その薔薇が咲く前に (TUTUの奇妙な冒険)
しおりを挟む

1.1 戻ってきた第3惑星

タイムトラックの摩訶不思議な彩りの中を青色の小さな"物体"が流されていた。外見は60年代のイギリスに溢れ、今はほとんど見ることのできないポリスボックスと呼ばれる箱に見える。うねりを上げるタイムトラックの中で、きりもみ回転を描いてポリスボックスは飛んでいく。

時空を超越した異空間になぜこのような人工物が飛んでいるのか、その理由を答えられる人間はそう多くない。なぜ飛んでいるのか、どのように飛んでいるのか、そのプロセスまで答えられる者となると、人間という制限を撤廃しても今や宇宙に1人しかいない。髭を生やし、顔には無数の皺が刻み込まれたその男の顔は、どこかの戦場を生き抜いた強かさを感じさせる。彼の体は白い空間の中で黄色の光に身を包まれていた。

「次はもっと耳が小さいと良いが……」

そう言い残し、老兵は体から山吹色のエネルギーを放つ。顔を纏わるようにして炎に似たオーラが漏れ出し、大の字に広げた全身から光が迸る。宇宙最大の戦争

タイムウォー

を戦士として生き抜いた男の、最後の光だった。

 

 

 

「おっ時間か。じゃあ来週はこの続きからやるからなー。大竹はこの問題続投な」

「えーっ」

6限の終刻を告げるチャイムが鳴り、数学Bの授業が終わった。5日間に亘る詰まりに詰まった一週間もようやく土日という休息の時を迎える。クラスで授業を受けていた一人、月村静香もその土日を心待ちにしていた。特に楽しみにする行事があるわけでもないが、窮屈な勉強の日々からは早く解放されたかった。

窓から教室の外を見ると、ちらつく雪の向こうの棟で3年生がうろついているのが見えた。どの生徒も疲れた表情を浮かべているか、参考書や教科書を睨みつけている。残り数ヶ月に迫ったセンター試験の影響であることは明らかで、彼女をはじめとする2年生も共通テストを意識した授業日程が随分前から組まれている。このまま3年生になり、受験戦争に身を投じていくことになるのか……と、彼女は将来を憂いだ。

掃除を簡潔に済ませてホームルームを内職しながらパスし、彼女は教室を出た。ここ数日で随分と冷え込んでおり、白く漂う吐息の向こうに赤らんだ頬が透ける。マフラーでも持ってくるべきだったと、独り脳内反省会を開いていた。

「じゃーねー、しず!」

「うん、それじゃ!」

声をかけてくる級友に手を振り返し、昇降口で靴を履き替えて靴音を鳴らす。普段の何気ない一挙手一投足が今日も今年も同じように繰り返される。決して楽しくないわけではないが、私のしたいことはこれじゃない、という原理の説明のつかない感情が湧いている。では何がしたいのか、と問われても具体的に浮かんでこない。ただ惰性で勉強する日々からも、試験に直面し続ける未来からも、何となく逃れたかった。

 

そんな敷かれたレールから大きく逸脱した存在は、すぐそこまで迫っていた。

高速飛来物が突然空中に出現した。ふと彼女の視界にもその影が落ちるが、彼女がそれを認識して瞳を向けた空には青色の残像だけが残されていた。その残像を残した"物体"は、一直線の軌跡を描いて道路に着弾した。重機が倒壊したかのような轟音が響き、砕けたアスファルトが宙を浮く。道を走っていた自動車もバランスを崩し、大型トラックが"物体"と正面衝突して強制停止させられた。

「は……!?」

彼女は状況を呑み込めずにいた。空から落ちてきたよく分からない何かが、目の前で交通事故以上の何かを起こしている。地面の振動が車上荒らしと検知されたのか、付近の駐車場に止まった車はこぞってサイレンを鳴らしている。トラックからは煙が上り、フロントガラスに突き刺さったその"物体"は顔色一つ変えずに佇んでいる。

 

周囲を歩く民衆も騒然とし始めた時、騒動の中核に位置する"物体"が突然動いた。開いた扉からは茶色のコートを羽織った男性が姿を現した。外見は西欧人で、耳が異様に大きく、額の広い坊主頭の男性。事故現場から忽然と男が出てくるという時点で異様な光景であるが、それ以上の謎に満ちた雰囲気を醸し出している。

