余滴は星彩に溶けて (沖縄の苦い野菜)
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第一話 出会いの春

さて、新作はエレナと恵美をメインに据えた物語ということで。
もしよろしければ、この連載二次創作にお付き合いいただければ幸いです

それでは、本編をどうぞ


 教室から覗くグラウンドはオレンジ色に染まっていた。運動部が駆ける姿は影法師のように黒く染まり、誰が誰だか判別をつけるのは難しい。

 そんな様子を、窓際の席から島原エレナは楽しそうに眺めていた。エメラルドの長髪を夕日にきらめかせながら、それよりも輝いたニコニコの笑顔を浮かべて。

 

「ワオ!」

 

 紺碧の瞳がきらりと閃いた。彼女が見ていたのは、サッカー部のスペースだ。ちょうど、ゴールネットにボールが突き刺さったところで、彼女は思わず声をあげた。それくらい、見ていて気持ちのいいゴールだった。遠くて音何て聞こえない筈なのに、ボールがネットに突き刺さる効果音が、頭の中で響いてくるほどに。

 

 ゴールを決めたのは、彼女にとっては見慣れた男子であった。名前は新田良悟。清涼剤のCMにでも出ていそうな外見の爽やか男子だ。笑顔が光る男で、170を超えた身長に細身の身体。そんな彼は、仲間に背中を叩かれたり、頭をくしゃっと乱雑に撫でられて、それに笑いながら相手の肩を叩いて応えている。

 

 エレナと良悟の関係は、一言で表せばサッカー友達である。昔からよくサッカーを一緒にやる幼馴染で、サッカー観戦も家に招いて一緒にやるくらいには仲が良い。両親同士の仲も非常によく、家ぐるみの友達ともいえる。

 

「いいナー」

 

 座っているエレナの身体が僅かに揺れる。足をパタパタと忙しなく動かしながら、彼女はグラウンドで繰り広げられる紅白試合の観戦を続けた。

 

 

 

 試合は両チーム接戦の末に、時間となって2対2の引き分けに終わった。すっかり陽も隠れそうな頃合いで、グラウンドには誰も残っていない。使った後の整備も、ついさっき終わったばかりだ。

 エレナは窓際の席から漠然と、グラウンド全体を見つめていた。今までの熱気が嘘のように引いた場所では、瞼を落として眠りにつくように、陽が沈むにつれて影を落としていく。

 

 沈黙を切り裂いたのは、教室の扉のスライド音だった。鈍い摩擦音が彼女の耳にまで届いてきた。

 

「何見てたんだ?」

 

 教室に入ってきたのは、少し前までグラウンドでサッカーをやっていた良悟であった。シャツのボタンを上から二つまで外して、肌着さえ身に着けていない姿。春先でまだ着用しなければいけない学ランを無造作に肩に引っ掛けながら、彼はエレナの視線の先を追っていた。

 

「グラウンドだヨ。もう今日が終わっちゃうナー、って」

「あー、そういう。そう考えると、少し憂鬱だな」

「ワタシはそんなコトないヨ?」

「こんな疲れた中で帰宅。身体に鞭打って宿題。楽しみは風呂と夕飯。今日のテレビはつまらない。そして明日は七時間。憂鬱だ」

「でも、学校に行けばみ~んなと会えてハッピーだヨ」

「そりゃそうだけど。大半は授業だし」

 

 良悟はそこまで言って首を横に振った。やめやめ、と肩を大きく竦めて息を吐いた。

 

「さっさと帰るか」

「うーん、そうだネ」

 

 良悟が背を向けて教室から出て行った。エレナは最後にもう一度、外の様子を漫然と一瞥した時、その瞳が校門の前に釘づけにされた。よく見る顔……ベストフレンドの姿を見つけたのだ。長い茶髪と、ぴょこんと飛び出た一房の毛が特徴的な少女、所恵美だ。一緒に帰る約束もしていなければ、これから何か一緒に用事があるわけでもない。

 

 エレナは自分のカバンを開けるとすぐに携帯電話をチェックした。しかし、恵美からのメッセージは届いていない。それがますますよく分からず、エレナは首をかしげて校門の方に視線を向けた。

 

『エレナ―! こないのかー?』

「あっ、すぐ行くヨ!」

 

 良悟の声に、エレナは慌てて携帯をカバンの中に詰め込むと、取っ手を肩にかけて教室から飛び出した。そのまま彼の後姿を追おうとして、キュッと上靴を鳴らして足を止める。教室の扉を閉めてから、改めて駆け出した。

 

「何かあったの?」

「校門にメグミがいたんだヨ! あっ、メグミっていうのは、ワタシのベストフレンドのコトだヨ!」

「アイドルの仲間?」

「うん!」

「約束していたなら先に帰ってもよかったんだぞ? このあと何もないんだし」

「う~ん、メグミとは約束してないんだヨ。メッセージも確認してみたけど、何もきてなかったから」

「連絡も? サプライズか何かじゃないのか?」

「なんだろネ?」

「まあ、居るなら待たせちゃ悪いな。早く行くか」

 

 歩調が速まった。エレナもそれに追従するように駆け足で進み、すぐに下駄箱についた。良悟は奥側の列に、エレナは手前の列に入り、お互いに靴を履き替えると出口で合流した。合流すれば行動は早い。良悟は視線を校門の方に向けて顎を差した。

 

「疲れたし、先に行っといて」

「すぐソコだヨ?」

「用件あったら先に済ませた方がいいだろ。ほら」

「うーん、リョーゴがそう言うなら!」

 

 メグミー! とエレナが手を振りながら校門へと駆け出した。彼女の影が遠ざかっていく様子をしばらく見つめた後、良悟は苦笑を漏らして、緩慢な歩調で足を進めた。

 

 

 

「メグミー!」

 

 校門の前。居心地の悪さに毛先を弄った回数は数え切れない。校門の壁に背をつけたり、学校の奥を覗いたりと。挙動不審な動きをしていた少女、所恵美は突然の親友の声に驚き振り返った。

 

「エレナっ?! どーしてここに居るの?」

 

 目をまんまると見開いて、恵美は制服姿のエレナをまじまじと見つめた。走って来るエレナの迫力は地響きでも立てそうなほどではあったが、彼女は見事なステップで恵美の前で華麗に止まってみせた。

 

「どうしてって、ここはワタシの学校だヨ? メグミはどうして?」

「あっ、そっか! ここエレナの学校かー! にゃはは、忘れてたよ。あっ、そうそう。用事なんだけどね。ここの学校の男の子にちょっと用事があったんだ。でも、全ッ然でてこないから、もしかして帰っちゃったのかなーって、諦めかけてたところでさ」

「どんな名前の人?」

「あー、それが多分、リョーゴって人? 苗字はわかんないけど。でも! 顔はバッチリ覚えてるから。こう、如何にもサッカー部! って感じのイケメンだった!」

「……メグミって、実はメンクイさんなんだネ」

「へっ? いやいやいや! 違うから! 恋とかそういうのじゃないから! ほらっ、これ!」

 

 エレナの混じりけの無い純粋な言葉に、恵美は全力で否定をしながらカバンの中から白いハンカチを取り出した。手触りの良さそうなシルクのハンカチ。その隅っこには、英文字で「Ryogo」と縫われている。

 

「あれ? コレって……」

「このハンカチさっ、この前ファミレスでジュースこぼしちゃったときに借りちゃって。ほら、これってかなり良いハンカチじゃん? だから、返さないとすっごく罪悪感があってさ。こんな時間まで粘ってたってわけ」

 

 言い訳染みた早口が恵美の口から飛び出る中、エレナはハンカチに刺繍された文字に注目していた。それが見間違いでないことを確認した時、エレナはハンカチの元の持ち主が誰なのか分かってしまった。

 

「おーい、エレナ。用事は終わったか?」

 

 その時、ちょうど良悟が校門の前まで来ていた。エレナはその声に反応して、こっちこっち、と彼を手招きした。

 

「あっ、リョーゴ! ちょうどよかったヨ!」

「ん? エレナの知り合い……って、あぁっ! あの時の!」

「……? なに、どういう状況?」

「ほらっ、アタシだよアタシ!」

 

 良悟はエレナと、もう一人の少女の反応に困惑を覚えながら、とりあえずとばかりにエレナに視線を送った。エレナはそんな彼の視線を受けると、恵美の持っていたハンカチを指差した。

 

 エレナに誘導されるまま恵美の持っているハンカチを見て、ようやく良悟は合点がいったのかひとつ頷いてみせる。

 

「あー、この前の。あの時は悪かった。俺の不注意だった」

 

 そしてすぐさま、彼は頭を下げて謝罪の言葉を口にした。

 恵美はそんな彼の反応に、思わず両手をぶんぶんと横に振って早口にまくしたてた。

 

「いやいやいやっ! あの時はアタシも友達と話し込んじゃってたから!」

「いや、そうはいってもな。服は大丈夫だったのか?」

「あー、それは大丈夫! もうあのタイプのやつは季節外れかけだったし」

 

 良悟は恵美の反応を見て、すぐさまエレナに視線を送った。それに対してエレナは首を横に振って答えた。

 

「台無しにしちゃったか……本当に、ごめん」

 

 良悟は改めて頭を下げて謝罪を口にした。

 そんな反応に、恵美は目を白黒とさせて瞬きを何度もした後、困ったように自身の頬を指先で撫でた。

 

「えっと、ほらっ。こんな高そうなハンカチ貸してくれたんだし! いつまでも引きずるのも苦手だから。ほら、顔上げて!」

 

 言われるがまま彼が顔を上げると、はにかみながらハンカチを差し出す恵美の姿があった。

 

「ハンカチ、ありがとねっ」

「あー、うん。うん、どういたし、まして」

「アハハ! リョーゴ、ちょっとぎこちないヨ?」

「うっせ」

 

 エレナに茶化されると、良悟はバツが悪そうに目を逸らしながら、ハンカチだけはしっかりと受け取って、所作なさげに受け取ったそれを何度も折ったり開いたりを繰り返した。

 

「あー、まぁ、あれだ。何か埋め合わせぐらいはさせてくれ。ファミレス奢りでも新しい服でもいいから。エレナ通してくれればすぐに伝わるから。それじゃ」

 

 早口で言い切ると、良悟はさっさと逃げるようにその場から立ち去っていく。そんな様子の彼に「あっ!」とエレナが声を上げるも、聞こえていないのかズンズンとその後ろ姿は遠くなっていき、住宅街の影の中に消えてしまった。

 

「リョーゴは照れ屋さんだからネ。悪気はないんだヨ?」

 

 ひとつ息を吐いたエレナがフォローを入れながら恵美を見た時、彼女は良悟が進んだ先をボーっとした様子で見つめていた。エレナが「メグミー?」と声を掛けても反応がない。瞬きも忘れている様子に、エレナは堪え切れず、恵美の目の前まで顔を近づけた。

 

「メグミー?」

「うひゃぁ!?」

 

 突然、目の前にエレナの顔が出てきたことに恵美は仰け反って思わず奇声を上げた。目を白黒させてエレナの顔をまじまじと見た後、彼女は「ビックリしたぁ」と肩の力を抜いて息を吐いた。

 

「ボーッとしてどうしたノ?」

 

 エレナは純粋に首をかしげて恵美に聞いた。

 恵美はその問いかけに、思わず顔を真っ赤にした。恥ずかしい内面を見抜かれているような、そんな気持ちが身体全体に熱となって広がっていく。

 

「いや、えっと。ほらっ、さっきのリョーゴって人がイメージと違って、ちょっと驚いたんだよね」

 

 にゃはは、と照れ笑いのように声を出して誤魔化しながら、恵美は「それよりも」と話題を早速切り替えることにする。

 

「リョーゴって、エレナの知り合いだよね? なになに、エレナの彼氏だったりするわけ?」

「えっ、リョーゴ? ボーイフレンドじゃないヨ」

「あんなに仲良さそうだったのにー?」

 

 うーん、とエレナは恵美の問いかけに真剣に考え始める。

 家族ぐるみの付き合いで、よくお互いの家にお邪魔して、よく遊ぶ仲。ボーイフレンド、などという甘酸っぱいものはどこにもない。打てば響く、遊べば楽しい。話せば気が合うし、隣にいれば歩調が合う。

 

 長く一緒にいたことで、何かと波長が合う。一緒に居て楽しい存在。

 

「リョーゴはパートナーだネ!」

 

 エレナは純粋にそう結論付けた。そもそも、長い間一緒に居たせいもあって、お互いに男女がどうのと意識する間柄でもない。

 

「パートナー!? やっぱり彼氏じゃないの?」

「違うヨ。リョーゴとは日本に来てからの付き合いだからネ! 二人でボールといっしょに育ったから、パートナーかナ」

「あっ、そっちかー。幼馴染ってやつ? 全然知らなかったよー! ねぇねぇ、リョーゴってどんな人なの?」

「リョーゴ? リョーゴはね、イイ人だヨ!」

「いや、そうじゃなくって。ほら、性格とか学校での様子とかさ」

「性格? うーん、照れ屋さんだネ! 褒めるとすぐにプイッってドコか向いて、早口になって、兎みたいに逃げちゃうんだヨ!」

 

 ぷっ、と思わず恵美は噴き出した。パートナーというわりには、あまりに容赦のない紹介だ。それもその光景をついさっき目の当たりにしていると、面白さは倍増だった。

 

「それと、サッカー部だヨ! 勉強は好きじゃなくって、体を動かす方が好きで……あっ、休憩とかでよく寝てるヨ! 寝顔がコイヌみたいで可愛いヨ?」

「っ、あははは!」

 

 限界だった。思わず声を上げて、腹を抱えて恵美は笑ってしまった。あまりにもエレナからの紹介が面白すぎた。注目するところそこ!? と恵美はそう思いながら、笑いは止まらず目尻に涙が溜まっていく。

 

「実は、ユーレイとかすっごくニガテで、生まれたてのコジカのように震えて怖がるんだヨ。ワタシもニガテで叫んじゃうケド、リョーゴはワタシよりもっと叫んで抱きついたりするネ」

「ちょっ、もうその辺でいいからっ! あははは! や、やめ、やめたげて! リョーゴくん可哀想だから!」

「そんなにオカシナこと言ったかナ?」

「だ、だって! ギャップがっ! あははは!」

 

 良くも悪くも裏表のないエレナの言葉だ。良悟の話について疑うところはなかった。だからこそ、恵美の第一印象とエレナの話とのギャップがあまりにも大きくて、笑いのツボも強く刺激した。

 

「あーっ、もう! 笑い過ぎてお腹痛くなってきたよー」

「うーん、メグミにはリョーゴがどう見えてたノ?」

「え? うーん、クールって感じだったかなー。言葉も少ないし、表情あんまり変わんないしさー。こう、動物に例えるなら狼って感じ!」

「オオカミ? リョーゴはあんなにキリッとしてないヨ」

「ず、ズバッというねー……」

 

 思わず良悟のことを気の毒に思うが、これが長年の付き合いから培われた距離感か、と恵美はひとり納得してそれ以上は触れなかった。

 

「うーん、なんか興味わいてきちゃったなー。エレナ、早速なんだけどリョーゴくんに埋め合わせの話、伝えてもらっていい? ファミレスでお食事会、ってね! あ、もちろんエレナも一緒にね? アタシ一人だと何かお互いに気まずくなっちゃいそうだからさー」

「任せてヨ! いつにするノ?」

「うーん、それはまた帰って連絡するね。スケジュール帳、家に置いてきちゃったからさー。じゃ、また帰ってから連絡するから! またね!」

「ウン、また後でネ!」

 

 二人はお互いに背を向けて歩きはじめる。

 エレナは夕日の影の中に、恵美は夕日に照らされた道に。

 

 次に会える日を楽しみにしながら、彼女たちはそれぞれの帰路につくのであった。

 

 

 

 

 




恵美が良悟の学校を特定したのは、制服からですね

さて、こちらは連載ということで、最低週一回のペースで更新させていただきます。

感想、コメント、評価、お気に入り登録などなどお待ちしております



また、前作に「馬場このみのリフレイン」「オールドマンの歴史博物館、ロコナイズと共に」というミリマスSS二作があるので、そちらもよろしければ是非


それでは、また次話にてお会いしましょう


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第二話 分水嶺の後は一方通行

そして時は進み始める


「埋め合わせ付き合うって言った手前、文句は言わないが」

 

 一般的な、街中そこかしこに存在するファミレスのひとつ。中央の四角形に隔離されたスペースの席に、良悟、恵美とエレナは座っていた。ソファ側が恵美とエレナ、椅子の方に良悟が座る形だ。

 

 それぞれがドリンクサーバーから注いだドリンクを片手に。

 良悟はそんな中、妙に周囲に視線を走らせながら、ギリギリ彼女たちに聞こえる小さな声で口にした。

 

「アイドルが変装なしに男と一緒って、いいのか?」

 

 良悟の対面に座る恵美とエレナは、やけに堂々とした様子でドリンクに手を付けている。変装といった概念はなく、おしゃれのために帽子は被っているものの、伊達眼鏡やサングラス、マスクも着用していない。

 

「あー、いいのいいの。堂々としてれば全然バレないからさー」

 

 神経質な良悟に比べて、恵美は声を抑えるでもなくいつもの調子だ。あまりにも無警戒な様子に、良悟は念を押すように口を開く。

 

「声かけられたリしないの?」

「今までほとんどないかナ」

「だねー。アタシたちがアイドルになってまだまだ日が浅いってのもあるけど、そんな神経質になるほどじゃないって」

 

 ほらリラックスリラックス、と良悟とは対照的に恵美が促すように言ってくる。そんなお気楽な様子の二人を見たせいもあり、良悟は肩を落として息を吐いた。

 

「俺はもう知らねえから」

「それくらいで良いんだって。いっつも気張ってたら疲れるっしょ?」

「そりゃそうだけど。……てか、それ美味いの?」

 

 恵美のコップの中に入っている茶色い液体。数種類のジュースを掛け合わせて作られた謎の液体を、良悟は眉をひそめながら見る。

 色が汚いのだ。見た目だけ見ればあまりにも不味そうに見える。

 

「イイ感じだよ? なんならほら、飲んでみて!」

 

 ぐいっ、とコップを差し出してきた恵美に、良悟は仏頂面をしてそれを突き返した。

 

「何混ぜたか教えてくれるだけでいい」

「んー? そっちの方が面倒だと思うけどなー」

「リョーゴは照れてるだけだヨ。気にしすぎだと思うナー」

 

 何が楽しいのか、ニコニコとスマイルを浮かべたエレナを見て、良悟は思わず天を仰いだ。わかっているなら言葉にしなくていいだろう、と。

 

「あっ、もしかして間接キス、とか考えてたの? わー、エレナの話の通りほんとにウブなんだ」

「うっせ」

 

 恵美の言葉にそう吐き捨てると、さっさと自分のコップを空にして立ち上がる。

 

「で、何混ぜたんだ?」

「コーラと乳酸菌とぶどうの炭酸のやつだよ」

「……ほんとに美味いのか? それ」

「そんな心配しないでいいって」

 

 釈然としないのか眉間にしわを寄せながら、良悟はドリンクサーバーの方に向かっていった。二人がその様子を観察しているとも知らずに、彼は教えられた通り、まずは少しだけ三つを混ぜて試飲した。

 ドリンクサーバーの前でコップの中を空にすると、彼は静かにコーラだけを注いで席に戻って来る。

 

「不味くはなかった」

「てことは、気に入らなかったかー。うーん、アタシはこれ美味しいと思うけど」

「単体で飲んだ方が美味い」

 

 そっかぁ、と残念そうに眉を下げて言いながら、恵美は「そうだ」と新しい話題に切り込んだ。

 

「リョーゴくんってさ、エレナといつからの付き合いなの?」

「藪から棒になんだ」

「だってさー、親友の男友達なわけじゃん? なんか、気になるなーって」

「そんなもんか? まぁいいけど」

 

 良悟はそう言いながら、チラリとエレナとアイコンタクトを図った。エレナはそれを受けてパチン、とウィンクを返すだけで自分から口を開くことは無い。

 

「確か、6歳の時からだな。エレナのやつ、その時は日本語喋れなかったから、周りに溶け込めてなかったんだよ」

「えー!? エレナが? 誰とでも友達になれるくらい人懐っこいのに!」

「エヘヘっ、そんなに褒められると照れちゃうヨ」

 

 ほにゃっ、と柔らかく表情を崩したエレナに、恵美も良悟も苦笑を漏らした。

 

「それでさ、どうやって友達になったわけ?」

「まぁ、最初は親同士の付き合いから。家がすぐ隣なんだよ」

「うっそ、アニメみたいじゃん! それでそれで?」

 

 興味津々、といった様子で机から前のめりになって聞く恵美に、良悟は思わず椅子に深く座り直して「あー」と言葉を詰まらせる。瞳をキラキラさせてこちらを見つめてくる恵美。その顔の下に、ふと良悟は何かを見つけて――慌てて視線を上げた。

 

「わ、わかった。わかったから、座れ。ちゃんと座れ!」

「……? そんなに慌ててどったの?」

「――ッ! 自分の服の特徴くらい気にしろよっ」

 

 良悟は吐き捨てるようにそう言うと、机に突っ伏して動かなくなってしまった。

 未だに首をかしげる恵美は、何がどうなっているのか理解していない。

 

 エレナはそんな様子を受けて、少しだけ立ち上がって恵美の方を見ると「あっ」と小さく声を上げた。

 

「え、なに? 何かわかったの?」

「リョーゴ、多分メグミの下着が見えちゃって照れてるみたいだネ」

「へっ?」

 

 エレナの言葉に、恵美の視線は突っ伏した良悟から、徐々に下に下がっていき――その視線がほぼ真下に向いたところで、慌ててソファの上に腰を落ち着けた。

 

「あっ、ははは……」

 

 やっちゃったー! と心の中で悲鳴をあげながら、両手で顔を覆った。

 

 片やテーブルに突っ伏して視界を塞いでいる男子。

 片や両手で顔を覆って視界を塞いでいる少女。

 

 現実逃避した二人に、エレナは首をかしげてどうしようかと考えるが、とりあえずとばかりに良悟に声を掛けた。

 

「リョーゴ、もう見てもダイジョーブだヨ?」

「……あぁ。うん。――なんか、わりぃ」

「うっ、いや、アタシの不注意だから……」

 

 良悟は顔を上げて、恵美は顔から手を降ろしてお互いの顔を見るが、恥ずかしさばかりが先行してつい視線を逸らしてしまう。そんな様子を見て「仲良しだネ」とエレナは相変わらずの笑顔を浮かべてひとり呟いた。

 

「お待たせいたしました。こちら――」

 

 と、固まった雰囲気を打ち壊したのは、図ったかのように現れた店員さんであった。営業スマイルに明るい声音で料理名を呼びながら配膳していき、それが終わると「ご注文は以上でお揃いですか?」と確認のお決まり文句。

 固まった雰囲気から抜け出すチャンス、と目を光らせて反射的に声を上げた。

 

「はい、大丈夫です」

「大丈夫でーす!」

 

 ピキッ、とその場の空気が凍り付いた。凍り付いたと思っているのは声を上げた恵美と良悟の二人だけだが、この二人の時間だけは確かに止まった。

 

「はい。それでは、ごゆっくり」

 

 そして時は――動き出さない。

 店員さんがその場から去った後も、二人は料理を前に呆然とするだけだった。唯一、エレナが「わっ、美味しそうだネ!」と嬉しそうに声をあげながらドリアを食べるためのスプーンを手に取った。

 

「メグミー? リョーゴ? 食べないノ?」

「あっ、う、うん! 食べる、食べるよ!」

「あー……食べるか」

 

 エレナに促されて、恵美も良悟も互いに食べ始めようと、食器に手を伸ばし――

 ――こつん、とお互いの指が食器を入れた深緑のケースの上でぶつかった。

 

 咄嗟に反応したのは良悟だ。当たった瞬間、柔らかい指先を認識してすぐに手を引っ込めた。背中にだらだらと冷や汗をかきながら、恐る恐る恵美の方に視線を向けて。

 

「――ッ!」

 

 顔を真っ赤にして、手を膝の上に戻し、俯いて目をキョロキョロと泳がせて焦っている恵美の姿が視界に入る。

 

「っ!」

 

 恥ずかしがって俯いている美少女の姿に、今度こそ良悟は右手で顔を覆って歯を食いしばる。彼にとっては、不意打ちに次ぐ不意打ちだった。顔が真っ赤になるのを自覚しながら、ただ時が過ぎるのをジッと待ち続ける。

 

(えっ、手当たった!? なにこれラブコメ!? 漫画だってこんなベタな展開もうみないのにー! えっ、恥ずかしいっ! 何か知らないけどすっごい恥ずかしい!?)

