仮題:百合ゲーム世界の住人になった話 (ぎょみそ)
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イチ

 私には過去の記憶がある。前世なんてあやふやなものじゃない、幾度となく繰り返された歴史の記憶。

 ヘッドボードに置いてあるその日起きた出来事を簡潔にまとめただけの日記を手に取った。表紙に韮沢 静夢(しずむ)と書かれた、かなり分厚く年季が入った代物。

 毎朝欠かさずそれを読み返して、安堵する。

 

 ──ああ、私はまだ明日(きょう)を生きられるんだって。

 

 作り物の世界。私ではない、あの娘の為に作られた世界。

 

 そう、あの娘は……私の妹は、主人公(・・・)だ。

 創造神に愛された、ただ一人の主人公。その事実に気付いたのは何周目のことだったか。一番初めの私がプレイしていた作品の主人公のデフォルトネームが一致していると気付いたのはいつだったか。

 今ではもう、妬ましいという感情すら無くなってしまった。

 

 コンコン、とノックが聞こえる。時計を見れば短針が7を指していて、尋ね人が誰なのかすぐに理解出来た。

 

「起きているわ」

 

 ドア越しでも聞こえる程度の声量で告げると、ゆっくりと開く音がした。

 恐る恐るといった様子で顔を見せたのは、私の実妹にしてただ一人の家族である叶依(かない)だった。

 

 両親が亡くなったのは私が中学校に入学した頃だ。何度運命を変えようと藻掻いても変わることの無い事実。例えば列車の脱線事故で。例えば居眠り運転をしていたトラックに突っ込まれて。例えば不注意による火災で。

 事前に回避しても、良くて数日ズレるだけで絶対に二人は命を落としてしまう。何度目かの遺体を目にした時、私の心はすっかり折れてしまった。

 人とは違う私を愛してくれた両親。大好きだったはずなのに、今世ではほとんど口を聞かないまま別れてしまった。

 

 ありのままを伝えてみようと思ったこともある。気狂いだと思われてもいい、伝えることで変わる未来があるかもしれないと。

 そんなことを世界は許しちゃくれなかったが。

 

 言葉にしようと口を開けば声が出なくなった。

 文字にしようとペンを取れば手が動かなくなった。

 メッセージアプリで、手話で、イラストで。思いつく限りに手段を講じても……いや、講じることは出来なかった。

 両親の死と同じだ。この世界は私の意志を許さない。

 

 だから、諦めた。今日にしがみついて、明日が来ることをただ待っているだけに成り下がった。叶依がゲームをクリアすれば、私は解放されるのだろうか。もしかしたらずっとこのまま繰り返すだけかもしれない。

 

 失うことに慣れたと言えば聞こえはいいが、結局私は逃げてるだけなのだ。目を逸らしたい現実から。そして、この妹からも。

 

「お姉ちゃん……」

 

 震える声で、叶依が私を呼ぶ。か細く、可憐で、思わず護ってあげたくなるような声。ずっと好きだった。私が護るんだと思っていたはずの声。それも幻想だったけど。

 

「……おいで」

 

 出来るだけ感情を感じさせないように叶依を呼ぶ。おずおずと近付いてきた叶依は、未だベッドに腰掛けたままの私の横にちょこんと腰を下ろした。

 目を伏せて、こちらを見ようとすることは無い。私だってそうだ。少なくとも今世では、この娘と明確に目を合わせたことなんてなかった。

 

 私と叶依の日課。今は二人だけの秘め事。

 

 愛用のミニナイフで人差し指の先を切る。サックリと切れた皮からは真っ赤な血が膨らみ滴りそうだ。

 

「ほら、口を開けて」

「うん……」

 

 漸くこちらを見た叶依の口に指を突っ込む。先程まで鈍く感じていた痛みはすぐに無くなり、擽ったいような焦れったいような、言い様のない感覚に襲われた。

 

 鋭く伸びた牙で傷付けないよう、叶依は細心の注意を払って私の指を甘噛みし血を啜る。

 

「ふぅ……ぁ…っ」

 

 どちらからともなく、そんな声が漏れた。彼女──吸血鬼(・・・)にとって、この行為はただの食事ではないのだ。

 被捕食者が不快感を得ないよう、麻酔のようにじわじわと快楽を刻む。悠久にも劣らない長い寿命を持つ彼女達は性欲というものが極めて薄いと言う。

 その代わり、吸血行為に快楽を見出すようになった。

 

 先祖返り。私達の一族は、吸血鬼の貴族の末裔らしい。何代かに一人、彼女のようにその(さが)を取り戻すのだ。

 

 だからこその主人公。彼女が彼女たる所以。

 

 両親を亡くし、失意のどん底に居た叶依はある日異変に気付いた。何を食べても味がしない。胃が拒否する中無理やり食べ物を掻き込んでも、腹が満たされない。

 終ぞ耐えられなくなって、会話が途絶えて長らく経っていた()に助けを求めた。それからは、まあお察しの通りだ。

 

 姉である私は、念の為と両親から先祖返りの話を聞かされていたし、それ以前に()っていたから。特別なことじゃない、これまで何度となく繰り返した事だ。

 

 こくこくと喉を鳴らしながら私の血を啜る叶依を見る。鉄臭い液体を舐めて、どうしてそんな恍惚とした表情でいられるのか。

 ……なんて、冷静ぶっている私ももう、限界なんだけど。

 

「もう、いいでしょ」

「ぁ……うん」

 

 口腔から指を引き抜くと名残惜しそうに銀の糸が伝う。行為自体には慣れていても、この感覚はいつまでも慣れそうにない。

 

 大体私と叶依は仲が悪いのだ。

 ……正確に言えば、私が一方的に避けているだけなんだけど、それでも。

 なのにどうして、彼女は私を頼るのか。学校に行けば、優しい友人や先輩がいるじゃないか。その人達に秘密を明かして助けて貰えばいいのに。

 

 そうすれば、私も解放されるはずなんだ。叶依がいつまで経っても私以外を攻略しよ(進も)うとしないから、世界は何度も繰り返されている。

 

「……いつまでいるつもりなの。出て行ってくれないと、着替えられないんだけど」

「ご、ごめんなさい!」

 

 だから嫌われるように、冷たい言葉を吐き捨てる。リミットはあと一年。私が高校を卒業する来年の三月まで。

 勿論、それより先にリセットされることもあるけれど。神様はセーブ&ロードが得意みたいだから。セーブポイントはその時によって疎らで、早ければ小学四年生、遅い時は高校入学から始まる。

 そこに理由があるのかさえ私には分からない。神のみぞ知る、というやつだ。

 

 でも神様は知らないのね。このゲームに姉ルートは存在しないのよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 

 窓際の最後列。少し外に目をやれば桜が咲き誇る校庭が覗ける一番人気のその席で、少女は突っ伏して溜息をついていた。

 

「叶依ちゃん、またお姉さんと喧嘩したの?」

 

 それを慣れた様子で見守る少女が一人。叶依の同級生であり、幼稚園時代からの腐れ縁。つまりは幼馴染の入江千友梨(ちゆり)である。

 癖のない黒髪を腰まで伸ばし、前髪は二本のピンで留めている。昨年までは眼鏡を着用していたが、高校入学に合わせてコンタクトレンズを購入したのだとか。

 

 叶依とは十年来の付き合いだ。勿論静夢とも顔見知りである。仲は……決して良好とは言えないが。

 そもそも、静夢に仲の良い友人は片手で数える程しか居ないのだ。

 

「千友梨ちゃん……ううん、喧嘩はしてないの」

「そう、なの」

 

 一方的に嫌われているだけの現状を、喧嘩と呼称する勇気は叶依にはなかった。大体を察した千友梨は困ったように目を伏せる。

 二人の関係がどうして壊れてしまったのかを知らない千友梨には、掛けられる言葉が無い。幼い頃の二人は、誰から見ても仲の良い姉妹だった。

 それが変わったのは、二人の両親が事故死してからだろうか。確かに大きな事件ではあったが、何の罪もない叶依がここまで嫌われた理由が千友梨には理解できなかった。

 

「私に出来ることがあったら言ってね。私はいつでも、叶依ちゃんの味方だから」

 

 それだけ言って席へ戻る千友梨を見送り、叶依は窓の外を見た。校庭にはジャージ姿で気だるげに歩く静夢の姿があった。



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 憂鬱な体育の授業でも出席しているのは、偏に今日を繰り返さないためだ。ここは引き籠もりに厳しい世界。平日に学校、或いは授業をサボるとその日一日が無かったことにされてもう一度同じ日がやってくる。

 悪用すればテストで満点だって簡単に取れる。静夢(・・)が学年首席を取るのは当然のことらしく、そういったズルをしても罰が当たることは無い。設定に沿おうと熱心に授業を受けていたのも、もう遠い過去だけど。

 

「次、シズたちの番だよ」

「……ええ」

 

 クラスメイトに呼ばれてスタート地点に向かう。今日は学年初めに行われる体力テスト、それも一番面倒な持久走の日だ。これが20mシャトルランなら適当なタイミングで切り上げて休めるのに、うちの学校はこんな所までスパルタらしい。

 運動部と去年までの成績上位者、平均的な子、苦手な子の3グループに別れて行われる持久走。今周では目立った成績を残していないから、私は平均的なグループに割り振られている。

 

 リセットされても身体の使い方は忘れない。それに先祖返りの恩恵が私にもあるのか、身体能力という奴が飛び抜けているからこれまで困ったことは無い。

 叶依は私なんかとは比べ物にならないけれどね。その力をズルだと感じているのか、私以上に力量を見せることは無いけれど。

 

 そんなことを考えていると、前グループの集計が終わったようだった。体育の担当教員がピピっと笛を鳴らす。

 

「次のグループ、さっさと並べよー。あい、位置について。よーい──」

 

 ドンっとスターターピストルの合図が鳴って、一斉に走り出す。取り敢えずは後ろの方で様子見だ。

 先頭を走っているのは我らが生徒会長、浅葱(あさぎ)ひとは。頭脳明晰、容姿端麗で誰からも慕われる人気者。でも体育の成績は中の下。

 ああ、あんなに飛ばしたら後半酷い目に遭うのに。

 