「ああ、ここは地球?だが見慣れない風景だな……」

男はコートをヒラヒラとコートを翻しながらあたりに立ち並ぶ建物を見渡していたが、ふと箱が事故を起こしていることに気付いたようだった。

「おっ……おおっ……これはまずいな。えーと、運転手の君、生きてるか?」

どうやら運転手の反応はないらしく、彼は停止したトラックの周りを心配そうに歩き回った。その間もトラックの後続車両が迷惑そうに避けていき、対向車も彼に苛立ちながら停車しているが、彼は全く気に留めていない様子だった。遅刻寸前通学途中の人間がノラネコをわざわざ追い回さないのと同じように、彼も周囲の人間に一切の配慮をしていない。

「ああ大変だ気を失ってる……くそ、ターディスも壊れたし!」

彼はトラックのタイヤに強く蹴りを入れ、その反動をモロにくらったのか足を抱えて跳びはねる動作をした。歯を剥き出しにしながら悪態をついて跳ね続けているうち、彼の視線がこちらを向く。目があってしまった。

「そこの君」

意外にも、彼の口から発されたのは流暢な日本語であった。

 

「え──」

周囲に首を向けるが、彼女の周囲には野次馬がいない。彼の視線は真っ直ぐに彼女の方へ向いていると浮き彫りになる。男性は彼女に向かって歩み始めた。

(──危険だ)

突然アスファルトを叩き割って車を破壊した男。一体何者なのか一介の高校生に過ぎない彼女には知る由もないが、非常に危険な存在であることは明らかだった。逃亡中の強盗犯、自爆テロ未遂のカルト宗教、異様な武力を持った通り魔。数々の可能性が脳裏をよぎり、目の前の人物に対して警戒信号が発せられる。だがその警報を突破するでもなく、掻き消すでもなく、溶け込むようにしてその男は近づいて来る。

「あ……」

「君だよ。ブレザーの制服を着た女の子。ここはどこかな?地球ってのは分かる。そして君や周囲の人間を見れば、ここがアジアってことも分かるぞ。だが何という国の何という土地で、いつなのか。ふざけちゃあいない。真面目な話だ」

彼は彼女の目の前まで距離を詰めていた。掘りの深い顔立ち、特に鷲鼻が存在を主張している。コートは間近で見るとひどく傷んでおり、相当に年季の入ったものであることが見て取れた。何十年着こなせばこれだけ古めかしくなるのか、まだ齢16の彼女には想像もつかない領域だった。

「日本の、東京、台東区です。11月29日、時刻は──」

「何年の11月29日?」

年単位での問いに彼女は当惑した。年末やクリスマスも近づこうというこの時期に、見ず知らずの人間に西暦を聞く人間がいるだろうか。西洋人が改元を知らないにしても奇妙な話である。

「……2019年です」

「2019年!そうか、それも日本。ということは元号が平成から昭和へ変わった年だな?」

「……いえ、昭和は平成の前の元号です。今は令和です」

「ああ、そんな辺境の暦なんていちいち覚えちゃいないよ。でもゴメン、ありがとう」

なんという無礼な人間だ──と思ったが、すぐにその考えは掻き消えた。あれだけの事故を起こしておいてトラックの運転手を助けず、それどころか私と無駄話をしている。一体どういう神経の人間なのだろう。

「さて、ついでに済まないが、僕が謝っていたとそこで寝ている運転手にも伝えておいてくれないか?僕は忙しくてね。彼の体も気になるところではあるが、どうやら既に救急隊も近づいているらしい。サイレンが聞こえる。騒ぎがこれ以上広がる前にあの箱を片付けないと」

静香は耳を澄ませてみたが、救急車どころかパトカーや消防車のサイレンも鼓膜に届かない。この場から逃れるための嘘だろう。

「あの箱は何なんですか?」

「再びゴメン。質問に答えたいけど、それはまたの機会だ。機会があればだけど」

彼は踵を返して箱へ入っていった。煙の漏れる扉の奥からは咳き込む音が聞こえていたが、やがて換気扇の回るような音がすると、続けて彼のものらしい喜びの声が響く。その箱から距離を取るべきか静香が判断に迷っているうちに、再び扉が開いて彼が顔を出した。

「大丈夫だ、まだ辛うじて動かせる。そこで見ていてもいいぞ。2019年には決してお目にかかることのない世紀のイリュージョンだ」

彼が扉を閉じるとともに、得も言われぬ音が突如として鳴り響いた。これまで耳にしたことのない独特の唸るような音。優雅さと荘厳さを秘めた音が響くとともに、青い箱は徐々にその色を薄くしていった。いや、色が、というよりは存在そのものが薄くなっている。奥の風景が透けて見える頃には、音もその調子を変えながら次第に小さくなっていった。

 