 

 対する恵美の心の中は混乱の真っただ中であった。いらない思考が、恥ずかしさを隠そうとして溢れるように浮かんでは消えていくが、それが余計に身体中に熱を走らせる。それは暴走機関車のような有様だった。

 

「二人ともすっかり仲良しだネ。でも――」

 

 そんな中、エレナはスプーンを置くと、ギューッと恵美にいきなり抱き着いた。

 

「へっ!?」

「リョーゴにだって、メグミはあげないヨー?」

 

 恵美とほぺったをピタッとくっ付けながらエレナは言った。

 エレナの突然の行動に、恵美は少し取り乱しながら「もう、エレナってば急にビックリするじゃん」と言うと、エレナをギュっと抱きしめ返した。

 

 むふー、と緩んだエレナの笑顔を見て、すっかり良悟の緊張も解れてしまった。今まで変に意識していたのが馬鹿らしくなってきた。

 場の空気が、一気に弛緩していく。居心地が良くなっていき、肩の荷が下りる感覚を覚えた。知らず知らず、良悟は息を吐いて「しょうがないな」と言いたそうに柔らかい苦笑を浮かべた。

 

「おう、もってけもってけ。ついでに、スプーンもってけ」

 

 言いながら、良悟はスプーンの真ん中を持って柄の方を向けて恵美に差し出した。

 

「サンキュ!」

 

 恵美ももう気恥ずかしいという思いは吹き飛んでいた。エレナに抱き着いたまま片手でそれを受け取ると、花が咲いた様な、はつらつとした笑顔を浮かべてお礼を口にする。

 

 ぽかん、と良悟は一瞬呆けたように固まった。しかし硬直もすぐにとけて、自分のスプーンを取ってから手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 誰よりも早く食前の挨拶をした良悟の言葉が合図となった。

 恵美もエレナも手を合わせて、彼の後に続いて言葉を口にする。

 

『いただきまーす!』

 

 楽しい食事会は、始まったばかりだった。

 

 

 

「あっ、そう言えば話が途中になっちゃったけどさ」

 

 食事の最中、ドリンクサーバーから新しく、得体のしれない濃い茶色の液体の入ったコップを持って戻ってきたときのことだ。

 恵美は席に座り直すと気が付いたように口にしたのだ。

 

「エレナとリョーゴくんって、どうやって友達になったの? 家が隣同士、ってのは聞いたんだけど」

「ん? あー、そこまでしか話してなかったっけ」

 

 良悟は思い出したように少しだけ過去を掘り起こすように視線を上げて――すぐに考えるのをやめた。墓穴を掘って埋まりたくはなかった。

 

「家が隣同士だから、引っ越し初日からエレナの親がうちに挨拶に来たんだけど。親同士の話し合いの間に、子ども同士で遊んでなさい、って言われたんだっけ」

「ウンウン。懐かしいナー。どんな会話したか覚えてないけどネ」

「いや、会話が成立してないだろ、多分。とりあえず遊び道具……オセロとか人生のゲームとか取り出したけど、エレナが遊び方わからないし、言葉も通じないで遊べなかった」

「へー……あれ、じゃあどうやって遊んだの?」

「エレナが興味持ったのが、サッカーボールだった。庭先で一緒にボール蹴って遊んだよ」

「そっか。スポーツは万国共通だもんねー」

 

 なるほどねー、と恵美は頷きながら「続きは?」と話を促した。

 

「で、それが始まり。俺はサッカー好きで、エレナもサッカー好き。家同士で付き合いもあって、両親互いにサッカー大好き。そんなのが重なって、お互いの家に気軽にお邪魔する仲になれば、まぁ自然と溶け込むもんだった」

「サッカー観るときはリョーゴの家で、ホームパーティーはワタシの家だネ。リョーゴの家のテレビは大きいからネ!」

「エレナの家は調理器具が充実してるからなぁ」

「はえー……お互いに家の事情とか知ってるんだ」

「かれこれ十年以上の付き合いだし」

 

 話が一区切りした。そのタイミングで良悟は自分のコップに手を付けて喉を潤した。

 

「じゃあさ、学校の話は?」

「ん? そりゃ、日本語が不便で、うまく会話に溶け込めなかった。まぁでも、それもほんとに最初だけだけど」

「最初だけ?」

 

 あぁ、と良悟はひとつ頷くと、はっきりとした声音で言った。

 

「サッカーだよ」

「へ?」

 

 サッカーってなんで? と恵美の頭の中は混乱するが、すぐに良悟から補足が入る。

 

「学校の休み時間にサッカー誘って、それですぐに人気者になったよ。よく動くし、他の奴より上手いし、ガッツあるし。何より根っこが明るいだろ? だからきっかけさえあれば、すぐに溶け込めた」

「なんだー、変に心配しちゃったよー! エレナが長い間、溶け込めてないのかと思っちゃったよー!」

「いや、そんな本気で心配しなくても。過去の話だろ」

「それでも心配なものは心配だよ!」

 

 本当に良かったよー! と目尻に涙をためて言う恵美の姿に、良悟は小さく喉を鳴らしてエレナの方を見た。

 

「いい友達だな」

「メグミはベストフレンドだからネ!」

「エレナ―!」

 

 ガバッ、と感極まった様子で笑顔を咲かせて彼女はエレナに抱き着いた。エレナもそれに対してはしゃいだ様子で「メグミー!」とハグを返している。

 

「仲良しだな、ほんと」

 

 そんな様子を見て、良悟の口元は自然とほころんでいく。それを自覚して、彼は中身がほとんど入っていないコップに手を付けて、口元で傾ける。当然、口の中には何も入ってこないが、今はそれでよかった。

 

「あっ、リョーゴがまた照れてるヨ!」

「えっ、そーなの? アタシにはわかんないけど」

「だってほら、中身のないコップを口に付けてるからネ!」

「いや、お前。お前ぇ……そこ、流せよ。指摘するなよ。照れ発見器かよ」

「ほんとに照れてるんだ―? にゃはは! リョーゴくんって可愛いところあるんだねー!」

「俺が可愛かったら、アイドルのお前たちは何だよ。まったく」

 

 姦しい二人の遣り取りの合間にからかわれて。良悟はコップを置くと、呆れたように、作ったように目を据わらせて、テーブルに肘をついて掌に顎を乗せて仏頂面を表現する。しかし、その口元は未だに綻んだままだった。

 

「ワタシはエンジェル? プロデューサーも属性でそう分けてたよネ!」

「じゃ、アタシがフェアリー、なんちゃって!」

「ここぞとばかりに……」

 

 ねー、と顔を合わせるエレナと恵美の様子を、良悟は静かに見守った。何か横やりを入れてはいけないような、ずっとこのまま見ていたいような、心地のよさを覚えていた。

 

「楽しいなら、よかった」

 

 ぽつりと、消えてしまいそうなほど小さな呟きを、恵美は聞き逃さなかった。

 思わず良悟の方に視線を向けると――

 

 

 

 ――父親のように遠目から優しく、それでいて心の底から幸せそうに微笑んでいる、男の子の笑顔があった。

 

 

 

 小僧のように愛嬌がある癖に、親のように包容力のあるその表情に。

 

(――あっ)

 

 恵美は大きく、その心臓を跳ねさせた。

 時間が止まったかのように、彼女は彼のその表情を見つめ続けた。吸い込まれるような魅力が、見ているだけで心が満たされ、温かくなるような力がその顔にはあった。

 

 大きく高鳴る心に、動かない視線。頭の中は真っ白に染まって、言葉なんて出てこない。ただ鮮烈に、その表情だけが目の前に映し出されている。

 

 ずっと、ずっと。その顔を見つめる時間が続くかのように、無意識にそんな気になっていって――

 

「メグミ? ボーっとしてるヨ?」

 

 親友の声と共に、瞬き一つ。時が動き出す。

 

「あ、あれっ?」

 

 ジッと良悟の方を見てみるが、あの表情は夢だったかのように消えている。代わりに、眉をひそめて小首をかしげる彼の顔がある。

 そして、今までの自分の行動が全て逆流するように頭の中にフラッシュバックされた途端、顔が爆発しそうなほどの熱をもった。

 

「あっ、にゃはは! な、なんでもない! なんでもないよ!? ただ、ほら。こんな時間が幸せだなぁ、ってさ!」

 

 顔から熱を逃がすように、熱い息を早口にまくしたてて言葉にする。そうすれば熱が逃げると思っていたが、むしろ焦るばかりで熱がどんどん強くなっていく。

 

 そんな、目が回りそうなほど焦っている恵美の様子を見て、良悟とエレナは互いに顔を見合わせて首をかしげた。

 

「なんか、今の言葉は臭くね?」

「役者さんみたいな言葉だネ!」

「わぁぁぁ!? なし! やっぱ今のなしぃぃぃ!」

 

 とうとう顔を真っ赤にして手を顔の前でぶんぶんと振り回して悲鳴を上げる恵美に、二人は噴き出すように声を上げて笑うのであった。

 

 

 

 

 

 

「エレナ―、ちょっといい?」

「どうしたノ? メグミ」

 

 帰り道。恵美はエレナと二人で話があるといい、良悟とは先に別れていた。

 二人が今いるのは、小さな公園の中だ。夕焼けに染まり、ブランコに乗る自分の影を漠然と見ながら、恵美はエレナに話を切り出した。

 

「リョーゴくんってさ、彼女とかいたりするの?」

「リョーゴに? うーん、聞いたことないかナ。告白されたことなら、何回もあるみたいだヨ?」

「わー、やっぱりモテるんだねー」

 

 思い出すのは、目に焼き付いてしまった男の子の笑顔だ。それを思い出す度に、恵美は頬に熱が帯びるのを感じていた。

 

「あのね、エレナ。よかったら、なんだけどさ」

 

 思わずしり込みして、歯切れが悪くなる。このまま言うべきか、言わないべきか。分水嶺に立たされた恵美は、あと一歩が踏み出せないでいた。

 本当にこの提案をしていいのだろうか。これがきっかけで、何か悪いことが起きるんじゃないか。胸の内に隠した方がいいのだろうか。

 

 わけのわからない考えが、まとまりなく頭の中をグルグルと暴れまわる。それが余計に彼女にたたらを踏ませて。

 

 恵美は一度、深呼吸をした。ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと吐き出して。

 細い息と共に、自然と質問が滑り出た。

 

「エレナは、さ。リョーゴくんのこと、パートナーって思ってるんだっけ」

「うん! サッカーボールと一緒だヨ! ずっと一緒だったからネ!」

「彼氏じゃ、ないんだよね?」

「うん。メグミー、それこの前も聞いてきたネ」

「大切なことだから、確認したかった」

 

 そっか、と恵美はもう一度、深く、深く息を吐き出した。太く、長く吐き出した後、彼女は勢いよく息を吸ってブランコから飛び降りた。

 

「エレナ、お願い!」

 

 そしてエレナの方に振り返ると、パン、と手を合わせて頭を下げた。

 

「アタシとリョーゴくんが仲良くなるの、協力して!」

 

 ひゅう、と春風が恵美の髪を持ち上げて揺らした。

 恵美は頭を下げて、祈るように目を瞑っていた。

 

「……もちろん!」

 

 エレナの言葉に、恵美はパッと顔を上げて「ほんとに!?」と声を上げた。それにエレナは笑顔で「うん」と頷いて見せた。

 

「やった! ありがとうエレナ―!」

「わっ、メグミ、くすぐったいヨ」

 

 喜びのあまり恵美はブランコに座っているエレナに抱き着いた。エレナはそれを受け止めながら、にへら、と表情を緩めて「えいっ」とハグを返した。

 

 

 

 所恵美は、分水嶺を超えて一方通行を迎えた。

 それがどんな影響を及ぼすか、それはもう少し、先の話。

 

 

 

 夕日は落ちていき、抱きしめ合う二人は徐々に影を落として、その姿を曖昧にしていくのであった。

 

 

 

 




この物語は、間違いなく純愛です
それだけはお伝えして、あとは結末を見届けていただければと思います


感想、コメント、評価、お気に入り登録等々、心よりお待ちしております


※サブタイトルと最後の一部文章変更
一方通行の分水嶺ておま、どっちやねん。分かれてるの一方通行なの、っていう意味不明な言葉になってることに気付き急いで修正

今後このようなミスが無いように努めていきますので、どうかこれからもご愛読いただければ幸いです


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第三話 お試しで

「ねぇ、お試しで付き合ってみない? アタシたち、相性バッチリだと思うんだよね」

 

 茜色に染まった公園の中、時計塔が影を伸ばす傍で、彼女は明日の夕飯でも訊ねるかのように言った。

 照れたようにはにかむ顔は、夕日によって照らされて、少女らしく淑やかに輝いていた。だから、その言葉を受けた彼もその表情に釘付けになってしまった。

 

 それから、どれくらい時が経ったか。

 自分が返事もせず沈黙していたことに気付き、彼は慌てたように口の開き、閉じを繰り返す。金魚のように開閉を繰り返しながら、言葉は上手く出てこない。

 

 少女はまだ、照れ笑いを浮かべている。彼女は彼に催促するでもなく、声を出すわけでもなく、ただジッと彼からの答えを待っていた。

 そんな凛とした姿勢に。それでいて、今にも夕日に溶けて消えてしまいそうな表情に。またも視線が釘付けになって。

 

「……あぁ」

 

 熱に浮かされたように、肯定の言葉を口にして頷いた。

 

 パァ、と今まで消えてしまいそうだった顔は、花が開いたように爛漫に輝いた。

 その表情を見て、彼もまた口元をそっと綻ばせる。

 

 

 

 二人の間で夕日は沈み、その場を影が呑み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 黄色いトレンチコートに、下には胸元の開いた白練のシャツを着こみ、織部のミニスカートでパリッと垢抜けたファッションを決め込んで、所恵美は待ち合わせ場所の公園に向かっていた。

 

 エレナを通しての埋め合わせの連絡。エレナは「楽しんできてネ」と送り出してくれたし、連絡を取ることにも協力的だった。不安だったのは「ファミレスの奢り」に加えて埋め合わせの権利を行使できるかだったが、良悟はそれに二つ返事で了承してきたとエレナから聞いている。

 

 がめついとか思われなかったかな、と心配も少し。同時に、これが自然に誘える最後のチャンスじゃん、と自分を奮起させる。

 その二つの考えが、歩きながら永遠と頭の中で浮き沈みを繰り返す。思考のループを繰り返すほど、足早になっていく。

 

 そうして雑念に囚われながら歩いているうちに、いつの間にか公園の前まで来ていた。それを認識すると、恵美は足を止めてひとつ、深呼吸。息をゆっくり大きく吸い、興奮した頭を静めるように。息を吐き出すときは雑念を、頭を伝って口から捨てるように。

 

「よしっ」

 

 急ぎ過ぎたらみっともない。せっかく大人びたファッションをしているのだから、落ち着いて行かなきゃ、と自然な自分を真似するように踏み出した。

 公園の中は、休日とあってのどかな賑わいを見せていた。ベンチに座る老齢夫婦がいれば、散歩をする気まぐれな人がいたり、ただの通り道として利用するサラリーマンもいる。

 

 そして公園の真ん中に設置された時計塔のすぐそばに、待ち人は居た。

 鈍色のテーラードジャケットとパンツに、シンプルな白のTシャツを身に着けた、大人びたファッションで、良悟はスマホに目を落としていた。

 

「わっ……」

 

 思わず声が漏れる。第一印象だったクール、という像がピッタリな彼が目の前にいる。てっきり、落ち着いたベージュのセーターを上にして下に紺色のジーパンといった、無難な格好で来るとばかり思っていた。

 

 しばらくの空白。それを自覚した時、恵美は心の中で「しっかりしなくちゃ!」と自分自身に喝を入れた。ここで気後れしたらダメだ、と己を奮い立たせて、しかしそんな内面をおくびにも出さないように平静を装って声を掛ける。

 

「お待たせっ! もしかしてずっと待ってた?」

 

 恵美の声に、良悟は顔を上げて――固まった。

 ジッと恵美のことを見つめて、口を開かない。驚いているのか、いつもより目を大きく開けて、沈黙を貫いている。

 

(……あれ? なんで固まってるんだろ……もしかして、髪跳ねてた!? 服がちょっと派手だった!? もしかして最初からコケてるのアタシ!?)

 

 沈黙が長くなるほど、恵美の心から余裕が削り取られていく。もしかして、やっぱり、と思考が少しずつネガティブな方向に進み始め、背筋に氷でも入れられたかのような寒気が奔る。

 どうしよう、どうしよう、と混乱を極めていた恵美。外側にはおくびにも出さないが、内面はパニック状態で、金縛りにあったかのように動くことができないでいた。

 

「――いや、時間より早いし、大丈夫」

 

 良悟がようやく口を開くが、歯切れが悪い。それが余計に、恵美の不安を煽って身体どころか口まで動かなくなる。ただし、視線だけは合わせるのが妙に恥ずかしくて、きょろきょろと挙動不審に泳ぎ回る。

 

「……なんか、ごめん」

「――えっ?」

 

 恵美の喉から思わず声が漏れた。どうして良悟が謝罪するのだろうか。謝るのはむしろアタシの方じゃないの、と。そんな考えは、口には出せなかったが。

 

「いや、俺。もっと良い服着とけばよかった」

「へっ? いやいやいやっ! 十分カッコイイじゃん! バッチリ似合ってるし、謝るところじゃなくない!?」

「いや、そっちに比べるとな……メイクもアクセも、服装まで大人びて似合ってる」

「――似合って、る? え、変なところない?」

「ない。着こなして似合ってる」

「そ、そっかぁ。よかったー!」

 

 ホッと胸をなでおろす恵美の姿に、良悟は苦笑で応えた。

 

「何を心配してんだか」

 

 良悟はひとり呟くと、改めて自分の服装を見直していた。綿埃がついていないか、シワが寄っていないか、ひどくみすぼらしくないか。恵美の姿と自分を交互に見ながら、彼は何度も自分の佇まいを直そうとする。

 

「いや、リョーゴくんも心配し過ぎだって! 大丈夫だから!」

 

 あまりに神経質に気にするものだから、今度は恵美が明るい声でフォローを入れる。というより、本心を言葉にしているのだが、良悟は眉をひそめたまま、うじうじと気にしたままだ。

 

「もー、そんなに気になるなら早くいこっ! そこで服買えばいいじゃん! アタシが見繕ってあげるから、ほら!」

「あ、ちょ――」

 

 そんな姿にしびれを切らし、恵美は良悟の手を引いて歩き始める。いきなり手を引っ張られてバランスが崩れるが、サッカーで鍛えられた体幹によって転ぶことは無かった。

 しかし、引っ張られている状況は変わらない。その上で身長差もそれなりにあるものだから、良悟は前のめりになって手を引かれながら歩くことになる。

 

「いや、待て。前のめりになってこれ意外ときつい――」

「言い訳しなーい! ほら、いくよっ!」

 

 良悟の反論も無視して、恵美はグイグイと引っ張って歩き続ける。

 そんな中、ふと先ほどの会話を思い出す。

 

(……あれっ、もしかしてめっちゃ褒められてた?)

 

 そんな思考に至ったが、「ま、いっか!」と恵美は軽く流すと、振り返って良悟の方を見た。

 前のめりになって、不格好で、目で「止まれ」と助けを求めるように縋る様に訴えかけてくる。まるで捨てられた子犬のような哀愁が瞳に宿っている。良悟のクールだった一面とのギャップに、恵美は思わずクスッと噴き出した。

 

「笑い事じゃない――っての」

 

 一息、力強く踏み出した良悟はようやく恵美の横に並んだ。

 その様子を見て、恵美はひとつ称賛するように短い口笛を吹いた。

 

「さすが、男の子って感じ」

「付け加えてサッカー部だからな」

「確かに。――あっ、あそこ見てみよ!」

「とっ」

 

 急に走り出して引っ張って来る恵美に、今度は良悟もよろけることなくついていく。

 恵美が指差して向かっていたのは、メンズ向けの服屋であった。店内が外から見える開放的な作りになっており、マネキンには次の季節の服が着せられている。

 

「ほら、これこれ! このサマージャケット結構よさげじゃない? これにデニム穿いてさ、裾捲ればゼッタイ似合うって!」

「あー、そう言えば夏服はまだ用意してないな」

「ならもっと見よ! あ、ほらこのボーダーのTシャツとか、さっきの下に着るのにピッタリじゃない? 無地より遊びもたせてさー」

「ボーダーか……柄物って俺に似合うか?」

「似合うっしょ! じゃ、まずは試着だね! ほら、こっちこっち!」

「だから、急に引っ張るなっての」

 

 三回目ともなれば慣れたもので、良悟はほとんど引っ張られることなく、恵美に導かれながら店に入っていく。

 

 

 

(……あれ、何で俺、自分の服買いに来てるんだ?)

 

 店の中で着せ替え人形にされている最中、ふとそんな疑問が頭の中に浮かび上がった。しかし、それも恵美が持ってきた服の山に埋もれて、良悟は本日何度目かわからない試着室の中に入るのであった。

 

 

 

 

 

 

「いやー、イイ買い物だったね! すっごい似合ってたよ」

 

 満足そうに、会心の笑顔を見せる恵美に、良悟は手に持ったふくよかな紙袋に視線を落として肩をすくめた。

 結局、恵美の勢いに押されて夏だけで数種類の衣服を買ってしまった。金銭的にも手痛い出費で、目標にしていたスパイクを買うのはまた再来月になりそうだ。

 

「思ってたより安かったな」

「そりゃ、ちゃんと値段も見て選んでたからねー」

「それに、意外と良さそうなのが多かったな。次からこの店を贔屓にしてみるか……」

「んー、それもイイと思うけど。もっと自分でも開拓してみたら? 別の所にもっと気に入るところあるかもだし」

「そこまでエネルギー回すのはだるい」

「アタシは色んなところ行くけどなー」

「女子ほどファッションに凝ってないっての。もっと工夫すりゃよかったと痛感したばかりだけど」

 

 そう言って、良悟は恵美の全体像に目を走らせた。黄色いトレンチコートをうまく着こなすなんて、と彼は息を吐いて肩を落とした。

 

「んー、経験の差じゃないかなー。アタシ、読モやってたし」

「――は?」

「アイドルになる前だけどね」

 

 今明かされる衝撃の真実――とはまさにこのことか。

 そりゃ勝てないわけだ、と良悟は自嘲するように口を歪めて、空を見上げた。

 

 あっぱれ、快晴だ。真上に昇った太陽が強く目を焼いた。思わず立ち止まって目を瞑ってしまえば、暗闇の中でも視界が点滅するような感覚に陥る。それが治まれば、今度は目玉が裏返って、自分の頭の裏を覗いているような暗闇が瞳に映し出される。

 

「ん? どしたの?」

 

 恵美の声が、そう遠くない前方から聞こえてきた。良悟はそれに「あぁ」と小さく相槌を打つと、時計を確認する素振りを見せた。

 

「もう昼だなって。どっかで食べるか?」

「え? ……ほんとだ。うーん、なら近くのファミレスにしよ」

「いや、ファミレスなら服買った後で良くないか? この時間、絶対混むだろ」

「……服? リョーゴくん、まだ買おうとしてるの?」

 

 ようやく、視界が戻ってきたと思って目を開けてみれば、首をキョトンと傾げて不思議そうにしている恵美の姿が映る。格好は大人っぽいのに、その仕草は少女らしい愛嬌がよく漂っていた。

 

「い、いや。え、てか忘れるなよ。服を買うための埋め合わせだろ?」

「……あっ、そっか。アタシの服買いに来たんだったね。すっかり忘れてたよー」

「お前……お前ぇ……」

 

 何で誘ったんだよ、という呆れで頭を抱える。この頭痛は太陽を見たせいなのだ。そうに違いない、と思い込む。

 それよりも、今はこれからの行動をどうするか。それを決めるのが先決だと、彼は理性を以て口を開いた。

 

「いや、どうすんの? 並ぶ前提でいいなら昼飯先でいいけど」

「じゃ、お昼先にしよっ。服選びって結構エネルギー使うんだよねー」

「それなら、手近なとこ探して入るか」

「こっちこっち」

 

 スマホを取り出して場所の検索をしようとした矢先、手首を恵美に掴まれて引っ張られる。

 

「わっ、あっぶ――」

 

スマホが手から滑り落ちそうになるのを掴み直して、焦りながらも何とか足を動かした。顔を上げてみれば、恵美が迷いなくどこかに向かっている。

 

「どこ向かってんの?」

「この近くのファミレスだよ。並ぶのは早い方がイイからね」

「へぇ、よくわかるな。俺は地図見ないとさっぱりだぞ」

「ここら辺はよく遊びに来るから、自然と覚えちゃってさー」

「なるほど。そういうもんか」

 

 自分で言うところのスポーツ店巡りみたいなものだろう、と良悟はひとり納得したように頷いた。

 

 

 

「あちゃー、すっごい混んでる」

 

 ビルの3階にあるファミレスに着てみれば、そこには長蛇の列ができていた。用意された十席ほどの椅子に人が入りきらず、そこから更に数十人の列が続いている。席に着くだけでも何十分かかるのか。この様子を見ただけで、良悟は口元を引き攣らせた。

 

「他の方がよくないか?」

「うーん、今から行っても同じ感じじゃないかなー」

「……仕方ないか」

「じゃ、名前書いてくるね」

 

 慣れた様子で、ささっと名前を書いて戻って来る。後姿を視線で追っていたが、あまりにも悩みの無い行動を見て、良悟は口を開いた。

 

「ファミレス、よく来るのか?」

「まーね。友達とかとよく一緒に来るけど、どして?」

「妙に手慣れてたから、少し気になった」

 

 それだけだ、と良悟は会話を締めくくった。

そして一歩下がって、良悟は自分の前にスペースを作る。

 

 良悟という人物は、会話を膨らませるのが下手なのだ。だから妙にぶっきらぼうに見えてしまう。

 

 恵美は作られたスペースに身体を滑り込ませて「サンキュ」と良悟に笑いかけた。

 細かい気遣いができる男だった。引っ張っていた時も、力をほとんど使わなかった。相手に合わせようと、自分の服装を気にする発言もそうだ。

 ただ、めちゃくちゃに不器用なのだ。歯の浮くような言葉は恥ずかしがって、ぶっきらぼうな言葉でも伝えるべきことは伝えて、気遣うような行動は素知らぬ顔でさらりとやってのける。気づくな、といわんばかりに。

 

「あぁ」

 

 ほら、またぶっきらぼうに、素知らぬ顔で答えた。

 ――気づいているのかな。顔が赤くなってるの。

 

 良悟の顔を見ていると、思わず口元が綻んでいく。

 恵美のそんな様子をちらりと見た良悟は、視線を上に向けて、下に向けて、列の最前列を確認して。中の客の様子を確認して、と視線をさまよわせた。

 

 きっと照れているのだろう、と恵美の表情はますます柔らかくなっていく。

 

 そんな、無言の時間が続いてしばらくすると、列が一歩前に進む。

 それに合わせて、恵美もまた一歩詰める。良悟も続いて一歩進むが、恵美との距離は半歩開いていた。

 

 チク、と胸に小さな痛みが走る。その半歩はきっと、心の距離なのだろう。

 

 少女の表情は山の天気のようだった。

 木漏れ日のように優しい微笑みは、曇天のようにその輝きを失った。

 

「何かあったか?」

「――えっ?」

 

 不意に声を掛けられて、曇り顔から一点、キョトンと疑問の表情が転がった。パッチリと開いた瞳が小さく揺れている。

 

「暗い顔してたから」

 

 視線を外そうとしているのに、よく見ている。

 堂々と見ても気にしないのに、とそんな気持ちは心の中に仕舞い込む。

 

「ん、大丈夫」

「……そうか」

 

 恵美は開いていた半歩の距離を、何となしを装って詰めた。

 

「――っ」

 

 明るく、少女らしい茶目っ気のある笑顔を見て、良悟はまた目を泳がせて。

 そうしている間に、また列が一歩、進むのであった。

 

 

 

 

 

 

 食事を終えて、恵美の服を買い終えて。

 そろそろ帰宅の時間が迫ってきた夕暮れ時に。

 

 最初の集合場所、その公園の中で。

 

 所恵美は、照れを隠すようにはにかみながら、ついにその言葉を口にした。

 

「ねぇ、お試しで付き合ってみない? アタシたち、相性バッチリだと思うんだよね」

 

 バッチリなんて、そんなのは勢いに任せて出た言葉だった。

 今も一歩半の距離が、その半歩が遠くて。影法師さえ決して交わらなくて。

 

 それでも、彼女は静かに、はにかみながら答えを待っていた。

 今はまだ出会ったばかりだから仕方ないと。

 

 沈黙を経るごとに、恵美は自分の表情から、徐々に照れが抜けていくのを感じていた。

 

「……あぁ」

 

 小さくても、確かに肯定の言葉が返って来て。

 恵美は、目尻に涙がたまっていくのを自覚しながら、顔を満開に綻ばせて。

 

 良悟に対して、しっかりと頷いて見せるのであった。

 

 




まだ、物語は序盤。
ここから先に、どうかご注目いただければ幸いです

感想、コメント、評価、お気に入り登録、などなどお待ちしております。二次創作者のモチベに直結するので、もしよろしければ是非(乞食並感)

それでは、また次の話にて。


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第四話 探し物はどこですか

最初に、評価の方をありがとうございます。それをモチベーションに繋げて、評価に恥じぬ質をもって作品を書き上げさせていただきます!

