筒井とギャル棋士 (ようぺい)
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1話 筒井と黒ギャル

 葉瀬中でたったひとりから囲碁部を創設した初代部長筒井公宏(つついきみひろ)

 

 初めて部員が入ったのは彼が3年生になった年だった。孤独で2年間も活動していた分、最後の1年は本当に楽しかった。出来る事ならずっとここにいたいとさえ思える最高の場所だ。

 

 しかしそうもいかない。卒業、そして進学と、彼は次なるステージへ進まなければならないのだ。

 

 

 桜も散り始めた4月の中旬、ここ葉瀬高の校門で朝からビラ配りをしている生徒がいた。黒縁眼鏡にきっちりホックを止めた学ラン姿、マジメを絵に描いたような彼、当校1年の筒井である。

 

「囲碁部でーす。部員募集中でーす。よろしくお願いしまーす」

 

 この高校には囲碁部が無い。つまり彼はまたひとりでスタートなのだ。そんな訳で、入学してからほぼ日課となっている朝のビラ配り中である。

 

 だが登校する生徒達は面倒臭そうに遠回りに避けて行く。

 

 最初の頃は受け取っては貰えた。あくまで受け取ってはだが。しかしもう誰ひとりとして、筒井の差し出すビラに手を伸ばそうとする者はいなくなっていた。こう毎日毎日なので皆見るまでもなく知っているからだ。

 

「初心者歓迎でーす。よろしくお願いしまーす」

 

 慣れたものとは言え筒井も人間だ。途中酷く寂しい気持ちになり、息苦しさを覚える事もある。

 

 もはや誰にも受け取って貰えないビラ配りなど無意味な行為かもしれない。それでもいつかきっと芽が出てくれるはず、そう信じて何とか踏みとどまる。

 

 そしてそんな下がり掛けていた視線に写ったのは、小麦色のお腹だった。

 

「おーっす、メガネ。調子はどう?」

 

 誰も相手にしない筒井に声を掛けてくれた生徒がいた。同じクラスの黒ギャル、通称ギャル子である。

 

 金髪ポニーテールに大きく開いた胸元、そしてシャツを縛ったヘソ出しルック。スカート丈も短く、どこからどう見てもギャルだ。

 

 入学当初は「うわ、この人お腹出てる……」と思いもしたが、そんな中坊上がりには刺激的な姿もすっかり慣れてしまった。見慣れた訳ではない、派手な外見以上に彼女の内面を見るようになったのだ。

 

 毎朝こうしてわざわざ足を止めて、自分の部でもない勧誘の進捗状況を尋ね気に掛けてくれている。直接手を貸してくれなくとも、孤独な戦いをしている筒井はとても勇気付けられていた。

 

 視線を彼女のお腹からパッチリとした瞳へ移した筒井は、気落ちなど微塵も感じられない爽やかな笑顔をしている。

 

「全然だよ。でもまだ4月だし、これからこれから。そのうち部活入りそびれた人も出てくるだろうし」

 

「そっか。よく知らないけど、大会? とかまでには何とかなると良いね」

 

 スタイルの良さもあり、ギャル子はどちらかと言えば大人っぽい。そして整った顔立ちに完璧に仕上げたメイクは可愛いよりも格好良い印象がある。

 

「う、うん。大会も出たいけど、今はやっぱりちゃんとした仲間が欲しいかな。部室に行って誰かいるのが凄く嬉しいって言うか、中学で後輩が部に入った時そう思ったんだ」

 

 少し気恥ずかしそうに語る筒井。目を閉じればあの楽しかった日々が蘇る思いだ。だがもうあそこに自分の居場所は無い。ここだ。ここでまたあんな毎日を過ごせる場所を作らなければならないのだ。

 

 ギャル子は「何かひとり暮らしの人みたい」と笑いを零した口を手で隠した。ピンク色に艶めいたネイルが筒井の目を惹く。

 

「へ、変かな」

 

「ううん。でもウチの高校って凄いよね。部になればちゃんとした部室が貰えるんでしょ? あたし他所の部室見たことあるけど、溜まったりするの楽しそうだなーって」

 

 筒井は部室と言ったが、正確には理科室を練習場所として使わせて貰っていただけだ。なので高校では部室を貰えたらこうしよう、ああしよう等と想像が膨らみ、考えただけで胸が弾む。おかげでさらに気合いが入り、もうひと頑張り──、と思ったところで予鈴の音が響き渡った。

 

 

 他の生徒達の流れに乗るように、並んで昇降口へと歩き始めた2人。大体ギャル子が予鈴少し前に来るので、こうやって一緒に教室へ向かうのはよくある事だ。

 

 と、急に冷たい風が吹きギャル子がブルっと震えた。

 

「さっむ〜!」

 

「お腹しまったら?」

 

「えー、何か負けたみたいで嫌だ。ギャル舐めんなっつーの」

 

 筒井から細めた目を向けられ、ピシッと背中を伸ばしたギャル子。寒さに負けないアピールなのだろうが、ふとそのまま隣の筒井を見上げた。

 

「そういやメガネ、身長いくつだった?」

 

「172センチだったよ」

 

 入学してすぐの身体測定の話題だ。中学時代より5センチ以上伸びている。

 

「私は162だった。あ、体重はもちろん、スリーサイズも秘密ね?」

 

 にしし、とイタズラな笑みを浮かべるギャル子。筒井は眼鏡を持ち上げる仕草を交え、

 

「いや、僕はそういう数字とか特に興味無いし」

 

「うわ、何その眼鏡キャラっぽいセリフ。メガネ可愛くない」

 

「あのさぁ、メガネメガネって……。そろそろ名前くらい覚えたら?」

 

「い、いや覚えてる……、けど? つーか! メガネこそあたしの名前知ってるの!? 知らないんでしょ!? マジ最悪なんですけどー!」

 

 誤魔化すように声を大きくしたギャル子。

 

「桑原だろ。出欠もあるし、入学して2週間も経てばさすがにクラス全員覚えたよ」

 

「桑原禁止ー。小学生の頃男子達に『霊剣ッ!』つっていじられたから」

 

 筒井も読んだ事がある昔の漫画の話だ。しかしそんな事よりも、筒井は見えない剣で斬り掛かって来るギャル子に戸惑ってしまう。斬るマネどころか普通にポカッ、と叩かれているのだが、女子とこういう触れ合い経験が無かったため、どちらかと言えば嬉しくもある。

 

 そんな中でどうにか口をついたのは囲碁バカの彼らしいセリフだった。

 

「ぼ、僕としては碁のタイトル持ってる桑原本因坊のイメージが強いんだけど……。って言ってもギャル子は知らないか」

 

「知ってるよ? それウチのお祖父ちゃんだし」

 

 はいはい、と全く感情の入っていない返事を返し、ギャル子が上履きに履き替えるのを待っている筒井。

 

 その際、前屈みで片足を上げ靴を履く姿に、開いた胸元の谷間がバッチリ目に入ってしまった。一瞬の硬直の後に慌てて顔を逸らそうとするも、先にギャル子の細めた目と視線が重なってしまった。

 

「あ、今見たっしょ。エロ」

 

「ご、ごめん、見ました……」

 

 素直に謝る筒井。見ようと思って見た訳では無いが、それでも見られて良かった物は良かった物なので、対価は払わなければならない。

 

 ところが睨んでいたはずのギャル子の顔は、イタズラっぽい笑顔と変わり、

 

「嘘々、今のは仕方ないし怒ってないよ。メガネって誤魔化したり言い訳とかしないんだね。そういうバカ正直な奴って人生損しそうじゃない?」

 

「そんな大袈裟な……。ギャル子こそ色々お節介でっていうか。この前お婆さんおんぶして信号渡ってるの見たよ」

 

 入学して数日経った頃だ。高校の最寄り駅近くにある開かずの信号に等しい大きな横断歩道で、その光景を目の当たりにした筒井。電車で席を譲るのさえ迷ってしまう自分ならば、絶対マネの出来ない行為だ。まだギャルという生き物に偏見を持っていた彼は小さな感動を覚えたのだ。

 

 見返りなどを求めず他人に親切に出来る奴──。筒井はギャル子に対してそんな印象を持っていた。

 

 実際学校生活の中でも面倒見が良く親切なのだ。なので腹を出した派手な格好をしてても、少なくともクラスメイトからは変な目で見られてはいない。

 

 そして筒井から「見たよ」と言われたそんなギャル子が照れ隠しに脚にカバンをぶつけてきた。

 

「な、何かお婆ちゃん一生渡れなそうだったからさ。つーか見られてたとか恥ずかしいんだけどっ! もうストーカーっぽいし!」

 

 そのお婆ちゃんに感謝しない訳にはいかない。お陰でこうしてギャル子と友達になれたようなものなのだ。筒井はそんな事を思いながら「あはは」と笑い声を上げた。

 

 

 教室へ着いた頃にはホームルーム直前。早足で自分の席へと着いた筒井は、減っていない大量のビラを机の中に折れないようにしまった。

 

「でもさぁ、そろそろ他の方法も考えたら? 毎朝ビラっていうのもウザいって思う人いるかもよ?」

 

 ギャル子は隣の席だ。なので良く話す。たまに昼も一緒に食べる。そんな見た目マジメ君とド派手ギャルが一緒にいる光景を、クラスメイト達はいつも不思議そうな顔で眺めている。

 

「でもビラとポスター以外に何か出来る事あるかな?」

 

 あるなら是非聞きたいと、ギャル子に対して若干の期待を寄せる。

 

「……いや、そう言われるとわかんないけど。あ、ちょっと待って……。ああ、ごめんやっぱわかんない」

 

 しばらく腕を組み首を傾げていたギャル子。一応頭を悩ませてはくれたらしく、豹柄の下着を着けていそうな派手な見た目に寄らずに良い奴だ。

 

 そんな良い奴なので、筒井も淡い期待を抱いてしまう。

 

「あ、あのさぁっ」

 

 隣からやけに真剣な目を向けられたギャル子に「へっ?」と緊張が走った。

 

「い、囲碁部入らない?」

 

「……悪いけど、貴重な放課後に石並べとかマジでないから。て言うかさ、いきなりマジな顔すっからビックリすんじゃん」

 

 口を尖らせたギャル子はまるで碁には興味無しと言わんばかりに、何度か手の平を返しながら自慢らしき爪を色々な角度から眺め始めた。

 

 やっぱりなぁ、と筒井が肩を落とす姿を横目に、

 

「でもさ、メガネも勧誘ばっかじゃなくて、たまには高校生らしく青春っぽい事しようぜ?」

 

「だから囲碁部作って青春しようとしてるんだろ。そう言うギャル子は何かしてるの?」

 

「あたし? あたしは放課後はカラオケ行ったりしてるよ? もう思いっきりJKの青春でしょ?」

 

 自信満々なギャル子。バカっぽいが、とても幸せそうなので筒井は呆れを通り越して羨ましくも思えた。

 

「カラオケかぁ。僕、こないだ初めて行ったんだ」

 

「マジで? 楽しいっしょ?」

 

 囲碁バカポジションの筒井であるが、クラスには一緒に昼を食べたり遊べる友人はなんとか存在する。なお、彼が行ったのは入学して間も無くの男子オンリーのクラス会みたいなものだ。

 

「そうだね。でも大勢で行ったからあんまり歌わなかったけど」

 

「えー、じゃあ今日ウチらと行こうよ。人数少なければいっぱい歌えんじゃん」

 

「う、うんっ」

 

 さらりと誘われてしまった筒井は、驚きと喜びが混ざり合い声が裏返りそうになった。そしてウチらと言われて、ギャル子がいつも一緒にいる2人を思い浮かべるのであった。

 

 

 ◆

 

 

 昼休み。教室の真ん中で、2人の女子が机を3つくっ付けて昼食中である。

 

「代表遅くね? あたしら食べ終わっちゃうよ?」

 

 弁当箱だけが乗っている空席。箸を止めたギャル子が代表と呼ばれる者の席に視線を送った。待ってようかな、どうしようかな、と頭を悩ませる。

 

 一緒に食事をしているもうひとりの女子は食べ終わってしまい、爪楊枝を咥えている。金髪ショートカットで背が高くスタイルの良い、目付きの鋭いおっかなそうな黒ギャルだ。

 

「いつもの事だろ。つーか代表って入学してから何人くらいに告られたんだっけ」

 

「さあ? て言うか本人も知らないんじゃん? それよりオラ子のアスパラベーコン超美味しかったよ? また作ってきてよ」

 

 背の高い女子、オラ子はオカズ交換した自作弁当を褒められ「ああ」と頷いたが、

 

「あのさぁ、JKとして恋バナより弁当の話ってどーなんだよ」

 

 ずいっと前のめりに顔を近づける。友人が告白されているのに、もっと興味を示せとオラ子は言いたい。

 

「んー、そう言われてもあの代表だしね。ウチらも今さら告白イベントとかじゃ盛り上がんないっしょ」

 

「ま、そりゃそうだ。つーかさぁ、ギャル子はどうなんよ。筒井に気があるわけ?」

 

 軽く周囲を見渡し、声を小にして尋ねたオラ子。

 

「ん? 筒井って誰?」

 

 ところが思い切って尋ねた質問はその言葉だけであっさりと否定。こりゃ無ぇな、とつまらなそうな顔をしていると、空席の椅子がガタッと音を立てて引かれた。

 

「あんたがメガネって呼んでる男の子よ」

 

「お帰り代表。あー、そういやメガネって筒井って言うんだっけ」

 

 疲れたようなため息を吐き出し腰を下ろしたのは代表である。長い金髪に黒いリボンが映え、黒ギャル2人とは違い綺麗な白い肌だ。

 

 何故代表なのかと言うと、別にギャルサーでも何でもない。メチャクチャ可愛いくて頭が良く、何となくリーダーっぽいから代表と呼ばれているだけだ。

 

「代表、どうだった? 今日はバスケ部のキャプテンだっけ」

 

「お断りしたわ。そんな暇無いし」

 

 代表の言葉に「もったいねー」という声は上がらなかった。2人とも暇無しの事情をわかっている様子で少し目線を下げた。

 

 どことなく空気が沈んでしまい、やや眉を下げて困ったように微笑んだ代表は、ようやくのお弁当を口に運びつつ、逸れた話を元へ戻そうとする。

 

「それよりギャル子と筒井君の話してたんでしょ? あんたら怪しいよね〜」

 

「そうそう、しょっちゅう一緒だしな。アタシはああいう『やさしいだけ』な草食動物は好みじゃねぇけど」

 

 代表達に言われて、ギャル子は頭を捻って自分の気持ちを言葉にしてみた。

 

「でも付き合う的なのとは違うかな。今んとこドキドキとかは無いし。メガネって変な下心とか無さそうだし、他の男子と違ってちゃんとあたしの目見て話してくれるから一緒に居て安心っていうか。それに──」

 

 ギャル子が教室の隅に目をやれば、そこには筒井が男子達と昼食中の姿。楽しそうに何か話しているのを見て頬が緩んでしまう。

 

「アイツひとりで頑張ってんじゃん。そういうの見ると助けてあげたくならない? だから多分そんな感じかな」

 

 ギャル子がそういう奴だと同じ中学だった2人は知っていた。なので何か良さげな事を言われても「あんたって子は……」などとほっこりとはせずに、JKの大好物である恋愛話になりそうになく「はぁ? つまんね」であった。

 

 

 ◆

 

 

 ホームルームが終わった放課後。筒井はこれからギャル子とカラオケに行く。しかしその前にギャル子が掃除当番なので、筒井は教室にて待機中である。

 

 同じように誰かを待っている者、特に意味もなく残っている者、そんな者達の中で筒井は廊下側寄りの自分の席にて詰碁本を眺めていた。

 

 が、まるで上の空。女子と放課後お出掛けするなど人生初なのだ。それもそれ程自信があるわけでもないカラオケ。時間が経つに連れて緊張も高まっていく。

 

 せめてもの救いは、筒井には妹がおり、そのおかげで囲碁バカの彼でもどうにか流行りに着いて行けている事だ。

 

「だーれだ?」

 

 頭上からの女の声と共にふいに視界が真っ暗に──、いや眼鏡があるので指の隙間の向こうはハッキリ見えているが。

 

 自分にこんな事する女子はギャル子しかいないので「指紋付くだろ」と付け加えて回答を告げたところ、

 

「ぶー、違いまーす。正解は代表さんでしたー」

 

 視界が開き振り見上げれば、言葉通りにそこにいたのは代表であった。

 

 筒井は意外な人物に目と口を丸くしたマヌケ面。筒井と代表は今のところ友達の友達みたいな関係なので、あまり話した事はないのだ。オマケに彼女は既に高嶺の花ポジションなので余計に話し掛けづらい。

 

「ああそっか。代表もカラオケ行くんだよね」

 

 こんなマネをした理由を自分で導き出した筒井であったが、

 

「私は用事あるから行かないよ? んん? 私と一緒じゃなくて残念?」

 

「う、うん。まあ……?」

 

 にんまりとした笑顔を向けられた筒井。クラスメイトとして親しくなれたら、とは思っていたが、素直に残念だと答える事にはいくらかの躊躇いを覚える。

 

「じゃあそのうちね。今日はギャル子とオラ子、美少女2人をはべらせてらっしゃい」

 

「は、はべらせッ!? 人聞きの悪い事言わないでよ。……て言うか何か用だった?」

 

 まだ「だーれだ?」をした理由を聞いていなかった筒井。どうしても「何でこんな高嶺の花が自分なんか」と思ってしまう。

 

「いや別に。筒井君が緊張してるからリラックスさせてあげようかなって」

 

「ぼ、僕緊張してるように見えた……?」

 

「うん。詰碁に全然集中してなかったし」

 

 言われて視線を手元に移せば、そこにあるのは最初の問題ページから全くめくられていない詰碁本だ。

 

「実は女の子と遊びに行くの生まれて初めてでさ……。楽しませるコツとかわからくて」

 

 入学してから大勢の男に告白されたモテモテの代表に、わざわざ自分から非モテ野郎と白状するのもバカにされそうで気が引けたが、筒井は変な見栄を張りたくなかった。

 

「ふぅん。あの子達あんなナリしてるけど、男の子と出掛けた事あんまり無いと思うよ? だから別に気にしなくて良いと思うけど」

 

「そうなの? ちょっと意外だなぁ、モテそうなのに」

 

 代表は腕を組み「私に全部来ちゃったから」とうんざりと小さく首を横に振った。

 

「それにギャル子って世話焼きのおせっかいだから、中学の時ならともかく、高校生にもなればその内悪い奴寄って来て騙されそうじゃない? だから筒井君みたいなのがそばにいてくれたら、私も安心かなって」

 

 知らない内に代表から評価されていたようで、筒井は小さな驚きを見せた。どうせ人畜無害とか、そんな男として嬉しくない評価なのはわかっているが。

 

「あ、やば。私行かなきゃっ。じゃあまた明日ね?」

 

「うん。さよなら」

 

 教室の時計を見上げた代表は、ふわりと後ろ髪をなびかせ廊下へと足を向けた。

 

 優しくて可愛くて、他にも何拍子揃っているかわからない代表。もっとお高く止まっても良さそうなものなのに、全く気取らず友人想いの良い奴じゃないかと思いながら、筒井は彼女の背中を見送った。

 

 

 

 

「おーい、メガネー」

 

 代表と別れて15分程が経ち、掃除を終えたギャル子が教室に再び姿を見せた。しかし何故か後ろには別のクラスの男子を2人連れている。言っちゃ何だが、いかにもクラスカースト最下層住人のオーラを纏っている。

 

 筒井が少し訝しげな顔を向けると、返って来たのは「にしし」という笑顔とVサイン。

 

「こいつら囲碁部に入っても良いって!」

 

「ほ、本当ッ!?」

 

「うんっ。さっき廊下で部活どうする? みたいな話聞こえてさ、誘ったら良いってっ。見た目も囲碁部っぽいし!」

 

 ギャル子の失礼交じりの言葉にコクリと頷いた男子達。

 

「うわぁ、ありがとう! やったぁ! ついに部員だ!」

 

 喜びを全身で表現する筒井は、その目にはうっすら涙まで浮かべている。

 

「良かったね〜。これで3人、って事は部に出来るじゃん」

 

 自分の事のように喜ぶギャル子であったが、その発言を耳にした男子達が「え?」と眉をひそめ、2人でヒソヒソと会話を始めた。まるで「おい、話が違わないか?」といった相談をしているようだ。

 

 しばしの密談を経て男子が、

 

「3人……? い、囲碁部って全部で3人、なの? ぼ、僕達いれて?」

 

「うんっ! キミ達が初めての部員だよ! それでどのくらい打てるの? あ、初心者でも全然っ! 一緒に頑張ろうね!」

 

 大興奮の筒井に対して、男子達はどういう訳か物凄く冷めた目をしている。

 

「そ、そっちの女の子は、ぶ、部員じゃないの?」

 

「あたし? 部員じゃないよ?」

 

 視線を送られたギャル子は自分の顔を指してきょとんとした表情。その言葉を受けた途端、男子達の露骨な舌打ちが重なった。

 

「……じゃ、じゃあ、やっぱり入らない」

 

「ど、どうして!? 僕、何か気に触る事でも言った!?」

 

 耳を疑った筒井。突然の手のひら返しに目を白黒させている。

 

 男子達は睨みつけるような上目使いで、慌てている筒井へと口を開く。

 

「い、囲碁部に入れば、そ、そのギャルと仲良くなれると思ったのに、さ、詐欺じゃないか……!」

 

「えぇっ? な、何それ……」

 

 筒井は全く予想していなかった理由に顔をしかめた。しかし何て事はない、ただの女目当て。何処にでもある話である。

 

 だが実際本人を前にそれを言えるかと言えば、普通は恥ずかしいやら、みっともないやらでとても言えたものではない。それでも口に出したという事は、相当頭に来ているようだ。

 

「んー。あたしと仲良くなりたいっていうのは、まあありがたいけどさ、折角なんだし入部しちゃいなよ。他に入りたい部活ないんでしょ?」

 

 ギャル子は困り顔をしつつも粘ってみる。このまま部員を逃して筒井をガッカリさせたくなかった。それも一度てっぺんまで上げて落とされるような思いをさせたくなかったのだ。

 

 が、男子達の次のセリフで全てが崩壊してしまう。

 

「じゃ、じゃあ……、や、やらせろよ。そうしたら入部してやるよ」

 

 何を──、とは言わないが、ギャル子も筒井もハッキリ意味が理解出来た。

 

「キ、キミ達頭おかしいんじゃないか……!? そんな無茶苦茶な話があるかよ!」

 

 筒井の声が大きくなり、まだ教室に残っているクラスメイト達の注目が集まる。だがお構い無し、男子達の暴走はさらに加速──。

 

「ど、どうせ色んな男とやりまくってんだろ……! だったら僕達だって良いじゃないかっ!」

 

「そ、そうだ! そんな男に媚びるような格好した股ゆるビッチのくせに!」

 

 本格的にギャル子を侮辱する発言が飛び出すと、遠巻きに眺めていたクラスメイト達、特にギャル達が「お?」とか「あ?」とか凄みを見せ始めた。

 

 だがギャル子は違った。俯いて足を震わせているのだ。彼女自身、こういう事を言われた経験はあった。それでも嫌な思いをするのは自分だけ、だったらどんな格好しようと勝手だろうと、そう思っていた。

 

 今も正直腹は立っている。だがそれ以上に筒井に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。この格好のせいで、結果的に筒井にぬか喜びさせてしまったのだ。それが堪らなく苦しかった。

 

「メガネ、ごめ──」

 

 だがギャル子の謝罪は途中で遮られ、かき消されてしまった。

 

「何ふざけたデタラメ言ってんだよッ! 彼女に謝れッ!」

 

 筒井の怒号が教室に響き渡ったのだ。普段温厚な彼からは想像も出来ないキレっぷりであるが、実は元々カッとしやすい性格である。皆も「お、おお、囲碁バカがキレた……」と固まっている。

 

「ギャル子はなぁ! こんな格好してるけど、メチャクチャ良い奴なんだぞ! 優しくて面倒見が良いし、それに困ってる人を放っておけないおせっかいで! こないだなんてお婆さんおぶって横断歩道渡ってたんだぞ!? そんなの実際見た事あるか!? 無いだろ!? 彼女はそのくらい普通にやっちゃう奴なんだよ!」

 

 もう筒井には部員がふいになった落胆など無かった。あるのはただ悔しい気持ち。ギャル子は自分のために部員を見つけて来てくれた。そんな純粋な親切心から起こした行動で、本人がこんな目に遭うなどあってはならないのだ。

 

 そんな筒井の熱い叫びは続けられる──。

 

「僕は感謝してる! 彼女は自分の部活でもないのに、囲碁部の事心配してくれてるし、応援もしてくれてる! だからめげずに頑張ろうって思える! 今だって頼んでもいないのに部員の勧誘して来てくれたんだ! 彼女の事全然知らない癖にバカにするなよ!」

 

 筒井の迫力に後ずさった男子達が空席にぶつかり大きくよろめいた。

 

「な、何だよ、もう頼まれたって入ってやらないぞっ! ぼ、僕はなぁ、昔は囲碁教室に通っていて、今もネット碁だってたまにやってる上級者様──」

 

「関係ないッ! お前らなんかいるもんかッ!」

 

 後悔しろという男子達の言葉を粉々に打ち砕くのは、ダメ押しの怒声──。

 

 最後に彼らが見せた抵抗は、空席をガターンッ! と押し倒し教室から逃げ出す事だけであった。

 

 

 

 筒井は大きく息を切らしながら、ギャル子へ深く頭を下げた。

 

「ギャル子、僕のせいで嫌な思いさせてごめん」

 

 まさか謝られるとは思っていなかったギャル子は、小さく上げた両の掌をブンブン左右に動かし、

 

「あっ、あたしもっ。余計な事してメガネをガッカリさせちゃって、ごめんっ。ごめんねっ?」

 

 顔を上げた筒井はギャル子の奥が揺れている瞳を真っ直ぐ見据える。

 

「全然余計じゃないって。感謝してるって言っただろ」

 

 ギャル子は「そっか」と安心したように呟き、

 

「あたしもね? メガネが怒ってくれて嬉しかったから、トータルはメッチャプラスだよ? だから謝らなくて良いから、マジでっ」

 

 嘘ではないらしく、ニヤけるのが抑えきれない様子であった。そして思い切るように口を開いた。

 

「あたし、囲碁部入っても良いよ?」

 

「え……っ? ……いや、いいよ」

 

 小さな驚きの後に少しの間を置いて首を横に振った筒井。てっきり大喜びしてくれるものかと思っていたギャル子であったが返されたのはまさかの返事だ。

 

「ど、どうして?」

 

「……ギャル子はさっきの事に変な責任っていうか、そういう気持ちで入部しようとしてるんだろ? それはキミにとって良くないよ」

 

 筒井は声を震わせるギャル子の肩へ、そっと手を置いた。

 

「で、でもメガネの力になりたいっていうのは本当だよ? あんな風に言って貰えてマジで嬉しかったし、そういうのじゃダメ? て言うかさぁ、そんな選り好みしてる余裕無いっしょ?」

 

「そりゃ部員は喉から手が出るほど欲しいけど……。だからもし、ギャル子が本当に碁が打ちたくなったら入ってよ。それなら大歓迎だからさ」

 

「う、うん……。わかった……」

 

 釈然としないながらに頷いたギャル子。しかし筒井がどれだけ部員が欲しいかわかっている彼女にとって、自分の事を考えてくれた事が胸の奥を暖かな気持ちにさせた。

 

 そんな時であった──。

 

「ぐえ」

 

 漏れたのは筒井の変な声。何者かにヘッドロックを掛けられたのだ。いきなり何が何だかわからない。ただ苦しさを覚えながらも、甘い匂いと共に頬にとても心地良い柔らかな物体を感じていた。

 

「筒井テメェ! ナイス漢気だったぜ!?」

 

 オラ子だ。さらに「むぐぐっ!」と(もが)いている筒井の脳天に拳骨(げんこつ)がぐりぐりと押し付けられる。ギャル子のために怒ってくれた事を喜んでいるらしい。

 

 突然現れたオラ子とヘッドロック内の筒井へ、驚き交じりに交互に目を移すギャル子。

 

「オラ子……、いたの?」

 

「途中からね。本当はアタシもぶちかましてやりたかったんだけどさ」

 

 その必要は無かったと、オラ子は代わりにぶちかましてくれた筒井に、少しだけ柔らかな視線を送った。

 

 しかしそんな視線も、痛いやら苦しいやら、そして気持ち良いやらの筒井には全く届いていなかった。

 

 

 

 ◆

 

 

 

 狭い個室に2人掛けのソファが2つL字に置かれ、テーブルにはドリンクが3つと、紙皿に盛られたスナック菓子。駅前のカラオケボックスである。

 

 筒井、ギャル子、オラ子の3人で来ているのだが──、

 

「明日学校行きたくないなぁ……」

 

 時間が経過するに連れて、筒井がドーンと深い沈みを見せている。原因はクラスメイト達の前でキレてしまった挙句、どこかのドラマ染みたセリフまで吐いてしまった事だ。

 

「何でだよ。アタシはああいうの嫌いじゃないぜ?」

 

 言いつつ斜めからリモコンを押し付けて来るオラ子。筒井の右隣のギャル子は彼の手の中にあるリモコンをポチポチ操作しながら、

 

「そうだよ。あたしすげぇドキドキしたし。ねぇ、ムービー撮るからもう1回やって?」

 

「やだよっ!」

 

 ムービーと言われ、クラスの誰かが撮っていたらどうしようという嫌な考えまで浮かび始めた。

 

「はいメガネ。これ一緒に歌おう?」

 

 マイクを渡された筒井は何やかんやで楽しんでいる。代表の言葉通り、美少女2人をはべらせてのカラオケだ、当然である。入学してから囲碁部の事ばかり考えていた灰色の高校生活が、鮮やかに彩られた思いだ。

 

(楽しいなぁ。これがリア充ってヤツなのかっ)

 

 ちょっと調子に乗り始めた筒井。彼にはこういうところがあるのは昔からだ。

 

 

 皆のドリンクが空になり、ジャンケンで負けた筒井が廊下のドリンクバーを訪れた時だ。

 

 しかしタイミング悪く、何処かの私立らしき一風変わった制服を着た女子高生達で混雑していた。

 

 時間掛かりそうだな、と思いながらも順番を待っていると、彼女達の中に見知った顔を見つけてしまった。

 

「あ、海王の──」

 

 その際うっかり声を漏らしてしまい、ババババッ! と彼女達の視線が針のように突き刺さる。

 

「何? ナンパ? あの顔で?」

 

「あの眼鏡だっさ、絶対オタクだよね」

 

 オマケにそんなヒソヒソ話まで。筒井は顔を真っ赤にして視線を下げたところで、その見知った顔から「あら? あなたは葉瀬の──」と声が掛けられた。

 

「確か中学で海王(ウチ)にマグレで勝った人よね。えっと、筒井とか言ったかしら」

 

 マグレを強調するショートヘアーの彼女は日高由梨。去年、海王中囲碁部で副部長及び女子チームの大将を務めていた女である。

 

 本当は優しくて良い子なのだが、毒舌の持ち主で大会で1度しか顔を合わせていない筒井は彼女に良い印象を抱いていない。

 

「……名前、覚えててくれたんだ」

 

 どうにかそれだけ口にした筒井。自分からきっかけを作ったとは言え、別に用は無いのだが、日高の方からペラペラと話し始める。

 

「筒井君、高校はどちら?」

 

「葉瀬高だけど」

 

「また葉瀬? 芸がないのね」

 

「そんな無茶苦茶な……。大体キミも海王なんじゃないのか?」

 

 初めて言われたパターンの悪口に日高の毒舌さを再認識。海王高校の制服は知らないが、エスカレーター式なので間違ってはいないだろう。

 

 日高は淹れたてのコーヒーの香りをその場で楽しみつつ、

 

「もちろん。それで、高校でも囲碁部なんでしょう? 1年生はどのくらい入ったの? ウチは男女合わせて25人くらい入ったけど。ちなみにこの子達も囲碁部員よ、よろしくね」

 

「25人ッ!? すごいなぁ……。ウチは僕だけ……。て言うか囲碁部もまだ無い……」

 

 ちょっとくれよと思わざるを得ない格差に筒井の表情が暗くなっていく。

 

「囲碁部が無い? 何だ、折角だし他校の囲碁部と情報交換でもと思ったけど、話して時間の無駄だったわ。もう行っていいわよ」

 

「いや、飲み物入れに来たんだけど……」

 

 突っ込まれた日高は「あら」と不敵な笑みを浮かべ、連れ達がドリンクを入れ終わるのを待ち始めた。

 

 その間、後ろの筒井をチラチラ見てクスクス笑う彼女達。まるで下々の民を見るようなセレブ貴族だ。

 

 考え過ぎかもしれないが「どれにしようかなー、えーと、ちょっと待って」とわざと時間を掛けているようにも思えたり。

 

(早く部屋に戻りたい……)

 

 筒井がため息を吐き出したそんな時だ──。

 

「あー、いた。迷子になってんのかと思ったじゃん」

 

 姿を現したのは、筒井の帰りが遅いので様子を見に来たギャル子だ。しかし、見つかってホッとしたと言うより怒っているように見える。

 

「ああ、ごめん。もうちょっと待って」

 

 が、怒っている理由はそれではないらしく、ギャル子は筒井の隣で立ち止まるとドリンクバーに群れる女子達を睨みつけた。

 

「あんたらさぁ、メガネの事見て笑ってるように見えたんだけど」

 

 突然のヘソ出し黒ギャルの登場に、日高以外の海王の女子達に「な、何!? 誰!?」という緊張が走った。まるで豹に睨まれたカルガモの群れだ。

 

「何でもないって。ドリンク並んでるだけだから」

 

「何でもなくないし。友達笑われるとかムカつくじゃん」

 

 実際大した事ではないので筒井はギャル子をなだめるが、簡単に矛を収めてはくれる気配がない。ムカついてくれるのは嬉しくもあるが、囲碁部を作る前に他校の囲碁部と揉めるなど、益々先行きが見えなくなってしまうので本当にやめて欲しいところだ。

 

 そこで親玉のように、壁へ寄りかかりコーヒーを口へ運んでいた日高が面を上げた。

 

「筒井君、その子は?」

 

「クラスの友達だけど……」

 

 ふぅん、と意味深に口角を上げ、今度はギャル子に視線を送った。何か企んでいるような顔だ。

 

「ごめんなさいね? でもこの子達も悪気があって笑っていたわけじゃないの。ただ取るに足らない格下を相手にするのがあまり上手じゃないだけで。だから許してあげて?」

 

「はぁ? 何それ、結局メガネの事バカにしてんじゃん」

 

「そう──、なるかしら? でも事実を言ったまでよ?」

 

「え? あんたマジ何なの? つか何様?」

 

 まだ何処の誰かも知らないギャル子に日高から返されたのは、(あご)に手の甲を添えたお嬢様らしきポーズ。

 

「海王高校囲碁部1年、日高よ。よろしくね、汚ギャルさん♡」

 

「汚ギャルッ!? ふざっけんなッ! つかカイオーとか知らねぇし! つーかさぁ、あんたら碁が強いとか、たかがそんなんで偉ぶってるわけ!? マジさっぶ!」

 

「たかが? 私達の世界それが全てよ? 汚ギャルさんは碁は打てて? いや愚問だったわね、謝るわ」

 

 あくまで上から目線を崩さない日高。舐めに舐められたギャル子は殺意を込めた鋭い眼差しを叩きつける。

 

「あ? だったらテメェのお得意な碁で勝負すっか?」

 

 ここまでただオロオロしているだけの糞の役にも立たない筒井であったが、ギャル子のセリフに耳を疑った。

 

(え? ギャル子打てるの……?)

 

 聞くまでもなく打てないと思っていたので、これまで尋ねた事はなかった。しつこく入部を迫られたくなかったから隠していたのかな、と考えたり──、筒井は頭がゴチャゴチャし始めてしまった。

 

 予想外だったのは日高も同じようで、澄ましていた表情に驚きの色が映っている。

 

「あらビックリ。もしかして打てるの? でも残念、ここには盤も石も無いし、それ以前に歌いに来た私達にそんな無駄な時間も無いわ」

 

「逃げんのかよッ」

 

「逃げる? まさか。ただし、勝負したいのであれば、海王(ウチ)主催の新入生のみによる団体戦『若鶏戦』に出て来なさい。でも部すら無ければそれも無理な話ね、忘れて頂戴」

 

「はーん、じゃあ出るし。部作って出てやるし。そんでボコってやるし」

 

 ギャル子の宣言を受け、日高は満足げな表情で足を踏み出した。連れ達もカルガモのようにそれに続く。

 

「それは楽しみね。それじゃ、若鶏戦の詳細は海王(ウチ)のホームページに載ってるから」

 

 そして筒井の隣を横切る際に、

 

「良かったわね、1人入ってくれて」

 

 そっと耳打ち──。

 

(あれ? もしかして……)

 

 やけに挑発的だったのは、最初からギャル子を部に入れるためだったのでは、と筒井は考えた。

 

 そして離れた後に「ふう、世話が焼けるわね」などと漏らすのでは、とか考えたり。さすがにダメで元々のつもりだっただろうが、真相は本人のみぞ知るところである。

 

 

 海王達が曲がり角に消えたのを確認したギャル子は筒井に強気な目を向ける。

 

「メガネ。そういう訳なんで。あたし囲碁部入るんで。ちゃんと打ちたくなったら歓迎してくれるんでしょ?」

 

「う、うん。でも本当に良いのッ!?」

 

「モチのロンだし」

 

 ギャル子がまだ鼻息荒い怒り顔のままなので素直に喜びづらいが、内心では夢のように嬉しい。実際、夢じゃないだろうかと頬をつねったり。

 

 思わぬ展開からであったが、とにかく筒井は囲碁部設立へ大きく1歩近づく事が出来た。

 

 

 

 2人とも忘れ掛けていたが、ここにはドリンクを入れるために来たのだ。やっとこさ筒井がドリンクバーにコップをセット、ボタンを押したところで、隣のギャル子がモジモジとし始めた。

 

「あ、あのさぁ、あたし毎日お風呂入ってるから。しかも朝と夜、2回入ってるから」

 

「そ、そうなんだ。て言うか急に何の話?」

 

「だってメガネがあの女の言った事信じてお風呂週1の汚ギャルだと思われてたら、あたし死ぬし。……確認としてちょっと嗅いでみて?」

 

 シャツの襟を外側へ引っ張り、綺麗な小麦色の首筋を見せつけるギャル子。

 

 ギョッと身を引きそうになったのをギリギリで抑え、筒井は平静を装って次のドリンクを入れ始める。

 

「バカだなぁ、そんな事全然思ってないよ。えっとオラ子はオレンジだっけ」

 

「ね〜え、メガネ〜❤︎ ちゃんと確かめてくんなきゃや〜だ〜❤︎」

 

 今度は甘えるような声を出し、筒井の学ランをぐいぐい掴みせがみ始めた。

 

(う……! 可愛い……!)

 

 普段の彼ならば、どれだけせがまれようと恥ずかしくて行動には移せないだろう。

 

 だがカラオケで上がったテンションに部員がひとり増えたテンションが上乗せされた結果、案外呆気なく折れてしまった。

 

「わかったよ。恥ずかしいなぁ……」

 

「あ……❤︎ 息、くすぐったい……❤︎」

 

「や、やめてよ、変な声出すの……」

 

 周囲に誰もいない事を確認し、ギャル子の首筋にゆっくり顔を埋めると、ふんわりとリンゴに似た香りが鼻腔をくすぐった。自分はこんな所で何をやっているのだろうか、と冷めた気持ちの中にありながらも鼓動が高鳴っていく。

 

 しばしの無言が続き、堪え切れなくなったギャル子が耳元で囁いた。

 

「ど、どう……?」

 

「うん……」

 

「うんじゃわからないんですけど……。ちゃんと感想を述べて欲しいんですけど……」

 

「感想って……。いや、その、ずっとこうしていたいくら──」

 

 その時、カランカラァーン! という金属トレイが床に落ちた音が響き渡った。

 

 2人が口から心臓が飛び出しそうな程驚き、音の方向へ顔を向けると、

 

「つ、筒井……。お、おま、お前、何やって……」

 

「げ、加賀……。これは違くて……」

 

 そこに居たのはわなわなと震えるエプロン姿の若い男性店員。筒井とは中学も高校も同じの将棋部の加賀だ。どうやらこのカラオケ店でアルバイト中らしい。

 

「ぐ……ッ! 筒井ィィィ、いつの間にそんな大人の階段を……!」

 

 マジメ君と信じて疑わなかった筒井が黒ギャルといかがわしい事をしていた光景に打ちのめされ、通路の彼方へ走り去って行ってしまった。

 

「うわぁ、やばいなぁ……。明日ますます学校行きづらいって……」

 

 変な所を見られてしまった事に頭を抱える筒井。しかしそんな彼の気持ちなど知らぬ存ぜぬのギャル子が、何やら勝ち誇った笑みを浮かべている。

 

「ずっとこうしていたいくらい、良い匂いした?」

 

「ああそうだよッ! したよッ! 悪いかよッ! こんなのしょうがないだろッ!」

 

「ウケる、メガネがまたキレた」

 

 真っ赤になって叫んだ筒井に、ギャル子は腹を抱え笑い始めた。

 

 

 

 そんなこんなもあり、部屋へ戻った2人。ドアを開けた途端、そこそこ長い時間ひとりにされていたオラ子からぶつけられたのは、ギロリとしたおっかない睨みだった。

 

「……あんたらさぁ、アタシの事ほったらかして何かやってただろ」

 

 さらには低くドスの効いた声。だが筒井は動じるどころかきょとんとして、

 

「何かって?」

 

「エロい事」

 

 テーブルにドリンクを運ぶ彼の手が一瞬止まるが、すぐに何事も無かったように再開。

 

「何言ってるんだよ、こっちは色々大変だったんだから。あー何にせよ、部員ひとり増えて本当良かった」

 

「はぁ? 誰? つーか、いつ?」

 

 眉間にシワを寄せたオラ子へと、ギャル子が「はい!」と真っ直ぐ手を挙げる。

 

「あたしです。さっき囲碁部入っちゃった。黒ギャル棋士爆誕! つって」

 

「何で急に? さては筒井に脅迫されたか?」

 

「違うしっ。倒したい奴がいる、みたいな?」

 

 拳を突き出すポーズを決めたギャル子。やる気に満ち溢れているその姿に筒井は涙をほろり、オラ子は「ますますわからん」と頭を傾けるのであった。

 

 

 



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2話 ギャル子の事情

 とある屋敷の和室からは碁を打つ音──。

 

 盤を挟み向かい合っているのは幼稚園ぐらいの女の子と、猿のような顔をしたプロ棋士の爺さんだ。2人は孫と祖父の関係にある。

 

 小さな手で黒石を掴み、ぺちっと打ち下ろす。

 

 まだ大人しくしていられない年頃の子供だ。それにしてはしっかり背筋を伸ばし、きちんと正座をしている。

 

「おじいちゃん、ここはノビといて良いのー? こっちからマゲといた方が良いかなぁ?」

 

 石が並ぶ盤の上で指を泳がせる幼女。祖父は孫の成長を見たのか、嬉しそうに「うんうん」と頷いている。

 

「強くなったのぉ。わしの弟子達なんかよりよっぽど才能あるわい」

 

「えー? ホントー?」

 

「おう、ホントじゃホントじゃ」

 

 褒められた幼女はパァッと花が咲いたような笑顔を見せた。

 

「じゃあ大会でも優勝出来るー? あたしね、賞状が欲しいの」

 

「大会? んー、そうじゃのう。もっと、もーっと碁を練習すればきっと出来るぞい?」

 

「うんっ、じゃあもっと頑張って練習するっ」

 

「そうかいそうかい。そんなに練習してしまったら、その内わしみたいにプロになってしまうかもしれないのう」

 

 ところが幼女はぷるぷると顔を横に振り、元気に立ち上がると万歳ポーズ。

 

「ううん。あたしね、お姫様になるのっ。あとぷいきゅあにもなるのっ」

 

「ふぉっふぉっふぉ。そりゃ楽しみじゃのうっ」

 

 祖父は孫が可愛くて可愛くて仕方がなかった。厳しいプロなど目指さなくとも、優しく元気な子に育ってくれればそれで良いと思っていた。

 

 

 それから少しの年月が経ち、小学2年生となった幼女は初めての大会に出場した。

 

 公民館の小さなホールで行われる子供囲碁大会だ。出場者は高学年生が多いが、プロを目指せるような神童はおらず、凡才ながらも根気良く碁を続けてきた幼女ならば優勝出来る可能性は十分あった。

 

 たとえ最年少でも、碁に費やして来た時間も指導者のレベルも幼女が群を抜いている。それゆえか、大した苦戦もせずにあっさりと決勝まで勝ち進む事が出来た。

 

 決勝の相手は6年生の活発そうな男子。対局席に着く前に、父親から「盤と石だけを見ろ」とアドバイスを受けており、活発君は父親に碁を教わったように思える。

 

 実力は互いにアマ低段者クラス、今大会最もハイレベルな対局である。

 

 対局は始まったのだが、早い段階から活発君は奇妙な感覚を覚えていた。奥歯を食い縛り顔を歪めている。盤面以上に「こんなバカな」といった思いなのだ。

 

 盤を挟んだ席に着くのは本当に小さな幼女。飴玉ひとつで大喜びして、ゴツンと頭を叩けばビービー泣いてしまいそうだ。

 

 だがその小さく頼りない手から打ち放たれる1手1手が鈍器のように重く、刃物のように鋭い。今大会で戦った誰よりもだ。その見た目とのアンバランスさに動揺を抑えきれない。

 

(お、落ち着け……。パパに言われた通り盤と石だけ見てれば良いんだ……。さすがパパだ。最初から僕がこうなる事を予想していたんだ)

 

 序盤早々、少しばかり相手にリードを許してしまった活発君。目を閉じ深く深呼吸──。

 

 次に大きく両の瞳を見開いた時、彼の前には弱者たる幼女の姿は存在していなかった。見えるのは盤と石、それだけだ。

 

(負けられない──。優勝したらパパに天体望遠鏡買って貰えるんだッ!)

