外史の欠片 (犬山わんこ)
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1話

 更新は不定期です。
 先々の事はわかりませんが、原作からかなり離れ独自ルートになると思われます。それに伴い、キャラが酷い扱いないし、性格が変わっている事も、流れによっては死んでしまうかもしれません。そういったことが許せる方のみご覧くださいませ。


 2月もそろそろ終えようとし迎えるは3月、本格的な春の訪れを迎えようとしている最中、一人の男がこれぞ昭和と言わんばかりのボロアパートの扉を開け、外を伺うように顔だけを出した。

 未だ吐く息が白く、どうやらまだまだ寒いと実感したようで再び扉は閉まり先程はジャージだけだったのが、今度は半纏を肩から羽織、裸足に突っかけという何ともファッション誌に真っ向から喧嘩を売り兼ねない様相で外に出て来た。

端から見ると何とも冴えない姿ではあるが、当の本人は至って気にせずにそのまま自分の部屋がある2階から、今時あまり見なくなった外付けの錆びて赤銅色になった階段をカツンカツンと音を立てながら降りていった。

 目的のこちらも錆びてどことなく疲れた感じの集合ポストの前に立ち【203 神宮純一】と書かれた札が貼ってあるポストをまるで古の武将が戦を目の当たりにしたような厳めしい顔をし

「ええい、ままよ!」

 そう呟くとポストに手を突っ込んだ。

 中からお目当ての物を取り出そうとするが二つ入っており、一枚目は何とも扇情的な女性の裸体、肝心な部分が★で隠されており、電話番号であろう数字の羅列と文言がケバケバしく書かれてたいた。

 俗にいうピンクチラシである。

 しばし、男こと純一はそのチラシをじっと見つめふとニヘラと顔を歪めたが今回の目的はそちらではないので、集合ポストのもてなさそうな住人の部屋番号が書いてある場所におもむろに突っ込んでおいた。

 肝心の目的のほうは事務的な茶封筒には受け取り手の所には「新宮純一」、届け出先は「戸田物産」と機械的な文字で書かれてあり、若干というかかなりの薄さに純一は嫌な予感がし、躊躇せざる得なかった。

 だが、ここで読まずに終わる訳にもいかず、フーッと一呼吸吐くと意を決してその場で開封した。

 中には一枚だけの紙切れが三つ折りにされており、純一の顔には絶望の陰が刺してはいたが、最後の結城を振り絞り震える手で三つ折りになった紙切れを開いた。

 そこには無機質な恐らくプリンターから吐き出されたであろう文字

【此度の我が社の面接を……】

 から始まる文章で、その文字を一文字づつ丁寧に目で追っていくと早かったなんと、二行目には

【残念ながら……】

 一番見たくない文字が登場してしまった。

 つまり、これは純一に対し「てめーなんかいらねーよ」という言葉を丁寧にしただけの【不採用通知】ということである。

 純一はそれより先に書かれた文章を見ることもなく、紙切れをもった手は力なく下に降りてしまい、どんよりとした鈍色の空を見上げ憎々しげな眼差しを向け最後の抵抗として叫んだ。

 

「もう、殺せよ!神様、俺の事が嫌いなんだろう!?もう殺してくれよ!」

 

 正に魂の絶叫というセリフを吐いた上で、その場でしゃがみ込み顔を伏せるように地面の一点を見つめていた。

 蛇足ではあるが、もし神様が本当にいたら

「お前それ完全自業自得じゃん、八つ当たりも大概にしろバカ」

 っと罵ったことだろう。

 間の悪い事に、偶々通りかかった幼子を連れた若い女性がびっくりして純一の方を立ち止まり見ていたが

「ママァ、アレなぁに?」

 舌っ足らずな口調にも関わらず結構大きい声で幼子が質問してしまい

「シッ!見るんじゃありません!」

 慌てて幼子を叱り手を引っ張り連れて行こうとした時、うつむいていた純一が顔をあげてしまい、子連れのママさんと目が合ってしまった。

「さ、さむいですね」

 純一は誤魔化すようにそう言い放つと返答も待たずそそくさと階段を一段飛ばしで昇りドタドタと大きな足音を立てながら部屋に逃げ込んだ。

 部屋に入るとエアコンが効いているおかげか外から戻ってきた純一には暑いくらいに感じられたが、自分の将来を考えると寒々しい限りでしかなかった。

 

 今年23歳になろうかという純一は現在某私立大学の四回生、平々凡々な県立高校を卒業し、周りがほとんど大学に行くというからなんとなくの流れで大学受験、当然の事ながら全滅そして進退窮まった所に父親が渋々浪人を勧めてくれ予備校へ、真面目に勉学に励めばいいものを通学がなくなった途端、朝起きるのも馬鹿馬鹿しくなり夜遅くまで部屋でこっそりとゲームや漫画三昧、親は夜遅くまで勉強としていると思い起さずに出勤し、まさか予備校をさぼって寝続けているとは思わず完全に自堕落な生活を送っていた純一、ふと気が付けばあれよあれよというまに一年が経ち再び受験シーズンになっていた。

 当然最後に受けた模試判定の結果は散々であったがマズイと気が付いたら時既に遅し、とりあえず受ける大学を選定する段階において定員割れ、新設校などをメインに受けるも、受かったのは地方の新設校勿論名前等知ってる人などいない。

 そう、それが現在彼が籍を置いている大学なのだ。

 親に泣きつきなんとか入学はしたものの、憧れの一人暮らしに完全に舞い上がってしまい、今まで手を出せなかったネットゲームに手を出してしまったのが運の尽き、気が付けば最終学年の前期も終わってしまい、残すは後期のみ。

 挙句の果てに足りない単位を何とか補おうと四苦八苦授業を組んでみればほぼ毎日大学に朝から晩まで行かなければいけない始末だったが就職活動のほうは今更感もあるが絶望的であった。

 見兼ねた教授たちが若干授業を緩和してくれ、合間を縫ってなんとか面接まで漕ぎつけるも・・。

 そして、そろそろ3月。卒業は何とか出来そうになったが、さすがに両親からも3月一杯で仕送りは打ち切ると宣言されてしまい、就職出来ないから家に帰るという手段も封じられ、最後の希望であった結果も……。

 

 茫然自失のまま玄関で立ち尽くす純一の思考は

 もっと早く就職活動を……

 大学に入ってネットゲームしていなければ……

 浪人のときにもっと勉強していれば……

 高校のときに……

 中学生のときに……

 

 どんどん過去に戻っていき最後に幼稚園の年少さんまで行った所でこうしていてもなにも始まらないとふと部屋を見渡した。

 生活感溢れる1LDKの部屋は漫画とゲーム、DVDが散らばっており更には、カップラーメンのカップだの空いたペットボトルだのまで散乱していた。

 そして、壁には某アニメの女の子が描かれたポスター、四年間近く過ごした彼の楽園は今の彼にとって色彩を失い酷く虚しい空間に見えてしまった。

 机の上のモニターには先ほどまでやっていたネットゲームのログイン画面、普段だったら気を取り直してログインするところであったが今の彼はプレイする気にはなれず、力なく覚束ない足取りのままパイプベッドの上に敷かれた万年床に体を横たえ、そのまま全ての現実から逃げだすようにふっと目を瞑り夢の中へと旅立って行った。

 

【PiPiPiPi…】

 

 携帯の着信音で目を覚ますと、すっかり窓から見える空は陽が完全に落ちていて真っ暗になっており、枕元においてある時計は19時30分になろうとした。

通話のボタンを気怠そうに押し、耳に電話を近づけるとよく聞きなれた大学の数少ない友人の声が飛び込んできた。

「もっしも~し、純ちゃん?飲み会はじまってるけどどうしたのさぁ」

 すっかり忘れていたが、大学で仲の良い友人四人、むしろそれ以外とほぼ交流すら持っていなかったが…四人のうち三人の卒業と一人の留年祝いで飲み会をする約束をそれどころではなかった純一はすっかり忘れていた。

 友人の声の合間合間に賑やかな声が漏れ伝わってきて少し純一を苛立たせたが、気を取り直して

「あ、ごめん。すぐ行くから先やってて」

 そう返事をして電話を切った。

 頭を切り替えてジャージを脱ぎ、床に散らばった中からジーパンとパーカーをチョイスし一応臭いを嗅いでみてたぶん大丈夫だろうと思うが消臭剤をシュッシュと吹き付けて着た後に靴下も探し出して一応臭い嗅いでみたところ絶望しか感じなかった為諦め、コートを羽織り財布の中身を確認したところ若干というかかなり不安な金額しか残っていなかったが、万が一は友人に借りれば良いと楽観的に思考を切り替えて諸事情により裸足のままスニーカーを履き玄関の扉を開けた。

 外に出ると肌寒さを感じつつも扉に鍵をかけるために鍵束を出し、一応部屋の電気の消し忘れはないか確認しつつ鍵穴に鍵を差し込み

 

【ガチャリ】

 

 二度と開くことの無い扉の施錠を……。

 




一応10話近くまで書き溜めてはいるのですが未だに原作キャラが出てきません。
原作開始まで何話必要なんだろう・・・


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2話

(う、う、苦しい…)

 純一が意識を覚醒した時に最初に思ったのは息苦しさ、そして体が何かに強烈に引っ張られるような感覚、目を開けることが適わず全く周囲の状況が分からないまま、息苦しさから今度は全身を覆う痛みを感じ、その痛みに耐えられなくなり再び意識を手放した。

 どれほど経っただろうか?一日かもしれないし、ほんの少しの時間かもしれない、再び意識が戻り、先ほどの事は夢だったのだろうと一人ごちて今度こそ状況を確認しようと目を開けてみたが、何故かぼやけてよく見えない。

 しかし、耳からは慌ただしい物音と人声が聞こえて来たが、まだ意識がぼんやりとしているせいか何を言ってるのかまではよくわからず、なんとか大丈夫だと伝えるために手だけでも動かそうするが全く動かない。

(飲みすぎたのかなぁ、迷惑かけちゃったな)

 そんな事を思いつつも、先ほどから感じる強烈な眠気に身を任せようとした時、全身にいきなりの衝撃を受けた。

 どうやら、お尻を叩かれているらしいがこの叩き方は尋常ではなく、さすがに純一は辟易して一言文句でも言ってやろうと、未だ霞がかかったような感じにしか見ることが出来ない両の眼を、自分に危害を与えてるだろう人影を睨み付けるつけるように開き、今出せる精一杯の声を意識しながら

(痛いぞこの野郎!フザケンナ!)