さて、今回は短いですが、そんな中でもお楽しみいただければ幸いです。
それでは、本編をどうぞ


「エレナ―! 聞いて、聞いてよー!」

 

 765劇場ライブシアターの中。休憩室でエレナを見つけた恵美は、エレナに飛びつかんばかりの勢いで呼びかけた。話したい、というオーラを全開にキラキラとした瞳。

 エレナはそんな恵美を見てパッと太陽の様な輝く笑顔を浮かべた。

 

「メグミ! 何かいいコトあったノ?」

「それがさ、それがさ! リョーゴくんと付き合うことになったんだー!」

「――付き合う? もっと遊べるようになったノ?」

 

 仲良くなったってことかナ? とエレナは首を傾げながら考える。

 そんな彼女と裏腹に、恵美は楽しそうに笑顔を浮かべて「うん!」と、声を弾ませた。

 

「これから、リョーゴくんとはいっぱい遊べるかな! またファミレスに行ったり、ゲーセン行ったり、服を買いに行ったり……遊園地とかもいいかも!」

「リョーゴとメグミはすっかりベストフレンドになったんだネ! 順調でよかったヨ。リョーゴは人見知りだから、仲良くなるのって大変なんだヨ?」

「あっ、違うよ。ベストフレンドじゃないよー」

「えっ、でも仲良くなったんでショ?」

 

 確かに、会って早々に彼氏彼女になりました、なんて幼馴染のエレナにとって目から鱗かもしれない。少しの擦れ違いがあったことに、恵美は満面の笑みを浮かべたまま答える。

 

「うん。でも、ベストフレンドじゃなくて――ボーイフレンド、ってね。にゃはは!」

「――えっ」

 

 エレナはそのくりっとした目をまんまると見開いて、ぽかんと固まった。

 その様子を見て補足するように、恵美は「いやー、それがね」と話を続ける。

 

「どーしても、諦められなくってさ。思い切って告白して、それでオッケーもらったってわけ!」

 

 そんな恵美の言葉にも、エレナは反応しなかった。心ここにあらず、といった様子だ。

 

「エレナ? どしたの?」

「――ウウン、何でもないヨ。そっか、メグミはリョーゴとボーイフレンドになったんだネ」

 

 噛みしめるように言葉にして、胸の前で手を重ねて、エレナはしばらく目を瞑った。

 沈黙の間、恵美にはエレナが何を考えているのか、推しはかることができない。だから、ただジッと次の言葉を待った。

 

「――リョーゴ、すごく不器用さんなんだヨ」

「うん」

「ちょっと、冷たいなって思うかもしれないケド。不器用さんだから、見守ってほしいナ」

「……うん」

「照れて、笑顔は隠しちゃうケド。ずっとずっと待ってあげてほしいナ。ポロっといつものリョーゴが出てくるまで」

「――うん」

 

 快活な声ではなく、静かに仕舞い込むように呟かれた言葉に、恵美はしっかりと頷いた。

 エレナもそれに頷き返し――ふと時計が目に映り「あっ」と口を開く。

 

「メグミ、レッスンの時間だヨ!」

「へっ? あっ、ほんとだ! ありがとー! 着替えなきゃ。エレナも一緒にいこっ!」

「うん!」

 

 出口に近かった恵美が先に休憩室から出て行った。

 そんな恵美の後姿を見つめながら、エレナは少しだけ、その場でジッと動かずにいた。

 

「エレナ―? こないの?」

「あっ、今行くヨ!」

 

 恵美に呼ばれて、エレナはようやく休憩室から出て恵美と合流した。

 

「レッスンさ、実はこの前のダンスがうまくいかなくて――」

 

 カチッ、と休憩室の扉が閉まる音と共に。

 

「それなら、レッスンの後にコトハも誘って、ヒミツの特訓ってどうかナ?」

「おっ、それいいじゃん! じゃあ早速――」

 

 日常のスイッチが入るのであった。

 

 

 

 

 

 

「――っ」

 

 ドリブル練習中。一定の距離に設置された赤色の三角コーンにボールがぶつかった。勢いを失ったボールに、狙いを外した足がたたらを踏み、慌てて足の裏で拾い直してドリブルを再開する。

 

「新田! ボーっとしてんじゃないぞ!」

「っ、すみません!」

 

 一セット終わると飛んでくる監督からの檄に、良悟は謝罪を口にしながらすぐ最後尾に並び直す。

 チームメイトが珍しいものを見るように、良悟に視線を向けるが、「よそ見をするな!」という監督からの檄によってそれらはすぐに霧散した。そんな一連の流れに妙な居心地の悪さを覚え、所作なさげにボールを足の裏で転がした。

 

 考えているのは、失敗の反省と改善の方法――ではない。

 先日、夕暮れ時の公園で最後に交えた遣り取りだ。

 

 お試し、という言葉に口が軽くなったのか。あの表情に惹かれてしまったのか。

 安請け合いだったのでは、と後悔の念が過ぎった。その後悔するということが、どれだけ不誠実なことか。

 

 お試しとはいえども、付き合ったのだ。ならば、相手と真剣に向き合うのは当然だ。真剣に向き合って、良い所を見つけて、悪い所を見て、人を見て。話して、触れ合って、そうして時と交流を重ねて、答えを出す。そうじゃなければ、請け負った手前、男として筋が通らない。

 ならば、相手からの連絡を待つなんて。そんなことをして良い筈がない。

 自分から動いて、自分で見つけて。まずはそこからだ。

 

(……連絡先の交換忘れてたし、またエレナ経由か)

 

 ――ピッ、と短いホイッスルの音が鳴って、すぐ前の部員がドリブルを始めた。

 よし、と良悟はひとり頷いて、ボールを目の前にとめる。

 

(その前に――練習だ)

 

 ――ピッ、とホイッスルの音が鳴ると同時に。

 良悟はまっすぐ、前だけを見て進み始めるのであった。

 

 

 




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第五話 知らない姿は寂しくて

 ――恵美と連絡をとりたいんだけど、経由頼めるか? 次一緒に遊べる日を聞きたい。

 

 そんな連絡が良悟から届いた時、エレナの心臓がキュッと締め付けられるような感覚に陥った。メッセージを返そうと画面に触れるが、手がかじかんでしまったかのように上手く動かない。

 部屋の中が寒いわけじゃない。既に桜が散って、深緑が色づいてきた頃合いだ。夜は少し冷えるといっても、それは外の話。部屋の中は快適な温度に保たれている。

 

 それなのに、エレナは震えていた。頭から足先にかけてサッ、と血の気が引くような喪失感を覚えていた。

 それが何なのか、エレナにはわからない。

 

 ――リョーゴとメグミが仲良くなるのは、嬉しいハズなのにナ……

 

 ベストフレンドが、パートナーが人の輪を広げていく。それ自体が嬉しくない筈がない。事実、三人でファミレスに行った時は楽しかった。そして、良悟と恵美が会話をしているのを見るのが、幸せだと思えた。

 

 前回、恵美からの連絡を良悟に伝える時はこんな気持ちにならなかった。次に遊べる日を心待ちにしながら、ワクワクとした気持ちをいっぱいに、連絡役を請け負った。

 今回違うのは、三人じゃないこと。恵美と良悟、二人のお出かけの中継役をエレナが頼まれていることだ。

 

 その輪の中に、エレナは入れない。彼氏彼女、という壁がエレナの入り込む余地をなくしていた。

 

「ひとりっきり、だからかナ?」

 

 ベストフレンドをパートナーに、パートナーをベストフレンドにとられて。だから、こんなに苦しいのかもしれない。

 

 ――コトハと遊ぼうかナ

 

 同じ日に、ベストフレンドの琴葉と遊べる。そう考えると、押しつぶされるような圧迫感は消えていた。立夏の早朝の空気をいっぱいに吸い込んだ時のように、気持ちは晴れやかに、身体の奥からは力が湧いてくるように思えた。

 

 ちょっと寂しくなっちゃったんだネ、とエレナはひとり納得して恵美に連絡を取る。

 

『リョーゴから連絡だヨ!

 

 次に遊べる日を聞きたいんだって

 メグミもリョーゴと仲良くなってて嬉しいヨ!

 

 もっともっと仲良くなれるように

 応援してるネ!

                      from:エレナ』

 

 

 ――ポチッ、と送信ボタンをタップする。

 送信されて、改めて自分の文面を見直した。大丈夫、とエレナはひとり頷いた後は、琴葉と何して遊ぼうかナー、なんて考えながらふかふかのベッドに飛び込んだ。

 

 ぽふっ、と枕の弾力に顔をうずめる。ベッドのスプリングが軋む音は、エレナの耳には入っていなかった。足をパタパタと上下に遊ばせて、しばらくの間考え込んで――

 

 

 

 ――ピロン、とメッセージの着信音が届いた時には。

 エレナはスー、と小さな寝息を立てて、幸せな夢の世界に旅立っているのであった。

 

 

 

 

 

 

 ◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 良悟と恵美、二人の予定が合致する日はあまりにも少なかった。

 恵美はアイドルとしての仕事が休日、放課後に入ることが多く。良悟は放課後や休日にサッカー部の練習と試合が入るといった事態が度々起こる。

 

 別々の事情で予定が埋まっている二人の、たまたま重なる休日というのは当然のように少なく、エレナを介して予定をすり合わせた結果、月に1回ほどしか会えないという結果になった。

 

 じゃあ仕方ない、会える日だけで満足しよう――と、そうならないのが所恵美という少女だった。

 

 

 

 ホームスタンドの中ほどの高さ、真ん中よりも少し端よりの場所に、恵美とエレナは座っていた。既にホームスタンドは満席の様子で、学校側のスタンドからは揃った応援の声が野太く会場に轟いている。

 ゴールポストは快晴の空から降り注ぐ陽を浴びて白く輝き、グラウンドの芝は爽やかな浅緑の光沢をみせている。白い線によって区切られて形成されたフィールドは、まだ選手がいないにも関わらず、視線を惹き付ける不思議な力を持っていた。

 

「うわぁ、すっごい熱気! こんなに人がいて、早く来てよかったー!」

 

 周りの熱気や興奮が伝播したのか、恵美は頬を紅潮させながら待ちきれない、といった様子で声を上げる。周囲を見て、学校側のスタンドを見て、グラウンドを見て。そのどれもが彼女にとっては目新しくて、テンションは上がりっぱなしだった。

 

「今日は予選決勝だからネ!」

「そうなんだ! あ、じゃあリョーゴくんのチームって結構強いの?」

「うん、昔からサッカーは強くて、五年前くらいには優勝もしていたヨ!」

「すっごいじゃん! あぁー、早く試合始まらないかなー。……あれ、そういえばリョーゴくんってどんな選手なの?」

 

 そう。恵美は良悟の所属するサッカー部の試合観戦に来ていた。もっと良悟のことを知るために、次に試合があるのはいつかと、エレナに聞いた結果だ。

 ホームスタンドに着席してから、一時も興奮が治まらない様子の恵美だったが、ふと選手としての良悟を知らない恵美はエレナに問い掛けた。着席してから初めて、エレナに視線を向けていた。

 

「オフェンシブ・ハーフだヨ。リョーゴは攻撃上手で、パス上手で、自分でも点をとれるからネ!」

「オフェン……? えっと、ごめん。実はサッカー全然わからなくってさ。つまりどんな役割?」

 

 一応、恵美だってサッカーの基礎的なルール(レッドカードとイエローカードの違いとオフサイド)くらいは知っている。ポジションも、FW・MF・DF・GKの四種類が居ることぐらいはわかる。だが、それ以上のことは何も知らなかった。

 

「えっと、MFのポジションで、その中でも攻撃的な役割をする人のコトだヨ。FWにボールを渡したり、自分で攻め上がったり、攻め手を作る人のことをそう呼ぶんだヨ」

「へぇー! あれ、じゃあFWと何が違うの?」

「FWはもっと前で、パスを受けてゴールを常に狙うのが役割だネ。リョーゴはそのFWにパスを出して、FWより手前でぜーんぶ把握して、攻め手を作るのが仕事だヨ」

「うわぁ……イケイケなポジションかと思ったけど、めっちゃ頭使いそうだね」

 

 でも何となくわかるかも、と恵美はサッカーコートに視線を落とした。

 それとほぼ同時に、スピーカーから曲が流れ始める。選手入場の合図だ。

 

 2チーム、計22人のスターティングメンバ―が黒色の審判を挟んで一列に並んだ。ピイッ、と短く鋭いホイッスルと共に、スターティングメンバ―はスタンドに向けて一礼を行った。

 

「あっ、あそこの青ユニフォームの方にリョーゴくんいるじゃん! こっちには……そりゃ気付かないか」

「リョーゴ、頑張ってネー!」

 

 お互いのチームが握手を交わし、審判とも握手を終えた。

 その後に11人で写真を撮り、学校側のスタンドに出向いて深々と腰を折ると、一斉にサッカーコートに散らばった。ウォーミングアップに、チームメンバー同士が思い思いにボールを蹴っている。

 

「……あれ、まだ始まらないんだ」

「最後の確認だヨ。もうすぐ始まるネ」

 

 そんな雑談をしているうちに、コート内からボールは消えていた。お互いのチームが、それぞれ自陣のコートで円陣を組んでいるところだった。

 

 恵美たちからは、何を話しているのかわからない上に、表情を読み取ることさえ出来ない距離にいる。ただ、身振り手振りや、会話しているような雰囲気から、作戦会議なんだろう、ということだけは伝わってきた。

 

 良悟のチームは全員が円陣のまま肩を組んで密着した。そして気合を入れて声を張り上げると、チームメンバー同士でハイタッチを交わして、それぞれのポジションに移動を始めた。

 

 キックオフ直前。良悟はスパイクで芝を踏み鳴らしていた。つま先で、踵で、芝の感触を足に伝えるように。

 

 

 

 ピィ――!

 試合開始のホイッスルが吹き鳴らされた。

 

 

 

 

 

 

 先制点は良悟のチームが、試合開始17分に見事に決めた。

 相手陣の中ほどまでボールを運んだ良悟が、DFをドリブルで抜き、もう一人のDFがヘルプに入ったところで、マークの外れたFWに向けて絶妙なパスを送り出し、FWがお手本のようなゴールを決めてみせた。

 

 前半戦の大きな動きはそれだけだった。相手チームの攻めによって幾度も危ない場面はあったが、そんなピンチをことごとく、辛くも良悟のチームのGKが受け止め、あるいは弾いてみせた。

 

「っふー、すっごいヒヤヒヤするねー。攻め込まれて、ボールがゴール前まで来た時なんて心臓が止まるかと思ったよー!」

 

 恵美は試合観戦中でも、とにかく感情を口に出すタイプだった。良悟のチームが攻め込まれて、危なくなったら「あっ!」と思わず声を出して冷や汗をかく。ペナルティエリア内まで侵入されれば「危ない!」と声を張り上げ、彼らが順調に攻め上がれば「いけいけー!」と声援を送った。試合がヒートアップすれば声に留まらず、身振り手振りも加わってくるほど、彼女は試合に夢中になっていた。

 

「リョーゴ、すっごく頑張ってるけど……後半戦は、もっと頑張らないとネ」

 

 エレナも、前半戦中は恵美のように、攻め込むときは「ゴーゴー!」だとか。守備が成功した時は「ナイスディフェンスー!」と恵美と同じように声を上げた。心の底から試合を楽しんで、応援に夢中になっていた。

 しかし、ハーフタイム中のエレナは真剣な表情で、ベンチでスポドリ片手に監督の言葉に耳を傾けている良悟を見ていた。

 

 そんなエレナの様子を不思議そうに見る恵美だったが、選手たちがコートに集まってきたことで、エレナに何か問い掛けるでもなく、試合観戦に意識を切り替えるのであった。

 

 

 

 

 

 

 後半戦は、あまりにも熾烈な展開が巻き起こった。

 後半戦5分のことだ。良悟側のMFが相手のFWにごぼう抜きにされると、それに慌てたDFの二人がFWを抑えに飛び出した。

 それが、悪手だった。ペナルティエリア手前、オフサイドぎりぎりの場所まで上がっていたオフェンシブ・ハーフにFWからパスが通り――中央ががら空きだったために、フリー。GKと一対一になると、ゴールの上部端っこを狙った鋭いシュートが炸裂して、1点を取り返された。

 

 後半戦、開始早々の同点ゴールがチームに与えた動揺は小さなものではあった。まだ同点、落ち着いて返していこう、と良悟たちはお互いに頷き合った。

 波乱はそこから10分後だ。

 

 後半開始15分。相手のMF二人に正面から抑えられた良悟は、前方のFW二人がマークされていることを確認すると、即座に後ろにボールを下げ――

 

 ――それが、予知していたかのように動いていた相手のFWに掻っ攫われた。

 

 その時の良悟の表情は、驚愕に染まっていた。目を見開き、大口を開けて、正気を失ったかのように目を点にして。――すぐさま「ディフェンス!」と腹の底から悲鳴のような叫びが上がった。

 

 しかし、一瞬遅い。掻っ攫われた時に起こったチームの空白の時間は、相手のFWがDFの正面に迫るまでに十分だった。MFでは今から行っても間に合わない。

 絶対にここで点をやるわけにはいかない。突出してきた相手のFWを包囲するように、サイドのDFも幅を狭めるために内側に走った。

 

 1点の動揺だった。

 本来であれば、サイドのDFは二対一の優勢に食いつく必要はない。むしろ、警戒すべきは後から前線に上がって来る相手のチームメンバーだった。そこからパスを繋げられ、フリーの選手を作ることこそを警戒するべきだった。

 しかし、ここで点をやるわけにはいかない、という意地と。思わぬカウンターを食らったことへの焦りが、DFの動揺を駆り立てて走らせた。

 

 そして、走ったDFの後ろを通る影。相手のFWが攻め上がって来たのを見て「しまった」と思った時にはもう後の祭りだった。

 ボールを掻っ攫ったFWはDFの裏を突いた仲間にパスを出した。そのパスはあまりにもすんなりと通り、完全なフリー。ゴールの斜め横から繰り出されたシュートに、GKは飛び込んで手を伸ばすが――その手は届かず、ゴールを許してしまった。

 

 後半早々に逆転された。いきなり二点を取られたことによって、とうとう崩壊が起こる。

 良悟のチームはFWが焦りのあまりファールをとり、強引にマークを引き剥がそうと走り体力を浪費して。

 良悟自身、パスを出す際に過剰に周囲を気にするようになった。どうしようもなく、ボールを一度下げるときの判断は一拍遅れるほどだ。

 

 そんな隙を突かれてカウンターを受けると、DFにも影響が出ていた。左右端の二人が、いつもの走りをみせられていない。ぎこちない守備を突破されては、GKが何とかその場を凌ぐ場面は片手の指では足りないだろう。

 

 後半45分。

 ――ロスタイムは2分。

 

 何とかそれ以上の点数をやるまいと、失点を防いでいた良悟たちも満身創痍の有様だ。GKのプレッシャーは言うまでもなく、FWは走り過ぎた弊害で全身を汗に濡らして肩で息をしている。

 

 そんな中、味方のMFのカットが入り、良悟にボールが渡った。

 残り時間を見て、間違いなくラストボール。マークされているFWを見た瞬間、彼は全力で前線へと駆け上がった。

 

「――いっけぇぇぇ!」

 

 客席からの少女の応援は、当然ながら彼の耳には届かない。そもそも、観客の声も、学校の応援歌も耳に入っていなかった。

 

 良悟の前方には、相手のDFが二人。他二人は徹底してFWのマークについている。後ろから、誰かが駆け上がってくるような気配は感じられない。守備ラインを下げ過ぎていた。

 

 良悟に残された選択肢は三つだった。

 1つ、DF二人を抜き切り、その後にGKとの一対一に勝つこと。

 2つ、DF二人を抜く素振りを見せて、釣られた相手のDFがFWへのマークを甘くしたところにパスを出すこと。

 3つ、DFの手の届かないミドルシュートを決めること。

 

 味方の到着は見込めない。味方を待っては、相手の後ろからも圧迫されるのがオチであり、そもそも残り時間が怪しい。

 

 ――どうする、と走りながら良悟は考え続けた。選択できるギリギリのところまで考えて。

 

 彼は、ミドルシュートを選んだ。

 DFが手出しできず、しかし遠すぎない絶妙な距離。キーパーの視界がDFによって遮られるような位置から、ゴール端に向けてボールを放った。

 

 

 

 ――バシッ、と。

 そんな乾いた音が聞こえ、相手のGKはその場にしばらく蹲った後。

 

 ピッ、ピッ、ピィィィィ――!

