鏨跡をも揺蕩えば──M:妖槍誓断 (adbn)
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鏨跡をも揺蕩えば──M:妖槍誓断

 この本丸には幽霊がいるらしい、と聞いた鶴丸国永は、太刀のどれだかが己を夜目に見違えたのだろうと当然思った。それがどうも違うらしい、と気がついたのは二週か三週も経って、怪談のことなどすっかり忘れた後だった。

「正真の」

 低い声が、太刀の長身の更に上からする。その場に居たのは鶴丸と蜻蛉切で、声をかけたのはほんの一月前に顕現した槍、日本号だった。思わずきょろきょろと周囲を見渡してから鶴丸は、そんな名前の刀は本丸にいないことを思い出した。

 訝しげな鶴丸の態度にか、聞こえていないかのような蜻蛉切の無反応にか、日本号は慌てて「すまん、間違えた」と言葉を取り消した。

「ああ、そうだ」

 ついでのように蜻蛉切を呼んで、歌仙兼定(この時間なら料理でもしているのだろう)からの伝言を伝え、鶴丸には寒空の下で立ち話もなんだろう、と腰の徳利を叩いて揺らす。顕現早々連隊戦に連れ回されたこの槍は、どうやらすっかり人の姿に馴染んだらしい。

 それは松こそ明けたがまだ正月の、冷たい昼のことだった。

 その週の終わりに鶴丸はまた、幽霊の話を聞いた。刀には見えない幽霊の名を、正真というのだと、信濃藤四郎が冗談交じりに語る。刀には見えず、薙刀(当時この本丸には岩融しかいなかった)にも人間にも見えない、何物かがこの本丸にはいるのだと。

 

 

 

 千子村正が来ると聞いて一番動揺したのは、少なくとも加州清光の交遊範囲では、局長刀の長曽祢虎徹であった。長曽祢がまだまだ新入りの部類であったのも、理由の一端だろう。彼に限らずとも、少なくない刀が蜻蛉切の言う「村正」を「妙法村正」のことだと思っていた。蜻蛉切は村正の槍なのだから、もし「刀剣男士、千子村正」が顕現しうるのであれば蜻蛉切が顕現することはないのだろうと思って、考えもしなかった。

 尤も、いざ「彼」が顕現すると、ほとんどの男士は彼に服と鞘を着せておくのに手一杯になって、心乱されたことなど忘れてしまった。千子村正は、鋭い刀だった。なるほどかの常勝の槍の兄弟刀だと思わせるような。穏やかで厭世的で、その芯の部分を曝け出すに躊躇いのない彼は確かに、人に使われ人の血を知る、加州らの同類だった。

 

 

 

 鋼の本性、その茎に刻まれたものは、それが何であれ、自分たちの本質だ。亀甲貞宗はそう思う。自分の亀甲菊花紋のように。父である貞宗はあまり銘を残さない人だったから、亀甲には擦り上げ無銘の感覚は分からない。けれど、自分が擦り上げられた時の寂しさと名誉と、そして菊花紋を与えられた時の喜びを思えば、それは自分の想像では及びもつかない、かなしいものではなかろうかと思う。新たな主人に合わせての擦り上げは、腰に差されるだろうこれからを思えばよろこばしく、我が身たる鋼の一部と共に幾ばくかは置いていかねばならない前の主人の記憶を思えば寂しいものだった。

 では例えば、その銘こそが不名誉なのだと潰されるのは、どれほどの痛みだろうか。苦しみだろうか。そうまでせねば主の元にいられないというのは、どれほど芯が痛むだろうか。

 先日手入れ部屋でチラリと見えた、千子村正の銘は綺麗なものだった。けれどその兄弟、あるいは彼ら自身の言葉を借りれば「ファミリー」の茎は、ずいぶんピンポイントに錆に覆われて、丁度銘のところは最後の一文字しか見ることが叶わないことを、亀甲は知ってしまった。その日江戸城下で重傷を負い、眠っていた槍を態々起こすことも、傷の癒えた彼に話を聞くことも、亀甲にはできなかった。叶うなら、いっそ呪いのようなその様を、彼と、その家族が知らなければいいと思う。