 頭ではそう言ったつもりだが実際に出た声は

「ッイ…ッイ…オギャァアアアア!ケホッ、ケホッ」

 純一の耳に飛び込んできたのは何時もの聞きなれた声ではなく、まるで赤子のような泣き叫ぶ声だけだった、全く理解できずに茫然としていると何故か周りの人から優しい声で話しかけられて、頭に暖かい感触を覚えたのでどうやら頭を撫でられてるらしい、何故か他人事のように感じられたが徐々に未だかつて味わった事のない幸福感を感じ、考えることすら億劫になりそのまま意識を落としていった。

 

 猛烈な空腹感を感じ純一は意識を取り戻した。

 先ほどのは一体なんだったのだろうと、さっぱりわからないまま頭の中では冷蔵庫に確か今日中に使ってしまわねばならない卵が入っていたなとぼんやりと考えながら目を開けると、真っ暗なせいか周りがよく見えない。

(ここは何処だ?俺の家?居酒屋?病院かな?)

 今自分が何処にいるか全く把握できず、まずは暗闇に目を慣らして状況を確認せねばならないと思いとじっとしていると、すぐ隣から寝息らしきものが聞こえてきたので、どうやら自分は誰かの家に泊まったらしいと一安心を感じたが、徐々に慣れてきた視界に映ったものは月明かりのせいだろうか?淡い光の中に照らされて、見えたものは大学の友人ではなく、テレビや雑誌ですらお目にかかることが出来ないほどの金髪の美少女が寝ている顔だった。

 あまりにも現実離れしているその光景。

(な、何を言ってるかわからねーと思うが、友達と酒飲んで意識を失って起きてみたら、隣に金髪の美少女が寝てたんだぜ……。クッソ!俺よ思い出せ!何で記憶してねーんだ!神様頼む!昨晩の記憶をオラにオラに戻してくれ!)

 明かに美少女は前髪を汗で額に張り付かせ、何か疲労するような事をした後に見受けられる。

(思い出せ俺!がんばれ俺!こ、こんな美女で初めての経験をしたのか俺!羨ましすぎるぞ俺!なんで覚えてないんだ!どう見てもこれ事後だろこれ!)

 だが無常なるかな、全く昨夜に行ってであろうお楽しみの記憶は思い出せない、その理不尽さに心の中で血の涙を流さんばかりに後悔をしていたが、こんな美少女の寝顔を見るチャンスなどこれ以降の人生の中で得られるかどうかもわからない為、脳内に焼き付けておこうと顔を嘗め回すように凝視し続けた。

 目から血が出るほど激しく凝視して脳内に焼き付け、ある程度満足し今度は身体のほうも見ておこうとした時に、違和感を感じた。

 純一本人の身体を起こさないように慎重にずらして下のほうに動かしてベストポジションを確保しようとしたのだが全く動けない。

 それどころか首すらも動かない。

(あれ、全く動けない。金縛り…?)

 純一は金縛りだろうと推測をつけ昔テレビで見た金縛りの解除方法、足の指から動かしてみる方法を試した、実際これで何度か解除に成功していたのだが。

 だが、純一の身体は嘲笑うかのように足の指すら動かす事ができない。

 この状況はさすがにおかしいと、不安が増していき、隣で気持ちよさそうに寝ている美少女には悪いが起きてもらって助けて貰おうとなるべく優しい声で

(起きてください)

「オッ、オッ、オギャ」

 自分で喋ってみて自分で驚くという摩訶不思議な経験をしてしまった純一。

(え?なんだコレ、何で意味わからない事になってるの?っていうか赤ん坊の声?)

 あまりの状況に、何が何だかわからなくなったが、もう一度今度は一語一語丁寧に確かめるように発音してみることにした。

 

(お)

「オッ」

(き)

「キャッ」

(て)

「ビェ」

(く)

「ッウッウッ」

(だ)

「ダァ」

 

(………?タスケテェエエエエ!)

「………オッ!オギャァアアアアアア!」

 しんと静まり返った部屋の中で混乱状態にある純一の「赤子の叫び声」が闇を切り裂いた。

 

(……拝啓、お父さん、お母さん。どうやら俺「赤ん坊」になったみたいです。だって、歯がねーもん!どう考えても俺「赤ん坊」です!本当にありがとうざいました……って、冗談じゃねーぞ!なんだよコレ!何なんだよ!)

 

 パニックに陥った純一は動かない身体を必至に動かそうとして喋ろうとしては

「オギャッオギャ」っと繰り返していると、とうとう目の前で寝ていた美少女が何事かと驚いた表情でこちらを見ていた。

 純一もそれに呼応するかのように見返していると、美少女は恐らく自分に向かって優しい声で語りかけてきたが、全く意味がわからない。

(日本語でおk)

 心の中でそんな事を思いつつも、口からでた声も美しいと感動していると、美少女は疲労を色濃く残した顔をしつつも、純一に天使のような微笑みを向けると再び美しい声で意味はわからないが語りかけてながら、ゆっくりと寝ていた身体を上半身だけ起こした。

 首すら動かせない純一は視線だけでなんとか顔をみようと追いかけようとしていた時、美少女は上着をおもむろに脱ぎ始めてしまった。

 あまりにも現実離れしたその光景にどうしていいかわからなくなってしまった純一はとりあえず、難しい事はすっかり忘れて陶磁器のような白い肌と二つの膨らみを再び脳内に焼き付けようと凝視していた。

 ところが、美少女さんが再び声をかけて来たと思ったら、今度はおずおずと両手を純一のほうに向けてきて、そのままその手は頭の後ろとお尻の下に入れたかと思ったらヒョイと簡単に持ち上げられてしまった。

 あっさりと持ち上げられてしまった純一はポカーンとして視線を上にあげ美少女の顔を見つめていると、美少女は何事か言うと胸を純一のほうに突き出してきた。

 純一は視線を下げると目の前に映ったのは、慎ましやかながら陶磁器のような真っ白な丘陵、そしてちょっと生意気そうに上向きしたピンク色の野イチゴちゃんが……。

 今までに妙齢の女性のこういった部分を生で見たことのない純一は注意深くそれを眺めるしかなかった、そして現在の状況にはたと気が付き、流石に気まずくなって視線を上に向け美少女の顔を見ると、美少女は少し戸惑ったような顔をしつつ今度は純一の口の近くに野イチゴちゃんを押し付けようとしてきた。

 

 前を見れば野イチゴちゃん

 上を見れば類稀な美少女の顔

 野イチゴちゃん…美少女…野イチゴちゃん…美少女…野チク…美少女…

 

 純一の視線がきょときょとと上と下に落ち着きなく揺れ、頭の中はもう何が何だかわからなくなってしまって、気が付けば吸い付いていた。

 だが吸い付いてはみたものの、何も出てこない

(吸いが足りないのかなぁ?)

 最早、考えることを放棄してしまった純一は何が正しくて何が間違っているのかすらわからなくなってしまっており、冷静に現在の状況を分析するという現実逃避を行っていた。

 徐々に吸う力を増していった純一だが、自分なりにはもう痛いだろうというくらい吸い付いたところでやっと口の中に何かがにじみ出てきた。

(あまり、美味しいものじゃないな、味薄いし、何より甘味が足りない!)

 とうとう、味にまでダメだしをしはじめる純一だが、ほんの少し飲んだ程度で身体のほうが満腹感を訴えだした。

 プハッとばかりに口を離し、視線で美少女の顔を見やると謝礼が伝わるようにじっと見つめ、この状況はなんなのだろうと落ち着いて考えようとした瞬間、純一の身体に再び異常事態が発生した。

 

(せ、せんせい、お、お手洗いに行きたい…です…)

「オッ、オッ、オギャアアアア」

 

 この身体の異変を何とか伝えなくてはと純一は今出せる最大の声を張り上げなんとか伝達を試みたが、美少女は慌てた顔をしつつ、どうしていいかわからないと困惑の表情を深めていた。

 何とか我慢してお手洗いに行こうとする純一だったが無念、増水からのダム決壊までの時間は赤子の身体にはあまりにも短く、一人我慢大会は開始したばかりで数分も持たず。

 身体にはあっさりと苦痛から解放され、その心地よさに至福の一時を与えたが、純一の精神には深い絶望と心の傷を残した。



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3話

 無常にも、その後純一にとっては悪夢の日々は覚める事無く、食事はともかく自分で行う事の出来ない排泄、そして動かない身体に封じられる日々は続き、これは夢ではなく、現実だろうと実感せずにいられなかった。

 

 そして、意識を覚醒したその日から常にいっしょにいてくれる美少女はその後も何かと優しい微笑みを見せながら喋りかけてくれるが、残念ながら純一には理解出来なかった。しかし、状況から垣間見るに彼女は母親なのだろうと推測できたが、こと母という言葉を推測するに至って、もう二度と会うことは出来ないかもしれない日本の母と父を思い出し、一人じっと涙を流した。

 

 大学を出るまで迷惑をかけ続け、挙句に卒業間近で恐らく自分は最後の状況から無茶な飲み方をし、急性アルコール中毒か何かで死んで今こうなっているのだろうと思ったとき、あまりにも不甲斐ない自分の人生に後悔しない日は無かった。

 そんな中でも、言葉はわからずとも腹が減れば泣いて乳をせがみ、排泄すればまた泣いて知らせる。そして、急激に襲ってくる眠気に耐えられず眠る。

 

 夢なのか現実なのか、最早よくわからなくなりつつも前世の自分が歩んだ不甲斐ない人生、そして何も返す事も出来ずに別れてしまった両親への気持ちに何とか区切りをつけて、今度こそ悔いのない人生を送ろうと再出発の決意を誓えたの生まれてから半年、そろそろ虫の音も徐々に寂しくなりはじめた晩秋の頃だった。

 

 前世との折り合いを自分なりに解決した純一は相も変わらず、日々寝ては乳を吸い、母親に頻繁に話しかけてもらい寝るという生活を繰り返していた。

 そのお蔭か、難しい言葉を理解することは不可能だったが普通の日常会話だけならばある程度理解をするようにまでなっていたが、果たして半年そこらで一般的にはどれ程喋っていいかわからない為、まだ理解できないふりを続けていた。

 

(まるでカッコウみたいだな・・)

