧めたのは僕だから、そういう意味でなら僕には責任がある。

 だだ、こういう責任の取り方をすることになるって分かっていたら、僕はもう少し躊躇っていたと思うぞ。

 僕が伊吹さんの、面接の付き添いだなんて。

 

「そーれーに!! 私がアイドルになるところ、ユーゴ先輩には見てて欲しいんです」

「……自信満々って感じだな」

「当たり前じゃないですかー。昨日ダンスも覚えたし〜、それに……」

「……それに?」

「えへへっ、なんでもありませ〜ん♪」

 

 そこまで言ったのなら聞かせて欲しいもんだが、人の顔見て何を思っていたんだろうか。

 何にしても、彼女の顔は清々しく見えた。

 自分は受かると信じて疑わない笑顔。

 そして、伊吹翼という少女はそんな笑顔の似合う人だ。

 

「じゃあ、もし落ちたら。その時は慰めてくださいね♪ わたし駅前のクレープが食べたいなぁ〜」

「それは単に伊吹さんが今食べたいだけなんじゃ……」

 

 まぁ、こんなことを言ってる余裕があるなら、きっと大丈夫だろう。

 さて、なぜ僕がこうして伊吹さんと二人で765プロライブ劇場へ来ることになったのか。

 つい先程、この状況を説明してくれと言ったばかりだが、考えてみれば僕以上に現状を把握している人がいるわけもなく。

 きちんと頭から解説するならば、話は昨日の夕方まで遡る。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 『39プロジェクト』

 それは日本有数のアイドル事務所、765プロダクションが打ち立てた新規プロジェクトである。

 その名の通り39人のアイドルを、同期として新たにデビューさせようというものであり、所属アイドルをこれまでの13人から一気に52人まで増やしてしまう辺りから、765プロの勢いや本気度が窺えた。

 しかし39プロジェクトの、39人の枠はまだ埋まり切っておらず、新メンバーは今も募集中であるとのこと。

 なんて説明をプロジェクトメンバーである馬場さんから受けたばかりであった僕は、チラシを片手に事のあらましを、なぜ僕が彼女にアイドルを薦めたのかを語っていた。

 

 彼女──伊吹翼は、魅力的な人だ。

 

 ……なんだか誤解を招きそうな言い方になってしまった。

 これは容姿に優れているだとか、声が良いとか、そういった次元の話ではない。

 無論その点についてもポテンシャルの高さに疑いは無いけれど、それだけなら僕は彼女にアイドルの話をしようとは思わなかっただろう。

 だったらなぜ、なにゆえ、僕は彼女にこんなスカウト紛いのことをしているのか。

 伊吹さんの笑顔には、不思議な力がある。

 見た人を巻き込んで笑顔にしてしまう、そんな力が。

 自分で言うのもなんだが、僕はあまり笑う方ではない。そもそも笑いかける相手が少ない。それは顔の火傷痕が原因であったし、僕自身が顔のことを理由に人付き合いを避けていたのもある。

 客観的に見て、境遇を考えれば仕方のないことだと自分では思っているし、間違いであったともそれほど感じてはいない。

 そうやっているうちに一人が好きになっていった自分もいるし、今だって無理してクラスに馴染まなくてもいいやと、一般的な充実した学校生活ってやつを諦めているのも事実だ。

 だから、彼女の笑顔に釣られて笑ってしまった時、僕は僕が笑っていることに驚いた。初対面の相手に笑いかけて驚いて、驚きはしたけれど、同時になぜか明るい気分にもなれた。

 僕のようにヘソと根性のひん曲がった人間にだって通じたのだ、これが他の人に通用しないなんて道理はあるまい。

 まぁ、その辺の理由まで赤裸々に語るわけにもいかないので、僕はあくまでアイドルという選択肢を提示し、765プロが丁度プロジェクトのメンバーを募集中である旨を告げたわけだ。

 この先は、伊吹さんが決めることだから。

 そして一通りの説明を聞いて、聞き終えて、伊吹さんは既定路線を行くかのようにこう言った。

 

「じゃあ、わたし電話してきまーす」

「へっ?」

 

 え? どこに? というか、誰に?

 その返答の意図を解せずに、混乱する僕を他所に、伊吹さんはスマホを片手に店の外へと出て行ってしまう。

 一応、鞄は置きっぱなしであるので、そのまま帰ってしまうというわけでもなさそうだ。

 けれど、置いて行かれた僕の心は疑問と不安で一杯であった。

 まさかとは思うが、学校の先輩におかしな勧誘をされたと、そんな話を親御さんにしているのではあるまいか。はたまた交番に通報を。なんて、嫌な予感が脳裏を過ぎる。

 仮に僕の予感が当たっていた日には、すでに半分終わりかけていた僕の中学生生活が完全に、完膚なきまで終わってしまうだろう。

 流石にそれはないだろうと、僕は信じたい。

 彼女は最後まで僕の説明を聞いてくれたし、話終えた後の伊吹さんからもこれといった悪感情は感じ取れなかった。

 だから、きっと大丈夫。

 などと一人虚しく、自分で自分を落ち着かせること10分。

 

「お待たせしました〜♪」

 

 伊吹さんは、やたらといい笑顔を浮かべて戻ってきた。

 どうなら、通報していたわけではないらしい。この様子なら、親に言いつけていたという話でもなさそうだ。

 なら一層、どこに電話をかけていたのか気になってしまうのだけれど。意識し過ぎだろうか、いや自分の会話との途中で電話のためにと席を外したのなら、この程度の疑問はもって然るべき……の、筈だ。

 

「いや、お構いなく。なにか用事でも?」

 

 だから、まるで気にしていない風を装って、僕がそんな問いを投げかけたのも、仕方のないことだと言い訳させて欲しい。

 

「えーっと、お母さんに電話してて、それから……」

「いや、違うんだ伊吹さん。確かに急な話だったかもしれないけど、決して邪な想いで提案したわけじゃなくて、僕なりに真剣に考えた結果なんだよ。タイミングとか、そういうのもあるけど、あれは勢いだけの発言じゃあなくて──」

「……先輩、わたしの話聞いてました?」

 

 どうやら自爆じみた弁解を散らかしているうちに、伊吹さんの言葉を聞きそびれてしまったようだった。

 じーっと覗き込まれて、僕は耐え切れずに視線をそらす。

 

「ごめんなさい、聞き逃しました……」

「も〜、ちゃんと聞いてくださいよー」

「わ、悪かったよ。今度はきちんと聞くから」

 

 反省の意を示すと、彼女は膨らませていた頬を萎ませ不敵に笑う。

 

「しょうがないなぁ〜。で、ユーゴ先輩、明日って土曜日じゃないですか」

「そうだね」

「時間、空いてます?」

 

 あんまりにもサラッと聞かれたものだから、僕は問いかけの意味をよく考えずに答えてしまう。

 

「うん、空いてる……けど」

「良かった〜!! じゃあじゃあ、明日は私に付き合ってください♪」

 

 そこまで言われて、ようやっと、僕の頭に伊吹さんの言葉が浸透し始めた。

 どうやら彼女は明日、土曜日になんらかの用事があるらしく。その用事とやらに、僕が同行することを希望しているようだった。

 なぜだか、僕はその時点で嫌な予感が、いや悪寒がした。

 伊吹さんとの付き合いはまだまだ浅い僕だけど、この付き合ってくださいからはハプニングの香りがプンプンする。

 しかし事前に言質を取られてしまった以上、僕に拒否権はないわけで。

 

「分かった、付き合わせていただくよ。ちなみにどこで何をするかくらいは、聞いても構わないだろ?」

 

 せめてそれだけは聞かせて貰いたかった。

 すると伊吹さんは右手でピースサインをキめ、僕に突きつけ言い放つ。

 

「どこって、765プロに決まってるじゃないですかぁ〜」

 

 この言葉を耳で咀嚼し、脳みそに取り込むまで、僕は30秒ほど用するのであった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 その結果がコレである。

 

 あの日僕の提案を受けた伊吹さんは、迷わず親と話し合い、許可を得たと思ったらそのまま765プロダクションに連絡を入れ、翌日のアポを取ってしまった、らしい。

 なんというか。

 迷わず諸々を決めてしまう伊吹さんも伊吹さんだし。

 5分もせずに娘のアイドルデビューを承諾する親御さんも親御さんだし。

 翌日に面接をセッティングした765プロさんも765プロさんである。

 揃いに揃って、なんというフットワークの軽さと決断力の高さだろう。

 どうすればそういった諸々の能力が身につくのか、僕には不思議でならなかった。

 もっとも、一番の不思議は僕が今ここに、すなわち765プロライブ劇場にいるって事実なのだけど。

 僕、いる??

 伊吹さんの希望通りに、要望に従って来たは良いが、完全に場違いな気がしてならない。当の伊吹さんは受付のお姉さんに連れられてどこかに行ってしまったし、僕はエントランスホールで待ち惚けだ。

 首から下げた入館許可証が、居心地の悪そうに揺れている。

 なんて、僕が一人で彼女の帰りを待っていいた、その時だった。

 あの二人が現れたのは。

 

「いやっふーー⤴︎⤴︎ 亜美が一番乗りだぜぇ〜!!」

「ちょいちょいちょい!! 今のはパッチの差で真美の勝ちっしょ〜?」

 

 それを言うならタッチの差、と思いつつ僕はババンと開いた扉を見やる。正確には、扉を突き破る勢いで現れた二人の少女を。

 そっくりさんな二人だ。

 落ち着いた茶髪に、落ち着きのない活発そうな瞳。パッと見で分かる違いといえば、髪の長さと、髪留めの色、後は髪を纏めている位置だろう。

 ていうか、双海亜美と双海真美じゃないか、あれ。

 バラエティ番組でよく見る顔なので、ついでに言うと昨日チラシで見たばかりの顔だったので、名前がスムーズに出てきた。

 突然のエンカウントに、思わず肩が上がってしまう。

 当たり前っちゃ当たり前だが、ここは765プロ劇場なのだから、765プロに所属するアイドルが来ても何もおかしくない。むしろ当然のことだ。

 とはいえ、予測の範疇とはいえ、目の前にアイドルが飛び出してくれば、こんな反応になるのも仕方がないと思う。

 そして僕はエントランスホールのベンチに腰掛けていた為、これまた当然のようにダイナミックなエントリーをしてきた二人とバッチリ目が合ってしまった。

 彼女たちは一瞬固まり、僕の頭のてっぺんから足元までを確認し、ちょうど入管許可証がぶら下がっている辺りで視線を合わせると。

 

「「んっふっふ〜♪」」

 

 そう言いながら、よからぬことを企んでいるのであろう悪い顔を二つ揃えて、僕の方へと駆けてきた。

 

「真美警部!! よーぎしゃを確保しましたっ!!」

「うむ、でかした亜美刑事。さぁじんじょーにお縄につけぇーい!!」

「それを言うなら神妙なんじゃ……」

 

 唐突な小芝居に思わず突っ込んでしまったが、なんだこれ、なぜ僕はベンチの両側に座った現役の女子中学生アイドルに絡まれて、両肩をしっかり抑えられているのだろう。

 

「なにを〜はいぼくしゃの癖に生意気な奴!!」

「えっと、それを言うなら犯罪者……じゃないって!! ちゃんと許可を貰ってここにいるんだよ僕は!!」

「ふもーちんたいしゃは皆んなそう言うんだ!!」

「それを言うなら不法侵入者ってもう絶対わざとだよなぁあ君らっ!!!!」

 

 息をつく間もない怒涛のボケに、僕のツッコミは早くも切れようとしていた。

 しかもその間にも二人がグワングワンと肩を揺らすものだから、目の前をお星様が回り出す。

 で、ひとしきり頭をシェイクされ終えて、僕は胸元の入館許可証をさながら印籠の如く掲げた。

 

「はい、これ!! 入館許可証!! オーケー?!」

「オーケーオーケー。嫌だなぁチミぃ、ちゃんと分かっていたとも〜」

「そうだぞチミぃ、マグネシウムが足りておりませんぞー」

「……一応ツッコミ入れるけど、それを言うならカルシウム不足だ」

 

 そう言うと、双子はケラケラと笑って僕の真正面に、鏡合わせのように立つ。

 この頃には、すでにアイドルへの配慮とか、初対面の相手への緊張感とか、その辺がまるっと抜け落ちいた。

 

「というか、僕のこと本当に何も聞いてないの?」

「……ねぇ亜美、この人あれじゃないの?」

「あれっていうと、このみんが言ってた……え〜と〜」

「ん〜と〜??」

 

 そうだよな、流石に劇場へ来る可能性のあるアイドルに、訪問者のことが全く伝えられていないなんて話はないよな。

 

「「ダメだぁ〜思い出せないZE☆!!」」

「もうちょっと頑張ってくれよそこは!!」

 

 ダメだはこっちの台詞である。

 これじゃあにっちもさっちも埒が明かない。僕は彼女たちにとって何故か入館許可証を持っている男子中学生のままだ。

 誰か、このよく分からん現状をまとめてくれる人は居ないのか。

 

「ちょっと二人とも、事務室で律子ちゃんが待ってるんでしょ? 油売ってると、約束に間に合わないわよー」

「げげげっ、そうだったそうだった〜。律っちゃんに呼ばれているんだった〜」

「こうしちゃいられないよ真美、事務室にのりこめー!!」

「わぁい!! サンキューこのみん、そこのチミもサラダバー!!」

 

 そんな願いが通じたのか、扉の向こうから現れた人影の言葉に慌てた様子でドタバタと駆け出していく双子。会話に出てきた人との約束がよっぽど大事なのだろうか、あっという間に姿が見えなくなる。

 

「大変だったわねー岩根くん。美咲ちゃんから連絡をもらった時はもしかしてって思ったけど、まさか昨日の今日でまた会うなんてね」

「あ、えと……昨日ぶりです、馬場さん」

 

 人影、もとい馬場このみさんは苦笑いを浮かべると、ベンチの空いたスペースに腰を下ろす。

 あぁいう別れ方をしておいて、間に何も挟まずに再会したのが少し気恥ずかしい。

 

「岩根くんは、えっと……付き添いなのよね?」

「はい。後輩が面接中で、なぜか僕までお邪魔することになってしまって」

「なぜかって、その子とは親しいんじゃないの?」

 

 そう言われると、どう答えるべきなのか。

 親しいと言い切れるほど、僕と伊吹さんの仲は深くないと思うし、だからといって親しくないと言ってしまえば、僕がここにいる客観的な理由がなくなってしまう。

 改めて問われてみれば、僕と伊吹さんの関係を、僕は的確な言葉で表現できずにいた。

 学校の先輩と後輩。

 だけだと物足りない、けれど友達ってわけでもない。

 うーーーーん、分からん。

 

「えぇと……どうも複雑みたいね」

「そうなんです、ちょっと複雑で。彼女にここを教えたのが、その……僕なんですよね」

 

 僕がうんうん唸っていると、何かを察してくれたようで、当たり障りのない馬場さんの返答に全力で乗らせてもらった。

 

「あら、そうなのね。でも自分の面接について来て貰うくらいなんだから、きっと信頼されてるのよ」

「そういうものなんですか?」

「そういうものよ。自分がアイドルになれるかどうかって時に、信頼している人が側にいるって思えば、それだけで力になるもの」

 

 馬場さん曰く、そういうことらしい。

 僕にはどうもピンと来ないけれど、馬場さんが言うなら正しいのかも知れない。

 

「じゃ、私もそろそろ行くわね。また会いましょ、岩根くん」

「はい。今度はちゃんと、客として来るつもりです」

「ふふっ、その時は私のアダルティーなステージでメロメロにしちゃうんだから、覚悟なさい?」

「アッハイ」

 

 最後にやたらシナっとしたポーズと共にウィンクを決めて、馬場さんは去っていった。

 ……なんだったんだろ、あれ。

 忌憚なき意見としては、絶妙にというか絶望的に似合っていなかった。

 自然体な馬場さんは大人の女性って感じなのに、これもまた不思議である。

 で、だ。

 僕は再びベンチの上で一人になりながら、さっきの会話を思い出す。思い出して、反芻する。

 馬場さんは、伊吹さんは僕を信頼しているから、ここに連れて来たんじゃないかと言ったが、実際どうなんだろう。僕は彼女に、信頼されているのだろうか。

 まぁ僕がいくら悩んでみても、こればかりは本人に聞かなきゃ分からない。かと言って貴女は僕を信頼してますか、なんて馬鹿正直に聞くわけにもいかないので、この疑問は先送りにするしかないのであった。

 ふと、腕時計の針を見てみる。

 伊吹さんの面接が始まってから大体30分が経過しており、受付してくれた事務員のお姉さん……確か、青羽さんだったか。青羽さんの話によれば、そろそろ面接が終わってもおかしくない時間だ。

 伊吹さんが戻ってくれば、この居た堪れない一人ぼっちからも解放される。今になって思うのは、それこそ今更なのだけど、部外者であるところの僕を一人にさせておくというのは、防犯上問題しかない気がする。この劇場のセキュリティはどうなっているんだろうか。

 などと、しても仕方がない他所の心配をしつつ、伊吹さんを待つ。

 伊吹さんを待つ。

 伊吹さんを……待つ。

 待つ。

 待つ。

 待つ……。

 戻ってこないな、伊吹さん。

 待つこと30分。

 予定時刻を30分過ぎて、僕は腰を上げた。

 じっとしているのが苦手、なんて性格ではない僕だが、じっとしては居られなくなってしまった。

 勝手に動き回ったら怒られるかも知れないけど、ちょっと確認をするくらいなら大丈夫……だと思う。

 予定時刻を過ぎてたので、心配になってしまったとか言えば許してくれる可能性に賭けよう。

 幸い、行き先はなんとなく分かっている。

 青羽さんが去り際、伊吹さんにレッスンルームがどうのこうのと言っているのが聞こえたのだ。場所の名前が分かっていれば、探し当てるはそう難しくないはずだ。

 そこまで考えると、僕はエントランスホールから伸びる廊下に足を踏み入れた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 はたして、お目当の部屋はすぐに見つけることができた。なんて事はない、教室の扉に『何年何組』と目印が付いているように、その部屋の扉には『レッスンルーム』と書かれたプレートが、廊下に対して垂直に付いていたのだ。

 

──────♫

 

 近づいていくと、部屋から微かに漏れた音楽が聴きとれる。

 どこかで、多分音楽番組で聞いたことのある軽快なリズムが耳を打ち、部屋に誰かがいることを教えてくれる。

 幸い扉には覗き窓がついていたので、僕はこっそりと部屋の様子を確かめることができた。

 最初に目に止まったのは、慣性の法則に従い動く明るい髪。

 彼女がピシッと止まるたびに、また体の回転を反転させるたびに、その艶やかな髪が舞う。

 スラリとした脚が生み出すステップはとても軽やかで、伸ばされた手と相まって、彼女の体を現実よりも大きく見せて、魅せていた。

 その淀みないダンスに僕は、彼女から──伊吹さんから、目を離せずにいた。

 「ダンスを覚えた」とか言ってたけど、こんな完成度、それこそど素人の僕でもレベルの高さがわかるようなところまで仕上げていたなんて。

 すると、どうやら目を離せずにいたのは僕だけではなかったらしく、やがて曲が終わり伊吹さんが最後のポーズを決めると、拍手の音が僕の耳にも届く。

 大きな拍手を浴びせていたのは、事務員の青羽さんだった。

 そして、僕が拍手する青羽さんを見ていると、彼女の視線が伊吹さんからそれて。

 バッチリ、僕と目が合う。

 僕の姿を確認した青羽さんは、慌てた様子で自身の腕時計を確認すると、顔を真っ青に染め、扉の方に駆け出し、バンッと勢いよく開き。

 

「ご、ごめんなさい〜!!」

 

 劇場中に響きそうな大声で、そう言った。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 一応、話のオチとしてはだ。

 どうやら、面接の途中でダンスの話題になり、プロデューサーなる人物の要望で伊吹さんが踊り始め、気がついたらあの時間になっていた。とのことだった。

 

「でもそれだけ伊吹さんのダンスが良かったってことだよな。僕もチラッと見させてもらったけどさ、素人目にも凄いと思ったよ」

「本当ですか〜?! 今度はもっと大きい場所で踊って、先輩の目を釘付けにしちゃいますね♪」

 

 パチンとウィンクを決める伊吹さん。

 さっきも見た気がするな、この流れ。業界では挨拶みたいなものなんだろうか。

 釘付けになら、もうとっくにされているのだけれど。

 兎も角、帰り道である。

 あの後、僕が伊吹さん達に合流した後、面接の時間が押していたにも関わらず連絡を忘れていた旨を謝罪され、糸のように細い目をした男性──765プロのプロデューサーさんの一声で、その場は解散となった。

 無論、結果は合格。

 伊吹さんは晴れて、39プロジェクトの一員として採用されたのだ。

 あのダンスが、そうなる一因を担っていたのだとしたら、彼女の才能と実力をプロが認めたという話に他ならない。

 

「本当に、凄いと思うよ。プロの前で踊って、それを認められるってのは」

「えへへっ、ちゃんと練習した甲斐がありました〜。それに、ユーゴ先輩が待ってるって思ったら、なんだか失敗する気がしなくって」

「そうなのか?」

「そうですよー。だから、来てくれてありがとうございます、ユーゴ先輩っ」

 

 そっか、そうなのか。

 そういう、ものなのか。

 なんか、悪くないな、こういうの。人からそういう風に、思ってもらえるって。

 

「──駅前の、クレープだっけ」

「…………?」

 

 キョトンとした様子の伊吹さんに、僕はぎこちなく笑ってみる。

 

「合格祝いってことでさ……その、えっと……奢らせてもらっても、いいかな」

「やった〜〜!! 私アイスもついてるのが良いなぁ〜」

 

 これで断られていたら恥死ものだったが、どうやら喜んでくれてるみたいで良かった。

 すると、伊吹さんは名案を思いついたと言わんばかりに。

 

「あっ、ユーゴ先輩。別々の買って食べさせ合いっこしましょうよ!! スプーンであーんって……ダメぇ?」

「それは断固拒否する!!」

「え〜、直接かぶりつく方が良かったんですか?」

「食べさせ合いっこの手法に文句があるわけじゃないんだよ!!」

 

 

 こうして、伊吹翼はアイドルになった。

 最終的に、最後に決断したのは伊吹さん自身であったけれど、僕はその件に一枚噛むことになり。

 僕と彼女の縁は、もうしばらく続くのだった。

  



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ツバサ待機中

 

 その日、僕はいつもの喫茶店でシャーペン片手に黙々と書き込みをしていた。

 六月も残すところ一週間、見方を変えれば7月まで残り一週間。それが一体なにを示しているかといえば、学生にとって不倶戴天の怨敵、つまるところ定期試験の時期である。

 なので、僕も執筆に使っている原稿用紙は広げず、代わりにノートを広げて英単語の書取りに勤しんでいるという訳だった。

 幸いなことに、僕はそれなりに勉強ができる。学年で30本の指に入るくらいだろうか。

 それは一般的な学生が部活やら遊びやら、勉強会という名の駄弁りにうつつを抜かしている間にも、こうして地道に知識を積み重ねている、僕の隠れた努力の為せる技であった。

 もっともその理論ならそれなりではなく、かなり勉強ができて、10本の指に入っていても良さそうなものだが、僕も大概趣味に時間を費やしているため、それ以上の進歩は望めそうにもない。

 まぁ、このくらいの点を取っていれば、父さんに心配をかけずに済むので、僕的には適値といえる。

 今回もこの調子でいけば、例年通りの点数を恙無く取れそうだ。

 なので、僕にとって定期試験というのは、年に4回やって来る恒例行事に過ぎず、テストの前に慌てて勉強をし始めたりだとか、ましてや一夜漬けをするなんて状況が、どうにもピンと来ない。冒頭で不倶戴天の怨敵だなんて表現をしたけれど、僕からして見れば仲の悪い親戚の人レベルだ。日頃の行いが良ければ十分対処できる。

 よって。

 

「あーもー、全然進まないよー!! ユーゴ先輩、勉強教えて〜〜」

「教えるったって、もう来週からテストなんだけど……」

「それでもイイからー!!」

 

 目の前で頭を抱える伊吹さんの気持ちが、僕にはよく分からなかった。

 ついでに言うと、伊吹さんが当たり前のようにこの喫茶店にいる理由も分からない。

 彼女が765プロライブ劇場に所属してから丸三週間が経過し、その間にもレッスンが早く終わったとか、今日はオフの日だとか、そんなことを言いつつ伊吹さんは喫茶店にやって来て、決まって前の席に座る。そして劇場での出来事を、楽しそうにあれこれと僕に語って聞かせるのである。

 僕は僕で自分の趣味というか、小説の執筆に集中しているので相槌もまちまちになってしまうのだが、伊吹さんはそれでも構わない様子だった。

 断片的な話を聞くに、どうやら楽しくやっているらしい。

 少なくとも、退屈そうにはしていないので、僕としても一安心だ。

 しかしながら、僕がこの喫茶店に半ば住み着いているような状況にある点について、僕はマスターから「学生の間は好きに使ってくれて構わない」とお墨付きを頂いており、黙認もとい公認されている。だけれども、こうして新たに伊吹さんが加わったことをマスターは気にしていないのだろうかと、それとなく尋ねたところ「可愛い常連さんが増えて嬉しいよ」との返答があった。あぁ見えて、意外なところでオヤジっ気のある人だ。

 

「けどなんて言うか、意外だな。僕は勝手に、伊吹さんは勉強も卒なくこなせるもんだと思っていたんだけれど」

「別に苦手ってわけじゃないんですけどー、今はシアターが楽しくって……このままじゃお母さんに怒られちゃうよ〜」

 

 なるほど、それで勉強の方に手がつかないと。

 僕も筆に勢いがつくとうっかり勉強時間を削ってしまうことがあるので、気持ちは分かる。

 気持ちは分かるのだが。

 

「ただ僕も、人に勉強を教えたことなんてないしさ。一緒に勉強する相手としてはどうなんだ? 学校の友達とか、伊吹さん大勢いるじゃないか」

「友達と勉強してたら、すぐお喋りになっちゃうんですよね〜」

「あー、うん。そうなんだ……」

 

 モノローグで勉強会という名の駄弁りなんて言った手前、否定しづらいものがあった。

 となるとだ、いよいよ僕が伊吹さんに勉強を教えることになるのだけれど、ハッキリ言って自信が皆無だ。

 しかし相手も切羽詰まっているわけで、そんな時に頼られたのだと思うと、非常に断り難い。

 仕方ない、か。

 

「分かった。そこまで言うなら、引き受けるよ」

「やった〜!! ありがとうございます、ユーゴ先輩♪」

「でも準備がしたいから、手伝うのは明日からってことでいいかな」

「は〜い!!」

 

 さて、了承したからには全力を尽くすべきだろう。そして全力を尽くすには、今の僕では力不足だ。

 よって不本意だが、とっても不本意ではあるのだが。

 あの人を、頼らざるを得ない。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「勉強の教え方を教えてくれって、お前教える相手なんているのか?」

「それが教師が生徒に投げかける言葉かよっ!!」

「ははは、今日もツッコミが冴えてるなぁ岩根」

 

 永吉豪(ながよしつよし)先生は僕の恩人だ。

 担任であり国語教師、やたらと鍛えられたその肉体で悪童を蹴散らす星見ヶ丘学園のインテリゴリラから受けた恩は、一朝一夕に返せるものではない。

 自分で言うのもなんだけど、荒れた小学生時代を過ごしヤサグレていた僕が、一応は真人間に見えるところまで更生できたのは、(ひとえ)に彼の力があってこそだ。

 しかし僕が更生してから向こう、永先(ながせん)とのやり取りは概ねこんな感じである。

 永先がボケて、僕がツッコミを入れる。

 今日のこれも、永先からしてみれば軽いジャブなのだ。

 

「もしかして岩根、お前……」

「な、なんだよ」

 

 いつになく真剣な顔の永先。

 

「先生を心配させないために架空の勉強仲間を──」

「作るわけがあってたまるか!!!!」

 

 ボディが重い……っ。

 

「兎に角、頼むよ永先。こっちはマジなんだ」

「ふーん、そうか。そういうことなら、教えてやらんでもない」

「ありがとう、恩に着るよ……釈然としないけど」

「場所はそうだな。確か、視聴覚室が空いていたはずだ」

 

 なるほど、そこなら他に誰かが来ることもなさそうだ。

 現在テスト前一週間ということもあり、職員室は原則立ち入り禁止だ。今だって四時間目の授業終わりに、永先を廊下で捕まえて話している。

 

「しっかし、あの岩根が他人に勉強をねぇ……ま、良いんじゃないか。良い傾向なんじゃないか。先生は嬉しいぞ」

「……聞かないのか?」

 

 詳細を、というか僕が誰に勉強を教えるのか。

 

「ん? 聞いて欲しいのか?」

「い、いや。そんなんじゃなくて、でも──」

「なら聞かない。それで良いだろ?」

 

 これだから、永先には頭が上がらない。

 僕と自身との距離感を、絶妙に保ってくれる。

 

「そんなことより昼飯だ昼飯。今日は妹が弁当作ってくれてさ〜、これがまた美味いんだ」

「……はぁ、まーた始まったよ永先の妹さん自慢が」

「いやいや、うちの妹は本当に凄いんだよ。可愛いし料理は上手いし歌も上手い、運動神経も抜群でなにより俺直伝のスライダーが投げられるからな」

「もう何べんも聞いたよ、そんなに凄いんならアイドルでも勧めてみたら良いじゃんか」

「…………アリだな」

 

 アリなんだ。

 なんだか余計なことを言ってしまったかも知れない。

 永先は妹さんを溺愛しており、「妹にスライダーを教えたのは俺」が彼の口癖である。

 妹さんにスライダーを教えて、この人はいったい何をしたいんだろう。

 こうして僕は昼休み中、永先の妹トークに付き合う羽目になるのだった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 で、翌日の放課後。

 喫茶店に集合した僕と伊吹さんは、テーブルにテストの範囲表を広げて向かい合っていた。

 僕は永先からのレクチャー終わり、伊吹さんは劇場でのレッスン終わりである。

 

「まぁ、五教科以外は毎年そこまで問題が変わるわけでもないし、去年の問題持ってきたから丸暗記してくれ」

「は〜い。去年の問題なんてよく持ってましたね」

「ん? こういうのって卒業まで保管しておくものじゃないのか?」

「普通はしないと思いますよ? 私は終わったら捨てちゃうし〜」

 

 そ、そういうものなのか……知らなかった。

 