 

 一転、氷のような冷静さ。碁笥からカチリと黒石を掴み取り、勝利への意志を示す如く大袈裟に振り上げる。

 

(あとマウンテンバイクも!)

 

 盤を突き抜けたのは力強い打音──。もう微塵も隙を見せやしない、作りやしない。その覚悟を決めた音だ。

 

 

(んー。こっち! 何となく広いからこっち!)

 

 対して幼女はペチ、ペチ、と可愛いらしい打ち方。だが幼女とは思えぬ真剣な眼差しで一生懸命打っている。

 

(あたし勝つもん!)

 

 優勝して賞状が欲しかった。自分の頑張った証が欲しかった。

 

 瞬間、活発君の置いた黒石に弱さが見えた。それ即ち勝機だと、幼女の直感が確かにそう告げていた。

 

(ここ行けそう!)

 

 盤の交点が輝き放つ──。

 

 幼女はそれに導かれるように小さな手で掴んだ白石を撃ち出した。

 

 気合いの一撃。活発君の呼吸が一瞬ながら止められた。

 

(ツキアタリで下辺を攻め……!? ど、どうしようっ、コスミツケてもノビられれば中で眼が出来なくなっちゃう……。かと言って中央に頭を出してもシノギがあるかわからない……)

 

 ゴクリと何度も息を飲む。石を掴んでは離し、時間だけが流れていく。

 

(こ、こうなったらシノギ勝負だ!)

 

 自信は無い。だが複雑な読みが要求される局面だ。アマゆえの読み間違いもあるためどちらに転ぶかはやってみなければわからない。

 

 だが、勝負に出た活発君の1手。その1秒後には再び手番が回って来てしまった。

 

(ノ、ノータイム……!? まさかここを読み切っているのか……!? いやありえないッ! こっちも早く眼形を作るんだ!)

 

 汗が頬を伝う。敗北の予感が全身を覆う。それでも(もが)く。生きを得ようと死ぬ気で石を打ち続ける。

 

 だが幼女には終着点が見えている。相手が何処へ打とうと、何をしようと無駄な足掻き──。

 

(そのワリ込みはサガリで終わりだよ!)

 

 口元緩ませた幼女に貫かれた活発君の心の臓。黒の息の根止める最後の一撃一打だ。

 

「し、死ん……ッ!」

 

 もはやどうにもならない、誰の目にも明らかな死に石。

 

 活発君は盤にへばり付くように顔を近づけ──、やがて鼻をすする音と共に発せられたのは、幼女の優勝を決定づける投了のひと声であった。

 

 

「優勝は2年生の桑原さんです!」

 

「ありがとうございまーすっ!」

 

 表彰台に上がった幼女は区長のおじさんから満面の笑みで賞状を受け取った。わーい、わーい、と来場者みんなに見えるように掲げ、かかとを上げたり下げたり喜びを表現していた。

 

 頑張った証、これは一生の宝物にしよう、帰ったら何処に飾ろうかな、など胸がいっぱいだ。

 

 だがどういう訳か、幼女に送られる拍手は数え切れる程度だ。ほとんどの人がしらけたような、冷めた目を向けている。

 

 もしかしたら大会で優勝してもこんなものなのかと、幼女は段々と視線を下げ始めた。

 

 とても寂しかった。優勝の喜びなどもう何処かへ消えてしまった。ここに居るのが辛かった。

 

 さらに耳に入って来たのは頑張って優勝を掴み取った幼女にとって、この上なく残酷な言葉であった。

 

「あいつプロ棋士の孫なんだろ? 勝って当たり前じゃん」

 

「教えるのじいさんだけじゃなくて、通いの弟子とかもいるしな。これ完全にチーターだろ。優勝剥奪で良くね?」

 

 わざと聞こえるように言われた心無い声が彼女の胸に突き刺さる。

 

「〜〜ッ!」

 

 下唇をギュッと噛んで俯き泣きそうな顔を隠す。強く噛んで、噛み締めて涙を堪える。言いたい奴には言わせておけば良いと、実力で優勝したのは自分なのだからと、その手に握られた賞状が幼女を支えてくれていた。

 

 だが──。

 

 だがここで前代未聞、ありえない事が起こった──。

 

「えーと、ではそうですね。彼女は優勝取り消し処分と致しまして──」

 

 区長が市民の声に負けたのだ。多くの不満の声が聞こえてしまい、イベント失敗を恐れてつい、と言ったところか。

 

 幼女は係の大人に「あは、ごめんね?」と笑って賞状を取り上げられ愕然。

 

 幼女は「何で、どうして」という言葉が頭の中を駆け巡りながら、盛大な拍手による繰り上げ優勝の表彰を蚊帳の外から見つめていた。

 

 さすがにこれはニュースでも不祥事として取り上げられた。区長は辞任に追い込まれ、幼女にも謝罪及び再度優勝の賞状が渡される事になった。

 

 が、それで幼女の心の傷が癒えるはずもない。

 

「そんなのいらないッ!」

 

 幼女はそれから1度も碁を打っていない。日々頑張った結果がアレなど、バカバカしくてやっていられなかった。

 

 しかし幼女が碁をやめても、碁は幼女を離さない。家の何処に居ても聞こえてくるのは祖父達による碁を打つ音だ。

 

 皆頑張っている。それでもプロになれなかった弟子達は去って行く。その姿に少しばかり自分を重ねていた。

 

 そして頑張った者はしっかり報われて欲しいと、そう思うようになった。頑張った者が自分のようにならないように、何か手を貸してあげたいと思うようになった。

 

 

 やがて高校に入学した幼女、もとい少女。同じクラスの隣の席には、入学早々囲碁部設立を目指しひとりで頑張ろうとしている少年がいた。

 

「葉瀬中出身の筒井公宏です! この学校で囲碁部を作るつもりです! よろしくお願いします!」

 

 囲碁という言葉もあり、高校初日の少女の記憶に1番残ったのは筒井の存在であった。

 

 そして少女は思うのだ。

 

 碁はもう打たない。だけど──、と。

 

 

 ◆

 

 

 立派な門構えのちょっとしたお屋敷。カコーン、と音を鳴らす鹿威(ししおど)しもある広い庭。

 

「ただいまー」

 

 日もとっくに沈んだ時間、玄関の引き戸を開いたのは筒井達とのカラオケ帰りのギャル子だ。彼女の派手な装いに似合わないが、この純然たる和の屋敷がギャル子の自宅である。

 

 玄関には来客の黒い皮靴が何足も並んでいるが、いつもの事なので特に何も思わない。

 

 長い廊下の奥からはパチ、パチ、という音。こちらもこの家の平常運転である。

 

「おやお帰り、ギャル子ちゃん」

 

 廊下を進んだところで部屋から顔を出したのは彼女の祖父だ。しわくちゃで猿みたいな顔、頭のてっぺんは涼しげだがやたら後ろ髪が長い。

 

「田代の奴が美味い菓子持って来たんじゃ。後でお食べ」

 

「んー」

 

 気の無い返事と共に開いた障子から部屋の中に目を向ければ、4〜5人のスーツ姿の大人達が碁を打っている姿。彼らはプロ棋士である祖父の通い弟子達であり、研究会の最中である。

 

「しかしまたそんなハレンチな格好しよって。いかんのう」

 

「えー、可愛いんだから良いじゃん」

 

 ジロジロと上から下まで眺めた祖父は、顎に手を当てて小さなため息を吐き出した。

 

「胸も開き過ぎじゃし、スカートも短すぎるわい。何よりヘソなんか出しとるとは何事じゃ」

 

「うっさいなぁ、お祖父ちゃん嫌いっ」

 

「あぁ、嫌いとか言わないでおくれ……。ギャル子ちゃんに嫌われたら生きていけんわい……」

 

 ギャル子が言い捨てて歩き始めると、祖父がオロオロしながら後を追い掛けて来た。オマケに同情を引こうとわざとらしく「ゴホッ、ゴホッ」と咳を入れたり──。

 

 あまりに煩わしいので不機嫌そうに振り返ったギャル子。

 

「じゃあどうやったら囲碁部に人が集まるか教えてくれたら、許してあげる」

 

「囲碁部? ギャル子ちゃん囲碁部に入っとったのか? 聞いとらんぞ」

 

 祖父は初耳な情報に小首を傾げると、ギャル子は面倒臭そうに髪を指でくるくる巻く仕草を始めた。

 

「ま、成り行き? 他校の囲碁部の女が喧嘩売ってきたから、まぁ軽く捻ってやる的な? んで、そいつとやるためにはちゃんと部にしないとだから、あとひとり欲しい訳」

 

「何じゃ。もう絶対碁はやらないと言っておったのに。それ程そやつに腹を立てておるのか?」

 

「それもあるけど……。入学してからずっと頑張って囲碁部作ろうとしてる奴がいんのね? でも今日やっとあたしが入ったくらいでさ。頑張ってる奴には良い目にあって欲しいじゃん? だからさぁ──」

 

「男かッ!?」

 

 ギャル子のセリフを遮って大声を出した祖父。顔は紅潮し血管も浮き出ており、本気で怒っているのは見て明らかだ。

 

 あまりの形相にギャル子はきょとんとしてしまう。

 

「え? クラスの男子だけど?」

 

「好いておるのかッ!?」

 

「まあ気にはなってるかな? これまでも仲良かったは仲良かったんだけど、マジで気になり始めたのは今日なんだよね? つか、あたしの事真剣に考えてくれてさぁ、そういうの嬉しくない? それで今日一緒にカラオケ行ってきて、密着してマジやべぇ、みたいな? しかもあたし首んとこの匂い嗅がれて『ん……❤︎』とかマジ変な声出ちゃってさぁ」

 

 ケラケラ思い出し笑いをしながら饒舌に喋り始めたギャル子。

 

 が、そんな彼女に背を向けた祖父はダダダダッ! と廊下を駆け出して──。

 

 またまたダダダダッ! と鉢巻袴姿に槍を握り締め戻って来た。

 

「その不届き者は何処のどいつじゃッ! 八つ裂きにしてくれる!」

 

「何でよ! お祖父ちゃん嫌い!」

 



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3話 オラ子と筒井の後輩

「厚お兄ちゃーん、遊ぼー?」

 

「ダメ。明日の予想で忙しいから」

 

 丸々と太った中学生の兄と、まだ小学校低学年くらいの妹。夕飯を食べ終わり、兄の部屋のドアを開けて声を掛けた妹であったが、返事はノーだ。

 

 部屋の床には競馬新聞や競馬雑誌、それからデータをまとめた自作ノートなどなど。床にあぐらをかいている少年は、それらを眺めながら難しい顔でうんうんと唸っている。

 

 

 よく遊んでくれた兄はここ半年ほどずっとこんな調子で、オマケに土日も場外馬券売り場に行ってしまうので妹は面白くなかった。

 

 

 そんな妹は碁が打てた。兄が金も賭けない競馬に狂ってしまっている間、ちょくちょく遊びに行っていた児童館で、高学年の人達に教わったのだ。

 

 

 妹は驚くべき速さで上達した。児童館だけでしか打っていないにも関わらず、数ヶ月程でアマ初段格である高学年の子ともそこそこの勝負が出来るようになっていったのだ。

 

 だがその高学年の人達も卒業や塾通いを始め児童館に来てくれなくなり、妹には対局相手がいなくなってしまった。だが折角覚えた碁をもっと続けたかった。

 

「ママー、囲碁セット買ってー?」

 

「良いけどママ囲碁わからないわよ?」

 

「学校の友達に教えてあげるの。そうしたらみんなで打てるもん」

 

 母親におねだりして碁盤と碁石を手に入れた妹。さっそくクラスの女子達へ、

 

「ねぇ、あたしん家で囲碁やろうよ!」

 

「イゴ? 何それ?」

 

「私知ってるー。おじいちゃんの遊びだよねー」

 

「えー、そんなジジババゲー絶対やだー。ジャコスでアイキャツやりたーい」

 

 が、女子達は女児向けゲームに夢中で碁など見向きもしなかった。

 

 それでも折角買って貰った囲碁セットだ。ひとり寂しく自分の部屋で石を並べていると、兄がドスドスと床を踏み鳴らし怒鳴り込んで来た。

 

「うるせーよ、パチパチパチパチ! 今週は難しいレースが多いのに、予想に集中出来ないだろ!」

 

「厚お兄ちゃん、ごめんなさい……」

 

「ん? お前何やってんだ? 五目並べ?」

 

 妹の部屋に見慣れぬ物があり、兄は尋ねた。

 

「い、囲碁ってゲーム……」

 

「ああ、何かテレビで見た事あるかも。でもどっちが勝ってるとか、どうやったら終わるとか、見ててもそういうの全然わからないんだよな」

 

「簡単だよ? 教えるからやらない?」

 

 妹は久しぶりに兄が競馬以外に興味を示してくれて嬉しかった。それに碁なら2人で遊べるのだ。

 

 兄は妹と同じくらい才能があり、競馬も辞めてメキメキと上達していった。兄が強くなり良い勝負が出来ると妹もそれが楽しくなり、2人ともあっという間に十分アマ三段以上を名乗れる実力となっていった。

 

 才能は互角、だが2人には決定的な差があった。

 

 友達と遊んだり、ちゃんと学校の勉強をしたりの妹と違い、兄は碁へ全力投球。授業中も隠れて碁の本を読んでおり、睡眠と食事以外の時間は全て碁に注ぎ込んでいた。

 

 同じテレビゲームをやるにしても、1日30分しかゲームが出来ない子供と、1日に好きなだけ出来る大人のようなものだ。

 

 気が付けば妹はまるで手も足も出なくなっていた。どう頑張っても勝てない兄との対局が段々と苦痛になっていった。

 

 それでも追い付こうと必死に碁の勉強をしたのだが、1日に碁に費やせる時間は兄の比ではなかった。

 

 そして妹が高学年になった頃には、兄はプロ棋士になっていた。兄が碁を始めてたったの2年だ。

 

 まるで別の世界に行かれたような虚しさを覚えた妹は、兄と碁を一緒に打てて楽しかった気持ちなど完全に消え失せ、以来スッパリと辞めてしまった。

 

 

 そして数年が経ち──。

 

 

「起きろ豚ッ! とっくにメシ出来てんぞ!」

 

 制服にエプロン姿、金髪ショートの長身黒ギャル。オラ子だ。

 

 オラ子はベッドの上、布団を被った巨大な物体にがしがしと蹴りをかましている。

 

「起きてるって……」

 

「起きてねぇだろ! 殺すぞデブ!」

 

 もそもそと布団から出て来たのはかなり、いや相当太った青年だ。寝ぼけ眼でベッドを軋ませながら「どっこいしょ……」と何とか立ち上がった。

 

「今日対局日だろーが。アタシも学校あんだから早くしろっ」

 

 吐き捨てるように背中を向けたオラ子。乱暴にドアを閉めた後には乱暴な足音が届いて来た。

 

 

 リビングのテーブルには朝っぱらから様々な料理が並んでいる。ソーセージの添えられた綺麗な出来栄えのオムレツ、とろけたチーズたっぷりのフレンチトースト、香ばしさ漂うグリルチキンサラダ、具たっぷりのクラムチャウダー、他にもフルーツの盛り合わせやケーキなどなど。

 

 特大サイズのスーツズボンと白シャツ姿でやって来た兄は目を輝かせる。豪華メニューは対局日朝の楽しみなのだ。

 

 早速ガツガツと食い始めた兄。うまいうまい、とみるみる内に料理が減っていく。

 

 そんな見た目通り大食漢な兄に対して、向かい席で長い脚を組み、朝刊を広げているオラ子が不機嫌そうな顔を向けた。

 

「つーかさぁ、また太ってね? 何とかしろよ、恥ずかしくて友達も呼べねぇじゃねぇか」

 

「感謝しろよ? 俺が太る遺伝子お前の分まで母さんから貰ってやったんだぞ」

 

 互いに口の減らない兄妹。両親は長期海外出張中なので、実質兄妹2人暮らしである。

 

「オラ子、学校はどうなんだよ」

 

「普通」

 

 兄として一応こういう事も聞いておくのだが、返されたのはありがちなパターン。

 

「普通じゃわかんねぇだろ。部活とか入らねぇのかよ」

 

「部活? どうしよっかな。ギャル子が昨日囲碁部入ったって言ってたけど。大会出たいからとかそんなんで」

 

 昨日のカラオケでの出来事を思い出すように、少し上を向いたオラ子。

 

「へえ、あいつ囲碁部か。打ってやるから連れて来いよ。て言うかお前も入ればいいじゃん」

 

「やだよ。ウチら親友だけど、そういうダサい仲良し付き合いはしねぇの」

 

 実際昨日はギャル子から入部を誘われたが、1度断ったら互いにそれでおしまいであった。もちろんそれで関係にヒビが入る事はない。

 

 そんな他とは違う友情アピールをされた兄は「ふぅん」とつまらなそうな顔で勢い良く料理をかき込み始めた。

 

 

 ◆

 

 

 オラ子が登校すると、校門にあるのはビラ配りをしている筒井の姿。だが今朝はもうひとりギャル子も一緒だ。

 

「囲碁部でーす! よろしくお願いしゃーすっ! しゃーすっ!」

 

 普段はビラを渡されるのが面倒で素通りやら遠回りやらしている他の生徒達。しかしいつもとは違う光景に少しばかり関心を向け始めていた。

 

「おっす。やってんじゃん」

 

 彼女も普段は筒井をスルーしている立場なのだが、ギャル子もいるので声を掛けてみる事にした。

 

「オラ子、おはようっ」

 

 部員が増えた筒井は楽しそうだ。部設立へリーチを掛けた状態なので気合いも入るだろう。

 

「打倒海王だからね!」

 

 そしてギャル子はさらに気合いが入っている。朝は強くないはずで、いつも予鈴ギリギリ登校にも関わらずこの場にいるのがその証拠だ。

 

 

 昨日カラオケで喧嘩を売られた海王の日高由梨。彼女と戦うために部を作り、海王が主催する1年生のみの団体戦『若鶏戦』に出ようと言うのだ。

 

「んで、大会はいつなんよ」

 

「うん。帰って調べたら5月10日だったんだ。だから早くもうひとり集めて、学校に部として認めて貰って申し込みしないと」

 

「ウチら超忙しいよねー、ヤバくない?」

 

 筒井の言葉にオラ子は他人事ながら眉をひそめた。今日が4月の半ばなので、残りたったの3週間だ。部設立に加え練習だってしなければならないのだ。

 

 

 

 そんなこんなでギャル子が忙しくなってしまい、親友のオラ子は少しばかり寂しさを覚え始めた。

 

「何だよ、時間無いのはわかるけど、メシくらいゆっくり食えっての」

 

 昼休み。ギャル子はさっさと弁当を食べて、筒井と共にまだ部活を決めていない生徒を当たりにいってしまった。

 

 机を向かい合わせにして昼食中のオラ子、そして代表。

 

 彼女達にギャル子を加えた同じ中学出身の3人が基本グループなのだが、この日は勧誘を優先されてしまいオラ子が不貞腐れている。

 

「じゃあオラ子も入ったら? みんなでわいわいするのって楽しそうじゃない」

 

 可愛らしくサンドイッチをぱくつきながら小首を傾げた代表。

 

「ウチのアニキと同じ事言うなよ。アタシは碁なんて好きじゃねぇんだから、そんな奴が入ったってしょうがねぇだろ」

 

「久しぶりにやったら面白いかもよ?」

 

「……いや、いいよ。つか部活とかだりぃし」

 

 昔は面白かったはずなのだ。だが何が面白かったのか思い出せない。

 

 そんな感傷を小さく首を横に振って捨て去り、視線を正面へと戻した。

 

「そういやギャル子が倒したいって言う海王って強いわけ?」

 

「うん。全国優勝だってした事あるんじゃないかな」

 

「マジで? 相手1年坊だけっつっても、そんな学校あいつらが勝てるわけねぇじゃん」

 

 もはや見えてしまった結果に「あーあ」と残念そうに食事を再開。そんな中で、チラリと何か期待するようか目を代表に向けた。

 

 意図は伝わっているはずなのだが、代表は何も応えようとはせず「これ美味し〜♡」とサンドイッチに舌鼓を打っている。

 

 その飄々(ひょうひょう)とした態度に舌打ちをひとつ入れ、弁当の残りをガツガツとかき込み始めた。

 

 ほとんど噛まずに飲み込む食べ方に代表は肩をすくめ、

 

「コラ、ちゃんと噛んで食べないとお兄さんみたいになっちゃうわよ?」

 

「あぁ? アニキがデブだって言いてぇのかよ。お前でもアニキの悪口言ったら殺すぞ」

 

 ギロリと恐ろしい眼付きで睨まれた代表。しかし萎縮するどころかおかしそうに笑い始めた。

 

「オラ子って本当お兄ちゃん大好きっ子ね。オラ子じゃなくてブラコンのブラ子って呼んであげようかしら」

 

 

 ◆

 

 

 電車通学のオラ子であるが、その日の放課後は駅を通り過ぎてプラプラとまだ良く知らない葉瀬の町を散歩していた。

 

 暇なのだ。高校に入ってからも同じ中学のギャル子と代表とつるんでいたのが災いし、放課後一緒に遊べる友達はまだ出来ていなかった。

 

 登校する時は高校がある北口、そして今足を踏み入れているのは南口の繁華街エリア。色々と遊べる場所がありそうだし、穴場の喫茶店なんかがあれば、程度の気持ちで視線を周囲へ泳がせる。

 

「お、ラーメン屋発見」

 

 目に付いたのは『中華そば』の看板。取り敢えず頭に入れておき、他を眺めていくと「ん?」と思ったのはすぐそこのビルの階案内。最近よく縁のある碁の文字だ。

 

「碁会所か。行った事ねぇけど、何か雰囲気ヤバそ。金が動いてそうな匂いがする」

 

 古臭いビルの地下へ続く階段を覗き込むと、薄暗くいかにも不健全なオーラが漂っていた。

 

 どちらにせよ用は無いとして、踵を返す。

 

 これと言ってめぼしい店も無く、気が付けば繁華街を抜けてしまい住宅地。歩き過ぎたかと引き返そうとしたところで、ふと気になるモノを数メートル先に見掛けた。

 

 太い街路樹を見上げている学ラン姿の少年だ。クセの強い赤っぽい髪に、ボタン全開の上着の中には襟を立てたこれまた赤いシャツ。ちょいワル気取りといったところか。

 

 少年のナリはともかくとして、木なんかを見上げて何をしているのかと思ったオラ子は、それとなく近寄ってみた。

 

 猫だ。木の枝に降りられないらしい小猫がいるのだ。

 

(んー。登れそうだけど、絶対下着見えちまうしなぁ……)

 

 周囲には少年以外誰もいないので、その少年も消えたら助けてやるつもりであったが──。

 

 少年は歩き去るどころか、鞄をガードレールに立て掛けると幹に手足を掛け登り始めたのだ。

 

(ふーん。ちょいワルの癖に感心な奴)

 

 オラ子はこっそり後ろで応援。しかしそれも虚しくズルリと滑り、両足は地面へ帰還してしまった。2、3度トライしたが結果は同じ。

 

 少年は木登りが苦手なようで、彼ひとりで猫を助けるのは簡単にはいかなそうな雰囲気だ。

 

 はあ、と疲れた息を吐いた少年がふと後ろのオラ子へと振り返った。ずっと見られていた事に気が付き、恥ずかしさにカァァッと顔を赤らめてしまった。

 

「み、見てんじゃねぇよ」

 

「悪い悪い、アタシが肩車してやるよ。そうすりゃ多分届くだろ?」

 

 

 

 

 女に肩車される事に大分渋られたが、どうにかこうにか猫を助け離してやった2人。そして今は勝利の祝杯として公園のベンチでジュースを飲んでいる。と言っても帰りたそうな少年をオラ子が無理矢理付き合わせたのだが。

 

 背中を丸めて座る少年と、背中を思い切りベンチに預け、短いスカートで脚を組んでいるオラ子。

 

 少年はそんな大柄(おおへい)なオラ子を下から覗き込むように見上げた。

 

「悪いな。奢って貰って。あと、猫も」

 

「良いって。ガキンチョが気にすんなよ。それにアタシが付き合わせてるんだから」

 

 オラ子とは対照的に、少年はクールっぽさを思わせる抑揚の無い声で話す。

 

「あんた、その制服葉瀬高だろ?」

 

「ああ、そうだけど? アニキでも通ってるか?」

 

「いや……。1年で囲碁部の筒井さんって知ってる?」

 

 少し聞く事を躊躇(ためら)うような間を見せた少年。

 

「知ってるよ。同じクラスだし。じゃあお前あいつの後輩か」

 

「……まあ、そんなところ」

 

 またまた少年は変な間を置いた。後輩と名乗って良いものだろうか、のような感じだ。

 

 思わぬところで接点があり、オラ子は高笑いと共に少年の背中をバシバシ叩き始めた。

 

「筒井の後輩って事はアタシの後輩同然ってこった!」

 

「いってぇなぁ、何でそうなるんだよ……」

 

 ウザそうに手を払いのけた少年。また叩かれないようにと深く座り直し、丸めていた背中をベンチの背もたれに預けた。

 

「筒井さん、どうしてる? 噂でひとりで囲碁部作ろうとしてるって聞いたんだけど」

 

「ひとり、いや今日からはふたりで勧誘頑張ってるぜ? つーか、アタシの親友が筒井に取られちゃってよォ。おかげで放課後暇になっちまったじゃねぇか、テメェ後輩として責任取れよコラァ」

 

「……そっか。ひとり入ったんだ」

 

 カッカッカ、と笑うオラ子から知らされた近況に、安心したように僅かに口元を緩ませた少年。

 

「んでさぁ、あとひとり集めて打倒海王つってんの。あ、海王高校って知ってるか? マジ強いらしいとこな」

 

「……知ってる。中学も強いとこだし」

 

「そうなん? つかお前、中学で囲碁部だったりすんの? 筒井、中学でも囲碁部作ってたんだってな」

 

「……俺はもう辞めたから」

 

「何で?」

 

「別にどうだって良いだろ」

 

「わかった、女子部員に変な事して居づらくなったんだ。部室で女子の体操着の匂い嗅いでるのがバレたとか。そうだべ? なあ、おい、エロガキ君よぉ」

 

 肩に腕を回され、抱き寄せられそうになった少年は抵抗しながら声を大にする。

 

「ちっげぇよ! 大会メンバーにするために俺を無理矢理入部させた奴が、先にケツ捲って辞めやがったんだよ! だから──」

 

「だから? もうそいつはいないんだろ? 別に問題無くね? それとも元々碁が嫌いで、部にいた間もずっと嫌々やってたのか? だったら全然構わねぇけど」

 

 少年は沈黙。嘘でも嫌いと言うつもりはないらしい。

 

「じゃあ戻れば良いだろ。ああ、でも今さら恥ずかしくて無理か。どうせその場の勢いで『辞めてやるよ! 囲碁部なんかよォッ!』みたいにやっちまったんだろ」

 

「……うっせぇな。あんたに関係ねぇだろ」

 

 図星のようで、少年はぷいっと顔を背けた。そんな少年に頭の後ろから声が届く。大らかだった先ほどまでとは打って変わった、何か切なそうな声だ。

 

「そうだな……。だけど本当はやりたい事を、何やかんや理由付けてやらねぇ奴をアタシ見てるのが苦しいんだ」

 

 くせっ毛の頭を掻きながら、面倒臭そうにオラ子に目を戻した少年。

 

「別にそこまでやりたい訳じゃ……。それに部の連中なんてヘボ揃いで相手にならねぇし」

 

「ん? お前強いわけ? そんなちょいワル気取りの癖に」

 

「海王以外は敵じゃないね」

 

 自信を思わせるニヤリとした不敵な笑み。オラ子は同じ表情をぶつけ返す。

 

「へぇ。じゃあさ、アタシと打てよ。そんで負けたら囲碁部に戻れ。そしたら『勘違いするな! 綺麗なお姉さんとの賭けに負けて戻って来ただけだ!』って言い訳出来るだろ?」

 

 

「何言ってんだよ……。つかあんたと? 碁、打てんの?」

 

 少年はオラ子のギャルギャルしい見てくれに訝しげな表情だ。とても碁を知っているとは思えない。

 

「これでも小4か小5くらいまでやってたぜ?」

 

「何だ、じゃあ勝負にならねぇよ。俺も半年くらい打ってないけど、さすがにそれはプランクあり過ぎ」

 

「お、逃げるか?」

 

 オラ子の挑発を鼻で笑い飛ばす少年。仮に長いブランクでも腕が鈍っていないにせよ、実質小学生を相手にするのと変わらないのだ。

 

「なら俺が勝ったらあんた、筒井さんの囲碁部に入れ。互いに賭けないとフェアじゃねぇだろ?」

 

「嫌だよ、碁は打てるけど嫌いだし。その代わりアタシが負けたらちょっとパンツ見せてやるからさ、それで手ぇ打ってくれよ」

 

「んじゃ、ジュースごっそさん」

 

 オラ子がエッチなお姉さんっぽくスカートをチラチラ持ち上げたのだが、少年は交渉決裂と言わんばかりに、空になった缶を手に腰を浮かせてしまう。

 

「待てよッ。あーもう、じゃあ負けたら入ってやるよ! アタシに二言は無い!」

 

 半ば投げやりに賭けを承諾。少年は「約束だぜ」と口角を上げ座り直した。

 

「つーかさ、やけに筒井の事気にしてるけど、あいつの事そんなに尊敬してんの?」

 

 筒井の事はまだよく知らないが、そこまでとは思えない。

 

「別に。碁は弱いし、急にキレるし……。でも俺が途中で部辞めちまってあの人とはそれっきりで……。卒業の時も祝いのひと言も言えなかったから……」

 

 照れ臭いのか、小さな声でボソボソ喋る少年。筒井に対して心残りがあるようだ。

 

 そんな少年の言葉に少しばかり心を打たれたオラ子は、

 

「お、お前良い奴だなぁ……。猫も助けようとしてたし。名前、何だっけ?」

 

「三谷。……あんたは?」

 

「オラ子」

 

 親指で自身を指したドヤ顔のセリフに「ぶほっ」と吹き出した少年、三谷。

 

「オラ子って……。嘘つけよ……」

 

「あだ名だって。なら倉田で良いよ。さっき碁会所見つけたんだ、そこで打とうぜ」

 



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4話 オラ子vs三谷

 互いの囲碁部への入部、復帰を賭けて対局をする事になったオラ子と三谷。駅前繁華街にあるビル地下の碁会所へ訪れようとしていたのだが──。

 

 三谷の前を行くオラ子が、階段を下りてすぐの『囲碁さろん』の札が付いた木製ドア前で立ち止まってしまった。

 

 何やら緊張した面持ちだ。碁会所未経験の彼女には、この場所も雀荘のように、いかにも大人の遊び場に思えるのだ。

 

 見た目も気も強そうなオラ子だが、先月までは中学生、無理もない。

 

 が、リアル中学生の三谷の手前怖いなどとは言っていられない。

 

「ア、アタシが付いてるからな。ビビるなよ?」

 

「……早く入れよ」

 

 オラ子から少し震えた声が出たところで、舌打ち交じりに後ろからドアノブに手を掛けた三谷。心の準備をする間も無く、さっさと入店されてしまった。

 

 おっかなびっくり後に続いたオラ子。思った程人はいない。片手で数え切れるくらいで、煙草を咥えた厳ついパンチパーマの店員の姿も見えなかった。

 

 そしてやけに嬉しそうな声が耳に入った。

 

「おや、三谷君。夏休み以来だね〜」

 

「ども」

 

 白髭のお爺さんだ。お茶を運んでおり、この店の席亭らしい。ニコニコとした笑顔で三谷のそばまで歩み寄って来た。

 

 席亭へ軽く頭を下げたそんな三谷へと、他の中年男性客達から「久しぶりだな、あんちゃん」と言った声が掛かり始める。

 

「まさかお前、ここ常連なの?」

 

「まあね。夏休み終わってから来てなかったけど」

 

 オラ子は年下ながら大人の遊び場で堂々としている三谷に感嘆の声が漏れそうになった。

 

「そちらは三谷君のお姉さんかい? 確か高校生のお姉さんがいるって言ってたものね」

 

「いや、先輩の高校のクラスメイト。ちょっとあって、打つ事になってさ」

 

「ほお、そうかい。そうだ2人とも、お菓子食べるかい? 美味しいのがあるんだよ」

 

 可愛い孫に接するような物腰の席亭。その様子にオラ子はすっかり緊張が抜けてしまった。

 

 早く対局を始めたい三谷は「いいよ」と言うのだが、返されたのは「本当に美味しいんだって」という弾んだ声。

 

 棚を漁りながら色々尋ねて来る。

 

「学校はどう? 部活頑張ってるかい? お友達とケンカとかしてないかい?」

 

 本当に久しぶりに会った孫のようだ。三谷も邪険にせずに適当な返事ながらも相手をしている。部を辞めた事は言っていないらしく、きっと余計な心配をさせたくないのだろう。

 

 そんなのどかな光景にフッと小さな笑いを零したオラ子は、少しでも勘を取り戻しておこうと他の客達の対局を覗かせて貰う事にした。

 

「お、こりゃ参ったねぇ。美人のお姉ちゃんが見に来ちゃったよ」

 

「だはは、スカート短過ぎて集中出来ないなぁ」

 

 笑う中年男性達のいやらしい視線は相手にせず、盤上石の並びをジッと見つめる。自分が打っているつもりで、競り合い交差する石の変化を考えられるだけ考える。

 

(おっさんって言っても大した事ないな。どっちも互いのミスに助けられてら)

 

 碁は小学生以来全く打っていない。はたから見るのと実際に打つのは違うかもしれないが、それでもこの2人には負ける気はしなかった。

 

 彼らの対局に興味を無くしたオラ子は手近にあった店が置いている囲碁雑誌へ手を伸ばした。パラパラとめくっていると目に入ったのは毎日見ている人物の顔だ。

 

(これ、アニキの打ったやつか。プロの碁なんかイマイチわかんねぇけど、やっぱ強いんだな)

 

 棋譜と一緒に掲載されている記事には『倉田圧勝!』だの『タイトル射程圏内か!?』だの、兄を褒め称える文字がやたらと並んでいる。

 

 少しばかり誇らしい気持ちになっていると、着いていたテーブルにお茶と和菓子が運ばれて来た。

 

「お姉ちゃんもお菓子お食べ?」

 

 軽く腹ごしらえ、そして今後の学校生活を左右する対局の開始である。

 

 

 

 ◆

 

 

「アタシが黒だな」

 

 手番を決めるニギリを終え、オラ子は黒の碁笥を手元に寄せた。

 

 早速打ち出さんと石を掴み取ろうとした時だ。

 

「お願いします」

 

 三谷がペコリと頭を下げて来た。

 

「ん? あ、ああ。お、お願いします? 何かお前、変なところで礼儀正しくてウケんな」

 

 当たり前の作法なのだが、オラ子がこれまで打った相手は児童館で碁を教えてくれた小学校高学年の子供2〜3人と、自分の兄だけ。誰もそんなご丁寧なマネをしなかったので面食らってしまった。

 

 そして三谷は「おいおい」とオラ子の言葉に嫌な予感がして眉を寄せる。もちろん勝つつもりだが、オラ子があまりのヘボで瞬殺では興醒めだ。

 

「まさか人と打った事無いとか言わないよな。碁会所も初めてみたいだし」

 

「ちゃんとあるって」

 

「……ここまで来といて、あんまがっかりさせんなよ?」

 

 

 対局が始まった。あまりにも久しぶりなので戸惑う様子が見られたオラ子であったが──。

 

「小学生の途中で辞めたってのが本当なら大したモンだ。……て言うか結構やるじゃん」

 

 ひと通りの布石を終えた時点での優勢は三谷。が、まだ全力でないにせよ、もう少し差を付けられると思っていた。

 

「お、上から言うね。もう勝った気か?」

 

 ハハッ、と笑ったオラ子。勘を取り戻しつつあるのか、三谷相手にどうにか喰らい付いていく。

 

(そうそう、こんな打ち方だ。しゃっ、勝負はこっからよ!)

 

 そして打ち放つのは宣戦布告──、白の陣地を踏み荒らさんとする1手だ。

 

 気になっていた薄みをドンピシャで突かれ、三谷の瞳に苦しさが映った。

 

(……良い所打たれちまったな。こちらが好形を気にしてゆるめればワタられる。悪形で癪だがグズんで攻めてやる!)

 

 働きに乏しい悪形を打たされながらも、自陣に飛び込んで来たオラ子の黒石を攻めに掛かる──。

 

 地を減らされた。何もしなければ三谷の丸損だ。だったら三谷はこの敵陣へ単身突入して来た脆弱な黒石をいじめ抜いて、減らされた地以上に何かしらの儲けを得なければならない。

 

 対してオラ子は出来る限りいじめられない様に石の安定を図る。ここで始まったのはそんな戦いだ。

 

 そしてここからが超接近戦、読み同士のぶつかり合い──。

 

(気合いでグズんで来たか! 上等ッ!)

 

 歯を見せた不敵な笑い。始まったケンカに胸を(たか)ぶらせ、黒石を強く握り締めた。

 

 互いに思考をフル加速させ、相手の読みより一歩でも、半歩でも前へ出ようとする。

 

 双方互角の競り合いが続き、より前へとその身を出したのはオラ子だ。

 

(そのコスミじゃアタシにゃ響かないぜ! 伊達にアニキのサンドバッグにされてた訳じゃねぇんだ!)

 

 碁を覚えあっという間に初段、高段、院生、そしてプロへと駆け上がったオラ子の兄。互先では勝負にならなくなってからも、その間彼とは毎日打っていた。

 

 そして毎日ボコボコにされ泣かされていた。ハンデの置石を置いた事もある。それでも置石が減るどころか増えていく始末。碁が嫌になる程の連敗に次ぐ連敗──。

 

 そんな兄の攻めに比べれば、三谷のそれはヌル過ぎた。

 

 攻撃的な性格とは対照に、オラ子の棋風は相手の攻撃をかわす事に特化した超防御型──。

 

 それは荒らしに生きる。敵陣に飛び込んだ脆弱な自石に、好手、妙手たる打ち筋で生命の息吹を与え、相手の攻めを許さない。

 

(あ、あっさりと眼形を作りやがった……! このまま中央に突き抜かれては大損だ! この女、序盤とはまるで別人のように巧い!)

 

 見事な手順を目の当たりにし、口元を押さえた三谷の頬を汗が伝わる。まだ中盤戦の始まりが終わったと言っていい局面、先は長い。それでも全力を出さねばならない相手だと思い至るには十分な打ち筋であった。

 

 

(マ、マジかよ……!)

 

 激化する中盤戦の戦い。その中で、盤面をそのまま写すかのように、三谷の表情に陰が見えている。

 

(あっちもこっちも根こそぎ荒らしやがって……! これじゃ地が足りねぇ……!)

 

 目を見張る巧妙な手筋の連打で三谷の攻めをかわしつづけるオラ子。しかしその反面、あまり他は得意ではないらしく、そのため総合的にバランスの良い三谷は何とか投了寸前の崖っぷちで踏みとどまっている。

 

(つっても、こいつブランク何年だっけ……? 5〜6年……? 何だそれ、ふざけやがって……!)

 

 才能の塊に目眩がしてしまう。不得意と思われる分野も勘が鈍っているだけで、少し練習されたらもうわからないかもしれない。それでも賭けはこの1局のみ。今、ここで勝ってしまえば先の事など関係無い。

 

(こいつが囲碁部に入れば大会でも成績が残せるだろう。そうしたら少しは注目され人も集まる。……1回くらいは後輩として頑張ってやるか)

 

 三谷は猫のような目を見開き、深く息を吸い込み、止める──。

 

 探すのは勝機へと繋がる隙。いや、針の穴程度さえあれば無理にでもこじあける。

 

 息苦しさを奥歯を食い縛って噛み殺す。ただ意識を盤上だけに注ぎ込む。

 

(──ッ!)