 そんなホイッスルの音と共に、後半戦が終わった。

 

 

 

 

 

 

「――あっ」

 

 恵美は思わず、短く声を漏らした。

 ホイッスルの音は耳に届いてきたが、それが試合終了の合図だとは露ほども思わなかった。

 

 彼女を現実に戻したのは――

 

 

 

 ――コート内で仰向けになって、目元に腕を押しつけている良悟の姿だった。

 

 

 

 彼はFWの他の仲間に肩を叩かれて、手を引かれるまで、その状態から頑なに動かなかった。

 

 恵美の見てきた良悟とは、何から何まで違っていた。エレナから聞いていた良悟とも、ちょっと違う。

 駄々をこねるように、それでいて物事に情熱的に取り組んでいたのであろうその姿は、スポーツマンとしての彼の姿なのか。

 

 礼をして、最後の挨拶を終えて各々のベンチに戻っていく選手たち。

 良悟は仲間の一人に肩を引かれ、二人に背中を叩かれ、三人に頭をくしゃくしゃにされながら、手のひらで顔を隠し俯いて歩いていた。

 

 

 

 そんな彼の姿に、恵美はキュッと胸を締め付けられるような感覚を覚えていた。それが何なのか、彼女自身にはわからない。ただ漠然とした、温かいのに痛みを覚えるような感情が湧き上がって来ていた。

 

「リョーゴくん――!」

 

 恵美が立ち上がり、どこかに行こうとしたところで。

 

「メグミ、ダメだヨ」

 

 そんな恵美の手首を、エレナが掴んで止めた。

 思わずギョッと肩を揺らして振り返ってみれば、エレナの真剣で、咎めるような瞳が恵美のことをジッと見つめていた。

 

「今は、そっとしてあげなきゃダメだヨ? リョーゴは照れ屋さん、だからネ」

「あ、……うん」

 

 エレナの力強い、どうしてか説得力のある言葉に、恵美は思わずそう返事をしてしまった。

 恵美はそんな自分を振り返り、心の中に雑音を覚えた。もやもやとして、ムカムカとして、チクッと刺すように痛い。言い知れない感情に襲われた。

 

(アタシ、ほんとに全然ッ、知らないんだ。リョーゴくんのこと)

 

「一日だけ、そっとしてあげてほしいナ。それだけで、リョーゴは大丈夫だヨ」

 

 帰ろう、とエレナは恵美の手を優しく引きながら、出口に向かった。

 

 スタンドから出る直前、恵美はもう一度だけ、サッカーコートの方に振り返ると。

 選手ではなく、大人たちがその中にいるのが見えた。

 

 それが、試合が終わった事実を物語っているのだと認めると。

 

「終わったん、だね」

「――うん」

 

 恵美の胸に一抹の寂しさが横切った。

 

 

 

 




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いつも、ありがとうございます。


物語は着々と進んでいきます。
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第六話 ワガママを凍らせて

 砂時計を見ているかのようだった。

 幼い時分、ひっくり返すと砂が落ちる仕組みに目を輝かせて、心の底から楽しんでその光景を見ていた。ピンク色の砂がサラサラと落ちていくさまが、まるで星が散りばめられた空のように、とてもきれいだと思った。

 

 しかし、それも五回目になれば飽きていた。きれいだと思っていたピンクの砂も、公園の砂場のものと同じように映った。退屈で、何がよかったのかもわからない。

 

 情熱は砂時計だ。

 サッカーへの熱意の砂は、試合から敗退したことで切れていた。これからどうすればいいのか分からず、途方に暮れている。

 ミスを繰り返さないための練習。チームワークを高めるための紅白戦。結果を確かめるための練習試合。だが、結果を示すための舞台は遠かった。

 

 それでも、ひっくり返せば何事もなく砂は落ちる。

 

「……やることは、やってみせる」

 

 だから今は、少しだけ休ませてほしいと。

 机の上に置いた黒い砂時計をひっくり返して、砂を落とし始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 ショッピングモール、というものは便利なものだった。

 いちいち街の中を歩き回らなくても、その建物の中だけで大体のことが解決する。買い物にしても、食事にしても、遊ぶにしたってゲームセンターが入っていれば問題ない。

 

 とりあえず、無難な選択肢。まずはお互いに交流を重ねるところから。そう考えて、良悟は恵美をショッピングモールに誘った。

 

「やっほ! また待たせちゃったかな?」

 

 特にやることもなく、漠然と空を眺めているときに声を掛けられる。恵美だった。紺色の英文字ロゴが入ったTシャツの上からボーダーのテーラードジャケットを着込み、ボトムスにカットオフショートデニムを履いている。健康的なカジュアルファッションに、持ち前の快活な笑顔が眩しい。そんな彼女に、良悟はほんの一瞬、空白の時間を作った。

 

「――っ、いや。約束より早くて、危うく俺が待たせるところだった」

 

 一拍遅れての答えに、恵美は「よかったー」と気にした風もなくほっと息をついていた。

 

「あっ、その服ってこの前買ったやつ! すっごい似合ってるじゃん!」

「まぁ、最近暑くなってきたから。……恵美もよく似合ってるな。明るい感じがする」

「でしょでしょ? ほらっ、ボーダーのこれとか、ペアルックって感じでイケてるでしょ?」

 

 そう言われて自分の格好を見返してみれば、ボーダーのシャツを着てはいるものの、上着は白無地の七分袖だ。

 

「いや、ペアルックって無理が……ていうか、俺がこれ着るのわかってたの?」

「何となくそうじゃないかなーって。暑くなってきたから、この前のやつ着てくるかもってね」

 

 ニカッと得意げに笑う恵美に「ほらいこっ!」と手を引かれる。不意を突かれたが、それでも彼は慣れた様子で彼女の横に並んで歩き始める。

 

(まだ何もやってないのに、楽しそうだな)

 

 今にも鼻歌でも口ずさみそうな笑顔だ。少しの自信に、ほどよく脱力した無垢な表情。

 この笑顔が自分といることで出ていると思うのは、高望みだろうか。

 

 考えているうちに、ふと恵美と良悟の視線がぶつかると、彼女は不思議そうに首をかしげた。

 

「リョーゴくん? どしたの、アタシのことジッと見て」

「……そんなにジッと見てたか?」

「見てた見てた。穴が開くくらいジーっと。アタシの顔に何かついてた?」

「いや、そうじゃない。まだ何もやってないのに、楽しそうだなって」

 

 今度こそ、恵美の瞳が不思議そうに疑問で染まった。くりんとした瞳でしばらくジッと良悟を見つめると、彼女は楽しそうにクスクスと喉を鳴らした。

 

「そりゃ、好きな人と一緒にいるんだから。楽しいに決まってるっしょ!」

 

 思わず足が止まった。当たり前のように、それでいて恥ずかしそうに頬を染めてはにかむ恵美に視線を惹かれた。

 これだけ臆面もなく、それなのに恥ずかしそうに。そんな気持ちの伝え方があるなんて、良悟は全く知らなかった。自分にないその様子が、眩しく見えてしまう。

 

「それなら、俺も気張らなくていいな」

 

 力を抜いた途端、思わず頬が緩んでいくのが自分でわかった。彼女相手なら、もう引き締める必要もないのかもしれない。

 

「そうそう。楽しんでいこうよ、ねっ?」

 

 恵美が振り返った途端、良悟の口元は気取った様に緩められていた。

 彼女の年相応の、悪戯っ気のある笑顔を受けて、彼は肩をすくめて頷いて見せた。

 

「そうだな」

 

 良悟が歩き始めると、恵美も前を向き彼の手を引いて先導し始めた。そんなときに限って、表情は柔らかく綻ぶものだった。

 

 最初に寄ったのは化粧品売り場だ。重みの乗ったフローラルな香りが鼻につく空間で、恵美は試しにと手の甲に試供品を塗ってみたり、スキンケアを良悟に奨めてそれを試しに使ってみたりと。男性用のコスメの話をされた時など、良悟にとっては目から鱗が落ちる思いで恵美からの説明を聞いていた。

 化粧品に対する知識を豊富に持つ恵美に、良悟が質問を投げかけて、恵美が答える。それでさらに興味が広がればより深い質問をして、恵美がわからないときはその道のプロ、店員から話を聞く。そんな時間も思いの外楽しいもので、見終わるころには1時間が経っていた。

 

「いやー、まさかリョーゴくんがこんなにスキンケアに入れ込むとは思わなかったなー」

「男物があるって聞くと、何となく気になったんだ」

「それで買っちゃうあたり、イイお客さんだよね」

 

 恵美の視線が、黒を基調とした上質な紙袋を持っている良悟の左手に落とされる。サイズこそ小さいものの、お高そうな雰囲気に思わず苦笑が漏れる。

 

「ダメだったら、また他のやつを探すから。横歩くなら、努力くらいしないとな」

 

 結果は知らんけど、と良悟は挑戦的な笑みを口元に描いた。

 

「横歩くって?」

 

 しかし、そんな良悟の言葉は伝わっていなかった。こてん、と首をかしげて不思議そうに良悟を見つめる恵美。まじか、と良悟は思わず恥ずかしさのあまり天を仰いでみれば、白い天井ばかりが目の前に広がった。

 

「いや、まさかわざとか? わざとなのか? からかってたりする?」

「……えっと、どゆこと?」

 

 戸惑いを含む声音、不安そうに弱弱しくなっていく視線。本当にわかっていない様子に、良悟は思わず手で顔を覆った。この羞恥の中、言うべきか言わざるべきか。

 ちらり、と指の隙間から恵美を覗いてみれば、時間が経つにつれて表情に愁いが帯びていく。

 

「……恵美とだよ」

「――へっ?」

 

 とうとう、観念したように良悟は声を絞り出した。思わぬ声に恵美が間の抜けた声を上げると「だからっ」と良悟は恵美の目をまっすぐ見つめて、それでいて顔を真っ赤にしながらはっきりと告げた。

 

「恵美の隣歩くために、努力するってんだよっ。――ああ、もうっ、こっぱずかしいっ!」

 

 それだけ言い切ると、良悟は再び顔を伏せて片手で顔を覆ってその場に立ち尽くした。

 もはやヤケクソな告白まがいの言葉に、恵美はしばらくぽかんと固まった。何を言ったのか、噛み砕くように頭の中で反芻して、整理して。理解した瞬間、目を見開いて口に手を当てた。

 

「えっ、アタシ!? むしろアタシの方が努力する側っていうか――」

「いや、お前……お前ぇ」

 

 良悟はここでようやく、恵美がどういう人間なのかを少しだけ理解した。同時に、これは自分の天敵なのではないだろうか、とさらに頭を痛めた。

 

(自己評価……低っ!)

 

 どうしてそうなった、と良悟はとうとう顔ではなく頭を抱えた。恥ずかしさなど、今知った衝撃の事実の前には消し飛んだ。どうしてそんなイケイケなギャルみたいな見た目で、と。頭を悩ませても、答えはまったくわからない。

 

(こんだけ自己評価低いってことは……まっすぐ言葉ぶつけないと悪い方に曲解しそうだ。……あぁ、だから服買いに行った時も、自分の格好気にして――マジか)

 

 思い出せば思い出すほど、恵美という少女は自己評価が低いのだという事実を突きつけられる。自分のことで褒められるとなると、途端に鈍感になっているような気がしてならない。自己評価が低すぎて、婉曲な言葉ではそれが褒め言葉だと自覚できないのだ。

 

 つまり、良悟に求められる恵美への褒め言葉は、直球だ。サッカーに例えるならキーパーに向けてボールを蹴る勢い。野球に例えるならド真ん中のストレート。

 

(まっすぐな言葉なんて、ガラじゃねぇんだよ……!)

 

 それでも、そんなまっすぐな言葉じゃなければ相手には伝わらない。言葉は、正確に伝わらなければ意味がない。恥ずかしい気持ちが消えるわけではない。それでも伝わらないよりはマシなのだと、自分に言い聞かせて。

 

「お試しとはいえ、彼氏やってんだ。相手に恥かかせられないだろ」

 

 彼はぶっきらぼうにそう言った。恥ずかしさには勝てず、恵美と名指しすることはできなかった。その事実は妙に据わりが悪いもので、「あー」とうめき声のように喉を鳴らすと、早口に言葉を紡ぎ出した。

 

「俺が恵美に追い付こうとしてるんだ。俺が後ろにいるんだ。だから、ドーンと構えていればいいんだよ」

 

 不安になる必要なんてない。卑下することは何もない。十分素敵なんだ、と伝えたい言葉は、喉を詰まらせないよう勢いのままに飛び出したものだ。

それでも、彼にとっては精一杯の、自分に至る限りを尽くした言葉である。

 

 自分の言動を振り返って、なんていい加減なんだ、とすぐさま自己嫌悪に頭を抱える。もっと言葉があっただろう、とか。優しい言い方もあっただろう、と。口に出した後に限って、その具体案が頭の中でグルグルと蠢いてやまない。言い直そうと口を開くと、途端に喉に言葉が詰まって頭が真っ白になる。

 

「リョーゴくん」

 

 パン、と背中を強めに叩かれる。正気に戻ったようにハッと恵美の方に顔を向けてみれば――

 

「もー、自己評価低すぎだってば! イケメンなんだから、堂々としてるだけで様になってるって!」

 

 ――気軽な様子で笑いかけてくる彼女の顔があった。

 

「……いやお前が言うな!」

 

 フランクな笑顔に面食らったのも一瞬のことだ。すぐに感情が言葉となって飛び出すと、恵美は「えー?」と冗談交じりに抗議するような声を出しながら、からかうように笑いかけてくる。

 

「こんのっ。ああ、もう! 次行くぞ次!」

 

 そういいながら、良悟は恵美よりも一歩先に出た。恵美もその後に続きながら、意地悪な笑みを浮かべて彼の顔をジッと後ろから見守った。

 

 しかし、そんな笑顔もふと、優しく綻ぶ瞬間があった。

 

「――サンキュ」

 

 そんな小さな呟きは、果たして届いたのか。良悟はそれからむすっとそっけない態度で、決して口を開くことはなかったが。

 小さく、まるで舟をこぐように曖昧に、首を縦に振った。

 

 

 

 

 

 

「――あっ」

 

 そんな言葉は、誰の口から飛び出したものだったか。

 最初の集合場所のショッピングモールから出て、街中の服屋の開拓をしようという話になって外を歩いていた時。

 

 偶然にも、彼女たちと道端でばったりと出くわしてしまった。

 

「エレナ?」

「恵美?」

「あれ、琴葉にエレナ? わっ、すっごい偶然!」

 

 最初に飛び出したのは恵美だった。地毛なのか赤色に近い茶髪を持つ少女琴葉と、エレナの方にすぐに近づくと「どーしたのここで?」と世間話に入る勢いだ。

 

「……まったく」

 

 良悟は道の邪魔にならないように、少しだけ恵美と距離を詰めて。しかし一歩引いた場所から少女たちの様子を見ることにした。

 琴葉はそんな良悟に一瞬、いぶかしむような視線を向けると、すぐに恵美の方に視線を戻した。

 

「私たちは一緒にショッピングかな。……ところで、そちらの方は?」

「ん? あ、そっか。琴葉とは初めてだったね」

 

 しかし、早くも良悟に再び視線が集まった。琴葉は少し警戒するように、恵美はウィンクと共に自己紹介を促してくる。

 

「……あー、まぁ。エレナと幼馴染で、恵美の彼氏やらせてもらってる、新田良悟です」

「あっ、これは失礼いたしました。私は田中琴葉といいます。恵美やエレナとは――親友です。……彼氏? 彼氏っ!?」

 

 ぐりん、と力強い視線がすぐさま恵美の方に向けられる。その勢いに思わず恵美が一歩引くと、逃がさないとばかりに琴葉に両肩を掴まれた。

 

「恵美? ちょっとお話ししましょう」

「え、えっと琴葉? どしたの、なんか怖いよ?」

「恋愛は、私も自由だと思う。でもね、もっと警戒心とか――」

 

 恵美が少しずつ、琴葉たちの側に連れていかれる。その様はなんというか、誘拐現場を見ているような複雑な心象を抱く一方で。良悟は内情をしっているがために、もはやシュールギャグのような有様に映っていた。

 

「くっ、くくく……!」

 

 良悟は口元を抑えて必死に笑いを押し殺すが、恵美にはどうやら聞こえていたようで振り向きざまに視線で訴えられた。その視線に、良悟は笑いを押し殺したまま首を横に振ると、その顔からサッと血の気が引いていく。そしてよそ見をしたものだから、「恵美?」と琴葉に咎められてさらに顔を青くする始末。とうとう、良悟も「かはっ!」と吹き出してしまった。

 

「新田さん? 恵美がアイドルをやっているのはご存知ですか?」

 

 その挙動を、琴葉は見逃さなかった。真剣な視線を突然向けられて、途端に良悟も笑いが引っ込んだ。代わりに感じたのは「あっ、やばい」という確信に近い危機感だ。

 

 良悟の視線が恵美の方に走る。

 恵美も、良悟の方に視線を向けていた。ただし、こちらは悪戯に成功した子どものように笑いながら「一緒に怒られよっ?」と語りかけてくる。

 

(……まぁ、一緒に説教食らうのも確かにありだけど。初回デートなんだし)

 

「恵美、走るぞ!」

「えっ、ちょ――」

 

 良悟は恵美に声をかけて走り出すと、琴葉から恵美を掻っ攫って支えながら走り出した。「あっ、ちょっと――!」と手を前に出して制止を促す琴葉だったが、追ってくるようなことはなかった。

 

「説教はエレナ通して受けまーす!」

 

 そんな捨て台詞と共に、良悟と恵美は街中に走り去っていってしまった。

 琴葉はそんな様子を呆気にとられて見送ると、ひとつため息をついた。

 

「私たちも行こう。――エレナ?」

 

 あきらめて、自分たちも休日を満喫することに意識を切り替えた琴葉は数歩踏み出してから、エレナがついてきていないことに気が付いた。思わず振り返ってみてみれば――

 

「コトハ」

「――どうしたのエレナ!?」

 

 どこか痛いの、何かあったの、と琴葉は慌ててエレナに聞いた。体調が悪いのか、それともほかに何かあったのか。エレナの横で背中をさすりながら、はやる気持ちを抑えて応答を待った。

 

「なんだかネ」

 

 ぽつり、とエレナが小さな声でこぼした言葉。

 

 しかし、琴葉は耳よりも、彼女の表情に視線を釘づけにされていた。

 

「胸が、ちょっと痛くなってネ。でも、もう大丈夫だヨ」

 

 ――今にも泣きだしそうなほど脆く、それなのに嬉しそうに笑っている。背反する二つの感情が、彼女の表情を歪に彩っていた。

 

「……本当に、大丈夫?」

「ウンっ」

 

 今にもひび割れてしまいそうな表情を、果たしてエレナ自身は自覚していたのだろうか。

 エレナの肯定の返事に、琴葉はそれ以上口をはさむことができなかった。言葉で触れてしまえば、今すぐにでも崩れてしまいそうな危うさがあり、迂闊に踏み込むことを躊躇わせた。

 

 だから。

 

「……そうだ。エレナ、この前話題になっていたクレープ屋さん行ってみない?」

 

 甘いものを食べて、少しでも気を紛らわせようと。

 琴葉はエレナの手を引いて、記憶を頼りにクレープ屋へ向かうのであった。

 

 

 

 

 

 

「……ふぅ。あぁー、急に走り出さないでよー!」

 

 もう追ってこれないだろう、という場所まで走り抜けて。ようやく止まると、恵美はひとつ息を吐くと良悟に笑いかけながら形だけの文句を投げつけた。

 良悟もそれに「悪い悪い」と軽口を叩くように返すと、ニッと得意そうで小憎たらしい笑みを浮かべた。

 

「でも、ちょっと楽しかっただろ?」

「ぷっ、確かに。琴葉がぽかんって呆気にとられちゃって!」

 

 恵美もつられて笑い、上機嫌に軽口を叩いた。

 それなりの距離を走ったが、お互いに肩で息をするようなことはない。少しだけ汗をかいた程度で、二人は平然と、示し合わせたかのように同時に歩き出した。

 

「でも、ちょっと意外だったなー。リョーゴくんなら琴葉の話聞くと思ってた」

「まぁ、普段なら聞いてたな。友達想いの、良い親友を持ってるな」

「へー、わかるの?」

「大体だけど。本気で恵美を心配してるようだったし、悪気はないんだろ」

「琴葉はちょっと心配症だからさー。でも、それならどーして逃げたの?」

「初デートだからな。こっち優先しても、初回だけは無罪放免だろ」

 

 普段なら絶対に出ない言葉が、良悟の口から飛び出した。

 気が強くなっていた。思い切って恵美を連れて逃げ出したこともそうだが、走った後で頭に血が上り、多少の興奮状態にもあった。

 

「初デート……そっか。初デート」

 

 改めてそんな事実を言葉として聞いて、恵美は確かめるように繰り返し呟いた。良悟に聞こえないほど小さな声で、照れ笑いを浮かべながら。

 

「――まぁ、エレナのことは少し気にかけてやってほしい」

「えっ」

 

 笑顔は引っ込み、恵美の表情から色が抜け落ちた。

 良悟はそんな様子に気づかず、言葉をつづけた。

 

「なんか、調子悪そうだったからな。もしかしたら、何か抱え込んでるかもしれない。その時は、親友としてよろしく頼む」

 

 ガツン、と頭を殴られたような衝撃が走る。

 

「どうして、わかったの?」

 

 震えた言葉が、喉の奥から這うように出てきた。自分の腕をつかんで、震えた瞳は良悟の顔に向けられる。

 

「どうしてって。そりゃまぁ――」

 

 良悟が振り向いて、恵美の方を見ると。

 彼はちょっぴり幼い、あどけない少年のように柔らかで優しい笑みを浮かべて言った。

 

「――幼馴染だからな」

「あっ――」

 

 恵美にとって、目の前の良悟の笑顔は、あまりに残酷な現実そのものだった。

 手を伸ばせば、確かに届く。触れられる。今から思い切れば、きっとキスだって出来てしまう。それくらい、彼の笑顔は近くて。

 

 それなのに、その笑顔は恵美に向けられたものではない。どこまでいっても、その笑顔は彼女のための笑顔じゃない。

 だって、エレナも言っていた。

 

『照れて、笑顔は隠しちゃうけどネ』

 

 この笑顔は、見えてしまうから遠いんだ。見えてしまったら、ダメなのだ。

 だってそれは、自分に向けられた笑顔じゃないから。

 

 笑顔の距離は近いのに、あまりにも遠すぎた。

 

 

 

 それだけじゃない。

 エレナと親友だと思っていたのに、そんな親友のことに気づけなかった自分にも、腹が立つ。自分のことばかりで、親友のことにちっとも気が回らなかった自分が、愚かしくて、舞い上がっていたことが滑稽で。

 

 ――どうして、そんなに遠いの?

 

 親友としての距離も負けていて。

 笑顔の距離もまだ遠くて。

 

 

 

「ま、それだけ。それじゃ、次行くぞ」

 

 無意識に伸ばされていた恵美の手を、良悟はしっかりと握って、優しく引っ張った。足がもつれず、自然と歩き出せる絶妙な力加減だ。

 気が付けば、恵美は良悟に手を引かれて危うげなく歩いていた。まっすぐ伸びた背中は、やけに大きく彼女の瞳の中に刻み込まれる。背中が大きく見えるのは、自分が小さくなっているせいなのか。

 

 それでも、恵美は自分の想いを手放せない。

 例えその笑顔が誰かに向けられたものであったとしても。彼女はその笑顔こそが大好きで。誰かにかけられる細かな気遣いを向けられると嬉しくて、誰かに振りまくその姿を誇らしく思っているから。

 

 ――それを全部アタシに向けてって、ワガママだよね。

 

 だから、そんな願いは心の奥底にそっと封じ込める。

 そして絶対に振り向かせてやるんだ、と前を向いて。

 

 

 

 良悟に手を引かれながら、彼女は力強く踵を鳴らして一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 




刻一刻と、物語は進んでいきます
少年と少女たちとの距離は、あまりにも根深い問題だった
自分にはないものだから、思わずそればかりが目立ってしょうがない。

この物語は、何度も言いますが間違いなく純愛です。

どうか、最後までお付き合いいただければ幸いです。
それでは、次話にてお会いしましょう


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第七話 決まり切った約束を

感想、コメントの方。お気に入り登録の方、ありがとうございます!
今回は少し短めですが、それでもお楽しみいただければ幸いです

感想コメント、お気に入り登録など、執筆している最中の活力となり、大変ありがたく思っております。
それでは、本編をお楽しみくださいませ


 エレナの指先が宙を這ったとき、それを見ていた誰もが思わず顔を赤く染めた。

 

 まるで誰かの胸に指を走らせ求愛しているような、艶やかで情熱的な指先。

 縋るように、求めるように流れる視線は、切なくも強い色香を漂わせ。

 女性としてしなやかに舞い踊る肢体には、同性の視線さえ釘付けにする魔力があった。

 

 見てほしい、と訴えかけるような踊りだった。

 なめらかで、指先まで柔らかく宙を滑り、身体のラインを美しく動かすステップ。

 

 エレナが動くたびに、彼女の揺れる胸に、美しい線の臀部に視線が釘付けにされる。

 

 下品、とは誰も思わなかった。

 観衆のひとりになっていた恵美からは、ただただ美しく思えた。月みたいに物静かな踊りなのに、中身は真夏の太陽みたいに情熱的で――

 

 

 

 ――ワタシを見て

 ――ワタシだけに釘付けになって

 ――言葉なんていらないから

 

 ――今だけはワタシから目を離さないで

 

 

 

 そんな声が頭の中に流れ込んでくる。

 足音の代わりに、踊りに込められた想いが聞こえてくる。

 

 見ているだけで、伝わってくる情熱に焦がされるように、心が大きく燃え広がっていく。

 大きく動いていないのに、一挙一動にこもったエネルギーがわかる。その手が、足が動くたびに心が揺さぶられた。

 

 

 

 エレナの動きが止まった時、それが踊りの終わりだとは誰もが気づけなかった。

 紺碧の瞳はどこか遠くに、鋭く確かな視線を向けている。

 

「――っ」

 

 エレナの瞳の中を見ようと注視した時、恵美は思わず目をつむって息をのんだ。

 彼女の瞳の中に、太陽が爛々と輝いているように見えた。燃え盛る炎よりも確からしく、触れてしまえば自分が燃え尽きそうな灼熱がこもった瞳。

 

 

 

 ――それは、覚悟を決めた瞳であった。

 

 

 

 

 

 

「エレナすごいじゃん! あの先生がべた褒めなんて! アタシなんて褒められたこともないのに」

 

 ダンスが終わった後のエレナは、ダンスレッスンの先生が声をかけるまでずっと、どこか遠くを見つめていた。先生が声を掛け、手を鳴らすことでようやく、レッスン室にはいつもの空気が流れ始める。

 まるで、エレナのかけた魔法が解かれたかのような空気の変化。

 その後に、先生は恵美の言った通り、エレナのダンスを絶賛した。締めの言葉は「最高のパッションよ」と。

 

「んー、ワタシは実感がないヨ」

「えー、あんなにすごい踊りしたのに?」

 

 エレナは小首をかしげると、困ったように笑ってみせてから、首を横に振った。

 

「ちょっと、考え事しながら踊ってたからネ。あまり実感がないナーって」

「考え事……」

 

 ――まぁ、エレナのことは少し気にかけてやってほしい――

 

 

 

 胸が痛くなった。顔が思わず下を向いた。

 想い人が他の誰かを気にしている嫉妬。それも確かに、多少はある。

 けれど、恵美は何よりも悔しいと感じた。

 

「エレナ。何か悩み事とかあるなら、気楽に相談していいからね?」

 

 いくら幼馴染相手といえども、親友が何かを抱え込んでいることを察知できなかったことが、ただただ悔しかった――!