 一周と半分、つまり600mを走った頃案の定トップのスピードが落ちた。遠目から見てもかなりバテてるのが分かる。浅葱さんに釣られて走っていた何人かはとっくに後方だ。

 そのままの調子で観察していると、ふと浅葱さんと目が合った。何故か顔を顰めた彼女はまた無理にペースを上げて、辛うじて帯同していたクラスメイト達がどんどん遅れていく。

 このくらいの距離の中距離走なんて、無理してペースを上げるよりも一定を維持した方が楽なのに。真面目すぎる浅葱さんはいつまで経っても力を抜いて走ることを知らない。彼女が持つのも後で数十メートルだろう。

 

 そんなこんなで残り半周。ほら、やっぱり追い付いた。左斜め横を走る浅葱さんは、既に足取りが覚束ない。

 

「浅葱さん、大丈夫?」

「だい、じょうぶ……よ。このくらい、よゆうだわ」

「そう」

 

 息も絶え絶えによく言うわ。その根性には敬服するしかない。頭良いくせに、こと運動に関してだけ学習能力が無いのは如何なものかと思うけど。

 

 結局、私と浅葱さんはほぼ最後尾でゴールインした。到着するなり倒れ込んだ浅葱さんから離れて、終わった子達が座っているトラックの内側に向かう。何人かは水分補給に向かったみたい。

 

 この程度の距離をあんなスピードで走った所で疲れもしないけど、流石に手抜きが過ぎると教師に目をつけられてしまうから汗を拭うフリをしてタオルを肩にかけた。

 

「お疲れ様。シズってばやっさし〜!」

「茶化さないで。別に、楽したかったからペース落としただけよ」

 

 そんな私に声をかける変人が一人。叶依に千友梨ちゃんがいるように、私にとっての腐れ縁が彼女。

 涼川(すずかわ) (らん)。帰宅部にして成績上位グループをぶっちぎりトップで独走した傑物。容姿が整っている以外は浅葱さんとは真逆……でもないか、蘭は学力テストの成績、クラスで最下位だもんね。

 運動苦手とはいえ体力テスト全体で言えば半分よりは上にいる浅葱さんと比べるのは流石に可哀想か。

 

「んー、なんかヒドいこと考えてない?」

「気の所為よ。どうしたら貴女の成績が上がるのか考えてただけ」

「そっか……って気の所為じゃないじゃん!」

 

 こんな軽口を叩ける、私の数少ない友人だ。突き放しても冷たくあしらってもお構い無しに引っ付いてくるものだから、諦めて懐柔することにした過去がある。

 

「1キロ走ったってのに、相変わらず余裕そうだねぇ」

「貴女には言われたくないのだけど」

「いやいや、運動しか取り柄のない私と互角なのがおかしいんだって」

「よくそれ自分で言ったわね」

 

 蘭はいわゆる天才児だ。一度も部活に入ったことがないくせに、昔からかけっこだって球技だって体操だって他の誰よりも優れていた。私が知っている人間の中で、一番運動能力が優れているのはきっと彼女だ。

 陸上部じゃないくせに、名門大学から勧誘が来ているほどに。卒業したら実家の飲食店を手伝うから進学している暇はないと一蹴していたけれど、その進路が叶ったことはない。

 卒業の先がないのだから当然だ。今回こそ、前に進めるといいのだけど。

 

「あ、校舎見てみなよ。カナちゃんこっち見てるわ」

 

 校舎の三階目掛けて笑顔で手を振る蘭。後輩からの人気を自覚していない彼女は無駄に愛想がいいものだから、今頃あのクラスではプチ騒動になってるに違いない。

 実際、まだ授業中だというのに小さく黄色い歓声が聞こえるし。

 

「あはは、なんだか楽しそうだね」

 

 楽しそうなのは貴女の頭の中よ。

 チラと叶依の方を見やると、すぐに目を逸らされた。

 

「……最後のグループも終わったみたいよ」

「あ、ほんとだ。これで解散みたいだね。戻ろっか」

「用事思い出したから先に行ってて」

「うん? ははーん。なるほどわかりました。じゃあお先に失礼!」

 

 ニヤニヤと訳知り顔を見せた蘭を見送って、用事の元へと向かう。彼女には後でおしおきせねばなるまい。

 それはさておき、だ。

 

「歩けないくらい体調悪いなら、誰かに言えばいいのに」

「はぁ、はぁ……韮沢さん……?」

「軽い熱中症だと思うけど。役立たずの先生はさっさと帰っちゃったし、肩くらい貸すわよ」

 

 よく描かれるやる気満々の体育教師とは正反対の教師は、今日も終業の鐘が鳴るや否や校舎に戻って行ったから。

 端から期待してないと言い捨てた私に弱々しい非難の目を向ける浅葱さん。大方先生に何て口を!とか思っているのかもしれないけど、事実なのだから仕方ない。

 この学校でまともな教師はひと握りだ。

 

「……私、貴女のこと嫌い」

「何度も聞いたわ。だから選んだんでしょ」

「ええ」

 

 肩を貸してる相手に嫌い宣言をされつつ、無事に保健室まで送り届ける。養護教諭が居ないのはお約束なのか。

 

「ベッド空いてるし、横になってたら。先生呼んでくるから」

「……ありがとう」

 

 嫌っている相手にもお礼をする。浅葱さんはどこまでも真っ直ぐだ。羨ましいくらいに。

 捻くれ過ぎて、右を見てるのか左を見てるのかすら分からなくなってしまった私とはまるで違う。

 浅葱さんと蘭は真逆だなんて言ったけど、本当に彼女の正反対なのは私の方なのだろう。

 

 そっと顔を逸らした浅葱さんの耳が赤く染まっているのを見て、そういえば浅葱さんをここまで送ってきたのは初めてだな、なんて思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私には、この世で唯一嫌いな人がいる。苦手とか不仲とかじゃない、正真正銘嫌いな人。

 

 彼女は選ばれた人間だった。

 

 先生達は私や涼川さんを天才だと持て囃すけど、本当の天才っていうのは彼女のことだと思う。涼川さんは確かにずば抜けた運動神経を持っているけど、それでも彼女には敵わないと自嘲していたほどだから。

 

 勉強も運動も平均か、それより少し上程度。本質を見ようとしない人達からすれば彼女は至って普通の女の子かもしれない。

 でも私は知っている。彼女はそう見えるように調整しているだけなのだ。

 

 事実、先程の持久走だって汗をかくどころか息切れ一つしてなかったのだから。

 勉強だってそう。いつも平均点を少し超えるくらいに調整している。そんなこと、常人なら不可能だ。

 未来の結果を知っているか、全ての問題を理解してクラスメイト達のレベルを正確に把握していないと。

 

 だから私は彼女が嫌いだ。嫉妬しているからじゃない。目立たないよう態と手を抜いているのが、気に入らない。

 

 何故そんなことをするのか、何一つ理解させてくれない彼女だから。

 意趣返しに生徒会副会長を指名してみても、知っていたような顔で簡単に受け入れてしまう彼女だから嫌いなのだ。

 

 普段は他人に興味なんてないような態度の癖に、偶にこうして優しさを見せる彼女だから、私は。

 

 

 

 ズルいと思ってしまった自分自身が、もっと嫌いだ。



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サン

 シナリオ通りに日々は繰り返す。けれど、シナリオにない部分に関しては一から十まで完璧に同じ道を通らないといけないわけじゃない。

 浅葱さんを保健室まで送るのは、どうやら私の裁量内だったらしい。許容範囲を超えた時の"嫌な感じ"がなかったから間違いない。若しくは、これが正解ルートだったのか。

 それは喜ばしい事だ。心優しい姉が生徒会長を保健室まで連れて行く、なんて主人公に全く関係のないフラグを設定した人間の顔が見てみたいくらいに。

 

 どちらにせよ、退屈な持久走の授業を一度でパス出来たのは良かった。数え切れない程なぞった道でも、まだやってないことはあったのね。

 

 

 

 校内を捜索すること数分。探し人は意外と呆気なく見つかった。

 ブロンドウェーブの長髪に凡そ人間とは思えない驚異の胸囲。その癖ウエストはしっかりくびれていて、口元の黒子が印象的。まさに男のロマンといった容貌の女性。

 女の園たる女子校には勿体無い先生だ。男子校に配属されていればさぞモテたに違いない……いや、猛獣の檻に彼女を放り込むなんて、流石に酷だろうか。それを加味して女子校配属になったのかもしれない教育委員会はしっかりと仕事をしているようだ。

 

「東軒先生、体調を崩した生徒がいるので保健室まで来て頂きたいのですが」

「あら、韮沢さん。こんにち……って、それ本当なの!直ぐに行かないとっ」

「軽い熱中症みたいですがそこまで急患では──って、もう居ないわ」

 

 東軒(とうけん) 穂波(ほなみ)先生。おっとりとは程遠い、せっかちな養護教諭だ。誰よりも生徒を大切にする人柄から人気の先生ではあるけど、少しそそっかしすぎる気がする。走ると双丘が激しく揺れて大変に目の毒だ、とは友人の談。

 

 さて、私はどうしようか。このまま教室に向かうのも良いけれど、少し素っ気な過ぎるだろうか。かと言って、大して深くもない私達の仲で様子を見る為にもう一度保健室へ戻るというのも些か気恥しい。

 何か適当な言い訳でもあれば。そう、保健室に赴くに足る些細な理由が──

 

「ああ、そうね」

 

 妙案が浮かんだ私は、足取り軽くラウンジへ向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガラガラと音を立ててドアを開ける。教室内は既にお弁当を食べる生徒でいっぱいで、あちこちで小グループが会話に花を咲かせている。注目されずに済んだのは幸いだ。老朽化した引き戸は、開閉の度にクラス中の視線を集めてしまう。私はあの一瞬の沈黙が苦手だった。

 

 教室を見回す必要もなく、待ち人を発見した。当然の如く私の席を占領している彼女の元へ早足で向かう。

 

「遅い!」

「ごめんなさいね。飲み物を買っていたら少し遅くなってしまったの。貴女の分も買ってきたのだけど……要らないみたいだし、後で飲むことにするわね」

「私が間違ってました、全然全くこれっぽっちも待たされたなんて思ってません!」

「よろしい」

 