「ま、まぁいいや。それで五教科についても、やっぱり例年絶対に出るタイプの問題がいくつかあるから、そこを抑えつつ、後は山を張っていこう」

「…………」

「伊吹さん?」

「あっ、ごめんなさい。先輩、可愛い傘を持ってるんだなーって」

「あぁ、この傘ね」

 

 ぼーっとした様子の伊吹さんに声をかけたところ、僕が壁に立てかけていた傘が気になっていたらしい。

 言われたことがなかったので気に留めていなかったけれど、改めて言われてみれば、水色に幾何学模様の入った傘というのは、可愛いと分類されるのかも知れない。

 

「でも、今日は晴れですよね〜。あっ、日傘なんですか?」

「いや、普通の傘だよ。父さんが帰りに降るって言うからさ」

「へぇ〜、こんないいお天気なのに」

 

 伊吹さんの言うように、梅雨明けはまだ先ではあるけれど今日は朝からカラッとした晴天である。

 天気予報でも雨が降るだなんて話はなかったし、正直傘を持って来たはしたが僕としても半信半疑だ。

 

「傘の話は置いといて、そろそろ始めようか。テストの時間割的には……そうだな、国語から入るのがいいと思う」

「初日の教科からってことですか?」

「うん、今日から始めればテストの前日には2周目に入れるだろうし、後はひたすら前日に1週目の復習をこなしていく形になるかな」

 

 特に山を張る箇所については、前日の詰め込みがどれだけ当たっているかが重要とのこと。

 流石に具体的な場所までは教えてもらえなかったが、テスト一週間前から試験範囲を詰め込むテンプレートは学ぶことができた。これなら、それなりの点数までは持っていくことができるだろう。

 お膳立てはここまで、後は伊吹さんの頑張り次第だ。

 

「分かりました〜。私、頑張りまーすっ」 

「あぁ、僕も出来る限りは力になるよ」

「えへへ♪ ユーゴ先輩にもお礼しないとですね」

「いや、別に僕は──」

「膝枕でいいですか?」

「どうしてそういう方向に持っていくかなぁ……」

「大丈夫ですよー、わたし膝の上で寝たりしませんって」

「僕がする側なのかよ!!!!」

 

 どんな特殊なシチュエーションだ、それ。

 

「あれ、耳かきもセットにしたほうが良かったかな〜?」

「セットって言うな、耳かきもセットとか言うな、僕の性癖を勝手に拗らせないでくれ!! どうせそれも僕が耳かきする側なんだろ?!」

「ユーゴ先輩、せーへきってなんですか?」

「藪蛇かちくしょう!!!!」

 

 ひとしきりツッコミを入れ終えると、ドッと疲れが押し寄せてくる。この間から、伊吹さんはちょいちょいこういうボケを挟むのだ。これでは永先二号である、たまったものではない。

 だいたい、お礼なんて最初から求めちゃいないのに。

 僕は彼女に、伊吹さんに、返したくても返し切れない恩があるのだから。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「よし、今日はこの辺にしとこうか。時間も時間だし」

「は〜い、もう頭が沸騰しちゃいそうですよ〜」

「……そのセリフ、間違っても表で口にしないでくれよ」

 

 背もたれに寄りかかって、両手を頭の後ろで組む伊吹さんに、そう言いながら荷物をまとめる。

 勉強は思っていたより捗った。

 途中で伊吹さんが何度か脱線しかけたが、それ以外はとても集中していた、軽いトランス状態のようにも見えたほどだ。

 その間はこちらも自分の勉強にしっかり取り組めたし、なんなら彼女の集中力に釣られて普段よりペースが早まったくらいである。

 今日はマスターが新作スィーツの研究をするだとか言って厨房に篭っていたので、バイトの人に料金を支払うと、僕たちは帰路に着く。

 着こうとして、あんなに晴れていた空が鈍い曇天になっているのを見た。

 

「曇っちゃいましたね、空」

「だな、父さんの予感が的中する前に帰ろうか」

「そうですねー。今日はありがとうございます、ユーゴ先輩。これなら、なんとかなるかも」

「これくらいなら、お安い御用だよ。んじゃ、また──」

 

 また、明日。そう言おうとした僕の頬に、ポツリと雨粒が当たる。

 一瞬気のせいかとも思ったが、気のせいではないと言わんばかりに次々と水滴が降って来た。

 困ったことに、どうにも手遅れのようだ。

 参ったな、こんなことならもう一本傘を持って来れば良かった。

 ……まぁ、ちょっとくらい濡れても大丈夫だろう。

 僕は、手に持った傘を広げると、伊吹さんに差し出す。彼女は差し出された傘をキョトンとした目で見ると。

 

「あーっ、相合い傘ですねっ♪ わたし一度やってみたくって」

「いや、この傘は二人が入るには小さ過ぎるし、僕は走って帰るよ」

 

 ここ最近の傾向に従えば、ここはツッコミところだったけれど、僕は役割を放棄した。

 

「え、でも──」

「僕の家、すぐ側だからさ。それに、アイドル始めたての大事な時期に、風邪なんてひいてられないだろ? じゃ、僕はこれで!!」

「ちょっと、ユーゴ先輩!!」

 

 傘の柄を伊吹さんに無理矢理握らせ、僕は家に向かって駆け出した。

 真っ直ぐ、振り向かずに、降り出した雨に濡れながら。

 

 



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ツバサの一歩

「そういえば、ユーゴ先輩って日曜日は何してるんですか?」

「なんだよ伊吹さん、藪から棒に」

 

 中間テストも無事に終わり、梅雨も明けた7月半ばの土曜日。

 いつもの喫茶店で、数日ぶりの伊吹さんがそんなことを尋ねてきた。

 なお、彼女はあの後驚異的な集中力で課題を片付け、かなりの高得点を叩き出したらしい。僕も教えた甲斐がある、といっても後半は殆ど口を出していなかったけど。

 

「先週も、先々々週もユーゴ先輩いなかったから、もしかしたら毎週そうなのかな〜って」

「来てたんだ……」

 

 だとしたら悪いことを──いや、そもそも待ち合わせをしているわけでもないし、僕が罪悪感を覚えるのは違うか。

 確かに、僕が日曜日にこの喫茶店を訪れることは滅多にない。

 それは流石に日曜日まで押しかけるのはマスターに申し訳ないという気持ちがあるのと、もう一つ理由があるからだ。

 

「でも大した話じゃないよ。日曜は基本的にネタ集めがてら、適当にぶらついてるだけだし」

「ネタ集め、ですか?」

 

 と、首を傾げる伊吹さん。

 

「あー、ほら、前に言ったけど……僕小説を書いてて、それのネタ集めをしてるんだ」

「へ〜、そんなことしてたんですね。早く完成させてくださいよー、わたし待ってるのに」

「急かされて筆が進むなら苦労しないんだよ……これもネタ集めっていうか、文章を書くための予習みたいな感じなんだけどな。細かいことだけどさ」

 

 例えばコーヒーを飲む描写をする際に、実際に飲んだことのある人の方が、よりリアルな文章を書ける。という理屈である。

 といっても、これ自体が僕が尊敬するファンタジー作家からの受け売りなのだけれど。

 

「ユーゴ先輩、結構マメですよね〜」

「まぁ、伊吹さんは大味だよな」

「大きなアジがどうかしたんですか?」

「そういうところがね……」

 

 こうして度々顔を合わせるようになって、僕にも多少なりとも、伊吹さんの人となりが掴めてきた。

 伊吹翼、彼女はわりと適当な人だ。

 最初に出会った時には鱗片を見せていたけれど、ここ一月半でそれは確信に変わってしまった。

 自由気まま。

 基本的に言動はフリーダムで、会話の脱線もしょっちゅうだ。もう歌もダンスも覚えたとか言ってレッスンを途中で抜け出しここに来たこともある、流石にそれは不味いと説得する羽目になったのだが。

 ……という話をすると、なんだか取っ付き辛そうに映るかも知れない。けれど彼女はそれらの、ともすれば欠点として受け取られかねない要素を有していてもなお人に好かれる、愛される才能の持ち主だ。

 きっと伊吹さんと、とことん性根のところでぶつかって、それでも相容れない人はそうは居まい。

 総括すると、概ね愉快で面白い人であり、付き合っていて飽きない人だ。

 

「じゃあじゃあ、ユーゴ先輩。来週の日曜日は空けておいてください♪」

「……前にもあったなこの流れ、何があるんだ?」

 

 前回、面接の付き添いをすることになった僕としては、若干腰の引ける前振りである。

 すると警戒する僕を他所に、伊吹さんはショルダーバッグからスマートフォンをを取り出して。

 

「じゃ〜〜ん!! 私たちのデビューライブが決まったんです!!!!」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 詳しく聞けばなんてことはない。

 要約すると、デビューライブが決まったので見に来て欲しいという話であった。

 一週間前に告知だなんて急だなと思ったが、開催は暫く前から決まっていたらしく、伊吹さんがここ何日か喫茶店に来ていなかったのも、ライブに向けての準備で忙しくしていたから、とのこと。

 ともあれ、伊吹さんのデビューライブである。

 行きたいかどうかと聞かれれば、行きたいに決まっている。

 

「詳しいことは内緒ですけどー、すっごいステージになりますよっ♪」

 

 眩しいくらいに輝く笑顔で伊吹さんがそう言うものだから、否が応でも期待度が上がってしまう。

 僕は765プロの、というよりアイドルのパフォーマンスを画面越しにしか見たことがない。なので期待度と言っても、そもそもの基準となる物差しがない為、なにを以て期待度が上がるなどと口にしたのかと問われれば返す言葉に困るのだが、兎にも角にも楽しみなのだ。

 あの伊吹さんが、あらゆる才能の原石が、アイドルとしてどう輝くのか。

 

「そりゃ楽しみだ、チケットはどこで買えば良いんだろ」

 

 僕が尋ねると、伊吹さんは手元のスマホをいじり出す。

 

「え〜っと、ちょっと待ってくださいね……あっ、ホームページから申し込めるみたい」

「そっか、じゃあ帰ったら申し込むよ。検索したらすぐ出るだろうし」

「たぶん出ると思いますけど……今申し込まないんですか?」

 

 不思議そうな伊吹さんに僕は一瞬、彼女が僕の発言の一体どのあたりに疑問を覚えたのか分からなかったが、しかし、よくよく考えてみれば、答えは最初から彼女の手の中にあった。

 

「いや、ほら僕携帯持ってないし」

「えええぇぇえええぇぇえええっ??!!」

 

 信じられないような声とともに、信じられないものを見る目で見られてしまった。

 僕は携帯を持っていない、なぜかというと携帯を使って連絡を取る相手がいないからだ。調べたいことがあれば家に帰ってパソコンを使えば済むし、撮りたい写真も特にない。だから携帯を所持していない。

 それがTHEイマドキ中学生の伊吹さんには衝撃だったらしい。

 ……そんなに驚くようなことだろか? 携帯を持っていない中学生くらい、普通にいると思うのだけれど。

 

「じゃあユーゴ先輩、いつもどうやって友達と連絡とってるんですか? 狼煙?」

「えっらい技術水準が後退したな!! 他にもっと踏める段階あったろ!!!!」

 

 家電とか、公衆電話とか。

 そういやこの間の中間テスト、社会科の範囲が日本史のそれも戦国時代辺りだったな……

 案外影響されやすい人だ。

 

「いいんだよ、別に困ってないから」

「私が困りますよ〜、急にユーゴ先輩と野球したくなったらどうすれば良いんですか?」

「なんで例え話として野球を出したのかは知らないけど、どのみち二人じゃ野球はできないぞ」

「シアターの友達を呼べば18人くらい集まりますって、すばるクンはツライダー投げられるって言ってたしっ♪」

「もうそれ僕要らなくないか……?」

 

 あとそれを言うならスライダーだ。

 スライダーを投げられるアイドルって、永先の妹みたいだな……この間話したら本当にアイドルになっちゃったみたいだし、どこのプロダクションかは聞いてないけど。というか話が長くなりそうだったので逃げた。

 

「でもまぁ、伊吹さんとはここに来れば話せるしな」

「それはそうですけど〜、そうなんですけどー」

 

 僕の言い分に納得がいかないのか、頬を膨らませブーブー鳴らす伊吹さん。

 こんな適当なことをしていても顔が崩れないのって一種の才能だよなぁ。

 そんなことを考えていると、鳴らすのに飽きたらしく、伊吹さんはどこか上の空な表情で。

 

「けどやっぱり、話したいなって思った時に直ぐ話せるのって、良いじゃないですか」

「………………」

 

 こういうことを言うのは……つまり、そういう風に思ったことがあるってことなのだろうか。

 分からないけど、僕と伊吹さんの間柄は前と比べればそれなりに変化したと思う。説明に困る関係から、ちょっと仲の良い先輩後輩くらいまでは格上げされて良いはずだ。

 いかんせん後輩と呼べる後輩が、つまり多少なりとも関わりのある後輩がいたことのない僕なので、この距離感に対する自評が客観的に見て適切であるのかの自信はないのだが。

 少なくとも、僕はそう思ってる。

 

「とにかく、チケットの応募っ!! 忘れちゃダメですよ?」

「あぁ、心得たよ。絶対に忘れない」

 

 そして願わくば、伊吹さんも同じように思ってくれていたのなら、それはとても嬉しいことだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 数日後の放課後。

 

「えっと、あの……その、伊吹さん」

「つーーん」

 

 パッと見で分かるほどに、伊吹さんはご機嫌斜めであった。腕を組み、斜め上に顔を逸らし、不機嫌オーラを漂わせている。

 にしても、つーーんって言ったかこの人。

 現実で言う人がいる台詞だったんだな、それ。

 

「いやさ、伊吹さんの気持ちも分かるよ。もし逆の立場だったとしたら、そりゃ僕もショックを受けるだろうし」

「ふーーんだっ」

 

 ふーーんだっ、って言ったなぁ……言われてしまったなあ。まさかこんな台詞を言われる日が来るとは、人生なにが起こるか分からない。

 無論、伊吹さんがご覧の通りになっているのには訳がある。そう、訳がある。訳はあるのだが、その件について僕としても言いたいことがある。

 

「でも、でもだよ? その上で言わせてもらうとしたらだよ」

「…………」

 

 僕の前振りに、沈黙を返す伊吹さん。

 

「僕、悪くないよな?」

「べーーーーっだ!! なんで来てくれないんですか?! ユーゴ先輩のいじわる!!」

「チケットがご用意されなかったんだから仕方ないだろ?!」

 

 そうだ、僕は悪くない。

 かといって伊吹さんが悪いわけでもなく、他の誰が悪いというはなしでもない。

 強いて言うなら僕の運が悪い。

 ここまで言えば、恐らく察して貰えるだろう。

 

 そう、僕は抽選を外し、伊吹さんのファーストライブに行くチャンスを逃してしまったのだ。

 



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翼とアイドル

 

 伊吹翼、星見ヶ丘学園中等部の二年生。

 現在の肩書きは、765プロダクション『39プロジェクト』所属のアイドルである。

 人懐っこい性格に、14歳とは思えない均整のとれたプロポーション、そして特徴的な甘い声。

 まだデビュー直後にも関わらず、その持ち前のルックスの高さとダンスのセンスで、ある程度の知名度を獲得した期待のルーキーだ。

 同じ『39プロジェクト』所属のアイドル、いわゆるシアター組の中でも、その実力は認められており、一目置かれていると言ってもいい。

 そんな翼は今──

 

「なぁ翼、どうしたんだよー。さっきからやけに静かじゃん」

「え? あ、昴くん。どうしたの?」

「だーから、どうしたのはこっちの台詞だって、体調悪いのか?」

 

 絶賛、ぼーっとしていた。

 ここは都内の某ファミレス。

 今日は先日行われた翼達のデビューライブ、その打ち上げであった。

 天下の765プロダクションがなぜファミレスで打ち上げを行っているのかという質問には、765プロは未だ小さな雑居ビルの三階に事務所を構えているという答えを返したい。

 デビューライブは、大盛況で幕を閉じた。

 元より全国的な知名度のあった765プロダクション、その新規プロジェクトである『39プロジェクト』に対する期待は大きく、更に765プロ躍進の立役者である13人のアイドル──765ASのサプライズ出演もあるのでは、なんて噂が流れたこともあり、初回からチケットを抽選制にしなくてはならなかったほどだ。

 初めてのライブ。

 初めてのステージ。

 翼は、まるで夢の中にいるようだった。

 夢中で、踊って。

 夢中で、歌って。

 夢中になった。

 夢中に、なれた。

 探し求めていた夢中に、出会うことができた。

 全力を出せたと、翼は確信している。

 今の自分に出せる最高を、届けられたと思っている。

 けど、敢えて言うなら。

 翼には、このステージを見て欲しかった人がいた。その人に見て貰えないからといって、それでモチベーションの下がる翼ではなかったが、それとこれとは全くの別問題だ。

 そんな気持ちが表に出ていたらしく、同期である永吉昴(ながよしすばる)に心配そうな声をかけられる。

 男勝りな15歳である彼女は、5人兄妹の末っ子で、4人の兄の影響をもろに受けた男っぽい蓮っ葉な口調や服のセンスとは裏腹に、気配りの細かい優しい人だ。

 

「ううん、大丈夫。ありがと〜昴くん」

 

 だから、翼は昴にこれ以上の心配をかけないように明るく笑って見せる。

 

「ん、そっか。ならいいんだけどさー、もし悪くなったら直ぐに言えよな?」

「は〜い、でもホントに大丈夫。ただ、ユーゴ先輩なにしてるかな〜って」

 

 ユーゴ先輩。というのは翼の学校の先輩で、フルネームを岩根勇吾と書く。

 翼があの火傷痕が目立つ少年と出会ったのは、もう三ヶ月ほど前の話だ。

 星見ヶ丘学園の中等部、そこの校舎裏に聳えるゴミ山で、なにかを一生懸命に探していた人。その横顔があまりに真剣で、翼は声をかけずにいられなかった。

 彼に声をかけたあの日から、翼の生活──というより、意識は大きく変わった。今まで以上に、自分が求めるものに対して正直に、積極的になった。

 その結果として、今こうして彼女はアイドルとして満ち足りた日々を送ることができている。

 そういう意味では、ある意味では、岩根勇吾は翼にとっての恩人だ。翼が、彼にとっての恩人であるのと同じように。

 なんて話をすると、後者はともかく前者については「そんなことはない」と返されるのだろうが。

 

「ユーゴ先輩って……あー、確か学校の先輩だっけ? 豪兄ちゃんとこの」

「そーそー、聞いてよ昴くん。ユーゴ先輩ライブに来てくれなかったんだよ〜? チケットが当たらなかったって」

「それは仕方ないんじゃねーの?」

 

 昴はそのユーゴ先輩とやらと面識はなかったが、翼の話に度々登場するので名前と立場くらいなら知っていた。

 それによって、会話の流れで彼が永吉家の長兄である永吉豪の教え子であったことが判明し、これがきっかけとなり昴は翼とつるむようになったのだが、本筋には関係ないためその辺りのエピソードは割愛する。

 

「そうだけどー。来て欲しかったし、見て欲しかったんだもん……」

「へー、翼がそこまで言うのって、なんか珍しいな」

 

 と、ここで。

 いつになく本気(マジ)な表情をする翼を見て、自他共に男の子っぽいと認める永吉昴の、突発的に顔を覗かせる女の子的発想が、彼女に悪い顔をさせる。

 

「なんだよ翼。もしかして、そのユーゴ先輩のことが好きなのか?」

「うん、好きだよ?」

「ははっ、なんて──え?」

 

 あまりに軽く、あっけらかんと、そして堂々と言うものだから、昴は危うく聞き逃すところだった。

 遅れて、彼女の顔が紅潮していく。

 林檎のように、真っ赤っかに染まっていく。

 自分から聞いたくせに、まさかこんなどストレートな答えが返ってくるとは思っていなかったらしく、開いた口が塞がっていない。

 昴はなんとか胸の動悸を押さえ込むと、あたかもまるで気にしていない風を装い、しかし装い切れず震えた声でこう聞いた。

 

「ち、ちなみに……どういうところが好きなんだ?」

 

 すると翼は先ほどまでのぼやけた顔から一転、とても良い笑顔を浮かべて。

 

「えっとねー、まず優しいところでしょ〜」

「へ、へぇ〜」

「それにとっても面白いところとー」

「う、うん……」

「後はやっぱり──何かに、真剣なところかな」

「…………」

 

 最後に、今日一番の真面目な顔で、翼は言う

 もしかして、自分はかなり不味い物を掘り出してしまったのかもしれないと、昴は今更ながらに思い始めた。

 

(いや、これ……マジなやつじゃん。ど、どうしよう。オレ、翼のちょっと恥ずかしがってるところが見たかっただけなのに〜?!)

 

 どう考えたって彼女自身の自業自得である。友人をからかってみようと思ったら、返しようのない言葉の雨に溺れてしまったのだ。

 助け舟を出してくれそうな仲間はいないかと周りを見ても、誰かがドリンクバーで作り出した謎の液体Xの内容物を当てるゲームで盛り上がっておりこちらに気を回せそうな人は誰もいない。なお液体Xの内容物は作った本人も忘れていた。

 と言うかだ、アイドル的にこれは大丈夫なのだろうか?

 

「そ、そうなのか……本当に好きなんだな」

「そうなんだ〜、お兄ちゃんが増えたみたい!!」

「…………お兄ちゃん?」

「そうだよ?」

 

 お兄ちゃん、と翼は言った。

 お兄ちゃん、お兄さん、兄。

 兄は家族だ、それは当たり前だ。昴には4人もの兄がいるし、翼も確か兄がいたはず。

 お兄ちゃんなら、もう一人の兄として見ているのなら、そういう相手として見ているわけではないのだろう。

 世の中には兄に恋する妹もいるかも知れないが、他人を兄と見立てた上で恋する少女は、そうはいまい。

 

「なんだよお兄ちゃんかよー、焦っちゃったよーオレ」

「え〜、どうして昴くんが焦るの?」

「べっつにー。ただ、そのユーゴ先輩のこと、お客さんの前では絶対言うなよー?」

「どうして?」

「どうしても!!」

「ふ〜ん、変な昴くん」

 

 変な昴くん呼ばわりされてしまったが、これで今の自分のような目に、ファンの人達があうことは避けられるだろう。

 ホッと一息つきながら、それでも昴は考えてしまった。

 今はまだお兄ちゃんでも、親戚の年上の男の人扱いでも、それがずっと続いていくと保証されているわけではない。

 だから、もし何かのきっかけで、それが変わってしまったら、その時は──。

 

「……ま、オレが気にすることじゃないか。なぁ翼、これ頼もうぜ!! この超デカいハンバーガー!!」

「わっ、すっご〜い!! ねぇねぇプロデューサーさん、私これ食べたいでーすっ!! ダメぇ?」

 

 打ち上げの幹事兼お財布役を務めるプロデューサーの元へ、おねだりをしに突撃しに行った翼の後ろ姿を見送りながら、昴はさっきの会話をさくっと忘れるのであった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 七月末である。

 765プロライブ劇場にて行われる興行の間隔はかなり短い方で、翼はあれから2回のライブに出演した。

 そして岩根勇吾は3回連続チケットを取り損ねた。

 もうなんだか、怒るのも呆れるのも通り越して、翼は彼のことを可哀想に思い3回目の時は普通に慰めてみたのだが、それが余計に岩根の心に刺さったらしく、お祓いに行こうかなと漏らす始末であった。

 そんな風に弱音を吐く姿が珍しく、翼は心の隅っこをくすぐられる感覚を覚えた、人それを庇護欲という。

 岩根勇吾というのは、翼にとって優しくて面白くて真剣な、二人目のお兄ちゃん的存在であるのだが、歳の離れた家の姉と兄とは違い時折見せてくれる隙が、彼女の母性のような何かを励起するのだ。

 

────♫

 

(あ、この音……)

 

 聞き覚えのある声に釣られて、そちらに視線をやれば、ビルのモニターに三人の美少女が映っていた。

 小麦色の健康的な肌、長く伸ばした黒髪はポニーテールに纏められており、口から覗く八重歯が眩しい少女。

 白銀の美しい髪に、透き通るような色白の肌と真紅の瞳が、妖艶に煌く少女。

 そして──。

 

「あーっやっぱり、美希先輩のだ〜!!」

 

 鮮やかな金髪、いや最早存在そのものが鮮やかな緑の瞳を持つ、覇気を滲ませた少女。

 そんな三人の少女達が黒を基調とした衣装に身を包んでいる。

 『プロジェクト・フェアリー』

 我那覇響(がなはひびき)

 四条貴音(しじょうたかね)

 星井美希(ほしいみき)

 以上の三名からなる、アイドルの強さを前面に押し出しているユニットだ。

 翼は中でも星井美希を自身のパッピーライフのお手本、体現者として仰いでおり、特に尊敬している。

 あんな風に、モテモテでキラキラな人生を送れたら、どんなに素晴らしいだろう。

 いつ自分も、美希先輩のようになるんだと。

 モニターに流れていたのは、来月から『プロジェクト・フェアリー』が行う全国ツアーのPVで、何人もの通行人が足を止め、その映像についてアレコレと語っているようだった。

 その様子を見て、自分はそんな人たちの後輩なんだと思うと、翼は自分の胸が一杯になるのを感じる。

 

(美希先輩、今日はシアターに来るかなー)

 

 心なしか、テンポの速まる足音を引き連れて、翼は劇場に向かうのだった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 劇場に着くと、どういう訳かエントランスホールや廊下には仲間たちの姿が見当たらず、翼は誰とも合わずに事務所の前まで来てしまった。

 珍しいこともあるんだなと翼は扉に手をかける。

 すると──。

 

「──員でられるわけじゃないぞ、メンバーはオーディションで決定する。審査は響、貴音、美希のツアーメンバー3人が直接行うから……」

「美希先輩?」

 

 頭であれこれと考える前に、勝手に言葉が飛び出していた。

 

「美希先輩と一緒にライブできるの〜?!」

 

 美希先輩と一緒に、同じステージに、ツアーでライブで。明るい展望が翼の脳内を巡り、発言により勢いがつく。

 

「はいはいはーいっ!! わたしそれ絶対やりたいでーっす!!」

 

 翼が手を上げてそう言うと、彼女が来る前に話を聞いていたメンバー達も負けじとアピールを重ねる。

 しかし、どんなオーディションでも、誰が相手でも、翼は絶対に選ばれてみせようと、強く強く、硬く硬く、心に誓うのだった。

 

 その結果、敬愛する先輩からあんな言葉をかけられるとは知らずに。



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翼のツバサ

 

 伊吹さんが喫茶店に来ない。

 というのは、実際のところそこまで珍しい話でもない。

 立場上、僕が語り部であるためにあたかも伊吹さんが毎日欠かさずこの喫茶店に来ているように見えていたかも知れないが、彼女は華の現役女子中学生であり、同時にデビューしたての現役アイドルなのだ。当然、学友と放課後を過ごすこともあるだろうし、アイドル仲間と交友を深めている日もあるはずだ。

 それを思えば、今日における今日までの、伊吹さんの喫茶店通いはどちらかと言えば例外で、例外的な出来事と言える。共に時間を過ごす相手に事欠くことのない彼女が、わざわざ僕目前の席に陣取っていたことが。

 元より、ちょいと通い過ぎなのではと思っていたぐらいなのだし、たかが一週間丸ごと来なかったからと言って、それが何だというのだろう。

 別段、不思議なことではない。

 人には人の、彼女には彼女の生活があるのだから、それについて他人である僕があれこれと思考を伸ばすのは、寧ろ失礼にあたる行為ではないのだろうか?

 

「ははぁん、それで今朝からそわそわしていたんだねぇ岩根クン、青き春ってやつだ」

「あの、さも僕が冒頭からマスターに向かってつらつらと心情を明かしていたみたいな風にしないでくれません?」

 

 それ、かなり恥ずかしい奴になっちゃうじゃないですか。

 そしてサラッと心を読まないで欲しい。

 

「そうは言ってもだよ、岩根クン。私としても二ヶ月間通ってくれていた常連さんが来なくなってしまったんだ、そこで店主としてその子と仲のいい常連さんに話を聞いてみようと思い、思い立ったわけさ」

「…………」

 

 すっごい説明口調である。

 いや、僕もあまり人のことを言えないのだが。

 でも常連さんが来なくなったから気にしてるってのは絶対に嘘だ。前に諸事情で一ヶ月くらい喫茶店通いを止めていた時期があったけど、久しぶりに行ったらマスターいつもと変わらない調子だったし。

 だったらなぜ今は気にしてる風を装っているのかという話になるけれども。

 まぁ、僕のことを考えてのことなんだろう。マスターは大人だから、ここ最近二人でいることの多かった僕が、また一人でいるもんだから、お節介を焼いてくれているのだろう。

 それかマスターがロリコンかの二択だ。

 

「で、どうなんだい?」

「どうって言われましても、僕もよく分からないんですよ。伊吹さんの連絡先知りませんし」

 

 そう思うと、僕が携帯を持っていないにしても、伊吹さんの連絡先くらい聞いておけば良かったのかも知れない。

 ここに来れば話せるだなんて、それはあくまで伊吹さんが来るから成立するのであって、来なくなれば当然のように僕は彼女と連絡を取れないのだ。

 

「でも、学校は同じなんだろう?」

「それは、まぁ……そうなんですけど」

 

 そうなのだ、連絡は取れない。連絡は取れないが、直接会うことはできる。

 僕は伊吹さんのクラスを知っているので、そこに行って声をかければ良いのである。

 ただ、もし、もしもだよ?