 

 だから、彼女は顔を上げた。

 恵美の明るい、いつもの調子の言葉に、エレナは「うーん」と悩むそぶりを見せた。

 言いにくいことなのかな、と恵美が心配そうにエレナを見つめていると。

 

「相談は、もうちょっと後でいいかナ?」

 

 返ってきたのは、相談事を言うわけでもなければ、断るでもなく、相談の先延ばしだ。

 恵美はその答えに目を開いて驚きはしたものの、エレナの意思を尊重してしっかりと頷いて見せた。

 

「本当に、何でも相談していいからね? 溜め込むよりは絶対にいいんだからさ!」

「……うん。ありがとう、メグミ」

 

 エレナは静かにそう言うと、寂しそうにふと目を伏せた。

 恵美はその様子を、ただ静かに見守った。

 

「メグミ」

「ん、なに――っ」

 

 ようやくエレナが顔を上げて口を開いたとき。

 彼女は今にも消えてしまいそうな弱り切った笑顔を浮かべていた。

 

 恵美は思わず胸に手を置いて、息を詰まらせた。

 今までそんな姿のエレナを見たことがなかったのもそうだが、恵美はそんな笑顔を浮かべるエレナが「嫌い」だと、直感的にそう思った。

 

「次、相談するときは……きっと、メグミに嫌な思いをさせちゃうヨ。それでも――」

「相談していいよ。うんにゃ、絶対に相談して」

 

 恵美はエレナの肩を掴むと、まっすぐ彼女の目を見て宣言するように言いのけた。

 

「どんなことでも。アタシが傷ついちゃうようなことでも、ひとりで抱え込まないこと!」

 

 エレナはそんな恵美の言葉に、虚を突かれたようにポカンと空白の時間を作った。

 その間、恵美はずっと真剣な眼差しで、エレナのことを間近で見つめ続けた。

 

「――うん。うん!」

 

 彼女は何度も強くうなずいてみせた。目じりに涙を浮かべながら、ヒマワリのように快活な表情が咲く。

 

「メグミには絶対に相談するヨ。約束だネ!」

「よしっ、約束だよエレナ!」

 

 恵美とエレナが固い握手を交えた。お互いに明るく笑い合いながら。掌からは優しさを感じ合って、心を温めた。

 

 エレナに笑顔が戻ったことに恵美は安堵して。

 恵美と約束したエレナは――

 

「それじゃ、帰ろっか!」

 

 恵美は先に、レッスン室から出ていった。そんな彼女の後姿を見ながら、エレナの表情が柔らかく綻んだ。

 

「メグミにも、ちゃんと伝えるヨ」

 

 誰にも聞こえないようにポツリと呟くと、彼女はひとり頷いて、恵美の後に続いた。

 

 

 

 レッスン室の鏡は、最後までエレナのまっすぐな姿勢を映し出していた。

 

 

 



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第八話 イタズラ心に想いをのせて

たくさんのお気に入り登録、ありがとうございます
少しずつ伸びていくそれを見るだけで、活力とモチベが上昇していくチョロい二次創作者です。

それでは。
エレナと良悟との距離をお楽しみくださいませ




 

 

「――祭り?」

「うん。パパンとママンが一緒に行こうって」

 

 それはある日の帰り道のことだった。

 すっかり前期末試験も終わり、明日から夏休みというときに、エレナから神社でやるお祭りに一緒に行かないかと誘われた。

 

 エレナは期待と、狙いすますかのような鋭い視線を良悟に向けていた。返答が待ちきれない、とでも言いたげにそわそわと体を揺らしながら、彼のことを下から覗き込みながら。

 

「そんなに楽しみなもんか?」

 

 そんな様子のエレナに、良悟はいぶかしげに眉をひそめながら聞いた。子どもの時分から、毎年のように通っている祭りだ。もう屋台の種類もすっかり覚えてしまって、目新しいものは何もない。そんな祭りが楽しみなものなのか、良悟にはよくわからない。

 

「うん! いろんなところ回って、食べ歩いて、みんな笑顔で踊って。カーニバルはいつも楽しみだヨ!」

「まぁ、エレナはそうか。俺は踊るよりも、見ている方が性に合ってる」

「それなら一緒に行こう! ワタシの熱いダンスで、リョーゴを虜にしてあげるヨ!」

「虜にって。お前、それで俺が何回巻き込まれたことか……へたくそなダンスのお披露目なんて二度と御免だぞ」

 

 エレナの踊りは実に見事なもので、それは良悟も認めるところにある。盆踊りだろうと、フォークダンスだろうと。エレナが参加すれば華が出てくる。圧倒させるような超絶技巧の踊りじゃない。心の底から楽しんで、誰よりも自由に踊るその姿に人々が感化されて、一緒に踊り始める。

 

 そんなエレナの踊りに、最終的には良悟も巻き込まれる。足をもつれさせることはないが、キレのない酔っ払いの千鳥足のような情けない踊りは、良悟自身が酷いと自覚しているところにある。

 

「大丈夫だヨ。……リョーゴもパッションは悪くないからネ!」

「おい。その間はなんだ。というかパッションだけか!?」

「リョーゴはもっとドーンと構えなきゃダメだヨ。そうすれば、もっと上手くなると思うんだけどナー?」

「それ、恵美にも言われたよ。そんなにヘタレに見えるのか……」

 

 良悟がエレナの言葉にへこんで視線を下げていたとき。

 エレナもまた、視線を落として少しの間、沈黙していた。

 

「リョーゴは怖がりだからネー」

「いや、それお前に一番言われたくない――」

「ワタシは今からホラービデオみたい気分だナー?」

「まことに申し訳ありませんでした!」

 

 電光石火の謝罪。良悟は深々と90度腰を折り、エレナに頭を下げた。ただ、その表情はほんの少しだけ笑っていた。

 対して、エレナはそんな良悟の様子を見て「ウーン」と聞こえるように悩むそぶりを見せると、彼の手をさっと手に取った。

 

 手を取られて、顔を上げた先に待っていたのは、エレナの夕日に照らされて輝く笑顔だった。

 

「ヤダ♪」

「――あの、エレナ?」

 

 悪ふざけだと思って笑っていた良悟の顔が、徐々にこわばっていく。それに対して、エレナはますます笑顔を輝かせる。

 

「リョーゴと一緒に見たいホラーがあって」

「あのエレナさん!?」

「ピエロのホラーって面白そうだナーって」

 

 それを聞いた瞬間、良悟が走り出そうと足に力を込めたが、エレナが良悟の手を掴んで放さない。

 

「やめろォ! 放せ、手を放せ! 俺は見ない、見ないぞ!」

「ノンノン、もうビデオも用意してるヨ」

「おまっ、やめっ! わかった、祭りに一緒に行こう! 絶対に行こう! だからそんな恐怖を振りかざすな!?」

「ウンウン、お祭りには一緒に行ってくれるんだネ?」

「行く! 約束する! というか端から断るつもりなかったんだけど!?」

「知ってるヨ。だからもう一声欲しいナー?」

「わかった、一緒に踊る! そこまで約束する!」

「約束はちゃんと守ってヨ?」

「破ったら針千本でもなんでも飲んでやる!」

「うん、約束だヨ! それと、早く帰らないとネ!」

 

 上機嫌そうに、鼻歌を口ずさみながらエレナはステップを踏んだ。良悟はそんなエレナに手を引かれながら「早く帰る?」といぶかしげに呟いた。

 そんな良悟に、エレナは悪戯が成功した子どものようにニッと笑ってみせた。

 

「だって、リョーゴと一緒にピエロのホラーを見ないとネ!」

「……まて。それは祭りの約束で免除――」

「ワタシは、その代わりに、なんて一言も言ってないけどナー?」

 

 良悟の顔からサッと血の気が引いていく。エレナが握っている手が強く震え始め、唇がわなわなと痙攣しながら青くなっていく。その目は捨てられた子犬のように、エレナに向けて訴えかけた。

 

「見ない、って選択肢は――」

「ダーメ」

 

 ギュっ、とエレナの両手が良悟の手を包み込む。良悟にはそれが「絶対に逃がさない」という死刑宣告なのだと理解して、これからの時間に瞳から生気が抜けていく。

 

「もう、どうにでもなれ……」

 

 やけっぱちに呟いた言葉は、真夏の生暖かい風にさらわれて。

 彼はエレナに手を引かれながら、家路につくのであった。

 

 

 

 

 

 

「な、なぁ。本当に、やめよう、な? この前の大会の録画とか他にも――」

 

 良悟の家。エレナの計らいによって部屋の電気は消されて、カーテンから差し込むわずかな茜色が不気味に光るリビングの中。

 

 制服のままの良悟とエレナは、ソファで肩と肩がくっつくほど近づいて座っていた。慣れた様子でリモコンを操作しているエレナの顔は、テレビの明かりによって不気味に白く照らされている。

 対して、良悟は顔を青くしてエレナに必死で訴えかけていた。やめよう、やめよう、と。何度言っても、しかしエレナがリモコンを操作する手は止まらなかった。ブルーレイは既に機械の中だ。

 

「再生っと」

「ちょ、お前ほんとに――」

 

 言い切る前に、エレナは既に再生ボタンを押していた。そして、良悟の言葉を途切れさせたのは、画面に大きく映し出された赤いタイトルロゴと、チュイイイン、と恐怖を掻き立てるような不協和音だった。

 

「うわっ――!?」

「――あっ」

 

 ギュっ、と思わず良悟は隣にいたエレナの手を強く握った。視線は恐怖で画面にくぎ付けになったまま、しかし絶対に放すものか、という力がエレナの手を握ってくる。まだ始まったばかり、登場人物さえ出ていないというのに、良悟の手は寒空の下にいるかのように震えている。

 

 ただ、その手は心が休まるような温かさを持っていた。強い力で握っているといっても、エレナの手に痛みは走らない。

 エレナはその手をそっと握り返して、良悟と同じように画面に視線を向けた。

 

 

 

「――ッ!」

「キャア!?」

 

 子どもがピエロによって行方不明にされる瞬間、良悟が大きな悲鳴を上げてエレナに抱き着いた。その表情は恐怖に塗り固められ、ガチガチと歯を鳴らして体を大きく震えさせている。

 

 対するエレナは、確かに映画のシーンに驚いたものの、それよりも突然良悟が叫び出したことにビックリして、抱き着かれた衝撃に声を上げた。映画よりも、むしろ隣にいる人の行動や声の方に大きく驚かされた。

 

 強く、ギュっと抱きしめられると、薄手の制服越しから相手の体温が感じられた。汗をかいて、じめっとした良悟のスクールシャツがピタリとエレナの制服にくっつく感触も。制服越しに肌に伝わってくる湿り気も。くっつきすぎて、お互いの音が確かに聞こえてくる鼓動の音も。すべて、伝わってくる。

 

 

 

 どれだけ怖がっているのか。良悟の手の震えと鼓動が教えてくれる。

 今どんな思いを持っているのか。触れ合う肌と体温が教えてくれる。

 彼女を抱きしめる力の強さが、彼の優しさと強さと、ちょっぴり情けない本音を教えてくれる。

 

 

 

 エレナは、抱き着いてきた良悟のことを強く、強く抱きしめた。

 良悟はそのことに、テレビに釘付けになって、恐怖に支配されて気が付かない。それを感じ取ると、エレナはさらに力を入れて、自分と彼の鼓動を間近に対面させた。

 

「まて、まてまてまてまて! うそ、嘘だろ嘘だろ嘘だろ――」

 

 ――肌と肌が触れ合うと、恐怖は自然と鳴りを潜めるものだ。自分は一人じゃない、頼もしい仲間がいるんだぞ、って安心感を得ることができるんだ、と。

 そんなことを言っていたのは、良悟自身だ。子どもの時分、エレナが「本当は怖い――」といった番組から目を離せなくなったときに、情けない悲鳴を上げてエレナに抱き着いてきた後に、彼は言い訳じみた早口でよく言っていた。

 

 一度座ると、良悟は決して立ち上がらない。自分がどれだけ苦手なものであろうと、隣に座り続けて、こうして情けない声と姿をさらし続ける。心の底から怖がっているくせに、画面からは決して目を離さない。ビデオを止めることもない。

 良悟は誰よりも、ホラージャンルを怖がっている。それなのに、誰よりもまっすぐ向き合い続けるのだ。まるで、自分の醜態で何かを上書きするように。

 

「えっ、何でそっから声聞こえて……おまっ、おまっ!?」

 

 良悟から感じる力と鼓動だけで、エレナは目を瞑っていても恐怖演出が来ているかどうかがわかった。悲鳴がなかったとしても、間違いなくわかるという自負があった。

 恐怖演出が始まれば、エレナを抱きしめる力が徐々に、徐々に強くなっていく。力は強いのに、まるで壊れ物を扱うように、加減だけは間違えない。

 そして恐怖演出が終われば、彼の腕から力は抜けて、それでも手をつないだまま、再び隣でくっついて鑑賞するだけの時間が訪れる。

 

 そんな時間が、今のエレナには何よりも心地よかった。たとえ目の前の画面に苦手なホラー映画が流れていたとしても、良悟との距離の心地よさを壊すほどではなかった。

 

「――♪」

 

 エレナが思わず鼻歌を口ずさめば、それだけで良悟の両肩が大きく跳ねて、またエレナに抱き着いた。そんな良悟の怖がる姿が面白くて、くすくすと忍び笑いを漏らしてしまえば、彼はますます画面に釘付けになって、瞬きすら忘れて震え始めた。

 

 

 

 それがおかしくて、嬉しくて。

 エレナは時々、そんな風に鼻歌や小さな笑い声を口から漏らした。そのたびに、彼は悲鳴を上げて、怖がって、エレナとの密着度が増していく。

 恐怖演出がないときに、そんなイタズラを何度も繰り返しながら。

 

 

 

 二人のホラー映画鑑賞の時間は、夜の帳が落ちて、良悟の両親がようやく帰ってくるまで続くのであった。

 

 

 





エレナはこの二次創作において、誰よりも主人公である
あらすじに、嘘偽りなし


感想、評価、コメント、ご指摘、お気に入り登録などなど、お待ちしております。それらはすべて、作者のモチベと活力、執筆の燃料になりますので

それでは、次話にてお会いいたしましょう


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第九話 情熱の夏祭り

 

 夕暮れの鳥居の前でも、境内より祭囃子が届いてきた。太鼓の音は小気味の良い乾いた音を打ち鳴らし、笛の音は夕暮れの闇を割くように耳を抜ける。そんな和楽器特有の音色は、人々の声や足音、雑踏の音に紛れ込んで「祭り」というひとつの空間を生み出していた。これら全てを含めて「祭り」なのだと、浅い人生観が訴えかけてくる。いや、感性にしみ込んでいるといった方が正しいか。

 

 鳥居の根本、通行人の邪魔にならない位置で、良悟はエレナを待っていた。彼は両親と一緒にここまで来ていたが、エレナを待つと話せば「楽しんでらっしゃい」と、夫婦ともども人混みの中に消えていった。浮かれた様子の両親に眉をひそめたものの、良悟は特に引き留めるでもなく、その場所に居座り続けた。

 

 鳥居の近くにいる、とメッセージを送ったのは10分ほど前だ。その間、彼は漫然と通り過ぎる人々を眺めていた。半袖半ズボンのラフなおっさんがいれば、着物姿の美しく着飾った女性もいる。中には甚平を着こなした大和魂を魅せつける白髪交じりの男もいる。普段ならスーツか無難な軽装、ワンピースばかりの人混みも、今ばかりは華やかに彩られていた。

 

 ふと、鼻孔をくすぐり、鼻の奥で濃厚に解き放たれる香ばしい匂い。視線を鳥居の中に移してみれば、夜店の赤い垂れ幕に「焼きイカ」と黒色のデカデカとした文字に、イカのマークを入れた店が見えた。その隣には「お好み焼き」の夜店屋台が。その正面には「チョコバナナ」の夜店屋台……淡々と、ズラッと壮観な屋台の列は見えない先まで続いている。

 

 奥には一体、どんな夜店屋台が並んでいるのか。見えない先がことさら気になるのは、昔から変わらない。

 何を食べようか、どこに寄って、どこで座ろうか。屋台を見ながらそんな妄想ばかりを膨らませていると――

 

「お待たせリョーゴ!」

「はいよ。待たされた――」

 

 祭りの音を切り裂いて、エレナの明るい声が飛び込んできた。

 良悟はそれに軽口を叩きながら振り向いて、言葉を詰まらせた。

 

 浅葱色と露草色を溶け合わせたような、物静かながら明るさを損なわない青色の浴衣だった。柄には桜色の先端に白色の羽をもつ蝶が左胸元に大きくあしらわれて、腰元には小さな花菖蒲の花びらと、下に向かって飛ぶ蝶が描かれている。花びらからは根っこを表す曲線がなめらかに白線として伸びていた。さらに、菫色の帯には菱形の文様を中心に銀色の波紋が広がっている。着物の落ち着いた様子をよく映えさせていた。

 

 祭り提灯の光に当たって薄く輝く翠玉の髪は後頭部でお団子にまとめられて、赤と黄色の花を咲かせるリーガスベゴニアをあしらったつまみ簪を挿している。快活な色の花は、エレナの髪とうまく調和を保ち、明るい様子を損なわせない。

 

 

 

 全体的に、確かに落ち着いた趣があった。それでも、明るい心を忘れない色彩に、良悟は言葉を失っていた。どういった言葉を掛ければいいのかがわからない。それでも、彼はエレナから視線を逸らすことだけはしなかった。

 

「似合ってるかナ?」

「――最高だ。うん」

 

 エレナから問い掛けられて、ようやく良悟は口を開いた。チープな、一言だけの感想だ。それでも、良悟はその言葉が出たことに後悔はなかったし、それ以上の言葉を積み重ねようとは思えなかった。

 

 頷いて飾らない言葉を掛ける。良悟にとって、エレナに掛ける言葉はそれで十分だった。

 

「エヘヘっ……ママンと一緒に選んだカイがあったヨ」

 

 側頭部の髪に優しく手を当てながら、はにかんだエレナを見て、良悟も自然と口元を綻ばせた。

 

「じゃあ、行くか。ほら」

 

 良悟から、エレナに向けて手を差し出す。人混みの中で手を繋ぐことは、昔からの暗黙の了解だった。

 はにかみは優しい微笑みに変わり、エレナは良悟の手を取ってしっかりと握りしめた。良悟も、そんなエレナの白く柔らかい手を確かに握り返した。

 

 カラン、と歩き始めは石畳を下駄が打ち鳴らす。足をおろせばコロンと低い音が木霊して、前にのめればまたも高い音を打ち鳴らす。カランコロンと、エレナは足元から音色を生み出していく。

 

「まず何食べる?」

「ンー……食べるのもいいケド、まずはお祭りを楽しむために、いろんな屋台を見て回りたいナー」

「じゃ、そうするか。普通に歩けるか?」

「ちょっと歩きづらいケド、すぐに慣れるから大丈夫だヨ!」

 

 カランコロン、と鈴を転がしたような軽快な足音が、良悟の後ろからついてくる。エレナの手を引きながら、屋台はその様相を少しずつ変えていく。

 

 最初は、濃いタレやソースを使った屋台が多かった。焼きそば、お好み焼き、焼きイカ、焼きタコ、たこ焼き……食欲をそそり、口の中を湿らせるその匂いについつい目を吸い寄せられれば、屋台のおっちゃんが「へいらっしゃい! 腹ごしらえにどうだい!」と輝く笑顔で声を張り上げる姿が映り込む。

 そんな愛想のいい店主もいれば、職人肌の頑固おやじのような、鉄板に集中して見事な技を魅せる者もいた。

 試食と称して、店先に商品の一部を紙の小皿に置いて呼びかける、商魂たくましい店主も目に入る。

 

 祭りの店主は十人十色。こんな店主たちも、祭りを盛り上げる魅力のひとつなのだ。目を飽きさせない、空腹を呼び起こす、商品を買わされて、うまいうまいと舌鼓を打つ。そんな祭りを楽しむ者が大勢いる。

 

 

 

 濃い味の屋台を抜ければ、今度は甘い匂いが空気にもたれかかってくる。昔懐かしの砂糖と卵の匂いを漂わせるベビーカステラ。あんこの芳醇な香りを熱と共に運んでくるたい焼きの屋台。

 匂いだけにはとどまらない。目で楽しませてくるのは、キャラクターを模った棒つき飴細工だ。国民的アニメのキャラクター、今流行りの戦隊物、特撮など、造形を簡略化しつつも種類に凝っている。

 鮮やかな赤色が目に飛び込んでくると、ビニール袋に包まれ可愛らしく明るい色のラッピングリボンで口を縛られたりんご飴なのだと気が付いた。当たりはずれの振れ幅が大きく、腹への負担も大きい、間食というには重い一品だ。飴細工に阻まれて、中のりんごにたどり着けなかった者も少なくないだろう。

 対照的に、白く軽い雲のようなお菓子を手に持つ子どもたちが歩いている。視線をたどれば、そこには綿菓子の屋台がある。作動した機械に棒を入れて、客自身が作るシステムの店らしい。親子連れがよくその屋台の前に並んでいる。楽しそうに笑顔が咲いている。

 

 

 

 カランコロン、カタカタ、と早いリズムがすぐ目の前で刻まれる。

 気が付けば、良悟は手を引かれ、エレナが先頭に立っていた。

 

 食べ物のエリアから抜け出せば、店の前でしゃがみ込む人々が増えてきた。ポイを片手に、一喜一憂の声が湧くのは金魚すくいの屋台だ。橙色、黒、白の三種類が、ビニールプールの中を所狭しに泳いでいる。

 水色のプラスチックケースの中に、水と共に入れられているのは水ヨーヨーだ。釣り針のようなものに頼りない紙を結んで持ち手にして、水ヨーヨーの持ち手の輪ゴムに引っ掛けてとる仕組みだ。時折地面に落ちている綺麗な色のゴムの切れ端は、大体が落として破裂した水ヨーヨーだ。金魚すくいに勝るとも劣らない盛況を見せている。

 

 親子一緒に、あるいは玄人風の大人が集まっているのは型抜き屋だ。机の上に顔をこれでもかと近づけて、目を皿にして画鋲を片手に挑戦する姿に、大人も子供も大差はない。他と違う点があるとすれば、人は集まりにくいが、机と椅子がしっかりと備え付けられているところか。子どもと親にやり方を教えている、坊主頭に鉢巻を巻いて「祭」の法被を羽織っている、店主らしき爺さんの笑顔がよく光る。

 

 

 

 そんな祭りの様子を見まわしていたからこそ、良悟は油断していた。

 腰元に、強い衝撃が走って思わず倒れ込みそうになる。慌てて地面に手をついた時には、自分が誰とも手を繋げていないことに気が付いた。

 

「――エレナ!?」

 

 慌てて顔を上げて前を見てみれば、すでに彼女の姿はなく、人混みが視界を覆いつくしていた。完全にはぐれてしまったことに、良悟の顔から血の気が引いていく。見つけ出さないと、と足に力を込め立ち上がろうとした時だった。

 

「――っ」

 

 子どものすすり泣く声が、彼のすぐ横から聞こえてきた。思わずそちらを見てみると、しりもちをついて、地面に水風船の残骸を落とした男の子がいた。

 

「っ、――ごめん、大丈夫か? ほら、ちょっと顔出して」

 

 一瞬、前方の人混みに視線を走らせたが、良悟はその場に膝を落ち着けて、ポケットから取り出したハンカチで男の子の涙を拭い、背中をさすって目線を合わせた。

 

「水風船、台無しにしてごめんな? 代わりに、兄ちゃんが新しいのとってくるから。だから、泣き止んでくれないか?」

「――ちがうっ」

「違う? えっと、お尻痛かったのか?」

 

 ふるふる、と男の子は首を横に振って答えた。一体、どういうことだろうか。受け答えは、思いの外はっきりとしている。どうして泣いているのか、それを考え出して――

 

 ふと、男の子の親がここまで介入してこないことに疑問を抱いた。思わず周りを見てみるが、保護者らしき人物はどこにもいない。この男の子に視線を向けて、あるいは様子を見守って、足を止めている人間がどこにもいない。

 

「――親とはぐれたのか?」

「……お姉ちゃん、と」

 

 そうきたか、と良悟は思わずこぶしを強く握り締める。

 確かにエレナとはぐれたのは失態であり、すぐに探し出す必要があるけれど。まさかこんな幼い(まだ幼稚園児程度の)男の子を放って立ち去るわけにはいかなかった。

 

 連れていくなら、祭り会場本部だろう。会場全体にアナウンスできる場所はそこしかない。去年の記憶が確かなら、本部は進んできた道を逆走しなければならない。エレナがいる方向とは、とても思えない。

 

「歩けるか? 祭りの本部テントに行って、お姉ちゃん探そう。アナウンスもできるから、絶対に見つかるさ」

「……うん」

 

 それでも、良悟は男の子の手を取って、来た道を引き返した。

 しかし、振り向いてすぐのことだ。水ヨーヨーの屋台が目の前に現れた。相変わらずの盛況ぶりで、親子連れの笑顔が咲いて、歓声に包まれた空間だ。

 

 そんな場所を横切ろうと一歩踏み出したとき、強く手を引きそうになる感覚に思わず足が止まる。どうしたのか、と振り返ってみてみれば、男の子は水ヨーヨーの屋台を遠目に、眉を八の字にゆがめて唇の端を噛んでいた。

 

「……よし。ちょっと行こうか」

「えっ?」

「あの屋台。一回くらい遊んで、ついでに本部の場所聞こう。正確な場所、実はわからないんだ」

「で、でもぼく、おかねもってないよ?」

「兄ちゃんの奢りだ。水ヨーヨー、台無しにしちゃっただろ? 弁償ってことでな」

 

 そう言いくるめると、良悟は男の子の手を引いて屋台の前まで進んだ。

 

「おっちゃん、2回。この子の分と俺の分」

「おっ、新田さんとこの坊主かい。あいよ、400円……まいどあり! にしても、そこの子は? 島原さんとこの坊主じゃないだろ」

「ちょっと冒険してるんだ。今は本部を俺と一緒に探す旅に出てる。ほい、これで水ヨーヨー吊り上げて、こっちの器に釣った水ヨーヨー入れて。紙のところは水につけずに、カギだけ水につけて引っ掛けるんだぞ」

「う、うん。ありがとうございます」

 

 男の子は恐る恐る、といった様子で慎重に、紙(これをコヨリ紙という)の持ち手を摘まみながらW字カギを少しずつおろしていく。まるで、真実の口に恐る恐る手を入れているかのような様子だ。

 

「で、おっちゃん。本部って具体的に何処だっけ」

「この道まっすぐいって、鳥居を右に曲がってしばらくしたらでっかいテントがある。祭りの法被着てる人間がいっぱい居れば大正解だ」

「ありがとう。じゃ、お礼に水ヨーヨー全部掻っ攫っていくか」

「それお礼じゃねえだろ。ちったぁこの老いぼれに情けの一つもかけとくれよ」

「じゃあ2個で勘弁しとくよ」

 

 そんな軽口を叩いた後、良悟もコヨリ紙を摘まんで水面にカギをたらそうとして――

 

「わっ! とれた!」

「おっ、坊主やったじゃねぇか!」

「おおっ、上手だな――あっ」

 

 男の子の声に反応して、横を向いたのがいけなかった。喜色満面、といった様子ですっかり周囲に溶け込んだ様子の彼を見ながら、カギをたらしたのがいけなかった。

 良悟の持っていたコヨリ紙とカギとをつなぐ結び目の部分が、水に浸ってしまったのだ。

 

「おいおい、そっちはあんな強気なこと言ってボウズか?」

「まだ、まだいける……! ほんの少し、ほんの少し耐えてくれればいける!」

 