 机とお弁当のセッティングを完璧に終わらせた状態で待っていた蘭にお小言を貰う。先に食べていいと伝えたつもりでいたのだけど、彼女は律儀に私が戻ってくるのを待っていたらしい。

 

 勿論彼女も本気で怒ってる訳では無い。お腹が空きすぎて拗ねているのは間違いないが。

 この程度で喧嘩になるような人間なら、最初から相手にしていない。

 

 抱えていた二本のドリンクのうち、いちごのラベルが貼られた方を手渡す。

 

「流石は親友。我が好物をよく心得ておる」

「好物というか、貴女基本的にそれしか飲まないでしょ」

「んふー、いちごミルクは偉大だからねぇ。開発者にはノーベルスズカワ賞をあげよう」

「食事中にその甘ったるい乳製品を飲める神経がわからないわ」

 

 美味しいのにー、と不満顔で頬を膨らませる蘭に呆れつつ、もう一つ買っていたお茶を開ける。蘭と違って私は水かお茶しか飲まない。食事中にジュースなんて以ての外だ。

 我が家では昔からそうだったのに、何故か叶依はりんごジュースやオレンジジュースを好んで飲むので不思議だった。

 

「相変わらずバランスの悪い中身だねぇ」

 

 水分補給を終わらせて、蓋を開けた弁当箱を覗き込みながら蘭が呟く。

 

「私は胃に入れば何でもいいけど、妹がね。一緒に作っているのだもの、わざわざ別のおかずを作るのは二度手間でしょ」

 

 叶依は家事の類はてんでダメだから、両親が亡くなった日から料理は私の仕事になる。叶依が肉を一切食べようとしない為、必然的に私の弁当の中身も野菜が主なおかずだ。

 大蒜(ニンニク)を食べられないだとか、塩が苦手だとか、そういったあからさまな弱点はない。昼間の散歩やお風呂は好きだし、鏡にも普通に映る。火は……両親の死因次第、と言ったところ。少なくとも今世では平気のようだ。

 

 そもそもそんなに弱点の多い生物なら、伝説になるほど語り継がれたりはしないのだ。その殆どは信徒を求めた宗教家のこじつけ。十字架を恐れるなんて、その最たるものだろう。所変われば六芒星が退魔のシンボルになるように。

 

 肉を食べたがらないのは、血の匂いを感じるからだ。魚も同様に。衝動が抑えきれなくなるのだと、随分昔に教えられたことがある。特に牛乳が難敵らしく、給食の牛乳を避けるためにアレルギーとして学校に提出していたりする。

 

 立派に偏食に育った彼女のおかげで、私は焼肉や回転寿司なんかの王道な外食とは無縁の人生を送ることになったのだ。

 元々食に拘りの無い性格をしていたため特に恨めしく思ったことは無いが、人によってはさぞ辛い時間になるに違いない。

 

「確かに栄養は豊富だろうけど、少しくらいお肉も食べないと体壊しちゃうよ」

「そのくらいで体を壊すなら、この世にヴィーガンは存在してないわ。大豆や小麦は沢山摂っているし、これでも栄養バランスは考えて献立を──」

「あー、わかったわかった。シズはこの話題になると饒舌になるよね」

 

 ケラケラと笑う蘭を見て、顔に熱が集まるのを感じた。別に、饒舌になんてなってない。そりゃ長年作り続けた献立だもの、それなりの自信を持っている。

 

「……蘭は変わってるわね」

 

 勉強は出来ないけれど、私よりもずっと頭がいいんだと思う。何も考えず、何も出来ずにルートをなぞるだけの私と違って、凡人の私では想像も出来ない速さで脳が回転してるのだろう。

 だって、同じ会話のはずなのに、毎回少し違う言い回しと雰囲気で真摯に本音を伝えてくれるから。

 

 彼女と会話している時間だけは、現実を忘れられる気がした。……どれだけ夢想しても、彼女は登場人物の一人に過ぎないのだけれど。

 

「えー、そうかな?」

「ええ、そうよ」

 

 小難しい表情で頭を捻る蘭を見て、この平穏な日常が明日(・・)も続けばいいのに、なんて分不相応な願いを持ってしまう私だった。




名前を考えるのが毎度しんどい。


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 一仕事終えて息をつく。愛用している証券サイトを閉じて、パソコンの電源を落とした。

 高校生の二人暮らし。叶依の体質を知った親戚共から隠れて生活していた私達家族には頼れる親戚など当然おらず、両親亡き今生活費は自分で稼ぐしかない。

 そして選んだのがこれだ。皮肉にも、ゲームの韮沢静夢と同じ選択でもある。優れた観察眼と先見の明で生活費を捻出していた彼女と違い、今の私は繰り返した過去を有効活用しているに過ぎないのだが。

 

 上手く使えば一生遊んで暮らせるような莫大な財産を築くことだって出来るだろうが、どうやらそれはルール違反らしい。二度戻されて、諦めた。だから私は毎月の生活費と多少の小遣い程度を稼ぐに留めているわけだ。

 

「ふぅ……」

 

 普段は銘柄もタイミングも承知の上で取引するのだが、今日は何故か予定通りにことが進まなかった。

 原作でも描写されていた、主人公の生活に関わる話だ。少しずつ変わる何気ない日常会話と違い、確定した未来をなぞるだけのはずだった。

 

 初めての体験に戸惑いつつも、何とか取引を終えることはできた。先日からの初めて続き。これが良い方向に転がってくれたらと願わずにはいられない。

 

 腕を伸ばして首を鳴らす。気分転換でもしようと何となく外に目をやって、顔を顰めた。

 

 慌てて部屋を飛び出し、隣室のドアをノックする。とっくに帰宅して、部屋にいるはずなのに返事はない。

 

 失敗した。いつもなら、もっと早く気がついているのに。

 

「叶依、入るわよ」

 

 灯りをつけず、カーテンも締め切った真っ暗な部屋。自室と同じ、使い慣れた間取り。くぐもった声、不自然に膨らんだベッド。探す必要もなく、叶依は見つかった。

 

「……ごめんなさい。もっと早く、来るべきだったわ」

 

 布団ですっぽりと身体を覆った叶依。別に蝙蝠だとか、狼だとか、そういった化け物になってる訳じゃない。そういう訳じゃないのだけれど、ある意味ではそれ以上に厄介な代物。

 

 満月の夜。月や地球の公転のせいで数週間に一度訪れる、普通の人からすればただ月が丸いだけの日。精々キレイだな、なんて感想を持たれるだけのそれが、彼女にとっては大きな災厄を齎す日に変わる。

 

 簡潔に言えば、間歇に。こうやって必死に抑え込まなければ堪え切れない程の、強い吸血衝動に襲われるのだ。理由は不明。そもそも彼女という生物の存在自体に説明がつかないのだから、そんな魔性があったところで驚くには足りないのかもしれない。

 

 そうなのだから、仕方ない。私にどうこうできる問題ではないし、それは叶依にとっても同じ事。

 月に一度訪れるアレのように、拒絶したところで治るものでもないのだから。放置すれば他所様に迷惑を掛けるかもしれない。だから、決まった相手ができるまでは私が処理しているだけのこと。

 

 静かにベッドに近寄って、布団に手を伸ばす。いや、伸ばそうとした。

 

 あっという間に視界が反転して、強い力で押さえ付けられる。予想だにしない行動に、圧力を加えられた肩から嫌な音が聞こえてはじめて痛みを感じた。

 

「っ叶依……叶依!」

 

 腕よりは自由になっている足を使って何とか現状維持には成功しているが、まずは会話をしないことには先に進むことも出来ない。

 ここまで荒れている叶依を見たのはこれで二度目だ。一度目は、最初の人生だった。

 

 両親が亡くなって、ちょうど二年が経った頃。つまり叶依が中学二年生になった年だ。当時の私は初めて目の当たりにした魔性に、何もすることができなかった。

 気付けば両親が亡くなる前日に巻き戻っていて、そこで私は漸く自分の人生が何なのかを理解したもの。

 

 今思えば、この現象は韮沢 静夢(わたし)にとって一つの重要な分岐点なのかもしれない。

 

「落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから……」

 

 ギリギリと軋む痛みに耐えて、何とか叶依を宥めようと何とか声を絞り出す。

 が、返ってくるのは浅い息遣いだけで、分かるのはこちらの言葉が一切届いてないことだけだ。

 

 これは不味い。いい加減、意識を手放しそうになって──鋭い痛みで覚醒した。

 

「っ……たぁ……」

 

 首筋に走る熱。普段は指から血を与えているものだから、もう何周も味わっていない久しぶりの感覚に唇を噛み締めた。

 気付けば私を拘束していた腕は背中に回されていて、逃がさないとばかりに抱き締められる形になっている。そんな事しなくても、逃げたりなんかしないのに。

 

 顔を肩に填めているせいで表情は確認できないけれど、同じように叶依を抱き締め頭を撫でると少しだけ腕の力が緩んだ気がした。

 私にとっては久しぶりの。けれど、叶依にとっては初めてだろう。今更優しい姉面なんて、する気もなければそんな権利もないけれど。

 

 これは必要だからやっているだけ。事実、こうやってあやす様に接すれば叶依は多少なりとも落ち着いて、私も楽になるのだ。いつリセットされるか分からない人生で、その元凶に温かく接するなんて私にはもうできない。

 今感じている痛みとは違う熱だって、彼女の体質による副作用でしかないのだ。絶対に。

 

 

 

 数分か、数十分か。私には一時間にも感じる吸血を終えて、すっかり満足したのか叶依は寝入ってしまった。

 規則的な寝息を立てて眠る叶依。きっと朝目が覚めたら一目散に謝りに来るに違いない。

 そしたら言ってやるのだ。いつまでも身代わり()に頼るんじゃなく、早く本当の番を見つけなさいと。

 

