ロイヤルより愛をこめて (加賀崎 美咲)
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1話

 柔らかい陽光に照らされた中庭、整えられた庭草に囲まれたその場所に小さなテーブルが設けられていた。処女雪のように汚れ一つないテーブルクロスが敷かれ、繊細な模様を描かれた食器の上には、食欲をそそるサンドイッチや焼き菓子が並べられていた。

 

 そんな昼食の席に座っている二人はメイドと主人であった。椅子に座らされた主人は優雅な手つきで紅茶を淹れるメイドをぼんやりと見ていた。メイドが紅茶を煎れ終えて主人と自分、二人のための薄茶色の紅茶をテーブルに並べて、見ていた主人が少し得意げに口を開いた。

 

「あぁ、これは知っている。『ロイヤル』ミルクティーだね?」

 

 そんな主人の得意げな表情をメイドは可愛らしいものでも見たように、貴婦人を連想させる笑みを浮かべて肯定した。

 

「はい、その通りでございますご主人様。……ただ、ロイヤルのメイドとして一つだけ注釈を入れさせて頂くと、こうしてミルクで煮出したものはシチュード・ティー、ロイヤルミルクティーと呼ぶのは重桜の文化でございます」

 

「そうだったんだ。君は博識だね。ものを知らない自分が恥ずかしくなってくる」

 

「もったいないなき言葉。浅学の身、ただ仕事に関わることでしたから知っていただけで。それより、ご主人様からわたくしたちのことを知ろうとしていただけただけでも、このベルファスト、天にも登る気持ちでございます」

 

「ベルファストは私をおだてるのが相変わらず上手だ。あまりそう褒められると、そのうち得意になって木登りでも始めてしまいそうだ」

 

「それは重桜のことわざでございますね」

 

 今度はメイドが得意げな顔を見せる。主人は我のことのように嬉しそうにして、小さく手を叩いて拍手を鳴らしていた。そしてメイドの顔を覗き込み、イタズラを企む少年のような顔で彼女に問うた。

 

「正解だ。さすがだね。それでは正解者には何を進呈したらいいだろう?」

 

「いえ、ご主人様。メイドに報酬など不要。あなたに仕えることこそが最上の喜びを与えてくれる報酬でございますとも」

 

 微笑み、心の底から思っていると言うように、メイドは小さくお辞儀をした。しかし主人はそれを面白くなさそうに唇を尖らせて、彼女に突っかかる。

 

「ベルファスト。そう、遠慮ばかりしてしまうのは君の良いところだけれど、欠点だね。私は君の主人なのに与えられるばかりで、君の主人が私である必要がないんじゃないかって思ってしまうよ」

 

 主人の愚痴のような小言に、メイドは困ったような笑みを浮かべる。子供の主張のような文句にメイドは必要とされて嬉しく思う反面、最低限以上に求められていることに起因する複雑な感情を持て余していた。

 

 彼女はでしたらと湯気が立つ紅茶を示して。

 

「では、せっかく煎れた紅茶の感想などを、できましたら冷めてしまう前に」

 

「君は安上がりなメイドさんだ」

 

 嘆息と共に紅茶に口をつけた主人は一言、美味しいとだけ感想を述べた。熱い紅茶を少しづつすする静かな音だけが二人の間を流れる。険悪といかないでも、少し居心地が悪いことには変わりない。

 

 先に折れたのはメイドの方だった。嬉しさと困った様子をごちゃ混ぜにした顔で、彼女は主人のご機嫌をうかがって慎重になっていた。

 

「ご主人様。感謝の気持ちを示したいという、ご主人様のお気持ちは嬉しいのですが、私は一介のメイドでございます。一人だけ特別扱いされては他の者に顔向けできません。ですから……」

 

 目に見えて特別だと分かってしまうお礼などされてしまうと困ると、メイドは言う。いつも良くしてくれる彼女へ、その気持ちを伝えようとしていた主人はそんな彼女のメイドとしての吟味を煩わしいと思いつつ、そんな職務に忠実な彼女らしいとも見ていた。

 

 うまい着地点が見つからず、主人は小さくうなっていた。それはそうと紅茶は相変わらず美味しい。煎れた茶葉、用意された茶菓子、テーブルの装飾、どれをとってもメイドの仕事は完璧だった。

 

 そこでふと気がついた。テーブルの中央、薄い色の花をつけた花が置かれている。生花ではなく、色あせる事がないプリザードフラワーだ。それを見て主人はいいことを思いついたと自分の発想を自賛しつつ、浮き足だつ表情でメイドを見た。

 

「ベルファスト。今度のアフタヌーンティーは、私が花を用意しよう。それくらいはいいだろう?」

 

「花でございますか? そのような些事、私がいつものように……」

 

「違うんだ。ベルファスト」

 

 主人は笑みを深くして、メイドの手をそっと優しい手つきで取り、宣誓を行う騎士のようにひざまづいて、メイドの顔を見上げている。

 

「君が用意してくれるお茶会に、今度は私が花を送るよ」

 

「そのような、ご主人様の手を煩わせることなど」

 

「君とのお茶会にトネリコの花を置こう。白くて可愛らしい花が咲く。もうすぐそんな季節だ。お茶会には相応しくない花かもしれないけれど、いいだろうか?」

 

 そんな主人のねだりにメイドは少しの合間、らしくもなく面食らった顔をした。その花の意味を思い出していたからだ。すぐに惚けた顔を直して姿勢を正して毅然と構えて、普段通りに戻ろうと努める。

 

「ご主人様がそうおっしゃるのでしたら、一介のメイドに拒否をする権限などございません。ええ、ありませんとも」

 

 そう話す声は喟然とした普段通りの調子だけれど。それ以外の表情は緩んでいて。感情を隠しきれないのか耳が小さく動き、紅茶のおかわりを入れる手つきは弾んで軽やかだ。

 

 メイドは主人の気持ちと、それを他のメイドには分からないようにそれを示す気遣いに彼女は小さく笑っていた。つられて主人も小さく笑っている。二人でいる素朴な幸福を感じながら。

 

 季節は冬が明けて、春になろうとしている。新緑が芽吹き、蕾をつけた花が花開こうとその時をただ静かに待っていた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 その鎮守府は周囲を小高い丘に囲まれた地形にある軍港にあった。今世紀に入り、昔ながらの古都から近代的な戦いのための港に作り替えられたため、そこへ続く道のりは少し荒い砂利道を経由してのものだった。鎮守府へ向かう軍用車は士官用の、比較して高価な車両が砂利道にタイヤを汚しながら、目的地へと向かっている。

 

 高級な皮の背もたれに背中を預けている人物は、そんな軍用車には似つかわしくない人物だった。隣には手提げの鞄を置き、取り出したのであろう書類の束ををめくって読んでいた。優雅ささえ感じる所作を見せる彼女だが、その服装は珍妙の一言だ。俗にメイド服と呼ばれる給餌服に彼女は身を包んでいた。

 

 公務の軍用車とメイド。実に不自然な組み合わせだが、そのような感想を持つ者はいない。むしろ、この組み合わせこそが自然であると人々は口にするだろう。それはひとえに、彼女の存在があまりにも有名すぎるからだ。

 

 エディンバラ級二番艦『ベルファスト』。過去に存在した軍艦と同じ名を彼女は与えられ、彼女が人ではなく戦うために作られた道具に他ならないことを意味していた。

 

 かつてこの水の星で人々は文明を発展させていた。しかし永遠に続いていくと無邪気に信じられていた輝かしい未来は、突如現れた『セイレーン』を名乗る異形の敵によって破壊された。シーレーンは破壊され、陸地の奥に移住を迫られて、人類はあわや根絶を目前にしてしまう。

 

 その人類の敵に対抗するように現れたのがベルファストと同じ、過去の軍艦を模して作られた『KAN―SEN』たちであった。彼女らは反セイレーン勢力、『アズールレーン』の組織立ち上げを狼煙に、セイレーンへの反撃を開始した。度重なる戦いにより、人類はなんとか生存圏を維持できる程度には世界を取り戻していく。

 

 しかし苛烈極まる攻防の中でいくつものKAN―SENの命が果てていった。各鎮守府で欠員ができると、大本営から新たに建造されたKAN―SENが補充されていて、人類は生存圏を崩壊寸でのところで維持することができていた。

 

 そして今、軍用車に揺られているベルファストもそんな補充要員の一人だった。手元の資料をパラパラとめくり、ベルファストはこれから自分が所属することになる鎮守府の詳細を見ていた。

 

「保有するKAN―SENは中規模ながら、東部方面海域において優秀な戦績。特に半年前に決行された侵攻作戦では、最小限の損害でセイレーンに占拠されていた島々を制圧し、海域を奪還、功績を評価され叙勲までされている。なるほど、とても優秀な指揮官のようです」

 

 そう言いながら、ベルファストは期待に少なからず胸を膨らます。あくまで戦うための軍艦であるはずの彼女だが、メイド服を着ているが故か、それとも生来の気質か彼女には指揮官となる者への奉仕の欲求が少なからず存在した。そして使える主人が優秀であればあるほど、大きな満足感と充足を得られると、ベルファストは本能的に理解していた。

 

 そうした性質は建造された全てのベルファスト共通のキャラクターであり、他の鎮守府に所属するベルファストも同じように指揮官への奉仕を日々完璧にこなしていた。

 

 これから世話になる鎮守府での自分の働きを想像して、早く車が到着しないかとベルファストは車窓から外の景色を眺めた。あいにくと空模様は薄暗く、今にも雨が降ることを予感させる気持ちの良いものではなかった。

 

 

 

 ●

 

 

 

 車が鎮守府の正門に到着したのは昼過ぎだった。高く厚い正門の前には憲兵が立ち、ベルファストが軍用車から降りてくるのを認めると、敬礼して彼女を迎え入れた。少し待つように言われ、ぼんやりと去っていく軍用車を見送っていると、先ほど眺めていた建物の方から歩いてくる人影が見えた。

 

 やって来た人物はベルファストとデザインの違うメイド服を着ており、ベルファストは初対面ではあったが、記憶からそれが誰なのか見覚えがあった。ベルファストの姉妹艦であるエディンバラだ。ベルファストにとっては姉に当たる存在である彼女も、ベルファイトの姿を見ると驚いたような顔をして、すぐに親しい姉妹にするような笑みを浮かべて彼女はベルファイトの前へと立った。

 

 対面すると二人は鏡写しのようであった。妹であるベルファストはどちらかというと綺麗な女性であり、長い睫毛や切れ長な瞳が知性や独り立ちした強い女性を思わせる。対して姉であるエディンバラは妹と比べて愛らしい女性であり、少し度の強い丸メガネや困ったような形の眉は庇護欲を引き立て、守ってあげたくなる女性像を作り出している。しかし鏡合わせのような二人も、姉妹であるからか顔立ちや表情の雰囲気は近しいものがあって、二人が姉妹だということに疑念を抱かせる余地はないように思える。初めての対面だけれど、長年連れ添った姉妹のように彼女らはやりとりを行う。

 

「お久しぶりです姉さん。ご息災で何よりでございます。本日より私もこの鎮守府でお世話になる身、ご指導よろしくお願いします」

 

「あなたとは、はじめましてになるのね。ええ、これからよろしくねベル。さ、指揮官がお待ちだわ。指揮官のいらっしゃる執務室まで案内するからついてらっしゃい」

 

 それに天気も崩れそうだわ、とエディンバラがベルファストを急かしつつ、二人は先ほどから見えていた官舎へと歩みを進み出した。官舎はベルファストが思っていたよりもさらに大きな建物だった。お堅い軍の建物という雰囲気はあまりなく、どちらかというと大学の新しいキャンパスを思わせる見通しの良い建物であった。しかしそこへ一歩足を踏み入れ、ベルファストはらしくもなく、面食らって動きを止めてしまう。

 