 

 瞬間、目に映ったのは逆転の兆したる細く、弱々しい光明。三谷はそれを掴み取るように、鋭く盤上へ石を撃ち放った。

 

 交点で小さく揺れ動き、やがて静止したその白石にオラ子の口元が緩む。

 

(……白3子を捨て石にして下辺の一団を攻め合いに持ち込むつもりか? かと言って、マゲて反発しても急所に置かれて要の黒の5子が取り込まれる──。きっついなぁ、こりゃ一本取られたわ)

 

 打たれたそれは、見えていたゴールを打ち崩す痛恨の一撃だ。一気に形勢を戻されたにも関わらず、ショックを受けるどころかワクワクしてしまう。

 

(さーて、どうすっかなー)

 

 そしていつの間にかそんな楽しげな気持ちになっている自分に「あれ?」と思い始めた。

 

 碁などつまらないはずだったのだ。それでも三谷との、勝つか負けるかわからないこの対局は心が踊って仕方がない。

 

 そうだ、勝つか負けるかわからないから楽しいんじゃないかと──。

 

(……こんな対局が出来るなら、あいつらに付き合ってやっても良いかもな)

 

 

 ◆

 

 

「約束だからな。ちゃんと筒井さんの囲碁部に入れよ」

 

「わかってるよ。つーか碁、面白かったし、賭けが無くなったって入る気だけど」

 

 階段を上がり地上へ出ると、夕陽も半分沈んで薄暗くなっていた。

 

 オラ子は惜しくも負けてしまった。囲碁部に入るのは構わないのだが、三谷を囲碁部に戻せないのは残念に思っている。

 

「なあ、腹減ったんだけどメシ食わね?」

 

「奢りなら」

 

「まあ良いけど。こんな美少女にメシ奢らせようとか、お前ジゴロの素質あるな」

 

 淡々と答えた三谷と共に、オラ子は足を繁華街通りへと向けた。

 

 すると──。

 

「三谷……」

 

 繁華街を歩き始めたところでバッタリ出会した少年。前髪だけ金髪の私服姿である。本屋の袋を下げており、買い物帰りらしい。

 

 気まずそうだ。三谷が舌打ち交じりに目を逸らすと、少年も次に続く言葉が出て来ない様子だった。

 

「学校の友達?」

 

「こんな奴友達なんかじゃねぇよッ」

 

 きょとんとしたオラ子へ返されたのは、三谷による強い否定を感じさせるセリフだ。

 

「ああ、お前たちケンカしてんだろ? もしかして三谷を囲碁部に誘っといて、先に辞めた奴ってお前?」

 

「そ、そうだけど……。て言うかあんた誰だよ」

 

「アタシ? 葉瀬高のモンで、今日たまたま三谷と知り合って、流れで碁打って来たとこ」

 

「碁? ああ……」

 

 言われ、碁会所のあるビルを一瞥した少年。どうやらそこに店がある事を知っているようだ。

 

「で、何で辞めたんだっけ? 人誘っといて辞めたからには、それなりの理由があるんだろ?」

 

「い、院生になるから……。院生だと学校の大会とか出られないから、それで……」

 

「へぇ、院生か。なるほどなるほど。だったらしょうがねぇじゃん。そんな理由だったら、お前も意地張ってねぇで囲碁部に戻ろうぜ?」

 

 三谷の肩に腕を回したオラ子。そのまま抱き寄せられた三谷はムスッと顔を歪めている。

 

「三谷、戻って来てくれるのか?」

 

 辞めた自分が言うのも何だが、という遠慮の中にも少年の声には期待が込められていた。

 

 オラ子は陽気な笑顔で、

 

「戻る戻る。実はさっき、部に戻るか戻らないかを賭けてコイツと対局してたんだよ」

 

「……戻らねぇよ。大体賭けに勝ったのは俺だぞ」

 

「カマかテメーは、グダグタ抜かしてんじゃねぇ。お前ら、奢ってやるから今からメシ行くぞ。一緒にメシ食って、それでさっさと仲直りしろ」

 

 男2人が「えっ?」と驚きの声を上げたが、ほとんど強引に目と鼻の先のラーメン屋に連れて行かれてしまった。

 

 

 

 部活帰りの学生や、サラリーマンで賑わうラーメン屋。4人掛けテーブルに餃子、八宝菜、エビチリなどなど大皿料理が運ばれて来る。オラ子が言うには「単品料理より、同じ皿の料理を取り分けて食べた方が仲直りしやすいだろ」との事。

 

 そのかいもあってか、隣の少年に「フンッ」と不機嫌そうにしてしていた三谷も「ほらよ」と醤油の小瓶を取ってあげたりと、徐々にトゲが薄れ始めていった。元々少年を心の底から嫌っていた訳ではなかったようで、きっかけさえあればと言ったところであった。

 

「……で、どうなんだよ。院生の方は」

 

「へへ、やっと俺1組に上がったんだぜ?」

 

「1組とか言われてもわかんねぇって」

 

 嬉々として話す少年に三谷は肩を竦める。そんな光景を対面のオラ子は「うんうん」と頷き満足そうだ。

 

「1組2組って、25人くらいで分けられたクラスが2つあるんだよ。まだ1組のビリだけど、今月の残った対局頑張って、1組16位目指してるんだ」

 

「ふぅん。で、何で16位?」

 

 やけに具体的な目標に三谷が小首を傾げる。

 

「若獅子戦? 1組16位までが出られるとか言う」

 

 三谷の疑問に答えたのは少年ではなくオラ子であった。

 

「え? 知ってるの?」

 

「倉田さん、あんた元院生とか言わねぇよな」

 

 目を丸くした少年。三谷は先の対局で、碁を辞めた小学生時点であの強さだったならば、その可能性もあると踏んでいた。

 

「アタシは違うよ。アニキがプロ棋士なんだ。倉田厚五段」

 

「ウソ!? ってよく考えたらプロの名前言われても全然わからないや」

 

 えへへ、と頭を掻いている少年に、オラ子から冷ややかな視線が送られる。

 

「何だお前、そんなんでプロ目指してんのか?」

 

「コイツは塔矢アキラを追ってんだよ。囲碁部辞めて院生になったのも結局は全部それさ」

 

「塔矢アキラ? ああ、あの名人の息子の。確かアタシの2つ下か」

 

「そうそう! だからプロと院生が戦える若獅子戦に絶対出てやるんだ! それで今の俺の力を見せつけてやる!」

 

 両の拳を強く握り締めたポーズを決める少年。目標に向かって突き進まんとするその真っ直ぐな瞳は、見る者に眩しささえ感じさせる。

 

「燃えてんなー。よっしゃ、頑張れよ!」

 

「じゃあラーメンも頼んで良い?」

 

「おう頼め頼め!」

 

 盛り上がるオラ子と少年。その傍ら、三谷が口にしていた餃子をゴクンと飲み込むと、

 

「俺も明日から頑張ってみっかな……」

 

「何を?」

 

 オラ子と少年の声が重なった。ジッと見つめられた三谷は、恥ずかしそうにこう言うのだ。

 

「……打倒海王」

 

 

 ◆

 

 

 翌日金曜日。筒井とギャル子か朝のビラ配りに精を出している。土日は高校が休みだ。勧誘活動が足止めされてしまう故に力も入る。

 

 

 そんな中で、誰にもビラを受け取って貰えない状況に、ギャル子の目線が下がり始める。同じ学校の人間なのにシカトされ続けるのは想像以上に寂しかった。

 

(メガネは凄いな……。こんな事、ずっとひとりでやってたとか……。マジ鋼鉄の心だし)

 

 数メートル離れた場所で、懸命に声を出している筒井に目を向けたギャル子。よし! と心の中で気合いを入れて背中を伸ばす。

 

「囲碁部でーす! 部員募集中でーす!」

 

 手当たり次第に声を掛けまくる。結果は変わらないが、今出来る事を精一杯やるしかなかった。

 

 と、ようやく1枚誰かに受け取って貰えた。昨日も含めて初めてだ。

 

「ありがとうござ──、って何だ、オラ子かよ。おはてーん」

 

 ビラを受け取った人物の顔を見るやいなや、喜びに満ち溢れた表情はがっかりを露わにしていった。

 

 朝イチから露骨な態度を取られたオラ子はムッとして、

 

「何だはねぇだろ? アタシが部員になってやるって言ってんだよ」

 

「マジでッ!? で、でもオラ子、碁嫌いっしょ? 嬉しいけど、そんな無理してくれなくても……」

 

「いや、昨日やったらそうでもなくてな。だから入りたいから入部するわ」

 

 

 

 ホームルーム前の教室にて、昨日の話を聞かされた筒井が涙ぐんでいる。

 

「そっか、三谷が……。うぅ〜……。あの三谷が〜……」

 

「ったく筒井オメェよぉ。良い後輩持ちやがってよぉ、えぇ? コラッ」

 

 眼鏡を外し涙を拭おうとしたところへオラ子によるヘッドロック。とてつもなく痛いのに加え、部活申請に必要な人数が集まった事と、三谷の件が嬉しくて「うへへ〜ん」と気持ち悪い泣き声を出している。

 

 と、そこへ──。

 

「もう、朝っぱらから何してるのよ。筒井君泣いてるじゃない」

 

 席通路を塞いでいるオラ子の悪ふざけへ、呆れた声を掛けて来たのは今しがた登校して来た代表。黒ギャルのギャル子とオラ子と違い、清楚感溢れる美少女だ。

 

「違うって、コイツのは嬉し泣きだって。アタシ、囲碁部に入ったんだぜ?」

 

「あら、昨日の今日でどういう風の吹き回しかしら。でも良いんじゃない? 応援してるから頑張ってね」

 

 ふふっ、と笑顔を向けられたオラ子とギャル子は眉をひそめ、やや困ったような顔。

 

 筒井はその浮かない表情を見て、3人組の内2人が部活を始めてしまい、代表がひとりになってしまう事を気にしているのかな、と思った。

 

「代表も良かったら入部してみない?」

 

 筒井の勧誘に少しばかり面を喰らった代表だが、すぐに柔らかな顔付きへと戻り、

 

「誘ってくれてありがとう。でも私、放課後は用があるから部活に入るつもりはないの」

 

「そうなの? こないだもカラオケ来なかったし、バイトとか?」

 

「ううん。お母さんが入院してて、そのお見舞い」

 

 さらりと口にされて筒井から「えっ」と驚きの声が漏れた。ギャル子達は知っていたようで暗い顔をして沈黙を保っている。

 

「そ、そうなんだ……。全然知らなかったな……。じゃあ無理だよね」

 

「うん。だからごめんね?」

 

 明るく言って皆の横を通り過ぎ、自分の席へ向かおうとした代表。だが腕をオラ子に掴まれた。

 

「……楽しんじゃうぞ? 良いのかよ」

 

「もちろん。そうしなさいって、いつも言ってるでしょ?」

 

 オラ子の押し殺すような声に返されたのは、母親のような優しい口調。それに続くのはギャル子だ。

 

「あたしら青春しちゃうよ!? 練習したり、部室に溜まってダベったり、テスト前とか一緒に勉強して打ち上げもしちゃうよ!? そんで夏休みは海合宿行ってBBQして、メガネが間違って女湯入って来たりして、ヤバイくらい青春しちゃうよ!?」

 

「どうだ、羨ましいだろ! だからお前も入部しろよ!」

 

 強引にでも入部させたい2人であったが、代表は首を縦に振る事はない。事情が事情なので、筒井は「そんな無理に誘わなくても」と困ってしまう。

 

「ありがとう。そうやって気に掛けてくれる2人の事好きよ? でもね──」

 

 代表の笑顔がふっ、と消えた。筒井はその虚な表情にゾッとしてしまう。いつもニコニコしているのでその驚きは一層大きかった。

 

「私は私が嫌いなの。そんな楽しい事して良い人間じゃないの。だから囲碁部には入らないわ」

 

 何だそれ、と耳を疑った筒井。お見舞いで忙しいからとか、それだけの理由じゃないのは明らかだった。

 

 そんな心に闇を抱えたようなセリフに、オラ子の顔に苛立ちが見え始める。

 

「……そういうのマジうぜぇ。お前、エバンゲリヨン見過ぎなんだよ」

 

「何そのパチモノ。エヴァにケンカ売ってるの?」

 

「オメェに売ってんだよ!」

 

 涼しげにしている代表の胸ぐらをオラ子が掴んだ。他のクラスメイト達も「何だ何だ?」と騒ぎ始め、教室が朝から不味い雰囲気になったところで、

 

「コラー、席着けー」

 

 ドアを開けて入って来た担任の声に、その場は収まるに至った。

 

 

 ハラハラしたまま席に着いた筒井。詳しい事情がわからないながらも、代表の気持ちに何となく察しがつき、隣のギャル子に小声で話し掛ける。

 

「もしかして、代表はお母さんが入院したのは自分のせいだって思ってる……、とか?」

 

 娘を庇ってケガをしたとか、働き過ぎて倒れたとか、良くあるパターンと言っては代表にあんまりだが、良くあるパターンである。

 

 が、顔を下に向けたギャル子から得られた答えは、

 

「……違うよ。代表は何も悪くないし、本人もそんな事思ってない」

 

 あっさり予想が外れてしまった。じゃあ何なんだろうと頭を悩ませる。知ったところで何か出来るとは思わないが、気になるものは気になってしまう。

 

「メガネ、代表はそうやって心配されるのがマジで嫌いなの。自分に遠慮して楽しい事とか我慢されるのが本当に苦しいからって。だから今は囲碁部の事考えよ? 昼休みまでに部活申請の紙出さないとねっ」

 

「う、うん……」

 

 明るい口調で話すギャル子の笑顔は何処か寂しげだった。無理矢理に作ったようなぎこちなさが所々に見え隠れしている。

 

 お節介焼きのギャル子にしては意外だ。それは自分達では本当にどうにもならない事だとわかっているからかもしれない。

 

 もしかしていつもの笑顔の下にはこんな表情を隠していたのかな、と筒井は部員が揃った喜びなどいつの間にか忘れてしまっていた。

 

 



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5話 筒井家で初練習

 筒井が生徒会に提出した部活申請書は目の前で承認の判を押された。なんでも生徒数の減少に伴い部活動の数も減っており、部の新設は大歓迎らしい。

 

 つい先日まで筒井ひとりだった囲碁部にギャル子が入り、オラ子が入り、あっという間に正式な部になったのだ。夢のようなトントン拍子で頬をつねりたくなる。

 

 昼休み、3階生徒会室からの帰りの廊下は学年クラスの教室から離れているので人の姿が見られない。

 

 窓の外からは校庭で遊ぶ生徒達の声が届いて来る。そしてもう一方、筒井の目の前、曲がり角の先から男女の会話が耳に入って来た。

 

「ど、どうしてもダメ? 友達からでも全然構わないんだけど……。せめて今度一緒に映画とか……」

 

「ごめんなさい。私、誰ともお付き合いするつもりありませんので」

 

「そこを何とか! 好きなんだよ!」

 

 筒井は曲がり角直前で足を止めた。男子の声が大きいので、女子に告白して振られている最中なのだと、すぐに察する事が出来た。

 

(何だよ、通れないじゃん……)

 

 遠回りするのも面倒なので少しだけ息を潜めて待ってみる。だがそこからさらに男子が粘りを見せ始めたので、結局遠回りルートに足を向け掛けた時だ。

 

「んだよブスッ!」

 

 粘った挙句、酷い捨て台詞と共に駆け出した男子が曲がり角から姿を現し、筒井は強めに肩がぶつかってしまった。鍛え方が足りないゆえに、そのまま尻餅まで着くという体たらく。

 

「どけよッ!」

 

 筒井は床に座り込んだまま「何だよもうっ」と小さな怒りを覚えて遠ざかる背中を睨みつけた。

 

 幸い何処も痛くしていないのだが──、

 

「筒井君、大丈夫?」

 

 黒いリボンがアクセントを与えるブロンドヘアーの美少女が、心配顔で少し膝を曲げて手を差し伸べてくれている。代表である。告白されていたのは彼女だったようだ。

 

「あ、うん……」

 

 差し出されている綺麗な手を掴もうとしたが、床に着いていた手で触れるのも気が引けるので、急ぎ制服でゴシゴシ拭いてから彼女の手を握った。

 

「何処か痛くしてない?」

 

「平気平気っ。代表こそ酷い事言われて災難だったね。告白しておいてブスだなんてさ」

 

「あんなの気にしてないわ」

 

 代表に引っ張られて立ち上がったものの、握った手が離れない。筒井という人間を構成する全ての細胞が、本能が、魂が「離したくない」と言っているのだ。

 

(やっぱりメチャクチャ可愛い……)

 

 特に好意を寄せていなくとも締まりの無い顔になってしまう筒井。まだ入学2週間ちょっとにも関わらず、代表へ告白したくなる気持ちもわかってしまう。

 

「で、でも凄いよねっ。もう随分たくさんの人から告白されてるんでしょ?」

 

「おかげでしょっちょう呼び出されて大変よ。そろそろ他の女子に疎まれそうだしさ」

 

 代表はため息交じりに小さく嘆いた。そのうんざりとした表情から一転、今度はパチッと男の心を鷲掴みにするようなウインクを決められ、

 

「それより部活申請して来たんでしょ? 認めて貰えそう?」

 

「うん、バッチリだったよ。て言うかもう承認の判子も貰っちゃったしね」

 

「へぇ〜、そんなに早いものなんだ。良かったわね」

 

 小首を傾げる仕草を交えた笑顔を向ける代表。ギャル子達の親友だからだろうが、囲碁部の事を気に掛けてくれていた事は正直嬉しい。

 

 かと思いきや、口角は上げたまま目を細めて、

 

「んー、ところでキミはいつまで手を握ってるつもりかな? 女の子と手を繋ぎたいって気持ちはわかるけど、これじゃあ歩けないよ?」

 

 2人はずっと握手をしたままだ。と言うより筒井が一方的に握り締めたままだ。ハッとした筒井は「ご、ごめんっ」と慌てて手を離した。

 

 

 

 

 雑談──、主に午後の授業についての話をしながら一緒に階段を降り、1年生の廊下に近づくに連れて知った顔が増えていく。何で筒井ごときが代表と……! という、男子達による嫉妬や憎悪の視線も増えていく。

 

 うへぇ、と恐怖を覚えている筒井は、思い出したように口を開いた。

 

「あ、そうだ。早く若鶏戦にエントリーしないと」

 

「若鶏戦? 何だか美味しそうな名前ね」

 

 ペロリと唇を舐める仕草を見せた代表へ「あはは」と苦笑いで返す。

 

「海王が主催する1年生だけが出られる団体戦さ。もう来月なんだけど、締め切りまでに部の設立が間に合って良かったよ」

 

「ふーん。若獅子戦のパクリかと思ったけど、中身は違うみたいね」

 

「若獅子戦? 何それ」

 

 きょとんとする筒井の顔を見上げる代表。

 

「院生は知ってるでしょ? その院生上位16名と20歳以下の若手プロによるトーナメント戦よ。そう言えばそれも来月ね」

 

「ああ、そう言えば囲碁雑誌で見た覚えが……。で、でもどうしてそんなに詳しいの?」

 

 ギャル子もオラ子も、何処で覚えたのか碁を打てる事に筒井は驚きの連続だった。そこへ囲碁バカの自分でもほとんど知らないような碁界知識を持っている代表だ。もしかしたら彼女も碁を打てるのだろうか、と予想したのだが──。

 

 返って来た答えは筒井の予想をぶち抜くものであった。

 

「だって私去年まで院生だったし」

 

「い、院生ッ!? 本当ッ!?」

 

 廊下に筒井の大声が駆け抜ける。耳元で叫ばれた代表は「うるさい……」と筒井から傾け遠ざけた頭を元の位置へ戻した。

 

「驚きすぎ。ギャル子達から聞いてなかったの?」

 

「全く……。でも辞めたって事はプロを諦めたって事……?」

 

「そうね。それに私、プロには向いてないみたいだから」

 

「へぇ〜。でも凄いなぁ、もうビックリだよ……」

 

 向いてないの意味がよくわからないが、筒井は代表のまさかの正体に浮足立っている。学生囲碁界では元院生というステータスは聞いただけで相手を戦意喪失させる程の破壊力がある。

 

 そして筒井はパッと目を輝かせる。代表が院生だったのならば、聞いておきたい事があるのだ。

 

「去年までっで事は、秋に院生になった進藤ヒカルって中学生の子知ってるかな? 葉瀬中の僕の後輩で、同じ囲碁部だったんだけど」

 

「秋かぁ。なら丁度私と入れ違いね。私が院生やってたのはプロ試験までだったから」

 

「プ、プロ試験!? プロ試験にも出たんだ! いや、もう本当凄いとしか言いようがないよ! そんな人と同じクラスだなんて信じられないなぁっ!」

 

「大袈裟っ。院生は皆出るんだから騒がないっ」

 

 大興奮の筒井の額が、つんっと代表の指先で押された。美少女だから許される行為に筒井の心拍数がさらに上昇。

 

 そんな何もかもがバラ色に見えてしまうような気分の中、脳裏によぎったのは今朝の代表の顔だった。

 

 入学して知り合ったばかりだが、心を奪われるような笑顔が印象の女の子。だが今まで見て来たそれが、全て作り物の仮面だったのではと思えてしまう程の空虚な表情だった。

 

 朝のホームルーム前、オラ子が代表にケンカを売る感じになっていたが、その後は仲直りの言葉を交わす訳でもなく、いつも通りであった。筒井にはそれが逆に不気味にも思えた。

 

 自分の事が嫌いだと言っていた。楽しい事をして良い人間じゃないとも言っていた。

 

 今肩を並べて歩いているにこやかな彼女からは、やはり想像もつかない。もし聞けばまた同じ事を言うのだろうかと、今度は別な意味で心拍数が上がってしまう。

 

 気が付けばもう自分達の教室だ。元院生の彼女に是非とも教えを請いたかったのだが、そういう事も言い出し辛くなってしまった。

 

 

 ◆

 

 

 そしてその翌日、土曜日の午前中の事である。

 

 筒井が葉瀬の自宅マンションにて自室の掃除をしている。掃除機を念入りに、コロコロも徹底的に──。

 

 今日はこれからギャル子とオラ子が来るのだ。そして碁を打つのだ。部は承認されたが部室の鍵は月曜まで貰えないので、ここで一足早く囲碁部としてのミーティングを兼ねた初練習を行うのだ。

 

「ふんふふーん♪」

 

 鼻歌が出てしまう程楽しみで仕方がない。女子2人が部屋に来るという一大イベントよりも、初練習の嬉しさがまさっているのは囲碁バカの彼らしい。

 

 だがそんな彼に水を差すように母親がドアを開いて顔を出した。パーマヘアーの見たまんまおばちゃんである。

 

公宏(きみひろ)ー。ハゼショー行ってお水買って来て頂戴? おひとり様1点限り、2リットル6本の特売品」

 

「今から? 囲碁部の人達が来るって言ったじゃん」

 

「ハゼショーならすぐじゃない。もしお友達が先に着いちゃったら、あんたの部屋に通しておくから」

 

 ハゼショーとは筒井家から徒歩数分にあるスーパーである。

 

「じゃあ終わったら買いに行くよ」

 

「何言ってるのッ! 特売品なんだからすぐ売り切れちゃうでしょッ! ホントにバカな子だねッ!」

 

 キレた母親には逆らえず、筒井は渋々ながらも買い物へ行く事になった。

 

 部屋を出て廊下を抜けた先のリビング。そこにはソファにてテレビ鑑賞中の妹の姿。

 

「お兄ちゃーん、ついでにコーラとポテトチップ買って来てー」

 

「それが人に頼む態度か?」

 

 小6の妹がテレビに顔を向けたまま振り向きもしないので、兄としてムッとしてしまう。

 

「うっさいな、囲碁やってるくせに」

 

「それ何の関係があるんだよっ」

 

「だってダサいじゃん。お兄ちゃんが囲碁やってるとか、恥ずかしくて友達に言えないもん。ミホちゃんのお兄ちゃんはサッカーでしょ? ヨッちゃんのお兄ちゃんは軽音のギターでー」

 

 やたら碁を舐めてる妹。クラスでもそこそこイケてるポジションらしく、兄を全く尊敬していない。

 

 その上、

 

「公宏! あんたお兄ちゃんなんだから買って来てあげなさい!」

 

 後ろからは母親の怒鳴り声。筒井は「わかったよ」と不貞腐れ気味に家を出ていった。

 

 ガチャンッ! と玄関のドアが閉じられた音の後に、

 

「宏子、お兄ちゃんの部活のお友達が来たら、ちゃんとご挨拶するのよ?」

 

「えー、どうせこんなんでしょー?」

 

 妹は人差し指を立て、原理は不明だが頭の上に白いモクモクした物体を出し、その中に飛び切り冴えない男子の顔をパッと表示させた。

 

 母親もそのイメージを否定はしないようで「そうね。でも失礼な事言ったらダメよ」と言ってドスンッとソファに腰を下ろすのであった。

 

 

 それからしばらく、2人で特に面白くもないテレビをだらだら眺めていると、インターホンの音がリビングに響き渡った。

 

「来たんじゃないの? 宏子、出てあげなさい」

 

 宏子は「はいはい」と重たそうに腰を上げ、受話器を取らずに玄関へ直行。兄のダサい友人達に舐められないようにと、玄関前の鏡で軽く髪を直し、ドアノブに手を掛けた。

 

!?

 

「こんちゃー。メガネ──、あれ? メガネの下の名前何だっけ。まあ良いや、メガネ君いますか?」

 

「何お前、筒井の妹? マジウケんだけど。ガム、食う?」

 

 筒井家に緊迫したBGMが流れ始めた。

 

 肩まで開いた緩めのニット、ショートパンツ、ブーツスタイルのギャル子。こちらはエロ可愛い。

 

 高校生離れした身体のラインを思い切り出し、長い美脚が際立つタイトワンピース姿にヒールを履いたオラ子。こちらは単純にエロい。

 

 平凡我が家に突如襲来した、ギャル雑誌から飛び出して来たような黒ギャル2人に、妹は口をパクパクさせたまま中々言葉が出てこなかった。

 

「ど、ど、どどどちら様でしょうか……。い、家、間違えてませんか……?」

 

「え? ウチら囲碁部の活動しに来たんだけど。あたしギャル子ね? 妹ちゃん、よろー」

 

「イゴブ……? 囲碁部ッ!? ウチのお兄ちゃんの高校の囲碁部の人なんですかッ!?」

 

 勝手に膨らませていたイメージとは真逆過ぎて頭が追い付かない。

 

「そうだよ?」

 

「えっ? えっ?」

 

 2人の頭のてっぺんから足の先まで何度も見上げたり見下げたり。嘘だ。こんなギャル達があのダサいボードゲームをするはずがない。

 

「お、お兄ちゃんをどうするつもりなんですかっ? ぶ、ぶったり、お金とか取ったりするんですかっ?」

 

 ドアに身を隠すように警戒する妹に、ギャル子とオラ子は腹を抱え笑い始めた。

 

「何それウケるっ。あたしらメガネと超仲良いよ? て言うか入って良い?」

 

「あ、は、はい。ど、どうぞっ」

 

 まだ何がなんだかわからない。ギャル子に言われるがまま、妹は2人を招き入れると「おかーさーん! おかーさーん!」と助けを求めるような叫びを上げながらリビングへ繋がる廊下を駆け出した。

 

「ドタドタやめなさい! 下の階に響く──、あらッ!? あららららッ!?」

 

 リビングから顔を覗かせた母親は口元を手の平で隠し、ひたすら驚いている。

 

 そんな母親へと歩み寄るオラ子。

 

「あ、お母さんスか? アタシ、オラ子っついます」

 

「は、はい。公宏の母です……」

 

「まあちっと今回初めてお邪魔させて頂くんで、まあちっとお母さん的にはサプライズかもしんねぇんスけど、軽く手土産持ってきたんスよ。まあちっと全然つまらねぇもんなんスけどね」

 

「あ、あら? そんなに気を使わなくても良いのに……」

 

 見掛けによらずしっかりした(?)オラ子に感心してしまう母親であったが、ピラリと差し出されたチケットサイズの数枚のカラフルなイラスト紙に目が点になってしまう。

 

「な、何かしら……?」

 

「ウチらが行ってる日サロの割引券ッス。良かったらどうぞっス」

 

「ひ、日……、サロ……?」

 

「そッス。あそこ最近新しいマシン入れたんでマジおすすめッス。んでそれがマジヤバイんスよ。何つーんスかね、結局アレなんスけど、ハイプレッシャー感が違うっつーか? やっぱパワー違うんスよね、パワー。まぁでもそれが逆にサプライズ? みたいな。お母さんわかります?」

 

 オラ子が何を言っているのか全然わからない母親は、口を閉じるのを忘れたまま壊れた玩具のようにコクコク頷いている。

 

「あ、あらそう……。あ、ありがとう……」

 

「ッス。あ、ガム食います?」

 

 喜んで貰えたと思って満足げなオラ子。続いてギャル子も、

 

「これウチのお母さんからです。美味しいから食べて下さいねー」

 

 出したのは菓子折りだ。その和紙包みに記載された店名が目に入った母親は驚愕──。

 

「あら!? あらあらあら!? これって銀座の有名な老舗和菓子屋さんじゃない!?」

 

「はい。あたしもここのお菓子超好きなんですっ」

 

 常識知らずのオラ子のせいでどうなる事かと思われたが、掴みはオーケーのようだ。

 

 

 どうぞごゆっくり、と筒井の部屋に案内した母親はリビングへ急ぎ足で戻った。

 

「ひゃー、もうビックリしたっ。公宏ったら女の子だって言わないんだもの。それにあんな派手な子達でっ。お母さん心臓止まるかと思ったわよ!」

 

「ねー! あんなの絶対ドッキリだと思ったもん! お兄ちゃん、あんな人達と部活とか大丈夫なのかな!?」

 

 母親と妹はまさかの黒ギャルに大興奮である。

 

「でもああいう子達って何食べるのかしら? お昼簡単にソーメンにするつもりだったのに」

 

「ソーメンかぁ。インスタ映えしないし、タピオカとか入れないと食べてくれなそうだよね。わかんないけど」

 

 

 それから少し経って筒井が帰宅。両手で抱えた重たい段ボールの上にコーラとポテトチップ入りの袋を乗せ「ひぃひぃ」と声をあげている。

 

「ちょっと公宏ッ。あんたねぇ、女の子なら女の子ってちゃんと言っときなさいよ!」

 

「そうだよバーカッ!」

 

 筒井は帰るなり母親と妹からペチペチ身体を叩かれて「え? え?」と目を白黒させていた。

 

 

 ◆

 

 

 自室のドアを開けた筒井の口から「うげ」と嫌な物を見てしまったような声が漏れた。

 

 ベッドの下から尻が2つ出ているのだ。何やらベッドの下を漁っているらしいが──。

 

「な、何やってんのキミ達……」

 

 筒井から呆れた声を掛けられた2人はもそもそとベッド下から出て来たのだが、何故か不機嫌そうな顔で筒井を睨んでいる。

 

「筒井、何でエロ本ねぇんだよ。早く出せよ」

 

「そうだよ、何処に隠したの? 部員としてメガネの性癖を把握しておく義務があるんですけど?」

 

 顔を合わせた早々、訳のわからない事を言われ眼鏡がずり落ちそうになる。

 

「最初から1冊も無いよ! て言うかいきなり何なんだよ! 勝手に人の部屋漁るなんて非常識だぞ!」

 

 筒井の言葉を受け、この世の終わりのような表情へと変わっていった彼女達。

 

「マジかよ……。じゃあもう今日ここ来た意味無くなっちまったじゃん……。他、何かやる事ある……?」

 

「だよね……。エロ本見つけられて慌てふためくメガネを見に来たのにね……。あたし昨日それが楽しみで中々眠れなかったのに……」

 

「囲碁部の活動しに来たんだろッ!?」

 

 まったくもう、とため息交じりに座布団へ腰を下ろした筒井。今さらながらであるが、ふと2人が私服姿だと気が付いた。まだ学校の制服姿しか見た事がないため新鮮だ。

 

「そう言えば2人の私服初めて見るけど、よく似合ってるね」

 

 ニコッと笑顔で言い放った筒井にギョッとした顔が向けられた。

 

「お、おお……。筒井が服褒めたよ……! しかもさらりと……!」

 

「絶対あたし達が『どう?』とか聞いても『え? 何が?』って感じだと思ってたのに……!」

 

 囲碁バカ鈍感朴念仁のイメージが強かったらしく、全く期待していなかった彼女達。いきなり褒められたので照れ臭そうに笑い始めた。

 

「ウチ妹いるし、あいつそういうのうるさいからさ。じゃあ早速ミーティングから始めようか」

 

 気持ちを切り替えるためにパンッと手を叩いた筒井。だが彼女達は不満げな顔だ。

 

「えー、まだ早くない? 何かして遊ぼうよ」

 

「そうそう。折角こうして男と女が集まったんだから、もうちっと何かあんだろ? テメェ、服褒めたからって調子乗ってねぇか?」

 

 ギャル子に同意したオラ子が舌舐めずりをして四つん這いで迫って来る。

 

「く、くっ付くなよッ!」

 

 首に両腕をまわされ抱きつかれた筒井がビクッと震えた。さらに脇腹に柔らかい物が当たりドキドキしてしまう。

 

「くっ付いたら何だよ? 何か文句でもあんのか? んん? 折角気合い入れて来たのにオメェが余裕かましてっからよぉ、ちったぁドキドキして貰わねぇと女のコケンに関わんだよ」

 

「オラ子だけズルイんですけどー。あたしの方が先にメガネと仲良くなったんですけどー。ねぇメガネ、もっとあたしと友情深めようぜ?」

 

 さらにはムスッとしたギャル子まであぐらを掻いた脚の上に(あご)を乗せて、腰に両腕をまわしてしがみ付いて来る始末。

 

「どうやったらこんなんで友情深まるんだよッ!」

 

 女の子の甘い匂いに囲まれ、色々柔らかい物も押し付けられ、さすがの筒井も変な気分になり掛けた時であった。

 

 

「お兄ちゃーん。お母さんがお友達はお昼何食べたいか聞い──、ごごごめんなさいッ!」

 

 

 ノックも無しにドアを開けてきた妹。そのとんでもない光景に驚き、すぐにバタンッ! とドアを閉めてしまった。部屋の外、廊下からは「おかーさーん! おかーさーん!」という声が届いて来る。

 

 後が怖いが、取り敢えず家族のおかげで冷静さを取り戻した筒井。

 

「ちょっとホントやめてって! はいミーティングミーティングッ! ミーティング始めるよ!」

 

「はーい。逆に聞くけどー、ミーティングって何するんですかー?」

 

 膝枕状態のギャル子が口を尖らせている。

 

「そうだね。練習内容とか、部室をどんな感じにするとかも決めたいけど、まずは僕らの近い目標、若鶏戦について確認しておこうか」

 

 妖怪のようにまとわりつくギャル達を引っぺがし、筒井はミニテーブル上のノートパソコンを起動させた。少しの待ち時間と操作の後、表示されたのは海王高校囲碁部のホームページ上にある若鶏戦特設サイトだ。

 

 記載されているのは概ね以下のような内容である。

 

 海王高校主催、若鶏戦(5/10)

 

 ・出場出来るのは1年生のみ

 

 ・1チーム3名による団体戦(男女同チーム可)

 

 ・1校4チームまで登録可能

 

 ・予選はブロック分けによるリーグ戦形式

 

 ・決勝は各ブロックのトップチームによるトーナメント形式

 

 

「1校4チームまで? 1年が12人も入ってくる高校なんてあるのか?」

 

「海王が主催だからね。あそこは新入部員が多いし、対外試合の経験を積ませるのが目的だろう。決勝トーナメントは全部海王って事もありえるね」

 

 オラ子の疑問にクイッと眼鏡を上げて答えた筒井。そのまま言葉を続ける。

 

「海王で要注意人物は岸本薫。海王中では部長にして大将を任され、何と言っても元院生だ。1年生じゃなくても彼に勝てる高校生が果たしているかどうか……」

 

「あいつは? この清潔の化身を汚ギャル扱いした日高とか言ういけ好かない女」

 

「岸本は別格にしても、彼女も相当やるはずだ。海王中では副部長、女子チームの大将だったからね。他には気は優しくて力持ちっぽい青木、囲碁部なのにロン毛で甘いマスクの美和。さらには僕の後輩にして院生である進藤君家のはす向かいに住んでいる高田──。特に高田は二年前の大会で僕ら葉瀬中の優勝を一瞬でひっくり返した男。皆高校囲碁界では名の知られた打ち手、他の高校なら余裕で大将を任せられる実力を持っているはずだ」

 

 指で眼鏡をくいっと上げ、情報通気取りで長々と話す筒井。

 

「女子の情報少なくない? カラオケに日高の手下とかいたじゃん」

 

「普通の大会は男女別なんだからしょうがないだろ。女子の事まで詳しかったら僕ヤバイ奴じゃないか」

 

 筒井の言い分にギャル子はしぶしぶ納得。

 

「つってもそいつらの棋譜なんかねぇんだろ? だったらアタシらがやる事はひとつしかねぇじゃん」

 

 途中から聞いていなかったオラ子が欠伸(あくび)の後に不敵な笑みを浮かべた。

 

「ああ、練習あるのみだ。大会まで時間が無い、一時も無駄には出来ないぞ」

 

 普段とは打って変わって、凛々しく頼もしい顔付きを見せた筒井。碁盤の前に座り直し、

 

「ミーティング途中だけどやっぱり先に打とうか。キミ達の実力を知っておきたいし、打たなければ僕達は何も始まらない。そうだろ?」

 

「メガネがカッコ良さげな事言ってる……。頼れる男っぽい……」

 

「んー。カッコだけにならなきゃ良いけどな」

 

 ほえ〜、と目を輝かせているギャル子であったが、反対にオラ子は胡散臭い目を向けている。この3人は互いに碁を打っているところを見た事が無い。しかしオラ子は三谷から筒井は弱いという情報を入手しているのだ。

 

 

 ところがどっこい──。

 

 

(およ? しっかり読んでるし判断も悪くねぇ。三谷が言う程弱くもねぇな)

 

 筒井とギャル子の対局を観戦しているオラ子。負ける気はしないが、予想以上の強さなのは確かだ。

 

(ギャル子も小2で辞めたって割には石の筋はしっかりしてる。初めからプロの祖父さんに教わっていただけの事はあるな。読みはまだ甘いが盤全体を見渡せる感性は大したもんだ)

 

 中盤を終えた時点で形勢は筒井が少し良い。ここからは互いの陣地の境界線をハッキリさせるヨセに突入──。

 

 そして差が開く。まるで機械のような正確さで筒井が上手くヨセを進めていくのだ。ヨセは彼のもっとも得意な分野である。

 

「んはぁっ❤︎ そこダメなのぉっ❤︎ そんなトコまで侵しちゃらめなのぉぉぉっ❤︎ 」

 

「親いるんだからやめろよ!」

 

 ギャル子は筒井のなすがまま、されるがまま地を削られていく。常に後手後手にまわされ何も出来やしない。

 

 終局。ヨセでさらに差を付け、筒井の大勝だ。

 

「ギャル子強いね、ビックリしたよっ」

 

「負けた……。あたしこないだ海王に『あ? だったらテメェのお得意な碁で勝負すっか?』とか言ったくせに弱いじゃん……」

 

 勝てて部長の面目を保てた筒井はホッと息を吐き、敗れ去ったギャル子はぐったりと横になっている。

 

 そして良い意味で期待を裏切られたオラ子がフッと笑みを零した。

 

「にしても、筒井強いじゃねぇか。三谷から聞いてた話とは大分違うぜ?」

 

「三谷が部にいたのは秋までだったし、僕だってちゃんと努力してるんだから。でもやっぱりノートパソコン買って貰って、ネット碁や囲碁ソフトで鍛えたおかげかな」

 

 へへへ、とミニテーブル上のノートパソコンを見つめる筒井。

 

「おお、パソコン! 伊達に眼鏡掛けて無いねー。ちょっと触っても良い?」

 

「うん、どうぞ?」

 

 がばっ、と起き上がったギャル子へ返されたのは屈託の無い笑顔。それを受けたギャル子はつまらなそうに再び倒れてしまった。

 

「……やっぱ良いや。見られて困るエロ画像フォルダーとか無さそうな反応だし」

 

「そういう事しか頭に無いのかよ……。さ、練習の続き始めよう! 次、オラ子の番だよ!」

 

「うへっ、今打ち終わったばっかじゃん。お前も囲碁の事しか頭にねぇよな」

 

 やる気みなぎる筒井。中学ではここまで来るのに2年以上掛かった。それがどうだ、まだ高1の4月半ばなのだ。こんな楽しい日々が後どれだけ残されているのか考えるだけで、胸が弾んで仕方がなかった。

 

 

 しかしそれも束の間──。

 

 

 筒井はギクリとした。オラ子との対局中、ふと盤の外へ目を向けた時、ギャル子の目から涙がつぅ、と頬を伝わり落ちるのを見てしまったのだ。楽しそうな表情の中のそれは、この上なく異彩を放っていた。

 

「ど、どうしたのっ?」

 

 対局の手を止め、思わず声を掛けた筒井。ギャル子は自身の顔に触れ、この時初めて自分が泣いていた事に気が付いた。

 

「あ、えと、楽しいなって。碁を打ったの、マジで久しぶりだったけど、やっぱ楽しいなって……」

 

 床に目を向けたギャル子のセリフにほっこりと口元を緩めた2人。

 

 だが涙の理由はそんなほっこり話とは真逆であった。徐々に涙が溢れ、小さな嗚咽を上げながら、

 

「こうやって皆で集まって楽しく碁を打ってるのに、どうして代表がいないのって……。一緒に打ちたいって思ってるはずなのに、仲間ハズレにしちゃってるよ……」

 

「あいつがいねぇのなんて今さらだろ」

 

「でも、代表の大好きな碁なんだよ……?」

 

 オラ子は面倒臭そうに立ち上がり「ちっと休憩!」と筒井のベッドに横になってしまった。

 

「えっ? ちょっとキミ達一体何なの? いきなり訳がわからないんだけど」

 

 動揺しまくりの筒井は彼女達へ交互に目を移す。しかし答えは返ってこない。

 

(やっぱり代表には何かあるんだ……)

 

 首を突っ込まない方が良いのかもしれない。だがこのまま見て見ぬ振りで囲碁部をスタートさせてしまったら、ハリボテの飛行機で飛ぶように、いつか壊れてしまいそうな予感がしたのだ。

 

 ギャル子はまともに話せそうにない。筒井はオラ子に力強い目を向けた。

 

「オラ子。ちゃんと説明してよ」

 

 チッ、と小さな舌打ち。その後にオラ子から迫力ある睨みがぶつけられる。

 

「聞かない方が良いと思うぜ? 聞けば普通に接してやれなくなるかもしれねぇ。同情とか遠慮とか、代表はそういうの嫌がるから」

 

「……そうもいかないよ。こんなんじゃ、これから部活なんかやっていけないよ。僕にとって、キミ達はやっと出来た仲間なんだから」

 

 互いの強い眼差しがぶつかり、先に目を逸らしたのはオラ子だった。筒井の固い意思に負けたと言わんばかりに「わかったよ」と身体を起こした。

 

 



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6話 代表vs塔矢アキラ

「またカツ丼〜?」

 

 食卓に並んだ丼が目に入り、ウンザリとした声を上げた少女。長い金髪ストレートで、顔立ち整った見目麗しい少女だ。

 

 ここひと月強の間にカツ丼が夕飯だった回数は両手では数え切れず、既に席に着いている母親へ不満をぶつけてやった。

 

「せめて牛丼とかでも良くない? こないだギャル子達とお店行ってすごく美味しかったの」

 

「何言ってるの。明日は凄く強い子なんでしょ? カツ丼食べないで何食べるのよ」

 

 彼女の母親──。流暢な日本語を話しているがイギリス人だ。日本の風習や迷信を日本人以上に信じているらしい。

 

 そして娘と同じ長いブロンドヘアー。後ろを黒いリボンで結んだ美しい母親である。

 

「うん。2つも年下だけど、受験者の中で1番強いよ。やるの楽しみだよ」

 

 椅子に腰を下ろした彼女はその顔を思い浮かべ、真剣な顔付きと共に少し声が低くなった。

 

「あら、そんな怖い顔しちゃダメよ。あなたは昔から笑顔が可愛いんだから」

 

「笑顔だけー? この超絶美少女はいつだって可愛いんですけどー?」

 

 にまっ、と怒り笑顔を見せた彼女。釣られて母親もクスッと笑いを零した。

 

 

 2人で楽しく会話をしながら食事を進めていると、母親が何か思い出したように箸を止めた。

 

「そういえば、あなた合格したら高校はどうするつもりなの? 先生にも言われてるでしょ?」

 

「まだわかんない。プロ試験受かったら考える。一応女子高生経験したいとは思ってるけどさ。放課後は友達とカラオケ行ってー、みたいな?」

 

 母親から進路を尋ねられた彼女は箸をマイクに見立て口元に添えた。そんな楽しそうに語る彼女に優しい目が向けられる。

 

「そうね。お母さんもあなたの高校の制服姿見てみたいわねぇ」

 

「じゃ、じゃあさっ。高校生になったらそれ頂戴?」

 

 照れ臭そうに母親の肩あたりを指した彼女。肩にはリボンで縛った髪が少しばかり覗いている。

 

 思わぬ要求を受け、母親は意外そうな顔だ。

 

「このリボン? こんなの何処にでも売ってるじゃない」

 

「わかってないなぁ。お母さんのが良いの。受け継ぐ的な?」

 

「変な子ねぇ。だったら今あげようか?」

 

「ううんっ、高校入ったらで良いよ」

 

 彼女は母親が大好きだ。いつも優しくて、学校の友人達からは美人で羨ましがられるし、自慢の母親なのだ。

 

「あとねぇ、プロになってお金貰えるようになったら、お母さんに旅行プレゼントしてあげるね? 何処に行きたいか考えといてよ?」

 

「あらあら、気の早い。でも楽しみにしてるわね?」

 

 娘の親孝行な気持ちが嬉しくて、母親は頬に手を当てて優しく微笑んだ。母親にとっても自慢の娘なのだ。

 

 

 ◆

 

 

 そして翌日。総勢25名の受験生による総当たり戦を週3回、およそ2ヶ月に渡るプロ試験も終盤に入った10月初頭。

 

 試験会場は千葉県にある日本棋院囲碁研修センター。既に大部屋和室の対局場へ行った者達もいれば、ギリギリまで飲食自由な長いテーブルがある休憩室でリラックスしようとする者達もいる。

 

「でさぁ、どっちが勝つと思う?」

 

 ここ休憩室では、中学生と高校生の院生男子2人がそんな話題で盛り上がっている。

 

「うーん、やっぱり塔矢アキラだろ。彼の負ける姿は想像出来ない」

 

「んだよ伊角さん。院生(ウチ)のエースも無敗だぜ? 若獅子戦での倉田プロとの対決も見応えあったし、俺は互角と見たね。て言うか塔矢に一泡吹かせてくれって感じだぜ」

 

 伊角と呼ばれた院生は「そうだなぁ」と腕を組んで頷いた。

 

 塔矢アキラ──。現名人の中1の息子。受かって当たり前の前評判通り、この試験終盤まで不戦敗1の実質無敗。皆が人生を賭けて挑むプロ試験ですら通過点に過ぎないといったところだ。

 

 結局6対4で塔矢有利という意見に落ち着いた。しかし他の受験者であれば10対0から8対2が良いところである。

 

 そしてそんな話題の中心人物である塔矢アキラの対局相手が、この休憩室に姿を現した。

 

 入り口前で立ち止まり、空いている席を探す少女に手を挙げた院生の2人。それに気が付いた彼女が彼らに小さく手を振って歩み寄る。

 

「和谷、伊角さん、おはよー」

 

「おっす。今日は全勝合格1番の壁だな」

 

「別に全勝とかはこだわってないわよ。それでももちろん勝つつもりだけどね。いや、絶対勝つ。昨日もお母さん特製カツ丼食べたし」

 

 中学生の院生男子、和谷に言われ「ふふん」と笑みを浮かべた彼女は肩に掛けたカバンをテーブルの上に置き、隣の椅子に腰を下ろした。ふわりと石鹸の香りが漂い、男子達の心拍数が上がってしまう。

 

「ハハッ。実は俺も昨日カツ丼だったけどな」

 

 誤魔化すように笑う伊角。しかしそれを聞いた和谷は眉をひそめ、ぐで〜んと両腕伸ばしテーブルに伏せてしまった。

 

「良いよなぁ、もう俺なんてカツ丼食っても意味ねぇし……」

 

 プロ試験も終盤近くになれば既に敗退確定している者も出てくる。和谷もそのひとりだ。

 

「腐らない。不合格が決まっても、明日へ繋がる碁を打ちましょうって篠田師範(せんせい)が言ってたでしょ?」

 

「わかってるって、ちょっとぐらい愚痴らせろよ」

 

 彼女に言われ、和谷は羨むような目を伊角へ向ける。

 

「伊角さんは3位食い込めそうだよな。残りの相手にはまず負けないし、そちらの全勝様が辻岡さんと真柴に黒星プレゼントしてくれるから」

 

 現在トップは無敗の彼女。2位は1敗の塔矢アキラ。合格ラインの3位は伊角他2名。伊角以外の3位争いをする辻岡と真柴は彼女との対局を残しているので1敗は濃厚、ゆえにその分伊角が有利である。

 

 が、当の本人の表情は明るいとは言えない。テーブルに置いた拳は強く握られており、無駄に力が入っている様子だ。

 

「……いや、最後まで何が起こるかわからないし、そんな余裕は無いよ。そう、余裕なんて無いんだ……」

 

 ずずず……、と黒いオーラを纏い始めた伊角。実力はあるのにメンタルが脆いという定評がある。

 

 体を起こし、椅子に背中を預けた和谷が呆れた顔を向ける。

 

「何だよ、また変な緊張してんの?」

 

「私が肩揉んであげようか? 1分1000円で」

 

(たけ)ぇよッ!」

 

「そりゃJCリフレだもん、高いに決まってるじゃん。あ、もうすぐJKになるからお求めはお早めに」

 

 にしし、と笑う彼女に対して伊角は驚きに目を見開いた。

 

「プロ試験受かっても高校行くのか?」

 

「うん、やっぱり青春もしたいし。プロ舐めんなって思われるかもしれないけどさ」

 

「青春かぁ。そういや青春って何だっけな」

 

 碁漬けの高校生活を送っている伊角は今ひとつ思い浮かばず頭を捻らせる。

 

 その一方で彼女は楽しそうに指を一本ずつ折っていく。

 

「友達と放課後遊びに行くでしょ? カッコイイ彼氏も作るでしょ? 部活なんかも入っちゃおうかなー? おっと、高校と言えば文化祭もあるんだった。ヤバイ、今から楽しみ」

 

「えー、俺は行きたくねぇけどな。だって勉強あんだぜ、勉強! こうなったら絶対来年受かってやる!」

 

 くだらない話で時間を潰し、壁の時計に目を向けた彼女はペットボトルドリンクに口を付けて「ふぅ」とひと息。続けて心の中で「よし!」と気合いを入れて席を立った。

 

「じゃ、打倒塔矢アキラしてくるわ」

 

 

 碁盤が並んだ広い和室。既に対局席に着いている者も多い。彼女は自分の対局席まで足を運ぼうとすると、目に入ったのはオカッパ頭の少年だった。

 

 彼が塔矢アキラ。彼女の対局相手である。

 

 しかし塔矢はそばに立つ彼女を見ようともしない。下手したら誰が今日の対局相手なのかも知らないのだろう。ただ碁盤に静かな目を落としているだけだ。

 

 彼女が座布団に腰を下ろしたところでようやく面を上げた。

 

「おはようございます」

 

 軽く頭を下げての柔らかい物腰だ。名人の息子、そして受験者達の中で群を抜いた実力を持ちながらも、全く偉ぶった態度を取らない。

 

 彼女も負けじと「おはよう♡ 今日はよろしくね♡」とニッコリ笑顔。だが心の内では戦の準備は万全、闘争心がグツグツと煮えたぎっている。

 

 

 やがて全ての対局席が埋まり──、

 

「時間になりました。始めて下さい」

 

 篠田八段。院生師範にして試験監督を務める、眼鏡を掛けた温厚そうな50代くらいの男性だ。彼の声を合図に、受験者達の対局の幕が開いた。

 

 先手黒番の彼女は目を閉じ大きく深呼吸、そして力強く見開くと共に碁笥(ごけ)から黒石を掴み取り、盤上右上隅へと打ち下ろした。

 

 昨日はぐっすり眠れて寝起きも良い、そして気合いも十分、調子はハッキリ言って最高。今なら誰にも負ける気がしないとさえ思える絶好調だ。

 

 

 そのおかげもあってか序盤は互角の進行、そしていよいよ足を踏み入れた中盤戦。ここからだ。互いの陣地を侵略し合う力と力のぶつかり合い、ここからが塔矢アキラの真骨頂──。

 

 

 盤上広く配置された黒石を見下ろす塔矢。

 

(足が早いな。これ以上黒に模様を拡大されると厄介か)

 

 早過ぎず遅過ぎず。塔矢は絶妙のタイミングで敵陣へ白石を打ち出した。戦いの始まりだ。

 

 彼女は目を細める。塔矢の白石が黒の勢力圏にいながらも、脈打つように力強く生の輝きを放っている。攻め切れるものなら攻めてみろ、そんな声が聞こえて来そうだ。

 

(入って来たか……。楽にサバけると思うなッ!)