 もし仮に、僕が彼女のクラスまで行って、「久しぶり。最近喫茶店に来ないけど、どうかしたの?」と、そんな感じに声をかけたとしてだ。

 素っ気ない態度をとられたら、僕はその場で自我を崩壊させる自信がある。

 具体的にどんな言葉を返されるのか想像するだけでも切腹ものだ。

 我ながら情けない事この上ない。

 これまで同年代と仲良くなったことのない僕は、適切な距離感ってものがまるで分からない。これまでの伊吹さんの喫茶店通いが普通なのか知らないし、こうして一週間来ていないのが不自然なのかも知らない。

 だから、彼女のクラスへ押しかけるって行為に果たして正当性があるのか、僕は……自信が、ない。

 自身の行動に、自信が持てないのだ。

 

「ま、私もあーしろこーしろと、そんな野暮なお節介を焼くつもりはないからね」

「これは違うんですか?」

「私はただ、事実の確認をしたってだけだよ。本当にどうしようもなくなったら、その時は頼って欲しいと思うけどさ」

 

 結局のところ、マスターは僕を心配してくれてたってことだ。

 大人が大人として、子供の面倒を見るように。

 

「なんか……すみません、ありがとうございます」

「構うことはないさ、私と岩根クンの仲じゃないか」

 

 とは言ってもだ。と、マスターは店の扉に視線を移しながら。

 

「やっぱりこういうのは、本人同士で解決した方が良いよ」

「えっと、それってどういう──」

 

 カランカランっ。

 僕の言葉を遮るように、カウベルが鳴る。

 音に釣られて、マスターの視線に導かれて、僕は扉を見る。正確には、扉の向こうから入ってきた人物を。

 

「あの、こんにちは〜」

 

 一週間ぶりにやって来た、伊吹さんを。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 さて、一週間ぶりの伊吹さんである。

 六月の頭にこの店で再会して以来、中三日空けることなく話していたせいか、上手く言葉が出てこない。

 なんだか初めて会った時みたいだ。

 あの時は口下手な僕の代わりに、伊吹さんが会話を回してくれたのだが。

 

「………………」

 

 そんな頼れる伊吹さんも、今回はどういうわけか入店してからあまり口を開かない。

 マスターも例によって、例の如くカフェオレを置いて裏に引っ込んでしまった。

 というか、あの口振りからして、マスターが僕に声をかけたのは窓の外に伊吹さんの姿を見つけたからで、あれは僕のためというより伊吹さんのためだったように感じる。

 そう考えると、伊吹さんがいつも通りでないことをマスターは見抜いていたって話になるわけで。

 思えば時間も不思議なのだ。

 現在僕たちの通う星見ヶ丘学園は夏休みに突入しており、伊吹さんがここに来るパターンとしては、レッスン終わりに来るか、朝から居座るか、もしくはそもそも来ないかの三択である。

 今日は、そのどれにも当て嵌まらない、実に中途半端なタイミングだった。

 こんな時間に来たことは今まで一度も……あ、いや、一回だけあったな。

 

「なんだ伊吹さん、今日はサボりかい?」

 

 そうやって、いつぞやのマスターよろしく僕は声をかけてみる。前に伊吹さんがレッスンをサボって喫茶店に来たことがあり、その時がちょうど今ぐらいだったなと思い出したのだ。

 そんな軽口をジャブ代わりに、僕は会話を始めようとした。

 

「違いますよー、今日はちゃんとレッスンしてきたもん……」

 

 始めようとして、頬を膨らませた伊吹さんの返事を聞いて、言葉のチョイスを悔いた。

 まるで、別人みたいじゃないか。

 伊吹さんは、多分自分では普通に言葉を返したつもりだったんだろうけど、ちっとも勢いがない。

 

「……あー、ごめん伊吹さん、今のは僕が悪かった」

「ユーゴ先輩?」

 

 パチンと手を合わせて頭を下げて、伊吹さんに詫びを入れる。すると首を傾げる伊吹さんに、改めて切り出した。

 

「だから、ちゃんと話を聞くよ。何かあったんだろう?」

 

 そしてそれを、誰かに話したくて来たんだろう?

 別に推理も推測もへったくれもない、単なる感覚で、当て勘だ。ただ何となくそう思ったから、言ってみただけ。別に違うのならそれで良いし、違っていないのなら、話し相手くらいは務まるだろうと思っての発言だ。

 だから、伊吹さんがなにも言わないのなら、それでも良かった。

 しかし、彼女は暫く間を置くと──

 

「──────」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 伊吹翼は悩んでいた。

 普段から悩みとは無縁に思われがちで、実際そんなに悩んだことのない翼であるのだが、この時ばかりは悩み迷っていた。

 一体なにを迷っているのかというと、行きつけの喫茶店に入るか否かでだ。

 ここに来るのは一週間ぶりになるのだが、別にだからといってそれが気まずいという話でもなく、悩みの原因は他にある。

 先日の話だ。

 翼が所属する『39プロジェクト』のうち四名を、『プロジェクト・フェアリー』が行う全国ツアーのバックダンサーとして採用する、という通告があった。

 憧れの美希先輩と共演する、又とないチャンスが降って湧いてきたのだ。

 当然、翼は燃えに燃えた。

 オーディション当日も、今までの1番のダンスを披露できたと彼女は確信している。

 しかし、翼はオーディションに落ちた。

 ただ落ちただけではない、無論それだってそれなりにショックではあったが、落ち方が問題だった。

 

「翼はミキたちのダンサーに似合わないって思うな」

 

 他ならぬ美希先輩に、星井美希に、翼は自分たちのダンサーに似合わないと言われてしまった。

 どちらかと言えば、こちらの方が余程ショックだった。

 で、それから暫くして、というか今日。

 翼は同僚である、39プロジェクトきってのギタリスト兼ボーカリスト、ジュリアにバックコーラスを頼まれた。

 ジュリアの曲は好きだし、ちょうどパーッと歌いたかったこともあり、翼は快諾。

 同じようにバックコーラスを依頼された、人呼んで劇場のマジシャン真壁瑞希と共に練習を始めたのだが──結論から言うと、上手くいかなかった。

 翼はジュリアに「メインの自分に合わせてくれ」とダメ出しされるばかりで、練習はちっとも進まない。

 バックダンサーはダメだった、バックコーラスもダメと言われるばかりで、無意識に気持ちが下向きになっていたのかも知れない。

 一時間の休憩を挟んだ後も、なにも変わらなかった。

 ジュリアは出来るようになるまでトコトン付き合うと言ってくれたが、レッスン自体は早く終わることになって、翼の足は自然とこの喫茶店へ向かっていた。

 けれども、店の前まで来たはよいものの、前述の通り翼は入るべきか迷っている。

 入れば、きっといつもの席に彼は座っているのだろう。そして自分は彼の前に座ったら、ここ最近のことを話すはずだ。

 憧れの先輩に駄目って言われたこと。 

 次の仕事もあまり上手くいっていないこと。

 言ったら多分、彼は親身になって聞いてくれると思う。なんなら彼なりの言葉で慰めて、励ましの言葉の一つもくれるかも。

 だから、そんな予感がするから、翼は迷っていた。

 そういうところを、見せたくないと、なんとなしに思ってしまったからだ。

 見せたら最後、根本的なところで対等じゃなくなってしまう、そんな気がして。翼本人、そこまで考えた上での迷いではなく、あくまで無意識であったはずだ。でなければ、そもそもここまで来たりしない。

 それゆえに。

 翼はマスターに目配せされて入店し、彼──岩根勇吾に何かあったのかと聞かれても、何があったのかは話さなかった。

 代わりに、彼女の口から出たのは──

 

 

「ユーゴ先輩は、なんで小説を書いてるの? 楽しいから?」

 

 そんな、客観的には突拍子のない問いかけだった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 僕がまだ12歳の時。

 僕の肩書きが小学生六年生から、中学一年生になって間もない頃の話だ。

 僕は担任であり国語教師でもある永吉先生から、一冊の小説を薦められた。

 その小説はとある女性作家の書いたファンタジー小説で、色々とお世話になっている永先の薦めということもあり、深く考えることもなく僕は本を開いた。

 そして、実に陳腐な言い回しになってしまうが、僕はそこに広がる世界に、すっかり魅了されてしまったのである。

 生き生きとした、もはや常軌を逸したリアリティーある異界の存在に。

 僕にもあんな世界が創れたらと、思い始めたのはいつであったか、気がつけば僕は原稿用紙を前にペンを持っていたのだ。

 と、如何にもな口調と文調で語って見せたは良いものの、速い話がファンタジー小説に嵌って創作活動を始めたという、さして珍しくもない中学生にありがちな行動だ。

 なので「なぜ小説を書いているのか」という伊吹さんの問いに対して、僕はそれほど深い答えを返せそうにもない。

 ただ一つ言えることがあるとするなら、それは。

 

「そうだな……僕は別に、楽しいって理由で、小説を書いてるわけじゃないんだ」

 

 楽しい。を理由にしていると、楽しくないと感じてしまった時が最後になってしまうから。僕にとっての小説は、それで終わらせてしまって良いものではない。

 

「なんでまぁ、楽しくない時もある。それはあるんだ、思うように文章を形にできなくって、辛いと思う時もあるよ」

 

 上手い言い回しが出てこないとか、登場人物の動機が実際描いてみると思っていたより薄いとか、頭の中にある光景を文章に落とし込めないとか、そんなことばっかりだ。そんなことばかりで、ホント嫌になってしまう。

 でも。

 

「それでも、気がつくとペンを持っている。だから、きっとそういう事なんだと思う」

 

 だから、あの時。

 ノートを探していたあの時、僕は諦めきれなかったんだ。

 心が諦めるなと言うから、そして心で決めた行動になら、僕は納得できる。

 正直、伊吹さんがどんな意図で、この質問をしたのかは分からない。

 別に無理に聞き出そうとも思わないし、彼女も話すつもりはないのだろう、それで構わないと僕は思っている。

 ただ、もし、もしもだ。

 伊吹さんが今の自分に、なにか疑問を抱いていて、心がモヤモヤしていて、僕に問いをぶつけてくれたのだとしたら。

 

「…………ユーゴ先輩は、」

「うん」

「ユーゴ先輩は、小説を書くのが好きなんですね」

「あぁ、実はそうなんだ」

 

 茶化すように、僕は笑った。 

 

「伊吹さんだって、きっとそうだよ」

「え〜、私もですかぁ?」

「アイドルが、好きなんだろ?」

 

 好きだからこそ悩むし、真剣に、夢中になれる。何かを好きになるってことは、そういうことだと、僕は思う。

 僕の問いかけに、伊吹さんは笑った。

 

「はい、実はそーなんですっ♪」

 

 ニッと笑って僕を見る、いつもの伊吹さんだった。

 




翼パートの続きが気になる方はゲッサン『アイドルマスター ミリオンライブ!』三巻を(ダイマ


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ツバサの帰る場所

 

 8月13日に迎え火を焚き。

 8月16日に送り火を焚く。

 期間中は全国的に休みとなって、親族が集まりお墓参りに行く。

 俗にいう、お盆休みだ。

 そのお盆休みというものが、僕はどうにも苦手である。

 特に親族の集まる場所は頼まれたって行きたくない。いや、行くんだけどさ。

 今年も8月13日、つまり昨日が丁度その親族の集まりであり、僕と父さんは岐阜に行っていた。と言っても岐阜にいるのは父さんの親族だけれども、いざ行けば聞かれたくもないことを聞かれるし、聴きたくもないことを聴かされる。

 毎年そんなことばかりで嫌気が差す、父さんの顔を立てて、それこそ少しだけ顔を見せたが、よくもまぁ懲りずに人の顔をジロジロ見ながらしょうもない話を続けられるものだと、いっそ感心してしまうほどだ。

 

「すまないな、勇吾」

 

 一通りの嵐が過ぎ去ってから、毎年決まって父さんは辛そうな顔で僕に言う。そんなことを言うくらいなら、最初から行かなきゃ良いのにと思う。これは僕が子供だからそう感じるだけで、大人からして見れば子供の理屈なのかも知れないけど。

 まぁ僕のどうでもいい身の上話なんて聞くに耐えないだろうから、サクッと前に進みたいものである。

 そう、サクッと前に、8月末までひとっ飛びしたい。

 なぜかと問われれば、それは8月末に765ライブ劇場にて定期公演が行われるからであり、追記するならば僕はこの度遂にライブチケットを手に入れたからであると言葉を重ねさせて頂こう。

 楽しみだなぁ。3回連続で逃した時には、本気で近所の神社にお祓いを頼もうかと考えたけど、捨てる神あれば拾う神ありだ。

 そう思うと、そんなビッグイベントが控えていると思うと、心が軽い。

 嫌なお盆も終わって、家に帰ればいつも通りの毎日が待っている。

 学校は適当にやり過ごして、マスターのとこで小説を書いて、時々伊吹さんが茶々を入れに来る、そんな毎日が。

 一応僕は15歳であり、中学3年生であり、世の中学3年生の大半には受験勉強なるものが迫っている時期だ。しかし僕が通う星見ヶ丘学園は小中高一貫校である為、その心配もない。

 大学とか、その先については、まだ考えてない。

 いずれは考えなきゃならないことだけど、今はまだ──

 

「勇吾……こんなタイミングだが、一つ聞いて欲しいことがあるんだ」

 

 と、岐阜から東京へと帰るべく、車を走らせていた父さんが、唐突に口を開いた。

 往々にして無口な父さんが、改まって僕に話を振ってきたのだ。

 

「私自身、悩みはしたが、それでも聞いて欲しい」

「なんか物々しいけど、どうしたの?」

 

 嫌な予感がした。

 こればっかりは長年の付き合いというか、親子だから分かる。

 そして感じた通りというか、とやっぱりと言うべきか。

 

「──母さんが、お前との面会を望んでいる」

 

 そういう予感ってのは、大抵当たってしまうものである。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 さて、先程僕の身の上話なんてと言ったばかりではあるけれど、流石にこうなった以上最低限の説明はするべきだろう。

 僕の顔には、大きな火傷痕がある。

 僕の人生はこの顔面右半分を覆う火傷痕に振り回されてきたし、こんなもん無ければと思ったことは1度や2度に収まらない。

 そして火傷痕ができた切っ掛け、僕が火傷を負った原因というのが、他ならぬ実の母親なのである。

 と言っても、故意に焼かれたとか、そんな話ではなく、母親の余所見による事故らしいのだが。

 以来、僕は母親に会ってない。

 正確には、会おうと思っても会えない状態にある。と言うべきか。

 事故の後、母親は心を病んでしまったのだ。

 とても責任感の強い人だったらしく、僕に会うと当時の記憶がフラッシュバックし過呼吸に陥ってしまう。そのため今は故郷の北海道に両親と、つまり僕の祖父母と暮らしており、精神病院へ通いながら生活しているらしい。

 

 ──と、そんな母親に会わないかと打診されたのが2日前で、僕はいつもの喫茶店で頭をうんぬんと悩ませていた。

 病院の先生からは許可が下りているらしく、僕が頷きさえすればその日にでも飛行機に乗り込もうという話だ。

 僕の、気持ち次第。

 だから僕がノーと言えば、それで流れる話ってことになる。決定権は、僕にある。

 父さんとしては、会って欲しいと思っているのだろう。

 父さんが母親をどれだけ愛しているのかは理解しているつもりだ。表情の堅さに定評のある父さんも、あの人と電話をしている時は頬を緩めてるから。

 じゃあ僕は、僕はどうなんだろ。

 僕は母親に会いたいのか。   

 自分の気持ちで、僕の気持ちだ。

 そして、僕の母親だ。 

 だから直ぐに答えが出ると思いきや、意外とそうでもない。今になって考えてみたところで、僕はどうすれば良いのか分からずに──って冷たっっ!!??

 

「えっへへ。こんにちは、ユーゴ先輩♪」

「……こんにちは、伊吹さん。とりあえず言い訳を聞こうじゃないか」

 

 首筋を襲った冷たさに振り向けば、そこにはしてやったりと言わんばかりに赤い瞳を輝かせる、金髪の美少女──もとい、伊吹さんがいた。

 片手に持ったアイスティーらしき液体が注がれたグラスを横目に、ジーっと目線を送りつけ弁名を待つ。

 

「えー、だってユーゴ先輩難しそうな顔してたから。そんな顔でライブに来たら、約束の投げキッスしてあげませんよ〜?」

「初耳だよそんな約束は!!!! というより、練習はどうしたのさ」

 

 僕の記憶違いでなければ、彼女はライブの練習で忙しく、今だって絶賛レッスン中のはずだ。

 そこで悪びれもなく、加えてとんでもないことを言い出した伊吹さんに、僕が再度尋ねると。

 

「今は休憩中でーす。1時間休憩だから〜、これ飲んだら戻りますね♪」

「えぇ……その為にわざわざ?」

 

 確かにこの喫茶店と劇場はかなり近い立地であるが、にしたって往復すれば20分ちょいはかかる計算だ。

 せっかくの休憩時間なのに、それで良いのだろうか。

 

「いいんですよー、来たくて来てるんだもん」

 

 良いらしい。

 まぁ、こちらにしたって止める謂れもないのだが。

 

「ところでユーゴ先輩、さっきからうんうん唸ってたけど、どうしたんですか?」

「……あー、えぇと」

 

 聞かれて、僕は言葉に詰まった。

 赤裸々に語る内容では、ないと思う。

 というか急に話されたら、伊吹さんとて困るだろう。完全に身内の話だし、他人に語るには重い話だとも思う。

 かと言って、このままダンマリでは気を遣ってくれた彼女に悪い気がして、まとめる前の言葉を溢してしまった。

 

「その、なんていうか。してもしなくても良いことなんだけど、自分の気持ちを決めかねているっていうか……」

 

 あーもう、自分で言ってて支離滅裂だ。

 勢いに任せて話すもんじゃない。

 見ろ、伊吹さんも不思議そうに小首を傾げているじゃないか。

 

「だったら、しちゃえば良いんじゃないですか?」

「…………え?」

 

 当たり前のことを諭すように、伊吹さんは言う。

 

「だって悩んでるってことは、しようかなって気持ちもあるんですよね? だったら、しちゃえば良いと思いまーす!!」

「気持ち、か……」

 

 僕の、気持ち次第。

 今回の件を、改めて考えてみる。

 自分でも覚えていない事件で心を病んでしまった母親が、僕に会いたがっている。彼女は、どうして僕に会いたいのだろう。そして僕は、そんな母親のことをどう思っているのだろう?

 しかしどれだけ考えたところで、母親に向ける気持ちが、いまいち定まらないのだ。

 恨んでいた時期もあった。

 それは確かにあった。

 今更言い訳しようとは思わないし、客観的に見たって仕方のない感情のはずだ。

 ただ、その辺の感情には2年前に決着をつけたつもりでいる。だから、今は別に恨んでない。恨んではないが、だったら今はどんな気持ちなのか。そこがハッキリとしない。

 かれこれ10年以上も会っていないのだ。相手の顔は写真で知っているし、それが自分の母親であるという認識もあるけれど、そこから先に話が進まないのである。

 ……そっか、そりゃそうだ。

 会ってないんだから、話が前に、気持ちが先に行けるはずがない。

 だったら、どうするべきなのか。

 答えは、目の前の少女が教えてくれたばかりだ。

 

「……そうだな、やってみるよ。ありがとう伊吹さん」

「えっへへ、どーいたしましてっ!!」

 

 やるだけ、やってみよう。

 そこにどんな結果が待っていたとしても。

 にしたって、あんだけ悩んでいたのに、伊吹さんの後押し一つで決めてしまうというのは、我ながらちょろい気がしてきた。

 でも、屈託のない笑顔を浮かべる彼女を見ていると、別にそれも悪くないように思えてしまう。

 

「ずるいよなぁ、そういうところ」

「ユーゴ先輩、なにか言いました?」

「いや、独り言だよ」

 

 そう、ただの独り言だ。

 言えるわけないじゃないか、君の笑顔を見ていると、不思議と勇気が湧いてくるなんて。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 案内されたのは、よくあるドアの前だった。

 というか、北海道の祖父母の家の、その一室の扉の前である。空港からタクシーでやってきた僕は、一年ぶりの祖父母に挨拶を済ませたあと、ここに連れて来られたのだ。

 ……まさか、その日のうちに連れて来られるとは思ってなかった。母親の実家が空港近辺だったからとはいえ、とんでもない強行軍だ。

 多分、父さんはこの日をずっと待っていたんだろう。僕と母親が会うこの日を。僕たちの関係は複雑に拗れてしまっているけれど、父さんにとっては二人ともが家族だから。

 気を遣ったのか祖父母と父さんはすでに席を外しており、後は僕のタイミングでドアノブを捻って押せばいい。

 この先で、母親が待っている。

 実に10年ぶりだ。

 もっとも、10年前のことは殆ど覚えていない僕にとっては、初対面と変わりないのであるけれど。少なくとも、母親目線だと10年ぶりに会う息子である。

 ──それは、一体どんな気持ちなのだろう。

 正直、想像がつかない。向こうが僕に対してどんな感情を抱いているのか、予想ができないでいる。

 どういう気持ちで、どういった感情で彼女は今、僕のことを待っているのか。

 こんなこと、考えたって仕方がないのかも知れない。でも、一度脳裏をよぎったそれは、真綿のように僕の心を締め付けてくる。

 これは僕が被害者で、あちらが加害者だとか、そんな分かり易い簡単な関係とは違う、もっと複雑な僕らの在り方にのしかかる重石だ。

 だから僕は、その重石に今日ここで、正面から向き合わなきゃならないんだ。

 一呼吸してドアノブに手をかけ、そのままガチャリと捻り扉を……扉を……

 扉を、開かなきゃダメなのに。

 おかしい、右手が強張って力が扉に伝わらない。ついでに言うと今更ながらに、僕は首筋を流れる汗を自覚した。

 あぁそうか、緊張してるのか。僕は。

 参ったな、こんなはずじゃないのに、覚悟は決めて来たはずなのに。

 僕の体は捻ったままのドアノブと一緒に固まって、如何ともしがたい沈黙が続く。

 

 

「………………勇吾?」

 

 そんな沈黙を破ったのは、小さな声だった。小さな声が、僕の名前を呼んでいた。

 か細い、女性の声。

 聞き覚えのない声だ。

 しかし、部屋の中から声が聞こえたってことは、その主は一人しかいないわけで。

 10年も聞いていなかったのだから分からなくても仕方ないとか、こんな声だったのかとか、そんな考えが頭の中を行ったり来たりする。

 

「本当に、来てくれたのね……」

「…………」

 

 言葉が出ない。

 言うべき言葉があって、言おうと思って来た話があって、それで、きちんと話をしなくちゃならないのに。

 

「…………ごめんなさい、急な話で。きっと、困ったわよね。今更、あなたに会いたいだなんて」

 

 そんな僕の沈黙をどう捉えたのか、母親の声は微かに震えていた。震え声のまま、彼女は言葉を続ける。

 まるで、こうなることを予期していかの如く。

 

「無理、しなくていいのよ。ここまで来てくれただけでも、私とても嬉しいの」

「…………」

「出来れば、本当はね、直接あなたの顔を見ながら、最近はどうしてるのか……なんて、そんなことを聞ければなって思っていて……それで、」

 

 なんだ。

 なんだよ、これ。

 思ってたのと、全然違う。

 そうだよ……ここに来るまで、なんだかそれっぽいことを心情として並び立てていたけど、正直ビビってたよ。

 精神を病んだとか、僕の顔を見ると過呼吸になるとか、病院に通ってるとか言うからさ、てっきり僕は……僕は、この人だって本当は心のどっかで、僕には会いたくなくて、でも立場上会わないわけにもいかないから、自分の為にもこんな事を言い出したのかなって思って、それで……それでっ。

 

「──ちゃんと、あの時のことを、あなたに謝りたくて」

「………………っ」

 

 でも、違うじゃないか。

 声を聞いて、言葉を聴いてはっきりと分かった。

 この人は、最初から自分のことなんてコレっぽっちも考えてなかったんだ。

 彼女は、僕のことを考えていた。僕のことだけを、考えてくれていた。

 自分自身、思うことがあって。とても苦しんでいて、辛いはずなのに。そんな姿を見せまいとして、気丈に振る舞って。

 それは、それはまるで──

 

「もちろん、謝って許されることじゃないわ。でも、それでも……」

 

 まるで、本に読んだ母親みたいだった。

 

「本当に、ごめんなさ──」

「あのっ!!!!」

 

 反射的に、扉を開いていた。

 さっきまでの、締め付けられているような感覚を振り切って、その先の言葉を聞きたくない一心で、僕は声を上げた。

 何度か写真で見た顔が、そこにはあった。

 写真の顔よりも少し歳をとっていて、ちょっと窶れたようにも見える。まさか入ってくるとは思っていなかったらしく、その顔は驚きに染まっていた。唇は震えていて、それでも必死に言葉を紡ごうとしていて。

 なので、続きをぶった斬るべく、僕は言った。

 

「──母さん」

「────っ」

 

 息を飲む音を立てて、彼女の……母さんの顔が固まる。これでようやく、たった今思いついた僕の言いたいことが言えそうだ。

 

「僕、幸せだから。これまで色々あったけど、今は元気にやってるよ」

 

 さっきまで一言も喋れなかった分を清算するように、母さんに一歩ずつ近づいていく。

 

「確かに、全部なかったことには出来ないかも知れないし、するべきじゃないとも思う」

 

 でもさ、折角こうやって会う機会ができて、面と向かって話せるようになったんだし……それに。

 

「僕、母さんに謝って欲しくてここまで来たわけじゃないんだよ?」

 

 言いながら、母さんの手を握る。

 細くて白い、僕は覚えてないけれど、10年前は毎日のように握っていたはずの手を。

 そこが、分水嶺だった。

 要は、謝罪の涙と。

 

「あ、ありがとう……勇吾っ。来てくれて、ありがとう」

 

 感謝の、涙の。

 見開かれていた瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちてくる。止まらずに次から次へと、頬を伝って落ちていく。

 

「元気に育ってくれて、ありがとうっ。あの人の側に居てくれて、ありがとう」

 

 いかん、いかんなぁ。

 そんなつもりはなかったのに、自然と目尻が熱くなってきた。似合いもしないキザな台詞を吐いた後で、自分が泣いてちゃ台無しだ。

 今は僕がしっかりするべきタイミングだ。

 分かってて母さんの涙腺を刺激したのだから、責任を取らなくちゃならない。

 これ以上何を言われたって、どっしりと構えて──

 

「──生きててくれて、ありがとう」

 

……いや、ほら。我ながらね、よく耐えた方だと思うんだ。だから、だからさ。

 

 ────もう、泣いてもいいよね?

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 結局、僕と母さんは涙腺がボロボロになるまで泣いて、泣き疲れて、それでもこれまでの話をした。

 これまでの、10年間の話を。

 一晩かけてひたすら話倒した。もうネタが無くなるってくらい、時間が過ぎるのも忘れて。

 おかげで僕は自分の母さんがどんな人なのか何となく理解できたし、母さんもそうだと思う。

 ただ、僕らの間にあった溝が、今日で完璧に埋まったとは思っていない。そんな簡単に埋まっていい溝じゃないし、それはこれから時間をかけて埋めていくものだから。

 でも確かに今日、止まって錆び付いていた歯車が動き出したのは、紛れもない事実だ。

 そう、歯車は動きだした。

 僕や家族を、そして何故か伊吹さんも乗せてグルグルと、グルグルと。

 

 

 



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ツバサとドルオタ

 

 

 スランプ、という言葉をご存知だろうか。

 これは不調や不振を意味し、気力や体力が一時的に衰え気味となりモチベーションが激減する状態を指す英単語だ。

 現代においてもスポーツ選手などの数値と向き合いながら生活している人をはじめとし、大勢の人間を苦しめている。

 理由は身体的、精神的に情緒的と多岐にわたり、またそれらが複雑に複合化することもあって原因の解明は困難とされているらしい。

 さて、ここまで言ってしまえば、勘のいい人でなくても分かってしまうだろう。

 

「ユーゴ先輩、大丈夫??」

「あまり大丈夫じゃないかも……」

 

 僕──岩根勇吾は、絶賛スランプに陥っていた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 8月末、である。

 以前から告知していた通り、765プロライブ劇場の定期公演はもう目前に迫っていた。なので、伊吹さんはこれまで以上に忙しそうで、そして楽しそうに準備中の出来事なんかを語ってくれる。なんでも、前回ぶっつけ本番で披露した曲の形を、より良いものにしようと奮闘中らしい。

 そんな中、僕はライブへの期待が昂まり過ぎてしまい、執筆に集中できなくなってしまっていた──訳ではない。そうではないのだ。

 確かにライブに対しての期待度は上がる一方だし、実際とても楽しみにしていることも事実であるけども、しかしそれが原因で小説に手がつかなくなる僕ではない。と、自負したい。

 

「でもでも、ユーゴ先輩もそういう風になるんですね〜。なんだか可愛いですよ?」

「可愛いは余計だ可愛いは、ったく人が真剣に悩んでるのに」

 

 公演間近であるにも関わらず、当たり前のように喫茶店へとやって来て、目の前に陣取った伊吹さんは、ケラケラと笑ってカフェオレを飲むと、僕のノートを指差して。

 

「ねぇユーゴ先輩、わたし途中でもいいから読んでみたいな〜、ダメぇ?」

「ダメです、絶対ダメ」

「むぅ〜、今ならいけると思ったのに」

「なんでいけると思ったかなぁ……」

 

 危ない危ない、油断も隙もない人だ。

 以前から時折、こうしてふとした瞬間に言質を取ろうとしてくる彼女を、今日もこうして避けていく。

 完成までは絶対に読ませるもんかと、僕は決意を固くした。

 ……まぁ、固くしたところで、肝心の執筆はここのところ全く進んでいないのだが。より正確には、三日前の夜からだ。

 そう、三日前の夜。

 あの晩、僕は母さんと通話をしていた。

 あの晩というか、ここのところ毎晩連絡を取り合っているんだけど。僕から連絡することもあれば、母さんからくることもあるし、基本的に毎日1時間ばかし話をしている。

 北海道で数時間語ったくらいじゃ僕たちの時間は埋まらない──なんて感傷的な話ではなく、単になんとなく部屋の子機で電話してみたら、なんとなく話が続いて、それがなんとなく続いているってだけの話だ。追記するのなら、僕と母さんは小説の趣味が合うらしく、最近は互いに薦めた本を読んだりして感想会じみたものを開いたりしている。

 だから三日前の夜も、僕はいつものように母さんとの通話を終え、リビングで父さんと過ごしていた。僕は小説を黙々と読み、父さんはパソコンを開いてお仕事だ。

 すると藪から棒に。

 

『今日も話していたのか?』

『ん? あぁ、母さんとね。もしかして聞こえてた?』

 

 主語のない問いかけだったが、そこは僕と父さんだ、意志の疎通に困ったりすることはなかった。

 

『少しな、にしてもここ数日毎日じゃないか』

『あはは……いや、なんか止まんなくって』

 

 決して咎めるような言い方ではなく、むしろ嬉しそうな声ではあったけれども、軽い驚きを含んだ父さんの声色に、僕は苦笑する。

 そして、次に父さんはこう言った。

 あくまで軽く、それでいて真剣に。

 出来れば、頷いて欲しいと、そんか気持ちを滲ませて。  

 

 

『じゃあ、いっそのこと一緒に住むか? 母さんのことがあるから、俺達があちらに引っ越すことになるが』

 