 目線だ。それまで官舎の中では何人ものKAN―SENが思い思いに過ごしていた。だがベルファストが官舎に足を踏み入れる姿を認めると、その顔を見て驚いたような、どこか引っ掛かりを覚えたような顔をしていた。

 

「——ねぇ、あれって……」

 

「指揮官はやっぱり……」

 

 幼い外見の駆逐艦たちは集まって、聞こえないような小さな声で何かを相談して、ベルファストと目が合うと一目散に雲子を散らすように何処かへ姿を隠した。

 

 どこか暗い影が鎮守府の空気にはあった。しかし前を歩くエディンバラは特に気にした様子もなく、もしくは気がついていないのか軽い足取りで廊下を進んでいく。しかしそんなエディンバラの様子にどこか彼女らしさがないように感じたベルファストは、エディンバラを呼び止めた。

 

「姉さん、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」

 

「はい? どうしましたベル? 大したことでなければ、早く指揮官の元まであなたをお連れしたいのだけれど……」

 

「その……。どうして皆さまは、ああいう……」

 

 暗い雰囲気なのか、とは言葉が続かなかった。直接的な言葉を避けてしまったために言い淀んでいると、何かを察したらしいエディンバラが微笑み、大丈夫だと言う。

 

「ああ、そうね。ベルはまだ来たばかりだから知らないわよね。お姉ちゃんうっかりしていたわ」

 

「と、言うと?」

 

「ついこの間までロイヤルの総力を上げた、セイレーンへの大規模侵攻作戦があってね。もうすぐ最終攻略作戦を控えてるの。だからみんな少しピリピリしてる。きっとすぐにみんなもあなたも慣れるわ」

 

「……そうですか」

 

 エディンバラの言うことにひとまず納得したようにベルファストはうなずいて見せた。だが、この鎮守府の妙な雰囲気は、その説明だけでは足りないことは明らかだった。しこりのような、問題を後回しにしてしまった後悔が残るベルファストとは反対に、エディンバラは軽やかな足取りで進んでいくと官舎の中央、指揮官の待つ執務室に到着していた。

 

 部屋をノックし、先導していたエディンバラが返事も待たずに扉を開く。そのようなメイドにあるまじき所作を見て何か言おうとしたベルファストだったが、それはそれ以上の衝撃に遮られることとなった。扉を開け中の様子を見てベルファストが最初に思ったのは、そこが酷く簡素な部屋であることだった。執務室には指揮官の使う木製の机と応接用のソファーがいくつかあるのみで、他には執務に必要な道具や書類があるばかりだった。

 

 そのような無機質な部屋の中で彼は扉の開いた音を気にした様子もなく、手元の書類を処理している。その横で黙って姿勢を正して控えていた、栗色の髪をしたメイド服のKAN―SEN、ベルファストと同じロイヤルに属するタウン級軽巡洋艦、シェフィールドが目を開いてベルファストの顔を見ていた。

 

「指揮官、どうやら連絡のあったベルファストがいらっしゃったようです」

 

「——あぁ、もうそんな時間か」

 

 返事に使われたのは気怠げな声。そこでやっと彼は初めて書類から顔を上げて前を見た。待ちに待った指揮官との対面に思い描いていたものはなく、ベルファストはそれまで持っていた淡い期待が冷や水をかけられたように失われたのを感じる。指揮官と目が合い、ベルファストは少し恐ろしくなった。

 

 その目だ。そこの読み取ることのできない暗い一対の瞳がベルファストを見ている。それはまるで勇者ペルセウスを石に変えてしまいそうになった怪物ゴルゴンの呪いの視線のように彼女を釘付けにしてしまった。

 

 そのまま部屋の中で誰も言葉を発さず、長い沈黙が続いた。そんな停滞を破ったのはエディンバラだった。彼女ははにかんで見せて、何も言わない指揮官をたしなめた。

 

「指揮官? 新たに着任したベルファストですよ? 歓迎の言葉など如何でしょう?」

 

「そうだな、エディンバラ。君のいう通りだ。……はじめまして、ベルファスト。私はこの鎮守府を預かり、KAN―SENの指揮を一任されている、君たちの指揮官だ」

 

「ご機嫌麗しゅうご主人様。すでに聞き及んでのことだとは承知の上で。エディンバラ級二番艦のベルファストでございます。今後とも武勲と奉公、両方の面からご主人様を支える所存でございます」

 

 少し面食らいながらも、何度か心の中で行った練習通りの挨拶ができたと、内心でベルファストは会心の出来に手応えを感じていた。これからKAN―SENとメイド、双方の役割から指揮官に仕えよう、そう思っていたところで、そのベルファストの思いは呆気なく潰えることになった。ベルファストの宣言を聞いて、指揮官は首を振る。

 

「いや、ベルファスト。きみには今後予定されているセイレーンが制圧している海域での攻略作戦における活躍だけを期待している。私は君にメイドとしての働きは一切望んでいない」

 

「それは一体どういった……」

 

 指揮官の拒絶と取れる言葉にベルファストは少なからず動揺していた。KAN―SENはその人型の軍艦としての機能をこなす上で、人とより密に接することができるようにある程度のキャラクター付けが意図的に行われていた。ロイヤルであれば貴族社会から選択されたそれを、鉄血であれば殺戮の担い手としての個性を、他勢力もそのモデルに準じて個性付けが行われている。

 

 人とのコミュニケーションのための用意されたそれはKAN―SENにとってもある種のアイデンティティーに相当するものであり、それを不要というのは人のようなKAN―SENをただの兵器、破壊の道具と同じように扱うと言うのに等しかった。それをKAN―SENを指揮する指揮官が自ら行おうとしている事実は、ベルファストに少なくない混乱をぶつけていた。

 

「指揮官、昼食の時間です」

 

「……ああ、もうそんな時間か。——失礼する」

 

 何も言わなかったシェフィールドが手元から懐中時計を取り出し、時刻を確認して指揮官に伝えた。シェフィールド言われ、指揮官は執務机の影から少し年季を感じるランチバスケットを取り出して中身を出した。机の上に並べられたのは黒い水筒と携行用の軍用食、俗にレーションと呼ばれるものであった。

 

 水筒の蓋を外し、蓋をコップ代わりに中身を注ぐ。流れ出てきたのは真っ黒なコーヒーである。それを軽く口に含んで口の中を湿らせ、ビスケット状のレーションを食していく。食事はものの数分で終わった。出たゴミと空になった水筒をランチバスケットに戻し、何事もなかったように指揮官は仕事を再開していた。その光景にベルファストは唖然としていた。そして気がつくと、彼女は怒りを持って怒鳴り声を上げていた。

 

「シェフィールド! エディンバラ! これは一体どういうことですか!」

 

 流石に叫ばれては無視できず、指揮官は手を止めて顔を上げ、隣にいたエディンバラは驚きに少し体を浮かせ、黙っていたシェフィールドも彼女を一瞥していた。煩しそうに顔を歪ませて、シェフィールドが確認するようにベルファストをにらんだ。

 

「どういうこと、とは一体どのことを指したのでしょうかベルファスト。今あなたが怒りを露わにする必要がどこにありました?」

 

「なぜロイヤルのメイド隊たの一員たる者が、ご主人様にそのような冷や飯を食すことを許しているのですか。そのようなことを許すあなたではないでしょう? なぜそのようなことがまかり通っているのですか、説明なさい!」

 

「指揮官は周囲のことを自ら行なっています。我々に与えられた職務は戦場での戦争行為のみ、秘書艦である私はこうして指揮官に時間の経過を正確に伝えることが職務です」

 

「それがロイヤルのメイドの言葉ですか!」

 

 シェフィールドの主張にベルファストが自分が怒りで頭が充満されていくことを自覚して、それでなお止められそうになかった。叫び、今にもシェフィールドに掴みがかりそうな勢いのベルファストを制止したのは指揮官であった。どこか謝るような口調で話しかけてる指揮官の表情は暗い。

 

「いいんだベルファスト。先ほども言っただろう? 私は君にメイドとしての働きは望んでいない。君だけじゃない、すべてのロイヤルのメイドにはその業務を無期限に停止させている」

 

「そんな……、一体どうして」

 

「セイレーンとの戦争に立つため。私は道具以上の働き、行動を、君たちの望んでいない。君たちは命令される道具として、敵を殺す仕事だけに専念してくれていればそれでいい」

 

 そう言った指揮官の声色はベルファストがなんと言おうと、意見を変えるつもりはないのだと言外に伝えていた。主人をたてるメイドとしての吟味が自分自身を縛りつけ、それ以上の追求をベルファストにさせなかった。

 

 もう言うことはないと、指揮官はベルファストに退室を促して 、無言になったベルファストはエディンバラに連れられて、執務室を出て行かされた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 執務室から退室させられたエディンバラは、これからベルファストが使うことになる自室へと連れていくと言った。官舎に併設された宿舎に行く道は石畳が敷かれ、葉脈のように広がって続いていく。整備された道の一つ一つが母校の端々へ伸びていくが、行先が建物の影に隠して目的地を見せない。そんなロイヤルらしい景観演出が、見たことのない記憶だけのロイヤル感の故郷をベルファストに連想させた。

 

 ベルファストには訪れたことのない、自身の名前の由来となった國の風景の記憶があった。メイドとして、艦船としての知識もある。これはすべてのKAN―SENに共通する仕様であった。誰もが当たり前のように経験のない、KAN―SENとして機能するための知識や記憶を与えられていた。ベルファストをはじめとする全てのKAN―SENは兵器としての揺らぎのなさ、人に使われるが故のキャラクター性を求められ、そうした仕様を皆一律に同じ機能、同じ人格を有して、各母港に配属される。

 

 そんな自分のもので、同時に自分のものではない記憶を持った同一の存在に思うKAN―SENたちではあったが、大本営により同じ母港には同じ艦は一体のみという方針が取られていることで強く意識する機会もそれほどない。

 

 そんな思索にふけっていると前を歩いていたエディンバラが申し訳なさそうな表情でベルファストに見せながらふり返った。

 

「ごめんなさいベル。でも指揮官を許して欲しいの。普段はもっと優しい人なのよ。だけどもうすぐ海域の攻略も佳境だから……」

 

「ですがあのような……。それに私たちメイドは主人に仕え、必要とされる前から動くことこそ至上。それを、あまつさえ、ご主人様にあのような粗末な食事を許すなど」

 

「でも指揮官がいらないと言っているのだから、私たちのしたいことを無理やり押しつけるわけにもいかないわ」

 

「そうかもしれませんが、私は……」

 

 ないもしない自分を許せない。鳥が空を飛び、魚が水の中を泳ぐように、ベルは指揮官に仕えることで初めて自分が自然体でいられると思っていた。だからこうして仕事を振られず、待機を強いられた現状はベルファストには受け入れがたい。

 

「きっとそのうち、また指揮官が私たちの作った食事をいただいてくれる日がまた来るわ」

 

「それまではメイドではなく、ただの兵器でいろと?」

 

「少なくとも指揮官はそう望んでいらっしゃってる。ならその要望に寄り添うのもメイドの務めでなくて、ベルファスト?」

 

 そうベルファストを説得しようとするエディンバラには、疲れたような諦観をその声に滲ませていた。疲れ切った笑みを浮かべる姉に、ベルファストがしてあげられることは何もなかった。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 



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2話

 がらんとした母港の中をベルファストは歩いている。まだ明け方であるため、誰も起きてくる気配はなく、周囲に人影はない。そんな時間にベルファストが起きてしまったのも、ひとえにこの母港の状況と指揮官から下されたメイド業務の一切の停止が原因だった。

 

 要するに何もすることがない。この一言に尽きる。

 

 朝目覚めて、適当に一日を過ごして、消灯時間になれば就寝をする。そんな一日の繰り返しが何度も続いた。

 