 

 

 

 日本号は、東の槍が島田鍛治の五条義助の作であるように、常勝の槍が三河文珠派の藤原正真の作であると、知っていた。だから、政府が軽装という名で用意したという服飾データ、本紫の単を見たときにはぞっと背筋が凍った。蜻蛉切と目が合ったのに気がついていない振りをして、くるりと踵を返し御手杵がいる部屋へ向かう。

 どうやら己は随分、酷い顔をしていたようだ。障子を開けた日本号をちらりと見遣って、元々知っていたのだろう、御手杵は居住まいを正して口を開いた。

「蜻蛉切の着物、見たか?」

「ああ。“村正”だろ」

 ただそう描かれただけなら、ここまでの反応はしなかったろう。だが、あの字は。左右繋がった「村」の字は、かの刀匠の銘切りの癖だ。全く同じものが千子村正の茎に在るのを、少なからぬ男士が知っている。あれではまるで、彼が本当に村正の手による槍であるようではないか。

 

「……そんな顔するくらいなら、言えばいいだろ」

 御手杵が嘆息する。まあこの槍のことだから身内以外に悟らせるような真似はしまいが、槍でも向けられたのかと言いたくなる。蜻蛉切の軽装が衝撃的でなかったとは言わないが、そこまで動揺する理由は御手杵には分からなかった。

「蜻蛉にか?」

 日本号は、蜻蛉切が村正を名乗るのを辞めさせる気はない。やめてくれればとは思うが、そもそもあの三河物が言って止めるとも思えない。そうしたところで意味などないだろうろ言えば、東の槍は意外にも首を横に振った。

「日ノ本一の槍の言ならあれも聞く耳を持つと思うぜ」

 そのくらい、正三位の槍は武家の槍にとって重い。結城と松平の家宝たる自負はあれどそれでも尚、東西二名槍の名も、天下三槍の名も。かの螺鈿の龍と並ぶ物だと謳われることそのものが、六尺の鞘などより余程重たかった。それは蜻蛉切とて同じことだろうと、御手杵は思う。

「無双の槍がか」

 聞き入れて欲しくないのは自分の方だと、日本号自身分かっていた。戦槍の端くれとして、あの槍の名はあまりに大きい。純粋に鋼を競うのならともかく、生涯無傷の誉れ持つ主人とともに語られてきたあれに、その芯を貫いて欲しいと願うのは、自分だけではないだろう。

「あんた、俺たちに夢を見過ぎなんだよ」

 自分と並ぶ物であると信じるが故か、日本号は自分たちへの期待が高い。なんとはなしに、松平の人間を思い出した。代々伝わる家宝の槍に、人智を超えた期待を寄せる人間を。雨も雪もただ偶然に降ったのだと、御手杵は終ぞ彼らに言えなかった。寄せられる想いが重たくて嬉しくて、御手杵の知る本当を言うことができなかった。

 

「自分の銘を名乗れねえってのは、見てられねえんだよなァ」

 それはむしろ、日本号自身のことだった。

 無銘も偽銘も、多くは自分の本当の製作者を知らない。炉の熱だけは明瞭に覚えているのに、槌を振るう男の(或いは女であったのかもしれないが、それすら不明瞭だ)顔はいつでも、ぼやけて見えなかった。そんな風に、刀槍の語る歴史というものがどれほど人間に依存し、曖昧模糊としたものであるのか、彼らはよく知っている。

 