 

 本当の子供でもないのに子供のフリをして育ててもらう自分自身に自嘲しつつ、未だ家どころか、部屋すら出してもらったことのない生活を行いながらも満足に動く事の出来ない身体で、精一杯聞こえてくる話し声、目に入るもので自分の置かれた状況を把握しようと情報収集に勤しんでいた。

 

 目下判明した事はどうやら自分の新しい身体は幸いな事に前世と同性、男の身体であり、粗相をした時にお尻を持ち上げられ、逆さ吊に近い状態で生まれたばかりのせいか小さいが見慣れた象徴がついていると判ったとき純粋に喜びを得た。

 

(よ、よかった。男でよかった。女だったら多分俺、自殺するしかなかったと思う…。)

 

 その他、時折母が読んでいるものが竹簡がほとんどで極稀に紙を使った書物というあたりから、前世で過ごした世界よりも古い時代ないし、文明がそこまで発達してないと当たりをつけていたが、その後抱っこされたまま母が竹簡を読み始めたときに、そっと竹簡を覗き込んでみると、初めて見たこの世界の文字が手書きである為に詳しい判断は出来ないが漢文ぽい事から、何時代かはわからないが中国のどこかの時代にタイムスリップしたのではないか?と思ったが、母の髪の毛が金髪であることから果たして本当に中国なのかどうかは判断することは出来なかった。

 

 そして、母が少し純一の側から離れるとき必ず別の誰かが来ることによって、どうやらこの家には自分と母親以外に三人の人間がいることを知っていたが、言葉がわかるようになりどうやら他の三名は使用人らしい。

 一人は気の強そうな女性、もう一人は大人しそうな女性、最後にかなり良い体格をしており実直そうな寡黙な男性であったが、何処となく母の対応は男性にはやや優しく感じたが、女性二人にはあくまで主従といった形を取っていた。

 

 使用人を使っている事からどうも、自分は裕福な家に生まれたんだろうと思っていたが、父親と呼ばれる存在については母の口から一回も出た事が無かったし、母以外の人間に関してはほとんど自分に聞こえる範囲でのお喋りは無かった為、なんとなく父親は死んでるのだろうと思うようになっていた。

 身体が動かず、やれる事も無くひたすら今迄に得られた情報から純一は日々、色々推測し、考えることが作業となっていた。

 

 硝子もはまっていない窓から刺す光も弱々しくなり、時折空から雪が舞い散るようになってきた頃、朝起きた純一は自分の身体に異変を感じた。

 未だ自分の身体がイメージする動きをそのまま出来ない事に元々違和感を感じてはいたが、この日は違った。全身が今までにない重さを感じ呼吸をする事さえ難儀に感じたのだ。

 (風邪っぽいけど、果たして薬はあるんだろうか…)

 自分の症状からして風邪だと認識しつつ、どうもこの世界には風邪薬は無さそうさだと半分諦め、とりあえず寝て何とか治すしかないと瞼を閉じ意識を閉ざしていった。

 

 突然身体を揺すぶられ、何事か耳元で呼びかける声で再び意識を戻すと

「阿楊!阿楊!」

 うっすらと目を開けると悲痛な顔をし、今にも涙が溢れんばかりの顔をした母が自分を抱き抱え見つめていた。

(大丈夫、もう少し寝たら治ると思うから…)

「う、うぁああ…」

 未だきちんと喋ったことが無いために呻くような声と、視線で何とか自分の無事を伝えようとしたが上手くいかず、諦めそのまま再び瞼を閉じた。

 すると、自分を抱えていた母の手が震え始め、まるで宝玉でも扱うかのように純一を布団に降ろしたかと思うと、そのまま足早に離れていくのを感じ何とか伝わったかと一安心した。

 

 ところが、部屋の外から

 

「馬車を!すぐに馬車を用意するのです!医者をただちにここへ連れてくるのです。阿楊の下へ医者を直ぐに!」

 

 今まで少女のような細身の身体で囀るような声でしか喋って来たことの無かった母がこんな声も出せたのかと思うほどに、大きな声で指示をしている声が家中に響き渡り、部屋に戻ってきたが

 

「木蘭様、医者等信用できません、お金の無駄になります。落ち着いて下さい。阿楊様が起きてしまわれます。」

 

 母を追いかけるようにして入ってきた、気の強そうな使用人がそう進言した。

 暫し、間を置いて

「では、私が直々に見定めます。直ぐに、程岳に馬車を用意させなさい。」

 若干声を落とし、そう指示を出したがそれは有無を言わせぬ物だった。

 再び母が近寄ってくるのを感じ、額にひんやりとした心地良さを覚え目を開けると

「阿楊や、すぐに母が医者を連れてまいりますからね。良い子で待っているのですよ。」

 優しい声でありながら少し涙を流しながら、心配そうに見つめながら言う、それは子を必死に守ろうとする母親の顔だった。

 

 足早に部屋から出ていく母の背を眺めながら純一は何も言えずただその出て行った先を見つめていると、外から馬の鳴声がするとガタゴトと馬車が離れていく音がして、暫くすると家に残された女性使用人二人が部屋に入ってきた。

 今までずっとほぼ母と一緒に居た為に取り残されたような寂寥感を覚え茫然としていると、気の強そうな使用人が近づいて来た為、緊張してしまい、何故そうしたかわからないがとっさに目を瞑り寝たふりをしてしまった。

 寝ているのを確認するためだったのか、離れて行く気配を感じ目を瞑ったままほっと一安心していると使用人二人が小声で何事か喋り始めたので純一は寝てしまってもよかったが、何気なしに耳を傾け、うっすらと目を開け観察してみた。

 

「……。寝てるだけよ、そんな心配する事でもないでしょうに、子供なんだから熱出すのなんて普通でしょう?木蘭様は過保護すぎるのよ。」

 気の強そうな女性がそう言いながら、部屋に置いてある椅子に座った。

「あら、でもやっぱり母としては心配するのじゃないかしら?お茶でも持ってくるわね。」

 もう一人がそう答え、部屋から出て行くと気の強そうな女性がブツブツと一人で何事か呟いていたが残念ながら何を言ってるかは聞き取れなかった。

 暫くしてお茶をもった大人しそうな使用人が戻ってくると

 

「お茶ありがとう。でもさ、思ったのよね。このまま阿楊様が死んでくれれば一番良いと思うのよ。だって、こんな田舎に木蘭様が住んでるのだって子供がいるせいでしょう?死んでくれれば、木蘭様だってまた旦那様の寵愛も受けれて私達も町に戻れるじゃない。」

 

(死んでくれれば……一番……良い……?何をイッテルンダ、コノオンナハ?)

 簡単に、明日の天気でも話すような軽い感じで「死んでくれれば」と言った使用人の言葉が純一には理解できなかった。

 

「ちょっと、やめなさいよ。阿楊様に聞かれたらただじゃ済まないわよ。」

 

 大人しそうな使用人がお茶を飲みながらそういう言ったが、それは聞かれてはまずいというだけで「死んでくれればいい」という事に関しては一切否定しなかった。

 

「大丈夫よ、寝てるわよ。それに起きてたってわかるわけないじゃない。大体さぁ、こんな人里離れた場所で燻らなきゃいけないのはそこのガキのせいでしょう?あーあ、こんな事なら町にいるときにいい男捕まえておけばよかった。男といえば程岳とかいう見た目はちょっといいかもしれないけど、それ以上に陰気臭いったらありゃしない。」

 

 そう言うと、椅子から立ち上がりこちらを向いたのだが、最早純一にはそこに居る二人はただの使用人ではなく、自分にとっての死神にしか見えず、こっそりと開けていた目を慌てて瞑り寝たふりをするしかなかった。

 段々、近寄ってくる気配を感じ身を強張らせていると

 

「サッサと死んでくれないかしら?もうこんな田舎で暮らすのは飽き飽き、最近は物騒だって聞くし早く町に帰りたいわ」、

 

 死刑宣告のようなとても冷たい声が上から降ってきた。

 このまま自分は殺されるのだろうか?と全身に嫌な汗をかきながらも目を瞑っていると

 

「やめなさいよぉ、華珠(かしゅ)様からは手を出すなって言われてるでしょう?どっちにしろ後2,3年で戻れるのだから良いじゃない。それにあちらでもお子様ができたんでしょう?もっと早く帰れるかもしれないじゃない。」

 

 のほほんとした口調でもう一人がそう言うと、純一に近づいていた気の強そうな女性が離れて行く気配がした。

 暫く、緊張しながら目を瞑りつつ盗み聞きに集中していたが、直ぐにファッションや、食べ物をしはじめていたためにようやっと緊張を解くことが出来た。

 

(華珠様って誰だ?俺って相当ヤバイ所にいるのか?とりあえず、あの二人は華珠って人が俺と母の監視の為によこしたってことでいいんだよな?話ぶりからするに、寵愛とか言ってから妾とか側室なんだろう、すると華珠様ってのは本妻か?)

 

 身体が風邪を引いて熱をもってるのとは裏腹に、思考は冷たく沈んで行った。

 

(うっかりと喋ったりすると明らかに、ボロが出そうだ。俺と母の立ち位置は相当危なそうだし、下手に目をつけられるよりもこのまま喋れないフリをして情報を集めたほうがいいんじゃないだろうか?)

 

 今まで、母という優しく暖かい翼で守られてきたお蔭で、何も知らず自分の事だけを考えて生きてこられたが、その庇護下から外れて初めて出会ったのは自分の死を願う悪意だった。

 恐らく、使用人二人ももまさか自分が会話の内容を理解してるとは思わないであるが故の本音だったのだろう。これ程、自分の身近にこれ程の悪意がある等思いもしなかった純一にとって前世でも感じたことの無い恐怖は彼の心に楔を入れるに十分であった。

 その後も、今得た情報を考察し続け止まらない思考、そして、極度の緊張と恐怖を感じ、病で弱った彼のあまりにも幼い身体は耐えきれるわけもなく、そのまま意識を失っていった。

 

 ふいに、肌寒さを感じ目を開けると、どうやら母が戻ってきたらしく二人の使用人が部屋から出て扉を開けたままにしているのが目に映った。

 その扉に母の姿を現し、純一が起きてるのを確認して微笑みを見せてくれた時、安心感を覚える事が出来た。

 母に遅れて、見知らぬ中年の女性が入ってくるとその髪の毛を見て驚いた、何故なら彼女の髪の毛は緑色をしていたからだった。

 

(えっ、なんで緑色?ってか染めてる…わけないよな?緑色とか有りえないだろ、ここやっぱ異世界?)