 出撃がないのだから仕方がない。全てのKAN-SENに特別休暇が出されていた。来る決戦のために出撃どころか、燃料の一滴、弾丸の一つすら温存する方針をアズールレーンは選び、暇を持て余すKAN-SENたちはただ指揮官が出撃を命じるその時まで沈黙を守り続けていた。

 

 ベルファストもそんな暇人の一人であった。KAN-SENとしての出撃もメイドとしての奉仕もなく、生活習慣が改善されるばかり。

 

 自分が何のためにこの母港に来たかも分からない始末。そんな自分の体たらくに腹が立つ。

 

「ロイヤルのメイドでありながら怠惰をむさぼるなど言語道断。しかしどうすれば……」

 

 自分はどう行動するべきなのか。明確な答えはどこにも示されていない。ベルファストが自分で決めなければならなかった。

 

 自分はメイドとして必要とされていない。それは明白だった。その上で私はどう行動するべきなのか。

 

 ベルファストは自問する。目を閉じて、思考を重ねて、納得のいく答えを求める。自分は今、何をするべきなのか。どうあるべきなのか。

 

 思考を深くしていたからか、何かに導かれるようして、気がつけばベルファストは官舎の裏隠れるように設けられた中庭にいた。

 

 雑草が自由に伸び、荒れ放題となった中庭。それはメイドの誰もが働かなくなった母港によく似ていた。

 

 あの横たわる雑草の一つが自分なのだとベルファストは自嘲する。伸び放題となっただらしない雑草、そんなものにロイヤルのメイドが身をやつして良いものだろうか。

 

 微笑み。答えなど、とうの昔に出ていた。自分は誇りあるロイヤルのメイド。主人に請われる前に、その要望を達成する十全にして。それこそが至上。それこそが私のあり方。それは主人であろうと変えられることは叶わない。ロイヤルへの責務であり、その帰属の愛。

 

「私はエディンバラ級二番艦のベルファスト。ロイヤルのメイドであり、指揮官のKAN-SENであり、そして私はメイド。主人のご要望に応える者」

 

 他に誰もいないはずの暗い中庭でベルファストはまるで誰かに宣言するかのように、自己の在り方をはっきりと言葉にする。

 

 決意は静かな朝日に照らされながらきつく固く結ばれる。やるべきことが決まったのならためらう間などなく、動き出し、味方のいない孤軍奮闘を強いられようと関係なく、主人のためという決意一つでベルファストは無敵になれた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 指揮官は一日のほとんどを執務室で書類の相手に追われていた。

 

 

 

 長年の人類の目的であったセイレーンとの戦いに一つの決着がつこうとして、その準備のために綿密な作戦の計画が母港の垣根を越えて、アズールレーンという巨大な組織単位で進められていた。

 

 ゆえにそのやりとりや申請をはじめとする書類は膨大な量であった。これまでの戦いを無駄にないためにも、そのすべてを片づけていく。

 

 

 

 しかしそればかりをやっている訳にもいかない。一日中椅子に座っていても、常に集中していられる訳でもなく。だからこうして指揮案は外の空気を吸うために母港の中を散歩していた。

 

 

 

 時間にして十分ほど。正確なルーチンワークで行われる休憩という名の作業は今日も変わらず行われていた。

 

 そんな不変であった習慣に変化が現れたのは、指揮官が官舎の奥にある中庭に足を踏み入れた時だった。

 

 変化は明らかで、察した指揮官は眉をひそめた。昨日まで庭草が伸び放題に放置され、錆びついていたテーブルが全て手入れされている。庭草は芝生程度にまで切りそろえられ、テーブルも錆とりがされて、テーブルクロスまで敷かれている。

 

 そして横にお茶会の準備を載せたカートを待機させたベルファストを見つけて指揮官は怪訝そうに彼女を見た。

 

「ベルファスト。これはどういうことだ。私は君にメイドとしての業務停止命令を出したはずだ。あれでは足りなかったか?」

 

 問われたベルファストは優雅に一礼をして見せ、悪びれた様子など欠片も見せずに不敵に微笑み主人を見つめた。

 

「不肖、ベルファスト。ご主人様が要望を出される前にその要望を叶えさせていただきました」

 

「要望など出すはずもないだろう。言ったはずだ。私にメイドは不要だと。君たちは兵器としての役割だけを成していれば十分だ」

 

「この身はロイヤルのメイドでございます。主人へ仕えてこそ、メイドの本懐。それこそがこの身が成せる、ロイヤルの一員であることを明らかにする有り様。いわば愛国心も同じこれを、ご主人様であろうと妨げることは認めません」

 

 てこでもベルファストが自分の言葉を聞き届ける気がないことが分かり、提督はその表情を冷めていく。彼はそれこそ的をにらみつけるようにベルファストを見て、視線を可能が用意したティーセットへ移す。

 

「だがなぜ紅茶を用意した。君も顔合わせの時に見ただろうが、私は紅茶を飲まんぞ」

 

「いいえ。先ほども言ったように私はご主人様のお求めになったものを用意しました」

 

「何を言って……」

 

「ご主人様、無理に好きでもないコーヒーを飲む必要などございません」

 

 ベルファストは当然のことだという調子で言い放った。その口調に問いかけるような自信のなさは微塵も聞こえず、そこで初めて指揮官は敵愾心を失せ、純粋に驚きに顔を歪めて。

 

「どうしてそんなことが分かる。表情には出ていなかったはず。君にそれを伝えてなどいないのに」

 

「仕草でございます。空いた手を強く握りしめて、耐えるように飲んでいらっしゃればすぐに分かります」

 

 言われ、指揮官は自分の手のひらを開けてそれを見ていた。言われるまで気づきもしなかった自分の癖を見つけられ、目の前のメイドを彼はもう一度見る。

 

 それを一つの同意と受け取ってベルファストは動き出した。カートに載せられたティーセットをテーブルに移し、茶会の準備を始める。

 

 

 

 何もなかった白い平面の上、焼き色のついた茶菓子や純白の器が並べられて、その最後に主役であるティーポットが持ち上げられた。

 

 傾けられ、注がれる中身はベルファストの髪色と同じ絹のような白だった。

 

「ご主人様も重なる書類仕事でお疲れのご様子。ベルファスト、体の温まるシチュード・ティーを用意させていただきます」

 

「——、っ!」

 

 指揮官が小さく悲鳴のように息を飲んだ声がした。ベルファストにはこれが予想外の反応であったから、少し不思議そうに見上げて。

 

「どうなさいましたご主人様?」

 

「……ああ、いや。何でもない」

 

 言葉に歯切れはなく、うつむいた指揮官の表情をベルファストは読み取れない。そんな小さな間を置いて、アフタヌーンティーの準備は全て終わっていた。

 

「さあ、ご主人様。準備は整ってございます。どうぞ、こちらの席へ」

 

 主人の座る席を引き、手招きするベルファスト。正面に立った指揮官は彫刻のように固まり、ベルファストに聞こえないような小さな声で何かを呟いていた。

 

「ああこれはあの時の——。……、でも彼女は違って……」

 

 うつむき、動こうとしない指揮官をベルファストは待つ。求めには応えた。だから後は受け取ってもらうだけ。

 

 ゆっくりと、だが確実に、それこそ爆発物を取り扱うように、恐ろしさを隠せずに、指揮官は両手でカップを持ち上げた。

 

 白い水面に指揮官の顔が写る。写った顔の表情は硬く、苦い思い出を振り返る影が張り付いていた。

 

 震える手に水面が小さく波打って、強張った表情が歪まされて、指揮官が笑ったようにも、悲しんでいるようにもその形を何度も、何度も変えていく。

 

 長い間、指揮官はその白さに隠された向こう側に魅入られていた。そして顔を上げた。今にも泣きそうな目がベルファストを捉えている。彼は手に取っていたカップを元に戻して、ベルファストから顔を逸らした。

 

 

 

 空いた手は固く握りしめられ、どこか弱々しさを想起させて、ベルファストは自分の用意したものが指揮官を不快にさせてしまったのかと自身の失敗を悟った。

 

「ご主人様。もしや、こういった紅茶はお好みではなかったのでしょうか。そうでしたら別のものへ、すぐにお取り替えしたします。ですから、しばしお待ちいただければ」

 

「いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。……ベルファスト。一つ聞いても良いだろうか」

 

「はい、なんなりと」

 

「どうして君はこれを、この紅茶を用意しようと思ったんだ。言っては何だが、これはロイヤルとしては紅茶というよりも料理の類いだろう? 正式なもてなしなら、君はきっとごく普通のストレートを持ってきたはず。どうして他のどれでもなく、この紅茶を選んだんだ?」

 

 指摘されてベルファストは判断が何時もと異なることを自覚した。こういったお茶会でシチュード・ティーを用意するのは確かにロイヤルの正式な作法からは外れていた。

 

 だが確かにベルファストはこれがきっと良いと思って用意した。しかしそこへ到達した、思考過程の一切が思い出せない。無意識で選んだとしか言いようがなかった。

 

 淡く言葉をためらい、しかし続く言葉はよどみなく発される。

 

「それが良いのだと、ベルファストが感じ、それを実行しました」

 

「……そうか」

 

 力なく零れるため息と息苦しさによる呻き声。指揮官は静かにテーブルの席に座り、組んだ手を頭の支えにして小さく嗚咽を漏らし、それはまるで懺悔を行う罪人をベルファストに想像させる。

 

「もう良いんだ、ベルファスト。君はメイドの仕事をする必要なんかない。ここに君の主人にふさわしい人間なんていやしない」

 

「何を仰るのですかご主人様。ベルファストの主人にふさわしい方など、あなたを置いて他にいるはずもありません」

 

 ベルファストの否定に指揮官は弱々しく、だけど間違いなく首を振った。絞り出すような悲鳴にも似た声で指揮官は声を上げる。

 

「ふさわしいものかよ。私には、何があったってその資格がない。君に私はふさわしくない」

 

「どうしてそのようなことが言い切れるのですか。なぜそのように思うのです? 私に何を隠して、そのように仰るのですか」

 

「……私が側にいても、きっと君の忠義を私は裏切る。君の誇りを傷つける。そしてあまつさえ、君自身を壊してしまう」

 

「……それはどういう意味でしょうか。ご主人様はそのようなことをなさる人物だとは感じませんでした」

 

 ベルファストが問いかけても指揮官は答えようとしない。顔を伏せ、恐ろしいものから逃げるように顔を隠して黙ってしまう。手に塞がれた口からくぐもった声で後悔が毒のように滴っては溢れていく。

 

「僕はきっと、また君を……」

 

 ベルファストを意識の外に追いやり、指揮官は誰に向けたか分からない言葉を吐き出し、小さく嗚咽をこぼして会話もままならない。

 

 目の前にいてしかし、指揮官はベルファストを見ていない。彼女を通じてダレカを見ている。それがどうしようもなく気持ち悪くて、らしくもない苛立ちを抱えてベルファストは指揮官を問いかける。

 

 目の前に指揮官がいるというのに、その心はどこまでも遠く離れていた。その事実がどうしようもなくベルファストを苦しめて、息を詰まらせて苦しい。

 

「教えてくださいご主人様。あなたは一体何を隠していらっしゃるのですか。あなたは私を見ながら、私を見ずに誰を見ているのですか」

 

「……ベルファスト。私は——」

 

 必死に問いかけるベルファストに揺り動かされ、苦しそうな指揮官は耐えられず隠していたものを吐き出しそうになった。しかし指揮官の弁明をベルファストは聞くことがなかった。

 

「指揮官、既に午後の職務開始時間を五分ほど過ぎております。業務の多くが滞って……。——! これは……」

 

 指揮官を新たにやって来た声が遮った。そこにいたのはシェフィールドだった。片手に時計を持った彼女は指揮官を探しにやって来た様子で、少し汗をにじませている。指揮官とベルファスト、二人の間にある茶会の用意を見つけて驚いた顔を見せて、そして不愉快そうに眉をひそませた。ベルファストをにらみつけて、この状況を瞬時に理解した彼女は指揮官の手を取り立ち上がらせる。まるでベルファストから指揮官を守るように。