 カギを水風船の持ち手の輪ゴムに引っ掛けて、恐る恐る、上に吊り上げようと力を入れた瞬間――

 

 ぱつん、と情けない音と共に、指から重みが消えた。代わりにぽちゃん、とむなしく何かが沈む音が、祭囃子の中に消えていく。カギは既に水底に到達していた。

 

「で、誰だっけ? ここの全部掻っ攫う、とかほざいていた兄ちゃんは?」

「くっそ、ここぞとばかりに……!」

 

 店主に煽られて、思わず財布に手を掛けそうになるのを寸でのところで堪えた。ここで乗ったら相手の思うツボだとか、大口叩いた後に金で解決するのはカッコ悪いだとか、理由をつけて財布に伸びた手を何とか下した。

 

「やった、2つめ!」

「お、いいねぇ。でも、そのコヨリ紙の様子じゃ、あと1個ギリギリとれるかどうかだな」

「よし、3個目とっておっちゃんに泡吹かせてやれ!」

「はっはっは! こんな小さい坊主に3個とられちゃ、確かに泡吹いちまうな!」

 

 手慣れてきたのか、男の子は最初の慎重な様子はどこへやら。手早くカギだけを水につけると、輪ゴムにカギを引っ掛けて上に吊り上げる――

 

 ――ぱつん。

 

『あっ』

 

 男の子と良悟の声が重なった。3個目は惜しくもとることができず、軽い水しぶきと共に水ヨーヨーは着水。カギは水底に沈んでしまった。

 残されたのは、片方の手に持つ2個の水ヨーヨーが入った器に、ちぎれたコヨリ紙だ。

 

「いやいや、2個は大健闘だったな! 少なくとも、そこの兄ちゃんよりはずっと優秀だ!」

「おっちゃん……まぁ、うん。1回で2個とるなんて、凄いぞ」

「う、うん……!」

 

 照れくさそうにはにかみながら、男の子はコヨリ紙の持ち手を大事そうにギュっと小さな手で握りしめた。店主のおっさんは手早くビニール袋を取り出して景品をまとめようとしたところ、男の子はさっさと器の中から水ヨーヨーだけ取り出して、器を店主に差し出した。

 

「おう、ありがとよ。ところで、袋にまとめなくていいのか? 2個持つっていうと、なかなか邪魔になるもんだが」

「その、1つはお兄さんに」

「――あ、俺?」

「おごってもらったおれい、できてないから」

 

 はい、と水ヨーヨーを差し出してくる男の子に、良悟は一瞬躊躇して――不安そうにこちらを見つめてくる男の子の視線を受けて――サンキュ、とお礼を口にしながら水ヨーヨーを受け取った。

 

 ふわり、と男の子の表情が柔らかく綻んだ。

 釣られるように、良悟もまた口の端を吊り上げて歯を見せて笑いかけた。

 

「じゃあ、行くか。おっちゃん、ありがとな」

「おうよ。ちゃんと目的地まで迷わないようにな!」

 

 激励の言葉を背に、良悟は男の子の手を引いて歩き出す。

 パン、パンと水ヨーヨーで遊ぶ音が聞こえてくる。風船の小気味のいい音に合わせて、自然と足を前に出す。気分は歌う探検隊といったところか。小さな歩幅にゆったりとした歩調だが、握られた手は勢いよく前後に揺れている。

 

「そういえば、名前は?」

「えっ?」

「アナウンスする時に知ってなきゃ困るからな。それとも、自分で言えるか?」

「……」

 

 男の子はうつむいて沈黙した。知らない人に名前を教えてはいけない、とでも教えられているのだろう。育ちがいいとはこのことか。昔の自分を見ているかのようなもどかしさに、思わず苦笑が漏れる。

 

 沈黙の間に、鳥居にたどり着いていた。店主に言われた通り右折するが、逆流してくる人の波もありどうにも進みにくい。思わず男の子の手を強めに握りなおした。

 

 男の子は、ふと弾かれるように良悟の方を見上げた。くりんと不思議そうに開かれた瞳を受けても、良悟は気づいた様子もなく真剣に前を見据えている。

 

「……りっくん」

「ん? そう呼ばれてるのか?」

「うん」

 

 そうか、と良悟はひとつ頷くと、人の波が引く場所まで歩き続けた。そして、ようやく一度足を止められる場所まで来ると、彼は手を繋いだまま膝をついて、男の子りっくんと視線を合わせた。

 

「俺は良悟だ。短い間だけど、まぁ冒険仲間としてよろしくな、りっくん」

「っ、うん!」

 

 お互いに強くうなずき合うと、良悟はりっくんの手を引いて再び歩き始める。

本部はもう、目と鼻の先だ。

 

 

 

 本部に到着すれば、あとはとんとん拍子に話が進んだ。すぐに迷子案内のアナウンスが流される。保護者がくるのも時間の問題だろう。

 

「へぇ。りっくんはサッカーが好きなのか。プレイする方? それとも観る方?」

「りょうほう」

「そいつはいいや。俺も両方なんだ。これでもサッカー部なんだ」

「うん。なんとなく、サッカーやってそうかな、って」

「……俺、そんなにサッカー部って見た目してるのか? まぁいいけど」

 

 迷子を届けたからすぐに別れる、というわけにはいかなかった。一人になってしまえば、また何かと心細くなるだろう。そう思い、良悟はエレナの捜索にすぐに出発せず、そのまま本部に居座ってりっくんとおしゃべりに興じていた。

 

 話していくうちに、思いの外、共通点が見つかるものだった。特に、ある意味で迷子仲間ともいえる点と、サッカー好きということが大きかった。話は次第にサッカーの方に傾いていき、どこのポジションが好きか、どんな選手が好きか、といった話になってくる。

 

「その、良悟お兄さんは、サッカーうまいの?」

「俺? ……さすがにプロ入りとかはできるレベルじゃないしなぁ」

 

 ふと蘇るのは、春の大会予選決勝。自分のパスミスから、決定的に崩れた試合。最後、ゴールを決めきることができなかった自分の姿。

 思わず、顔がこわばるのが自分でも理解できた。自覚して咄嗟に首を横に振り、記憶を打ち消そうと思考を切り替える。現実に目を向けて、何か気を紛らわせられるものがないかと視線を走らせた。

 

 そこで、ふと箱の中におさめられていたボールに目が向いた。バスケットボール、ソフトボール、バトミントンに……サッカーボールもある。

 ちょうどいい、と良悟は係の人に「サッカーボール、借りていいですか?」と声を掛ける。返ってきたのは二つ返事の肯定の言葉だ。それに対してお礼を口にすると、良悟はさっさとサッカーボールを持って、水ヨーヨーをりっくんに預けると、テントの奥にある空き地の方に足を運んだ。

 

「じゃあ、リフテイングやってみるぞ」

 

 りっくんにそう言うと、良悟は地面にボールを置いた。そして一度だけ深く息を吸い、細く吐き出すと、それが開始の合図となった。

 つま先から足の上にのせてボールをすくい上げた。まるで羽毛のように軽やかに宙を舞うボールを、良悟は一度膝で触った後、足の甲を使ってリフティングを継続させていく。

 

「あっ!」

 

 リフティング、ボールにタッチして十回ほどで良悟は変化をつけた。

 足の親指でボールを擦るようにタッチすると、その勢いのまま股関節を上げて、外側から内側にかけて(内回しに)ボールを跨いでみせた。そのまま、リフティングは何事もないかのように続いていく。

 

 それは、アラウンドザワールドと呼ばれるリフティングの回し技だ。それを見たりっくんは目を輝かせて、歓声を上げて良悟の姿に視線が釘付けとなる。

 

「ほいっと」

 

 そんな観客に機嫌をよくした良悟は、内回し、外回し、外回し、内回しといった具合にアラウンドザワールドを連発した。すごい、すごい、と響く声。良悟はニッと口の端を吊り上げると、今度は左足でボールを一度蹴り上げると、右足でそのボールを跨ぎ、左足でもう一度そのボールを蹴り上げて自分の肩ほどにボールをもってきた。ドラゴンフライという技だ。

 

 そのまま流れるように左肩でボールを受け取ると、右肩までボールを転がして肩を使って宙にあげてヘディングを一回。

 落ちてきたボールを足の側面で拾い上げると、その足の側面をもう片方の足で跨ぎボールを蹴り上げる。エクリプスという技に、りっくんは「すごい!」と高らかに声を上げた。

 

 再び落ちてくるボールを後ろ両足で挟み巻き上げてハットトリック――かと思えば、その上げたボールを足の裏にのせて静止。そしてボールを落として同じ足の踵で蹴り上げた。クロスリールからソールストールの合わせ技だ。

 技はそれだけに終わらない。落ちてきたボールを右足で擦りつけて滞空させると、まずは右足で外側から内側に向けてボールを一回跨ぎ、そのままジャンプして左足で外側から内側にボールを跨ぎ、その左足で落ちてきたボールを拾いなおす。フェアリーレッグオーバーを披露してみせた。

 

 さらに、拾いなおしたボールを今度は右足で内側から擦りつけて滞空させると、それを内側から外側に跨ぎ、左足で外側から内側に向けてボールを跨いで魅せる。アウトアラウンドザールドとレッグオーバーを組み合わせた技、オーバーザワールドだ。

 

「わぁ――!」

 

 ここから、良悟の表情からゆとりが消えた。真剣にボールを見据えて、技を出した後の左足でボールを蹴り上げると、左足を大地につき。右足で外側から内側にボールを跨ぎ――そしてまた高速で、外側から内側にボールを跨いでみせると、右足でボールを拾い上げる。一度のボールの滞空でレッグオーバーを二回行う、ダブルスイッチオーバ―という高難易度の回し技だ。

 

 さらに立て続けに、今度は左足で行うダブルスイッチオーバ―をみせた。

 右足、左足が高速でボールを跨ぐ姿に、りっくんの興奮は最高潮に達していた。何がどうなっているのか、目で追っても理解はできない。けれど、それが凄いことだということだけはわかってしまう。

 空き地の両端に設置されている電灯が、スポットライトのように良悟を照らしている。まるで、ひとつの舞台をみているかのような光景は、いよいよ次で大詰めに入ろうとしていた。

 

 一度ボールを蹴り上げる間に態勢を立て直すと、良悟はいよいよ最後の技を繰り出した。

 右足でボールを蹴り上げ、その右足で外側から内側にボールを跨ぐと、今度は左足で立て続けに外側から内側にボールを跨ぎ、そして再度右足で外側から内側にボールを跨いで――

 

 ――着地した左足が負荷に耐え切れず崩れ落ちる。尻もちをついた時、ボールは既に地面に水平になった足のすぐ上まできていた。

 

 エルドアラウンドザワールド。

 内回しで蹴り上げたボールを両足交互に三回跨ぐ大技。三回跨ぐまではよかった。しかし、最後の詰めで蹴り上げる工程までたどり着けなかった。――失敗だ。

 

 そしてその技が出たのは、良悟の咄嗟の判断によるものだった。

 尻もちをついてすぐ、良悟は落ちてくるボールを右足で蹴り上げると、左足でボールを外側から内側に跨いでみせた。リボルブという、シッティング……座ったまま行うリフティング技のひとつだ。

 これを3回、何とか繰り返して、最後はボールを足の裏に乗せて静止。ソールストールを披露した後、彼はそのボールをふわっと宙に浮かせると、落ちてきたそれを自分の両手でしっかりとキャッチしてみせた。

 

 

 

 失敗は、何とか失敗に見えなかっただろうか。

 恐る恐る、りっくんの方に顔を向けると――

 

 両手をギュっと強く握りしめて、口を大きく開いて瞳を輝かせる、彼の姿が目に入った。

 最後は失敗したけれど、魅せることには成功した。

 

 目的を達成したことに、良悟はひとつ息を吐いて肩から力を抜いた。そうして一度前屈を何となしに行うと、額に張り付いた髪を手で払ってから立ち上がる。尻もちをついたときについた砂を叩きながら、ニカッと口の端を吊り上げてりっくんの方に歩き出す。

 

「で、どうだった?」

「――すごい!」

 

 その言葉に、態度に、すべてが詰まっていた。良悟はそれに「おう」と相槌を打つと、ほがらかに破顔してみせた。

 

 

 

「――あの、りっくんをここまで連れてきた方ですよね?」

 

 そんな時間が程よく過ぎて、風に吹かれて汗が乾いて寒気を覚えてきた頃合いのこと。りっくんの隣にいつの間にか居た、目つきの鋭い黒髪長髪の少女が良悟に声を掛けてきた。

 そちらを見てみれば、りっくんとしっかり手を繋いでいる少女の姿がある。少女の正体は一目瞭然だった。

 

「まぁ、成り行きで。保護者が来たなら、もう安心だな」

「……その、ありがとうございました」

 

 腰を深々と折って、少女がお礼を口にした。

 少女からのお礼に、良悟は「どういたしまして」と口にすると、それだけで話を切り上げた。代わりに、りっくんの前に膝をついて視線を合わせた。

 

「もう、姉ちゃんの手を離したらダメだぞ? りっくんには俺がいたけど、姉ちゃんには誰もついていなかったんだからな。だから、姉ちゃん守ってあげるためにも、ちゃんと手は繋いで離しちゃダメだぞ、男の子」

 

 くしゃり、と頭をなでると、りっくんは「うん!」と元気よく笑ってみせた。もう大丈夫だろう、と良悟はひとり頷くとすぐに立ち上がった。

 

「じゃ、俺もこれで。縁があれば、またな」

 

 良悟は本部にさっさとボールを返すと、振り返ることなく本部テントから駆け出して、雑踏の中に紛れてしまった。

 

 さながら、正義のヒーローのような後姿に、りっくんは最後まで目を輝かせて手を振っていた。

 

 

 

 もう片方の手に引っ掛けていた二つの水ヨーヨーの持ち手が、遠心力に従って絡み合うのであった。

 

 

 

 

 

 

「なんで、ここがわかったのかって?」

 

 言葉をうまく話せない。何を言っているのか、大体のニュアンスはわかるようになっていたが、まだ明確に聞き取るには程遠い。

 そんな時分に、彼女は迷子になったことがある。人混みの中で誰かとぶつかって、手が離れて、人の波にさらわれて。気が付けば、ある場所に流されて、そのまま踊りに参加して。

 

 遠巻きに見ていた彼を見つけた時には、彼女は彼に飛び込んで抱き着いた。湿って冷たくなっていた服に気にすることなく引っ付くと、彼女はどうしてここがわかったの、と声に出したが、伝わった様子はなくて。だから、首をかしげてジェスチャーで聞き出そうとした。

 そうすれば、彼にはうまく伝わった。頷いてみせれば、「そりゃなぁ」と彼は人々が踊っている姿に視線を移した。

 

「おどるの、好きだろ? なら、音につられてここに来るだろ」

 

 

 

 それがすべての始まりだった。

 祭りではぐれたら、必ず良悟は見つけてくれる。だからこの場所で元気に踊っていよう、と彼女が思えるようになったのは。

 

 踊れる場所にいるならば、良悟は必ずエレナを見つけ出す。

 だから、エレナは良悟に念を送り付けるように、想いを込めて舞い踊る。

 

 

 

 

 

 

 ステップひとつ。足の指先まで美しい線を描きながら、ゆとりをもって着物の裾が小さく揺れる。しなやかに、指先まで芯の通った腕の動きは、緩やかではあるものの力強さをもって宙を掻く。まるで、書道家の一筆のような美しさがそこにある。

 

 瞳は細く、視線は儚く。希薄に移ろいゆく目線の動きは、炎の奥に見える光景……陽炎のように捉えどころなく、彼女の踊りを上品に色づけた。落ち着いた色合いの着物によく映える、艶やかな舞である。

 

 元気よく、はつらつとした太陽のような様子はすっかり鳴りを潜めていた。彼女の常を太陽とするなら、それは月のように静謐で、それでも後光のように彼女の存在を主張する情熱の舞。

 力強さを内に秘め、祭囃子に合わせて舞い踊る。足運びは軽やかに、地面に擦らず水平に。手先で宙を掻けども空切らず。重心移ろい視線は彼方。おぼろげな瞳の奥に炎を宿し。情熱乗せて想いよ届け。

 

 

 

 ――ワタシはココにいるヨ

 胸の前に手を当てて、一歩前に出る。

 

 ――捜して、見つけてほしいナ

 空を見上げて、はるか彼方に手を伸ばす。

 

 ――わかってるヨ

 俯いて、手をおろすと、そこから掬い上げるように横に手を掻いた。

 

 ――だからネ

 視線を移ろわせると、観衆の中に額に髪の毛を張り付けた彼が目に映る。

 

 ――ハッピーな今を見せてほしいナ

 そんな彼に手が伸びるが、すぐに引っ込めると宙を掻いて誤魔化した。

 

 ――早く、答えを聞かせてネ

 舞はそこで唐突に終わった。彼女は良悟の方にゆったりとした歩調で近づくと。

 

 良悟の手を両手で握りしめて、まっすぐ彼のことを見つめて口にした。

 

 

 

Toda noite sonho com voce.(毎晩あなたのことを夢に見るの)

 

 だからもう一度、口にしよう。

 幼い日に、最初に見つけてくれた彼に向けて口にした言葉を。

 

 もう意味のない、燻っていたものだと思っていた気持ちの蓋を外して。

 今一度、あの日の言葉を口にする。

 

 

 

Te amo.(愛してる)

 

 

 

 耳元で囁かれるように小さく、それでも確かな意思を込めた力強い言葉は、彼の耳に届くと同時に祭囃子の中に溶けていく。

 

 当たり前に縋る時間は、もう終わったのだ。

 だから、長く、ずっと叶っていたと思い込んでいた想いを言葉にする。

 

 

 

「ワタシが燃え尽きちゃう前に、聞かせてネ?」

 

 良悟は、その言葉を受けて目を見開いて固まった。意味を理解しているのか、それとも意味が分からず驚いているのか。

 エレナには、わかっていた。彼がどうして目を見開いているのか。手を繋いでいれば、すぐにわかった。繋いでいなくても、きっと理解することはできた。

 

 頬を薄く染めて、濡れた瞳を揺らして彼のことを見つめるその姿に。

 良悟は言葉を返せず、ただ彼女の手を無意識に握り返すだけだった。

 

「絶対に、聞かせてネ?」

 

 念を押すようにもう一度口にするときのエレナの表情は、恐ろしいほど端麗に真剣味を帯びていた。思わず、その表情の気迫に良悟が息を呑むと――

 

「――リョーゴも一緒に踊ってネ。約束してたもん!」

 

 いつの間にか彼女の表情は、この場を楽しむヒマワリのような笑顔が咲いていて。

 良悟は気が付けば、エレナにリードされながら一緒に踊っているのであった。

 

 




エレナと良悟がはぐれてしまったのは、果たして偶然か?
秘めた想い、当たり前という蓋を外して、彼女はついに言葉を口にした

近すぎた二人の関係とは、果たしてどんなものだったのか。



次回に乞うご期待。
感想、評価、コメント、お気に入り登録、などなどお待ちしております。少しでも彼女たちの魅力を描けるように、これからも精進してまいります。



今年もまた、私の二次創作にどうか、お付き合いいただければ幸いです。
あけまして、おめでとうございます これからもどうか、よろしくお願いいたします


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第十話 純粋な心

まず最初に、感想、そして評価、お気に入り登録の方、まことにありがとうございます!
そのご期待、評価を裏切らぬように、精進しながら書かせていただきますので、どうかこれからもよろしくお願いいたします

それでは、本編をどうぞ




 決めていたつもりの覚悟も、劇場の前に来ると足がすくんで動きが止まる。楽な方に逃げようと、悪魔が頭の中で囁きかけてくる。

 まるで、繊細な飴細工を炎に近づけているようだった。劇場に近づけば近づくほど、胸が痛くなって、思考が乱雑に散らかってまとまりがつかなくなる。

 

 これを胸にしまい込んで、すべて諦めてしまえればどれだけ楽なことか。

 そんな考えが頭の片隅にチラついた途端、エレナは首を横に振って前を向いた。胸を張って、いつものように堂々と劇場の入り口を通り抜ける。

 

 劇場の中に入ると、また一段と肩に重荷を乗せたような重圧を覚えた。そんなことはないはずなのに、エレナには劇場の空気が鉛のように重く感じた。水中で体を動かしているような動きづらさを覚えた。まるで、海の中にいるように。息が苦しくなって、胸に鈍痛が走って。

 

 それでも、エレナは背を伸ばして前を向いて歩き出す。

 

 

 

「あっ、エレナ。話したいことって言ってたけど、どったの?」

 

 休憩室では恵美が、いつもの様子で待っていた。メッセージを送ったのは今日の朝のことで、時計は予定通りの時間を示している。首をかしげて不思議そうにエレナを見つめている。あまりにも普段通りで、陽だまりのように心地の良い日常的な光景だ。

 

 だからこそ、エレナは喉に言葉を詰まらせた。

 この言葉は、そんな日常すべてを壊し得る爆弾だった。恵美との関係が完全に壊れて戻らなくなるかもしれない。良悟との関係もこれから修復不可能なほど、ズタズタに引き裂かれてしまうかもしれない。

 

 ――何より、恵美を悲しませる、辛い思いをさせてしまうこの言葉を吐き出すことに、エレナは躊躇した。

 

 エレナの視線が下を向いた。

 そんなエレナを前にしても、恵美は何か催促するわけでもなく、ただ静かにその場に佇んでいる。エレナからの言葉を待ち続けている。

 

 その沈黙が、エレナの喉に詰まっていた空気を吐き出させた。安堵するように、ホッと息が飛び出たのだ。そのことに、思わず驚いたのはエレナ自身で、目を丸くして弾かれるように顔を上げると――

 

「――メグミ」

 

 そこには、包み込むように静かに微笑み佇む、恵美の姿があった。

 心地がいいのは、当たり前だった。

 

 だからこそ、エレナは今度こそ、恵美のことを真っ直ぐに見つめて言葉を口にした。

 

「ワタシはネ、リョーゴのことが大好きだって……ううん、愛してるノ」

「――うん」

 

 恵美は、エレナからの爆弾発言に表情を崩すことなく、微笑んだまま頷いて見せた。

 

「今は、メグミがリョーゴのガールフレンドだけどネ」

 

 でも――とエレナは覚悟を決めて表情を引き締め、その言葉を言い放った。

 

「リョーゴのファミリーになるのは、ワタシだヨ」

 

 それは、エレナから恵美に対する最大の挑戦状だった。

 同時に、恵美に対して最大限の信頼でもあった。

 

「……ね、エレナ。どうしてアタシに正直に、まっすぐに、話してくれたの?」

 

 恵美は包み込むように微笑んだまま、エレナの瞳を覗き込むように聞いた。

 エレナはそれに対してただ真っ直ぐに視線を返すが――

 

 くしゃり、と途端に引き締めていた表情が崩れる。瞳に涙が溜まっていき、抑えていた感情が胸の内側から決壊した。頬に伝う水滴、濡れていく自分の顔を自覚して、思わず俯きそうになるのをグッと堪える。涙を拭う手も今はいらない。涙を隠す必要もない。ただ彼女は、恵美に自分の本心を伝えるためだけに、口を開いた。

 

「メグミに嘘は吐きたくないヨ……!」

 

 そんな小さな悲鳴が、恵美の固まっていた表情をわずかに動かした。

 エレナはしかし、そんな恵美に気づけない。言葉を言い切ると、俯いて何とか涙を拭き切ろうとする。ここで泣いてしまうのはフェアじゃない。だから、次に見せる顔は挑戦的な笑顔じゃないといけない、そう思い込んで。

 

 嘘は吐けない、という約束を守るための言葉じゃない。

 嘘は吐きたくない。それはまさに、エレナの感情を示した言葉だった。

 

 できるけど、したくない。その言葉が、どれだけ選び抜かれたものだったのか。

 自覚、無自覚に関係なく、恵美には確かにエレナの気持ちが伝わってきた。

 

「エレナ、ありがと。すっごく、嬉しかった」

 

 俯いたエレナを抱きしめて、恵美は子どもをあやす様に彼女の後頭部に軽く手を添えた。

 

「これからも、親友としてよろしくねっ! でも、恋はライバル。それでいいじゃん」

 

 そして恵美は軽い調子で、いつものように言葉を紡いだ。簡単なことでしょ、とでも言いたいように。彼女はその言葉を嘯いた。

 

「うん……うん!」

 

 エレナは恵美の言葉に、涙声で首を縦に揺らしながら答えた。

 恵美はただ、彼女を受け止め続ける。

 

 お互いの表情は、お互いにわからない。抱き合っているために確認する術がない。

 それでも、エレナはきっと笑顔を見せてくれるだろう、と恵美は確信をもっていた。その確信が、胸の内を温かくしてくれる。

 

 だから、恵美は耐えられた。

 

(……ゴメンね)

 

 エレナは自分のことで精一杯で、気づけなかった。

 所恵美という少女のことを知っているのなら、誰もが気づけた違和感に。

 

 エレナが覚悟を決めたように。

 所恵美もまた、ひとりの少女の親友として、覚悟を決める。

 

 その時、彼女が唇の端を噛み締めて、目じりに涙を溜めていることに気づける者は。

 恵美自身を含めて、誰もいないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昔、まだ幼い日のことだ。

 子ども心に彼は祖母に聞いたことがある。

 

「どーして、お月さまはどこから見ても同じ場所にいるの?」

 

 祖母は、月明かりの中で優しく微笑みながら、静かに言い聞かせるように答えた。

 

「それはね、良悟のことが大好きだから、見守って、追いかけてくれているんだよ」

「へぇ! じゃあ、お星さまも?」

「そうだねぇ」

「そっかぁ……」

 

 今にして思えば馬鹿な話ではあるが、幼心には不思議と嬉しくて、感動的な話だったことを覚えている。

 難しいことを説明するのではなく、幼心に訴えかける祖母の言葉には、魔法のような力があった。

 

 だから、当時は目を輝かせて月を見て、星を見て、彼はこう言った。

 