 

 戸惑いながらも先程あった自分の命の危機を払拭するように、目の前にある新たな情報に思考を傾けていた。

 

「先生、どうですか?阿楊は大丈夫でしょうか?先生どうなんです?」

 

 母が必死にそう聞いているが、まだ連れてこられたばかりの医者は戸惑いながらも冷静に切り返した。

 

「お静かに!今から診ますから落ち着いてくださいね?坊や、ちょっと寒いかもしれないけど服を脱ぎましょうねぇ、はい、ばんざーい。」

 

 優しい口調でそう言いながら上着を脱がされた後、頭、喉、肩、胸と触り脈をとったりしてきた。初めて見るこの世界の医療を目の当たりにして

 

(道具は使ってないけど、やってることはあんま変わらないなぁ…)

 

 冷静に医者の行動を分析していたが、慌ただしく一通りの診察を終えると純一の腹のあたりに両手をかざし、目を瞑り動かなくなった。

 三分程経っただろうか?手をかざしただけで微動だにしない医者

 

(おいおい、どうすんだよ。まさかこれが治療??詐欺にも程があるな。確かにあんま期待していなかったけど、漢方薬っぽいのくらい出せよ)

 

 若干呆れ気味で医者をじっと観察していると、かざした手を下げ懐から鍼をだし上に振り上げると、その手は光だし

 

「元気になれぇえええええええええええ!」

 

 そう叫びながら純一の腹に突き刺した。

 刺された方の純一は体中に電撃が走ったような感覚を受け

(ちょ!なんだよそれえええ!)

 っと、心の中で盛大なツッコミを入れつつそのまま意識を失った。

 

 後日、目覚めた純一は何処からが夢で何処から現実か聞くわけにも行かず、しきりに首を捻るしかなかったが、数日して再び医者が来た時に鍼を刺され現実だと思い知ったのだった。




若干、自分で読みづらいと思ったので改行してみたんですが不評ならば前のように詰めた形に戻したいと思います。内容のほうはあまり進んでいないのですがごめんなさい。
誤字脱字があった場合指摘してくださるとうれしいです。


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4話

 熱を出して伏した後、思わぬ事実を知り自らの立場がいかに危ういか気が付いた日より、純一は精神的な圧迫のせいかそれとも、幼児たる身体のせいかわからないが発熱を繰り返すようになっていた。

 その都度、昼夜を問わず医者が呼ばれ、治療を受けるという日々が続き、ようやく体調が安定し落ち着きを見せたのは、すっかり外から聞こえてくる鳥の囀りも賑やかとなった春先の事となった。

 

 それ以来母の過保護ぶりは益々拍車がかかり、最早片時ですら目を離す事さえ無くなっていったが、純一にとっては今把握できる限りでは家の中で唯一の信用できる人となっていたので精神的にも非常に助かっていた。

 だが、万が一、母と何らかの形で離れたときに危険が及べば自分は何もできずに骸になるしかない現状に不安を覚え、幼いこの身で一朝一夕に守る術を得られるわけもなく、何とか母に事情を伝え対策を練るしかないと思ってはいたが、一体自分は何処まで話したものか判断が付かず困り果てていた。

 

(前世がありますとか、唐突に言い出したら大変なことになるかもしれない。う~ん、どうしたものか……)

 

 そもそも、現状を伝えるということは自分の置かれた状況を理解する頭を持っているという事になってしまう。こう言ってたと伝えるだけですら一歳前後の自分では可笑しい事にも関わらず、対策等と言い出したらそれは一歳児の行うことでは到底有りえない。

 考えれば考えるほど答えの出ない件に一旦区切りをつけ別の問題点を考察することにした。

 

(喋ってる言葉は粗方理解できるようになったけど、いざとなった時に喋れるんだろうか?)

 

 その日から純一はいざとなった時の為に涙ぐましい発声練習をし始めた。

「アーッ!イェイー!ウェー!」

 やはり、口に歯も生えそろっておらず声帯もまだまだ弱いのだろう、自分が頭で出そうとしてる言葉と実際に出せる言葉に祖語が生じた。

 

 今まではただ寝て、何かあるときだけ泣いたり呻いたりするだけで何とか意思を伝えていた純一だったが、それ以降暇を見つけては頭と身体の祖語を埋めるために一生懸命発声練習を繰り返した。

 だが、それは他人から見ると好意的に見てくれる母にしてみれば突然上げるようになった奇声を、可愛い我が子が一生懸命喋ろうとしている成長の証として受け入れられたものの、それ以外の者は突如奇声を上げるようになった彼は熱を何度も出した後の事からおかしくなってしまったと認識されているとは純一自身全く思っていなかった。

 

 暫く、横たわりながら発声練習のみを繰り返していたが徐々に自分で寝返り等ができるようになって来た事がわかると今まで最大の屈辱であった排泄に対し、一刻でも早くなんとか自分でしようと思い立ち、ただ寝て声を出すだけの生活に飽きていた部分もあるが【二足歩行化計画】を己の中で打ち上げた。

 この計画は発声練習と同時進行とすることとし、彼の中で綿密な計画の下に己の足で用を足すをスローガンに掲げ開始する事とした。

 

 その後は、布団の上で入念に様々な状況を純一なりにシミュレートし、入念に自分の身体がどこまで動くかを調べるためにゴロゴロと転がりながら奇声を上げ続けた。

 

 本人は至って真面目な計画を立てそれに伴い徐々に進めているつもりだったが、端から見ていると本人は真面目にしているので一切の微笑みすらなく、むしろ鬼気迫る勢いの幼児が「アーッ!ウーッ!ヤー!」等と意味不明な奇声を叫びながらゴロゴロと転がり続ける様となり、ハッキリ言えば気持ち悪い存在となっていたが、親の欲目だろうか?彼の母はそんな姿を見ながら

 

「あらあら、うふふ、阿楊、可愛い可愛い私の阿楊」

 

 等と言いながらある程度練習を終え、ぐったりとして動かなくなった純一を抱き抱え頬に口づけを浴びせ続ける完全な親馬鹿ぶりを発揮していた。

 

 だが、そのような日々も終わりを告げようとしていた。

 純一なりに建てた綿密な計画により肉体は鍛え上げられ、脳内で何度も歩くイメージをし、満を持して挑戦する日が訪れたのは、部屋の中で動かずに座っているだけでもじっとりと汗が滲み出してきそうな夏に差し掛かった日の事だった。

 

 いつもなら、朝ご飯という名の授乳を受けた後、布団という名の小さき戦場では純一の鍛え上げられた肉体にとって枷にしかならず、更なる広い修練の場として与えられた部屋の床に降ろされたと同時にゴロゴロと全身を使い転がりまわりながら奇声を上げ続ける所だったが、今日の彼は違った。

 

 今彼は、床にべったりと尻をつけ短い脚をくの字に曲げ、てっとり早く言うと赤ちゃん座りをしたまま目を閉じていた。

 彼は、脳内でじっくりと自分の立ち上がり、そして歩きはじめる姿をイメージしながら集中力を高めていった。

 

 普段の行動と違う事に些か戸惑いを覚えながらも、いつも違う彼のまるで何かの儀式を行っているような厳かな姿に母は畏怖し、これから何かが起こるであろうと予感を覚え、息子のその今まで見たことの無い凛々しい顔に見とれていた。

 

 一体どれ程の時が経ったであろうか?純一の額からじわりじわりと滲み出た汗が粒となりポタリと落ちた時、窓から一陣の涼を運ぶ風が吹き込み、その時歴史が動いた。

 

(時は満ちた!)

 

 今まで静謐を感じさせた空気は一変し、躍動を感じさせた。

 純一は目を開き、全身に力を行きわたらせ床に手を付き、重いお尻を持ち上げ己の足でとうとう立ち上がった。

 フラフラと覚束ない脚だけで身体を支える事に成功したのち、若干よろめきながらも栄光への第一歩を踏み出した瞬間。

 

(うお!思ったより頭が重すぎる!くっ、なんというアンバランスすぎる機体だというのだ!)

 

 よろめきながらも諦めず、歩みだそうと前傾姿勢になったまま、重すぎる頭は重力に引かれるように鈍い音を立て床に突き刺さり、盛大にコケた。

 

「オ、オガガガッ」

 

 言葉にもならない呻き声を上げた純一は頭を床につっぷしたまま身体をくの字に曲げ止まったと思ったのも、束の間、そのまま横にゆっくりと倒れて行った。

 

 母は今自分の目の前で行われた出来事に茫然とし、今まで彼が一度もハイハイすらせずにいきなり立ち上がり歩こうとした事実に気が付くと、倒れこんだ彼を慌てて抱き抱え

 

「す、すごいわ阿楊!いきなり立ち上がるなんて!ハイハイすらする前に立ち上がるなんてうちの子は天才だわ!」

 

 そう言いながら抱きしめ、興奮冷めやらぬ様子で自分の息子を褒め称えていたが、抱き合う方で抱っこされたために、純一の目が暗く落ち込んでいる事に気が付けなかった。

 

(ハイハイがあったな……。)

 

 それから暫くして、時折奇声を上げながら縦横無尽にハイハイで駆け回る赤子がいたとかいなかったとか…。

 後年、この話は彼が生まれた瞬間に立ち上がったという間違った情報が伝えられ、逸話として残ってしまうのはまた別の話。

 

 

 ハイハイができるようになり、純一の行動範囲が広がるにつれ今まで見えなかったものが見えるようになってきていた。

 主に、女性二人の使用人が自分の事を時折気持ちの悪い物として蔑んだ視線を向けつつも、その行動を監視している素振りを感じさせたり、程岳と呼ばれる男性使用人が女性の使用人と一定の距離を保って交流している等だった。

 

 自分なりに誰もいないときを見計らいブツブツと喋る練習をし、人の居る前で発声練習を繰り返してもう喋れるだろうと目途が立つと、母と話す機会を伺うようになっていたが残念ながら家には絶えず三人のうち誰かが居り、どこで聞いてるかわからない為に喋る事は出来なかった。

 

 最近は、家の中をある程度動けるようになった為、母の目を盗んではコッソリと部屋を出てフラフラと探検を繰り返し情報収集に励んでいたが、目下彼にとっての敵と確定している二人の女性使用人から更なる情報を聞き出すために隙さえあればそっと近寄って盗み聞きを繰り返していたが、ほとんど他愛もない雑談ばかりで純一にとって有益な情報は中々入手しえないでいた。

 ところが、ある時お茶を飲みながら二人の女性使用人が雑談してるところを発見しこっそりと盗み聞きをしていたところ

 

「…あのガキのどこが可愛いんだかさっぱりわからないわ、あんな奇声を上げる子供なんて気持ち悪いったらありゃしない、どう考えてもあれは気がふれてるとしか思えないわ…。」

 

 ひそひそと聞こえてくる話し声に、どうやら自分の発声練習は奇声を上げてると思われており、気持ち悪いという言葉に若干落ち込んだりもしたが再び他愛もない会話になった時を見計らいひっそりとその場を離れ、部屋に戻ると先ほどの事を思い出していた。

 

(発声練習が奇声と思われたのはショックだけど、気がふれてると思われるのはいいことかもしれない。アホの子と思われれば助かるんじゃないだろうか?)