 

「指揮官、すでに通常業務から大きく逸脱しています。早急にお戻りください」

 

「——あぁ、すまないシェフィールド。余計な仕事を増やしてしまったね」

 

「お構いなく。これも秘書官の仕事のうちです。ではすぐにでも」

 

 指揮官の手を取り、シェフィールドは彼を急かす。手加減しているとはいえ、KAN-SENの膂力、ただの人である指揮官に逆らう余地はなく執務室へ向かって遠ざかっていく。離れながら指揮官は唐突に蚊帳の外に追いやられていたベルファストへ向かって声を張った。

 

「ありがとうベルファスト、気持ちだけは受け取っておく。だけど、もう金輪際こういったことは遠慮してくれ。それと紅茶を冷ましてしまってすまない」

 

 それだけ伝えて指揮官とシェフィールドの姿は見えなくなった。ベルファストはどうにか指揮官を引き留めようと声をかけようとしたが、シェフィールドの視線がそれを許さない。責めるような視線、それはまるで親の敵をにらむそれによく似ている。

 

 二人が去った後、残された紅茶はただ冷めていくばかり。その日はそれっきり、ベルファストが指揮官に会うことはなかった。

 

 

 

 ●

 

 

 

 ベルファストが無駄になった食器や茶器を片付け終える頃には日が落ちてすっかりと暗くなっていた。たかが片付け。それだけのことを終えるのにこれほど時間がかかってしまったのには訳があった。

 

 食器を洗い終えてベルファストは困ったため息をこぼした。

 

「まさか一口も食していただけないとは、流石に……」

 

 煎れた紅茶はまだいい。ある程度は自分で飲んでしまえば後は流してしまえばいい。問題は袋詰めされた茶菓子の並びだった。

 

 手をかけて前日から仕込みを行った菓子の全てが手つかずのまま寂しげに残っていた。どうにもこれだけはそのままゴミ箱に捨てることがためらわれる。

 

 いろいろ悩んで、ベルファストが出した結論はこれを周囲に配るという選択。そしてこれがちょっとした失敗になった。とにかく避けられている。

 

 他のロイヤルのメイドは元より、本来警戒心の薄いように思えた駆逐艦たちもベルファストと直接対面するのを避けているようだった。

 

 最終的にベルファストはKAN-SENたちの寮舎にある談話室にあるテーブルの上に、自由に持って行ってくださいというメッセージカードを置いて放置することにした。

 

 物陰から観察してると甘い匂いに釣られた何人かのKAN-SENたちが持っていってくれた。

 

 そして最後の菓子がなくなったことを確認したのがついさっきという訳だ。

 

 すっかり暗くなった寮舎の廊下をベルファストは歩いていた。ロイヤルの寮舎は木張りの床で歩く度に小さく、硬い靴底が木に当たる音がする。

 

 新入りであるベルファストの部屋は一番奥の部屋であり、移動にちょっとした手間があった。就寝時間を過ぎており、廊下には人の気配はなく、この建物には誰もいないのではと心細さが襲う。

 

 すでに季節は晩夏と言うべき季節であり、秋の訪れか夜中は肌寒さが顔を見せていた。裾の短いメイド服を着ているベルファストにはこの寒さが少しこたえる。だから早く部屋に戻って明日の備えようと、はしたなく足音を鳴らさない程度に急いでいた。

 

 長い廊下は消灯時間が過ぎているため、最低限の避難経路を教える薄暗い電灯だけが明かりとなって奥の方は良く見えない。そんな暗い廊下でベルファストは歩みを止めてしまう。

 

 これほど急いでどうするというのだ。自分は必要とされていない。張り切ったとしても、指揮官は傷ついたような表情ばかりしていた。それなのに明日もメイドとして頑張ろうと一人で息巻いて、それでどうしろというのだろうか。

 

 自問自答する。悩み、それでもベルファストはやめようとは思わなかった。理由は上手く言語化出来ない。しかしやらなければいけないと直感が背中を押していた。

 

 どれほど苦しくとも、諦めるということを、選びたくはなかった。

 

 決意を新たに、ベルファストは顔を前へ上げた。その時だった、肌寒い夜の風が首筋をなでた。よく見れば廊下の窓の一つが開け放たれ、夜風を招き入れている。

 

 見回りの担当は何をしているのだろうとベルファストは首をかしげたが放置するわけにもいかず、壁際に立って窓枠を掴んで下ろした。

 

 窓に映るベルファスト。そしてその後ろにもう一人、白い人影があった。

 

 驚きと共に小さな悲鳴がもれる。ベルファストはその場から跳ねるように、後ろの人影から距離をとった。しかし白い人影はその場から微動だにする様子も見せず、うつむいて顔亜見えない。

 

 それが誰か、ベルファストはすぐに理解して、その理解を拒みたくなった。純白のメイド服は裾やリボン、ところどころが煤けてたり破れていたが姿格好が誰であるかは明らかだった。

 

 奇妙な話だが、それはベルファストだった。ベルファストの目の前にベルファストが佇んでいる。ベルファストとベルファストの間に鏡はない。

 

 それが虚像である可能性はなく、確かに目の前に自分らしき誰かがいることはベルファストを酷く動揺させた。

 

 状況を飲み込めず、言語未満のうめきを漏らすベルファストに、うつむいて顔を見せないベルファストが消え入りそうな小さな低い声で言う。それはベルファストが聞き慣れた自分自身の声だった。

 

「どうしてあんなことをしたのですか……」

 

 呟く声は重く暗く、怨念がにじみ出していた。

 

「あなたはそんなことをしなくていいのに。あの人は私だけのご主人様なのに」

 

 ゆらりと、うつむいたベルファストが揺れる。一歩、また一歩とベルファストへ歩み、開いていたはず距離がなくなり、彼女から海風と硝煙の臭いがした。

 

「あの人には私だけがいればいい。そこは私の場所、私だけのご主人様、あなたのものじゃないっ!」

 

 怨嗟の叫び。先ほどまで幽鬼のように深閑として様子とは打って変わり、嵐のような激しさがベルファストを襲った。うつむいていた彼女はベルファストの肩を掴み、壁に押しつける。

 

 ボサボサの髪の間から覗く赤く充血した目がこちらをにらみつけて、ベルファストを離さない。

 

「あなたなんていなくなれば良いのに。そうすればあの人の隣を永遠に、独り占めできるのにっ!」

 

 掴みかかる相手を振り解こうともがくが、尋常ではない握力で肩に指先が食い込み壁に押し付けられ、余りの激痛のためベルファストは息苦しさに苦しみながらも、相手は顔を背けさせようとしない。

 

 痛みに歪む視界の中で煤に塗れた美しさを髪が振り乱れ、その顔がありありと視界を埋めていた。

 

 そんな苦しさの中でベルファストは意識が落ちるギリギリのところで踏み留まり、自身を捕まえる腕を掴んだ。

 

 腕力が拮抗し、僅かだが言葉を話す余裕を取り戻して負けじと掴みかかったベルファストは理不尽への怒りに語気を荒げて相対する。

 

「何だと言うのですかっ! 黙って聞いていれば、勝手なことをごちゃごちゃと。一体何の権利があってっ!」

 

「お前が! よりにもよって、私と同じ形をしている、それだけの理由で私に向けられていた愛を奪うなっ! それは私だけのものだ! お前のものじゃない!」

 

 同じ顔をした二人が怒りに任せて拮抗する。鏡写しのような二人がその境界を超えて、相手を消し去ろうと苦しめ合う。

 

 鏡に映った虚像のような二人。小さな見た目の違い以外変わらない二人。

 

 拮抗を崩したのはひとえに感情の強さ、それだけの差が勝敗を決めた。相手を打ちのめして組み伏せ、両の手を相手の首にかけていたのは、汚れたメイド服のベルファストだった。

 

 首を締めつける痛みに意識が薄れる最中、意識が途切れるその直前に見えた。ぼやけた眼で見上げて目に映った顔はそれまでの怒りも憎悪もまるで初めから無かったように失せ、悲しそうに彼女を見下ろしていた。

 

 なぜあなたはそんなにも辛そうに私を傷つけるのですかと、言葉を伝える前にベルファストの意識は暗転した。

 

 

 

 ●

 

 

 

「——ファスト。ベルファスト!」

 

 怒鳴り声と共にベルファストは自分の世界に光が戻ったのを理解した。目を開いて周りを見回す。心配そうに自分の顔を覗き込む何人かのロイヤル艦、そして中央には顔をしかめたシェフィールドがいる。

 

 ベルファストは自分が寮舎の廊下で寝ていたことを理解した。慌てて立ち上がり、しかし貧血に似た浮遊感を覚えて立ち眩み、体がバランスを崩す。後ろから支えてくれたのはエディンバラだった。

 

 後ろからこちらを覗き込む姉妹は眉を潜めて心配そうにしていた。

 

「大丈夫、ベル? どうしたのこんな場所で寝てるだなんて、あなたらしくない。どこか調子が悪いの? もしそうならお姉ちゃんに教えて?」

 

 夜中に自分に瓜二つの誰かに首を絞められて気絶した、などと伝えても正気を疑われる。だからベルファストは背一杯の虚勢を張って心配をかけまいと笑みを浮かべた。

 

「大丈夫です姉さん。本当に、心配せずとも大丈夫ですから」

 

「……ベルファスト、あなた、もしかして気がついていないの?」

 

 そう伝えても、エディンバラは心配そうにした顔をやめない。それどころか、何かに気がついてしまったと、顔を強張らせて恐る恐ると言う様子で手鏡をベルファストに手渡した。

 

 彼女は指で首の周りを指し示すようなジェスチャーを見せ、ベルファストは受け取った手鏡で首元を見た。

 

 黒々とした鬱血の痕、人の手形の形が分かるほどくっきりとした痕がベルファストの白い首筋に残っていた。

 

 あの傷んだメイド服のベルファストが夢でも幻でもなく存在した確かな証拠がベルファストに刻まれていた。理解を超えた事態に脳裏が理解を拒み、冷たい汗が背中を伝う。

 

 自分が今、どのような状況なのか教えてくれる人など、いるはずもなく。ベルファストは正体の分からない何かの存在を感じながら、ただ沈黙を守るしかなかった。

 

 



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3話

 明くる朝、ベルファストは寮舎の中にある医務室にいた。首の怪我に処置をするため訪れていた。首に紙がくっきりと残った手形は痛々しくもあり、すれ違い注目する皆にどう説明をしたものかと考えながらの移動は気が重くなるものだった。

 

 医務室に到着すると、当直らしいシリアスが退屈そうに文庫本へ目線を落としていた。医務室に訪問者がやって来たこと自体に驚いた様子で、ベルファストと目が合うと彼女は持っていた本を落として、静かだった医務室を騒がしくする。

 

 ベルファストがそんなおっちょこちょいなメイドを半目で見ていると、失敗を誤魔化すように、ぎこちなくはにかんだシリアスが彼女を招く。

 

「ようこそ、医務室へメイド長。……あっ。い、いえ、べ、ベルファスト」

 

 どこか抜けていておとぼけたシリアスのキャラクターにベルファストは、やっとこの母港で不自然でないKAN―SENに出会えたことにホッと安心感を覚えていた。

 

 部屋に入って来たはずのベルファストが立ち止まりジッと自分の顔を見て、もしかして怒られる前兆かと恐る恐ると言った様子のシリアスは妙に明るくなって彼女に入室するように勧めた。

 

「ほ、ほら、メイド長。……じゃなかったベルファスト。そのようなところに立っていないで入って来てください。今日はどうされました? 不肖シリアス、精一杯の看護をさせていただきます」

 

「いえ、それほど大したものでもありません。この通り、アザが残っているだけで、包帯と湿布薬だけいただけたら……」

 