 

 僕は、頷けなかった。

 けど、否定もしなかった。それも悪くないかもって、心の何処かで思ったからだ。父さんも今すぐ決めて欲しいってノリではなかったし、話は有耶無耶になったけど、あれは決して冗談ではなかったと思っている。

 それ以降、僕はずっと悩んでいる。悩み過ぎて、小説に手がつないくらいに。

 一緒に暮らせたら、きっとそれは素晴らしいことだ。僕が独り立ちするのが何年先になるかは分からないが、少なくともその日までは側に居られる。失っていた分まで、近くに居たい、居てあげたいと思う。

 でも、こっちにだって恩師である永先がいる、とても親身になってくれたマスターがいる。彼らがいない北海道に進学するってことがどういうことか、分からない僕ではない。

 それに──

 

「……ユーゴ先輩?」

「あぁ、ごめん。ちょっと考え事してて、もう時間だろ?」

 

 向かい合って、こちらを見つめる伊吹さんに、僕は反射的にそんなことを言ってしまい、案に仄かしてしまう。

 そろそろ劇場に戻った方が良いんじゃないのか? と。事実彼女は限られた時間を使ってここに来ていて、時計を見ればもう劇場に向かうべき頃合いではあったが、僕がそれを促したのは初めてのことだった。

 案の定、少し驚いた表情を見せる伊吹さん。

 

「そうですけど〜、わたしユーゴ先輩のことが心配で」

「心配してくれるのはありがたいけどな、コレばっかりは自分の問題だから」

 

 不安そうな顔をする伊吹さんの顔を見ていると、本当に僕のことを案じてくれているのだと伝わってくる。

 でもこれは僕の問題で、僕たち親子の問題だ。だから、ライブを控える彼女を巻き込みたくない。

 だったらそもそも不調を表に出すなという話になるけれど、あの話を意識するとどうしても筆が進まなかった。

 

「大丈夫だよ伊吹さん、こういうの前にもあったし、何とかなるって」

「…………」

 

 スランプはこれが初めてではない、というのはまるっきり嘘だったけど、伊吹さんに心配をかけたくない一心だった。

 すると彼女は納得してくれたのか、喫茶店の扉に手をかける。

 そして伊吹さんは扉を開けて、夏の日差しを受けながら、背中越しにこう言った。

 

「──私、頑張りますからね。ユーゴ先輩に私たちの可愛いところも、カッコいいところも、元気なところも、全部見てもらえるように」

 

 だから、と彼女はこちらに顔だけを振り向いて。

 

「私のこと、ちゃ〜んと観ててくださいね、ユーゴ先輩♪」

 

 不敵な笑みを浮かべながら、そう宣言したのだった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 伊吹さんの宣言から二日が経った。

 結局執筆は一行も進まず、けれど時間だけは確かに二日分進んで、とうとうこの日がやって来た。

 765プロライブ劇場、そこで行われる定期公演当日だ。

 僕がここを訪れるのは、伊吹さんのオーディションに付き添った時以来になるので、これが2回目となる。

 前回来たときは開館前だった為、当然のように伽藍堂であったエントランスホールも、今は若い世代を中心とした大勢の人達で溢れかえっていた。

 右を向けば売店にグッズを持ったファンの生み出した長蛇の列、左を向けば巨大ポスターの前でカメラを構えた人達が順番待ち。

 すごい光景だ。

 しかし生憎ながらグッズを買うお金も、カメラもスマホも持っていない僕には無縁な列である。中学生の身にはチケット代だけでも重たいのだ。

 お、あれが伊吹さんの言ってたフラワースタンドってやつか、思ってたよりだいぶデカい。僕はてっきり仏壇に添えられているような花束の、ちょっと大きなバージョンを想像していたのだけれど、あれじゃフラワースタンドというよりフラワーキャッスルだ。花が立っているのではなく、花で建ってる。

 まぁ、そんな具合にホール内を一通り見て回ること数十分。パンフレットに記載されていた開場時間はもう直ぐのはずだが……

 

『あ、あー。御来場の皆様、本日は765プロライブ劇場(シアター)定期公演にお越し頂き、誠にありがとうございます。大変長らくお待たせいたしました、間も無く開場のお時間となります。御入場に際しましては、係員の指示に──』

 

 ちょうど良いタイミングで流れた、どこか聞き覚えのある声のアナウンス。すると待ってましたと言わんばかりに、先ほどまであちこち散っていた人達が、急に秩序立って動き始めた。

 どうやらスタッフの人達が席順を考慮し、順次場内に案内してくれるらしい。

 ……僕何番だったかな。

 慌ててチケットに書かれた席番を確認すると、すでに出来つつあった人の波に乗っていく。

 そして波に乗り、扉を潜ると、そこには数百人程度の観客を収めるに足るライブホールが広がっていた。

 ステージは二段構成で、カラフルな装飾が目に眩しい。こういった場に来るのは初体験である僕から見ても、立派なステージだと思えた。

 にしても、火傷痕のこともあるしで正直ここに来るまで緊張していたのに、この場にいる人達は恐ろしいほど僕に無関心であった。皆んなが皆んな、アイドル達のことしか眼中にないと言うべきか。座席に座った後も、彼ら彼女らは隣席のファン同士であーでもないこーでもないとアイドル論を繰り広げている。

 そうなってくると、たまたま後輩がアイドルになったというだけで、天下の765プロASは兎も角、その他のメンバーであるところの『39プロジェクト』の面々については未だに顔と名前が一致していない僕としては、早くも肩身が狭いように感じてしまう。

 話しかけられたらどうしよう。

 アイドル話に花を咲かせるなんてのは論ずるまでも無く、無論無理だし、これまで対人関係をドブに捨てて来た僕には、初対面の相手と気の利いた会話をこなせるスキルはない。

 幸い──というのが正しいかはさて置き、幸いにも僕は壁に接している端っこ席を割り当てられており、隣の席は空席であった為、先ほど心配したような状況には陥っていないが、これだって時間の問題だ。

 むしろ、通路の関係で端2席だけが、つまり僕とお隣さんの席だけが中央席が分断されていることを思えば、お隣さんのそのまたお隣さんからの助力を得るという名の、僕以外のメンツで盛り上がってもらう──なんて未来にも期待できそうにない。

 考えてみると、幸いでも何でもないな、これ。

 いっそのこと、このまま隣席が空席のままであってくれたら、僕の精神衛生面上非常に助かる。急な用事とかでさ。

 もう開演時間も迫ってきたことだし、これはワンチャンあるのではなかろうか。いや、隣に誰もいなければなんて贅沢は言うまい、せめて僕みたいなコミュ障拗らせた置き物が隣にいても苦にしなさそうな、普通の人が来てくれれば──

 

「セーーーーフ!! ギリギリセーフですよっ、いやぁまさかのアンコールで開場入りが遅れた時はどうなるかと思いましたけど、ありさの悪運は尽きてなかったみたいですね〜!! ムフフ、実に楽しみですね今日のライブ!! いえ、ライブが楽しみなのは毎回一緒ですけど、今回はあの伝説の曲が披露されるとの噂が経っているわけですから、この会場のざわつきも頷けるところでしょう!! 他のアイドルちゃんからも目が離せない最高の1日になりますよ〜!! あっ、どうもです、今日はよろしくお願いします!!」

 

 

 どうしよう、ワンチャンなかった上に凄い人が来てしまった。

 

 

 



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ツバサは何故に教えを乞うか?

 

 

 

 赤い髪の少女だ。

 長い赤髪をツインテールにした、マスクをしているが恐らく同年代であろう少女である。

 きっとこの先、一生涯拭えないであろう強烈なインパクトと共に、彼女は隣の席に着いた。

 着席──してしまった。

 つまりそれは、この赤髪の少女が僕の隣席のお客さんである決定的な証拠であった。

 なんというべきか想像の十倍くらい、そして願望の百倍くらい濃い人が来てしまった。

 どうすれば良いんだ、いやでも挨拶? をされた以上はこちらも返すのが礼儀だろう。

 

「えと、その……どうも、よろしくお願いします」

「はい!! えへへ、すみません騒いじゃって。今日が楽しみ過ぎて昨日からテンションMAXが止まらないんです〜!! 先週リリースされた桃子ちゃんセンパイのソロ曲を始めとしたライブ未歌唱の曲は勿論、今回のメンバーを考慮するとユニット曲の方も激アツですからね!! あっ、因みに今日のありさはジュリアちゃん推しです。アイドルちゃん達を分け隔てなく推していきたい所存ではありますが……ムフフ、今日の一推しは誰かと聞かれればジュリアちゃんと答えざるを得ないでしょう!!!! おっと、ごめんなさい。ありさばかり話しちゃって、あなたの推しアイドルちゃんの話も聞かないとですね!!」

 

 一息で言い切った赤髪の少女は、目を爛々と輝かせ、鼻息を荒くして僕の回答を待っている。

 す、凄い……一を言うと百が返ってくる感じだ。え、これ答えないとダメなやつ?? だいたい『おし』ってなんだ、おし……押し……いや、推し──?

 なるほど、推しアイドル。つまり応援してるアイドルってことだろか。

 しかし問われたところで、そう尋ねられたところで、僕が答えとして返せるアイドルは限られている。

 

「あーっと、僕は……伊吹さん、ですかね」

「ふぉ〜!! 翼ちゃん推しでしたか!! いいですよね翼ちゃん……よい……まず顔がいい!! スタイルがいい!! 歌がいい!! ダンスがいい!! そして性格もいい!!」

 

 確かにいい性格をしているけども。

 

「それになんと言ってもあの表現力!! どんな曲でも自分流に歌い上げて、踊ってしまう翼ちゃん!! アレンジが効き過ぎてるなんて意見もありますが、あえて言いましょうそれが良いと!! ムフフ、分かりますよ〜一眼見て翼ちゃんに心を奪われてしまうそのお気持ち!! これだからアイドル道は止められませんっ」

 

 ……ちゃんと見たことなくてゴメンなさい。

 少女の熱量にあてられて、僕はよく分からない罪悪感を抱きつつあった。そのつもりはないのに、なんだか騙しているような気分だ。

 向こうは多分僕のことを御同輩だと、つまり765プロひいては『39プロジェクト』の熱烈なファンだと思って話している。だが、その正体は後輩を見に来たアイドル道のアの字も知らない素人である。

 時間はあったのだから予習なりなんなりしてくれば良かった。お盆やら北海道やらスランプやらは言い訳だろう。

 

「そ・れ・にっ、翼ちゃんと言えば今月頭に行われたあのライブ!! ジュリアちゃんがぶっつけ本番でやると言い出した時は驚きましたけど、あんなステージを見せられちゃ誰も文句は言えないですよ〜!!」

 

 話には聞いてるけどそれも見たことありません……いや、もう限界だ。これ以上は罪悪感でどうにかなってしまう。

 

「あとは──」

「あ、あのっ」

 

 もはや勢いとどまるところを知らない少女の発言を、隙を見て止める。

 キョトンとした表情でこちらを見つめる視線に、心が折れそうになるのを感じつつ、それでも僕は口を開いた。

 

「ご、ごめんなさい。僕、これが初めてのライブなんです」

「……え?」

 

 周りの喧騒から取り残されて、僕たち二人を静寂が包み込む。

 

「その、ここのライブが初めてとか、そういうのでもなくて……アイドルのライブが初めてって意味で、あの……すみません、言い出せなくって」

「…………」

 

 水をぶっかけられた焚火ように、少女は押し黙ってしまった。そればかりか、今にもどこかへ殴りかからんと握りしめていた拳も膝の上に置いて、ただでさえ小柄な体を縮こませながら、彼女は言った。

 

「…………ご、ゴメンなさい。迷惑でしたよね、私」

 

 そんなしおらしい声に、まっこと失礼ながら僕はこう思ってしまった。

 えっ、誰だこの人。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「…………」

「…………」

 

 あれから、つまり僕が自分はライブ初心者であると打ち明けてから、少女はすっかり大人しくなってしまい、その憔悴っぷりは見ていて心を痛めるほどだった。

 どうやら僕みたいなビギナー相手に捲し立てていたことが、彼女にとって相応なダメージであったらしい。

 先ほどまでの含蓄を語っていた勢いは何処へやら、すっかり静かになってしまった赤髪の少女。

 さりとて僕も僕で、かける言葉がなくなってしまい、微妙に気不味い空気が漂う。

 で、やや経ってから、少女は重い口調でこう切り出した。

 

「……私、アイドルの話になると、どうしても舞い上がっちゃって。相手のことも考えずに、本当ゴメンなさい。困っちゃいますよね、あんな風に語られても」

「いや、そんなことないです」

 

 ほとんど考えずに、僕はそう答えていた。

 さっきの姿を、楽しそうにアイドルを語る姿を見ていた分、今の落ち込んだ少女を見ていられなかったからだ。

 なんとかして励まそうと、いつもならあり得ない勢いで舌を回す。

 

「確かにびっくりはしましたけど、それだけですよ。その、アイドルことが好きなんだなって凄く伝わってきましたし……あー、僕は見ての通りの初心者なので、むしろ色々ご指南頂けると嬉しいな、とか。そんな風に思ってるぐらいなんで」

 

 ──と、そこまで言い切って、僕は少女の様子を伺った。

 どうにか復活してくれと、天に祈った。

 すると少女は、俯かせていた顔を上げ、おっかなびっくり──なんて使い古された擬音が、綺麗に当てはまる様子で、

 

「ほ、本当ですか? 気を使って無理したりしてませんか?」

「いえ、全然、全くこれっぽっちも。頼もしい人が来てくれたなって感謝してるところですよ」

 

 本音を言うなら気遣い6割本心4割のニアミス黄金比ではあったが、今は彼女を第一に考えなければ。

 

「で、でしたら不肖このありさが、アイドルちゃんを応援する方法をレクチャーさせて貰いますね!!」

「よ、よろしくお願いしまーす」

 

 良かった、調子が戻ってきたらしい。

 

「まず最初にお話ししておきたいんですが、はっきり言ってアイドルちゃんの応援に正解はないんです」

 

 もちろん周りの迷惑になるような行為は駄目ですけど、と少女は話を続ける。

 

「なので、これはあくまで一般論として聞いてください。その上で、自分なりの応援をして貰えれば大丈夫ですよっ!!」

 

 うーん、想像以上に深い教えだ。

 つまりアイドルを応援する際の定石はあるにはあるけれど、それはあくまでも型の一つであって、それに囚われる必要はない。

 他人の応援を邪魔しない範囲であれば、自分が思う応援が、自分にとっての正解になる。

 彼女はそういうことを伝えたいのだろう。

 

「分かりました、心に留めて置きます」

「あはは、ありさみたいな若輩者が言うのもなんですけどね。では気を取り直して、メジャーな小道具を紹介しますよ〜」

 

 そう言って少女が取り出したのは、光る棒だ。いや、光る棒としか言いようがない棒なのだ。長さは15cm程度であろうか、強い赤色に光っている。

 更に辺りを見渡せば、周囲のお客さんも同じように光る棒を取り出しているのが目に入る。

 

「これはサイリウムとペンライトです。ライブ中にこれを振って応援すると、客席が一色に染まって綺麗になるんですよっ。ちなみに化学反応で光るのがサイリウムで、電池で光るのがペンライトです」

「化学反応」

「そうなんですっ。こう両手で持ってポキっと折るような動作で圧を加えると、内部の化学物質が反応して光る仕組みになってます」

 

 はぁ〜、そうなのか。確かにエントランスの売店で似たようなやつを売っていた気がする。

 この光が客席全体を埋め尽くすとなると、結構壮観な感じになりそうではあるな。

 

「他にも大きな団扇に文字を貼り付けたりとか、ありさが着てるみたいなライブTシャツだとか、ライブ用タオルなんかもありますよ〜」

 

 この辺りは追々ですね、と赤髪の少女。もう赤髪さんで良いだろうか。彼女にはどうも敬称を付けたくなる。

 

「とりあえず最初は多色ペンライトを一本持っておくと便利だと思うので、ありさの予備がありますから、今日はこれを使ってください」

「えっ、悪いですよそんな」

「心配ご無用ですっ!! ありさにはこれがありますから!!」

 

 赤髪さんの視線を辿ると、彼女の腰にはホルスターのようなものが巻いてあり、そこにはついさっき説明してもらったサイリウムが大量に備えられていた。

 何本あるんだこれ。

 しかも赤髪さんのカバンからは腰にあるのと同じホルスターが覗いており、彼女の底知れなさを物語っている。

 ……大人しく受け取ろう、そうしよう。そうするのが正しい気がする。

 

「じゃあ、ありがたく使わせて貰いますね」

「どうぞどうぞ、右のボタンの長押しがオンオフで、点いた後は短押しで色が変えられます」

「どれ……お、こんな感じかな」

「ペンライトの使い方はこれでバッチリですね!! 今日のところはありさの色に合わせておけば問題ないと思います。基本的にアイドルちゃんのイメージカラーに合わせて色を変えるんですが、曲によってカラーがある場合もあるので、ここも追々で──あ、あと最初は色を合わせるのも大変でしょうし、もしステージに集中出来なくなりそうなら、無理にペンライトを使わないと言うのも手です!! それじゃあ本末転倒ですしね」

 

 ギアが上がってきたのか、赤髪さんの台詞が長くなってきた。ただ、さっきの違い言ってる言葉の意味はなんとなく分かる。

 

「次はコールですねっ、曲によっては歌詞の合間にこちらが合いの手を入れたりするんです。色々なパターンがありますから、最初は周りに合わせて、少しづつ覚えていけばいいと思います、慣れてきたらライブ前に予習をするのも効果的ですよ〜」

「あー、音楽番組で時々聞こえるやつですかね?」

「ですです、でも番組では客席の音を絞ってることが多いですし、生のコールは迫力満点です〜っ!! もちろん、コールをせずに曲に集中したいって方もいますから、あくまで任意なんですけどね」

 

 時折目にする週末の音楽番組を思い返しながら相槌を入れると、赤髪さんは満足気にそう補足した。

 コールか。

 そういうのもあるんだな。

 アップテンポな曲にタイミング良く入れることが出来れば、やってる側も気分がよくなるのかも知れない。

 

「それに──」

 

 赤髪さんが、話を続けようと口を開きかけた時だ。

 ホールの照明が落ちた。

 辺りがざわつくが、それは困惑ではなく歓喜を表すものであると、初見の僕にも分かる。

 明かりが消えたことで、サイリウムの輝きがより一層際立ち、それはまるで客席をうねる光の波のようだった。

 

「ありさに伝えられるのは、ここまでみたいですね。でも、最後に一つだけ」

 

 隣を見れば、出会ったときと同じくらいに瞳を輝かせる赤髪さん。

 最初は彼女を元気付けようとしての頼みだったけれど、すっかりお世話になってしまった。お礼をしたいところだが、もう時間がない。

 これまで以上に、それこそマスク越しにでも伝わるような晴れやかな笑顔を浮かべて、赤髪さんは言う。

 

「──楽しんでください、このライブを。心の底から!!!!」

 

 こうして、僕にとって初めての、そして一生忘れられないライブが始まった。 

 

 

 



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決意のツバサ

 

 歓声が、聞こえる。

 彼女たちを呼ぶ声が、讃える声が、励ます声が、聞こえてくる。

 歓声が。

 声援が。

 混ざりに混ざったその声が。

 それらは一つの意思を持つかのように、この空間を縦横無尽に駆け抜けて、僕たちの心を一つにしていく。

 そうだ、今この瞬間、確かに僕たち──今日この会場に来られた、偶然に選ばれた僕たちの心は、疑いようもなく一つになっていた。

 うん。

 まぁ、つまりだ。

 

「皆さぁーーーーん!!!! 楽しんでますかあぁっーーーーーー!!!!!!」

「「「「Fuuuuuuuu!!!!!!!!」」」」

 

 ライブって楽しいなぁ!!!!

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 はっきり言おう、超楽しい。

 普段なら長々と無意識のうちにしてしまう前置きを置き去りにする位には、心を掴まれていた。

 僕自身想像もしていなかったが、この数時間を心から楽しむことができた。

 さて、アップテンポな曲が続き、そろそろペンライトを振る腕と、コールを張りあげていた喉が限界を迎えそうになっていたタイミングでのMCである。

 助かった、この間に水分補給を済ませよう。

 きっと向こうもこちら側の体力等を見越してのタイムテーブルを組んでいるのだろう、流石だ。

 にしても、些か把握し過ぎているようにも感じたが……それが普通なんだろうか。

 持ち込んでいたスポーツ飲料で喉を潤し、ステージ上で先ほどまでの楽曲を振り返るアイドルたちの姿を眺めながら、僕もまたここまでのライブを思い返していた。

 実に、実に楽しかった。

 コールによる一体感はとても好ましいもので、曲によって変わる客席の景色──サイリウムの海も素晴らしい。

 765プロASの楽曲はこれまでに何度か、テレビ越しに聞いたことがあった。けれど生で鼓膜に、そして心に叩きつけられた曲には、あの時は感じられなかった前のめりな勢いを感じる。

 言い換えればそれは彼女たちのパフォーマンスが発展途上であり、全国区で放映されるレベルに達していないということ。この劇場(シアター)が、『39プロジェクト』が稼働を始めてまだ3ヶ月しか経っていないのだから、それは不自然なことではない。

 だが、それが良い。

 未完成の強さが、そこにはある。

 うむ、なにより赤髪さんの教えは偉大であった。

 彼女がいなければ僕は未だに戸惑っていただろうし、ここまでライブを楽しみ、のめり込むことは出来なかったかも知れない。

 我ながら辿々しかったペンライトの操作にも、ようやっと慣れてきた。近い色は隣り合っているので、今なら感覚で何回押せばどの辺の色になるのかも把握できている。

 コールについても、人一倍大きな声で、それもよく通るいい声でリードしてくれる赤髪さんのおかげで、コールが入る『隙間』というものを理解しつつあった。

 そうこうしている内に、MCは終わりを告げ、次のブロックが始まろうとしていた。

 

「…………」

 

 ステージには、一人の少女が立っていた。

 燃えるような赤い髪。

 左目の下に描かれた青い五芒星。

 パンクなファッションに身を包んだ彼女は、その手にギターを持っていた。

 え、弾くの? 

 アイドル、だよな?

 そんな疑問が頭を過ぎるが、彼女の登場にボルテージを上げる客席。この反応が、僕の疑問に対する答えを物語っていた。なにより隣席の赤髪さんのテンションがヤバい、あの人が推しアイドルであるところのジュリアさんなのか。

 すると、ステージ上の彼女はゆっくりと、左の人差し指を唇に当てる。

 たったそれだけの動作で、客席の誰もが、一瞬前の歓声が嘘のように口を閉じてしまう。

 彼女は、自らの作り出した静寂の中、とても自然にギターを構えた。

 そして──

 

「──────プラリネ」

 

 きっと、それがこの曲の名前なのだろう。

 ギターが鳴り響き、客席のからの轟音と共鳴する。そこに彼女の歌声が結びつけば、もう誰にも止められない。

 今この瞬間、劇場は彼女の物だった。

 彼女はステージの中央で、未来に向かって歌ってた。

 目を見開いて夢を見るんだと。

 誰になんと言われたって、たとえ後ろ指を差されたって。

 それでも、歩き続ければ、歩いてきたその道が、自分の未来に光を灯してくれるんだって。

 だから、悲しくても、悔しくても、時々泣いても、全部受け止めて彼女は未来に夢を見る。

 

「────ありがとう」

 

 そんな、魂を揺さぶるような曲だった。

 時間にして4分程度だろうか、気がつけば曲は終わっていて、割れんばかりの拍手が、喝采が、劇場を包み込んでいた。

 しかし、何故だろう。

 歌い終わったはずの彼女は、依然ステージに立っている。

 悠然と、居て当たり前なのだと。

 彼女の行動に何かを察したのか、会場がどよめき始めた。ただ、初見の僕は混乱するばかりである。

 一体、何が始まるんだ?

 僕の疑問に答えるように、そして会場の期待に応えるように。

 赤い髪の彼女は、右手の人差し指を曲を始めた時と同じく口元まで運び。

 人差し指に嵌めていた指輪へと、優しく口を付けた。

 途端に、どよめきは確信を持った歓声に変わる。僕にはさっぱりその意味が理解できなかったが、会場は再び彼女のものになっていた。

 何故だか、胸がドキドキと高まるのを感じる。

 まるで、この時をずっと待っていたかの如く。

 それこそ意味が分からない。

 なんでこんな気持ちになっているのか。

 でも。

 

「…………」

「…………」

 

 ステージの両端から現れた、二人のアイドルを見て、僕はようやく合点が入った。

 薄紫色の髪を、ショートボブにまとめている彼女は──確か、真壁瑞希さんだ。さっきソロ曲を披露した際に名乗っていたので覚えている。

 そしてもう一人は。

 黄金色の髪。

 強い意思を湛えた紅い瞳。

 僕に自分をちゃんと見て置くように言った人。

 伊吹さん、伊吹翼がステージ中央のジュリアさんへ近づいていく。

 何かを確かめるようにジュリアさんは彼女を見て。

 何かを肯定するように伊吹さんは頷いた。

 二人は無言の意思疎通を済ませると、ジュリアさんが後は任せたと言わんばかりに手を挙げ、伊吹さんはそれに応えて手と手を合わせ、センターに入る。

 最後に伊吹さんと真壁さんが視線を交わし。

 

「────────っ」

 

 伊吹さんの歌声が、静寂を切り裂いた。

 実を言うと、僕が彼女のステージを見たのはこれが初めてではない。伊吹さんはこの曲の前にも数人で歌うタイプの曲でステージに上がっていたし、僕は改めて彼女のダンスのキレと、伸びやかな歌声に感心していた。

 だから、そうやってステージに立つ伊吹さんを僕は知っている。

 けど、違う。

 この伊吹さんは、違う。

 今日のどんな伊吹さんよりも、強い光を瞳に宿して、真っ直ぐに僕たちを射抜いていく。何処までも遠く、何処までも高く、天井すらも飛び越えて、遥か彼方を見据えていた。

 それはまるで、二人のアイドルを、両翼を従えて飛んでいく、一羽の鳥のようだった。

 どこまでも自由に、ともすればワガママに、世界中に自分を知らしめようとする、伊吹さんの姿がそこにはあった。

 

 ──伊吹さんが歌う。

 二人のコーラスと共に。

 先へ、ひたすら前へ進む歌を。

 勝算も、称賛も、なにも必要とせずに。

 ただ顔を上げて胸を張り、山をくり抜いて、知らない海を目指す。

 道なき道を、自分の手で作り上げる。

 だから、先へ。何があろうと先へ進むんだと。

 いつか別の道へ、旅立つその日が来るまで。

 

 あぁ、全く、その通りだ。

 誰もが先に進まなきゃならない。

 僕だって分かっていた。

 僕が母親と暮らす選択をすれば、永吉先生だって、マスターだって、きっと応援してくれる。僕がそう在れることを、強く願ってくれていた二人だから。

 そうだ、分かっていた。

 父さんと、母さんがいれば、例えどんな生活が待っていようと、僕は何とかなるって、何とかすることが出来るって。その為の力を、僕は色んな人から貰ってきたのだから。

 だから、分かっていた。

 僕があの時、父さんに母さんと暮らさないかと問われたあの時、答えられなかった──応えられなかったのは、伊吹さんのことが頭にあったからなんだ。

 僕が迷った時に、僕の手を引いてくれた彼女が、自分の願いを果たせたのか、心から夢中になれるものを見つけることが出来たのか、それが分からなかったから。

 アイドルを好きだと言った君の、君が好きなアイドルとしての姿を、僕がまだ見ていなかったから。

 それ故に、僕はとっさに返事が出来なかった。

 他人に理由を委ねるなんて、自分でもどうかと思う。

 でも仕方ないじゃないか。

 伊吹さんの存在は僕の中で、僕だって気がつかない内に、それほど大きくなっていたんだから。

 だけど。

 だから。

 だからこそ。

 最後まで歌い切った彼女の姿に、全力を出し切り会場を圧倒した伊吹さんの姿に、僕は思わずこう零した。

 

「……そっか、君は見つけたんだな。自分が夢中になれるものを」

 

 僕はそれが、堪らなく嬉しかった。

 嬉しくて、気がつくと涙が零れていた。

 そんな涙を拭う気持ちにもなれなくて、僕はただ、心の中で決意した。

 伊吹さんが先へと進んだように、僕もまた、前に進まなきゃいけないんだと。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 翌日、僕は枕元に置かれたペンライトを眺めると、筆記用具を片手に机へと向かった。

 無論、このペンライトは隣席の赤髪さんから譲り受けた物だ。ライブが終わった後、退場までに残った時間全てを費やして今回のライブについて語った彼女は、満足げな表情を浮かべると、ペンライトを返そうとした僕に。

 

『そのペンライト、差し上げます。貴方にはそれが必要だと思うので──今日のライブをいつでも思い出せるように、アイドルちゃんの姿を脳裏に浮かべるためにも!!!!』

 

 僕の必死の抵抗も虚しく、結局ペンライトを持たされたまま僕は帰宅することになったわけだ。もうこれは赤髪さんには足を向けて寝られない、いつかお礼をする機会があれば良いけれど、それは難しいかも知れない。赤髪さんも、きっとそれを察した上でペンライトを僕に託してくれたのだと、今は思う。

 そんな風に、昨日のことを思い浮かべながら、僕は原稿用紙にペン先を付けた。

 一昨日までのスランプが嘘のようだ。

 ライブを見た後から、無限の創作意欲が僕の心から吹き出していた。昨日も父さんから強制終了を食うまで書いていたせいで、現在の時刻はお昼過ぎ、本来なら喫茶店に足を運んでいる時間ではあったが、今はその時間すらも惜しい。

 さて、次の章に取り掛かると──

 

「お邪魔しまーす!!!!」

 

 ……

 …………

 ………………おや、おやおや。おかしいなぁ、僕の聞き間違えでなければ、何故か僕の家の僕の部屋から、聞こえてはいけないはずの声が聞こえた気がするぞ。

 具体的に言うなら、昨日聞いた、というよりここのところ毎日聞いてる、元気いっぱいな女子の声だ。

 軽い寝不足のせいで幻聴でも聞こえたのだろうか、不味いな折角スランプを抜け出したというのにこれでは今度こそ病院のお世話にならなくちゃいけない。

 さて、現実逃避もそろそろ止めるとしてだ。

 

「あの、ユーゴ先輩!! 聞こえてます?」

「出来れば聞こえないでいたかったかな……伊吹さん、どうしてっていうか、どうやってここに?」

「マスターに聞いただけですよ??」

「個人情報保護法ぅ!!!!」

 

 どーなってんだ僕の周りの大人は、永先にしろマスターにしろ僕に関しての口が軽過ぎる!!