 

 その日はその事をずっと考え続け、次の日から更におかしく見えるように前世の言葉を発しながら元気よくハイハイをすることにした。

 

『ヒャッフー!マンマミーア!ブーーーーン!』

『殿中でござる!殿中でござる!』

 

 思いつく限りの適当な言葉を叫びながらハイハイで動き回る純一、母はニコニコとしながらそれを見守っていたが、女性の使用人はその姿を初めて見た時は驚き、そして、そのまま幾日も続けていくと明らかに母が見てる目の前でも純一に対して侮蔑の視線をぶつけてくるようになり、その後、彼が何をしていても見られているという感覚が減り、明らかに監視が緩くなっていくのを感じていたが、ふと気が付くと別の視線を感じ、追ってみると程岳と呼ばれる男がじっと純一の事をこちらは監視というよりも観察してるように見受けられるようになり新たな危機を感じるようになった。

 

 それからも、母となんとか話す機会を伺ってはいたが二人きりになる好機は訪れず純一は悶々とした日々を辛抱強く待ち続けていた。

 この頃になると前世の知識が消えてしまう前に何とか保存しておかなければいけないと思い始め、時折母が使うであろう紙と筆を失敬しては平仮名と片仮名のみで書き込んでこっそりと隠す生活をしていた。

 時々、書いてる所を見つかったりもしたが見られたところで落書きとしか思われず母以外には呆れた表情で見られるのが関の山だった。

 母は当然の如く、疑う事を知らず純一の事を褒めていたが…。

 

 そうこうしているうちに、秋も深まり純一にとって念願の好機が訪れようとしていた。

 長きに渡る奉公の為、女性の使用人に一週間程の休暇を母が与える事になったのだ。

 純一の度重なる奇行のお蔭もあるせいか、アッサリと二人は喜び勇んで町へ行く支度を始めていた。

 程岳という男は何故か休暇を取らないようであったが女性二人を馬車で送るために初日は二人と共に町に向かい一晩過ぎて帰ってくるという計画だったが、これで完全に家に残るのは母子二人のみ、この機会を逃せば次は何時二人になれるかわからない。

 この頃になると純一は母に対して全幅の信頼を置くようになっており

 

(この人には話せるだけ話してみよう。前世の話もして、万が一、殺されるか、捨てられるかしても協力してもらわなければどうせ、変わらない。それに、ここまで育ててくれただけでも感謝しよう。) 

 

 全てを話す決心をした純一はその日からこれが最後かもしれないと、今までは若干気恥ずかしさと遠慮を感じていたのだが、すべてを捨て去りだだっ子のように甘えるようになっていった。

 

 とうとう、使用人達が出立する日が訪れた。

 空は生憎の雨模様で、朝からしとしとと降り続け、どことなく肌寒さを感じさせる日だった。

 

「木蘭様、ありがとうございます。7日後に帰ってまいりますので災禍無くお過ごしくださいませ。」

 

 そうきつい性格をした女性使用人が、目をくるくると待ちきれないとばかりにしながら言うと、後ろにいるもう一人も頭を下げた。

 

「ゆっくり、楽しんでらっしゃい。二人共いつも助かっているわ、ありがとう。」

 純一を抱き抱えながらそう言うと、若干手に力が入ってる事に純一は気が付いたがそれが何を意味するかまでは理解できなかった。

「木蘭様、申し訳ありませんが早く出立しないと道がぬかるんでしまうと思いますので、よろしいでしょうか?」

 肩が少し湿っている所を見ると外で馬車の用意をしていたのであろうことが容易に察せられる程岳の言葉に、母が軽く頷くと使用人たちはそれぞれ頭を下げて部屋から出て行った。

 暫くすると馬が嘶く声とガラガラと馬車が遠ざかっていく音がして、その後純一と母しかいない家の中はシンと静まり返った。

 馬車の音を確認する為に、軽く目を閉じた純一を母は眠いのだろうと思い、そっと布団の上に横たわらせ、離れようとした。

 純一は離れようとする母の袖をつかみ、驚き振り返るの母の目をじっと見つめ、初めて「母が理解できる言葉」で声をかけた。

 

「初めまして、母上。お話があります」



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5話

 外から聞こえてくる雨音が、やけに大きく感じる程、部屋の中は静まり返っており、初めて話しかけた純一はおずおずと母の顔を見てみると、そこには大きく目を見開き、美しい顔を固まらせた母は、まるで一つの芸術品のように見えた。

 驚くくのも無理はないと、一旦目を伏せ軽く瞑りもう一度、意を決し呼びかけてみた。

 

「母上……ぇぇえええ?」

 

 再び呼びかけたと同時に視線を上げた純一の目に飛び込んできたのは、母が気を失いゆっくりと崩れるように倒れこんでくる姿だった。

「ぐぎゃっ」

 潰れた蛙のような声を上げ、純一は倒れこんでくる母の下敷きとなった。

 何やら、口から出てはいけないものが出たような感覚がした後に、気が遠くなっていったが、さすがにこれで死ぬわけにはいかないと気力を振り絞り、ハイハイで鍛え上げた技術を駆使して、命からがらなんとか母の下から這いずりだす事に成功し、ホッと一息ついた。

 

 純一は倒れこんだ母を心配し、覗き込んで確認してみると呼吸をきちんとしており大事ないと安心したが、今回は偶々布団の上で助かったがこれが布団の上でなければ大参事になったかもしれないと思い至り恐怖せざる得なかった。

 

(あ、あぶなかった。さすがにこれで死んでいたら洒落にならなかった。確かに!美少女と布団の上で死ぬのは本望だけれども!だけど!)

 

 若干混乱気味し、馬鹿な事を考えてしまった純一だったが、本来の目的を思い出し、気絶している母の頬を紅葉のような小さい自分の手でペチペチと叩き出した。

「う、う~ん。」

 目を覚ました母は最初ぼーっとしていたが、純一が頬に手を当てているのを認識すると、上半身をお越してかっさらうように純一を抱き上げ、興奮しながら喋り始めた。

 

「阿楊聞いて!夢を見たのよ!阿楊が母上って言ってくれたの!可愛い声で母上ですって、うふふ。何時かそんな風に読んでもらえるのよね?うふふ、でも、貴方にはまだ小さいからゆっくりでいいのよ?……は、は、う、え。さあさあ、一緒に…は、は、う、え…あ、でも木蘭でもいいわね、キャー!阿楊に木蘭なんて呼ばれたらどうしましょう?キャー!…も・く・ら・ん」

 

 完全に舞い上がり支離滅裂な言動を繰り返す母にどうやって収集をつければわからず、何となく純一は言われた通りに答えてしまった。

「木蘭さん……?」

 言い終えると、再び母が固まってしまったが、このまま気絶されてはたまったものではないと純一は母の頭にチョップをいれて声をかけた。

「母上、落ち着いて下さいませ。」

 極めて冷静な声でそう言うと、母は口をパクパクとさせながら「これは夢ね…」等とぶつぶつと言い始めた。

 

(ま、まぁ、生まれて一度も単語すら言った事のない赤子がいきなり流暢に喋ったら驚くよな……)

 

 「母上、夢ではありません。冷静に聞いてくださいね?実は僕、ずいぶんと前から喋れ…ウワァー!」

 

 状況を説明しようとしている途中でいきなり覚醒した母は純一を抱き抱えたまま物凄い勢いで部屋を飛び出し、更に家の玄関を通り外に連れ出していた。

 実はこれが純一の初めての屋外進出となるのだが、家に続く小道以外は鬱蒼と生い茂る木しかなく、この家が人里離れて森の中にぽつんとあるのを初めて知り、そして初めての外出は非常にスリリングなものとなっていた。

 

 抱き抱えられたまま、目まぐるしく流れていく木々と激しく揺れ動く振動により、飛んでしまいそうになる意識を必死に繋ぎ止め、それすら限界を迎えようとした時に突如、母の暴走は止まり、そして

 

「ウチの子は天才だわぁあああ!」

 

 母は当たり一面に響き渡る程の声で叫ぶと、息を切らせ満足したように純一を見つめた。

 しとしとと雨が降る中、母に抱き抱えられ唖然とすると息子と、何かやり遂げたようなかをし満足気な母は暫くそのまま佇んでいたが、ふと

「ココはドコかしら…?」

 そんな事を言い出した母に、純一は冷静に応えた。

「とりあえず、家に帰り服を着替えましょう。」

 

 それから無言で雨にうたれながら家に戻り、服を着替えやっと一息つくと抱っこしようとする母を止め、お互い向かい合うように机を挟み椅子に座った。

「阿楊、何で喋ってるの?」

 今更ながらの質問だが、聞かずにいられない母に対し、純一はここが正念場だと意を決して事情を話し始めた。

 

「母上、実は喋るつもりはございませんでした。話せると判ったというか【コチラ】の言葉を理解したのは恐らく半年以上も前の事になるかと思います。」

 いまいち要領を得ない純一の言葉に

「……コチラ?…理解…?」

 ぶつぶつと呟きながら思案しはじめる母に、純一は更に言葉を重ねて行った。

 

「僕には前世、恐らく別の世界で生きた人の記憶がございます。」

 

 そこまで言うと、どのような反応をされるか怖くなり顔を俯かせてじっと床を見ていたが、母は何も言ってくれずこの状況に純一は耐えきれなくなり更に言葉を紡いだ。

 