か細くなった音を掻き消すようにしてパトカーと救急車がサイレンを鳴らして現場に駆け付けた。既に見物人の誰かが通報を入れたらしく、警察官が降りて現場の調査に取り掛かり始めた。トラックの運転手は血を滴らせながら救急隊に確保され、そのまま担架とともに救急車に運び込まれていった。

警察と救急の動きを見ているうち、現実から乖離した未知の体験から現実世界へ戻ってきた感覚が心のうちに生じ始めた。それでも普段の日常とはごくかけ離れた光景ではあるのだが、まだ人間の道理の通じる世界であった。

ふうっと息をつき、空気を白くしながら駅へ足取りを向ける。つい先ほどに受けた衝撃と、ここ一週間の疲れを早く洗い流したい。家に帰れば家族と夕飯と布団が待っている。──そんな期待を胸に、彼女は駅の改札を通り抜けた。

 

 

 

「──こちらが今日の夕方4時半ごろ、交通事故の起きた現場です。現在封鎖の解除している最中で、事故車両の大型トラックを警察が移送しています。運転していた男性55歳は病院に運ばれて意識を回復したとのことです」

青い箱が出現した現場近くにはテレビ局が一局訪れており、カメラの向いた先にはマイクを手に実況するレポーターの姿があった。だが雄弁に語る彼の背後に浮かび上がる赤い針は、カメラの映像に収められることはなかった。針は高速で彼のうなじに刺さると、血管の中に入り込んだ。

「痛ッ……」

「どうしました?」

「いや、何かが首に……すみません、スタジオへお返しします。カメラ止めてください」

中継を切断して首を擦るが、レポーター本人はどうにも現状が把握できない。カメラクルーが背後に回り込んで首の後ろを確認すると、虫刺されのように一点が赤く浮かび上がっていた。

「あー、虫ですかね?蚊でもいましたかね」

「この時期に外で?」

「……確かに珍しいですね」

観察しているうちに、その虫刺されは次第に領域を拡大し始めた。カメラクルーが訝しむ間に触手状に赤い筋がうなじに広がり、心臓があるかの如く拍動が始まった。

 

「うッ……うああッ」

明らかな異変にスタッフが気付くと同時にレポーターが呻き声を上げた。痙攣を起こしたように眼球が上下左右へ揺さぶられ、その振動が全身へ広がる。慌てて跳び退くスタッフをよそにレポーターは激しく腕と首を痙攣させていたが、次第にその挙動を弱めていった。やがて彼は沈黙してピクリとも動かなくなった。

「だ、大丈夫──」

心配して声をかけたスタッフは、言い終わらないうちに顔面に強烈な一撃を叩き込まれた。軽く数メートルは吹き飛ばされ、道路に面したショーウィンドウに頭から突っ込んでガラス片とともに崩れ落ちる。砕け散る音を背後にして状況を理解できずにいるスタッフたちだったが、彼らにもレポーターの拳が襲い掛かった。骨の砕ける音と血を撒き散らし、撮影機材までも無残に叩き割られる。人間の領域を踏み外した暴虐の前に、報道する自由は徹底的な断絶を受けた。

 

『ああ、ようやく"アタリ"か』

レポーターの声はカメラを前にした時と打って変わり、ドスの効いた深みのある声に変容していた。しかしその声を聴くスタッフは全員その場の地面に転がり、通信を失った今視聴者にも耳にする機会はもはやない。レポーターだった男は首を鳴らし、精密機械の動作を点検するかのごとく指を滑らかに運動させてみせる。男はその動きに満足したようだった。

『危うく消滅しかけていたぜ。だがツいてるな~オレは。あの箱のおかげだが、どこ行っちまったんだァ?せっかくお礼してやろうと思ったのによ』

男は歯を外に晒して笑みを浮かべていたが、やがて口角を下ろして地べたの人間に視線を送った。もはや喋ることのできないほど痛めつけられた人間たちのそばに腰を下ろすと、男は転がったスタッフの頭を片手で鷲掴みにして持ち上げ、血を流すスタッフの顔を骨董品の鑑定士の如く丹念に見つめる。

『……だが悠長にはしていられねえな。コイツら使えねえ。随分レアなものを引いちまったもんだぜ。とりあえずアイツを確保するしかねえようだな……"病院"に運ばれたって言ってたかァ?アイツ……』

男が手を放すと、スタッフの頭は重力に導かれて顔面から地面に打ち付けられた。だが反応はない。死亡したのか、気絶したのか。それはこの状況を作り上げた男にさえ分かっていない。

『手当たり次第に殺っても仕方ねえ。とりあえずァ"病院"ってのを目指すか』

倒れたスタッフを置き去りにし、男は夜の闇へ姿を消した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。