 しかも伊吹さんが部屋にいるってことは、最後の砦である父さんも突破されたってことだし。

 いや、でも父さんのことだからな。学校の後輩が息子を訪ねてきたと聞けば、喜び勇んで部屋へと通すのは目に見えていた。普段の学校生活がアレだし。

 

「でもでも、ユーゴ先輩が悪いんですよ〜?? お店で会えるの楽しみにしてたのに、全然来ないんだもん」

「あー、いや……それは、ごめん。なんか止まらなくなっちゃって」

 

 別に待ち合わせの約束をしていたわけでもないけれど、確かに伊吹さんが僕にライブの感想を求めるのは自然な流れであって、僕と彼女の接点があの喫茶店である以上、そこに現れなかったのは僕の落ち度かも知れない。

 なので素直に謝ったところ、伊吹さんは机に広げられた原稿用紙を見て。

 

「これ……また書けるようになったんですか?」

「うん。その、助かったよ伊吹さん。君たちのおかげだ」

 

 あのライブを観ていなかったら、僕は未だにグズグスと悩んでいたに違いない。

 ライブと、彼女たちに背中を押してもらったから、こうして創作意欲が復活したのだ。

 それを思えば、驚くほどスッと感謝の言葉を伝えることができた。

 

「……ユーゴ先輩は、私の手を引いてくれたから」

「え?」

「いーえ、なんでもないで〜す!! でも良かったぁ、これで続きを書けますねっ」

「あぁ、待っててくれ。頑張って書き上げるよ」

 

 出来れば、僕がこちらにいる内に。

 そこまで考えて、僕は伊吹さんに伝えなくちゃならない事があることを思い出した。

 ただ、いざ伝えるとなると緊張してしまう。

 僕の身の上話に触れることでもあるし、どこまで話すべきかとか、その辺も気を付けなくてはならない。

 なので慎重に言葉を選ぶべきなのだが、いかんせん今日の訪問が不意打ち過ぎた。

 言葉が上手くまとまらない。

 すると、そんな僕に伊吹さんはニッと笑って。

 

「ねぇねぇユーゴ先輩、今日の夕方って空けてもらえますか? わたし頑張ったから、ご褒美が欲しいなぁ〜」

 

 む、ご褒美か。僕が彼女にそれを渡すに相応しい立場であるかはさて置き、僕もしても伊吹さんにお礼をしたかったので、この提案は渡りに船であった。

 

「うん、大丈夫だよ。どうればいい?」

 

 と、僕の答えに満足そうに頷いて。

 伊吹さんはキラキラと瞳を輝かせながら。

 

「やったぁ!! わたし、夏祭りに行きたいで〜すっ!!!!」

 

 こうして、僕と伊吹さんの、夏休み最後のイベントが始まろうとしていた。

 

 

 

 



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翼とツバサと夏祭り(1)

 

 

 

 夏祭り。

 それは夏の風物詩だ。

 もう名前からして夏を満喫する為のイベントって感じがする。季節を頭につけているのは流石にズルくないか? いや、どうズルいかは知らないけど。

 屋台に浴衣、そして花火。

 こう、リアルが充実している人間がこぞって集まる、浮き足立った者達による夏の坩堝。

 それが夏祭りだ。

 

「多分ですけど〜、違うと思いますよ?」

「えっ、そうなの??」

 

 そんな夏祭りを、僕はどういうわけか学校の後輩と訪れていた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 と、いう訳で夏祭りだ。

 どういう訳かと言うと、伊吹さんに誘われたので夏祭りである。

 正直人混みは苦手だが、この際私情は後回しにするべきだろう。だってこれは伊吹さんへの恩返しでもあるのだから。

 スランプから僕を救ってくれた、伊吹さんへの恩返しだ。

 当の伊吹さんは準備があるとかで、僕を誘うと18時に最寄駅集合だと言って、そのまま帰ってしまった。忙しい人だ、まだお昼過ぎだぞ。

 

「良い子だったな、伊吹さん」

「うん」

「それに美人だ」

「う、うん」

「あんなに可愛い彼女がいるなら、紹介してくれても良いじゃないか」

「うーん、彼女じゃないんだよなぁ」

 

 伊吹さんを玄関で見送った後、隣にいた父さんがそんなことを言い出した。

 ので、即座に否定する。

 伊吹さんは学校の後輩であって、縁あって僕と絡んでるだけで、僕は彼女の周りに大勢いる人間の一人に過ぎないのだと説明したが、父さんはどうも納得していない様子だった。

 確かに僕自身、学校の後輩とこうやって絡む機会がなかったものだから、今日(こんにち)における伊吹さんとの距離感が、一般的な学校の先輩後輩のソレに沿うものなのかイマイチ判断しかねるところではあるのだけれど。

 とりあえず惚れた腫れたの関係でないことだけは事実だ。

 大体、彼女がいたら容姿に関わらず紹介するわ。

 つーか無口キャラはどうした。

 僕と母さんがある種の和解をしてから父さんのキャラ崩壊が酷い、むしろアレが素なのかも知れない、今度母さんに聞いてみよう。

 

「にしても夏祭りか、いいじゃないか」

「……なんで知ってるの?」

「伊吹さんに、勇吾を夏祭りに誘っていいか聞かれたからな」

「聞く順番逆では??」

 

 僕を誘う前に父さんに許可を取るってどう言うことなんだ……?

 

「兎に角、クローゼットに俺の浴衣があるから、着て行くといい。多少大きいかもしれないが、問題ないはずだ」

「あー、いや。それはありがたいけど、そこまで気合入れて良いのかな」

「何を言ってるんだ。お前は最大限に着飾るべきだぞ」

「そこまで言う?!」

 

 普通にジーンズとパーカーで行こうかな──なんて考えていた僕に、父さんはズズッと詰め寄る。

 

「お前はもう少し、伊吹さんの気持ちを考えた方がいい。ともかく今日は……夏祭りを、楽しんできなさい」

「うん、まぁ……そのつもりだけど」

 

 なんだよ、伊吹さんの気持ちを考えるべきって。

 それじゃあまるで、僕が朴念仁みたいじゃないか。つい先日までそうだった父さんに言われるなんて心外だ。

 ……いや、僕自身そこまで愛想が良いわけでも、察しが良いわけでもないけれど。

 

「最後に一つお節介を焼くなら──そうだな、異性を夏祭りに誘うってのは勇気が要ることなんだ。それは覚えておきなさい」

「…………はい」

 

 そこまで言って、言うだけ言って、父さんは浴衣を取りに行ってしまった。

 勇気、勇気か。

 確かに逆なら、つまり僕が伊吹さんを夏祭りに誘おうとしていたなら、それには大きな勇気が要るだろう。勇気というか、それはもう蛮勇だ。

 それに、一般論として異性をそういったイベントに誘うことが勇敢だってのは僕にも分かる。創作においても、これまで何度となく描かれてきた青春の一ページであることも。

 しかし、相手は伊吹さんだ。

 コミュ力が服を着て歩いているような、学園ナンバーワンの人気者な、そんな人だ。

 彼女からしてみれば、僕を夏祭りに誘うなんてのは、そこらのコンビニに行くのと大して変わらない労力で出来てしまう、些細なことに違いない。

 

 だから。今になって思えば、あの時の父さんの言葉をもっと良く考えておくべきだった──なんて展開にはならないはずだ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 案の定と言うべきか、18時頃の駅前は浴衣姿の老若男女で溢れかえっていた。

 一体この町のどこに、これだけの浴衣が眠っていたのかと問いたくなる程に、色とりどりの浴衣が人に着られて歩いている。

 もっとも、僕もそんな浴衣を着た──駅前を埋め尽くす、老若男女の一人であるのだけれど。

 父さんが小柄な体格であったお陰で、特に違和感なく浴衣を借りることができた。似合っているかどうかは別として、夏祭りに居そうな中学生男子の格好にはなったと思う。

 灰色の浴衣に、紺色の帯。

 これが僕の精一杯だ。

 あの元気潑剌天真爛漫を素でゆく後輩にして恩人──伊吹さんがどういうつもりで僕を夏祭りに誘ったのかは分からないが、慣れない浴衣が着崩れないように四苦八苦した努力だけは認めて欲しいものである。

 さてと、その伊吹さんは西側のバス停集合って言ってたっけな。

 そこから15分も乗れば夏祭りの会場が待っている。一度も行ったことはないけれど、この辺ではまぁ規模が大きく有名な祭りなので、概要くらいは知っているのだ。

 逆を言えば、そこくらいしか手軽に行ける夏祭りがないのであった。

 よって、僕と伊吹さんという側から見れば珍妙であろう二人組も、その例に漏れず件の夏祭り会場を目指そうとしている運びだ。

 バス停には思った通り長い列が出来ており、ざっと見たところ彼女の姿は見られなかった。ので、僕は列の最後尾に立つことにした。

 あー、でもこれ後から伊吹さんが来た時に、割り込んでしまうような形になる気がしてきたぞ……

 やっぱり列の側で待ってようかな。

 後ろに人が並ぶ前に──

 

「せーんぱいっ!!!!」

「うおっとぉ?!」

 

 バシーンっ!! と、小気味良い音が鳴る。

 どこからと聞かれれば僕の肩から。

 どうしてと聞かれれば、背後から忍び寄ってきた誰かさんに、遠慮なく叩かれたからだ。

 結構痛い。

 勢いが良すぎて蹈鞴(たたら)を踏んでしまった。

 兎も角、犯人は声で分かってる。

 というより、この状況で僕の肩に強襲を仕掛けてくる人なんて一人しかいない。

 僕は振り向き、理不尽な一撃に対して遺憾の意を示そうとした。

 

「ちょっと伊吹さん、何すんの──」

 

 蛙──であった。

 緑色の顔に、黒いクリンとした瞳。

 ペロンと口からはみ出たピンクの舌。

 それは紛れもなく、蛙であった。

 要するに。

 蛙のお面が、僕のことを見ていた。

 

「えぇと、なにそれ?」

「変装ですよ〜、お兄ちゃんが付けて行けっていうから」

 

 仮面をズラすと、そこから見知った顔──もとい、伊吹さんの顔が覗く。

 変装ときたか。

 確かにこの辺りは劇場(シアター)が近いこともあって、熱心なファンが多い。

 ここ最近のライブで顔が売れ始めている伊吹さんが見つかると、ちょっとした騒ぎになるかも知れない。

 それを思えば、変装を勧めた彼女のお兄さんは正しいのだろう。

 

「それよりユーゴ先輩、ちゃんと浴衣で来てくれたんですね〜」

「あぁ、父さんのだから、ちょっと大きいけどな」

「でも、似合ってますよ?」

「そ、そうかな。ありがとう……」 

 

 そう言われて、お世辞と分かっていても顔が赤くなるのを感じつつ、僕は頬をかく。

 適当そうに見えて、伊吹さんはその辺が凄くしっかりしている。褒められるのが大好きで、その上で人を褒めることも忘れない。

 

「ねぇねぇユーゴ先輩っ、わたしは? わたしの浴衣はどうですか? 似合ってる?!」

 

 と、褒められたがりな彼女に、食い気味に聞かれた僕は、改めて伊吹さんの格好を確かめる。

 さっきはカエルのお面に気を取られて見逃してしまっていたけれど、伊吹さんは当然のように浴衣姿だった。

 落ち着いた藤色の生地に、水仙の花が描かれたそれを深緑の帯で締めている。

 普段明るい色を、黄色や水色を好んで着ている伊吹さんを見てきたせいか、僕には今日の彼女が、何だかとても大人びて見えた。

 思わず上から下へ、じっくり眺めてしまう。

 浴衣にスニーカーを履いてきてしまった僕と違って、伊吹さんはちゃんと下駄を履いていた。

 

「え〜っと……先輩?」

 

 すると僕の、ともすれば不躾な視線に気がついたらしい伊吹さんは、どういうわけかお面から覗く頬を頬を赤くして、浴衣の裾を摘みながら、こんなことを聞いてくる。

 

「も、もしかして……変、ですか? 似合ってない?」

「えっ、あ、いや違う。もちろん似合ってる、凄く似合ってるよ。ただ……」

「ただ、なんですか?」

 

 この先の言葉を吐くのは、とても気恥ずかしいことだが、まだちょっぴり不安そうな顔でこちらを見ている伊吹さんのことを考えると──いや、ダメだ。そんな顔をさせるのは、やっぱりダメだ。

 

「伊吹さんの浴衣が……その、凄く大人っぽかったから、いつもと違う感じで、リアクションが遅れちゃって」

「…………」

「あー、とても……き、綺麗だなって、思ったよ」

 

 続きを促すような伊吹さんの視線に、僕はたまらず白状した。

 僕の知っている伊吹さんは、どちらかと言えばカワイイ感じで、この間のライブではとてもカッコいいところも見せてくれた。

 けど、今日の彼女は大人びていて、見たことのない伊吹さんだ。そんな伊吹さんに当て嵌まる言葉を探すなら、それはカワイイでもカッコいいでもなくて──綺麗だって、この言葉が一番合っている。

 

「えへへ……ありがとうございまーす♪」

 

 僕の答えに満足してくれたのか、伊吹さんはそう言って笑ってくれた。しかし、彼女の言い方がいつもよりどこか大人しく、言い換えればしおらしくて、僕は今までに感じたことのない不思議な気持ちになってしまう。

 

「……バス着いたし、そろそろ行こっか」

 

 なんなんだろう、この気持ち。

 今まで、こんな風になったことは無かったのに。

 するとタイミング良くバスが来たので、伊吹さんに声をかけ乗車を促す。

 とりあえず、今は心の整理が必要だ。

 

「は〜い、楽しみですねユーゴ先輩!!」

「えっ、ちょ、伊吹さん?!」

 

 むんずと僕の手を握り、伊吹さんはバスに向かって歩き出す。

 柔らかい……じゃない、そんなこと考えてる場合じゃない。

 けどここで振り解いたりしたら彼女は悲しむだろうし、言葉で説得しようにもバスの乗り降りで混んでいる現状では、そんな時間もない。

 結局、心の整理なんてする間も、暇もなく、僕たちはバスに乗り込んだ。

 

 僕らの夏祭りは、こうしてグダグダと、取り止めもなく始まった。

 

 

 



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翼とツバサと夏祭り(2)

 

 

 

「そうだ、あらためてになるけど──ライブお疲れさま。最高だったよ」

 

 夏祭りの会場へと向かうバスに揺られ、カエルのお面を見ながら、僕はそう切り出した。ライブについて話そうと思えばキリがないけれど、当日は会えるタイミングがなく、お昼の時は伊吹さんの不意打ちに気を取られたりで、ライブの感動を、感想を伝えそびれていたからだ。

 バスの中という密閉された場所ではあるが、周りの乗客もお喋りに夢中だし、これで身バレなんてことはあるまい。

 まぁ、さっき手を握られたおかげでバクバクしてる心臓を、会話でもして落ち着かせたいってのもあるんだけど。

 

「わたしのこと、ちゃんと見ててくれました?」

「うん、見てた。最後まで全部」

「えへへ、カッコよく出来てましたよね!! 3人で頑張ったんですよ〜」

 

 今はカエルのお面で半分隠れている為、僕からは伊吹さんの顔半分しか見えなかったが、それでも彼女があのライブを思い出しハイになっているのは分かった。

 なんかもう目がホントに光って見えそうなくらいだ。

 でも、気持ちとしては僕も同じだし、こうやってあの時の興奮と高揚を分かち合えるのは、とても得難いことだと思う。

 出演者としての伊吹さんと、観劇者としての僕とで。

 

「ギターを弾いてた……ジュリアさんだっけ。あそこからの流れは、間違いなくあの日一番の盛り上がりだった」

「そこの演出も、プロデューサーさんと一緒に考えたんです。これまでで一番のアイルで魅せようって、わたし達の新しい最高を観てもらおうって」

 

 だとしたら、彼女達とプロデューサーの目論見は、見事達成されたことになる。

 僕は以前に披露された3人の曲──アイルを見たことはないけれど、それでも会場のブチ上がる瞬間を肌で感じた身としては、あれは最高だったと断じて言わせて欲しい、最高を塗り替えていたと断言させて欲しかった。

 だからこそ、僕は問いかける。

 

「……伊吹さんは、どうだった?」

「わたしですか?」

「ああ、ライブは──アイドルは、楽しい?」

 

 分かり切っている答えを、それでも本人の口から聞きたくて。

 

「さいっこーに楽しいですっ!! 当たり前じゃないですかぁ〜」

 

 ニヤッとした勝気な笑みを浮かべて、伊吹さんはそう言った。言い切ってくれた。

 やっぱり、そうなんだ。

 あの時の、探し物をしていた君はもういないんだな。

 今、僕の前にいるのは、見つけたものを、見つけた居場所で心から楽しんでいる、最高に輝く伊吹さんだ。

 そんな彼女が、どうしようもなく眩しい。

 

「あ、そうだ。ユーゴ先輩って、このみさんと知り合いだったんですね」

 

 すると、ちょっぴりセンチメンタルになっていた僕を現実へ引き戻すように、伊吹さんは話を振ってきた。

 このみさん──馬場さん、馬場このみさん。

 伊吹さんと同じく39プロジェクトに参加しているアイドルの一人で、昨日のライブに出演していた一人でもある。

 

「んー、知り合いっていうか、いや知り合いであることには違いないけど、馬場さん学生の頃にマスターのとこでバイトしてたらしくてさ」

「ライブが終わった後、岩根くんにヨロシクねって言われて、わたし驚いちゃいましたよ〜」

「そっか、そうだったんだ。こちらこそ、素晴らしいステージでしたって、伝えて欲しいくらいだよ」

 

 小柄であるが、そんなことは些事であると言わんばかりに大人としての矜持を持った女性。というのが、僕が馬場さんに抱いていた印象で、昨日のライブを観ていて自分の目に狂いはなかったと、そう確信することができた。

 MCでの進行はピカイチだったし、細かいファンサービスにも余念がなく、水面下のまとめ役って感じだった。

 それになにより、歌だ。

 馬場さんの歌。

 大人の恋愛を、切なく歌い上げる馬場さん。

 あの声と、表情と、手足の先まで使った表現力に、会場は圧倒されていた。

 歌唱後に起きたのは大歓声──ではなく、消えることのない拍手の嵐だった。

 情熱的ではなく、情愛的に。

 感情的ではなく、感動に包まれて。

 馬場さんのステージに、誰もが黙って拍手をする他なかったから。

 

「……それはイイですけど〜。わたしのこと、もっと褒めてくださいっ」

「えぇ、まだ足りないのか?」

 

 もう結構褒めた気でいた僕に、伊吹さんはカエルのお面を押し付けて来そうな勢いで迫ってくる。

 あー、ダメだ。近づかれると集中できない。また心臓がうるさくなって来た。本当何なんだ今日に限ってこんな。

 

「このみさんの10倍褒めないとダメ〜っ、10倍ですよ、じゅーばい!!」

「何なんだ、その計算……」

 

 鼓動を誤魔化そうとした、そんな気の抜けた僕の返事に、伊吹さんはちょっと不満そうな顔をすると、次の瞬間さも名案が浮かんだと言わんばかりの顔をして。

 

「そうだ、わたしばっかり褒められてたら不公平だし、先にわたしがユーゴ先輩のこと褒めますね!!」

「…………え????」

 

 その理屈はおかしい。

 なんで僕が褒められなくっちゃならないんだ。

 

「えっと、じゃあ先ずは──」

「いや、待て、待とう、待って伊吹さん。今言うから、ちゃんと言うって」

 

 祭りの会場まで、残り五分。

 僕は伊吹さんがどうやっても止まりそうにないことを察し、昨日のライブを脳裏に思い描きながら、彼女に口を開かせる間も与えまいと、残りの褒め言葉を探し始めた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 人、人、人。

 どこを見ても人だ。人だらけだ。

 視界に人を収めない方が難しいくらいに、そこには人しかいなかった。社会から溢れて炙られがちな僕には辛い場所だ。

 

「────帰っちゃダメかな?」

「も〜、いつまで言ってるんですかぁ。早く行きましょうよ〜」

「夏祭りがこんなに混むだなんて思ってなかったんだよ……」

 

 左右を屋台に挟まれた大きな道、その入り口で力尽きそうになっていると、伊吹さんがそう言いながら背中を突いてくる。

 仕方なしに進み始めると、屋台の姿がきちんと見えるようになってくる。左の屋台では花を、右の屋台では飴細工を売っていた。

 僕はてっきり、こういう場所では──べらぼうに高い焼きそばやら焼き鳥やら、味付きの炭酸水やらの屋台が延々と続くものだと思っていたので、正直驚いていた。

 特にあの飴細工。

 展示用に置いてあるのだろう犬や猫の飴細工も見事だが、僕の目を引いたのは、今まさに店主のお爺さんが作っている鳥の細工だった。

 あれはカワセミだろうか。翡翠の体に、鋭い嘴、広げられた羽根は脈動的で、棒の先端に固定されているにも関わらず、今にも羽ばたきそうに錯覚してしまう。

 

「……綺麗だな」

「えっ? わたしがですか?」

「いや、あの飴細工が」

 

 そう言うと、伊吹さんは唇を尖らせて。

 

「ユーゴ先輩ひど〜いっ、こういう時はちゃんと女の子を見てないと──わー、ホントだぁ!! お爺さん、それなんて鳥なんですか〜?!」

 

 言ってる途中で自分の台詞を放り出し、飴細工の屋台に行ってしまった。

 本当、鳥みたいに自由な人だ。

 鳥の名前に、飴細工の作り方に、使っている道具の名前。

 といった調子で矢継ぎ早に質問を投げかけてくる伊吹さんの勢いに、若干押され気味なお爺さんに加勢すべく、僕は財布から小銭を取り出して、屋台へと向かう。

 

「へぇ〜、カワセミって言うんですねっ。キレイだな〜。あっ、じゃあそっちの花は──」

「ほら伊吹さん、僕たちが居座ってたら他の人が見えないしさ。そのカワセミは僕が買うから、そろそろ行こう」

「いいんですか〜?! えへへ、ありがとうございま〜す!!」

 

 買い取った飴細工をビニールの包みに入れてもらい、伊吹さんに手渡すと、彼女は上機嫌になって鼻唄を零しながら歩き出した。

 そんな彼女の後ろについて、僕は歩く。

 しかし、なにが気に食わなかったのか、僕が後ろを歩き出すや否や、伊吹さんは僕の方へと振り向き。

 

「ユーゴ先輩ってば〜、隣空いてますよ?」

 

 なるほど、それでか。

 僕が後ろにいることが不満だったらしい。

 別に後ろにいても隣にいても、それで何かが変わるわけでもないだろうに。

 そう思い、伊吹さんの隣に立って歩いてみる。

 

「……えへへ」

 

 僕が隣に立つと満足してくれたようで、伊吹さんはまたまた嬉しそうな顔で歩き始めた。

 ふと横を見てみれば、顔半分を覆うお面の隙間から、彼女の笑顔がチラリと覗く。

 なんだろう。

 なんでだろう。

 隣同士、並んで歩いているだけなのに、なぜだか胸が、ドクンと強く脈を打つ。

 彼女の仕草に、笑顔に、心を乱されてしまう。

 このままじゃ不味いと、理由は分からないがとにかく不味いと、僕は思わず視線を外した。

 

『──わっ、目ぇ合っちゃった』

『ヤバいヤバいって』

 

 で、外して5秒で後悔する羽目になった。

 こちらを──僕の顔を見てヒソヒソ話をしていた人達が、面白いくらいに全員が顔を逸らして、僕らの横を通り過ぎていったからだ。

 …………まぁ、分かってたさ。

 こういう場所に来れば、そういう目で見られるってことくらいは。

 だからこそ、今まで絶対夏祭りだとか、人の集まるイベントには行こうとしなかったんだから。

 ただ、分かっていても、見当違いであったとしても、伊吹さんとの時間に水を差されたような、そんな気持ちにされてしまって。

 ちょっぴり、いやだいぶ気持ちが下がってしまった。

 なんて、僕の心情が顔に出ていたのか。

 

「ユーゴ先輩、大丈夫?」

 

 心配されてしまった。

 心配を、かけてしまった。

 僕が悪い──わけでもないと思うけど、それでもやっぱり、申し訳ないとも思ってしまう。

 伊吹さんは出会った時からずっと、火傷痕のことを全く気にしていない。だからきっと、僕が急に落ち込んだように見えたんだろう。

 

「ごめん、大丈夫。次行こうか」

 

 そう言って、なけなしの笑顔を作ってみせる。だが、伊吹さんは全く納得していない様子で僕の目を覗き込むと。

 

「嘘。ユーゴ先輩、辛そうだもん」

「ホント平気だって、気にすることないよ」

 

 わざわざ今の今まで触れてこなかった、そして見向きもしないでいてくれた火傷痕について、なにもこんなところで話したいとは思えなかった。

 歩いてる人たちがちょーっと僕の顔見て面白がってるだけだよ、なんて言われても伊吹さんだって反応に困るだろう。

 こんなことで、せっかくの夏祭りをふいにしたくない。

 でも、今の伊吹さんを言いくるめられる気も全くしない。

 これまでになく強い意志を秘めた瞳で、彼女は僕を見つめてくる。その純粋さと、ある意味ではこれが僕の独りよがりな我儘である後ろめたさから、つい目を逸らしてしまう。

 ──ああ、チクショウ

 これじゃあまるで、さっきの人達となにも変わらないじゃないか。

 そんな、どうしようもない僕に。

 

「ユーゴ先輩、あれっ、あれ買いましょうよー!!」

 

 言うが早いか、伊吹さんは小走りで駆け出した。

 さっきみたいに、バスへ乗った時のように、僕の手を引いて。

 

「えっ、ちょ、伊吹さん?!」

 

 連れて行かれた先は、まぁ分かっちゃいたけど屋台だ。両側を屋台に埋められた道なんだから、当然だ。

 

「おばさーん、これくださーい!!」

「はい、まいど〜、300円だよ。いいねぇお揃いかい?」

「はい、センパイとお揃いでーっす!!」

 

 そこは、お面の屋台だった。

 動物やら、キャラクターやら、特撮やら、色とりどりのお面に囲まれた屋台。

 伊吹さんはその中から青色の、カエルのお面を購入すると、それをずいっと差し出してきた。

 

「これ、飴のお返しです!! これでわたしとお揃い、ね?」

「…………」

 

 ──きっと、伊吹さんは分かってない。

 僕が火傷痕のことで気を落としていたのも、僕がそれを彼女に悟らせまいとしていたことにも。

 伊吹さんは分かっていたら口に出す。口に出して、言葉にして、きちんと心配してくれる。伊吹さんは、そういう人だ。そういう人なんだって、僕は信頼してるから。

 けれど、だからこそ分かる。

 彼女は分からないけど、分からないから、どうにか僕を元気付けようとしてくれたんだって。

 

「ありがとう、伊吹さん。すごい嬉しいよ」

「えへへ、やっと笑ってくれましたねっ」

 

 受け取ったお面を、顔の右側を──火傷痕を隠すように着ける。

 不思議と、それだけで気持ちが落ち着いてきた。

 お面で顔を隠せるからとか、それだけじゃなくて。伊吹さんがこのお面くれたから、きっとそのことが大事なんだ。

 お揃いのお面を身につけて、僕たちは歩き出す。

 夏祭りの道は、賑やかな縁日は、まだまだ続いているのだから。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 一つだけ、ハッキリと言っておきたい。

 誰が悪いって話ではない。

 ただ、運が悪かった。それだけの話だ。

 僕も、伊吹さんも、母さんも、誰も悪くなんてない。

 少しボタンを掛け違えていれば、こんなことにはならなかった。

 だから、これは不幸な事故で、不運な出来事なんだ。

 

 ──そういう、そういう話だ。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 想像以上の予想以上に、僕は夏祭りってやつを楽しんでいた。

 夏祭りって、もっとこう雑多に屋台が立ち並んでいるのだと思ってのだが、ここの祭りはコンセプト毎に屋台の配置が決められているらしく、僕らはストラックアウトや輪投げのあるゲームコーナー的なゾーンを歩いていた。

 

「おじさん、おじさん!! 次の弾くーださいっ!!」

「おいおい勘弁してくれ、これじゃあ商売にならんじゃないか」

 

 歩いていたところ、運悪く天性の遊び屋である伊吹さんに目をつけられた射的屋が、店じまい寸前に追い詰められていた。

 容赦ないなぁ、打つ弾打つ弾が景品を棚から押し落としていく。

 見ていて気持ちが良いくらいだ。

 もっとも、店主の顔は気持ちが悪そうな青色になっているけど。

 すでに全弾を打ち尽くし、ついでに言うなら何も取れなかった僕は、目の前の一方的な搾取を他人事のように眺めていた。

 

「なぁ兄ちゃん、アンタこの嬢ちゃんの連れだろ?? 花火の穴場を教えるから、この辺で仕舞いにしてくれよ」

 

 僕に言われてもなぁ……いや、でも花火か。伊吹さん、そういうの好きそうだし、聞いておいて損はないのかな。

 それに、確かにそろそろ止めないと、景品を詰めた袋が膨らむばかりだ。

 

「伊吹さん、向こうの方は飯の屋台が多そうだし、食べに行こうよ。もう十分落としたろ?」

「え〜、まだ落とせますよ〜??」

「ついでに店の売り上げも落ちそうだな……あ、ほら、あの人達もあっちの屋台で買ってきたんじゃないか?」

 

 と、すれ違ったグループの手元を視線で示してみる。凄いな、発泡トレイの上にステーキが乗ってるぞ。

 

「ステーキ!! ユーゴ先輩、早く行きましょうよ〜!!」

「助かったぜ兄ちゃん、8時になったら西側の脇道に行きな──さぁ射的だよ〜、見ての通り落とし易い!! 今なら弾一つオマケするよ〜」

「商魂たくましいなぁ!!!!」

 

 ステーキに釣られた伊吹さんに連れられ、伊吹さんに絞られた分を取り返そうとする店主の声をバックに、フードコート的な様相を呈しているエリアへ進む。

 大して離れていたわけでもないらしく、目当ての場所はすぐに見えてきた。

 

「ステーキ〜♪ アツアツステーキ〜っ!!」

 

 目の色を変えてとはよく言ったものだが、今の伊吹さんは眼から光線でも放ちそうなくらいだ。

 彼女の歌にあてられたのか、僕の方までステーキが食べたくなってきた。

 

「僕もステーキにしようかな……」

「えへへ、じゃあそっちもお揃いですね〜!