「折角、僕を愛してくれ、育ててくれたのに騙すような事をしていてごめんなさい。でも!本当は、全てを隠して!楊として、僕は貴方の子供でいたかった!」

 

 喋っている最中に悲しくなりそして、今まで短い期間ではあったものの母が自分に向けてくれた笑顔、微笑み、言葉、色々な記憶が溢れてきて、純一はもう二度とそのような事がなくなる思うと涙が止まらなくなっていたが、そこで止まるわけには行かないと最後の言葉を続けた。

 

「僕は華珠という人に監視されているのを知りました。そして、使用人達に殺されそうになりました。僕はまだ自分を守る術を持ちません。せめて、後三年僕を守り育ててくれませんか?気持ち悪いと思うのなら母上の視界に入らぬように過ごします。もし、それすら嫌であるならばこの場で捨てるなり、殺すなりしてください。ここまで育ててくれ感謝こそすれ、恨むことはありません!母上、ご裁可を!」

 

 そこまで言い切った純一は、そのまま頭を深く下げ目を瞑ったまま審判の時を待っていた。

 すると、耳に入ってきたのは母の咽び泣くような声が聞こえて来た。

(自分が今まで育ててきた子供がこんな得体の知れない物だったら…くっ…生まれてきて……ごめんなさい………)

 

 頭を下げたまま手が千切れるほど固く握りしめ、記憶を持ったまま生まれてしまった自分の罪深さを実感していた。

 

「ふ、ふえ、ふえええん。阿楊に、阿楊に、嫌われた。ふ、ふぇえええん、捨てられちゃったよぉ」

 母が理解の出来ない言葉を言い出した、さすがに何かがおかしいと純一は頭を上げ、母の顔を見ると真っ赤な目から涙がとめどなく零れ落ち、まるでこの世の終わりというように声を上げて泣く母の姿があった。

 

「は、ははうえ!僕が捨てるのではなく、母が捨てるのですよ。」

 

 そう慌てて純一が言うと、母は泣きやみ、今言われたことを吟味するように考え始め、その後きょとんとしたような顔をし

 

「なんで私が阿楊を捨てないといけないの?」

 

 純一は自分の言ったことが伝わってなかったかともう一度口を開いた。

 

「ですから…僕が、前世の記憶があり「でも阿楊なんでしょ?」…そうですが…つまり、何が言いたいかというと僕は母上の子供ではないんです……。」

 

 母はビクンと身体を動かし、震えるような声で純一に問いかけた。

「阿楊は…私の子供じゃなかったの…?」

 そこまで言うと今度は身体を強張らせ、強い口調で詰問し始めた。

「私の子供を返しなさいっ!阿楊を返してっ!」

 

 どうやらかなり認識に祖語があるらしいと、純一は気が付きはじめてはいたが冷静にゆっくりと言葉を返し始めた。

「い、いえ、阿楊は僕です。身体は確かに母上に生んで頂いたのですが…僕には前世の記憶がありまして…。」

 

 そこまで言うと、母は今までの言葉を思い返し整理してるのだろうウンウンとうなり始めていたが、純一はそんな姿を見ながら受け入れて貰えないだろうなと再び落ち込み始めていた。

 結論が出たのか母がゆっくりと言葉を選びながら喋りだすと、純一は死刑判決を待つ囚人のような気持ちで耳を傾けた。

 

「えっと…。阿楊は、私の子供じゃなくて…別の世界?の記憶がある。だけど、私が生んだ阿楊なのよね…?」

 

 そこまで言うと確認するように鋭い視線を息子にぶつけた。

 

「はい、その通りです。母上…」

 

 緊張の為に、口一杯に溜まった唾をゴクリと飲み込みながら答えた純一に対して予想外の言葉を母が言いだした。

 

「凄い!凄いわ!阿楊!ウチの子は天才だわ!」

 

 興奮したようにはしゃぎ始めてしまった母に、最初何を言ってるかよくわからなかった純一だったが、満面の笑みを浮かべ褒め続ける母に唖然としてしまった。

 

「…気持ち悪いとか……こんな得体のしれないものをとか思わないのですか…?」

 

 母は純一の問いに対してキョトンとしたような顔をし、その後首をかしげ訝しむように純一を見ていたが、やや間を置いて納得したのか優しい口調で喋り始めた。

 

「あらあら、そういう事ね。阿楊は自分が他人と違うのが分かって相談も出来ずに怖かったのね。気づいてあげられなくてごめんなさい。捨てもしないし、殺すなんてもっての他だわ。三年と言わず、ずっと守ってあげるつもりよ。安心なさい。阿楊、貴方は私の子供だわ。可愛い可愛い私の阿楊。」

 

 そう言いながらそっと純一の頭に手を乗せると、ゆっくりと優しく撫で始めた。

 最初身体が強張ってしまった純一だったが、撫でてくれるその手の暖かさから母の愛が伝わってくるようで、徐々に今まで色々考え不安で凍ってしまった心が溶けて行くように感じ、再びポロポロと涙を零しはじめた。

 だが、その涙はそれまでの不安や悲しみと違い、嬉し涙であった事は言うまでも無く、純一は椅子から飛び降り

「母上ぇええええ!」

 そう叫びながら母に飛びつき、声を上げ甘えるように胸に顔を埋め、短い両手を母の首に回し、離すまいと必死に力を込めた。

 母の方も、そんな息子を抱きしめながら声を上げて泣きながら

「どんな貴方でも、私の愛しい子供よ。」

 何度も、何度も優しい言葉をかけながら二人は声が枯れるまで泣きながらお互い抱きしめ続けた。

 

 どれくらい泣いたかわらかない程になったとき、ふと母が一旦純一を離し、互いの顔が見えるようにし、嬉しそうな声で少し自慢するように

「阿楊、貴方さっき歩けたわね。うふふ、ウチの子は天才だわ」

 そう言った後再び、純一を自分の胸に押し包み抱こうとした時に、急に純一は気恥ずかしくなってしまい、耳まで真っ赤になり少し照れたように母から距離をとってしまったが、それを許すまいと力を込めて抱かれてしまい、母の胸に埋没してしまった。

 暫くそのまま二人とも動かずにいたが、母が少し寂しそうな声で語り始めた。

 

「不甲斐ない母でごめんなさいね…。阿楊が苦しんでいたのに気が付くこともできないで……。もう一度、華珠様のことを詳しく話してくれるかしら…?」

 

 純一を抱く力が弱まり、そのまま床に降り彼は再び母の正面にある椅子に座り、熱を出して母が医者を呼びに行った日の事を話し始めた。

 使用人たちが自分に向け、死んで欲しいと言ったときに母は顔を歪め怒りに打ち震え、華珠という人がその背後で指示を出しているとそして、それについて純一なりの推測で、自分たちは側室とその子供であり恐らく正妻であろう華珠という人物が、情報を得るために監視させ、邪魔になるようなら即座に監視から暗殺という手段に代わるのではないかという推測を伝えると母は鎮痛な面持ちで聞き、最後に自分が身を守る為に頭がおかしいフリをするところまで語った時に、母は泣き崩れた。

 小さな手で一生懸命、机に突っ伏し泣き崩れた母の頭を撫でていると顔を上げ寂しそうな微笑みを浮かべながら

 

「ごめんね、阿楊…でも、少し時間を頂戴…」

 

 悲しそうな声でそう言うと再び机に顔を伏せ、動かなくなってしまった。

 

 何と声をかけていいかわからない純一はそっと母から視線を外し、窓を見やると、先ほどまで降っていたはずの雨は止んでおり、弱々しい陽の光が部屋の中に入ってきていた。

 

(捨てられなくて良かった。受け入れて貰えたんだ。僕も母上を守らなくちゃ。)

 

 自分から見ても小柄で少女にしか見えない母の姿をじっと見つめ、受け入れて貰えた喜びと、新たな決意を胸に刻むと幼い身体は、ようやく安心したと言わんばかりに「グゥ」と腹の虫を鳴らせ、空腹を訴えた。

 

(お、おい!空気読め!俺の身体!)

 

 文句を自分の身体に言っていると、正面に座る母は何時の間に身体を起こしたのか

 

「あらあら、お腹が空いてしまったのね。昼餉の時間よね、さあ、ご飯にしましょう?」

 

 母は上着を捲り上げ、乳を与える準備を始めたが

 

「は、ははうえ!僕はもう乳は勘弁してください!歯も徐々に生えてきておりカユでお願いします!」

 

 顔を真っ赤にしながら今まで言いたくても言えなかった離乳宣言をあたふたとすると、母は寂しそうに

 

「もう……吸ってくれないのね…。」

 

 そう言いながら乳を仕舞い、立ち上がると台所の方へ歩いて行った。

 その背中はどんよりとした雰囲気を背負っており、そこまで乳を吸わせたかったのかと、純一は少し恐怖した。

 ようやっと、母乳からの卒業だと言葉って大事なんだなとしみじみと考えふけっていると、粥を入れた皿を乗せた盆を持ち、危なっかしい足取りで母が戻ってきた。

 恐らく不慣れなのだろう、やっとこさっとこ机に盆を置き、椅子に座った純一をヒョイと持ち上げ有無も言わさず自分の膝の上に乗せる形で抱っこしながら椅子に座ると

 

「あちちでちゅよ。阿楊があっちあっちしないようにフゥフゥしましょうねぇ。」

 そんな事を言いながら、甲斐甲斐しく純一の口元にこれでもかというほどふぅふぅした匙を出してくれた。

 本当は自分の力で食べたかった純一だったが、最早これだけは譲れないという鉄の意志が後ろの母からヒシヒシと伝わってきており諦めるしかなく、差し出された匙を口に含んだ。

 

「まずい…」

 

 つい、純一は思ったことをポロリと言ってしまうと、目の前にあった母が持つ匙は力無く落下して行き、後ろに座る母からこの日最大級の泣き声が上がり、純一は抱き抱えられたまま布団に連れて行かれ、強制的に添い寝をさせられることとなった。

 

(母とは言え、女心は難しい…)

 

 そう、心のうちでひっそりとごちると、空腹を抱えたまま母の機嫌が直るまでそっと横たわり、しみじみと反省する純一であった。

 

 



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6話

やっと書き上げる事が出来ました。



 そろそろ日も暮れようとしてた頃、母子はまんじりともせず布団に横たわりながら過ごしていた。どれほどの沈黙が続いただろうか?母がゆっくりと寝物語を聞かせるように、自分の事を話し始めた。