 ベッドを整えて、部屋を出る。火照った身体を冷ますために冷水のシャワーを浴びた。

 風呂に備え付けられた鏡を見て、今日何度目かのため息を吐く。あちこちに刻まれた傷と、首筋に残る二つの牙孔。腕の付け根は青い痕がくっきり付いている。

 多少治りが早い身体とはいえ、これでは数日は日常生活に影響が出そうだ。

 折れていないだけマシなのだろう。果たしてヒロイン達で代わりが務まるかどうか。

 満月さえ忘れなければここまで酷くはならないし、彼女たちの勤勉さに期待するしかない。叶依も真に好いている人が相手なら、もっと優しく出来ることだろう。本当(ゲームの中)の叶依はこんなことをしたことは無かったのだから。

 

 叶依は謝るだろうが、さっきのは私のミスだ。韮沢静夢なら犯すはずのなかった失態。この程度の怪我と貧血くらいは甘んじて受け入れる。原作にないイベントが起きてしまった以上、明日が来るかは分からない。けれど何故か、そのまま進行するような予感がしている。

 

 体と髪を拭き、新しい部屋着に着替えてから自室に戻りベッドに入る。心も身体も疲れているはずなのに、暫くは眠れそうになかった。




仕事が忙しすぎて執筆時間が取れず、久しぶりの投稿になります。


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ご指摘いただいた部分修正しました。
返信を削除しようと思い間違って感想ごと削除してしまいました……申し訳ありません。ご指摘ありがとうございます。


 結局ほとんど眠れぬまま朝を迎えてしまった。身体の節々に加えて寝不足で頭も痛いが、この痛みは今日を迎えられた証拠だ。そう思えば痛みすら愛おしく感じ──るなんてことは決してないが。

 

 問題は、今が夏服の時期であることだ。朦朧としていた昨日は思い当たらなかったが、よくよく考えるとこの腕の傷は半袖のセーラー服で隠し通せる位置にない。一晩明けた今なお痛々しく残る傷跡に触れてみると、ビリビリと小さな電流が走っているような感覚がした。

 今日は午後に体育があるが、ソフトボール程度ならこなせるだろうか。折角前に進めたのだ、授業をサボって前日へ戻るなんて勿体無いことはしたくない。

 

 腕には包帯を巻いて、不注意で打撲したことにでもしておこうか。教師も同級生達も、優等生で通している私がまさかそんな嘘をつくとは思うまい。

 首筋の牙孔は──叶依に言えばすぐにでも治らないことはないのだが。一体どうしたものか。

 

 頭を悩ませていると、コンコンとノックが聞こえた。律儀な妹は、昨日のような事があっても顔を見せずに逃げ出すなんて恥知らずな行いはしない。寧ろ予想よりも遅いくらいだろう。目が覚めて、すぐにでも来たかったろうに。謝罪のシミュレーションに時間がかかったか、或いは疲労困憊の私に気遣ったか。判断に迷うところだ。

 

「起きているわ」

 

 私は敢えて、いつも通りの返事をした。

 ゆっくりと、普段よりも更に時間をかけてドアが開く。予想通り……いや、予想以上に顔を涙か鼻水が分からない液体でぐしゃぐしゃにした叶依が姿を見せた。

 

「……酷い顔ね」

 

 あまりにもあんまりなので、素直に思ったことが口をついて出てしまった。叶依がここまで泣き腫らした姿を見るのは、長い人生でも初めてだ。初めて暴走した時は、まだ幼かったものね。あの時も酷く落ち込んではいたけれど、ここまででは無かったから。

 

「ごめ…なさぁ……」

 

 グズグズと泣き続けながら、"ごべんなざい"にしか聞こえない謝罪を繰り返す叶依。花の女子高生……それも、恋愛ゲームの主人公の顔とは思えないわ。

 

 仮にも私は何十年も彼女の姉として生きてきた。複雑な事情が絡んでいるとは言え、多少の情はある。しかし、甘やかしてばかりでは前に進まず、もう仲良しごっこなんてしないのだと随分前に決めたのだ。

 今回だって、冷たく突き放すと昨日決意した。それで私の手から離れて、誰かヒロインに縋ってくれれば全てが終わる。私は解放されるのだから。

 

「これで分かったでしょう。貴女は普通の人間じゃないのだから、いい加減全てを受け入れてくれる番を探しなさい」

 

 言ってやった。心無い声で、泣いて謝る妹を突き放してやった。最低な姉で結構。私はもう自由になりたいのだ。

 

「ぐすっ……ぅ…だってぇ」

「……ああ、もう。そんなに泣かないの。それまでは私を代わりにしていいから。昨日のは私にも非があるし、貴女が私に気を使ってくれたのは分かっているの。ただ、いつまでもこのままは良くないでしょ。別に今すぐ恋人を作れと言っている訳では無いのだし、そういうことを考える時期にあるんじゃないかと思っただけよ。貴女の為に言っているの、だからいい加減泣き止んで頂戴」

 

 ……決して、決してこれは温情ではない。いつまでも私の部屋で泣きじゃくる叶依に嫌気が差しただけだ。あくまで私は私の為に、優しい姉のフリをしてるに過ぎない。

 異様に回る舌を忌々しく思いながら、弁明を続ける。

 

「……ぐすん」

「はぁ……本当に、怒ってはいないのよ。迷惑掛けたくなくて、一人で耐えていたのでしょう」

 

 この子の優しさなんて、私が一番わかっている。だからこそ、ハッピーエンドを迎えて欲しいと。

 

「私は用事があるから少し早く出るわ。貴女は……その泣き腫らした瞼を何とか出来るなら学校に来なさい。無理なら連絡して。体調不良で欠席と担任の先生には伝えるから」

 

 このまま叶依が学校に行けば入江さんや他のクラスメイトに心配をかけることは自明だし、教師達に私との仲に関する根も葉もない流言が飛び交ったりなんかしたら面倒だ。

 万が一にも満たないが、東軒先生が家庭訪問などと言い始める可能性だってあるのだ。担任やその他教師陣は精々興味本位で嗅ぎ回るだけで、私に対してアクションを起こすなんてことは無いだろうが。

 

 厄介事は避けるに限る。真面目で通ってはいるが、皆勤賞を狙うようなタイプではないのだし、そんな描写もなかった。それでも戻されたなら、その時はその時だ。

 何故か今周は見慣れぬエピソードが続いていることもあって、根拠の無い自信のようなものが生まれているのは少し怖い所ではある。

 

 数分かけて言い聞かせ、叶依が部屋を出て行ったのを確認して自分の準備に取り掛かる。と言っても学則で化粧は禁止されているし、帰宅したら直ぐに翌日の準備は終わらせているから着替えと身嗜みのチェック、あとは弁当の用意くらいしかやることはないのだが。

 

 今朝は大豆で作ったハンバーグに作り置きの煮物、きんぴらごぼうに玄米のご飯。肉も魚も卵も牛乳もダメとなると、あまりレパートリーを増やせないのが残念な所だ。味付けは飽きないように少しずつ工夫しているものの限度はある。叶依がメニューに不満を表したことは無いが、気になる部分があるなら遠慮なく言って欲しいものだ。

 今更そんな日は来ないとは思うけど。

 

「よしっ、と──忘れ物ナシ。行ってきます」

 

 返事がないのがすっかり普通になった挨拶をして、家を出る。学校までは徒歩十分。実に良心的な位置にある。

 

 特にイベントも起こらないまま校門に着く。そこには既に浅葱さんが寒さに顔を赤らめながら待っていた。

 

「待たせてごめんなさい。教室で待ってくれていれば良かったのに」

「おはよう、韮沢さん。私が好きで待っていただけだから、気にしないで」

 

 前評判(ガイドブック)通りのツンデレっぷり……対象は私ではなく妹のはずなんだけど。もっとデレの比重が大きくてもいいと思う。いや、彼女がここまで拗らせてしまった原因の殆どは私にあるので文句は言えないのだけれど。

 数日ぶりに浅葱さんと二人で校舎を歩く。前回は浅葱さんの意識が殆ど無かったから、お互い健常時にこうして共にするのは去年の生徒会選挙ぶりだろうか。

 

 ありがちな設定だが、この学校は放任主義の建前の下、教師陣が学校運営を投げ出した為に生徒会の裁量権が普通の学校より大きい。そしてその生徒会役員は選挙で選ばれる生徒会長を除き、全て会長の指名制である。

 だからこそ会長選は学校全体が盛り上がり、ある種の異様な空気に包まれる一大イベントになっている。

 

 そんな中、まだ生徒会副会長ではなかった私が彼女の隣を歩いていた理由は一つ。彼女が、特に親交の無かった私を推薦責任者に選んだからだ。

 詳しい理由も伝えられないまま、私はその役目を受け入れた。そうせざるを得ない理由があったし、私は今でも浅葱ひとはという人物を嫌いになれないからだ。

 

 輪廻の中で選挙活動を何度も経験している私と違って、浅葱さんは必死に緊張を隠して演説して回っていた。彼女の懸命さは、初めてあったあの日から何一つ変わっていない。

 

「朝から小難しい顔してるわね。考え事かしら?」

「え? ああ、浅葱さんは可愛いなぁって思ってただけよ」

「へぁっ!? そ、そういう冗談は涼川さんだけで十分よ。だから貴女って嫌い!」

 

 別に、冗談ではないんだけどね。



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ロク

日刊ランキングにお邪魔しているようで、いつの間にか評価ゲージが真っ赤に……怖くて心臓と執筆が止まりました。すみません。


 入学式が終わったばかりだというのに、気付けば体育祭の準備が始まる。時間の感覚が鈍っているせいもあって、生徒会役員として活動していなければ一層怠惰な学生生活になっていたに違いない。

 

 とは言え、体育祭の準備に関しては生徒会に出来ることは殆どない。プログラムは昨年までの使い回しであるし、各委員の役割も例年通り振り分けてしまうからだ。

 

 まずは優秀な生徒会長が既に作成していたプリントを各クラスの担任に渡し、学級委員を先頭に生徒それぞれが出場する競技を決めてもらう。

 個人競技のレース組み分けやクラス対抗競技の対戦シート作成等はそれの回収が終わってからになる。

 

 当校に体育祭実行委員が存在しないのは毎年代わり映えの無いイベントになるからだ。

 私の在学中に変わったことといえば、一年次に安全面から組体操が廃止されて応援合戦になった事くらいだろうか。蘭が率先して団長を引き受けてくれるから、私たちのクラスでは揉め事が起こらなかった。