 それは、と言ったきり御手杵は黙り込んでしまった。義助の槍は顕現した蜻蛉切の茎を見てもいたが、それを今口にするのは憚られた。聞けば、きっと日本号も蜻蛉切を問い質す。かつて御手杵がそうしたように、あるいはそれよりも厳しく。もし自分の兄弟刀がと思うと、自分で村正を名乗ることを選んだのだと言う彼をもう一度見たいとは、到底思えなかった。

 

 自分の歴史、その一等始まりが揺らぐのをずっと感じ続けるのは、空から落ち続けるのにも、小舟で大海を彷徨うのにも似ている。無銘物特有の不安定さを、金象嵌の銘が少しならず解消することを、呑み取り槍は知っている。他ならぬへし切がそうだった。忘れることにしたなどと嘯きながら、号でなく銘で呼べと言うあの刀が、長谷部国重の作であると極められてからどんなに落ち着いたか、日本号は側で見ていた。

 あの刀にとって、号も逸話も銘の代わりにはならなかった。そしてそれはおそらく、あらゆる刀剣で同じことだ。

「……金房派に、正真という刀工がいる」

 一説によれば、文珠正真は、千子派の正真と同一人物だという。そして更に言えば金房派の同名刀工とも、或いは同人だったと。もしそうであるなら無銘の自分にも、家族親戚と呼べる刀槍がこの本丸に在るのではないか。そう、思ってしまった。

 

 金房派に槍の名手が多いことは、御手杵も知っていた。彼らの活動した年代を合わせれば、三位の槍の製作者として金房派は第一候補に上がるだろう。そうなればひょっとしたら三槍の内、己を除いた二本は兄弟だったのかもしれず、同じ鉄で出来ている可能性はなお高い。もし常勝が、御手杵らの知る通りの銘を名乗ってさえいれば。

「……あいつ、銘を潰してるんだよ」

 こうなれば、むしろ言うべきだと思った。彼が望んで村正を名乗っているのだと、日本号に告げてやれるのはきっと己しかいない。

「は?」

 潰されている、のかもしれないとは言えなかった。この剣幕では言わなくて正解だろう。

 

「そうなると思ったから言わなかったんだ」

「それ聞いて『じゃあ仕方ない』で済ませる無銘物がいたら見てみてぇな」

 無銘であるというのが、自身の物語にいつも“作者不詳”の文字がついて回ることが、どれだけ自己をあやふやにするのか、在銘の物には分かるまい。歴史などは所詮、今も残る“物”に辛うじて正しさを支えられ繋ぎ止められているような、不確かなものに過ぎないと、千年を残る鋼は知っている。

「そういうものか?」

「そういうもんだ。あいつが自分でも本当は誰の作だか分からねえ、っつっても驚かねえぞ、俺ァ」

 或いは。彼自身、本当に自分の銘を「村正作」であると思っているのかもしれない。とっくの昔に鋼の身は変成して、目釘を抜けばそこには真正「村正作」の銘があるのかもしれない。お誂え向きについ先日、戦装束まで変じたことだ。

 蜻蛉切自身が己が銘を「村正作」であると語るのなら。自分の知る歴史とはどこへ行ってしまったのだろう。

 

「まあ、」

 そうまでして、あれが「村正」に成りたいと言うのなら。無銘の龍にできるのは、その願いを汲むことだけだ。銘という足場を手放すのはどんなにか恐ろしいだろう。それは情報の存在である以上避けようもない恐怖だ。そうまでして守りたいものが他にあるというのなら、たかが無銘の、兄弟()()()()()()程度の槍が何を言えるだろう。蜻蛉切はきっと今も、無数の風聞と戦っている。その対価が、血ではなく名であったというだけで。

 

「もう蜻蛉を『正真』たぁ呼ばねえよ」

「……そうか」

 村正の、とかの常勝を呼ぶことが、義助の槍にはできる。やりたいとは思わないけれど。そして西の片割れにはできないのだろう。それでも、あの天下無双が何かと戦っているのなら。東西のどちらも、割って入ることなどできはしないと、それだけだった。

 



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