 ベルファストはメイド服の襟を下ろして首筋を見せた。そしてそこに残った手形の出血の跡を見てシリアスは目を丸くする。座ってください、表情が変わったシリアスに促されてベルファストは診察台の横に用意された椅子に座らせられる。先ほどのおとぼけた様子から打って変わり、鋭い目つきに変わったシリアスがテキパキと触診や記録を進めていく。

 

 彼女らしからぬ機敏さに面食らうベルファストは、診察される暇を持て余して気になったことを聞いてみることにした。

 

「シリアスはこの医務室の当直が長いのですか? ずいぶんと手慣れているように見えます」

 

「……ええ、この母港に着任して、……その、しばらくは暇を持て余していましたが、……シェフィールドの勧めでここを任されています」

 

 どこかシリアスの歯切れが悪い。言葉を慎重に選ぶような印象、そしてその度にベルファストを探るように見て、言いつけを守っているのだとベルファストは理解した。そして同時に他のKAN―SENと違い、シリアスの態度はどこか違うのように見えて、ようやく見えた突破口に逃さないよう食らいつく。

 

「シリアス、一つだけ答えてもらってよろしいでしょうか?」

 

「はい? どうしました?」

 

「あなたが来る直前、この母港で何があったのですか?」

 

「——っ!」

 

 表情に緊張が走る。それだけでシリアスにはベルファストが言わんとすることへの心当たりがあることは明らかだった。

 

 シリアスと他のKAN―SEN、ベルファストと距離を置きたがる態度の違いは着任の時期に起因しているのだとベルファストは判断した。同じ秘密を共有しながら、後からやって来たシリアスはそれを口伝で聞いただけだから、その秘密を守る姿勢に脅迫的なものがないのだと、彼女のベルファストへの柔らかい態度から予想する。

 

 よそよそしいKAN―SENたち、ベルファスト突き放した指揮官、そして昨晩遭遇した自分と瓜二つのベルファト。おおよそ答えは出ていたけれど、ベルファストにそれを裏付ける確証は無い。だからここで何が起きたのかをシリアスから聞き出す必要があった。

 

 迫られ、逃げられないことを悟ったシリアスは困った顔から黙ってしまう。それは葛藤だ。シリアスの中でベルファストの知らない幾つもの判断基準がせめぎあって、打ち明けて良いのと判断を決めあぐねていた。

 

 そして長い沈黙を見せてシリアスが出した結論は、それまでベルファストが聞いたものと同じだった。

 

「……すいませんベルファスト。やはりシリアスに話すことは許されません。これは指揮官がまだ、誇らしきご主人様でいてくださった時に出された最後の命令、……ですから」

 

 だがそこにそれまでと違う、手がかりがあった。ロイヤルの主人でなくなった指揮官、それが下した最後の命令。その言葉はベルファストを強く引きつけて離さない。

 

「ご主人様の最後の命令? 私に話すことが、その命令に反してしまうというのですか?」

 

 問いかけるベルファストへの返答は包帯を軽く締める音だった。話している合間に全ての処置が終わったのだった。

 

「……はい、処置が終わりました。私はこの後用事がありますから、御退室願います」

 

 ぴしゃりと拒否されて、きっと問い詰めても頑なに、これまでと同じようにはぐらかされてしまうのだろう。言われるままに部屋を追い出される。最後、扉を閉める際に扉が閉まる音に重なってシリアスの独り言が聞こえた。

 

「この母港にいる誰もが触れることすら恐れ、このままで良いと停滞を選んでしまった。こんな幼稚な芝居に巻き込んでしまったことは申し訳なく思います。けれどもう、みな傷つくことに疲れてしまったのです」

 

 だけど、そうして皆で傷を慰め合う隣で和から外される人はどうすべきと言うのか。どこに居場所を見いだせるのだろう。

 

 

 

 ●

 

 

 

 医務室を出て、廊下を歩いている最中に指揮官とすれ違ったのは全くの偶然であった。首に巻かれた包帯を見て目を丸くする指揮官。この母港にいて初めて、指揮官からベルファストへ会話が生まれた。

 

「……その怪我は?」

 

「その、お恥ずかしながら、不注意にてぶつけてしまいました」

 

 自分と同じ顔をした何者かに組み伏せられて怪我をしました、と事実を伝えて、果たして正気を疑われない確率はどれほどだろうか。

 

 とっさに出た嘘もずいぶんと苦しいものだ。ずいぶんと古典的な誤魔化し方を選んでしまった。

 

「本当に?」

 

 憂いていたことは的中した。指揮官は疑わしそうにベルファストを見ている。ベルファストの怪我をよく確かめようと指揮官は二人の間にあった距離を自分から縮めた。

 

 高鳴る心臓の原因が、ついてしまった嘘を疑われる居心地の悪さと、伸ばせば手が届いてしまう距離のどちらなのかベルファストにはよく分からない。

 

 そんな甘いかゆみを忘れようとベルファストは話題を探すことに意識を割く。

 

「……おや、ご主人様。その花は一体?」

 

 目に入ったのは指揮官が手に持った小さな花束だ。小さな白い花いくつも咲かせた花を束ねて作られたそれにベルファストは違和感を覚えた。

 

 そして違和感の正体はその咲いた花、それ自体だった。花の名はトネリコ。モクセイ科に属する落葉樹であるそれは本来、春先に花をつけるはずの植物だ。しかし今の季節は夏も気配を潜め、木枯らしが吹き始めた秋の直前。そんな咲いているはずのない花を指揮官は手にしていた。

 

 ベルファストが指さすトネリコを眺めて指揮官は緊張した頬を緩ませる。無意識からの反応だったのだろう、ベルファストはこの母港に来て初めて指揮官の笑った顔を見た。

 

 自分の表情が緩んだことを自覚して我に返った指揮官は帽子をかぶり直し、目深に被った軍帽が表情を覆って隠す。

 

「……片付けをしていて、余ったものを束ねたんだ。そうだ、ベルファスト。これをどこかに処分しておいてもらって良いだろうか」

 

「よろしいのですか?」

 

「もともと官舎の医務室にでも置いておこうと思っていた。君に任せる」

 

「承りました。どうぞベルファストにお任せください」

 

 母港に来てから初めて指揮官に必要とされ、ベルファストは舞い上がっていた。頬を紅潮させて返事の声は張っている。

 

 そんなベルファストに会釈して指揮官は執務右室の方へ去った。残されたベルファストは両手でトネリコの花束を胸に抱いてその後ろ姿を見送りながら深々と頭を下げていた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 医務室に戻ると先ほどと同じようにシリアスが文庫本を読んでいた。医務室の扉を開いたのがベルファストだと分かると、彼女は不思議そうに首をかしげて眉をひそめた

 

 そしてベルファストがトネリコの花束を抱えていることに気がつく。あぁ、と状況を理解したらしい声を出してシリアスは棚の一つから大きい花瓶を取り出し中に水を注ぎ始めれた。先ほどシリアスの言っていた彼女の用事というのはこの花束のことであったようだ。

 

 ベルファストが花束を差し出すとシリアスは花束の包みを解いて机の上にトネリコを並べていく。

 

「指揮官からですね。もうそろそろ来る頃だと思っていました。ありがとうございましたベルファスト」

 

「指揮官がこの花を?」

 

「はい。毎週の掃除や枝切りの時に出た半端なものを花束にしてこちらに。……今のは失言でした。忘れてください」

 

 言い過ぎたことに気がつきシリアスはベルファストに背を向けて作業を続ける。これ以上は失言をしたくないという分かりやすい意思表示だった。

 

 ベルファストは軽い足取りでテーブルを挟んでシリアスの向かい側に躍り出た。突然ベルファストが視界に現れたことでシリアスは驚き身を跳ねるが、ベルファストが黙々とトネリコを花瓶へ移す手伝いを始めると、退けるわけにもいかず二人は花束を移し替えていく。

 

 長い沈黙の中でハサミが枝を切る小気味良音が医務室で鳴る。作業を手伝ってもらった負い目か、それともただの気まぐれからか、黙っていたシリアスがトネリコから視線を外さないまま口を開いた。

 

「ベルファスト。指揮官はメイドとしてのあなたを求めていません」

 

「分かっています。この母港に来て数日、痛いほど理解しました」

 

「それなのにあなたはメイドでいようとする。それは誰のためですか?」

 

「無論、ご主人様のため。それ以外の理由などありません」

 

 シリアスの手が止まった。彼女は何をするわけでもなく、手元のトネリコを眺めているいる。唇を淡く噛み、シリアスは確かめるように問う。

 

「……シリアスはもう指揮官のメイドではありません。しかし指揮官がまだ誇らしきご主人様でいてくださった時、シリアスにいくつかの指示を下しました」

 

 過去を懐かしむような口調。しかしそこに喜びはなかった。

 

「シリアスは安心しています。他の子と違って指揮官から何か指示を受けていられることに。シリアスというKAN―SENに付与された性質が命令されることを至上の喜びと思わせるんです」

 

 命令されることへの喜び。ベルファストも他人事ではなかった。

 

「けれどこうしていることが本当に自分の意思なのか、最近分からなくなってきました」

 

 シリアスは医務室をぐるりと見渡す。部屋は掃除されているから綺麗というよりも、使われていないから新品のままというもの寂しさを思わせる。

 

「この官舎はKAN―SENを人と同じように扱う、という名目で建築されましたが、KAN―SENはヒトと違って、そうそう怪我などしません。だから本当は、ここに誰かが常駐する必要などないのです。そう頭で理解していても、毎日のようにシリアスはここを守らねばと気持ちを何度も新たにしてしまう」

 

 そしてここが本題だと、シリアスの剣呑な視線がベルファストを見た。同情するような悲しさを抱いた口調で静かにシリアスが問いかける。

 

「ベルファスト、あなたにも心当たりがあるのでしょう?」

 

 自分の中の歯車がかみ合わせを外し、崩れたような感覚があった。

 

 初めてに顔を合わせて、冷たい栄養食を食べる指揮官を見て何かもっと良いものを作らなければと思った。

 

 メイドは要らないと言われて、それでも何か力になろうと昼食を用意しようと思った。

 

 丹精込めて用意した茶菓子を残されて、それでもまた何かしようと思った。

 

 自分と同じ顔をした何かに襲われて、しかしくじけることもなくまた今日もやれることをしようと思った。

 

 それらの意思の全て、どうしてそう思ったのだろうか。メイドだから? ベルファストだから? 問いかけが生まれると、いくつも連鎖して疑問が尽きることない。

 

 私はどうして、あれほどまでに誰かに仕えようとしていたのだろう。分からなくなる。自分が何を気にして、何を悩んでいたのか、その過程のすべてが抜け落ちて仕えようとする意思という結果だけが頭に残っていた。

 

 自分の意思が自分のものでないかもしれない、そんな無気味な可能性に気がつき、背筋が寒く震える。

 

 震えを止めてくれたのは暖かいシリアスの手だった。彼女の両手がベルファストの手を取り、恐ろしい想像ばかりに気を取られないように気遣っている。

 

「ベルファスト、友人として忠告します。もしこれ以上指揮官へ、この母港の傷に近づこうと思うなら覚悟をしてください」

 

 

 

 ●

 

 

 

 何の覚悟なのかはシリアスは明言しなかった。結局、花瓶の飾り立てが終わるまでベルファストは座ったまま、行動を起こすことができなかった。

 

 指揮官に頼まれてトネリコを医務室を持って行ったことですら、自分の意思とは関係ない力が自分を働かせていたかもしれないと疑えば際限がなく、そんな不安が行動を止めていた。

 

 部屋まで送ろうかというシリアスを丁寧に断ってベルファストはぼんやりとした頭で、母港の中を彷徨っていた。このまま官舎に戻っても、昨日の夜のように襲われるかもしれない心配もあったが、それ以上に自分の部屋が自分の居場所と思えなかったことが理由としては大きい。

 