 

 待ちに待った塔矢との読み比べの時に、黒石を掴んだ指に力が入る。次瞬、打ち放つのは打倒塔矢アキラの意志──。

 

 

 激化する石の競り合い──、互いに妥協を許さない手の連続が、ひと辺で始まった戦いを盤面広くまで複雑に拡大させていく。

 

 双方互角、いや旗色が悪いのは塔矢だ。

 

(う、巧い手順だ……! さらにノビからノゾキの連打で一気に眼形を奪うなんて……!)

 

 執拗な攻めに塔矢の掌に汗が滲む。彼女が全勝だという事は知っていたが、その予想以上の強さに表情まで歪みかける。

 

 しかし差し込んだ光明。塔矢の脳裏に浮かんだ、自石の安定を得られる閃き。その導く光に沿うように彼は打ち進め──、

 

(よし、このトビで繋がった。黒に大きな厚みを持たれてしまったが、左辺の攻防はまずまずのワカレだ。次は上辺にどう手を着けるか──)

 

 ひと息交じりに置いた白石。ひとつの戦いが終わり、次の戦場を見据える塔矢。

 

 瞬間、彼女の眼差しが鋭さを増した。

 

(ワカレたつもり!? そのトビは繋がっているようで薄い!)

 

 とどのつまり正着に非ず、緩着だ。この好機を逃す手は何処にも無い。

 

(主導権を握るなら今! このツケで痺れてろッ!)

 

 高らかに乾いた打音が鳴り響く──。

 

 盤上にて不気味な気配を放つその黒石、塔矢の見ていた光明も閃きも、何もかもを闇の谷底へと突き落とす、好手妙手を超えたまさしく鬼手──。

 

(え……ッ!?)

 

 強烈に撃ち込まれた黒石に、塔矢がハッと口元を押さえた。

 

(そっちの石にツケるなんて……!? いや、白の切断を狙うならば絶好の位置だが、こんなの手になるはずが……)

 

 一瞬意図がわからなかったが、深く読めば読む程に彼の表情に苦しさが露わになっていく。

 

 盤横に置かれた対局時計、彼の持ち時間は大幅に減っていた。その時には心臓を鷲掴みにされた気分であった。

 

(あ、ある──! この人、まさかここまで読んでくるのか……!?)

 

 してやられたと認めるしかない。ここからはどれだけ致命傷を避けられるかの勝負だ。

 

(……このツケに手を抜けない以上、どうやっても白は切断されてしまう。攻めはさらに厳しくなり、僕にかなり厳しい展開だ……。どうすれば……)

 

 恐れを抱きながら盤上からチラリと顔を上げれば、そこにあるのは父親の傍らで見て来たプロ達と何ら変わらぬ棋士の顔。対局前に見せたニッコリ笑顔が嘘のようだ。

 

(ここまでの試験で大した苦戦もしなかったせいか──。僕は心の何処かで他の受験者達を侮っていたのかもしれない……)

 

 何様のつもりだ、と己を(いさ)める。膝の上に置かれた両の拳を痛い程に強く握り締める。

 

(この人は強い! もう隙は見せない、形勢はかなり傾いてしまったが、まだこれからだ!)

 

 塔矢の言う通り、まだこれからなのだ。碁の盤面は広い。ひとつの戦場での損は他の戦場で取り返せば良い。

 

 そして無意識レベルの侮りも慢心も捨て去った全力の塔矢は、逆転の機を狙い今は耐え忍ぶ。僅かでも隙あらば相手の肺腑引きずり出し、喉笛噛みちぎるべく、虎視眈々と今は爪を研ぎ、牙を磨く。

 

 

 

 繰り広げられる熾烈な激闘。だが差は縮まらない。彼女が依然としてリードを保っている。

 

(下辺の4子は取られたけど中央に地が付いた! このまま勝ち切ってやる!)

 

 見え始めたゴール。彼女はそこを目指し盤上へ手を伸ばし続ける。

 

(これでもう白の捲りはありえない!)

 

 勝利宣言に等しい勝ちの体勢をガッチリ固めた1打に、彼女の頬が僅かながらに弛緩する。

 

 同時、そのたった1打に塔矢の両の瞳が大きく開かれた。

 

(そこだッ!)

 

 耐えに耐え、ようやく訪れた逆転へ繋がる隙。奥へ奥へと、もう絶対に離さないと言わんばかりに、彼女の身に深く爪を、牙を食い込ませる。

 

(ハサミツケ……!? しまった、この局面では右辺のアテが利いてサガリでは間に合わない……! か、勝ちを焦り過ぎたッ!?)

 

 ゴールテープを切る直前に足元が崩壊した思いだ。乱暴に碁笥から黒石を掴み取り、悔しさと共に盤へと下ろす。

 

(まだゴールは消えていない! 集中を切らすな! まだ打てる! 絶対に勝てる!)

 

(負けない……ッ! 勝つのは僕だッ!)

 

 形勢は完全に五分──。

 

 ぶつかり、交錯し合う、互いの想いを込めた黒と白。最後の最後までどちらに転ぶかわからない勝負だ。

 

 しかし──。

 

 しかし、その勝負は誰も予想しない終わり方を迎える事となった──。

 

 試験監督の篠田が2人の対局席へ真っ直ぐ向かって来た。強張った顔をして、足音を立てないように、それでいて出来るだけ急ぐように。

 

「ちょっと来てくれるかい、急いで」

 

 肩を叩かれたのは彼女だった。

 

 え? 何で? と突然の事に目を見開いた顔を師範へ向けた彼女。廊下へ連れて行かれる彼女を見ている塔矢も同じ表情だ。

 

 2人とも嫌な予感がしていた。プロ試験の対局を中断させたのだ。それに値する十分な理由がある何かがあったに違いないのだ。

 

 廊下に出たところで篠田が彼女の両肩に「落ち着いて聞いて」と両手を置いた。

 

「お母さんが交通事故に遭われた。危険な状態だ、タクシーは呼んであるからすぐに病院へ行って。松岡さんは付き添いお願いします」

 

 篠田の隣にいる松岡と呼ばれた中年男性から「早くっ」と言われるが、彼女は「え……」と身体を震わせてその場から動けない。突然信じられない事を言われて頭が追い付かないのだ。

 

 ただ対局室の方向と、大人2人の顔へ焦点の定まっていない目を移していき、

 

「ま、まだ、対局が──」

 

 瞬間、彼女はバッ! と自身の口を強く塞いだ。

 

 え──?

 

 私、今何言った──? と。

 

 彼女は後になっても、この時何故そんな事を口にしたのかわからない。何が何だかわからないから口にしてしまったとしか言いようがない。

 

「バカ! どちらが大切か考えなさい! たった1敗だ! それに今年がダメでもまだキミにはチャンスは何度もある!」

 

 言われなくてもわかってる──。

 

 たとえラストチャンスだったとしても、そんな事わかってるのに──。

 

 結局付き添いに腕を引かれる形でタクシーに乗り込んだ彼女。病院へ到着するまで、祈るように手を組み合わせ、俯いてガタガタと震え続けていた。

 

 

 母親の手術は成功し、命は取り止めた。

 

 だが彼女は残り数戦を全て不戦敗、ただの1度も盤の前に姿を現さずにプロ試験を敗退してしまった。

 

 事故に遭った事を聞いた時に口にしてしまった自身の言葉が、呪いのように彼女の心を縛ってしまったのだ。

 

 時間が経てば経つほど、母親より対局を気にしてしまった事が許せなかった。気が動転していたにしろ、このまま碁の道を歩み続ければ、いつか本当にそうなってしまいそうになるのが怖かった。

 

 

 

 プロ試験が終わり、約半年が経った桜満開の4月──。

 

「お母さん、これ高校の制服。どうかな?」

 

 病院の個室。ブレザーの制服姿の彼女は照れ臭そうにくるりと回ってみせた。

 

 彼女の母親はベッドで仰向けのまま、安らかな表情を浮かべている。

 

「言ったっけ? ギャル子とオラ子も同じ学校なのよ? あの子達、もうすっかり黒ギャルになっちゃってさぁ。お母さん、見たら絶対笑っちゃうよ」

 

 クスクスと笑う彼女。

 

 母親は変わらず安らかな表情を浮かべている。少し痩せ、手足が細くなったが、あの日からずっと変わらずに綺麗なままだ。

 

 彼女は柔らかな笑顔を母親へ向けて、ポケットから黒いリボンを取り出した。

 

「お母さんの貸して貰うね? 良いでしょ?」

 

 言ってサイドに束ねた髪をキュッと結び上げた。そして棚に置かれていた手鏡で鼻歌交じりに角度を変えてチェック。

 

「似合う? 美少女過ぎてまた男の子寄って来ちゃうかな」

 

 何を語り掛けても返っては来ない。母親は事故の後から1度も目を覚ましていないのだ。

 

 そして彼女は母親に会いに来る事を他の何よりも優先した。好きな事、楽しい事、やりたい事、友人の誘いですらも全て断ち、ここへ来る事を最も優先した。

 

 そうしなければ、あの時の言葉が自分の本心だったのではないかと恐ろしくなるのだ。

 

 彼女は目を伏せて下唇をギュッと噛み──、次いで満面の笑顔を作った。どれだけ苦しくとも、母親が褒めてくれた笑顔でありたかった。

 

「じゃあ、また来るから。学校行ってくるねっ」

 

 

 ◆

 

 

「まぁ、そんな感じ? 代表の奴、学校にいる時以外はずっと病院いるんだぜ? もちろん今だってな」

 

 筒井家の食卓。お昼の素麺を豪快にすすりながら、オラ子は代表に関する話を終えた。

 

 横から筒井の母親の「あらぁ、可哀想にねぇ……」という嘆息(たんそく)が何度も漏らされる中、筒井の箸は綺麗なままテーブルに置かれたままだ。予想していた以上に重たい話で、気の毒過ぎて食事が喉を通らないのだ。

 

「お、お母さんの事はどうにもならないけど……。そんな全部やめちゃうような生き方は絶対間違ってる……、と思う。何かしてあげられないかな……」

 

 筒井の言葉に、元気なさそうにチュルチュル麺をすすっているギャル子が箸を止めた。

 

「あたしもオラ子も、思い付く事は全部やったの。遊びに連れて行こうとしたり、美味しいもの作ってあげたり──。でもダメなの……。あたし達が心配すればする程、代表は辛くなっちゃう。代表が望むように、あたし達には普通に楽しく毎日を送る事しか出来ないんだよ……」

 

 楽しく毎日を送る──。手を尽くし、悩み苦しみ、それでもどうにもならなくて、彼女達は代表の望み通りにしたのだろう。彼女達の性格を考えれば苦渋の決断だったのは筒井にも容易に想像出来た。

 

「……でもそれって本当に楽しんでる? もう僕にはキミ達が無理して楽しんでいるようにしか思えないよ」

 

 偉そうな筒井の言葉に、苛立ちをぶつけるような眼差しが返される。

 

「じゃあどうしろって言うのよ……。眼鏡掛けてるんだから教えてよ……。あたし、マジ何でもするよ……?」

 

 やがてポロッと粒の涙を零し始めたギャル子。やり切れない表情をしたオラ子が頭を優しく撫でると、そのまま筒井へと横目を向けた。

 

「頼むから、学校で代表に会っても普通に接してやって欲しい。あいつがまだまともにしていられるのは学校だけなんだよ。面会時間終わるまで病院にいて、家帰ったら、マジで暗闇で膝抱えてるような奴だからさ」

 

「そ、それはわかってるけど、でも……」

 

 何の解決にもならない。だが解決の糸口さえ見つからない。ハッキリ言って気持ちが沈んでいる。それでも聞かない方が良かったなどとは思わなかった。

 

 この問題をどうにかしなければ、囲碁部が本当の意味で始まる事はないのだから。

 

 



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7話 呪

 とある中学の3年生の夕日が差し込む教室では、いくつもの机や椅子が倒れ、教科書やノート、筆記具が散乱し、まるで嵐が過ぎ去った後だ。

 

 男子も女子も壁に張り付くようにして教室中央に目を向けていた。これ以上ないくらいに大きく開いたその瞳は、まるで悪夢でも見ているかのようだ。

 

 視線が集まる真ん中にポッカリ出来たスペースでは、長い金髪を振り乱した少女が、床に広がった水を犬のようにピチャピチャと一心不乱に舐めていた。

 

 すぐそばにはその水が入っていた、まだ中身の残っているペットボトルが転がっている。そんな事にも気が付かないくらいに喉が渇いているのだろう。

 

 そんな少女を、2人の女子生徒が抱きしめた。もうやめて! と泣き叫びながら強く抱きしめ続けた──。

 

 

 ◆

 

 

 筒井家にて初練習を行なった土曜日から、週が明けての月曜日。

 

 部員も揃ったので朝のビラ配りもひとまずはお休み。普段より遅めに家を出て登校中の筒井は、学生鞄の他にもうひとつ大きめの手さげバッグを持っていた。歩くたびにガシャガシャと音が鳴る。中身は折り畳み碁盤と碁石である。

 

 自宅には盤と石が2セットあるので、これを本日引き渡しされる部室で使おうというのだが、それとは別にもうひとつ大きな理由があった。

 

「メガネ、おはぽよー」

 

 校門手前、同じく登校中のギャル子がポニーテールを揺らす小走りで肩をポンッと叩いて来た。シャツを腹の上で結び、今日も元気におヘソを出している。

 

「それ碁盤とかっしょ? あたしも持って来ようかと思ったんだけど、家に脚付きのしか無くてさ」

 

「部費貰ったら何セットか買うつもりだし、今は3人だけだから1つあれば十分だよ」

 

「へぇ、部費ですか〜。良いですね〜」

 

「何だよその目は。大して貰えないだろうし、貰えたとしても私的な事には使わせないぞ」

 

 ギャル子が両目を¥マークにしており、良からぬ事を考えているのは丸わかりだ。

 

「じゃあせめて昼寝用のマットを」

 

「そんなでかいの邪魔だろ!?」

 

「買ってくれたら、あたしと添い寝出来るかもよ?」

 

 んふっ、と艶やかな唇に指を当て、1番可愛い角度と自負しているであろう上目遣いで見上げる。おまけに学ランの肘あたりをちょっと引っ張ったりと小細工も交えて。

 

 筒井は2、3度ゴクリと息を飲み、

 

「………………いや、買わない買わない」

 

「今結構考えたっしょ? ねぇねぇ考えたっしょー?」

 

「朝からうるさいよっ」

 

 アメーバみたいに纏わり付いて来るギャル子を引き離すべく、早足で校門をくぐり抜けた。

 

 

 元々割と仲が良かったが、最近はそれに輪が掛かっている。となると、こんな事も聞かれる。

 

「筒井ってギャル子と付き合ってんの?」

 

 昼休み、筒井は教室の窓際隅っこにて2人の男子とお弁当タイム。二言めには「あ〜、彼女欲しい」だの「もう誰でも良いから付き合いてぇ」だのと、万年飢餓状態の2人だ。

 

 坊主頭の男子に付き合っているかと聞かれた筒井は「いや、そんな事ないよ」とお弁当をモグモグほうばる。やけに急いでいる感じだ。

 

「部活一緒だしね。大切な仲間だよ」

 

 それなりに意識はしているが、部内でそういう男女のなんちゃらをするつもりはない。それでもそんな女の中に男ひとりという部の状況は眩しいようで、

 

「ギャル子とオラ子だろ? お前ハーレムかよ、それもう碁なんて打ってる場合じゃねぇだろ」

 

「そうだぜ。俺もオラ子に顔とか踏んで貰いてぇよ」

 

 羨ましがる坊主に同意するように、ロン毛の男子からおかしな発言が飛び出した。

 

「俺もって何だよ俺もって! 僕はそんな事されてないし、されたくもないよ!」

 

「マジかよ、お前人生9割損してんな」

 

 よくヘッドロックを掛けられて強烈な痛みの中にも胸が当たってちょっと嬉しかったりもするが、幸か不幸か、まだ踏まれて悦ぶ境地には達していない。

 

「そんなに言うなら2人も囲碁部に入りなよ? たしかまだ帰宅部だろ? 公式大会までに男子部員あと2人は確保しておきたいからさ」

 

「やだよ。碁なんてダセェし、女にモテねぇじゃん」

 

 坊主とロン毛の声が重なった。あまりにもぴったりハモられ、筒井はヘソを曲げてしまう。

 

「何でみんなやりもせずダサいって言うかなぁ!」

 

「まあまあ、良い事教えてやっからキレんなよ。実はさっきスマホいじってたらスゲェ良い事発見してさぁ。聞いたらマジでテンション上がっから」

 

「なになに?」

 

 ニヤリと笑みを浮かべた坊主へと耳を傾けたロン毛。まだ高校からの短い付き合いだが、筒井はどうせ下らない事だと何となくわかっている。

 

 案の定──、

 

「来年のバレンタイン、何と日曜日!」

 

「バカお前、そんなの去年から知ってるっつーの! まぁぶっちゃけありがてぇけどさ」

 

 彼らが何を言っているかというと、バレンタイン当日に学校で無駄なそわそわをしなくて済むし、1個も貰えなくても「学校休みだったから」と言い訳になる、という事である。

 

「良いよなぉ、キミ達人生幸せそうで……」

 

 4月現在の内から来年の2月、それも下らない事で喜べる彼らに筒井は盛大なため息を吐き出した。代表がこの男子達のようにバカであれば、自分の口にしてしまった言葉に苦しんでおかしな事にはなっていなかったかもしれないのだ。

 

 

「ごちそうさまっ」

 

「早いじゃん。何かあんの?」

 

 2人よりもだいぶ早く弁当を空にした筒井。ちょっとね、と弁当箱を自分の鞄にしまい、教室中央でギャル子、オラ子と共に昼食中の代表の元へ足を向けた。

 

 

 

 どしたー? と彼女達の視線がそばに来た筒井に集まる。

 

「代表、ごはん食べたら1局お願い出来ないかな? 元院生のキミに是非打って貰いたいんだ。盤と石はロッカーにあるから」

 

 突然の申し出に、ギャル子とオラ子は怪訝な表情を浮かべる。土曜日にした話を聞いてなかったの? とそんな思いだ。

 

 筒井は百も承知。そして代表に頼めるのはこの昼休みの時間だけだ。放課後になれば何を置いても母親の見舞いに行ってしまう。母親想いで結構な話なのだが、彼女はそこに異常な執着を持っている。

 

 プロ試験の対局中に母親が事故に遭ったと聞いた時、気が動転していた事から対局の方を気にする発言をしてしまった。後悔してもしきれない、絶対に何かの間違いにしなければならない。ゆえに彼女の行動はあまりにも極端と化してしまった。

 

 そんな自分がおかしい事は代表自身もわかっている。だから心配してくれるギャル子達に申し訳なく思って苦しんでいる。自分の事など気にせず楽しくやって欲しいと望んでいる。

 

 母親の意識が戻らないだけでも死ぬ程苦しいはずなのだ。さらに自分の発言、親友達の事も上乗せされ、代表はそのうち本当に壊れてしまうかもしれない。

 

 だから筒井は昼休みの今、碁を打って欲しいと申し出た。説得やら何やらはギャル子達がとっくにやっているので今さらだし、付き合いの浅い自分が言ったところでどうにかなるとも思えない。

 

 だったらと、少しでも楽しい事、好きな事をすれば何かが変わるかもしれないと思ったのだ。ハッキリ言ってこれ以外は何も出来ないし、下心抜きで代表に打って貰いたいのは本心である。

 

 それでも断られてしまえばそれまでであったが──。

 

「うん、良いけど? なら盤と石持って来てくれる?」

 

 別段困り顔も見せず、お弁当を口に運びながらあっさり了承され筒井は拍子抜けしてしまった。

 

「ほ、本当ッ!? 本当にッ!?」

 

「ん? うん」

 

 代表は筒井の大袈裟な驚き方にやや眉をひそめる。おそらくギャル子達に自分の話を聞いたのだろうな、とひとり納得。

 

 ペラペラ話された事に対して気を悪くはしない。むしろ逆、きっと話さなければならない状況にさせてしまったのだと、親友達に心の中で謝った。

 

 廊下のロッカーへ向かった筒井の背中を他所に、

 

「う、打つのかよ……」

 

 弁当を食べる手を止めて、オラ子は驚きに大きく開いた目を代表へと向けた。

 

「元院生だって教えちゃったし、言われるかなとは思ってたわよ? プロと住んでるあなた達と違って、彼には教えてくれる人いないんでしょ?」

 

「そうだね。顧問は頼み込んで名前だけ貸してもらったド素人以下だし」

 

 ギャル子としては口うるさいのがいなくて嬉しい限り。だが1番やる気がある筒井には指導者がいてくれた方が良いとは思っている。

 

「つーかさ、代表って打とうと思えば打てるんだな。てっきり石持ったら発狂して『お母さん! お母さん! イヤーッ!』って床転げ回るのかと思ってたぜ」

 

 オラ子の安心するような発言に、代表はムスッと拗ねたように顔をしかめた。

 

「発狂!? せめて発作って言ってよ! まぁ石はあれから1回も触ってないけどさ」

 

 奇声を上げ床を転げ回る事については否定しない。本当の事だからだ。

 

「何だよ、だったらこんな教室でぶっつけ本番とかやめとけよ。もうアタシ、あんなの嫌だよ……」

 

 オラ子が視線を落とした。次いでギャル子も。2人は代表がおかしくなった場面を思い出し、じわっ、と目元に涙を浮かべている。

 

「大丈夫だって、学校にいなきゃいけない間は平気なんだから。お母さんと高校行く約束したおかげかしらね? じゃなきゃ学校だって来ていないもの」

 

 あはは、と笑ってみせるが2人は顔を上げてはくれない。

 

「……病み過ぎだってわかってるわよ。何度も言うけど、いつでも見捨ててくれて構わないから」

 

「それは無理」

 

 今度はギャル子とオラ子から、同時に力強い眼差しが返された。代表は見つめ返す事が出来ずに少し視線を逸らした。

 

 

 代表は母親の見舞いへ行くのを無理に止めようとするとおかしくなる。

 

 学校にいる間は『母親の見舞いへ行く』という選択肢を選ぶ事が出来ない。ゲーム画面のように、文字が灰色になっている状態だ。

 

 だが休日や放課後などになればそれも選択可能、と同時に数多くの選択肢も表示される。

 

 遊びに行く、ショッピングへ行く、友人のお誕生日会へ行く、定年退職する先生のお別れ会へ行く、クリスマスパーティーへ行く、初詣に行く、告白されに放課後校舎裏へ行く、etc──。

 

 しかし今度は『母親の見舞いへ行く』以外を選ぶ事が出来なくなる。遊びに行ってからお見舞い、お見舞いに行ってから遊びに、なども不可。それは彼女にとって遊びに行く方が母親より大切という事になってしまうからだ。

 

 もし他の選択肢を選ぶ、もしくは無理に選ばせようとすれば、

 

『お前は母親よりもそんなモノを選ぶのか、お前にとって母親はそんなものか、やはりあの時の言葉はお前の本心なんだ──』

 

 こんな声が頭の中に響き渡り、頭を抱えうずくまり発狂する。中学ではクラスメイトからドン引きされた事もあるし、俺が支えてやると吠えた男子もいざ現場を目の当たりにすると視界から消えていった。

 

 代表はそれで良いと思っていた。これであの時のような過ちを犯さずに済むのだから、と。

 

 しかしそれは独りよがり。大切な親友達に辛い想いをさせる結果を招いてしまった。

 

 

「だったらさ、アタシらとも打ってくれんの? 打ってくんなきゃ顔に『筒井専用』って書いちまうぞ」

 

「昼休みならね。でもあなた達には私よりもっと良い先生がいるじゃない」

 

 ギャル子もオラ子も囲碁部に入ってからは家で1日1局打って貰っている。しかしそれとこれとは話が別で、ギャル子が不満げに口を開く。

 

「はぁ? あたしら代表と打ちたいんですけどー。て言うか一緒に遊びたいんですけどー。つーわけで、今日あたしとも打ってよ」

 

「ダーメ。2局も打つ時間無いでしょ? 今日は筒井君と」

 

「えー!? なら折り畳みの囲碁セット買ってくるんで、明日から多面打ちね!」

 

「多面打ちかぁ、それでも良いわよ?」

 

 ウェーイ、と嬉しそうにギャル子とオラ子はハイタッチを交わした。

 

 

 ひとつの机に碁盤と碁石を乗せて向かい合う筒井と代表の姿に、周りのクラスメイト達の「なんだなんだ?」という注目が集まる。碁を知らない者達にとって、どんなゲームなのか程度には興味があるようだ。

 

 クラスメイト達に囲まれる対局席の中、代表が「そう言えば」と筒井へ問いかける。

 

「筒井君の棋力はどれくらいなの?」

 

「えっと、二段くらいかな」

 

「そっか。今日は取り敢えず4子でやってみようか?」

 

「う、うんっ!」

 

 目を輝かせる筒井。プロ級の相手に打って貰った経験など無いのでワクワクして仕方がない。

 

 盤を前に白の碁笥に指を入れた代表が、その懐かしい感触に一瞬戸惑いをみせた。

 

 プロの道は捨てても碁は好きなままだ。ネット碁だって母親の病室でやれない事もない。それでも嫌な思い出が蘇るので、これまで遊びでも打とうとはしていなかった。

 

 何より彼女にしてみれば、選択肢うんぬん以前に己は趣味や娯楽を興じて良いような人間ではないのだ。

 

 代表は自分が嫌いだ。あの日間違いでもあんな事を口にしてしまった自分を最低な人間だと思っている。

 

 だからこれはあくまで皆のために打つだけだ。

 

 両隣に目を移せば嬉しそうな親友2人の顔。代表は彼女達が大好きだ。自分ですらとうに自分を見捨てている。しかしギャル子とオラ子は決して見捨ててはくれなかった。

 

 そんな彼女達を悲しませたくない、苦しませたくない、応えてあげたい──。

 

 そのために自分に掛けてしまった呪いを解きたかった。いつまでもこのままで良いはずがない。

 

 だから彼女は石を掴んだ。

 

 盤上へ打ち下ろす白の石に、変わりたいという強い意を込めて──。

 

 

 ◆

 

 

 その日の放課後はいよいよ念願の部室だ。葉瀬高には部室棟という5階建の建物が通常校舎とは別個に建てられている。

 

 古い建物なので外観は所々コンクリートも剥がれ、中も灰色で薄暗い。

 

 部室棟に足を踏み入れた囲碁部メンバー達。皆揃ってジャージ姿だ。今日は部室の掃除をするのだ。

 

 借りて来たホウキ、雑巾、バケツやらを手に、囲碁部の部室がある2階へ。エレベーターもあるが、出入りの楽な2階をゲット出来たのはありがたい事だ。

 

 そして目の前には部室の頑強そうな鉄ドア。筒井は先程学校側から受け取った鍵でガチャリと開けた。

 

 照明を付けると3人から「おおっ」と歓声が上がる。

 

 歓声の割には大した部屋ではない。室内は木張りの床、窓有りの8畳程の広さで、お情け程度に本棚が置かれているだけだ。

 

 しかしこれから色々持ち込んで、好きなように改造する楽しみもある。何より、今日からここが自分たちの城というのがたまらなくテンションを上げる。

 

「よし! それじゃあ掃除始めよう!」

 

 筒井の声に女子2人が「おーッ!」と拳を突き上げた。

 

 

 せっせと掃除をする囲碁部メンバー達。

 

「テメェら! 床も壁も舐められるくらいに綺麗にしろよ!」

 

 兄と2人で暮らしているオラ子は家で家事全般をこなしているため、ここぞとばかりに掃除マル秘テクを披露。

 

 広い屋敷に住んでいるギャル子も手伝い経験からか掃除慣れしているようでテキパキこなしている。

 

 そんな黒ギャル達に対して凡夫筒井は「うわぁ、すごいなぁ」と立ち尽くしていた。

 

「そこのカカシ。バケツの水取り替えて、雑巾も洗って来い」

 

「任せて!」

 

 オラ子から指示を与えられ、喜んで部室を飛び出した筒井。各階には水道が付いており、お茶やコーヒーを淹れている部もある。

 

 

「よう、やってんな」

 

 水道で雑巾を洗っている筒井は声を掛けられた。将棋部1年の加賀だ。

 

「うん。まさか4月中に部に出来るなんて思わなかったよ」

 

「囲碁部は1年だけってのは羨ましいぜ。将棋部(ウチ)なんて俺より(よえ)ぇ癖して偉そうな先輩ばっかだからな。おかげで目付けられて、これからコンビニまでパシリよ」

 

 加賀はウンザリ気味に『王将』と書かれた扇子で自分を仰ぎ始めた。

 

「良かったらそのうち遊びに来なよ。大会も近いし、加賀が打ってくれたら皆も良い練習になるから」

 

「ま、気が向いたらな。それよかお前、ギャルなんかとうまくやってけるのかよ。そのうち喰われちまわねぇか?」

 

「大丈夫だって、2人ともすごく良い子達さ。今だって頑張って掃除してくれてるし」

 

 驚かすように言う加賀へ、筒井は「まさかぁ」と笑って返すのであった。

 

 

 

 殆ど物が無い事もあり、3人掛かりならば1時間程でピカピカだ。

 

 椅子が無いので適当に床に座ってお疲れのジュースを飲んでいると、オラ子が我が家のようにゴロンと寝っ転がった。

 

(かって)ぇなぁ。そうだ、部費で畳買おうぜ?」

 

「畳かぁ。値段とか知らないけど畳の部室ってのも良いよね。そうしたら低いテーブルもいるね」

 

 筒井はこうやって案を出し合うだけでも楽しそうだ。その案にギャル子も乗っかって来る。

 

「あたしも畳が良いかな。腹筋出来るし」

 

「何で腹筋?」

 

「いやいや、ぶよんぶよんのお腹なんて出せないじゃん。あたし家で腹筋しまくってるし。ほら、ちょっと触ってみ?」

 

 言って立ち上がると、ペロン、と体操着をめくり、筒井の眼前にお腹を晒してきた。

 

「や、やめろよ。恥ずかしくないのかよっ」

 

「ん? むしろ通常営業なんだけど」

 

「それはそうだけど……」

 

 普段は健康的なエロなのだが、両手で服を掴みめくり上げている様はとても如何わしいエロに思えてしまう。

 

 普段もあまりマジマジと見た事も無いので改めて間近で見てみると、確かにダンサーのように引き締まっている。

 

 筒井とて人の子、女体に触りたくないと言えば嘘になる。特にここ最近はやたらベタベタしてくるので、ここはひとつハッキリ言っておかねばと心を鬼にした。

 

「聞いてギャル子。女の子の体に気安く触るのは良くないと思うんだ。こういうの、古い考えかもしれないけどさ」

 

「じゃあ気高く触って下さい」

 

「け、気高くって……。それ意味違くない……? ああ、もう面倒臭い。じゃパッと触るだけね」

 

「うん、触って……❤︎」

 

 ハートを付けるな! と表情を歪めながら、ギャル子の腹部に手を伸ば──、

 

「きゃぅんっ❤︎ エッチぃん❤︎」

 

「まだ触ってないだろ!?」

 

 いきなりギャル子が変な声を出すので手が引っ込んでしまった。そしてさらにオラ子も立ち上がり、こちらもスリムなお腹を晒してきた。服をめくり上げ過ぎて危険なエリアまで見えそうだ。

 

「まあ折角だし、アタシのも触っとけよ。ぶっちゃけ身体にはマジ自信あっからよぉ、ギャル子にも負けねぇっつーか?」

 

「ほう、抜かしよる。じゃあお腹対決ね? メガネ、公正なジャッジを」

 

「何で!? 落ち着けよ! キミ達おかしいよ!」

 

「つべこべ抜かしてんじゃねぇよ。あー、やっべ❤︎ これちっと興奮すっかも❤︎」

 

 座り込んだ筒井の眼前にはお腹をめくっている黒ギャルが2人。オラ子に至っては既にお腹を筒井の頬に押し付けている。負けじとギャル子も反対から、押し付け始めた。

 

「ほら、オラ子よりあたしのお腹の方が好きでしょ? つかこの眼鏡邪魔っ、取っちゃえー」

 

 さらに眼鏡をひょいっと外され遮る物は無し、筒井は完全に2人のお腹でぎゅうぎゅうに挟まれ、頭がくらくらし始めた。何故畳の話から一気にこんな事になったのか訳がわからない。そして薄れゆく意識の中でこう思うのだ。

 

(こ、これは一刻も早くまともな部員入れなきゃ大変な事になるぞ……)

 

 

 ◆

 

 

「だからこんな手はありえないの!」

 

 10日程が経った4月末日の昼休み教室。代表の筒井への指導は日に日に厳しくなっていった。

 

 当初は優しく「わぁ、筒井君すごいわねぇ、偉いわねぇ。ここはこうなのよー ? うんうん、そうそう」と教えてあげるつもりだったのだ。

 

 しかしこれまで誰の指導も受けた経験が無かったためか、教えてあげたら伸びる伸びる。もしかして若鶏戦で海王の1年生と渡り合えるかも? という期待も見え始めてしまった。そんな訳で代表の育成心に火が付いてしまい──。

 

「こういう露骨な手がうまくいく訳がない! 実際、ノビからノゾキのコンビネーションでキミは打つ手に困ったでしょう!? この場面では一間に受けて我慢するしかなかったのよ!」

 

「はい」

 

「同じような事を3日前にも注意したはずよ!?」

 

「はい」

 

「やる気あるの!?」

 

「はい」

 

 打ち終えた筒井に最初から並べ直しながらお説教、と同時にギャル子とオラ子との対局も進めている。代表の怒涛の3面打ちはこのクラスの日常風景となっていった。

 

 碁のわからないクラスメイト達でも、1手1秒足らずで3面打ちをする代表の姿に「何かわからないけど代表スゲェ……」と驚きっ放しである。

 

 同じく代表の日常である上級生から告白の呼び出しを受けても──、

 

「手が離せないのでこちらでどうぞ!」

 

 と、この始末。脈無しも良いところだ。中には本当に対局中の席までやって来て、注目を浴びながら告白する猛者もいたが。

 

 正直言っておっかない。だがいつもよりずっと生き生きしているのは、事情を知る者知らぬ者含め誰もが思うところであった。

 

 

「あ、もう昼休み終わり?」

 

 教室の時計に目を向けた代表はもどかしい表情をしている。教え足りない、もっと時間があればと思ってしまう。

 

「放課後部室に来てくれて良いんだぜ?」

 

「……いじわる言わないでよ」

 

 にしし、という冗談っぽいオラ子の笑いは、代表の言葉を受けると柔らかな笑みへと変わった。

 

「な、何よその顔。あんたがそういう顔すると怖いんだけど」

 

「いや。お前が何かしたいって思うのなんて久しぶりだなって。すぐに自分にはそんな資格無いからとか、そんなんばっかだったのによ」

 

「……私は私が嫌い。それはずっと変わらないわ」

 

「まーた始まった。アタシもギャル子もお前が大好きなんだからさ、そういうのやめろよ。なぁ、筒井も代表の事好きだよなっ?」

 

 いきなり話を振られた筒井は「へっ!?」と大きな動揺を見せた。顔を赤くして下を向き、無駄に眼鏡をくいくいと上げ始める。

 

「そ、そそそんな、すっ、好きとか……! ぼ、ぼぼぼ僕はそ、そんな……!」

 

「なんだテメェ、代表の事好きなんじゃねぇのかよっ!? スマホの待ち受け、代表の写真の癖によぉっ!」

 

「デ、デタラメにも程があるだろッ! 代表、そんなの嘘だから!」

 

「大丈夫よ筒井君。私はそういうの気にしないから安心して?」

 

 大慌ての筒井へ、ニコッと送られた笑顔。モテモテ超絶美少女だという事は自分でわかっているため、待ち受けにされている事は信じている模様。

 

 が、それはあまりにも名誉毀損。

 

「何だよもう! ほら見てよ! 僕の待ち受け!」

 

 机をバンッ! と両手で叩いて立ち上がった筒井がスマホを取り出し皆に見せつけた。しかしまんまデフォルト画面で何の面白みも無く「あぁ、うん」という冷めた反応である。

 

 ハッとした筒井は「じゃなくてっ!」と頭を小さく横に振って、気を落ち着ける。

 

「あのさ、例え本人でも、自分の好きなモノや人を嫌いって言われたら嫌だってのはすごくわかるよ? 僕も碁をダサいとか言われると嫌だし……。ってギャル子、人の物で何やってんだよ」

 

 良い事を言ったぞ、と満足した筒井であったが、ふと目を移せばギャル子が筒井のスマホで自撮りしようとしていた。

 

「待ち受け画像プレゼントしてあげようと思ったんだけどさ。でもやっぱみんなで撮ろうよ。囲碁部ウェーイっつって。もちろん代表も」

 

「……私は囲碁部じゃないわよ」

 

「待ってるから大丈夫だよ」

 

 寂しげな代表にギャル子が優しい口調でそう言った。オラ子も筒井も同じ想いだ。

 

 

 

 その日の放課後。掃除を終えた代表はすぐに病院へ向かう。高校最寄りの葉瀬駅から電車で5駅移動した地元の駅にある大病院だ。

 

 半年間毎日通っている事に加え、元々目を引く容姿のため看護師達からはすっかり名前と顔を覚えられている。大雪が積もろうと、台風が直撃しようと、1日足りとも欠かさず母親の見舞いに来る彼女を感心を通り越して変な目で見る者も少なくない。

 

 

 母親は個室の病室で変わらぬままだ。もしかしたら目が覚めているかも、という淡い期待は毎日裏切られている。

 

 意識の戻らない母親は自分で寝返りをうつ事もない。人間ずっと同じ体勢でいると血液の巡りが悪くなる。介護士がやっているであろうが、全身をマッサージしながら学校の話をするのが代表の日課だ。

 

 最近は話す内容に昼休みの碁についても追加され、特にその事を楽しそうに話している。

 

「あの子達、中学の頃は私が誘っても碁なんてやらなかった癖にね。お昼だって早く食べろってうるさいのよ?」

 

 途中、ふと壁のカレンダーが目に入った。今日で4月も終わりだ。めくって5月にしなければならない。

 

「ゴールデンウィーク、今年は5連休くらいだっけ。その間はみんなと打てなくなっちゃうし、明けたらすぐに大会か……」

 

 若鶏戦はどちらかと言えばお祭りみたいなものだろうし、別にどうしても勝たなくてはならない大会でもない。しかし他でもない碁に関してやれる事があるのにしてあげられないのは、モヤモヤした物を作ってしまう。

 

「部活でちゃんと練習やってるのかしら。顧問の先生も先輩もいないからってお菓子食べてだらだらしてたり……。て言うかあの子達、筒井君に変な事してなきゃ良いけど……。彼も口ばっか達者で簡単に流されそうだし」

 

 つい愚痴っぽくなる。一度見に行きたいが、その一度さえ叶わないのが今の自分だ。

 

 マッサージの手を止めて、ポケットからスマホを取り出す。表示されているのは、強引にギャル子が待ち受け設定にした学校で4人で撮った写真だ。

 

「酷い顔……」

 

 自嘲気味な小さな呟き。笑顔は得意のはずなのに、右端の自分は4人の中で1番笑えていない。

 

 可愛らしい笑顔のギャル子。勝気な笑顔のオラ子。女子と密着して照れ笑いの筒井。そして困惑を残したまま引きつって笑う代表。

 

 つい酷い自分の顔を親指で隠しでみれば、それはずっと望んでいた光景だった。おかしくなってしまった自分の事など気にせず楽しんで欲しいという、ずっと親友達に強いてきた光景だ。

 

 いざ目の当たりにした途端、寂しさがどっと込み上げ、思わず顔を隠していた親指をパッと離してしまった。

 

 元に戻った4人の写真にいささかの安堵を覚える。皆と一緒にいたい、今は確かにそう望んでいる。いや、本当は心の奥の奥ではずっと望み続けていた。

 

「いつか私も一緒に──」

 

 希望に満ちたセリフとは裏腹に、いつかとはいつだろうと、目を伏せた代表。気持ちは確かにあるのに、自分に掛けてしまった呪いがそれを許してはくれない。

 

 誰も得しない、自分も周りも悲しませるだけの呪い。母親だって今の自分がこんなだと知ったら喜ぶはずがないのはとっくにわかっている。

 

「私、何やってるんだろ……」

 

 自分のバカさ加減に涙が滲み出てくる。

 

 涙は頬を伝い、母親の痩せた手に落ちて広がった。

 

 

 その時──。

 

 

 その時、別に奇跡も何も起こらなかった。母親が目を覚まして、痩せた手で涙を拭ってくれる事もなかった。

 

 

 

 そしてまた翌日の放課後、代表が同じ班のクラスメイト達と校庭の掃除をしている。早く終わらせて母親の見舞いへ行こうと、無駄話もせずにホウキを手にせっせと動いている。いつもの事だ。

 

 と、そこへ──、

 

「あ、代表。また明日ねー」

 

 校舎から出て来たギャル子とバッタリ合い、彼女は小さく手を振ってきた。隣には同じく手を振るオラ子と筒井の姿もあり、3人揃って部室棟へ行くのだろう。これもまたいつもの事だ。

 

「うん。バイバイ」

 

 ニコッと笑顔で返そうとしたところ、突如ぞわりとした寒気に襲われた。まるで自分だけが置いて行かれるような寂しさ。見える場所にいるのに、渡る橋が無くて自分は決して足を踏み入れる事が出来ない断絶された感覚。

 

 そして気が付けば、背中を向けようとしていたギャル子の腕をホウキを手放して掴んでいた。

 

 えっ、と驚く顔をされた時には既に離していた程度の、ほんの一瞬の出来事だ。

 

「ごめん、なんでも──」

 

「おいでよ!」

 

 慌てて笑顔を取り繕った代表のセリフは途中で遮られた。

 

 どうしたの? など聞く必要は無い。ギャル子はすぐに真剣な顔で手を差し出していた。これまでずっと「自分の事は気にせず楽しんで欲しい」と言い続けていた代表が、無意識にせよ違う態度を示してくれたのだ。置いて行かないで、という心の叫びが聞こえたのだ。

 

 しかし代表は「ごめんなさい……」と親友と繋ぐべき自身の右手を、左手で隠すように胸元へ閉じ込めてしまった。まだ呪いに抗える自信は無い。

 

「あ……」

 

 ギャル子は無理にでも代表の手を掴むべきかと迷う。しかし過去の経験上、それはロクな結果を生まなかった。最後の1歩は彼女が踏み出さなくてはならないのだ。自分に出来るのは彼女が伸ばした手を見逃さないようにしてあげる事だけだ。

 

 差し出した手は重ねられる事無く行き場を失い、弱々しくゆっくりと閉じていく──。

 

 だが最後にはギュッ! と強く握り込まれ、

 

「ずっと待ってるから!」

 

 飛びっきりの笑顔を残してギャル子は背中を向けた。

 

 遠ざかるその背中、その手には、もうこの手は届かない。自分の足で踏み出し、追い掛けなければ届かないのだ。

 

 

 掃除を終え、鞄を取りに戻った教室。同じ班の者達はとうに帰り、代表は自分の席に立ち、ひとりずっと歯を食いしばり下を向いていた。

 

(私はいつまであの子達に甘えてるつもりなの……!)