 

 最初に、この家にいる男の使用人程岳(ていがく)は、自分の実の兄である事。更に、兄妹である自分たちは、幼い頃に両親を失い途方に暮れていたところを父の兄であった程峻(ていしゅん)という人が引き取ってくれたた事。程峻さんは譙県(しょうけん)の士大夫、豪族のような立場である程家の主であった為に、程家の本家で10年近く養ってもらっていた事。

 

 そして、ある時に大規模では無かったものの水害が発生してしまい、同県の士大夫に借財を申し入れたが、相手が見つからず裕福な夏侯家が唯一貸し出してくれたが、代わりに質を要求されてしまい、兄妹は恩返しの好機と自分から進み出て夏侯家に向かった事。

 

 ところが、前々から程峻が同県士大夫である曹家が宦官を排出した事に侮蔑の態度をとっていたのが災いとなり、曹家に親密な夏侯家が約定を違えて勝手に夏侯家から養子で曹家に入った曹嵩に勝手に兄妹を送り出してしまい、母は側室にさせられてしまった。

 

 兄である程岳は直ぐに程家に報告をし、程峻も怒りながらすぐに返すように迫ったが、母は子を宿してしまいそのまま生まれてきたのが純一こと、曹楊であるとのことだった。

 

 だが、問題があった。曹楊は曹家の長男ではあるものの側室の子であり、しかも程家は許しておらず、そのまま曹楊を連れて程家に戻ることも出来ず、曹家でも歓迎されていない為に、人の目が付かない田舎に追いやられている状況で、そんな母を兄である程岳は使用人として守ってくれるようにずっとついていてくれていた事等だった。

 

 華珠というのは、案の定曹嵩の正妻であり自分よりも先に子を産んだ側室の母に対して思う所があるのだろうと締めくくったが、純一はそれどころではなかった。

 

(宦官……?…曹家……?……夏侯家…???)

 

 母が語り終わるまで逸る心を抑えつつ、黙って一通り最後まで聞き終えた。そして、どうしても聞きたかった事を真っ先に聞くことにした。

 

「母上、色々聞きたい事が山ほどあるのですが……。第一に、私達のいるこの国の名は何というか教えて頂けないでしょうか…?」

 

 じっとりと嫌な汗が身体中から出るのを感じながら声が震えるのを何とか抑えつつ質問をしたが、何故そんな事を聞くのだろうと怪訝な顔をしつつ、ゆっくりと母は息子の質問に答えた。

 

「なんで、阿楊がそんな事を聞くかよくわからないけど、沛国っていうのよ。」

 

 (聞いたことないな、偶々かな?)

 

 聞き覚えの無い国の名に一安心した純一だったが、母の言葉は予想を裏切るように続いてしまった。

 

「ただ、沛国は豫洲の一部になるわね。」

 

 豫洲という言葉は純一にとって聞き覚えのある言葉だった。

 

(豫洲……州……州牧……宦官…曹家……夏侯家……)

 

 嫌な汗が吹き出し、目の前が真っ暗になりそうになるのを耐えつつ矢継早に母に質問をぶつけた。

 

「母上、も、もしかして、豫洲というのは、漢という中央集権国家の一部でしょうか…?そして、その政の中心は洛陽で行われているのでしょうか…?」

 

 彼にとって最早その質問はただ只管に、違うと言ってほしいという願いが込められていたが、母はじっくりと純一の言った事を吟味しながら丁寧に答えてくれた。

 

「中央…集…権…?よくわからないけど、漢であってるわ。そして、天子様がいらっしゃるところが洛陽になるわね。…ねぇ、阿楊?なんで、阿楊はそんな事を知ってるのかしら?それも聞いたの?」

 

 戸惑う母に構っている暇もなく、純一は思考の海に埋没していく。

 

(おかしい、この世界は異世界だろう?金髪はまだしも医者みたいに緑髪なんて、染めてる人以外いなかったぞ。まだだ、落ち着け俺、落ち着け、そうだと決まったわけじゃないんだ。)

 

「……母上、漢という国は劉邦という人が興した国で合ってますでしょうか?」

 

「え、ええ、漢は高祖様である劉邦様が興した国ね。」

 

「クッ…劉邦と最後まで戦ったのは項羽という人じゃないですよね?違いますよね?」

 

「阿楊、阿楊落ち着いて。項羽という方と争ったのは聞いたことがあるわ。ねぇ、阿楊、なんで貴方が知ってるのかしら?教えてくれない?」

 

(クソッ!やっぱりそうだ!これは間違いない!ここは漢王朝だ!いや、まて落ち着け俺、まだだ、漢王朝は長く続いたはずだ。あの時代でなければ問題ない。平穏に過ごせるはずだ。いや、だめだ。確認しておかないといけない。まだ俺の知ってる年老いた武将って誰だ?わからん。思い出せ、何かないか!呂布…そうだ、董卓!)

 

「母上、呂布か董卓という名前に聞き覚えはありますか?」

 

「いえ、ないわね。」

 

(皇帝の名前なんか言われてもわからん!皆、劉姓なのはわかるけどっ!落ち着け、待て、待てよ。呂布を知らないなら孔明とかいってもわからないよな?孫堅はどうだ?いや、そうじゃない。そもそも董卓がなんで洛陽に来た?宦官の排除…!そうだ!十常時!張譲しかわからんが!あ、豚殺しのやつ何進だ!いや、あいつの妹だかなんだかが皇后になったんだ。名前がわからん…!何進だから…何皇后だ!)

 

「母上、もう一度聞きますが孫堅、張譲、何進、それと帝の妃に何皇后?という方はいますか?」

 

「ごめんなさいね。」

「そうですか!良かった!」

「張譲様以外聞いたことは無いわ。張中常侍様の事よね?私は他の方は知らないわ、ごめんなさい。」

 

 そう母が言い終わると同時に、純一は急に立ち上がり叫んだ。

 

「冗談だろう!?なんでよりにもよって三国志なんだよ!クソッ!ありえねーだろ!死亡フラグビンビンじゃねーかよっ!しかも、曹家の曹嵩とかって曹操の親父だろ!聞いたことある気がするし!じゃあ、あれかよ!俺は曹操の腹違いの兄とかか!?嘘だろう!?曹操の兄なんて居たか?いたら曹操家督ついでねーよな!っつーことは俺間違いなく死んでるじゃん!ヤバイ、マジヤバイ!俺死んだぁああああ!」

 

 暴れながら叫び続ける純一に、何が何だかわからない母は最初茫然とそれを見ていたが、そのうち純一が涙を流しながら暴れている事に気が付くと、慌てて力一杯抱きしめて落ち着かせようとした。

 

「阿楊!落ち着きなさい!阿楊!わからないわ!貴方が何を言ってるのかわからない説明して頂戴、お願い、説明して頂戴。それになんで曹操の名前を知ってるの?曹操と何か関係があるの?まだ生まれたばかりのはずよ。」

 

「やっぱりだ!曹操の兄確定だ。クッソ!もうだめだ無理だ!なんでよりによって!」

 

 母に抱きしめられ、もがきながらそれでも叫び続ける純一。幼い身体のせいかその動きも声もしばらくすると静かになり、その後はすすり泣くような声で呟くように言葉を綴りはじめた。

 

「母上…母上…こんな事は、信じられないかもしれませんが、いえ、僕自身も信じられませんが、でも、どうやら…どうやら僕は、1000年以上先の時代に生きていたようです。何を言ってるかわからないと思いますが、自分でもよくわかってません。でも、これより先にこの漢という国がどうなるかを僕は知っております。」

 

「どういうこと?阿楊、何を言ってるの?」

 

「落ち着いて聞いてください、これからこの漢という国は乱れに乱れ戦乱の世となり、そして…滅亡することを僕は知っております。何故ならば、僕が生きた時代にまでその事は史実を元にした小説、いえ、物語として残っていたからです。」

 

 呆気にとられた母の顔を優しく撫でながら純一は続けた。

 

「この国は政の腐敗により、大規模な反乱が起き、そのまま乱世に突入します。弱肉強食の時代となり、力の無いものは潰れ、力あるもののみが残ります。そして、最後に三つの国が残ったことから後世では三国志時代と言われ、遠く異国の地まで私が生きた1800年後、いえ、それ以上何千年も語り継がれていく事となるでしょう。曹操は最後に残る三国のうち一角を担う一番大きな勢力を持った覇王として有名になるんです。これより先、10年か或いは、20年先に漢全土を巻き込む戦乱の世になるんです。そして、僕も詳しく覚えているわけではないのですが三国志という物語には数多の武将、知将、英雄が描かれておりますが…僕の知る限り、曹操の兄の記述は無かったと…思います…。」

 

 これより先、戦乱を迎えるという言葉に母は絶句し、そして愛しい息子の記述が無かったと聞いたところで、どういう意味かを理解し、蒼白になっていく。

 

「いえ、わからないわ!ただ、記述されてないだけだわ!阿楊が死ぬなんてことがある訳がない。そうでしょう?私が守るもの、例え貴方が死ぬ運命にあるとしても、私が変えます!いえ、変えてみませます!」

 

 母が決意を込めて純一に言った言葉は彼の頭を真っ白に染め上げた。

 

(そうだ…俺は曹楊であって、曹楊ではないんだ。新宮純一でもあるんだ。最早歴史は変わっていると信じたい!)