 

「これで今出来ることは全て終わったわね。以上で解散とします、お疲れ様」

 

 考え事をしているうちに、会議が終わったらしい。浅葱さんの解散の号令で各委員長を含む役員が生徒会室を出ていく。チラチラと視線を感じるのは、私の腕が気になっているからだろう。会議前にザワついていたのもきっとそのせいだ。

 気を使ってくれたのだろう浅葱さんが、何も言わずに号令をかけてくれたから助かったけれど……。

 

「大丈夫すか、副会長さん」

萱野(かやの)さん? ええと、なんの事かしら」

「なんの事って、そりゃ勿論その腕の包帯ですよ。会議中もずっと上の空だったし……何かお困り事っすか」

 

 ガラガラになった教室で、叶依からの連絡を確認しようとしていた私に声を掛けてきたのは萱野 璃生(りお)さん。一つ年下の後輩で、生徒会書記を務める女の子だ。

 校則でパーマが禁止されているため、毎朝アイロンで髪を巻いているらしい。ネイルもピアスも化粧もせず、成績も優秀な生徒会役員。規定のないスカートは短めと、校則は守っている真面目なギャルという奴だ。

 

 生徒会役員で一番気が利く人物でもある。私が思うに、面倒見が良く損するタイプだ。面倒事に首を突っ込むタイプでもある。

 

「いいえ、昨晩少しぶつけただけよ。そう言う貴方は随分と眠そうね」

 

 会議中に何度か欠伸を噛み殺しているのを見た。理由は簡単に想像できるので、誰も咎めることはしなかったが。

 露骨に話を逸らしたことで察したのか、それ以上包帯について言及するつもりは無いらしい。肩を竦めると、話題転換に乗ってくれた。

 

「あー、妹が全然寝付かなくて。あんまり寝てないんですよね〜」

 

 知っている。彼女の両親はまだ首が据わったばかりの子供を放ったらかしにして毎晩家を空けているらしい。昼間は乳児から入園できる保育園に預けていて、送り迎えは萱野さんがやっているとか。

 

 なぜ浅葱さんは彼女を書記に指名したのか。本人は履歴書に書きやすいからラッキーだったと語ってはいたけれど、浅葱さんの指示で時間の拘束が無いとはいえ忙しい彼女の負担が増えるだけではと思ってしまう。

 

 大体、まだ高校生の彼女が幼い妹の世話をしないといけないだなんて間違っているのだ。仕事で不在ならまだしも、そうでは無いと聞くし。

 

「あまり無理をしないように。貴方は十分頑張っているのだから。今日の会議だって、無理して出席しなくても良かったのに」

「保育園は結構早くからやってるんで大丈夫っすよ。それに、放課後は全然残れないんで来れる時くらい仕事しないと、会長に恩返しできないっすから」

「ふぅん……そう。まあどうしても耐えられないようだったら保健室に行くのよ」

 

 彼女の"恩"が何なのか知らないし、知る気もないけれど外野が口を挟む問題でもない。本人がそれでいいなら好きにすればいい。知っている人が過労で倒れた、なんて事になったら後味が悪いから忠告しただけだ。

 

 『了解です』と未だ心配そうな顔で答える彼女に別れを告げて、今度は職員室へ向かう。安仁先生に、叶依の休みを報告しなければならないからだ。席を動かずこちらを窺っていた浅葱さんには気付かないフリをした。

 

 

 

 ノックを三回繰り返した後、入室許可の声を聞いて立て付けの悪いドアを極力静かに開け職員室に入る。

 叶依のクラスの担任である安仁先生は入口から正反対の方向にデスクを構えている。

 

 好奇の目をスルーして、そこまで辿り着くと安仁先生は困惑の表情をしていた。

 

「え、わ、私に用ですか?」

 

 安仁(あに)先生は昨年実習を終えて、今年から着任したばかりの新米教師だ。全てに自信が無いのか常にオドオドしていて、妹を任せるには不安の残る教師でもある。一年目なんて、誰だってそんなものではあるが。

 

 そわそわしながら私の顔と腕の包帯を何度か見比べる安仁先生だが、私は気にせず挨拶をする。

 

「おはようございます、安仁先生。三年の韮沢です」

「ぞ、存じ上げております……」

「そうですか。妹の叶依なのですが、本日体調不良で欠席するそうです」

「体調不良ですか? 確かに最近は少し元気がありませんでしたね……」

「……はい。何かあれば私の方に連絡お願いします。では失礼します」

 

 ──最近元気がない。初めて聞く話に何とか無表情を貫き通し、軽く頭を下げる。

 

「はい。わざわざありがとうございます。お大事にと伝えておいてくださいね」

 

 教師らしい威厳もなくにへらと笑う安仁先生。最後まで包帯に触れることは無かった所は、高ポイントだ。

 職員室を出ると、今登校してきたのだろう入江さんとすれ違った。

 お互い軽く会釈するだけで、会話をすることは無い。最近特に入江さんの態度が硬化していると思っていたが、成程叶依が思い詰めていたのが原因らしい。

 

 昨日は失敗したものの、血はこれまでどおり毎朝与えているし喧嘩した訳でもない。最近になって変わったことなど何一つないはずなのに、今更なんだと言うのか。

 もしかしたら、原因は私ではなく別のところにあるのかもしれない。例えば、叶依に番ができた……とか。

 

 ……無いわね。

 詳しくはわからないが、入江さんの態度を見るに私が原因なんだろう。もう何周も、同じように距離をとって生活していたつもりだったけれど。最近になって叶依が変わったということは、そうなる要因がどこかにあったはずなのだ。

 

 繰り返すだけの日々に疲れたはずなのに。

 分からないって、こんなに疲れる事だったかしら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生まれて初めてズル休みをしてしまった。学校を休んだのなんて、吸血鬼になっちゃったあの時と、お姉ちゃんが修学旅行で居なかったあの時と、あとは私自身の宿泊研修と修学旅行の時くらい。うぅ、そうやって数えたら結構休んじゃってるかも。

 

 だけど、今日みたいな理由で休んじゃうのは初めてだ。

 確かに今の状態で学校に行ったら、千友梨ちゃんとか、他の友達にも心配かけちゃうとは思うけど……。

 でも、私よりお姉ちゃんの方が余っ程酷い状態だった。腕には包帯をグルグル巻いてて、首とか足とか色んなところに絆創膏を貼ってたから。

 

 本当は鮮明には覚えてないんだけど、私が昨日お姉ちゃんを傷付けてしまったことだけは覚えてる。

 

 満月の夜はどうしても衝動が抑えきれなくて、いつもはお姉ちゃんがそう(・・)なる前に来てくれるから、知らなかった。

 お姉ちゃんの部屋を覗いて見たらパソコンと睨めっこしていて、お仕事中なのは直ぐにわかったから今日くらいは我慢しようって部屋に籠った。

 私ももう高校生なんだから、そのくらいできるって思っちゃったんだ。お姉ちゃんの仕事は私の為なのに、私はお姉ちゃんの為に何にもできないから。少しでも迷惑かけたくなくて……結局、沢山傷つけちゃったんだ。

 

 真っ暗なままのスマートフォンを見る。画面に映った私の顔は酷く腫れていて、とても人に見せられるような状態じゃないけれど。口を開くと、明らかに人のものじゃない大きな牙が目に入った。私は昨日これでお姉ちゃんを──。

 

 どれだけ人間を装っても、所詮私は化け物でしかないのだと実感する。番なんて作れるはずがない。私の正体を知ったら、千友梨ちゃんだってきっと離れていってしまうんだろう。

 

 お姉ちゃんの負担になって生きるくらいなら死んでしまおうと試したこともあったけど、それすら叶わないこの身体が嫌い。

 

 ──嫌われたくない。お姉ちゃんにだけは、絶対に嫌われたくないのに。

 

 どうして、間違えてしまったんだろう。




感想大変ありがたく読ませていただいております。が、展開予想だけは何卒、何卒御遠慮いただきますようお願い致します。


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シチ

あけましておめでとうございます


 朝のホームルームが始まるにはまだ早い。教室はまだ静かで、生徒の姿はまばらだ。蘭は朝から仕込みの手伝いがあるらしく、学校に来るのはギリギリになってからだから暫くは一人で時間を潰す必要がある。

 先に戻っていた浅葱さんは、既に授業の予習を始めているようだった。流石というか、何というか。真面目なのは良いけれど、適度に力を抜かないと最後に苦しむのは自分だと思う。

 実際彼女は──ああ、でもそれは主人公の役割であって、私が気にする問題ではないのだった。

 

 ……ダメね。アクシデントが重なりすぎて、浮かれているのかしら。ここは私の世界じゃないって、何度も目の当たりにしているはずなのに。

 

 図書室で借りてきた本を捲る。無駄に広い図書室の小説を読み尽くすには、まだまだ時間がかかりそうな事だけが唯一の救いだ。それでも好きな作者や有名なものは粗方読み終えてしまったから、今は新規ジャンルの開拓に勤しんでいる。

 先日借りたのは映画化もされたイギリスの小説だ。昔見た映画とオチが変わっていて驚いたが、凄惨な暴力シーンと取って付けたようなハッピーエンドのギャップが不気味に思えて興味深い作品だ。借りて直ぐに読み終えてしまったのだけれど、返す機会を逃してまだ手元に残っていた。

 私もこの作品に出てくる小説家のようにただ理不尽な暴力を受けたのなら憎めただろうか。叶依がこの小説の主人公のような人間なら……。

 

 パラパラとページを捲り、文字を目で追いながらそんなことを考えてしまう。有名なだけあって面白い作品ではあるが、今日という日に読み直すのは失敗だったかもしれない。

 

 ふと視線を感じて隣を見る。

 

「おはよ、シズ。随分難しそうな本読んでるね、英語だし」

「……おはよう。来たなら声を掛けてくれればいいのに」

 

 文字通り、悪戯が成功した子供のように笑う蘭。教室に飾ってある時計を見ると、始業にはまだ少し余裕がある。

 

「いつもより早いのね」

「ん。今日は(ウチ)休みだから」

「……ああ。結婚記念日、だったかしら」

 