 

 そんな彼女の苦悩をあざ笑うように、ドクン、ドクンと鼓動が早まり始めた。学校は終わったのだから早く母親の元へ行け、と呪いが命令しているのだ。

 

 母親よりも友人を選ぶのか、また母親以外のモノを選ぶつもりか、お前にとって母親はその程度の存在か、やっぱりあの時の言葉は本心なんだ、と──。

 

「……ごめん」

 

 乱暴に鞄を手に取った彼女は足早に教室を後にした。

 

 母親の元へ行く事が大切だ。そうしようと、そうしなければいけないと、あの日決めたのだ。

 

 それは絶対に変わらない。変えるつもりもない。

 

 けど、だけど──。

 

 徐々に足音の間隔が短くなる。誰もいない長い廊下に、何かに抗うような彼女の強い足音が大きく響き渡る。

 

 パリンッ──、と胸の内の何かにヒビが入った。

 

 下駄箱を目もくれずに通り過ぎ、上履きのまま校舎から飛び出した。

 

 段差でバランスが崩れ掛かるが、構わず強く地を蹴って踏み出した。胸の内の何かを踏み潰すように強く、強く地面を蹴り飛ばした。

 

「ごめん……! ごめん……!」

 

 どちらが、ではない。どちらも大切なのだ。簡単に選んだり捨てたりなんて出来ないくらい大切なのだ。

 

 大切なもの、全部抱えて生きていきたいのだ。

 

 胸の内で粉々に砕けた呪いの残骸、それらを全て吐き捨てるように彼女は叫んだ。きっと大抵の学生が口にした経験のある言葉だ。

 

「今日部活で遅くなるからッ!」

 

 彼女のつま先は親友達がいる場所、部室棟へと真っ直ぐ向いていた。

 

 

 



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8話 筒井と日高

 放課後の理科室からは碁を打つ音が幾重にも連なっている。筒井の作った葉瀬中囲碁部は彼が卒業した後も受け継がれ、しっかり活動中だ。

 

 理科室特有の黒い机で対局をしているのは共に2年男子、三谷祐輝と院生の進藤ヒカルだ。進藤は囲碁部を辞めたままだが、三谷が部に戻ってからはたまに部員の相手をしに来ている。

 

「まさかお前に教えられる日が来るなんてな……」

 

 三谷からため息が漏れる。去年の夏頃までなら三谷の方がかなり実力が上だったのだが、今ではそれが嘘だったかのように互いの実力が逆転してしまった。

 

「へへっ、俺強くなっただろ。5月の院生順位も1組16位に入れたんだぜ?」

 

「ギリギリじゃねぇかよ。て言うか、こんだけ強くても16位? 院生ってのはバケモンだらけだな」

 

「そうそう。俺より年下なのに全然敵わない奴だっているしさぁ」

 

 冷戦──、と言っても三谷が一方的に嫌っていたのだが、こうして2人が普通に会話している様子を、他のメンバー達は柔らかな表情で眺めていた。

 

「葉瀬中囲碁部盛り上がって来たって感じだよね」

 

 2人の女子に教えている大きな体につぶらな瞳の男子、夏目。2年生の彼が一応部長だ。一応と言うのは、彼が入部した日に三谷と進藤が辞め、まともに碁を打てるのが彼だけになってしまったからである。

 

 それでも自然消滅寸前にまで追い込まれた囲碁部を支えて来たのは、紛れもなくこの夏目であり、女子部員達も彼を慕っている。

 

 女子部員は髪の長い目がパッチリとした藤崎あかり。そしてミディアムヘアーでおっとりした雰囲気の津田久美子。この2人である。

 

 まだ腕はヘボだが、地道にコツコツ積み重ねて来たおかげでそれなりに打てるようにはなっている。

 

「良かったよね。潰しちゃってたら筒井さんに顔向け出来なかったもん」

 

「筒井さんと言えば、葉瀬高囲碁部もちゃんと部になったらしいよ? 今4人だって。部室も畳にして、テレビもあって何か凄いみたい」

 

 ホッとしたような藤崎の言葉に、津田が嬉しそうに口を開いた。

 

「え? 久美子がどうして知ってるの?」

 

「メ、メールで教えて貰って……。高校生活どうですか? ってメールしたらお返事くれて……」

 

 少し顔を赤くした津田。藤崎も連絡先は交換してあるが、そんな乙女な反応をされると女子として黙っていられない。

 

 藤崎はニヤニヤと笑みを浮かべ、

 

「えー? ちょっと、久美子〜? あやしい〜」

 

「ち、違うよ! 全然そんなんじゃないからっ!」

 

「もーう、卒業式の時に第2ボタン貰っとけば良かったじゃん」

 

「違うって! で、でも筒井さん優しくて素敵だなぁって……。本当にそのくらいだからっ」

 

 キャーキャー騒がしくなる女子2人。津田をちょっとだけ狙っていた夏目がしょんぼりしているのは誰も気付かない。

 

「うるせぇな。筒井さんがどうしたんだよ」

 

 ヘボの上にペチャクチャ喋っているものだから、進藤からお叱りが飛んで来た。

 

「高校で無事に囲碁部作れたって話だよ。もう4人になったんだって。またひとりで作っちゃうなんて筒井さん凄いよねっ」

 

 嬉しそうに話す藤崎に、部員集めに一枚噛んでいた三谷は人知れず「ふっ」と笑いを零す。

 

 皆が筒井ネタで盛り上がる中、津田がスマホのメール画面に目を落としながら、控えめな声で言った。

 

「あ、あと連休明けに海王主催の大会に出るらしいよ? 1年生だけが出られる団体戦で、それに向けて頑張ってるみたい」

 

「へぇ、大会か。そうだ、連休中に練習試合しようって誘ってみろよ。お前達も6月に大会だし、筒井さんも鍛えられて一石二鳥じゃん」

 

 進藤の案に誰も異を唱えなかった。筒井に会いたいと思う気持ちは皆一緒なのだ。

 

 

 ◆

 

 

 その頃葉瀬高囲碁部はと言うと、放課後の部室にて練習をしていた。

 

 部室を貰って約2週間、殆ど何も無かったこの部屋はすっかり立派に様変わりしていた。

 

 通販で買った安い畳セットとミニテーブル、ギャル子が持ち込んだテレビとゲーム機(DVD視聴可)、元々あった本棚には筒井が持ち込んだ囲碁の本が並んでいる。

 

「筒井君。そこは我慢して大石の安定を図った方が良いわ」

 

「でもここを利かされる前に、少しでも白地を減らしておきたいんだけど」

 

「ダメよそんなの。こうしてオサエられると、白に厚みを築かれた上に後手後手、ヒラキにも回られて一気に黒が悪くなるでしょ」

 

 筒井が代表に指導碁を打って貰っている。

 

 これまでは昼休みに教えていただけの彼女だが、昨日からは囲碁部の正式な部員となった。黒ギャル達と違い指導者のいない筒井には昨日も今日もマンツーマン状態だ。

 

「キミは読める力、すなわち碁の基礎体力はあるの。あとは力の使い方を覚えなさい。そうしたらもっと伸びるはずよ」

 

 中3までずっとひとりだった筒井はほとんどの時間を詰碁に費やして来た。対局数は長い碁歴の割に極端に少なく、指導者もいない我流のため、実戦で力を活かしきれていない状態だった。

 

 葉瀬中囲碁部に入った進藤ヒカルも今は院生だが最初はヘボ。後にアマ三段クラスの三谷が入り、進藤が筒井を超えた頃には、夏期講習や受験勉強であまり部には出られなくなっていた。

 

 とは言え、受験勉強の空き時間に自宅でネット碁や囲碁ソフトで対局数を重ね、中学卒業から高校入学までは廃ゲーマーの如くパソコンの前に座っていた。

 

 それでも若鶏戦に出てくる海王の1年生達には及ばないと思われる。目の前にあるのは凡人が我流で越えるには厳しいアマ三段の壁であり、大会に出てくる海王1年はおそらく全員突破しているはずだ。

 

 そんな筒井に代表の指導はガッチリハマった。代表はプロ三〜四段相当。そんな彼女の考えに触れて目から鱗が落ちまくりだ。一般的にはアマの棋力の壁は初段、三段、五段と言われており、筒井がアマ五段クラスになる日も近いかもしれない。

 

 

 皆でミニテーブルを囲み、お菓子を食べながらひと息。

 

「明日から5連休だ〜。幸せ〜」

 

 満面の笑顔のギャル子。今日はゴールデンウィーク前日。5月3日〜7日まで休み、10日が若鶏戦だ。

 

 スマホで連休中の天気をチェックしているオラ子が筒井へ顔を向けた。

 

「そういや部活の時間とかどうすんの?」

 

「任せるよ。僕は家近いし朝から部室(ここ)に来るつもりだけど」

 

 ちゃんとした顧問がいないので割と適当だ。皆やる気があるのでうるさく言わなくても来るだろうと思っている。

 

「明日も来んの? アタシら誰も来ないけど」

 

「どうだろ。家で集中出来なかったら来るかも」

 

 筒井が軽く考え込む仕草を見せると、お菓子の横に置かれている彼のスマホがブブッと震えた。

 

 ギャル子がチラリと覗き込めば、スマホはメール受信画面で差出人は津田久美子となっている。

 

「女の名前だ! 犯罪の匂いがする!」

 

 思わずスマホに手を伸ばしたギャル子へ、筒井から「コラッ」と注意が入った。

 

「人の勝手に見ようとするなよ」

 

 ひょいっとスマホを手に取った筒井を、ギャル子は「ぐぬぬ」と恨めしそうな目で睨む。

 

「メガネが美人局の被害に遭うのを未然に防ごうという、あたしの善意溢れる行為は、果たして怒られる程悪い事でしょうか?」

 

「キミは何を言ってるのさ……」

 

 ギャル子のバカな言い分に肩を竦め、筒井はメールを読み始めた。

 

「だって女っ気無しのメガネに女からメールって、そう思われて当然じゃん!」

 

 そうだよね? と女子達へ同意を求めるギャル子。オラ子は「うん」と即頷き、代表は「これ美味しい♡」と誤魔化した。

 

「失礼な奴らだな。中学の囲碁部の後輩からだよ。連休中のどこかで葉瀬中で練習試合しませんかってお誘い。どうする? 院生の進藤君も来てくれるらしいし、良い勉強になると思うよ」

 

 部員ひとりひとりへ目を移していく。卒業したばかりだが、筒井は行く気満々だ。

 

「アタシは良いぜ? 三谷にリベンジしたいし」

 

「あたしもー。部活(ここ)じゃ負けっぱなしだから、そろそろ勝ちを知りたい」

 

 黒ギャル達は参加表明。残るは代表だけなのだが、あまり明るいとは言えない顔をしている。

 

「もしかして行き辛いのか? お前院生バックれ同然で辞めたから」

 

 オラ子が言うと他の2人は「あぁ……」と納得するように声を漏らした。そんな下がり掛けた空気を払うように、代表は小さく首を横に振った。

 

「ううん、その子とは面識無いし、みんなが行くなら私も行きたい。でもOBとかって普通ウザがられそうなのに、あっちから誘ってくれるなんて、筒井君は後輩達に慕われてるのね」

 

「うん、うん……。僕には勿体無い後輩達だよ……」

 

 じわ……っと滲み出て来る涙。筒井は眼鏡を外し、目元を拭い始めた。

 

 

 ◆

 

 

 5月3日、早朝午前6時。普段ならまだ寝ている時間だ。起きたばかりの筒井は自宅玄関で旅行カバンを手にした、よそ行き姿の両親と妹を見送っていた。

 

「じゃあ公宏、3日間留守番よろしくね?」

 

 3人は遠く離れた祖父の家へ行くのだ。その間は筒井ひとりである。彼は「よーし、夜通しネット碁やっちゃうぞー!」とハイテンションを胸に秘めているのだが、

 

「夜通しネット碁したり、食事代削って碁の本とか買っちゃダメよ?」

 

「やらないし、買わないよっ」

 

 事前に渡されていた食費5千円。筒井はネット碁の他に「切り詰めまくって碁の本たくさん買っちゃお!」とも画策していたのだが、息子の考えなど全てお見通しのようで、母親から釘を刺されてしまった。

 

「お兄ちゃん、部活の女の子連れ込んだりして」

 

「あはは、ないないっ。あの子達が公宏なんか相手にする訳ないわよっ」

 

「言えてるー!」

 

 朝っぱらから言いたい放題の母と妹は、寡黙な父と共に出発して行った。

 

 

 リビングへ戻って用意されていた朝食を取り、時計に目を向ければまだ午前7時だ。軽く散歩でもして来るかと、ジャージ姿のまま家を出た。

 

 

 祝日だけあって人も車も少なく、街は静かだ。

 

 体育以外で運動などしない筒井がこうして散歩する事自体珍しい。学校で囲碁部の女子達と過ごしている時間が多いのが一番の理由だろう。

 

 ギャル子は部室で筋トレしてるし、オラ子は長身でスタイル抜群だし、代表は見た目完全無欠の美少女だしで、さすがの筒井もちょっぴり見た目や体型には気を付けようかなとは思い始めた次第である。

 

 丁度良くジャージにスニーカーだ。折角だしと、目的地の方向を見据えた。近所には小さなスポーツ公園があり、1周200メートル程の周回コースがあるのだ。

 

 

 

 来てみれば既に先客が5人程。部屋着代わりのジャージの筒井とは違い、サングラスにスパッツ姿のガチ勢っぽい方々も。

 

 思い付きで来たド素人で恥ずかしいが、軽く準備運動、目標は体育で走る1500メートルとして、ゆっくりと足を動かし始めた。

 

 筒井は凡人だ。ガリ勉眼鏡らしい見た目に反して特に頭も良くないし、その逆で運動神経も悪くはない。なのでそれなりに走れている。

 

 周回をカウントしていれば、もうすぐ1500メートルだが、まだまだ余裕がある。

 

(これならもう少し走れるかな)

 

 そう思い目標を5キロに変更。そうしてグルグルと走り続けていると、

 

「あら、おはよう」

 

 隣に並ばれたショートヘアーの女の子に声を掛けられた。目を向けると知った顔と言えば知った顔であった。

 

「お、おはよう……」

 

 どうしてここに? という驚きを残したまま返事を返す。挨拶を交わした相手は海王の女子部員、日高だ。筒井にとって天敵に近い存在である。

 

 ジャージ姿で首にタオルを掛けた彼女は軽く微笑み、

 

「いつも走ってるの? あなたってそういうタイプじゃないかと思ってたけど、見直したわ」

 

「今日が初めてだよ。別に続ける気も無いし」

 

「あらそう。少しは格好付けて見栄を張れば良いのに。どうせ普段格好良いところなんて無いんだろうし」

 

 薄ら笑いと相変わらずの毒舌にイラッと来る。

 

「うるさいな。さっさと行ったら?」

 

「残念、嫌われたものね。折角こんな場所で会ったんだし、何かお話したかったんだけど」

 

「嫌いも何もあるかよ。キミっていちいち口悪いんだもん。僕に何か恨みでもあるの?」

 

「えっ? 恨みなんてないわよ。それに本当の事しか言っていないつもりだけど?」

 

 目を丸くした日高。悪気が無い分余計タチが悪い。

 

「はいはい、格好良くないのも、海王の副将に勝ったのも大ポカのおかげのマグレだよ」

 

 筒井はここまでマイペースを貫いていたが、喋ってしまった事で呼吸が乱れ苦しくなり始めた。足を止めたくなったが、たとえ自分より後から走り始めた日高であっても、彼女より先に止まればまた何か嫌味を言われそうだ。

 

 例えば──、

 

『ふー、走った走った。さあ帰ろうっと』

 

『あら、もう終わり? やっぱり大した事無いのね。もう死んじゃえば?』

 

『何でだよ! 僕はキミが来る前からずっと走ってたんだからな!』

 

『ふふ、口では何とでも言えるわね。死んだ方が良いんじゃないかしら?』

 

 筒井のイメージではこんな感じだ。バカにされてすごすごとこの場を去るのも悔しいので、もう少し踏ん張ってみる事にした。

 

「……キミってこの辺に住んでたんだね。駅前のカラオケにもいたし」

 

「ええ。ハゼショーの近くよ」

 

「うわ、ご近所さんだ。見掛けた事無かったな」

 

「それより囲碁部出来たのね。遅くなったけどおめでとうと言っておくわ」

 

「何で知ってるのさ」

 

 驚く筒井をバカにするように日高は口角を上げた。

 

「若鶏戦のエントリー校に葉瀬高の名前があったもの」

 

「ああそっか」

 

「それで、出来たばかりの囲碁部は順調?」

 

「色々あって、ようやく動き始めたって感じかな。海王は?」

 

「そりゃもう毎日ビシバシやってるわ。悪いけど、若鶏戦は海王の優勝で決まってるから」

 

「海王には岸本君がいるし、他にも凄い人達ばかりでそりゃ厳しいけどさ。ウチだって出場するからには優勝を目指すよ」

 

 筒井にしては凛々しい顔付きに、日高の薄ら笑いが消える。

 

「気合いだけは入っているみたいね。なら良い事教えてあげる。岸本君を警戒しているようだけど、彼は1年生のトップじゃないわよ?」

 

「えッ!? 嘘でしょ!?」

 

 最強の代名詞岸本。出現した時点で勝ち確定のプレミアキャラだ。その彼より強い打ち手となると、院生上位クラス、下手をすればプロでもおかしくない。ここは是が非でも根掘り葉掘り聞いておきたいのだが、

 

「おっと、これ以上は企業秘密♡」

 

 人差し指を自身の口元に当てた日高。

 

「まさか留年──」

 

「違うわよっ。正真正銘の1年生っ」

 

 他校の囲碁部の人間と情報交換。これまで筒井はそういった経験が無かったため、日高と話すのは正直悪くなかった。

 

 

 互いに喋り過ぎたため、大分息が上がっている。それからしばらく無言で走り続けた。と言うか喋る気力すら無い。

 

 日高もいつもならばとっくに辞めている距離を走っているのだが、負けず嫌いな性格ゆえか、先に走っていた筒井より先に足を止めるつもりはなかった。

 

 コイツには負けない──。結局考えている事は互いに同じだ。

 

 それでも「いつまで走れば良いのか」という不安を払いたい気持ちから、筒井の様子を伺うべく日高から声を発した。

 

「ず、随分っ、走るっ、のね……っ」

 

「ふ、普通……っ、さ……っ」

 

 相手は女子。だが海王だ。海王には負けたくないという信念、いや執念が、筒井の足を前へ前へと突き動かしていた。

 

 日高にはそれに並び立つ想いなど持ち合わせていない。そして足を止める気配がまるで感じられない筒井の姿が、彼女の心を折り砕く──。

 

「も、もう無理……っ!」

 

 先に止まったのは日高。後から走り始めて先に止まった、これは筒井の完全大勝利と言って良いだろう。

 

 日高はよろよろとコースの内に入り、芝生の上にぐったり座り込んでしまった。それを見届けた筒井は死体を蹴るかのようにもう1周、ぜぇぜぇと死ぬ程息を切らしてのコース内。勝利を突き付けるようにタオルで首を拭いている日高のそばへ歩み寄って腰を下ろした。

 

「か、海王に……! 海王に勝った……!」

 

「ここで海王とか持ち出す? 大体女子相手に何ムキになってるのよ、バカみたい」

 

 心から喜ぶ筒井に呆れながら、日高が乱暴にタオルを投げて寄越した。

 

「な、なに……?」

 

「使いなさい。汗、凄いわよ」

 

 知っている。たった今の今までこのタオルで日高が自分の汗を拭いていた事も知っている。元々の匂いなのかわからないが、とても良い匂いがする。

 

(良いのかなこれ。女子的にやってはいけないんじゃ……)

 

 きっと健全な男子をエッチな気分にさせるアイテムだ。が、疲れ過ぎてムラムラもしないし、ドキドキも走り過ぎてこれ以上はしようがないので普通に使わせて貰った。

 

 日高へタオルを返そうするのだが、自分の汗をガッツリ拭いてしまったので少し気が引ける。

 

「あ、洗って返した方が良いかな……」

 

「別に構わないわ。それに一緒に汗を流した同士なんだから」

 

 日高としてはユニフォーム交換に似た意味があったのかもわからない。

 

 まだ息を整えるので精一杯の筒井を他所に、軽くストレッチを終えた日高は「お先に。次は若鶏戦で会いましょう」と去って行ったのだが──、

 

 

「あら、また会ったわね」

 

 日高の15分程後にスポーツ公園を後にした筒井は、帰り道に彼女とバッタリ出くわしてしまった。

 

「落とし物でもしたの?」

 

「お構いなく。行ってちょうだい」

 

 何やら視線を下に落としてキョロキョロしているのだ。余裕の口調とは裏腹に、彼女の表情からは焦りが読み取れた。

 

「そういう訳にも……。財布? 鍵?」

 

「家の鍵……。見てないわよね?」

 

「うん。一緒に走ってた時も落とした音しなかったと思う」

 

 日高は「そう」と言い残し、地面に目を向けながらスポーツ公園の方へ歩き始めた。

 

 少し迷いながらも筒井が後に続くと日高が振り返り、

 

「何かしら?」

 

「暇だし手伝うよ」

 

「余裕ね。大会も近いのに部活は休み?」

 

「今日は休み。他の部員3人は遊園地」

 

「あら、ひとりだけ仲間外れ? カワイソウに」

 

 実際そうだったらかなりヘコむかもしれないが、ちゃんと誘って貰っている。折角代表が母親の見舞い以外の事を出来るようになったのだ。水いらず、親友3人組で行かせてあげたかった。

 

「僕は良いんだよ。キミこそ練習あるんじゃないの?」

 

「明日から合宿だから今日は休み。だから鍵見つけなきゃマズイのよ。最悪窓割らないと」

 

 合宿──、その素晴らしい響きに憧れを覚えてしまうが、後の物騒な発言にそれも消えてしまった。

 

「割るって、家の人は?」

 

「昨日から旅行……、くしゅんっ、くしゅんっ。……(さむ)っ」

 

 くしゃみを2連、ぶるっと身を震わせた日高。走って汗びっしょりだったので無理もない。何しろ筒井自身も大分体が冷えて来ており、日高の感じている寒さが手に取るようにわかってしまう。

 

 

 日高の家から公園までの間を(くま)なく1時間程探したが結局鍵は見つからず、日高が公園のベンチに座り途方に暮れている。

 

 そばに立つ筒井が公園の時計に目をやると、まだ午前10時を回ったばかりだ。諦める時間ではない。

 

「風邪引いたら合宿どころじゃなくなっちゃうよ。まだ時間はあるし、お風呂と着替え貸すから一旦ウチに来たら? それでちょっと休んでまた探し直そう?」

 

 友達でもないのに自宅に誘うのは気が引ける。案の定ギョッとした顔が返って来た。

 

「あなたの家? ご家族もいるのに、そんな厚かましいマネ出来ないわよ」

 

「ウチも今朝から家族旅行に行ってて誰もいないし、変な気は使う必要ないけど」

 

「誰もいないのはそれはそれで……。一応男の子の家に上がるわけだし……」

 

 細めた目で心なし距離を取られたが、筒井の人畜無害性を見抜いたのか、背に腹は変えられないのかはわからないが、

 

「じゃあ、悪いけど……。お邪魔させて貰うわ……」

 

 



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9話 筒井のマッサージvs日高

 日高がのんびり筒井家の湯船に浸かっている。

 

 海王ではガードの硬さに定評のある日高だが、まだほとんど良く知らない男の家でこうしている自分が不思議で仕方がない。

 

 ただ筒井につまらない下心が無いのは女の勘でわかっていたし、何より一緒に体力の限界まで走り、一緒に鍵を探し歩き、妙な仲間意識のような物が芽生えていた事も否定出来ない。

 

(天国……♡)

 

 肩までどっぷり浸かって、目を閉じて上を向く。体はクタクタの冷え冷えだったので生き返った心地である。

 

(筒井君は今時の若者にしては親切ね。いや、全然今時っぽくないか)

 

 鍵は開けてくれる業者がいるらしく、後でネットで調べる事になっている。一応また外に探しに行くが、これで最悪の場合でも窓を割る事もなくなった。

 

(どんな結果になるにせよ、何かお礼した方が良いわよね……。数日彼ひとりだって言ってたし、ごはんくらい作ってあげようかしら。カレーなら持つし、うん、カレーを作ってあげよう。日高特製海王カレーを……!)

 

 美味しい、美味しい、とがっついて食べる筒井の姿を想像し「ふっふっふ」と笑みが零れる。

 

(後でハゼショーに一緒に買い物に行って……。あ、ちょっと楽しそうかも?)

 

 浴室ドアで隔たれた洗面所では洗濯機がゴンゴン回っており、その音にかき消される程度ながらに、彼女は楽しそうに鼻歌を歌い始めた。

 

 あまり好かれてはいないようだが、これを機に筒井と友人になれれば、と言ったところであった。

 

 そんな時、洗面所のドアがガラッと開かれた。浴室の磨りガラスドアに見えるのは筒井だ。

 

「か、買って来たよ!」

 

 浴室の日高へと上ずった声が届いた。

 

「あら、随分遅かったのね。その辺に置いておいて頂戴」

 

 何を買って来てもらったのかと言えば、女物の下着である。

 

 それは数十分前、日高が風呂へ入る直前の事だ。

 

『筒井君、お願いがあるんだけど』

 

 浴室へ繋がる洗面所。閉めた引き戸の向こう、廊下にいる筒井へと日高が呼び掛けた。

 

『私達走って汗かいたじゃない? それで下着までビショビショになってるの』

 

『は、はあ。それで……?』

 

『もう履きたくないし他の服と一緒に洗っちゃうから、コンビニで新しいの買って来て。お金は後で払うわ』

 

『えぇッ!? 嘘でしょッ!?』

 

『嘘? まさか、私のパンツが本当にビショビショのぐしょぐしょかどうか確認させろ、そう言っているのかしら? さすがに見損なったわ』

 

『じゃなくて! 女物の下着とか恥ずかしくて買えないって!』

 

『大丈夫よ。お店の人はそんな事気にしないから。普通にパッパッとやってくれるわ』

 

 そんな経緯があり筒井をコンビニまで走らせていたのだが、大分時間が掛かっていた事から、レジへ持っていくのに相当苦しんだ模様。

 

 風呂を出た日高は下着のパッケージを開けてゴミ箱へ。それが数日後旅行から帰った筒井の母親に発見され家族会議に発展するのだが、また別の話である。

 

 

 ◆

 

 

 リビングにて、筒井の上下セットのスウェットを借りた日高は、申し訳なさそうにちょこんとソファに座っている。しゅん……、という擬音がピッタリだ。

 

 何があったのかと言えば、立て替えて貰った下着代金を払おうとして財布を開けたところ、散々探していた鍵が小銭と一緒に入っていたのである。

 

「騒がせてごめんなさい……」

 

「ううん。また探しに行かなくて済んだし、本当に良かったよ」

 

 ソファから離れた食事用テーブルの椅子に腰掛けている筒井は、無駄な労力を使わせた事には一切怒らずに笑っている。

 

 するとしおらしい態度も一転。日高は「あらそう。それもそうよね」と普段の強気な笑顔に戻った。

 

「筒井君みたいにお金騙し取られても『良かった、病気の子供はいなかったんだ』ってタイプ、とても好感が持てるわ」

 

「僕ってそんなタイプかな……」

 

「きっとそうね。それより筒井君もお風呂行って来たら? 汗臭いのが近くにいたらかなわないもの」

 

 鼻をつまむ仕草をされた筒井は「じゃあ帰ったら?」とは言えずにシャワーで汗を流しに行った。

 

(何か変な感じするよなぁ……)

 

 ザーッというシャワーの音に身を包まれながら、筒井は大きく息を吐いた。朝の時点で今日起こる事を1万個くらい予想したとしても、日高が我が家にいる、という予想はまず出て来なかっただろう。

 

(ギャル子が怒りそうだな……)

 

 打倒日高のギャル子には説明し辛い状況。だがもう家の鍵は見つかったのだし、浴室の外で回っている彼女の衣服及び下着を入れた洗濯機が止まれば帰るだろう。

 

 

 筒井がシャワーから出ると、日高はリビングのソファで横になってテレビを眺めていた。さらにはソファ横の小さなテーブルには勝手に淹れたコーヒーが湯気を立てている。

 

「お帰りなさい。筒井君もコーヒー飲む?」

 

「……いや、いいよ」

 

「あら、舌が子供なのね。なら一緒にテレビ見ましょうよ、これ面白いのよ」

 

(何でそこまで言うのかなぁ)

 

 筒井は相手にするのも面倒臭そうに食事テーブルの椅子へ。

 

 そのまま離れた席で筒井も何となくテレビを眺めていた。映っているのは各地域のレポーターが「ゴールデンウィークは何処も大賑わいです!」と観光名所や行楽地を紹介するような番組だ。

 

 いつの間にか「私ここ行った事ある」だの「へぇ、良いなぁ」などとまったりな空気が流れていた。

 

 

 やがてピーピーと洗濯機が止まった音がリビングに届いた。筒井は洗濯物を持ち帰るための袋でも渡そうと思ったのだが、日高はまたも勝手にベランダに干して来て、

 

「今日は曇ってるし、乾くのに時間掛かりそうね。筒井君も洗濯物あるなら早めにしたら?」

 

 とか言ってまたソファを占領しテレビを見始めた。

 

 そんな彼女を横目に筒井は思うのだ。

 

(この人いつ帰るんだろ……)

 

 干したばかりの洗濯物が乾くまで居るつもりかもしれない。だが聞くのも「帰れ」と言っているようで口にし辛い。

 

 言えずにいると、日高は「あー、足疲れたわー」と寝ていた体を起こし、ソファに右足を乗せ、膝を抱えるように脚のマッサージを始めた。もはや完全に我が家だ。

 

 それどころか、

 

「ねぇ、ちょっとこっちの脚マッサージしてくれる?」

 

「何で僕が。自分でやれよ」

 

「あなたのせいでいつもより走り過ぎたんだから、責任取りなさいよ。ほら、左脚だけで良いから」

 

 筒井へ向けてニュッと差し出された左脚。自分の貸した色気の無いスウェットを履いているので、それ程変な気にはならない。オマケに自分も色違いのスウェットを着ていたりする。

 

「わかったよ。言っておくけど、別に上手くないからね」

 

「それは困るわ。私、定期的にお店に通うくらいマッサージにはうるさいのよ。駅前のモミーテってお店ね。あそこには日々の疲れを癒して貰った良い思い出がたくさんあるわ」

 

 どれだけハードル上げるんだよ、と渋々ながらもソファの前に(ひざまず)き、日高のふくらはぎに両手を伸ばした。

 

「痛かったら言ってよ?」

 

 力加減がわからないので適当に揉んでみると、

 

「んはぁッ❤︎」

 

「何でそんな声出すんだよッ! からかうのはやめろよ!」

 

「ち、違うのよっ。思ったよりかは気持ち良かっただけよっ。で、でもそれが全力だとしたら大した事ないわね……」

 

 と言いつつ「ふーっ❤︎ ふーっ❤︎」と息を荒くしている日高。強気な表情は崩していないが、口角がヒクヒクと小さく動いている。

 

「あっそ。じゃあこんくらい?」

 

「〜〜ッ❤︎❤︎❤︎」

 

 瞬間、これまで感じた事のない快楽を受け、日高は手のひらで口を塞ぎ大きく仰け反った。

 

(な、何コレッ! こんなの知らないッ! お店のマッサージとは全然違う……ッ! ううん、これに比べたら、あんなのマッサージでも何でもない、ただのごっこ遊びだわっ! そう、マッサージごっこ屋さんよ! もうこんなの知っちゃったらあんなお店二度と行けないわッ!)

 

 通いつめたマッサージ店の思い出は一瞬で筒井に上書き消去され、気を抜けばまた変な声が漏れてしまいそうだった。時折身体をビクンッ! ビクンッ! と強く震わせながら、快楽に堕ちぬよう必死で抗っていた。

 

「やっぱスウェット越しだとあんまり効かない? ちょっと失礼するよ?」

 

 筒井、暴挙に出る。スウェットを膝下まで捲り上げ、白く透き通るような日高の脚を露わにさせたのだ。

 

(う、嘘っ! スウェットの厚い生地越しでもこんなに気持ち良いのに、生でなんかされたら絶対……ッ!)

 

 堕ちる──。現時点で崖っぷち。これ以上の快楽に耐えられるはずがない。

 

(で、でも……)

 

 未知なる快楽へ期待と不安を抱きながら、筒井に触れて貰うのを生唾を飲んで待つ。

 

 そして彼女の左脚へ今まさに触れようとした直前であった。何を思ったのか、筒井はピタリと動きを止めてしまったのだ。

 

(え……? どう……して……?)

 

 早く触って欲しかったのにどうして止めるのかと、この時日高は筒井を強く恨みさえした。

 

 まさかそんな風に思われているとはつゆ知らず、筒井はこう言うのだ。

 

「ごめん、つい熱中しちゃって。考えたら、直接触られるなんて嫌だよね」

 

 人をここまで期待させておいてからのあまりにも無慈悲な発言に、日高の胸が切ない気持ちでいっぱいになっていく。

 

 そして──、

 

「……じゃない」

 

「え? 何だって?」

 

 小さな声に筒井が聞き直すと、日高は顔をカァッと赤くして叫んだ。目にはうっすら涙を浮かべて、今にも泣き出してしまいそうだ。

 

「嫌じゃないからっ! そんな事どうでも良いから早くしてぇっ!」

 

 そこから先は酷かった。声の我慢など一切しない。乙女として他人には聞かせてはならない、いやらしく、はしたなく、みっともない声だという自覚はあった。だが構わなかった。

 

 だってこんなに気持ち良いんだもん──、と。

 

 

 

「あー、スッキリしたっ! これで明日からの合宿もバッチリね!」

 

 ソファに座りながら大きく伸びをした満足顔の日高。その一方で筒井は、どう言う訳か床に座り込んで頭を抱えている。

 

「なんて声出すんだよ……。マンションなんだから隣も、上も下も聞こえちゃうだろ……」

 

「しょうがないでしょ? あんなの誰だって声出ちゃうわよ。そう、全て公平のせい。私は何ひとつ悪くないわ」

 

 冷静になっても、己の痴態を思い出して恥ずかしがるどころか偉そうな日高。

 

「それにさっきから公平って何だよ。公宏だよ」

 

「あら失礼。あなたの下の名前、葉瀬の書類でチラッとしか見た事なかったのよ。では改めて、公宏」

 

 最後に小首を傾げ「んふっ」と可愛らしく笑ってみせる。

 

 筒井の言う「さっきから」とは、彼女はマッサージの途中から昂ぶり過ぎて「公平ッ❤︎ 公平ッ❤︎」と何回も叫んでいたのだ。その度に筒井は「公宏だって!」って言っていたのだが、全く耳に入っていなかったようだ。

 

「大体、何で急に下の名前で呼ぶわけ?」

 

 嫌ではないが、両親以外にそう呼ばれた事はないのでくすぐったい気分だ。

 

「私は今日1日で公宏をとても気に入ったの。友達として仲良くなりたいのよ。ああ、念のためもう1度言うけど友達としてね」

 

「今日1日って……。まだお昼前なんだけど。大体僕、キミに気に入られるような事したっけ?」

 

 色々あったが、朝が早かった分まだそんな時間だ。日高は嬉しそうに語る。

 

「共に汗を流し、鍵を失くした時も色々親切にして貰って、あとマッサージも最高だったわ。それに困った事に海王って何かと鼻につくエリート意識高い連中ばかりなのよ。私ってあなたみたいなのの方が楽で良いみたい。一緒にいて居心地が良いって言うのかしらね。この家も自分の家より自分の家って感じだもの」

 

「日高さんも十分エリート意識高いと思うけど……」

 

「私は良いのよ。と言う訳で、友達として今後ともよろしくして欲しいんだけど」

 

 握手を求める日高。ところが筒井がやや戸惑いながら握手に応えると、彼女の息がマッサージを受けていた時のように「はぁっ❤︎ はぁっ❤︎」と荒くなり始めた。目の焦点も合っておらず、正直不気味だ。

 

「まさかとは思うけど……。上手い事言って、僕の事マッサージ係にしようとしてない?」

 

「し、心外だわ! さっきの言葉は本心! それは本当、信じて! ただ、ただね? 今度はいつしてくれるのかなって思っただけなの。ほら、それを楽しみに日々頑張れるって言うかっ」

 

 指摘されてギクリとした日高が目を泳がせる。

 

「またさせるつもりではあるんだ……。でもキミの声やばいしなぁ」

 

「だ、だめかしら!? もう絶対変な声は出さないって約束するから! 神様にだって誓う!」

 

 日高はこの世の終わりのような顔をして頼み込む。その必死さに筒井は驚きを隠せない。

 

「そ、そこまで? でも僕ってそんなに上手かったの? どうも信じられないなぁ」

 

 試しに握手をしたまま日高の手を揉んでみると、

 

「ひぁっ!? それ反則ぅっ❤︎ ふ、不意打ちなんて卑怯だわっ❤︎ あっ、無理っ❤︎ こんな気持ち良いの、絶対声出ちゃうっ❤︎ あん、素敵よ公宏っ❤︎ 公宏〜っ❤︎」

 

(この人本当に大丈夫かな……)

 

 またも喘ぎ声を上げ悶え狂うその姿に、筒井はポカンと口を丸くしてしまった。

 

 よくわからないままに半ば強引に友達にされてしまったが、それでも虫ケラ同然の扱いだった頃に比べればずっとマシだ。

 

 

 それから日高に言われるままソファに並んで座り、テレビを見ながらだらだら過ごしていた。筒井はすっかり気に入られてしまい、やけに距離を縮められている。肩や膝がくっついているが、囲碁部で女耐性を身に付けた筒井の心は、幸か不幸かその程度では揺らがない。

 

「あぁ、肩凝ったわねぇ〜」

 

「……」

 

 筒井、無視。

 

「腰も凝っちゃって、大変よ」

 

「……」

 

 またもや無視で、日高はアメリカ人のようにオーバーに肩を竦める。

 

「そう、無視なの。でも良く考えれば、私は自分の欲求だけを満たそうとしていたわ。友達同士なんだから、そういうのは良くないわよね。これはもう反省する。公宏に嫌われたくないもの」

 

 そして強気な表情でビシッと人差し指を立て、

 

「そこでwin-winの取引よ? 公宏、今私欲求とか言ったけど、人間の持つ三大欲求って知ってる? 睡眠欲、食欲。あとひとつは?」

 

「せ、性欲……?」

 

「うん正解♡ 男の子が絶対好きで、そのどれかひとつを満たせるモノ。私はそれを公宏に提供するわ。3つの内どれとは言わなくても、もうわかってるとは思うけど」

 

 んふっ♡ と挑発的な顔で、腕を組んで胸を寄せあげた。色気の無いだぼだぼのスウェット姿でも中々にエロい。

 

 筒井はゴクリと息を飲む。たかがマッサージをさせるために、まさかそこまでするのはありえないとは思うが、あの異様な乱れっぷりを見た後ではそのまさかも完全に否定する事も出来ない。

 

「い、一応聞いておくけど……。何なの?」

 

 ようやく強い興味を示してくれた事に日高は嬉しそうに口元を緩め、筒井の耳元で囁く。

 

「カ・レ・エ♡」

 

「はぁ?」

 

 カレエって何だ、僕はそんなエッチな言葉は知らないぞ、と筒井は間の抜けた顔。

 

 日高はソファから立ち上がると顎に手の甲を添えた偉そうなポーズで、

 

「そろそろお昼だし、カレー作ってあげる。日高特製海王カレーよ? まぁ本当はお風呂入ってた時から、親切にしてくれたお礼に作ってあげようと思ってたんだけどね」

 

「カ、カレー……? 何だよそれ! 回りくどくて紛らわしい言い方するなよ! そもそも性欲とか問題にした意味ないじゃん! 絶対わざとだろ!」

 

 騙された事に顔を赤くしている筒井の様子が面白いようで、日高は「アハハ」と声を上げ笑い始めた。

 

「もちろんわざとよ? 無視されたお返し♡」

 

 

 ◆

 

 

 近所のスーパー『ハゼショー』で一緒に買い物。2人とも色違いのスウェット姿なので、他の人からはお泊まりの後か、同棲カップルと思われているだろう。

 

「1回帰っても良いんじゃない? キミの家すぐそこなんだろう?」

 

「面倒臭いわ」

 

 カゴを持って食料品売り場をうろつく筒井が隣の日高に言うが、返事はノーであった。彼女がカレーには使わなそうな物まで手に取っているので筒井は首を傾げる。

 

「キャベツとかはいらないでしょ?」

 

「どうせご家族が留守の間はコンビニ弁当とかで済ませるつもりなんでしょう? 他にも何か作り置きしておいてあげる。食べたい物あったら言って?」

 

 正直、もっと性根の腐った女かと思っていたので、気を使ってくれる日高が意外であった。

 

「あ、ありがとう。でも明日から合宿なのに、こんな事してて大丈夫?」

 

「だからこそ英気を養おうって言うのよ。合宿ではひたすら囲碁漬けなんだから。食事と睡眠以外は全て碁──、ってのは言い過ぎだけど」

 

「そう言えば合宿ってどんな事するの?」

 

 夏にでもやれたらなぁとは思っていたので、海王囲碁部の合宿を参考にしようと聞いてみる。

 

「今年は3泊4日、長野の大きなホテルで全国から集まった強豪高校囲碁部との合同合宿なの。だから他校の部員と打ったり、それから来てもらったプロの先生に教えてもらったり。夜はひたすら詰碁解かされたり。と言っても、私も先輩達から聞いただけなんだけどね」

 

「うわぁ、何それ楽しそう! 良いなぁ〜!」

 

「楽しそう? そんな遊びも全然無い合宿、海王でも嫌がる人は多いのに」

 

「そうかな? だって碁って楽しいモノじゃないか」

 

 筒井の囲碁バカっぷりを知らない日高は目を丸くしている。思わず「下手の横好きなのね」という言葉が出掛けるがギリギリで喉の奥に押し戻した。

 

 優しい筒井といるのは落ち着くし、体を触って貰えたら嬉しいし、これから友達としてもっと仲良くなりたいとも思っている。しかし碁の方面では圧倒的格下に見ているのは昔から何ら変わらない。

 

 

 シーフドカレーを連想させる日高特製海王カレーは何の変哲も無いが美味しいカレーだった。たくさん作ってくれたので、今晩も、明日の朝も食べられる。

 

 それに、女子が自分の家の台所で料理を作ってくれている後ろ姿にある種の感動さえ覚えた。上下スウェットと筒井の母親のエプロンじゃなければ、いかに筒井と言えども堕ちていたかもしれない。

 

 カレーの他にも色々作ってくれて、料理などしない普通の男子高校生の筒井にはありがたい限りだ。

 

 

 

 食事の後、日高が筒井の部屋を見たいと言うので、2人はリビングから場所を移した。

 

 日高は部屋に入ってひと通り眺めた後に、碁の本が大量に並ぶ本棚を興味深そうに上から下まで目を移し始めた。

 

「随分持っているのね」

 

「長い間、本で勉強するしかなかったから。これでも結構部室に持って行ったんだけどさ。キミのおかげで親がくれた食費も結構余りそうだし、また1冊買っちゃおうかな」

 

 ベッドに腰を下ろしている筒井は、新しい本を買うのが楽しみらしく「えへへ」と笑った。

 

 日高は呆れた様子で振り返り、そんなにやけている彼へと歩み寄る。

 

「公宏って本買ったら強くなれると思っちゃう人? 本も良いけど、強くなりたかったら強い人に1局でも多く打って貰う事。葉瀬の部員はまだみんな1年生だったわね、顧問の先生はどんな方?」

 

 言いながら筒井の隣にくっつくように座ると、ベッドがギシッと軋みを上げた。

 

「碁は全く知らない先生なんだ。でもそこまで贅沢言ってられないよ」

 

「あら、残念だけど葉瀬の先は見えてしまったわね。家も近いし、公宏には空いてる時に私が見てあげる」

 

 クスクスと笑う日高。葉瀬が今も将来も、海王のライバル校には成り得ない劣悪な環境と思ったのだろう。

 

 やがて筒井の膝の上の右手に自身の左手を重ねると「ん……❤︎」と甘い声を出しながら、愛おしそうにゆっくりさすり始めた。

 

 友達の枠を超えた過度なスキンシップに驚くところだが、今の筒井はそんな事よりもただ不愉快だった。気持ちはありがたいが随分上から言ってくれる。葉瀬などもはや眼中に無し、眠りながら打っても勝てると思っているのだろう。

 

 実際海王中女子チームの大将だったので相当強いのはわかっている。しかし自分はともかく、大切な仲間達まで舐められては黙っていられない。

 

 筒井は膝の上で強く拳を握り込んだ。自信はある。日高に教えているであろう海王の顧問や強い部員など、もはや比べ物にならない強い人に毎日のように打って貰って付けた自信だ。

 

 深い呼吸の後に、うっとりとしている日高の目を真っ直ぐ見つめる。

 

「だったら今から打とうよ。僕だって成長してるんだ。キミにだって負けるつもりはないよ」

 

 どこか頼りない普段とは打って変わった真剣な顔付きに、日高の表情に一瞬ながら驚きの色が見えた。そして筒井の拳から手を離し、改めて返すのは、逃げも隠れもしないという王者海王の風格漂う不敵な笑み。

 

「面白いじゃない。そこまで言うのなら全力で叩き潰してあげる」

 



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10話 筒井の碁

 筒井の部屋にて始まった筒井vs日高の一戦。

 

 筒井が大会でも何でもないプライベートの一戦にここまで「負けたくない」と思ったのは初めてだ。

 

 去年の夏、中学囲碁大会で日高に葉瀬中をバカにされて「舐めるなッ!」と言い放った事があった。

 

 しかしその時は結局口だけに終わってしまった。海王には0ー3で敗れ、悔しさに涙を堪えきれなかった。きっと連中は「そら見た事か」と笑い、葉瀬など視界の彼方へと追いやってしまっただろう。

 

 だがもう1度だ。

 

 筒井はあの時と同じ想いを──、葉瀬を舐めるなッ! という叫びを石へと込めて、盤上へ打ち下ろす。

 

 打音の後にはカシャッ、という対局時計を押す音。この対局は大会試合と同じく時計を取り入れている。より本番に近づけようという趣向だ。

 

 

 気迫溢れる筒井の1手1手に冷静に応えていく日高。彼女は1年女子のトップであるが、男子を交えても海王中時代はナンバー3だった青木とも渡り合える実力者である。

 

 筒井をコテンパンにするのは気が引けるが、勝って当たり前の海王囲碁部に身を置く者として、この対局も一切手を抜かず全力で打つだけだ。

 

(去年の夏の大会から1年近く。久野君との副将戦の1局は見たけど、アレに毛が生えた程度じゃ勝ち目はゼロよ)

 

 

 途端、まだ30手も進んでいない序盤から日高の手が止まる。見つめるのはたった今筒井が打った黒石だ。

 

(配石から定石の型では甘いと見て、ヒラキではなくハサミか。なるほど、厳しい手ね)

 

 筒井が取った選択は、自身の安定を蹴ってでも相手の安定を許さないハサミ。それ即ち戦いの意思である。

 

(望むところよッ!)