 

「母上!僕の未来を変えるのに協力下さい!」

 

 純一は生きようと、生き延びてみせようと固く心に誓う。

 

 

 それから純一は母に覚えている限りの出来事を母に伝えるが、覚えている事は大きな歴史の流れと、有名な話しか伝えられなかった。それでも、なんとか伝えるだけ伝えることにしたのだが、どうしたらいいかまでは思いつくことは無かった。

 

「阿楊、私達だけでは拉致が明かないわね…。明日兄さんが帰ってきますから話してみましょう?大丈夫よ、きっと兄さんなら力になってくれるわ。」

 

 

 陽もすっかり沈み、純一監修の下に夕餉を作り食事を終えた二人は床に就いた。

 

「阿楊、貴方は本当は何歳なの?」

 

「前世は23歳まで、そしてこちらで2歳近くになりますから24歳か25歳になるんでしょうか?」

 

 激動の一日を終え、ウトウトしはじめた純一がそう答えると隣で寝ていた母は突然身を起こし、純一に覆いかぶさった。

 月明かりに照らされてうすぼんやりとした美しい母の顔は何故か意地の悪そうな笑みを浮かべていた。

 

「な、なんです?母上、その顔は何をするつもりですか?」

 

「いーえー、別にぃ、でも、そうよねー、阿楊は私より年上だったのね。」

 

「母上はお幾つなんですか?」

 

 つい、そう聞いてしまった純一だったが、目の前の母を見た瞬間にしまったと心の内で思ったが後の祭りだった。

 

「あらあら、聞いちゃうの?ねぇ、年聞いちゃうの?教えないわ。うふふ、でも阿楊よりは年下よ?っで、どうだったの?」

 

「…どうだった…とは…?」

 

「阿楊はねぇ、年下のお母さんのお乳を吸っていたのよね?うふふ、どうだったの?私は知る権利があると思うのよね?そうでしょ、阿楊?」

 

 必死に黙秘権を行使しようとする純一を舐るように母は追い詰めていき、全てを吐かされた後に気絶するように眠りに落ちたのは、明け方近くとなるのだった。

 

 

 翌日、人の声で純一は目が覚めたが、意識がハッキリした時には旅装のまま母に手を掴まれて程岳が部屋に入ってくる頃だった。

 恐らく、何の説明もないまま連れてこられたのだろう、完全に困惑した表情を浮かべている程岳。

 

「兄さん、阿楊が凄いのよ。ねぇ、聞いてる?あら、阿楊起こしちゃったかしら?おはよう。」

「木蘭、お前の説明はさっぱりわからないのだが、阿楊の何が凄いというのだ?」

 

 純一の目に映ったのは、使用人という壁を作り他人行儀で寡黙な姿とは違い、興奮した妹にほとほと困り果てた兄という柔らかな雰囲気を纏った初めて見る程岳の姿だった。

 

「母上、叔父上おはようございます。そして、初めまして?」

 

 そう言い終わると、普段使用人たちがやっている揖礼(はいゆう)を見よう見まねでたどたどしいながら行った。

 

「なっ!どういう事だ!?」

 

 程岳は純一の豹変ぶりに声を上げて驚き、後ろに立つ妹の顔を見やると、してやったりという満足げな妹をしていた。

 

「うふふ、兄さん驚いた?ねぇ驚いたでしょう?」

 

「あ、ああ、これは驚いたよ。木蘭これはどんな奇術、いや妖術を使ったんだい?」

 

「あら、兄さん私は何もしてないわよ?それに、私に聞くよりも阿楊に聞いた方がいいんじゃない?」

 

「いや、しかし…そうか……阿楊、説明してくれるかい?」

 

 程岳は純一を抱き上げると椅子に座らせ、自分たちも椅子に三人で机を囲むように

座ると、妹と甥を交互に見ながら説明するように促した。

 

 純一は最初、ゆっくりと程岳に昨日母に話した事を掻い摘みながら行く、熱を出した一件から始まり、自分が先の時代に生きていた事、そして最後にはこれより先の戦乱の世が物語になっていた事、その中に自分の記述が無い事まで話した。

 

「信じられん、いや、信じたいとは思うのだが証拠はあるのかね?」

 

「確かにいきなりこんな事を言われたら驚くなという方が無理だとおもいますが、証拠というと難しいです。」

 

「兄さん?阿楊は張中常侍の事や曹操の名前を知っていたのよ?」

 

「いや、だがどこかで聞いたかもしれない。もう少し、今度はこれより先の事を詳しく教えて貰っていいかね?」

 

「ええ、僕も全てを覚えてるわけではないですが判る範囲で……。」

 

 そう、純一は前置きしつつ宦官による政の腐敗により大規模な民衆蜂起、そして黄色の布を巻いている事から黄布の乱と呼ばれる事や、その後に帝が死に後継者争いは何進と宦官の権力争いと発展し、何進暗殺、そして袁紹達による宦官の排除。だがそこで董卓が洛陽に入り込み洛陽の圧政、袁紹盟主による反董卓連合で袁術や曹操、孫堅まで話すと程岳は言葉を挟んだ。

 

「もういい、わかった…。木蘭、阿楊の言う事は真実だ。彼は未来を知っている。」

 

 程岳は目を瞑り、一旦間を置いてから再び純一をじっと見つめ、口を開いた。

 

「実は、昨日町に入った後に酒場で聞いた話なんだが、袁家に生まれたそうだよ。阿楊の言った通り袁紹という名前の姫君がね。これは阿楊が知る訳がない、木蘭だって知らないだろう?」

 

「ええ、兄さん知る訳がないわ。」

 

 だが、純一は程岳の言葉に違和感を感じた。

 

「……今、姫君と言いましたか?」

 

「ああ、そうだよ。」

 

「あの、姫君って女性ですよね?それって武将とかになれるんですかね?」

 

「何を言ってるんだ?曹操も女児であろう?」

 

(え?どういう事?女が武将になれる?あれ?曹操も女?)

 

「あ、あれれ?よくわからないんですが僕も叔父さんも男ですよね?」

 

 若干戸惑いながらも質問をしてしまう純一に対して大人二人はきょとんとした後に笑いながら答えた。

 

「あらあら、阿楊?貴方は男の子でしょう?うふふ。」

 

「そうだぞ、阿楊も私も男に決まってるだろう?何を言ってるんだ?」

 

(あれ、おかしいな。女?男?どういうことだ?)

 

「あの、不躾な質問で申し訳ないのですが女性でも役人とか、太守とか、もしかして帝とかになれちゃったりしちゃったりするんですかね?」

 

「阿楊、何を言ってるんだね?女性で有名な方なぞ沢山いるではないか、高祖様ですら女性であったと伝えられてるぞ?」

 

 何が何やらわからぬといった顔をした純一に向かって母が声をかけた。

 

「阿楊、女性のほうが気を使える者が多いから著名な方はほとんど女性よ?」

 

(そうか、気があるのか!って、気ってなんだ?)

 

「あ、あの、気ってなんでしょうか?僕はよくわからないんですが…。」

 

「阿楊はいつも医者にしてもらってるじゃない。それに気を使えると身体が凄く軽くなったり力を出せるようになったりするのよ?」

 

(なるほど、あれが気か!前世では眉唾物だったけど確かにあれをしてもらうと病気が治ったり身体が楽になったりしたな、緑髪だったり金髪だったり曹操とか袁紹が女性だったり、なるほど…。ここはパラレルワールド的な感じなのか)

 

 そこまで考えが及んだことで納得し始めた純一は未だ、笑いながら眺めている大人二人に言葉を選ぶように、口を開いた。

 

「どうやら、僕の知る歴史とは若干この世界は異なるようです。何故なら、僕の知る世界には気等ございませんでしたし、それに曹操や袁紹、高祖劉邦ですら男でした。更に言えば、僕の世界では女性が政に参加する等は今よりずっと後の時代になっていかと思います…。」

 

 若干言葉を濁しつつ、今度はきょとんとした顔をする大人二人を見ながら言葉を続ける。

 

「恐らくこの世界は、僕が生きた世界とは違う世界のようですが因果というか高祖劉邦が女性、男性に関わらず漢という国を興したように、恐らく歴史の流れ自体は変わらないと考えてよいかと、また、曹操が男であろうが女であろうが細かい部分は違うかもしれませんが大まかな所は変わらぬまま役割を果たすのではないでしょうか?」

 

 パラレルワールドという概念が恐らくないだろうこの時代に生きる母と叔父に何とか伝えようとする純一だったが、二人ともよくわからないが多分そうなのだろうとやっと頷いたのを見て安心した。

 

「そして、出来れば叔父さん。出来れば力を貸していただけないでしょうか?」

 

 そう言いながら純一は頭を下げた。しかし、程岳は返事をしようとしなかった。

 

「兄さんっ!」

 

「木蘭、黙れっ。」

 

 詰め寄ろうとする母を、程岳は一喝し純一を値踏みするように見つめている。

 

「これより、乱世になり漢は倒れる。それは判った。だが、君はそこで何を望む?阿楊、いや曹楊殿、何を成すつもりかね?」

 

 程岳の手厳しい質問に対して、純一は言葉に詰まってしまい中々切り出す事が出来なかった。

 

「わかりません。今判るのは、僕は死にたくないし、母も死なせたくない。」

 

 ふむ、と頷きながら定額は腕を組み純一の顔を見ながら目線で続きを言うように促した。

 

「確かに、乱世に活躍して名前を残したりしたいと思う気持ちもあります。だけど、僕は人の上に立ったこともないし、立てるとも思えない。危険な事もしたくないです。その上で、これからこの世界の事を知って行き、何が出来るかを僕は知りたい。」

 

 今思ってることを素直に純一が言い終わると、程岳は笑い声をあげた。

 

「誰よりも早く乱世を知り、そして危険な事をしたくないか面白いな曹楊殿は、それに木蘭を守る事を第一とするのは私も一緒だよ、聞いただろう?」

 

 そこまで言い終えると程岳は椅子から立ち上がり、佇まいを直し今までと打って変わった表情をしながら純一に話しかけた。

 

「私は姓は程、名は岳。沛国譙県(はいこくしょうけん)の出で字を景徳(けいとく)、真名を伯(はく)と申します。今後、曹楊殿に協力する事を誓いましょう。」

 

 それを見た母は慌てて立ち上がり

 

「阿楊、いえ、曹楊殿。私は姓は程、名は木蘭。兄と同じ出であり字は宮(きょう)、真名を崔(さい)と申します。今後ともよろしくお願いしますね?いろいろ教えてくださいね?そしていっぱい甘えてね?うふふ」

 

 大人二人は小さい純一に拝礼を行った。

 たじたじとなってしまった純一はどうしたらよいかわからないまま、床に降りて土下座してしまった。

 そんな姿を見た二人は大いに笑い、純一もどうしていいかわからないまま二人に釣られて笑い声をあげ、三人ともこれから始まるであろう戦乱を知りつつも、今この場は笑いながら幸せを噛みしめていた。

 

 また、その後に二人に真名の説明を受けた純一は自分でもつけても良いと聞き大いに喜び、真名を「純一」と自ら命名し、再び彼は純一という名前を名乗る事が出来るようになった。




次回の更新はもう少し早くなるようにしたいとおもいます。
毎日書ける人ってすごい・・・。


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