「じゃあ、仲良しだね! お月様ともお星さまとも。あっ、お日様ともかな!」

 

 星は、いつも自分のそばにいてくれる。どんな場所にいても、どんな時間だとしても。

 空さえ見えれば、星はいつだって見守ってくれていた。

 

 

 

 

 

 

「だから、落ち込んだ時には星を見に行くんだ」

 

 良悟から聞かされる身の上話に、恵美は思わずポカンと固まった。

 

 恵美からデートに誘って、とにかく話を切り出そうとして、言葉がのどに詰まった矢先のことだ。

 彼はそんな恵美を見かねたのか、それとも何か感じるものがあったのか。唐突に「プラネタリウムに行こう」と言い出したのだ。

 

 突然の申し出に、恵美は言葉を返す間もなくふわりと手を引かれながら。

 彼は歩きながら、恵美にそんな祖母との思いで話を言い聞かせた。

 

「祖母ちゃんが、何でそんなこと言ったのかわからない。だけど、そう考えた方が楽しいなって、そう思えるくらいにはなった」

 

 良悟のそんな言葉を聞いて、恵美は「確かに」とひとり心の中で頷いた。小難しい理論より、恵美にとっては夢とロマンと幼心に満たされたその話の方が好みだった。

 

「……どーして、プラネタリウムに行こうって?」

「今言った通りだよ。恵美を元気づけるには、お星さまのご加護が一番だってな」

 

 良悟は恵美の前にいるせいで、恵美からはどんな表情をしているのかはわからない。だが、その声音は少しおどけたように、軽い調子で口に出されたものだ。

 

 恵美はキュッと胸の前で手を握りしめた。ズルい、と思わず吐き出しそうになる口を慌てて閉じた。

 本当は伝える決心をして誘ったデートであったはずなのに、主導権はいつの間にか彼女の手からこぼれ落ちていた。

 

「どーして、そんなに優しくしてくれるの?」

 

 無意識に出た言葉だった。しまった、と思った時にはもう遅く、良悟の耳には確かに届いていた。

 

「優しい……? そういうもんか?」

 

 しかし、良悟は自らの優しさを自覚した風もなく、恵美の方を振り向くと心底不思議そうな顔で首をかしげてみせた。前をチラチラと確認しながら、彼は言葉を継ぐ。

 

「普通だと思うけどな。恵美だってそれが普通だろ?」

「――えっ」

 

 ドキッ、と心臓が大きく跳ねた。まるで見透かされたような言葉に、背筋が凍るような感覚が走る。

 

「エレナのこと、よく気にかけてる。気遣いができるって、優しいってことだろ? それと一緒だ」

 

 その言葉に、恵美の口から思わずホッと息が漏れた。

 

「リョーゴくんの方が細かいと思うけどなー」

「恵美の方が気遣い方うまいけどな」

「ぶきっちょだもんね」

「自己評価低すぎ」

「それこっちのセリフだし!」

 

『――ぷっ』

 

 お互いに、示し合わせたかのように同時に笑いが漏れる。

 良悟は前を向いて喉を鳴らし、恵美は「にゃはは!」と声を上げた。

 

 冗談交じりに軽口を叩き合う。そんな雰囲気が、楽しくて仕方がなかった。そんな時間だけは、後ろから迫ってくる嫌な何かを忘れさせて、前を向かせてくれるのだ。

 

 

 

 プラネタリウムの中は、真夏だというのにクーラーが効きすぎているくらい肌寒い。さすがにこれは、と良悟は眉をひそめながら恵美の方に視線を向けてみれば、両手を握って少しだけ揺れている姿が映る。だから、良悟は薄手の上着を脱いで恵美の方に渡した。

 

「えっ?」

 

 席に座って、突然渡された上着に恵美はキョトンと首を傾げた。良悟はその顔を見ながらひとつ頷いて見せる。

 

「かけるか、着るか。どっちでもいいけど、気持ち悪くないなら羽織っとけ。寒いだろ?」

「いや、これ着たらリョーゴくんが寒いんじゃ……」

「男の子は風の子元気の子だ。なんたっていつまで経っても子どもだからな」

 

 そういうと、良悟はさっさと恵美から視線を外して、席に背中を預けて天井を見上げてしまった。反論は受け付けない、という姿勢だった。

 

「サンキュ」

 

 薄手の上着といっても、羽織ればだいぶ変わるものだった。足元は冷たいが、肩から腕にかけて、温かさに包みこまれる。まるで、ふかふかの布団にくるまるような柔らかい温度。上着に残った残り火のような熱を肌に感じて、あれ、と恵美はある考えに至る。

 

(……これって――)

 

 そこまで考えて、今度は違う意味で体に熱が走った。頬が紅潮して、顔と胸にじわじわと熱が溜まっていく。寒い、温かい、という以前に「暑い」と思ってしまうほどに。

 

 良悟が恵美に視線を向けていないのは、今だけは幸いなことで。

 開演するまで、恵美は頭を抱えて悶々と、目を回して恥ずかしさにひとり耐えるのであった。

 

 

 

 ――夏の大三角形。

 デネブ、アルタイル、ベガの3つの星を結んで描かれる、細長い大きな三角形のアステリズムのことだ。

 

 注目すべきところは、七夕伝説においてベガは「織姫」、アルタイルは「彦星」に該当することだろう。

 天帝に結婚を許された織姫と彦星は、結婚生活に夢中になって仕事をしなくなり、それに怒った天帝が二人を天の川を隔てて引き離した。最終的には、1年に1回、7月7日にのみ会うことを許される。天の川にどこからか現れたカササギが橋を架けてくれて、二人はめでたく再会を果たすのであった。大雑把にいえば、そんな話。

 

 

 

 恵美はそんなプラネタリウムの解説に、ドキリと心臓を跳ねさせた。プロジェクターが生み出す満天の星空に目を輝かせていた様子は、夏の大三角形の説明に入ると徐々に曇っていった。

 

 逃げるように、恵美は視線を隣にいる良悟の方に移すと――

 

 

 

 ――幼い瞳をキラキラと天の川のように輝かせ、どこまでも透き通った男の子の笑顔が、そこにはあった。

 

 

 

(――ッ!)

 

 不意打ちに、すぐさま恵美は視線を下に向けて俯いた。

 

(なんで……!)

 

 また熱を持っていく自分の顔を自覚して、恵美は歯を食いしばり、拳を強く握りしめた。

 けれど、視線はまた、良悟の方に向いて、すぐに俯いて。

 

(こんなの、こんなのって……!)

 

 肩が縮こまり、膝の上に強く握られた両手が乗る。プラネタリウムの解説は、もう彼女の耳には入ってきていなかった。

 ただ、視線が自分の手元と良悟の顔を交互に行き交う。

 

(そんな顔、しないでよ……! アタシ、覚悟決めてきたのに。言いたくなくなっちゃうじゃん――!)

 

 心の悲鳴をぶつけて、すべてぶちまけて、何もかもを終わらせることができれば。

 それを勢いで実行できるほど、恵美の気持ちは軽くはなかった。

 それらすべてを振り切って独りで歩けるほど、恵美は強くなかった。

 

 何より、泣いている親友を置いて前に進めるほど、恵美は薄情になり切れなかった。

 

 そんな弱い自分が大嫌いで、恵美は目じりに涙を溜めて、それに気が付くとそっと指で拭い取った。溢れてくるほどではないが、それでも悔しさが募るほど目じりに溜まって、また拭い取って。

 

「――恵美? 大丈夫か?」

 

 小さく、耳元を撫でるように柔らかい声音が届いた。

 驚いて、目を見開いて思わずそちらを向いてみれば、いつの間にか良悟が恵美の方に向いていた。あれだけ星のように輝いていた表情は、もうそこにはない。あるのは、ただ優しく心配そうに見つめてくる彼の顔だけだ。

 

「――ッ!」

 

 言葉にできなくて、あふれ出した感情を持て余して。

 恵美は良悟から顔を背けると、席から立ち上がって出口に向かって走り出した。出口から飛び出すと、プラネタリウムからもその勢いで飛び出して。それが彼女にできる、精一杯の抵抗で。

 

「恵美!?」

 

 良悟はその様子を呆けた様子で見ていたが、恵美が会場から出ていったことに気が付くと、咄嗟に立ち上がって恵美の後を追って会場から飛び出した。しかし、その時には既に、どこを見ても恵美の姿が見つからなくて。

 

 ブルル、と良悟のポケットに入っていたスマホが振動する。慌てて取り出して、ホーム画面を見てみると――

 

『恵美:ゴメンね。先帰る。ほんと、ゴメン』

 

「恵美――!」

 

 人にぶつからないように、それでも全力で走って、外に出てみれば――

 

「……恵美」

 

 ――行き交う人々の波にのまれて、恵美を見つけることはできず。

 良悟はただ茫然と、人の波を見ることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――プラネタリウムに行った日、その夜のこと。

 

 恵美は自室の電気を消して、ベッドの上で膝を抱えてそこに顔を埋めながら、スマホをジッと見つめていた。虚ろな瞳が、書かれた文面を何度も読み返して、その度に目から光は失われていき。

 

 直接言えない自分に嫌気がさして。

 送信をタップすると、すぐに電源を切って、彼女は丸まって目を閉じた。

 

「……ゴメン」

 

 スマホの画面に、涙が雫となって落ち、雫は落ちた衝撃によって飛散する。

 

 出かけた時の服装のまま蹲った少女は、それ以上動けず。

 彼の上着からも、何も感じることはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『恵美:

 今日はゴメンね。

 でも、大事な話があったから、ここで伝えさせて

 アタシたちって

 一応「お試し」で付き合ってたからさ

 

 だから、ね。

 ゴメンね。

 今までありがと。

 

 言いにくかったけど、別れよっか。アタシたち

 

                 さよなら。』

 

 

 




この二人の行方に、エレナと良悟は何を思うのか
恵美は、どんな心境で決意したのか。



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※2020年1月7日10時32分に最後の文章をスマホに合わせて改行、修正しました


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第十一話 本当に?

 

 何か、悪いことをしてしまったのだろうか。

 机の前で立ったまま、自分の行動を顧みて、スマホの画面を見て、また頭を捻らせて。

 

 初デートの際に交換した連絡先も、こんなにも早く無意味と化すとは思わなかった。いや、グループから脱退されていないだけ、まだマシといえるのか。

 

 悪かったのは、何なのか。

 突然、爆発するような別れ。ならば日ごろからの積み重ねによるものだと考えられる。

 

(……いや、日ごろの行い? 本当にそうか?)

 

 ――そりゃ、好きな人と一緒にいるんだから。楽しいに決まってるっしょ!

 

 そんなことを言う彼女が、果たして本当に、何か不満をため込んでいたのだろうか。

 互いの距離は、会う回数を重ねるたびに縮まっていたと自覚している。最後は、軽口を叩き合えるほどには近くなっていた。

 

(近く、なってた筈だ。それが嫌だった? 近づきすぎた?)

 

 良悟はもう一度、文面に目を走らせた。

 ぶつ切りにして、簡潔に、それでも伝えようとする少ない言葉。

 

(……もしかして、俺が壁を作ってるって、思われた? 楽しそうじゃないから、ってことか?)

 

 それを直接聞く気にはなれない。

 そもそも、恵美が直接伝えず、文面だけにとどめた理由を考えると、何かを問いただそうとは思えなかった。

 

「でも、だったらよ……」

 

 メールの文面に視線を落として、こぶしを握る。

 悔しさに唇の端を噛み締めて、彼は絞り出したような声で口にした。

 

「どうして、イヤだとか、大嫌いだとか、拒絶してくれねぇんだよ……! 何でお前が謝って、お礼言ってるんだよ……!」

 

 良悟が諦めきれない理由だった。これが、良悟自身を拒絶する文面なのであれば、大人しく引き下がることができた。嫌い、面倒、見たくない、何でもいい。それだけで、彼は諦めることができた。

 

 だが、文面は一言も、良悟を拒絶してくれはしなかった。それなのに、別れようというその文面が、彼女の心を表しているように見えてならないのだ。

 それくらいに、良悟の諦めは悪かった。この文面を読んで「はい、じゃあ別れようか」と言えるほど、聞き分けがいいわけじゃなかった。

 

 だが、そのためにヨリを戻す方法も、出会う方法もわからない。

 そもそも、別れを告げてきた相手に無神経に会いに行けるほど、良悟の肝は据わっていない。

 

「俺の、何がいけなかったんだ?」

 

 恵美の昨日の行動を思い出す。彼女が走り出したのは、プラネタリウムの公演途中だ。確か、冬の大三角形についての解説の冒頭くらいだったか。

 

(いや、そもそも会った時から様子おかしかったぞ。様子がおかしかったのは、別れを切り出すことへの緊張? 俺に原因があるとすれば、それよりも前……?)

 

 そもそも、会う回数自体少ないのだから、その前と言われれば初デートの時しか思いつかない。

 その一番の原因として考えられるのは、嫉妬か。

 

(……あの恵美が? ファミレスで、エレナの昔話聞いて本気で心配していたのに? ありえないだろ、そんなの。無神経だったかもしれないけど、お互いに共通した親友だろ?)

 

「――言葉にしてくれなきゃ、わからねぇよ……」

 

 机の上にスマホを置いて、彼はうつむいた。黒色の砂時計は、すべての砂を落とし切ってその時を止めている。ひっくり返そうとも、触る気にもなれず、彼は机から離れるとベッドに倒れ込むようにして横になった。

 

「十年来の幼馴染の気持ちにだって……」

 

 重くなった瞼が完全に閉じられると、彼はそのまま泥のように眠った。

 布団もかけず、着替えもせず、うつ伏せで眠って。

 

 その右手は窓の方に向かって投げ出され。

 部屋の中はついに、静寂に包まれるのであった。

 

 

 

 

 

 

 喉に痛み、鼻の奥に感じるふわっと浮いたような違和感、頭に走る鈍い痛み。肩にのしかかる倦怠感。

 寝起き早々に不良を訴える体調を押して家を出た。マスクは着用して、登校だ。体温は37度3分。ギリギリ大丈夫、と自分に言い聞かせながら家の門を抜ければ、示し合わせたかのようにエレナと遭遇した。

 

「あっ、おはよっ! ……あれ、リョーゴどうしたノ? カゼ?」

「おはよう。喉痛くて、若干だるいからマスクしてる」

「熱はあるノ?」

「37度3分。まだ風邪じゃない。セーフだ」

「……部活は休まないとダメだヨ?」

「わかってる」

 

 倦怠感が仕事をしていた。夏祭りにされた告白の後に堂々としていられるのは、体調不良が原因だ。加えて、恵美の件も尾を引いている。恥ずかしがる余裕なんて、今の良悟にあるはずがなかった。

 

「――何かあったノ?」

「……?」

 

 漠然とした、突然振られるエレナの質問に、良悟は首を傾げた。エレナの質問の意味を考えるほど頭が回らず、質問の意図が理解できなかった。

 

「ううん、何でもない」

 

 そんな良悟に、エレナは首を横に振ってそう言った。

 結局何が言いたかったのか、良悟はエレナの質問の意図を最後まで理解できないまま、彼女と共に学校に向かうのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「実は、リョーゴくんと別れたんだよねー」

「――え?」

 

 レッスンのために劇場の更衣室で着替えているときのことだった。

 ネクタイを緩め、スクールシャツのボタンに手を掛けながら、恵美は隣にいたエレナに日常会話のような軽い調子で言ってのけた。

 

 それがあまりに軽く、彼女の口から言葉として出てきたものだから。

 エレナは思わず目を点にして、恵美の方を見たが、彼女の表情はロッカーの扉に隔たれてわからない。

 

「啖呵切ってもらったのに、なんかゴメンね?」

 

 気遣うように、優しくておどけた様子の声音がエレナの耳を打つ。

 恵美の言葉が、エレナの心に嵐を呼んだ。

 

 

 どうして、という困惑が一番大きく渦を巻いた。将棋盤をいきなり引っくり返してすべてをなかったことにする、そんな横暴に近かった。

 困惑の次に、もしかしたら、という浅ましい希望が芽吹いた。意図せず、仕方のない、あまりにもやるせない希望。それはまるで、目の前に垂らされた蜘蛛の糸のようだった。

 そして最後に湧いてきたのはやはり、どうして、という疑問だった。エレナから見れば、どう考えても上手くいっていたはずなのに。どうして別れてしまったのか、まったくわからなかった。

 

「アタシはもうリョーゴくんと関係ないからさ。エレナの恋、応援してるよっ!」

 

 じゃ、先行ってるね――そう言い残して、恵美はエレナに背を向けて、後ろ髪を宙に浮かせながら更衣室から出ていった。話を早々に切り上げられて、エレナには言葉を返す時間がなかった。

 

 更衣室にはエレナひとり取り残されて――

 

「……メグミ」

 

 ――静寂の中、エレナは更衣室の出口を見守るしかなかった。

 

 

 




良悟にはわからない。どうして、何があったのか。
エレナにはわからない。恵美がどうして良悟と別れたのか。
でも、恵美にもわからないことはある。

彼女たちは、あまりにも擦れ違っていた。
それでも時間だけは、進み続けるのだ。






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第十二話 星と月と太陽と

 

 

 ――浮かれていたのかもしれない。

 涙を目じりにためながら、良悟に背を向けて走り去る恵美を背景に、彼は曖昧な思考の海に沈んでいく。

 

 ――“お試し”の短い付き合いだ。諦めた方がいい。

 自分はどうして、そんなに執着しているのだろうか。思えば、付き合いも短く、交わした言葉も多くない。

 けれど、気づけば目で追っていた。気恥ずかしさに目をそらしていた。きっと、決定的なのは……明るくて、幸せそうに笑う姿。自分にはできない、あの姿に惹かれたのだと思う。今でも、あの一番星のように輝く笑顔は瞼の裏に焼き付いている。

 

 ――恵美が新田良悟を好きになる要素がドコにある?

 自分を好きになる要素? ない、そんなものはない。見た目、見た目といわれるが、そんな理由で、あの少女が「付き合ってみないか」などと提案するとは思えない。かといって、気心知れた仲でもなかったはずなのに。どうして恵美は、提案してくれたのだろうか。

 

 それとも、それを知るために「お試し」で付き合って、そのお眼鏡に適わなかったということか。

 

 ――笑顔さえ見せない不愛想な男が、嫌になっただけじゃないか?

 そうだ。気恥ずかしくて、素直に笑顔を見せるなんてできていない。恵美に純粋な笑顔を見せたことはない。でも、仕方ないじゃないか。好きな相手に向けて、素直な笑顔を見せられるほど、堂々としていられないんだ。

 

 だからきっと、振られても仕方なかった。

 これは、当然の結果。

 

 もっと自分に素直になっていれば、相手に心を開けるほどの度量があれば、もっと長続きできたのかもしれない。

 だが、それを今更言ったところで何か起こるはずもない。

 

 

 

 

 ――エレナの気持ちはどうなる?

 十年来の幼馴染なのに、自分は何もわかっていなかった。そんな想いを向けられているなんて、露ほども思っていなかった。

 

 ――ならエレナの気持ちに応えたらどうだ?

 もしも、恵美がいなかったのなら。確かに、彼女の気持ちに応えていたはずだ。

 

 ――恵美に振られたんだ。エレナの気持ちに応えてもいいだろう?

 そんな、不純が許されるものか。あっちがダメだからこっちに行こうなんて、そんな都合のいい話があって堪るか。

 

 ――結局。恵美とエレナ、どっちが好きなんだ?

 どっちが好き? そんなの――

 

 そんなこと、考えたことがなかった。考える暇がなかった。エレナに告白されたのはつい先日だ。恵美とエレナ、どちらが好きかなんて。そんな比較をしたことは、今まで一度もありはしなかった。

 ならば、自分はどっちがより好きなんだ? 実際に付き合い始めた恵美? それとも十年来の幼馴染で、素の自分が出せるエレナ?

 

 エレナともしも恋人になったら、どうなるだろうか。毎日、明るく楽しい笑顔がはじけて、それに釣られて自分が笑う姿。お互いに尊重し合って、いつものように歩調を合わせて、馬鹿な話に軽口を叩いて――そんな日常的で、太陽のように輝いた未来が映像のように見えてくる。

 

 けれど、恵美と付き合っていた時はどうか。気恥ずかしくて笑顔なんて見せられず、距離感を探って、相手をできるだけ尊重して、普段行かないような場所にデートに行って――非日常的で、ぎこちない、それでも精一杯に振る舞う、蓮華の花のように美しかった映像が思い浮かぶ。

 

 

 

 ――考えたが、答えは一向に出せそうになかった。

 一体、自分はこの二人のどちらをより好きなのだろうか。答えが出せない自分が情けなくて、思わず自嘲が漏れ出しそうだ。

 

 

 

 でも、もしもが答えを出せたなら。

 もっと、大人になって、今度は自分から――

 

 ――まっすぐに、彼女に言葉を伝えられたらと、笑顔を向けられたらと。

 前に進める勇気が欲しいと、切に想う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭頂部からぴょこんと飛び出た一房の髪に、腰まで伸びる長髪。そんなシルエットが隣に見えたとき、良悟は思わずそんな誰かの名前を口にした。

 

「――」

 

 寝ぼけ眼で、意識もおぼろげで、無意識のうちに口に出た名前。だが、次の瞬間には誰の名前を口にしたのか、どうしてか自分でも思い出せなかった。

 

 頭はオモリでも吊るされているかのように重たく、枕に沈み込むような感触を覚えた。このまま後頭部と枕との境界が曖昧になって、本当に一体化しそうなほど、意識が希薄になっている。

 そんな中でも、夢の内容だけは嫌に頭の中にこびりついて離れない。今までの恵美との交流がフラッシュバックしながら、誰かに頭の痛い核心を突かれる夢。今の自分にも答えの出せない問いかけを思い出し、頭に鈍痛が走った。

 

「うっ――」

 

 まるで、金槌で小突かれたような痛みだった。側頭部から頭の中央にかけて衝撃が走る。あまりの痛みに声が漏れ、曖昧だった意識が一気に覚醒する。

 

(――あれ、今何時だ? 今日って、火曜日だよな?)

 

 窓の方を見てみれば、カーテンは閉め切られているものの、夏の残り火のようなオレンジ色が隙間から入り込んでいる。夕暮れか、朝焼けか。

 痛みを訴える頭。全身を窮屈な服で締め付けられているような感覚。それらを覚えながら、良悟は上半身だけ起き上がらせ、まだ霞む視界で机の方に置いている時計を見た。

 

 デジタル数字は「18:32」と刻まれている。秒数までは見えなかったが、間違いない。夕方だ。

 

(……夕方、夕方?)

 

「――学校!?」

 

 ぐぁっ、とカエルの鳴き声のような音が喉から飛び出した。両手に慌てて力を入れて起き上がろうとすると、その支えとなっていた両手が急に脱力して、背中からベッドに叩きつけられたのだ。

 

「リョーゴ!? まだ起きちゃダメだヨ!」

 

 エレナの声が聞こえた。衝撃が抜けきらず痺れる体に鞭を打って、何とか頭と視線をもっていくと、彼の机の椅子に座ったエレナがいた。紺碧の瞳は、虚を突かれたように驚きに見開かれて揺れている。

 ついで、右手が温もりに包まれる。何かと視線を移してみれば、エレナがそっと両手を握っていた。まるで壊れ物を扱うように、丁寧に、柔らかく。

 

「いま゛――」

 

 声がかすれて、出なくなった。喉が痛い。喉が震えない。空気ばかりがカスカスと間抜けな音を出して吐き出される。

 咳ばらいをひとつ。喉の調子を整えて、もう一度、声を上げようとして――

 

「――っ、――!?」

 

 今度こそ、声が出なくなった。

 慌てて左手で喉に触れて、つばを飲み込んだ。飲み込むとき、喉につっかえるような肉質の太い違和感を覚えてようやく、喉が腫れて風邪になっているのだということを自覚した。

 

 良悟は泡を食って周囲に視線を泳がせた。水を探し求めての行動だった。喉の痛みと、腫れと、声の出ない症状が気持ち悪かった。とにかく早く治したい、という考えばかりが先走った。

 

「リョーゴ、水だネ!?」

「――っ」

 

 そんな様子の良悟を見て、言葉がなくとも理解して、声を張って聞いてきたのがエレナだった。あまりの大きな声に、思わず良悟は体を跳ねさせるが、それがエレナの質問だとわかるとすぐに頷いてみせた。

 

「わかった! すぐ持ってくるから!」

 

 良悟の右手からそっと手を離すと、彼女は早足で部屋を出ていった。エレナの慌てた行動に、グチャグチャに乱れた思考は冷静さを取り戻しつつあった。人の慌てた様子を見ると、自分は一周回って冷静になるというのは本当だったらしい。そんな無駄な思考さえできるようになって、彼はもう一度今の状況を振り返ってみることにした。

 

(今は夕方で……昨日は、確か熱っぽくて。それで学校行って……部活休んで帰って、夕飯食べて、寝て……気が付いたら、この時間。だったような)

 

 無意識に額に手を当てると、荒い紙製の繊維が手に触れた。冷えピタが貼られていることに、良悟はそこでようやく気が付いた。既に温度も粘着性も感じられず、ただ密着している感触だけが残っている。右手を冷えピタの上から乗せてみれば、それ越しに自分の手と額の温度を感じることができた。

 

「リョーゴ! これお水! ハイ!」

 

 そんなことをしていると、エレナが慌ただしい様子でコップを持って戻ってきた。中身がこぼれそうなほど勢いよくコップを差し出してきたが、良悟はそれを素早く受け取ることはできない。口元に苦笑を描きながら、彼は緩慢な動作でそれを受け取ると、ゆっくり口をつけて――

 

 ――あまりにも水の嵩が高く、傾けただけで唇を伝って喉元に勢いよくぶちまけられた。

 

「あっ――!?」

 

 水はよく冷えていたもので、冷蔵庫から取り出したものだと思われる。熱をもつ首元に浴びた冷水が心地よい。寝巻にかかった冷水は、体温程度の汗とのギャップを作り出し、露骨な気持ち悪さを演出している。

 

 ――どうしてコップに注いできた。

 思わずそんなツッコミを入れたくなる。エレナも焦っている証拠なのだと理解はできるが、寝ている人間としてはペットボトルのままの方が何倍もありがたかった。

 

「えっと、えーっと……飲みやすくするには……うー……」

 

 エレナは目を回して、何やらぶつぶつと呟きながら考えている。あぁ、これはもうあきらめた方がいいな、と良悟は早々に見切りをつけると、少しは回復した頭を働かせながら起き上がろうとして――

 

「あっ、起きちゃダメ! えっと、そうだ! ワタシがリョーゴに飲ませればいいだネ!?」

 

 エレナに肩を抑えられ、ベッドに固定されてコップを奪われる。彼女はそのコップを両手で持つと、そわそわと落ち着きのない様子で良悟の口に近づけた。

 良悟が口を少しだけ開ければ、エレナはコップのフチを下唇に乗せるように傾けて、彼の口に冷水を流し込む。熱を持った口の中が一気に冷めていく。口から喉に伝い、喉から頭に電流に貫かれるような鋭い痛みが走る。眠気を訴えていた頭は一息に覚醒していく。食道を伝って腹の中に冷たさが伝う。

 

「――」

 

 コップの中身をすべて飲み切った時、お礼を伝えようとしたが、やはり出てくるのはかすれた息遣いだけだった。喉が冷やされて、キュッと引き締まる感覚はあったものの、腫れが引いたわけではなかった。

 

「お水、もっと要るかナ?」

 

 エレナからの問いかけに、良悟は首を横に振って答えた。エレナはそれを見て頷いてみせると、良悟のことをジッと見つめ始めた。

 

「……」

 

 ジッと見つめ続けてくるエレナに、良悟は居心地の悪さを覚えた。眼力というべきか、見つめてくる圧力、集中力というものが前面に押し出されている。まるで、何かを切り出すタイミングを見計らって集中しているような、妙に張り詰めた空気をまとっていた。

 

 一体何なんだ、とエレナに視線で訴えると、彼女もそれが伝わったのか。一瞬、躊躇うように口を開閉してから、弱々しく視線をさまよわせた。

 言うべきか、言わざるべきか。そんな様子で迷っているようだった。良悟はエレナから視線を外して、自室の天井を漠然と見つめた。

 

「今日のコト、リョーゴは覚えてるノ?」

 

 エレナからのそんな問いかけに、良悟は首を横に振った。覚えているも何も、今日最初の目覚めがこれだと思っていたのだから。

 

「大変だったんだヨ? リョーゴのママンから聞いたんだけどネ、朝にふらふらーってリビングに行って、ご飯食べて。それでパジャマで学校行こうとしてたみたい。リョーゴのママン、それに気づいてすぐに病院に連れて行ったんだって」

 

(……えっ、そんなことになってたのか?)