!」

「あー、確かにそうだけど……」

 

 それだと、なんでもペアで一緒にしたがる人みたいじゃないか。

 待てよ、側からみれば僕と伊吹さんも、同じようなものなのか……??

 そんなことはないと思うけど、思いたいけど──お、良い匂いがしてきた。

 まず最初にスパイスの効いた脂と肉の香りに、ソースやマヨネーズの香りが漂ってくる。コレだけですでに食欲が刺激されるが、やがて店の旗が目に付くようになり、辺りには思い思いの食事を手にした人が目立つようになってきた。

 そして、ガヤガヤとした喧騒の中。人々の話し声も、足音も、水ヨーヨーを弾ませる音も、その全てを通り抜けて。

 僕の耳にハッキリと。

 肉の焼ける音が、届いた。

 

「────────っ」

「……センパイ?」

 

 顔が熱い。

 お面に隠れた、顔の右側が、燃えるように熱い。

 僕はその場に蹲り、お面の内側に手を当てる。

 熱くない。

 熱くないはずがないのに、こんなにも顔が熱されているのに。なんで、なんでだ。

 熱い。

 熱い。

 熱い。

 

「ユーゴ先輩っ!!!!」

 

 誰かの声が聞こえる。

 声に答えたい、応えたいけど、熱い。

 目の奥がチカチカとして、視界がおかしくなりそうだ。

 熱い、ただひたすら熱い。

 熱い、熱い、熱い。

 まるで顔を焼かれたかのように、火傷痕が熱い。

 

 ────────熱い。

 

 

 

 



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翼とツバサと夏祭り(3)

 

 

 

 ──こんな筈じゃなかったのに。

 

 伊吹翼は、目の前で起きていることが理解できなかった。

 昨日は、彼女にとって特別な日だった。

 ようやっと岩根勇吾──ユーゴ先輩にライブを観てもらえて、ライブを通して彼の力になれた気がして、それがとっても嬉しくて。

 だから、今日の夏祭りだって翼は全力だった。

 母に着付けてもらった浴衣に、父が用意してくれた下駄、兄はお面をくれて、姉はどうすれば男子をドキドキさせられるかを伝授してくれた──不意に手を握ったり、ちょっとしおらしくしてみたり、そうすると彼は顔を赤くして慌てるものだから、それがとっても新鮮で。

 そんな先輩を見ていると、自分も不思議な気持ちになってくる。

 胸がポカポカして、心がフワッと浮かびそうになって、事実彼女は浮かれていたのだろう。

 その感情の名前を、彼女はまだ知らない。

 知らないけれど、そこにある心地よさは変わらないから、伊吹翼は今日という日を全力で楽しんでいた。

 素晴らしい一日になるはずだった。

 なのに。

 それなのに。

 

「ユーゴ先輩!! どうしたんですか? ねぇってば!! 返事してくださいよ……っ」

 

 いつもみたいに、『なんだい伊吹さん』って、ちょっと困った風の表情で彼女の話を聞いてくれる先輩は──岩根勇吾は、どこにもいない。

 ここにいるのは顔を押さえて、苦しそうに呻いている、弱り果てて蹲ってしまった少年だ。

 翼は、これ以上ないほど混乱していた。

 こんな時、どうすればいいのかなんて知らない。分からないし、そもそも訳が分からない。

 彼と一緒にいるようになってから4ヶ月ほどになる翼だが、こうなった姿は見たことがない。落ち込んだり、悩んだり、元気がないことはあっても、こんなにも取り乱したりはしなかった。

 

「────あ、つい」

「あ、熱いの? でも……」

 

 そう言われて、ビッシリと汗のかいた彼の額に触れてみても、熱があるようには感じられない。

 祭りの熱気に当てられたとか、熱中症だとか、そういう症状ではない。

 

(どうしよう……どうしたら、わたし……っ)

 

 考えれば考えるほど、思考がドツボに嵌っていく。

 今までは、近くに頼れる人がいた。

 家には家族がいるし、学校には友達や先生がいる。アイドルを始めてからは仲間も増えて、どんなピンチも皆んなと乗り越えてきた。

 そして、皆んながいない時に、翼が迷っても──彼が、岩根勇吾が側にいて、必ず手を引いてくれた。

 だが、周りにあるのは夏祭りの喧騒だけ、誰もこちらに気付いてはいないし、電話で誰かを呼ぼうにも距離がある。

 だから。

 今、彼を助けられるとしたら。

 

(わたし、しかいない……わたしが、わたしがユーゴ先輩を助けなきゃ!!)

 

 しっかりしろ伊吹翼。と、自分に言い聞かせ、翼は集中する。彼を助けるために、必要な情報を精査する。

 スーッと、頭から余計な熱が消えていって、観るべきものと聴くべきものがおぼろげに感じられる状態へ、一種のトランスへと入っていく。

 こうなる前と、後とで条件が異なる箇所はないのか、それがトリガーを探す鍵になるはずだ。

 あの時、翼はステーキに夢中になっていた。好物のステーキを見かけて、このエリアに近づくと匂いもしてきて、先輩もステーキの匂いに釣られていた──ここまでは問題なかった。

 景色も、それほど変わったわけではない。強いて言うなら、焼き物の屋台が増えてきたようには見えたが。

 残る要素は、音くらいしか残ってない。音と言っても、それこそ肉の焼ける音がよく聞こえ始めて──

 

(ステーキ……焼き、もの?? 焼ける音──)

 

 熱い、と岩根勇吾はそう言った。

 苦しそうに、でも何かを伝えようとして。

 彼は熱さを感じている。では、その原因は何なのか。

 

「音……そっか音だ。ユーゴ先輩、立ってください。わたしが何とかするから……っ!!」

 

 この辺りを境に、焼き物の屋台が増えている。だから、肉の焼く音がよく聞こえるようになった。

 彼を苦しめているのは、きっとこの音だ。

 そう判断した翼は、声をかけ両手を彼の両耳へと押し当てる。すると、心なし症状が落ち着いたのか、表情が苦悶から和らいでいく。立つように促すと、ヨロヨロとではあるものの、立ち上がってくれた。

 翼は屋台の隙間に脇道を見つけると、ゆっくり、ゆっくり、音から少しでも遠ざけようと歩き出した。

 二人の姿が、夏祭りから消えていく。

 けれど当の二人以外、誰もそのことに気がつかない。

 夏祭りは、まだ終わらない。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「──ごめん、伊吹さん」

 

 脇道を歩いて15分。

 顔色が落ち着いてきたので、一旦ベンチに座って3分程度。

 ようやく平静を取り戻した岩根勇吾は、覇気のない声でそう零した。

 

「ユーゴ先輩、今は大丈夫なんですか? 苦しくない?」

「うん、あの音が聞こえなければ、平気だよ」

「……よかったぁ、わたしビックリしちゃって」

 

 平気と言ったのは強がりではないようで、彼の様子はいつも通りに戻っていた。

 体は問題ない。

 しかし心まで平気かと聞かれれば、決してそうではなく。

 

「せっかく誘ってくれたのに、本当ごめん」

「もぉ〜、謝るの禁止ですっ!! そりゃ驚きましたけど、それだけだもん……」

「でも、僕が──」

「ユーゴ先輩??」

 

 翼は謝って欲しいわけではなかった。

 最初に出会った時、彼がノートを探していたのを手伝った、あの時みたいに。

 彼女は、自分がそうしたいという理由で行動しただけなのだから。

 今日だって、あの瞬間までは凄く楽しかったのに、そんな風に謝られてしまったら──まるで、これまでの楽しい時間が無かったことになってしまう気がして、翼はそれが嫌だった。

 それでも、なおも謝ろうとする勇吾の瞳を、ジッと見つめる。すると彼は観念したように項垂れ。

 

「──ありがとう、伊吹さん。おかげで助かったよ」

「どーいたしましてっ」

 

 調子を取り戻してきたのか、困ったような苦笑を浮かべる勇吾の姿に、翼は安堵した。

 大丈夫。

 まだ、大丈夫。

 これなら、自分たちの夏祭りは終わらない。こんなところで、終わらせたくない。

 

「ユーゴ先輩、ちょっと待っててください。わたし、食べ物とか買ってきますね」

「えっと、伊吹さん??」

 

 話が飲み込めていない勇吾へ、翼は安心して欲しくて笑いかける。

 自分たちの夏祭りは、まだまだ終わらないのだと知ってもらう為に。

 そうだ、そもそも──翼にとっての夏祭りは、彼と一緒に回りたいという気持ちから始まったのだから。別に祭りの会場に行けなくったって、二人でいられるのなら、それでいい。 

 そんな単純なことに、やっと気付けた。

 

「そしたら、一緒にご飯食べて、花火も観て──二人で夏祭りしたいなーって、だから行ってきます!!」

「あっ、ちょっと伊吹さん!!」

「すぐ戻りますから〜〜!!!!」

 

 きっと、ここからでも楽しい夏祭りになると信じて疑わずに、伊吹翼は駆け出した。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 焼きそばに、ステーキ、鈴カステラとプラカップに入ったジュース。

 あとはおまけで貰ったりんご飴。

 少し買いすぎた気もするが、二人で食べるのだからこのくらいは大丈夫だろうと、翼は両手にビニール袋を持ちながら、勇吾の待つ道を目指していた。

 

「えーっと、確かこの辺だったよね」

 

 記憶を頼りに、目当ての脇道を進む。

 これだけあれば、二人ベンチに座って、食べ物をつまみながら、いつものように取り止めのない会話をして、花火が始まるまでの時間を潰すには十分過ぎる量だ。

 花火が始まったら、二人で感想を語り合って、どっちの花火が好きかを言い合って、それで──

 

(今度こそ、わたしが綺麗だって言って貰ったり……えへへ)

 

 今も懐にしまってあるカワセミの飴細工には負けてしまったけれど、もし勇吾からそうやって言って貰えたら、翼は今日を最高の気持ちで終えられる気がしていた。

 祭りの始めに、半ば言わせてしまったような形の『綺麗』とは違う、繊細な飴細工にも、派手な花火にも負けない『綺麗』を。

 もし、受け取ることが叶ったのなら、伊吹翼は間違いなく幸せだ。

 そもそも。

 どうしてこうも彼に褒めて欲しいのか、翼は自分でもよく分かっていなかった。

 彼女がふわふわとした退屈感に悩んでいた頃に出会った、一生懸命な顔をしていた年上の男の子。

 話してみると結構面白い人で、自分が好きなものに夢中になっているセンパイ。

 翼がアイドルになるきっかけをくれた。

 勉強を教えてくれてたりもして、二人目の兄ができたみたいだった。

 そして、あの時。

 オーディションに落ちて、バックコーラスの練習も上手かなくて──翼が道に迷っていた、あの時に。

 彼に手を引かれて、翼はもう一度、自分がなぜアイドルをしているのかを憶いだすことができた。

 翼はアイドルが好きだ。

 アイドルは、自分の夢を叶えてくれるから。誰かを笑顔にできる自分を、そこに居させてくれるから。皆んなに幸せな笑顔を浮かべられる自分を、伊吹翼は誇りに思っている。

 なら、今。彼女は誰を一番笑顔にしたいのか──

 

「……あれ、もしかしてこっちじゃない?」

 

 ふと、翼は立ち止まった。

 記憶にある脇道へ入ったつもりが、進めど進めどそこで待っているはずの人が見つからない。

 確かに彼を脇道へ連れていった時は無我夢中で、記憶違いがあってもおかしくない。

 道を間違えたかも知れない。

 そんな予感は、誰も座っていないベンチを見つけたことで確信に変わった。

 

(でも、似たような道だったし……あっ)

 

 思い当たったのは、入っていった脇道の方向だ。

 最初、南から北へ伸びる道を歩いていた二人は、右側──つまり東側の脇道へ入った。

 その後、翼は買い物を済ませて歩き出し、同じように右側の脇道に入った。

 しかし、サークル状の広場に展開したエリアを回っているうちに──彼女は北から南へと続く道を歩いていた。

 そうなれば当然、その状態で右側へ行けば当たり前だが、行き先は西側だ。

 よって、翼は勇吾がいる道とは反対側へ来てしまっていたことになる。

 といっても、単純に方角を間違えただけなので、気付いてさえしまえばなんの問題もない、道を戻って正しい順路を進むだけの話だ。むしろ、正しい道を進んだはずなのに、居るはずの彼が居ない場合の方が大問題である。

 

(ちょっと時間かかっちゃうかもだし、急がないとっ)

 

 けれど、焦りがあったのだ。

 ユーゴ先輩を待たせているのだという、焦りが。

 翼は引き返すために振り返った。

 振り返って、元のお祭り通りを経由して、勇吾の待つ場所へと帰ろうと歩き出した。

 でも歩いているうちに、少しずつ早足になって。

 強いて言うなら、彼女は今日の祭りのために、馴れない下駄をはいていて。

 

 

「────えっ」

 

 下駄がアスファルトの割れ目に引っかかり、勢いよく転けてしまった。

 しかもだ。

 更に、運の悪いことに。

 翼は二人で楽しむはずだった、食べ物の入ったビニール袋を自分と地面の間に挟み込むような形で倒れた。

 結果は、最悪だ。

 

「ウソ……」

 

 今日のために用意した着物は、焼きそばやステーキのソースにまみれ、溢れたジュースを盛大にかぶってしまった。

 別の袋に入っていた鈴カステラも、りんご飴も滅茶苦茶になってしまい、とてもじゃないが美味しく食べられそうにはない。

 そして、極め付けに。

 

「…………痛っ」

 

 それでも立ち上がろうとした翼は、自分が足首を痛めたことに気が付かざるを得なかった。

 骨に異常がある感触ではないけれど、捻挫していることは間違いないし、とてもじゃないが体重をかけて立ち上がるだなんてのは無理な話だ。

 浴衣はぐちゃぐちゃで、食べ物は全部ダメにしてしまい、足首は自由が効かない。

 もう、岩根勇吾の元へは戻れない。

 先ほどまで彼女が思い描いていた、二人の夏祭りが、音を立てて崩れていく。

 

「いやだ、なんで……わたし、わたしただ……」

 

 二人で、夏祭りを楽しみたかっただけ。

 そんな簡単な願いすら、今の彼女には叶えられない。

 そればかりか、大きなショックを受けたせいで、翼はかつてないほどネガティブな思考になりつつあった。

 『二人の夏祭り』

 これそのものが、自身のワガママだったのではないかと。

 先輩の気持ちを考えずに──いや、彼ならきっと喜んでくれると無責任な信頼を押しつけて、自分が一人で盛り上がって、その結果がこのザマなのではないのか。

 もっと彼に、どうしたいのか希望を聞いて、その上で動いていれば、自分にできることをきちんと考えていれば、こんな事にはならずに済んだんじゃないか。

 皮肉なことに、幸いなことに、今の翼にできることは一つだけ。

 懐のスマートフォンで、家族に助けを求めるしかない。事情を話せば、きっと直ぐに助けに来てもらえる。けれど、その先に待っているのは何なのだ。

 兄か父親に背負って貰って、その姿のまま勇吾を迎えにいく??

 あまりに惨めだ。

 あんな大見栄を張っておいて、転んで全部駄目にしちゃって、家族に来てもらいましただなんて、どの口で言えるのか。

 

(でも、それしかないんだもん……仕方ないよ……)

 

 誰に言い訳をしているのかと思いつつ、翼はスマホを取り出そうとして着物の懐に手を入れた。

 そのせいで、気がついてしまった。

 先輩が綺麗だと褒めていた、カワセミの、飴細工。

 

「あ──」

 

 彼に買ってもらった、懐にしまっていたそれすらもが、転んだ衝撃で粉々に砕けてしまったのだと。

 それを見て、見てしまって。

 自分と先輩との間にあった繋がりに、亀裂が入ったような気がして。

 

「あああぁ……いやだ、やだよ……」

 

 砕けてしまう。

 いっぱいいっぱいになっていた、彼女の──伊吹翼の心が。

 このまで頑張っていた、一途な想いが。

 積み上げてきた、彼との時間が。

 ただ、一緒に夏祭りへ行きたかった。

 それだけなのに。

 

 ──こんな筈じゃなかったのに

 

 非情な現実が、14歳の少女の心にヒビを入れて、目に入る惨状が──汚れた着物が、駄目になった食べ物が、砕けた飴細工が、ヒビを大きく成長させる。

 

「やだよ……助けてよ──」

 

 そして。

 そんな時、極限まで追い詰められた時、人は細かい理屈を取り去って、今その時に、一番に助けて欲しい人の名を口にしてしまう。

 あの人はここに来られない。

 翼はそれを誰よりも分かっている。

 分かっているからこそ、自分は一人で来たのだから。

 でも、そうだとしても。

 ありえないと知っていても。

 絶対に助けてはもらえないのだと理解していても。

 

 

「助けて、ユーゴ先──」

「────────伊吹さんっ!!!!」

 

 

 だとしたら、『絶対』なんてものは当てにならないんだと証明するために、彼は──岩根勇吾はそこへ来た。

 

 

 

 



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翼とツバサと夏祭り(4)

 

 

 まるで、夢を見ているようだった。

 

「ユーゴ、先輩? 本当に? なんで、どうして……」

 

 伊吹翼は呆然と、こちらに駆け寄ってくる彼を見ていた。

 あり得ない。

 あり得るはずがない。

 だって、この道へ来るには祭りの会場を抜けてくる必要がある。

 彼はあの場所を超えられない。

 あれだけ苦しんでいた、その原因になった場所なのだ。どう考えても無理だ、無謀だ、無茶だ。

 だが。

 

「あぁ、僕だよ。岩根勇吾だ」

 

 それでも、岩根勇吾はここに来た。

 額にビッショリと汗を浮かべ、顔を真っ赤に染めて、辛そうに息を荒げながら。

 

「伊吹さん、立てるかい?」

「……えっと、足首挫いちゃって、そんなに酷くはないと思うけど。じゃなくてっ、その……わたし」

 

 用意してたもの全部駄目にしちゃったんです、とか。

 買ってもらった飴細工も砕けちゃって、とか。

 この状況を、惨状について説明しようとした翼の前に、彼は黙ってしゃがみ込む。理由が分からず戸惑う翼へ、岩根勇吾は一切躊躇わず、こう言った。

 

「悪いけど、おぶってくよ。向こうにベンチがあったから、取り敢えずそこまで行こう」

「だ、ダメっ。それじゃユーゴ先輩も汚れちゃう……」

 

 思わず、反射的に、翼は答えてしまった。

 彼女の浴衣は転んでしまったときに、ソースや油に塗れてしまって、おまけにジュースの水気をたっぷりと吸ってしまっていたからだ。

 そんな自分を背負ったりしたら、彼まで汚れてしまう。だから、翼はとっさに拒んだ。

 

「ダメじゃない。ほら、乗って」

「で、でも」

「──伊吹さん」

 

 けれど、拒んだ翼の心を開こうとする、強い意志を感じる視線に見つめられ、彼女は恐るおそる彼の背中へと手を回し、体を預ける。

 グイッと、太ももを抱えられる感覚とともに視界が上がり、前へと進んでいく。

 結局、背負われてしまった。

 背負わせてしまった。

 自分も、汚れも、全部。

 そう思うと、翼は涙腺からこみ上げるものに耐え切れなかった。

 なぜ、こんなにも哀しいのだろう。

 なんで、こうも辛いのだろうか。

 そして。

 どうしてそれなのに、辛く哀しいのに、それと同じくらいに、助けに来てくれたことを嬉しく思ってしまっているのだろう。

 感情が迷子になる。

 自分の心が分からず、呆然と開いた瞳から、ポロポロと涙が零れ落ち、また彼の浴衣を濡らしてしまう。

 

「ごめんね……ユーゴ先輩。わたし、ホントに……」

 

 なんと言えばよいのか、それすら分からない。自分は何に対して謝っているのかも。

 そして彼は──岩根勇吾は、不思議なほどに落ち着いた声で、翼へ語りかけた。

 

「──僕の顔さ、右っ側に火傷の跡があるだろ?」

「………………え?」

 

 唐突な、なんの脈略もない話に、翼は気の抜けた声を返してしまった。

 火傷痕のことは知っている。

 初めて出会った時から、それは変わらず岩根勇吾の顔の右側を覆っていた。

 彼はそのことを隠そうとしていなかったし、だから翼も気にしていなかった。

 なぜ今、わざわざ火傷痕に触れたのか。

 理解が追いつかず涙も引っ込んでしまった翼へ、岩根勇吾はなおも軽い口調で続ける。

 

「これ、僕が小さい頃にできたらしくってさ──あ、らしいってのは、僕がその時のことを覚えてないからなんだけど」

 

 聞けば、まだ幼かった岩根勇吾は自宅で大火傷を負い──彼の母親は、それを自分のせいだと責めたそうだ。

 自分の不注意が原因だと、そのせいで息子に大怪我を負わせてしまったのだと。

 以来、彼と母親は別々の家で暮らしている。母親が、自分で自分を責め過ぎてしまったが故に。

 

「それで、今日僕があんな風になったのは、トラウマってやつなんだと思う」

 

 体の奥底で眠っていた、痛みの記憶。

 それが、四方八方から聞こえて来る、肉の焼ける音によって呼び覚まされたのだと、岩根勇吾は語る。

 語って、語り終えて、彼は本題に入るべく、言葉を紡ぐ。

 

「ええと、その……結局、僕がなにを伝えたいかって言うと」

「…………」

 

 翼は、嫌な予感がした。

 岩根勇吾は、優しい人だ。自分はそれをよく知っている。ワガママを言っても、駄目だって言いながら最後には聞いてくれるし、悩んでいたら相談に乗ってくれる。そういう人だ。

 そんな優しい彼のことだから、今回のことも『トラウマを持っていた自分が悪い』だなんて言い出すんじゃないかと、そう言わせてしまうんじゃないかと、翼は思った。

 そうじゃないのに。

 決して、先輩は悪くないのに。

 そうだ、彼は悪くない。

 悪いのは、悪いのだとしたら──

 

「──誰が悪いって話じゃないと思うんだ」

「────っ」

 

 それは翼の不安を晴らすような、陽だまりみたいに穏やかな声だった。

 

「強いて言うなら、運が悪かったって話でさ。伊吹さんも、それに僕も、きっと悪くない」

 

 それにさ。と岩根勇吾は、朗らかな声で続ける。

 

「嬉しかったんだ、僕。伊吹さんが、二人で夏祭りをって言ってくれて──あんな事があって、もう夏祭りどころじゃないと思っていたけど。伊吹さんとなら、別に祭りの会場でなくても楽しいだろうなって」

 

 ポタリと、一度止まっていた涙が、翼の頬をつたって、岩根勇吾の背中を濡らしていく。

 けれど、この涙は辛くて悲しくて流している、暗い涙ではない。

 今の翼が流しているのは、彼女の気持ちを代弁するための、明るい涙だ。

 

「わたし……わたしもっ、嬉しかった。ユーゴ先輩が助けに来てくれて、ユーゴ先輩もわたしと同じ気持ちでいてくれて──それがすごく嬉しくて……っ!!」

「うん」

 

 決壊した涙腺から、止めどなく涙が零れ落ちる。

 けれど、翼にはもう、その涙を止めることが出来なかった。

 心の底から、感情の根っこから、彼への気持ちが湧き出てくるのだ。今までに感じたことがないほどに、熱く、強く、奥深くから。

 

「だから、わたし……ユーゴ先輩に言わなくちゃ──ううん、言いたいことがあって」

「奇遇だな、実は僕も伊吹さんに言いたいことがあるんだ」

 

 だとするのなら。

 きっと彼も、自分と同じことを言おうとしている。

 翼は、そんな確信を胸に、信頼を心に、自身を背負う背中へと語りかけた。

 

「──ありがとうございます、ユーゴ先輩」

「ありがとう、伊吹さん」

 

 トラウマになっているはずの、あの祭りの会場を抜けてまで、助けに来てくれて。

 二人でいれば、場所なんて関係ないと。自分と同じ気持ちでいてくれて。

 それが、堪らなく嬉しい。

 彼と触れている箇所が、熱を持っているようだった。身体中に、心地好い温もりがジンワリと広がっていく。

 この気持ちは、一体なんなのか。

 翼は、その答えを知らない。

 知らないけれど、知りたいと思った。

 まるで、彼と一つになったような、感じたことのない幸福感の名前を。

 もっと、これ以上に幸せを感じていたくて、そっと背中に胸を押しつけてみれば、ドキドキと心臓が早鐘を打つ。

 はしゃぐココロがうるさくて、もしもこの心音が彼に届いているのなら、ほんのちょっぴり恥ずかしいけれど。

 でも、自分の感じている幸せが、このトキメキが、少しでも伝わっているのなら──それは、とても素晴らしいことに思えた。

 

「お、見えた。あのベンチでいったん休もう。足も、軽く固定するくらいはできるだろうし。本当は病院で診てもらえれば安心なんだけど」

「えへへ、大丈夫ですよ〜。ホントに軽く捻っただけですしっ」

「そうは言うけど、万が一ってことも──」

 

 岩根勇吾が翼を背負い暫く歩いて、ようやっと目的のベンチが見えた時だった。

 

 ヒュ〜〜〜〜ドンっ!!!!

 

 目の前の夜空に、オレンジ色の大輪が咲き、二人の顔を照らしだす。

 夏祭りもいよいよ大詰め。

 祭りの花形、花火大会の時間であった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 射的屋のおっちゃんは、まさに的を得たアドバイスをくれたのだなと、ベンチに腰掛けながら僕は思った。

 夏祭りの会場からは少し離れた、人通りのない脇道。ここだと花火を打ち上げている場所から遮蔽物がないので、絶好のスポットというわけである。

 おまけに座って花火を見ていけと言わんばかりのベンチだ。帰ってこない伊吹さんを探している際に見かけ、足首を負傷していた彼女の手当てと休憩を兼ねて目指していたこのベンチが、まさかのベストポジションだったとは。

 

「わぁ〜〜、見て見てユーゴ先輩!! おっきい花火ですよっ!!!!」

「おお、牡丹(ぼたん)って言うんだっけ、あの花火」

 

 先ほどまでの消沈具合が嘘のように、伊吹さんは花火を見ながらはしゃいでいた。

 うん、やっぱり伊吹さんはそうしているのが一番だ。

 あんな風に楽しそうな伊吹さんを、僕は見ていたいのだと、ようやく気付けた。

 今日は本当に色々なことがあって、夏祭りの会場にはいられないけど、お互い散々な目にもあったけれど、今はこうやって二人ベンチに座り花火を眺めていられる。

 それだけで、僕は満足だ。

 きっと伊吹さんもそうなのだ。

 伊吹さんと、僕と、二人がいれば場所なんて関係ない。

 ふと、隣の伊吹さんを見る。

 キラキラした彼女の顔は、夜空に浮かぶ花火に負けないくらい華やかで。

 その横顔に、思わず僕は。

 

「……綺麗だな」

「そうですね〜、今度はカラフルなちっちゃい花火ですよっ、カワイイな〜♪ あれ、なんで笑ってるんですか?」

「いや、なんでもないよ。本当に綺麗だなって思って」

 

 そして、本当に楽しい時間だ。

 今だけじゃなくて、伊吹さんといる時間そのものが。

 とるに足らない、何気ない中身のない会話も。黙ってコーヒーを飲んでいる会話のない時間だって。彼女がいてくれたなら悪くない。

 だからこそ、僕は考える。

 

「来年も、また見に来ましょうね!! そのまた来年も、その次の年もっ」

 

 先に進むってことの、その決意を。

 東京を離れ北海道へ、母さんのところへ向かう選択の、その結果を。

 

「そうだな。出来ることなら、僕も行きたい」

「……ユーゴ先輩?」

 

 僕の進路を伊吹さんに明かす、その意味を。

 

「さっき、母さんの話をしたろ? 今は離れて暮らしてるって、北海道に住んでるってさ」

「えっと、通院してるって言ってた……」

「うん、でも最近は調子も良いみたいで。僕とも会えるようになったんだ」

 

 しかしだ。

 僕は考えているようで、まるで考えられていなかった。

 自分の気持ちばかりを考えていて、相手の気持ちを──伊吹さんの気持ちを、全然考えてはいなかったのだ。

 

 

「──だから、高校は向こうの、北海道の高校に進もうと思っているんだ。それで、家族三人で暮らせればって」

「えっ────?」

 

 より正確には、彼女が僕のことをどう思っているのか。

 今になって思えば、あの時の父さんの言葉をもっと良く考えておくべきだった

 伊吹さんの気持ちを、きちんと考えるべきだった。

 

「ユーゴ先輩は──の?」

「伊吹さん?」

  

 僕の北海道行きを聞いて、僕の目を真っ直ぐに見て、伊吹さんは。

 

「──やっぱり、なんでもないで〜すっ。わたし、ユーゴ先輩の応援をしたいから。えへへっ♪」

「あぁ、ありがとう」

 

 その間に入る言葉を、きちんと聞かなくちゃならなかったのに。

 伊吹さんが決断の後押しをしてくれたと思って、バカな僕は無邪気に喜んでいた。

 けれど、そこには大きな間違いが、勘違いが、食い違いがあって。

 そんな沢山の違いを残して、僕達の夏祭りは終わった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 夏祭りが終わり、同じように夏休みが終わって、学校が始まった。

 その日の放課後、僕はいつものように喫茶店で、いつもの席に座り、いつものコーヒーを飲みながら執筆をしていた。

 だが、どれだけ経っても──どれだけ待っても、伊吹さんが現れることはなかった。

 次の日も。

 そのまた次の日も。

 週末になっても。

 

 ──伊吹さんは、まだ来ない。

 

 

 

 



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ツバサの気持ち

「おい岩根、なに死んだ魚みたいな目ぇしてんだ、不審者扱いされたいのか?」

「たった今不審者扱いされてた生徒によく言えるなその台詞!!」

 

 やれやれと肩を竦める永吉先生──永先と一緒に、僕は職員室を出て下駄箱に向かっていた。

 すれ違う生徒が、僕の顔を見てはヒソヒソ声で話しているのが目に入る。

 いや、まぁ……なんというか、今回ばかりは僕の自業自得的なところがあるので、致し方なしではあるのだけれど。

 ことの始まりは、夏休み明け初日にまで遡る。

 一文で言うと──伊吹さんが喫茶店に来なくなった。

 以前にも述べたが、別に僕達は毎回喫茶店で会う約束をしているわけでも、そこで落ち合う取決めを交わしていたわけでもない。

 なので、伊吹さんが来ないからって、僕がどうこう言う筋合いはない。

 だから僕は、それでも僕は、きっと前の時みたいに間が空いても、伊吹さんは来るだろうと思っていた。

 ……思っているうちに、一ヶ月が経ってしまった。

 

「いやしかしだ、俺は感心しているんだぞ。後輩の教室に乗り込むなんて、お前も大胆なことができるようになったんだな、あの小心者だった岩根がねぇ」

「……その結果がこれじゃ世話ないけどさ。あと、しみじみと悪口を付け加えるな」

 

 自分でも、よくあんなことができたなと驚いてるよ。

 一ヶ月が過ぎ、僕は思い立った。

 思い立ち、放課後伊吹さんのクラスを訪ねたのだ。

 けれど、すでに彼女の姿はなくて。

 そればかりか、空振りした上に、「最近の翼ちゃんは様子がおかしい」「元気がない」「原因はお前なんじゃないか」と疑いをかけられ、ちょっとした騒ぎになってしまったのだ。

 で、騒ぎを聞きつけた担任の先生に、職員室まで連行され取り調べを受けていたところ、我らが永先に拾われたというのがことの顛末である。

 

「でも、アレだぞ岩根。黙ってなにを言われても言われるがままでいる必要はないんだぜ?」

「それは……分かってるよ。分かってるさ、ただ──」

 

 彼女の──伊吹さんの様子がおかしいのが事実で、元気がないのも事実だとしたら……その原因が僕である可能性を、僕は否定することができなかった。

 あの時、夏祭りの最後、僕が北海道への進学を考えていると伊吹さんへ告げた、あの時に。

 伊吹さんは、僕に──なにかを伝えようとしていた。

 彼女自身が、なんでもないと言うから僕も深くは追求しなかったけれど、深追いしなかったけれども、今になって思えばすでに、伊吹さんの様子はおかしかったのかも知れない。

 

「悪い、時間取らせちゃって。助かったよ、永先」

「気にすんなって、これも仕事だ。ま、この先はお前と伊吹の問題ぽいし、俺は口を出す気も、顔を突っ込む気もない。けどな──伊吹の気持ちだけは、ちゃんと考えてやれよ」

「あぁ、うん。そうだよな……伊吹さんの、気持ち、か」

 

 あれ──?