 

 盤上へ叩き返す白石は受けて立たんとする1手。序盤から定石を外れての読み合いが始まった。

 

 両者の意地がぶつかり合い、反発が反発を呼ぶ戦いの中、日高が筒井に持った印象は、お? あれ? おやや? と──。

 

(意外とやる……?)

 

 まだ判断を下すには早い局面だ。しかしここまで甘いと思わせる手を打たれていない事も確か。

 

(隙が見えない……! て言うか見せればやられる……!)

 

 黒と白が競り合う最中、筒井の置いた黒石が日高に困惑を覚えさせた。

 

(急所を手抜いてボウシ? だったら遠慮無く打たせて貰いたいけど……)

 

 急所とは文字通り自分にとっても相手にとっても急いで打つべき所。オセロの角のように重要な場所だ。それを打たずしての露骨過ぎる緩着に、日高が訝しげにジッと盤を見下ろす。

 

 一見一気に流れを引き寄せる好機にも思えるが、ここまでの打ち方からしてどうにも罠っぽい。口元を隠すように指を当て、深く読みに入る。

 

(──ダメ、急所打ちに対してはオサエで間に合ってしまう。構わず切っても、ツケコシからの反撃でこのボウシが絶好の位置ってわけ……。公宏、よく読んでるじゃない)

 

 弱い奴が打てる手ではない。この時日高は筒井が夏の大会とは別人のように強くなっている事を確信した。

 

 顔を上げれば、その先にあるのは真剣な顔で盤へ目を落としている筒井。彼の成長ぶりを目の当たりにし、気持ちが抑え切れずについ声を掛けたくなってしまった。

 

「正直驚いたわ。ここまで打てるだなんて思ってもいなかった。舐めていた事謝らせて?」

 

「…………別に謝って欲しい訳じゃないよ。ただ葉瀬だってキミ達海王にも勝てる事を証明したいだけなんだから」

 

 余程集中していたのか、少しの間を置いて目を合わせた筒井。彼の剥き出しの闘争心に日高は口角を上げて応える。

 

「あらそう。でもさすがに勝てるは言い過ぎだと思うけど。公宏こそ海王を舐めてない?」

 

「これっぽっちも舐めてないよ。それでも勝つさ」

 

「威勢が良いのは相変わらずね。だったらここから先、私をガッカリさせないでよっ?」

 

 小さく「ふっ」と笑みを零した日高は、再び盤に視線を落として石を掴み取った。

 

 

 

 ここらで互いに矛を収めませんか? などと言う手はどちらも打たない。妥協などしない。その両者の強い意思が盤面全土に戦火を拡大させていき、戦いは変化複雑な大乱戦へと突入した。

 

 石が複雑に絡み合った目まぐるしい盤面だ。これが打ち手の精神をすり減らす。戦場が広まれば読まなければならない場所も増えていくからだ。

 

 難解な盤面をそのまま写したように、日高の表情は険しい。だがその理由はもうひとつあり──、

 

(難しい形をあっさり……! しかもどれも厳しい……!)

 

 一歩間違えば谷底の、細く高い道を駆けるような乱戦。日高はじっくり時間を使いたいのだが、筒井の早打ちに焦ってしまう。

 

 その気持ちごと抑えるように、左手で右の二の腕を掴み押さえる。

 

(落ち着け……。だけどこんなに早く打てるものなの……? もっと長考タイプかと思ってたけど……)

 

 時計に目を向ければ、日高は筒井より倍以上の時間を使っていた。というより、筒井が日高の半分しか使っていなかった。まるで早碁だ。

 

 筒井は石の形で判別し、読まなくても良い場所を切り捨てるのが日高より格段に上手く、なおかつ読み自体のスピードも速い。それは本当に必要なところでじっくり時間を使えるという有利性を生み出す。

 

 そんな早打ち技術を自分の物に出来たのは極々最近だ。

 

(代表と昼休み打ってたおかげだな……)

 

 昼食を食べてから、残り少ない昼休みでこなしていた代表との対局。普通のスピードでは途中で時間切れになってしまう。1局打ち切ろうとするために筒井は早く、それでいて丁寧に打つ事を心掛けていた。

 

 だがそれだけではない。ただ早く打つ練習ならば他の者もいくらでもやっているだろう。違うのは、代表と打つ時間は筒井にとって特別だったという事だ。

 

 今でこそ放課後も代表とは打てているが、ほんの2〜3日前までは昼休みにしか打てなかった。

 

 呪いとも呼べる訳のわからない制約を課してしまった彼女自身にとって、昼休みは普通に過ごせる大切な時間だったはずだ。筒井はそんな彼女に打って貰える数十分を1秒足りとも安く使いたくはなかった。そして楽しい事など全て放棄していた彼女にも対局を楽しんで欲しかった。

 

 1局に込めるエネルギーがまるで違うのだ。極限まで集中し、思考を最大限まで加速させ、読みの精度を維持したまま速度を上げる。呪いに縛られていた代表相手だからこそ得られた莫大な経験値が、この複雑な局面で活かされている。

 

 広く、深く、早く、正確に読む──。

 

 言うなれば筒井は見た目や性格に反して、乱戦になればなるほど強さを発揮する剛腕タイプへと成長したのだ。

 

(よし、上辺は取られたけど小さい。中央に出来た厚みで僕にやれる展開だ!)

 

 筒井が乱戦の末に主導権を掴み取った。残された手付かずの戦場を見据え、このまま積極的に戦いを仕掛け勝利も掴み取る勢いだ。

 

 

 

 読み負けた展開に、日高の顔から血の気が引いていく。

 

(まさかここまで……。悔しいけど海王(ウチ)の1年女子じゃまず歯が立たない、男子でもどれだけいるか……)

 

 流れは完全に失った。突けそうな弱点も見当たらない。だが薄っすらとだが光が見える。淡く、頼りない、しかし残された唯一の光。

 

(右辺、いけるか……? けどさすがに中央が厚過ぎて……)

 

 目を伏せる日高。強大な厚みを持たれた上に、日高に読み勝った事で流れに乗った筒井相手には厳しい選択だ。

 

(ダッサいなぁ……。公宏を散々雑魚扱いした挙句このザマって……)

 

 自分が筒井ならばザマアミロと笑ってやるだろう、と形勢の悪さ以上にその恥ずかしさが日高の闘争心を失わせていく。投げるには早過ぎる局面にも関わらず、投了へと心が傾いていく。

 

 チラリと上目使いで筒井を見れば、尚もプライベート対局とは思えぬ真剣な表情を保っている。対局時計を持ち出した事もそうだし、まるで大会のような雰囲気だ。

 

 そういえば、とふと思い返す。

 

(今朝走った時に言ってたっけ。海王に勝ったとか……)

 

 普段特に走っていないと言っていたにわかランナー筒井があれだけ走れていたのは、海王を倒す事にやはり特別な思い入れがあるのではないだろうか、と日高はそんな気がした。

 

 ここで投了してあっさりと勝ちを許せば、喜びの一方で「海王はこんなもんか」と思われてしまうだろう。

 

 少し歯を食いしばる。嫌だと思った。舐められる事に対してではない。思い入れだか何だか知らないが、筒井を大切にしたい日高は、筒井にとって大切であろうそれを「自分が目指したのはこんなもんか」という安いモノにしてしまう事を嫌だと思った。

 

 だったら負けられない。全力を──、死力を出し尽くしても、届かない壁でありたいと思った。

 

 弱々しかった右手が強く握り込まれた。両の瞳は鋭い眼差しを形取り、盤上に残された勝機を真っ直ぐに見据えた。

 

(右辺──、ここしかないッ!)

 

 白の碁笥から掴み取ったのは覚悟──。

 

 盤上へ打ち下ろすのは不屈の意志を込めた覚悟の一撃だ。

 

(勝負ッ!)

 

 元より盤上に流れなど無い、あるのは石だけだと言わんばかりに己を奮い起たせた怒涛の猛追が始まった。

 

 海王の部員の数は他を圧倒する。それだけ様々な碁、感性に触れる機会があるという事だ。それは同じ相手ばかりや、打って終わりのネット碁では到底得られない経験値となる。

 

 読み合いでは筒井に遅れを取ったが、中学からおよそ3年強、3桁以上の海王部員達に磨かれた感性は筒井など足元にも及ばない。

 

(右辺はシノギ切った! これでまだ届く!)

 

 日高の巧みな打ち回しに、勝勢だった筒井の表情に暗雲が立ち込める。

 

(う、上手く攻めをかわされた……。これじゃあせっかくの厚みが囲うだけに終わってしまう……)

 

 筒井は大金払って銃を買ったのに弾が盗まれたような状態。弾が無いので銃でぶん殴るしかないという、支払った大金に釣り合っていない損な展開だ。

 

 筒井は全力で打ち合うが、もう戦いの場は限られており、得意とする盤面広範囲に及ぶ乱戦は起こらない。そうなるとこの中盤戦、総合力で劣る筒井が不利だ。

 

 日高の持ち時間は既にゼロ、1手30秒以内に打たなくてはならない。しかし追い詰められたからこそなのか、ここに来てさらなる強さを発揮している。

 

 両者の差がぐんぐんと縮まっていく──。

 

(並んだ! いや、私の方が少し厚い! このままゴールまで駆け抜ける!)

 

 局面は終盤戦に突入、この時点で日高は9割方勝利を確信していた。

 

 しかしそれは筒井を知らな過ぎるゆえの甘い見通しだ。

 

(い、いけない……ッ!)

 

 彼女の目を大きく見開かされたのは、見事と言うべき筒井の圧巻のヨセ手順であった。

 

(何て正確なヨセ……! 不味い、離される……!)

 

 筒井にはこれだけは負けないという武器が2つある。第一の刀、乱戦時の読み、そしてこの終盤に抜いたのは第二の刀、他の追随許さぬ正確無比のヨセだ。

 

 身を断ち切らんと食い込んでくる第二の刀に、日高の頬を汗が伝わり落ちた。

 

 手番が回って来ても何も出来ない。ただ刀がこれ以上食い込まぬようにするだけで精一杯だ。筒井を咎められる手は皆無──。

 

 

 

「3目半……!」

 

 (こうべ)を垂れた筒井が噛み締めるように口にした。これが持てる力全てを出し切った結果だ。

 

 膝の上で拳をギュッと握り締める。掴み取ったのは勝利──。

 

「僕の3目半勝ちだ……!」

 

 喜びに弛緩せず、真剣な表情のまま顔を上げた筒井は、日高へと対局結果を突き付けた。どうだ! 参ったか! これが葉瀬だ! 舐めるなよ! とその目が語っている。

 

「ここの所は失敗したわ。先に利かしを打っちゃったけど、こうしてサガリを打った方がヨセで得してたのよね」

 

 ふんっ、と少しふてくされた感じで盤上の石を動かす日高。その様子は筒井としては意外であり、思わずきょとんとしてしまう。

 

「あ、あれ? 僕なんかに負けたら、もっと悔しがるかと思ったのに」

 

「悔しいわよ。負けたら悔しいに決まってるじゃない」

 

 ちゃんと悔しがってはいるのだろうが、釈然としない。何故なら筒井は、

 

『バ、バカな……!? こんな事ありえないわッ! 私は、私は海王なのよ……ッ!? そうよ、これは何かの間違い、そうに決まっているわ!』

 

 みたいなのを本気で期待していたからである。

 

 そんな勝手な事を考えられているとはつゆ知らず、日高は短く息を吐いて言葉を続ける。

 

「……悔しいけど、公宏が強くて嬉しいって気持ちもあるわ。あなたとは碁以外で仲良くなろうって思ってたくらいだし、ますます好きになっちゃった」

 

「す、好き……?」

 

 ポカンとする筒井に日高は柔らかな表情で頷いた。

 

「ええ。好きよ、公宏。私はあなたが好き」

 

「そ、そんないきなり……! からかってる……?」

 

 筒井は赤くなった顔を右手で隠すように何度も眼鏡をくいくい上げる。

 

「ううん。本当に大好き。好きで好きでたまらないわ。ああ、念のため言っておくけど友達としてね」

 

 最後の念押しで勢い余って眼鏡がおでこまで上がってしまった。しかしたとえ友達としてでも、女子どころか誰かに「好き」と言われた事のない筒井は悪くない気分だ。

 

 それなら僕も友達として好きって言った方が良いのかな、と筒井がドキドキしながら迷っていると、日高にしては珍しく遠慮気味にぼそぼそと喋り始めた。

 

「……教えたくなければそれでも構わないけど、あなたの腕は部の中でどのくらいの位置かしら」

 

 筒井にはその質問に、葉瀬も警戒しなければならないという日高の意思が見えた。まだ創部ひと月にも満たない葉瀬を海王が気にしているのだ。部長としてたまらなく嬉しい。

 

 どのくらいの位置かと聞かれれば、まず代表は論外だが、筒井はオラ子にも勝った事がない。囲碁部に入ってからとてつもない早さで成長し、代表も「あの子は天才」と称している。

 

「4人中、僕は3番目かな。4番目の子には3回に1回負けるくらいだから、抜かれちゃうかもしれないけど」

 

 その言葉は日高に衝撃を与え、表情に緊張が広がった。筒井が大将を張るチームであったなら、1年生のみが出られる若鶏戦でも海王の敵ではない。

 

 だが今自分に勝った筒井が三将クラスという事になれば話は別だ。実際は代表が「私は出るつもりないから補欠にして」と言っているので少し違うのだが、どちらにせよ楽観視出来る相手ではない。

 

「……何よ、ちゃんと強いチームじゃない。それに、カラオケにいたあの子も戦力になったみたいね」

 

「ギャル子? うん。キミを倒すって燃えてるよ。そう言えばあの時わざとギャル子を挑発したんだろ?」

 

「あら、気が付いてたのね。部申請の頭数になれれば儲け物くらいに思ってたんだけど、やりたくもない悪役を買って出たかいがあったわ」

 

 ニヤリと怪しげな笑みを浮かべる日高の顔は本当に悪役っぽい。

 

「でもどうしてそんな事を? 葉瀬に囲碁部が出来ようと出来まいと、キミには関係ないのに」

 

「大いにあるわよ。自分のやってる競技の人口が増えたら嬉しいでしょ? 大会だって参加校が多い方が盛り上がるし」

 

 なるほど、と筒井は納得。碁の人気が下火なのは勧誘の日々で骨身に染みている。

 

「それもそうだね。でもあれは悪役を買って出たって言うより、キミって元々あんな感じな気がしたけど……。他の女子達と一緒に僕の事笑ってたし……」

 

 海王女子達による「クスクス、キモいねー」だのの嘲笑は今でも忘れない。

 

「わ、私は笑ってないわよ? そう、囲碁部でもないあなたなんかに何の興味も無かったものっ! あなたなんてバカにする価値すら無いゴミクズだと思ってたの! 本当よ! お願いだから信じて!」

 

 日高が必死に何の弁明をしているのかさっぱりわからず、筒井は心底嫌そうな顔をする。

 

 が、次の瞬間には日高は「ふっ」と笑い、

 

「でもそれも遠い過去の事。今は掛け替えの無い友、いずれは互いに全てをさらけ出せる親友になりたいとさえ思っているわ」

 

「し、親友……。ゴミクズから随分上がっていくなぁ……」

 

「そういう訳で、休憩挟んだらもう1局だから。洗濯物取り込んで来るわ」

 

 言いながら立ち上がった日高。ところが何故かドアではなく、筒井の後ろへ回り、突然ギュッと首に腕を回し抱き着いてきた。

 

 脈絡の無い行為に筒井は驚きながら後ろを向こうとする。首の後ろには日高の頬が触れ、背中にはノーブラの胸の感触まで。しかし囲碁部で黒ギャル達に鍛えられている彼にとって、この程度屁でもない。

 

「何すんのさ。洗濯物取り込むんだろ」

 

「良いじゃない、友達同士のスキンシップは大切よ?」

 

「キミ、学校の男友達ともこんな事してるの……? 何か心配になってきた……」

 

 紳士かつ、精神鍛錬を積んだ筒井だからこそ何も起こらずに済んでいるのだ。痛い目に遭ってからでは遅いのだ。筒井以外の男は漏れなく怖いのだ。

 

 日高は筒井の言葉にムッとして、さらに体重を掛けてくる。

 

「まさか。こんな事するのは公宏だけよ。て言うか公宏からもこうやって気軽にスキンシップして欲しいんだけど」

 

「こうやってって……。女の子に抱き着くとか出来る訳ないだろ」

 

「女とかあまり気にしなくて良いのに。男女を超えた友情関係って素敵じゃない?」

 

「無理言わないでよ……。もう離れてってば」

 

 背中に女を主張するモノをむにゅむにゅ押し付けられては何の説得力もない。突き放すように言われた日高は「あら残念♡」と筒井の頬にチュッと音を鳴らした口付けをした。

 

 これには筒井も苦笑い。

 

「それはやり過ぎじゃないかな……」

 

「よし、友情パワー充電終わりっと。もう公宏の打ち方はわかったし、次は負けないからね」

 

 パッと体を離した日高は満足げな笑顔をして、今度こそ部屋を出て行った。

 

 筒井はバタンと閉められたドアを呆れた顔で見つめながら、

 

(やれやれ。大変な子と友達になっちゃったな……。もしかして欧米に住んでたとか?)

 

 と、呑気な事を考えていたのだが、ドアを挟んだ廊下では──、

 

(やっちゃった……。どうしよう、はしたない女だって思われたかも……)

 

 立っていられない程足を震わせている日高の姿があった。これ以上無いくらい両目を大きく開き、口を両手で覆い息を荒くしている。

 

 友達として好きという言葉に嘘はないはずなのに、心も体も筒井を求めてしまいどうしようもなかった。

 

(だって今日よ? 公宏とは今日やっとまともに話し始めたばかりなのに、こんな事ってあるの……?)

 

 自分の気持ちがハッキリしない。抑えきれない筒井への想いも、もしかしたら体目当てもといマッサージ目当てなのでは、とさえ思ってしまう。それは真面目な日高としては受け入れたくない答えだ。

 

(ちゃんと自分の気持ちと向き合って、まずはそれからよ。ああ、でものんびりしてたら他の女に取られるかも……)

 

 他の女という考えが出て、ふと思う。

 

(公宏ってやけに女馴れしてない……? さっきだってくっついても全然動じなかったし……。まさか意外とモテるのかしら……)

 

 見えない女の影が黒い渦となり、日高の胸を嫌な予感で埋め尽くしていった。

 

 

 その後は日が落ちるまで碁を打ち、夕食を食べ、リビングのソファでテレビを見ながら隣の筒井に軽くベタベタしていた日高。

 

 一緒にいればいるほど好きになっていく。その頃には、やはりこの気持ちは友達という枠の中では収まりそうにないと確信していた。

 

 告白する勇気はない。散々「友達として好き」と言ったばかりなのでなおさらだ。だが今度はその言葉を武器に「友達同士のスキンシップだけど? 普通だけど?」と筒井にしがみついたりと、仮初(かりそ)めの幸せに浸っていた。

 

 しかしヴーヴー、と先刻の嫌な予感が的中するかのように筒井のスマホが震え始めた。メールの受信だ。

 

 日高は筒井がポケットから取り出し操作するスマホをつい覗き込んでしまい、表情をハッとさせた。

 

(お、女……!?)

 

 チラリと目に入ったのは津田久美子の名前。こうしちゃおれん、と思い切り体を傾けて、筒井の胸元とスマホを持つ手元の間に頭を割り込ませる。

 

「いくらなんでも覗き込み過ぎじゃないかな……」

 

「津田久美子……。女よね? 説明して貰えるかしら? 友人として公宏の女関係を把握しておく義務があるもの」

 

「義務って……。葉瀬中囲碁部の後輩だよ。明日ウチの囲碁部と練習試合するから『明日楽しみですね、よろしくお願いします』って、それだけ」

 

「ふぅん……」

 

 中坊か、と日高は少し安心。しかしその直後、再びスマホが震え始めた。

 

「あっと、今度はギャル子からメールだ。ふんふん、明日の待ち合わせ時間の確認か」

 

「ギャル子……。あのお腹出したギャルね。公宏はああいうエッチっな格好した子の方が好みなのかしら? 友人として公宏の好みを把握しておく義務があるもの」

 

「だから何その義務……。んー、エッチっぽいかはともかく、ギャル子は好きなタイプだけど……。えへへ、こういう事言うの照れるね」

 

 言われた日高は己の格好を再確認。色気ゼロの服装にふて腐れるように倒れこみ、筒井の膝に頭を乗せた。

 

「そうよね。私みたいに、こんなセンスのかけらも無いだぼだぼスウェットの生活感丸出しのイモ女より良いわよね」

 

「それ僕が貸した服なんだけど……」

 

「うるさいクソバカ」

 

「えぇ……」

 

 膝枕のままテレビに顔を向け、いじけた返事を返され筒井は戸惑うばかりだ。

 

 

 

 しばらく無言の時間が流れていた。

 

 やっている番組も微妙なので、筒井は日高の体で軽くドラムの真似事をして暇を潰していたのだが、それにも飽きたので大きく伸びをしながら大あくび。

 

「もうそろそろ帰りなよ。明日早いんでしょ?」

 

 筒井が時計を確認すれば夜の9時前。テレビにはスタッフロールが流れており、時間的に明日合宿の日高を帰らせようと思ったのだが、

 

「泊まる」

 

 早い返事だった。まだいじけているようで、ツンとした口調のままだ。

 

「ダメ。女の子は泊められないよ。友達でも親友でも、やっぱり男と女なんだからその辺はやっぱりケジメ付けなきゃ」

 

 真剣な眼差しに負けるように、日高は目を伏せながら頷いた。残念な反面、筒井が流されないしっかりした人間だとわかり嬉しくも思う。

 

 よいしょ、と体を起こした日高は眉を下げながらも笑顔を作っていた。

 

「わかったわ。次いつ会えるかわからないし、名残惜しいんだけどね」

 

「家近いんだからいつでも会えるよ。送って行こうか? 僕もちょっとコンビニ行きたいし」

 

 先にソファから腰を上げた筒井であったが、服を掴まれてしまう。

 

「でもその前に、何か忘れてない?」

 

「忘れるって何が?」

 

 日高は拗ねたように口を尖らせる。

 

「お昼にカレー作ったらマッサージしてくれるって約束でしょ? しつこいと嫌がられると思って黙ってたのに……。焦らし過ぎよ。マッサージしてくれなきゃ帰らない」

 

「あ、ああ、そうだっけ……。でも夜だしあんまり大声出さないでよ?」

 

「善処するわ」

 

 ハッキリ約束した訳ではないが、カレーの他にも作り置き料理を作って貰った恩はある。だったらまぁ良いか、と筒井は了承したのだが──。

 

 

いッ❤︎ おお゛ッ❤︎ あへッ❤︎ しんじゃうッ❤︎❤︎❤︎ あッ❤︎ あ゛〜〜ッ❤︎ 公宏ぉッ❤︎ 公宏好きぃ〜ッ❤︎ 公宏のお嫁さんにしてぇッ❤︎❤︎❤︎ ────

 

 

 筒井が玄関先で頭を下げている。筒井の前にいるのはお隣さんで、怖そうなおじさんだ。

 

「もう夜の9時過ぎてんだわ。わかるよな?」

 

「はい」

 

「スゲェ響くのな? 普通に大声とかなら多少は我慢するよ? だけどああいう声はダメだろ。子供に聞かせんのは良くないってわかるよな?」

 

「はい」

 

「俺の言ってる事間違ってるか? 間違ってないよな?」

 

「はい」

 

「お前さっきから『はい』しか言ってねぇけど、ちゃんとわかってんの?」

 

「はい」

 

「はは、お前面白い奴だな。なぁおい」

 

「あはは」

 

「何がおかしいんだよ。何も面白い事言ってねぇよな?」

 

「はい」

 

 日高の卑猥な喘ぎ声のせいで筒井は散々であった。そしてこう思うのだ。

 

(とほほ……。マッサージなんてこりごりだよ……)

 



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11話 塔矢のライバル

 筒井が日高と共にいた時から少し時間を戻しての4月の半ば──。

 

 東京市ヶ谷に拠を構える日本棋院。プロ棋士の対局が行われる場所であるが、一般人も自由に出入り出来て売店や対局コーナーもある。

 

 そして建物内には碁関連の新聞や書籍の編集部もあり、デスクが並ぶ部屋の奥では、塔矢アキラが丸眼鏡にヒゲの生えた少し太った中年記者による取材を受けていた。

 

 ペンとメモ帳を構え、前のめり気味にソファに腰を掛けている中年記者。丸メガネと鼻の下にヒゲを蓄えた、少々太り気味の彼の名は天野という。

 

 天野はテーブルを挟んだ向かいソファに座る塔矢にあれやこれやと尋ねている。碁に関係ないプライベートな質問もちらほら。これからの囲碁界を背負うスーパースターなのだから取材に力も入るというものだ。

 

 塔矢も面白いかどうかはさて置き、小粋なジョークを交じえてしっかり受け答えしている。まだ中2になったばかりなのだが、その辺の同年代とは比べ物にならない程大人を思わせる雰囲気だ。

 

「来月はキミにとって初めての若獅子戦だけど、若手の中でライバル意識している相手とかいるのかな? ハッキリ言って塔矢君の敵になるようなのはいないと思うけど」

 

「いえ、そんな事ありません。皆さん強力なライバルだと思っています。もちろん同期の辻岡さんと真柴さんも」

 

「はっはっは。キミらしい答えだな」

 

 笑ってはいるが内心少しつまらないと思っている天野。同期や他の若手など相手にならないのは誰が見ても明白なのだ。

 

 スーパースターが勝って勝って勝ちまくるのも悪くはないが、碁界がもっと盛り上がるためにはライバルの存在が不可欠だ。

 

網代木(あしろぎ)さんがキミのライバルになってくれると思ったんだけどな。実力もルックスも抜群。あの子に期待する声は大きかったよ」

 

 残念そうに語った天野へ、塔矢がためらいを思わせる口調で尋ねる。

 

「あの、彼女は今どうして……」

 

「お、気になるかい? 彼女、プロになったら毎号特集組みたいって意見も出るくらいに可愛いしね、ハハハ」

 

「あ、いえ、そういう意味では……。僕が聞きたいのは今年のプロ試験を受けるとか、そういった話を……」

 

「院生師範の篠田先生も心配で何度か足を運ばれたそうだが、全く碁を打っていないらしい。碁界は宝をひとつ失ってしまったよ」

 

「そう……ですか……」

 

 塔矢は視線を何処でもない方へ向けた。胸に残るのは去年のプロ試験で打ち切られる事のないまま幕を下ろした1局だ。決着はプロの世界で──、そんな願いはあっけなく崩れ去ってしまった。

 

 

 取材を終えた塔矢は家路へ着くために地下鉄車両に揺られている。ドア窓に写る自分の顔からは覇気が感じられなかった。

 

(つくづくライバルというモノに無縁なんだな……)

 

 プロになったばかりだと言うのに、このままひとつひとつ対局をこなし、上へと登っていくだけの人生が早くも退屈にさえ思えて来た。

 

「進藤……」

 

 ふいに、かつてライバルだと思っていた者の名を口にしてしまった。ハッとしてしまったが、幸い他の乗客には聞かれていない。

 

(若獅子戦……。それにさえ出て来られないようなら、もう──)

 

 あんな奴はライバルに値しないと思う反面、心の片隅にはまだ砂粒程度の何かが残っていた。

 

 

 ◆

 

 

 5月3日のゴールデンウィークの初日。すっかり日が落ちた頃、塔矢が一軒家の玄関先で50代くらいの男性に見送られている。

 

「塔矢先生、今日はありがとうございました。気を付けてお帰り下さい」

 

 指導碁の仕事を終え帰宅するところだ。父親よりも年上の者に敬われる事に気恥ずかさを覚えながら「はい。またよろしくお願いします」と一礼し、塔矢はその場を後にした。

 

 

 初めて訪れた街な上に日も落ちている。路地の入り組んだ住宅地の中、駅への道を間違えないように足を進める。

 

 大通りに出た駅前。真っ直ぐ駅へ向かっていた塔矢であったが、ワックや牛丼屋が目に入ると腹に手を当てて立ち止まった。

 

(お腹空いたな。何処かで食べて帰ろうか)

 

 普段は滅多に外食をしないのでどの店に入ろうか迷う。それもひとりでなので、ちょっと大人になった気持ちになり胸が弾んでしまう。

 

 結局無難にファミレスにして店内へ。連休中でも夕食の時間帯な事もあり、そこそこ賑わっている。

 

 お好きな席へどうぞ、と言われ奥の席へ行こうとした時だ。見覚えのある人物がガツガツと料理を平らげている姿が目に入った。でっぷりと太った男、プロの倉田厚だ。

 

「倉田さん……?」

 

「ん? ああ、塔矢先生の息子さんじゃん。塔矢アキラ君だっけ」

 

 名を呼ばれた倉田は通路の塔矢を見上げ、再び料理に目を戻した。テーブルには空いた皿が回転寿司のように積まれており、全てひとりで食べたようだ。

 

「もしかしてこの辺りにお住まいなのですか?」

 

「そうだよ。その格好、キミは指導碁の帰りとか?」

 

 スーツ姿の塔矢と私服姿の倉田。お互いに服装でそう予想した。

 

「はい。やっぱり先方の家に伺うのは緊張しちゃいますね。あの、ご迷惑でなければご一緒してもよろしいですか? 一度倉田さんとはお話してみたかったので」

 

「良いけどおごらないぞ」

 

 細めた目を向けられた塔矢は「あはは……」と乾いた笑いと共に、倉田の向かい席に腰を下ろした。

 

 

 

 料理を食べながら碁談義──。

 

「だから本当に怖い奴は下から来るんだよ」

 

「なるほどっ」

 

「キミも上ばっか見てちゃいけないぞ」

 

「はいっ、肝に銘じます」

 

 子供っぽくて変な奴と評判の倉田だが、碁に関しては真摯(しんし)であり、塔矢は何度も頷いている。塔矢門下以外の大人とこういった話をするのは実に有意義であった。

 

 そんな話の腰を折るかのように、倉田の肩をつんつんと突っ付く輩が現れた。

 

「んちゃっ☆ お兄さん」

 

「何だよ、ここでメシ食ってたのか」

 

 ガッツリ脚を出したショートパンツ姿の黒ギャル2人。ギャル子とオラ子だ。

 

 突如出現した黒ギャル2人に塔矢は「だ、誰?」と目を丸くしている。そんな彼を一瞥した倉田。

 

「妹とその友達だよ。コイツ、プロの塔矢アキラ。塔矢名人の息子な。たまたま会ってさ」

 

 紹介された塔矢は初めて接触した未知の人種に緊張した面持ちでペコリと頭を下げた。

 

「えっ!? 塔矢アキラ!?」

 

「へぇ、スーツなんか着てっからブロかなって思ったけど、まさかあの塔矢アキラとはねぇ」

 

 妹はともかくとして、その友達までもが自分を知っているような口ぶりに意外そうな顔をする塔矢。

 

「僕の事をご存知なのですか?」

 

「うん。顔は知らなかったけど。家に来るお祖父ちゃんの弟子の人とかが『塔矢アキラ、ついに来たか……。どこまでやれるか見ものだな』とか言ってるし」

 

 弟子? と頭上にクエスチョンマークを浮かべる塔矢に倉田から捕捉が入る。

 

「コイツ、桑原先生の孫」

 

「桑原先生のッ!?」

 

「そうだよ。あげ〜っ☆」

 

 自然な動きで塔矢を挟んだ席に座っていく黒ギャル達。倉田から「おい」とひと声飛んでくる。

 

「何で座ってんだよ。今プロ同士で碁界について語り合ってんだから」

 

「良いじゃん。なぁ塔矢ぁ♡」

 

「ぼ、僕は構いませんけど……」

 

 オラ子に膝をすりすり撫でられ、ついでに色っぽい声を受けた塔矢は照れた様子でテーブルに視線を落としてしまった。

 

 ギャル子も面白そうに、塔矢が食べているオムライス皿のスプーンを手に取った。

 

「可愛い〜。はい、あーんしてあげる♡」

 

「お前ら中学生をたぶらかすなよ」

 

 困った奴らだ、と腕を組みソファに背中を預ける倉田であったが、太い首を伸ばしキョロキョロと通路の方を見渡し始めた。

 

「代表は? 3人で遊園地行ったんだろ?」

 

「面会時間無くなりそうだからって、さっき病院行った。メシも向こうで一緒に食ったし、ウチらちょっと茶ァしに来ただけだし」

 

「そっか。ちっとはマシになったとは言え、あいつも大変だな」

 

「でも楽しかったー。て言うか代表と遊びに行ったの超〜久しぶりだったしね」

 

 倉田も知ってる黒ギャル達の友達で、家族が入院している──。塔矢はそう察し、別段興味は持たなかった。

 

 

 

「へぇ、おふたりとも囲碁部なんですか」

 

 異界の住人達と何を話せば良いのかわからなかったが、共通の話題を見つけられ塔矢の声が明るくなった。

 

「ああ。出来たばっかだけど、来週の大会で葉瀬高の名前が一気に広まるはずだぜ?」

 

 高校ならなおさら関係無いはずなのだが、オラ子の口から葉瀬の名前が出てピクリとする塔矢。そして変な反応をした事を誤魔化すように、

 

「自信があるのですね。碁は倉田さんや桑原先生に教えて貰っているのですか?」

 

「うん。家ではお祖父ちゃん、学校では代表に教えて貰ってるよ」

 

「代表……? ああ、先ほども言っていた代表とは部長さんの事ですか?」

 

 ギャル子の言葉を受け、そう解釈した塔矢であったが、向かいの倉田から少し強い口調が飛んでくる。

 

「網代木の事だよ。お前プロ試験で打ってるから知ってるはずだぞ」

 

「この子。ちなみにこっちが部長ね」

 

 え……? と固まってしまう塔矢。予想外の方向からずっと気にしていた名前を聞かされたのだ。さらにギャル子に見せられたスマホの写真により目が大きく開いていく。

 

「覚えてるだろ?」

 

「……忘れませんよ。あれほどの打ち手、そしてあんな形でプロ試験から消えてしまった事、僕はずっと気になっていました」

 

 倉田の問い掛けを受け、塔矢は早まる鼓動を抑えるようにゆっくりと頷いた。

 

「お前が勝ったとはいえ強かっただろアイツ。師匠はいないんだけど、俺や桑原先生もたまに見てやってたからな」

 

「勝った……? 勝ったですって……!? 僕はアレで勝ったつもりはこれっぽっちもありませんッ!!!」

 

 両手でバンッ! とテーブルを叩き立ち上がった塔矢。あまりの大声に店内が数秒間静寂に包まれた。

 

 他の客達の迷惑そうな視線を受け、塔矢はハッとして気まずそうに腰を下ろした。

 

「彼女は今どうしているのですか……? 全く碁を打っていないという話を耳にしましたが……」

 

「最近はコイツらと囲碁部で打ってるぜ?」

 

「そうですか、少し安心しました……。碁を捨てた訳ではなかったのですね」

 

 2度と打たないつもりなのでは、と覚悟していたので、とりあえず胸を撫で下ろす塔矢。

 

「俺もこないだそれ聞いて安心したんだよ。アイツから碁取ったら何も残らねぇからな。ハハハ」

 

「あー、本人にそれ言うと『失礼なっ、残りまくりよ! まず美が残るじゃない! 美がっ!』ってキレるよ」

 

「そうそう、自称超絶美少女だからなっ」

 

 倉田の冗談交じりの発言を発端に笑いが起こった。

 

 だが塔矢には笑う余裕など無く、早く本当に聞きたい事を尋ねたかった。

 

「それでプロへは? 彼女は今年のプロ試験、受けるつもりはあるんですか?」

 

「多分受けないっつってたな。でもアイツも復活したばっかだし、その内考えも変わるかもしれねぇけど」

 

「復活?」

 

 オラ子の意味深な言い回しを受け、塔矢は怪訝に眉をひそめた。

 

「あ、いや、なんでも」

 

 他人にペラペラ喋る事でもないのでオラ子は目を泳がせるが、塔矢には大体察しがついている。

 

「……先ほど網代木さんが病院に行ったと言っていましたが、やはりお母さんの事で?」

 

「……そうだよ。事故に遭ってから1度も目を覚ましてねぇ。もちろん今も。その事とかでずっとって感じだったよ」

 

「い、今も……」

 

 塔矢もそこまでは知らなかった。篠田師範やプロ試験を受けていた院生達から聞いていたのは代表の母親が事故に遭った事と一命を取り留めた事だけだ。何と言ったら良いのか言葉が見当たらず、開き掛けた口を結んでしまう。

 

「でも色々あって、最近は元気にやってるんだよ? 囲碁部にも入ったし、今日だって遊園地ではしゃいでたし」

 

 スマホを手に、最近撮った代表の写真を何枚も見せるギャル子。確かにどれも楽しそうに笑っている。

 

 塔矢は代表の境遇を聞き、自分の想いを押し付ける事に躊躇っていたが、この写真を見て言ってみる事にした。

 

「……彼女と打たせて貰えませんか? プロに来るにしても来ないにしても、僕は彼女とちゃんと打ち切りたいんです」

 

「別に良いんじゃん? 連休中は大体部室いると思うし、気軽に来いよ」

 

「本当ですかっ? なら早速明日にでも──」

 

 太っ腹なオラ子に感謝する塔矢であったが、ギャル子から待ったが掛かる。

 

「オラ子、明日は葉瀬中に合同練習しに行くんじゃん。あ、でもそれに塔矢君がサプライズゲストとして登場ってのも面白そうかも?」

 

「葉瀬中へ?」

 

「ウチの部長がOBなんだよ」

 

 そう言えば、と塔矢は先ほど見せて貰った写真の数々を思い出した。代表の事で頭がいっぱいで気にも留めていなかったが、部長と呼ばれていたのは葉瀬中で副将をやっていた人じゃないかと。

 

『よくも僕の可愛い後輩に酷い事言ったな!』

 

 何となくこんな事を思われていそうで、筒井にはあまり歓迎されそうにない。

 

(それに進藤は来るのだろうか……)

 

 去年の夏に「もう2度とキミの前には現れない」と宣言したのだ。その後院生研修部屋で思わず目が合ってしまった事はあっても、言葉ひとつ交わしていない。

 

(どうせ若獅子戦で会うだろうし、あんな宣言も今さらか。それに彼の事などどうでも良いじゃないか……。いやしかし……)

 

 色々考えてしまい、葉瀬中へ行く事はそう簡単ではない。代表とすぐにでも打ちたい気持ちを押し殺してこう答える。

 

「僕が行けばあちらの迷惑になるかもしれませんので……。やはり連休中に部室へ伺わせて頂きます。網代木さんにそうお伝え下さい」

 

 

 

 

 しかし翌日。塔矢は海王の制服に身を包み、葉瀬中の校門近くに立っていた。結局我慢出来ずに来てしまったのだ。元々打ちたい相手と打つためならばなりふり構わない人間であり、海王中囲碁部をメチャクチャにした事もあるし、プロ試験もサボった事もある。

 

 が、どうにかここまでは来たものの足が重たい。

 

(やはり帰るべきか……。明日でも明後日でも良いんだし……。いやしかし、折角来たのに……)

 

 部活動やら何やらで登校してくる生徒達から「海王だ」と注目されながら、その場で悩み込む塔矢。

 

 そんな時であった。

 

「あ、やっぱり塔矢君だ」

 

 明るい口調で声を掛けてきた女子生徒。藤崎だ。後ろには初対面の津田もおり、人見知りなのか恥ずかしそうにモジモジしている。

 

 塔矢は「あ……」と言葉を失いながらも軽く頭を下げた。

 

「どうしたの? ヒカルに用?」

 

「い、いえ。実は昨日葉瀬高囲碁部の方に合同練習を誘われまして……。一度お断りしてしまったのですが、気が変わったと言いますか……」

 

「え? そうなの? でもみんなが来るのお昼過ぎからだから、まだ大分時間あるよ?」

 

 プロが部活の練習に来る時点で「何で? 参加する意味あるの?」と思うのが普通だろうが、ヘボの彼女達は気にはならなかったようだ。

 

 そして時刻はまだ午前9時を回ったばかり。連絡先を交換していなかった事を後悔する。

 

「困ったな、時間を確認していなかったもので……。でもおふたりは何故こんなに早く?」

 

 互いに顔を見合わせた藤崎と津田はニコッと笑うと、持っていたスーパーの袋を塔矢に見えるように前へ突き出した。

 

「葉瀬高の人達を歓迎したいから、家庭科室でクッキー作ろうかなって。そうだ、塔矢君も一緒に作る? それでヒカルにクッキーあげたら?」

 

「何故僕が進藤にッ!?」

 

 藤崎から「我ながらナイスアイデア♪」のように言われたが、塔矢はありえな過ぎて耳を疑った。もしそんな事をすれば正気を疑われるのは避けられないだろう。

 

「だって去年の夏の大会からずっとケンカしてるんでしょ? ヒカルクッキー好きだから仲直り出来るかもしれないよ」

 

「別にケンカしている訳では……」

 

 普段は「彼ごとき」だの「あんな奴」だの言っており仲直りなどしたくもないが、塔矢も出来た人間なので藤崎達の前で進藤をコケにするような発言はしない。

 

「どうせ時間潰さないといけないんだし、一緒に作ろうよ」

 

 藤崎から強引に腕を引かれる塔矢。しかし普通に進藤と会えばギャーギャー言ってくるのは目に見えている。下手したら追い返されるかもしれない。今日の目的はあくまで代表なのだ。

 

 それならクッキーでも与えておけば動物のように少しはマシになるかも──。そう思い、流れに身を任せる事にしたのであった。

 

 



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12話 奪われたライバルの座

 5月4日、ゴールデンウィーク2日目。

 

 早朝、寝巻き代わりの黒ジャージに身を包んだ進藤ヒカルが親に言われて玄関先のポストに朝刊を取りに出て来た。

 

「今日は筒井さんが来るから楽しみだよな。後この前ラーメン屋連れてってくれたオラ子さん。他にはどんな人がいるんだろうな」

 

 新聞を取り出しながら独り言──、と言うより誰かに話し掛けるように喋っている。

 

「おはよう、ヒカル君。独り言かい?」

 

「あ、高田のニイちゃん」

 

 門の向こうから顔を覗かせ声を掛けて来たのは、髪を真ん中で分けた制服姿の少年だ。彼は進藤家のはす向かいに住む高田。海王高校1年で、囲碁部に在籍している。

 

 誰もいないと思っていたのでギクリとしつつも、進藤は高田が肩に掛けている大きめなスポーツバッグが目に入り、小さく首を傾げる。

 

「休みなのにどっか行くの?」

 

「今日から長野で合宿なんだ。他校の囲碁部やプロの先生方も来るんだよ」

 

「へぇ。プロって誰?」

 

「えっと、倉田五段と芦原四段、それと冴木四段だったかな。みんな二十歳くらいの若手プロさ」

 

「ふぅん、そんなにプロを呼ぶんだ。やっぱ海王はスゲェなぁ」

 

「それだけレギュラーになるのは大変なんだけどね。来週は1年生だけの大会があるから、僕もメンバーに選ばれるために頑張らきゃ」

 

「ああ、それ知ってる。葉瀬高に行った俺の先輩も出るみたい。それで今日俺が葉瀬高のみんなを鍛えちゃうから、海王も油断しない方が良いよ」

 

「あはは、それは怖いなぁ。じゃ、行って来るね」

 

 互いに冗談っぽい口調だ。まぁ海王に勝つとかないだろ、と思ってしまうのは仕方のない事だろう。

 

 進藤は高田を見送ると玄関へ足を向けた。そしてまたもや不気味な独り言である。

 

「メシ食ったら学校行くまで打つぞ、佐為」

 

 

 

 進藤の部屋は棚代わりに壊れた冷蔵庫がある以外は普通の少年の部屋で、強いて挙げれば碁の本と碁盤があるくらいだ。

 

 進藤は机に置かれている1枚の紙を手に取り、ワクワクを宿した瞳でジッと見つめる。

 

 2週間後の5月半ばに行われる若獅子戦のトーナメント表だ。進藤ヒカルと塔矢アキラの名前が並んでおり、2回戦で戦う事が出来る。

 

「へへ、こうやって名前が並んでると対等って感じだよな。今の俺の力を見せてやるぜ」

 

『ヒカル。まずはきっちり1回戦を突破する事を考えなさいな。相手はプロなのですよ?』

 

「うっさいな、わかってるよ」

 

 顔を歪ませた進藤の瞳には烏帽子(えぼし)を被った狩衣衣装(かりぎぬいしょう)の若い男が写っていた。

 

 現代の世にそのようなおかしな格好をしていても誰も気に留めない。何故なら彼は進藤にしか見えない平安時代の幽霊なのだから。

 

 幽霊の彼──、藤原佐為は碁盤の前に腰を下ろした。

 

『さ、打ちしょう。早く早く♡』

 

 佐為は満面の笑みで進藤に座るように促す。とにかく碁が好きで好きで仕方がないのだ。そして強い。紛う事なき世界最強の棋士である。

 

 よしッ! と気合を入れて碁盤の前に座り込んだ進藤。1回戦突破&打倒塔矢に向けての気合は十分だ。

 

 

 幽霊ゆえに碁石を持てない佐為は、自身の一部とも呼べる扇子で盤上を指していく。その場所に進藤が代わりに石を置いていく。これが彼らの対局方法である。

 

(ヒカルの成長は確かに目覚ましい。それでもやはり塔矢とやるには早過ぎる……。一度ヒカルに失望した彼はどう思うだろう……)

 

 佐為の表情は思わしくない。現段階では一方的にやられるのが目に見えているのだ。

 

(やっぱりこの程度か──、と。それとも、もう一度ライバルとして見てくれるのか)

 

 願わくば後者。そのために若獅子戦までに何とか勝負になるくらいには引き上げたい。しかし自分では地道にコツコツ教えてやる事しか出来ないのが口惜しい。

 

 欲しいのは自分では与えてやれない何か──。殻を、壁を、天井を打ち破り、化けるきっかけとなる何かだ。それを無くしては、今の進藤が残り2週間で塔矢と並び立つのは夢のまた夢であった。

 

 

 

 早めに昼食を食べ終えた進藤が佐為と共に葉瀬中へ向かっている。その道中の駅前。花壇と時計がある待ち合わせとして使われる場所を通りかかった時だ。

 

 あっ、と佐為が嬉しそうな声を上げて立ち止まった。

 

『ヒカル。筒井さんですよ、ほらあそこ』

 

(本当だ。何だぁ、全然変わってねぇな。コンタクトにしてたり、髪染めてたりとかさぁ)

 

 佐為の指した花壇前へと目を向ければ、今も昔も変わらない筒井の姿があった。学生服のホックをきっちり締めた真面目スタイルである。

 

 進藤は学校に行く前に会えた喜びで頬が緩んでいたが、すぐに口がポカンと丸くなってしまった。

 

(うわ、スゲェ美人と一緒だ……。まさかあの人が筒井さんの囲碁部の人?)