 

 完全に記憶が飛んでいた。思い出そうとしても、昨日寝る前のことまでしか思い出せない。そこで初めて、良悟は自分がどれだけ危うい状況だったかを理解して、頭痛に顔をゆがめた。

 

「頭、痛むノ?」

 

 右手を挙げて、雑に横に振ることで答えた。違う、という意思表示はそれだけで十分だった。エレナはそれを見るとひとつ頷いた。

 

「ワタシ、すっごく心配したんだヨ? もしもリョーゴが、このままいなくなっちゃったら、って。どこか遠くにいちゃったら、って。ワタシの手の届かないトコにいっちゃったらって! ……そう考えるとネ、胸のあたりが、どんどん痛くなって……」

 

 コップから、ミチ、と異音が鳴った。

 

「リョーゴが、メグミにとられるかもって思ったらネ。怖かったノ」

 

 紺碧の空が燃えていた。

 いや、違う。エレナの瞳の奥に、火が灯されたように見えたのだ。

 

「リョーゴとメグミが一緒にいるトコ見ちゃって、胸が痛かったヨ? 張り裂けちゃいそうなくらい」

 

 燃える空に見られているようだった。

 紺碧の空に夕日が差したような、そんな空を見ているようだった。

 

「迷子になったら、リョーゴはいつもワタシを見つけてくれたネ?」

 

 声を出せたとしても、口を挟める様子ではなかった。

 呑まれていた。大空に。果てしなく続く空を見つめ続けたときに、自分がその空の一部だと錯覚して、その中に溶け込むような喪失感。自分の体の感覚も、重さも、重力も、すべてが浮いて、自分がつま先から溶けて液状になるような錯覚に襲われる。

 

「見つけてくれるたびに、嬉しかったヨ。寂しかったキモチ、ぜーんぶ飛んでいっちゃった」

 

 紺碧の空に、今度は朝焼けが差した。

 耳に届く言葉が、頭の中をドロドロに溶かしていく。囁かれるように、心の隙間に入り込むように。怪しく、艶やかに、それでいて少女然とした垢抜けない声色が、おそろしく頭の中によく溶け込んだ。

 

「ワタシ、迷子なノ」

 

 カラン、と床にコップが転がった。

 ベッドのスプリングが軋む音が、妙に生々しく耳に届いた。

 まだ蜜の少ない朝方の初夏の香りが鼻孔をくすぐった。

 

 それ以上に、弱々しく耳に届いた彼女の言葉が、彼の心に深く刻み込まれた。

 

 ジッと、大空が見つめている。視線を逸らそうにも、大空はどこまでも広がっているし、星はどこまでも彼のことを追いかけてくる。

 

 星は大空の奥に散りばめられていた。爛々と燃える炎のように、輝きは揺らめいてやまない。

 月は大空そのものだった。怪しく霞む後光を放ちながら、冷然とこちらを見つめてくるのだ。

 太陽は大空の外にあった。星も、月も、太陽の中にあった。蒼穹の頂点に座す太陽は、堂々と、彼の上でサンサンと輝いていた。

 

 ――すべてを照らし尽くす太陽の笑顔が、彼の目の前いっぱいに広がっていた。

 

「ワタシの心は、見つかったかナ?」

「――」

 

 太陽が迫ってくる。

 星の光が消え、月がその姿を隠し、太陽は近すぎて全貌が見えなくなった。

 

 鼻の頭に、ピタと温もりがくっついた。その瞬間、月と星が突如目の前に現れた。

 

「きちんと、答えて」

 

 スッと通り抜けるように耳を抜け、頭の中にシミ込むような声だった。

 反発なんてできなかった。抵抗しようと思うと、胸を突き刺す罪悪感の刃に気力を削ぎ落とされた。

 

 身を焼くような熱が全身を駆け巡り、頭を朦朧とさせる。

 心は飴細工のように溶かされて、隙間が生まれて彼女の声が入り込む。

 

 ――圧倒されていた。

 その情熱の温度に、大きさに、呑まれていた。言葉が少なくても伝わった。近すぎる距離が、その熱量をも簡単に伝えてくれるのだ。

 

 お互いの心の音が聞こえてくる。

 触れ合う肌は焦がれるほど熱くて。

 眼差しは何よりもまっすぐ向かってきて。

 その笑顔は、心の影を消し去るほど清々しく輝いていて。

 

 ――島原エレナはまるで、日輪とヒマワリのように美しく、そこに咲いていた。

 

 

 

 だからこそ。

 新田良悟は島原エレナに向かって、弱々しくも首を横に振ってみせた。

 

(……決められるわけ、ないだろ)

 

 良悟が決められるはずがなかった。

 雰囲気に、確かに呑まれこそした。だが、そんなことを理由に。

 

(そんな不誠実に、お前を汚すような決め方……できるわけないだろっ!)

 

 良悟は、エレナを汚すような答え方をできるはずがなかった。

 ここで頷いてしまうことがどれだけ簡単なことか。恵美に振られて、傷ついて。だからエレナの告白に縋ることがどれだけ軽いことか。

 

 良悟には確信があった。ここで頷けば、誰よりもエレナを汚してしまうだろうと。

 だって、これで頷けば彼女が悪女のようではないか。弱みを見せる男につけ込んで、すべてを掻っ攫う。そこに大義も、理由も、信念も、自分の想いさえも関係なく。ただ流れるように彼女に縋りつけば、良悟自身が彼女の汚点となるだろう。

 

 これでよかったのだと確信している。その思いは、絶対に変わらない。

 

 

 

 ――だから、良悟はエレナの笑顔を見返して、今できる精一杯の笑顔を返して見せた。

 

 

 

 島原エレナが見せる、みんなを幸せにする笑顔が大好きだから。

 新田良悟は笑ってみせるのだ。たとえどれだけ彼女が望んでいない答えであろうと、その笑顔だけは汚さないために。伝えるために。

 

 無様で、惨めで、みっともない、弱り切った笑顔でも。精一杯、幸せそうに笑ってみせる。それだけで、島原エレナに伝わることを、新田良悟は知っている。

 

「……リョーゴ。ひとつ聞いていいかナ?」

 

 ヒマワリのような大輪の笑顔は、春の木漏れ日のように穏やかな微笑みに変わった。

 良悟はそれでも、口元に笑顔を張り付けたまま、頷いて見せる。

 

「ワタシとメグミと、リョーゴでファミレス行ったあの日のコト」

 

 お互いに、いつの間にか開いた距離がある。それでも、一息詰めれば額も、鼻も、唇も触れ合える。

 そんな距離から、瞳の奥をジッと探るように見つめられて。

 

「リョーゴは、ワタシのスマイルを見て、笑顔になったんだよネ?」

 

 どうしてそんな分かり切った質問をするのか、良悟にはわからなかった。

 そんなもの、答えはひとつに決まっているのに。

 

 エレナも、わかっているはずなのに。

 理解しているはずなのに、エレナは良悟に聞いてきた。

 

 声が出せないことが、これほどもどかしいとは思わなかった。

 

 

 

 ――良悟はエレナに向けて、確かに頷いて見せた。

 

 

 

 その答えを見るや、エレナは良悟から体を離し、ベッドの上から退いた。

 彼女が離れたとき、蜜の乗った夏の香りが鼻先をかすめた。

 よく見れば、エレナも額と白い首筋をうっすらと濡らしていた。クーラーの効いている部屋の中だというのに。

 

「お水、持ってくるネ」

 

 床に転がったコップを拾い上げると、エレナはどこか慌ただしい様子で部屋から出ていった。

 すると、途端に現実が戻ってきたように、部屋の空気に肌寒さを覚えた。自覚していくと止まらないもので、自分の額も、顔も、首筋も、パジャマの下も。全身汗だくになっている。

 

 エレナがそこにいるだけで、周囲の温度は上昇するのかもしれない。

 

(太陽みたいなやつだな、ほんとに)

 

 そんなことを考えていると、エレナがコップを持って部屋に戻ってきた。いやだから何でコップなんだ、というツッコミが喉から出ればどれだけよかったことか。

 

「ハイ、リョーゴ。アーン?」

 

 そんなエレナは、いつの間にかニコニコと笑顔を浮かべながら、良悟の口にコップを近づけてきた。先ほどまでの重い雰囲気はどこへやら。いつもの明るい少女然とした彼女に、良悟は思わず微笑みながら、ほんの少しだけ口を開けると。

 

 彼女はコップをさっさと唇に当てて、冷水を程よい勢いで流し込む。

 良悟が水を飲む様子を、幸せそうに笑顔で見守りながら。

 

 良悟もまた、柔らかく笑って、彼女からの看病を受けるのであった。

 

 

 




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第十三話 雪解け

 

 

 ――これで、よかったんだよ。

 

 駅のプラットフォーム。人混みの中に溶け込みながら、少しだけ下を向いて電車に乗った。

 スマホを取り出して、メッセージアプリを開く。最後のメッセージに既読はついているものの、それ以降にメッセージは続いていない。

 

 ――うん。リョーゴくんだって、アタシのこと気にしてないって。

 自分で考えて、チクリと胸に刺すような痛みが走った。それに気づかない振りをして、彼女は「グループ退出」の欄に視線を落とした。

 

 押さなきゃいけない。そう分かっているものの、実行することはあまりにも難しかった。立ち止まって、既に二週間が経過している。

 

 ――アタシが、エレナの恋の足引っ張っちゃってたから

 いつまでも成就しない恋。相手の笑顔を引き出せない自分。ズルズルと続いていく、しがらみのような関係。そんなものを、いつまで続けても仕方ない。

 

 ――だから、スパッとやめて。元通り、ってねっ!

 その恋心に、きっと出口なんて都合のいいものは存在しなかった。

 

 連絡手段を断つことができないのは、未練があるからだ。

 恋心を捨てられないのは、自分に本気で嘘つくことができないからだ。

 走り抜けてゴールできるほど、彼女はがむしゃらになれなかった。

 

 用意された出口なんて一つだけだった。そこにたどり着く前に、所恵美は足を止めて、蹲ってしまった。

 

 エレナと良悟の関係。その二つさえ元通りになればそれでいい。

 だから、恵美は足を止めた。引き返すことも、進むこともせず、出口への一方通行の道半ばで蹲った。

 

 ――リョーゴくんから振ってくれたら、なぁ……。

 漠然とそんなことを思って、妄想する。良悟に振られるとき、一体どんな振られ方をするだろうか。

 

 タイプじゃない、飽きた、とか。そんなことは言いそうにない。

 精一杯、少ない言葉を尽くしそうだ。特別な理由がなければ、もしかしたら本当に出口に行くまで関係が続いてしまうかもしれない。

 

 そんな良悟がもしも、理由を挙げるとしたなら――

 

『恵美のこと、好きだけど。友達以上には、なれそうにない。ごめん。』

 

 ――リョーゴくんなら、ありそうかも。

 心に鋭利な刃物がグサリと刺さるような思いだった。ただの妄想なのに、本当に体験したかのように、心の傷口は広がっていった。

 

『エレナのこと、放っておけないんだ。だから、ごめん。“お試し”は、解消してほしい。』

 

 ――あー、これなら、ちょびっと嬉しいかも。エレナの大勝利っ! ってね。

 それでも、「ちょびっと」しか嬉しくなかった。親友を祝福しなくちゃいけないのに、心にトゲの刺さった自分は素直になれそうにない。嬉しさより、痛みと悲しみが、津波となって押し寄せてくる。

 

 ――アタシ、ヤなヤツじゃん。ダメダメ、親友の恋を応援しなくちゃ!

 自らを鼓舞するように一度頷くと、ちょうど電車の扉が開いた。恵美は一歩、ステップを踏むように飛び出すと、早足でまた人混みの中に溶け込んだ。

 

 ――エレナとリョーゴくん、くっついたかなぁ……?

 恵美は、自分からちゃんと振ることができたと思い込んでいた。だからきっと、良悟も迷うことなく、隣にいるエレナに目を向けるだろうと、至極当然のように考えていた。

 

 ――まっ、エレナに聞けばわかるよねっ!

 

 改札を通り抜けて、目指すはアイドルとしてのホームグラウンド。劇場だ。

 今日もこれから、エレナに会えるんだと思うと。

 

 

 

 恵美の胸に、チクリと、小さな痛みが走るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恵美が更衣室に入ると、先客にエレナがいた。ロッカーの中にカバンを置いて、ちょうど今から着替えるところらしい。それを見て、恵美は精一杯の笑顔を浮かべて手を挙げた。

 

「あっ、エレナー! やっほ!」

「メグミ! メグミもこれからレッスン?」

「そうそう。最近、ちょっと涼しくなってきたし、今日はいつもよりうまく踊れそうな気分なんだよねー」

 

 言いながら、恵美はロッカーの扉を開けて荷物を置き、さっさとトレーニングウェアを取り出してベージュのセーターを脱いだ。

 

「そう言えばさ、リョーゴくんとはあれからどんなカンジ?」

「……リョーゴと? メグミ、それ今週で3回目だヨ?」

「ありゃ? そんなに多かったっけ。にゃははは! まぁ、そんなことより、さ。そろそろリョーゴくんとくっついたんじゃないの?」

 

 ――早く付き合って、諦めさせて。

 恵美にとってその質問は、はやる気持ちを抑えてしていたつもりだった。それでも、エレナに指摘されるくらいには高い頻度で、話題に出してしまっていた。

 

 エレナは、そんな恵美の発言に眉根を少し寄せて、恵美の方に視線を向けた。

 

「リョーゴは、そんなに強くないヨ」

「――へ?」

 

 強くないって、何が? と、恵美は本当に意味が分からず首をかしげて、思わずロッカーの扉から顔を出してエレナの方を見た。

 

 すると、エレナが真剣にこちらを見据えてくる光景が目に飛び込んできた。

 

 ――ゾクリ、と背中に緊張が走った。

 

「メグミ、リョーゴのコト、まだ好きなんだよネ?」

 

 前置きも何もなく。

 エレナはただ真っ直ぐ、単刀直入に質問を投げかけてきた。核心に、いきなり切り込むような、鋭い切っ先のような問いかけ。

 

 それはあまりに、恵美の心に深く突き刺さる。不意打ちに、心を守る余裕なんてなかった。無防備に質問をぶつけられて、思考回路が凍り付く。

 

「メグミと、リョーゴを見たらわかるヨ」

「……えっ、何でリョーゴくん?」

 

 何も考えずに、ただ脊髄反射のように疑問が口から飛び出した。自分のことを見ているならともかく、リョーゴを見ていたらわかる、というのが理解できなかった。

 

「リョーゴ、ずっとウジウジしてたからネ。わかるもん」

「いや、ウジウジって……えっ、アタシに振られて? えっ、いやいやいや! リョーゴくんが!? それじゃアタシが脈ありみたいじゃん!?」

 

 恵美は自分でそう言ったものの、即座に「ないないない!」と何度も否定の言葉を口にしながら手を横にブンブンと勢いよく振った。

 

「だって、4か月くらい進展ないし! 笑ってるところ全然見ないし! そりゃ楽しそうにしてるかも、って思うときはあるけどわかんないし! 気遣いばっかりさせちゃってアタシが引っ張りまわしちゃってるし!」

 

 自分から否定の言葉を口にしているはずなのに、目じりには涙が溜まっていった。

 

「笑ってる時だって、アタシにじゃなくてエレナにだから! アタシに笑いかけたことなんてないし! 会える回数だって少ないから、お互いのこと全然わかんないし。アタシのこと好きになるなんて、アタシに惚れるところなんて……アタシにだってわかんないんだから、分かるはずないじゃんッ!!」

 

 恵美の悲鳴のような言葉が飛び出した。

 いや、それはまさしく、彼女の心の悲鳴だった。ずっと、ずっと一人で溜め込んできたものが、ここにきて、一度勢いで吐き出してしまったことで、歯止めが利かなくなってしまった。自分でも、どうしてそこまで言葉が飛び出してくるのか、わからなかった。

 

「アタシなんて。……リョーゴくんみたいな男の子が、アタシのこと好きになるはずないってっ」

 

 恵美の言葉は止まらない。

 彼女は顔を挙げると、涙に顔を濡らしながらエレナのことを真っ直ぐ見つめて言葉を吐き出した。

 

「だって、あんなにキラキラしてるんだよ? あんなに気遣いできるんだよ? 周りもよく見てるし! エレナならわかるよね? あんなに、サッカーに打ち込んで、泣いちゃうほど悔しがって! 仲間に支えられるくらい魅力的な人なんだよ?」

 

 エレナがそれに頷いて見せれば、恵美はますます言葉を重ねる。

 

「エレナのことすっごい気にかけてて、ぶきっちょだけど優しいし、恥ずかしがっても、アタシなんかのことも褒めてくれて……。あんなに、エレナのために綺麗な笑顔を浮かべててッ! 落ち込んだアタシのこと慰めようとしてくれて、昔話もしてくれて! エレナなら、エレナならもっとわかるでしょ!? ずっと一緒にいたんだから!」

 

 恵美の言葉を、エレナはただ静かに受け止めて。

 うん、うん、と何度も頷いて。

 

 しばらくの間を開けると。

 エレナは恵美をジッと見つめて、言い放つ。

 

 

 

 

 

 

「――そんなリョーゴが、好きでもない誰かと付き合うと思うノ?」

 

 

 

 

 

 

 限界だった。

 恵美の表情が凍り付く。どんな顔をしていいのか、どんな言葉を出せばいいのか、何もわからなかった。わかりたくなかった。自分がどれだけ考えなしに言葉を吐き出していたかなんて、考えたくなかった。

 

 耳をふさいで、下を向いて、目を閉じて。

 恵美は首を横に振った。

 

「アタシは、アタシはもうリョーゴくんのこと振ったんだよ!? もう、アタシは関係ないっ!」

 

 悲鳴が飛び出した。自分に言い聞かせるように、現実を拒むように、エレナを突き放すように。彼女は下を向いて叫び続けた。

 

「アタシのこと、ほっといてよッ! もう失恋したんだから、これ以上、縋らせないでっ。アタシじゃなくてもいいじゃん。アタシじゃなくてもいいんだよ。……エレナが、エレナがリョーゴくんとくっついてくれれば、アタシはそれでいいんだからッ!」

 

 もう、否定することはできないから。否定すればするだけ、良悟のことを、エレナの幼馴染のことを貶めてしまうと理解してしまったから。

 だから、彼女は自分の恋は「終わった」んだと、自分を納得させるために叫ぶのだ。

 

「アタシが、間に入っちゃダメなんだよ。アタシがちょっかい掛けたのがダメだったんだよ。アタシはっ、アタシは!」

 

 顔を上げて、エレナのことをキッと睨みつけると――

 

 

 

「――うん」

 

 ――優しく微笑んだまま、包み込むように、見ているこっちが幸せになるような笑顔を浮かべていた。

 

 エレナは全部、恵美の言葉全部を、そうやって笑顔で柔らかく、受け止めていた。

 

 恵美はそのことに気が付いて、瞳から大粒の涙をこぼした。

 顔がくしゃくしゃになって、涙でエレナの笑顔さえ霞んで、それでも心の中に温かい何かが流れ込んでくるようで。

 

 心が洗われるかのようだった。

 エレナのそんな笑顔に、恵美は嘘を吐きたくなかった。ここで嘘を吐いてしまえば、もう一生、自分を許せないと思った。

 

 ――何より、ここで嘘を吐いてしまえば、もう二度とエレナのことを親友と呼べなくなってしまう。それだけは、何があっても嫌だった。

 

 だから、恵美はその言葉を伝えるために。

 まっすぐエレナの方に向いて、飾らないその言葉を叫んだ。

 

 

 

 

 

 

「――アタシは、エレナの幸せまで奪って、幸せになんてなりたくなんてないッ!」

 

 

 

 

 

 

 それが、所恵美の嘘偽りない心だった。

 自分に言い聞かせて、逃げ続けた理由だった。

 

 ぽふっ、と柔らかく抱きすくめられる。エレナがゆっくりと手を伸ばして、恵美の背中と頭に手を回していた。伸ばした手は、恵美のことを優しく、あやすように撫でていた。

 

 勢いと悲しみで腫れあがった心が、少しずつ萎んでいくようだった。疲れ切った日に温泉に入るような、心地よさが広がった。エレナに撫でられるたびに、ささくれ立った心は穏やかにしおれていった。

 

 そんなエレナの優しさに触れて、心に張り詰めた糸も緩んでいって。

 恵美の口から、ぽつり、ぽつりと言葉がこぼれ出す。

 

「一緒にいると、アタシ、どんどん諦めつきそうになくなった」

「うん」

「だって、知っていくほど好きになっちゃうんだよ? 一緒にいるだけ、離れたくなくなって……」

「うん」

「だから、もう離れなきゃって。強引に、リョーゴくんのこと振っちゃって」

「うん」

 

 恵美の涙が、エレナの制服を濡らしていく。

彼女はエレナの服にしがみつくように握りしめると、身体を震わせながらポロリとこぼした。

 

「もう、わかんないよ……」

 

 消え入りそうな涙声は、確かにエレナの耳が拾っていた。

 まるで迷子の子どものように小さくなってしまった恵美に、エレナはその手を取って、恵美に面と向かって、今度は自分から口を開く。

 

「メグミ、勝負しようヨ」

「……しょう、ぶ?」

 

 泣きはらして赤くなった目が、不思議そうにくりんと丸まってエレナに向いた。

 エレナは「ウン」と恵美のことを真っ直ぐ見て頷いた。

 

「どっちが勝っても、恨みっこナシ。リョーゴに、決めてもらうノ」

 

 ニコリ、とエレナの顔に笑顔が咲いた。夕暮れ時の、ヒマワリのような笑顔が。

 

「……でも、アタシはエレナに幸せになってほしくて――」

「メグミ、それはリョーゴが決めるコトだヨ?」

 

 恵美の反論に、エレナは釘を刺した。

 そこでようやく、恵美はハッと気づいたように目を大きく見開いて――渋々と、頷いて見せた。

 

「……そっか。そうだよね。リョーゴくんの気持ち、無視しちゃダメだよね」

 

 そこで、恵美は納得してみせた。良悟の気持ちを無視することがダメだということがひとつ。それ以上にもうひとつ、恵美の打算あっての納得だ。

 

「でも、どうやって決めてもらうの?」

「それはネ――」

 

 エレナの提案を聴いていくうちに、恵美は少しずつ目を見開いて、最後にはクスリと小さな笑いをこぼした。

 

「なんか、それどっかで見たことあるかも」

 

 ――でも、いいじゃん、それ。

 恵美は、エレナの提案に頷いた。期限も、ルールも決まっている。あとは、それまでに自分がどれだけ行動できるか。

 

「リョーゴくんの気持ちは、無視しちゃいけないもんね」

 

 そこが肝だといわんばかりに、恵美はもう一度、そう口にした。

 エレナはそれに、好戦的な笑顔で応えてみせた。釣られるように、思わず恵美も同じように、泣きはらした目でも笑顔が浮かんだ。

 

「じゃあ、エレナ。勝負だね」

「勝負だヨ、メグミ」

 

 今までの熱の余韻と少しの感傷に浸りながら、彼女たちは柔らかいハグを交わした。

 

 

 

 二人の顔には、一体何が描かれていたのか。

 

 それは、彼女たち本人しかわからない。

 

 

 




恵美の考えは、これで見えてきただろうけど。
ならば、エレナは何を考えていたのだろうか。



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