 時刻はすっかり夕方だ。座り込んで寄りかかった壁の向こう側で斜陽が照って、ベルファストを影の中に落とした。

 

 いつもの喟然としたメイドの風格はない。落ち込んで塞ぎ込んだまま動かない彼女は誰にも見つかることなくそこにいる。このような風体を普段なら間違いなく見せない。しかし気にする相手も存在しない吟味にどれほど意味があるのだろうか。

 

 折れることのなかったベルファストの意思が初めて揺らいだ。

 

 自分がどうすべきなのか分からない。もう一度立ち上がろうとする自分の意思が信じられない。また指揮官に拒絶され、悲しそうな顔をされたくない。

 

 主人のために動く自分が、一番その主人を傷つけているとはお笑い種だ。そんな一方的なことを自分はずっとやろうとしていた。一体、自分は何のためにここにいるのだろうか。

 

 自分の居場所が分からず、ベルファストの心は折れてしまいそうだった。

 

 風が吹いた。官舎の間を通り過ぎる風は強く、意思の折れかかったベルファストを腐った樹木のように倒してしまいそうだった。崩れかけた体幹を既の所で留まらせたのは鼻を掠る甘い香りだった。

 

 風に乗って、花の甘い匂い。控え目な金木犀に似た香り。間違いない、今日何度も嗅いだトネリコの花の匂いだ。

 

 どこからやって来たのだろうと周りを見渡した。しかし花の姿は見当たらず、夕暮れに照らされた光景があるばかり。

 

 その時だった。視界の端で、何かが動いた。慌ててそちらに視線を向ける。白いリボンの端が建物の向こうへ消えるわずかな後ろ姿が見えた。見間違えるはずがない。あれは自分の後ろ姿と同じだ。昨日の夜に自分を襲った、怨念のこもった表情の、あの『ベルファスト』だと。

 

「ま、待ちなさいっ!」

 

 実態があることに少なからず驚くが、あれが誰かであった事実に小さく動揺する。自分を害する誰かがこの母港にいる。その事実は軽く受け流せるものではない。しかしそうだとしても、それを放置しておくわけにもいかず、飛び出すようにベルファストは見えなくなった後ろ姿を追って駆け出した。

 

 曲がりくねった建物同士の合間を走る。時々見える後ろ姿と微かに香るトネリコがわずかな標となって見失うことは何とか避けることができた。

 

 人影を追って辿り着いたのは母港の外れにある曇りガラスの建物だった。ドーム状の建物は大きく、大きな門には持ち上げるほどの南京錠を立てかけてある。

 

 しかしよく見ると南京錠は解錠され、重い門は空いていた。あの人影はこの向こうへ行ったのだろうか。少なくともここまで他に入られそうな建物はなかった。ならばここなのだろうかとベルファストは門をくぐった。

 

「これは、花園?」

 

 思い曇りガラスの扉を押し開け、そこにあったのは春の暖かさだった。とうに晩夏の寒くなった季節だというのに、建物の中は初春を思わせる麗かな風が吹いていた。

 

 そんな空間の目的は明らかだった。建物に入って目に入った色とりどりの植物、花がベルファストを豊かな表情で出迎えていた。母港の外れに、隠れるようにして建てられたここは、戦うための最前線である母港に相応しくない温かな植物園だった。

 

 調整された室温は春先の暖かさに固定され、咲き散る花は全て時が止まったように春のものだけ。春の花園は手入れが良く行き届いて、石畳の通路は一本道で描かれていた。歩きながら、ベルファストはこれがある種の絵画のような、時間を切り取った

 

 敷かれた石畳に沿って進んでいくと少しずつ道が開いていく。見える花はそれぞれが手入れされ、持ち主の思慮が手に取るように理解できるほど美しく飾られている。あのぞっとするような恨み言を叫んだ『ベルファスト』を追って来たとは思えない人の温かい思いに満たされた場所であった。

 

 歩いていても誰とも会うことはなく。そのうち、ベルファストは突き当たりと思える場所にたどり着いた。花が壁となった向こう側が見えなかった通路と違い、そこは開け放たれた空間だった。

 

 丁寧に刈られた芝生、円を描くようにベルファストの背と同じ高さのトネリコが花をつけ、真っ白なクロスの敷かれたテーブルが椅子を空にして中央に鎮座している。それはまるであの中庭の再現のようだとベルファストは直感した。

 

 ただ一つ違うのは、控えるメイドがいるはずの場所には誰も存在せず、代わりに中庭にはなかった幅の広い石で作られた彫刻があった。よく見ると何か文字が彫られているようだ。

 

「あれは一体……。ここからでは良く見えませんね」

 

 トネリコが影となって刻まれている文字が良く見えない。ようやく見つけた何かの手がかりを確かなものにしようと、ベルファストは一歩芝生に足を踏み入れた。

 

「……何をなさっているのですか?」

 

 軽く芝生に足を置いた不安定な姿勢のまま、それ以上動くことができない。いつの間にか隣にいたその人物は手に持った装飾のついた儀礼用の長剣をベルファストの喉元に突きつけていた。

 

 顔を動かさずに目線だけを横へ。そこにいたのは昼間に会い、夕刻の前にどこかへ行ったシリアスだった。

 

 シリアスは敵意と困惑を両方含んだ表情でベルファストを見ている。長剣を動かさないまま、彼女は予定外の侵入者を問いただす。

 

「この花園は施錠されていて、鍵はもう私が持っているこの一つだけ。どうやって入りました? 事と次第によっては……」

 

 そう言うシリアスの腰には古めかしい南京錠の鍵が紐で吊り下げてあった。下手に刺激してしまうと、にべもなく切り捨てしまいそうな気迫に押されながら、ベルファストは正直に答えた。

 

「ここへ向かう人影を追ってやって来ました。鍵は開いていましたから、その方がきっと開けていったのでしょう」

 

「その方というのは?」

 

 きっとこう答えたら自分は頭がおかしいと思われるのだろう。だが紛れもない事実、そして嘘をつけば、この同輩は有無を言わせずに自分を斬り殺すだろう。

 

「私と同じ姿をした、……『ベルファスト』を追ってここまでやって来ました」

 

 息を飲む音と共に件を掴んでいた手が離れ、柔らかい土に剣が突き刺さる。弾けたようにベルファストは顔を先ほどまでベルファストが見ていた石の彫刻へと向け、驚きに目を見開いて口を手で覆って震えていた。

 

「そんなはず……、でも確かにそれなら鍵が開いている理由は説明出来て……、だけどそれは……」

 

「あれは一体何なのですか?」

 

 あれ、と言うのが何を指し示しているかは明白だった。二人は共にトネリコの木の下に建てられた石の彫刻を見ている。そしてゆっくりと、シリアスは口元を隠していた手を引いて、確かめるよう呟いた。

 

「あれは、ベルファストの、……前の『ベルファスト』のものです。あの下には、かつてわたし達と共に誇らしきご主人様に仕えて、そして帰らぬ人となった彼女が眠っています」

 

「前の……、ベルファスト」

 

 その言葉は単純でありながら、しかし大きくベルファストを動揺させていた。手が届くような距離に、自分と完全に同一の存在だったものが埋葬されているというのは奇妙な感覚だった。

 

 ベルファストはゆっくりと歩き出す。墓標へ向かうベルファストをシリアスは止めない。もうこれ以上秘密を隠し続けることは不可能だと、もう自分がここでやれることはないと、そう判断して彼女はベルファストを後ろから見守る。

 

 近くに寄り石の彫刻、『ベルファスト』が眠る墓標に手を触れた。磨かれ、毎日誰かが掃除をしていることが見て取れる。しかし完全ではない。そんな手入れのされた墓標に欠けているもの。

 

 花だ。死者を弔うために捧げられる花を置くはずの場所が空いている。それがベルファストにはとても大きな欠落に思えた。

 

 そしてそれが全ての答えだった。これまで母校へやって来て遭遇したいくつもの不可解な点、おかしな出来事。それらが全てベルファストの中で繋がり、大きな意味を浮かび上がらせる。

 

 ならば彼女がやって来るのは当然だ。来なければならない。ベルファストは黙り込む。そして音一つ発しない花園に気配が現れた。

 

「……やめて、そこは私の場所。あなたのものじゃない。それは私のもの。奪わせはしない」

 

 静かな墓前に低い声が響いた。二人しかいないはずの空間に、誰かがいた。後ろを振り返ったシリアスが息を飲む。そこに立っていたのは煤け、ほつれたメイド服をまとうベルファスト。

 

 血走った赤い目で『ベルファスト』の墓前に屈むベルファストをにらみつけた彼女はふらふらと幽鬼のような足取りで向かっていた。二人の間に挟まれたシリアスは手に拾った長剣を握りしめるも、自分が何をするべきなのか分からず、当惑っするその横を幽鬼が通り過ぎて、ベルファストの正面に彼女は音もなく立ちはだかっていた。

 

 二人のベルファストが向かい合う。鏡写しのように同じ姿でも、二人の様子は対照的だった。

 

「出て行け、どうしてあなたがここにいる。ここはご主人様が私にくださった、私の空間。お前が立っていて良い場所じゃない」

 

 幽鬼の恨み言にベルファストは何も答えない。立ち上がり、毅然とした面持ちで幽鬼と対峙した。自分を恐れた様子も、ここから出て行く様子も感じ取れなかったからか、幽鬼は苛立ったように握った拳を振るわせる。

 

「出て行けっ、出て行けっ、……出て行って! どうしてお前なの。どうして私を辱めて、私をめちゃくちゃにして、お前なんかっ!」

 

 叫び、襲いかかろうと怒りの感情のまま飛びかかろうとする。流石に見かねたシリアスが間に入って止めようと動き出そうとした時、ベルファストはただ静かに、一言だけはっきりと口にした。

 

「何時まで死んだ人間の思いを代弁する気なのですか、姉さん」

 

 その一言で幽鬼は殺された。

 

 先ほどのたぎる怒りも、叫びも、怨嗟も霧散して石のように硬直した幽鬼は、エディンバラは、酷く動揺している。

 

「どうして……」

 

「変装をすると、姉妹というものは驚くほど顔を似せられるんですね」

 

 ベルファストは感心したように呟き、そっとエディンバラの長い髪を持ち上げた。白い髪が外れ、下からエディンバラ本来の髪色が現れた。おびえた表情のまま、エディンバラはベルファストに問いかける。

 

「……その、いつから、気づいていたの?」

 

「気づいたのは昨日の夜、初めて会った時です。幽霊なんているはずもないのですから、顔立ちの似た姉さんが犯人であることはすぐに分かりました」

 

「そう、だよね……。じゃあどうしてあの時、すぐに誰かに言わなかったの?」

 

「理由が分からなかったのです。姉が死んだ以前の自分に変装して自分に襲いかかる、なんて妙なことを実行するに足る行動の理由が。それもここに来たことでようやく分かりました」

 

 だがそれを説明するには役者が不足している。自分とエディンバラ、ついでにシリアスだけではこの話は完結しない。必要な登場人物はあと二人だ。

 

「ですから、このシリアスの話を聞いていただけますかご主人様? そしてシェフィールド?」

 

 面を上げたベルファストが宣言する。エディンバラとシリアスがその視線の先へ顔を向けると名を呼ばれた二人、シェフィールドを引き連れた指揮官が顔を強張らせてベルファストを見つめていた。

 

 

 




次回最終話です


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4話

 夕闇の時刻を過ぎ、月夜と吊るされたランタンの明かりが、時を切り取ったような植物園を優しく照らしていた。そんな幻想的な空間で五人は対峙していた。

 

 一人はベルファストという名のメイド。ひた隠しにされた秘密から遠ざけられていた。そして今のその秘密に触れんとしている異邦人。

 

 そんな主演である彼女は、秘密を抱える四人の視線を一身に浴びている。初めに口を開いたのは指揮官の後ろに控えているシェフィールドだった。ベルファストを見つける視線は疑わしげで、

 