 平日が休業日なんて珍しいと言おうとして、その理由に思い当たる。今日は蘭の両親の二十年目の結婚記念日なのだ。それまでの結婚記念日は店を閉めてまで予定を空けることは無かったが、飲食店を営んでいる蘭の家にとっては二十五年目の銀婚式よりも二十年目の磁器婚式が特別らしい。初めて聞いた時は少し驚いた。磁器婚式なんて、聞いたこともなかったから。

 

「そうそう。もういい歳なのに元気だよねぇ」

 

 仲の良いことだ。世間ではあの人たちのような夫婦のことをおしどり夫婦と呼ぶのだろう。羨ましい、とは思わないけれど。そしてそんな二人に愛されて育ったからこそ、私の両親が亡くなったと知った時蘭は私以上に傷付いたような顔をするのだ。

 安い同情心なら幾らでも向けられたけれど、本当に悲しんでくれたのは蘭だけだったから、初めての時は随分救われたものだった。

 

 ──何年寄り添っても仲がいいなんて、素敵な事だと思うけど。

 

 そんな、誰よりも蘭自身が一番よくわかっている言葉を口にすることは無く、他愛もない話を続けているうちにチャイムが鳴った。

 それと共に足でドアを開けた担任が教室に入ってくる。プリントで両手が塞がっているとはいえ、あそこまで乱暴にしなくても良いと思うのだが。彼に何を言った所で無駄であることは重々承知している為努めて無視することにする。

 

 チャイムが鳴り終わり、学級委員長の丹羽さんが号令をかける。起立、礼、着席。形だけでなんの意味もない癖に未だ省略されることの無い儀式を終えて、生徒全員が着席したのを確認した担任は心底面倒くさそうに朝のホームルームを始めた。

 

 そんなに面倒ならば教師なんて辞めてしまえばいいのにと思うが、そんなことを言ってしまえばこの学校の、延いてはこの世界の八割以上の教師達が職を辞さなければいけなくなるかもしれない。

 生徒は優秀な人材が揃っているのに何故、と聞きたい所ではあるが行き過ぎた放任主義と東軒穂波という登場人物の特異さを際立たせる為にはこうならざるを得なかったというか。まあ要は、帳尻を合わせるためのご都合主義の割を食った形だ。

 

「はいはい、おはようさん。今日の連絡は……特にねぇかな。欠席もナシと。体育祭のやつは……ぁー、丹羽(にわ)。プリントは持ってきたから後はお前に任せるわ」

「あ、はい」

 

 予め想定していたのだろう、丸投げされた仕事をあっさり受け入れた丹羽さんを確認して、満足気に頷いた担任は『じゃ、お疲れ』とだけ残してさっさと教室を出ていった。倫理に欠ける倫理教師の彼は、授業だけは丁寧で興味深い内容を話すから質が悪い。

 

 仕事を押し付けられた(引き継いだ)丹羽さんは、教卓に置かれたままのプリントをテキパキと配り黒板に競技名と人数等を書き込んでいく。

 

「もう三回目なので説明は要らないと思いますが、今から体育祭の出場競技を決めます。例外として、選抜リレーのメンバーは昨年までと同様先日測った長距離走のタイムから選びたいと思います。異論がなければ、メンバーを読み上げますが──」

 

 当然ではあるが、丹羽さんの提案に対して意見が上がることは無い。選抜リレーのメンバーが読み上げられ、一番最初に呼ばれた蘭以外は順当に運動部の名前が挙がる。クラスの大体四分の一程の名前が呼ばれ、残りの生徒達はそれぞれが出場する競技を考え始めた。

 

 教室は然して盛り上がらないまま、丹羽さんが定めた制限時間が来る。学園祭では準備期間から学校全体が浮かれムードになるのだけれど、やはり体育祭は一部の運動部以外は余り乗り気ではないようだった。

 

「はい。じゃあ右から順に聞いてくので希望する競技が呼ばれたら手を挙げてください。どれでもいい人は一番最後に。希望者が規定人数を超えた場合は話し合い、それでも決まらなければジャンケンで決めましょう。では障害物競走から──」

 

 トラブルが起きることも無く、人気競技から埋まっていく。私はいつものように、一番不人気の100m走に立候補した。無難かつ、個人競技のため練習に付き合わされることがないのが利点だ。

 無事に内定を貰い、全員が出場競技を決めた辺りでチャイムが鳴る。生徒会は運営作業があるため関係ないが、各委員や部活に所属している生徒はこれに加えてそれぞれの組織で出場競技を振り当てられている為大変だ。

 

「シズはいつも通り100m走なんだ。走るの嫌いな癖に物好きだよね〜」

「他の競技はもっと面倒だもの。蘭もどうせ、今年もアンカーでしょう?」

「多分ね。皆がどうしてもって言うから、仕方なく的なアレですよ」

 

 そうは言いつつも満更でもない表情を浮かべる蘭。期待されるのも、目立つのも好きな彼女には打ってつけの役割だ。放課後に居残りできない事を加味しても一切の異論なくアンカーに推される彼女はやはり流石の一言に尽きるが、これでAクラスのリレー優勝は決まったようなもの。

 一から三年まで合同のクラス対抗で行われる体育祭だが、最終競技である選抜リレーがその配点の殆どを占めている。リレーを制する(クラス)が体育祭を制すと言っても過言ではない。

 実際に一番盛り上がるのはリレーであるし、出場者のやる気があるのもリレーであるため、これと言って問題になることは無い。

 

 ──体育祭の優勝なんかに興味はないけれど。同じくAクラスであるあの子の喜ぶ顔は嫌いじゃないから。

 

「まあ、無理しない程度に頑張りなさいよ」

「ふっふっふ。素直に蘭様の勇姿が見たい〜って言えばいいのにシズったら照れちゃって」

「涼川さん、授業が始まりますよ。早く席に戻ったらいかが?」

「ご、ごめんって〜!!」

 

 馬鹿なことを言っている友人から視線を外して、私は一時限目の用意を始めるのだった。




年始早々仕事が立て込んでしまい、執筆が遅れました。すみません。


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ハチ

 特筆すべき出来事もなく全ての授業が終わる。午後には多少痛みも引いて、ソフトボールにも無事参加できた。ジャージに着替えれば周囲からの鬱陶しい視線も収まると思ったのに、より一層向けられたのには辟易したが。

 

 朝回収したプリントを生徒会室に持っていき、活動がなくとも律儀に毎日詰めている浅葱さんに引き渡して玄関へ向かった。勿論、東軒先生に見つからないよう細心の注意は払って、だ。

 手間取るだろう一年生の為に提出期限は少し時間に余裕を持たせている。体育祭本番まではまだ日数があるから問題は無い。その為、暫く放課後に休みを取れなくなるだろうことを踏まえて今日からの三日間は放課後の生徒会活動は休みになっている。

 

 欠伸を噛み殺して、帰って叶依の様子を確認したら取り敢えず仮眠を取ろう等と考えながら廊下を歩く。靴箱の前で私を迎えたのは蘭だった。いつもなら、結婚記念日のこの日は家の手伝いが無いからとクラスメイト達に誘われて街へ出ているはずなのに。

 

「お、やっと来た。遅いよシズ」

「遅いって言われても。何か約束でもしていたかしら?」

「ううん、してないけど」

「良かったわ。記憶力はまだ衰えてないみたいで。それで、どうしたのよ」

 

 私と叶依が住む家と蘭の実家とはそれほど距離はないものの、学校(現在地)から向かうとすれば完全に逆方向だ。一緒に帰ることが出来るのは精々校門まで。伝えたいことがあるのなら電話で事足りるし、わざわざ彼女がこうやって待っている理由が思い当たらない。

 

「ん、暇だったからさ。久しぶりにカラオケでも行かない?」

「カラオケなら、他のクラスメイト達に誘われたんじゃないの?」

「あー、知ってたんだ。それなら断ったよ、今日はシズと遊びたい気分だったし。迷惑だった?」

「別に、迷惑ではないけれど──」

 

 ──意図が掴めない。蘭は確かに昔から私にベッタリだったけれど、他の友人を蔑ろにするような子ではなかったから。

 

「それに、話したい事もあったし」

「……? ああ、そういう事。相変わらず、豪胆なフリして繊細なのね」

「……親友が。突然そんな怪我して学校来たら、誰でも心配するでしょうが」

 

 私の態度が気に障ったのか、少しだけトーンを下げて言い放つ蘭。こんな様子の彼女にさえ軽口しか返せないのは、私の悪い癖だ。

 教室ではいつも通りだったのは、彼女なりに気を使ってくれていたという事なのだろう。

 

「話せる事も無いし、あまり時間は取れないけれど……それでもいいかしら」

「うん。これでもシズとは長い付き合いだからさ。色々抱え込んでるのは知ってるよ。これも、私の自己満足のためだし」

「わかったわ」

 

 学校から徒歩で五分ほどの距離にある、カラオケチェーンのふくすけに向かう。周りは学校帰りの学生ばかりで、特に目立つこともない。

 

 受付を済ませて案内された部屋に入る。ドリンクが届くまでは、当たり障りもない話をした。モニターを見ながら最近流行りのドラマの主題歌が良いだとか、コンビニの有線で懐かしいあの曲が流れていたとか。本当にくだらない話だ。

 頼んでいたドリンクが届いて、お互いに一口ずつ飲む。私は烏龍茶で、蘭はたまたまコラボフェアで提供されていたいちごミルク。キャンペーンで付いてきた、作品の名前すら知らないコラボグッズの話題でまた時間を潰して、そんなネタすら尽きて漸く蘭が本題を切り出した。

 

「……それで。どこまでなら、聞いてもいいの」

「何も聞かないでくれるのが一番嬉しいのだけれど?」

「それは無理。極力悪目立ちしたくないシズがそんな見た目で学校に来るなんて余っ程だよ、みんな心配してた」

「心配? 好奇心の間違いでしょ。生憎と友人は数える程しかいないの。心の底から私を心配してくれるような関係なのは貴女くらいよ。だからこそ、こうして居る訳だけど」

 

 嘘じゃない。蘭じゃ無かったら、早々に一蹴して今頃はベッドの中だった。相手が蘭だからこそ、最低限の誠意を見せているだけ。

 