 

 筒井が長い金髪に黒いリボンを付けた美少女と楽しげに話しているのだ。一応葉瀬高の制服を着ているが、あんな可愛い女の子が筒井の作った囲碁部に入る訳がないという考えがよぎる。

 

(佐為……)

 

 進藤から「どうしよう」と判断を求められた佐為は、扇子で口元を隠し何か考え込んでいる。そしてしばらくの思考の後、重々しい口調で言葉を口にし始めた。

 

『詐欺、あるいは美人局(つつもたせ)──、なのでは? 連休で気が緩んでいるところにズドンと。ええ、私の勘がそう囁いていますとも』

 

(ああ、絶対騙されてる。それだけは間違いねぇ。普通に考えて筒井さんがあんな美人に口きいて貰える訳ねぇんだ)

 

 助けなければならない。目を覚まさせなければならない。それでも法の外に生きるような連中と相対した経験は皆無。オマケに女は自分より背が高く、少しだけ膝が震える。

 

『ヒカル! 恐れを勇気に変えて! さぁ!』

 

「よぉしッ!」

 

 扇子を突き付ける佐為の鼓舞を受けた進藤は、強く地を蹴って一気に駆け出した──。

 

 瞬く間に距離を詰め、力の限り叫ぶ──。

 

「筒井さんッ!」

 

 怒鳴るような声で名を呼ばれた筒井が振り向くと、すぐに2人の視線が重なった。

 

「進藤君! うわぁ、久しぶ──」

 

「筒井さん何やってんだよッ!」

 

 再会を喜ぶ場面のはずが、進藤のただ事ではない様子に筒井は面を食らってしまう。

 

「な、何がって何が? 囲碁部のみんなとここで待ち合わせしてるんだけど。まだ彼女ひとりしか来てなくてさ」

 

「……え? この人囲碁部なの? 詐欺とかじゃなくて?」

 

 あれ? 話が違うぞ? と混乱してしまう進藤と佐為。詐欺呼ばわりされた美少女──、代表は「面白い子ね」と笑っている。

 

 筒井は筒井で『詐欺』などという単語が飛び出して思考が2秒程停止していたが、やがてハッとした表情をして眉を釣り上げた。

 

「な、何言ってんだよ! そんな訳ないだろ!」

 

「だって筒井さんがキレイな女の人と仲良く話してたから……。騙されてお金取られたり、殴られたりしたら大変だなって……」

 

「だからって早とちりにも程があるだろ……。この人は網代木(あしろぎ)さんって言って、ちゃんとウチの部員だよ……」

 

 どっと疲れたように大きく肩を落とした筒井。代表が気を悪くしていないか「ごめんね」と目を向けたところ、眉を下げた笑顔が返ってきた。

 

「ううん。無理もないわよ」

 

「…………え?」

 

 筒井にはその言葉が「だって私と筒井君じゃ全然釣り合ってないんだから、勘違いするのも当たり前よ」という意味に聞こえた。

 

 そんな辛辣(しんらつ)な事を優しい代表が言うはずがないと思いたい。だが代表は自分が超絶美少女だと自負しているので残念ながらそのままである。

 

 筒井はちょっぴり悲しさを覚えながら背筋を伸ばして気を取り直す。

 

「紹介するよ代表。こちら進藤君。後輩に院生やってる子かいるって前に話したろ?」

 

「ああ、この子が……」

 

 代表の表情に少し雲が掛かる。プロ試験をバックれ、院生もバックれた彼女にとって接し辛い相手だ。しかしそんな事情など知らない進藤は急に暗い顔をされて戸惑ってしまう。

 

「ど、どうかした?」

 

 進藤からひと声掛けられた代表は首を横に振ると、髪を耳に掛ける仕草を交えて一撃で心を撃ち抜く女神のような微笑みを作った。

 

「何でもないわ。進藤君、今日はみんなでお邪魔させて貰うわね」

 

「う、うん。って言っても、俺も囲碁部じゃないから、ア、アレなんだけど……。そ、それにしてもお姉さん、本当にテレビの人みたいだね……」

 

「ええ。知ってるけどありがとう」

 

「でへへっ」

 

 中学の女子達とは何もかもが違う。決定的に違うのは、完璧な顔立ちがメイクでさらに高い次元へ昇華されているところだろう。

 

 そして立ち方もキマッている。ピンッと背筋を伸ばし、足を少しだけ前後に置き、腰に片手を当てて、そのままカシャッとシャッターが切られるのを待っているかのようだ。

 

 そんな超絶美少女の代表にすっかり参ってしまった進藤。とろけた締まりのない顔で、頭の後ろで手を組んだまま大きく体を横に傾け、無意味に左右にキックを繰り出し始めた。

 

 見るに耐えないその奇行に佐為が喝を入れる。

 

『ヒカル! デレデレしてみっともない! 全く、普段は女の子なんかにこれっっっっぽっちも興味持たない癖に……』

 

(う……。だ、だってこんなんしょうがねぇじゃん……)

 

『ご覧なさい、筒井さんはデレデレなんてしていませんよ。さすがです』

 

(ほ、本当だ……。筒井さんスゲェなぁ……)

 

 確かに筒井は代表の目をしっかり見て会話をしている。進藤はもしかしたらこの時初めて筒井を尊敬したかもしれない。

 

 それから程なくしてギャル子とオラ子も待ち合わせ場所へやって来たのだが、進藤にとって女子に囲まれている筒井の絵というのも斬新であった。

 

(人の成長する様を初めて目の当たりにしたって感じだな。こうシビレるって言うか、俺もやるぞ! って気にさせてくれるぜ)

 

 予期せぬ起爆剤を得た進藤は葉瀬高囲碁部と共に歩き始めた。向かう先、葉瀬中で何が待ち受けているのかも知らずに──。

 

 

 ◆

 

 

 およそ2ヶ月ぶりの懐かしき母校へ足を踏み入れた筒井が「わぁ、変わってないなぁ」と感嘆の声を漏らした。他校に来るなど初めての女子部員達は興味深そうにあっちを見たりこっちを見たりしている。

 

 休日だが部活で登校している生徒の姿も多く、学ランの筒井はともかくとして、高校の制服を着た女子部員達にはやたら注目が集まっていた。

 

 そんなアウェイ感を味わいながら、進藤を先頭にして校舎内に入る。1階にある理科室へ真っ直ぐ向かっていると、

 

「あ、碁石の音だ。気合い入ってんじゃん」

 

 ギャル子の顔が綻んだ。静かな校内に響くのはペタペタという自分達のスリッパの足音の他に、廊下の向こうから聞こえて来るパチパチという音だ。

 

 それに続くようにオラ子が掌に拳を打ち付け、皆に目を移す。

 

「ウチらも気合い入れんべ。中坊に負けた奴はバツゲームとかどうよ」

 

 面白そうね、と代表が人差し指を立てイタズラっぽい口調で言う。

 

「じゃあ負けた人が勝った人にお寿司奢るってのは?」

 

「お前それ汚ぇぞ。金使うのは無し」

 

 即棄却。筒井とギャル子も苦笑いで頷いている。そして代表は改めて提案。

 

「じゃあ肩揉むとか?」

 

「まあそんなとこか。でも筒井、合法的に代表にお触り出来るからって、わざと負けやがったら殺すぞ」

 

「うわぁ、メガネ、軽蔑……!」

 

「僕がそんな事する訳ないだろッ!」

 

「わかってるわ。筒井君は誠実だもんね。だからちゃーんと勝って証明してね♡」

 

 もうマッサージは昨日で懲り懲りだと言うのに、マッサージ難の相でも出てるのかなぁ、と筒井はうんざりであった。

 

 そんな葉瀬高囲碁部の面々を眺めていた進藤。緩んだ表情を持って隣の佐為を見上げた。

 

(ハハ、筒井さんいじられてんな〜。みんな仲良さそうだし、葉瀬高囲碁部楽しそうだよな)

 

『そうですね。しかし今の会話の流れ、どうも気になります』

 

(どこが?)

 

『皆、あの娘がバツゲームを受けない前提で話しているとしか思えないんですよ。つまり葉瀬中の誰が相手であろうとあの娘の勝ちを信じて疑っていない。そう、たとえヒカルが相手であってもです』

 

(いやいや、お前それはさすがに考え過ぎだろ? お姉さんが1番弱い人とやるから不公平だって意味だと思うけどな。だってあかりや津田なら結果は見えてんじゃん)

 

『そうでしょうか? やはりこの娘ただ者ではない気がします。強い棋士が放つ特有の気配と言いますか……。ええ、私の勘がそう囁いていますとも』

 

(何言ってんだよ。囲碁部の人がお前が気にする程強いわけないじゃん。それにさっきのでお前の勘は当てにならないってわかったからな)

 

『確かに言われてみればそうなんですが……。いえ、この勘は絶対当たってます! 歴戦の強者達と対峙して来た私にはわかります!』

 

(はいはい。どっちにしろこの後打てばわかる事だろ)

 

 

 そうこうしている間に理科室に到着だ。ドアへ伸ばし掛けた進藤の手かピタリと止まる。

 

「折角だから筒井さん開けなよ」

 

「う、うん。久しぶりで緊張しちゃうなぁ」

 

 促された筒井は大きく深呼吸した後にコンコンッ、とノックをしてドアを引いた。

 

「やあ! お待たせ!」

 

 懐かしい理科室の光景に胸を高鳴らせ、良く通るように意識した声を発する。その後には石の音が消え、部員達の視線が入り口の方へ集まった。

 

「筒井さんっ!」

 

 嬉しそうに立ち上がったのは夏目だ。続いて三谷もいかにもかったるいフリをして腰を上げた。

 

 部室にいたのは夏目と三谷、この2人だけであった。進藤は理科室内を見渡し不機嫌そうな表情を浮かべる。

 

「あかり達は? まだ来てねぇの?」

 

「えっと……。あー、その、なんだ。家庭科室でクッキー作ってる……、ぜ……?」

 

「クッキー? でももう筒井さん達来ちゃったじゃねぇかよ」

 

 進藤の問いに返された三谷の返事はやけにしどろもどろであった。夏目も笑顔でありながらも汗をピュッピュッと飛ばし、そわそわしている。まるで何か隠しているようだ。

 

 それはそれとして、筒井が一歩前へ出て三谷へと嬉しそうに声を掛けた。

 

「三谷。戻って来てくれてありがとう」

 

「……別に。礼を言われる事じゃないさ」

 

 2人が顔を合わせるのは去年の秋以来だ。三谷は照れを隠すように目を逸らしたのだが、そこへ詰め寄ったオラ子からヘッドロックが炸裂。

 

「おう、三谷! 久しぶりだな、元気だったかテメェ!」

 

「久しぶりって……、そんなでもねぇだろ」

 

「今日はリベンジさせてもらうぜ? ちゃんと首洗って来たか?」

 

「やれるもんならやってみろよ。つか離せッ!」

 

 オラ子の締めから脱出した三谷は上着をビシッと直し、葉瀬高囲碁部のメンバー達へ「ふぅん」と視線を移していく。

 

「しっかし、見事に女ばっかだな。筒井さんうまくやれてるのか?」

 

「あはは、心配いらないよ」

 

「そうそう。メガネはしっかり部長やってるよ」

 

 ギャル子の言葉を受け安心した三谷であったが、晒し出された小麦色の腹部にギョッとしてしまった。

 

「待った待った、あんた腹なんか出して! 中坊には目の毒だろ!」

 

「おっと、そういう文句はあたしに勝ってからにしてくれませんかね」

 

 ギャル子がくいっと親指で碁盤を指すと、三谷はコクリと頷き、そのまま対局席へ着いた2人は早速打ち始めてしまった。

 

 オラ子は2人の対局の観戦に入り、筒井は現部長の夏目に「よく頑張って部を守ってくれたね」と褒めたたえている。

 

 そして余った進藤と代表。理科室の窓際にて進藤はモジモジチラチラ代表の顔を伺っている。さらに目が合うとピュンッと赤くした顔を逸らしてしまう。もはや初恋と言って差し支えないだろう。

 

 そんな挙動不振な行動をされるのも代表にとっては日常茶飯事。気にせずに優しく語り掛ける。

 

「そう言えば、進藤君はどうしてプロを目指してるの?」

 

 言葉にするのが難しい質問をしてしまっただろうかと代表は思ったが、進藤の返答は早かった。

 

「えっと、塔矢アキラって奴知ってる? 塔矢名人の息子の」

 

「うん」

 

 代表が頷くのを確認した進藤は胸元でギュッと握り締めた拳に目を落とした。

 

「そいつに去年の夏、中学の団体戦で対局して大負けしたんだよ。しかも思い切り見下されてさ。だからプロになって見返してやりたいんだ」

 

 2度と「ふざけるなッ!」なんて言わせない。キミが? なんて鼻で笑わせやしない──。

 

「悔しいけど……、今はまだ力が足りない。ライバルだと思ってるのだって俺だけさ。だけど絶対に追い付いて、塔矢に俺をライバルだと認めさせてやる」

 

 それが進藤のプロを目指す理由だ。改めて口に出した事でさらにやる気がみなぎってくる。

 

「ま、まあそんな感じ?」

 

 熱く語ってしまった事に恥ずかしさを覚えながら、照れ笑いと共に代表を見上げた。

 

 今度は代表がハッとして顔を逸らしてしまう。希望に満ちた真っ直ぐ過ぎる進藤の瞳は目の毒だ。逃げ出し、諦めた彼女にとってあまりにも眩し過ぎた。

 

 

 

 それから間も無くであった。重なる足音に乗せられた楽しそうな女子の話し声が廊下から届いて来たのだ。

 

 三谷と夏目に緊張が走る。これから何が起こるのか、彼らには全く想像が付かなかった。

 

 

 ◆

 

 

 理科室に甘い香りが漂っている。三角巾にエプロン姿の3人が、紙皿に乗せたクッキーを運んで来たのだ。

 

 だがそんな甘ったるさとは裏腹に、空気は重い。

 

「と、塔矢……」

 

 進藤は塔矢を前に唖然としている。何故塔矢がここにいるのか、何故クッキングスタイルなのか、訳がわからな過ぎて思考が定まらない。

 

 次の言葉が出てこない進藤をジッと睨んでいる塔矢。彼もまた口を開こうとはしない。

 

「塔矢君はヒカルと仲直りしようと思ってクッキー作ったんだよ?」

 

「そうだよ。お菓子作り初めてだったけど、進藤君のために頑張ってたんだよ」

 

「え? お、お前ら何言って……」

 

 沈黙を打ち破ったのは藤崎と津田。気不味い進藤と塔矢の仲を取り持とうとしている。

 

 しかし進藤には到底信じられない。あれだけ自分に幻滅した塔矢がこんな事をする訳がない。

 

「……そういう事だ。キミも色々思うところはあるだろうが、食べて貰えると嬉しい」

 

 が、続いたのは塔矢のこのセリフであった。本意かは不明だが、仲直りの印として受け取って貰って構わないと思っているのだろう。

 

「な、何だよそれ……」

 

 進藤は嬉しさなど微塵も湧いて来ない。

 

 いつか普通に友人になれたらと思わない事もなかった。だがそれは互いをライバルと認め合ったその先じゃなければならないはずだ。少なくとも今ではない。

 

 大きな動揺が消えぬまま立ち尽くしている進藤。そこへギャル子とオラ子が歩み寄って来る。

 

「塔矢君来たんだね」

 

「はい。時間がわからず早く来てしまったところ、藤崎さん達にお菓子作りを誘われまして」

 

「へぇー、美味そうじゃん」

 

 進藤は気軽に塔矢へ話し掛けている黒ギャル達に、見開いた目を向ける。

 

「し、知り合いなの……?」

 

「昨日ファミレス行ったらウチのアニキと塔矢がメシ食ってたんだよ。んでアタシらが誘ったって感じ? でも昨日は来ないって言ってたんだけどな。ま、別に良いだろ?」

 

 進藤はオラ子の兄がプロ棋士なのは知っているので一応納得のいく答えにはなっている。だがわからないのは誘われた塔矢がこんな部活の練習に参加した理由だ。本当に仲直りしに来ただけだとしたら、気がおかしくなったと思わざるをえない。

 

 そして改めて問おうとした時だ。

 

 塔矢の視線はとっくに自分に向いていなかった事に気が付いた。彼が真っ直ぐな目、いつか自分に向けさせようとした目を向けているのは──。

 

「お久しぶりです、網代木さん。おふたりから昨日の事は聞いていると思います」

 

「ん? 私? 何も聞いてないし、いきなり過ぎて全然わからないんだけど。進藤君と仲直りしに来たんでしょ?」

 

 代表に困り笑顔で返されてしまった塔矢。軽くショックを受けた様子で黒ギャル達に横目を向ける。

 

「昨日お願いしたじゃないですか!」

 

「へへ、悪い。サプライズしてやろうと思って黙ってたわ」

 

「それに今日来るとは思わなかったしね。逆にこっちがサプライズだよね」

 

 軽い調子で笑っている黒ギャル達に塔矢は小さく肩を落とした。

 

 同じく代表も「もう、あなた達は……」と呆れ顔。その後には強気な眼差しで塔矢を見据える。基本ニコニコしている彼女が真剣な顔をするのは珍しい。

 

「でも──、キミが私に用があると言うのなら、ひとつしか思い浮かばないわね」

 

「話が早くて助かります」

 

 互いの視線がぶつかり、火花を散らす様子はまるでライバルのそれだ。

 

「それにしてもさすがに今さら過ぎない? そもそもキミが私を覚えてた事自体ビックリなんだけど。喋ったのもほとんど初めてよね」

 

「あなたの事を忘れた日はありませんよ。そして昨日からずっとあなたの事ばかり考えていました」

 

 シーン、と──。

 

 理科室が静寂に包まれた。

 

 そして、のち──。

 

「キャーッ!」

 

 ドラマのような塔矢のセリフに大喜びの藤崎と津田。人の恋愛が大好物なお年頃であり、黒ギャル達も「付き合えー!」と茶化し始めた。

 

 が、この状況が面白くないのは蚊帳の外の進藤である。とにかく屈辱だ。詳しい事情はわからないが、自分がここにいると言うのに、代表ばかり見ている事が心から気に食わなかった。

 

「塔矢、お前! お姉さんと何なんだよ!」

 

 我慢出来ずに塔矢へ詰め寄った進藤。しかし返されたのは彼にとって残酷な答えであった。

 

「ライバル──」

 

「な……ッ!?」

 

「網代木さんとはプロの世界で互いにしのぎを削り合うライバルになれたらと──。僕は去年のプロ試験で彼女と戦って以来、ずっとそう思っていた」

 

「プ、プロ試験……? 待って、お姉さんて何者なの?」

 

 困惑する進藤に、代表は腕を組んで悩み込む仕草を見せた。

 

「んー。何者かと聞かれれば、多才な超絶美少女、学園のアイドルって言いたいところだけど……。キミには去年まで院生やってたって言った方が良いかしらね」

 

「い、院生だったの!? ほ、本当……!?」

 

「ええ。進藤君とは入れ違いね。プロ試験での塔矢君との対局で、私が途中退席しちゃって最後まで打てなかったのよ。塔矢君はそんな勝ち方に納得出来てないみたい」

 

 いきなりの連続に頭の整理が追い付かない中、佐為が嬉しそうに進藤の顔を覗き込む。

 

『ほら、ね? ね? 私の勘当たったでしょ?』

 

(で、でも18歳までいられる院生を中3で辞めたんだろ……? それって自分の才能にさっさと見切りをつけたって事なんじゃないのか? ずっと1組に上がれなかったとかさ……。だからそんな強いはずが……)

 

『その程度の相手に塔矢がここまで来ると思いますか? おそらく辞めたのも止むに止まれずの事情があったのでしょう。そして塔矢がライバルになりたいと言った以上、この娘の力を疑う余地はありません』

 

 本当はそんな事はわかっていた。そしてライバルの座を奪われる危機感から目を背けようとしていた。

 

 塔矢には顔も見たくない程、口も聞きたくない程嫌われているはずなのだ。むしろそうでなければならない。だがどうだ。自分に会ってしまう事もいとわずこの場を訪れ、挙げ句の果てにはクッキーなど作られる始末。

 

(お、俺の事なんかどうでも良いって事かよ……)

 

 塔矢にとって本当の意味でどうでも良い存在になるのだけは絶対に避けなくてはならない。それこそプロを目指す理由さえ根絶やしにされてしまう。

 

 進藤の心情など気にもせず、塔矢の目は代表へ向いたままだ。

 

「僕と打って貰えますね」

 

「んー。私は構わないんだけど……」

 

 代表は進藤の気持ちを聞いたばかりで素直に対局に応じにくい。恋愛相談に乗った友達の好きな男子から告白されてしまったような気不味さを覚えながら、進藤に「良いの? 打っちゃうよ?」の意を込めた視線を送った。

 

「お、俺は……」

 

 進藤の瞳の奥が弱々しく揺れる。俺が塔矢のライバルなんだぞ、他の奴なんか見るな、そんな駄々をいくらこねたところで塔矢に届くはずもない。

 

 塔矢に届くのは、響くのは、いつだってたったひとつの手段しかないのだから。

 

『ヒカル! 勝ち取りなさい!』

 

 佐為の声が背中を押してくれる。2週間後の若獅子戦じゃない。今だ。今自分の力を塔矢に見せなくては、この先2度とライバルとして認めてもらえないような予感がした。

 

 歯を食い縛り、両の拳を痛い程強く握りしめた進藤が代表へ返したのは決意──。

 

 ライバルの座は誰にも渡さない、この手で勝ち取ってやるという、確固たる決意を宿した眼だ。

 

「勝負してよッ!」

 

 進藤の突然の叫びに、塔矢は怪訝な表情へと変わる。邪魔をするな、もうキミの出る幕じゃない、キミとは終わったんだ──、そんな冷めた気持ちがにじみ出ている。

 

 それでも進藤は構わず繰り返す。

 

「どっちが塔矢のライバルにふさわしいか、俺と勝負だッ!」

 



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13話 代表vs覚醒進藤

「筒井さん、私達余計な事しちゃったかなぁ……」

 

 理科室の机にはクッキーの盛られた紙皿が3枚。津田が気落ちした様子でぼそりと呟くと、隣の藤崎もクッキーを口に運ぶ手を止めて小さく頷いた。

 

 進藤と塔矢が仲直り出来ればと思っていのだが、その結果として進藤が代表に敵意に近いものを向けている。

 

 みんなで仲良く楽しく練習会。彼女達が思い描いたそんな光景とは真逆な事態になってしまった。

 

「いや、キミ達は良かれと思ってやったんだろ? 気にする必要はないよ」

 

 筒井が対面に座っているJC達へ向けて首をゆっくり横に振る。それに便乗するように、筒井の隣のギャル子が「ふふっ」と大人の余裕を思わせる笑いをこぼし遠い目をした。

 

「男っていうのはね、面倒な生き物なのよ」

 

「ふあぁ……っ。さすがです、先輩」

 

 JC達から羨望の眼差し。高校生ってすごいね、大人だね、とひそひそ会話しているのも聞こえてくる。

 

 だが筒井にはギャル子が「1度このセリフ言ってみたかっただけ」という事はわかっていた。

 

「ギャル子、ちゃんとわかってんの?」

 

 細めた目を向けられたギャル子は「チッチッチ」と立てた人差し指を横に動かして見せた。

 

「恋愛で例えると、昔は進藤君と塔矢君が付き合ってたのね? でもいざ付き合ってみれば進藤君はメッキが剥がれて塔矢君にフラれちゃったの。よくある話だよね。でも進藤君は別れてからも塔矢君が好きで自分を磨いていたんだけど、知らない間に塔矢君には新しい好きな人、代表がいてアタックしてたの。それで元カレの進藤君は今激おこって事でしょ?」

 

「大体合ってる……」

 

「えへっ、褒めてちょ♡」

 

「はいはい、えらいえらい」

 

 ギャル子の頭をポンポンと叩く筒井。女の頭に軽々しく触れるという筒井らしからぬ行為に、JC達は驚きに目を見開いた。

 

「えっ、何今の……。結構キモくなかった……?」

 

「う、うん……。筒井さん、前はあんな事する人じゃなかったのに」

 

 昔から筒井の事をちょっと良いなと思っていた津田は、筒井とギャル子がただならぬ関係なのではと不安を覚えてしまう。どうやって探ろうか考え始めたところ、

 

「はーい。ふたりって付き合ってるんですかー?」

 

「あかりっ!?」

 

「だってハッキリさせとかなきゃ」

 

 藤崎にストレートな質問をされてしまい、彼女の心臓が大きく跳ね上がった。

 

 筒井もちょくちょくクラスメイトに同じ事を聞かれるので「あはは」と笑って返す。

 

「付き合ってないよ。ウチ、部内恋愛禁止だし」

 

 ほっと胸を撫で下ろす津田であったが、ギャル子が黙っていない。

 

「はぁ? 何勝手に決めてんの? それを言うなら部外恋愛禁止なんですけど」

 

「ぶ、部外ッ!? それキミ達が困るだろ!?」

 

「え? あたしは全然困ら──、ぐえっ」

 

 言い掛けたところで後ろから襟首を引っ張られるギャル子。何だよ! と後ろを向けばそこにいたのは三谷であった。

 

「おい、いつまでくだらねぇ事喋ってんだよ。さっきの続き打つぞ」

 

「へーへー」

 

 塔矢の登場で中断してしまっていたが、三谷とギャル子は対局中であった。余裕を感じさせない三谷の顔からして、あまり形勢は良くない模様。

 

 ギャル子は連れて行かれてしまい、オラ子もいつの間にか夏目と打ち始めていた。早くも夏目は顔を青ざめているのが遠目でもわかった。

 

 筒井もいつまでも雑談していては来た意味がなくなってしまう。

 

「僕達も打とうか? 2面打ちしてあげるよ」

 

「ヒカルの対局見なくて良いの?」

 

「見たいけど、見てもあのレベルには着いていけないよ。それに折角来たんだから何より打たなきゃね」

 

 自分を嘲笑いながら丸椅子に碁盤を乗せて対局中の進藤達に目を向ければ、塔矢が真剣な面持ちで横から観戦中。藤崎も筒井の視線を追う。

 

「でも私、ヒカルのあんな顔初めて見た……」

 

 幼馴染の藤崎が寒気を覚える程の鋭い眼。進藤が真剣に碁を打っている時ですら見た事がない。

 

 すると津田がつぶらな瞳を輝かせ呟いた。

 

「進藤君、覚醒したのかも……」

 

「津田さん、漫画じゃないんだから……。でも実際覚醒のひとつやふたつしないと代表には勝てないと思うな」

 

 筒井の予想に藤崎が口を尖らせる。

 

「筒井さん、あの人綺麗だからって贔屓(ひいき)してない?」

 

「代表さんの事好きなんですか……?」

 

 JC達はすぐこれだ。何か言えば「好きなの?」だの「付き合ってるの?」だの。さすがに筒井もうんざりである。

 

「違うって。僕は客観的に見て言ってるんだから」

 

「でも辞めちゃったけど同じ院生なんでしょ? ヒカルとそんなに違うの?」

 

 どちらも筒井では瞬殺される強さには変わらない。なので正確な事はわからないが、

 

「院生すら温いはずの塔矢アキラが決着をつけるためにここまで来るくらいだからね。僕も良く知らないけど、代表は他の院生達とは格が違ったのは間違いないと思うよ」

 

「えー。じゃあ塔矢君のライバルはヒカルじゃなくて、あの人になっちゃうの?」

 

「代表がプロに行けばそうなるかもしれないけど……。今の所プロになるつもりはないみたいだし。でもたとえプロにならなくても、進藤君は塔矢アキラが今現在他の誰かを見ているのは気に食わないだろうね」

 

 筒井も黒ギャル達も代表にプロになって欲しいとは思っているが、口には出さない。辛く厳しい修羅の道だ。部活勧誘のように気安く「プロになりなよー」と言えるものではないので本人に任せる意向である。

 

「でもさ、そんなに凄い人に教えて貰ってたら、筒井さん大会で海王にも勝てちゃうんじゃないの?」

 

 藤崎の言葉に筒井はピクリと肩を震わせた。そしてここぞとばかりのニヤケ顔。

 

「えー、どうかなぁ? 実はさ、昨日海王の1年生の女子と打っちゃったんだよね。さてここでキミ達に問題だ。僕と海王、どっちが勝ったと思う?」

 

 自分が勝ったと知れば「ウソー! 筒井さんすごーい!」と賞賛されるのが眼に浮かぶ。

 

 だが予想とは裏腹に、JC達は別の方に食い付いてしまった。

 

「えっ? じょ、女子……!? 筒井さん、海王の女子の人と知り合いなの!?」

 

「うん。昨日僕の家で打ってさ。それでどっちが勝ったと思う?」

 

「待って待って! 筒井さんの家で!? ふたりだけで!?」

 

「そうだけど? それで僕と海王の女子、どっちが勝ったか当ててごらん? はい解答時間あと5秒ね。5〜、4〜」

 

 筒井の言葉を受け、JC達は顔を見合わせる。そしてゴクリと息を飲んだ藤崎が恐る恐る口を開いた。

 

「も、もしかして、その海王の人と付き合ってるの……?」

 

 

 ◆

 

 

 会話にならない筒井とJC達の一方で、進藤と代表の対局は白熱の一途を辿っていた。

 

 筒井の言う通り、進藤は本来代表よりも大分実力が劣るはずだ。

 

 そのはずだった。一方的な虐殺であってもおかしくないにも関わらず、対局は白熱しているのだ。

 

 進藤の後ろに立つ佐為は驚愕に見開いた目を盤に釘付けにされている。

 

(ま、まさかここまで……)

 

 代表に塔矢のライバルの座を奪われる事への危機感。それによる進藤の爆発はある程度期待していた。だがこれは期待以上だとかそんなレベルではない。

 

(私の知るヒカルとは、もはや別人ではないか……!)

 

 1年──。

 

 そう、佐為はまるで1年後の進藤を見ているかのような気分であった。時間を掛け、ひとつひとつ階段を登り到達するはずだったステージ。

 

 そこへ今進藤は立っていた。

 

(そして実に惜しいのはこの娘……。このヒカルと打ち合える才を持ちながら、プロへは行かぬと聞く。共に切磋琢磨すればより高みを目指せる打ち手になれると言うのに……)

 

 盤から代表へ目を移した佐為。彼女の表情は険しさに満ちていた。

 

(これで院生16位……!? そんなバカな事って……!?)

 

 対局開始前は進藤が可哀想なので花を持たせてあげようかな、などと少しだけ考えもした。考えただけで結局は最初から本気を出しているわけなのだが、それがいかに傲慢であったか今身に染みていた。

 

 気を抜けない。抜けば持っていかれる。進藤の1手1手からは信じられない気迫が伝わってきた。

 

 絶対に勝つ、負けてたまるか──、そんなありふれた生易しい気迫ではない。勝利への執念という言葉でも物足りない。進藤は己の全てを石に込めている。塔矢のライバルになる事は彼が碁を打つ全てと言っても過言ではないゆえに。

 

(この手応えは完全にプロ、少なくとも去年の塔矢君以上……!)

 

 盤横で観戦中の塔矢をチラリと見上げる。口元を隠していても、驚きを隠し切れていないのはひと目であった。

 

(塔矢君にとっても進藤君の強さは予想外って事か。でもね、勝てない相手じゃないわ)

 

 

 中盤戦は早くも勝負所を迎えていた。

 

 代表が押されているがまだまだわからない。そしてここからの攻防がのちのちまで流れを左右する大事な局面だ。相手を出し抜き1局の主導権を掴もうと、両者共に血眼で読みに読みを重ねる。

 

「んー」

 

 前屈み気味にアゴに手を当てて、進藤に置かれたばかりの黒石をジッと見つめている代表。

 

 んーんー唸っていたかと思えば、スリッパを脱いで丸椅子の上に正座したり、やめたかと思えば立ち上がって蹴伸びしたり。

 

(下辺の白を分断しにいったか……。進藤君はあくまで攻め重視みたいね。……さてどうするかな)

 

 再び腰を下ろそうとした時に「えーッ!?」という数メートル離れている藤崎から驚きを思わせる声が届いた。

 

「三谷君負けちゃったのー!?」

 

 代表が目をやれば三谷ががっくりしており、ギャル子に負けてしまったようだ。振り向いたギャル子からは笑顔のVサインが送られた。

 

「代表、勝ったよー☆」

 

 無邪気に喜ぶギャル子の姿に代表は柔らかく微笑んで頷いた。それと共に「私も勝つぞ」と気合いが入る。

 

 そんな決して静かではない理科室の中でも進藤は盤の中に深く深く潜り続けており、雑音を気にしないと言うよりは聞こえてすらいない様子であった。

 

 代表はその異常な集中力に恐れを抱きながら座り直し、すぅと息を吸い込む──。

 

(よし決めた! こっちもサバキには自信がある──! 勝負ッ!)

 

 白石を掴んだ右手を高らかに掲げ「うりゃッ」と盤上へと叩き込んだ。互いの石がぶつかり合う接近戦の幕開けだ。

 

 進藤の怒涛の攻めを間一髪ながらもかわす、かわす、かわす──。

 

 だが99点未満の手を打てば即赤点な綱渡り状態。

 

 才気溢れる打ち回しに、進藤の攻め手が切れる寸前になった時だ。

 

 代表は自身の指先が盤上の石からほんの少し離れた瞬間、碧い目をこれ以上無い程に大きく見開いた。

 

(ミスった! 出切られる!)

 

 人間はミスをする生き物だ。大なり小なり、1局まるまるノーミスで打ち切るなど神以外ありえない。

 

 そして彼女の右手が盤上の外に出て行くより早く、進藤からノータイムで襲来した咎めの刃。ミスをミスで帳消しなどという甘い期待は一瞬で潰えてしまった。

 

(やばい、連絡を断たれた……。眼形を作りに行けば黒地を固めてしまう……)

 

 進藤という暴漢の攻めをギリギリかわし続けていた代表はついに掴まった。待ち受けているのは大ピンチ。殺されはしないが、殴られ、蹴られ、服を剥がされ、犯され、金銭も奪われ、家も焼かれ──、とにかくそんな大ピンチだ。

 

(最悪右辺はほぼ黒地にされる……)

 

 攻められるにしても、服を剥がされる程度に収めなくては形勢は絶望的。

 

 勝機と言わんばかりに猛威を振るう進藤の黒石。眼形を奪い、味方との連絡を許さぬ、厳し過ぎる攻め。それと同時に進藤の黒地がみるみる確定していく。

 

 殴られ、蹴られ、血ヘドを吐く。それでも代表の瞳は死んではいなかった。

 

(中央の黒はまだ薄い、見てろ……ッ!)

 

 逆転の狙いはある。代表はその機を睨みつつ進藤の攻めを凌いでいく。

 

 攻められながらも水面下にて行われた奇襲準備。さあ来い、と碁笥の白石を手の中いっぱいに思い切り握り締める。今はその痛みが心地良いと言わんばかりに口角が上がる。

 

 しかしその目論見は失敗に終わった。

 

「う……ッ!」

 

 代表から漏れた詰まるような声。

 

 予想外の1打が進藤より放たれたのだ。それは水面を凍らせ、水面下の奇襲準備ごと無に帰してしまうような氷結の一撃。

 

(攻め手を戻して中央に備えた……!? まさか、ここで手を戻せるって言うの……!?)

 

 進藤の攻めは流れに乗っていた。このまま好調の波に乗って一気にいきたくなるところが人情だ。だが進藤は攻めずに守った。一見温いように思えて、代表の反撃手を奪う絶妙なタイミングであった。

 

(今の手入れで黒の不安が解消されて、進藤君に手厚い好形を与えてしまった……。クソッ、やりにくいな……!)

 

 相手の身を焦がすような熱気を放ち、それでいて恐ろしく冷静な打ち筋だ。代表は進藤の歳にそぐわぬ打ち様に戦慄を覚えた。

 

(どっしり腰を据えてかわいくない……。こんなの子供の打ち方じゃないわよ……)

 

 今日初対面であるが、進藤の印象から直線的で力任せの素直な打ち手かと予想していた。しかしいざ打ってみればどうだ。洗練された攻守、目を見張る巧みな技術、己の形勢判断を信じ抜く心の強さ。予想とはまるで逆なのだ。

 

 

 戦慄に打ち震えていたのは代表だけではない。佐為はもちろん、塔矢もまた同じである。

 

 局面が進むごとに──、いや進藤が1手打つごとに、塔矢は体の内側から大鐘を鳴らされているような衝撃を感じていた。

 

(これが今の進藤……)

 

 最後に見た進藤の碁は去年の夏の中学囲碁大会。並みの中学生と比べても弱い部類であった。

 

(院生となり、1組となって順位も若獅子戦に出られるまで上げているのだから、あの頃の彼じゃないのは当然と言えば当然だが……)

 

 ゴクリと息を飲む。

 

(だけどあれからたった1年足らずだぞ? そんな短期間で人間がここまで力を付けられるものなのか……?)

 

 夢でも見ているような気分だ。いや、進藤と出会ってから何が夢でどれが現実なのかわからなくなる。そんな出来事ばかりだ。

 

(碁会所で2度僕を圧倒したキミ。中学生のフリをして出た大会で素晴らしい1局を披露したキミ)

 

 同い年の小学生とはとても思えず、恐怖さえ感じた。その進藤を追う事があの時の塔矢の全てであった。

 

(去年の夏、僕を失望させたキミ……)

 

 海王囲碁部に迷惑を掛けたのも、他の中学の大会参加者のやる気を削いだのもわかっていた。大人気ない、自分でもそれ以外の言葉が見当たらない。それでも進藤を掴まえるためになり振り構わなかった。

 

 しかし残ったのは、進藤などという雑魚のために全てを懸けていた自分自身への怒り、悲しみ、虚しさだった。

 

(そして今、目の前のキミ……ッ! 高段のプロさえ喰いかねないこの石の運び……! 一体どれが本当のキミだと言うんだ……!)

 

 代表との決着をつけるために来たと言うのに、その彼女も今にも倒されそうになっている。進藤と出会った事で塔矢の碁人生は何から何までメチャクチャだ。

 

 思考をかき乱され、次第に石の並びも目に入らなくなる。

 

 代表の手が止まっている間に一旦廊下で水を飲んで気を落ち着けようと、その場を離れた塔矢。

 

 周囲はのどかな雰囲気だった。わいわい碁を楽しむ緊張感の無い空気。こんな理科室での部活のひと時とは思えぬ壮絶な対局を見ていた後なので、一層そう感じられた。

 

「どうした? 顔色悪いぞ?」

 

「あ、いえ、大丈夫です」

 

 廊下に出ようとしたところ、オラ子が心配そうに声を掛けてきた。盤を挟んだ彼女の対面には、本当に顔色の悪い夏目の姿。可哀想に、7子も置いたのに血祭りにされたところである。

 

 オラ子の腕前を見るのは初めてだが、夏目が弱い分を差し引いてもかなり強いのはひと目で読み取れた。

 

「お強いですね。正直驚きました」

 

「おっとプロのセンセーに褒められちったよ。なぁ、あいつらどっち勝ってた?」

 

「……進藤です」

 

 口にしたくないように発した塔矢。まだ自分でも信じられないのだ。

 

「うげ、マジで? ちっと見て来るわ」

 

 オラ子は石を片付け立ち上がるやいなや、代表の方へすっ飛んで行った。

 

 彼女の背中を見送り今度こそ廊下へ足を向けようとした時であった。

 

「三谷はネット碁やらないの?」

 

「パソコン持ってねぇもん。たまに姉貴に借りるけど、そんなしょっちゅうはな」

 

 対局準備中の筒井と三谷の会話が聞こえて来た。しかし特に構わず歩き始めたのだが、興味深い事を筒井が話し始め、塔矢は自然と耳を傾けていた。

 

「でも僕、もっと早くネット碁やってれば良かったよ」

 

「何で?」

 

「伝説のインターネット棋士の話知ってさ。でも僕がその話知った時にはもう何処にも現れてなくて」

 

(saiの事だ……)

 

 トッププロ以上の強さを思わせる正体不明の最強棋士。塔矢はその正体を進藤なのではと疑った時もあった。しかし進藤に大きく失望していた塔矢はそれを必要以上に強く否定し、進藤自身も違うと言っていた。

 

 だがsaiの話を聞いた事と今の進藤の強さに「もしかしたら」という小さな疑いが生まれ始める。

 

(確かに今の進藤はとてつもない強さだ。だがsaiはそれを遥かに超えて強い。だから違う、進藤ではない……)

 

 冷静に考え、結局は疑いの芽を踏み潰した。そんな塔矢をよそに会話は続けられる。

 

 三谷は興味のカケラも無さそうに石を盤上へ打ちつける。

 

「伝説って、たかがネット碁で随分大げさだな」

 

「saiっていう名前なんだけど、正体不明で凄く強いんだって。カッコ良くない?」

 

「ふぅん、そういや進藤もsaiって名前でネット碁やってたって姉貴が言ってたな」

 

(──ッ!?)

 

 三谷のセリフに塔矢は耳を疑った。気が付けば三谷の肩を震える手で掴んでいた。

 

 突然肩を掴まれた三谷は驚き振り返る。目の前にはさらに驚愕している塔矢の顔があり、一体何事かとすぐには言葉が出て来なかった。

 

「お、おお……。な、何だよ、いきなりビックリすんだろ。どうしたんだよ」

 

「今の話本当ですかッ!? 進藤がsaiだという話はッ!」

 

 

 



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14話 代表vs覚醒進藤 (その2)

 喉が渇いて仕方がなかった。

 

 真夏の体育授業の後のように、塔矢は理科室前の廊下の水道で、喉を鳴らし水を飲み続けていた。

 

「ハァ……ッ!」

 

 止め処なく溢れ出てくる水から口を離して大きく息を吸い込んだ。体全体で呼吸を繰り返しながらゆっくり蛇口を閉めていく。

 

(saiは進藤だった……?)

 

 先ほど三谷と筒井から聞いた話を思い返す。

 

 ネットカフェでバイトをしている三谷の姉が、パソコン初心者の進藤に代わりチャット文章を打ってあげた時に『sai』のハンドルネームが目に入ったらしいが──。

 

『違うだろ。たまたま名前被っただけじゃね?』

 

『そうだよね。だってその頃の進藤君、僕らより弱かったくらいだし』

 

『進藤が力を隠していたような素振りは……?』

 

『あはは、ラノベ主人公みたいに? ないない』

 

『ラノ……ベ……? そ、それは一体……? saiと何か関係がッ!?』

 

 

 あのふたりでは話にならなかった。むしろこれが普通の反応。

 

 進藤が「俺、本当は最弱のふりしてた最強棋士なんだ。だって力隠してるのってカッコイイだろ?」という線は消して良いはずだ。共に部活をやってきた筒井と三谷なら、いくらなんでもそれがありえない事くらいわかるだろう。

 

 100歩譲ってsaiの名前が被っていたとする。しかし当時進藤はネット碁の存在は知っているが、やった事は無いと言っていた。そこからして辻褄が合わないのだ。

 

(進藤がsaiであろうとなかろうと、何か隠しているのだけは間違いない……!)

 

 嘘をつかれるかもしれないが、もはや対局後に本人に直接聞くしかない。塔矢は廊下に視線を落としたまま再び理科室へと足を向けた。その足取りはとても重たく、真実の待ち受ける教室へ戻るのを拒んでいるようだった。

 

 

 理科室では廊下側の席でギャル子が藤崎、津田に楽しくお喋りしながら碁を教えており、筒井は三谷と黙々と対局中。夏目は魂を抜かれたようにひとりで壁の向こうを呆然と眺めていた。

 

 和気藹々(わきあいあい)と平和そのものだ。

 

 対して教室中央のさらに向こうの窓際は言うなれば魔界。代表と進藤が激戦中だ。

 

 代表の後ろに立ち、盤を見下ろしているのはオラ子。腕を組んで難しい顔をしている。代表の勝利を信じて疑わなかったオラ子にとって、今目にしている光景は意外以外の何ものでもなかった。

 

(手は抜いてねぇみたいだし、マジでやられてんじゃん……)

 

 見下ろす細い背中がいつもよりも小さく見え、苦しそうに肩も上下している。表情は確認しなくとも、かなり参っているはずだ。

 

 そこで塔矢が疲れ切った足取りで戻って来たので、オラ子はプロの意見をとヒソヒソ声で尋ねてみた。

 

「これ、逆転は難しい?」

 

「……進藤に手厚く進められていますが、まだ戦いを起こせる場所はあります。網代木(あしろぎ)さんならやってくれるはずですよ」

 

 と言ってみたものの、塔矢にも代表が逆転する手立てが見えていない。局面は中盤戦の真ん中を過ぎたあたり。ここで大勝負を仕掛けなくては進藤の逃げ切りを許してしまうのは確実であった。

 

 

 ふたりの視線を背中に受ける代表は盤上をひたすらに眺めている。

 

(やばい、何とかしないと……!)