「ベルファスト、どうして私たちがここに来ることが分かったのですか?」

 

 まだ姿を現す前だったというのにどうしてそこにいたことが分かったのかシェフィールドが聞くと、指名された彼女はあっけらかんと、

 

「確信はありませんでした。私が信じたのはシェフィールド、あなたの能力です 。この母港で起きていることをあなたが把握していないはずがない。そう信頼しての行動でしたが上手くいきました」

 

「それはどうも。ですが探偵ごっこでしたら他所でやってください。ここは私たちにとって神聖な場所。あなたの遊びには付き合っていられません。……指揮官、帰りましょう」

 

 首を横に振り、時間の無駄だとシェフィールドは指揮官の袖を掴んでこの場を去ろうとした。そしてベルファストがシェフィールドを引き留めるのに口にしたことは、シェフィールドには見過ごすことのできないものだった。

 

「その勘違いを正すためにも、私は『ベルファスト』の言葉を伝えなければならない。そしてそれには、この場所でなくてはいけないのです」

 

「いい加減にしなさいっ!」

 

 今まで澄ました顔を崩さなかったシェフィールドが初めて声を荒げ表情を歪めた。鉄仮面のように変わらなかった表情が大きく歪み、硬く握られた拳が震えている。

 

「何も知らない外様の分際で、あなたが一体何を私たちに伝えられるというのです。思い違いも甚だしい」

 

「シェフィールド……」

 

 今にも飛び出しそうな彼女に指揮官が引き留めた。良いのか、と見上げるシェフィールドに指揮官は首を横に振って、

 

「シェフィールド。彼女の言い分を聞いても良いだろうか。君たちにあのような命令を下して、今さら都合が良いのは分かっている。だけど私の命令がエディンバラを凶行に走らせた。だから私には全ての顛末を見届ける責任があると思っている」

 

「……全ては御心のままに。どのような形であろうと、あなたの望まれたままに」

 

 それまでベルファストに向けていた一切の激情を霧散させ、無表情の鉄面皮を被り直したシェフィールドは恭しく一礼すると指揮官の後ろに控えて口をつぐむ。彼女はどこまでも指揮官に付き従う奉仕者だった。

 

 シェフィールドの許しを得て、指揮官はベルファストの紡ぐ言葉の全てを聞き逃すまいと、彼女と対面する。

 

 確認するように一度頷き、ベルファストは柔らかい笑みを浮かべた。機会は一度きり、

 

「ご主人様、ベルファストはご主人様を愛しています」

 

 最速で反応したのはエディンバラだった。言葉の音が意味するものを理解して菫色の瞳がギョロリと動いてベルファストをにらみつけた。ベルファストへ襲いかかるかもしれないエディンバラを警戒して、シリアスも動こうと構える。しかしすぐに二人は、ベルファストの言葉を聞いた全員が、困惑して彼女を見ていた。

 

 愛の言葉とはこれほどまでに情熱もなく、語ることの出来るなのだろうか。あまりにも空虚な言葉。告げられた指揮官もまた、どう反応して良いか分からずに言葉を失っていた。

 

 困惑から我に返ったエディンバラがベルファストに食らいつく。

 

「『ベル』が言いたかったのがそんなセリフ? いい加減にして! あなたにあの『ベル』が言いたかったことが分かるの? そんな作り物みたいな空っぽの言葉なんかじゃ……」

 

 ベルファストは寂しげに笑う。

 

「ええ、そうですとも。私のコレは、想いの欠片も籠もらない薄っぺらな言葉。ですがそれは私だけではないでしょう?」

 

 ベルファストが自身を否定する言葉を肯定してエディンバラは面食らう。そしてそれだけではないのだと、彼女はエディンバラを問い詰めた。

 

「な、何を言って……」

 

「この言葉こそが、姉さんが私を襲った理由なのでしょう?」

 

 一歩、また一歩。ベルファストは彼女をにらむエディンバラへ近づいていく。ベルファストに怯むエディンバラは小さく後ずさりしていく。

 

「姉さん。私はベルファストですか? それとも過去にいた『ベルファスト』ですか? 答えてください」

 

「え……」

 

 困惑するエディンバラ。彼女はその質問の意味が理解できていないと表情が語っていた。その様子を見てやはりそうなのかと、自身の予想がやはり的中してしまったことにベルファストは目を伏せる。

 

「ええ、そうでしょうとも。あなたは過去の『ベルファスト』と私を別人と認識していない。いや、できていない」

 

 なぜなら、そこに差異などないのだから。

 

「私たちは本当の姉妹などではない。試験管から作られた創造物の一つ。何の接点もない私たちを姉妹たらしめるのは、ただ『ベルファストとエディンバラは姉妹である』という入力された規定だけ。本物と言える記憶や思い出など何一つ存在していない」

 

「やめてっ! 私とあの『ベル』は何も、何もなくなんか……」

 

 逃げることを許さない瞳がエディンバラを見つめる。

 

「ならば、何故恐れたのです。私が『ベルファスト』に取って代わると。あたかも『ベルファスト』が怒り、私を排除しようとしていると演技までして。あなたは何を恐れたのです?」

 

「指揮官は、ご主人様は『ベル』を本当に大切に思っていたのよ。あなたじゃない。あの子だけなのよ」

 

「そう思うなら、何故以前の『ベルファスト』の名誉を傷つけかねない方法をとったのです」

 

「だってバカみたいじゃない! あんなにお互いを思い合っていたのに、それがいくらでも代わりの効くモノだなんて。指揮官はお人形を愛してたんじゃないんだよ」

 

 自分が愛していたはずの姉妹が、その愛がただ機会的に用意された記号の羅列だとエディンバラは思いたくなかった。そこには愛があったのだと、信じたかった。そのために手段は選ばなかった。それほどに彼女は追い込まれていた。だがベルファストは淡々とその本心を突きつけていく。

 

「あなたはただ、信じられなかったのでしょう? 共に過ごした『ベルファスト』が代わりの効かない、ただ一人の存在であることを。だから私を排除することで、『ベルファスト』の存在をただ一つのものにしようとした。違いますか?」

 

 エディンバラは大きく顔をしかめる。図星だった。諦めたような脱力して、疲れたようにエディンバラは語る。

 

「ベルファスト、あなたは知っている? 「ベルファスト」は人気のモデルでね、建造も比較的容易だから、どの母港にも一体いるのよ。同じ顔をして、同じ能力をしたベルファストが何人もいて、その全員がメイドとして当たり前のように指揮官の側にいるの」

 

「怖いよ。私たちはここにいるのに、いくらでも代わりがいる。他の母港に行った時に、指揮官じゃないご主人様に微笑む、知らないベルファストを見た時に思ったわ。ああ、結局私たちがしていることって、ただの人の真似事だって」

 

 作られた存在。ならばモデルとなった人物やものはある。彼女たちは模倣することで人であるかのように振る舞う。それが自分の意思や個性だと疑わず。その事実がエディンバラを苦しめた。

 

「同じ人物、同じ舞台、同じ台詞。小説を読み返すみたいに、同じやりとりがこの世界のあちこちで繰り返されている。当たり前よね。私たちは作られた存在。いかにも個性的な人格を機械的に植え付けられている。だから同じことを繰り返すしか能がない」

 

 だけど、とエディンバラは譲れないただ一つの希望にすがりつく。

 

「でも、『ベルファスト』だけは違う。死んでしまった彼女は黙したことで初めて、誰かに用意されたものじゃない、本当の意味を持てた。ご主人様がベルファストの死を悼んでくれていれば、あの『ベルファスト』は代わりのいない唯一になれる」

 

「彼女の愛は本物だったって、その死を悲しむ心の痛みが証明してくれる。でも、私たちが感じている感情がヒトと同じなのか、それともただのプログラムが作った反応かなんて、私には分からない……」

 

 ベルファストへ向けられていた指揮官の愛が永遠のモノであって欲しいとエディンバラは思う。だけどこの気持ちが本物だと、あらかじめ用意された作り物ではないと言い切れない。

 

 エディンバラにはもう、自分が本当に悲しんでいるのかさえ、自信がなかった。本当に姉妹を愛して、その喪失を耐えがたいものだと、あるのかも分からない心が感じているのかどうか証明のしようがない。唯一本物の感情を持つニンゲンである指揮官に振り向いて、エディンバラは指揮官へ愛の証を示して欲しいとすがりつく。

 

「ねえ、ご主人様。心は痛みますか? 今でも『ベルファスト』を愛して下さっていますか? そこに本物の愛はありますか? エディンバラには分からないんです。だから教えてください」

 

 自身に愛の証明を求めるエディンバラに指揮官は言葉を失う。痛々しいその表情のすべてが誰かに作られたモノだという考えが頭をよぎる。

 

 作られたモノを愛した自分。それは結局のところ、ただの人形遊びと変わらないのではないか。かつて語らった彼女はもういない。今いるのは彼女と同じ顔、同じ人格をした別人。別人だと分かっていても、心の奥底は暖かくうずいていた。

 

 そう感じていることですら、彼女への裏切りと思えて胸が苦しくなる。彼女と同じ顔をしたベルファストは微笑んでいた。

 

「……私が必要以上に彼女へ踏み込まなければ、彼女は沈むような真似をしなかった」

 

「『ベルファスト』はどのようにして?」

 

「最奥海域への侵攻作戦の際、撤退の殿を彼女が務めて、最後は敵のセイレーンと相打ちとなった。おかげで私たち人類は、最後の侵攻作戦の手筈を進められている。皮肉だと思うか?」

 

 自嘲を多分に含んだ口調で指揮官は言う。自分と同じ形をしたベルファストが自身の過失で破損したことにベルファストがどのように反応するかを恐れて声色は乱れている。

 

 対してベルファストは淡々とした口調で確認するように問いただす。

 

「そしてご主人様はメイドたちに、メイドであることを辞めさせて。ベルファストが残し全海域攻略の機会に全てを賭けていたと。それが罪滅ぼしになると考えて?」

 

「私の愛が彼女を追い込んだんだ! 私が彼女を愛さなければ、彼女はただのメイドでいられた。人類の未来なんてモノに身を捧げなくて済んだ」

 

 溜め込んでいた己の中にあった本音が吐き出される。顔を覆った指揮官は小さく肩を震わせていた。自分の愛が最愛を破壊した、その事実を言葉にして改めれ突きつけられて指揮官は罪悪感に狂いそうだった。

 

 しかし壊れてしまった最愛と同じ形をしたベルファストは責めも怒りもせず、安堵に表情を綻ばせる。言った。

 

「あぁ、良かった。確かに『ベルファスト』は用意された形でない、本物の愛を得たのですね」

 

 羨ましさと喜ばしさが混ざったベルファストの声色に指揮官は困惑する。少なくとも言葉汚く罵られると覚悟していた指揮官はベルファストの言うことの意味を理解出来なかった。

 

「君はさっき、君たちは用意された形で存在出来ないと言ったばかりだろう? 彼女の愛は作られた道筋でしか愛を知らないと」

 

「『ベルファスト』はロイヤルのメイドにしか成れません。そういう風に作られているから、そうした機能しか載せられていないから。……ええ、それは揺らぎようのない事実です。しかしそれではおかしいのです」

 

「何がおかしいと、彼女が誰かを愛したのがおかしいって言いたいのか」

 

「違います。私は言いました。わたし達はあらかじめ用意された形でしか生きる能がないと。だから言い換えれば私たちの在り方は、用意された意味を守り続けること。そこから外れることは出来ず、ましてや自己犠牲など起こりえるはずがない」

 

 言い方は違えど、結局のところKAN―SENは皆同じだ。用意された個性と思考傾向を自分のものだと考えて、その基礎の通りに生きている。それだけが彼女たちにとって、自分を自分だと認識できる拠り所。だから何よりもその宿命を続けるために自己保存が優先される。

 

 でなければ、その道筋から逸れてしまえば、それはもう自分ではないから。

 