「シズは自分のこと卑下しすぎだと思うな。シズが思っている以上に、皆はシズのことが好きだし、力になりたいと思ってるよ」

 

 沢山の愛情に包まれて育った蘭らしい。本気でそう信じ込んでいるんだろう。人間はもっと、家族にすら言えないような悪意に塗れているというのに。

 

「さっき一年生の子にカナちゃん休みだって聞いたよ。体調不良って聞いたけど、その様子じゃそれだけでもないでしょ」

 

 幼馴染なだけあって、シズは私と叶依との微妙な仲を知っている。だからその答えに辿り着いたとしてもおかしなことでは無い。

 蘭は知った上で私や叶依と付き合ってくれているし、必要以上に踏み込んでこない。今日もそうしてくれたら楽だったのに。

 

「先日も言ったけれど、その勘の良さはもっと別のことに活かした方がいいと思うわ」

「シズ」

「……はぁ。わかったわ、その通り。でも本当に大したことではないの。あの子が困っている時に助けになってあげられなくて、喧嘩しちゃったのよ」

 

 言葉に偽りはない。真実でもないが。

 私から蘭に叶依の秘密を打ち明ける未来は絶対に来ない。それは叶依の仕事であり、責任だ。これまで私が何度か相談しても、なんの意味も無かったのだから。

 

「喧嘩って……」

 

 納得がいっていない蘭を見兼ねて、腕に巻いていた包帯を解く。予想通り、今朝ほど腫れ上がったり血が出ていたりはしていない。流石は化け物の末裔、治癒力も人並外れているわけだ。

 

「ほら、大したことないでしょう。蘭は心配しすぎなのよ」

「嘘つき。隠してても、板書したり体育の時とかに庇ってるのはわかったし、今だって包帯外す時に一瞬顔引き攣ってたもん」

 

 自分でも気付いていない事実を指摘されて固まる。普段通りの自分を演じられていると思っていた。

 

「細かいことは気にしない主義じゃなかった?」

「別に細かくない。シズが自分の事に無頓着すぎるだけだよ……こんなに赤くなって、病院には行ったの?」

「そこまでじゃないもの。理由を聞かれるのも億劫だしね」

 

 高校一年生の妹にやられました、なんて他人には口が裂けても言えない。これは私の罰で、叶依が私以外の誰かに責められる謂れはないのだから。

 

「あの華奢なカナちゃんのどこにそんな力があるのか信じられないけど、シズが意味無くカナちゃんを引き合いに出すなんてもっと有り得ないから信じるよ。でも、困っているカナちゃんの助けになれなかったって?」

「それは内緒。分かってると思うけど、叶依も今は傷付いているだろうからそっとしてあげてよ」

 

 さっさと秘密を打ち明けられる恋人を作ればいいと常々言っては来たが、今は傷を増やすだけになりそうだ。蘭の性格上叶依には何も言わないだろうけれど、念の為に釘を刺しておく。

 

「うぅ……わかった。本当は全然わかってないけど、これ以上は聞かないよ。カナちゃんにも、絶対に。でも、私にできる事があったらすぐに言ってね。電話一本で駆け付けるから」

「ありがとう」

「こっちこそ、無理に聞いてごめん。あぁ、包帯巻き直すの手伝おっか?」

「じゃあ、お願いできる?」

「任せて」

 

 野良猫の治療をしているような手つきで恐る恐る触る蘭を笑い飛ばして、漸く作業が終わった辺りで退室十分前のコールが入った。元々長居する予定はなかったので予約したのは一時間だけ。一曲も歌わないまま帰るのも勿体ないと、二人で日本人なら誰でも知っているような大ヒットドラマの主題歌を歌ってカラオケルームを出た。

 

 別れ際、蘭は『カナちゃんと仲直りしなよ』とだけ言ってスクールバッグを背負い、私の家とは正反対の方向へ歩き出した。

 

「今日の夜ご飯はカレーでいいかしら。今朝のハンバーグがまだ残っているしね」



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 スーパーで軽く食材を買い家に帰ると、もう外は暗くなっているというのに電気一つ着いている気配がない。

 慌てて二階へと駆け上がった。叶依が部屋に籠ったままだとして、リビングが消灯しているのは理解出来ても、叶依の部屋まで真っ暗というのは変だ。いくらドアを閉めていると言っても、普段なら隙間から光が漏れ出ているから間違いない。

 

 遅くなると連絡の一つくらい、入れたら良かっただろうか。生徒会の活動日はこのくらいの時間になる日もあるから然して気にしてはいなかった。

 昨日の今日なのだから、もう少し気を配るべきだったのに。

 

 叶依の部屋の前に立つ。ノックを二回して、声を掛けた。

 

「叶依? いるのなら返事をして頂戴」

 

 昨日もこんな感じで声を掛けたんだっけ。何も、叶依からの返事がないところまで一緒じゃなくていいのに。

 

「入るわよ」

 

 ドアを開ける。ああ、ベッドの上の膨らみまで再現しなくても。同じ光景を見せるだなんて、私には嫌がらせにしか感じられない。叶依にはそんなつもりは無いんだろうけれど。

 

「いるなら返事をしなさい。まだ落ち込んでいたの」

 

 モソモソと動く膨らみ。こんな季節に布団を被るなんて、暑くないのだろうか。

 久しぶりに味わう"嫌な感じ"から目を背けて、そんな場違いな感想を抱いた。

 

「叶依」

 

 往生際の悪い膨らみの主の名を呼ぶ。ここまで偏屈で面倒な子だったろうか?

 流石に予想外だ。前にああ(・・)なった時は、一晩経てばもう少し元気になっていたと記憶しているのだけど。

 

「叶依」

 

 もう一度だけ、名前を呼んだ。諦めたのか漸く布団から顔を半分だけ覗かせた叶依は、朝と同じく──いや、それ以上に泣き腫らした目で私を見た。

 そこで私は後悔した。ああ、一日休ませたのは逆効果だったかもしれない、と。

 

 叶依は朝から日が落ちて私が戻ってくるまでの半日間、一人で膝を抱えて泣いていたのだろう。作り置きのハンバーグにも、私が早出の日に食べるよう買い置きしているパンやインスタント食品にも手もつけず、罪悪感と自己嫌悪に苛まれながら、ただ一人ここから動けずにいたのだ。

 

 ベッドに近寄り、未だ半分は隠れている妹の頭へ手を伸ばす。

 すると、叶依は恐る恐る口を開いた。今日一番の、大粒の涙と共に。

 

「……お姉ちゃん。私、生まれてこなきゃ良かったのかな」

 

 それは私が何度も自問した言葉。どうして()この世界(・・・・)に生まれ落ちてしまったのだろうか。この子の姉はこんな私であってはいけないのに、と。私はこの世界に生まれてくるべきではなかったのだと。

 

「──馬鹿を言わないでちょうだい、叶依」

「で、でも」

「その言葉は、貴女を愛している全ての人に失礼よ」

 

 亡くなった両親にも、心の底から友人を心配している入江さんにも──そしてこの世界にも。

 主人公(韮沢叶依)がその存在を否定されるなら、彼女を引き立てる舞台装置に過ぎない私は一体。

 

 ああ、いけない。この思考の先は、答えのない暗闇だ。

 

「……はあ。朝も言ったでしょう、昨日のアレは貴女だけの責任ではないわ。私が忘れていたのがいけないのだもの、そんなに自分を責めないでいいのよ」

「……」 

「それにほら、傷だって殆ど治ったのよ。私の体質のことは貴女もよく知っているでしょう? 私にも貴女と同じ血が流れているのだから」

 

 自分に出来る最大限の慰めの言葉をかける。

 あれだけ付けられた傷は、一日経って外見では分からない程治ってしまった。一目でわかるほどに残っているのは首に深く刻まれた二つの孔だけだ。

 

 つまりは──妹に散々当たっている私だって、端から見ればただの化け物なのだ。そしてその事実は私に嫌悪感を与える代わりに、叶依にはほんの少し(・・・・・)の安心を与えるらしい。

 今にも壊れてしまいそうだった叶依の雰囲気が、少しだけ緩んだのがわかる。

 

「お姉ちゃん……」

「大丈夫だから。昨日のことは全て忘れてしまいなさい。朝から何も食べてないのでしょう? 今日はカレーを作るから、今のうちにお風呂にでも入りなさい」

「うん……うん」

 

 全く、手のかかる妹を持つと苦労する。

 嫌われるよう突き放しておきながら、泣かせたくない等と都合の良い考えをしている私は神様の目にどう映っているのだろうか。

 

 私は結局、どう足掻いてもこの子の姉なのだ。妹に泣いて欲しくない、なんて──それこそ特別でも何でもない、極々普通の姉の、至って普通な感情だろう。

 

 だってほら、さっきまで胸を渦巻いていた"嫌な感じ"は、もうすっかり無くなってしまったもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『その言葉は、貴女を愛している全ての人に失礼よ』

 

 その"貴女を愛している全ての人"の中に、お姉ちゃんは入っているの?