 この言葉、前にも誰かに言われたような。

 靴を履き替え、校舎を後にしながら、僕はふと反芻した。

 伊吹さんの気持ち。

 彼女は今、なにを思っているのだろう。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「やぁ岩根くん、伊吹さんならまだ来てないよ」

「あの、マスター。僕まだなにも言って──いや、なんでもないです……」

 

 皆まで言うなと顔に浮かべたマスターの視線と、おしぼりを受け取りながら、僕は席に着いた。

 原稿用紙を広げて、設定についてまとめたノートを開き、ペンを手に持つ。

 こうしていれば、気が付けば、正面の席に当たり前みたいな顔で、伊吹さんが座ってくれる気がして。

 ……なんだか、自分で言ってて虚しくなってきた。さっきから伊吹さん、伊吹さんって、僕の頭の中は伊吹さんで一杯だ。ほんの一ヶ月会ってないからって──僕は、こんなにも弱い人間だったのだろうか。

 これが、僕のいつも通りのはずなのに。

 いつも通り、喫茶店に来て原稿用紙と睨めっこしながら、コーヒーを啜って、日が落ちたら帰る。 

 そして、日曜は街を散策して。

 それが僕の毎日だ。

 これまで、毎日そうしてきた。

 中学生になってから、ずっと。

 なのに。

 もとより一人で小説を書く時間で、それが元通りになっただけなのに。それなのに、何故だろう。

 どちらかといえば、この数ヶ月。

 伊吹さんと一緒にいた時間の方が、例外で、特例で、特別だったのに。

 何故こうも──僕は、寂しいと思っているんだろう。

 

「ほら、そんな顔してないでさ。珈琲でも飲みなよ、今日は豆の配合をちょっと変えてみたんだ。奢りにしとくから、後で感想聞かせて欲しいね」

「あ、どうもです……いただきます」

 

 そんな顔って、どんな顔をしていたんだ僕は。そう思いマスターの持ってきてくれたコーヒーに口をつけると──なるほど、確かにいつもとは違う味だ。

 少し酸味が強くなった気がするが、それが逆に心地好い。

 不思議な味だった。

 以前にもマスターは豆を変えたことがあって、最初はいつもと違う味に驚いていたけれど、いつの間にか新しい豆の味が、僕にとってのいつも通りになっていて──

 

「────あっ」

 

 そっか。

 そういうことか。

 ふと、自分の中で合点がいった。

 これまで、無意識のうちに認めていなかったけれど。そう思うことが、なんだか烏滸がましいことのように思えてしまって。

 でも、いい加減認めよう。

 僕にとって、この喫茶店で一人小説を書くって言うのはもう、いつも通りじゃない。

 この喫茶店に来て、小説を書いて。

 それで──正面の席には伊吹さんがいて、駄弁っているのが、僕にとってのいつも通りなんだ。

 

「あの、マスター!! 僕──」

 

 残っていたコーヒーを飲み干して、道具を鞄に詰め込み、僕は立ち上がった。

 いても立ってもいられない。

 そしてマスターは、僕の信頼する大人は、穏やかな顔で背中を押してくれる。

 

「大丈夫、分かってるよ。今度は二人で来るのを待っているからね。伊吹さんの気持ちを、大事にしてあげなさい」

「はい、ありがとうございます」

 

 また、言われた。

 そして思い出した。一月前、僕が夏祭りに行く前に、父さんが同じ台詞を言っていたことを。

 伊吹さんの気持ちを、考えるべきだって。僕にそう伝えていたことを。

 彼女の気持ち。

 もし、もしもだけど。

 そうであったのなら、都合が良すぎるようにも思うけど。

 僕にとってのいつも通りに、いつの間にか、伊吹さんがいたように。

 それと同じように。

 彼女にとってのいつも通りに、その中に、僕がいたとしたら。僕を置いてくれていたのだとしたら。

 君は今──僕と同じ気持ちでいてくれるのだろうか?

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 一ヶ月ぶりの、765ライブ劇場(シアター)である。

 たった一ヶ月だ。

 なので、シアターの様子はまるで変わっていない。

 僕の心境は、僕達の距離は、変わってしまったのかもしれないけれど。

 しかしアレだな、勇んで来たはいいけれど、急ぎ足でやって来たはいいけれど、ここからどうすれば良いんだろう。

 伊吹さんがここにいるのは間違いない。

 彼女に耳にタコができるくらいには、スケジュールについて話し倒されていたからだ。

 水曜の夕方は固定のレッスンがあるので、伊吹さんはシアターにいる。それは分かってる、問題は僕がどうやって彼女の元へと辿り着くかだ。

 辿り着いて10分ほど経過し、色々考えてはみたものの妙案は浮かばない。

 これが休日なら、ライブがない日でも売店が開いているため問題なく入れるのに。

 いっそ馬鹿正直に突貫しようとも考えたけど、正面の扉にはインターホンなんてものは付いていなかった。となると裏口的なものを探すべきなのだろうが、客観的に見ると結構な不審者ムーブで──

 

「なぁ、あんた。あぁ──学生服のあんただよ。こんなところで、何やってるんだ?」

「えっ、あっ──」

 

 不意に、であった。

 突然声をかけられて、どこか聞き覚えのあるその声に、僕は振り返った。

 燃えるような赤髪と、深みのある青い瞳。

 パンクファッションを身にまとった彼女の名前を、僕は知っていた。

 

「ジュリア……さん」

「へぇ、あたしの名前を知ってるってことは──ふーん。悪いけど、売店は閉まってるぜ?」

 

 勇しさを感じる声に、僕は言葉に詰まってしまった。

 そうだ、向こうからして見れば、僕は僕自身が懸念していた不審者容疑をかけられてもおかしくない人間だ。

 これで向こうのことを知らなければ、つまり僕がジュリアさんを知らなければ、なにも知らない人がたまたま立ち寄ったと彼女も推測して、納得してくれたかもしれない。

 けれど、僕は自分がジュリアさんを知っていると──ここがどういう場所か知っているのだとカミングアウトしてしまった。

 普通に考えれば、売店が開いてないことだって、ここを知っている人間なら当然知っているはず。

 であるにも関わらず、ここにいる僕は誰なんだと、ジュリアさんは考えているんだ。

 でも、聞かれた以上は答えなくっちゃあならない。

 正直に、正しく、僕が何をしに来たのかを。

 

「その、僕……岩根勇吾って言います。伊吹さんに用事があって、それで」

「翼に? あぁ、その制服──なるほどな、だいたい分かった」

 

 一体、なにが分かったんだろう。

 事態を把握したと言わんばかりにウンウン頷くジュリアさん、すると彼女は矢のような視線で僕を射抜くと。

 

「どうするべきなんだろうな、この場合。あたしは」

「…………え?」

「マニュアル的に、つまり事務的に処理するんなら、責任者に取り次いでやるべきなんだろうけどさ──それだと、余計に話が拗れそうだし」

 

 多分、これは僕に語りかけているというよりは、自分で状況を整理するために話しているみたいな口調だった。

 ジュリアさんはいったん目を閉じ、しばし黙考すると、僕に言った。

 

「ユーゴって言ったっけか。これからあんたに一つ質問をする、即答できたら──翼のとこまで、あたしが責任持って案内するよ」

「えっと、もし答えられなかったら……?」

「その時は、帰ってもらう。そうした方が、お互いのためだろうしな」

 

 ……この人は一体、どこまで事情を把握しているのだろう。

 少なくとも、何かしらの事前情報がなければ、こんな立ち回りはできないはずだ。

 ジュリアさんのことが、分からない。

 話すのはこれが初めてなのだから、当然だ。

 けど、まぁ。

 少なくとも伊吹さんが、ジュリアさんを信頼していることを、僕は知っている。

 だったら、それで十分だ。

 

「分かりました、答えます」

「オーケー、少なくとも怖気つかなかったとこは認めるよ。じゃあ、質問だ」

 

 どんな問題が出るのだろう。

 皆目検討もつかない、あり得るなら伊吹さんの知り合いだって証明になるような質問とか?

 あまりに深い問いかけだと、手も足も出ない気がするが。

 一体全体、ジュリアさんはなにを以て、僕を見極めようと──

 

「──翼の悪いところを一つ挙げてくれ」

「人の話をあまり聞いてないとこですかね」

「よし合格だ。行こうぜユーゴ──あ、呼び方ユーゴでいいよな?」

 

 えっ。

 今のが質問? これでよいのか? 本当に?

 そう言うなり、スタスタと歩きだすジュリアさんの後ろを追いかけながら、僕は困惑していた。

 どういうことだ、伊吹さんの悪いところを挙げてくれって。

 

「だ、大丈夫ですけど……もういいんですか?」

「ん? まぁな、正直に言うと──名乗られた段階で『こいつが翼の言ってたユーゴ先輩か』って察しはついてたんだよ、だから今の質問は……そうだな、あたしなりの確認ってやつだ。意地みたいなモンだけどさ」

「確認、ですか」

 

 やっぱり、ジュリアさんは僕のことを間接的に知っていたのだ。

 僕が間接的に、伊吹さんを通して彼女のことを知っていたように。

 

「そう、確認。あんたが翼の力になれるのか、どうかのな。翼のやつ、ここんとこ全然集中できてなくてさ」

「……伊吹さん」

「今、翼が抱えてる問題は……たぶん、あたし達じゃ解決してやれない──力にも、なってやれない。それはなんとなく分かってたんだ」

 

 けどさ。と、ジュリアさんは仕方のなさそうな笑みを浮かべながら。

 

「それでユーゴに丸投げってのも、アレなんでね。悪いけど試させて貰った──翼のこと、よろしく頼む」

 

 頼まれて、しまった。

 まともに対面したのは、お互い今日が初めてのはずなのに。

 でも。

 僕は、伊吹さん越しのジュリアさんを知っていて。

 ジュリアさんは、伊吹さん越しの僕を知っている。

 不思議な感覚だ。そして、不可思議な関係だ。けれども、それは確かに成り立っている。

 だったら、ジュリアさんの質問に答えたように。この頼まれごとにも応えたいと、僕は思った。

 

「──はい、任せてください」

「ははっ、頼もしいね」

 

 だから伊吹さん、今から君のところに行くよ。

 君の気持ちを、確かめる為に。

 

 

 



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翼の気持ち

 

 

 

 最近の自分はダメダメだ。

 伊吹翼には、その自覚があった。

 ダンスも歌も、まるで集中し切れてない。

 授業も頭に入ってこないし、学校では周りから心配されてしまう始末だ。

 しかし自覚はあったけれど、自ら覚ってはいたけれど、ダメダメな自分を変える方法が、今の翼には分からなかった。

 今日だって、来月のライブに向けてのレッスン中だというのに、声がいつものように、思ったように伸びてくれない。

 自分の声なのに、そのはずなのに、自分の思い通りになってくれない歯痒さが、彼女を悩ませていた。

 そんな悩みが表に出ていたのか。

 

「──ストップ。ここまでにしておこうぜ、翼も乗り切れてないみたいだしな」

「ジュリアーノ!! わたしまだ──っ」

「続けられないのは、自分が一番よく分かってるだろ?」

「…………」

 

 ジュリアの鋭い指摘に、翼は反論できなかった。

 確かに自分は、歌に乗り切れていない。

 赤髪のロッカーアイドルは、彼女の不調などとうに見抜いていたらしい。

 けれど、それを理由にレッスンを中断することを良しとできる翼ではない。少し前の彼女なら、これ幸いと休んでいたかも知れないが──あらゆる意味で、翼は変わった。

 以前よりも頑張るようになったし、ワガママも減った。それは彼女の頑張りを誰よりも応援してくれる人がいて、彼女のワガママを誰よりも聞いてくれる人がいたからで。

 すると、ジュリアの言葉に続くように、続きを代弁するかのように。

 

「ジュリアさんの、言うとおりだと思います。伊吹さんの気持ちも分かりますが、今は少し休みませんか? 休憩も大事、だぞ」

「瑞希ちゃん……」

 

 この三人組の最年長、真壁瑞希は場を取りまとめるようにそう言った。

 表情豊かなポーカーフェイスに定評のある彼女は、周りを普段からよく見ている上に、空気を読むことに長けている。

 今回も翼の調子が悪いことは承知の上で、その上で、ジュリアが翼を気遣ってることだって彼女は分かっていた。

 

「ほら、ミズキもこう言ってることだしさ」

「……うん、ちょっと休憩しまーす」

 

 ジュリアに促され、翼も休憩を取ることに同意した。彼女と初めて組んだ時とは大違いだと、ジュリアと瑞希は顔を見合わせて──ジュリアは苦笑し、瑞希は優しく小さな笑みを浮かべる。

 

「気を落とさないでください、伊吹さん。誰にでもこういう日はあります。私も先日、1日に5回も噛んでしまいまして──」

「ミズキのそれはちょっと違うと思う……」

「なんと、それはショックです。がーん」

 

 ちっともショックを受けているようには見えない顔と口調であった。

 ともあれ、いったん小休止である。

 三人はフローリングの床に腰を下ろし、思い思いの体勢で体を休めることにした。

 

「けどさ、こう言っちゃなんだけど。少し以外というか──珍しいよな、翼が分かりやすく調子悪いのって」

 

 壁に背を預け、体育座りの構えから片足を伸ばし、ジュリアは先ほどの会話を続けるように二人へ切り出した。

 

「え〜、そうかな? 瑞希ちゃんもそう思う?」

 

 あぐらをかいた翼に尋ねられ、とんび座りをしていた瑞希はやや思案顔になると。

 

「そうですね、調子の波は誰しもあります。でも、伊吹さんの波は、今回に限り大きいように思いました」

「あたしも、そんな感じだ。いつものとは、やっぱどこか違う」

「もうっ、2人で納得しないでくださいよ〜。どういうこと?」

 

 なにやら勝手に通じ合ってる2人へと、頬を膨らませて翼は抗議する。自分のことなのに、2人の方が分かっている風なのはどういうことなのだと。

 確かにここ一週間ほど、翼の調子が下がり気味であるのは事実だ。その点について、ジュリアと瑞希の見解は一致していた。

 

「ほら、翼の調子が悪い時って、悪い夢を見たとか、好きなアイスが売り切れてたとか──大抵はこういうパターンだろ?」

「ですが、数時間後にはいつもの伊吹さんに戻っています」

「だな、こっちからだと気付きにくいことがあっても、直るのも早い。小さい波だからな」

 

 2人の自身に対する評価を聞いてるうちに、翼はなんだかむず痒くなってきた。

 褒められるのは大好きな彼女だが、この話題に乗ったのも翼本人だが、こうも淡々と分析されていると、妙に気恥ずかしく感じてしまう。

 

「そうなると、今回はとても大きい波が来ている。ということになるのでしょうか」

「あぁ、同感だ──なぁ、翼。もし悩みがあるなら、あたしらで良ければ相談にのるぜ?」

「…………うん」

 

 そんな、通常運転の翼からは考えられないほど萎んだ返事に、ジュリアは内心──こりゃ重症だな、と零す。

 同時に、なんとか力になってやれればとも思った。翼には、この悩める少女には、誰よりも自由でいて欲しいから。

 

「私たちは伊吹さんより、少しだけお姉さんですから。遠慮せずに話してみませんか?」

 

 瑞希も年上として──そしてなにより仲間として、翼の心を晴らせればと、澄んだ声に目一杯の慈愛をこめて笑いかける。

 2人の、自分を気遣う声に、翼は少し考えた。ここ一週間、自分を悩ませているその原因について。

 原因となっている、あの先輩のことを。

 夏祭りのあの日、母親と暮らすために北海道へ行くと行った彼──岩根勇吾のことを、考える。

 なぜ、彼が遠くへ行ってしまうことが、こんなにもショックだったのか。

 

「たとえばね、すごく近くにいた人が、遠くに行っちゃうってなったら──2人はどう思う?」

「ん、それって友達が引っ越すとか、そういう話か? まぁ、ビックリするだろうし……寂しくなるかもな」

 

 けど、とジュリアは付け足す。それこそが大事なのだと言うように。

 

「それ以上に──向こうでも頑張れよって、あたしは思うよ、きっと」

 

 そんなジュリアの言葉に、翼は自分の気持ちを思い出す。彼の話を聞いて、自分はなにを思ったのか。

 遠いところへ行ってしまう岩根勇吾に、なんて言おうとしたのかを。

 

 ──ユーゴ先輩、一緒にいてくれないの?

 

 そうだ、確かに自分はそう思い、言おうとした。彼の事情よりも、自分の気持ちを優先して。

 そのあと、応援したいと伝えたあの言葉に、一体どれだけの本心が込められていたのか。どこか無意識に罪悪感を感じていて、彼のいる喫茶店へも行けなくなってしまったというのに。

 

「じ、じゃあ。そう思えなくって、応援できなくて──行って欲しくないって思うのは、悪いことなの?」

「わ、悪いとは思わないけどさ。えーっと、そのだな……」

 

 もしかしたら、自分の考え方が駄目だから、こんな風になってしまったのかなと、翼の心に冷たい風が吹く。

 自然と言葉にも焦りが出て、まさか翼がこういう反応をするとは思っていなかったジュリアも、それに釣られて微妙な空気が流れてしまう。

 そして、まるでタイミングを測っていたかのように。

 

「──それはきっと、その方が伊吹さんにとって、とても大切な人だからなのだと思います」

「とっても、大切?」

「はい。大切だからこそ、側にいたい、隣にいて欲しい。そう思うのは、想ってしまうのは、自然なことではないのでしょうか」

 

 瑞希の落ち着いた声に、翼はまたもや考える。岩根勇吾のことを、彼に背負われた時に感じた、あの幸福感を思い出す。

 

「……確かに、そうかもな。自分の気持ちにウソはつけない、その気持ちは大切にするべきだと思うぜ」

 

 自分の、気持ち。

 伊吹翼の気持ち。

 彼に触れていた場所から広がっていた、例えようのない暖かさ。それをずっと感じていたいと思った。

 だから、遠くに行って欲しくなくて。

 隣に、側に、一緒にいて欲しくて。

 彼に手を引かれて──彼の手を引いていたい。

 これは翼のワガママなのかも知れないけれど、その気持ちに嘘はなかった。

 

「……わたし、一緒にいたい──ユーゴ先輩に、隣にいて欲しい」

 

 ポツリと、本音が零れる。

 口に出せずに、心の中に仕舞っていた、翼の本心が。

 そして、それを間近で聞いていたジュリアと瑞希は。

 

「──ん、ユーゴ?」

「……先輩、ですか?」

「え??」

 

 聴き逃すに逃せない、聞き捨てならない言葉に食いついた。

 

「お、おい翼。その近くにいた人って、まさか男子……なのか?」

「え〜っと、ユーゴ先輩は男の子だけど、それがどうかしたんですか?」

「いや、どうしたって……なぁ?」

 

 つまりそういうことだろ、と。ジュリアは瑞希に視線で同意を得ようとした。得ようとしたが、肝心の瑞希は顔を赤く染めてしまい、両手を頬にそっと添えながら。

 決定的な、確定的な一言を、口にする。

 

「驚きました……伊吹さんは、恋をしているんですね。ドキドキ」

 

 ──恋。

 恋を、している。

 誰が、誰に?

 そんなことは決まっている。

 伊吹翼が、岩根勇吾にだ。

 伊吹翼は、岩根勇吾に恋をしているのだ。

 不思議なほどに、ストンと。

 その言葉が雨粒のように、彼女の心に落ちてきて、溜まっていく。

 溜まった言葉に、想いに、彼との記憶が映し出されて。

 ゴミ捨て場で、あんなにも一所懸命な顔をしていた彼が。

 自分の夢中になれるものを、一緒に探してくれた彼が。

 雨が降っていたあの時、自分に傘を押し付けて走っていた彼が。

 自分が迷っていた時に、一番側で手を引いてくれた彼が。

 足首を挫いて、蹲っていた自分を助けに来てくれた彼が──岩根勇吾のことが、好きなのだ。

 でも、彼は遠くに行ってしまう。

 せっかく、自分の気持ちに気付けたのに。

 ユーゴ先輩が好きだって、気がつくことが出来たのに。

 簡単には会えないところへ、引っ越してしまう。

 こんなの、あんまりだ。

 翼の目尻に、うっすらと涙が浮かび、やがて収まり切らなくなって零れ落ちていく。

 ぬぐっても、ぬぐっても、止まらない。

 

「つ、翼?! どうした? どっか痛むのか?」

「伊吹さん、大丈夫ですか? 困ったぞ、瑞希……」

 

 急に泣き出してしまった仲間の姿に、ジュリアと瑞希は手を差し伸べようとしつつも、理由が分からずオロオロするしかない。

 

「どうしようジュリアーノ、瑞希ちゃん……ユーゴ先輩が、ユーゴ先輩がいなくなっちゃうよぉ〜!!」

 

 この一週間、我慢してきた感情が、恋心を自覚したことで爆発してしまった翼は、衝動を抑えきれず──右腕でジュリアを、左腕で瑞希を巻き込むように抱きついて、床に押し倒した。

 突然の抱擁に、リアクションを取れずにいる2人を、翼は強く強く抱きしめる。

 まるで、寂しさから逃れるように、強く。

 ジュリアは、そんな泣き崩れた翼を見てから、彼女の頭越しに瑞希へ目線をやった。

 瑞希もまた、翼の様子を伺い、ジュリアと視線を合わせた。

 彼女たちは無言で了承を取り合うと。

 

「とりあえず、さ。なんの解決にもならないけど、あたしらは側にいるよ。翼の側にいる」

「はい。私たちは、伊吹さんのツバサ。ですから」

 

 そう言って力強く、けれど優しく──翼の体を、そして心を抱きしめた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「それでね、ユーゴ先輩は──ジュリアーノってば、わたしの話聞いてます〜?」

「あぁ、聞いてるよ。もうなんべんも同じ話をなっ!!」

 

 どうしてこうなったと、ジュリアは頭を抱えた。

 たしか泣き疲れて落ち着いてきた翼に、瑞希が『伊吹さんはそのユーゴ先輩という方の、どんなところが好きなのですか?』と訊いたのが、尋ねてしまったのが始まりだった気がする。

 そこから始まったのは怒涛の惚気だ。

 やれユーゴ先輩は優しいだの、勉強を教えてくれるだの、傘を貸してはくれたけど相合傘はしてくれないだの、聞けばアイルの件にも一枚噛んでると言うではないか。

 ジュリアとて、翼が元気になってくれるなら、そのユーゴ先輩とやらの話を聞くのも吝かではない。

 吝かではなかったけれど、こう延々と話されれば流石に耳と心が疲れてくる。

 ついでに言い出しっぺの瑞希が別の予定で抜けてしまった。なので、先程からジュリアは一人で翼の猛攻を受ける羽目になったというわけだ。

 

「──それでね、ユーゴ先輩顔赤くしちゃって、なんだか可愛くて」

「そうだな、うん。カワイイカワイイ」

「……盗っちゃダメですよ?」

「盗らねえよ!! だいたい、あたしの好みじゃない」

 

 少なくとも、翼の話を聞く限りでは。

 

「え〜、じゃあジュリアーノはどういう人が好きなの?」

「……そうだな、たとえば好きな相手でも悪いところはハッキリ言えるような奴なら少しは認めてやっても──いや、なに答えてるんだあたしっ!!」

 

 危ない、知らぬ間に翼のペースに乗せられていた。我に帰ったジュリアは、もはや呆れたような目線を翼へ向けると。

 

「まぁでも、気持ちがハッキリしてよかったな。あとは告るだけだろ?」

「…………」

「……翼?」

 

 あとは告白するだけ。

 果たして、そうだろうか。

ジュリアの言葉に、翼は三度考える。自分自身に対して、問いかける。

 確かに伊吹翼は、岩根勇吾への恋心を自覚した。自身の心に、淡い炎が宿っていることを、今の彼女は知っている。

 けれど。

 彼に告白をして、仮に気持ちを受け入れてもらえて、恋仲になれたとして。

 その先にあるのは、約束された別れだ。

 離れ離れになることは、絶対に避けられない事実だ。

 で、あるのなら。

 そうであるなら、想いを伝えたとしても、辛い思いをすると分かっているのなら。

 告白することは、本当に正しいことなのだろうか?

 翼には、最後までその答えが出せなかった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 やってしまった。

 やらかしてしまった。

 伊吹翼は、特大の後悔とともに膝を抱えて座り込んだ。

 ジュリアと瑞希に悩みを打ち明け、岩根勇吾への気持ちを自覚したあの日から、早3週間。

 翼は相変わらず、彼の待つ喫茶店へは行けずにいた。会ってしまえば、きっと自分は我慢できないと分かっていたからだ。面と向かってあったら最後、秘めていた想いをぶつけて──たぶん、いや間違いなく言ってしまうだろう。

 行かないで欲しい、側にいて欲しいと。

 そんなことを言ったって、彼を困らせるだけなのに。言ってしまって、自分自身悲しい思いをするのは分かっているのに。

 だから、自分が我慢すれば、そうすれば良いんだと翼は考えた。

 本気で好きだからこそ、先へ進もうとしているあの人の、邪魔をしたくない。

 翼らしくない。と、誰かは言うかも知れない。けれど、そこまで思い詰めるほどに、彼女の気持ちは本物だった。

 

「……ユーゴ、先輩」

 

 放課後、シアターに向かおうとしていた翼は階段を下ってくる人影を──岩根勇吾の姿を見て、逃げるように学校を飛び出してしまった。

 なぜ彼があそこにいたのか、その理由は明白以上に明確だ。

 岩根勇吾は、伊吹翼へ会いに来た。

 そうだ。

 会いに来て、くれたのに。

 結局、シアターに来たは良いものの、誰にも会いたくなくて──翼は一人、倉庫に敷かれたマットレスの上に座り込んでいた。

 こんなことをしてたって、なんの解決にもならないのに。

 自分はいったい、何をしているんだろう。

 いったい何を、したいんだろうか。

 それが分からなくて、辛くて寂しくて、目の端から涙が出そうになる。

 

「あら、見つけちゃった。翼ちゃん、どうしたのよーこんなところで」

「このみさん……」

「もう、カワイイ顔が台無しじゃない」

 

 いつの間に倉庫へ入って来たのか。

 シアター最年長であり、シアター最小級であるアイドル──馬場このみは、体育座りをしていた翼のもとへ歩み寄ると、目尻の涙をハンカチで拭い、そっと笑いかける。

 その姿が、いつもよりずっと大人びて見えた。

 

「このみさん、なんだかお姉ちゃんみたい」

「なによー、私はいつでも皆んなのこのみお姉さんよ?」

 

 ただでさえ小柄なこのみが、頬を膨らませて言うものだから、余計に子供っぽく見えると思いきや、なぜだか今日の彼女からは大人らしさしか感じない。

 ごく自然に、このみは翼の横に腰をおろす。

 チラリと横目で彼女の表情を伺えば、そこにあるのは慈しむような顔で。

 

「──岩根くんのこと、マスターから聞いたわ。北海道へ行くって」

「……はい、そーなんです」

「会いには、行かないの?」

 

 そして、想いを伝えに行かないの?