「私たちは指揮官が望んでも自爆や特攻を実行できない。そうプログラムされて、自分を犠牲に戦い方はできず、どれほど破損しようとも母港に帰還し、いずれはまた出撃が出来るまで改修される。指揮官であれば思い当たるはずです」

 

 KAN―SENはどれほど傷ついても、沈むことは無い。指揮官自身、そうした場面に出くわしたことはない。ベルファストの言うことは事実だった。当たり前のように受け入れていた事実が指摘されたことで、途端に当たり前だったものが背筋を凍らす。

 

 戦うための兵器だからこそ、個性など、より闘いを効率的に進めるための手段の一つに過ぎない。死なず、壊れず、そして何よりも戦い続けることに疑問を持たず。それこそがKAN―SENの個性の正体。

 

 だからこそ、自己犠牲という選択を選びとり、散ったベルファストだけが異なっていた。 

 

 そこにある意味は、ベルファストである、彼女だけが理解出来るものだった。理解出来るからこそ、溢れ出てしまうそうになる感情を抑えて、ベルファストは伝えられることのなかった彼女の言葉を指揮官へと奏上する。

 

「彼女は自らを犠牲にすることで、ロイヤルであることを放棄しました。メイドであることより、ただ一人の、ただのベルファストとして愛を示そうとした」

 

 それこそが『ベルファスト』が伝えようとした彼女の全て。

 

「作られた自分という呪縛を超え、抱いた愛が指揮官という誰でもなれる役職ではなく、あなただけへ向いていることを証明しようとした」

 

 きっとそこには苦悩があった。自分は何をなすべきなのか。用意された存在理由と、自分の想いが食い違い、ずっと思い悩んでいた。けれど、それでも『ベルファスト』は選んだ。

 

「たとえ結ばれずとも、自分の抱いた愛が作り物ではないと示したかったのです。身勝手だと思います。残される者の気持ちより、自分の気持ちを優先した。主人に奉仕するための存在する、ベルファストにあるまじき選択。けれど、それが愛なのです。愛は身勝手で、伝えることでしか確かめられない」

 

 自分に与えられた使命、運命、あり方。全てを放棄し、ただ一人のため彼女はその身すら投げ出した。それだけが作られた彼女が選ぶことのできる、唯一の愛の示し方だった。

 

 与えられた使命を投げ捨てた。自分が何者でも構わない。自分を形作ることの出来るモノは、用意された何かではなく、自分が勝ち取ったただ一つなのだから。愛されるためのあり方、自分の存在よりも、彼女は誰かを愛することを選んだ。それ以上を示すために。

 

「ロイヤルより愛をこめて。『ベルファスト』はあなたを愛していました」

 

 全く同一の存在であるベルファストだから理解できる。それはとてつもない勇気がいることだ。自分はメイドとして、用意された立場ゆえに、目の前にいる指揮官を愛してる。だけど自分はあの『ベルファスト』と同じ選択肢を取ることができない。与えられた宿命に背くことが出来ない。

 

 結ばれることなく、自己が消失することでしか証明出来ない。そんな何も残らない方法を、彼女は受け入れた。主人に愛される自分を保つことを放棄する。そんなことベルファストには出来ない。

 

 その事実が自分と彼女が違う存在なのだと雄弁に表していた。

 

 誰にも語られることのなかった『ベルファスト』の本意が明かされた。当の本人は語らぬ亡骸となって今目の前にある墓の下に安置されていた。残された人々は彼女の自己中心的で、どこまでも人間的な、愛の遺言に言葉を失っていた。

 

 ただ一人、指揮官は静かにさめざめと声を押し殺して泣いていた。せめて眠る彼女に情けない姿を見せまいと、溢れて止まらない嘆きの言葉を押し留めて、抑えようのない透明な涙が流れていく。

 

「一言でも言って欲しかった。結ばれなくても良かった。愛の言葉がなくてもいい。特別じゃなくても、ありふれたものでもいい。ただ君が隣にさえいてくれたら、それだけで私は、それ以上ないほど満たされていた」

 

「それでも『ベルファスト』はそれを良しとしなかった。彼女は自分の愛がいくらでも代用の効くものではないと、自分の心から生じた唯一のものだとあなたに伝えたかった」

 

 そうでなければ、いつまでも『ベルファスト』は作られたあり方を克服することはできなかった。だが、それで残された者はどうすればいいのだろうか。

 

「私は彼女に何をしてあげれば良かったんだ。形あるものをどれほど愛しても、それが彼女の思いを作り物に陥れてしまうなら、残される私はどうすればいい。答えてくれベルファスト」

 

「私はあの『ベルファスト』ではございません。彼女の思いを想像することはできても、具体的に彼女が何を望んだかなど分かりません。それは私が想像して、勝手に決めつけた、私の心から生じたもの。彼女のものではありません」

 

 だが、自分の想いが本物であると願い、行動した彼女ならばきっと願うのだろう。

 

「ですが。もし可能なら、彼女がいたことを時々でも思い出してください。あなたを思って何かを残そうとした彼女がいたことを、覚えていてください」

 

「そんなことでいいのか?」

 

「はい。もしそれで少しでも、熱く揺れる何かがあるのなら、それこそが彼女があなたを愛したことを永遠にしてくれる。どこにも形のない愛を、確かにあったと胸を張って言えることこそ、彼女が望んだことですから」

 

 ●

 

 月明かりに照らされた植物園の奥にある墓の前に指揮官は静かに跪いている。

 

 手に持ったトネリコの花束をそっと墓前に備え、ヒトにするように、その死を悼んでいた。

 

 指揮官はこの素朴で、それほど色鮮やかでもないこの花こそ、彼女に最もふさわしい花だとずっと思っていた。

 

 トネリコの花言葉いくつかある。

 

 その一つは服従。よく働いてくれる従者を主人は労った。

 

 その一つは偉大。兵器として優れ、反攻のきっかけを手繰り寄せた偉大な部下を指揮官は称えた。

 

 その一つは高潔。従者でもなく、兵器でもなく、ただの一人として、ただ愛に誠実に向き合い、そのために生きた彼女をかの人は受け入れた。

 

 彼女を思うと胸が苦しくなる。まぶたを閉じれば、彼女を簡単に思い出せてしまう。嬉しい思い出、苦い思い出、その全てが愛おしい。

 

 だがそれらはもう過去のもの。未来にはないもの。

 

 彼女を過去にして自分は生きていかなければならない。当たり前のことが何よりも胸を裂いて自分を苦しめる。

 

 きっと自分はいつか彼女がいたことも、ぼんやりとした記憶でしか思い出せなくなる。もしかしたら彼女以外の誰かを愛しているのかもしれない。

 

 彼女が眠りについた時から、彼女は乗り越えなければならない過去に変わっていた。そんな当たり前を受け入れなければいけなかった。彼女は自分を愛してくれても、悲しんでほしいとは願っていない。私はそう思う。

 

 だから私は今も彼女を思うだけで熱を放つ、二人の間だけでなら感じられるこの気持ちだけを持って進むことにした。

 

 例え傷がどれほど癒えて、苦しいかった思い出を過去のものと語れるようになろうと、抱いた思いだけは本物だったと言えるようにしよう。彼女の思いは本物だったと証明し続けられるように明日を生きる。彼女が示してくれた確かな思いが私を支えてくれるから。そう決めた。

 

 もう迷う自分はどこにもいなかった。

 

 四人のメイドたちは静かに指揮官が過去の『ベルファスト』を悼む姿を見守っていた。

 

 黙した指揮官が何を思うのか、実のところ彼女たちにはよく分からない。用意された個性が表面的な理解を助けるが、本質的にモノである彼女のたちにとって、何かを感じ取り、何かを思う行為は電子的な記号と変わらない。

 

 あれほどまでにヒトの心を獲得し、自己犠牲すら選んでみせた『ベルファスト』が異常なのだ。故障と形容してもいい。

 

 だけど彼女たちはそれを悪いものだとは判断しなかった。

 

 夜が明けて、顔を出した朝日に照らされる指揮官の表情を作り出した彼女の思いを、誤作動から生じた間違いだとは誰も思わなかった。

 

 ●

 

 朝も明けた次の日。指揮官がしたことは母港にいるKAN―SENたちに謝って回ることだった。

 

 余計な命令を出したこと。余計な不破を生み出したこと。そして何よりも心配をかけたこと。

 

 頭を下げて、誠実に言葉を伝える指揮官を彼女たちは無碍にはしなかった。受け入れ。自分の預かり知らぬところで一つの区切りがついたのだと、そう理解した。

 

 わだかまりも失せ、受け入れられたベルファストは改めて、母港に着任した。今度はメイドとしても、兵器としても。

 

 そしてしばらくの時間が経った後、その最初の任務は、以前の『ベルファスト』が残した反攻作戦の仕上げだった。決して狭くはない母港の海が隊列を組み出撃するKAN―SENたちにいっぱいになる。

 

 皆彼女が残した機会を無駄にしないための総力戦だった。彼女を好きだった誰もが、その犠牲を無駄にしないために戦いに赴いていた。果敢に出撃する同僚たちを見送り、最後発となったメイド隊が残される指揮官に見送られながら母校を離れる。

 

 波を裂いて彼女たちは進んでいく。

 

「そういえばベルファスト。一つ、聞きたいことがありました」

 

 隣にいたシェフィールドが不思議そうに首を傾げていた。速度を落とさず、顔だけを彼女に向けたベルファストがどうしたと聞くと、

 

「あの夜。植物園にどうやって入ったのですか? 裏口は一つしかありませんから、私と指揮官にすれ違わないはずがないのですが」

 

「え? 鍵が空いてましたから、小面から普通に入りましたよ? 姉さんを追ってましたから。姉さんが鍵を開けたのでしょう?」

 

 次に不思議そうな顔をしたのはエディンバラだった。

 

「私そんなことしていないよ? 私は植物園に向かうベルを見つけて慌てて追いかけたんだから。それにあそこの鍵はもう、スペアをご主人様が持っているものだけなのよ?」

 

「スペアはご主人様が? だとするとメインはどこに?」

 

「それでしたら『ベルファスト』と共に埋葬されています。あそこは彼女のお気に入りの場所でしたから。指揮官と時々あそこでお茶会などを。せめて鍵くらいは一緒しようと、そうしたほうがいいと思って私が」

 

 シリアスが答えた。だとすると、鍵は指揮官が持つただ一つということになる。そしてあの夜、ベルファストが後ろ姿を追った相手はエディンバラではないという。

 

 どういうことだろう。

 

 思えば自分は初めから、どこかおかしかった。

 

 何故か母港の細かな地理を何となく知っていて、指揮官の好みを何故か知っていて、同型であるというだけのベルファストの想いもどうしてか理解できていた。

 

 どこか導かれるようにして、この母校のこじれた傷をつまびらかにしていた。メイドの領分も超えて。そうしなければならないと感じてだろうか? 

 

 不思議な話だ。

 

 後ろに残した母港へ振り返り、そして解答はあった。

 

 自分たちを見送る指揮官。逆光となって見えづらい視界の中で、寄り添う人影があった。表情も服装もぼんやりとして、影でしかないその人が誰なのかはっきりとはしない。だが黙して付き従うそれが誰なのか、改めて答える必要がどこにあろうか。

 

 簡単な話だ。

 

 作られた器に用意された個性。それでもそこにただ一つの魂が宿ったのなら、それが器から解き放たれたとして、どこへゆくだろう。天国は人のためにあると聞く。ならきっと、作られたモノである自分は、自分が自分でいられる場所を選ぶだろう。身も、心も、魂すらも捧げて、愛を示し、愛する人の幸福を願うかもしれない。愛する人が苦しまないように小さくとも手を伸ばすかもしれない。

 

 ベルファストはもう見えなくなった影に微笑んだ。

 

 自分たちを指揮官と共に見送るために一礼が返ってきたような気がした。

 

 



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