 

 膝の上に置いた拳を握り締めようとする。が、妙だった。不思議と力が入らずふにゃふにゃしてしまう。底力が湧いて来ない。

 

(何とか? 何とかしたらどうだって言うの?)

 

 この対局に勝ったところで何になるんだろう、ふいにそんな考えがよぎった。この劣勢を何とかしたとする。勝ったとする。勝ったら嬉しいだろう。それで? その先は? と──。

 

(仮に今日勝てたとしても、来年は100パーセント負ける。1ヶ月後かもわからない……。だったらこんな対局、勝っても虚しいだけじゃん……)

 

 プロの世界に飛び込んで行く者達と差が開くのは当然。

 

 そしていつか「ああ、そんな奴もいたな」だの「あの時は負けたけど、今やったら相手にならねぇだろうな」だの、もし自分の話が出たとしたらそうなってしまうだろう。

 

(進藤君、塔矢君。それに試験に受かった院生の皆だって……)

 

 皆、立ち止まっている自分の事など──、自分の碁など過去にしてしまうだろう。

 

 未来を想像し、胸が締め付けられる感情が生まれる。

 

(悔しい……? 寂しい……? いや違う、これはそんなんじゃない……)

 

 どうにもピッタリこない。

 

 そしてハッとする。ああ、そうか、と憂いを秘めた瞳をゆっくりと伏せていった。

 

(可哀想なんだ……)

 

 自分ではない。代表は自分の碁が可哀想だと感じていた。まるで自分の子供が友達に仲間ハズレにされている光景を見ている気分だった。

 

 言ってしまえばボードゲームの腕前に過ぎない事もわかっている。だけどこの腕前になるまでに、どれだけ努力をして、多くの人と打ち、教えられ、応援もしてもらった事だろう。

 

(これも大切だったのかな……。私の碁は……)

 

 親友達に辛い思いをさせていると知りながら、母親の見舞いに行く事以外ドブに捨てていた日々。だがこれからは大切なモノを全部抱えて生きていきたい、囲碁部に入ったあの日そう決意した。

 

(お母さん……。ギャル子とオラ子……)

 

 もう何があっても放さないと、大切なモノをしっかり抱えて歩き始めたつもりだった。

 

 しかしそこに碁は含まれていなかった。母親の命より対局を気にしてしまった後悔ゆえ、代表にとってそれは考えるまでもない事だった。囲碁部に入ったのも親友達と一緒にいたいから、大会に出る彼女達の力になりたいから、それだけだ。

 

 もちろん碁は好きだが、プロにならなくても碁は打てるし、遊びで十分だ。しかし自分の碁はそのレベルでは満足なんてしていなかった。未来への道を閉ざされてしまい、何処へも行けずに泣いているように思えた。

 

 プロになりたい。プロの世界で戦いたい。ライバル達の過去になりたくない。そんな泣き声が聞こえた。

 

(このまま置き去りになんて出来ない……。連れて行ってあげなきゃ)

 

 自分の碁を未来へ連れて行けるのは、自分しかいないのだから。

 

 

 

 代表は後ろを向くと、観戦中のオラ子を花が咲いたような笑顔で見上げる。

 

「私、プロになるから」

 

「お、おう? いきなりだな。」

 

「だってね? 私の碁が『え〜ん、プロになりたいよ〜』て泣いてるんだもん」

 

「……は? お前何言ってんの?」

 

「わかりやすく言うとね? 私の碁は私の子供だったのよ。それで私がお母さんね? だからちゃんとプロにしてあげないと可哀想じゃない。わかるでしょ?」

 

「全然わからん。つかお前それヤバイよ。急に不思議ちゃんになってんぞ、マジで」

 

「えー、何でよー。わかりなさいよっ」

 

 オラ子の体を「アハハッ」と笑い声を上げて叩き始める代表。

 

 そんなやり取りに塔矢はポカンとしている。プロ入りは願ってもない事だが、本気で言っているのかイマイチ掴めない。

 

「本当にプロへ来るのですか……?」

 

「ええ、行くわ。だからこの1局も勝ってやるから」

 

 んふっ♡ と会心の笑顔をぶつけて盤へと向き直る。今度こそ拳を強く握り込む。心に翼が生えたように感覚が冴え渡る。

 

 その源は強過ぎる後悔と決意の念により、かつて自身に掛けてしまった呪いと似て非なるモノ──。彼女を縛るモノでは無い、これまで以上に解き放つモノだ。

 

 それは言わば翼の祝福──。

 

 盤上という宇宙(そら)を自由に翔るための、感性の翼だ。

 

 盤面の劣勢は変わらない。打開する手も見つけていない。しかし不思議と負ける気がしなかった。

 

(うん、何とかなりそう)

 

 口元が緩む。するとジッと凝視していた盤上の交点のひとつが淡く光って見えた気がした。初めて見えたモノだ。目の錯覚なのか何なのか、とにかく正体不明なモノ。

 

 さらに言えば先ほど「いや、この手は無いでしょ」と真っ先に候補から除外していた場所だ。

 

 だが──、

 

(委ねる!)

 

 代表は読みを入れる事なく白石を掴み取っていた。読まずとも、間違いなくここだという直感が彼女を突き動かしていた。

 

 掲げた白石と共に無数の翼が舞い上がる。次いで盤上へ解き放つのは、これまでの常識も概念も翔び超えた埒外感性(らちがいかんせい)──。

 

 

(こ、これは……)

 

 その1手に進藤は一瞬ギクリとした後に眉をひそめる。

 

(まさかそこをハネるのか……? 黒の封鎖と下辺の一団への攻めを睨んだ強い手だが、いくら何でも断点が負担で持つわけねぇ)

 

 つまり打ち過ぎの無理手だ。こんなふざけた注文を通してたまるかと、進藤は冷静に対応していく。

 

 この対局中、進藤は盤と石しか見ていない。周りの音も聞こえていない。下手したら理科室が火事になり、炎と煙に包まれても気が付かない程の集中力を発揮している。

 

 それが裏目に出た。

 

 もちろん警戒はして十分な読みを入れたつもりだった。だが不十分。どうせ無理な手だ、という先入観からか、読みの深さがまるで足りていなかった。

 

 代表(このひと)が無策にこんな無理手を打つはずがない、という盤外への疑念を抱き、答えが見つかるまで深く深く読みを入れていたのなら、何処かで手が止まっていたかもしれない。

 

 だがもう遅い。

 

 代表がクスッと小さく笑いを零した。

 

 次瞬、彼女の手によって堕とされた一撃が世界を変えた。

 

 最初の無理手も、無理を通すための悪あがきに見えた手の連続も、それら全てが好手へと反転──、全撃クリティカルのまさに悪魔的革命。

 

(こ、こんな手が……!? 狙いは下辺ではなく中央!?)

 

 対局の主導権をここまで握っていた進藤。ここに来て初めて彼の表情に動揺が浮かび始める。

 

(ノゾきたいのは山々だが、間違いなく出て反発される……。ここを突き破られてはマズイ……。最初からこれを狙っていたのか……!?)

 

 掴まれた黒石がカチャッと碁笥へと落とされた。それが3回。急激な喉の渇きを覚えながら、前傾となり盤上へ顔を近づける。

 

(中央を黙ってツイでも、放り込みを喰らえば最初の無理手がそのまま活きて下辺はコウ……)

 

 立派な地面に立っていたはずが、突如として周りが崩壊していく思いだ。読めば読むほど、自分の立つ場所がどれだけ危険か気付き始めていく。

 

(かと言って2子をアテにいくのも中央の9子が追い落としで抜けてしまう……。ど、どこに打っても黒の大損は避けられない……)

 

 勝負所。焦って失着を打ってしまわぬよう、右手を硬く握りしめる。まだ主導権はその手の中だ。最後まで、勝利へと変えるまでは絶対に手放さない。

 

(6子を捨て石にして先手で白を分断、代償は隅へのフリカワリに求める……。苦しいけどこれが1番マシか……)

 

 石が重たい。骨を断たせて薄皮を切るような策だが他に手は無かった。進藤は目一杯の抵抗を試みる。

 

 まだリードは保っている。しかし流れは変えられていく。手の中にあった主導権がするりと抜け落ちていく。勝ちが遠ざかる。

 

(お、折れるな! 地合ではまだ俺が良い!)

 

 が、今の代表は進藤にはとても思い付かないような手を連打──、碁は何処に打とうが自由でしょ? まるでそんな声が代表の石から聞こえてくるようだった。

 

 ある意味で碁の真理に誰よりも近くなってしまったのかもしれない相手を前に、進藤はぐんぐん差を縮められていく。

 

 歯を食いしばり、呼吸をする労力さえもったいない程に全身全霊で耐える、耐える、耐える──。

 

(クソォッ!)

 

 そして並ばれた。否、ゴールを目指し全力で駆ける進藤の目の前に映ったのは代表の背中。

 

 抜かれた──。

 

 進藤は彼女の背に手を伸ばす事が出来ない。既に進藤の手では伸ばしても届かない場所へ行かれてしまった。

 

(い、今ので俺が悪くなった……!?)

 

 実力の違いをまざまざと見せつけられる。格差など最初からわかっていた事だが、それでも普段の何倍も手が見えた。やれる自信はあった。

 

 盤外へ振れてしまいそうな意識と視線。塔矢が気になる。今どんな顔をしているか気になってしまう。

 

「ぐ……ッ!」

 

 だが眼球で盤に噛り付き堪える。逸らしたら終わる、そんな気がした。

 

 局面は中盤戦終了間際、このままヨセに入れば逆転は不可能。

 

(手は……! 何か、逆転出来そうな手は……!)

 

 負けたらどうなるのか考えるのが恐ろしい。ここまで塔矢を追い掛けてきた全てが無駄になってしまう。これから何を目指せば良いのかわからなくなってしまう。

 

(探せッ! 勝たなきゃいけないんだ、俺が塔矢のライバルなんだから……!)

 

 唇を噛み締め顔を歪める。諦めてたまるか、と盤の中に希望を探し求める。

 

 脳が焼き切れそうな程考えて、考えて、考え抜いて──。

 

 しかしどれだけ探そうとも『逆転の手は無い』という絶望以外見つけられなかった。

 

 

 ◆

 

 

 筒井を筆頭に皆がぞろぞろと対局席へ集まって来る。結果だけは気になるらしい。

 

「もう終わった? どっち勝ったの?」

 

「まだ終わってねぇけど勝ってるのは代表」

 

「……そっか。まぁ仕方ないよね」

 

 オラ子は面白くなさそうに筒井から進藤へと視線を移した。

 

 順当と言えば順当だ。だが盤面を見たところで棋力の低い連中にはこの対局のレベルはわからないため、順当な結果と思われるのが面白くない。オラ子は代表をここまで苦しめた進藤を褒め称えたい思いなのだ。

 

 するとこの中で最も落ち込んだ顔をしている藤崎が塔矢にすがるような目を向けた。

 

「ねぇ塔矢君……。ヒカルじゃ塔矢君のライバルになれないの……?」

 

「そ、それは……」

 

「ヒカル、塔矢君に追い付こうとすごい頑張ってるんだよ? 私にはよくわからないけど、それじゃあダメなのかな……」

 

 塔矢は返答に窮する。この対局を見た限りでは進藤の力は認めてはいるが、お願いされたからと言ってどうこうする話ではない。

 

 何よりもそんな話は後だ。まだ対局はまだ終わっていないのだから。

 

(ここまで局面が進んでしまえば進藤の逆転は難しいだろう。だがsaiなら……。もし進藤が本当にsaiであったのなら──)

 

 やがてカチリ、と黒石を掴み取った進藤が盤へ手を伸ばした。

 

 無駄に粘るつもりなのか、投げ場を探しているのか、それとも逆転の手があるのか──、いずれにせよ塔矢は進藤から目が離せなかった。

 

(──ッ!?)

 

 その動作はいつもと変わらなかった。何の変哲も無い普通の打ち方だったはずだ。

 

 だが塔矢には、塔矢だけには石の音がパチリ、ではなくこう聞こえたのだ。

 

 

 コト──、と。

 

 

 石を親指と人差し指で摘んだ、初心者のような拙い手付きで打ったかのように錯覚したのだ。

 

(アテコミ!? キリを狙ったところで先は無いはずだ……! だが今のは……!)

 

 黒石が置かれたのは既に手にならないと判断した場所だ。しかし今の進藤に小学生の自分を圧倒した、昔の進藤の姿が重なった。

 

 

 

 

 

(ヒカルが私と同じ逆転手を見つけた……!?)

 

 佐為は震え上がった。逆転の手はあったのだ。だがとてつもなく複雑な手順を要求されるゆえ、今の進藤と言えど見つけるのは不可能だと諦めていた。

 

 確かに進藤は逆転の手は無いと答えを出していた。自分ではとても無理だと断念していた。

 

 だが佐為ならば──。

 

 世界最強棋士だと進藤が信じて疑わない佐為であったなら、こんな絶望すら跳ね返し逆転してしまうのではないか、進藤はそう思った。そして考えた。

 

 佐為だったら何処へ打つ──? と。

 

 いつも佐為と打っている進藤だからこそ出来る芸当だ。佐為と数え切れない程打った経験が、佐為の力を絶対と信じ抜く気持ちが、進藤に遥か高みの1手を気付かせた。

 

 そしてここからだ。言うなればまだ逆転へ続く道の扉を開いたに過ぎない。足を踏み入れた先は無数のトラップを仕掛けられた迷宮のようなものだ。

 

(まだ安心は出来ない、ここから先は複雑な分岐点の連続。しかし間違わなければヒカルの勝ちだ)

 

 佐為は息を飲んで見守る。よし、よし、と進藤が1手打つごとに大きく頷き手に汗を握る。

 

 やがて進藤の足が力強く大地を踏んだ。暗く長い迷宮を踏破、視界に捉えたのは追い付けないはずだった代表の姿だ。

 

(見事……!)

 

 佐為はヒカルの才に恐ろしささえ感じた。思わず不敵な笑みがこぼれてしまう程だ。

 

 

(喰らえッ!)

 

 打ち下ろす黒石は稲妻──。

 

 遥か高みより、翼持つ者さえ喰らい尽くす黒い稲妻だ。

 

 打音の後には静寂が広がった。誰かのゴクリと息を飲む音さえこの場に響く。

 

 

 全く考えもしなかった好手妙手を超えた鬼手に、塔矢は戦慄を覚えた。

 

(な、並んだ……! いや、僅かに進藤が良い……! し、しかし今の手順はまるでsaiのような──)

 

 その考えにハッとして口元に手を当てる。重なったのは今の進藤に昔の進藤の姿。そしてsaiの練達された打ち筋。その3者が1本の線で繋がっていく。

 

(進藤が、いや、昔の進藤がsai……。やはりそうなのか……?)

 

 去年の夏、その考えは塔矢の中にあった。当時は大会での進藤のあまりの弱さに完全否定したが、今はーー。

 

 しかし繋がっているようで繋がっていない。パズルのラストピースがどうしても見つからない思いだ。

 

(進藤であって進藤ではない……)

 

 まるでなぞなぞ。それでも最後のひとつを強引に埋めようとすれば、

 

(進藤の中にもうひとりいる……?)

 

 どうしても非現実よりの答えになってしまう。だがこれ以上の答えは現状出せそうになかった。

 

 

 ◆

 

 

 中盤戦最後の最後で進藤が巻き返し、局面は終盤戦に突入した。

 

 ヨセを得意とする筒井が計算中──。

 

「これはヨセ勝負だね。かなり細かいなぁ、えっと……」

 

「ねぇメガネ、代表勝つよね? 勝つでしょ? ねぇってば!」

 

「筒井さん、ヒカルの勝ちだよねっ? 勝ちって言ってよ!」

 

 両脇のギャル子と藤崎が筒井の腕を引っ張り始めた。

 

「あーもう! やめてよ、わからなくなっちゃったじゃないかぁ」

 

 筒井はウザったそうにため息を吐き、計算を諦め整地まで待つ事にした。

 

 その様子を横目に佐為はクスクスと笑う。こちらはとっくのとうに計算済みだ。

 

(ここから双方が正しくヨセればヒカルの1目半勝ちですよ。えへん)

 

 ところがその笑みがたちまちに不安げな表情へ変わっていく。重大な失念だ。すっかり逆転したかと思っていたが、進藤にはヨセの甘いところがあり、それを思うと勝利を確信するのはまだ早過ぎたのだ。

 

(……いえ、きっと大丈夫。今のヒカルならば間違う事はないでしょう。……ですよね? ね?)

 

 進藤の後ろで両手をバタバタさせてヨセの進行を見守る。

 

 それも杞憂であった。厄介な計算の必要なヨセも、進藤は本能で正しくヨセていく。ホッとする一方、階段をすっ飛ばして成長されてしまったようで、指導者の佐為としては少しだけ寂しさも覚えてしまう。

 

 そして今度は柔らかな眼差しを代表へ。届かなくても感謝を送りたかった。

 

『娘よ、感謝します。そなたのおかげでヒカルは壁を打ち破る事が出来ました。プロへ行くのであれば、近くヒカルと相まみえる事があるでしょう。その時が楽しみです』

 

 1手1手終局へ近づく。互いに見えている正解の道筋を辿るように石が置かれていく。

 

 そんな中で佐為にはひとつだけ気掛かりがあった。集中している進藤の耳には入っていなかったが、塔矢が三谷らにsaiについて尋ねていた件だ。

 

 対局が終われば塔矢から問いただされる事は目に見えている。一難去ってまた一難、勝利の余韻に浸る時間さえ無さそうだ。

 

(全く、筒井さんがネット碁の話なんてするから面倒な事になったじゃありませんか)

 

 ムスッと睨んでやるが筒井は盤面に夢中。他の皆も「どっちが勝つの?」とハラハラしている。ひとりひとりの顔にゆっくり目を移していくと感慨深い気持ちになっていった。

 

(……この者達も筒井さんが囲碁部を作らなければこんな風に集まる事は無かった。そう思うと人の縁とはつくづく不思議なものですね)

 

 ふふ、と笑みをこぼし、穏やかな表情で終局を待つ。

 

(素晴らしい1局でした。おめでとう、ヒカル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 佐為の背中にゾクリと寒気が走った。

 

 それこそ幽霊でも見たかのように目を見開いた。

 

 瞬きが出来ない。盤上から目が離せない。

 

 思考が鈍る。

 

 代表が置いた白石の意図が読み取れない。

 

 ヨセはどれだけ複雑であろうと正しい道はひとつ。

 

 ひとつしかないのだ──。

 

 

 

 

 



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15話 伊角さんは心が脆い

久しぶりなので前回のあらすじ
塔矢が代表をライバル視している事にショックを受けた進藤。ライバルの座を取り戻そうと覚醒して代表を圧倒するが、代表も覚醒してなんやかんやで互角のまま終局。


「私の半目勝ちね」

 

 綺麗に整地された盤上。代表が安堵のため息と共に、項垂(うなだ)れている進藤へ結果を告げた。

 

 周囲の観戦者達からは落胆の声か広がる。代表の味方である高校生達も「ここまで来たんだから進藤に勝って夢を見せて欲しい」という気持ちがあった。

 

「今日のところは勝たせて貰ったけど、メッチャクチャ強くてビックリしちゃった。最初から検討しましょ?」

 

 代表は石を碁笥に戻し始めたが、進藤の頭の中は「負けた」で埋め尽くされ、彼女の声は届いていない。

 

 そして佐為もまた沈痛な面持ちだ。双方最善手順で進藤の1目半勝ちを確信していたところから代表が放ったヨセの妙手。天国から地獄に突き落とされたようでダメージは大きい。

 

(あの手順、気付かなかった……)

 

 進藤はもちろん、佐為も幽霊とはいえ人間だ。神ではない限り誰にでも見落としはある。

 

(私もまだまだか……。だがそれが良いのかもしれない)

 

 佐為の口元に不敵な笑みが浮かんだ。碁を打ちたい、更に強くなりたいという想いが溢れ出てくる。

 

(たった千年で極められる程、碁は浅いモノではないと改めて思い知らされた。それでこそこの道を選んだかいがあるというものだ)

 

 それはそれとして、今は進藤の事だ。励まさねばと、明るく振舞ってみせる。

 

(ヒカル、負けはしましたが素晴らしい1局でした。あんな碁を見せられて心が動かない塔矢ではありませんよっ)

 

(それでも負けちゃダメだったんだ……。 もう何もねぇよ……)

 

 返された進藤の心の声は弱々しかった。

 

 塔矢のライバルは代表の方がふさわしい、自分じゃない──。

 

 突きつけられた結果が、これまで碁を打ち続けていた意味を崩壊させていく。真っ直ぐ進もうとしていた道が途切れてしまい、これからどうしたら良いのかわからなくなる。

 

「クソォ……ッ」

 

 肩を震わせ漏らした声には涙が交ざっていた。次第に大きくなっていく嗚咽。進藤は俯いたまま泣き続けた。

 

「ヒカル……」

 

 藤崎は進藤の肩に手を伸ばそうとするも、途中で止まってしまう。慰めてあげたいと思う反面、涙の理由を半分も理解していない自分ではその資格は無い、そんな気がしたのだ。

 

 誰も進藤に声を掛けられない。掛ける言葉が見当たらない。そんな中で筒井が代表に恐る恐る耳打ちする。

 

「ライバルの座を返上してあげたら……? なんて……」

 

「そんなもんあげたり貰ったり出来るわけないでしょ」

 

 バカね、と肩をすくめる代表。そもそも彼女は進藤のように塔矢のライバルの座に興味はない。かと言ってわざと負けてやる程甘くはない。後はご自由にどうぞというスタンスである。

 

「それに、単純により強い奴がライバルの条件って言うのであれば、私や進藤君の他に適任がゴロゴロいるじゃない。ああ、そういうところではライバル関係と恋愛って似てるわよね」

 

(何で女の子ってすぐ恋愛に話持ってくのかなぁ……)

 

「筒井君、その顔は何?」

 

 物言いたげな顔をした筒井に細めた目がジロリと向けられる。

 

「別に。恋愛と似てるって言うのは、必ずしも頭が良くてカッコも良くて、お金持ちで──、って好条件な相手を好きになるわけじゃないって事?」

 

「そうそう。恋愛ってのは奥が深〜いのよ。筒井君も恋愛にお困りだったら、歩く恋愛辞書である私にいつでも相談して頂戴」

 

(恋愛経験無い癖に……)

 

 腕を組みうんうんと頷く代表。恋愛は知り尽くしたと言わんばかりに得意げな態度を取られ、またまた筒井は呆れ顔だ。

 

 下手な事を言って「何よ! もう筒井君には碁教えないから!」とヘソを曲げられてはかなわないので口に出す事はしない。

 

 ところがそんな代表に後ろのオラ子からコツンと脳天チョップ。

 

「おいおい、お前何もかんも未経験の癖に語ってんじゃねぇよ」

 

「何よ! あんただってそうじゃない!」

 

 ケンカが勃発しかけたが、皆の注目を集めてしまい、代表は恥ずかしそうに咳払いをひとつ。

 

「話が逸れたけど、結局重要なのは塔矢君が今の1局を見てどう思ったかってところなのよ」

 

 言うと、代表は盤横で難しい顔をしている塔矢を「ねぇ?」と見上げる。塔矢は目が合うと、何も口にする事無く視線を床に落とした。

 

 

『俺の幻影なんか追ってると、ホントの俺にいつか足をすくわれるぞ』

 

 塔矢はいつか進藤に言われた言葉を思い出していた。その時は鼻で笑い飛ばしていた言葉だ。

 

 確かにsaiの件は気になる。今すぐ進藤に全てを問いただしたい。けれど今まさにあの時の言葉通りになろうとしているじゃないか、塔矢はそう思った。

 

 ハッキリ言えば今の進藤に絶対に勝てるという自信は無い。それほどの強さだった。

 

 驚き、焦り、高揚、そしてそれらと同時に湧き上がるのは、「進藤だけには絶対に負けたくない」という強い想い。そう、代表よりも、他の誰よりも、進藤だけには──。

 

 それはライバル心に他ならない。

 

 進藤が代表に敗れても、誰に何を言われなくても、答えは胸の内にあったのだ。

 

 が、それを素直に口にする塔矢ではない。

 

「村上二段──」

 

「え?」

 

 何処かで聞いた名を口にされ、目を擦りながらゆっくりと顔を上げる進藤。

 

「若獅子戦、キミの1回戦の相手だ」

 

「そうだっけ……」

 

 今となってはどうでも良いのだろうか、進藤は投げやりな返事だった。

 

 そんな腐っている進藤に苛立ちを覚えながら、塔矢は少しの間を置いて再び口を開く。

 

「……2回戦で待っててやる。村上二段なんかに負けたりしたら承知しないからな」

 

「待ってる……? でも俺は負けたのに……」

 

 大きく開いた赤い目を向けられ、塔矢はため息を吐き出した。勝敗しか見ていない素人扱いをされたようで、ハッキリ言って不快である。

 

「勘違いしているようだから言ってやる。キミは今の対局にライバルの座を賭けていたつもりだったようだが、誰が僕のライバルかは僕自身が決める事だ。勝手に熱くなって勝手に腐っていられたら、こっちはたまったもんじゃない」

 

 そしてひと呼吸を置き告げた。

 

「もう直接打つ事でしか本当のキミはわからない。今度は失望させるなよ」

 

「あ……」

 

 唖然としていた進藤は立ち上がり、塔矢の目を真っ直ぐに見据えた。

 

 互いに目を逸らさない。塔矢の目は確かに進藤に向いていた。塔矢の瞳には進藤が写っていた。

 

 進藤の拳がギュッと握り込んだのは覚悟。何が何でも塔矢の視界(このばしょ)に喰らい付いてやるという覚悟だ。

 

「ああッ! もう『ふざけるなッ!』なんて言わせねぇ! 絶対2回戦に勝ち進んでやるから待ってろよ!」

 

 

 ◆

 

 

 理科室の机の上にはクッキーが盛られた3枚の紙皿。藤崎、津田、そして塔矢が作った物である。

 

 進藤は対局の疲れを癒すようにクッキーを口へ放り込んでいく。

 

「こっちがあかりので、こっちが津田のか。……うん、どっちもうめぇ。味が違うから交互に食べると止まんねぇや」

 

「……」

 

 幸せそうに食べる進藤を、緊張した面持ちでジッとみつめているのは隣に座る塔矢だ。

 

「うめぇうめぇ。糖分が脳に行き渡るぜ」

 

 しかし待てど暮らせど、進藤はJC達のクッキーにしか手を付けようとしない。耐え兼ねた塔屋がついに口を開く。

 

「待て進藤。何故僕が作ったクッキーを食べない……!」

 

「へんっ、お前が作ったやつなんか食いたかねぇよ」

 

「ク……ッ! おのれ進藤、やはりキミという奴は……!」

 

 塔矢の目にうっすら涙が浮かび始める。クッキーを作っていた時からこういう事も予測していたが、いざ言われてみると結構悲しかった。

 

「ヒカル最低っ! ヒカルのお母さんに言うからね!」

 

「塔矢君に謝りなよ!」

 

 JC達から批難の声。一緒に作ったからか、塔矢とは妙な友達意識が生まれている。

 

 女子を敵に回すと恐ろしいと思ってか、進藤は素直に謝った。

 

「わ、悪かったよ。だから中2にもなって泣くなって」

 

「な、泣いてなどいない! それに泣いていたのはキミの方だろうが!」

 

「はぁ? 俺は全然泣いてねぇし。さっきはたまたまあくびが出て、ちょっと涙が出たかもしれねぇけど、泣いてはいねぇもん」

 

 まるで小学生の言い訳。これには全員がポカンと口を開いてしまう。

 

「ど、どうしてキミはそうやって口からデマカセばかり……!」

 

「う、うるせぇな。食ってやるから黙ってろよ」

 

 さすがに苦しかったかと思い、誤魔化すように嫌塔矢のクッキーを口に運んだ進藤。もぐもぐと咀嚼する様を塔矢はそわそわしながら見つめている。

 

「……どうだ? 美味しいだろう? 美味しいと言え、早く言え」

 

「……まあフツー。これなら俺が作った方が絶対美味いぜ」

 

「キミが? い、意外だな、まさかお菓子作りが得意なのか?」

 

 塔屋はよく考えれば進藤の情報をほとんど持っていなかったので、思わぬ特技に目を丸くしたのだが、

 

「いや、1回も作った事ねぇけど?」

 

「ふざけるなッ!」

 

 感心したのも束の間。塔屋が机を両手でバンッ! と叩くと共に、椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がった。

 

「作った事もないくせによくそんな事が言えるなッ!」

 

 負けじと進藤も立ち上がり顔を突き合わせる。

 

「クッキーくらい作れるに決まってんだろッ!」

 

「じゃあ作れ! 今すぐ作れ! 大体キミは何故前髪だけ金髪なんだ! まさかカッコいいと思っているのか!? 中途半端でイライラする! いい加減にしろ!」

 

「何だとォッ! 俺だって前から思ってたけどお前のその髪型ヘルメットみたいでムカつくんだよ!」

 

 本格化し始めた子供同士のケンカに、皆はそそくさと退避するのであった。

 

 

 

 

 言い合うだけ言い合ったふたりは息を切らして机に突っ伏している。その様子をギャル子は羨ましそうに眺めていた。

 

「良いなぁ、あたしもライバル欲しいなぁ」

 

「日高がいるじゃん」

 

 筒井が日高の名前を出したので、塔矢はムクリと顔を上げた。

 

「日高? もしかして海王の日高先輩ですか?」

 

「うん、この前海王の女子達とちょっと揉めてさ」

 

「ああ、大会でもそちらにちょっかい掛けていましたしね。口の悪いところがありますが、本当は優しい先輩なんですよ?」

 

 塔矢が日高の肩を持つのでギャル子は不満げに眉をひそめる。

 

「ふん、そもそもあいつが碁を打ってるところ見た事ないしね。海王中で大将やってたから強いはずって事しか知らないもん。だからまだライバルも何もないって」

 

 それもそうか、と筒井は手元に黒と白の碁笥を引き寄せた。

 

「じゃあ日高の打ち碁並べてあげるよ。少しは力がわかると思うよ」

 

「日高先輩の? どこでそんなモノを?」

 

「まさか海王にスパイでも送り込んだ?」

 

 ふたりをシカトしてパチパチとスムーズに石を並べていく筒井。ギャル子と塔矢は碁の内容よりも打ち碁の入手先が気になる様子。

 

「昨日の互先の1局だ。白が日高」

 

「き、昨日……!? 黒は?」

 

 ギャル子の問いに筒井は答えず石を並べ続ける。

 

「黒は誰?」

 

 またまた聞かれるが筒井は口を開かない。

 

「ここの黒は良い手ですね。黒はどなたですか?」

 

「でもどっかで見た打ち方……。黒は誰!? まさか──」

 

 途中塔矢からお褒めの言葉を交え、黒の正体を予感したギャル子が大きく目を見開いた。

 

 そして──。

 

「僕だよ」

 

 眼鏡をクイッと上げてようやく答えた筒井。その口元には薄っすら自慢げな笑みが浮かんでいた。

 

 

 ◆

 

 

 翌日の5月5日。進藤が院生研修のため日本棋院に訪れていた。時間少し前に研修部屋である広い和室に入室。ズラリと並ぶ碁盤前には既に多くの院生達が着いている。

 

 自分の席へ向かう途中、「オッス」と仲の良い和谷と軽く挨拶を交わした。

 

「遅ぇ」

 

「へへ、寝坊しちゃって。そうだ和谷、俺昨日さ──」

 

(ヒカル、後になさい。もう師範(せんせい)が来てしまいますよ)

 

 代表と会った事やプロ試験にも出る事について話そうかな、と思ったが佐為の言う通りあまり時間も無いため後にする事に。それに対局直前だ。喜ぶだけなら良いが、数少ない合格枠を争う強力なライバルの復帰に動揺してしまうかもしれない。

 

「やっぱ後でいいや。じゃあ頑張れよ」

 

「頑張んなきゃいけないのはお前だろ。今日の相手わかってんのか?」

 

「わかってるよ。やるの楽しみだぜ」

 

 和谷に踵を返した進藤。対局相手が空席になっている自分の席の座布団に腰を下ろしたのだが、

 

「ぷっ」

 

 そこでつい笑いが吹き出てしまった。隣の佐為へ横目を向け、

 

(しっかし昨日は筒井さん傑作だったよなぁ。ギャル子さんから『浮気ッ!』ってぶん殴られて首絞められてさぁ)

 

(ええ。筒井さんのくせに女の子に手を出しまくるからです。天罰が下ったんですよ)

 

 思い出されるのは日高と何があったのかを根掘り葉掘り問いただされていた、筒井の情けない正座姿だ。

 

 と、そこへ──、

 

「おはよう。何か面白い事でもあったのか?」

 

 中2の進藤よりも一回り年上である対局相手の青年が姿を見せた。進藤はひとりで笑ってると思われたのが恥ずかしくて目を泳がせる。

 

「お、おはよう伊角さん。昨日ちょっとね」

 

 進藤の対局相手は院生順位1位の伊角慎一郎。その実力はそこいらのプロを上回る。

 

「そう言えば進藤と研修手合いで当たるのは初めてだな。空き時間に何回か打った事はあるけどさ」

 

「うん。でも負けないよ」

 

 伊角へと返すのは強気な眼差し。本来であれば胸を借りるような、もしくは気圧されていたかもしれない実力差のある相手。半分遊びの対局でもここまで勝率0パーセントである。しかし今の進藤は最強の院生を前にしても落ち着き払っている。

 

 対局開始までの残り僅かな時間の中、進藤は静かな視線を盤上に落とした。広大なはずの19路の盤が狭いとさえ感じられた。冷静で、それでいて暴走するかのような打ち気が体中を駆け巡る。

 

(早く打ちたい。昨日のがマグレじゃないって見せてやる)

 

 それから少し間を置いて入室した篠田師範。挨拶の後、対局の開始が告げられた。

 

 各対局席から重なる「お願いします」という声と、カシャッという対局時計の音。

 

 いつもと変わらぬ研修手合い始まりの風景の中で、進藤は目を閉じてスゥ、とひと呼吸。まだ、目は開けない。

 

 違う、これじゃない。もっと盤の中深くへと潜り込むように、盤の底に手を伸ばすように意識を集中させる。

 

 次瞬、弾けるような無音が轟いた──。

 

 周囲の微々たる音が、巨大な無音に飲み込まれたように何も聞こえなくなったのだ。そう、昨日はこの感じだったと力強く目を見開いた。

 

(いくぜッ!)

 

 カチリと黒石を掴み取った進藤の指が、待ちわびたと言わんばかりに盤へと駆ける。

 

 ここから先は以前の進藤とは別次元──。

 

 代表との対局で爆発的に引き上げられた力が、迷う事無く盤上へと解き放たれた──。

 

 

 ◆

 

 

 ピ、ピ、ピ、という対局時計のカウントダウン。60分あった持ち時間を使い切り、1手1分以内に着手しなければならない苦しい状況。もし打てずに表示が0になればどうなるかは言うまでもない。

 

 その崖っぷちに追いやられているのは伊角──。形勢自体は悪くはない。何とか進藤と渡り合っている。が、その代償として時間を失ってしまった。

 

 残り一桁秒で何とか着手、時間切れを回避。得られたのはほんの少しの安息の時間。

 

(どうなっている……。コイツ、本当に進藤なのか……?)

 

 対局が始まってから何度同じ疑問を持ったのかわからない。初手合いだがこれまでの成績からして、進藤は伊角より2つ、3つは格下と言って良い打ち手だったはずだ。

 

 子供は突然伸びる。それはこの院生でずっと目の当たりにしてきた。もう子供とは呼べない年になってしまった伊角はそれを羨ましく、そして恐ろしく思う日々だった。

 

 しかしそれにしたってこれはないだろうと、動揺を抑えきれない。そんな自分に喝を入れるように、両の眼を鋭く形どる。

 

(いかん、集中しろ……! 進藤の手番中に考えられるだけ考えるんだ!)

 

 とは言え厳しい。相も変わらず飛んで来る痛烈な1手1手に表情を歪めさせられてしまう。

 

(反発された……! 隅の黒2子を捨て、オシから白に圧迫をかけてまとめて攻めるつもりか……?)

 

 59、58、と再び始まったカウントダウン。限界まで加速させた思考を振り絞り、勝利へ近づく道を模索する。

 

(ノビ──。いやトビツケの方が難しくなるか。出ギリならこちらもキリ返してカウンターを喰らわせてやる)

 

 残り3秒。パチリと勝負の意を込め打ち放った白石。カシャッと時計を止めた左手か膝上に置かれるよりも早く──。

 

 パチリ、カシャッ。

 

 伊角の心臓を跳ね上がらせた音の2連撃。進藤の残り持ち時間は15分、余裕はある。それにも関わらずのノータイム打ち。その手はとっくに読んでいる、時間など使うに値しない局面だと言っているのだ。

 

「く……ッ」

 

 必死で喰らいつこうとするも、牙も、爪も届かない。ここまでミスらしいミスはなかった。いつも通り力は出せていたはずだ。だが進藤を相手に劣勢に追いやられていく。それはとどのつまり、単純に力負けしているという事に他ならない。

 

(進藤は、既に俺よりも、上……?)

 

 ゴールが狭まり遠ざかる。この対局ではない。院生達の最大目標であるプロ試験合格だ。席はたったの3つ、その1つはもう進藤に──。

 

(バカ、今は集中しろッ!)

 

 つい余計な事を考えてしまう自分に苛立ち、焦りが生まれる。集中しろという己への叱責が既に雑念であるかのように、負のスパイラルに堕ちていく。

 

(しま……ッ!)

 

 打ちつけた白石から指が離れた瞬間ハッとした。明らかに緩い手。案の定進藤から放たれた咎めの石に、もはや手の施しようがない。

 

 肩を小さく上下させる伊角はゴクリと息を飲む。どうする、どうする、どうする、と時間だけが無為に過ぎていく。どれだけ思考を巡らせようとも、彼の手にはたった1枚のカードしか残されていなかった。

 

「ま、負けました……」

 

 直後にピー、という長い電子音。伊角は負けた。進藤にも、自分にも負けた。

 

 

 対局を終え、観戦に移っていた院生達からせき止められていたどよめきが起こった。進藤が伊角を破ったのもそうだが、何より進藤の信じられない強さだ。

 

「やったぜ、伊角さんに勝った」

 

 院生達から畏怖を思わせる視線を受ける中、「へへっ」と喜びを露わにしている進藤。1位である伊角に勝てた事で自分の成長を実感出来たようだ。

 

 対局中とは別人のような、子供らしい笑顔だ。伊角はなるべく平静を装って口を開いた。

 

「……すこいな。急に強くなって、何かあったのか?」

 

「うん。昨日絶対負けられない対局があって、『死んでも負けるもんか!』って壁破っちゃった感じ? もう負けたら碁やめてやるくらいの覚悟で。まあ結局負けちゃったんだけどさ」

 

「昨日? そういや対局前に昨日がどうとか言ってたな。誰と打ったんだ?」

 

網代木(あしろぎ)って超キレイなお姉さん。俺が院生なる前まで院生やってたって言ってたから、伊角さんも知ってるでしょ?」

 

「あ、網代木!? アイツと打ったのか!?」

 

 思わぬ名前を口にされ、伊角は声を大にした。それに周りも反応し、ざわざわと騒がしくなる。

 

 そこへ眉を八の字にしてやって来たのは師範の篠田だ。

 

「コラ、まだ対局中の子もいるんだ。静かにしなさいっ」

 

「すいません……。進藤が昨日網代木と打ったって言って……」

 

 面目なさそうな顔を上げた伊角の言葉に耳を疑い、驚きの眼差しを進藤へ向ける。

 

「ほ、本当かい進藤君……」

 

「えっと、昨日俺の通ってる葉瀬中の囲碁部と、お姉さんが入ってる葉瀬高の囲碁部で一緒に練習して、その時に」

 

「囲碁部……。そうか、また碁を始めたのか……。網代木君は元気そうだったかい?」

 

「元気でしたよ? それで今年のプロ試験も受けるって言ってました」

 

「そうかそうか。いやぁ、良かった」

 

 心から安堵する篠田師範。意識不明が続く母親の見舞い以外全てを放棄した日々を送っていた代表の事を、今でもずっと心配していたのだ。

 

 ところが、

 

「途中でバックれた癖に。自分勝手な奴」

 

 ボソッと呟いたのは飯島という眼鏡の男だった。強い打ち手の受験を疎ましく思ってしまうのは無理もない。何せ合格枠はたったの3つだ。

 

「よせよ。事情が事情だろ」

 

「けど、去年だってアイツが合格した真柴と外来にきっちり黒星つけてりゃ、伊角さんは受かってたはずなんだぜ? それを不戦敗で白星なんかあげちまうから」

 

 伊角は視線を落とす。確かに否定は出来ない。まず不合格はないと思っていたくらいだった。が、やはりそれを言うのは筋違いだ。

 

「誰が誰にとか、プロ試験でそんなの言い出したらキリがないだろ。アイツが元気なった事を喜んでやろうぜ?」

 

「フンッ、それで落ちてりゃ世話ねぇぜ」

 

 飯島は背中を向けたが、言った伊角も心中穏やかではなかった。

 

 現時点の実力順ならば代表と進藤が合格濃厚。もっとも、単純に実力順で合格が決まる訳ではない事は伊角は身を持って知っているが。

 

(去年も塔矢アキラと網代木が群を抜いていて、それを考えると今年も似たような状況だが……)

 

 去年のプロ試験と違うのは、下だった者達が実力を付け自分に肉迫している事だ。そしてプロ試験まで3ヶ月もある。子供の急成長を体感したばかりの伊角にとって、それは自分の合格を脅かすには長過ぎる時間であった。

 

(弱気になるな……。俺だってまだ伸びるんだから……)

 

 

 そして昼食を挟んでの午後の対局。ここで勝って気を取り直すつもりだったのだが、

 

(進藤はまた勝ったのか……)

 

 対局中に後ろを向いた伊角。院生3位の本田が青ざめた顔で震えているのが遠目でもわかった。やはりマグレではなかった、進藤の強さは本物だったと、伊角の胸の鼓動が焦りを交え早まっていく。

 

 そして気が付けば自分の対局は酷い有り様になっていた。他が気になってまるで実力を出せていない。

 

(まだだ! 逆転は出来る!)

 

 もがく、もがく、もがく──。絶対に諦めないという執念を込めて猛追を仕掛ける。

 

(気にするな! 俺は俺だ! 進藤なんか、進藤の事なんか──)

 

 進藤の碁がチラつく。あっという間に自分を超えてしまった才能に、自分の碁が歪んでいく。

 

 そして終局。もはや意味があるとは思えない整地作業が終えられた。

 

「18目半の、負け……」

 

 悔しさを噛みしめて深く頭を下げた伊角。結局挽回出来ずに敗北してしまった。オマケにとっくに投了すべき碁だったにも関わらず、終局まで打ってしまった事が恥ずかしく顔を上げられない。

 

(まさかフクに負けるなんて……)

 

 相手は院生14位の福井という小学生。伊角ならばまず負けない相手だ。大差からも読み取れるように、明らかに調子を崩してしまった。

 

 

 代表の参戦、進藤の急成長が大きな話題となり、伊角が福井に負けたのは大したニュースにはならなかった。いや、皆自分の事で精一杯だったのかもしれない。とにかく、気にするな、そんな日もあるさ、などと慰められるのはゴメンだったのでむしろ良かったとも言える。

 

 伊角は院生研修が終わると日本棋院をひとりで後にした。いつもは仲間と一緒に帰るのだが、どうにもひとりで帰りたかった。

 

 徒歩1分足らずの市ヶ谷駅を前にして、気が変わったように爪先を歩道へ戻した。今日は歩いて帰ろうというのだ。

 

 背中を曲げ、地面を見つめ、辛気臭いオーラを纏い、トボトボと歩く。

 

(俺はまた落ちるのか……?)

 

 毎年あと一歩のところでプロ試験に落ちている。このままでは今年も落ちる気しかしない。

 

 日も暮れ始め、1時間程歩いたところで雨が降って来た。別に濡れても構わないと思った。不調や沈んだ気分もろとも、全てこの雨で洗い流して欲しかった。

 

 やがて「あれ?」と顔を上げた。

 

 2時間も歩けば帰れる距離だったはずだ。が、気が付けばそこは全然知らない街。何処でどう間違えたのか思い返すのも面倒臭い、自分の方向音痴に呆れて大きなため息が漏れ、気分がとことん堕ちていく。

 

 歩く気力を失い足が止まる。傘を差した通行人らにどんどん追い抜かれていく様が今の自分そのままのようで滑稽に思えた。

 

 それだけでは終わらない。神に嫌われたかのように災いが伊角を襲った。

 

「ボサッと突っ立てんじゃねぇぞッ!」

 

 あろう事か、後ろから自転車に追突され、ドグシャァァァッ! とド派手に倒れてしまったのだ。

 

「いて……」

 

 今日はメチャクチャだ。自分はこんなところで何をやっているのだろうと、瞳が光を失っていく。

 

 追い討ちをかけるように誰も助けようとしない。起き上がれない伊角に向けられるのは、通行人達による携帯のカメラと薄ら笑いだけであった。

 

(本当に、あるんだな……)

 

 テレビでこういうシーンを見た事があるが、本当に心が冷えていく。

 

 否、ひとりだけ──。

 

「大丈夫? お兄さん」

 

 しゃがみ込んだ少女が倒れている伊角に傘を差し、手を差し伸べてくれていた。

 

 髪からしたたり落ちた雨粒で視界がにじむ。小麦色の太もも奥にある派手なパンツが見えてしまっている少女の手に、伊角は自身の擦りむいた手を無意識に預けていた。

 

 

 

 



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