 暗にそう言われた気が、問いかけられた気がして、翼は言葉に詰まった。

 上手く二の句が繋がらない。

 言いたい言葉と、言えない言葉が、頭の中で迷子になる。

 そのせいで、言い訳じみた言葉ばかりが頭に浮かんでしまう。

 

「でも、ユーゴ先輩は遠くに行っちゃうから、会ったら別れるのがもっと悲しくなるから……だったら、もう会わない方が……」

「翼ちゃん、いいの? 本当にそれでいいの? ──後悔、しない?」

 

 後悔、するんだろうなと翼は思った。

 彼が北海道にいった、その後で、悔いるんだろうなと。

 会っておけばよかったと、告白すればよかったって。

 そう思うんだろう。

 けど、仕方ないじゃないか。

 だってもう、会ったところでどうしようもないのだから。

 後悔することになっても、それでも──

 

「私はね、やらずに後悔するより、やって後悔した方がいいだなんて、無責任なことは言えないわ」

 

 でもね、と馬場このみは翼の両肩に手を乗せ、彼女の瞳を覗きこむ。

 

「翼ちゃんには──やった上で、後悔しないで欲しい」

 

 だから、きちんと会って、話をして。

 その上で、後悔せずに前を向きなさい。と、このみは諭す。

 岩根勇吾が、先へ進んだように。

 翼もまた、勇気を持って一歩踏み出さなくてはならないのだと。

 一歩前に踏み出して。

 自分の本心に、本音で──そして本気で、ぶつかる時がきたんだって。

 

「それにほら、翼ちゃんが会わない方がいいと思っていても──相手も同じとは、限らないでしょ?」

 

 そう言いながら、このみは倉庫の入り口へ翼の視線を誘導する。

 果たして、そこには人影があった。

 まさか、そんな。

 飛び込んできた光景を、心が否定し、頭もそれに追従しようとする。

 しかし、翼の否定を拒否するように。

 

 

「よ、久しぶりだな。伊吹さん」

 

 昨日ぶりみたいな気軽さで、片手を軽く挙げながら、岩根勇吾はそう言った。

 

 

 

 



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誰が為のツバサ

 

 

 

「──で、そんなわけでジュリアさんが案内してくれてさ」

「………」

 

 一ヶ月ぶりの伊吹さんは、小耳に挟んだそのとおりで、なんだか元気がないように見えた。

 765 ライブ劇場(シアター)にある倉庫の一角、そこに敷かれたマットレスの上で僕らは隣同士、体育座りをしており──それで、今はこうして彼女にこれまでの経緯を、僕がここまで来られた理由を話しているのだが、いかんせん反応がイマイチである。

 別に僕とて、大きなリアクションを期待していたわけでも、実際して欲しかったわけでもないのだけれど。

 伊吹さんらしくないなと、僕は思った。

 こんなことを言ってしまうと、そもそも伊吹さんらしさとは何ぞやという堂々巡りが始まってしまうが、それでもやっぱり。

 僕は、元気な伊吹さんでいて欲しいのだ。

 

「馬場さんも探すのに協力してくれて──」

「ユーゴ先輩は、聞かないの?」

 

 なにを、と言うのは流石に無粋で、察しが悪いとも思う。

 

「伊吹さんは、聞いて欲しいの?」

「……分かんない」

「なら、聞かないよ。分かってからでいい」

 

 伊吹さんが、喫茶店に来なくなった理由。

 伊吹さんの気持ち。

 それを確かめるために、僕は来た。

 でも、確かめたいからといって、無理に聞き出そうだなんてこと、僕にできるはずもない。

 聞くことを拒否されて、拒絶されるよりはずっといいし。

 こう言ってはなんだが、伊吹さんと会えただけで、その時点で、僕の目的は半分くらい達成されたようなものである。

 だから、今すぐには聞けなくたって構わない。

 

「僕の方こそ、急に押しかけてきて悪かったな」

 

 それに、分からないのは僕も同じだ。

 勢いに任せてここに来たはいいけれど、ジュリアさんにあんな台詞を言っておいてなんだけど、実際のところはノープランである。

 なにを話そうとか、どんな風に語ろうとか、まるで頭に浮かんでこない。

 伊吹さんとこうして話をしているだけで、満足してしまいそうな自分がいる。

 ちょろい。我ながらちょろ過ぎる。

 

「ううん、ビックリはしましたけど……それだけ」

「そっか、ビックリさせちゃったか」

「そりゃあしますよ〜、しかもジュリアーノと一緒なんだもん」

「さっきも説明したけど──って、ん? ジュリアーノ?」

 

 なんだそれ、ジュリアさんのあだ名か?

 

「ジュリアーノはジュリアーノですよー?」

 

 どうもそうらしい。

 ジュリアだから、ジュリアーノ。

 あれ──でも確か。

 

「ジュリアーノって、男性名じゃなかったか? イタリアの」

「え〜? でもジュリアーノってカッコイイし、別にいいのかな」

「本人の知らないところでいい事にされてる……」

「この間も瑞希ちゃんと壁にドンって──」

「なぁそれ僕が聞いても大丈夫なやつなんだろな??」

 

 後でドヤされるのは御免被るぞ。

 あと確信はないけど、きっとジュリアさんはそのあだ名を嫌がってると思う。

 まぁアイドル仲間の話で、伊吹さんが少しでも調子を取り戻してくれたのなら、それは嬉しいことなのだけれど。

 で、それからいくつかのカッコいいジュリアさん話を披露してくれた伊吹さんは、ふと思い出したように。

 

「……あ、え〜っと。ユーゴ先輩も、ユーゴって名前、カッコイイと思いますよ?」

「いらないよ!! そんなとってつけたフォローは!!」

「なんだかユーコみたいだし」

「それは本当にカッコイイと思っているのか……??」

「ユーゴスラビアみたいだしっ」

「人の名前を1929年から2003年まで存在した、南スラブ人を主体に合同して成立した国家の枠組みで例えないでくれ!! 絶対音の響きだけで言ったろ!!」

 

 というかそれ、もう存在してないじゃん!! 存在しないカッコよさじゃないか。

 そもそも、よく知ってたなユーゴスラビア。僕としてはそっちにビックリだ。

 なんて、久方ぶりな僕のツッコミに。

 

「……えへへっ、ごめんなさ〜い」

 

 ようやっと、伊吹さんは笑ってくれた。

 釣られて、僕の頬も緩んでしまう。

 まったく、そういうところだぞ伊吹さん。

 不思議なもんだ、彼女の笑顔を見ているだけで、こうも嬉しくなれるなんて。

 

「ねぇ、ユーゴ先輩」

 

 いつものように、伊吹さんがそう切り出したから。

 いつものように、僕はこう切り返した。

 

「なんだい、伊吹さん」

「ユーゴ先輩は……どうして、わたしに会いに来てくれたの?」

 

 ……まぁ、今回は僕の方から押し掛けたわけだし。僕がその訳を話さないとあっては、筋が通らない。と、言ってもだ。

 そんな改まって、かしこまって話すことでもない。

 結局のところ、僕はただ──

 

 

「伊吹さんに会えないのが、寂しくて」

「────へっ?」

「僕はここ一ヶ月、いつも通りのこれまで通り生活していたつもりだったんだけど……気がついちゃってさ」

 

 この生活は既に、僕のいつも通りではないくて、伊吹さんのいる生活こそが、僕にとってのいつも通りになっていたことに。

 一ヶ月が経って、経過して、僕はようやくその事実を自覚した。

 まったくもって遅過ぎる。

 もっと早くに気がついていれば、あぁも悩むことはなかったろうに。

 

「いつからかは分からない。あの日、ゴミ山に1人でいた僕を助けてくれた君は、僕にとって恩人だったから」

 

 無論、それは今でも変わらない。

 伊吹翼は、岩根勇吾の恩人だ。

 一人ぼっちでノートを探していて、それを当たり前だと思っていた僕に、当然のように手を貸してくれたあの日の君を、僕は生涯忘れないだろう。

 

「それから、伊吹さんはアイドルになって。それでも喫茶店に来てくれて」

 

 色々なことがあった。

 面接の付き添いでこのシアターを訪れたり。

 喫茶店で勉強を教えることになったり。

 中々ライブのチケットが取れなくて、伊吹さんに怒られたり……いや、これは今思い返しても理不尽だよな。3回目のときに慰められたのは何気に心へグサリときたものだ。

 そして、四度目の正直でチケットを手に入れた僕は、君の──君達のライブに、心を撃ち抜かれた。

 その後の夏祭りは波乱に満ちていたけれど、それでも──

 

「この半年間、君がいたから楽しかった。ありがとう、伊吹さん」

 

 君がいて、君といてこその半年だった。

 これまでの人生の、どんな半年間よりも満ち足りていた。

 だから、ありがとう。

 あの日、あの場所で、僕に声をかけてくれて。本当に、本当に。

 そんな僕の吐露を聞いて、受け止めて、隣の伊吹さんは──小さな声で、小さな雫が零れるように、こう言った。

 

 

「わたしも、寂しかった」

「…………うん」

「ユーゴ先輩が遠くに行っちゃうって聞いて……わたし、喫茶店に行ったらいつもセンパイがいてくれて、話を聞いてくれる時間が好きだったんです」

 

 やっと、聞けた。

 聞くことができた。

 伊吹さんの気持ちを、本心を。彼女も僕と同じ気持ちでいてくれたんだって確信を。

 僕が彼女との思い出を振り返っていたように、伊吹さんもこの半年間を懐かしんでいるようだった。

 

「最初は、こんな時間にあんな場所でなにしてるんだろ〜って思って、でもセンパイは凄く一生懸命な顔をしてたから──それが、羨ましかった」

 

 伊吹さんは時折、どこか切なげで、とても大人びた表情をするけれど。

 そんなことを思っていたのか。

 伊吹さんが、僕を羨ましく思っていたという事実が、上手く飲み込めずに、僕はすっかり相槌のタイミングを逃していた。

 

「だから、センパイが勧めてくれたアイドルなら夢中になれるかもって、39プロジェクトに応募して。わたし、初めてなにかに夢中になれたんです」

 

 知ってるよ。 

 君がどれだけアイドルに夢中になっていたか、夢中になることができていたのかを、僕はよく知っている。

 

「アイドルになってから、ちょっと悩んだり、迷ったりもしましたけど──ユーゴ先輩が、そんなわたしの手を引いてくれたから」

「それは、お互い様ってやつだよ。伊吹さん」

 

 そう、お互い様だ。

 僕が母さんへ会いに行くべきか悩んでいたときだって、君は背中を押してくれた。

 スランプに陥って、僕が迷っていたときも、あの出口の見えないトンネルを彷徨っていたときも、そうだ──いつだって。

 

「……僕が迷ったら、君が手を引いて」

「わたしが迷ったら、センパイが手を引いてくれる」

 

 そうやって、僕たちはここまで来た。

 だから、だからこそ。

 

「けど、だからこそ、こうして僕達は、それぞれの道に進んでいけるんだと思う」

「でも────っ!!」

 

 伊吹さんは立ち上がって、見下ろした僕へと訴えかける。

 必死な声で、必死な顔で。

 僕に対して、思いの丈をぶつけてくる。

 

「でも……やっぱり、寂しいよ。お母さんのところに行くのが、ユーゴ先輩にとって大切なことだって分かってます。でもわたし、わたしは──」

 もう、ほとんど泣きそうな声だった。

 思わず、僕も立ち上がっていた。

 立ち上がって、気がついたら、伊吹さんの手を握っていた。

 ポカンとした顔で、彼女が僕を見る。

 あれ、なんで手を握ってるんだ僕は。

 僕は、僕はただ、伊吹さんの悲しそうな顔が見たくなくて、彼女には笑顔でいて欲しくて、それで──それで、どうしたいんだろう、僕は。

 そもそも、なんで僕はこんなにも、伊吹さんには笑顔でいて欲しいと、そう願っているのだろう。

 僕は思い出す。

 出会ってから、これまでの伊吹さんを。

 ゴミ山で名乗り合った、初まりの時を。

 彼女にお礼を言って、お礼を言われた、あの日の笑顔を。

 アイドルになって、嬉しそうに笑っていた伊吹さんを。

 アイドルを好きだと言った、彼女の言葉を。

 ステージの上で見た、夢中になっている伊吹さんの姿を。

 そして、夏祭りの最後に、花火に見惚れていた彼女の煌めいた顔を、思い出す。

 

 ──あぁ、そっか、そういうことか。

 

 今更だ。

 本当に、今更だけど。

 僕は、自分の気持ちを、自分のものにすることができた。

 でも、いいのか?

 この気持ちを、想いを伝えて。

 伝えてしまっても。

 

「えっと、その……僕、伊吹さんのことが……」

 

 言葉が詰まる。

 この言葉を、口に出してよいのか分からなくなって、しどろもどろになってしまう。

 無責任ではないのか、ここでこの言葉を口にしても、彼女を傷付けてしまうだけじゃないのか。なんてことを、考えてしまう。

 すると、そんな僕に。

 この期に及んで迷ってしまった、僕の手を引いて、伊吹さんは真っ直ぐな瞳でこちらを射抜き。

 

「──お願い、ユーゴ先輩。言って」

 

 縋るような声で、彼女は言った。

 本当に、情けなくなってくる。

 こんなことを言わせてしまうだなんて。

 言って欲しいだなんて、そんな台詞を。

 いい加減、覚悟を決めよう。

 どんな結果になったとしても、それを受け止める覚悟を持とう。

 

「……君の笑顔を見ていると、勇気がもらえる。僕のやってることは、やってきたことは、間違ってなんかいなかったって思わせてくれるんだ」

 

 だからきっと、母さんと暮らすという、僕の決断は間違っていない。

 今はそれが必要だって判断も、そのために北海道へ進学するって手段も、きっと。

 そして今、この言葉を口にするって選択も──間違ってなんか、いないんだ。

 

 

「好きだよ、伊吹さん。君のそういうところが、僕は大好きだ」

 

 そう言って、告白をして。

 伊吹さんに、自分の気持ちを打ち明けて。

 僕はもう一度、彼女の手を握り直す。

 気がついたらではなく、気の迷いでもなく、自分自身の意思で。

 彼女は──伊吹さんは、そんな僕の手を握り返して。

 

「わたしも、好きです。ユーゴ先輩が、大好き」

 

 頬を、涙が伝う。

 その感触に、僕は今になってようやっと、自分が泣いていることに気がついた。

 僕は泣いていて、涙は止まりそうにもなくて、止める気にもなれなかったし、多分止められない。

 

「いつもわたしに真剣でいてくれる、ユーゴ先輩が好き」

 

 この感情は、変えられない。

 伊吹さんが僕の手を引っ張って、胸元に引き寄せる。

 痛いほどに脈をうつ、彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。

 

「……行かないで、ください」

 

 気持ちを変えることはできない。

 僕が、自分の決めたことを、変えられないように。

 ごめん、伊吹さん。

 君は僕に謝って欲しいわけじゃないってことは、もちろん分かっているけれど。

 けど。

 

「僕、今は母さんの側に居たい──居てあげたいんだ」

 

 先に進んでいくためにも、今は失っていたものを取り戻しに行きたい。

 そう決めたから。

 そうするって、決めたから。

 だから、伊吹さん。

 これは僕のワガママになってしまうけど。

 君にそうして欲しいとは口が裂けても言えないけれども。

 もし、仮に君がそう思ってくれていたのなら。僕と同じ気持ちでいてくれるなら。

 

「じゃあいつか絶対に、わたしの隣に帰ってきてくれますか?」

 

 君にそんな──泣きそうな笑顔を浮かべさせてしまった僕が。

 君の願いに、応えてあげられなかったこの僕が。

 君が好きだと言ってくれた、君のことが大好きな岩根勇吾が。

 

「あぁ、約束するよ。絶対に帰ってくる」

 

 いつの日か隣にいることを、どうか許して欲しい。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「ところでユーゴ先輩、小説ってもう完成したんですか?」

「それ今聞かなきゃダメなやつ????」

 

 翌日、つまり僕と伊吹さんがお互いに気持ちを打ち明けあってから一晩が経ち──僕たちは、いつものように、いつもの喫茶店に集まっていた。

 しかし、まぁアレだ。

 昨日の出来事が出来事だっただけに、僕はどんな第一声を発するべきかかなり悩んでいたのだけれど、伊吹さんは席に着くなりこう言ってきたのである。

 昨日のことにはノータッチだ。

 別にいいんだけどさ……確かに、あの後はジュリアさんと馬場さんに連れられて、他のアイドルに見つからないようこっそりシアターを抜け出そうとしていたところ、運が悪いことに双海姉妹に見つかり大騒動になりかけたので、あの辺に関しては僕としても記憶から消去したい。

 で、なんだったか。

 そうだ、小説の話だ。

 

「だって、ほら。一ヶ月も空いてたし、どうなったのかな〜って」

「……はぁ。一応、完成が見えてきたところだよ」

「え〜!! どんなお話なんですか? ちょっとだけ聞かせてくださいよ〜、ダメぇ?」

「うっ、そうだな……」

 

 反射的に、習慣的にダメだと言いそうになったけれど、随分と待たせているという自覚があるためか、それとも僕自身この話を誰かに聞いて欲しいと思っていたのか……それは定かではないが、僕はやや頭の中を整理して、伊吹さんに語り始めた。

 

 

 その世界では、人々は陸と、そして空に住んでいた。

 陸に住む人々は2本ずつの手足を持ち。

 空に住む人々は2本の足と、一対の翼を持っていた。

 空に住む人々は地面で生活する人々を、窮屈に生きる愚か者と小馬鹿にしており、陸に住む人々もまた大空の人々を家も建てられない馬鹿だと見下していた。

 そんなある日、陸に住む一人の少女は、散歩の途中で翼を持った少年と出会う。

 彼は嵐に巻き込まれ、自慢の翼に怪我を負い、自由を失ってしまっていた。

 少女は少年に言った。

「うちで怪我を治していきなさいよ」

「馬鹿を言え、翼も持たない奴と一緒にいられるか」

「あら、その翼とやらが使えない今の貴方と私、いったいなにが違うっていうの?」

 言い返せなくなった少年を荷車に乗せると、少女は彼を連れて帰り、世話をしてやった。

 少年は初めて経験する、陸での暮らしに戸惑っていたが、次第に慣れていき、ある時少年はこう言った。

「なんで、俺を助けたんだ? 俺たちはいつもお前らを馬鹿にしてるのに」

「それはお互い様だし、私個人は貴方を馬鹿だとは思ってないし──実を言うと、その翼を羨ましくすら思っていたわ」

 自由に空を飛べる、その翼が。

 だから翼が傷ついて、地に落ちていた少年を見捨てることが、彼女にはできなかった。

 それから、少年は少女に心を開き始めた。

 翼のあるなしなんて、その頃にはもう、気にならなくなっていたからだ。

「俺の翼が治ったら、お前を抱いて飛んでやるよ」

 そう言って、少年は少女に笑いかけた。

 けれど、その日が来る前に、二人の生活はある終わりを告げた。

 村の外れに住む娘が、空の民を匿っている。

 そんな話が、どこからか漏れてしまったのだ。

 周りを囲まれてしまった少女の家。

 外に出れば少年はもちろん、少女もどんな目に遭ってしまうか。

 それを悟った少年は、飛んだ。

 彼女を連れて、空へと羽ばたいた。

 しかし、まだ治りきっていない少年の翼が、二人分の体重に耐えられるわけもなく。

 飛べば飛ぶほどに、彼の翼には血が滲んで、壊れていった。

「もう駄目よ、もういいから!! これ以上飛んだら、分かっているの?! 二度と飛べなくなってしまうかも知れないのよ!!」

「あぁ、分かってるよ」

「ならっ!!!!」

「でも、やっと分かったんだ。この翼が、なんの為に──誰の為にあるのかって!!」

 そして、彼は飛んで、飛び続けて──

 

「うん、この先は実際読んで欲しい」

「え〜〜〜〜!!?? いいところだったのに!! ユーゴ先輩酷い!!」

「全部話したら意味ないだろ?? これでも話過ぎたくらいだ」

 

 そう言っても、伊吹さんはまるで納得していない様子だった。

 なので、仕方なく僕は、もう少しだけこの小説について話すことにした。

 

「じゃあ、こうしよう。小説のタイトルくらいなら教える、どう?」

「ん〜、じゃあ、それで良いです。でもでも、完成したら真っ先に、わたしに!! 読ませてくださいよ」

「わかってるよ、そういう約束だしな。忘れてないって」

 

 頬を膨らませた伊吹さんに、僕はそう言って笑いかける。

 では、教えるとしよう。

 僕が2年間かけて書いてきた、この小説の題名を。

 君と出会ってからふと思いついて、もうこれしかないと思えた、その名前を。

 

 

「この小説の題名は────」

 

 

 

 



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その物語のプロローグ

 

 

 

 3月19日。

 特にこれといって祭日なわけでも、記念日でもないこの日は、しかし僕にとって大きな意味を持つ日付けだった。

 僕にとって。

 そして、僕たちにとって。

 岩根勇吾と、伊吹翼にとって。

 大きな意味を持った、大きな節目の日だ。

 この日、3月19日は。

 

 ──私立星見ヶ丘学園中等部の、卒業式であった。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「お邪魔しま〜すっ!!」

「ん、いらっしゃい。伊吹さん」

 

 すっかり馴れた手つきでハンガーに上着をかける伊吹さん。

 その様子を、僕はもはや傍観の目つきで眺めることしかできなかった。

 いや、僕だって最初は止めたのだ。

 いくら好き合っているからって、現役のアイドルが男の部屋に来るのは流石に不味いと、そう言って止めたのだ。

 なのに、伊吹さんときたら。

 

『ユーゴ先輩。次ダメって言ったら、わたしユーゴ先輩のことシアターの皆んなに話しちゃうかも〜、えへへっ♪』

 

 えへへっじゃないが??

 しかも父さんは伊吹さんにいつでもおいでと言って、あろうことか合鍵を渡してしまう始末だ。

 外堀は人質に取られ、内堀が自分から埋まりにいった本丸は、悲しいほどに無力だった。

 基本的には喫茶店で落ち合う僕たちだったけれど、少しずつ僕の部屋に上がる頻度が増えて、オフの日曜日になれば彼女は朝一から押しかけてくる。

 なので、僕は中途半端な抵抗を、反撃不可能な篭城をするのは止めたのだ。

 ……まぁ、僕も口ではあれこれ言いはしたけれど、彼女の気持ちが分からないでもなかったから。

 少しでも長く、二人でいたいという彼女の気持ちが、その言い分が。

 

「じゃあ、その辺にかけててよ」

「は〜い、じゃあユーゴ先輩のベッドに──」

「分かった、僕の言い方が悪かった。言い直そう、そこの椅子にかけててくれ」

 

 油断の隙もない伊吹さんを椅子に座らせ、僕はコップと麦茶を用意すべく、台所へ向かう。

 すると、まだ着替えていなかったらしい、珍しいスーツ姿の父さんが、ちょうど携帯電話を仕舞うところであった。

 ……ははぁん?

 

「なにさ父さん、また母さんと電話?」

「む、勇吾か。そうだ、母さん卒業式の様子を気にしていたからな」

「別にわざわざ電話しなくたって、今晩にでも直接話せばいいのに」

 

 すると、父さんは眉間にシワを寄せて──最近気が付いたのだが、これは父さんの照れているという合図である。兎も角、シワを寄せてこう言った。

 

「式が終わったら、すぐ電話するように言われててな……」

「相変わらずだけどさ、母さんに弱過ぎない??」

 

 父さんは、母さんに弱い。

 いや、弱いというか甘い。滅茶苦茶に甘い。今日も母さんに頼まれたとかで、何枚もの写真を撮られる羽目になったし。

 

「ふっ……勇吾もいつかはこうやって、伊吹さんに振り回されることになる」

「すでに振り回されっぱなしだからなぁ、僕の場合」

 

 これ以上振り回されてしまうと、そのまま空へ飛んでいきそうなくらいだ。

 そいつは勘弁願いたい。

 コップと麦茶のボトルを盆に乗せ、部屋へ戻ろうと歩き出す。

 

「勇吾、分かってると思うが──」

「うん、大丈夫。5時には出られるように準備しておくから」

「……そうか。いや、ならいいんだ」

 

 なにかを言いたげな父さんの視線を背に、部屋へ戻る。なにを言いたかったのかは、だいたい分かっているけれど。

 そして部屋に戻ると、椅子に座っていたはずの伊吹さんの姿はなく。

 

「……なにを、しているのかな。伊吹さん?」

「えへへっ、ユーゴ先輩の布団に包まってま〜す♪」

 

 僕のベッドの上に敷いてあった掛け布団が、不自然に盛り上がっており、その中から聞き覚えしかない声が返ってくる。

 

「包まってまーす、じゃない!! 今すぐそこを退きなさい!!」

「え〜、でも──」

「でももだってもあるかーっ!!」

 

 言いながら、僕は布団をひっぺがした。

 そして、その勢いのままに伊吹さんへ一言物申そうとした。

 申そうとして──布団の下で膝を抱えた伊吹さんが、眉を八の字にしているのを見てしまった。

 

「でも、今日が最後なんだもん……」

「別に、最後ってわけじゃないだろ?」

「この家で会えるのは、最後じゃないですか」

 

 確かに、そのとおりだ。

 今日この日、僕と父さんは北海道へと引っ越す。

 必要な荷物は既に送った後だし、大きな家具やら家電やらは、後で業者さんに頼む手筈となっている。

 なので、この家で、そしてこの部屋で伊吹さんに会うのが最後だというのは、間違いではない。

 

「……はぁ、分かったよ。僕もベッドに座るから、とりあえず起きてくれ」

「やったぁ〜、ユーゴ先輩大好きっ!!」

「だからって隣に密着して座ってとは一言も言ってないぞ!!」

 

 さっきまであんな寂寥感溢れる顔をしていた癖に!! また演技力に磨きをかけおって、さっき父さんにはあぁ言ったが、僕も人のことを言えないな……

 グイグイ迫ってくる伊吹さんから、なんとか拳一個分の距離を確保した僕は、持ってきたコップに麦茶を注ぎ彼女へ差し出す。

 でも伊吹さんは左手でコップを受け取ると、空かさず右手もこちらへ伸ばし。

 

「それじゃあユーゴ先輩──約束のアレ、見せてくださいっ」

「えっ、もう読むの?」

「だって〜、続きが気になって仕方なかったから」

「ははは。そう言ってもらえるのは、作者冥利に尽きるよ」

 

 そう言って、僕は引き出しに閉まっていたファイルから、原稿用紙の束を取り出した。

 これは僕が書いた小説の、その最終章にあたる部分である。

 これまで伊吹さんには自己採点ならぬ自己添削をした部分から順に読んでもらっていたのだが、ギリギリ最終章の添削が間に合った形になる。

 伊吹さんは原稿用紙を受けるや否や、いつものように黙々と目を滑らせ始めた。

 こうなると、多少の呼びかけには全く応えてくれない。ちょっとしたトランス状態だ。

 こういう異様な集中力を、彼女は時折発揮する。

 時間にして、1時間半ぐらいか。

 最後の原稿用紙をめくり終えた伊吹さんは、ポツリと。

 

「あの二人は、幸せになれたのかな……」

 

 言うまでもないことだけれど。

 僕は、この小説の作者だ。

 だから、伊吹さんが零した疑問に──感想に、正確な答えを出す権利がある。

 けれど、それはなんだか……とても、もったいないと僕は思ってしまった。

 彼女の前には、無限の選択肢が広がっているのだから。それを僕の決めた結末で、その一つに定めてしまうのは、やはり違う気がするのだ。

 僕にとっての、二人の結末はもちろん決まっているけれど。

 伊吹さんにとっての、二人の行く末が必ずしも僕と同じである必要は、ないと思う。

 

「幸せ、だといいな」

「……うん。きっと、きっと幸せなんだと思います」

 

 だったら、それが答えなんだ。

 他の誰が、なんて言おうと、きっと。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 楽しい1時間は、体感5分で。

 退屈な5分は、体感では1時間になる。

 なんて話に当て嵌めるのだとしたら、僕らの時間はあまりにも短過ぎた。

 互いの気持ちを確かめ合ってからの、数ヶ月も。

 そして、今日だって。

 いや、そもそもこの1年間が。

 

「ホント、濃い一年だったよな」

「ユーゴ先輩は、楽しかった?」

 

 二人でベッドに座りながら。

 答えの分かりきった質問に、分かりきった答えを、僕は返す。

 

「あぁ、掛け値なしに。当たり前だろ、伊吹さんは?」

「楽しかったです、当たり前じゃないですかぁ〜」

「そっか」

「そうですよ〜」

 

 僕が決まりきった疑問を投げれば、伊吹さんは決まりきった返答を返してきた。

 だからこれは、確認作業みたいなものなのだ。僕と伊吹さんの、僕たち二人の。

 

「じゃあ伊吹さん。向こうでも応援してるから、しっかりな」

「ユーゴ先輩も、次回作待ってますからね」

「うん、期待して待っててくれ」

「…………」

「…………」

 

 もう本当に、時間がない。

 だから、話せることは話したつもりだ。

 話せるだけ、話してきたつもりだった。

 でも、いざ別れるってなると。

 最後の言葉を口にするのを、どうしても躊躇ってしまう、自分がいる。

 そんなことをしたって、飛行機の時間が遅れるわけでもないのに。

 

「ユーゴ先輩、わたし頑張るから……わたしが雑誌に載ったら、チェックしてくれますか?」

「あ、あぁ。もちろんだ」

 

 隣に座った伊吹さんは、僕の目を見上げていて……その目は、これ以上ないってくらいに潤んでいた。

 

「TVに出たら、ちゃんと見てくれますか?」

「あぁ、見逃さない」

 

 伊吹さんの手が、そっと僕の手に重なって。

 

「私のCD、ぜぇーったい聞いてくださいね」

「当たり前だろ、ファン第1号なんだから」

 

 僕も、彼女の手を握り返す。

 それだけで、彼女と心が繋がった気がした。

 ……いや、それは僕の思い違いで、思い上がりだったのかもしれない。だって、僕には分からなかったからだ。

 

 

「──ユーゴ先輩。キス、してください」

「伊吹さん、それは……」

 

 伊吹さんが、こんなことを言い出すなんて。これまで一度も、そういうことは言わなかったのに。

 したい、とか。

 したくない、とか。

 そんな選択肢以前に、突然の要求に固まってしまった僕へ、伊吹さんは完全に上半身を預けて──僕の肩へと、顔を押しつけながら。

 そして僕は、自分の肩が濡れるのを感じながら、彼女の言葉を聞いた。

 

 

「もう、ワガママは最後にするから──ダメぇ?」

「…………ダメじゃ、ない」

 

 そっと、伊吹さんの肩へ手を置き、ほんの少しだけ彼女との間に距離をつくる。

 至近距離で見た伊吹さんの顔は、相変わらず整っていた。

 長い睫毛に、真紅の瞳、鼻筋はとても綺麗で──その唇は、花弁のようだった。

 そうして作った距離を、今度は自分から狭めていき。

 

 ──やがて、僕らの距離はゼロになった。

 

 体と、そして心の距離が、ゼロになる。

 これから僕らの体は離れ離れになってしまうけれど。

 でも、きっと大丈夫だ。

 体は離れてしまっても、心までが離れてしまうわけじゃない。

 だから、僕たちは大丈夫。

 心が側にあれば、どんなに遠くにいたって、君を想えば隣にいられる。

 物語にはプロローグと、エピローグがあるけれど。

 これは決して、エピローグなんかじゃない。

 だってこれは、始まりだ。

 終わりではなく、始まり。

 エピローグではなく、プロローグ。

 僕たちの前に、無限広がる選択肢の、その物語のプロローグなのだから。

 

 

 

 



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