 なんて、絶対に聞けはしないけど。

 

 

 

 お姉ちゃんは世界で一番優しい人だ。

 

 人間なのに、ただ血の繋がりがあるというだけで私を──夜になれば牙が伸びて、満月になれば理性が無くなるこんな化け物を、見捨てることなく飼い続けている慈愛の人。

 

 けれど絶対に、私に愛の言葉をくれることは無い。

 少なくともパパとママが亡くなってからは愛してるも、大切も、家族としての好きすら貰ったことは無い。

 

 お姉ちゃんは私が嫌いだから。

 

『貴女は普通の人間じゃないのだから』

 

 今朝にはそう、ハッキリ言われてしまった。

 言い返す言葉もない。事実私は衝動に駆られて何より大切な姉を襲った化け物だ。生物学的な話だけじゃなくて、その心もきっともう化け物になってしまった。

 

 お姉ちゃんの血は美味しい。この世で一等美味しいものだ。

 千友梨の血も、ランちゃんの血も、色んな人を試したけれど、そこまで美味しいものでは無かったから。

 

 学校に通っていれば人の血を見る機会なんて沢山ある。転んで擦りむいたとか、プリントで指を切ったとか。

 心配するフリをして触れるなんて簡単なことだ。初めての時は我を忘れちゃうんじゃないかと怖かったけど、何のことは無い。私にとっての特別は、お姉ちゃんだけだった。

 他人の血を試したなんて、お姉ちゃんには絶対に言えないけど。

 

 千友梨とは親友だ。ランちゃんとだって、仲がいいと胸を張って言える。クラスに友達は沢山いるし、それなりに好かれている自覚もある。

 

 けれど美味しいと感じるのも、我慢出来ないほど焦がれるのも、失いたくないと感じるのもお姉ちゃんだけなんだ。

 この世の全ての人間とお姉ちゃんを天秤にかけたら、迷いなくお姉ちゃんを選べる程に。

 

 例えお姉ちゃんにとっての私が、そうでなくとも。

 

 

 

 お姉ちゃんは世界で一番残酷な人だ。

 

『私にも貴女と同じ血が流れているのだから』

 

 そうお姉ちゃんは簡単に言う。それがどれほど私にとって救いになっているか、きっと分かっていないから。

 吸血鬼が──私が、何より血に執着する化け物だって、知っているくせに。

 

 自分こそが私にとっての運命だと、唯一だと、全てなんだと、そう軽薄に伝えてくるから。

 

 私にはもう、お姉ちゃん以外の選択肢なんて残っていないのだ。

 

 例え世界がそれを、許してくれないとしても。



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ジュウ

 チチチチと鳥の囀りが聞こえて目を覚ます。

 時計を見やればまだ六時。今日は土曜日で学校は無いし、起床するにはまだ少し早い時間。

 いつもよりも睡眠時間は短かったが不思議と二度寝するような気分にはならず、スマートフォンの充電プラグを外して再びベッドへ飛び込んだ。

 

 夜の間に届いていたのか、大して友達もいない私にしては珍しく未読メッセージの通知が来ている。

 どうせ相手は蘭だろう。そう思ってアプリを開くと予想外の人物の名前が目に入った。

 

 シンプルなフルネームと初期アイコン。驚くことに、新着通知が来ていたのは浅葱さんだけだ。

 

『明日、少しでいいから時間を取れる?』

『少し相談があるのだけれど』

 

 浅葱さんとは生徒会活動で火急の用事があった時に備えて念の為連絡先を交換していたものの、こうやってメッセージを交わすことは今日までなかったはずだ。

 ましてや相談があるだなんて、私を嫌いだと言い放った到底彼女とは思えない言動に思わず面を食らってしまう。

 

 なんと返したらいいものか。それ以前にまず、この時間に返信して迷惑がられないだろうか? 相手が蘭なら、着信音で起こすことも厭わず直ぐに返信するのだが。お互いに、その手の遠慮をする時期はとうに過ぎたから。

 

 浅葱さんからメッセージがあったのは昨日の22時過ぎだった。基本的にスマートフォンは調べ物をする時か、電話をする時以外は使わないものだから気付くのが遅れてしまった。

 言い訳になってしまうが、これまでメッセージのやり取りをする相手なんて蘭か叶依くらいしか居なかったし、二人は急ぎの返事が欲しい場合は迷わず電話を掛けてくるものだから、定期的にメッセージアプリを見る習慣がなかったのだ。通知音も入れていないせいで、音で気付くことも出来なかった。

 

 今世は初めての出来事が多すぎる。固定概念(過去)に囚われて、自分の視野が狭くなっていると自覚出来るのが忌々しい。

 

 電話ではなく、メッセージアプリを選んだのだから緊急性は低いだろう。そう思ったものの、あの真面目な浅葱さんであればもう起きて活動を開始しているかもしれないと思い直し、返信を決意する。

 

『気付くのが遅れてごめんなさい。

 今日は一日空いているわ。』

 

 そう送信すると、やはり起きていたのだろう、直ぐに既読が付いた。

 

 返信には待ち合わせ場所と、三通りの時間の提案が書かれている。無駄を嫌う浅葱さんらしい内容で思わず笑ってしまった。

 精神状態が不安定な今の叶依を一日放置することはできないし、浅葱さんも用事は早めに済ませてしまいたいだろうと提案の中で一番早い時間を伝えて部屋を出た。

 

 軽くシャワーを浴びて、身支度を整える。朝食の準備を済ませて、一度自室に戻ってから叶依の部屋へ向かった。

 

 二度ノックをして、叶依の返事が聞こえるまで待つ。一昨日あんなことがあったばかりだし、朝の日課は基本的に叶依から部屋に来ているから少しだけ緊張しているかもしれない。

 けれど今の叶依は自分から私の部屋を訪れることは無いだろうから仕方がない。

 

「お、お姉ちゃん!? ちょっと待って──」

 

 慌てたような声と、ガタガタと言った物音が聞こえて数十秒。漸く入室の許可が出て部屋へ入ると叶依が肩で息をしながら私を出迎えた。

 部屋を汚すタイプでは無い妹が何をしていたのか気になる所ではあるが、わざわざ聞くのも野暮だろうか。

 

 窓が空いているし芳香スプレーの香りもするが、何か匂いの出る間食でもしたのだろうか?

 味がしないからと最低限の食事しか取らない叶依にしては珍しい。別に、そんなことで怒ったりはしないのに。

 

「──おはよう、叶依」

「おはよう。こ、こんな時間からどうしたの?」

「この後少し出るから、日課を済ませてしまおうかと思って」

「そ、そうなんだ……ランちゃんと出掛けるの?」

「いいえ、今日は浅葱さんとね」

「浅葱、さん? それって生徒会長のこと? 二人きりで出掛けるの?」

 

 そう言えば今周では叶依に浅葱さんの話をしたことは無かったかもしれない。

 

「ええ。心配しなくとも遅くはならないわ」

「……そっか」

 

 何やら言いたそうな顔で呟く叶依。私が浅葱さんと出掛けることになにか不都合でもあるのだろうか?

 単純に、一人になることに不安を覚えているのかもしれない。偶には入江さんと気晴らしにショッピングでも楽しめばいいのに。両親が居ないとはいえ、一般的な女子高生と同じくらいのお小遣いは渡しているのだから。

 

「それで、食事なのだけれど」

「あ、うん。ごめんなさい」

「……謝らなくてもいいわ。少し待って頂戴」

 

 先程部屋に戻った時に持ってきたナイフで、いつもの様に指先を切る。

 人としてのご飯は先程用意したが、叶依は人間食だけでは生きられない。放っておけば食べようとはしないから、叶依の分には私の血液を少し混ぜているくらいだ。

 実は一度輸血用の血液パックを与えたこともあったのだけれど、臭くて飲めたものではないと断られたことがある。あれはいつの周だっただろうか。

 

「ほら、口を開けて」

「ん……」

 

 叶依の口に指を入れて、ぬるっとした暖かな感覚に包まれる。叶依がもっともっとと強請るように指を甘噛みして、血液を啜る度に背中にゾワゾワとした感覚が走った。

 何度繰り返してもこの行為には慣れそうにない。

 

 口を噤んで大人しくされるがままになっていること数分、すっかり思考は鈍くなっている自覚がある。休日だというのに外が静かなこともあって、水音だけが部屋に響いていた。

 今日はいつもよりも吸血がスローペースで、余計に落ち着かない。どちらかと言えば、食事よりも行為自体を楽しんでいるような──

 

「──ふっ……ぁ!」

 

 小さく声が漏れて、初めて何かがおかしいと感じた。

 叶依と目が合って、心臓が跳ねる。そんな目で、見つめないで。

 

 これ以上続けられたら、私は──

 

「っ……」

「ふぁ……おねーちゃん?」

「ご、ごめんなさい」

 

 思考の渦に──欲望の沼に嵌って戻れなくなる前に、慌てて指を引き抜いた。未だに血は滲んでいて、数秒経って漸く痛みを取り戻す。少しだけクリアになった思考で、感情を整理した。

 私は今、何を考えた?

 

「何でもないわ。もう良いでしょう? 私は部屋に戻るから──」

「え、あ……うん。……ありがとう」

「ご飯は用意してあるから、お腹が空いたら温めて食べなさい。夜ご飯までには戻るから」

「うん」

 

 早口で簡単な説明だけ終わらせる。明らかに満足していない叶依から目を逸らして、大慌てで隣の自室に駆け込んだ。

 

 おかしい。

 おかしい。

 おかしい。

 

 確かにこれまでも吸血行為には快楽が伴っていた。けれどあのような、我慢が出来なくなるほどの強烈な快楽では無かったはずだ。

 況してやそのまま喰らって欲しいなど、考える筈もない。明らかに異常だ。

 

 叶依も叶依だ。あんな──独占欲丸出しの、ドロドロとした暗い瞳を向けるような子ではなかった。

 

 あの満月の夜があったから?

 それとも浅葱さんに関係が?

 

 考えても答えは出ない。何より問題なのは、時を戻される時のあの"嫌な感じ"がしない事だ。

 だったらこれが正解? そんな筈はない。この世界に、叶依があんな表情を見せるなんてルートは存在しないのだから。

 

 下半身に違和感が走って、頭を抱える。ああ、最悪だ。

 

「──下着、変えないと」

 

 見たくもない状態になったショーツをゴミ箱に投げ入れて、タンスから新しいものを取り出した。妹に指を舐められただけで発情するなんて、自己嫌悪という次元では済まされない。

 

 許されるのなら今すぐに死んでしまいたかった。今死ねば、普通の朝に戻れるだろうか?

 この手の希望が叶ったことはないのだけれど。

 それに、例え身体がリセットされたとしても、記憶は消えてはくれない。妹を放置するという選択肢がない以上、今朝の吸血行為を避けることは出来ないのだ。

 

 どうしたら良いのだろう。どうすれば、神様は許してくれるのだろう。両親が死んでも流すことの無くなった涙を拭って、布団に潜り込んだ。

 

 

 

 ──長いこと放心していた気がする。ふと思い出して、時計を見ると浅葱さんとの約束の時間が迫っていた。

 鳴り止まない心臓を抑えながらスマホとカバンを持ち、深呼吸してから部屋を出る。隣の部屋から聞こえた物音は、聞かなかったフリをした。

 



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